怪男子 (変わり身)
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死体が、あった。

 

闇の中、周囲を石壁で囲まれた部屋。

昼夜も分からず、目を凝らさなければ足先の様子すらも見通せない程に、暗く、深い場所。

そんな暗く、雑多な空間――彼女は、そんな部屋の中央に横たわっていた。

 

年の頃は十代の中頃。整った顔立ちに色素の薄い長髪を垂らした、一糸纏わぬ少女の肢体だ。

散らばる書物を押しのけ、強引に設置された祭壇上。身体に沿って置かれている蝋燭の炎に炙られている彼女は、言いようの無い儚げな存在感を放っていた。

 

「――――…………」

 

一つ。その傍らに傅く影がある。

それは横たわる少女に許しを請うかのように。声にならない呻き声と泣き声を上げていた。

 

――老人。

 

蝋燭に照らされるのは、小柄な身体に白衣を羽織った。年老いた男の姿だ。

禿げ上がった頭頂部に、深い憎しみと悔恨に染まった皺だらけの顔。

しわがれた両手の小指は根本から断たれており、真新しいその断面から絶え間無く流れる濁った血液が、白衣に赤黒い染みを作り出していた。

 

しかし老人は、その痛みを感じる素振りも見せてはいない。

祭壇の上に横たわる少女に愛おしそうに手を這わせ、両手から流れ出る血液と、見開かれた左目から零れ落ちる涙を肌の上に刷り込んでいた。

ありとあらゆる負の感情を落ちる雫に籠め、股に、腹に、乳房に。顔と同じく皺だらけの掌で持って雪のような肌に潤いを与えていく……。

 

「……、…………ッ!」

 

異常としか言いようの無い光景。

ゆらり、と。少女の周りに置かれている蝋燭が揺らめき、老人の顔を走る皺に生まれる影もまた、揺れる。

刹那にも満たないその一瞬。老人の表情が、慙愧に満ちたものへと変わった。

 

「――ッ……!」

 

老人の行為が、唐突に止まる。

祭壇の少女は老人の体液に塗れ、ぬらりと怪しい光沢を放つ。施された血化粧はまるで肌の赤みのようで、見る者に倒錯的な性欲を掻き立たせる事だろう。

 

「……ぉお……! ぉぉぉぉぉ……」

 

老人は呻き声を噛み潰しつつ白衣を探り、ゆっくりとある器物を引き抜いた。

それは少しくすんだ鈍いの銀。人体を切り開く為の鋭利な刃――メスだ。

これから始まるのは、正しく外道と呼ばれる所業。倫理、道徳、尊厳。人間が人間として正しく在るために必要な暗黙の了解。その外側。

 

最早後戻りの出来ない領域に、老人は辿り着いていた。

 

「フー、フー……ッ」

 

震える。過度の緊張と興奮により息が上がり、目尻から溢れる涙がその量を増していく。

彼の姿からは、これから自身が行う「作業」への好奇など欠片も伺えない。ただ、何らかの強迫観念のような物に駆られている事のみが察せられた。

 

……もし、一つ歯車が外れていれば。一つ道筋が違っていれば。少しだけ何かが違えていれば、彼は狂わずに居られたのかもしれない。

しかし、結果はこの様だ。何が間違っていたのか、何が噛み合ってしまったのか。正しき道は何処にあったか。

答えの全ては二度と戻らない過去へと棄てられ、もはや拾われる事も無い。

 

「…………――――!!」

 

狂気が、高らかに渦巻く。

 

老人は全身を震わせながら、自らの体液を撒き散らしメスを振り上げた。

 

少女は目を閉じたまま身動ぎ一つせず、穏やかな顔で。

 

食い縛られた老人の口元からは声にならない絶叫が迸り――。

 

 

 

――『怪異法録』

 

老人の足下に転がっていたその書物が、赤黒い飛沫で染まった。



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異小路
1頁 黒いインク瓶


 『異小路』

告呂市には、異界へと繋がる道があるという噂がある。

何でも、街を網目に走る何百本という小路の中に一つだけ、この世とは違う場所へと通じているものがあるというのだ。
その地域に走る道は、幾つもの細い小道が絡まりあった複雑怪奇なものである。
古くから住んでいる住民達から、神聖な場所だと畏れられている土地。いくつか存在するその場所を迂回するように曲がりくねった道筋は、まるで迷路のようであり。子供は勿論、大人でさえ迷子になりそうな代物となっているのだ。

その噂はそれを元にした冗談のような物だったのだろう。それか、神聖な土地に子供が入らないようにという脅し文句だったか。どちらにしても真実味の薄い話だった事には変わりない。
……だが、実際に告呂市では、ある期間に限り何人もの行方不明者を出していた。という記録がある。

被害者は老若男女分け隔てなく、消えた時間にも規則性は無く。どの被害者もそれぞれ別の小路に入ったという所までは分かっているのだが、それ以降の足取りが全く掴めないらしい。

そう、消えた人々は全員、入った小路の先で、まるで神隠しにあったかのように忽然と姿を消したのだ。

もしかしたら、消え去った人々は『当たり』の道に入ってしまい、本当に異界へと誘われてしまったのかもしれない――。
住人達の間でそんな噂も流れる中、その事件は何の前触れも無く、始まった時と同じようにいつの間にかぱたりと止まったそうだ。

この世とは別の世界に通じる小路。それは本当にあるのか、だとしたら何処にあるのか。
詳しい事は何一つ分からないが、もしあなたが告呂市を訪れ、歩いている道に異変を感じたのならば、それ以上先には進まない方がいいだろう。

――行方不明になった人達は、今もまだ見つかっていないのだから。




                      1

 

 

 

「なぁ、お前放課後暇か?」

 

春。

 

三年通った中学校を卒業し、高校生になって初めてのホームルームの少し前。

窓から桜の木が覗く朝の教室の中。机に座り文庫本へと没入していた僕は、後ろから投げかけられた声に物語の世界から引き戻された。

 

振り返ると、目に飛び込むのは無造作に四方へ散らされた茶髪と輝くピアス。

厳守しなければならない筈の校則を完全に無視をした、まだ名も知らぬクラスメイトだった

 

「や、今日学校終わったらさぁ、顔合わせも兼ねて皆でカラオケ行こうかなって話になったんだけどさ。お前も行く?」

 

そう言って指し示された方向に視線を向けてみると、今日初めて顔を合わせた生徒達が楽しそうに駄弁っている姿が見える。

僕は軽く溜息を一つ吐き、文庫本に栞を挟みつつ表情を柔らかい物に固めた。

 

「……カラオケって、どこの?」

 

「大通りの角。ずっと工事してたけど、先週からカラオケ屋になったらしいぜ」

 

そうして差し出されたのは、生徒手帳の学校周辺地図が描かれた項だ。

中央に大きく書かれた『告呂市立 神庭高等学校』の文と略図――それより少し離れた部分。ページの端、枠線に触れるか触れないかの微妙な部分を指先で描いた円でくるくると囲む。

 

「な?」

 

「……うん」

 

一体何が「な?」なのか。正直な所あまり要領を得ないが、おそらくその辺に件のカラオケ屋があるという事なのだろう。

 

「で、どうよ。これから一年一緒になるんだし、自己紹介? とか色々兼ねて」

 

「……多分、二時間目とか自己紹介の時間が取られると思うんだけど、それじゃ不足って感じ?」

 

「ハハ、そりゃ違うだろ種類がさァ」

 

割と本気だったんだけど、流されたのならそれでも良いと彼の笑いに乗っかり肩を竦める。

 

「まぁ、悪いけど遠慮しとくよ。今日は放課後に人と会う約束があってさ」

 

「あー、そうなん? ……んーじゃあどうすっぺ……」

 

その気を遣った一言に、クラスメイトは後頭部を掻き残念そうな顔をする。

どうも何か手がないかと模索しているようなので、「ごめんね」とより一層の駄目押し。こちらも残念そうな表情を作りながら、機会があったらまた誘って欲しいと一言告げた。

 

「……しゃあねぇか、分かった。んじゃまた何か集まる時に誘うわぁ」

 

「ごめんね、その時はよろしく頼むよ」

 

ちゃらけた外見とは裏腹に基本的に善人なのだろう、彼は申し訳なさそうな表情を浮かべたまま、ひらひらと片手を振って仲間の下へと歩き去る。

彼が一歩づつ足を進める度に、腰元からまろび出たシャツの裾が動物のしっぽの様に揺れ、今すぐ駆け寄ってズボンの中に突っ込んでやりたい衝動に駆られた。実行はしないけど。

そうして彼らが楽しそうに笑う光景を見ていると、僕の心にもある感情が湧き上がって来る。

 

そう、その感情の名は――――圧倒的な不快感、だ。

 

「…………っ」

 

思い切り眦を釣り上げ眉を顰め、しかし眼鏡の位置を直す振りでそれらを隠す。

そして喉奥から這い出る苦虫を奥歯で強く噛み潰し、胸中で煮立つ粘つきを押さえ込むのだ。

浮かぶのは、嫉妬と嘲りの混じった黒い感情。優等生を気取っている者として、決して人前に出してはいけない負の衝動だ。

 

(調子、乗りやがって……!)

 

殺意を抱く程ではない。ただ、気に食わなかった。

その不真面目でだらしのない格好が。好きな様に、何も考えず生きていけるその気楽さが。

僕よりも確実に下の場所にいながら、僕よりも楽しそうに日々を過ごしている彼らの在り方がただ不愉快で仕方がない。

 

「……くそ……」

 

気がつけば、僕はボールペンを握っていた。

学生服の内ポケットに手を這わせ小さなメモ帳を取り出し、適当なページを開き滾る悪感情を叩きつける。

『死ね』『馬鹿』『クソ』『低脳』――インクを乗せたペン先が転がる度、まるで小学生のような低俗で幼稚な単語が白いページを真っ黒に染めていく。

 

醜い心を瓶として、そこに滞留する悪意を黒のインクに見立て、吐き出す。

自分でも根暗で陰気、且つ無意味な行為だとは理解している。他にストレスを発散させる方法なんて、読書なりゲームなり探せば幾らでもある。けれど、どうしても止める事が出来なかった。

それは最早、僕にとっての自慰行為の様な物になっていたのかもしれない。こんな衆人の中でそれに及ぶなんて、我ながら最低と言わざるを得ないけども。

 

「……は、」

 

小さな呼気と共に涎が小さな飛沫となってインクの上に落ち、字を滲ませる。

そして周囲に最低限の注意を払い、平静を装い。ただ只管に手を動かし続けるのだ。担任となる教師が教室に入ってくるまで、ずっと。

 

――四月九日、金曜日。

 

入学式を前日に消化した、高校生活二日目。僕という存在は、新生活に置かれても変わらず腐った臭気を放っていた。

 

 

                     *

 

 

僕が住むこの告呂市は、いろいろと中途半端な都市だ。

 

小都市というには発展していて、中都市というには人が少ない。大都市なんて言うに及ばず。

大通りよりも曲がりくねった獣道、駐車場より田んぼの方が多い田舎町予備軍。それが告呂という地だった。

 

「…………」

 

まだ授業が始まらず、午前中のみで学校生活を終えた僕は、そんな寂れかけた街中をてくてく歩く。

目に映るのは、見事な花弁の咲き誇る桜の木と名も知らぬ赤い花。

ひらひらと舞い落ちる暖色の雨を身に受けていると、春という季節を強く感じられる。

 

そんな空気を吸い込んだ胸に浮かぶのは、高校生になったという実感だ。児童とも少年とも違う、青年への道。人生にとっての新たなステップへ進んだという事実が、強制的に僕の心に刻まれた。

 

「あーあ」

 

が、同時に今朝のクラスメイト達の事を思い出し、溜息。あぁ嫌だ嫌だ。僕より幸せそうな奴らなんて皆死んでしまえばいいのに。

これから一年間、彼をはじめとした無駄に明るく毎日が楽しそうな奴らと顔を突き合わせる事になるかと思うと、もう本当に嫌だった。

妬み、僻み。そう呼ばれる感情である事は自覚できている。自覚できているが、どうしようもない。どうにか出来ていたら僕はメモ帳に悪感情を並べ立てるなんて幼稚な行為は続けていない、とうの昔に辞めている。

 

「……くそ」

 

詰襟の左ポケットに収まっている悪意の固まりと共に苛つきを抑え、肩に乗っていた桜の花弁を払い落とし歩みを進める。

目的は住宅街にある川の前。そこで僕はある人物に呼び出しを受けている。先ほどクラスメイトの誘いを断る際に口に出した約束事、それは嘘でも方便でもなく純然たる事実だった。

 

そうして木々の並ぶ大通りを抜け、住宅街へと続く細道を通る。申し訳程度にコンクリートで舗装されたその道は言いようの無い不気味さを感じさせ、何回通っても慣れる事はない。

 

「……相変わらず、ボロいな」

 

何の気なしに呟いて周囲を見回してみるけど、特に変わったものは無い。

強いて言うならば、壁に描かれている下品な言葉や暴走族の落書きくらいか。いやよく見れば『界』とか何故書いたのか分からない文字もあって怖いといえば怖いけれど。

 

そんな他愛もない物を観察しつつ何度も角を曲がり、分かれ道を過ぎ、まるで迷路のような複雑な道のりを進みながら住宅街へと向かう。

小さな頃から幾度となく通ったとは言え、やはり面倒な順路だ。太い道で大通りと直結させてしまえと思うのは、この辺に住んでいる人々なら一度は思う事柄だと思う。

それでもそうしないのは、古くからの迷信が原因なのだろう。きっと。

 

「立ち入り禁止の森、ね」

 

道の外側、随分と古くなった柵の内側には、人の手が入らないまま鬱蒼と生い茂る木々の群れがある。

さやまの森と呼ばれるその場所は、昔からこのあたりの住民に忌避されている場所だ。何故そう呼ばれているのか。どうして忌避されているのか。具体的なことは何一つ聞いた事は無い。

しかし、そういった空気が蔓延しているのは事実だ。この森に入れば、必ず罰が当たる――そんな、強迫観念にも似た迷信が。

 

「……下らない」

 

とは思うが、そう一笑に付す事も憚られる。十年くらい前には小道を現場として未解決の行方不明事件が起こっていたという話だし、何も謂れが無いという訳でもないのだ。

この森の中には、決して触れてはいけないものが潜んでいる。だからこそ、こうして開発されることなく放置されたままなのではなかろうか……なんて。

 

「…………」

 

――目を向けた先、日の届かない森の奥に漂う暗闇が、こちらに向かって這い寄ってくる錯覚を受けて。

僕は頭を軽く振り、背筋をよじ登り始めた薄暗い妄想を振り払う。迷信は迷信、気にする必要なんてあまりない。そう思い直して足を速めた。

 

 

長い道を小石を蹴っ転がしながら進み続け、とうとうその終わりまで辿り着く。

特に目を引く所もない閑静な住宅街だ。ここまでくれば、後は歩道の脇に流れている用水路を辿り歩くだけ。

 

