実況パワフルプロ野球‎⁦‪-Once Again,Chase The Dream You Gave Up- (kyon99)
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小波球太 第一章 恋恋高校一学年編
第1話 小波球太


 諦めた夢・・・・・・。
 その先に待ち受けるモノとは・・・・・・。


 

 人々で満員に埋まり、埋め尽くされ生まれる熱気に満ち溢れた球場。

 夜の暗い闇を、スタンドの後方に聳え立つライトが色を着け替えるナイトゲーム、周りの視線がマウンドへと一気に視線を集めた。

 そこに、俺は立っていた。

 試合は、最終回を迎える九回の裏、スコアは俺たちのチームが一点差でリードしているのがバックスクリーンに映し出される電光掲示板のスコアボードを見て確認出来る。

 赤いランプが二つ灯る。それを見てツーアウトだと言う事は理解出来た。おまけにランナーは満塁と一打で同点、最悪の場合サヨナラ負けというピンチを迎えていたのだ。

 カウントはツーストライク、ツーボールの平行カウント。俺はプレートから足を外して一呼吸置いた。

 小さく、大きく、ほんの少しの呼吸をしたのだが、ドクンドクンと胸の奥で脈は強く打っている。

 ゴクリと息を飲む音が今にも聞こえそうな程、静まり返る球場内、観客席に座り試合を見守る野球ファンは勿論の事、両軍のベンチからもその緊張感は伝わって来た。

 だが、逆に俺はその状況を迎えているのに笑っていたのだ。

 この胸が高鳴るドキドキが、このドキドキこそが野球の醍醐味の一つでもあると自論を持つ俺にとっては、さらに野球と言うスポーツを存分に楽しんでいるからこそ浮かび上がっている笑みであるのだ。

 俺は、マウンドのプレートの横に置いてあるロジンパックを右の指先に軽く馴染ませ、左手にはめてある黒い革のグローブの中にある野球ボールをギュッと握りしめた。そして、十八メーター四十四センチ離れた場所に座り、サインを出すキャッチャーのミットを見据える。

 足を引き、振りかぶり、利き腕である右手を鞭のようにしなやかに振り抜いて投げ出されたボールは、左打席に構えるバッターのインハイを目掛けて飛んでいく。

 球速は百五十三キロのストレート。今日一番のベストボールだ。

 バッターは勿論、バットを振り抜く。しかし、そのバットは虚しくも俺のボールのストレートの僅か下を空振りし、ボールはキャッチャーミットへと収まった。

 心地の良い捕球音が鳴り響くと共に、球審の叫び声が球場を轟かせる。

 すると一間を開けて、今まで沈黙していたのが嘘かと思うほど歓声が湧き上がった。

 俺は、その歓声に応えるかのようにマウンドで拳を高く突き出した。

 勝利を手にしたチームメイトが喜びの声をあげ、続々とベンチから飛び出してグラウンドへと駆け出していく。そして拳を合わせて喜びを噛み締めるナインへ、俺へと飛び込んできた。

 中には抱き合う者、掌で頭を叩く者、バケツ一杯に含んだ冷水を頭の上から被せる者、様々だ。チーム全員で喜びを噛み締める中・・・・・・。

「小波くん!」

 突然、俺の名前を呼ぶ声と同時に、目の前に映る景色は霞んで消えて行ったのであった。

 

「小波くんッ!! もう放課後でやんすよ!! いい加減起きるでやんす!!」

「う・・・・・・ん?」

 再び名前を呼ぶ声と共に今まで閉じていた重い瞼を開ける。

 そこには先ほどまでライトアップされたマウンドから見える見晴らしいの良い球場とは一転し、真新しい白い壁に囲まれ蛍光灯の光に包まれた教室の景色が飛び込んできた。

 まだハッキリしないボヤけた視界から薄っすらと確認出来る人影。目線を上げていくと、この寝惚けた目でも分かるほど、主張した瓶底メガネと刈り上げた坊主頭が見える。

「ん? 君は・・・・・・誰だい?」

 寝惚け眼を擦りながら、気の抜けた声で俺は問いかけた。

「酷いでやんすッ!! さっき自己紹介したばかりのオイラの名前をもう忘れたでやんすか?」

 時代に似合わない瓶底メガネを中指でかけ直し、コホンとワザとらしい咳を一つ零して、彼が口を開いた。

「オイラは赤とんぼ中学、野球部出身の矢部明雄でやんす。特にオイラの持ち味は俊足で、中には『スピードスターの矢部』なんて言う者もいたでやんすよ!」

 矢部くんがそう言うと、思わずイラッとしてしまう程のドヤ顔を浮かべて此方を見ていた。

 赤とんぼ中学校。野球の強さでは俺たちが住むこの頑張地方ではバス停前中学と並んで一位、二位を争う最弱のチームだ。

 試合等で戦う事は一度も無かった為、その二つ名を耳にするのも始めての事だった。

「・・・・・・それはそうと、俺に何か用かい?」

 俺はキツくしまった制服のネクタイを緩め、机のフックからカバンを取り出して帰宅の準備をしながら、目の前にいる矢部くんに聞いた。

「そうでやんす! 小波くんの名前を聞いた時、どうしても聞きたかった事があるんでやんすが、クラスのレクリエーションが終わった途端、ずっと眠ってて聞けず仕舞いだったでやんす!」

 少し怒った様な、驚いた様な複雑な態度を取りながら矢部くんが言う。それも無理もないだろう。今年の春、今日から俺は高校生になり、この学校へ入学した初日だと言うのに十分押しで始まった入学式の後のホームルームを寝て過ごしていて、今に至るのだから仕方ない。

 すると、矢部くんは間髪入れずに本題へと入っていく。

「小波くん。君は二年前の夏の全国大会で大会史上初の百四十キロ近くのボールを放った・・・・・・あかつき大附属中学の小波球太くんでやんすね?」

「まあ・・・・・・。そうだけど、それがどうかしたのか?」

「オイラと一緒に野球やらないでやんすか?」

「え? ここ野球部なんてあるのかい?」

「いいや、ないでやんすよ」

「なら、なんでさ」

「オイラと共に野球部を作らないでやんすか? オイラ・・・・・・この学校で野球部を作りたいでやんす!!」

 目に大きな瓶底メガネの奥底をキラリと輝かせて、矢部くんは俺の手をガシッと強く握りしめて言った。

 何故、矢部くんが野球部を作りたいと言ったのかは理由がある。俺が今ここにいる高校は恋恋高校と言い、去年まで女子校だったのだ。

 入学式の最中に渡されたパンフレットの記載には、今年の新入生百二十六人の内、男子生徒はたったの七人だと言う事だ。なんでもこの学校の理事長が学校改革の為に共学にする事を決めたらしいのだが、受験シーズンにその大事な話を、各中学校に共学になると言う告知のタイミングを大幅に遅らせて伝えてしまったせいでこの数の生徒としか集まらなかったという。

 そして、あかつき大附属中学とは、俺がつい最近まで通っていた学校だ。言わばスポーツの名門学校と言う事で全国的に有名であるが、文武両道を心掛けた学校でもある。

 特に野球部は特殊なまでの力の入れようで、全国各リトルリーグチームからスカウトされ特待生として入学する者、個人が希望して実技テストを行うセレクションに合格し、さらに厳選された者だけが入部出来るなど、異様なほどだった。

 そこ俺も野球部として夢を追いかける為に、必死で厳しい練習に食らいついていた。良き仲間、良きライバルに恵まれて充実した日々を送っていたのも二年前、中学二年の夏の全国大会までだった。

 体の出来ていない中学生だった為か当時、ピッチャーだった俺の肘は、全国大会の準決勝の試合中に突然、悲鳴を上げて壊れてしまったのだ。

 その最後に投げたボールが、先ほど矢部くんが言った異例の百四十キロをマークしていたのだ。その次の日、学校を休んで病院に行き診断された言葉、医者には「状況は最悪、これ以上投げればもう二度と投げれない」と言われ俺は、チームが全国優勝したその日に静かに退部届けを出した。俺が野球を辞めても誰も責めはしなかった。ただ一人は除いてはだが・・・・・・。

 俺には夢があった。プロ野球選手になると言う夢だ。野球と出会ったのは五歳の時だ。

 夜になると毎日、親父がビールとつまみをテーブルに置き、ソファで寝転びながら眺めるテレビに映し出された試合中継を一緒になって見ていたからだ。

 そこで野球に興味を持ち、小学四年になった頃には「かっとばレッズ」と言うリトルリーグに所属したのだ。

 野球を学び、野球をプレーし、勝ち負けの喜びと悔しさを知り、どんどん野球と言うスポーツが好きになっていった。

 野球は今でも好きだ。だけど故障し、医者に通告を受けた俺が選んだのは野球部の無いこの恋恋高校なのだ。だから、矢部くんには悪いけどその要望には応えられそうにも無い。

「・・・・・・ごめん。俺、野球はもうやらないんだ。二年前の大会で肘をやっちゃってね」

 申し訳なさそうにして、俺が言う。

「そうでやんすか・・・・・・。あの小波くんと一緒に野球をやりたかったでやんすが、残念でやんす」

「もしさ、部活動が無事に受理されて活動できるようになったら時々練習を見に行ってもいいかな?」

「勿論でやんす! あの名門出身の小波くんが指導してくれるなら心強いでやんす! それじゃあ、早速オイラは残りの五人の勧誘をしてくるでやんす!」

「頑張ってね」

 すると矢部くんは素早く、自分の席へと向かいカバンを取り出して教室のドアの方へと向かって行った。

 お互いに挨拶を交わし、矢部くんの姿は消えてしまった頃、既に空は真っ赤な空へと色を変えていた。

 誰も居なくなった教室は当たり前の静寂で、カバンを肩に掛けて教室の電気を消した時、俺はボソッと複雑な顔を浮かべて呟いた。矢部くんに名前を呼ばれるまで見ていた景色はあれはやっぱり。

「夢だったのか・・・」と・・・・・・。

 

 学校から自宅までは徒歩三十分と言う近さだ。ちょうどその中間を裂くように長い河川敷がある。幼い頃、ここでリトルリーグの練習場であり、昔と比べても何も変わらない事に対してなんだか懐かしい気持ちが蘇っていた。

 今でも思い出せる懐かしい日々。泥だらけになっても必死にボールに喰らい付いたり、ふざけ合ってスポーツ飲料水を一気飲み比べをしたりしていた時の事を思い出していた。

「小波くん!」

 河川敷のグラウンドを眺めている俺に向けて名前を呼ぶ声が聞こえた。その声の方へと顔を向けると、夕陽を背に桜色の綺麗な髪を靡かせたショートカットの女生徒がこちらへと小走りでやってくるのが見えた。

「栗原?」

「やっぱり小波くんだ、久しぶりだね。会うのは小学校の卒業式以来かしら?」

 ニコッと笑う笑顔は何処か可愛らしく、三年ぶりに出会ったせいか、随分大人になった印象を受けた。彼女の名前は栗原舞。

 小学校まで一緒だった幼馴染で、リトルリーグ時代ではマネージャーを務めてくれたりしていた。

「ああ、久しぶりだな。栗原、お前その制服はパワフル高校のか?」

「うん、当たりだよ。それでね? 小波くんはどう思うかな? この制服、似合ってる?」

「まぁ、普通だな」

「ふ、普通か・・・・・・。なんか小波くんに言われるとショックが大きいよ」

「何凹んでんだよ。最初に聞いてきたのはそっちだろ? それに俺は思った事はちゃんと言う人間だぞ?」

「もう、分かってるわよ。小波くんとは何年の付き合いだと思ってるわけ?」

「だよな」

「あっ、そう言えば小波くんは恋恋高校に入学したんだね? ねぇねぇ! 恋恋高校はどんな感じの学校なの?」

「一言で言えば斬新だな。なんせ男子がたったの七人しか居ねえからな」

 そう言うと俺は、思わずふっと笑みが零れてしまった。それにつられて栗原も笑う。他愛の無い会話、そう言えば昔も変な会話ばかりして帰り道に栗原と笑っていた事を思い出した。

「そう言えば私ね、パワフル高校の野球部のマネージャーを希望したんだよ!」

「へぇ」

「パワフル高校は古豪だけど今年の夏は打倒あかつきって先輩たちが目標を掲げてて、活気に満ち溢れてて早速サポートしなきゃって思ったんだ」

「ま、あかつきは手強いからな。先輩たちの足を引っ張らねえように頑張れよ」

「うん! もちろんだよ。・・・・・・でも小波くんは野球やらないんだよね。やっぱり二年前の怪我でやれないの?」

「・・・・・・」

 スッと静まり返る。夕日に照らされた俺たちの間を温かい春の風が吹き抜けていくのを体全身で感じた。

 俺自身、野球は好きだが夢を諦めた以上、自然と野球の話などの会話はなるべく避けるようになってしまっているのも分かっていた。

「そうだな。俺だって本当は野球やりたいけど、今は他のやりたい事を探すとするよ」

「そう・・・・・・。私的にはちょっと寂しいけど。小波くんが決めた事なら仕方ないね。あーあ、出来るならもう一度見たかったな。小波くんがマウンドで投げる姿」

「おいおい、無茶言うなよな。怪我したんだ・・・・・・もう投げられないって」

「そう? 無茶じゃないと思うけど?」

「なんでだよ」

「だって小波くんリトルリーグの時、ファーストも守ってた時だってあるでしょ? それに野球はピッチャーだけじゃあないわよ」

 野球はピッチャーだけじゃない。そんな事はもちろん知っている。しかし、今の栗原の言葉を聞いた俺はハッとさせられた。

 まったく、馬鹿か俺は。

 一体、何を俺は諦めてんだよ。

 ピッチャーに拘ることなんて無かったんだ。

 と、完全に諦めていない事を確信した俺は、急いで止まった足を動かした。

「ちょっと? 小波くん? 急にどうしたの?」

 栗原が驚いた表情で呼ぶ。俺は走り、振り向きながらに言った。

「やっぱ、俺、野球やるわ! やらないで後悔するよりはやって後悔したいしな! 早速、練習するんだよ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ!!!」

 そうさ、まだ終わりじゃない。まだ終わりになんかしないんだ。

 俺の名前は小波球太。夢はプロ野球選手になる事だ。怪我で諦めた夢への物語は今から始まるんだ。

 



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第2話 早川あおい

シリーズ二話目です。
今回は新キャラと定番キャラの登場となっております。


「今の話はほ、ほ、本当でやんすか! 小波くん! それはオイラ達にとっては物凄い朗報でやんすよ!」

 バンッ!と勢い良く手のひらを机に打ち付ける音と共に、この日一番の大声を出したのは同じクラスメイトの矢部くんだ。

「お、大袈裟だよ」

 俺は苦笑いを浮かべながら自販機で購入したパックの烏龍茶をストローですすり飲みながら言った。

 昨日、野球部の勧誘を断って置きながらも考えを改めた俺は朝のホームルームが終わり、一時限目の現代社会の授業が始まる間に、矢部くんに一言、入部する趣旨を説明した。

 出会って二日目と言う短い時間だというのに憎たらしい顔がお似合いでと言うのが印象的であり、今日は俺が入部すると聞いた喜びからなのか、その顔からはキラキラと輝かせているかのような満面の笑みを浮かべている。俺との顔との距離は僅か三十センチ、二十センチと顔を俺に段々と近づけて大声出すものだから、昼休み時の穏やかな教室中のクラスメイトの視線は俺と矢部くんへと一気に集め、皆ドン引きしていた。

 おいおい、入学早々変な勘違いされると困るぞ。

「って言うか矢部くん、今、『オイラ達』って言った気がするんだけど、もう野球部に入ってくれるヤツでも見つけたの?」

「あれ? そう言えば小波くんには言って無かったでやんすね。実はもう一人、オイラと同じ赤とんぼ中学の野球部出身の人がいるでやんす」

「それは初耳だよ。それで? そいつはどんな奴なんだ?」

「名前は星雄大くん。我が赤とんぼ中学の主将を務めポジションはキャッチャーをしていた人でやんすよ」

 星雄大。

 ポジションはキャッチャーか、もし俺の肘が故障してなければバッテリーを組んでいたかもしれないって訳だ。

 それに、故障してなかったら俺は、今頃あかつき大附属にそのまま進級していたのだろうか?

 まあ、いいか。

 そんな事を考えても仕方がない。俺は、ここで矢部くんと野球を始めると決めたんだ。

 考えていたって何も変わらない。

 二度、三度頭を振って余計な思考を振り払った後、矢部くんが神妙な顔つきをしているのが見えた。一体、どうしたのだろう?

「どうかしたのかい?」

「え? あ、いいや。別に何ともないでやんすよ。でも、ただ一つ星くんにはオイラ以上に『癖のある人物』だと言う事は、理解していて欲しいでやんす」

「癖のある人物?」

 矢部くんが漏らしたのは、凄く引っかかる言葉だった。

 どうやら星雄大は矢部くん以上に癖のある人物だと言う事らしいのだが、俺が今、現在想像できるのは、今の時代いないであろう語尾に『やんす』以外に変わった語尾を付ける人物なのかと思わず聞きたくなってしまったのが、率直な感想だった。

「放課後、星くんのクラスに行くでやんす。星くんにはオイラからメールしておくでやんす。そこでどんな人物なのか分かるでやんすよ」

 そう言うと矢部くんは、直様自分の席へと戻って行った。俺はどうしても気になってしまったので聞こうと思ったが、裂くように教室のスピーカーから一時限目の授業の開始を告げるチャイム音である「ウエストミンスターの鐘」が鳴り響いたので断念した。

 

 

 十六時。六時限目のチャイムが鳴る。

 朝から続いた長い長い授業と、ようやく別れを告げる鐘の音は、一音、一音響くたびに、身体中に広がって、染み付いた憂鬱な感情が次第に晴れていくような気がする。

「放課後を迎えたでやんす。さあ、小波くん! 星くんのいる一年B組のクラスに早速向かうでやんす」

 矢部くんは、帰宅した前の女子生徒の席の椅子に勝手に腰を下ろしていて、言葉を吐くと同時に重たい腰をあげながら、うーんと背を伸ばし、だらしない欠伸をした。

 その様子を俺は見てしまい、先ほどまで俺の中の晴れ晴れとした気持ちがどこか遠くに行ってしまいそうな顔面だったので、心の中で少し後悔した。

 そして教室を出てすぐ右へ曲がる。横の階段を下るとそこには一年生のA・B・Cのクラスが校舎一階にある。俺たちのクラスはD組だけは、何故なのかその上の二階に位置するのだ。しかも二年生のA・B・C組の三クラスも同じ階に存在する。二年生はこの三クラスだけで全員が女子生徒と言う訳もあり、俺個人は少し廊下を歩くのが、随分気が引けると思っている。

 それでも、授業中、矢部くんのスッキリ刈り上げた坊主頭がチラホラ視線に入って集中力が散ってしまうので、正直言って耐えられないので、時にはいい目の保養になっていたりする。

 当然。そんな事は、本人には告げず矢部くんと暫しの談笑を交わしながら星の待つクラスへと歩いて行った。そして、あっという間にB組の前に辿りつき、真新しい引き戸のドアを音を立てずに心地良く引いて、教室の中へと入って行く。

 そこには、星と思われる人物を除いて誰もいなかった。

 一番後ろの端、教室の窓から光が逆光になって顔は良く見えなかったが、金髪に染まる髪が光に当たって輝いて見えた。不敵な笑みを浮かべている風に見え、ドンっと構える佇まいはまるで、不良少年を見ているかのようで、ブレザーを脱ぎ捨てワイシャツを肘まで捲り、腕を組み机の上に腰を下していた。

 影の奥底からギラリと睨みつけてくる。俺もその瞳をジッと見つめていると、間に入るように矢部くんが口を開いた。

「星くん。この人がさっきメールで連絡した。小波球太君でやんす」

 矢部くんが、星に俺の事を紹介した。

 顎を左手に置き、不揃いに生える無精髭をなぞりながら、体を乗せていた机から腰を離しニ、三歩進むと、ツンツンと整髪料で固めた金髪を揺れ、ニカっと笑うと、刺々しい八重歯が見えたのが特に印象的だった。

「よォ。お前ェが小波球太だな? 俺の名前は星雄大。矢部にも聞いてると思うが、赤とんぼ中の主将やってたんだ。ところで確かめたい事があるんだが、本当にお前があのあかつき中のエースナンバーを背負ってて、全中記録を更新した小波か?」

「確かに俺だ。あかつきのエースって言ってもそれは、中学二年までの話であって、あの全中の準決勝で肘を壊して退部した。だから肩書きなんてそんな大それたモンなんてねえよ」

 自己紹介をして見ると一見見た所、変な風には感じなかった。矢部くんが言ってた「癖のある」というのは一体何のことなんだろうか、と疑問に感じたまま星が言葉を発した。

「ところで小波。お前に一つ言っておくぞ? 俺たちはな、野球が好きだからって言う簡単な理由だけで、わざわざこの恋恋高校で野球部を作ろうとしている訳じゃあねえんだ。いいか? 俺たちにもキチンと明確な目標があるって事を忘れんなよ?」

 星の目を真っ直ぐに見ながら聞いていた。その目には嘘はない。

 なんだよ。矢部くんが言っていたのは俺に脅しをかける冗談だったのか・・・・・・。癖のあるどころか、赤とんぼ中の主将を務めていただけある。見た目によらず随分の熱血野郎じゃあないか。

「分かった。俺にも目標があるし、出来れば聞かせてくれないか? お前たちの目標を」

 俺は、こいつらとなら良いチームが出来そうな気がした。——のだが、次の言葉を聞いてそんな思いはボロボロと音を立て崩れ行ったのだった。

「俺たちの目標だぁ? そんなの決まってんだろ? ここで野球部を作る理由はだな。女は男の頑張ってる姿を見ると恋に落ちるって、この間本で読んで閃いた訳よ! だから俺は男の少ねえこの学校で野球の才能を存分に見せつけ女どもは俺に酔いしれる。そして、俺たちは『モテモテライフ』を送ると言う算段なんだぜッ!」

 静まり返る教室に、星の叫びが何重にも響き渡った。

 拳を胸に当てどうだ、と言わんばかりの星の顔はが、輝きに満ち溢れている顔だった。

 そして、当然、俺は顔に手を当てて落胆した。

 癖のあると言うことは、ただ女子生徒に好かれたいと言う下心満載の人物だと言うことは一目瞭然だった。

 さっきまでの俺の思いは泡を立てて消えて行った。前言撤回だ。

「俺たちって事は、もしかして矢部くんもそうなのか?」

「そうでやんす。オイラ達は、赤とんぼ中学、いや今まで全くと言うほど女の子に相手にされなかったでやんす。だから、ここで一花咲かせないんでやんす。星くんなんて金髪に髪を染めるほど気合いを入れてるでやんすよ!」

「へっ、矢部。そう言うのはあまり言うもんじゃあねェぜ。男たるもの少し厳つい方が良いだろ?」

「流石・・・・・・星くんでやんす! オイラ感服したでやんす!」

 おいおいおい。全く流石、って褒めてる場合じゃあないだろ。

「俺たちはここで伝説作るぞーッ! 矢部!」

「おう、でやんす!」

 完全に置いてけぼりになった俺は、もはや笑みの一つも出てこなかった。出てくるのはため息だけだった。ここで野球を始めるのは中々骨が折れそうだ。

 

 翌日の朝。まだ誰も登校する気配の無い早い朝だ。

 星と矢部くんの基礎能力がどのものなのか見定めたいと言う俺の提案で校庭のグラウンドで軽めのキャッチボールをする事になった。

 広々とした校庭、周りを囲む木々、草花、そこで俺たちは三人でボール回しをしていた。

「・・・・・・」

 ボールを投げる事など怪我をして以来実に二年ぶりになるので、少し不安な気持ちになったものの、軽く放っても張りや痛みが全く無かったので安心した。この調子ならピッチング練習も再開したいもんだ。

「矢部ぇ! テメェはボールを取ってから投げるまでの間が長すぎるぞ!」

「すまないでやんす!」

 星が叫ぶ。

 見て思った率直な感想は、捕球の巧さ、肩の強さ、スローイングの正確さは中々良いセンスをしている事だ。赤とんぼ中学には勿体無い人材だろう。実際、恵まれた環境下で野球を学んでいれば強豪校の正捕手も務まるだろう。

 もし星があかつき大附属に居たなら正捕手争いで『あいつ』と良い勝負が出来るのでは無いかと思うほどだ。

 方や、矢部くんの方は問題大だ。

 自ら名乗る「スピードスターの矢部」が頷ける程の俊足の持ち主なのは分かるが、捕球、スローイング、おまけに弱肩と言う守備面に不安になる要素が多いがまだ伸び代はある。

 守備面は大体どの程度か把握したが、こうなると打撃面が不安になる。それは追って見定める事にしよう。

「オイ、矢部ェーー! 今のボール位普通に取れるだろうがァ!」

 再び、星の叫び声が聞こえる。どうやらなんとも無いただの送球をグローブで弾いて後逸したらしい。不安が更に募っていく。

「ゴメンでやんす!!」

 

 転がって行ったボールは、一人の女子生徒の足元に辿り着いた。

 自慢ではないが、遠目でもはっきりと見える程、目の良い俺は、その女生徒をジッと見ていた。

 透き通った黄緑色の艶やかな髪に可愛らしいお下げ髪をぶら下げている。

 女生徒は手に持っていたカバンを地面に置き、ゆっくり腰を下ろし、ボールを拾い上げる。

「此処でやんす! このグローブに向かって投げて欲しいでやんす」

 追いかけていた矢部くんの足が止まり、グローブへ投げる様に声をかけた。

 すると、いきなりその女子生徒は、クイックモーションに入り、体をグイッと沈ませた。

「——ッ!?」

 地面ギリギリから右腕を振り抜き上げ、球はまっすぐ矢部くんのグローブにバシッと収まり、矢部くんは呆気に取られたのかそのまま立ち尽くしていた。

「おい、小波」

「ああ」

「今、あの女が放ったフォームはアンダスローだよな? プロのピッチャーでもほとんど投げない投法の一つの」

「そうだ。それにしてもあいつ、中々体の関節が柔らかく上手く鍛えある。場慣れしてるって感じがするぜ。上手い具合に体重移動をこなせている。そして、あの慣れている感じ。きっと野球経験者だろう」

「野球経験者だ? だが、シニアや中学野球にも女が野球してたなんて、そんな話聞いた事がねえぞ?」

「なら、リトルリーグの時代はどうだ?」

「はぁ? リトルリーグだと?」

「俺は昔、かっとびレッズリトルってチームに所属してたんだ。そん時、リトルリーグの大会の対戦相手のチーム『おてんばピンキーズリトル』には、アンダースローを投げるピッチャーが『二人』も居たんだ。その内の一人が女の子だったぜ?」

「はぁ〜ん。なら、あのアンダースロー女がそうだって言うのか? 経験者だとしても野球部の無い恋恋高校にわざわざ入学してるって事は、あいつは野球を諦めてるって事かもしれねえぞ?」

「まだ分からねえな。少なからず俺みたいに、まだ諦めて無い可能性だってあるはずだ」

 ああ、そうだ。簡単に好きなものなんて手放せる訳がねえんだ。だから、あいつに話を聞いてみて野球部に誘ってみるのはどうだろう。

 アンダースローは基本的に先発完投型だ。肘の調子次第で俺がピッチャーをやるつもりだったから、リリーフをしたとしても負担は軽減されるだろう。

 よし、早速話をしよう。そう思った時だ。

「小波くん! 星くん! 聞いてくれでやんす。四人目の入部希望者でやんすよ! この子がオイラ達の野球部に入りたいって言ってくれてるでやんす!」

「え?」

「は?」

 喜びを露わにし、矢部くんが俺と星の元へと走ってくる。二人同時に気の抜けた返事を返してしまった。

 矢部くんの後に、その女子生徒が歩いていく。凄く晴れた空が青く広がり、風は揺れ、四月の満開の桜が舞い散った。

 風が撫でる様に、黄緑色の髪を揺す。

 くっきりと大きな瞳は、まるで空の色をそっくり写した青い目。

「ボクは早川あおい。君たちと同じ一年生だよ。今、そこにいるメガネの子から聞いたんだけどここで野球部を作るんだって? 良かったらボクも混ぜてくれないかな? ボクも野球好きなんだ」

 早川あおいと名乗った女子生徒は、俺の目を見つめながら言う。

 ぷるんと揺れる桃色の唇に思わずドキッとしてしまったが、俺も自己紹介を返した。

「俺は小波球太だ。まだ部とは言えねえけど野球が好きなら大歓迎だ。こっちこそよろしく頼む」

 俺と早川は互いに手を握った。

 これが俺と早川の二度目の出会いだと言うことはこの時の俺は、まだ知らなかった。




 登場人物の紹介
 小波球太
 恋恋高校の一年生。右投げ右打ちで、ポジションはピッチャーとファースト。
 元あかつき大附属出身。オムライスとウーロン茶が好物。
 冷静沈着、洞察眼が鋭く、野球センスは抜群に良いが、野球以外の事に対しては消極的である。

 星雄大
 恋恋高校の一年生。右投げ右打ち。ポジションはキャッチャー。
 元赤とんぼ中学出身。女の子にモテたいが女の子と話す時はやや緊張気味になったりする。
 口は悪いものの、時には優しい一面を持つ。


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第3話 四人だけの野球部

「早川あおい?」

「ああ。栗原……お前はその名前に聞き覚えとかあったりするか?」

「うーん……どうだろう。聞いた様な気もするし聞いたことが無いような気がするんだけど……ゴメンね、小波くん。やっぱり私は覚えてないかもしれない」

 栗原が申し訳なさそうにそう言う。

 昨日、早川あおいが仮ではあるが野球部に入りたいと言い出してから、妙に気に掛かった事があったのだ。

 早川あおい、と言う名前とあのアンダースローのフォームは昔どこかで見覚えがあると言う事だった。

 その記憶はきっとリトルリーグ時代であり、相当昔の事だから既にあやふやになっている。

 俺より遥かに記憶力の良い栗原に尋ねてみたのだが——。

 どうやら栗原も『アンダースローのピッチャーが居た』と言うのは覚えていたが、その名前については覚えはないようだった。

「でも、良かったよね!」

「何がだ?」

「だって、その早川あおいって女の子が野球部に入りたいって言ってきたんでしょ?」

「まぁ、これで部員は四人にはなったな」

「あれれ? なんだか幸先が良い感じゃない?」

 と、栗原は感心しながら、先ほどレジにて購入した新鮮なトマトとレタスに店特有のオリジナルソースと、肉汁が今にもじゅわりと出てきそうな厚切りのハンバーグを挟んだ「パワフルバーガー」と呼ばれるハンバーガーを小さな口で一噛みした栗原は、このボリュームで七百四十円は安くて美味しいと、喜びながらも口にソースを付けてニコリと笑う。

「さぁ、どうだろうな。幸先が良くても九人も居ないんじゃ話にならないだろ。それにしても晩飯がハンバーガーだなんてお前……アメリカ人にでもなるつもりか?」

「小波くん、それは偏見だよ? 向こうの人だってキチンと主食に副食も食べてるんだからねッ!」

「そんな事は知ってるよ。……ほれ、口元にソースついんぞ。高校生にもなって口元にソースを付けて平然としてるのは、流石にどうかと思うぞ」

「あ、ありがとう」

 俺はソースが口元についたのが気になり、ハンドペーパーを二枚ほど抜き取るとすぐ様栗原に渡した。

「ところでさ、栗原に聞きたい事があるんだけど」

「うん? なに?」

「いや、パワフル高校の野球部は実際どんな感じなんだ? 中学時代に強豪のチームで活躍してたスーパールーキー的な一年とか入ってきたりしてるのか?」

「どんな感じって言われても……。あっ、でも一年上の尾崎先輩が言うのには『猪狩ブルースシニア』出身の麻生くんとパワフル中学の戸井くんがもう戦力として数えられてるわね。もう夏の大会にはレギュラーとして試合に出られるんじゃないかって言ってたわよ」

「へぇ……、麻生に戸井ね。パワフル中学の戸井は兎も角、麻生ってヤツの名前は聞いたことがないな。それに『猪狩ブルースシニア』に居たって言うのなら去年と一昨年と二年連続全国に出場したチームじゃねえか。シニアに居たって事はあの『猪狩ブルースリトル』にも所属してたのか?」

 と、尋ねるが栗原は首を横に振った。

「ううん、彼は「育成会」上がりなの。地域でやってる軟式野球チームに所属していて、ブロードバンドジュニアスクール中学では、訳があったのか野球部には入らず、猪狩ブルースシニアのチームに入って今年パワフル高に入学したらしいのよ」

「成る程、育成会上がりか……。そいつは意外と努力人なのかもしれないな」

 栗原は、カバンから取り出した分厚いメモ帳に記されたデータを読み上げる。マネージャー業もちゃんと立派にこなしてるんだと、俺は感心もして安心もした。

 いやいや。なんて感心してる場合では無いのが今の現状で、俺たちにはこの先の事は一寸先は闇である。

 まずは部員集めに監督・顧問、グラウンドの確保など難関はこれから山の様にある訳だ。

 それにまず、学校側が俺たちが野球部を作ろうとしている事に対し認めてくれるかどうかだが、それはきっと何とかなる筈だ。

 

 そう言えば、何故、こんな所に居るのかと言うとだ。

 栗原と飯を食べる前、学校の授業が終わって少しばかり四人でその事に関してミーティングをした。

 その打ち合わせをしている最中に矢部くんと星は『こんな所で時間食うのは勿体無い! だから俺たちは今から街に行って女の子に声かけて遊びに行くぜ!』

 と、二人は話の途中で放り出し、足早に外へと出てしまった。

ㅤ結果は言うまでもないだろう。

 何も解決方法が浮かばなかった、だ。

 残された俺と早川はお互いの顔を見ては呆れ笑いし、十七時の学校の鐘が鳴った頃に、俺と早川は帰る支度をして二人とも別れ、帰り道にいつもの河川敷で栗原とばったり会い、立ち話をしていたら雨が降り出してきて近くの「パワフルバーガーショップ」と呼ばれる店に雨宿りしているのだ。

 

「まったく幸先が良くねえよ。これじゃ先が思いやられるぜ」

 俺は頭を掻きむしり言う。

「なによ? どうしたの? 急に」

「いいや、気にしないでくれ。今のは何でもないただの独り言だよ。それより毎年『打倒あかつき』を掲げるパワフル高校は、何か打開策の一つや二つはもあるのか? どうせ戦うつもりで居るだろ?」

「ゴールデンウィークに全国の各校と何試合か試合をする合同合宿があるのよ。夏の大会、予選前の調整らしいわ。経験を積ませて場数をこなせると言うのが監督の目論見でね」

「成る程な。経験を積ませる……か。それは全く羨ましい限りだぜ。なんせ俺たちはまだ試合も愚か、部としてすら成り立ってなんかいねえんだかな」

「こらこら、嘆いてても仕方ないでしょ? あっ、そうだ小波くん。あれから肘の調子はどうなのよ?」

 少し不安そうな顔で栗原が尋ねて来た。

 右肘を壊して野球を辞めた事は人伝で聞いたみたいなので知っているのは当然だ。

「それが驚く程に調子が良いんだ。この前、キャッチボールをしてみたんだけど、それが痛みもなんとも無かったんだぜ?」

「どうせまた『聖ちゃん』相手に無理矢理練習に付き合わせたんじゃないでしょうね?」

「えっと、それは……」

「いい? 小波くん。聖ちゃんは私たちの四つ下とは言えどまだ小学六年生なんだからね? ましてや相手は女の子なんだしちょっと位は優しく手加減を——」

「分かってる分かってるって、俺もあんまり調子に乗らない様にちゃんと抑えてるし、それに聖の性格もお前も知ってるだろ? しっかりしてる、いや、しっかりし過ぎてる。オマケに融通の利かない頑固者と来たもんだ。まぁ、そこは心配しなくても大丈夫だよ」

 大好物を利用して、練習を長引かせていると言うのは栗原には内緒にしておこう。きっと、怒鳴られるだけだから。

「……そう? それなら良いけど」

「ほっ……」

「それじゃ小波くん達の当分の目標は、頑張って今の同好会を部活動へと仕上げなくちゃね。今年は、どうしても無理で来年になっちゃうけれど、私たちのパワフル高校と戦うの楽しみに待ってるわよ」

「はは……随分と簡単に言ってくれるな。このまま三年間部にならないままで終わる可能性もなきにしもあらずだぜ?」

「あら、そうかしら? 小波くんならしっかりとした強いチームを作ってくれる様な気がするのよね」

「はぁ? その根拠はどっから来るんだよ」

「ふふ、それは幼馴染の勘ってやつかしら? あっ! もうこんな時間? ゴメン小波くん。今日はお母さんと晩御飯作って家族で食べる約束してたの忘れてたわ! 先に帰るね」

「おう。またな栗原」

 慌てる様に荷物を持ち、店のドアを開けて栗原は家へと一目散に走り去って行った。

 栗原の姿が完全に無くなったのを確認し、俺は残っていた烏龍茶を飲み干した。

 それにしても今、ハンバーガーを食べたばかりだと言うのにこれから晩御飯を作って食べるのか……食欲旺盛だこと。

 

 グゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥーーー。

「……」

 俺も他人の事は言えないな。

 なんて思ってると俺も食べたばかりだと言うなのにお腹がなってしまった。ふと、無性にオムライスが食べたくなった俺は、制服のズボンのポケットから携帯電話を取り出して電話帳を開き、ある人物の名前を探した。

 カチカチカチカチ。

 その名前は、た行に在った。

 俺は電話をしようとしたが、急に面倒くさくなり手短に「今から行く」の一言だけメールを送信する。

 送信から二分程経った頃、一通のメールが届きアラームが鳴り、確認してみると『了解。俺はいないけど、もしかしたら姉さんならいるかもよ』と返信が返ってきたので俺はお会計を済ませて店を後にした。

 

 

 

 翌日。

 春空は雲ひとつない晴天だった。

「はぁはぁ……」

「お、おィ!! 小波、早川!! ちょ、ちょっと休もうぜ?」

「おいおい、何言ってんだ? 星」

「小波くん。オイラも星くんの提案に賛成でやんす! オイラ……も、も、もう限界でやんす!」

「えっ? ちょっとキミたち……もうバタてたの?」

「バテたでやんす!」

「嘘でしょ? だってまだ走り始めたばかりだよ?」

 早川は呆れ顔で何も言えないと言った表情をしながら言う。星と矢部くんは冗談言っている様な余裕な顔付きではなく、本気の本気で言っている様だ。

「仕方がないでやんす。あおいちゃんと小波くんはピッチャー経験者じゃないでやんすか! オイラは外野手、星くんはキャッチャーでオイラ達二人と違って体力は有り余ってるはずでやんす! これは不公平でやんすよ!」

「そ、そんな事ないよ! 小波くんはどうかなんて知らないけど、ボク自身はスタミナを強化する事を課題にしてるほど、スタミナに自信がないんだからね! そんなにキミたちとそんなに差はないよ」

「おいおい、お前らな……喋ってる余裕があるんだったら足を動かせよな。それに矢部くんと星は休憩はさせねえからな? お前ら昨日のミーティングをバックれたんだから、その罰だ」

 俺はそう言って、止めていた足を動かす。

「——ひッ!!」

 後ろの方から矢部くんと星の声にならない声が漏れている様な気がしたが、気にしない。自業自得だ。

 

 今日の野球同好会は、まずランニングから始まった。

 校外近辺の往復約五キロを地図で調べ上げ自分たちで作り上げたロードレースコースを星が『恋恋ロード』と命名した。

 息の切れている星と矢部は次々とペースが落ちていく、やれやれと思っていたら、俺の横を早川が駆け抜いていく。その表情は後ろからは見えないが、なんだか余裕そうで軽やかに走っていた。

「オイラ……もうダメでやんす。ギブアップでやんす!!」

「オイ、バカ野郎ォ!! 矢部ェ!! テメェ、急に足を止まんじゃねェェェェェェェェェよッ!! って、わっ――!!」

 瞬間に、激突。

 コントみたいに力尽きた矢部くんが足をピタッと止めてしまい、後ろを着いていた星がぶつかり、二人が転倒して叫び声が聞こえた。

「はぁ……。ったく、昨日と今日といい、あいつらのおふざけは大概にしてほしいもんぜ」

「同感だよ。ボクもそう思う」

 二人同時にため息を漏らし呆れた。

 すると、目の前を走る早川が振り向きもせずに口を開いた。

「ねぇ、小波くん」

「ん?」

「キミって意外とスタミナあるね」

「まあ、こう見えて元あかつき大附属中学でピッチャーをやってたからな。自分で言うのもアレだけど、一応あかつき仕込みのキツいトレーニングはこなして来たんだ。だけど、こう見えて体力も随分と落ちたもんだぜ?」

「そうなんだ」

「でも、早川。お前もすごいな。男の俺に食らいついてくるなんて」

「それてもしかして褒めてくれてるの? ありがとう。でも、ボクはキミたちみたいな男の子に負ける気なんてーーーないよ!」

「ーーッ!?」

 踏み込みを強くして早川は、更にスピードを上げた。

 緑色の綺麗な髪がふわりと靡く。俺の前を一メートル先を走る早川から、ほんのりと柑橘系シャンプーの匂いがしてきた。微かに香るシャンプーの匂いが消える頃、ちらっとこちらを向いて早川が「どんなもんだ」とでも言うかのように満面の笑みで俺を見た。

 とても女の子とは思えない男勝りっぽい性格をしている早川だったが、それを感じさせない女の子らしい笑顔を見せるので俺は苦笑いを浮かべながら俺は心の中で、こう呟いた。

「あのな? これはランニングなんだぞ? 別に勝ち負けなんてある訳ねえだろ」

 何も知らない、何も聞こえない早川は次第にペースをあけわて悟られぬ様に押し殺し冷静に呟き、矢部くんと星の方をちらっと見るものの、もう随分離れていてしまったのか、二人の姿はまったく見えなかった。

 

 

 

「うう……」

 小一時間くらいで俺と早川は学校の校門の前に辿り着いたのだが、早川は何かと不機嫌だった。いつまで経っても帰ってくる気配の無い星と矢部くんを待っているからなのだろうか。

 いいや、違う。理由は一つ、至ってシンプルだ。

 早川は最後に俺に抜かされたことが不満だったみたいで『最後にスピード上げるなんて卑怯だよ!』などと、若干目に涙を浮かべてふて腐れた様子だった。

「ま、最後の最後でペース配分の失策だったな」

「……」

 無言の早川。

「でも、驚いたよ。なかなかスタミナあるじゃねえか」

「むっ……。褒められても、全然ッ嬉しくないもん!」

 プクッと頬を膨らめせ、顔は避ける様にそっぽを向いていた。

 おいおい、さっきはありがとうって言ってたじゃんかよ。

 早川あおい。コイツ、相当な負けず嫌いで短気な性格をしているんだな。

 

 そして、最初に到着してから十五分過ぎた頃だった。

「着いたでやんす!! オイラもう限界でやんす!!」

 ようやく先に終えていた俺と早川の二人と合流した星と矢部くんだったがどこか様子がおかしかった。

「遅えぞお前ら!」

「申し訳ないでやんす!! でも、小波くんとあおいちゃんがただただ早すぎるだけでやんすよ!!」

「そうだ! そうだ! テメェらは体力が在り余りすぎるんだよッ! 少しは体力がねェ俺たちにも配慮ってモンをちょっとは考えてほしいもンだぜッ!!」

 星と矢部くんは、ニヤリと笑っていた。

「ねぇ」

 早川は何処か違和感を感じていた。

 それは、二人がなんだかニヤついているからだ。

「キミたち、何がそんなに面白くて笑ってるの?」

「え? オイラ達笑ってるでやんすか?」

「う、うん。それに矢部くん、キミのその笑顔……出来ればやめてくれないかな?」

「えっ? どうしてでやんす? あおいちゃん」

「後、ボクの事を、その……『あおいちゃん』って呼ぶのも止めてくれると助かるんだけどね。なんだか気持ち悪くて……」

「き、キモ——ッ!? あおいちゃん! いや、早川さん? な、何を言ってるでやんすか!」

「おいおい、何を喚いてやがるンだ? それに関しては早川の言う通りだぜ。矢部、テメェの笑顔はなんかムカつく」

「星くんまで!? なんででやんすか? みんなしてオイラの扱いが酷いでやんす!!」

 涙を流して泣き噦る矢部くんを見てケラケラと笑っている星に近づいて尋ねてみた。

「それで? なんかあったのか?」

「あッ!! そうそう! いいかァ? 聞いて驚くんじゃねェぞ? なんたって野球部の顧問をしてくれる先生がさっき見つかったんだからよォ!!」

「そうでやんす! オイラ達は、ただただ笑ってただけじゃないでやんすよ! 担当してくれる顧問を見つけたからこそ、こうして笑っていたに決まってるでやんす!!」

「顧問が……」

「見つかった?」

 二人の言葉に小波と早川は同時に口にした。

「いやいや、それは流石に冗談でしょ? だってキミたちはランニングしてふざけてただけなのに、何で顧問が見つかるの?」

 俺も思った事を真っ先に早川が、不思議に思って話を聞いてくれた。

 どうやらあのコントみたいな茶番をしていた後に、星が足を擦りむいて怪我をしてしまった様だ。その時にたまたま通りかかった新任の加藤先生と言う先生が手当してくれたらしく、白衣に身を包んだ年上の女性を前に有頂天にたどり着いた矢部くんが一目惚れして勢いで頼んだら、見事に二つ返事で承諾してくれた、との事だった。

「なんだか、話がうまく行き過ぎじゃないか?」

「そうだよね。ねえ、その加藤先生って人って野球に詳しかったりするの?」

「いや、野球は『知り合いの付き添い』で観に行ったり、プロ野球の試合は適当に付けて流れる夜のニュース番組のダイジェストでしか見た事がなくて、ルールとかはまるっきり知らないみたいでやんす」

「そ、そうなんだ」

 ルールも知らない顧問って、大丈夫なのだろうか。

「でもよォ。その加藤先生が言うには、小波。何故だか知らねェけど、テメェに興味があるって言ってたぜ?」

「えっ? 俺に興味? なんでだ?」

「知らないでやんす」

「俺だってしらねェよ。言っただろ、知らねェけどって」

 なんで聞く必要があるのんだ、とでも今にも言いそうな二人のマヌケな顔にムカッとしてしまい「理由位聞いとけよ!」と思わず口走りそうになってしまったが、何はともあれ問題の一つである顧問を見つけてくれた二人を立ててやろうと「二人とも顧問見つけてくれてありがとう」と、礼をする事にした。

 これで顧問が見つかった。

 明日でもその先生に挨拶でもするか。

 そして、その時になんで俺に興味があるのかを聞いてみるとしよう。



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第4話 高木幸子

 春の陽気が睡魔を生む。

 俺はそれを拒まずに受け入れるのがいつもの俺なのだが今日は違かった。

『でもよぉ。その加藤先生はさ、なんだか小波、お前に興味があるって言ってたぜ?』

 昨日のランニングが終わった後だ。

 星が言っていた加藤先生の言葉が気になっていた。

 何故、俺に興味を示しているのだろうか。

 その理由は全く分からないままだった。

 まず、入学して四日目が経過したが、保健担当の加藤先生の話を他のクラスメイトが話題にしたことは聞いた事がないし、もちろんの事、中学時代も面識など無いのだからどうしようもない。

「まあ、いいか。そん時に聞けば」と、そのまま考えるように、我慢していた深い深い眠りへと誘う、春の睡魔を受け入れるかのように目の前がボヤけ、眠りにつきそうだった。

 そして、目の前が暗くなり、次に目が覚めた頃には、星と矢部くんに早川が学校指定の体操着に着替えていて呆れた顔で俺を見下ろしていたのだ。

「はぁ〜。小波くん。毎日、こうも起こし辛い様にグッスリ寝てられるとこっちもなんだか起こすのが面倒になるでやんす」

 矢部くんが愚痴をこぼして眠け覚しに、冷えた缶コーヒーを俺の机の上に差し出す。

「ったく、テメェはただの学生だろうが何寝てンだよ! 俺なんかクラスの女子生徒見るたびに、目が血走って眠気なんて吹っ飛ぶぜ?」

「星くん・・・・・・それは気持ち悪い」

「同感でやんす」

 と、矢部くんと早川が一蹴すると「保健室に言って、加藤先生に会いに行くんでしょ!」と早川が俺の腕を掴み上げ席から離す。

 だいたい俺の席から見える矢部くんの後ろで坊主頭を見るのは本当に目を覆いたくなる程、キツイものがあるからだ。

 おまけにこの窓際の席だから太陽の光を直接浴てしまうから寝ちまうんだ、と言いたかったが、矢部くん本人を目にして本音を言うのはどこか気が引けてしまって言わない事にした。

 そして、小さな声で『眠い』と、だけ呟いて、俺たちは教室から後にした。

 この学校は主に北校舎と南校舎に分かれていて俺たち生徒の教室は北校舎に位置しており、職員室、事務室、校長と理事長室も同じ北校舎の一階に存在している。

 そして、体育館、美術室、音楽室など選択科目でしか使わない教室は南校舎にあり、保健室は南校舎にある。

 校舎と校舎を繋ぐ、長い渡り廊下を歩きながら俺たちは保健室へと向かう。

「あのさ……少し聞きたい事があるんだけど。一体、加藤先生ってどんな人なんだ? 俺はまだ見たこともないんだけど」

「えっ……? ちょっと小波くん。キミは何を言ってるの? 入学式の時、新任挨拶でちゃんと自己紹介してたじゃないのよ」

 片眉を釣り上げて早川が言う。

 新任の挨拶? そんなの入学式の時にあったか?

「・・・・・・」

 あ、そう言えば入学式の最中、校長の話がやたら長すぎたせいで眠ったまったから記憶にないのは当然か。

「早川、無駄だぜ。大体、こいつの事だ。きっと寝てたに違いねェ」

 星が見透かしたように笑いながら俺の肩にポンと手を置いた。

「そうだろ? 小波」

「そうだけど、なんだ? この手は」

「いいか? 今から会いに行く加藤先生は、お前が思ってる以上に美女な大人の女性だ。だからって緊張するんじゃねェぞ?」

「あのな……。勝手に人を年上好きみたいな感じで言うなよな」

「それによォ。お前、頭は癖毛だけどこう見ると意外『イケてる顔』してるんだから、もしも加藤先生から口説かれたりしてもちゃんと断われよ! いいな、絶対だぞ!?」

「星、お前は一体なんの話をしてるんだ? だいたい俺は、年上には興味ないから安心してくれ」

「年上には興味ない。そうなんだ。良かった・・・・・・」

 一人、ポツリと聞き取れない声量で早川が呟いた。

「何か言ったか? 早川」

「えっ!? あっ……。いや、何も、何も言ってないよ!」

 後ろの方でボソッと早川の声が聞こえた気がしたが気のせいだったようだ。

 すると、矢部くんがニヤリと笑みを浮かべて星に向かって声をかける。

「それに、星くんはもう既に加藤先生に『六回』も交際を迫るほど口説いてるでやんす。ま、全部断られてるでやんすが」

「はッ!? ちょっと待てよ矢部!! テメェ!! 何を余計な事言ってんだッ!!」

「だって昨日、ランニングの途中で転んで手当してもらってる時に星くん言ってたじゃないでやんすか! 『先生、俺と二人で生徒と教師の禁断な恋をこの学校でしてみませんか』って、確かにオイラはこの両の耳で聞いたでやんすからね!」

「ば、バカ言ってるんじゃねェよ!! 俺的には加藤先生はナイスバディでどストライクなのは、まぁ……認めるが——。まだ、ここから攻めに行くための布石に過ぎねェンだよ! 断じて振られた訳じゃあねェェェェェェェェェェェ!!」

「あははは……。やっぱり狙ってるんだね」

 早川は苦笑いを浮かべていた。

 まったく、こいつの女好きには呆れるものだ。

 一昨日、ミーティングを抜け出して、街に遊びに行った星は、確か他校の女子生徒に声をかけてナンパ決行を試みたものの、余りの緊張のせいか、テンパって挙動不審になり、挙げ句の果てには不審者その者の様に見られて、危うく警察に通報されかけてたみたいだが、こいつの性格上女好きは一生治らないんだろうな。

 頼むから野球部や学校には迷惑かけるんじゃあねえぞ、と願わんばかりだ。

「っと、此処だな。着いたぜ」

 なんて、呑気に話しているうちに保健室にたどり着き俺達はコンコン、と二回ほどノックを鳴らす。

 しばらく経つと「どうぞ」と返事をする声がドアの向こう側から聞こえてドアを開ける。

 ガラガラ。

「ようこそ、保健室へ。そこの癖毛頭のキミが小波球太くんね、初めまして」

 そう言うとバッと白衣をはためかせ回転椅子をくるりと、こちらに向ける。

 オレンジ色の髪色で癖毛なのか、あえてそういう風に整えてるのか分からないが、両頬にかかる毛先を色白く細い指で撫でながら、身から放つ大人の女性の色気を撒き散らすかのような挑発した上目づかいで俺を見つめる。

 星が惚れるのも、なんとなくだが、解る気がした。

「はい、小波です。初めましてです」

「私がこの度あなた達の野球同好会の顧問を担当する事になった加藤理香よ。よろしくね」

 ニコリとすると後ろに立つ星と矢部が元気良く「はい! 加藤先生! ご指導の方、よろしくお願いします!」と声を上げる。

 すると、隣に居た早川はややキレ気味で「はぁ〜」と、重たいため息を付くのが聞こえた。

 ご指導の意味はどう言った意味なのかは聞くまでもなかった。

「それで此処に何の用なのかしら? 見るところ怪我をしてると言う訳でも無さそうだけど。それとも何かしら? まさか、そこの金髪くんみたいに『しつこく』口説きにでも?」

「金髪くん!? ちょっと待ってくれよ、先生!! 俺の……いや、僕の名前は星雄——」

「あの!! ボク達、加藤先生が顧問を担当してくれると星くんと矢部くんから聞いたので、一応お礼と挨拶をと」

 早川は、狙っていたのだろうか。

 星が名前を言う前に、遮る形で口を開いた。

「あら? それでわざわざ挨拶に来てくれたの? どうもありがとう。折角だからコーヒーでも淹れるわよ? それとも紅茶の方がいいかしら?」

 桃色に染まった唇をぷるんと、揺らして加藤先生が問う。

「いや、結構です。あの先生。一つ聞きたい事があるんですが、急に顧問を担当して下さった理由が俺に興味があると言う事を星から聞きまして、それは一体、どういう事ですか?」

 すると、にこやかだった顔つきが一瞬変わった。

 眉をしかめる様に恐い表情へと変わり、また元へと戻った。

「ええ、確かに。私は小波球太くん。あなたに興味があるわ」

「それは、どうしてですか?」

「職員室で、あなたの担任先生が大声で自慢していたのよ。あなたはあの『名門』の『あかつき大付属』中学出身で野球部の元エースだったって事をね。確か小波くん、あなたは全中の大会中に肘を壊したんじゃないかしら? あれは、確か二年前。中体連の準決勝の試合中だったかしら? 百四十キロのストレートを投げた瞬間、あなたはマウンドで膝をついたのは」

 加藤先生が、机に置いてある湯気立つマグカップにへと手を伸ばす。

 その言葉を聞いて、全身の血が加速して強い脈を打つのが聞こえた。今言った事は紛れも無い事実だ。

 この先生は一体何者なんだ?

「知ってるんですか? 俺が故障をした時の様子を」

「ええ、二年前のあの日、あの試合を見ていたわ。当時の私は、医学界の知り合いの『ある博士』の助手を務めていたのよ。ちょうどあの時、全中に出ている『ある子』の視察をしにね」

 医学界の『あの博士』?

 『ある子』を観察?

 この言葉が妙に引っかかるが、加藤先生は早く話題をかき消すかの様に言葉を続ける。

「安心しなさい。あなたには全く『関係の無い子』よ。まぁ、それはどうでもいいわね。肘を壊した次の日に、あなたは医者の診断を受けあかつきの野球部に退部届けを提出したわね? その日の事を覚えてる?」

「……、」

 一瞬記憶を振り返った。

 確か俺は診断を受けた次の日に、顧問に退部届けを提出した。色んな人に止められたりはしたけど、野球が出来なくなったというショックで心あらずだったことは思い出せる。

 だが、その後のことは思い出せなかった。

 その日の夜に確か両親と話をしたことは思い出せるのに……。

 ——、おかしい。

 まるで記憶の一部分が欠けているかの様だ。

「いえ、思い出せないです」

「やっぱりね……」

 加藤先生が呟き、手に持っていたマグカップを机に戻すと、はぁーとため息を付いて、髪をくしゃくしゃと掻き毟る。

「やっぱり?」

「あ、ごめんなさい。なんでもないわ。それより、あなたの中で何所か変わった所はないかしら?」

「変わったところ? いや、特に変わった所はないですね。ここ何日前から再びボールを投げ始めてはいるんですが、肘に違和感は消え位で何も異常はない感じです」

「そう」

 と、不安げな顔が一転、安心した表情を見せる加藤先生だった。

「そういえばあなた達、練習はしてるの?」

「はい、一応。昨日から練習を始めてはいます。取り敢えず、今は決められた場所が無いので、ロードワークとか河原の空いてる場所や校庭の隅っこの所で軽くキャッチボールとかしている程度です」

 それもそうだ。

 確かに練習と言う練習は今のところ出来ていない。

 部員がいないのも確かだが、練習場所が無いので出来ることは限られてしまう。

「それならソフトボール部の練習場を貸してもらえる様にソフト部の顧問に掛け合ってみるわ。ソフトボール部はグラウンドを二つ持ってるみたいだけど、今は一つしか使ってないみたいなのよね。あなた達はソフトボール部のキャプテンに掛け合ってくれる? 確か同じ一年生がキャプテンを務めてるらしいから話しやすいでしょ?」

「ソフトボール部のキャプテン……」

 後方、早川が呟いた。

「ん? どうかしたのか? 早川」

「えっ……? ううん、別になんでもないよ」

 早川は顔を横に振る。

「……」

 本人は何ともないと言っているが、俺は少し気振舞ってる様にも見えた。

 早川に何か声を掛けてやるべきだろうか。

 少し間を置いて声を掛けようとしたが——、

「よっしゃァァァァァァァーッ!! 矢部ェ! こうなったら早速、ソフトボール部のキャプテンと話を着けに行こうぜェ!!」

「OK、でやんす!!」

 矢部くんと星が勢いよく保健室から出て行った。

 ドタドタと廊下を走る音が次第にフェードアウトして行く。

「もう!! 随分と勝手なんだから!!」

 呆れと怒りが混ざった早川も二人の後を追う様にドアへ向かって歩き出していた。

 だが、まだ立ったままで動こうとしなかった俺を早川が「どうしたの?」と声をかける。

「先生、俺はまだ『答え』を聞いてない様な気がするんです」

「答え? それは、どういう事かしら?」

「どう聞いても、俺がただあかつきのエースだったからって理由が顧問を受け持つ決め手だとは思えないんです」

「……中々、感が鋭いのね。それもそうね。でも小波くんあなたがあかつきのエースだったのも『一つの決め手』よ? 後もう一つ、これは後々いう事にするわ」

「後々……」

 どうやらはぐらかされてしまった、みたいだ。

 加藤先生は両目に綺麗にアイシャドーがかかる大きな瞳で俺を見つめる。そして、片目を閉じてウィンクをしてみせた。

「はいはい、もうこの話は終わりよ? ほらほら、さっさと練習戻りなさい。折角の貴重な練習時間が無駄になってしまうわよ」

 俺たちを邪魔者扱いするかのように手をバッバッと、箒の様に動かして教室から追い出された。

 

 

「……」

「小波くん。キミ、大丈夫?」

「ん? 何がだよ」

「えっと……。さっきの加藤先生との会話を聞いて思ったんだけど、もしかして小波くん、キミって『記憶喪失』なの?」

「記憶喪失? ああ、さっきの話の事か。別に対したことじゃ無いだろう? ニ年も前の事なんだし、忘れる事くらいあるさ。ただのド忘れかもしれないし気にした所でどうとかなる訳じゃない、いつかふとした時に思い出すはずだろ」

 保健室から離れて早川が心配そうに尋ねてきた。

 そして今から俺たちは、矢部くんが向かったであろうソフトボール部の練習場へと足を向けて居た。

 ちらっと早川を見てみるが、一歩、一歩進むたびに、その顔には覇気が無いと感じ、どこか嫌そうにも見えた。

「なぁ、早川。お前はどうして野球同好会を選んだんだ? 恋恋高校ならソフトボール部でも良かったんじゃないのか?」

「……。キミは随分と変なことを聞くんだね。ボクはね、ソフトボールより野球が好きだからに決まってるでしょ? なんて言ったって小学生の頃にボクはリトルリーグの『おてんばピンキーず』に入ってたんだからね!!」

「おてんばピンキーズ??」

 早川の言葉を聞き、ピクッと身が反応した。

 懐かしい、と言う感想が一番しっくり来る。

 俺もリトルリーグに入っていた時、何試合か練習試合をした事があるのを覚えていた。とても刺激的であり、楽しかった。

「当時の『おてんばピンキーズ』のチームメイトの殆どが、『ボク達』が男の子の中に混ざって野球をしている事に対して良いとは思ってる人はいなかったよ」

「……」

 チラッと横目で早川が話す表情を見ていた。

 今にも思い出したくないと、早川本人が言わなくてもそれが俺にでも分かってしまう位、悲しく、寂しく、辛そうな表情をしていた。

 それでも、早川は話を続ける。

「でもね? ある試合であるチームと練習試合をした時にチームメイトから揶揄う声が飛び交ってる中、相手チームの投手の男の子がマウンドにボクが登るのを待っててくれてたの。その男の子が笑顔でボクにある言葉をかけてくれたんだ」

「……ッ!?」

 待て。今の早川の話を聞き、俺は思わず足を止めた。

 身に覚えがある光景。

 遠い昔の記憶が一瞬、脳裏に鮮明に流れ込んできた。

 あの日、あの時、あの試合、あのチーム。

「……ッ!!」

 そうだ、思い出した。あれは早川だったんだ。

 先日、栗原と話をしていた時、『昔どこかで見覚えがある』と思っていた人物は、今こうして目の前に居る早川であり、早川にマウンドで声をかけた人物は……俺になる訳だ。

 そして、その時、早川に言った言葉はあやふやだが覚えてる。

 確か、『周りの目なんて関係ねえ、楽しくやろうぜ』とか、そんな感じだっただろうか?

「それでね? その男の子がボクに向かって何て言ったと思う? 『周りの目なんて関係ねえ、楽しくやろうぜ』って言うんだよ? ふふ、なんだか可笑しくて笑っちゃうよね。だって、どう考えても小学生が言う様な言葉じゃないんだもん」

「……」

 クスッと昔の出来事に思い出して笑みを浮かべる早川。

 それに対して、

 俺は少し恥ずかしくなっていた。顔の周りが妙に熱を帯びているのはきっと、今の俺の顔は赤くなっているのだろう。

「嬉しかったな……。その男の子のリトルチームにもマネージャーさんだったのかな? 女の子が居たんだけど、皆が皆、仲が良さそうで羨ましかったんだ」

「……」

 栗原の事か。

「それで男の子から勇気を貰って、中学生になっても周りの目なんか気にしないで楽しくボクの好きな野球をやろうと思って野球部に入部したんだけど、結局ボクは中学で『三年間一度もマウンドに登ること無く』ベンチにただ座って、周りから『色眼鏡』で見られて辛い思いをしたんだ。だから……」

「そんな思いを二度としたく無いから、早川は野球部のないこの恋恋高校に入学した、って訳か」

「うん。でも、ちょうどそこに野球部を作るって言うキミたちがいるんだもん。最初は避けようとも思ったんだ。……きっと、また同じ目に遭うのかもって、被害妄想しちゃって。でも、実際、声掛けて良かったと思ってる。今、こうして此処にキミたちと一緒に野球部を作ろうとしているのは、ボクが心から望んでいたのかもしれない。だからアンダースローなんか見せつけた。未だボクの中で野球への愛情や熱意は、まだ胸の奥に残ってて消えてなかった……ううん、消せなかったのかも」

「そうか」

 ——俺も同じだ。

 早川とは理由は違えど、俺も一度野球から離れた身だ。

 肘を壊して、挫折し、勝手に終わった気持ちになっていただけで、でもやっぱり野球がどうしようも無く好きで、だからこうして再び野球を始めようとしている。

 でも早川の野球を離れた理由は、俺の個人的理由とは違う。

 仲間からの拒絶、見世物にされたショックからだろう。

 ——そんな思いは絶対にさせたくない。

 俺は早川に昔の様な辛い思いを絶対にさせたくないと強く思った。

 

「それに、小波くん。『キミ』だからどことなく安心出来るしね」

 と、早川あおいは小波の顔を見て囁いた。

 小波には聞こえない、とても小さな声で。

「ん? 何か言ったか?」

「何も言ってないよ!!」

 ニカッ、と笑う。

ㅤまるで悪戯っ子の様に早川あおいは笑みを浮かべる。

「早く行こう!!」

 少し照れて赤く染まる頬を見せぬように早川は廊下を駆け足で走っていく、小波は首を傾け不思議そうに眺めて早川の後をゆっくりと歩いて行く。

 

 

 

 

 

 ザワザワ。

 ザワザワ。

 グラウンドに出ると、何やら人だかりが出来ていた。

 きっと星たちとソフトボール部が揉めていて、女にモテたい二人組が無駄に格好つけて反感を買ってるのだろうと、安易に思いつく。

「だ・か・らッ!! 何回も言わせんじゃねェよ!! 俺たちは絶対に甲子園に行くって言ってんだよ! だからグラウンドを貸せ!」

「そうでやんす!! オイラ達は近い将来、恋恋高校のヒーローになるでやんす!! だから首を縦に振って欲しいでやんす!!」

 耳を塞ぎたくなるほどの大きな声。

 もう校庭に居る視線がそこに釘付けだ。

 星と矢部の張り上げる馬鹿高い声は、ソフトボール部の第一球場から離れた下駄箱まで響いて聞こえてくる。

 最早、お願いと言うより煽りに近い。

 まったくの逆効果なのでは無いだろうか。

「不良金髪気取りと腐れオタクメガネはグラウンドから出て行け!」

 ソフトボールの部員のに一人が叫ぶ。

 その声を筆頭に徐々に連なって「出て行け! 出て行け!」とコールアンドレスポンスが響く。

 どうやら二人ともソフトボール部の部員達に相手にされてないみたいだけど、このままだと状況的に悪化して野球同好会の肩身が狭くなってしまう。

 小波は駆け足で星達の方へと向かう。

 すると、一人の女子生徒が大声を張り上げた。

「うっさいわよ!! あなた達、練習サボる暇があるんだったら、さっさと練習しなさい!! さもないとメニューを倍にするわよ!!」

「ヤバッ! キャプテンだわ!」

 声の主は、ボーイッシュ風の赤髪。白い鉢巻を巻いて眉毛をキリッと上げ、腕を組みながらソフトボール部の部室から出てくるのは、クラスの噂になる程既に話題に上がっている、一年生ながらにしてソフトボールのエースと四番、そして、キャプテンを努めている高木幸子だった。

「幸子……」

「……?」

 早川が小さく名前を呟く、またしても悲しい表情を浮かべていた。

 

「そこの男子生徒、練習の邪魔するなら出て行って貰えないかしら」

「邪魔なんかしてねェよ!! 俺たちは話し合いに来たんだよ!!」

 星は、高木を睨みつけながら言う。

 星に負けじと、高木も睨み返す。

「話し合い? それで、用件はなんなの?」

「俺たちは野球部のモンなんだがよォ? テメェらソフトボール部のグラウンドを一つ貸しては貰えねェか?」

「——ッ!? 今、なんて……?」

 高木は、顔を顰めて聞き返す。

「俺たち野球部にグラウンドを一つ貸してくれって言ってんだよ!!」

「はぁ? 野球部? この学校に野球部なんて醜悪な部活動は存在しないはずよ?」

「星くん、まだ同好会でやんす」

「……。確かに未だ部には認められてない同好会けど、その内認めさせてなるんだよッ!!」

「それで? 見たところあんた達二人だけの様子だけど? 随分と覇気の無い野球同好会みたいね。いつから野球は、『オタク』と『不良気取り』がやるスポーツになったのかしら? まあ、野球を好きな男には(ろく)な奴は居ないって言うのは知ってるけども」

 高木幸子は馬鹿にしてる様に、クスッと鼻で笑う。

「俺たちだけじゃねェよ!! 俺たちには元あかつき大附属のエースの小波球太と、恋恋高校の期待の超新星の早川あおいが居るんだぜッ!!」

 漸く辿り着いた小波と早川に向けて星がバッと指を指した。

 その先に視線を向けると、高木幸子は目を見開いた。

「あおい……。やっぱり、アンタは是が非でも『野球』の方を取るって言う訳ね。いいわ! グラウンドの許可を出して上げようじゃないの」

「うぉぉぉーーッ、マジかよッ!! サンキュー! 幸子ちゃん!!」

「余り良い気に成らないでもらえるかしら? ただし、条件付きよ!!」

「条件付きだァ? そりゃ一体、なんだってんだ?」

「あそこに居る期待の超新星とやらの早川あおいと一打席勝負よ。一打席勝負に私が負けたらもう一つのグラウンドをアンタ達に譲ってあげるわ」

「へへ!! 別に良いけどよ、もしお前が勝ったらどうなるんだ?」

 ヘラヘラしながら星が問う。

「勿論、グラウンドは貸さない。同好会なんて馬鹿なお遊び会なんて解散してもらうわ」

「なっ! 解散だァ!?」

「そ、それは……大変でやんす!! 解散になったらオイラたちの『モテモテライフ』の目論見が水の泡と化すって言うことでやんすよ!! それだけは、どうしても避けたいでやん——」

「上等だ!!」

 矢部の声を遮って、小波が高木幸子の出した条件を呑む。

「えっ! で、でも小波くん。ボク……」

 自信がない弱々しい態度を見せて困惑している早川の背中を小波は軽く叩いて、笑っていた。

「勝負に乗ってやろうぜ、早川。さっき言ってただろ。お前はソフトボールよりも野球の方が好きなんだって、さ」

「う、うん。でも……負けたらこの同好会は解散なんだよ?」

「負けた時は、負けた時だ。なに落ち込んだ顔してんだ? 楽しく行こうぜ!!」

 小波の言葉に、リトルリーグ時代に聞いた台詞が重なる。

 心の緊張が解けたのか、早川の表情の固さは無くなっていた。

「……楽しく行こう、か。そうだよね、此処で逃げちゃダメに決まってるよね」

 笑顔を取り戻した早川はジャージの上着を脱ぎ小波に渡す。

 高木幸子と面を向かって、早川あおいは高々に宣言をした。

「幸子、ボクと勝負だよ!! ボクが勝ってグラウンドの許可を許してもらうよ!!」

「良いわよ、来なさい!! あおいに負けるほど、私は落ちぶれちゃいないわ!!」

 

 野球同好会のグラウンドを掛けて、

 早川あおいと高木幸子の二人は熱い火花を散らした。



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第5話 早川あおいと高木幸子

 早川あおいと高木幸子は、小学生の頃から一緒に過ごして来た幼馴染だった。

 小学四年生に上がった頃、早川達が住む地区には『おてんばピンキーズ』と言うリトルリーグが存在し、そこに所属していた。

 高木幸子と早川あおいの二人は、チーム内で唯一の女子同士だった為に、すぐ様意気投合して親友になったのには時間はそう掛からなかった。

「ボクね、幸子と野球するの大好き!」

「私もよ! あおいと野球するの大好き!」

 幼い二人は満面の笑顔でそう言い合っていた。

 この会話は、ずっと続いた。

 話題は尽きる事も枯れることなく、毎日言い合って居たので自他共に認めるほどの大の仲良しへと絆を深めて行く。

 

 そして——。

 月日が流れ二人は小学校を卒業して中学生となった。

 家も近所だったため進学先の中学校も同じだなのも必然的で、二人が所属していたリトルリーグチーム『おてんばピンキーズ』出身という事、出会う切っ掛け、親友と呼べるまでも仲の良さを深めてくれた大好きな野球を続けようと二人は結託し一緒に中学も野球部に入ら事になる。

 リトルリーグ時代に培った早川あおいと高木幸子の実力は、チームメイトも度肝を抜くほどであり、一年生ながらもあっという間に『練習試合』のメンバーに抜擢され、そのまま二人は最初の大会では二桁の背番号を貰ってベンチ入りとなった。

 一年生がベンチ入り?

 下級生の女子に野球の実力が劣っている、中学生と言う精神が未だ幼い年ごろの嫉妬心、負けた悔しさからか、二人のベンチ入りを心良く思わない上級生から『女だからチヤホヤされる』など、心の無い事も何度も言われ続ける早川あおいと高木幸子は、それでも大好きな野球をする為にひたすら無心に練習に打ち込む毎日を過ごしていた。

 早川あおいも高木幸子も二人一緒ならどんなに心無い酷い言葉を言われようとも気にしなかった。

 幼い頃、出会ったあの頃みたいにまた同じ「野球をやるのが好き」とお互いにグラウンドで言い交わせる日をいつまでもいつまで待ち望んでいたからだ。

 しかし、そんな日を迎える事は無かった。

 一年生の冬、高木幸子は、突然、野球部を退部してしまう。

 それは、雪が降り積もる寒い放課後。

 退部に納得の出来なかった早川あおいは高木幸子を呼び出して誰も居ない部室の前で二人座って話をしていた。

「幸子。一体、どうしちゃったの?」

「……あおい。もう無理よ。私には……これ以上、耐えられる気がしないわ」

「そんな事ないよ!! ボクがいるからさ、また一緒に頑張ろう?」

 早川はその時、『一緒に頑張ろう』と言う言葉しか言えなかった。

 一体、何をどういう風に一緒に頑張れば良いのだろうか……。

 堪え難い程、冷やかしや飛び交う揶揄う声をこの先、どれだけ聞き続けなければならないのか……。

 練習は、ただの球拾いだけなのに。

 一体、どのくらい我慢すれば良いのだろうか。

 練習試合は、特別に試合に出れる訳でも無いのに、ただベンチに座っているだけで見せしめのように、周りから色眼鏡で見られクスクスと笑われ続けなければならない日々に、高木幸子は既に好きな野球さえも嫌になってしまっていたのだ。

 高木幸子が抱いた辛い痛みを早川あおいも抱いていた。

「私達は……私は『見世物』じゃないわ!! ただ単純に好きな野球が好きで好きな野球をしたかっただけなのッ!! それだけなのに……たった、それだけだったのに……私は……私達は……馬鹿にされてるみたいに笑われるなんて……こんなの望んでないの!!」

「幸子……」

「あおい。アンタは悔しくなんかないの? こんなのが……こんなのが私達が好きだった野球って心から胸を張って言える? アンタだってもうとっくに分かってるはずよ!! 無駄だって事が……このまま野球部に居続けて居ても試合なんておろか、練習だってまともに出来やしないのよ!!」

「……分かってるよ。そんな事くらいボクにだってとっくに分かってるよ!!」

「アンタが他の男の子に負けたくないって言う気持ちは良く分かっているわ。それは私だって同じよ」

「な、なら辞めなくても……」

「——でも、こんなの勝ち負けなんて関係ないわ! 差別よ!!」

「幸子……」

「だから私は、野球部を辞めてソフトボール部に入るわ! 入部届けも明日にでも出すつもりよ!!」

「えっ! ソフトボール部!?」

 高木幸子は潤んだ涙目を拭い、早川あおいの手をギュッと掴んだ。

「ねえ、あおい? 今なら間に合うわ! 私と一緒にソフトボール部に入ろう? ね?」

「い、イヤだ!!」

 静寂に満ちた雪空に早川の声が響いた。

「……あおい?」

「ボクは幸子と一緒に野球を続けたい!! ボクは、幸子とプレーする野球が好きなんだよ? 幸子だって本当は野球が——」

「この分からず屋!! それなら、アンタの野球は、男子には愚か、同じ女子の私にさえ通じないって事を分からせてあげるわ!!」

 スッと腰を上げた高木は、部室のドアを開けて中に入っていき、バットを一本、そして野球ボールをダースごと取り出して、ボールをあおいに突き付けた。

「さ、幸子……??」

「一打席勝負よ。私がもしも、あんたに打ち取られたら野球部の退部届を撤回してあげる! ただし、私が勝ったら私はソフトボール部に転部するわ」

「そ、そんな……」

 焦る衝動が早川の体を駆け巡った。

 こんな事になるなんて誰が予想出来たのだろう……。

 好きな野球。

 心から大好きな唯一のスポーツ。

 好きな友達。

 心から大切だと思う親友。

 そのどちらも失いそうな。——いや、両方失いかけている今の現状に早川あおいの心は大きく揺れていた。

 誰もいない野球グラウンドで早川あおいと高木幸子は予期しない勝負をすることになったのだから。

 

 

 ——ボクはこんなの望んでない。

 ただ幸子と一緒ならどんな困難にも乗り越えられると思っていたのに、こんな形で終わりが来てしまうなんて……。

 ボクの目から頬に流れるもの、それは空から降って来る雪が肌に触れ水に変わって流れているのでは無く涙が出てきていた。

 手に握るボールを見つめながら、言葉など出なく涙だけが流れ出てくる。

「これで……これで分かったでしょ? アンタの実力は私にすら通じないって……だから、あおい? 私と一緒にソフトボール部に入ろう? そうすればきっと、あの頃みたいに一緒に笑える日が来るわ」

「……」

 ボクは幸子の言葉を聞いて、顔を横に数回ほど降る。

 嫌だった。認めたく無かった。

 出会って仲良くなったきっかけの野球が出来なくなる悲しさを受け入れたくは無かった。

「……」

「……」

 無言のまま沈黙が続いた。

 どの位経ったのだろう。

 やがて幸子は何も言わずにボクの前から離れて行き、グラウンドから立ち去って行ってしまった。

 寒いグラウンドでボクはたった一人で膝を着いたまま、涙をずっと流していた。遠くに転がり落ちたヒット性の当たりをした六つのボールを眺めながら……。

 

「早川!? おーい、早川!!」

「……」

「早川? オイッ!! 早川、テメェ!! 聞いてんのか?? 無視してんじゃねェよ!!」

「……あ」

 星が怒鳴る声に我に帰る早川あおい。

 どうやらサインの打ち合わせをしてる途中で早川は過去の出来事を思い出していた様だ。

「ごめんごめん。サインは星くんに任せるよ」

「ストレート、カーブにシンカーの三種がお前の持ち球だったな」

「うん」

「良いか、早川。この対決、絶対ェ勝つぞ? あの『鉢巻女』にバカにされた俺の心は、いつも以上にイライラで染まってらァ!!」

「は、鉢巻女って……」

 ミットを拳で叩き、尖った八重歯をギラッと剥き出しにして星の闘志は燃えているようだ。

「別に、星くんのイライラなんて正直どうでもいいでやんす! それより、オイラの事を『オタク』と呼んだ——」

「お前らの事なんてどうでもいいんだよ」

 星と矢部の首に腕を回して小波が呆れた顔を浮かべながら早川の元から遠ざけた。

(どうやら早川と高木の間には何らかの因縁があるらしい。さっきの早川の反応から見て間違いは無いだろう)

 緊張して嫌な汗を掻いている早川。

 先ほど高々に宣言をした強気の表情では無かった。

「……」

 立ち上げた野球同好会。

 これからだと言うのにいきなり旧友である高木幸子と恋恋高校の野球同好会の存続に関わる大勝負を任されてるとなると、心臓が飛び出さのでは無いかと思ってしまう程、鼓動は速くなる。

 

「早川、気楽にやろうぜ」

 そこに声を掛けたのは小波球太だった。

「……え?」

「昔、早川と高木の間に何があったのか、なんて俺は何一つ知らないけどさ。お前が今も変わらずに野球を好きだって言う気持ちは、この勝負を通して高木にきっと伝わるはずだ」

「小波くん……。キミは随分と簡単に言うんだね。これで、もし打たれて負けてもボクのこと責めないでよね?」

「ん? ああ、負けないよ。だってお前は、恋恋高校野球部(俺たち)のエースなんだからな」

「——え、エース!? ちょ……ちょっと!!」

 早川が焦り出す。

 どうやら緊張は少しは緩くなったようだ。小波は思わずクスッと笑えを零してしまった。

「それに、仮に負けて同好会ごと解散になったとしても、この四人で草野球チームなんかでも作って、ゆっくり楽しく野球でもやろうぜ」

 くるりと踵を返して三塁側のベンチへと歩き出した。

「オイ、小波ィ!! バカなこと言ってんじゃねェよ!! 俺たちの『モテモテライフ』はどうなるんだよ!!」

「そうでやんす!!」

 豆鉄砲でも食らった鳩の様な表情を浮かべる星と矢部の二人は口を揃えて小波の後を追って行く。

 そんな小波達の様子をマウンドから見ていた早川はため息を一つ漏らした。

「はぁ……。まったく、ボクらの野球部の男子は、皆してだらしないメンバーばかりなわけ? これは一度、いや、何度も高校野球の厳しさで叩き直された方がいいのかもしれないね」

 クスッと口元をニヤリとさせて早川が言う。

「ま、そう言うことさ」

 小波も笑っていた。

 すると、バッターボックスに入って勝負を待っている高木幸子が小波達を睨みつけながら呼び止める様に、叫ぶ。

「準備は良いかしら? どうやら野球同好会を解散させる覚悟は出来たようね? なら、さっさとこの神聖なソフトボール部のグラウンドから出て行きなさい!!」

 不敵な笑みを浮かべている。

 見るからして余程の自信があるらしい。

 否が応でも、早川には野球をやらせないつもりの様だ。

「野球同好会を解散させるって? それはどうだろうな? でも覚悟は出来たぜ。高校野球の厳しさに揉まれる覚悟ならな」

「はぁ? アンタ何言ってんの?」

「戦う前に勝ち誇ってると後で痛い目に遭うくらい分かってるだろ? そんな言葉を言うのは早川から打った時に言うもんだな。高木キャプテン」

「ぐっ……」

 怒りから一転、唇を噛み締め、悔しさ混じりの顔をして俺たちを睨み付けながら、バットのグリップを強く握りしめ、バットの先端を早川の方に向けた。

「来なさい! あおい! あの時と同じ様に自分の無力さに気づかせてあげるわ!!」

「ボクだって負けない!! 行くよ、幸子!!」

 二人は構えに入る。

 睨み合い、そして勝負が始まる。

 

 早川はピッチングモーションに入る。

 第一球。

 独特のアンダースロー投法。地面スレスレから放たれる速球は、パシッと音を立てほしのキャッチャーミットへと収まった。

「ストライク、で良いよな?」

 星が言う。

「ええ、それも内角低めのギリギリ。相変わらずあおいの『コントロールの良さ』は未だ健在のようね」

 悔しそうに高木が言った。

 百二十キロの速球が、指定したコースにズバリと決まったのに対して、星はニヤリと口元を緩ませる。

 キャッチャーにとってコントロールのいい投手はリードしやすいのだろう。

「ナイスボールだ、早川!!」

 星は、早川に向かって労いの言葉をかけてボールを投げる。

「あおいちゃん……。いいや、早川さんは随分いいボールを放るでやんすね」

 矢部は早川の投げたボールを関心しながら呟いた。

「うん、そうだね。早川のコントロールは申し分ない程いい。変化球もシンカーとカーブのコントロールも悪くは無い。ただ——」

 小波は言葉を切り、バッターボックスで二球目を待つ高木幸子を黒い大きな瞳で見つめていた。

「ただ? どうかしたんでやんす?」

「え、あ……いや、なんでもないよ! ほら、矢部くん。早川が二球目を投げるよ」

 二球目。鞭の様にしなやかな右腕から放たれたボールは緩やかな変化球。カーブだった。

 しっかり溜め込んだステップで男子さながらの鋭いスイングが、ボールを捉える。

「——ッ!!」

 快音を残して飛んで行った打球はボールは危うくホームランかと思うほど高々と打ち上がったが、ファールゾーンへと横に切れて行く。

「なんてスイングなの……」

 あの冬、前回と戦った時よりも高木幸子のスイングスピード、バットコントロールは格段に伸びていて、早川は、その成長ぶりに驚きを隠せなかった。

 あの時と同じ様に、何処に投げても打たれてしまう……。

 そんな予感が心の中をぐるぐると早川へと渦巻く様に身体全身を襲う。

 

 ——でも追い込んだ。

 ボクの方が有利でもある。

 

 それでも不安は消えなかった。

 微かに手が震えている。

 

 どうすることもできないよ——。

 

「オイ! 早川!! 追い込んでんだ、締まって行こうぜェ!!」

「星くん……」

「早川さん!! 落ち着いていくでやんす!! オイラたちが応援してるでやんすよ!!」

「矢部くん……」

「早川!! 掴もうぜ、お前の夢を!! お前のその手で切り開いて行こうぜ!!」

「小波くん……」

 みんな、ありがとう。

 そうだね。もうボクの心の中にはキミたちが居てくれてるんだね。

 幸子には見えてるかな?

 ボクは、あの頃のボクじゃないんだ。

 恋恋高校の野球部の早川あおいなんだよ。

 小波くん、星くん、矢部くんと新しい仲間がボクの事を見守っていてくれている。

 確かに幸子。ボクはまだまだ未熟だよ。

 これから戦う幾つもの対戦相手にボクのピッチングは通じないのかもしれない。

 でも、この人たちなら、ボクはボクが好きな野球が出来るかもしれないんだ。

 ボクは——、幸子と仲良くなれた野球を好きなままでいたい!!

 そして、好きな野球をやっていたい!!

 みんなと一緒に!!

 だから!!

 

「負けない!!」

 

 無我夢中に叫んだ。

 中指と人差し指の指先から抜けるボールは、早川あおいが最も得意とする変化球。アウトコースへと逃げ曲がシンカーだった。

 高木は、バットをグッと握りしめて、テイクバックをしてタメを大きく作った。

 分かっていたのだ。

 早川が投げる球種もそのコースの事も、決して星のサインを盗んだのではない。

 あの日冬の日、二人の行く道を割いた一打席勝負をした時と、全く同じコースと球種だったのだ。 

 だが……、一つだけ大きな違いがあった。

 それは、早川がボールに込めている野球に対する気持ちの違いだ。

「……ふふ」

 高木は、それを感じたのだろうか。

 不敵な笑みを浮かべていたのを小波は見逃さなかった。

「高木……、アイツ」

 

 

 ——ブンッ!!

 

 

 豪快なスイングが鳴る。

 それはただ鳴っただけで、先ほどの金属音は響かなかった。

 ただし代わりにミットに収まる捕球音がソフトボール部のグラウンドへ大きく、大きく響き渡った。

 高木幸子を空振り三振に仕留めたのだ。

 

「や、やったでやんす!! あおいちゃん、いや、早川さんが高木さんを空振りの三振に抑えたでやんす!!」

 沈黙を割く第一声。

 矢部くんが大きな声で喜んだ。それに続いて星くんもマウンドへ駆けつけて「ナイスボールだ! よくやったぜ」と言ってくれているような優しい瞳でボクを見ていた。

 そして……。

 目をバッターボックスの方へ向ける。

 そこには、膝を着いて座っている幸子の姿が在った。

 まるであの日のボクみたいだった。

「幸子……」

「おめでとう、あおい。あなた達の勝ちよ。第二グラウンドは、あおい……いいえ、違うわね。あなた達、野球部が好きに使いなさい」

 と、幸子は言い残すとグラウンドから去ろうとした。

「待って、幸子!」

「……」

 引き止める様にボクは叫んだ。

「ボク……野球辞めないからね!! ボク、幸子と出会った野球をずっとずっと好きでいるからね!! だから、いつか……いつかきっと幸子とまあ一緒に野球出来るよね? また仲良く二人で野球やれるよね?」

 目には涙が頬を伝っていた。

「あおい……。アンタはまだそんな事言ってるの? バカなのね……アンタも……そして、私も」

 幸子の目にも、ボクと同じ沢山の涙の粒を頬から流していた。

「アンタは野球、私はソフト。お互い頑張って戦い抜いて疲れた時、息抜き程度に一緒に野球やって上げるわよ。だから、また今度、ね」

 チラリとボクを見て、あの冬以来、見せてくれなかった笑みを浮かべたまま、幸子はそのままグラウンドの外の方へと、出て行ってしまった。

「早川!! 本当によく頑張ったな!! お疲れだぜ!!」

 星くんが、ボクの肩を、叩き労いの言葉をかけてくれた。

「うん、ありがとう」

「ナイスピッチングだったでオイラ感動したでやんす!! あおいちゃん……いや、早川さん」

「ううん。別にボクの事は『あおいちゃん』で良いよ。矢部くん」

 涙を拭う。少し目の周りが痛い。

 すると、星くんと矢部くんだけしか目の前にしかいない事に気付いて二人に尋ねた。

「あ、あれ? 小波くんは?」

「ん? 可笑しいでやんすね。さっきまで隣にいたんでやんすが……突然、居なくなってしまったでやんす」

「オイオイ、まさか……あの野郎。この機を逃さんとソフトボール部の女の子をナンパしてんじゃねェだろうな? 抜け駆けなんてそんなのこの俺が許さねェぞ!?」

「星くんじゃないんだし、小波くんはそんな事やらないでやんすよ」

「ンだとォ!? この腐れメガネ! もう一遍言ってみやがれ!!」

「コラコラ! そんな事やってないで、早速グラウンドを使いに行こうよ! 今日からしっかりと練習出来るよ!!」

 とびきりの笑顔で二人に向けて言う。

「大体でやんすよ? そんな、金髪頭が女の子にモテるとでも思ってるでやんすか? 今の時代、オイラみたいなお洒落な刈り上げ頭に需要があるんでやんすよ!!」

「馬鹿言ってんじゃねェぞ、テメェ!! お前の坊主頭なんか、これっぽっちもカッコ良さなんて感じねェンだよ! 時代はな、俺みたいな少しグレてる感じが丁度いいん——痛ッ!!」

 話を辞めない二人に、ボクは鉄拳を顔に飛び込ませた。

 折角、とびっきりの笑顔を見せたのに損しちゃった気分だよ。

「それじゃ改めまして、これからもよろしく頼むね!! 星くん、矢部くん!」

「おう!」

「よろしくでやんす!」

 ボク達は、互いに手を握り、熱い握手を交わして、野球部専用グラウンドへと歩いて行った。

 それにしても小波くんは何処に行っちゃったんだろう。

 

 

「ふぅー」

 ため息を着いたのは、高木幸子だった。

 先ほど、早川との一打席勝負で空振りの三振に仕留められて負けたはずが、何処か清々しい感じにも見える表情をしていた。

「何か用かしら?」

 足をピタリと止めて、くるりと後方へと恐ろしい形相で睨みを効かせながら後ろを着いて来る一人の人物に声をかけた。

「そんなに睨むなよ」

 現れたのは、黒い髪が四方八方に揺れる癖毛頭をしている小波球太だった。

「確かアンタは小波球太だったっけ? あおいに負けて泣きっ面の私の顔でも拝みに来たのかしら? 優しそうな顔をして置いて見かけによらず、随分と性格が悪いのね」

「違えよ。一つだけ気になったことがあったんでな。それを確認しに着いてきたんだよ」

「それは、何の事かしら?」

「高木。お前、早川の最後のシンカーを態と空振りしただろ?」

「……」

「その理由が知りたいんだ。別にお前との一打席勝負で早川が勝った訳だし、直接お前の口からグラウンドの使用権利は認めて貰えたんだから文句はないけど。自分から勝負を仕掛けといて態と負け真似をしたのが少し気になってな」

「……大したものね。短時間でそこまで見抜いてしまうなんて……。そうよ、アンタの言う通り私は態と空振りをしたわ。本当は三球目のシンカーも打てると分かってたわよ」

「……」

「でも『打てなかった』。いや、『打ちたくなかった』のよ」

 ため息を着き、放課後の少し橙色に染まりかけた空を見上げながら言葉を続ける。

「あおいのあの気迫の篭ったボール。あの時に無かった譲れない信念を感じ取って、あおいの揺るがない強い想いを無駄にしちゃいけないと思っちゃったのよ。あおいは本当に、野球が好きなんだなぁって……野球を捨てた私と違って、あおいは強かった。どちらにせよ、きっと私が負けてたと思うわ。ただ、それだけの話よ」

「そうか、お前達二人の間に昔何があったのか聞かない。だけど安心しろ。俺たちはアイツを『見世物』には絶対にさせない」

「……」

「女子のお前達が背負って来た『痛み』と『悲しみ』は、決して軽いモノじゃない事ぐらい分かる。それでも、早川は背負い続けることを選んだんだ。その重荷を俺たちも更に被せるほど嫌な人間じゃないんでな」

「……そう、なら安心したわ。一つだけ約束しなさい!! あおいを、もうあんな辛い目に合わせないであげて!! ずっとずっと耐え忍んで来たはずなの……」

「ああ、約束する。だから、俺からも一つ頼みたい事がある」

「何かしら」

「俺たちは必ず甲子園に行く。きっとそん時の早川はエースナンバーを背負って先発だ。勿論、応援団長として甲子園に来てくれるよな?」

「……ふふ、ははは! あははは!! 本当に昔と変わらずお人好しで馬鹿な人なのね。そりゃ、あおいも気になる訳よね」

「ん? なんか言ったか?」

「ううん。何も言ってなんかいないわよ! 応援しろって言ってきたんだから、きちんと甲子園位行って頂戴よね」

「ああ。それじゃあ、俺はあいつらの所に行くとするぜ」

 小波は、くるりと背を向けてあおい達の向かった練習場の方へと再び歩き出した。

 歩くたびに揺れる黒い髪、気だるそうで大きな背中を見つめていた幸子は、再び涙を零して小さく「ありがとう、小波」と呟いた。



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第6話 恋恋野球部始動

 早川と高木幸子のわだかまりも消え、俺たちが野球同好会専用のグラウンドを使えるようになってから既に二週間が経過した。

 実際、そこからは何も進歩もしないまま俺と矢部くん、星に早川と部員数は以前、四人のままであり出来る練習は限られる中、四月もいよいよ終わりを迎えようとしていた。

「はぁはぁ……」

「矢部ェ!! だらしねェな、もう息切れかよ!!  お前は、短距離は速いくせに長距離は全くダメだな!!」

「い……や、まだま……だでやんす!  オイラの力は……こんなもんじゃあ……ないでやんすよ!」

「ハハッ!! 完全に息切れしてるじゃねェか!!」

 星は呆れてながら自分のペースを保ったまま矢部くんを軽く追い抜き去って行く。

 最初、二人仲良く息切れしてコントのような『茶番』をして遊んでいたと言うのに随分と俺と早川のペースに食らい着いてこれるようになったのは流石だと、感心する。

「星くん、だいぶボク達に着いてこれるようになったみたいだね」

「ああ、元々のポテンシャルが良いんだろうな。赤とんぼ中学じゃなくて設備や環境の良い学校に居たら、もしかしたら星のヤツ、結構化けてたんじゃないか? ま、性格云々は変わっては居ないとは思うけどな」

「……そうなんだ。あ、そうだ。小波くん。キミに言い忘れてた事があるんだけど」

「なんだ?」

「実は明日ね?  マネージャー希望の子が来るんだけど時間とか大丈夫?」

「マネージャー? ま、時間には全然余裕はあるし確保は出来るとは思うけど……。早川、よく考えてもみろよ。今の俺たちは現状、四人しか居ない同好会なんだぜ。マネージャーより俺は早く部員の方が集まってくれると大助かりなんだけど」

「まあまあ、分かるよ。小波くんの気持ちも、でもどうしてもその子が野球部のマネージャーがしたいんだって言うんだよ?」

「うーん。分かった。それじゃ、明日の部活が終わった時にそいつを紹介してくれよ」

「うん、分かったよ。それに……ありがとう。小波くん」

「おいおい。いきなり感謝されるとなんだか怖いんだけど……」

「何よッ!」

 ギロッと、目力を込めて俺を睨んだ。

「あの……早川さん? 一応、聞いておくけど、それは一体何の感謝ですか? 別に俺はお前に感謝される筋合いはないと思うんだけど」

「ううん、そんな事ないよ……。キミには、色々感謝したくてもしたりない位の事をしてくれたもん!」

 本当に大した事してないから裏がありそうなのが逆に怖い。

「そうか。なら、その感謝は素直に受け取っておくとするよ」

 今日も、俺たち野球部はいつもの「恋恋ロード」を駆け足で走り抜けて行った。

 

「部員が集まらない」

 落胆した声で呟き、ガクリとうな垂れる。

 部活が終わった小波球太はパワフル高校の栗原と『ある店』で晩ご飯を食べに来ていた。

「仕方ないじゃないのよ。元々恋恋高校の男子生徒って七人しか居ないんでしょ? 皆が皆、野球好きとは限らないのは当たり前だよ」

「そんな事は分かってはいたんだけど、な」

 小波は、事前に頼んでおいた冷えたウーロン茶のグラスをコースターの上に置きながら、気を落とした声色で言う。

 周りを見渡すと洒落た電球色が店内に色を付ける。

 何年も変わらない景色はいつ来ても心を落ち着かせると不思議な気持ちになった。

 小波球太と栗原舞は頑張市の『パワフル商店街』に位置する『パワフルレストラン』に居る。ここで働く従業員の夫婦がそれぞれ店長と副店長を務めているファミリーレストランだ。

 店内に流れる有線ラジオが、大きめなスピーカーで伝い、店に雰囲気を醸し出す。今、若者の間で密かに話題に上がっているのアイドルグループ『ホーミング娘』の新曲が店内に響いていた。

 ザッと店内を見渡すと、そこには家族連れのお客や、仕事帰りの若いサラリーマン、学生に若い主婦達と様々だった。

「このお店、子供の時と何も変わらなくて落ち着くね」

「ああ、そうだな。店の雰囲気は勿論、メニューも新しいのは増えないし味も変わらない。だからこそ、それが一番良いんだよ。俺は、ここのオムライスが何処のオムライスが一番美味いと思う」

「あははは、確かにね。昔から小波くんはオムライスばかり食べてたもんね」

 栗原がニコリと笑う。

「オススメだからな」

 小波も釣られるように笑う。

 ふと視線を柱時計の方へと写す。時計の針はすでに十九時三十分を指していた。

「それより『春海』のヤツは一体、何してんだ? 十九時に店に来いって言ったのはアイツの方だったよな。その割にはとっくに三十分も過ぎてるじゃねえか」

「それもそうね。春海くんにしちゃ珍しいよね。時間にルーズな小波くんじゃないんだもんね。部活で忙しいのかしら?」

「……」

「ん? どうかした、小波くん」

 栗原の言葉を受け、小波は眉を顰める。

「あのな……栗原、何だ? その『時間にルーズな小波くんじゃない』って、それは一体、どう言う意味だ?」

「うふふ……。さて、何の事でしょう? 小波くんが今まで時間通りに来たことが一度でもあったかしら?」

「……」

 栗原に軽く揶揄われる。小波は無言だった。

 それは無理も無い筈。

 小波球太は、時間を守らないのは昔からだった。

 そして。今、小波球太と栗原舞が待っている人物を『春海』と呼ばれた人物は、小波球太と栗原舞と同じ小学校に通い、同じリトルリーグチームに所属していた幼馴染である。

 本名は、高柳春海(たかやなぎはるみ)

 ここのパワフルレストランの経営を務める店長と副店長の息子だ。

 余談ではあるが、高柳春海の一つ上には姉が一人居る。

 近所の西満涙中学から、今年の四月にきらめき高校に入学したと栗原舞から聞いていたが、実際に高柳春海本人と最後会ったのは、中学三年の受験シーズンでもう既に半年以上は会っていないのだ。

 それで四月も下旬を迎えた頃。

 久しぶりに皆で会わないか、と一通のメールが高柳春海から届いていた事に気付かずに放置したまま、五日が経った頃にメールが届いていた事に初めて気付いた小波は高柳春海に空いてる日を選んで貰い、その日に会う約束をしていた。それが今日であり、二人は春海を待っていた。

「やれやれ」

 と、小波はウーロン茶をストローで啜り飲み始める。

 

 ガチャッ!!

 すると、レストランと高柳家を繋いでいるレジカウンターの奥の方から紺色のブレザーを纏い、黄色いネクタイをキチッと上まで締めた一人の青年の姿が見えた。

 小波と栗原が既にいつものカウンター席で寛いで居るのを目で確認すると、足早に小波達の元へと駆けつけた。

「やぁ、球太、舞ちゃん!! いらっしゃい!!」

「春海くん、お疲れ様! お邪魔してます」

「ったく、遅いぞ春海」

「ごめん。誘った俺の方が遅れちゃって済まなかったね」

 久しぶりの再会からか、高柳春海は少し嬉しそうにニコッと笑いながら二人に向かって謝りながら隣に腰を下ろした。

「……」

 前に会った時よりも数センチほど身長が伸びている。と、小波は高柳春海を見て思った。

 元より高柳春海の身長は大きくは無かった。だが、半年という月日が経って久々に再会を果たしてみると急激に伸びたという印象を受けた。

 それでも相変わらず顔は昔のままの童顔であり、今でも女子にモテそうな感じである。髪質は、小波球太の唸る癖毛頭とは真逆のストレートだ。

「栗原と今話題にしてたんだけど、春海が指定した時間に遅れてくるのって珍しいよな。やっぱり部活が忙しい感じか?」

「ああ。まぁ、そんな所かな?」

 苦笑いを浮かべて春海が言う。

「それで? 春海くんの通う『きらめき高校』はどんな感じなの?」

 と、栗原が高柳に問う。

「舞ちゃん、早速データ収集かい? ここに来てもパワフル高校のマネージャー業を忘れてはいないなんて、もはや『職業病』になりつつあるんじゃ無いかい?」

「むっ! 私はただ単純に幼馴染として聞きたかっただけなの!! 今はマネージャー云々、関係無いんだから!!」

「それで? 実際どうなんだ? 春海」

 小波も栗原と同じ気持ちだった。

 きらめき高校の野球部の話がどうしても聞きたくなって急かすように春海に問いを投げる。

 恋恋高校と比べる訳ではないが、他の学校の状況はある程度知っておきたいのが本音だ。

「練習機材もそこそこ揃っていてやり甲斐はあるね。今度の練習試合にセカンドとして先発出場させて貰えるみたいなんだけど緊張してるところかな。それに先輩達、特に二年生が今はチームの要とし機能してる感じだね。他のことは……ゴメン。言えないや」

「えっ!? もう練習試合に出れるんだ!! 凄いね、春海くん!」

 手を叩き、素直に喜ぶ栗原。

「春海の野球センスなら何処の野球部に入ってもレギュラー入りは確定だろう」

 付き合いの長い高柳春海の特徴を良く知っている小波は特に驚かなかった。

 打球を飛ばすパワーはやや乏しいものの、ボールをバットにミートさせるバットコントロール能力に秀でており、流し打ちも出来るし、ピッチャーが嫌になる程、カットの上手い粘り打ちだって得意なのだ。オマケに守備も安定している為、高柳春海レベルの選手ならセカンドでレギュラーを任せるなら文句はないだろう。

「いやいや、俺なんてまだまだひよっこだよ。練習に必死に食らいついていくのがやっとで、先輩達の足を引っ張らないようにするだけで精一杯なんだもん。特に凄いのが、二年生の『目良先輩』と『舘野先輩』の二人さ」

 春海の話によれば、目良浩輔(めらこうすけ)と言う先輩は、二年生ながらも一年生の頃からきらめき高校の四番を務め上げる『驚異的なパワーヒッター』との事らしい。

 一見、凄そうに聞こえるが、実は髪を茶髪に染め上げ、外見は若干チャラチャラとヤンキー味がある人物だと高柳春海は言う。

 しかし、それだけでは無かった。

 高柳春海の姉である『高柳千波』には毎日毎日、告白を迫っては千波の拳による『鉄拳制裁』で返り討ちにされ、他の女子生徒に対しても見境無しにナンパをして絡むと言う女癖がかなり悪いらしく、今日の集合に遅れた理由も目良浩輔が絡んでいたと言う。

 そんなダメな話しを聞いていると、次第に俺たちにも似たような金髪男がいる事を思い出して、目良先輩と被せてしまい、俺は少し頭を痛くした。

 次に名前が出たは、館野彰正(たてのあきまさ)。目良浩輔と同じく二年でチームの頭脳でもある正捕手がポジションらしい。

 どんなピンチに対しても、どんなチャンスに対しても冷静沈着な思考を巡らせて作戦を練り上げられる頭脳的リードの持ち主だと言う。

「春海も頑張ってるんだな」

「そう言う球太、お前の通う恋恋高校はどうなんだ?」

「俺か? 俺が話す事なんて特に何も無いぞ」

 恋恋高校の新入生が男子七人のみ、と言う事実は高柳春海の耳に既に入って居るらしい。大方、栗原が伝えてたみたいだが。

「そう言えば、この前、学校帰りに偶然『聖』にばったり会ったんだけど、聖が言うには最近の球太は野球部員集めが全然進まなくて意気消沈気味だって聞いたぞ?」

「——ッ!! 誰が意気消沈気味だって!? 聖のヤツ、春海だからって喋りやがったな」

「でも俺はね、球太。お前がまた野球を始めてくれて嬉しいんだ。リトルリーグ時代から一緒に野球をやってて誰よりもお前の事を尊敬していたし、目標とする好敵手だと思ってた。球太があかつき大附属中学へ入学した時、いつか全国大会への切符を掴むために戦えるって思ってたけど、それは結局叶わずで、二年前に肘を故障して辞めたって聞いた時は俺は、本人を前にして言うのも恥ずかしいけど、かなり寂しかったぞ」

「……春海くん」

 グスッと、栗原舞は目に涙を浮かべて鼻を啜った。

「あのな? どうして、栗原が泣きそうになってんだ?」

「だって……だって、本当に小波くんがもう一度野球を始めてくれて嬉しいんだもん……」

「だから俺は今とても嬉しいんだ。今度は甲子園っていう最高の舞台を掴むために、ようやく球太と正々堂々と戦えるって思うと、そのワクワクが止まらないんだ」

「春海、お前……。嬉しい事言ってくれるじゃねえか。いつか戦う時が来たら、そん時はお互い悔いの無いように良い試合をしような!!」

「ああ!! 勿論だよ、球太」

「約束だぜ、春海」

 ガシッと握手を交わす。

 月日は流れていても、決して変わらない友情。

 久々の再会にそれを再確認する事が出来ただけで、小波球太はとても満足だった。

 

「あ——ッ!! 球太くん!! 来てたの!?」

 

 

 折角の感動の瞬間をもう少しだけ噛み締めていたいと思った矢先の事、他のお客さんが振り返るほど大きな声で小波の名前が呼ばれた。

 声の主は、血管が浮くような細い腕と脚はすらっと長く、全身がキュッと細く、茶髪のセミロングパーマ、白く透き通った艶かしいまでに美しい顔立ちの美女は、高柳春海の姉である高柳千波(たかやなぎちなみ)だった。

「げっ……姉さん」

 それと同時に、春海がバツの悪そうな声で呟いた。

「何が『げっ……』よ。ははぁ〜ん。春海ったら部活が終わるなり何をそんなに慌てて先に帰るのかと思えば……なるほど、球太くん達が来てたからって言う訳ね? 浩輔くんが特訓だって、春海の事をずっと探し回ってたのよ?」

「だって目良先輩がやる気に火が着いて燃えると止まらないでしょ? それに今日は球太達と会う約束をしていたから、これでも三十分遅れて帰って来ちゃったんだよ」

「まったく困った弟だこと。こんな夜道を姉にたった一人で放っておいて先に帰ってくるだなんて……お姉ちゃんは悲しいよ。ね? そうは思わない? 球太くん?」

「え、あ……はい、そうですね」

 小波は困惑した。

 昔から高柳千波は、小波に対して何の前触れもなく話しを振ってくる。こんな時、一体どんな返事を返せば良いのだろうか全く分からない。幼い頃からこんなやりとりは最早お約束であり、小波は誤魔化す為に、やや氷が溶け始め、薄まったウーロン茶を飲み始めた。

 結局、久しぶりの再会に浮かれた小波達は、この日は珍しく夜の十時まで昔話に華を咲かせた。

 

 翌日、練習のメニューを軽めの調整に変えた俺たちは、マネージャー希望だと言う早川の友達でもある人物が来るのを待った。

 時計の針が十九時を指す頃、部室のドアを開ける音と共に、一人の女性が入ってきた。

「今晩は。こちらは野球部の部室であってますか?」

「合ってるよ、はるか」

 早川がはるかと呼んだ女子生徒。

 立ち振る舞いからしてお嬢様育ちなのだと言う事がハッキリと分かった。部室に入ってすぐさま、行儀良く一礼する。茶色のサラサラした髪から漂う匂いがふんわりと部室内に広がると……を

「うひょーーーーーー!! 滅茶苦茶フレグランスな香りがするでやんす!」

「ああ、分かる!! 俺にも分かるぞ、矢部!! この香りは……ぐぶッ!!!!!」

 星と矢部くんは、七瀬はるかのいい香りに耐えれなくなり、暫く悶絶していた所を早川の鉄拳制裁が飛んで制圧された。

 一年A組の七瀬はるか。

 俺はその名前に『聞き覚え』があったのを思い出した。

 確か、『アイツ』が悔しそうに嘆いていたっけ。入学テストの結果で五教科全て満点を取った唯一の生徒でもあり、その可愛らしいお嬢様な容姿から色んな人に声をかけられて学年で一番人気が高いようだ。

 しかし。早川曰く、七瀬はかなり病弱体質らしい。

 暑い日差しの下でスポーツする野球のマネージャーが果たして務まるのだろうかと、逆に不安になっているのも事実だ。

「あおいがこの同好会で野球をもう一度始めると聞いて、何かお役に立ちたくてマネージャーを希望しました。不束な者ですが、しっかり皆様をサポートして行きたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いします!!」

「どうかな? 小波くん。はるかをマネージャーとして入部させてあげても良いよね?」

「……うーん」

 と、俺は顎に手を当てて少し考えた。

 数十人を超える部員数ならまだしも、まだ『四人』と言う少人数ならマネージャーの必要性を感じていない。

「オイ!! テメェ、小波ィ!! そんなの考える様な事でもねェだろォうがよッ!! 答えは「はい!!」だろ? なんて言ったって、はるかさんは……俺たちに、いや、俺の『心の癒し』には必要不可欠なんだからよ!!」

「こころのいやし?」

「ああ、心の癒しだ!!」

 そう言いながら星は七瀬の前へと踏み出し、その場で膝を着き、七瀬の細くて白い手を取って次の言葉を言った。

「はるかさん。貴女と言う美しき姫様は、この『僕』に必要な存在なのです。嗚呼、可憐な花のように美しいはるかさ——ぶべっ!!」

 早川あおいによる二度目の鉄拳制裁が炸裂した。

 いつもの口調の悪いお前は何処に行ってしまったんだ?

 見ているこっちが呆れてしまう程の茶番を繰り広げる星に対して白けた目で見ていると、早川の平手打ちが部室内に轟いた。

「痛ってェなッ! いきなり何しやがんだッ!! 早川!!」

「はるかにこれ以上、近づかないで!! 近付くと殴るよッ!! 星くん!!」

「もう、殴ってるじゃねェかよ!!」

「うるさいッ!!」

「ぐぶッ!!」

 あまりにも近すぎたためか、今日三度目の制裁を食らって蹌踉めいて倒れる星。お前は、本当に色々と残念なヤツだよ。

 そして、こうなると次に来るのが……。

「チッ、チッ。星くん。甘いでやんすよ。そんな汚らしい手で触れちゃいけないでやんす。大体、女性を口説くのがカレーライスの甘口よりも甘いでやんす。それに星くんは何も分かって無いでやんす。オイラがお手本——ぎぎぃッ!!」

「え? 何、矢部くん? 今、何か言った?」

 ギラッと殺気の籠った目が矢部君を捉える。

「えっ!? いやいや、冗談でやんす!! オイラまだ何も言ってないでやんす!!」

 もう何回も見て分かった。言うまでもなく矢部くんが登場してくるのがこの二人の茶番だ。だけど早川のナイスな行動で見たくもないモノを見る前に叩き潰してくれた事に一先ず感謝しよう。

「それで? 小波くん。はるかのマネージャーとして受け入れるかどうかなんだけ……」

「気持ちは嬉しいし、七瀬には悪いんだけど部員が居ないのが現状なんで、」

「それなら、問題はないですよ。小波さん」

「えっ?」

 ニコリと笑みを浮かべ、七瀬は視線を部室のドアの方へと向けると、そこから四人の男子生徒がゾロゾロと足音を揃えて中に入ってきた。

「オイオイ、なんだ、なんだ? 誰だよ、テメェら!!」

 星が早川に殴られた頬を摩りながら問う。

「ん? オイラこの四人に見覚えがあるでやんすよ!」

 瓶底メガネをかけ直しながら矢部くんが言った。

「矢部くんの知り合いなのかい?」

 と、俺が矢部くんに問い、

「どうせ、矢部くんのオタク仲間とかじゃないの?」

 と、早川が辛辣な言葉を言った。

「いいや、オイラ。この四人に野球部に入らないかって一度、勧誘したでやんす。ま、全員に断られてしまったでやんすけどね……」

「でも、どうしてここに来た訳?」

 俺も早川の疑問に同意見だ。

 矢部くんの勧誘を一度断って居るのに部室に来ている理由が全く待って不思議としか言いようが無かった。

「この私が頼みました」

「——ッ!!」

 七瀬が静かに言う。

 四人同時に、頭に漫画によく出るビックリマークが浮かびそうな驚きの反応を示す。

「こいつら全員、七瀬が集めてくれたのか?」

「はい。私が彼らにお願いしました。実は前からあおいから小波さんが中々部員が集まらない事で悩んでるとお聞きしまして……、私がマネージャーになったとしても部員が少ないから私がやれる仕事なんてそうそう無いだろうと思い、それなら人数が増えれば仕事量も増えてマネージャーが必要になるだろう、と踏んだからです」

「た、確かに……人手が無いと大変だもんね」

 なんだ……。

 この異様なまでの七瀬のマネージャーへの執念は。

 いいや、それよりも矢部くんの誘いを断った四人がよく引き受けてくれたもんだな。取り敢えず本人たちに理由を聞いてみるとするか。

「とりあえず自己紹介でもするか? 俺は、小波球太。よろしく」

「オイラは矢部明雄でやんす!! 恋恋高校の野球部のイケメン担当でやんす!!

「ボクは早川あおい。よろしくね」

「俺は星雄大だ。テメェら、舐めてると潰すぞ? ——痛ッ!!」

「威圧しないの!!」

 四度目の制裁が加わった。

 既存のメンバーが紹介を終える。

 そして、新たなる四人の自己紹介だ。

「俺の名前は古味刈孝敏。中学時代はサッカー部に所属していた。初心だが、よろしくな」

「俺は毛利靖彦。古味刈と同じ野球初心者で中学までバスケをやっていた。よろしく頼むぜ」

「続いて俺は、山吹亮平。中学まで『やんちゃブラックスシニア』に所属していた、野球経験者だ」

「俺は、海野浩太。俺も山吹と同じく野球経験者で『おげんきボンバーズシニア』の出身だ」

 古味刈、毛利、山吹に海野。四人中二人が野球経験者で、残り二人はスポーツ経験者か。これは、なんだか期待出来そうだな。

「よろしく頼む。それより聞きたい事があるんだけど……確か矢部くんが一回誘ったはずだけどお前たちはそれを断ったんだよな?」

 改めて質問をした。

 すると、四人は互いに顔を合わせてコクリと頷いた。

「ああ、断ったぜ。だって入部してくれたら『ガンダーロボ』の限定のプラモデルを矢部と一緒に並ばしてやるとか言われたからな。それは流石に断るだろう」

 山吹が呆れた顔をして答える。

「ああ」

 と、口を揃える三人。

「テメェ、メガネ!!」「矢部くん!!」

「ギャァァァァァァァァーーー!!」

 後ろの方で何らやら矢部くんが早川と星の二人から叩かれている音が聞こえたが無視をする事にした。

「毛利と古味刈は七瀬に頼まれてすぐ即答した」

 すると、海野がやや呆れた顔をして俺を見ながら話しを始めた。

「えへへへ」

「だって、な?」

 二人は少し照れながら「美女には断れなくてさ」とでも言っているかの様にだらしない顔を浮かべて頭を掻いている。

「……」

「兎に角、山吹と俺は元から野球を高校でもやるつもりはなかったんだがな。しかし、小波、お前の名前を聞いたらどうしても無視する事は出来なくてな」

「ああ。なんて言ったって、名門あかつき大附属のエースとして全国に導いた実力の持ち主の小波球太と同じチームなら、良い夢が見れそうだと思ってな」

「買い被り過ぎると思うけどな。ま、とりあえず入部してくれてありがとう。改めてよろしく頼むぜ! コミカル、毛利、山吹、海野!」

「おいおい、俺たちの事も忘れるんじゃねェよ、小波キャプテン」

 星が俺の肩に手を回しながら喋る。

 ん? キャプテン?

「……キャプテンって俺かよ!? キャプテンはこの野球部を作ろうとしていた矢部くんがやれば良いじゃないのか?」

「いいや、オイラにリーダーシップなんてモンは皆無でやんす。小波くんがキャプテンならオイラたちも安心するでやんす!」

「矢部くん。それは有り難い言葉は嬉しいんだけど……、君のその顔ボコボコだとちょっと伝わっては来ないかな」

「そ、そうだよ!! 矢部くんや星くんよりも小波くんがキャプテンだとボクは嬉しいな!! だって、頼もしいし」

「どこがだ? 俺は嫌だぞ。キャプテンなんて務まる様な器の人間じゃねえし」

 周りの視線が俺に一斉に集まった。

 誰も譲ろうとはしない気でいるんだとすぐさま感じ取った。

 これはお手上げだ。満場一致って訳か。

「でも、やっぱり嫌だな……。この際、ジャンケンでキャプテンを決めるってのはどうだ?」

 醜いが苦肉の策。是が非でもキャプテンだけは阻止しないと。

「では、皆さん! 同好会のメンバーも増えた事ですし、記念写真を撮りましょう!! それでは、小波キャプテン中心でお願いします!!」

「ちょっと、七瀬!? 聞いてたか、人の話!!」

「お、俺ははるかさんの隣に立つぜ!!」

「あっ!! 星君ばかりずるいでやんす!! 右隣にはイケメンのオイラが並ぶでやんす!!」

「ダメだよ! はるかの隣はボクだもん!」

「私も出来れば隣はあおいが良いです」

 星と矢部くんは、絶望的な落胆の声を上げる。

 それでもみんなケラケラと笑っていた。

 やれやれ……、少し困ったな。

 何やら騒がしい部になりそうだ。

 でも、この仲間で俺たちはここで高校野球を始めるんだな。

ㅤそしていつか甲子園に……行くんだ。

 七瀬がカメラのタイマーをセットし始めているのを確認する。

 もう一人、忘れていた。

「七瀬、ちょっと待ってくれるか?」

「はい?」

「加藤先生、そこにいるんでしょ? 隠れてないで出てきて一緒に写真撮りましょうよ!!」

 俺は外から聞き耳を立てたいるであろう一人の名前を。

 俺たちのもう一人の野球部員でもある、我らの顧問の名前を呼んだ。

「……小波くん。あなた変な勘だけは良いのね」

 厄介な者に見つかってしまった。と言う顔をしながらしぶしぶ部室に入ってくる。

 良し、これで揃った。

 恋恋高校始まって以来の野球部第一期生。

「では、押しますよ」

 七瀬のデジタルカメラのセルフタイマーが動き出す。

 それぞれ思うこともあるだろう。

 不安の事もあるだろう。

 泣くことだってきっとある。

 でもそれを受け入れて行くかの様に皆。

 満面な笑みを浮かべた顔をした恋恋野球部が——、

 今日と言う日に、今ここに誕生した。



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第7話 あかつき大附属 VS パワフル高校

 七月。

 季節は既に春を終え、梅雨を越して、夏休みを迎えていた。

 そして、高校球児には絶対に欠かせない甲子園をかける地区予選大会が幕を開けていたのだ。

 もちろん。

 俺たちの恋恋高校は部員数『八人』と言う人数不足により大会出場を辞退する事は決まっていた為、それぞれ練習に精を出している。

 そんな中、今日の部活を疲れた体を休める為に休みにした俺は学校へ登校していて頭を抱えていた。

「……うーん。そうだな。足の速い矢部くんをセンターに置いて、野球経験者の山吹をレフト、サッカー経験者の古味刈をライトにすれば外野は埋まるか。それに内野は早川がピッチャー、星がキャッチャー、俺がファーストを守って海野がセカンド、ショートかサードに毛利を置くって感じはどうかな?」

 俺は、授業で使う数学のルーズリーフのノートに、シャープペンシルで書きながらポジションの割り振りを同じクラスメイトの矢部くんと話をして居た。

「小波くん。悩んでるところ悪いでやんすが、オイラは今補習の課題と睨めっこ中でやんすよ……」

「あ、そうだったね。ごめん、ごめん」

 別に約束をして学校に来た訳では無かった。

 ポジション決めに夢中になって本来の目的を忘れてしまったが、俺は俺の用事の為。

 矢部くんは『赤点の補習』で学校へ来ていた為、教室でバッタリと出くわしたのだ。

 それもそう。

 矢部くんは、殆どの教科を赤点を下回る点数を取っては、内申点を上げるノートや課題の提出率の低さのお陰で『クラス唯一』の赤点補習者なのだから。

「小波くんは、ファーストでいいんでやんすか?」

 課題に飽きたのか矢部くんが尋ねる。

「どうしてだい?」

「ピッチャーはやりたくないんでやんすか? 小波くん『肘の痛み』はもう無くなったって言ってたでやんすよね?」

「あー、なんだそう言う事か。それは別にいいんだよ。今は野手として頑張りたい気持ちがあるし、それに高校野球は短期決戦だ。スタミナに不安のある早川だけ任せていられないし、俺もたまには投げたりしないといけないかもしれないよね。ま、支障が出ない程度にしなきゃいけないんだけどね」

「無理はしないで欲しいでやんす。ただでさえ小波くんは『故障人』なんでやんからね」

 すると、心配そうな顔をしながら昼食に買ったであろうあんぱんを食べ牛乳で流し込みながら矢部くんが問いかける。

「……」

 この教室に先生は不在だ。渡された課題を職員室に持って行くまで帰ることが許され無い為、話も出来るし間食だって取れるのだ。

 でも、何故だろう。矢部くんには失礼だけど少し腹が立ってしまうのは……。

「心配してくれてありがとう。それでさ、これからの練習メニューのことなんだけどさ、星と早川が——、」

 と、急に視界が暗くなる。

 俺の目を、誰かが手で覆い被せて視界を奪った。

「だ〜れだ」

「その声は……、早川か?」

「へへっ、当たりだよ!!」

 目を隠したのは早川だった。

 高木幸子の一件から、早川が俺に対して積極的に話を掛けて来る様になった。

 以前から部活や休み時間でバッタリ会った時も話を掛けてくるのは早川の方だったのだが、最近ではその頻度が日に日に高くなって来る様に思える。

「当たりだよ、じゃねえよ。今日は部活は休みのはずだろ? こんな所にいるって事は……!? まさか、早川。お前も補習なんか受けるような頭をしてるんじゃねえだろうな?」

「――ッ!? し、失礼だね。違うよ! 学校に用事があった幸子と少し話があったから話たくて学校に来ていただけだよ。そしたら、加藤先生が小波くん達は教室に居るって聞いたからちょっと顔を出しに会いに来たんだよ」

「そっか……高木と、ね。あれ? 七瀬は一緒じゃないのか?」

「うん。はるかも途中までは一緒だったんだけど……。はるかは体調が悪いからって先に帰っちゃったよ。それより小波くんこそ何をしているの? まさか、キミこそ補習を受けてるとか言わないでよね?」

「ああ、これはな。ポジションの割り振りと練習メニューを考えてたんだ。未だ八人だけだけど効率のいい練習がしたいからな。意外と難しくて頭を抱えていたところさ」

「ふーん。そうなんだ」

「なんだよ、その反応は……。折角、俺が考えてんのに興味ないって言うのか?」

「べ、別に……そんな訳じゃないよ!!」

 早川は笑いながら、俺の頭を軽く小突いた。

 四方八方に跳ねる癖毛が揺れる。

「——ッ!!」

 すると——、ゾワッと誰かの視線が俺に注いでいるような変な気分になった。

 でも、その視線が一体『誰』なのかは直様分かった。

「あれ? あの女子生徒は誰でやんすか?」

「え? だれだれ?」

「いや、あの女子生徒。さっきからずっと小波くんの事ばかり見つめているでやんすよ?」

 矢部くんが視線の主に気付いて俺に言う。

 女子生徒と言う事で、確信した。

「ああ、やっぱり『彩乃』のやつか」

「あ、彩乃!? しかも、下の名前で呼び捨て!? も……もしかして、キミの知り合いなの!?」

 少し強張ったトーンを張り、教室のドアへと鋭い目付きをしながら早川が言った。

「知り合いって言うかなんと言うか――」

「一体、どう言う関係なの!?」

 ズリズリ、と此方に更に詰め寄って行く。

 早川から発せられる威圧感が凄い。かなり。

「彩乃のヤツとは俺が中学の時に肘を怪我をして部活を辞めた後、肘の検査の為に入院してたんだ。その時、たまたま同室の患者さんがあいつの親父さんでな。その時に彩乃と知り合ったんだ」

「ふ〜ん」

 そう、あの女子生徒の名前は『倉橋彩乃』。

 綺麗な容姿に兼ね備えられた知性の持ち主であり、金色に染まったロングヘアで前髪はパッツンなのは出会った頃とは変わらない。

 おまけに、この恋恋高校の理事長の孫娘でもあり俺たちの同じ同学年だ。

 理事長は、俺と彩乃が顔見知りと言うことで気を利かせてくれたのだろう。野球同好会から野球部へ昇進させようと申請する時には、嫌な顔を一切浮かべず承諾してくれたりもした。

 そして、当の本人はかなりプライドが高い。

 以前、入学テストで全教科を満点で取った七瀬に対して悔しそうに嘆いていたのが、この倉橋彩乃だ。

 俺と初めて会った頃は、俺が話をすると何故か喋らなくなるか、すぐ逃げるかのどちらかだった。

 だが、今でも少し緊張してるのがこっちにも伝わってくるが以前と比べるとだいぶ積極的に話をしようとしてくるようになった。

 俺が言うのもアレだけど成長したもんだ。

「よっ! 彩乃。そんな所でコソコソしてないで入ってこいよ!」

「――ッ!! こ、小波様!? ほ、本日も天気のよろしい事で……私が……その、えっ……と」

 ダメだこりゃ。

 彩乃のヤツ、かなりテンパっているみたいだな。

「だからさ、その『小波様』って言うのいい加減止めてくれよ。俺のことは球太で良いって言ってるだろ?」

「むぅーー。ん、んッ!!」

 あからさまに、ワザとらしい咳払いが後ろから聞こえた。

 おそらく早川が、後ろの方で両頬をハムスターみたいにプクッと膨らませているに違いないと、振り返らなくても分かった。

 すると、コソコソしていた彩乃が教室の中へと入り込んできた。

 どうやら何か用事があるらしい。

「どうした? 俺になんか用か?」

「あの……球太様! お忘れですの? 今日は予選大会の第三試合、パワフル高校とあかつき大附属の試合を観に行くと言っていたじゃないですの?」

「あ、ああ。そう言えばそうだったな。その為に学校に来て暇を潰してたのをすっかり忘れていたな」

 パチン、と指を鳴らす。

「そ、そうですのよ」

 彩乃はニコッと笑うが、それは一瞬の出来事だった。

 スッと視線を俺の後ろの黄緑色の髪の早川に向けられた。

「それより球太様? その後ろの女性の方は一体、どちら様ですの?」

 曇った顔で彩乃が訪ねて来た。

「ん? あれ、紹介はしてなかったっけ? コイツは早川あおい。ウチの野球部員だよ」

「初めまして、ボクは早川あおい。どうぞ、よろしくね」

 どうぞ、の部分を強調して言ったような気がする。

「ふ、ふん。威勢だけは買って差し上げましょう。私の名は倉橋彩乃ですわ。以後、お見知り置きを……。早速ですけれども、早川あおいさんでしたわよね? 決して球太様の邪魔だけはくれぐれもなさらずお願いしますわ」

「ムッ……」

「むっ……」

 なんだか気まずい雰囲気だ。

 何故か彩乃の視線は先ほどから俺を通り越して早川を鋭い眼光で睨みつけている。

 その視線に早川も流石に気付いている。

 彩乃を見るなり、鼻で笑い、負けじと笑みを浮かべていた。

(一体、なんですの? このおさげ女は、球太様のなんなのよ!?)

(一体、なんなの? この前髪パッツン女は、小波くんのなんなの!?)

 言葉を交えない何かで会話をしているのだろうか。

 バチバチと、火花が散っていそうだ。

 険悪な雰囲気に耐えられなくなった俺は、開いていたルーズリーフのノートをワザとらしく大きな音を立てた。

「と、とりあえず今日のところは終わりにして、俺は地方球場に行こうとするかな」

「あっ! 待ってよ、小波くん!!ㅤボクも一緒に行くよ!!」

「オイラも――」

「それは絶対にダメですわ!! 球太様は、個人で敵チームの偵察に行かれるのであって、そんな大勢で行ったら逆に目立つだけですわ! それに……貴女みたいな人が球太様と一緒に野球観戦だなんて、この倉橋彩乃が許せませんわ!!」

「むむっ……。ボクと小波くんは同じチームメイトだもん! それ位は別に良いでしょ?」

「それ位……ですって? それは絶対にダメですわ!!」

「何でなの!?」

「球太様と一緒はダメと言ってるのですわ!!」

「だ・か・ら!! ボクは小波くんとは同じチームメイトなんだし、それ位いいじゃないの!!」

「絶対に、ダメですわ!」

 彩乃も早川も一歩も譲らない。

 俺からすれば着いてきても着いてこなくてもどっちでも良いんだけども……この感じは更に険悪なムードになって来るよな。

 こう言う時は、変に話をかけないで大人しく立ち去った方が良いのかもしれない。

 取り敢えず、矢部くんにでも声を掛けようとしたのだが、矢部くんの様子がどこか可笑しかった。

「矢部くん。君はどうするんだ? 俺と試合一緒に観に行こうか?」

「……、……」

「矢部くん?」

「……」

 返事がないただの屍のようだ。

 フルフルと体を震わせる矢部くんだったが――。

ㅤバンッ!! と、机を叩く大きな音を出して叫んだ。

「――がァァァァァァァァァッ!! このモテモテ男がァァァァァァァァァーーッ!! ずるい!! オイラにはオイラには、今の小波くんの様に女の子に取り合われる事が憧れだったのにィィーーーッ!!」」

「矢部くん!?」

 すると、俺の呼ぶ声を無視し勢い良く教室から飛び出して行ってしまった。

 矢部くん、語尾に「やんす」を付け忘れていたよ。

 

 

 

 試合は三回戦。

 パワフル高校対あかつき大附属の試合。

 古豪と名門の、古くからのライバル校同士の対決カードと言う事で観客人数はそれなりに入っていた。

 それもそうだ。

 両校の先発投手が『一年生同士』って言うのも、人を集めた理由の一つでもあるだろうし、それよりまずは『アイツ』の人気がズバ抜けているからかもしれないな。

 『アイツ』と言うのはそう――、『猪狩守』だ。

 俺のライバルでもあり、俺の親友でもある。

 いや、親友と思ってるのは俺の一方通行な思いなのかも知れないが、第一、猪狩守と言う人間はそう言う事をどうとも思わないタイプの人間なのだ。

 出会ったのはリトルリーグ時代で、初めて会ったときから俺たちは互いにライバル意識を持っていた。

 中学時代は運悪く同じあかつき大附属中学に入学して野球部に所属した。二人ともピッチャーを務めていたのでエース争いを競い合って更に敵対心を強くした。

 俺が故障した後、猪狩がリリーフで登板し、準決勝、決勝と勝ち星を挙げ、見事全国制覇を成し遂げ、胴上げ投手になって世間から注目の目を浴びた男だ。

 基本的に人を見下すやつで、気に障る言葉を吐くが、キザで根は優しい部分も持っていたりする。

 俺が退部する時、怪我をした俺をチームメイトが責める言葉を吐かなかった中、唯一、猪狩だけが俺を責め続けた。

 その中の言葉でも印象に残った言葉が――。

「怪我を負った君でもやれる事はあるぞ。それは、この僕が打ったボールを拾いに行く球拾いさ。それはそれでお似合いだろ?」

 だと言うのは思わず笑ってしまう。

 あれはあれで、野球が好きな俺の事を良く知っている猪狩なりの優しさだったんだと今は思っている。

 しかし、本来はエースの『一ノ瀬さん』を登板させるはずも、これまで温存して、この試合も投入する戦法は、流石の千石監督も猪狩を高く評価してるのだろうな。

 千石監督とは中学時代は面識こそなかったのだが、中学校まで噂が広がって来て耳にタコが出来る程、その噂話を聞かされていた。

 流石に高校の練習レベルを超えていると言われているほどだった。

 あかつき大附属の野球部は、一軍と二軍に分かれていて、一軍のレギュラーでも結果を出さなければ胴上げ投手だろうと、全打席ホームランを打ったとしても、容赦無くニ軍に落とされると言う。

 しかしあかつきのキャプテン・エースの一ノ瀬先輩を差し置いて、ここまで連投している猪狩を投げさせているのは、千石監督が猪狩を今後のあかつきを担うエースとしての自覚を持たせる為の連投なのだろうと思った。

 だが俺は、それ以外にも気になっている事がある。

 それは、以前から栗原聞いてた『麻生』と言う男の事だ。

 一年生ながらも、パワフル高校のエースを背負う、その実力を見ておきたい。

 両校が挨拶を交わし、プレイボールと球審が高々に宣言して、試合が始まった。

 

 まず先攻はパワフル高校だ。

 立ち上がりのピッチングに、観客の期待が寄せる中、猪狩は緊張の一つも見せない程、全く微動だで自然体だった。

 涼しい顔を、何一つ変えないまま投球練習を始める。

 一つ上の二年生の『二宮瑞穂』の構えるミットへと投げ込む。

 ミットの快音が響くとたちまち周りから歓声が湧き上がるのは相変わらずだ。

 やっぱり猪狩守。こいつは化け物だ。

 今の速球はおそらく百四十キロ前後だろう。

 猪狩の特徴から言うと尻上がりに調子を上げて行くタイプ。

 速球は言うまでもなく変化球のスライダー、カーブ、フォークなどの球種のキレも勝るとも劣らない程と言えよう。

 目の前に映るライバルの成長した姿をじっくり見てると、後ろから俺の名前を呼ぶ声が飛び込んできた。

「お久しぶりですね、小波さん」

 その声の主は、『猪狩進』。

 この猪狩進は、猪狩守の実弟であり俺達の一学年下の後輩で現在中学三年生であかつき大附属中学のキャプテンを務めている男だ。

 兄と似た顔立ちだが、兄と違い、優しい雰囲気に包まれていて、紫色の瞳を輝かせ、頬に絆創膏が貼ってあり後ろ髪を縛ってある。

「久しぶりだな。進。お前、身長伸びたんじゃねえか?」

「ええ、まだ兄さんには届きませんけど、これから伸び盛りです」

 それもそうだ。最後に会ったのが二年前、俺が中学二年生で進は中学一年の頃なので、その頃より約二十センチ近く伸びて筋肉の付きもだいぶついてありがっしりしていると思った。

「聞きましたよ。小波さんがまた野球を始めたと言うのを」

「もうお前の耳に入ってたか……。ま、それもそうだよな」

「兄さんと会って勝負をしたんですよね?」

「ああ、つい『この前』な。余裕で負けちまったけどな」

「その日の兄さんはいつなく喜んでましたよ。小波さんが野球を始めた事と今度は同じチームじゃなく別の高校でライバルとして戦える事を」

「って言ってもだぜ? やっぱり二年のブランクを埋めるのもこっちは一苦労なんだ。それなのにあいつと来たら手加減と言うものを知らなすぎだ。無駄に全力で俺を捻じ伏せようと来たもんだから参ったぜ」

「あはは。なんだか兄さんらしいです。早く戦ってみたい気持ちでいっぱいですけど……。来年まで僕は楽しみにしてますよ。来年は兄さんと僕とで小波さん。貴方と甲子園の舞台を競う戦いをしたいです」

「ああ、勿論、俺も負けないぜ! って、おい。もう行くのか?」

「はい、僕もこれから中学の全国大会の抽選会の結果発表を見に行きますんで……。と言っても兄さんの『采配』がどうしても気になっちゃっうんですけど」

「それは特に心配しなくても平気だろ。采配ならキャッチャーの二宮先輩のリードだからな。安心出来るだろ。それより進、頑張れよ」

 俺は進に、握った拳を突き立てる。

「はい! ありがとうございます」

 と、にこやかに笑いながら、拳で返してペコと実兄の猪狩ならしないであろう、行儀の良い深い一礼をして、その場を去っていくのを見送り、視線をそのまま猪狩守に向けた。

 丁度今、パワフル高校三番の尾崎を空振り三振に仕留めチェンジとなった所だった。

「猪狩の野郎、絶好調じゃねえか」

 小さく呟く。

 すると、「まさか? この距離で?」と思ってしまった。

 猪狩は、俺がいる三塁ネット裏に目を向けていた。相変わらず自信満々な笑みを浮かべて、コッチを見ていたのだ。

「ったく、あのヤロー。自信満々が見え見えなんだよ」

 俺は頬杖着いて、あかつきナインがベンチへ下がっていくのを見ていた。

 

 

 

 あれは数日前の事だ。

 梅雨を迎えていた六月の下旬頃だろうか。

 野球部の練習も、いつの間にか形になってきたと感じ、皆の成長ぶりがしみじみ身に染みた頃のある日の部活帰りだ。

 俺はいつもの河川敷を歩いていた。

 すると。河川敷でシャードピッチングをしている一人の男の姿があった。

 暗い闇の中、目を凝らしても分かるほど、色の濃い茶色の髪の毛に、顔の整った顔立ち。

 懐かしい顔が見えたのだ。

 俺はその男の方に次第に近づ居て行くと、予想的中だ。

 そいつが猪狩守だと分かったのだが声をかける前に猪狩が俺の方に気付いた。

「こ、小波!?」

 まるてお化けにでも出会したみたいに驚いた表情をした。

「相変わらずまた『一人』で夜な夜な練習とは自称・天才の猪狩守も中学の頃から何一つ変わらないんだな。おまけに一人で練習熱心なのは頭が下がります。てか、こんな河川敷じゃなくて自分の家のデカイ敷地内でやれよな」

「ふっ……。僕は君みたいな『凡人』じゃないんでね。僕みたいな天才は時と場所を選ばずに好きな練習できるんだ』

 猪狩は俺の事など一切、気にせず黙々と、手に握るタオルで振りかざしながら、フォームの調整をしていた。

「あのさ……お前に一つ聞くけど。まさか高校に入学してもそのキャラじゃねえだろうな? 学校で一人だけ浮いてるって事はないよな?」

 昔も一人で、天才だからみんなと練習するのは効率が悪いとか何やら、子供みたいな事を言っては、よく放課後に一人で練習していたっけと、思い出しながら俺は猪狩に聞いてみた。

「――ッ!? ふざけるなよ!? 何を言う!! この天才の僕が学校で浮くなんて事はない!!」

 このテンパり具合。その様子からすると図星なのだろうか。

 正直、どうでも良いので俺はあまり突っ込まないようにした。

「ま、お前は夏の大会が近いんだ。時にはチームワークってのを深めるの事も大事だぜ」

「フン。そんな事『凡人』である君に言われなくても分かってるさ。それより小波。確か君は『恋恋高校』と言う野球部のない高校に進んだそうじゃないか」

「そうだけど? ま、今の恋恋高校の野球部は八人だけしか居ないんだけど、最近は随分と様になってきてるぜ?」

「……君は何を言ってるんだい? 確か恋恋高校に『野球部』は存在しないはずだろ?」

 冗談だろっと、困った顔を見せる猪狩だったが俺はニヤリと口元を緩める。

「ああ、今年の春まではな? 知らなかったか? 今は存在してるんだぜ? 恋恋高校公式野球部がな」

「……小波。君も野球部に?」

「ああ、もちろん! ポジションはファーストだけどな」

「そうか・・・・・・。そうか・・・・・・」

 猪狩は何かを噛みしめる様に、同じ言葉を二度つぶやいた。

「君なら、またいつか僕の前に立ち塞がる時が来るだろうと思っていたよ!」

「思い通りになって良かったな。それより、どうだ? 猪狩、久しぶりに一打席勝負といかないか?」

「ふふふ。良いだろう。君にはいつも負けてばかりだったが、僕は天才・猪狩守! 凡人の君には負けるつもりはない」

「相変わらず自信満々だな。っても場所はもう暗いしどこでやる?」

「なら、僕専用のグランドでやろう」

「分かった」

 俺は昔、何度か猪狩と自主練習をした事のある、猪狩守専用のグラウンドへと足を運んで、一打席勝負をしたが、結果三球三振、全部ストレートで俺は、猪狩に負けを喫したのだ。

「ふははは、良いトレーニングになったよ!」

 ご満足の猪狩の笑い声だけが響き渡った。

 

 

 

 全く嫌な事を思い出しちまった。

 さてと、試合の方に集中する事にするか。

 確か、パワフル高校の投手は麻生だったな。パワフル高校の強さは、それ程ではないものの選手層はかなり厚い。

 その中で一年生ながらも、レギュラーを取るという実力は、前から気にはなっていた。

 見た所、容姿が少し猪狩に似ていると思わせる髪型に顔立ちだな。

 少し違うのは右投げと髪が黒と言うところだが・・・・・・どうだ?

『一番・レフト 七井君』

 球場のスピーカーから流れる、ウグイス嬢のアナウンスが鳴る。

 呼ばれた七井と言う男は、ヘルメットをゆっくりと装着しバッターボックスへと向かう。

 金髪頭に真っ黒のサングラス。そこそこ見た目にインパクトがある男は、中学時代では見たことがなかった。

 それもそのはずだ。七井は、高校進学時の時に親の都合で日本に来たのだから、俺ももちろんあったこともない、全くのノーデーターの相手と言うわけだ。

 

 暖かい風が、マウンドに佇む一人の男を撫でる。

「さて、あかつきの一番打者の七井さん。早速、お手並み拝見と行くとするぜ! おい、麻生。あの人は意外とパワーヒッターだぞ? 簡単に打ち取れると思うなよ」

「はぁ? おいおい。心外だぜ、戸井。まさかこのオレ様が、あんな雑魚に打たれると思うのか?」

「馬鹿野郎! ゴールデンウィークの合同合宿の時の練習試合のことを、もう忘れたのか? 練習試合で四打席四ホーマーを打たれたのはどこのどいつだ!」

 同じチームメイトの戸井鉄男は、呆れながらもトンッとグラブで麻生の胸を叩いた。

「オイ。これは、なんの真似だ? 戸井」

「石原先輩を、俺たちの手で甲子園に連れて行くんだよ! エースのお前に懸かってるんだ! 頼んだぞ?」

「夢物語なんか語ってんじゃあねェよ。オレ様はな! 石原なんぞを甲子園に連れて行くつもりなんて毛頭ねェよ!」

「そうか、でもお前が俺たちのエースなんだ。頼むぞ、麻生!」

 戸井は、麻生にニヤリと笑みを浮かべ、スタスタとファースト定位置の方へと、歩いて行くのを麻生は、チッと舌を鳴らして見送った。

 パワフル高校の麻生と戸井もいずれは小波達の前に立ちはだかる最大のライバルになることなど、誰も知らない・・・・・・。



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第8話 あかつき大附属 VS パワフル高校 その二

 猪狩VS麻生。
 ――二人の勝負の行方は?


 振りかぶったオーバースローの投球モーション。

 左腕から放たれた速球は百四十五キロをマークした。

「ストライク——ッ!!」

 審判が高々に叫ぶ。

 コールと同時に、周りからも驚くような声がワーッと湧き上がる。

 続く二球目だ。

 内角を抉る様な百四十二キロのストレートを一番打者の七井=アレフトは、タイミングを見計らってバットを振るい、カットするも、ツーストライクと、簡単に追い込まれてしまった。

 そして、三球目。

 高めに投げ込まれたストレートをバットに当て弾き返すが、快音は虚しく、センターフライに打ち取られ一アウト。

 続く二番、三番打者と連続三振に打ち取られて、この回、あかつき打線は得点ゼロで攻撃が終わった。

「しかし、似てるな」

 この回、パワフル高校のエース、麻生は打者三人に対し、十一球の球数を投げたのだが、ストレートの速球、球威は勿論、シュート、シンカー、フォークの変化球と言い、その姿がまるで右投げの猪狩守そのものだなと改めて肌で感じた。

「あっ! やっぱりここにいた! お〜い、小波くん!」

 名前が呼ばれ、小波は振り返った。

 その声の主は、今現在戦っているチームのパワフル高校のマネージャーの栗原だった。

「・・・・・・栗原? 何してんだよ、お前! 試合は?」

「あぁ・・・・・・だって私、マネージャーって言ってもね。パワフル高校には四人の先輩マネージャーがいるんだもんの。まだまだヒヨッコの私なんてベンチに入る事は無いわ、いつも外で応援なのよ」

「成る程な・・・・・・、って栗原。大丈夫なのかよ?」

「何が?」

「何がって、だって、ここは、あかつきのベンチ上だぞ?」

「大丈夫よ! 多分、私だって誰も気付きなんかしないもの!」

 満面な笑みを浮かべる栗原だったが、その笑顔のせいで、小波は流石に怒れなかった。

「あの麻生って言うやつ随分、猪狩と似てるもんだな。さすが『猪狩ブルースシニア』に居ただけの実力はあるな」

「そうだね」

 言葉を短く切る。

「・・・・・・?」

「でも、私が見るからに、麻生くんは猪狩くんとは違うよ。なんか怖いくらい」

 声が震えていた。

 まるで怯えているかのような、栗原。

 心配になった小波が、訳を聞こうと思い、咄嗟に手を肩に掛けた瞬間の事だった。

「小波くん〜? キミは、一体、何をやってるのかな?」

 聞き覚えある声。チラッとその声が聞こえる方へと振り向いた。

 黄緑色の長い髪が目に映った瞬間に、その人物が誰なのかをすぐ様理解した。

「――は、早川ッ!? どうしてここに? って、お前らも!?」

 すると、早川を筆頭に、星、矢部、毛利、山吹、古味刈、海野の計七人、恋恋高校野球部のメンバーが、いつの間にか小波達の後ろの席に座っていた。

「いつからそこに居たんだよ!」

「キミが、さっきまで話をしていた茶髪の子が、キミに声を掛けた時からボク達は既にいたよ?」

 進と話をしている時だって?

 確か、拳と拳を交わした時、後ろを向いたはずだったが・・・・・・?

 まさか、丁度視界に入って見えなかったって言うのか?

「黙ってないで声くらいかけてくれよ!」

「だって小波くん、真剣に試合見てるもんでやんすから、声なんてかけられなかったでやんすよ! そうでやんすよね? 星くん」

「・・・・・・」

「どうしたでやんす? 星くん?」

「あ・・・・・・あ、あの・・・・・・も、も、もしかして・・・・・・栗原舞さんですよね?」

「えっ? あ、はい。そうですけど?」

「オ、オ、お、お、俺ェ!! いや、僕はッ!! 恋恋高校の星雄大と申しますッ!! 初めましてェェ!!」

「はい。小波くんから話を聞いてますよ。恋恋高校のキャッチャーをされてるんですよね?」

「ご、ご存知でしたかァァッ!! いや〜〜知っていてくれてメッチャクチャ嬉しいです! 舞さん、小波くんとはどんな関係なので?」

「それはボクも気になるッ!!」

 星の問いに、早川も喰いついた。

 それよりもまず気になったのは。星の態度だ。

 おいおい、なんだ?

 こんなにも、よそよそしい星を俺は見た事がないぞ。

 今まで見た事のない星の反応に、誰もが目を丸くしている。

「小波くんとは、幼稚園の頃からの幼馴染なんですよ」

「幼馴染・・・・・・?」早川の眉がピクッと僅かながら動いた。

「おい! テメェ、小波ッ! ふざけんじゃあねェぞ!」

「お前は、一体、何に対して怒ってんだよ!」

 星が俺の首元を掴み鬼の様な形相をしていた。

「幼馴染って事は、お前ェ! まさか舞さんの事を何でも知ってるって事かよォ! あんな事やこんな事も知ってるのかァ!? 知ってるなら今すぐ教えてくれェ!!」

「し、知らねえよ!」

 すると、星はいつもの顔に戻った。

「そうか。ったく、焦らせんじゃあねェよ」

 掴んだ首元をパッと解く。

 勝手に焦ったのはお前の方だろ。

「ふふ、仲良いんですね。まるであの頃みたいだね」

 懐かしんだ。緩やかな笑みをしていた。

「それじゃあ私、戻りますね。小波くんまたね」

「お、おう。またな!」

 栗原がパワフル高校の応援席に戻って行くのを見ながらため息を着く。

 だが、この残された、こいつらの鋭い目線が全部俺のところに集まって来ている事くらい分かっている。なんだか気まずい。

「・・・・・・それで? お前らは一体何しに来たんだ?」

「何しにって、テメェと同じく試合観戦に決まってんだろォ」

 ふてぶてしく星が言うが、視線はまだ栗原の事を見ていた。

「なぁ、星」

「あんだよ?」

「もしかして、お前。栗原に気があるのか?」

「ばッ、馬鹿野郎ォ!! な、何言ってやがんだよ! そ、そんなんじゃあねェよ! ・・・・・・まぁ・・・・・・そう言うことだ。内緒だぞ?」

 ――どっちだよ!

 てか、コイツ面倒くせえな!

 相手にしないでおこう。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 えっと、早川も今は相手にしていると、色々めんどそうだ。

 ずっと怖い目で俺をみてるし。

 さっきの彩乃の件もあるだろうから、矢部くんか海野辺りにでも声をかけるかな?

 そう思ったのだが、二人は少し距離のある方に離れていた。

「・・・・・・」

 さてと、試合に集中するか。

 思ったが、あかつきの攻撃は終わっていてスコアボードにゼロの文字が表示されたところだった。

 

 ゲームは両校の投手戦となり、両校合わせたヒットはたったの三本だった。

 流石、古豪と名門のライバル高校同士と言ったところだ。

 この一戦は三回戦、四回戦で当たることが多く毎年あかつきがコールド勝ちで終わるのだが今年は八回まで試合が進み、いい勝負をしているので見応えがあるのだろう。

 ザワザワしていた球場も静かになり、その試合に見惚れていたのだ。

 ゲームが動いたのは八回表の先攻のパワフル高校だった。

 四番、石原が猪狩の甘く入った高めのスライダーを見逃さず綺麗に、センター前に弾き返した。続く五番、一年生の戸井がツーストライク、ツーボールからの五球目。

 キチンと送りバントを決め一死二塁で六番の麻生に回った。

 その初球。

 ――百四十五キロのストレートだ。

 豪快なスイングから生まれた綺麗な快音。

 その音だけを残し、レフトスタンドへと叩き込んだのだ。

 すると、パワフル高校のベンチが湧きあがり静かだった場内が活気に満ち溢れた。

「猪狩からホームランとは麻生ってやつ、中々やるじゃあねえのか!」

「麻生・・・・・・か」

「山吹、お前。あいつの事知ってるのか?」

「ああ、なんせシニアで嫌という程戦った事があるからな」

「俺もあるが、猪狩ブルースシニアには一度も勝った事がねえけどな」

 二人は、シニア出身で面識はあると言うのだが、麻生は俺様口調で人を見下す奴らしく性格と言う事で、性格までもが猪狩に似ていると思った。

 続く七番、八番を三振に仕留め、この回の守備は終わり、一対三のままあかつきの攻撃へと変わる。

「投手戦で進んできたこのゲームだ。三点を取られちまったあかつき高校にとっては、麻生から点を取るのも打つのも苦しいだろうな」

「星くんが言ってるけど、そこんところ、どう思う? 小波くん」

 早川が聞いてくる。

「ああ、まだ終わったわけじゃ無い。よく見たら今日のメンバーはレギュラーじゃないんだ」

「――ッ!?」

 皆が驚く。

「俺は、中学があかつきだったから分かるんだけど、本来エースである一ノ瀬先輩、そして三本松先輩、分析力に長けている四条先輩が出ていないんだ」

 説明すると、皆声も出なく呆気に取られていた。それを見て俺はニヤリとした。

「それに、二宮先輩の采配らしくない。あの人は、どんな相手だろうとも甘い球、甘いコースに指示はしないんだ」

 思考巡らす。

 すると、俺はつい先程、進との会話を思い出した。

 ――でも兄さんの采配が気になっちゃうんですけど・・・・・・

「・・・・・・猪狩守」

 ボソッと呟く。

 自分が漏らした言葉なのに、「おいおい、マジかよ」と、少し気の抜けた声が出てしまった。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 今まで猪狩くんの采配だったって事?」

「小波、一体、どういうこったよ?」

 早川と星が慌てる様に話をする。

 だが、俺にも分からない。

 何故この様になっているのかも・・・・・・。

 

「はは! しかし、猪狩。ストレートの球速は良かったが、コースが甘かったな」

「そうですね」

 ベンチに座る猪狩の隣で、キャッチャーマスクを片手に持ちながら、真っ赤に染まった髪の毛の前髪をヘッドバンドで上げて、見るからに悪そうな目をしていて、ガラの悪そうなのはチームの司令塔・二宮瑞穂だ。

「おいおい、二宮。仕方ないだろ? これも猪狩の采配なんだから」

「それもそうッスね」

 猪狩を擁護する様に話すのは、チームの圧倒的パワーヒッターであもあり、四番打者である三本松一だ。

 高校三年生とは思えないほど、ぎっちりとした筋肉質で体は、猪狩より一・五倍はあるのではないかと、思ってしまう程、がっしりしている。

「猪狩、ご苦労様。さっきのストレート少し高かったかな?」

 猪狩に声を掛けた人物は、軽く微笑んでいた。

 名を一ノ瀬塔矢。

 現在、猪狩の二学年上の高校三年生であり、常勝チームであるあかつき大附属の野球部のみエースにして主将を務めている。

 技巧派の左腕で、地方大会、春の選抜大会で計三回のノーヒットノーランを達成させた絶対的エースだ。

「一ノ瀬先輩、そのようですね」

 猪狩は鼻で笑う。

「どうやら天才である僕は、たった一人の凡人の所為で浮かれていたのかもしれません」

「はァ? 浮かれてただとォ? 猪狩、お前はこの試合中に何を考えてたんだよ!」

「止めろ瑞穂」

「・・・・・・」

 一ノ瀬の静かな口調で二宮を制止させた。

「それで、猪狩。君は、一体何に浮かれてたんだい?」

「小波がわ再び野球を始めた事、に対してですかね」

「——ッ!!」

 小波の名前を聞いた途端、あかつきベンチのその場がピタッと止まった。

「それは驚いた。小波球太が野球を再び始めただって? 猪狩。それはどこの高校なんだい?」

「今年から共学校になった恋恋高校です」

「恋恋高校か。あそこは去年まで女子校だったね・・・・・・ふふ、それは、なかなか興味深い話だ」

 小波球太の事を、流石の一ノ瀬も覚えていた。

 いや、忘れる事は出来ないであろう。

 それはら三年前の事だ。

 一ノ瀬が当時、中学三年生だった頃。

 「エースナンバーを俺によこせ!」

 と、喚き突っかかってくる度に、二宮に頭を叩かれていたあの黒髪で癖毛の少年が、一ノ瀬等三年生が部活引退後、一ノ瀬が背負ってきたあかつき大附属中学のエースナンバーを猪狩守から勝ち奪い、その後のあかつき中学を支えていた事。

 そして、成長の過程の中で肘を酷使して、故障をして、野球部から去ってしまった事など、ずっと覚えていたのだ。

「彼は肘を壊した。それでも野手にコンバートして戻ってきたと?」

「いや、あいつの肘は既に完治しています。それをアイツはまだ気付いていない」

 冷静な口調で猪狩が呟いた。

 そして、少し間を空けて、次の言葉を付け足したのだ。

「不思議ですけどね」

「そうか。あの小波が復帰したと言うのならば、この先、きっと彼らのチームが強敵になる可能性がある。猪狩! 二宮! 来年は、お前達があかつきの栄光を守るんだ」

「ああ、そんな事、分かってるよ」

 二宮の返事を聞いた一ノ瀬は、千石監督の隣へ、二宮はネクストバッターボックスへと歩き出した。

 そして猪狩は深く息をついた。

 ――浮かれてる場合じゃあない。今、戦っている相手は、小波じゃあなくパワフル高校だ。

 青い空を鏡に映しているかのような、透き通った青い瞳を閉じ、精神を統一しようとした時だった。一ノ瀬が再び猪狩に声を掛けた。

「九十九と二宮は、恐らく塁に出るだろう。八回裏、二点差の現状。君のバッティングなら自分の借りは自分で返せるかい?」

「はい」

「なら、ホームランを打って九回の表をゼロで抑えろ。これが千石さんからの一軍残留の最終課題だ」

「分かりました」

 この言葉に火がついたのか。

 九十九、二宮は、一ノ瀬予想通り、連続ヒットで塁に出た。

 ノーアウト一、二塁のチャンスの打席には猪狩守がバッターボックスに立つ。

 今日の麻生と猪狩の戦いは三打数三四球といずれも敬遠だった。

 しかし、この場合。

 敬遠にすれば無死満塁で続く打者は一発もある七井に繋がってしまう。

 ここは流石の麻生も覚悟を決めていた。

 一球目はキレのあるシュートでストライクを先行。

 二、三球目とボールを出してしまい。カウントはワンストライクツーボール。

 続く四球目。

 落差のあるフォークボールだった。

 だが、猪狩は狙っていたのかあるいは何でも打てたのか口元には、自信に満ち溢れた笑みを浮かべながら、バットを振り抜いたのを、麻生は見逃さなかった。

 打球一線。

 鋭いライナー性の当たり、瞬く間にライトのスタンドに打ち込まれ、逆転スリーランホームランで、八回裏、あかつき大附属高校が、パワフル高校から一点、勝ち越しした。

 唖然。

 その打球を見つめるパワフル高校のメンバーだったが、麻生だけは猪狩を黒い瞳で睨みつけたままだった。

 その後、調子を崩した麻生を見逃さなかった千足監督は、あかつき大附属メンバーを、三本松、四条な次々に正レギュラーへと変えて行った。

 見事、乱調になった麻生は、見事にあかつき打線にはまり同じ八回裏、十四点目となるホームランを打たれ、パワフル高校はコールドゲームとなり、審判の合図と同時にサイレンが鳴り響いた。

 

「恐ろしい相手だぜ。あかつき大附属」

 しみじみ思ったのだろうか、改めてあかつき大附属の本当の強さを偵察をしに来た各校のチームに焼き付けられた。

 

 そして、この年の地区の優勝を決め、甲子園の切符を手にしたのは、あかつき大附属となった。

 だがしかし、あかつき大附属は甲子園の第一回戦で、竜王学院高校と激突し、敗退してしまうのであった。




 次回、急展開!?
 ――二学年編スタート!


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小波球太 第二章 恋恋高校二学年編
第9話 三人の新入部員


 新章突入!! 小波球太、二学年編始動!!
 ――激動の一年が幕を開ける!!


 今年の冬は、この街には珍しく雪が降り積もった。

 寒かった冬を終え、積もった雪も溶け始めるが、少しばかり残る中、季節は新しい春を四月を迎えた。

 春の暖かな日差しが、眠気を誘う。

 一年間通い続けた見慣れた景色を、通学路を走る青年が一人。

 特徴としては、黒い髪と黒い瞳はヤケに眠たそうで、見るからに優しい顔立がとても印象深い。

 青年の名前は小波球太。

 つい四日前、十七歳を迎えたその青年は、いつにも増して、活気に満ちたようにも思えた。

 その理由は、小波が通う恋恋高校の今年の新入生は、百七十八人と言う数の内、男子生徒が四十三人入学したと言う事が関係しているのだろう。

 青年は、去年立ち上げた野球部の主将だ。

 そして、その野球部に早くも入部希望者したい、と名乗り出る者が既に三人いると、顧問である加藤先生から聞かされたのである。

 ただ、青年は部員が増えた事に対して浮かれていた訳ではない。勿論、新入部員の加入は歓迎しているが、実際の話、立ち上げたばかりの野球部員数はたったの八人なのだ。

 三人加入し、十一人となった暁には、学校側も同好会から、正式な部活動として認めてくれると言うのだ。

 小波は、雪が溶け始めた頃から、朝早く学校に登校し、グラウンドの整備をしたりボールやバットなどの、野球道具の手入れを、ほぼ一人で毎日行うのが日課となっていた。

 その為か、授業中は殆ど、疲れから出てくる睡眠によって時間を潰してしまうことが多いのである。

 高校二年生となった小波球太は、未だ見ぬ未来へと向かって、足を進みだす。

 

「行くぞォー! センター! 打球をグローブで捕球するまで気を抜くんじゃないぞォ! もう一丁だァ!!」

 今日一日の授業を終え、生徒達は、それぞれの放課後を過ごす。

 そんな中、野球部専用グラウンドでは、八人全員が練習に打ち込んでいた。

 ちょうど守備練習と言う事で、星がノッカーを務め、センターの定位置に立つ矢部くんが、うんざりした様にグローブを小さく挙げてみせた。

「オイ、矢部! 返事はどうした! 全く聞こえねェぞ!? 声を出せや、声を!」

「オウ! でやんす」

 矢部くんが、やけくそになりながら少し甲高い声をはりあげる。

「やれば出来るじゃあねえか! オラ!」

 星の鋭い打球が、センター方向に高々と打ち上げる。まったく、なんだその打球は・・・・・・ファーストの定位置に立っていた俺は呆れて、ファーストミットを腰に置いたまま、打球を追いかける矢部くんに同情の視線を送る。

 あんなに高い打球を打てば、大抵の球場はホームランだ。と、思ったと同時に、フェンスの向こう側へと消えて行った。

 これじゃ、何の練習にもならない。

 強いて言うのなら「ホームランを見送る練習」と、でも言うべきだろう。そんなのは練習じゃあない。

 これではただの星のストレス解消だ。

 オマケによく見てみると、実際星は額に汗を滲ませていて、嬉しそうにドヤ顔を浮かべている。

「星くん、何かあったのかな?」

 すると、ランニングから戻って来た早川が、俺の隣で軽めのストレッチをしながら、不思議そうに言う。

「さぁな、星に何があったかなんて知らねえけど、大方見当は付いてるけどな」

「それって、どんな?」

「放課後、星のやつ、新入生の女子生徒に声をかけてたんだ。ま、所謂ナンパだ。結果は言うまでもなく分かるだろ?」

「・・・・・・何となく、ね。でも、良く懲りないよね」

 早川が呆れた様子で言うが、口元は少し緩んでいた。

「それより、新入部員の三人は、まだ来てないの?」

 辺りを見渡しながら、早川が問う。

「ああ、その件だけど、今日は新入生の生徒は帰宅だそうだ。仮入部期間は明日かららしいから、明日には顔を出すと思うぜ?」

「そっか・・・・・・。折角だから挨拶しようと思って早めに切り替えて急いで戻って来たのに、残念だな〜」

 早川は少し頬を膨らませながら、両の腕を頭に回す。

 まるで構って欲しいとでも言っているかのようなその仕草だったが、俺はそれを無視した。

 早川がさらにムスッとした表情を浮かべて近づいてきた。

「もう! 小波くん、どうせ暇なんでしょ? それなら、ボクのピッチングに付き合ってくれないかな?」

「・・・・・・暇ってな、お前。これから守備練習の途中で——って、おい!」

「いいから、早く」

 仕方なく付いていく。

 星の自己満足の練習に付き合ってもいられなかったから、良しとするか。

 俺たちは、十メートル先にある小さなブルペンへと足を向けた。

 まずは肩慣らしに軽めのキャッチボールを始める。

「初めてじゃない? こうして、小波くんとキャッチボールするの」

 少し嬉しそうに早川が言った。

 言われてみれば、今日が初めてなような気がした。

「・・・・・・どうせキャッチボールやるなら俺よりか、星のヤツと練習した方が最適なんじゃないのか?」

 ボールを投げると、同時に質問も投げた。

「う〜ん。星くんとはバッテリーとして組んでるから、確かに小波くんの言う通りなんだけど・・・・・・とにかく見て欲しいんだ。キミに、今のボクがどのくらい通用する、どうかを」

「それが、なんで俺なんだよ? 先に言っておくけど、俺はお前達が思ってるほど、大した人間じゃないからな!」

「それはそうかも知らないけど・・・・・・なんでだろう。キミじゃなきゃダメな気がするんだもん、仕方ないでしょ?」

「その根拠は?」

「それは・・・・・・内緒かな?」

 えへへ、と声を漏らす。

 早川のピッチングは内心、興味はあった。

 俺も早川のピッチングは、去年ソフトボール部の主将を務める高木幸子との一打席勝負の時以来、真面に見てなかった為、どの程度の実力なのか見極めたかった。

 アンダースローに安定したコントロール、キレのある変化球、それからどう進化したのか。

「それじゃあ、だいぶ肩暖まったから、投げてもいい?」

「ああ、よし、大丈夫だ」

 早川はくすりと、小さく笑い、俺に向かってボールを放った。

 

 珍しく河川敷をランニングしようと思い立ったのは、部活終了後のミーティングが終わった後の事だった。

 とにかく、走りたい気分だった。

 そういう思いにさせたのは、昼間、早川の球を受けた衝撃が冷め切らず、心の一部が未だに高揚したままだっただろうか。それとも、満月の夜、春風に吹かれる桜並木を走りたかっただけだろうか。

 取り上げず前者だ。

 月の光の下、静かに流れる川が聞こえ、水流には、白いものが浮かび上がって見える。

 部活をし終わった体とは、思えないほど体は重くならず、川の音と虫の音、そして地面を蹴り上げる靴の音がリズム良く鳴るのが、聞こえた。

 去年より、早川は成長をしていた。

 これは、一言で言えばの話だ。

 悪い意味ではない。

 良いところは格段と伸びていたし、ストレートのコントロールはもちろんの事、変化球もほぼ指定通りに投げ込まれていた。オマケに、キレも格段と増していた。

 これならある程度の強豪チームと渡りあえる可能性が出てきた。

 だが、問題なのは六十球を超えた辺りだろう。

 圧倒的なスタミナ不足。

 これが早川の課題とも言わしめる現実だった。

 そこで突きつけられるのは、リリーフ問題という点だ。

 現メンバーでは、俺と早川だけが唯一のピッチャー経験者なのだ。

 正直、不安はある。

 壊れた肘は完治したとは思っていない。

 今までのやり方だけでは、また故障に繋がってしまう為、今後はある程度抑えなきゃ行けない。「肘や肩に負担のないボール」を投げなければいけないのだ。

 でも、やるしかない。

 この恋恋高校で、あいつらと野球で出会えてよかったと、あいつらも野球と出会えて良かったと、思えるように俺もやらなきゃあいけない。

 すると、いつの間にか脚が止まっていた。

 ランニングの折り返し地点の印ともなっている高架線に、誰かが保たれかかっているのだ。見覚えのある爽やかな顔だった。

「・・・・・・春海か?」

 名前を呼んだ。

 その名前に反応し、本人の春海がゆっくりと身を起こす。

「き、球太?」

「何してんだよ、こんなところで」

「何って・・・・・・。お前と同じ、ランニングだよ」

「こんな時間にか?」

「こんな時間にだ」

 ニコリと笑う春海だ。

 相変わらずの童顔なのだが、満月の光に照らされると更に色白くなり若さが増した。

「どうだい? 恋恋高校の野球部の具合は」

「新入部員が三人入るって事で、正式な部活動として認められることにはなったな」

「そうか! それは良かったじゃあないか!」

「ありがとな! それよりお前こそきらめき高校はどうなんだよ」

「俺達は、順調だよ。なぁ球太、何やら嬉しそうな顔だけどどうかしたのか?」

「嬉しそうな顔? 俺が?」

「どっからどう見てもそう見えるけど?」

 突然、春海に言われて俺は驚いた。

 さっきの早川の件の事だろうか。少し恥ずかしくなった。

「それは・・・・・・内緒だ」

 部活中に見た。どっかの誰かのように真似てみた。もちろん「えへへ」とは漏らさない。

「そっか。そう言えば今年は恋恋高校、球太の率いるチームが参加するとなると、夏の地区予選は楽しみが増えるな」

「恋恋高校ときらめき高校、同ブロックだと良いな!」

「そうだな。それより球太。肘の具合はどうなんだ?」

「ま、何ともないけど、少し不安はあるな」

「一体どうしたんだ? 弱音は球太らしくないぞ?」

「なんせ俺が肘を壊したのは、俺自身の所為なんだからな」

「・・・・・・球太」

「笑えるだろ? 実はあの日、中学二年の全国大会の準優勝の試合、俺はこの試合投げたら壊れると分かっていながら、マウンドに上がったんだ。このチームを全国に連れて行きたいって気持ちが強すぎたんだろうな・・・・・・。右肘に違和感を感じた時には、時既に遅しってやつだ」

「分かってた? それはやっぱり——」

「ああ、俺が得意とする『三種』のアレが引き金だ。なんせ成長途中の身体に、あの球は相当の負担が掛かるからな」

「・・・・・・」

 無言になる春海。

 小学リトル時代からの付き合いとは言え、大体性格も分かっている。春海は優しい。

 今も俺の話を聞いて、かなり本気で心配してくれているのは当たり前のようにわかった。

「だけど、安心しろよ。それは昔の話で、俺の今は一塁手だ。ま、ピッチャーで出る時もあるかもしれないけど大丈夫だろう。とっくに肘には違和感なんてないんからな!」

 俺は笑いながら言った。本当に何でもない。

 すると、春海は少し淀んだため息を漏らす。

「おい、春海。どうかしたか?」

「あ・・・・・・いや、ゴメン。それを聞いてどこか安心したよ。何でもないよ。それより怪我だけは本当に気をつけてくれよ? 球太、俺は本当に君と戦うのが楽しみなんだから」

「ああ、わかってるって」

 沈黙。

 少し間が空いた。

 微かな瞬間、その間に春の風が割り込むかのように流れ、暫く経った。

 春海は、ぐるりと肩を回して見せた。

 土の香りを吸い込む。

「なぁ、球太。お腹減らないか?」

「奇遇だな。丁度、腹ペコだよ」

「じゃあ食べて行きなよ、オムライス」

「おお! マジか。恩にきるぜ」

 少し先を春海が歩く、俺はその後を追うように歩いていた。

 右手を空へと突き出した。

 届かない月に手を伸ばす。

 左右に捻り、感覚を確かめる。

 違和感なんて何もなかった。

 大丈夫さ。きっと。

 

 そして、もう一度、右腕を突き出し、体の伸びをして、天を仰いだ。

 空には無数の星が燦々と輝いていた。

 

 グラウンドを軽く二週しただけで汗が滲んでくる。

 背中と脇と腹の辺りがじんわりと染み込んで濡れて気持ちが悪い。

 この前までは、こんな事はなかった。

 風は冷たく、グラウンドの土は硬く、走っても走っても容易に身体は暖まら無かった筈なのに。

 だが、四月を迎えた今、日差しの中に立つだけで光の持つ熱が肌を刺激する。

 踏みしめる土に冬の季節には無かった弾力さえ感じるのだった。

「古味刈くん! 行けるでやんすか?」

「行ける、行けるぞ! 矢部ぇ!」

「矢部明雄、ホームを狙うでやんす!」

 三塁ベースの後ろ、三塁コーチャーの立つ位置辺りで、古味刈が腕を大きく回していた。

 古味刈の合図と共に、矢部くんが三塁ベースを蹴り上げる。

 脚に力を込め、ホームベースまでの数メートルを、駆け抜け、頭から滑り込むヘッドスライディングを見せた。

「セーフ!!! 矢部明雄選手! 見事、生還!」

 ガッと拳を振り上げて、声を張り上げる矢部くんだ。

「アウト!」

 すると、呆れながら早川が親指を立てて拳を握った腕を突き上げる。

「えっ!? 今のはセーフでやんすよ!」

「アウトだよ!」

「セーフでやんす!」

「アウトって言ったら、アウトなの!」

「えぇ〜そんな! あんまりでやんす!!!」

 矢部くんはわざと顔を歪める。先ほどのヘッドスライディングのせいか、少し顔の周りに砂が付いており、何時にも増して変な顔になっていた。早川がクスクスと我慢していたであろう笑いが聞こえる。

 今は、ベースランニングの練習中だ。

 矢部くんの足の速さだが、見るからにかなり速い。去年、三人でキャッチボールをした時も思ったことなのだが「スピードスターの矢部」と言われていたと言う赤とんぼ中学時代、その呼び名で言う者もいたと言うのが頷ける。

 足の速さもさる事ながら、走塁の巧さも忘れてはならない。今の矢部くんの走塁を見てそう思った。走塁時、無駄な膨らみが全く無いのだ。

「相変わらず脚の速さだけはピカイチだな。あの腐れオタクメガネ」

 星が腕を組み舌打ちしながら、言う。

「ああ、後は打撃、守備と不安要素さえ拭えれば恋恋高校の一番打者は確定だ。流石は『スピードスターの矢部』とでも言っておくよ」

「はァ? スピードスターの矢部? おいおい、小波。テメェ、野球センスは抜群に良いのにネーミングセンスはねェよな」

「え?」

 星は高笑いを浮かべる。

 俺は不思議に思った。

 矢部くんと同じ中学出身の星なら、この異名を聞いたことはある筈だ、と。

「ネーミングセンスが無いって、『スピードスターの矢部』って、矢部くんが赤とんぼ中学時代に皆から言われてたって自分で言ってたんだぞ?」

「あァン? そんな変な呼び名聞いた事ねェぞ?」

 その表情は、本当に知らなそうだった。

 矢部くんが嘘を言っているのか?

 それとも、星が白を切っているのか?

 だが、俺には星が冗談を言っているようには見えなかった。

「小波さ〜ん! 連れて来ましたよ。新入部員の三人です」

 ハッと、その声に振り向いた。

 その視線には俺が練習が始まる前に頼んでいたマネージャーの七瀬はるかを含めた四人が、そこにいた。

 俺が七瀬に頼んだのは、新入部員をグラウンドに連れてきてもらう事だった。

 新しい顔ぶれが見える、こいつらが新しいチームメイト。

 早速、俺はみんなを集合させ、自己紹介を始めた。

 矢部くんと星の二人合わせて五分程にも渡るスピーチと言う茶番を早川が強制的に終わらせて、最後にマネージャーの七瀬の挨拶をして二年生の自己紹介が終わった。

 まず一人目、身長が早川より少し低い百六十三センチの小柄の生徒から始まった。

「パワフル中学出身、俺の名前は赤坂紡(あかさかつむぎ)ッス! ポジションはショート。こう見えて結構なパワーヒッターなのが長所で、短所は少し肩が弱い所ッス!」

「西満涙中学出身、名前は椎名繋(しいなつなぎ)です。中学時代の僕のポジションはキャッチャーです。星先輩、僕は貴方には負けませんので、是非よろしくお願いします!」

 同じキャッチャーの星をチラッと見つめる。

 それに応えるかのように星はギラッと睨みを利かす。

「最後は俺っちの番ですね。聖タチバナ学院中等部出身の御影龍舞(みかげりゅうま)です。おみかげくんと呼ばれてましたので、その名前で呼んで下さい。因みにポジションは基本的に外野全般です」

 こうして新しく、赤坂紡、椎名繋、御影龍舞の新しい三人のメンバーが入部し、俺たち恋恋高校の新しいスタートを切る事になったのだった。




 夜中になってしまいまして、ようやく九話目。
 ここからが二学年編です。
 はい! 新キャラ登場しました。という事でですね。現在の球太達のステータスの紹介もしなきゃという事で、今まとめてる最中であります。報告の方で追々、書きたいと思っております。
 二学年編という事で、内容の薄い一学年とは違い、割とスローペースでシナリオが進んで行くと思います。ま、後は色々なイベントを考えていたりもします。
 試合展開やら、過去の話、オリジナルの能力○○設定などなど、もちろん新キャラも増えますし、出てるけど名前だけと言うキャラもいる訳なので、そこら辺は頑張って行きたいと思います!
 なんと次回は、お待ちかね(してない)スピードスターの矢部くんメイン回になりそうな予定です。さてどうなるのなら・・・・・・。
 十話もよろしくお願いします!


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第10話 スピードスターの矢部

 スピードスターの矢部!?
 その名前は嘘か誠か・・・・・・。


『スピードスターの矢部? おいおい、小波。お前、野球センスは抜群に良いのにネーミングセンスはねえよな』

 一週間前の事。部活の練習が終わった時に星が放った言葉だ。

 中学時代に矢部くんが『スピードスターの矢部』と周りから呼ばれていたと本人が言っていのだから間違いは無いと思ったのだが……そらはどうやら違ったようだ。

 そんな事をぼんやりと思い出しながら小波球太は今日の練習を終えて更衣室で練習着から制服へと素手を通しながらその事について考えていた。

 理由はどうあれ、例え矢部が見栄を張った嘘をついていたとしても別に恋恋野球部に支障はない。

 それどころか、今年の新入部員が三人も入って来て、去年とはガラリと変わり今では活気に満ち溢れている為、問題はないのだ。

 オマケに毛利や古味刈の初心者組も一年生には負けまいと更に練習に精を出し、自主練も日に日に重ねていて、練習中はつねにピリピリとした緊張感もあり、今は部にとって雰囲気は良い方だと感じる。

 だが……ここ数日の間に矢部の元気が何処と無く無いようにも見えていつもの元気が見当たらないのが少し心配でもあった。

「ところでよォ? 頑張駅の東口を真っ直ぐ行った先にある『デパート街』があるよな? この前ふらっと行ったのよ。そン時に、目の前ら俺好みのスタイルの良い女が歩いてきたのよ!!」

「そ、それで? 星先輩はその女性に声を掛けたンすか?」

「えっ? あ……ちょっ、ちょっとな。そン時の俺はちょいと急ぎの用があったもんでよォ。話そびれちまったぜ。用が無ければ話掛けたんだけどな、いや〜惜しいことをしちまったぜ!! あははは」

「そ……そうなんスか」

 背後から聞こえるのは、星の声だった。

 一年生である赤坂に、どうでも良い話を先輩面をぶら下げて話していた。

 

 (星……お前だけだぞ。このチームの中で一番緊張感の欠片も持たないやつはな)

 

「小波くん! まだ中に入るの?」

 すると、更衣室の外からコンコンとドアを叩いて早川が小波の名前を呼んだ。

 先に上がった早川は、普段は扱いされると露骨に不機嫌な表情を浮かべるが女性だ。

 もちろん小波達と同じ所では着替えは出来ない。

 その為、ソフトボール部の主将であり早川の親友である高木幸子が早川の為に更衣室を併用してくれているのだ。

「ああ、悪い。もう少し待ってくれ!」

「……あン? ちょいと待った。小波……テメェ? もしかして早川と一緒に帰るのって言うんじゃねェだろうなァ?」

「一緒に帰ると言うよりもちょっとそこまで寄り道だな。俺ん家の近くに、中々品質の良い老舗の和菓子屋があるんだ。俺の知り合いがそこのきんつばが一番の好物なもんでよ。今年、中学生に上がったから入学のお祝いとして買って帰るって言ったら早川もそこに行きたいって言ってさ」

「はーん、なるほどねェ。老舗の和菓子屋か……。へへへ、それなら丁度いいぜ!! ハードな練習で身体全体がクタクタしてた所で甘いモンでも食べてェなって思ってた所だったんだ!! よしッ!! それなら俺も一緒に着いて行くぜェ! 良いよなァ!? 早川!」

 星がドアの目の前で待っている早川に向かって大声を出した。

「え……。星くんも来るの……? ……………しょうがないな。今日だけだよ」

 少し気になる間があったものの早川から返答が帰ってきた。

「……おいおい。小波、今の返事聞こえてたか? なんだか今のは露骨に嫌そうな返事だったよな?」

「ま、妥当な返事だろうな」

「あ"ッ!! なんだって!?」

「いや、別に」

 俺が例えば早川の立場だったとしてもきっと同じ問いを返したと思うぞ、と声に出さずに心の奥でひっそりと呟きながら小波はめんどくさそうにブレザーを羽織りネクタイを緩めに締めた。

「あ!! そうだ。矢部、勿論テメェも行くだろ? 老舗和菓子屋」

「オイラは結構でやんす」

 バタンッ!!!と勢い良くロッカーを閉じる音。

 まるで今までの会話を全て遮るような力の入った音だった。

「……矢部くん?」

 小波の隣で着替えていた矢部は無言で鞄を手に取りその場から素早く立ち去りローファーをトントンと鳴らすして歩き出した。

「おいおい、矢部ェ! なんだその態度はよォ? 皆で帰り道に甘いもん食いに行かねェかって言ってるのにそんなツンな態度はねェんじゃねェのか?」

 星が矢部の前に立ち塞がる。矢部はピタッと足を止めて振り返らずにボソッと呟いた。

「すまないでやんす。オイラ、今日はそんな気分じゃないでんす」

「ンだよ、ノリの悪いメガネだな!! 早速、チームワークを乱す気か? これじゃあ今後、楽しく野球なんか出来やしねェだろうが」

「――ッ!?」

「おい、止めろよ星。矢部くんにだって都合ってモンはあるだろ!」

「……」

「星の事は気にしないでよ。それじゃ矢部くん、また今度一緒に行こう。また明日ね! お疲れ様!」

 矢部くんは、黙ったまま部室から姿を消した。

 ここ一週間。矢部くんはずっとあんな調子だ。

 先日のことだ。

 ユニフォームから制服へと着替えていた時に、矢部くんの表情が一瞬だが神妙な表情をしていたのが見えたのをふと、思い出した。

 何があったのか、どうしたのか、心配になった俺は、本人に聞いても黙りを決め込むだけだった。

 それでも学校には来てるし、練習も参加してる。元気が無いのは、ただの風邪をひいたか、なんかだろうと皆は口を揃えて言う。

 俺はただそんな風には思えない。

 大丈夫なのだろうか・・・・・・。と不安になる。

「ま、あのメガネの野郎、早く風邪を治せっていうんだ」

「そうだな……。それより星。本当にお前は、矢部くんと同じ中学だったのか?」

「んにゃ……変な質問だな。矢部も言ってただろ? 俺たちは中学からのチームメイトだってよォ」

 耳をほじくり返し、欠伸をしながら星が言った。

「その……『スピードスターの矢部』って言う二つ名は本当に聞いたことは無いんだな?」

「そんな変な二つ名、聞いた事ねェよ」

「お前らの赤とんぼ中学で何か変わった事ってなかったか?」

「変わった事? ああ、あるぜ。俺らが二年になった時だ。同じ学年のやつが、急に矢部と絡む様になったんだ。実は、絡む前に、そいつは矢部にレギュラー取られて怪しいなとは思ったが、思いの他に、二人とも仲良くなってたな。その後、そのまま二年の時に止めて、学校で喧嘩沙汰を起こして、しばらく卒業まで停学になったけどな」

「喧嘩沙汰?」

「まァ、危ねェ奴って有名だったな。そう言えば、そいつと仲良くなった時も矢部は今みたいに暗い感じだった気がするな」

「星。そいつの名前覚えるか?」

「奈良岡浩平・・・・・・だったか? いや、確か親が離婚したって事で名前が変わったって聞いたな」

 星が、中身の無い頭を一生懸命酷使、思い出そうとしていた。

 俺はもしかしたら、矢部くんがまたその先輩と接触して何かしらの影響を受けているのでは無いかと思っていた。

「あっ! そうそう。思い出した。そいつの名前」

「それで、その名前は?」

「名前は悪道浩平だ」

 

 

 

 

 

「遅いぞッ! 球太!」

 開口一番、叱り声を上げる。

 部活が終わって、小波と星と早川と赤坂の四人で老舗の和菓子屋ことパワ堂で時間を忘れるほど談笑してしまい。時計の針は、既に二十時を超えていた。

「悪い悪い、聖。ほらよ、これ俺からの入学祝いな。好きだろ? パワ堂のきんつば」

「うむ。かたじけないな。」

 たった今、叱り声を上げて小波から聖と呼ばれた少女は、入学祝いのきんつばを受け取るなり、急に穏やかな態度へと変わった。

「それより球太、早く中へ入ると良い」

「ん? あ、ああ……お邪魔します」

 髪色は艶やかな紫色で、両サイドを三つ編みにしていて、後ろ髪をリボンで結び、口調はやや凛々しく、このご時世にも関わらず和服も纏っていた。

 それもその筈、西満涙と言う寺で厳格に育てられていた為、時々浮世離れした所も多い。

 ちなみに小波球太の家は、西満涙寺の隣の家に住んでいる。

 名前は六道聖。

 今年の春に目出度く西満涙中学の一年生になったばかりで、部活は軟式野球部に入ったらしい。

「聖、お前が通う軟式野球部ってどうだ?」

「うむ……。一言で言えば個性が強いとでも言っておこう」

「個性が強い?」

「ああ、そうだな。特に『明日未来』と言う一学年上の先輩がいるのだが……その人がこの上なく厄介な人でな。正直、頭を抱えてしまうほど困ってしまう。いや、悪い人ではないのは確かなのだが……どうも私が苦手とするタイプの人だ」

「ああ、性格の事ね」

 聖は煎茶を淹れながら言う。

 六道家の秘伝のお茶は、いつ飲んでも身体に暖かさが広がっていき、まるで茶畑の様な緑色の葉に囲まれる風景が浮かぶほど、美味い。

「これは余談だが、未来先輩は実は双子の様なのだ。兄上の方に『明日光』と言う先輩がいるらしいのだが……まだ会った事はない」

「双子……? そいつは野球部には入ってないのか?」

「うむ。野球は小学五年まで友達の影響でやっていた様だが、その友達が転校したと同時に辞めてしまったらしく今は読書愛好部と言う物静かな部に入ったと未来先輩から聞いている」

「辞めちまったのか。そっか……そりゃ残念だな」

 会った事は勿論の事無いが、野球を辞めてしまったと聞くと、何故か悲しくなった。

 小波は聖の淹れてくれた煎茶を飲み干した時だった。

「さて、球太。お前が私にわざわざ出向いたと言う事は、ただただ入学祝いにきんつばを買って持ってきただけではないのだろ?」

「あははは……。分かっちゃった?」

「分かるも何も球太、お前とは何年の付き合いだと思ってるんだ。お前の事はすべてお見通しだぞ。……少し待っていてくれ」

 そして聖は畳にいっぱいに敷き詰められている居間から急ぐように姿を消した。

 小波は、セカンドバックから守備用のグローブでは無くピッチャーグローブを取り出すと障子を開けて長い縁側にゆっくりと腰を下ろして、広々とした庭を眺めた。

 そこはピッチング練習には充分広い庭だ。小波と聖は小さい頃よくここでピッチング練習をしたものだった。

 小波がピッチャーだった為、聖は必然的にキャッチャーを務める事になった。

「懐かしいな」

 小波は微笑みながら、少し昔の記憶を思い返していた。

 

「待たせたな」

 そして、約十五分が経った。

 和服を剥いで、中学の練習ユニフォームに着替えた聖は、ミットに聖のサイズに合わせて発注されたキャッチャー防具を着けて現れた。

「分かってると思うが球太。『あの球』だけは余り多様するんじゃないぞ?」

「大丈夫。そんな事分かってるって、それに今は『別の球』の開発に努めないとな」

 やれやれ、とでも言っている聖の口元はニヤリと口角が上がっていた。

 去年の夏頃から、小波は恋恋高校のメンバーには内緒で感覚を取り戻す為に極秘でピッチング練習を始めていたのだ。

 中学時代よりどの程度、劣化してしまったのか……今の自分自身のピッチングが果たして高校野球で通用するのかを見極める為に。

 だが、そんな思いとは裏腹に予想を遥かに超えていたのだ。

 中学二年の全国大会の途中で肘を壊してからブランクがあるのにも関わらず、ストレートの球速、ノビ、キレが見る間もなく更に上がっていて変化球も成長していたのだ。

 そして……小波は今、別の球種をモノにしようとしている。

 それは、肩と肘に負担の無い球を投げる為のボールだった。

「よしッ!! そろそろ良いだろう。来い、球太」

 ボールを握りしめ、肩で一呼吸を置いた。

 頭でイメージを作る。

 どんな球にするのか。

 中学の最後に投げたあのストレートボールの様に、あの頃の最速球だった百二十七キロを大幅に超えて『百四十キロ』と言う驚異的なスピードを出した様に、どの球よりも速く、力に満ちた一球。

 イメージは完成した。後は放るだけだ。

 

 ズバァァァァン!!!!

 

 豪快なオーバースローのフォームから放たれた一球が、ストライクゾーンの真ん中に構える聖のミットに飛び込んだ。

 小波の中にあった不安も掻き消すほどに心地が良く、夜の静寂を捕球音が響き渡った。

 

 

 翌日、春の陽気は暖かく眠気が増した。

 いつもの通学路であり、恋恋高校野球部のランニングコースでもある恋恋ロードを歩いていた。

 腕を空へと伸ばす。身体を伸ばすと同時に欠伸が漏れる。

 昨日、聖と数百球のピッチング練習をした。

 小波が今、得ようとしているボールは、まだまだ時間と経験値が必要の様だ。それでも焦らずじっくりと習得へと練習を重ねていくつもりでもある。

 そんな事を思いながら歩いていると、目の前には見慣れた坊主頭をした矢部の歩く後ろ姿を見つけた。その足取りは重く、疲労したからだを引きずるかの様にフラついていた。

 駆け足で向かって、矢部に声を掛ける。

「おはよう、矢部くん」

「あ……小波くん。おはようでやんす」

 またもや元気は無かったが、随分と久しぶりに朝の挨拶を返してくれたような気がした。

 ・・・・・・・・・・・・。

「あのさ、矢部くん。今日のメニューは打撃練習をメインにようと思うんだけど……」

「……」

「えっと……。大会に向けて週末の土日とかにバンバンと練習試合も入れて行こうと思ってるんだ」

「……」

「俺たちなんて特に試合という試合をしてこなかっただろ? だから試合感覚を覚えなきゃ行けないよね」

「……それは、いいでやんすね」

 どんよりと、重たい雰囲気の中、お互いに無言のまま歩いていた。

 すると——。

「オイオイ。止まりやがれそこのメガネ! テメェ……矢部だよなァ? そうだろ? お前、矢部明雄だろォ?」

 矢部くんの名前を呼ぶ聞き慣れない声が聞こえてると、小波達は足をピタリと止めた。

 その男……小波達と同じ位の年齢だろうか。見慣れない制服は恋恋高校の指定ブレザーでは無い学ランを羽織っているから他校の男子生徒だという事は一目でわかった。

 呼び止めた男。長い黒髪が目を通り過ぎるほど長い前髪で、ニヤリと笑みを浮かべているその歯はトゲトゲしく鋭く生え揃っていた。

 身に纏う雰囲気は、その場に近寄り難いほどドス黒かった。

「……ッ!?」

 矢部は、その男の顔を見るなりすぐさま怯えた様にジリジリと後退りする砂利と靴の裏が交わる音が鳴る。

「ヘッ!! 何ビビってんだァ? 冷たいねェ……中学の卒業以来の再会なんだからよ、感動的になろうじゃねェの!!」

 ニヤニヤする尖った歯がキラリと光り、長い前髪からチラチラと覗かせる瞳は今までに感じた事ない冷たさを帯びていた。

 ゆらゆらと、こちらへと歩き近づいて来る。

 手と手を重ねては骨を鳴らす。

 

 ———ダッ!!

 

 次の瞬間……ゆったりと歩いていた男が急に突進するように地面を強く蹴り上げて、矢部の顔面に向かって拳を殴りつけようとした。

 

 ——パシッ!!