「あー、やだなぁ」

 

足取りが重たい。本当に行きたくない。

どうしてこうなったのだろう。重たい頭に、後悔と憤りが引っ付いた疑問が湧き上がる。

僕はちゃんと毎日を真面目に生きて、優等生として他人に恥ずかしくないように生きている。それなのに、何故この様な立場に置かれているのか。

 

「…………」

 

そんな事を考える内、目的地の川橋に到着。そしてその手すりに体を預けるようにして、幾つかの人影を視認する。言わずもがな、僕の待ち合わせの相手だ。

神庭高校の詰襟制服とは違う他校の制服を着た彼らはつまらなさそうに携帯電話を弄っていて、こちらに目を向ける様子がない。

 

……このまま帰ってしまいたい、が、もしそんな事をしたら、あいつはきっと家にまで押しかけてくる筈だ。

舌打ちを鳴らし、続いて大きく深呼吸。眼鏡を放り込んだ鞄を橋の影に隠し、憂鬱な足取りで近づいた。

 

「……どうも」

 

聞こえなければいいのに。淡い期待を込めて小声で話しかけるが、そんな願いなど届く筈も無く、一人の少年が反応し目を上げた。

その容姿は凄まじいの一言に尽きる。痛んだ金髪をまるでアニメキャラのような妙ちきりんな髪型に固め、着崩す所か改造の域に至るまで手が加えられたブレザー型の制服を纏っている。先のクラスメイトを大幅に超えた「ハシャギ」様だ。

 

「……あのさぁ、お前遅すぎだろ。もうちっと早く来いよ」

 

彼はそう言って、馴れ馴れしく笑いかけてくる。笑顔、とは言ってもただ表情筋がそうあるだけで、親愛などといった感情は欠片も篭っていない。

ただこちらを嘲り、見下している事がありありと分かる物。今まで生きて来た一五年の歳月の中で、何度も受けてきた薄汚れた視線だ。

 

――山原浩史。幼少の頃からの知り合いで、所謂幼馴染にあたる少年である。

 

「俺らが何時間前に来てたと思ってんだ。少しは配慮しろっての」

 

「……うん、悪かったよ」

 

何時間前、って事は学校を抜け出してきたのだろうか。彼らの通う学校がどんな所なのかは知らないけど、入学早々サボるのは幾らなんでもダメだろうに。

感情の全く乗らない謝罪を舌に乗せつつそんな事を考えて。僕は目線を彼の横に控える見覚えのない二人の少年に向けた。

 

「……ああ、こいつら? 俺の学校で新しく作った連れ」

 

するとそんな僕の視線に気づいたのか、山原は顎で二人を指し「ピザが井川、図体でけぇのに情けねぇ顔してる金髪がリュウな」とあんまりな紹介をした。

それを聞いた井川は山原を睨みつけ、リュウは溜息をつく。仲はそれほど良くないようだ。

何となく生温かい目で二人を見つめていると、山原がニヤニヤしながら彼らに向かって顎をしゃくる。自己紹介をしろ、という事だろうか。

 

正直気は進まない。が、紹介されてしまった以上は答えない訳にも行かないだろう。何時もの通り優等生の仮面を被り、胸裡の嫌悪感を表に出す事なく清潔感のある作り笑いを浮かべた。

 

「どうも、僕は日――、っ!」

 

――パシン、と。肌が弾ける甲高い音が響く。

 

唇がひん曲がり、唾液が飛び。口にしかけた自らの名前が声と成る事無く消滅。眼前にチカチカと星が舞い、たたらを踏んで手直にあった手すりへと縋りついた。

横合いから、頬を叩かれたのだ。それも結構な力を込めて。

 

「っく……」

 

これだから、嫌なんだ。ジンジンと熱と痛みを帯び始めた右頬が、脈拍に合わせ細動する。

 

「紹介するよ、こいつ、俺の『良いお友達』」

 

含みを持たせたご紹介。暴力行為を成した彼は何一つ悪びれた様子もなく、ニヤニヤと口元を歪ませながらそう言った。

 

「え? いや、はっ……?」

 

そんな声が聞こえる方向に視線をずらすと、突然の事に混乱したリュウ君が僕と山原を見比べている。

どうやら彼は割とまともな感性を持っているらしい。『良いお友達』の意味を察し、面白そうな表情を浮かべている井川(だっけ?)とは雲泥の差だ。

 

「――……そ、う。だね、山原君とは良い友達だよ」

 

怒りはある、憤りもある。けれどそれら全てを必死に堪え、先程の物と変わらない爽やかな笑みを浮かべた。

するとそれが気に入らなかったのか、山原は眉をピクリと顰め、先程よりも強く肩を殴る。

しかしそんな事はもう予想済みだ。足腰に力を入れて踏ん張り、よろめく事無く立ち続けた。お前の期待する反応など意地でも返してやるものか。

 

「……チッ」

 

僕の態度に山原は更に気分を害したようだ。

……その釣り上がった眉にこれから行われる更なる暴力を予感し、表情に怯えの感情が出そうになる。しかし半ば意地のままそれを覆い隠し、穏やかな笑みをより一層深めておく。

 

――それは明らかな挑発行為に他ならず。山原の口元を憎々しげに歪ませる。

 

「やっぱ毎度うぜえな、お前」

 

苛立ちに染まった表情のまま、彼は実に貧相な語彙で吐き捨て、右足を大きく振りかぶった。

ガリ勉メガネの僕にそれを避けられる反射神経なんて無い。暴力に晒される直前、僕の頭に過ぎったのは新しいクラスメイト達の事だ。

 

きっと今頃彼らは、僕がこんな目に遭っているのに楽しく歌っているのだろう。

新しい生活への高揚感のまま普段は見せない積極性を見せたりなんてしちゃって、後から思い出して軽く悶える様な失敗なんかもしちゃってるのかもしれない。

はてさて、一体何組の仲良しグループが出来たのかな。一体何件のアドレスが交換されたのかな。良いなぁ、楽しそうだなぁ。

 

――ああ、本当にみんな死ねばいいのに。

 

鳩尾に爪先が着弾する間際、僕はそんな呪詛を呟いた。

 




主人公:ガリ勉性悪クソメガネ
【挿絵表示】

山原:チャラチャラ性悪クソ不良
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井川:ぽっちゃり性悪クソボンボン
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リュウ:ヘタレだけど一番無害
【挿絵表示】


※挿絵はあくまでイメージ図です。場面想像の補強にでも使っていただけたら幸いです。


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2頁 赤い皮手帳

僕には両親の記憶がない。

 

物心ついた頃には既に父方の祖母と二人暮らしをしていて、父母の影はどこにもなかった。

何でも、僕が三歳の頃に二人共蒸発してしまったらしい。当時この辺りでは住民が行方不明になる事件が頻発していたそうで、それに巻き込まれてしまったのだと祖母が話してくれたのを覚えている。

 

僕としてはその犯人に怒りは感じるけれど、それ以上に憎む事は無かった。両親がいなくなったという事を当時は理解しきれず、気づけば彼らがいない事が当たり前となっていたのだ。

けれどもそんな僕とは違い、祖母は相当悲しんだのだろう。ぼんやりと朧気な記憶の中では、祖母はいつも泣いていた。

 

そして僕は本当は児童養護施設に預けられる事になっていたそうだ。

けれども祖母は――お婆ちゃんは、その勧めを振り切って強引に僕を引き取った。理由は分からない。一人じゃ寂しかったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

ただ確かだったのは、僕とお婆ちゃんがたった二人きりの家族となったという事だけだ。

父親が教えてくれる事、母親が与えてくれる物。その全てをお婆ちゃんから受け取っていた。

僕はそれに応えたかった。お婆ちゃんに恥ずかしくないよう、育て方が悪いとか陰口を叩かれる事の無いよう『優等生』として振る舞う事を心がけた。そうしてそれは、十年の間ずっと。当時より現在に至るまで継続し続けている。

 

勉強をサボらず、粗暴な振る舞いをせず。我侭も文句を吐かず、我慢に我慢を重ねて。自分で言うのも変だけど、結構上手く取り繕えていると自負している。

……まぁその代わり、内面は見られた物ではなくなってしまったのだけれど。

 

 

                      *

 

 

「――糞が! 何であんなクズに殴られなきゃいけない! 死ね、死ね……!」

 

住宅街の路地裏。散々僕を痛めつけて満足した山原達が去っていった後、節々が痛む体を丸めながら地面を机としてメモ帳を広げていた。

 

唾液を吐き出し、涙を浮かべ。ついでに鼻の粘膜も切ったのか、鼻水と一緒に濁った血液まで垂れてくる。

そうして汚らしい罵声と共に、山原たちへの恨み言を綴るのだ。僕への暴力行為――所謂いじめと言う幼稚で頭の悪い行為を、高校生にもなって続けている馬鹿どもへの呪いである。

 

「うぜぇだ何だ。全部こっちのセリフだ! くそ、くそっ……!」

 

朝にクラスメイトへ向けて書いた物よりも濃密な憎悪の篭った文字が、ペンの動きに合わせて踊り、舞う。

粘ついた憎悪(インク)が際限なく湧き続け。まるで勉強をした後の小テストの様に筆が進み、瞬く間にページを粘ついた黒に塗り潰していった。

 

『この人はね、ロクちゃんのお父さんととても仲が良かったんだよ』

 

山原と知り合ったのは、小学校の低学年の時期。お婆ちゃんから父親の良い友人だったと紹介された男性が連れていた子供が奴だった。

当時の山原は人懐っこい子供でしかなく、僕達は共に笑い合う友人同士だった。

それが今のような虐げる者、られる者の関係になったのは何時からだっただろう。きっかけも何も思い出せないけれど、気づけば今の関係が構築されていた。

 

「山原ァ……! 死ね、死ね、死ね……ッ!!」

 

ポタポタ、と。殆どが黒く染まったページに、涙と血の混じった鼻水が落ちる。

紙の奥へ染み込もうとするそれをインクと混ぜ合わせ、紙面上へと引き伸ばす。

そうしてページが埋まれば、また次のページを捲って同じ事の繰り返し。幾つもの文字を連ねる度に、心がすっと軽くなっていく

陰口を叩くようで決して褒められた行為ではないけど、これは他人に汚い所を見せたくなかった僕にとっては手軽で効率の良いストレス発散法だった。

 

「ッ!……は、」

 

最後の文字を書き終わり、僕の体液とインクでよれよれになったページに勢い良くペンを叩きつける。達成感を持った虚脱感が湧き上がり、濁った気分が幾らか晴れる。

残響する鈍痛の中で思考だけがクリアになり、姿勢を起こして壁にもたれ――。

 

「!」

 

はた、と我に返った。自分が如何に『優等生』から遠い振る舞いを見せていたかに気が回る。

慌てて周囲を伺ってみるけど、辺りには人影らしきものは無い。どうやら誰にも見られなかったようで溜息を吐いた。

もういい。終わったのなら帰ろう。僕は痛む体を引きずって、壁に縋り付き立ち上がり。

 

「……、?」

 

途端、コツリと軽い衝撃が靴に走る。拾い忘れたメモ帳だ。

僕は己の余裕の無さに自嘲しながら腰をかがめ、指先を伸ばし。

 

「あ」

 

ぽたり、と。

鼻から垂れた赤い血液がメモ帳の青い表紙に落下し、赤黒い華を咲かせた。

 

「……はぁ」

 

ポケットティッシュで鼻を拭ったついでに擦ってみたけれど、引きずられて更に広がってしまった。

円に毛が生えたような不気味な模様。苛立ち紛れに溜息を吐いて、メモ帳を無造作にポケットへ突っ込んだ。

 

「くそ……にしても山原のアホが、気合入れやがって……」

 

毒づき、頬に出来た青アザに指を這わせる。

高校生になったという事で舞い上がっていたのか、それとも仲間とつるんで気が大きくなっていたのか。何時もよりも数段気合が篭っていた気がする。

 

これからはこのレベルがデフォルトになるのかな。

舌打ちに鉄錆の香りが混じり、辟易とした。

 

 

鈍い痛みに苛立ちつつ帰り道を歩いていると、やがて一件の古びた家屋が見えてくる。僕とお婆ちゃんの実家。築三十年位は優に超えている木造住宅である。

年月を重ね深みを増した木柱にヒビの入った壁、家具もほとんどが木製で、どこもかしこも茶色だらけ。外観も内装も古臭い事この上ないが、僕は結構気に入っていた。

 

「……ただいま」

 

今までの作り物とは違う、自然な声。玄関から真っ直ぐ奥の部屋へと向かい、適当に鞄を放り投げ仏壇の前に正座する。ぺすん、と綿の潰れた座布団が情けない音を発した。

 

僕が生まれる前からあったその仏壇には、黒い位牌が二つと額に入れられた白黒の写真が一つ立てかけられている。

時間が経ってセピア色にくすんだその世界の中に、一組の若い男女の姿があった。

場所は多分、先程通ってきた川の前だろう。彼らは楽しそうな笑顔を浮かべながら、仲睦まじく互いに寄り添っている。

 

――それは若かりし頃のお婆ちゃんと、記憶にない家族の姿だ。

 

しゅぼ、と。仏壇の前に置いてあったマッチを擦り、蝋燭に火を灯す音が僕以外の誰もいない古屋に残響した。

 

 

                     *

 

 

お婆ちゃんが亡くなったのは、今から半年ほど前。冬を間近に控えた、肌寒い日だった。

何時も通りに学校に行って、何時も通りに真面目に授業を受け、何時も通りに山原からちょっかいをかけられて。

そして帰ったら、お婆ちゃんは早めに出した炬燵に潜った姿勢のまま動かなくなっていた。

 

皺だらけの手も、穏やかな寝顔も普段と同じ。炬燵に入っていたせいか体温も冷たくなくて、夕飯時になるまで僕は彼女が死んだ事に気がつかなかった。

老衰だったらしい。それまでのお婆ちゃんにはそんな予兆は欠片も見受けられなかったから、あの時はかなり取り乱した物だ。今はもう、寂しさを知らんぷりできるけど。

 

――ろくちゃんは、良い子だねぇ。

 

お婆ちゃんのそんな言葉は、今も僕の心に息づいている。

 

「……さて」

 

お婆ちゃんと祖父に挨拶した後。蝋燭に点いた火はそのままに居間に戻る。

新品の筈なのに随分とくたびれてしまった制服を脱ぎ、体を検分。至る所に青アザと擦り傷を発見する事ができた。酷い。指を這わせてみる。痛い。

 

「い……ぎ、き」

 

油の切れたブリキ人形のような動きでタンスの上の薬箱を取る。

そうして擦り傷に染みる消毒液に涙をちょちょ切らせていると、何か嫌になって来た

家族は居ない、親しい友人も居ない。嘗て仲の良かった元親友からは暴力を受けていて、それに意地で抗って。

 

そんな嫌な事しかない世界を、惰性の仮面を被り続けて生きていく。

 

「……うげー」

 

未来に対する余りの展望のなさに変な声が絞り出され、ぱたりと畳の上に倒れこんだ。

自分で言うのも難だが、僕ってばこの年にして結構不幸レベル高めじゃなかろうか。少なくとも幸せとは到底言えないし、個人的にも言いたくない。

 

「…………」

 

心の深い場所にある、粘性の汚物が煮立つ。

その衝動のまま畳を這いずりクローゼットへ向かい、手帳を求め制服を探る。

 

「くそ……」

 

酷く、苛々する。僕は一刻も早く胸の汚泥をインクとして吐き出すべく、ポケットの中に手を突き入れて――何の気負いも無く、『それ』に触れた。

 

 ――思えば、『それ』はもっと前から在ったのだろう。僕が気付かなかっただけで、きっと。

 

「……う、ん?」

 

さらり、と。触り慣れた厚紙では無い、すべすべとした滑らかな感触が指先に伝わった。

 

不審に思いポケットから引き抜けば、握られていたのは愛用していた物と全く別の手帳だ。

サイズは同じだったけど、その表紙は黒の混じった赤――ワインレッドと言うのだったかな――で染められ、何の模様も文字も描かれていない。何か生き物の皮を用いているらしく、鞣された皮と収縮した毛穴の痕が独特の質感を生み出していた。

 

中身もそれと合わせたように、紙の代わりとして羊皮紙の様な物で纏められていて、ずっしりと重さが伝わってくる。ペラペラと捲ってみるが、全て白紙だ。

 

「……何だこれ?」

 

全く覚えが無い。何度もひっくり返して観察し、片手で再び制服のポケットの中を探るけれど、糸くずが爪の隙間に挟まるだけで何もなし。他のポケットを探しても同様だ。

 

拾い間違った?