 

「こ、小波くん!?」

 間一髪だった。小波が右手の手のひらでその男の拳をギリギリの所で食い止める事が出来た。

 矢部を突き飛ばす様な形になってしまったが無傷の様で良かった。

「オイオイオイ……折角の良い所なンだからよォ、邪魔すンじゃねェよ、雑魚がァ……誰だ? テメェ」

「俺は……矢部くんと同じ恋恋高校野球部員の小波球太だ。覚えておけ、悪道浩平!」

「ハハァン!! 俺の名前を知っとるとは驚いたぜェ……。そう、俺が極亜久高校野球部二年の悪道浩平だ」

 ケラケラと不気味な笑い声を上げる。

 ギラリッと睨んだ眼光が小波の顔を捉えると、ザッと脚を踏み出して吠えた。

「そんな雑魚たった一人庇ったくらいでヒーロー気取りかァ? 随分と幸せな頭してるじゃねェか!! だがなァ……もう一度だけ言うぞォ小波。邪魔だァ! 退けッ!」

「へっ……友達目の前にして殴られそうになって退けって言われて退くバカはいねえだろう。それに悪道……お前は矢部くんを殴ろうとしたな。それは何故だ? 星が言うには、お前達仲がやがったんじゃねえのかよ!!」

「星? あぁ……そう言えばそんな雑魚が居たな。キャプテン気取って浮かれた哀れな大馬鹿野郎の事だろ? 随分と懐かしい名前を出してくるじゃねェか」

 悪道は不機嫌そうにギリッと歯ぎしりをして、再び小波を鋭く睨みつける。

「それに貴様ァ……俺達が仲が良かったと抜かしたか? あはははははッ! 朝から笑わせてくれるじゃねェかッ!!!」

 手を顔に当てながら、高笑いをした。

「何一つ分かちゃいねェこのバカに教えてやったらどうだよ!! 矢部・・・・・・いいや、『スピードスターの矢部』さんよォ!!」

「――ッ!」

 今の悪道の発言に、小波は耳を疑った。

 星は知らない『スピードスターの矢部』と言う矢部が自ら語っていた二つ名を悪道は知っている……。

「・・・・・・・・・・・・」

「言えねェよな? 言えるわけがねェよな? テメェが俺にレギュラーを渡してくれって、自ら顧問の前でその汚ねェ坊主頭を地面につけた上に、汚ねェ涙なんかボタボタボタボタって流して土下座してまで頼んできたんだからなァ? 守備、打撃の攻守に渡って初心者レベル風情のお前がよォ!」

「レギュラーの座を土下座して……? 矢部くん、それは本当なのかい?」

「・・・・・・・・・・・・」

 矢部は無言だった。

 悔しさで下唇を噛んでいるところからすると事実のようだ。

「だからよォ。優しい俺は快く承諾してやったぜェ。矢部の良いところ……脚の速さだけは買っていたからなァ。それで、この俺が名付けてやったんだ。『スピードスターの矢部』って言うのは走塁や盗塁の野球の事でもなく、ただ持ち前の脚の速さで俺のパシリをしてくれる矢部の事なんだぜぇ!!」

 広い空に、一つの笑いだけが響いていた。

 過去の出来事、恐らく伏せて置きたかっただろう。矢部は悔しさで涙を堪えながらも、その頬には一筋の涙が伝っていた。

「……くだらね」

「はァ?」

「——ッ!?」

 小波は一笑した。

「くだらねえよ……矢部くん。なんで自分の力でレギュラーを掴もうとしなかったんだ?」

「……試合に出てみたかったからって言う単純な理由だったからでやんす。オイラ……今まで人生で一度も野球の試合に出れなかったでやんす! だから……オイラは……不純な動機で悪道くんに頼んでしまったでやんす!」

 後悔に溢れた顔付きだった。

 野球の試合に出たいが為、レギュラーになる努力を怠ってしまったのだ。

「すまないでやんす! オイラは……オイラは!!」

「矢部くん……。自分の過ちに気付けて後悔をしてると言うのなら次こそは自分の手で掴めるだろ?」

「……」

 矢部くんは、無言で涙を拭いながら、コクリと頷いた。

「キャハハッ! 良いねェ……良いねェ! 朝から熱い友情青春物語ってかァ!! …………雑魚がやりだがる茶番だなァ!!」

「悪道……レギュラーの座なんて簡単に他人に譲るんじゃねえよ。それに、矢部くんがただパシリの為の脚の速さだと思うなよ? 矢部くんは、俺たちの『恋恋高校野球部』の『スピードスター』だって事をお前に分からせてやるッ!!」

「バカかァ!? はははははははッ!! こいつは驚いたぜェ。俺に喧嘩売ってンのかァ? それも野球でェ? ……良いねェ! その案に乗ってやろうじゃねェの! そう言えば『皐川』の野郎が気にしていたっけなァ……あかつき大附属中学の小波球太って野郎が恋恋高校で野球部を立ち上げたって話……それはテメェの事だったのかァ!! 丁度良い、この際、テメェらをぶっ潰してやるぜェ!!」

 

 

 

 

 

 そして、俺たちは極亜久高校と練習試合をする事が決まった。



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第11話 ドライブ・ドロップ

 VS極亜久高校戦!
 星と矢部の旧友・悪道浩平の実力は!?


 夜遅く、雨が降った。

 何週間ぶりの激しい雨で、きっと綺麗に満開に咲き誇っていた桜は散ってしまうのだろう、と窓の外の世界を思い浮かべながらベットの上で何度も寝返りを打っていた小波球太は、重い溜息を一つ零した。

「悪道浩平・・・・・・。極亜久高校二年の野球部か」

 小波はそのものの名前を呼んだ。

 先日、矢部と小波の元に現れた人物で、チームメイトである星の同僚の男の名前だ。

 小波は、悪道浩平と出会った後、矢部と二人で学校へと向かって部員全員を集めてミーティングを始めた。

 

『悪道浩平がいる極亜久高校と、明後日の午前十時に練習試合をする事になった』

 突如、発言される言葉に恋恋高校の野球部員は唖然と小波を見つめていた。

『明後日って、ずいぶん急だね』

 早川が問う。

『ああ、ちょっと予定外かもしれねえが決まった事だ。各自、練習に取り掛かってくれ。それと、矢部くんと星は、このまま部室に残ってくれ』

 キャプテンである小波が、星と矢部を除く八人に練習表を渡すと、潔く練習をしにグラウンドへと足を運んで行った。

 残った矢部の表情はどこか暗く、星は察している様だったが、少し引きつりながら、口に含むミント風味のガムを噛んでいた。

『星、矢部くん』

『――テメェが、俺たちを足止めしてる理由は解ってるぜ。小波、浩平の事だろォ?』

『ああ、二人には対極亜久高校・・・・・・いや、悪道浩平の攻略を教えて欲しいんだ。ポジションは矢部くんと同じセンターなのは知っている、守備、打撃等はどんな感じなのか覚えてるか?』

『小波、一つ言い忘れていたぜ』

『ん?』

『あいつは、センターだけじゃあねえ。ピッチャーも出来るんだ。いや、元はピッチャーでサブポジでセンターをやるんだ』

『サブポジ・・・・・・か、なるほど。それで投手能力的にはどうだ?』

『俺のサインは基本的に無視だ。だが、スタミナ、コントロールは文句の付け所がねェのは確かだ。特に、あいつは変わった『変化球』を投げやがる」

『変わった変化球?』

『ああ、右打者の頭を狙って放り、目の前で急激にカーブのような、ドロップのような変化で、バッターの体制を崩す球・・・・・・『ドライブ・ドロップ』だ』

『特殊変化球・・・・・・、ドライブ・ドロップ』

『ま、俺たちの居た赤とんぼ中学は有名な弱小校。アイツは野球に関心が無かったから、全然ピッチャーとしてはプレイしてねェが、打撃と守備は、かなりの腕前を持つ野郎だ』

『・・・・・・・・・・・・』

『それよりだな、矢部ェ! テメェ、いつまでもウジウジ、ウジウジと、元気出さねえつもりだァ? もう試合は明後日なんだぞ? 元気出して行けよォ!」

 黙ったままだった矢部くんが、顔を上げる。

 その顔には、今まで見なかった活気に満ちた瞳になっていた。

『オイラ・・・・・・。まだまだこれからでやんす。オイラはもう逃げないでやんす。オイラは恋恋高校野球部のスピードスターの矢部って事を悪道くんに見せつけるでやんす!』

 三人だけの部室に矢部の声が轟いた。

 どうやら矢部くんの中に、覚悟を得たようだと、ニヤリと安心した表情を見せる小波だった。

 

 ここ最近の矢部に対する不安が、静寂に包まれた自室を煽るかの様に雨が窓を打ち付ける音だったが、その音は次第に消えていった。

 もう寝付こうと、携帯電話の時間を確認し、既に午前四時を迎えていた。小波は布団を頭の上まで覆い被さり、深い眠りについた。

 

 

 そして、恋恋高校の初めての野球の試合が、河川敷グラウンドで行われる当日を迎えた。

 先日の雨で、若干グラウンドの地は泥濘んではいるものの、天気に恵まれ、それほど気になるコンディションでは無かった。

 各校が揃って、ウォーミングアップを始める中、小波はひたすらにバットを振っていた。

「よし、絶好調だ!」

 黒髪のクネっとした癖毛が四方八方に伸びている髪を帽子で深く被せながら小波は言う。

 午前十時に時計の針が差し掛かる頃、両校の選手がベンチ前で円陣を組んで、今日の試合に向けて活気の声を上げる。

「整列!」

 球審を務めるかっとばレッズリトルリーグの監督を務める高橋が声を上げて、ホームベースへと向かって駆け足で向かう。

「これより、恋恋高校対極亜久高校の練習試合を行う! 両チーム主将、先攻後攻を決めるじゃんけんをしてくれ」

 恋恋高校は小波球太。

 極亜久高校は、悪道浩平が一歩前に進んで互の目を見つめる。

「よォ、小波。戦力のほんの僅かの足しにもならねェ矢部をレギュラーで置くとは悲しみを超えて笑っちまうぜェ? それによォ? この俺に喧嘩を吹っかけた事を後悔させてやるぜェ」

 悪道浩平は、奇妙な薄ら笑みを浮かべて恋恋高校のメンバーを細くて冷たい目で眺める。

「ははっ! オイオイ、矢部だけでも足手まといだって言うのに、女も居るじゃあねェか! 恋恋高校は戦力外の奴も女も野球をやらせてあげる良心的なチームのようだなァ! 負ける気がしねェぜ!」

 ギラリと尖る歯が見えるほど、口角を吊り上げて笑う悪道に、小波以外のメンバーが怒りの表情へと変わって行った。

「テメェ、浩平! あまり、いい気になってんじゃあねえぞ!?」

「誰かと思えば、星か。フン、テメェの力量は高が知れている。雑魚が粋がって口を挟むンじゃあねェよ。この雑魚が」

「――ッ!? ふざけんなよ! テメェのその余裕な面をどん底に突き落として――」

 言葉が途絶えた。

 星の隣に居た早川が星を制して、悪道の前まで立ち寄る。

「ねぇ、キミ。ボクを見て女なんて思わないでよね! 痛い目を見るのはキミの方だよ!」

「随分、威勢の良い目をしてるじゃあねェか。いいねェ〜俺は好きだぜ? こう言うタイプはよォ。もっと強がれ女! 負けた時の悔しい顔を是非とも目の前で見せてくれよなァ」

「むっ!」

「それに喧嘩を売ってるって言うンなら、とことん買ってやるよ。痛め目を見るのはお前達の方だぜェ?」

 試合前だと言うのに、ギスギスした微妙な雰囲気。

 悪道を筆頭に他の極亜久高校の野球部員も同じ馬鹿にしているかのような笑みをしているのだ。

 すると・・・。

「辞めておけ、お前ら、それに浩平。試合前だ」

「チッ!」

 悪道の隣に立つ青年が、突然、口を挟んだ。

 身長は百七十八センチほどだろうか。

 短髪の茶色に髪。

 大きな目は一見、極普通に見えた。

 その青年が静かに小波の前に進んで手を差し伸べる。

「すまない、ウチの浩平が失礼な事をしたね。そして君が、あの小波球太くんだね。始めまして俺の名前は犀川投貴だ。よろしく」

 極亜久高校の生徒の中では珍しい部類に入る優しさを感じる青年、犀川。

 犀川が差し伸べる左手へと小波が右手を差し伸べた。

「――ッ!?」

 小波は、何かを感じたのか。目を少し見開いて犀川の事を見つめる。

「小波くん。先ほどの失礼を詫びたい。だから俺たちは後攻で良い。先攻は君達だ」

 そう言い残し、極亜久高校のレギュラー陣は守備の定位置へ、補欠は三塁のベンチの方へと戻っていた。

「・・・・・・」

 

 

 恋恋高校スターティングメンバー

 

 一番 センター 矢部

 二番 キャッチャー 星

 三番 セカンド 海野

 四番 ファースト 小波

 五番 レフト 山吹

 六番 ショート 赤坂

 七番 サード 毛利

 八番 ライト 古味刈

 九番 ピッチャー 早川

 

 

 極亜久高校スターティングメンバー

 

 一番 ピッチャー 悪道

 二番 キャッチャー 犀川

 三番 ライト 小松

 四番 セカンド 菊池

 五番 ファースト 三条

 六番 サード 守山

 七番 ショート 勅使河原

 八番 レフト 鈴木

 九番 センター 久下

 

「・・・・・・・・・」

 オーダー表をジッと眺める小波。

「小波くん、どうかしたの?」

「早川か。いや、ちょっとな・・・・・・あの犀川ってヤツの名前が気になっちまってな」

「ん? 何かあるの?」

「どこかで見たような気もするんだけど」

 どこでだろう。

 古い記憶の中を探しても見当たらなかった。

 ――犀川投貴。

 小波は、この名前は、初めて聞く名前では無かった。

「それより早川。今日の調子はどうだ?」

「うん! 絶好調だよ! でも、恋恋高校の初めての試合だから、ちょっと緊張しちゃってるんだけどね。ボクらしくない・・・・・・よね」

「らしくなんかねえよ。俺だってこう見えて、緊張してんだぜ?」

「えっ!? 小波くんも?」

「ああ、肘を壊して以来の試合だ。でも今は緊張を超えてワクワクしか沸いてこねえ。楽しんでやっていこうぜ!」

「うん!」

 小波と早川は、手と手を叩いて笑っていた。

 そして、恋恋高校野球部創設以来の初めての試合が幕を上ける。

 

 恋恋高校の一番打者は、矢部明雄だ。

 極亜久高校と練習試合をする事になったきっかけの人物でもある。

 マウンドに立ち、見下したように矢部を見つめながら、ニヤリと笑みを零す。

 暫しの沈黙。

 投球モーションへと移行する悪道、右腕から放たれたボールは、ストレートで百四十三キロをマークした。

 コースはインコース高め、突き刺さる矢のように鋭いストレートで怯んだ矢部は、手に握るバットを振れずに見送った。

「ストライクーーッ!!」

 高橋球審が声上げる。

 続く二球目、低めに投げ込まれたフォークボールをスイングして簡単にツーストライクへと追い込まれてしまった。

「行くぜェ、矢部。この俺がマウンドに上がったからには、たっぷりともてなしてやるぜェ!!」

「――ッ!?」

 ゾワッと、身の毛立つ。

 矢部は次に何を投げて来るのかは分かっていた。

 同じネクストバッターズサークルで構える星も、ベンチから試合を見ている小波にも、次のボールは分かっていた。

 そう。――ドライブ・ドロップだ。

 悪道浩平の特殊変化球が来るのは分かっていたのだが、次の瞬間、悪道はモーションに入って三球目を放り投げる。

 力一杯に力を溜めるような豪快なオーバースロー、スピードは遅いが矢部の頭を目掛けてボールは投げ込まれた。

 クイッと山なりに曲がりながら落ちていく、その落差は、アウトコースギリギリいっぱいのインローへ構えていた犀川のキャッチャーミットへと収まった。

「ストライクーーッ! バッターアウトッ!」

 驚愕した。恋恋高校のメンバー全員が、悪道の特殊変化球であるドライブ・ドロップの変化量のキレに驚きを隠せなかった。

 分かっていた。

 頭の中では次のボールは分かっていたが、いざ打席に構え、軌道を見て、信じられない結果を目の当たりにすると、打てる気力が薄れていくような気分に陥って来る。

 そう、これが悪道浩平が得意とするドライブ・ドロップなのだ。

「すまないでやんす」

 落ち込みながら、星に声をかける矢部だ。

「あん? まだ始まったばかりだぜ! 落ち込むのは早いんじゃあねェのか? この俺が浩平の野郎をギャフンと言わせて戻って来てやるぜェ!」

 聞こえるように大声を出し、星は右のバッターボックスへと向かった。

 ガッ、ガッとスパイクで土を慣らす。

 星は、土を慣らしながら考えていた。

 ――浩平のドライブ・ドロップは、中学時代より更に成長してる。今の俺に打てる球なのだろうか。

 と、ややネイティヴな気持ちになりながら打開策を考えていた。

 すると・・・・・・。

「星雄大、お前には無理なんじゃあないか?」

「何ッ!?」

 その声の主は、キャッチャーの犀川だった。

 まるで、星の考えていた事を見抜いていたかのように言葉を投げる。

「今のお前には『ドライブ・ドロップ』には擦りなどしない。だから、打てる筈はないのさ」

「——テメェ、俺の思考を!?」

「は?」

「思考を読んでるのか?」

「思考を・・・・・・読んでいる? 俺はキャッチャーさ、バッターの考えも手に取るように分からなきゃ、務まらないだろ?」

「チッ!?」

 先ほどの試合前の挨拶を交わした時の極普通の青年では無かった。その瞳は悪道と似ていて冷たさを感じる。

 やや気圧されたものの、星は悪道との勝負へと意識を変える。

 打者二人目、悪道はアウトコースへ逃げていくスライダーを放り投げる。星はバットでカットした。

「星雄大・・・・・・。貴様、焦っているな?」

「う、うるせェ! 気が散るだろうがァ!」

 二球目、三球目とボール球を見送り、カウントはワンストライク、ツーボールとなった。

 四球目はただのカーブをバットに弾き飛ばすがファールゾーンに転がり、ツーストライク、ツーボールとなった。

 そして、五球目。

 悪道がモーションに入った瞬間だ。

「そうだ、星。お前は浩平の『ドライブ・ドロップ』を狙ってるんだろ? 残念だったな」

「――ッ?」

 ボソッと犀川の小声が、聞こえた様な気がした。

「チッ! この球は『ドライブ・ドロップ』じゃねェのか!? 裏をかかれちまったァ! となると、次の球はストレートか!?」

 ストレートを待つために星はストレート一本に的を絞り込む。

 だが、ボールは矢部に投げた三球目と同じ、頭を狙っているような山なりの球だった。

「しまった! この球は――ッ!!」

「そう。この球はお前が狙っていた『ドライブ・ドロップ』さ。星雄大!!」

 バットとボールの差は約十センチ。

 空振りの三振に斬って取られてしまった。

 恋恋高校は悪道のドライブ・ドロップの餌となり、簡単にツーアウトを取られてしまう。

「テメェ! 犀川ァ!」

「おいおい、何を逆上してるだ? 三振したのはお前の方だぞ?」

「小声で何かを言っただろ! 囁いた声で!」

「・・・・・・何の事だ? それよりさっさと戻れよ、敗者のお前がいつまでもここにいるんじゃあねぇよ」

「くそッ! バカにしやがって!!」

 バットを地面に叩きつける。

 ヘルメットを取って現れた金髪の髪を掻き毟りながら、星はベンチへと引き下がっていく。

「どうしたんだ? 星のやつ」

「分からないッスけど、なんか荒れてる様に見えるッスね」

 山吹と赤坂が心配そうに、こちらへと戻ってくる星を見ながら言う。

 ドカドカとスパイクの音を立てながら、悔しそうに下唇を噛みながらベンチに腰を下ろす。

「ドライブ・ドロップ。今の俺じゃあ打てねェだと? 舐めた口を聞きやがって!」

「大丈夫? 星くん」

「早川・・・・・・。ああ、俺は大丈夫だ」

「一体、何があったんだ?」

「・・・・・・小波。犀川ってヤツは思ってる以上にヤバイやつだった。あの野郎、打つ前にボソボソと小さく囁いた声で何か言って来やがるんだ」

「囁いた声? まさか、ささやき戦術か!?」

 小波は、ここで理解した。

 ささやき戦術の使い手は、後にも先にも出会ったのは犀川しか思い浮かばなかった。

 中学全国大会の第一回戦の試合相手、おしるこ中学の犀川投貴の事だった。

 あかつき大附属も術中にハマり、苦戦を強いられた相手だったのは今でもハッキリ覚えている。

 あの野郎、何が始めましてだ。

「この試合、意外とヤバイかもしれねえな」



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第12話 反撃の狼煙

 ささやき戦術の術中にハマった星雄大。
 ――悪道浩平の牙が襲いかかる極亜久高校戦二話目!


 恋恋高校の一回表の攻撃は、悪道浩平の『ドライブ・ドロップ』に全く手が出ず、三者三振でバットに擦りもせずに終わった。

 そして、一回裏。

 極亜久高校の攻撃が始まろうとしている。

 マウンドに上がり、足場の土を均すのは、黄緑色の髪にお下げをぶら下げている早川あおいだ。

 調子は本人が言っていた通り、絶好調。

 珍しいアンダースローの投球モーションに欠かせない体重移動はスムーズであり、利き腕である右腕も綺麗に振り抜けた。

「調子は良いみたいだな、早川」

「任せてよ! さっきまで不安だったけど、あのカーブを見せられたら、ボクに火が着いたよ! だから、負けてられないよ!」

「その意気だ、頼むぜエース!」

 ニコッと笑って見せ、早川の肩を優しくファーストミットで叩いて、定位置へと戻って行く。

 投球練習が終わり、極亜久高校の攻撃が始まる。

 

「久しぶりだなァ〜星。随分落ちたモンだな。まだ矢部となんかと野球をしてきたとはよォ。しかも元女子校でな」

「ケッ! 野球をしていたってのはそりゃあ、お互い様だ。浩平、お前がまだ野球をしていたとは驚いたぜ」

「ほざきやがれ。ただ俺は、ただ犀川の野郎に付き合ってるだけで本当なら野球はしたくはないんだぜェ?」

「それなら潔く負けを認めてくれねえか?」

「キャハハはッ! 負けを認めろ? 馬鹿か? お前は、お前たちじゃあ俺たちに勝てねえよォ、このタコ!!」

 ――ギラリ!!

 浩平の目が冷気を増し、俺の瞳をジッと睨みつけた。身の毛立つような感覚を感じ、若干だが汗を掻いていた。

 チッ! 気を緩めるなよ、俺。

 一番打者はこの浩平の大馬鹿野郎だ。

 矢部の野郎と勝るとも劣らない走力を持っているし、コイツを塁に出すのは、とにかくヤベェぜ。

 ここは凡打で引っ掛けて潔くアウトを取るとするか・・・・・・。

 幸い。早川の調子は良い、指定したコースにキチンと投げ込んでくる。まずは、アウトローいっぱいにストレートを投げ込ませるとするぜ。

 早川がモーションに入る。

 体を沈めて、盛り上がったマウンドのギリギリから腕を振り抜こうとした時だ。

「初球。アウトローいっぱいのストレート」

「――ッ!? 今なんて!?」

 見送ったボールはミットへと収まる。ストライクだ。

 だが、今浩平の口から俺が指定していたコースを言ったような気がしたぞ!?

 いいや、そんな事はない。

 ただのマグレだ。

 たまたま言い当てたに過ぎない。

「な、ナイスボールだ! 早川!」

「うんっ!」

 俺は、早川にボールを返球して、二球目のサインを指示した。

 右打席に立つ浩平側に落ちていく球、早川の最も得意とするシンカーを叩き込んでやる。

 続く、二球目のモーションに入り、またも同じく体を沈めて、腕を振り抜こうとした瞬間だった。

「インコースやや高めのシンカー」

「――ッ!?」

 ——キィィィィン!!

 バットを振り抜くも、バットの先端を僅かに掠らせてファールボールとなった。

 おいおい、どうなってんだ一体。

 一度ならずニ度も・・・・・・だと?

 マグレが通用するとでも・・・・・・いや、こいつは違ぇ!

 読まれてるんだ、浩平に俺のサインが、どこにどう投げさせるのか読み取っているのか!?

 止めどない焦りが更に俺を煽り立てる。

「オイオイ、どォしたァ? 星、顔が怯えるんじゃあねェか? 怯えている・・・・・・ハハハッ! そうだろうな! 二球続けてサインをこの俺に暴かれてるんだもんな!」

「何故、俺のサインが読めたんだ?」

「なァ〜に、簡単な事だぜ? 俺はお前のリードを何回と見てきた、正直言って、俺はテメェに呆れているんだ。相変わらず強気な、いつまでも変わらねェコース攻めのテメェのリードにな、おかげで読む手間が省けるぜ」

「――くっ!?」

「ひひひ・・・・・・星。お前、今不安になってはいないだろうな? 人にバカにされるのが嫌いな性格なお前の事だ。冷静さを失ってるんだろ?」

 バカにしやがってる、そんな表情だ。

 だが図星。俺は今は焦りで前も見えねえ。いや、正確に言うと早川をどうリードして行けば勝利への最善な道を行くのかする思考を起こす気力すらねえぜ。

 それに俺は、犀川と言う優れたキャッチャーを相手に自分の力の底を見せ着けられた。ささやき戦術だとか言う奴の術中にまんまと引っかかってしまった。

「次の三球目は、そォだな〜。読めてはいるが、これは星のプライドの為に言わないでおいてやるとするか」

 三球目、浩平の言葉通り読まれた俺は左中間を破るツーベースヒットを許してしまう。

 続く犀川にも、どうやら俺のリードは読まれていた。

 初球のカーブを今度は右中間に弾き返され、タイムリーツーベースヒット。あっという間に先制点を許してしまった。球数はたったの四球で一点を取られちまった。

「早川、ドンマイ! まだ初回だ!」

 流石はキャプテンの小波だ。

 早川にフォローの言葉を掛けるのは忘れてはいねェ・・・・・・。

 だが今回は俺のミスだ。すまねえ。

 そして、次の三番打者はライトの松川か。

 悪道、犀川に続いてヒットを打たれちまってる。

 この雰囲気は非常にマズイ・・・・・・。

 どう抑えればいい・・・・・・。

 俺は思考を凝らした。

 悪道にコース攻めのリードを指摘された事を思い出して、早川にど真ん中高めへ落ちるシンカーを要求した。

 コクリと頷いた早川は、セットポジションからモーションへ入る。

 百十七キロほどのスピードのボール。

 狙い通り、指定のコースへ来る!

「もらった!!」

 快音を残し、三番打者の松川はバットを振り抜いた瞬間に言葉を漏らしたのを聞き逃さなかった。

「悪道と犀川の言う通りだぜ!」

 マスクを外し打球の行方を目で追った。打球は高々にグングンと伸びていく。河川敷グラウンドの外野の奥は川が流れている。頑丈に結ばれた網のフェンスを悠々と超えていき、ぽしゃんと水を弾く音が聞こえた。

 ツーランホームラン。一気に三点目を奪われた。

 その後、極亜久高校の猛打を浴びせられた俺たち恋恋高校は一回の裏に五点差を着けられてしまった。

 

「皆、ゴメンね・・・・・・。ボクの力不足だよ」

 声のトーンを落とし、申し訳なさそうに謝る早川が、グローブをベンチの上に置きながら言う。

 力不足、と早川は自分を嘆くが果たしてそれはそうなのだろうか?

 早川自身のピッチングは通用する。それはこの前のキャッチャーボールの時に肌で感じた。

 俺は、極亜久高校の奴等に何かがあると睨んでいる。

「よし! やられっぱなしで終われはしねえ! 気持ちを切り替えて行こうぜ!」

「・・・・・・・・・・・・」

 シーンとした空間だけが流れ込む。

 恋恋高校のベンチの誰もが落胆した顔を並べていた。

 それもそうだ。

 五点も取られたんだ。

 ショックは大きいだろう。

 でもまだ二回の表、俺は諦めないぜ。

「——早川が悪いんじゃあねえ・・・・・・」

「星くん」

「俺が悪いんだ・・・・・・全部な」

「一体、どうしたでやんすか?」

 下唇を噛み締めた星が呟き、矢部くんが隣に座り、マネージャーである七瀬が用意した冷たいタオルを手渡しで渡す。

「早川が通用しない訳じゃあねェ!! あいつらは俺のリードを読んでいたんだ! 俺の成長のしなさが招いた結果だ。我ながら笑っちまうよな・・・・・・」

「・・・・・・星」

 星の言っていた通り、やはりリードは読まれていたのか。そうじゃあないかと思ってはいたが、これ程まで徹底的にやられる形になるとは思いもしなかった。

「小波、最悪の場合だ。俺をベンチに引き下げて椎名をキャッチャーで入れても構わねえんだぜ?」

「・・・・・・」

「だって、そうだろう? 原因は俺だ! このままじゃあ、アイツらの意のままになるだけ!! オメェらにも迷惑をかけちまう!」

「本当にそう思ってるのか? 星」

「そうじゃなければ・・・・・・こんな事言うかよ」

「・・・・・・そうか」

 これ以上は何も言わなかった。

 星の瞳には薄っすらと輝くものが見えたからだ。本当に悔しいのだろう。今もずっと拳を握りしめているのだ。

 何かを言いかけた時だ。

 早川が俺に声をかけてきた。

「次のバッターは小波くんだよね? 急がないと!」

「ん・・・・・・ああ。そうだな」

 そして、四番打者の俺は、ネクストバッターズサークルの中でバットを三度、素振りをして、右のバッターボックスへと足を向けた。

 ベンチから見ていた、悪道浩平のドライブ・ドロップは今まで見たことのない程の変化量のキレを持つボールだ。俺でさえ打てるかどうかってところだろう。

 悪道を巧みなリードで操り、ささやき戦術を用いているキャッチャーの犀川投貴にも油断は一切出来ねえ・・・・・・。

「小波球太。久しいな」

 へっ、白々しい。

 始めましてと言った極普通の青年は何処に行ったんだよ

「お前、おしるこ中学の正捕手だったやつだよな?」

「ほほう、なんだ、思い出したていたのか。俺は、あの時お前たちあかつき大附属に負けたのを忘れられなくてよ? 特に小波! テメェの『三種のストレート』には随分、苦難を強いられたぜェ!」

「そりゃあ、どうも。それに、お互い様だ。俺たちもお前の『ささやき戦術』を破るのに相当の苦労したもんだ」

 トントンと、バットの先端でホームベースを軽く叩いた。

「だがな、聞いた話だとお前は『三種のストレート』の多様で肘を壊したらしいじゃあねェか! 聞いた時は嬉しかったが、恋恋高校で野球を始めたと聞いた瞬間、今度はお前を負かしてやるって思ったのよ! この五点差、お前達は取り返すことは出来ねえ!」

「・・・・・・・・・」

 俺は、黙りながら悪道浩平の方を見つめていた。そう言えば初めて悪道と会った時の別れ際に言っていたな。

 ――犀川の奴が気にしていたな・・・・・・あかつき大附属中学の小波球太って野郎が恋恋高校で野球部を立ち上げたって、お前のことだったのか。

 やれやれ、飛んだ大物が現れたもんだぜ。

 一球目の投球が始める。

 悪道の大胆なオーバースローからインコース高めにストライクボールが捻じ込まれたが、俺はバットを振らなかった。

「オイオイ? 突っ立っててもボールは前には飛んでいかねェぞ? インハイのボールにビビってんのか?」

「・・・・・・・・・」

 二球目。今度はアウトコースへ逃げていくスライダーを見送った。

「ストライク!!」

 これで、カウントはツーストライク。

 簡単に追い込まれた。

「貴様、打つ気がないのか?」

「そう見えるならそう思えば良い。ただ、俺は待ってるんだよ。悪道浩平のとっておきの『ドライブ・ドロップ』をな」

「ハハッ! 馬鹿かお前? 初見で浩平の『ドライブ・ドロップ』なんかバットに当たるどころか擦りもしねェぜ!」

「そんなの分かりゃあしねえだろ。マグレで大当たりって場合もあるぜ? でもな、俺は打ってやるよ」

「クッ! こいつ・・・・・・コケにしやがって!」

 荒っぽい舌打ちを鳴らして、犀川が唸る。

 やれやれ、どうやら犀川の奴を怒らせちまった様だな。

 これでドライブ・ドロップを投げてくれると良いんだが・・・・・・油断は出来ないぜ。

 三球目、悪道から放たれたボールは外角を大きく外しボール球だった。

 するとだ。後ろに座る犀川がイキナリ怒鳴り声上げた。

「浩平ッ!! 俺のサインを無視するんじゃあねェ!! 今のサインはインローのボール球だっただろ!」

「チッ!! 悪い悪い、今のは気が確かじゃあなかったぜ!」

 黙ったまま、マウンドの上に立つ悪道。

 どうやらバッテリー内でのサインミスがあった様だ。

「オイ、小波ィ! お前、今、俺の『ドライブ・ドロップ』を打てるとか抜かしやがったか!?」

 悪道が俺に向かって吠えた声を上げる。

「上等じゃあねェか! それならお望み通りに投げてやるよ! 俺のとっておきの『ドライブ・ドロップ』をよォ!!」

 ギリギリと歯と歯を削る音が聞こえそうと思ってしまうほど、尖った歯を剥き出しにして怒りの表情を見せていた。

 火をつけちまったらしい・・・・・・。だけど、それはこっちとしては好都合だ。

 カウント。ツーストライク、ワンボール。

 対する四球目、悪道は公言通りに、俺の頭を狙っているかのように山なりの少し緩いカーブを放り投げる。

 ――来たぞ、ドライブ・ドロップだ!

 仰け反ってしまうのは頷ける程の威圧感があるボールだ。だが、僅かに軌道は顔を逸れていく。

 俺は、バットを振った。

 当たるか当たらないかは一か八かだった。

 決して見切っていた訳ではないのに、俺の腕は動いたのだ。

 仲間をバカにされた怒りが自然と力をくれたのかもしれない。

 ――負けられなねえ!

 

 スイングのタイミングはバッチリだった。

 快音が響くと共に打球はライト方向へと流打ちで飛んでいく。

「――ッ!? 打たれた浩平のとっておきを・・・・・・こいつ!?」

「俺のドライブ・ドロップを初見で当てやがっただと!?」

 犀川と悪道が同時に驚いた。

 打球は高々と飛んで行き、フェンスの向こう側へと飛んで行く。

 小波は、悪道からソロホームランを放ち一点を返してのだった。

「嘘だろ!? マジかよ・・・・・・小波の野郎」

 星が唖然と呟き。

「やったぁ! あのドライブ・ドロップをホームランにしちゃうなんて!」

 早川が喜びの声を上げる。

「もしかすると、小波くんはオイラたちの救世主になってくれるんじゃあないかと思うでやんす」

 馬鹿にされた悪道に一矢を報いってくれた小波に対して尊敬の念を持って囁く矢部と恋恋高校のベンチから小波に向けて反撃の狼煙を上げるかのような喝采の檄が飛んだ。

 ダイヤモンドを一周し、一点目のホームベースを踏んだ時だ。悪道と犀川が小波の目の前に立っていた。

「・・・・・・なんだよ」

「ふざけんなよ!? 小波、テメェ・・・・・・俺のドライブ・ドロップを初見でホームランにしやがって!」

「お前には絶対負けやしない! 徹底的に潰してやるぞ!」

 ギロリと睨みつける。

 だが、小波はその目に微塵も怯まなかった。

「やれるもんならやってみろよ。俺たちも負けやしねえ気持ちは同じだ! 星も矢部くんもお前らが知らない所で成長してんだ!」

 恋恋高校と極亜久高校の試合はまだ二回表、波乱に満ちた試合になるのはこの後の事だった。

 そして、恋恋高校のベンチに座る星雄大に、野球人としての隠れた才能が少し、少しずつと異変が訪れていたのであった



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第13話 星雄大と矢部明雄

 一対五の四点差を追いかけろ!!
 ――対極亜久高校戦三話! 遂に決着!?


 空に燦燦と輝く太陽の光に照らされる。

 まだ四月の下旬だと言うのに、チリチリと肌を焦がすような感覚があった。

 河川敷グラウンドで行われている恋恋高校と極亜久高校の試合は二回表に、恋恋高校のキャプテンを務める小波球太の一振りで、四点差へと縮める事が出来た。

 しかし、まだ、極亜久高校のエースナンバーを背負う悪道浩平のオリジナル変化球である『ドライブ・ドロップ』を攻略出来てはいない為、この試合はまだどう転ぶかも分からなかった。

 だが・・・・・・。キャッチャーである星の采配は相手チームに読まれている為、今現在、恋恋高校がやや押され気味で有るのは確かな事だった。

「チッ! 小波球太の野郎ォ! いい気になるんじゃアねェぞ!」

「・・・・・・落ち着くんだ浩平。お前の『ドライブ・ドロップ』はいつもの好調の良いボールだった。打たれてしまったのは気にするな! それに、お前はもう打たれる事はない。気をつけるのは小波一人だけで良い!! そうだろ?」

「俺は認めてねェ・・・・・・絶対ェ認めねェぞ! あのホームランは、マグレに決まってるッ!! 気をつけるのは小波一人だけだァ? そんな事は分かってるッ!! あいつらにはもう打たせはしねェ!!!」

 マウンドで悪道と犀川は、恋恋高校のベンチに座る小波を見つめていた。

 悪道自身にとっては『ドライブ・ドロップ』は、所謂奥の手だ。

 それを受ける犀川も同様に、完璧に歯が立たない切り札だと言う事は承知していた。

 だが、この二人にとって小波に打たれた事はショックだったようだ。それも初見でと言う事が更に追い討ちをかける。

 そして、五番レフトの山吹が左打席に立ってバットを構えていた。小波にホームランを打たれた事を引きずっているのか初球は大きく外れたボール球になってしまった。

 続く二球目、三球目とコントロールミスが重なってしまい、結果、山吹はフォアボールで無死一塁となった。六番打者は新入部員の赤坂紡となり、カウントツーストライク、スリーボールからの六球目、巧くサード線へと手堅い送りバントが成功して一死二塁、得点圏へとランナーは進んだ。

 だがしかし、後続の七番の毛利、八番の古味刈の野球経験一年足らずの二人が空振りの三振に仕留められ二回表の攻撃が終わってしまった。

「俺のホームランで一点は返せたものの点差は四点も離されているからな・・・・・・。これは気を抜けねえな」

 スパイクの紐をキツく結び治しながら小波はそう呟いた。

 『ドライブ・ドロップ』の打開策を思いつければこの試合は五分五分に持っていけるのだが・・・・・・と、考えていた。

 後は、星の読まれているリードをどうやって奴らを欺くかという点では、小波が考えるより、星本人が考えなければならない問題点なのだ。

「小波くん」

「ん? どうした早川?」

 あれこれ思考を凝らしている小波に早川が隣に立って声を掛けてきた。

「星くんの事なんだけど・・・・・・。リードが読まれてるって言ってたけど、大丈夫なのかな? さっきも星くんが言っていた通り、椎名くんをキャッチャーに置いた方が良いんじゃあない?」

「いや、椎名をキャッチャーに置かない。星には悪いがこのままマスクを被り続けてもらうぜ」

「で、でも!」

「早川。お前が心配してるのは分かってる。そりゃあ皆んなも同じかもしれない。でもな、俺はあいつを信じたいんだ」

「し、信じたいって・・・・・・」

「あいつだって、このままヤられたままじゃあ終われねえって気持ちが必ずある。本当は心の底では思っている筈だ。中学時代から何も変わらなかった自分自身を変えれるチャンスが遂に来たかもしれないんだって、だから俺はあいつがチームの為に成長してくれるって信じたいんだよ」

 小波の言葉に、早川は黙ったままだった。

 早川は、不安にもなったが余りにもまっすぐな瞳で話す小波の言葉を信じようと思ったのにそこまで時間は掛からなかった。

「・・・・・・分かったよ。キミが言うなら、ボクも星くんの事を信じてボールを投げるよ」

 

 二回の裏、極亜久高校の攻撃が始まった。

 二巡目のバッターボックスに立ったのは、一番打者の悪道浩平だ。先ほどの打席では左中間を破ったツーベースヒットを打っている。

「よォ、まだマスクを被ってそこに座ってるのか? 星よ。さっき小波に俺の『ドライブ・ドロップ』をホームランにされたのは腹が立ったが、更に点差をつき離させて貰うとするぜ?」

「・・・・・・・・・・・・」

 黙ったまま、悪道の言葉をまるで右から左へと聞き流していて、ただ定位置に座っているだけの星だった。その目はどこか遠くを見ているように雲っていた。

「星くん!! 後ろ!!」

 すると、一瞬。鈍い金属音が聞こえてくると共に、マウンドに立っていた早川が大声あげて星の名前を呼び挙げる。

「――ッ!?」

 早川の声が聞こえてハッと我に返える。

 すると一球目、インコースの真ん中へ投げ込まれたカーブを悪道はバットに当てたが打ち損じしてしまったのだ。ボールはキャッチャー定位置から、約五メートルから七メートルの間の後方へ高々と打ち上がっている。

 だが、反応が遅れてしまったのかボールはもうすぐ落下地点へ着きそうになった。

「チッ!! 間に合わねェ!? クソッ!! 俺が・・・・・・俺が試合に集中していない所為で!!」

「オイオイ、潔く諦めな。テメェなんぞに、そりゃあ間に合わないやしねェよ」

 悪道が意地悪そうに呟く。

 ムカつく言葉だが、その言葉など聞きもせずして、星はキャッチャーマスクを投げ着けてボールを追う。

 『どうしたって間に合わない』

 星自身もそれはわかっていた。

 一歩、一歩ボールへと近づいていく度に自分の弱さ、自分の愚かさ、自分の無力さを痛感していた。

 少しずつ走るスピードは遅くなって行く。

 自分自身の絶望に、星の活力はすっかり底を尽きてしまったのだろう。今にも泣きそうな顔を必死に隠し通している、内心、諦めた顔をしていた。

「勝手に諦めてんじゃねえよ!!! 星ッ!!」

 目の前を全速力で駆け抜けるファーストの小波の姿があった。

「――ッ!? 小波!?」

「チッ!! また、テメェかァ!! 小波球太ッ!! しかもファーストからここまで来ただと!? だが無駄だ!!」

 頭から飛び込むダイビングキャッチで、見事左手にはめてあるファーストミットを伸ばして落球を掴もうとしていた。

 泥濘む土の上、ビシャァっと音を立てて滑って行った。判定はどうだ?

「アウトッ!!」

 球審の高橋が近寄って、手を上げて声を上げた。小波はキャッチャーフライを取ったのだ。

 慌てながら星が駆け寄る。

 はぁ、はぁ・・・・・・と、肩で息をして疲れた表情を見せる小波。

「こ、小波!? 大丈夫か!?」

「へへっ。ファーストからここまでって意外と追いつく・・・・・・モンなんだな。ふぅー、やれやれ。間に合って良かったぜ」

「馬鹿な事を抜かしやがって! 無茶するんじゃあねェよ!!」

 ユニフォームに着いた土を払い落としながら小波は言う。自然と星の視線は俯いていて、目線を合わせようとはしなかった。

「小波、すまねえ・・・・・・。俺がシッカリしてなかった所為でこんな・・・・・・」

「なんだ? 謝るなんていつもの星らしくねえじゃねえか。それにまだ試合は終わってないんだぜ?」

「どうしてだ? お前は、責めねェのか? 俺を・・・・・・」

「はぁ? 責める? 一体、お前に何を責めるんだ? それに野球は一人でやるもんなのかよ」

「・・・・・・」

「一人じゃあ、野球は出来ねえんだ。お前一人で野球やってると思うなよ! 困ったら助け合いだ。その為のチームだろ? しっかり頼むぜ、星! お前には『モテモテライフ』を楽しみたいって目標があるんだろ? ここで挫けちゃあダメだろ?」

「小波・・・・・・ああ、そうだな。その通りだ」

「解れば良いぜ」

 ポンと背中を押し、小波はキャッチしたボールを早川に投げ、定位置まで駆け足で戻っていく。立ち止まったままの星は、空を見上げながら大きな声を出して叫んだ。

「うおおおおおおーーーッ!!」

 ピタッと河川敷グラウンドに居る者の視線を釘付けにし、ピリピリと伝わってくる程、その声の張りには威圧感が漂っていた。

 暫しの沈黙の後、シーンと静まり返ったグラウンドで星は、一息ついて顔を真っ直ぐに向けた。

「へへ、良い面構えじゃあねえか」

 小波が思わず口に出してしまう程、先ほどの曇った顔はそこにはなかった。逆に晴れ晴れとした面構えは、恋恋高校チーム全員に今まで持てなかった安心感を抱かせた。

 ゆっくりと歩いて定位置に戻る。

 投げつけたマスクを再び手に持ち、一歩踏み出して、星はまた大きな声を上げた。

「おっしゃーー!! テメェら!! 気合い入れて行くぞぉ!!」

 その声と共に、恋恋高校のメンバー達も負けない程の声を返した。

 さぁ、ここからが恋恋高校の反撃の開始だ!

 

 星の調子を取り戻し、早川との連携を更に強めて行った。後続の二番、三番をサードゴロとレフトフライに打ち取り二回裏は無失点で切り抜く事が出来た。

 しかし、悪道浩平のドライブ・ドロップの前には全く歯が立たずに試合は進んでいく。唯一打った小波の二打席目は初球のストレートをセンター前に弾きかえすクリーンヒット以外は全て凡打と三振に打ち取られてしまう。

 そして、試合は刻々と進んでいく。

 九回の表、一対五の四点差。極亜久高校との練習試合は最終回を迎えていた。

 最初に打席に立つのは四打順目を迎える三番の海野だ。

 ツーストライク、スリーボールのカウント。六球目のスライダーを海野がライト線を破るツーベースヒットを放った。

「チッ!! 浩平のストレートにキレとノビが減少して来てる・・・・・・。ドライブ・ドロップのスタミナの消費が激しいせいか」

 キャッチャーの犀川が思わず吐く言葉、これは悪道にはほぼスタミナは残っていない証拠だった。コントロールはもちろん、ドライブ・ドロップ、スライダー、シュート等の変化球にも同じことが言えた。

「浩平! 最終回、あと三人だ! それに四点差もある!」

「・・・・・・解ってる! だが、次のヤロォには俺は、手抜きなんかするつもりはねえぞ!」

 悪道が強いトーンで言う。

 海野の次は唯一ホームランとヒットを記録している四番打者の小波がネクストバッターズサークルから腰を上げて、バッターボックスへと向かって来ているのだから・・・・・・。

 そして、小波対悪道、犀川バッテリーの四度目の対決が訪れた。

 悪道は初球。いきなりドライブ・ドロップを投げ込んだ。その変化は今までま以上のキレを凌駕していた。

 小波に負けたくないと言う信念が、悪道浩平自身の限界を突破しようとしているのだ。

 続く二球目、再びドライブ・ドロップを投げ込んだ。頭に向かって投げたボールは間近付近で軌道を変えてインハイギリギリのストライクコースへと突き刺さる。

「ストライクーッ!!」

 小波は思わず生唾を飲み込んだ。

 ここに来て、このボールを投げるとは・・・・・・悪道浩平と言う人物は、中々手強い相手であることを再認識した。

 そして、三球目。

 悪道の右腕からしなるムチのように振り抜かれたボールは、真ん中のややインコースよりに投げ込まれる、またしてもドライブ・ドロップだった。

 着球地点は、アウトロー。

「悪道浩平・・・・・・。お前はすげえよ。ここで衰えたドライブ・ドロップを絶好調の様に鋭い球を放るなんてさ。でも悪いが低めは俺にとっちゃあ絶好球なんだぜ!」

 小波はバットを振りに行った。

 快音を轟かせ、打球は素早くレフト線を破って行く。

「よっしゃ! 海野はこれで生還だ!」

 ベンチから身を乗り出して、星が言う。二塁ランナーの海野は三塁コーチャーの御影の指示でホームへと向かい、恋恋高校は待望の二点目を取り返した。

「小波くん! ナイスバッティングだよ!」

 早川が喜びの声を上げる。

 小波のタイムリーツーベースヒットでスコアは二対五として、点差は三点まで縮めた。

 これで調子を崩してしまった悪道は、五番打者の山吹、六番の赤坂にそれぞれタイムリーヒットを打たれ二点を追加で取り返す。

 四対五。点差は一点まで追い詰めた。

 未だにノーアウト、ランナーは二塁とチャンスの場面だが、七番、八番を三振に打ち取り、九番の早川あおいの打席を迎えるのだが、ここは敬遠で一塁を埋めたところで、一番打者の矢部を迎い入れた。

「タイム!」

 星が矢部が打席に入る前にタイムを告げた。

 何事かと矢部は首を傾げるが、表情はどこか怯えている様に自信なさげだった。

「どうしたでやんすか? 星くん」

「矢部、ここで浩平のヤロォが、ピッチャーの早川をわざわざ敬遠で一塁へ歩かせた理由は馬鹿なお前でももちろん知ってるな?」

「オイラを仕留める為でやんすよね?」

「ああ、あいつはお前を・・・・・・って、お前はヤケに冷静じゃあないか?」

「冷静・・・・・・だったらどれだけ良いことか。本音を言うと強いでやんす。でも、悪道くんとこうして試合をしているのは、オイラの所為で招いた事でやんす。オイラはここで悪道くんを超えなくちゃあならないでやんす!」

「矢部・・・・・・」

「オイラは、弱いでやんす。野球なんて下手くそでやんす。ただのオタクでやんすよ。・・・・・・でも、負けたくないでやんす! 勝ちたいでやんす! オイラ、この恋恋高校のみんなで勝って笑いたいんでやんす! 小波くんが言ってくれた様にオイラは恋恋高校のスピードスターの矢部になりたいんでやんす!!」

 そこには、キラッと輝く一筋の涙があった。

「矢部・・・・・・。弱いのは俺も同じだ。俺も成長してなかった。だからよ、あの浩平のタコヤロォをぶっ飛ばして、前に進もうぜ。強くなろうぜ! 俺たち・・・・・・強くなろうぜ! なぁ、矢部!」

「もちのろんでやんす!!」

 涙をアンダーシャツで拭い、ヘルメットを深く被り、矢部はバッターボックスへと向かって再び歩き出した。

「最終回・・・・・・ツーアウト。ランナー一塁、二塁のチャンスの場面で矢部か。小波にはムカつく結果で終わっちまうが、お前を抑えて清々しい終焉を迎えようじゃあないか! 矢部ェ!」

「悪道くん・・・・・・。オイラは、君から打って恋恋高校の勝利を収めてやるでやんす! いつまでも昔のオイラだと勘違いしないでほしいでやんす! 打ってやるでやんすよ! ドライブ・ドロップを!!」

「・・・・・・」

 両者の睨み合い。その睨み合いは長いようで短かった。

 悪道が振りかぶり百四十キロのストレートをど真ん中に投げ込んだのだ。

「――ッ!?」

「なぁに、驚いてんだ? へっ、無理もねえよな? 所詮矢部の実力は高が知れてるいるんだぜ!」

 二球目、インハイのストレートを、タイミングを見失ってしまい、ボールがミットへと収まった瞬間にスイングをし、空振りしてあっという間にツーストライクへと追い込まれてしまった。

「これで、終わりだ。矢部・・・・・・いや、恋恋高校! お前たちみたいな同好会レベルにこの俺が負けるハズはねえんだ! 行くぞ! 最後のドライブ・ドロップだぁ!!」

 三球目、矢部の顔へと投げ込まれた山なりのボール、悪道の言葉通りドライブ・ドロップだった。だが・・・・・・そのドライブ・ドロップは様子が可笑しかった。

 簡単に言えば、悪道のスタミナの消費が底をついてしまったのだ。変化量は少なく、キレもノビもない棒球だったのだ。

「しまった!! 小波相手に全力を尽くしてしまったのか!? くっ・・・・・・浩平にはもうドライブ・ドロップを投げるまでのスタミナがもう無かった!!」

「――ふ、ふ、ふざけんなよぉ!! テメェら如きに、この俺が・・・・・・この俺の・・・・・・ドライブ・ドロップをこれ以上打たれてたまるかって言うんだよ!!」

 ボールはインローへ、タイミングを合わせてバットを振り抜く矢部。

 打球は巧く、流し打ち、ライト線を綺麗に破る長打となった。

「よっしゃ! これで・・・・・・早川が返ってくれば逆転じゃあねえか! 行けェ!!」

 打球は、フェンスまで到達。

 極亜久高校のライトの小松がここでファンブルをしてしまい、ボールを落としてしまったのだ。

 二塁ランナーの赤坂が生還して、遂に同点まで追い上げる。

 一塁ランナーの早川は、三塁ベースを蹴り上げたところで、矢部は既に二塁ベースを蹴り上げていた。

「は、早過ぎるよ! 矢部くんってば!」

 早川がホームベースを踏み、一点勝ち越ししたところで、ボールはセカンドへ渡り、矢部はホームへと脚を走らせていた。

「ランニング・・・・・・ホームラン・・・・・・だと?」

 悪道は唇を噛んだ。血が吹き出る程、強く。

「チッ!! 舐めやがって・・・・・・退け!! 投貴!!」

「――浩平!?」

 犀川を突き飛ばし、ホームの真上に立つ悪道。

 その瞳は、既に狂気に満ち溢れていた。

「この俺が矢部を刺すッ!! こんな・・・・・・雑魚の集まりの即席チームに! 矢部みたいな底辺のカスなんかに・・・・・・この俺が負けるはずがねェンだよォォォォ!! 菊地ィィィィ!! ボールを早く投げろ!! 早く投げろ!!」

 悪道が吠える。

 慌てるようにセカンドの菊地がホームへと返球をする。すぐそこまで矢部は迫っていた。既に滑り込む体制に入っていた。

「矢部ェ!! テメェをホームベース前でタッチアウトにしてやるぜ!!」

 グローブで捕球をし、地面に向けてグローブを下げる悪道だった。

「これでアウトだぁ!! 矢部ェ!」

「いいや・・・・・・悪道くん。悪いでやんすが、セーフでやんすよ」

「な・・・・・・んだと!?」

 コツッとスパイクに当たった一つの感触。

 パッと視線を向けると、そこにはボールが転がっていたのだった。

「オイラをタッチアウトしたいが為に、焦って落球していたでやんすよ・・・・・・。オイラのランニングホームラン成立でやんす」

「テメェ・・・・・・」

「もう、オイラは昔のようなパシリのスピードスターの矢部なんかじゃあないでやんす! オイラは・・・・・・オイラは恋恋高校のスピードスターの矢部でやんす!」

 矢部のランニングホームランで六対五となつって、気を落とした悪道の乱調でさらに追加点を上げた恋恋高校は九対五で、見事極亜久高校との戦いに勝って、創設初の白星を見事上げたのだった。



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第14話 目良浩輔

 極亜久高校との練習試合を見事勝利で終え初勝利を収めた次の日、恋恋高校の野球グラウンドには数人の人影が見えた。

 今日は日曜日という事もあり、学校に居るのは野球部の顧問である加藤理香と星雄大、矢部明雄、早川あおい、七瀬はるか、山吹と毛利の七人の姿だけだった。

 練習試合があった為、本来なら今日は休みにしようと小波球太は思っていたのだが、星達が練習がしたいと言う意見を汲み取って練習をする事を許した。

 日曜日くらい休めばいい、と加藤は頑なに首を横に振っていたのだが、折れたのか練習を許可して貰った。

 しかし、練習開始と共に加藤は「陽射しを浴びたくないから、練習が終わったら声を掛けて頂戴」と言葉を残したまま保健室へと涼みに行ってしまった。そんな事を他所に、野球部員達は活気に満ち溢れた声を出して正午のグラウンドに響き渡った。

 昨日の試合の後、各自の不得意な部分が改めて実感したのだろう。

 皆が、やる気に満ちた顔つきで練習に励んでいた。

 しかし、元から人数が少ない為、練習は限られているが、そこから最小限の効率の良い練習を行い、十四時を過ぎた頃、ようやくひと段落つく事にした。

「浩平達には勝てたは良いけどよォ。何だかよ……、不思議といまひとつ勝ったって言う気がしねェぜ」

 溜息を一つ零して、星が言う。

「そうでやんすよね……。実際、小波くんが居なかったらオイラ達は完全に負けていた試合だったでやんす」

 マネージャーの七瀬が、氷水で冷やしたタオルを絞り、全員に渡し、それを受け取った矢部は礼を言いながら、ボソッと呟いた。

 矢部の言う通り、昨日の試合、九対五で勝利を収めたものの、小波はホームランを放っていたし、チームの流れを変えるファインプレーも魅せていたからだ。

「こうしちゃいられねェよな……。浩平の野郎は、きっと、必ず、今以上に成長してくるはずだ!! なんせ格下と罵って見下してた俺たちに負けちまったんだからな。アイツの性格上、さらなる成長を遂げて立ちはだかってくるはずだぜ!!」

「それは同感でやんす!! しかも、オイラたちと極亜久高校とは同じブロックでやんすもんね。一回戦で当たらないと言う保証はないでやんす!! いつでも当たっても良い様にオイラ達も今以上に頑張るでやんす!!」

「おっ? なんだなんだ? 矢部ェ!!ㅤ今日はやけにテメェと気が合うじゃねェの!?」

「星くん。何を言ってるでやんすか? オイラ達は共に『モテモテライフ』をエンジョイすると決めた同士でやんすよ!」

「ああ!! そうだったな!!」

「今度、悪道くんと戦う時が来たら!」

「その時は、俺たちでアイツを負かそう!!」

 二人はギュッと拳を握る。

 悔しさを痛感したまま、これからの練習に対して、必死に努力を重ねようと心に決めているのだ。

「……」

「どうかしたの……? あおい」

 すると、マネージャーを務める七瀬はるかが早川あおいに近寄って心配そうな声をかける。

 今日の練習中。始まってから今まで気が沈んで元気の無い様子だった早川事を気になってしまったのだろう。

「あ、うん。練習試合とは言え、チームが勝ったんだから本来は喜ぶべき事なんだろうけど。でも、ボクはまだまだみたいだよ。はるか……なんか気にさせちゃったみたいでゴメンね」

「……何かあったの?」

「ちょっとね……。やっぱりボクってピッチャーとしてまだまだ実力不足なんだなって昨日の試合で改めて痛感したよ。悪道くんって凄く人としては嫌な人だったけど、同じピッチャーとしてはかなり相当な実力の持ち主だって事が解ったんだ。自分だけの『オリジナルの変化球』を投げるなんて並大抵の努力じゃ出来ないもんね」

「そうでやんすよね……。悪道くんは中学時代からカーブが一番の得意球だったでやんす。それを磨きに磨いた結果。『ドライブ・ドロップ』と言う決め球に昇華させたでやんす」

「そう言えばそうだったな。ま、一時期だけって言う短い期間ではあったけど、浩平の野郎、あの時は相当の量の練習を打ち込んでたな」

「そうだよね……。よし、決めたよ!!」

「決めた? 一体、何をだよ?」

「ボクも悪道くんみたいに、ボクの得意球である『シンカー』を今よりもっともっと磨いて誰にも打たれない凄い球にしてみせる!!」

 早川は、右手に握っていたボールを強く握りしめた。ピッチャーとして、自分の決め球を見出したいと言う、成長への高みを目指そうとしている強い目をしていた。

「早川も『オリジナル変化球』を投げる様にするのか・・・・・・。こりゃ、俺たちもウカウカしてられねェな。なァ、矢部!!」

「そうでやんすね!!」

 少し落ち込んでいた四人の雰囲気が柔らいだ。

「ところで、あおい。変化球の名前は決めてあるの?」

「な、名前?」

「悪道さんのように『ドライブ・ドロップ』みたいな、名所」

「……と、特に決めてないかな? それにまだ完成した訳でも無いんだし、少し気が早いって感じしない? いつか納得行く球が完成した時に改めて名前をつけるよ」

「それじゃ、この俺が直々に早川の新しい変化球の名前ってヤツを決めてやるッ!!」

「いや、別にいいよ……」

「良いからお前は黙って聞いとけって!! 早川らしさもちょいとばかり含めてェからな。……だからよォ、こう言う名前で良いんじゃねェか! 『鉄拳制裁暴力――うげっ!」

 ドゴォッ!!

 と、鈍い叩く音が聞こえると。

 ドタン!!

 と、続いて倒れる音が聞こえるのに一秒の間も無かった。

「ひぃぃぃぃぃぃーーーッ!! ほ、星くんが殴られたでやんす!!」

「当たり前でしょ!! 何がボクらしさを含めたいだよ!! 失礼にも程があるよッ!! それが何よ!! 『鉄拳制裁暴力』って!! それじゃまるでボクがただの暴力女みたいに聞こえるじゃないか!!」

 早川の右ストレートが星の頬を直撃し、振り抜かれ、星はベンチから腰を落として、そのままピクピクと痙攣してしまった。

 矢部は血の気を引いた顔で、地面に蹲って気を失っている星を見ながら、早川に聞こえない程度な声量でこう呟いた。

「いや……言えてる事だとは思うでやんす……」

 

 

 

 その頃の小波は、デパート街と呼ばれる繁華街に来ていた。

 日曜日のお昼過ぎの街は、休日を満喫する人でいっぱいだった。

 街並みの中、人混みを避けて這うように歩く、その表情はいつも以上に気怠さを隠しきれていなかった。

 数百メートル歩いた所で、ピタッとその脚は止まった。

 少し顔を上げて見上げると、そこには「ミゾットスポーツ・頑張支店」と大きな看板が聳え立っていた。

 ミゾットスポーツとは、全国規模で展開されているスポーツ用品メーカーであり、品揃えは最早業界一とまで評される程の会社なのだ。

 小波は、中へ入っていく。

 そこの一階はちょうど野球道具がフロア一杯に埋め尽くされているコーナーと成っているが、日曜日の休日なのにも関わらず人は小波と数名のスタッフがいるだけだった。

「いらっしゃいませ!!」

 店員と思われる人物が、自動ドアが開いた所で丁寧に駆け寄って挨拶を交わしてくれた。

 見たところ年齢は…・・・三十代後半辺りだろう。

 それでも若々しく見える。

 真っ赤に染まった赤い髪、薄灰色の大きな瞳が妙に印象的であり、スーツの胸ポケットに掛けてある名札には『明日(あす)』と印刷の文字が表示されていた。

 小波球太は、その『明日』と言う名前を見るなり、どこかで聞き覚えのある様な名前だなと頭を巡らしたが、殆ど野球の事に費やしている為、中々出てこなくどうやら忘れてしまった様だった。

「何かお探しですか?」

「右投げ用の『ピッチャー用のグローブ』を探してるんですけど。良いのありますか?」

「右投げ用のピッチャーグローブですね。かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

 丁寧に深くお辞儀をし、明日という店員がバックヤードへ向かって行ったのを確認し小波球太はゆっくりと店内を見回した。

「流石、業界一と言われるだけある『ミゾットスポーツ』だよな。こんなに野球道具があると、ついつい余計な物まで欲しくなっちまうぜ」

 小波は財布の中身を確認してみるものの、月の小遣いも人並み程度しか貰えず、バイトも出来ない状態の学生の懐事情は虚しさを増すばかりなのでため息だけ零して財布をポケットの中にしまった。

 店内を見渡している内に辿り着いたのは、スパイクのコーナーだった。

 最新モデルからプロ野球選手モデルのタイプまで選り取り見取りだ。

 思わず小波も最新モデルのスパイクに興味を惹かれ手に取る。

 すると。

「いや〜!!ㅤお目が高い〜!! ここの品揃えは、全国有数の品数が種類豊富、選り取り見取り、なお店なんですよ〜。是非とも如何ですか〜? お客様〜?」

「――ッ!?」

 急に聞こえた声。

 のんびりした雰囲気と底抜けに明るい声だった。

 店内には数名のスタッフしかいなかった。そのスタッフ達はこのスパイクのコーナーには誰も居ないと思っていた小波球太は流石に驚く。

 バッと振り返ると、そこには先ほどの同じ店員と同じ赤い髪をしていて、空を写しているような綺麗な青い色の瞳を浮かべていた女の子が立っていた。

 見たところ店員とは思えない程に若く。

 見る所、中学生ぐらいだろうか。

 ニコッと笑みを浮かべて覗かせる八重歯がとても印象深かった。

「えっと……、君は?」

「私は西満涙中学の明日未来(あすみらい)で〜す!! 部活は軟式野球部に所属してるんですよ〜!! なんと、ポジションはサードです〜!!」

 右目の前にピースサインを当て、舌をペロリと出しながら『明日未来』と言う名前の女子中学生が答えた。

 何かと幼稚らしさが抜けきれなていないのが中学生らしい。

 そして、ハイテンションな妙に変わった子だった。

 明日未来。

 ふと、小波の頭の中にピシッと、何かが降ってきた。

 目の前の女子中学生の名前には聞き覚えがあった。

 そう。以前、六道聖に中学の入学祝いを渡した時に……。

「明日未来……? あっ、君か!! 聖の言っていた子って!!」

 小波はようやく思い出したらしい。

「聖? えっと、もしかして『ひじりん(・・・・)』の事かな〜?」

「ひ……、ひじりん?」

 と、明日未来が普段のあの『六道聖』のキャラクター像からは絶対的に想像出来ない『ひじりん』と言うあだ名で読んだ為、小波球太は思わず吹き出し笑いをしてしまう所だった。

「そうなんです〜!! ひじりんと私は無二の親友なんですよ〜!! いや〜まさかひじりんと知り合いの方なんですね〜!! それとも……貴方が小波球太さんだったりしますか〜?」

「そ、そうだけど……。君は俺の名前を知ってるんだね」

「やっぱり!! 小波球太さんなんですね〜!! 部活中に毎日ひじりんが貴方の事を話題に出すんですよ〜」

「へぇ、話題にね」

 一体、聖のヤツ。本人が居ないところで何を言っているのだか。

「例えば『球太は、野球は好きだけど物事に関して興味がなさすぎる』とか『球太は、いつも寝てばかりでだらしがない』だとか、その他諸々なんですけどね〜。小波さんの話題はいつも欠かさず聞かせて貰ってるんですよ〜」

「あははは……そりゃどうも」

 余計な話題ばかりだった。

 まったく、聖のヤツ。後で覚えとけよッ!!

 と、小波はボソッと呟いた。

 頭を掻いて苦笑いを浮かべると目の前にいた明日未来はその場から姿を消していた。

「ねぇねぇ!! 光〜! この人が『ひじりん』が言ってた小波球太さん本人だって〜!」

 と、再び明日未来の声が聞こえた。

 それも遠くの方からだ。

 棚の奥からスッと姿を現すと、もう一人。誰かを連れてきた様子だった。

 お客様の連れ添いの方が待っているであろう、パイプ椅子が置き並ぶ休憩所から明日未来に手を引かれてもう一人の男の子が現れた。

 同じ赤い髪。

 同じ背丈。

 まるで明日未来をそのまま生き写ししたかの様に瓜二つだった。

「——ッ!?」

 まさか、ドッペルゲンガー!?

 いいや、そんな訳が無い。

 ただ違うのは、その男の子の髪の長さが明日未来よひ短い事と、瞳の色が先ほどの店員と同じ『薄灰色』だという事と明日未来にはあった特徴的な八重歯が生えていないと言う違いだった。

「小波さん〜。それでは紹介します〜!! 私の兄の明日光(あすひかり)で〜す!」

「……」

 光と呼ばれた男の子は、黙ったままコクリと会釈し目を背けたまま一向に小波の方を見ようとはしなかった。

 先ほどまで本を読んでいたのだろう。

 腕の間には、分厚い文庫本を持っていた。

 先日、聖が言っていた様に『明日光』とは愛読家の様だ。

「……」

「もう〜!! 光ってば〜!! 名乗んなきゃ小波さんが光の事をなんて呼べば良いか困っちゃうじゃない!!」

「いや、大丈夫! 君が言ってくれたから、二回も言ってくれたから」

 聖が言っていた様に個性が強い、と言うよりも随分不思議な子だ、と思いながら小波が苦笑いしながら言う。

 それにしても明日光。名前とは裏腹に暗いどんよりしたオーラが滲み出てると言うのは、流石に初対面からして大きなお世話なのかもしれない、な。と小波は思った。

 

「ぎゃあああああああああぁぁぁぁああああああああああーーッ!!!!」

 

 

 すると、二階のフロアへと続く階段から大きな声が聞こえて来た。痛烈な悲鳴と呻き声に似た、まるで断末魔の様な叫び声だった。

「——痛ッ!! 痛ェよ!! 痛ェから耳を引っ張るなって!! なぁ、頼むから離してくれよッ!! 千波!! 俺が悪かったって!!」

「そりゃ当然!! どう考えても悪いのは浩輔くんでしょ!? 皆んなで、修学旅行の水着決めに来てるって言うのに、着替えの途中で試着室の中に堂々と入って来たバカはどこのどいつよ!!」 

「決して見てねェから!! 二つの大きな塊が上下左右にたぷんと揺れてた事以外は見てねェから!! 頼むから許してくれよ!!」

「——ッ!! や、やっぱり見たんじゃないの!! サイテー!! バカ!! 変態ッ!!」

「やれやれ……。浩輔の奴には毎度の事ながら頭を悩ませるな。全く懲りない奴だよ、本当に」

「そうですね。でも、それに付き合う姉さんも姉さんですけど、彰正先輩も先輩ですよ……」

 降りてきてたのは、小波球太の幼馴染であり、現在きらめき高校に通う高柳春海と春海の一つ上の姉である高柳千波。きらめき高校野球部員の目良浩輔と館野彰正の四人だった。

「……春海? おい、春海!」

「き、球太!?」

「あッ!! 球太くんー!!」

 駆け足で寄ってくる春海。

 そして、その後を嬉しそうな表情で千波も駆け足で向かってくる。

「やぁ、珍しいもんだね。球太とこんな所で会うなんて」

「まあな。今日の部活はオフだしな。せっかくの休みだからそろそろグローブでも新しく買い換えようかな、と思って買いに来たんだ。春海達は……海かプールにでも行くつもりなのか?」

「いいや。姉さんと先輩達は来週から沖縄に修学旅行に行くんだよ。姉さんってば妙に張り切っちゃってね。ここの四階にある水着コーナーでかれこれもう二時間程品定めに付き合わされちゃってさ。参ってた所で丁度さっき決め終わった所だったんだよ」

「こらこら、春海ッ!! 球太くんの前でそんな変な事は言わないでよ!! あ、そうだ!! 沖縄に行ったら友達と水着で写真撮る約束してるから球太くんにもメールで送るね!! 勿論、写真付きで!!」

「あ……ありがとうございます」

 再度、苦笑いをする。

 今日の小波はやたら苦笑いをするなと思いながら視線を後ろの二人に目を向けていた。

 今年の三月に行われた春季大会。

 七十年という歴史の中で、初のベスト四に上り詰めたきらめき高校を支える主軸である目良浩輔。

 そして、繊細な采配で勝利へと導いた司令塔の館野彰正に、小波は少なからず興味を示していたのだ。

「春海……。お前の隣に居る癖毛頭の奴って……まさか?」

 館野が小波を認識すると、少し顔色を変えて尋ねようとしてきた時だ。

「おい、彰正……。気付いたか、流石のお前も……」

「あぁ、浩輔」

「さっき会った赤毛の中坊をよく見てみろッ!? 何故だか知らねェけど、いつの間にか二人に増えてるぞッ!? しかも今度は男になってるぞ!!」

「ああ、そうだ。——って、そこか!? いや、違うだろ!!」 

「ちょっと、浩輔くん!? ふざけないでッ!!」

「っと、そうだった。よぉ、お前が小波球太か? あかつき大附属中学で最速『百四十キロ』のストレートを投げたって言うピッチャーっていうのは」

 目良が、一歩前に踏み出して言う。

 茶色の髪、威圧感のある雰囲気に飲み込まれそうになった。不思議とゴクリと生唾を飲み込みそうになる。

「春海から話は聞いてるとは思うが、俺がきらめき高校三年の目良浩輔だ。小波、俺はお前が気になってるんだぜ? 夏の大会では戦える事を期待してる」

「それは奇遇ですね。実は俺も目良さんと館野さんを気にはなっていた所なんですよ……もちろん試合する事になったら負ける気はさらさらありませんけどね」

「へへっ、随分と威勢の良いヤツじゃねェの!! 小波球太……、ますます気に入ったぜ!! 今年の夏、その時が来るのを俺たちは楽しみにしてるぜ。それじゃあな。せいぜい頑張れよな、若造」

 ポンと小波の肩に手を置いて目良は不敵な笑みを浮かべていた。打席に立てば負けないぞと言う強い瞳に、小波も同じ笑みを浮かべて返した。そして館野も続いて声をかける。

「お前達と大会で当たる事を強く祈っているよ。俺も浩輔もお前の事を買ってるんだ。勿論、春海もな。それと……身内を褒めるのは余り好きじゃない方なんだが……実際の所、浩輔は地区希の強打者だぞ」

 そして、次は春海が立っていた。

「春海。お前のチームは随分と頼もしい先輩達に恵まれてんじゃねえか。これは、早くも宣戦布告ってやつか?」

「そうだな。あの人達が居るから俺も足を引っ張らまいと努力を続ける事が出来てるよ。それにあの人達が居るから、俺はあの人達の最後の夏を甲子園へと連れて行きたいと本気で思っている。例え、その道に球太、お前が立ちはだかる事になったとして、俺たちは油断の一つもしない事を約束するよ」

「ああ、上等だ。俺たちも受けて立つぜ!!」

「お前の事だ、心配は無用だよな?」

 ニヤリと二人は笑みを交わしていた。

 すると、春海はピタッと脚を止めた。

「あっ……、そうだ。球太に言おうとした事があったんだ」

「言おうとした事? なんだよ、それは」

「球太に会ったら言おうとしてた事はだな……。球太、この地区の山の宮高校に警戒した方が良いぞ」

「山の宮?」

「ああ……。その山の宮には、お前が過去何度も戦った事があり、嫌と言う程知ってる『関東地方一』の強さを誇る名門の西強中学に居た『太郎丸龍聖』と『名島一誠』のバッテリーがいるぞ」

「何ッ!? アイツらが!?」

「どうやら、この頑張地区には猪狩守と球太だけが甲子園を目指す強大な壁じゃないらしい。球太や猪狩、太郎丸と名島バッテリーも居るなんて、こっちだって嫌でも燃えてくるよ」

「そうか」

 それじゃあ、と別れの言葉を交わし、きらめき高校の四人は店から出て行った。

 そして、暫くし店員が探してくれていたグローブを受け取り、四万円の諭吉札を出して買い物を済ませる。

 明日光と明日未来は、どうやら先ほどの店員が父親だった様で、少し遅れた昼食の弁当を届けに来ていただけだった様だ。

 

 夜はすっかり陽が落ち、満月が頑張市を照らす。

 もう五月に入ろうとしている四月下旬、春の終わりを暗示するかのように暖かい風が吹き付ける。

 ——そして、夏の甲子園予選大会の抽選会を迎えるのであった。

 



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第15話 小山雅

 夏の予選大会プロローグ。
 甲子園を掛けた一回戦の相手とは!?


 月日は流れ、六月も中旬を迎えていた。

 つい先日、テレビのニュースで梅雨明け宣言をお天気お姉さんが言っていて、本格的な夏のシーズンを迎える今日この頃。

 今日の日中の気温が、今年の最高気温である三十四度を上回った三十五度を記録した。

 そして、俺は練習を終えてひと段落しようと帰る前に、少し寄り道をして帰ろうと、ふと思い立ち、家から徒歩五分圏内にある、頑張駅の真ん前にある商店街に来ていた。

 近所の幼なじみ、高柳春海の両親が経営している「パワフルレストラン」だ。

 この時間、午後の十六時。

 平均的に、夕方の時間になると、商店街は人が少なくなる。

 そして、レストランの店内は毎日四、五人程度になるので話し合いの時はここが最適だ。

「はぁ〜〜あ。なんか憂鬱だなぁ」

 らしくない重たいためをつきながら、注文して頼んでいたオレンジュースをストローで飲み干す。

「段々とチームの輪が乱れていっている様な気がするよ・・・・・・」

 嘆き始めたのは、現在パワフル高校のマネージャーを務める栗原舞だった。

「一体、どうしたんだよ?」

「去年の夏の大会、小波くんも試合を見に来てたでしょ? あかつきに負けたのを・・・・・・そして、その次の秋の大会は、そよ風高校に負けたの」

「あかつき相手でも、毎回負けてんだろ? それより、そよ風高校なら、今のパワフル高校の戦力なら十分、負ける相手じゃないと思うけどな」

「そうなんだけど・・・・・・ねぇ〜」

 栗原舞は窓を開けて外を眺める。

 季節も流れて春と夏を迎え、日中の熱さとは裏腹に、心地よい涼しい風が優しく吹き付けている。これの風も、熱さに参った体には、格別な心地よさが在って良いものなのだ。

「石原先輩が引退して、尾崎先輩がキャプテンを継ぐ事になったんだけど・・・・・・。あの人、性格が熱血タイプだから周りとの温度差がありすぎて随分と空回りしちゃってるのよ。それに麻生くんが、尾崎先輩に呆れて、次第には練習サボるようになってきちゃたのよ。それを注意した戸井くんと、そこで何か揉め事みたいなのを起こしちゃったみたいで、今は二人とも口を利かないで、疎遠っぽい感じになってるのよね」

 栗原の口撃。それに俺は黙って聞いていた。

「・・・・・・そうなのか」

「それより、小波くん達は、どうなの?」

「ど、どう? そんな事、言われてもな。四月の終わりに、極亜久高校との練習試合で勝つ事は出来たんだけど、試合が終わった後、各自不得意練習を積極的に行うようになったな。大分個人個人のレベルは上がってると思うぜ。後は星と矢部、特に早川と七瀬が何やらコソコソ極秘特訓を行ってるみたいだな」

 俺も、頼んでいた烏龍茶を、ゆっくりと喉の奥へと流し込む。栗原は俺の顔見ながら鼻を鳴らしてニヤリとこちらを見ていた。

「・・・・・・な、なんだよ」

「早川あおいさんか・・・・・・。女性選手みたいだけど大丈夫なの?」

「何が?」

「何がって、前代未聞よ!? 女性選手が高校野球やってるって!」

「ま、大丈夫だろ。早川は、昔から相当な苦労をしてたからな。アイツにはもう二度と同じ苦しみを与えたくないし、試合には出て欲しいんだ」

「ふ〜ん。『相変わらずチームメイト思い』だから安心したよ。それより、小波くんは早川さんの事をどう思ってるの?」

「はぁ!? いきなりなんだよ」

「異性として、興味は? ある? ない?」

「別にどうも思ってねえよ。ただのチームメイト。ただ、それだけだよ」

「小波くんがそう言うなら、そう言う事にしておこう!」

「ああ、そういう事にしておいてくれ」

「それより、明日は予選大会の抽選ね! それでもって来週には予選大会が本格的に始まるわね!」

「ああ! そうだな。俺たちにとって初めての大会だ。正直どこまで行けるか分からないけどさ、俺たちなりに頑張ってみるよ」

「それじゃあ、帰ろうか」

「そうだな」

 俺は、半分ほど残っている烏龍茶を、一気に飲み干した。栗原もオレンジュースを飲もうとしたが、先ほど飲み干してしまった様で、既ににグラスには氷が溶けかかった状態となっていた。どうしても喉が渇いて飲みたかったのか、財布の中身を確認し、小さく「とほほ」と呟いてから、オレンジュースのオーダーの追加を頼むと、数分後、アルバイトの人じゃなく、春海の母親が持ってきてくれた。

 四十を超えても、幼い頃からよく面倒を見てもらった頃を思い出してしまうほど、変わらない笑顔をしながらオレンジジュースをテーブルの上へに置くと、サービスと言いながら、俺の烏龍茶オマケしてくれた。

「あれ? おばさんが持ってきてくれるなんて珍しいね! 春海のヤツはいないの?」

「そうなのよ、最近は特にね。春ちゃんも部活が忙しくなったみたいでね? ちなちゃんも、ほら野球部のマネージャーでしょ? 練習に付き添っててね。ここのところ遅い時間に帰って来ちゃうから店の手伝いは休ませてるのよ」

「へぇー。流石、ベスト四まで行ったチームは違うな。この前もデパート街で春海達にあったんだけど、当たると良いなって話をしてたんだよな」

「小波くんてば、かっとびレッズの時以外に春海くんと勝負したことってあるの?」

「いや、どうだろう。中学時代は・・・・・・無いから、無いな」

「ねえねえ、もし、今、小波くんと春海くんが、勝負したらどうなるかな? 『安打製造機』の高柳って昔は言われてたじゃない?」

「へっ、そんなの昔の話だろ? 今じゃあ、どうなるのか分かんねえだろ? ね? おばさん」

「そうだね。春ちゃんと球ちゃんの戦いをもう一度、見てみたい気がするけど・・・・・・、なんて言ったって球ちゃんはもう、ピッチャーじゃあないんだもんね?」

 おばさんは少し悲しげな表情を見せた。

 でも、春海経由で俺が再び野球を続けると知った時には、凄く喜んでくれたらしい。

 そして俺は「千波さんと春海によろしく」と伝えてくれと言い残し、お会計を済ませ店を後にした。

 栗原とは、家も近所の為、途中まで一緒に歩いていたのだが、何故か俺の事を心配そうにチラチラ見てくるのが目に入って気になってしまった。

「ん? さっきからなんだよ。俺の顔に何かついんのか?」

「えっ!? ・・・・・・いや、違うよ。小波くん・・・・・・、あまり無理しないでね? 私、何か嫌な予感がするの」

「嫌な予感って? ああ、俺の肘の事か? それなら心配しなくても、もう大丈夫だぜ」

「違うよ、肘とかじゃあなくて、恋恋高校全体に関する・・・・・・嫌な予感」

 栗原は目に少し小さな粒を浮かべて俺の顔を見つめる。

「気のせいだろ? 兎に角、夏の予選で俺たちと当たった時は、よろしく頼むわ!」

 俺たちは十字路の前で脚を止めた。右を曲がれば栗原の家で、真っ直ぐ進めば聖の実家の寺が見え、隣には家がある。

 俺は真っ直ぐ脚を進めて、振り返り、手を振って栗原と別れる。

 そして、栗原の言っていた悪い予感が当たる事などこの時の俺は知らずに、夏の予選を迎えることになる。

 

 全国高校野球選手権大会の開会式の始まりを告げる選手宣誓は、地方球場で行われ、優勝旗の返還をした後、あかつき附属高校の二宮先輩が務めた。

 去年の夏は、甲子園に進んだものの、一回戦目で、アンドロメダ高校に負けてしまったが、甲子園連続出場の記録を八年と更新し続けているため、周りからは凄く期待が高まっている様子だった。メディアの報道陣が一斉にシャッターを切っている。

 そんな中、新設校として恋恋高校と、ときめき青春高校の紹介をされて今日はお開きとなった。

「ときめき青春高校・・・・・・? それって、全国の不良が集うチームでやんすか? ひぃぃぃ!! オイラ、怖いでやんす」

「あのな? ビビってる場合か? 一回戦の相手がときめき高校なんだぜ? 戦う前に弱音吐いてる余裕なんかねェぞ!」

 星と矢部くんが後ろを歩きながら会話をしていた。

 俺たちの一回戦の相手は、同じ新設校で初大会のときめき青春高校となった。全くノーマークでありノーデータなチームの為、どう攻めていくかも全く頭に浮かばない。しかし、それは相手も同じだ。

 さてと、どうしたものか・・・・・・。

 考え事をしていた時だ。

 早川は脚を止めて、何かを見ていた。

「おい、早川! どうかしたのか?」

「えっ!? いや、ちょっとリトルリーグ時代で同じピッチャーだった知り合いを見かけたんだけど・・・・・・話そびれちゃった」

「ま、同じ地区のチームが此処に集まっているからな」

「小波くんこそ、何を見てるの?」

「えっ? ああ、俺はトーナメント表だよ。一回戦の相手は、ときめき青春高校だろ? 勝ったら次は、流星高校と当たるな、なんて思ってたんだ」

 各高校のキャプテンに配られたトーナメント表を眺めながら、どことどこが戦って勝ち上がってくるかを、脳内で組み上げた。

 猪狩が居るあかつきは別ブロックの為、当てるとするなら決勝戦。

 更に、春海がいるきらめき高校と当たるなら、三回戦まで勝ち上がらなきゃならない・・・・・・。

 不思議と活気が身体中に駆け巡っていく。

 よし、やってやるぜ。こうなったら、行けるところまで登りつめてやる!

 

 猪狩守がいるあかつき附属の初戦はバス停高校となり、戸井と麻生がいるパワフル高校の初戦は、秋季大会のリベンジには最適なそよ風高校高校、高柳春海、目良浩輔、館野彰正がいるきらめき高校の初戦は、ブロードバンドスクール高校となっていた。

 そして、波乱に満ちた夏の予選大会の始まりを告げたのだった。

 

 ――――。

 夏の予選大会、初戦の相手が恋恋高校と決まって開会式ご終わった後の事。

 練習も終わり、グラウンドを整理し、帰宅途中の誰も居ない夕暮れ時の河川敷を歩いき、バラバラと落ちている小石を蹴って石と石が当たる音と、小さくて重たいため息を漏らす艶のある金色の髪を靡かせた≪青年≫が、一人歩いていた。

 金色の瞳に眉毛はやや太めで、金色の髪はポニーテールで縛り上げていて、顔立ちやら体付きやらは、どこからどう見ても可愛い女の子にしか見えない成り立ちでいるが、背中にはバットケースをぶら下げており、妙なことに学ランを着てる所を見ると野球部所属の男子生徒なのだろう。しかし更に奇妙な事に、この≪青年≫の声質は≪女の子≫の様な高い声をしていた。

「はぁ〜。僕たちもようやく地区大会に出場したって言うのに、何処も練習試合を受け入れてくれる学校が無かったから、実践不足が明確過ぎて、なんだか、不安だな・・・・・・」

 青年が通ってる学校は、恋恋高校と同じ地区であり、その中でも治安の悪い有名であり、言わば不良が通う≪ときめき青春高校≫の生徒のようだ。

 ときめきと言う言葉を見るだけで、ドキドキやワクワクの青春学園生活を送れると思いがちではあるのだが・・・・・・実は全国の不良高校生が集い、通うヤンキー高校なのだ。

 『彼』はどう見ても不良には見えないのだが、実はヤンキー達の恐喝などに怯えながらひっそりと野球部同好会を立ち上げては、良き仲間達に出会い、支えられて今年の春にようやく同好会から部活動に昇格したのだ。

 それでもやはり、先ほど呟いた言葉通り、他の学校はときめきの名前を聞くだけで、二つ返事で断られる事が確実なので、小さくて重たいため息の理由は、きっとこの事なのだろう。

 小石を何回も蹴っていると、偶然大きな石を蹴ってしまって前を歩いている黒髪の四方八方に散らかる青年、見たところ同年代と思われるその人物の頭に当たってしまった。

「――痛ッ!! な、なんだ!?」

「あっ!! 当たっちゃった・・・・・・」

 すると当たった部分を手で押さえて、目の前を歩く青年が、少し疼くまってしまった。

「――ご、ごめんなさい! その・・・・・・決して! ワザとじゃあないんです!! 本当にゴメンなさい!!」

 彼は駆け寄ってあたふたしながら必死に謝った。

「あ、いやいや。別に大丈夫だ。・・・・・・君、もしかして野球部員だったりする?」

 黒髪の癖毛の青年は、黒くて大きな瞳に優しい顔立ちで、先ほどの小石が頭に当たった事を忘れさせて安心させようと、痛さを我慢してニコリと笑みを浮かべていた。そして『彼』の肩に掛かっているバットケースを見ると食いつくように質問をしてきたのだ。

 そして、突然の質問に慌てながら応える。

「――え? あっ・・・・・・僕は、ときめき青春高校の野球部員の小山雅って言います!!」

「俺は、恋恋高校の小波球太。よろしく!」

 小波と名乗った男は、小山の小さな手を取りグッと握手をした。あまりにも男らしい手で小山雅は少しドキッと胸を鳴らす。

「ん? 待てよ? ときめき青春高校出身? ・・・・・・って事は君は、明後日の試合の相手だよな?」

「そ、そうですね! 明後日の試合、よろしくお願いします!」

「おう! 初大会出場校同士、悔いのない戦いをしようぜ」

「はい! 僕たち、野球が好きでみんなの反対を押し切って創り上げた部活なので、簡単に負けるわけにはいきません!」

「それは俺たちも同じだぜ! こっちだって負けねえよ!」

 小山雅は、小波と言う男が負ける気がないと言った表情をしていた。

 何故だか不思議そうに思い、それが顔に出てしまっていたのだろう。小波が気になって声をかけた。

「ん? どうかしたのか?」

「え・・・・・・、いや。普通なら僕達の学校名を聞くだけでビックリするくらい有名な学校なのに、小波くんは驚きもしないなって・・・・・・」

「そんなの気になる事じゃあないだろ? ときめき青春高校がどんな学校かは確かに噂とかは耳にして知ってはいるけど、野球としては別だ。どんな治安の悪い学校であろうと、そこに野球が好きで本気で君たちが野球部を作るほど、情熱を持ってる奴らがいるんだから、それには応えねえと相手に悪いだろ?」

「・・・・・・・・・・・・」

 小山は驚いて声も出なかった。

 初めて言われた、その言葉にただただ呆然と立ち尽くすだけだった。

「小山雅だっけ? もし、今後練習試合する相手に困ったら、俺たちなら何時でも引き受けるぜ」

 小波はカバンの中から一枚のメモ用紙を千切り、そこにボールペンで、自分のメールアドレスと携帯の電話番号を書き出して、小山に渡した。

「これ俺の連絡先な」

「はい! ありがとうございます! キャプテンにも伝えておきますね! それでは、小波くん。明後日、よろしくお願いします!」

「おう! 楽しみにしてるぜ! 良い試合をしような、小山!」

 夕暮れの河川敷。

 小波球太は、青年と言うよりは、少し女の子の様にも見える小山雅と出会った。

 そして、恋恋高校対ときめき青春高校との予選大会第一回戦の試合の日を迎えるであった。

 



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第16話 ときめき青春高校

 ―――。

 

 ゴミと割れたガラスの破片が多数散らばった荒れ果てた校庭。

 校舎は築年数がそれなりに経っていて見た目もかなり古くなっていて、教室や校内の壁には至る所に誰が書いたのか分からない、カラースプレーで吹き付けられ書かれた落書きと汚い言葉は、まるで美術館に来たのかと言うように吹き付けられていて、目つきの悪い生徒が先生達や生徒達と毎日喧嘩や怒鳴り合いが飛び交う。

 そんなときめき青春高校に、

 僕、小山雅(おやまみやび)は通っています。

 皆さん。実の所、僕は『女の子(・・・)』なのです。

 野球が大好きな女の子で、夢は『甲子園に行くこと』を目標に、日々仲間達と野球に打ち込んで居て、中学まではちょっと有名なシニアの内野手、主にショートとしてレギュラーを取って試合に出ていたのです。

 僕は、中学三年生の時に高校入試で進路先を古豪であるパワフル高校に入学したいと願書を出しました。

 でも、入試テストの時に女性選手は甲子園の出場は認められていないので入部出来るか分からない、と推薦校の試験担当に言われました。

 僕は、そこで愕然となり、諦めてしまいそうになって大好きな野球が出来なくなると怯えていました。

 ところが……。

 ある時に父が野球をやりたいのなら『ときめき青春高校』に入学しなさいと声を掛けてくれたのです。

 ときめき青春高校の入試ならまず願書は見ずにすぐ合格出来るとの事。

「そこで性別を偽り男子として野球部を作りなさい。でも、生徒や先生にお前の性別がバレたら終わりだと思いなさい」と言われ僕は、野球に対する思いを捨てきれずに強く決意して、ときめき青春高校に入学し男子生徒として通うことになりました。

 入学当初は、周りは怖い人達ばかりで、もちろん馴染め無かったので、声も掛けられず一人ぼっちで同好会を立ち上げたんだけど、一人のクラスメイトが、僕の事を知っていて快く同好会に入会してくれたんだ。

 そして、次第に仲間は集まり部が出来上がって——。

 いよいよ今日が、僕たちときめき青春高校の初の試合なのです。

 

 

 小波くんの通う恋恋高校は、どんな人がエースで、どんなボールを投げるんだろうか。

 どんな打撃陣で、どう攻めて来るのか。

 そして小波くん達のチームはどんな感じなのだろう。

 今の僕の頭はワクワクと言う好奇心だけが浮ついてそれだけしか考えていなかった。

 きっと、他の人から見たら、何を楽しみそうな顔を浮かべて考え事をしているだろう、なんて思うだろう。

 でも、この楽しみな気持ちは久々な気がして、決して嘘では無い。

 そして、僕が女の子だと言う事は、誰も知らない事であり誰一人知られては行けない事なのだ。

 

 

 ――――。

 

 恋恋高校が試合前の軽いシートノックを受けているのを後攻の僕たちは、三塁ベンチで眺めながら試合の時を待った。

 

 先攻・恋恋高校スターティングメンバー

 一番 センター 矢部明雄

 二番 キャッチー 星雄大

 三番 セカンド 海野浩太

 四番 ファースト 小波球太

 五番 レフト 山吹亮平

 六番 ショート 赤坂紡

 七番 サード 毛利靖彦

 八番 ライト 古味刈俊彦

 九番 ピッチャー 早川あおい

 

 後攻・ときめき青春高校スターティングメンバー

 一番 ライト 三森右京

 二番 レフト 三森左京

 三番 サード 稲田吾作

 四番 キャッチャー 鬼力剛

 五番 ファースト 神宮寺光

 六番 セカンド 茶来元気

 七番 センター 赤羽六

 八番 ショート 小山雅

 九番 ピッチャー 青葉春人

 

 午前九時、丁度。

 観客がチラホラと数えらる程度の数の中。

 予選大会第一回戦である恋恋高校対ときめき青春高校の両校初出場校同士の戦いが幕を開ける。

 地方球場からサイレンの音が鳴り響き、

「プレイ!!」

 と、球審の合図と共に試合が始まった。

 まず先攻は恋恋高校。

 一番打者の矢部明雄が、右打席に立つ前にベンチに向かって声を発した。

「さあて、行ってくるでやんすよ! オイラの『モテモテライフ』への道を歩む記念すべき大会初打席でやんす! 皆はそこで見守っていて欲しいでやんす!」

「うっせェーな!! 誰も、テメェなんぞに期待なんかしてねェんだからよォ。さっさと行きやがれ!! クソメガネ!!」

 ネクストバッターズサークルに座る二番打者の星の罵声を浴び、逃げるかの様に素早くバッターボックスへと向かっていく矢部だった。

「きらめき青春高校の先発は……青葉春人か。聞いた事がない名前だな。一体、どんな球を投げるんだ?」

 初出場校のきらめき青春高校への対策は全くない。

 その一球目が投じられた。

 ――ズパァァァン!!

「ストライクーーッ!!」

 胸元を抉る内角攻め、百四十キロ程のストレートを見逃した矢部だった。

 なかなかキレも伸びもあり速球も活きる良い球だ。

「ふむふむ。成る程でやんす。なかなか良い球を投げるやんすね」

 続く二球目を空振りし、三球目は、明らかな釣り球だった。

 頭上の高さに投げ込まれた。

 見るからにボール球であるストレートを矢部はバットを振り抜き。

「ストライクーー!! バッターアウト!!」

 三球三振と、あっという間に仕留められてしまった。

「星くん。青葉くんは……。かなり手強い相手でやんすよ」

「何が「手強い相手」だッ!! 馬鹿野郎が!! 明らかに釣り球だったじゃねェかよ!! しょうもない罠にあっさりと引っかからやがって!! 手を出してるんじゃねェ!! なにが『モテモテライフ』を歩む記念すべき打席だ!! 三振してんじゃねェかよ! これで、お前の『モテモテライフ』は充実しねェな!! はい!! 決定ェ!!」

「くっ……。悔しいでやんすが。言い返す言葉が見つからないでやんす」

 ワンアウト。ウグイス嬢の呼び込みで、続く二番打者には星が打席に立つ。

 初球。ストライク先行を狙ったのだろう。

ㅤ恐らく、ストレート。

 

 シュッ!!

 

「ドンピシャだぜ!! 貰った!!」

 予想的中。

ㅤ投げ込まれたのはストレートだった。見逃さず伸びのあるストレートをバットに叩き付けて快音を残し、三遊間を抜けそうな鋭い痛烈な打球を飛ばした。

 

「よっし! ちょいと詰まり気味だがこの打球は抜けるぜェ!!」

 

ㅤタッタッタッタッ。

 パシッ!!

 快音を響かせヒットを確信した星が喜びの声を上げたが。

 それをなんとショートを守る小山雅は横滑りで見事星の放った打球をグローブで捕球したのだ。

「な、何ィ!?」

 小山雅は倒れた体勢から素早く身体を起き上がらせ、素早く的確で綺麗なスローイングでファーストまでノーバウンドで送球し、星は一塁ベースを踏むのが間に合わずアウトを取られてしまった。

 今のプレーを見た客席からはパチパチと拍手が鳴り響き、それに照れたのだろうか小山は深く帽子を被ってしまった。

「オイオイ……、嘘だろ!? い、今の打球は確実なクリーンヒットゾーンだったぞ? それをあの金髪野郎が取ったのか……? って、俺も金髪か」

 星が謎のアホ発言を残し、恋恋高校はたった四球でツーアウトと簡単に追い込まれてしまった。

 

 唖然としながら、恋恋高校のベンチに座っている矢部が顰めた表情をしていた。

「今のショートの動き、凄く素早い反応だったでやんすね。えっと……名前はなんだったでやんすか?」

「矢部くん。あいつの名前は、小山雅だよ」

「小山雅くん、でやんすか。同性でやんすが……何だから女の子みたいな顔立ちでやんすね〜」

 何かに目覚めた危ない発言をした矢部に誰一人反応を示す事なく、小波は今の小山雅のファインプレーを素直に認めた。

「それにしても今の星の打球は抜けて欲しかったもんだぜ。小山のヤツ。中々、守備範囲が広そうだな。ときめき青春高校の守備に関しては、そう簡単にミスはしてくれねえようだな」

 矢部の隣に小波が座っている。

 三番打者の海野が、バッターボックスへと向かうのを確認すると、両手に黒色のバッティンググローブを嵌めながら悔しそうな口調で呟いていた。

 すると、矢部の打席からジッとショートの小山雅を凝視していた早川あおいがポツリと、その名前を復唱した。

「小山雅……」

「ん? 早川。どうかしたのか?」

「えっ!? ううん、なんでもないよ!!」

「急にどうしたでやんすか? 可笑しなあおいちゃんでやんす」

 クスクスと手を口に当てて笑う矢部を見て、何故だか自然に沸沸と怒りが込み上げて握り拳を作る早川だったが、我慢したのか「はぁー」と小さなため息を溢しただけだった。

 三番打者で左打席に構える海野が、ワンストライク、ツーボールのカウントの四球目を綺麗な流し打ちでレフト前に転がす。

 二死一塁の場面で、四番の小波に打順が回ってきた。

 すると、キャッチャーを務める鬼力が小波の構える右打席とは逆の左打席の方向へ立ち上がった。

 敬遠だ。

 

「チッ……。ときめきのバッテリーの奴ら、一発のある元あかつき大附属の小波に注意を払ってやがったな。ここは最善の策を練ってきたと言う訳か」

 思わず星も関心してしまう。

「やっぱり、相手があの小波くんだと警戒心が先行しちゃうのかもしれないね」

 小波球太と言う人物の事は、中学野球を経験して来た選手達にはかなり知られている名前だ。あかつき時代にどの様な打者だったなど、ある程度は知られてしまっているのだ。

 

「ふっ、小波を歩かせるか。青葉・鬼力バッテリーは敬遠を選んだ采配は正解だったな。進」

「そうですね。バッターボックスに入った小波さんには、苦手コースなど皆無に等しいですからね。特に、初見で変化球やストレートに柔軟に対応できるバッティングセンスを持っていますし、何せ『集中力』は尋常じゃない程の持ち主ですから、味方から見れば頼もしいですけど、敵になって見ると随分と厄介なバッターですからね・・・・・・」

 試合を観戦するおよそ四十人しか居ない観客席の中に、二人の兄弟の姿があった。

 一人は、長身に茶髪を風に靡かせ、青色のスポーウェアを羽織り、ややつり目から青い瞳を覗かせているのは、あかつき大附属のエースナンバーを背負う猪狩守だった。

 その隣には、弟である猪狩進が立っていて、どうやら恋恋高校とときめき青春高校の試合の様子を観察しに来ていたのだ。

 続く五番の山吹を変化球のキレのあるスライダーで空振りの三振で仕留めた所で、恋恋高校の攻撃は終わった。

「・・・・・・・・・」

「どうかしましたか? 兄さん」

「進。お前は、あの『青葉春人』に、少し『妙な違和感』を感じないか?」

「妙な違和感・・・・・・? そう、言われてみれば感じますね。力を抜いているというか、まだ本気を出していない様な気がしますね」

「これは、僕の予想ではあるが……。青葉春人、あいつは『奥の手』を持っているだろうな」

「奥の手……? 青葉さんと言えば、決め球は確か『スライダー』ですよね? その『スライダー』を超える(・・・)何かと言う訳ですか?」

「ああ、恐らくそうだろうな。それともう一つある。あいつは、もしかすると『能力開放』( ・・・・ )の持ち主かもしれない」

「能力解放!? それは、『自分の持ち味を最大限発揮させて昇華させる』と言う『超特殊能力』を示した名称ですよね。その効果を発揮出来る人はプロでもそうそう居ないとされている」

「そうだ。小波達は、それを攻略出来なければこの試合としかしたら負けてしまうだろうな」

 そっと、猪狩守は腕組みながら、視線を一塁ベース上に立ち、後輩である椎名繋が、ベンチからファーストミットを受け取る小波を見つめていた。

 

「すまない! 折角のチャンスだったって言うのに、鋭いスライダーを振ってしまって、呆気なく三振しちまった!」

 ヘルメットを握りしめ、山吹が悔しそうに言いながらベンチに戻ってきた。

「気にするこたァねェぜ、山吹。それよりも『オイオイ、それは明らかに釣り球だろ!?』って言う球をよォ、平気な顔でバットを振り回して呆気なく三振しちまう大馬鹿野郎もいるんだからな」

「ひ、酷いでやんす!! 星くん!! 自分がさっきの打席で良い当たりを打ったからって偉そうにするなでやんす!!」

「コラコラ!! 星くんも矢部くんもそんな小学生みたいな事でイチイチ揉めないでよ!! ほら、星くんはさっさとプロテクター着けて守備につくよ!!」

「へいへい」

 恋恋高校のチームカラーである桃色に染まった帽子を深く被り、早川あおいはベンチの前まで歩いた。

 空を見上げれば、青空が広がる絶好の野球日和。

 ニコッと笑みを浮かべ、マウンドへとゆっくりと足を進めた。

 すると、球場内からは驚きの声が上がる。

 ざわざわ。ざわざわ。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。

「……」

 それはそうだ。何処からどう見ても、早川あおいは女性なのだ。

 黄色い声が飛び交う歓声の中、早川は全く動じずにマウンドのプレートを踏みしめ、ボールを握り、グルリと肩を回した。

 

 対するときめき青春高校のベンチ内でも、少し驚いた表情を浮かべている。

 同じポジションである青葉春人が、スポーツドリンクを喉に流し込みながら呟いた。

「恋恋高校のピッチャーは、女性なのか?」

「女性……、ピッチャー……」

 と、その言葉に真っ先に反応を示したのは、小山雅だ。

 何しろ、小山雅自身の本当の性別は女であるからだ。

 目の前に、平然とありのままの姿で野球をしている事に、誰よりも一番驚かされたのも、小山雅自身だった。

 内心、羨ましかったのだろう。

 性別を誤魔化し、チームメイトまでも騙し、思春期を迎えて育ってきた胸をサラシを巻いて隠れるように、女である事から逃げるように野球をしている自分と比べれば……自分も同じように性別を隠し通さずに堂々と女性として野球をする事が出来ればどれだけ良いことか、と。

 そして、一番打者。三森右京がバッターボックスに入り、ときめき青春高校の攻撃が始まりを告げた。

 第一球目。

 深く沈めた身体から繰り出す、下投げ投法であるアンダースロー。

 高め際どい球は、ストライクゾーンから僅かに外れ、ボールコールを貰う。

 どよめく客席。

 それは、早川あおいが女性と言う点と今時珍しいピッチング投法のアンダースローだからだろう。

 二球目は、インコースやや高めにカーブが決まり、ワンストライク・ワンボールとなる。

「これは驚いた。中々、良いボールを放るじゃあねえか」

 コツン、

 コツン。

 バットの先端でホームベースを軽く叩きながら三森右京が言う。

「へっ、だろォ? だが、相手が女だからって余り舐めんじゃねェぞ、銀髪赤マスク野郎」

 ニヤリと、星が笑みを浮かべながら言う。

 そして、三球目。インローに投げ込まれたストライクゾーンを芯に当て引っ張ったライナー性の当たりはレフト前に勢い良く転がって行った。

 続く、二番。レフトの三森左京が左打席のバッターボックスに入る。

 名前の通り。先ほどの三森右京とは兄弟なのである。

 

 カーブでまずはストライクを先行し、続く二球目は、外れてボールとなった。

 三球目、三森左京が送りバントの構えに入った所で、星がサードを守る毛利にダッシュしてくるようにと指示を出した。

 その指示を受けて、毛利は足早にホームへと向かっていく。小波も向かおうとした時だ。

 一塁ランナーの三森右京が二塁に向かって走り出していたのだ。

「毛利!! 脚を止めろ、今すぐだッ!! こいつは送りバントなんかして来ないぞ!!」

「えっ!?」

 違和感を感じた小波は、真っ先に毛利に向かって叫んだ。

 だが、遅かった。

 三森左京は既に、バットを引いて、ヒッティングの構えになっていたのだ。

 

 そう、送りバントでは無く——。

 

 ——ヒットエンドランだ!

 

 キィィィィン!!

「——くッ!!」

 痛烈な打球が毛利を襲う。

 グローブで捕球する間も無く、股の間を通り抜けて、レフト線へと転がっていく。

 既に好スタートを切った三森右京は、二塁ベースを蹴り上げて三塁へと向かい、ノーアウト、ランナー一、三塁となってしまった。

 三番打者、稲田は、肌黒い巨漢の男で、ちょび髭を生やしていた。

 巨漢の稲田に対し、徹底的なインコース攻めを繰り出していき、上手くツーストライクに追い込む事が出来たのだが、三球目のカーブを真芯で捉えられ、打球は高々とレフトスタンドに突き刺さるスリーランホームランを打たれてしまった。

 愕然と項垂れる早川だったが、気を取り直して四番、五番、六番を打ち取り、一回の裏のときめき青春高校の攻撃は終わった。

 

「初回に三点は、恋恋高校にとっては大きな失点になったな」

 静かに口を開いた猪狩守が言う。

「恋恋高校のエースを務める早川さんには、まだ投手としての実力が発揮出来ていない様ですしね。三点止まりだったのは、不幸中の幸いとでも言うべきでしょうか?」

「ああ、そうだな。実際の恋恋高校のレベルは小波以外のバッターの実力は全員平均以下だろう。青葉春人から点を取れるのすら怪しい所だな。だが、相手が小波だと言うなら話は別だ」

「そうですね。小波さんは、チームの活気を急激に上げる力を持っていますし、何しろ試合の流れを一気に奪う事もある人ですから、気を抜くことは出来ないということですよね」

「そう言う事だ」

 と、猪狩守は笑う。

 すると、突然。

「ところで、そんな後ろの方でコソコソしてなんか居ないで、そろそろ出てきたらどうなんだい?」

「えっ!?」

 猪狩進がクルッと体を後ろに向ける。

 観客席に繋がっている階段を登りきったところに一人の男が立っていた。

 その男は、山の宮高校のエースを務める太郎丸龍聖だった。

 



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第17話 青葉春人の真魔球

「ところで、そんな後ろの方でコソコソしてなんか居ないで、そろそろ出てきたらどうなんだい?」

「えっ!?」

 猪狩守が後ろを振り向くこと無く、その後ろにいるで在ろう人物に向かって声をかけた。

 弟である猪狩進は、驚きながらクルッと体を後ろに向ける。

 観客席に繋がる階段を登りきった所に、その人物は立っていた。

 身長は、およそ百八十センチに届きそうな程の高さであり、猪狩守とほぼ変わらない高さだった。

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべる男は、空を見上げて口を開いた。

「いい天気だな。まさにこれが野球日和ってやつか? そうは思わないか、猪狩守に猪狩進」

「あ、貴方は!?」

「ふっ……。一体何処の誰かと思ったら、君は西強中学に居た太郎丸龍聖(たろうまるりゅうせい)じゃないか」

 と、猪狩守がその名前を呼んだ。

 太郎丸龍聖と。

 そして、西強中学とはあかつき大附属中学同様、関西地方で唯一の全国大会の出場の常連校でもある。

 全国大会では、何度も熾烈な戦いが繰り広げられ対戦成績はほぼ五分五分と言った両校とも勝るとも劣らない強さを誇るチームなのである。

 また、太郎丸龍聖には呼び名があった。

 猪狩守を凌ぐとも言われているその実力から中学野球の間では二人の事を『西は太郎丸龍聖』、『東は猪狩守』と区別される程の実力の持ち主なのである。

「何故、君がこんな所に居るのか聞きたい所だね。噂だと君は西強高校に進学したと聞いているが?」

「ま、噂通りに西強には進学したよ。でも、甲子園出場がほぼ決まってる常連校に進学しても、やり甲斐なんかねえもんでな。去年の大会前に俺達は、この頑張地方の山の宮高校に編入したんだ」

「山の宮だと?」

「どうせなら、猪狩。甲子園を目指すなら、何度も戦ってきた厄介者であるお前たち好敵手がいる強い相手と戦った方が燃えるってもんだ。そうだろ?」

「なるほど。わざわざ、この僕を相手に甲子園を目指そうと言うのかい? はははっ! 太郎丸、君にしてはなかなか面白いことを言うじゃないか!!」

「後は、小波球太だ。お前は勿論、あいつにもどうしても勝っておきたいからな。なんせ。『三種のストレート』なんて、馬鹿げた球を投げるピッチャーなんて普通は、居ないからな」

 太郎丸龍聖は、視線をグラウンドに居る小波に向けながら言う。

「太郎丸さん。すいません、ちょっと良いですか? 今、貴方は『俺達』と言いませんでしたか? もしかして、貴方一人だけが山の宮に編入した訳じゃないんですよね?」

「ん? ああ、俺だけじゃあねぇよ。最高の相棒である名島一誠(なじまいっせい)も一緒だ」

「――ッ!?」

 守と進の二人は、同時に驚いた。

 太郎丸龍聖の実力は本物であり、何度もあかつき大附属中学時代に苦戦を強いられてきたのだが、その相棒を務める名島一誠にも太郎丸龍聖以上に苦しめられたからである。

 一言で言えば、高校一の捕手と呼んでも過言では無い人物だ。

 巧妙な頭脳的リードに、強肩の光るディフェンスは、既にプロレベルに達している。プロスカウトの一部では、太郎丸龍聖と名島一誠のバッテリーを一緒に取りたいと明言しているスカウトもいる程だ。

 名島一誠のその実力は「足元にも及ばない」と猪狩進自身も認めている。

「まぁ、お前達と順調に勝ち進んで当たるとなれば、決勝戦に成るだろう。俺と一誠は、ベストコンディションで挑んで甲子園の切符を掴むつもりだ」

「ふふふ。実際、この地区のレベルは底が知れていてウンザリして居た所だったんだ。君みたいな人物が居てくれた方が、僕のモチベーションが上がるって事だよ」

「へへ、言うじゃあねえか、上等だ! 俺はあかつき大附属を倒して甲子園に行くぜ!」

 ニヤリ顔を浮かべ「またな、猪狩」と太郎丸が言葉を口にするとその場から去って行った。

 そして、階段を降って行き姿を消した時、猪狩守は、視線をグラウンドへと再び戻した。

「……兄さん」

「太郎丸龍聖に名島一誠か。面白いじゃないか。何者で在ろうと邪魔はさせない。この猪狩守が、完膚なきまでねじ伏せてやる。そして、甲子園に行くのは僕たちあかつき大附属だ!!」

「そうですね!」

 すると、猪狩守はグラウンドから目を逸らしながら、太郎丸龍聖が降りて行った階段の方へと歩き出す。

「どうしたんですか? まだ、小波さん達の試合は終わってませんよ?」

「小波達が上がって来ようと、恐らく今のレベルなら山の宮高校には負けるだろう。なら、僕たちは山の宮を迎える為の『準備』をしなくては行けない。それに丁度いい。そろそろ僕の『アレ』が、完成しそうだからな」

「兄さんの新しい切り札……。はい、そうですね。では戻って特訓しましょう!」

 続きながら、猪狩進も兄の後を追うように足を進めた。

 日照りが続いてグラウンドを眺め、猪狩守はボソッと呟きながら球場を後にした。

「小波、負けるなよ。僕たちは、お前のまだ見ていない景色を見てくる。そして・・・・・・、いつかはお前は僕の前に立ちはだって、戦う時が来るだろう。だが、その時に勝って笑うのは、もちろん、この僕たちの方だ!」

 

 

 二回の表の攻撃。

 六番、七番、八番打者と青葉の好投で三者凡退に終わってしまった。

 点差は三点差のまま、二回裏のときめき青春高校の攻撃へと移り、七番センターの赤羽六が早川の投球練習が終わるのをネクストバッターズサークルの中で眺めていた。

「赤羽くん。どう思う? あの早川あおいさんのアンダースロー」

 八番打者である小山雅がマスコットバットを持ちながら訪ねる。

「ん? まぁ、女にしちゃあ良くやってるだろうよ。ストレートのキレやノビはそこそこ良いだろうけどさ、ウチの青葉と比べたらバッティングピッチャー同様だろうぜ?」

「そ、そうなんだ……」

「だが、相手が男だろうと女だろうが容赦はしねえよ!! それじゃ早速、一発ぶちかましてやるとするかな!!」

 そして、小山雅は、赤羽六がそのまま左打席のバッターボックスに入ったのを見送り、早川との戦いを待つ。

 ——キィィィィン!!

 その初球。

 低めのインコースのカーブを、強めに引っ張った鋭く低飛行の打球が、一塁線ギリギリを破りそうな勢いで飛んでいく。

 だが、ファースト小波が食らい付くかのように横っ飛びでミットに収めるファインプレーを見せてワンナウトとなってしまった。

「……ふぅ」

「小波ィ!! ナイスプレーだぜ!!」

「小波くん! ありがとう!」

 早川と星が賞賛の声を上げる。

 土を払いながら、小波はグローブを軽く上げて返事を返した。

 

 続く八番打者の小山雅が右の打席に入る。

 乱れの無い早川あおいのアンダースローから繰り出すボールで三球ほど粘られたものの、簡単にツーストライクへと追い込んだ。

 そして、ワザとインローへと、一球外して様子を伺った五球目。

 アウトローへ逃げる様に落ちていく変化球のカーブを放り投げた。ギリギリボールカウントを取られるボールだった。

 その球に思わず手を出してしまった小山。

 

「よしっ! これでテメェは、三振だぜ!」

 

 そう心の中で呟いた星ではあったが、なんと体勢を崩した不安定なフォームからバットを強く振り抜いた。

「な、なにィ!?」

 快音を鳴らし、打球は早川の足元を鋭く抜けて行って、センター矢部の前に転がるクリーンヒットとなった。

「あの体勢からセンター前ヒットとは、恐れいるぜ。小山、お前、なかなかのバットコントロールをしてるじゃあねえか」

「えへへ、どうも。これでも僕らは、このチームになって試合経験は無いからまだまだだよ?」

「それじゃあ、今以上に強くなるって事だよな?」

「そういう事になるね!」

「それは楽しみだな」

「うん」

 ニコッと笑みを返した小山は、そのままジッと小波の事を見つめていた。

 早川は、小山に打たれた打球の軌跡を眺めながら無言でマウンドの足場を慣らす。

 決して調子が悪いとかでは無い。球も走っている。ただ一つ原因がある。それは、チームの力不足なのだ。ときめき青春高校と恋恋高校の各自の差が圧倒的に違うのである。

「タイムッ!!」

 心配になった星が、慌てる様に球審にタイムを告げ、マウンドへと足早で向かう。

 すると、一塁ランナーの小山が小波に声をかけた。

「ねえ、小波くん?」

「なんだ?」

「あの……ピッチャーの早川あおいさんは、その……『女の子』だよね?」

「ああ、見れば分かるだろ」

 小波はピクリと眉を少し寄せる。

「珍しいね。女の子が高校野球なんかしてるなんて……」

「そうか? まあ、珍しいって思うヤツもいるのかもしれねえよな。でも、早川が野球を好きな気持ちは俺たち以上に熱意があるって思うんだ。野球が好きなら男も女も関係ないだろ。確かに周りの連中は早川の事を色眼鏡で見ちゃうかもしれねえし、規則がどうとか違反してるとかどうとか言うヤツも居るのかもしれねえ。それでも俺はそれを絶対に覆してやりたいんだ」

「ど、どうして?」

「どうして? 不思議な事を聞くな。それは今も言ったろ? 野球好きなら誰でもやっていいんだって。なあ、小山。考えてみろよ。プロ野球でも女性選手が出て来たらさ、それはきっともっと野球が面白くなると思うんだよ。俺はもしかしたら早川が実証してくれる。そんな気がしてんだ」

「……」

 ハニカミながら、小波が言った。

 その眼には決して嘘は無い。心の底から本気で思っている。そんな鋭くて真っ直ぐした強い意志を持った瞳をしていた。

 同時に小波を見つめながら、小山雅はこんな事を思っていた。

 この人ともっと前から出会っていれば、きっと自分自身が、女の子である事を隠すような変な真似をせずに済んだのでは無いのかと。

 今、目の前で同じ女性である早川あおいの様に堂々と楽しく野球が出来ていたのだろう。……と。

 しかし、そんな想いは他所に試合は進んでいく。

 タイムを解き、九番打者の青葉春人が打席に立った。

 青葉に対する一球目。百二十キロのストレートを見送った。

「ストライク——ッ!」

 球審のコールが響いた。

 二球目。カーブを投げたが、甘い高めに入ってしまい、青葉はすかさずバットを振り抜く。

 金属音の快音を残し、打球はレフトに上がる大飛球となるが、風に救われたのか、ポールのやや左にずれて行く、あわやホームランとなるファールとなって、恋恋ナインはホッと心を撫でた。

 そして、三球目だ。

 星は、インコース低めのカーブを要求する。

 それに、頷いて早川が体を沈める投球モーションに移った瞬間の事だった。

 一塁に居た小山は、急に走り出したのだ。

「と、盗塁!? 走ったぞ!!」

 セカンドに立つ海野が、驚いた様子で声を上げ、すかさず二塁のカバーへと駆け込んだ。

 その時だ。

 バッターの青葉は、ニヤリと口元を緩め流打ちをするかのようにバットを振り抜く。

「しまった! これは一回の攻撃と同じヒットエンドランだ!!」

 思惑に気付き、思わず海野が声を上げる。

 すると打球は、ベースカバーへと走ってしまった海野が本来の定位置に居るべきだった、セカンド方面に巧く打球を転がした。

 

「赤坂ッ!! ベースに着けッ!!」

 と、小波の声が響く。

「――えっ!? どうして!? どうして、君が……君がそこに居るの!? 小波くん!?」

 一塁ランナーの小山は目を見開いて驚いた。

 何故ならば、ファーストを守っている筈の小波は小山雅の直ぐ後ろに居たのだった。

 青葉春人が転がしたセカンドを狙った強い打球に飛びついて、難しいショートバウンドをした所をファーストミットで捕球をしていたのだ。

 そして。

 ぐるりと、身体を一回転させながは巧妙な送球で二塁のベースに付いていた、ショートを守る一年生の赤坂紡にボールを送った。

「流石、小波先輩!! ナイスボールっス!!」

「よし、赤坂!! そのままファーストだ!! すぐにファーストに投げろ!! 早川!! ファーストのカバーに入れ!!

 と、土塗れになった小波は叫んだ。

 唖然としていた早川は、ハッと我に返りファーストのカバーへと走り出す。

「赤坂くん!! ボールを!!」

「早川先輩!! 行くっスよ!!」

 勢い良く、ファーストに向けて送球をし、早川がキャッチをして一塁のベースを踏むが、打者の青葉も同時にベースを踏んでいた。

 判定はどうだ・・・・・・?

 一塁の塁審が、張り上げた声と、右腕を軽く上げて叫んだ。

「――アウトッ!」

 怒号の様な歓声が沸き上がった。

 三-六-一のダブルプレーの完成だ。

 

「う、嘘でしょ……。今の打球でダブルプレーだなんて……」

 小山雅は、ただただ唖然としていた。

 まるで小波球太は、青葉春人が狙ってセカンドのいた所に正確、且つ、鋭い速度の打球を巧く打ち運んで来る。と言う作戦を恰も読んでいたかのように、飛びついて追い付いては、転がったまま正確な送球をして見せたのだ。

 そんなプレーなどプロ野球の試合の中でも、中々見ることが出来ないプレーなのだから、唖然としてしまうのは当然の事だった。

「助かったぜ、ナイスプレー!! 小波!!」

 海野が嬉しそうに叫ぶのを筆頭に、恋恋ナインからも再び賛美の声が上がった。

 小波が定位置に戻る時、打者の青葉は一塁ベースを踏んだまま立っていた。

「おい!! 小波!!」

 ダブルプレーに倒れた青葉春人が声を上げて、小波は脚を止めた。

「何故、今の打球を取れた? こっちとしては、完全に裏をかいたと確信していたのに!!」

 青葉春人は、悔しそうに小波球太を見つめていた。

「まあ。一回の攻撃に、三森のヤツに一発喰らわれていただろ? 小山がスタートを切った時に、もしかしてと思ったんだ。だから、小山がスタートした瞬間と同時に俺はセカンド寄りにポジションを瞬時に変えたんだ」

「……本当にそれだけか?」

「後は、目線だよ」

「目線だと……?」

「小山がスタートを切った時のお前の目線が、ちょうど海野の居たセカンドの定位置に目が動いていたからな。オマケに口元が緩まってるもんだからある程度の予想は出来たぜ」

「――くっ。どうやら俺は、お前たちを甘く見ていたようだな」

 ギリっと歯を喰いしばり、そのままベンチへと引き返す青葉春人だった。

 そして、スリーアウトとなり、二回裏のときめき青春高校の攻撃は零点に終わり、試合は三回の表へと進んでいく。

 

 ベンチに引き下がり、ヘルメットをベンチの上に置き、とんがった青い髪を覗かせ、垂れ落ちる汗が床に落ちる。小山がタオルを渡し、汗を拭きながら、青葉春人は視線を小波を捉えたままでいた。

「青葉くん……。ゴメン、僕のスタートが甘かったみたいだったよ」

「いいや、小山。それは違う。どうやら俺の考えが甘かったみたいだ。最初から全力で潰すに値する良いチームだった様だ、全く恐れ入ったよ。恋恋高校、いや、小波球太」

「……」

「鬼力!! 次の回から俺は徹底的に奴らに対して全力で投げるぞ!! 決め球は勿論、『真魔球(・・・)』だ!」

「――ッ!?」

 その場に居るときめき青春高校ナイン全員が驚きの表情を見せる。

「本気……なんだね」

「ああ、マジだぜ、小山。このチームになってから初めての試合だ。俺たちは負ける訳には行かねえんだ」

「……よし。なら、勝とうよ!! この試合!! 僕たちの今までの時間は決して無駄じゃないって事を証明して、勝ち進んで行こう!!」

 

 

 三回の表。

 九番の早川が右のバッターボックスに入る。

 実際問題、早川は決してバッティングが良い方では無い。

 その事は、ときめき青春高校ベンチにも感じ取れた様で、青葉春人の百四十三キロの真っ直ぐのストレートを、三球続けて空振りし、簡単に三振に仕留められてしまった。

「むぅ〜……」

 ぷくっと両頬を膨らませた早川は足早にベンチへと引き返して来ては、小波球太の隣に座っていて間抜けな表情を浮かべている星に向かって「どいて!」と半ば無理矢理押し出す形で座り「はぁ〜」と星を睨みつけて、露骨に小さなため息を一つ吐いた。

「オイオイ、なんだよ!? いきなり人を追い出すなっつーの!! それに人の顔を見てため息なんから漏らすんじゃねェよ!!」

「だって、今の星くんの顔なんだかムカついたんだもん!! それより次のバッターはキミでしょ? ほら、早くネクストバッターズサークルに行きなよ!!」

「ああん? テメェ!! この俺の顔を見て、面と向かってムカついたとか言うんじゃねェよ!! 普通に傷付くだろォ!! こう見えて、俺は意外とガラスのハートなんだからよォ!!」」

 星と早川が互いに互いを睨み合う中、小波は静かに、青葉のピッチングを見ていた。

「どうかした? 小波くん?」

「ん? いや・・・・・・、今の早川の打席で投げた青葉のストレート。さっきより速くなっていた様な気がするんだ」

「・・・・・・?」

「きっと、あの青髪ツンツン野郎はよぉ。尻上がりに調子を上げて来てるタイプなんじゃあねえのか?」

「・・・・・・尻上がりにしては早すぎる。まだ、三回の表の序盤だ。もしかして、あいつは、今までセーブして球を投げていたんじゃあないのか? それに、さっきの打席で俺達を甘く見ていたって言っていたからな・・・・・・」

「・・・・・・って事は! あの野郎は、この回から本気で投げて来るつもりかって訳か!!」

 

 

 二巡目の矢部に対し、強気なピッチングで攻め続けた。百四十五キロのストレート、緩急を突いたナックルカーブでツーストライクに追い込んで見せる。

 続く三球目、青葉のオーバースローのフォームから繰り出される変化球に誰もが度肝を抜かれる事になる。

 右の打席で構える矢部の胸元に放り込まれた球は、鋭い切れ味のあるスライダーが、カクッと水平にアウトコースへと曲がって行ったのであった。

 全く手が出せずに見送った矢部は、三振に斬って取られてしまった。そのまま、信じられない様な顔をして呟く。

「――ッ!? なんでやんすか!? 今の変化球は!!」

「矢部、とか言ったな。仕方がないから教えてやろう。今の球は真魔球と言って、俺の得意球であるHスライダーをベースにしたオリジナル変化球だ」

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、青葉春人は矢部に向かって口を開いた。

「真魔球・・・・・・。オリジナル変化球・・・・・・」

「ベンチに向かって仲間に伝えろ! 俺たち、ときめき青春高校野球部を切り開いてくれる! この真魔球で!! お前達を敗北させてやるとな!」



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第18話 能力解放

 ときめき青春高校戦、決着!
 ――星の隠された能力が、明らかに!!


 青葉春人は、先程のピッチングとは、まるで別人が投げているかのように、鋭い切れ味が光る高速スライダーを次々と投げ込んで見せた。

 百四十後半の重いストライクがドスンと、ミット越しに伝わる捕球音だけが聞こえる。

 恋恋高校は、青葉春人の圧倒的なスキルに全くと言って良いほど手が出せずにいた。

 対する恋恋高校のエースナンバーを背負う早川あおいも、青葉春人に触発されたのか、そのピッチングは負けては居なかった。

 際どいボールを放り込み痛打されても、ランナーを背負うと、焦りもせず、ただただ冷静を保ち、早川自身の持ち味の抜群のコントロールは冴える。ときめき青春高校の初回の三点を除き、スコアボードにはゼロの数字が、電光掲示板に次々と点灯されていく。

 緊迫した試合。

 両校共、初出場校同士の戦いは、予想以上に見応えのある試合だと観客席に座る観戦者達は思いながら、試合を見守る。

 そして、試合は三点差と、突き離されたまま九回の表を迎え、気温三十四度を超える地方球場にて、恋恋高校の攻撃が始まる。

「よし! ナイスピッチング!」

 ときめき青春高校の最後のバッターである神宮寺光を、低めのカーブを掬い上げ、サードフライに打ち取って零点に抑え、ベンチに戻った早川の背中を小波が軽く叩く。

「うん! 任せてよ! ボクならまだまだ投げれるから。大丈夫!」

「そうか! なら、頼んだぜ!」

「うん」

 汗をタオルで拭う早川。

 コソッと覗き込んで小波が笑みを見せる。

 この試合の中、小波は時折、そう言う笑顔を見せてきた。

 まだ、大丈夫、必ず俺たちが点を取り返してみせると暗示をかけるかのような優しい笑みが、早川にとって何よりもありがたくもあり、そして、とても心強かった。

 そして、この回に何としても三点を取らなければ負けと言う厳しい状況の中、一番打者の矢部がネクストバッターズサークルの中で、静かに名前がコールされるのを待っていた。

 汗がポタリ、と垂れ落ちる。

 今も汗みどろになりながらも、頭の中では勝つことだけを考えていた。

 青葉が投球練習を一球、一球、ミットに放り込む、勢いのあるストレートを見る度に、練習試合の相手の極亜久高校の悪道浩平との戦いのことを思い出していた。

 あの『ドライブ・ドロップ』を綺麗な流し打ちでライト線を破るランニングホームランを打った時の事を、思い出していたのだ。

「矢部」

 すると、次のバッターである星が背中をバットのグリップで軽く小突いた。

「星くん?」

「見せてやろうぜ」

「え?」

「え? じゃあねえぜ!? お前は、浩平との試合のあの日からずっと、今まで以上に練習に打ち込んで来た。そうだろ? ここいらで見せてくれよ、お前の成長をよォ!」

「もちのろんでやんす! なんて言ったってオイラは『恋恋高校のスピードスターの矢部』でやんすからね!」

「ああ、頼んだ? 矢部!」

 

 右打席に入った矢部は、落ち着いた様子でバットを振り抜いた。だが、当たった打球は全てファールゾーンへと切れて行ってしまう。何としても塁に出たいと言う欲を必死に抑えながらも、心の奥底に潜む矢部の強行策が静かに牙を研いでいく。

 四球目のストレートを放り込投げ、それもまたファールで逃げられると、流石の小波も舌を巻く。

 マウンド上に立つ青葉は、次第に矢部のペースに巻き込まれて行っている様子だった。簡単に打ち取れるはずであり、高速スライダーをベースにした「真魔球」を、矢部に対して放り込んではいないのだ。しつこく粘られているうちに、ストレートで仕留めると決めたのだ。

 そして、五球目。ストレートで三振に取って仕留めるという覚悟を決めた直後だった。青葉自身は三点差があるからと言って気が緩んだ訳ではない。ここまで百三十球を超えるかなりの連投、それに加えて気温の高さと、真魔球のスタミナの消耗が、身体と精神の疲労が、遂にここで球威にも影響を与えたのだ。

 放り込まれたボールは、真ん中高めのストレートだった。矢部は、その球を巧くバットにボールを当てる。

 だが、押し負けた。青葉の球威は落ちてはいるものの本質的な重い球には変わりはなく、グシャリと潰したような音だけを残し、打球は三遊間に強く、転がっていく。

 ショートを守る小山雅は、持ち前の軽快な動きでボールの捕球体勢を取る。

「この打球は、初回の星くんの打球に似てる。青葉くんのストレートに力負けしたものの、僕の守備ならアウトに出来る!」

 冷静に小山は頭の中で呟いた。華麗なフィールディングを熟して、一塁へと送球した。

 手元からボールが滑り流れていく瞬間、小山の金色に光る瞳は、一気に目を見開かされるのだった。

 なぜなら、既に、矢部は一塁ベースを蹴り上げて、今にも駆け抜けて行きそうな程、近くまで脚を走らせていたのだ。

「――ッ!? 嘘!! 速い!!」

 判定は、間一髪、セーフ。

 九回の裏。

 ここで恋恋高校はようやく矢部の内野安打で一点を返せるランナーが飛び出しのだった。

 

「へっ! あの野郎ォ・・・・・・早速、魅せてくれるじゃあねェの! この前のランニングホームランと言い、いよいよ、俺も矢部なんかに負けてられねェじゃあねェか!」

 無死一塁。続く二番打者の星が打席に構えようとした所で、片足をバッターボックスから外し、視線をベンチへと向ける。何かの合図を待っているかの様だった。

 そして、顧問である加藤理香はただジッとグラウンドを見つめているだけだった。彼女は、野球に関しては全くの素人なので、代わりに小波が攻撃のサインなどを送るのだ。小波は、右肩から右手首まで撫で、ベルトを二回ほど手を置いてから拳で胸をトントン、と軽く叩くジェスチャーをして見せた。これは、恋恋高校の盗塁のサインを意味する。

 ヘルメットに手を当てて「了解」と合図を送ると、星は矢部の居る一塁にチラッと向けた。

 中学時代からの仲間であり、時には情けないと思っていた友人が、僅かではあるが日々、成長をしているという事を目の当たりにすると、それはそれで嬉しい気持ちにもなったが、それと同時に悔しい気持ちにもなる。

 セットポジションの青葉は、ランナーの矢部を警戒する。二回の牽制球を挟んでから、星に対する一球目。青葉が脚を上げた瞬間に、矢部はスタートを切る。好スタートだ。

 だが、青葉と鬼力バッテリーは、走るのを読んでいたのだろう。ボールは星の打席とは真逆のボールゾーンへと投げ込まれた。コントロールと言い、スピードと言い、盗塁を刺せるには持って来いの良い球だと、星は思った。

「良い球だよ。しかし、そんな甘ったれた球じゃあ・・・・・・、矢部の野郎の脚は刺せねェーンだよッ!!」

「――ッ!?」

 星はバットを立てて、ボールへと飛び込んだのだ。

 しかし、空振りした。

 そう、星はワザとバントの構えで飛び込んだのだ。

 突然の飛び込みで、アウトを刺せるタイミングを見失ったキャッチャーの鬼力は二塁への送球を躊躇ってしまった。

「お前! 今のはワザとだな!? するつもりもないバントの構えなんかして、矢部の盗塁の手助けをしたつもりか?」

「アアン? なんだ、テメェ、一体、何を言ってやがんだ? おいおい・・・・・・誰が矢部を助けるって言った? 勘違いするンじゃあねェぞォ、このタコが!」」

 立ち上がり、ユニフォームに着いた土を払いながら星はいつもの悪い口調で言う。

 飛び込んだ拍子で転がり落ちたヘルメットを着用し、バットのグリップをギュッと強く握り締めると、静かに一呼吸置き、再び口を開いたのだ。

「勘違いしてるから一つ・・・・・・一つ、教えておいてやるぜェ! 俺はただ、自分の見せ場を作っただけの事をしたまでだ。チャンスの場面は、俺の勝負強さが際立つんだよォ! いいか? この場面でこの俺が打席に立ったかには、テメェらいよいよ俺の本気を見ることになるぜェ! 来な! 青葉春人ッ!テメェの十八番の真魔球をよォ!」

 ギラッと目を見開いて、青葉を睨みつけた。

 星の威圧に飲み込まれそうになったが、ここは何とか持ち堪えられた青葉だったが、星の様子が可笑しかった。

 一瞬。本の一瞬だった。

 金色に輝くオーラの様な物が、星の体へと入っていくのが見えたのだ。

 それを、ベンチに座っていた小波にも見えた様だった。日陰に座っている加藤理香の後部ベンチから一気前列のフェンスに身を乗り出した小波は、青葉同様、同じ顔をしていた。

 

 ――星。まさか、お前・・・・・・能力解放が出来るのか?

 

 星に対する二球目。右打席に構える星の胸を抉るかの様に鋭いストレートがストライクゾーンに入る。カウントはツーストライク、ノーボール。追い込まれてしまった。

 たが、星の顔には焦りがなかった。追い込まれても尚、余裕のある表情を見せ、キラッと特徴のある八重歯を剥き出しにしていた。

 マウンドに立つ青葉の疲労は、徐々に身体全体へと回っていく。息も上がり、おまけに腕も痺れてきた。気温のせいか少し視界がボヤけて見えるが、青葉自身の瞳は、まだ光が残っていた。

 抑えられると言う自信は、依然変わることなく、消えていないのだった。

 ツーストライクに追い込んでからの三球目。

 ここで、星と青葉の決着は着く。オーバースローから放たれたボールは、星の体に向けて放り込まれる。この瞬間、青葉は星に対して始めた真魔球を投げて来たのだ。

 初見の球である真魔球の、キレ、軌道、変化など計り知れない不安は、普通の人間になら抱くものだ。しかし、星は、今もまだ冷静でその時を待っていた。

 星自身の勝負強さと言う持ち味が、彼をそうさせたのだろう。投げ込まれた真魔球はカクッと身体を避ける様に変化した。その瞬間を星は見逃さなかった。

 一心にバットを振り抜き、見事、真芯に当てると金属音の快音が一つ。地方球場に鳴り響いた。

 星は、バットをスッと手から離して一塁方向へとゆっくりと走り出す。対する青葉は、振り向きもせずにそのまま突っ立ったままだった。

 打球は高々と勢いのある放物線を描き、バックスクリーンへと飛んでいく、推定百三十メーターは飛んだであろう、その飛球は、あわやスコアボードが表示されてある電光掲示板に当たりそうな程、飛距離を出し、ツーランホームランへとなったのだ。

 恋恋高校のベンチでは、待望の点を得たことで大変な盛り上がりを見せた。それに、負けずとも劣らない歓声が観客席からも飛び出す。

 星は、まるでプロの様に、格好つけてながらゆったりとゆったりとダイヤモンドを一周し、二点目のホームベースを踏みしめ、先にホームインしていた矢部の元へ駆け寄ると、二人はハイタッチを交わした。

「ナイスバッティングでやんす! 星くん!」

「へっ、矢部なんかに褒められたくはねえのが本音だが、今回は素直に受け取っておくぜ」

「随分、失礼でやんすね」

「ま、そう怒るんじゃあねえよ。お前が恋恋高校のスピードスターと名乗るなら、俺は恋恋高校の勝負師の星とでも名乗るとするかな?」

 ニヤリと笑みを浮かべた二人は、ベンチへと戻り、仲間たちの元へと駆け寄っていった。

 点差は、一点差へと詰め寄り、まだノーアウトであり、試合のターニングポイントを獲得した恋恋高校は、勢い付く攻撃が続く。

 矢部の粘りに、いいムードだった流れを全て恋恋高校に持って行かれてしまったときめき青春高校は、この回にらしくない凡ミスが続く。

 三番の海野の打席、青葉の失投でフォアボールを出して、ときめき青春高校のベンチは青葉に対してリリーフを送る。

 エースを下げる采配が決めてとなったのか、小波の痛烈なライトオーバーのタイムリーツーベースヒットで同点へ追いつかれ、更に勢いをつけた打線が続く猛打に、守備の捕球エラー、送球ミスを繰り返し一挙七点を返した。

 九回の裏、四点のリードを得た早川は、この試合ベストのピッチングを見せる。

 六番の茶来元気をカーブで引っ掛けさせてアウトを取り、七番の赤羽六に対しては、持ち前のアンダースローから放り投げ込まれるインハイのストレートで見逃しの三振に仕留め、ツーアウトを取り、最後の打席には八番の小山雅が打席にたった。

 スタミナの消耗は、早川も青葉と同じ、いやそれ以上に激しく消耗していた。だが、チームが手を取ってくれた事に、投げれる気力を貰った。

 小山は、必死に粘る。

 四球程、カットして粘り、僅かに外れたストレートを見逃して、カウントはツーストライク、ツーボールとなった。

 そして、七球目。早川あおいが最も得意とする変化球であるシンカーを放り投げる。

 アンダースロー特有の下から上がっていくライズボールに合わせて、小山はタイミングを合わせる。

「パワーは無くとも、僕のバットに当てられるバットコントロールなら、この球は十分にヒットへ繋げられる」と小山は思う。

 しかし、その思いは無念にも空を切り、星のミットへと収まったのだった。まるで消えたような錯覚を感じる程。今、早川の放ったシンカーには、この試合で見たシンカーとは別と思えるほど、キレが増していたのだった。

「僕達の・・・・・・負けだ」

 下唇を噛み締め、小山がボソッと呟く。

 球審の「ゲームセット」の合図と共に、再びサイレンが鳴り響いた。

 観客席で試合を見守る人々が、両校に対しての喝采を送る。初出場高校同士の戦いは、恋恋高校に軍配が上がり、夏の予選大会一回戦は、恋恋高校が七対三で試合を制した。

 

 

 両校の選手達が、互いに握手を交わすのを見つめる一人の青年が、三塁側の観客席で座っていた。球八高校と刺繍された野球ウェアを羽織る青年の顔は、思わず女性と見間違えてしまうほど、中性的な顔立ちをしていた。

「初出場の恋恋高校がどんなチームかと視察に来た甲斐があったよ。君が高校で野球をしていたなんてね」

 ニヤリと笑みを浮かべ、青年が呟いた。

「智紀! 試合終わったなら、帰ろうぜ? 俺は腹が減っちまったぜ」

「ああ、すまない。遊助、今行くよ」

 遠くの方、帰り支度する観客者が次々と向かう階段方面から声が聞こえると、その声を発した青年が「智紀」と呼んだ青年は、クルッとグラウンドから背を向けて遊助と呼び返して、歩み寄って行って、球場から姿を消した。

 

 

 



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第19話 悔しさを胸に、パワフル高校は進む

 勝利を手にした恋恋高校。二回戦の相手は――。
 そして、雪辱戦に燃えるパワフル高校対そよ風高校戦!


 地方球場の上には、薄い雲が流れていた。

 どこまでも続いていそうな青空が広がっている。

 そんな、夏の熱と湿気を孕んだ風が強く吹きけて横を通っていく。

「小波くん」

 名前が呼ばれる。

 試合が終わり、それぞれが荷物をまとめ、恋恋高校専用の貸切バスの中へと乗り込む中、地方球場の外見を何気なく眺めていた俺に向かって早川が、腕組みをしたまま、今にも「早くしないと、置いていくよ」とでも言いたげな表情をしながらこちらを見ていた。

「悪い、悪い。今行くよ」

 俺は、荷物を肩に掛けてバスの中へと乗り込んだ。

 乗り込むと、前から二列目の左側に早川が座っていて、こっちこっちと手招きされて隣に腰を降ろした。

 周りを見渡すと、流石の熱さに疲労が溜まったのだろう。

 毛利や古味刈、赤坂など寝息を立てている者がいた。

「もう寝てやがる。ったく、今日の反省を踏まえて、二回戦の作戦を練ろうと思ったのに・・・・・・って、あれ? 加藤先生は? どこ行ったんだ?」

「加藤先生は、球場に残るみたいだよ?」

「残る? なんかあったのか?」

「大会の関係者に呼び出されちゃったみたいで、でも加藤先生は大丈夫よって言ってたよ」

「大会の関係者・・・・・・、ね」

 呼び出された理由について、ある程度は予想が出来ていた。

 恐らく、早川の事だろう。

 試合中、マウンドに上がった時とバッターボックスに立った時に、観客の異常な反応で察していた。

 早川あおいは誰がどう見ても女だ。

 数十年の長い歴史を持ちながら、全体的に男しかいなかった高校野球にしてみれば、驚くのも当たり前の事。

「大丈夫・・・・・・、だよね?」

 俺のユニフォームの肩口を、早川の小さな手がギュッと握り締める。

 正直、本部の人間がどんな処分を下すのかは分からないが、恐らく厳重注意程度で、出場取り止めなどの厳しい処置はしないだろう。

 それに、俺は早川を心配させたくはなかったから、少し濁して「心配する事じゃない、大丈夫だ」と言った。

「それより、早川。お前、試合が終わった後、ときめき青春高校の小山と何か話をしてたけど何を話してたんだ?」

「えっ!? あ〜それはね、秘密だよ!」

「オイラ、気になるでやんす!」

 俺の後部座席に座っていた矢部くんが、身を乗り出しながら言う。大きな瓶底メガネがまっすぐに早川の事を見つめていた。

 何だかちょっと口元がニヤついているから不気味で、早川は若干、引きながら、バスの窓の景色を青い瞳で見つめていた。その表情は、どこか嬉しそうに見て取れた顔だった。

 

 それは、試合終了直後の事だった。

 球審の合図で、両校が手を酌み交わし、ベンチへと引き下がっていくときのと事。

「小山くん!」

「・・・・・・早川さん」

 早川は、声をかけ、小山は脚を止めた。

「ちょっと、良いかな?」

「はい、何でしょうか?」

 不安そうに、小山の金色の瞳は、まっすぐに早川を見ていた。帽子を取り、黄緑色の艶のある髪が現れると、ぷるんと揺れる唇が動いた。

「小山くん。キミは女の子、だよね?」

「・・・・・・・・・・・・」

 コクリと、小山は無言で頷いた。

 すると、あおいはニコッと笑い、小山の手をギュッと強く握りしめたのだ。

「あ・・・・・・、あの、その・・・・・・」

「大丈夫! ボクは、キミ達の仲間とかに、キミが女の子だっていう事は、黙っていてあげるから」

「ありがとうございます! でも、どうして僕が女の子だって解ったんですか?」

「それはもちろん、筋肉のつき方が他の人達とは違って見えたからって言うのと、その胸・・・・・・」

 スッと指先を、小山の胸に向ける早川。

「何かを巻いてるんじゃあない? 何度か小山くんの守備を見ていて、最初の踏み出しがどうも鈍いと思ったんだ」

「・・・・・・正解です。僕は、早川さんの言う通り、胸にサラシを巻きながら試合に出ているんです。まさか、見破られるなんて・・・・・・さっきの試合と言い、どうやら恋恋高校には完敗みたいだった様ですね」

「そんな事ないよ! ボク達も、ときめき青春高校は手強い相手だって思っていたもん。勝てるかどうかなんて、実際、最後の最後まで思えない程だったよ」

「ありがとうございます! でも、次は負けませんからね!」

「もちろん! 次もボク達が勝つよ!」

 二人は、互いに拳を強く握りしめた。

「それと・・・・・・、早川さん。ありがとうございました」

「こちらこそ! 良い試合で楽しかったよ」

「違います。早川さんと、こうして出会う事が出来て、僕の・・・・・・なんて言えば良いか。ようやく肩の荷が降りたと言うか・・・・・・今は、負けたのに清々しい気分なんです!」

「それは、ボクも同じだよ! 同じ女の子が高校野球をやってるんだって知ったから、ちょっと嬉しい。また、試合やろうね!」

「はい! 次の試合も頑張ってください!」

 

 

 そして、話は戻ってバスの中。

 小波の携帯電話が鳴る。

 相手は顧問である加藤理香からだった。

 呼び出された理由を伝えに電話をかけて来たのかと思っていたが、次の対戦相手が流星高校と決まった事を伝えた電話だった。

 二回戦の相手となる流星高校は、走力が自慢の走る野球を得意とするチーム。盗塁と言う攻めを徹底的に実行してくるタイプのチームであると共に、次の塁を積極的に狙ってくる、厄介なチームだ。

「流星高校でやんすか・・・・・・。そう言えば、あの流星高校には『野沢くん』がいるでやんすね」

 まず、その高校名を聞いて矢部が反応した。

「ん、知り合いなのか?」

「オイラ達と同じ、赤とんぼ中学時代の元チームメイトでやんす。野沢くんは、オイラ以上に脚の速さを持っている選手でやんすよ」

「矢部くん以上か・・・・・・、そうなると、次の相手は、少し守備面の対策が必要になるかもしれないね」

 小波は、背もたれに体を倒しながら言う。

 矢部以上となると、セーフティバント、内野安打での出塁があるかもしれない。と、思考を巡らせていた。

「星、早川。盗塁の警戒は勿論、牽制は徹底的にな! 怠るなよ」

「任せて! と、胸を張って言いたい所だけど、実際問題、ボクってクイックとか苦手だから、少し不安だけど」

「・・・・・・・・・・・・」

 早川は、すぐに応答したものの、後ろの席で矢部の隣に、座る星からは何も返ってこなかった。

「どうかしたのか? 星」

「・・・・・・あン? 何がだよ」

「何が、じゃあねえよ。次の相手の流星高校戦に向けての対策を話をしてるんだよ」

「そんな事か・・・・・・」

「どうしたんだよ? 星らしくねえぞ?」

「悪りィな。なんだかよォ、試合が終わった後から、身体の疲れがドッと出てきてよ・・・・・・。さっきっから、頭がボーッとしてんだ」

 金髪頭を掻きながら、星は大きな欠伸を一つしたところで、キンキンに冷えたスポーツドリンクの入ったペットボトルを目元に当てた。

 その疲れの理由を小波は知っていた。試合中、星のここぞという勝負強さを更に昇華させた「能力解放」が、その理由にあるのだと。

 ミート、パワー、走力、肩力、守備、捕球などの分野において、得意分野の基本能力がズバ抜けて特化している者が、得られる特殊能力から昇華させる者も居れば、ある一定の条件を満たした上で、今まで以上の能力の発揮をする者がいる。そして、星は後者の方なのだ。

「疲れてるのは皆、同じだ。俺だけ異常に疲れてちゃあ情けねェよな。ま、取り敢えず、気を引き締めねえと・・・・・・、雄二の奴には負けたくねェからな」

 揺れ動く空を見つめ、恋恋野球部を乗せたバスは学校へと出発した。

 

 

 

 ――同時刻。

 同じブロックの別の試合が、遠く離れた第二地方球場で行われていた。パワフル高校とそよ風高校の試合だ。両校の戦いは、去年の秋季大会の二回戦ぶりの戦いとなる。前回の戦いではそよ風打線が先発のピッチャー麻生に対し、八点を取る猛攻により、三回裏にノックアウトされ、また、コールド負けを喫してしまったパワフル高校にとっては、雪辱を果たす絶好の機会となっていた。

『そよ風高校! この回も連続ヒットが飛び出しました!』

 観客席に座る一人の高校野球ファンの男性の耳を繋いでいるラジオのイヤホンから漏れ流れる実況のアナウンサーの声が聞こえた。

 ちょうど今、パワフル高校の麻生の右腕から放たれた百四十三キロのストレートを綺麗にレフト前に運ばれ、そよ風高校が四者連続ヒットで繋ぎ、スコアボードに二点が追加されたところを伝えていた。

 パワフル高校とそよ風高校との試合は四回を終えて六対二と、そよ風高校が四点をリードしている。

 

「チッ・・・・・・。何故だ! 何故、このオレ様が、こんな雑魚の寄せ集めの様な糞みたいなチームなんかに・・・・・、オレ様の球は打たれるわけがないンだ!!」

 マウンド上で汗を拭う麻生が舌打ちを鳴らしていた。

 マウンドのプレートの土を乱暴に蹴り上げながら、打たれたバッターをギラリ、と睨みつけていた。

 

 ―――――。

 

 

「今日は、そよ風との試合だッ!! 戦力的にはこちらが上といえよう! だが、油断は決してするな!! 向こうには、キャプテンであり、エースでもある。その右腕から放たれるキレの良い変化球を投げ、巷では『変化球のスペシャリスト」』との異名を持つ『阿畑やすし』が、マウンドに上がるからな! 簡単には打てないと言うことを頭に入れておけ!」

 それは一時間前に遡る。

 パワフル高校のキャプテン尾崎が気合いを入れろと、笑いながら言う。

 試合前のミーティング中で活気を与えようと尾崎が皆んなを集める中、一人、麻生はその輪の中には姿がなく、選手の更衣室のドアの側で腕を組みながら、興味の無い瞳で、天井のライトを見ていた。

「くだらねェな。ガキじゃあるめェし、仲良しごっこはさっさと卒業しろよな」

 ボソッと呟き、麻生がドアノブに手を掛けた時のことだ。

 戸井が麻生の腕を掴んだ。

「おい、麻生! どこへ行くんだ? 今は、試合前の大事なミーティングだぞ? チームの輪を乱してどうする」

「戸井。お前は一体、何処までマヌケなんだ? オレ様はな。こんな仲良しこよしやっている低レベルなチームなんぞのチームの輪に入ったつもりはねェンだよ!! お前らの力に頼らずとも、オレ様の実力で雑魚のそよ風を抑えてるぜェ!」」

「お前な!! いくらなんでも相手を見下しすぎじゃあないか?」

 戸井が、麻生の手を掴んだ。

「痛ェな、離せよ。このオレ様に気安く触るんじゃあねェよ。それにオレ様はな。お前たちに学ばせてもらったぜ。低レベルの奴らに任せたら勝てる試合も勝てなくなるって事がな」

「――ッ!? お、おい!! 麻生!!」

 掴んだ手を振り払った麻生は、ドアを叩く様に閉め、更衣室の外へと出て行ってしまった。

「・・・・・・すいません。尾崎さん」

「いいや、気にすることはねえよ。あいつにだって、自分のやり方で試合に集中したいだけだろ」

 ニコリと笑いながら戸井に話す。

「しかし・・・・・・。はい、そうですね」

 尾崎の言い方に納得行かなかったが、諦めた様に静かに、腰を下ろした戸井は、どこか悔しそうな表情だった。

「戸井くん・・・・・・、麻生くん・・・・・・」

 マネージャーを務める栗原舞は、二人の様子をジッと見つめていて、心配そうな顔つきで立っていた。前に、小波に話した二人の疎遠となって、更にギクシャクした関係が、ここで遂に崩れてしまったと、それを悟るかのようにチームメイトは、試合前なのに既に負けたかのように沈んでしまっていた。

 

 

 ―――――。

 

 麻生は未だノーアウト満塁のピンチの中、キャッチャーのシンカーのサインを無視をして独断で、渾身のストレートを放り込む。

 タイミングを合わせたバットが振り抜かれ打球は、快音を鳴らして高々と上がる。

 レフトが捕球体勢に入ると、三塁ランナーはタッチアップの体勢をとる。

「レフト! タッチアップが来るぞ!! バックホームだ!」

 尾崎の声響き渡る。

 捕球と同時に、サードランナーは走り出す。

 レフトからの返球は間に合わず、更にもう一点を追加することになったそよ風高校は、点差を五点とした。

「――クソッ!!」

 グローブを叩きつけ荒れる麻生。マウンドの土を雑に足で蹴り上げる。

 それでもナインは何も言ってこない。

 別に声をかけてきて欲しい訳じゃない。

 それは、麻生自身もよく分かっていた。

 

 麻生は、少年時代は何をやらせても一流だった。

 基礎能力が高いのか、飲み込みが早かったのかは別として、スポーツや勉強など、やる事なす事なんでも出来た。

 年を重ねる毎に、いつしか、自分は他の人とは違うのだと、周りを見比べ始めるようになって行った。

 小学校の帰りによく河川敷を通っていては、そこで行われているリトルリーグの練習を眺めていた。

 正直、野球には興味があり、テレビ中継を見るのが日課になるほど好きだった。だが、プレーをしている同い年ぐらいの少年達の笑顔がとても、羨ましかった。

 あんなに一生懸命努力をして、オマケに楽しそうに野球をやっていている姿を見て、反対に何もしないで熟せてしまう自分は、何をやるにしても楽しさが湧いてこず、笑みの一つも浮かべないでつまらそうにやっていることを比べてしまった。

 でも、麻生は、小学五年生の時に、近所の育成会として活動していた草野球を始める。

 最初は、ワクワクした楽しみを感じていたが、その思いは徐々に薄れていく。

 自分の力と周りの力の差が格段に違い過ぎていたのだ。

 そして、仲間など必要がないと思い始めた。

 自分だけが強くなれば、周りの力など必要がないと言う考え方をしてしまったのだ。

 そう強く思ってしまったのは、猪狩守の言葉だった。

「僕はなんて言ったって、天才だからね。凡人達と合わせる必要がないんだ」

 麻生と猪狩守は顔見知りなのだ。

 リトル時代の時、猪狩守は全体練習には、全くと言って良いほど参加しておらず、隅っこの方で、一人で黙々と自主練をやっていたのが、たまあま目に入り、声をかけたのだ。

 猪狩守から受けた言葉をキッカケに、今の麻生が生まれてしまったのは誰も知らない。

 猪狩かは感じた、同じ感覚。

 そうだ、周りに合わせる必要なんか無い。

 自分の力を信じてやっていけば、更に強くなれると思うばかり、天才故の慢心。

 人を見下し始めては、誰も信頼を寄せることも無く、信じなくなり、やがては、一人相撲となった。

 投げては抑えて、打っては点を取る。

 ただ、それが楽しいと思った事は一度も無かった。

 そして、中学生に進学し、かつて猪狩守がいたリトルチームのシニアリーグに入るが、そこには猪狩の姿はなかった。

 話を聞けばあかつき附属に入学したと聞いて肩を落とす。

 天才と自称する猪狩守とチームメイトになれば、似たもの同士の二人がいる事により「何もかも勝ち続けられるし、怖いものなんかない」と、思えるし、同じ天才の故の孤独な気持ちを持ち会えば、万力の力にもなり得るだろうと麻生は、残念と思っていた。

 しかし、いつか猪狩守と同じチームメイトになって、全国へ行きたいと言う希望を胸にシニアリーグを続けて、その右腕を振り続けて行った。

 その思いを叶えるその日まで、と。

 しかし、そんなある日、中学の試合を観戦して全てが壊れる。

 

 ――何故だ? 何故なんだ?

 

 その目に映ったのは、異様な光景だった。

 あの周りに一切群れ無かった猪狩守が、楽しく野球をやっていたのだ。攻守交替の合間に野手とグローブでタッチを交わしたり、コミュニケーションを取っていて、楽しそうに野球をやっているのだ。

 それを見て、麻生はまた変わってしまった。

「ふっ・・・・・・あはは!! 所詮、猪狩守も凡人程度の男だったんだ。ならば、天才は二人は要らない! 『俺』だけが・・・・・・『オレ様』だけが、天才で良い! それで充分だ!!」

 

 それから、月日が経つ。

 それは、去年の夏の予選大会。あかつきと当たり敗北を喫してしまった試合の後の事。

 麻生は、試合後のミーティングを抜け出し、一人で球場の周りを歩いていた。

「君は、パワフル高校の麻生だね。気に食わないが、少し僕に似てるじゃあないか。ま、僕の方が断然に顔が良いけどね」

「猪狩守・・・・・・」

 先ほどの試合で、逆転ホームランを打った本人が目の前に現れた。

「なんだ? オレ様から勝利を勝ち取ったお前が、わざわざオレ様を見下しに来たのかよ」

「フン、君みたいな。天才気取りの凡人を見下すほど、僕はそんなに性格は腐ってないよ」

「・・・・・・なンだと? お前も人のことが言えるか? 凡人達と混ざって楽しく野球なんぞやりやがって!」

 麻生は、猪狩に向かって、怒鳴り散らすかのような大声で叫んだ。今までの積もり積もった怒りを曝け出す様に強く。だが、猪狩はクスッと笑ったのだ。

「フッ、何を言うのかと思っていたら・・・・・・麻生。君は何か勘違いをしているよ。僕が、いつ凡人達と楽しくしていたって? 君の目にはそう映ったのだろが、ただ時には、僕のような天才も凡人達の力が必要な時もあるのさ。それは、あいつが教えてくれたからな」

「何を言ってる?」

「麻生、野球は一人でやるもんじゃない。ましてや九人でもない。そのチーム全体の力を合わせてやるのが野球なんだ。この僕も、そんな当たり前の事を中学時代に気付かされたけどね」

「分からねえ・・・・・・分からねェよ! お前の言ってる事・・・・・・。オレ様は天才で、他の奴は凡人以下のカスだッ! オレ様が投げて、点を取ればいい! 簡単だ、たったのそれだけだろ!」

「そうか。なら僕は君に言うことは何もない。ただ一つだけ言わせて貰うよ。このままだと君は、その凡人と見下した相手に負け続ける事になるぞ」

 猪狩は、言い残し、横を通り過ぎて行ってしまう。その顔には、少し麻生の事を可哀想だと言う哀れな目で見ていた。

 

 試合は九回のツーアウトを迎えていた。

 点差は三点差。麻生は、その後もそよ風打線に捕まったが、対する阿畑の調子も良いとは言えず、なんとか点を奪い返し、スコアは十一対八となっていた。

 最終回。この回に四点を取らないと負けてしまう。それでも、パワフル高校は、誰一人諦めてはいなかった。そして、打席には五番打者の麻生が右のバッターボックスへ入る。

「麻生ッ! 塁に出てくれッ! 俺がなんとかして必ずお前をホームに返してやるッ!」

 ネクストバッターズサークルに入り、六番打者の戸井が叫びを散らす。

 ――戸井。お前なんぞに、そんな事を言われなくても解ってる!

 お前に言われなくても解ってる! このオレ様が、こんな所で負けるはずなんかないんだよ!

 阿畑から投げられる百三十四キロのストレートを、見事に打ち返した。打球は痛烈な当たりとなり、ライトオーバーのツーベースヒットを放った。

 すると、ベンチからは「ナイスバッティング!」と麻生を讃える声が飛び交うが麻生は、それを無視をしていた。

「あいつらが、このオレ様を讃えるのは当たりだ。オレ様は、お前らと違って格上の存在。敬わなければならない天才だ」

 すると、二塁ベース上に立つ麻生は、猪狩守に言われた言葉を思い出していた。

『このままだと君は、その凡人と見下した相手に負け続ける事になるぞ』

 

 ――解ってる。

 猪狩に言われた事は、本当は解ってるんだ。

 自分の考え方、やり方が、間違ってる事を・・・・・・。

 それじゃあ、どうすれば良いんだ?

 この考え方しかして来なかった自分に・・・・・・。

 今更、他のやり方なんて解らねえ・・・・・・。

 変えられねえ・・・・・・。

 

「麻生ッ!!」

 バッと、名前を呼ぶ声が聞こえて、麻生は俯いていた顔を上げた。目の先には、バッターボックスに立ち、ニカッと笑みを浮かべている戸井の姿が写っていた。

「戸井・・・・・・」

「そこで、大人しく待ってろ! 必ず、必ずお前を此処に戻してやるからよ!」

 戸井の放たれた言葉が、麻生の胸の奥に響いた。熱くなっていく胸の高鳴りと共に、目に込み上げてくる何かを、見せたくは無い為、それを振り払うかのように「バチッ!!」と、顔を強く叩く。すると、周りはシーンと、静寂に包まれ、全員が麻生を見ていた。バッターの戸井も唖然とその姿を見ている。

 スゥーっと深呼吸をして、麻生が叫んだ。

「戸井ッ! 頼むぞッ! 必ず打って、このオレをホームに返してくれッ!!!」

 今までには無い。恐らくパワフル高校野球部員にとっては、初めて耳にする麻生らしくない言葉を放った。

 始めて麻生はチームメイトを頼ったのだ。

 自分の口から・・・・・・始めて。

 

「おいおい、一体どうしたんだ? 自称天才さんはよ。らしくない言葉・・・・・・、いきなり言うもんじゃなあないぜ!」

 それに答えるかの様に、戸井はニヤりと口元を緩ませて、阿畑の初球を叩く。勢いがあり、かなりの鋭い打球だ。ライトオーバーのフェンスへと飛んでいく。あわやホームランと言う当たりだったが、フェンスに直撃し、跳ね返りが強く、あっという間にライトが追いついて、捕球をして、セカンドを中継にホームへ送球される。

 打った戸井は、全速力で一塁を蹴り上げて、二塁へと向かうが、ホームベース上で麻生のベッドスライディングは虚しくホームベースには届かず、タッチアウトされていて球審が「ゲームセット」と、終わりを告げる。

 

 

「畜生・・・・・・畜生・・・・・・畜生ッ!! こんなチームにこの俺様が、二度も負けるなんて・・・・・・」

 ホームベース上で、涙を流し、蹲る麻生を尾崎は優しく立ち上げさせた。

「良くやったよ・・・・・・。お前らは良く頑張った!」

 キャプテンであり、最後の夏を終えた尾崎が肩を叩きながら笑顔を見せた。そこには、薄っすらと輝かしい一筋の涙が垂れ落ちている。

「・・・・・・尾崎。すまないな」

「ははは、麻生。最後の最後くらい、先輩くらいは付けろよ」

 尾崎は、麻生の黒い頭髪の頭を軽く叩き、麻生は尾崎の広い肩に顔を埋めて泣き叫んだ。

「おいおい、天才さんよ。らしくない言葉を言ったと思えば、次はらしくない涙か?」

 戸井が小走りで、麻生の元にやってくる。

「ほらよ」

「・・・・・・戸井?」

 一枚のタオルを麻生に渡す。受け取ろうとして顔を上げた麻生の瞳には、戸井の顔が映り、そこにも戸井の涙が映っていた。

「麻生! 悔しいなら這い上がれッ! お前が俺たちと共に戦って取り返せッ!!!」

「戸井・・・・・・お前」

「さぁ、整列だ! 俺たちの二年目の夏は終わった。次に向けて、胸を張って並ぼう!!」

「ああ・・・・・・」

「歩けるか? 良かったら肩を貸すぜ?」

「そんなのいらねェ」

 二人は、顔を合わせて思わず吹き出しそうになった。

 互いの顔には砂に汚れた顔に加えて、涙で濡れた情けない顔が映ったのだろう。今まで見たことの無い表情がそこにはあったのだ。

 その姿を見て、キャプテンである尾崎は思った。このチームは強くなる。今まで以上のパワフルなチームになって、強くなる。と・・・・・・。

 晴天の空へと、終わりを告げる一つのサイレンが鳴り響いた時、また新しいパワフル高校と言う新しいチームが、此処に誕生した。



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第20話 VS 流星高校戦

『夏の大会予選は波乱の幕開け!! 初出場の恋恋高校のエースは可憐な女の子!?」

 と、朝の朝刊の一面を飾り、大々的に書かれた文字が印象的だった。

 その文字の下にはカラー写真で、早川がアンダースロー投法で身体を沈めているところが貼り付けてあった。

 昨日の試合、俺たちはときめき青春高校に見事、勝利を収めて一夜が明けた。

 そして、学校に登校すると、恋恋高校の生徒達が興味津々した表情をし、口を揃えて野球部の話をしていた。

 中には「いやー。この野球部は一味違うと思ってた!」や「前から気にはなっていた」などの声がちらほら聞こえたりもした。

 実際、同好会を発足した時と野球部が正式に認められた時には、随分と薄い反応をしていた事を、そのままそっくり見せてやりたいと、やや皮肉に満ちた感情が湧き出たものの、言うのを止め、そのまま教室へと向かって行った。

 その途中、早川がいるクラスには、頑張地区の朝刊の一面を飾った本人を一目見ようと、沢山の野次馬が、写真を撮ろうとしたり、サインを求めたりと、予想以上を行く人だかりが出来ていて、寄り集まっていた。

 その様子を遠くから眺めてみると、慣れない光景に戸惑い、オドオドした普段では見ることのない早川を拝むことが出来たことに対して、少し口元がニヤけてしまった。

 早川には、やや可哀想だが「応援してくれる人には、キチンと対応してあげろよ」と、心の中で呟きながら、自分の教室のドアを開けた。

 すると、先ほど見た早川に沢山の人が群がる光景とは裏腹に、いつもと変わらない自分達の教室が目に映る。

 そして、いつもの席に座り、俺に気づいた矢部くんが声を掛けて来た。これも、いつも通りだ。

「あっ、小波くん。おはようでやんす」

「ああ、おはよう」

「見たでやんすか? あおいちゃんのあの凄い人だかり・・・・・・一晩開けたら、こんなに人気が出るんでやんすね」

「なんせ、女子が高校野球の大会に出て、その初出場校が一回戦を突破したんだからね。少なくとも注目は浴びるよね」

「凄いでやんすよ・・・・・・。新聞を見た時、オイラ、正直、目を疑ったでやんす。他の強豪チームよりオイラたちのチームがピックアップされるなんて・・・・・・。こ、これでオイラの『モテモテライフ』が叶うのも時間が掛からないかもしれないでやんすね!」

「そ、そうだね」

 鼻を伸ばし、だらしの無い顔を浮かべながら矢部君が言う。モテモテライフを諦めない矢部くんにはやや苦笑いが漏れてしまうが、そんな日は訪れる予感が未だに無いと俺自身、いや他の人もそう思っているという事は黙っていて置くことにした。

 次の流星高校に勝てば、三回戦目には春海達のいるきらめき高校チームと戦える。それだけでも消えることの無い闘志は、俄然と湧き上がってくるが、二回戦目の対策を講じなくてはならないのが現状である。次の試合は明後日の第一試合、それまでに早川の苦手と公言したクイックの練習に、走力を活かしてくる流星高校の盗塁への対応、主に盗塁を仮定した捕手を務める星の二塁への送球など、できる範囲で慣れさせなければならない。短時間でどれだけ詰め込めるかが問題だ。

 顎に手を当てながら、教室の窓の外をぼっとしながら眺めていた。昨日の野球日和とは一転、黒い雲に覆われた嫌な天気だった。

 

「身体が避けてるぞッ! 身体で止めろッ! いいか、死んでも止めろッ! そんな甘っちょろいモンじゃねェんだよ! 高校野球はよォ!!!」

「押忍! すいませんッス、もう一本ッ! もう一本、ノックお願いします!」

 星の怒鳴り声が、グラウンドに響き渡ると共に、ショートを守る赤坂が、顔の高さよりも上へグローブを挙げてみせた。星は、ノックバットを振るった。鋭い打球が三遊間の間を破る当たりを横っ飛びで食らい付くが、タイミングが外れて取ることが出来なかった。

「オラァ! 赤坂! 反応が鈍いぞ! そんな甘っちょろいモンじゃねえんだぞ! 高校野球はよォ!!!」

「ウッス!」

 立ち上がり、土埃を払いながら赤坂は諦めずにもう一本のノックを受ける。もうこれで何度目だろうか、赤坂の練習着は土で汚れ、練習着の右胸の部分に印刷されてある恋恋高校の頭文字である「R」という文字は完全に隠れてしまっていた。

「星くん。また、不機嫌なの? この前は、ナンパに失敗して矢部くんに「ホームランを見送る練習」をさせてたけど今回は、赤坂くんに八つ当たりって感じだね」

 星と赤坂のノックを見ている俺の横に、呆れ果てた早川が声を掛けてきた。

「ああ、それに同じ言葉を二回言ってるけどな」

「それで? 今度は一体、何に怒ってるわけなの?」

「ん? ああ、朝刊の記事を見た星がさ、待望の得点を決めたツーランホームランを打った自分の事じゃなかった事と、野球部員である星にクラスメイトの奴が誰も声を掛けられなかったことが原因らしい」

「そ・・・・・・そうなんだ」

「オマケに痺れを切らした星くんが野球部員をアピールしたみたいでやんすが、それほど大きなリアクションは無かったみたいでやんす」

「それは・・・・・・、それで可哀想だね」

「それより、大丈夫だったか? 今朝の人集りは」

「うう・・・・・・それが、大丈夫じゃあ無かったよ。写真撮ったりとかサインしたりとか色々せがまれるなんて、産まれて初めてだもん。何もかもテンパっちゃって、大変だったよ」

「それは、ご苦労様でした」

「どうも・・・・・・って、ちょっと、小波くん? キミ、もしかして朝のあの状況を見てたの?」

「あ・・・・・・ヤベ」

「あ〜! その反応! 見てたんだね! 見てたのに、ボクの事をスルーしたの?」

「あ、いや、その・・・・・・違くて!」

「スルーしたんだね?」

 鋭い目つきに思わず怯む。

「ったく、仕方ねえだろ? かなりの人集りが出来てたし、声をかける暇も無かったんだからさ」

「むぅ〜〜」

 顰め面を浮かべて俺を見る。来るか鉄拳制裁と覚悟を決めていたが、そのままニコッと笑みに変え、早川はクルッと踵を返し「もうひとっ走りしてくるね」と言葉を残したまま、グラウンドの外へと走って行った。

「どうしたでやんすかね?」

「知らないよ。全く、変な奴だ」

 残された俺と矢部くんは、もう既に姿が見えなくなった早川が出て行った所を暫く見ていたのだった。

 

 十九時。

 ある程度の全体練習を終え、とりあえず今日のところは解散にし、俺は一人だけ残ってグラウンドに居た。誰もいないグラウンドの左右に立ち聳えるポールライトの灯りに照らされ、ブルペンには、野球ボールをいっぱいに積まれたカゴが足元に置いた。そして、周りを見渡して誰も居ない事を確認し、使いこなされた一球を手にとって、クルリと指先で弾いてピッチャーグローブでキャッチした。

「さてと、今日は七割の力で投げてみるとするかな」

 俺は一人、ピッチングの練習をしようとしていたのだ。ほぼ毎日と言っていいほど、聖を相手に数球程、投げ込んでいる。本来なら星が座ってる場所に、ボールネットをセットし、ピッチャープレートをスパイクで均す。小さくて短い息を吐い、リラックスして肩の力を抜く、指先にボールを集中させて、右の腕を振り抜いてみせた。

 ――バサッ。

 ボールがネットに収まった。速球は、およそ百四十後半辺りだろう。綺麗に腕を振り抜けた感じがした。

「まあ、七割でも違和感がない。若干力は抑えているから、威力こそないけど、コントロールには問題はなさそうだ。そうだ、久ぶりにアレでも投げてみるか」

 もう一球と、カゴからボールを拾いあげる。肩をゆっくりと回し、振りかぶった時だった。

「一人でなにしてるのかな?」

「――!?」

 声が聞こえ、驚き、慌ててしまった。投げたボールはネットから大きくそれた大暴投になってしまう。俺は声の聞こえ方に顔を向けると、そこには帰った筈の早川が制服姿でブルペンの中に入ってきた。

「早川・・・・・・? どうしたんだ?」

「どうしたんだって言われても、だって帰るとき、小波くんの姿が見当たらなかった無かったし、それにグラウンドの灯りが点いていたからね。しかして・・・・・・って思ったんだけど、やっぱりここに居たんだね」

「ま、まあな」

「見たところ、ピッチングの練習をしていたみたいだけど、肘の方は大丈夫なの?」

「ああ。こう見えて毎日ピッチングは欠かさずやってるんだ。って言っても、これでもまだ七割の力で投げてるんだけどな」

「そうなんだ。でも、無理は禁物だよ?」

「分かってるって。それより、明後日の流星高校戦は頼んだぜ。お前が頼りなんだから」

「うん・・・・・・」

「どうした?」

「ボクって通用するのかな? ときめき高校との試合、あんなに打たれちゃったから少し不安なんだよ」

 ギュッとスカートの裾を握りしめながら、早川は俯き加減で話した。

「通用するか、しないかじゃあなくて、通用するってポジティブな気持ちを持った方が大事だと思うぜ? 不安なのは俺もそうだ。ピンチの場面でエラーしないかとかチャンスの場面でチャンスを潰してしまうかもしれない、とか」

「小波くんでも不安になるの?」

「当たり前だろ! 誰だって不安なんだよ。でも、俺たちはチームなんだから誰かがミスをしたら俺たちで取り返す。助け合いってのが大事だろ? だから気楽に行くんだ。俺は一人じゃないってさ」

「・・・・・・そうだよね。ボクは一人じゃないんだもんね」

「そう言うこと」

「小波くん、やっぱりキミは優しいね」

「なんだ? どうかしたか?」

「ううん。なんでもないよ。ふふ、ありがとう小波くん!」

「いや、別に感謝される程じゃ・・・・・・。あ、そういえば早川。七瀬との自主練は上手くいってんのか?」

「えっ!? どうしてそれを知ってるの?」

「帰り道とか寄り道した時に、河川敷の上からお前らが居るの何度か見えてたからな。なにをコソコソしてるのか、聞こうと思ったけど、自主練だし、別に良いかなってさ」

「ふーん、そうなんだ」

 すると早川は、鞄を地面に置き、その鞄の中から緑色のグローブを取り出してみせた。

「ねえ、小波くん」

「ん?」

「どうせなら見てみる? ボクとはるかとの練習。どんな練習か。その成果を特別に見せてあげるよ」

「え? 良いのか?」

「うん。上手く行くか分からないけどね。とりあえず、小波くん。キャッチャーお願い出来るかな?」

「お、おう」

 俺は、言われた通りにキャッチャーの定位置へ向かい、早川がピッチャーマウンドの方へと移動したところで、俺は腰を降ろし、拳で叩いて合図してみせた。

「よし、来い!」

「行くよ!」

 早川は、右手にボールをシンカーの握りのまま上に上げて、合図を返してきた。そして、アンダースローから放たれた、今まで見た早川のシンカーでは無かった。鋭いキレ、落ちていくシンカーは、俺のグラブの先端を軽く掠っただけで、後逸してしまったのだ。俺は、唖然とボールの行方を目で追っていた。

「い、今のは・・・・・・高速シンカーだよな?」

 何度か星の後ろで、早川のピッチングは見せて貰っていた。今までのシンカーよりやや変化量や沈みは少なくなった分、球速や変化するスピードが増していて相手を凡打に討ち取りやすくなっていた。三振を築き上げるタイプじゃなく、打たせて取るタイプの早川の投球術に、最適な変化球だ。

「えへへ! どう? これでも、相当な苦労したんだけど?」

「正直、恐れ入ったよ」

「ふふ、ありがとう! でも、これでもまだ完成とは言えないんだ。もっともっと消化させなきゃダメなんだ」

「そっか・・・・・・。頑張れよ」

「うん!」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 暫くの沈黙が続いた。今思えば、こうして早川と二人きりで話をした事は少ない方だったので、出会って一年経過した今でも、という訳では無いが、俺自身、こう言う雰囲気は少し苦手だったりする。

「・・・・・・そろそろ、帰るか?」

「そうだね」

 俺と早川は、ボールとネットを片付ける。最後に早川が、ボールの入った箱を部室にしまう所を見ていると、さっきの高速シンカーの事を思い出していた。

 ここ数試合、極亜久高校の悪道浩平のドライブ・ドロップに、ときめき青春高校の青葉春人の真魔球とオリジナル変化球を投げてきた相手を見て感化されたのだろう。そして、並相当の努力と時間生んだ結晶なんだろう、と。相当頑張ったんだ。早川は、間違いなく進化している。早川だけじゃなく、星も矢部くんも皆も少しずつだけど変わって行っている。俺も、少しは変われているのだろうか・・・・・・。

 

 

 そして、俺たちは二回戦の相手である対流星高校との試合を迎える。先攻は、俺たち恋恋高校だ。

 ぐるりと辺りを見渡すと、観客席に座る人の数が一回戦とはまるで違った。恐らく一昨日の朝刊の記事を見て、早川を一目見ようと集まってきたのだろう。中には黄色い歓声を上げる者が混じっている。

「凄い数でやんす」

「ケッ! 俺はむさ苦しいオッさんじゃあなく可愛らしい女の子に応援してもらいてぇぜ」

 試合前の何気無い会話。いつも通りの矢部くんと星の会話に苦笑いを浮かべた。

「緊張するよ」

「あおいなら大丈夫!」

「はるか」

 後ろの方から、手首のストレッチをする早川と、スコアボードに相手チームのスターティングメンバーの名前を書き写す七瀬のやり取りに耳を傾けながら、自分のスパイクの靴ひもをキツく結んだ。

 そして、十三時半が過ぎた頃。プレイボールの合図のサイレンが鳴り響いた。

 

 

『恋恋高校の攻撃。一番、センター矢部くん』

 ウグイス嬢の声が、マイクを通して球場全体に響き渡ると共に、先頭打者の矢部くんが大きく気合いの入った声を出し、打席へと向かう。

 正直、打撃センスはないが、塁に出ることが出来たら、自前の脚の速さで相手をかき乱せるほどの実力がある。ここはどうしても塁に出て欲しい。

 対する流星高校のピッチャーは、三年の草元がマウンドに上がる。秋季大会、春季大会とこっそり試合を観客席から偵察し、ある程度のデータを集めてある。マックス百三十五キロの速球を投げ、コントロール、スタミナもDクラスであり、変化量もシュート、フォークと至ってシンプルな投手だ。

「プレイボール!」

 球審の掛け声と共に、草元は、利き腕である左腕のサイドスローで一球目を投げる。

「ストライクッ!」

 右打席に立つ矢部くんの胸元を抉るかのようなインローにストライクを決めた。絶妙なコースだったのだろう。矢部くんはしっかりと見送った。

 続く二球目。様子を見ようと外したボール球を思わず空振りしてしまいツーストライクへと追い込まれてしまう。三球目、大きく外れたシュートを見逃し、カウントがワンボール、ツーストライクとなり、ここで矢部くんはバントの構えをして見せた。

「おいおい! 矢部の野郎。何をバントの構えをしてるんだ? せめて、セーフティバントにしとけよ」

「いや、違う。星、見てみろ」

「あん?」

 俺は、星の肩を叩き、指を指した。その先を星が見る。ファーストとサードが、前進守備の体制になっていた。

「なるほどな。矢部がやろうとしてる事は、つまり、前の試合のときめきの三森がした事を真似たって訳か・・・・・・って事は」

「ああ、前進守備を誘ってのヒッティングする強襲作戦だ」

 四球目。緩いフォークボールが来たところで矢部くんは、すかさずバットを引き、バットにボールを当て、強い打球が生まれた。

 その打球は、思惑通り、前者守備をしていたサードへ意表を突いた。サードのグローブに当ててボールを落球させ、慌てて拾い上げたものの、矢部くんは、悠々と一塁ベースを踏んでいた。これでノーアウト、一塁。ここはすかさず盗塁で揺さぶりを掛けるぞ。

 その時だ。顧問を務める加藤先生が立ち上がった。何事かとチーム全員が視線を向ける。そして発せられた言葉は、ただ一言「頑張りなさい」と、だけ残し、そのまま加藤先生はベンチに腰を掛けた。

「・・・・・・」

 毎度の事ながら、仕方がなく俺がサインを出すことにした。出したサインは勿論、初球から走って行け、だ。

 そのサインに対し、一塁ランナーの矢部くんと、この試合から二番に座る海野が、コクリと頷き、ヘルメットのツバを触る。

 海野に対する初球。草元が投球モーションに入った瞬間、矢部くんは全力で駆け出した。流星高校から「走ったぞ!」との声が出る。慌ててボール球を放り投げ、キャッチャーが二塁へ投げようとした時、矢部くんは、既に二塁ベースにヘッドスライディングをしていた。

「ナイスラン!」

 見事、盗塁成功だ。恋恋高校のベンチが盛り上がると、ベンチ外の観客席からも矢部くんの走力に握手がパチパチと湧き起こった。ノーアウト二塁、海野が巧いバントを、三塁線に転がし、送りバントを成功させ、三番にはチャンスに強い星がバッターボックスへと向かった。

 草元は、いきなり先制点を取られそうなピンチの場面を迎え、焦りからか、中々ストライクが決まらず、スリーボール、ワンストライクからのフォアボールを星に与えてしまう。一死一、三塁の場面で、俺に打順が回った。

 初球の甘い球を見逃さなかった。低めの直球を掬い上げるかのようにバットを振り抜いた快心の当たりは、バックスクリーンに一直線な放物線を描くスリーランホームランとなり、初回から三点を先制する事が出来た。だが、後続が続かずに五、六、七番と凡打に打ち取られてしまい、攻撃を終える。

 攻守交代、俺たちが守りの守備に付くと、外野席は解放していないが、ほぼ内野側は満員と言って良いほどの観客からは、ザワザワし始める。早川がマウンドに上がるからだろう。

早川により一層の緊張感を与えなければ良いのだが・・・・・・。

 

「流星高校の攻撃。一番センター野沢くん」

 流星高校、先頭打者である野沢雄二が、バッターボックスに立つと同時に、目線をチラリと星に向けて、ニヤリと笑みを浮かべる。

「やあ、久しぶりだね。雄大」

「ああ、二年ぶりか? 雄二」

 野沢雄二。この男は、矢部、星と極亜久高校の悪道浩平と、同じ赤とんぼ中学出身だ。

「こうして、お前達と戦うことが出来て嬉しいよ」

「俺もだぜ。だが、テメェらには負けないぜ」

「勿論、俺もだ」

 バットを短く持つ辺り、ミートして確実なヒットを狙っているのだろう。もしかしたら痛烈な当たりが飛ぶかもしれねえ。と星は、野沢の構えを見て思考を巡らせる。

 星は、サードを守る毛利、ファーストの小波に、後退するように守備のサインを出した。

 早川が、投球モーションに入る頃、野沢は小さく星だけに聞こえるトーンで呟いた。

「なぁ雄大。守備を下げちゃっていいのか?」

「ど、どういうことだ?」

「俺、矢部より脚速いの忘れてないか?」

「――ッ!!」

 言葉を言い終えた時、既に野沢はセーフティバントの構えを見せていた。早川の球に合わせるように勢いを殺し、サード線ギリギリに転がして、毛利がすぐさま手で拾う。

「毛利くん! 間に合わないよ!」

「くっ!」

 星が指示した、後退守備が裏目に出てしまった。野沢の内野安打で、ノーアウトランナー一塁となってしまう。

「お? ボールを拾ってる。サードの毛利くん、打球拾うの速いね」

 余裕の笑みを浮かべながら、一塁ベースを踏みしめ、野沢が呟く。

「俺が毛利に、早川が投げたら前に走るようにあらかじめ伝えていたからな」

 小波が振り向きもせずに言う。

「なるほど。でも、残念だけど俺が、塁に出た以上は、必ずホームを踏ませて貰うとするよ」

 そして、二番打者であるファーストの大紀伊を迎えた。ドスン、ドスンと体が揺れそうな体格、まるで相撲部員なのでは、と疑ってしまう太った男が右打席に入った。

「さぁ! 来い!」

 太くて、大きな声をあげて、バットの先端を早川の方へと突き出した。早川が、一塁ランナーの野沢を見る。視線での牽制をしたが、野沢はその牽制に対してビクともせず、ただただニヤリと、いつでも走れるぞと余裕な表情で早川を挑発していた。

「むっ」

 対する二番打者の大紀伊への初球、深く体を沈めたその瞬間、野沢はスタートを切った。

「は、速い!」

 その反射能力の高さに、小波は驚きの声を上げた。早川が体を落とす瞬間のほんの僅かの隙を突いて土を蹴り上げ、二塁へと盗塁を狙う。

 もちろん星が捕球した時には、野沢は既に塁に到達していた為、投げることも出来ず、ノーアウトランナーは二塁とピンチを迎えてしまった。恋恋高校の誰もが、野沢の俊敏能力の高さは、矢部よりかなり上行くことを知らしめる。さらに、それから追い打ちを掛けるかのように続く二球目、俊足を生かして三盗を決めた。

 ノーアウト、ランナーは三塁。そしてカウントはツーボール。三球目は、詰まらせて内野ゴロで仕留めようとインコースに抉りこむように落ちるカーブを要求した。だが、その思いとは裏腹に大紀伊は、巨体な体とは思えないスイングをしてみせ、バットの芯を捉えた打球は、巨体な体には相応な痛烈な辺りを飛ばし、センターとレフトの間を豪快に破っていく。

「チッ! 打たれちまった。しかし、あの身体の大きさなら一塁で止ま・・・・・・」

 マスクを取りながら星は舌打ちを鳴らしながら打球の落下地点を遠くから見つめ、チラッと大紀伊に目を映すと、言葉が止まった。何故ならば、巨漢の大紀伊は、既に一塁を野沢と変わらない速さで一塁を蹴り上げており、二塁を狙っていたのだ。

 ノーアウト二塁。未だピンチは続く。三番、キャッチャーの飛来松が左打席で構える。やる気満々だ。このピンチをどう切り抜いて行くかどうか星は頭を悩ましていた。

 



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第21話 VS 流星高校 Ⅱ

 初回、三点を先制した恋恋高校ではあったのだが、流星高校の持ち味である走力を生かした攻撃にかかってしまった。

 ノーアウト二塁と言う場面では、三番打者の森内が早川の投じた変化球のカーブを丁寧に、ライト前に弾き返すタイムリーヒットを打つと、続く四番打者の永作が、サード毛利に対して意表を突くセーフティバントを成功させる。

 あっという間に点差は一点に縮められてしまった。

 先程までの気楽さなど恋恋高校のメンバーには誰一人持ち合わせては無く、グラウンドには緊張感が張り詰める中、流星高校のベンチでは雄叫びを上げ、更にプレッシャーを与えていく。

「これで、流れはウチに来たな!」

 一番打者である野沢が、ポンと肩を叩きながら声を、一人の男に声をかけた。

「それはどうか怪しいぞ。試合は終わっていない。まだ、分からないさ」

 声を掛けられた男が返事を返すが、その表情は笑っている様にも見て取れる。ニヤリと口角を吊り上げながら、右の膝にグローブを載せ、左脚ではリズミカルにリズムを取っていた。

「何せ、相手には、中学野球時代で、あの猪狩守に次いで有名な『小波球太』が居る。お前も見ただろ? 草元先輩がスリーランホームランを打たれたのを彼は、どういう訳か知らないがピッチャーとしてマウンドには上がっていない。だが、ピッチング以外にも打撃面でもかなりのセンスの持ち主だ」

「何ならさ。その草元先輩が打たれる前に、お前自身が小波達を抑えてしまえば良い話しじゃないのかよ? なぁ、海里」

「いやいや、無茶を言うなよ。草元先輩は三年生、今年がラストイヤーだ。同じピッチャーだし、お世話になった先輩に華を添えて上げたいと言う強い思いがあるからこそ、俺はこうしてベンチで見てるんだぞ?」

 相変わらずつれない奴。

 野沢はそう思いながら「はいはい」と声を漏らしてベンチに腰を下ろした。

 そして、たった今、野沢が海里と呼んだ男・・・・・・。

 本名は花沢海里。

 流星高校の二年生でポジションはピッチャーを務める。

 球速は、ズバ抜けて速いという訳ではない。

 ゆったりとしたピッチングモーションから繰り出す、カーブ、スローカーブ、スクリュー、チェンジアップと言う多彩な変化球と緩急のついた球を放る左腕だ。

 去年の成績では、公式戦、練習試合を含めチームの勝ち頭となるほどの勝ち星を重ねるが・・・・・・。

 去年の暮れの事、変化球の精度を高める練習が仇となり膝を痛めてしまったのだ。

 春の調整では、左腕から繰り出すカーブを武器に、打者を翻弄するが、突然コントロールが乱れて降板、と言うケースが多々見受けられ、今大会の背番号が決める時、花沢自ら、エースナンバーを辞退し、三年である草元に譲ったと言うエピソードがある。

「まあ、草元先輩が崩れる前に、向こうの女ピッチャーが崩れるだろうから、コールドになる前に、一度投げてみたらどうだ?」

「雄二・・・・・・。お前ってヤツは、一体、どこまでもマイペースなやつなんだ?」

「言ったろ? 流れはウチに来てる。俺は、ただ流れを切らさないように士気を高めてるだけだって」

「全く・・・・・・お前みたいなヤツはな。その内、痛い目に遭うんだからな」呆れ顔を浮かべ、不意に立ち上がった。

 トイレか、あるいは水分補給をする為か、或いは野沢のマイペースにうんざりししたのか・・・・・・。

 だが、グローブを手に取った花沢は、プルペンの方へと脚を進めて行った。

 

 

「早川、気楽に行くぞ!」

 タイムアウトを取った恋恋高校。内野がマウンドにいる早川を囲む様に、打開策を練ろうとしていたが、誰も無言のままだった為、痺れを切らした星が早川に声を掛けた。

「う、うん」

「あのな・・・・・・星。ここは、どっちかと言えば、気楽と言うより気合だろ?」

 横を向くと、いつも通り優しい表情を見せる小波が腕を組みをしていた。

「確かにピンチだ。ピンチだけど、この場面でどれだけ自分の持ってる最高のピッチングが出来るかどうかだぜ」

「とは言っても、そう上手く行くかな?」

「良いか? 早川。勝とうと思ってない奴は、勝てないぞ? それは言い方は悪いけど、敗退行為ってやつだろ?」

「――ッ!!」

 小波の言葉に、誰もが驚く。

「お、おい! 小波、テメェ! それは何でも言い過ぎじゃあねえのか!?」

「星くん。大丈夫だよ! そ、そうだよね。小波くんの言う通り。ボクは、勝ちたいと言う気持ちは確かに在るけど、不安の方が大きかったから、切り替えて投げるよ」

「おいおい・・・・・・正気かよ、早川」

 目を点にしながら、星はあんぐりと口を開けたまま呆れた顔で見つめていたが、小波が依然として笑みを崩さずに居た事が気になった。

「気合、入れたからな。早川、しっかりここは抑えてくれよ」

 小波が大きな手で早川の背中をポンと軽く叩いた。すると早川は帽子のツバの位置を治しながらしっかりとした定位置を確認し、青空の様な青い瞳はより一層キリッとしまった。

「よし! 皆! ここからは打たせて行くからしっかり守ってね!」

 ここでこの試合初めて、早川から野手たちに向けての言葉が出て来た。その声を貰った野手たちは、早川に負けじと大きなレスポンスを返した。またも、唖然とした星は、ニヤリと笑みを浮かべて定位置へと戻る小波に目を移す。

「あの野郎、早川に気合を入れさせる為、ワザと厳しい言葉を言いやがった訳か。ったく、恐れ入っちまうぜ。早川だけじゃなく、他の野手たちにも気合を入れさせるンだもんな・・・・・・。いやいや、俺たちのキャプテンは怖ェぜ、全くよ」

 マスクを着用し、星も踵を返してキャッチャーの定位置へと足早に歩いて行くのであった。

 

 

 

 小波の言葉を受け、早川は自信を持った投球を見せる。ノーアウト一、二塁のピンチの場面を迎えながらも力強い、自慢のコントロールの良さを見せつける様な、際どいコースに投げ込むピッチングで、後続を凡打に抑え込んで流星高校の攻撃は終わった。そして、二回の表の恋恋高校の攻撃は八番・ライトの古味狩から始まる。

 草元の左腕から繰り出すサイドスローに全く手が出せない古味狩は、四球目に放り込まれたシュートを引っ掛けてしまい、サードゴロに倒れ、ワンナウトとなり、次は九番の早川あおいが打席へと向かう。ウグイス嬢に名前を呼ばれると、スタンドからはたちまち割れんばかりの歓声が飛び交った。

「おっ! 出て来たな。今、頑張地方を飛び出して全国的に話題の早川あおいがよ」

 耳を覆いたくなる程の歓声を浴びる早川を三塁側の観客席に腰を下ろしながら、一人の青年が揶揄っているように意地悪い笑みを浮かべながら呟いた。

 その青年は、球八高校の野球部員である塚口遊助だった。

「それもそうだろ。高校野球に女子が出場してるって前代未聞な事だぞ? それにしてもピッチャーで、今時では珍しいアンダースローとはビックリだよな?」

「そうかァ? アンダースローなら、嫌というほど、毎日拝んでるだろ?」

「あっ! そっか! そう言えば、智紀のヤツもアンダースローだったな」

 塚口がケラケラと笑う。そして、それを隣に座る青年が、片眉を釣り上げながらため息を漏らした。夏服の制服を第二ボタンまで開き、中には赤いシャツを着ていて、高校生ながら両方の耳朶には黒いピアスが開いてあり、一見、不良にも見える。手に握るスポーツドリンクのペットボトル飲料を口に流し込みながら、グラウンドに目を向けていた。この男も塚口遊助と同じ球八高校の二年生で、名前は滝本雄二だ。

 恋恋高校と流星高校の次の試合が、球八高校とそよ風高校の試合を迎える為、二人は偵察を兼ねて、試合を観戦していた。

「どうだ? 滝本。本職のキャッチャーであるお前から見て、早川あおいのピッチングってのは、なんかグッと来るものでもあるか?」

「正直言えば、特にない」

 滝本と呼ばれた男は、すぐ様答えた。

「まあ、わざわざ比べる程じゃないが・・・・・・・、ウチの智紀のピッチングの方がリードのやり甲斐があるな」

「なるほどな。データを見るとカーブ、シンカーしか変化球を投げられないらしいし、それに比べて智紀は豊富だしな! なんて言ったってアイツにはアイツしか投げられない決め球があるからな」

「・・・・・・そういう事だ。ここぞ、という時に決める事の出来ない決め球がないピッチャーは、所詮、そこまでのヤツだ。決して高みを目指す事は出来やしないんだ」

「ほほう。それは、それは厳しい一言だな」

 またしても塚口がニヤリと笑う。滝本は、気にも止めずに鼻で「フン」と鳴らし、もう一口と、ドリンクを喉に流し込みながらグラウンドの方へと目を向ける。しかし、その目は、何処か遠い昔を思い出しているかの様に、ぼっとした瞳を浮かべていた。