いや、違う。僕は確かにメモ帳を拾った筈で、こんな古びた手帳なんて絶対に拾っていない。

 

「……気持ち悪いな」

 

先程観察した時には何も感じなかったのに、今では妙な不気味さが発せられているような気がする。ワインレッドの赤が、血の色にでも思えて仕方がない。

 

「捨てる……いやでも、なぁ」

 

もし誰かの大切な物だったら良心が痛む。後で警察に届けようかと少し思案し――がさり、と。指先の手帳が震えた。

 

「ひっ!」

 

気味の悪い感触に総毛立ち、湧き上がる嫌悪感のまま反射的に投げ捨てた。

昆虫とか嫌いなんだ、僕

 

少々のスナップを利かせて放り投げられた手帳は綺麗な放物線を描き、ぺたりと軽い音を立ててちゃぶ台の上に落下。その何者にも侵されていないまっさらな中身を晒す。

ページの間に虫でも挟まっていたか。指先をこねり合わせつつ、手帳を観察。

 

……しかし幾ら待っても一向に動きは無い。

 

「……気の所為、か?」

 

そう思うが、虫は気を抜いた隙を突いて飛び出してくるものだ。油断無く警戒しながら手帳を注視し――そして、気付く。何かが、ページの上で蠢いている。

 

「……あ?」

 

虫ではなかった。それは見る者に嫌悪感を与える、血の色に似た黒混じりの赤。

先程まで確かに真っ白だったページの上で、命を持たない筈のインクがミミズの如くのたくっていた。

 

「…………………………………………」

 

元々低い視力が更に悪くなってしまったか。

しかし何度見直しても、何度目を擦っても。インクは不気味に蠢いていて、目の前の現実は何も変わっていない。皮紙の表面から湯水のごとくインクが湧き出し、互いに絡まり次々と文字を形成させていくのだ。

 

「……っぐ」

 

ぞわりと、生理的な嫌悪感が湧く。

僕は喉を迫り上がるそれを抑えるように口元を掌で塞ぎ、眉を顰め後退った。そして必死に目線を逸らそうとしたが――失敗。

瞬きすらも出来なくなって、見えない力の糸が眼球を固定しているかのようだ。

いっその事、吐いてしまえば楽になるだろうか。手足に力が入らないまま、ぼんやりと思う。

 

 

――この時。もし無理矢理に手帳を捨てていたら、どうなっていたのだろう?

 

 

これより先、何度も命の危機に陥った時。僕はそんな疑問と後悔に襲われる。

しかし当然、今の僕にそんな事を予知できる筈もなく。

呆れる程に無知のまま――完成したその文字を見た。見てしまった。

 

それは、僕の未来を潰した言葉。

それは、僕の未来を拓いた言葉。

 

 

『――わたし、の。十三度目の再現が完了致しました。本書は、説明項を開きます――』

 

 

これより先、多大なる迷惑事を運んでくる声を持たない疫病神。

その産声は、無感情であると同時に慇懃無礼な物だった。




革手帳:おはようございました。


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3頁 開門(上)

                    2

 

 

僕の家にはパソコンや携帯電話なんてハイカラな物は無い。

 

まぁ当たり前である。働き頭の両親を失くした僕とお婆ちゃんに、そんな高い物を買う余裕なんてあるものか。

それに何より僕自身が機械を苦手としている事もあり、授業以外では縁の無い存在であった。

……んだけれども。

 

「はぁ、面倒だなぁ、これ……」

 

賑やかさとは無縁な住宅街とは違い、常に人の声が木霊する明るい街の中心部。

そこに居を構える一書店のインターネットコーナーの一角に腰掛け、ぼやく。

ぺこぺこ、と人差し指でキーボードを叩く乾いた音が周囲に響くが、やはり好きになれない音だ。思わず舌打ちを一つ打つ。

 

「…………」

 

ちらりと尻ポケットに視線を落とせば、そこにねじ込まれているのはワインレッドの革手帳。

その独特な温度を尻肉で感じていると、昨夜の出来事が鮮やかに脳裏に蘇った。

 

 

                    *

 

 

『――本書は、持ち主の周囲に漂う不特定多数の指向性共通意識・錯覚からなる、特定地軸に宿る言霊を集積し、文章に変換、その編集を現実世界へと反映させる、特殊な法令集、であります。皮紙に持ち主の霊力を含ませた墨を用いて、霊魂を封入する事により、その言霊を再現する形で、法という条件を敷き管理する事が可能となります。本書をどう活用するかは、貴方の手に委ねられ、使用を強制される事は、ありません。持ち主たる貴方に課せられるのは、ただ一つ。本書を存在させ続ける事、それのみで――』

 

「ちょ、ちょっ、待って! 待っ……!」

 

咄嗟に、ずらずらと並べられる文字列に思わず制止の声をかけた。

余りの勢いに思わず出た言葉だったけど、手帳に懇願するとか意味不明である。

 

(何……何だ、これ)

 

混乱した頭で考える。

 

書かれた文字は動かない。そんなのは当たり前の事だ。

もし文字が人の意思を無視して勝手に浮き上がり、その形を変えるなんて事象が起こり得たならば、本屋や図書館はそれは愉快な場所になっている筈だから。

では、これは一体何なのだろう。半ば呆然としている僕を余所に、文字は一度動きを止めたかと思うと、再び踊る。それはよく見れば、僕の筆跡その物だった。

 

『疑問点がございましたら、どうぞ、お尋ねください』

 

「反応するのかよ、しかも」

 

というか、そもそも疑問点しか無いのだが。

喚きたくなる衝動を堪え、深呼吸。煮立つ気持ちを落ち着かせようと努めた。

 

「ま、まず、お前……いや、あんたは、何なんだ――じゃない、ですか……?」

 

とりあえずこのまま狼狽えていても何の進展も望めない。まず手帳に言葉が通じていると仮定して、注意深く疑問を舌に乗せる。

傍から見ればアホみたい、とは言わないお約束。

 

『本書は特定の場所に宿る言霊を文章に変換し、編集によりそれを法として現実世界へ再現、反映させる事を可能とする、特殊な法令集、であります』

 

「……は? ああいや、その、もう少し分りやすく……」

 

『本書は特定の場所に宿る言霊を文章に変換し、編集によりそれを法として現実世界へ再現、反映させる事を可能とする、特殊な法令集、であります』

 

「…………」

 

さっぱり分からん。何とも融通の効かない人格だ。

答えを理解できない僕がポンコツなのでは、という意見は埋葬しておく。優等生の僕が馬鹿な訳がないのだ。トントン、と眼鏡の弦を指で叩きつつ言葉を選ぶ。

 

「その……言霊や指向性共通意識?っていうのは?」

 

『噂、陰口、怪談、推論、記述。特定の場所や人物に向けられる人間の意識や感情と、それから生まれた霊力の込められた言葉、であります』

 

「れ、霊力……あー、現実に反映、とは?」

 

『指向性共通意識の集う場に宿る言霊を、文章に変換し、編集。該当する場所へ、言霊を再現する【法】を敷く行為、であります』

 

「……う、うん、ぅうん……」

 

つまりオカルト的な何か、と言う事でいいのだろうか。あまりに唐突且つ胡散臭すぎて理解まで追いつかない。

 

「えー、あんたは何でポケットに入ってたんだ。拾った覚え、無いんだけど」

 

『本書における再現条件を素体となった書籍が満たしていた為、それが変化し出現したと考えられます』

 

「……? あーと、素体で出現? つまりあんたは元々居なくて、その条件とやらを僕のメモ帳が満たしたから……現れた?」

 

『是』

 

「えっ……と。ただの安いメモ帳が、革張りの高級手帳になった?」

 

『是』

 

「……、指向性ナントカが、言霊でウンタラで……怪談が……何やかんや、と」

 

『是』

 

誰か通訳連れてきて。暗号解読できる人でもいいから。

 

 

 

――曰く。指向性共通意識とは、人が抱く好奇や畏怖の総称なのだそうだ。

 

例えば未知に対する想像や思い込み。複数の人々が抱いたその感情は、人物であったり、土地であったり。人々の注目を集めている対象に宿り、不思議な力を発するようになる。

無論、人間一人の感情から発せられる力は極微量。現実に何かを起こせる程に強くは無く、大抵は気弱な者の背筋に寒気が走る程度の代物だ。

 

しかし、それが噂話や怪談といった現実感ある作り話を経ると、より強い力……つまりは言霊として現実世界に影響を及ぼすようになるらしい。

それはある種の【法】に沿った規則ある物。人々が共有し語り継ぎ、研磨された【文章】を――怪談を現実化する力。

 

この手帳は、その怪談の編集と書き換えを可能とするツールであるそうな。

そして同時に自らも怪談その物であり、僕の愛用するメモ帳が彼、或いは彼女を再現する為の【法】を満たしてしまったため、メモ帳を媒介として現実世界へと顕現したのだとか。

 

「……嘘くせー……」

 

結構な時間をかけて手帳の自己主張を噛み砕いた僕は、あまりの荒唐無稽な話に大きな溜息を吐いた。

さっきまで感じていた嫌悪感や吐き気よりも馬鹿馬鹿しさが上回り、脱力。額に手を当て項垂れる。

 

『非、全て事実であります』

 

「そう言われてもね」

 

僕は胡乱げな視線で説明文を無視してパラパラと手帳を捲る。

すると手帳は僕の視線を追いかけているらしく、捲った先のページにも全く同じ文面を浮かび上がらせて来た。

何度も、何度も。眼球が動く度、文章がまるで逃がさんと言わんばかりに視線の先に浮き上がる。怖っ。

 

「ま、まぁ、オカルトめいた存在だとは認めるけど。それでも……」

 

このような常識外の現象が存在する以上、そう言った事象が存在する事は認めてもいいだろう。

しかし僕はこれまで超常現象の類は基本的に信じていなかったのだ。

日々を実直に、現実的に生きてきた人間に対し、怪談とか霊力とか突拍子もない事をすぐに受け入れろというのは酷な話ではないだろうか。

 

『では、正しく認識されずとも、構いません。本書をどう使用するか、強制される事はないのですから。本書を存在させ続けられるのであれば、どのように認識されていても、何ら問題は、無いのです』

 

この目的自体も意味不明。ただ存在するのが目的であるのならば、怪談を編集する機能なんて必要ない筈なのだから。いっそ清々しい不明瞭加減である。

 

「…………」

 

けれど、心は惹かれてしまう。好奇心と言い換えても良い。

先程感じた感覚からして、おそらくこの手帳は善い物では無い。このまま見なかった事にして押入れの奥にでも突っ込んでおくのが賢い選択なのだろう。

 

しかしこのまま手放すには、そう、あまりにも惜しいのではないか……?

 

「…………っ」

 

脳内に一度は酷い目に合わせてみたい少年の姿が過ぎり。心臓が大きく跳ねる。

そうだ、上手くすれば、アイツを――。

「……そう、だね。一回くらいは、うん、信じてみても良いかもしれない……」

 

ズレかけた眼鏡の弦を押し戻し、興奮を隠す。

 

僕の言葉を受けたインクは先程と同じように文面を変えていく。やはりその光景には不気味な物があったけれど、今度は新しい文面が待ち遠しく感じてしまう。

そうしてインクをかき混ぜる気持ちの悪い音が響く中。僕は決して小さくはない期待と共に、蠢くインクを見つめ続けて――。

 

『貴方の霊力が極めて微量である為、本書の機能を使用する事ができません』

 

「……………………、はっ?」

 

その無感情且つ無慈悲な一文に、間抜けな声を上げた。

 

「……えと。あんたは怪談とかを好き勝手に編集できる手帳、なんだよね?」

 

『是』

 

「でも、その霊力? が無いから、僕はあんたを扱えないって?」

 

『是』

 

「……はぁ? いや、ちょっと待って。僕は持ち主だろ、そんな馬鹿な話が、」

 

『貴方の微量な霊力では、本書を十全に扱う事ができません、であります――』

 

期待も高揚感も泡の如く弾けて消えて。急速に膨らむのは濁りを孕んだ失望感。

何を本気になっちゃってたの、僕。

湧き上がる羞恥と怒りに身を任せ、思いっきり手帳をぶん投げた。

 

 

                     *

 

 

「……クソ、思い出したら腹立ってきた」

 

時は戻ってパソコンの前。昨日の出来事を思い出し血圧が上がった僕は、ケツ圧を上げて尻ポケットの手帳を意識的に押し潰し。強くマウスを押し鳴らす。

 

「怪談、霊力、手帳、法令、オカルト……あと指向性何とかも」

 

調べているのは勿論、尻肉の下で苦しそうに藻掻いているオカルト手帳の事だ。

胡散臭いこと極まりない役立たずではあれど、それでも不思議存在である事は確かだ。何か前例が残っているんじゃないかと休日を利用し調べに来たのである。

 

……ついでに、手帳の能力を使う方法も見つかるかもしれないしね。

 

「でもこれ、どっから手を付けていけば良いのか分かんないな……」

 

しかしまぁ、物事はそう簡単には進まないらしい。エンターキーを押し込んだ瞬間にズラズラと流れ出た検索結果に軽く目眩を感じ、辟易する。

ヒットした検索結果は五千件以上。加えてその殆どが創作小説や本の紹介などで、有力そうな情報は一目で分かる場所には無さそうだ。

 

「あー……」

 

力無く唸り、机に上半身を預けた。のっそりと手帳を電灯に掲げ観察する。

決して冷たくは無く、むしろ人肌程度には温まっている筈なのに何故か感じる寒気と怖気。暑い日に肌とズボンの間に挟んどけばかなり重宝しそうだ。

 

「……ふむ」

しばらくその感触を味わう内に、ふと思い付く。検索結果を表示させたままのパソコンに視線を戻し、それぞれの単語を1つずつ別個に検索してみる。

その殆どは先程と同じく碌な情報が出なかったが――霊力という単語に限り、その一解釈の説明ページが目を引いた。

 

「霊力とは。神通力、エネルギー、魅力、気――そして魂、ね」

 

怪しい言葉ばかり出てくるが、共通しているのは精神に依存する不可思議な力である、という事だった。

 

霊の力は目に見えず、人の計量器では測る事が出来ない神秘のパワー。

僕らが呼吸し、思考し、生きる事ができるのも全ては霊の力があればこそ。言い換えれば生命が生命たる所以であり、肉体はそれらの宿に過ぎないのだという。

他にも神が宿るとか霊能力との関係とか出てきたが、何だか宗教的な匂いが強くなってきたので読み飛ばす。

 

……しかし、その情報を踏まえると、だ。

 

「……僕の霊力が微量って事は何、精神薄弱って事?」

 

まるで僕の器が小さいと馬鹿にしているようにも感じられ、軽く苛つく。

小さい頃から型に押し嵌めていた僕の精神が、こんな胡散臭い手帳を動かせない程に微弱な物である訳がないのに。まっこと極めて遺憾である。

 

「…………」

 

ふと時計を見れば、もうそろそろ二十分が過ぎようとしている事に気がついた。

この書店のパソコンは二十分の使用で百円の料金が発生する。今のまま調査を続ければ、確実に万の単位は超えそうだ。

 

(……何か、見当みたいなものが欲しいな)

 

そう呟き、静かに書店を後にする。ぶつんと、背後で電源の落ちる音がした。

 

 

 

休日のお昼時という事もあってか、街の中はいつも以上に人間で溢れていた。

様々な人達が交差し、袖を振り合わせ。春の陽気を乗せた心地のいい風が彼らの隙間を縫って吹き抜ける。街路樹の桜が桃色の雨を降らせ、より一層の春を感じさせるのだ。

 

……で、そんな爽やかな雰囲気の中、寂れた公園内で塩握りを頬張る根暗が一人。

まるで職を失ったリーマンの如く。傍から見ればさぞ侘びしい姿だろう。けっ。

 

『あんた、何で意識あんの?』

 

『意識ではなく、説明項、であります』

 

そんな僻みを紛らわせるかの様に、膝の上で開いたオカルト手帳と筆談をする。

質問と呼ぶには雑な思い付きが紙面へと吐き出され、一瞬の後に消えていく。

どうも紙面に書かれた物は、液体に限り何でも吸収してくれるようだ。

 

『あんた自身は何ていう名前なの?』

 

『受け答えさせて頂いているのは、説明項、であります。怪談としての名前は、記述されておりません』

 

『なんで』

 

『その情報は、本書に記述されておりません』

 

『……僕のところに来る前は何やってたの』

 

『その情報は、破棄されており、本書に記載されておりません』

 

一問一蹴、上手く会話が繋がらない。さっきからずっとこの繰り返しだ。

まぁまぁ不毛な事この上ないが、とりあえず暇つぶしにはなっていた。

 

『あんたって男? 女?』

 

『本書に、性別の概念はありません』

 

『なんで?』

 

『本書に、性別の概念が無いから、であります』

 

「っふ……」

 

子供かよ。不意に帰ってきた融通の効かない回答に、思わず笑みが漏れた。

何だか気が抜けた。ベンチの背もたれに体を預け、手帳を閉じて再度観察する。

……やはり何度確かめても単なる手帳だ。外から中に至るまで全て動物の皮で出来ているのは珍しいとは思うが、それだけ。特殊な装飾も文様も何も無い。

 

「……何回も聞くけど、何で僕の所に来たんだ? 持ち主として不適正でしょ」

 

『貴方の持つ書籍が、本書の再現条件を満たした物と、考えられます』

 

「だからあんたの再現条件って何なんだよ……」

 

『本書には、記述されておりません』

 

少し踏み込んだ事を聞くとすぐこれだ、ミステリアスでも気取っとんのか。

うんざりと空を仰ぐ。青い空に白い雲がたなびいていて、とても綺麗だ。

……昼食も終えてお腹も膨らんだ所為なのか、瞼が重くなってきた。眠気に押されぼんやりとした思考の中、手帳への質問が惰性で続く。

 

「……その、あれ。再現条件とやらってさ。他のやつはどうなの?」

 

『質問は具体的に、お願いします』

 

「いや、あんたは……噂やら何やらを自由に扱える設定なんだろ。だったら他の話とか、条件はどんな感じなのかな、って」

 

周りに誰も居ないとは言え、外出先でオカルトだの怪談だのと言ったトンチキを口にするのは抵抗感があったので、オブラートに包む。

まぁどうせ詳しくは語らないんだろう。なんて気楽に構えていたのだが。

 

『では、本日書店に辿り着くまでに遭遇し、集積した言霊を表示します』

 

「……え?」

 

その一文に、二回目の欠伸が途中で止まった。

 

「……、ど、どこで?」

 

『貴方の住む家よりそう離れていない、森に面した小路、であります』

 

さやまの森の横辺りである。手帳の言が正しければ、自覚のないままに心霊スポットを踏み荒らしていたという事に考えが至り、一気に眠気が吹っ飛んだ。

いや、怖い訳じゃ無いさ、でも不意打ち気味に知らされるのは心臓に悪い訳で。

 

狼狽え不思議な踊りを踊っている僕を無視し、手帳は淀み無く文字を浮かべた。

 

 

【異小路】

 

『界を門として、告呂の小路の先に異界を開く。

 その住人は、足を踏み入れた者を自らの世界へと誘い、連れ去る。

 そしてこの世から跡形もなく消し去るだろう』

 

 

……界と開をかけているのだろうか。下らない洒落が脳裏を過る。

ただ息を呑み、寒気と期待感を背筋に走らせながら。僕は只管に文を見つめ続けて――しかし、それ以上文面が増える事はなかった。

 

「…………え、まさかこれだけ?」

 

『無論、周囲に伝わる形はこれより複雑な文章となりますが、本書に記載された文章は、以上であります』

 

ドキドキ様子を見ていたが、本当に何も変化せず。どうやらこれでおしまいのようだ。思いの他短い文章に拍子抜け。意味も無く止めていた息を吐き出した。

 

『この文面を霊力を含めた墨を用いて編集すれば、それが新たな【法】となり、条件を満たした場所に言霊が再現されます。環境に即した文面に編集すれば、異なる場所に言霊を再現させる事も可能となるのです』

 

「それはまた……微妙に使い勝手の悪そうな」

 

僕としては召喚魔法的な物をイメージしていたのだが、聞く限りでは相当地味な物のようだ。

 

『注意点としましては、自らの霊力だけではなく、核として他人の――』

「いい、いい。もう十分」

 

また何か小難しい事を並べ立てそうだったので、表紙を閉じて文を遮る。

もう苦労して単語を解読するのは御免だ。どうせ僕には手帳の力は使えない訳だし、急いで理解しなくたって……。

 

「……うん、うん」

 

……霊力とやらを鍛える方法があれば。一瞬そんな考えが過ぎったけれど、解脱とかそう言った方向に進みそうなので思考停止。

 

さて、この後はどうしようか。家に戻った所で勉強ぐらいしかやる事はないし、せっかく街にまで来たのに何の情報も得られず帰るのは負けたような気分になるから避けたいところだ。

いい機会だし、街中の大きな図書館にでも行ってみようか。自宅から遠かった事もあり今まで行った事は無かったけれど、僕ももう高校生だ。活動範囲を広げてみるのも悪くない。

 

「……そろそろ行くか」

 

未だカサカサ蠢く手帳を再び尻ポケットにねじ込み、公園から立ち去る。

その足取りは心なし快活な物だ。もしかしたら、物語の中にしか無いと思っていたオカルトなんて物に触れ合い、少しだけ今の状況を楽しみ始めていたのかもしれない。

 

……不謹慎、なのだろうか。この時の僕には分からなかった。

 

 

                     *

 

 

結局、図書館でも有力な手がかりを見付ける事はできなかった。

 

日本全国に昔から伝わる怪談や伝承、風説、都市伝説などを纏めた本を幾つか漁ったのだが、手帳らしき情報が載ったものは無く。

成果といえば、無駄な雑学知識と面白そうな推理小説を見つけた事くらいだ。

 

「……もう夕方か」

 

人影が減り、カラスの鳴き声が煩い街を歩く。夕陽が文字の読みすぎで疲労した眼球を炙り、痛みとも擽ったさとも付かない感覚がして瞼を閉じた。

薄らと涙の滲んだ目で時計を確認してみると、現在時刻は午後四時半。移動にかかった時間を差っ引いても、結構な時間図書館に篭っていた計算だ。そりゃ疲れる筈だと眉間を揉んだ。

そうして住宅街へ続く小路に着いた時には、陽は殆ど落ちていた。

明かりが少なくなった事で、元々狭かった道が更に閉塞感を増している錯覚を受ける。虫の鳴き声と風に揺れる木々の葉音がやたら煩く感じ、幹の隙間から覗く闇と合わせて何とも言えない雰囲気を放っている。

 

「……そう言えば、ここだよな。集積とか何とか」

 

昼にした手帳との会話(なのだろうか)を思い出し、鼻の頭に皺が寄る。

異小路、だったっけ。一体誰が何の目的でこんな良く分からん怪談を考えたのやら。少しばかり疑問に思った僕は、例のごとく手帳を取り出し、問いかける。

 

『おそらく、森への侵入を戒める警告の類が、時を経て文章の形に変化した物と思われます』

 

「さやまの森に入っちゃいけないってやつか。確かによく注意されたっけ」

 

思い出せば、この辺りの壁の落書きの中に「界」の文字があった気がする。

単なるイタズラとしか思っていなかったが、何か関係が有るのかもしれない。

 

「……これ、元の編集される前の文面って出せないの?」

 

『過去の持ち主達の情報、言霊、行った編集記録などは全て破棄されています』

 

「リセット機能ってか。周到……っていうのかなぁ、これは」

 

どっちかといえば不親切だよな。つらつらと手帳との問答を行っていると――見つけた。

 

灰色の壁に黒い塗料で小さく殴り書きされた「界」の文字。それは電柱の影に隠れるようにして配置され、長く雨風に晒されていたせいか少々掠れていた。

これが「門」なのだろうか。擦ったり叩いたり、へっぴり腰で反応を確かめてみたのだが、何も起きず。只の不気味な落書きの域を出なかった。

 

「……な、何だよ、何も起きないじゃないか」

 

『是。その文字は条件の一つではありますが、全てではありません』

 

「え? これが『界の門』って事でしょ? なら……」

 

そこまで言って、気付く。視界の端、道を挟んだ反対側の塀にも小さく文字が刻まれていた。

近寄ってよく見てみると、それは紛れもなく「界」の文字だ。多少乱れはあれど、先ほど触っていた物と同じような乱雑さで描かれている。同一人物の筆跡だ。

 

ただ一つだけ相違点を挙げるならば、文字の一部――「界」という字の下部分、「介」の払う部分が削られた様に無くなっている所だろうか。

 

「……二つ揃って初めて門で、その片方が欠けてるから駄目と。はぁん、画竜点睛ってヤツ」

 

僕の独り言にカサカサ反応する手帳を閉じて、じっくりと観察。

おそらく石か何かで意図的に削り取ったのだろう、その部分には無数の引っ掻き傷が集まり、粉を吹いて壁面を白く染めている。

傷跡からして何度も書き足しと削り取りが繰り返されていたようで、人の意思が介在しているのは明確だ。

 

(……何が目的だったのかは分からない――けど)

 

確かに、怪談を利用していた奴が居た。

最後の一線、信じきれなかった手帳の文が急速に現実感を増していく。

 

(もし、この文字を完成させたらどうなる?)

 

怪談では無く現実に手を加え、怪談が再現されるお膳立てをするのだ。

 

……もしかすると、それなら僕でも異界を開く事が出来るんじゃないか?

諦めきれない好奇心がむくむくと湧き上がり、無意識の内に荷物を探る。

コンクリートに使うにはボールペンでは心許ない。油性ペンは無かったか。

 

僕は何かに取り憑かれたかのように、一心不乱に鞄を浚い――。

 

 

「――よーっす、何ボサっと突っ立ってんだネクラァ」

 

 

ごす、と。突然背中に強い衝撃を受け、吹き飛ばされた。

 

「あがっ……!?」

 

完全な不意打ち。警戒も何もしていなかった僕は録に反応する事も出来ないまま、荷物を投げ出し地面へと無様に叩きつけられた。一瞬、息が詰まる。

 

「ったくさぁ、電話かけても出ねーくせに、何で忘れた頃に見つかんのよ。空気読めよ馬鹿」

 

――山原浩史。

 

僕を見下ろすようにして立つ幼馴染のクズの姿が、そこにあった。

……最悪だ。

 

 

 




主人公:霊力貧弱マン。
革手帳:半ば説明回であります。


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3頁 開門(下)

                     *

 

 

(……何で、こんな所に居るんだよ)

 

せっかくの休日に山原と会うなんて、世界は本当に僕に厳しくあるようだ。

自分の運の悪さを呪いたくなるが、しかし必死に不快感を堪え。表情筋を無理矢理に笑顔の形に固めて、憤りと共に仮面の奥へと押し込んだ。

 

「や……ま、原くんじゃないか。偶然、だね。こんな所で――ガッ!」

 

「お前今日どこほっつき歩いてたんだよ。俺の呼び出し無視するとかねぇわ」

 

 山原は僕の言葉を完全に無視。今度は腹に蹴りを入れられ、尻餅をつく。

 

「っぐ……、き、今日は、朝から出かけてたからね……」

 

「だから携帯持てっつってんべーや。せっかく親睦を深めて貰おうと思ったのにさぁ」

 

山原はそう言って背後に首を傾けた。視線を追って見てみれば、そこにはドタドタと走る丸っこい影が一つ。昨日紹介された井川という少年だ。

……推測するに山原は、今日一日『親睦』という名目で彼と一緒に僕を嬲るつもりだったらしい。当然ながら、暴力的な意味で。

 

「……そ、う。まぁこれからは気をつけるよ」

 

「チッ」

 

山原は舌打ちを一つ打ち、やっと追いついた井川と共にさっさと歩いて行った。

 

「何やってんだ、早くしろよグズ」

 

「……何でかな。意味が分からないんだけど」

 

まぁ、まだ続くよね。

崩れ落ちそうになる膝を支え、山原へと顔を向ける。すると彼は振り向き様、ニヤニヤと意地の悪い顔で僕を見つめていて――。

 