「なあ、滝本。智紀のヤツは、まだ来ないのか? 一回戦の時もそうだったけど、アイツ恋恋高校の試合を随分気にしてるんだが、何かあるのか?」

「さあな、そこんところ俺も良く分からん。だが、アップ前に偵察にして来い、と珍しく指示をしたって事は何かあるんだろうな」

 滝本は興味を示さずに素っ気なく「どうでもいいけどな」と付け足すと、塚口は気になってしまったのだろうか、顎を撫でながら、智紀は実は早川あおいが気になっている、本当は恋人関係、など、試合に関係ない事ばかり思い付いていた。

 

 

 そんな考え事など、試合には一切関係なく進んで行った。

 対する流星高校のエースナンバーを背負う草元の気迫のこもったピッチングで恋恋高校打線を封じて行くが、それに負けじと早川あおいも本来以上のピッチングで要所要所締めて行き、気が付いた時には九回の表の攻撃まで進んでいた。

 九回の表、先頭打者である古味狩の第四打席を迎える。ここまで四打席ノーヒットと抑え込まれているが、簡単にツーストライクに追い込まれた後、インコースへ厳しい変化球を空振りし、三振に倒れてしまいワンナウトとなり、草元の球数は百四十九球を超えた。

「草元さん・・・・・・」

 ブルペンでは花沢海里が見守り、センターを守る野沢雄二も心配そうに、その背中を遠くから眺めていた。

「草元先輩ッ!! ここは踏ん張って下さいッ!! このまま一点差なら、最終回でサヨナラ勝ちをしてみせますッ!!!」

 誰もが見守る中、九番打者の早川が打席に立った。

 その初球だった。

 疲労から手元が狂ってしまい、抜けた甘い球を見逃さなかった早川は綺麗に、センター前に弾き返した。

「ナイスバッティングです! あおい!」

 恋恋高校のベンチでは、マネージャーの七瀬が大きな声を挙げて、バッティングを讃えた。

「今のは確かに甘い球を見逃さなかった早川のナイスプレーだ。早川の集中力はまだ切れちゃあいねェぜ!」

 星も続いて、喜びの声を上げる。それを見て小波は一人だけニヤリと笑っていた。初回の流星高校の攻撃の時、マウンドに集合して気楽よりも気合を入れさせた小波だが、この効果は薄れずに今も尚、チームのモチベーションをも持続させていると言う事に対して笑っていた。

 続く、一番打者の矢部が右打席に構える。ワンナウト一塁の場面、矢部は手堅く送りバントを決めて、星へと打席を繋ぐ。ランナー二塁と言うチャンスの場面、ここで、自前の勝負強さを持つ星が打席に立つ。疲労感に尋常じゃない程の汗をアンダーシャツで拭う草元、抑えればチームが点を取ってくれる、まだ最後の夏にはしたくない、とまだ勝負を諦めてはいないものの、拭った汗と共に目には涙と思われる結晶が溢れていた。ここは抑えたい、抑えて次に勝ち進みたい、だからここで渾身のストレートを投げ込んでやりたいと言う、投手としてのプライドと三年生と言う最後の年の意地を持って、星へ投げ込んだ。

 しかし、草元の気持ちを打ち砕くかのように勝負強さを持つ星に、真芯を捉えられる快心の一撃を打たれてしまった。快音を残した痛烈な当たりは、センター野沢の頭を軽く超えて行った。その当たりを見た誰もが、これはホームランになるだろうと思っていたのだが・・・・・・。

「チッ・・・・・・。真芯を捉えたって言うのに手応えがねえ!」

 星が舌打ちを鳴らした後、歯を食いしばり悔しさと共にボソッと漏らした。手応えがない言葉通り打球は段々と減速し始めている。ツーアウト、ランナー二塁の早川は構わずホームベースを踏んでいた。ホームランなら二点、フェンスに当たれば一点の追加となるが、センターを守る野沢は、打球の減速とは真逆で、打球を見ず全力疾走をしフェンスへと向かっていた。

「星、お前の勝負強さは意外だった。こんなにも苦戦を強いられるとは思わなかったぜ! だけど———!!!」

 そして、野沢はフェンスの前に辿り着くと勢い良くフェンスに飛び乗ったのだ。顔を上げると、既にボールは、すぐそこまで落ちてきていた。見送ればホームランと言うボールをフェンスから体を乗り込ませて腕を伸ばしてグローブを突き出した。ボールは見事にグローブへと収まった。

「――グッ! 海里に言われた通り、痛い目に遭うってのは重々承知だッ!! 俺たちだって、そう易々と勝ちを譲れんねェーンだ!」

 ギュッとフェンスの上部を強く握り締める。手を離して落ちてしまえばホームランになってしまう。離さないように、離さないようにと野沢は体を勢い良くグラウンドの方へとジャンプさせて着地し、グローブを高く突き上げた。

「アウトッ!!」

 駆け寄った塁審が高々と張り上げた声で叫ぶと同時に、「ワァー」と響めきが起きた地方球場、野沢雄二のホームランボールを取ると言うファインプレーで、恋恋高校は追加点を挙げることが出来ずに攻撃を終える。

「ナイスプレーだ、野沢!」

「草元先輩もナイスピッチングですよ!」

 野沢と草元は互いに顔を合わせた途端、ニヤリと笑ってハイタッチを交わす。それを花沢海里がブルペンから微笑ましく見つめていた。

 

 

「畜生ッ!! 雄二のあのプレーと言い、草元の気迫の篭ったピッチングに気持ち負けと言い、流星高校は未だ負けを認めてはくれてねえみてェだな・・・・・・」

 野沢雄二を睨みながら、星は悔しさにベンチへと引き下がっていた。歯を食いしばり手に握るバットのグリップを力強く握り締めていた。ベンチに戻ると矢部がキャッチャー防具を手に持っていて星を待っていた。

「ドンマイでやんす!」

「ドンマイ、なんて呑気な事言ってンじゃあねェよ! 雄二と草元にやられたンだ!!! 当たりこそ良かったものの・・・・・・奴らの執念ってやつか? 負けねェぞっていう気持ちに負けちまったぜ」

「星くん・・・・・・。悔しいでやんすか?」

 嬉しそうに矢部が問いかける。

「当たり前だろッ!!!」

「星くん。中学生の頃とはまるで別人の様でやんすね」

「あん? 急に何言ってやがンだよ? テメェは、一体何が言いてえんだ?」

「中学時代は負けるのが当たり前だったから、負けていても悔しさなんて微塵も感じ取れなかったでやんすが、今はこうして悔しさを滲ませてるでやんす」

「お、おう。だからなんだ?」

「変わったなあと思っただけでやんすよ。ま、オイラは今の星くんの方が好きでやんす」

「す、好き!?」

「あ、今のは告白ではないでやんすよ?」

「ンなこたァーーー分かってるわッ!!! テメェ、俺の事をバカにしてンのか!?」

「ひぃ〜〜!!! 怖いでやんす!!!」

 星は、顔を真っ赤にしながら怒り、矢部は慌てながらベンチを飛び出してセンターへと思いっきり走って行った。しかめ面で渡された防具をつけて行くと、小波が肩をポンと叩いたが星の顔を一切見ていなかった。

「え〜と、その・・・・・・なんだ? まぁ、俺は男同志でも何とも思わないから」

「はっ?? ちょっ・・・・・・小波!?」

「矢部と星の二人なら、これから仲良くやっていけるさ」

「や、山吹まで!?」

「末永く仲良くやるんだぜ?」

「海野ッ!? テメェまで!!」

 小波に続いて、山吹、海野が星に向けて祝福混じりの嫌がらせの言葉をかけ、グラウンドへと向かっていく。その横で後輩である赤坂はクスクスと笑みを堪えきれずに吹き出す。

「早く守備につけよッ!!! からかってンじゃあねェぞ! テメェら!」

「まあまあ、落ち着いてよ! 星くん。みんな冗談で言ってるんだから間に受けちゃダメだよ」

「分かってるって! ああ、もう! からかわれるのは苦手だぜ。それより早川、次の回は締まって行くぞ。抑えれば三回戦だ」

「うん、そのことなんだけど。小波くんには話をしてるんだけど、ボクの新しい球種をサインに追加してくれない?」

「ん? 新しいサイン?」

「うん。この『高速シンカー』を今日の試合で試したいんだ」

「高速シンカー?」

「ボクがずっと練習して来たこの球で抑えるよ!」

「良し、分かった。不安はあるが、やってみようぜ!」

「ありがとう!」

「そして、勝つぞ! この試合!」

 

 そして、一点リードし、最終回。

 九回の裏の流星高校の攻撃を迎える。

 この試合、幾度なく投げて来たシンカーを凌ぐ、早川あおいの新種の『高速シンカー』を前に全く手が出さず流星高校の打線を封じる。ショートゴロ、ファーストライナーで打ち取り簡単にツーアウトへと持ち込んだ。

 そして、五打順目を迎える一番の野沢雄二が打席に入った。

 流星高校のベンチではラストバッターの野沢に向けて意地でも出塁しろと声を投げかける。

「さっきはナイスバッティングだったぜ、雄大」

「ケッ! それはこっちのセリフだ。決めたと思った俺のホームランを取りやがって、ナイスファインプレーだったぜ、雄二」

「正直、出来たばかりの経験の浅いチーム相手には余裕で勝てると思っていた。だが、お前たちの方が上手だったな。油断してた」

「へっ! そいつはありがとよ」

「だけど、未だ終わっちゃいないぜ!」

 対する野沢雄二に、早川あおいのHシンカーが突き刺さる。インコースの低めに決まってストライクコールが鳴った。

「彼女・・・・・・。こんな球を投げてたか?」

「これは早川の新しい球種だ。俺たちは、確かに出来て未だ一年しか経ってねェチームだ。だけよォ、こうして今も成長してるんだよ」

 二球目。緩いカーブをヒッティングするがファールゾーンへと一直線でツーストライクへと追い込む。

「雄大。お前も変わったんだな」

 今打った打球を目で追いながら呟いた。

「お前も言うのか。それはさっき矢部の野郎にも言われたよ。俺は変わったのか? 何が変わったのか今一つ自覚はねえな」

「変わったさ。前よりも手強くなった」

「そうか? お前に強くなったって言われて少し薄気味悪いけど、今日くらいは素直に受け止めてやるよ」

 そして、三球目。早川は渾身の力を込めたHシンカーを投じる。キレがあり球速を上げたシンカーは野沢の視界から消えるようにストンと落として空振りを誘った。

「ストライク! バッターアウト! ゲームセット!!」

 球審の叫び声が響く。野沢雄二は空振り三振に倒れ、恋恋高校が二回戦を制し三回戦へと勝ち進む勝利を収めた。

 

 

 

 恋恋高校が勝利を収めた同時刻。第二地方球場では同じ三回戦進出を決める試合が行われていた。極亜久高校対きらめき高校の試合だ。スコアボードには九対二と点滅していて、極亜久高校を制したのはきらめき高校だった。

「いや〜快勝快勝ッ!」

 きらめき高校三年生でありチームの要を担う目良浩輔がタオルで汗に塗れた顔を拭いながら笑う。汗に濡れた茶髪の髪の上にタオルを置いて応援してくれていた観客席に向かって一礼をした後、次の試合の為に荷物を片付け、ベンチを空けようとしていた。

「おッ!? 見てみろ彰正! 彼処にいる子、超可愛くねェか? どこの学校だろうな? なあ、後で声でもかけてみるか」

「浩輔。いい加減他校の生徒をナンパしようとするのは辞めろ」

「あん? 別に良いじゃあねェかよ! 男は、女好きって言うのが鉄則だろ? なぁ、そうだろ? 春海。後でお前が声かけて来いよ。お前は童顔だし、それに女にモテるだろ?」

 ニカニカ笑う目良浩輔とは対処的に呆れた顔をする親友の館野彰正だった。

「お、俺はそんなにモテないですよ! それに、俺は今は野球の方が大事ですから」

「おいおい、真面目過ぎるだろ・・・・・・」

「お前が不真面目過ぎるんだ、浩輔。今のは春海の答えが正しいぞ」

 すると、館野彰正はポンと、目良浩輔の頭をグローブで軽く叩いた。

「あっ! こんな所にいた! 早く空けないと次の試合の邪魔になっちゃうから早く更衣室に荷物運んで!」

 そこにマネージャーを務める高柳千波がやってくる。高校三年ながらも高校生とは思えないルックスで一際、大人の雰囲気が漂う。

「千波ッ! 今日のお前は、また一段と可愛いじゃあねえか!」

「それはどうも、浩輔くん」

「だからさ、今日の勝利を祝って俺とデートしようぜ!」

「お断りします」

「・・・・・・釣れねェな。なら、俺と付き合わねェか?」

「お断りします」

 ニコリと満面の笑みで千波は断る。

 それでも決してめげることの無い目良浩輔だか、これはきらめき高校の野球部員にとっては日常で何度か目にしてる光景なので、もう既に慣れてしまい、今は誰も気にしない。

「あの・・・・・・目良先輩? 弟を目の前にして、堂々と姉さんに告白するのだけは、辞めて貰えませんか?」

「なんだよ。照れてんのか? 春海」

「違います!」

 これもいつもと変わらないやりとりである。

「あ、そう言えば春海。さっきの速報で恋恋高校と流星高校の試合、球太くんのチームが勝ったみたいだよ!」

「そうか! それは良かったよ!」

 高柳春海は笑った。リトルリーグ時代からの親友である小波と戦えるという喜びを噛み締めながら野球道具を手に握りしめ、きらめきナインはベンチから去っていた。

 しかし、これから起きる恋恋高校に不幸が起きるという事など、今現在、誰も知る由も無かった。



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第22話 恋恋高校野球部の最大の危機

 部屋の窓をリズミカルに叩く音が聞こえ、それは次第に大きくなるに連れて嫌気がさした俺はゆっくりと目を開けた。

 枕元に置いてある時計を眠気まなこを凝らして覗き込むと、時計の針は、午前五時を回っていた事に気付いて、「はぁ〜」と大きな溜息を漏らした。

 まだ学校に行くまで二時間半も時間が余り、昨日の試合での疲れた身体を充分に休ませられた筈なのにと、ベットの上に胡座を掻きながら、タンタンと、打ち付ける外へと目を向けた。

 昨日の曇りから天気は雨に変わったようだった。

 昨日の試合では、一点差を見事、逃げ切る事が出来て三回戦進出を決めた俺たちだが、次の相手は幼馴染である高柳春海が居るきらめき高校に決まった。

 春海の持ち味は、確実に臭い球をもミート出来る正確なバットコントロールと絶好球を狙ってくるまでカットし続ける粘り強さまで兼ね備えている。

 パワーの面では、真芯で捉えてもスタンドまで届かないが、それなりにパワーがある為、ピッチャーに取っては嫌なバッターである。

 その上、上級生である目良浩輔に館野彰正も今では、スカウトが声を掛けでプロ入りにアプローチを持ちかける程の話題性と実力をも持ち合わせている。

 恐らく今までの戦い方では、一筋縄では行かないことは明確だ。

 どう戦って行くという戦略は正直言って立てにくいが、兎に角、此処まで勝ち進んで来たならば挑むしか無い。

 二階にある自分の部屋をスウェットを着たまま降りて行く。

 まだ両親は寝ているだろうから音を立てないようにとスリッパを履いたまま階段を降り切り、玄関のポストに投函されたビニール袋に包装された新聞を取り出してリビングへと向かった。冷蔵庫からスーパーで購入したティーバッグで作った専用のウーロン茶をグラスコップに注ぎ、ビニールを破り捨て、頑張地方のスポーツ欄で地区の高校野球の結果の一覧表を俺は真っ先に開いて覗き込みながらウーロン茶で寝起きで渇いた喉を潤した。

 「恋恋高校勝利ッ! 早川あおいの好投!」と掲載されている記事が飛び込んできた。

 一試合目の記事よりやや見出しは小さくなったもののしっかりと早川に関する記事が載っていた。

 そして、次に飛び込んで来たのは「山の宮高校の快進撃!? エース・太郎丸龍聖 MAX百四十九キロをマーク!」と言う見出しだった。

 西地方を制している強豪、西強中学出身の太郎丸龍聖が去年の夏の大会前に頑張地方の山ノ宮高校に編入して来たと言う情報は、春海から少しは伺っていたが全くのノーマークだった。猪狩守以上を上回ると言われている太郎丸龍聖のポテンシャルは、既にプロ以上と言う声も少なくは無い・・・・・・そして同じブロックであり、このままお互いが勝ち進めば当たるのは準決勝だ。その後の決勝戦はあかつき大附属が上がってくるだろうから、体力的にも精神的にも用心は必要だ。

 午前七時半が過ぎ、俺は雨が降り注ぐ絶賛雨天の悪天候の中を透明なビニール傘を広げて学校へと歩き出した。

 正直、こう言う雨という日は心が晴れるは一切起きない。

 ましてや昨日の試合での疲労は回復するどころか蓄積されて振り返して来るのでは無いだろか、と思う程だ。

 そして、いつもなら三十分。

 今日は雨の日だからという訳ではないが、足取りが重いせいで四、五十分もかかってしまい、昇降口にたどり着いた時には周りは誰一人として姿が見えなかった。

 ふと柱時計を眺めると八時十分を過ぎていた為、ホームルームが始まる五分前だという事を今此処で気づいた俺は、足早で教室へと向かった。

 

 

 

 小波が学校に着いた同時刻。頑張地方で唯一の盛んな地域であるデパート街付近の一角の高層ビルのとある一室が貸し切られ、そこでは会議が行われていた。

 会議室の中では、異様に満ちた張り詰めた空気が漂っており、堂々と声を上げて喋るものは一切誰も居らず、コソコソと隣の人物に耳打ちをして話をしている景色が見えていた。そこには、恋恋高校の監督・顧問を務める加藤理香の姿があった。加藤だけではなく、あかつき大附属高校の千石など地方ブロックの各監督を務める者、関係者が集まる中、一人の中年男性がドアから入り、真ん中の席に腰を下ろして咳払いを一つ零し、注目を向ける。

「お忙しい中、わざわざ集まって頂いた事に感謝致します」

 前置きを話しながら、周りを見渡した後、浅く頭を下げ、言葉を続けた。

「此処に集まって頂いた理由は、既に後存知かとは思いますが、改めて言いますと恋恋高校の女子生徒である早川あおいさんの甲子園予選地方大会での出場問題についてです。各メディアでも取り上げられ、今では、ほぼ全国に広がって波紋を呼んでおり、連日、高野連本部にも問い合わせが殺到しまして・・・・・・本日、高野連理事長から決断が下された為、ここで発表させて頂きます」

 中年男性は、一つの用紙を手に握り、キョロと辺りを伺う。皆、ゴクリと息を飲んで、その発表を待つ。

「苦渋の選択ではあるが、恋恋高校に出場停止処分を命じる、との事です」

 言い終わると共に、会議室は忽ち、ザワザワと声を立てる。中に居た高校野球専門のメディア人は「急いで会社へ戻れ! 号外だ!」と足早に出て行く者、その場で会社に電話して一面を取る様に命じる者が居た。周りが慌ただしくなる中、加藤理香はジッとしたまま、窓の外の降り続く雨模様をただただ見つめているだけだった。

 

 

「小波くん、さっきから何を見てるの?」

「ん? ああ・・・・・・別に何も?」

 昼休みの時間。

 俺は、窓の外を見ていた。

 矢部くんと学食での昼食を食べ終え、自分のクラスに戻った直ぐに、早川と星、七瀬が教室に入って来て談笑を交わしていた所だった。

「それで? 小波くんはどう思う?」

「どう思うってなんだ?」

 聞いていなかった為、早川の質問の意味が理解で無いまま、質問を質問で返してしまった。プクッと両の頬が膨れ上がった為、直ぐさま悪いと笑いながら言った。

「もうッ!! 十月にある修学旅行についてだよ! 自由行動の時、皆でどこ行くかを今、決めてたんじゃない!」

「そうだったっけ? それより、俺と早川はクラスが違うだろ? 一緒に行動出来るもんなのか?」

「忘れたでやんすか? オイラ達、二年生の男子生徒は七人しかいないでやんす。オイラは小波くんと同じクラスでやんすが、星くんは男子生徒がたったの一人でやんすよ? ちなみに星くんはクラスでは浮いて――」

「はぁ? 浮いてなんかいねえけどッ!? ちゃんと地面に足ついてるけどッ!? 別に俺、一人でも平気だからな! って言うか、クラスの女子達から俺、メッチャモテモテだから!!!」

 明らかに意地を張った星の主張。明らかに平気では無いな。目が若干泳いでるし・・・・・・。

 それに、まず星の性格からすると、栗原と七瀬など女の子らしい女の子に対しては、言葉が変になりキャラを忘れる程、ド緊張するタイプだ。たが、早川や高木幸子などには平気で話を掛けれるのは恐らく、二人は少し男勝りであるから星の緊張してしまうラインには含まれていないのだろう。こんな事は、声に出して言っちゃダメだな・・・・・・。そして、決定打となる事実がある。先日のときめき青春高校戦での早川の見出しで野球部員だった事すら知られていなかった事からすると、クラスメイトに全く興味さえ持たれていないという事なのだから、それは仕方が無い。

「つまり、このままだと星は、男一人で孤立して、一人ぼっちで、誰からも声も掛けられず、声を掛けてもらえない可哀想なまま、一人で修学旅行を過ごす事になるから、仲の良いメンバーと行動出来るようになった訳か」

「オイ、小波ッ!! テメェ、さっきから一人、一人って強調して言うんじゃあねェよ! 悲しくなるだろうが!」

「悪い悪い。ところで、皆は行きたい所とかあるのか?」

「ボクは動物園とか行ってみたいな」

「オイラは、アニメグッズ専門店に行きたいでやんす!」

「俺は、美人の女の子が居れば文句はねえよ」

「私は、あおいと一緒なら何処でも大丈夫ですよ」

 それぞれの返事が返ってきた。恐らくこのままだと動物園で決まりみたいなもんだろ。星と矢部くんの意見の受理など早川の前では決してされるわけが無い。

 俺は正直に言えば修学旅行とか興味ないから行く場所は何処でも良かったりするという事を言わずに話は進んでいくのだが・・・・・・。ここで矢部くん、星、早川の三人が自分の行きたい場所を主張し始めた。互いに一歩も引かない。それを見て俺は、呆れながらも少し吹き出してしまいそうになった。

 部活や試合の時でも良く思う。俺たちのチームはかなり良いチームだと胸を張って言える。

 確かにまだまだ実力こそ無いが、ここからどんどん成長し続ければ、強豪相手でも良い試合が出来そうになるチームだって・・・。だから、次の三試合目の春海との戦いに勝って更に自信を付けたいと言う気持ちと、春海との戦いを楽しみたいと言う闘志は胸に秘めたままでいる。

 そして、その思いを打ち砕くかの様に放送が流れだ。

『二年D組の小波球太くん。至急、理事長室までお越し下さい』

 教職員の声で名前を呼ばれると、クラス中の視線は一斉に此方へと向かれていた。

「ん? 今、呼ばれたのって俺の名前か?」

「ああ、小波。テメェの名前だったぞ? オイオイ、何か良からぬ事でもやらかしたんじゃねェだろうな?」

「まさか、星くんじゃないでやんすよ? きっと授業中の居眠りが原因で、痺れを切らした先生が抗議して呼ばれたでやんす」

「ンだとォ? 俺じゃないってどう言う事だァ!?」

「・・・・・・」

 本人を前にこの言われようである。

 しかし、俺には呼ばれた理由は少し分かっていた気がした。

 恐らく、連日の新聞で、取り上げられている早川の件についてだろう。

 女子である早川の登板による規則違反という事での何らかの厳重注意はあるのではないのだろうかと、ときめき青春高校との戦いの後である程度の覚悟は決めていたが・・・・・高野連の本部でその処分が下されて学校に連絡が入ってキャプテンである俺を呼んだようだ。

「ねぇ・・・・・・小波くん? 大丈夫?」

 教室のドアへ歩こうとした時だった。

 ギュッと肩口を掴む早川。

 表情は強張り、小さな手は小さく短めに震えていた。

 俺は、早川の顔を見て、こんな早川の顔は見たく無いと直感的に思いながらも、心配かけまいと笑いながら「大丈夫、心配すんなよ」と肩を叩いて、俺は皆の居る教室を後にした。

 

 

「言いにくい事なんだが、出場停止処分・・・・・・だ、そうだ」

 開口一番、理事長を務め彩乃の祖父である倉橋氏が重たく冷静に言いながら、FAXで送られてきた内容文の書類を机の上にソッと置きながら言う。同時に呼ばれた加藤理香先生も、丁度理事長室に居た倉橋彩乃もただ黙ったままその場に立ち尽くしていた――勿論、俺も言葉が出なかった。

「初戦と言い昨日の試合と言い初出場ながらも好戦を見せつけてくれて、恋恋高校に話題性を集めてくれた事には大変感謝してるが、この件に関しては、流石の私も高野連に言い返す事が出来なかった事を分かってほしい」

「・・・・・・はい」

「だが、高野連も鬼じゃ無い。異例の処置を提供してくれた。早川くんの登録を抹消しての再登録を認めてくれる様でね? そうすれば明後日の三回戦の試合には出れると言う事だ」

「・・・・・・」

 早川の登録を抹消。

 この言葉は早川あおいを野球部員としては認めないと言う意味だ。

 これを認めて再登録を願い出てしまったら、去年の春、確執があった早川の友人である高木幸子との和解が成立し、再び野球を始める事が出来た早川から再び野球を奪う事になってしまう――。

 それだけは、絶対してはならない。

 なら、答えは一つだ。

「・・・・・・分かりました。早川は、俺たち恋恋高校の野球部員の大切な一人です! 早川だけが抜けると言うことで、処罰が免れるのなら俺たちは、大会を辞退します!」

「——なッ!!」

「――ッ!! 小波くん!!」

「き、球太様!?」

 加藤先生と彩乃が、同時に叫んだ。でもどうする事も出来ないのが現状だった。

「ほ、本当に良いのかね?」

「はい、お願いします」

「・・・・・・解った。高野連の本部には私から直筆のコメントを添えて送ることにする」

「・・・・・・はい。お手数をおかけします」

 クルッと踵を返し、俺は「失礼します」と頭を下げ、理事長室から出て行った。

 廊下に出ると周りには昼休みだと言うのに生徒の影も姿も見当たらなくとても静かだった。

 俺は壁に背もたれ深く息を吐き、制服のズボンのポケットけら携帯電話を取り出して、野球部員全員に部室に来る様にと一斉送信して俺は、部室へと一人、ゆったりと重たい足取りで歩き出した。

 

 

「出場停止・・・・・・処分?」

 数分後、全員が部室に集まった。

 俺は、理事長室での出来事を全て話した。

 そして、早川の名前を消して再登録すれば出場停止は免れ、三試合目も試合に出れるが、それを断った事も全部、包み隠さず話した。

「そ、そんな・・・・・・ボクのせいで・・・・・・皆、ゴメンね。・・・・・・ゴメンなさい!!!」

「あ、あおい!! 待って!!」

 言葉が詰まりながら早川は涙を零すと、勢い良く部室から飛び出して走り去って行ってしまった。

「早川ッ!!」

「七瀬ッ!!」

 その後を七瀬を筆頭に毛利、山吹、海野、古味刈達が追いかけて部室には星と矢部くんの二人だけが残っていた。

「小波ッ!! テメェは、本当にそれで良いのかよ!!」

 ギリギリと歯を軋ませた星は、怒りの形相でロッカーに俺の襟を掴んで打ちつけた。

「——ッ!!」

「星くんッ!! 止めるでやんす!!!」

「止めんなッ!! 矢部!! このバカに、文句の一つや二つくらい言わねェと気がすまねェ!!!」

 首を絞められ、ロッカーに押し付ける星は更に力を強める。

「テメェはそれで良いのか? 早川抜きでも試合に挑むって気にはならなかったのかよ! ただ・・・・・・はい、分かりましたって指咥えて勝手に諦めやがって!! テメェは、悔しいとは思わねェのか!!」

「――悔しいに決まってんだろ!!」

 俺は、首を絞める星の手を掴んで振りはらいながら、星を遠くへと着き飛ばした。お互い肩で息をしながら数秒、睨み合った。

「悔しいさ。だけど、このチームから早川を抜いてしまったらダメなんだ。解るだろう? あいつだって恋恋高校の野球部員だって事も、あいつが今までどんな事で苦しんで悩んで来たって事も」

「・・・・・・チッ!! ンなモン、テメェにわざわざ言われなくても分かってるぜ!! 解るけど・・・・・・、なんでだよ・・・・・・出場停止処分なんか意味わかんねェよ!!!」

 歯を食いしばり、悔しさを必死に堪えている星は、ロッカーを強く拳で殴りつけ、そのまま部室から姿を消した。

 残された俺と矢部くんだったが、空気の気まずさに耐えれなくなった矢部くんは早川を探しに行くとそのまま部室から出て行ってしまった。

 部室に一人、残された俺は、先ほどの星との摑み合いで汚れた部室を見渡すと、床に一枚の写真立てが落ちているのを見つけて手で拾い上げる。その写真には、立ち上げたばかりの頃の集合写真だった。

 皆、良い顔をしていた。星は少し格好つけて真面目な顔を作っていたり、矢部くんは七瀬に少しでも近付きたくて必死な表情だ。七瀬はどこかぎこちなく、早川は満面の笑みを浮かべていて、古味刈と山吹は変顔して、海野と毛利は互いに肩を組み交わしている。そして、俺はなんとも呆れた顔をして正面に座っていた。

「はは、なんだよこれ」

 思わず笑ってしまった。

 そう、これが俺たち恋恋高校の野球部なんだ。

 この野球部を誰一人欠けさせて捨てる訳には行かない――何か、打開策を考えなければならない。

 早川を認めてもらえる様な何かを考えなくちゃ、ダメだ。

 

 

 翌日、早川あおいの出場問題により恋恋高校野球部は、三回戦に進む事なく出場辞退の申し出により二回戦敗退が決まった。そして、恋恋高校の出場停止は、マスコミや口コミで広がっていき、大きな呼び話題となる。



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第23話 きらめき高校 VS 山の宮高校

 恋恋高校が出場停止処分が下り早くも三日が経過した。

 頑張地方の甲子園予選大会は、何事も無かったかの様に進んで行った。

 早川あおいの件で、三回戦に戦う相手であり不戦勝で勝ち上がったきらめき高校は第四試合目を迎え、この試合で頑張地方は準決勝試合となる。

 対するのは、太郎丸龍聖と名島一成が率いる山の宮高校だ。

 山の宮高校野球部は五十年と言う長い歴史の中で、四回戦まで勝ち進んだ事など一度も無く、毎年古豪パワフル高校やそこそこ実力のある高校に負けてしまい、中では赤とんぼ高校やバス停前高校などの弱小校に続く弱いチームだ、と言う者もいた程に、山の宮高校の強さは知られていた。

 だが、今年は既に三回戦を終え、今大会最多である、トータル二十打点の記録を収めている。

 更には、エースナンバーを背負う二年の太郎丸龍聖は三試合無失点記録を樹立させ、奪三振数はあかつき大附属の猪狩守の持つ三十を抜いて、堂々の三十五奪三振を記録した事で注目を集めている。

 長年、高校野球を観戦した者は「今年の夏を制するのは山の宮高校かもしれない」と熱く語るほど、今大会のダークホースとして期待が高まっていた。

 四回戦と言うこともあり、地方球場の観客席はほぼ満員で埋め尽くされている為、ザワザワと試合前の各高校のウォーミングアップする選手を見ながら、今か今かと始まるのを待っていた。

 先攻であるきらめき高校のシートノックが終わり、ベンチに戻り山の宮高校のシートノックが始まった。

 気温三十四度を超える真夏日。

 タオルで汗を拭い、スポーツドリンクを軽く口に含んだ高柳春海は、静かに山の宮高校のシートノックを見つめる。

「春海。今日はヤケに落ち着いてるのね」

 隣に、姉でありチームのマネージャーである高柳千波が、公式試合用の帽子を深く被り、チームのスコアブックを抱えながらベンチに腰を掛ける。

 その表情は、どこか寂しそうだ。

「その・・・・・・球太くん達とは、戦えなくて残念だったど、今は山の宮との戦いに集中しないと、ね」

「勿論、そのつもりだよ。確かに球太と戦えなかったのは悔しいし、それ以上に球太の方が悔しいに決まってる。それに、もう戦えないと言うわけでもないしね。今は、館野先輩や目良先輩と勝ち進みたいと言う気持ちでいっぱいさ」

「そう。それなら良いんだけど・・・・・・。あれ? そう言えば浩輔くんは? ベンチに姿が見えないけど?」

 千波は、ぐるりと辺りを見渡した。きらめき高校のベンチに目良浩輔が居ないことを確認した途端、呆れたような溜息が溢れる。

「千波。浩輔なら隣の更衣室にいるぞ」

 司令塔の館野彰正が、苦笑いをしながらベンチの出入り口に向かって指を指していた。

「ありがとう、舘野くん! 私、浩輔くんを呼んでくる!!」

 千波は、立ち上がり急ぎ足でベンチの出入り口のドアを開けて姿を消し、気になった春海も後を追いかけようと腰を上げた時だ。

 春海は館野に止められてしまった。

「ちょっと、館野先輩? どうしたんですか? いつもなら姉さんと一緒に追いかけるじゃないですか?」

「いつもなら・・・・・・な、だけど今日は止めとけ、春海」

「えっ? どうしてですか!?」

「いいから。まあ、俺も本来なら追いかけなければ行けないんだけどな。これにはチョイと事情があるんだ」

「事情?」

 春海は首を傾げた。

 どんな事情があるのだろうか、と。

 だけど、館野の表情で春海はなんと無く悟ったのだろう。無言でコクリと頷き、二人はドアの向こうを静かに見つめていた。

 

 

 

 目良浩輔と館野彰正は幼馴染だった。出会ったのは小学四生の時、互いに地域でスポーツクラブが少ないということで、自治体が発足してた新たなる少年野球が結成し、そこに入団した時に知り合った。小学校は同じであった二人だが、此処で初めて顔を知ることになる。

 明るくチャラけ練習は適当に熟す目良、真面目で練習は小まめに丁寧に熟す館野のお互いの最初の印象は「暗くて詰まらない奴」と「五月蝿くてだらしの無い奴」と、好印象では決して無かった。しかし、二人が仲良くなるのには時間が掛からなかった。共通である好きなスポーツが野球であり、プロ野球の球団、そこに居る選手が偶然にも同じだった二人は直ぐに意気投合して見せたのだ。

 そして、そのまま二人は中学校に進学し、野球部に入部する。中体連ではチームとして輝かしい成績は残せなかったものの、今まで以上に野球というスポーツを知り、今まで以上に野球を好きなった二人は三年時に互いの進路と向き合った。

「なあ、彰正。お前、女の子のパンツの色は何色が良い? 俺はピンクが良いぜ、なんかさエロくね? って言うか、今日のラッキーカラーがピンクなんだけどな!」

 机に顔を置き、目の前にある教科書には目もくれず、中学三年の目良浩輔は質問をした。

「・・・・・・アホか? くだらん」

 と、いつも通りの返答を返す館野は、高校入試の対策本である参考書から目を逸らさずに即答で返した。

「チェ! つまんねえの・・・・・・。彰正。それより俺たち、もう三年だぜ? 今日、先公に『お前は良い加減進路決めろ』って言われたけどさ、どうすっかな」

「それで? どこにしたんだ?」

「あん? どこってなんだよ」

「進学校だよ」

「んな事、俺が知る訳ねェだろ? 今までロクに授業を受けて来なかったんだぜ?」

「はは、それはそうだな。なんせ、中学三年間は屋上でサボってばかりで、部活の時だけやたら活発になるのがお前だもんな」

「へっ!! 五月蝿ェよ! それで? 彰正、お前は何処に進学すんのかもう決めてあんのか?」

「ああ。俺は、官僚高校が第一希望だな」

「官僚高校?」

「ああ、あそこは勉強のやり甲斐がある。それに大学に進学すれば就職も豊富だからな。って言うか、お前な、官僚大学ってのは結構有名な学校だぞ?」

「あ、そう。で? そこは、野球部はあんのか?」

「ああ、もちろんだ。部活動も盛んで、文武両道を掲げてるだけあるからな」

「そこには、俺でも行けんのか?」

「・・・・・・浩輔の学力なら、当然無理だな」

「そうかよ。・・・・・・って事は、これから俺は、お前と一緒に野球がやれ無くなるって事か!?」

 突然、目良は声を張り上げた。突然の出来事で、館野はうっかり参考書を床に落としてしまった。

「わ、悪い・・・・・・彰正」

「浩輔?」

「俺は、お前と高校でも一緒に野球がやりたかった。同じ高校で甲子園を目指してさ、同じプロに一緒にドラフトがかかるのよ! 当然、俺が一位でお前が二位な! そしてよ、俺は高校三年の時、俺が惚れた女を甲子園の舞台に連れて行ってやんだよ」

 目良は笑いながら言った。その表情、知り合ってから分かっている。嘘では無い。それ以上に館野が驚いた事があった。目良がこうして自分から夢を語った事など聞いた事が無かったのだから・・・・・・。そして、一緒に高校でも野球がやりたいと言う事を、野球で知り合って無二の親友となった目の前にいる目良の言葉を聞き、館野はそれに感銘を受けたのだろう。

「おい、浩輔。お前が一位ってのは決してありえないぜ?」

「あん?」

「どうせなら俺が一位、お前は二位指名だ」

「彰正・・・・・・?」

「俺とお前の仲は腐れ縁だ。仕方がない、お前と同じ学校に行ってやるよ。同じ高校にさ。ま、あまりにも偏差値が低い所だけはやめてくれよな?」

「うぉぉぉぉーーーっ!! マジか!? 彰正!!」

「や、止めろ! 浩輔、急に抱きついて来るんじゃあねえ!」

 こうして、館野の勉強の指導により、その年の冬に見事、合格し、翌年の春に二人は、きらめき高校に入学が決まり、野球部に入部した。

 

 そして、高校一年のある日の事。春の清々しい暖かな風を目良浩輔は、屋上で一人寝っ転がりながら授業をサボっていた。良い風だ、なんて幸せそうな寝顔で優雅な一時を過ごしていたのだが・・・・・・。

「起きなさい!!」

「・・・・・・」

「起きないってば!!!」

「・・・・・・」

「起きろォーー!!!」

「――ッ!?」

 目に差し込む太陽の光は突然に遮られ、耳元に大きな声が飛び込んで来た女性の声は耳元から脳へ、脳から全身へ響き渡る声に目良は驚いてゆっくりと閉じていた瞳を開けると、そこには空の色や雲の形では無く、別なものが見えていた。

「ピンク・・・・・・?」

「は? えッ・・・・・・ちょっ、ちょっと!」

 春風に吹かれ、女性――当たり前ではあるがきらめき高校の在学生の女子生徒のスカートが捲り上がって、履いていたパンツが丸見えになっていたのだ。はためかせるスカートをギュッと手で押さえ付け、ギラッと鋭くて怖い瞳で睨みつけていた。

「ちょっと、目良浩輔くん! い、今の・・・・・・もしかして見た!?」

「ん? ああ! 勿論な! 色鮮やかなピンク色のパンツがバッチリ! だけど、残念だったな。今日のラッキーカラーは黒とピンクだ――グブッ!!」

 バチン! 目良の左頬に痛烈な平手ビンタが炸裂し、目をパチクリさせていた。

「さ、最低っ!!」

「あん? 最低っ!! じゃあねェだろ? 折角、こんな天気だからサボって寝てたって言うのになんなんだお前は? って、なんで俺の名前知ってんだ?」

「はぁ〜〜。やっぱり・・・・・・副委員長の彰正くんに言われていたからある程度は覚悟出来ていたけれども・・・・・・これ程とはね」

「・・・・・・?」

「私は!! あなたと同じクラスメイトの委員長で同じ野球部のマネージャーの高柳千波よ!」

「高柳千波? そんな奴いたか?」

「そうだ! なら、思い出させてあげようかしら? もう一発いっとく?」

「嘘嘘嘘ッ!! 冗談だぜ! お、お前はクラスの中でも美人だった奴だ! 間違いねェ!!」

「美人かどうかは知らないけど・・・・・・。浩輔くんのおかげで委員長である私は、先生に怒られて、オマケに部長にも怒られているんだよ?」

「それは・・・・・・悪かった」

「分かれば宜しい! それに授業中の態度は悪いけど、部活動の浩輔くんはカッコイイと思うよ!」

「千波・・・・・・」

「ん? どうかした?」

「もしかして、お前、俺の事口説いてるのか?」

「はぁ??」

「カッコイイと思うんならよ? どうだ? 千波、俺と付き合わねえか?」

「ど、どうしてそうなるの?」

「お前、結構可愛いしな? どうだ?」

「・・・・・・バカな人ね、お断りします」

 ニコリと笑う千波。春の風に黒い艶やかな髪が靡くと共に、背景には無数の桜の花が青空へと流れていく。目良は、目を丸くした――黒とピンクだ。聞こえない声で呟く。

 その他に、何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。飲み込まれたのだ、その景色と目の前にいる千波の笑顔に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。

 これが、目良浩輔と高柳千波の初めての出会いでもあった。

 

 

 千波が出て行った後のドアを見つめ、手短く館野が出会いを語っていた。

「初めて聞きました・・・・・・。それが姉さんと目良先輩の出会いなんですか・・・・・・。なんか想像は出来てましたけども・・・・・・」

「今となれば懐かしい様でそうでもないんだがな。日常茶飯事だからってのもあるけどな」

「そうですね。それで、さっきはなんで止めたんですか?」

「俺たちは、三年になった。高校球児として聖域である甲子園の土を踏むチャンスは、もう今年しか残されていない。浩輔も俺もいつ負けるか、覚悟はしている」

「・・・・・・・・・」

 春海は、無言だった。

 それ以上に何処か寂しさを感じていたからだろう。

 先輩が語る言葉をしっかりと聴いてる。

「春海。浩輔は、千波のヤツに本当は惚れてんだ。女子生徒にやたら声を掛けるどうしようもないチャラいヤツだけど、本当はただ、好きな女を千波の気を引きたいからやってるんだ」

「・・・・・・」

「だから、今日の試合前に『告白』したいんだと、全部伝えてスッキリして勝って決勝に千波を連れて行く、このきらめき高校を甲子園に連れて行くのを目指すんだとさ。これが俺がお前を止めた理由だ」

「そうですか・・・・・・」

 春海は、少し苦笑いをした。

 

 

 そして、きらめき高校側のダグアウトの前にある更衣室には、目良浩輔は部員がバックを置いてあるベンチに一人、寝っ転がっていた。

 試合が始まるまで十五分あり、チームメイトが士気を高めている中であるのにも関わらず、彼はそこにいた。

 ――まだ、ここに来て五分も経ってないって事は、全く寝付けて居ねェからか。チッ、俺らしくねェ・・・・・・この俺がまさかの緊張してるって訳かよ。

 顔を帽子で深く被り、狭い視界から覗かせて捉えた時計の針を見ると、目良は小さな溜息を漏らす。

「浩輔くん! 起きて! 起きなさい!」

「おう、起きてるぜ。千波」

 そこに、千波が駆けつける。

 コツコツと学校指定であるローファーの踵と床が交わる音を立てながら目の前で足を止めながら、少し強めに言葉を強調させて言う。

「何してるの、こんな所で! もうすぐ試合なんだよ? 試合前くらいしっかりしてよ! ほら、起きて起きて」

 手を引っ張られ、目良は体を起き上がらせながら、千波の手を強く握りしめた。

 二人しか居ない空間の中、妙なドキドキ感が漂う。

「こ、浩輔くん?」

「あのさ・・・・・・千波。少し側に居てくれねえかな?」

「え・・・?」

「少しでいい」

「ちょっと・・・・・・どうしちゃったの? なんか、いつもの浩輔くんらしく無いわよ?」

「らしくねェ・・・・・・、そうかもな。ああ、そうだ。らしくねェンだよ、今日の俺は・・・・・・千波、お前に一つ聞きたい事があるんだわ」

「き、聞きたい事?」

 強く握りしめる手、暖かい体温が二人に流れる。不思議と千波は「もしかして告白?」と心の中で言葉を吐いた。ドクンドクンと高鳴る胸の音は聞こえないだろうか? 顔は赤くはなっていないだろうか? と、少し気にしながら真っ直ぐ見つめてくる目良の瞳を避け、瞬発的に目を閉じて、目良の言葉を待つ。

「なあ・・・・・・千波」

「は、はい!!」

「お前、今日のパンツ何色だ?」

「浩輔くんが良いなら喜ん・・・・・・えっ?」

「あん?」

「ね、ねえ・・・・・・? 浩輔くん? い、今、何て言ったか教えてくれない?」

「だからよォ? 千波のパンツの色、今日は何色だって聞いてんだよ!!」

「へ? ちょっ・・・・・・え? な、なんで?」

「今日のラッキーカラーは白と青なんだ。千波も確か白と青の水玉パンツ持ってたろ? 今日それを履いてたら僥倖! ラッキーだと思ってよ!」

 ニカッと笑う、浩輔。

 呆れてものも言えない千波。

「本当・・・・・・浩輔くんって最低っ!!」

「うぎっ!!」

 二人しか居ない空間に、一つのビンタの音と鈍い音がこだました。まず、千波の平手ビンタが右頬を捉え、顔面に右ストレートの鉄拳制裁をお見舞いしたのだ!

「さて! もう整列の時間なんだから、そこに居ないで早くベンチに戻って来てよね!」

 プイッと顔を背け、千波は、更衣室から足早と出て行く。その顔は、少し嬉しいようで切ない感じにも見て取れた。そして、目良はよろけながらその後を追って行った。

「いちちち・・・・・・。クソ、手加減ってやつを知らなすぎだろ! 彰正! 冷すやつくれ!」

 ダグアウトに辿り着き、ベンチに腰を掛けた目良は、殴られた場所を手で押さえいた。

「浩輔。お前、何で殴られてんだよ? また、千波に何か余計な事言ったな? 告白したんじゃないのか?」

「あん? 告白だ? 俺はただ、千波にパンツの色を聞いたんだよ」

「あのな・・・・・・、普通聞く事か?」

「馬鹿言えや! 他に今日のラッキーカラー何て分かるアイテムなんぞ、持ち合わせちゃいねェンだぞ!」

「それは、姉さんも怒りますね。カンカンですよ?」

「お前、今日で全部伝えるんじゃ無かったのかよ? どうすんだ?」

 館野は、クーラーボックスから冷却シートを渡しながら尋ねる。長年付き合ってきた親友はここまで馬鹿だったとは、と改めて実感する。

「・・・・・・」

「千波の事は好きじゃねえのか?」

「アホか彰正。あいつの事は・・・・・・勿論、好きだ。だけど、ここで言ったら、そこで終わりだと思っちまったんだ。安心しちまって今日の試合例え負けちまっても、何処か安心しちまう。昔、お前に言ったろ? 夢があるってよ? やっぱ好きな女を甲子園に連れて喜ばせてやりたい。今までマネージャーとして支えてくれた千波なら尚更のことだ。後さ、他にも考えてたんだ。真面目でつまんねェ親友に、頼りになる後輩を持ってさ、お前らと最高の景色を見てえんだ。」

「浩輔」「目良先輩・・・・・・」

「さぁ、行こうぜ! お前ッ!! 俺たちで山の宮をぶっ飛ばす!」

 

 

 

「いよいよ、か」

 山の宮高校ベンチ。黙々と試合に備えてウォーミングアップを終え、身体を温めていた。

 右手にグローブを着け、ボールの縫い目を何度も何度も指先でなぞりながら、太郎丸龍聖は呟いた。

「龍聖。どうかしたのか?」

 そこに相棒である名島一成が声を掛ける。

「いや、別に何も無いさ。ただ後二つ勝てば甲子園に行けるって思うだけで、ワクワクが止まらねえだけだ」

「でも相手は、きらめき高校は侮れないぞ。先発投手は、ここまで投げ抜いて来てる大島さんだ。小柄な体格ながらテンポよく投げる左腕には要注意だ。オマケにキャッチャーは館野さんがマスクを被る。あの人は常に冷静沈着だ」

「なるほど、ね」

「後、気をつけたいのは三年でありチームの打撃の総要、目良浩輔さんだだろう。ミートはBクラスでパワーはAクラスもある強打者で広角打法の持ち主で何より左投手に強い」

「それは燃えるぜ!」

「同じく二年の高柳春海もだ。打率はほぼ四割近いアベレージヒッター、具志堅兄弟と強肩が光る」

「相変わらず相手のデータは頭の中にあるって訳だ。流石だぜ」

「逆に言えば、データを集めなければならないほどの強さを持つチームだ。今日のコンディションはどうだ? 龍聖」

「ああ、バッチリだ。何より強打者揃いのチームとなりゃ自然と闘志が湧き上がるぜ」

「ふっ、なら安心だな。行くか、龍聖」

「ああ! きらめき高校をねじ伏せてやる!」

 

 

 こうして頑張地方の準決勝戦であるきらめき高校対山の宮高校の試合が幕を開けると同じ時刻。恋恋高校の小波球太は、三十四度を超える暑さの中、一人で商店街にいた。



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第24四話 アンユージュアル・H・ストレート

 準決勝――きらめき高校VS山の宮戦!!
 これが、太郎丸龍聖の本気・・・・・・!?


 きらめき高校と山の宮高校の準決勝戦が始まりを告げた同時刻。

 早川あおいの出場問題で、高野連から大会出場停止処分を受け、棄権を余儀なくされた恋恋高校野球は重たい雰囲気を醸し出していた。

 本来なら、きらめき高校と試合をして、もしきらめき高校に勝利していれば次に勝ち進める事が出来、敗北をしたのなら秋の大会に向けて練習に打ち込んでいるはずなのだが、今は誰一人として練習をしにグラウンドに向かうものが居なかった。

 部室に集まってはいるものの、誰もが黙ったままで、ただただ時間だけが過ぎていく。

「皆、練習をするでやんす!」

 そんな中、沈黙を破る矢部の声が、プレハブ小屋の静かな部室に響き渡る。

「テメェら、アホか? こんな状況だって言うのに、練習した所でどうなるんだ? はるかさんから聞いたけどよォ、早川はここ三日間学校には来てねェンだぞ?」

 パイプ椅子に背もたれ小さな声で星は矢部に向かって話掛ける。

「やっぱり・・・・・・そうでやんすか。そう言えば、小波くんも二、三日学校には来てないでやんす」

「はぁ?」

 矢部の言葉に、星は眉を寄せる。

「小波の野郎もいないだと・・・・・・? 早川なら理由は解るけど、小波も学校に来ていないって一体、どう言う事だ?」

 矢部は無言で頷いた。なにやら小波は、早川が部室を飛び出して居なくなり皆が追いかけて星と小波が取っ組み合いなり星が後を追った後に、一人で考え事をしていたらしい。そして、何かを閃いた小波は矢部に「今は、悔しを我慢をして練習に打ち込んでくれ」とだけ残したままそれっきりだと言う。

「はァ?? あの野郎・・・・・・。一体、何を考えてんだ? 今の現状で練習してどうなる? この意気消沈した空気の中で練習やっても意味ねェだろ!?」

 パイプ椅子を蹴り上げ、星が吠えた。

「それでもッ! 小波くんは、オイラたちに練習に打ち込んでくれって言ってたでやんす!!!」

「・・・・・・・・・・・・」

「小波くんには、オイラ達が思いついてなかった考えがあるみたいでやんす。それじゃあ、星くんには何か考えがあるんでやんすか?」

「ッ・・・・・・そんなの何も、ねェよ」

「なら、キャプテンである小波くんをオイラは信じるでやんす」

 そして矢部は、制服を脱ぎ始め、練習のユニフォームに着替え始めた。帽子を深く被り直して左手にはめてあるグローブを右手拳で叩きドアを開けて、一人でグラウンドへ向かうのを星は、ただ目線で追うだけだった。

「アホくさいぜ。テメェ、一人で練習なんぞ、ただの個人自主トレに過ぎ――」星は、言葉を止めた。星を除く他の部員達が次々と制服を脱いで、目を丸くしたまま座っていた。

「おい! お前ら、何してんだ? 山吹!」

「何をしてるって? 星、お前は馬鹿か? 小波がそう言ってたんだろ? だから、俺も矢部と同じく今から練習しに行くんだよ」

「正気か? お前」

「星先輩。矢部先輩と山吹先輩の言う通りッスよ。ここでジッとしてたら何も始まらないッスから、俺は練習しに行くッス。なあ、そうだよな? 御影!」

「俺っちも赤坂の意見に同感です! 小波キャプテンが行動を起こしたのなら、俺っち達も何かしらやらなければ行けないと思います」

 着替えを終えて、そのまま部室から出て行って矢部と合流し、まずはグラウンドのランニングから始まった。部室の外から「恋恋高校一、二、一、二!」と活気に満ちた声が堂々と聞こえる中、星は半ば呆れた顔付きで聞いていた。

 パン、と膝を叩き立ち上がる。白いワイシャツのボタンを外しながら呟いた。

「ったく、どいつこいつも物好きだ。くだらねえぜ」

 星は、ふぁーあと、大きな欠伸した。その途中に部室のドアが大きな音を立てて開いた。

「コラッ〜!! 星くん! サボってないでさっさと練習するよ!」

「――ッ!!」

 そこに響いた大きな声、星は驚いてクルッと顔を向けると、そこには三日間不在だった早川あおいがユニフォームでは無く、学校指定のジャージを羽織って現れた。

「ほらほら!! 早く着替えて、練習始まってるんだよ?」

「えっ!? ちょい待ち! な、なんでテメェが・・・・・・早川がここに居るんだ?」

「・・・・・・ボク、あの後、一人で考えたんだ。いつもみんなに迷惑掛けてばっかりで悪いな、って、でも、決めたんだ。ボク、マネージャーとしてこれから頑張るよ! 選手としてプレイヤーとして野球は出来ないけど、それでもボクは決めたんだ。このチームを支えるって・・・」

「早川・・・・・・」

「それよりどうしたの? 皆、元気がないみたいだよ? 小波くんも居ないみたいだし、ここは星くんが男を見せなきゃダメじゃない?」

 ニコリと笑う早川。その笑顔は、明らかに作り笑いだが、小波だったら見抜いていただろうその作り笑いには、星は全く気付かなかった。

「へへっ! しょうがねェ野郎共だぜ。・・・・・・やれやれ、この星雄大様が直々にあいつらをこき使ってやろうじゃあねェか」

 そして、星も合流し、大きな檄を飛ばしてグラウンドへと駆けて行く。

 少しもの寂しそうな早川は、七瀬と共にマネージャーとしてチームに復帰し、恋恋高校は二日ぶりに練習を再開したのだった。

 

 

 暑い。

 三十四度を記録している真夏日、さすがの暑さに滴る汗を腕で拭ったのはもう何度目の事だろうか、スポーツドリンクで乾いた喉を潤しながら俺は、商店街にいた。

 ここに居る理由はたった一つ。

 チームメイトである早川の出場を認めて貰う為の署名活動を始めたのだ。

 俺たちが幾ら言っても高野連の本部には聞く耳を持たない事に頭を悩ませていたが、パッと浮かんだのは署名活動だった。

 沢山の署名を集めて高野連の本部に届けるんだ――絶対、早川を抜きでの恋恋高校野球部にはさせたくない。絶対にだ。だから、こうして一人で俺は、署名活動を始めているのだ。

 とは言ったものの、中々集まらない。

 今日の朝から初めて、書いてくれたのはたったの八名だけだ。

 「応援してる」「頑張れ」など声は掛けられたり、写真を撮られたりするものの、署名はしてくれず、お昼を過ぎて暑さもピークを迎えて商店街を通り過ぎる人の数も少なくなっていくが、それでもめげずに声を掛け続ける。

 俺は、諦めないだ――俺は、もう二度と早川から野球を奪いたくないんだ。

 

「恋恋高校の早川あおいを出場させる署名活動をしてます! どうか記入をお願いします!」

 俺は声張り上げ「女性選手の大会出場に同意して下さい」と書かれたビラを一枚、一枚を配って行き、たった今、サラリーマンの男性に断れてしまった。

「はぁ・・・・・・。流石に何度も断られると、俺の心が折れそうだ。しかし、中々受け取ってくれねえもんだな。一体、どの位集めりゃ良いんだ?」

 それでもめげずに、声を掛け行く。するとそこに、茶髪の二人組が足を止めた。

「小波・・・?」

「ん? ・・・・・・お前は、猪狩?」

「驚いたな。聞き覚えのある嫌な声が聞こえると思ったら、キミだったのかい」

「驚くのはこっちの台詞だ! 見たくない顔が今もこうして、目の前にあるんだからな!」

「なんだと?」

「なんだよ?」

「二人とも止めてください!」

 お互い睨みながら、バチバチと目線で火花を散らした。

 目の前に現れたのはあかつき大附属の猪狩守とその弟の猪狩進だった。

 やや吊り上がった目、その奥に青い瞳で俺を見て、ニヤリと笑みを浮かべる猪狩が早く立ち去らないか、なんて思いながら俺は署名活動のアピールを続ける。

「ところで、キミはここで何をしてるんだい?」

「兄さん、アレです」

 進は、俺の手に持つビラを指を指しながら猪狩に声を掛ける。

 青い瞳はスッと指先を追ってビラを眺める。

 相変わらず腕を組みながら物事を見るのは、出会った頃から変わらない。

 この態度は昔から気に入らないのは言わないでおくとするが、きっと猪狩はこの事については気づいているんだろうな。

 ワザと相手を挑発させるのも昔から変わらない。

「署名活動?」

「ああ、 流石のお前も俺たちが既に出場停止になってる事位は分かってるだろ? 高野連の頭の固いお偉いさんは、早川の出場を取り下げるなら出場しても構わないって言って来たけど、断ったんだ」

「成る程・・・・・・。それで早川あおいさんを出場させる為の署名活動なんですね?」

「そういう事だ。早川は俺たちの仲間だ。だから欠けさせる訳にも行かねえ。あいつも含めて俺たちは、恋恋高校の野球部だからな」

「フッ。チームメイトはどんな奴でも仲間でありそれを見過ごす訳にも見捨てる訳にも行かない、という訳か。キミはいつまでも甘いな」

 鼻で笑う猪狩。

 そして、簡易の台に近寄りペンを左手で握り、記入欄に自分の名前を書いた。

「猪狩・・・・・・、何してんだ? まさか・・・・・・」」

「勘違いしないでくれよ? 僕はキミみたいな凡人を助ける為に名前を書いてるんじゃない。ただ、ライバルと戦えなくなるのが嫌なだけさ」

「僕も兄さんと同意見です。僕は、リトルリーグの時の様に小波さんと野球で戦いたい。勿論、勝つのは僕たちですけど」

 猪狩がペンを渡し進も名前を書いてくれた。

「お前ら・・・・・・」

「それじゃ、僕たちはキミたちと違って、明日の決勝戦に備えて練習をしなくちゃいけないんでね。もう行くとするよ。凡人の君はそこで精々頑張るがいい」

「はいはい、お前の様な天才さんに早く追いつける様に、凡人は努力はしますよ〜」

 俺と猪狩は、ニヤリと笑った。

 いつか戦うその日が来るまで、絶対負けるんじゃないぞと言う意味も含めて、俺たちは無言の会話をし、猪狩達は遠くの方へと見えなくなっていった。

「そう言えば、今日は準決勝戦か。春海達は今頃、山の宮高校と試合か。どうなってるんだろうか気になって来たな」

 俺は、携帯を取り出してインターネットを開き、頑張地方の大会速報をクリックしてページを開いた。

 

 

「ストライクーッ! バッターアウトッ!」

 球審の甲高い声と主に球場がどよめいたのは同じタイミングだった。

 山の宮高校のエースナンバーを背負う二年にしてエースを受け持っている左腕の太郎丸龍聖が投じたストレートで二打順目を迎えた三番打者の館野彰正を空振りの三球三振に仕留めてチェンジとなった。

 対する館野に対して一切の遊びもせずに球速百四十後半を連投、そして今の三振を奪った球速は百四十七キロとバックスクリーンに表示されていたので観客席は驚きの声を上げた。

 打者十二人に対してこれで十二個目の奪三振だったのも含まれている。全てストレートで三振を奪っている圧巻のピッチングだ。

 試合は四回の表が終わり、〇対〇の同点。

 未だどのチームも点を取れていない投手戦となっていた。

 たった今、三振に仕留められた館野彰正は、悔しさを滲ませた表情でベンチへと引き下がっていく。

 準決勝となると流石に今までの試合よりも求められるレベルは上がっている。

 そう実感せざる終えなかった。

 きらめき高校のエースの大島も負けずに持ち味であるテンポの良さと、館野の采配によるストレートと変化球を巧く組み合わせた投球で次々と山の宮打線を抑えていく。

 四回の裏を三者凡退に抑えて、試合は五回表へと突入した。

 四番打者、サードの目良浩輔が二打席のバッターボックスに入る。右打席でバットのグリップを握り締めてボールを待つ。

 目を凝らしバックスクリーンのスコアボードを見ていた。

 ヒット数は〇と完璧に抑え込まれている。

 そして、目線を十八メーター先にいる太郎丸を捉えた。

 真剣な表情をしており、ここまで手も足も出さない状況の中、年下の投手相手にも気を抜いていなかった。

 一打席目は、インコースに矢のように突き刺さるストレートを見逃ししたが、今度こそヒットを打ってやる、と言う威圧感を見に纏っている。

 一球目。

 アウトローに百四十六キロのストライクボールが入る。

 ノビのあるストレートは七十球を超えた今でも衰えておらず、その勢いは衰えるどころか増していた。

 二球目は、緩急を付いてきたチェンジアップは百十三キロと四十キロ遅い球を目良は、タイミングが合わずに空振りをしてしまいツーストライク目を取られてしまった。

「太郎丸のやつ・・・・・・、チェンジアップも持っていたのか」

 目良が空振りをして尻餅を付いた時、ベンチで見守る館野彰正は、ボソッと呟いた。

「えっ? どういう事? 彰正くん」

「いや、今までの太郎丸ならストレートで追い込んでストレートで三振を奪いに来ていた。しかし、この回からチェンジアップ、つまり変化球を入れて来たという事だ」

「うん」

「俺が持ってるデータでは、太郎丸の変化球の球種は全くノーデータなんだ。何を投げるのかすら全く知らない」

「それじゃあ・・・・・・太郎丸くんを攻略するのにも時間が掛かっちゃうって事よね?」

「ああ、太郎丸を攻略出来れば良いが・・・・・・先ずは、キャッチャーの名島を攻略しなければ始まらない。太郎丸をリードしてるのは奴なんだからな」

 館野から、冷や汗が垂れ落ちる。

「それでも、目良先輩は打ってくれますよ」

「春海・・・・・・」

「だって、目良先輩、言ってたじゃないですか! 俺たちも一緒に甲子園に行くと、そして山の宮高校をぶっ飛ばすって、俺は信じてます!!」

「ああ、そうだな」

 二人は、ニヤリと笑みを浮かべる。そしてマネージャーである高柳千波は、心配そうにバッターボックスに立って三球目のスライダーをカットした目良を見つめ「浩輔くん・・・・・・」と小さな声で呟いた。

 

 小さく息を吐いた。

 初見のスライダーを当てた事で、少し心の面でも余裕が見えて来た。

 目由浩輔はしっかりと足場を均しながら、太郎丸からどう打つかの対策を練っていた。

 

 ――凄えストレートだ。

 流石に猪狩守を凌ぐとも言われる左腕だけあるぜ。

 全く、大したもんだよ。

 だけど、俺はまだ負けてるなんか思っちゃあいねえぜ? 

 へっ、それでも打てる気が全くしねえのは弱音の内には入らねえよな?

 

 ふと顔を空へと見上げる。

 滴る汗が喉仏を通り過ぎた時だ。

 試合前の自分が千波に言った言葉がふと、頭を過ぎった。

『今日のラッキーカラーは白と青なんだ。千波も確か白と青の水玉パンツ持ってたろ?』

『本当、浩輔くんって最低っ!!』

 やり取りを思い出しながら、浩輔は空を見上げたまま、目を見開いていた。

 口元は自然とニヤけていた。

「はは! なんだよ、あるじゃあねェか!! 俺の今日のラッキーカラーは、白と青・・・・・・。こんな近くにあったとは思わなかったぜ。今日の天気そのものじゃあねえかよ!」

 

 ――来いよ、太郎丸!

 確かにお前は凄えピッチャーだ・・・・・・。

 だけど・・・・・・俺は、俺には行きたい場所と連れて行かなきゃいけない奴がいるんだ。

 お前達に邪魔なんかさせねえ――!!!

 勝つのは俺たち、きらめき高校だ!!!

 

 四球目、太郎丸の左腕から放たれた決め球のフォークボールを掬い上げるアッパースイング気味になりながらもバットを振り抜いた。

 快音と共に痛烈な打球が高々と打ち上がる。

「――クソ!! 今のを打つのか!? 俺のフォークを」

「レフトッ!! 下がれッ!」

 太郎丸と名島は同時に叫んだ。

 快音は真芯で取らえていた。

 レフトが走り落下地点へと追いかけるが、足はそこで止まってしまった。

 誰もいない無人の外野スタンドの芝生に当たる。

 打球はレフトスタンドの中段に突き刺さり、きらめき高校の待望の一点を目良浩輔がソロホームランで手に入れた。

 ドッと湧き上がる歓声が球場を揺らした。

 きらめき高校のベンチと試合観戦をしに来た同校の学生達はかつてない盛り上がりを見せる。

 対する山の宮高校の太郎丸龍聖は、推定百三十メートルの落下地点であるレフトスタンドの中段を腰にグローブを当て眺めていた。

 三試合連続無失点の記録を破られた事は気にしていない様子で、そのまま立ち尽くす太郎丸に相棒である名島が駆け寄る。

「龍聖。すまない・・・・・・。今のは今日、調子の良いストレートで抑えるべきだった」

「いや、一成のせいじゃねえさ。例え今、ストレートを投げていても結果は同じだったさ。さっきの打席の目良さんに、俺はとてつもない信念を感じていた。きっと、打たれていただろう」

「龍聖・・・・・・」

「なあ、一成。やっぱり俺たち、頑張地方に来て正解だったぜ。ようやく出会えた気がするぜ、骨のある相手によ!」

「ああ、そうだな!」

「ふぅー」

 太郎丸は息を吐いた。

 先ほどまで余裕のある表情は吐く息と共に消え、闘士の宿る瞳を浮かべていた。

「一成、ここから俺は点を取らせねえ。お前のリードを信じて投げ込むぜ」

「ああ、任せておけ。俺もお前のピッチングを信用してリードしてやる。だから」

「絶対に勝つぞ!!」

 同時に言葉を言う。

 そして、踵を返し名島はキャッチャーの定位置へと走っていく。

 名島の顔は自信と確信を持った表情をしていた。

 その表情は、確かだった。

 目良浩輔にホームランを打たれたショックなど最初からなかったかのように太郎丸の左腕はしなやかに振り抜かれる。

 百四十七キロ、百四十八キロとストレートはギアを上げていくようにスピードとノビとキレがより一層増していき、きらめき打線の五番、六番、七番打者をバットに一切当てずに連続の三振で斬り伏せて攻撃が終わった。

 そして、この試合、太郎丸龍聖はさらなる成長を遂げるという事は誰も知らないまま試合が進んで行く事になる。

 一対〇のまま。

 準決勝は炎天下の中、熱い投手戦が繰り広げられて行く。

 きらめき高校のエースである大島は、ここまでの疲れが出始めて来てしまい、ストレートのノビ、変化球のキレと共に乱れが生じてしまった。

 それに漬け込んだ山の宮打線は見逃さずに猛攻、名島、太郎丸の連続タイムリーヒットで三点を奪い取って二点リードする。点差を広げようとする山の宮だったが、ツーアウト満塁のチャンスの場面できらめき高校の守備の面でなんとか凌いだ。しかし、二点のリードを許したきらめき高校は逆転を試みようとするが、無得点のままだった。

 エース太郎丸の持ち前のスタミナ力で涼しんだ表情で投げ抜いていくが、球を受ける名島には違和感を感じていた。

 その予兆が見えたのは、八回の表だった。一番打者をこの試合十九個目の三振を奪いツーアウトとなった。二番打者の高柳春海がネクストバッターズサークルからバッターボックスへと向かう。

 ここまで、百八球を投げ抜いてる太郎丸は回を跨ぐ毎に尻上がりに、調子を上げていっていた。春海に対する初球、左腕から繰り出されるストレートがインコースを抉るような鋭いストライクボールでカウントを取る。

「・・・・・・」

 百四十八キロ。

 名島はバックスクリーンに表示される球速を見た。

 違和感はそれだった。

 打者の手元で急激に伸びるのが特徴の太郎丸のストレートだが、この試合ではその球が今まで以上によく伸びている事、さらには球速表示以上の速さとミットで捉えるボールの球威が群を抜いて居る事だった。

 球速表示では百四十八キロのボールは体感速度では百五十三キロあるようにも感じていた。

 それは、打者である春海も同じように考えていた。

 今まで見たことのないボールに全く手が出なかった事に対して冷や汗が流れる。

 続く二球目は、アウトローいっぱいのストライクボールを見逃してツーストライク目をコールされる。

 三球目。

 太郎丸の左腕から繰り出されるスリークォーター投法。

 しっかりと振り抜くと同時に、太郎丸から『黄金色に光るオーラ』を放っていた。

 ボールはど真ん中を貫くストレート、球速百五十一キロのストレートは、春海のバットに当たりもせず、ただただ虚しく空を切って攻撃が終わった。

 百五十キロの大台を乗り越えた太郎丸に対して観客席からの歓声が湧き上がる。

 

「ナイスリードだ! 一成!」

「お、おう。ナイスピッチ」

「なんだ? どうかしたのか?」

「いや、今のストレート・・・・・・。今まで何千球とお前の球を受けて来たが、今までとは違ったように感じたぞ」

 名島はキャッチャーミットをはめている左手に目線を変えながら呟いた。

 その左手はプルプルと震えていたのだ。

 太郎丸は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべながらニカッと白い歯を見せる。

「アンユージュアル・ハイ・ストレート!!」

「アン・・・・・・なんだって?」

「一成、俺もお前も日本一の選手になるのが夢だろ? 俺は日本一の投手、お前は日本一の捕手にな? その過程の中で、俺もお前も成長してるって訳だ」

「・・・・・・なるほどな、龍聖。お前のボールのノビを特化させて、更に経験を積んで得た特殊なストレートが、今の『アンユージュアル・ハイ・ストレート』って事か・・・・・・。こりゃ、リードの幅が増えて助かるもんだわ」

「へへ、頼りにしてるぜ! 相棒!!」

 二人は笑い、試合は八回の裏の攻撃へと移っていく。



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第25話 後は頼んだぜ!

 夏特有の熱さを孕んだ風が吹き付ける。

 八回の裏まで進んだ、山の宮高校ときらめき高校の試合はたった今、太郎丸龍聖の外野深くまで飛ばしたフライをレフトがしっかりとグローブに抑えて攻撃が終了した。

 スコアは三対一。

 きらめき高校が二点を追いかける展開だ。そして、九回表を迎えたこの回が最終回となる。

「良いか!? この回が泣いても笑っても最後だッ!! なんとしてもこの回……太郎丸から絶対に三点は取るぞ!!」

「オゥ!!!!」

 檄を飛ばした館野の言葉にきらめきナインは頷き、大声で返事を返す。しかし、後輩である高柳春海は無言のままベンチに腰を掛けたまま固まっていたのだ。八回表の打席にチャンスを作る事も出来なかった不甲斐なさの表れだろうか、太腿のユニフォームを強く握り締めながら歯を食いしばっていた。

「春海……。まだ試合は終わってないわよ?」

 姉である千波が春海の側まで駆け寄って声をかける。だが、その声は励ますとはほど遠く少しばかり震えていた。それは千波だけではなくて、きらめきナイン全てに通じた。

 目の先に淡々と投げ込みをしている山の宮高校のエースであり、この試合殆ど三振に封じられている太郎丸の圧倒的なピッチングの前から二点も取れるかどうか、不安があるからだ。

「すいません……、俺……、どうしてもチャンスを作りたかったんです。だけど……力及ばずに三振してしまいました」

「・・・・・・」

 館野は黙ったまま春海を見つめていた。

 その沈黙はベンチに漂い始める。

 三年達は自然と目が潤い始め、そこから光るものを覗かせる。

「春海。別にお前のせいじゃない。俺たちは今までの成果を出しベストを尽くした。例え……この回で終わったとしても俺はお前と今日まで高校野球が出来て良かったと誇りに思えるさ」

「館野先輩……」

「俺だけじゃない。きっと、それはあそこに居る浩輔だってそうだと思ってるはずだ」

 ネクストバッターズサークルに居るはずの目良に目線を変えながら言う館野だったが。

 だが、館野は目を疑った。

 何故ならば、今現在ネクストバッターズサークルに本来いるはずである目良浩輔の姿が見えなかったのだ。

「……浩輔!? あいつ、どこ行った!?」

「あん? なんだよ? 彰正。俺ならここにいるぜ?」

 驚く事に目良はベンチに座っていた。

「こ、浩輔くん!?」

「目良先輩!?」

 春海と千波が同時に言葉を発した。

 四番打者であり次のバッターでもある目良は一歩も動いていなかった。目の前では三番打者が太郎丸との打席に構えていてカウントはワンストライク目を空振りしたところだった。

「ここいるぜって……お前! 次のバッターだろ!? なんで此処に居るんだ?」

「うっせーな。俺が何処に居ようが、オマケに何をしてようがどうでもいいだろ?」

「ちょっと……浩輔くん! さすがに……ここまで勝手すぎるのも程があるんじゃない!?」

「ほらほら、言わんこっちゃねェぜ? 春海。お前の姉ちゃんは随分おかんむりの様だぞ?」

「いや……千波が怒ってるいるのはお前に対してだ」

 館野のツッコミに対して、春海は先ほどまで悔しさで食いしばっていた口元を緩ませた。

 それを見た目良はニヤリと笑いながら春海の前まで歩き出す。

「……春海。さっきの彰正が言ってた通り。俺はお前と野球ができて心の底から嬉しいと思ってる。腐れ縁で頭の固いクソ真面目と鉄拳制裁の達人の美女……こいつらもいたお陰で随分と高校野球ってモンが楽しめたよ」

 目良の言葉に直ぐにムスッと顔を変える『腐れ縁で頭の固いクソ真面目』と『鉄拳制裁の達人の美女』と呼ばれた二人。

「だけど、春海。お前がこんな俺をいつも支えてくれたからこそ、俺にとってこの先忘れる事の出来ねぇ大事な思い出になるモンをお前がくれた『今』があるんだ」

「……はい」

「何度思い返してみても、思っていたよりも悪くなかったな……。まだまだお前と野球やりたかったぜ。……本当、ありがとな」

「……」

「随分と楽しませてもらったぜ、お前と出会ったこの二年間。次はお前の時代だ、春海!」

「……は、い」

「あとは、頼んだぜ!」

「……はい!!」

 ポツリ、ポツリと握りしめる拳に涙が溢れ落ちる。

 それを優しい顔で見つめる。

 館野も千波も初めて見る目良浩輔の微笑みに対して、堪えていた感情が蛇口を捻ねって出てくる水のように流れ……溢れ出していた。

「ストライクッ!! バッターアウトッ!」

 球審のコールと湧き上がる歓声がベンチまで聞こえる。疲れを見せない太郎丸龍聖のズバ抜けたストレートに三振に倒れワンナウトになったのだ。

「……次は俺の打順か。さてと行くとすっか」

 首を左右に鳴らし、バットを握りしめて目良はバッターボックスへと歩き出そうとした時だった——。

 目良の手を春海はガシッと強く手を掴んでバッターボックスへと向かおうとした目良を制止させた。

「どうしたんだ? 春海。手を離してくれないか? 次は俺の打席なんだぜ?」

「……必ずッ!!! 俺が……俺たちがッ!! 来年……先輩達が居て先輩達と出会えた、このきらめき高校を……絶対に……甲子園に出場させますッ! 先輩達が居てくれたから……俺も俺なりの今があるんです!」

「……」

「でも……俺も……俺もまだまだ先輩達と野球がしたいです!! 先輩達と一緒に甲子園に行きたいですッ!!」

 春海は、目良の手を更に強く握りしめた。

 春海は、その場で泣き崩れた。

 大声でも無く啜り泣きでも無くその泣き声は押し殺した声だった。

「馬鹿たれ、こんな所で泣いてんじゃあねェよ……。まだ試合は終わってねぇだろ?」

「……は、い」

「ったく、最後の最後まで世話のかかる後輩だな。……春海、顔上げろ」

「……」

 握りしめていた手をそっと離し、流れる涙を拭い、見上げた高柳春海が目にしたのは——。

 いつも千波に悪ふざけをして怒らせるのを楽しむ姿でも無く、館野にちょっかいを出して笑ってる姿でも無く、二人の怒りを買って追いかけ回されて春海自身に助けを求める情けない姿でも無かった。

 高柳春海、と言う大切な後輩としての……。

 高柳春海、と言う大切な一人としての…・・・。

 今まで見せたことのない優しい笑顔で立つ凛々しい顔つきで目良浩輔はバッターボックスへと向かって歩き出した。

 

 

 

 

「まだ、終わっちゃいねェッ!」

 さっきの春海の言葉を受けたせいだろうか?

 胸の奥に潜んでいる「終わりたくない」と言う感情が、不思議な感覚を持つと同時に、自分の野球への思いが限りなく広がっていくような心地の良い開放感を感じていた。

 まだ、ワンナウト。

 残りアウト二つで俺たちの最後の夏が終わってしまう。

 だが、まだ終わりではない。

 最後の最後まで全力でで喰らい付いてやらなきゃ終わるに終われねぇ!!――来な、太郎丸ッ!!!

 

 対する一球目。

 猛々しく太郎丸は、スリークォーターの綺麗な投球モーションでボールを放り投げ込んだ。

 ズバァァァァァン!!!

 球速百四十九キロの『アンユージュアル・ハイ・ストレート』がキャッチャー名島のインコースに定めたミットへと収まった。

「ストライクッ!」

 ――速い。

 それはまるで弾丸のような、鋭くて重たい鉛球が高速で振り下ろされたかのような速球に目良はまったく反応出来なかった。

 コースは徹底的に際どいコースを攻めて来る。

 オマケに「負けない」と言う気持ちの篭った良い球だ。

 太郎丸龍聖・・・・・・確かに良いピッチャーだ。

 続く、二球目。

 ど真ん中やや低めのストライクゾーンだ。

 これはギリギリ、ストライクゾーンに入っているが反応が遅れて見送る。

 球速表示は百四十六キロのストレートが突き刺さる。

 あっという間にツーストライクへと追い込まれてしまった。

 太郎丸の持ち球はストレートとスライダー、カーブ、フォーク、そしてチェンジアップの四種類と豊富な太郎丸だ。だが、投球スタイルは基本的には直球で勝負するタイプで変化球投げて来ないのは彰正のデータ通り、追い込んだらストレートもしくは落ちるフォークか緩急を突いたチェンジアップ——打者を三振で仕留めるピッチャーだ。

 速ければストレート、少し遅ければフォークかチェンジアップ。二つに一つな訳だ。

 

「二つに一つか……」

 クスッと目良は思わず笑ってしまった。

『勝つ』か『負ける』か……。

『続く』か『終わる』か……

 こんな場面でも尚、選択を迫られる事に目良は笑ったのだ。

 だが、目良はバットのグリップを強く握り締める。

 既に、悔いは無い。

 

「……」

 春海にはこれからの全てを託した。

 春海は彰正には劣るがバカで居て真面目だ。

 打撃面でも守備面でも既に二年の中では文句の無い選手になってるし、みんなを纏めるリーダーシップも持っていてキャプテンとしての才能もある。

 本当に頼りになる後輩は、俺には勿体ねえ。

 

 

 彰正……。俺みたいな馬鹿の我儘に今まで付き合わせちまって悪いって今でも本気で思ってるぜ。

 なぁ、彰正。

 もし……あの時、お前が官僚高校に進んでいたら俺は今ここに立っていたのか?

 いいや、きっと立ってねえんだろうな。

 そしたら俺はどうしてたんだろうな……そんな事なんざお前に聞いても分からねえのかもしれねえよな。

 ありがとな腐れ縁……。

 そして、真面目でつまんねぇ親友よ。

 

 

 千波……。千波にはいつもいつも情けなくてだらしない所ばっかり見せちまってるよな。

 何度も何度もマネージャーとして俺の所為で千波に大変な思いばかりさせちまって悪かったな。

 助けられてばかりで、何も感謝の気持ちを返せなかったが……この試合が終わったらちゃんと俺の想いをお前に伝えるよ。

 俺は……お前の事を——高柳千波の事が『好き』だって事を伝えるからな!!

 

 

 って、アホ臭え事考えてんだ……俺は?

 まさか、もう終わった気持ちでバッターボックスに立っているんじゃねぇだろうな……目良浩輔。

 二つの中の選択はもう決まったか?

『勝つ』か『負ける』か……。

『続く』か『終わる』か……。

 んな事、分かってんだろ? 

 

 

 

 

 

 

 

 やっぱり勝ちてぇんだよッッッッッッッッッッッッッッ!!!!

 

 

 

 

 

 

 ――ズバン!!

 

 

 

 

 

「……」

 巡り巡らせた気持ち。

 この先も仲間達と甲子園を目指したい、と揺るがない想いを掻き消すかのような轟く捕球音が目良のバットが空を切った。

 太郎丸の『アンユージュアル・ハイ・ストレート』の前に、目良は三球三振に打ち取られてしまった。

「ストライクッ!! バッターアウトッ!!」

 太郎丸はニヤリと笑みをこぼして、周りに「ツーアウト!!」と指でサインを作りナインへと声をかけた。

 

 

 そして、太郎丸龍聖が自己最速の百五十三キロを叩き込む、最後のバッターを空振りの三振に仕留める。

 決勝戦進出を決めた山の宮高校ナインは、喜びを露わにしてマウンドでガッツポーズを高く突き上げる太郎丸に向かって走っていっては、チーム全員で拳でガシッと交わしていた。

 山の宮高校ときらめき高校の試合は三対一で山の宮高校に軍配が上がり、きらめき高校は無念の敗退となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。

 春海達が負けた、と言う情報はパワフル高校の栗原から送られてきたメールの内容で知った小波球太。

 太郎丸が『百五十三キロ』を超えるストレートを投げた事や試合内容が事細かく添付されていて、今日一日署名活動をしていて携帯を見る暇も無かった小波にとっては正直有り難かった。

 これで太郎丸の居る山の宮高校と猪狩の居るあかつき大附属が決勝戦で戦うと言う事が決まった。

 そして現在、小波は六道聖の家に足を運んでいた。

 いつもの日課を熟す為なので、別に不思議な事ではない。

 広い庭が一望出来る縁側に胡座を掻き夏の夜風に吹かれ黒く四方八方に伸びる癖毛が揺れているのを気にしながら虫の音に耳を傾けている時だった。

「残念だったな。高柳先輩の高校。負けてしまったのだろ?」

 しばらく見かけなかった聖が台所から戻ってきた。

 手元には緑茶を淹れてくれていてたのだろう「きゅうた」と小学生の頃に社会見学で作った自分の名前が彫られた湯飲みはいつの間にか六道家に置いてあり、その湯飲みを隣に置きながら聖は少し遠慮した声のトーンで聞いてきた。

「……ああ。けど、太郎丸龍聖と名島一成のバッテリーが居る山の宮高校を相手に春海達は随分といい試合したと思うよ」

「山の宮? あまり聞いた事が無い学校の名だな」

「そりゃそうだ。なんて言ったって去年までは赤とんぼ高校、バス停前高校に次いで弱い高校だったからな。知らないのは当然だろ」

「そうなのか? それでも高柳先輩のチームを破るまでに成長した山の宮高校の部員達は余程練習を積んできたのだろうな」

「それもあるだろうな。だけど一番の理由はハッキリしてるさ」

「理由??」

「やっぱり太郎丸と名島の加入がデカイのさ」

 小波は二人の名前を出した。

 すると、聖は無言で首を傾げながら「一体、誰の事を言ってるんだ?」とでも言いたそうな表情をしていた。

「あははは、だよな。聖はやっぱ知らねえよな。太郎丸と名島って言うのは元西強中学の最強バッテリーだ」

「あの西強中学か。だが何故、その二人が頑張地方の山の宮高校なんかに居るんだ?」

「さぁ。それは俺だっても知らねえよ。兎に角、あの二人がいる事でチームに活気が出てきたのは確かな事だ。次の春の大会では是非とも戦ってみたい相手だぜ」

「うむ、春の大会か……。だが、その前に球太」

「ん?」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫って?」

「早川あおいさんの事だぞ」

「あ……」思わず言葉が漏れてしまった。聖の言葉で山の宮と戦いたいと言う浮かれていた気持ちを持っていた小波はふと我に帰る。

「今日も学校にも行かずに一日中署名活動していたのだろ? 署名はどの位集まったのだ?」

「あ、いや……。それが、その……」

 聖の言った通り。小波は朝から学校に行かずに早川の出場を認めて貰える様に署名活動を行っていた。だが、結果は十五人しか集まらなかった。前日は聖本人に「百人くらい軽く集めてやるさ!」などと息巻いた手前、答えるのが辛いのだ。

「成る程……。言葉が詰まると言う事は、それほど言いたくはない程の数なのだな。球太に免じて聞かないでおこう」

「あはは……自分で大口吐いといて恥ずかしいな。でも……簡単に集まらないって事くらい分かってたけどな」

「それで? これからどうするのだ?」

「どうするって言われてもな……。そんなの認められるまで続けるしかないだろ」

 この言葉に聖はやれやれと首を横に振る。やると言ったらトコトンやるのが小波球太なのだ。

 一度決めたら決して折れる事は無い。その小波の頑固さは聖が一番知っている事だ。

「それに丁度、明日は終業式だ。ようやく夏休みに入る訳だし、夏休みはほぼ一人で署名活動するつもりだから出席日数は何の問題はないさ」

「……一人で署名活動? 球太、お前は野球部の練習には参加しなくていいのか?」

「まあ、確かに練習には参加しなくちゃならない所だけど、今はどころじゃないからな。矢部くんには毎日、練習をしていて欲しいメニューを作ってメールで送ってるし……それに俺はお前が居るから問題はないさ」

「なーーッ!! それは一体……ど、どういう事だ?」

 口を籠らせて聖が言う。心なしか顔が一瞬にして真っ赤に染まったのは気のせいだろうか?

「どう言う事って……ピッチング練習だよ。お前、部活で疲れてるのに毎日手伝ってくれてるだろ?」

「あ、ああ……そ、そういう事か」

 聖は少し肩を竦めた。

「球太、前にお前が言っていた球は物に出来そうか?」

「うーん。それはどうだろうな? けど、イメージは沸いてるよ。それに手応えもある。だけど、まだ何か足りない気がするな。もしかして実践じゃないと分からないかも知れない」

「そうか。ただでさえお前の得意とする『三種のストレート』は異質なのだぞ? それに、故障者でもあるから肘と肩の負担には気を使いながら練習するんだぞ?」

「お、おう」

「・・・・・・どうかしたのか?」

「いや、別になんでもないよ」

 いつもは文句ばかり言う聖だが、今日はヤケに心配してくるので戸惑う俺だった。ふと見上げた雲一つない夜空が広がっていて夏の星がよく見える。

 春海達は負けてしまったが、もし俺たちが出場停止処分にならなければ、きらめき高校と戦い、太郎丸と名島の居る山の宮と戦って、決勝では猪狩と戦えたのかという事を思うと少し胸が苦しくなる。悔しいのは皆、同じだ。この悔しい気持ちを消すためには早川の出場を認めて貰い、恋恋高校として再始動するしか無い。もう二年の夏は終わった・・・・・・。残るのは来年の夏の大会だ。必ず、必ず俺が皆を甲子園の土を踏ませてやるんだ。その為にも早く≪アノ球≫を完成させなくてはならない。

 

 

 

「夜空が綺麗だね」

「・・・・・・・・・・・・」

「ねえ? 浩輔くん、聞いてるの?」

 夜の二十時を過ぎた時間帯。街外れの住宅街が立ち並んだ所に一つの大きな池がある公園に二つの影が並んでいた。年齢は十七〜十八歳位で見たところ制服を着ているところからすると高校生だろう。長身の男の前を歩く女生徒が空を見上げながら尋ねるも返事が無かった。

「あん? そんな大声で言うなよ! うっせーよ! ちゃんと聞こえてるって!」

「じゃあ、今私はなんて言ったの?」

「明日の下着はいつもより派手に行こう、じゃねェのか?」

「バカッ!! 全然違う!!」

 ――ボゴッ!!

 静寂に包まれた公園内に鈍い音が響き渡る。

「イッテェ〜! お前、急に何しやがんだッ!! 千波!」

「アホッ! バカッ! 変態!!」

「悪口のオンパレードじゃあねェか!」

「当たり前でしょ!? 私は夜空が綺麗だねって言ったのよ!? 何が『明日の下着はいつもより派手に行こう』よ! ただの変態じゃないの!」

「チッ! 惜しい!」

「全然ッ! 惜しくない!」

 二人の姿は、きらめき高校の目良浩輔と高柳春海だった。今日の試合、山の宮との準決勝戦で負けてしまい事実上の引退となった三年生の二人だが、何故か二人で歩いているのだ。

 だが、学校から二人で帰る事になってから三十分の時間が既に経過していて、たった今ようやく二人は会話をした。

 三振のコールとゲームセットの試合終了の合図と共にきらめき高校の全員がその場で涙を流していた。目良も打席に立つまで涙すら見せなかったが、ベンチに座りタオルで顔を覆ってしばらくそのままだった。それを見た千波は、きっと浩輔は、試合に負けた事を引きずっているので無いのか、と思いとても声を掛けられないままだったが、次の瞬間に千波は安心した。

「くく・・・・・・あははは!」

「こ、浩輔くん?」

「ふぅーう。良かった良かった! いつも通りの千波でよ」

「え? どういう事?」

「お前、俺にずっと気を使ってんじゃねェかと思ってたけどさ、今の一発で解った! 千波は千波。いつも通りだ!」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「千波」

「うん?」

「悪りぃな。俺、負けちまったよ」

「うん」

「本当は本気で甲子園へ連れて行きたかったんだ。彰正も春海も部員全員・・・・・。もちろん、千波もな」

「うん」

「だけど、負けちまった」

「・・・・・・」

「正直、こう見えて今の俺は、メチャメチャ悔しいんだぜ? でも完敗だ。山の宮・・・・・・太郎丸達が一枚上手だった」

「・・・・・・」

 千波は黙ったまま浩輔の言葉を聞いていた。彼の表情は試合後と同じで本当に悔しいと言う気持ちを露わにしていたのだ。

 やがて聞こえるのは虫の音と夜風が吹き通り抜ける音だけとなり、暫しの沈黙が続く。一体どれ程の時間が経過したのだろう。一分か十分なのか、それとも三十分は過ぎたのだろうか、二人にはそう感じらる程、時の流れはゆっくりと動いている様に思っていた。

 ドクン、ドクンと胸の高鳴りが周りの音を掻き消す程の大きな音がBGMの様に鳴り響いている。すると、目良はスゥーッと小さな息を吸った。

「あのさ、千波」

「うん」

「本当は、こんな感じでお前に伝えるつもりは全く無かったんだけどさ・・・・・・」

「何を?」

「俺・・・・・・千波の事が・・・・・・好きだッ」

「・・・・・・」

「あの日、千波と出会った時から、ずっと・・・・・・今日まで・・・・・・お前のことが好きだ」

「ありがとう・・・・・・私も、浩輔くんのこと・・・・・・好きだよ」

「そっか・・・・・・へへ! なんか、これはこれで恥ずかしいな」

「そうだね・・・・・・。なんか変な感じがするね」

 二人は互いに手を握りしめた。

 夜風が涼しく、透き通った夜空がとても印象的な夜だった。



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第26話 小波球太と恋恋高校野球部

 きらめき高校と山の宮高校の準決勝戦は山の宮高校が勝利を収めて決勝戦へと駒を進めた。

 そして、今日は先に決勝の舞台に立ったあかつき大附属と山の宮高校の甲子園を掛けた最後の戦いである決勝戦が正午に行われる。

 腕時計に目を向けて見ると、時刻はまだ午前十一時を少し過ぎていたところだった。目の前を歩く主婦に一枚のビラを配ったところで、俺は額の汗を拭った。

「しかし、今日も暑いな」

 そういえば、朝の天気予報では今年最大の猛暑日になるだろうと天気予報士が苦笑いを浮かべて言っていたっけ……。

 この暑さだと恐らく外に出ずに家の中でクーラーの涼しさに浸ってる人の方が多いのではないだろうか。

 周りを見渡してみる。やはり、いつもより人通りは少ないようにたい感じてしまう。

 今日は、恋恋高校の修業式だが俺は出席せずに早川の署名活動を続けている。昨日の夜、聖に「学生なのだからには行け」と言われてしまったが、今の俺は早川を一日でも早く部活に復帰させるのが一番の目標だ。

 もし聖の奴が、今日も学校に行かず、ここで署名活動している事を知ったら怒るんだろうな。

 そう思うと、思わず口が釣り上がってしまう……。

「球太?」

 聞き慣れた声が俺の名前を呼ぶ。

 その声の主は目の前に立っていて、そいつはきらめき高校の高柳春海だった。

「春海!?」

「やっぱり、此処に居たんだ!」

「ん? やっぱり?」

「ああ、母さんが昨日、言ってたんだ。球太が駅前の広場で何かやってるってさ、ほら俺のレストランはすぐそこの商店街だろ?」

「あ、そういえばそうだったな」

 確かに、俺が署名活動をしている所は春海の家のパワフルレストランから五十メートルも離れていない所でやっている。

 思えば春海に合わなかったのも春海達がまだ試合が残っていて練習していたからだったのかと、今更ながらに思う俺だった。

「それより、球太は此処で何してるんだ?」

「何って……、早川の出場を認めてもらう為の署名活動だよ。ここんとこ毎日な。まあ、中々、集まらなくて大変だぜ」

「成る程ね。それなら俺も名前を書かせて貰っても良いかな?」

「おう! それは助かる」

 丁寧な字で記名欄に名前を書いている春海だったが、その表情はどこか暗い。

 そんなのは当たり前だ。

 昨日の試合、山の宮高校と良い試合をしたんだ。悔しさを押し殺していつもの様に振る舞うって言うのは無理な話だ。

「これで良いかな?」

「ありがとな、春海」

「これで球太と戦えるなら、どうって事ないさ」

 ニコッと笑みを浮かべる春海。

「……悪かったな。お前達と戦える所まで勝ち進んだけど、最終的には戦えなかった」

「そう落ち込むよ。それは仕方ないさ。でも、まだ俺たちには一年時間がある。来年は早川さんも揃った恋恋高校と戦える事を祈るよ」

「俺もだ。ま、お前には負けないけどな」

「こっちの台詞さ」

 ニカッと笑う俺に、釣られて春海も笑った。今まで暗かった表現にようやく笑顔が見ることが出来て少し胸がホッとする。

「それじゃ、俺はもう行くよ。これから野球部の練習なんだ。キャプテンに選ばれたし、これからの方針も考えなきゃだから忙しいよ」

「おう! そうか。春海!」

「うん?」

「記名ありがとうな! 頑張れよな、新キャプテン!」

「あはは、球太に言われると何かバカにされてる様に感じるな。でも……ありがとう。球太も頑張れよ!」

 商店街の方へと春海は歩いてく。その背姿を眺める。肩の荷が下りたのか、少し清々しい気持ちを持った様に見えて俺は嬉しくなった。

「よしッ! 俺も署名活動、頑張るか!」

 

――――

 

 同時刻。

 恋恋高校では一学期の修業式が終わりホームルームが終わった後、野球部員は全員部室に集まっていた。そこには勿論、キャプテンである小波の姿は無かったが、珍しく顧問である加藤理香が部室に姿を見せていた。橙色の長髪に豊満な胸を如何にも誘っているかの様にばっさりと現れる上に白衣を纏う加藤に、星と矢部は鼻の下を伸ばしてニヤニヤしている。

 早川はその様子を鋭い目力で睨み、一瞬にして真面目な顔に戻る二人だった。

 そして、少し間を置いて早川が尋ねる。

「すみません、加藤先生」

「あら、何かしら?」

「どうして、小波くんは学校にも部活にも来てないんですか?」

「……」

「もしかして、先生は知ってるんじゃないんですか? 小波くんが今どこで何をしているのか……」

 無言のまま加藤は、早川に肩を置いた。

 そう。早川が尋ねた通り、加藤理香は知っているのだ。小波球太が今、どこで何をしているのか、全て知っているのだ。

「早川さん、『今は苦しいかもしれない、けど今はただ、堪えて待っていてくれ』・・・これは小波くんがあなたに言っていた言葉よ」

「小波くんが? ボクに……?」

「ええ。彼はあなたの為に、今は必死で頑張ってるの。だから、彼の言葉を素直に受け止めてちょうだい」

 加藤の言葉に黙ったまま、早川はベンチに腰を降ろす。そして、小波から以前から話を預かっていた、今後の夏休みの練習の事と、強化合宿を予定している事を話した。

「うひょー! 合宿でやんすか! なんかオイラ楽しみになって来たでやんす!」

「アホか、テメェは? 遠足みたいにはしゃぐんじゃあねェんだ! ガキか! その前に、こんな男だらけで合宿って何が楽しいんだって言うんだ? 俺にとっては、苦痛でしかねえぜ!」

「なら、星くんは不参加で良いでやんすよ。その隙にオイラは、はるかちゃんと夜のキャンプファイアで愛を深めるでやんす。合宿場所が海の近くだから最適でやんすね!」

「はあ!? ちょ……ちょっと、待った! 矢部ェ! それだけは譲れねえ! それに場所が海の近くだと? ふざけんなよ!!」

 いつもと変わらない星と矢部の争い。海野、古味刈達は笑って見守るが、早川は違った。此処で二人を鉄拳制裁でゲンコツでも喰らわしている所だが、今日は座ったままだった。

 

 

「加藤先生。そろそろ、本当の事をこの人達にお話をしてもよろしいではなくて?」

 突如、部室のドアが開くと共に、聞こえる女生徒の声に野球部員が一斉に振り向き、摑み合いをしていた矢部も星も動きを止めた。

「て、テメェ・・・・・・」

 煌めく金色に染まる髪、前髪が綺麗に揃ってお嬢様口調の女生徒は、恋恋高校の理事長の孫娘であり、小波達と同学年である二年生の倉橋彩乃だった。

「本当の事? それは何なの? 倉橋さん!」

「早川あおい……。私くしは、まだ、あなたを認めてなんかいなくてよ? ・・・・・・と、言いたいけど今日の所は球太様の為、それは良しとしましょう」

 コホン、とワザとらしく咳を鳴らしチラッと加藤の方へと目を流し「よろしくて?」と再度確認の言葉を掛ける。それに、加藤は無言で頷いた。

「球太様は現在、たった一人で署名活動を行っておりますのよ?」

「署名活動!?」全員が驚いた声を上げた。

「なんで、小波くんが署名活動なんかを?」

「そう。それは、早川あおい。球太様は、あなたの出場の許可を得るために色んな人に頭を下げて承諾を得ようとしているの。何故だかは理解は出来ませんが・・・・・・よりによって球太様は、こんな女狐なんかのために――」

「小波くんがあの日、思いついた事って、この事だったでやんすね……」

「——あの野郎ッ! 俺たちに黙ったまま勝手にカッコ良い事してやがんだ!」

 星は怒りに満ちた声で、目の前の壁を拳で一回殴り付けたが、星が思うほど異常に痛かったのか、殴り付けた右の拳を左手で庇うように何度も撫で回して痛みを和らげようとしていた。

 そして、早川は放心状態だった。少しばかり漏れる声は言葉にならず、ただ「え……」と驚いた声しか出てこなかった。漸く、早川が言葉を放った。

「どうして……小波くんは、ボクの試合の出場を……認めさせようとしてるの? ボクのせいで、ボクのせいなのに……なんで?」

「やっぱり、あのバカは私の約束を守ろうとしたってわけね」

「さ、幸子!?」

 彩乃に続いて、今度はソフトボール部の主将にして四番でエースである高木幸子が姿を見せた。

「オゥ、テメェ! 一体、なんのようだ?」

「うるさいわよ、金髪頭。あなた、野球部に相応しくそこに居るオタクメガネと同様に坊主にでもしなさい」

「金髪頭……だと? 一年ぶり位にその変な名前で呼ばれた気がするぜ!」

「えっ? 今のオタクメガネってオイラの事でやんすか?」

 矢部は、赤坂達に確認した。そうだと言わんばかりに即答で、全員が頭を縦に降るので落胆の様子を浮かべる。

「な、なあ。矢部」

「どうかしたでやんすか? 海野くん」

「え? あ、いや……お前、高木と知り合いなのか?」

「知り合いと言えば知り合いでやんす。はるかちゃんとあおいちゃんの同級生で、一年生の時に、高木さんがグラウンドを譲ってくれたでやんす」

「そ、そうか。へぇー」

「それがどうかしたでやんすか?」

「え? いや、別に……何もない」

 何か気になる事でもあるのだろうか、いつもは口数の少なく、常に冷静沈着な海野が少し取り乱している様子に矢部は頭には、漫画みたいなハテナマークが浮かんでいた。

 

 

「それで幸子、やっぱりってどういう事? 約束ってなんなの?」

 焦る気持ちは抑えきれないまま、早川が鋭く質問を求める。

「去年、グラウンドの権利を譲る時に、小波に約束をさせたのよ。あおいは中学時代に周りから、女子が野球をしていると言う色眼鏡でずっと見られて、見世物にされ苦しい思いをずっと背負ってきたから」

「幸子……」

 ふぅーと息を吐いて、高木は喋る。

「もう二度とあおいを辛い目に遭わせないで上げてって、小波に言ったわ。あいつは、それをずっと忘れないで、今も守ろうとしてるって事よ」

「そ……そうなんだ」

「あおい? 行ってあげたら? 小波のところに、きっと大変な思いをしてるから、助けて上げないと、ね?」

 パチっと片目を閉じてウインクをした。早川の目には少し涙が溜まっている。それは親友の早川自身を守って欲しいと言う思いがあったという本音を聞いたからか、小波もまた早川自身を守る為に約束を守らんと必死で頑張っていると言うことか……きっと両方の小波と高木の熱い思いが胸にきているのだろう。

「うん! ありがとう幸子!」

 早川は涙を拭い、キリッとした表現に変えて一目散に部室を飛び出していった。あの日、出場停止が決まったとは違い、生き生きとした早川対して、その場にいる全員は漸くいつもの早川に戻ってくれた、と安堵の表情を見せた。

「あなた達も、いつまでそこで突っ立てるつもりなの? あなた達も早く行きなさい!」

 星たちを見て空かさず指示を出す辺り流石はソフトボール部の主将を任されてるだけあるのが頷ける。厳しい口調で荒げる高木に逃げるように全員が走り去って部室には、加藤理香と倉橋彩乃、高木幸子の三人だけが残っていた。

「全く。しょうがない野球部ね」

「高木さん……あなた」

 高木のため息。

 加藤は、近寄って肩を優しく叩いた。

「これでようやく、あのバカ・・・・・・いや、小波の借りを返す事が出来ました。私も、あおいには早く復帰して貰いたいんです」

「何故?」

「それは……あおいが甲子園のマウンドに立つ所をみたい。もちろん、学ランを羽織って応援しなきゃいけないんですけどね」

 苦笑いをして高木が言った。その言葉の意味を理解出来ない加藤は少し首を傾げたが、きっとこれも小波との約束なのだろうと勘付き、ニヤリと笑った。

「さてと……ところで倉橋。お前はいつまで独り言を言ってるつもりだ?」

「――なんて言ったって、私と球太様との馴れ初めは、これはもう忘れもしませんわ……。あれ? 皆さまは?」

「もう行ったわよ」

 呆れた顔で高木が言う。

「——っ!!!」

 どうやら今まで彩乃はずっと喋り続けていた様であり、誰もいなくなった今、恥ずかしくなったのだろう、顔を真っ赤に染め上げて、手で顔を覆いながら部室を飛び出して居なくなった。

 

 

――――

 

 時刻は、正午を迎えた。お昼の時報だ。

 それを聞きながら、俺は今日で最多記録である三十人目の記名を貰った所で一先ず休憩を入れる事にした。人通は少ないが、連日の効果が現れたのかすんなりと受け入れてくれる人が多くなった気がした。

 それでもまだ四十ちょっとしか集まっていない署名だ。高野連のお偉いさんを黙らす為には圧倒的に少ない数である為、まだ満足もしなかった。

 喉が渇き、先に購入していたスポーツドリンクを喉へと流し込む。染み渡る体内に欲していた水分が入ることで、体が活性化しているようだ。―――よし、まだまだ行ける。やるとするか!

 顔を叩いて、気合を入れる。腰を上げてビラを持ち、もう一度声かけから始めた時だ。

「小波くん!!」

 俺の名前を呼ぶ声が聞こえ振り向く、そしてこちらに向かって走ってくる女性の影が一つ見えた。その影を目で捉えると、驚くことに知っている人物だった。黄緑色の髪をした人物、忘れることは無い、早川あおいだ。

「は、早川!?」

「小波くん……久しぶりに……会えたよ」

 目の前で止まり、息を切らしながら、早川はニコッと笑みを見せる。尋常じゃない汗の量を流している所から推測すると、学校からここまで走ってきたのだろう。

「おう、久しぶり……って、違う! お前、どうしたんだ?」

「どうしたじゃないよ! ゴ、ゴメン……そのスポーツドリンク貰うね」

 早川は、俺が持っていたペットボトル飲料を掴み取り、キャップを開けてゴクゴクと喉を鳴らした。よく見ると早川の綺麗なピンク色の唇が触れているのが解る、俺は思わずドキッと身体全体が固まった感覚に襲われる――これって関節キスじゃないのか?

「ありがとう。生き返ったよ」

「お、おう……」

「それより! 倉橋さんから聞いたよ。ボクの為に署名活動をしてるって、その為にキミは学校に来なかったんでしょ?」

「ったく、彩乃のやつ……。あれ程、黙ってろって言ったのに」

 思わず口が出てしまう。バレてしまった以上言い訳は通用する相手では無い、それは早川の表情を伺えば解る程―――かなり怒っているように思える。俺は、ボサボサに生える髪を掻きながらため息を漏らした。

「ま、彩乃の言っていた通りだ。最初に署名活動を思いついたのは俺で、それを理事長に伝えたら、彩乃まで伝わってたから彩乃には厳しく口止めしてたんだけどな」

「どうして? 言ってくれなかったの?」

「それは……俺の性格上、言わないんだ。なんでもかんでも一人でやっちまうのが俺だ。だからこれに関しては何も言えねえよ」

「バカ! 小波くんのバカ!」

 怒っていた表情から一変、今度は今にも泣きそうな表情になった。青い色に染まった大きな瞳には、溢れ出しそうな程、涙の雫が溜まっていた―――確かに、俺はバカだ。どうしようも無くバカだよ、早川。でも、俺はお前と野球がしたい。お前のプレーを見ていたい。だから失いたくなかったんだ。

「お! 小波ィ! テメェ、こんな所に嫌がったな!!」

 聞きたく無い声が聞こえる。口の悪さからして星だと言うのは言うまでも無い。星を先頭にして矢部くん、海野、山吹、古味刈、毛利、椎名、赤坂、御影と部員全員が走って来た。

「お前らまで!」

「アホか、野球部の一大事って言うのに呑気に練習なんか出来るかってんだよ、ボケ! キャプテンだからって何でも噛んでもカッコ良く全て背負うとしてんじゃあねえぞオタンコナス!」

「何だよ、その小学生みたいな悪口は……、星、お前はもっとマシな悪口は言えねえのかよ」

「うっせ! これが俺の精一杯の悪口だ、文句あっか?」

「ねえよ。その方がお前らしい」

 俺と星は、ニヤリと笑った。あの日、険悪なムードになったが、過去は過去、今は今とお互い割り切る事が出来ていたようだ。

「小波くん……」

「矢部くんには迷惑を掛けたね、ゴメンよ」

「オイラは小波くんを信じていたでやんす!」

 瓶底メガネの奥底から滝のように流れる涙を拭かずに、俺の方に向かって抱きつこうとしている矢部くんを間一髪で避けた。早川ならともかく、矢部くんとは少し、抱き合うのは抵抗がいるんだ……本当にゴメン。

「これで、漸く全員、揃ったな。俺たちの恋恋野球部」

「そうでやんすね」

「さて、これから忙しくなるよ! 署名を皆で集めなきゃ行けなくなるからね!」

 星、矢部くん、早川が言葉を並べる。その合図を受けて他の部員は、ビラを持ってそれぞれ配りに走っていく。俺は、それをただ唖然として見つめていた。

 一人でやる事は間違っていた。仲間達に頼らなかった俺はバカだ。こんなにも他の部員も早川の事を思っていてくれていたのか、と感心して熱い想いが胸の奥で脈を打つ。

 一度は、バラバラになり掛けた俺たちだったが、今はこうして一つになった。更に絆が深まった様にも感じる。

 

 

 

 

 

 こうして、小波球太と恋恋高校野球部は一つとなり、署名活動を再び始めた。全員で取り組んだ事で、署名をしてくれる人がその日、一日で二百件を集める事が出来、口コミで広がりマスコミにも取り上げられる程の絶大な効果を与える。

 しかし、それ以上に衝撃的な事が同日に起こったのだ。甲子園を掛ける頑張地方のあかつき大附属と山の宮高校の決勝戦で、なんと太郎丸龍聖が所属する山の宮高校がノーヒットノーランを達成し、王者あかつき大附属を五-〇で下して甲子園の切符を手にしたのだった。




 《Profile》オリパワ
 No.1 小波球太 4/3生まれ 右投/右打
【ポジション】一塁手
【能力】
弾頭3 ミートB パワーC 走力B 肩力B 守備A 捕球A
ローボールヒッター、アベレージヒッター、パワーヒッター、広角打法、守備職人、センス○、対エース○、チャンス5、走塁4、盗塁3、チームプレー○、モテモテ、調子安定

 No.2 星雄大 8/29生まれ 右投/右打
【ポジション】キャッチャー
【能力】
弾頭3 ミートF パワーB 走力E 肩力B 守備C 捕球S
三振、勝負師、パワーヒッター、キャッチャー◎、いぶし銀、意外性

 No.3 海野浩太 12/11生まれ 右投/右打
【ポジション】セカンド
【能力】
弾道2ミートD パワーF 走力C 肩力D 守備A 捕球C
チャンスメーカー、バント○、固め打ち、代打○

No.4悪童浩平 1/1生まれ 右投/右打
【ポジション】ピッチャー/外野手
【能力】
速球148キロ コントロールA スタミナC
カーブ1、フォーク3、シュート1、ドライブ・ドロップ(オリジナル変化球)7
キレ5、ノビ4、クイック×、短気、
弾道4ミートCパワーD 走力C 肩力C守備D捕球C
盗塁5、走塁5、チームプレー×、


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小波球太 第三章 恋恋高校二学年秋・春編
第27話 恋恋高校再始動、そして――


『猪狩守、ここで散る』

 高校球界では一番名を馳せている名門にして強豪であるあかつき大附属高校の敗北は、翌朝の朝刊の一面を大々的に報道される程、世間には相当な衝撃を与えた。

 投球内容としては九回を五失点、被安打数は七本、奪三振数はたったの三つだったと言う。

 オマケに四死球は初回に四つと、猪狩本人の調子が良くなかったにしても、猪狩らしく無い投球内容に、昔からの付き合いである俺は未だに本当かどうか信じ難かった。

 それに対し、山の宮高校のエース太郎丸龍聖は、圧巻の投球で頑張地方一の打撃力を誇るあかつき大附属打線を無四球完封でねじ伏せて見せたのだ。

 投げては毎回奪三振、打っては二ホーマー三打点と好成績。

 今年から現れたダークホースとしても、あの猪狩を破ったと言う事で、世間に与えたインパクトはかなり大とも言えるだろう。

 新聞の記事では、『きらめき高校戦同様、今日の試合は七回からトップギアで投球!! 魅せた!! 太郎丸龍聖の『アンユージュアル・H・ストレート』炸裂!!』と、言う見出しの記事まで用意されていた。

 その『アンユージュアル・ハイ・ストレート』は太郎丸の尻上がりに調子を上げると共に、独自のノビを更に強化し、打席に立って初めて実感すると言う―――。

 その球を目の当たりにした春海の先輩である目良浩輔が、悔しさを滲ませてインタビューに答えていたのが妙に印象深い。

 そのインタビューを受けて新聞の記事では詳しいことが記されていた。

 スピードガン以上の体感速度を感じさせるストレートが、太郎丸龍聖の『切り札』である事が綴られていた。

 

 そして、俺たちは昨日に引き続き早川の署名活動を続けていた。

 昨日の手応えから今日も沢山の人から、『頑張って』や『応援してる』と言った励ましの言葉などを掛けて貰って、俺自身や他の部員が相当なやる気を示している。

 恋恋高校の全員の名前、猪狩兄弟、春海達などと言ったリトルリーグ時代のチームメイトや、更に千波先輩や目良浩輔、館野彰正、更には流星高校の野沢雄二、ときめき青春高校の小山雅と言った、この高校生活で出会ったライバル達や、聖を始めとして、野球道具でお世話になっているミゾットスポーツの明日光一郎さん、その双子の子供の明日光、明日未来など……昔ながらの友人や近所の人達の協力も得られて今は、とてもいい感じで署名が集まっている様な気がしている。

「皆、ボク達を応援してくれてるんだね」

 ある程度時間が経過して、お昼時を迎えた俺たちは一先ず休憩を入れる事にした。

 記入名簿のファイルを大事にバックの中に入れようとした時だった。

 早川が俺に向かって囁くように呟いた。

「ああ、そうだな。協力してくれた人達の思いを無駄にしないように必ず良い結果になるといいな」

「うん!」

 ニコッと笑う笑顔。

 早川もここまで良く立ち直ってくれたものだ、と感心する。

 誰よりも辛い立場にいながらも、マネージャーでチームを支えるとまで決意した早川のメンタルの強さに、俺は頭が上がらない思いでいる――しかし。

 早川には、マネージャーでベンチに入るだけじゃ足りない程の秘めた力を持っている。

 お前は、恋恋高校のエースナンバーを背負ってマウンドに立っているのが一番似合うんだ。

 それに、甲子園のマウンドで投げる早川の姿を見てみたかったりもするって言うのは、本人を前にして中々言えないもんだ……。

「小波くん、そろそろお昼にするでやんすよ! あおいちゃんも早くくるでやんす!」

「うん! 今いくよ!」

 矢部くんの呼ぶ声に、俺たちは笑いながら向かっていった。

 

 

 

――――

 

 そして、俺たちの努力は見事実る事になる。

 梅雨明けが宣言された七月はあっという間に終わり、夏本番の八月に入り第二週目へと差し掛かった頃だ。

 色々な人の協力を貰い、ワイドショーや新聞などのメディアに取り上げられて注目を集め、最終的に一万人を超える人達の署名を集める事が出来たのだ。

 恋恋高校野球部の思いを理事長に託し、それを高野連に届けて貰ってから約五日後……。

 漸く結果が出ると言う事で夏休みにもかかわらず、俺たちは理事長室に呼ばれて、その時をひたすら待った。

 正直いえば、不安で一杯だ。

 受理されるかどうかさえ怪しい―――そんな気持ちは、この署名活動を始めた時からずっと思い続けてきた気持ちだ。

 普段、緊張とは無縁の俺も今日ばかりは、流石に緊張感を感じてしまう。

 そして、来たる午前十一時。

 理事長室に一本の電話のベルが鳴り響いた。

 あまりの突然さに驚いて体をビクッと跳ねあがらせた数名の影が動くのが分かった。

 流石に俺は、そこまで矢部くん達ほどオーバーなリアクションを取ることは無かったが、内心……ベルの音と鼓動の音が一緒になっていた。

 理事長席に座る倉橋理事長が冷静に受話器を握り耳元へ当て、「こちら恋恋高校、理事長の倉橋です」と低く慣れた口調で話しをした。

 勿論、電話の向こう側の声はこちら側に聞こえる訳でも無く、理事長の相槌だけが聞こえる。

 暫くして本の一瞬だが、理事長は険しい表情を見せたのを見逃さなかった。

 思わずゴクリと、息を飲む。

 その表現を見たのは俺だけでは無く、全員がその険しい表現を見て、腹を括ったような、最後の覚悟を決めた顔で見つめ、冷や汗が頬を垂れると、今度はゴクリと生唾を飲み込んで、理事長の言葉を待つ……。

「……はい。それでは失礼します」

 静かに受話器を置く。

 すぐ様、言葉が欲しいが、理事長はそのままジッと黙ったまま俺たちを見つめていた。

 もしかして、結果はダメだったのだろうか……。

 カチカチと大きな柱時計の針の動く音と、外の木々を揺らす風の音だけが理事長室に流れ込む。

 次の瞬間……理事長は、ニコッと笑いゆっくりとした口調で言葉を述べる。

「おめでとう! たった今、高野連から早川くんの出場が正式に認められたよ!」

「よっしゃーー!!! やったぜ!」

「良かったでやんすー!!」

 まず初めに、喜びの声を上げたのは星と矢部くんだった。

 星は天高く大きな大きなガッツポーズをして見せて矢部くんと抱き合った。

 矢部くんは星に抱きついて瓶底メガネの奥から滝のような涙を垂れ流している。

 その後に続こうと毛利達が二人に被さるように飛び乗っていく。まるでプロ野球の日本一を決めた瞬間を見ているかのようなはしゃぎっぷりだ。

 そして、顧問である加藤先生、孫娘の彩乃は胸をホッと撫で下ろして安堵の表情を見せていた。

 何かと俺の後ろで支えてくれていた二人には、感謝の気持ちを述べても伝えきれそうにも無いな……本当、ありがとうございます!

 最後は……。

「あおい! これでまた野球が出来るわよ!」

「え……あ……」

 最後は早川だ。喜びを通り越した顔と言えばいいのか例えるのは難しいが、その青い瞳から流れる小さな涙を見れば一目瞭然だろう。嬉しさを超えた嬉しさ、またお前はマウンドに立てるんだ。辛かっただろうけど……もう一度頑張ろうぜ、早川!

「だが……九月に行われる秋季大会はルール改正を来年の春からとする為、今回は見送り。恋恋高校の本格的参戦は、三月から始まる春季大会からとなる」

「――ッ!?」

 思ったより長いな・・・・・・。

 来年の春か……。

 これでセンバツでの甲子園は無くなった。

 甲子園に行けるのは、来年の夏の大会のみって訳か。

 面白え―――。絶対、来年こそは恋恋高校を甲子園に出場させてやる、俺が必ず! どんな事になっても!

 

―――

 

 午後の六時を過ぎた。

 毎年、夏のこの時間帯はまだ明るく、少年達が河川敷の砂利道を元気よく走り回っている姿がチラホラ見受けられる。俺たちは早川の出場が正式に決まったことで浮かれてしまい、本来休みだった部活を先ほどまで練習に費やしていた。星の相変わらず練習にならないノックはこの熱さの中でやられたら洒落にならない。危うく古味刈が、もう少しで熱中症で倒れる寸前の所だった……。しかし、二年の俺たちを覗いて後輩である赤坂、椎名、御影の三人の練習を見させて貰ったが中々の成長ぶりに驚きを隠せなかった。特に、外野全般が得意と述べた御影の守備の巧さは正直に言って矢部くんよりも『上手いのではないのか?』と思える程の好印象を持った。打球反応が良いのだろう。しっかりと見極めた守備、定位置への走りには文句の付け所が無い……だからと言って他の一年生の二人には足りないものがあるのか、と思われるかもしれないがそうでも無い。

 キャッチャーの椎名は時前の頭の良さを生かし、常に冷静な采配を振るってくれると久々にピッチング練習を開始した早川が太鼓判を押していたし、ショートを希望していた赤坂は……まあ、明るく元気な奴だった。

 こうなると、レギュラーのポジションの割り振りに打順も一新しなければならない。来週の夏合宿、秋と冬場には基礎を固めて春を迎えなければならないし、何校か練習試合を組まなければいけない事……たくさんある。

 兎に角、思えば夏の合宿の前に早川の処遇が決まってラッキーだ。早川がいると居ないとではやっぱり皆のモチベーションにはかなりの上下差がある。早川が復帰したことで恋恋高校の活気は更に倍増したと言えるだろう。この夏が勝負所だ。

 それにしても朝からずっと気になっていた事がある―――それは、猪狩が負けた事と猪狩から勝ちを得た山の宮の太郎丸龍聖だ。中学時代から二人にはかなりのライバル意識はあっただろう。『西は太郎丸』『東は猪狩』とまで呼ばれていた実力を兼ね備えていた二人だったからな。それを意識しないと口では言っていても意識していない訳が無いのが猪狩守だ。かなりの悔しさはあるだろう。これで猪狩は見違える程の成長を遂げるだろう……。

 

 俺だって……。

 俺達だって……これからだ。

 

 先を行くライバル達を思いながら、俺は家路へと足を進めて行った。

 

 

――――

 

 八月も早くも中旬へと差し掛かり絶賛夏休み期間に入っている頃、甲子園大会は既に始まりを告げていた。頑張地区代表の山の宮高校は勿論、西地区の西強高校、北地区のアンドロメダ高校などを筆頭に、貫禄のあるチームが高校野球の頂点を取ろうとしていた。

 そんな頃、俺たちは頑張地区から離れた場所に居た。世間がテレビで放送される甲子園大会に釘付けな頃、俺たちは夏の合宿を行う為にプロのチームが冬のキャンプに訪れ使用するグラウンドを使ってみたいと言う俺の冗談を間に受けた彩乃のわがままで理事長に強請り、半ば強引に一場借りて、練習に打ち込んでいた。

 流石、プロのチームが使用するだけあって練習などに使用する機材等は、バット然り、ピッチングマシン然り、全てレベルが高い物ばかりが並んでいる

 おまけに合宿所も、海がすぐ側にあって浜辺での足腰を鍛えるトレーニングには持って来いだし、立地もかなり良く雰囲気が良さげだ。

 到着して直ぐに練習を開始し、時計の針は既に十五時を過ぎており、ここにきて早くも三時間が経過していた。

 何故、俺が合宿を決行したかと言うとだ。目論見としては、恋恋高校野球部の全体的なレベルの底上げ……これに尽きる。

 ここまで極亜久高校、ときめき青春高校、流星高校野球との三試合と試合経験は割と少ない方だった訳で、ひたすらに守備、打撃と全般的なハードな練習を重ねている。

「今日は暑いから早めに切り上げてね。小波くん」

 そんな中、ライトポールからレフトポールへと全力ダッシュをする練習の最中、顧問である加藤理香先生が日傘をさし、暑苦しそうに俺の事を見ながらそう呟いた。

 今にもこの熱さの下で動き回る俺たちから避けてクーラー全開で冷え切った場所に行きたいと言わんばかりの表情を浮かべている。

「わ、分かりました」

 短かめに返答した。

 加藤先生は、日傘をさし顔の三分の一を覆っている黒いサングラスをかけて、そのままベンチへと踵を返して歩いていく。

 それにしても、加藤先生まで付いてくるとは思わなかった。

 それもそうだ。高校生の俺たちだけで何かあったら大変であり、勿論大人である教師、または顧問が居なければ合宿なんて行える訳ではない。

 ただ、驚きを隠せないのが練習には殆ど参加しなかった加藤先生が急に乗り気になっていたと言うことだった。オマケにここに来るまでの大型バスの免許まで持っているとは思わなかったけどな……。

 

 すっかり日が落ち静寂の夜が来た。

 皆が合宿所のロビーで談笑している中、抜け出して俺は一人、近くの砂浜を走っていた。

 ザブンザブンと耳の直ぐそばで聞こえる波の音、ザッザッと砂浜を蹴りあげる音、そして鼻に染み付くように潮の匂いを満喫していた。ふと、顔を横に向ければ月の明かりに反射する波の流れも堪能出来て、心にとても印象深い何かを残す。

 どの位走っただろうか。随分と走った様に感じる程、顎には大量の汗が垂れ落ちる……。

 ふぅ、小さな息を吐いてその場で足を止めて海の奥を眺める。すると……。

 

 ――ブン!!

 ――ブン!!

 

 何かの音が耳に飛び込んだ。

 勿論波の音でも無い。でも、聞き覚えのある音が聞こえた来た。くるりと体を音の方へと探る様に向けてみる――約五十メートル先辺りにその姿があった。

 背丈は百六十センチほどの金髪のツンツンと尖った髪が目に入る。薄暗くて分かり難いが顔はまだ幼く、中学生位だろうか。一回一回、バットを振る場所は違かった……。

 驚くべき事に少年は内角、高め低め、内角高め低め、真ん中と頭の中でコースを変えながら素振りをしていたのだ。

「あーもう、友沢先輩! やっぱりこんな所に居たんですか? それそろミーティングが始まりますよ!」

 海沿いの道から一人の銀髪の少年が現れて金髪の男に声を掛けた。先輩と呼ぶ辺り、あの子は同じ学校の後輩かなんかなのだろう。

 「友沢」と呼ばれた男は、名前を呼ばれてもバットをピクリとも止めずに、一心不乱にバットを振り抜いていた。やがて、銀髪の少年に止められてしぶしぶ引き返して行くとやがて俺は一人になり、バットに気を取られていた俺の耳は再び、波の音が飛び込んできた。

 

「もー小波くん! こんな所に居たの? 随分探したよ!」

 名前を呼ぶ声と共に、早川が後ろの方から浜辺を走って来た。さっき友沢と呼んだ銀髪の男と少し似ていて苦笑いを浮かべる。

「おう、早川」

「おう、じゃあないよ! 全く、皆で居るのに一人で自主練習してたの?」

「まあな。夜風に当たりたいって思って、ここに来たらいつの間にか浜辺を走ってたんだ」

「ふふ、小波くんらしいよ」

「そうか?」

「うん」

 呆れながらも、早川はニコッと笑った。

 思えば早川とこうして二人きりになるのは随分久しぶりの様な気がするな。

「それで? 早川、お前は何しに来たんだ?」

「え……?」

「だから、何しに来たんだよ? 浜辺を走り来たって訳じゃないだろ?」

 早川の格好を見る限り、ランニングをしに来た訳じゃないって事は、一目瞭然だ。なんて言ったってパジャマ姿でランニングなんてしないだろう? 普通に……。

「え、あ! コレは……その……」

 自分の姿を理解したのか、早川は急に我に返って歯切れが悪くなり、恥ずかしがる。心なしか顔も赤く染まっていた。

「小波くんに……お礼をまだ言ってないって思って! ……ここまで来ちゃったんだよ」

「お礼? なんの?」

「なんのって、キミはボクの為に署名活動をしてくれたじゃない? キミの行動のお陰で、ボクは再び野球が出来るようになったから……球太くん、ありがとう!」

「お、おう……」

「今日は、どうしてもキミにお礼が言いたかったんだ。それじゃ、戻るね。早く戻ってくるんだよ?」

 すると早川は、逃げるように走っていく。

 俺は、その後ろ姿をただただ見つめているだけだった。あいつが初めて俺のことを球太と呼んだ……。



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第28話 早川あおいは、昔の仲間と出会う。

 ――合宿二日目。
 昔の仲間と出会うのは、突然か偶然か。


 

 合宿二日目を迎えた。

 午前六時と朝早くから身支度を整え外周のランニングから身体を慣らし、浜辺で五十メートルダッシュを行い朝飯を食べてから午前中の練習メニューが本格的に始まった。

 まず野手陣はバッティング練習を行っていた。

 早川と星はブルペンでピッチング練習を行わせる予定だったが、星はバッティングがやりたいと駄々を捏ねたので代わりに椎名をマスクを被せピッチング練習をしている。

 種類豊富に揃っているバッティングマシンは全てミゾットスポーツ社の選りすぐりばかりだった。

 そんな中の最も適した「球青年」と呼ばれる百三十キロ〜百四十キロのストレートがランダムで投げ出され、変化球はカーブ、スライダー、時折フォークボールを投げるマシンを立たせ、野手陣には定位置を守らせた。

 これで打撃と守備の両方の練習が出来る。

 俺はファーストの定位置につく頃、最初に打席に立った海野から直ぐさま金属音が飛び交った。

 変化球のレベルはやや低めに設定されているだけに目が慣れるのは早いが『ドライブ・ドロップ』を投げる極亜久高校の悪道浩平、『真魔球』を投げるときめき青春の青葉春人の二人のオリジナル変化球は、これ以上である事は全て頭に入れながら打席に立たせている。

 ■ 恐らく両者とも前に戦った時と比べて更に磨きを掛けてくるに違いない。

 ——だが、せめて起動さえ読み取ってくれれば打ち負ける事は決してないと、少なからず俺は思っている。

「くそっ! 全然当たらねえぜ! おいおい! コレ、ぶっ壊れてるんじゃあねェのか!?」

 打席に立って百三十キロ中盤のストレートを空振りして、二番目に打席に立った星が吠えるように叫ぶ。

 壊れてる壊れてる、としつこく言う星ではあったが、かれこれ十球連続で空振りしてる腹癒せだろうな。

「星! 頭の中で二塁か三塁に、ランナーがいると想定してバットを振ってみろ!」

「――あんッ?」

 俺はそうアドバイスを促す。

 星は顰めっ面を浮かべ明らかに舌打ちをし二、三回程素振りを見せながらバットを握りしめてボールを待った。

 球青年から放り出されたインコース低めに落とされるフォークボールを掬うように星はバットを振り抜いた。

 真芯で捉えた心地の良い金属音が響くと共にセンターで構える矢部くんの頭上を越えてバックスクリーンへと突き刺さる大飛球を飛ばしてみせた。

「よっしゃー! 見たかテメェら! これが、星雄大様の実力じゃい!」

 十一球中一球と芳しくない成績だが、ようやくホームランを打ったことで喜ぶ星は、高笑いを浮かべながら天に向けてガッツポーズをしていた。

 これで把握した事が一つある。

 星の勝負強さは本物であるという事だ。

 俺のアドバイスで星に頭の中でチャンスの場面を想定させた途端にこの当たりだ。

 星はランナーがいると打者としての能力が格段に上がる事。

 確実に点を取る為にはやはり一番、二番打者には確実に塁に出れる奴じゃないと先手必勝は狙えない。

 そして、満足してブルペンへと戻って行く星の後続には矢部くんに打席に立って貰った。

 打撃センスはお世辞でも良いとは思わない矢部くんだが、去年と春先に比べれば確実に実力を上げている。

 特に矢部くんは、ときめき青春高校戦で三森兄弟が見せた技を次の流星高校戦で見せつけたとっておきの盗み技がある。

 これから更にミート力を上げて自慢の脚を上手く使えれば攻める戦略も広がっていく事が出来るはずだ。

 矢部くんは十球中、ヒット性の当たりは二球とも上手くカーブボールを捉えただけで、ストレートには滅法弱いと言うこれからの課題が見える成績を残した。

 矢部くんの後に毛利、古味刈の初心者組の打撃練習をして、俺と早川を残す全員の打撃練習が終わった所で、早川の順番になったのだが、打撃には自信がないと言って拒んだ為、次に俺が打席に立つことなった。

 右打席に立ち、十八.四四メートル離れている球青年を睨んだ。ギギギ……と軋む音が聞こえると、マシンから繰り出される真ん中低めからアウトローへと逃げるように曲がるスライダーを上手く叩き、ライトの頭を越えてフェンス直撃の好打球させる。

 よし! バットもいい感じに振れているぞ。

 続く二球目――。

 インローの百四十キロに近いストレートを上手くレフトスタンドの中段へと打ち込む事が出来た。

 そして、俺の結果は十球中七球、その内五球は柵越えとチーム内トップの成績を残す事が出来た。

 球青年では物足りず、プロのバッターがよく使うと言われている柔軟派のピッチングマシンである「球仙人」に挑戦しようと試みてみたものの生憎その「球仙人」は貸し出し中で置いて居なかった。

 

「アホかテメェは! ほぼホームランじゃあねェかよ! こんなんじゃあ、俺たちの守備の練習にならねェだろ!?」

「そう言われてもな……」

 打撃練習の終わりを告げ、俺はヘルメットを取りベンチに引き返そうとした時だ。星が悔しさを滲ませながら俺に言葉を投げると、矢部くんがやれやれと首を横に振りながら俺たちの側までやって来た。

「星くんより、全然マシでやんすよ。そう言う文句を垂れる前に、まずはバットにボールを当ててから言ってほしいでやんす」

「……な、なんだと!? も、もう一回言ってみろ! 矢部ェ!」

「ちなみに・・・・・・オイラは十球中二球当たったでやんすよ? 星くんは何球でやんすかね? はるかちゃん?」

 ニヤリと笑う。その顔はどこか憎たらしく見える。

「え〜と、星さんは……十一球中一球ですね。矢部さんより劣ってますね」

「いやいや! この俺が矢部に劣って――って!! ちょっと待って下さいよ! は、はるかさん!? いつの間に貴女は矢部派の味方になってしまったんですか!?」

 マネージャーの七瀬がニコッと明らかに矢部くんに加担している様に意地悪い笑みを浮かべながら言う。

 星にとっちゃ矢部くんにバカにされるよりも七瀬に言われる方がよほど心に来そうだな……。

 それより、いつどこで矢部派とか星派とかの派閥が出来上がってたんだ? 疑問に思うだけ無駄だけど。

「そんなの……あんまりだァァァァァァァァーー!!!!」

 星の苦心の叫び声が上がると共に、俺たちはケラケラと笑いながら午前の練習が終わった。

 

 

「そんなのあんまりだッ!」

 少し怒り口調で青年はテーブルの上を両手拳を握りしめて叩いた。

 一体、何に対してムカっ腹を立てているのかすらも知らず目の前に座りたった今、食堂のケータリングの昼食をそれぞれ選んだばかりの三人は目を点にしながら見つめていた。

「い、一体何に怒ってるだ? 遊助」

 三人の中で飛びっきり身長が低く本当に男かどうか疑ってしまう程の童顔の青年が眉を寄せながら尋ねる。

「何に怒ってる? いいか、俺はお前に怒ってるだぞ! 智紀!」

「ほう……」

 智紀と呼ばれた青年は名前を言われるなり苦笑いを浮かべ、ケータリングから選んだ湯気が立つうどんを食べようと割り箸を割った。

「ほう……じゃあねえやい! おい、ツネ! 真剣な話の最中に笑ってんじゃねえよ!!」

「あははは! 悪い悪い、なんだか笑えて来たわ。な? 雄二?」

「……ふっ」

 遊助からツネと呼ばれた男は、ニヤニヤと意地悪さうに笑みを浮かべると隣に座り、智紀とは少し違ったかき揚うどんを食べながら鼻で笑った。

 智樹と呼ばれた男は小波球太達がいる恋恋高校と同じ地区である、球八高校の野球部で二年生の矢中智紀(やなかともき)であり、ツネと呼ばれた男は同じ球八高校の中野渡恒夫(なかのわたりつねお)、雄二と呼ばれたのが一年生から四番を任されている滝本雄二、そして今にも煮え切った怒りは収めないぞと言わんばかりに真っ赤に染まった顔面を見せているのは塚口遊助だ。

「話を戻そう。それで? 遊助は俺に対して何に怒ってるんだ?」

 割った割り箸をキチンとうどんの器の上に乗せ矢中智紀はキリッと塚口の顔を見つめながら本題に入ろうとした。

「お前・・・・・・。さっき、この合宿所の女将さんのべっぴんの娘さんにアドレス聞かれてなかったか?」

「オォー! マジか! 智紀! やるぅー!」

「…………」

 ズルズルと麺を啜りながら、驚いた声を上げる中野渡を引き気味に横目で見ながら、矢中はコクリと頷いた。

「確かに聞かれたけど? だけど断ったさ。今の俺は彼女作るよりも高校野球を楽しむ方で精一杯だよ」

「でたでたでた! はいはいはい! モテるやつは皆そう言うんだよ! 中学時代、親友の高柳春海が良く言ってたぜッ!」

 そんなの聞き飽きたぜ、言わなくてもそう聞こえて来そうな表情を浮かべる塚口。

 今、名前が出た高柳春海とはきらめき中学出身の同級生である事が伺える。

「まさか……遊助。それを怒ってるのか?」

「あっ――たり前だろ! 前から思ってたけど、お前と高柳は似てるんだよな!」

「きらめき高校の高柳くんと俺がか?」

「ああ、ムカつくほどな! 童顔で優男! はい! モテる要素を兼ね備えてるゥ!」

「遊助。お前が言いたいのはこうだろ? 智紀みたいな可愛らしい男に女子の視線が集中して自分には焦点すら当たらない、と」

「そう! 良く解ってくれたぜ、ツネ! だから、そんなのあんまりだって言ったのよ!」

「あははは……」

「アホか……くだらねェだろ」

 智紀は苦笑いを漏らすと同時だ。今迄、無口だった滝本雄二がボソッと呟いたが、その声は聞き取れるほど大きな声だった。鋭い目つきに威圧を感じる、どこか高校球児とは思えない風格の滝本である。

「雄二……。いいか? 俺はだな……今、切実にモテたい!」

「だから、アホって言ってんだ。寝言は寝て言うんだな。それよりも良いのか智紀」

「何がだい?」

 冷静に流された塚口はその場で止まったかのようにショックを軽く受けていた。クスクスと中野渡は笑いながらうどんを食す。

「俺たち二年……ま、俺たち以外は昼寝してる訳だけだが、一年生達は今も練習中だろ? オマケに球仙人とか使わせているが……」

「良いのさ。一年達は昨日の疲労が残ってるから午後からの参加にさせたんだ。それに折角の合宿なんだし、俺達先輩が入れば何かと気を使う事があるだろ? たまには伸び伸び練習させるのも悪くないさ。な? 雄二」

「フッ……智紀。お前は相変わらずだな」

「そうかい? それよりうどん伸びるよ。さあ俺たちも食べよう!」

 矢中と滝本はお互いに顔をニヤリとさせていた。二人は仲が良いのか悪いのか中野渡も塚口も実際の所は詳しくは知らない。ただし、知っている関係性は、矢中は現在はチームのエースピッチャーであり、滝本はスタメンマスクを被るキャッチャーを務めるコンビである事、ただそれだけだった。優男の矢中と不良気がある滝本の出会いは、後々語るとしよう。

 

 球八高校の四人がそれぞれ食事を済ませ暫しの休憩を食堂で取っている時だった。食堂に通じるロビーの方から大きな声が響き渡ってきたのだ。その声に―――いや、その語尾は四人に対して痛烈な違和感を覚えさせた。

「あ〜〜オイラ、お腹が空いたでやんす!」

「――おい、クソ眼鏡! テメェ・・・・・・俺より優れてるなんて、絶対認めねェからな!」

 「オイラ」そして、語尾に「やんす」と……今確かにこの両の耳が聞いた。一体何処ぞの時代の人物が現代にタイムスリップして来たのかと、思わせる口調に四人はただただ唖然とし言葉を止めた。

 先陣を切るかのように瓶底眼鏡を掛けた丸刈りの男がやってくる。矢部明雄を初見にする四人はまたしても驚きを隠せなかった。今時、丸刈りで瓶底眼鏡なんて居ないだろう。

 矢部を筆頭に星、毛利達と続々と恋恋高校の野球部が食堂に乗り込んで来たが、そこには早川と小波の姿は無かった。

 マネージャーである七瀬が暑さで体調不良を起こして顧問の加藤理香と共に部屋まで送って行っているからだ。

 すると「なんだ? なんだ?」と中野渡が身を乗り出しながら目を凝らす。

 

 

「あん? なんだ? あの四人組……昨日あんな奴らいたか?」

「いなかったでやんすね。オイラ達と同じく合宿に来てる人でやんすかね?」

 星と矢部はチラッと視線を送るだけで黙ったままテーブル席に腰を掛けテーブルの上に置かれているプラスチックの容器の中に冷えた水を注ぎこむと、直ぐさま喉の奥へと流し込んだ。

「ぷはぁぁぁー! くぅ〜〜生き返るぜ! やっぱ、疲れた体に天然水ッ!! 決まりだなッ!」

「おっさんか、お前は」

 星の頭を手のひらで叩く。

 そこには小波の姿があった。真っ黒なくせ毛が彼方此方に跳ねらせながらゆっくりと、星の隣の席に腰を下ろす。

「痛ェな! 小波! そんで、お前は女将さんに何を聞きに行ったんだ?」

「まあ、ピッチングマシンの球仙人をどうしても使いたくて管理してる女将さんに聞いたんだけど、どうやら他の高校が使用中らしい」

「他の高校だァ?」

「ああ、それが中々興味深い話で・・・・・・」

「俺は、そんな事より昼飯にしてェぜ! もう、お腹空いちまって限界だからよ……今にも死にそうだ」

「……興味深い話でやんすか?」

「おい、矢部ェ!! 俺は腹減って今にも死にそうだって言葉聞いてただろ!? 話を聞こうとすんな!」

 ニヤリと笑い焦らす小波に、聞きたくてソワソワし始める矢部。

 星はテーブルに顔を伏せ今にも召されても可笑しくない死んだ瞳を浮かべて天を仰いでいた。

「実は俺たち、恋恋高校以外にも合宿に来てる高校があったんだ。その高校が球は―――」

 小波が高校名を言おうとした瞬間だった。

 

 

「あ、あおい!?」

「と、智紀くん!?」

 余りにも大きな声だった為、周りの全員がバッと顔を向けると……そこには食堂に入ってきた早川が驚いたまま立っている姿と、立ち上がったまま固まっている身長が早川と変わらない程の高さの人物である矢中智紀の二人の姿があった。

「どうして、ここに智紀くんがいるの?」

「それはこっちの台詞さ! それより卒業以来だから……約一年半年ぶりだな! 久しぶり」

「うん、久しぶり——じゃないよ!! 一体、どうしたの?」

「えっと、俺たち今は秋の大会に向けて夏の強化合宿をしに此処に来でたんだけど……まさか、あおい達の恋恋高校も此処に来ていたとはね」

「あれ? 智紀くん、ボクが恋恋高校に進学したの知ってたの?」

「まあね。ときめき高校戦も見ていたし、それにあおいの件は……ほら、色々ニュースにもなっていたからね。それに弟の龍喜が何よりも心配していたから」

「そっか……心配かけたもんね。龍喜くんに、心配してくれてありがとうって伝えておいてくれる?」

「ああ、きっと龍喜と喜ぶさ!」

 へぇ〜なるほどな。

 驚いたのは、早川と矢中の二人が同じ中学の同級生だった訳だからか。

 それにしても世間と言うのは意外と狭いものなのかもしれないな。

 ん? 待てよ。同級生って事は……ソフトボール部の高木幸子とも同級生って訳だよな?

 高木幸子が言っていた二人の事を色眼鏡で見ていた奴らにあいつも該当するのか……?

「おい! 早川! まさか俺の事も忘れてる訳じゃあねえよな?」

「ツ、ツネくん! キミも一緒だったんだ!」

「おうよ! 忘れもしねえ中学時代! 先発は早川、リリーフは智紀のリレーを束ねたのは、この俺だぜ!」

「もう! よく言うよ。ボクは、あの時はただ見世物。頑張ってたのは智紀くんの方だよ」

「いいや、そんな事は無いよ。俺より、いつもあおいの方が頑張ってたさ」

「それより、ツネくんは今もキャッチャーをしてるの?」

 久しぶりの会話に心を弾ませ、早川がツネと呼ぶ奴に声を掛ける。話の一部を聞いてみたが「ツネ」・・・・・・いや、中野渡とか言うやつもどうやら中学時代のチームメイトのようだ。

 それに早川も久しぶりの再会に笑顔だし、この二人は早川と高木を見世物扱いに加担していた訳でも無さそうだと、俺は少し安心した。

「いいや、智紀とはバッテリーは組んでいねえよ」

「——えっ!?」

「今は……、あそこに見える不良気がある陰険みたいなヤツがいるだろ? あの滝本ってヤツが今の智紀の相棒で、俺はお役御免で内野にコンバートさ」

「そ、そうなんだ・・・・・・」

「心配すんな! 俺より滝本の方がキャッチャー向いてらぁ!」

 中野渡がニカっと白い歯で笑い飛ばすと、陰険と言われていた滝本が俺の側まで近付いて来た。

「おい。お前、小波球太だな?」

「そうだけど?」

 なるほど、陰険ね……。

 そう言われるのも思わず頷けてしまう。

 その毒毒しさを漂わせる気配は、以前何処かで感じ取った事があるかのように肌がピリッとサインを出している。

「何か俺に用があるのか?」

「お前に興味がある。是非、俺たちと試合をして欲しい」

「——ッ!?」

「おい! 滝本ッ!! 急に何を言ってんだよ!」

「黙ってろ、遊助」

「ったく、はいはい。解った解った。こうなったらこいつはもう止まらねえんだ」

 お手上げ状態の塚口。直ぐさま滝本が口を開いた。

「なあ、智紀。俺は、こいつらと練習試合をしても面白いと思うんだが?」

「雄二が言うなら俺は良いけど……。恋恋高校側はどうかな? キャプテンは・・・・・・確か、小波くんだよね?」

 すると、矢中が俺の目の前に立つ。

 こうして並んで立つと、かなり目線が下になるな。

 早川より小さいか、同じかと言った所だろう。

 だが、その小ささとは裏腹に今にも押し潰すぞと言わんばかりの威圧が感じる。

 さすがは猪狩守が居るあかつき大附属に負ける準決勝まで、勝ち進めたエースだけある。

 それに、練習試合なんて願ったり叶ったりの好条件だ。

「試合? ああ、受けるぜ。それに丁度良かったぜ。こっちは試合経験不足で相手を探していたからな」

「それじゃあ、成立だね。明日の昼に第一グラウンドで試合開始でどうかな?」

「解った」

 俺と矢中は互いに握手を交わすが、指先に少し変な感覚を感じ取った。

 ―――ん。もしかして、こいつ……まさか。

「楽しみにしているよ。あおい・・・・・・そして恋恋高校の皆、良い試合をしよう!」

 直ぐさま矢中は三人を連れて食堂から姿を消して行った。

 こうして、俺たちは翌日、球八高校との練習試合が行われる事となった。

 

 

――――――

 

「め、飯…………」

「げっ!? 大変でやんす!! ほ、星くんが……気絶してるでやんす!」

 星にしては随分大人しくしているなと思っていたが……。

 トホホ・・・・・・これは、先が思いやられるな。




 漸く来ました、新展開。です!
 恋恋高校始動の一試合目は、球八高校が相手となります。なんと相手はあおいちゃんの同級生である矢中智紀。どんなピッチャーなのでしょうかね? 
 今回、パワプロシリーズではお馴染み(?)のピッチングマシンを登場させましたが……記憶が曖昧な所が多々あります。


《profile》オリパワ
No.5古味刈秀敏 9/29生まれ
【ポジション】ライト
【能力】
弾道1 ミートFパワーE走力C肩力B守備D捕球G
意外性、エラー×、三振、世渡り上手
【人物】
元サッカー部である(高校はバイトをしようと思っていた)

No.6毛利靖彦 2/14生まれ 右投げ/左打ち
【ポジション】サード
【能力】
弾道2ミートEパワーE走力D肩力C守備C捕球B
エラー×、いいやつ
【人物】
元バスケ部(ちなみに万年補欠だったらしい)

No.7 犀川投貴 5/9生まれ 右投げ/左打ち
【ポジション】サード
【能力】
弾道3ミートCパワーC走力B肩力S守備A捕球A
キャッチャー◎、送球5、守備職人、ブロック○、『ささやき戦術』走塁5、盗塁4、アベレージヒッター、パワーヒッター
【人物】
極亜久高校二年のキャッチャー。近畿地方のおしるこ中学出身だが、何故頑張地区に来たのかは今は謎。名前の通り※※※※※も出来るよ。ちなみに読みは《さいかわとうき》

No.8 赤坂紡 (一年生)10/21生まれ 右投げ/右打ち
【ポジション】ショート
【能力】
弾道2ミートEパワーD走力D肩力E守備D捕球C
ムード○、ムードメーカー、パワーヒッター、チャンスメーカー、安定感3、対左投手5
【人物】
とにかく明るい人物。名前の通りこれからの恋恋高校を『紡い』で行ってくれる人物になると思われます。今後、見せ場あるかな……?


No.9 椎名繋(一年生) 3/2生まれ 右投げ/左打ち
【ポジション】キャッチャー
【能力】
弾道2ミートBパワーF走力D肩力C守備C捕球C
キャッチャー○、ローボールヒッター、固め打ち、流し打ち、代打○
【人物】
赤坂と同様、今後の恋恋高校の思いを『繋いで』くれる人物になると思われます。星との争いもあるかも……?


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第29話 矢中智紀は、過去を振り返る。

 夕暮れの時刻になり第二グラウンドの使用時間がギリギリに迫る頃、球八高校野球部はグラウンドを均す為にレーキ掛けを行っていた。

 キャプテンである矢中智紀の計いで、一年生は午前八時から十三時、二年生は十三時から十八時の時間に分けて練習が行われた為、二年達がグラウンド整備に努めている。

「しっかし、ビックリしたな。まさか、ツネと智紀が恋恋高校のあの早川あおいと幼馴染だったとはな」

 内野側のレーキを肩に掛けながら、帽子のツバを後ろの方へと逆に被った塚口遊助が不敵な笑みを浮かべて口を開いた。

 今年の夏、早川あおいによる前代未聞の女性選手出場問題が大変な注目を浴びた為、自分のチームメイトにその「有名人」の同級生がいた事に対して驚きを隠せずにいた。

「まあな。俺も智紀も実際、面と向かってあおいに会ったのは中学の卒業式以来だから久しぶりだったけどな」

 ニヤリと中野渡が笑う。

 その顔は、久しぶりの再会と言うよりも明日に練習試合が行われる事に対しての笑みなのかもしれない。

 そして中野渡は立ち止まり言葉を続けた。

「それに俺は、智紀とあおいの両方と中学時代ではバッテリーを組んでいたからな。あおいがアレからどう成長したか気になるんだ」

「ふーん」

 肩に掛けたレーキを手に掛けては、鼻で返事を返し、再び土を均し始める。塚口は何か言いたげな少し切なそうな表情を浮かべていた。

「なぁ、ツネ。お前はこのままで良いのか?」

「……このまま? 何がだよ」

「本当は、今も智紀とどこかでバッテリー組みたいと思ってるじゃねえのか?」

「……あのな、遊助。一体、何を言い出すかと思えば何を言ってんだよ。今のあいつの相棒は雄二だろ? 今の俺は大人しく内野に専念するつもりだよ」

 少しの間はあったものの、ニカッと中野渡は誤魔化すかのように白い歯を見せる。その整った歯は夕陽により橙色に染まっていた。

「ああ、そう言えばそうだったな」と短く返した塚口は、「すまん」と言葉を付け足して少し戸惑いを滲ませながらレーキを掛けた。

 

 

 

 

 俺とあおいは幼稚園の頃からの幼馴染であると共に俺にとってもっとも親しい人物で身近に居た好敵手(ライバル)だった。

 幼稚園の頃の思い出は今となっては微かに思い出せるかどうかあやふやである。

 しかし、その頃から野球には興味があった事は確かな事であおいとも同じ組ではなかった様な気がする程、兎に角、記憶は曖昧なのだ。

 だが、思い出せるのは小学四年になった頃、俺はこの頑張地区にある四つあるチームの一つの『おてんばピンキーズ』と言うチームに所属していた。

 そこにあおいも所属したのはきっちり今でも覚えている。

 黄緑色の髪、昔からお下げ髪が妙に印象的だった。

 あおいと同時期、高木幸子と言う女子生徒も同じリトルリーグチームに所属した。あおいと幸子はお互い初対面だったものの、チーム内唯一の女子同士だった二人が、「野球をするのが大好き」とお互いに笑いながら毎日言い合う程、仲良くなるのには時間は掛からなかった。

 その内、俺も高木幸子達と練習を通して仲良くなって行くと共に、小学校内での三人で行動をする事が多くなっていく。

 こんな楽しい仲がいつまでも続くんだろうと俺は子供ながら思っていた――。

 そんな思いが叶うとは知らずに……。

 俺たちが中学に上がりリトルリーグから中学野球部に所属した頃、二人は四月の練習試合でいきなりベンチ入りを果したが、当の二人は少し浮かない顔を揃えていた。どうして一年生の自分達が即ベンチ入りしたのかあおい達も疑問に思ったのだろう。

 確かにあおいや幸子のレベルは、このチームにおいてかなり郡を抜いて高い方にあるが、俺自身、いきなり二人がベンチ入りを果たした事は流石に可笑しいと思えた。

 しかし、その日の試合は二人はベンチに座っているだけで試合に出る訳でもなかった。

 そんな日々が長々と続いた。中体連では背番号を貰えたものの試合は出れず、女子生徒がいると言うだけで周りから揶揄いの言葉、黄色い声が浴びせられているのを俺はずっと応援席で百円ショップで部費で購入されたメガホンを握りしめて見つめ立っているだけだった。

 そんな批判の言葉を受け始めた頃には昔から言い合っていた「野球をやるのが大好き」と言わなくなっていた……。

 だが、きっと二人はお互いが好きな野球を楽しく出来るように、また言い合える日を待ち望むかのように我慢をし続けて練習に打ち込んでいたのだろう。

 俺とあおいはピッチャー志望でお互いにピッチャーとしての練習を積み重ねた。時には指摘しあい、時には褒めあったりなど休み時間はおろか、帰り道はずっと二人でその話で持ちきりだった。そんな日から幸子は一人で帰る事が多くなっていたことも知らずに……。

 冬が近づいたある日、俺たちは三人で帰る事になった。中学になり三人で帰るのは随分久しぶりだった。

 

 果たしていつぶりだろうか。

 だけど、久しぶりの帰り道は三人とも無言だった。

 冷え切る空気に静寂が訪れ、虚しくもコンクリートに打ち付ける靴の踵の音だけが寂しさを漂わせる。

『もう直ぐ……冬ね』

 少し曇った鼠色の空を見つめて幸子が開口一番に白い息を吐くと共に口を開いた。

『そうだね。そう言えば、昔はよく三人で雪合戦して帰ってたよね』

『そうね。あおいは大きな雪玉を作るし』

『幸子は小さな雪玉で攻撃回数が多い』

 ああ、そうだった。あおいは大きな雪玉を作る為時間をかけ過ぎて標的になり、幸子は小さい雪玉を作る為にコソコソと隠れていたから当てるのは難しかった。懐かしい記憶に思わず口が緩む。

『それより智紀? あんた一体、何を笑ってるよ? 不気味よ、不気味!』

 続くかの様にあおいも口を開いた。昔の思い出を思い出したのもあるが、なんせ二人が会話をするのも随分久しぶりに見たので思わず口がニヤけてしまっていた事を幸子に見られてしまい、幸子から厳しくツッコミが入る。

『べ、別に何もないさ』

『ふーん。それなら良いんだけど』

 何歩が先に後ろに手を組みながらあおいが前を歩く中、ジッと俺の顔を見つめる幸子。何か言いたそうなその表情に俺は首を傾げる。

『幸子?』

『そう言えば智紀。あんたに一つ聞きたい事があるんだけど、いいかしら?』

『いいよ、なんだい?』

『智紀ってあおいの事――』と言葉を言いかけた途端、幸子はあおいの顔をチラッと見るなり『いいわ、何でもないわ。気にしないでちょうだい』と直ぐ、言葉を切った。

 幸子は、一体、俺に何を聞きたかったのだろう。

 言葉を切る時、少し唇を噛み締めていた様にも思えたが、俺は何もそこには触れる事は出来なかった。

 そして、三人で久しぶりに帰った日から約二週間程経過した時だ。その日は、雪が降り積もりグラウンドが雪で真っ白に覆われていた。

 これから更に降り積もると予測した顧問が本日の部活動は中止という事を放課後、たまたま用事で職員室に来ていた俺に告げ、それを部員たちに伝えようと教室に赴こうと足を運んでいた時だった。

 前を通り過ぎる三人の女性の会話が耳に聞こえて思わず目を丸くしたのだ。

『ねぇねぇ、知ってる? 野球部の高木さん、来週からソフト部に転部するんだってさ』

『聞いた聞いた。もう退部届は提出したらしいわよ』

 

 思わず耳を疑った。

 どうしてそんな冗談を言えるのだろう。

 俺はピタリとその場で足を止め会話の続きに耳を傾けた。

 

『でも、なんで急に? 確か、その高木さんって野球部の一年生で直ぐにベンチ入りした凄い選手なんでしょ?』

『詳しい理由は知らないけど、ソフト部に入部ならソフト部にとって大きな即戦力になるわね!』

 後ろへと通り過ぎる女子生徒達はソフトボール部の部員の生徒で、その会話は嘘にしては余りにも酷な内容だった。

 しかし、ここ最近の幸子の練習への態度には前には見えた覇気は全くなく、ソフトボール部の生徒と仲良くしているのは何度か目にしていた。

 でもまさか、既に退部届を出しているとは思わなかった。

 かなりショックを受けた俺は、三階にある自分の教室へと戻り帰りの身支度を整える。複数の生徒達が窓の外の雪景色を眺めていた。すると……。

『あれ? グラウンドで何かしてない?』

『本当だ!! あれって、早川さんと高木さんじゃない?』

 窓の外へと指を差しながら生徒が言う。

 俺はバッと窓へと駆け寄り、鍵を開けて体を乗り出してグラウンドの方へと目を向けた。

 冷たい風と降り続ける雪で遮られた視界を凝らしながら見てみると、確かに二人の姿が見えた。

 マウンドに立つ黄緑色の生徒はあおいで、バッターボックスに立ち白い鉢巻を巻く短髪の赤髪は幸子だ。

 あの二人……一体、何をしてるんだ?

 ここからじゃ何も理解出来なかった俺は、一目散に教室を飛び出した。

 教室から廊下を駆け抜ける、直ぐに曲がって階段を降りようとした時だ。

 ——キィィィン!!!

 と、金属音が聞こえる。

 音からして幸子があおいから快音を飛ばしたのに違いがない。

 冬なのに嫌な汗が喉を伝う。

 暫くし昇降口にある下駄箱に辿り着き、いつもなら丁寧に置きならべる靴を無造作にねじ込みながら通学用の靴へと履き替えた。

 既に、快音は五回、鳴り響いた。

 外へ出て積もる雪をお構いも無しに踏んでいく、冷える冷たさなど感じない程、気持ちは二人の出来事で一杯一杯だった。

 そして、六回目の快音が鳴り響く。

 グラウンドへ続く中央階段を勢い良く降りると、そこには幸子が目の前を歩く姿が見えた。

 今にも泣きそうな・・・・・・瞳が暗い。幸子だった。

『幸子!!』

『と、智紀!? なんで、あんたが此処に・・・・・・?』

『幸子・・・・・・野球部辞めてソフト部に行くって話は本当なのか?』

『——ッ!? あんたが何でそれを……』

『本当……、なんだね』

『えぇ、本当よ』

 目線を合わせずに、幸子は俯いたまま頷いた。

『もう耐えられないのよ……私。だって、こんなの野球じゃあないもの……』

『…………』

 言葉が出なかった。

 何度も繰り返し揶揄われ、野次を飛ばされ続け、その度に何度も我慢をし続けて来た幸子の心はこんなにも傷ついてた。

『……それで、あおいは? 何か言ったのか?』

『一緒にソフト部に転部を誘ったわ。でも、断られちゃったの。あおいが私を止まる為に、あおいと一打席勝負をしたけど……六打席しても全部打ち返して、私が勝ったわ』

『本当に辞めるのつもりでいるのか?』

『ええ』

『考え治せないのか? 俺もあおいも——、』

『うるさいわねッ!!! 男子のアンタに私の気持ちなんか……解る訳ないわッ!!』

 俺の言葉を遮り幸子は怒鳴り声を上げる。

 今まで聞いた事のない声に本当の怒りを感じた。

 幸子は、そのまま立ち去るようにグラウンドから姿を消した。

 雪の足跡だけを残して……。

 周りを見渡すと、直ぐ側には六つの野球ボールが転がっていて、ずっと奥にはマウンドの上であおいは膝をついて空を仰いでいた。

 

 その日からずっと俺は、幸子とは疎遠のままでいる。

 

―――

 

 俺とあおい、幸子の三人が仲良く並んでいる三人の写真が一枚ある。いつ撮ったのか定かではないが纏っているユニフォームから推測してコレはリトルリーグ時代に撮った写真だ。

 それを俺は今でもドラムバックの中に大事にしまっている。

「どうしたんだ、智紀。寝ないのか?」

 すっかり夜は更け、今俺たちは合宿所の借りている部屋にいる。

 二十人以上は余裕で入れる大きな部屋の中で練習に疲れた皆が寝息を立てていた。

 そんな中、俺は一人その写真を眺めていると隣に寝ているはずの雄二が此方に背を向けながら小声で話し掛けてきた。

「ああ、すまない。起こしたか?」

「いいや。それより、明日戦う恋恋高校との試合だが」

「ああ、勿論。練習試合とは言え、俺が先発をするよ」

 雄二はクルリと体を返し、真正面を向く。

 真っ直ぐ見つめるキリッとした目を俺は見つめ返した。

「な、なんだよ」

「フッ。何故かは知らんが燃えてるな、智紀」

「燃えてる? まあ、否定はしないよ。明日、マウンドに立つ向こうのピッチャーは昔からのライバルでね。それが楽しみなんだよ」

 自然と顔がニヤける。

 あおいとは今まで同じチームだったから、こうして敵同士として試合をするのは初めての経験になる。楽しみに決まっている。

「それに……あおいは俺の憧れなのさ」

「憧れ?」

 雄二が目を見開いて俺を見る。「おいおい、そんなに驚く事か?」と心の中で呟いた。

「なあ、雄二。明日はきっと良い試合になると思うよ」

「・・・・・・」

「恋恋高校には、あのあかつき大付属中学にいた小波くんもいるからね。相当、手強い相手になる」

「小波球太か……。名前は猪狩守に次いで有名だと聞いてはいるが、どんなヤツなんだ?」

「小波くんは、投打に於いてかなりの実力を持っているプレイヤーだ。俺たちが甲子園を目指すなら戦って勝たねばならない相手さ」

「なるほど……な。でも俺はお前が打たれる姿は余り見たくはないぜ」

「あはは、雄二。俺は負けないさ。小波くんにもあおいにも勿論、誰にもな。お前は俺の約束を守ってくれた、次はお前の約束を俺が守る番なんだからな」

 何時もの様にフン、と鼻で笑う。雄二はそのまま体を仰向けにし、布団を首までかけるとやがて眠りに落ちた。

 俺は寝付いたのを確認すると、手に持っていた写真を再びドラムバックの中へと大事そうに入れてチャックを閉め、時計の針を確認して床に就いた。

 

――――

 

 浜風が吹き、押し寄せる波の音は豪快に鳴る夜の浜辺を一人で歩いていた。

 先日に見かけた、素振りをしていたあの金髪の少年の姿は、そこには無く、その痕跡も無かった。

 どうやら地元の人間では無かったらしい。

 それよりも明日の試合に注意を向けないと球八高校との練習試合は急遽に決まった。

 しかし、驚いたのが早川の幼馴染の居るチームだと言う事だ。

 やれやれ、署名活動の時の猪狩兄弟と言い、ミゾットスポーツ店での春海達と言い、世間は本当に狭いな。と、ため息が溢れる。

 恐らく、向こうはもう来月に迫っている秋季大会に向けての調整をしてくる為、ベストメンバーで挑んでくるだろう。

 こっちは試行錯誤の途中で色々試したい事があるが、試合をする以上は勝ちに行きたいのも本音だ。

 今日の練習である程度、打順、ポジションは頭の中に入っているが―――今は、あれこれ考えても仕方がない。

 兎に角明日は出来るだけの事をやるしかないな。

 砂浜に一つの石が転がっているのを見つけてそれを拾い上げる。

 サラサラ……と石に被っていた白い砂が落ちるのを眺め、それを海に向かって冗談半分でシンカーを投げる様に手首を捻らせて水切りをした――三、四、五、六回と跳ねて七回目に海の中へとポチャンと沈んでいった。

「何してんだよ、俺は」

 ポリポリと頭を掻き、一つの欠伸をする。

 腕時計の針に目をやると、既に午前二時を過ぎていたのを確認すると、俺は踵を返して合宿所へと足を向けた。

 



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第30話 VS 球八高校

 三十話突入!
 恋恋高校VS球八高校―――。


 天気は連日の晴れ模様とは一転、夏の空とは思えない雨雲混じりの灰色の雲が空を覆っていた。

 耳元を掠める風は少し冷たさは夏の終わりを告げて次の秋を誘うかの様に感じてしまい何処か寂しい気持ちになる。そんな中、俺たちは球八高校との練習試合を迎えていた。

 試合前のウォーミングアップを済ませ、試合に備えて意識を段々と集中させていく。一塁側に座る恋恋高校のベンチには、いつもと少し違うただ寄らぬ様子が伺えるのも、それは夏の大会に起こった早川の問題を乗り切り、早川を再び部員として復帰させる事が出来、再スタートを切る事になった俺たちにとって、今日の練習試合が最初の試合になる訳で、それを皆もキチンと意識出来ているだけで成長したと言う実感が湧き上がる。

「よし、それじゃあ今日のオーダーを発表するから皆、集まってくれ!」

 深呼吸し、俺はベンチに向かって声を張り上げた。足早に目の前に集まり俺は全員の顔を見つめながらニヤリと口元を緩めてしまう。

「よし、揃ったな。今日の試合はお前達が思ってる通り大事な試合だ。夏の悔しさを胸にきつい練習を積んで来た、だからこそ今日はその鬱憤をこの試合で吐き出してくれ!」

「オゥ!!」

 俺の言葉を受けて全員が威勢の良い声を張り上げて返す。予想以上の活気の返事に対してまた口元が緩そうになったが、チームのキャプテンとして、また試合の前ではそんな表情は見せる事は出来無かった為、ギュッと堪えながらオータを読み上げる。

 

 一番 センター 矢部明雄

 

 二番 セカンド 海野浩太

 

 三番 キャッチャー 星雄大

 

 四番 ファースト 小波球太

 

 五番 レフト 山吹亮平

 

 六番 ショート 赤坂紡

 

 七番 ライト 御影龍舞

 

 八番 サード 毛利靖彦

 

 九番 ピッチャー 早川あおい

 

 見た通り今までのオーダーとは少し変えている。以前まで二番に座っていた星と三番を任せていた海野の打順を変えたのだ。昨日の打撃練習を見てそつなくこなした海野に二番を任せることでチャンスの場面をより一層作りやすいのでは無いのかと言う考えに至った。そして、チャンスに滅法強い星が次に控える事で確実に一点を取りに行く攻める戦法を取ったのだ。今はまだこの采配が上手くいくかどうか不安はあるのだが、普段の練習では得ることの出来ない経験を積むには、この様な練習試合でしか試す事は出来ない。

 守備陣も僅かだが変動がある。初心者組で練習を熱心に積んでいる古味刈には悪いが、守備面ではフライは愚か、ゴロを取るのにも未だにおぼつかない為、今回はベンチスタート、その代わりに外野全般を得意と入部時に自己アピールで語っていた一年の御影を初スタメンで使うことにした。

「よっしゃー! このオレ、星様が球八高校をギャフンと言わせてやるぜ!」

 星が威勢良くバットを振り回してやる気十分息巻くのは大層ご立派な事だが……星、言っておくが俺たちは後攻だぞ。

 そんな茶番は良いからさっさとキャッチャーのプロテクターを付けてくれ。

「それよりもオイラ、一番気になってるのが矢中くんでやんすね。あおいちゃん、矢中くんはどんなピッチャーなんでやんすか?」

 矢部くんがグローブを左手にはめた時、早川にふと尋ねる。それは俺も少し気になっていた事だった。同じ中学を通っていた早川なら、今現在、どのようなピッチャーなのがは不明だが矢中のピッチングはある程度、把握しているはずだからな。

「智紀くんは、ボクと同じアンダースロー投法で、投げれる変化球は……四種類位かな? 兎に角、打ちづらいアンダースロー特有のストレートが特徴的だったはずだよ」

「同じアンダースロー……ね」

 ファーストミットに手を伸ばし早川からアンダースロー投法と聞いた時だ。ピン、と一つ頭の中で思い出した事がある。それは、リトルリーグ時代、おてんばピンキーズには二人のアンダースロー投法のピッチャーが居たのだが、その内の一人が早川だと言う事は高木幸子と一打席勝負をする前に解ったが、そのもう一人が矢中智紀だと言う事だった。それにしても本当に世間は狭過ぎるだろ……。

「まあ、今日の試合はオレに任せな! オレは早川の球を何十球、何百球と受けて来てるんだからよ! やなきともかだったか? そいつからホームランを大量生産してやるぜッ!!」

「誰でやんすか? 『やなきともか』って? それを言うなら、矢中智紀でやんすよ!」

「――ッ!? バ、バカ野郎! 試合前の場を和ますジョ、ジョークに決まってんだろ!」

 いや、今のは完全に素で間違えたな。

 星の奴、顔を真っ赤に染めて否定してるやがる。オマケに耳まで真っ赤だ。全く、ここまでいい雰囲気で来ていたのに星のいつもの調子で台無しだな。

 ま、これもある意味恋恋高校らしいと言えばらしいのかな?

「ねぇ、それより球太くん」

「……ん? おう、どうした?」

 哀れむ様に星を見ていると、早川が俺の肩をちょこんと指先で突きながら名前を呼んだ。あの日の夜以来、俺の事を「小波くん」から「球太くん」へと呼んでいるが中々慣れないせいか返事が鈍ってしまった。

 それに早川が「それより」と付けて呼んだ事からすると、星の旧友の名前の間違い発言にはどうやら何もツッコミすら入れないのだな、と見た。

「智紀くんには勿論、注意はしていて欲しいんだけど、ツネくん……いや、中野渡くんは元バッテリーで守備は鉄壁、オマケにミート力は抜群でバントも上手いんだ」

 不安げな表情を見せながら早川が言う。それもそうだ、球八高校打線は簡単には抑えられ無いだろうとはある程度予測は出来ていた。何故なら向こうのエースである矢中智紀は、早川同様アンダースロー投法を用いるピッチャーである事、チームメイトも何度か打席に立ったりしていて目を慣らしているはずだし、同級生が二人もいるし癖も見抜かれている訳で、やや不利な状況だ。

「なるほど、な。お前が不安なのは解るぜ。でも早川、そう不安がるなよお前だって確かに成長してるよ。それにさ、自信なくたって別に良いじゃんかよ、お前が頑張ってる事くらい俺は解ってる」

「……」

「その努力を自信に変えるのはお前自身だ、早川。俺はその支えになれるだけで良いんだよ」

 と、歯を出すように笑ってみる。俺自身、そんなに歯を出して笑うタイプではないが、今の言葉は割と本心で言った言葉だが……。

「ありがとう、やっぱりキミって優しいんだね」

 ニコッとした表情をみて俺は安心した、どうやら、言葉は伝わったらしい。

 最近、ふと思う……。

 早川の笑顔にドキッとしてしまう事に……。

 

 

 正午を知らすサイレンの音と共に、恋恋高校対球八高校の試合が始まった。

 先攻は、球八高校だ。

 

 一番 セカンド 塚口遊助

 

 二番 ショート 中野渡恒夫

 

 三番 センター 藤原克樹

 

 四番 キャッチャー 滝本雄二

 

 五番 ピッチャー 矢中智紀

 

 六番 ファースト 田里豊

 

 七番 ライト 座安直樹

 

 八番 サード 服部大

 

 九番 レフト 如月恭一郎

 

 

 緊張感を漂わせる第一グラウンド、生憎の天気ではあるがやはり、グラウンドの真ん中に立つもうだるような熱気に包まれている様に空気が揺らめいている。恋恋高校のエースナンバーを背負う早川はチームカラーでもあるピンク色の長袖のアンダーシャツの袖で汗を拭い、丁寧にトントン、とロージンに触れて馴染ませる。

 頬を膨らまて小さな息を吐き、ぐるりと辺りを見渡せしてみた。この前とは違う観客誰一人も居ないグラウンドであり緊張が解した。

 球八高校の一番打者の塚口遊助が右打席に構える所で、早川の碧く大きな目は、目の前に構えるキャッチャーである星のミットに照準を合わせた。

 初球、インコースにボール僅か一個分外れたボール球を放り投げた。塚口は咄嗟にバットを振り抜き、金属音を立てて、打球はサードのファールゾーンへと転がっていく。

 一個分外れたボール球を躊躇無く降っていく辺り、塚口遊助は積極的に打ってくるスタイルらしく、先頭打者では中々珍しいタイプだ。

 続く二球目、緩めのカーブをバット先端に引っ掛けてセカンドフライに打ち取って、まずワンナウトとなる。

 二番は、旧友の中野渡。不敵な笑みを浮かべながらツバの先端を摘む挨拶を交わすと、塚口と同じく右打席に構える。星からのサインはアウトコースに落ちるシンカーが指定される。

 コクリ、早川は頷き、アンダースロー特有の低いリリースポイントからボールが放たれた。

 外角低め、狙い通りのコースにボールが走る。今まで得意として来た早川のシンカーを知る中野渡は変化パターン、キレ、速度と全てを頭の中で計算をして得意のミート打ちでバットを出した。だがボールは、中野渡の予想を遥かに凌ぎ、まずはカットするつもりだったのかもしれないが、タイミングを狂わされてバットは虚しく空を切り、空振りワンストライク。

 予想を超えていた事に驚きを隠せず、ツーストライク、ツーボールと並行カウントとなり再び冷静さを取り戻す。そして、四球目。昔馴染みの勘と言うのだろうか、臭い球は全てカットされて行く。もう既に中野渡に対して九球目を迎えた。そこで星は、ここで早川の今現在で得意とする「Hシンカー」のサイン。早川の頬が少し緩んだ。緩む表情を見て、中野渡は「奥の手でもあるのか?」と眉を寄せ上げる。

「新種か、それともハッタリか」中野渡の脳内では二択に分かれていたが、どうでもいい。来た球を打ち返せば済む話、と強くグリップを握りしめた。

「あっ!!」

 放り投げた瞬間、早川は声を出す。気合を入れた僅かな力がシンカーの回転力を殺してしまったのだ。言わば、棒球だ。

 当然、今はプレー中、タイムと言って試合が止まる程優しいスポーツでは無い。中野渡はテイクバックを取り、一心にバットを振り抜く。

 ――キィン!!

 会心の一撃とも言える金属音は、勢いを増してレフト、山吹の頭を超えるホームランとなった。

「力み過ぎだァ!!! どアホ!!!」

 星がマスクを右手に持ちながら怒鳴る。

 早川がきょとんとした顔つきになった。

 

―――――

 

 

「やりぃ! ツネの奴、打ちやがったぜ!」

 ワイワイと喝采を送るセカンドフライに打ち取られた塚口が喜ぶ姿を横に俺は黙ったまま腕を組みベンチに腰掛けて、打たれて落胆の表情を浮かべるあおいを見ていた。

「あのシンカーは、ストライクにならなきゃ意味が無いよ」思わず、言葉が溢れる。

「ん? どういうこった? それは」

「シンカーはあおいの得意球なんだ。恐らく今のは最近取得したであろうHシンカー。それをツネに打たれたとなると……相当なショックを受けるだろうね」

「え、そうなのか? 俺には……さっぱり分からん」と首を傾げる辺り流石、遊助だ。

「最も自信のある決め球を打たれると、通用しないんじゃ無いかって不安になるのさ」

 さっぱり理解できない遊助に対して、俺はやや苦笑いを一つ零して、ダイヤモンドをゆっくりと走るツネに目を向けた後、マウンドに立つ早川に目を移した。

 今のは確かにツネからストライクか空振りのどちらかは取りたかっただろうな。それにしてもシンカーを超えたHシンカーをいつの間にかに取得していた所からすると、あれがあおいの一番の勝負球なのだろうか……? だとしても出すのは少々早過ぎる気もするが、ツネや遊助のような右打者に対して内角低めに球速が速く落ちるアンダースローのシンカーは、厄介な存在だ。低いリリースからライズして行く上、急速に落ちていく様に変化する為、起動も読みづらいだろう。逆の左打者なら外角に落ちていく為、その効果はより一層、厄介だ。

 失投したとは言え成長したな、あおい。

 でも、俺は残念ながらそれ以上、成長しているよ。

 

―――――

 

 結局初回は、中野渡にソロホームランを打たれて一点失点で切り抜けた。後続の藤原をファーストゴロ、滝本にはフォアボール、矢中にはライトライナーと抑えてなんとかスリーアウトを取った――さぁ、反撃と行こう。

 曇り空は時間が経つと共に灰色が濃くなっていく。そしてマウンドに立つのは球八高校のエースである矢中智紀。

 既に完成されたアンダースローのピッチングフォームの綺麗さに思わず拍手を贈りたくなる程だった。身長は今時の高校生と比べると低めだが、侮れない実力を兼ね備えているのは確かだ。球速は早川と対して変わらないが圧倒的に変化球の球種とキレ、コントロールを持っている。

「それじゃ、オイラ。行ってくるでやんす!」

 一番打者には矢部くんが、先陣を切るようにバッターボックスへと駆け向かって行く。今日の矢部くんは何処かやる気に満ち溢れている気がするのだが、例えば星が矢中の名前を間違えた時の素早い指摘などだが……俺の気のせいだろうか?

「なぁ、小波。矢部の奴、なんであんなに張り切ってるか、分かるか?」

 後ろのベンチに腰をかけていた毛利がニヤニヤと気持ち悪い顔を浮かべて話しかけてきた。

「さぁ? なんかいい事でもあったのか?」

「それは、アレを見れば分かると思うぜ?」

「アレ?」

 毛利が指を指す。

 差した指先を視線で辿っていくと、そこは三塁側の球八高校のベンチを指していた。

 そこに一人の女子生徒の姿が在った。

 遠くに居てもそれは、ハッキリと見えて分かる程の透き通るほど綺麗な栗色の髪、少し気の強そうなキリッとした瞳を浮かべ、夏の制服に身を包んで隠れる胸は、少し自己主張が激しく見えた。

「誰?」

「あれは、球八高校のマネージャーで学校ではアイドル的存在の神島巫祈(かみしまみき)ちゃんだ! 因みに彼氏はいないらしくて胸はDカップ! オマケに中学生の妹もいるらしくて、その子も超絶美人らしいぜ!」

 自慢気に語る毛利。

 どこでそんな情報を手に入れたのか知らないが……星と言い矢部くんと言い……ここは野球部だよな? 彼女作る為の恋愛相談所に来ました、的なノリの奴等が多いぞ。

 そんな事に気を取られている内に、矢部くんがベンチへと引き下がってくる。どうやら三振に倒れてしまった様だ。

「どうだった? 矢部くん。矢中のピッチングを目の当たりにしてみて」

「うーん。あおいちゃんが言っていた通り、アンダースロー特有のストレートにどうしても体が拒んでしまって手が出ないでやんす」

 困惑した顔の矢部くん。

「下から上に上がってくるライズボールか……かなり苦戦を強いられそうだ」

「それに抉ってくるし、体感速度はかなり速く感じるからね……」

「でも次は、打てるでやんす!」

 キリッと太い眉毛を尖らせながら言う。

「矢部くん・・・・・・」

「なんせ、神島巫祈ちゃんを前にしてるでやんす。普段接点の無いオイラからしてみれば、良いところを見せたいで―――ぎゃふ!!」

「もう! ふざけないの!」

 早川の鉄拳制裁を喰らい、言葉を遮られた矢部くんたが、これに関しては全く同情の余地は無い。

「球太くんも試合前に言ってたでしょ? 大事な試合なの!」

「それより、早川さん。あなた、いつの間に小波くんを球太くんって下の名前で呼ぶ様になったのかしら?」

「―――えッ!?」

 今の今まで暑さで倒れた七瀬の看病をしていて姿を見せなかった加藤先生が、此処に来てグラウンドに姿を現したのだ。

 冷やかす様な視線で俺の事をチラッと見ると、少し口元は笑っている。

「そ・・・・・・そ、その! な、何でもないんです!」

 早川、お前……明らかに動揺し過ぎだ。赤らめると逆に俺も恥ずかしくなってくるだろ。

「ふぅ〜ん」

「本当です!」

「ま、いいわ。七瀬さんはもう体調は回復したから時期に此処に来るわよ。それにしても酷い天気ね……あら、嫌だわ。雨が降ってきたわ」

 手のヒラを差し出して、これ程かと言いたくなるほど、不機嫌そうな顔で加藤先生が空を見上げて呟いた。

 ポツリ、ポツリと雨雲から地上へと雨が降り注いで来たのだ。この程度ならまだ練習試合は出来るなと思っていたが、俺の思いを吹き飛ばすかの様な強い風が吹くと、雨足もかなり強まっていく。

 

 やがては俺たちも球八高校も練習試合を一時中断し、ベンチで待機する事になった。

「どうすんだよ! この雨じゃ試合もロクに出来やしねぇぞ?」

 苛立つ星。ま、怒るのも無理はない。折角、海野が内野安打で出塁して打席が回ってこれからだという時にこの豪雨だ。それに試合前はホームランを大量生産すると豪語して名前を間違えるハプニングをしていたのに、な。

「ん? コッチに歩いてきてるのは、矢中くんじゃないでやんすか?」

「本当だ、智紀くんだ」

 早川と矢部くんが言葉を放つ。どうやら試合中止の話でもしに来たのだろうか。

「これは、酷い雨だね」

 やや口角を上げて、矢中が言う。

 やや目線は下がるものの……やはり身長は小さい。

「そうだな。この雨はもう暫く止みそうにもないし……今回は見送りにするか?」

「残念だけど、そうしよう」

 お互いに握手を交わす。まだやり足りないと言うのは強く握る熱さで伝わった。

「…………!」

 やっぱり、コイツ。

「あおい。久しぶりの再会して初めて戦うことが出来たのに生憎の天気で残念だけど、またお前が野球を始めてくれて嬉しいよ」

「智紀くん」

「弟の龍喜にも伝えておくからさ、次は春の大会で会おう」

「そうだね。次に戦う時は、今日みたいにはさせないからね!」

「……ああ、それは楽しみにして待つとするよ」

 ニヤリと笑う矢中。

「それじゃ、俺たちは行くね。それじゃ、あおい、小波くん。また戦おう」

「ああ、そうだな。次に戦うまでには『凄い球』見せてくれるんだろうな? 矢中」

「――。なる程ね。流石は小波くん、と言っておくよ。この球は、まだ投げたくない大事な切り札なんでね」

「そうか、それは悪かったな」

 

 

 こうして、球八高校との練習試合は意外な幕引きとなり、俺たちの夏の合宿はこうして終わる事となった。

 合宿をしてどんな成果を得たのかは、まだ未知数だが、僅かながら一歩、小さな一歩は確かに歩んでいると強く確信した。それに、矢中智紀の切り札と垣間見れる日が来る楽しみも増えて、俺たちの二年目の夏は完全に終わり、次なる季節は秋を迎える。




 Next Story……秋は、恋の季節!?


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第31話 最初の出会い

 夏の甲子園大会は、春の選抜大会の王者・アンドロメダ高校と去年の覇者である竜王学院高校の強豪校同士の戦いが繰り広げられた。延長十三回、三時間をも超える激闘の末、高校野球の頂点を手に入れたのはアンドロメダ高校だった。

 テレビ中継を食い入る様に見ていたが、アンドロメダ高校は、二年生ながらもエースナンバーを背負い此処まで一人で投げ抜いて来たと言う無尽蔵のスタミナを誇る大西・ハリソン・筋金がマウンドに立った。左腕から放り込まれる百五十キロ越えのストレート、キレのある多彩な変化球が光るものの、多々失投が多いコントロールの悪さが目立つがその他を除いては妙に気になるピッチャーだった。同じく対する竜王学院高校も目を引く選手が存在した。

 まずは、三年生でエースピッチャーの矢越永理だ。カットボールにテレビ越しでも分かる程の切れ味抜群のシュートで相手打線を凡打に抑え込んでいたのが特徴的だった。

 そして、その相方を務める同じく三年生のキャッチャーの八雲紫音。一言で言えばキャッチングが巧く、ストライクゾーンからギリギリ外れるボールさえストライクと判定させる捕球技術は、今まで出会ったキャッチャーの中でも一際群を抜いていた。打撃陣では、二年生で五番打者とチームのクリーンナップを任されていたファーストを守り、ファースト以外にもキャッチャーと外野も守れるオールグラウンドの星熊勇吾。強気の打撃センスを誇り、大西相手に六打数ニホーマーとこれからの将来性と存在感を示していた。

 頑張地方から初出場である山の宮高校もベスト八に登りつめる健闘を見せたものの、去年のあかつき大附属を打ち破った竜王学院高校に惜しくも勝利を逃してしまった。太郎丸龍聖も毎回奪三振を記録する十五奪三振を奪うもののやはり甲子園の厳しさを経験している経験値の差からか、それとも甲子園に潜む魔物のただ寄らぬ雰囲気に飲まれたのか九回に反撃を喰らいサヨナラ負けという幕引きとなった。

 甲子園の熱気も冷めやまぬ中、高校野球は次の秋の大会に向けて各高校は三年生の引退と共に新体制になり調整をし始めている頃だろう。

 そんな中、秋季大会は出場見送りになっている俺たちは相変わらず普段通りの練習を行っているのだが…………一週間に及ぶ夏の合宿で成果を得たのか、いつもより少しはスムーズに練習を進める事が出来ているなと思うと夏の合宿を取り入れて正解だったと改めて、ふと強く思いながらも俺は窓際の席から見える街の風景を眺めていた。

 ここから見える風景は、夏の時と比べて少し寂しい気持ちになるのも……夏の頃には見えた緑一面に染まった景色が、色を変え、風に吹かれて飛んで行き落ち葉となり何も無くなったからだろうか……。前に座る矢部くんの見映えの変わらない、刈り上げの坊主頭に目を移す度にさらに悲しい気持ちまで押し寄せて来るのは本人には内緒の話だ。

 そう、季節は既に十月を迎えていた。

 

 衣替えとなり、今まで半袖のワイシャツに素手を通し慣れていた格好も久しぶりに長袖のシャツに黒い学ランを羽織るとなると少し暑苦しく変な気持ちにもなる。

 丁度、三時限目の数学の授業が終わり、休み時間に入る。いつも通りクラスの女子生徒達が何やら談笑をし始めると、矢部くんは当たり前のようにクルリと此方に向きを変え、憂鬱な顔を見せながら話をかけてきた。

「そろそろ、冬がくるでやんすね」

 なんとも張りのない落ちたトーンで話す声と共に重たい溜息をつく。

「そうだね。ほら、最近は特に少し寒いもんな」

 取り敢えず、適当に言葉を返した。

「小波くん。オイラ……クリスマスまでには彼女が欲しいでやんす」

 俺の机に顔を埋めながら矢部くんが言う。

 そんな事を男である俺に言った所で、彼女が出来る訳がないだろ。

 それに矢部くんが急にこんな事を言い出したのは今からでは無い。夏休み明け、二学期が始まった時の事、クラスの女子生徒の何名かが別の学校で彼氏が出来た話を偶然耳にした矢部くんが一時限目から三時限目の授業が受けれなくなる程のショックを受けた事から始まっているのだ。

 既に一ヶ月経った今でも「どうしてクラスにオイラという男が居るのに別の高校の男子生徒と付き合うのか考えられないでやんす!」と、戯言にほぼ毎日の様に付き合わされ、聞かされているのだ。

「まぁ・・・・・・まだクリスマスまで二ヶ月時間あるんじゃないか。焦らないで探した方がいいんじゃない?」

「……まだ?」

 ピクリと眉が動く。

「もう二ヶ月しかないでやんすよ! 一体、オイラはどうすればいいでやんすか〜!!」

 瓶底メガネの奥から悲しみの涙を流しながら激昂する。

 実際、矢部くんの携帯電話のアドレス帳には女子生徒の連絡先がない事は把握済みだし、オマケに同じ部活の仲間だと言うのに早川、七瀬、加藤先生にも断られている程のこの拒絶っぷりから見てみると、矢部くんには一生春が来ないのでは無いのか、と心配になってしまう。

 心配する俺も人の事は言えないが、彼女には今の所興味は無い。どちらかと言うと野球部の今後の事しか頭には無いからな。

 彼女を作るとなるとどうしても部活が最優先になってしまうだろう。それより、早川の奴……また最近こっそりと秘密練習をしてるって聞いたけど大丈夫なのかな? アンダースローは下半身に壮大な力を掛ける為、疲労骨折になりやすいとも言われているから、あまり無理しすぎて痛めたりしない程度にやって貰いたいもんだ。

「それより、小波くん。小波くんとあおいちゃんは、どんな関係なんでやんすか?」

「――はぁ??」

 矢部くんがどストレートの球を放り投げるかの様な急な質問に対し、丁度今、早川の事を頭に浮かべていた俺は喫驚し、危うく声が裏返りそうになる程の情けない声を出した。

「ど、どうしてだい?」

「だって最近、あおいちゃんは『小波くん』の事を『球太くん』って呼んでるやんす。だって今までは『小波くん』だったのに、今は『球太くん』と呼んでるやんす!」

 同じ内容を二度繰り返す。

 しかも「小波」と「球太」を酷く強調しながらながら矢部くんは少し眉を寄せて言う。

「何も無いよ。きっと慣れからだろ?」

「それじゃあ、オイラもいつかあおいちゃんから『明雄くん』って呼ばれる日がくるって事でやんすね!」

 目をキラキラと輝かせる。

 俺個人として、そんな日は来ることは決して無い様な気がするが取り敢えず、矢部くんの変な誤解から逃れるため、「そうだね」と素早く返した。

 実の所、俺も何故、早川が急に下の名前で呼び始めたのか全く見当もつかない。

 たが、早川に名前を呼ばれる度、早川が顔を赤らめるのも、最近では不自然に思えて来ている。

「あ、そうでやんす。最近、海野くんも何だか怪しい気がしてならないでやんすよ!」

「海野が? 怪しい?」

「そうなんでやんす!」

 ギリっと眉を尖らせる。

「なんと言うか、海野くんに想い人が出来た様な感じが漂うんでやんすよ。まるでオイラと星くんを裏切るかの様な……それは極めて残酷な感じがしてならないでやんす」

 酷い言われようだ。

 いつから海野が、矢部くんと星の様な「年中彼女募集」してる様な派閥に入っているのか甚だ疑問だが……海野は、ああ見えて真面目な所もあるからし、好きな人が出来て意外と言えば意外なのかもしれないが、別に海野に彼女が出来たとしても部活と恋愛も、キチンと両立出来る奴だと思ってるから特に心配は無い。

「それで? 海野の想い人とやらの大体の目星はついてるのかい?」

「ソフトボール部の高木幸子さんでやんす」

「……えっ!? 誰だって?」

「だから、ソフトボール部の高木幸子さんでやんすよ!」

 一瞬、耳を疑った。

 思わず聞き返してしまったが確かに矢部くんは今、「高木幸子」とその名前を口にした。

 まさか……矢部くんの冗談だろう?

 俺の事を揶揄ってるんじゃ無いかと疑ったが、真剣で少し不機嫌な矢部くんの表情には決して嘘など付いて居ないというかの様に堂々としていた。

 意外だ。

 俺は、ただこの言葉しか思い浮かばなかった。

 

 

「はぁ〜。くたびれたぜ」

 すっかり日が落ち、辺りが暗くなった頃、部活を切り上げロッカールームのある部室へと戻り、真っ先に星が滴る汗をタオルで拭いながら数人が腰掛けられる居心地の悪いベンチに寝転びながら言葉を漏らした。

「なぁ、俺腹減っちまったぜ。この後何か食いには行かねえか?」

「いいでやんすね! ファミレスなんてどうでやんすか? ここの近くに新しく出来たでやんす。そこに行ってみたいでやんす!」

「そりゃ良いな! 俺に矢部、小波、早川、海野、はるかさんで行こうぜ!」

 さりげなく俺の名前が呼ぶな。

 俺は絶対行かないからな。

 今日は帰ったら十五キロのロードワーク、下半身の強化、インナーマッスル等の筋トレと言った毎日の日課をこなし、聖相手にピッチングの練習で投げ込みをしなくちゃあならないんだ。早く断るとしよう。

「悪いが、俺は行かないぞ」

「あん? ダメに決まってンだろ? 小波、それに海野! 特にお前らは拒否権なんてモンはねェ!!!」

 元から目付きは悪い星だが、更にギラリと睨みつける。

 その目付きに俺の背中には悪寒が走り、嫌な予感以外しなかった。

 

 恋恋高校から徒歩十分もかからない離れた場所のファミリーレストランへ足を運んだ。開店したばかりか、平日にも関わらず十七時を過ぎたこの時間帯でも満員ととても賑やかな中、六人は座れるテーブル席に案内され、他の五人はオーダー表を渡され、数多くあるメニューを決めるために頭を悩ませている。

 いつも春海の親が経営していて、心地の良いレストランに行っているか、こんなにも人が多いと喉も通らない為、俺はソフトドリンクの烏龍茶だけ注文する事にした。

「さてと、本題に入るか」

 それぞれが決まったメニューの注文を終えると、星が目付きの悪い目で周りを見渡した。

「まずは、海野。テメェの噂は本当なのか?」

「噂? なんのことだ?」

「しらばっくれる気か? おい、矢部! 言ってやれ!」

「海野くん! 君は、現在、ソフトボール部部長の高木幸子さんの事が気になっているでやんすね?」

「——っ!! ど、どこでそれを!! 噂にもなってるのか!?」

 俺は、そんな噂なんて聞いたことなかったけどな。

「そうそう! それは、ボクも聞きたかった。幸子の事、気になってるの?」

 海野に対し、まずは早川と星が食い入る様に問いを投げる。

 想い人と言われている高木幸子と幼馴染の関係である早川からすれば、気になる話だろうが、早川・・・・・・お前が今日、星達に此処に呼ばれているのはどちらかと言えば海野側だからな。

「・・・・・・冗談でも言わずに逃げられる、そんな雰囲気でも無さそうだな。仕方ない、気になってると言えば気になってる。噂通り相手は高木だ」

 やれやれと観念したかのように肩を竦めると堂々と返答した。

「と、言っても俺と高木はたまに一緒に帰るだけでまだ告白なんてしてないから恋人同士じゃないぞ? こ、これから高木にアプローチを掛けていくつもりだ」

「だから、海野くん。最近は一人で先に帰っていたでやんすね」

「幸子か〜! うん! 海野くんと幸子は、中々お似合いだとボクは思うよ! ね! はるか」

「ええ、もし付き合うなら私たち盛大にお祝いします!」

 三人から後押しされる形で、ある意味祝福されているが、海野は照れながら少し顔を真っ赤にさせ「ありがとう」と短く返事を返する。

 そして何も言わない星は、更に顔を酷く歪ませてギリギリと八重歯を覗かせながら歯軋りした。

 まさか俺たちに文句の一つや二つを一緒に言う筈の矢部くんに裏切られるとは思ってはいなかったのだろうな。

「チッ! 海野の件はいい! それでお前と早川の―――」

「お待たせ致しました。烏龍茶とオレンジジュース、コーラとアイスティー、麦茶二名のお客様」

 星の言葉を遮り、店員がドリンクを持ってくる。

「オイラ、オレンジジュースでやんす!」

「俺はアイスティーだ」

「ボクとはるかは麦茶だよ」

「俺は、烏龍茶」

「星くんはコーラでやんす」

 店員がそれぞれのドリンクをテーブルに置き、深い一礼して去っていく。

「それで、お前たちの関係は一体、なんなんだ! 特に早川! 小波の事を『球太』って下の―――」

「ペペロンチーノ、ハンバーグステーキでお待ちのお客様」

 再び、次の店員が星と矢部くんの注文した料理を持ってくる。

 コントみたいな出来事に思わず星を除いた五人が笑い声を漏らす。

「……で、早川! 小波の事を下の名前で呼んでるのはどう言った訳だよ! 説明しろよな」

「そ、それは…………その…………」

 早川は言葉を詰まらせる。

 俺も下の名前で呼ばれるようになった理由は知らない、それどころか星と同様、こっちとしては知りたい側だ。

 海野以上に頬と耳を赤く染め、チラッと青い瞳で俺の事を何度か見つめる。見つめては逸らし、逸らしては見つめるを二、三度繰り返した時、早川は覚悟を決めたのか詰まらせた言葉の続きを口にした。

「別にいいじゃない! と、兎に角! ボクが球太くんのことを球太くんって呼ぶのはいけない訳でもあるの?」

「それは……」

「……別にいけない事じゃないでやんす」

「でしょ? そ、そんな変な事じゃないもん!」

 ギラッと早川は二人を睨みつける。それに圧倒された矢部くんと星は何も言えずにいた。

「ねぇ、あおい。本当にそれだけかしら? だって言ってたじゃない。だって小波さんはあおいの―――」

「——ッ!!」

 ん? 俺は早川の・・・・・・?