「――決まってんだろうが、お前の家に行くからだよ」

 

……ぎちり、と。心臓が裏返る。鼓動がその間隔を狭め、息苦しい。

 

「……どうして、そうなるのかな。できれば説明して欲しいんだけど」

 

本当ならば何も聞かずに拒否の意を叩きつけたかった。けれど僕の被っている仮面はそれを善としないのだ。

あくまでも柔らかく、角の立つ事のない様に応対しなければいけない。

 

「いやさ、お前今日電話に出なかったじゃん」

 

「……うん、確かにそうだけど、それが何か……」

 

「お前二人暮らしだろ。何で誰も出ねぇんだってオヤジに聞いてみたんだよ」

 

そしたらさ、ビックリしちゃったよ。山原はそう言い捨て、一度言葉を切った。

早鐘を打つ心臓が、虫の声と合わさってとても煩い。外と中から鼓膜が揺らされ、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されている。

 

そして、彼はそんな僕を楽しそうに見つめながら――言った。

 

「――お前んちのババァ、死んだんだって?」

 

「――――ッ」

 

……握り締めた拳が、湿った音を立てた。

 

「知らなかったよ。お前全然俺に教えてくれなかったもんなぁ。葬式にも呼んでくれなかったとか、どんだけ嫌ってんだよっていう」

 

「…………」

 

「まぁ俺もあのババァはウザかったし、別に良かったんだけどな? でもなー、割とショックだよなぁー?」

 

「……っ……」

 

「だからさァ、『お友達』として是非とも拝むくらいはしたいんだよなァ」

 

いやらしい笑みを浮かべながら、彼はそう締めくくった。

僕にとって一番大切な存在だったお婆ちゃんの事を、僕にとって一番唾棄すべき存在である山原が語る。その悪夢のような事柄に、胸の粘付きが音を立てて煮立ち、取り繕った仮面に大きなヒビを入れていく。

 

「……そ、うだね。お参りくらいなら、別に」

 

「そうそう、んでお供え物もちゃんと買ってあるんだぜ。なぁ?」

 

「ん? おお、これな」

 

山原に話を振られた井川が、バッグの中から何かを取り出した。

……何か、白い粉末の入ったビニール袋。それを見た瞬間、思考が止まった。

 

「山、原……?」

 

「クン、を忘れてるぜ。いい子ちゃーん」

彼は少し興奮気味に、そして誇らしげにぴらぴらとビニールを振る。その何ら罪悪感を感じさせない仕草に、手帳の物以上のとてつもない嫌悪が湧き上がった。

 

「お裾分けだ。これお供えすれば、お前のババァも元気になるんじゃね?」

 

「ラリって生き返るかもな、はっは」

 

ゲラゲラ、と。二人は下品な笑に笑いながら、不謹慎な冗談で盛り上がる。

救いようのない屑だ。激情を堪え唇を噛み、噛み切った。

 

「……そういう、の、良くないんじゃ、ないかな」

 

「あ? せっかくお前のババァの為に大金叩いたんだ、好意を無にすんなよ」

 

「……それは……でも」

 

「へぇ、優等生君がそんな意地悪をね。こりゃ草葉の陰でババァ泣いてるなぁ」

 

「っ…………」

 

その汚い雑音を垂れ流す口にペンを突っ込んで、脳みそを犯してやりたかった。

僕の黒い粘つきを。感じる負の感情の全てを直接コイツに刻み込めたなら、どんなに素晴らしい事だろう。

 

「ほーら、いいから早く歩けよ。日が暮れちまう」

 

「…………」

 

……嫌だ、こんなクズをお婆ちゃんの下に連れて行きたくなんてない。

 

「なぁ浩史、この眼鏡の家って他に誰か居ねぇの?」

 

「あ? あー、今は一人暮らしなんじゃね」

 

「へぇ、じゃああれだな。溜まり場に使えんな」

 

嫌だ。こいつらを家になんて上げたくない。沢山の思い出が詰まった、お婆ちゃんと僕の家。そこに残ったたった一人の家族の匂いを、ヘドロの悪臭で上書きなんてしたくない。

もう、止めてくれ。口を開くな、これ以上雑音を聞きたくない。

 

「――あ。いい事思いついた」

 

止めろ、止めて。頼むから、もう――。

 

 

「せっかくだからさ、これ遺灰に混ぜてやろうぜ。その方が絶対効く――」

 

 

「――――やめろッ!!」

 

頭の血管がぶち切れ、我慢の限界を超えた。

力の限り仮面を投げ捨て、山原の背に握り締めた拳を思いっきり叩き込む。

 

「っぐぉ……!?」

 

僕はその隙を見逃さずその腕を掴み、地面に倒そうと力の限り引っ張った。

肉を抉る様に爪を立て、何時もは殆ど使わない筋肉を酷使して。目の前に居る害悪に向かって、今まで抑えていた悪感情を叩きつける。

 

「お前らみたいなクズが、クズが……ッ!!」

 

「チッ……ってェな!!」

 

だが、やはり足りない。山原はよろめく事すら無く、大きく腕をなぎ払う。

僕の貧弱な体はその勢いに逆えず、彼の目の前へと飛び込み――そして、衝撃。骨ばった脛が、脇腹深くにめり込んだ。

 

「ごっ!?」

 

ミチリ、ミチリ。内蔵が押し潰されたか様な圧迫感が身を襲う。

そのまま蹴り飛ばされ、塀に衝突。夕暮れの空に眼鏡が舞い、ぶつかった左肩が嫌な音を立てた。

 

「ぁか、ひゅっ……」

 

「は、へ、へへっ。そうだよ、それで良いんだよ……!」

 

壁伝いにずるずると崩れ落ち、横たわる。痛みと衝撃で途絶えた呼吸を呼び戻そうと必死に肺を震わせる僕を見下ろし、山原は愉快そうに笑い声を上げた。

 

そんなに僕の苦しむ姿が愉快か。動けないまま、充血まみれの眼球からこれ以上無い程の殺意を向けてやる。

しかし彼はそれを嬉しそうに受け止め、一層深く笑みを浮かべた。

 

「気に入らねぇなら言えばいいんだ、なのにいっつも隠しやがって」

 

「は……っ、何を――――ぐぁッ」

 

「ほら! クズが何だって? もっと言ってみろよ、オイ!」

 

山原は意味不明の文句を怒鳴りながら、僕に追撃を加えた。踏みつけ、蹴り飛ばし。いつもの比ではない暴力の嵐が吹き荒れる。

何度も、何度も、何度も。

体中を荒れ狂う痛みに意識が遠のきかけ、亀のように丸まって耐え忍ぶ。食いしばった歯が口内で歪み、耳障りな音を奏でた。

 

「嘘つき野郎が! 言えよほら、早く!!」

 

「ぅ……ぁぐ……」

 

「……おい浩史、もういいだろ。行こうぜ」

 

そうやってしばらく蹴りの雨に耐えていると、井川がそう切り出してきた。

 

「うっせぇ、黙ってろピザ。今良い所……」

 

「馬鹿、動けなくなった後、これどうすんだよ。深夜じゃないんだ、放置するにしろ持ってくにしろ誰かに見られるぜ」

 

「…………チッ」

 

山原は口出ししてきた井川に鋭い視線を向けた後、大きく舌打ち。僕を踏みつけていた汚い足を退かし、最後に一発蹴り飛ばしてから背を向ける。歩く先はやはり。僕の家がある方角だ。

行かせまいと妨害に立ち上がろうとするけど、体が思うように動かない。

そんな僕の様子が分かったのか、山原は振り返らずに手を振り、嘲笑した。

 

「――それじゃ、先行くから。早く来いよ」

 

お前が来る頃には、お家はどんな風になってるかな――。

 

最後にそう吐き捨てて歩き去る。眼鏡が外れ朧気な視線の先で、二つの影が揺れていた。

 

(……穢、される。大切な物が、暖かい、記憶が……)

 

それは絶対に止めなければならない。なのに、身体がまともに動かない。

痛みが酷い。指先を伸ばす事すらままならず、ただ無様に地面をひっかくだけ。

 

「……そ、クソがッ!!」

 

気付けば、熱を持った雫が頬を伝い落ちていた。

悔しかった。憎かった。何故良い子である筈の僕がこんな目に遭う。

そんな理不尽は無いだろう。淘汰されるべきは奴らだ、決して僕であっていい筈がない!

 

「……お婆、ちゃん……」

 

耐え難い憤りと屈辱に心の中が黒い粘液で溢れ、力を入れ続けた爪が割れた。

縦に入った割れ目から血が溢れ出し、指先を赤く塗らす――心が、折れ曲がる。

 

「くそぉ……!」

 

嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。負けたくない、折れたくない! 折れたら全部に意味がなくなる!

今まで培ってきた反発心をかき集め、体を持ち上げ近くの壁にもたれ掛かった。

 

(……何か、無いのか。山原を止める方法はッ……!)

 

罵声を浴びせる、無理を押して突撃する。単純な方法なら幾らでも浮かんでくるが、それではダメだ。

だからこそ嘆き、焦りが空転を続けている。

 

何か無いか、どうにもならないのか。何か、何か、何か、何か、何か―――。

 

「……っ……!!」

 

――脳裏に、赤い手帳の姿が浮かんだ。

 

そうして重い瞼を無理矢理こじ開けた先、視界の端に文字を見た。

それは一部が欠けた「界」の文字。異界の扉を開くための、未だ揃わぬ鍵の欠片。

 

「ぐ、そっ……!」

 

何だっていい。少しでも可能性があるのなら、どんな物でも縋りたかった。

足りない一角を描く為のインクは既にある。割れた爪から溢れ出る、どろりと濁った血液だ。

 

「どこ、か。どこかに……!」

 

痛みに耐え、壁を伝い文字の下へとナメクジのように這い寄って。

怒りと憎しみを指先の粘性へと封入し。歯をこれでもかと食いしばる。

死んでしまえ、居なくなれ、不幸になれ。胸中に溢れるドス黒い激情のまま、文字の欠けている一画目の根元に指を合わせ。

 

 

「――消えて、しまえ……ッ!!」

 

 

――ぱきん、と。

 

力を込めた爪が更に亀裂を深めた音を聞きながら――――赤黒い火花と共に、引き摺った。

 

 

                      ■

 

 

「……あん?」

 

自らの背筋を撫で上げたその感覚に、山原は怪訝な声を上げた。

 

「どうした?」

 

「ん、いや……」

 

特に、何が変わった訳でも無い。

 

先程まであった日は既に沈み、周囲を照らす物は月明かりをおいて他には無く。道を囲む木々の葉が風に揺られ風情のある音を立てる。

この辺りの住宅街に住む者なら、幼少より既に見慣れた情景だ。

 

……しかし、何か妙な違和感が付き纏う。よく見知っている場所である筈なのに、全く知らない場所に居るような。得体の知れない感覚だ。

 

「……早く行くぞ」

 

「あ、おい」

 

隣を歩く井川を置いて、歩く速度を上げる。

先程までの気分の良さは既に無かった。あるのはただ、妙な気持ち悪さだけ。

 

「チッ……」

 

せっかく長い時間をかけていた目的を達成できたというのに、その余韻を長く味わえなかった事に腹が立つ。

何故こんなにも不快な気分になっている。疑問が過ぎるが、すぐに放棄する。

頭を使い過ぎてダメになった少年を近くで見続けてきた彼は、何時しか深く思考する事を止めていた。

 

「まぁいいさ、時間は幾らでもある。まずはあいつの家に居座ってから――」

 

「……や、山原」

 

口内で先の予定を転がしていると、押し殺した井川の声が投げかけられる。

苛立ちつつ振り向いてみれば、井川は贅肉で膨れた体を縮めるようにして前方を指差していた。再び視線を戻し、指し示された道の先を見る。

 

「あぁ?」

 

暗闇に景色が溶け込む一歩手前。

山原達より少し離れた場所に、何時の間にか一人の影が立っていた。

 

「…………」

 

先程の暴力行為を見られたか――山原の心臓が緊張に軋むが、それも無視。いざとなったら脅しつければ済む事だ。

何故か怖がっている様子の井川の腹を軽く叩き、敢えて男を睨みつけながら大股で歩き出す。

 

「……何だアイツ」

 

しかし、その影は動じない。ただその場に棒立ちになり、こちらをじっと見つめ続けている。

よく見れは、丸眼鏡をかけた細身の男のようだった。まるで陸揚げされた魚の如く、一定の間隔で上半身を痙攣させている。

山原が男へ向けていた視線が、奇妙な物を見る目に変わった。

 

(……頭のおかしい奴か?)

 

触らぬ神に祟りなし。そう結論付けた彼は歩くスピードを更に早めようとして――背後から力強く服の裾を引かれ、たたらを踏んだ。

 

「……おぉい、ピザ川ァ」

 

先程から妙にしおらしい井川に、山原は青筋を浮かべた。

女性ならともかく、肥満体型の汗臭い男に頼られても嬉しくも何ともない。

 

「デブが何ビビってんだよ、あんな男ただの……」

 

「ち、違う、そうじゃない。いや、それもだけど、向こう、あれ、あれ……!」

 

井川は強く指を突き出し、男の立っている場所より更に遠方を指し示す。

その尋常ではない剣幕に気圧され、山原は反射的に男の背後へ視線を向けた。

しかし、そこには闇が広がるだけ。視認出来る物は何一つとして有りはしない。

 

「……んだよ、何が言いたいんだ」

 

「は!? おい、冗談言うなよ! 見えるだろ、あんな沢山の黒い腕――んぶ」

 

突然、くぐもった音を立てて言葉が止まる。それはガムを噛む時の物によく似た、粘着質な音だ。

 

「おい、どうし……、…………」

 

不審に思った山原は何気なく振り返り、すぐに言葉を失った。

 

 

――井川の顔が、溶けていた。

 

 

「む、んぶ、ぐ……ッ!?」

 

比喩ではない。口元から頬の辺りにかけて、顔の下半分が溶け出していたのだ。

肌が、唇が、歯が、肉が、血が。温められたチョコレートのように溶け合い、混ざり合い。ピンク色の鮮やかな粘液へと変わり、むせ返る程に濃い肉の匂いを放っていた。

その痕は見様によっては手形にも見え、視認できない何者かに顔を掴まれていると錯覚する。

 

「ぐ……んッ……!?」

 

既に口腔は溶接され、助けの声どころか空気や唾液すらも体外に排出できない。

その醜悪な光景を至近距離で目撃した山原は呆然とし、本能が警告するままに後退る。

 

「ん……! ぐ、むゥッ!」

 

唐突に井川の頭が前方へ引っ張られ、ゴキリと鈍い音が脊椎の辺りから響いた。

そして彼の巨体は道の先、不審な男が立っている場所の向こう側へと引きずられていく。

その勢いは凄まじく、地面を鑢として彼の体を削るのだ――血飛沫と、共に。

 

「んー! ぅんん!! んんんんッ……!」

 

地面に手を突いても勢いは止まらず。それどころか指が折れ曲がり、肉が削げ落ちる激痛に絶叫する。しかしそれらも言葉に成る事は無く、雑音として撒き散らされた。

 

全てが無意味。必死の抵抗も虚しく、井川は赤い筋だけを残し暗闇の中へと飲み込まれ。

そうして先程と同じ、粘着質な音が辺りに残響し――やがて、止まった。

 

「……おい、おい?」

 

痛い程の静寂。頭が働かないまま、何時の間にか近寄っていた男が視界に映る。

 

「――ひ、あ?」

 

――化物だった。

 

眼孔、鼻腔、口腔、耳穴。

顔に存在する全ての穴から濁った黒い粘液を垂れ流す、人の形をした、人ではない何か。

決して存在してはいけない筈のそれが、まるで自分達を誘うかの様に手を差し向けていた。

 

「ひ、ぃッ……!」

 

事ここに至り、山原は恐怖した。

全身の毛穴から吹き出た冷汗がシャツを濡らし、頭の先から血が抜けていく。

そうして人生最大の警鐘を鳴らす生存本能に従い、咄嗟に踵を返し走り出す。

 

「あ、っぐ!」

 

しかし、失敗。踏み出した足が固定されているかの様に動かず、倒れこんだ。

見れば足首が人の手の形にへこみ、万力の様な力強さで締め上げられている。

 

「――うわああああ! ああああああ! ああああッ!」

 

徐々に溶け落ちていく衣服に井川の最期を重ね合わせ、絶叫。

見えざる手は更に力を増し、山原の体を引き摺った。白い粉の入った小袋が――幼馴染を発奮させる為に作った単なる塩の塊が、ポケットから零れた。

 

「あ、ああああ! な、何なんだよ! 離せ、クソがッ! やっと、俺はっ!」

 

地に立てた爪が折れ、赤い筋を作り出し。生への執着をアスファルトに刻む。

しかしそれが決して叶わないであろう事を、彼は絶望の中で察してしまった。

 

「こ、これからなんだよォ! やっと、やっと引っ張り出せ……ん、ぐぁッ!」

 

山原が口にしようとした、未来への展望。それら全てを化物の身体が押し潰し。

 

「あああああああああ! あァァああああああああッ!」

 

痛みも熱さも無い。ただ、己の身体が溶け落ちる感覚だけが鮮明に感じられた。

服と皮膚が、肉と骨が、血と内蔵が。全て一つに混ざり合い。千切られ、持っていかれる。

 

 

――少しずつ、人としての形を失っていく感覚に、山原の精神は擦り切れた。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああッ!」

 

獣の様な叫びを上げ、がむしゃらに身体を振り回し。徐々に輪郭を失っていく景色に臆面もなく泣き喚きながら、必死に手を伸ばす。

その向かう先は、これまで何度も虐げてきた幼馴染みの居る方角だった。

 

「たす、けて、助けて……!! お願い、死にたくない……!!」

 

一縷の希望を目に湛え、掠れる声で助けを求める。

 

それは二つの意味で決して届かない物であるにも関わらず、何度も、何度も。

彼は既に人の形を失っていた。肉が溶け、骨が露出し、意識すらも覚束ない。

そうして固形と液体の中間の物質となり、暗闇の中へと誘われていくのだ。

 

「……ろ……く……、……」

 

最期に放ったその言葉すらも最後まで紡がれず。

思考も、人としての機能も全て失い、単なる人だったものと成り下がり。

 

――粘着質な音が、一つ。彼の全てが、それで終わった。

 

 

                      ■

 

 

そこで何が起こっていたのか、その時の僕には分からなかった。

 

「…………」

 

完全に日の落ちた真っ暗な小路の端。

一歩先すら見通せないその場所で、僕はその声を、悲痛な叫びを聞いていた。

 

「……山原?」

 

壁に手を付き立ち上がり。戸惑いながも奴の名を呼ぶ。返事は無い。

 

「……山原! おい!」

 

先程よりも力強く名を叫んだ。

道の先に目を凝らし、そこに居る筈の彼らを探す。しかし視力の問題とは別に、靄のように闇が蠢き委細の視認を阻む。

まるで――そう、そこから先は別の世界だとでも言うように。

 

「聞いてるのか山原! 山原く――ぅあっ!?」

 

一瞬、何者かに右足を掴み上げられるような感覚があり、倒れかける。

 

咄嗟に壁へ縋り、地面にヘディングする事は避けられたものの、より深く爪が割れ、引きずられた血が「界」の字を縦断してしまった。同時に、掴んでいた力も消える。

右足を見ると、いつの間にかズボンの右裾が溶けたかのようにボロボロに解れていて――って、違う、今はどうだっていいんだ、そんなの。

 

「山原! おい、クズ原! 浩史ぃ! コウくーん! ハハ、おーい!!」

 

痛む体を引きずり歩き回りつつ、罵倒や昔呼んでいた渾名を投げかける。

しかし、やはり反応はゼロ。徐々に心が昂ぶり始め、笑い声が漏れた。

 

(あいつのだった。絶叫は、命乞いは、あいつらの……!)

 

井川はともかく、彼に関しては断言できる。そうだ、彼らは確かにここに居て、無様な悲鳴をあげていた。

 

「はは、嘘。や、まだ、待て……待て待て待て待て……!!」

 

いや、逃げただけという可能性もある。

僕は急いで地面を探り眼鏡を拾い上げると、宵闇の中で一層映えていた暗赤色を引っ掴み、手荒く中身を開き問いかける。

 

「い、いま! 何が起こった、山原達はどうなったんだ? おい、おいッ!」

 

『――――が、――――満――で、再――――ま――た』

 

けれどやはり光が無いのは如何ともし難い。淡い月光は木々に遮られこちらまで届かず、浮かび上がる文字を上手く読む事が出来なかった。

僕は逸る心を抑えきれず、明かりを求めて這いずり回り――見た、見えた。

僕の筆跡を真似た書体でしっかりと書かれた、その文章……!

 

 

『――言霊、異小路。八度目の再現を確認。貴方に暴行を加えていた人物ならば、異小路の再現時に、異界へと誘われた事を確認しています――』

 

 

――機械的で、無機質で、無慈悲な文。

 

その意味を理解した瞬間、僕は十五年の人生の中で一番の歓声を上げていた。

 



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4頁 日常

                     3

 

 

剥がした皮膚は鞣されて、潰された眼を流される。

 

 

                     *

 

 

――ねぇ、おじいちゃん。おじいちゃんはどうして私を拾ったの?

 

……小さな小さな、幼子の言葉。

その嫌味も卑屈も無い純粋な疑問に何と返したのか、よくは覚えていない。

ただ、この子がそんな事を口にするのが悲しく、切り傷に塗れた小さな手を握りこんだのは確かだ。

 

……本当に、無意識の行動だった。しかしきっと、間違っては居なかったのだろう。幼子は少しびっくりしたようにこちらを見ると、やがて柔らかく笑った。

その笑顔はとても暖かく、決してこの手を離してはならないと、そう思えた。

 

――そっか、おじいちゃんも私と一緒なのでありますね。

 

幼子の手を引いてその山を降りる途中、その子は笑みと共にそう零す。

 

何故笑う――そう聞けばその子は首を振り、二人になる事が嬉しいのだと、そう言った。

ああ、それに対する返答はよく思い出せる。

忘れる筈が無い、そこからあの穏やかな日々が始まったのだから。

 

――私もだ、と。そう、笑ったのだ。

 

 

                     ■

 

 

月曜の早朝。

 

家の外から小鳥の鳴き声が響き、雨戸の隙間から寝室に光の筋が差し込んだ。

春の朝の爽やかな空気を宿したその光は、寸分違わず僕の目元を焼き、炙り。穏やかな夢の中を揺蕩っていた意識を引き上げる。

 

「……何だ、今の夢……?」

 

どこか森のような場所で老人と幼子が触れ合う、意味不明な一幕。

夢なんてそんな物だと分かっているけど、何故がほんの少しだけ気にかかった。

 

「……暗っ。今、何時だ?」

 

時計を確認してみれば、まだ朝の五時半を回った所。

普段の僕ならば青筋を浮かべ小鳥と太陽を呪う所だったが、今日はすんなりと許す事ができた。

それどころか起こしてくれた事に感謝の念すら湧いてくる。

 

「さて、と」

 

僕は目尻の涙を払いつつ布団をたたみ、ガタつく雨戸をこじ開ける。すると雪崩込んだ光の波が、ちゃぶ台の上に鎮座する手帳を照らした。

それはやはり妙な不気味さを湛えていたけど、今の僕にはとても好ましく映る。

 

何と言っても、彼……いや、彼女かな。ともかくそれは僕の恩人ならぬ恩書であるのだから。

 

「はは、おはよう」

 

そう言って表紙を撫で上げると、中で何かを綴って居るのかカサカサと蠢く。僕はそれに笑みを零し、丁寧に胸ポケットへ仕舞いこむ。

……そういえば、さっき僕はどんな夢を見たんだっけ。考えたが、忘れた。

 

 

 

戸締りをして、登校。

閑静な住宅街といえど、朝のこの時間帯はそれなりに人通りも多く、混み合っている。

 

近隣住人と挨拶を交わしつつ、大通りへと続く曲がりくねった小路を進む。

周囲の木々も徐々にその数を増し、林となり、森となり。やがて見えてくるのは、そんな緑の中に浮かぶ閉塞感のあるブロック塀と歪んだアスファルト――山原が消えた、あの場所だ。

 

「…………」

 

歩く速度を落とし、ゆっくりと辺りを見回した。

そうして一歩一歩、緩慢に進んでいると、見えてくるのは地面に付いた二本の赤黒い線だ。

 

それらは道の半ばから突然始まり、同じく道の半ばでぷっつりと途絶えている。

これはやはり、居なくなった彼らの血液なのだろう。必死に抵抗し、爪を立て、割れた。その痕。昨夜の悲鳴を思い出し、少し笑う。

 

「ん……?」

 

ふと見れば、道の端に何かが落ちているのが目に付いた。

砂埃で汚れ、中身の零れたビニール袋――山原が持っていた、碌でもない粉末のパックだ。

 

「……ふん」

 

きっと、「何か」に連れて行かれた際に落としたのだ。嫌悪感を込めて思い切り踏みつければ、軽い音を立てて袋がひしゃげ、粉末が内臓のように飛び散った。

何度も、何度も、足を振り上げ踏み躙り。地面と擦りビニールをズタズタに引き裂いていく。

 

「――ざまあみろ」

 

呟き、一際激しく踏みつける。白い粉が足元に漂い、制服の裾を僅かに汚した。

 

 

                      *

 

 

山原が消えた日の翌日。日曜日の朝早くに、僕は彼の自宅へ電話をかけた。

応答したのは山原の父親、僕の父親と友人同士だったという男性だ。どこか落ち着かない様子だった彼に、僕は丁寧に問いかけた。

 

即ち――『浩史くんは居ますか?』という単純な一言を。

そして返ってきたのは否定の言葉。土曜日に出かけたきり帰ってきていないとの事だった。

 

山原が消えている。それを完全に確信した僕は、通話を断つやいなや馬鹿みたいに笑い転げた。

ゲラゲラと、ゲラゲラと。あれ程楽しい気分になれたのは、後にも先にもこれっきりだろうと思う。

 

山原父には申し訳ないが仕方ない、お婆ちゃんを冒涜するようなクズは消えるべきなのだから。

まぁ怪談には死ぬとは書いていなかった。もしかしたら今頃別の世界で勇者やら何やらファンタジーやってるかもしれないし、それはそれで良いんじゃない?

あぁ、主人公になれるなんて羨ましいなぁ。ははははは。

 

「……よーす、どうしたよ? 何か機嫌良さそうだけど」

 

「え? ああ、いや。何でもないよ」

 

登校後も幸せな気分に浸っていると、その様子を不審に思ったのか、先日僕に話しかけてきたクラスメイト、星野君が欠伸を漏らしながら近づいてきた。

そんなにも表情に表れていたのだろうか。指で口角をなぞる。

 

「さっきから鼻歌してっけど。結構上手いな、お前」

 

思わず口を抑えて周囲に視線を走らせれば、隣席の(えだなし)さんから生温かい笑顔を向けられた。ちょっと浮かれすぎじゃないか僕。

 

「ま、まぁ、ちょっと嬉しい事があってね。まだ少し余韻が残っているんだ」

 

「ふーん、そうなん? でもその割には何か怪我してね?」

 

そう言って、頬に当てているガーゼを指差す。流石に少し目立つらしい。

 

「……こんなの気にならない程嬉しかった、って事だよ。それより君こそどうしたんだい、何か眠そうだけど」

 

「あー、休み中にはしゃぎすぎたわ。ほら、クラスの男連中でカラオケ行くって話したろ?」

 

「うん、僕も用事がなかったら是非参加したかったよ」

 

「だーから今度行こうぜって。で、そん時に仲良くなった奴らとさ……」

 

少し話を逸らしてやれば、面白い様に乗ってくれる。

他人の明るい思い出話ほど下らない物は無いが、今日の僕は機嫌がいい。寛大な心で聞き流す。

 

「……それでよぉ、そん時居合わせた竜之進っつー奴がえらい器用で」

 

「へぇ、そうなんだ」

 

身振り手振りを交えたその話は、担任の若風先生が入ってくるまで続き。僕はそれに心無い相槌を打ちつつ、これから訪れる穏やかな生活に思いを馳せていた。

 

 

 

『……本当に消えたんだよな、山原のやつ』

 

『是。かの人物ならば、怪談の再現時に異界へと誘われた事を確認しています』

 

朝のホームルームが終わり、一時間目の総合学習の授業中。この学校での校則を反復している担任教師の言葉に集中している振りをして、僕は手元に広げた手帳と筆談していた。

時々顔を上げて若風先生の目に視線をやっていれば、傍から見ればメモを取ってるようにしか見えない筈だ。最低限予定などの大切な情報を漏らさいないよう注意し、雑談に興じる。

 

『それはもう聞いたけど。何か……信じられないというか』

 

『本書には、しっかりと記録されています。山原浩史、及び井川という少年達は、怪談に則り異界へと誘われました』

 

何となく手帳がムッとしているように感じたが、気のせいだろうか。

 

『……あ、そうだ。あんたは何かして欲しい事ってある? お礼しなくちゃ』

 

『不要です。本書は、何一つ貴方の行動を強制する事はありません』

 

言うと思った。ある意味期待通りの返答に軽く溜息。まるで壁にボールを投げるかのような手応えの無さだが、せっかく提案したのだ。惰性のまま会話続行。

 

『いや、一応あんたが来てくれたおかげであのクズを消せたんだからさ』

 

『非。本書の目的は存在し続ける事ただ一つ。他に望むものはありません』

 

『存在し続ける、ねぇ……』

 

つまり捨てられなければそれで良い、と。

何もいらないならそれはそれで楽なのだが、何となく居心地が悪い。

僕は自他共に認める優等生なのである、恩を受けたままそれを踏み倒すのは、あまりにも不義理ではないか。

 