「は、はるか!! お願いだから! はるかは少し黙っててよ!」

「分かりました」

 七瀬の意味深発言。

 早川に遮られたがその後がどうしても気になって仕方ない。

 俺個人としは、海野は高木幸子に気がある事が知れただけで良かったし、贅沢を言うなら濁す形になった早川が俺の下の名前で呼ぶ様になった本当の理由が聞きたかったが、それよりもこの会合の意味はもうなくなった様だ。

 二人ももう問い詰める言葉を早くも無くした様だし、さっさと帰って自主練がしたい気持ちでいっぱいだ。

「ちょっと、トイレに行くぜ」

 星がふと立ち上がり、席から離れ、混雑し店員と客が行き交う間を通り抜ける様に姿を消して行った。男子トイレへ曲がった事を確認するといきなり、矢部くんはこちらに向かって頭を下げた。

「今日は呼び出してすまなかったでやんす。星くんの代わりにオイラが謝るでやんす」

 これには驚いた。俺たちは目を丸くして互いの顔を見つめる。

「どうしたんだ? 急に」

「なんか変な誤解だけはして欲しくないでやんすが……星くんは何も皆の恋愛に関してイチャモン付ける為に呼び出した訳じゃあ無いって事は知っていて欲しいでやんす」

 矢部くんは、ニコッと笑い言葉を続けた。

「ただ……星くんは、恋愛と部活とどちらも両立させて欲しいと思ってるでやんす。確かに口は悪いでやんすが昔から不器用な人でやんす」

 ま、矢部くんの言ってるのは本当の事だと俺は思うのは、ここまで星は実際には文句など何一つ言ってはいないからだ。口下手なあいつらしいと言えばあいつらしい。まあ、今回は矢部くんの懐の深さに感謝するんだな、星。

 

「うおおおおおーー!!」

 突如、夕食を彩る店内に流れるクラシック系のBGMを掻き消す程の声が聞こえる。それに驚いて方向へ顔を向けると、星が男子トイレからただ寄らぬ顔で慌てて戻って来た。

「うるさいよ、星くん! 他の人に迷惑かけちゃあダメじゃない!」

「いや、悪い……って、そんなんじゃあねェンだよ! それより大変だぜ!」

「星くん、手は洗ったでやんすか?」

「舐めんなよ、クソメガネ! 手は……しっかり洗って来たぜ! それより! 大変だぜ!」

 相変わらず何処にいてもコントみたいな茶番劇を見事演じる二人だ。さっきから星が語尾に大変だぜ、と言うものの何とも大変さなど微塵も感じないのはどうなのだろうか。

「どうしたんだ、星」

「いや、俺が今用を足しに行ったらよ? 出たんだよ」

「出たって幽霊でやんすか?」

「バカ野郎ォ!!! 違ェよ!!! たった今、女子トイレから矢部に似た女が出て来たんだよ!」

「矢部くんに?」と俺が首を傾げる。

「似た?」続いて七瀬が首を傾げる。

「女?」早川も首を傾げて、最後は……。

「でやんすか?」矢部くんが締めた。

「本当だぜ! 矢部みたいな時代錯誤な瓶底眼鏡をして栗色の長髪、少し赤らんだ頬をしてたんだ!」

「星くんてば、矢部くんといつも一緒に居るから目の錯覚でそう思っただけじゃ無いの?」

「アホ! そんな事があったら気持ち悪すぎて吐きそうになるわ!」

「ひ、酷いでやんす!」

 矢部くんに似た女の子か……星の見た人物だと本当に瓜二つらしく、語尾に「だべ」とどこか遠い田舎者を感じさせる辺り、今時「やんす」と語尾を付ける矢部くんを彷彿させる。

 それからその話題が加速する。

 実は昔、生き別れの姉か妹説。ドッペルゲンガー説、アンドロイド説と変な憶測で物を言いあうのだが――矢部くん自身、二つ上の大学生である姉が一人居ると言うのだが、その他、親戚など思い出しても身に覚えは無いという事だった。

 

 その後、いつもはくだらないと思っている世間話に華を咲かせ、自主練をしなくちゃと思っていた俺はいつの間にか消えていた。なんだかんだ言って時刻は夜の二十一時を過ぎた頃、ようやく俺たちは解散した。

 帰り道、少し冷え切った夜空の下を七瀬、早川の三人で歩いている。少しした時、偶然にも七瀬の家族と遭遇し、七瀬は親と共に帰路へと辿り、いつの間にか俺と早川の二人だけとなった。

「……」

「……」

 無言。少し気まずい気持ちになり、こんな時に俺は何を話せば良いのか分からずにいた。いつも通り接すれば良いのか? 何か気の利いた言葉を掛ければ良いのか? それすら、思いつかなくてただただ歩くだけだった。このままでは流石に不味いと思ったのか、俺はふと、さっき七瀬が言いかけた言葉を思い出し、早川に思い切って聞いてみる事にした。

「なぁ、早川。さっき七瀬が何かを言いかけてお前が止めたよな? アレってなんなんだ?」

「――ッ!!」

 ビクッと体を少し跳ねらせた。

「え……あれは、秘密だよ!」

「秘密? でも俺の名前呼んでただろ?」

「もう……球太くんてばデリカシーがないよ」

 グサッと胸に尖ったデリカシーの無さと言う鋭利な言葉が胸に突き刺さる思いだった。類としては星と矢部くんみたいな連中と同類だと思うと、その痛みは余計に強まる。

「す、すまん。ただ気になっただけだ。言えないなら無理には聞かねえよ」

「う、うん」と、早川の頬は赤い。

「でも……誰もいないし、今なら大丈夫だよ。昔の話だからちょっと恥ずかしいかも」

「昔話?」

 

 

 

 

――――

 

 それは今から何年前だろう。ボクがリトルリーグチームに入っていた頃だからもう六、七年前位になるのかな? でも小学六年生の頃だったから、恐らく五年前だ。同じ小学校で集まっていたおてんばピンキーズはある日、練習試合を組む事になったんだ。その当時、ボクと幸子は同じチームの男子から揶揄いの言葉を受け始めた頃で、その対戦相手のチームは「かっとびレッズ」と言う小学生ながら中学野球でも匹敵する程の実力を積んだ有名なチームだった。

 練習試合当日、相手チームのシートノックを受けるのをベンチから眺めていた。流石、何度か全国大会を経験しているチームだけあり、こっちのチームと比べるとその差は歴然と頷けるほど徹底された守備がどの選手も光っている。しばらく眺めていると、後ろの方から一人の黒髪で癖毛が目立つ男の子と一人の桜色をした女の子がこっちのベンチに入って来た。

「あれ? 栗原、ここじゃねえぞ?」と、顰めっ面を浮かべて男の子が言う。

「もう、私達のベンチは向こうだよ! 寝坊したんだから春海くん達に謝るんだよ?」

「はいはい」

 女の子は、もうカンカン。見るからに少し怒っているが、男の子は慣れているかのように呑気に欠伸をしていた。

「ん?」

 すると、ボクの目の前まで歩いて来て、足を止めた。よく見てみると整った優しそうな顔立ち、二重瞼の黒い瞳にやはり目に映る癖毛髪は、とても印象的だった。

「よっ! 俺の名前は小波球太って言うんだ。今日はよろしくな! お互い良い試合をしようぜ! 

「ボクは早川あおい。よろしくね」

 お互いに握手を交わす。小学六年生同士の小さな手は、とても暖かった。それに、今のあの男の子はボクと同じくピッチャーをしているんだ。豆が潰れ再生し、固くなった指先が教えてくれた。

 これが、ボクと球太くんとの最初の出会いであり、これから話すのは球太くんへの想いへの話。



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第32話 告白

 練習試合は、かっとばレッズの先行から始まった。

 ボクはマウンドに立ち、アンダースローの低いリリースポイントから放り出されたボールはキャッチャーミットへと収まると、一番打者が左打席に入ってバットを構える。

 初球、およそ百キロにも満たないアウトローに放り込んだストレートを引っ掛けさせ詰まらせる形でセカンドゴロへと打ち取ってワンナウト。二番打者には、少し中性的な顔立ちが特徴な打者が同じく左打席に立つ。

『よっしゃー! 打っていけよ! 春海!』

 バッターに向けて、ベンチから檄を飛ばしたのは黒髪の癖毛の少年だった。

 彼は、四番打者なのだろう、ネクストバッターズサークルに控える三番打者の後ろからニヤリと口角を上げて名前を叫んでいた。

 彼の声援が皮切りとなり、ベンチの方からも続々と応援の声が飛びだした。

 なんて活気に溢れているんだろう。

 そして、チーム同士皆が暖かく打席を見守るのに対してボクは少し相手チームが羨ましく思えたのも、チームメイト達が、女子であるボク達に、いつも揶揄いの言葉しか浴びせて来なかったからだろう、と理解するのにはそんなに時間は掛からなかった。

 二番打者に対しての第一球目、ボクの自信のある変化球であるシンカーをアウトコースへと落ちる様に狙いを定めて腕を振り抜く。手応えは良い。

 狙い通りに落ちる、ここで空振りだ。なんて頭の中でバッターが落ちるシンカーの対応に遅れて空振りするのを頭の中でシュミレートするが、難なくカットされてしまった。

 ストレート、カーブ、ストレートとキャッチャーの要求をただ受け入れて放り投げるもののバッターの持つ特有の粘り強さからか、空振りを取ることも出来なかった。

 そして、挙げ句の果てにはインコースのストレートをレフト線を打ち破る流打ちをされて二塁打を浴びてしまった。

『ドンマイ、ドンマイ』なんて言葉を掛けて貰えればどれだけ気が楽だろう。そんな思いとは裏腹に『女の子だか討ちとれないのは当たり前だ』や『やっぱり投げてる時が一番可愛い』などと言った、望んでいない嫌な言葉が聞こえてくるが、そんな事は日常茶飯事、既に慣れている為、ボクはいつも通り聞き流して三番打者を迎える。

 本当ならここで、ボクは三番打者に対して集中を高める場面なのだが、ふとネクストバッターズサークルに控える彼に目を向けてしまう。

 先ほどの笑顔は何処かに消えたかの様に、少し不機嫌そうな表情がボクの目に飛び込んだ。

 

 ―――キィン!!

 

 しまった。よそ見して集中力が欠けた所を巧く突かれ三番打者にライト前のヒットを打たれてしまい、四番打者に小波球太が右打席に構える。

 バットのグリップを強く握り『すぅー』っと息を吐いた瞬間、周りを圧倒する威圧感がグラウンド全体を包むかのように広がった。

『——ッ!!!』

 ピリピリと肌に見えないとてつもない何かが打ち付けるかのように鳥肌が立つ。

 本当に同じ小学六年生なのだろうかと疑う程、周りの人たちとは違う何かを感じていた。

『さぁ、球太! 俺たち二人をホームに返してくれよ!』

 三塁ベースから、今度は春海と呼ばれていた童顔の少年が返す様に口角を上げて言う。

 その言葉を受けてニヤリと笑う彼は『おう! 任せておけ!』と堂々と頼りになる大きな声に出してボールを待つ。

 汗が滴り落ちる。

 まだ数球……気温はそんなに熱くはないけど、兎に角汗が垂れる程の緊張感がボクを包んだ。

 絶対、打たせない。

 ボク自身、自他共に認める程の負けず嫌いなんだ。例え男の子が相手でも勝負事には負けたくない。その想いを全てボールに込め渾身のシンカーをインコースから真ん中へ軌道を描いて低めのコースへと落とす。我ながら巧く行けた。

 だが……読まれていたのか、それとも勘が当たったのかは理由は解らないが、なんの一つの躊躇いも無くバットを真芯で捉え、河川敷の野球グラウンドを覆う四メートルもある網状のフェンスを越えて側に流れる大きな川へポチャンと音を立てるスリーランホームランを放ったのだ。

『う、嘘・・・・・・ホームラン・・・・・・』

『へへ、見たか!』

 両の手をパチンと叩き、彼が喜びながら一塁へと走っていく。

 ボクは唖然としたままマウンドに一人、立ち尽くして彼を目で追った。

 一塁を蹴り上げた時だった。

 ピタッと彼は何かを思い出したかのように、足を止めてボクを見て口を開いたのだ。

『あ、そうだ! 良いことを教えてやるよ。俺は、低めのボールが得意なローボールヒッターなんだぜ!』

 白い歯を覗かせて満面の笑みを浮かべる。

 ボクも何か言おうかと思ったけど、間髪入れて彼が続ける。

『それに今のは良いシンカーだったぜ! まだ試合は始まったばかりだ。負けねえよ』

 その言葉に驚いた。

 その言葉に驚いたけど嬉しかった。

 今まで誰も認めてくれなかったボクのシンカーを始めて、彼は褒めてくれたのだ。

 でも、やっぱりピッチャーとして、打たれたのは悔しいのが本音だよ。

『ありがとう。ボク達も負けないよ!』

 

 後続を打ち取り初回の失点は、彼に打たれたスリーランホームランのみの三点で留まった。スリーアウトとなり攻守交替となり、白い帽子に赤いツバ、白いユニフォームに赤いアンダーシャツ、かっとばレッズのチームカラーを纏った九人がグラウンドに立つ。

 先ほどの二番打者の春海くんは、セカンドの定位置に着き、彼はマウンドに立った。

 スパイクの先端でマウンドの土を削る。投球練習として、ゆっくりとした基本的なオーバースローから放り出されたボールは鋭さを光らせてキャッチャーミットへと突き刺さる様に走り抜けた。

『しっかりねー! 小波くん!』

『おうよ! 任せとけ!』

 桜色の髪、赤いリボンを頭に付ける女性が一人、スコアブックを抱えながら声援を飛ばしているのが目に入った。

 そう言えば……あの子は、確か試合前に彼と一緒に居た女の子だ。そうか、マネージャーだったのか。

 控えの選手と共にベンチに座り穏やかな雰囲気だと言うのは、遠く離れたここからでも十分に理解出来る。本当に仲の良いチームだ。

『あおい? さっきからどうしたの?』

『幸子……』

 親友である幸子が、気になった顔で問う。

『そうそう。あおいちゃん、さっきからあの小波くんの事しか見てないよ?』

 首を縦に振りながら、後ろのベンチに腰を据える矢中智紀くんが半笑を浮かべていた。

『べ、別に……何もないよ! 何もないけど・・・・・・あの四番打者の彼は、リトルリーグのレベルをかなり超えてるみたいだね。ボクのシンカーを初見でホームランにして見せたもん』

 相手を讃えるが、内心かなり苛立ちがある。

『って、言いながら本当は腹の中は煮えくり返っていたりして。意外とあおいって負けず嫌いなのよね』と、幸子が言う。

『負けず嫌いなのは、二人ともだよ』と、智紀くんは茶化す様に笑って見せた。

 う……。

 どうやら二人にはバレていたみたいで、返事が返せない。

 言葉を返せないままボクはマウンドに立つ彼へと視線を変える。

 一番打者でライトを守る中本くんが左打席に立つ。中本くんに対する注目の一球目、目を奪われるほどの速球がど真ん中へと突き刺さりストライクコールが鳴る。

 速い。基本に忠実なフォームであるオーバースローの右腕からしなるように振り抜き、放り出されたおよそ百十キロはあるストレートにボクらのチームメイトは目を見開いていた。

 小学六年生ながらフォーク、スライダーと次々に投げる多彩な変化球にキャッチャーミットに轟音を轟かせるストレートを繰り出す彼のピッチングに誰一人バットに掠る事も出来ずに三者連続三振で一回裏は零点で攻撃が終わってしまった。

 なんて凄いピッチャーだ。もしかすると彼は同じリトルリーグであり、リトルリーグ界隈ではその名を知らない者は居ないと言われている有名チーム『猪狩ブルース』のエースを務める猪狩守くんに引けを取らない程の実力の持ち主とも言えるだろう……。

 うう、こんなにも格の違う人達が居る中で、ボクみたいなピッチャーが居ていいものなのかな?

 同じピッチャーとして、正直、自信が無くなる気がする。

 チェンジという事もあり、ボクはグローブを手に握りしめマウンドへと上がって行くんだけど、そこにはまだ彼が残っていた。ニタリと微笑む表情を見せているのは、先ほどボクからホームランを放った事に対する優越感なのか、少しムッとする。

『な、何か用でも?』

『やっぱり、お前のシンカーって凄いな! あんな球、次には打てるかどうか分かんねえよ。キレのある良い球だったぜ!』

『―――ひゃぁ!』

 身を乗り出しボクの手を握りしめた。

 その表紙にボクは変な声が漏れてしまう。

 まるで、女の子が驚いた様な声……。

 待て待て、ボクは女の子だ。

 兎に角、変な声が出てしまって、今はかなり恥ずかしい。でも男の子に手を握られるのは、今のが始めてだったから・・・・・・しょうがないよね?

『悪い悪い。でも本当、凄いぜ。えっと、早川あおいだっけ? お前さ、野球は好きか?』

『キミ、随分可笑しな事を聞くんだね。好きじゃ無かったら、此処に居ないよ?』

『ま、そりゃそうだな。それじゃ今のチームはどうだ? 好きか?』

『……』

 その問いにボクは、何も言えなかった。

 もちろん野球は大好きだけど、いざその質問を受けると素直には答えは言えない。

 黙ったままだったボクの前に立つ彼がグローブからボールを取り出し、指先で弾き上げて利き腕の右素手でキャッチしながら口を開いたんだ。

『周りの目なんて関係ねえ、楽しくやろうぜ』

『え?』

『お前、野球ってもんは一々周りの視線なんか気にしながらやるとでも思ってんのか? そんなもんに気を取られちゃ満足に野球なんか出る訳ねえだろ』

『そ、そうだよね……』

『自分の中で信じてる野球、自分の好きな野球をやれば良いんだよ。簡単だろ?』

 ボールをボクのグローブに押し当てながら彼は満面の笑みを浮かべて言う。その顔は、優しさに満ち溢れている表情だった。その時にボクは思ったんだ。

 ああ、この人は本気で野球が好きなんだ。自分の信じた野球をブレる事なく打ち込む人なんだって、それに彼のチームはみんなが生き生きとして心の底から野球を楽しんでいる和やかな雰囲気に包まれているチームだ。それを作っているのは紛れも無い、彼なんだ。

 だから、ボクらのチームメイトがボクの事を冷やかしたり、揶揄う声が飛び込んだ時に少し不機嫌そうな顔をしていんだ。

 ボクはこの時、始めて胸が高鳴った。血の流れが速くなり、鼓動がドクン、ドクンと脈打つ音が漏れていないかと心配になる程、大きな音が身体中を駆け巡った。

 これがボクの初恋だった。

 

 そして、あの時の優しさは年月を経てもまだ変わらぬまま、彼はいや、球太くんは今、ボクの目の前にいる。

 

――――

 

 風が冷たい。雲に遮られていた月が漸く出てくると真っ暗だった目の先の道がゆっくりと月明かりに照らされて次第に見えて来るようなった。月の明かりで艶やかな黄緑色の髪、赤みのかかった頬、桃色の唇、そしてウルっと潤っている青い色の瞳がはっきりと見える。

 早川との出会いを聞いて、それが早川の初恋の人物が俺だと誰が予想出来ただろう。その事を言った早川本人は勿論、恥ずかしさから頬を赤らめているが、言われた俺です本人も頬が赤くなっているだろう。頬が熱を帯びているように熱いのだ。

「ボクはね、球太くん。キミにはいつも感謝してるんだよ?」

「感謝……?」

「幼い頃のキミが、ボクにあの言葉を言ってくれたから、自分の野球を続けてこれた。キミが居てくれたからボクは、キミ達と高校で野球を出来る事が出来たんだもん」

「……署名活動は、流石に俺一人じゃ無理だったさ。皆が居なければ成しえなかった」

「ううん。それでもキミが行動を起こしたのには違いは無いよ。そんな真っ直ぐ自分の決めた道を進むキミだから……そんなキミだからボクは……」

 次第に言葉を切りながら早川は、身体を震わせていた。早川が俺に何を言うのかと言う事も理解出来ていた。

「球太くん。ボクはキミの事がね……」

 俺は黙ったまま、早川が言葉を止める。

 どの位間が空いたのだろう。

 五秒? 五分? 十分? いや十秒か?

 曖昧な感覚、不思議な感覚に包まれる中、ゆっくりと微笑む早川の表情は、今まで見た早川の顔の中で一番可愛く思える表情だった。そんな色々な感情が俺の頭の中で巡り巡る中、次の言葉を俺に向けて囁いたのだ。

 

 

「キミの事がね。好きなんだよ」

 



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第33話 矢部田亜希子と聖ジャスミン高校

 夜の風が二人の間を横切った。

 十月にしては、あまりにも冷たい風が身体、制服を揺らした。

 それと同時に柔らかい感触が俺の黒くて癖のある前髪を靡かせる。そして、目の前に立つ早川が俺の眼を真っ直ぐに蒼い色の瞳で見つめていた。

 たった今、早川の口から思わず耳を疑うような言葉が、今も身体中にこだますると、ハッと我に返えってみると、顔一体が一気に熱を放射したかの様に真っ赤に染まっていたのだ。

 

『キミの事がね、好きなんだよ』

 

 たった今、早川が口にした言葉だ。

 それは紛れもなく告白だった。

 なんの身構えも無く飛び込んで来たその言葉に俺は、今も尚眼を見開いたまま、オマケに口が半開きと言う何とも情けない表情を見せている。

 ドキドキ、ドキドキ。

 胸の鼓動が一層と高い音をなり響かせ、そこから帯びていた熱が熱く広がっていき、段々と脈打つように鼓動の音が大きく、さらに速く、俺の身体を駆け巡る。

 一言で言えば……緊張だ。

 こんなにも緊張しているのは生まれて初めてでは無いか、と思うほど自分で言うのもなんだが普段緊張の欠片も見せないいつもの俺は何処に行ってしまったのだろうか……。

 今では自分でも驚くほど、その場に立ち尽くしている。

 勿論、異性から告白されたと言う経験は、十七年生きて来て今まで無い為、これが普通なのだろうと自分に言い聞かせてみるが、相手が早川となると、これは決して普通じゃ無いのかもしれない。手に汗が滲む。

 確かに俺は、早川の事は嫌いじゃない。寧ろ好きな部類に入るだろう。それはただ異性としてでは無く、チームメイトとして好きだと言う事だった。

「…………」

 ふと、ここで早川との思い出を振り返って見る。苦難を迎える場面が多かった早川には、どんな時でも笑っていて欲しいと勝手に想いを浮かべていた……と言う紛れも無い事実が真っ先に浮かび上がる。

 嗚呼、そうか。もしかすると俺は早川の事が好きなのかもしれないと言う事なのだろう。

 不思議だが妙に納得してしまった。

 それなら、返事は一つだ。

 

 ―――でも、それで良いのか?

 

 今、此処で早川に返事を返してしまえばどれだけ楽だろうか。早川には悪いが、俺はまだやるべき事、成すべき事がある。それを成し遂げた時、俺から改めて早川に伝えなければならないと何故かこの時、ふと思ってしまった。

「球太くん?」

「早川……。ありがとう。お前の気持ちが解って良かった。でも、返事は待っていてくれないか?」

「どうして?」

「俺は、まだお前に似合うべき男じゃない。それに俺はまだやるべき事がある。何より、お前たちを甲子園の舞台に連れて行かなきゃ行けないから」

「…………」

「俺、ずっと思ってたんだ。このチームを甲子園の土を踏ませてやりたいってさ。そう言っても簡単じゃ無いのは解ってる。それでも連れて行きたいんだよ。皆んなに野球やってて良かったって思わせてやりたいんだ……だから、その時が来るまで返事は待ってて欲しいんだ」

 今まで誰にも言って来なかった思いを初めて俺は打ち明けた。

 この恋恋高校に入学し、矢部くんと出会って、怪我をしてから遠ざかっていた野球を再び始めたその時から、密かに想いを強めてきていたのだ。

 あいつらに甲子園の土を踏ませてやりたい。ただそれだけだ。

 その想いは、ずっと揺るがないまま此処まで想いを連れてきた。そして、今年の夏の大会で予期せぬ出来事が起きた。そう、早川の女性選手問題だ。それをどうにか乗り越えた時に、再び想いは強く燃えあがっていたのだ。

 初めて話す事に、早川はどう言う反応を示すのか少し気になる。呆れるだろうか、それとも笑うだろうか……。

「ふふ、そう言うんだろうって思ってたよ」

 鼻で少し笑いながらも、早川のその顔付きは少し呆れた表情にも見て取れた。

「思ってた??」

「うん。だって、キミは何時でも他人優先で自分の事なんてそっちのけにするおバカさんだって事くらいボクはもう知ってるよ! それに、今、キミに思いを伝えたのは……その……よ、予約だから!」

「予約?」

「そう。ボクが最初にキ、キミに好きって伝えたんだから……他の人に告白されても……最初はボクに想いを伝えてよね!」

「……お、おう。分かったよ」

「分かればよろしい!」

 ニコッと笑う早川に、俺も思わず吊られて笑った。返事を先延ばしした事に対して不満は無い様で早川の機嫌を損ねる事は無かったから一先ず安心と言った所だろう。

「さてと、帰るか」

「そうだね」

 お互いに目が合った。少しの間、俺たちはニコッと笑みを交わす。

 そして俺は、このまま早川と一緒に歩き出して早川を家の前まで送り届けた。その帰り道、今まで以上に他愛のない世間話で話が盛り上がってしまい、予定時間より一時間以上もくだらない話を二人で駄弁ってしまっていたのは、勿論、みんなには内緒だ。

 

 

 

 それから早く一カ月が経過した。

 相変わらず変哲も無い日々を過ごし、季節は十一月を迎える。此処最近で何か起こった事と言えば秋季大会が終わった事位だろう。

 俺たちは早川の問題解決の代償として秋季大会は自粛の為、大会には不参加だったが、殆どの試合をメンバー全員で観戦しに行った。

 極亜久高校、流星高校、ときめき青春高校を始めとして、今まで戦った事のあるチームはレベルを上げているのが確かに感じられた。

 それ以上にやはりレベルの高いきらめき高校やパワフル高校はそれ以上にレベルが上達している……。だが、俺たちも負けてはいない。

 そして、夏の頑張地方を制した王者・山の宮高校、その王者に敗北を喫してしまったあかつき大附属が、なんと、この秋季大会の決勝戦で激突したのだ。

 夏の決勝大会の再来……太郎丸龍聖と猪狩守の投手戦となったこの試合は、今までに無い程の観客動員、メディア、スカウト達の注目を集める歴史に残る程の試合となった。

 新体制となったあかつき大附属、エースは新キャプテンとなった猪狩守、そして相方のキャッチャーは、三年の二宮先輩の跡を継いで一年生にして唯一のスタメンに選ばれた猪狩守の実弟の猪狩進がマスクを被る。

 進の相変わらず丁寧ながらも攻めの采配、時折に見せる守りに入る采配を際どいタイミングで切り替えていき山の宮高校打線を完璧に封じ込んだ。左腕・猪狩守のストレートは何時もより光る。この試合を恰も見据えていたような、この試合の為だけにかなり調子を整えてきたように絶好調だった。百四十後半を連発、高校生レベルを遥かに凌ぐノビのあるストレートにキレのあるカーブ、スライダー、フォークの三つの変化球を使い分けて相手打線を翻弄した。

 だが、やられたまま終わっていないのが、夏の覇者である山の宮高校だ。猪狩同様、左腕・太郎丸龍聖に相棒の名島一成も息の整った阿吽の呼吸で、あかつき打線を捩じ伏せて行く。

 回を跨ぐ事で次第に尻上がりに調子を上げて行く太郎丸は、六回から切り札であるアンユージュアル・H・ストレートを惜しみなく放り投げる。

 〇対〇のまま迎えた最終回。猪狩守は此処で見た事も無いストレートを投げ込んだのだ。

 左腕から振り抜かれるリリースの一瞬の事だった。それはまるで黄緑色の閃光のようなオーラとでも言うべきか、その不思議なオーラから飛び込んだストレートで三者三振を奪い取ると球場は呆気に取られた。それは試合後のインタビューで明らかになったが、猪狩守の新たな切り札と言うべき、猪狩守しか投げれないオリジナルストレートだった……。

 猪狩の急激なストレートに対して動揺した太郎丸は手元が狂ってしまい、あかつき打線から連打を浴びてしまい、三番打者の猪狩進がレフト線を破るサヨナラタイムリーヒットで試合を決めたのだ。

 翌日、新聞の一面を飾ったのは猪狩守一人だけがピックアップされたカラー写真がとても印象的だった。

 そこには、山の宮高校を制した試合後に語られたインタビューが掲載されており、最終回に放り投げられたストレートに付いてこう述べられていた。

『あのストレートは、去年から念入りに仕上げて来たウイニングショットです。夏の大会、僕自身の弱さを痛感したお陰でこのストレートが生まれました。今後、誰にも負けないように作り上げてきた僕だけのストレート……』

 文面から見ても、何処か猪狩らしく、自信に満ち溢れていた。

『では、その決め球の名前は?』とマスコミが問いかける。

 そう尋ねられると、猪狩は少し間を置いたのだろう。新聞の記事の内容には黙ったまま名前を考えていたような文章が書いてあった。

『そうだね。取り敢えず『ライジングショット』と呼んでおこうかな』

 と、そう良い残して猪狩は周りに軽く会釈をして笑顔で立ち去ったらしい。

 ちなみに『ライジングショット』は、太郎丸の『アンユージュアル・H・ストレート』の様にノビの回転を利用して真っ直ぐ突き刺さる軌道は描かず、全身のバネと回転をボールに伝える事により、まるで拳銃の弾丸のような高速横回転をかけて放つ事により、ポップするように浮き上がるストレートを指すと書いてあった。

 猪狩が新しく手に入れた決め球、『ライジングショット』と言うストレート……。

 あの負けず嫌いな猪狩が相当な努力を費やして完成した結晶と言うべき切り札に対して、甲子園の道は更に険しくなるに違いないと確かに感じた。

 全く天才には敵わねえぜ。

 正直、恐れ入るほどにな。

 それでも俺は負けないさ。

 今に見てろよ! 凡人の底力をいつか見せてやる。

 なんて思いながら俺は観客席からライバルの勝利を見送り拍手を送っていた。

 

「球太」

「…………」

「球太! 準備は出来たのか?」

「ん、あ?」

 突然、名前を呼ばれ俺は返事を返したつもりだったが変な感じになってしまった。その返事に取れない変な言葉に、少し呆れた表情を浮かべているのだろう。感覚で分かる。

 やや少し低めに視線を下げるとその表情がはっきりと分かった。目の前に立つ紫色の髪に紅い大きな瞳がジロリと此方を睨んでいて、オマケにアホ毛が風に吹かれ、それはまるで踊っている様に見えた。

「一体、先程からどうしたのだ? 投球練習をしたいと言ったのはお前の方だぞ? 球太」

 ああ、そうだったっけ。

 少しぼっと考え事をしていたから吹っ飛んでしまっていた様だ。

 そう、俺は今、聖の家に来ている……。とは言ったものの、聖に投球練習をしたいと言い出したのは確かに俺の方だが、それは猪狩が『ライジングショット』と言うオリジナルストレートなんてものをいつの間にかに編み出した事を知った事で、猪狩に触発されたなんて言える訳が無かった。

「いや、なんでもない。投げるぞ」

 何も無かった様に装いながら、俺は右腕を振り抜く。

 先ずは軽くストレートだった。

 しなやかに振り抜いた肘に痛みは無く、聖が心地の良い捕球音を鳴らすとテンションが上がる。

「うむ。中々いい調子じゃないか? 球速は百四十前半ってところと見たが」

「今はそれで充分、ここから次第に球速を上げていくぞ。取り敢えず今日は『三種』を徹底的に投げ込むぞ」

 俺はそう言う。因みに『三種』とは変化球の事ではない。実は、俺には三つのストレートが投げれるのだ。猪狩や太郎丸の様に俺も俺だけのウイニングショットを持っているのだ。だが中学時代、中学二年生の全国大会の途中で肘を壊すきっかけになったのが、この球でもある。

 去年、投球練習を始めた頃と同時期から聖に対して何度か投げている。今の所、痛みは無いどころかむしろ調子が良い方である為、今はかなりの頻度で放り込んでいる。

 来年、俺たちは早くも最後の年を迎える。恋恋高校の投手は早川一人と言う事実。勝ち進むにしては無謀と言うのは、星も何度か俺に嘆いているし、早川もその様な言葉を口にしていたのを聞いている。

 つまり、確実に勝利をつかむ為には、俺も本格的にマウンドに立つのが増えるという訳で夏の合宿終了後、こうして聖を交えた投球練習は昔は週一程度が、ほぼ連日続けている。

「さあ、もう一球投げるぞ」

「うむ、来い」

 ふぅーと小さな息を吐いた。全身で集中力を高めて行く……。

 シーンと耳が遠くなると共に次第にキャッチャーミットだけが見えてきた。

 大きく踏み込んで、腕を振り抜く。スバンと音を立てたミットは左側のストライクゾーンをギリギリ入るところでピタリと止まった。左打者ならインコース、インコースが不得意の打者ならほぼ見送るに違い無い、間違いなく絶好球のストライクボールだろう。

「ボール」

「……ん? いや、待て、今のはストライクだろ?」

「いいや、ボールだ。球太」

「ストライクだ」

「ボールだ」

「…………」

 今の球で浮かれるなって言いたい訳って事だろうな……。

 聖の浮かべている顔から見て一歩も引く気は無さそうだ。

「こうなったら、お前がストライクって認めざる負えないほどの際どいストライクボールを投げてやる!」

「バカか。急にムキになるな、力むとボールに力が入るし荒れ球になる」

 聖の鋭いツッコミが飛むと、俺は少し口元が上がってしまう。

 ま、ごもっとな意見です。

「それに、球太。そのスパイクはもう駄目みたいだぞ? ほら、つま先に穴が空いている」

「あれ? あ、本当だ。ここ最近、かなりの頻度で投げ込みをしていたからな。まあ当然だろうな」

 部活用とは別で聖とのピッチング用で買っていたスパイクだったが……やれやれここは仕方ないな。

「こりゃ、新しいスパイクを買うしかないようだな」

 俺は、聖にそう告げた。

 暫くしてクールダウンを行い今日の投球練習は終わりを告げる。

 それは、まだ空が赤く滲む夕刻の時だった……。

 

 

 十一月の夕暮れ時になると、夏に訪れたデパート街と呼ばれる繁華街近辺は、あの時と比べてみるとやや賑やかさに欠け、静かさが増す。

 自分で言うのもアレなのだが、野球以外の賑わう風景に溶け込んで生活をする自分の姿など正直言って全く想像が付かない。

 想像するだけで似合わな過ぎて鳥肌が立つと言うか………もどかしい。

 それ位、野球以外に全く興味が無いのは少し問題ではある気もするのだが、今は高校生であり高校球児だ。しのごの言わずに今は野球を謳歌するとしよう。

 立ち並ぶビルを歩道を歩きながら狭まる空に窮屈を覚えながら目的地へと脚を進める。冬になると陽が落ちるのは早い。辺りは徐々に暗くなって行き高層ビルやデパートなどの蛍光灯のネオンサインの光がこの夜の街に色を付ける。

「それで? どうして、お前が着いてくるんだ?」

「む、いけない事か?」

 見上げていた空から視線を逸らし、平然に横を歩く声の主、聖に目を向けた。途中で辞める羽目になったピッチング練習を終え新しいスパイクが買いに向かおうとした時、何故かは分からないが聖も何事も無い様な素振りを見せ、こうして付いてきたのだ。

 着いてくるのはいけないことでは無いが、着いてくるのは何というか、必然的な事だ。

 こう見えて聖は学校の通学、下校以外は全く持って外には出ない。出会った頃なんかは家の縁側に座りお手玉を毎日一人でやっているのをよく見かけたりもした。

 家柄が家柄だったのだろう、それは今でも変わらずに気軽に外出はしない。

 だが俺が居る時だけは例外で、たまにこうして着いてくるのは今日に始まった事ではなくいつものことだった。

 そして今、聖は完全に浮いている。

 周りや通りすがる視線は釘付けだ。

 何故ならば、聖の私服は着物しか持ち合わせていないのだ。

 制服に着替えるならまだいい方だが、本人曰く着物の方が落ち着くとの事らしい。

 そんな視線を掻い潜り抜ける様に夜の街を歩くとあっという間にミゾットスポーツの店の前まで辿り着いた。

「いらっしゃいませ〜」

 自動ドアを潜る。独特の電子音のチャイムが店内に鳴り響いくと、直ぐさま店員が駆けつけて目の前で止まり頭を軽く下げて出迎えてくれた。赤毛の短髪頭に少しひょろっとした体型の背の高い『明日』と書かれた男性がやって来て俺の顔を見るなり笑顔を見せたのも、前に来た時にグローブを購入した時に対応してくれたからだろう。

「今日はどんなご用件でしょうか?」

「ピッチング用のスパイクがダメになってしまったのでスパイクを買いに」

「では、こちらへ」

 二、三歩先前を誘導するように歩き、俺たちはその後を着いて行った。グローブ、ミットやバット、ボールなど各カテゴリー毎に分かれている一回の野球フロアには、最新モデルの野球道具一式がずらりと店内を彩っていた。

「品揃えが豊富とは、正に、この事だな」

 聖は見慣れないものを見る様に、落ち着かない様子を見せながら後に着いてくる。キャッチャー防具コーナーを見つけるなり脚をピタッと止める……だが、中学生の聖の財布事情では簡単にレジに持って会計が出来るほどの金銭はもちろん、持ち合わせては居らず、頭を横に振って欲を振り切り、少し小さな溜息を零すとトボトボと肩を落として再び歩き始めた。

 スパイク売り場に辿り着き、俺はゆっくりと自分に合うスパイクを選び始めるがそんなに時間は掛からなかった。真っ先にコレと決めた黒色の最新モデルのスパイクに決めレジへと持って行こうとした時だった。レジの斜め前に展示されているバットコーナーに何人かのグループが立っているのが見えた。それは、見るからに女子生徒だった。

 制服からして、二年前の恋恋高校と同様の女子高の聖ジャスミン高校だった。

「なんだべ? オラ達に何かようだべか?」

「――ッ!?」

 急に後ろから聞こえる声に驚き顔を向ける。

 顔を見た瞬間、俺は更に驚き声を失った。

 時代錯誤も良いところな瓶底眼鏡にブラウン色の長い髪に若干の違和感を感じるが、確かに見覚えのある顔立ちからして、その声の主はまさかの矢部くんだ……が、矢部くんには女装癖でもあるのだろうか? 長髪のカツラを被り、口元にはやや薄紅色の口紅を塗ったように紅く艶やかだった。

「矢部くん。君は、こんな所で一体何をしてるのさ」

「矢部? オラは矢部田亜希子だべ」

「え?」

「アンタこそ一体どちら様だべ? まさか……オラの事を付け回すストーカーだべか?」

「いや・・・・・・それはどう考えても無いと思うよ」

 矢部田亜希子と名乗る矢部くんに瓜二つと言っても過言では無い人物に出会った。

 『矢部明雄』に『矢部田亜希子』顔も名前も似てるのは紛らわしい……いや、待てよ? この間、部活帰りにファミレスに寄った時に星がトイレに行った時、何か言っていたな。

 

『女子トイレから矢部に似た女が出てきたんだよ!』

 

 そうか、星が見たのはこの矢部田さんだったのか。

 本来、聖ジャスミン高校は恋恋高校からそう遠くは無い所に在るし、あの新しく出来たファミレスも勿論、難なく立ち寄れる訳だ。

 もしかしたらあの時、この矢部田さんもたまたま立ち寄っていたのかもしれしれないな。

 おっと、余計な事を考えていた。

 先程から目の前に居る矢部田さんから熱視線を浴びせられている、このままだと本気で俺の事をストーカーと勘違いし兼ねないな。

「で? 一体、どちら様だべ?」

「俺は、恋恋高校の小波球太だ」

「小波球太……恋恋高校……」

「あ、ちょっと!」

 ボソボソと復唱すると、矢部田さんはバットコーナーに居る友達の元へと駆け出して行ってしまった。

「あの矢部田と言う女性は、一体なんだったのだ? 球太」

「いや、俺もよく分からん」

「ん? 球太。矢部田と連れが此方に来るぞ」

 矢部田さんを筆頭に、バットコーナーから此方へと歩み寄って来た。一人はピンク色の髪色をした身長が小さな女性、褐色肌で灰色の髪色をした身長が高い女性、そして以下にも優等生ですとでも言わんばかり主張の激しい縁眼鏡を掛けている青い髪の三人が向かって来た。

 



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第34話 ヒロとほむほむ、たまにちーちゃん

「君が小波球太くんだね。初めまして、私は聖ジャスミン高校の二年生の太刀川広巳。よろしく」

 開口一番。

 褐色の肌に灰色でボーイッシュな髪型が特徴的な女性が俺に向けて手を差しのばして来た。

 身長は百七十センチは超えていて、百七十八センチある俺と視線はほぼ変わらなかった。

 その差しのばされた手に触れ「よろしく」と軽く会釈して俺も握り返すと……、何故か違和感を感じた。

 女性にしては随分ゴリッとした手をしてるんだな、と軽くながら驚いたが、それは返って太刀川に失礼な事だと思ってしまった。

「ヒロと同じく二年の美藤千尋よ」

 清潔感溢れる青髪に眼鏡姿、見るからに聖ジャスミン高校の生徒会長でも受け持っていそうな程、知的そうな印象を抱く。

 先程の太刀川は『ヒロ』と言うあだ名で呼ばれている様だ。

「因みにみんなには、ちーちゃんって言う愛称で呼ばれてるッス」

「――ッ!? だ・か・ら! 私の事をちーちゃんって呼ぶなー!!」

「え? ちーちゃんはちーちゃんッスよ。それにちーちゃんだって『ほむら』の事を学校とかではいつも『ほむほむ』って呼ぶじゃないッスか。おあいこッスよ」

 口を挟んだ女性は、桃色の髪に帽子を逆さ被りして、矢部くんや矢部田さんの様に最近は語尾に『ッス』と着けるのが流行ってでも居るのだろうか……。

 とても不思議な女性だった。

 そして、この二人は今もまだあーだこーだ言い合いをしている為、俺は呼び止めらたのにも関わらず、そっちのけにされ、何故かその場に取り残されてしまうという何とも言えない状況に置かれてしまった。

 すると、太刀川がそっと隣に歩み寄って俺に声を掛けた。

「なんか、騒ぐしてごめんね。あのピンク色の髪の女のは、川星ほむらさんって言うんだ。本当は、もう一人小鷹っていう子が来るはずだったんだけど……ちょっと今日は用事があってここには居ないんだ」

「・・・・・・それで? 俺に何か用でもあるのか?」

「なるほど。小波くんって、中々勘が鋭いんだね」

 太刀川がニヤリと笑う。

 俺は少しながら違和感を感じていた。

 まず矢部田さんに名前を名乗りった後、直ぐさま矢部田さんがこの三人を連れてきた時だ。

 まず、太刀川が俺の顔を見るなりして『君が小波球太くんだね』と言った事が、頭に引っ掛かっているのだ。

 初対面の相手に恰も俺の事を知っている様な素振りなんてもんは普通はしないだろう。

 恐らく野球関係者と見た。何処かの野球部から任されたスパイでもしてるのかと言うくだらない想像をしてみたが・・・・・・俺が知ったのはそれを遥かに上回る程、驚かされる事実だった。

「私達、聖ジャスミン高校野球部なんだ」

「は? 野球部……? 確か、聖ジャスミン高校って女子高じゃないのか?」

「いいや、今年から君たちの恋恋高校と同じく共学になったんだ」

 今年から……共学?

 それは全くもって初耳だった。

「それで? 聖ジャスミン高校の野球部が俺に何の用なんだ? もしかして、練習試合の申し込みとかか?」

「う〜ん。それは、それで結構面白ろそうで良いアイデアだけど……今回は感謝を言いたい、かな?」

「・・・・・・感謝?」

「そう! 君にね、小波くん。だって君は、恋恋高校の同じチームメイトの早川あおいさんの女性選手問題を解決した張本人でしょ?」

「……」

「私達も訳があって野球部を一から作る事になったんだけど、私達って女子だから試合も出来なくてね……。それで、高野連のルール改正で私達も試合参加が認められることになったって聞いたときは、いつか小波くんに会ってお礼を言わなきゃって思っていた所だったんだ。ありがとう」

「・・・・・・私からもお礼を言うわ。ありがとう」

「ありがとうッス。小波くん」

「ストーカーさん、ありがとうだべ」

 太刀川、美藤、川星、矢部田さんが頭を下げて感謝の言葉を述べた。特に矢部田さんの言葉には本当に感謝の気持ちがあるのかすら、甚だ疑問を抱いたがそれは置いといて、太刀川達の感謝の気持ちに対して俺は何も言い返せずに立ったままだった。

 俺個人としては感謝されるという事が意外だったと言う事だ。

 正直に言えば俺はただ、同じチームメイトの早川に野球をやらせたいと言う救いっと言う一心、その想いしかなかった。

 こう目の前にして太刀川達の感謝の言葉を貰うと俺は早川だけじゃなく、野球が好きだけど女性と言う事で色眼鏡で見られ、出来なかった女性選手達の事を救えたのだと思うとそう悪い気はしなかった。

「感謝の言葉を有り難く受け取るよ。春の大会で戦う機会があったら、よろしく頼むな」

「此方こそ。改めてよろしくね小波くん。私は聖ジャスミン高校のピッチャーの太刀川広巳」

 俺と太刀川は、お互いに手を交わした。

 違和感を感じたのは、太刀川の手には多数の豆を出来ているだった。指先と手のひらには練習に費やした努力が何重にもなって硬くなっているのだ。その手に触れ、俺達の恋恋高校ときっといつか戦う日が訪れるのは、そう遠い話では無いとその時に感じた。そして、聖ジャスミン高校といい試合が出来る事を待ち望む様に、俺たちはそこで別れる事にした。

 

 

――――――

 

 …………。

 ……。

 

 目覚めが悪いのは、随分と久々だ。

 空気が冷たい上、おまけに身体が寒い……。

 真冬真っ盛りの外は、晴れ間の見えない曇り空が広がっている。それが今日で何日目なのかなんて勿論、知る由も無かった。

 嗚呼、今日も曇りかと……。別に被害を被る訳でも無ければ不幸になる訳でもない。何一つ『僕』には問題もない為、他人事の様に寝そべるベットの上から薄く開いた瞳で空を眺めていた。

 すっかり目を覚ましてからも中々ベットから体を起こすことは出来ず、部屋は時計の秒針が坦々と進み鳴る音だけが聞こえるだけの静かさが漂っていた。

 時計の針は午前の十時を回っていて、流石にヤバイなと体を起こそうにも思った以上に体が重かった。今日は土曜日、勿論学校は休みであるため、普段の休日は家事全般をこなしているのがいつもの過ごし方だけど、今日くらいはゆっくり好きな読書に没頭していてもバチは当たらないだろう。

 出来るだけ穏便な生活を送りたい……。

 どうか、嫌な事だけは起きません様に……。

 ふわっと大きなあくびを漏らし、枕元の充電器に刺さっているスマートフォンを手に持ち何気なくメニューを開いてみた。

 そこには一通のメールが送信されて来た事がディスプレイに表示されていた。

 その送り先の名前を見た瞬間に、僕の目は完全に目を覚まさせたのだ。

 

 ――ごめん! 部活で着る練習着と道具、リビングに置いたまま学校に来ちゃった! 学校まで送ってくれると助かるよ〜――

 

「……」

 もやは呆れるのを遥かに超え通り越して笑いが出そうな程の酷い内容だった。

 土曜日の休日で部活に行くと言うのは今に始まった事じゃ無いはずなのに、その一式を忘れるとは一体どう言う神経をしているのか、と思わず問い質したくなってしまう。

 だが、それがこのメールの送り主らしいと言えば送り主らしいのだ。

 メールの送り主は、僕の妹である『未来』からで、未来は野球部に所属している。

 ここまで僕の通う中学は頑張駅の直ぐ近くにあるが、僕の住んでいるマンションは頑張駅から少し離れたデパート街を抜けた高層住宅地帯にある為、この寒い外の中を歩くとなると思うと、そう余り乗り気ではない。

 どうやら、今日の僕に穏便な生活をそう簡単させてはくれないらしい……。

「はぁ・・・・・・」

 溜息を吐き、自室からリビングまで重たい足取りで歩く。大きな窓を覆った純白のカーテンを開けると、そこにはどんよりとした灰色を纏った暗い雲に覆われた空が僕を迎える。

 こんな寒い中、部活をするのにどんなメリットがあるのだろうか……。

 そういう僕も野球は小学五年の時までやっていた。

 だけど、野球なんてスポーツに『今』は全く興味はないし、冬の日にまで野球をやる事自体、僕には全く理解が出来ないが、未来から送られてきた嫌な事が起きてしまった以上、潔く諦め、仕方なく荷物を持っていく事にした。

「……」

 その後、シャワーを浴び、学校指定の制服に素手を通した。空模様と同じ一向に晴れる事のない憂鬱な気分を引きずりながら僕はドライヤーで髪を乾かして、未来の置き忘れた荷物を右肩に乗せた。

 ズコッ――。

 ズシッと来るバストンバックの重量感に耐えきれなかった僕はその場に思いっきり体勢を崩して倒れる。

 なんて重いんだろう……。

 野球部は良く平気でこんな重い荷物を持って街中で和気藹々と動ける姿を見かけたりするけど……ある意味凄いもんだ、と感心するどころかちょっと引いている。

 

 ○

 

 僕は、消極的な人間だ。

 周りと戯れあったり、馬鹿騒ぎしたり、友達を引き連れて遊びまわるのは苦手で、時に僕はそれを見ては呆れている。

 騒がずに大人しく、周りと関わらずに色々な本を読んで過ごすのに最も適しているの人間なのでは無いかと思ってしまうのだ。

 周りは、新しく買ったばかりの塗り絵の本の様に白いだけで、そこには何一つ色も無く、勿論こんな僕自身にも色は無い。

 無色透明で存在は皆無だ。

 此方から馴れ合う事をしなければ、向こうからも決して馴れ合ってはこないのだ。誰とも関わらずに人との縁を作らずに生きていきたい。

 僕こと、『明日光』はそういう人間なのだ。

 

 重たい荷物を抱え、ふと立ち止まる。少し歩いたが一先ず、一休みをしよう。確か、ここは学校に行く時に通る河川敷だった。下方には寒い中、野球グラウンドでは練習試合が行われているようだ。寒い中ご苦労様です。

 因みに練習試合の学校はどこだろうかと、未来に会うついでに話のネタにはなるだろうと思い、僕は少し目を凝らしてボードに書かれている文字を遠くから見つめた。

 僕はこう見えて目が生まれつきなのかとても良い。視力もかなり良いが、それよりも動体視力の方が優れていて時速百五十キロのスピードで動く物はゆったりと見えたりする。僕みたいな今はスポーツに何の縁もない人物が、この優れた動体視力を持っていても、それはただの宝の持ち腐れなのだ。

 そんな事よりも話を戻そう。試合は始まったばかりなのか、一回表の攻撃中だった。

 そこには『帝王実業中学』と『聖タチバナ中等部』と書かれているのが解った。帝王実業中学は、確か僕の通う西満涙中学から一キロも離れてなく、あかつき大附属と張り合う程のスポーツの名門校だったと記憶している。対する聖タチバナ中等部は、橘財閥の事業の一環で学園設立したと言うのが三〜四年前にニュースで取り上げられて話題になっていたのをたった今思い出した。思い出した所で、僕には全くもって関係はないし、その二つのチームがどう言うチームなのか知らない為、道草を食わずにさっさと届けようと脚を進めようとした。

 すると―――。

「退いてッ!! そこの赤毛くん! ちょっとそこを退きなさい! どいて、どいてーー!」

 およそ五メートル弱、目の前をユニフォーム姿を纏った女の子が此方を目掛けて走って来たのだ。髪は水色に艶やかで瞳はパッチリ大きな緑色に染まっていた。

「―――ッ!!」

 突然の出来事に思わず対処をし忘れてしまった。

 突っ立っている僕に対して、その女の子は鬼の様な形相で「退きなさいって言ってるでしょ!」と、怒鳴り声を上げると、僕を突き飛ばす様に、女の子の手が僕の胴へと強く押し出す形で、僕はその場に倒れてしまった。

「・・・・・・」

「ゴメンなさいね。でも、今のは退かなかったあなたが悪いんだからね! あーもうッ!! 試合とっくに始まりそうじゃないの!」

 倒れた僕に脇目も一切に振らず、オマケに僕が悪者扱いされてしまった。女の子は、下方で野球の試合がすでに行われてることを知ると頭を掻き毟り『って、もう! 試合始まってるし! これじゃ、遅刻じゃないのよ!』と言い残しすと降りていってしまった。

 一体、何だったんだろう……。

 今の出来事は本当に起きた事なのか、果たして夢だったのか、物事が速く進んだ為、頭で情報を処理し整理するのが困難な程、あまりにも不思議な出来事でしばらく僕はこの場から動けなかった。

 

 

 ○

 

「遅い! もう練習は来た時から既に始まってるんだよ〜!」

 同じ赤毛は僕よりも少し長く、青い色の花の様に主張の激しい瞳、そして何と言っても尖った八重歯が手に入る。学校指定の冬用のダークブールのブレザーを羽織り、腰に手を当てて怒りを表しているのは確かなのだが。それは余りにも怒ってるとは到底思えない随分気の抜けたトーンで話している。

 これが、僕の妹である『明日未来』だ。

 思わぬ出来事に時間を取られた事は言い訳にはならない。

 それよりも先ず、部活があると知りながら荷物を忘れる未来本人が一番悪いのではないのか? わざわざ持って来たと言うのにそんな言われ方には、酷く苛立った憤りがジリジリと胸の奥に食い込む思いだ。

「・・・・・・」

「未来ちゃんのマイペースぶりには、正直恐れいるよ。ご苦労様、光」

 情けないほどに息が上がっている僕に、パワリンドリンクをそっと手渡す。顔の整ったイケメンに黒髪に紫眼の相性は抜群だ。

 彼は僕と同じクラスの鈴本大輔。

 クラスは一緒だけど基本的に会話をした事はないのも、クラスではかなりの人気者なので休み時間には人集りが出来るのは当たり前な事で、僕みたいな根暗で日陰者には、鈴本は程遠い存在だからだろう。

 だけど、こうしてよく未来の忘れ物など届けるといつも僕を気遣ってくれる優しい人だと解る。因みに鈴本は、西満涙中学の野球部員でポジションはピッチャーを任されていて、今年の新人戦ではかなりの好成績を残して注目の的になっているらしい……。

「……」

 僕は無言で頷いた。

 話すのは未だに慣れない。鈴本もそれを解ってくれてる様で、彼は直ぐさまニコリと笑顔を見せてくれた。

「未来先輩。申し訳ないのだが、部活の副部長として心構えがなって無いのではないのか?」

 そこに呆れた顔をしながら、一学年後輩であり、鈴本とバッテリーを組み、キャッチャーとしてチームの司令塔を務める六道聖がやって来た。凛々しい口調、鋭い目つき、後輩ながらも芯が強い女の子だ。どんな物事に対しても表情を表に出さないと言う厳重なポーカーフェイスをしていて、殆どの生徒は六道に近寄り難い事で有名だ。オマケに西満涙寺の御息女で、厳格な育てられた為、携帯電話やファミリーレストランと言う単語を知らない浮世離れが目立つのもきっと近寄り難い理由の一つなのだろう。

「あ、ひじりんだ〜」

 しかし、未来の前ではそれは通じない。まるで小学生の遊びで良くある戯れあいで『バリアー』と言って攻撃を防いだとしても『そんなの知りません、関係ないです』と言って相手の防御を勝手に自分ルールで無効化する為、最初は険悪な態度を取っていた六道も心が折れ始めて来たのか、流石に最近では未来の馬鹿みたいな発言などを普通に流す事を覚えた。

「未来先輩。取り敢えず、その『ひじりん』と呼ぶのだけは辞めてくれないか?」

「なんで〜? だって、ひじりんはひじりんだよ〜?」

「……」

 あの六道も、未来の前ではあっという間に黙り口になってしまった。全く、誰に対しても振れない未来にはついつい脱帽をしてしまう。

 そんな事を思いながら、ここにも僕の色は一つも無く、いつものようにただ無色透明で漂うだけだった。

 

 ○

 

 雨が降り出しそうだ。

 そんな空模様も、先ほどとは変わって灰色に染まった空がドス黒く広がって行く。はあーっと吐き出す白息は、吸い込まれる様に天高く空の方へと消えていった。

 未来に荷物を渡した事で目標は達成し、これ以上学校に留まる理由が何一つ無い僕は、学校を後にして帰路を辿っている。

 また同じ所で脚が止まった。そして自然と下の方に見える河川敷の野球グラウンドに目を向けてみた。先ほどの試合は一回表の攻撃も今では五回の裏まで進んでいたようで、点数は三対二と、帝王実業中学が一点のリードしている形だ。

 黒い帽子が連なって守備に着き、マウンドでは金髪の青年が右腕を振り抜いた。

 ―――スパン!!

「ストライクッ! バッターアウト!」

 剛球が橙色のヘルメットのバッターの横を通り抜ける。スイングする間も無くバッターは三振に打ち取られて、スリーアウトとなり、守交代になった。

 ―――すると、次の光景に僕は、思わず両の目を見開いてしまう。

 先ほど僕に勢い良く突っ込み倒した、あの水色の髪をした女の子がマウンドへと上がっていたのだ。もしかすると……あの女の子がピッチャー?

 なんと無く意外だった。

 女の子が野球をやる事は、未来や六道など身近な人間がやっている。

 だが、未来はサード、六道はキャッチャーを守ってる為、基本的には女の子は野手だと言う思い込みをしていた。だから、なんと無く意外と思ってしまった訳だ。

「……」

 暫く見てみるとしよう。勝手に僕の脳内はそう処理され、自然とその場に腰を下ろした。

 女の子は左利き、横から腕を振り抜くと言う癖のある妙な投げ方をする。なんだろうかあの投げ方は、横投げ……? スリークォーターと言われてる投げ方だ。実際に見るのは初めてだが……。

 野球の専門用語はまだ、覚えている。勿論其れなりには知っているし、毎日、未来に嫌な程聞かされている。

 先ほどの金髪の青年よりボールのスピードはそれ程速くは感じないけど、コントロールが良いのだろう。キャッチャーが一球、一球ミットの位置を変えても綺麗にそこに収まっている様だ。

「あん? おい、見てみろよ。中坊の練習試合がやってるぜ?」

「本当でやんす。え〜と、どことどこでやんすか? 聖タチバナ中等部と……帝王実業中学でやんすか!!」

 腰を下ろし、何となく試合観戦している僕の横を二人の青年が通り過ぎて足を止めた。野球のユニフォームを纏い、ピンク色の変わったアンダーシャツが目に入り、胸元には「R」と施されていた。

 恐らく、恋恋高校の頭文字から取ったのだろう。

 その一人は金に染めた髪、吊り上がった目、見るからにして『人生で関わりたくない人間』第一位の容姿の人物と、もう一人は……ここは年号一つ昔の人なのだろうか、時代に相応しいとは到底思えないけど、瓶底眼鏡と刈り上げた頭は、妙にベストマッチだと思った。語尾に「やんす」とは中々に珍しい。

 僕の心の声は、二人には聞こえるはずもなく会話は進む。

「聖タチバナ中等部って、ひょっとするとアレか? 聖タチバナ学園と同じあの金持ちの橘財閥が絡んでる・・・・・・」

「そうでやんす。それよりも帝王実業中学は、去年の全中の優勝校でやんすよ!」

「あん? そうなのか?」

「……星くん、知らないでやんすか?」

「知る訳ねェだろうがッ!! 言っておくが、俺はな、中坊なんぞに興味はねェンだ! 分かったか矢部ェ!」

「やっぱり、年上が一番でやんすか?」

「ああ、そうだな! 出来れば加藤先生みたいな人が一番いい気もするが・・・・・・しかし、同い年のはるかさんも捨てがたい・・・・・・。悩みどころだな」

「分かるでやんす!」

「おお、分かってくれるか!! 矢部ェーー!!!」

「・・・・・・」

 この二人は一体、何の話をしてるのだろう。

 全く関係の無い話をしているような気もするが……。

「星、矢部くん。こんな所でサボりか?」

「ゲッ!!!」

「あ、小波くん」

「なんだ、なんだ? テメェ、まさか俺達がサボってると思ってンじゃあねェだろうな!!」

「ほう。それじゃ脚を止めて、仲良く話をしてるの事がサボりじゃ無いのなら、一体なんだって言うんだ?」

「えっと……それは」

「今はランニングの途中だろ?」

 そこにもう一人、やや長めの黒色の髪、彼方此方にくるりと跳ねる癖毛、キリッとしている顔付きだが、何処となく優しさが感じる。

 僕は、この人を知っている気がする。

 あ……確か父さんの会社に来ていた人だ。

「こんな所でサボってると、また早川が怒るぞ?」

「ひっ! それは勘弁してほしいでやんす」

「分かったよ! 今のは小休憩だ!! ったく、さっさと行けば良いんだろ?」

 矢部さんと星さんの二人は、溜息を吐くと河川敷の奥の方へと走り去って見えなくなった。

 

「君って、確か明日光だよな?」

「……」

 すると、残っていた小波さんが僕の名前を呼ぶ。

 僕が覚えていた様に、彼もまた僕の事を覚えていた。

「野球、好きなのか?」

「……」

 隣に立ち、彼はまっすぐ河川敷のグラウンドの方へと見を向けたまま、そう問いを投げた。

 返答は既に決まっていた。

 僕は『もう』野球は好きじゃない。

「君の知り合いから聞いたよ。以前は野球をやっていたんだろ? 友達が引っ越ししてそれ以来、野球から遠ざかってるらしいじゃないか」

「……」

 ブワッと風が吹いた。

 彼の黒髪がふわりと撫でられた様に靡く。

 彼は、少しハニカムとそのまま後を去っていった。

 

 忘れもしない、寒い冬の日だ。

 僕は小波球太と、『水色の髪の女の子』と出会った。

 この日が、僕の人生の中での重要な分岐点であり、今後の僕の人生に、有りもしない程、目まぐるしく世界が変わるとは、この時の僕は全く思いもしなかった。

「……寒い」



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第35話 諦めた夢をもう一度追いかけろ!

 小波球太―――高校最後の年、到来!
 春の夢は……いつしか訪ずれる事の予兆?


 暑い日差しがジリジリと肌を刺す。

 滝のように吹き出る汗が頬から顎に伝いって垂れ落ちると、足元の土が一瞬だけその水滴は濡れて、その跡はあっと言う間に消えた。

 俺は、野球グラウンドのマウンドに立っていた。

 ブラスバンドの演奏が両耳に流れる。

 右側のスタンドは青一色に染まり、反対の左側のスタンドは桃色一色に染まっていた。

 後ろを振り返る。

 対戦相手は言わずもがな。

 あかつき大附属高校だ。

 ゲームは最終回を迎える九回表。スコアボードに目を向けると、五対三で恋恋高校が二点差を付けられて負けている。ツーアウトを示す赤い色の蛍光ランプが灯り、ランナーは満塁、絶対のピンチを迎えていた。

 そして、運悪くもバッターボックスに立ったのは、四番打者の猪狩だった。

 湧き上がる歓声を他所に俺はジッと左打席に構える猪狩を強く睨んだ。不敵な笑みは、勝利を確信したかの様な余裕が見える。

 だが、俺は悔しいどころか、逆に燃えた。

 

 ―――猪狩を捩じ伏せたい。

 

 こんなピンチの場面で猪狩と戦えるなら、俺は臆することなく投げる事が出来る。

 嗚呼、投げてやるさ。

 そして、俺はギュッとボールを握りしめ、振りかぶり、渾身のストレートを投げる所で、その景色はテレビのチャンネルを変えたかのように消えてしまった。

 

 

 

 

「なんだ……夢か」

 頬を柔らかくて暖かい何かが触れて、ふと目を開ける。どうやら部屋の窓が空いていたようで風が頬を撫でた様だ。

 体を起き上がらせる。そこに映ったのは、野球グラウンドのマウンドの上ではなく、八畳程の薄暗い部屋、俺の部屋だった。

 白のカーテンの僅かな隙間から漏れ行く光で既に外は朝だと気付き俺は、そろそろ起きねばと思い、重たくて窮屈な欠伸を漏らした。

 寝起きで冴えない頭を振る。振ることには特に理由は無い。

 ふと、辺りを見渡した。何も無い。そこにあるのは、机とテーブルに野球道具一式だけだった。

 ベットから身を乗り出して、スリッパに履き替える。机の前まで歩いて、机の上に飾られている沢山の写真の内の一枚を手に取って、俺は少し笑った。

 リトルリーグ時代、恐らく小学六年生頃だろう。何とも憎たらしい自分の顔を見て笑ってしまった。右隣には春海、左隣には栗原、二人の間に挟まれて俺は肩を抱かれている。

 懐かしく気持ちにさせられたが、もう一枚の写真に触れる。

 それは中学時代の写真だった。

 長い前髪は茶髪にそまり、ややつり目の青い瞳がスッと視界に入る。一見、整った顔立ちは好青年に見えなくも無いがコイツは、生意気で図々しくもあり、頑固でもあり、口が煩く我儘でもあり、天才でもある。

 そう―――猪狩守だ。

 昨年の秋季大会で優勝投手になり、昨月行われた春の甲子園……センバツ大会の決勝戦まで勝ち上がり、アンドロメダ高校の大西との投手戦となる接戦の中見事に勝利を収め、頑張地方では歴代、あかつき大附属野球部発足から初となるセンバツ優勝を果たした。自前のコントロール、スタミナ、おまけに『ライジングショット』と言うウイニングボールを放り投げる猪狩は、既に高校生レベルを遥かに上回り、マスコミ達からはプロレベルと認められた。

 恐らく今年の十月に行われるドラフト会議では、相当のプロ球団が猪狩を指名するだろう。各球団のスカウト達は既に猪狩をマークしているとの噂も囁かれている。

 そんな事はさて置き、今、手に持ったこの写真は、恐らく中学二年の時、全中を決めた決勝戦の後に撮った写真だろう。俺は肩と肘にアイシングを巻いて居た。随分懐かしい気持ちになるのは、きっとあれからもう二年半近くの年月が過ぎているからだ。

 写真を置き、カーテンを開ける。レースカーテンを開け外の光が薄暗い部屋に差し込むと俺は言葉を飲んだ。窓の景色には、まるで漫画の一コマの様な桜吹雪が空全体を彩り、街一体を鮮やかなピンク色と白色で舞っていた。

 年が明け、正月のおみくじは「大凶」と、いきなり年始に出鼻を挫かれる想いをしたが、そんな事はどうでもいいだろう。豪雪極寒の厳しい冬は過ぎ去り、季節は新しい春を迎えた。

 つい先日の四月三日に俺は十八歳になり、今日で高校三年生となった。そして、高校最後の年を遂に迎えることになると共に今まで以上に騒がしい年になるとは知らずに俺は、そのまま部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〜〜実況パワフルプロ野球〜〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――Once Again,Chase The Dream You Gave Up―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行くぞ! 矢部ェ!!」

 活気に満ち溢れた星の掛け声の後に、一つの金属音が心地良く響いた。

 今日の授業は、一年生の入学式という事で午前中で学校は終わり、今は守備の練習中だ。

 星がノッカーを務める、いつもと変わらない野球部の練習風景。

「オーライでやんす!」

 センターを守る矢部くんもグローブをはめる左手を高く上げて合図を送るが……ノッカーを務めるのは星だ。星のノックだ。当然、矢部くんの頭を遥かに超えフェンスの向こう側へと消えて行く。

 呆れるのを通り越して笑いが出そうだ。だから言っただろ? これがいつもと変わらない練習風景なのだ。

「テメェ! 矢部ェ! 諦めて脚を止めるんじゃあねえよ! フェンス登ってでも止めろ!」

「そんなの無理でやんす!」

 守備練習を終えて一休み。星と矢部くんが先ほどのノックについて討論を交える。

「大体、星くん! ノックが下手くそ過ぎるでやんすよ! いつもいつも、ホームランの見送る練習なんかしてもこっちには何一つ身につかないでやんす!」

「うっせえな! 去年の夏の大会に雄二が俺のホームランボール取ったのを忘れたか? お前なら取れるはずだ、多分! 根拠はない!」

「随分、適当でやんすね……」

「お疲れ様です。それでは皆さん、小まめに水分補給して下さいね」

 そこに、マネージャーを務める七瀬が手際よくスポーツドリンクを人数分のコップに注いでくれていた様で、それを一人、一人ずつ手渡してくれた。

「お、はるかさん! 流石です! 今日も美しくて何よりです」

「ありがとうございます。星さん。でも、何も出ませんよ?」

「丁度喉が渇いていたところだったでやんす」

 それぞれがそれぞれの紙コップに手を差し伸べて口に流し込む。普通なら市販のスポーツドリンクの粉を水で割って作るではあるが、これは七瀬特有の手作りドリンクなのだ。中には砂糖、塩、レモン汁が入っている。しかし、このドリンクには七瀬の拘りぬいたスーパーなどでは手に入る事の出来ない、とても高級な蜂蜜も含まれていて、部員たちには大変好評なのだ。

 それを踏まえて、七瀬もマネージャー業をしっかりこなしてくれている。正直言って最初は不安だったけれども、今こうして見れば、七瀬にはいつも支えられていて、時には頼れる立派なマネージャーになってくれた。

「はるか。そのドリンク、ボクにも一つ頂戴」

 俺の間を黄緑色髪が靡く。靡いた跡から、ほんのりと香る女の子特有の甘い香りがドキッと胸を鳴らす。早川あおいだ。

 透き通る唇がプルンとコップに触れる。それを見てしまったら最後、鳴り響く胸の音は更に速度を上げる。

 

 ―――早川は俺のことが好き。

 ―――だけど、俺も早川が好き。

 

 両想いだが俺は約束の為、本当の想いは口にはしていないし、それを早川もあの日から理解してくれている。

「どうだ? 早川。最近は変化球の練習は上手く行ってるのか?」

 何気無い会話を投げかける。

「うーん。年明けから調子は良いんだけど…まだ掴めてないって言うのが本音かな? 高速シンカー自体は精度は上がってるけど、コレと言ってしっくり来ないって感じだね」

「そうか。ま、無理は禁物だからな」

「うん。それは分かってるよ」

 心配してくれてありがとう、と言わんばかりの笑顔で俺を見る。早川の頬は少し赤く染まっていた。恐らく俺も頬が赤くなっているのだろうな……。

「そう言えば、今日は新入部員が来る日じゃねえのか?」

「お……おっ! つ、ついにこの赤坂紡に待望の後輩が出来る訳ッスよね! 超ーー楽しみっス!」

 赤坂が元気発剌に喜びの声を上げる。隣に冷静沈着ながらもどこか喜びを隠しきれていない椎名も口元をニヤリとさせていた。

 そんな顔付きを見逃さずに星が問う。

「お前も嬉しいんだろ? な? 椎名」

「う……。まあ、嬉しいと言えば嬉しいです」

「俺っちも嬉しい! 椎名や赤坂より楽しみでここ三日三晩寝れない程です!」

「龍舞……そりゃどう考えても嘘だろ?」

 赤坂が苦笑いを浮かべてツッコミを入れた。

「嘘です」

 御影の冗談でドッと笑いが起きる。相変わらず賑やかで仲が良いと、学校中でも評判は高い方にある。

 そして、俺はボソッと呟いた。

「それより、新入部員がもし入って来るとなると……更にレギュラー争いは過激さを増すな」

 再来週に行われる春季大会も含めて、恋恋高校野球部の新体制のポジション決めもやらねばと頭を抱えた。

 勿論、俺たちはキチンと春季大会に向けての調整をして来た。秋季大会は、早川の問題の為に自粛となっていたから、俺達はかなりの鬱憤が溜まっている。それをこの大会で噴出させると意気込んでいるのだ。

 因みに春季大会大会のシード校は決まっている。先ずはセンバツ出場をし、優勝を果たしたあかつき大附属高校、秋季大会にて準優勝となった太郎丸龍聖がいる山の宮高校、そして、パワフル高校ときらめき高校だった。

 かなり実力のある高校がシード校として各ブロックを陣取っている。出来ればあかつき大附属と戦いし、太郎丸との戦いも楽しみだし、春海との戦いも捨てがたいが、欲は言えないなでその時が来るのを楽しみに待つとしよう。

「それでよぉ? 小波! 対戦相手はいつ決まるんだ?」

「明日だ。放課後、加藤先生と俺とマネージャーの七瀬が抽選会場に行く事になってる」

「成る程な。そうだ、小波。俺は流星高校と戦いてえからな?」

「そうか。言っておくけど、対戦相手は俺のくじ運次第だからな? 野沢達と戦えなくても文句言うんじゃあねえぞ?」

「分かってるって、何処で当たろうともキャプテンのお前を信じて、俺たちは勝手に練習しておくとするぜ」

「またノックで遠くに飛ばすのだけは辞めて欲しいでやんすけどね」

「―――ッ!! なんだと!? このクソメガネが!」

 また始まったと、皆んなは呆れ顔を浮かべて二人のくだらないやり取りを眺める。そろそろ一休みを終わりにして、打撃練習に移ろうとした時だった。滅多に練習に顔を見せない、顧問を務める加藤先生が十人程の生徒を連れて野球グラウンドに現れた。

 

 ○

 

 恋恋高校の野球部に新しく入部した新入生は十人だった。その中でも三人程、気になる選手が居た。

 一人は、早田翔太。

 希望ポジションは、チームとして待ちに待ったピッチャーだ。早川だけじゃ厳しい部分があるという事は否めなかったが、中学時代にリリーフも経験していると言う事は何よりも頼りになると思った。

 数球ほど投球練習を見させて貰った。速球は百三十キロ行くかどうかのスピードのボールを放り投げるが、決め球であるスローカーブとのコンビネーションでストレートを速球以上の速さ見せる上手い技が印象的だった。

 二人目は、京町一樹。

 内野全般を守れる、と言うアピールをしていた。正直言えば守備の面ではかなり弱さを感じる為、この春季大会では積極的に守備を固めさせたい。

 三人目は、里原悠。

 これといって目立つ特徴は無いが、肩の強さには目を惹かれる物があった。希望ポジションはキャッチャーな為、星と椎名に負けない為にアピールしたいと熱く語っていた。

 こうして、俺たちの恋恋高校野球部員は総勢で十六人に増えた訳だが……これからどうポジションを決めていくか、また打撃面や守備面の要所要所の起用など……キャプテンとしてはかなりの悩みどころでもある。

 カランと、スイングドアに括り付けられた鈴が音を立てる。注文をした温かい烏龍茶を口に啜り、振り向くと、そこには親友である高柳春海が苦笑いを浮かべて立っていた。

「遅いぞ、春海」

「お前が早いんだろう。球太」

 カウンター席に座り、隣の席に座るように指示をすると、春海は何も言わずに隣に腰を下ろした。

「何か頼むか? 叔母さんの奢りだってよ」

「いや・・・・・・俺は遠慮しておくよ。ここは俺の家だから・・・・・・きっと後で請求されるか小遣いを減らされる、のどっちかってことくらい目に見えてる」

 口角を吊り上げて笑みを浮かべる。仕方なく俺は烏龍茶を飲み干してた。

「ははは、そうか。取り敢えず、春の大会は出場出来る事になってるけど、どうだ? 春海達のチームは」

「まあ、調子は良い方だね。秋季大会ではあかつき大附属に圧倒的な実力差を目の当たりにされたけど……次に戦う時はやり返すさ」

 その言葉は、自身に満ち溢れていた。

 新体制で挑んだ秋季大会、準決勝まで勝ち進んだ春海率いるきらめき高校だが、あかつき大附属にコールド負けを喫してしまった。一時期はダークホースとまで言われたが、あの結果では相当悔しい筈だ。野球センスが高い春海の性格からして、負けてからかなりの練習を重ねて来たに違いない。今のやり返すという言葉、本当にやってしまいかねない辺り、流石と言うべきか。

「ふーん。それより千波さんは元気か?」

「ああ、姉さんなら元気だよ。今年から目良先輩と館野先輩と一緒にイレブン工科大学に進学したからね」

「ほう。元気そうなら良いけど、また野球部のマネージャーやってんのか?」

「まあね。でもイレブン工科大学は、サッカー部とグラウンド兼用らしく大変だって聞いてるよ……。何しろグラウンドが狭いらしく二ヶ月に一回、サッカー部とじゃんけんでグラウンドの割合を決めているらしいんだ」

「そりゃあ、なんとも大変だな……」

 千波さんには悪いけど、勝手に先入観で決めて申し訳無いが、個人的に絶対進学したくない学校のリストに入れて置くとしよう。

「なぁ、球太」

 改まって春海が名前を呼ぶ。

くふざけた雰囲気とは違い、少し緊張感が伝わるトーンだった。

「どうした?」

「俺たち、もう三年だろ? 進学とかこれからの事は、お前は決めてあるのか?」

 進学……。

 これからの事……。

 俺は、春海に言われて初めて気付いた。

 もう今年が最後だという事は当然分かっていたが、その後のことなど考えても居なかった。

「・・・・・・まだかな? 俺は今が精一杯で、これからどうするか決めて無い」

「球太は、プロ野球選手を目指すんだろ?」

「ああ。プロ野球選手は、昔からの夢だったからな。それは変わらないさ。でも……」

「でも?」

「今は、早川とか彼奴らと行ける所まで野球がしたい。出来れば甲子園……何が起こったとしても、俺は彼奴らに甲子園の土を踏ませたい。絶対に、今はそれが夢というか……ま、そうなんだろうな」

 クスッと隣で春海が笑った。

 おいおい、俺は可笑しい事は言ったつもりはないぞ、と少し目を細めた。

「いや、ごめんよ。余りにも球太らしい答えなもんで……つい、笑ってしまったよ」

「らいしいってな……おい、春海。そう言うお前はどうするんだ? お前こそ、進路は決めてあるのかよ?」

「決めてるさ、俺は大学に進学かな? 希望はイレブン工科大学で勿論、野球は続けるよ。まぁ、俺には目良先輩を神宮の舞台で胴上げさせたいって気持ちがあるからね」

 去年の夏で敗北した春海は、引退した目良さんと館野さんを甲子園の舞台に連れて行かせられなかった悔いが未だに残ってる様だ。それ以降、かなり自分を追い込んで練習に打ち込んでいるということをついさっき、春海の母である叔母さんから聞いていた。

「そうか。お前も無理すんなよ?」

「その言葉はそっくりお前に返すよ、球太。それに、甲子園に行くのは俺たちだ」

 ニヤリと笑う春海。

 そうだな……。

 そうだよな。高校野球をしてる奴なら誰だって目指す場所が「甲子園」と言う舞台だ。譲れないのが当たり前で、それは勿論、春海も俺も他の奴らもそうだ。

「当たるかどうかまだ分からねえけど、当たった時は宜しく頼むぜ?」

「ああ、分かってるよ。球太と戦えるのを楽しみにしてるさ」

 春海とは、きっと何処かで戦うはず。何故だかそんな予感がした。その時はきっとお互いベスト尽くした熱い戦いになると、その時に感じた。

 

 

 ○

 

 翌日、透き通る生暖かい春の風が吹き付けて程良い眠気を誘う中、俺たちは抽選会場、元い頑張中央体育館に脚を運んでいた。

 これから行われるのは勿論、春季大会の抽選だ。この大会を制すれば夏の大会ではリード権を付与され、優位に立つ事が出来る。

「それにしても……凄い人集りね。オマケに視線もこっちに集中してるわね?」

 加藤先生が面倒くさげに呟く。その大きな主張の激しいバストを見せびらかすのような過激な露出をしている白衣が、より一層加藤先生に視線を釘付けにしている事を恰も知ったような口ぶりで「最近の若い子は、お盛んね」とポツリと呟いて笑い、隣に並んでいた七瀬はポッと顔を真っ赤に染めて手で覆い隠した。

 中に入りロビーに辿り着く、そこには沢山の人達がその場に居た。先ず目に入ったのは、きらめき高校の春海だったが、昨日会ったばかりだったし声は掛けなかった。

 春海を筆頭に、俊足巧打を得意とする流星高校の野沢雄二、スライダーを極めたオリジナル変化球である真魔球を放り投げるエースのときめき青春高校の青葉春人、走攻守と三拍子揃った驚異的センスの持ち主であるパワフル高校の戸井鉄男、アンダースローからズレのないコントロールを兼ね備えた球八高校の矢中智紀、去年の夏の大会の覇者であり、甲子園でも自前の速球で相手をねじ伏せた左腕・太郎丸龍聖の姿など、錚々たるメンバーが集まっていた。

 その中でもやはり、群を抜いて一際目立つ人物が一人、俺を見つけると不敵な笑みを零す男が、其処に立っていた――猪狩だ。

「久しぶりだな、小波」

 猪狩は近寄って声を掛けて来た。青いまっすぐな瞳が俺を強く睨んだ。

「待たせたな。ようやくお前に挑める舞台は揃えたぜ、猪狩」

「小波。僕は遂に君の「三種のストレート」に勝るウイニングショットを物にした。断言しよう、僕の「ライジングショット」は君には打てない、とね」

「言ってくれるじゃあねえか。もし打たれても泣きべそなんか見せんなよな?」

「それは打ってから言うんだな。まぁ、凡人の君には勝ち上がる事を頭に入れておいた方が無難だがな」

 クルリと踵を返し、高笑いした猪狩はそのまま歩いていく。相変わらず憎たらしさは未だ健在だ。

 猪狩との再会から、ほんの数十分の事だ。

 俺たち恋恋高校の第一回戦の相手は、太刀川広巳率いる聖ジャスミン高校に決まった。

 

 そして、遂に幕を開けた春の大会……。

 そして、俺の野球人生の中で最も波乱に満ち溢れた年になる。

 




 三十五話、遂にラストイヤーになりました。
 今回の話のタイトル「諦めた夢をもう一度追いかけろ!」なんですが……これは大雑把ですが、英語だと「Once Again,Chase The Dream You Gave Up」になる訳ですね。
 と、いう訳でこの作品のタイトルは頭文字を取ったものなのです。

 ここからが長いです……。まだ書きたいのが沸いて来てるので、取り敢えず、小波球太の今後を楽しみにして貰いつつ、先ずは春季大会を書いていくので、宜しくです!


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第36話 VS聖ジャスミン高校

 俺たち恋恋高校の春の大会、第一回戦の相手は聖ジャスミン高校に決まった。元女子高から共学校に変わった両校、そして、去年の秋に初めて出会ったりと何かしらの縁があるのかは分からないが、兎に角、油断は禁物だ。

 抽選会の後、真っ直ぐ学校に戻った俺たちは部員全員を部室に集め、聖ジャスミン高校との戦いに備えてのミーティングを行った。

「しかし、驚いたぜ。矢部に似た女と小波がいつの間にか会っていたとはよ〜。オマケに初っ端から一回戦でぶつかるってのはどういうこった?」

「まあ、俺も正直ビックリしたさ。でも、決まった以上はやるしかねえだろ」

「分かってるって、それよりも俺はちっと気になる事があるぜ! 元女子高っていうとやっぱり女だけなんだろ? これを気に『あ! あの恋恋高校のキャッチャーカッコ良くない? 彼女とか居るのかな? 居なかったら私、立候補しちゃおう〜』とか! ワンチャンあるかも!?」

「それは……ないな」

「うん。それは、ないね」

「ないでやんす。って言うか、星くんの話が長いでやんす。もっと簡潔に説明してほしいでやんす」

 星の戯言に対して俺と早川、矢部くんは速攻にツッコミを入れた。女の子にモテたくてモテたくて今でも可愛い女の子がすれ違うならば直ぐさま飛び付きたくなる程の衝動を抑え、この二年間誰にも相手にされず、餓え続け、我慢していた星ならこうなる事は予想出来ていた。

「う、うっせェな! なんだよ、テメェら! この俺を全否定すんじゃあねェよ! 少しくらい俺に夢を見させてくれよッ!!!」

「はいはい、それで? 球太くん。聖ジャスミン高校の対策はしてあるの?」

 早川が呆れながら星を宥め、俺に質問を問いかける。

「うぐ……」

 おいおい、なんだ星……。

 その無様な顔は、下唇を噛み締めて思いっきり涙目でコッチを見るなよな。俺より矢部くんの方を見てろ……。

「球太くん?」

「ん? ああ、勿論だ。既に昨日、御影と京町を偵察に行かせておいた」

 そもそも聖ジャスミン高校自体、今大会が初参加な為に勿論、大会には出ていない。試合結果などの情報は限りなくゼロではあるが、二人のある程度の練習の偵察や生徒の聞き込みなどの情報は、僅かながらだが入手してある。

 先ず、エースピッチャーを務めるのは、みんなに『ヒロ』と言う愛称で呼ばれていた、背丈の高く日に焼けた褐色肌をしていた太刀川広巳だ。あの時、手を握った時に感じたあの違和感とは、恐らく手に出来ていた豆は、バットを何百、何千、指先に出来ていた物は何千とボールを投げて来た謂わば努力の結晶だと今はハッキリと分かる。

 そして、その相方を務めるのがあの日、ミゾットスポーツに居なかったら小鷹美麗がマスクを被る。偵察をしに行った二人から話を聞いたのだが、守備練習も打撃練習もしないで一人、グラウンドの隅っこで変な踊りに没頭していたらしく、それ程データは採取出来なかった様だった。

 次に、二塁を任されている星川ほむらだ。彼女はなんと……古味刈や毛利同様、中学まで野球経験の無い初心者だと言う。だが、元から野球は好きだったらしいが、野球好きが高じて選手としてやる様になったと言う情報がある。

 聖ジャスミン高校のクリーンナップの一角を任されているのが外野手兼一塁手を守る『ちーちゃん』こと、美藤千尋。ミート打ちに最も適したアベレージヒッターであり、非力にしてヒット性などで塁を稼ぎ点を取ると言う聖ジャスミン高校らしいバッターだ。

 最後の主要メンバーは、矢部くんにそっくりな矢部田さんだ。矢部くんの持ち味である脚の速さは矢部くんの方が軍配が上がっているが、守備面は矢部田さんの方が上手だと言う。

 御影や京町のお陰で全くノーデータとは言えないが、此処まで来たら、もう直接ぶつかってデータを得るしか無い。

 春の大会。夏の大会に向けて、俺たちはただただ進むだけなんだ。

 

 

 

 ――――――。

 

 

 そして、俺たちは聖ジャスミンとの試合の日を迎える。あの日、夏の大会以来の久しぶりの大会で、皆は少し緊張したのか、いつもよりも顔が硬かった。

「よし! そろそろ俺たちの大事な復帰第一戦だ。その前にオーダーの発表だ、いいな?」

「おう!」

 

 後攻・恋恋高校先発オーダー

 

 一番 センター 矢部明雄

 

 二番 ショート 赤坂紡

 

 三番 キャッチャー 星雄大

 

 四番 ファースト 小波球太

 

 五番 レフト 山吹亮平

 

 六番 セカンド 海野浩太

 

 七番 ライト  御影龍舞

 

 八番 サード 毛利靖彦

 

 九番 ピッチャー 早川あおい

 

 ―――

 ――

 ―。

 これが今の俺たちのベストオーダーだ。と言っても、それぞれ代打や代走、リリーフとして使って行けるところは使っていこうと思っている、此処にいる皆がベストオーダーだ。

 

 

先攻・聖ジャスミン高校先攻オーダー

 

 一番 センター 矢部田亜希子

 

 二番 セカンド 星川ほむら

 

 三番 ピッチャー 太刀川広巳

 

 四番 ショート 八宝乙女(はっぽうおとめ)

 

 五番 ファースト 美藤千尋

 

 六番 キャッチャー 小鷹美麗

 

 七番 サード 森永麻理恵

 

 八番 レフト リーアム楠・貫人

 

 九番 ライト 安坂玲

 

「本当に全員が女の子でやんすか?」

 対する聖ジャスミン高校のオーダー表を覗き込んで、矢部くんが驚きながら言う。

「いや、全員じゃないよ。八番打者の楠って居るだろ? そいつは聖ジャスミン高校野球部で唯一の男だ」

「あン? なんでテメェが、そんな事を知ってるんだ? 御影達のデータじゃ、そんな情報は無かったンだろ?」と、星が尋ねる。

「ああ、ついさっきの事さ。主将同士でオーダーのやり取りをしに行った時、そいつが居たからな。俺はてっきり太刀川がキャプテンだと思い込んでだけど、どうやら違ったらしい」

 それもそうだ。あの日、抽選会場に居たのは太刀川だったからのだから……。まあ、当日風邪で寝込んでいて代わりに太刀川が行ったなんて、俺たちには知る術もない訳だ。

「って、オイオイ……。こいつ一人だけ? あの女だけの野球部にこいつ一人だけだとッ!? それって!! つまり!! 俺が求めてた超ハーレム状態じゃあねェーーーーかよッ!!!」

 妬み、悲しみ、憎しみ、様々な感情が一気に顔に現れて、それは何とも残念で何も言えない複雑な表情を浮かべた星、大声で叫びたい声を必死に殺して「羨ましい」と小さなトーンでポツリと一言だけ呟いた。

「まぁまぁ、星の事は置いといてさ。なあ、皆。この四番打者の八宝乙女ってどこかで聞いたこと無いか?」

 何か知っているが、思い出せない海野がオーダー表を細く目を凝らして眺める。

「―――ッ!! 八宝?」海野の言葉を受けて凹んでいた星が、反応した。一体誰なんだ?

「それ、聞いたことあるよ。猪狩コンツェルンや橘財閥と競合してる大企業だったね。今は確か頑張市の拡大計画って言うのに乗り出してるってこの間のニュースで見たよ」

 驚く事に早川もその名前を知っていた。

「そうでやんすよ!! 八宝乙女ちゃんは八宝カンパニー次期社長にして跡取りの嬢様!! 八月八日生まれのA型でやんす! 好きな食べ物はローストビーフで、学校では一年時から生徒会長を努め上げ、更には校内人気を独占してる美人さんでやんす!」

 えへん、と威張る矢部くんだが、まるでアイドルのファンみたいに熱心に語っていた。

 血液型? 好きな食べ物? どうしてそこまでの情報を持っているのかは甚だ疑問ではあるし、そもそも全く野球から離脱してる。試合前だぞ、と注意しようかと思ったが、さっきの緊張感はいい感じに解れて来ているようで此処は我慢することにした。

「ちょっと……ちょっと待てーーーー!! 矢部ェ!!」

 関係無い話で、遂に星が怒鳴る。

「なんでテメェが俺より八宝乙女ちゃんの情報を持ってやがる! 好きな食べ物がローストビーフだって? そんな情報何処から入手しやがった!? 俺は初耳だぞッ!!」

 ――違かった!! それにどうでも良い事に対して怒っていた!!

「ふふふ、星くん。オイラたちが生きている時代は何かと便利になってきたでやんすね。何かに頼る事は悪い事では無いでやんすが、オイラたちには脚があるでやんす。この脚は、何の為の脚でやんす? 星くんは、まだ開かなくてはならない扉を開いていないでやんす! いいでやんすか? この世の中には隅から隅まで探さなくちゃ見つからない情報なんて幾らでも落ちてるでやんすよッ!!!」

「クソォ―ッ!! 俺とした事が・・・・・・それは全くもって盲点だったぜ!」

 何故か悔しがって膝から崩れ落ち、ガツっと拳でベンチを殴りつける星だった。

 何だろう・・・無性に腹が立つのは。

「まぁ、馬鹿はほっといて、そろそろ試合だからしっかりして行こうね!」

 

 

 球審の合図で、両チームが一斉にホームベースへと駆け出して対面する。俺の目の前に立つのは、色白の肌に坊主では無いが、スッキリとした短髪をしていて、百九十センチはあるだろうか、見上げるほど背の高い、スラリとしたモデル体型のリーアム楠が、不敵な笑みを浮かべて俺を見つめている……のだが、その隣に立つ黄金色のオーラを一際輝きを放つ女性が、長くてくるりと反り返ったまつ毛に、紫の瞳でこちらを見つめている奴が一人いた―――それは八宝乙女だった。

「貴方が、猪狩守さんとエースを競い合っていた小波球太さんね?」

「ん? ああ。そうだ」

 矢部くんが言っていた血液型や好きな食べ物などの前情報が余りにもどうでも良くて、その癖多いため、少し変な目で見てしまう。

「初めまして、私の名前は八宝乙女。太刀川さんから貴方の事は伺ってますわ。色々、言いたい事が在りますが、今日は良い試合をしましょう」

「ああ、こちらこそ。よろしく」

 俺と八宝乙女は、手を交わした。俺の隣に立つ矢部くんが嫉妬に満ちた表情を浮かべているなんて事は言うまでも無いだろう。

 そして、聖ジャスミン高校との試合が幕を開けた。

 

 先攻は、聖ジャスミン高校だ。

 ウグイス嬢のアナウスで、一番打者の矢部田さんが呼ばれて右打席に立つ。

 春の陽気が、グラウンドを包み、マウンドに立つ早川はフッと息を吐いた。

 此処に立つまで、沢山の力添えが在り、再びこうしてみんなと一緒のユニフォームに袖を通す事が出来た。

 ―――負けない。

 きっと早川の中で、力強い感情が芽生えているのだ。彼女独特の投球フォーム、体を沈ませるアンダースローの低いリリースポイントから放たれた速球は、右打席に構える矢部田さんの胸元を抉るようなストレートが突き刺さる。

「ストライクーッ!!」

 百三十キロには満たないストレートだが、気持ちのこもった良いボールだ。

 球審のコールで、観客席は湧き上がる。初戦にして六千人弱、去年の夏に名を馳せた早川を一目見ようと一万人を収容出来る地方球場の内野席は殆ど埋め尽くされているとなると、その注目度は高いと認識せざる得ない。

 続く二球目は、変化球のカーブで巧く引っ掛けさせ、ショートを守る二年生の赤坂が丁寧に捌いて、ワンナウトとなった。

 一死となり、二番打者の川星ほむらが打席に構える。簡単にツーストライクに追い込む、星は釣り球を要求する。それに対してコクリと頷き、ど真ん中高めのボールゾーンへとストレートを放り込んだ。

 ―――ブン!!

「ストライクーッ! バッターアウトッ!」

 見事、釣られた川星は、悔しさを滲ませながらベンチへと引き上がっていく。此処まで球数はたったの五球、スタミナに難がある早川にとってはまずまずの出来だろう。

 そして、三番打者の太刀川がバッターボックスに悠々と入る。

 ―――その初球だ。

 アウトコースへと逃げるように落ちる低めのカーブを真芯で捉えて金属バットの快音を鳴らし、打球は高々と、勢いを付けて飛んで行ったが、レフトスタンドのファールゾーンへと切れて行った。

 危ない危ない。落ちるカーブを引っ掛けて内野ゴロを誘う星の目論見も危うくホームランって言う当たりだったが、太刀川広巳……なかなかパワーがある方じゃあねえか。これで星も迂闊に責められ無くなった訳だが、勿論、心配は無いよな? 早川。お前には、もう一つ得意球が在るんだからな。

 ワンストライクから際どいボール球を二球続けツーボールとなって、四球目、右打席に構える太刀川に対してインコースに切れ味が抜群の今度は、逆側へと落ちる高速シンカーを巧くアウトローへと捩込ませた。

「くっ!!」

 コツ、と鋭い変化にバットスイングは追いつく事は出来なかった。鈍い当たりは早川の前に転がり、スリーアウトチェンジ。初回に連打を浴びて失点する早川にとっては、良い立ち上がりだろう。

「ナイスピッチだぜ、早川!」

「調子が良いみたいで安心したでやんす!」

「球太くん、矢部くん。ありがとう!」

 初回を難なく切り抜いたエース早川とグローブでタッチを交わした。この調子で先制点を奪って流れに乗って行ければ良いと思いながらベンチまで駆け足で向かう。

「…………」

 しかし、何故か一人だけ浮かない顔をしてる奴がいた。

「どうしたんだ? 星」

「あん? いや……ちょっと、な」

「何かあったのか?」

「まさ一番打者の矢部に似た……えっと……」

「矢部田さんか?」

「そう、その矢部田って奴が試合前と言い、打席に立つ時と言い、俺の事をずっと見つめで来やがるんだ……何だか気色悪くてよ。テンションが下がっちまうぜ」

 

 

―――。

 

 

「ゴメンね、チャンスを作る事が出来なくて」

 聖ジャスミン高校のベンチでは、たった今ピッチャーゴロで倒れた太刀川が沈んだ表情で戻ってきた。プリムローズ・イエローカラーのトップに光沢が掛かるヘルメットを脱ぎ、ピンク色で色合いが濃いカメリアのツバが特徴のヘルメットを脱ぎ捨てながら、ため息を一つ。

「ドンマイ、ヒロ。次にデカイのを一発、期待するわ」

 相方を務めるキャッチャーの小鷹が自前の青い色のゴーグルを掛けながら声を掛けた。

「それにしても一発長打も期待できる太刀川がまさかのピッチャーゴロとは驚くネ」

 モグモグと口にチューインガムを含み、ピク〜〜っと風船を作るリーアム楠は、意地悪くニヤリと笑う。

「貫人くん、今のは早川さんが一枚上手だっただけ。でも、次は打つよ」

「なら、問題は無さそうだナ。さあ、次はオレ達の守備ダ。行こウ!」

 キャプテンのリーアム楠を先陣に、ナインたちは勢いよくグラウンドへと駆け出した。

「乙女ちゃんは行かないのかにゃん?」

 だが、その中でも一人悠々とその可憐な容姿を崩さぬように立ち上がった八宝乙女に声を掛けたのは、聖ジャスミン高校の野球部のマネージャーを務める猫塚かりんだった。

 「にゃん」と言う語尾の口調はややキャラ作り感は否め無く、それは独特的とでも言うべきだろう。口調に合わせたかのように雑貨店などで展示されていそうな白と茶色の二色の点模様がある猫の被り物を頭に被せていて、小さい背丈の割にはスタイルが良い。

「別に心配なさら無くてもよろしくてよ? 可愛い子猫ちゃん」

 不思議な空気。優しい雰囲気に包まれるその笑顔で、八宝乙女はニコッと笑みを浮かべながら猫塚の顎を撫でる。

「ん……あっ……ああ……んん」

 猫塚から甘い吐息が漏れると、その表情はまるで猫そのものだった。八宝乙女は、またしても笑みを浮かべ、そのままベンチに置いてあるグローブを取ってグラウンドへと歩いて行行くのを見つめながら「物足りないにゃん」とポツリと呟いた。

 

 一回裏、俺たちの攻撃を迎える。

 長身である太刀川の左腕から放り込まれる速球は「ズバンッ!」とキャッチャーミットの音を鳴ら程、勢いがあった。

『一番、センター矢部くん』のアナウンスと共に、ネクストバッターズサークルから脚を踏み出して矢部くんは右打席へと向かう。太刀川広巳がどんなピッチャーかは知らないがお手並み拝見と行こう。

 先ず初球。右打席に構える矢部くんの足元へと投げ込まれたクロスファイアは、百四十キロの速球でストライクを取った。

 そして、ど真ん中のストレートでツーストライクを奪い、三球目はインハイに気合いの籠ったストレートで三球三振に打ち取られた。

 続く赤坂だったが、赤坂も太刀川のノビのあるストレートで一度もバットに当てること無く三振に切られてしまった。

「チッ! どいつもこいつもバットに当てられねえのかよ。この俺が何の為にバットを持ってるのか教えてやるぜ」

「星、ボールをよく見て打つんだぞ?」

「あん? 小波、テメェ……馬鹿にするんじゃあねえよ! 俺の事を初心者とでも思ってるのか? 舐めんじゃあねえぞ?」

 吐き捨てるかの様に「行ってくるぜ!」と一言だけ言い、金属バットを振り回しながらバッターボックスへと歩いていく。

 

『三番、キャッチャー 星くん』

 

「よっしゃーッ!! 来やがれ!!」

 星は、声を張り上げ構える。

 左から放り込まれるストレートをタイミングを合わせて振り抜くが……空振り。ワンストライク。

 続く二球目。アウトコースのギリギリに百三十九キロのストレートを見送りツーストライクとなる。

「―――ッ!?」

 星が球審を見た。今の球はボールのコールが鳴っても可笑しくは無いが……太刀川のコントロールは中々良いのだろう。だがしかし、今のはキャッチャーである小鷹のキャッチングの巧さでカウントを取った。敢えてストライクかボールかのギリギリのコースに要求して、キャッチング時でミットの微調整したのだ。まだワンストライクだと言うのに強気のサインを出すと同時に、小鷹の意図をキッチリと理解して投げる太刀川とのコンビネーションがしっかり取れている為、このバッテリーから簡単にヒットは出せないだろうと密かに感じた。

 星に投じる三球目。

 明らかに手元が狂い、高めに浮いたボール球を星は脚を踏み込んでバットを振った。

「あっ……!!」

「ストライクッ!! バッターアウトッ!! チェンジ!!」

 俺たちの攻撃は、三者三振で終わった。

「星、ボールは良く見て打つんだぞ……」



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第37話 リーアム楠の狙い

 晴天にして野球日和。

 そんな日も既にお昼の十二時を回って時刻は十二時四十五分。

ㅤ此処、地方球場は、宛ら縁日の様な賑わいを見せていた。

 ある選手の名前を呼ぶ場内アナウンスの声と共に、両翼のスタンドには沢山の人だかりから声が湧き出ていた。

ㅤその中でも目立ったのが、各高校の偵察やらプロのスカウトの姿でもなければパワフルテレビのマスコミと両校の生徒では無い他校の学生が群を抜いて多かったのが驚きだ。

 いやはや、そんなにも彼女はこんなにも人集りを集める有名人なのか、と不思議に思ってしまうと同時に俺自身の野球以外の関心の無さにも我ながら呆れてしまった。

ㅤ艶やかな黄金色に輝く髪は誰よりも目立ち、このファーストの定位置に立っていてもハッキリと分かる。矢部くんや星が言っていた容姿端麗な姿は頷ける程、高校生とは思えないほど顔立ちであり、大人のような綺麗な女性だ。

 だがしかし、野球選手としての実力は未だに未知数な訳で彼女の容姿の美しさなどに目移りしている場合ではない……対する八宝乙女の初打席、お手並み拝見と行こうか。

 

ㅤ早川の準備投球が終わり、主審のプレイの合図で二回表の聖ジャスミン高校の攻撃が幕を開けた。

ㅤ八宝乙女が右打席で構える。

 周りの選手と比べると体型は女性らしい小柄だが、そのか弱そうな体型とは裏腹に意外にも引き締まった体格をしていた。

ㅤチームの四番打者を務めるバッターだから一応の一発長打の警戒は怠らず、内外野手共に、守備は定位置よりやや後退に守らせた。

ㅤ星がミットの下から早川に向けて初球のサインを出した。

ㅤまずは、インコース低めへのストレート。瞬時に早川が頷くと、星がミットを構える。

ㅤ早川の腕がゆったりと振りかぶられ。グイッと体を沈め、地面スレスレのリリースポイントからボールを放り投げた。

ㅤそして、最初の一球目がミットに届いた。

 

——バシッ!!!

 

「ストライクッーー!」

 

「ナイスピッチッ!!!」

ㅤ球がはしっている。

 今日は何時もよりも増して調子が良さそうだ。

ㅤ気持ちが篭っているのがナイン全員に分かるほど早川の想いはピッチングと同時にビシビシと伝わってくる。

 リードのやり甲斐があるのだろうか、不機嫌そうな顔でマスクを被る星も思わず嬉しくてニヤリと笑ってしまっている。

 

ㅤまずは幸先よくワンストライクを取った。

ㅤ星が早川に返球を返した時だった。

ㅤ星からの返球を受け取った早川を打席から見る送ると、八宝乙女は軽く小さな息を吐いた。

 

「なるほど……同じ女性ながらも良い球を放り投げますわね。でもこの程度なら大したモノでも無さそうですわね」と、小さく呟いた。

 

「……あン?」

ㅤ八宝乙女の横に立っていた星は、その言葉を耳にして眉間を寄せるが、気にも止めずに定位置に腰を据えて二球目も同じコースをストレートで要求する。

ㅤ早川は素直に頭を振り、モーションに入り腕を振りぬく。同じ軌跡を描き、同じ場所に、百二十キロ後半のストレートが飛び込んできた。

 

「ットライク!ㅤツー!!」

 

「…………」

ㅤ乙女は、又してもバットを振らずにただただ見送り簡単にツーストライクへと追い込んだ。

「乙女ちゃん!ㅤ今のはラッキーボールだにゃん!」

「んだ!ㅤ今のは打ちに行けばホームランボールだったべ!」

ㅤベンチから猫塚と矢部田の声が飛ぶ。

 

ㅤ確かに……。

 今の球は初球と同じ場所、普通のバッターなら見逃しせずにスイングして来るはずだ。

 でも何故にバットを振らなかったのだろうか、小波は構えながら不思議に思った。

 

ㅤ続く三球目、此処で早川の決め球の高速シンカーを要求し、更にボール球から急激に落ちてギリギリストライクゾーンへのアウトローにサインを出した。引っ掛けさせれば内野ゴロ、上手く行けば見逃し三振。星と早川バッテリーの攻めの攻撃だった。

ㅤしかし、それに動じる事など微塵もなく八宝は脚を強く踏み込んでいて、腰を回転させバットで掬い上げるように真芯で捉えた。

 

ㅤ——キィィン!!

 

 

「えッ!?」

「な……何!?ㅤ早川の高速シンカーを初見で打っただと!?」

ㅤ星と早川が同時に驚く。

ㅤ金属バット特有の快音を轟かせて打球は高々とレフト方向へと飛んでいくのを確認し、完璧に捉えた、と言わんばかりの余裕の顔つきで一塁ベースに向かってゆっくりと走っていく。

ㅤ一塁ベースを踏もうとした頃、ファーストを守り、腕を腰に当てて立っている小波に八宝乙女は声を掛けた。

「まずは一点。と、言ったところですわね。小波球太さん?」と、ニコッと笑う。

「ああ、そうだな。とりあえずはワンナウトと言ったところだろ?ㅤ八宝乙女」

ㅤ小波は、八宝の顔を見ながら口角を上げて笑った。

「なッ・・・・・・。可笑しい人ですわね。何を言っておりますの?ㅤ今のこの私の打球は、完璧にボールを捉え……」

「——アウトッ!」

「——なっ!!」

ㅤ塁審の甲高い声が響く。

ㅤ八宝はその声にビクッと身体を反応させ、足を止めた。そして、立ち止まったまま、視線をレフト方向へと変える。

ㅤ紫色の瞳の視線の先に捉えたのは、レフトを守る山吹がフェンスギリギリで打球を捕球していた所だった。

「まさか・・・・・・。今の打球・・・・・・と、届かなかったとでも?ㅤいや、そんなはずはなくてよッ!!ㅤ確かに今のタイミングは完璧だったはずですわ!」

「残念ながらアウト、だ。それよりも早川の事を過小評価してるなら止めておくんだな。そんな簡単にホームラン打たれる程、早川のボールは柔じゃあねえんだ」

「…………ッ!?」

ㅤギリッと歯を噛みしめ悔しさを滲ませているその表情は、何処か心を抉られるような不気味な感じがしたのを小波は感じた。

ㅤそして、一死となりネクストバッターの五番打者である美藤千尋が打席に立ち、レフトフライに倒れた八宝はゆっくりとベンチへと戻り腰を降ろした。

 

「アハハッ!ㅤまさかあの乙女が簡単に討ち取られるとは思ってはいなかったナ!」

ㅤ嫌味混じりに大きな声で聖ジャスミン高校のキャプテンを務めあげるリーアム楠が、八宝の元へと歩きながら言う。

「もう……笑い事じゃあなくてよ!」

ㅤ不貞腐れながらヘルメットを脱ぎ、左右に頭をって金色の髪を靡かせる。その横を聖ジャスミン高校野球部のマネージャーを務める猫塚かりんがタオルを八宝乙女に手渡しをした。

「ありがとう、子猫ちゃん」と微笑みながらお礼を言うと、猫塚は嬉しそうに「にゃん!」と返事を返して監督の隣へと戻っていく。

ㅤ八宝乙女はチラッとマウンドに立つ早川を見ると、悔しそうに唇を尖らせる。

「この八宝乙女……。少し早川あおいさんのピッチングを見縊っていた様ですわね」

「まぁ、君が予想していた以上二、早川さんの高速シンカーにはキレがあったって言う事だネ。うーん、これは中々面白そうだヨ」

ㅤ楽しそうにリーアム楠は笑い、視線をたった今、低めのカーブを引っ掛けてショートゴロで倒れる美藤に切り替える。

「オレも早川さんと戦うのが楽しみになってきたヨ。けど……一番楽しみなのは小波球太くんとの勝負だけどネ。出来るなら彼とは是が非でも戦いたいけど……悪いけど、それは叶わないんだろうナ」

 

 

ㅤ六番打者の小鷹をツーストライク、ツーボールの平行カウントまで追い込み、アンダースロー独特の下から浮き上がるように迫り来るストレートでキャッチャーフライに仕留めて二回表の聖ジャスミン高校の攻撃を終わらせた。

 

「四番、ファースト、小波くん」

ㅤ二回裏の攻撃、先頭バッターは俺だ。一回のピッチングを見て思ったが、太刀川のストレートはそこそこ速く、思ったよりもノビがあって重みがある印象を受けた。

ㅤ矢部くん、赤坂、星の三者共に全球ストレートで仕留めてる為、どんな変化球を使うのかマトが当てづらいと言うのも忘れずに——よしっ!ㅤ来い!

ㅤまずは初球。

「ボッ!!」

ㅤ百四十キロのストレートがインコースへと突き刺さるように投げられたが、僅かに外れてワンボールとなった。

ㅤなんて勢いのあるストレートだ。

ㅤ左腕から放り込まれる二球目は、勢いを感じさせるストレートが真ん中高めのストライクゾーンをバットに当てるが、ボールを掠めて後方に飛んで行った。

「ファール!」

ㅤㅤ二球続けてのストレート。なかなか強気なピッチングを見せてくる。

ㅤこれでワンストライク、ワンボール。次は何でくる?ㅤ三球続けてストレートか、それともタイミングを外して変化球か?

ㅤゆっくりと振りかぶり、太刀川は三球目を放り投げる。先ほどのストレートとは違い勢いのある球だ。

 

ㅤ——ブン!!

 

「ストライクーーッ!!」

ㅤチッ、此処で変化球か……。てっきり三球連続ストレートと踏んでいたが外れてしまった。

ㅤ横にズレる高速シュートを空振りして、ツーストライクに追い込まれる。

ㅤ四球目、緩やかなカーブはインコース低めのボール球となりカウントはツーストライク、ツーボールとなる。

ㅤ五球目は、ストレート!!

 

ㅤㅤ——キィィン!!ㅤ

 

ㅤ百四十一キロのストレートをなんとか当てるが打球には勢いがない。高々と打ち上がるだけで飛距離は出ずに、セカンドフライに倒れてしまった。

ㅤそれにしてもなんて重い球だ。

 手がジーンと痺れている……こりゃこっちも簡単には点は取れそうにもないな。

ㅤワンナウトとなり後続の山吹を太刀川のストレートで三球三振に仕留め、海野を変化球でサードゴロへと立て続けて凡打に抑え、こちらも二回裏の攻撃は三者凡退で終わった。

 

ㅤ試合は三回の表へと進んで、聖ジャスミン高校は七番打者森永から試合が始まる。

ㅤ早川の投球練習を行なっている間、リーアム楠は、森永に耳打ちをしていた。

「…………で、いいヨ」

「えっ?ㅤㅤ はい!ㅤ分かりました!」

「頑張ってネ」ニヤリと笑いながらリーアム楠は森永を見送った。

 

 

「…………」ベンチでは、八宝がそれを黙ったまま見ていた。

 

 

ㅤウグイス嬢のコールが球場に響き、聖ジャスミン高校の攻撃。

ㅤ早川が振りかぶるモーションに入ると、すかさずバントの構えを見せる。

「早川ッ!ㅤセーフティーだ!!」

ㅤ星の掛け声で巧く反応し、ボールの軌道を変えてダッシュをした。森永はバットを咄嗟に引きボールを見送る。

「チッ!ㅤなんだよ、やらねえのかよッ!!」

ㅤ星は軽く苛立ちながら、早川にボールを返球する。

ㅤそして、続く二球目もバントの構えを見せた。次は明らかなストライクコース……だが、決してバットには当てず引くだけだった。

ㅤ三球目。森永は最初から猫背気味に身体を畳み、地面と平行にバットを突き出す形のフォームをしていた。これは、明らかに狙いはセーフティーバントをする構えだ。

ㅤ早川がピッチングに移行する。それと同時に小波と毛利がダッシュを始めた。

ㅤストレート真ん中低めに放り投げると次はコツンとバットに当ててサードへと転がる。

「毛利くん!」

「ま、任せろ!」

ㅤトントン、と打球の勢いを殺さず転がり、毛利は難なくボールをグラブで捌き、ファースト小波へと送球して、まずはワンナウトを奪う。

「ナイスフィールディングだったぜ毛利!ㅤまずはワンナウトだ!」

ㅤキャッチャー星がナインに向かって掛け声をあげると、毛利を始めとして全員が声を上げ始めた。

 

『八番、レフト、リーアム楠くん』

 

「ふふ、成る程ネ。これで解ったヨ」

ㅤ不敵な笑みを浮かべ、静かに左打席の前に立ち構える。主審と星に一礼をするとバッターボックスに入り、スパイクの先で足場を慣らす。

ㅤ見る限り何か企んでそうだ。

ㅤ小波は、バッターボックスに立つリーアム楠を捉えながら、そう感じていた。

 

ㅤ……この違和感はなんだ。何をしてくるつもりだ?

 

ㅤ早川がリーアム楠に対する一球目。

 アウトハイへのストレートを迷わずバットを振り抜いて、打球は逆サイドのレフトのファールゾーンへと転がっていく。

ㅤしっかり踏み込んで行く辺り、ただの守備重視で置かれた八番バッターと言う訳では無さそうだ。それもそうだ相手は聖ジャスミン高校の主将……何かを策を練っていてもそう可笑しくはない。

ㅤ続く二球目。インローへの高速シンカーを次も流し打ちでサード毛利の脇を突き破りファールゾーンへと切れていく。

ㅤ三球目、四球目連続で臭い球をカットするが全て流し打ちだった。

ㅤ……まさか毛利の事を狙ってるんじゃあないだろうな?

ㅤこの打席を見て思った事がある。

ㅤリーアム楠は比較的バットコントロールに長けている点と流し打ちが得意という事……そして毛利には、少なからず抱いている守備の不安要素があると言う事を既に見抜いている、と言うこの三点だ。

ㅤ恐らく俺たち恋恋高校の試合等のデータを入手していて、それを確認する為に前の打者・森永に「セーフティーをするフリをして野手を揺さぶれ」などの何かしら指示を出していたのだろう。

ㅤそうなると今、一番避けなければならないのが三塁線側に強い打球を打たせない、と言う事だ。

ㅤさっきのプレーで毛利はある程度の自信が着いた筈だ。それを次のプレーでエラーを起こしまえば一気にテンションはガタ落ちになり次々に狙われ最悪失点を招く可能性がある。

ㅤここは二人にインコースを重点に流し打ちをなるべく阻止する様なサインを出させないと行けない。

 

「早川ッ——」

 

ㅤ言葉を投げかけようとした時だ。早川が既にモーションに入ってしまっていた。

ㅤ三振か詰まらせようとアウトコースへと滑り落ちて行く高速シンカーをリーアム楠は見逃さなかった。

 

ㅤ——キィン!!

 

ㅤ痛烈な打球が勢い良くサード・毛利の前へと飛んで行く。毛利自身、リーアム楠の流し打ちに気付いていたのか少し前進守備をしていた。

ㅤ僅かグローブ手前でボールが地面を抉る。ショートバウンドとなりグローブを掬い上げようとしたが……。

「あっ!!」

ㅤタイミングを誤り先端に当たってエラーをしてしまった。

ㅤボールはショートを守る赤坂の足元へと転がり、当然打者のリーアム楠は一塁ベースを蹴り上げた所だった。

 

「毛利先輩、大丈夫っスか!?」

「お、おう!ㅤ俺は、大丈夫。少し焦っちまった様だ……すまん!」

「毛利くん!ㅤドンマイ!ㅤ今のは気にせず行くよ!」

ㅤ赤坂と早川がフォローの言葉で毛利の不安を取り除く。今のプレーで気持ちが切り替えて欲しい所だが、頼むぞ毛利。どうか不安に押し潰されないでくれよ。

 

「データ通り、巧く行って助かったヨ」

ㅤ振り返ると一塁ベースに立ち、百九十センチある長身のリーアム楠がこちらを見下ろしていた。

ㅤ不敵な笑み。

 成る程な、やっぱりデータを取られていた訳か。

「早川さんの今日のあの調子じゃ、楽に点は取れそうにないんでネ」

「随分、気が早いじゃあねえか。まだ一死一塁の場面だ。次のバッターでダブルプレーがあるかも分からねえだろ?」

「悪いが、それは無いヨ。早川さんを崩して君をマウンドに引きづり降ろしてやりたい所だけど、残念ながら今の俺たちにはそんな余裕を持出る程の時間が無いんでネ。彼女の為にも……」

「彼女の為・・・・・・??」

 

———

——

—。

 

ㅤ成る程……。

ㅤ先ほどの耳打ちはそう言う事でしたのね。

ㅤ森永さんにワザとセーフティーバントの構えさせて毛利くんの動きは、子猫ちゃんとほむらさんが取ってきたデータ通りなのかを改めて確認する為の行為。

ㅤㅤ少々、卑劣なやり方だと自分でも知っておきながら、敢えてそのやり方を選んだ意味は、この私はちゃんと知ってるつもりですわ。

ㅤ貴方は貴方なりにこのチームを勝たせたいと言う思いが、正々堂々戦って勝ち取るよりも何よりも強いのですわね。

ㅤ是が非でも一刻も大量得点を奪いコールド勝ちをし無ければならない、と言う勝ち急ぐ気持ちは分からなくもないですけど……。

ㅤこの私と貴方が魅せられた甲子園に行ける可能性を持ったエースが、肩に爆弾を抱えてるなんて知ってしまったのなら尚更……ですわ。

 

——

———。

 

ㅤ九番打者の安坂が右打席に立つ。

ㅤミート重視。グリップを短く握りコンパクトに振るつもりなのだろう。

ㅤ早川の初球を引っ張る様にバットを振り抜いた。勿論、打球はサードへと飛んでいく。

「毛利先輩ッ!ㅤ行ったっスよ!」赤坂が声を上げる。

「ま、任せろッ!!!」

ㅤしかし、最悪だった。

「あっ!!!」

 真正面に来た打球をまさかのトンネルで後逸してしまったのだ。

 そのままレフト前に転がって行くと、一塁ランナーのリーアム楠は快速を飛ばして二塁ベースをも蹴り上げて三塁へと向かう。

「山吹くん!ㅤランナーは三塁に向かったでやんす!」

「くっ…………!」

ㅤセンターの矢部もカバーに向かいながら山吹に状況を伝えるが、捕球した時には既にリーアム楠はスライディングをして三塁に到達していた。

ㅤ一死、一・三塁。

『一番、センター矢部田さん』

ㅤ迎えるバッターは二巡目を迎えて矢部田亜希子。

「このチャンス、オラがものにしてやるべ!」このチャンスをものにしようと意気揚々と右のバッターボックスに入る。

ㅤ一打席目は緩めのカーブでタイミングを外され引っ掛けてしまいショートゴロに倒れてしまったが、今度は打つ気は満々の様だ。

ㅤ対する早川の初球は、アウトローへの百三十三キロのストレート。

ㅤアンダースローの下から上がるボールに未だ慣れてはいないようで少しバットを振るタイミングが遅れてしまう。

ㅤカッ、とバットの先端を掠めてファールとなった。

ㅤこのピンチの場面でも早川のピッチングは堂々として、プレッシャーにブレる事なくいい感じに腕が振れている為、星のリードの選択肢が広がる。

ㅤ二球目。高速シンカーを投じた。

 

ㅤ——ズバンッ!!!

「ストライクーーッ!ㅤツー!!」

ㅤいいボールだ。

ㅤ切れ味抜群の変化球を被りに仕留め、ツーストライクへと追い込んだ。だが、それと同時に一塁ランナーの安坂は二塁へと脚を進める。

「ナイスボールだ!ㅤ次も頼むぜ、早川!」

「うん!」

ㅤ星は返球する度に声をかける。良いボールは褒め、悪い時は相変わらず上から目線の口調で叱る。

ㅤミット越しから三球目のサインを出そうかと決めかけた時、一つの熱視線を感じた。

「…………」

「あン?ㅤなんだ? テメェ、なに見てやがる」

ㅤその視線を送っていたのは、矢部田だった。

ㅤ矢部同様、浮世離れした瓶底メガネの奥底の瞳から星をジッと見つめている。オマケに頬が少し赤く染まっていた。

 星の言葉を受け、プイッと顔を逸らしてポツリと漏らす。

「べ……別に……何もないべ」

「はァ???」

ㅤ何がなんなのか分からず、星はインハイへストレートを要求した。

ㅤコクリ、と早川は頷きセットポジションからストレートを放り投げる。

ㅤ矢部田はググッと身体を引きタメを作りバットを振った。

ㅤ——カンッ!!

ㅤ打球は後方のバックネットへ飛んでいきファールとなる。

「えっ!」

「お、おい!」

ㅤ矢部田はタメを作った事により踏み込み脚のバランスを崩して倒れそうになる。

「おっと!」

ㅤカランカラン……と金属バットの転がる音が聞こえた。

ㅤ矢部田は倒れはしなかった。

ㅤ星が咄嗟に矢部田の腕を掴み離さず支えていたのだ。

ㅤ一瞬、二人は見つめ合っていた。

「危なっかしい奴だな……大丈夫か?」

「ほ、星くん……」

「——ッ!! 馬鹿野郎ォ!! か、勘違いするんじゃあねェぞ!ㅤテメェが倒れそうになったのは自然とそうなっただけで、俺は好きでテメェを助けた訳じゃあねェ!!」

「ありがとう……だべ」

「・・・・・・こ、今回だけだからな」

ㅤなんとも言えない空気が二人の周りに流れ始めた。

ㅤ早川、リーアム楠、八宝乙女達はその状況を目を点にし、それを眺めていていた。

ㅤそして、小波は「試合中に何してんだ?」と呆れた顔で小さく呟いた。



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第38話 ホームランボールの行先

ㅤ一死、二・三塁のピンチ。

ㅤ打席に構えるのは二順目を迎えた一番打者の矢部田さんが右バッターボックスに立つ。

ㅤカウントはツーストライクと早川が追い込んでいる所だが油断は出来ない。

ㅤ相手チームにサード毛利の守備面の脆さを見抜かれている以上どうしても矢部田さんは打球を何としてでも引っ張ってくるだろう……。

ㅤここは早川を信じるしかない。

ㅤ今日のお前のピッチングは、いつも以上に期待出来るからな。

ㅤそれはきっと、向こうのチームがほぼ女性チームである事に対して、自分と同じ女性が野球をやっていると言うことで嬉しい気持ちもある反面負けないっていう負けず嫌いな感情も少なからずある訳だろう——頼むぞ、早川!

 

ㅤ矢部田に対する四球目、アウトコース高めへのストレートは僅かながらも外れてボールとなる。

ㅤ聖ジャスミン高校のチャンスの場面、若干の緊張感が球場を包む。

ㅤ討ち取りたい強気の早川と打ちに行くと言う覚悟の矢部田の攻防が続く。

ㅤそして……五球目の投球、真ん中高めに落ちるカーブをファールで粘る。

「いいわよ!ㅤ亜希子!ㅤ当たってるわよ!」

「甘い球を見逃さずに行きなさい!」

ㅤベンチから掛け声が飛び交う。

ㅤその声に元気付けられたのか、背中を押されたのかは定かでは無いが、矢部田がキリッと表情を変えた。

ㅤ粘りに粘った六球目、早川がセットポジションから体の体重移動を始める。

 

ㅤ——走ったぞッ!!

 

ㅤ瞬間。サードの毛利が叫んだ。

ㅤ三塁ランナーのリーアム楠がホームに向かって走り出していた。

ㅤだが、毛利の叫びは僅かながらも遅く、早川は星が指定した内角高めへのストレートを放り投げていた。

「もらったべ!!」

ㅤ鈍い金属音が鳴る。

ㅤ百三十三キロを記録した顔に向かってくるように襲いかかるストレートを矢部田はバットを振り抜くものの、腰が引け、軸はブレてしまったが、しっかりと腕を畳んで弾き返した。

ㅤ打球は毛利と赤坂の間を通り抜けレフトの前へと転がって行き、リーアム楠はホームへ生還し、聖ジャスミン高校が先制点を取る。

「——ッ!?ㅤまだっス!ㅤ山吹先輩!ㅤセカンドランナーがホームを狙ってるっス!」

ㅤ走るタイミングが絶妙に速かった。

ㅤセカンドランナーの安坂は、三塁コーチャーの回す腕に誘われるかのようにスピードを上げてサードベースを蹴り上げる。

「追加点なんか上げさせるか!」

ㅤ山吹は軽快な動きでボールを捕球し、鋭くて低いボールを投げる。

ㅤ捕球の時の勢いをそのままに予想以上にも好返球が返って来た。

ㅤホームで捕球体制に入る星は「よし!ㅤナイスボールだ!ㅤワンバンでも余裕でタッチアウトに出来るぜ!」と追加点は阻止出来ると行った安堵した表情を一瞬覗かせるが、予期せぬ出来事が起こってしまった。

「カ、カットは俺に任せろ!」

ㅤパシィッ…………。

ㅤ山吹の返球を中継に入った毛利がキャッチしてしまったのだ。それも最悪、中腰で構えていなかった為、勿論スムーズには行かなかった。

「——バッ!!」星は驚き声が漏れる。

ㅤ当然、一瞬の間が出来てしまいセカンドランナーの安坂はスライディングをして二点目のホームを踏んだ。

ㅤバッターランナーの矢部田は間を突いて既に二塁まで脚を進めていた。

 

「ナイスバッティング!ㅤ亜希子!」

「流石は聖ジャスミンのマドンナだにゃん!」

ㅤ湧き上がる聖ジャスミンナインのベンチ、マネージャーの猫塚かりん、美藤が二人笑顔でハイタッチを交わしていた。

「やれやれ……俺が予想していた以上に先制点を取るのに苦労したヨ」

ㅤ安坂とグータッチをし、ベンチに戻り迎えられるメンバー達と喜びを分かち合った後、ニヤリと不敵な笑みを浮かべたリーアム楠は、八宝乙女の隣に座り意地悪く言葉を漏らした。

「毛利くんには悪いけど恋恋高校の穴は毛利くん自身だったんダ。これで流れは完璧に俺たち聖ジャスミン高校のものダ!」

「これも全て太刀川さんの為……なのですわよね?」

ㅤリーアム楠の顔を見ず、八宝乙女は可憐な表情でグラウンドを一点に集中しながら言う。

「ん?ㅤああ……そうだヨ。俺たちには替えがいなイ……たった九人のチームなんだかラ」

「そう……ですわね」

「このまま流れは完全に俺たちに来タ。ヒロの負担を減らせるようにドンドン点を取っていけるヨ!」

「…………」

ㅤ八宝乙女は目を細めた。

ㅤ何かを思うように……その表情は何処か切なさを感じさせる瞳をしていた。

「そう簡単には行かなそうですけども……」

 

 

 

「やられたな」

ㅤ二点を取られた俺たちは、すぐさまタイムを取って内野手全員がマウンドに駆け寄り集まっていた。

「お、俺のせいだ!ㅤわ、悪かった」

「ああん?ㅤんな事言わなくても分かってるって話だぜ!ㅤバカか、テメェは!ㅤさっきの山吹の返球は取らなくて良かったぜ!」

「星くん!ㅤそんな言い方しなくても!ㅤいいや、毛利くん。ボクのせいだよ……抑える力が無かったから打たれたんだ」

「ケッ!ㅤ慰めの言葉なんかかけるんじゃあねえよ!ㅤ現に毛利のせいで——」

「もう!ㅤそう言う言い方はないでしょ!」

「お……オウ」

ㅤ早川が声を荒げる。

ㅤこれは俺が思ってる以上にチーム内の空気が悪くなって来ている……。

ㅤ嫌な流れになっちまってるのは確かだ。

ㅤそれにしても軸をブラされてもあのコンパクトのスイングで弾き返すとは……矢部田さんには一杯食わされたって感じがするな。

ㅤ一死二塁で尚もピンチの場面……次のバッターは二番の星川ほむら、三番太刀川、か。

ㅤこの流れのまま四番の八宝に打席を回したくは無いもんだな。なんせ早川の十八番の高速シンカーを初見であんなに飛ばしたんだ。恐らく二度は通用しないだろう……細めに見えてパワーヒッターだから悪くてフェンス直撃の長打、最悪ホームランって所か……。

ㅤ早川の球数も三十五球位か?ㅤ

ㅤ打たれた事、毛利のエラー含め、今の早川は心中穏やかでは無さそうだ。一応、早田に肩を作らせておいた方がいいだろうか……。ま、取り敢えず空気を変えなきゃダメだろうな。

「先制を奪われたが負けた訳じゃねえ。此処を凌いで反撃と行こうぜ!ㅤ早川、今日のお前は腕が良い感じで振れてる。少しきついかも知れねえが楽しんで行くぞ!」

「うん!ㅤボクは大丈夫だから、任せて!」

「後、毛利!ㅤエラーしたからってプレッシャー感じるなよ?ㅤ取られたなら俺たちが絶対に取り返す。気合い入れろよな!」

「小波……すまない。次こそは任せてくれ!」

ㅤ少しの間を置き、深呼吸を吐いた毛利の表情は何処か落ち着いた様子だった。

ㅤそれを確認すると俺たちはニヤリと頬を緩ませる。これなら暫くは問題は無いだろう。

「あーあ、俺たちのチームは、どいつこいつもお人好しばかりで困っちまうぜ!」

ㅤ星はクルッと踵を返し定位置へと戻ろうとしながら呟いた。

「星くん!ㅤもう済んだ事でしょ?」

「うるせえな。そんな事言われなくても分かってるって話だぜ!ㅤさっきのプレー毛利だけが悪いって事じゃねえ、俺も俺で中継の有無を言わなかったのを悪りぃと思ってんだ」

ㅤ此方に顔を見せずドカドカと歩いて行く。

ㅤ全く……お前って奴は素直じゃねえ奴だな。

「よし!ㅤ取りあえず一死二塁のピンチだ。気合い入れ直して行くぞ!」

「おう!」

 

ㅤ二番打者、星川ほむらがバッターボックスに入り、バットを構える。

ㅤこの嫌な流れを断ち切りたいところだ。

ㅤ一球目、真ん中低めのストレートを投じた。

ㅤほむらは初球からスイングをする。

ㅤ早川のノビのあるストレートにやや振り遅れる形でバットに当てる。ボテボテ、と弱いあたりがファースト小波の前に転がった。

「小波くん!ㅤランナーは走ってないよ!」

ㅤ早川が呼びかける。

「分かった!」

ㅤ小波はボールを捕球し、目で矢部田を牽制してそのままベースを踏んでこれでツーアウト。

ㅤ続く三番打者はピッチャーの太刀川だ。

ㅤ初回の打席はピッチャーゴロに倒れたが、早川のカーブをファールゾーンながらもレフトスタンドまで飛ばせるパワーを持っている為、恋恋高校の外野手はやや後退気味で守備についた。

 

ㅤ——負けられない。

ㅤ早川はマウンドでそう呟いた。

ㅤポタリ、ポタリと黄緑色の毛先から数滴の汗が流れ落ちて土に染み込んでいた。

ㅤ帽子を取り、左腕のアンダーシャツでおでこを拭い、視線をギュッと凝らしてバッター太刀川を睨みつけた。

 

「えいっ!」

ㅤその初球。

ㅤ気合いの入った百三十三キロ程のストレートがど真ん中を抉った。

「ストライクーーッ!」

ㅤ度肝を抜かれたのか太刀川は少し目を見開いて驚いた様子を見せるが、それは束の間であり直ぐさま真剣な表情でバットを握りしめた。

ㅤだが、その表情はどこか顔が綻んでいた。

「ヒロの奴……なんだか嬉しそう」

ㅤ二球のストレートをライト方向への特大なファールボールの打球を見送りながら、ベンチで美藤がポツリと言葉を漏らした。

「楽しいに決まってるっス!ㅤなんせ同じ女の子同士、こうして試合で戦えてるんっスから」

ㅤその横にほむらが立ち言葉を返す。

「そうね。アンタの言う通り……私たちには色々あった。柵を乗り越えられたからこそ今の私たちがいる……ま、変な馬鹿な男が一人居るけどね」

「えっ!?ㅤそれって俺のことかイ?」

ㅤフェイスタオルで汗を拭っていたリーアム楠が驚きながら言う。

「男は貫人くんしかいないっスよ!」

「ガーン……ほむらも思ってたの!?」

「あなたは馬鹿なの?」

ㅤリーアム楠の直ぐ隣にウォータードリンクのペットボトルを飲み込んだ美藤が割り込んで来た。

「あー……」

「その反応はなんなの?」

「バカなちーちゃんには絶対っに言われたくない言葉だヨ」

「——ッ!ㅤだからちーちゃんと呼ぶな!」

ㅤ美藤が怒ると、聖ジャスミン高校のベンチは笑いに包まれた。

ㅤその中で一人、ベンチ上からグラウンドをジッと見つめる小鷹はツーストライクスリーボールと粘り続けてる太刀川を見つめていた。

 

ㅤ——本当、沢山あった。

 

ㅤ中学からヒロと出会って、高校も一緒で、でも高校に入っても野球は出来なくて、それでも野球部を作って……そして、遂に女子である私たちも野球が出来る事を認められて……遅すぎるけど今日が試合……。

ㅤヒロ、絶対に勝つわよ!ㅤ今までの私たちの努力は無駄じゃなかったって事を!

 

ㅤ——キィィィン!!

ㅤ太刀川が振り抜いたバットに金属音の快音が鳴り響いた。粘りに粘り続けた八球目、又してもカーブを矢部田同様に、体の軸をブラされながらも腕の力だけで仕留めたその打球は流し打ちの鋭い当たりで一、二塁間を破り抜けた。

「——よしッ!ㅤㅤ抜けたー!!」

ㅤ二塁ランナーである矢部田は快足を飛ばしてホームインし二点目の追加点を奪う。

ㅤ太刀川は一塁ベースで止まり腕を大きく突き上げてガッツポーズをした。

 

ㅤ恋恋高校の嫌な流れは断ち切れぬまま、四番打者——八宝乙女がバッターボックスに入る。

ㅤツーアウト。

ㅤランナー一塁。

ㅤ八宝乙女に投じた初球は又しても高速シンカーだった。

ㅤそれを知っていたのか、狙っていたのか、八宝乙女は、何の迷いもせずに脚を踏み込みバットを振り抜いた。

ㅤ風の音と打球音が球場内に弾けると、八宝乙女は凛とした表情でバットを投げた。

「えっ!」

ㅤマウンドでは早川が後方に首を捻る。ボールが高く舞い上がっていた。

ㅤ青い空に、ボールの白がクッキリと映える。

「チッ!ㅤクソッ!ㅤホームラン……か」

ㅤ星の声は掠れていた。ツーランホームランで四点差を着けられたと言う絶望感が滲み出ていた。

ㅤ小波も覚悟を決めていた。そのままバックスクリーンへと伸びていくホームランボールを見送らなければならないと言う苦痛を感じながらも……。

ㅤ恋恋ナインが『諦め』と言う感情が漂いそうになった時だった。

 

 

ㅤ——まだでやんす!!

 

ㅤ矢部の声が轟いた。

ㅤバッと視線を辿り寄せる。

ㅤすると、センターの矢部が猛ダッシュでフェンスに向かって打球を追っていた。

「まだ決まってないでやんす!ㅤオイラなら、オイラなら取れるでやんすよ!」

ㅤ瞬足でフェンスの前に辿り着き、体を飛ばしてフェンスによじ登りグローブを空高く突き出した。

 

ㅤ——パシィッ!

 

ㅤなんと矢部が突き出したグローブにボールが収まったのだ。

ㅤ塁審が近くまで詰め寄り確認する。

「アウトッ!!」

ㅤ甲高い声でジャッジをした。

「ワァーーーーッ!!」

ㅤ球場が揺れた。あわやホームランと言う当たりを矢部の超ファインプレーで防いだのだ。

 

 

「矢部くん!ㅤナイスプレーだ!」

「ありがとうでやんす!」

ㅤ本当にナイスプレーだ。俺は矢部くんの元まで駆け寄りグラブタッチを交わす。

「矢部くん!ㅤありがとう!」

ㅤ続いて早川もタッチを交わした。

「オイオイ!ㅤテメェ!ㅤやる時はやるじゃあねえか!ㅤ俺のノックのお陰だろ?」

「星くんのあのホームランを見送る練習してなければ無理だったでやんす!」

ㅤああ……あのいつもの練習風景のやつか。

ㅤそう言えば前に星が言ってっけ『諦めて脚を止めるんじゃあねえよ!ㅤフェンス登っても止めろ!』ってな……。

ㅤまさか、それがこの場面で活かされるとは全く思ってはいなかった。

ㅤ危ねえ……俺とした事が、今の八宝乙女の打球に一度は諦めかけてしまった。

ㅤけど、それを食い止めてくれたのが矢部くんだ。まだ戦える。まだ行けるだろ?ㅤ俺。

ㅤ絶対勝ちに行くんだろ?ㅤ諦めてたまるか!

 

 

 

「一度ならず二度も流石の"アーチスト"の名を持つ君が此処まで抑えられるとはネ。まだまだしぶとい様だヨ。恋恋高校ハ」

「そうですわね……。ただ次こそは完璧に仕留め上げますわ」

ㅤ攻守交代のタイミング。

ㅤセンターフライに打ち取られベンチに引き返してくる八宝乙女をネクストバッターズサークルに立っていたリーアム楠がグローブと帽子を渡した。意地悪い顔は相変わらずだ。

「ドンマイ。でも大丈夫、少なくとも二点は取っであル。流石の恋恋打線もそこそこ実力がある訳じゃないから勝てるサ」

「あら?ㅤまだ分からなくてよ?ㅤそれに……貴方は恋恋高校の事を少し過小評価過ぎじゃありません?」

「いいや、向こうには悪いけどそんなもんサ。ランナーを背負った星くん、小波球太くんを抑えれば勝ちに行けるだろウ。そう簡単にヒロが打たれるとは俺は思わなイ」

「…………。ま、キャプテンの貴方が言うのなら信じましょう」

ㅤグラブを受け取り、ヘルメットをマネージャーの猫塚に渡し、帽子を被り直す。

「ですが……あの小波球太がいる限り、そう簡単に勝てるとは言い切らない方が良いですわよ?」

「それは分かってル。彼の潜在能力の高さは高校球児を超えている……警戒すべきだって事もネ」

「分かってるなら———」

ㅤ——ガラガラッ!!

ㅤ八宝乙女の言葉が何か大きな音で遮られる。

 

「——ヒ、ヒロ!!ㅤ大丈夫!?」

ㅤキャッチャーの小鷹が太刀川の名前を大きな声で叫んでいた。リーアム楠と八宝乙女はお互いに顔を合わせると直ぐさまベンチに駆け寄ると……肩を抑えて倒れ込んだエース太刀川の姿があった。

 




ㅤキャラクター紹介。
八宝乙女(読み:はっぽうおとめ)
Re:SSのキャラクターです。
誕生日8.18 好きな食べ物ローストビーフ
能力解放は今回の話で出ました"アーチスト"です。
ポジション ショート 右投右打
能力
弾道3 ミートE パワーB 走力D 肩力E 守備D 捕球C
アーチスト アベレージヒッター 広角打法 守備職人 走塁4 人気者
強振多用

リーアム楠・貫人(読み:かんと)
オリパワです。
誕生日12/30 好きな食べ物 味噌汁(特にあおさ)
アメリカ育ちで15歳の時に日本に来てます。母親がアメリカ人で父親はアメリカで野球のチームのコーチしてました。
ポジション 外野(主にレフト) 左投左打
能力
弾道2 ミートS パワーE 走塁A 肩力C 守備B 捕球S
流し打ち 固め打ち 選球眼 レーザービーム 広角打法 走塁5 盗塁5

携帯変えたらログパス忘れてました...。
頑張って更新します!WBC熱いですね!小波くんたちもよろしくです!


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第39話 太刀川広巳

ㅤ三回裏の攻撃。

ㅤ二点差を追う俺たち恋恋高校のトップバッターは、七番打者の御影から始まる。

ㅤマウンドに上がる聖ジャスミン高校の左腕エースの太刀川から此方ら未だにヒット数はゼロだ。

ㅤ何処かで攻略しなければならない。

「それにしても大丈夫でやんすか?」

ㅤ太眉を釣り上げながら、瓶底眼鏡の奥底で目を光らしている矢部くんが言う。

「ああ、さっきの事かい?ㅤ向こうで何かしら起きたのは、確かだろうけど……何が起きたのか此処からじゃサッパリ分からないよ」

ㅤ俺は首を捻った。

ㅤそれは、攻守交代の時だった。

ㅤ聖ジャスミン高校のベンチから大きな声が聞こえたのだ。それは逆サイドである俺たちのベンチまで小鷹の声が聞こえた。何事かと視線を向けたが、そこにはナイン全員が駆け寄っている光景しか見ることが出来ず、こちら側は何も確認は出来なかった。

「まあ、普通にグラウンドに出て来てるから大した事じゃなかったのかもしれないね。それよりはまず太刀川の攻略を探らないと」

「そうでやんすね!」

「それにしてもよォ?ㅤなんか聖ジャスミン高校の空気感って言うか……さっきよりちょっと暗く見えやしねェか?」

ㅤ星がベンチに重たい腰を据え、先制点を奪われた悔しさを滲ませた顰めっ面を浮かべ、腕組みをしながら言う。

「暗い? でやんすか?」

「うん、星くんの言う通り。その違和感はボクも感じたよ。今まではグラウンドで皆、声を出して活気に満ち溢れてたけど、この回に入ってからは一転して、随分と静かだよね?」

ㅤ早川も頷きながら言う。

ㅤ空気感が違うって事は……さっきの騒ぎは何かしらあったって言う事か?

ㅤ一体……何があったんだろうか?

 

ㅤ気を取り直して、今は御影の打席だ。

ㅤまず一球目、相変わらずノビのあるストレートがど真ん中へズバリと放り込まれ、キャッチャーミットが渇いた音を立てる。

ㅤ身長およそ百七十後半はあるその長身から放り込まれるオーバースローのストレートは、球速表示百四十キロをマークした。

ㅤそれにしても、かなりの良い球を投げるな。

ㅤ太刀川からそう打つのは簡単じゃないだろう。

ㅤそれに御影。

 まず、バットを振らなきゃボールには当たらないぞ。

ㅤ続く二球目は、変化球であるスクリューが低めのインコースへ投げ込まれたった二球で簡単に追い込まれる。

ㅤ三球目は、またしても変化球の高速シュートを投げるが、御影は何とか苦なくカットした。

ㅤ良いストレートを持ってるのに決め球はストレートで来ない辺り、猪狩や太郎丸みたいな『速球派』では無さそうだ。

 ストレートに気を取られがちだが・・・・・・変化球も相当キレの良いモノを持っているのが厄介だな。

ㅤツーストライクのまま四球目。

 ストレートをサード方向へファールで凌ぐと、五球目は反して、緩やかなカーブで空振りの三振に打ち取られてしまう。

「チッ!ㅤ緩急をつけて来たかッ!!」

ㅤ星が思わず舌打ちを鳴らす。

ㅤまずはワンナウトとなり、続く八番打者はサードの毛利だ。

ㅤ先程の守備の件もあり、ややメンタル面で不安はあるが、矢部くんの見事な超ファインプレーに魅せられて、落ち込んだ調子はどっかに行っているように思える。

「行くぜェェェッ!! 来いッ!!!」

ㅤ咆哮を一つ。

ㅤ良し。

 気合いを入れている辺り、今の毛利には問題はなさそうだ。

ㅤ太刀川が振りかぶってからの初球……。

 

「——ッ!?」

ㅤ太刀川の顔が僅かながら歪んだ。

 

「あいつ……」

ㅤ左腕を振り抜く一瞬だったけど、太刀川の表情が引きつった様に見えた。

ㅤ毛利は、百三十二キロのアウトローへのストレートを思いっきり叩いた。

 

ㅤ……コツン。

 

「あ、当たったッ!!ㅤ——だが!」

ㅤ当てたとは言え、打球音は鈍かった。

 太刀川のストレートは重みがある上にノビがある為、何とも言えないボテボテのゴロが太刀川の前へと転がった。

「ヒロッ!!ㅤまずはファーストよ!」

「うん!」

ㅤ軽快に捌きファーストを守る美藤に丁寧に送球する……が。

「——あっ!!」

ㅤその送球は美藤の頭を遥かに通り過ぎるほどの高さで、恋恋高校のベンチ前まで転がる暴投をしてしまった。

 空かさず毛利は、二塁まで脚を進めた。

 

「やったでやんす!ㅤ毛利くん! 上手くエラーを誘い出したでやんす!ㅤこれで反撃のランナーが出たでやんす!」

ㅤ矢部くんが喜びながら、ヘルメットを着用しバットを握りネクストバッターズサークルへと駆け出していく。

ㅤエラーを誘い出した?

ㅤいいや。それは違う。

ㅤ今のは単なるエラーとかじゃない。

ㅤもしかすると、太刀川の奴……。

「オイ・・・・・・小波。テメェ、今の見たかァ?」

「星、ああ。お前も気付いたか?」

ㅤ太刀川の事を珍しく星も気付いたようだ。

ㅤ頬に汗を垂らして真剣な目つきでマウンドを見てる。

「あんなにコントロールも良い『広巳ちゃん』がまさか此処で暴投とは、こりゃ驚いたな……」

「…………はあ?」

「あン?」

ㅤやっぱり・・・・・・。

 こういういつもの返しが来るって事は、既に分かりきっている事ではあったが、星は試合中でも安定の星のままなんだな。

ㅤそれより何だよ!

 何が『広巳ちゃん』だ。

 なんで、いきなり下の名前で呼ぶ必要があるんだ?

 お前は、八宝乙女推しじゃなかったのか?

 

ㅤ…………疲れるな。

 

 

ㅤやれやれ。

ㅤ星に対してツッコミをする気力など勿論起きる事など一切なく、出来れば今打席に立つ早川に是非とも目覚めの一発のビンタをすぐ様星に向かって手のひらを振り抜いて欲しいと頼みたい気分になった。

「小波くん。もしかしてあの娘……肩に爆弾を抱えてるんじゃない?」

「えっ?ㅤあ……はい。間違いないです」

ㅤ今日の試合中、一言も喋らなかった俺たちの監督である加藤先生が急に話をするものだったから俺はまず驚いてしまい、真面に返事を返す事が出来なかった。

「やはりね……。原因はやっぱり……」

「はい。先生が思ってる通りです」

ㅤそう言葉を返し、マウンドに立つ太刀川へと視線を返す。

ㅤ冷静さを保つ為に無理した笑顔を振りまいてはいるものの……太刀川は肩に爆弾を抱えている。これは間違いないだろう。

ㅤ恐らく原因は、オーバーワークか?

ㅤこれはあくまで投げすぎていた場合だ。

ㅤ筋肉には弾力性があり本来はある程度の柔らかさがあるのだが、投げ込みなどの使い込みでストレスを受け筋肉は緊張し、硬くなってしまう。そして筋肉がそのストレスに対して耐えられなくなると痛みへと変わってしまう。

ㅤ以前、太刀川と握手を交わした時だ。

ㅤ違和感を感じとったのはスイングして出来た掌の豆では無く、指先が異様に硬かった事。

ㅤ相当の練習、投げ込みを重ねた努力の結晶と試合前に思ってはいたが、故障しそうなほどまでやり込んでいたとは……もう既に肩に出来た爆弾もいつ爆発してしまうか分からない状態だ。

ㅤ元々九人しかいない聖ジャスミン高校だが、他の奴らは太刀川が爆弾を抱えていると言うことを知っているのか?

 

 

 

 

 

 

ㅤ視界が霞んだ。

ㅤ視線の先に腰を据える小鷹が青色のゴーグル越しさら不安そうに太刀川を見つめていた。

ㅤポタリ、ポタリ……と、褐色の肌から汗が垂れ落ちる。

ㅤハッとした顔で汗を拭い、何事も無かったかのようにマウンドの土をスパイクで均し、ゆっくりと左肩をグルリと前後に回す。

ㅤ——ズキッ!!

「ぐっ!!」

ㅤ肩に激痛が走った。

ㅤ今にも倒れこんでしまいそうな痛烈な痛みが太刀川を襲う。

ㅤだが、その痛みに身を委ねる事を考えもせずワンナウトランナー一塁の場面、恋恋高校は九番打者の早川あおいがバッターボックスに入っているのを見送る。

ㅤ同じ女の子同士の戦いにどれだけ楽しみにしていたことか。太刀川の口元は少し緩んだ。

ㅤその初球。

ㅤキィィン!!

ㅤ左腕を振り抜く事が出来たが肩の痛みに気を取られてしまい真ん中高めの百二十キロほどの力のないストレートを叩き、レフトを守るリーアム楠の前にヒットを放つ。

「やったでやんす!」

ㅤ一塁、二塁のチャンスに一番打者の矢部まで回る。チャンスに強いと言うわけでは無く、寧ろチャンスに弱いバッターだ。

ㅤストライクを先行し、ツーストライクに追い込んでからの三球目、力無いストレートをやや浅めに守っていたライト前に弾き返され恋恋高校は満塁のチャンスとなり、二番打者の赤坂に打順が回った。

「タイム!」

ㅤピンチの場面、八宝乙女が塁審に声をかけてタイムを取った。

ㅤ内野手がマウンドまで駆け寄って、太刀川を囲んだ。

「ヒロ……あんた、まさか肩が痛むの?」

ㅤと、小鷹が問う。

「いや、なんともないよ。少し力んでるからかも」

ㅤ首を振って否定する太刀川。

「でも、大丈夫!ㅤここはきちんと抑えるから。任せてよ!」

「それは……出来ませんわ」

ㅤここで八宝乙女が言葉を挟んだ。

 神妙な顔つきで太刀川を見つめている。

「太刀川さん。先程の打席……腕の力でヒットを放った時、痛めたんじゃありませんの?」

ㅤ軸をブラされ腕の力だけで早川あおいのボールに食らいついた時、肩にまで負担がかかってしまった。

 左投げであり右打ちである太刀川にとってさっきのスイングは大ダメージを受けてしまったと言う事だ。

「その痛みが攻守交代の時に激痛が走り、思わず倒れてしまったのではありません?」

「………」

「肩を故障してる選手をこのまま試合に出せる訳にはいきません。それがチームメイトなら、尚更のことですわ」

「——な、なんでそれを!?」

「ちょっと、ヒロ!ㅤ肩を故障してるってどう言う事ッ!!」

「えっと……それは……」

「言い逃れしても無駄、ですわよ?ㅤ因みに私とキャプテンは貴女の故障の事は、既にご存知ですのよ?」

「そうなんだ……。それは、参ったな。とても厄介な二人に既に見抜かれていたなんて……」

「これ以上の投球は、貴女の今後の野球人生に大きく関係するでしょう。もう、これ以上は——」

「それは……。私たちは負けを認めろってこと?」

「・・・・・・。残念ですけど、そうなるでしょうね……」

「それだけは、絶対嫌だッ!!!」

「——なっ!?」

「うん!! 大丈夫!ㅤ私は、負けないよ。例え・・・・・・この肩を壊してでも……私は勝ち進みたい!」

ㅤ太刀川が叫んだ。その怒号の様な声に全員が黙り込んでしまった。

ㅤ暫くの沈黙が続く。

ㅤ一向に諦める素振りも無い太刀川を見て、これは何度言っても言う事を聞いてくれそうに無い。

 観念したのか、八宝乙女は「やれやれ」と首を捻る。

「はぁ・・・・・・。この八宝乙女が一度だけ許可しますわ。ただし、無理はなさらない事、よろしくて?」

「うん、ごめん……」

ㅤグローブとグローブでタッチを交わす。お互いに真剣な表情をしたまま八宝乙女は定位置へと戻って行った。

 

ㅤ二番打者の赤坂は少し緊張気味にバッターボックスに立つ。満塁のチャンスの場面、ここが試合の分岐点になるかもしれない。

ㅤ最悪、引っ掛けてボテボテのゴロを打ってダブルプレーになるのはどうしても避けたい所ではあるが……赤坂次第だ。

 

ㅤ左肩の痛みに気を取られるように投げ込む太刀川。一球、一球に前ほどの力は無い。

ㅤワンストライク、ツーボールからヒッティングを試みた赤坂だったが、軽く掠めるだけでキャッチャーフライに打ち取られてしまった。

『三番、キャッチャー星くん』

 

「星ーーッ!!ㅤ頼むぞ!」

ㅤエラーで試合の流れを渡してしまった事に罪の意識を感じている毛利が大きな声を上げて星に向かって叫んだ。

「オウよ!!ㅤ任せておきな!」

ㅤここで頼れる恋恋高校随一チャンスにめっぽう強い男、いや"勝負師"の星が打席に立つ。

ㅤ緊張感が漂う中、その初球だった。

ㅤ左腕から放たれたストリートは右打席に立つ星の胸元へと放り込まれたクロスファイヤーを振り抜いた。金属バットの真芯で捉えたのがよく分かる快音が鳴り響くと同時に、勢いよく飛んで行く打球はレフトスタンドの奥へと消える場外ホームランとなった。

「やったぁぁぁーっ!ㅤ逆転満塁ホームランっス!!」

「流石!ㅤ星先輩っ!!」

ㅤ先ず、赤坂と御影が叫ぶ。

「ナイスバッティングでやんす!」

「期待してたよ!」

ㅤと、早川と矢部くんが悠々と走り、ホームベースをガッツリと踏み込んだ星に向けて拳を突き出して喜びを露わにした。

ㅤこれで二対四。逆転だ。

ㅤまだ序盤だが、嫌なムードからは一変、流れは俺たちになんとか流れてきた様だった。

「ナイスバッティングだ!ㅤ星!」

「ヘッ!!ㅤあったりまえだぜェ!!ㅤこれが俺だッ!!ㅤどうだ、見たかッ!!ㅤバカヤロッ!!」

ㅤパァン!ㅤと、ハイタッチを交わしてから俺は打席へと向かった。

ㅤバッターボックスに立ち、マウンドを見て見ると、やはり太刀川の調子は良く無いようだ。

ㅤ一球、一球ボールを投げ込むたびに肩の調子を探るように肩を回しているのを見て思った。

ㅤここで引導を渡してみせる。

ㅤ俺はスパイクの先端で足場を固め、ギュッとバットのグリップを握り締めてボールを待った。

 

 

———

——

—。

 

 

ㅤ夕暮れ時、橙色の色に染まった雲が静かに流れて行く。

ㅤ春の暖かな風は、耳元に大きな風の音を響かせて何処かへと吹き流れていった。

ㅤ聖ジャスミン高校にある小さな野球部の部室には、九人の姿があったがその表情は何処かしら暗く見えた。

「ヒロぴー……。大丈夫だべか」

ㅤボソリと矢部田が呟いた。

ㅤその言葉に周りの聖ジャスミン高校のメンバーは一度は反応して見せたがそのまま暗い顔を下に向けた。

ㅤ先程行われた春の大会、対する恋恋高校戦は星の逆転満塁弾で試合の流れを変え、そして四番小波のソロホームランを含め、最終的には四対十四で五回コールド負けで一回戦敗退となってしまった。

ㅤ試合後、すぐ太刀川とキャプテンであるリーアム楠は近くの総合病院へと向かった。肩の痛みに耐えきれず蹲ってしまった太刀川の検査をする為に……。

ㅤ負けた悔しさもあるがそれ以上に太刀川と言うチームのエースの負傷の具合が何よりも気になって仕方がなかった。

ㅤプルルルル……。

ㅤプルルルル……。

 

ㅤここで携帯の着信音が鳴る。

ㅤ八宝乙女がスカートのポケットの中から一つスマートフォンを取り出し、相手の名前を確認した。

ㅤ着信相手はリーアム楠からだった。

「もしもし、私です」

ㅤ緊張感のある部室には、「ええ……」「そうなの……」などの八宝乙女の相槌だけが木霊した。

ㅤ暫くの問答が終え、五分が経過した。

ㅤそして……電話を切った。

「どうだったの?ㅤヒロの具合は!」

「大丈夫なのかにゃん!?」

ㅤ全員が八宝乙女に押し掛ける。

ㅤ近寄られるのが嫌なのか、不機嫌な顔で追い遣り、一息ついて口を開いた。

「太刀川さんは、大丈夫みたいよ」

「本当に!?」

「よかった……」

「本当、よかったべ……」

ㅤ安堵の息が漏れ全員が心を落ち着かせる。だが、八宝乙女は少し晴れない顔でただ黙ったままその場に目を向けていた。

ㅤ涙を浮かべて太刀川の無事を喜ぶ姿に、本当の事が言えないままでいた。

ㅤ太刀川の肩の状態は其処まで良くなく、夏までの間には完治は無理だと言うことを聖ジャスミン高校のメンバーはその事実をするのはもう少し先になると言う事を。

 

 

 

ㅤ空は雲一つない晴れた空。

ㅤそんな晴れた土曜午後二時。春の大会が行われている地方グラウンドは今日も騒がしい。

ㅤ静かさなんてある訳がないと言っていいほど活気のある声が飛び交うのは毎度のことだ。なんせマウンドに立っているのは、あかつき大附属の猪狩守に次いで今年のプロドラフト要注目のエースが投げているのだから……。

ㅤ苦笑いを一つ浮かべながらマウンドに立つのは山の宮高校三年、太郎丸龍聖だ。右手にはめてある赤い色のグラブから一つのボールを取り出して指先で弾き左手で掴んだ。

ㅤツーアウトランナー無し。

ㅤここを抑えれば俺たち山の宮高校の勝利だ。

「まだだ!ㅤ来いッ!!」

ㅤ視線の先に立ち今も尚、諦める素振りなど見せずにバットを握りしめるのは、対戦相手であるの四番打者にしてエースも受け持つ悪道浩平がドス黒い瞳をギラリと光らせてバッターボックスから睨み付けていた。

ㅤ太郎丸龍聖はここまで極亜久高校に対して打者二十六人に対し、被安打はゼロ。初回の先頭打者に投じた四死球一つだけとノーヒットノーランピッチングを見せていた。

ㅤその試合を見守る観客は今か今かとノーヒットノーランと言う大台を迎えるのを待つ。

 

『ワァァァーー!!』

 

ㅤ三百六十度、囲まれた視線と声援など気にも止める事なく眉間に力を寄せ、太郎丸はマウンド越しから十八・四十四十メートル先を見つめた。

「龍聖ッ!! こいつを締めて有終の美を飾るぞッ!!」

ㅤパシッとキャッチャーミットを拳で叩き低い声を飛ばす名島一誠。

ㅤその励ましの声に太郎丸はいつも元気を貰う。

「チッ!ㅤ早く来やがれッ!ㅤテメェの『アンユージュアル・H・ストレート』とか抜かすふざけたボールを打ち返してやるぜッ!」

ㅤガツ、ガツと地面を蹴り、前のめりになって金属バットを構え直す悪道浩平。

 

ㅤやかましい、と小さく呟く。

ㅤだが、口の悪さは置いといて、チーム一のパワーヒッターでもありその打撃センスは確かなものだ。当たればデカイ。得意なコースはインコースの高め、所謂インハイ。

ㅤキャッチャーの一名島が抜かりなく揃え見抜いた苦手コースのデータでここまで抑えて来たが、太郎丸は相手が強いほど燃えるタイプであり、また相手が得意なコースに投げて打ち取らないと気が済まないなど、やや危ない橋を渡りがちな人物だ。

ㅤツーアウトツーストライク。

ㅤ太郎丸は渾身の"アンユージュアル・H・ストレート"をインハイへと放り投げる。

 

ㅤ——ズバァァァン!!

 

ㅤ悪道浩平はバットを振り抜いたが、太郎丸のストレートは虚しくも掠める事なく名島のミットへと突き刺さった。

「チッ————。クソッタレがァッ!!!」

ㅤそのストレートは、球速百五十四キロを記録した。

「ナイスピッチング!ㅤ龍聖!」

「ああ!ㅤナイスリードだぜ、一誠!」

ㅤ二人はお互いの顔を見て笑った。

「次の対戦相手は、聖ジャスミン高校と恋恋高校のどっちかだな。俺的には猪狩守と同レベルとも言われていた小波球太と戦いたいぜ」

「龍聖、それは俺も同感だ。だが、小波は中学二年生の時に故障した男。マウンドには立つ事はないぞ?」

「ああ、それは知ってる。けど、あいつは打者としての才能もあるからな!ㅤへへっ」

ㅤ太郎丸は笑った。

「龍聖?」

「ピッチャーとしての性なのか分からねえけどさ、何だろう…どうしても捩じ伏せてやりたいって気持ちしかねえ!」

「強い相手を倒したい。お前らしいな。なら、捩じ伏せてやろう。その為に俺がいるんだからな」

ㅤニヤリと笑い、山の宮高校が二回戦へと勝ち進むこととなり、恋恋高校は次に太郎丸と名島が率いる山の宮高校と激突する。

 



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小波球太 第四章 恋恋高校三学年・夏予選大会編
第40話 春の終わり。


ㅤ春の大会二日目。

ㅤ聖ジャスミン高校との戦いで勝ち進んだ恋恋高校は山の宮高校と激突した。

ㅤ去年の夏以降、前代未聞である女性初の大会出場が認められ全国区に成るほどの話題となった右のサブマリンこと早川あおいと、今現在プロからの要注目を浴びている期待の星の速球派左腕投手太郎丸龍聖の戦いは高校野球ファン野球ファンの注目を寄せると同時に、かなりの観客が地方球場へと押し寄せた。

ㅤ期待を寄せた試合。

ㅤだが、試合は歴然の差を着けて終わった。

ㅤスコアは十対零。

ㅤ試合は太郎丸龍聖の完全試合で幕を閉じたのであった。

ㅤ投げては速球百五十キロオーバーを連投、ノビのあるストレートで次々と三振の山を築き恋恋高校野球から十五人の打者に対して圧巻の十三奪三振と圧倒的な力で捩じ伏せた。

ㅤ対して早川あおいは、聖ジャスミン高校との戦いでの疲労から思うようなピッチングが出来なかった。早川あおいの持ち味でもある制球力は乱れ、らしくないコントロールでの四球から守備陣のエラーを重ね長打を浴び二回ツーアウト七失点の所で早々とマウンドを降りた。

ㅤ試合を終えた恋恋高校のダグアウト。

ㅤ誰もが口を閉じて落ち込んでいた。今まで経験して来なかった百五十キロを超えるストレートを放り投げるピッチャーとは出会ったことがなく。太郎丸と言う相手に誰一人として太刀打ちする事は皆無だったからだ。

ㅤ次にある小波含めた三年生にとって高校最後の夏の大会を迎えるにあたり、太郎丸は勿論の事、更には秋の大会で山の宮高校を捩じ伏せた猪狩守率いるあかつき大附属高校も予選大会で同じブロックでもある事実を受け入れなければならないのだ。

 

 

 

「完敗だったやんす」

ㅤ球場を後にし後ろを振り返る事なく矢部くんが呟いた。

「チッ・・・・・・悔しいが違いねェな。俺たちは思った以上にまだまだ実力不足だったって事だ」

ㅤ星が後ろ髪に手を当てながら言う。

ㅤギリッと八重歯を噛みしめるもののその表情は、十点差コールド負けした悔しさから暗くなっていた事など忘れたかのように晴れ晴れとしていて何処か吹っ切れている様子だ。

「なァ・・・・・・。小波。こんな調子で俺たちは夏までに甲子園に行けるほど強くなれると思うか?」

ㅤ星が此方の顔を一切見向きもせずに問いを投げた。

「強くなれるか・・・・・・か。随分と難しい事を聞くな」

「ああ、簡単な事じゃあねェって事は分かってる」

「そんな事が分かるなら誰だって苦労はしねえだろ。ただ一つ言えんのは気持ちで負けてたらそこで終わりだって事だ。実力で劣っていても気持ちだけは負けん気があればどうにかなるもんさ」

ㅤ今日の試合、実際に全員が気持ちの面で負けてしまった点は否めない。太郎丸龍のピッチングは思っていた以上に俺たちの前に立ちはだかる大きな『壁』だった。俺は二打席連続内野ゴロと辛うじて唯一三振は免れたものの予想以上のボールのノビに抑え込まれてしまってチームの士気を下げてしまったのは事実だ。四番打者としてなら尚更だ。

「矢部くんの言う通り、太郎丸……いや、山の宮高校は強かった。完敗だ。でも、エースのあいつがあんな事言ったならやるしかねえだろ」

ㅤ俺はクルリと踵を返し脚を止め、遠ざかった球場を暫く見つめて再び脚を進める。

ㅤ目の前を歩く仲間たちは誰一人顔を下へ落とす事なく前へ前へと歩いていく。

ㅤ次が最後。それなら本当の最後まで踠いて足掻いてやろうじゃねえか。小波は身体の内側で確かに燃える一つのやる気を胸に照りつける太陽の下を見上げ流れる雲を眺めると共に心に刻んだ。

ㅤ——夏を制するのは俺たちだ。

 

 

 

ㅤ試合を終え学校に戻ってきた山の宮高校の野球グラウンドに太郎丸龍聖は、一人でブルペンに入り投げ込みをしていた。

ㅤ十八メートル先に立て掛けてあるボールネットは一球放り込まれる事にカタカタと上下左右に揺れると共に鈍い音を立てる。

「試合後の投げ込みは向上心があると見て取れて感心するが、オーバーワークは故障の元だぞ? 龍聖」

ㅤ数十球の投げ込みを終えて一区切り着いた所で、ブルペンのドアが開いた。其処に現れたのは名島だった。

「ん? ああ、分かってるッ!!」

ㅤ太郎丸は淡々と言葉を返すと再び左手にボールを握りしめてまた一球、ボールネットへと勢いのあるストレートを放り投げた。

 投げ込まれたネットをジッと見つめながら、名島は口を開いた。

「今のお前を見て分かるのは、今日の試合はお前にとって不完全燃焼だった様だな。思っていたのとは違ったか? 期待していた小波球太との戦いは」

「それはどうだろうな。まぁ、少なくとも俺の思っていた以上だったのは確かだぜ。一誠、お前だってそう思ってんだろ?」

ㅤ二人はニヤリと笑みを浮かべる。名島はセカンドバックから見るからに使い熟されたキャッチャーミットを取り出すと、太郎丸から少し離れた投げ込まれていたボールネットの前に立ち、腰を下ろした。

「俺の『アンユージュアル・ハイ・ストレート』を凡打ながらもバットに当てたのは奴が初めてだ。きらめき高校の目良さんだって当てられなかった球をアイツは当てた」

「ああ、それに二打席目はかなりタイミングを合わせて振ってきた。三打席目が在ったのなら芯で捉えられていて、最悪真芯で打ち砕かれていただろうな」

「試合は呆気ない結果に終わっちまった。だが、最後の夏の大会……小波は更に打者としてスキルアップしてくるだろうぜ。なら、俺も迎え撃つ側として、ピッチャーとしてそれ以上になってなくちゃ相手に悪いだろ?」

「ふっ、確かにそうだな。だが……そういう事ならまず相棒でもある俺も一緒じゃなきゃ駄目だろ?ㅤ龍聖。俺たちで捩じ伏せよう」

「ああ、そうだな!」

ㅤ山の宮高校のグラウンドからは夜遅くまでキャッチャーミットの捕球音が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

ㅤ山の宮高校との戦いで敗れた俺たちは翌日、学校へと登校していた。

ㅤ既に新聞記事や現地で目撃した人からの口コミで負けた事は既に全生徒に知り渡っていて、席に着くとクラスメイトから励ましの言葉を掛けてもらった。

「なんだかんだ言って期待されてるんだな」

ㅤ時刻はお昼過ぎを迎えていた。

ㅤ学食で購入した昼食を済ませた後、賑やかな笑い声に包まれた教室を眺めていると、ふと何も考えずに言葉が出てしまった。

「そうでやんすね。最初はオイラと星くん、小波くんがいてあおいちゃん……皆んなが集まったでやんす。ちっぽけな愛好会からここまで来れたでやんす」

「……ここまでって今で満足なのか?」

「え?」

ㅤ困惑する矢部くんの表情を見て俺はハッとした。今のは咄嗟に出た言葉だった。

 

ㅤ俺はここまでで満足はしていない。

ㅤまだ先を見たい。

ㅤまだその先に行きたい。

ㅤ俺が必死に喰らい付いてくる皆をもっと先の光景を見せてやりたい。

ㅤ其処に辿り着くまでにどんな事が起きようとも俺は俺自身を犠牲にしてでも甲子園と言う舞台で皆と野球をしたい……と、そんな事ばかり考えてしまう。

「…………」

「小波くん?ㅤ大丈夫でやんすか?」

ㅤ暫く考え混んでいたようだ。

ㅤ恐る恐る此方に顔を覗かせる矢部くんは心配そうにしている。

「いや……ごめん、大丈夫だよ。それにさ、俺はちっぽけだなんて思った事は無いよ」

「えっ?ㅤどう言う事でやんす?」

「えっとそれはね……。いや、それは今度機会があったら言うさ」

ㅤそう言い残し俺はサッと腰を上げる。

ㅤ此処で本音を言うのは気が引けた。

「小波くん?ㅤ何処か行くでやんすか?」

「うん、まあね。そう言えば昼休みになったら早川と会うって約束してたの思い出した」

ㅤそれじゃあ、と矢部くんに手を振り「五時限目には遅れないでくるでやんすよ!」と若干小馬鹿にした苦笑いをしながら矢部くんが言葉を飛ばしたのを聞き流して俺は教室を後にした。

 

 

ㅤ一時間ある昼休みの内、昼食を済ませた後にわいも無い会話をしていた事で既に待ち合わせた時間から十分程遅れてしまっていた。

ㅤ二階から三階に上がる階段を翔け登り、更に屋上へと続く階段を踏み出しながら『どうか早川が怒って無いよう』にと誰に祈るのか分からないまま屋上まで急ぎ足で向かう。

「ちょっと、そこの癖毛頭。止まらなさい」

ㅤ二、三歩踏み登った時だった。

ㅤ此方に向かって声が飛ぶ。

「ん?ㅤ癖毛頭って……俺のことか?」

ㅤ振り向くと、そこに立っていたのはソフトボール主将の高木幸子だった。短髪ながらも艶のある赤髪が窓の隙間風にひらりと靡く。

「そうよ!ㅤどっからどう見てもそんな癖毛頭は他にアンタ以外はいないでしょ?」

「呼び止められた所悪いけど俺、今、急いでるんだけど……何の用だ?」

「まあ、昨日の試合観てたわよ。残念だったわね。あの山の宮相手によく頑張ったわ。それにあおいのスタミナ不足はかなりの問題よ?ㅤ夏の大会まで解決しないと苦しむわね」

「お、おう……」

「……ちょっと何よ?ㅤその反応。アンタちゃんと分かってる訳?」

「いや・・・・・・勿論分かってるけどさ、高木。お前はお前なりに早川の事気に掛けてくれてるんだな」

「——ッ!?ㅤバ、バカ!ㅤそんなんじゃあ無いわよ!ㅤただ、私はあおいが負けて可哀想と思って・・・・・・」

「分かった分かった。そんなに照れんなって」

「べ、別に、て、照れてなんてないんだからッ!」

「あ、そう。それに夏の大会まで早川の事なら大丈夫だ。必ず俺が甲子園まで連れって行ってやる!ㅤあとは俺に任せておけって!」

「アンタねぇ・・・・・・何を根拠にそんな自信満々で言うわけ?」

「ま、こっちにも色々考えがあるんだよ。それよりお前達も頑張れよな!」

「頑張れよな・・・・・・って何をよ?」

「高木・・・・・・ソフトボール部としての目標は全国大会なんだろ?ㅤ行くんだろ?ㅤ頑張れよなって事だよ」

「そっちもね」

ㅤ海野は素っ気ない表情で「あおいに会いに行くんでしょ?」と言葉を続けその場からゆっくりと去って行った。

ㅤ全く、普段話なんて早川以外に掛けて来ない癖に気を遣いやがって……。ま、今日は素直に有り難く受け止めておくか。

 

 

「お・そ・い・よッ!!ㅤ球太くん!!」

ㅤ屋上のドアを開けると目の前に仁王立ちの構えで立ち塞がっていたのは、何処からどう見ても怒りに怒った早川の姿だった。咄嗟に「悪い!」と謝りの言葉を使っても、鬼の様に睨みつける視線に、流石の俺も少しビビってしまった。

「なんてね。まぁ、キミの事だからいつも通り忘れてて急に思い出したとかじゃ無いかと思ってたよ」

「ははは……」

ㅤ参ったな。

 全くその通りだよ。早川。

ㅤクスクスと笑いながら早川は屋上から見える景色を眺めて背伸びをすると、そのまま立ち止まった。

「どうかしたのか?ㅤ早川?」

「ボク達、負けちゃったね……。強かったよね、太郎丸くん達は」

ㅤ漸く振り返ると、早川はニコリと笑った。

ㅤ無理やり笑っている、作り笑いにも見えた。

「ねぇ。昨日のボクが言った言葉覚えてる?」

 

 

——

———。

 

 

ㅤ昨日の試合は惨敗だった。

ㅤコールド完全試合、負けた悔しさは二倍以上にも感じた。手も足も出ない、ただ一方的な力の差だけを見せつけられて、ただ殴られるだけの試合だった。

ㅤ暗い顔をぶら下げてベンチ後ろの控え室に戻ると、早川は泣き崩れた。

ㅤ去年の夏に悔しい思いをし、秋と冬を越えて漸く船出することが出来た事は何もよりも嬉しかった筈だ。しかし、その圧倒的な強さの前に自分の今までやって来た事が無駄にも無理にも感じてしまったのだろう……。

ㅤ暫く嗚咽だけが響き渡った。

ㅤ七瀬からハンカチを貰い涙を拭った。

ㅤ赤く腫れた目、その奥に光る碧い色をした瞳は、此処から大分先の光を見据えるかのように輝き満ちていた。

ㅤやがて早川は、口を開く。

『もう……これで負けるのは最後だよ。ボクは負けないエースになる!ㅤボクを救ってくれた皆と一緒に甲子園に行きたい!!』

ㅤヒクヒクと震えた言葉だった。

ㅤけど、何よりも意思がある力強い声でもあった。

『よっしゃァァァアアアーーー!!ㅤよく言ったぜェ早川ッ!! その話乗ったぜ!!ㅤテメェらも聞いただろ?ㅤ負けるのはこれで最後の最後だッ!!ㅤこの夏に向けてやるしかねェよな!』

『星くんの言う通りでやんす!ㅤ凹む余裕があるなら前に進むでやんすよ!』

ㅤそして早川の言葉で、俺たちは山の宮高校に負けた悔しさを乗り越えた。

 

 

———

——

—。

 

「ああ、覚えてるよ」

ㅤ暖かな風が俺と早川の間をすり抜ける。

「でもね、球太くん……」

 

ㅤ早川は言葉を詰まらせた。

ㅤ表情も何処か暗い。

 

「あんな事言ったけど……自信がないんだ」

 

ㅤ紡ぎ出した言葉は、弱音だった。

 

「弱音を言っちゃダメなのは分かってるよ。でも……」

 

ㅤ——ガシッ。

 

ㅤ早川が俺に抱きついて来た。ほんのり香る柑橘系の香りが漂う。

 

「——ッ!?ㅤ早川!?」

「怖いんだ。本当は怖いんだ……」

 

ㅤ予想にもしなかった。

ㅤ負けず嫌いな早川の事だ、また闘争心を燃やして練習に打ち込むだろうと安易な考えをしていたが、太郎丸との投げ合いは同じピッチャーとしての劣等感をまさかこんなにも早川が受けていたのか……。

ㅤ今にも晴れた空から急に降りだしてくる天気雨のように、泣き出そうとする碧い色の瞳に溜まった雫を俺は指で拭った。

 

「球太くん……?」

 

ㅤ——早川、お前は言ったよな?

ㅤ——もう負けないんだろ?

ㅤ——だったら泣くのもアレが最後だろ?

「バカだな……らしくねえ弱音なんて吐くんじゃねえよ。いつもの明るい早川あおいは何処に行ったんだ?」

ㅤぎゅっと小さな体を抱き締めた。

「ゴメン……」

「任せておけって、俺が連れて行くから」

「えっ?」

「約束する。どんな事が起きようとも俺は・・・・・・お前をアイツら必ず甲子園に連れて行く」

「・・・・・・球太くん?」

「だから……一緒に行こうぜ。甲子園」

「うん!」

ㅤ暫く俺は早川を暖かく抱き締めていた。

 

 

「あおい……もう大丈夫そうでよかったです」

「チッ……はるかさんがあんなにも早川の事を心配してたからちょっと様子見に来てみればこの様だぜェ!! あのバカ共めはるかさんの目の前でイチャつきやがって!」

「何言ってるでやんすか。星くんだってあおいちゃんの事を心配してたでやんすよ?」

「うるせェな!! 俺はただ相棒のキャッチャーとして気遣っただけだ!ㅤま、大丈夫ならそれで良いんだけどなッ!!」

ㅤドア越しから二人を眺めていたのは、七瀬はるかに矢部、星の三人だった。

「うぅ……。球太様と早川さんがあんな至近距離で……抱きつき……今まさに"キス"しそうな雰囲気まで気を許してしまうなんて……倉橋彩乃一生の不覚ですわッ!!!」

ㅤその三人の背後、ギリギリとハンカチを噛み締めて涙目を浮かべて倉橋彩乃が立っていた事に気付き三人共、吃驚した。

「うわッ!!ㅤテメェは金髪パッツン孫娘ッ!? いつのまにそんな所にいやがった!?」

「お黙りなさいッ!!ㅤこの不良気取り!!ㅤ私の心は今それどころではありませんのよッ!!

「は、はいッ! すんません・・・・・・」

 

ㅤこうして、春の大会は終わると同時に街に色を付けていた桜も散った。

ㅤそして……最後の夏がやってくるのだった。



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第41話 一回戦 VS極亜久高校

ㅤ六月。

ㅤ息を呑み静まり返った夏の甲子園予選大会の抽選会場。

 俺はそこにいた。

ㅤ各高校の監督、マネージャー、主将が訪れている為、見慣れた人物も多い。

ㅤなんせ今日は高校球児に取って大事な日だ。

 夏の予選大会が決まるのだから……。

 

ㅤだが、そんな見慣れた顔ぶれが多い中、気になったのは聖ジャスミン高校の主将であるリーアム楠とマネージャーの姿が全く見当たらなかった事だ。

ㅤたまたま近くにいた春海に話を聞いた事によりその事実が解った。

ㅤ春の大会のあの試合後、左肩に痛みを訴えた太刀川は病院に行き、練習の極度のオーバーワークによる"インピジンメント症候群"と診断され投手として、今後の野球人生の痛手となる爆弾を抱えていてしまったとの事だった。

 今後の太刀川の野球人生を見据えてリーアム楠と八宝乙女が判断し本人と聖ジャスミン高校メンバーを説得し、聖ジャスミン高校は無念の出場辞退を申し出たとの事らしい。

 

 

 

 

『Aブロック、五番、ときめき青春高校』

 

ㅤハッと我に返り、既に始まっていた予選大会の抽選。

ㅤ丁度今、ときめき青春高校の主将を務める青葉春人が引いたのはAブロックで、一回戦は同じくAブロックの四番の赤とんぼ高校と激突する様だ。

ㅤ因みに俺たち恋恋高校はCブロックの七番を引いた為、一回戦の対戦相手はCの八番を引いたチームと戦う事になる。

ㅤ春の覇者であるあかつき大附属はAブロック、そよ風高校はBブロックのシードを勝ち取っていてCブロックは古豪パワフル高校、Dブロックは太郎丸と名島のいる山の宮高校だ。

ㅤ勝ち進めば準々決勝ではパワフル高校、準決勝で山の宮高校と戦う事になるだらう。

ㅤそして、決勝戦は必ず彼奴が勝ち上がってくるだろう。

ㅤ——猪狩守。

 いや、あかつき大附属が待ち伏せていると言う事になる。

ㅤこれで漸く猪狩との戦いが出来るって訳だ。

ㅤ随分、寄り道してて時間が掛かっちまって申し訳ねぇ気持ちがあるが、今の気持ちを率直に伝えるならと「楽しみで仕方がねえ」かな?

ㅤ首を長くして待ってろよ、猪狩。

 

ㅤ——ザワザワ。ザワザワ。

 

ㅤどよめいた抽選会場。

ㅤどうやら俺たちの一回戦目の相手が決まったみたいだ。

 

『Bブロック、八番——』

 

「——ッ!?」

「あ・・・・・・あの方は!」

ㅤ七瀬が目を見開いて呟いた。

ㅤそう、俺たちはそいつを知っている。

ㅤそいつは、不敵にも笑みを浮かべていた。

ㅤその手で引いた番号を明らかに、俺に向けて突き出している。

ㅤ身に纏う雰囲気はドス黒く、黒くて長い髪から覗かせる冷たい漆黒の瞳にギザギザに尖った不気味な歯、初めて会った二年前と同じで忘れもしない。

ㅤ星と矢部くんのかつての仲間である。

 

『——極亜久高校!!』

 

ㅤ極亜久高校の悪道浩平だった。

 

 

 

———

——

—。

 

 

 

「一回戦の相手は……極亜久高校だ」

「「——ッ!?」」

 

ㅤ抽選会が終わり、そのままの脚で恋恋高校へと戻った俺と加藤先生と七瀬はすぐ様、全員に部室に呼び出して伝えた。

 

「再び、悪道浩平くんと戦うんでやんすね」

「オイオイオイオイッ!!ㅤいきなり浩平とぶつかるってのかァ?ㅤなンだよッ!!! 最高にクジ運がいいじゃあねェか!ㅤ流石はキャプテン!」

「・・・・・・何だか、お前がキャプテンとか呼ぶとメチャクチャ気持ち悪いな」

「ウッセェッ!! やかましいわッ!!!」

 

ㅤ文字通り上機嫌と言った所だろう。

ㅤ常に顰めっ面の不機嫌な星がこんなにもニヤニヤと喜びを十分に表現した顔付きをしているのを見るのは初めてじゃないのか、という程余りにも馴れ馴れしくこうして呑気に肩に手を掛けてくる星に八割程、ウンザリした目で見つめ掛ける手を振り払った。

ㅤそして、トーナメントの一覧表を加藤先生に人数分コピーしてもらい皆に配った。

 

「一回戦は極亜久高校。二回戦はバス停前高校と球八高校の勝者。三回戦はきらめき高校が勝ち上がるとしても……、何処も力のある学校ばかりでやんすね・・・・・・」

「ンだよ!! 最悪なクジ運ねえじゃねェか!ㅤ見損なったぜ、この馬鹿野郎ッ!」

 

ㅤバシッ!

ㅤ何故だか知らないが肩を叩かれる。

ㅤそして今の言葉、さっきの言葉の反対語で台詞を吐いた。

ㅤどうやら星の中では『キャプン』の反対語は『馬鹿野郎』らしい。

 

「かなり厳しい戦いになりそうだね……」

ㅤ一覧表を眺めながら早川が呟くと、全員が黙ったまま頷いた。

ㅤ確かに……早川の幼馴染がいる矢中智紀率いる球八高校も春海達のきらめき高校はここ何度かの大会ではかなり力を付けて勝ち進んでいる印象が強い。

ㅤオマケに古豪パワフル高校も最近じゃ麻生と戸井の投打コンビが起爆剤となり今では"強豪復活か?"と言わしめるほどの実力を認められているほどだ。

 

「ここで嘆いていても仕方がねえ。よし!ㅤ早速、練習に取り掛かろう!」

「よっしゃー!ㅤそれじゃまず、俺様の華麗なノックから始めるとするぜッ!」

「えーー。星くんのノックなんてほぼ意味ないでやんす!」

「うるせェな!ㅤ黙ってノックを受けやがれ、クソメガネ!ㅤこの前の聖ジャスミン高校の試合であのノックが役に立っただろうが!」

「え〜あれはたまたまでやんす! 星くんのノックなんて役に立ってないでやんすよ!」

「テメェ・・・・・・」

 

ㅤあちゃー。

ㅤいつも通り二人のあーだこーだが始まってしまった。

ㅤまあ、このやり取りをしてるのなら二人はまだ一安心だろう。特に星に見られる落ち込んだ時、練習のやる気がトコトンなくなってしまうほど、メンタル面ではかなり弱い部分もあるからある程度は余裕がありそうだ。

 

「おっと、こんな所で油売ってる暇なんてねェぜ!ㅤいいか、テメェら!ㅤさっさと表にでやがれ!!ㅤ沢山しごいてやらぁ!」

「あー。ちょっと待った、星」

「あん?」

「お前は早川とピッチング練習。早田と椎名もブルペンで投げ込みをして欲しいんだ。まあ、ある程度投げたらバッテリーを交代して、そのまま続けてくれ。他は守備練習から始めるぞ、ノックは俺がする!」

「チッ!ㅤ解った。仕方ねえな……」

「わーい、わーい!ㅤやったでやんす!ㅤ小波くんのノックならどっかの誰かさんと違って的確で安心でやんすからね!」

「なんだと、テメェーー!!ㅤ試合は的確には打球は来ねェんだぞっ!!」

「ノックでホームラン打って自己満足してる星くんなんかよりは数十倍もマシでやんす!」

「言わせておけば・・・・・・テメェ、ふざけんなよ!ㅤ今、そのヘンテコな瓶底メガネカチ割ってやンぞ!」

「っもう!! 二人ともうるさい!!」

ㅤボカボカッ!!ㅤ鈍い音が聞こえると、二人は一瞬にして黙り込んだ。

ㅤそりゃあそうだ。久しぶりに早川のゲンコツを直々に食らったんだから、それは痛い筈だ。

ㅤ取り敢えず、多少の不安はあるが何とか大丈夫そうだろう。

「星くん!ㅤいつまでそこで倒れてるの?ㅤ早くブルペンに行くよ!」

ㅤそう言い残し、早田と椎名を引き連れて勢い良く部室を飛び出していく早川の背中を未だに焦点が合わない眼で眺めながら溜息を漏らす。

「何だ?ㅤ早川の奴、元気ありすぎじゃね?」

ㅤ星がゆっくりと腰を上げ、キャッチャー防具が入ったバッグを取り出して部室を後にしようとした。

「あ、星!ㅤ言い忘れた事があった」

「あん?ㅤなんだ?ㅤ馬鹿野郎」

ㅤ……まだ、馬鹿野郎呼ばわりされるのか?

「今の早川の"高速シンカー"は今までよりも"一味違う"ぜ?」

「一味違う?ㅤ何のことだ?」

「オイラも気になるでやんす!」

「それはお楽しみだ」

 

ㅤ不安はある……。

ㅤけど不安だけじゃない。

ㅤ希望はキチンと確かにある事だ。

ㅤあとはやる事をやり、挑むだけ。

ㅤそう……。後はやるだけなんだ。

 

 

 

 

ㅤ蝉の鳴き声が鳴り響き、燦燦と照りつける日差しがチリチリと肌を焦がす。

ㅤようやくテレビで梅雨明けを公表し本格的な熱さを感じる七月に入り、俺たちの最後の戦いである夏の甲子園大会が幕を開けた。

ㅤ対極亜久高校との戦いは、丁度二年前。矢部くんの一件で練習試合を組んだ時以来になる。

どこまで喰らい付いて行けるか、どの程度引き離せるか相手の力もまだ未知数だ。

ㅤそして、悪道浩平の織り成すオリジナルの変化球である"ドライブ・ドロップ"を如何に早く見極められるかが勝負の鍵になるだろう。

ㅤチラリ、とバックスクリーンの時計へ目を移す。

ㅤ時刻は十一時二十七分を廻っていた。

ㅤ試合まで残り三分。そろそろ始まるな。

 

「よし!ㅤ皆、集合!ㅤスターティングメンバーの発表だ」

ㅤ俺の掛け声と共に全員が一斉に集まる。

ㅤ円陣を組み俺は真ん中に立ち見渡す。

ㅤ皆、気合い充分だ。

 

「夏の大会初戦だ!ㅤ取り敢えず気を楽にして俺たちの野球を楽しんでやるぞ!」

「「おうっ!!」」

「一番ㅤセンターㅤ矢部くん!」ㅤ

「"スピードスターの矢部"の力を見せるでやんす!」

 

「二番ㅤショートㅤ赤坂」

「矢部先輩の盗塁の援護は任せろっス!」

 

「三番ㅤキャッチャーㅤ星」

「浩平の野郎をぶッ潰す!!ㅤただ、それだけだ」

 

「五番ㅤレフトㅤ山吹」

「おっしゃ!ㅤ行くぞぉ!」

 

「六番ㅤセカンドㅤ海野」

「いつも以上に暴れて行こう!」

 

「七番ㅤライトㅤ御影」

「存在感を見せつけてやってやるッスよ!」

 

「八番ㅤサードㅤ毛利」

「春の俺とは一味違うところを見せてやる」

 

「九番ㅤピッチャーㅤ早川」

「遂に始まるんだね。ボク達の最後の夏が」

「ああ、楽しみで仕方ねえ!」

「奇遇だね。ボクも楽しみだよ」

ㅤニヤリと笑みを交わし、ベンチに出る。

ㅤ夏の暑い日差しがグラウンドを照らす。

 

「両チーム、整列っ!!」

ㅤ球審の掛け声と共に俺たちはホームベース前と駆け出した。

ㅤ今目の前に立ち並ぶ極亜久高校悪、そして道浩平は此方を凝視して笑っていた。

 

「オイオイ・・・・・・なンだなンだ?ㅤ揃いに揃ってどいつもこいつもやる気に満ち溢れたって顔してやがるぞ?ㅤ恋恋高校の皆様は、随分とお利口さんだよな?ㅤおい」

「ケケケッ!」

「偉い偉い!ㅤマジお利口さんッス!」

ㅤ悪道が大声で笑いだすと悪道の取り巻き達が一斉にして揶揄い始めた。

「いいか?ㅤ其処に居る眼鏡は、この俺の一番目の子分だからオメェら優しく接しろよ?」

「確かアレですよね?ㅤ赤とんぼ中学でかなりの有名人だった、パシリの矢部先輩ッスよね?」

「あははははッ!!!」

「顔からしてそうだろ!」

 

 

「………ッ!?」

ㅤ相変わらず、卑劣な野郎だ。

ㅤ今にもその大口開けて余裕を見せている憎たらしい顔をぶん殴りたいと言う気持ちを押し殺し、ギュッと握りこぶしを作った。

 

「君、私語を慎みたまえ!」

ㅤ塁審の方が注意を促すと、悪道は大きな舌打ちを鳴らして黙り込み、此方を睨みつける。

ㅤこの試合「何も無く」終わる事は決して無いぞと言わんばかりに圧力を掛ける酷く冷徹な目をしていた。

 

「礼ッ!」

「「お願いします!!」」

 

ㅤ今から試合が始めると言わんながりの合図が空に向かい、響き渡るサイレンが鳴る。

ㅤ先攻は俺たち恋恋高校からだ。

ㅤマウンドに立ちボールを投げ込む悪道。

ㅤズバンっと球威を見せつけるかの様に轟くストレートは二年前に対戦した時よりも一回りスピードもノビも威力を増しているようだ。

 

「一番ㅤセンターㅤ矢部くん」

ㅤ気合いの入った咆哮を上げ、右のバッターボックスへと向かって行く。

ㅤ初球。放り抜いたストレートがズバァンと乾いた音を鳴り響かせる。

ㅤ球速百四十八キロ。インコース高めにズバリと決まった。

ㅤ二球目は大きくアウトコース低めへと落ちるフォークボールをスイングするが空振りしツーストライクとなる。

ㅤストレートにフォーク、以前戦った時と同じ攻め方だ。簡単に追い込むことが出来たのなら恐らく次に来るのは……。

"ドライブ・ドロップ"

 

ㅤ悪道は振りかぶり豪快なオーバースローから三球目を投じる。矢部くんの頭へと目掛けて投げられたボールは緩やかに向かって行く。

ㅤククッと急激に落ちて行くボールを矢部くんは仰け反ることなく、思いっきりバットをスイングするが……。

ㅤズバァン!!ㅤ快音響かず空振り。

ㅤ以前より変化球にキレが昇華して居ることに驚いたが、それ以上に驚いたのは、キャッチャーの犀川が捕球したのはアウトコース低めギリギリストライクゾーンだった。

ㅤ以前は顔から落としいた"ドライブ・ドロップ"だったが、今のは頭から落とした。

ㅤ落差が桁違いに大きくなっている。

 

「ストライクーーッ!ㅤバッターアウトッ!」

「はははッ!!!ㅤざまぁねェな!ㅤテメェの様な雑魚に、用はねェンだよッ!! さっさと失せやがれ!!!」

 

ㅤ悪道は大きい声で笑う。

 いちいち喚かないと気が済まない様だ。

ㅤ嘲笑う悪道の事など気にもせず矢部くんがベンチへと引き下がり続く二番打者、赤坂が打席に立つ。

ㅤ球速のあるストレートから緩めのシンカーでタイミングを僅かにズラし簡単に追い込む。

ㅤどうやら切り札以外の球種も磨きがかかって居るらしく、そう簡単に手出しは出来ないようだ。

ㅤ極め付けに三球目は、やはり進化を遂げた悪道浩平の"ドライブ・ドロップ"の前では、バットに掠る事すらままならず空振りの三振に仕留められてしまった。

 

『三番ㅤキャッチャーㅤ星くん』

「オラァーーッ!ㅤ来やがれッ!!!ㅤ浩平ッ!!! テメェの甘ったれたカーブ、この俺が打ち砕いてやるぜ!」

「チッ・・・・・・黙れ、雑魚が!ㅤ好き勝手にほざきやがれ、その余裕面を今からぶっ潰してやるぜッ!!!」

 

 

 

ㅤ俺たちの視線はバチバチと火花が散らす様に睨みつけ合う。

ㅤ相変わらず浩平の野郎は気に食わねえ。

ㅤ確かに前とは違う雰囲気は感じられるのは認めてやるぜ。

ㅤだがよぉ、目の前にしてああも矢部の事、仲間を貶されると普段口の悪い俺が言うのもアレだがかなりムカッ腹が立つぜ。

ㅤ ギュッとグリップを握りしめる。

「浩平の球はこの俺が絶対に打ってやる」

「ふっ、それは無理だな」

ㅤふと漏らした声に反応したのか後ろからポツリと呟く声が聞こえ俺は、僅かに視線を下に向ける。

ㅤそうだ。そうだった。

ㅤそう言えばテメェも此処に居たんだったな。

ㅤやはりテメェも立ちはだかる気か……。

ㅤ"ささやき戦術"の使い手、犀川。

ㅤここでテメェが俺にこうして話を掛けて来たって事は、前と同じく揺さぶりに来た訳だ。前回はまんまと術中に嵌り随分と振り回されちまったが今回はそうは行かねえぜ。

 

「そう警戒するな。俺たちはお前達に感謝してるんだ」

「…………」

 

ㅤ感謝、だと……?