(ペンのインクをもっと良い物に変える……いや、それは流石に貧乏臭いか)

 

考えつつ視線を若風先生に戻せば、話題はクラス役職決めに移行していた。

委員長や図書委員等、複数の役職が黒板に書かれ、その下に名前を書く空欄が記されている。

 

……名前、名前ね。

 

『名前付けるのとか、お礼になったりする?』

 

『疑。質問は正確にお願い致します』

 

『ほら。言霊やら怪談やら、みんな個々に題があるでしょ。あんたもそのカテゴリで存在するって言うなら、何か名前があった方が良いんじゃないかな、って』

 

名は体を表すとは言うが、手帳や説明項では味気無さすぎるのではなかろうか。

自分で付けるつもりは無さそうだし、そういった意味では礼になる……のかなぁ。ふとした思いつきだが、何か押し付けな気がしなくもない。

すると手帳は沈黙し、少しの間だけ文字が止まった。何となく、ハラハラ。

 

『……仮の名を定める事により、更なる存在の定着を図るという事なら、本書の目的と合致します。呼び名の設定をお願いします』

 

『……提案しといてアレだけど、良いの? 名前なんて自分で決められるのに』

 

『構いません。説明項には、本書に対する決定権はありません。名称が設定されない場合は、これまで通り説明項と呼称します』

 

良く分からない所で納得している手帳に問いかけたが、帰ってきたのは硬い文。

そこには喜びも何も無く、僕の自己満足にしかならなさそうなのが辛い所だ。

けれど手を抜くのも不義理だろう。眼鏡を上げ、僕の優秀な頭脳を働かせる。

 

(手帳、テッチー。説明子、めいこ、明子……オカルトテッチー明子さん。いやダサいな)

 

あーでもないこーでもないと悩みつつ、思い浮かんだ名前を片っ端から書き記していく。

手帳はそのどれにも反応しないままだったが――。

 

『――めいこ』

 

「ん……?」

 

 ぴくり、と。

 

書き並べた名前の内、平仮名で書いた『めいこ』の字が僅かに動いた気がした。

 

『今、何かした?』

 

『非』

 

手帳に訪ねてみても、帰って来るのは何時にも増して無感情な一文字だけだ。短すぎて裏を読み取る事など出来る訳がない。

……どこか腑に落ちない感情を抱きつつ、その三文字を注視した。

 

「……ふむ」

 

めいこ。

特に捻りもない、何とも由緒正しい日本女性チックな響きだ。

 

でも、その単純さが中々良いかもしれない。

例えば後ろに「さん」を付けて「めいこさん」とか――余計な装飾が無い所が返って怪談的に良さげなのではなかろうか。「花子さん」とかそんな感じで。

 

『……うん、「めいこさん」はどうかな。怪談としてフラットじゃない?』

 

『構いません。本書には、本書への決定権がありませんので、ご自由にどうぞ』

 

……そう帰ってくるのは分かってたけど、自分の名前なんだから少しは何かさ。

けど、まぁ。彼女自信が構わないというのならこれで決定としておこう。

僕は「めいこさん」の文字を勢いよく丸で囲み、

 

「っ……?」

 

 ――その、刹那。紙面を走るインクが一瞬だけ火花を散らした気がした。

 

何度も瞬きを繰り返して見直してみたけど、特に変わった様子は無い。

……見間違い、かな。まぁいいや。

 

『じゃあ、今からあんたの事はそう呼ばせて貰うよ。よろしく、めいこさん』

 

『……是』

 

返答までに少し時間が空いたが、特に気にしなかった。新しく呼び名を付けた事により彼女に親近感を感じて、浮かれていたのかもしれない。

めいこさん、めいこさん。うん、僕のセンスもなかなかの物だ。

 

「――よし、じゃあまずは委員長から決めるか。誰かなりたい奴ー」

 

そうして一人悦に入っていると、若風先生が一際大きな声を張り上げてきた。どうやら一年間の生贄を募っているようだ。

横目で周囲を伺ってみれば、誰も彼もが必死になって教師から目を逸らしてる。

当たり前だ、誰が好き好んで面倒な責任を背負い込む物か。当然僕も皆に習い、静かに教師から目を逸らした……のだが。

 

(……ふむ)

 

しかし、何度も言うが今日の僕は機嫌が良かった。

考えてみれば、デメリットばかりでもない。周囲からの印象は良くなるだろうし、内申点も稼げる。優等生を自称する者としては、中々良い立場だ。

 

「居ないかー? じゃあ独断と偏見と第一印象で――……」

 

「――はい、僕で良ければやりますけど」

まぁ、山原が消えて新しい生活が始まるのだ。少し位はチャレンジ精神を持ってみるのも悪くは無いだろう。

僕はプラスの方向にそう思い直し、頷きを一つ。クラスメイトの視線を感じつつ、ゆっくりと手を上げたのだった。

 

 

                      *

 

 

学校が終わった帰り道。落ちかけた太陽が橙色の柔らかな光を放ち、未だ舞い散る桜吹雪の中をゆったりと歩く。

あれ程煩わしくて堪らなかったこの桃色の雨も、今では心地良く感じられた。憂いが一つ無くなっただけで現金なものである。

 

「――にしても、お前すげぇな。自分から委員長に立候補するなんてよぉ」

 

そんな風に浸っていると、横合いから能天気な声がかけられる。何故か一緒に帰る事になった星野君だ。

どうも未だにカラオケの件を気にしているらしく、何かにつけて絡んでくるのだ。ありがた迷惑とは正にこの事。

 

「そうかな。一年生だし、大した事はやんないと思うけど」

 

「いやいやいや、何かアレ、ツキイチの集会とか出んだろ。面倒くせぇって」

 

星野くんが首を降る度に髪が揺れ、ワックスの香りが鼻腔に張り付く。思わず山原を想起したものの、すぐに頭から放逐した。

チャラ男はチャラ男でも、アイツと違って害の無いチャラ男だ。あの有害廃棄物と比べるだけでも、相当な失礼に当たる。

 

「まぁお前メガネだし、ハマり役ではあるよな。イーンチョー」

 

「……眼鏡?」

 

「おお、だってメガネとか頭よさそ―じゃんよ。ほーら数学メガネビーム!」

 

唐突に変な必殺技を食らった。何やってんだコイツ。

まぁおそらくは、彼なりに褒めているんだろうけど――やはり、どうも僕としては近寄りたくない類の人間である。

 

(……何というか、疲れるな)

 

チャラい外見か、軽い性格が原因なのか。多分どっちもだろう。優等生たる僕の友とするには、極めて不釣り合いだ。

 

「――っと、じゃあ俺こっちだからよ。また明日ってコトで、じゃな!」

 

「うん、また明日」

 

住宅街に繋がる細道の前に辿り着き、星野くんと別れた。どうやらあんなナリでも良いとこの坊っちゃんらしく、高級住宅街の方に住んでいるらしい。

物凄くムカついたので見送りはせず、すぐに身を翻し歩き出す。通るのは当然、件の小路――異小路だ。

 

(……まぁ、星野くんがどんな奴でも別にいいさ)

 

これから先、彼の行動が目に余るようならば。その時は、また――。

 

「……ククッ」

 

笑みを、一つ。

鬱蒼と茂るさやまの森を眺め、壁に書かれた「界」の文字をザラリと撫でた。

 

 

 

「……ん?」

 

そうして綺麗な夕陽を眺めつつ、十数分程歩いた所だっただろうか。

住宅街に辿り着き、そろそろ自宅が見えてきた頃、鉄門の横に見慣れない男性が立っている事に気が付いた。

年の頃は四十代の半ば、と言った所だろうか。如何にもサラリーマンと言った風情のその男は、落ち着きの無い様子で辺りを見回している。

 

……セールスだったら嫌だな。警戒しつつ、歩行速度を落とす。

 

「……!」

 

するとあちこちに散らしていた男の視線がこちらを捉え、目が合った。

向こうもそれが分かったのか、弾かれるように僕の下へと駆け寄って来る。

 

「やぁ、えーと……ロッ君。久しぶりだね、元気にしてたかな」

 

「……すいません、どちら様でしょうか」

 

誰だこの人。軽く息を乱しながら昔呼ばれていた渾名を呼んでくるその男に、僕は不信感を隠す事無く対応。それなりに警戒した表情を向けてやる。

 

「え? あ、そうだ。ここ五年くらい顔は合わせてなかったっけな。昨日の電話でつい会った気になってたみたいだ、悪かった」

 

男は僕の言葉に目を丸くしたが、すぐに苦笑を浮かべ後頭部をボリボリと掻く。

しかし電話とは、さて何の事だったか――と。

 

「あ」

 

「……思い出してくれたか?」

 

思わず間抜けな声が漏れ、それを聞いた男性が安堵の息を吐いた。

そうだ、僕は彼を知っていた。直接会ったのは大分前だったけれど、つい昨日も電話越しに彼の声を聞いている。

直後に笑い転げていた所為か、記憶がすっかり頭から飛んでいた。

 

「――じゃ、改めて久しぶり、浩史の父の山原藤史だ。少し聞きたい事があって待たせてもらったんだが……今、大丈夫かな?」

 

彼はにこやかにそう言って。息子のそれとは違う、欠片も嫌らしさを感じさせない愛想笑いを僕に向けた。

 

 

                      *

 

 

「悪かったね、今までおばさんにお参りできなくて」

 

何だかタイミングが合わなくてね。仏間に案内している間、藤史さんはそう言って頭を下げた。

 

僕は山原は大嫌いだったが、その父親である彼にはあまり含む物は無い。何せ外面内面共にあんな典型的不良スタイルを取っているようなクズである、家族はさぞかし苦労していたのだろうと同情の念さえ持っていた。

 

「俺も小さい時は良くお世話になってたもんだよ。憲一……君の父さんと二人して拳骨貰った事もあった」

 

「ええ、祖母から話だけは良く聞いていました。武勇伝とかも……まぁ、少し」

 

「ハハ、悪ガキ的な意味だろ。ちょっと頭が足りてなかったんだわな、俺ら」

 

僕の濁した皮肉に恥ずかしそうに笑って、首筋を掻く。

やたら手のかかった息子と友人の思い出話。それを話している時のお婆ちゃんは怒りつつも本当に楽しそうで、聞いているだけで嬉しい気持ちになったものだ。

そんな他愛もない話をしながら藤史さんを仏間へと招き入れ、僕自身はお茶を淹れる為にと一旦離席する。

 

おそらく、僕はこれから大きな嘘を吐く。その覚悟を済ませておきたかった。

 

「……それで、話というのは?」

 

そうしてお茶で舌を潤し、二言三言の近況報告の後。僕は徐にそう切り出した。

少し唐突だった為か、藤史さんは一瞬だけ息を詰まらせたが、すぐに再起動。

大きく溜息を吐き、ぽつぽつと話しだした。

 

「ああ、話なんだが――浩史のバカがどこ行ったか知らないか?」

 

……来た。

放たれたのは、半ば確信を持って予想していた言葉。僕は努めて冷静に無関係の振る舞いを心がけ、対応する。

 

「山……浩史君、ですか?」

 

「ああ、一昨日から家に帰ってきてないんだ」

 

眉を顰め、初耳を装った表情を作る。罪悪感が心中を苛むが、無視をした。

そう、全部山原の身から出た錆、自業自得なのだ。僕が気にする事は何も無い。

 

「すいません。金曜日に会ったのを最後に見てないです」

 

「何か……独り言みたいのでも良い、知らないか? どこどこに行くとか、そういう事を言ってたみたいな……」

 

「……すいません」

 

「……そうか。まぁ、いきなり言われても、そうだな、困るよな……」

 

一応警察には連絡してるんだがな――その言葉を最後に、重苦しい空気が漂う。

カチ、コチと壁掛け時計の音だけが室内に木霊し、やけに煩く感じた。

 

「…………」

 

……罪悪感が一秒毎に膨らんでいく。でも、やはり本当の事を言う気にはなれない。

僕はこの重圧から逃れたい一心で、無理矢理言葉を捻り出した。

 

「浩史君って……あの、こういう事、今までにあったんですか?」

 

「ん?」

 

「いえ……無断外泊の一回や二回はしてそうなイメージがあったもので」

 

父親を前に失礼だったか。後悔したが、口にしてしまった以上押し切った。

幸い藤史さんは気分を害さなかったようで、表情を苦笑に崩し、それと同時に部屋の雰囲気も僅かに払拭された。

 

「ま、あんな格好してるもんな。そういう所は俺に似たのかね」

 

過去の自分を思い出しているのか、懐かしむように目を細めた。そしてお茶を一口啜り「でもな」と前置き。

 

「正直腐ったミカンの部類ではあるが、そこら辺は意外ときっちりしてんだぜ。浅海の事があったから」

 

「浅海……浩史君のお母さん、でしたか?」

 

「そうだが……あれ? 聞いてなかったのか?」

 

不思議そうな顔を作っている僕に、意外そうに問い返してくる。

山原の事情なんてどうでも良かったし、向こうも積極的には話さなかった。

思い返せば、奴に関して知っている情報は余り多くないのかもしれない。

 

「えと……すいません、分からないです」

「……そうか、そっか……」

 

そんな僕の反応に何とも形容し難い表情を浮かべ、押し黙り。それを誤魔化すようにお茶を飲み干し、一息。言い辛そうに口元をまごつかせる。

その様子に悪い予感を覚えたが、止める理由も特に無い。

 

僕も湯呑を手に取りつつ彼をただ見ているだけで。

 

「――浩史の母親な、君の父さん母さんと一緒に居なくなってるんだわ」

 

彼は、意識して感情を廃した声で、そう言った。

 

 




めいこさん:名前貰ったであります。
山原藤史:元ツッパリヤンキー。数十年前は主人公の父とブイブイやっていた模様。


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5頁 不可逆(上)

                      4

 

 

「くそ、どこだ、どこだっけ……!」

 

箪笥の中を、漁っていた。

 

おばあちゃんが使っていた時のまま、殆ど手付かずだった古箪笥。入っているのは小物に文具、本やレコードなど様々だ。それらをなるべく傷つけないよう丁寧に、しかし急いで取り出し、目的の物を探す。

 

(アルバム、違う。辞書、違う! 小説、電卓、古びたメガネ、全部違う!)