ㅤ一球目、浩平が真ん中高めにフォークボールを落とした所をスイングしたがバックネットへと飛んで行った。

ㅤチッ……。

ㅤ今のはセンター前に叩き込むつもりだったがタイミングを合わせられなかった。

 

「一度、俺たちはお前達に負けた。それで浩平も俺もようやく目が覚めた。自分たちの実力じゃ勝てないと、な」

ㅤ二球目。ストレートギリギリ外れたボールを見送り、カウントはワンストライク・ワンボール。

ㅤ顔を何一つ動かす事なく浩平を見つめながら犀川が呟いた。

ㅤその言葉に、俺はゾクッと悍ましい何かを感じた。

 

「そして理解したのさ」

「何をだ?」

「フッ、それはシンプルな答えだったよ。勝てないのなら勝てば良い……そう・・・・・・勝てないのなら潰せば良い、とな」

「——なッ!?」

 

ㅤキィィン!!ㅤ力の無い金属音。

ㅤしまった。

ㅤ今の犀川の言葉に思わず気を取られちまった。

ㅤ打球は弱々しく打ち上がりファーストフライの凡打に打ち取られてしまう。

 

「クソッ!!ㅤやっぱり今のは俺の集中を削ぐための罠だったワケか!」

「さぁな、そいつはどうかな?」

「ぐっ……この野郎ォォ」

 

 

ㅤ無得点のまま恋恋高校の攻撃が終わり、一回の裏極亜久高校の攻撃へと変わる。

ㅤ一番打者は、ピッチャーの悪道浩平からだ。

 鋭い目つきが星の顔を捉える。

 

「息巻いていた割には、呆気なかったなァ? 星」

ㅤ嘲笑いながら右打席に立つ。

「チッ、五月蝿ェ野郎だ。たった今からリベンジしてやらァ!!」

 

ㅤ球審の「プレイ!」の合図を受け、早川が投球モーションへと移行し、アンダースローからストレートを放り投げた。

ㅤ——パァン。アウトローへ百十八キロの緩いカーブが星のミットに収まる。

「………?」

「ストライクーーッ!」

 

「ナイスボールだ!」

ㅤ星が早川へとボールを返球しながら言う。

ㅤ悪道はギラリと凍てつく様な瞳で星を強く睨みつけていた。

「なんだテメェ、何見てんだよ」

「キヒヒヒ・・・・・・少しはやる様になったじゃあねェか」

ㅤギリリ……と歯を食い縛る。

「お前のリードだから、てっきりインコースのストレートだと予想していたんだがな」

ㅤ星は黙ったまま腰を据える。

ㅤ態度が気に食わなかったのか、自分が立てた予想外なリードをされた事にイラついたのかは定かでは無いが、大きな舌打ちを一つ鳴らした後、ホームベースにバットの先端をコツンと叩いて次のボールを待った。

 

(インコース。高めのストレート)

 

ㅤㅤ二球目。

ㅤ悪道浩平の予想を又しても覆した。又してもアウトローへのカーブを投じ、手を出す事なくボールを見送った。勿論、ストライクだ。

「——何ッ!?」

ㅤ目を見開き、唖然とした顔をする。

ㅤカウントはツーストライク。

ㅤ早川がゆっくり振りかぶり足を踏み出した。

ㅤ身体を沈めて腕を振る。そのピッチング動作が悪道にはまるでコマ送りでもしたかのように見えた。

ㅤ三球目は早川の得意球である高速シンカーだった。

ㅤ右打席に立つ悪道から内側へと急激に曲がって落ちてくる様に見える高速シンカー。内角低めやや膝下の高さは、悪道の一番好きなところだ。

「雑魚如きが……舐めた真似してンじゃねェェェェェッ!!!」

ㅤ力一杯スイングした。

ㅤ打球音が響くと場内からは「ああ〜」と落胆した声が沸く。高々と打ち上がっていく打球を眺めて、悪道は舌打ちを鳴らしバットを地面に叩きつけた。

「クソッたれがッッ!!」

ㅤセンター矢部がグラブで捕球しワンナウトとなった。

 

 

 

「あちゃー。今のスイングは力み過ぎだろ」

ㅤ地方球場三塁側のスタンド席から、悪道が放ち大きく打ち上がったフライを眺めながら言葉を漏らした。

「さっきの試合で気合い入りすぎた上に四タコのお前が言うのには余り説得力が欠けるな。雄助」

「ツネ。それは本人の目の前で言っちゃダメなの言葉だろ……」

「あはははは!ㅤ悪いって、そう落ち込むな」

ㅤ高笑いを浮かべているのは球八高校の中野渡恒夫と、落胆した暗い顔立ちをしているのは同じく球八高校の塚口雄助だ。

ㅤ恋恋高校と極亜久高校が戦う一試合前、球八高校はバス停前高校と戦った。

ㅤ結果は八対〇で球八高校が二回戦へと勝ち進み、今は次の対戦相手を見定める為に球場に残っていた。

「なぁ、ツネ。お前は恋恋高校と極亜久高校のどっちが勝ち上がると思う?」

「どっちだろうと戦って勝つだけだろ?」

「でもさ、お前達的には恋恋高校が来て欲しいんじゃねえのか?ㅤ早川あおいとは同中だったんだろ?」

「同じ元チームメイトでも容赦はしない。きっと智紀に聞いてもそう答えるさ」

ㅤジッと視線をグラウンドへと向ける。

ㅤ丁度、二番打者の犀川がワンストライク・ツーボールのカウントから大きくライト方向へファールを打った所だった。

「ま、そうだな。でも俺は戦うなら断然、恋恋高校が良い!ㅤだってあの女マネージャー可愛いからな。・・・・・・それに極亜久高校と試合なんかゴメンだぜ。小さな事で、直ぐに乱闘騒ぎになりそうだ」

ㅤ想像しただけで悍ましい、と言わんばかりのジェスチャーをする塚口雄助。

「でも、もし乱闘騒ぎになったら、雄二が何とかしてくれるだろ?」

「だな!」

ㅤ二人は、声を上げて笑った。

 

「それはどうかな?」

「智紀・・・・・・」

「今の雄二はそんな事はもうしないと思うよ」

ㅤ二人の笑い声を制止させ、二人の横に座る。

ㅤ高校球児とは到底思えないほど小柄で、塚口と中野渡と同じ高校三年生とは思えない幼すぎる童顔の青年はそう答えた。

ㅤそう、その青年は球八高校のキャプテンを務める矢中智紀だった。

ㅤ先ほどの試合バス停前高校相手に九回完封勝利と好投を収めたエースだ。

「雄二。そうだろ?」

「ああ、そうだな」

ㅤ矢中の隣に座る百八十後半はある長身をしていて、一見不良青年にも見て捉えらるほど、隣に座る矢中とは正反対の顔立ちをしてる青年は球八高校三年生の四番打者・滝本雄二だ。

ㅤ犀川が三振に打ち取られツーアウトとなり、三番打者もサードゴロに仕留めらてチェンジとなった所で、滝本は静かに呟いた。

「恋恋高校と極亜久高校……俺はこの試合、少し嫌な雰囲気を感じる」

ㅤその視線は、マウンドへと歩いていく悪道を捉えていた。



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第42話 一回戦 VS極亜久高校②

「どう言う訳だ?」

「あ?」

ㅤと、犀川は後味が良くない顔で呟いた。

「星の采配をいとも簡単に読めるお前も俺も思っていた所と違った所に投げ込まれて抑えられたぞ?」

ㅤ犀川が投げかける言葉に、悪道浩平はギラッと鋭く睨むつける。まるで身体中に怒りが激しく波打つかのように荒々しい表情だった。

「はン?ㅤそんなのこの俺が知るわけねェだろ?ㅤけど、臆する事は一つもねェよ。彼奴らが俺の『ドライブ・ドロップ』をバットに当たることはねェ限り点は入らねェ……それに俺たちはこんなくだらねえ甲子園を掛ける戦いに最初から興味なんぞねェンだからよ」

ㅤ悪道はギュッと力強く拳を握り歯を食い縛っていた。二年前に負けた悔しさは決して消える事なく怒りに満ち溢れている。

ㅤそして、悪道は言葉を続けた。

「気に入らねェ……。俺は小波を潰し、星と矢部、恋恋高校共の絶望に満ちた青ざめた顔を拝めればそれで良い」

「……そうか。次はその小波からの打順だ。その怒りは投げる時にぶつけるんだな。冷静さを失って狙い通りの"小波潰し"で行く事を忘れるなよ?ㅤ浩平」

「ああ、任せておけ」

ㅤ不敵な笑みで悪道と犀川の二人はグラウンドへと向かう。

 

 

 

 

ㅤ照りつける日差しが肌を焦がすかのように熱い。

ㅤ澄み渡る空には雲ひとつ無い。

ㅤ絶好の野球日和って訳だ。

ㅤ確か今日の天気予報は一日中快晴で、お昼過ぎになると気温がガッと上がって最高気温は三十六度を超えると朝のニュースで天気予報士が言っていたっけ。

 

ㅤ試合は両チーム無得点のまま二回の表の攻撃に入り、打順は四番の俺から始まる。

ㅤマウンドでは悪道が投球練習を行う。

ㅤ与えられた三球目を投じ、勢いのあるストレートが犀川のミットへ吸い込まれた。

 

『恋恋高校の攻撃。四番ㅤファーストㅤ小波くん』

 

「球太くん!ㅤ頼んだよ!」

「浩平の野郎をギャフンと言わせてやれ!」

ㅤウグイス嬢のアナウンスが場内に響き渡ると共にネクストバッターズサークルから歩き出し右打席に構えた。

ㅤグッとバットを握りしめて悪道を睨む。

ㅤどうやら向こうも俺の視線に気づいたようだった。睨み返してくる冷たい視線にニヤリと緩む口元に何か企んでいそうな違和感を感じた。

ㅤそれが全く何なのか解らないまま、悪道は投球モーションへと移り、大きく踏み込んで右腕を振り抜いた。

ㅤその初球。

 

 

「——ぐッ!?」

 

 

 

ㅤドゴォ!!ㅤ硬球特有の鈍い音を立てる。

ㅤその瞬間、俺はバッターボックス上で蹲り肩を抑えて倒れ込んだ。

ㅤ悪道が放り投げた百四十七キロをマークしたストレートは避ける間も無く俺の左肩を躊躇なく抉ったのだ。

 

ㅤそして……。

 理解した。

 

ㅤさっき違和感を感じたのは、悪道は最初から俺との勝負などするつもりは無く、デッドボールを与えるつもりだったという事だ。

ㅤ今まで相対したどのピッチャーもいつも打席に立って感じていたモノが悪道にはなかった。

ㅤ相手を捩じ伏せる為に攻めの先手の一手でもある。気持ちから勝ちに行く闘志が今の悪道には全く感じ取れなかった。

「あの野郎ォ!ㅤふざけやがって!ㅤ今の球ワザと小波に当てやがったな!?」

「球太くん!ㅤ大丈夫!?」

「大丈夫でやんすか!?」

ㅤ倒れ込んだのを見過ごせなかった星と早川と矢部くんが勢い良くベンチから飛び出して俺の元へと走ってくる。

ㅤまず俺の事を起き上がらせてくれたのは早川だった。デッドボールを受けた俺にビックリしたせいか早川の顔がやや少し青ざめて見える。

「浩平、テメェ……」

ㅤギリリリと歯を鳴らし、星が溢れかえる怒りで早川とは対照的に顔を紅潮させながらも何とか怒りを堪え悪道を鋭く睨むつけていた。

ㅤ帽子を取って、軽くペコリと会釈をする悪道だがその表情は悪びた様子は無く、更に星の怒りを煽り立てる。

「——ッ!? このヤロォ!」

「待て、星」

「小波!?」

「俺は大丈夫だ」

ㅤガッと左肩を抑え、俺は星を宥めた。

ㅤズキズキと痛みが走る。

 思わず顔が歪んでしまったが、今にも悪道に向かって殴りかかりそうな星を抑える為には大丈夫だと言う安心感を与えるのが何よりも効果的だ。

ㅤ早川の肩を借りてゆっくりと立ち上がり一塁へと歩いて行き、三人は心配そうな表現を浮かべながらベンチへと引き下がって行く。

 

ㅤノーアウト一塁。五番打者の山吹が打席に構えた。

「球太くん……本当に大丈夫かな?」

「一応、心配無いようには見えるでやんすが……」

ㅤ恋恋高校のベンチでは、星と矢部、早川は一塁ランナーの小波に目を向けている。

ㅤすると星は打席に入った時、犀川が口にした言葉を思い出した。

 

『そして理解したのさ。勝てないのなら勝てば良い……勝てないのなら潰せば良い、とな』

 

「チッ!! あの言葉・・・・・・そう言う意味だって事かよ!!」

ㅤバッと立ち上がる星。冷や汗混じりで焦りの表情を浮かべる。

「星くん、急にどうしたの?」

「いや、最初から彼奴らは小波との戦いなんて望んじゃいなかったっね訳だ!!」

「え?ㅤちょ、ちょっと星くん!ㅤそってどう言う意味?」

「さっき俺が打席に入った時だ。犀川の野郎がわざわざ俺に言ってきたんだ。『勝てないのなら潰せば良い』ってな」

「だからって悪道くんはワザとデッドボールを投げたってことでやんすか!?」

「いや……『潰す』と言っておきながら目的がただ小波にボールをぶつけるって事だけを指すってのなら何の心配はねェ。・・・・・・ただ何か違う様な、他に何か企んでいる様な、嫌な予感がしてならねェ」

 

 

「…………」

ㅤ痛みが治らねえ。

ㅤ渾身のストレートをまともに喰らった後だ。

 痛みが引くのはまだ時間が掛かるだろう。

ㅤ俺は一塁ベースからリードを少し取って悪道を見ていた。至って冷静。俺へのデッドボールに影響は全くなさそうだ……。ま、最初から狙ってたんだからそりゃ動揺も何もある訳じゃない、か。

ㅤカウントはツーボール、五番打者の山吹に対して三球目を投じ、アウトコースのストライクを取った。これでワンストライク・ツーボール。バッティングカウントだ。

ㅤ肩をなぞりベルトに手を触れ、ヘルメットのツバを軽く擦りサインを出す。

ㅤサインは、ヒットランだ。

ㅤ頼むぞ、山吹。ゲッツーだけは避けてくれよな。そして、俺は走る為、大きく一歩、リードを深く取った

ㅤそれを警戒したのか、勘付いた悪道が解るようにピッチャープレートから脚を外し、ヘッドスライディングで戻ると同時に牽制球をファーストへと投げる。

ㅤ悠々セーフ。

ㅤだが、牽制球は僅かに逸れる。

ㅤファーストが「おっと……」と声を漏らし捕球するなり今度は右肩を目掛けて、ファーストミットを叩きつけられた。

 

ㅤバシィィッ!!

「——痛ッ!!」

「セーフ!!」

 

ㅤ痛ッてえー!!ㅤこのファースト、プレーボール前に矢部くんをあざ笑ってた悪道の取り巻きの一人だな。

 さっきの死球同様、此処でも同じくワザとラフプレーをやって来たって事かよ。

 セーフと分かっていながらも、まるで虫を叩き殺すように有りっ丈の力を込めてタッチプレーをして来やがった。

 オマケに塁審には見えない絶妙な死角を意図的に狙っている。

ㅤへへ、随分とやってくれるじゃねえか。

ㅤこれで極亜久高校の企みが漸く分かった。どうやら全員が"俺狙い"の様だな。

ㅤと言う事は、この試合これからの打席では俺は悪道に死球を狙われ続け、塁に出てみれば今みたいに同じ事を繰り返されるって事か。

 

ㅤドシッ!

ㅤ俺は一歩多めにリードを取る。

 

「小波ィィ……。テメェ……俺たちの目論見を見抜いた上で更にリードを取るつもりか!?」

ㅤㅤ

ㅤ激しく威嚇した眼光が俺を包む。

ㅤそう睨むんじゃねえよ。

ㅤ此処で狙われてる事解ってて「はい、そうですか」ってビビって踏み留まる程……俺は利口じゃねえんだぜ?

 

 

ㅤ——なぁ、聞こえるか悪道。

 

ㅤ——お前は野球が好きか?

 

ㅤ——お前に取って野球はなんだ?

 

ㅤ悪いけど、俺は先を約束を叶えるため、彼奴らを先への景色を見せる為に戦ってる!

ㅤ此処で踏み止まったら先には進めず、勝ちにも行けねえんだよ!

 

 

ㅤその後、十球連続牽制球を投げ込む。

ㅤ右肩を四回、背中に強く二回、顔面に二回とこれでもかと言うくらい容赦ないラフプレーが俺を襲った。

ㅤそれでも俺はリードを深く取り続ける。

ㅤ心が折れない覚悟は悪道、犀川にも伝わった様で此処で漸く山吹との勝負に出る。

ㅤサインは変わらずヒットエンドランだ。

ㅤ脚を上げたら、直ぐに走る。ただそれだけ。

 

ㅤ肩越しに俺を睨みつけて悪道は脚を上げた。同時に俺はスタートを切る。

ㅤ高めに投げ込まれた球速のあるストレートを山吹は一心不乱に振り抜いた。

ㅤ——キィィン!

ㅤ快音を残し、打球はセカンド方向の流し打ちとなり、ライトへと流れていく。

「よっしゃ!!」

ㅤ山吹は手を叩き、一塁を踏み込んだ。

ㅤナイスバッティングだ、山吹!

ㅤスタートを巧く切ることが出来た俺は、二塁ベースを蹴り上げて三塁へと脚を進める。

「チッ!! ライトォォォォォ!!!!ㅤ小波の野郎を決して三塁を踏ませるなァッ!ㅤ此処で刺し殺せェェェェェェェェ!!」

ㅤ腹の奥底から一気に喉元へと突き上げる無遠慮に叫ぶ大声を上げて悪道が怒鳴る。

ㅤその叫び声が空に響き渡るも虚しく、ノーアウト一塁・三塁のチャンスへと繋がった。

 

「こ、小波先輩……大丈夫ですか?」

「はぁ……はぁ……。お、おう。俺は大丈夫だ」

ㅤ三塁コーチャーを任された椎名が眉を顰めて心配をしてくれたので、ニヤリと余裕の笑みで返した。

 本音を言うのであればこれ以上辛い事は無い、が言ったところで悪道達が死球を投げて来なくなるわけでも無いのは分かっているし、チームメイトにも心配させるのも悪いから言わないでおく事にした。

 

「……流石に酷いね。見るに耐えないプレーだ。こんなのは野球じゃないよ」

ㅤ不満そうな顔つきで腕を組みながら、球八高校の矢中智紀が言葉を吐いた。

「これが極亜久高校のやり方って訳か……」

「噂通りエゲツない野球がお好きな連中がやりたそうなプレーだな。こりゃ、二回戦(次の試合)では当たら無い事を切に願うぜ」

ㅤ矢中の言葉に頷き、塚口が顰めっ面を浮かべながらグラウンドを眺める。

「本当に野球が好きなのかね、彼らは」

「さぁな。野球を好きかどうかなど知らんが、浩平はただ楽しむ野球を踏み間違えたって事だ」

「踏み間違えた? それはどう言う事だい?ㅤ雄二」

ㅤ矢中智紀、塚口、中野渡の三人の視線が一気に滝本へと向かれる。滝本は目をマウンドに立つ悪道を見るなり、口を開いた。

「かつて彼奴も中学生になる前は、ただの野球少年だったからな」

「な、何っ!?」驚愕する三人。

「ん……そんなに驚く事か?」

ㅤ意外そうに雄二が言う。

「そりゃ驚くに決まってんだろッ!?ㅤスポーツマンシップなんて皆無で極悪非道の悪道浩平が『実は昔は純粋なる野球少年でした』って言われて『へぇ〜なるほど、そうだったんだ〜』……ってなるとでも思ってんのか?ㅤ普通に考えてよ! なる訳ねえだろッ!!」

「雄助……焦るな」

「別に焦ってねえよ!ㅤて、言うか何に焦るんだよ?」

「それは悪道浩平にきっかけを与えた何かがあったって事だろ?ㅤ雄二はそれを知ってるんだね?」

ㅤ矢中が真っ直ぐな瞳で問う。

ㅤコクリ、と滝本は無言で頷いた。

 

 

ㅤノーアウト。一、三塁のチャンス。打順は六番打者の海野へと廻る。

ㅤ既に息が上がっている小波をいち早くホームに生還させたいと言う一心でバットを握りしめるものの、簡単にツーストライクへと追い込まれる。このカウントになると、やはり待ち受けていたのは悪道浩平の得意球である『ドライブ・ドロップ』が投げ込まれ、鋭い変化をする魔球にはバットを掠る事もなく空振りの三振に仕留められてしまう。

ㅤ対する海野を打席に迎えたその間、三塁ランナーの小波に牽制球を何度も投げつけた。容赦無い攻撃は、塁上にいる小波にダメージを与え続ける。

ㅤそして、ワンナウトとなり、七番打者である御影、八番打者の毛利を続けて三振に斬って恋恋高校はチャンスの場面で得点を挙げることは出来ずに二回表の攻撃が終わってしまった。

 

「クソッ!ㅤ折角のチャンスだったのに!」

ㅤ先制のチャンスにバットに掠ることすら出来ずに三振に打ち取られた海野が自分の非力さを悔やむように唇を噛み締めていた。

「……すまない。小波」

「落ち着け海野。俺は大丈夫だって」

ㅤそう、小波は笑顔で宥めた。

「だけど、お前……」

ㅤミットで叩かれ続けた俺のユニフォームには無数の砂埃が付着していて、顔も数回ミットと叩かれた為、鼻血が出たのだろう……片方からは擦ったように薄れた血の跡もあった。

「小波さん……冷えたタオルです。鼻血が出てますので、これでお顔を拭いてください」

「ありがとう。七瀬」

ㅤベンチに戻るなりすぐさま小波の元へと駆けつけたマネージャーの七瀬は、心配そうに眉を下げていた。

「悪りィな。小波」

「らしくねえな、星。なんでお前が謝るんだ?」

「打席に立った時、犀川がお前を潰すって囁いて居たんだけどよ……冗談だと思ってスルーしてた。先に言っとけばこんな事にはならなかったんだよ」

「そっか。俺はあのバッテリーの罠にまんまとハマっちまったって事か……してやられたって事だな」

「してやられたって……小波くん、それは余りに呑気でやんすよ!」

「そうだよ!ㅤ球太くん!ㅤキミはこの試合まともに勝負してくれないし、塁に出たらまたラフプレーされ続けるかもしれないんだよ?」

「そうだな!」

「いや……そうだなって!」

ㅤははは、と笑い大きな声で小波は一言「大丈夫」と言った。

ㅤあんなプレーがあったのにも関わらず、他人事の様に笑い、そして冷静で、オマケに余裕があるように見える小波に、恋恋高校のメンバーは誰もが不思議に思った時だった……。

 

「でもさ、俺がまともに勝負出来なくなったとしても、それでもお前らが悪童から打ってくれるんだろ?」

 

ㅤそう小波は言った。

ㅤ例え自分の打席にデッドボールが待ち受けていて、その先にラフプレーが待っていようとも塁に出た以上は、皆んなが俺をホームに返してくれると信じている。なら、俺はそのチャンスを作るキッカケになると……。

ㅤその言葉を受けて、星たちの表情がガランと変わった。

「ハハ……テメェは正真正銘の大馬鹿野郎だな、小波!ㅤ釣られる為にこっちから餌に飛びつこうって訳かよ!」

「ああ、そう言うことだ。俺ばっかり狙いを定め、見向きもしなかった獲物の方が実は厄介な相手だったかも知れねえのは知りはしねえけどな。期待してるぜ?ㅤお前達」

ㅤ悪戯な表情で小波はグローブを手に取る。

ㅤその言葉に他の皆は小波から『任せた』と背中を押された様な気がした。

「へっ!ㅤ俺たちのキャプテンは毎回毎回随分と好き勝手言ってくれるじゃねェの!ㅤそれなら見せつけてやろうじゃねェの!!ㅤあの勘違いバッテリーに俺たちの怖さをなッ!」

「「おう!!」」

 

 

ㅤ二回裏の攻撃、早川のピッチングはいつも以上に速球、変化球共にキレがありコントロールも更に冴えていた。

ㅤ極亜久高校は四番打者から始まる強打者相手に三振一つ、内野ゴロ二つと三者凡退に打ち取って魅せる圧巻のピッチングを見せつけた。

 

ㅤそして試合は三回の表へと進む。

ㅤ九番打者の早川から始まる打席……。一球目は早川の頭部のやや頭上、頭は約ボール三個分は超えるストレートが襲うと、球場からは騒めきでうめつくされた。

 

「今の球は危ないだろッ!!」

「真剣勝負しろーー!ㅤノーコン!」

 

ㅤ飛び交う怒号は、まるで高速道路に真ん中にぼんやりと突っ立っている様な感覚だった。

ㅤ真ん中にポツンと立つ俺は、そんな周りの言葉には一切耳を傾ける事なく、退屈しきった様な顔を浮かべて嘲笑った。

ㅤ——外野は黙っていろ!

 

ㅤ此処に立っているのは誰だ?

ㅤお前らにとやかく言われる筋合いはねえ。

ㅤ危ない球?ㅤ真剣勝負をしろ?

ㅤお前らに指図される筋合いもねえ。

ㅤ危ない球と、それは誰が決めた?

 

ㅤ——マウンドに立ち、投げてるのは俺だ!

 

「俺のピッチング(やり方)の……非道(ルール)の絶対はこの俺だ!」

 

 

ㅤズバァァァン!!

「ストライクーーーッ!」

ㅤ瞬く暇もない程、勢いのあるストレートで攻め立てる悪道。

ㅤボール、ストライク、ストライク、ボールと四球とも自己最速の百四十九キロをマークさせる。

ㅤ元々、早川の打撃は不得意分野に置かれる。手も足も出ない状態で五球目を素早いストレートで空を切られ、ワンナウト。

 

「一番ㅤセンターㅤ矢部くん」

 

ㅤ二打順目を迎え、打席には矢部くんが右打席に立つ。

「行くでやんす!」

ㅤと、活気溢れる咆哮を鳴らしバットを握りしめて構えた。

ㅤ初球。フォークボールが低めのコースに決まりワンストライク。

ㅤ二球目、やや高めのストレートをタイミング合わせバットを振り抜いてた。

ㅤ——カキィィィン!!

「チッ……甘かったか!」

ㅤ金属音が鳴る。芯で捉えた当たりはセンターの頭を超える長打となった。

ㅤ脚の速い矢部くんは迷いもなく一塁ベースを蹴り上げて二塁へと向かうツーベースヒットとなり、チャンスの場面で二番ショートの赤坂がバントの構えでボールを待つ。

ㅤ此処は手際よく送りバントを決めたいところだが、そう簡単には決めさせてくれない。

ㅤ球威あるストレートに押し負け、バットに辛うじて当てたものの、ふんわりと高く上がった打球は、犀川が一歩も動く事なくミットに収めるキャッチャーフライに倒れてしまいツーアウトとなる。

「三番ㅤキャッチャーㅤ星くん」

ㅤ悪道との二度目の対決。

ㅤチャンスの場面で期待の出来る星だ。

ㅤヒットを打てば、矢部くんの脚の速さならホームまで生還出来る。先制点を勝ち取って流れを呼び起こしたい所だ。頼むぞ、星。

 

ㅤ星に対する初球。

ㅤアウトローへのシュートを見送った。だが球審からストライクコールが鳴る。

ㅤ首を傾げる素振りを見るからすると、今のはボール球と捉えたのかもしれない。と、なると犀川のキャッチングが巧かった訳だ。

 

ㅤ続く二球目を投げる瞬間、矢部くんがスタートを切った。

「行けェ!ㅤ矢部ェェェ!!」

ㅤ絶妙に巧い好スタート。矢部くんも巧く悪道の脚を上げるタイミングを盗めたぞ。

 

「小賢しい!ㅤこのクソメガネがッ!!」

 

ㅤズバァァン!!ㅤ高めのボール球を放り投げて犀川が素早く三塁へと送球するが、若干スマートの速かった矢部くんに軍配が上がった。盗塁成功。

ㅤ"スピードスターの矢部"は未だ健在だ。

ㅤ三球目、今度は釣り球に手を出してツーストライクになる。

ㅤあのバカ!ㅤ焦り過ぎだ!

ㅤ明らかに高いだろ今のは!

ㅤ力の無いスイングじゃ凡打になってしまうだけだぞ……いや、違う。星は意図的に空振りしたんだ。ツーストライクになったら悪道が投げてくるのは今日の試合十割が"ドライブ・ドロップ"で攻めて居るのを見越して……?

 

 

「チッ……釣り球に手を出しちまったか」

「今のはワザとじゃないのか?ㅤそして、待っているんだろ?ㅤ浩平の得意球を」

「さぁな、一体何のことだか?」

「白ばくれるなよ。ま、良いがな。次はお前の狙い通り『ドライブ・ドロップ』で行く。この俺がお前に予告三振を宣言してやろう!」

「予告三振……ねェ。へへへ、ならよ……ついでに俺も『予告』しても良いか?」

「……何?」

ㅤ二人の会話は他所に悪道がピッチングモーションに入る。

「こっちは小波が散々やられてイライラが溜まってんだよッ!」

「馬鹿め!ㅤお前に浩平のドライブ・ドロップ(変化球)が打てる訳がないッ!ㅤこれで三振だッ!ㅤ星雄大!」

 

 

 

 

 

ㅤ——キィィィィン!!!!

 

 

 

 

 

ㅤ快音が轟くと同時に球場全体に音が止まった。

ㅤ天高く打ち上がった打球は何処までも高く伸びて行く様に鋭く飛んで行く。

「——ッ!!」

ㅤ犀川はマスクを外して目で打球を追い、悪道は振り向いてその瞬間を目の当たりにした。センターの脚は既に止まっていて、打球はバックスクリーンのスコアボードの中段に当たり勢いが『ドゴッ!!』と大きな音を立てた。

ㅤ止まった球場は、反動を受けた様に沸き起こり騒然となった。

ㅤバットを放り投げ、唖然とする犀川に向かって星が言った。

「おっと……悪りィ悪りィ。そういえば何の『予告』だったかって事を言うのをすっかり忘れていたぜ。まぁ、見ての通り予告ホームランだ!」

ㅤキラリ、と持ち前の八重歯を光らせて星が笑いながら一塁へと脚を進めて犀川の唖然とした顔を見向きもせずに「そんな事、言うまでもなかったけどなッ!」と言葉を呟いてダイヤモンドを一周した。

 



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第43話 野球が好き

『お前は野球が好きか?』

『お前に取って野球はなんだ?』

 

ㅤそれはまるで無垢な餓鬼が覚えたてのストレートを投げ付ける濁りのかけらもない透き通った何かを心に投げ付けられたような気がした。

ㅤ酷く濁った汚い上にドス黒さ纏う心を持つ俺の中へと、そのどストレートに投げ込まれた言葉はただ素直に慣れず皮肉れ、いつの間にか気持ちを隠すようになった俺をまるでハッキリと見透かしたようだった。

ㅤ核心に触れるかのように、何の関わりもない小波は同時に『お前は、本当は野球が好きじゃないのか?』と問いかけている様な気もした。

 

ㅤその言葉に俺は苛ついた。

ㅤドクンドクン、と胸の高鳴りは音を沈める事なく次第と脈を打つごとに『ドッドッドッ』と強く脈打ち、怒りは全身を駆け回り腹の底が凭れ気持ちが悪く吐き気がしそうだ。

ㅤ余りにもビルの建設工事の騒音みたいに止む事はなく騒めき、身体には耐えきれず、今すぐにでもどうにかなりそうで、その音は今の俺にとってはとても余りにも目障りで、どうしても喧しい……。

 

 

ㅤ小波球太……。

ㅤお前は一体何なんだ?

 

 

 

ㅤ気に食わねェ……。

 全くもって気に食わねェ……。

ㅤ貴様如きにその問いに返答などするつもりは微塵も無いが、頭にパッと直ぐに浮かんだ答えだけは教えてやっても良いが、それは俺の中で喰いちぎって消化してやる。

ㅤお前に答えるのは至ってシンプルな答えだ。

ㅤ俺にとって野球はやる度にチクチクと胸が痛むほど野球は嫌いで、ただの暇つぶしだと言う事だ。

 

 

 

 

 

 

ㅤ俺が野球を始めたのは、小学四年生の時だった。

ㅤたまたまクラスメイトに人数合わせの為に誘われた事がキッカケで始めた野球だったが割と楽しめていた。

ㅤ芝生を蹴け抜けて身体をダイブさせてグローブで掴んだボールの感覚も、豆ができて血が滲むほど投げ込んだボールも、素振りしたバットにボールを当てて飛ばす感覚も、強打者を相手に自分の全力を出して戦う事も、最初の内は楽しめたが、それは日を増すごとに楽しみは消え失せ、俺はウンザリしていた。

ㅤ周りの連中が圧倒的に弱い奴らばかりで、俺にはやっている事は『野球』では無く、そいつらは仲良しこよしでただ球遊びをしてるだけにしか見えなかったからだ。

ㅤそんな弱い連中に限って試合になると妙に張り切りやがる。打席に立ち、これ以上は無理と言わんばかりに見開き目をキラキラッと輝かせて野球を楽しんでいる姿は、俺には余りにも滑稽に見え、とてもイラつき、目障りで嫌いだった。

ㅤそんな野球にも嫌気が指した頃だった。

ㅤそれでも俺はマウンドに立ち続け腕を振り抜いた。

ㅤ野球は全員野球だ、と名も知れない誰かが言っていたのを聞いていたことがあるが、今となりゃ笑っちまう言葉だ。

ㅤこんなのが野球か?ㅤ違うだろ?

ㅤ投げては三振、打っては長打、キャッチャーは構えてただ俺が放り投げるボールを受け取り続ければいい、他の奴らは打球を捕るだけでいい、何もしなくても簡単に俺一人で勝ててしまうんだからな。

 

ㅤしかし、俺はある日、気に食わねえ事に名も知れない奴に打たれた挙句、打席でも完膚なきまでに抑えられた。

ㅤその試合、思い通りに行かなくなって相当頭にきていた俺は、そいつの次の打席で腹癒せにワザと頭部に目掛けてボールを投げ込んでやった。

『ドガッ!!』と鈍い音が一つ響くと、ヘルメットは意図も簡単に粉々に砕け散り、そいつはバッターボックス上でピクピクと痙攣して倒れていて動かなくなっていた。

「…………は、はははッ!!」

 

ㅤその時だ。

ㅤ俺の中で感情が揺れ動く。

 

(これだッ!ㅤ俺に足りなかったのはこれなんだ……これが欲しかったんだッ!)

 

ㅤ俺に今までの野球では感じれなかった。

ㅤ知らなかった。こんなにも相手にぶつける事でイライラが清々しい程に消えるのかと、それに対する楽しさ、弱い奴や気にくわない奴を苦しませて絶望へと追い詰める事への満足感はこの上なく最高に快感で、心地が良くもあり、今までに感じた事が無かった感情が初めて芽生えた。

ㅤそうさ、気に食わない奴なら潰せば良い。

ㅤその爛々と輝かせている目を今にも失いさせてやるッ!

ㅤこの俺にもっともっと、その絶望した眼を見せてくれ!

ㅤそれが俺の提示する野球だッ!

ㅤ文句を垂れるのなら打席に立ち今すぐバットを握れッ!

 俺の野球の前に有無を言わせずに潰してやるッ!

 

 

 

———。

 

 

「……」

ㅤ過去の断片が脳裏を過り、汗が垂れ落ちた。

ㅤ湧き上がる歓声が球場を彩り、スコアボードをドシンと力強く叩く一つの音でハッと我に返った。

ㅤ振り返ると、そこは恋恋高校に八点目となる数字が点灯していた。

ㅤ試合は九回表まで進んでいた。

ㅤ星にバックスクリーンへの特大のツーランホームランを打たれた後、小波を再びデッドボールで出塁させ度重なるラフプレーで追い詰めるも、盗塁を決められた後に突如ピッチングが乱れ始めた。後者に連続ヒット、そして再び星の打席を迎えて、今日の試合二本目となるホームランを今度はレフトスタンドへと追加点を許し試合は、八対三で恋恋高校が五点のリードを取っていた。

 

ㅤ何故だ?ㅤ何故だッ!!ㅤ何故だッ!!! 何故だッ!!!!!

ㅤ何故、俺が打たれる。どうして俺の『ドライブ・ドロップ』が打たれるんだ……!?ㅤ

ㅤそんな筈は無いんだ!

ㅤ此奴ら雑魚如きに打たれるほど、そんな柔じゃ無いはずなんだッ!ㅤ俺の球は!ㅤクソッタレがッ!

 

ㅤ焦る気持ちと同時に、この上無い怒りが込み上げて来た。

ㅤ屈辱的な痛みが胸の奥にズキズキと悲鳴を上げてくるが、同時に小波の『お前は野球が好きか?』との声も頭の中で交差している。

 

ㅤ——五月蝿ェッ!ㅤ黙りやがれッ!ㅤ消えろ!ㅤ今すぐ俺の中から消えろッ!

ㅤ振り払おうとも身体の中で巡る巡り訴えかけてくる問いにどうにかなりそうな位だ。

 

「四番ㅤファーストㅤ小波くん」

 

 

「全く見てらんねえぜ、浩平の野郎」

ㅤ今日の試合、先制のツーランホームランを放ち追加点となるスリーランホームランと今日の試合で五打点の活躍を見せた星は五打席目はサードゴロに打ち取られ既にベンチへと引き返していた。

ㅤ九回表、ツーアウト。右打席に立った小波を見送った後、マウンド方面に視線を変えながら呟いた。哀れむ様なその表情は何処か残念そうでもある。

「浩平の野郎……自分を見失いかけてやがる。小波に的を絞って潰そうとしたのが仇になったな」

「悪道くんが自分を見失ってるってどういう事でやんすか?」

ㅤ矢部の問いに、星は一瞬口を閉じる。

ㅤ少し間を開けて、また口を開けた。

「まァ……自分の気持ちに素直になれないって事だ。ラフプレーを好んで極悪非道を貫いて来たからこそ、今となって引き返せない所まで来ちまったんだって浩平自身がもう気付いちまったんだろうな……」

ㅤ目を凝らし、マウンドを見つめる星。

「何もかも手遅れだったけどな」と小さく零した。

 

 

ㅤ五打席目。

ㅤここまで真面な勝負はさせてもらっていない。四つの死球を喰らわされてる。身体の彼方此方と痛んでやがる。

ㅤ覚悟を決め足場を固めてバットを握りしめたその初球だった。

 

ㅤ——ズバァァァン!!

 

「ボール!」

ㅤ悪道が投じてきたストレートはインコースのボールゾーンだった。

ㅤ僅かに手元が狂ったのか、それともデッドボール狙いじゃなくなったのか、どちらにせよ今の気迫の篭ったストレートには、先程まで感じていた悍ましい違和感はすっかり消えている代わりに何処か焦燥しているような何かを感じられた。

ㅤこれなら、叩くなら今だろう。

ㅤそうなれば此方も遠慮はしない。何にせよここまで満足にバットなんか振ってねえんだからな!ㅤ全身全霊掛けて打たせてもらうぜ。

ㅤ——来いッ!ㅤ悪道浩平!

 

ㅤそして、二球目。

ㅤ今度もストレートだ。前のボールとは異なる更にノビを増した勢いのあるボールでアウトローへと突き刺さった。力のある良い球だった。今の球は全く手が出せなかった。

 

「タイムッ!!」

ㅤワンストライク、ワンボールからキャッチャーの犀川がタイムを取りマウンドへ向かう。

「どうした、浩平。目的は小波を潰すんじゃ無かったのか?」

「…………」

「浩平ッ!!」

「あン?ㅤ五月蝿ェよ!ㅤお前に言われなくともそんな事は解ってやがる!!」

ㅤ見るからに焦っていた。犀川はこんな何かに怯えている悪道を見るのは初めてだった。

ㅤ悪道の絶対的切り札である"ドライブ・ドロップ"をホームランに打ち砕かれた事でちょっとした余裕すら持てなくなっていたのだ。

「気に入らねェ……何もかも気に入らねェんだよ!! 小波のあの眼……この俺が必ず潰してやるッ!」

「落ち着けッ!ㅤ浩平ッ!」

ㅤデッドボールにラフプレーと身体に相当のダメージを与えても尚、変わらぬ強い眼差しで立ちはだかる小波に対して悪道にはやや恐怖心が芽生え始めていた。

「何故、倒れねェ……。どうしてまだ立ちやがる!」

ㅤどうしてなんだ……!?ㅤ

 

 

 

 

「底が知れたな。どうやら次の対戦相手は恋恋高校と当たる様だ」

ㅤ三塁側のスタンドからマウンドに立ちつくし気力さえも薄れた悪道を見つめて、球八高校の滝本が呟いた。

「相手を潰すだけに満足する様になった野球なんて、野球じゃない。その事も彼も改めて知ることが出来たんじゃないか?」

ㅤ矢中智紀は、打席に立つ小波を眺めていた。

「ああ、そうだな。だとしても浩平はもう二度とユニフォームに袖は通さないだろうな」

「……そうか。それは残念だね。彼の投げる変化球には同じピッチャーとして少し興味があったんだけど」

「踏み間違えた結果に待ち受けてる当然の罰だ」と言葉を切り捨てる。

「あはは、ずいぶん手厳しいんだね、雄二は」

「ふっ、例え『俺』でもそうしたさ。もしかしたら俺も浩平の様になっていたかも知れないしな」

ㅤ目を閉じて過去を振り返る。

ㅤ滝本雄二にも思い当たる節がある様だ。

「いいや、そんな事はないさ。過去に何があったって、雄二に野球は嫌いになれないさ。それは俺が一番良く知ってるよ」

「智紀……。あぁ、そうだな」

「おーい!ㅤ智紀、雄二!ㅤそろそろ練習しに学校に戻ろうぜ!」

ㅤ中野渡が痺れを切らし、声をかける。その声に返答を返して二人は腰を上げて、球八高校の四人は球場から姿を消した。

「次の試合、楽しみにしているよ。あおい、そして……恋恋高校」

 

 

 

ㅤキィィィィン!

ㅤ鋭いストレートがアウトコース高めに投げ込まれバットを振り抜くが後ろに飛んでファールとなった。これで七球目のファール。

ㅤここに来て、今日一のストレート。中々、前には飛ばない。

ㅤもう既にデッドボール狙いでは無くなっていた。カウントはツーストライク、スリーボール。

ㅤ悪道の球数は今の球で百三十球を超えた。スタミナも底を尽きかけ、一球一球の間が空くようになっていた。

 

(クソッタレがァ!! 何故、お前は倒れねェ!ㅤなんで俺の野球を否定する様に眼を輝かせて立ってやがる!)

ㅤ思い込めてボールを振り投げる。

ㅤ百四十八キロのストレートはまたしても小波によってカットされる。

(俺の野球は目の前の奴を"潰し"そいつの夢を"壊す"……それしかないんだ。勝ち負けよりも潰すことが何よりの快感なんだッ!)

ㅤ投じても投じても、そのボールは意図も簡単にバットに当てられる。

 

「ふぅ……」

ㅤ無駄だぜ、悪道。

ㅤ俺は簡単に倒れる事なんて出来ねえんだ。

ㅤお前が俺を潰し、壊す事なんて出来やしねえんだよ。

ㅤ俺の野球にお前の野球は通じない。

ㅤそれにここで潰れる訳には行かねえんだ。

ㅤまだ先を見たいからな……。

 忘れちまってるなら思い出させてやる。

ㅤ思い出せ……お前が好きな本当の野球を!

 

 

 

ㅤ——キィィィィン!

 

ㅤ——キィィィィン!

 

 

 

ㅤ小波に対して十三球目を投げ込んだ。

ㅤしぶとい奴め……いい加減倒れやがれ。

ㅤお前は絶対、この俺がキッチリと三振に仕留めてやるッ!

ㅤパシッ!

「…………チッ」

ㅤ犀川からボールを受け取った時、ふと思った。

「いや、ちょっと待て。俺は……一体何をやってるんだ?」……と。

 

ㅤどうして俺は、小波に危険球を投げない。

 

ㅤどうして俺は、小波にストレートばかり投げている?

 

ㅤどうして俺は、小波を自分のピッチングで抑え込もうとしている?

 

ㅤどうして俺は、ムカついているのにこんなにも楽しそうな顔をしているんだ?

 

 

「痛ッ……」

ㅤ突然の痛みに怯み、ボールを見る。そこには指先の豆が潰れ血が付着していた。

ㅤじわっと染みる痛みに懐かしさを感じた。

ㅤああ……そうか。

 そういうことか……。

ㅤ勝手に野球を詰まらなくしたのは周りの連中のせいではなく、この俺自身だったって事か……長らく楽しむ事を忘れていたせいか、この楽しさには随分と久しぶりだと感じる。

ㅤ小波……。

ㅤ喰いちぎって消化した本当の気持ちを吐き出して、この球に込めて投げてやるぜ。

ㅤだから……これで最後の全力の一球だ。

 

ㅤ——ゾワゾワ。

「——ッ!!」

ㅤ来る!ㅤ悪道の本気が……。

ㅤ脚を上げ、振りかぶった瞬間に俺はすぐさま感じた。

ㅤ全てを振り抜き絞りますかの様に今までに無い球が来ると、感じ取った。

ㅤなら、このバットで受け取ってやる!

ㅤガシッと踏み込む。

ㅤ放り込まれたのは悪道の渾身の"ドライブ・ドロップ"だった。

ㅤ頭を目掛けて緩やかな放物線を描いてアウトコース低めへと落ちて行く。

ㅤ予感通り。この球には悪道の気持ちが全て篭っていると言い切れる。キレも凄まじい、いいボールだ。

 

ㅤ小波はバットを振り抜き、快音が轟くと高々と打ち上がった打球を悪道はずっと見つめていた。

ㅤ青空を何処までも飛んで行く飛行機の姿が見えなくなるまで眺めるようにずっと見つめていた。

「チッ……。楽しみから目を背けは逃げ……挙句に皮肉れたこの俺の負けだ。何処までも飛んでいけコンチクショウ!」

 

ㅤ推測百四十メートル弾となった小波のソロホームランによって完璧に沈められた極亜久高校は恋恋高校に十対三の七点差をつけられて、見事に恋恋高校は一回戦を突破する事となった。

 

 

 

 

 

 

「一回戦突破だァァァァーー!ㅤオラァァァァァーー!」

ㅤ試合を終えた後、球場の前で今日の反省点と次に備えての軽いミーティングを行った。

ㅤ今日五打点とチーム一番の活躍を見せた星はいつになく上機嫌だった。

「見たかテメェら!ㅤこれが俺の実力だ!」

「今日の星くん、カッコよかったでやんす!」

ㅤ目をキラキラ輝かせて矢部くんが星に尊敬の眼差しを送る。他の部員たちは「また始まったか」と冷ややかな視線を早川に湿布を身体中に貼って貰いながら見つめる。

「ったく。気楽で良いよな。俺なんかあっちこっち……イテテ!」

「ごめん!ㅤ球太くん!」

ㅤ極亜久高校との戦いでデッドボールにラフプレーの打撲の傷が無数にあると言うのに……。まるで少年漫画の主人公のようだ。

ㅤまぁ、今日くらいは許してやるとするか。

 たまには頼りになるじゃねえか星のやつ。

「次は……球八高校と戦うんだね。ボク、次の試合で投げるのが楽しみだよ」

「ああ……そっか。そう言えば球八には早川の幼馴染の矢中智紀が居るんだったな」

ㅤ次の相手は球八高校。そのエースである矢中智紀は早川同様アンダースロー投法を用いるピッチャーだ。

ㅤ前回の練習試合は途中で雨によって中断したが、正直言えばかなりの難敵だろう……。

ㅤ意外にも同世代のピッチャーの中で猪狩、太郎丸に次いで三番目となる奪三振数を誇る矢中智紀だ。そう簡単に打てるとは限らない。

ㅤただ不安なのは矢中もアンダースローという点だ。言わなくても分かるほど、早川対策は万全という事になるな。

ㅤでも大丈夫だ。早川の"アレ"はほぼ完成している。試合の中で如何に発揮するかはまだ未知数ではあるが、向こうもそう簡単に打てるほどの球じゃないのは保証済みだ。

「さてと、そろそろ帰るとするか。明後日の球八高校戦に向けて今日は此処でお開……」

ㅤ腰を上げてこれから帰るようにと、促そうとした時だ。俺は言葉を切った。

ㅤその理由は目の前に、極亜久高校の悪道浩平が立っていたのだ。

「浩平ッ!ㅤなんでテメェが此処に!」

「負けた腹癒せにきたでやんすか!?」

「フン、馬鹿が……。テメェらのような雑魚に今更興味なんて言う感情なんざ持ち合わせてはいねェぜ」

ㅤコツコツと脚を進める。

ㅤふてぶてしく大股で歩き、その脚は俺の真ん前で止まった。

ㅤギザギザと欠ける歯をギリギリと噛み締めて鋭い眼光は俺を捉えていた。

「小波ィ……テメェ俺たちに勝てたからって良い気になるなよ?ㅤテメェさえ潰せれば俺はそれで良かったんだッ!!」

「ああ、そいつは悪かったな。でも、これで俺は生半可な事じゃそう簡単に倒れはしねえってことは分かっただろ?」

「生半可か……随分と好き勝手に言ってくれるじゃねェか」

「でも最後の打席は楽しかっただろ? 悪道!」

ㅤ俺は握手を求めて手を差し伸ばした。

「……これはなんの真似だ?」

「見てわかるだろ?ㅤ握手じゃねえか!ㅤそれにお前も本当は野球が好きだったんだな!」

「アァ?ㅤこの俺が野球を?ㅤ馬鹿にすンじゃねェ!ㅤいいかッ! 俺が此処に来た理由は、次の試合はテメェらはボロ負けして華々しく夢でも散らせって言いに来ただけだッ!!」

ㅤ俺の差し伸べた手には触れる事なく、歯をギリギリと噛み締めた悪道。

「もう二度と野球はやらねェ!!」と怒鳴り散らして踵を返し、この場から立ち去ろうとした時だった。

ㅤ星が声を張り上げて叫んだ。

「おい、浩平ッ!!ㅤお前のような素直になれねェ捻くれ者の大馬鹿者に言ってもしょうがねェかもしれねえけどよォ!ㅤたまには俺たちとキャッチボールくらいしようぜ!」

「そうでやんす!ㅤまた一緒に野球をやろうでやんす!」

ㅤ星と矢部くんの叫びは届いたのか、届かなかったのかは知る由も無いが、此方を振り返り立ち止まる事なく悪道は立ち去って行ってしまった。

「シカトかよ!」

「悪道くん……これからどうするんでやんすかね?」

「うっせ!ㅤ知るかッ! そんなもん!ㅤどうせまた野球から離れて不良青年に戻るんじゃねェのか?」

ㅤ元チームメイトの二人も悪道のことを気にかけているようで、その表情も何処か寂しそうにも思えた。

ㅤいいや、あいつは野球から離れないさ。

ㅤ最後の打席、悪道浩平の投げたボールには隠していた本当の気持ちが篭っていたんだからな。

ㅤ野球の楽しみを見間違えて踏み外して殺してしまった感情は、身体の何処かで覚えていて結局、最初に覚えた感覚を取り戻せることが出来たんだ。

ㅤ『野球が好き』と言う思いをアイツも改めて知ることが出来たんだから、いつかアイツはまた再びマウンドに立って、腕を振り抜くだろう。



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第44話 予選大会二回戦 VS球八高校

「オイ!ㅤ今のは取れねえ球じゃねえだろ!」

 

ㅤ金属音と同時に罵声が飛び交う。

 

「赤坂ーーーァ!ㅤ飛び込めよッ!ㅤ抜けてサヨナラだったらどうすんだッ!」

「オッス!ㅤもう一丁、下さいッス!」

「よっしゃ!ㅤその心意気だ!ㅤ行くぞッ!」

 

ㅤ夏の暑い日差しもだいぶ落ち着き、橙色に空を染め上げる夕暮れ時を迎えた頃、恋恋高校野球部のグラウンドでは、まだ練習をしていた。

 

「なんだか……また荒れてるね、星くん」

「そうだな」

「そうでやんすね」

 

ㅤ俺と早川、矢部くん他の部員たちは既に練習メニューを終えていて、部室に戻ろうとしていたが、俺たちは脚を止め眺めていた。

ㅤかれこれ何球ノックを打ったのかすら数える気も起きないほど、まだグラウンドには星と赤坂が残って守備練習を行っていたのだ。

「あいつ……何であんなに荒れてんだ?」

「きっと、昨日の試合のインタビューが原因らしいでやんす」

「ん?ㅤ昨日のインタビューって?」

「あぁー。そう言えば昨日。終わった後に星くんが何人かの記者に囲まれてたのを見た気がするよ」

「へぇーやるじゃん。アイツ。まぁ、大活躍だったし当たり前か」

「そうでやんす!ㅤホームランを二発打った事で記者に囲まれたでやんすよ。その時に、確か言った言葉が新聞ではごっそりカットされてたって事で怒っていたでやんす」

「ん? ごっそりカットされた?」

ㅤ詳しい話を矢部くんから聞いたところ、星は昨日の試合についてこインタビューでこう答えたらしい。

 

『元チームメイトである悪道くんから二本のホームランを打っての大活躍と言う訳ですが、それについての感想はありますか?』

 

ㅤと言った問いに星は……。

 

『ホームランなんてどうって事はねェ!ㅤそんな事よりも女性の皆さん!ㅤ今日のこの俺、星雄大の活躍をちょっとでも気になったなら、いつでも恋恋高校に来てくれ!ㅤ俺はいつでも大歓迎だ!ㅤ特に可愛い娘は是非とも俺に惚れてくれ————』

 

ㅤこう言った内容だったようだ。

 

「はぁ……」

ㅤ呆れ返り、言葉も出なかった。

ㅤもちろん、矢部くんが言った通りその部分は新聞に載ることは無く、虚しくも星へのインタビュー自体が無かったことにされたらしく、ただの試合の内容だけが記されていただけだった様だ。

ㅤ女の子の気を引きたい為にくだらない事を言う星も何処まで行ってもやっぱり星だな。

ㅤそれにいざ実際に女の子を前にすると急に上がるのは明白だ。

「ったく何してんだよ。星の馬鹿野郎は」

「全く呆れるね……。そう言えば星くんはまだ諦めてなかったんだね。モテモテライフの事」

「くだらねえのにな」

「ちょっと!ㅤそんな事言わないで欲しいでやんす!ㅤそれにオイラだって諦めてないでやんすよ!ㅤ女の子にチヤホヤされるのをずっと夢見てるでやんす!」ㅤ

「…………」

「…………」

ㅤキリッと眉を上げ、ドヤ顔で矢部くんが言うが、俺と早川は真顔のまま、スルーをして話を続けた。

「それよりも明日は球八高校と、だな」

「う、うん。……そうだね」

ㅤ歯切りの悪い返事、いつもは闘志丸出しの意気込みを見せる早川だが、いつになく無い元気の無い返答に思わずチラッと、早川を見た。

ㅤ顔を俯いたまま、あまりにも珍しく自信無さげな表情を浮かべていた。

「…………」

ㅤそれもそうだろうな。

ㅤ次の相手は早川の元チームメイトである矢中智紀が投げるからだ。

ㅤオマケに早川と同じアンダースロー投法と言う点では、向こうはアンダースロー対策は万全の状態であることは間違いないだろう。

ㅤ球八高校打線にある程度打たれてしまうかもしれないと言う事も早川自身、解っている。

ㅤだから今、そんな顔をしているんだろう。

ㅤそれでも、大丈夫だ。

ㅤ打たれたならその分俺たちが打ち返してカバーしてやる。

「だから、そんな顔をするな。お前は自信を持ってマウンドに立て」と念を込めて軽く早川の背中を叩いた。

「——えっ!」

ㅤ急にどうしたの、と言わんばかりにビクッと驚いた反応をした。

ㅤそれに思わずクスリと笑ってしまった。

「早川、明日の試合。絶対、勝とうな」

「うん!ㅤそうだね!」

ㅤさぁ、明日は球八高校戦だ。

 

 

 

 

 

ㅤ乾いたミットの音が一定のリズムパターンをきざむように鳴り響いた。

ㅤ時刻は夜の二十時を過ぎていて、グラウンドの片隅にある小さな長方形の小屋に灯りが灯っていて、グラウンドにもその小屋の周りにも人影は誰一人見当たらない。

ㅤただし、中にいる二人を除いては……。

 

ㅤスッと身体を降ろし、地面スレスレから腕を振り抜いたボールは綺麗な放物線を描いて十八メートル先に構えるミットへと投げ込まれ、ミットを動かすことなく見事に突き刺さった。

「ふぅ……こんな所かな?」

ㅤ滴る汗を拭い、満足した表情を浮かべて球八高校野球部のエースにしてキャプテンを務めあげる矢中智紀が呟いた。

ㅤ可愛らしい童顔に野球選手としては余りに背が低いのが特徴的だ。

「まぁ……こんなもんだろう」

ㅤ球八高校特色の緋色に染め上がるキャッチャーマスクを外しながらバッテリーを組む滝本雄二がニヤリと笑みを浮かべて言う。

「ストレート、変化球共にコントロールの乱れはほぼ無いな。それどころか、ここに来てキレがまた一段と増したな」

「なら、問題は無いね。雄二、ここまで付き合わせて悪かったよ」

「ふっ……俺は良いさ。明日は試合の筈だがこんなに投げ込むのは何か理由があるのか?」

「明日は恋恋高校との試合、と言えども気を引き締めないと行けないからね」

ㅤ矢中は投げ込んだ後、真っ先にクールダウンをする為にジョギングを始めた。その隣に滝本もついて並び明日の試合の話をしていた。

「お前が警戒しているのは小波球太か?」

ㅤ眉を釣り上げて滝本が問いかける。

「いいや」

 

ㅤ矢中は首を横に振る。

ㅤそして真っ直ぐに前を見つめたまま答えた。

 

「確かに小波くんは警戒した方が良いと思うけど……俺が警戒するのはあおいの方だよ」

「早川あおい、か……お前がそこまで警戒するのは何故だ?ㅤ神島のデータではそれ程手こずる相手では無いだろ?」

「だからこそ警戒しなくちゃ行けないのさ。神島さんのデータには無いあおいの強さを何よりも誰よりも俺自身が一番分かってる」

 

ㅤその言葉を口にした時、意思の強さが滲み出ていた。一瞬、滝本は矢中が何を言っているのか分からなかったが、すぐさま理解出来たようで「そうだな」と小さく呟いた。

 

「なあ……智紀」

ㅤジョギングの強度を徐々に下げていく。

「なんだい?」

「俺はお前に感謝している」

 

ㅤその言葉にピタッと足が止まった。

 

「ははは。どうしたんだよ、急に」

ㅤ少し驚きながらも笑う矢中だった。

ㅤそれはそうとも普段から無口で学校でも野球部以外の生徒を寄せ付ける事など無い。

ㅤ百八十センチを超える長身と強面の顔立ちをしていてる正に見た目からして圧倒的威圧感を放っているあの滝本が、絶対に言わないであろう『感謝』の言葉を使うことに対して驚いたのだ。

「ふと思うんだ。もしかしたら"あの日"お前に会わなければ俺も浩平と同じ道を選んでいたのかも知れないからな……」

「…………」

「お前に会えたから今の俺がいる。野球を楽しくやれている俺がいる……そんな気がする」

ㅤ少しの間を空けて、矢中は笑った。

「そうか……。それなら俺は雄二の為にも皆の為にも明日は勝たなくちゃならないね」

ㅤ矢中はグッと拳を握りしめた。

ㅤ真っ直ぐに見据えた瞳には何を見つめ、何を捉えているのかは矢中智紀と滝本雄二の二人にしか解らないモノだった。

 

 

 

 

 

 

ㅤそして、翌日を迎えた。

ㅤ雲の流れは速く、そして灰色混じりの雨雲が覆い時刻は午前十一時を過ぎた。

ㅤ球八高校戦とのプレーボールまで残り一時間を切った頃、俺たちは球場の隣にある小さなグラウンドで身体を動かしていた。

ㅤ昨日の練習は軽い調整メニューで切り上げた為、それぞれのコンディションは極亜久高校との試合からそのまま好調を維持出来ている。問題は無いだろう。

「それにしても遅いな、はるかさん」

ㅤトスバッティング百球の丁度百球目をネットに叩き込んだ星が周りを見渡し、心配そうな表情を浮かべながら言う。

「まぁ無理もないよ。ジャグラーボックスに入れる氷が誰かさんが倒しちゃったんだから」

「はァ??ㅤ俺のせいかよ!?ㅤなんなら矢部の方にも非があるんじゃあねェのか?」

「なんでオイラでやんすか!」

ㅤそれは、ついさっきの事だった。

ㅤ七瀬が試合を控えている俺たちの為に特製のスポーツドリンクを作ってくれて、用意していた大容量のジャグラーに入れる為のロックアイスを星と矢部くんが悪ふざけでどれだけ口に頬張れるか、と言う子供みたいに遊んでいた。

ㅤ二人は負けないと次から次へと口に入れ込み用意してくれた氷はあっという間にスッカラカンになってしまったのだから。

ㅤそれに対して早川は激怒し二人には得意のげんこつがお見舞いされた。

ㅤ星と矢部くんの二人が責任を持って買いに行くと言い出したが『大事な試合前だから』と七瀬が言い張り、五分圏内にあるコンビニにまで七瀬が一人で買い出しに行くことになってからもう既に早三十分程の時間が過ぎていた。

ㅤ余りにも遅すぎる為、星も早川も少し不安がっていた。

「遅い……遅い……あぁーーはるかさん!」

「もう……はるかってば何処まで行っちゃったんだろう」

「あーーッ!ㅤもう駄目だ!ㅤ心配し過ぎてどうにかなりそうだぜ!ㅤこうなったらちょっくら俺が行くしかねェ!!!」

「それはダメだよ!ㅤ星くんが行くよりボクの方がはるかは安心するよ!」

「あン?ㅤそりゃテメェ、一体、どう言う意味だよ!」

ㅤ随分と騒がしいな……。

ㅤバッテリーで何を言い争っているんだ。

ㅤお前らな?ㅤいいか、もう試合前だぞ?

ㅤここはキャプテンとして此処は二人をキチンと宥めなければならないな……よし!

「お前らな、少しは落ち着けよ!ㅤ七瀬はちゃんと戻ってくるから大丈夫だって——」

 

「お前にはるかさんの何がわかるんだ!」

「球太くんにはるかの何が分かるの!」

 

ㅤ二人は同時に叫んだ。

ㅤ俺は思わず目を見開いたまま口をポカーンと開け、言葉も出なかった。

ㅤお、おいおい……さっきまであんなに言い合って居たと言うのに、試合では滅多に合わないモノをこんな所でピッタリと呼吸を合わすなよな!

「七瀬は多分、大丈夫だろ?」

「なんだか心配なんだよね……はるかって体弱いし少しおっちょこちょいな部分もあるからしっかりした人がいると助かるんだけど……」

「なら俺に任せな!ㅤはるかさんは俺が一番に幸せにしてやれる!」

「…………」

「なら俺に任せな!ㅤはるかさんは俺が一番に幸せにしてみせるぜ!」

「…………」

「なら俺に任せてください!ㅤはるかさんは俺がきっと幸せにしてみせますから!」

「…………」

ㅤ星、いい加減気付け。

ㅤ早川に完全フルシカトされている事に……。

「星くんが駄目ならオイラに任——ダブッ!」

「うるさいーーッ!!」

 

ㅤ——パチンッ!!

 

「オイラまだ何も言ってないでやんす!!」

ㅤ大きな音を立てた早川の今日早くも二回目の制裁が星と矢部くんに降り掛かった。

ㅤ全く……自業自得だな。

 

 

 

 

——小波達の茶番から約三十分前。

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

ㅤ雨雲が色濃くなって来た。

ㅤどうやら天気予報通り雨が降るらしい。

ㅤ球場の周りを走る青年は空を見上げて少しはにかんだ笑顔で脚を進める。

ㅤ青年、球八高校の矢中智紀は試合前のウォーミングアップをしていた。

ㅤ低めの身長にピッタリであり、高校三年生と言えば驚かれ中学生に見間違えられる程の童顔をした矢中は、試合に向けての調整を行っていた。

——あおいとの戦いが楽しみだ。

 

ㅤ思わず口角が上がる。冷静を装うものの込み上げてくる感情には逆らえず、いつになく闘志あふれる顔付きをしている事を矢中自身は分かっていた。

「ふぅー」

ㅤ折り返し地点にたどり着きピタッと脚を止めて首にかけたタオルを取って流れる汗を拭う。

ㅤ今日は好調を通り越して絶好調だ。

ㅤ軽いストレッチを行い再び走り出そうとした時だった。目の前を歩く同じ年であろう茶髪の女生徒が大きいビニール袋を危なげげに抱えて歩いていた。

「大丈夫かな?ㅤなんだか心配だな……」

ㅤ矢中は小さく呟いた。

ㅤフラフラと歩く姿を眺めるものの、気になり過ぎてジッとしているのも気分が悪くなり、矢中はその女生徒の所まで近付いて行き、声をかけた。

「あの……大丈夫ですか?」

「えっ?」

「いや……その……荷物が重たそうだし、代わりに持ちますよ?」

ㅤ二人は此処で目が合った。

ㅤ綺麗な髪をしている人だ、と後ろ姿を眺めていた矢中はその女生徒の顔を正面から見ると思わずドキッと胸が一瞬高鳴った。

ㅤその感覚は、女生徒も同じだった。

「だ、大丈夫です!ㅤもう少しで着きますのでご心配下さってありがとうございます!」

ㅤ慌てふためき、見つめ合っていた視線をややズラし、顔を真っ赤に染め上げながら言う。

ㅤいらぬ心配だったか……と、矢中は申し訳無いと苦笑いをしたが、その女生徒の服を見るなり問いかけた。

「あれ?ㅤその制服……もしかして、恋恋高校の人ですか?」

「は、はい!ㅤそうですけど……あなたは?」

ㅤ視線をズラしていた女生徒は問いかけるなり視線をキチンと向け矢中の顔を見た。

ㅤ矢中の羽織る緋色を基調としたウインドブレーカーを見つめると、女生徒はハッとした表情になった。

「球八高校の方……」

「球八高校の矢中智紀です。恋恋高校の早川あおいとは昔ながらの幼馴染なんですよ!」

「私は、恋恋高校のマネージャーの七瀬はるかと言います!ㅤ私もあおいとは仲良くさせていただいてます!」

ㅤ試合開始一時間前。

ㅤ矢中智紀と七瀬はるかの二人が初めて出会いだった。

 

「良かったら、あおいの昔話を聞かせて貰えませんか?」

「えっと……少しだけなら」

 

 

 

———。

 

 

ㅤ時刻は十二時を回った。

ㅤ夏の甲子園大会予選の第二試合目、恋恋高校と球八高校との戦いは先攻・球八高校から試合が始まる。

ㅤあの日……初めて球八高校と練習試合をした時と同じく濃いネズミ色の空が覆い、ポツポツと小さな雨が降り注いでいた。

ㅤ俺たちは既にベンチの前に立ち、球審の合図を待つ。

ㅤロックアイスを買い出しに出かけ中々帰って来なかった七瀬は十分ほど前に戻ってきた。

ㅤ顔を真っ赤に紅潮させていて何やら様子が可笑しかったが、深くは追求はしなかった。

 

「集合ッ!」

 

ㅤ両校ベンチ前に並び、球審の甲高い合図と共に「行くぞッ!」の号令を後に「オゥッ!!」と元気良く声を張り上げてホームベースへの向かって勢いよく駆け出した。

 

「いよいよ、始まりますね」

 

ㅤその様子を興味津々な表情を浮かべ、それぞれの定位置へと走って行く恋恋高校のナインを見つめ、手に握るアイスコーヒーのカップを握りしめた中年の男が呟いた。

 

「早川くんと矢中くんの両チームアンダースロー対決!ㅤこれは或る意味見ものですね!」

 

ㅤ高鳴る胸の鼓動を抑えきれず鼻息を荒く散らす男の隣にはやれやれと首を捻り、三十五度を超える真夏なのに対して深くニット帽を被り立派に伸びた髭が風に靡かせる小柄な老人がひっそりと座って居た。

ㅤその男の名前は影山秀路。

ㅤプロ複数団の高校生部門専属スカウトの一人であり、今まで数多くの選手をプロ野球界へ送り込んだ実績のある人物である。

 

「及川くん。浮かれるのも分かるが、私たちの仕事はあくまでも"プロ"で"通用する選手"かどうかを"見定める"のが仕事だ」

「影山さん、分かってますよ!ㅤスカウトの端くれとして、また高校野球ファンとしてやっぱりこの感情は、どうしても抑え切れないモノがあるんです!」

「それなら良いのだが……」

 

ㅤこれ以上言っても及川と言う男には何一つ届かないのだろうと諦め半分占めた不敵な笑みをこぼしてグラウンドをジッと見つめた。

ㅤお手並み拝見と行こうか……。

 

 

 

 

 

 

ㅤ先攻・球八高校先発オーダー

 

ㅤ一番ㅤセカンドㅤ塚口遊助

 

ㅤ二番ㅤショートㅤ中野渡恒夫

 

ㅤ三番ㅤセンターㅤ藤原克樹

 

ㅤ四番ㅤキャッチャーㅤ滝本雄二

 

ㅤ五番ㅤピッチャーㅤ矢中智紀

 

ㅤ六番ㅤファーストㅤ田里 豊

 

ㅤ七番ㅤライトㅤ座安直樹

 

ㅤ八番ㅤサードㅤ服部大

 

ㅤ九番ㅤレフトㅤ如月恭一郎

 

 

ㅤ守るのは恋恋高校、先発のマウンドを託された早川あおいが足場を均して軽く帽子のツバに手を置いた。

ㅤ霧雨が降り注ぐ中、球審の合図と共に大きなサイレンが地方球場に木霊した。

 

「プレイボールッ!」

 

『一番ㅤセカンドㅤ塚口くん』

ㅤ球八高校の核弾頭である右打ちの塚口が打席に構える。ぎゅっとグリップを握りしめるなりギラリと、両の目を見開いて早川を威嚇した。

ㅤその威嚇に負けじと早川も強く睨み返してからの初球だった。

ㅤ早川は星の構えるインコース低めへとストレートを放り投げた。

ㅤキィィィィン!

ㅤ足を踏み込み鋭く掬い上げる様にして、ボールをバットの芯で捉えた。

ㅤグングンと打球は左中間の間を突き抜けスリーバウンドで勢いよくフェスンに当たった。

ㅤ雨の影響でグラウンドのコンディションはイマイチ悪い。その足場が悪い状況の中、俊足を飛ばしてセンターの矢部くんは打球を処理して中継へとボールを投げるが、塚口は余裕でセカンドへと到達していた。

ㅤ前回の練習試合の時にもそうだった。

ㅤ一番打者でありながらも見極めもせず初球から打ちに来ると言う積極的なバッティングは注意が必要だが、それ以上に脚の速さにも気を付け無いとならないな。

 

『二番ㅤショートㅤ中野渡くん』

 

ㅤ続いては早川の元バッテリーの中野渡。

ㅤ前回の試合ではHシンカーが棒球になった所をホームランにされたな。

ㅤ恐らくこのバッターには早川が投げる際に身体の僅かな動作でも変化球を投げるのか、ストレートを投げるのかの癖を既に把握し見抜いているだろう。

ㅤノーアウト、ランナー二塁。

ㅤピンチだが焦るなよ、早川。

 

ㅤ——シュッ!

ㅤ対する初球はアウトコースへ曲がるカーブを見送りストライクコールが鳴る。

ㅤバッターボックスから足を外して確かめるように二度ほど素振りしてから再びバッターボックスに入る。

ㅤ二球目。星が提示したのはアウトハイへのストレート。

ㅤセカンドランナーの塚口をチラッと目で牽制してから身体を落とした瞬間、塚口はスタートを切る。

 

「星先輩ッ!ㅤランナー走ったッスよ!」

 

ㅤショートの赤坂が声を掛けるが、少し遅かった。既にリリースポイントからボールは放たれていて中野渡は強振でバットを振り抜いた。

 

ㅤ———キィィィィン!

 

「ヤバッ!ㅤ少し詰まっちまったか!?」

 

ㅤ中野渡が小さな舌打ちを鳴らして打球は大きなフライをレフト方向へと打ち上げた。飛距離は出てない……この打球は守備範囲からは浅めで捕球できるはずだから、三塁ランナーの塚口はタッチアップは出来ないだろうと、俺たちは誰もが思っていた。

 

ㅤそして、山吹が声を張り、手を上げて落下地点で難なくボールを捕球した。

「アウトッ!」

ㅤ三塁塁審が声を上げたと同時に、三塁コーチャーは塚口に向かって「行けッ!!」と指示を促して、ベースを蹴り上げてホームへと俊足を飛ばした。

「ラ、ランナー走ったぞ!!」

「山吹先輩!ㅤバックホームッス!」

 

ㅤ——シュッ!

ㅤ助走をつけて腕を塗り抜き、星の元へと矢の様な送球を投げるものの塚口の脚の方がホームに辿り着くのが速かった。

「セーフッ!」

ㅤ球審のコールの合図と共に緋色一色に染まった球八高校の応援席からは歓声が湧き上がる。

 

「ナイスバッティングだよ、雄助!」

「へへ、これでも詰まっちまったんだがな。まぁ、俺としては上出来だろ?」

ㅤレフトフライに打ち終わった中野渡がベンチに引き返すと、キャプテンである矢中が真っ先に中野渡の元へと駆け寄り声を掛けた。

ㅤ良くやってくれた。

ㅤその言葉を矢中が口にしなくとも伝わる熱意ある視線に、中野渡は更に試合に対してのテンションが上がった。

「先ずは一点。この一点を大事にして、恋恋高校に勝とう!」

「オウ!!」

 

 



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第45話 フォール・バイ・アップ

ㅤ球八高校の二番打者である中野渡のレフトへの犠牲フライで一点を先制した。

ㅤポツポツと雨脚はどんどん強くなり、ワンナウトを迎えて三番打者の藤原がバッターボックスへと向かっていくのを見送ると、矢中の視線は自然と早川あおいの方へと向けられていた。

 

「彼女の事、心配なのかしら?」

 

ㅤサッとキチンと畳まれた真っ白なフェイスタオルを差し出しながら、矢中智紀と同じ学年であり球八高校のマネージャーを務める神島巫祈が呟いた。

ㅤ神島はチームメイトのサポートの他にもスコアラーの方も兼任していて、選手の能力の分析や苦手コースのデータの割り出しを最も得意とし、チーム内外からは『十人目の野手』として知られている。

ㅤオマケにルックスは校内一であると共に大人が醸し出す独特の凛々しさも兼ね揃え男女共に人気が高く、普段からツンツンした敵対的な態度から一部の男子からは蔑んだ目で見られるのが非常に堪らないと言うドM的な声もチラホラ出ていたりもする。

ㅤその神島からフェイスタオルを受け取って顔の汗を拭くと、ニヤリと小さな笑みを浮かべながらポツリと呟いた。

 

「いいや、俺は全然心配はしてないよ」

「そう……。それならいいけど」

 

ㅤ冷ややかな態度は相変わらず、神島は視線を三番打者の藤原へと目を向けるなりノートを広げてボールペンを握った。

 

「なぁ、智紀。神島って真面目だよな。俺たちの為にこうしてデータ収集を一生懸命やってくれて一度たりとも怠った事がない辺り……ある意味これが神島のデレの部分なのかもな」

 

ㅤヘルメットを脱ぎ、矢中の隣に腰を下ろして中野渡が笑いながら言った。

 

「あはは……。それはどうなのかな?」

「まあ、これで何度も神島のデータに助けられたから、そうなのかもな。神島のヤツ、意外と可愛い一面もあるもんだ」

 

ㅤそう言った後、大きな高笑いをした。

ㅤすると神島の手がピタリと止まる。

 

「中野渡くん。そう言っていられる余裕があるのかしら?ㅤ打ち急いだ分アウトハイのストレートへの対応が遅れたから"平凡"なレフトフライに打ち取られたのよ?」

「へ、平凡……」

「相手キャッチャーの采配の初球は八割型ストレートを投げさせるのは既に分かり切ってる事でしょ?ㅤ今度はしっかりと見極めてから打つことを心掛けなさい。いいわね?」

「はい……」

 

ㅤさっきの高笑いを浮かべていた中野渡からはすっかり笑顔が消え落胆した表情を浮かべていた。

 

 

ㅤ三番打者の藤原はワンストライク・ツーボールのカウントの四球目、緩いカーブをバットに当てる形でファーストゴロに打ち取る。

ㅤツーアウトの場面で四番打者・滝本雄二が右打席に入って行った。

 

「ツーアウト!ㅤツーアウト!ㅤ締まっていこうぜェ!!」

 

ㅤキャッチャー星がナインに声を掛ける。

ㅤその声掛けでピシッと締まった顔で早川早川帽子のツバに手を当てた。

ㅤ曇天空から降り頻る雨の中、早川はモーションに入り滝本に向けて初球、インハイへの百二十八キロのストレートが突き刺さった。

 

「ストライクーーッ!」

ㅤ文字通り。

ㅤ気迫の篭った良いボールだ、と滝本は不敵な笑みを浮かべて軽くグリップを握りしめた。

ㅤだが、普段から相方であり早川あおいと同じアンダースロー投手でもある矢中智紀のボールを毎日の様に受けている滝本からすれば、どこか物足りなくもあり、相手の力量を見極めたかのようなその不敵な笑みは、矢中智紀のレベルまでには達していないと言った余裕の笑みにも見えた。

ㅤ続く二球目アウトローへと落ちるカーブをカットしてツーストライクになった。

ㅤそして、三球目のストレートが外れてボールとなり、カーブ、ストレートを立て続けに難なくファールして見せた。

 

 

ㅤ——キィィィィン!!

 

ㅤ——キィィィィン!!

 

 

「それにしても良く粘りますね、滝本くん」

雨の中、目を細めながらスカウトマンの及川が呟いた後に……。

「まるで決め球を待っているんじゃないんですかね?」と付け加えると、影山は「うむ」と頷いた。

「恐らくそうだろうな。早川くんの決め球は高速シンカーだ。もしかしたら彼は、その球を狙ってるのかもしれんな」

「自信のある球を打たれたらこの試合のピッチングに悪影響が出る可能性があるから……と言う所でしょうか?」

「滝本くんには打撃センスがある。引っ張り専門で打球の鋭さは高校レベルを超えて、現に高校通算の本塁打は六十三本と脅威的だ。彼は既に早くから試合を決めようとしてるんだ」

 

ㅤㅤ—キィィィィン!!

 

 

ㅤ九球目……十球目。

ㅤストレート、カーブを甘めに投げてみても全てをカットされる。滝本が待っている球は高速シンカーだ、と言うことは早川も星も二人とも既に気づいていた。

「タイム!」

ㅤ星が突然にタイムを取り、マウンドへと駆け出すと内野全員も早川の元へと向かった。

「どうやら高速シンカーを打って球八高校は波に乗りたい所らしいな」

ㅤ海野が悔し半分、滝本の実力を認めた諦め半分の笑みを浮かべ、パチンとグローブの芯に拳を当てた。

「悔しいし認めたくはないけど、彼ならボクの球は軽くスタンドまで放り込んでくる実力があるんだろうね」

「さて、どうするよ?ㅤ小波」

「そうだな……追加点を取られるより確実なアウトが欲しい所だ。此処で"アレ"を投げるしかねぇな」

「まぁ、そうなるわな」

ㅤ球太はニヤリと、星はキラリと八重歯を光らせ、早川は黙ったまま立ち尽くしていた。

「…………」

「早川、不安か?」

「ううん。大丈夫、出し惜しみしてる場合じゃないもんね!ㅤ行ける、行けるよ!」

「良し!ㅤそう来なくちゃあな!ㅤ勝手に追い込まれた滝本を打ち崩してやろう!!」

「——オゥ!!」

ㅤ皆の覚悟は決まった。

ㅤ大きな咆哮を一つ挙げ、それぞれの定位置へと戻って行く。

「早川、良い球は来てるぞ。肩の力も良い具合に抜けてる!ㅤその調子でどんどん投げろ!」

「うん!ㅤありがとう、星くん」

「早川先輩ッ!ㅤツーアウトッスから楽に投げるッス!」

「赤坂くん……任せておいて!」

ㅤキラッと笑顔を見せ、ロジンパックを指先で撫で、グローブに挟んであるボールに手をギュッと握りしめる。

 

 

ㅤ——きっと、大丈夫。

 

 

ㅤふぅーと吐いた吐息で緊張感は無くなっていた。この球なら打たれる気はしないと、確信を持ったかのように、マウンドに立つ早川の表情はいつも以上に自信満々に見える。

ㅤその様子を十八メートル先に構え待つ滝本も感じ取っていた。

ㅤ次の球は、間違い無く決め球の高速シンカーだ。

ㅤならばその球を完膚なきまでに打ち砕いてやる。

ㅤグリップを握り締めて鋭い眼光で睨みつけて全身へと神経を張り巡らせた。

 

ㅤ振りかぶり、しなやかな動作で身体を下へと落とし、腕を鞭のようにしならせてリリースポイントでボールを放った。

 

ㅤ——シュッ!!

 

 

(ボクは今まで皆んなに迷惑ばかりを掛けてきた)

 

 

 

(いつだってそう。皆んなが居たからこそボクはこうしてマウンドに立っていられるんだ)

 

 

(だから、恩返しがしたい。その為にもボクは必死の努力をして来た)

 

 

(認められたい)

 

 

(女の子だからって舐められたくないから)

 

 

 

(悪道くん、太郎丸くん、猪狩くんや青葉くんみたいにエースナンバーを背負い、エースとしての自覚を持っている人たちは自分の得意球をキチンと自分のボールにしていた)

 

 

(ボクは……何もなかった)

 

(ボクはチームのために何ができるんだろう)

 

(エースナンバーはただの飾り?)

 

(ボクは一体……なんなんだろう)

 

(でも、いろんなことがあった)

 

(そして、漸く見つけた)

 

(誰にも打たれない様な……)

 

(この先を勝つために)

 

(このチームの為にもボク自身の為にも……この球は——)

 

(打たせやしない!)

 

 

 

 

ㅤ——シュルルルルッ!!

 

 

 

(この"マリンボール"は——)

 

 

 

ㅤ——シュルルルル!!

 

 

(ボクの新しい存在証明だ!!)

 

 

 

ㅤアンダースローの低いリリースポイントから放たれたボールはど真ん中を目掛けホップして行く。

ㅤ滝本は狙いを定めてテイクバックを取って振り抜く瞬間まで溜めを作った。

ㅤだがしかし……。

 

——ククッ!!

 

「この球は……高速シンカーじゃない!」

ㅤ予想以上の回転数、そして鋭く滑る落ちるようにインコース低めへと急激に落球した所を滝本は強振でバットを振り抜いた。

ㅤ——ブンッ!!

 

「ストライクーーッ!!ㅤバッターアウト!」

 

ㅤ空振りの三振に打ち取ると、場内から怒号の様な歓声が湧き上がると共に、早川はグッと握り拳を作ってガッツポーズした。

ㅤ一回の裏の攻撃が終了した。

 

「…………」

ㅤ滝本は、バッターボックスに一人立ち止まったまま唖然とした表情を浮かべていた。

ㅤ今のボールは明らかに高速シンカーの次元を超えていて、今まで見たことの無い変化に戸惑いは隠しきれずにいた。

「まさか……雄二が三振に仕留められるとは思わなかったよ」

ㅤネクストバッターズサークルに居た五番打者である矢中が滝本の側に立ち寄った。

「あおいの高速シンカーも精度を上げて来たという訳かな」

「いいや、それは違うな」

「ん?」

「今の球は、高速シンカーであって高速シンカーでは無いモノ。今までの経験上、あの球には出会った事がない球だ」

「なるほど……。これはあおいの成長をウカウカと喜んでは居られない訳だね」

 

「ナイスピッチだ!ㅤ早川!」

「ごめんね、もう打たせやしないから!」

 

 

ㅤ一回の表が終わり、裏の攻撃へと変わる。

ㅤ先発投手である矢中智紀はマウンドに上がり投球練習を行っていた。

ㅤ最早フォームからして見慣れたアンダースローからは早川よりも一段上と思える程、速球、変化球のキレがよく見えた。

「智紀くんはボク以上のコントロール、スタミナの持ち主で、オマケに変化球の球種もある厄介なピッチャーだよ」

「そう簡単には打ち崩せないって所か……」

ㅤ普段から早川のピッチングを見て来たし、矢中智紀対策として昨日はレギュラーに三打席分投げてもらったとは言え難しい所だ。

ㅤまだ試合は始まったばかりだから無理と言うわけでは無い。

ㅤ諦めない気持ちがある限り、喰らい付けば良いだけの話だ。

 

『一番ㅤセンターㅤ矢部くん』

 

「来るでやんす!」

ㅤぐちゃぐちゃと雨で泥濘んだバッターボックス上で大声を出してバットを構える。

ㅤその初球、アウトコースに投じられたストレートを空振りしてワンストライクとなる。

ㅤ続く二球目、鋭い変化を見せてインコースに曲がるシュートをバットの根元に当てるが、ファーストゴロに打ち取られてしまった。

 

 

「ストレートにシュート……下から上にホップするアンダースロー投法相手じゃ最初は打てそうにないね」

 

「流石は智紀くん」と付け足して早川が言う。

ㅤしかしその表情は、相手を讃える気持ちよりも悔しさの方が多く含まれていた。

ㅤ続く二番打者はショートの赤坂が打席に向かった。

 

ㅤ——シュッ!

ㅤ低いリリースポイントから放たれた矢中のストレートはズバンと乾いた音を立てて滝本の構えるミットに丁寧に収まった。

ㅤスコアボードに点滅した速度表示は百三十二キロ。

ㅤベンチから見てそんなに速い球とは思えないが、いざ打席に立つと勢いを増して顔付近に跳ね上がるように見え、中々手が出せないのがこのアンダースローだ。

ㅤ二球目の逃げていくスライダーを引っ掛けさせられ簡単にツーアウトと追い込まれてしまった。

 

『三番ㅤキャッチャーㅤ星くん』

 

「オラァァアーー!ㅤかかって来やがれ!」ㅤ

ㅤ威勢良く、センターバックスクリーンの方向へとバット掲げて星が叫んだ。

ㅤチャンスの場面での打席では無いが、この大会既に当たりに当たっている絶好調だ。

ㅤ球八高校のキャッチャーマスクを被る滝本がマスクを上げて右打席に構える星を見つめる。

ㅤ何か声をかけて来そうな雰囲気だったが、ネクストバッターズサークルに入り、素振りをしている小波を見るなりニヤリと笑みを浮かべて止めた。

 

ㅤ星に対する初球は、低めに外れたカーブだった。

ㅤ二球目のストレートも僅かに外れた。

ㅤ内野からは「良い球来てるぞ!」や「落ち着いていけー!」などの矢中を励ます言葉が飛び交うが、矢中は極めて冷静であり緊張している素振りは全く無い。

ㅤ三球目は二球続けてのストレートだ。

ㅤしかし、星は手を出さなかった。滝本のミットに収まり、球審から「ストライクー!」とコールが鳴る。

ㅤ高さは悪く無かったが、内角いっぱいに突く良いボールだった。今の球ならヒットに出来無い球では無いが、詰まって凡打というリスクもあり見送った。

ㅤここで早まってはいけない。

ㅤ次の小波に回せば同点……逆転と言う可能性と言う希望があるからだ。

ㅤそう思うと我ながら今日はボールが見えていると笑ってしまう。と星はバットを再び握りしめた。

ㅤカウント、ワンストライク、ツーボールからの四球目。

ㅤ甘めに入ったシンカーがど真ん中に入って来た。

ㅤ——見慣れてるシンカー、貰ったぜ!

ㅤ星は心の中で叫んでからバットを振り下ろした。何百球と取り慣れた全く同じボールの曲がり端を芯で捉えた。

 

ㅤキィィィィン!!

 

「よっしゃー!ㅤホームランじゃあ!!」

ㅤ手応えだけでスタンドまで飛ばした、と感じていた。

 

 

「いえ、この球はホームランボールにはならないわ」

ㅤ快音が鳴り響く。球八高校のベンチでは選手が一斉にレフト方向へと顔を向けるが、ただ一人ベンチから顔を上げず、真剣な表情は一切変えずスコアブックを見つめたまま、マネージャーの神島が言った。

「星雄大くん。私の取れているデータ上では弾道「2」パワーランクは「C」、幾ら芯で矢中くんの球を捉えたとしても……その打球はフェンスの前で落ちるわ」

 

ㅤその通り、打球は思いの外上がっては無かった。レフトを守る如月の頭を超えてフェンス前に落下した。

ㅤ星は一塁を蹴り、二塁へと向かう。

ㅤ二塁ベースを踏みしめた所で「クソッ!」と舌打ちを鳴らして立ち止まった。

ㅤこれでツーアウト、ランナー一塁。

ㅤバッターボックスには小波が向かう。

 

「ナイバッチ!ㅤナイバッチ!」

「チャンスの場面で小波くんでやんす!」

「頼れる四番だからな、いけぇー!ㅤ小波!」

ㅤ盛り上がるベンチ。

ㅤしかし、早川は浮かない顔していた。

(智紀くんの焦りの無い表情が気になる。一点のリードがあるから?ㅤそれはきっと違う)

 

ㅤ二塁ランナーの星を目で牽制しながら、小波に投じた一球目は力のこもったストレートが高めに放り込まれるのを見送った。

「ストライクーーッ!」

ㅤ滝本からの返球をグローブで収め、ギュッと強く握りしめて、二球目を投じる。

ㅤインコースに向かってくるシュートをカットして、カウントはツーストライク。

 

「今のはシュート……。カーブ、スライダー、シンカー、随分と多彩でやんすね」

「うん。オマケに智紀くんは、コントロールもスタミナも良いからね……油断はできないよ」

「でもこれで、矢中くんの全ての持ち球を引き出したでやんす!」

「…………」

 

ㅤ初見のシュートを苦もなくカット、神島さんの読んだ通り、小波くんは「A」ランクのミート力じゃ簡単に空振りは期待出来無い様だ。

 

 

 

 

ㅤさて、追い込んだよ。雄二。

 

 

ㅤさっきの打席にあおいにやられたからかい?

 

ㅤその表情は今にもリベンジしようと待ちきれないと言う顔がマスク越しでもバレバレだよ。

 

ㅤなら、こっちも投げようじゃないか。

ㅤあおい……。

ㅤさっきのボールは流石に驚いた。

ㅤ見せてあげるよ。

ㅤそれ以上に俺も成長してるって事をね!

 

「これが俺たちの思いの篭った球だッ!」

 

 

——シュッ!!

 

 

ㅤ小波に対する三球目。

ㅤ地面スレスレの低いリリースポイントから解き放たれたボールは勢いよくホップしていく。

(ストレート……高めの甘い球?ㅤ失投か?)

ㅤグリップを握り締め、強振してバットを振り下ろそうとした。

 

 

——クィ。

 

「——ッ!!」

 

ㅤしかし……その"球"は小波の視界から一瞬にして"消えた"のだ。

ㅤブン!ㅤとスイング音と同時に小波の足元からミット音が聞こえた。

 

「お、落ちた……」

 

ㅤそう、ボールは足元ギリギリのストライクゾーンのミットにキッチリと収まっていたのだ。

 

「ストライクーーッ!ㅤバッターアウト!」

 

 

ㅤ湧き上がる歓声の中、バッターボックスに立つ小波の前で脚を止めた。

「へっ、アンダースローでフォークって反則だろ」

「その言葉は『褒め言葉』と受け取っても良いのかな?」

「勝手にしな。次の打席で必ず打ってやるさ」

「打たせやしないさ。俺は君たち恋恋高校に断言するよ。この"フォール・バイ・アップ"は絶対に打てないと、ね」



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第46話 滝本雄二

「ストライクーーッ!ㅤバッターアウトッ!」ㅤ

 

ㅤ球審の甲高い声が鳴り響くと同時に、球場全体が騒ついた。

ㅤ理由は明白だった。

ㅤたった今、矢中智紀から放り投げられたアンダースローのボールが一度ホップして、ボールが急激にストンと落下したフォークボールだったのを見て、ネット裏で観戦していたスカウト達の度肝を抜き、一瞬にして騒つかせた。

ㅤ観ている人にとってそれは、あまりにも衝撃な出来事だった。

ㅤ基本的に下から腕を振り抜くアンダースローの投手がフォークボールを投げるのは非常に困難な事とされていて、ほぼ投げる投手は居ないとされて居た。

ㅤその為、落とすボールはシンカー系やカーブが一番投げやすいと言われたりもする。

ㅤだが、たった今眼前で起こった事実は紛れもなく現実であり、矢中智紀がいきなりの注目を浴びたと言うことは言うまでも無かった。

ㅤそれよりも驚いたのは、バッターボックスに立って目の当たりにした小波だ。

ㅤ上昇しバットの真芯でヒットさせようと狙いを定めて振り下ろした途端、パッと消えるように落ちた球を今まで見た事は無く、その急激の落差を見てゾッと血の気が下がる思いをしていた。

 

ㅤ矢中智紀は、人一倍に手首の柔軟性があり指先を手首につけられる程の柔らかさを持ち合わせていた。

ㅤその為、アンダースローである低いリリースポイントまでフォークボールの握りが可能である事から身につけた渾身の一球だった。

 

「このタイミングで『フォール・バイ・アップ』が完成していて良かったよ」

ㅤベンチに戻ると、神島からフェイスタオルを「ありがとう」と笑顔で受け取ると滝本の側へと近寄り、雨と汗で濡れた艶やかな髪を拭きながら安堵の表情を浮かべて矢中が口を開いた。

「まだ未完成だったら棒球だった。それに相手は油断も隙も無い小波くんにスタンドまで持っていかれていただろうからね」

「フッ、今のお前の投げる『フォール・バイ・アップ』の完成度は百パーセントだ。次の打席も来ると分かっていても打たれる球じゃない」

「そうか・・・・・・。それなら問題はないよ」

ㅤキャッチー防具を外し、滝本が矢中に向けて不適な笑み浮かべ滝本は口を開いた。

 その声は、矢中にもベンチにいる誰にも聞こえない、小さな声だった。

「しかし・・・・・・。智紀、お前はいつ見ても驚かされる。あの頃もそして、今も……きっとこの先も……」

ㅤその瞳は、遠く何かを見つめているように見えた。

 

 

 

ㅤ滝本雄二の生まれは決して恵まれていない環境で育った訳では無かった。

ㅤ父と母、そして、年が二つ離れた兄の晃一の四人の家族構成である。

ㅤだが、父は大手企業の重役を担い、母は勉学では日本一と言われ、その将来はエリートコースが確約される官僚大学を首席で卒業し、兄は現在は栄光学院大学の四年生で、一年生の頃からレギュラーを獲得し、ミート力の高さから二年連続首位打者を獲得するなど、プロからの注目を既に浴びている。

ㅤその生まれから幼い頃から雄二は両親から過度な期待を受けて育てられていたが、雄二にとってそれは大きなプレッシャーでもあり、歳を重ねる毎に次第に鬱陶しくなっていた。

 

『雄二ッ!! どうしてお前は、こんなにも簡単な事を言っているのに何故出来ない』

 

『雄二。貴方は、私たちの血を引き継いでるのよ?ㅤ滝本家として貴方に期待をしているのは当然の事なのよ?』

 

ㅤその時の雄二は只々『はい』と言う気の無い返事を返すだけだった。

ㅤ正直、世間体を気にしている両親の期待に応え様なんてどうでも良かったと思えば思うほど、滝本雄二は自身の存在価値を見失い始めていた。

ㅤ自分とは何だ?

ㅤ自分は何のために生きている?

 意味の無い自問自答。

ㅤ幼い頃から既に人生の迷子となり、両親のプレッシャーに押し潰される日常に楽しみなど何一つ見出せないまま、惰性の日々を過ごしていた。

ㅤそんなある日の事だった。勉学の息抜きとして兄である晃一は野球を始めた。

 毎日、泥だらけで帰って来ては満面の笑みを浮かべて帰って来る兄を見て、羨ましいという気持ちが芽生えた。兄が話す野球の楽しさ練習の辛さ、聞くもの全てが雄二にとって新鮮そのものであり、生き生きと語る姿と、晃一の楽しそうな姿を暖かな目をして真剣に聞く両親の姿を見て、自分も野球をしたいと思い、影響を受ける形で野球を始めた。

 野球を始める事に、両親は直ぐに賛同してくれた。

 

 

ㅤ野球を始めたと同時に楽しみなど何一つ無いと感じていた雄二の退屈な日々は終わりを告げた。

ㅤ野球をやっている時だけは幸せだと感じていたのだ。家に帰れば深夜まで分厚い参考書と睨めっこすると分かっていても、野球が出来るのなら苦痛とは感じず、我慢出来た。

ㅤそして・・・・・・十二歳を迎えた誕生日。

ㅤ両親から野球道具の一式のプレゼントしてくれたのだ。今までは難しい外国語の辞典や参考書ばかりだったのに、今年のプレゼントを見ては、目を丸くしてただただ驚いた挙句、言葉なんて一言も出なかった。

ㅤこれは兄に聞いた話で、野球を始めてからの自分は幸いにも成績も徐々に上がっていたのを知り『雄二なりに頑張ってるんだな』と母と話し合ってこのプレゼントを選んでくれたようだった。

ㅤ子供心ながらも人生で初めて父から認められた様な気がして、嬉しくて涙が溢れると同時に野球に出会えた幸せを改めて噛み締めた。

 

 

ㅤしかし、その幸せは余りにも短すぎた。

 

 

 

ㅤ事件はそれから一年が過ぎ、雄二が中学一年になった秋に訪れる。

ㅤ雄二の通う中学校は普段から先輩たちが後輩に対して威張ったり怒鳴り散らしたり、脅したりするのが当たり前だった。

ㅤ何度も何度も同級生が被害に遭い退部していく友達を見て、我慢の限界を超えた雄二は、何度も何度も監督に相談を試みたりもした。

 だが・・・・・・。

『上級生も上級生で色々悩みを抱えてるんだ。私の方で何とかしおく。滝本、すまないが、今はとにかく我慢してくれ……』

『でも先生、幾ら何でも度が過ぎます!』

『滝本ッ!! いいか? 何度も同じことを言わせないでくれッ!』

ㅤと、一貫して真面に話なんて聞いてはくれなかった。

 雄二は只々、友達を救いたかった。

 こんな野球はやりたくなかったから正しい在り方を見出そうとしただけだったのだ。

『チッ・・・・・・。ったく、面倒くせェな』

ㅤ職員室を後にしようとドアを閉めようとした時だ。監督がポツリと言葉を零して舌打ちを鳴らしたを聞き逃さなかった。

 

 

ㅤそして——。

 

 

ㅤ秋に行われる大会である新人戦に雄二は一年生の中で唯一のレギュラーの背番号「2」を貰い、打順は四番バッターを任された。

ㅤしかし、それが事件の発端となったのだ。

ㅤ背番号を貰った翌日の事、野球部の部室の前には沢山の生徒たちが群れを成して野次馬がグラウンドを囲んでいた。

『きゃああああああッ!!』

『ヤバイぞ!! 野球部の部室に近づくな!!』

ㅤザワザワと騒つく中、女生徒たちは目を瞑り甲高い声で叫んでいた。

 

 

『滝本!! も、もう止めてくれッ!!』

『俺たちが悪かったッ!!』

 

 

——バチィッ!!

 

ㅤ鈍い音を立てて一人の野球部員を拳で右ストレートを叩き込み、もう一人を回し蹴りで地面に叩き付けると、マウントポジションを取って、何度も何度も顔を目掛けて拳を振りかざした。

 やがて、周りは全員地面に倒れる中、背丈の高い少年が口と鼻から血を垂らして立っていた。

ㅤ学校指定の白いワイシャツは、上半身の殆どが赤く染まっていた。

ㅤその少年は冷静さを失い、怒りに満ち溢れた表情を浮かべていたのは、滝本雄二だった。

 

ㅤ理由は、雄二の父からプレゼントで貰った大切な野球道具であるグローブとスパイクが何者かにカッターナイフで無残に切り裂かれ、専用の金属バットは、地面に何度も叩き付けたのだろうか、L字にへし曲げられて捨てられていたのだった。

ㅤ犯人は、三年生のと二年生の二名だった。

ㅤ拳を喰らった被害者の一人は、滝本が入部する以前は四番バッターを務めていて、蹴りを喰らって袋叩きに打ちのめされた一人は元キャッチャーを務めていた部員であった。

ㅤ滝本が二人からレギュラーの座を奪った事に対してよく思わなかったらしく、腹癒せとして野球道具を壊したのだ。

ㅤ二人はそのまま救急車で病院に緊急搬送され、滝本は駆け付けた先生達四人に取り押さえられる形で職員室に連れていかれて事情聴取を受けた。

ㅤ罵倒と怒号が瞬時に飛び交う中、滝本は今までしてきた部員イジメと道具を壊された事を必死に主張したが、教師たちからは全く聞き入れられず、三年生である上級生の今後の進路の為を気遣ったのか、その事件は表沙汰になる事は無く、『常に問題児である』滝本が一方的に暴力を振るったという事で時間は解決し、滝本は野球部を強制退部、二ヶ月の休学を言い渡された。

 

ㅤ休学後、学校には登校せずに街をふらつく様になった。

ㅤ以前のような幸せに満ち溢れていた瞳には光は一切浮かんでは無く、昔みたいな惰性の日々を過ごす毎日だった。

ㅤ街へと繰り返す雄二はいつしか不良グループとつるむ様になり、他校との喧嘩の紛争の日々に明け暮れる。

ㅤ殴っては殴られ、殴られては殴っての繰り返す毎日を過ごし、赤とんぼ中学の不良グループのリーダー的存在として君臨していた悪道浩平とはこの頃からの付き合いだった。二人は、五回程の喧嘩を繰り返した後、直ぐに意気投合した。

ㅤ雄二は傷だらけ、血まみれ、痣にまみれた顔を引きずって帰宅しては両親からの説教を受けるが、心には何一つ響かなかった。

ㅤ始めのうちはきつく叱っていた両親ではあったのだが……もう諦めたのか、ある日ぱったりと何も言わなくなった。

 

ㅤそれから二年の月日が流れ、中学三年生となった雄二は、繰り返す喧嘩紛争にも飽き飽きとしていた。

ㅤ夕暮れの空に照らされるように河川敷を歩いいると、乾いた音が一つ、また一つと耳に入って来た。雄二にとって、それはとても懐かしい音だった。

『よっしゃー!ㅤ智紀ッ!!ㅤナイスボール!』

ㅤ下方、河川敷グラウンドでは二人の姿が目に映った。見るからに投球練習をしている様に見えるが、自然とその脚は止まっていた。

 

(アンダースローのピッチャーか……今では珍しい物好きもいるもんだ)

 

ㅤ暫く眺めていると、心の奥から何かが込み上げてくる感覚があった。

ㅤそれはとても熱く、今にも身体を燃やしてしまうかのように全身に拡がるのを確かに感じると否や、脚は動き出していた。

 

 ダッと、脚を駆け出してピッチング練習をする二人の前で脚を止めた。

『おい!』

『え?』

ㅤ声をかけると、何事かと此方を振り返るピッチャーは、百四十センチほどだったろうか、長身である滝本から見て身長が余りにも小さかった。

 見た目から小学生だったので『俺は小学生なんかを相手に熱くなっているのか』と戸惑い、恥ずかしくなった。

『なんですか?』

『今時、アンダースローとは……珍しいな』

『そうですかね?ㅤこれでも『中体連』の最後の大会は、順々決勝まで行ったんてますけど……』

ㅤ中体連、最後の大会と言うキーワードを聞いて正直、頭が混乱した。この少年みたいな男は中学生であり、オマケに同い年だとでも言うのか?ㅤそうとは思えない成り立ちで?ㅤ頭の思考を振り切り、同じ中学生と言えば恥ずかしさは消えていた。

『お前のアンダースローに興味がある。俺と一打席勝負しろ』

『あん?ㅤテメェ、急に練習の邪魔しておいて勝負だと?』

『ツネ。口が悪いよ。……大丈夫!ㅤ受けて立つよ』

『と、智紀!?』

『"例の球"の練習の結果を試したい。実戦では中々投げれないからいい機会かもしれない』

ㅤ智紀と言われた男は笑顔で承諾し、ツネと呼ばれた男は『勝手にしろ!』とやや不貞腐れたながらも自分のバットケースからバットを取り出して突き出すように雄二に渡した。

 

ㅤバッターボックスに立ち、バットのグリップをギュッと握りしめると、バッターボックスから見える景色を久しぶりに見たと率直な感想が浮かんだ。

ㅤしかし、違うのは目の前には一人の男しか居ない事でバックは勿論、誰も居ない。

ㅤ夕日が向こう側へと沈みかけ始めた。橙色に染め上げる空も若干暗く成り掛ける。

ㅤ初球。アンダースローのストレートがインコースへと抉るかのように特有のホップボールと化して突き刺さった。

『——ッ!!』

『うしッ!ㅤワンストライク、だ』

ㅤ無言でコクリと頷く。

ㅤ初めて経験するアンダースローから放り込まれるボールは、予想以上に軌道を描く。

ㅤ思わず口角が釣り上がっていた。

ㅤ続く二球目。

ㅤ今度はアウトコースに逃げるスライダーを見送る。僅かながらに外れボールとなった。

 

ㅤしかし何故、だろうか。

ㅤやはり何処と無く身体が熱く感じる。

ㅤ血が燃え滾る様だ。

ㅤあの日を最後に、野球を捨てた。

ㅤだが、捨てたけつもりでいただけで、どうやら捨てれなかった様だ。

ㅤ感覚だけは忘れていなかった。

ㅤそれは『今』確信した。

ㅤ自分は、未だ野球が好きだと言うことを……。

ㅤ捉えて腕の力で掬い上げる。

『来いッ!! 打ち返してやるッ!!」

 

 ニヤッと笑みを浮かべる小さい青年。

 振りかぶり、投げ抜かれたボールを強く想いを込めてバットを振り抜いた。

 

ㅤ——キィィィィン!!!

 

ㅤ手応えとしては完璧だった。

ㅤ引っ張った打球は、レフト方向へと高々に打ち上がっていくが僅かにファールグラウンドに落ちてツーストライクへと追い込まれる。

『ファールって事で、ツーストライクだ』

『ああ、そうだな。次は打ち返してやる』

『へい、兄ちゃん。やる気まんまんな所大変悪いが、次の球をアンタは打てないと断言する。なんせ次投げる球は本来"投げれるはずの無い球"だからな』

『何?』

ㅤ"投げられるはずの無い球"を投げる・・・・・・。

 これはハッタリか?

ㅤこの言葉がどうしても気にかかる中、三球目のボールが放り込まれた。

ㅤスピードはさっきのストレートよりもやや遅めでありながらも『グゥン』と下方から跳ね上がる様に上昇した。

ㅤただの遅いストレート。

ㅤやはり、今の言葉はハッタリか?

ㅤそれはそうだ、投げられるはずの無い球なんて実在する訳が無い。

ㅤストレートの軌道を捉え、バットを叩き込む様にフルスイングをした。

ㅤ——シュン!!

 

ㅤボールは忽然と眼前に映らなくなった。

『——なッ!!』

ㅤ大きなスイングは虚しく空を切る。

 パァァァァん!!!

ㅤ足元の方で乾いたミットの音が聞こえ、そちらに目を向けると、ボールは其処にあった。驚いては、言葉も出ず、唖然と立ち尽くす。

 

『なんだ・・・・・・今の球。俺は・・・・・・アイツは今、何を投げた?』

『へっ!! アンダースローの投手が投げれる筈のないフォークボールだ!!』

『・・・・・・まさか。フォークボールとは思いもしなかった。俺の完敗だ』

ㅤ悔しさが募るが、その顔は何処かスッキリしていた。雄二はバッターとしてでは無くキャッチャーとして思ったのだ。この球を取りたい……と、強く思った。

 

『おい、お前。名前はなんて言うんだ?』

『ん?ㅤ俺か?ㅤ俺は中野渡——』

『いや、お前じゃない。ピッチャーの方だ』

『矢中智紀。中学三年生だよ』

『同い歳か……。これは好都合だな』

『……??』

ㅤ矢中の元へと歩み寄り、雄二は深々と頭を下げた。

『えっ??』

『俺は滝本雄二ッ!! お前の球を取りたい!ㅤ高校で俺とバッテリーを組んでくれ!』

『——ッ!!』

ㅤ突然の出来事に、矢中と中野渡は吃驚した。

 

ㅤそして、今までの出来事を二人に語る。野球をしている時が一番幸せである事、先輩からの恨みから暴力事件に発展した事、不良の道に入ったことを隠さずに明かした。

ㅤその時、矢中は滝本の手を取り、笑みを浮かべて小さくコクリと頷いた。矢中の相棒を務める中野渡もブツブツと小さな文句を言いながらも理解をしてくれた。

ㅤこれが、矢中智紀と滝本雄二の最初の出会いだった。

 

 

 

———

 

 

 

ㅤ雨は次第に強く降り注ぎ、試合は八回の裏まで進んで一対0で、球八高校がリードしている。

ㅤ早川あおいは、変化球のコントロールの良さもあり、徹底的な低めの攻めでカウントを取り追い込みから、高めのストレートで凡打の山を築いていく。ここまで被安打は八つ、球数は八十球を超えていた。

ㅤ対する矢中は多彩な変化球、そして"フォール・バイ・アップ"で三振を取り、被安打は三つで、球数は百五球とやや多めだった。

 

ㅤバッターボックスには二番の赤坂がバッターボックスに入り、ネクストバッターズサークルには星が構えている。

「いよいよ、ヤバェな。雨が強くなって来てるぞ?」

「もう試合は七回を終えてるでやんすから、コールド条件は満たされてるでやんす」

ㅤ海野が強く雨を心配する声を漏らすと、恋恋高校のナイン達に一気に不安が募り始める。

ㅤここまで完璧に打ち取られているのは事実であり、矢中智紀の前に俺は何一つ三三振と攻略出来ずにいた。

ㅤあの厄介なフォークボールさえ撃つことが出来れば可能性はあるのだが……。

「今の智紀くんの調子は絶好調・・・・・・。二点どころか一点さえ奪えるか……へっちゅん!ㅤご、ごめん」

ㅤ早川の身体が濡れて冷えて来ている。流石にマズイな。風邪をひいてしまう前に早い所ケリを付けたいところだが・・・・・・。

ㅤ仕方がない。"コレ"は体力がかなり消耗しちまうが、出し惜しみしてる場合じゃないもんな……やるしかねえよな。

「ストライクーーッ!ㅤバッターアウトッ!」

ㅤ赤坂が倒れ、ワンナウト。

ㅤ俺はネクストバッターズサークルにいる星の元へと駆け寄り耳打ちをした。

「あん?ㅤマジでやんのか!?」

「ああ、頼む。お前が塁に出れば勝ちに繋げられる」

「チッ!ㅤ打つ気満々だってェーのに、失敗しても文句言うんじゃあねェぞ!」

「俺としては成功を祈りたい、けどな」

「へっ、吐かせ」

 

ㅤ頼んだぞ、星。

ㅤこの作戦、ランナーが一人出ていれば勝機が見える。

「…………」

ㅤ俺はネクストバッターズサークルに入り、静かに目を閉じた。

ㅤ音を遮断し、感覚を研ぎ澄ませる。

ㅤ全てを矢中智紀の勝負に注ぎ込む為、集中力を高めるんだ!

 



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第47話 きっかけ一つで・・・・・・

 観客数がちらほらと雨が強く打ち続けるとともに、雲行きは更に怪しくなるに連れ埋まっていた観客席はドンドン空き始めた。

 しかし、そんな中でもスカウトと思える人物達は、傘を差したまま微動だにせず席についたまま試合を見つめていた。

 

 

「この様子だと、恐らく勝ち上がるのは球八高校かもしれませんね」

ㅤそう答えるのは、スカウトマンの端くれである及川だった。

 ポツポツと不揃いに音がするビニールの傘に当たる雨音に、嫌気が指したのだろうか、ややうんざりした表情を浮かべながら呟いた。

「・・・・・・いや。それは、まだ分からんよ」

ㅤしかし、及川のポツリと呟いた言葉を短く否定し、青色のニット帽から覗かせる瞳でマウンドに立つ矢中智紀を捉えながら、同じスカウトマンであり、及川の師匠である影山は少しの間を空けながら、続けて言葉を口にした。

「これは、ただの「野球」と言うスポーツでは無い。高校野球だ。何が起こるか分からんよ。きっかけが一つあるかないかで結果は、ガラリと百八十度、簡単に変わるものだ」

 

 及川は、影山の口にした言葉を聞き、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまうほど、その言葉に重みを感じた。

 この数年間の間。——何十、いや、何百とプロ、アマ問わず様々な試合を球場まで足を伸ばしてはその両の目でじっくりと観察し、幾多もの選手をプロの世界へと誘った実績を持つ程である男は、再び口を開いた。

 

「そう・・・・・・。高校野球と言うスポーツは、最後のスリーアウトを取るまで、誰一人として決して油断は出来んものだ」

 

 

 

————。

 

 

ㅤポツリ、またポツリと降り注ぐ雨の中。

 グラウンドに落ち続けた雨は、小さな水溜りを作った。

 落ちては波紋のように広がり、水面を跳ねり、泥濘るんだマウンドを雨は知らぬ顔をして濡らす。

 守備に着く球八高校。

 エースナンバーを背負った小柄である矢中は、セットポジションから視界を覆うように降り注ぐ中、必死に目を凝らし、滝本が提示するサインに小さく頷いた。

 

 

 

ㅤ——ツーアウトランナーはなし。

ㅤ——三番打者は、星くんだ。

 

ㅤ今日の試合の星は、この試合矢中から未だボールにバットが当たらず三打席連続三振を奪われている。

 チャンスには滅法強い星だけに、ランナーを背負っていない今の状況では矢中は全く星に対して恐怖心は抱かなかった。

 

「よっしゃァァァーー!!ㅤ来やがれッ!! チビ野郎ォ!!」

 

ㅤ——ビリビリッ!!

ㅤ得体の知れない何かが肌を身体を叩いた。

 それは、離れていても伝わる星の威嚇だった。

ㅤマウンドからバッターボックス。

 十八メートル離れているとは言え、星の負けん気がはっきりと伝わる程、溢れ出るメラメラと燃え滾る闘志が矢中の身体中の中へと広がった。

ㅤ緊迫した試合。

 球八高校が一点をリードしていて有利な状態ではあるとは言え、星を含む恋恋高校は誰一人として諦めていないどころか、むしろ楽しんでいるかのように気合い充分に感じた。

 

 

 負けない。

 と言う気持ちなら、それは球八高校だって、同じ気持ちだ・・・・・・。

 

 

 ——シュッ!

 

ㅤ初球は僅かにストライクゾーンから低めへのストレートが投じられるが、僅かに外れてボール球となった。

「・・・・・・」

 しかし、瀧本は球を捕球したと同時に何かを感じ取ったのだろうか。

 低めに構え、指定通りにミットに収まったボールをただただジッと見つめていた。

 

 今の智紀の球。

 気のせいか? 球が軽いと感じた・・・・・・。

 

 ここまで三桁を超える球を既に投げ込んでいる。

 確かに球数は早川あおいより多く投げているものの、まだスタミナには九回まで投げ抜ける余力がある。

 それに今のストレートもそうだが、変化球の勢いも衰えは見えて来てはいるものの、そう簡単には打たれないほど矢中の「打たせないぞ」と言う気力は充分にあった。

 しかし、滝本はどこか不安が纏う違和感を感じながらも、それが何かも分からないあやふやなまま矢中に向かって黙ったまま返球した。

 

 

 矢中智紀の百十球目。

 星に対して四打席目の二球目の事だった。

 

 投じられたストレートは、滝本が指定した胸元インコース高めには投げ込まれなかった。

 それは、バッターにとって絶好球。

 コースは甘いど真ん中。

(——ッ!? まずいッ!! 打たれたら長打コースだ)

 この瞬間、矢中と滝本には長打を浴びると言う不安が脳裏をよぎった。

 

 

 ——コツッ!!

 

 しかし、その予測とは裏腹に軽く当てただけの金属音が鳴る。

 ボールはコロコロ……とキャッチャーの前に優しく押し出されたかのよう転がった。

 そう。星はセーフティバントを試みたのだ。

 

「——チッ! 血迷ったか恋恋高校ッ!! ここでセーフティバントだとッ!?」

 キャッチャーマスクを放り投げてながら言葉を吐き捨てる滝本だったが、その前に長打を警戒していた為、裏をかいた星のセーフティーバントの打球の行方を思わず見失っていた。

「ゆ、雄二ッ! 目の前だッ!」

「——ッ!」

 咄嗟に矢中智紀が声を上げる。

 滝本が打球を見失ってる事に気付いて全力疾走でボールを拾おうとしていた。

「待て、智紀! 俺が——拾う!」

 雨を充分に含み泥濘んだグラウンドの土の上に転がるボールを泥ごと掴み上げて星を見る。

 意表を突かれて若干の焦りがあったがファーストに投げれば十分間に合う距離に星が居た。

 滝本は打球処理からの素早いモーションでファーストへとボールを投げ込んだ。

 心の中で、ホッと一息。

 この一瞬に一つの余裕が生まれてしまったのだ。

「——ッ!!」

 ザワっと。一瞬にして周りが騒然とした。

 滝本の放り投げたボールは星とファーストを守る田里の頭上を遥かに超え、転々とボールは転がり、フェンスに当たり、バッターランナーである星はそのまま一塁を蹴り上げて悠々と二塁まで足を進めた。

 ランナー二塁の場面で打順は四番打者の小波球太は、ゆっくりと目を開けた。

 

 

 

 

 

 

 そう、これは「高校野球」だ。

 きっかけ一つで流れは簡単に変わるスポーツなのだ。

 

 

 

「ストライクーッ! バッターアウト!」

 球審の甲高い声と共に、八回の裏、恋恋高校の攻撃は、二番打者である赤坂は矢中智紀の好投に手も足も出ずに三振に斬って取られる。

 そして、ネクストバッターで三番打者である星がゆっくりと腰を上げ、二、三度素振りをした後に「よっしゃッ!」と気合を入れてバッターボックスへと足を踏み出した。

 すると——。

 

「星! ちょっと待ってくれ!」

「あン? テメェ、小波! これからって時になんだァ?」

 

 そこに小波が駆け寄ってきたのだ。

 「全く、拍子抜けだぜ」と言わんばかりに呆れ、ポカンと開いた口で星はギロッと小波を睨みつけた。

「悪い悪い……打つ気満々な所悪いんだが、お前に一つ頼みがあってな」

「頼みだァ? テメェにしては珍しいじゃアねェか。何だよ」

「星。ここはお前に是非ともセーフティバントを決めて欲しいんだ」

「・・・・・・はァ? セ、セーフティバントだとォ?」

 その言葉を聞き、星は一瞬にして顔が頓狂な声を上げた。

「ここは俺に任せてくれないか?」

「任せてくれって……秘策でもあンのか?」

「ああ、とっておきの秘策がある。だから、頼む! 星!」

「テメェな……って、セーフティーバントをマジでやンのか?」

「頼む。お前が塁に出れば俺たちの勝ちに繋げられる」

「あのな・・・・・・テメェのその自信は一体、どっから出てくンだァ?」

 星は謎に思った。

 小波から出てくるこの自信は、負けているからこそ打とうとしている勝ちを掴むための一か八かの賭けでは無く、ここでやるからこそ意味があり、そして結果を得れると言うのをまるで見越しているかの様に思えたからだ。

 

「あーハイハイハイ! ッたく、分かった! キャプテンの頼みじゃ仕方ねェよな。まァ……正直に言えば、あのチビからアンダースローのファール・バイ・アップ(フォークボール)"なんて打てる気が全くねェからな。で? 本当にセーフティで良いンだな?」

「ああ、頼む!」

「チッ! 折角、打つ気満々だったって言うのによォ!」

「悪いな、星」

「慣れてねェセーフティだ。一つ先に言っておくが・・・・・・失敗しても文句は一切受けたくはねェからなッ!!」

「俺としては成功を祈りたいところだけどな」

「へっ、吐かせ」

 

 

 

 

 

 これが打席に入る前の小波とのやりとりだった。

 結果、セーフティバントは滝本の送球エラーを誘い、星はセカンドまで進む事が出来、作戦は成功した。

 そして、八回裏この試合初めてチャンスの場面で小波が打席に入るのを二塁ランナーの星はジッと見つめていた。

 

(頼むぜェ・・・・・・小波。テメェ信じて慣れねェセーフティを決めてやったンだからなァ。このチャンス、絶対モノにしねェとタダじゃアおかねェからな!)

 

『四番、ファースト、小波くん』

 ウグイス嬢によるコールが場内に響き渡ると同時に、更に雨足が強まった。

 マウンドに立つ矢中、マスクを被る滝本はバッターボックスに立つ小波を見て、ピリッと肌で感じる威圧感に思わずたらりと、一つの冷や汗が伝った。

 今までの打席では、ある程度の小波の威圧感を感じていた二人だったが、ここに来てこれまでとは次元の違う様な圧倒的な"集中力"だった。

 思わずゴクリと、唾を飲んだ滝本は、チラッとマスク越しに目線を小波に向ける。

 

(小波球太。この集中力は一体何だ……? やはり、コイツは只者じゃないな・・・・・・)

 

 

(しかし、智紀の"フォール・バイ・アップ"に俺を含め、未だバットに掠めた奴など居ない)

 

(智紀のスタミナが消耗しているとはいえ、それでもまだキレは衰えてはいないッ!!)

 

(今更、何を企んでいるかは知らんが、どう抗ってもお前達をここで仕留めてやるッ!)

 

 一球目のサインに滝本は"フォール・バイ・アップ"を要求した。

 滝本の小波を本気で仕留めると言う覚悟を感じ取ったのか、矢中は即座にコクっと首を縦に振った。

 そして投じられた一球目。

 胸元から急落下したアンダースローから放り込まれたフォークボールを目掛けて、小波は思いっきりバットを振った。

 

 ——カッ!!

 

 掠めた様な小さな金属音が鳴り、打球はバックネットにカシャっと音を立てて地面に落ちた。

 

「——ッ!!」「何ッ!?」

 目を見開き、驚きを隠せない矢中と滝本。

「おおおおおっーーー!!」

 今まで見たことのないも魔球同然の"フォール・バイ・アップ"を当てた小波に対して、雨で屋根のある場所まで移動避難し試合を見守る観客席からも大きな声が上がった。

 

「嘘・・・・・・。智紀くんのあのフォークボールをき、球太くんが・・・・・・あ、当てたの?」

 目を見開いたまま、早川は信じられないと言わんばかりにポカンと立ち尽くす。

 

「やりますね・・・・・・あの少年」

 バックネット裏、スカウトマンである及川は思わず舌を巻いた。

 

 そして、遠くの方で一人。

「ここに来て聖の『超集中』か・・・・・・。流石、球太と言うべきか。これだから球太には毎回毎回驚かされるよ」

 傘を差してジッとグラウンドを見つめながら嬉しそうな表情を浮かべた高柳春海がニヤリと笑みを浮かべていた。

 

 

(バ、バカな・・・・・・)

(当てた・・・・・・だと? 智紀の"フォール・バイ・アップ"——を)

 

 ギリリ・・・・・・。

 悔しさが増して、滝本は思わず歯軋りする。

 

 そして、二球目。

 滝本は再びサインを出した。

 一球目と同じ———。

 "フォール・バイ・アップ"だ。

 

 

 

 次も同じ球が来る。

 理由は無い。けど、何故かそんな気がした。

 だが、時間が無い。

 持って一球・・・・・・いや、二球程度だろうか。

 思った以上に体力と集中力のいるこの『超集中』でも、矢中の決め球を真芯で捉えるどころか、掠るので精一杯ってところだ。

「凄えよ・・・・・・」

 そう思うと思わずニヤけてしまう自分が居る。

 矢中智紀・・・・・・。

 お前は大した奴だよ。

 思わず感心してしまう。

 この『超集中』を使ってもまだ芯に当たってもいない辺り、相当の時間を費やしたに決まってる。

 言葉通り『切り札』だ。それはそうと簡単には打てやしないって訳だぜ。

 だけど、このまま感心したままでは終わる事なんて出来るはずがねえよな、小波球太。

 その球を完璧に打ち込まなきゃ気が済まない・・・・・・。

 その球を完璧に真芯で捉えなくちゃ、例え勝ったとしても勝った気がしねえんだよ!

 

 すっと息を吸い込んで、すっと息を吐いた。

 

 自分の体内で流れる血流の音はハッキリ聴こえ、雨の音も周りの声援も徐々にボリュームが小さくなって行く。

 そして、二球目。

 矢中の低いリリースポイント、ボールの回転、軌道。

 読んだ通り"フォール・バイ・アップ"が投げ込まれた。

 パワーを溜めて一気に振り抜く。

 

 ——ブン!!

 

 

 

 ——キィィィィン!

 

 

 

 

 

———。

 

 

 いつの間にか土砂降りに降り注いでいた雨はすっかりと上がっていた。

 雨上がりの空の間から橙色に染まった夕日の光が街全体を優しく彩りを付ける。

 川を跨ぐ大きな橋の上で、小柄で童顔な矢中智紀は一人、ぼんやりとその夕日を両の目でジッと見つめていた。

 若干の潤う涙目で、その周りは赤く腫れ、それでも表情はどこか清々しかった。

 つい数時間前の事、恋恋高校との戦いは小波球太の逆転ホームランが決勝点となり、エース早川が九回まで投げ切って決着が着いた。

 最後のバッターになり、早川の"マリンボール"に翻弄され三振に倒れて泣き崩れたが、そこに決して悔いは無かった。

 昔からの幼馴染である早川あおいに最後の大会でいい勝負が出来た事が何よりも満足だったのだ。

「でも、やっぱり悔しいな・・・・・」

 誰に言うわけでもなく、矢中はポツリと呟いた。

 さてと、と踵をクルッと返し、これから球八高校の野球部の引退式が学校で行われる為、足を進めようとした時だった。

「智紀くん?」

 名前を呼ぶ声が聞こえピタリと足を止めた。

 その声の主は、早川あおいだった。

「あおい・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 お互い顔を見るなり、気まずくなったのか直ぐには言葉が出なく無言の時間が過ぎた。

 しかし、矢中が口を開いた。

「おめでとう。本当に強くなったね。あおい」

「ううん、ボクだけじゃ此処まで来れなかったよ。球太君たちが居たからこそ、ボクは今もこうして野球が出来てるんだよ」

「あおいは、恋恋でいい仲間達と出会えたんだね」

「うん!」

「・・・・・・そっか、それは良かったよ」

 返事に少し間が出来てしまったのは、中学時代に苦しい思いをした早川と高木幸子に対して何もする事が出来ずなかったのを一瞬、思い出しまったからだ。しかし、あまりにも嬉しそうに満面の笑みを浮かべる早川に矢中も思わずクスリと釣られてしまった。

「ねぇ、智紀くん。いつかまた、あの時みたいに一緒に野球やろうよ! 幸子も誘ってさ!」

「幸子? でも・・・・・・お前達って」

「えっとね、その・・・・・・もうボク達、元に戻れたから、もうボク達は離れないから、また三人でキャッチボールとかやろうよ!」

「そうなんだ。それは良かったよ・・・・・・」

 それを聞いて本当に良かったと心底思った。

 思わず涙がまた出てきそうな程、心から嬉しいと思えた。

「——へ、ヘックチュン!」

「・・・・・・」

「や、やだ! くしゃみしちゃってごめんね!」

 顔を真っ赤に染めて早川が謝る。

「いいや、平気さ。それよりあおいの方こそ大丈夫なのか? もしかして今日の試合で風邪をひいたんじゃないのか?」

「そんな事ないよ! 今は大事な夏の大会! 風邪なんて引いてられないから!」

「そうだよな。あおい・・・・・・俺たちは今日で高校野球を引退だ。俺たちの分、いや、球八高校の分まで頑張ってくれよ!」

「うん! そのつもり。それじゃあ、ボクそろそろ行くね?」

「ああ、またな」

 あおいは手を振りながら、そのまま足を進めて家へと歩いて行った。

 矢中はその背中をジッと見つめて、小さく手を振ったままその場に立っていた。

 早川の姿が消えるまで立っていると、ドラムバッグの中から一つの写真を大事そうに見つめる。

 早川と矢中、そして高木幸子の三人で並んで撮ったリトルリーグ時代の写真だった。

 いつの日かまた三人で並んで写真を撮ってこの写真の隣にいつまでも大事にしたいと矢中は強く思うと同時に、大きな一歩を踏み出して学校へと向かった。

 

 

 

 

 球八高校との試合が行われたその日の夜、風呂上がりに携帯電話が鳴った。

 着信相手は春海からだった。

『試合、お疲れ様。いい試合だったね』

 内容は労いの言葉をもらい、明後日に行われる次の第三試合は、春海率いるきらめき高校とぶつかる事だった。

『遂に当たるな、球太』

「ああ、去年は色々な問題でお預け喰らってるからな。待たせた分、損のないよな試合にするさ」

『あははは! 球太らしい答えだな』

 春海は笑う。俺らしいとは一体?

 しかしなんだこの感じ・・・・・・春海のやつ何処と無く、いつもと違う様な気がした。

「春海」

『なんだい?』

「何か用があって電話してきたんじゃあねえのか?」

『実は球太に頼みがあるんだ』

 頼む? なんだ珍しい事もあるんもんだ。

 だが、次の言葉に、俺は何も言うことが出来なかった。

『次の試合、球太が投げてくれないか?』

 



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第48話 幼馴染だから・・・・・・。

 

「な・・・・・・何ィ! 早川のヤツが体調不良になって明日は投げられないだァ!?」

 春海率いるきらめき高校戦を前日に控えた部活終わりのこと、星がやや強めのトーンで声を上げると、部室は一気に静まり帰った。

 それは、先日の事だ。

 球八高校との試合、あの日は大雨の中で行われた為、早川はどうやら風邪を引いてしまったのだ。

 無理もない。あの状況の中、九回までたった一人で投げきったんだ。

 幼馴染の矢中智紀との投げ合い、初めて投げた『マリンボール』の不安、緊張もあり疲労も相当量溜まっていたのだろう。

 昨日から熱が一気に上がり今日は学校を休んで病院に行ったと言う。

 医者からここ一週間は、安静が必要との事で部活は当然、当分控える様に。と、念を押されたらしい。

 その事を顧問である加藤先生は、やや困惑した表情で俺たちに先ほど伝えられた。

「一週間は安静となると・・・・・・最悪、決勝戦まではあおいちゃんは投げられないって事でやんすよ?」

 と、戸惑う矢部くん。

 矢部くんの言う通り。

 本来、予定通りに進むなら来週の今日は決勝戦が行われているはずだ。

 エースである早川が、この場で一時離脱となれば、甲子園の予選大会と言う短期決戦といえど、恋恋高校にとって、それはかなりの痛手となる。

 しかし、だからと言って負けてもいいと言う理由にはならない。

 

「チッ! あのバカ野郎ッ! こんな時に風邪なんかひきやがってぇ! クソたれッ!」

「星くん。それは言い過ぎでやんす! あおいちゃんも好きで風邪をひいた訳じゃあないでやんすよ! 前の試合は雨も酷かったし、疲れが溜まったのもあるでやんす!」

「そうです! 矢部さんの言う通りですよ!」

 七瀬が少しムッとした顔で星に言う。

「はるかさん。それは、そうですけど・・・・・・」

「あおいの気持ちも汲み取って下さい。あおい本人だって相当落ち込んでるんです。試合には出れませんが、幸いにベンチには入るので・・・・・・」

 俯きながら、言葉を吐く七瀬のその姿はシュンと落ち込んでいた。

 その場に居た全員が星の方をジロッと睨みつける。

「いやいや! は、はるかさん? いやー嫌だな〜。じ、冗談ですって! 冗談! な、なぁ? そうだよな? 矢部?」

「さあ? それはどうか分からないでやんす」

「ンだとォ? このクソ眼鏡ェェェエエエ!!」

 やれやれ。

 毎度毎度、こいつらの茶番が始まってしまった。

「星、矢部くん。そこまでだ」

 と、二人の間に立ち、俺は早田を見つめて口を開いた。

「あン?」

「知っての通り早川の状況も状況だから、明日の先発は早田。お前に頼みたいんだ」

「——う"え"ッ! じ、自分がですか?」

 名前を呼ばれた早田は声を大に裏返し、驚きの声を上げると——。

「なっ!!」

「えっ!!」

 全員が同じリアクションをした。

 ま、驚くのはある程度予想していた。

 なぜなら、公式戦で初登板だ。

 この状況の中、中学時代ピッチャー経験のある一年生の早田しか今、現在、マウンドを任せられる奴は他には居ない。

 加藤先生から早川の体調不良を聞き、ピッチャーは早田と腹を括ったと決めた瞬間——。先日、春海からの突然の電話で言われた言葉が頭をよぎったが、俺にはまだマウンドに立つのに対して何処か不安を感じたが、今は気にする事ではない。

「なに、心配すんな。お前なら大丈夫だ。バックに俺たちが付いてるから、お前はお前のピッチングをしろ」

「で、でも・・・・・・」

「お前は早川から何度もアドバイス貰ったんだろ? 早川の分までお前が頑張らないとな」

「・・・・・・。そうですよね。早川先輩の悔しさの分も自分が頑張らないと行けないって事ッスね。了解しました! 明日、投げます!」

「おっしゃー! そうと決まれば、俺たちも覚悟を決めるしかねェって事だな! オラァ! 早田! 明日ふざけたピッチングしたら許さねえからな!」

「ふふふ、頼んだでやんすよ! 将来の恋恋高校のエース様」

「ちょっ!! 星先輩ッ! 矢部先輩! それはかなりのプレッシャーですよ!!」

 笑い声に包まれる部室。

 その様子を俺は遠くから見つめていた。

 心配はない。

 きっと乗り越えられる。

 大丈夫。

 このチームは強くなった。

 そんな事を考えながら、俺は気が付くといつの間にか右肘に手を当てていた。

 毎日、聖相手に七割程度の力で三十球程、投げ込みはしてるが、肘に痛みは無い。

 だが、万が一オレが投げる事になったとして春海相手に抑える事は出来るのだろうか。その時になってみなければ分からない話だが・・・。

 抱いた不安——。それが何なのかはハッキリと分からないまま、俺たちは春海率いるきらめき高校との戦いに挑む。

 待っていろよ、春海。

 ようやくお前と戦える。

 勝つのは俺たち、恋恋高校だ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 野球と言うスポーツに興味を持ったきっかけは、何となく、と少し曖昧だ。

 小学三年の頃、学校の休み時間の話題は最新のテレビゲームやテレビ番組で持ちきりだった。

 放課後は知らない場所に行ってこっそりと秘密基地を作りに行ったり、皆んなで石蹴りして笑いながら帰ったり、普通に暮らしていた。

 ——しかし、一人。

 皆んなと違う少し変わったヤツもいた。

 別に浮いている訳では無く、男女分け隔てなく明るく接し、クラスのリーダー的な存在でもある反面、授業中は殆ど居眠りしていたり、珍しく起きているなと思ったらボールを片手に指で弾いたり挟んだりして遊んでいた。

 黒髪の癖毛が目立った変なヤツだった。

 とある日の給食の時間。その日に行われた小学校のイベントである席替えで、たまたま隣の席に居合わせた『彼』と話す機会があった。

 『彼』は、その日、何度も何度も昨日テレビ中継されたプロ野球の試合を嬉しそうに話していると、途端に疑問を投げかけて来た。

「なあ、高柳。お前、野球に興味あるか?」

「野球? 聞いた事はあるけど・・・・・・本格的には知らないかも」

「そっか・・・・・・。そりゃ、残念だ。野球ってのは楽しいんだぜ」

 これが『彼』との初めての会話だった。

 急な質問だった為かその後、言葉を返せなかったが、気にせず給食のご飯を口にした。

 最初は野球やスポーツなんかに興味が無かった。今のまま、普通の暮らしの方が自分に合っていると思っていたからだ。

 しかし、それでも何度も話を掛けて来た。

 最初はあまりのしつこさに嫌々し、適当に相槌を打ちながら聞いていたが、その『彼』は、話をするたびに目をキラキラと輝かせていた。

 その時の自分は、何か夢中になれるものがあると言うその姿が、あまりにも眩しく、そしてどこか羨ましく思えたのだろう。

 いつからか昨日の試合はどんな試合だったのか、と自分から聞くようになっていった。

 小学四年になる頃、地元のリトルリーグチームである「かっとびレッズ」に『彼』が入ったと聞き、何かに惹かれるように、何かに導かれるかのように自分も辿るように野球を始め、同じリトルリーグチームに入った。

 初心者だった自分はひたすら野球に日々を打ち込んで行く事になる。

 その度、徐々に野球と言うスポーツが好きになって行くのを肌で感じた。

 あの時、『彼』がキラキラと目を輝かせて野球を語っていたのも、思わず頷けるほど、毎日野球をするのが楽しくなっていたのだ。

 六年になる頃、遂にレギュラーの座を勝ち取る。自分の任されたポジションはセカンドだった。

 そして『彼』は、ピッチャーだ。

 守備の時、後ろから眺めていたその姿は、いつ見てもカッコ良く、誇らしくもあり頼もしくも見えた。

 いつか戦う時が来たら、その時は絶対に勝ちたい。と、強く心に誓った。

 ——それが、俺の竹馬の友であり、元チームメイトであり、そして、ライバルでもある小波球太だ。

 

 日が過ぎた頃。

 甲子園予選大会三回戦、恋恋高校戦を当日に控えた夜。高柳春海は、一人、自宅の庭でバットを振り続けていた。

 ——ブンッ! 

 ——ブンッ!

 ——ブンッ!

 金属バットで風を切る。日課である素振りも丁度三百回を迎えた所でホッと一息、吐いた。

 球太とようやく戦える。

 手が震え、胸の奥から込み上げてくる嬉しさを抑えきれず思わず口元を緩ませて、春海は再びバットを握り素振りを再開した。

「ほんっと毎日毎日、精が出るわね。春海キャプテン」

「ね、姉さん」

「春海? あんたね、もう夜も遅いのよ? オマケに明日は試合なんでしょう? 早く寝なさい」

「ごめんごめん、もう寝るよ」

 するとそこに現れたのは、血管が浮くような細い腕と脚はすらっと長く、全身がキュッと小さく、茶髪のセミロングパーマ、白く透き通った艶かしいまでに美しい顔立ちをした春海の一つ上の姉である高柳千波だった。

 千波は現在、きらめき高校卒業後、目良、館野と共にイレブン工科大学に進学し、デザイン学部で日夜勤勉に励んでいる大学一年生。

 そして、高校時代同様、イレブン工科大学では野球部のマネージャーを務めている。

 因みに、今年の大学マネージャー美女特集の取材が殺到しするほど、男子生徒からは人気が高いのだ。

「球太くんと戦えるからってちょっと浮かれてるんじゃあない?」

「それはあるかも知れないね。出来れば球太にはマウンドに上がって欲しいんだ。あいつのピッチングは本当に凄いんだ」

「確かに球太くんのピッチングセンスは猪狩くんや太郎丸くんを上回ってるのは確かよ。それでもきっと無理よ。だって球太くんは、四年前に肘を壊した。春海だって分かってるでしょ? もう昔みたいなピッチングは出来るはずないのよ」

「分かってるよ。それでも、俺は・・・・・・俺たちは球太を必ずマウンドに引きずり落としてみせるよ。そして、俺たちは球太を下して、必ず、姉さんや目良先輩、館野先輩を必ず甲子園に連れて行くから待っててよ」

 揺るぎない信念のもと、ギュッと強くバットのグリップを握り締めた。

 春海は山の宮高校に敗北した去年のあの日から、悔しさを隠し、来年の夏に、胸に刻んだ約束の日を果たそうと、この一年必死の思いでこの日までやってきた。

「そう・・・・・・。それなら春海! 明日の試合、頑張りなさい! 私も浩輔くんも館野くんも応援してるからね! 負けないでよ! 高柳春海!」

「うん、姉さん。ありがとう」

 とびっきりの笑みを見せる千波に、思わず微笑んだ春海。そして、空を見上げて再び強く誓った。

 ——球太。遂に来たね。

 ——俺は待ち焦がれていたよ。

 ——俺たちは負けない。

 ——勝つのは俺たち、きらめき高校だ!

 

 

 

 日曜日。快晴、絶好の野球日和。

 地方球場はほぼ満員に埋まるほど人が押し寄せていた。

 勿論、殆どの人の目当ては恋恋高校のエースである早川あおいだ。

 だがしかし、試合開始十分前。

 恋恋高校のスターティングメンバーの発表に対し、球場が騒めきに包まれた。

『九番 ピッチャー 早田くん』

 ウグイス嬢の紹介が終わる頃、場内からは溢れんばかりの怒号が飛び交う。

「ふざけんな!!」

「おい!! 俺たちが見たいのは早田じゃなく早川だぞーっ!!」

 ざわざわ・・・・・・。

「えー! あおいちゃん、どうかしちゃったのかな?」

「あおいちゃんが投げる見たかったのにー!」

 ざわざわ・・・・・・。

 

 そんな声を聞き、早田は顔を陰鬱に沈ませてベンチに座り込んでいた。

「すんませんッッ!!! ほんッとに! 名の知れない自分なんかがマウンドに上がっちゃって、本当にすんません!!」

 何度も謝罪の言葉を口にする早田。

「オイオイ・・・・・・小波。この状況は、チョイと予想外過ぎたんじゃあねェのか?」

「ああ・・・・・・。そうかもしれないな」

 早川が出ないことに対して、観客が悲鳴に近いブーイングが木霊している。

 よっぽど早川は注目を浴びているようだ。

「大丈夫だよ。早田くん! 気にしないで自分のピッチングをして来なきゃね!」

「早川・・・・・・先輩」

 早田に励ましの言葉を掛けたのは、早川だった。熱はまだ若干あるものの、試合には出られないけど、俺たちの事を見守りたいと言う本人の意思で、ベンチにいる。

「元はといえばボクが風邪をひいたのが悪いんだから・・・・・・。周りの声なんて気にしないのが一番。プレーするのは早田くんで、周りの人は関係ないよ」

「でも、自分・・・・・・」

 早川は早田の口に手を当てて言葉を遮った。

「今日のエースは早田くん、キミだよ。エースがそんな不安な顔してたらダメだよ?」

「・・・・・・そうッスよね! その通り、自分やります!」

 落ち込んだ顔は一気に吹き去り、気合いを入れ直して自信に溢れた表情で、早田は一気にマウンドへと駆け出して行った。

「こんなもんでどうかな?」

 早川がニコッと笑って、此方を見る。

「上出来だな」

「球太くん・・・・・・。ボクってば、いつもキミに迷惑ばかり掛けて本当にごめんね」

「気にすんなって、俺たちはチームだ。一人で野球やってんじゃあねえよ。助け合いさ」

「うん、そうだね」

 早川は俺の右手を急に取り、キュッとその手を握った。

「早川? どうしたんだ?」

「絶対、勝ってね! この試合! このまま負けて終わりなんて、ボク、絶対嫌だから!」

 大きい青色の瞳が潤っていた。

 負けず嫌いな性格の早川の事だ。ここで負けたら死んでも死に切れないほど、後悔してしまうだろうな。

 そんな事には、させないさ。

「ああ、任せておけ。絶対勝つさ」

 ニヤリと笑みを浮かべて放った言葉に、早川も釣られる様に笑って小さく「うん」と呟いた後、握っていた手を離し、俺は自分のポジションへと足を踏み出した。

 さあ、いよいよだ。

 きらめき高校との試合が始まる。

 

 

 

 きらめき高校と恋恋高校との試合が終わりを告げたと同じ時間。

 別の球場で行われているパワフル高校とブロードバンドハイスクールの試合がもう少しで終わろうとしていた。

 九回裏、ブロードバンドハイスクールの攻撃は現在、ツーアウトでランナーは無し。

 スコアは六対〇。とパワフル高校がリード。

 マウンド上では、黒く小さな目から、いたずらそうな笑いが沸いているかのような余裕の表情を浮かべた麻生が立っていた。

 この試合、被安打数は僅か二本、無四球の上に十個の奪三振を奪うなどの完璧なピッチングをしいるその右腕のエースは、去年とはまるで別人の様に楽しそうな感じが伝わった。

 カウントはツーストライク。

 そして、最後の一人を百四十七キロのストレートで三振へと捩伏せ、パワフル高校は十年ぶりのベスト進出の切符を見事、手に入れた。

「やったな、麻生。これでベスト八だ! 残り三回勝てば何十年ぶりの甲子園出場だ」

 麻生が一息つく間も無く、真っ先に駆け寄ったのは、チームのキャプテンを務める戸井鉄男だ。

「チッ! 相変わらず五月蝿ェ野郎だな。オレ様からすればそんな事は知ったこっちゃねぇんだ」

「あ、そう。その割には随分嬉しそうな顔してるじゃあねえの」

「ほっとけ! オレ様はこんな所で勝って満足なんかしねぇし、こんなところで立ち止まるなんて出来ねぇんだ。もっと先に求めるものがあるからな」

 麻生は、ギュッと拳を握った。

 求めるもの。それはたった一つ、甲子園だ。

 去年の大会、そよ風高校に負けたあの日、生まれて初めてチームメイトを頼った日、悔しさ涙を零した日、麻生の何かが変わった。

 そして、パワフル高校は強くなった。

「皆、お疲れ様! いい試合だったね」

 労いの言葉を掛け、マネージャーを務める栗原舞が麻生と戸井にタオルとスポーツドリンクを渡した。

「はい、戸井くん」

「ありがとう、栗原」

「はい、麻生くん」

「・・・・・・」

「麻生。例の一つくらい言えやしないのか? 折角、栗原が用意してくれたんだぞ?」

「チッ! 余計なお節介だ」

 と、舌打ちを鳴した麻生だったが「ま、受け取ってやるよ」と小さく呟いた。

「さてと、次の試合だが。きらめき高校か恋恋高校のどちらかになるのか楽しみだな。なあ、栗原は恋恋ときらめきだとどっちが勝つと思う? 確か栗原は高柳と小波とは幼馴染なんだよな?」

「うん。そうだけど。どっちが勝つかって言われると困っちゃうけどその答えは私にも分からないかな?」

「分からない? 何故だい?」

「春海くんが負けるとも思わないし、球太くんも負けるとも思えない、からかな?」

「なんとも曖昧な・・・・・・」

「でも、一つだけ言える。きっと二人は二人だけの世界で楽しい野球をすると思う。それを見て周りの皆も楽しくなっちゃうと思うな〜。昔からそうだったから」

 栗原は、空を見上げて微笑んでベンチを後にした。

 



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第49話 予選大会三回戦 VSきらめき高校

遂に・・・・・・マウンドに上がる時が来る。


 拭っても拭っても汗が滴り落ちてくる。

 七月も終盤に差し掛かった炎天下の中、まるで水から引き上げられたゴムボールの様に顔中汗だらけで街を歩いていた。

「こんな熱い中、ご苦労なこった。サラリーマンにはなりくはねェと本気で思うよ。マジで」

 通り過ぎる人達を横目に見て、やれやれと力なく微笑んだのは、一度も櫛を入れた事のないようなボサボサに伸びた髪、茶色に染まっているのが、とても特徴的なイレブン工科大学に通う目良浩輔だった。

 一年生ながらもレギュラーを獲得し、更には四番を任されていて、大学リーグの中では断トツの存在感を示している。

「おッ!! 彰正!! 目の前の女子グループ見てみろよ! 今にもスカートが捲れてパンツが見えそうだ!」

 だが、相変わらずだらしのない性格は未だ健在だ。

「止めとけ、浩輔。千波に見つかったら半殺しじゃ済まないぞ?」

「それは、心配ねェ。なんせ昨日、千波が着替えをしてる所を覗いたら拳で顔面二発やられたぜッ!」

 ニヤリ。と笑う目良。

 それに何故か、やってやったぜ感が満載なドヤ顔を浮かべている。

 その言葉を聞き。

「はぁー」

 と、魂も一緒に抜けていきそうな溜息を一つ吐いたのは、目良とは小学時代からの腐れ縁であり、また同じイレブン工科大学に通う館野彰正だ。

 目良同様、一年生ながらも正捕手を任されていて、冷静沈着な頭脳派でもある。

 

 その二人の脚が向かった先は、現在、恋恋高校と二人の母校であるきらめき高校が試合を行なっている頑張地方球場だった。

 球場が見えてくると、二人の顔つきは穏やかな表情から悔恨の色が浮かんでいた。

 去年の夏、ベスト四まで進んだ目良率いるきらめき高校は、当時二年の山の宮高校のエースである太郎丸達に無念の敗北を喫して、二人の最後の高校野球の夏が終わりを告げた。

「・・・・・・あれから一年か、随分と懐かしい感じがするな」

「ああ、一年と言うモノは早いもんだな」

 ポツリと呟いた目良の言葉に、館野も思わず頷いた。

「でも、浩輔。悔いはないよな」

「ああ・・・・・・勿論だ」

 言葉を短く。

 少し間を開けて、再び口を開いた。

「去年のリベンジがしてェ・・・・・・とは言いてェ所だけど、とっくに俺たちの時代はもう終わった。後は、春海達に任せてあるから心配はしてねェよ」

「そうだな」

 負けて引退した先輩が後輩へと託した想い。

 それを叶えてみせようと頑張っている後輩の姿を応援する為に、二人はやってきたのだ。

「そう言えば、浩輔。千波は来ないのか?」

 館野が問う。

「千波なヤツなら既に球場にいるぜ。どうしても春海の試合を最初から見守りてェンだとよ。弟想いの良い姉さんだろ?」

 やや早口で喋る目良。

 どこか不貞腐れているようにも見える。

 それを見て、ニヤリと館野は笑った。

「もしかして、浩輔。お前・・・・・・」

「あン?」

「妬いてるのか?」

「はァ? 焼いてる? 何を? 俺が? 焼いてるって? パンをか? 馬鹿かお前は・・・・・・そっか、彰正。とうとう暑さで頭の思考回路が焼き消されたか?」

「バカはな、浩輔。お前の方だ。嫉妬してるのかって事だよ。千波に構ってもらえなくて、春海に妬いてるのかって言ってるんだよ」

「んなァ事はねェよ! ああ見えて千波は、メチャクチャ春海に甘ェんだ! いいか!! 耳の穴かっぽじってよく聞けよッ彰正!! 俺はな!! 構ってくれなくてもアイツが居てくれるだけで、それで良いんだよ!」

 それはまるで怒号のようだった。

 館野を目掛け、今にも鋭い牙をぶら下げた虎の様に、噛み付いてくるような勢いで目良が声を上げる。

 辺りは静まりハッと、我に帰る。

 目良は耳まで真っ赤に染めり、館野はニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて「惚気話、ご馳走さん」と付け足した。

 

 

 

 

 きらめき高校と恋恋高校の試合は、既に六回の裏、きらめき高校の攻撃が終わり、試合は七回表まで進んでいた。

 スコアは九対九の同点だ。

 恋恋高校の先発である早田は、初回緊張からフォアボールを連発し一安打で三失点。

 回を跨ぐごとに緊張は緩和されたものの、コントロールミス、甘い球の狙い撃ちで九失点と散々な内容だった。

 対するきらめき高校は、エースの具志堅将也が立ちはだかったが、短期決戦の連投の支障が出たのか、初回から球に勢いが無い絶不調の立ち上がりとなり、恋恋高校打線に狙い球を絞られて、試合は乱打戦になっていた。

 

『恋恋高校の攻撃、一番 センター矢部くん』

 

 そう言えばさっきから早川の姿が見えないなと、ふと考えていたら、ウグイス嬢の声が矢部くんを呼んだ。

 おっと、今は試合中。集中、集中。

 この試合、塁に出たら全てホームに帰って来ている。盗塁、走塁共に絶好調だ。

 ここで塁に出てくれれば、試合の流れは確実に変わる。——頼んだぞ、矢部くん。

 

——キィィィィン!!

 

 だが、その願いも虚しく。

 セカンド、春海の正面に弱々しいゴロが転がってワンナウトとなった。

「チッ! どうしても、もう一点が欲しいのに早打ちしやがって! 少しは粘りやがれッ! 早田の野郎の事を少しは考えやがれ!! そろそろスタミナ切れだぞ?」

 星が舌打ちを鳴らす。

 相当イライラが溜まってる様だ。

 まあ、矢部くんと打って変わって今日の星がは五打席連続三振で不調気味である。

「落ち着けよ。星」

「落ち着けだァ? 落ち着いていられるかッ! 早田もいよいよヤバイんだぞ? 何とか凌いでるものの、球数も相当投げてる! 打つ手でもあんのか?」

「・・・・・・」

 星の言葉に俺は何も返答出来なかった。

 ああ、分かってる。

 早田が限界なのは分かってる。

 しかし、残りピッチャーは他には居ない。

 早川は体調不良で試合には出れない。

 なら、俺が投げればいい話だ。

「・・・・・・」

 だが、何故かそこに躊躇している自分がいた。

 昨日、肘に不安を抱いたからか?

 肘に痛みはもう無い。大丈夫なはずだ。

 こういう時の為に、もしもの為に、備えて来た筈なのに、脚が踏み出せないのは何故だ?

 

 ——キィィィィン!!

 

 金属音が鳴って、我に帰った。

 二番赤坂の打球は高く打ち上がってピッチャーフライに討ち取られてツーアウトになった。

「チッ! 俺の打順かよ! 小波ィ! この回が終わるまで、どうするか決めておけよッ!!」

 ヘルメットを着用して、バッターボックスへと走って行った星の背中を見ていると・・・。

「小波先輩ッ!!」

 名前を呼ばれ、振り返ると、そこに早田が今にも泣きそうな顔で立って居た。

「ごめんなさい! 自分のピッチングが不甲斐ないばかりに・・・・・・」

 謝罪の言葉に、胸がズキっと痛んだ。

「早田。謝るなよ。まだ試合は終わってねえんだ」

「でも——」

「でも、じゃないよ。早田くん!」

 早田が何か言おうとした瞬間、その言葉は遮られた。遮ったのは早川だった。

 走って来たのかと思うほど、額から頬に掛けて、たらりと滴る汗は数滴。

 少し息は上がっていた。

 そして、俺は目を疑った。早川の左手にはグローブがはめてあったのだ。

「早川・・・・・・お前、今までどこに行ってたんだ?」

「どこって? ブルペンに決まってるじょ!!」

「まさか、お前・・・・・・」

「ボクが投げるよ」

「——ッ!!」

 その言葉に誰もが驚いた。

「早川さん。アナタ、熱が出てるのよ? 監督として、保健医としてもそれは、絶対に認められないわ!」

 加藤先生が突っかかる様な鋭い声をあげた。

「加藤先生。ボクは大丈夫です」

 早川は譲らない。

「あおい。無理しちゃダメ!」

 七瀬は、キュッと早川の袖を掴み、心配で心配で堪らない表情で言った。

「はるか。ボクは、大丈夫だって。早田くんがここまで頑張ってくれたんだから、先輩としてこのまま黙って見てられないでしょ?」

「いやいや・・・・・・『でしょ?』って言われても、あおいちゃんは病人でやんす!」

「大丈夫なもんは大丈夫なの!」

「ひぃぃぃ〜! なんでいつもオイラだけに当たりが強いでやんすか!」

 今の早川には誰が何を言ったとしても、まともに聞いてくれそうに無い様だった。

 矢中との戦いを経たからか、随分と逞しくなったと素直に感じた。

 それと同時に、こんな状態でも投げようとする早川から俺は『何か』を貰った気がした。

「早川、すまない。頼めるか?」

「うん! もちろんだよ!」

「無理だけはするなよな」

「うん、それも分かってるって」

 星が本日、六個目の三振に斬って取られてスリーアウトチェンジになると共に、加藤先生が球審に選手交代を告げに向かった。

「小波先輩、ちょっといいですか?」

 スパイクの紐を結んでいたら、椎名の方から声をかけて来た。

 椎名は早川と共にブルペンで肩を作っていたから丁度、今、早川の状態を聞こうと思っていた所だった。

「早川の状態はどうだ?」

「正直言ってかなり厳しいかと・・・・・・。なんとかコントロールは安定してるものの球速・球威は好調より程遠いと言ったところです」

「そうか」

「最低でも三十球。スタミナ的に見ても、投げれるのは二イニングまでなら今の早川先輩なら投げ抜けるかと思います」

 少し弱々しいトーンの椎名。

 もう、俺は大丈夫——大丈夫だ。

「上等。後は任せておけ!」

 

 

『恋恋高校の選手の交代をお知らせします。ピッチャー早田くんに替わりまして、早川さん』

 場内に響くアナウンスに、観客席からは溜め込んだ感情がまるで火山の噴火の様にワァーッと吹き上げた。

 

「ふっ。まさかこの回からエース・早川あおいの投入とは、恋恋高校の切り札が遂に切られたって訳か。随分と余裕のある作戦だこと」

 スポーツドリンクを喉の奥に流しこみながらやや気に入らないと言わんばかりに眉に皺を寄せて、きらめき高校のエースナンバーを背負う具志堅将也が呟いた。

 春海とは、中学時代からの同級生だ。

「でも、どこか疲れが見えるね。やっぱり球八高校との試合が効いてるのかも・・・・・・。兄ちゃん! ここはある意味チャンスなのかも知れないよ」

 フォローするかのように、キャッチャーを務め、将也の実弟である具志堅直也が言った。

「どっちにしろ不調同士の投げ合い。早田とか言う一年坊には投げ勝ったが、こっからが正念場か・・・・・・。春海ッ!! 俺はこの試合、絶対にマウンドは降りねェつもりだからな!」

「ああ、任せるよ。将也」

 コクっと、春海は小さく頷いた。

 しかし両の目は、真っ直ぐ早川あおいへと向かれていた。そして、すぐ様、ファーストを守る小波へと移る。

 

(残念だが、早川さんは恋恋高校の『切り札』じゃあない。恋恋高校は、まだ『切り札』を切っていない)

 

(恋恋高校の最後の切り札は・・・・・・球太だ)

 

(恐らく俺以外には、マウンドに上がった球太の実力を知らないからだ)

 

(だけど、漸くそこまで来た。早川さんには悪いが・・・・・・必ず球太。お前をマウンドに引きずりだしてやるからな)

 

『きらめき高校の攻撃 六番 ファースト 百田くん』

 

 七回裏。きらめき高校の攻撃が始まった。

 振りかぶってからの初球。弱々しいストレートが星のミットに収まった。

「ボッ!!」

 僅かに逸れてボールカウント。

 球速表示は百十一キロだ。

 続く二球目。高めのボール。

 三球目もボール。四球目もボールでバットを一度も振ること無くフォアボールとなり、ノーアウト一塁。

 トップバッターを塁に出した苦しい立ち上がりだが、ここは落ち着いて仕留めるしかない。

『七番 キャッチャー 具志堅くん』

 初球。

 コントロールを意識し過ぎたか、球威が無いカーブを巧くヒッティングされ、ショート・赤坂の間を抜かれて、ランナー一・二塁のピンチを迎えた。

「早川ァ! 大丈夫、大丈夫! 良い球は来てるぞォ! ここからしっかり抑えるからなッ!!!」

 星が檄を飛ばす。

 早川はコクリと首を縦に振る。息上がっている。心なしか辛そうな表情をしている——が、俺を見るとニコっと笑みを見せた。

 まるで「任せて、ボクは大丈夫」と、言っている様だった。

『八番 ライト 国領くん』

 それでも続くきらめき高校の攻撃。

 今が下位打線だと言うのが唯一の救いだろうか・・・・・・。

 国領に対しての初球。

 危うく直撃かと思われる程の顔面スレスレの失投。

「あおいーーッ!!」

 今にもベンチから身を投げ出しそうにして、七瀬が必死に声を上げた。

「あおいちゃん!! 任せるでやんす!!」

 矢部くんが。

「打たせるぞ! 早川!」

 星が。

「先輩! 準備は万端ッスよ!」

 赤坂が。毛利が。海野が。全員が早川の背中を後押しするように声を上げる。

「よし! ここは抑えるぞ! 早川!」

 俺も声を掛けた。

 滲む汗を払い。力強く「うん!」と、答える早川。その表情は力が漲った心強くも見えた。

 

 セットポジション。

 低いリリースからの二球目の事だった。

 ボールは星の構えたミットには届かず、マウンドとホームの真ん中辺りで静止した。

「——ッ!!」

 その場に誰もが驚愕した。

 早川は投げようとした寸前、倒れこむ様にマウンドで膝を突いていたのだ。

「タ、タイムッ!! 救急隊、担架ッ!!! 担架だッ!!!」慌てて球審が叫ぶと同時に——。

「早川ッ!!!」

 小波が真っ先に駆け寄って早川の腕を肩に掛けた。

「球太くん・・・・・・」

「大丈夫か!」

「大丈夫」

 震えた声。

 頬を真っ赤にした早川の青色の目は涙を含んでいた。

 悔しさ、惨めさ、迷惑を掛けたと責任を感じている様々な感情が表情に出ていた。

「ゴメンね。ボクの所為でまた皆んなに迷惑かけちゃって・・・・・・」

「バカ野郎。謝るなよ」

 肩に掛けた小さな手がギュッとなった。

「情けないね。さっきまであんなに息巻いてたのに・・・・・・蓋を開けたらこの様だったよ」

「そんな事ねえよ。あん時のお前は、随分とカッコ良く見えたぜ?」

「本当に? それなら良かったよ」

「ああ・・・・・・」

「ねぇ、球太くん?」

「・・・・・・なんだ?」

「ごめんね」

「だから、謝んな。——まだ試合は負けちゃいないし、負けるつもりもねぇ。そうだろ? この試合勝って残り三試合で甲子園だ。今はゆっくり休んでろ。後は俺達に任せとけ!」

「うん。また後でね」

「ああ、また後で」

 目から涙が流れて、手の甲に落ちた。

 暖かい感触が全身に広がる。

 早川は小波に今まで見せた事のない満足らしく笑みを漏らして、救急隊員に担架に乗せられて医務室へと向かって行った。

「マジで大丈夫か? 体調悪いって言うのに格好付けて無茶しやがって、あのバカヤロー」

「・・・・・・」

「そんで? どうするンだよ、小波ッ!!! 早田も居なければピッチャーは一体、誰が——」

「俺がやるよ」

「あン?」

「・・・・・・俺がやる」

「オイオイ、テメェ・・・・・・マジで言ってんのか? だってテメェ、肘壊して碌に投げてないんじゃあねェのかよ?」

「こんな状況だ。もう四の五の言っていられねえだろ!!」

 小波はギュッと拳を握り締めて強いトーンで星に口を開いた。

「星・・・・・・。球審に伝えておいてくれ。ピッチャー交代だ!」

 

 

 

「おいおい、大丈夫か? 早川のヤツ」

 具志堅将也は担架で早川あおいが運ばれて行くのを眺めながら言う。

「大丈夫では無いんじゃないの? これで恋恋高校はピッチャーが居ないんじゃ・・・・・・。ねぇ? 高柳先輩?」

 直也が春海に尋ねる。

 しかし、春海はずっとマウンドに居るただ一人を見つめ、静かに口を開いた。

「いや、もう一人だけ居るよ」

「えっ?」

「俺の知ってる数いるピッチャーの中で、唯一手強いピッチャーを俺は一人だけ知っているよ」

「それは誰なんですか?」

「来る」

 言葉は短く。

 冷や汗が頬を伝っていた。

 具志川兄弟はそれが何を意味しているのか不明だったが、次のアナウンスで知る事となる。

 

『恋恋高校の選手の交代をお知らせします。ピッチャー早川さんに替わりまして、小波くん』

 



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第50話  ノースピン・ファストボール

『恋恋高校の選手の交代をお知らせします。ピッチャー早川さんに替わりまして、小波くん』

 ラジオ放送やテレビ放送から流れたその言葉に、耳を傾けていた小波を知る者達は、思わずその場で脚を止めるなど、動くことが出来なくなる程驚いていた。

 

「に、兄さん! これは・・・・・・」

「ああ。漸く、あの凡人が立ち上がったな」

 あかつき大附属の一軍練習グラウンド。

 ブルペンで投げ込みをしていた猪狩兄弟は、ネットに絡めつけていたラジオから野球中継を聞いていた。

「フッ。小波がマウンドに上がっとなれば、この大会はもう少しは面白くなるだろうね」

 猪狩守は、小さく呟いて、ボールを手にして「進。投げ込みの再開だ」と左腕を振るった。

 

 

 そんな事は意図知れず、小波はただマウンドの足場を均して星とのサインを決めていた。

 

「なぁ、小波」

「なんだよ」

「テメェが、マウンドに上がるのは何年ぶり位になる訳だ?」

「ん? そうだな・・・。約四年ぶりって所だな」

 一瞬。

 ニヤリと、笑う。

 心の底から湧き上がる懐かしさに思わず口元が緩んだが、小波はキュッと真剣な表情に変えた。

「つーことでよォ。サインの打ち合わせだが変化球はスライダーとシュート、フォークとチェンジアップ・・・・・・そして、カーブ。一体、どれだけ投げんだよ、テメェ。取り敢えずはこれ位で良いんだな?」

「ああ、問題は無い。それと、もう一つサインの追加だ」

「はァ? サインの追加だァ? まだあんのかよ?」

「実は・・・・・・、俺のストレートは『三つ』あるんだ」

「え?」

 ストレートが三つ?

 小波の言葉に思わず素っ頓狂な声を出してしまった星。

「まあ、『三種のストレート』って皆は呼んでいたけどな」

「はァ? ちょっと待て! 勝手に話進めんなよォ! それで、なんなんだ? その『三種のストレート』ってのはよォ?」

 聞きなれない言葉を聞いて、引っかかった星は、この疑問が解けない以上、いつまでも気分が晴れない気がした。

「簡単に言っちゃえば、俺の『とっておき』ってヤツだ。正直、体力の消費もバカにならなくて余り使いたくは無いんだけど、今は出し惜しみしてる場合じゃあねえから」

「へっ! それはそれは、かなり頼りになるねェ! しっかし小波、テメェ。球種は揃っていても、まともに四年間投げ込みなんて碌にしてねェんだろォ? それをいきなり使えるかどうか分からねェだろうが」

「それなら、心配はない。大丈夫だ。こう見えて毎日、聖相手に投げ込んでたからな。抜かりはないぜ」

「・・・・・・はァ? 毎日? 聖? 誰だァ? そいつは!!」

「あれ? 知らなかったっけ?」

「知らねェ! 初耳だ、ボケェ! んな事、一度もお前の口から聞いたことねェよ!」

「そうだったっけ? それは、悪い悪い」

「チッ! ったく、毎回勝手な事ばかりするテメェには呆れちまうぜ! それよりもこの回、頼んだぜ? お前の復帰デビューは、このピンチの場面での登板だ。早川の為にも此処はどうしても点はやれねェのは、流石のテメェでも分かるよな?」

「逆に、ピンチの場面だからこそ燃えるもんだろ? 勿論、点をやるつもりは一切ないぜ」

「へっ、上等じゃあねェか! それじゃ!」

「ああ、任せとけ!」

 コツン、と拳と拳を重ねる。

 星は踵をクルッと返して定位置へと戻って行くのを確認し、小波は空を仰いだ。

 

 ——ザッ!

 ——ザッ!

 懐かしい。足場の土の感触を確かめる。

 上を見上げれば、青空が広がっていた。

 ドクン。

 ドクン。

 胸が高まる。

 やっぱり、このマウンドから見るこの景色は最高だな。

 そうか、俺はまた此処に帰って来たんだな。

 

 

「プレイッ!!」

 アンパイアの声が鳴る。

 

 余韻に浸ってる余裕などはある訳は無い。

 小波は、取り敢えず今は、この打者を気を抜かずに片付けるしか頭になかった。

 ノーアウト。

 ランナー一塁・二塁。

 バッターは八番の国領。

 カウントはワンボール。

 ギュッとボールを握り締め、小波は振りかぶってから、右腕を振り抜いた。

 ——ズバンッ!!

「ストライクーーッ!!」

 轟音を響かせたストレートは、右打席に立つ国領のインコースを抉った。

 ワッーと、湧き上がる歓声。

 球速表示は、百四十九キロを記録していた。

 続く二球目。

 フォークボールで、スイングを奪うと、間髪入れずに三球目を投じる。

 ——クイッ!!

「ストライクーーッ! バッターアウッ!」

 斬れ味の鋭いスライダーで空振りを誘い、続く三球目のストレートをアウトローいっぱいに決めて、三振に仕留めた。

『九番 ピッチャー 具志堅くん』

「よっしゃー!!!」

 バットを握り締め、全身を炎のように燃え立たせ具志堅がバッターボックスに入った。

 だが、奮起させるも虚しく、具志堅将也はあっという間に三球三振に倒れてしまった。

 

『一番 ショート 柴崎くん』

 

 遂に、帰って来たんだね。

 流石、球太だよ。

 圧巻のピッチング。

 やっぱり、いつ見てもカッコいいな。

 

 具志堅が三つ目のストライクのカウントが取られた時、春海はバットを手にとってネクストバッターズサークルに脚を進めながら、心の中で、そう呟いた。

 早川あおいが倒れた。と、言うイレギュラーはあったと言えど、小波の登板は、春海にとって、ずっと心待ちにしていた。

 その興奮は留まることは無い。

 思わず頬も緩んでしまう。

(こう言う時の球太は、昔から厄介だ)

(だからこそ思うよ)

 ——お前を倒して俺たちが甲子園に行く!

 

 

 一番打者である柴崎をツーストライクに追い込んでからのフォークボールで空振り三振に仕留め、スリーアウトチェンジ。

 ノーアウト一・二塁のピンチを三者連続三振で切り抜けられた恋恋高校。

 場内からは拍手喝采に包まれた。

「ナイスピッチングでやんす! 小波くん!」

「圧巻なピッチング! 流石ッス! 先輩!」

「ありがとう、矢部くん! 赤坂!」

「ケッ! 高校三年にしてようやくの初登板にしちゃ、まあまあ上出来じゃあねェか!」

「うっせ!」

 続々と、ナイン達が小波の元へ駆け寄り労いの言葉を掛ける。

 だが、マネージャーの七瀬は、涙を流すのを堪える様に唇をギュッと噛み締めてそこに立って居た。

「あの、小波さん・・・・・・」

「七瀬? どうかしたか?」

「・・・・・・あおいの為にも、この試合、絶対に勝ってくださいね!」

「任せて下さいませェ! はるかさん! この漢、星雄大が必ず、必ず、早川の為に大活躍してみせますとも! このチームを勝利に導いてみせますとも!」

「それは無理でやんす!」

「ンだとォ?」

「だって、今日の星くんは、五打数五三振でやんすよ?」

「あ"あ"? テメェは黙ってろォ! 例え、今日活躍してなくても、最後の最後に試合を決める一発を打ち込むのは、この漢——」

「ああ、勿論だ!」

 星の言葉を遮り、小波はニヤリと笑った。

 続けさせていれば、毎度の茶番が始まりかねない。

「このまま終わったら、早川にも悪いしな。笑顔で終わって、皆で早川を迎えに行こうぜ!」

「はい!」

 小波は、七瀬からタオルを受け取ってくしゃくしゃに彼方此方に跳ね上がる汗を纏った髪を拭った。

 八回表、恋恋高校の攻撃は九番から始まる。

 早川が途中交代で抜け、小波がピッチャーに入った替わりに、七回裏の守備から一年生の京町がファーストに付いている為、京町がバッターボックスに入ったのを見つめた。

 

「小波くん。ちょっと良いかしら?」

 すると、監督を努める加藤理香が小波の名前を呼んだ。

 普段からは想像出来ない程、恐いくらい真剣な表情を浮かべた監督である加藤理香が付いて来い、と言うかのようにベンチ裏へと歩いて行く。

 一体、何に対してそんな恐い顔をしているのかなど、小波は知る由もなく。不思議そうにその後を付いて行った。

 

 

「先生、どうかしましたか?」

「どうかしたとかそう言う話じゃないわ!」

 キツい口調。

 やはり、いつも保健室や部活中に見ている加藤とは思えない程、穏やかさは何処にも無く、それはまるで呆れを通り越してキレ気味にも見える。

「早川さんが体調不良で交代したのは十分、理解は出来るわ。けれど、何故なの? 何故、貴方がマウンドに上がったのかが、私には理解出来ないのよ」

「それは・・・・・・他に投げれるヤツが俺しか居ないからですよ」

 サラッと言ってのける。

 それは至極、簡単な返答だったからだ。

「それは・・・・・・ええ、そうかも知れないわ。でも、貴方は分かってるの? 貴方は故障者なのよ?」

「故障者と言っても、それはもう四年も前の話で、今は、全然、大丈夫です! それに、俺は今まで投げ込みを毎日欠かさずやってきました!」

「ま、毎日? それは一体、いつからやってるの?」

 いきなり背負い投げを食らった様に意外な驚きをする。

「矢部くんから野球部に勧誘された二年前からです。でも、肘の違和感は無いから心配しなくても大丈夫ですよ」

「・・・・・・そう」

 加藤は、少し間を空けた。

 しかし、その表情は、小波に何かを言おうとしたが思い直したかのように口をつぐむ。

「それなら良いけど・・・・・・。良い? 小波くん、無理は禁物よ?」

「はい、分かってます」

「絶対よ!」

「はい!」

 小波は少し微笑んで、踵を返してベンチへと戻っていく。

 加藤は、姿が消えた途端、壁に寄りかかりって溜息を一つ吐き出した。

「小波くん。あなたは何も知らないだけなのよ」

 その溜息は、悲しみに満ちた重い溜息だった。

 

 八回表の恋恋の攻撃は、調子が上がった具志堅の好投の前に三者凡退で終了した。

 そして、試合は八回の裏、きらめき高校の攻撃に替わり、先頭バッターは二番打者の高柳春海がバッターボックスに入る。

 

「浩輔。遂に、小波球太と春海の勝負が始まるぞ」

「ああ、見てりゃ分かるさ。そんな事」

 きらめき高校のベンチ上、応援席に腰を下ろした目良浩輔、舘野彰正、高柳千波の姿がそこにあった。

「それにしても恋恋高校、俺が思っていたよりも凄く良いチームだな」

 感心した舘野が言う。

「浩輔。お前はどう思う?」

「ああ、さっきマウンドを降りた早川って言う女ピッチャー。気持ち的には、もう少し胸が大きければ、バランス的に良くて、俺的にはとても好みだとは思うんだ——ぐぶッ!」

 ——バチっ!!

 肌を叩く大きな音を立てた。

 勿論、叩いたのは千波だ。

「ちょっと浩輔くん!? あんたは一体、試合中に何処を見てるのよ!」

「ど、何処って・・・・・・、千波、お前は聞いてなかったのか? 彰正も言っただろ? 早川あおいの胸の大小がどうのこうのって」

「言ってない!」

「言ってないわよ!」

 舘野と千波が同時に叫ぶ。

「大体、俺が、そんな事を平然と言ってのけるキャラだと思うか?」

「思ってた!」

「・・・・・・」

「あれ? 違ったか?」

「浩輔。お前ってヤツは・・・・・・。やっぱり良いや」

 流石の舘野もいつもの冷静さを無くしそうだった。

 それでも本気で怒らないのは、目良とは腐れ縁でここまで歩んで来たからだろう。

「もう! 本当に浩輔くんは、デリカシーの無い人なんだから! 彼女が本人の目の前に居るって言うのに、どうしてこうも平気でそんな事を言えるのかしら!」

 千波は、頬を膨らませる。

「そんなに怒んなよ! 冗談だって!」

「そんな冗談を、今まで何百回やってきたでしょ!!」

「落ち着け、千波。心配する事はない。浩輔のヤツはちゃんとお前の事をしっかりと思っているぞ?」

「えっ? それって・・・どう言う・・・」

「お、おい! ちょい待てや、彰正!? 余計な事を言うんじゃ・・・・・・まさか・・・・・・お前——」

 舘野は、目良の口を押さえ込んで、千波に話を始めた。

 ここに来る途中のこと。

 目良自身がその口で言っていた。

 千波が構ってくれなくても千波が居てくれるだけでそれだけで良い、と言う惚気話を本人に伝えた。

 それを言われた目良。

 それを聞かされた千波。

 二人とも、今にもプシューっと蒸気でも出しそうなほど顔を真っ赤にして、そのまま黙りこんでしまった。

 舘野はその様子を見て、また再びニヤリと悪戯な笑みを浮かべて、グラウンドに目を向けた。

(勝てよ、春海)

 

『きらめき高校、八回裏の攻撃 二番 セカンド 高柳くん』

 

 その名前を聞いて高揚感に包まれた。

 遂に、この時が来たんだな。

 春海。ようやくこうして一対一で戦えるのを待っていたんだよな?

 それは、俺も同じだ。

 行くぞ、春海!!

 

 左打席に立ち、構える。

 笑みを浮かべたその顔を見て、俺も思わず口元が緩んでしまった。

 初球。内角へ曲がるスライダーを投じた。

—キィィィィン!!

 春海は、タイミングを合わせてバットを振り抜いた。打球はライト線を超えたファールゾーンに落ちる。

「やるな、春海」

 初見のスライダーをいきなり当てて来るとは、流石と言いたい。

 高柳春海は、昔からそう言うバッターだ。

 一流のバットコントロールを持つ春海に苦手のコースは無い。

 何処に投げたって打ち返せる程の実力を持っている厄介なバッターなのだから。

 だから、と言って投げる球が無いわけじゃない。

 続く、二球目。

 渾身のストレートを放り込む。

 速球表示は百四十八キロ。

 これもまた、バットに当てカットされる。

 

——キィィィィン!!

 

——キィィィィン!!

 

 十三球目を打ち返した打球は三塁側のファールゾーンへと飛んで行くのを眺めていた。

 カウントはツーストライク、ツーボールの平行カウント。

 今のチェンジアップで、俺の持っている変化球の球種は全て投げた。

 スライダー。

 カーブ。

 シュート。

 フォーク。

 チェンジアップ。

 全く、恐れいるぜ。

 どのコースにどの球を投げても確実に当てて来るって、ピッチャーから見てみれば実に厄介なバッターだよ、春海。

 流石、リトルリーグ時代に『安打製造機』と呼ばれていたのは伊達じゃないな。

 けど、ここで足止めを食らってる様じゃダメなんだよ。

 俺にはやらなきゃいけない事がある。

 コイツらをこの先の景色を見る為に、甲子園に連れて行かなきゃ行けないんだ。

 名残惜しいが、春海。

 そろそろ決着つけようぜ!

 

 

『ファールボールに、ご注意ください』

 バックネットに打球が飛んだ。

 

「これで十三球目。相変わらず粘り強い春海だが、小波の野郎も諦めないな」

「それに、春海のヤツ。なんだか楽しそうに見えるな」

 きらめき高校ベンチ上、目良と舘野は真剣に二人の戦いに目を向けて居た。

「うん! きっと楽しいに決まってるよ。春海は、ずっと待っていたんだから・・・・・・球太くんと、こうして戦える日を誰よりも待っていたんだもん」

 暖かく見守る千波の瞳に、少し光る粒が溢れそうになっていた。

 

 

 バッターボックスとマウンドの距離、約十八メートル。

 高柳と小波。

 二人の間で交わされた笑みは消え、一瞬の緊張が走る。

 

「行くぜ、春海」

 滴る汗を拭い。

 ふぅと、ゆっくり息を吐く。

 腕を高く上げて、振りかぶった。

「お前が、今まで、見た事の無い球を今から見せてやるッ!」

 高く、脚を上げる。

 そして、腕を振り抜く。

(春海。これが・・・・・・)

 

 お前に、今、投げるこの球は——。

 

 『三種のストレート』の一つ。

 

「これが"ノースピン・ファストボール"だッ!!」



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第51話 ダイジョーブ博士

 無邪気な青色。

 まるで子供が、画用紙いっぱいに使い、無邪気に絵の具で染め上げた様な青空が広がっていた。

 街の中に、脚を止めた一つの影。

 青年、高柳春海は、雲一つない空をただただジッと見つめていた。

 ふわりと吹いた微かなビル風が、毛先を撫でた。

くらまるで、誰かの指先で優しく撫でられたかの様に、揺れる。

 余りにも優しい風だった為か、春海の瞳は思わず暖かい何かで、目の前が霞んでしまった。

 危うく目尻から暖かい雫が溢れそうになったが、意地なのか、堪える様に、ふと目をギュッと閉じる。

 すると、脳裏の奥底に焼き付いた先程の景色が鮮明に流れ始めたのだった。

 

 

 

 それは、数時間前に行われた予選大会三回戦である恋恋高校との試合。

 勝てばベスト八が決まる意地と意地のぶつかり合いは、今大会一番と言える乱打戦となり、両チーム、九対九の同点で迎えた七回裏のきらめき高校の攻撃の事だった。

 中学二年の中体連全国大会の決勝戦以来、約四年振りにマウンドに上がった小波球太が、打席で構え待ちをしていた自分に対して投じた初球のあの球が、どうしても忘れられずにいた。

 

 

『これが"ノースピン・ファストボール"だッ!!』

 小波の気迫の言葉。

『行くぞッ!! 春海ッ!!!』

『来いッ!! 球太ッ!!!』

 其の右腕から放たれたボールに、高柳春海は集中した眼でボールを捉えた。

 速球は、およそ百四十キロ後半は出ているストレート。

 一見、何の変哲も無い球。

 しかし・・・・・・、向かってきた球は、ただのストレートでは無かったのだ。

 集中を途切らすこと無く、目を凝らす。

 それは、次第にハッキリと、両の目が映し出した。

『なんだ——、この球はッ!!』

 ビリっと衝撃と言う名の雷が、身体を貫ぬくような感覚を受ける程、春海は自分の目を疑った。

 そのストレートは、よく見て見ると、無回転だった。

『——なンだァ!! この球ッ!!』

 思わずキャッチャーの星もビックリ声を上げるほどだった。

 そう、小波が投げたストレートは、回転が一切、掛かっていなかったのだ。

 呆気に取られ、驚いて声を上げた春海だったが、タイミングはバッチリと合わせてバットを振り抜いた。

 

 ——キィィィィン!!

 

 気持ち良い快音と感覚が全身に広がった。

 手応えの感じからして、ストレートはバットの真芯で捉えた。

 この打球は、左中間を真っ二つと破る長打になる、と予想した。

 

 ——だが。

 

『ぐっ!!!』

 

 真芯で捉えた感覚とは裏腹に、打球は虚しくも弱々しいゴロとなり、小波の前に点々と転がって行った。

 打った春海は、その場から一歩も動く事は出来ずに、ただ、バッターボックス上で膝を曲げ、左手を庇って、立ち止まっていた。

 小波は軽快に捌いて、一塁に送球して、十四球も粘った春海の打席は終わりを告げた。

 

 そして、遂に両チームの決着が着いた。

 春海が倒れ、後続の五番打者の広瀬が立ち向かったが、小波の前に、ノビのあるストレートとキレの鋭い変化球で翻弄され、結局、誰一人バットに掠るモノは居なく、反撃の狼煙を上げる事は出来ず、無得点のまま八回の裏のきらめき高校の攻撃が終了した。

 九回表の恋恋高校の攻撃時、ここまで一人で投げ抜いて来たエースの具志堅に、とうとう限界が訪れてしまう。

 三番打者の星、四番の小波、五番の山吹が連続四球で出塁し、ノーアウト満塁のチャンスの場面で六番の海野に打席が回った。

 ツーストライク、スリーボールからの六球目のことだった。

 放り込まれたアウトローいっぱいのストレートを打ち返され、左中間を破る決勝点を掴み取る走者一掃のタイムリーツーベースを放ち、十二対九と突き放したのだ。

 九回裏、小波がマウンドに上がり、打者三人を相手に九球、三奪三振で、先攻の恋恋高校に軍配が上がった。

 

 ポタリ、ポタリ・・・・・・。と雫が溢れる。

 これは、夏の暑さで流れた汗では無い。

 高校球児である自分達の最期の夏の終わりを告げる涙だと言うことは、春海はとうに知っていた。

 春海は、立ち止めた脚を再び進めて帰路を歩み始めた。

 人混みが、行き交う街を涙を隠すようにやや俯き加減で歩く。

 普段は歩き慣れた道、しかし、その足取りは重い。

 二十分くらい歩いただろうか・・・・・・。

 繁華街を抜ける為、歩き続けると、自然に囲まれ、随分と見慣れた、生まれた街である頑張市の少し外れに位置するパワフル商店街に着いた。

 もうすぐ、家に着く。

 春海は、先程、涙を流して赤く腫れた目元をハンカチで拭って、実家である『パワフルレストラン』を目指して歩き出そうとした時だった。

「——め、目良先輩ッ!!」

 思わず脚が止まった。

 春海の目の前に、先輩である舘野彰正と目良浩輔、そして、実姉の高柳千波が家の前で立っていたのだ。

「おッ! ようやく帰ってきやがった。よォ、お前の帰りを待ってンだぜ!  春海ッ!!」

 最初は、目良が手を挙げて名前を呼んだ。

「ご苦労様だったな、春海」

 舘野が続き、

「良く頑張ったね! 春海」

 千波は目に光る雫を浮かべ、春海に歩み寄ってギュッと強く抱きしめた。

 気丈にも涙を流すのを見せずにいたが、全身は小刻みに震えていた。

「姉さん・・・・・・、目良先輩、館野先輩・・・・・・ゴメンなさい」

「ううん、何を謝るのよ。春海は、良く頑張ったよ!」

「そうかな・・・・・・俺は、頑張れたのかな? 結局、俺は球太に勝てなかったし、それに目良先輩達を甲子園に連れ行くことが出来なかったんだ」

 グッと拳を握る。

 悔しさに耐えるように唇を噛み締めた。

「そんな事ねェさ! 春海! お前は充分に頑張った。甲子園に行けた行けないより、俺はお前が俺たちの分まで、甲子園を目指して来たって言うその心意気に万感の拍手を送りたい気分だぜ!」

「目良先輩・・・・・・」

「ああ、浩輔の言う通りだ。負けたらって俺たちはお前を責めはしないぞ? お前は良くやったよ」

「うん! そうだよ! 春海」

「・・・・・・ありがとうございます。もう、終わったんですね。俺の高校野球は・・・・・・」

 堪えていた涙が頬を伝った。

 三人の前では決して流さないと決めていた涙は、暖かさが包まれていた。

「高校野球は、な。でも、まだお前の野球人生は、こんな所で終わらねェだろ?」

 俯いた春海の肩に、優しく手を置く目良。

「・・・・・・はい! 勿論です!」

「・・・・・・」

 そこから約十秒ほど、変な間が空いた。

 沈黙を破る様に、目良が口を開いた。

「だったらよォ? 春海、もし良かったら俺たちの居るイレブン工科大学に来ないか?」

「えっ!?」

「今日の試合観てたらさ、なんか、お前とまた野球がやりたくなって来てな!」

 ニヤリと笑みを浮かぶ目良、その後ろで舘野と千波も笑っていた。

「でも、お前が進みたい道があるって言うんなら、別に断っても構わねェ。考えといてくれねェか?」

「・・・・・・の、言わなくても・・・・・・決まってるじゃあないですか!」

「あん? 何言ってるか分からねェぜ?」

「そんなの! 決まってます!!」

 ポタリ、ポタリと溢れる涙。

 ずっと、ずっと決めていた道が、春海の中にあったのだ。

 それは、去年の山の宮高校の敗北。

 目の前に立つ目良達を甲子園に連れて行く事が出来なかったあの日から、いつか大舞台にこの人を連れて行くと心に決めていた。

 そう、答えは一つ。

「俺も、また、目良先輩達と一緒に、野球がやりたいです!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 身体が重い。

 なるで鉛を背負っているかの様な重さだった。

 最後に見た記憶が、薄っすらと過ぎるが、果たして、それが現実だったのかはたまた夢なのか、区別が付かないほど、意識が薄い。

 それでも確かに、現実だったと言う事が分かる事が一つだけあった。

 遠ざかる意識の中、聞こえた言葉、彼が最後に呟いた『また、後で』だけは、ずっと早川あおいの頭の中に残っていたのだった。

 

 

「・・・・・・う〜ん。あれ? ここは?」

 一体、どれくらい、目を閉じていたのだろうか。

 漸く開き、薄ら眼で映ったのは、カーテンの隙間から溢れる陽の光は、既に橙色に染まった医務室の天井だった。

「そっか・・・・・・ボク、倒れたんだ」

 今までの事を一瞬にして、思い出した早川は、不意にキュッと胸を絞ったように悲しみが押し寄せて、唇を噛み締めた。

 大事な試合、息巻いてマウンドに上がったものの、たった数球で倒れた自分の不甲斐なさと、チームメイトに迷惑をかけたと言う罪悪感が、目に涙を溜めさせる。

 泣いちゃダメだ。

 だが、早川はグッと堪える。

 窓の隙間風がびゅわーっと吹き黄緑色の髪を靡かせた時、ふと、早川はハッと何かに気づいたのか、重たい身体を起き上がらせ、辺りをキョロキョロと見渡した。

 そう、辺りは橙色に染まっていたのだ。

 恐らく、既に十七時は過ぎていて、行われていたきらめき高校との試合はとっくに終わっている時間帯だった。

 ドックン、ドックンと胸の鼓動が段々と上がって行くに連れ、同時に血の気が引いた。

 試合はどうなったのだろうか?

 もしかして・・・・・・負けてしまったのか?

 それはきっと・・・・・・ボクのせいだ。

 不安が押し寄せる中、無意識に布団に被さった足元へと目を向けると、そこに一人の青年がパイプ椅子に腰を据えて、カクンカクンと首を揺らしながら眠っていた。

 黒髪が彼方此方にピョンピョンと跳ね上がった毛先、特徴的な癖毛頭に見覚えがあった。

「球太・・・・・・くん?」

 目を見開いて、ポツリと出た名前。

 そこに眠っていたのは、小波球太だった。

 いつもの様に、小さな寝息を立て、優しさがある無垢の少年のような安らかな寝顔を覗かせていた。

「ん? ああ・・・・・・早川。起きたのか?」

 眠気眼を軽めに擦りながら、大欠伸を一つ吐いた。

「ねえ、球太くん!! し、試合は!? どうなったの?」

 早川が気になって仕方がなかった質問を投げかける。

「落ち着けって! 安心しろ、早川。大丈夫だ。春海に・・・・・・いや、きらめき高校に勝ったよ」

「ほ・・・・・・本当に!? よ、良かった・・・。もし、負けてたらって思ったら、ボク・・・・・・」

「何言ってんだよ。あの時に言ったろ? 後は、俺たちに任せとけって」

「あははは。まあ、確かにそんな事言ってたね」

 安堵の表情を浮かべる。

 早川はホッと息を吐いた後、少し神妙な顔つきで問いかけた。

「もしかして・・・・・・ボク倒れた後ってキミが投げたの?」

「え? ああ・・・・・・まあな」

 早川の問いに、歯切れの悪い返答が返ってきた。

 自分が倒れた後、小波がマウンドに上がるだろうと確信していたのだ。

「肘は・・・・・・? 痛みは? ない?」

「全然。今のところ痛みはないな。毎日、何十球と投げ込みはしていたし平気だよ」

「なら、良いんだけど・・・・・・。そう言えば、今此処に居るのって球太くんだけなの?」

 早川は、医務室に小波の姿しか見えなかった事を疑問に思っていたらしい。

「いや、さっきまで皆居たんだけど、余りに誰かさんがグッスリ寝てるもんで、安心して帰っちまったよ。俺は、お前が起きるまで待ってるつまりだったんだけど・・・・・・」

「成る程ね。キミもついつい寝ちゃったと言うわけ?」

「どうも。そうらしいな」

「あはは。なんか、球太くんらしいね」

「らしいってなんだよ! ったく、熱も下がってるみたいだし、そろそろ帰るぞ」

「う、うん!」

 小波は、眉間に皺を寄せて、やや困惑した表情で立ち上がり、野球道具が詰まったバッグパックを背負うと、ピンク色のアコーディオンカーテンを閉めて早川が制服に着替え終わるのを待つことにした。

 

 

 その帰り道の事だった。

 すっかり日が暮れる帰り道、星が燦爛と夜空に彩りを添える空の下を二人並んで歩いている。

「ねえ、球太くん」

「なんだ?」

「あの・・・・・・今日は、ありがとう」

「・・・・・・?」

「なんで無言なの!?」

「いや、いきなりなんだよ。ありがとうって、何に対してだ?」

「何にって・・・・・・今日の試合の事! ボクの代わりに投げてくれた事に感謝してるの!」

「ああ・・・・・・、それのことね」

 小波はクスリと笑って、並んで歩いていた早川の前を歩く。

 少しムッと両頬を膨らませる早川。

「別に感謝なんてしなくても大丈夫だ。俺たちはチームメイトなんだし、助け合いなんて、そんなのは当たり前の事だろ?」

「それは、そうだけど・・・・・・。でも、キミの場合は、無茶しかねないでしょ? ボクの試合出場を認めさせる署名集めだって、球太くんが勝手にやり始めてたし」

「あれ? そうだったっけ?」

 ニヤっとイタズラに微笑み返す。

「それに、キミには肘のことだってあるんだから・・・・・・少しは意識はしてた方が・・・」

「なんだ、心配してくてんのか?」

「あ、当たり前でしょ!」

「ははは、ありがとな」

 人がこんなにも心配しているのに、なぜこの人は、いつも、こんなにも余裕で居られるのだろうと、早川は不思議に思った。

 そして、不思議に思ったと同時に、ずっと聞きたかった事を思い出す。

「あ、そうそう。球太くんの『夢』って、今まで聞いたこと無かったんだけど」

「夢? それは随分と唐突な質問だな」

「どうしても知りたかったんだけど、タイミングが合わなくて聞きそびれてたよ」

「聞きそびれるような質問なら、別に興味なんてないんじゃないのか?」

「揶揄わないでよ! それで? キミの夢がなんなのか早く教えてよ!」

「そう、ガッツクなって! それより、そう言うお前は? 夢はないのか?」

「え? ボク? ボクはね・・・・・・あるよ!」

「へえ〜。なんだよ。言ってみろよ」

「えへへ、今まで考えた事なんて無かったんだけど・・・・・・プロ野球選手かな?」

「お、良いじゃねえか」

「もしね、ボクがプロになれたら、きっとボクみたいな女の子と言う色眼鏡で見られる事が少しは無くなるんじゃないかなって思うんだ」

 早川の頬の頬は、赤みを帯びていた。

「それに、ボクはそう言う子達に勇気や元気とか、野球を知らない子達に、野球って言うスポーツは、こんなにも楽しいんだぞって伝えたいんだ。・・・・・・いや、伝えたいな」

 すると、小波は足をピタリと止めた。

「・・・・・・そうか」

「でも、今のボクの実力じゃ、まだまだだから、厳しいのは分かってるんだけどね」

「いいや、そんな事ないさ。・・・・・・早川」

「うん?」

「・・・・・・その夢、叶うといいな!」

「うん! これからも頑張んなきゃね!」

 そのまま、二人は夜の帰り道を歩いていった。二人の手は、自然に繋がっていた。

 小波の夢は聞けずじまいなまま、恋恋高校は予選大会四回戦であるパワフル高校との試合を迎える。

 

 

 

 

 早川と別れた後のこと。

 小波の携帯に一通のメールが届いていた。

 宛先は高柳春海からで、『今から会えないか』と言う内容だった。

 待ち合わせ場所は、春海の実家であるパワフルレストランへと向かった。

 家から自転車で十分もかからず、小波はカランと鈴が鳴るドアを開けて店内に入ると、店自体は既に営業が終わっている為、一番奥の六人掛けの椅子に春海だけが座っていた。

 

「よっ、春海」

「やあ、球太。お疲れ様、疲れてる所呼び出して悪かったね」

「いいや、別に、疲れてんのはお互い様だしな」

 テーブル席に腰を降ろす。

 春海の表情は、今日の試合で負けたから暗いと思っていたが、対照的に明るくて、清々しい表情をしていた。

「それで? 呼び出した理由ってのはなんなんだ?」

「球太、お前なら呼ばれた理由くらいとっくに気付いてる筈だろ?」

 流石、小学校からの幼馴染の事だけあって小波の考えはお見通しだった。

「"ノースピン・ファストボール"のことなら、アレはお前が体感した通り、無回転の重たいストレートだ」

「やっぱりな。真芯で捉えたつもりだったんだけど・・・・・・それにしても、球太の『三種のストレート』には驚かされたよ。出来るなら残り二つも見せて貰いたいくらいだよ」

「そんな事なら、いつだって相手になってやるよ。でも、時間は限られてるけどな」

「えっ? それはどう言う意味だ?」

「あ、いや・・・・・・今のはただの独り言だ。何でもない」

 小波は、慌てて首を横に振って、春海が用意してくれていた烏龍茶を喉へと流し込む。

「球太。次は、舞ちゃんの居るパワフル高校と試合だな」

「ああ、もちろん勝つさ。そして、太郎丸にも猪狩にも勝って甲子園に行ってやるさ」

「応援するよ。俺たちの分まで、頑張って来い!」

 二人はグッと握手を交わす。

 春海の悔しさの分も小波は受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 町外れに廃れた一棟ビルがあった。

 数十年間、人が気軽に出入り出来ない様な不気味なビルの地下の一室に、怪しげな影が二つあった。

 蜘蛛の巣が張り巡らされてる八畳程の部屋に診察台が一つ、メスや鉗子、注射器などの医療器具が多数、彼方此方と床に散乱していた。

 その部屋の中にそぐわない。目を閉じても網膜に焼きつく橙色の艶やかな長髪に、白衣を纏った女性・・・・・・恋恋高校野球部の顧問を務める加藤理香がそこにいた。

「ここ最近見ないと思ったら、何処で何をしてたのかしら? 後、研究所に戻ってたのなら、連絡一つ寄越してちょうだい」

 加藤理香は、困惑した表情を浮かべ——。

「ダイジョーブ博士」

 その名前を呼んだ。

 そして、もう一つの影は、大きめな診察椅子をクルッと回転させた。

「そーりー、そーりー。チョットシタ実験ヲシテタデース」

 頭のトップにたった一本だけの髪、後は禿げ上がり、ハチまわりはもっさりと白い髪が生え揃い、丸い瓶底眼鏡をかけた怪しい中年男性が、片言で話ながら不敵な笑みを浮かべていた。

「はぁ〜」

 それとは、対照的に加藤理香はため息を漏らした。

「また何処かで、対象外の一般人を人体実験とかされると困るのよ。四年前の小波球太くんみたいにね。すっかり『起きた事』の前後の記憶は消失してるけど」

「小波球太・・・・・・? コナミキュウタ。アーアノ少年ノコトデスネ! 覚エテマス! ソウ言エバ、今日ノ試合二出テマシタ!」

「え? 博士。まさか、今日の試合を見に来てたの!?」

「ハーイ。げどークント一緒二。途中デ投ゲ始メタ少年二見覚エガアリマシタ」

「・・・・・・」

「イヤ〜。スッカリ良クナッテマシタネ。デモ、彼ニハ残念ナ事ヲシテシマイマシタ」

 ダイジョーブ博士が放った言葉に、思わず加藤理香は首を傾げる。

 良くなったと言っておきながら、残念な事をしてしまった。と、言う言葉が妙に引っかかったのだろう。

「・・・・・・残念って、それはどう言う意味かしら」

「彼ノ肘ヲ治シタ時、手違イデ、着イテシマッタノデース」

「な、何を?」

「肩二爆弾デース。ソレモ、選手生命ヲ断ッテシマウ程ノ大キナ爆弾ヲ」

「——ッ!?」

 言葉を聞いた加藤理香は、驚き、言葉を失った。

「医学ノ進歩、発展ノタメニハ犠牲ガツキモノデース・・・・・・」



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第52話 前触れ

 蝉の鳴き声が、ミンミンと響き渡った。

「きゃっ!!!」

 夏の熱い風が吹き上げると共に、スカートが風を孕んでハタハタと靡かせた。

 慌ててスカートの中身を隠すように懸命に押さえつける女子生徒の姿を星は遠目に眺めながら、ニヤリとチャームポイントのキラリと光る八重歯を光らせ、不敵な笑みを浮かべるなり、じゅるりと舌舐めずりをする。

「くぅ〜!! 惜しい!! もう少しでパンツが見えると思ったんだけど・・・・・・チクショーーッ!!」

 夏の甲子園予選大会。

 三回戦目のきらめき高校を打ち破り、四回戦で当たる古豪・パワフル高校との戦いを二日後に控えた恋恋高校のグラウンドは、いつもと変わらぬ日常が繰り広げられていた。

「もう!! 星くん!! もう少しは緊張感を持って、ちゃんと真面目にやってよ!!」

「あン? 真面目にやれだァ? いいか? 早川ッ!! 俺はいつだって俺だッ!! だからこれが俺の真面目だッ!! 分かったか!!」

「何それ・・・・・・。何を言ってるか、ボクには全然ッ意味が分かんないんだけど!」

「まあまあ、星くんの事は放って置いてストレッチの続きするでやんよ」

「ちょっと待て! そう言えば小波のヤロォの姿が見当たらねェじゃねェか? パワフル高校戦を前にして、キャプテンが姿を現さねェとはいい度胸してやがるぜ!!」

 星は、眉を寄せる。

 細い目で辺りをグルリと見渡すものの、小波球太の姿は何処にも無かった。

「確かに・・・・・・部活始まってるのに、球太くんの姿を見てない気がするね」

「だろォ? いつもは学校終わって一目散にグラウンドに駆けつける筈のアイツが此処に居ねェのは珍しいな」

「あっ・・・・・・」

 すると、矢部が申し訳無さそうな表情を浮かべながら口を開いた。

「あの・・・・・・言い忘れていたでやんす。小波くんは今、加藤先生の所に行ってるから遅れてくると思うでやんすよ」

「はァ? 加藤先生の所だァ? なんでまた急に・・・・・・」

「もっ・・・・・・もしかして、球太くん、昨日の試合で投げたせいで、また肘を痛めたとか!?」

 早川は一瞬、小波の怪我が再発した事への不安が頭をよぎった。

「そ、それは無いと思うでやんす!」

「どうしてそんな事が言えんだ?」

「加藤先生は真剣な話があるって、小波くんを呼んでいたでやんすから・・・・・・きっと、今後の試合の対策とかだと思うでやんす」

「そう? それなら、別に良いんだけど・・・」

 何か、怪しい。

 何処か腑に落ちないといった様に、早川は少し首を傾げた。

 加藤理香は、確かに恋恋高校の野球部の顧問を務めてはいるものの、今まで監督らしい采配を出した事は、部活動結成以来二年間の間、一度たりとも無い。

 主に采配は、キャプテンである小波が出していたし、それが今となって急に監督らしい事をしようとしている加藤理香に、早川は不思議に似たモヤモヤする複雑な気持ちを抱いた。

「ま、居ねェバカを心配して待っていても始まらねェ。さっさと、練習始めるとするか!」

 ストレッチを終え、星が意気揚々と立ち上がって背筋をグンと伸ばした。

「はるかさーーん! 練習始めるんで、この漢・星雄大の為に、はるかさん特製のスポーツドリンクを作っておいて下さーーい!!」

「・・・・・・・・・」

 真夏の空に、星はマネージャーの七瀬はるかの名前を叫ぶが、その言葉は虚しく響き渡る。

 返事は返って来なかった。

「ありゃ? なんだ? 今日は、はるかさんも居ねェのか?」

「うん。はるかは、今日どうしても外せない用事があるみたいで、さっき急いで家に帰ってちゃったよ」

「外せない用事だァ? それってまさか・・・彼氏に会うとかじゃねェだろうな!!」

「そうかな? あのはるかに限って・・・・・・その彼氏とか、そんな浮ついた事は無いと——」

「だっ、だよなァ!! こんなにも近くに、はるかさんに相応しい俺が居るって言うのに、他の野郎と付き合う筈はねェよな!」

 早川の言葉を遮った星は高らかに声を上げるものの、周りの反応は薄く、やや呆れながら苦笑いを浮かべていた。

 肩を落とす早川は、ふと校舎の方に目を向ける。

「大丈夫かな・・・・・・球太くん」

 ゾワっと胸騒ぎする様な、嫌な予感は先程の会話から薄々感じていた。

 それは加藤理香に対する気持ちなのか、小波球太に対する気持ちなのかは定かではない。

「早川ーッ!! 早くしやがれッ!!」

「走りに行くでやんすよ!!」

「あ、うん! 待って、今いくよ!!」

 それでも、気にしてばかりはいられない。

 甲子園まで残り三つ。

 取り敢えず、今はチームの勝利の為に、頭を切り替えよう。

 早川は、前を走る部員達に続くように、日課のランニングをしにグラウンドを飛び出し、パワフル高校戦に向けて練習を始めた。

 

 

 

 

 掛け声が聞こえる。

 どうやら、部活が始まったらしい。

 誰もいなくなった保健室に、部活に汗を流す学生たちの声が響いた。

 薄い白いカーテンから斜光が、橙色の髪を色濃く写している。そこに居る女性、恋恋高校の保健医である加藤理香は、ほんのりと湯気立つマグカップに入れたコーヒーをゆっくり口に含むと、小さな溜息を一つ零す。

「バカな子。貴方の行動は、私には全く、何一つ、理解できないわ」

 と、小さく俯きながら呟いた。

 

 

 

 その夜、部活を終えて帰宅した小波球太の脚は、隣の聖の家に向かっていた。

 日課であるピッチングも終盤に差し掛かった所で、ボールを受ける聖は何か引っかかった様な疑問を抱く表情をしていた。

「球太、今日のお前はボールに気持ちが篭っていないぞ?」

「ん? そうか?」

「身が入っていない。心なしか表情も暗いようだが・・・・・・どうかしたのか?」

「いや、別に何もないさ。きっと昨日の試合の疲れが溜まってるんだろ。お前が気にしなくても大丈夫だ」

 と、小波は笑って言う。

 しかし、その笑みは表情的には笑っていても笑い声は殆ど無かった。

 聖は、普段から余裕のある表情を浮かべて居る小波から想像の着かない顔を見て、深く追求はしない事にした。

「うむ・・・・・・。そうか、お前がそう言うのなら追求は止めておこう。時に球太。明後日、いよいよパワフル高校との試合なのだろ? 手応えの方はどうなのだ?」

「手応え・・・・・・か。さて、どうだろうな。ただ手強い相手なのは確かだ。何せ、パワフル高校のエースの麻生は、右投げの猪狩みたいな奴だしな。正直、勝てるかなんて危ういくらいだ」

「ほう、今日の球太はいつにも増して随分と球太らしくないな。球太が弱音を吐くとは」

「バカ言えよ。俺だって、時には弱音の一つや二つくらい吐くさ。それより聖、そろそろ仕上げるぞ。猪狩に勝つ為、甲子園に行く為、『コレ』だけは、どうしても身に覚えておかなくちゃいけない」

「ああ、任せろ」

 二人は、再びピッチング練習を再開した。

 右腕を振い、投じた一球は、今日一のストレートだった。

 どうやら、小波は気持ちを切り替えた様だ。

 

(加藤先生、悪いけど俺はとっくに覚悟出来てんだ。コレだけは譲れない。俺はずっと前から決めてたよ。アイツらの為に、俺が甲子園に連れて行くってな)

 

 

 

 

 

「ゴメンね、こんな時間にお邪魔して」

「別に謝らなくても良いよ。俺は、もう高校野球を引退した身だからね。でも、珍しいね。舞ちゃんから連絡なんて」

 すっかり夜も更け、人通りの減った商店街。

 高柳春海は、営業が終了した実家のパワフルレストランの入り口の前を箒で掃き掃除を丁度終えた所だった。

 そこに現れたのは、ショートカットの桃色の髪に、赤いリボンを付けた春海と小波の幼馴染である栗原舞だった。

「それは・・・・・・こう見えて私、私パワフル高校のマネージャーだもの! それに、嫌な言い方かもしれないけど、一応・・・・・・その、今までは私達敵同士だった訳だし・・・・・・」

 春海の目から背けて、ボソリと呟く。

「成る程ね。今の俺は引退したから、今は敵とか関係ないって事だもんね」

「そ、そんな! 春海くんだって、頑張ってたし、悪い言い方はしたくないけど・・・・・・」

「あははは、大丈夫! 気を使わなくても平気だよ、舞ちゃん。俺は今、ちゃんと次に向かって進み出したから」

「そっか・・・・・・それなら良かった、かな」

「それより、俺に連絡して来たって事は要件は球太・・・・・・恋恋高校の事で合ってるよね?」

「うん。春海くん、よく分かったね!」

 この時期に自分に要件が在り、オマケに野球部のマネージャーを務めていて、今現に片手にボールペン、片手にメモ帳を持って立っていれば誰だって分かる事は一目瞭然だと言う事と、既に昨日の晩、小波とパワフル高校との話しをしたばかりだと言うを春海は、栗原に言わない事にした。

「まあ、舞ちゃんが思ってる通り、単体で見て大した戦力のあるチームでは無いのは確かだ」

「やっぱり・・・・・・。"精神的支柱"である小波くんの存在がチームの士気を上げてる訳ね」

「そう。敵からして見れば球太はかなり厄介だろうね。球太のプレーの一つで試合の流れは大きく変わりかねない。球太は、そう言う奴なんだ。そこは昔から変わらないよ」

「だよね・・・・・・。まぁ、分かってはいたけど春海くんに聞いた所で、小波くんの打開策がそう簡単に見つかるとは思えなかったし」

 はぁ、とワザとらしい溜息を吐いた。

「ちょっと・・・・・・なんか俺が使えないみたいな感じ止めて貰って良いかな?」

「冗談よ、冗談! なんだか久しぶりに春海くんと話しだけど、春海くんも昔から変わらないね」

「そ、そうかな?」

「うん、変わらないよ」

「・・・・・・舞ちゃん」

「ん? どうしたの?」

「球太は・・・・・・本当に手強いぞ」

「うん、勿論。それは分かってるわ。でも、私達の方も手強いわよ」

 春海と栗原の間に、妙な沈黙が流れ始めようとした時だった。

「そうか。そいつは楽しみだな!」

 それを裂くように、後ろから声が聞こえた。

「——ッ!!」

 二人は、バッと振り返る。

 そこに立っていたのは、ランニングウェアを羽織った小波だった。

「小波くん!!」

「球太!!」

「ん? なんだよ! そんな驚く事か?」

「小波くん、どうして・・・・・・ここに?」

「どうしてって、聖とピッチング練習終えたもんだし、ランニングでもしようかなって思って走ってたら、お前らが居たんじゃねえかよ!」

「小波くんてば! また聖ちゃん相手に無理な投げ込みばっかりやってるんでしょ! 相手は年下の女の子だって事、忘れてないわよね?」

 栗原の呆れた表情。

「・・・・・・。忘れてねえよ!」

「ちょっと、今の間は何よ!!」

「いや、今のは絶対忘れてた間だったね」

 便乗して笑う春海。

「おいおい、春海まで乗っかるなよな! それより栗原。明後日の試合、よろしく頼むな!」

「うん、もちろん! 勝つのは私達、パワフル高校よ!」

「ああ、負けないさ。望むところだ!」

 小波は、二人に別れの挨拶を告げて、そのままの脚でランニングへと向かって行った。

 

 

 

 

 小波が、高柳春海達と別れた同時刻。

 商店街を抜けた先にデパード街があり、そのネオンライトに染められた街の中に、スポーツ用品店であるミゾットスポーツの屋上にバッティングセンターが設置されている。

 そこに二人の青年が、汗だくになりながらベンチに腰を据えてスポーツドリンクを喉に流し込んでいた。

「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・、百五十キロも碌に当てられねェとは、我ながらダサ過ぎるな」

「そうでやんすね。これじゃ、モテモテライフなんて夢のまた夢でやんすね」

「だな。それによォ、これから先、麻生に太郎丸、そして猪狩守とどいつもこいつもストレートに自信を持つピッチャーばかりだ。少し位バッティングぐらいチームに貢献しなくちゃ先が思いやられるぜッ!!」

「オイラ達は、いつも小波くんに助けられてばかりでやんすからね」

 タオルで汗を拭う。

 その二人の目は、ギラリと闘志が湧いたようにメラメラと燃えていた。

「よしッ!! ジッとしてたって何も始まらねェ!! これから金が尽きるまでバンバン打って行くぜェ!!」

「そうでやんす!!」

「目指せ! 甲子園! カモン! モテモテライフ!!」

「目指せ! 甲子園! カモン! モテモテライフでやんす!!」

 意気揚々。

 二人は、バッと立ち上がる。

 ゲージの中に堂々と入り、ウェアのズボンのポケットから財布を手に取って小銭を取り出そうとした時だった。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 同時に、二人の動きがピタリと止まった。

「オイ・・・・・・矢部」

「なっ、なんでやんすか星くん」

「金がねェ」

「オ、オイラもやんす」

 どうやから、二人の財布の中身は既に底が尽きてしまった様だった。

 落胆。

 そして、一言も発する事も無く黙ったままゲージの外へと意気消沈して出て、再びベンチに腰を据えて、二人は途方に暮れた。

「ケッ。こんな奴らに負けたと思うと虫酸が走るぜ」

 ボソッと呟く、低いトーン。

 二人の前に、一人の青年が立っていた。

 黒髪は目を覆い、そこから覗かせる真っ黒な瞳は睨みつけているように細く、ニヤリと口角を釣り上げて、トゲドゲしく生え揃った歯に矢部と星は、目を見開いて驚いた。

「テ、テメェは!?」

「悪道くん!!」

「浩平ッ!!!」

 その青年は、極亜久高校の三年生の野球部にして、矢部と星の中学の時の同級生である悪道浩平だった。

「なんでテメェがこんな所に居るんだ?」

「フン。俺が何処で何をしていようが関係ねェだろ。ただの暇つぶしだ。何か文句でもあるって言うのか?」

「あン? 文句なんかねェよ。けど、野球から離れたンじゃねェのかよ。あの時お前は二度と野球をやらねェって言ってた奴が普通バッティングセンターなんかに居るか?」

「星・・・・・・テメェは、本当に喧しい奴だな」

「何だとォ!!」

 星は立ち上がり、悪道の額と額を合わせて互いに睨みつけていた。

「テメェみたいなクソ野郎は一度ぶん殴られねェと分からねェみてェだなッ! 浩平!」

「ほーう、殴れるのか? お前が俺を? 笑わすなよ?」

 バチバチと火花が飛び散る。

 啀み合う二人の間に、不穏な空気が漂う。

「止めるでやんす!! 二人とも!!」

 慌てて矢部が間に割り込んだ。

 悪道の拳が咄嗟にギュッと強く握ったのを矢部は見逃さなかった。ここで喧嘩沙汰など起こしたら今までの努力は水の泡になってしまう事くらい分かっているし止めに入るのも当然だ。

「・・・・・・」

 だが、矢部は少し不思議な気持ちになっていた。以前の悪道なら此処は止める前に既に星の顔を目掛けて殴りにかかっていただろう。

 しかし、何故だろうか。

 矢部は今の悪道は、決して人を殴らない様な気がした。

 熱くなった星は、舌打ちを強く鳴らして、再びベンチに腰を下ろした。

「・・・・・・なんだ、星。やらねェのか?」

「やるか、アホ。テメェとのお遊びなんぞに付き合ってられる程、俺たちは暇じゃねェんだ」

「悪道くん。申し訳ないでやんすが、オイラたちはパワフル高校戦との試合の為にストレートを打つ練習をしてるでやんす!」

「フン。お前らの様な雑魚共が麻生に打ち勝てるとは到底思えねェが?」

「そ、それはやってみないとわからないでやんす! オイラたちだって、やれば出来るって事を証明したいでやんよ!」

 揶揄う悪道の言葉に、強く反論する矢部。

 その瓶底眼鏡の奥に見えた瞳は、覚悟を決めた心強い瞳だった。

 すると、次の瞬間。

 二人が耳を疑うような言葉が飛び込んで来たのだった。

「だったら、この俺が直々にテメェらの相手をしてやるよ」

「・・・・・・オイ、浩平。それはテメェ、一体、どう言う風の吹きまわしだ?」

「聞こえなかったか? テメェらのバッティングの相手は俺が務めてやるって言ってんだ」

 同じ言葉を言う事に対して、悪道は嫌だったのか、ギリギリッと歯を軋ませた。

「星、あの時テメェが俺に向かって言った言葉覚えてるか?」

「あの時・・・・・・言葉・・・・・・」

 ふと、星は記憶を探った。

 確かアレは極亜久高校戦の試合後、恋恋高校の前に姿を現した悪道浩平が去る間際の事だった。

 あの時、星は悪道に『たまにはキャッチボールくらいしようぜ!』と叫んでいたのを思い出した。

「キャッチボールしようぜって言ったな」

「そう言う事だ」

「はァ? そう言う事だ。って、何クールに決めてんだテメェ!? バカか、テメェは! 野球辞めたらキャッチボールの意味すら忘れちまうのか?」

「チッ・・・・・・五月蝿ェ野郎だ。いいか、俺たちは敵同士。もう仲間なんかに戻る気もねェ。ただし、俺以外に負けるのも気にくわねェ・・・・・」

 ピタリと言葉が止まった。

 その表情は、どうしても言いづらそうにイライラと顔を強張らせては、ピキピキと顳顬に青筋を立てていた。

「一度キリだッ! 矢部、星! テメェらの小学生以下の打撃練習に付き合ってやるッ!」

「——ッ!!」

 星は、思わぬ出来事で目を見開いたまま、その場に立ち尽くし、矢部はニヤリと不敵な笑みを浮かべてコクリと頷いた。

「此処じゃ練習は無理でやんすね。それじゃあ移動するでやんす!」

「はァ? 移動って・・・・・・何処だ?」

「決まってるでやんす! オイラ達の練習グラウンドと言えば!!」

 悪道浩平も戦いを経て、自分を見つめ直したのだろう。今までの悪道浩平は此処にはもう居ないのだ。

「赤とんぼ中学でやんす!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はぁ・・・。

 はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・。

 かれこれ一時間半程、走ったか。

 息が切れて、汗が滝の様に流れている。

 腕時計に目を向けると、既に午後十一時を過ぎていた。

 ランニングと言えど、高校生がこんな時間に出歩いてるとなると流石にヤバイな。

 俺は、トントンとつま先で地面を鳴らし、帰路に着こうとした瞬間だった。

「今晩わ、小波さん!」

 後ろの方から、爽やかな声が名前を呼んだ。

「——ッ!! なんだ、進か・・・・・・」

 急な声掛けに体がビクッと反応してしまう。

 その声の主は、あかつき大附属高校の野球部に所属する二年の猪狩進だった。

 

 

 

 

 

 

 

 そう、この瞬間。

 俺は未だ知らなかった。

 自分の今後の運命を左右する出来事が待ち受けるとは知らずに・・・・・・。

 

 

 

 

 



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第53話 猪狩進

 まるで紫陽花の花の色の様な、赤よりも色濃い紫の瞳は、いつ見ても印象に残る。

 リトルリーグ時代からの顔見知りで、中学時代は元チームメイト、俺の一つ下であり、猪狩守の実弟である猪狩進は、今や名門にして強豪であるあかつき大附属の守備の要のキャッチャーのレギュラーを務めている。

 キャッチャーとしては、一見、身体の大きさは乏しいが、それとは裏腹に強肩かつ俊足であり、左右に打ち分けられるほど巧打のアベレージヒッターでもあり、オマケに攻守を誇る名捕手として、既にスカウトからも他校からも名高い評価を受けていたりもする。

「随分と久しぶりになるな。こうして面と向かって会うのも去年の署名活動中に会った時ぶり位か?」

「はい、約一年ぶりになりますね。小波さんは元気そうで何よりです」

 ニコッと笑いながら、進は言う。

 だが、その表情は、何処か疲労感が漂っている様に様に感じ取れるほど、窶れていた。

 流石は全国に名を馳せる程、知名度も実力も兼ね備えているあかつき大附属の野球部だけあって、俺たち恋恋高校との練習の効率の良さも上回っているのは言うまでも無い。

 それにしても、進ほどの選手なら少しは疲れる程度の感覚だろうし、こうして見て分かるほど窶れるまでやり込むなんて、進らしくは無いと感じた。

「それよりもラジオで聴いてましたよ。小波さんがマウンドに上がった事。肘の具合はもう大丈夫なんですか?」

「なんとか、な」

「それは良かった! ずっと心配していたんですが本当に良かったです! でも、小波さんならいつかマウンドに帰って来るって信じてましたよ!」

「本当か? そりゃ大袈裟だろ」

「そんな事ありませんよ! それに兄さんも喜んでいましたよ! 遂に小波と投げ合える日が来るって」

「猪狩のヤツ、そんな事言ってたのか? 当たるとなれば決勝戦だぞ? どうなるかなんてこれから分かりゃしねえのに、もう勝ち進んだ気にでもなってんのか?」

 自称天才を名乗る猪狩も此処まで来ると呆れを通り越して尊敬の念を抱いてしまう。

 しかし、猪狩守の実力は複数団のプロが注目を寄せるほど、申し分無い。

 そこがまた腹立たしくもあるのだ。

「去年、太郎丸さん達・・・・・・山の宮高校に負けた事で、僕らは今年こそ優勝旗を奪還すると決めてますから! 負けられません!」

 進のその瞳は、強い確信を持った瞳をしていた。

 それを見て、俺は思わずクスッと笑みをこぼしてしまった。

「そう言えば、いつだったっけ。可笑しな夢を見たよ」

「夢ですか?」

「ああ、決勝戦の九回表、二点差を追いかける中、マウンドに立ってるのは俺で、ツーアウト満塁の場面で打席には猪狩が立ってたんだ」

「随分熱い展開ですね! それで? その後の試合はどうなったんですか?」

「いや、なにもなかったよ。投げた所で目が覚めちまったからな。でも、俺はその続きの夢をこの夏で見れそうな気がするんだ」

「はい! 僕も兄さんも小波さんと戦える日を楽しみにしてます!」

「ああ、俺もだ!」

 ガシッ。

 お互いに手を強く組み交わす。

 進の手のひらの厚さに、今までの練習の成果が感じ取られ、甲子園出場を目指す為の気力が一気に増した。

「小波さん。兄さんは手強いですよ」

「ああ、そんな事お前に言われなくても嫌という程知ってるよ。昔からな」

 確かに、猪狩は手強い。

 だからこそ、相応しいのだ。

 現に高校最強と謳われているあかつき大附属のエースナンバーを背負う猪狩と甲子園の道を掴む戦いが出来れば、きっと今までにない楽しい野球が出来る筈だと小波は強く思っていた。

「・・・・・・僕。ふと、たまに思うんです」

 唐突に猪狩進は、口を開いた。

「兄さんと小波さんがプレーしている姿を見ていると、いつも楽しそうで、お互いが好敵手と認め合っているのが肌で感じて、それが何だか羨ましいって・・・・・・」

「進・・・・・・」

「僕自身、兄さんと違うのは勿論、分かっています」

 その表情は、先程まで強い確信を持った瞳とは一転し、暗く寂しげな表情へと変わった。

 走攻守と恵まれた実力の揃った猪狩進だが、唯一、実の『兄』である『猪狩守』に対して強いコンプレックスを抱いているのだ。

 高校生レベルを遥かに上回るキレのある多彩の変化球、抜群なコントロール、強靭なスタミナ、そして、何よりも百五十キロに迫るストレートである『ライジング・ショット』を投げ込むなど、ピッチングだけでなくバッターとしても強打者として恐れられるほど、天才と称された猪狩守は、既にプロ複数団から注目を浴びる程の人気者だ。

 その人気ぶりからか、進はどんなに活躍しても周りからは『猪狩の弟』と言う評価しかされなかった。

 実の兄の天才ぶりに対するコンプレックスに悩み、兄の話題を振られると模範解答を答えているものの内心では非常に複雑な感情が猪狩進を更に悩ませていた。

「兄さんに追いつきたい。兄さんを追い抜きたい気持ちはあります。けど・・・・・・いくら兄さんの目を盗んで練習に打ち込んでいても、その差は変わらない。広がっている気がして・・・・・・きっと僕と兄さんとじゃ出来が違うんですよ」

 進は、重みを感じるトーンで語る。

 見て分かるほど疲れ切った顔をしていたのは練習後も一人黙々と練習を続けてきた事の表れだった。

 兄である猪狩守へのコンプレックスを無くすため、弟である猪狩進は自分自身の身体を追い込む程まで練習に打ち込んで来たようだ。

「何言ってんだよ。お前と猪狩が違うだ?」

 だが・・・・・・。

 小波は、進の言葉を聞き終えた途端。

 鼻でクスッと笑った。

「笑わせんなよな。お前とプレーする時も猪狩とプレーする時も楽しさは同じだ。俺からすれば、お前も猪狩と変わらねえ昔からの好敵手だし、いつまでも仲間だと思ってるさ」

「小波さん・・・・・・」

「どうしても周りの奴らは猪狩と比べるかもしれない。それでも、お前はお前だよ。お前が信じる野球をやって、いつか『自称天才』なんて名乗るバカな兄貴を超えてやれ!」

「小波さん・・・・・・はい! ありがとうございます! その言葉だけでも嬉しいです!」

 夜も更けていた為、小波と猪狩進は別れの言葉とこれからの試合の健闘を称えて、帰路に着く事にした。

 疲れ切った表情の猪狩進はふらふらと力無く歩く。その後ろ姿に、小波はやれやれと苦笑いを浮かべながら見守っていた。

 

 

(頑張れよ、進。決勝戦で必ず会おうな)

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 小波は、稲妻のような迅速な驚愕を目に表した。

 遠方から人通りの少ない道路を走る一つの車のライトが蛇行しながら進を点々と照らしていたりのだ。

 だが・・・・・・本人は気づいていない。

 もしかすると、と言う危機を感じて小波は脚を走らせて、進の元へと向かう。

「進ーーーーーーッ!!!」

「・・・・・・」

「ッ、クソッ!!!」

 しかし、その声は届いていなかった。

 その距離は約百メートル程だろうか。

 まるで車が進に狙いを定めているかのように迫って行く。

 

 

 キキィ————ッ!!!!

 

 

「——ッ!!」

 進は、当てられたライトでようやくハッと我に返った。同時に運転手も気づいたのか、慌ててブレーキを掛ける。だが、手遅れだった。

 鈍い音の衝突音を響き鳴らし、車は勢いよくガードレールを突き破り、ボンネットを大破させて、漸く車が止まった。

「痛ッ・・・・・・。進、無事か!?」

「すぅ・・・・・・。すぅ・・・・・・」

 小波は、地面に強く身体を打ち付けるも、間一髪のところで進を助ける事に成功した。

 気を失ってしまっているが、かすり傷は有るものの進は無事だった。

「ったく、心配かけやがって・・・・・・この大バカ野郎」

 瞬く間に、人混みが事故現場へと駆け寄り始めた。

 一人のサラリーマンの男性が小波の元へとやってきて、震え声で声をかけて来た。

「き、君。大丈夫かい? 救急車は呼んであるから安心したまえ」

「ありがとうございます。・・・・・・運転されていた人は? 大丈夫ですか?」

「ああ、それなら心配は要らないよ。どうやら居眠り運転らしい。ところで、そこの茶髪の少年は君の知り合いかい?」

「はい。俺の大事な親友の一人です」

 小波はニコッと笑みを浮かべると、ゆっくりとその場で目を閉じて気を失った・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

——————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・。っと、ここは?」

 重たい眼を開き、真っ先に飛び込んで来た景色は、あまり良いものでは無かった。

「ふっ。ようやくお目覚めかい? ここは頑張中央病院だ」

 毛並みの良い茶髪髪。

 ややツリ目の青い瞳を覗かせた猪狩守がそこに立っていたのだ。

「・・・・・・どうやら頭を強く打ち付けちまった様だ。見たくも無い変なバカが見える。もう少し一眠りするか・・・・・・」

「おい、ちょっと待て! 小波!」

「なんて、冗談だよ。それで? どうしてお前がこんな所に居るんだ?」

「どうしたもこうしたも無いだろ! 君にはどうしても感謝の一言を言わなければいけないと思ってね。小波、進を助けてくれて本当にありがとう」

 深々と頭を下げる猪狩に、小波は少し複雑な笑みを浮かべる。こうして素直に感謝を述べる猪狩を見るなんて初めての事だった。

「別にいいさ。進は無事だったんだろ? それで良いじゃねえか。当たり前の事をしたんだし感謝なんて要らねえよ」

 小波は、ゆっくりと身体を起こしてベッドから離れた。

「そうか。君らしい答えだが、ここは素直に礼を言わせてくれ。小波、本当にありがとう」

「おう」

「でも、進は暫くは、入院しなければならないそうだ」

「入院・・・・・・?」

「ああ、思った以上に身体の負担があるようでちょうど甲子園が終わる時期まで安静の様だ」

「それは・・・・・・かなり残念だな。どうせならお前ら兄弟バッテリーと戦って甲子園に行きたいと思ってたのにな」

 その言葉に、猪狩はピクッと眉を寄せた。

「小波。すまないが、今年は僕たちが甲子園に行く」

「・・・・・・」

「残りの試合、僕は進の為に、この左腕を振るう! 例えこの左腕が折れようとも、進の為に優勝旗を持って来る!」

「・・・・・・そうか、お前の気持ちは分かった。でも、そう簡単には勝ちは譲らないぜ。俺だって覚悟決めてグラウンドに立ってんだ。猪狩、決勝戦は悔いのない試合をしよう」

「ああ、だから、小波。僕と約束してくれ。決勝戦まで負けるな。君と一度も戦わずして高校野球は終えたくは無いからね」

「お前こそ、変なドジ踏んで負けたりすんなよな」

「君なんかに心配されるとは、僕も落ちたモノだね。だが心配は及ばないよ。君の『三種のストレート』(とっておき)を捩じ伏せるだけの『ライジング・ショット』(切り札)は持ち合わせているからね」

「それは望むところだ。俺たち恋恋高校の力でお前の『ライジング・ショット』を必ず打ち砕いてやる!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めてから猪狩と言葉を交わした後、小波は院長の許可を得て病院を後にした。

 家までの帰路を急ぐ中、静寂な空間に広がる夜空の星がとても綺麗に思えた夜だった。

 そんな中、小波の頭に先程の猪狩の言葉が突然に過ぎる。

 

『残りの試合、僕は進の為に、この左腕を振るう! 例えこの左腕が折れようとも、進の為に優勝旗を持って来る!』

 

「ったく・・・・・・。そのセリフは俺のセリフだって言うのに。俺の方が先が短いに決まってんだろ・・・・・・。あのバカ野郎」

 ふと、小波は自分の右肩に触れる。

「——痛ッ!! やっぱり・・・・・・な」

 みりみりと骨が痛む。

 そのあまりの痛さに思わず顔を歪ませた。

 その痛みは、先程、猪狩進庇った時にアスファルトに強く打ち付けたのは小波の右肩だったのだ。

「こりゃ・・・・・・。思ってる以上にヤバいかもしれねえな。けど、そんな事関係ねえよな。この右腕が壊れようがアイツらに甲子園の土を踏ませてやるって事をとうの前から腹括ってんだ。もう、やるしかねえんだよ」

 覚悟を決めた小波の闘志は、地獄の業火となった。

 

 

 

 

 

 

 そして、遂にパワフル高校との試合を当日に迎える。

 一昨日の進の件は、どうやら表沙汰にはなっていないらしく、俺もその事には何も触れずに何事も無かったかの様に、いつも通りの様子でやり過ごしていた。

 それにしても、星と矢部くんの様子に違和感を覚える。

 今までモテモテライフと言うか変な夢を掲げて日夜練習に励んでいた二人に対し、やや失礼な発言になるが・・・・・・昨日の練習、今までに無かった『やる気』と言う情熱が初めて感じられたのだ。

「二人とも一体、どうしたんだろうね。何か良い事でもあったのかな?」

 その様に早川も気付いたのだろうか。

 少し、悪寒を覚えた様な、不気味な物を見るような目付きで二人を見ていた。

「さあな。やる気に満ちてるなら、それだけで充分だろ。相手は同じベスト八に上り詰めただけある強敵だからな」

「そうだけど・・・・・・。ま、いつも見たいな気持ち悪い雰囲気よりはだいぶマシかな?」

 早川は、フッと苦笑いを浮かべる。

 すると聞こえたのか、星と矢部くんがズカズカとスパイクの音をワザとらしく鳴らしながら此方へと向かって来た。

「オイオイ!! 気持ち悪い雰囲気ってなんだァ? もしかして、矢部の事を指して言ってるンだよな? あんまり本人を目の前して言うなよな、モチベーションの低下に繋がるぜ!」

「なんでそうなるでやんすか! 気持ち悪いのは、いつだって星くんだって相場が決まってるでやんす!」

「あン? なんだよッ!! 相場って!!」

 ワーワーギャーギャーと喧しい。

 ま、ともあれいつも通りのやり取り。

 どうやら俺の勘違いだった様だな。

「まァ、どうやら俺たち二人が今までの俺たちとは違う事に気付いたのは褒めてやるよ」

「なんで、そんな上から目線なの?」

 ズバッと早川がツッコミを入れる。

「・・・・・・まァ、見てろッ!! この試合間違い無くお前らとパワフル高校をギャフンとビックリさせてやるからなッ!! 此処でかっこ悪い姿見せちまうと・・・・・・」

 星は、途中で言葉を区切る。

 ギュッと自分の右手を力一杯に握り締める。その顔は心の底から湧き上がる『何か』を懐かしむ様でもあり、少し切ない気持ちを抱く様にも見えた。

 隣に立つ矢部くんも同じ顔をしていた。

 そして、ニヤリと八重歯を光らせ——。

「きっと、あのバカ野郎にいつまでも意地悪く嘲笑われちまうからな」

 と、付け足した。

「あのバカ野郎? それって一体誰のことなの?」

 早川が疑問を投げかけた時だった。

 既に球審から集合の合図が掛かっていた事をマネージャーの七瀬から言われ、慌てて俺たちはベンチ前へと駆け上がり、俺たちは一斉にホームを目掛けて走り出した。

 甲高い声で、主審が右手を高々と上げ、試合開始の始まりを告げると、甲子園予選大会も既に佳境を迎えた頑張地方の第四回戦目であるパワフル高校と恋恋高校の試合は、先攻・パワフル高校から始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 楽しみで仕方がない。

 試合前の練習中、そう呟いた男の顔は今まで見た事が無い程、言葉通りとても楽しそうな顔つきだった。

 パワフル高校のエースナンバーを背負う麻生は、一番打者がゆっくりとバッターボックスに向かう後ろ姿を見つめながらニヤリと笑みを浮かべている。

 去年までの彼なら誰も想像が付かなかった表情だろう。

 しかし、そよ風高校に負けたあの日から、麻生を筆頭にパワフル高校は変わったのだ。

「さて、今日の試合は恋恋高校だ! 恐らく手強いぞ! また一段と気合を入れないといけないな! な? 麻生」

 爽やかにキラッと歯を光らせ、麻生の隣に腰を下ろすキャプテンの戸井鉄男。

「・・・・・・。戸井、お前ってヤツは本当に一々五月蝿え野郎だな」

「そんなこと言うなよ。今日は石原キャプテンと尾崎キャプテンが試合を観に来てくれてるんだ。良いところ見せないとな!!」

「フン、オレ様も落ちたモノだな。その二人が来てるからといって躍起になるとでも? 誰が観てようが、オレ様はオレ様のピッチングをするだけだッ!!」

「はいはい。分かったよ。それより先発は早川あおいか・・・・・・。個人的には小波が投げて欲しかったけど、肘の調子は悪いのかな」

 一塁を守る小波を目で捉えながら、勝負出来ない悲しみに満ちた顔をしていた。

 戸井は、きらめき高校と恋恋高校の試合を観戦していたのだ。

 高柳春海に投じた最後の球である『ノースピン・ファストボール』に興味を示していた。

「ノースピンと言う異質の直球が、一体どんな球なんなのかバッターとして一度は拝んで見たかったところだったんだが、ウチのエース様はどうやら王道がお好きなようで」

 チラッと横目で麻生を見る。

 ギラッと苛ついた目つきで戸井を見ていた。

「相手が女だろうが小波が投げようがオレ様には関係ねえ。ただ立ち塞がるヤツはオレ様のストレートで問答無用で抑えてやるッ!!」

「それなら良いけど・・・・・・。まさかのお前が太郎丸と猪狩に触発されるとは誰も思っちゃいないだろうよ」

「麻生くんのストレート・・・・・・。知らされたのってつい最近だもんね。どこで練習していたんだか」

 クスッと笑いながら、マネージャーを務める栗原が間に入ってきた。

 戸井も釣られて笑みを漏らす。

 それに恥ずかしくなったのか、麻生は舌打ちを鳴らし、グローブを手に取る。

 丁度、三番打者が大きなフライを打ち上げところで守備に着く用意を始める中、麻生は空をジッと見つめ。

 

 あの日と同じ空が広がっていた。

 あの日、負けた悔しさ。

 あの日、戸井が掛けてくれた『悔しいなら這い上がれッ!!』と言う言葉は、まだしっかりと麻生の胸に刻み込まれていた。

 ギュッと帽子のツバを握りしめる。

 

(オレ様は・・・・・・今まで野球が何なのか知らずにいた)

 

(一人で点を取って、一人で抑える。そんな一人相撲を野球と呼ばないことを知った)

 

(本当は、こんなバカなヤツらと野球って言うスポーツがしたかったのかもしれねえな。それを教えてくれたのは戸井・・・・・・紛れも無くお前だよ)

 

(今のオレ様がマウンドで腕を振る理由はそれだけで充分だ)

 



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第54話 ポィンティド・ショット

 準々決勝であるパワフル高校と恋恋高校の試合が行われている地方球場。

 ほぼ満席に近い程、観客席は試合を一目見ようと脚を運ぶ人達で埋め尽くされている。

 一回の表、パワフル高校の攻撃は先発である早川あおいの緩急を突き、抜群のコントロールの前に三者凡退で抑えられ、恋恋高校の攻撃が始まった。

『一回の裏、恋恋高校の攻撃。一番 センター矢部くん』

 

「おっしゃーーッ!! 行ってこいッ!! 矢部ェーーーッ!!」

 ベンチから身を乗り出して、檄を飛ばしたのは背番号「2」を付けた星雄大だ。

 その声に、クルリと踵を返した矢部は「行って来るでやんす!」と大きく返事をして、右のバッターボックスへと歩いて行く。

「確かに今日の矢部くんは今までとは少し様子が違うように見えるけど・・・・・・。キミ達、一体何処で何をしてたの?」

 と、先ほどの会話の続きを早川が問う。

 七瀬が用意したスポーツドリンクを受け取ると、ゴクりと軽く一口喉に流し込んで、タオルで汗を拭いながら小波の隣にゆったりと座った。

「まァ・・・・・・ちょっとな。昔馴染みのヤツと一緒にひたすら打撃の特訓をしててな」

「昔馴染み・・・・・・? それって、元赤とんぼ中学で一緒だった流星高校の野沢くん? でも彼って確か外野手の人だったよね?」

「いいや、違うな。早川、お前はもう忘れちまったのかァ? 俺たちには昔馴染みがもう一人居るってことをよォ。その名前を聞いたら驚くと思うが・・・・・・」

「それは、一体誰なの?」

「いや・・・・・・それを丁度今、言おうとしてた所なんだが・・・・・・俺たちと特訓してた相手は極亜久高校の悪道浩平だ」

「———ッ!!!」

「・・・・・・」

 星の言葉に小波を除く、その場にいる全員が雷にでも撃たれた様な驚愕の表情を浮かべる。

 そのリアクションに対し、星はニヤリと笑みを漏らす。

「へへっ、どうだァ? 驚いただろォ? まあ実際、アイツがかって出た話で俺も矢部も最初は驚いたけどな。どう言う風の吹き回しかと思ったけどよォ」

「それにしては随分と嬉しそうな顔をしてるじゃねえか、星」

 感慨深そうな星に対して小波が口を開いた。

「あン? そりゃ・・・・・・当たり前だろォ。碌でもねェバカが、こんなろくでもねェ俺たち二人の為に相手をしてくれたンだ。オマケに浩平には似合わねェ指先の豆が潰れてボールが血塗れになるまで投げてくれたンだしな」

 

 カウント。

 ツーストライク、ワンボールからの三球目。

 麻生が百四十八キロのストレートを投じる。

 

 ——キィィィンッ!!!!

 

 芯を捉えた金属音が響き、ライナー性の鋭い打球は瞬く間に左中間を突き破り、俊足の矢部は一塁を蹴り上げていきなりチャンスを作るツーベースヒットとなった。

 

「アイツも俺達もこの二日間、今まで以上、割りに合わねェほど必死こいて特訓したンだ。それなのに麻生相手に何の成果も得られませンでした、なんかで終わっちまったら、浩平のバカに悪いだろォ?」

 打球を眺めながら星は、二塁に滑り込んだ矢部に向かって「ナイスバッチだッ!! 矢部ェ!!」と、声を張り上げる。

 グッと拳を突き上げると、空かさずヘルメットを着用し、バットを片手にネクストバッターズサークルへゆったりと歩いて行く。

 その後ろ姿を眺めて早川はポカーンと目を丸くして座り込んでいた。

「頼もしいな・・・・・・。この前の試合とは大きく変わって、随分と逞しい背中になったもんだぜ。これは悪道との練習でよっぽど気合が入ったらしい」

「でも、あの悪道くんが二人の練習に付き合っていたなんて意外だったね。もう二度と野球はやらないって、あの試合の後に言っていたのに・・・・・・。そういえば球太くん一人だけ驚いてなかったけど、どうして?」

「ん? いや、悪道浩平は野球を辞めない。俺はアイツは絶対に野球を辞めないって事を薄々分かっていたのかもな」

「えっ!? なんで?」

「・・・・・・結局のところ。アイツは野球が好きだって事に自分自身で気付いたみたいだしな。それに実際、あの最後の球は悪道浩平ってヤツの本当の気持ちが篭った・・・・・・本当に良い球だったからな」

 次にマウンドに上がる時、今までとはまた一味も二味も違う手強い悪道浩平が立ち塞がるだろう・・・・・・。そう思うと、小波は思わずぶるっと一瞬、身体が震えた。

 

 

『三番・キャッチャー 星くん』

 二番打者の赤坂が、ツーストライクに追い込まれてからの四球目。インコース、ボールゾーンへと曲がる甘めのシュートを詰まらせ、ファーストゴロに討ち取られてワンナウト。

 ワンナウト。

 ランナー二塁のチャンスの場面で、三番打者の星が右バッターボックスの中に入る。

「おッしゃァァァァアア——ッ!!! 来やがれッ!!」

 ドカンと大砲のような咆哮。

 ピリッピリッとした威圧が麻生へ、そしてパワフルナインを瞬時に襲った。

「喚くな雑魚が。まさか、そんな子供騙し程度で、このオレ様に対して脅しをかけてる訳じゃねェだろうな? 舐めるなよ、三下風情がッ」

 しかし、麻生は星の威圧など物ともせず、ニヤリと余裕とも見える不敵な笑みを浮かべた。

 セットポジション。

 からの星に対して一球目。百四十七キロのストレートは、インコース高めのストライクゾーンへと放り込まれた。

 ——ズバァァァァァァアアアンッ!!!

「ストライクーーッ!!」

「——くッ!?」

(くそッ!! 速ェ球だ。矢部の野郎、よくこんな球をバットに当てやがったな)

 星は、バットをピクリとも動かす事なく、その球を見送り、ワンストライク。

 続いて、二球目。キレのあるフォークをスイングするも、スカッと空を斬る虚しいスイング音だけ。空振を取られツーストライクへと追い込まれた。

 そして、三球目と四球目は渾身のストレートで三振を狙い迫って来たが星は喰らい付くかのようにファールで粘る。

(矢部がチャンスを作ってくれたんだ。俺も続かなきゃ練習を相手してくれたあのバカの努力が意味がねェだろッ!!)

 

 

 バッティングセンターで悪道と出会ってから数十分後の事、三人の姿はとある中学校のグラウンドに在った。

 歴史ある古びた校舎を眺めると、つい最近の事のように鮮明に学生生活の事を覚えていた。

「懐かしいでやんす。相変わらずグラウンドの電気はつけたままなんでやんすね」

 矢部が小さな声でそう呟くと、星も思わず「ああ、そうだな」と返した。

 ただ一人だけ。

 悪道浩平は無言のままグラウンドを歩き続けて、プレハブ小屋の野球部が使っている部室のドアを半ば壊すかの勢いで開けると、部室の中へと入っていき、そこから硬式用の金属バットを矢部と星の前に向かって放り投げた。

「おっと・・・・・・。オイ、浩平ッ!! テメェ、いきなりバットを投げるンじゃねェよ!! 危ねェだろォ!?」

「フン。五月蝿ェな。黙ってろ、雑魚が」

「なんでこんな所に硬式のバットがあるんでやんすか? あれ? これ悪道くんのバットじゃないでやんすか! なんでこんな所に?」

「・・・・・・。極亜久高校には俺みたいな奴らが沢山いる。校舎内は勿論、グラウンドなんかはそいつらの巣食と化してンだ。碌な練習なんか出来る筈もねェからな、俺と犀川はずっと此処で練習してたんだ」

「あはははッ!!」

 すると、星は腹に手を当てながら大きな高笑いを一つ浮かべた。

「星くん、どうしたでやんすか!?」

「ははは・・・・・・。いや、なんか、安心してよ」

「安心・・・・・・?」

「こんなクソ野郎でも、影では必死こいて練習してたんだって思ってな。そりゃそうだ。だって『ドライブ・ドロップ』(あんな球)を投げるピッチャーだぜ? 並大抵では無理に決まってるだろ?」

「——チッ。五月蝿ェな。早く黙ってバッターボックスに着きやがれ!!」

「はいはい・・・ッと、その前に、浩平!! 一つだけ聞かせろ」

「・・・・・・」

「お前の本当の狙いは何だ? 本当に俺たちの打撃力向上の為なのか? それとも、俺と矢部のどっちか、或いはその両方を潰そうなんか思っちゃいねェだろうな?」

「・・・・・・」

 悪道は黙ったまま、硬式のボールが詰め込まれたボールキャディーの中から一球、手に取った。

 そして、一つ深呼吸し、口を開いた。

「小波潰しに失敗した今じゃ、テメェら雑魚共を潰した所で、腹の足しにもならねェのは明白だ。言っただろ? 俺以外に負けるのは気にくわねェってな。それに俺はお前達に————————」

「・・・・・・やれやれ、お前って奴は本当に素直じゃねェな。それじゃ悪いけど、お前は俺たちの土台になって貰うぜッ!!」

 

 

 

 沈黙が流れ。

 対する五球目で勝負は着いた。

 アウトローへの百四十九キロのストレートを星は、ややタイミングを外したものの、思いっ切り踏み込んでバットの芯で捉えた。

——キィィィィン!!!

「なッ・・・・・・!?」

 弾き返した打球。

 矢部と同様、痛烈なライナーだ。

 ファーストを守る戸井鉄男の頭を超え、ライト線、ギリギリのフェアゾーンへと転がると一塁塁審は空かさずジェスチャーを交えて「フェアッ!!」と大きな声を上げる。

「よっしゃァァアア!! 見たかッ!! オラァッ!!!」

 湧き上がる歓声を裂くかのように、打った星は喜びを素直に喜ぶ鋭い気合の声を上げて一塁ベースを蹴り上げて二塁へと滑り込む。

 勿論、二塁ランナーの矢部は悠々とホームへと生還し、恋恋高校はパワフル高校の麻生からいきなり先制点を挙げた。

「ナイスランだッ! 矢部くん!」

「まだまだ! オイラたちの攻撃はこれからでやんすよ!」

 ネクストバッターズサークルで、次の打順を待っていた小波が矢部に向かってハイタッチを求める。

 矢部はニッコリと笑顔で応え、すぐさまベンチへと向かってナインたちとハイタッチを交わした。

 

 

 

 

「チッ・・・・・・。雑魚共が揃いも揃って粋がりやがって」

 恋恋高校のいきなりの先制点で球場が大きな歓声に包まれる中、ぶっきら棒な顔付きで二塁上で大きなガッポーズをする星を捉えたながら大きな舌打ちを鳴らしたのは、極亜久高校の悪道公平だった。

 連日連夜、二人の打撃特訓の相手をしていたその右腕の指先は白い包帯でぐるぐると巻かれていて、薄っすらと血が滲んでいた。

 しかし、そのぶっきら棒な顔付きからニヤリと口角を上げた笑みへと変わり——。

「まァ・・・・・・。やれば出来るじゃねェか。くそッたれがッ」

 と、悪道が小さく呟いた。

「フッ。お前にしては随分と珍しく嬉しそうな顔をしているな。悪道浩平」

 すると、ポツリと零した言葉を聞かれていたのか、それに反応し、鼻で笑いながら、悪道に向けて声をかけた一つの影。

「あン? 誰だッ!! テメェ!!」

 表情に獣の様な怒りをギラギラと滲ませて勢いよく振り向く——。しかし、悪道は思わず目を疑った。

 そこに立っていたのは思いも寄らぬ人物だった。

「ッ、滝本ォ・・・・・・」

「久しぶりだな。こうして面と向かって喋るのは、中坊の時殴り合った時以来か?」

「フン。そんな昔の事なんて一々知ったこっちゃねェなァ!? それよりどうしてお前がこんな所にいやがる!?」

「おっと、見て分からない程。お前は馬鹿じゃないだろう? ただの試合観戦だ」

「試合観戦だァ? 既に負けて終えた高校野球を観た所で意味でもあるのかァ?」

 そこで滝本は口を閉じた。

 その顔は、負けた悔しさに耐えるように唇を強く噛み締めていた。

 少しの間。

 沈黙が流れると、吹っ切れた感じで口を開いた。

「それもそうだな。・・・・・・ただ、俺達を下した恋恋高校を最後の最後まで見届けたいのさ。同じ甲子園を目指して戦いエースである智紀を打ち崩し、俺達を破り勝ち上がったチームだ。俺達に勝ったからには甲子園に行って欲しいと言う思いがあるから応援してる。それが敗者の務めでもあるだろう? ただ、それだけさ」

「・・・・・・それは随分と目出度ェ野郎だな。中坊の頃の死んだ魚の目をしていた奴がほざくなんぞ到底思えねェ台詞だな。あン時のテメェに是非とも聞かせてやりてェな」

「ふっ、だろうな」

 鼻で笑う滝本。

 少し間を開けて再び口を開いた。

「言葉を返すようで悪いんだが、お前こそ恋恋高校に敗れたのに、どうして球場なんかに居るんだ?」

「——ッ!? そ、そんな事はテメェには関係ねェだろォ!?」

 不意な問いに、慌てて言葉を返す。

 若干戸惑った表情を見た滝本は、珍しいモノを見たような意地悪くニヤリと不敵な笑みを浮かべて見せた。

「・・・・・・なンだよ」

「いいや、何もないが一つだけ言わせて貰うもすれば、悪道。お前も何かが変わったんだな」

「はァ? 何言ってんだテメェ」

「いいや、ただの独り言だ。気にする事はないさ。それより悪道。お前はもう進路は決めてあるのか?」

「・・・・・・あン? なんだァ、急に」

「俺たちは気付けば高校三年だ。高校野球を終えた今じゃただの受験生か就活生だろ」

「チッ。真面目ぶるンじゃアねェよ。知ったこっちゃねェな・・・・・・。そんなくだらねェ事、このオレが考えてるとでも思うか?」

「フッ、だろうな」

 鼻で笑う滝本に対して、ギリっと歯を軋ませると、聞こえるように強い舌打ちを鳴らす。

「そう言うテメェは決めてるのかよ。プロを目指すとか調子に乗った戯言を吐くんじゃアねェだろうな?」

「プロか・・・・・・。今の俺には到底辿り着けない道だな。なんせ一度は踏み外した道だ。そう簡単に行くとは限らない。けど、いつかは行って見せるさ」

「・・・・・・それで? お前はその踏み外した道をどう歩んで行くつもりだァ?」

「俺はな、帝王大学に進もうと思ってる。智紀の『フォール・バイ・アップ』に魅せられて再び始めた野球だが、今度は『フォール・バイ・アップ』を打ち返せるほどの実力を着けて打ち崩してやる」

「って事は、あのアンダースローのチビはプロ志願を出すって事か」

「ああ、そうだな」

「あのチビが通用するとは到底思えねェが?」

 舌打ち混じりに悪道は言う。

「さぁ、それはどうだろうな? 智紀の『フォール・バイ・アップ』は、誰かさんの『ドライブ・ドロップ』よりは良い球だと思うんだがな」

「——ッ!?」

「あくまでキャッチャー視線の話だがな」

 意地悪く、滝本が笑いかえす。

 それに対して虫の居所が悪くした悪道はギロッと冷徹な瞳で滝本を睨み付けた。

 

 

 

 

 

「麻生。まだ一点だ! 気にするなよ!」

 アウトカウントは変わらず、ワンナウト二塁のピンチを再び迎えた麻生に対して、ファーストを守る戸井がマウンドへと駆け寄って来た。

「・・・・・・」

 何しに来たのかと言わんばかりの薄ら笑いを浮かべた麻生は、ロジンパックに指先を馴染ませると、戸井に対してギロッと目を細めた。

「おっと! ・・・・・・なんだ? 急に恐い顔をするなよ」

「このオレ様に何か用か?」

「栗原の事前に調べ上げたデータを元に星と矢部の二人の打撃力は、お前のストレートなら恐るるに足らずと思ったところだったんだが、ちょいと誤算だったな」

「ケッ。そんな事を伝えにわざわざマウンドまで来たってのか? やっぱり落ちたモンだな、このオレ様も」

「用は心配してるんだぞ」

「このオレ様がたかが一点を取られたからといって気にしてるとでも思ったか? 折角、気にかけてくれてる優しさを振る舞ってくれる偽善者を装っている所悪いんだが・・・・・・依然、オレ様は至って冷静だぜ?」

「そうか! なら、安心だ。そう来なくちゃ麻生じゃあないよな! それよりも次のバッターは厄介な小波だが? この場面、お前はどう対処する?」

「このオレ様がそう易々と打れるとでも? それには心配及ばねェよ。相手が小波だろうが猪狩だろうが・・・・・・例えお前だとしても、オレ様はただ眼前に立ちはだかる奴らを捩じ伏せるだけだ。オレ様はオレ様の野球をする」

「そうか」

「まァ、例え打たれて失点したとしても、それでも点を取ってくれる。バックにはお前等がいる。そうだろ? 何の心配もねえ」

「麻生・・・・・・、お前」

「オイオイ、なんだァ? 戸井。試合中なのに拍子抜けた顔してんじゃあねえよ!」

「ああ! 悪い。なら、ここは任せたぜ!」

 戸井鉄男は麻生の左肩を軽く叩と、すぐさま定位置へと走っていく。

 そして、四番打者の小波を迎える。

 

『四番・ファースト 小波くん』

 

「行けェーーッ!! 小波ィーーッ!! 俺を必ずホームまで返せよッ!!」

 二塁上から星が声を張り上げる。

 麻生はチラッと目で牽制しながら、キャッチャーから出されるサインを見る。

 首を左へと振る。

 それが五、六回続く。

 しかし、サインはなかなか決まらなかった。

 

 

「まさか・・・・・・麻生くん。小波くん相手に『あの球』を投げるつもりなのかしら」

 パワフル高校のベンチで、スコアボードをギュッと握りしめ、一際、パワフル高校のマネージャーを務める栗原舞は密かな心配を持った。

 きっと麻生のストレートは愚か変化球も小波相手には通用しないだろう、と言う確信があったからだ。

 だが、その心配とは裏腹に栗原の表情は嬉しさに動かされて反動的に微笑んでいた。

 チラッと目をグラウンドに向ける。一塁を守る戸井を捉えた。その戸井も同じ様に微笑んでいた。

 

(麻生・・・・・・。さっきの言葉、俺を驚かせるのには充分な言葉だった。お前はこの一年、俺達が思った以上に変わったよ。以前のお前なら俺達なんかは見下して頼りにしなかっただろうな)

 

(けど・・・・・・。今は違う。それはお前も感じてるだろ? 今のお前は紛れも無いパワフル高校のエースナンバーを背負った正真正銘のエースだ)

 

(頼むぞ・・・・・・。麻生)

 

 八回目のサイン。

 漸く、麻生は首を縦に振った。どうやらサインは決まったらしい。

 ワンナウト二塁のチャンスの場面。ここは初球からバットを振って行くしかない。

 小波はギュッとバットのグリップを握りしめて、投げ込まれるボールを待つ。

 再度、二塁ランナーの星を目で牽制しセットアップから動作を始める。

 

『バックにはお前等がいる』なんて、オレ様らしくねえ発言なんてするもんじゃねえな。

 ただ勝ちたい。

 ただオレ様のその気持ちはずっと前から揺るがない。

 このチームで勝ちたい。

 オレ(・・)の気持ちは、負けた日からずっと心に刻んできた想いだ。

 これ以上は、打たせてたまるかッ!!

 覚悟しろよ、恋恋。

 オレの想いの前に、どんな覚悟を決めて立ち塞がってるのかなんて知りもしねェが・・・・・・オレの鋭いストレートでねじ伏せてやるッ!!

 

「喰らいやがれッ!! これがオレの渾身のストレート!! 『ポィンティド・ショット』だッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 



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第55話 麻生

 日差しが上着を突き抜けて直に肌へと食い込みかのように炎天下の中、今まさに行われている準々決勝まで勝ち進んだ恋恋高校対パワフル高校の試合は、中盤の六回まで進み、六回裏の恋恋高校の攻撃が始っていた。

 既に、ワンナウト。

 小波は七番打者の御影が空振り三振に打ち取られたのを確認して、ツーアウトとなると、ベンチからゆっくりと腰を上げ、帽子を深く被り直し、バックスクリーンに並べられたスコアをジッと見つめていた。

 

 パ 000220

 恋 10000

 

 湧き上がる大歓声。

 在校生が観戦しに集まったパワフル高校のチームカラーである真っ赤に染まった三塁側スタンドでは、その勢いを止めまいと声を更に張り上げる。

 スコアは見てみれば、四対一。

 パワフル高校が三点をリードしていた。

 初回、恋恋高校は先頭打者の矢部のツーベースからチャンスを作り、ワンナウト二塁の場面でチャンスに滅法強い三番打者である星がタイムリーツーベースヒットで先制点を取った。

 幸先のいい展開を切り開けた恋恋高校だったが、対するパワフル高校のエースである麻生は屈せずに右腕を振るい上げる。

 悔しさからか、ギュッと握り拳を作る小波。

 頭の中で、一打席目の事を思い出していた。

 星のタイムリーを浴びた直後、麻生の雰囲気はガラッと変わり、小波に投じた全三球は全て鋭い切れ味のいいストレートだった。

 だが、その三球とも小波のバットに掠ることは無く三振に討ち取られる。

 二打席目も同様。

 右腕から放たれるストレートに手も足も出せずに倒れしまい、それ以降はフォアボールは五つ出ているものの麻生相手に完璧に抑え込まれしまっているのだ。

 対する恋恋高校の先発である早川あおいは立ち上がりこそは、完璧に近いピッチングをしていたのだが、試合が動いたのは四回表だった。

 ワンナウトランナーなしの場面で五番打者である戸井に初球のストレートをレフトスタンドへと運ばれる同点弾を浴びると、そこから早川の調子が狂い始めてしまう。

 フォアボールとチームのエラーを重ね、五回が終わる頃にはパワフル高校は四点を奪い取っていた。

「どう言う訳か知らねェが、今日の麻生は今までとは一味違ェ様だな。チームは最初の矢部と俺の一打席目のヒットの二安打のみ・・・・・・こりゃ完璧に抑えられちまってるな」

 チッと舌打ちを鳴らし、プロテクターを着用しながら星が呟いた。

「そうだな。けど、試合はまだ終わっちゃいない。どうなるかは分からないさ」

「どうだかな。どう言う訳か知らねェが、オマケにテメェが麻生相手に三打席連続で空振りの三振とは随分とらしくねェじゃねェか。あんな鋭いノビのあるストレートに手も足も出ねェようじゃテメェもまだまだ未熟モンだって事だななッ!!」

「はは・・・・・・そんなところだろうな」

 やれやれ中々手厳しい一言だ、と言わんばかりに苦笑いを浮かべて頭を掻いた小波。

「大丈夫だよ! まだ六回。三点差ならまだ望みはあるし、必ず追いつけるよ!」

「早川・・・・・・」

 二人の間に、九番打者である早川が、ヘルメットを被りながら割り込んで来た。

 ここまで球数は百球近く投げているアンダースローのエースはまだ試合を諦めてはいなかった。

 とは言え、現在の早川の体調は豪雨の中で行われた球八高校と一戦以来、本調子ではない。

 既に、スタミナの限界近くまで使い果たしているし、早川の息は次第に上がって来ている。前回みたいにいつ倒れても可笑しくはないだろう。

「任せてよ! もう点は取られないよ。ボクが最後まで抑えてみせるから!!」

「意気込んでるところ悪いンだが、残念だがテメェには次の回で降りてもらうぜ」

 そう言いながら、星がミットを手に取る。

「えっ・・・・・・!? どうして!!」

「小波と試合前に話をしてな。万全の体調じゃねェ今のテメェをこんな炎天下の中に放っておけば、更に体調を悪化させる可能性がある。短期決戦である以上、エースであるお前が無理して支障が出ちまったら元も子もねェンだからなって事だ」

「それは、そうかもしれないけど・・・・・・ボクなら大丈夫だって!!」

「早川さん。貴女には悪いけど、これは監督命令でもあるのよ」

 早川の肩をポンと叩く。

 振り返ると、橙色の髪が靡いた。

 肩に触れていたのは、監督である加藤里香だった。

「加藤先生・・・・・・。ボクは大丈夫ですよ!!」

「貴女はもう忘れたの? この前の試合でも言ったけど、私は恋恋高校の野球部の監督でもあり恋恋高校の保健医なのよ? 早川さんの体調が悪いのくらい簡単に見抜けるわ。それは自分が一番良く分かるんじゃない?」

「・・・・・・」

 黙ったまま、早川は俯いてしまった。

 悔しい気持ち以上に、またチームに迷惑を掛けてしまうと言う罪悪感が覆う。

「それでも!!」

「それでもじゃないわ。他人の心配より自分の心配が優先よ。そこは理解して頂戴」

「・・・・・・うぅ」

 納得の行かない早川。

「まぁ、自分の心配が優先。それをいの一番に言いたいのは早川さんでもなく『小波くん』なんだけどね・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 チラッと加藤は小波に視線を向けるが、小波はその視線に気付かないフリをして黙ったまま早川の肩にポンと手を置いた。

「早川、まだ終わった気になるなよ。お前には次の回まで投げて貰わなきゃならないしな。しっかり抑えてくれ。必ず俺がパワフル高校を抑えるし必ず俺達が点を取り返してやる!」

「えっ!? 俺が抑えるって・・・・・・事は、次に投げるのってキミなの!?」

「ああ、そうだぜ!!」

 何故か星が答える。

「ちょっと、何で星くんが自信満々であたかも自分が投げるぞ、みたいに答えるの? 別に星くんには聞いてないんだけど・・・・・・」

「別に良いだろがッ!! ま、何て言ったて小波にはまだ秘策があるからなッ!! この前の試合、高柳春海相手にに投じた『三種のストレート』は、未だ二つ残ってるンだしよォ!!」

「・・・・・・」

 逞しい野郎だぜ、とニヤリと八重歯を光らして小波の肩に手を回した。

 だが、小波はやや呆れ顔のまま表情をピクリとも変えなかった。

「『三種のストレート』・・・・・・? 星くん、キミは一体何の話をしてる訳? そんなのある訳ないじゃない」

「そういえば、あおいちゃんは知らないでやんすね。小波くんには『三種類のストレート』が投げられるでやんすよ!!」

「・・・・・・」

 小波は沈黙を続ける。

 矢部はテンションが上がったのか、言葉を続けた。

「きらめき高校戦で投じた『ノースピン・ファストボール』は、流石のオイラも度肝を抜かれた球だったでやんす!!」

 早川自身、途中で倒れてしまい小波が継投でマウンドに上がった事は勿論知っていたが、小波のピッチングの細かい内容を聞くのを忘れていた。

 そして、その内容を聞くと早川は稲妻のような迅速な驚愕を目に映す。

「へぇ〜。無回転のストレート・・・・・・『ノースピン・ファストボール』か。やっぱりキミって凄い人なんだね」

 早川は尊敬の眼差しで小波を見るが、小波は「ハァ・・・・・・」と呆れたため息を漏らすと。

「凄い人なんだね、じゃねえよ。お前はいつまでここに居るつもりだ? 毛利の次のバッターはお前だろ。早くネクストバッターズサークルに行けよ」

「あっ!! そう言えばそうだった!!」

「ったく、しっかりしろよな」

 慌ててベンチを飛び出していく、エースナンバーを背負った早川の背中を見つめる小波。

 だが、その表情は少し悲し気な瞳で、空へと目を向けた。

 誰も知る由も無いのだ。

 中学二年の時に肘を壊した理由が、三種のストレートの酷使で壊したと言う事を・・・・・・。

 

 

 

 麻生は、汗に塗れた顔をタオルで拭った。攻守交代となるとすぐさまベンチへ戻るなり、栗原からタオルを受け取るとスポーツドリンクを喉の奥へと流し込んだ。

「麻生くんの汗・・・・・・。普段の試合よりも多いのが気になるなぁ」

 スコアブックを片手に、麻生は一人でベンチの端の方にポツンと座り込んでいるのを見つめていた。

 ここまで小波球太にバットに掠らせる事無く抑え、恋恋打線を完璧に封じ込んでいる右腕エースを栗原は少し不安そうな表情を浮かべた。

「心配か? 麻生の事」

「戸井くん・・・・・・。うん、まあ、一応ね。球数だってもう百三十球近く投げてるから」

「球数とフォアボールが多くなってきた以外は特に問題ないだろうな。今の所はな」

「でも、麻生くんの『あの球』は球数の使用制限があるから余り多用は出来ないわよ」

「心配は無用だ。麻生曰く小波にしか『ポィンティド・ショット』を投げていないみたいだし・・・・・・スタミナの消費の調整は自分でやってるみたいだからな」

「それは、そうかもしれないけど・・・・・・。私の予感だときっと次の打席はそう簡単には行かないわ。今までの小波くんとは違う筈。その前に何か秘策を思いついて来るはずよ」

「秘策か、警戒しておかないとな。それに今までの小波とは違う点というのは、矢仲智紀との戦いで『ファール・バイ・アップ』を打ち砕いて見せた『超集中』ってやつか?」

「うん。きっと矢仲君との時と同様、四打席目で必ず『超集中』で打席に立つだろうし・・・・・・それに、一番怖いのはその小波くんの打席次第では、恋恋高校の勢いは更に増すはずよ」

 思わずゴクリと唾を飲む栗原に、小波の怖さが直に伝わった。

「随分と頼もしいマネージャーだ。それに流石は幼馴染って所かな? 彼の事はなんでもお見通しって事らしい。こりゃより一層気を引き締め無いと駄目だな」

「お見通し? ううん。そんな事は無いわ。幼馴染とは言えど、私でさえ小波くんの考えは良く分からないのよ。昔からね」

「成る程。なぁ、栗原」

「ん? 何? 戸井くん」

「お前ってさ、小波に好意とかあるの?」

 戸井の言葉に思わず、目を丸くした。

「——はぁ〜〜ッ!? えっ!? ちょ、ちょっと、試合中だよ!? いきなり何を言ってるのよッ!?」

「いや、幼馴染の奴に想いを寄せるってのは定番中の定番だろ? もしかしてって思って聞いてみただけさ」

「む、昔はね? 確かに、小波くんの事に好意はあったけど・・・・・・。今は無いかな? 小波くんは近くに居る様に見えて、一人で勝手に前に進んでいく人で、私には手の届かなくて追いつけない存在なのよ。それに今は、小波くんを近くで支えれる相応しい人がいるみたいだし」

 栗原の視線は、自然と一点を見つめる。

 その目は、マウンドに立ち汗を拭う早川の姿を捉えていた。

 

 七回表のパワフル高校の攻撃は、早川の最後の気力を存分に振り切り三者凡退に終わった。

 マウンドに向かおうとする麻生に、戸井が声を掛ける。

「よぉ麻生、調子はどうだ?」

「どうもこうもねェよ。見ての通り球も走ってるし、思い通りのコントロールで放れてる。思ってる以上に絶好調だ。この調子で行けば難無く恋恋の奴等を抑えられそうだぜ」

「・・・・・・随分と余裕そうだな」

「ああ、余裕だ。任せておきな。今のオレを止めるのはそう簡単じゃねェよ。断言するぜ、この『ポィンティド・ショット』がある限り絶対パワフル高校に負けはねェ!!」

「なぁ、麻生。調子が良いのは良い事だが、あまり調子に乗ってると痛い目に遭うぞ?」

「戸井。人の話を聞いてなかったのか? パワフル高校に負けはねェんだよ。現に奴等は初回の二安打のみの鳴かず飛ばず。オレの球は、恋恋の奴等に充分通用するのは目に見えているんだ。残り三イニングでこの点差なら勝利は目前だ」

「あのなッ!! 油断は禁も・・・・・って、おい!! 麻生!! 麻生!!」

 聞く耳を持たず、麻生は残りのスポーツドリンクを飲み干すとグローブを片手にグラウンドへと足を進める。

「ったく、あのバカ。抑えられてるからって慢心してやがるな。分かってるのか? 『ポィンティド・ショット』は万能じゃない・・・・・・制限数もたったの数球程度な筈だ。投げ切った場合、身体が持たないのは練習中に分かりきってるって言うのに!!」

「戸井くん!! 落ち着いて!!」

「く、栗原。ああ、すまん・・・・・・」

 栗原の宥める声に、ハッと我に返る。

 だが、心なしか栗原の表情は暗めだった。

「ど、どうかしたか?」

「いや、今の麻生くんの感じ・・・・・・何だか昔みたいに見えたんだけど・・・・・・?」

「気のせいだろ。麻生ならきっと大丈夫。今の麻生は昔の麻生とは違う。違う・・・・・・はずだ」

 もし昔みたいになっていた場合。

 それでも、やるしか無い。

 自分たちのエースを信じるしか無い。

 戸井は、不安を抱いたままグラウンドへと向かって行った。

 

 

「流れは完璧にパワフル高校に向いてるな」

 真剣な表情を浮かべ観客席で滝本が呟いた。

「麻生のピッチングと言い、チームはそれに応えるかのようにバッティングをしている。理想的なゲームメイクだが、悪道、お前はこの試合をどう思う?」

「あン? さっきからゴチャゴチャと五月蝿ェなァ。テメェの独り言に俺を巻き込んでンじゃねェよ!!」

 と、舌打ちを鳴らす。

 苛立ちを隠し切れない悪道だった。

「まァ所詮、雑魚は雑魚だっただけの話だ。麻生如きに手こずり未だ打ち崩せてない様じャそれまでの話って事だ。これで恋恋の底が知れた訳だな。ここから打開策の一つや二つ出さねェと試合をひっくり返すのにも一苦労だろうぜェ? さもなくば、淡い甲子園とはおさらばだ」

 自分以外に負けるかもしれないと言う事に対して苛立っているのだろう。悪道の口調が早口だった。

「成る程な、打開策か・・・・・・。なら、今まさに恋恋高校はその打開策を思いついた様だな」

「はァ? 何を言ってやがンだ? テメェ」

 悪道がスッと、グラウンドに目を向ける。

 七回裏、恋恋高校の攻撃はピッチャーの早川から始まるが、ネクストバッターズサークルには早川の姿は無かった。

 

『恋恋高校。九番 ピッチャー早川さんに変わりまして椎名くん』

 

 突然のアナウンスに騒つく球場。

 そんな騒めく雰囲気など気に止めることなく、ネクストバッターズサークルでは二年生の椎名繋が黙々とバットを振り続けて居た。

 椎名は、練習の一環としてたまに行われて居た紅白戦以外の試合に出るのは初めての事であり、ややぎこちなさが伝わる。

「おい、一丁前に緊張してるのか? 椎名」

「まさか、そんな風に見えるのか? 赤坂」

 そこに現れたのは同じ二年生の赤坂だった。

 椎名とは違い一年生の夏の予選からスタメンを守って来た赤坂だ。

「やっとだな。待ちに待った初試合だからと言って、緊張するのは分からなくもないが冷静沈着がお前のウリだろ? 早川先輩直々の指名なんだから、ちゃんと気合い入れていけよ」

「ああ、そのつもりだよ。任せてくれ」

 ギュッとバットを握り締める。

 だが、フルフルと小刻みに震えていた。

「おいおい、椎名。本当に大丈夫か? 駄目なら交代を——」

「赤坂。僕がいつ緊張してると言った? そんな風に見えるのかと、たった今言ったばかりだろ?」

「お、おおう」

「ただ・・・・・・嬉しいだけさ。この僕も先輩達と共に戦えると思うとね」

「椎名」

 思わず零れた笑みを隠し切れずにいた。

「ずっと、ブルペンやベンチから試合を見て来たよ。先輩達は、負けていてもいつでも野球を楽しんでいる。それを目の当たりにして来た僕からすれば、先輩達の最後の大会で漸く一緒に戦う事が出来ると思うと震えてしまうんだ」

「それは所謂、武者震いってやつだな。俺っちの最初の打席もそれりゃもう緊張しまくりだったぜ。だから焦るなよ」

「御影・・・・・・」

 ニヤリと笑う同じ二年生の御影も側に駆け寄って来た。

「なら、見せて来いよ。椎名。お前の気持ちを握ってるバットに込めてさ。まだ終わりじゃないって事を寧ろ、ここからが始まりだって事をパワフル高校に知らしめてやろうぜッ!!」

「勿論、そのつもりだよ。赤坂、御影。それじゃ行ってくる」

「ああ、頼んだぞッ!!」

「ぶちかまして来い!!」

 赤坂と椎名、そして御影の三人が互いに顔を見つめ合う。

 小波達にとって最初の後輩であり、次の恋恋高校を担う二年生はハイタッチを交わすと、椎名は「よっしゃーーッ!!」と、普段は出さない声を張り上げてバッターボックスへと向かって行った。

 

「ッたくよォ・・・・・・。知らねェ内に頼もしい後輩になったもンだよな」

 二年組のやりとりをベンチから眺めながら、星は感慨深いものがあると言う趣でポツリと呟いた。

「そうだな。それに、俺たちはもう三年生だからな。後輩としての意地があるんだろう」

 小波が続く。

「三年か。そう言えばそうだったな。あの三人とも一年達とも一緒に甲子園を目指すのはこの大会が最後なんだよなァ」

 ニカッと八重歯を光らせ、深呼吸を一つした後、ベンチから身を乗り出す様にして星が叫び声を張り上げる。

「だったら尚更だッ!!! 負けてるからと言ってしけた面なんか出来る訳ねェに決まってらァ!! オラァーーッ!! 気張って行って来いッー!! 椎名ッ!!」

「椎名くんッ!! 後ろにはオイラがついてるでやんすよ!!」

「椎名くん!! 頼んだよ!!」

 星が声を上げたのを合図に、矢部と早川、そしてベンチからパワフル高校の応援に負けまいと大歓声が沸き起こった。

 

 

 

 

 ——こんなに随分と舐められたとは落ちたモンだな、オレも。

 エースである早川の代打で出された椎名を前に、麻生は心の中で舌打ちを鳴らした。

 所詮は代打だ。オレのストレートの前に苦肉の策で出されたパッとでの下級生の餓鬼がバットにそう簡単には当てられる訳が無い。

 麻生の目の色は、既に勝利を確信したような余裕のある色そのものだった。不敵な笑み、大きく振りかぶった右腕は、キャッチャーミットを目掛けて腕を振り抜いた。

 その初球だった。

 

 ——キィィィィン!!!

 

「——なッ!?」

 椎名はバットを一心に振り抜いた。

 バットの芯をやや外したが、手応えのある感触が全身に駆け巡らせる。

「行けェェーーーッ!!!」

 打球は、麻生の股の下を破る痛烈なライターがセンター前に転がると恋恋高校のベンチは更に湧き上がった。

「よっしゃー!!」 

「ナイスバッチだぜ!!」

 赤坂と御影がベンチから身を乗り出して、グッと指を立てて椎名に合図を送る。

 やや照れながらホッと安堵の表情を浮かべながらニヤリと笑みを返した。

 ノーアウト一塁。

 打席には四巡目一番打者の矢部を迎える。初回のヒット以降、矢部のバットから音沙汰がないが、椎名に続けと言わんばかりに気合が満ち溢れていた。

 セットポジションからの初球。

 麻生はインコースを攻めるシュートを投じるがストライクゾーンから僅かに外れてボールカウントとなった。

 二球目。

 百四十七キロのストレートを見送って、ワンストライク、ワンボール。

 三球目。

 外角低めへの緩やかなカーブを巧くタイミングを合わせてバットを振り抜いた。

 

 カコンッ!!!

 

 バットの先端。

 鈍い音を立てた打球はショートへと小フライで空へと打ち上がった。

「円谷ッ!! 行ったぞッ!!」

 麻生が声を張り上げる。

「オーライ!!」

 パワフル高校で二年生。ショートを守る円谷一義が落下地点に到着して手を上げる。

 難なくワンナウト。と誰もが想像出来た事だった・・・・・・。だが、円谷は上げた手を顔の前に当てた。照りつける日差しと打球が被ってしまったのだ。

「椎名ッ!! 二塁へ走れッ!!」

「えっ・・・・・・でも・・・・・・は、はいッ!!」

 小波は、ベンチから声を張り上げた。

 小波は、円谷の一瞬の動きを見逃さなかったのだ。

 もしこれで打球が円谷のグローブに収まった場合、ファーストに投げられたらダブルプレーと最悪な展開になってしまうが・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 ポロッ。

 矢部の打ち上げた打球が円谷のグローブを弾いて地面に転がった。

「——あッ!!」

 慌ててボールを拾ってみせたが、既に一塁ランナーである椎名は悠々と二塁ベースに到達していた。

 怒号の歓声が球場を揺らす。

 バックスクリーンには『E』のランプが点灯していた。

 

「ふぅ・・・・・・もし、今のをショートが取ってたと思うと冷や冷やしたぜェ。大博打過ぎるぞ小波ィ!!」

 額に手を当てながら星が弱々しい声を当てながら小波を睨みつけた。

「ああ・・・・・・。でも、一か八かの賭けは吉と出たな。この勢いで流れをこっちのモノにしたいところだ」

「・・・・・・ったく、何を呑気な事言ってンだ、テメェはよォ」

「この先、博打でも何でも悪足掻きの一つ位はしておかないと駄目って事さ。そう簡単に勝ちはもぎ取れないからな」

 小波は前を見つめる。

 黒い瞳はジッと何かを見据えていた。

「悪足掻き・・・・・・か。まァ、しねェよりは幾分かマシなんだろうな。それならこの俺も一つ悪足掻きでもしてみるか。椎名と矢部が繋いでくれたンだからな。この俺も続かねェと男が廃るってモンだろ」

「ならお手並み拝見と行こうとするかな。頼んだぜ、星」

「ああ、任せろってンだ!! この試合のヒーローになるのはこの星雄大様だぜェ!!」

 そう言いながら、星はヘルメットを被りバットを片手にネクストバッターズサークルへと足を進めた。

 小波は、見送ると静かに両の目を閉じて集中力を高め始めた。

 

 

 ノーアウト。一、二塁のチャンスで二番バッターの赤坂を迎える。

「・・・・・・」

 赤坂はバッターボックスに立つ前に、気持ちを落ち着かせようとソッと目を閉じて深呼吸をした。

 

 

『椎名、ちょっと良いか?』

 この夏の予選大会が始まり、一回戦に極亜久高校との試合が行われる前の日の事。

 練習終わりのグラウンド整備の途中で赤坂が椎名の名前を呼んだ。

『どうした、赤坂』

 手に持つトンボをピタッと止め、椎名が眉を寄せる。

『いや、別に大した事じゃ無いんだけど。今日の練習中、ふと思った事があって・・・・・・この大会が最後なんだなって』

『最後? 小波先輩達と一緒に戦う事がか?』

『ああ。先輩達と未だ未だ一緒に野球をやりたいって日に日に強くなる。未だ終わって無いのに寂しいんだ』

『奇遇だね。それは僕もさ。ここに居る先輩達はみんな好きだからね』

『ああ、俺もだ』

 ニコッと笑う椎名。

 赤坂も同じくニコッと笑った。

 そして、少し間を開けて言葉を続けた。

『早川先輩は、今日もブルペンで早川先輩の球を受けてたけど、あの人は本当に負けず嫌いで本当に野球が好きな人だ』

 と、椎名が言う。

『星先輩は口が悪いし、普段から目を覆いたくなる程のチャランポランな人だ。だけど何だかんだで皆んなを見てる』

 と、赤坂が言う。

『海野先輩、山吹先輩もシニア野球経験者で頼りになるし、毛利先輩に古味刈先輩も高校から野球を始めたって言うのに様になってる』

『そして、キャプテンである小波先輩だ』

『早川先輩の事件があってあの人が居たからこそ今の恋恋高校がある。正直、俺はあの人を尊敬してるよ』

『それは僕もさ。諦める事を知らないし、何よりチームワークを大切にしてる。野球に大切な事を改めて教わったよ』

『・・・・・・』

『・・・・・・』

 沈黙。

 二人は立ったまま、それぞれこの二年間を思い出すかのように振り返っていた。

 部の設立、初試合、早川あおいの女性選手問題、完全試合での敗北・・・・・・。

 色濃い思い出は、中々充実した物だった。

『なあ、椎名』

『何だ、赤坂』

『先輩達にとって最後の夏って言うなら、俺たちにとっても最後の夏だよな』

『そうなる、ね』

『なら、恩返しをしよう。先輩達を甲子園に連れて行くんだ!!』

『赤坂・・・・・・』

『俺は先輩達から色々な勇気を貰った。俺はその勇気を一つ一つ紡ぎ、恩返しって気持ちで先輩達の目指す甲子園という夢を叶えさせてやるんだ!!』

『なら僕は、それを次の世代である早田達やその更に次の世代へと繋げられる様にしよう。恋恋高校野球を絶えさせない為に、ね』

 赤坂紡と椎名繋。

 二人は無言で頷いた。

 これからの予選大会をどんな覚悟で挑んで行くのかが決まったのだ。

『あれ、ちょっと待てよ? そう言えば、先輩達の中で誰か一人忘れてるような・・・・・・』

『いや、気のせいだろ? 僕達の先輩達は八人だぞ』

 再び、顔を見合わせる。

 そして、思い出したかのように声に出した。

 

 

 

 

『あっ、矢部先輩の事・・・・・・忘れてた』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へっくしゅん!! でやんす!!」

 一塁から矢部のくしゃみが聞こえた。

 赤坂はふと目を開ける。

 

(椎名が打ち、矢部先輩が続いた。なら、俺もこのチャンスを無駄には出来ない——必ず打ってみせるッ!!)

 

 

 だが——。

 

 

 

「ストライクーーッ! バッターアウトッ!」

 麻生から投じられたのは、たったのはストレートの三球のみだった。

 赤坂はバットを振り抜き、強く抱いた想いも虚しく、空振り三振に倒れてしまった。

「どんまい、どんまい!」

 ネクストバッターズサークルに立っていた星が、ヘルメットを脱ぎ、ベンチにトボトボと足取りの重い赤坂に声をかける。

「星先輩、すいませんッス」

「あン? 何を謝ってやがンだァ?」

「このチャンスの場面で、三振なんかしちゃって・・・・・・気合い入れてんスけど、本当にすいませ——」

「あ〜五月蝿ェ五月蝿ェ。チャンスの場面で活躍しよモンなら然は問屋が卸さねェ。なんせこのチャンスは、この星雄大が決めるって相場が決まってンだよ!! 馬鹿たれッ!!」

 ——パチッ!!!

「痛えッ!! ちょっと何するんスか!!」

 赤坂は頭を抑えて、その場に蹲った。

 星が赤坂の頭を目掛けて拳骨を一発浴びせたのだ。

「ベンチで見ときな。先輩の意地ってヤツを見せてやらァ!!」

 

 

 

『三番 キャッチャー 星くん』

 

 汗が滴り落ちる。

 マウンドは更に熱気を帯びている。

 真っ赤に燃えるようなチームカラーである赤のアンダーシャツで汗を拭う。

 一回の裏以来のピンチを迎えたこの場面だが麻生は未だ余裕の表情を見せている。

 対する初球。

 百四十九キロのストレートを放り投げて、星はピクリとも動かず見送りワンストライク。

 

(動かない。いや、動けないと理解した方が正しいか。オレの球は通用する。どうやらさっきの二年の当たりはマグレだろう)

 キャッチャーからの返球を左手のグラブで受け取りながら、麻生が声に出さず呟くと、続く二球目へとピッチングモーションに移行した。

 ——ズバァァン!!

「ぐッ・・・・・・」

 星は再び見送り、麻生のストレートは再び百四十九キロを叩き出した。

 

(これでツーストライク。星を抑え、次の小波を捩じ伏せれば残りは下位打線。万が一でもヒットを打たれる可能性はねェ。って事は、二つアウトを取れば・・・・・・オレ達パワフル高校、いやオレ様の勝ちで準決勝だッ!!)

 

 ふぅー。と息を吐いて、思わず下を向く。

 ふるふると麻生の身体は、小刻みに震えていた。

 

(勝利は目前。ククッ・・・・・・。駄目だ、未だ笑うな。ヤベェ、笑いが止まらねェぜェ)

 

「・・・・・・」

 麻生は無心の様に目を閉じていた。

 自分を自分で落ち着かせた麻生は目を閉じたまま星に対して留めの三球目のストレートを投げ込んだ。

 

 ワァァァァアアアーーーーッ!!

 湧き上がる歓声に胸が高鳴った。

 空振りか、見送りか?

 どちらにせよ、三振で決まりだッ!!

 三振を確信した麻生は、ギラッと白い歯を覗かせる笑みを浮かべると共に、閉じていた目を開くと目を疑う光景が広がっていた。

 哀れで滑稽で悔しさを滲ませているはずの星の姿が目の前に居なかったのだ。

 来るっと身体を振り向かせると、センターを守る二年生である猿山武が走ってフェンスにぶつかった打球を追いかけているのが見えると動揺と共にたった今何が起きたのかが電気が流れる様に瞬時に判断する事が出来た。

「う、打たれた・・・・・・だとッ!!!」

 センターオーバーのタイムリーツーベースヒット。

 スコアは四対三。

 その差は、一点まで縮まった。

 麻生は、マウンド上で固まったまま動かなった。見開いた瞳はただ一点を見つめる。七回裏の恋恋高校のスコアボードに刻まれた『2』と言う数字を見つめて居た。

 そして、間髪入れずに立ちはだかる男がゆっくりと右のバッターボックスへと脚を進めて居た。

 

 

『四番 ファースト 小波くん』

 

 アナウンスがその名を告げた瞬間、ピリッとした威圧感が球場内に広がると、パワフル高校も恋恋高校のベンチも観客席に居る全員が悪寒に襲われたようにわなわなと震え出していた。

 

 

「ここで小波に打順が回って来たって事は、ここがこの試合の山場だな」

 と、滝本が打席に向かう小波に焦点を当てながら呟いた。

「この打席次第で試合が決まるぞ」

「どうだろうなァ。次は、三打席連続三振と不調の小波だ。四打席目も三振かも分かりャしれねェぜ」

「いや・・・・・・三振は有り得ないだろうな。なんせ、あの時と状況が似てる」

「似てるだとォ?」

「俺は今のあの小波の雰囲気を知っている。対恋恋高校戦で智紀から『フォール・バイ・アップ』をホームランにした時と同じだ。俺達はあの尋常じゃない威圧感と集中力で圧倒された」

「チッ・・・・・・。ふざけやがってッ!! やっぱり潰しておくべきだったぜェ!! 本当に気に入らねェ野郎だ、小波球太はよォ!!」

 

 

 

「小波くん・・・・・・」

 幼い頃からチームメイトとして野球をしているのを目の当たりにしてきた栗原にとって、これ程まで敵に回るとゾッとするバッターだったのかと改めて痛感した。

「やっぱり『超集中』をこの場面で使って来たわね」

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・」

 呆然と立ち尽くしていた。

 オレ様は、一体何をしている。

 何故オレ様はこんなにも無様な姿を晒している。

「・・・・・・い・・・・・・生ッ!!」

 そんな事は考えなくても分かっている。

 オレの一瞬の甘さが原因だ。

 抑えられる。その気持ちが命取りだった。

 オレのストレート・・・・・・『ポィンティド・ショット』は何のために生み出した?

 猪狩の『ライジング・ショット』を越えるためか?

 いいや、違うだろ。

 オレの目標はあの日から『猪狩を越える』事じゃねェだろう。

 このチームで勝ちたいからだろうが。

 このチームで甲子園を目指す為に作ったのがこの『ポィンティド・ショット』だろうが。

 今まで散々好き勝手やって来て迷惑をかけたからこそ、罪滅ぼしの気持ちで甲子園を目指して来た。

 バカか、オレは。

 ここまで来て、何してんだよ。

「おい、麻生!! 聞こえてんのか!?」

「・・・・・・」

 またマウンドまで来たのか戸井。

 どうした? 

 ふざけるなと、文句でも言いに来たのか?

 良いぜ、聞いてやるよ。

 好きなだけ言えよ。

 悪いのは、全部このオレさ。

「次は、小波だ。気を引き締めて行けよな」

「・・・・・・」

 その言葉に、オレは言葉が出なかった。

 気を引き締めて行けだ、と? 

「ふざけるなよッ!! 戸井ッ!! このオレに何か言いたい事あるだろッ!?」

「言い事? あるさ、そりゃ出会った頃から沢山な。でも、それを言った所でどうにかなるのか? ならないだろ? 言った所でどうにかなる様なお前ならこんな所にはいないさ」

「だったら、何故ここに居るんだ?」

「一つ言いに来たんだよ」

「なんだ?」

「行くぞ、甲子園!!」

「・・・・・・くっくく。ははははッ!!!」

 なんだ、その下手な台詞は。

 思わず笑っちまったぜ。

「オイオイ、笑う事はねえだろ?」

「・・・・・・色々と、すまねェな。戸井」

「いきなりどうした? 何がだよ?」

「色々とお前達に迷惑を掛けて来た事を、だ」

「何を今更言ってるんだか・・・・・・許して欲しければ、一緒に甲子園に行く事だな」

「ああ、分かった。さっさと戻りやがれ、気が散るぜ」

「おう!!」

 戸井が戻って行く。

 ありがとうな。戸井。

 オレみたいなヤツを見捨てずにいつも側に居てくれて・・・・・・今のオレはお前と出会えた事を誇りに思えるぜ。

 だから。

 一緒に甲子園に行こうじゃねェか!!!

 

 

 

 

———。

 

 

 

『四番 ファースト 小波くん』

 

「球太くん!! 頼んだよ!!

「星くんをホームに返すでやんす!!」

 

 ベンチからの声援。やっぱり励みになるな。

 それにしても星のヤツには恐れいったぜ。しっかりとチャンスをモノにしやがった。良くやってくれたよ。後は、俺が決める!!

 さぁ、来いッ!!!

 

 初球。

 麻生の右腕から放たれた鋭いストレートがバットの空を切った。

 球速表示は百五十キロを記録した。

 最初の打席に投げてみせ、尚且つ俺だけに投げて来てる『ポィンティド・ショット』ってヤツか。

 厄介な上にやっぱり速えな。

 流石の『超集中』でも追いつけないストレートだとは敵ながら天晴れだぜ。

 それにしても、戸井との会話から一変、麻生の雰囲気がガラリと変わった気がする。

 今の球。今日一じゃねえか?

 そう来なくちゃな、燃えてくるぜ。

 

 二球目。

 小波の目が漸く慣れ始めたのか、麻生の投じたストレートに漸くバットが当たった。

 ——キィィィィン!!!

 打球はバックネットへと飛んでいき、ツーストライクへと追い込まれる。

 

 続く三球目、四球目と麻生は変化球に頼る事なくストレート勝負、小波はバットを振り続けてしぶとく食らいつき、互いに引かない粘り強い勝負を繰り広げる中、球場は静まり返ってその勝負をジッと見つめている。

 麻生は、小波に対して七球目のストレートを投じてカットされファールゾーンに飛んで行くのを確認する。

 すると、麻生の息は上がり始めていた。

 既に百三十球を越える球数。

 スタミナの消耗が激しい『ポィンティド・ショット』の連投で限界間近に迫っていた。

 

 

 

 麻生、お前は凄いピッチャーだ。

 でも、俺はお前から打たなければならない。

 お前のありったけの気持ちを全部注ぎ込んだ渾身のストレートを投げて来い。

 俺もそれに応えてやる。

 

「やるな・・・・・・麻生」

 ニヤリと笑みを浮かべて小波が言う。

「いい加減、楽になりやがれ小波」

 苦笑いを浮かべて麻生が言い返す。

「なら来い、麻生!! 必ず打ってやる!!」

「チッ。五月蝿ェ野郎だ。それになんて楽しそうな顔をしてやがる。戸井かテメェは」

 舌打ちと皮肉混じりで、麻生が呟いた。

「どこでも居るモンなのか? ああいう戸井みたいな純粋野球馬鹿はよ。まァ、相手にとって不足はねェ・・・・・・捩じ伏せてやるッ!!」

 

 そして、麻生が振りかぶる。

 投じる八球目。

 振り抜いた腕は、まるで轟音を響かせた。

 

 

「小波ィ!! これで終わりだァァァッ!」

 

 

 渾身のストレートがキャッチャーミット目掛けて放り込まれる。

 今日一番のストレートだと、麻生は手応えを感じていた。

 しかし、小波は憶する事なく脚を踏み込み腕を畳んでバットを振った。

 快音が鳴り響く。

 打球は、大きな弧を描くようにレフトスタンドへと高々に打ち上がって行く。

 まるで空を飛ぶ飛行機を見るかのように麻生は、打球をぼんやりと見つめていた。

 

 

 

 

 こんな所でオレは終われない。

 戸井達と夢の舞台である甲子園に行くんだ。

 夢の舞台?

 そうか・・・・・・。

 そう言えばそうだった。

 戸井達にとって甲子園は夢なんだな。

 罪滅ぼしの為に行くような所じゃねェのは今更気付いた所で手遅れか・・・・・・。

 

 

 小波の放った打球は、レフトスタンドをさらに超えて場外となるツーランホームランとなり恋恋高校は遂に逆転に成功した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 小波の逆転ツーランから、麻生は猛打を浴びて点差を更に広げられて七回裏終了後にスコアは七対四となり、三点差となっていた。

 八回表の攻撃から早川あおいに変わって小波球太がマウンドに上がった。

 小波のノビのあるストレートにキレのある変化球、そして魔球に呼ぶに相応しい『ノースピン・ファストボール』で翻弄されてあっという間に三者凡退に打ち取られてしまった。

 そして、試合は三点を追う九回表の攻撃を迎えており、ツーアウトランナー無しの場面で三番ファースト戸井がバッターボックスへ向かおうとした時だった。

「戸井ッ!! オレまだ繋いでくれ!!」

「当たり前だ!! 任せろ!!」

 意気揚々と張り上げる声。

 ベンチからも飛び交うパワフル高校の声援はまだ試合を諦めていない。

「来いッ!! 小波!! まだ試合は終わってはいないぞ!!」

 戸井はバットを翳した。

 強く意思を示して瞳には薄っすらと光る物が込み上げていた。

 戸井に対する初球。

 小波は無回転のストレート『ノースピン・ファストボール』を投じたが。

 ——キィン!!!

 戸井はバットに当ててファールで凌いだ。

「——ッ!!」

「コイツ、小波の無回転のストレートをいきなり当てやがった!?」

 星が思わず絶句する。

「グッ・・・・・・。これが例の『ノースピン・ファストボール』か、意外と重いんだな。次は前に飛ばしてみせる」

 続く二球目。

 また再び無回転のストレートをファールで粘られるがツーストライクへと追い込んだ。

 ざわざわし始める球場。

 

 

 流石は準々決勝。

 この球は、幾ら初見とは言え当てられ、二球目も同じく粘られるとは戸井の目もパワフル高校の目はまだ死んじゃいないって事か、どうりで強い訳だ。

 でも、楽しかったぜ。パワフル高校。

 悪いが、俺たちは勝って更に上を行かせてもらう。

 ギュッとボールを『三本指』で握る。

 行くぜ、戸井。

 三種のストレートの二種目だ。

「これが俺の『スリーフィンガー・ファストボール』だッ!!」

 

 小波は腕を振り抜いた。

 百四十四キロのボールが星のキャッチャーミットへと吸い込まれる様に投げ込まれる。

 

「ここでムービングファストだと!? 舐めるなよッ!!」

 戸井がグッと力を貯める。

 ジッとボールに集中して着球点を絞ってバットを振り抜こうとした。

「貰ったッ!!」

 ——ククッ!!

 だが、投げ込まれたボールは、その予想を超える不規則な軌道をし始めていた。

「いや違う!! これは、ムービングファストじゃない!? ムービングファストより更に凶暴な軌道ッ!?」

 戸井は思わず目を疑った。

 今まで見たことの無いパーム

「——なンだァ!! この球ッ!!」

 星も声を上げた。そのリアクションはきらめき高校戦と丸っ切り同じだった。

 

 

 

 

 

 

 

 そして——。

 

 

 

 

 バシッィ!!

 乾いたミットの捕球音が鳴り響く。

「ストライクーッ! バッターアウトッ!」

 試合終了のコールを球審が告げる。

 準決勝進出は恋恋高校に決定した。

 三振に斬って取られた戸井はそのまま地面に膝から崩れ落ちてその場で蹲ってしまった。

 これで、麻生と戸井のパワフル高校の最後の夏は終わりを迎えた。

 

 

 



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第56話 覚悟

 七月も下旬へと差し掛かり夏休みも一週間程経過した夏真っ盛りの中、準決勝を次の日へと迎えた恋恋高校野球部は黙々と練習に打ち込んでいたが、恋恋ナインの表情は何処と無く暗かった。

 その理由はたった一つの事だった。

 今日行われた別ブロックの準々決勝の試合である。

 太郎丸と名島のバッテリーが率いる山の宮高校が、ときめき青春高校を相手に無失点一安打の好投で下した事により、準決勝の相手が山の宮高校との試合になる事が決まり、対する太郎丸の攻略に恋恋ナインは頭を悩ませていたのだ。

 百五十キロを超える豪速球に加え、太郎丸の最大の絶対的切り札と呼べる『アンユージュアル・ハイ・ストレート』は、あかつき大附属の左腕エースである猪狩守を凌ぐとも言われる稀代の逸材であると同時に春の大会では太郎丸に完全試合を献上した相手でもあるのだ。

 更に、今大会の太郎丸は絶好調で四試合での被安打は僅か五本。内二試合はノーヒットノーランを達成しているなどの活躍ぶりであり、そんな相手をどう攻略すればいいのかと模索に模索を重ねるものの、攻略の糸口を見つかる術など恋恋高校ナインは誰一人簡単には思い浮かばなかった。

「パワフル高校に勝てたのは良かったが、次の試合の相手がよりによって山の宮だァ? ぐわァァァァーーッ!! 本当に毎試合毎試合ッ今年の夏の俺達の相手はどうして強者ばっかなんだァ!! どうなってんだよッ!!」

 早川の投球練習を受けながら、星は練習が始まってからずっと不満を発散させるように叫んでいた。

「あのさ、星くん・・・・・・。さっきからぶつくさ言ってないで練習に集中してよねッ! ピッチングに集中したいのに、これじゃあ気が散っちゃうよ!」

「ッうるせェ!! こっちだってなァ文句の一つや二つくらい吐いていねェと落ち着かねェンだよッ!!」

 再度。星はグラウンドの中に響き渡るような大きな叫び声を上げると、それに呆れんばかりの重たい溜息を漏らした早川だった。

 山の宮高校との対戦が決まってから星は、ずっとこの調子なのだ。

 早川は、これでは本当に練習にならないと言わんばかりのムスッと両頬を膨らませた顔を浮かべていた。

「ちょっと球太くん!! このままだと全然練習にならないんだけどッ!!」

 クルッと顔をブルペンから、たった今、ノックを受けているグラウンドのファーストを守る小波に向けて、早川は張り上げた声で文句を叫んだ。

 キンッ。

 それと同時にノッカーの山吹から放たれた鋭い打球が小波を目掛けて飛んでいく。

「おっと」

 小波は左手にはめてあるファーストミットの手前で地面に落ち強く弾いたショートバウンドを難無く巧く捕球した。

「そんな事、俺に言われてもな・・・・・・。そもそも星は一体何に対して苛ついてんだ?」

「あン? そんなの太郎丸の打開策に決まってンだろォがァ!! あンなエゲツねェストレートなんて今まで見たことなんてねェし、打てねェに決まってンだろォがッ!!」

 ほぼ八つ当たりに近い罵声。

 小波も早川同様、重たい溜息を思わず零してしまった。

「お前な・・・・・・今でも矢部くんや悪道と一緒にストレートの打撃特訓をしてるんじゃなかったのか?」

「ん? ああ・・・・・・まァ、それはそうなんだけどよォ」

 歯切れの悪い返答。星は悔しさを強く滲ませてギュッと下唇を噛み締めて言葉を続けた。

「けどよォ・・・・・・。浩平の野郎ォには悪いんだが、浩平のストレートじゃ太郎丸の投げるストレートを打てるのには無理がある」

「・・・・・・」

「テメェも分かるだろ? 浩平と太郎丸とじゃキレもノビも段違いに桁外れだ。これ以上先に勝ち進み為には、浩平以上の球も簡単に打てるようになるしか他にはねェだろうがよォ」

 星は、ただ悔しかったのだ。

 旧友である悪道浩平が指に豆を作り血を流しながら星や矢部の相手を夜遅くまで付き添っているにも関わらず、その練習の意味さえもまるで無駄だと言わんばかりに立ち塞がる太郎丸の

圧倒的な力の差を前に、いつもの威勢の良い星さえも為すすべもなかった。

 それは、他のナイン達も同じだった。

 完全試合を達成された相手。春の大会での試合結果だ。

 過去の戦歴、そして、目の当たりにした現在の太郎丸のストレートは、今まで出会った事がない程の威圧感に怖気付いてしまっていた。

「それならさ」

 それは、唐突に。

「球太くんが星くん達を相手に投げれば良いんじゃないの?」

 早川がパッと閃いた様に、言葉を漏らした。

「——ッ!?」

「・・・・・・」

 星は眉を片方上げ、小波は顔をグラウンドに向け黙ったまま、守備練習を眺めていた。

「球太くんのストレートには、太郎丸くんや猪狩くんに引けを取らない程の球速とノビを持っているんだし。いい練習になると思うけど?」

 その言葉を聞いた星は、ビビッと身体を跳ね上がらせて、早川の前まで一気に駆け出して早川の右手を強く握りしめた。

「ち、ちょっと!!」

「それはかなりの名案だぜッ!! 出来したぜェ早川ッ!!」

「急にボクに触んなでよ!!」

 触れいる星の手をまるで虫を叩くかのように払った。

「わ、悪ィ。・・・・・・でも、そうだな! 小波のストレートで俺たちの相手をしてくれれば多少は目が慣れるかもしれねェぜ!!」

「・・・・・・」

 だが。浮かれたのも束の間だった。

 小波の肘の故障の事に漸く気がついた。完治したとは聞いているとは言えど、この夏の大会で二試合、リリーフ登板したとは言え、故障者だったと言う事実には変わりなく、もし再発したらと言う懸念を抱き、無理をさせてたはいけないと感じた早川と星の二人は、小波を見る。

「あっ・・・・・・でも、球太くんは」

「そういやそうだったな。既に試合で何回か投げてるモンだからうっかり忘れてたぜ。テメェは一応、肘を一回やっちまってたんだよな。俺たち相手に全力投球して無理に投げたら悪化しかねないだろうな」

 気を使う二人に対して苦笑いを浮かべた小波は、下手くそな咳払いを一つすると、ニヤリと笑みを見せた。

「いいや、俺の方は大丈夫だ。俺の肘はもう既に完治してるし、身体に何処も異常なんて無いからな。それに・・・・・・太郎丸対策がそれしかねえんだと言うなら、お前らが満足するまで幾らだって相手くらいやってやるよ」

「小波・・・・・・テメェ」

「折角、ここまで来たんだ。皆の力でようやくここまで勝ち進んで来たんだ。あと二勝だ。太郎丸を打ち崩して、そんでもって猪狩のヤツもギャフンと言わして甲子園に行かなきゃ、お前と矢部くんの『モテモテライフ』なんていつまでたっても夢のまんまで叶えられねえだろ?」

「ヘッ・・・・・・小波、テメェ随分と好き勝手言ってくれるじゃねェか。甲子園に行けねェと俺たちはいつまで経ってもモテねェだァ? テメェがそんな風に言うンならよォ!? 否が応でも打てるようにならねェと駄目じゃねェて事かよッ!!」

「簡単な話、そういう事だ」

「言ってくれるじゃねェか!」

 ニヤリと笑みを交わす小波と星。

「さてと、それじゃ早速始めようぜ。時間は限られてる」

 小波はクルッと踵を返してマウンドの方へと足を進めてピッチング練習を始める準備を始めようとした。

「よっしゃァァアア!! テメェら!! 今からバッティング練習に移るぞォ!!」

 高々に叫び声を上げ、星は守備練習をさっさと終わらせてバッティング練習の準備に移りかかった。

「オラオラッ!! さっさと支度しろッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボールに指がこれほどにもか、と思わず言いたくなってしまう位だった。

 左腕から放たれたボールは、鋭さを内包し手元でグワンと更にノビが増して、勢いよくボールネットへと突き刺さった。

 紛れもなく絶好調。

 次の準決勝の相手が、小波球太率いる恋恋高校と戦うことが決まったからか、或いは、小波球太が再びマウンドに上がった事に対する喜びが相まって調子が上がっているか定かでは無かったが、どちらかと言えば後者だろう。

「ふぅ・・・・・・」

 誰も居ないブルペンに一人、太郎丸龍聖は滴る汗に塗れた顔をフェイスタオルで被せて拭き取ると、不敵な笑みを浮かべたまま再びボールを握り締めて右腕を振るった。

「やはり此処に居たか。全くお前と言う奴は・・・・・・明日は大事な準決勝の試合だと言うのに、こんな時間まで残って自主トレとはな。毎度毎度呆れを通り越して関心してしまう・・・・・・が、そこまでだ龍聖」

 ガチャとブルペンの入り口からドアを開けて中へと入って来る青年が太郎丸に声を掛ける。

「っと、一誠か」

 もう一球と、ボールへと伸ばした手がピタッと止まるが・・・・・・。

「ああ、分かってる。もう次が最後だ」

 そう言いながらも、太郎丸は何球、何十球とひたすらボールネットへと渾身のストレートボールを放り続ける。

 それは何時もの光景であり、見慣れた名島一誠は「いいストレートだ」と、投球練習をただただ眺めていた。

「龍聖。今のお前の球を見る限り。明後日の試合は楽しみで待ちきれなくて仕方がないと言わんばかりだな。余程、あの小波球太・・・・・・いいや、恋恋高校との戦いが待ち遠しくてウズウズしてるようだな」

「ああ、待ちきれない・・・・・・そんなの当たり前に決まってるだろ。なんて言ったて相手はあの小波だ。それに今日の試合だってお前も見てただろ? 小波は『三種のストレート』を二つも投げた。それを目の前で見せられちまって黙って居られるほど、俺は大人しい性格はして無いぜッ!!」

「やれやれ・・・・・・相変わらず気合い充分で呑気な奴だ。小波球太と言う人物を中学時代から知っている俺達二人からしてみると、だ。あの球は随分と攻略が難しくて厄介なんだがな。それに恋恋高校は春季大会と比べて別のチームと考えても良さそうだ」

 それは、春の大会の第二試合目の事だ。

 太郎丸は恋恋高校を相手に完全試合を成し遂げる事が出来たが、その試合が終わった後もその余韻に浸る事は無く、太郎丸と名島は決して満足した面持ちなど見せる事は無かった。

 小波達がこの程度では終わらない無い筈だ。

 それ以上に必ずレベルを更に上げて、二人の前に立ちはだかってくると強い予感がしていたのだ。

 極亜久高校、球八高校、きらめき高校、そしてパワフル高校と勝ち進み、準決勝まで登り詰める程のレベルまで到達していた。

 強くなると言う確信が的中したとなれば、今直ぐにでもこの左腕で捩伏せたいと言うピッチャー、いやエースとしての性が現れたのだろう。

 太郎丸の左腕から放たれるボールは、いつにも増して気合が十二分に込められていた。

「うしッ!! これだけ投げれば後はもう十分だろう。さてと、そろそろ終わりにして帰るとするか」

 太郎丸は最後の一球を投げ終えると、ネットに投げ込まれたボールを拾い始めようとした時だった。何かを思い出した太郎丸は、ボールを掴もうとした手がピタリと止まった。

「おっといけねぇや。一誠に言わなきゃいけない話があった事を忘れてたぜ」

「言わなきゃいけない話……? それは、なんだ?」

「明日の試合さ。『大海』と『世那』が試合を観に来るんだとよ」

「へぇ、大海と世那が? それは良かったじゃあないか。わざわざ関西から来るとは、兄としちゃ嬉しい限りだろ?」

 大海と世那。

 この二人の名前は太郎丸龍聖の弟の名前だ。

「まぁな。何せ大海は今や西強中学のエースを務め、世那はリトルリーグで正捕手。俺たちは相変わらずの野球好きな兄弟だよ」

「なるほどな。そう言えば大海のやつはもう中学三年になったんだったよな? 来年は高校生だろ? 進路は決めてあるのか?」

「ああ、どうやら『帝王実業高校』にするらしい」

「帝王か。俺はてっきり西強高校に行くと思っていたが違ったか」

「どうしても帝王でエースナンバーを張り合いたいピッチャーがいるんだとさ」

「張り合いたいピッチャー? ほぅ、それはどいつか気にはなるが、帝王実業中学で名の知れたピッチャーと言えば、あの『友沢亮』か?」

「ああ。その友沢からエースナンバーをもぎ取って甲子園で優勝するのが大海の夢らしい」

 実の弟の夢を語る兄である龍聖は照れ臭そうに笑みを浮かべていた。その笑みをチラッと眺めながら名島は口を開く。

「ふふ、流石は兄弟と言ったところだな。レベルの高いピッチャーととことん張り合いたいのが龍聖だもんな」

「俺は自分の限界を超える戦いがしたい、それだけだからな。だから俺は小波や猪狩のいるこの地区へと編入して来たんだ。でも、やっぱり山の宮に来て正解だった。俺はまだまだ強くなれる、そんな気がするよ」

「そうだな。お前なら更に手強いピッチャーになれるだろう。明日の試合、頼りにしてるぞ龍聖!!」

 スッと拳を出す名島。

「はぁ? 何を言ってやがるんだ? お前のリードがあってこその俺だ。こっちこそ明日の試合頼むぜ、一誠」

「ああ、そのつもりだ。小波を倒し、猪狩をも倒して必ず甲子園に行くぞ!!」

 二人は、拳をコツンと突き合わせてブルペンを後にした。

 

 

 

 

 太陽もすっかりと山の奥へと沈み、空は暗く黒く染まり、つい先程までの暑さがまるで嘘かと思うような涼しい風が火照った身体に吹きつける。

 明日の試合に備えて始めた練習も終えて、それぞれが重たく疲れ切った身体をずるずると引きずるように帰路に着く中、小波球太はたった一人で誰もいないグラウンドのマウンドに座って空をぼんやりと眺めていた。

 早川の提案で始めた太郎丸対策の打撃練習のピッチャーを務め上げ、レギュラーの八人に対してストレートオンリーの十五球をワンセットを二回も投げ抜いた小波は全身の筋肉がぶちのめされた様に疲労感を漂わせて今にも眠りそうな表情をしていた。

「・・・・・・」

 小波は。

 ふとした、何気ない気持ちで左手で右肩に触れてみた。

 

 ——ピリッ!!!!

 

 止めどない痛みが全身へと一気に駆け巡る。

「ぐっ——痛ッ!!」

 思わず蹲ってしまう程の身体に駆け巡る激痛と肩への違和感が襲う。

 一瞬にしてグニャンと歪み霞む視界に遠のく意識。

 この痛みを経験するのは小波にとって人生で二回目だった。

 一度目は、中学二年の時の全国大会での肘の故障の時に感じた痛みと全く同じだった。

「こりゃ・・・・・・ほんとのほんとにヤベぇな。アイツらを甲子園に連れて行かなきゃならねえって言うのに・・・・・・こんな所で一人リタイアなんて言うわけには行かねえだろ」

 それは、ただの独り言。

 その言葉は誰に言うわけでも無く、他ならぬ自分に言い聞かせるように呟いた。

 打撃投手を務める前に、小波は星に対して一つの嘘をついたのだ。

『身体に何処も異常はない』

 小波自身は身を持って分かっていたのだ。

 先日の猪狩進を事故から守る為に飛び込んでアスファルトの上に強く肩を打ち付けてしまったことによるダメージだと思い込もうとしていた。

 だがしかし、それとは別に小波の右肩に今でも蝕んでいる『爆弾』を抱えていると言う事を小波自身は既に知っていた。

 それは、パワフル高校との試合を二日前に控えた日の事だった。

 

 

 

 蝉の声がミンミンと響き渡る熱い日。

 授業が終わり放課後のホームルームを終えた俺と矢部くんは、急いで部活の練習に向かおうと身支度を整えようとしていた時だった。

『明後日の試合はいよいよ準々決勝。遂に古豪パワフル高校との試合でやんすね! 恐らく今まで以上の苦戦に強いられる白熱の戦いになりそうでやんす!』

『ああ、楽しみだけど正直気は抜けないね。今日の練習である程度のコンディションの調整と対麻生への対策が少しでも練れれば良いんだけどね』

 暫しの談笑を交えながら、二人で教室の引き戸式のドアを開けて廊下に出ようとした時だった。教室の先には白衣姿を見に纏った加藤先生が立っていた。

『こんにちは、小波くん。矢部くん』

『加藤先生。こんにちはでやんす!』

『・・・・・・こんにちは』

 何故、加藤先生が此処にいるんだろうか。と言う一つの疑問が真っ先に浮かんだ。

 少し嫌な予感を覚えながら。

 基本的に、加藤先生は普段の学校生活や部活中でもよっぽどの事が無い限り保健室から出て来る事はない。

 なら、今ここに居ると言うことはよっぽどの事があるに違いないと、俺は少しばかり険しい表情を浮かべながら口を閉じた。

 

『・・・・・・』

 沈黙。少し間が空いた。

 橙色に染まる加藤先生の瞳には、何かを言いたげに俺の顔を真っ直ぐに捉えていた。

『小波くん。部活前に行く前に少しだけ良いかしら? 少し貴方に用事があるの』

『用事ですか?」

 神妙な面持ち。その表情で重要な話だと言うのが見て取れた。

『何の用事でやんすか? まさか、急な力仕事とかの手伝いか何かでやんすか!? それならオイラも一緒に着いて行くでやんすよ!』

 矢部くんは意気揚々と一人淡々と話に食いつく。

『いいえ、矢部くんはそのまま部活に行って貰って構わないわ。私は小波くんに真剣な話があるのだけなの』

 まるで矢部くんの言葉に耳を傾けていなかったのか、加藤先生は即答で拒否をした。

『はい・・・・・・でやんす』

 ガックリと肩を落として矢部くんは、そのまま重たい足取りに重いトーンで『先に行ってるでやんす』と、ポツリ呟きながらトボトボと廊下を歩いて行った。

 矢部くんが曲がり角を曲がったのを見送ると・・・・・・。

『小波くん。ここだと他の生徒達に話を聞かれるから保健室に行くわよ』

『・・・・・・はい』

 と、淡々な口調で言葉を発した加藤先生は保健室へと脚を進める。

 俺は、その後を不安を抱えながら付いて行った。

 

 保健室に着くと、加藤先生は背もたれ付きの診察チェアに座り、俺は患者用の丸椅子に腰を下ろす。

 余談ではあるが此処に来るのは一年生の時の加藤先生との初対面時以来だった。

『何か飲むかしら? コーヒーか紅茶でも淹れるわよ?』

『いえ、結構です』

『そう・・・・・・』

 と、短く言葉を切り、一つのマグカップを棚から取り出して、インスタントコーヒーの袋を取り出してお湯を注ぎ始めた。

 何処と無く怪しい雰囲気が感じ取れる。

 こちらから目を見て話しているのに一向に目線を合わせて来ない、寧ろ、逸らされている辺り何か俺に言いたい事があるんだろう。そうな感じが確信に変わった。

 何だろうか。

 そう言えば昨日のきらめき高校との試合、マウンドに上がった時に呼び出されて先生にヤケに怒っていたっけ。

 まぁ・・・・・・実際、昨日は昨日で早川の体調不良の事もあり、俺自身がマウンドに上がる事になったのは仕方の無い事だった。

 それに、昨日の登板を経て現在、肘の調子は痛みも感じない。

 俺は肘の事なら大丈夫ですよ。と、今まさに言おうとした時だった。

『単刀直入に言わせて貰うわ。小波くん、これ以上マウンドに上がると言うのなら、貴方の野球人生は終わりを迎えるわよ』

『・・・・・・』

 

 

 えっ・・・・・・?

 終わる・・・・・・?

 

 ドクン。

 

 胸の奥の鼓動が強く。

 

 ドクン。

 

 また一瞬。

 

 ドクン。

 

 脈を打つ音がハッキリと鳴り響いた。

 加藤先生の言葉に対して耳を疑い、ハッと我に返るのに数秒の間が出来た。

『い、今なんて言いました?』

『これ以上の投球は、貴方の野球人生は終わりを迎える、そう言ったのよ』

 どう言う事だ?

『いやいや、待って下さい。それって・・・・・・俺の右肘の事ですか? 肘なら全然、問題なんて無い筈で——』

『いいえ、右肘は小波くんの言う通り何の問題もないのが現状よ』

『・・・・・・それなら、一体何なんですか!?』

 食い入る様に言葉を返す。

『残念だけど今の貴方の右肩には「爆弾」が出来てしまっているのよ。それも選手生命を断つ程の重症な爆弾なの』

『肩!?』

 いつの間に?

 肩に違和感なんて全く無いのに・・・・・・。

 肩に爆弾?

 それも選手生命を断つ程の・・・・・・。

『・・・・・・』

 汗だけが流れる。

 だけど、何故だ?

 なんで先生が俺の肩に爆弾を抱えている事を知っているのだろう?

 いや、待て・・・・・・加藤先生が俺の肘の事を気にかけて脅している可能性もある。

 しかし、俺は心の何処かで冗談では無いと分かっていたのかもしれない。

 爆弾があると告げた言葉が、こんなにも恐ろしく響いたのは——根拠なんて無いけど、きっと加藤先生は、ただの「保険医」では無いからだろう。

『理由は詳しくは言えないけど、プロを目指すと言うのが貴方の夢である以上、この先は大人しくしている事ね』

『・・・・・・』

 言葉が出なかった。

 本音を言うならば。

 再び野球を始めて聖相手にピッチング練習を始めた時から、肘の怪我の再発——いつ壊れても可笑しくない事を前提に、ある程度の覚悟を決めて今まで投げ込んで来た。

 それでも俺は、どんな結末を迎えようとも最後の最後まで投げると決めたから、再びマウンドに立つ事を決めた。

 どんな事になろうとも、俺はアイツらを甲子園に連れて行くと『あの日』に決めたんだ。

 もう腹は括っているんだ。

 今更、退くことは出来ない。

 けど・・・・・・。もう野球が出来ないと告げられて襲い来る不安が、何とも不気味で他の言葉に言い換えられる事の出来ない感情が渦を巻く様に気持ち悪く身体中へと広がって行った。

 俺は・・・・・・どうすればいいのだろうか。

 

 

『はるかさーーん! 練習始めるんで、この漢・星雄大の為に、はるかさん特製のスポーツドリンクを作っておいて下さーーい!!』

 

 突然、轟いた叫び声に思わず拍子抜けしてしまった。

 今の叫び声は、野球部のグラウンドの方向から聞こえた。今の声は星の声で間違いないだろう。

 まったく、だらしねえな。

 今はとっくに練習中の筈だぞ。俺が居ないと練習も碌に出来ないのか? 

 そんなもんじゃ説教モンだぜ、星。

 気がつくと、不気味な感情が消えていた。

 そうだよな。

 迷ってなんかいられねえよな。

 もう、決めたんだ。

 それに、俺のなりたかった夢、なろうとした夢をきっと叶えてくれるヤツが、今は居るから何も心配なんてないんだから。

『加藤先生。俺の夢は・・・・・・もうプロ野球選手になる事ではありません。今はアイツらとこの恋恋高校野球部のメンバーとで甲子園に行くのが俺の夢なんです! だから、次の試合もその次も俺はマウンドに立ち続けて、その夢を叶えます!」

『小波くん、貴方ッ正気なの!? 今の私の言葉が聞こえてなかったの!? もう二度と投げられなくなる可能性があるのよッ!! そんないつ爆発するか分からない爆弾を抱えてまでマウンドに上がる理由は一体なんなの!?』

 今まで聞いた事のボリュームで声を高々に上げる。

『俺・・・・・・本当、自分の事ばっか優先して後先考えないで突っ走る大馬鹿者だって事くらい自分で分かってるんですよ』

 そう・・・・・・。

 俺は中学時代から何一つ変わってない。

 あかつき附属の時も全国制覇を目標とし、三種のストレートを手に入れチームの為に腕を酷使し続けた結果、俺は右肘を壊してしまった。

 それをまた再び繰り返そうとしている事も分かっていた。

『けど、これだけは譲れないんです。他の人からしたら馬鹿な事だと思うかもしれない。でも早川の為、アイツらの為、それだけで俺が腕を振るう理由は十分にあるんです!!』

『それでもし肩の爆弾が爆発したら? 貴方はもう野球が出来なくなるのよ!? それで勝って甲子園に行けたとしても、あの子達は何も嬉しく無いはず・・・・・・』

 張り上げていた声のボリュームが徐々に小さくなっていき、やがて言葉が止まった。

 まるで鳩が豆鉄砲を食ったような、目を見開いて空いた口が塞がらないと言った表情をして居た。

『小波くん・・・・・・貴方は・・・・・・』

 加藤先生に見える今の俺は今までに誰にも見せた事が無いほど、きっと悲しい顔をしているのだろう。

 目頭が熱く込み上げてくる『何か』のせいで目の前が少し霞んで見える。

『加藤先生、ありがとうございます。俺の事を思ってくれての発言だと言うのは十分に伝わりました。だけど、すいません・・・・・・。俺はこのままの自分の信念を貫き通します』

 俺は頭を深々と下げた。

 譲らない。その気持ちをしっかりと胸に刻みつけ、そのまま無言で保健室を後にした。

 廊下に出ると、帰宅するグラウンドから活気に満ち溢れた声が聞こえて来た。

 そろそろ部活に行かなければ・・・・・・。

「——ッ!?」

 学校から出ようと脚を進めようとしたが、よろっと脚が縺れてしまった。今まで誰にも言わずに心の中に溜め込んでいた本音を始めて打ち明けた疲れがドッと押し寄せて来て、思わず壁にもたりかかると——。

『バカな子。貴方の行動は、私には全く、何一つ、理解できないわ』

 誰も居なくなった保健室で加藤先生の独り言が聞こえた。

 

 

 

 

——。

 

 

 

 甲子園まで残り二勝。

 果たしてこの肩が持つかどうか・・・・・・か。

 だけど明日の試合、必ず太郎丸達を下して猪狩達にも勝ってみせる。

 俺の今までとこれからを全て引きずり出してでもこの右腕を振りぬかなきゃいけない。

 



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第57話 準決勝VS山の宮高校

 それは余りにも桁違いだった。

 唸る左腕から放たれた直球は、瞬く間もなくキャッチャーのミットへと投げ込まれた。

 そのストレート——。

 百五十キロに迫る。それはまるで風を切るかのようにノビのある球だった。

 拳銃の弾丸のような高速横回転を掛けて放つ『ライジング・ショット』と呼ばれている切り札は紛れもなく高校レベルを遥かに超えていた。

 最後のバッター。この試合に対して「二十七人目」のバッターを遊び球無しの三球三振で仕留め、今日の試合、十八個目の三振に切り倒しすとバッターは、その場でバットを握ったまま己の悔しさが全身に伝わり、力無く膝を崩して泣き倒れ込んでしまった。

 しかし、左腕のエースは同情、哀れみなど微塵も表情に浮かべる事なく淡々とマウンドから青い色の瞳でジッと見つめているだけで、滴り流れる汗を腕で拭った。

 二十七人。

 完全試合と言う快挙にどよめく球場の歓声に包まれ、ナイン達が喜びを勇んでハイタッチを求め集まるが、青年は笑みを一つ浮かべるどころか、その青い色の瞳はジッと静かに前だけを見つめて——。

「まだだ。僕は、こんな所で喜んではいられない。……そうだろ? 進」

 と、誰にも聞こえない声で呟き、決勝の舞台にいち早く到達したあかつき大附属のエースナンバーを背負う猪狩守は足早に球場から姿を消した。

 

 

 

 

 

「それにしても猪狩くん。いつになく気合いが入っていましたね」

 ボロボロに使い込まれたノートブックに試合内容を書き込みながらバックネットの中段に腰を据え、スカウトの及川が呟いた。

「そうだな。ここに来て猪狩くんの闘争心がより一層引き上がった様に感じるピッチングに見えた。最後の夏を迎え、準決勝まで勝ち進むと甲子園を意識しだし上手い具合に投げ込めないピッチャーも多いが・・・・・・まさかここまでやるとはね。流石と言うべきか・・・・・・全く恐れ入ったよ」

 同じくスカウトの影山は、思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまうほど圧巻なピッチングだった。

「プロ球団の数球団が猪狩くんを一位指名する動きがある中で、この完全試合は更に好印象を与えますね」

「うむ。この代はプロでも活躍できる稀有な才能を持つ選手が粒ぞろいだ。我々、プロ野球スカウト業界の中では既に『猪狩世代』とまで言わしめるほどだからな」

「猪狩世代ですか・・・・・・」

 及川は、思わずゴクリと生唾を飲んでしまった。

「猪狩くん以外にも東北地区では先日甲子園出場を果たしたアンドロメダ高校の「大西・ハリソン・筋金くん」に、関西地区では西強高校の「久方怜くん」と「滝本太郎くん」の名コンビも名を馳せているし、更に言うならば同じ頑張地方には、帝王実業のマサカリ投法の「山口賢くん」と有能な選手ばかりだ」

「これは・・・・・・まさに今後の日本球界が楽しみでなりませんね!!」

「ああ、及川くんの言う通りだが・・・・・・その前に、我々の仕事はこれからだ。その猪狩くんに並ぶ強者の二人の試合からは決して目が離せんぞ」

「はいッ!! 恋恋高校の小波くんと山の宮の太郎丸くんの試合ですよね、勿論です!」

 さっきまでの緩んだ二人の顔が険しく引き締まり、視線はジッとグラウンドへと向けられた。

 これから始まる恋恋高校対山の宮高校の準決勝はもう間もなく始まりを告げる。

 

 

 

 

 

 埋まった満員の観客席。

 前の試合の猪狩守の完全試合の余韻がまだ冷め止まぬ騒めく中、恋恋高校の星は大きなため息を漏らしていた。

「それにしてもよォ。一体どうしたって言うンだァ? いつにも増して随分とギャラリーがわんさか居るじゃねェか」

「それは当たり前でやんすよ。だって今日は準決勝でやんす! 皆んな気になって見に来るに決まってるでやんす!」

「まァ・・・・・・。それは、確かにそうなンだけどよォ」

 星は、ポツリと言葉を零した。

 どこか腑に落ちない。

 そんな表情を浮かべている。

「どうかしたでやんす?」

「ン? あァ、何て言うか。今日のオレ達は周りの目からして見たら、ただの「咬ませ犬」なンだろうぜェ。注目の的は、きっと向こうさんの太郎丸なんだろうよォ」

「前の試合で猪狩くんが完全試合をしたばかりでやんすもんね・・・・・・。それに中学時代なんかは「左の猪狩」と「右の太郎丸」なんて、周りから言われ比べられて来た実力者同士だし、オイラ達なんて眼中にはないのは当たり前なのかもしれないでやんす」

 矢部と星は互いに顔を見合わせると、また再び大きなため息を零した。

「コラッ!! 二人とも、試合前に弱気を見せてどうするのさッ!!」

 突然の叱咤。

 二人の頭にコツンと小さな拳が振りかざされる。そこに居たのは眉を寄せて険しい顔を見せた早川あおいだと思っていたが、少し和かに笑顔を見せていた早川あおいだった。

「痛ェな!! 早川ッ!!」

「痛いでやんす!!」

「それは叩きたくなるよ!! 試合前だって言うのに、もう負けたような顔をしてるんだもん!!」

「ッたく。それにしてもどうしてテメェはいつに無く元気なンだァ? 何か良いことでもあったのか?」

 あまりの不思議さに気になった星は思わず質問した。

「だって今日の先発は球太くんなんだよ!」

「あン? 小波が先発だからって、何でそれでテンション上がってるンだよッ!!」

「えっ!? ボクは……別にテンションなんか上がってなんかいないよ!」

「どォだかな。だったらよォ、さっさとあの癖毛頭の馬鹿野郎に告白の一つや二つくらいしたらどうなンだァ?」

「——告白ッ!? ほ、星くんのバカッ!!」

 パチンッ!!!

「うぐッ!!」

 切れのある重たい一撃が星の頬に乾いた音が鳴り響くと同時に、早川は赤めてモジモジと恥ずかしがりながら一目散にベンチの外へと飛び出して行った。

「・・・・・・俺、今変な事言ったかァ?」

「正に。女心が分からない、デリカシーのない事を言ったのは確かでやんすよ・・・・・・」

 そんなやり取りを気にかける様子さえ見せずに、小波と監督の加藤理香は真剣な表情で何やら話をしていた。

「・・・・・・貴方の言う通り。早川さんは体調の調整の為、先発から外しておいたわ」

「ありがとうございます」

「小波くん? 念の為に聞くけども・・・・・・本当にこれでいいのよね? 今ならまだ間に合わうわよ」

「いえ、大丈夫です。俺の覚悟はもう決めてますので、意思は決して変わらないです」

「そう・・・・・・。貴方がそれで良いと言うのなら、それを私から止めることも他に言う事は無いわ」

「はい。助かります」

 小波はギュッと握り拳を作り、ただ一点を見つめた。晴天の空、透き通った青空をただジッと見つめていた。

 

 

 試合開始五分前。

 まだかまだかと騒めく球場の中を一人の青年が席を見つけようと探し歩いていた。

 だが、埋まり尽くした観客席から見つけようにも埒があかないので、ため息を一つこぼして、立ち見にする事に決めた。

 その青年。高柳春海は、竹馬の友である小波の試合を観に来ていたのだ。

「頑張れよ、球太。あと二つで甲子園だ。俺たちの分まで登り詰めてくれよな」

 小波に向けた聞こえない声援。小声で囁くように呟いた。

 すると——。

「あれ? お前・・・・・・春海だろ!? 高柳春海だよな?」

「えっ!? って・・・・・・ゆ、遊助!?」

「これは驚いたな!! まさかこんな所で会うなんて!!

「それはこっちの台詞だ。まさか遊助がこの試合を観に来るなんて・・・・・・」

 そこに現れたのは、球八高校のセカンドのレギュラーを務めていた塚口遊助だった。

 春海とは同じきらめき中学の出身であり、かつては同じセカンドのポジション争いを繰り広げたライバルでもあり親友でもあった。

 久しぶりの再会に喜びを感じる春海だったが塚口を見て、一つの疑問が浮かび上がった。

「あれ? 遊助って山の宮か恋恋に知り合いでも居たっけ?」

「居ねえよ。俺は別にこの試合を観に来るはずは無かったんだ。だけど、智紀の奴がプロ入りを目指してるもんでな。毎日毎日自主練習ばかりしてやがるんだ」

「休む間も無く練習とは感心するね」

「それでたまには外の空気でも吸って気分転換がてらに、と強制的に連れてきたんだが・・・・・・智紀のヤツ、目を離したらいつの間にかどっかに行っちまったらしい」

「あはは。成る程ね。でも矢中のあのアンダースローからの『フォール・バイ・アップ』が投げるのなら、プロでも活躍は間違い無いだろうね」

「さぁ? それはどうだろうな。プロ志願なら智紀は、もうちょいと身長伸ばした方が良いとは思うけどな」

 塚口は鼻で笑う。最近、練習と同時に身長を意識して牛乳を飲み始めた矢中の事を思い出し笑いながら言う。

「身長は仕方ないだろう。それより遊助はプロ志願はしないのか?」

「いや、俺はプロには行かねえよ。大学にでも行こうと思ってる。ま、大学でも野球はやるつもりだが。それで? そういうお前こそ進路はどうなんだ?」

「俺も大学進学だよ。イレブン工科大学」

「イレブン工科大学?」

「ああ、どうしてもそこに胴上げしたい先輩がいるんだ」

「そうかい。なら、共に頑張ろうぜ。神宮で頂点に立つのは俺だ」

「望む所だよ。それより大学に行けるように勉強を頑張るべきだね」

「うっ・・・・・・久々の再会だって言うのに痛い所を突くなよな。まったく、やっぱりお前と智紀はどこか似てる気がするぜ」

 冷や汗を流しながら、塚口はトホホ・・・と我ながら情け無いと感じて肩を落とした。

 

 

 

 

 

 

 整列の準備が始まり、山の宮高校と恋恋高校がベンチ前に立ち球審の集合の合図が告げられると両校がホームベースを目掛けて一斉に駆け出して、試合が始まった。

 

 先攻・山の宮高校スターティングメンバー

 

 一番 ショート 西新京太郎

 

 二番 ライト 中野啓介

 

 三番 キャッチャー 名島一誠

 

 四番 センター 坂上和雄

 

 五番 サード 東忠

 

 六番 ピッチャー 太郎丸龍聖

 

 七番 ファースト 高円寺未希

 

 八番 レフト 石田凛太朗

 

 九番 セカンド 勝俣一志

 

 後攻・恋恋高校スターティングメンバー

 

 一番 センター 矢部明雄

 

 二番 ショート 赤坂紡

 

 三番 キャッチャー 星雄大

 

 四番 ピッチャー 小波球太

 

 五番 レフト 山吹亮平

 

 六番 セカンド 海野浩太

 

 七番 ライト 御影龍舞

 

 八番 ファースト 京町一樹

 

 九番 サード 毛利靖彦

 

 

 マウンドに上がった小波が投球練習をし始めた。その様子を山の宮ベンチからじっくりと抉るような視線を向けているのは、太郎丸と名島のバッテリー二人だった。

「てっきり今日の先発は早川で来ると予想していたんだが・・・・・・どうやら当てが外れた様だ」

「へっ、そんな事気にすることは無いぜ。小波と存分に投げ合えるって事だろ」

「龍聖。お前がやる気を出すのは一向に構わないが・・・・・・猪狩の試合のことあまり意識するなよ」

「猪狩? ああ、さっきの完全試合の事か。心配してくれてるところ悪いが一誠、今の俺は眼前に立ち塞がる小波との投げ合いが楽しみすぎて気にしちゃいられねよ」

「よし、なら問題は無さそうだな。龍聖、存分に楽しんでいくぞ!!」

 

 

 投球練習の最後のストレートを星に向けて放り込む。

『山の宮高校の攻撃 一番 西新くん』

 右打席のバッターボックスの中に入り、鋭い目つきでギラッと威嚇し小波を睨みつける。

 それに対して、小波は思わず笑みが零れてしまった。

 流石は準決勝だ。オマケに去年の甲子園出場したチームだけあって、今までのどのチームよりも気合いの入り方がまるで違った。

 対する一球目。百四十七キロのストレートが勢い良くど真ん中に突き刺さる。

「ストライクッ!!」

 二球目。鋭いキレのあるスライダーで空振りを誘い、あっという間にツーストライクへと追い込んだ。

 そして、三球目。星が出したサインに対して小波はコクリと縦に頷く。

 右腕から振り抜かれた球は、三種のストレートの一つである無回転のストレートだ。

 西新はテイクバックをしっかりとったバットスイングでボールを捉えるものの、無回転と言う重さに負けた打球はショートの赤坂の前へと転がりワンナウトとなる。

 続く二番打者の中野が左打席のバッターボックスに構える。しかし、小波は淡々とストレートと変化球で中野のバットに掠る事さえさせずに三球三振で仕留めた。

『三番 キャッチャー 名島くん』

 初球。百四十九キロのストレートをインハイへと放り投げたが、臆する事なくバットを振ってカットされる。

「チッ・・・・・・今の球をカットかァ。流石は、太郎丸の相棒って訳だぜェ」

 星が思わず舌打ちを鳴らす。

「良い速球と良いコースだ。だけど悪いが、この程度の速球は俺は嫌と言うほど取り慣れてるんでね」

 ニヤリと名島は笑った。

 続く二球目には『ノースピン・ファストボール』三球目には『スリーフィンガー・ファストボール』と立て続け放り投げるが初見にして難なくカットされ、四球目、五球目に投じた変化球を選球眼の良さでギリギリ見送り、カウントはツーストライク、ツーボールとなった。

 平行カウント。次に来るのは恐らくただのストレートで仕留めに来るだろうと、名島は予想を立てた。

 そして、六球目。

 小波は右腕を振りかぶり、撓った腕から勢いのあるストレートが投じられた。

 高めに投げ込まれた百四十キロ前後のストレート。

「甘いッ!! 貰った!!」

 名島はストレートの予想を的中させた、とバットスイングをした。

 ——ククッ!!

 しかし、ボールは突然に浮き上がるかのようにホップしたのだ。

「な、何ッ!? この球は・・・・・・まさか!?」

 ——ズバァァァァァン!!

「ストラック!! バッターアウトッ!! チェンジ!!」」

 スイングしたバットから避けるように浮き上がったストレートが星のミットへと音を立てて収まると観客席からドッと響き渡る歓声が湧き上がった。

「・・・・・・」

「ドンマイ、一誠。切り替えていこうぜ」

 ベンチに引き返してくる名島に向けて太郎丸はキャッチャー用具を用意しながら言う。

「ああ、龍聖。すまない」

「別に良いって。それより小波の今の球は、三種のストレートの球か?」

「ああ。初回で『三種のストレート』を全部投げてきたと言うことはかなり本気らしい」

「こりゃ、面白い試合になりそうだ」

 左手をギュッと握りしめ、太郎丸はニヤリと白い歯を輝かせた。

 

 

 

「ふぅー。暑い暑い」

 小波はベンチに戻り、帽子を取って七瀬から渇いたタオルを受け取り「ありがとう」と礼を伝え、彼方此方に跳ねる癖毛を拭ってドリンクを喉に流し込む。

「球太くん!!」「オイ!! 小波ッ!!」

 早川と星が同時に小波の前に立ち塞がった。

「・・・・・・なんだよ。二人して」

「なんだよ、じゃねェよ!! テメェな!! 今の最後の球は一体なんなンだァ?」

「そうだよ! ストレートが『ホップ』した様に見えたし、もしかして今のは猪狩くんの『ライジング・ショット』?」

「ああ、あれか。いいや、最後の球は猪狩の『ライジング・ショット』とはまた少し違うんだ。俺の『三種のストレート』の最後の一つ『バックスピン・ジャイロ』だ」

「ばっくすぴん・じゃいろ……?」

「ま、説明が難しいから簡単に言うとライズボールだな。猪狩の『ライジング・ショット』程の威力は無いから、言わば下位互換みたいなもんだな」

「ノースピンにスリーフィンガーと来て最後にはバックスピンだとォ? ったく、大したモンだよテメェはよォ。でもまァ、これで全部出し尽くしちまったって訳だ」

「さあ? それはどうだろうな。もしかしたら「奥の奥の手」なんてもんがあるかもしれないぜ?」

「「——っっッ!?」」

「えっ!? 球太くん・・・・・・三種のストレートだけでも十分凄いのに、その他にもまだ隠してるのがあるの!?」

 小波の言葉に、早川は驚きを隠せなかった。

 しかし、早川以外にも余りにも驚いた顔をしたナイン達に小波は焦りを感じ、誤魔化す様な苦笑いを浮かべる。

「あははは、なんてな! あったら良いな、と言うただの冗談だよ」

「テメェ、小波ッ!! バカか? こんな大事な試合だって言うのに冗談なんか抜かしてる場合じゃアねェだろうがッ!!」

「分かってるって、だから冗談だって・・・・・・」

 小波はソッと顔をタオルで拭う。そのまま冷静な表情へと変え、星たちはその表情に気付く事なく一番打者である矢部がネクストバッターズサークルへと向かったところを見送り檄を飛ばした。

 ベンチの一番端に腰を据えて試合を見守っていた加藤理香は、無言のままジッと視線を小波に向けて、小さな溜息を漏らしながら小さな声で「本当にバカな子・・・・・・」とだけ呟いた。

 

 

 後攻、恋恋高校の攻撃が始まる。山の宮の左腕のエースである太郎丸はマウンドの土をスパイクの先で均していた。

 真剣な眼つき。小波のピッチングに感化されたのか気合いに満ちた表情だった。

『恋恋高校の攻撃、一番 センター 矢部くん』

 右打席に構える矢部に対して、太郎丸が投じた初球は、轟音を鳴り響かさるような百五十二キロを超えるストレートが矢部が構えるインコースへと、クロスファイヤーがズバリと名島のミットへと収まった。

「ストライクッ!!」

 矢部はその場で思わずゴクリと喉を鳴らしてしまうほど、太郎丸のストレートの球威の予想を遥かに上回っていた。

 二球目。同じくストレートがインコースへと突き刺さり簡単に追い込まれてしまう。

「矢部ェーーッ!! バット振らねェと持ってる意味ねェぞッ!!」

 ベンチから星が声を上げたが、その檄も虚しく、三球目のストレートを空振りし三球三振に仕留められてしまった。

 

「チッ。ったく、何したんだよテメェは」

「ごめんでやんす・・・・・・」

 星の叱咤に矢部は肩を落としてベンチへと引き下がってきた。

「それで矢部くんはどう感じた? 太郎丸のストレートを」

「全く持って、去年とは別人でやんす。ノビもキレも段違いでやんす」

「そうか。やっぱり、去年の甲子園を経験して一皮剥けたと言う訳か・・・・・・」

「でも、オイラ達は必ず打つでやんすよ! 小波くんが疲れ果てるまでオイラ達を相手に投げ続けてくれたんでやんす! 無駄だったとは思わせないでやんすよ!」

「矢部くん・・・・・・」

 思わず笑みが零れる。

 優しさが籠っていて、オマケに背中を押してくれる言葉だった。

「良く言ったぜェ!! 矢部!! こうなったら太郎丸をさっさとボコボコにして決勝戦に行ってやろうじゃねェか!!」

 

 

 

 だが。

 

——ズバァァァァン!!

 

「ストライクッ!! バッターアウトッ!!」

 百五十二キロのストレートを星はバットを一度も振る事無く見送り三振に仕留められてしまい、恋恋高校の攻撃は無得点のまま一回表を終えた。

「クソったれがァァァァァーーッ!!」

 星は悔しさを込めた叫び声を一つ、空に向かって吠えるのを小波は呆れた顔で見つめていた。

「お前ってヤツは本当にある意味で期待を裏切らないな……」

 

 

 

 

 

 

「えっと、ここじゃなくて・・・・・・あっちか?」

 遠くからでも聞こえる歓声。

 だけど目的地になかなか辿り着かない。

 確かにこの辺だぞ、とスマートフォンのアプリの地図を見つめ、向かうの作業をかれこれ十五分程繰り返していた。

「大海兄ちゃん、もう試合が始まってるよ?」

 あどけなさがある顔つき、見るからに小学高学年の少年が面白く無そうに呟いた。

「世那。分かってるから、だから、その、焦らせないでくれないか? ここの土地感がゼロなんだからさ」

 スマートフォンと今現在、絶賛睨めっこをしている大海と呼ばれた青年が冷や汗を流しながら言う。

 二人は、太郎丸龍聖の実の弟である太郎丸大海と太郎丸世那だった。

「龍聖兄ちゃんの試合だよ?」

「分かってるって、兄貴の試合が見たくて頑張地方まで来たのに迷子は笑えないぜ」

「他の人に聞いた方が早いんじゃない?」

 それは名案だ。と言わんばかりに大海が手を叩き、丁度タイミング良く横を通り過ぎる本を片手に持った赤毛の青年に声をかけた。

「あの、すいません。場所を訪ねたいんですけど・・・・・・」

「・・・・・・」

 燃える様な烈火の様な赤い髪とは裏腹に覇気の無い灰色の瞳。大海と同い年と思われる青年は無言で頷いた。

「頑張地方球場ってどこだか分かります?」

「・・・・・・えっと、ここを真っ直ぐ行って、左に曲がって・・・・・・」

 声が小さい。大海が必死に耳を傾ける。

 聞き取れるかどうかあやふやなボソボソとした細い声で場所を丁寧に教わった。

「ありがとう。助かったよ」

「・・・・・・あの、それじゃ、僕はこれで」

 ペコっと目を合わさず、赤毛の青年がその場から立ち去ろうとしたが、大海が声を掛けた。

「あのさ、良かったら君の名前を教えて貰ってもいいかな?」

「・・・・・・何故です?」

「何故って言われても・・・・・・、あっ!! そうだ、そうだ。俺、来年からこの街に住む事になってるから、今度どこかでばったり会った時にお礼したいし、一応な」

「・・・・・・僕の名前は、明日光です」

「明日光、か。俺の名前は太郎丸大海、よろしくな」

 赤毛の青年こと明日光に再度「ありがとう」とお礼を言うと、二人は足早に球場へと向かって行った。



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第58話 準決勝VS山の宮高校②

 手に汗握る恋恋高校と山の宮高校の甲子園を決める準決勝。

 試合は二回の表まで進んだ。

 先攻の山の宮の攻撃が始ったが、マウンドに上がる小波は冷静沈着の中、右腕を振り続けては先頭打者である四番の坂上をツーストライクに追い込んでから『ノースピン・ファストボール』でファーストゴロに打ち取ると、続く五番の東を『バックスピン・ジャイロ』で空振りの三振に仕留めてあっという間にツーアウトとなり六番打者である太郎丸の打席を迎えた。

 

 ——ワァァァァッッ!!

 

 ドッ、と湧き上がる歓声の中、何も恐れるものなど無いかのような、寧ろ、この試合を楽しんでいるような少年のような顔つきで太郎丸は堂々と打席に入り、バットのグリップを強く握りしめて十八メートル先のマウンドに上がっている小波を両の目で捉えていた。

 その目。ただ成らぬ威圧感を感じる。

 ピリピリした空気がチクチクと肌を叩く。小波は、額から頬を叩い顎から汗が一つ垂れ落ちると同時にニヤリと口角を上げて太郎丸を見つめて笑った。

 あかつき大附属高校のエースである猪狩守同様、既にプロ数球団が一位指名で交渉権を狙うと公言しているほど、またメジャーリーグスカウトマンからも注目されているその右腕の取り柄は百五十キロを超えるピッチングと抜群のコントロール、強靭なスタミナでも『アンユージュアル・ハイ・ストレート』だけでは無い。

 長打率はチーム二を争い、打者顔負けのバットコントロールも群を抜くほど打撃の方にも定評があるのだ。

 一瞬の気の緩みが命取りだ。と、小波は強く頭の中で意識をしながらゆっくりとボールの縫い目に沿って「人差し指」「中指」そして「薬指」の『三本の指』を添えた。

 そして、太郎丸に対して振りかぶった一球目を投じる。

 

 キィィィィン!!!

 

 内角へ投げ込まれた小波の得意とする『三種のストレート』の内の一つである『スリーフィンガー・ファストボール』を難なくバットへと当てグラウンドに金属音が響き渡るが、打球はキャッチャーの後方、バックネットへ勢いよく飛んで行った。

 

「ファール!!」

 

「……っ」

 やはり『三種のストレート』であっても、準決勝まで勝ち進んできたチームのエースを担う太郎丸をたった一球目であっさりと仕留められる程、甘くはないようだ。

 それは、お互いにそう感じたのだろう。

 小波と太郎丸は互いの顔を見合わすなり笑みが溢れていた。

 続く二球目。

 小波は再び『三種のストレート』の一つである無回転のストレートである『ノースピン・ファストボール』を投じる。

 

 キィィィィン。

 

 ——しかし。名島同様、太郎丸は初見にも関わらずバットを振り抜き『ノースピン・ファストボール』も難なくカットした。

 カウントはノーボール、ツーストライクとなり小波が太郎丸を追い込んだものの、太郎丸は依然として焦りなど微塵も感じさせずにドッシリと構えていた。

 そう、それはまるで『打てる』という自信が確信に近いと言う満ち溢れた面構えで、名島を捉えたもう一つの『三種のストレート』を待っているかのように、ただただ太郎丸は笑っていたのだ。

「どうやら、舐められてるって訳か……」

 小波は流れる汗を拭う。

 その表情は、ただただ笑みを浮かべたままであった。

 

 

 

 

 

 

 

 青年の顔つきは穏やかでは無かった。

 数時間前、予選大会の準決勝戦において完全試合を達成したあかつき大付属の左腕である猪狩守は学校には戻らず、真っ先にその脚は球場から少し離れた頑張中央病院に訪れていた。

 理由はただ一つ。

 つい先日の事だ。帰宅途中の不意な交通事故に巻き込まれてしまった弟である猪狩進のお見舞いを兼ねた試合報告をしに足を運んでいたのだ。

 猪狩守はドアの前で脚を止めて、コンコンと拳で軽いノックを二回鳴らした。

 するとドアの向う側から「はい」と、気の弱い小さな声が聞こえる共にドアを開けて病室の中へと入って行った。

 広くて白い病室にただ一人。

 少し開いた窓の隙間から入ってくる風に透き通った様な茶色の髪を靡かせ、赤い色よりも濃い紫色の瞳で猪狩進は外を見ていた。

 隣に置かれたラジオから、たった今行われている準決勝戦である恋恋高校対山の宮高校の試合中継が流れていた。

「やぁ、進。体調はどうだい?」

「兄さん、お疲れ様でした。体調はもう大丈夫みたいです。心配かけてすみません……」

「そうか……。それは良かった」

 つい先ほどまで穏やかでは無かった猪狩の表情は一転して優しい顔つきに戻った。

「ただ、お医者さまが言うには明後日には退院出来るけど、やはり練習は八月いっぱいまでは休養を要するようにとのことです」

「ああ、分かった。その事については千石監督に僕から伝えておくよ」

「ごめんなさい……。兄さん達が大事な時だと言うのに」

「いや、それは良いんだ」

 猪狩は進が横たわる医療ベッドの前に椅子を置き腰を掛けた。

 そして、進に決勝戦に進出した事を改めて伝えた。

「……進。僕は、必ず明日の試合で優勝旗を奪還し甲子園に出場する。試合に出れないお前の為にも僕は……この左腕を壊してでも勝たなければならない!! それが太郎丸か小波であろうとも……僕は負けられない」

「……」

 進は無言でニコッと笑った。

 しかし、その顔は何かを隠してた様な暗さを猪狩は見逃さなかった。

「……進? 何かあったのか?」

「いや……別に……」

 短く歯切れが悪い返事を返す。

 猪狩から少し目を逸らしながら猪狩進は首を横に振ったが、少しの間を置き息を吐くと猪狩進は再び口を動かした。

「兄さん……もしかしたら僕よりも小波さんの方が重症なのかもしれません」

「——ッ!? 何だって!?」

「もしかすると、です……」

 進の言葉に対し、猪狩は眉を寄せた。

「僕。薄っすらと覚えてるんです。あの日の夜の事故の事を……。車のライトに気づかず危うく轢かれそうになった間一髪の所で、小波さんが駆けつけてくれた時、僕を庇いながら小波さんは右肩を強くアスファルトに打ち付けたんです……」

 と、そこで進は言葉を止めた。

 猪狩はそのまま進を見つめていた。

 進の紫色の瞳が微かに潤んでいた。

 取り替えたばかりの白いシーツを力一杯にギュッと握りしめると、再び、進は口を開く。

「その時に聞こえてしまったんです。小波さんの上半身……いや……右肩の方から骨が軋むとても鈍い音が……」

「……何ッ!?」

 進はこれ以上は話さなかった。

 その話を聞いた猪狩は予期せぬことに言葉が出なかった。

 実の弟を救ってくれた恩人であり、小学生の頃から好敵手だった小波は、もしかしたら今現在、右肩を痛めたと言う軽いレベルでは済まされない程の重症を抱えているのかも関わらず危険を隠してマウンドに立っているのだ。

 小波球太と言う人間は、元々はそう言う人間だ。自分の事など顧みず、他人の為になら自己犠牲だって厭わない男だという事を……。

 何よりもその事を色濃く象徴しているのは中学時代にチームメイトだった猪狩自身、中学二年生の全国大会の試合の途中、目の前で小波が右肘を壊した姿を目撃し、小波は自分勝手にチームの勝利、優勝の為に無理をする人間だという事を猪狩は知っていた。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 病室に沈黙が訪れる。

 すると、ラジオから流れる中継が静寂を破るような大声で響き渡った。

 

 

『これもまた三振だァァァァッ! 恋恋高校三年生の小波球太くん!! あの山の宮打線を五回表も三者凡退に見事抑えましたッ!! 依然パーフェクトピッチングですッッ!!!』

 

 

 

 

 

 準決勝は五回の裏まで進んで0対0の投手戦となっていた。

 太郎丸のピッチングを前にし恋恋高校は九つの三振を奪われて無四球無安打の完全に抑え込まれている。

 だが、負けじと小波も太郎丸に食らいつくかのように気迫のピッチングを続けた。

 昨年あかつき大附属を降して甲子園出場を果たしている山の宮打線を相手に、小波は得意の『三種のストレート』で打線を翻弄し、これまでに八つの奪三振を奪い、太郎丸同様、無四球無安打で完全に抑え込んでいた。

 

 

 

「おいおい……マジかよ。随分とヤバい試合だな。こりゃ……決勝戦と勘違いする程、今までの歴代の準決勝よりかなり見応えのある投手戦になるんじゃねぇか? お前はどう思うよ? 春海」

 と、ベンチに引き下がる恋恋ナインを見つめながら塚口が言う。

「……ああ、見ての通りだよ。太郎丸も球太の両者とも素晴らしいくらい圧巻のピッチングをしてるよ。流石に此処までの試合展開になるだなんて此処に至るまで俺だって想像なんか出来なかったさ」

 予想しなかった試合展開に高柳春海も苦笑いをするしかなかった。

 そう。今行われてるのは準決勝だ。レベルが高くなるくらいは当然の事だ。

「……」

 しかし、高柳春海の表情は決して晴れやかな顔つきでは無く険しめだった。

「でも、少なくとも今日の試合に一つだけ。球太に対して違和感を感じるものがある……」

「違和感? なんだよ、そりゃ」

「初回から球太は『三種のストレート』の全てを投げている、と言う事だよ。未だに攻略不可能な球で『絶対的な切り札』とも呼べるモノだけど、それは球太にとって『三種のストレート』を投げること自体、肘や肩に負担がかかり過ぎる」

「負担……? あぁ、そう言えば中学の時に噂で聞いた事があるな。確か小波はあかつき附属の野球部に所属していた時代、それも全中の大会の最中その『三種のストレート』を酷使し過ぎて肘を壊したのが理由で、野球部を辞めたって言うのは小耳に挟んで認識はしていたが……。まさか、それ程にまであの『三種のストレート』を投げるのはデメリットがデカすぎるって訳か」

「その通りだ。それだけリスクのある球を初回から全力で投げ込んでいるとなると……球太の勝利に対する覚悟は相当なモノなんだろうね」

 と、春海は嫌な予感を察知するかのような不安げな顔つきを隠せないままその視線は恋恋高校のベンチの方へと向けられていた。

「負けるなよ、球太」

 

 

 五回の裏、恋恋高校の攻撃は四番の小波から始まる。

 その小波は、ネクストバッターズサークルの中でじっくりと太郎丸の投球練習に目を向けていた。

「うーむ……」

「どうかしたでやんすか?ㅤ星くん」

「ん? いや、どうも変な気がするンだよな。今日の小波は、いつもとはどっかが違ェ様な気がしてよォ」

 と、星がベンチに引き返し腰を据え、七瀬からスポーツドリンクを受け取って喉の奥へと流し込んで言う。

「変……でやんすか?」

「うん。星くんの言ってる事、ボクには分かる気がするよ」

 賛同する様に早川が頷いた。

「えっ? あおいちゃんも分かるんでやんすか? 一体どう言う事でやんすか?」

「それはね。いつにも増して集中してると言うか……球太くん、球数が増えて回が進むにつれて段々と言葉数が少なくなっているよね」

「確かに、そう言われて見ればそうでやんすね」

「まァ、実際無理もねェだろ。何せ此処まで太郎丸同様、『パーフェクトピッチング』を継続中だしなッ! つい意識して緊張しちまって喋れなくなると言う気持ちは、分からなくも無いが……よく考えてみると、小波も所詮は俺たちと同じでまだまだひよっこだって事だなァ! あはははははっ!!」

 声を高らかに笑って見せる星。

 それに反して早川は真剣な表情で小波を見つめていた。

(ううん……それはきっと違うよ。星くん)

 早川は何処と無く分かっていた。

 小波自身が今の現状を、パーフェクトピッチングをしている事など一切気にしてはいない事を——。

 この先、例え山の宮からヒットを打たれたとしてもピッチングには一切、何の影響も及ばないのだと言うことを。

 ただ小波は、チームが勝つ為にいつも通り何か秘策を考えながら、太郎丸からの攻略と山の宮からの勝利だけ……たったそれだけしか見えていないと言う事など早川は分かっていた。

 

 

「恋恋高校の攻撃……四番……ピッチャー小波くん」

 

 小波の名を告げるアナウンスと同時に、小波は立ち上がった。

 滴る汗が顎から垂れ落ちる。

 三十五度を超える炎天下の中、準決勝も中盤戦へと差し掛かり、グラウンドも更に熱さも増していた。

 右のバッターボックスに立った小波は小さな吐息を吐いて目の前の太郎丸を黒い瞳で捉えて睨みつける。

 太郎丸と小波の二打席目の対決。

 ここまで両チームとも未だに一塁ベースを踏んだ者は居ない見事なまでのピッチングを見せている。

 やられてばかりじゃ終われやしない。

「……」

 瞬間。

 ベンチからの声援、球場内から飛び交う様々な声、バッターボックスの土を均す足音、熱気を孕んだ夏の風と言った小波の耳に入るありとあらゆる音が遮断された。

 それは、二試合目の対球八高校との試合で矢中智紀の最大の切り札、アンダースローから放り投げられるフォークボールである『ファール・バイ・アップ』をホームランにして見せた小波の秘策の一つである『超集中』で太郎丸が投げるのを待っていた。

 その眼は。

 ただ、一点のみ。

 太郎丸の渾身のストレート。

 それだけを待っていた。

 

 太郎丸と小波の直接対決の二打席目。

 サインが決まり、太郎丸が右腕から放った豪速球がど真ん中にズバン、と決まった。

 球場内がドッと歓声で沸き上がる。

 バックスクリーンに表示される電光掲示板には「157キロ」と球速が写し出されていた。

 五回まで完璧に抑え、肩も暖まり調子も上がって来たのだろう。今までのストレートの最速は百五十二キロだった球を五キロ上回るストレートに、小波の『超集中』を持ってもバットを振る事も出来ず見送るだけだった。

「……ッ」

 流石に驚きを隠せない、と言った意外な表情に思わずニヤリと笑ったのは名島だった。

「流石の小波でも驚いただろ? これが現時点での龍聖の『アンユージュアル・ハイ・ストレート』だ。直訳して『並外れた豪速球』と言っても過言ではないだろ?」

 今のストレートに焦っているのにつけ込んでわざと小波に聞こえるように囁いて見せるものの……。

「……」

 小波は、ピクリとも動じずに太郎丸を見つめていた。

(成る程、な。これが球八戦で使ったと言う『超集中』か。初めて目の当たりにしたが……驚くべき集中力だ)

 バッターボックスに立つ小波からチリチリと肌を刺すような威圧感を受ける名島だったが、信頼している太郎丸の持つ豪速球の前に怯む事も無く再びストレートのサインを出すと、太郎丸はすぐ様に首を縦に振る。

 

 対する二打席目の二球目。

 緊張感が漂う中、その対決は余りにもあっさり。そして、豪快に決まった。

 真芯で捉えたストレートは、快音を轟かすと共に低空のライナー性の当たりでレフトスタンドへと一直線飛んで行くのだった。

「「――ッ!?」」

 太郎丸は、唖然とした表情でレフトスタンドに目を向けて小波の放ったホームランボールの着弾点を見つめていた。

「嘘だろ……」

 と、太郎丸がマウンド上で呟く。

 名島も同様だった。

「今のはコースを完全に読まれた上に、スイングのタイミングが完璧だった」

 脱帽。それ以外の言葉が見当たらない。

 一塁へと颯爽と走り出し、恋恋ベンチにガッツポーズをして見せる小波の後ろ背中を黙って見続けているが、その顔はどこか不安と似たような感情を滲ませていた。

 今し方、少し気になった事があった。

 それは、小波が太郎丸のストレートをバットで振り抜いた時だ。

 小波の右側――いや、右肩と言うのが正解だろうか。

ㅤ何か鈍い音が、嫌な音が名島の耳に聞こえたのだから。

「小波のヤツ……。いや、そんなまさかな」

 

 

 

 

「うぉぉぉぉーーーッ!! 小波の野郎ッ! 遂にやりやがったぞォォォォォォォ!!」

 グラウンドを指差しながら、塚口遊助は声を上げた。

「今の、ストレート、百五十七キロ、真芯、当てて、ホームラン……って凄ぇな!!」

 興奮を抑えきれず、歯切れの悪い言葉が単語帳の様に吐き出されている。

 被弾数の少ないピッチャーなら尚更だ。

 塚口の隣で固唾を呑んで見守っていた小波の竹馬の友である高柳春海は、黙ったままグッと拳を顔の目の前で強く握りしめて「よし!」と小さく呟いた。

「しかし。よくもまあ、あの太郎丸の球を打ち返せたもんだな。あの並ならぬスピードじゃビビってバットなんて怖くて振れねえよ!!」

「確かに、ね。それでもハッキリとボールは見えていたよ。それに、今のは球太の秘策の一つだからね」

「秘策……だと? 何だよ、それ!ㅤもったいぶらないで早く言えよ!!」

「……あれ? 遊助ならとっくに察しが付いてるのかと思ったんだけど?」

「察し……って、一体なんの事だ??」

 ハテナマークを頭に浮かべ、間の抜けた情けない返答で答えた塚口。

「全く、これだから遊助は……お前はもう忘れたのかい? 小波くんの秘策の一つと言う答えは……『超集中』だ」

 そう言いながら、ひょこっと高柳の隣から顔を出した。中学生と言っても通じるであろう小柄な青年は、矢中智紀だった。

「と、智紀ッ!? お前、今の今までどこに行ってたんだよ!!」

「あははは……。試合前にちょっと知っている人に声を掛けられてね。随分と話込んじゃってたんだよ」

「試合前? はは〜ん、さては智紀!! 最近出来た『彼女』と仲良く話してたんじゃねえだろうな??」

「――ッ!? ゆ、遊助……お前は、きゅ、急に何を言い出すんだい?」

 矢中智紀は一瞬にして顔を真っ赤にした。

「はっはっは!! 情報は既に神島から話は聞いたんだよッ!! この間、美女と二人で仲良く商店街を歩いてたってなッ!! それなのに……俺は……俺達は……むさ苦しいツネや滝本達と毎日、毎日……ゲーセンやらファミレスやらで高校野球ですっぽかしてた青春を取り戻そうと謳歌して……」

 あれやこれや、と喜怒哀楽の怒りと哀しむの感情でブツブツと不満を垂れ流し、やがて頭を抱えた塚口は涙を目に浮かべて天を仰いだ。

 それを横目に春海はただただ苦笑いしていた。

「ははは……相変わらず遊助の相手をするのは大変だよな。心中を察するよ、矢中」

「まあ……正直、もう慣れてしまっている自分がいるよ。それより高柳くん」

 少し間を置いて、矢中智紀は真剣な表情で高柳春海に声を掛けた。

「……ん?」

「この試合、恋恋高校もとい小波くんは自滅でもするつもりなのかい?」

「……どうしてそう思う?」

「ここまでの小波くんのピッチングのペース配分に対して目に余る、と言うのが同じピッチャーとして正直な感想でね」

ㅤと、矢中はやや冷たい口調で言うと言葉を続けた。

「何より投手層が極端に薄いのが弱点でもある恋恋高校だ。それに今のあおいは投げれない以上、小波くんがマウンドを降りたら自分たちの首を絞めることになりかねない」

 早川あおいが投げれない。

 矢中は唇をギュッと噛み締める。

 今の言葉に高柳春海は「何故?」と首を傾げたが、そう言えばあの日、恋恋高校との試合で一年生の早田に代わりリリーフとして登板したものの、直ぐに降板してしまったと言う事を思い出して納得した。

「早川あおいの事が心配なんだな、矢中は」

「心配? いいや、俺はあおいの事はもうなに一つ心配してないよ。あおいは強い、それに頼もしい仲間達に囲まれている。それだけで十分さ」

 矢中は恋恋ベンチに目を留める。

ㅤホームランを放ち先制点を取った小波球太の横に嬉しさを隠しきれずに満面の笑みを浮かべている早川あおいの表情がそこに在った。

 



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第59話 アンユージュアル・ハイ・ストレートのその先へ

「ストライクーーーーーッ!! バッターアウトッ!!」

 剛腕が唸り。

 乾いた音が鳴る。

 百五十五キロのストレートで、三打順を迎えた恋恋高校の一番打者の矢部を見逃しの三振に切り伏せた。

 山の宮 000000

 恋恋  000010

 準決勝も六回の裏を終え、スコアボードに記された「1」と言う数字をジッと眺めながら、太郎丸龍聖はぎゅっと左手で拳を強く握り締めてマウンドから離れた。

 それは五回裏の事。

 小波球太に対して渾身で放った『アンユージュアル・ハイ・ストレート』をスタンドに運ばれて失った一点は、太郎丸にとって、また、山の宮高校にとって、それはかなり重い失点でもあった。

「気にするなよ、龍聖。まだ一点だ。試合は終わってはいないぞ」

 太郎丸の元へとすぐさま駆け寄り、名島が声を掛けた。

「ああ、そんな事くらい言われなくても十分、分かっているさ」

「なら、良いんだが」

 心配を他所に、すんなりと名島の言葉を受け入れる太郎丸ではあったが、何か言いたげな表情をしている。

「どうかしたのか?」

 と、名島が問いかける。

「自信に満ち溢れていて、投げた渾身の俺の『アンユージュアル・ハイ・ストレート』を、あんなにいとも簡単にスタンドまで飛ばしてくれたのは小波が初めてだ」

 と、太郎丸は笑みを浮かべていたのだ。

 名島の心配とは裏腹な表情に、一度は目を疑ったものの、その笑みの理由は、名島には何となく分かっていた。

 ふと、過ぎる風景の中にその理由があった。

 それは、昨日の練習の終わりを迎えた頃。

『俺は自分の限界を超える戦いがしたい』

『俺はまだまだ強くなれる、そんな気がするよ』

 と、太郎丸はそう言っていたのを名島は思い出していた。

 過去に『目良浩輔』、『猪狩守』に加えて、夏の甲子園で戦った各強豪高校の名だたる強打者達、そして、今、中学時代からの顔見知りである小波球太を相手に投げている太郎丸にとって、それはなによりも変えがたい『経験値』となっているのだろう。

 強打者に向かって投げる太郎丸にとって、それは特別な事であり、何よりも楽しく、誰よりも嬉しくて堪らないのだろう。

 まるで野球を始めたばかりの夢見る野球少年の様な笑みを浮かべている太郎丸に対して、思わず名島も堪えていた笑みが負けじと溢れてしまった。

「そうだな。龍聖、この試合は是が非でも勝たなければならないな。例え良い戦いが出来たとしてもこの試合で負ければ、ここで俺たちの夏は終わりだ。この先に待ち受ける強打者とは戦えないぞ[

「ああ!! 今の俺の気合いは十分だ!! 負けるつもりなんて毛頭ねぇよ!!」

 太郎丸は、マウンドへと向かって歩いている小波へと視線を変えた。

 強い意志を持ち、譲れない覚悟を決め、太郎丸は静かに心を燃やしていた。

 ……だが、しかし。

 落ち込むどころか、調子を上げた太郎丸を見て、改めて安心し、ふっと笑みを溢した名島ではあったものの、その表情は一点して険しくなっていた。

 それは、先ほど小波が太郎丸から快心のホームランを放った際に、微かに聞こえた身を震わせる不気味な音が未だに忘れられずに鼓膜の中に残っていたのだった。

 

 

 

 

 七回表、山の宮高校の一番打者である西新の攻撃から始まりを告げ、準決勝の戦いは後半戦へと突入した。

 未だに山の宮は一人も塁に出る事もなく、小波の前に完璧に押さえ込まれている。

「行けェーーーー!! 京太郎ッ!!」

「打てるぞーーーッ!!」

 ベンチから身をの乗り出しながら太郎丸が檄を飛ばし、それに続くように他のメンバーも声を出し始める。

 小波が振りかぶり振り投げるストレートがスパンッと星が心地の良い捕球音を鳴らして、ワンストライクを取った。

 尻上がりに調子を上げ、投げる度にボールのノビとキレが研ぎ澄まされて行く、その度に心の奥から沸沸と熱い闘志が灯る。

「本当に、流石と言わざる負えないな。中学時代、あの猪狩を抑えてあかつき大附属のエースを張っていたのが頷けるぜ」

 太郎丸は、好敵手のピッチングを間近に見ながら、ただただ関心の意を込めてニヤリと口角を上げていた。

 

 

 一番打者の西新を『スリーフィンガー・ファストボール』でセカンドゴロに打ち取り、続く二番打者の中野をストレートで空振りの三振に切り伏せ、簡単にツーアウトに追い込んだ。

 そして、打席には三番打者、名島一誠がバッターボックスに立ち、バットを構える。

「打てよーーッ!! 一誠ーーッ!! 俺に回してくれェ!!」

 飛び込んで来る太郎丸の声に、

「おっしゃァァァァァァーー!! 来い!! 小波ィィィィ!!」

 と、名島は応えるように球場内に轟く程気合が入った大声で叫ぶ。

 名島に対する一球目。

 小波は、『三種のストレート』の『バックスピン・ジャイロ』を放り投げる。

 球速、百四十七キロ。

 やや高めに放り込まれたキレの良いストレートは、僅かにホップするように浮き上がり、名島のフルスイングは虚しく空を斬った。

「ストライクーーッ!!」

 チッと、思わず舌打ちを鳴らし悔しさを滲ませる。

 この試合、いつにも増して小波は『三種のストレート』を多用している為、今の小波の肩や肘に相当な負担が掛かっている筈だ。

 しかし、スタミナの消耗の疲労を微塵も感じさせぬどころか、一球一球投じる毎に、小波の込める力が次第に強くなって行きボールの軌道の予想を大きく超える変化を見せ、バットに当て難くなって来てるのだった。

 そして、二球目。

 キレのあるフォークがインローに落ちるが名島はバットを止めて見送った。

「ボール!!」

 際どいコースではあるが、僅かに外れてボールのコールが鳴る。

「ふぅ」と小さく深い息を吐く。

 バットを止めたものの、今の球はストライクを取られても可笑しくはない絶妙なコントロールだった。

 勿論、名島は理解してた。

 小波の持ち球は、『三種のストレート』だけでは決して無いと言う事を。

 スライダー、シュート、カーブ、フォークにチェンジアップと球種も豊富である為、球種を絞り出して打ち崩すのはそう簡単では無い。

(龍聖が珍しく心底野球と言うスポーツを楽しんでいるのも理解出来るな。小波、お前って奴は確かに物凄いピッチャーだ……)

 

 三球目、小波が腕を振るう。

 鋭いストレートが目の前へと投げ込まれる。

 球速、百四十九キロのストレートだった。

 

 

(だが、俺から見れば、物凄いピッチャーはこの世でたった一人だけで十分なんだよ!! ただ一人、龍聖だけなんだよ!!)

 

 

「キィィィィィィン!!!」

 心地の良い金属音が鳴り、打球は高々と上がり、勢い良くライト方向へと飛んでいく。

 

 

「ワァァァァァァァァァァァァァー!!」

 打球音と共に、観客席が湧き上がり。

「——ッ!!」

 小波、恋恋ナイン達は驚いた顔で打球の行方を目で追い。

「行ったァァァァァァァァ!! 同点だァァァァァァァァ!!!!」

ㅤㅤ太郎丸、山の宮ナイン達は喜びの声を上げてベンチから身を乗り出して打球の行方を見送る。

 

 

「ファール!!」

 ……が、しかし。

 惜しくもポールの横のファールゾーンへと落ち一塁塁審の手は両方に上げると、球場内は大きな溜息が塊となってこだました。

「ったくよォ、ビビらせるんじゃねェよ……今の打球は心臓に悪過ぎるぜ」

 冷や汗を拭いながら星が言う。

「なに、安心しろ。次で仕留めてやるさ。どの球で来ようとも今度は完璧に打ってやる。いい加減、決めさせて貰うぞッ!!」

 グッと強くバットを握りしめて、名島が高々に宣言した。

「……、……」

 しかし、その言葉に反応を示す事なく遠くを一点。

 ライトスタンドの名島が飛ばした着弾点を小波はじっと見つめていた。

 星と名島が互いに首を傾げて顔を見合わせるが、お構いなしと言わんばかりに小波はゆっくりと息を吐きながら、足場を丁寧に均して、マウンド上でニコッと笑みを浮かべた。

 その時、誰もが目を疑った。

 それは、一瞬。

 小波の体から『何か』、『金色めいた光』を見に纏っているのが見えたのだった。

 日射がグラウンドに反射した光なのかは、目の錯覚なのか、猛暑にやれて見えた幻覚なのか定かでは無いまま、小波は四球目のモーションへと移行する。

 右腕から放たれたストレート、ノビの勢い球威が増した速球——、名島は一心にバットを振り抜き、打球は後方バックネットへと飛ぶと、球場が一気にざわつき始め、球場内の視線はバックスクリーンの速度表示に釘付けにされていた。

「おいおい、マジかよ……」

 思わず、太郎丸が呆気に取られる。

 その球速表示——、『百五十九キロ』と電光掲示板に表示されていたのだった。

ㅤそう、小波は太郎丸の『アンユージュアル・ハイ・ストレート』の最高速球の百五十七キロを二キロを上回ったのだった。

 

 

 

 

 

「ひゃ、百五十九キロだと……!? あ、兄貴のマックスのストレートを小波球太さんが超えたって言うのかよ!?」

 たった今、バックスクリーンの速度表示に映し出された速球を見て開いた口が塞がらなくなったのは、太郎丸龍聖の実弟である太郎丸大海だった。

「大海兄ちゃん!! 龍聖兄ちゃんはまだ負けてないよ!!」

 更に、太郎丸大海の弟、太郎丸家の三男に当たる太郎丸世那は少し不機嫌そうに答える。

「あ……ああ、そうだよな。そんなの当たり前に決まってるだろ!! 兄貴だって一誠さんだって、実力は高校一なんだからこんな所で負ける筈なんかないんだよな!!」

「うん!!」

 二人は、名島の打席に向かって再び応援を始めるが、その横で一際、退屈そうに本を読んでる赤毛の青年も座っていた。

「……」

「って言うか、お前ッ!! 明日光!!」

 急に名前を呼ばれるなり、小さな微かに聞き取れる声量で「えっ?」と赤毛を揺らし、覇気のない灰色の瞳で視線を向ける——と、太郎丸大海が眉に皺を作って明日光をギロっと睨んでいたのであった。

「な、何??」

 視線に気付いた明日光は、ビクッと身体を震わせてパタンと本を閉じて声を震わせる。

「あのな? お前、さっきから本なんか読んでないで兄貴達の応援くらいしろよ!!」

「どうして僕が……?」

「どうしてって……ここは山の宮の応援席なんだぞ? 兄貴達の応援をするのは当たり前じゃねぇかよ!!」

 太郎丸大海の言葉に、明日光は眉を寄せ、非常に困惑していた。

 それは、つい一時間前の事。

 球場の近くを偶然歩いていたのを太郎丸兄弟に球場まで道を尋ねられ、その場所を教えたまでは良かったのだが、頑張地方の土地勘の無い二人は迷子になってしまったらしく、赤毛で目立っている明日光の所まで引き返し、球場内まで案内をしてもらったのだが、太郎丸大海に半ば強引に試合観戦までさせられていたのだった。

「それは余りにも理不尽だよ」

 と、誰にも聞こえない小声で愚痴を漏らす。

 小波と名島の戦いは、小波がストレートを百五十九キロのストレートで空振り三振に仕留めて、山の宮高校の攻撃が終わった所で、太郎丸大海と世那は悔しさを滲ませてマウンドに上がる兄に向けてエールを送っていた。

 明日光は、そんな二人を気にする事なく、小波球太がマウンドを降りて恋恋ベンチへと引き下がるのを灰色の目で追いながら……。

「僕みたいな卑怯者が、野球なんて言うスポーツにもう一度興味を持つ事なんて決して許されないんだから」

 と、ため息混じりに、空を見上げる。

 透き通る様な青い空、流れる雲を眺めて、手を止めていた本を再び読み始めた。

 

 

 七回表の山の宮高校の攻撃は、またもや三者凡退に終わり、七回裏の恋恋高校の攻撃は二番の赤坂から始まる。

 ここまで百球を超え、今も尚、一人も塁にランナーを出していないパーフェクトピッチングをしている小波は、ベンチに戻るなりフェイスタオルで疲れた顔を隠すように覆って椅子へと腰を下ろし、しばしの休息を取る。

 まるで滝の様に流れ落ちる汗の量は尋常ではない程に流れる。その汗は決して三十五度を超える炎天下の暑さで投げているからと言う理由では無かった。

「お疲れ様、球太くん。ナイスピッチング」

 その横に、内心は心配しているものの一番疲労しているのは見ていて分かってはいたが、小波に余計な心配を掛けまいと、隠す様に早川あおいはニコッと笑い、手に持っていたスポーツドリンクを渡した。

「おう、悪いな。早川」

 小波は、顔に当てていたフェイスタオルを退かしてスポーツドリンクを受け取ろうとした瞬間だった——。

「小波くん。少しだけ良いかしら?」

 割り込むかのように、ベンチの奥に座っていた加藤理香がこの試合で初めて腰を上げると、その場から立ち去った。

 眉を寄せ、普段の学校生活の中では決して見せることのない険しい顔つきをする加藤理香の表情に、小波は心当たりがある。

「はい」

 と、小波は言葉を返し加藤理香に続くようにベンチの奥のロッカールームへ歩いて行くのを早川は、少し不安そうに見つめていた。

 

『七回裏、恋恋高校の攻撃、二番ショート赤坂くん』

 

「オラァ!! 赤坂ァ!! いつまでも小波だけのホームランに甘んじてんじゃねェぞ!! 良い加減、太郎丸の野郎に一泡吹かせて来やがれッ!!」

 ネクストバッターズサークルから、星が赤坂に向けて檄を飛ばす。

「了解ッス!!」

 それに応えるように、赤坂は気合を引き締めてバッターボックスへと向かう。

 そして、星は太郎丸のピッチングに合わせてタイミングの確認をする為の素振りをする。

「ストライクーーッ!!」

 初球。

 百五十六キロのストレートが内角を突くようにズバリと決まる。

 思わず、星は「チッ」と舌打ちを鳴らす。

「ッたくよ。ムカつくほど、良い球を放り投げやがるじゃねェか、あの野郎」

 太郎丸も小波同様、回を跨ぐ事に、尻上がりに調子を上げ、ボールのキレ、ノビが一段と増しているように見て取れる。

「それにしても、小波の野郎は良くも太郎丸のストレートを真芯で捉えてスタンドまで勢い良く飛ばしたモンだ」

 と、内心呆れながらも関心し、次の打席だと言うのに集中力が散漫している星だったが、一つの疑問が頭を過ぎる。

(……しかし、気になるのがさっきの名島の打席だ。小波の身体の周りに金色めいた『何か』だが、アレは一体なンだったンだ?)

 それは、名島の二打席目のストレートの球速の事に対してだった。

 たった一球のみではあったが、確かに『百五十九キロ』のストレートを放り投げた小波の潜在能力の恐ろしさを再度思い知らされた星だったが、驚くより先に納得が出来た。

 中学時代、小波は当時中学二年生ながらも全国大会に「百四十キロ」のストレートを投げた事で有名だったからだ。

 先ほどの金色めいた何かも、何かのきっかけがあるのだろうと、ネクストバッターズサークルで星は頭を悩ませていたが、

「あーークソったれがァ!! 気になって集中出来やしねェじゃねェか!!」

 と、居ても経っても居られずにベンチの方へと戻って行った。

「あれ? 星くん? どうしかしたでやんすか?」

「まぁ、ちょっとな。……って、なんだ? 小波の野郎は居ねェのか?」

 ベンチ内を見渡すと、そこには小波と加藤理香の二人の姿は無かった。

「球太くんなら加藤先生に話があるって呼ばれて居ないよ、今は更衣室に居ると思うけど」

 早川が答える。

「話だァ?」

 すると、星は早川の顔を見るなり口角を上げてニヤリと笑みを浮かべた。

「……成る程、な」

「な、何? いきなり人の顔を見るなり笑ってさ。ボクの顔に何か着いてるの?」

「いや、別に何も着いちゃいねェよ」

「だったらなんなの?」

 早川は首を傾げ、それを見て星はニヤついた顔のままで次の言葉を言った。

「もしかしたらよォ? 今頃、加藤先生が小波に愛の告白をしてたりしてな!!」

「——えッ!? あ、愛の告白ッ!?」

 その言葉を聞き、早川は目を見開いて、上擦った声を上げる。

「なーに、良く考えてみりゃ簡単な事じゃねェかよ。思い出してみろよ。一年の時に加藤先生は小波に対して『興味がある』って理由で野球部の監督を引き受けただろ? それってきっと小波の事を恋愛対象に見てたからだったんじゃねェかと思ってる訳だ」

「そ、そうなの……かな? それだったとしても、何でこんなタイミングなの?」

「そりゃ、勿論。今は準決勝、甲子園を目前とし、監督と選手の立場じゃなく男と女の立場として『私を甲子園に連れて行って♡』とか、今頃、甘い吐息交じりで耳元で囁かれて小波の野郎は悶絶してるんじゃねェのか?」

 星は加藤理香の声真似をし、少女漫画に出てくるキャラクターの様にキラキラと目を輝かせながら言う。

「ま、まさか。加藤先生と球太くんに限ってそんな事は無いと思うけど……それに、星くんは良いの?」

「あん? 良いのって、何がだよ」

「だって星くん、加藤先生のこと気にかけてたじゃない?」

「ああ、それは前までは気にしてたけどな。だが今は違うぜ。今の俺が本気で心から射止めたい女性は、この世界でたった一人しか居ねェんだよ!!」 

 と、星はそのたった一人の女性の方に目を向ける。

 早川は、星の視線を辿っていく。

 すると、そこにはマネージャーである七瀬はるかが日陰の方にゆったりと座りながら赤坂に向けて声援を送っている姿があったのだった。

「俺が射止めたい相手は……そう!! はるかさん、貴女なのです!!」

 白い八重歯を光らせ、七瀬に目を向けてウインクを飛ばす。

「……えっ!? 私ですか!?」

 咄嗟に名前を呼ばれ、驚く七瀬。

「もちろんです!! 漢、星雄大ッ!! 必ず貴女を幸せにしてみせますッ!!」

 恥ずかし気も無くプロポーズと取れる台詞を吐く。

 過去に何度も似たような台詞を言ってきたけれども、幾度無く玉砕(主に早川の鉄拳制裁)しているのにも関わらず、ましてや、この緊迫した試合の中でも、『モテモテライフ』を夢見る星の決してブレる方の無い潔さに、周りもいつもの茶番とも分かっていながらゴクリと唾を呑み込んで、その場を静かに見つめて七瀬の返事を待っていた。

「星さん、お気持ちは嬉しいのですが……ごめんなさい」

 誰しもが茶番の結末が果たしてどうなる事くらい分かっていた事だった。

 七瀬はるかは、いつも通り丁寧に頭を下げて星のプロポーズを断る、と言うのは普段の流れではあるのだが……。

 しかし、今日はいつも通りでは無かった。

「それに私、今、お付き合いしている人がいますので……」

 七瀬はるかの今の言葉を耳にした瞬間、

「——えっ!?」

 と、その初出情報にベンチ内に居た全員が驚きの表情に変わった。

「う、嘘……だろォ? はるかさんに……彼氏が……居る……だと!?」

 ガクン、と膝から崩れ落ちる星。

「ちょっと! はるか!? そ、それって本当なの!?」

「はい、本当です」

「えっ!? 相手はどこの誰なの? まさかボクの知ってる人だったりする?」

 食い気味に早川が問いかけると、

「はい、あおいの良く知ってる人です」

 と、こくりと小さく頷き、頬を赤らめて恥ずかしそうに、その相手の名前を口にする。

「お付き合いしている男性は、球八高校の『矢中智紀さん』です」

「えええええええーーーーー!!」

 告げられた名前を聞いて、再び驚愕の表情で全員がその場に立ち尽くす。

 ただし、星、一人を除いてはだが。

「嘘だァァァァァァァァァァァァァァァァァーーーーッ!! どうして、あのチビなんだァァァァァァァァァァァァーーー!!」

 

 

 星の叫び声を上げた、同時刻。

「へっくしゅん!!」

 恋恋高校の応援スタンド席で、矢中智紀はくしゃみをし、「すまない」と隣に座る高柳春海に詫びた。

「おいおい、大丈夫か? ほら、使いなよ」

 高柳春海がズボンからポケットティッシュを取り出して、矢中智紀に渡す。

「ありがとう。でも、大丈夫だよ」

 きっと誰かが噂してるんじゃないかな、と矢中は苦笑いを浮かべて高柳春海にポケットティッシュを返す。

「そう言えば、矢中はプロ志願なんだってな。遊助から聞いたよ」

「うん。昔からプロ野球選手に憧れを持っていたし、プロ志願届を出すつもりではいるんだけれども……。まぁ、地方大会止まりで何の実績も無いからね。どうなるのか不安だけれど」

「お前の『フォール・バイ・アップ』は、プロスカウトも注目してるってこの間の週刊パワスポに載ってたし、行けるといいな。プロ野球」

「うん。それに約束したからね」

「約束?」

 と、高柳春海は首を傾げる。

「ああ、チームメイトの滝本雄二とね。雄二は大学に進学して野球をしていずれはプロを目指すみたいで、お互いプロで戦う時が来たら、俺の『フォール・バイ・アップ』を必ずホームランにするってね。それまでには雄二に当てられいような相棒として誇れる良いピッチャーになってないといけないからね」

「なるほどね」

「そう言う高柳くんの方はどうなんだい? 君はプロ野球は目指してはいないのかい?」

 矢中智紀の問いに、高柳春海は横に首を振った。

「俺は大学に進学だよ。どうしても全国大会で優勝して胴上げしたい先輩がいるんでね」

「そうか。それはお互いに頑張らないとだね」

 矢中智紀と高柳春海が今後の進路について語りあっているそんな中、ただ一人だけつまらなそうに顔を歪ませた塚口遊助が口を開いた。

「さっきから大人しく黙って聞いていれば、お前らは何なんだ? お前ら真面目か!! 真面目な会話しかしてねえじゃねえか!? それってつまらなくねえのかよ!!」

 二人の会話に対して塚口遊助は糾弾するが、当の二人は互いに顔を見合わせ、

「いいや、遊助。別に俺たちは真面目じゃないぞ」

「そうだね。まあ、強いて言うのならば俺も高柳くんも遊助の様なおふざけキャラでは無いと言うのは確かだよ」

「何だよ、それ!! 俺っておふざけキャラで通ってるのか!?」

 頭を抱え落胆の声を上げる塚口な訳だが、二人とも「今更?」と声を揃えた。

「真面目な話より、俺が本当に聞きたかったのは智紀の彼女が一体何処のどいつだって事だ」

「それは、誰でもいいじゃないか。別に遊助が気にする事じゃないだろ?」

「いいや、気になるね。俺はツネと雄二と常日頃一緒にいるんだぜ? なのにお前一人だけ甘い思いしてるのは許せねえ、せめて相手くらい教えろ!!」

「確かに、それは俺も気になるな」

「た、高柳くんまで!?」

 勘弁してくれ、と心の中で呟く。

 そして、観念したのだろうか。顔を背き、顔を真っ赤に染めながらポツリとその相手の名前を言った。

「恋恋高校の七瀬はるかさんだよ……」

「——ッ!?」

「なんで七瀬はるかなんだ? 確か七瀬はるかってマネージャーだろ? 幼馴染の早川あおいじゃねえのかよ」

 正確には恋恋高校にいる幼馴染は、高木幸子と早川あおいの二人ではあるが、塚口遊助は矢中智紀の過去の出来事は知らないのだ。

「俺とあおいは幼稚園からのただの幼馴染だから。それに今のあおいには『好きな人』がいるからね」

「それは誰なんだ?」

 矢中の彼女が七瀬だと知るも更なる謎が深まったため、複雑な表情の塚口。

「それは、高柳くんも察しがついてるんじやないかな?」

「ま、心当たりあるけど」

 そう言いながら高柳は幼馴染である黒髪の癖毛頭の青年を思い浮かべている。

「ったく、どいつもこいつも青春を謳歌しやがって!! まさか春海、お前も彼女が居るとか言わねえだろうな!?」

「いないよ」

 と、短い言葉で返す。

 すると塚口遊助はニヤリと嬉しさを隠せない不敵な笑みを浮かべていた。まるで仲間が増えたかの様に喜ぶのを眺めながら、高柳春海は言葉を付け加えた。

「でも、好きな人はいるよ」

「へえ、どんな子なんだい?」

 矢中智紀が問う。

 高柳春海はポケットからスマートフォンを取り出して写真と明記されているフォルダを下にスクロールして行き、画面を見つめながら答えた。

「幼馴染の子で、リトルリーグの時からずっと好きなんだ」

 スマートフォンに写っていたのは、照れ臭そうに目線を逸らして腕を組む黒髪の癖毛の少年と、サラサラ髪に爽やかな顔立ちで恥ずかしそうに照れ笑いしている高柳、そして桃色の髪色で二人に挟まれて笑顔でピースサインで映る女の子の写真だった。

 

 

「ストライクーーッ!! バッターアウト!!

 太郎丸の豪速球の前に赤坂が三振に倒れ、次のバッターである三番打者の星雄大の様子がどこか可笑しかった。

「嘘に決まってる……。はるかさんに彼氏が居るなんて……嘘に決まってる」

 星の想い人である七瀬はるかに彼氏が居る事実を突きつけられて傷心していたのだった。

 虚な表情に、さっきほどのプロポーズした時の様な威勢は微塵も残ってはいない。

 ボコッ!!

「痛ッ!! 何しやがるんだ、早川ッ!!」

ㅤそこに突如、鉄槌が降る。

「何しやがるんだ、じゃないでしょ!! 次のバッターは星くんでしょ!?」

 早川の言葉に星は、我に変える。

 バットを携えてバッターボックスへと小走りで叫びながら向かう。

「小波の野郎はまだ戻らねェのか!? 太郎丸相手にそんなには粘れねェぞ??」

「ボクが球太くんの事、呼んでくるよ!」

 と、早川あおいは加藤と小波のいる更衣室へと向かった。

 

 

 

 正直に言って見るに耐えない。

 誰がどう見ても満身創痍だと言う事は火を見るより明らかだ。

 そこまでして、小波は肩に爆弾と言う不安要素を抱えながらも投げる事にこだわり続けるのだろうか、と加藤理香にとって甚だ疑問に思っていた。

 だがしかし、加藤理香は、小波が身を削ってまでも為さなければならない事が一つ、そのたった一つの理由を知っている。

 それは、彼——、小波球太が自分の夢である『プロ野球選手』になると言う夢を既に捨ててしまっていて、今は違う夢を叶えようとしていると言う事を加藤理香は知ってしまっているのだ。

 その事を知ったのはパワフル高校の試合前の放課後に小波球太を保健室に呼んだ時の事だった。

 以前。

 それは四年前のあかつき大附属中学時代に遡るが、小波球太が前代未聞の『百四十キロ』のストレートを放り投げ話題になった中学二年生の中体連の全国大会において、まだ成長期の最中、『三種のストレート』の酷使による右肘の故障を招いてしまい退部を選んだ後日、ダイジョーブ博士による手術を受け右肘を完璧に治してみせた際、右肩に選手生命に関わるほどの大きな爆弾が出来てしまったのだ。

 と言う事を小波本人に伝えた時に、小波が自分で現在の夢を語ってくれ、小波の両の目からは、ポタリと一筋の涙が頬を伝っていたのだ。

 

「試合前に私は貴方を止める事も言う事も無いと言ったけれども……」

 恋恋高校のベンチ裏の選手更衣室、加藤理香と小波球太の二人はそこにいた。

 歓声が小さいながらも聞こえて来る。

 大きめな更衣室のロッカーに加藤理香は背もたれて小さなため息を一つ漏らして、目の前に今にも倒れてしまいそうに疲れ果てて項垂れながらベンチ椅子に腰を下ろしている小波を見つめていた。

「野球素人の私の目から見ていても、正直に言って限界を超えているわよ。貴方は、ここまで本当に良く頑張ったと思うわ、小波くん。だけど、ここで素直にマウンドから降りれば(、、、、、、、、、、)貴方の野球人生はまだ終わる事も無く済む可能性だって少なからずあるはずよ?」

 加藤理香の「マウンドから降りれば」と言う言葉に、小波はピクッと反応を示した。

「加藤先生。前も言いましたが、自分の信念を突き通す……俺に残された『夢』は、もうこれしか無いんです。その『夢』を他の誰にも譲るつもりは一切ありません!!」

 珍しく。

 いや、小波にとって初めてと言っても良いほど、厳しく強い口調だった。

「……、」

「アイツらを甲子園に連れて行く為だけにこの腕を振り抜くと決めたんです。それだけの理由だけで充分なんです!! どうか、最後まで投げさせて下さい!!」

 深々と頭を下げる小波。

 加藤理香は、決して折れる事のない確固たる意志を持った小波の目に圧倒され、これ以上は何も言っても無駄と理解し、もう何も言えなかった。

「そう……。なら、好きにすれば良いわ」

「ありがとうございます」

「けど、小波くん。最後に一つだけ聞かせてくれないかしら? どうして貴方は、プロ野球選手と言う夢を諦める気になれたのかを」

「……」

 小波は無言だった。

 しかし、聞くまでは此処から動かないと言わんばかりの加藤理香の圧力に屈し、今度は逆に小波は固く閉じていた口を開いた。

「俺の理想のプロ野球選手像は……」

 と、言いかけた所で言葉が詰まる。

 よく見てみると、小波は悔しさを滲ませるように下唇を噛み締めていた。

 再度、口を開き。

「野球と言うスポーツを知らない子達や野球が好きな子達に、野球の素晴らしさを伝えられる様な、勇気や元気を与えられる様な選手になる事でした」

 グッと小波は拳を握りしめる。

「でも、ある日……早川が似たような事を言ったんです。俺が夢見ていた野球選手像を。その時に俺は、早川ならきっと、早川ならその夢を叶えられるんじゃないのか……って、その時に強く思えたんです。なら、託そうって、決めたんです。……俺はもう長くは投げられないでしょう。今日、この試合、山の宮に勝ったところで明日の試合、猪狩率いるあかつき相手に俺のピッチングが通じるかすら分かりません。途中で肩が壊れるかもしれない。だけど、そんなのはもうどうでも良いんです。せめて最後の最後に、俺はアイツらを甲子園に連れて行きたいんです!!」

 言い切ると、小波はふっと笑った。

(まったく、俺は一体、何を変な事を堂々と言っているんだろう)

 傍から見れば笑ってしまう。それはもう、余りにも自分勝手で我がままな言葉だけを言っているような気がしたからだ。

 でも、小波は気にしないようにした。

「何がなんでも叶えたいんです。矢部くんや星の夢、早川の夢を叶えられて、山吹や海野、赤坂達の努力だって報われる、その場所が甲子園なんです!!」

「……そう」

 小波の言葉に加藤は、思わずクスリと笑いをこぼす。

ㅤそれは加藤本人さえも分からない、不思議な笑みだった。

 

 加藤理香は、ただの保険医(・・・・・・)で無い。

 過去に、素性が謎に包まれているスポーツ医学に秀でた『ダイジョーブ博士』の助手を務めていた事がある。

 加藤理香が恋恋高校の野球部の監督を引き受けた理由は、本来ならダイジョーブ博士が診るべきはずだった『とある青年』と、膝を壊して途方に暮れていた小波球太をうっかり間違えてしまい、誤って小波球太がダイジョーブ博士の実験を受けた事を知った加藤理香は、小波球太の術後の経過を側で観察する為であり、小波球太が恋恋高校に入学する事を『妹』を通じてありとあらゆる手段を使い、その為に恋恋高校の保険医として赴任した。

 

 

『どう聞いても、俺がただあかつきのエースだったからって理由が顧問を受け持つ決め手だとは思えないんです』

 

 これは、二年前。

 小波球太と加藤理香が初めて出会った頃の会話だ。

 

 そして——。

 

『……中々、感が鋭いのね。それもそうね。でも小波くんあなたがあかつきのエースだったのも一つの決め手よ? 後もう一つ、これは後々いう事にするわ』

 

 

 本音を言うと加藤理香は、小波球太の観察の為だけであり、あかつきのエースと言うのも野球に対して何一つ興味など持ち合わせてはいなかった。

 しかし、今はそうでもない自分が居るのを加藤は確かに感じていた。

 試合が進むにつれて、決して揺るがない気持ち、折れる事のない信念、どんなに追い込まれても誰よりも楽しそうに野球をプレーをして、右肩に爆弾を抱え、抱いていた夢を諦めても物事に怖じけずに突き進もうとする小波球太に対し、スポーツマンもして、また、一人の人間として、その先の成長を見たいと言う興味を持ち始めていたのだ。

「なら、貴方が今抱いている夢を必ず叶えなさい。自分で選んだ選択に本当に後悔がないのなら好きにするといいわ」

 今まで強張っていた加藤理香の顔付きが穏やかになると、小波は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、監督」

「——ッ!?」

「本当にありがとうございます」

 と、小波は加藤理香に対してもう一度、深く頭を下げ更衣室から立ち去り、ベンチの方へと戻って行く。

「……、」

 その後ろ姿を隠れるようにドアの死角から覗き込む一人の人影があった。

 小波球太を呼び戻しに来た早川あおいは加藤理香との会話を聞いてしまっていたのだった。

 

 

「ストライクッーーー!! バッターアウトッ!!」

 湧き上がる大歓声。

ㅤ唸る豪速球で星を空振りの三振に仕留めてツーアウト。

「クソッ!! 釣り球なんかに手を出しちまうとかバカか、俺はよォ!!」

「何見てんだよ。今のはどう見てもストライクゾーンだっただろ?」

 怒り散らす星の前に、小波球太がネクストバッターズサークルで素振りをしていた。

「小波!? テメェ、今の今まで何してやがったンだ!?」

「何してたって、ただの作戦会議だよ。監督とキャプテンのな」

 四番・小波くん、とウグイス嬢が名前を呼び上げると、小波はバッターボックスへと歩き出した。

「作戦会議だァ!? 今はそれどころじゃねェんだよ!! お前、知ってるか? はるかさんに彼氏が居て、その相手って言うのが球八高校の矢中——、」

「なぁ、星」

「あん?」

 星の言葉を遮り、バットをギュッと握りしめた小波が呼びかける。

「まだ『モテモテライフ』は、諦めてはいないんだよな?」

「そんなの当たり前だろうがッ!! 甲子園に行って活躍して『モテモテライフ』を築き上げる野望があるんだ!! こんなところで終わってたまるかよッ!!」

 星の言葉を聞き、小波はクスリと笑う。

 その表情は、何処か穏やかだった。

「そうか。……、それなら夢を叶えに行こうぜ、甲子園に」

 と、小波は笑いながら右のバッターボックスへと向かって行き、

「お、おおう」

ㅤと、星はポカンと口を開け、その場に立ち尽くしていた。

 そして、七回裏ツーアウト、ランナー無しの場面で小波球太と太郎丸龍聖の三打席目の勝負が始まる。

 

 三度目の邂逅。

 太郎丸と小波は笑みを交わした。

 目の前に立ちはだかる好敵手との戦いに待ちに待った再開を喜ぶかのように太郎丸龍聖は思う存分に気持ちを込めて腕を振り抜く。

 

 ——、ガシャァァァァァァン!!!!

 

 だが、投げ抜いたストレートが小波球太の頭上、名島一誠の頭上、そして、球審の頭上を大きく超える大暴投となりバックネットの金網を揺らした。

「ボ、ボール!!」

 騒ついていた球場が、咳一つ溢せばその場全員に聞こえるかもしれない程に静まり返る。

「タイム!!」

 空かさずタイムを取った名島一誠は、太郎丸龍聖の元へと駆け出て行く。

「悪い悪い、どうやら今のは気合が入りすぎちまったみたいだ」

「全く何をやっているんだ?ㅤ今の小波は前の打席同様、『超集中モード』だ。何としても此処は抑えるぞ」

「分かってる、抜かりはねえさ」

 と、太郎丸龍聖は言う。

ㅤそして、名島が太郎丸と出会って初めて見ると言っても過言では無い何かに挑んだ表情を目に浮かべて、

「だから、今此処で俺は俺の限界を超えてみようと思うんだ」

「何ッ!?」

 名島は、その言葉に思わず耳を疑った。

「龍聖、どう言う事だ?」

「今なら俺の絶対的切り札である『アンユージュアル・ハイ・ストレート』を更に超える球を投られる気がするんだよ」

「……、」

「今日の試合で小波と投げ合ってる内にもう一段と成長出来た。それを確かめたいんだ。そして、俺は知りたいんだ。この先まだまだ強くなれると言う確信を」

 名島は、以前に太郎丸と交わした言葉を再び思い返していた。

「自分の限界を超える戦い、か……。そう言う事ならば、俺はそれを是が非でも見届け無ければならないな。よし!! 投てみろ、龍聖」

「一誠」

「お前が投れると思うなら、それを受け止めるのが相棒としての仕事だ。強い相手を捻じ伏せてこそ、太郎丸龍聖(エース)だろ?」

 クルッと踵を返して、自分の定位置へと戻って行き、太郎丸は名島の背中をジッと見つめながら幸せに似た出会った事のない感動を覚えていた。

 定位置に戻り、キャッチャーマスクを深く被り付け、キャッチャーマットを叩き、名島一誠は太郎丸龍聖に向けて、大声を上げる。

「さぁ、来い!! 龍聖!! お前の全てをキャッチャーミット(ここ)にぶつけて来いッ!!」

 

 

 

(ありがとう、一誠)

 と、太郎丸は心中で呟いた。

(やっぱり強打者と戦うって言うのは最高に楽しいもんだな)

 と、太郎丸はピッチャープレートを脚で均した。

(大したモンだよ。『アンユージュアル・ハイ・ストレート』をホームランにしてしまうお前は、最高に凄いバッターだぜ)

 と、太郎丸はボールを強く握りしめた。

(こんなに張り合いがあるヤツは滅多にいないし、心から思う事がある)

 と、太郎丸は名島のミットを見定めた。

(頑張地方に来てよかった、とただただ感謝したい気持ちで胸がいっぱいだ)

 と、太郎丸は振りかぶる。

「勝負だッ!! 小波ィ!!」

 と、太郎丸は投球モーションに移り、

(お前に負けていられねぇ、お前を捻じ伏せたい、お前に勝ちたい。強い強打者達と沢山戦いたい、この気持ちがあれば、俺は次の高みを目指せる!!)

 と、太郎丸は左腕を振るい抜く。

(さぁ、行こうぜ一誠。更なる高みに、俺とこの——『アンユージュアル・エクシード・ストレート』で一緒に甲子園で優勝しようじゃねえか!!)

 

 



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第60話 Plan 3rd R.

「勝負だッ!! 小波ィ!!」

 叫び声を上げ、太郎丸が投げ込む。

 その瞬間、

 太郎丸龍聖は『金色めいた光』に身を包まれた。

 七回の表の小波球太のピッチングと同様、全く同じモノだった。

 

ㅤズバァァァァァァァァァン!!

 

 それは、まるで銃声のようだった。

 圧倒されたストレートの前に、小波はバットを動かす事すら出来ずに見送る。

 全ての音を掻き消さんばかりに響き渡った名島の捕球音。たった今、太郎丸龍聖の放ったストレートに誰もが言葉を失った。

「ストライクーーーッ!!」

 球審のコールさえも響くほど静寂に包まれた球場内が、一気に活気に満たされる。

 その理由は、一つ。

 バックスクリーンに表示された球速を示す電光掲示板には、『162キロ』が記録されていたからだった。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーッ!! 何だぁ!?ㅤ今の兄貴の球はッ!?」

 抑えきれない感情が爆発した。

 思わずバッとその場から立ち上がり、周り構わぬ大声を上げて喜びを露わにした太郎丸大海は、無垢な少年と言わんばかりの爛爛とした眼でマウンドに立つ兄を見つめていた。

「龍聖兄ちゃん、凄えッ!!」

 太郎丸家の三男である太郎丸世那も流石兄弟と言っても良い程、同じリアクションだった。

「……、」

 しかし、その隣。

 この兄弟に今日初めて会ったばかりである明日光は他人のフリでもするかの様に手に持っている小説を黙読していた。

「どうだ、明日光!! 俺達の兄貴って凄いピッチャーだろ!!」

 興味が無かろうともお構い無しに太郎丸大海が得意げにニヤリと笑う。

 顔は満足げであり、芳香を嗅ぐ様に鼻孔が広がっていた。

「……、」

 だが、光は顔の表情一つ変えずに、読んでいる小説を止める事は無かった。

 この根暗野郎め。

 たかが数時間程度の付き合いではあるが、太郎丸大海も明日光と言う人間の性格を大体は理解してきた様だ。

 半ば呆れながらも会話を続ける。

「あのな? もしもの話。自分の兄弟に置き換えてみろよ。百六十二キロのストレートを投げるんだぜ? 俺みたいなリアクションになるだろ?」

 大海の言葉を聞き、光は自分の双子の妹である明日未来が、百六十二キロを放り投げる姿を想像してみた。

「……別に。もし、そうなったら逆に恐ろしい位だよ」

 ビジョンが脳裏を過ぎる。その姿は、余りにも馬鹿げていて引きつりながら笑う光。

「ん? その様子だとお前も兄弟が居たりするのか?」

「……うん。妹がね。僕ら双子なんだ」

「へぇ〜。そいつはもしかして、双子だけあってお前と同じ顔だったりするのか?」

「……似てるってよく言われるよ」

「だろうな」

 だろうな?

 光は思わず首を傾げ、太郎丸大海の視線はやや斜め上に向けられていたの気付くと、辿る様にまだ追っていくと、そこに居たのは勿論。

「あれ〜? 私に似てる人が居ると思えば光じゃないですか〜」

 見慣れた赤毛、鏡合わせでもした様な顔立ち、青い瞳、キラッと光る白い八重歯は、紛う事なき双子の妹、明日未来だった。

 未来の後ろに二人の影、よく見て見ると光からして見れば見知った顔が見えていた。

 一人目は風に靡く黒髪に顔の整った甘いマスク、大きな紫眼が特徴的な光と未来の同級生である鈴本大輔と、二人目は少し小柄な茶髪のショートカットに赤色のカチューシャを付け、薄緑色の瞳をした女の子だった。

「……」

「あ、やっぱり光だったよ〜。ほらね、大輔くん。私の言った通りだったでしょ〜?」

「……?」

「未来ちゃんがさ、あそこに居るのは光なんじゃないかって、急に椅子から飛び出して行くんだからびっくりしちゃったよ。まぁ、人違いじゃ無くて良かったけど」

 ほっと胸を撫で下ろす。爽やかなイケメンにして、爽やかな声で鈴本大輔は苦笑いを浮かべていた。

「光くん、こんにちわ! 光くんも野球を見に来てたんだね」

 ニコッと、光の顔を見て笑う女の子。

「……こんにちわ。藤乃さん」

 光は、笑顔で返さずに手短にコクリと会釈した。だが、藤乃さんと呼ばれた女の子は少し残念そうな顔を浮かべる。

 彼女の名前は、藤乃なつき。光や未来、鈴本大輔と共に西満涙中学に通う同級生だ。

 藤乃なつきは、現在西満涙中学の野球部のマネージャーをしていて、未来が土日の部活動の祭にユニフォーム以外の野球道具を一式忘れる事が多々あり、何度も届けに行っている為、一応、顔見知りではあるのだ。一応。

「なつきんの言う通り、光が野球の試合観戦なんて珍しいね〜。そう言えば、そのお隣さんは一体誰なの〜?」

 と、未来はヒョイと顔を覗かせて、太郎丸大海と世那をジッと見つめてる。

 自己紹介は、未だだった。

「僕は、鈴本大輔」と、コクリと会釈。

「藤乃なつきです」と、ニコリと笑い。

「そして、そして、そして〜!! 私は明日未来だよ〜。光の双子の妹なのです。どうぞよろしくね〜」

 右目を閉じ、左目を開き、今にも星の欠片でも飛び出しそうなウインクをした状態で顔の前でピースサイン広げながら未来が言う。

 どこぞの幼女向けのテレビアニメのキャラクターを真似てるのだろう。

「……、」

 ぽーっと、顔が赤くなるのを感じた光は、未来の恥ずかしい自己紹介ぶりに、今すぐにでも他人のフリをしてこの場から立ち去ってでも、読みかけである小説を読了したいと言う気持ちを抑えながら太郎丸大海と世那の二人に顔を向いて紹介しようとした。

「あ……えっと、この人は――、」

「俺は、太郎丸大海。西強中学の三年だ。よろしく頼むぜ」

 紹介しようとした。……のだが、光の言葉は太郎丸大海に遮られてしまう。

「西強中学!?」

「へぇ〜、西強中学なんだ〜」

 真っ先に反応したのは鈴本大輔で、その三秒後に未来が反応した。

 そんな有名な学校なのか、と光は訳もわからず首を傾げていた。

「西強中学は、毎年全国大会に出場してるチームで、去年の全国大会では惜しくも準優勝と言う結果を残した西地方屈指の強豪校なのよ」

「……そうなんだ。教えてくれてどうもありがとう、藤乃さん」

 野球事情を何一つ知らない光の為に、藤乃なつきが優しく簡潔的に説明してくれた。

「……て、くれるかしら?」

 一通り自己紹介が終えた時だった。

 後方から、小さな女性の声が聞こえた。

 応援席に腰を降ろしている太郎丸大海、世那、光。

 そして、通路階段に立っている鈴本大輔、明日未来、藤乃なつきは、その小さな声を発した女性の方へと顔を向ける。

 そこに居たのは、膝下にA4サイズのノートを広げ、透き通るほど綺麗な栗色に染まった長髪に、少し気の強そうなキリッとした瞳を浮かべた女子高校生だった。

 女子高校生と言えば正しいが、年頃の女性と言うよりか大人の醸し出す独特の凛々しさが際立って、大学生の姉さん系の方が正しいのでは無いだろうかと思ってしまうほど、その女性は大人びていた。

ㅤそして、何よりも気になり、何よりも一番目のやり場に困ったのは、夏の指定服に身を包んで隠されていても分かる程の自己主張の激しい胸だ。推測は『D』。

 太郎丸大海と鈴本大輔はそっと目線を逸らし、小学生である三男坊の世那にはかなり刺激が強すぎる為、目元を大海の手のひらで覆うように隠され、光は気にする事なく本を読み続けていた。

「……ッ!?」「デカイ!! 私やひじりんの比になんかならない位、かなり……大きい!?」

 だが、女性陣(二人ともB)( ・・・・・ )の反応は違っていた。

 その女性の胸に目が移り、その大きさに自分の貧相な胸と比べて驚愕の表情を浮かべたのは、藤乃なつきと明日未来だった。

「ごめんなさいね。少し静かにして貰えるかしら?」

 と、その女性は静かに囁くように優しい口調で微笑んでくれた。

「他の人たちにも迷惑になるでしょ? それに私の連れが怒る前に、ね」

 と、クスッと笑いながら女性が言うともう一人の女性が少しムッと両頬を膨らませている。

 美女だった。

 見るからに有名人と言わんばりのキラキラとした有名人オーラを放つ金髪の美女は、真っ黒のサングラスで目元を隠し、日焼け防止の日傘を刺しているところからして、お嬢様なのは間違いはない。

 またしても女性陣(二人ともB)の視線は自然と胸に行く。

 栗色の女性とは違い、胸の部分がペタンと貧相だったのを確認すると明日未来と藤乃なつきは安堵した表情を浮かべる。

 こんなにも美女なのに胸まで大きくてたまるもんか、と二人は心の中で呟き、二人の心の中ではお互いにハイタッチでも交わしているだろう。

「あのね、巫祈さん。その言い方は余りにも失礼じゃなくて? 私は、ただ貴女の『データ収集』の妨げになりそうだと思ったから注意したらと軽く言っただけですわよ?」

「心配しなくとも今日の試合は、相当面白いデータばかり集まっているわ。小波くんの『怪童』( 、、 )、太郎丸くんは『速球プライド』( 、、、、、、 )とそれぞれ『貴重』な『超特殊能力』を開放したのだからね」

 怪童?

 速球プライド?

 貴重な?

 超特殊能力?

 書き慣れない単語に思わず、その場にいる六人は、頭にクエスチョンマークを並べて黙ったままだった。

 呆気に取られているそんな事は気にも留めずに、金髪の美女は不適に笑い、真っ黒のサングラス越しからグラウンドの太郎丸と小波を見据えて、桃色に染まり僅かに揺れる唇でポツリと囁いた。

「『能力解放』とは中々面白いじゃありませんの。これから楽しくなりそうね。今後の野球界も」

 

 

 

 カウントはワンストライク・ワンバール。

 今さっきの百六十二キロのストレートをただ見送る事しか出来なかった小波は笑っていた。

「なぁ、小波」

 突然。

 名島が呼びかける。

「どうした、名島」

「お前には感謝してるぜ」

「……?」

「この試合で龍聖は更なる高みに登り詰める事が出来た。お前のおかげでな」

 名島は心から思う言葉を言った。

 日頃から口癖のように名島一誠は太郎丸龍聖から『最高な戦いがしたい』、『限界を超えたい』と聞かされていた。

 そして、今日、この試合の中で殻を打ち破る様に限界を超えることが出来たのは、小波が太郎丸の気持ちを最大限に引き出すほどの強い相手だからこそであり、負けない気持ちをぶつける事で『アンユージュアル・ハイ・ストレート』を超える『アンユージュアル・エクシード・ストレート』を投げられたのだと、重ねて伝える。

「それは、違うな」

 小波は首を横に振った。

「……?」

「別に、俺は特別な事は何もしてないし。お前達に感謝される様な覚えは無いけどな」

 と、バットをグッと強く握りしめる。

「けど、限界を超えられたのは、それはきっとお前達の日々努力のお陰だ。その強い想いをずっと抱いて頑張ってきた結果だろ。感謝なんていらねえよ」

「小波」

「楽しもうぜ。戦いを、お前たちみたいな好敵手が相手なんだ、寧ろ燃えてくるじゃねえのかよ!!」

 そして、三球目。

 太郎丸の百六十二キロを記録した『アンユージュアル・エクシード・ストレート』を、小波はバットに当たるが、後方のバックネットに飛んでいく。

 カウント、ツーストライク・ワンボール。

「ちくしょう、相変わらず良い球を投げやがるな」

 その表情に前に打ち返さなかった悔しさなんてモノは無く、ただ少年の様に勝負を楽しんでいる小波の姿があった。

「小波……、お前と言うヤツは、何処までも楽しませてくれるな」

(なぁ、龍聖。お前も楽しんでるんだろ?)

 視線の先、サインを待つ太郎丸も小波と同じ勝負を楽しんでいる野球少年のみたいな顔をしていた。

「行くぜ、小波ィ!!」

 と、マウンド上で太郎丸が咆哮を上げる。

「来い、太郎丸ッ!!」

 と、小波はバットを振り抜く——。

 

 腕を振り抜く。

 太郎丸は、再度、『金色めいた光』を見に纏う。

 

 ズバァァァァァァァァァン!!!!

 

 小波のバットは空を切り、

「ストライクーーーーーッ!! バッターーアウトッ!!」

 空振りの三振に仕留められた。

 球速表示は、最速の『163キロ』を記録していた。

 

 

 

 

 

 

「また百六十三キロだと!? おいおい、一体どこまで速くなるつもりなんだ? あの化け物のストレートは!!」

「流石に、今の太郎丸の投げたストレートも球太の『超集中』でさえ見定められないのか……」

 恋恋高校の応援席にて塚口遊助と高柳春海の二人は、タクシーに突如急ブレーキを掛けられた様に驚いていた。

「……、」

 そして、矢中智紀は内心に小さな波が立っていたものの、無言のまま食い入る様に太郎丸を見つめていた。

「やっぱり、智紀の目から見ても、今の球は言葉を失うくらいに凄い球だったよな?」

「ああ、同じピッチャーでも速いストレートを投げれるのは羨ましい限りだよ。太郎丸くんや小波くん、猪狩くんみたいな速球派ピッチャーは特にね」

 グッと、強く手を重ねる。

 低身長に悩まされアンダースローを極めてきた矢中にとって、オーバースローで豪快に速いストレートを投げれると言うのは、ある種の嫉妬を覚えてしまうほどまで憧れていた部分がある様だ。

「ってか、今の太郎丸を見て思ったんだが」

 と、塚口遊助が話を逸らす様に口を開く。

「投げる瞬間に『金色』みたいな何かが見えなかったか? えっと……、なんて言えばいいんだ? 見に纏うような……? ああーーッ、何が言いたいのか分かんねェよ!!」

 頭の中に浮かんでいた疑問を問い、それを言っている最中に自分で何を言っているのか分からなくなった様子だった。

「まぁ、遊助の言った『金色めいた光』は俺にも見えたけど、それはさっきの小波くんのピッチングの時も同じ様なモノが見えた気がするよ」

「小波のピッチング!? ああ、前の回に名島を三振に仕留めた時のアレか」

 と、七回表の名島の打席を思い出す。

「理由はどうあれ、少なからずその『金色めいた光』は、プレーにかなりの影響を与えていると見ても良いだろうね」

「やっぱり智紀でも知らねえよな。こうなるんだったら神島を連れてくれば良かったぜ」

「神島……って、さっき会話にも出てきたけど誰なんだ?」

 高柳は今日二度目の『神島』と言う名前についつい反応してしまう。

 きらめき高校と球八高校は意外にも練習試合や公式戦などの接点が無かった為、知らないのも無理はないのだ。

「ああ、神島巫祈。ウチのマネージャーなんだけど、データ収集が得意でな。俺達の能力を分析してくれて、苦手コースの割り出したり、練習メニューを作ってくれたりしてくれたんだ。そう言うのに秀でてるから、『金色の何か』について何か知ってそうな気がするんだけど……」

 こうなったら。

 と、塚口はポケットからスマートフォンを取り出して電話帳を開いてか行をタップして『神島巫祈(マネージャー)』を開いて電話を掛け出した。

「直接、本人に聞いてみるしかねえだろ。……っと、もしもし神島? 塚口だけ——」

 ブチッ!!

「……」

 矢中も高柳も耳にする。

 塚口の掛けた電話は秒で切られてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

ㅤ小波が空振りの三振に倒れ、攻守交代。

 試合も終盤、八回表の山ノ宮の攻撃を迎えようとしていた。

 スコアは、一対〇。恋恋高校がリードしている状況だ。

 尚、山の宮高校は未だ塁上に誰一人ランナーとして出塁して居ない。言葉通りパーフェクトピッチングを継続している小波である。

「残り二回で、後六人か。コイツは気を引き締めていかねェとだな」

 星はキャッチャーマスクを片手に、完全試合を前にしてらしくもない緊張した様子のようだ。

「どうか、オイラの所に打球が来ませんように、打球が来ませんように、打球が来ませんように、と祈るでやんす」

 手を合わせて神頼みをしている矢部も同様だった。

 いや、今から守備に着こうとしている他のナイン達も顔を強張らせて動きも少し硬い。

 それもその筈だ。緊迫する準決勝、オマケに完全試合と言う大記録を達成目前と迫っている中、決して意識をしない筈は無い。

 寧ろ、観客席に座っている人たちは心待ちにして居る筈だ。

 何せ、前の試合に行われた別ブロックの準決勝戦にてあかつき大附属のエースにしてキャプテンである猪狩守が完全試合を果たした為、二試合連続で完全試合が見られるのでは無いか、と言う期待も込められている。

 山の宮高校以外、観客全て、恋恋高校の全員が小波球太が打ち立てようとする瞬間を待ち望んでいるのだ。

 だが、当の本人は気にしていなかった。

 ヘルメットを置き、フェイスタオルで汗を拭う。緊張の欠片も無い、いつも通りの表情をしていた。

「この試合勝てば決勝戦なんだ。もう少し気楽に行こうぜ」

「気楽にって……。小波、テメェはもう少し緊張感って言うのを持ちやがれッ!! 完全試合目前なんだぞ? どれだけ凄い事かって事くらい分かってンのか!?」

「完全試合って言っても、そんなのただの記録だろ? 俺から言わせればそんなのどうでも良いんだけどな」

「どうでも良いって、お前な!! 山の宮相手に完全試合達成したらプロのスカウトもきっと黙ってねェぞ!!」

ㅤ小波はグローブを手に填めて「はいはい」と左手をぷらぷらと左右に振りながらゆっくりとマウンドへと向かって行く。

「チッ。本当に分かってるンだろうな、テメェは!!」

 星はその後ろを舌打ちを鳴らしてドカドカと足音を立てながら着いて行く。

「小波さん、いつも通りですね。流石、キャプテンと言うべきでしょうか」

 と、七瀬はるかは鼻歌交じりでベンチ上に適当に置かれた一人一人のフェイスタオルを集め、氷と水が入れてあるバケツにゆっくり浸し、取り出してギュッと色白い小さくて細い手で強く絞りながら賞嘆していた。

「……うん、そう、だね」

 早川あおいは返答するものの歯切れが悪い返事だった。

「あおい? どうかした?」

「えっ? 何が? ボクは別に平気だし、どうもしてないよ?」

 と、笑顔で七瀬に顔を向ける。

 きっとこの笑顔は無理して作っているのだと早川自身は気付いていた。

 星の打席、小波を呼びに行こうと更衣室の前に辿り着いた時に、加藤理香と小波球太の会話を早川あおいは聞いてしまったからだ。

 小波球太が、プロ野球選手になりたいと言う『夢』を諦めてまでも甲子園に連れて行こうとして居る事を。

 小波球太が更衣室を出てベンチに戻っていく、その瞬間、早川あおいは声を掛けようとしたのだが、監督である加藤理香に気付かれて口止めをされた。

 決してこの事は他のみんなには悟られてはいけない、と。

 小波球太がやろうとしている事は、星や矢部、七瀬や他の部員達が聞いたら驚くだけじゃ済まされないと予測出来るからだ。

 自分ではどうしようも出来ない。

 何もしてあげられない無力さに辛くて悲しい、小波の夢を捨ててまで成し遂げようとしている身勝手さに最早怒りさえも込み上げていて、どうにかなりそうな位にありとあらゆる複雑な感情がぐにゃぐにゃに折り重なりあって混ざっている。

 でも、いつかは……。

 でも、いつかはこう言うことになるのでは無いかと、早川あおいは懸念をしていた。

 公式戦での早川あおいの女性選手出場問題で出場停止を高野連から突き付けられた時でもそうだった。

 去年の真夏の中、一人勝手に何も言わずに何百人以上の署名を集めていた事を思い出していた。

 責任感が強く、周りを大切に想う故、自分を犠牲にしてまで何でもやり通そうとするのが、小波球太である事はとっくにお見通しだった。

「良かった。さっき、小波さんを呼びに行って戻って来てから、あおい、ずっと暗い顔をしてるから心配だったの」

「……ごめんね、はるか。ボクの方は全然大丈夫だから心配しなくても良いよ」

 早川は再び笑顔で七瀬を見る。

 その顔は、心配をかけまいと友を思う本当の笑顔だった。

 

『八回の表、山の宮高校の攻撃、四番・センター坂上くん』

 アナウンスと共に、先頭打者である坂上が左バッターボックスに入り、小波を強く睨みつけている。

 第一球目。

「——ッ!!」

ㅤ百五十八キロのストレートは、低めに決まるがボール球だった。

 二球目。

 高めのボール球。

 三球目。

 またしても高めのボール球。

 ノーストライク、スリーボールになると球場が一気に騒めき始める。

 ここまでパーフェクトピッチングをして来た小波が初めてランナーを出すかもしれない状況だからだ。

「小波ィ!?」

 困惑した声色で、星が叫ぶ。

 下唇をギュッと噛み締めていた小波はニヤリと笑みを浮かべる。

 ザッ、と足を上げて、右腕を振り抜く。

 マウンド上からでも伝わる不自然な違和感を払拭するかの様に、小波は逆サイドへのボール球を投げ込んだ。

「ボール、フォア!!」

 球審の声に、騒めきていた球場内は一気に落胆へと変わる。

「小波、テメェ!!」

 空かさず、星がマウンドへと駆け寄ってきた。励ましでも心配でもない。眉間に皴を寄せた強張った顔だった。

「今の四球はワザとだな!! もう少しで完全試合だったって言うのによ!!」

「だからさっきも言っただろ。完全試合なんてただの記録だって。それに周りが緊張感満載だったから、これで肩の荷が降りたろ」

「俺たちの緊張解くために四球を出したって訳か!? 馬鹿野郎か、テメェは!!」

 と、小波は右肩をグルリと回す。

「ん?」

 星は、何かに気付いた。

「お前、大丈夫か?」

「何がだ?」

「右手が震えてるぞ?」

「……、」

 カタカタ……と、小刻みに小波の右腕全体が震えていた。

「お前も見た事くらいあるだろ? プロの試合でもあるじゃねえか。解説者が完全試合間近とかノーヒットノーラン継続中って言うと大抵打たれたりするよな。もしかすると中継で誰かがそんな事言ったのかもしれないな」

 あはははは、と苦笑いをする。

「何言ってんだ? この暑さの中で頭イカれちまったのか、テメェは!!」

「って言うのは冗談で、実は俺も今の今まで凄く緊張してたんだ。こう言うのってやっぱり意識するとダメなんだな」

「はァ?? テメェ、本当は緊張してやがったって事かよ!!」

「そう言う事だ。ま、もう平気さ。次の東を討ち取ることに専念しようぜ」

「おう、そんなの当たり前だッ!!」

 星は定位置に戻って行く。

(本音を言うと、討ち取るつもりだったんだけど、そろそろ右肩の限界が近づいてるみたいだな)

 下を向いて痛みを堪える。

 グッと唇を噛み締めた。

 

 続く五番打者の東との対戦。

 ストレートが僅かにホップする『バックスピン・ジャイロ』を詰まらせる形でセカンドへ打ち取り、四球の影響で緊張の解れた海野が丁寧に捌いて、四・六・三のダブルプレーで簡単にツーアウトになり、次のバッターは太郎丸龍聖に回る。

 

『六番・ピッチャー、太郎丸くん』

 

 ゆっくりと息を吸い。

 ゆっくりと息を吐いた。

 左打席に立ち、バットを構える。

 泣いても笑っても、これが最後の勝負だ。

 太郎丸龍聖は目を閉じて今日の試合を振り返る。

 高校野球の中で、今日の試合が今までで一番と言っていいほど白熱する接戦を繰り広げて来たと感じていた。

 まだ終わらせなくない。

 まだ小波と投げ続けたい。

 沸沸と湧き上がる感情を満足させるまで負けてなどいられない。

 

 

 

『泣いても笑っても、後二回か』

 時間は数分戻り、小波が坂上をフォアボールでランナーを出した頃だった。

ㅤネクストバッターズサークルへと準備し始める太郎丸龍聖に向けて、名島が呟いた。

「一誠。まだ焦るんじゃねえよ、二回もある、だろ? 余裕を持ってあの好敵手に挑もうじゃねえか」

 限界を超え、更なる進化を遂げた太郎丸龍聖はニヤリと楽しそうに笑う。

「一点差位、ひっくり返してやろぜ。この試合の決着が着くまで、俺は何回でも何試合でも投げ続ける。こんなに楽しい試合を終わらせてたまるかよ!!」

 名島一誠は思った。

 昔から変わらない。

 左手にずっと残っている感触を、いつまでも気持ちの籠もった心地良いストレートを取り続けたいと思っていた。

 しかし、それは無理な話だ。

 太郎丸龍聖と名島一誠の二人の高校卒業後の進路は、お互いにプロを目指す事だと決めている。

ㅤ西強中学時代から、『西の太郎丸』、『東の猪狩守』と言うネームバリューがある様に既にプロからの注目は群を抜いている。

 ドラフトにかかり、同じチームで呼ばれる可能性は無いと言う事もないが、可能性は低い為、この夏が二人にとってバッテリーを組む最後の機会なのだ。

 誰よりも太郎丸龍聖を信じ、誰よりも名島一誠を信じた二人が掲げた『夢』こそが、甲子園で優勝を飾る『夢』であり絶対に叶えなければならない。決して負けてはならない。

 

 目を開けて、小波を睨む。

 自分の限界を超える戦いをしてくれた小波球太に敬意を表しながら、この先の高みを目指す為に立ちはだかる強敵に向けて挑む様に太郎丸龍聖は、バットを小波球太に向けて高々と言い放つ。

「負けられねえ!! 勝つのは俺たち山の宮高校だッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三十五度を超える真夏日。

 夕暮れの河川敷を二人の影が並んでいた。

「結局、小波一人に負けちまったな」

 と、太郎丸龍聖は橙色に染まる夕日を見つめながら呟いた。

 その後、太郎丸は空振りの三振に倒れ、続く九回も三者凡退に抑えられ小波球太はノーヒットノーランを達成し、恋恋高校が決勝戦進出を果たした。

 被安打は僅か一本。

 奪三振は二十個を記録して敗戦投手となった太郎丸龍聖だったが表情は清々しかった。

 試合後に再会した二人の弟達は、目に涙を浮かべて労ってくれたりもした。

「終わっちまったんだな、これで」

 と、名島一誠は大事なモノを抜き取られたような寂しさを滲ませる。

 砂利を踏む音が途絶える。

「まだ終わってなんかいねえよ、一誠」

ㅤ脚を止めたのは太郎丸龍聖だ。

「え?」

「まだ終わってなんかいねえんだよ。寧ろ始まりなんだよ、きっとさ」

「龍聖……?」

「俺たちはプロを目指す。例えチームが違えど、俺たちがバッテリーを組んでた事実は変わらねえんだよ。それに、いつかFAでも取得したらお前のチームに移籍してやる、そしたら今度こそはプロの世界で頂点を取ろうじゃねえか!!」

「ああ、そうだな。プロの世界には小波よりもっと凄い選手達が居る。お前も俺も、此処からがスタートって訳だな」

 二人は顔を合わせてニコッと笑った。

「こうなったら、一誠!! 学校に帰って練習だ!!」

 太郎丸龍聖は、走り出した。

「おい、ちょっと待てって!!」

 続く様に、名島も後を追う。

 甲子園での二人の『夢』は惜しくも叶わなかった。

 だが、二人が野球を続ける限り、好敵手がいる限り二人はグラウンドに立ち続ける。

 日本一になり、最強バッテリーの称号を掴む為に、その『野望』は決して終わることはないのだ。

 

 

 

 

 

「どうぞ、狭い部屋ですけれども」

 三十五回建ての超高層ビルの最上階。

 橙色に染まる頑張市内を丸ごと一望出来る場所に彼女達は居た。

 部屋の広さは、学校の教室よりもかなり大きいと見てわかる程。

「いつ来ても凄いわね。乙女の部屋は私だったらきっと落ち着かないわ」

 と、栗色髪の大人びた女性が見慣れた口調で感想を述べる。

 辺り一面はガラス張りで、オマケに地面は大理石。

 百インチはある大型テレビ、目の前に最高級のラグジュアリーソファー、大の大人が四人は川の字になって眠れるであろうキングサイズのベットが一つ、そして大企業の社長が使ってそうな高級なオフィスディスクのみの部屋だった。

「あら、こう見えて学生の部屋を意識してますのよ? どうぞ、そのソファーにお掛けくださいませ」

「私の部屋とは、全く次元が違うわ。何せ私の部屋は妹と一緒だし」

「そうですの? それより何かお飲みになります? いつものアイスココアで?」

「ええ、アイスココアを貰えるかしら」

 と、栗色髪の女性が答えると、金髪美女はスマートフォンを取り出して電話を掛ける。

「もしもし、乙女ですわ。巫祈さんにアイスココアを一杯、後は私のオレンジ……」

 と、八宝乙女は言葉を止めた。

 今、ソファーに腰を掛けて鞄からノートを取り出している神島巫祈の制服から膨らんでいる部分を見つめていた。

 

(もしかして、巫祈さんの胸が大きいのは、アイスココアを飲んでいるから!?)

 

 コホン、と一つ。

 ワザとらしい咳払いをした。

「アイスココアを二杯、手配しなさい」

 と、電話を切った。

「随分と珍しいじゃない。乙女はオレンジジュースしか飲まないんじゃなかったの?」

「た、たまにはアイスココアを飲みたい気分になるものですわ」

 取り乱す八宝乙女。

「所で、今日の試合のデータは役立ちそうですの?」

「それなりにはね。小波くん、太郎丸くんの『能力開放』は驚いたけど。それに去年の夏の大会一回戦で恋恋高校とときめき青春高校の試合で、星くんも『勝負師』としての能力に目覚めたみたいだったけど、今のところはさっぱりね」

「取り敢えず、今後の野球界が盛り上がるのなら構いませんわ」

 と、八宝乙女はガラス越しに街を見下ろしていた。

「なんだか、野球界ばかりを気にしている様だけど?」

 と、神島巫祈が放った言葉に、八宝乙女は僅かにピクリと身体が動く。

 そして、そのまま神島巫祈に背中を向けたまま口を開いた。

「頑張市の地域拡大については、当然ご存知で?」

「ええ、今年の春頃にテレビニュースにもなって話題に上がっていたわね」

「単刀直入に言うならば二年後、野球界は劇的に変わりますわ。八宝カンパニーと猪狩コンシェルンもそのプランに加わっておりますの」

「それは、どうな風に変わるのかは教えてくれるのかしら?」

 神島巫祈の問いに、八宝乙女は困惑した。

「パパからは、ダメだと口止めされているのだけれども……。まぁ、巫祈さんになら伝えても良いかもしれませんわね」

 八宝カンパニーの次期社長にして跡取りのお嬢様、ジャスミン高校の八宝乙女はソファーにゆっくりと腰を降し、艶やかな金色に染まる髪を撫でながら先を見据えた強い瞳で甘い甘い声で囁いた。

 

「Plan 3rd R。プロ野球球団の新規球団の発足と第三の野球リーグの設立ですわ」



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小波球太 最終章 Onece Again,Chase The Dream You Gave Up
第61話 決戦前夜


 甲子園予選大会の準決勝、山の宮高校との試合を一対〇の辛勝にて勝利を収めた恋恋高校は、試合後、その場解散となりそれぞれの家路へと戻っていく。

 

 夕刻の街の中。

 ツンツンと整髪料で固めた金髪を靡かせて、気だるい表情を浮かべた星雄大と坊主頭の瓶底メガネの矢部明雄が、コンビニの前で百円程の値段がするアイスキャンディーを頬張っていた。

「明日、勝てば甲子園でやんすね」

「ああ、そうだな。でも、次の相手はあの猪狩守率いるあかつき大附属だ。今日の試合と同様に、とても楽な試合展開にはなりそうもねェよな」

「思えば、色んな事が沢山あったでやんす」

 振り返る今日まであった様々な出来事。

 決して楽しい事ばかりではなかったのは確かなことだった。

「ああ、そうだな。ま、泣いても笑っても明日の試合で全てが決まるんだ。俺たちの『モテモテライフ』の為に明日は頑張るしかねェだろう」

「そうでやんすね! 甲子園に行って、オイラたちはモテまくりでやんす!」

「モテまくるぜェェェェェェ!!」

 二人は、お互いに顔を見合わせてニヤリと下心満載の笑みで笑っていた。

 傍から見れば、それはそれは気持ちの悪い絵面なのは明白でなのだが、当の本人たちは一切気にしてはいない。

 が、そこに一人の人物が舌を鳴らし、呆れたトーンで二人には向けて声を発した。

「チッ……。テメェら気色悪ィな。今日の試合ノーヒットだった雑魚共が、揃いも揃ってイキがってンじゃねェよ!!」

 ドスの効いたの声。

 見知った顔。

 目を完全に覆う長い黒髪、牙のようにトゲトゲしく生え揃った白い歯で、時折風に吹かれて覗かせる眼光で二人を睨みつけていたのは、極亜久高校の悪道浩平だった。

 このコンビニに買い物にでも来たのだろうか、半袖の無地のTシャツにスウェットズボンと随分とラフな格好をしていた。

「浩平!?」

「悪道くん!?」

 同時に驚く星雄大と矢部明雄。

「お前、まさか試合観に来てたのか?」

「はァ? 何を言ってやがるンだァ?」

「いや、だって、テメェが試合結果知ってるからだ。てっきり試合観戦でもしてたのかと思っただけだよ」

「貴様はバカか? わざわざ仲良し子好しでやってる草野球レベルのテメェらの試合を観に行くほど、俺も暇じゃねェンだよ。今の時代は、携帯一つあれば結果なんて直ぐ調べれば分かるだろが。ったく、どいつもこいつも太郎丸相手に無様な姿を晒しやがって、まさか実力で勝てたとでも思い上がって喜んでンじゃねェよな?」

「……ッ!?」

 ぐぐ……、と反論しようとした言葉を飲み込んだ。

 悪道浩平の言葉は、星達にとって全く持って的を得ていたからだ。

 実際、今日の山の宮高校との戦いは小波球太の投げてはノーヒットノーラン、打っては値千金のソロホームランと完全に一人舞台であり、星たちは蚊帳の外だった。

 今日の試合、仮に小波が太郎丸に抑えられ打てなかったら決勝戦には山の宮高校が進出していたかもしれないと言うまでに、小波以外は太郎丸龍聖のピッチングに完膚なきまでに抑えられ手も足も出なかったのも事実だ。

「明日勝てば甲子園だァ? 自惚れるのもいい加減にしやがれッ。何も出来やしねェ雑魚だろうが」

「五月蝿ェなッ!! そんな事はテメェに言われなくても分かってるつーの!! 俺たちだって別に悔しくねェって訳じゃねェんだからよッ!!」

「ほ、星くんの言う通りでやんす。小波くんばかりに負担は掛けられないでやんす」

 星の言葉、矢部の言葉を聞いた悪道浩平はふっと鼻で笑う。

「ハハハッ!! 相変わらず威勢だけは良いじゃねェの。ま、負け犬の遠吠えにならねェ様に精々頑張るンだな」

 と、悪道浩平は買い物に来たはずのコンビニの前でクルッと踵を返し、馬鹿にするような意地の悪い不気味な笑い声で二人の前から立ち去って行く。

「浩平の野郎……。わざわざ馬鹿にする為に声を掛けたんじゃねェだろうな?」

 不貞腐れ、星が後ろ姿を睨み続ける。

「あの態度は悪道くんなりのオイラたちへの優しさだと思うでやんす」

「あのな……。メガネテメェ、今の浩平の言葉の何処に心温まる優しさってモンが在ったんだ??」

 星は、呆れていた。それはまるで、いきなり海の真ん中に放り出された気分だった。

 だが、しかし。

 そんな星とは逆で。矢部は喜びを顔中いっぱいに漲らせていた。

「こうして悪道くんと面と向かって会話が出来ているのも小波くんのお陰でやんす」

「まぁ、それもそうだよな。普通に考えれば俺たちと浩平はずっと相容れぬ仲だったんだもんな」

 小波球太が居たからこそ、歪んだ野球をして来た悪道浩平に心の変化が見られ、三人の間にあった大きな壁が徐々に崩れ始め、やがては矢部と星の打撃練習の特訓まで付き合ってくれるようになって行った。

 星と矢部は、素直に小波球太に感謝している。しかし、それを直接本人に向けて気持ちを述べた事は一回も無かった。

「明日の試合が終わったら、ちゃんと小波の野郎に礼でも言うとするか」

「そうでやんすね。それは賛成でやんす」

「おっしゃーーッ!! そうなると明日は絶対に勝って優勝だ!! そして必ず『モテモテライフ』を実現させてやろうぜ!!」

「おお……。星くんが気合で燃えてるでやんす」

「当たり前だッ!! はるかさんに『あんなチビの彼氏』が出来てしまった今、俺は直ぐにでも新しい出会いを求め無ければならねェんだ!! なんて言ったって、高校生活も残り僅かなんだからな!!」

 さて、帰ろうとするか。

 二人は食べ終わったアイスキャンディーの空袋をゴミ箱に捨てて家路に着こうと足を進めた、その時だった。

「——ッ!?」

 星の様子が少しばかり可笑しかった。

 何か嫌な予感!?

 不意に水を浴びせられたような悪寒が全身を走り抜ける感覚に陥り、恐る恐る嫌な予感がする方へと目線を向けて行くと——、

「あっ!! 『愛しのダーリン』( ・・・・・・・ )だべ!!」

ㅤ情熱的で、

 強烈的で、

 本能的な、

 今にも張り裂けそうな喜びを隠しきれずに星の顔を見かけた『ある一人の女の子』が歓喜の声を上げたのだ。

「げっ!! テメェは……」

 星が思わず絶句した、その声の主は。

 今風の茶色に染まった前髪が波の様にウェーブしているが、ただ一つだけ時代錯誤を感じざる負えない、何処か既視のある瓶底メガネを携えた女の子だった。

「お久しぶりだべ。オラは聖ジャスミン高校の矢部田亜希子だべ」

 右手を閉じ、星に向けてウインクをする。

 ゾゾッと、全身が悪寒で震え危うく肩に掛けているセカンドバッグを落としてしまうところだった。

「自己紹介なんぞ、どうでも良いッ!! その『愛しのダーリン』ってのは、一体何なんだよッ!!」

「実は……オラはあの時、星雄大くん、いや、ダーリンに恋をしてしまったべ」

 ポッと頬を赤く染め、もじもじと恥ずかしげに言う。

「えっ!?ㅤあの時、俺に……、恋をしただとぉ?? おい、このメガネ女!! あの時って一体いつの事を言ってんだよ!?」

 対照的にさーっと、青ざめる星。

「あら、もう忘れただべ? オラは忘れもしねえ。今年の春季大会の試合、星くんはオラの事をギュッと大切に抱き抱えてくれたべ」

「……はぁ!? 抱き抱えたとか、そんなの知らねェよ!!」

 と、言いつつも春季大会の聖ジャスミン高校との試合を思い返してみる。

 そんな事は無いはずだ

 そんな事があってたまるか。

 星は記憶を探る。深く、深く。

ㅤ思い違いであってくれ。頼む。

 懇願、虚しく。星の期待を打ち砕くかのように記憶の隅にあった。

 矢部田の言っている『抱き抱えられた』と言う言葉に少し語弊であるが、バランスを崩して倒れそうになった矢部田の腕を掴んで支えた事は事実だった。

「……あ」

 確かにそんな事があった事を思い出すものの、その事実を無かったことにしたいと否定すべく星はただひたすらに首を横に振った。

「悪いけど、そんなメルヘンチックな出来事なんぞ、俺の記憶には一切ねェ!! テメェの勘違いかなんかじゃねェのか!?」

「オラ、男の子にあんなに優しく抱き抱えられたのは十七年間生きて来て生まれて初めてだったべ。星くんになら、その……、オラは抱かれても良いと心の底から思ったべ」

「——ひッ!! ちょっと待ってくれよ!! 抱かれても良いって!! おいッ!! まさか……冗談だろ!?」

「オラ、冗談なんか言わんべ」

 本心だと、顔つきで分かり更に血の気が引いて青ざめていく。

「わー。良かったでやんすね!! 星くん。新しい出会いを求めてた矢先に念願の彼女が出来たでやんすよ」

 感情が何一つ込められていない棒読みで矢部はパチパチと二人の仲を祝福でもするかのように拍手を送る。

 矢部と矢部田。

 見間違える程に瓜二つの顔が、星の苛立ちを更に煽り立てる。

「このクソメガネ、テメェなァ!? その同じ顔で、この矢部田と『似たような顔』で、ふざけた事言ってんじゃねェェェェェェェェ!!」

 ——、ダッ!!

 その場から逃げ出して、一目散に走り去る星。

「待つべ!! 愛しのダーリン!!」

 星の優しさに触れて恋に落ちた純情乙女を貫き通している矢部田は、愛しのダーリンを決して逃しはしない。

 逃げ出した星を追いかけるべく全力疾走で走り出した矢部田であった。

 

 

 

 

 

 

 早川あおいは未だ学校に残っていた。

 世間は夏休みと言う事で、夕暮れ時の校舎には影一つ無く、勿論、グラウンドにも人の姿が無く静かだった。

 日中の暑さを少し含んだ微風が、優しく頬を撫で、黄緑色のお下げ髪が濡れる。

 ただ、表情は暗い。

 試合に勝った嬉しさが全く無いという訳では無いのだが、それ以上に小波球太のやろうとしている事に対して感情を噛み砕くのにも戸惑っている様子だ。

「どうすればいいんだろう……」

 小波球太と加藤理香の会話を聞く限り、小波球太は『もう長くは投げれない』と自ら口にしていた。

 恐らく、身体の何処かに『異変』を感じてるのに違いない。それも『プロ野球選手になると言う夢』を諦めてしまう程。

 止めるべきなのか、止めないべきなのか。

 何が正解で、何が不正解なのか。

 為すべき事を模索するものの、また悩まされるのには変わらない。

 ただ、悩みの中でも嬉しいと思う事があった。

 きらめき高校戦との試合、リリーフ登板した矢先に体調不良で倒れて医務室に運ばれ、試合後に小波球太と球場から二人で帰っている時に聞きそびれていた小波球太の『夢』の事だ。

 どんなプロ野球選手になりたいか、早川あおいがなりたい野球選手像と小波球太が語った野球選手像が全く同じだったのだ。

「球太くんとボクが目指す野球選手が同じだったなんて、ビックリしちゃったな」

 と、思わず頬を緩めてニヤけてしまう。

「……」

 そこではっきりと分かる。

(やっぱりボクは、球太くんの事が好きだ)

 でも、どこが?

(リトルリーグ時代に色眼鏡で見ずに接してくれたから? 確かに、その時から球太くんの事を意識し始めたけど……)

 ただ、それだけか?

ㅤいいや、他にもあるはず……。

(ボクが球太くんを好きな本当の理由って……いったい、なんだろう)

 

 

 

 

 

『さあ、此処で各球場の試合速報です。まずはヤクルト対阪神戦。今日の注目選手は、ヤクルトの二年目にして去年の新人王に選ばれた『一ノ瀬塔哉』と今年のルーキー『二宮瑞穂』バッテリーですね』

 と、テレビから流れてくる。プロ野球のナイター中継が始まり、時刻は十九時を過ぎていた。

『千葉ロッテは、ルーキーの『八雲紫音』のタイムリースリーベースで先制点を……』

 テレビの画面に目を向けていたのは、恋恋高校の三年生である海野浩太、毛利靖彦、古味刈孝敏、山吹亮平。

 二年生の赤坂紡、椎名繋、御影龍舞。そして一年生の早田翔太の八人は、パワフル商店街の『パワフルレストラン』に居た。

 店内を見渡せば、カウンター席にて『茶髪のボサボサ頭』がボソボソと山積みにされた課題に追われて文句を垂れ流していたり、その隣では宥めながら優雅にコーヒーを飲みながら読書に勤しむ友人の姿が見受けられたり、会社終わりの独り身のサラリーマンがガッツリと定食を頬張っている姿だったりと様々だった。

 明日の決勝戦に向けての激励会と今日の試合の反省会を行う目的でこの『パワフルレストラン』に訪れた八人だったが、入店してから無言であり屯っているテーブル席の空気はとても異質であり、かなり重めである。

 百六十キロを超えるストレートを放り投げた絶対的エースである太郎丸龍聖と名島一誠率いる山の宮高校相手を主将である小波球太たった一人のお陰で勝つ事が出来た試合に、全く手も足も出ずに悔しいと思いをしているのは星や矢部以外にも居たようだ。

 春の大会、山の宮高校との試合では太郎丸龍聖に『完全試合』で負けている。

 あの試合は誰一人としてヒットを打つ事も出来なかった。

 そして、今日の試合も小波球太のホームランのみで他はノーヒット。

 振り返れば、此処まで来れたのも全ては小波球太がきっかけで勝利に繋がったのではなかっただろうか。

 返って足で纏いになっているのではないだろうかと、決勝戦の相手、名門あかつき大付属高校との試合を前に七人の不安は自信の無さへと変わっていた。

「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」

 と、重たい空気が漂うテーブル席に大学生と見受けられるウェイトレス姿のアルバイト店員がトコトコとやって来た。

 一言で美女。

 血管が浮くような細い腕と脚はすらっと長く、全身がキュッと細く、茶髪のセミロングパーマ、白く透き通った艶かしいまでに美しい顔立ちでニコリと笑みを浮かべている。

 もしこの場に星が居て、このウェイトレス姿のアルバイト店員さんを見れば大発狂するのでは無いかとその場にいる八人全員が思うと重たい空気は自然と無くなっていた。

 それぞれが慌てて注文を頼む。ソフトドリンクと全員で軽く食べれるポテトフライを注文すると「ご注文ありがとうございます」と笑顔でカウンターの奥へと消えていく。

 雰囲気が解れ始め、頼んだポテトフライを摘みながら、激励会や反省会とは掛け離れた世間話に話がシフトしていた。

 あれやこれやと和気藹々としていた八人だったが、話はマネージャーの七瀬はるかの彼氏が球八高校の矢中智紀だと言う話題に切り替わる。

「それにしてもビックリしたッス。はるか先輩が球八高校の矢中智紀さんと付き合ってただなんて」

 と、話を切り出した赤坂が、海野に向けて質問を投げる。

「そう言えば、海野先輩はソフト部の高木先輩とは今どんな感じなんッスか?」

「——ぶぶッ!!」

 海野は、思いもしなかった爆弾の投下に危うく口に含んでいた紅茶を吐きかける。

「あれれ? ちょっと何スか、その反応。もしかしていい感じだったりするんッスか?」

 赤坂は海野の今の反応に嫌味すら感じるほどの悪戯な笑みを浮かべていた。

「何故、お前がその事を知ってるんだ!?」

 と、海野は驚愕する。

「赤坂だけじゃなく、ほぼ全員が知ってる事だと思うぞ」

「ああ、前に矢部と星が部室で話してたな」

「海野が高木にアプローチを仕掛けていくとかどうたらこうたらってな」

 と、山吹と毛利と古味刈はポテトフライを摘みながら言う。三人とも顔がにやけていた。

「……」

 椎名は無言で興味ないフリをして耳を傾けながらオレンジジュースを一口入れる。

「俺っちも気になります!」

 と、御影が興味津々と身を乗りだして海野を見つめる。

 自然と赤くなる顔。

 七人の視線は海野に釘付けだ。

「あれから少しは発展したんスか?」

「まぁ、ある程度は……」

「ある程度? って、どのくらいッス?」

「ある程度はある程度だ」

「それじゃ分からないッスよ。海野先輩が口を割らないなら高木先輩本人に直々に聞いてみるしかないッスよね」

「——ッ!! 分かった、分かった!! 言うよ!! 付き合ってるいるよ!! 高木と!!」

 穴があったら入りたいと全身が燃えるような恥ずかしさを振り切って海野が言う。

「ふぅーーー!! おめでとうッス!! 星先輩が聞いたら怒号が飛び交うッスね!!」

「頼むからあまり広めないでくれよ……。知っているのは誰も居なかったんだから」

「って事はもちろん、明日の試合は観に来てくれるんスよね?」

「そりゃ来るさ。決勝戦だし、それに高木は早川とはリトルリーグ時代からの幼馴染なんだからな。甲子園を決める試合だし応援には来るだろう」

「じゃ、是が非でも『小波先輩より』活躍して良い所見せないと彼氏らしいアピールは出来ないッスね!! それも猪狩守さん相手だと、ハードル高くなりそうッスね」

「ぐっ……」

 言葉に詰まらせる海野。

 赤坂のニヤニヤは止まらなかった。

「それじゃ乾杯しましょうか!! 海野先輩の幸せを祝して、明日の試合に向けて……」

ㅤと、海野弄りに満足したのか赤坂が何も無かったことのように仕切り出し、バッと立ち上がり音頭を取る。

 海野は赤面を隠すし俯きながらもソフトドリンクのグラスを上げ、他の六人も笑いながら赤坂に続いて声を合わせた。

「乾杯ッ!!」

 

 

 

 

「乾杯、じゃねェんだよ!! おい、彰正。何処かのオッサン達がレストランを居酒屋と勘違いして騒いでんじゃねェだろうな!?」

 声がする方からやや離れたカウンター席に座り、びっしり積まれた参考書を必死にノートに書き殴りながら茶髪のボサボサ頭の青年が不機嫌そうに呟いた。

「浩輔。残念ながら高校生の様だぞ。制服からして恋恋高校みたいだな」

「恋恋高校?? まだ決勝戦も終わってねェのに随分と余裕なモンだな。こっちはこっちで大忙しだって言うのによ!!」

 フン、と鼻を鳴らす。

「小波とか早川の姿が見当たらないから、他の部員達だろう」

「小波は兎も角、早川って確か尻が大きめで胸が残念系女子だろ? もうちょっと胸が大きければ、全体的に見てバランスが良いピッチャーだったよな?」

「お前は一体、どんな覚え方しているんだ。それより、浩輔。課題は終わりそうか?」

 カウンター席に座っていたのは、イレブン工科大学に通う大学一年生の目良浩輔と館野彰正の二人だった。

「そんなの終わる訳がねェだろう!! なんなんだよ、この尋常じゃない量はッ!! あの『関原』のクソ野郎ッ!! 俺に赤点者に渡すイエローカード用のホルダーを渡しやがって!!」

 ドンッ!!

 机を勢い良く叩き、目良は怒る。

「今回ばかりは、お前が授業をサボって赤点を取ったのが悪いんだ。それにウチの大学は文武両道がモットーって事はお前も知ってるだろ。それに関原教授の事を呼び捨てにするのは止めておけ」

「そんなの俺の知ったこっちゃねェよ、このクソ真面目。俺の大学生初の夏休みが、こんな勉強漬けになるなんて笑えねェんだよ……」

「頑張る事だな。それに浩輔、千波と約束したんだろ? 今年は二人で海に行くって」

「ああ、そうだ。海に行って可愛い水着姿の女子達に囲まれてチヤホヤされたい……ただ、それだけなんだよ!!」

 ガックリと項垂れる。

 現実はそんなには甘くは無く。毎日、こうして先生から出される山のような課題を学校以外のプライベートを削ってまでやり終わらなければ『留年』と言う悲しい事実を突きつけられている目良浩輔なのだ。

「そんなくだらない事を言っていると、千波の奴がまたキレるぞ。この間は着替えている所を覗いて顔面に二発喰らっただろ」

「あのな、良いか? 彰正。毎度毎回、鉄拳制裁を浴びる身にもなってくれよ。こんなに暴力を振るわれる彼氏っていねェぞ?」

 ご存知の通り。高柳春海の実姉である高柳千波は目良浩輔と付き合っている。

 ナンパ癖で性格難の目良ではあるが、交際して一年が経過していても二人の仲は睦まじくそこそこ上手くやっている様だ。

「あら? そうかしら。よく考えてみたら浩輔くんの方が悪いとは思うけど?」

「げっ!!」

 二人の前にウェイトレス姿で現れたのは茶髪のセミロング髪の美女、この『パワフルレストラン』を営む高柳家の長女の高柳千波だった。

「浩輔くん。早く課題終わらせないといつまで経っても海には行けないわよ? 折角、新しい水着買ったんだもん!! 私だって楽しみにしてるんだからね!!」

「……ッ」

 千波の言葉に目良は『水着』と言う単語に反応しピタッと身体を固まると、視線を綺麗な顔立ちの顔からモデルように色白くて細い足元へと舐めるように上から下へと動かしていた。

「ジロジロ見ないでよ。ちゃんと聞いてるの? 浩輔くん!!」

 無言になった目良に声を掛ける千波。

「ん、ああ。ちゃんと聞いてるよ。極小のマイクロビキニで海に行っても別に平気だろ」

「ば、バカじゃないの!? そ、そそ、そそそ、そ、そんな際どい水着なんて着る訳ないでしょ!! 一体、何を聞いてたのよ!!」

「あん? 何を聞いてたって、今年の夏は極小マイクロビキニで攻めちゃおうかな〜って千波が今言ったんだろ? 別に『極小』でも良いんだが、俺的にはもう少し攻めに転じた方が——ぐぶっ!!」

 パチンッ、と一発目。

 お馴染みの千波の掌が綺麗に決まり目良の頬をクリーンヒットさせる。

「痛ッ……何しやがる!!」

「もう本ッ当にバカなんじゃないの!! そんなエッチな水着を着るなら浩輔くんの前以外(・・・・・・・・)では着たくないわよ!! あっ……」

 千波は無我夢中で言い放った。

 言い放った後に気が付いた。

 とんでもない事を口にした事を。

「……ッ!!」

 目良は呆然と口を開けたまま、今にも爆発しそうになっている千波の真っ赤な顔を見つめていた。

 その様子に釣られる目良も負けじと顔を赤らめながら、ポツリと溢す。

「バ、バカやろう……。俺だってお前の際どい水着姿なんか他の野郎共に見せたくねェに決まってんだろうが……」

 お互いにお互いの顔を背け、なんとも言えない気不味い空間になる。

 そんな中、優雅にコーヒーを飲みながら館野彰正は「惚気、ご馳走様」と心の中でそっと呟くのであった。

 

 

 

 完全に陽が落ちて、インクをぶち撒けたように夜が黒く染まる。

 時間帯、二十時を過ぎた頃。

 小波球太は日課である特訓の為、隣の西満涙寺に住む六道聖の元へ訪れていた。

「明日勝てば甲子園なのだな」

 と、紫髪に大きい赤い瞳で六道聖は感慨深い表情で言った。

「ああ。今、思えば長かったけどな」

「それにしても、ノーヒットノーラン達成とは恐れいるな。もう少しで完全試合だったのに」

「完全試合もノーヒットノーランなんて、ただの記録だよ。それよりも成さなきゃいけない大事なモノがあるからな」

「……そうか」

 小波球太は、縁側に腰を下ろして夜空をジッと見つめていた。

 月明かりに照らされ、目を凝らせば雲ひとつ流れない星がキラキラと輝きを放つ、気持ちの良い空をしていた。

「そうだ、球太。明日の決勝戦は応援に行くぞ」

「別に来なくても良いんだぞ?」

「いや、本当は今日の試合も観に行くはずだったのだが……少し用事が出来てしまって行けなかったからな」

「ふーん。用事、ね」

 チラッと目線をズラす。

 客間として使っている和室のテーブルに置かれた大きなビニール袋を目にする。

 そこに頑張市のパワフル商店街に古くからの老舗名店の『パワ堂』と印刷されている袋の中に溢れそうに入っているのは、聖が大好物の和菓子であるきんつばだった。

 本日限りの『パワ堂』の特売セールを行うと、近所の人が話しているのを聞いてしまった聖は断腸の思いで先輩達と野球観戦よりきんつばに走ってしまったらしい。

 小波の視線に気付いた聖は「コホン」とワザと咳払いをして袋を隠す。

「それでどうなのだ? 猪狩守率いるあかつき大附属に勝てそうか?」

「さぁ、どうだろうな。戦力差的に厳しいかもしれない。けど、此処まで来たのならやるしかねえさ」

 右肩に目を向けながら小波は不安を隠して平然的に言う。

 右肘の時と同じ『違和感』を感じていた。

 今日の試合、終盤の投球で四球でランナーを出した時から肩に激痛が走り未だ収まって居らず、今でも少し震えてるくらいだ。

 肘を壊した時の痛みほどでは無いが、明日の試合にはかなりの影響が出るのは確実で、それでも小波はマウンドに上がる気でいる。

 その事を聖は知らない。

 小波は、誰にも言うつもりもない。

「なら、頑張るのみだ。今の球太には『三種のストレート』と『例の球』があるのだからな」

「ああ、そうだな。明日、勝って甲子園にアイツらを連れて行くさ。……必ずな」

 

 

 プルルルルル。

 

ㅤプルルルルル。

 

「ん?」

 突然、小波のズボンに入れていた携帯電話が揺れる。電話が掛かってきた様だ。

 面倒くさそうに取り出してディスプレイを見て相手の名前を確認すると——思わず目を疑う人物からだった。

「猪狩……?」

 そう、明日の試合の対戦相手であり、中学時代に共に高みを目指したチームメイトであり、リトルリーグ時代からのライバルでもあるあかつき大附属の猪狩守から初めての電話だった。

「もしもし……」

 と、小波は恐る恐る電話を取る。

『やぁ、僕だが』

 猪狩の第一声を聞き、思わず眉を顰めてしまった小波である。

「こんな時間に何のようだ?」

『今日の試合結果を四条から聞いてね。残念ながら明日の朝刊は僕が一面を飾る事になりそうだね。ははははっ』

「お前は、相変わらず随分と目出度いヤツだな。わざわざそんな事を言いに電話してきたのか? それなら電話を切るぞ」

『待て待て。まぁ凡人の君には分からないだろうね。天才故の悩みだよ、全く』

「……あのな。用件はそれだけか?」

 いい加減にして欲しい。と、小波が呆れて電話を切ろうとした時だった。

 雰囲気がガラリと変わる。

 向こう側から聞こえて来た静かな低音の品位のある声で猪狩が尋ねて来た。

『小波、君の怪我の調子はどうなんだい?』

「ああ、お陰様で『肘』の調子なら絶好調だぜ」

『いいや、僕が聞いているのは『右肩』の方だが?」

「……」

 ピタリ、と小波は反応する。

 そして、誤魔化した。

「何言ってんだ、忘れたのか? 俺が怪我したのは右肘だ」

「この前、進を事故から守った時だ。君は何処を強打した?」

「……」

 猪狩は知っている。

 あの日、猪狩進を庇った時にアスファルトに身体、それも右肩を強く打ち付けた事を知っている様だった。

『進から話を聞いたよ。君の右肩付近から骨が軋む音がしたと言っていた』

「……」

『明日の試合は、君は出場しないでくれ』

「……」

 小波は無言だった。

 後を振り返ってみると、聖は首を傾げて此方を見つめながら買ってきたきんつばを一つ口にしていた所だった。

『君はまた同じ過ちを繰り返すつもりか。右肘の次に右肩を壊したら、君の野球人生が終わってしまうぞ』

 これは優しさだった。

 友として、好敵手として小波球太を認めている猪狩守の優しさだった。

 これ以上、投球を続ければ一体どうなるのか位は分かっている。

 だからこそ止めたい。

 中学時代と同じ思いをさせたくない。

 猪狩の想いは小波にも伝わっている。

 しかし、もう止まれない。

「何言ってんだ、猪狩。今日の試合結果を知ってるんだろ? 全然、問題はねえよ。それに、明日はお前たちを捻じ伏せてやるから首を洗って待ってろよな」

『小波——』

 ガチャ。

 猪狩の言葉を遮り電話を切る。

「ん? もう電話は終わったのか?」

 聖は摘んでいたきんつばを食べ終える。

ㅤ急須で入れたお茶で流し込み小波の傍に近寄ろうと客間から縁側まで歩き出したが、その脚がピタリと止まった。

「球太……?」

 心配顔で聖が小波の名前を呼ぶ。

 思わず脚を止めたのは、聖が今まで見たことの無い。人を寄せ付けないような悲しげな表情を浮かべていた小波が一瞬目に見えたからだ。

「球太、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だ」

 と、何事も無かったかのようにニコッと笑みを浮かべ、小波と聖は最後の調整の為に日課の投げ込むを始めた。

 

 

 そして、物語はクライマックスを迎える。

 小波球太率いる恋恋高校と、

 あかつき大附属率いる猪狩守の試合。

 甲子園を決める決勝戦が、始まる。

 



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第62話 決勝戦 VS あかつき大附属

 七月三十一日。

 午前十一時。

 気温三十六度を超える猛暑日。

 毎年、この季節を迎えると日本全国を熱気の渦に巻き込む「夏の風物詩」でもある高校野球。

 高校球児が誰もが夢みる聖地、甲子園。

 その夢の切符を掴む為、恋恋高校とあかつき大附属がぶつかり合う頑張地方の甲子園予選大会の決勝戦が行われようとしていた。

 そんな試合を一目見ようと駆け付けるファンの人数は、三千人を超え、チケットも即日完売になり、チケットを求める人も少なくはなかった。

 前日に「完全試合」を達成した左腕・猪狩守と「ノーヒットノーラン」を達成させた右腕・小波球太の投げ合いは、野球ファンの中ではかなり注目されている。

 

『只今より。先攻・恋恋高校のスターティングメンバーの紹介です』

 超満員に埋め尽くされ試合開始を待つ地方球場。

 ウグイス嬢のアナウンスが鳴り響くと、立ち待ち歓声が湧き上がった。

『一番・センター 矢部くん』

『二番・ショート 赤坂くん』

『三番・キャッチャー 星くん』

『四番・ピッチャー 小波くん』

『五番・レフト 山吹くん』

『六番・セカンド 海野くん』

『七番・ライト 古味刈くん』

『八番・ファースト 京町くん』

『九番・サード 毛利くん』

 以上が、恋恋高校のスターティングメンバーとなり続いて。

『後攻・あかつき大附属のスターティングメンバーの紹介です』

 去年は山の宮高校が甲子園に出場を果たしたが、王者たる貫禄は未だ健在と言っても過言では無い。

『一番・ショートㅤ羊山くん」 

『二番・センター 牛澤くん』

『三番・キャッチャー 双菊くん』

『四番・ピッチャー 猪狩くん』

『五番・ファースト 蟹川くん』

『六番・ライト 獅子頭くん』

『七番・レフト 乙下くん』

『八番・サード 天秤くん』

『九番・セカンド 蠍崎くん』

 と、紹介が終わると更なる活気が球場全体を包み込んだ。

 

 

「凄い、歓声だな」

 人数分の声が重なり地鳴りがなるのでは無いかと思ってしまう割れんばかりの声援に驚きを隠せなかったのは、西満涙中学の二年生である六道聖だった。

 中学の野球の試合で何度か訪れた事のある地方球場だが、流石に中学野球でここまでの熱気に包まれた声援を受けたことは一回も無い為、若干圧倒されるのは当たり前なのかもしれない。

「いよいよ決勝戦が始まるね〜。今年は何処が甲子園に行くのかな〜」

 楽しみにしている感情とは思えない、のんびりした声で手にハンディタイプのビデオカメラを回しながら話す赤毛髪の女の子、六道聖の一つ上の先輩である明日未来だった。

「ねぇねぇ。光は恋恋高校とあかつき大附属のどっちが勝って甲子園に行くと思う?」

「……」

 隣の青年に明日未来が問いかける。

 同じ赤毛に顔立ち、ただ違うのは目の色と八重歯があるかないかの違いだけだけだ。

 明日未来の双子の兄である、明日光。

 昨日の山の宮と恋恋高校の準決勝の試合に引き続き、今日は私用で来れなくなった鈴本大輔の代わりに未来によって半ば強引で連れて来られて不機嫌そうな顔をしていた。

「……」

「無言じゃ分からないよ〜」

「……」

「それよりも未来先輩、一つ良いだろうか?」

 と、急に聖が切り出す。

「ん? ひじりん、どうかしたの〜?」

「何故、カメラをずっと私の方に向けて回しているのだ? 撮ると言うのなら普通はグラウンドの方ではないか?」

「ん? あ、このカメラの事? ちっ、ちっ、ちっ、分かってないな〜ひじりんは。可愛い後輩の可愛い姿をビデオカメラで収めると言うのは、先輩の指名の一つでもあるのだよ〜」

「なーー!?」

 顔を赤らめて叫び声を上げる聖。

「あははは、照れちゃって〜。ひじりん可愛いね〜」

「なーー!? わ、私の事など撮らなくていいから試合を撮ってくれ!!」

「もちろんだとも〜。キチンと撮るから安心したまえ〜。それにね、こうしてビデオカメラで撮ると言うのは中々無い機会だから『記念』になるんだよ〜。いつの日か見返す時が来て懐かしく思う時が来るものだしね。ほらほら光も〜」

 くるりと横を向き、明日光を捉える。

 灰色の瞳で未来を見つめたまま無表情でビデオカメラに収まっていた。

「……」

「いつか、光と同じグラウンドに立って甲子園を目指す日が来ると良いな〜」

 カメラを回して光を写しながら未来は言うが、光は短く切り返した。

「……そんな日は来ないよ」

「そんなのは未だ分からないでしょ? だって、私の『夢』は光と野球をやる事なんだもん」

「……僕は野球なんてやらないし、それに未来の夢はパン屋じゃなかったっけ?」

「あれ、そうだったかな〜? えへへ、忘れてちゃってたね〜」

「……」

「何にせよ、人は何かのきっかけで行動が変わるモノだよ〜。光だってもう一度、野球をする日が絶対来るかもしれないし〜。それでも私は、光と野球が出来るその時が来るのをずっと楽しみにしてるからね〜」

 と、未来はニコッと笑みを浮かべたままビデオカメラを光からグラウンドに向けた。

 

 

 

 

 

 

「さぁ、いよいよ始まるね」

「うん……。あぁ……、でも、ちょっと待って。どうしよう。私、全然関係ないけど緊張して来ちゃったよ」

 恋恋高校の応援席にて、男女の二人組が会話をしていた。

 その二人とは、小波球太とはリトルリーグからの幼馴染であるきらめき高校の高柳春海とパワフル高校の栗原舞だ。

「舞ちゃんがどうして緊張してるんだい?」

「だって、春海くん。この試合勝てば小波くんは甲子園に行く事になるんだよ!?」

「まぁ、決勝戦だしね」

「小波くん、リトルリーグの時からずっと言ってたじゃない。『甲子園に行って、プロ野球選手になる』って、それが念願の夢が叶うと思うとワクワクよりドキドキの方が勝っちゃうよ」

 未だ試合は始まっても居ないのに手に汗握る栗原舞。高柳春海はそんな栗原を見ながら笑う。

「あはは、大丈夫だよ。心配しなくとも甲子園に行けなかったとしても、球太は既にプロ野球選手になれるレベルだよ」

「行けなくても? 春海くんは、小波くんには甲子園に行って欲しく無いの?」

「いやいや、違うよ。寧ろ行って欲しいに決まってるし、優勝して欲しいとも思っているよ」

「うん」

「球太は、恋恋高校の皆は、辛い思いをこれまでに沢山して来たと思う。それでも誰一人欠ける事なく此処までやって来て、強敵相手に勝ち進んで来た。だから、球太には高校野球の頂点に立って堂々とプロに行って欲しいんだよ」

「うん、そうだね。でも、春海くんもプロに行くんだよね?」

「ああ、『目良先輩』を必ず神宮で胴上げさせて俺もプロに行くよ。欲を言うのなら球太と同じチームでプレイしたいなとは思ってるんだ」

「良いと思うよ!! 私も見てみたいな。小波くんと春海くんが『かっとびレッズ』以来の同じチームでプレイしてるのを見てみたい!!」

 眩しいような深い喜びを顔いっぱいに滲ませて手を叩く栗原舞。

 その表情を見て、高柳春海は思わず「ドキッ」と胸が高鳴り顔を赤く染める。

「その時が来たら、舞ちゃんには『一番近く』でずっと俺の事を見ていて欲しいと……思うんだ」

「え……? それってどう言う……?」

 と、栗原舞は高柳春海を見つめた。

 

 

 また、同じく恋恋高校の応援席の一番後ろの通路で一人の長い黒髪の青年がグランウドを睨みつけていた。

 星雄大と矢部明雄の中学時代の元チームメイト、極亜久高校のエースである悪道浩平も地方球場に訪れていた。

「チッ……。オレもどうかしてやがるな。こんなくだらねェ試合を観に来ちまうなんて焼きが回ってやがる」

 準々決勝のパワフル高校と恋恋高校の試合を観戦し、準決勝の山の宮高校との試合もこっそり観戦し、今日の決勝戦もしっかりと観に来てしまった自分自身に溜息を漏らす。

「ま、ツンデレってところだな」

 と、囁く声で目の前がやや暗くなった。

 屋根で出来た日陰に立っているのにも関わらず影がより濃くなる。

 悪道浩平の目の前に誰かが立っていた。

「あン!? 誰だッ!! テメェ!!」

 悪道浩平が見上げてしまうほどの長身長、その男は見知った男だった。

「滝本ォ……」

「やたら球場で会うな。俺とお前は」

 三日前に球場で出会した球八高校の滝本雄二だった。

「そんな事、知ったこっちゃねェ。偶然に決まってンだろうがよッ」

「俺にはお前が星と矢部の二人の事が心配で仕方が無いように見えるんだがな」

「……アァ? テメェ、ふざけたこと抜かしてンじゃねェぞ!? 俺はただ雑魚どもの負け試合を観に来てやってるだけだ。テメェには、関係ねェンだよ」

「そうか」

 と、短く返し不敵に笑う滝本だ。

 悪道は眉間にシワを寄せて睨みつける。

「テメェは、まだ『敗者の務め』だとか体の良い事を抜かすンじゃねェだろうな!? 負けて終わった高校野球に未練タラタラとは情けねェぜ」

「未練か……。未練ならあるさ。自分自身の甘さで招いたから今の俺は此処に居るんだからな」

 思い返す。

 あの試合、雨が降り注ぐ恋恋高校の試合で星の不意のセーフティバンドを拾ってファーストに向けて投げた時、自分の甘さから生まれたあの『余裕』さえなければ……と、滝本は未練を断ち切れずにいた。

「だから俺は『帝王大学』に行って自分を磨くと決めた。智紀の球を打つため、弱気自分を挫くためにな」

「オイ、帝王大学って言えば『大学野球』の中じゃ『弱小』のチームじゃねェか。ま、テメェみたいな逃げ腰にはお誂え向きって所だな」

「別に弱いチームでも構わん。強い相手と戦って自分を磨く、だからこそ燃えて来るんじゃないか?」

「チッ……。死んだ魚の目をして街の中を彷徨ってたヤツとは到底思えねェ台詞だな。知らねェ間に随分と人間らしい目をするようになったじゃねェか」

「ふっ、それはお互い様だ。てっきりお前は喧嘩慣れして潰れた拳の他に、指先に豆を作り潰すまで投げ込みする様な純粋な人間だとは思わなかったんだがな」

「——ッ!!」

 滝本の言葉に癇に障ったのか、悪道は露骨に嫌な顔をした。

「だからこそ、どうだ。悪道。俺と大学で共に『バッテリー』を組む気はないか?」

「はァ? 正気で言ってンのか? まさか、夏の暑さでいよいよ思考回路ごとぶっ壊れたンじゃねェだろうな?」

「ああ、俺は正気だ。それに、俺はお前の切り札、『ドライブ・ドロップ』に伸び代を感じている。それを武器にして一度は外れた道を歩んだ者同士、のし上がるのは面白いとは思わないか?」

 悪道浩平は、滝本を睨んだままだった。

 ピクリとも反応を示さず、滝本の言っている事は本心だと分かった。

「俺は、負けて野球を辞めた人間だ。そんなくだらねェ茶番に付き合うなんてゴメンだぜ」

「お前は、恋恋高校との試合で本来の野球の楽しさを初めて知った筈だ。大学野球で、本来の野球に触れるのも悪くないだろ?」

「……チッ」

 と、舌打ちを鳴らす。

 滝本雄二は冗談では無く本心を語っている。

 イライラを募らせた悪道浩平は、グラウンドに目を向けてベンチ前でストレッチをしている矢部と星を捉え、口元を少し緩めながら言う。

「ったく、面倒くせェな」

 

「頑張れ、あおい」

 恋恋高校の在籍生徒達が一ヶ所に集まった専用の席で紅花の濃染の深みのある真っ赤な紅——、紅の八潮の髪の女生徒が手を重ねて祈っていた。

 早川あおいの幼馴染にして、親友であるソフトボール部主将を務める高木幸子の姿だった。

 中学時代、野球部に入るものの周りから色眼鏡で見続けられ耐えられずに部を去る。その際、止めに入った早川あおいと勝負をして打ち負かす形で決着を着けてから疎遠になっていた。

 そして、恋恋高校に入学して直ぐの事、よく分からないメガネオタクと不良気取りの金髪、黒髪の癖毛頭と早川あおいの四人で『野球同好会』を発足し、グラウンドを巡って勝負をする事になったが、結果的に早川あおいのシンカー空振りの前に空振り三振に仕留められたのをきっかけに再び和解して以前の関係を取り戻した。

 恋恋高校のベンチで和かなに笑っている早川あおいを確認すると、高木幸子も思わず口角が吊り上がる。

 中学時代では、決して見られなかった親友の姿に嬉しくなったのだろう。ベンチに居るだけの見世物として扱われていて沈んだ顔をしている親友の姿は、そこには無かった。

「あの馬鹿、ちゃんと『約束』を守ってくれているんだね」

 その馬鹿とは、小波球太の事を示していた。

 グラウンドを巡って早川あおいと勝負し終わった時、小波球太と高木幸子は一つの約束を交わしていた。

『一つだけ約束しなさい!! あおいを、もうあんな辛い目に合わせないであげて!!』

『ああ、約束する』

 ただ、一つだけ早川ああいを辛い目に合わせてしまった大きな問題とも直面しりもしたが。

 それは昨年、世間を賑わせた早川あおいの女性選手としての出場問題の時も、小波球太はたった一人で署名活動を行い結果として出場を認められる事になったのも高木幸子との約束を守るための行動だったのでは無いかと、本人は思っていた。

「球太様は、優しい方ではありますが、『馬鹿』と言う汚ない言葉で球太様を示そうなんて聞き捨てなりませんわね」

 高木幸子の隣から声が聞こえる。

 煌めく金色に染まる髪、前髪が綺麗に揃っているパッツン髪の同じ三年生の女生徒である倉橋彩乃が言う。

「そう言えば倉橋は小波のことが好きなんだもんね。それは悪かったわ」

「——ッ!? た、高木さん!? 私がいつ球太様に好意を寄せていると!?」

「普段の接し方からみれば分かるわよ」

 倉橋彩乃は成績優秀であり兼ね備えられた容姿から他の生徒から人気が高く、また理事長の孫娘と言う絶対的な肩書きがあり学校内でも何にも臆せずに堂々たる立ち振る舞いをしているのだが、いざ小波球太を前にするとその立ち振る舞いはぐにゃくにゃと崩れる。

 例えば、小波が廊下を歩いているのが見えると空かさず物陰に隠れたり、小波が側にいると顔を赤らめて全力ダッシュでその場から立ち去ったり、テンパったり、ぎこちなかったりと様々な姿を目撃されている為、そう捉えられていても可笑しくは無い。

 だが、小波に好意を寄せているのは確かな事ではあるのだが想いを伝えられずに過ごしている。

「高木さんには関係なくてよ!! そう言う貴女こそ、海野浩太さんとは『恋仲』と言う『噂』を耳にしておりますが?」

 赤面した倉橋彩乃は、『反撃』に出る。

「——ッ!? ど、どうして『その事』を倉橋が知ってる訳ぇ!? それは海野と私しか知らないことよ!?」

「その様な反応……、『その事』と戯けていると言うのは、どうやら『噂』は本当の様みたいですわね」

「だから、どうして知っている訳!?」

「ああ、それでしたら。以前に、野球部の星さんと矢部さんが廊下で話しているのを耳にしましたので、私以外にも貴方達二人の関係を知っているのは多いと思われますが?」

「……。アイツらいつか殺す」

 高木幸子は、星と矢部の二人に向けて殺意の念を込めながら睨みつけていた。

 

 

 球場に居る人達以外にも今日の決勝戦が気になって居るモノ達も居た。

 

 山の宮高校の野球グラウンドの片隅に位置するビニールハウスに形取られた屋根付きのブルペンでは、太郎丸龍聖と名島一誠はプロ入りを目指す為に自主練習を行っていた。

 出入り口付近にパイプ椅子の上に、ラジオをほど良い音量で流しながら二人は投球練習に勤しんでいた。

「行くぞ、一誠。次はストレートだ」

「来い、龍聖」

 ズバァン!!

 渇いたミットの音が鳴る。ノビのあるストレートがキャッチャーミットへと収まった。

 昨日の試合で、軽く百球を超えるピッチングをしても落ちる事のなかった球威、上がっていく球速と『限界』を超えて更なる進化を遂げた太郎丸龍聖は今も腕を振り抜いていた。

 負けた悔しさは、二人には無く。プロ野球に挑む為に今は前を見据えている。

 

 

 

 

 

 もうすぐで試合が始まる。

 こんなに緊張感のある試合は随分と久しぶりにも思える。

 そう、猪狩守は心の中でこれから始まる試合を楽しみながらグローブを右手に填めて後ろを振り返る。

 そこには一つのユニフォームが映る。背番号「2」と刺繍されているユニフォームがベンチの椅子に立て掛けれていた。

 それは、猪狩進のモノだ。

 現在は、病院にて体の疲労を癒すべく入院していて試合には出れない。

 その事は、千石監督、マネージャーの四条、あかつき大附属全員が周知しているが外部には情報は漏れる事は決して無かった。

 猪狩守の意向により対戦相手のチームの士気が乱れるのを防ぐ為でもあり、騒ぎ立てようとしたマスコミは猪狩コンシェルンの圧力により捻じ伏せられている。

 しかし、猪狩守は決して心穏やかでは無い。

 理由は一つ。小波球太の『右肩』に対して疑念を抱いているからだ。

 交通事故から進を庇った際、アスファルトに強く打ち付けた衝撃で肩の骨が軋み嫌な音を聞いたと進本人から聞いていた。

 昨日の晩、小波球太に確認の電話を取るものの何もないと言う返事だけで曖昧なままだった。

(小波の『性格』からして怪我をしていてもヤツは必ずマウンドに上がるのは間違いない。それなりの強い『信念』があるのだろう。中学二年の時の全国大会のように『全国大会で優勝をする』と言っていた様に、今の小波にも成し遂げ無ければならないモノがあるんだろう)

 でも、それは此方も同じだ。

 今も病院で一人待つ弟の為に、甲子園への優勝旗を取り返す為に、猪狩守は全力を持って挑まなければならない。

 ベンチの前にズラっと並ぶあかつきナイン。

 猪狩守は試合が始まり目前にして、ナイン達に自分自身に向けて檄を飛ばす。

「後一つ。勝てば甲子園だ。王者、あかつきの名に掛けて優勝旗を取り返すぞ!!」

「おう!!」

 全員の声が一つの束となる。

「行くぞッ!!」

 あかつきナインは、ホームベースに向かって勢い良く駆け出した。

 

 

 

 

 

 そろそろ整列の時間になる。

 試合が始まるのはもうすぐだ。

 この試合に勝つ事が出来れば、念願の甲子園に初出場が果たせる。

 小波球太は、空に照りつける太陽を見つめてニコッと笑みを浮かべる。

 晴れ渡る空、絶好の野球日和だ。

「あれ? 星さん。元気が無い様に見えますが大丈夫ですか?」

 と、マネージャーの七瀬はるかがグッタリとしている星に向けて声を掛ける。

「ああ……、女神だ」

「え? 女神、ですか?」

「昨日は、試合後に『メガネ女』に散々追いかけ回された挙句、強制的にアドレス追加されて……、くっ。今のはるかさんは愛おしい天使の様に可愛い!!」

「はぁ……」

 困惑を隠せない七瀬はるかは、顔に戸惑いながらも心配してくれていた。

「星先輩、何かあったんスか?」

 と、面白コンテンツのアンテナで何かを感じ取り受信した赤坂がニヤリと忍び寄る。

「昨日、星くんに『可愛い彼女』が出来たでやんす。それもとびっきりの『美女』でやんす」

「えっ!? 星先輩にも彼女が出来たんスか!?」

 チラリ、と赤坂は海野に目を向けるが海野はビクッと身体を震わせ知らないフリをした。

「テメェ、クソメガネ!! 良い加減な事抜かしてるんじゃねェよ!!」

「まあまあ、星くん。落ち着くでやんす」

 ニンマリと笑うその顔に、昨日の走り迫ってくる矢部田の影がチラついた。

「うえ……。今日の試合はダメそうだぜ」

「星さん。大丈夫ですか?」

 優しさ、まるで女神とも思える七瀬が星の背中を撫でてくれた。

「は……はるかさん」

「彼女さんを大事にして上げて下さいね」

「——ッ!?」

 これ以上に無い星への精神的ダメージ。

 七瀬はるかの優しい言葉は星にとってはオーバーキルに等しいが、恋恋高校のベンチは笑いに包まれて緊張とは程遠いほどいつも通りの緩い雰囲気に包まれていた。

「……」

 だが、一人。笑みを見せずにぼうっと座り込む早川あおいがいた。

 あれから色々と悩んで考えたが結局、結論には辿り着けずにいた。

「毎回の事だが、星には参るよな。ま、いつも通りみたいだからいい事なんだけど」

ㅤそこに、いつも通りの表情、落ち着いた声で小波球太が声を掛けて来た。

「うん……。そうだね」

「なんだ? お前も元気ないのか? また風邪でも引いたんじゃないだろうな?」

「そんな事は、無いけど……」

「そっか。あまり無理するなよな」

 小波球太は昨日の山の宮との試合にて、加藤理香との会話を早川あおいに聞かれていた事は知らない。

 右肩の爆弾、野球人生が終わり、不吉な言葉達が頭の中で入り乱れていた。

 それでも小波球太は、平気で笑っている。

「さてと、そろそろ行くとするか」

 と、小波はベンチ前に歩き出す。

 

 よし、整列の準備だ。

 その前に一人一人に向けて

 先ずは、矢部くんからだ。

「矢部くん。君のおかげで『野球同好会』から始まったこの野球部が誕生して此処まで来る事が出来たよ。本当にありがとう」

「小波くん? 急にどうしたでやんすか?」

 ヘルメットを着用しながら矢部くんは頭にハテナマークを浮かべて首を傾げた。

 聞き返されても答えない。

 それで良い。恐らく『最後』になる。

 このチームのキャプテンとしてキャプテンらしい事をしてきたか分からないけど、一年生の春の部の設立から共に歩んで来た八人に向けて、俺の言いたいこと、言わせて貰うぜ。

「星。お前と矢部くんの夢の『モテモテライフ』ってヤツを叶えようぜ」

「ああ……。俺は『矢部田』なんかに追い回されるのは真っ平ゴメンだぜ!! 必ず美女たちに囲まれてモテまくってやる!!」

 星は、何かと聖ジャスミン高校の矢部田さんに気に入られるみたいだな。

「山吹。どうだ、俺と一緒に野球やってて良い夢は見れたか?」

「本音を言うなら、想像以上だったよ。甲子園に行って良い夢を見させてくれ」

 拳と拳を軽く合わせる。

「海野。悪いな、高校野球に無理矢理付き合わせちまう事になってさ。でも俺は楽しかったぜ」

「此方こそ、良い思い出が出来たさ。この最高のメンバーで甲子園に行って良い思い出を増やそうぜ」

 海野も山吹も高校野球をするつもりは無かったのに良く此処まで付き合ってくれた。

「毛利、古味刈。お前ら二人とも野球初心者だったのに、良く立派に成長してくれたよ。頑張ってくれてありがとう」

 頭を下げる。

 このチーム内で一番成長したのは、高校から野球を初めたこの二人だと断言できる。

 サッカーやバスケとは体の鍛え方も運動量も全然違う。それでも必死に食らいつき、泣き言も言わずに黙って付いてきてくれた。

「高校から始めた野球だけど、意外と楽しくて俺も毛利も大学でも野球やろうと決めてんだ」

「ああ、小波みたいな凄い選手になるのは無理だけど……、一応『夢』として追いかけるのは悪くねえだろ?」

 ああ、悪くない。

 いつか俺を超えてくると期待してるぞ。

「七瀬」

「はい!? 私もですか!?」

「体調が悪いのに無理してでも俺たちのサポートをしてくれて助かったよ。たまには自分の事も考えろよ? 支えてくれて、ありがとう」

「そ、そんな!? 私も、このチームの一員になれた気がして……嬉しいです!!」

 バカを言うなよ、七瀬。お前は野球部が出来た時から恋恋高校のチームメイトに決まっているだろう。

「……」

 そして、最後は早川だ。

「早川。お前の目指すプロ野球選手は、勇気や元気を与えられる選手になりたいって前に言ってたよな」

「うん」

「俺はなれると思うぜ。俺もお前から沢山の勇気を貰った。だから、その勇気を糧に甲子園に連れて行く。約束だ」

 ああ、そうさ。

 俺はとうの昔に腹を括ってんだ。

 野球を好きでいて良かったって、野球をやってて良かったって、そう思ってもらう為に俺はコイツらを必ず甲子園に連れて行くんだって。

 だから、猪狩。

 俺もこの戦いだけ譲れないんだ。

 右肩が、肘が、腕が全部がダメになったとしても甲子園に行くんだ。

「よしッ!! 行くぞ、皆!!」

「おう!!」

 俺たち恋恋ナインはホームベースを目が掛けて勢い良く駆け出した。

 

 

 

 最後の戦いが始まる。

 球審の合図と共に整列。

 猪狩と小波は、お互いの顔を見る。

 リトルリーグで出会って初めての好敵手になり、

 中学時代ではチームメイトになり、

 高校野球では再び好敵手となり、この高校野球で最初で最後の戦いが甲子園を決める決勝戦となった。

「悪いが、小波。この試合は勝たせて貰う」

 と、猪狩守は力ある眼差しで言う。

「こっちも譲れない。勝つのは俺たちだ」

 と、小波球太も負け時に言い返した。

 

 

 

 

 

『一回の表、恋恋高校の攻撃は。一番、センター矢部くん』

 ウグイス嬢の声で、矢部明雄は意気揚々とバッターボックスへと進んで行く。

 少し緊張を浮かべている矢部明雄に対して猪狩守は、笑っていた。

(恋恋高校のレベルは目に見ている。小波以外は大した選手が居ないのは火を見るよりも明らかなのは間違いない)

「プレイ!!」

 球審の合図で、試合が始まった。

 一球目。

 ズバァァァァン!!

 猪狩が放り込む洗礼のストレート、『ライジング・ショット』が双菊のミットへ放り込まれた。

「ストライクーーッ!!」

 百四十五キロの拳銃の弾丸のような高速横回転で浮き上がった速球に矢部は見送った。

 二球目のスライダーで空振りに取った後、三球目を『ライジング・ショット』で空振りの三振に切り伏せた。

 続く二番の赤坂も緩いカーブを引っ掛けてショートゴロに打ち取られ、あっという間にツーアウトになり、打席には三番の星が右打席に入る。

「来やがれッ!! 猪狩!!」

 睨みつけて猪狩守に向けて威圧する。

 その威圧を吹き飛ばすストレートが、胸元のインハイに『ライジング・ショット』が捻じ込まれた。

「——ッ!!」

 思わず避ける星だが。

「ストライクーーッ!!」

 しかし、猪狩守のボールコントロールにより際どいストライクゾーンに投げ込まれる。

 続く、二球目。

 外側に逃げるように曲がるスライダーでバットの先端に引っ掛ける形でファーストゴロにより、全球ストライク、遊び球を放り投げる事なくスリーアウトチェンジとなった。

 

 一回表が終わり、裏のあかつき大附属の攻撃が始まる。

 先頭打者、一番の羊山が左打席に入る。

 初球。

 ストレートを放り投げ、見送りストライクを先行。

「ストライク!!」

 球速表示、百三十八キロ。

 小波球太の平均速度より『やや遅め』のストレートだった。

 続く二球目。真ん中のコースの低めへと落ちるフォークボールを放り投げるが、

 ——キィィィィン!!

 快音を響かせた羊山の打球は、勢いよくライトとセンターの右中間を抜く長打となる。

 フェンスに当たりクッションボールを古味刈が拾うが、走力『A』の俊足を飛ばしてランナーは悠々と三塁まで到達していた。

「……」

 いきなりのピンチを招く恋恋高校。

 先制点が欲しいあかつき大附属の千石監督が二番打者の牛澤と三塁ランナーの羊山にサインを出す。——スクイズだ。

「毛利ッ!! 京町!! 前に出ろ!! 気合入れて死守しろよ!!」

 スクイズを警戒し、星が二人に前進守備をさせる。

 小波と星は、サインを決める。

 コクリと短く頷き、一球目。セットポジションから小波球太は低めのストレートを放り投げた。

「ストライクーーッ!!」

 一瞬、スクイズの構えを見せたが直ぐにバットを引き、ランナーも走る素振りすら見せたなかった。

 二球目。

 再びストレートを放り投げるようと、脚を上げた瞬間だった。

「は、走った!!」

 羊山はホームにへとスタートを切り、毛利が声を上げる。

 小波球太は、ボールを放り投げる。

 コースはアウトコースの高め。球種は『三種のストレート』の『スリーフィンガー・ファストボール』だった。

 凶暴な変化を見せる三本指で放り込む『スリーフィンガー・ファストボール』を辛うじてバットに当てた牛澤だったが、

ㅤコツン。

 打球は小さく低い小フライとなった。

「——ッ!!」

 中間地点に辿り着いた羊山は急ストップを掛けて見守る。

 落ちたらホームへ、取られたら三塁へと引き返さなければならない。

 一瞬の迷いが命取りとなる。

 しかし、恋恋高校の一塁の京町、三塁の毛利の反応は遅れている為、羊山は思い切ってホームへと脚を進める。

「羊山、戻れ!!」

 すると、三塁のあかつき大附属のベンチから猪狩守が大声を上げた。

 羊山は思わず目を疑った。

 小フライに打ち上がった打球をピッチャーの小波がダイビングしてグローブにキャッチしていたのだ。

「星!!」

 滑り込みうつ伏せの小波は、目の前に立つ星にグラブトスをしてボールを渡す。

「ナイスだぜ、小波!!」

 受け取ったボールを三塁カバーに入った赤坂に送球して、ダブルプレー成立となりいきなりのピンチを切り抜けた。

「ワァァァァァーーッ!!」

 見事なスーパープレーで湧き上がる歓声。

 土に塗れたユニフォームを払い、小波球太は周りを見渡しながら人差し指と小指を立てた。

「ツーアウト!! 締まって行こうぜ!!」

 

 

「あの子……。また無茶なんかして」

 小波の今のプレーを恋恋高校の監督を務める加藤理香は固唾を呑んで見守っていた。

 右肩に爆弾を抱えていて、それがいつどのタイミングで『選手生命を奪う』程の故障をしても可笑しくない状況なのにも関わらず、小波は自らダイビングキャッチをした状況に戸惑いを隠せない様子。

 だが、この三年間の付き合いの中で小波球太と言う人間性は重々承知している加藤理香ではあるが、出来れば選手生命を奪いたくないと強く思っているのも事実だった。

「球太くんは、それでも無理をする人です」

「早川さん……、あなた」

 加藤理香の横に早川あおいが立つ。

「ボク達が止める言葉を言おうとも、球太くんは止まらない……。言う事なんて聞かずにボク達を甲子園に連れて行く為に無茶をする筈です」

 そう早川あおいが言うと、丁度、小波が三番打者の双菊に向けてストレートを放り投げた。

 球速は、百三十五キロのストレート。

 二人は顔を見合わせる。不安を覚えたそんな表情をしていた。

 

 

 決勝戦と言う事もあり、殺到した観客達の為に外野スタンドも開放している地方球場。

 そこにも小波達と戦ったモノ達も紛れ込んでいた。

「やっぱり、マスク姿もカッコいいべ。オラの愛しのダーリン」

 見惚れながら、瓶底眼鏡の女子——、聖ジャスミン学園の矢部田亜希子の姿があった。

「えっと……『愛しのダーリン』? って言うのは一体、誰の事を言っているんだイ?」

 と、ハーフ顔が矢部田を見る。

 百九十センチ程のスラリとしたモデル体系の短髪の男子生徒、リーアム楠・貫人は首を傾げながら問う。

「星雄大。恋恋高校の捕手、だそうよ」

 と、清潔感溢れる青い髪に眼鏡姿の女子生徒である美藤千尋が教える。

「そうなんダ。いつの間にか二……通りで矢部田さんが生き生きしてると思ったヨ」

 あははは、と笑うリーアム楠のその後ろには、日傘を刺した艶やかな金色に染まる髪を撫でている美女の八宝乙女ともう一人。

 紫色の瞳、褐色の肌に灰色でボーイッシュな髪型が特徴的とも言える聖ジャスミン学園の三年生である太刀川広巳の姿があった。

ㅤしかし、太刀川の左肩には包帯が巻かれていた。理由は一つ。春季大会の恋恋高校との試合後、太刀川広巳は日頃のオーバーワークが祟り負担が掛かり、故障寸前まで痛めていた左肩の"インピンジメント症候群"の治療の為に包帯を巻いているのだ。

「それにしても今日の小波球太さんの調子は絶不調の様子ね。ストレートのスピードもイマイチ、と言った所かしら」

 八宝乙女は残念そうに言葉を溢すが、隣の太刀川広巳は険しい表情を浮かべている。

 小波球太は三本指から繰り出す『スリーフィンガー・ファストボール』を放り投げて簡単に打ち取り、一回の裏のあかつき大附属の攻撃が終わった。

 恋恋高校のベンチに引き返す小波球太の姿を見た太刀川広巳はポツリと、

「もしかして……」

 と、誰にも聞こえない独り言を呟いた。

 



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第63話 右肩の爆弾

 チリチリと肌を焦がす日差しはやや強め。

 溢れる人集りで賑わいを見せる地方球場で行われている決勝戦。

 スコアは、〇対〇。

 両チーム共、三者凡退で一回を終え二回表の恋恋高校の攻撃が始まる。

『四番、ピッチャー 小波くん』

 ギュッとグリップを強く握り締め、キッと目付きを鋭くし、周りの音が一瞬にして遮断される。『超集中』で集中力を高めた小波球太は右のバッターボックスに立って猪狩守を見据えた。

 猪狩守は、目の前でバットを握り此方を見る小波に対して自然と口角が上がっていた。

ㅤ公式戦での戦いは、リトルリーグ以来。

 待ち望んでいた戦いに思わず楽しみと懐かしさが込み上げて来る。

 それに、先程のチャンスから一転しダブルプレーで阻まれた見事なファインプレーを目の前で見せつけられてしまっては更に負けては居られない、と胸の奥でメラメラと燃え上がってくる闘士が黙っては居られなかった。

(小波。君は変わっていないな。どんな時も全力で、どんな相手でも怯まずに挑み続けようとするその姿はリトルリーグの時から何一つ変わってない)

 そんな相手だからこそ、

 そんな好敵手だからこそ自分の持てる全力をぶつけて捻じ伏せたい。

 猪狩守はスッと左手を前へと伸ばし、ストレートの握りを小波に見せつけた。

「——ッ!!」

 これが意味するのは、この打席に投げる球は全てストレート——、猪狩守の最も自信のある球、『ライジング・ショット』だ。

 

 

「おお!? これは見ものだな。どうやら猪狩は小波に対してストレート一本で勝負を挑む気だぜ」

 楽しみだと言わんばかりにニヤリと笑みを浮かべた青年は、前のめりになりグラウンドを一点に見つめながら言う。

 グラウンドの正面、バックネットの後方の二階席の座席で横一列に並び試合観戦している『高校生四人組』が居た。

「猪狩くんの『ライジング・ショット』は高速横回転で放つ浮き上がるストレート。いくら『超集中』モードの小波くんが相手と言えど、そう簡単には彼の球の攻略をするのは難しいだろうね」

 そう話す彼は、高校生の制服を身に纏っては居るものの中学生の様な童顔であり、また身長は周りと比べるとかなり低く少年の名前は、球八高校のエースであり早川あおいや高木幸子の幼馴染でもあり、また恋恋高校のマネージャーを務める七瀬はるかの彼氏でもある矢中智紀だった。

「って言ってもな、智紀。猪狩は『ライジング・ショット』一本で投げるって堂々と宣言してるだぜ? どう考えても小波はただ来る球を打てば良いってだけじゃね?」

ㅤ前のめりになりがら試合を見ていた塚口遊助が当たり前のように言う。

「お前は何バカな事を言ってやがるんだよ。『浮き上がる球』を打つのはそう簡単じゃねえだろ? 大体、遊助は智紀の『フォール・バイ・アップ』どころかアンダースローからの普通のストレートさえ真面に打てなかったじゃねえかよ」

 と、ニヤリと意地悪く笑うのは、同じく球八高校の中野渡恒夫だった。

「ぐっ……。うるせえぞ、ツネ。お、俺と智紀のアンダースローとじゃ、ただ相性が悪いんだけだ。それは仕方ねえ事なんだよ!!」

ㅤ我ながら見苦しい言い訳だ、と塚口遊助は悲観してガクリと項垂れる。

ㅤその横で、一人の女子生徒が聞き耳を立てずにジッと険しい顔つきでノートに何かメモ的な文字をシャープペンシルで書いていた手を急にピタリと止めると静かにグラウンドを眺めていた。

「どうかしたのか?ㅤ神島」

「……、」

「おい、無視するなってーの!!」

ㅤ塚口遊助の問いかけに半ば無視する様に無言のまま視線をズラす事なく見続けているのは球八高校のマネージャーを務める神島巫祈。

ㅤ相手選手の『弾道』、『ミート』、『パワー』、『走力』、『肩力』、『守備力』、『エラー回避』などと言った基本的能力に加えて得意・不得意なコースや球種の分析から得られるデータを取集する事に最も秀でている『目』を持つ神島巫祈だけに、先日の試合で『怪童』と言う『超特殊能力』を開花させてノーヒットノーランを達成させた小波球太の今日の試合の投球内容に違和感と疑問を抱いている様子だった。

「どうも可笑しいのよね。本調子とは程遠い絶不調だとしても、小波くんの本来の潜在能力から見てストレートのスピードが『百三十キロ代』なのは、まず有り得ない。それに加えて、初回の羊山くんのあの辺りも本来なら平凡な外野フライに打ち取れた球だったのに長打になるなんて……」

ㅤいや、しかし、まさか、と口元に手を当てながらブツブツと独り言を呟き始めた神島巫祈。

 その様子を矢中、塚口、中野渡の三人はお互いに顔を見合わせて首を傾げる。

「おーい、神島さーん? もしもーし。聞こえておりますでしょうかーーーー!?」

「辞めとけ遊助。こうなっちまったら俺たちの言葉なんて神島の耳にはもう何も入らねえよ」

 何度目だろう。こんな風景を部活内では見飽きた光景だと塚口と中野渡の二人は苦笑いを浮かべる。

ㅤだが、矢中智紀は球場内をぐるりと見渡していた。まるで誰かを探すように。

 数十分前から姿を消したもう一人のチームメイトの行方を気にしていた。

「なんだ、なんだ? さっきから辺りをキョロキョロと落ち着きなく見渡しやがって、小波と猪狩の戦いが始まるぞ。それともなんだ? 可愛い子でも見つけたのか? お前には『七瀬はるか』って言う超美人な彼女が居るって言うのに、お前も隅には置けねえな」

「いや、違うよ。飲み物を買いに出てから随分と経つけど大丈夫かなって少し心配になったんだよ。雄二のヤツ」

 矢中智紀の言葉に、塚口遊助は『はぁぁぁぁぁあ』と大きな溜息を漏らす。

「……あのな。いいか、智紀。雄二だってガキじゃねえんだぞ? 俺たちと同じで立派な高校三年生なんだ。心配しなくてもそのうち戻ってくるだろうが」

「まぁ、それはそうなんだけど……」

 仕方ない。

 遊助の言う通り。雄二のヤツはその内は戻ってくるだろう。

 兎に角、この戦いを観なくてはならない。と、矢中智紀は小波球太と猪狩守の戦いを見る事に専念する事にした。

 

 

 夏の熱い日差しが増す中、いよいよ注目の勝負が始まった。

 初球り

 猪狩守の左腕から放たれた一球目はインコースの低めに投げ込まれた。

 ギャルルルルルルルルルン!!!!

 まるで弾丸の様な鋭い高速横回転の『ライジング・ショット』が双菊のキャッチャーミットにズバンと、乾いた音を鳴らして収まった。

「ボール!!」

 僅かに力んだのか投げ込まれたボールはストライクゾーンから外れていた。

 球速表示は、百四十八キロと申し分の無いノビとキレのあるストレートだ。

 しかし、それは飽く迄、スピードガンで計測された『数値』であり。打席に立つ小波から見ると体感速度は『プラス五キロ』はある様に感じられる。

 小波達は過去に百四十キロのノビのあるストレートを投げるピッチャーとは幾度無く戦って来た。

 極亜久高校の悪道浩平、聖ジャスミン学園の太刀川広巳、パワフル高校の麻生、山の宮高校の太郎丸龍星など、ストレートに自信があるピッチャーばかりだ。

 しかし、猪狩守はこれまでのピッチャーとは一味違う。それも『浮き上がる』と言ったストレートだと言う事。

 だが、『浮き上がるストレート』に対して別に経験が無いとは言えなかった。実際に球八高校のアンダースロー投法の矢中智紀のストレートはある意味で浮き上がる球ではあるが、この『ライジング・ショット』は他のピッチャーとは違う。別な次元のストレートだと小波は初めて身を持って知った。

 やはり猪狩相手に一筋縄では仕留められない。

 グッと目を凝らし、より一層集中力を高める。

 続く二球目。

 左腕から投じられた『ライジング・ショット』を打ち返すべくバットを振り抜く。

 キィィン!!

 耳に残る金属音が鳴り、打球は高々と上に上がって行った。

 観客席の人達も顔を上げてボールの行方を目で追って行く。

「……ッ」

 小波球太は悔しそうに歯を食いしばり。

「ふん」

 猪狩守は打ち取るのを見越した様に鼻で笑う。

 結果は、ピッチャーフライ。

 高々と打ち上がった打球は猪狩守の右手のグローブにポスンと収まったのだった。

 

「流石の小波でも一打席じゃ猪狩のストレートをヒットにする事は出来る訳がねェか」

 ははは、と笑いながらベンチに引き下がって来た小波を迎え入れる様に星が言う。

「なんでお前は嬉しそうなんだよ」

「投げては『三種のストレート』、打ってはどんなピッチャーからもヒットとホームランを大量生産って投打に抜け目の無い『天才』野郎かと思っていたが、そう甘くはねェモンだよな、野球って言うのはよォ」

「天才……か」

 『天才』と言う言葉に、小波球太はピクリと反応を示して思わず笑っていた。

 何処か懐かしさを滲ませる表情だった。

「あん? どうかしたか?」

「いや……。どっちかというと『天才』は猪狩の方で、俺は『凡人』なんだとさ」

「はァ? テメェが凡人だァ?」

「ああ、俺は猪狩に昔から散々『凡人』って呼ばれててな。ま、あんなに凄い『ライジング・ショット』を投げれるのは『天才』ならではって感じがするだろ?」

 小波の言葉に、星はギリギリと歯を軋ませる。

「小波、テメェな。バカな事を抜かしてるンじゃねェよ。いいか? 俺から言わせれば平然と『三種のストレート』を投げるテメェも俺からしたら天才なんだよ、バカタレが」

「そうでやんす!! 小波くんの『三種のストレート』も猪狩くんの『ライジング・ショット』に匹敵する凄い球だと思うでやんす」

 と、矢部明雄も瓶底メガネをクイっと人差し指で上げて星の隣に腰を下ろした。

「あはは、そうかな?」

 と、小波が笑う。

 ふんわりと緊張感が解けて行く。

 猪狩守との打席で高めていた『超集中』がプツンと切れた——、その瞬間だった。

「——ッ!?」

 衝撃が走ると目の前に広がる景色がぐにゃりと捻じ曲がる。

 グラグラと視界が一気に歪み始めると共に、全身に向けて激痛が高圧電流を流されたかのように身体中を駆け巡った。

 目を閉じても歪む視界。

 内側から数十本のトンカチで力一杯に殴り付けられている様な酷い痛み。

 ポタリと落ちる脂汗、思わぬ吐き気。

 声にならぬ痛みが、右腕から全身にかけて一気に広がって行く。

「小波くん!?」

「お、オイ!! 小波、大丈夫か!?」

 突然の出来事。

 右肩を抑えて蹲る小波に星と矢部の二人は驚きの声を上げる。

「——ッ!!」

 それに気付いた加藤理香と早川あおいも小波の元へと駆けつける。

「小波くん!? ちょっと診せなさい!!」

「球太くん!? 大丈夫!?」

 少し青ざめた表情の小波の姿を見た早川あおいは目に少し涙を浮かべていた。

 まさか、恐れていた事が。

 もしかすると小波が右肩に抱えている爆弾が爆発したのかもしれないと言う懸念が脳裏を過った。

 そう思えたのは保健医でもある加藤理香が神妙な顔つきで小波球太の身体を慎重に診察していたからだ。

 恋恋高校のベンチの誰もが不安を隠し切れずに見つめている中、目を瞑っていた小波がゆっくりと目蓋を開けると、目の前には全員が小波の事に目を向けていた。

 だが、一人だけ。

 小波の身体に触れている加藤理香だけは眉間にシワを寄せて、横に首を振るのだ。

 もうダメだ、と。

 朦朧とする意識の中でもその意味を小波球太本人は理解出来た。

 何故ならば。

 既に、右肩。

 いや、右腕全体の感覚が無い。(・・・・・・・・・・)

 この感覚を味合うのは二度目。中学二年の全国大会の時に右肘を壊した痛みと全く同じだった。

 遂に右肩の『爆弾』が爆発してしまった様だ。

「お、オイ。……小波、大丈夫か?」

「いきなり蹲るからビックリしたでやんす」

 ぼやけていた景色がハッキリしてくる。

 目を見開いて驚いている星と矢部の顔が見えて来た。

「ああ、悪い。全然、大丈夫だよ。ただの熱中症かなんかだろ」

「熱中症って……。テメェは今さっきまで右肩を抑えていたじゃねェか」

「急だったから思わず無意識で肩を抑えてたのかもな」

 と、小波は笑いながら誤魔化す。

 

 すると。

 

「ストライクーーッ!! バッターアウト!!」

 球審の甲高い声が響く。

 どうやら既にツーアウトとなっていて、いつの間にか六番打者の海野まで打順が回っていたらしく猪狩守のスライダーを空振りの三振に捻じ伏せられてしまったようだ。

「チッ。この回も三者凡退止まりかよ。やっぱり楽には勝たせてはくれねェよな。決勝戦となるとよォ」

 舌打ちを交えて、星はキャッチャー防具のプロテクターを着けてグラウンドの方へとぞろぞろと進む。その後を他のナイン達も追う様に定位置へと脚を進めて行った。

 小波も嫌な汗をフェイスタオルで拭き取って、左手で帽子を深く被り直してグラウンドへと一歩踏み出した時だ。

「待ちなさい、小波くん」

 そこに加藤理香が止めに入る。

 小波もピタリと足を止めた。

 この恋恋高校の中で小波球太の置かれている状況を一番理解しているのは他ならぬ加藤理香だ。

「小波くん。もしかすると、今の貴方の右腕には感覚が無いんじゃないのかしら?」

 やはり、見抜いていた。

「加藤先生。この位の痛みなら俺はまだ投げられますよ。『超集中』で何とか誤魔化せてるので平気です」

「投げられるって、貴方の右腕の爆弾はもう爆発してしまってるのは貴方自身が一番理解出来ているでしょ!?」

「それでも、俺はまだ投げられます」

 こうなったら言う事は聞かない。前の試合でもそうだったが、決して折れる事のない確固たる意志を持った強い眼をしている小波球太の前では加藤理香はただ諦めるしか無かった。

「そう……。なら、勝手にしなさい」

「もう無理だよ!! もう止めようよ? 球太くん!!」

 と、早川あおいが泣き叫ぶように、怒鳴るように小波に向けて声を上げた。

 今まで聞いた事のない悲痛な叫び。

 早川あおいからこんな声を聞くのは初めてだった。

「早川……? お前、もしかして……」

「うん。ボクは……キミの『右肩の爆弾』の事を知っているよ。選手生命を奪う程の厄介な爆弾だって事も」

「——ッ!?」

「キミが『プロ野球選手を諦めている事』、ボク達を『甲子園に連れて行こうとしている事』、全部知っているんだよ」

「全部、知ってたのか……」

「ゴメンね。昨日の試合中……。その……球太くんと加藤先生が話している所を聞いちゃった」

「そうか。聞いちまってたって訳か」

 隠した所で、手遅れなのは分かっていた。

 加藤理香の言う通り。右腕の感覚は無い。

 でも、その予兆はあった。

 それは昨日の山の宮高校との試合、九回裏のマウンドに上がって最初に放り投げたストレートの際に違和感を感じた。

 その後、フォアボールでランナーを初めて出した時に右腕がカタカタと自然に震えていたのだ。

 震えている事に気が付いた星には緊張していたからと嘘を吐いて誤魔化せた。

 だが、もう既にその時点で右肩にある爆弾を爆発させる程の疲労の蓄積も限界を超えかけていたのかもしれない。

 今日の試合投げ抜けられると言う自信は正直に言えば無いに等しかった。

 それでもこの試合だけはと思い。初回から『超集中』で痛みを堪えて投げてみてもストレートのスピードは百三十キロ程度しか投げられていない。

 もう限界なのは分かってる。

 けど——。

「悪いな。でも、もう行かなきゃ」

 ギュッ。

 と、左側のユニフォームの袖を掴まれた。

「……早川?」

 青い瞳からポタリ、ポタリと大粒の涙が溢れ落としながら、

「もういいよ。球太くん」

 と、目の周りを真っ赤にし少し潤み声で早川あおいが泣き噦っている。

「俺はまだ投げられる。投げさせてくれ……俺はまだ『夢』を叶えていないんだ。頼むよ早川」

「……ダメ、ダメだよ。もう……投げないでよ。じゃないと球太くんは……もう……」

 投げなくても既に手遅れだ。

 右肩の爆弾で腕がボロボロになってしまっている。

 その事は早川だって分かっていた。

 小波も同時に同じ事を思っていて『もう手遅れだ』と言葉を口にしようとしたが、そこはグッと飲み込んで困った顔をしながら優しい口調で囁く。

「本当にごめん……。早川」

 と、小波球太は左腕の袖を掴む早川あおいの細くて白い指をゆっくりと一本ずつ離すと目を向けずにマウンドへと歩いて行った。

 

 

 

『二回裏、あかつき大附属の攻撃は四番・ピッチャー 猪狩くん』

 

 湧き上がる大歓声。

 今年のプロ野球ドラフトの注目度No. 1なだけあって観客達の興味はかなり高い。

 世間では既に『猪狩世代』と猪狩守の名前が冠として呼称される程だ。

 その猪狩守は左打席に入りバットを握りしめていた。

 並ならぬ威圧感を放ち待ち受けている。

 

 

「先生はどうして球太くんの事を止めなかったんですか?」

 か細い指先で目蓋を擦る。

 泣き噦っていたのが落ち着いたのだろう。流れ落ちた涙を拭いながら早川あおいが問いかけた。

「早川さん……」

「先生は前から知っていたんですよね? 球太くんの右肩の事情を……」

「ええ。知っていたわ。でも止めるつもりだった。けれど……私には止められなかった」

 怪我を知ってから、いつでも小波球太をマウンドから降す事は簡単に出来た筈だった。

 しかし、そうしなかったのは加藤理香が小波球太と言う一人の人間としてその先にある成長を見てみたいと『ファン』として興味を抱いてしまったからだ。

 小波球太を止める事さえ出来れば、と右肩の感覚を無くした後で悔いた所でどうする事も出来ない複雑な罪悪感が押し寄せる。

 しかし、加藤理香は静かに言った。

「彼はね。この道を自分で選択したのよ。自分の右肩が壊れると分かっていながら、貴女達を甲子園に連れて行くのを『夢』として」

「……」

「早川さん。小波くんの気持ちを少しでも分かってあげて。此処で彼をマウンドから降したら彼は救われないわ。それに……」

 と、加藤理香は言葉を止めて早川あおいを見つめて微笑んだ。

「約束、したんでしょ? 小波くんと」

「約束……」

 試合前に交わした約束を思い出す早川。

 そうだ、確かに。

 球太くんは言った。

 甲子園に連れて行く、って。

 今のボクが出来ることは、球太くんを信じて上げること、なのかな。

 二人は目の前で行われている小波球太と猪狩守の戦いに身を向けた。

 

 

「……はぁ、はぁ」

 『超集中』である程度のスタミナは消耗したが、まだ充分にスタミナは有り余ってるいる筈なのに力が出ない。

 小波はチラッとベンチを見た。

 心配そうに此方を見つめている早川あおいがそこに居た。

 

 悪いな、早川。

 お前にだけは心配をかけたくは無かった。

 けれど、ここまで来て。

 甲子園を決める目の前まで来て。

 絶対に皆を甲子園に連れて行くと決めているのに目の前で逃げ出すようにマウンドから降りたくは無いと思っていた。

 だから、此処では降りられない。

 降りたくない。

 俺が『野球』の舞台から降りるなら、それはお前を甲子園に連れて行ってからだ。

 だから、負ける訳には行かない。

 夢を叶えるまでにこんな場所で終わってたまるかッ!!

 行くぞ、猪狩!!

 

 右肩を振るう。

 『超集中』で瞬間的に激痛を凌ぐ、長年の投球で研ぎ澄まされた感覚だけを頼りに腕を振り抜いて投げ込んだ——今の気持ちを込めた『渾身』のストレートを投げ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 猪狩守と小波球太の戦いは、

 

 

 

 

 

 

 

 呆気なく終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キィィィィィィィィィーーーーン!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 快音が鳴る。

 鳴り響くと同時に球場全体がシン……と静まり返る。

 小波球太は打球の行方を追う。

 だが、振り向くまでも無かった。

 マウンド上から百八十度振り向いた先はバックスクリーンに突き刺さるように打ち込まれ打球は完璧に真芯を捉えたホームランとなった。

 

 

 

『ワァァァァァァァーーーーッ!!!!』

 

 

 決勝戦、まず先制点を挙げたのはあかつき大附属の猪狩守によるソロホームラン。

 文句無しの一発に観客席は熱気を感じる程の盛り上がりを見せた。

 ゆっくりとダイヤモンドを周る猪狩は、マウンドに立つ小波球太を横目で見る。

 気持ちの篭ったストレートなのは確かだったが、ノビもキレも球の重さも力のないボールだったと真芯で捉えたバットから伝わっていた。

(小波。まさか君の右肩は、もう……)

 悠々と周りホームベースを踏むと、スコアボードには「1」と点字が灯る。

「ナイスバッチだ、猪狩」

「小波からホームランとは流石だぜ」

 ベンチに戻る猪狩を迎えるあかつきナイン達がハイタッチを求めるが、猪狩はその横を黙ったまま通り過ぎる。

 嬉しい筈のホームラン。そこに笑顔はなかった。ただ複雑な険しい表情だけがある。

「……」

ㅤチームカラーである青色のヘルメットを脱ぐと艶のある茶髪が露わになり、やや吊り目の青色のキリッとした瞳で再び小波球太を見据えていた。

 

 

「うわぁぁぁぁー!! 今の打球凄いね〜。豪快なホームランだったよ〜」

 湧き上がる球場を手に持つハンディカメラで捉えながら興奮冷めやまぬ明日未来はキラリと八重歯を輝かせながら言う。

「球太……」

 対して六道聖は、打たれてしまった小波球太を心配そうに見つめている。

「ねえねえ、光〜。今の猪狩守さんのホームラン見てた〜?」

「……」

 尋ねられた光は無言のまま小説のページをめくる。野球に興味を持たず、二日連続で無理矢理球場に連れて来られてやや不機嫌な光だった。

 

 

「小波くん……」

「今の一発は打たれた球太には堪らない一撃だったろうな」

 恋恋高校の応援席で高柳春海と栗原舞の二人も試合の様子を息を飲むように眺めていた。

「ねえ、春海くん。今日の試合の小波くんは不調なのかな? 思うようなピッチングが出来ているとは思えないのよね」

「うん。それは俺もまったく同感だよ。今日の球太のストレートにはスピードもキレも無い様に見える。一体、球太のヤツどうしたんだろう」

「なんだか嫌な予感がするわ」

 

 

「スリーアウト。チェンジ」

 右肩の感覚が無くなろうとも、気持ちを込めたストレートだった。

 今の想いを存分に込めた筈だった。

 それなのに、そのストレートは猪狩に意図もたやすくホームランにされてしまった。

 切り札の『三種のストレート』も巧く機能しない。何もかもが中途半端で、何もかもが甘いコースに行ってしまう。

 俺の球は、猪狩どころかあかつき大附属の打線に全く通用しないと強く痛感した。

「……くそ」

 目が霞む。気を許せば痛みに支配されそうな程だ。

 しかし、果たしてこの試合、このまま痛みの中で投げ抜く事が出来るのだろうか。

 と、らしく無い不安が襲いかかる。

 けど、今はそんな事を考えては行けない。

 何故なら。

 二回裏のあかつき大附属の攻撃は終え、スコアボードには「5」と言う数字が点字されているからだ。

 



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第64話 虹色の光と四つ目のストレート

 手には複雑な鍵の付いたキャリーケースを持ち、看護婦らしい白衣を見に纏った小柄な女性が一人。

 人影が何一つ無い病室に居た。

 からからとガラス張りの窓を開けると、緑に染まる大きな木々に止まって羽を休めていた雀達がバサっと一斉に空へと羽ばたいていく。

 フワッと入り込んで来る熱を帯びた夏の風が短くカットされた綺麗な緑色の髪が靡かせる。

 見るからに二十代前半と思われる大人の女性。

 それに可愛いらしい垂れ目。

 両の耳には真紅の玉がキラリと光り輝くピアスが着けてあった。

 薄紫色の大きな瞳で何処までも晴れ渡る青空を見上げた女性はニコリと微笑むと、誰も居ない病室の中でゆっくりと白衣をひらり、ひらりと剥いで行く。

 ナースウェア、下着、ストッキング、ガーターベルトなど見に纏う全てを脱いでは丁寧に畳んでベットの上に優しく置いた。

 布一つ纏わない露わな姿になると、窓から入り込んで来た外からの日射で透き通りそうな白い肌をより一層引き立てる。

 鍵の付いている持ち込んだキャリーケースの鍵をガチャリ。と開ける。

 そのキャリーケースの中に入っていたのは大きな『紫の布が一枚』だけ、ただそれだけが入っていた。

 アニメか漫画のキャラクターなのか、はたまた戦隊モノのコスプレ衣装(色合い的には敵キャラっぽい)か何かなのだろうか……。

 目の部分が半円で真っ赤に染められていてまるで『着ぐるみ』らしきとても奇妙なモノだった。

 すると全裸の緑髪の女性が誰一人居ない病室の中で独り言を囁いた。

「さてぇ、『そろそろ』かしらねぇ。小波球太くん。貴方の『驚異な成長力』は『科学の発展には絶対に役立つ』ハズだから、『科学の進歩のために貴い犠牲』になってねぇ」

 と言い終えるとその紫色の布を被る。

 モゾモゾと動きだした後、その紫色の着ぐるみが声を発した。

 先程の緑髪の女性の声では無い、増しては人の声色では無くノイズ混じりの不思議な声で。

「ギョ」

 そのたった一言だけ呟くと、既に誰も居ない病室だけが残っていた。

 

 

 

 三回の表、五点差を追いかける恋恋高校の攻撃は七番の古味刈の打席から始まる。

 気合を込める声援を送るが、恋恋高校のベンチ内は今までの様な活気は見当たらなかった。

 ただ一人の様子を。ベンチに引き返してからずっと項垂れたままの小波球太の様子を皆が心配そうに見つめていたからだった。

 誰がどう見ても様子が可笑しいと言うのは分かっていた。

 コントロールの良い小波が二者連続でストライクを一球も投じずにフォアボールを出してしまい。七番打者の乙下に走者一掃のタイムリーツーベースを打たれ、続く後続を抑えたもののまたタイムリーで二点を奪われてしまった。

 らしく無い投球内容に、一度はあかつき打線の方が一枚上手だと誰しもが思っていたのだが、マウンド上で苦しそうな顔をして既に疲れ果てて倒れそうな小波を見て思いが変わった。

 やはり。どこかが変だ、と。

 小波球太の右肩の具合を知る者は、早川あおいと加藤理香のみである為、小波が今の現状を知る事は無いに等しいのだ。

「球太くん……」

 早川あおいは、目の前で項垂れる小波を見つめる。

 いつもの平然として野球を楽しんでいる姿はそこには無かった。

 苦しそうな呼吸、ポタリと流れ落ちる汗の量は半端では無い。無意識に痛みを堪える様に下唇をギュッと強く噛み締める小波を見ていると視界は霞んで再び涙が出そうになる程、見ては居られない姿が目の前にあるのだから。

 それでも早川は小波の側に寄り添う。

 小波の『夢』を叶える瞬間を見るまでは、どうにか支えなければならないと強く思うと同時に自分の非力さ無力さに痛感させられる。

 

 

「この試合、勝負あったンじゃねェか?」

 ドスの効いた低い声で唸る様に、悪道浩平は詰まらなそうに言葉を吐いた。

「もう決まりだろ。小波の球はあかつき大附属には通用しなかった、結果は見えてる」

 練習試合と公式試合の二度戦い、一度は『小波潰し』を画策する程、小波の実力をある程度は身を持って知っている悪道浩平はスコアボードに点灯されている数字を見て舌打ちを鳴らした。

「……」

 だが、隣に立つ球八高校の滝本雄二は腕を組んだまま無言だった。

「小波が役に立たないなら、恋恋高校には勝ち目はねェ。星や矢部は勿論、他の連中のレベルは底が知れてる」

「……ま、『普通』なら誰しもがそう思うだろうな」

 と、漸く閉じて無言を貫いていた口を開いて滝本雄二が言う。

「何ィ?」

「小波球太と言うヤツはとても不思議なヤツでな。此処ぞと言った時に、何かしらアクションを起こしてくる選手だ」

 お前も良く知っているだろ、と付け足すと滝本雄二はニヤリと不敵に笑う。

 球八高校との試合でも相棒の矢中智紀の切り札『フォール・バイ・アップ』を攻略の時も『超集中』で切り抜いて見せたり、パワフル高校との試合では椎名を打席に立たせてきっかけを作ったりと、滝本雄二は懐かしそうに思い出していた。

「ま、そうした所で猪狩守から五点差をひっくり返すなんざ出来やしねェだろ。幾ら何でもアイツら雑魚共とは次元が違い過ぎる」

「そうだな。でも小波球太はそう言う時だからこそ実力を発揮させる」

「……それで? さっきから小波、小波って何が言いてェンだァ? テメェはよォ」

「何故、小波が中学二年の全国大会の試合中に、いきなり『百四十キロ』のストレートを投げたのか知っているか?」

「そンなの知らねェに決まってンだろうが」

 勿体ぶらねェで早く言え、と悪道が付け足して言う。滝本は右の口角を吊り上げて笑いながら言った。

「当時の小波は『三種のストレート』の多投で肘がボロボロだったらしい。それでもマウンドに上がり投げ抜いた……その試合も今日みたく負けていたようだ」

「……」

「誰もが負けを覚悟した。しかし、その試合中に小波は変わった。『驚異的な成長』を遂げた小波は相手チームを完璧に抑え、挙げ句の果て中学生では有り得ない『百四十キロのストレート』を投げ、チームは勢い上げて逆転勝利を収めた。どうだ? 随分と似てるとは思わないか? この試合」

「チッ。それで、小波のクソ野郎が急に変わった理由ってのは何なンだ?」

「さぁな、それは俺にも分からん。当時試合を観戦していた知り合いから聞いたんでな」

「知り合いだァ? 一体、誰だよ」

「フッ。流石のお前でも名前くらいは聞いた事はあるだろ? 去年の千葉ロッテのドラフト一位で入団した『八雲紫音』だよ」

「八雲紫音……」

 滝本が口にした名前に聞き覚えがあった。

 それも一度だけでは無い。数年前にも今でも夜のスポーツニュースで度々その名前を聞いた覚えがする。

 そう、確か。

「ああ、去年の甲子園の準優勝した竜王学院のキャッチャーか」

 去年の決勝戦。

 アンドロメダ高校と竜王学院高校の試合が行われていた。

 中部地方の強豪校で甲子園には春夏と常連チームの竜王学院高校のキャプテンを務めていた八雲紫音。

 彼は去年のプロ野球ドラフトの注目株の選手でもある。

 キャッチングに秀でていて、その捕球技術はストライクゾーンからギリギリ外れるボールさえもストライクと判定させる程の見事な捕球力を誇り、同年代のキャッチャーであるあかつき大付属の二宮瑞穂をも凌駕する実力の持ち主であった。

 でも何故。そんなキャッチャーと滝本雄二が知り合いなのか、と悪道浩平は疑問に思った。だが、悪道自身それほど興味が湧かなかったのもあるが、それを聞いた所で自分に利益が無いことだと理解して聞かないことにした。

 

 

「おい、マジで小波の野郎は大丈夫なんだろうな?」

「ベンチに戻ってきてからずっと項垂れているでやんす」

 星雄大と矢部明雄の二人は、遠目からぐったりとしている小波を見ていた。

「まさか、熱中症が悪化したとか言うンじゃねェだろうな。どうするよ、小波は交代させるか……?」

「ピッチャーはどうするでやんすか? あおいちゃんは風邪で医者からはドクターストップが掛かってるでやんよ?」

 矢部の言葉通り。

 一週間前の豪雨の中で行われた球八高校との試合で、早川あおいは風邪を引いてしまった。更に次の試合のきらめき高校との試合で倒れてしまった為、ベンチに入る事は許されたが試合出場は当面禁止されているのだ。

 残る投手は、一年生の早田翔太。

 その早田を登板させるのは星も矢部の二人とも良い策とは思えなかった。何せ、このプレッシャーが掛かる試合は早田にとってかなり重荷過ぎると判断したからだ。

「心配すんなよ……。俺は、大丈夫だぜ」

 疲労が蓄積された辛い表情と疲れ果てて覇気の無い声で小波は言う。

「って言ってもな。今日のお前はあかつき大附属に相当打ち込まれてるって疲労感満載って事、少しは分かって言ってるんだろうな!?」

「……もう打たせるつもりは無い。なに平気さ、俺にはまだ『切り札』はあるからな」

 小波の言葉に星は首を傾げた。

 『超集中』、『三種のストレート』以外にも未だ知らない『何か』を隠していると言うのだろうかと不思議に思った。

「切り札だと?」

「ああ、俺の『三種のストレート』には、まだ投げたことがないストレートが『一つ』だけ……ある。それを投げれば……どうにか凌げる筈だ」

「って言うと、昨日の山の宮の試合でテメェが言っていた『奥の奥の手』って言うのはハッタリじゃ無かったって事かよ」

「……」

 小波は無言だった。

「テメェな。未だそんなに『切り札』が残ってたならどうしてもっと早く投げなかったんだよ」

 星は呆れながら言った。

 それもそうだ。小波の言う『切り札』を早く投げていれば五点取られる事も無かったであろう。しかし、それは出来なかったのだ。

 小波はこの試合、右肩の爆弾がいつ爆発しても良いと言う覚悟を持って挑んだ。

 そう長くは無いと自分では分かっていた。だからなるべく爆発事態を引き延ばす為にも負担になる『三種のストレート』も三本指で投げる『スリーフィンガーファストボール』のみしか投じて来なかった。微力な延命行為をしていたが……。

 その延命も虚しく、右肩の爆弾は早くも終わりを告げてしまった。

 それでも僅かながらも『超集中』で痛みを堪えて投げる事が出来ている為、小波球太はチームを甲子園に連れて行くと言う『夢』の為に、今はもう出し惜しみはしない。

 

 三回の表の恋恋高校の攻撃は、あっという間に三者凡退で抑えられてしまう。

 昨日の試合、完全試合を成し遂げた左腕の調子は正に絶好調と言うべきだろうか。

 猪狩守の冴え渡るストレート、『ライジング・ショット』で恋恋高校を翻弄させる。

「やるな、猪狩。試合はまだこれからだ。俺も……負けちゃいられねえよな」

 ライバルの好投を目の前にし、折れぬ闘志を燃やしながらもギュッと強く右手を握り締めた小波球太はふらつきながらもマウンドへ上がる。

 ゆらり、と七色に輝く『虹色』が一瞬。

 過去に二度も見せた『金色』では無い。

 全身を覆う纏まった『光』が灯った。

 神島巫祈や八宝乙女が知っている『能力解放』とはまた違う何か……。

 この試合で小波球太に隠された底知れぬ潜在能力を開花させようとしている事を誰も知らない。

 

 

 そして、試合は三回の裏。あかつき大附属の攻撃が始まる。

 先頭打者、既に二打巡目を迎える三番打者の双菊がバッターボックスに立つ。

 その一球目。

 百三十六キロのストレートが高めのストライクゾーンに投げ込まれる。

「ストライク!!」

 ニヤリと笑う双菊。

 まるでこの程度の球ならいつでも打てると言っているかの様に余裕に満ちた笑みを浮かべていた。

 二球目を再び見送って、カウントはツーストライクに追い込んだ。

 続く三球目。

 今度はキレの無い細々とした微妙な軌道しか描かないスライダーを投じるも、双菊は見送る。

「ボール」

 星はキャッチャーミットで捉えたボールに目を向けた。

 小波が投じる球に気持ちは篭って居るが重みの無い力の無い球だとはっきり伝わっていた。

「(マジで、一体どうしちまったんだ。小波の野郎はよォ)」

 小波に向けて返球する。

 すると、上の方から声が聞こえてきた。

「随分と呆気無い試合になりそうだな」

「……あん?」

 声を掛けてきたのは、目の前に立つ双菊だった。

「俺は高校からあかつきに入ってるから、中学時代の小波の事は話でしか知らない。猪狩や四条や先輩達を含めた他の連中はやたら警戒心が強いからどんな奴かと思って心待ちにしていたら実際はこの程度でしか無かったとはな。本当期待して残念だぜ。ま、この試合まで来れたのなら高校生活の思い出としては胸を張れるんじゃねえか」

「……」

 嫌味交じりに嘲笑う双菊。

 星は黙ったまま聞いていた。

「どう足掻いても猪狩相手にお前らレベルは打てそうな雰囲気は無いし、小波は見ての通りポンコツだろ? こりゃ甲子園も貰ったも同然だから楽な試合だぜ。さぁ投げさせろよ。華々しく散らしてやる」

「あのな……」

 黙ったまま聞いていた星が口を開いた。

「テメェはこの打席、ヒットでも打てるとでも思ってる訳か?」

「ふん。ヒットとは言わずこの程度ならホームランも打てるぜ」

 率直な感想だった。

 あかつき大附属の総合レベルから言わせてみれば、今日の小波の球なんて打撃練習以下のピッチングに見えているのだろう。

 それでも星は、疲労するキャプテンを馬鹿にして鼻で笑う双菊に向けて怒りを込めて静かに言う。

「一人で盛り上がってる所悪いんだが、テメェらはもう誰一人塁に出る事なんかねェんだぜ」

「何ッ!?」

 バッと顔を星から小波に向ける。

 サインは既に決まっていた様だ。

 ゆっくりと振りかぶり、脚を高々に上げた小波球太は右腕を振り抜いた。

 シュッ!!!!

 一見してそれは普通の『ストレート』だった。

「ハッタリか、この球は貰ったぜ!!」

 巧打一閃。見定めて真芯で捉えたとバットを振る。

 ググッ。

 だがしかし。小波の投じた真っ直ぐな軌道を描く『ストレート』は手元で歪な動作をした。

 そして、何よりもスピードが違かった。

「——、何ッ!?」

 と双菊が。

「何だァ!? この球はッ!!」

 と星が、いつも通りのリアクションをした。

 球速表示、百五十キロの小波のストレートは星のミットにズバンッと収まった。

「ス、ストライクーーッ!! バッタァーアウトッ!!」

 見事に双菊を空振りの三振に仕留めた。

 舌打ちを鳴らし悔しがりながらあかつき大附属のベンチに引き返す双菊の背中をチラリと見た星は、ニヤリと笑みを浮かべていた。

「べらべらと五月蝿せェ野郎だったぜ。そう言う奴に限って打てねェってのは相場が決まってンだよ」

 と、星は言った。

 

 

「すみません」

 ベンチに引き返し、あかつき大附属の監督を務める千石忠に深々と頭を下げた。

 あかつき大附属のベンチ内はシンと静まり返って顔色を伺っていた。

 理由は一つ。

 見た目通りの怖さには最早貫禄さえ伝わって来る。髭をたくわえ、筋肉がガッチリとした肉体、漆黒に染まるサングラスの奥は見えないものの何かと鬼気迫る威圧感を放つ漢、千石忠は無言で腕を組んでベンチに腰を降ろしていた。

「双菊、今の球はお前にはどう見えた?」

 静かに、低い声で千石が問う。

「はい。今投げた小波の球は、おそらく『ツーシーム系』だと思われます。ただ、ストレートがまるで『キャノン砲』みたいに速い厄介な新しいストレートだと……」

「ふむ。現在、我々の確認が取れている小波球太のは球種は『三種のストレート』のみだったがまだ一つあったとはな。此方もデータを上書きせねばならん様だな」

「はい、お任せ下さい」

 と、空かさず返事を返したのは明るい紅みの紫色の髪に眼鏡を携えたマネージャーの四条澄香だった。

「監督。次の打席は任せて下さい。必ず、攻略して見せます」

 と、双菊は深々と頭を下げて言う。星に偉そうな事を言った割には二打席連続と呆気なく打ち取られている自分自身に腹が立っていた。そんな事はあってはならないと己の中で自戒を込めながら拳を強く握った。

 だが、そんな双菊の事など気に留めることもせず猪狩守はネクストバッターズサークルで会話を聞いていた。

 小波球太ただ一人に目線を向けていた。

 絶不調で百三十代しか投げて来なかった好敵手にいきなりの変化が見られた事、そして、何よりもたった今放った『四種目のストレート』が気になっている様だ。

「ツーシーム……。まるで『あの人』を彷彿させるな。それに『キャノン砲』、中々良い響きじゃないか」

 と、言いながら猪狩はバッターボックスへとゆっくりと向かって行く。

 

「うむ、今の球。漸く『完成』した様だな」

 恋恋高校の応援席。

 双菊を三振に斬り伏せた小波に向けて声援を送る中、一人だけ首を縦に振っている六道聖。

「完成? え、なになに〜。何故かひじりんだけ一人納得した様子だね〜。むむむ、これは怪しいですな〜」

 明るく元気な特徴のある口調で、明日未来はハンディカメラをくるりと写す。

 グイグイと迫りくる未来。

 良い加減にカメラを向けるのを止めて欲しいと切に願う聖だが、そう簡単に未来を止められれば苦労はしない。

 半ば諦めた状態で、聖は言う。

「一年前から球太と私で『新種』の開発を行って来たのだ。球太は、肩と肘に負担の無い球を作るつもりだった」

「だった? と言う事は? 変わっちゃったって事、だよね〜?」

 コクっと頷く聖。

 二年前の夏に、小波球太が感覚を取り戻す為に恋恋高校のメンバーには内緒で六道聖とピッチング練習を始めた。

 そして、一年前の春に聖の言葉通り四個目のストレートを物にする為に練習を積み重ねて来たのだ。

 どの球よりも速く。

 力に満ちた一球。

 小波球太はある程度のイメージを完成させてはいたが、根底から覆す事になる。

 それは、昨年の秋季大会に置いて猪狩守が『ライジング・ショット』を編み出した事を知った小波がその球に触発されたのだ。

「球太にとって『四つ目のストレート』は、原点回帰と言っても過言では無いだろう。リトルリーグの時に影響を受けたからこそ『三種のストレート』が生まれたのだからな」

「小波球太さんって凄いんだね〜。ストレートが『三種類』も投げれるんだもん〜。これはしっかりとカメラに収めなきゃならないよ〜」

 忙しい忙しいと繰り返して明日未来は、しっかりとカメラをグラウンドに向けた。

「……」

 隣に腰を下ろす灰色の瞳をした明日光の本をめくろうとしていた手はピタリと止まっていて、何かを焼き付ける様にジッと『眼』を小波球太だけ捉えて静かに見つめていた。

 

『四番、ピッチャー 猪狩くん』

 湧き上がる歓声。

 一打席目に先制のソロホームランを放った猪狩守が左打席に立つ。

 小波球太と猪狩守の対決が再び、始まる。

 ドクンドクン、と高鳴る鼓動。

 小波球太が右腕を振り抜く。

 その初球。

 百五十二キロの『四つ目のストレート』を放り投げる。

 コースはインコース。

 鋭い直線を描いたストレートが、猪狩の胸元で右方向に歪に曲がり星のミットに突き刺さる様に収まる。

「ストライクーーッ!!」

 見定める為だろうか、まず猪狩はその球をただ見送る事にした。

「……ふふ、はははっ!!」

 想像以上のキレに思わず笑みが溢れてしまう。

 

 成る程。

 双菊が言っていた事は理解出来たよ。

 確かにこの『ツーシーム』は『普通』では無いね。

 まるで堅いの良い『キャノン砲』から放たれたレーザビームの様な球だ。

 流石だ、と言わざる負えないな。

 さすが、小波。この僕が認めた男だ。

 これでこそ僕の永遠の好敵手、相手にとって不足は無い。

 

 

 キリッと眉間に皺を寄せ、ギュッと強くグリップを握り締める。

「——ッ!?」

 ビクッ。

 と、ただならぬオーラに思わず星が圧倒してしまう程、如何にしても猪狩が本気さが伺える。

 空なら降り注ぐ太陽の熱がジリジリとグラウンドの土を焦がす中、小波は振りかぶり二球目を投じた。

 球速百五十四キロ。

 初球と同じ、『四つ目のストレート』が放たれた。

「(残念だが、小波。この球はもう見切らせて貰ったぞ」)

 テイクバックから、猪狩は腰を回転させた勢いでバットを振り抜く。

 

 スカッ。

 

 バシィィィィィン!!

 

「——ッ!!」

 猪狩は驚いた様に目を見開く。

 空を切る感覚だけが残っただけだった。

「ストライクーーッ!!」

 猪狩は未だ驚いている。

 予想以上のキレから軌道を逆算し、今の球はバットに当たる筈だったのに、バットに擦りすらしなかった。

 知らぬ間に下唇を噛み締めていた。

「……」

 ハッと猪狩は我に返り。

 眼前に立つ小波を見る。

 今にも疲れ果てて倒れそうな小波のストレートが徐々に球速を上げている事に気付く。

 三球目を投じる、その時だった。

 小波球太の振りかざす右腕が一瞬、七色に輝く『虹色』のオーラを見に纏った。

 

「(まさか……。これは、あの時の)」

 

 ピクリ、と身体は動く。

 だが、間に合わなかった。

 右腕から振り抜かれたストレートは速度を上げて瞬く間に星の構えるミットにズバンと決まった。

「ストライクーーッ!! バッタァーアウトッ!!」

 球速百五十五キロのど真ん中ストライクを見送りの三振で小波の球に手も足も出なかった猪狩守は悔しさを顔に滲ませ、クルリと踵を返してベンチへと引き下がった。

 

 

 そして、決勝戦は中盤に差し掛かる。

 四回の表、恋恋高校の攻撃が始まろうとしていた。

 調子を上げて来た小波球太ではあるが、それと同時に崩壊へのカウントダウンも近づいて来ているのを誰も知らない。







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第65話 小波球太と恋恋野球部

 

『能力解放』……とは、『超特殊能力』の事である。

 

 

 まず野手には七つの基本能力が存在する。

 一つ目は、『弾道』と呼ばれる打球の上がりやすさを意味する能力であり、『1』から『4』の四段階に分けられており数値が高ければ高いほど打球の角度が上がり打球が上がりやすくなる。

 二つ目は、バットをボールに当てるバットコントロール力を意味する『ミート』に加えて『パワー』や『走力』、『肩力』、『守備力』、『エラー回避』と言った基礎能力は、『G』から『S』の八つのランクに分かれている。

 また投手には体力を示す『スタミナ』や『コントロール』は同じ『G』から『S』のランクに分けられていて、この基本能力に加えて選手達にはそれぞれの他の『特殊能力』と言った能力を兼ね備えている者も居る。

 例えばの話を持ち出すとすれば、チャンスの場面で強いバッターが居たとする。その時に発揮する不思議な力の発動条件は、『ランナーが二塁以上にいる時』のみに発動しヒットや長打が打ちやすくなると言うモノだ。

 この名称を『チャンス◯』と呼ぶなど、この他にも多種多様に『特殊能力』が幅広く存在している。

 だが、その『特殊能力』は簡単に手に入るモノでは無い。日々の練習や努力の積み重ねを幾度無く繰り返しを経て、ようやく開花させる事が出来る訳だ。

 しかし。

 その『特殊能力』の先に更なる次元が残されているのだが、その次元に登る為には必要な『ある能力』が必要とされている。

 それは『黄金の光を見に纏う者』のみに与えられた『超特殊能力』である。

 それを簡単に言うならば『特殊能力』の上位互換である。

 先程の例を出して説明をすると、だ。

『チャンス◯』を持つ選手が『黄金の光』を見に纏うと『勝負師』と言う『超特殊能力』を開眼させる事が出来ると言った所だろう。

 だが、それを手に入れるのは容易では無い。黄金の光を見に纏うのにはトリガーとなるきっかけが幾つも存在している。

 勝ちたい、負けたく無い、打ちたい、抑えたいと言う人それぞれの信念で発動するモノである為、『超特殊能力』を『解放』させられる選手はプロの中でも中々存在しないとされている。

 球界に関わる者、スポーツ医学に関わる人物達は、それを『能力解放』と呼んでいる。

 

 

 

 

「能力解放……か」

 これは以前、中学三年生になった頃に八宝カンパニーの令嬢である八宝乙女が僕に自信満々で優越感に満ち溢れた顔を浮かべながら教えてくれた事だ。

 あの時のあの表情は今でも僕の脳裏に強く焼き付いているのはまず置いといて、だ。

 最初は馬鹿げた事を言うと内心では思ってはいたが、『黄金の光』と言う言葉に思わず反応を示してしまった。

 それは、そう。八宝乙女が言った『黄金の光』と言うモノに少なからず見覚えがあったからだ。

 それもこの僕の目の前で、その黄金の光を纏って右腕を振り抜いた一人の黒い頭の癖髪の男を知っているからだった。

 小波球太。僕のたった一人の親友にしてたった一人の好敵手だ。

 『三種のストレート』に『能力解放』。

 この天才の僕ですらその域に達していないと言うのに、あの『凡人』がこの僕を超えているとでも言うのか、と最初は悔しさでを隠しきれなかった。

 僕には小波が『能力解放』をする選手に相応しいと言える理由がなんだか分かっていた。

 小波のプレースタイルをリトルリーグからずっと見て来た。味方がエラーをしても、三振に倒れても、チャンスの場面で打てなくて点が取れなくても、小波はいつも気にする事なく笑っている。

 野球を心底楽しんでいる。

 仲間を大切にしている。

 そう言うのが『きっかけ』になっていて、だから小波は『能力解放』と言う次元に立つ事が出来ているのだろうと僕は知っていた。

 だが、僕にはそれが出来ない。

 だからこそ、僕は進と共にそれに匹敵するだけの力のある『ライジング・ショット』を作り上げた。これで僕も小波と同じ位置に立てる筈だ……と思っていた。

 そして、今。

 その男は、僕の知る由も無い。見たことも無い『虹色』の『光』を纏ってストレートを放り投げた。

 あの正体は、一体なんだ?

 アレは八宝乙女が僕に言っていたモノとはまた別の能力だと言うべきか。

 その先に、まだ未知なる領域があるとでも言うのだろうか……。

 小波。

 君は一体どこまで僕の先を進むつもりでいるんだ。

 

 

 

『四回の表。恋恋高校の攻撃は、一番センター矢部くん』

 恋恋高校も打者一巡をして、瓶底眼鏡をクイッと上げた矢部明雄が右のバッターボックスに構える。

「オイラがチャンスを広げるでやんす!!」

 声を張り上げて、猪狩に対抗心をメラメラと燃やしている。気合は十分と言った所だろう。

「おっしゃァァァァー!! ブチかまして行けェよ、クソメガネ!!」

 星もベンチから身を乗り出して、大声を上げる。

「矢部先輩ッ!! 頼みましたよ!!」

 ネクストバッターズサークルに控える二年生の赤坂も負けじと声を張り上げた。

 五点を追いかける恋恋高校だが、先ほどまでの沈んだ空気はベンチには流れては居なかった。

 希望の光が徐々に広がってくる。そんな予感をせざるを得ない小波の調子の復活。そして『四つ目のストレート』で無失点に切り抜けた恋恋高校のムードはこの試合では一番と言っても良いほど良い雰囲気が漂っている。

「……ふう。しかし、今日は暑いな。絶好の野球日和ってヤツだな」

 やや息を切らして疲れ果てている様に見受けられるが、小波の瞳はまだ生気がある。球数も既に三回を終えて六十球を超えてはいるものの、気力は充分と言った所だろう。

「それにしてもよォ、小波。テメェの新しい球は一体どんな球なんだァ? 俺の目にはただの『ツーシーム』にしか見えなかったけどよォ」

 この回に打順が回る為、早々に金髪頭の上にヘルメットを乗せながら星が尋ねる。

 『ただの』とやや強がった言葉を使ってはいるが、初見のリアクションはきらめき高校戦において、小波が初めて投げて見せた『三種のストレート』の『ノースピン・ファストボール』を見た時と同じだった事を小波は既に気付いてるが、星の事を思ってか小波はスルーして口を開く。

「ああ、星の言う通り。さっきの『四つ目のストレート』って言っても一見普通のツーシームだ。でも『ただのツーシーム』なんかじゃない」

「あん? ただのツーシームじゃない、だと? それはどう言う事だァ?」

「あの球は、俺が憧れた人の『ツーシーム』なんだよ。だから俺はあの人の背中を追う様にあかつき大附属に入学したんだからな」

 と、小波は付け加えた。

 そしてその場に居る全員が小波に視線を向けて耳を傾ける。

 小波があかつき大附属に入学した理由、小波が憧れている人物と言う初出情報にどんな理由で入学し、憧れた人物が一体誰なのかが気になっている様子だ。

「ねえねえ、誰なの? 球太くんの憧れた人って」

 早川あおいが真っ先に問う。

 先程までの心配そうな表情では無かった。

「あ、ああ。今はプロ野球球団のオリックスで活躍している神童裕二郎……さん、だよ」

「——ッ!!」

「神童って言ったらあの『球界の至宝』って呼ばれてる神童だとォ!? 近い将来にメジャーリーグに挑戦するって言う話も上がってる今話題の選手じゃねェか!!」

 その名前を聞いた瞬間に周りが一気に騒つき始めた。

 その名は、神童裕二郎。

 今、星が言った通り『球界の至宝』とまで呼ばれている天才投手だ。

 的を的確に射るコントロールに多彩な変化球を持つ神童裕二郎ではあるが、高校時代は彼の球を取るキャッチャーが居らず無名だったが、あかつき大附属大学に入学後、メキメキと頭角を表して鳴り物入りでプロ野球のオリックスに一位入団を果たした。

 その後、新人王、MVP、最多勝とタイトルを総なめにして、今シーズンの初勝利を完全試合で飾るなど正に『球界の至宝』とまで呼ばれる事だけのある実力のある名ピッチャーなのだ。

「俺は神童さんとリトルリーグ時代に一回会ってるんだ。そこで見せて貰った神童さんのツーシームが未だに忘れなくてな。一年前から取得しようと練習してたんだけど難しくて、つい最近ようやく完成させられたんだ」

 小波は優しい笑みを浮かべて微笑んだ。

 そして、小波は小学六年から神童裕二郎のツーシームを真似ては、隣に住む六道聖を相手に毎日ピッチング練習を重ねた。

 月日が経ち、中学生になった小波は跡を追うように神童が通った名門のあかつき大附属中学の野球の門を叩く。

 厳しい練習、一ノ瀬、二宮と言った優れた上級生、猪狩守と言ったライバル達と共に全国大会で優勝する事を目標と掲げて切磋琢磨して行く内に、神童の投げたあのツーシームを完成させたいと練習に打ち込んだが、その球が余りにも習得するのが難しかった為、断念する事にしたのだが、練習の過程で『ノースピン・ファストボール』、『バックスピン・ジャイロ』、『スリーフィンガー・ファストボール』と『三種のストレート』が投げられる様になったと言う事を皆の前で初めて『三種のストレート』について教えてくれた。

「……そうか。小波、テメェの『三種のストレート』ってのは、憧れから得た努力の賜物だったって訳だな。俺はてっきり何も考えずにポンポンと投げれているモンだとばかり思ってたぜ」

「ボクもだよ。球太くんがどれほど頑張って来たか分かった気がする。ようやく神童さんのツーシームを得られてよかったね!!」

 小波を褒め称える二人。

 小波は少し照れ臭そうに笑っていた。

 その笑顔が小波の背中を押していることには誰も気付いていないのは、誰も知らないでいる。

 

 そんな事を他所に、猪狩は左腕を振るう。

 豪速球の如く、自慢のストレートである『ライジング・ショット』を投げ込んでは、矢部と赤坂を連続三振に切り伏せて見せた。

 ツーアウト。ランナーなしの場面で三番打者の星に打席が回って来る。

 ここまで打者十一人。一塁上にランナーを誰一人として置かずに、絶好調のピッチングで恋恋高校打線を完璧に封じていた。

 現在、間一髪の所で交通事故に遭いそうになり病院で入院している弟である猪狩進に優勝旗を持って帰ってくると言う約束を果たす為に、猪狩守は左腕を振るうのだ。

 

 シュッ!!

 

「ストライクーーッ!! バッタァーーアウト!!」

 完成された投球フォームから繰り出す『ライジング・ショット』の前に三番打者の星は手を出せずに見送りの三振で倒れ、恋恋高校の四回の表の攻撃もまたもや無得点で終える。

「……クソッ!! なんで手が出せねェンだよッ!! クソ野郎がッ!!」

 ガンッッッ!!!!

 怒りを露わにし、猪狩の『ライジング・ショット』に対して全く手が出せずに倒れた自分自身の不甲斐なさの余りに金属バットを地面に強く叩きつけた星。

 散々と打ち込まれ疲れ果てる小波の為にもと意気込んだ打席だったが、猪狩守の前に完膚なきまでにねじ伏せられた怒りも含まれていた。

「まあまあ、落ち着けよ。まだ試合は終わっちゃいねえだろ?」

 星の頭上から声が聞こえた。ふと顔を見上げるとそこには、プロテクター一式を抱えた小波が目の前に立っていた。

「小波……。すまねェ、俺達がもっとしっかりしてればお前にこんな苦労な試合なんかにはさせずにいられた筈だ」

 星はギュッと唇を噛み締める。

 見るからにボロボロな小波を助けることも出来ないのを言葉にして表すとより一層自分自身に腹が立ってきた。

 だが、小波が発した次の言葉は意外な言葉だった。

「決勝戦はこれからだ。楽しくやろうぜ」

「……あん?」

 星は思わず耳を疑った。

 が、星は思わず笑った。

「ははッ!! そうだよな。小波、テメェは何時迄も相変わらずなクソ野郎だぜ」

 笑う理由は、そう、小波球太と言う人間はこう言う奴だと分かっていたからだ。

 どんなに点差を開かれて負けている苦しい展開だろうと小波はいつも笑って呑気に野球を楽しもうとする。

 諦めると言う事を知らないただの野球バカだ。

「チッ。弱音を吐くのにはまだまだ早ェみてェだな。良いか、小波ィ!! 俺は未だ『モテモテライフ』を諦めちゃいねェぞ!! そこん所勘違いするんじゃねェからなッ!!」

 小波が持つプロテクターを奪い取ると空かさず身体に身に付けていく。

「おう。分かったよ」

 と、小波はただただニヤリと笑いながらそのままマウンドへとゆっくりと脚を進めて行った。

 

 

 

 四回の裏、あかつき大附属高校の攻撃は五番打者の蟹川から始まる。

 塁に誰一人出さない完璧なピッチングを魅せるエース猪狩の好投。

 あかつき大附属の応援席からは勢いに乗った声援が球場内を包み込んでいる。

 そんな中、赤毛の青年は一人。内野ネット裏のプロ野球の試合開催時やイベント時に人で賑わう売店が立ち並ぶ球場入り口の陽の当たらない日陰のベンチに腰を下ろしていた。

「……はあ」

 前のイニングで少し『眼』を使い過ぎた。疲労を癒す為に目頭を軽く抑え、誰にも聞こえない音のない溜息が漏れる。

 どうして僕は此処に居るんだろう。

 今はもう野球に興味なんて一つもないのに。

 と、赤毛の青年。明日光は抑えていた灰色の瞳をゆっくりと開いた。

 

 キィィィン!!!!

 

 耳に響く金属バットの打撃音。

 一つ一つのプレーで湧き上がる歓声に飛び交う声援。

 その音を聞くたびに明日光はどんどん胸が苦しくなって行く。

「……」

 ふと脳裏を過ぎる。『過去』の出来事。

 思い出したくも無い記憶が胸を更に締め付けると、この場から早く立ち去りたい気持ちでいっぱいになる。

(未来と六道には悪いけど、僕はそろそろお暇するとしよう)

 本来ならば此処には来る予定は無いと思いながら、再び湧き上がる歓声を耳にし嫌な汗が流れるのを感じると、明日光はベンチから腰を上げた。

 その瞬間、だった。

「退いてッ!! そこの赤毛くん! ちょっとそこを退きなさい!! どいて、どいてーー!!」

 何処か聞き覚えのある台詞と慌てた女性の声が明日光に向かって走ってくる姿が見えた。

「——ッ!!」

 バッ。と、反射的にスッと身体を避けて再びベンチへと腰を下ろした明日光。

 目の前を白いブラウスに赤色のネクタイとスカート姿は恐らく『聖タチバナ学園』の制服を纏っていて、水色に染まった髪にぱっちり大きな緑色の目をした女生徒にはどこか見覚えがあった。

「……」

 明日光は記憶を辿る。すると、そんな遠い過去の思い出では無かった。

 そう、それは確か去年の十一月頃。双子の妹の未来が部活に行ったものの野球用具を忘れたのを届けに行ったあの日だと言う事を思い出す。

 おまけに水色髪の女生徒に思いっきり突き飛ばされた事もついでに思い出した。

「あーー、もう!!ㅤ折角、『おじいちゃん』の目を盗めたのにこんなに時間経っちゃってるじゃないのよ!!」

「いえいえ、どちらかと言えば。みずきさんが寄り道した『パワフルレストラン』でプリンを沢山食べたからですよ!!」

「いやいや、あそこはプリンだけじゃないで。おにぎりもめっちゃくちゃ美味いねん!!」

「いいえ、プリンやおにぎりよりも筋トレ後のプロテインが格別だ」

 よく見てみると女生徒の後方には、三つの人影が見えた。

 まず一人は、金髪の細身で何故か薔薇を手に持つ爽やか風な青年と関西弁で話すピンと立つ髪型が特徴の可愛らしい青年、ガッチリとした大きな体が特徴の漢らしい青年の三人がまるでSPの様に周りを警戒する様に女生徒を囲んで走っていた。

「……」

 あっという間に四人組みが明日光の目の前を通り抜けると、まるで嵐が去ったかの様にその場は一気に静かになった。

「……」

 一体何だったのか。ポカンと、目を点にして座ったままの明日光は座ったまま動けずにいた。

 

 

「ストライクーッ!! バッターアウトッ!!」

 剛腕が唸る。

 あかつき大附属の五番の蟹川を筆頭に、六番、七番と圧巻の三者連続の三球三振に切り伏せた小波だ。

 さらに調子を上げて来たのかキレの鋭いストレートにはスピードも増して居た。

「よっしゃァァ!! 小波ッ!! ナイスピッチングだぜ!!」

 星は悔しがる乙下の後ろ姿を横目に、ニヤリと口角を上げて嬉しがっていた。

「この調子なら追いつけるかもしれねェな。あかつきの奴らをギャフンと言わせてやろうぜ!!」

 ははは、と高笑いをする星。

 だが、隣を歩く小波からは返事は無かった。

 次の回は小波から打席が始まる為か集中しているのかもしれないと、星は何も言わずにベンチに引き下がって行く。

 そして、小波は無言のままヘルメットを被り、バットを手に握りしめて少し蹌踉めく足取りでネクストバッターズサークルへも歩き出した。

「おいおい。大丈夫かァ? 小波の野郎」

「今にも倒れそうでやんす」

 と、星と矢部は心配そうに言う。

 その横では、早川あおいも二人と同様に同じ表情を浮かべていた。

(球太くん……)

 

 

 

 

 身体が彼方此方で悲鳴を上げている。

 今は、その場凌ぎで感覚の無い右腕をなんとか『超集中』で如何にかやり過ごせては居るが、もうそんなには長くは保てないだろう。

 四つ目のストレートを投げたとしても残りの五イニングを投げ切れるかどうかは正直に言えば怪しい。

 取り敢えずチームに勢いを着けたい所だ。如何にかして猪狩から点を奪うしか無い。

 

 

 

 

『五回の表、恋恋高校の攻撃。四番・ピッチャー小波くん』

 ウグイス嬢のアナウンスを聞き、重たい足取りでネクストバッターズサークルから右のバッターボックスへと入る小波。

「……、」

 薄らに開く目の前に映ったのは全てぐにゃくにゃと歪んでいた。それは決して陽炎なんかでは無かった。

 ハッキリしない焦点で眼前に立つ猪狩を捉える。

 この試合、猪狩との二回目の対決。

 一度目の勝負はピッチャーフライで猪狩の方に軍配が上がり流れはあかつき大附属に流れているものの、小波のピッチングで流れは止まった。

 つまり、この勝負で試合の流れが変わる。

「勝負だ、猪狩」

 か細い声。誰にも聞こえない言葉を吐いて小波はバットを握り締める。

 

 猪狩対小波の二度目の対決のまず一球目。

 振り被って左腕から放たれた百四十八キロの『ライジング・ショット』がど真ん中に捻じ込まれた。

「ストライクーーッ!!」

 気持ちの篭った良い球だ。

 と、小波は嬉しそうに笑う。

 今の現状を理解しても同情心など一切見せずに、手を抜かないで渾身のストレートを投げ込んで来た猪狩に向かって微笑んだ。

 二球目を投じる。

ㅤまたも『ライジング・ショット』を放つ。

 小波も食らいつく様にバットを振り抜いたが——。

 

 

 

「あっ……」

 ベンチから勝負の行方を見守っていた早川あおいが思わず息が溢れ落ちた。

 スイングした小波はバランスを崩してバッターボックスの上に倒れてしまったのだ。

「おいおい、どうしちまったんだァ? 小波の野郎。勢いつけて転んじまったぞ?」

「小波くんらしくないでやんすね」

「それにしても今のスイングは、あまりにも小波らしくねェスイングだったよな。明らかに遅れてスイングしてたって言うか……。あいつ、まさか本当に熱中症なんじゃねェだろうな? あははっ!!」

 と、星は呑気に笑いながら言う。

ㅤすると。

「違うよッ!! 球太くんは熱中症なんかじゃないよッ!!」

 ドンッ!!

 ベンチの椅子を掌で強く叩き、怒りを露わに強力的な大声で早川あおいは星に向けて叫んだ。

 青色な大きな目からは大粒の涙が頬を伝っていた。

「えっ……!? いきなりどうしたんだよ、早川」

 ポロリ。

 ポロリと、涙が流れる。

「球太くんは、球太くんは……右肩を壊してるんだよ。痛みに堪えて、必死になってくれてるんだよッ!! ボク達を甲子園に連れて行く為に……」

 もう抑えきれなかった。

 この試合中、何度も見た。疲れ果てて倒れそうな小波の姿に我慢をして来た早川あおいの目からは涙が溢れんだかりに流れて落ちて行く。

「オイ。早川、テメェ……今、なんて言ったァ? 小波の野郎が……何だって?」

「こ、小波くんが右肩を壊してるってどう言う事でやんすか!!」

 早川の言葉に、恋恋高校のベンチに居る全員がピタッと動きを止めて早川を見た。

 小波の事は、加藤理香と早川あおいを除いて誰も知らなかった事だった。

「球太くんは……、この試合で自分の野球人生を終わらせるつもりなんだよッ!! 球太くんのボク達を甲子園に連れて行く『夢』を叶える為に……」

「バカやろうがッッッ!! ふざけた事言ってんじゃねェよッ!! 野球人生を終わらせる、だと? 『夢』を叶える? 笑えねェ冗談なんか言うんじゃねェ!!」

 星も同じくらい叫んだ。

 一体、何がどうなっているのかその真相も分からないまま。

 星は早川を歯を食いしばり強く睨みつけ、

 早川は星を涙を流し睨みつけていた。

「星くん、落ち着きなさい。早川さんの言っている事は全て本当の事よ」

 二人の間に加藤理香が割り込む様に入った。

「加藤先生まで何言ってんだよ!! 見てりゃ分かるだろ!? 小波の野郎はしっかりボールを投げれてる!! 現に『四つ目のストレート』で立ち直ってあかつき打線を捻じ伏せてる!! いつも通り普通の事じゃねェかよ!!」

 依然として加藤理香と早川あおいの複雑な表情は変わらなかった。

 訳が分からねェよ。

 散々に喚き散らし、息を切らして怒りを抑えきれずに星は金髪に染まった髪をぐしゃぐしゃに掻き乱し、ベンチに座った。

 そして。

「皆には、もう伝えた方が良いわね」

 と、静かに加藤理香は皆に告げた。

 小波球太の今までの事。右肩の爆弾の事を夢を叶えようとする為の理由を全て包み隠さずに。

 

 

 

 

 

 カウントはツーストライク・ワンボール。

 追い込まれた小波と、

 追い詰めた猪狩。

 この勝負は誰がどう見ても猪狩の方が押している、と球場内にいる数名を除いてそう確信していた。

 しかし、当の本人である猪狩守は自分の方が優勢だと言う感情は全く無かった。

 満身創痍ながらもピリピリと肌を刺す様な威圧感が目の前にバットを構える小波から伝わってくる。

 この空気に呑まれたら命取りだ。と言わんばかりに猪狩にも僅かな緊張が過ぎる。

 対する四球目。

 猪狩守は、再び『ライジング・ショット』を放り込んだ。

 リズム、フォーム、指に掛かる感触。ありとあらゆる感触がこの試合で一番と言うベストピッチングの一球を目の前の小波を三振で斬り伏せられるイメージさえも完璧だった。

 

 

 だが、

 

 それはあくまでイメージであり。

 現実に一瞬にして戻されたのである。

 

 キィィィィィィン!!

 

「——ッ!!」

 猪狩は目を見開いて、打球の行方を目で追った。快音を響かせた打球は、ライトを守る獅子頭の頭上を超えてフェンスにダイレクトに直撃する。

 此処まで恋恋高校を完璧に押さえ込んでいた左腕が、この試合初めて安打を許してしまう。

「くっ!!」

 獅子頭が打球を追う。

 フェンスに当たって跳ね返った打球はイレギュラーのバウンドでライト戦のファールゾーンへと転がる。

「獅子頭ッ!! 急げッ!! 小波は三塁を狙うぞッ!!」

 猪狩は空かさず三塁の後方へカバーに入ると、小波は覚束ない足取りで二塁を蹴り上げて三塁へと目掛けて足を進ませる。

 獅子頭からセカンドの蠍崎へ、そしてサードの天秤へとボールが送球されたが、小波は既に三塁ベース上に立っていた。

 

 ワァァァァァァァァァァァァァ!!!!

 

 沸き起こる歓声は怒号の様に球場内を大きく揺らす。

 まさに恋恋高校の反撃の狼煙とでも言うかのように声援が鳴り響く。

 

「五番 レフト 山吹くん」

 

ノーアウト、三塁。この試合初めてチャンスの場面が訪れた。

(はぁ……はぁ……。俺がホームに帰れば流れは変わる。絶対に、生還してやる……。頼むぞ、山吹)

 三塁ベース上に立つ小波も『決勝戦は此処からだ』と強く思いリードを取る。

 

 

 

 

(頼むぞ……山……吹……、)

 

 

 

 

 

 

 突如。

 小波の視界は目の前が真っ白になった。

 

 

 

 

 次の瞬間——。

 

 

 

 

 

「アウトッ!!」

 ハッと目を開ける。

 後ろから大きな叫ぶ声で三塁塁審が右手を高々に挙げてジェスチャーをしていた。

 小波は我に帰ると、猪狩が身体を此方に向けていて、身体の左側に何やら押し付けられている様な感覚を感じた。

 革製のグローブ。

 中には薄汚れた硬式球を包んでいた。

 小波は何が起きたのかが直ぐに分かった。

 そう、牽制死だ。

 リードを取った一瞬、目の前が真っ白になったのは恐らく気を失ったのだろう。そこを瞬時に見抜いた猪狩が牽制で刺したのだ。

「——ッ!!」

 ズキッ!!

 小波は、胸の奥が抉られる様な痛みを感じた。

 折角、掴んだチャンスを自らの手で台無しにしてしまったのだ。

 こんな大事な試合で、羅しからぬミスで。

 

 

 

 ベンチに戻る小波の足取りは重たかった。

 どの面を下げてベンチに戻ればいいのか、正直に言えば初めてと言ってもいいだろう。

 既に小波の『心は折れかけていた』。

 右肩の爆弾で感覚を無くし、体力も既に底をついていて、オマケに取り返しのつかないミスまで犯して、考えれば考える程、負の感情が渦巻く様に身体中に蠢いている。

「……皆、ごめん」

 ベンチに戻り、ヘルメットを外して小波は覇気のないボソッとした言葉で謝りの言葉を述べる。

 シン、と静まる恋恋ベンチ。

 反応はなかった……が、一人。

 ガシッと小波の胸元を強く握り締めて、星雄大は眉間に皺を寄せて小波は引きずられるようにダグアウトの後方へと追いやった。

「——ッ!!」

 星が顔を真っ赤にして怒っているのも仕方がない。つまらない事でチャンスを潰してしまった俺の事を思う存分に攻めて欲しい気分だった。

「小波、テメェ!! テメェは一体どう言うつもりだァ!! 『右肩の爆弾』の事、何でずっと俺たちに黙ってたんだよッ!!」

 しかし、飛び込んど来た言葉は思いもよらぬ言葉だった。

「み、右肩の爆弾……って、どうしてお前がその事を知ってるんだ……」

「加藤先生と早川から全部聞いた!! テメェの『夢』の事も何もかもだッ!! 何でお前が野球人生を終わらねェといけねェンだよッ!!」

 胸ぐらを掴む星の手が徐々に強くなるのを感じると同時に、震えているのも分かった。

「俺は……」

 と、小波は呟くと言葉を止める。

 真っ直ぐに睨みつける星から目を背けたが、ギュッと唇を一回噛み締めて声を震わせながら続けた。

「見てみたいんだよ……。早川が甲子園のマウンドに上がって投げる姿を、お前達が甲子園のグラウンドで楽しそうに野球をしている姿を……お前達が恋恋高校で野球をやっていて良かったって、野球を好きで良かったって俺はこれからもずっとお前らに思っていて欲しいんだよ!! どんな事になろうとも怪我を悪化させて、もう二度と野球が出来なくなったとしても……例え、甲子園の舞台に俺が居なくても構わねえッ!! だから俺はお前達を絶対に甲子園に連れて行くってとうの昔に決めたんだよッ!!」

 そう。

 甲子園に連れて行きたいと最初に強く思ったのは、早川あおいの出場が高野連に認められた時だった。

 日を重ね、好敵手達との試合を重ね続けて行くうちにその思いは日に日に強くなっていた。

 プロ野球選手になるのを諦めた誰にも譲れない小波球太のたった一つの『夢』なのだ。

 そんな事をお構いなしに、星は手を震わせたまま目に大粒の水滴を溜めて……ぶちまけた。

「ふざけンじゃねェよッ!! テメェだって俺達と同じで恋恋高校野球部の大切な一員なんだよッ!! キャプテンであるテメェが一緒に甲子園の舞台に居ねェンだったら、俺たちは一ミリたりとも甲子園に行っても嬉しくもなんとも思わねェんだよッ!! お前も一緒じゃなきゃここ迄、一緒に汗水流して頑張って来た意味なんて何一つねェだろうがッ!! 怪我を悪化させて野球が出来なくても構わねェだとォ!? 本当に……、いい加減にしやがれッ!! いつまでも詰まらねェふざけた意地張ってンじゃねェぞッ!!」

ㅤと、星は息を強く吸い込んで。

 力一杯に、小波に向けて放った。

「いいか? テメェが俺達を甲子園に連れて行くって寝惚けた事を言うンだったらなァ!! 『俺達がテメェを否が応でも甲子園に一緒に連れて行ってやるよッ!!』」

「星……お前」

 その星の後ろで、瓶底眼鏡から滝の様に大量に涙を流す坊主頭の矢部が立っていた。

「オイラ……。小波くんに出会えて良かったでやんす。出会えてなかったら……オイラは、きっと此処まで野球を好きになって居なかったと思うでやんす。それに悪道くんとも夜な夜な特訓とか出来ていなかったと思うでやんす。だから、オイラは小波くんに感謝してるんでやんすよ。だから、オイラ達と一緒に甲子園に行こうでやんす!」

「矢部くん……」

 今、思えば二年前の春。

 この二人の夢から始まった。

 矢部と星の『モテモテライフ』を目指す為に作られた野球愛好会が、甲子園を決める決勝戦の試合まで勝ち進んでいる。

 この二人が居たからこそ小波も早川ももう一度離れていた野球を始める事が出来た。

 

 

「ありがとう」

 

 

 二人には幾ら礼を言っても足りない位だ。

 

 ——、そうだ。

 

 まだ何もかも終わった訳じゃない。

 まだ試合に負けた訳じゃない。

 

 こんな所で挫けるな、小波球太。

 

 

ㅤ未だ、俺は『夢』を叶えちゃいないんだ。

 

 

「皆、ごめん」

 だからこそ、俺は謝らなければならない。

 俺は一人で野球をしてる訳じゃない。

 此処に居る皆で、野球をしているんだ。

「色々、勝手な事ばかりやってて自分勝手なキャプテンだけどさ。最後に一つだけ我儘な事言わせてくれ」

 全員が俺のことを見ている。

 さっきまでとは違う。温かい目で。

 このチームに居て良かった。

「俺と一緒に甲子園に行こう!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺と甲子園に行こう!!」

 と、言う球太くんの顔はいつにも増して生き生きしている様に見えた。

 全く、随分と勝手なんだから。

 どれだけボクが心配したと思ってるのなんて球太くんは知らないんだろうな。

 

 バカ!!

 

 バカ!!

 

 バカ!!

 

 ほんとに大馬鹿者だよ、キミは……。

 でも、どうしてだろう……。

 ボクはいつか球太くんがこういう事になるんじゃないかって、心の奥の何処かでは分かってた気がする……。

 署名を集めていた時もそう……。

 そうなんだよね……。

 何となく……、

 分かっていた気がする……。

 右肩に爆弾を抱えて、もう投げられなくなるのが分かっているのに……。

 いつも自分勝手で、

 何でもかんでも全てお見通しな顔で、

 自分を犠牲にしてまで相手の為なら何処までも本気になっちゃうのが『球太くん』なんだもんね。

 

 ドクン。

 

 あ……。

 そうか……。

 そうだったんだね。

 やっぱり『そう』なんだよね?

 

 

 

 そう言うキミだからこそ、

 そんなキミだからこそ、

 ボクはきっと……。

 

 

 

 キミのことを好きになったんだね……。

 

 



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第66話 反撃

「ねぇ、春海くん」

 と、栗原舞は隣に座る高柳春海の制服のシャツの袖を軽く握りしめながら震えた声で名前を呼んだ。

「もしかしたら小波くん。何処か身体の調子が悪いのかも……」

「うん。俺もそう思うよ。球太らしくないプレーだったのは今のプレーで確信した」

 恋恋高校の生徒達で陣取られた応援席。その後方から小波球太の幼馴染である二人は神妙な顔つきでグラウンドを見つめていた。

 高柳春海が言った『今のプレー』とは、小波が三塁打を放った後に、猪狩守によって牽制球で刺されてアウトになった事を示している。

「今日の試合は、あかつき相手に打ち込まれて球数は相当多いとは言っても、あの球太のスタミナだと未だ底は付いてるとは思えない」

「うん。それでも今日の小波くんは……見てて苦しそうに感じるんだよね」

 栗原の言葉に静かに頷き。口元に手を当て、考える高柳だが、一体どう言うことなのか検討も着かずにただ見守る事しか出来ずに居た。

 それでも。

 竹馬の友は、

「今の球太に何が起こっているのかは、分からないけど、でもあいつには『アレ』がある。それに球太の『本領発揮』はまだこれからさ」

 と、親友の勇姿を守り続けている高柳春海の目はとても力強いものだった。

 

 

「……球太」

 時を同じくして、高柳春海と栗原舞が座っている直ぐ近くでは六道聖も今のプレーを見て険しい顔付きで座っていた。

「おっ!? いいね〜いいねよ〜ひじりん。眉間に皺を寄せてるその表情……、凄く絵になっているよ〜」

 ハンディカメラを携えた赤毛の中学生である明日未来は、可愛い後輩の絵になる瞬間を逃さぬ様に必死にハンディカメラに収めていた。

 出来るなら私よりも試合の方を撮ってくれ、と聖は未来に対して言葉が喉の直ぐそこまで出掛かっては居たが、其れどころではなく言葉をゴクリと飲み込んだ。

「それよりさ〜ひじりん。今日の小波さんの調子は悪いのかな〜? 確かに昨日はノーヒットノーランという快挙を成し遂げて疲労は残ってはいるんだろうけど〜」

「うむ。それは私も気になっている所だ。今のは余りにも球太らしくないミスプレーなのは明白だった」

「それってさ〜『四種のストレート』の多投による疲労も多いんじゃないかな〜?」

「いや、確かにそれもあるのだが、今の球太は他に『超集中』も使用している。体力や消耗が激しい『超集中』を多用しているとなると……この先の展開は厳しいと言っても良いだろうな」

 険しい顔つきで六道聖は言う。

 だが、隣に座る明日未来は次に見せた六道の表情がとても印象的だった。

「それでも追い詰められた球太程、恐いものは無い。恐らく恋恋高校は凄まじい勢いであかつきを攻めるだろう」

 ニコッと微笑んだ六道聖。

ㅤそれは、普段では見たことのない表情をしていた。

 

 

「ストライクーーーッ!! バッターアウトッ!!」

 五番打者の山吹が見逃し三振で倒れ、アウトカウントは小波球太の牽制死を含めてツーアウトとなった。

 ノーアウトランナー無しの場面で、六番打者の海野がバッターボックスに立つ。

 

(小波、お前はどうして、あんな大事な事をずっと黙っていたんだよ!!)

 足場を均しながら、海野は冷静を保ちながらも怒りを抱えていた。

 それは先程、星が小波に向かって糾弾した時だ。右方に『爆弾』と言う怪我を負っていて、それも野球が出来なくなるレベルの大怪我を負っていながらも自分のプロ野球選手と言う夢を諦めてまで、他の部員達を甲子園に連れて行く為にマウンドに立ち続けていた事に対してだった。

 それと同時に、自分達の不甲斐なさも込み上がって来た。いや、小波の肩を壊してしまうきっかけを作ったのは寧ろ自分達のレベルの低さが招いてしまった悲劇でもあると、星や矢部、早川や海野達全員が、そう思っていた。

 小波が今まで、

ㅤどれ程の痛みに耐えていたと思う。

 どれ程の苦しみを味わったと思う。

 どれ程の辛さを噛み締めていたと思う。

(星の言ってた通りだ。小波に甲子園へ連れて行って貰うんじゃない。俺たちが小波を甲子園に連れて行くんだ!!)

 だからこそ、その証明に叫ぶんだ。

 勝つべき相手に向かって、

 打ち崩さなければならない相手に向かって。

「来いッ!! 必ず打ち返してやるッ!!」

 

 

 その様子を祈る様に手を重ねてジッと見つめる高木幸子の姿が見受けられた。

「頑張れよ……、『浩太』」

 ボソッと、小さい声で囁く。

 今では恋恋高校内の殆どの生徒が恋仲である二人の関係性を知られているが、昨日の夜遅くに高木幸子と海野浩太の二人は珍しく電話をしていた。

 高校三年生である二人の会話の殆どは、次のデートの場所とか行きたい有名なデートスポットなどや流行りのテレビの感想、と言った一般的な会話では無く。

 殆どの会話が野球の事、ソフトボールの事で持ちきりななんとも不思議なカップルなのである。

「あらあら、なんだか妬けちゃいますこと」

 その隣、煌めく、金色に染まった髪に前髪が綺麗に切り揃えられた美少女の倉橋彩乃は少し苦笑いを浮かべて高木幸子を横目で見ていた。

「な、何よ。別に良いじゃない。ああ見えても一応、私の『彼氏』なんだし……」

ㅤ少し頬と耳を赤くして高木幸子が言う。

「それに昨日、『海野』は電話で言ってくれたんだ。例え『小波より』目立てなくても、俺のプレーを見ていてくれ、応援してくれって、必ず甲子園に私を連れて行くからってさ」

 と、高木幸子は言う。いつの間にか赤く染まっていた頬と耳は、いつも通りの色を取り戻していた。

「でも、きっと海野のヤツは知らないんだろうな。甲子園に行ったら私が応援団長として応援しなきゃ行けないって事をさ」

 黒髪の癖毛頭と二年前のあの日に交わした事を思い出しながら「アイツは私との約束を守ったんだし、私も守らなくちゃね」と言葉を付け足すと、倉橋彩乃はうんざりしながら小さなため息を溢した。

「高木さん。貴女達の惚気話ならもう沢山ですわ。応援する気持ちがあると言うのなら、そんな小声でボソボソとは言わず。堂々と声を大にして言うのが効果的じゃありませんの?」

 ガシッと、手を掴まれた。

「えっ!? ちょ、ちょっと!! 倉橋!?」

 倉橋彩乃は高木幸子の手を取って急にその場から立ち上がった。

 周りの目が一気にこちらに降り注ぐ中、高木は一人目を丸くした。

「立って言うべきですわ!! 高木さん。海野さんに一番届く声援は貴女の声だけです!!」

「倉橋……」

「球太様なら大丈夫。きっと恋恋高校を甲子園へ連れて行ってくれますわ。それは私が信じる事。でも高木さん、貴女は海野さんを信じればいいのです」

「……そうよね」

「昨日、海野さんは貴女に言ってくれたのでしょ? 応援してくれ、と。なら、応援するのが筋じゃありません?」

 それは可憐に。

 目の前で想い人である小波球太が満身創痍で野球をしている中、何一つ動じず、じっと見守って来た倉橋彩乃は笑みを溢していた。

 今にでも小波に駆け寄りたい気持ちでいっぱいな筈なのに。

「倉橋。アンタは見かけに寄らず、良い奴なのね。二年間ずっと気付かなかったわ」

「それはお互い様ですわ。高木さんも見かけに寄らず、ピュアな乙女だったなんて今さっきまで気付きませんでしたもの」

 こいつ、と意地悪そうに笑う高木。

ㅤそして。

 スッと息を吸い込んで、

「浩太ぁぁぁぁ!! 打てぇぇぇぇ!!」

 

 

 ツーアウト。

 カウントはツーボール、ツーストライク。

 振りかぶった五球目。

 猪狩守の渾身の『ライジング・ショット』が目の前で構えるキャッチャーミットを目掛けて腕を振り抜く。

 

 ギュルルルルルルルルッ!!!!

 

 唸りながら迫り来る高速横回転のストレート、猪狩守の『ライジング・ショット』

 勢いに怯まずに海野はタメを作り、バットを振る。

(くそッ!! 圧倒されてる。これが、『ライジング・ショット』。なんて言う球だ。俺がこんな凄い球を打てる筈なんて無いんだ)

 諦めかけた、その瞬間。

 何千人と居る歓声が轟く中。

 一人の声が海野の耳に聞こえた。

 

「浩太ぁぁぁぁ!! 打てぇぇぇぇ!!」

 

 その声の主は、海野が一番知っている声だ。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」

 

 キィィィン!!

 

 真正面に返す様に自然にバットが振れた。

 手に残る感触は心地が良い。

「——な、何ッ!?」

 真芯で捉えた打球は猪狩の頭上を遥かに超えてセンター前の綺麗なヒットとなった。

 海野は一塁ベースに戻ると、恋恋高校の応援席をジッと見つめて、声の主に向かって少し照れながらも大きなVサインを送る。

 

「よっしゃああああッ!! 海野の野郎、遂に猪狩からヒットを打ちやがったぜッ!!」

 恋恋ベンチでは、星が喜びの声を上げる。

「まだオイラ達は誰一人諦めてなんかいないでやんすよ!! これからが試合の本番でやんす!!」

 矢部も同じく声を上げた。

「ははは……。まさか、海野先輩。昨日、自分が言った事を根に持ってるんじゃ無いッスよね?」

 と、その後ろで赤坂は引き笑いをしていた。

「ナイスバッティングだ。海野」

 小波はニヤリと笑みを浮かべて、海野に向かって『親指を立てジェスチャー』を送る。

 海野はヘルメットのツバに手を当てて了解の合図を取った。

「さあ、猪狩。ここから俺たち恋恋高校の反撃開始だ!!」

 

 ナイスバッティングだ。

 と、褒め称える言葉が聞こえた。

「まるで『紫音』から話で聞いた。四年前の全国大会の試合を見ている様だな」

 綺麗なセンター返しで一塁ランナーとなった海野の姿を眺めながら、球八高校の滝本雄二が言葉を発する。

「さっきの小波の珍しい牽制死。その次の山吹が三振で倒れてからの海野のヒットは、もしかしたら試合の流れが変わるかもしれん。お前はそうは思わないか?」

「チッ……、滝本ォ。テメェはいい加減、独り言くらい声に出さずに喋れねェのか? いちいちそんな事この俺が知った事かよッ!!」

 と、太々しく頬杖をつきながら悪道浩平は舌打ち混じりで言葉を返した。

「さっきもお前に言ったが、あの全国大会の試合で小波は『驚異的な成長』を遂げた。だが、それだけじゃない」

「ああ、そう言えば……テメェは、『チームは勢いを上げて逆転勝利を収めた』とか言ってたやがったな」

 悪道は小波に対して、『相変わらずムカつく野郎だ』と、言葉を付け足しながら言う。

「それで? それがどうかしたのかァ?」

「もしかすると、この試合今まで見たことのないくらい面白い試合になるかもしないぞ?」

「面白い試合だァ? 誰がどう見てもこの試合はあかつきの勝ちで決まった様なモンだろ。肝心の小波の野郎は見ての通り役に立たずだ。他の連中がどうこうして勝てる相手じゃねェと思うが?」

 悪道はギザギザに尖った歯を剥き出しに滝本をギロリと睨んだ。

 睨まれた滝本はフッと笑い、

「お前は未だ知らないだけさ。『能力解放』と言う『未知なる力』をな」

 

 アウトカウントはツーアウト。一塁に海野を置いて七番ライトの古味刈が右バッターボックスに立ち構える。

 猪狩やあかつき大附属のナイン達の様にある程度の力のある選手には、そのバッターの雰囲気でどの様なバッターなのかがある程度把握する事が出来ていた。

 古味刈の構えを見たあかつきナインの結論は、見るに耐えない程だ。

 緊張しているのか、バットを握りしめる両手は不自然にプルプルと小刻みに震えいたのだ。

(海野と言うヤツにヒットを打たれたのは、ちと予想外だったが……。恋恋高校は小波と星を警戒しておけば後は簡単に抑えられる)

 と、キャッチャーマスクを被る双菊は猪狩にアイコンタクトを送る。

「……」

 と、アイコンタクトを受けた猪狩は少し間を置いて小さく頷く。

 対する一球目。

 セットポジションから高速横回転のストレート、『ライジング・ショット』を放ったり

 ズバァァァァン!!

「ストライクーーッ!!」

 インコースの高めに百四十九キロの『ライジング・ショット』が、乾いた音を立てて双菊のキャッチャーミットへと突き刺さる。

「——ッ!!」

 勢いのあるストレートに、思わず古味刈は身体を仰反ってしまった。

(ま、無理も無いな。見るからに初心者に毛が生えた程度のヤツじゃ、猪狩のストレート相手にバットを振る事は到底至難の技だな)

 マスクの下でニヤリと笑みを溢す双菊。

 それに対して、猪狩は声を上げた。

「双菊ッ!! ランナーを見ろッ!! 走っているぞ!!」

「何ィ!?」

 猪狩の声に気付いた時には既に遅かった。

 一塁に居た海野は、猪狩が投げた瞬間に二塁へとスタートを切っていたのだ。

「まさか、ここで盗塁……、だと!?」

 定位置で一人。

 唖然と乙下は立ち尽くしていた。

 

「オっしゃァァァァァァァァァッ!! ナイスランだぜェ!! 海野ォ!!」

「ま、オイラから言わせれば、今の海野くんのスタートは未だ未だ甘い走塁だったでやんすけどね!!」

 海野のナイス盗塁に湧き上がる恋恋ベンチ。

「もしかして、この試合。本気で海野先輩は小波先輩より目立つつもりじゃ無いっスよね?」

 と、再度。

 赤坂は一人、引き笑いをしていた。

「球太くん。それにしても良く気付いたね。双菊くんの集中力が散漫しているなんて、普通じゃ気が付かないよ」

「ああ、それは三回の双菊での打席さ。星と会話をして、アイツは俺たちを随分と下に見てるのが分かったからな。野球歴二年と短い古味刈を相手に舐めてかかると思ったから、予めに海野には『サイン』を送って置いたんだよ」

 と、小波は『親指を立てたジェスチャー』を皆に見せながら言った。

「へへッ!! 相変わらず博打過ぎるぜ、テメェってヤツはよ!! そう言えばパワフル高校戦との試合でも大博打打ちやがったな」

「ま、そうだな。博打でも——」

「『博打でも何でも悪足掻きの一つ位はしておかねェと駄目』、だろ?」

 小波の言葉を遮り、星がニヤリと口角を上げて言った。

「分かってるって俺たちはそんな事くらい。この際、無様でも格好悪くたって良いぜ!! 勝って、お前と共に甲子園に行けるんならよ!! どんな悪足掻きだってしてやろうじゃねェか!!」

「星……。ああ、そうだな。一緒に行こうぜ甲子園に」

 

 

 ツーアウト。ランナー二塁。

ㅤこの試合で初めて、あかつき大付属がピンチの場面を迎える事になった。

 カウントは、ワンストライク。

 猪狩守は、薄々嫌な予感に勘付いていた。

(不味いな。小波の『アレ』が徐々に効果を発揮して来ている様だ。それにしても双菊の油断をどうにかしたいものだが……)

 チラリと視線をずらし、ベンチに立て掛けてある背番号「2」のユニフォームを捉えた。

 本来なら、目の前で座ってミットを構えている筈である弟の猪狩進は今は無い。

(この天才である僕がマウンドに立っている以上、このピンチを乗り越えなければならない。この試合に勝って優勝旗を奪還して、進の元に帰るのが僕たちあかつき大付属だ!!)

 メラリと静かに闘志を宿し、恋恋高校をこれ以上勢い付けてはならないと、猪狩は二球目の『ライジング・ショット』を放り投げる。

 ギュルルルルルルルーーッ!!

 フォーム、動作、指の掛かり具合、文句のない渾身のストレートを放り込めたと猪狩は確かな手応えを感じていた。

 それと同時に、勘付いていた嫌な予感が拭えた訳では決して無い。

 

 古味刈がボールをしっかりと目で捉え、バットを振り抜く。

 

 心地の良い、金属音。

 

 猪狩守の嫌な予感は的中した。

 

「わあああああああああーーッ!!」

 打球は高々と打ち上がる。

 ぐんぐん、ぐんぐんと伸びて行く。

 レフトの乙下が加速して打球の落下地点へと駆け出すと、センターの牛澤も追いかける。

 

 カコーン。

 

 古味刈が、無我夢中で一塁を蹴り上げた頃。

 目の前に映った景色は、ボールがレフトの前に転がっていたが、乙下は追いかけるのを止めていた事と三塁塁審が右手を挙げて回していた事と、スタンドと球場全体が大きな歓声で揺れていた事だった。

 見たことない景色に、何が起こったのか定かでは無い古味刈の動きは見るからに相当ぎこちないモノであり、

「古味刈先輩ッ!! ホームランです!! 打球がレフトのポールに当たったんですよ!!」

 と、一塁コーチャーを務めている御影龍舞が顔を真っ赤にして喜びの声を上げた。

 それを聞いた古味刈は、思わず恋恋ベンチに目を向ける。

 ベンチから半身を乗り出して雄叫びを上げる星や両手を天高くに掲げてはしゃぐ矢部、抱き合って喜び合う早川あおいと七瀬はるか、それぞれの姿が瞬間に目に焼き付いた。

「うぉ……」

 と、踏み出した一歩を踏み締める。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーッ!!」

 拳を高く。

 古味刈は、ほんの小さく控えめなガッツポーズをしてダイヤモンドを走り出した。

 そして、恋恋高校に待望の『2』と言う得点のランプがスコアボードに灯ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「あの猪狩の『ライジング・ショット』をホームランにして打ちやがったぞ!! 正直言って何でレギュラーなのか不思議と思ってはいたが……えっと確か名前は……、コミカルだっけ?」

 ホームランの瞬間。危うく飲みかけていたスポーツドリンクを一気に吹き出しそうになった球八高校の塚口遊助は目を点にしながら言う。

「違うぞ、コミカリだ。それにしても海野と言い古味刈と言い……猪狩相手に良くもあんな好打を見せてくれたモンだよな。な? 智紀」

 どっしりと背もたれに寄りかかりながら、試合を眺めている球八高校の中野渡恒夫だった。

 その隣で、小柄な童顔の青年である同じく球八高校の元エースの矢中智紀は真剣に試合を見つめていた。

「どうも不思議だよ」

 と、矢中智紀が言う。

「小波くんのアウトから、一気に流れが変わった雰囲気がしたんだけど普通ならその逆だ。あかつきに勢いの流れが行く筈なのに……どうしてなんだろうと不思議で仕方がないよ」

 理解出来ない何かが起こっている。

 しかし、その何かが分からず矢中智紀は真剣に考えていた。

「神島。お前のデータ収集に秀でている『目』には恋恋高校はどう見えてるんだ?」

 と、塚口遊助が問う。

 すると、神島巫祈は『目』を見開いて驚きの表情を浮かべていた。

「それが私の『目』ですら全く予測が付いていないのよ。猪狩くんから打った二人ともミートやパワーでは完全に押し負けていて長打なんてとてもじゃないけど打てる筈なんてないのに……。基礎能力が試合中に向上するなんて……」

 見たことない表情に、矢中と塚口、中野渡の三人はお互いの顔を見合わせた。

 そんな三人の事など気にも止めず、神島巫祈はバッグから一冊のノートを取り出して、ボールペンで殴りつける様に文字が書かれたページをジッと見つめる。

(それよりも小波くんが『虹色』の光を纏った事が一番気になるわ。『金色』の光は『能力解放』、つまり『超特殊能力』の解放……。だけどあの虹の様な光は……これって、まさか!?)

 

 

 

「三点差まで追い上げた。未だ油断は出来ないけれど、球太達にとってはこれは大事な二点だね」

 と、高柳春海は少し胸を撫で下ろしながらゆっくりと言った。

「うん。未だ三点も点差があるからね。それに試合は未だ中盤。何が起こるか分からないものね」

 と、栗原舞も不安は徐々に緩和されたのか焦った不安の表情は和らいでいた。

「春海くん。これって……」

「舞ちゃんの思った通りだよ。きっと球太の『アレ』、つまり『精神的支柱』で皆のモチベーションが上がってるんだよ」

「やっぱり……。それじゃ、きっかけは小波くんがアウトになってからだよね?」

「ああ、きっとベンチで球太と恋恋メンバーの中で何かがあったんだと思う。五番の山吹はネクストバッターズサークルに居たから何が起きたかは彼は知らなかったんだろう。六番の海野から明らかに雰囲気が変わったからね」

 この流れを大事にしろよ、と高柳春海は優しく恋恋高校に向けてエールを送った。

 

 

 恋恋高校00002

 あかつき5000

 

 

 五回表、ツーアウト。

 スコアは五対二であかつき大附属がリードしている決勝戦。

 恋恋高校の攻撃は八番・ファーストの恋恋高校の中では唯一のレギュラーを務める一年生の京町一樹がバッターボックスに立つ。

 

 

「この勢いだト。もしかすると、あかつきが恋恋高校に呑まれる可能性があるネ」

 観客の為に解放された外野スタンドで、ハーフ顔のリーアム楠が呟いた。

「そうなるとオラの『愛しのダーリン』が甲子園の大観衆で注目の的になるべ!! ダーリンがモテたらどうするべ!!」

 と、嬉しさ半分嫉妬半分の複雑な表情で瓶底眼鏡の女生徒の矢部田亜希子が頭を抱えながら反応を示した。

 外野スタンドから試合を観戦している聖ジャスミン学園の一行の中で、一人だけ目立つ日傘を差して太陽の熱を避けている金髪の美女は不敵な笑みを溢していた。

「何だか嬉しそうだネ。君の言う『Plan 3rd R.』の足しにはなりそうかイ?」

 と、リーアム楠が金髪の美女——、八宝乙女に向かって言葉を投げる。

「ええ、勿論ですわ。『猪狩守』を筆頭に、『小波球太』『久方怜』『滝本太郎』『清本和重』『太郎丸龍聖』『大西=ハリソン=筋金』と言った『猪狩世代』が今後のプロ野球界を担う存在になるのは明らかですから」

 八宝乙女はクスッと笑う。

「それは楽しみだヨ。でも、俺は卒業したらアメリカに戻らないと行けないかラ、彼らの活躍をリアルタイムで観れないのはとても残念ダ」

 リーアム楠は残念がる。

「そうですわね。来年の春には卒業。それぞれの進路がありますわね。皆様はもう進路は決めてますの? ま、この私は八宝カンパニーでの仕事がありますから問題はありませんけど」

「オラは大学さ行くべ。私はイレブン工科大学に行こうと決めてるべ。文武両道がモットーの理系大学、オラにぴったりだべ」

 と、矢部田。

「私と小鷹、ヒロの三人は満通万教育大学に決めてるわ。野球やソフト関係のコーチとかの勉強がしたいしね」

 と、美藤が言うと隣に座る太刀川もコクリと頷いた。

「私は、もう選手としてはグラウンドに立つのは無理だから。治療しながら通う感じになるけどね」

 左肩に巻かれた包帯を見つめながら言う。

 太刀川広巳は過度の投球練習、オーバーワークが祟った『インピンジメント症候群』を発症してしまったのは既に周知の事だとは思う。

「……」

 その太刀川を横目に見る八宝乙女は、申し訳ないと言いたそうな表情をしていた。

 春の大会。対恋恋高校戦の試合途中にて太刀川の左肩は限界を超えてしまった。

 誰がどう見てもとても投げられる状況では無い中、それでも太刀川はマウンドを降りる気は無かった。

 その時、八宝乙女は太刀川本人に投げる事を許可した。

 もし、この時にマウンドを降りさせて棄権試合で終わっていたら……、太刀川広巳は此処まで酷い怪我をする事は無かっただろう。と、八宝乙女は責任を少なからず感じているのだ。

「何浮かない顔をしてるの?ㅤ八宝さん」

「え……? いえ、そんな」

「まさか私の左肩の怪我の事、自分の責任とか思ってたり?」

「……」

「私たちの高校野球は春の大会で終わっちゃたけど、その事に対して悔いは無い。私はこの聖ジャスミン学園で貫人くんや八宝さんと皆と野球が出来たことをずっと誇りに思う。だから、これで良いんだよ」

「……。そう言って貰えると助かりますわ」

 口元を緩めながら、八宝乙女は深々と頭を下げる。

「でも、俺的にはマウンドに上がった小波球太くんと一試合だけ戦って見たかったナ。『怪童』の『能力解放』のピッチャーなんて出会えるモンじゃ無いしネ。オマケに星くんは『勝負師』の『能力解放』の可能性も秘めてる様だシ」

「そうですわね。本来の貴方の力なら、良い勝負になっていたかもしれませんわ」

「そう言う君こソ、『アーチスト』の『能力解放』が出来るから楽しい試合になると思うけどネ」

 過ぎた事はもう良いか、とリーアム楠は鼻歌を交えてグラウンドに顔を向ける。

 対して、この人は何処までも自由人なのかしら、と不服そうな顔つきでリーアム楠を見ていると、

「ねえ、八宝さん」太刀川が声を掛ける。

「何かしら?」

「もしかしたら、だけど。小波くん右肩を壊しているかもしれない」

 今日のこの試合、小波球太のピッチングに違和感を感じていた太刀川が言った。

「——えッ!?」

「今日の小波くんの立ち上がり。何かを痛みを庇うようなフォームだった。スピードもボールの勢いも無かったでしょ? それにさっきの打席の三塁打の後……」

「まるで牽制球が見えていなかった。恐らく疲労と痛みが限界を超えて、一時的に気を失った……という事かしら?」

「恐らく……」

「太刀川さんの言ってる小波くんが右肩を壊していると言うのが本当だったラ、失点以降の彼のピッチングは凄まじいネ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 球場から遠く離れた場所。

 大きな白い建物、頑張中央病院の薄くドアが開いてあるとある一室からラジオ中継の音声が漏れ聞こえていた。

『さぁ、予選大会の決勝戦。ようやく試合が動き出しました!! 海野くんのヒット、盗塁でチャンスを作り、続く古味刈くんのツーランホームランで三点差まで詰め寄りました!! 続くバッターは、八番打者の京町くんに打席が周りました!!』

 廊下に微かに響くノイズ混じりのラジオ中継に気付いた看護婦が、ドアを開ける。

「もう。猪狩進さん!! ドアが開いたままでしたよ? これじゃ他の患者さんにも迷惑……」

 看護婦が言葉をピタリと止めた。

 一瞬。さーっと、血の気が引いた。

 その室内に居るべき筈の、猪狩進の姿はそこには無かった。



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第67話 『ライジング・ショット』対『勝負師』

 

 五対二。

 あかつき大附属が三点のリードで勝ち越している決勝戦。試合は五回表を迎えてアウトカウントはツーアウト。

 攻撃しているのは恋恋高校で、八番打者の京町の打席を迎えている。

 カウント。黄色が二つ、緑色が三つ、とランプが灯火したツーストライク、スリーボール。

 猪狩守は、この大会中では珍しくも一人の打者にスリーボールを出していた。

 恋恋高校で唯一の一年生レギュラーである京町は、好打者でも無ければ強打者でも無い。あかつき大附属の様な強豪レベルから見てみれば決して油断するべき相手では無いと言うのは明確な事だ。

ㅤだが、しかし。

 その恋恋高校に『小波球太』と言う人物が居るという事がたった一つの問題だった。

 小波球太とリトルリーグ時代にはライバルとして戦い、中学時代は仲間として戦って来た猪狩守はその事についてはチーム内に置いて誰よりも深く良く知っている。

(『精神的支柱』。小波にはチームメイトの能力を向上させる『超特殊能力』の『能力解放』を持っている。そうじゃ無ければ、この僕が何の実力もない彼らに二点を取られる筈などない)

 グッ。と、唇を噛み締める。

 その行為は、決して悔しさからでは無く。

 自分自身の注意力の甘さに対して、だ。

 京町に対する六球目。

 左腕から放たれたのは自慢のストレート、『ライジング・ショット』では無く。キレのある変化球、横に流れるように曲がるスライダーで空振りを誘う。

(この球で流れを止めるッ!! これで空振り三振だ!!)

 京町はスライダーをスイングしてボールは双菊の構えるミットに収まって三振——、予測はその筈だった。

 が、しかしながら猪狩守が予測した結果とは大きく違った。

 京町がスライダーを読んでいたのか、はたまた偶然かは分からないが、スイングしたバットはそのスライダーを芯に対して完璧に捉えていたのだった。

 

 キィィぃィィン!!

 

(——ッ!! まさか……!? この球も、だと!?)

 

 快音を響かせた打球は、勢いよく三遊間を貫くようにレフトへと転がった。

 

「よっしゃあああああああ!! ナイスバッティングだぜ!! 京町ッ!!」

 レフトへ安打を放った京町に向かって、星は喜びの声援を贈る。

 ツーアウト、ランナー一塁。

「あの猪狩くんから続けての三連打!! いい流れが来てるでやんす!! コレはいけるでやんす!!」

 同じく矢部明雄もネクストバッターズサークルへと向かうべくヘルメットを勢い良く被る。

 この流れを止めてはならない、と。

「おいッ!! 矢部ェ!! ちょっと待て!!」

 ネクストバッターボックスに向けて足を踏み出した瞬間、星が声を掛けた。

「星くん。どうしたでやんす?」

「俺たちが野球部を立ち上げて初めて浩平達と戦った時の事を覚えてるか?」

 と、二年生の春の頃の出来事を口にした。

「確か。去年の春の練習試合だったでやんすね。勿論、覚えてるでやんす。それがどうかしたでやんすか?」

 勿論、忘れる事はなかった。矢部と星の二人の実力不足を痛感した試合だったからだ。

「そん時によォ。俺たち『強くなろうぜ』って言ったよな?」

「確かに言ったでやんす」

 コクリと頷く矢部。

 そして。

 トン。と星が握って出来た拳が、

 矢部明雄の胸に押し当てられた。

「それならあの時から成長したって事を今から証明しようぜ。テメェが、この恋恋高校の『スピードスターの矢部』だって言う事をこの場にいる全員に堂々と見せつけてやろうじゃねェか!!」

「星くん……」

「矢部。気張って行け!!」

 そして。

 トン。と返すように、

 星雄大の胸を拳で押し当てて。

「勿論でやんす!! この試合に勝って、小波くんと……皆と甲子園に行ってこのチーム全員で甲子園で野球をしたいでやんす!!」

 そこに。試合中幾度も訪れたいつものようなふざけた空気は無く、揺るがない決意のようにキリッとした表情で星雄大は矢部を送り出し、応えるように矢部明雄はネクストバッターズサークルへと走り出す。

「頼んだぜ、矢部。お前の全てをありったけぶつけて来い」

 

 

 

 ズバァァァァァァァン!!

 

 山の宮高校の野球グラウンドの片隅、ビニールハウスで形取られたブルペンに二人の姿がそこに在った。

 一人は豪速球を放り投げる太郎丸龍聖、そしてその球を受ける名島一誠の姿だった。

「それにしてもやるじゃねえか恋恋。猪狩筆頭の強者揃いのあかつきを相手に随分と喰らい付いてやがる」

 パイプ椅子の上にポツンと置かれているラジオを流しながら二人は投球練習を行なっていた。

 前日。恋恋高校の小波球太にノーヒットノーランで敗北して高校野球を引退した三年生である山の宮バッテリーの二人だが、二人は既に今年の十月の末に行われるプロ野球の新人選手獲得の為に行われる会議、『ドラフト』へのプロ志願届を既に提出しおり、二人は引退してからも自主練習と言う名目で体づくりに勤しんでいた。

「今日は決勝戦。勝った方が甲子園だ。中学時代に手を焼いた小波と猪狩の元チームメイト同志の戦い。どういう試合になるか分からないものだ」

 キャッチャーミットで収めた球を名島一誠はひょいと中に上げて右手で掴み、そのまま太郎丸龍聖に向けてボールを返す。

「俺たちを破った小波達、それを迎える猪狩達。十分に見応えのある試合になる筈だ。考えるだけでこっちも闘志が燃えてくるぜ!! まあ、小波も猪狩も来年からはプロの舞台で共に戦えるってだけでもワクワクが止まらねえんだけどな!! セ・リーグ、パ・リーグで別々だったらしょうがねぇけど」

 と、太郎丸龍聖は嬉しそうに言う。

「……、」

 だがしかし、対照的に名島一誠は黙りだった。

「ん? 一誠?ㅤどうかしたか?」

「いや、恐らく小波は『プロ野球』の舞台には上がって来れないと思う」

「はぁ? お前、何言ってんだ? だってあの小波だぞ? アイツはプロに絶対来るだろ」

「ああ、まあ、そうなんだが……」

 名島の言葉を受け困惑気味の太郎丸。

 しかし、名島は昨日の試合で『ある違和感』を一つだけ感じていた。

 それは太郎丸龍聖の『アンユージュアル・ハイ・ストレート』をスタンドに運んだ時の事だった。

 小波の右側、主に右肩から鈍い音——、何かが『切れ』、何かが『砕けた』、側で聞こえて思わずゾッとしてしまう程の嫌な音を聞いたのだ。

 その事を踏まえて、名島は太郎丸に自身が感じた違和感を伝えた。

「……マジかよ」

「俺の予測だが、小波の肩は昨日の時点でなんらかの『致命的』な大怪我を負っていた。昨日の試合、四球でランナーを出したのも、今日の試合で立ち上がりで調子が悪かったのも恐らくそれが原因とも言えるだろう。もし、その怪我が更に悪化した場合、プロ野球は愚か野球すら出来ないレベルの致命的な怪我だ」

「でも、小波は五失点から立ち直って今は完璧にあかつきを封じてるのを一誠もラジオ中継で聞いてただろ?」

「『小波だから』と言ったらどうだ? 龍聖」

「——ッ!?」ハッとする太郎丸。

「小波と言うヤツは、試合が終わる最後の最後まで何をしでかすか分からないヤツだって事をお前も良く知っているだろ?」

「ああ、確かにな。アイツの怖さってのは痛いほど分かってる。それにしても残念だな。プロの世界で投げ合えるのを楽しみにしてたんだけど」

 太郎丸は少し寂しそうにしながら言う。

「ま、お前には『八雲紫音』や『一ノ瀬塔哉』に『二宮瑞穂』、それにも『滝本』『清本』『久方』と言った昔馴染みの仲間との対戦だってあるだろ」

「あの懐かしいバカ達と戦うのも良いな。それにな一誠。お前は俺がもう一人対戦が待ち遠しいヤツを忘れてるぜ」

「ん? 後に誰か居たか?」

「ああ、居るさ。なんなら他の奴らよりももっと対戦したいバッターがな。そう、『名島一誠』お前だよ」

 と、太郎丸龍聖はニヤリと笑い。

「——ッ。お前ってヤツは……」

 と、名島一誠も同様に笑っていた。

 お互い顔を見合わせながら。

 何も言わずにもう一度、太郎丸は名島のミットへと勢い良くストレートを放り込んだ。

 

 

 ズバァァァァン!!

 

「ストライクーーッ!!」

 百五十キロの『ライジング・ショット』が突き刺さる。

 ツーアウト、ランナー一塁。恋恋高校打線の九番打者、毛利が右バッターボックスに立っている中、捻じ込まれた唸る豪速球がストライクゾーンへズバッと決まった。

 海野、古味刈、京町の三連打を浴びながらも依然として猪狩の『ライジング・ショット』の球威に今のところ衰えは見られ無い。

 カウント。ワンストライク・ワンボール。

 猪狩守はこのイニングだけで二十四球を投げている。小波の牽制死でツーアウトを奪って以降、アウトが取れない中、二十五球目、毛利に対して三球目を投じる。

 ストンと落ちるキレのあるフォーク。

「ボール!!」

 しかし、ストライクゾーンからややズレてしまいボールのコールが響く。

(猪狩は、決して疲れている訳じゃない。恋恋高校の謎の雰囲気に呑まれてるんだ。あの猪狩も、そしてこの俺も……。一体、こいつらに何が起きてるって言うんだ!?)

 キャッチャーミットを一球一球受ける度に双菊は恋恋高校に対して違和感を強く感じた。

(次は、カーブで空振りを取るぞ)

 双菊は猪狩にカーブのサインを送る。

 毛利に対して、四球目。

 左腕から放たれた緩やかな曲線を描いた変化球、カーブを巧くタイミングを合わせてバットを振った。

 キィィン!!

 金属音と同時に京町が走り出して加速する。

 一、二塁間の間を、京町の前を痛烈な打球が通り抜けた。

「——ッ!?」

(ふざけるなッ!! この球も……打たれただと!? こんな素人同然のチームに!?)

 双菊はマスクを取り唇を噛み締める。猪狩は振り返り打球の通過点を睨みながら、三塁のベースカバーへと足を進めた。

 好スタートを切った毛利は既に二塁を蹴り上げて三塁へ進塁しようとしていたのだ。

「椎名!! ホームに行けるか!?」

「毛利先輩ッ!! ここはストップです!! ストップ!!」

 三塁コーチャーの椎名繋が、毛利が三塁ベースを踏んだ所で静止させた。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっー!!」

 湧き上がる歓声。

 ツーアウト、ランナーは一、三塁。恋恋高校の攻撃は止まる事を知らない勢いだ。

 

 

 

 

 

 片手に自販機で購入したアイスコーヒーの缶を持ち、明日光は妹の明日未来と後輩の六道聖が居る場所へと脚を進めていた。

 先程、球場を後にしようとしていた明日光であったが、同い年と思われる『聖タチバナ学園』中等部の制服を纏った水色髪の女性を見かけた事で光は帰ることに対して思い留まる事にした。二人が待つシートへと戻って来てみると、いつの間に恋恋高校のスコアボードに二点の得点を示す数字がある事にまず驚いていた。

「あっ!! 光〜。どこ行ってたの〜?」

 耳に飛び込んだ声。その声の主は同じ赤色の髪の毛。

 まるで鏡写しの様な同じ顔の妹である明日未来は明日光に向けて手を振りながら大声で声を掛けてきた。

「うん。まぁ、ちょっと喉が渇いてね……」

「一人だけずるいな〜。私ってば、光はもう帰っちゃったとばかり思っちゃったよ〜。あはははは〜」

「……、」

 と、本当は帰るつもりだった明日光は何とも言えない表情を浮かべて自販機で購入したアイスコーヒーを片手に明日未来の隣にゆっくりと座る。

「ねえねえ、光!! 今はなんと!! 絶賛フィーバータイム中なんだよ〜!! 恋恋高校が凄い勢いで追い上げて来てるんだよ〜凄いでしょ〜!!」

「……見てれば分かるよ」

 言わなくても分かる。そんな表情で光は小さい声でボソッと言う。

「全くつれないな〜〜。昔の光だったら今の私くらいのテンションで大はしゃぎだったのに〜」

 口を尖らせる未来。

「……。昔の事は関係ないよ」

「む?ㅤ光先輩は昔は未来先輩の様に明るかったのか? それは初耳だな。でも確か小学五年生までは友人と一緒に少年野球のリトルチームに所属していたのだろう?」

 と、六道聖が興味を示す。

「うん!! そうなんだよ〜。光はね〜。もう根っからの野球少年だったんだよ〜」

「それでは未来先輩も光先輩と一緒に野球をやっていたのか?」

「ううん」

 と、未来は首を振ると、再び言葉を続ける。

「私はね〜。光が野球を辞めた次の年、小学六年生から野球を始めたんだ〜。だから光と一緒に野球は勿論。キャッチボールすらやった事は無いんだよ〜。それに、さっきも私言ってたでしょ? 私の『夢』は光と野球をやる事だ、って」

「だから僕はもう野球やらないって……」

 明日光は露骨に嫌な顔を見せた。

 灰色の光の目、青い色の未来の目。両者の目に同じ顔が映り込むと、未来は笑い始めた。

「あははは〜。そうだったっけ? そう言えばそうだったね〜」

「昔と言えば。未来先輩は昔から今の様にうるさ……明るい性格だったのか?」

「えっ? 私〜? 私はね。昔は――、」

 

 

 と、明日未来が言いかけた時だった。

 

 

 

 キィィィィン!!

 

 

 快音が鳴り、追いかけるように未来と聖は視線をグラウンドに向けた。

 その、視線の先。一番打者の矢部の打球がライトオーバーの長打を放ち、打球は深く転がっていく。三塁ランナーの毛利が生還して三点目のホームを踏み、京町も懸命に脚を進めて三塁ベースを蹴り上げた所で三塁コーチャーの椎名は勢い良く腕を回したのだ。

「——ちょっ、椎名先輩ィ!? あんたは鬼ですかッ!?」

 三塁ベースで止まろうとしていた京町は思わず椎名の指示に声を荒げる。

「こればかりは仕方ない。もう矢部先輩がこっちに向かってるんだ」

「ひぃぃぃ〜ッ!! 何やってんですか!! あの眼鏡先輩はッ!!」

 

 

 

「おっ!? 狙うのか四点目ッ!! タイミング的には間に合うかどうか分からねえぞ!?」

 思わず前のめりになりながら、球八高校の塚口遊助が大声を上げて叫ぶ。

「いや、四点目を取るに行かざる終えないだろうね。何せ矢部くんがもう既に二塁を蹴り上げているからね」

 と、冷静に言うのは矢中智紀だった。

 矢中の言葉通り。打った矢部本人は俊足を飛ばして二塁ベースを蹴り三塁ベースを狙っていた。

「おいおい……。マジかよ!? 時代に似合わない瓶底眼鏡の矢部ってあんなに足って速かったっけか?」

 と、驚きを隠せない中野渡恒夫。

「いいえ、違うわ。彼の走力の能力が上がっているんだわ……」

 パタンと足元に殴りつけた様に文字が書かれたノートを落として、球八高校のマネージャーを務める神島巫祈は『目』を開いきながら横に首を振る。

(小波くんは選手の基礎能力を僅かに向上させる『精神的支柱』の『能力解放』を持ってるのは確定している……)

 神島巫祈が得意とするデータ収集の中では、恋恋高校の大凡のデータは既に入手済みである。その中でも小波球太の『怪童』と『精神的支柱』、星雄大の『勝負師』と言った『能力解放』が出来る選手はこの二人だけだと割り出されていた。

 

 けど、それとは別に。

 

 いや……、まさか。

 

 そして、一塁ランナーだった京町が三塁ベースを蹴り上げてホームへと突入する。

 アウトかセーフか。誰もがその結果の行方を見届けてようと視線はバックホームに釘付けになっている最中。

 神島巫祈は見逃さなかった。

 ゆらり、と一瞬。

 その僅かだけ矢部の身体が『金色』のオーラを見に纏っていた事を彼女は見逃さなかった。

(まさか……!? 『超特殊能力』の一つでもある『高速ベースラン』の『能力解放』をしたとでも言う事!?)

 

 

 結果的に、京町はホームベースを踏み生還してあかつき大附属に追い詰める一点の追加点を決めた。

 スコアは、五対四。

 遂に一点差まで追い詰めた恋恋高校。

 タイムリースリーベースを打った矢部は三塁で足を止めて恋恋ベンチに向かって高く強くガッツポーズを掲げていた。

 

「ハッ!! 馬鹿が呑気に浮かれてやがる。まだ追い付いた訳じゃねェのによォ。全く愉快な野郎だぜ」

 不機嫌に声のトーンを落としながら言葉を口にしたのは元チームメイトである悪道浩平だった。

 目付きの悪い視線で腕を上げて喜ぶ矢部を見つめる悪道浩平は、ギザギザに尖った歯を剥き出しにしている。

 隣に居る滝本雄二から見てみれば、その表情は特に怒りを表していると言うより何処となく嬉しそうな表情に見て取れた。

「意外と素直な奴なんだな。お前は」

「……あ!? 何か言ったか? 滝本ォ」

「いや、別に。何も言ってないさ」

 悪道浩平は、滝本を鋭く睨みつけると小さく舌打ちを鳴らした。

 

 

「おいおい。見た事ねぇぞ!! なんだ!? あの足の速さは!!」

「矢部ってヤツ、あんなに足が速かったか!?」

 ざわざわ、と。

 恋恋高校二番打者の赤坂がバッターボックスへと向かい、三番打者の星はネクストバッターズサークルで数回素振りをしながら、微かに観客席から聞こえた矢部の足の速さを称賛する声を聞き逃さなかった。

(矢部。テメェ、最高だぜ!! 最高に漢を見せつけてくれたじゃねェか!! 俊足、まさに『スピードスターの矢部』だ!!)

 高ぶるテンション。

 星のモチベーションも最高潮に達する勢いだ。

 

『二番、ショート、赤坂くん』

 

「よっしゃあああああ!!」

 気合を込めた咆哮を一つ。恋恋高校二年生の赤坂紡がバッターボックスに立ち、猪狩守に向かって吠えた。

 ツーアウト、三塁。

 一打出れば同点の場面で、恋恋高校にとって大事なチャンスの場面を迎える。

(頼むぜ、赤坂。何としてでも矢部の野郎を返してくれ。同点ならまだ勝機はある)

 チラッと、ベンチを見る。

 星の目には、プロ野球選手と言う自分の夢と自身の右肩を壊してまで甲子園に連れて行くと自分勝手で我儘を言った小波球太の姿が映る。

 今にも倒れそうな程、疲れ果てた小波の姿は見ていられない。

(絶対、テメェを甲子園の舞台に引っ張って行ってやるからな。後一歩の所まで来てんだ。こんな所でぶっ倒れんじゃねェぞ、小波)

 

 五点のリードを奪っていたが、遂に一点差に追い詰められたあかつき大附属ナイン達にもいよいよ焦りを隠しきれ無いと言った様子だ。

 マウンドに上がるエースナンバーを付ける猪狩守は流れる汗を青色のアンダーシャツで拭って冷静をギリギリに保っては居るが、小波球太の『能力解放』の一つである『精神的支柱』による恋恋高校の猛攻を止める為の打開策が思い浮かずに居る。

 アウトはツーアウト。残るアウトは一つで攻守交代の所まで来ているのだが、あかつき大附属には嫌な流れが漂っていた。

(完全に試合の流れが恋恋に持っていかれたな。この流れを止められるのは、……もう、進しか居ない……)

 この球場には居ない入院している弟の猪狩進の存在が必要不可欠だと、猪狩守は思った。

 ベンチの椅子に立て掛けられている「2」と刺繍されたユニフォームに目を向ける。

 本来なら目の前で、自分のボールを受けている筈の猪狩進のユニフォームを見た。

ㅤもし、この場に居たのなら試合展開は変わっていただろう。

 と、猪狩守にとっては珍しいと言っても良いほど集中力が散漫になっていた。

 

 対する赤坂に投じた初球。

 狙いは高めのインコース。

 振りかぶって腕を振り抜く——。

「ッ!!」

 指先からボールが離れた瞬間。

 猪狩は思わず声が漏れる。

 左腕から放たれたボールは……。

 

 

 

 

 ドスッ!!

 

 

 

 

 と、鈍い音が鳴る。百四十キロの球威の無いストレートが赤坂の背中に当たった。

 あかつき大附属のベンチと場内は騒然。そう、此処まで無死球で投げ抜いて来た猪狩守の今大会初めての死球者が出たからだった。

「赤坂ッ!! 大丈夫か!?」

 次の打者である星が、蹲る赤坂に駆け寄り声を掛ける。

「痛ててて。俺は大丈夫ッス」

 それよりと、赤坂は激痛に顔を歪ませながらも星に言葉を返す。

「星先輩。後は任せたッス」

 そう言葉を残して赤坂は一塁へと走り出して行き、一・三塁の場面で三番打者星に打席が回る。

 

 

 

「さあテ、これでツーアウト。一塁、三塁でバッターはチャンスの場面に最も効果を発揮して、その能力を持つに相応しい『勝負師』の『能力解放』を持つ星くんダ。これは見ものだネ」

 と、リーアム楠が腕を組みニヤリと笑いながら言う。

「行けェーーッ!! 打てェーーッ!! 猪狩くんをけちょんけちょんにぶっ飛すべェーーッ!! 頑張れェーー!! 『愛しのダーリン』!!」

 ブラウン色に染まった髪を靡かせて、瓶底眼鏡の女生徒の矢部田亜希子が誰よりも大きな声で叫んでいた。

 おまけに左手には普段から使用していたグローブを填めて、いつでもホームランボールが来ても取れるように用意周到だ。

「あははハ。日本の恋する女性ハ、熱くなると口が悪くなるなんテ、日本に三年間過ごしていて今日初めて知ったヨ」

「……、矢部田さんは別よ」

 と、呆れ口調で言葉を返すのは八宝乙女だ。

「それにしても矢部くんに『能力解放』の素質があったとはネ。見るからにやや不完全だけド、恐らく『高速ベースラン』と言った所かナ?」

「まあ、そうでしょうね。巫祈さんが驚いているのが目に浮かぶわ」

 クスッと、意地悪そうに笑う。

 

 

 

 

 

「三番 キャッチャー 星くん」

 

 右打席にゆっくりと入る星。

 睨みつける視線の先、猪狩を捉えた。

 前と変わらず一打出れば同点。さらに長打が出れば逆転と言うチャンスに星が立ち向かう。

 

 対する初球。

 猪狩守は左腕を振るう。

 

『ギュルルルルルルルルルルン!!』

 全身のバネと回転をボールに伝え、まるで拳銃の弾丸の様な高速横回転をかけて放つホップする猪狩守のストレート、『ライジング・ショット』

 

 ズバァァァァァァァン!!

 

「ストライクッ!!」

 球速表示、百四十九キロ。

 この回。既に四失点をして打ち込まれても尚、劣らない猪狩守渾身の『ライジング・ショット』がど真ん中に突き刺さった。

 球に込められた『もう打たせない』と言う猪狩守の強い想いが露わになった『ライジング・ショット』の球威に星は思わずブルッと体を震わせる程だ。

 

「……」

 おいおいおい、震えてるじゃねェか。

 まさか、ビビってるってか??

 この大事な場面で、この俺が……??

 

 ——チッ、ふざけんじゃねェぞ!!

 

 俺たちは後どの位、小波の野郎に負担をかけさせるつもりだ。

 肩を壊してる事を黙ってて俺たちを甲子園に連れて行くって勝手に決めてたバカが漸く一緒に甲子園に行くってアイツが言ったんだぞ!?

 だからよォ!!

 だから、この絶好のチャンスだけは。

 この打席だけは、ただの凡打なんかで終わっちまったらダメに決まってんだよ!!

 いい加減目を覚ませよな、星雄大。

 そろそろ一丁、派手にぶっちかましてやろうじゃねェか!!

「さぁ、来やがれ!! 猪狩ッ!! テメェのご自慢の『ライジング・ショット』を今ここでこの俺が打ち砕いてやらァ!!」

 

 ピクリ、左手が微かに動く。

 今の星の言葉に、猪狩守は僅かながら反応を示した。

 分かりやすい挑発だった。

 小波の『精神的支柱』の『能力解放』で基礎能力が上昇して一点様で追い詰められる形に陥ったこの状況で、猪狩守や双菊を含め星の安い挑発に乗るつもりは毛頭無い。

(猪狩。気にするな。お前はただコイツを打ち取れば良い、それだけだぞ)

 双菊はマスク越しにアイコンタクトを送る。

(ああ、分かってる)

 猪狩はすぐ様顔を縦に振った。

 

 二球目。

 アウトコースに逃げるカーブをファールでカットした。

 三球目。

 スライダー、フォーク、カーブ。

 星は続く球全てバットを当ててファールでしぶとく粘って行く。まるで他の球をずっと待っているかのように。

 一球外したボール球を見逃して、カウントはワンボール、ツーストライクとなった。

(こいつ。本気で猪狩の『ライジング・ショット』を待ってやがる。本気で打つつもりでいやがる)

 ゴクリ。と双菊は生唾を飲み込んだ。

 

 

「星くん!! 頼んだよッ!!」

 恋恋ベンチ。

 早川あおいが底力のある、訴えるような叫ぶような声を上げた。

「星さん!! お願いします!!」

 と、早川あおいの隣で祈る様に手を重ねてマネージャーの七瀬はるかは小声で囁く。

 一打同点。

 このチャンスの場面で、星がヒットを放てば振り出しに戻る。そうすれば試合はまだ分からなくなる。

「……、なんて事なのかしら」

 驚き隠せずに思わず言葉を漏らしたのは、恋恋高校の監督を務める加藤理香だ。

 この回は小波球太の打席から始まり、牽制でタッチアウト、山吹の三振であっという間にツーアウトとなったのにも関わらず、粘り粘ってあかつき大附属から四点を奪って一点差まで追い詰めてるチームの団結力に驚きを隠せずに居た。

(小波くんがチームに及ぼす影響力はこれほどまでの力だったとは……『精神的支柱』の『能力解放』を持ってるとは言え。小波くん、君はなんて選手なの!?)

ㅤ加藤理香は、ネクストバッターズサークルで次の打席を待つ小波球太を見つめる。

 今にも倒れそうなほど、疲弊した小波球太の限界はすぐそこまで来ている。

(今ならようやく理解出来たわ。ダイジョーブ博士が四年前に診るはずだった『あの子』じゃなくて、何故か小波くんに目を着けて彼の右肘を勝手に手術したのかを、そう、小波くんには唯一博士の気を引きつかせた『真』の『素質』が在ったから……)

 すると、加藤理香は下唇を噛み締めていた。

(『超特殊能力』を超えた『真・超特殊能力』を開花させられる唯一の選手が小波くんだったと言う訳ね)

 もう小波くんには全てを話しても良いのかもしれないわね、と加藤理香は心の中で言う。

 

 

 

 

 

 

 球場のバックネット後方。

 白衣に身を包んだ禿げた老人と、何やら奇妙な紫色の着ぐるみを纏った謎の物体(?)が、グラウンドを眺めていた。

「オー。ヤッテマス、ヤッテマス。イヤー、球児達ノ活躍ハ、イツ見テモ心ガ踊ルモノデスネ」

 と、老人がカタコトの言葉で愉快げに喋る。

「ギョ」

 と、紫色の着ぐるみが返事を返す。人の声とは思えず、まるで機械を通したノイズ混じりの声色が聞こえる。

「サテサテ、誰カ目新シイ『実験体』ハ居ナイデスカネ?」

 キョロキョロと周りを窺う老人。

 すると。一塁側、恋恋高校の応援に駆け付けた三人組に目を止めた。

 紫髪で赤目の着物を羽織った少女が一人と、顔がそっくりな赤毛の男女が二人の三人組が老人のキラリと光る丸い眼鏡に映り込む。

 オッ、と思わず口元が緩んだ。

「げどークン。コレハ素晴ラシイ『実験体』ヲ見ツケマシタヨ。アノ『赤毛ノ子』ナンカハドウデショウ? 中々、有望ナ素質ヲ持ッテルト見テモ良イデショウ。要ちぇっくシテオイテ下サイ」

「ギョ」

 何処からともなくカシャリ、とシャッター音が一つ鳴る。

 そして、再び視線をグラウンドへ。

 点灯するスコアボードに目を向けた。

 静かに、独り言を。

 語りかけるように、囁くように、

「ソレニシテモ、小波球太クン。ドウヤラコノ試合デ更ナル成長ヲ遂ゲタヨウデスネ。アノ虹ノ光ノ正体ハ……『真・怪童』デス。金色ノ光ヲ纏ウ『超特殊能力』ヲ超エタ『真・超特殊能力』デスネ」

「ギョギョ?」

 『ゲドーくん』と呼ばれた謎の紫色の着ぐるみがふにゃりと歪に首を静かに傾ける。

「彼ニハ元カラソノ素質ガ在リマシタ。現在ぷろ野球、めじゃーりーぐデモ『真・特殊能力』ヲ開花サセタ人物ハ未ダ誰一人トシテ居ナイノデス。ダカラ私ハ、『彼』デハ無ク小波クンニ目ヲ付ケタノデス。未知ナル力ノソノ先ガ知リタクナッタノデース」

 口角を吊り上げた不気味な笑みで言うが、困り眉をしながら言葉を続けた。

「ケレド……小波クンハ、コノ先ノ野球選手トシテノ道ハモウ無イノガトテモトテモ残念デスネ。医学ノ進歩、発展ノタメニハ犠牲ガツキモノデース」

 

 

 

「うぉぉぉぉぉりゃぁぁぁああああああッ!!」

 大声で叫び、バットを振り抜いた。

 大きな金属音が鳴り響くが、打球は後方バックネットに突き刺さるかの様に飛んでいた。

 左腕・猪狩守と勝負師・星雄大の対決。

 カウント。ツーボール・ツーストライクからの七球目の変化球のフォークボールをカットした所だった。

 対する星の打席では未だ『ライジング・ショット』を投じていない猪狩と双菊バッテリーもいよいよ投じる球も無くなって来た様子だ。

「しぶといヤツだな。いい加減大人しく三振して楽になりがれ」

 と、双菊は不満を露わにした。

「バカ言ってんじゃねェよ。俺はこの打席は死んでも打つって決めてんだ。右肩を壊した小波の為にも三振や凡打なんかで終わる訳にはいかねェんだよ」

 と、星は負けじに本心を吐露する。

「……」

 星の言葉を双菊は聞き逃さなかった。

「すみません。タイムお願いします」

 スッと定位置から立ち上がり、タイムをかけた双菊は猪狩守の元へマウンドへと走りだす。

「おい、猪狩。ここは敬遠を取るぞ」

「何? 正気か? 次のバッターは小波だぞ?」

「ああ、その小波だが。どうやら右肩を壊したらしい」

「——ッ!?」

 一瞬。猪狩は顔を顰めた。

「ここは星を敬遠にして、満塁の場面で小波を仕留めるぞ。そうすれば奴らに絶望感を与えてられるし流れを変えられる」

 ニヤリと笑う双菊。

 勿論、弟の猪狩進に優勝旗を持って帰ると言う約束を交わしている猪狩守。今日以上に勝ちに拘った試合はないと言う程、猪狩の心は燃えている。

 大事な試合で今後の試合展開を左右する大事な場面、自分の提案した作戦が通ると双菊は思っていた。

 ……、けるなよ。

 耳元に微かに聞こえた猪狩守の声。

「ふざけるなよ。相手を舐めるのもいい加減にしろ!! 双菊」

「猪狩……?」

 飛び込んで来たのは賛同する声では無く、全く逆の非難する言葉だった。

「此処まで追い詰められているのは僕たちが想定以上に恋恋高校を甘く見ていたからだ。それに僕は小波が右肩を壊していると言う事には既に気付いている」

「それなら簡単に打ち取れるだろ!? 何を心配してるって言うだよ」

「お前は知らないだけだ、小波球太と言うプレイヤーの実力を。小波が右肩を壊しても未だグラウンドに立ち続けている以上、僕は勝負から逃げるつもりは毛頭ない」

 これ以上、何を言った所でいい返事が返ってくる事はない。

 そう感じた双菊は観念した。

 くるっと踵を返して自分の本来の定位置へと戻って行く。

「それでよ。サインは決まったのか? 俺に投げる球。もうたった一つしかねェだろ?」

 戻ってきた双菊に、星が声をかける。

「ああ、そうだな。お前を捻じ伏せる球は一つしか無さそうだ。この球でこの流れを断ち切ってやる」

 そう。残りはたった一つしかない。

 星が待ち望んでいる。

 猪狩守の『ライジング・ショット』だ。

 

 ピリピリと、

 緊張感が漂う球場。

 その場で見守る観客席に座る人達は、その勝負の行方を見届けようとしている。

 一点差に詰め寄られたあかつき大付属。

 一点差を追いかける恋恋高校。

 ツーアウト。一、三塁。

 右打席に立ち向かうのは三番打者、星雄大。

 猪狩守は、小さく息を吐いて投球モーションへ移る。

 力と想いを込めた『ライジング・ショット』が猪狩守の左腕から打ち放たれた。

 

 

 

 カキィィィィィン!!

 

 

 

 

 

ㅤ快音が響き、

 視線は高々と打ち上がる打球へ集まった。

 

 

 

 

 

 

「まるで花火の様に打ち上がってるな。これは文句なしじゃないか?」

 腕を組んで、そう呟いたのは滝本雄二。

「フン。どでけェ花火なんざ、真っ昼間に見るモンじゃねェだろ。けどよォ……」

 打球の行方を見送りながら悪道浩平は舌打ちを鳴らしながらも、

「ナイスバッティングだ。クソ野郎」

 と、星のバッティングを褒め称えた。

 

 

 

 打ち放った打球の行先をしっかりと見つめ、確信した星はバットから手を離してゆっくりと一塁方向へと足を進める。

 三塁ランナーの矢部は大きく腕を上げながらホームベースを踏み、一塁ランナーの赤坂は高くジャンプして颯爽と二塁へ向かう。

 恋恋ベンチでは、早川あおいと七瀬はるかが目に涙を浮かべお互いに抱き合いながら喜ぶを露わにしていた。

 あかつき大付属の猪狩守は打球の着弾点を見ようとはせず帽子を深く被り下を見つめ、双菊はキャッチャーマスクを外して茫然と立ち尽くしていた。

 ゆっくりダイヤモンドを一周し、逆転の七点目の得点のホームを踏んだ星は、駆け寄る矢部と赤坂をスルーしてすぐさまネクストバッターズサークルに立っている小波の元へと向い。

 ガシッ。と、小波の身体を抱きしめた。

「小波!! やったぞ!! 俺……俺……!!」

 声は上擦り、身体は小刻みに震え、目に涙を浮かべた星は暫く離れようとはしなかった。

「星。……、痛えよ」

 と、小波は金髪の頭をポンポンと軽く叩きながら言う。

「ありがとな。お前のおかげで元気出てきた。ナイスバッティングだぜ」

「……ああ、俺は未だ諦めちゃいねェからな。テメェと甲子園に行く事。『モテモテライフ』を築く事を、な」

「なら、叶えに行こうぜ。俺たちならきっと出来る筈だ」

 星は小波から身体を離し、ぐしゃぐしゃになった顔を見せない様にアンダーシャツで拭う。

「当たり前だッ!! だから……だからテメェもこんな所で終わるんじゃねェぞ!!」

 小波はバットを強く握りしめてバッターボックスへと歩いて行く。

 

 七対五。

 遂に五点差をひっくり返されたあかつき大付属のエース猪狩守は意気消沈していた。

 全ての想いを込めて放った渾身の一球の『ライジング・ショット』をスタンドまで叩き込まれたのだ。

 打ち取れる球だった。

 空振りの取れる最高の球だった。

 しかし、現実は快心の一打。

 スコアボードに刻まれた「7」と言う数字が物語っている。

 

『四番 ピッチャー 小波くん』

 

 ウグイス嬢がその名前を呼んだ。

 倒すべき唯一の好敵手——、小波球太。

 迎え撃つべき相手。しかし、猪狩守には小波を抑えられると言う確固たる自信は無かった。

 尽く自信に満ちた球は打たれ点差は二点まで離された。

 星に打たれた『ライジング・ショット』は今までにない最高の球だった。

 だが、打たれた。

 それがずっと頭の中で周り続けている。

 

 進。すまない。

 僕はもう此処で終わるかもしれない。

 小波を、恋恋高校を抑える自信がない。

 お前の為に優勝旗を持って帰ると言ったのに……。

 

「兄さん。まだ終わりじゃないよ」

 

 聞き覚えのある声が聞こえた。

 此処には、弟の猪狩進はいない。

 それなのに目の前で声が聞こえた。

 下を見つめていた顔をゆっくりと上げる。

 確かにチームカラーである青のプロテクターを纏った人物が一人、目の前で立っている。

 そこに居たのは双菊では無かった。

 同じ茶色の髪。

ㅤ左頬には馴染みのある絆創膏が貼ってあり。

 赤よりも色濃い紫の瞳で見つめていた。

「……、進!? お前、どうして!?」

「ごめん兄さん。病室でラジオを聴いてたらいても立ってもいられなくて」

 猪狩進はニコッと笑みを浮かべ、兄である猪狩守の胸にトンとキャッチャーミットで叩いた。

「これからだよ、兄さん。僕たちの力で小波さん達を倒して甲子園に行こう!!」



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第68話 恋恋高校のエースとキャプテン

『あかつき大附属高校の選手の交代をお知らせします。キャッチャー双菊くんに代わりまして、猪狩進くん』

 ザワザワ。

 ザワザワ。

 場内に響くウグイス嬢のアナウンスに、球場内は様々な声や響きが遠く近くで交差する。

 飛び交う声など一切気にも止めずにあかつき大附属の背番号「2」を付けた茶髪の好青年はゆっくりと定位置に立ち腰を下ろした。

 中性的な顔立ち。

 左頬には絆創膏。

 猪狩守の一個下の弟である二年生にして唯一のレギュラーを獲得した猪狩進がキャッチャーマスクを被る。

 それに伴い。猪狩進の登場で今の今まで出場していなかった理由を知っているあかつき大附属の応援席には今までに無いくらいの盛り上がりを見せていた。

「……。おいおい。まさかこんな場面で登場とは驚かせてくれるぜ。さては、進。無理して病院から飛び出して来たんだろ。随分と無茶なことをするじゃねえか」

 コール前。

 小波球太はバッターボックスの手前で二、三度スイングをした所で声を掛けた。

「まあ。この試合の流れ的に自分自身の中で感じる所が多々ありましたので。それに、言葉を返す様ですけど無理しているのはお互い様ですよ、小波さん。貴方はあの夜、僕を事故から庇ってくれた際に右肩を強打していますよね?」

「……、」

「そして、その際に右肩の骨付近に重度の怪我を負った筈です。今まさに病院に居なければならないのは僕よりも小波さんの方ですよ」

「……、」

 猪狩進の言葉に無言を貫く小波球太。

 

 やっぱり、そうか。

 車との衝突から助けた時には既に猪狩進は気を失っていたから気付いていないものだと思っていたが、あの日の夜の出来事を猪狩進は気付いていたらしい。

 小波は昨日の夜、珍しく猪狩守から突然の電話が掛かって来たと思ったのがとても不思議な事だった。

 そして。分かった。

 猪狩守と話した時だ。

 

『小波、君の怪我の調子はどうなんだい?』

『ああ、お陰様で『肘』の調子なら絶好調だぜ』

『いいや、僕が聞いているのは『右肩』の方だが?』

 

 わざわざその件に触れて来たのは、それは猪狩守が小波球太に鎌をかけて来たものだと小波球太は思っていたが、決してそう言う理由で電話を掛けて来たのでは無かったようだ。

「心配してくれた所でもうとっくに手遅れだ。俺の右肩はもう既に壊れちまってるよ」

「——えッ!?」

 ピクリと、身体が止まった。

「……心配なんかすんなよ。俺は俺で覚悟を決めてグラウンドに立ってるんだ。人生全てを掛けて腹括ったんだ。同情なんて今更要らねえからな」

 と、小波球太は『超集中』を研ぎ澄ます。

「……はい、分かりました。覚悟を決めているのも此方だって同じ事です。僕も兄さんも全力で貴方達に勝ちに行き、甲子園の土を踏むのは僕たちあかつき大附属です!!」

 と、猪狩進はキャッチャーマスクを更に深く被り直した。

 

 

 

 ピリッッッ!!!?

 

 

 ——、その瞬間。

 

 

 いつもの優しそうな顔つきは一点し、まるで猪狩守の様に一気に険しい顔付きへと変わった。

「……」

 そして、小波は直感で理解した。

 周りに纏っていた空気が一気に変わった。

 今までにない緊張感がチクチクと肌を突き刺す。

 今ここで、ようやく猪狩進がキャッチャーマスクを被ると言う事はだ。

 それは、すなわち。

 猪狩守はこれまで以上の力で投げて来ると言う事でもある。

 猪狩進は、猪狩守の本領を全て引き出せる唯一のキャッチャーなのだ。

 

 

 

 五回の表。

 猪狩守対小波球太。

 三度目の対決であり、打者一巡してこのイニング二度目の対決。

 その初球。

 

 

 ギュルルルルルルルルルルン!!

 

 

 まるで射撃場にでもいるかのようなエグい音が、

 

 

 ズバァァァァァァァァァァン!!

 

 

 猪狩守の左腕から放たれた百四十九キロの『ライジング・ショット』が胸元インコースに構える猪狩進のキャッチャーミットへ、コースギリギリのストライクゾーンへと投げ込まれた。

 その第一印象は、猪狩守がこの試合で初めて見せる球威にキレとノビのある『ライジング・ショット』だった。

 前のバッターである星雄大に投げ放ち、ホームランに打ち返された渾身の『ライジング・ショット』を更に上回る最高の球を投じたのだ。

「……ッ」

 小波球太がいくら疲弊しているとは言えど集中力を極限に高めた『超集中』は未だギリギリで平静のラインを保ってている。だが、『超集中』を持ち合わせたとしても今の球に対してだけは小波は手も足も出せない程の良い球だった。

 

 先手を打たなければこのままだと不味いな。

 小波球太は、磨りガラス越しのようにほのかに見え始めてきた猪狩を見ては声に出さずに呟く。

 『超集中』のデメリットは、集中力を高めている分、体力を消耗してしまう事。

 そして、対する猪狩進は『キャッチャー◎』と言う『特殊能力』を持っている事だ。

 『キャッチャー◎』、の効果は。

 ピッチャーのコントロールが良くなる事と、スタミナ消費も半分以上に減少させられる能力である。

 それに加えて、捕球体制や捕球動作などを工夫して際どいボール球をストライクへと球審に判定させるフレーミング技術も持ち合わせているのだ。

 このままだと、小波の方が不利になってしまう。

 

 

 こうしている今も小波球太の底が尽きかけているスタミナが削られて行っているのだ。

 

 

 

 間髪入れずに、二球目。

 それはまるで銃口から撃ち放たれる弾丸の様に、空気を断ち切るかの様に、僅かにホップして来る『ライジング・ショット』に向かってバットを当てに振り抜くが、バットには当たらずに心地の良い捕球音だけが鳴り響いた。

 

 ズバァァァァァァァン!!!!

 

「ストライクーーッ!!」

 黄色のランプが二つ灯る。

 カウントはツーストライクとなり、小波は簡単に追い込まれてしまった。

 そして、三球目。

 遊び球など無かった。

 投げ込まれたコースはど真ん中。

 球速表示、百五十キロの豪速球が「スバァァァァァァン!!」と音を立てて小波球太は空振りの三球三振に斬り伏せられてしまった。

「ストライクーーッ!! バッターアウト!!」

 結果、スリーアウトとなり、打者一巡に及び七点を奪った恋恋高校の五回表の攻撃がようやく終わりを迎えた。

 

 

 

 

「兄さん、ナイスピッチングです」

 猪狩進は、マスクを取り兄の猪狩守の側へと駆け寄って来る。

「進。どうして此処に来た。お前の体調は未だ万全な状態じゃ無いと言うはずなのに」

 と、猪狩守は怪訝な顔をしているのは当然と言えば当然だった。

 今すぐ病院に戻れ。

 そんな言葉を目の前にいる弟に向かって言い放つのはとても至極簡単な事だった。

 だが、猪狩守は言わなかった。

 いや、言えなかったと言うのが正しいだろう。

 何せ『精神的支柱』と言うチームメイトの基礎能力を上昇させる『能力解放』を持つ小波球太率いる恋恋高校の猛攻により、打たれるはずの無い素人同然である古味刈に一発。

 渾身の『ライジング・ショット』で迎い投げて抑えられるつもりでいたチャンスに滅法強い『勝負師』の『能力解放』を持つ星に一発、計二本の被本塁打を浴びて七失点してしまった左腕にとって、自分自身の本調子をマックスに引き出せるのは紛れもなくただ一人、実の弟の猪狩進しか居ないからだからだ。

 猪狩守にとって今日の試合は猪狩進の為に優勝旗を持って帰ると約束をし挑んだ決勝戦だった。

 しかし、猪狩進を頼らなければ恋恋高校から勝利を奪えないと言う複雑な感情が猪狩守の中で渦巻く様にモヤモヤとしていた。

 それでも——、

「それは簡単な事だよ。兄さん」

 兄の心配を他所に。

 弟の猪狩進はいとも容易く言う。

「兄さんと一緒に甲子園に行きたいからだよ」

 誰よりも一緒に過ごし、誰よりも長くバッテリーを組んだ、誰よりも心強いたった一人しか存在しない相棒を見て、猪狩は笑った。

「進……、お前。ああ、そうだな。一緒に行こう甲子園へ、そして小波を倒して僕たちが全国の頂点に立つ!!」

 

 

 

 

「随分と厄介な……相手が出てきたもんだ」

「あん? 厄介な相手だと? テメェ、それは誰の事を指して言ってんだ?」

 はぁはぁ、と息が上がっている。

 言葉に間を置いて。

 恋恋高校のベンチで、フェイスタオルで流れる汗を拭き取りながら小波球太が力ない声で言う。

「……」

 小波はチラッと、早川あおいを見る。

「おい、小波!! 誰の事を言ってんだって聞いてんだよ!!」

「……進の事だよ。アイツがキャッチャーマスクを被った以上、猪狩は隙を見せないピッチングをして来る筈だ……」

「ああ、あの猪狩守の弟か。二年前のパワフル高校とあかつきの試合観戦した時にチラッと見た事しかなかったが、弟の実力は噂には聞いてるぜ。へっ!! 今から第二ラウンド開始って訳かよ。上等じゃねェかァ!! やってやるぜェ!!」

 掌に拳を当ててニヤリと星がギラっと八重歯を光らせる。

 気合注入、と言ったところか。

 先程のホームランでテンションは上限を超えて上機嫌の様だ。

「つーかよ。さっき猪狩の野郎からホームランを打っただろ? そん時、余りにもテンションが上がりすぎて何処までボールが飛んだのかハッキリと覚えてねェんだけど、誰か知らねェか?」

 と、星はチェストプロテクターやレガースを纏いながら周りに問う。

「それならボク見てたよ。レフトスタンドの中間辺りだったかな? ボク達と同い年位の女の子がグローブでキャッチしたよ。確か制服のデザインからして恐らく『聖ジャス——、」

 ピクッ。

 早川あおいの『同い年位の女の子』と言う言葉を聞いた星は流石に反応せざるを得なかった。

「おいおいおいッ!! それは本当かッ!? おいおいおい、誰だよ!! 俺のホームランボールを取ってくれちゃった愛しのラッキーガールちゃんはよッ!! まさか、これきっかけに俺たちは『運命の出会い(・・・・・・)』とか果たしちゃうんじゃねェだろうな!! 硬式球の赤い糸みたいにギュゥゥゥっと結ばれるかもしれねェな!! いやいや、困っちまうぜェ!!」

 と、星はキャッチャー防具を付け終えると意気揚々と早くベンチの外を飛び出してレフトスタンドに向かって大きく大きく手を振った。

「おぉぉぉぉい!! 俺ですよ!! 貴女の心に向けてホームランを打ったのは、この漢・星雄大ですッ!!!!」

 打った本人が大声を上げて手を振ると言う事はだ。

 もしかしたら、ホームランボールを取ってくれた『女の子』はリアクションを返してくれる筈。

 淡い期待を胸に、高鳴る胸の鼓動を抑え、有頂天を迎えた星は腕を目一杯振る。

 目一杯振る……。が、その腕は空高く上げたままピタリと瞬時に止まった。

 輝かしい笑顔から一転して、その表情はどん底へ胸に悲しみの感じが満ち満ちていた。

 レフトスタンドでホームランボールをキャッチした『女の子』は星に向かって手を振っている。

 その女の子、は。

 フワッと風が吹き、

 フワリと緩やかなに靡く、ブラウン色の髪。

 何処か見覚えがあった。

 中学の同級生で今もチームメイトのトレードマークでもある『瓶底眼鏡』が日差しに反射してキラッと輝かせていた。

 矢部明雄に瓜二つの女の子。

 聖ジャスミン学園の矢部田亜希子だった。

「おい……。早川。そいつがまさか矢部に似たあの『矢部田亜希子(あのメガネ女)』なんかじゃねェよな。頼むからそうじゃないと言ってくれェェェェェェェェェェェェ!! なんでだよぉぉぉぉぉ!! 嫌だよぉぉぉぉ!! なんでよりによって『アイツ』なんだァァァァァァッ!! 違うと言ってくれェ!!」

「そうだよ」

 と、早川あおいは星にとっては無慈悲のたった四文字の言葉を即答で返した。

「——な、にッ!?!?!?」

「だって別に良いじゃない。試合前に矢部くんが言ったでしょ? 聖ジャスミン学園の矢部田さんって星くんの彼女だ、って」

「テメェ、早川ッ!! ふざけんなよッ!! 断じて違ェよ!! あんな『メガネ女』なんぞ彼女でもなんでもねェッ!! うげェ……、これは予想以上に最悪な出来事だぜ」

 数秒前の有頂天が一転して、落胆へと変わる。

 ガックリと雷に打たれたように項垂れる。

「……ったく、バカな事やってないでさっさと行くぞ星……」

「痛ェ!! 小波、テメェな!!」

 バシィッ!!

 グローブで星の頭を軽く押し当てて小波はささっとマウンドの方へと進み歩いて行く。

 それを後ろから星が「絶対違ェからな!! 勘違いなんかすんなよ!!」などとあーだこーだと弁解と文句を交互に喚き散らしながら小波に付いて行くのを早川あおいはジッと見つめていた。

 ジッと覚束ない足取りの右腕の背中を見つめ、

 ギュッと祈る様に手を重ねて、

「頑張れ、球太くん」

 と、早川あおいはポツリと呟く。

「……」

 しかし。

 その横で、二年生である椎名繋は黙ったまま早川の丁度後ろに立っていた。

 左手にはキャッチャーミットを嵌め。

 身体にはプロテクターを纏い。

 何か言いたげな。

 何処か切ない表情で。

 そして、

「あの……。早川先輩」

 と、椎名繋は口を開いた。

 

 

 

 

 五回の裏。

 二点差を追いかけるあかつき大附属の攻撃は、八番打者の天秤から打席が始まる。

 序盤の五失点以降、あかつき打線相手に安打を許していない小波球太だが——。

 これまでは、集中力を高めた『超集中』を使って右肩の爆弾が爆発した痛みを意識的に逸らして暫く痛みから耐えて来れていたが、今では『超集中』を使用してもその痛みは和らぐ事なくハッキリと身体中に痛みを感じ始めていた。

 それすなわち。

 小波球太の『超集中』の効果も薄れて来たと言う事なのだ。

 スタミナも底に着き、それでも弱音を何一つ吐かずにマウンドに上がっているのは、仲間達が一丸となり繋いで、繋いで、繋ぎ取って逆転してくれたチームメイトに甲子園の土を踏ませてやりたいと言うただその一心だけだった。

 しかし。

 崩壊へのカウントダウンはもう既に始まっていて、限界の時を迎えようとしている。

 

 

 

「はい、兄さん。どうぞ」

 あかつきベンチにて、猪狩進が猪狩守にフェイスタオルとスポーツドリンクを渡して横に座る。

「ああ、すまない」

 チームのキャプテンでありエースでもある左腕の猪狩守は、この大会で初めて疲れた表情を見せかけたが拭う汗と共にフェイスタオルで拭き取った。

 兄として、エースナンバーを背負う者として、チームのキャプテンとして、自分自身を天才である事を誇示する為に決して見せてはいけない弱音などは一切不要だ。

「あの……、兄さん」

「どうした? 進」

「小波さんの『右肩』は、どうやら壊れてしまったみたいです……」

「そうか」

 と、冷静に返事をした。

 今の猪狩進の言葉を聞いた猪狩守の表情は微動だもしなかった。

 小波の『右肩の件』は、前のイニングの時点で双菊から既に聞いていた。

 先日の猪狩進を事故から救った際に右肩を強打した際の怪我が原因なのか、それとも以前から起きていた怪我が原因なのかは別として。

 序盤の小波らしからぬピッチング、三塁打を打った後の牽制で刺されるなどの集中が欠けたらしからぬプレー、思い返せばこの試合は違和感しか無かった。

 それでも、小波が自身の右肩を壊してまでマウンドに上がり続けていると言うことは、小波はこの試合で全てを終わらせるつもりだ、と言うことを猪狩守は理解した。

「……バカめ。お前の目標はプロ野球選手じゃなかったのか。本当にこんな所で終わるつもりなのか、小波」

 ギュッと固く左手の拳を握りしめる。

 全て理解した上で猪狩守がポツリと溢した言葉は、ライバルにして親友である小波に向けての言葉だった。

 

 

 

「ストライクーーッ!!」

 痛み以外の感覚の無い右腕を振り、一球一球に全てを込めて全力投球で投げる小波球太。

 速球表示、百五十キロの『バックスピン・ジャイロ』で初球はストライクを先行する。

 続く二球目。

 『虹色の光』を身体に纏って振り抜いた『スリーフィンガー・ファストボール』で空振りを奪ってツーストライクへと追い込む。

 三球目。

 落ちる変化球、フォークボールで八番打者の天秤を空振りの三球三振に仕留めてワンナウトとなる。

 続く九番打者、蠍崎が右打席に構える。

 至近距離からトンカチで思いっきり殴られる様な目が眩んでしまう強烈な痛みが現れて視界がぼんやりと霞む。

 ポタリ、ポタリと滴る汗の量も気づけば尋常じゃない程流れていた。

 それでも構わず、小波球太はただ右腕を振るい続ける。

 蠍崎に対するその初球——。

 打ち取る球。

 無回転のストレートで微々たる揺れを発生させる『ノースピン・ファストボール』を投じた。

 

 キィン!!

 

 鈍い金属音が鳴る。蠍崎はバットを振り、無回転故に重さも兼ね備える球にバットを当てる事が出来たが、その打球にスピードは無い。

「毛利ッ!!ㅤ行ったぞォ!!」

 勢いの無い打球はサードを守る毛利の真正面に転がって行く。

 冷静に打球を上手く捌き、ファーストに送球して瞬く前にツーアウトを取った。

 そして、一番打者の羊山が左打席に入る。

 その初球。

 『虹色の光』がゆらりと光る。

 ズドンッ。と、まるでキャノン砲の様な勢いのある小波球太の『四つ目のストレート』の『ツーシーム』を投じた。

 速球表示は、百五十二キロ。

 小波球太の持つ『真・怪童』の『能力解放』によりストレートのノビがここに来てより一段と上昇していたのだ。

「——速いッ!!」

 二球目。

 小波は何かに取り憑かれたかの様に『四つ目のストレート』である『ツーシーム』を一心不乱で投じる。

 際どいインコース。羊山は思わず審判の方を振り返ってしまう程の絶妙なコースだ。

「ストライクーーッ!!」

 これでツーストライク。

 

 

「……」

 息を飲む様に小波球太のピッチングを球場内から遠目で眺めているのは、小波球太の竹馬の親友であるきらめき高校の高柳春海だった。

 しかし、どうも様子が可笑しかった。

 五点差をひっくり返し、七得点を奪って更に勢い付いた小波のピッチングに見えるのは親友の高柳春海にとっては喜ばしい事な筈だ。

 なのに、だ。

 このイニングが始まってツーアウト。今の今まで高柳春海はずっと無言のままでいる。

「春海くん? なんだか怖い顔をしてるよ?」

 と、隣に座るパワフル高校のマネージャーを務めていた栗原舞は思わず口を開いてしまう程、彼の可笑しな様子を心配していた。

 栗原舞が心配した理由は一つ。高柳春海にとって珍しいと言っても良い位に眉間に皺を寄せた強張った険しい表情をしていたからだ。

「……、どうかしたの?」

「え、あ、いや……。少しだけ、球太に関して気になってる事があるんだ」

「気になってる事?」

「うん。なんて言うか。この試合、球太はいつもの球太じゃないって感じがするんだよ」

 と、高柳春海が言う。

 だがしかし、問いかけた栗原舞は一体高柳が何を言っているのか全く分からない様子で首を傾げている。

「えっと……。それはどう言う事? 確かに初回の小波くんのピッチングは調子が悪いのかなって思ったけど、今の小波くんのピッチングを見てても普段通りに投げれているとは思うよ?」

「ううん、違うよ」

ㅤ首を横に振る。

「確かに、今日の調子は決して良くは無いよ。球太達、恋恋高校にとって厳しい試合なのは確かな事だ。でも、どうしてだろう。今日の球太に球太らしさを感じられないんだ」

 険しい表情は依然として、高柳春海は言葉を続ける。

「球太は勝ってても負けてても、どんな時でもどんな相手であっても楽しくプレーしていた。だけど、今日の球太は何処か辛そうで、心の底から楽しんで野球をしていないって思うんだ」

 そう、小波球太とはいつだってそうだった。

 『ドライブ・ドロップ』を投げる極亜久高校の悪道浩平との戦いでも、

 『フォール・バイ・アップ』を投じる球八高校の矢中智紀との戦いでも、

 リトルリーグ時代からの幼馴染であるきらめき高校の高柳春海との戦いでも、

 『ポィンティド・ショット』を投じるパワフル高校の麻生との戦いでも、

 『アンユージュアル・エクシード・ストレート』を投じる山の宮高校の太郎丸龍聖との戦いでも、どんな相手でもどんなに悪条件に追い込まれていたとしても、どんな時でも野球を楽しむプレイヤーである事を。

 そんな小波球太のプレースタイルをリトルリーグの『かっとびレッズ』時代に、セカンドの定位置から間近で眺めていたキラキラと目を輝いて楽しんでいる様な姿は今日の試合に限って小波には『らしさ』が全く感じられなかった。

 何処か辛そうで、何処か悲しそうで、それでも何かを成し遂げる為に満身創痍でマウンドに立ち続けている竹馬の友の姿は余りにも見るに耐えない程だった。

「うん。そうだね。春海くんの言う通りかもしれない。言われてみれば今日の小波くんは総じて見るとなんだか生き急いでるみたいに見える……」

 ようやく、小波の違和感に栗原舞も気づいた様子だ。

 だが、気付いた所でもうどうにもならない。

 それでも今の二人には、小波球太の右肩が壊れていると言う事も追い求めている『夢』の事も何も知る由がないのだ。

 

 

 

 一番打者の羊山は小波の『四つ目のストレート』の『ツーシーム』によって空振りの三振に抑えられ、あかつき大付属の五回裏の攻撃は瞬く間に三者凡退で終わる。

 試合は六回表へと進む。

「……っ」

 全力投球で投げ抜いた小波は、『超集中』を解除した途端に身体を引き摺る様なにベンチへと引き返し歩いていた。疲れ果てた顔と、まるで抜け殻の様な精気の無い瞳をしている。

「こ、小波さん。お疲れ様です。水分の方もキチンと取ってくださいね」

 ベンチに腰を下ろした瞬間に力なく首を前に垂れて動かなくなった小波に、マネージャーである七瀬はるかは恐る恐る近寄り七瀬特製のスポーツドリンクをコップいっぱい用意するも、

「……」

 小波の反応は無かった。

 聞こえているのか聞こえていないのか、リアクションが全く無い虚な目で何処を見つめているのかも分からない小波を誰もが心配そうにただ見つめているだけだった。

 気休めの一つや二つの簡単な言葉なんて掛けられる様な穏やかな空気では無い。

 もうこのまま病院の方に連れて行った方がマシなのでは無いか、と言うそんな深刻な状態だ。

「……ったく。小波の野郎もこんな様子だって言うのに、こう時に心配して誰よりもいち早く駆け寄って来るであろう早川の姿が何処にも見当たらねェけどよォ。アイツは今一体、何処で何をしてんだ?」

 と、星が早川あおいの姿を探してグルリと辺りを見渡しながら言う。

「その早川さんなら椎名くんと一緒にブルペンに向かったわよ。今頃は肩を作ってる頃でしょうけどね」

 と、言葉を返してきたのは恋恋高校の監督を務める加藤理香からだった。

「えっ、肩を作ってる……? 早川が?」

「ええ、椎名くんが前のイニングの攻守交代の僅かな間で小波くんから頼まれたみたいなの。早川さんに肩を作らせる様に、ってね」

 加藤理香は、コツコツとヒールの音を鳴らして項垂れてピクリとも動かない小波球太の直ぐ横まで脚を進めた。

 保険医である加藤理香の目から見ても今の小波球太は限界を迎えていた。

「とっくに限界を迎えている重症人だと言うのに良くここまで随分と無茶してくれたものよ。立つ事だって間々ならない筈なのに、マウンドに上がって投げているのが不思議なくらいだわ」

「早川が肩の準備してるって言うなら、小波はもう此処で終わりって事かよ!! 加藤先生!!」

 星が思わず叫ぶ。

「いいえ、彼の最後の我が儘でね。次の猪狩くんとの勝負で猪狩くんを抑えるまではマウンドに立たせてくれ、とお願いされたから最後までそうさせるわ」

 どうせ止めた所で言う事なんて聞かないし無駄だろうからと、加藤理香は言葉を付け足し呆れながら言う。

「つー事は、小波の野郎はこのまま順調に行けば七回裏の猪狩との勝負が最後になっちまうのか。二点差付けてるとは言え……、猪狩進も出てきたとなるとこれ以上点を取るのは厳しい状況だな」

「大丈夫でやんす。きっと、あおいちゃんが抑えてくれる筈でやんすよ!!」

「ああ、俺だってそう願いてェ所だけど。早川のピッチングがあかつき打線相手に何処まで通用するか……、正直言っちうとよォ。不安って事しか頭に浮かばねェよ」

 チッ、と舌打ちを鳴らす星。

 早川が何処まで通用するかなんて、最初から分かりきっている事なのかもしれない。

 小波が降板したとして、その後続の早川あおいのピッチングでは抑えられるのは厳しいと。

 小波球太みたいに百五十キロを超える『四つ目のストレート』を持っている訳でもなく、多種多様の変化球を投げられる訳でも無い。

 それに早川あおいのストレートのマックスの速球は凡そ百三十三キロ。それでいて女性であり、ピッチングフォームはアンダースロー、変化球はカーブと高速シンカーを磨き上げて取得したオリジナル変化球の『マリンボール』のみ、小波と早川の二人を比べたらどちらが甲子園常連チームと投げ渡り合えるのかなんて明白な事だった。

 ましてや猪狩守は、この先も調子を更に上げて立ちはだかって来る。あかつき大附属の控えの選手層の厚さでさえ恋恋高校を一回り以上も上回っているのは言わずもかなだ。

 そうするとあかつき相手に勝つ為には保険を掛けても二点では足りない。

ㅤそれと同時に、これ以上点を取れる気もしない。

 ギリギリ。

 と、星は歯を食いしばり拳を強く握りしめていた。

 どうした良いのか。

 どうすればするべきなのか。

 自分の無力さを改めて痛感した。

 

「……、連れてってくれんだろ?」

 

 ボソッと呟いた、か細い声。

 その声は、疲れ果てて項垂れている小波球太から聞こえた。

「小波?」

「……。俺がマウンドを降りたとしても、お前達が俺を甲子園に連れてってくれんだろ? だったら心配なんか一つもねえだろ。俺は、お前達を信じてる。だから早川の事だって信じてやろうぜ。アイツは……俺達の……、この恋恋高校の『エース(・・・)』なんだから、よ」

 ニヤリ。痛みを堪えながらバレバレな作り笑いを浮かべた小波球太が言った。

「……任せろよ。……猪狩は絶対に俺が抑えてやる。俺の残り全てを……出し切ってでもあかつきを抑えて……やるさ」

 右肩から全身に向けて痛みが暴れ狂う様に広がっているのにも関わらず、その痛みを顔を顰めなくてはならない程深いのに、小波球太は立ち上がって星の元へとゆっくりと身体を引き摺る。

 一歩、一歩。

 重たい足取りで。

 いつもの様に呑気で余裕のある不敵な笑みを零している小波では無く。

 息が上がって、誰がどう見てもボロボロで、笑う事すら出来ない小波の姿だった。

 見ていられない。見ていたら涙が溢れて来そうな、いつもの小波球太らしくない姿に星は直視する事が出来ずに目を逸らしてしまう。

「こ、小波……。テメェ……」

「……、甲子園はもう目の前なんだぜ。最後の最後まで諦めるなよな。お前と矢部くんは甲子園に行って『モテモテライフ』を過ごすんだろ?」

「お、おおう。そりゃ、そうだ」

 微妙な反応が返ってくる。

 今の星にとって、『モテモテライフ』なんて正直どうでも良いと思っていた。

 今、正に叶えたい夢は。

 このチーム全員で甲子園に行くこと。

 ただそれだけだ。

 その思いは恋恋高校メンバー全員が同じ気持ちだった。

「……此処まで来たんだ。諦めてたまるかよ」

 

 

 シュルルルルルル。

 バシッ。

 

 地方球場の屋内ブルペンにて。

 早川あおいが身体を沈めるアンダースローで右腕を撓る鞭の様に、腕を振り抜く。

 ボールに特殊な摩擦を発生させる事で、まるで水切りの様に滑らかに落ちる高速シンカーをベースに完成させた『マリンボール』が、椎名繋のキャッチャーミットがブルペン内に小さな音を立てて響いた。

 つい先週の雨天の中で行われた球八高校との試合で風邪を引いて一週間のドクターストップが掛かっていた早川あおいのピッチングの調子はお世辞抜きにしても普通に程遠い不調だと、ミット越しから椎名繋は感じ取っていた。

 だが、球を何球かボールを受けていて、早川あおいが投げ込むボールに気迫の篭った熱い「想い」は、ボールを伝って掴む左手にひしひしと流れ込んで来る。

 

 

 椎名繋は最初は戸惑っていた。

 それは五回表の恋恋高校の攻撃が終わり、裏の守備に着こうと準備をしていた時の事だった。

「——猪狩は隙を見せないピッチングをして来る筈だ……」

 と、小波球太と星雄大が会話をしていた。

 パチッと、掌に拳を強く当て八重歯をギラリと光らせて気合を入れる星から身体を遠ざけて、小波が脚を進めて向かった先は椎名の方へだった。

 一体何事かと、椎名は首を傾げて小波の言葉を待つ。

「……。椎名、頼みがある。このイニングから早川の肩を作ってくれ」

「えっ、あ……」

 突然の小波の言葉に、思わず椎名は焦る。

「ちょっと、小波くん。それはどう言う意味なのかしら?」

 二人の会話に耳を側立てていたのだろう。ベンチの奥の隅っこの日陰になっている場所で座っていた加藤理香が口を出した。

「……、見ての通りですよ。身体もスタミナも限界に近づいてます。正直言って『超集中』も効果が無いんです。だから、後のことは早川に全てを託そうと思います」

 でも、と小波は言葉を付け足して。

「……これは俺の最後の我が儘です。次の猪狩との勝負までは投げさせて下さい」

 と、深々と頭を下げた。

 加藤理香も椎名もその場で思わず固まってしまう程だ。

 これだけは譲れないと言う小波から発せられる空気に二人は何も言う事が出来なかった。

 そして。

 二秒ほど。

 間を置いて。

 はぁー、と。加藤理香は遂に観念したのか。

 一つ重たい溜息を漏らした。

「分かったわ。ようやく自分の引き際を理解出来る様になってくれたみたいね。遅すぎるにも程がある位よ」

 加藤理香は、四年前の右肘の故障をダイジョーブ博士の手によって完治して貰った代償として右肩に爆弾を付けられていた事を知り、小波球太のプロ野球選手と言う幼い頃から描いていた『夢』を諦めて、恋恋高校を甲子園に連れて行くと言う新しい『夢』を叶えようとしている事も知っていた。

 唯一、小波球太を止める事が出来た筈。

 それでも、小波本人を止める事ができなかったのは恐らく自分もダイジョーブ博士と同じスポーツ医学に深く携わっていたからなのだろう。

 正直、興味が湧いてしまったのだ。

 小波球太と言う人間がどれ程の力を秘めているのか。

 結果。それが仇となり、今に至っている。

 加藤理香は自分に対してなのか、小波に対してなのか定かでは無いが困った顔のまま愛想笑いを浮かべていた。

 だが。

 対する椎名の方は、弱々しい面持ちで小波を見つめている。

 椎名は気付いた。

 怪我を負いながらこの試合で右肩の爆弾の事を隠し通して、たった一人で投げ抜いたチームのキャプテンである小波球太がマウンドを降りると言うことは、もう二度と同じグラウンドで野球をする事は出来ないと言う意味でもあることを。

 小波の怪我の具合からして、即入院は間違いないだろう。

 この試合であかつき大附属に勝って甲子園に行けたとしても、ベンチ入りは勿論、甲子園の球場にすら共に行くことも出来ないのだ。

 涙を浮かべた星が小波の胸ぐらを掴んで『否が応でも連れて行く』とぶち撒けるかのような叫び声を上げて、『一緒に甲子園に行こう』と小波球太が言葉を返したのは……、チームメイトにこれ以上余計な心配をかけさせない為なのだと。

「……、椎名。早川の事を、俺たちのエースの事を頼んだぜ」

 と、小波は言葉を残してクルッと踵を返して再びマウンドの方へと歩いて行く。

 

 

 

 

 パシィ。

 

 

 これで何度目の捕球だろうか。

 六回表の攻撃が始まっている中、ブルペンで投球練習を行なっている早川あおいと椎名繋の二人は、言葉を交わすこともなく淡々と肩作りを行っていた。

 一球、一球受けている度に早川あおいから込められる熱量は次第に増していると感じる。

 唐突に小波球太から指示を受け、最初は戸惑っていた椎名だが、今ではそんな気持ちは一切無かった。

「ナイスボールです。早川先輩」

「うん。ありがとう」

 此処でようやく二人は口を開いた。

「ねえ、椎名くん」

 と、早川あおいは右腕を振り抜く。

 パシィ、と言う捕球音の後に、

「なんですか?」

 と、椎名繋が反応する。

「どう? ボクの球。猪狩くん達、あかつき打線に通用すると思うかな?」

 当の本人は不安そうな表情を浮かべていた。

 これから投げるであろう今までにない強敵を相手にエースナンバーを背負った早川あおいには抑える自信の無いと言った様子だ。

「通用——」

 通用しない。

 と、本来なら言っていただろう。

 だが、椎名繋が出した言葉は全く真逆の言葉だった。

「通用すると思います。今日の早川先輩のボールは何処の強敵相手にだって通用する強い想いの篭ったボールだと自分は思います」

「強い「想い」か……。そっか。ありがとね、椎名くん」

 それに対してニコッと笑う。

 果たして早川あおいは知っているのだろうか。椎名が気づいたように、小波がマウンドを降りたらもう二度と念願の甲子園に行けたとしても一緒に野球が出来なくなる事を。

「あのね。椎名くん。ボクね、球太くんの事が好きなんだ」

 唐突に。右手に握るボールを見つめながら今もマウンドで右腕を振るっている黒髪の癖毛頭の小波球太の事を思い出しながら早川あおいが言う。

「ふふ。早川先輩には悪いですけど、そんなの今更ですか? 小波先輩に想いを寄せている事なんて随分前から知ってましたけど」

「あははは、やっぱり? でも、球太くんにはこれまで随分と助けられちゃったなぁ」

 出会って早々。

 野球部同好会に参加してから直ぐに、幼馴染で当時は一年生ながらソフトボール部のキャプテンを務める高木幸子と部の存続を掛けた勝負があった。

 高木幸子との一打席勝負に臨む事になり、声も出せずに唇をわなわなと震わせていた早川を後押ししたのは小波だった。

 それだけじゃ無い。

 忘れもしない。それは去年の夏。

 初めての公式戦で女性選手出場問題によって試合を棄権し、部の人間には誰一人知らせずにたった一人で早川あおいの為に署名活動をしてくれた。

 結果的に、早川あおいは高野連に認められてこうしてユニフォームに袖を通して居られる。

 振り返れば本日に至るまで数えきれないくらい思い出のある出来事があった。

 でも、一番忘れられないのがある。

 早川あおいに根本的に根付いてる言葉が。

 ずっと、ずっと昔。

 少年が少女に言った言葉。

 『あの日のあの試合』、『あの言葉』があったからこそ今日というこの日まで、チームメイトに女性という色眼鏡で見られ続けようとも、挙げ句の果てに親友と仲違いをする事になり野球から目を逸らしてしまい挫折してしまった事もあったけれど、やはり野球が好きだと言う気持ちに嘘は無かった事を自覚して苦難の道を乗り越えて来れたのは早川あおいが胸の奥に大事に閉まっている幼い頃の思い出があったからだ。

「……いい加減、借りを返さないと罰が当たっちゃうよね」

 独り言を呟いて、ボールを強く握り締める。

「だって、ボクはこの恋恋高校のエースの早川あおいなんだもん」

 青い色の瞳は、いつも以上に闘志を燃やし。

 堂々たる背番号「1」をつけた早川あおいの姿がそこにはあった。

「はい。頼りにしてますよ、早川先輩」

 と、心配も焦りも消えた。

 穏やかでクスッと笑みを溢す椎名繋。

(小波先輩。早川先輩は大丈夫です。信じましょう。恋恋高校のエースを)

 

 

 

 

 

「わああああああああああーーっ!!」

 早川あおい達がブルペンで肩を作っていた頃、地方球場は騒めきに包まれていた。

 試合は、六回の表の恋恋高校の攻撃は猪狩兄弟バッテリーによって三者連続三振で無得点に終わり六回の裏のあかつき大附属の攻撃が始まっていた。

 何故、騒めきに包まれていたのかと言うと。

 先頭打者、二番の牛澤との勝負。

 ボールカウントはワンストライク・ツーボール。

 対する三球目。

 『ノースピン・ファストボール』で打ち取りに行った小波と星のバッテリー。

 キィン!!

 それを打ち返した打球は点々と小波の目の前に転がったのだ。

 勢いの殺された打球。

「……任せろ」

 と、小波が周りに呼びかける。

 グローブで丁寧に捕球して、ファーストに送球して、まずはワンナウト。

 と、視線を向けていた誰もが平凡なピッチャーゴロだと思っていた。

 

 

 

 

 ——、だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 遂にその時が訪れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前がぐらりと大きく揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——ッ!!」

 激しい頭痛と身体中に走る痛烈な感覚が襲う。

 小波は苦悶の表情を浮かべるが、それでも掴んだボールをファーストに投げなければならない。

 目に映る景色が転がると同時に、再び激痛が走る。

 思わず痛みに耐え切れず目を閉じた時に、既に小波の身体は傾斜し、目を開いた時には両の膝がグラウンドに着いていた。

「おい!! 小波ィ!!」

 星がキャッチャーマスクを外し、球審にタイムを告げて小波の元へと駆け寄る。

 星の表情は青ざめていた。

「小波!! 大丈夫か!!」

「小波先輩!!」

 すると、海野、毛利、赤坂、京町も駆け出した。全員が憂色を浮かべている。

「……わ、悪い。身体を滑らせちまった」

 駆け寄ってきた五人に小波は心配をかけまいと平気ぶるが。内心ではとても苦しんでいて、またその苦しみは全て一つとして残らずに耐えようとしている表情に出ていた。

「星先輩!! 小波先輩の身体はもう限界なんじゃないッスか!! もう代えるべきッス!! これ以上苦しんでる小波先輩なんか俺は見なくはねぇッスよ!!」

 と、赤坂紡は星を見て叫ぶ。

 その目には薄ら光るものを浮かべていた。

 赤坂だけではない。毛利だって、海野だって同じだった。星だってもう分かっていた。

 ボロボロに疲弊している小波の成り立ち、今の小波のプレーを見て小波はもう限界なのだと言う事を。

 それでも歯を食いしばって、

「小波、まだ試合は終わってねェぞ!!」

「はぁ……はぁ……」

 星が口を開いた。

「こんな中途半端な所でギブアップするって言うならそれでも構わねェ。別に止めはしねェよ。早川に託すのだって、そりゃテメェの自由だ。でもなァ、小波。テメェはまだ猪狩の野郎を抑えてねェ。まさか全て出し切ると言ってた結果がコレとか言うんじゃねェだろうなァ?」

「……まさか。そんな……訳ないだろ」

「だったらさっさと立ちやがれよ!! テメェが早川を『エース』と呼ぶ様に、お前は俺達にとってたった一人しか居ねェ『キャプテン』なんだからよォ!! そんな俺たちのキャプテンが地べたに倒れてもらっちゃ困るんだよ!!」

 と、スッと星は膝を着く小波の肩に手を掛けてゆっくりと持ち上げる。

「……星。お前……」

「ったく、パッと出の雑魚キャラ相手で倒れてんじゃねェよ。テメェは猪狩を抑えるまで投げるんだろ? だったら最後までやり遂げてからマウンドを降りやがれってんだ。それにテメェは一人なんかじゃねェだろ?」

 と、星は後ろを振り向きながら言う。

「ああ、そうだ。小波、バックには頼り無いかもしれなれないが俺たちがいるぜ」

 と、海野が言う。それに賛同するように京町と赤坂と毛利がコクリと頷いた。

「小波くーん!! オイラ達がどんな打球が来ても死んでも必ず取るでやんす!!」

 と、センターを守る矢部が大声を上げてこちらに向かって手を振る。

「小波さん!!」

「小波!!」

「小波先輩!!」

 と、グラウンドからベンチから恋恋高校のナイン達がそれぞれ小波を支える声を飛ばす。

「まァ、知っての通りバカな連中ばっかりの奴らだけどな」

 ニカっと八重歯を光らせて星は笑った。

「……、ああ、そうだな」

 小波も応えるように笑う。

ㅤならば、その期待に応えなければならない。

 

 

 

 

 恋恋高校のキャプテンとして、

 まだやるべき事が残っている。




次回更新は9月16日の20:00です。
また70話(投稿日未定)を持ちまして小波球太の物語は最終回を迎えます。
残りわずかとなりますがよろしくお願いします。


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第69話 小波球太の最後のストレート

「三番、キャッチャー、猪狩進くん」

 地方大会決勝戦。

 試合は六回の裏。

ㅤこの回の先頭打者の牛澤との勝負でピッチャーゴロで打ち取ろうとした時だった。突然訪れた目が眩む程の激痛に襲われた小波はその場でバランスを崩してしまった。

 結果的に牛澤は一塁に進塁。ランナー一人を置いた場面で、あかつき大附属の攻撃は三番打者の猪狩進に打順が回った。

 真剣な表情で猪狩進は左バッターボックスに入りバットを構える。

 小波球太と猪狩進の勝負。

 二人にとって公式戦での戦いは実質七年ぶりの事だった。

(勝負です、小波さん。覚悟を決めた貴方に対して僕は遠慮はしません)

 バットの先端でホームベース数回叩く。

 ギュッとグリップを握りしめて、紫色の瞳で十八・四四メートル先に立つ小波を睨み付けた。

 スタミナを切らした小波は肩で息をしている。蓄積した痛みと疲労を顔に浮かべて。

 自分の身体ではないように身体が動かない。

 それでも、小波は痛みを堪えてセットポジションからまずは、一球目を放つ。

 その初球。三本指で投げる『スリーフィンガー・ファストボール』。

 

 

 

 

 

 シュッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 トン。

 

 

 

 

 

 

 

 と、何が弾む様な音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ざわざわ。

 ざわざわ。

「——ッ!!」

 ボールが届かなかったのだ。

 そう。小波球太が投げたボールは星が構えるミットへと直には届かなかった。

 猪狩進が立つバッターボックスの一、二メートル手前で『スリーフィンガー・ファストボール』は球威を失って地面へと落ちる。

 ワンバウンド、ツーバウンドしてから星のミットへと収まった。

「ボール!!」

 バッターボックスに立つ猪狩進も、

 ネクストバッターズサークルにいる猪狩守も、

 マスクを被る星雄大も、

 グラウンドで守備についてる矢部明雄達も、

 ベンチで見守っている加藤理香も七瀬はるか矢部恋恋高校とあかつき大附属の他の部員達も、

 観客席で試合を見ている高柳春海や栗原舞、六道聖、明日光と明日未来、矢中智紀、悪道浩平、滝本雄二達も、その他の観戦者達も。

 その場に居る全員が目を疑った。

 マウンドで立つ小波球太に異変がある事にようやく気が付いた。

 

 

「小波。君は……もう」

 ネクストバッターズサークルで次の打席を待っている猪狩守は唇を噛み締め、握り締めるバットのグリップを強く、更に強く握り、行き場の無い怒りと悲しみを同時に吐き出す様に独り言を呟いた。

 

 

 

 

「一体、どういう事……なのだ」

 汗がたらりと喉元を伝う。

 決して暑さのせいでは無かった。

 冷や汗が六道聖の胸元をじっとりと濡らす。

 今の出来事を理解出来ずにいた。

「まさか、球太の右肩に異常が!?」

 バッとその場から立ち上がる。

 赤い目は、心配そうに潤む六道聖。心の中に拭い切れない影が雨雲のように広がる様な嫌な予感が頭の中に過ぎっていた。

「だ、大丈夫だよ、ひじりん。きっと今の小波さんのピッチングは投げ損じとかじゃないかな?」

 と、赤毛の女の子。明日未来は空かさず六道聖を支えるかの様に手を当てて言う。

 流石の明日未来もいつもののんびり口調では無くなっていた。

「投げ損じ……?」

 だったらどれだけ良い事だろうか。

 つい先程のピッチャーゴロのプレーを見ていなかったら確かにそうだろうと聖自身も素直に思えただろう。

 だが、今のは違う。

「……」

 心配する六道聖と明日未来。その横で明日光は薄灰色の『眼』で、マウンドに立つ小波球太をただ無言のままじっと見つめていた。

 

 

 

 

「あぁぁぁぁぁぁーーん!! やっぱり『愛しのダーリン』は、オラの気持ちを誰よりも理解してくれている漢の中の漢だべ!! オラに向けて手を振ってくれたのはきっとダーリンからオラに対しての『求愛』のサイン、この硬式球の赤い糸の様にオラ達は結ばれてるに違いないべ!!」

 前の回に星の放ったホームランボールを持参していたグローブでキャッチし、それを今でも大事そうに両手で持っては頬擦りを繰り返している矢部田亜希子は、ずっとこんな調子だった。

「求愛……、キャァァァァァァーー!! 心の準備がまだなのにどうするべ。オラ困っちゃうべ!!」

「……、」

 矢部田亜希子の叫び声が小玉する様に響いて数秒の間シーンと静まり返る。

 周りは誰一人として反応する事はしなかった。

 恋は盲目と言う言葉がある。

 今の彼女にどんな言葉をかけようとも話は全く通じないと言うのは百の承知である為、こうしてスルーするのがベストだと聖ジャスミン学園のリーアム楠達は判断していた。

「いやいヤ。まさか、本当に右肩が壊れているのカ。太刀川の言っていたのは本当の事だったらしイ」

 浮かれてる恋するラッキーガール元い矢部田亜希子を他所に、聖ジャスミン学園のキャプテンを務めていたリーアム楠が、今の小波球太のピッチングを見て腕を組みながら静かに低い声で言う。

「決して投げ損じなんかじゃない。今のツーバウンドは、真剣に投げた結果だよ」

 と、言葉にしたのは、褐色の肌に黒髪で紫の瞳をした太刀川広巳だ。

「って事は、小波くんは降板デ、次に投げるのはアンダースローの早川あおいさんがマウンドに上がると言った所かナ?」

「いや、恐らく早川さんの出番はまだ無いでしょうね」

 ひどく神妙な顔つきで、首を横に振りながら八宝乙女が言う。

「どうしてだイ? 今日の試合は何かと違和感だらけの小波くんだヨ? 彼の右肩が壊れてると言う事は恐らく恋恋高校の連中は知ってる筈ダ」

 と、リーアム楠が言う。

 すると、八宝乙女は透き通った瞳でチラッとグラウンドに目を向ける。

 それに釣られる形でリーアム楠もグラウンドに視線を向けた。

 そこに映るのは、マウンド上で一人立つ小波球太の姿が在った。

「今のピッチングをしたのに誰一人として彼の側に駆け寄らない。さっきのピッチャーゴロでは内野手が駆け寄ったのにも関わらずよ」

「……」

「それって……、彼にまだ投げさせるつもりなのカ!? 右肩を壊してるのにも関わらズ!?」

 八宝乙女の言葉に太刀川は無言。

 リーアム楠は驚きの声を上げた。

「全く、何処かのチームと似てますわね。エースが肩を壊してるのにも関わらず投げ抜く事を選んだたった九人しか居ない何処かのチームと……」

 八宝乙女が言う。

 その言葉に、リーアム楠も美藤千尋も恋に溺れて浮かれていた矢部田亜希子さえも暗い表情になる。

 ただ一人、太刀川広巳は清々しい表情だった。

 後悔は無い。

 八宝乙女やリーアム楠達と共に野球が出来た事を誇れと思える思い出が出来たのだから。

 春季大会にて太刀川広巳は、自分の左肩の事よりもチームが勝つ事を選んで最後の最後まで、止めに入った八宝乙女に怒鳴り散らし、小波球太にサヨナラコールドのソロホームランを打たれるまで投げ抜いた左腕は投げ抜く道を選んだ。

 今の小波と春先の太刀川、境遇は似ているのかもしれない。

 けれど、

「きっと……、私と同じ。小波くんも小波くんのやり遂げたい気持ちがあるんだよ。だからマウンドを降りないで投げている。それをチームメイトは知っている。あの春の試合。止めに来たのに最後まで投げさせてくれた八宝さんの様に、小波くんの思いを尊重してくれているんだと思うな。そう言う点なら確かに何処かのチームと似てるね。九人しか居なかった最高のチームに」

 と、太刀川広巳は笑って答えた。

「ふふ、そうね」

 と、八宝乙女も笑って返した。

 

 

 

 

「なんだァ? 今のやる気のねェ、ピッチングはよ?」

 目を覆う黒い髪の間から、路肩の小石でも見るかのような冷たい眼差しで極亜久高校の悪道浩平は吐き捨てるように言う。

 良い流れのまま六回裏へ進んだ試合で、牛澤のピッチャーゴロの捕球と今のツーバウンド投球をした小波に向けて呆れた様子だ。

「滝本ォ、これも似てんのかよ。八雲が言ってたって言う四年前の全中大会の試合とよォ」

 細く冷たい目で、チラリと隣で腕を組む長身の球八高校の滝本雄二を見る。

 たが、滝本雄二はジッとグラウンドを眺めていた。

「俺が八雲紫音から聞いた話とは違うな。小波に何らかのアクシデントが起こっているようだ」

「……」

 勿論、この二人も小波球太の右肩の爆弾の事など一ミリも知らない。

 一体、何が起きているのかすら分からないでいる。

「だが、小波以外にも星雄大や矢部明雄、お前の仲間も随分と成長した。何せあの猪狩から七点を取るまでの活躍を見せてるのに至ったのだから何も問題は無いだろう」

 悪道浩平に目を向けて意地悪くニヤリと笑みを浮かべていた。

「チッ……」

 くだらねェと、それに対して舌打ちを鳴らして悪道浩平は球場の出口の方へと足を進める。

「なんだ、もう帰るのか? 試合は未だ終わってないぞ」

 と、滝本雄二が声を掛ける。

「うるせェよ。これ以上ここに居るのは無駄足でしかねェ。アイツらが勝とうが負けようが俺には何一つ関係ねェ事だからな」

「まだ何が起こるか分からんぞ」

「そんなの知ったこっちゃねェんだよ。ただ、俺は此処で試合を見てるよりもやらねェといけねェ事を思い出しただけだ。……、それに雑魚共の試合観戦ほど身に一つにもなりやしねェモノはねェんだよ」

 一歩、一歩、踏み出して遠ざかる滝本雄二に振り向きもせずに、

「滝本ォ。確かテメェの進学先はあの弱小の『帝王大学』とか言ってたよなァ? 来年の春、覚えてやがれよ、クソッタレ」

 と、悪道浩平が言う。

 一歩、一歩、踏み出して遠ざかって行く悪道浩平の背中を見つめながら、

「ほぅ。俺の勘違いで無ければ面倒臭いんじゃなかったのか? それとも夏の暑さで思考回路ごとぶっ壊れたんじゃないだろうな?」

 滝本は悪道に言われた言葉をそのまま返した。

「チッ……。まァ、そう言う事だ。俺はアイツらにこのまま負けたまんまでいたんじゃ虫の居所が悪りィからな。テメェを利用してアイツらよりも届かない所まで行ってやる」

 一体、何をやる事を思い出したのか。

 勉強か、それとも野球の練習か。

 真意は謎のまま。

 その言葉を最後に、地方球場から姿を消した悪道浩平だった。

 

 

「何がどうなってるんだ?」

 グラウンドを一望できるバックネットの後方、二回席で球八高校の塚口遊助はどうして小波があの様なプレーをしたのかを必死に頭の中で考察してぐるぐると渦巻いていた。

「そこら辺で止めておけ、遊助。ただでさえ空っぽの頭なんだし、それに神島じゃねえんだ。答えにすら辿り着かないのは目に見えてるぜ」

 あはははっ!!

 と、馬鹿にしたように煽る中野渡恒夫。

「なんだと!? ツネ、お前だって人に言えた頭してんのかよ!?」

「この前の期末テストではお前よりはお前より二点も上だったからな、お前よりはいい頭はしてるぜ」

「二点だぁ? そんなの大差ねえだろう!!」

「ちょっと、そこの馬鹿二人組。少しは黙っててもらえるかしら?」

 二人のやりとりにピクリとも顔を向けずに前を見つめて、期末テストでは堂々たる全教科満点を取って三年生の一位の座に君臨している球八高校の元マネージャーである神島巫祈が強目の口調で言う。

「バ!?」

「カ!?」

 と、塚口遊助と中野渡恒夫の二人はお互いの顔を見合わせるだけで、特に反論する事はしなかった。

「なあ、神島。君の「目」には、小波くんは一体どのように見えてるんだい?」

 周りの中で一番小柄、同じ高校三年生の十七、十八歳とは思えぬ童顔の矢中智紀は神島巫祈に尋ねるように聞いた。

「彼の事がどうなっているのか、此方が聞きたいくらいだわ。スタミナ、コントロールと言ったピッチャーの基礎能力が著しく低下してて、測定不可と言ったところかしらね。勿論、バッターとしての能力も然りね」

 その表情はいまいち読めない。と言った表情で、神島巫祈は言葉を続けた。

「この試合、彼は右肩に目を向ける回数が多いのよね。まるで庇う様に」

「右肩? まさか、小波くんは右肩に異常を来してると言うのか?」

「異常を来してるも何も最悪な事にもう壊れてしまっているのよ、彼の肩は」

「な、何だって!?」

 矢中智紀は、顔に驚愕の色を浮かばせる。

「言ったでしょ? 基礎能力が著しく低下している、ってね。それでも彼は能力に見合わないピッチングをして来ている」

 何が小波をそうさせているのだろう。

 右肩を壊して能力が大幅に低下してしまっているのにも関わらず、謎に満ちた『虹色の光』を纏ってピッチングを続けている。

 本来なら不可能に近い筈なのに。

 小波球太と言う選手は神島巫祈の『目』で能力は読めても、未知の力(にんげんせい)までは読めなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ホームに届かないピッチングは、その後二球連続で投じる。

 ストレートの速球も初回よりも遅い百二十キロ後半まで急激に落ちてしまっていた。

 ボールカウントは、ノーストライク・スリーボール。ランナーの牛澤は盗塁を試みて既に三塁まで到達して、ノーアウト。ランナー三塁。

 恋恋高校はピンチを迎え、あかつき大附属はチャンスの場面を迎えた。

 バッターはアベレージヒッターの猪狩進。一打出れば一点差に迫る緊迫した場面。

 観客席は静寂に包まれていた。

 勝負の行方を見守る空気ではなく、小波球太の異変に声援を送る所ではないと言葉をただ呑み込んで見つめている。

 それでも小波球太はマウンドを降りようともしなかった。

 それでも加藤理香はマウンドを降りさせる様な事もしなかった。

「……はぁはぁ」

 意識が次第に遠退いて行く。

 目の前に居る星と猪狩進が十八メートル先に居るとは思えないほど、その距離五十メートルは離れているのでは無いかと思ってしまう程、遠退いていた。

 猪狩進に対する四球目。

 一瞬。

 だが、身体中に駆け巡った痛みは引いていた。

ㅤ気を引き締め、小波球太は右腕を振るう。

 シュッ!!

 球速。百五十キロの『ツーシーム』がズバンッ!! と星のミットへと突き刺さる。

「ストライクーーッ!!」

 初めて見る小波球太の『四つ目のストレート』の『ツーシーム』を見逃した猪狩進は何を感じただろう。

 これ程までも心身共に追い込まれながらも気迫が込められた『ツーシーム』を見て何を思ったのだろう。

 答えは、似てる。

 と、素直は感想だった。

(なるほど。これが兄さんや双菊さんが言っていた小波さんの新しい決め球の『ツーシーム』。あの人の投げる球に似ている。流石、小波さんだ)

 不適な笑みを零した猪狩進。たった今小波が投じた『ツーシーム』には見覚えがあった。

 猪狩進自身も同様。

 小波球太が神童裕二郎と出会った時に憧れの気持ちを抱いていた様に、猪狩進も神童裕二郎と出会った時に強く思う気持ちが生まれたのだ。

 

 

 

 猪狩進のコンプレックスは、実の兄である猪狩守の存在だ。

 

 

 走・攻・守に恵まれた実力を兼ね備える猪狩進は、いつも猪狩守の影に埋もれてしまう。

 どれだけ試合で活躍しても、例え四打数四安打の好成績を残してたとしても、周りから見られる評価の声は、いつも同じ言葉だ。

 『流石は、猪狩守の弟』。

 別に周りから認められたい訳ではない。

 でも心の底では、兄を超えて自分のことを一人の選手として見てもらいたい、と言う気持ちを誰にも打ち明けずにずっと心の奥に閉まって過ごして来た。

 

 神童裕二郎に強い気持ちを抱くきっかけになったのは……。

 猪狩進が小学五年生の時だった。

 リトルリーグ時代のとある秋の日。

ㅤその日は『かっとびレッズ』と『猪狩ブルース』との合同引退試合を兼ねた練習試合が行われていた。

 当時、六年生だった右腕・小波球太と左腕・猪狩守の投手戦になり、力投に力投を重ねお互い得点を許さず引き分けで終わる。

 その時に、河川敷で行われていた試合を通りかかった当時あかつき大附属の高校一年だった神童裕二郎が試合観戦を見ていたのだ。

 試合後、小波球太と猪狩守がピッチングについて揉めて言い合いになった時だ。

 二人の仲裁に入った神童裕二郎が投げて見せたあかつき大附属のキャッチャーが誰も取ることの出来なかった『ツーシーム』を初めて投げて見せる。

 小学六年生の少年・小波球太はいつかこの球を物にしたいと憧れを抱き、

 猪狩守は、何を思ったのかは謎だが。

 猪狩進は、強く芽生えた感情があった。

 それは、この人のピッチングならいつか兄を倒せる人物だと感じたのだ。いつの日にかこの人とバッテリーを組みたい。そして、いつの日か兄を完膚なきまでに倒して、兄を超えたいと言う兄への対抗意識だった。

 

 カウント。ワンストライク・スリーボール。

 懐かしい記憶を思い返していた猪狩進の口元は緩んでいた。

 

(流石ですよ。小波さん。あの人の球を見事に表現出来ています。それでも貴方から打たなければ始まりません)

 

 あの夜。

 小波さん僕にくれた言葉は嬉しかった。

 

『どうしても周りの奴らは猪狩と比べるかもしれない。それでも、お前はお前だよ。お前が信じる野球をやって、いつか『自称天才』なんて名乗るバカな兄貴を超えてやれ!』

 

 この人は、周りとは違う。

ㅤ唯一、兄と対等に好敵手と認めてくれる人であり、仲間だと思ってくれている。

 僕は僕なりの野球で、神童さんとバッテリーを組んで兄さんを超える選手になりたい。

 でも、

 それよりも先ず先に、

 ならば、此方もそれに応えなければならない。

 好敵手と認めてくれたのなら、

 そう思ってくれているのなら、

 まずは小波さん。貴方から、

 その好敵手から打たなければならない。

 そうしないと、きっと届かないから。

ㅤそうしないと、きっと超えられないから。

 

(小波さんと兄さんの壁は、僕自身が思っている以上に高く聳え立っている)

 

 だから、遠く離れた貴方に一歩でも多くでも近づく為には、ここで貴方の『ツーシーム』を打ち砕くまで!!

 

「勝負です!! 小波さん!!」

 

 

 

 対する五球目。

 小波球太は三塁ランナーの牛澤を警戒しながらセットポジションから投球モーションに入る。

 右腕で振り抜いた『ツーシーム』は、百五十キロの球速表示した。

 バットを振る。

 

 ブンッ!!!!

 

 しかし、鳴ったのは空音だ。

「ストライクーーッ!!」

 ややシュート気味の変化、沈み軌道を描く『ツーシーム』をミート力が高く、ヒット性の打球を飛ばす事に長けているアベレージヒッターの猪狩進のバットに捉えることが出来なかった。

 何とか持ち堪えて、ツーストライク目を取って猪狩進を追い込んだ。

 カウントは、ツーストライク・スリーボール。

(なんて人だ。右肩を壊して、一度倒れている筈なのに、ここまで気迫の籠ったピッチングが出来るなんて……小波さん、本当に貴方は凄い人だ)

 糸の切れた操り人形のようにクタクタなのに。一体何処から気力が湧いてくるのかは去る程に、恐るべき点は、『ツーシーム』だった。

 対戦し、その球を目の当たりにしたチームメイトが『まるで、キャノン砲みたいだ』と口々に言っていた。

 全く、その通りだった。キレもノビも球威も他の球種とは段違いな『ツーシーム』に猪狩進も思わず口角が吊り上がっていた。

(ああ、楽しいな)

 小波球太との勝負が楽しい、と。

 幼い頃から中学までずっと側で何度も何度も見てきた。

 兄・猪狩守と小波球太の二人の勝負はいつも楽しそうだった。と。

 猪狩進は、好敵手との対決がこんな風に心から楽しめる勝負だったのかと初めて知り。胸に火の塊のような熱い気持ちが沸沸と湧き上がってくる感覚がした。

 

 

 

 六球目。

 

 七球目。

 

 八球目。

 

 九球目、十球と。

 際どい球をカットした。

 

 猪狩進は、投げ込まれる『ツーシーム』を全てバットに当てて弾き返すが、全てファールゾーンに打球は転がる。

 周りから見たら、粘り強いと思う者も居るだろう。

 当の本人は、まだ終わりたくない。この楽しい戦いを続けたい。

 たった、それだけだった。

  

 対する十球目の『ツーシーム』を猪狩進がカットした後方に飛んだ打球を眺めながら、小波球太は流れる汗を袖のアンダーシャツで拭う。

 

 

 進のヤツ、随分と楽しそうな表情をしてるな。

 楽しそうでなによりだ。

 こっちも負けていられねえ、な。

 俺だってまだお前と勝負していたいぜ。

 

 けど。

 

 チラッと自分の右を見る。

 ガタガタと小刻みに震えていた。震える度に高圧電流を流されているみたいに痛みが全身の内側から広がる様な感覚しかない。

(でも、もう残り十球も投げられ無いだろうな)

(あいつらが繋いで勝ち取った二点だけは最後の最後まで必ず俺が死守しなければならない。だから——、)

 

 

 

 

 ——進、この球でお前を抑えてやる!!

 

  

 

 

 

 

 そして、勝負の十一球目。

  

 

 セットポジションから、

 小波は腕を振り抜いた。

 

 

 

 

 

「——ッ!!」

 

 

 

 

 

 

 プツン。

 

 

 

 

 と、小波球太の中で何かが切れる音がした。

 

 

 

 

 

 そして投げ込まれたのは、

 またしても『ツーシーム』。

 だが、その球速表示は、

 百三十キロにも及ばない棒球だった。

 

「……」

 投げた瞬間に、力の抜けた小波はふらっと前へと倒れ込んでしまった。

 遂に力尽きてしまったのか、小波の瞳は光の灯らない惘々とした目つきをしていた。

「こ、小波ィ!!」

 星が思わず声を荒げる。

「失投!?」

 猪狩進も同様に。

 小波のアクシデントに気付く、が。

 

 

 

 ギュッと握りしめるバットは、

 その『ツーシーム』を強振で振り抜く。

 

 

 

 

 カキィィィィィン!!!!!

 

 

 

 

 振り抜いたバットはボールを真芯で捉えた。

 快音を残して打球は上がる。

 誰もがその打球に視線を向ける。

 澄み渡る夏の青空に一つのボールが高々と打ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポゴンッッッッッ!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 高々と打ち上がった打球は、

 バックスクリーンのスコアボードに直撃した。

 

 

 

 

 

 猪狩進の同点の起死回生の一発。

 センターオーバーのツーランホームランが飛び込んのだ。

 

 

 

 

「わあああああああああああああああああああああーーッ!!

 

 響めき、唸る歓声。

 その声が一点に集合し巨大な地響きを作り地方球場はまるで火山の様に大きく湧き上がった。

 

 青のチームカラーであるあかつき大附属のベンチと保護者や関係者が座る応援席は大賑わいを見せる中、猪狩守と猪狩進の兄弟だけが浮かない顔を覗かせていた。

 同点である七点目のホームを踏み、ベンチに戻る途中。

 次のバッターである猪狩守が待っていたネクストバッターズサークルで足を止める。

 兄である猪狩守の表情は、喜びよりも悲しさの感情の方が大きく顔に出ていた。

「兄さん……」

「ああ、分かってる。僕たちが甲子園に行く為には必要なのは、どんな形であろうと小波に勝つ事だ。例え、右肩を壊していようとも、棒球であろうとも」

 ググッと、自身の拳を強く握りしめる。

 何かを堪えるように唇も強く噛んでいた。

 そう、小波球太は終わったのだ。

 猪狩守が好敵手と認めているたった一人の好敵手は、此処で野球人生の終わり告げたのだから——。

 色々複雑な感情を噛み砕き、

「進。僕たちは前に進むぞ。小波の分まで僕たちは甲子園に行って優勝する」

 

 

 

 

 

 マウンド上で、両手両膝を地面に着けて蹲る小波球太。

 星や赤坂、毛利、海野、京町の内野手全員がその場に駆けつけて小波を囲んでいた。

 誰一人として大丈夫か、と言う心配の声をかけられなかった。

 それほど、今までに無いほど疲弊していた。

 口を開いても微かに声帯が震えて息を吸うだけの掠れた音がするだけだった。

 

 

 ボロボロで情けない。

 正直、見せたく無かった。

 せめて、お前達の前だけではこんなにも弱った情けない姿なんか見せたく無かった。

 キャプテンとして、みっともない姿は見せなく無いと思っていた。

 キャプテン、か。

 

『おいおい、俺たちの事も忘れるんじゃねェよ、小波キャプテン』

 確か、星が俺の肩に手を回しながらそう言ったんだっけ。

『……キャプテンって俺かよ!? キャプテンはこの野球部を作ろうとしていた矢部くんがやれば良いじゃないのか?』

 そして、俺は露骨に嫌がった。

『いいや、オイラにリーダーシップなんてモンは皆無でやんす。小波くんがキャプテンならオイラたちも安心するでやんす!』

 矢部くんの海野達の部員勧誘の仕方にキレた早川と星に殴られた矢部くんの姿を思い出す。

 

 まったく、懐かしい記憶だ。

 

 思い返せば、あれから二年。野球部が創設した時半ば無理矢理な形でキャプテンにされたんだよな。

 俺はキャプテンなんて務まる器な人間じゃねえのに。

 でも、それも悪くなかったな……。

 このチームのキャプテンで良かった、と今では素直に胸を張れる。

 

 

 ちょっと位は、あいつらに俺が理想に掲げていた野球って楽しくて素晴らしいスポーツだって事は伝えられてあげられたのかな。

 俺も少しくらいは、憧れてた勇気や元気をあげられる選手になれたのかな。

 

 もう思い残す事は……、無い。

 精一杯やったんだ。

 

 でも、まだあいつらと一緒に野球やりたかったって言う気持ちが消えない。

 

 喜んでいる顔が見たい。

 

 だから、こそ!!

 俺はまだ此処で終わる訳にはいかねえんだ!!

 

「……、」

 

 

 

 

 ガタガタと小刻むに震える身体。

 力を入れてもびくともしない身体。

 

 

 

 

 

 俺の身体は、まだ動く。

 頼む……。

 動いてくれ。

 こいつらの前だけでも、せめて最後の最後まで恋恋高校のキャプテンとして立たせてくれ。

ㅤこいつらを絶対に甲子園に連れて行かなくちゃならねえんだ。

 だから、頼む。

 動いてくれ。

 俺はまだ、投げれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「タイム!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈黙を切り裂く声が響く。

 

 伝令、だった。

 

ㅤ恋恋高校の監督である加藤理香が球審にそう告げる。

 そして、

 恋恋高校のベンチからグラウンドに入ってきたのは——、黄緑色の髪におさげをぶら下げる早川あおいの姿だった。

 ブルペンで肩を作っている筈の早川あおいがグラウンド内に入り、小波が蹲っているマウンドに向かって駆け足で向かう。

 

 

「早川……?」

ㅤ早川がどうして此処に……?

 ……。

 ああ、そうか。

 加藤先生も遂に痺れを切らし交代を告げに来たって訳か。

 俺の最後の我が儘でマウンドに立たせて貰っているけど、それももう右肩は愚か身体すら動く気配が無い。

 勝負を決める筈だった渾身の『ツーシーム』を進に同点のホームランを打たれちまったんだ。

 オマケにこんなにも心身共にズタボロだ。

 降板するのは当然といえば当然か。

 ……。

 ここに来て折角、皆が繋いで、猪狩から捥ぎ取ってくれた大事な二点だったのにそれを俺が台無しにしちまった。

 悪いな、皆。

 ここまで投げ抜いて、最後の最後に無様な姿をみせちまったもんだ。

 本当に……、ごめん。

 俺は、もう此処でリタイヤだ。

 

 意識があるのが不思議な程、誰がどう見てもボロボロに戦い果て、疲れ果てる小波球太に向けて労いの声や心配の声を掛ける事も出来ずに、星達はただ早川あおいの言葉を待っていた。

「ねえ、球太くん」

ㅤ肉体の疲労もピークを超え、朦朧とする意識、歪んだ視界の中で早川あおいが小波球太に問う。

「……、なんだよ」

「球太くん。キミは野球は好き?」

ㅤ……え。

 思わず耳を疑った。

 このタイミングで早川あおいが来たと言う事は交代を告げるのだとばかり思っていた。

 しかし、小波が思っていた早川あおいの言葉は予想の斜め上を行くものだった。

 野球は好き……?

 胸の奥でじわっと広がる暖かい気持ち。早川が声をかけたその言葉の響きに何処か懐かしさを感じていた。

「おいおい、随分と可笑しな事を聞くんだな。野球が好きじゃ無かったら、俺は今、此処に立ってなんかいねえだろ」

「そうだよね。なら、この恋恋高校野球部はどう? 好き?」

「……ああ、好きだよ」

 俺だって出来る事ならコイツらと一緒に甲子園に行って野球がしたい。

 まだまだ一緒に野球がやりたい。

 俺の身勝手で余りにも馬鹿な考えをしてて、星に胸ぐらを掴まれ、早川に目の前で泣かれて、皆んなに心配を掛けてしまったんだ。

 当たり前に決まっている。

 何よりも大事なチームメイトだ。

 一緒に甲子園に行きたい。なんて夢を誰よりも強く思っている位に好きなチームだ。

「ねえ、球太くん」

 再度、名前を呼ぶ。

 大きい目。青い色の瞳には、大粒の涙が今にも溢れそうなほど溜め込んでいた。

 優しい声色で、名前を。

 一字一句。噛み締める様に名前を呼んだ。

「そんな辛い顔なんてしないでさ。『周りの目なんて関係ない。楽しく野球をやろうよ』。ボク達の事なんて気にしないでさ」

「早……川?」

 それは。

 いつの日かホームランを打った少年が、マウンドに立つ少女に言った言葉だった。

「キミの好きな野球を最後の最後まで描いた小波球太と言う野球選手としての野球を貫き通してよ!! だから、お願い球太くん。キミが『夢』を叶えるところを見せて!! ボク達に『夢』を叶えるところを見せてよ!! そして——、ボク達を連れて行って、その『夢』が叶う場所へ」

「……」

 

 描いた小波球太と言う野球選手、として?

 

 『ある日のある試合』で少年は少女に『ある言葉』伝えた。

 今日の決勝戦で、早川あおいは小波球太にあの時に似たような言葉を掛けたのだ。

 かつて自分が言われて救われた様に。

 かつて自分が言われて今も胸の奥でしっかりと思い出に焼きついて残ってる様に。

 今度は自分が、小波球太を救う番だ。

 周りからすれば青臭い言葉なのかもしれない。

 或いは、安い言葉なのかもしれない。

 でもその言葉で過去の自分(早川あおい)が救われたのは紛れも無い事実なのだ。

 どれくらい恩を返せるかなんて正直言って分からない。

 それでも、どうしても小波に伝えたかった言葉だった。

 

 ポタリ、ポタリ。

 大きな青い色の瞳から、涙が溢れていた。

 

「ボクが必ず……。必ずボクがプロ野球選手になって球太くんの『夢』をボクが叶えるから!!」

「早川……」

「それに、ボクに託すって決めたんでしょ」

 昨日の山の宮高校との試合。

 小波球太と加藤理香の会話を盗み聞きしていた早川あおい。

「それにもう……ボク以外にもちゃんと伝わってるよ。球太くんの想いは皆の中に根づいてる」

 大粒の宝石の様な涙をポツリポツリと流しながら早川あおいはニコリと笑う。

 後ろを振り向かなくとも伝わってくる。

 きっと、皆同じ顔をして笑っているのだろう。

 そんな暖かい気持ちに包まれていた。

 

 

 ああ、

 そうか。俺は叶えられたのか。

 俺の中でずっと信じていた野球を、

 周りに笑顔や元気を与えられて、

 周りと楽しく野球が出来る、

 ずっと俺がなりたかった野球選手に。

 やっと俺はなれたのか……。

 

 

「早川。……ありがとな。その言葉ですこしは元気出たぜ」

 と、小波球太はゆっくり身体を上げる。

 惘々とした目つきは晴れ、

 燃え輝く目を据えて、

 小波球太はマウンド上で立ち上がった。

 

 ギュッとボールを右手を握る。

 

 前を見据えて、

 立ちはだかる敵を定める。

 猪狩守を定める。

 

「うん。球太くん。ボク達に見せてね。キミの信じる野球を」

 零れる大粒の涙を拭い早川が言う。

「やれやれ。こんな今にも倒れそうな情けねェナリなのに、俺たちのキャプテンは諦めが悪くてしょうがねェな」

 トン。と、

 星が小波の背中に優しく手を置いた。

「ああ、全く同感だ」

 と、同じく毛利が星の背中に手を置く。

「でも、そのキャプテンの影響かな。どうやら俺たちの方も諦めが悪くなってしまったようだ」

 海野が。

「俺もッス。けど、この恋恋高校の魂は次期キャプテンの俺がその想いを紡いで行かないと行けないみたいッスね」

 と、赤坂が。

「なんだか負ける気がしないですね」

 と、京町が赤坂の背中に手を置いた。

「さあ、キャプテン。ボク達に言いたい事あるでしょ?」

 と、早川は京町の背中に手を置いて、小波の背中に手を置いた。

「ああ、そうだな」

 ニヤリと口角が上がる。

 この試合、見せなかった笑顔に溢れていた。

 早川の背中に、星の背中に手を置いて、マウンド上で一つの大きな円を描く。

「本当に最高な仲間を持てて俺は幸せだ。だから最後に一つだけ言わせてくれ」

 スゥッと息を吸って、

 そして、一言。

「楽しい野球をやろうぜ!!」

「オウ!!」

 

 

 

「四番、ピッチャー、猪狩守くん」

 

 伝令を終えた早川あおいはベンチへと戻って行き、ウグイス嬢が猪狩守の名前を読んだ。

 左打席に入る前に、猪狩は不審の眉を寄せていた。

 何故だ、小波。

 どうして君はまだマウンドに立っている。

 もう終わった筈だ。

 進に本塁打を打たれた時、何かが切れた筈なのに……どうして君は其処に居る。

 幼い頃から小波球太と言う人間と幾度無く勝負して来た猪狩だが、この状況は今まで以上に理解出来なかった。

 四年前。同じ状況を目の前で見ていた。

 右肘を壊したあの試合ではマウンドを降りたのに今はどうしてそこに立っているのか。

 

(本当に、小波球太(きみ)と言う好敵手はいつまでも僕を驚かせてくれる)

 

 それでも立ち上がっていると言うのなら、完膚なきまでに叩き潰すだけだ。

 ニヤリと、不敵な笑みを零す。

 猪狩守と小波球太の最後の勝負が始まる。

 

 

 一球目。

 右腕を振るう。

 身体に『虹色』を纏い、投げ込まれたのは『スリーフィンガー・ファストボール』だ。

 球速、百五十六キロを見送った。

「ストライクーーッ!!」

 痛烈な捕球音の後に、高々と叫ぶ球審の声が響き渡る。

「痛〜〜ッ!! 最初から投げれるんだったら最初から投げやがれッ!!」

 キャッチャーマスク越しで顔を歪めて、星雄大は小波向けてボールを返す。

「小波は万全の様だな」

 と、猪狩守が星に向けて言う。その顔はしっかりと小波を見据えたままだ。

「当たり前だろうが、小波はテメェを捻じ伏せるまでもう折れたりはしねェよ。小波は最後の戦いにテメェとの勝負を選んだんだ」

「そうか。この先の将来よりも僕との勝負を選んだという訳か。凡人の考える事は分からないモノだ」

 ギュッと強くバットを握りしめる。

 キリッとした吊り目で、眼前に立ちはだかる好敵手に向けてバットの先端を突き出し、

「かかって来い!! 僕に凡人の悪足掻きと言うモノを見せてみろ!!」

 と、猪狩守にしては珍しく大声を上げた。

 対する小波は言葉にせず少年の様な笑みを浮かべてただコクリと頷くだけだった。

 そして、二球目を投じる。

 百五十六キロの『ツーシーム』だ。

 ブンッッ!!!!

 空を切る音の後に痛烈な捕球音が再び響く。

「ストライクーーッ!!」

 

(ボロボロで尚、まだこんな球を投げれるのか。本当に凄い奴だ。天才のこの僕の好敵手として相応しい相手だ)

 

 十八・四十四メートル先に立つ好敵手の瞳はギラリと燃えるような熱い目をしていた。

 その熱意に思わず、猪狩守はゴクリと生唾を呑み込む。気を緩めば一気に流れが押し込まれてしまいそうな程の威圧感があった。

 

(やはり敵わないな)

 ああ、そうだとも。

 その揺るぎない強い瞳をした君だから、

 僕は君に憧れていたのかもしれないな。

ㅤ君の様に皆で楽しむ野球が出来る事が何よりも羨ましかった。

 でも、僕は僕である為に自分を天才だと自称して君みたいに素直になる事は出来なかった。

 今更その様な野球は出来そうにない。

 だからこそ、

 僕は僕らしいやり方で僕の野球を貫くだけだ。

 

 

「兄さん……」

 あかつき大附属のベンチで猪狩進は見た。

「猪狩……」

 監督である千石忠も四条澄香も他のナイン達も猪狩守を見て、驚いていた。

 

 

 左バッターボックスに立つ、

 その表情は、

 野球を初めて楽しんでいる少年の様だった。

 

 

 

「……」

 猪狩の野郎、思いの他楽しんでんな。

 いい顔をしてるぜ。

 さあ、猪狩。

 お前との勝負も残り時間も後僅かになって来た所だぜ。

 これが正真正銘、最後の勝負だ。

 残り一球。

 最後の最後まで楽しもうじゃねえか。

 

 

 どうやら春に見た可笑しな夢みたいな試合は出来なかったけど、それでも満足だ。

 楽しい試合だったぜ。

 

 

「さあ、ラスト勝負と行こうぜ猪狩。そして受けとれよ。これが……」

 

 好敵手に向け、

 大きく振りかぶる。

 ヒップファーストで軸足の膝を曲げ、軸足の母指球に重心を残す。

 肩甲骨を引き寄せて腕を振るうパワーを蓄えて腰を回転させる。

 腰の回転に肩の回転が追いつき、右肘が前に出て行く。

 下半身から体幹部、体幹部から肩へと伝わって来たパワーが腕に集約されて手首が出る。

 手首が振られ、

 ボールを叩く様に、

 リリースされた。

 

 

 

「これが小波球太の最後の全力投球(すべて)だぁぁぁぁぁぁッ!!!!」

 

 

 

 

 虹色に光る身体は、鮮やかで強い光を放つ。

 

 

 

 

 

 ボキボキッ!!

 バキバキッ!!!!

 

 

 

 

「——ぐッ!!」

 

 身の毛がよだつ程。不気味な音。

 自分の右肩の骨が砕け散る音が一音足りとも残さず鮮明に聞こえるほど、それは大きかった。

 無我夢中に、

 『虹色の光』を纏って、

 小波球太の右指から放たれたボールは、

 『螺旋状の真紅の炎を纏ったエフェクトが掛かったボール』だった。

 それは——。

『ノースピン・ファストボール』でも無く、

『バックスピン・ジャイロ』でも無く、

『スリーフィンガー・ファストボール』でも無く、

『ツーシーム』でも、『ただのストレート』でも無かった。

 でも、それはまるで。

 小波球太の『ツーシーム』と猪狩守の『ライジング・キャノン』が混じり合った様な誰も見たことのない球だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ゴウッッッッッッッッ!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 唸りを上げる速球。

 

 

 

 

 

 

 ギュルルルルルルルルルルルルルルルルルルーーッ!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 七月三十一日。

 午後十三時。

 気温三十六度を超えた猛暑日。

 毎年、この季節を迎えると日本全国を熱気の渦に巻き込む「夏の風物詩」でもある高校野球。

 高校球児が誰もが夢みる聖地、甲子園。

 その夢の切符を掴む為、恋恋高校とあかつき大附属がぶつかり合う頑張地方の甲子園予選大会の決勝戦は、

 延長十五回にまで及んだ試合は、

ㅤあかつき大附属の猪狩守のサヨナラホームランで決着が着いた。

 二年ぶりの甲子園の切符を手に入れたのは、あかつき大附属で、惜しくも恋恋高校は準優勝で甲子園の土を踏む事も出来ぬまま高校野球の幕を下ろし、小波球太の野球人生に終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、月日は流れ。

 季節は、秋。

 十月の末(ドラフト)を迎える。




 次回更新(最終話)は、未定です。
 更新が決まり次第、活動報告やTwitterの方で告知させて頂きます。
 

 あとがき
 約四年と数ヶ月の割と長い期間でしたが、稚拙かつ拙い文章を最後まで読んでくださりありがとうございます。
 感想や指摘等も沢山頂いて、とても励みになりました。
 投げ出す事なく最後まで描けたのは皆さまのお陰だと思います。
 書きたい話もまだまだあったり、削った話も多々ありましたが、この辺で締める事に決めさせて頂きます。
 それでは最後に、
 小波球太の物語の結末を見届けてもらえるように頑張りたいと思います。
 本当に長い間、どうもありがとうございました!とても楽しかったです。
 また書かせて頂く機会がありましたら、その際はよろしくお願いします。
 kyon999


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第70話 新時代への幕開け①

「へ、へっくしゅんッッ!! ……、ごめんでやんす」

 突如、大きなくしゃみが響いた。

 このご時世では随分と耳馴染みのない珍しい口調だ。

 主に夕方の時代劇ドラマなどで良く耳にした事が一度位はあるであろう、あの特徴的な「べらんめぇ口長」が威勢よく飛び込んできた。

 ずずっと音を立てながら鼻を啜る。その男はすっかりと刈り上げたばかりの河川敷の芝生の様な坊主頭でこれまた現代にはそぐわない瓶底眼鏡を掛けていた。その男は恋恋高校三年生の矢部明雄だった。

「うう……最近はどうも冷えるでやんす。これはもうすぐで冬が来るでやんすね」

 坊主頭をポリポリと人差し指で掻きながらそういう呟きながら矢部明雄は口を尖らせて体を両手で摩る。

 勢いよく飛び出して響いたくしゃみ。その場に居る人たちからは注目を浴びるであろう今の大きなくしゃみは、まるで無かったかの様に誰一人として矢部に視線を向ける事は無かった。

 六時限目の授業を終え、一日を締め括るロングホームルームも終えた放課後。それでも生徒達は家路に着くわけでも勉強でもしてる訳でも無くただただ教室内に残っていては雑談に花を咲かせていた。

 殴り消しの黒板の横、やや大きめの壁掛けカレンダー日付は、十月の二十六日とチョークで書き込まれていた。

 それはそう。もう十月の下旬。

ㅤ季節は秋を迎えていたのだった。

 あんなにも熱の茹だる様な暑さが毎日続いた夏は瞬く間、あっという間に過ぎ去っていったのも部活を引退したのが大きな理由の一つだろう。

 この夏、甲子園を決める夏の大会で恋恋高校野球部は創設三年目にして初めて地区大会の決勝戦まで勝ち進むことが出来た。

 しかし、結果は延長十五回まで続いた決勝戦で対戦チームのあかつき大附属の猪狩守のサヨナラホームランで決着し、甲子園の切符まであと一歩の所で力負けしたのだった。

「それにしても皆中々帰らないでやんすね。まあ、帰らないと言う理由は分からなくもないでやんすが」

 と、矢部が言う。

 すると、矢部の目の前でふさっと黒髪の癖毛がぴくりと微かに揺れた。

「今日はプロ野球のドラフト会議だからね。早川がプロ希望届けを出したから、皆気になってるんじゃないのかな?」

 右腕に大きなギプスを付けて四方八方に揺れる癖毛、今にも眠たそうな眠気眼で黒い瞳の青年がニヤリと笑いながら言う。

 矢部明雄と同じクラスであり、恋恋高校野球部を率いた「初代」主将の小波球太だ。

「確かにでやんす。他の皆は大学進学や企業に就職のそんな中、あおいちゃんはただ一人プロ野球を目指してるでやんすもんね」

「うん。それに今日、早川がドラフト指名を受けたら女性初のプロ野球選手の誕生だからね。尚更だよ」

 と、小波は周りを目で眺めながら言う。

 先ほども小波が言った通り。何故こんなにも人が多く帰らずにいるのかは今日がプロ野球のドラフト会議が行われ、恋恋高校の早川あおいがドラフトに選ばれるかもしれないと言うのが理由であるからだった。

 また教室内だけでは無く、教室の窓から少し下に目を向ければマスコミなどの報道陣が朝から何十人と数多く校庭に集まっており理事長や校長も含め、その対応に追われて色々と大変な一日でもあった。

「史上初は凄いでやんすね!! って、事は。オ、オイラ達はその歴史に残る場面に遭遇するかもしれないでやんすか!? オ、オイラ少し緊張してきたでやんす……」

 と、矢部はあたふたとテンパり始める。

 別に矢部くんがドラフト届を提出している訳でもないのに、と少し対応に困りながらも小波は苦笑いを浮かべていた。

 すると。

「小波くんは、その……本当に良かったでやんすか?」

 それは、急にだった。

 浮かれムードから一転し言葉に詰まりながらも表情は真剣で矢部が問いかける。

 矢部の目線は小波球太の右肩に在った。

「ん? ああ、うん」

 左手でギプスで固定している右肩を触る。

「まあ、平気だよ。俺のやりたかった野球は全てあの試合で全部置いてきたんだ。悔いなんかもう無いよ」

 小波球太の右肩には感覚が無い。

 いや、感覚が無い言うよりは完全に壊れて回復が不可能と言うのが現状だ。

 あの夏の決勝戦。右肩に爆弾を抱えながら満身創痍の中、小波球太は限界を超えて最後の最後までマウンド上に立ち続け、野球人生を終える程の怪我を負った。

 試合途中でマウンド降りた小波球太は球場に駆けつけた救急車で病院に搬送されて緊急により手術を行った。

 その時の出来事は今も鮮明に覚えていた。

 救急車に搬送される時、幼馴染みであるきらめき高校の高柳春海とパワフル高校の栗原舞、そして六道聖と聖の一つ上の先輩の明日未来の姿が在った事は覚えている。

 手術は無事に成功。

 だがしかし、思っていた以上に身体に負担が掛かっていた為、野球は疎か日常生活以外に右肩を使う事が全く出来なくなってしまったのだ。

 最高の仲間達と自分の望んだ楽しい野球が出来ることが出来た。

 最高の好敵手と心から楽しめる野球をする事が出来たのだから悔いはない。

 

 

 それに、だ。

 小波球太にとって全てが終わったわけでは無い。

 これが終わりでは無い。

 自分がこれからの道をどう歩むべきか、その答えは既に決まっているのだから……。

 

「小波くんがそう言うのなら良いでやんす。オイラ、小波くんの分まで大学で野球を頑張るでやんす!!」

 キリッとした太眉で、強く言う。

「それは嬉しいよ。頑張ってね、矢部くん。応援するよ」

「ありがとうでやんす!! ……あ、そう言えば小波くん。何か決めてるでやんすか?」

 ふと、何かを思い出したかのように矢部が小波に問いだした。

「ん? 何が?」

「何がって、あおいちゃんのプロ入りの祝いでやんすよ!! ドラフトの当日だと言うのにオイラ何も用意してなかったでやんす!!」

「ああ……」

 気の抜けた返事が返ってくる。

「ああ……って、まさか小波くんも何も考えて無かったでやんすか?」

「いいや、ちゃんと考えてあるよ。矢部くん、耳貸して」

 と、小波は呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針は十六時半を少し回っていた。相変わらず校内には生徒たちで溢れ返っている。

 恋恋高校の一階、百人程は座る事が出来る食堂には既に早川あおいを初めとした恋恋高校の野球部員、教員、マスコミが大画面のテレビを目の前としてパイプ椅子に座っていた。

「まったくよォ。後三十分そこいらでドラフト会議が始まるって言うのに、あのバカ野郎は一体何処で何していやがんだ?」

 舌打ちを鳴らし、眉間にぎゅっと険しい皺を寄せ、座る椅子をカタカタと貧乏揺らしをしながらツンツンと整髪料で固めた金髪頭に刺々しい八重歯を光らせた星雄大はその「バカ野郎」の姿を大人数で溢れかえる食堂内をぐるりと見渡しながら言った。

「さあ、球太くんの事だからね。ちゃんと時間になったら此処に来るとは思うけど……」

 と、首を傾げたのは、透き通った黄緑色の艶やかな髪に可愛らしいおさげ髪をぶら下げた女生徒、そして今日の注目を浴びている恋恋高校のエースナンバーを背負っていた早川あおいだ。

「もし、早川が速攻でドラ一に選ばれたらどうするつもりだァ!?」

「ちょ、ちょっと星くん!? な、何言ってるの!? ボクみたいなピッチャーは一位に選ばれるとは思ってないよ!!」

「オイオイ、なんだァ? 早川、テメェ。こんな日に随分と弱気なんじゃねェのか!?」

「実際、猪狩くんや太郎丸くん達はボクなんかよりも他の人達の方が凄い成績や実績を持つ人達ばかりだからね。特に今年は甲子園で活躍してメディアの注目を浴びた選手も多かったみたいだし」

 と、早川あおいは意気消沈気味だった。

 今年の甲子園の覇者、あかつき大附属の左腕である猪狩守を筆頭に数々の球児達が夏の風物詩である甲子園に置いて目まぐるしい活躍をしたのは言うまでも無かった。

 そんな中でも地区大会で敗退したチームの中でも山の宮高校の太郎丸龍聖や名島一誠など甲子園出場を果たした事のある球児達もドラフトの注目を集めているのも多数いるようだ。

「そんもん関係ねえだろ。始まる前から落ち込んでんじゃねェって言ったんだよ!! お前がプロ野球選手になってくれなきゃ俺が大学で自慢出来ねェだろうが!!」

「自慢って……。あ、そう言えば星くんは何処の大学に進学希望出してるんだっけ?」

「あん? 俺はイレブン工科大学だ。ま、言わずもかな野球は続けるつもりだぜ。それに絶対に打たなきゃならねェバカが大学で待ってるんでな」

 と、星はニヤリと八重歯を光らせる。

「打たなきゃいけないバカ? それって一体、誰のこと?」

 と、早川は首を傾げた。

「打たなきゃいけないバカってのは悪道浩平のクソったれのバカ野郎の事だよ。最近、元赤とんぼ中の同級生のダチから聞いたんだ。しかしよォ、話を聞いて驚いたぜ。浩平の野郎はどうやら帝王大学に進学して野球を続けるらしい」

 口調とは裏腹に、嬉しい気持ちが抑えられない声色だった。

「それに球八高校のキャッチャーだった滝本雄二の野郎も同じ帝王大学に行くみてぇだな」

 拳を強く握りしめた後、「大学に行っても負けていられねえ」と呟いた星を見て早川あおいはニコッと笑みを溢していた。

「オイラはパワフル大学、海野くんは近代学院大学、古味刈くんは駅前大学に進学で山吹くんと毛利くんは一番星自動車、天下建設にそれぞれ就職で皆野球は続けるでやんす!!」

 と、矢部明雄が言う。

 それに釣られるように三年生部員の四人はコクリと首を縦に振った。

「私も満通万大学に進学希望なので、もし合格する事が出来たらまた野球部のマネージャーをしようと思っています」

 と、七瀬はるかがニコッと笑った。

「な、何ですとォ!? は、はるかさんは満通万大学に進学希望なんですか!? ……チッ、こうなったらこの漢・星雄大もイレブン工科大学なんかじゃなくて満通万大学に行くしかねェって事じゃねェか!!」

「いやいや、どう考えたってそれは無理でやんすよ。星くんみたいな空っぽの頭じゃ満通万大学には通えないなんて事は火を見るよりも明らかでやんす。自明の理でやんすよ」

「なんだとォ!? 舐めた事言ってんじゃねェぞ、この腐れメガネがァァァァァァァァァァァァーーーッ!!」

「ギャァァァァァァァァーーーーッ!!」

 相変わらず、何度も何度も見てきた。

 いつもの変わらない光景。

 その様子をこの高校生活で何度も眺めて来た早川あおいはまた再びクスッと笑みを溢した。

「良かった。それじゃあ皆、卒業してそれぞれの進路に進んでも野球は続けるんだね」

「おうよ!!」

「当たり前でやんす!!」

 と、矢部と星が言葉を返した。

 何気ないやりとりを続けた後、その運命の時間がやってきた。

 食堂に押しかけるマスコミ、生徒達の野次馬が溢れかえる中、時計の針は十六時半を指していた。

 大画面のテレビのチャンネルがドラフト会議の中継特番に変えられた。

 

 

 

 

 ドキドキ、

 今にも周りに聞こえそうなほど早川あおいの胸の鼓動が高鳴っていく。

 まだ小波球太の姿は見当たらなかった。

 それでも、

 ギュッと、

 強く拳を握る。

 そして、

 今から始まる、

 運命のドラフト会議に目を向けた。

 

 

 誰もが視線をテレビに焼き付ける中、淡々とドラフトの説明が始まった。

 『猪狩世代』と呼び名が定着したこの世代、十二球団のプロ野球の球団からまず最初にドラフト指名を受けたのは——、

 

『楽天イーグルス、第一巡目選択希望選手、太郎丸龍聖、投手、山の宮高校』

 ザワザワと騒つくテレビの奥の会場と恋恋高校の食堂だ。

「ほう、太郎丸の野郎は楽天か」

 星がボソリと呟く。

 二年前の頑張地区の覇者、無名校にして初の甲子園の地を踏み、恋恋高校と今年の春と夏に激闘を繰り広げた百六十キロを超える豪速球『アンユージュアル・エクシード・ストレート』を放る左腕である太郎丸龍聖がまず選ばれた。

『中日ドラゴンズ、第一巡目選択希望選手、滝本晃一、内野手、栄光学院大学』

 続くのは、セリーグ。

 選ばれたのは大学生の一人の名前だった。

 名は、滝本晃一。

 球八高校の滝本雄二の実の兄の名前だ。

『西武ライオンズ、第一巡目選択希望選手、久方怜、投手、西強高校』

 今年の夏、準決勝戦であかつき大附属との激闘の末に破れ去った西強高校のエースである久方怜が指名を受ける。

『ヤクルトスワローズ、第一巡目選択希望選手、奥居紀明、内野手、一芸大附属高校』

 ヤクルトスワローズが一位指名したのは、今年の中部地方から甲子園初出場を決めながらもベスト八まで登り詰めた一芸大附属高校のキャプテンを務めた男の名前が呼ばれた。

 そして、次々とドラフト一位の指名が進んで行った。

 オリックスバファローズに、アンドロメダ高校の大西=ハリソン=筋金。

 阪神タイガースに、西強高校の和重。

 千葉ロッテに、さわやかなみのり高校から遊撃手の丘夕日。

 広島カープには、大東亜学園から投手の鋼毅。

 ソフトバンクには西強高校のキャプテンを務めた滝本太郎。

 横浜DeNAには久方、滝本、清本同様西強高校から正捕手である堺住吉が選ばれた。

 そして、

 パ・リーグ第一希望選択選手、最後の一名は――、

『日本ハム、第一巡目選択希望選手、名島一誠、捕手、山の宮高校』

 楽天イーグルスに一位指名された太郎丸龍聖とバッテリーを組んでいた名島一誠の名前が呼ばれた。

 続くセ・リーグのドラフト一位がモニターにたった今映し出される。

『東京読売ジャイアンツ、第一巡目選択希望選手、猪狩守、投手、あかつき大付属』

 『ライジング・ショット』と言う弾丸のようなストレートの武器を持ち、小波球太の昔馴染みの人物。

 恋恋高校と決勝戦で激闘を繰り広げ、甲子園での優勝旗を掲げて世間から『猪狩世代』と呼ばれる筆頭となった左腕の名前だった。

 テレビに映るその名前を見て、恋恋高校の野球部員と報道陣達は驚きの声は上がらなかった。

「ま、猪狩自体ドラフト前から巨人入りを強く熱望してたし、何なら巨人以外ならどこの球団も拒否するって堂々と言っていたから当然な結果だよな」

「それにしてもドラフト一位のメンバーが濃い人達でやんすね。どれも甲子園で活躍して話題になった凄い人ばかりでやんす」

 と、矢部と星が言う。

「まあ、結局ドラフト一巡目で早川の名前は呼ばれなかったな!!」

 と、意地悪く星が早川あおいの顔を見るなりニヤリと言う。

「あ、当たり前でしょ!? ボクみたいな選手が一位なんかに選ばれる訳なんてないもん!!」

 早川は再び困惑顔で言葉を返した。

 

 

 そして、小波球太の姿は見ぬままドラフト会議は二巡目を迎えた。

 

 

 恋恋高校の食堂がマスコミや生徒達が集まり人溜りが出来る中、入り口付近で橙色に染まる艶やかな髪を靡かせた白衣を纏う女性が一喜一憂する生徒達を見るなり苦笑いを浮かべていた。

「やっぱり貴方の予想通りね。猪狩くんは巨人に一位指名されたわよ」

ㅤと、隣に立つ黒髪の癖毛頭の青年を見つめながら「小波くん」と付け足した。

「昔から猪狩は巨人にプロ入りするって言い張ってましたからね。一先ず夢が叶ったって事でおめでたいですね」

 ライバルである猪狩守のプロ入りに対して頬を緩めながら小波球太は言う。

「そう言えば、夏の入院中に猪狩くんがお見舞いに来たんですって? 妹の京子から聞いたけど」

「あ、京子さんから聞いたんですね。まあ、ちょっとだけですけど見舞いに来ましたよ。甲子園優勝した後だったんで凄く嫌味たらしく優勝の自慢をされましたけどね」

「そう。ついでに貴方が今後何をしようとしているのかも京子から聞いてるけど、それは本当の事なの?」

「……、はい。そうです」

 と、小波は自身のギプスで固定されている右肩に目を向けた。

 もう野球では使えない、右肩に。

「小波くん、貴方が進もうとしてる道は随分と険しい道のりだとは思うけれど貴方ならきっとやりきれると思うわ。その為に定期的にリハビリも受けてるんでしょ? 存分に頑張りなさい」

「はい、ありがとうございます」

「ああ、それと、貴方に言っておくべき事が一つだけあるわ。それは――、」

山口賢(・・・)の事ですか?」

 と、空かさず小波球太は言った。

 山口賢、と言う名前を聞いて加藤里香はコクリと頷いた。

「ええ、そうよ。数年前にダイジョーブ博士が本来診るべきだった子、帝王実業の山口くんは中学時代から右肩が悪かったのよ。地元の病院では何処もただの軽い炎症と診断されてたみたいだったけど……でも、ダイジョーブ医学ではそうじゃなかったの」

「……」

「貴方と同じ境遇だった訳ね。たまたま博士が右肘を故障した貴方と出会い、ダイジョーブ医学で右肘を完治され手術は成功した。その手術のせいで右肩に爆弾が付いてしまったけど……。何故、選ばれたのは山口くんじゃなく貴方だったのか……それは小波くん、貴方は『驚異的な成長力』を持ちながら『真・能力解放』も持つ稀な選手だから博士の目に止まったのよ」

「……」

「ま、安心しなさい。君の現状も過去の経緯も山口くんは既に知ってる。恨んでもいないし怒ってもいない、山口くんの右肩は京子のお陰で今は安定してるわ。それについさっきオリックスに一位指名されたアンドロメダ高校の大西くんと言う素敵な友達からの助言もあって来年の春から帝王大学に進学が決まってプロ入りを目指す為に右肩の完治を目指すわ。勿論、野球部に入って野球を続けるそうよ」

「そうなんですね。いつか山口と同じ野球の舞台に立って色々話たいです」

「ええ、私もその時が来るのを楽しみにしてるし、きっと彼もそう望んでる筈だわ」

 ニコッと笑う加藤里香。

 そして、小波のトン、と背中に優しく手を添えた。

「どうしたんですか? 加藤先生」

「こんな隅っこの奥の方でこそこそと話してるよりも、そろそろ早川さんの所に行ってあげなきゃならないんじゃない? 必要な準備(・・・・・)はこっちで早めに済ませておくわ」

「すいません。ありがとうございます」

 小波は軽く会釈をして人集りの方へとゆっくりと歩き出して行った。

 

 

「あっ!! 小波、テメェ!! 今の今まで何処に行ってやがったんだ!! ドラフトも三位指名まで進んだぞッ!!」

 ゆっくりと歩く小波の姿を見つけて真っ先に声を上げたのは星雄大。

「悪い悪い。ちょっと用事があったんだ」

「球太くん。猪狩くんは巨人に一位指名されたよ」

「おう、知ってるよ。さっき遠くから観てたからな。きっと今頃嬉しさで喜んでると思うけど」

 と、小波球太は親友であり好敵手である猪狩守の姿を思い浮かべてニヤリと笑みを浮かべた。

 

 そして、ドラフト三巡目が始まった。

 高校野球、大学野球、社会人野球とそれぞれの土俵で戦い、活躍して話題になった選手が次々と指名を受けて行く中――、

「横浜DeNA、第三巡目選択希望選手、矢中智紀、投手、球八高校」

「――ッ!!」

 指名された名前には随分と耳馴染みがあった。

 呼ばれた名前は球八高校の矢中智紀。

 小柄な体型で特殊な投球モーションであるアンダースローから放たれるフォークボールの『フォール・バイ・アップ』を操るピッチャーの名前だった。

 また、早川あおいや高木幸子と幼馴染みであり、マネージャーを務めていた七瀬はるかの恋人である男の名だ。

「うそッ!! 智紀くんがプロ野球選手に選ばれた!!」

 思わず立ち上がり喜びの声を上げる早川あおい。

「と、智紀……さん。お、お、おめでとうございます!!」

 目に大きな水溜りを作り震えた声で笑顔で言う七瀬はるかの姿があった。

「やったね、はるか!! 智紀くんにおめでとうの連絡入れないとだね」

「はい!! 智紀さんにはプロ入りのお祝いで『七瀬家家宝・剣』を渡す手配をしなくちゃいけませんね」

 恋仲である矢中智紀に対して、笑顔と泣き顔が混在する七瀬はるかであった。

「……ぐぐぐ」

 目を涙で滲ませて喜びを露わにしている七瀬はるかの姿を見て星雄大は下唇を強く噛み締めていた。

 強い何かを想い、

 悲しみの何かを殺し、

 新しい何かを決め、

「はるかさん!!」

 ガシッと、星は七瀬はるかのか細い手を握りしめた。

「は、はい!!」

 七瀬はるかの目は未だ涙で滲んでいる。

「……。ばるがざん……」

 ズズッと、鼻を啜り。

 星は涙声で、今まで聞いてきた低い男らしい声では無かった。

「どうが……矢中とじあわぜになっでぐだざいね!!」

「あ、ありがとうございます。星さん」

 七瀬はるかに対して強い恋心を想い、

 七瀬はるかに恋人がいる事で知った己の魅力の無さへの悲しみを殺し、

 星雄大は失恋をして新たな想い人を見つけると新たに決意した。

「オイラ達は一体、何を見せられてるでやんすか」

 と、矢部明雄はただただ呆れていた。

 

 そんな事は他所に、

「智紀くんが遂にプロ野球選手か……。なんだか羨ましいな」

 と、ポツリと呟く。

 早川あおいは幼馴染みのプロ入りに素直に喜ぶと共に自身がドラフトで指名されるのかどうかと言う不安も強くなっていた。

「未だこれからだろ。きっとお前なら選ばれる筈だよ、しっかりしろよ」

 隣に座っている小波球太が声をかける。

「うん……、そうだと良いけど。でも、やっぱり幼馴染みがプロ野球選手に選ばれるなんて自分のことみたいで嬉しいね!!」

「そうだな。俺も猪狩が無事にプロ入り出来て嬉しいからな」

「幼馴染みと言えば、球太くんのもう一人の幼馴染みの高柳春海くんと栗原舞さんの進路はもう決まってあるの?」

「ああ、春海はイレブン工科大学に進学で栗原はパワフル大学にそれぞれ進学希望出してるよ」

「そうなんだね。そう言えば、球太くんの進路は? 進学? 就職? ボク、未だ聞いてないんだけど?」

「俺? 俺は……まあ、秘密かな」

「秘密? まさか……就職も進学もしないつもりじゃないよね?」

「だから秘密だって」

「もう、球太くん。本当にキミは秘密主義にも程があるくらいだね。そう言う所がボクがキミに惹かれた……」

「そう言うところが何だって?」

「いや!! 何でもないよ!!」

 恥ずかしい言葉を口に出してしまいそうだと思ったのか、後半の部分はゴニョゴニョと口籠って赤面してしまう早川あおいだった。

 ドキドキ、ドキドキ。

 不安と期待が入り混じる変な感情で胸の鼓動は強くなって行くと同時に三巡目の指名も進んで行った。

 

 

 そして、

 

 遂に、

 

 運命の時がやって来た。

 

「千葉ロッテ、第三巡目選択希望選手、早川あおい、投手、恋恋高校」

 三位指名、選ばれた名前は早川あおいの名前だった。

「わあああああああああああーーッ!!」

 食堂に一斉に湧き上がった歓声。

「えっ!? ボク!?」

 ガタッ。

 思わず立ち上がり驚きの声を上げた。

「おい!! 早川、テメェ!! 遂にやりやがったなァ!!」

 と、星が、

「やったでやんす! あおいちゃん!! プロ入りでやんす!!」

 と、矢部が、

「あおい!! おめでとう!!」

 と、七瀬はるかが、

「早川先輩ッ!! やりましたね!! おめでとうございます!!」

 と、後輩達が、

「早川あおいさん!! プロ入りについて一言お願いします!!」

 カシャカシャとシャッター音を鳴らして今の心境を聞き出そうとするマスコミが早川あおいを囲むようにぞろぞろと集まり出した。

「あ……ボク……」

 突然の指名で正直に言えば、頭の中は真っ白だった。

 しかし、そんな中でも確かに感じるモノはあった。

「皆と……、この恋恋高校野球で野球が出来た事が何よりも誇りです。このチームだったから好きな野球を辞めずに続ける事が出来たと……強く思います」

 気付けば視界は滲んでいた。

 まるでプールの中から外を眺めているようなぐにゃぐにゃと歪んだ景色の様な。

 暖かい雫が頬を伝った。

ㅤ視線が自分に集まっているのは、それはきっと今の自分は嬉し涙を流して泣いているからだろう。それでも、そんなのお構い無しに早川あおいは、言葉を続けた。

「プロの世界で、ファンの皆さんに笑顔や勇気を与えられるような選手になれるように頑張って行きたいと思いますので、これからもよろしくお願いします!!」

 と、早川あおいは深々と頭を下げる。

「……」

 パチ……パチ。

 静まり返った食堂内に一人の拍手が響く。

 小波球太がニコッと笑って拍手を鳴らしていた。

 パチパチ、パチパチ。

 パチパチ、パチパチ。

 その音が重なって強い音へと変わった。

 その場にいる全員が早川に向けて暖かな拍手を送っていた。

「早川、プロ入りおめでとう」

「ありがとう。球太くん……。ボク、プロでもやって行けるかな?」

「もう不安になってんのか?」

「ボクには猪狩くん達みたいに秀でた才能なんかないから……」

「バカ言ってんじゃねえよ」

 コツン。

「——ッ!!」

 小波球太は早川あおいの頭を左手で、軽く小突いた。

「ほら見てみろよ」

「え?」

 小波球太が指を指す。

 早川あおいはその指された方へと目を向けると、

 そこには――、

『彼女を選んだ理由の一つとして、昨年の夏の予選大会から彼女のシンカーに目を付けていて、『マリンボール』と言う高速シンカーのキレがプロの世界でも充分に通用すると言う判断を――』

 と、監督のインタビューが流れていた。

「これって……」

「お前のボールはプロでも通用するって事だよ。それに去年の夏の大会から目を付けていたって事は、女性選手問題で棄権する前の事でお前が世間で有名になる前って事だ」

「つまり……」

「つまりお前は実力で実を結んだんだ」

「うん!!」

「頑張れよ、早川!! 応援してるからな」

「任せて!! 球太くんの夢の分も頑張って見せるから!!」

「ああ、頼んだぜ」

 早川と小波はガツっと拍手を交わした。

 

 その後、早川あおいは改めてドラフト指名を受けてインタビューを受ける事になった。

 プロ野球が始まって以来の初めての出来事である女性選手のプロ入りに、マスコミ達の熱気は収まるまでに時間が掛かった。

 早川のインタビューを終えるのを待っている小波達野球部員以外の生徒達は既に下校時間が過ぎているために帰宅して、先程の喝采が嘘のように静まり返っていた。

 早川あおいがインタビューを受けている間にドラフト会議は幕を閉じる事になった……のだが、

『えっと……、えっ!? そ、速報!? 此処で皆様に大変重要なお知らせがございます!!』

 例年だと既にドラフト会議のテレビ放送も終わりの筈なのに、急遽速報のテロップがテレビ画面に映し出された。

 急に資料を渡されたアナウンサーが慌てる姿から見て、ただ事では無いと伺える。

「あん? 速報だァ?」

「急に何でやんす? オイラ達は明日の準備があるでやんすよ」

 と、星と矢部は画面をジッと見つめた。

 画面が切り替わる。

「えっ!! このお方は!!」

「この美女は……あの!!」

 その画面に映し出されたのは、

 まるで大女優並みのオーラを解き放ち、金色に輝くボブ髪で、長くてくるりと反り返るまつ毛が特徴的で紫色の瞳で真っ直ぐと前を見据えて立っていたのは、

「八宝乙女ちゃんでやんす!!」

 聖ジャスミン学園の八宝乙女だった。

「どうして、八宝がここに居るんだ?」

 不思議に思った小波が思わず口に出した。

「八宝カンパニーの次期社長を務める八宝乙女です。この度はドラフト指名された皆様へ、大変おめでとうございます。長い間の努力、功績が身を結んだ結果がプロ野球選手に選ばれた事だと思います。これからもより一層のご活躍でプロ野球界、野球界、スポーツ界を盛り上げて頂きたいと心からお祈り申し上げます」

 と、八宝乙女は深々とお辞儀をした。

 そして、強い瞳で前を見据えて口を開く。

「只今より皆様、プロ野球ファンの方々にご報告が御座います」

 と、前置きし、

 八宝乙女が次に言葉にしたのは、

『私ども八宝カンパニーは頑張市の地域拡大に伴って今現在のセ・リーグ、パ・リーグの二リーグの撤廃を検討しておりました。今後のプロ野球界の成長を促す為には、もう一つのリーグを追加して三つ巴の状態であれば、プレーオフなど含めプロ野球、野球界全体がより白熱すると言う考えに至りました』

 会場内から騒めく声が微かに聞こえ始めたりし出したが、それでも八宝乙女は関係なしに言葉を続ける。

『そして、私たち八宝カンパニーはこの考えをプロジェクト『Plan 3rd.R』として、二年後のプロ野球に新規リーグの設立を、その名も『レボリューション・リーグ』もとい『レ・リーグ』を新しく追加させて頂く事を此処に宣言いたします」

 以上、と言葉を残して八宝乙女は再度深々と頭を下げてカメラの前から姿を消した。

 

「――ッ!!」

 八宝乙女の衝撃な発言に、一同は声も出さずに驚きの表情を浮かべていた。

「新規リーグ、レボリューション・リーグ……で『レ…リーグ』でやんすか」

「こりゃ偉い事になっちまったな」

 矢部、星は互いに顔を見合わせるなり無言のまま小波の方をジッと見つめていた。

「何だよ。気色悪いな」

「き、気色悪いって言うな!! 小波、テメェ的にはどう思うんだ? この三リーグ制に対してだよ!!」

「別に、野球界を盛り上がる事が目的なんだから良いんじゃねえか?」

 と、少し嬉しそうな表情で小波球太は言った。

「あのな……。呑気に喜んでじゃねェよ」

「それに考えてみろよ。十八球団もあれば、お前たちだって大学野球の頑張り次第じゃ、プロ野球入りも出来るかもしれないんだぞ?」

「――ッ!! ……って、事は!! 俺たちにもプロに入って、女達にモテモテになれるって事じゃねェかよ!!」

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーっ!! これはかなり熱い朗報でやんすよ!! オイラたちの『モテモテライフ』が現実味を帯びるでやんす!!」

「お前たちは本当に芯がブレなくて助かるよ。って、まだモテモテライフは諦めて無かったんだな」

 矢部と星の盛り上がりに、小波球太は呆れるのを通り越して尊敬の念を抱き始めた。

「それより二人とも、明日の準備はバッチリなんだろうな」

「おう!!ㅤ手筈はバッチリだぜ」

「もちろんでやんす!!」

 二人はグッと親指を立てたジェスチャーで返してきた。

 明日は、早川あおいがプロ入りを果たしたお祝いを恋恋高校野球部員で盛大なサプライズをするつもりで居る。

 きっと、喜んでくれるに違いないだろう。



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最終話 新時代への幕開け②

本当に終わりです。
本当にありがとうございました!!


『早川。明日、学校に集合な』

 前振りも無く余りにも適当な言葉だった。

 早川あおいがドラフト三位で千葉ロッテに選ばれ、恋恋高校硬式野球部創設して初の偉業であり、それと同時に史上初の女性プロ野球選手が誕生したその日。

 八宝カンパニーの次期社長である八宝乙女によるプロ野球の第三のリーグ、『レボリューション・リーグ』の参入の決定、と、今までの長いプロ野球と言う歴史に無かったであろう怒涛の波乱に満ち溢れたドラフト会議が終わった時の事だ。

 それは、インタビューが終わるまで待っていてくれたチームメイトとである小波球太が帰り際に放った言葉だった。

 集合時間、持ち物は野球道具一式だけという余りにも適当であり、他の詳しい事情は何一つ教えてくれないまま昨日はそれぞれが帰路に着き、ドラフト会議から一夜開けた今現在の時刻は午前六時を指していた。

 場所は恋恋高校のグラウンド。

 誰もいない静まり返ったグラウンドにただ一人ポツンと立ち尽くす早川あおいの姿がそこにあった。

 そろそろ十月も終わる頃、流石にこの季節の早朝の温度も寒さを強く感じさせもうじき新しい季節が、冬が徐々に近づいて来ているのが肌で痛感させられる。

 黄緑色の艶やかな髪が冷たい風が悪戯のように優しく撫でると、思わず身体がブルブルっと震えた。

「うう……。ちょっと肌寒いな。もう集合の時間過ぎたのに球太くん達はどこにいるんだろう?」

 くるり、と。

 もう一度、周りを見渡す。

 すると、遠くの方から何かが蠢く様な聞こえて来た。

 耳をすましてみる。

 猫が咽頭を鳴らす音、

 微かに聞こえて来たのはエンジン音だった。

「えっ!? バス!?」

 思わず目を疑った。

 三十人程は乗れるであろう一台の大型バスがグラウンドの前で止まった。

 バタン。とドアが勢い良く開く音が鳴ると、

「あおいちゃん!! おはようでやんす!! 待たせてしまって申し訳ないでやんす」

 勢い良く出て来たのは矢部明雄だ。

 こんなにも肌寒い朝に、しっかりと狩上がった芝生の様な坊主頭を見せられると余計に寒さを感じさせる。

 とことこ、と歩いてくる矢部の表情はニヤついていて変な事を考えていそうな朝から見るには少し厳しい表情を浮かべていた。

「お、おはよう。矢部くん。これは、一体なんなの?」

「ふふふっ、見ての通りバスでやんす!!」

「うん。それは勿論、バスだって事はボクにだって分かってるんだけど。何処かに出掛けるつもり?」

 と、早川あおいはやや困惑気味だった。

 これから一体何が起こるのか早川あおいは何一つ知る由もないのだから。

 前日に小波から聞かされていたのは、朝六時に恋恋高校に集合と、ユニフォームと野球道具一式を持ってくると言うたった二点だけだった。

 てっきり三年生である自分たちの引退試合を兼ねた送別会でも行うものだと早川あおいは思っていたが、どうやらこの感じだと違う様だ。

「まあまあ、気にする事はないでやんす。取り敢えず、あおいちゃん。ちょっとだけ失礼するでやんすよ」

 ササッ。

「きゃっ!! ちょっ……ちょっと!! いきなり何するの!? 矢部くん!?」

 咄嗟に悲鳴を上げる早川あおい。

 視界が急に真っ暗になったのだ。

「大丈夫でやんす。ただのアイマスクを覆わせて貰っただけでやんすよ」

「ど、どうしてアイマスクなの?」

「ちょっとした遊び心でやんす!!」

「まさか……、ボクにエッチな事するとか変なこと企んでないよね??」

「——ッ!! そんな事、オイラがする訳ないでやんす!!」

「怪しいよ!! 何をする気なの!?」

「そ、それは着いてからのお楽しみで秘密でやんす。さあさあ、あおいちゃん行くでやんす!!」

 矢部明雄に手を引かれながら早川あおいはバスに連れ込まれる。

 目に覆われたアイマスクは着けたまま、一番手前の座席に案内されて腰を降す。

「良し、これで全員揃ったな」

 隣から聴き慣れた声が聞こえた。

 その声の主は、小波球太だった。

「球太くん、これは一体何なの!?」

「矢部くんも言ってたろ? 秘密だって」

「今までと言い昨日と言い今日と言い……、球太くん。キミは本当に秘密が多すぎるよ」

「ま、それは後の楽しみって訳で」

 早川あおいは、今の小波球太の顔は見なくともどんな表情を浮かべているのか分かっていた。

 きっと、ニヤリと笑みを浮かべているに違いない、と。

「それじゃ、出発だ!!」

 小波球太の合図と共に恋恋高校野球部一同を乗せたバスは秘密の目的地へと走り出した。

 

 

 

 

 

 早川あおいを目隠ししてバスに載せたバスは恋恋高校から遠く離れた目的地へと向かっていた。

 目的の場所へと次第に近づいていく。

 バスの車内では、部員達がスヤスヤと寝息を立てていたり、漫画やカードゲーム、談笑に浸りながら時間を潰していたり、マネージャーである七瀬はるかは優雅に難しそうな小説に目を通していたりと様々な過ごし方をしていた。

 バスに乗る前に矢部明雄に目隠しされてあれほど文句を言いながら怯えていた早川あおいも今では観念したかのように他の部員同様今は眠っている。

 そんな中、窓際に座る小波球太は流れて行く外の景色を何かを思い出しながら、ただただ眺めていた。

 

 

 

 決勝戦。

 力尽きてマウンドで倒れた小波球太は真っ先に救急車で病院へと搬送された。

 右肩の爆弾による故障は緊急手術を行う程酷いものだった。

 思い出していたのは、手術は無事成功し数日が経過したある日のこと……。

 

 

『ふぁーー、あ』

 もう聞き飽きた蝉の泣き声を掻き消すような大きくてだらしの無い欠伸が一つ。

『それにしても高校最後の夏休みだって言うのに入院生活で終わりだなんて我ながら情けない』

 と言いながら『ま、自業自得なんだけどな』と付け足して黒髪の癖毛頭の毛先をピョコンと跳ねさせながら小波球太が独り言をポツリと呟いた。

 誰もいない病室。

 小波の入院生活が始まってから瞬く間に三週間が経過していた。

 早川あおいを筆頭に星雄大や矢部明雄と言った野球部を引退した恋恋野球部員、コソコソと病室の前に立ってみるものの中々部屋に入ってこない金髪パッツン髪の倉橋彩乃、夏休みの部活の帰り道がてらに顔を出す隣人の六道聖など、毎日のように友人や知り合いがお見舞いに行き来している。

 病院に勤めている人たちも単なる高校生のお見舞いにしては多すぎると病内でも話題になっているらしく、そろそろ面会拒絶も時間の問題なんじゃないかと噂まで聞こえて来る始末に小波はうんざりしながらもただだ苦笑いを浮かべてベッドに横になりながら、枕元に折り畳んであるスポーツ新聞の一面記事に目を通す。

『あかつき大附属、夏制覇!! 新時代の到来——、猪狩世代!!』

 と、猪狩がマウンドで左腕を掲げて優勝を噛み締めて喜ぶ姿が載っていた。

 つい昨日の事。夏の甲子園を制したのは、猪狩守率いるあかつき大附属だった。

 小波も病室のテレビでその試合をずっと食い付くように観戦していた。

 正直な気持ち。

 一喜一憂する猪狩の姿に対して羨ましくもあり誇らしくもあった。

 

 コンコン、

 

 と、突然。

 病室のドアを叩く音が聞こえる。

『入れよ』

 と、小波球太はドアの方を一切見向きもせずに新聞を眺めながら言う。

『失礼するよ』

 ガラッとドアが開く。

 病室に入ってきたのは猪狩守だった。

『来る頃だとは思ってたぜ』

『フン。思ってた以上に元気そうで安心したよ』

『昨日の試合テレビで観てたけど。やったな、優勝おめでとう』

『君の口から「おめでとう」なんて言葉を聞くと少しむず痒い気持ちになるが……、有り難く受け取るとしよう』

 素直じゃないやつめ、と小波はニヤリと笑みを浮かべ病床の直ぐ側にあるパイプ椅子に猪狩を座らせた。

『最後の試合、ナイスピッチングだったな。テレビ越しでも圧巻のピッチングだったぞ』

『相手だった四神黄龍高もそれなりに強かった。エースの朱雀南赤相手にかなり手は焼いたが……。結果的に天才であるこの僕の敵では無かったね』

 得意げに言う猪狩守。

 その態度に相応しいピッチングで甲子園を沸かせたのは決して間違いでは無い。

 その後、

 小波は猪狩の甲子園の自慢話と野球談義に華を咲かせているうちにすっかり空は夕暮れ時を迎えた。

『もうこんな時間か。そろそろお暇しようかな』

 時計の秒針に目を向けるなり、猪狩がパイプ椅子から立ち上がる。

 その帰り際の事だった。

『――ッ!?』

 猪狩が小波に向かって深く頭を下げたのだった。

 咄嗟の行動に小波は思わず目を丸くする。

『小波、本当にありがとう。君が二年前、再び野球を始めてくれたから僕は此処まで来れたんだと思う』

 と、感謝を述べ。

『気持ち悪っ!!』

 の、言葉が漏れてしまった。

『き、気持ち悪いだと!? 凡人の君に対して天才である僕が直々に礼を言っているんだぞ!?』

『ははは、冗談だよ、冗談。急にどうしたんだよ』

『言った通りだ。君が再び野球を始めてくれたからこそ、良い試合が出来たからだ』

 と、猪狩は言葉を続けた。

『進を庇って右肩を壊してしまった事は本当に申し訳ないと思っている』

 と、再度猪狩は頭を下げた。

 しかし小波は首を横に振る。

『いいや、猪狩。進は何一つ悪い事なんかしてないぜ。全部は俺が自分勝手過ぎた事で招いた結果だよ。それに俺は野球を辞めることを諦めてなんかないぜ』

『な、何!?』

『俺の右肩は本当に終わったよ。でもまだ俺には左肩がある。早川達には誰一人伝えてないんだけどな』

『それじゃ、君は大学で再び野球を続けるのか?』

『俺は大学には進学しない。ある人の助言でドラフ島に行く事にしたんだ』

『ドラフ島……だと。プロ十二球団が協力してプロ野球選手を育成する島のことか?』

『ああ、合格すればドラフト指名が確約されるからな』

『正気なのか?』

『ああ、俺は本気だぜ』

 決して冗談を言っていないのだと、直ぐに分かった。

 小波の目は本気の目をしていたからだ。

『俺は俺の道を行く、それだけだ。だからお前はお前の道、プロ野球の道を突き進めよ。絶対いつかお前に追いついてみせるさ』

『フッ……。あははは!! 君らしいよ。小波、絶対に約束だぞ。僕は君をプロの世界で戦うまでマウンドに立ち続けるとしよう』

『ああ、待っててくれ』

『必ずだぞ』

 と、二人は熱く握手を交わした。

 

 

 

 

 

「着いたでやんすーー!!」

 どれほど時間が経過しただろう。

 夏の出来事を思い返していたところに大きな声が耳元に響くと、思わず我に返った。

 チラリ、と窓の外に目を向けてると目的地に着いていた。

「……ん。何々!?」

 隣で眠っていた早川あおいも矢部明雄の叫び声で目が覚めたが、アイマスクで目が覆われている為か戦々恐々していた。

「ああ、着いたぞ、早川。目的地に」

 

 

 

 

 

「ねえーー!! 一体、何が始まるの!?」

 大声を張り上げて叫んだのは早川あおいだった。

 バスから降りてから七瀬はるかの手を握り締めて優しく誘導されたのはいい物の、

「あおい。ここで待っててね」

 と、最後の言葉を残して七瀬はるかがその場から居なくなってしまった事が分かると周りの気配が一切無くなってしまった不安に襲われる。

 少し強い風が吹き上げる中、分かる感覚は土の上に立っていると言う事だけだった。

「よっしゃーー!! 早川ァ!! アイマスク取っていいぞォ!!」

 少し遠目から星雄大の声が聞こえると、早川あおいは恐る恐るアイマスクを外した。

「うぅ……眩しい」

 ずっと暗闇に慣れてしまったせいか、周りが全く見えずだった。

 しかし、

 徐々に、

 視界がハッキリと、

 鮮明に映る。

 

「えっ!?」

 踏み締めているグラウンド。

 プロ野球、高校野球を食いつくようにテレビ中継で何度も観てきた。

 憧れの地に足を着けているという事実に何秒間かの脳が処理仕切れなくなり、リアクションをするまでに若干のタイムラグが発生した。

「こ、ここって!? 甲子園じゃない!?」

 見える三百六十度の景色が新鮮に見え、

 十月の終わりで寒さを含んでいるのにも関わらず、吹き抜ける浜風が何処かとても心地が良いものだった。

「そうでやんす!!」

「来たぜェェェ!! 甲・子・園ッ!!」

 目の前に立っているバットを構えた矢部明雄とキャッチャー防具一式を見に纏った星雄大は空に向かって高々と両手の拳を突き上げて叫び声を上げた。

 浮かれる二人を横目に、早川あおいはまるで一体何が起こっているのか理解するのに目一杯できょとんと立ち尽くす。

「どうだ? 驚いただろ?」

 そこに癖毛髪を靡かせながら小波球太が側まで歩いて来た。

「これって一体……」

「まあ、何て言うか……。俺達からのドラフト指名の祝いだよ。って、言っても加藤先生と彩乃がメインで動いてくれたんだけどな」

 ニヤリと笑う小波。

 早川が目線をベンチに向けると、此処までノンストップで運転してくれてすっかり疲弊した加藤理香と照れ臭そうにしながらも少し頬を膨らませてソッポを向いてる倉橋彩乃の姿があった。

「そうなんだ……。全然知らなかったよ」

「改めてドラフト指名おめでとう。早川、これからが本番だ。プロでも頑張れよ!!」

「うん!! ありがとう。ボク、恋恋高校に入って球太くんたちと出会えて本当に良かったよ!! ボクはこれからボクみたいな女の子でも野球が楽しく出来るような勇気をあげれる選手になるよ!!」

「ああ、絶対なれるさ」

 

 

 そして、

 各々が自分のポジションに立って早川あおいを見守る。

 皆で目標とした場所で、

 叶うことのなかった夢の舞台で、

 夢にまでみた甲子園の舞台で、

 恋恋高校だけの野球が始まる。

 

 

「よっしゃ!! それじゃ、皆で楽しく野球やろうぜェ!!」

 星が堂々と叫ぶ。

「うん!! 楽しく野球しようよ!!」

 早川あおいも周りに向かって大声を張り上げる。

 その様子を小波球太は主審の位置で眺めていた。

 

 

 色々あった。

 本当に沢山の出来事が、

 本当に沢山の思い出が、

 この仲間達と、

 この好敵手が、

 何もかも失った俺に改めて野球の楽しさを教えてもらったんだ。

 右肩は壊れてしまったけど、

 俺はもう一度野球を始められるだろう。

 そして、

 いつの日か、

 皆が俺にくれたように、

 俺もいつか、

 野球の楽しさを一人でも多くの人に伝えらるような選手に絶対になってみせる。

 

Onece Again,Chase The Dream You Gave Up.

 

 諦めた夢をもう一度追いかけてみせる。

 必ず、絶対に。

 

「よし!! それじゃ、そろそろ始めるとするか!!」

 

 

 

 

『プレイボール!!』

 

 

 

 

 小波球太の声が晴天の甲子園全体に響き渡ると共に早川あおいが腕を振り抜く。

 

 

 

 絶好の野球日和。

 

 

 

ㅤこの日は雲一つない澄み切った空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

-Fin-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ねえねえ、知ってる? この頑張市内のどこかの神社に野球の神様……、いや、『野球の仙人』が住んでるんだって!!』

 

 

『仙人?』

 

 

『そう!! 野球が上手くなれる知恵を授けてくれるんだって!!』

 

 

『手助けの知恵? そんな事今まで聞いたことないなー』

 

 

『本当に野球が上手になりたい時に、野球仙人がいるお賽銭箱にお金を入れると叶うんだって言ってたんだよ〜!!』

 

 

『それって誰が言ってたの?』

 

 

『夢の中の人〜!!』

 

 

『絶対、嘘だ』

 

 

『嘘じゃないよ〜。本当だよ〜』

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪が降り積もる街の中、

 足跡が四つ。

 二人の男女が歩いていた。

「ねえねえ、光、覚えてる? 昔、小さかった頃にこのパワフル神社に野球仙人が居るって話〜」

「……さあ」

「私は本当に居ると思うなぁ〜。私も早川あおいさんみたいに女性でプロ野球選手になりたいなぁ〜!!」

「……それが未来の『夢』なの?」

「ううん!! 違うよ〜。私の夢はプロ野球選手じゃないもん。また別にあるのだよ〜」

「それは、何なの?」

「光と一緒に野球やる事に決まってるじゃん〜!!」

「またそれか。未来は嘘ばっかり言うから」

「本当の本当だってば〜」

「……」

「あ、それより春から楽しみだね〜。私たちも遂に高校生になるんだよ〜!! 甲子園だよ〜!!」

「別にどうでも良いよ」

「楽しみだな〜。『聖タチバナ学園』でどんな事が起きるかな〜」

「……」

 

 

 話ながら歩く二人を眺める。

 ぼやけた煙が一つ。

 

 

「楽しみじゃの〜」

 

 

 帰路に着く赤毛の双子の兄妹。

 雪が溶けて新しい春が来た時に、

 新時代の<物語>が始まる。



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