 

逸る心を抑えながら。只管に漁る。そんな僕の脳裏に、先程帰宅していった藤史さんとの会話が浮き上がる。

 

 

『一緒ってのは語弊あるか。あの連続行方不明事件、俺の家内も被害者の一人だったんだよ』

 

既に心の整理はついているのだろう。訥々と言葉を紡ぐ彼の表情は穏やかな物で、ただ寂しさだけがあった。

 

『居なくなる前に買い物行ってくるとだけ言って、そのままドロンだ。多分、その事がトラウマか何かになったんだろう。俺が出かけるときは行き先をしつこく確認するし、自分が出かける時は呆れる程詳しく言い残してくんだ』

 

『……はぁ』

 

『今でもそれは変わんなくてさ、あんなナリしてんのにどこ行くんだよって必死になって聞いてくるんだ。一昨日もかなり細かいとこまで言っててな……』

 

それなのに、帰って来ない。彼にはそれが妻が消えた時と重なって、堪らなく不安なのだという。

心を覆い隠す仮面が、じわじわと罅割れ、剥がれ。ボロボロと落ちていった。

 

『……っと悪いね、何か空気悪くなっちまったか』

 

『いえ……こっちこそ、すいません。僕、知りませんでした』

 

『ハハ、まぁ意外だったわな。あのバカ、何時も本音出させてやるとか息巻いてたから、言ってるもんだと思ってた』

 

 

ギチ、と唇を噛む。

 

「くそ、くそ、くそ……!」

 

それから先の事を思い出すまいと作業に没頭しようとするが、上手くいかない。それどころか、更に鮮明になって僕の意識を犯し、かき混ぜるのだ。

 

 

『本音って、あの……それってどう言う……?』

 

『ん? ああ、何でも君が何時も嘘付いてるから、それを止めさせてやる……だったっけか。十歳くらいの頃からずーっと言ってんの。はは、バカだよなぁ、こんなに君良い子なのになぁ――』

 

 

その時上手く返事を返せていたかどうか。ただ、激しい不快感を感じていた事は覚えている。

 

「何が嘘だ、何が、何が――――、!」

 

悪態を吐きながら箪笥の奥を探っていると、一際大きいファイルを発掘した。もしかして、と期待感のままに取り出し中身を確認する。

 

「っ、あった……!」

 

それは、かつての行方不明事件の記録。幾つもの新聞の記事をくり貫いて作られたスクラップブックだ。

 

僕はいつの日か、これをお婆ちゃんが作っている姿を目にしていた。何のため、どんな感情を持っていたのかは分からないが、それは今考えるべき事じゃない。

震える指で無造作に開き、中身を確認。考察、批評、被害者、事件概要――記事に書かれた活字の群れを、忙しなく眼球を動かし追っていく。

 

『――にしても、本当どうしちまったんだろうな、浩史のバカ』

 

(起こったのは十二年前の今頃、最初の被害者は僕の両親で一件、そして山原のお母さんが……二件目。その直ぐ後に更に二件……)

 

脳裏に再生される声を無視して、切り抜きの記事を一つ一つ指差して熟読。重要な部分には赤いマーカーが引かれており、探しやすくて助かった。

 

『早く帰って来ないと、どんどん騒ぎが大きくなるってのに』

 

(五件目からは二週間毎に一件ずつ起こって、七件目、十一人目を最後にぷっつり無くなり、そのまま。被害者同士には血縁関係の者も居たけど、それは一部。大半には共通点は無い。しかし、その誰もが同じ場所で消えている)

 

読み進める内に、音を立てて血の気が引いていく。息が詰まり、吐き気が胸から迫り上がる。僕には、その事件を構成する要素に大きな心当たりがあった。

 

「……めいこさん、山原を消した時。あれ、何回目の再現って言ってた……?」

 

その問いかけに応え、めいこさんはカサカサと蠢く。いつもと同じように形容し難い寒気と共に、何の感情も無く。

……彼女を開くのが怖かった。真っ赤な表紙を見つめたままで怖気付き、躊躇う。僕は粘つく唾液を飲み込み、意を決して表紙を開き――。

 

 

『――本当、母さんみたいに小路の中で行方不明とかになってなきゃ良いんだけどな――』

 

 

「……ッ」

 

そこに書かれていた数字は八。僕が山原と井川の件で利用した一回を除けば、七。この記事に書かれていた数と一致する。

いや、それだけじゃない。小路という場所も、条件と事件の性質も。単なる偶然と片付けるには共通する箇所が多すぎた。物的証拠は何一つとして存在せず、ただの推測にしかならない。けれど、僕は確信を持って一つの事実を予想する。

 

――即ち、この行方不明事件は手帳の力を用いて行われた可能性が高い。

 

「…………」

 

僕や山原の家族を消したのが、この手帳の前任者であるかもしれない。

その事実が、重く心を押し潰した。

 

 

                     *

 

 

両親が居なくなった時、お婆ちゃんは毎日の様に泣いていた。

 

仏壇の前に正座し、誰かの名前――おそらくは祖父の――を呟きながら、必死になって拝んでいたのだ。

嗚咽と涙を漏らしながら手を合わせ、何度も何度も頭を下げていたその姿は、今もなお強く脳裏に焼きついている。

 

だからこそ、僕は良い子になろうとしたのだ。お婆ちゃんが泣かないように、彼女に迷惑をかけないように。

色々な事を我慢した、色々な事を努力した。デロデロに腐っている本音を表に出さないようにしたし、山原との件もバレないように細心の注意を払って誤魔化して。周りに好印象を振りまいた。

だからこそ今がある。成績優秀、品行方正、清廉潔白で優等生な僕がある。

 

心には沢山汚い物が産まれたものの、その生き方は決して間違っていない。

……いなかった、筈なのだ。少なくとも、さっきまでは。

 

「……ごめん、なさい……」

 

遺影のお婆ちゃんは笑顔だったけど、今だけは泣いているように見えた。

 

僕は、井川と共に山原を消したのは正しい事だったと思っている。

だってそうしなければ、お婆ちゃんの遺した物が穢されていた。

例え山原が何を考えていても、藤史さんが悲しもうとも。あんなクズに僕の大切なものが堕とされるなんて絶対にあってはいけない。

だからあの時の事に後悔なんて無いし、しちゃいけない。

 

(……けれど、それは。絶対にやっちゃいけない事だった……ッ!)

 

僕の前任者。かつてめいこさんを手にしていた奴が、何を考えて幾人もの人間を行方不明にしたのかは分からない。物取りに利用したのか、それとも他に何か目的があったのか。今となっては察する事すら不可能だ。

分かっているのは沢山の人を消して、そして、お婆ちゃんを泣かせたという事。

 

――ろくちゃんは、良い子だねぇ……。

 

「……くそッ」

 

……僕は、顔も知らない犯罪者と同じ力を手にして、同じ方法で人を消した。

そしてそれを喜び、笑い。調子に乗って星野君を消す事をも検討した。

 

それは、お婆ちゃんを泣かせた奴と一体何が違うのだろう?

 

(違わない、違わないんだよ、何も!)

 

歯軋りが鳴る。

十二年前の犯人と同じ所まで堕ちた事が、お婆ちゃんに顔向け出来なくなってしまった事が、悔しくて悲しくて堪らない。

認めらるか、そんな事。僕は憤りのまま横に放り出していためいこさんを引っ掴み、手荒に開き問いかけた。

 

「……山原達を……異小路で消えた人を元に戻す方法を、教えろ」

 

『不可能、であります。貴方には、本書の機能を使用できるだけの霊力が存在しないため、言霊の根本的な書き換えや消去は、』

 

「知ってるよそんな事っ! それ以外に何か無いのかって聞いてるんだ……!」

 

『不可能、であります。貴方には、』

 

「――めいこさんッ!!」

 

定型文を繰り返そうとする彼女を怒鳴りつけ、綴られる文字を強引に止める。

……きっと十二年前も同じようにして、当時の持ち主と共に在ったのだろう。どのような使われ方をしようとも決してそれを諫めず、只管そのサポートをし続けたのだろう。

 

それは別にいいんだ、否、よくはないけど僕にはどうこう言える資格は無い。

でも、このまま放置する事は絶対にダメだ。お婆ちゃんが、優等生である僕自身が、決して許してくれない……!

 

「頼むよ、何か、何か方法があったら教えてくれよ……!」

 

切実に、訴える。反応は無い。書きかけの否定文のまま変化しない。

 

「……もし、本当にどうする事も出来ないのなら、僕はあんたを捨てる。やりたくないけど、火を付けて燃やして灰すら残さず処分してやる。そうすれば、全部元に戻るかもしれないから」

 

多くの創作物では、この手のオカルト関係の物は呪いや祟りの源を処分すれば何とかなる割合が高い。この場合はめいこさんの事だ。

僕だって、名前を付け多少なりとも愛着が湧いている彼女にそんな事をしたく無い。しかし、本当に何一つ出来る事が無いと言うのなら――僕は躊躇いなく彼女を燃やすだろう。例え、自分勝手と罵られようともだ。

 

「そうなりたくないのなら、教えてくれ。無いのなら考えてくれ、探してくれ。嫌なんだ、僕は。このままお婆ちゃんを泣かせた奴と同じになるのは……!」

 

脅しに似た懇願。しかし彼女はやはり何も反応せず、紙面にも変化はなく。

僕は目を閉じ紙に額を擦りつけ、人を抱きしめるかの様に彼女を握り締めた。

そして、ありったけの感情を込めて呟く。

 

 

「――――……めいこさん……っ!!」

 

 

瞬間、脳裏に赤黒い火花が散る。

これが最後だ。もしこれで何の反応も無かったり、機械的な文章を返してくるようだったら、もう――。

 

『……霊、魂』

 

「!」

 

カサリ、と小さく彼女が蠢き、開いた目の前に文字が浮き上がる。慌てて額を離せば、小指ほどの小さな文字がページの真ん中でゆらゆらと揺れていた。

それは頼りなく不確かで。僕の物とは違う酷く弱々しい筆跡だった。

 

「霊魂……?」

 

『言霊を、再現する際には、自らの霊力だけではなく、核として他人の霊魂を封入しなければなり、ません。書き換えた言霊を、霊力の塊たるそれに認識させ続ける事によって、初めて言霊を編集する事が可能になる……の、であります』

 

霊魂、つまりは魂。霊力だなんだと耐性は付いたつもりでいたが、また随分とベタな要素が出てきたものだ。

 

「……それで、何をどうすればいい」

 

『貴方の、求める言霊に――異小路の、怪談に封入されている霊魂と交渉し、説得する事ができれば。言霊の書き換えとは行かずとも、少々の融通を、効かせられる可能性もあります』

 

「融通……それは、被害者を解放する事も出来るの?」

 

めいこさんは、その質問には答えなかった。

しかし彼女が否定の時に用いる『非』の一文字が出ないという事は、絶対に不可能ではないのかもしれない。光明を見出した気がして、詰め寄る。

 

「それで、その魂とはどうやったら交渉出来るの?」 

 

『貴方には、本書の使用だけでは無く、霊魂を視認できる程度の霊力すらありません。故に、言霊を再現し霊魂を現世に顕現させる工程が、必要となります』

 

顕現――と言う事は、また小路に行って「界」の文字を完成させれば良いのか。

咄嗟に柱時計に目を向ければ、午後の七時を差していた。今の薄暗い時間帯なら、殆どの人は気味悪がってあの小路に近づかない筈だ。

 

善は急げ。僕は慌ただしく懐中電灯を引っぱり出し、油性ペンとカサカサ蠢くめいこさんをポケットに突っ込み、散らかった部屋はそのままに家を飛び出す。

 

「くそっ……くそぉっ……!!」

 

待ってろ、なんて死んでも言わない。

ただ悪態だけを吐き出しながら、全力で足を動かした。

 

 

                      *

 

 

人通りの無い住宅街と、曲がりくねった細い小路を駆け抜けて約十分。

件の場所は街灯の一つもなく、月明かりもまた弱い。懐中電灯がなければ、自分がどこに居るかも分からなかっただろう。

 

「……はぁ、はぁ……!」

 

体を酷使した事で息が上がり、心臓が早鐘を打つ。やはりインドア派の僕に運動なんてさせるもんじゃない、腕も足もガタガタだ。

そうして浮かんでくるのは、山原の嫌らしい笑み。これから元に戻さなければいけない、害悪の幻覚。

 

「クソがっ!」

 

どうして僕があいつの為に頑張らなきゃいけない。

助ける価値もない人間なのに。居ない方が僕にとっても社会にとっても良い影響を齎す筈なのに――。

 

「……だぁから! ダメなんだよそれじゃあ!」

 

疲労で煮立った頭を強く振り、邪な考えを散らした。

お婆ちゃんを泣かせた奴と同じのままで居てたまるかよ。

何度も自分に言い聞かせ――懐中電灯でブロック塀を照らし出す。

 

「……あった」

 

光に浮き上がるのは、一本の赤黒い線が縦断した「界」の文字。異界への扉を開くための鍵の片方。

今ならば、何故この文字の一部分が削られていたのか察する事が出来た。おそらく、僕の前任者はこの文字をスイッチとして用いていたのだろう。

 

怪談を使用して。目的を成したら文字を欠けさせる。これを繰り返す事で簡単に怪談を制御し、七件もの行方不明事件を作り上げていたのだ。

単なる推測にしか過ぎないが、そう確信できていた。何故ならば、僕も限定的ではあるがそれと同じ事を行い、また行おうとしているのだから。

 

「……これに入ってる霊魂を説得出来れば、山原達は帰ってくるんだよな?」

 

『本書には、記述されていないため、』

 

ぱたん。相変わらずのめいこさんに見切りを付け、ポケットに捩じ込む。

 

そうして返す手で油性ペンを握り、文字の横に新しく「界」を書き込んでいく。

本当は元の字を修正した方が良いのかもしれないけれど、血で汚れた物を直すのは手間がかかる。反対側の塀にはまだ「界」の字が残っているし、条件的には問題無い筈だ。

 

「…………」

 

……藤史さんによれば。山原は僕の嘘を止め、本音を出させたかったそうだ。

嘘や本音とは一体何の事だ……なんて知らんぷりした所で意味は無い。

 

屈辱だ。完璧に隠せていたと思っていたのに、一番バレたくなかった奴に看破されていた――それを考えると、胃がねじ切れそうになる。

 

「くそがッ! あの、ノータリンが……!」

 

ああ、ああ、分かった。山原の思惑は不快感ごと無視をすると、そう決めた。

奴が何を思い僕に嫌な事をしてきたのか。それを慮る必要性などあるものか。

汚点を雪ぎ優等生に戻った時には、これまでと同じようにお前を見下し続けてやる。

どんなに暴力を受けようとも屈する事無く『良いお友達』で在り続けてやろう。

 

――お望み通り、胸に溢れる黒い粘液を吐きかけた上で、だ。

 

「……ぁぁあああ、っそがァ!」

 

凄く、不愉快。

割れた爪の痛みと共に、ペンを握る力を込めて――最後の一角を引き降ろす。

ペン先が音を立てて摩擦し、赤黒い火花が迸った。

 

 



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5頁 不可逆(下)

                      *

 

 

「ど、どうだ……?」

 

何が変わったのか、最初は分からなかった。

周りの木々も塀も、視認出来る部分には何一つ変化が認められない。

失敗か? 僕は焦りつつ周囲を見回し――そして、気付く。

 

(……見えない範囲が、増えてる)

 

道の先。本来ならば別れ道となっている筈の景色が、闇の靄に埋没していた。

それは夜の黒よりも更に深く、濃く、冥く。確かな異常としてそこに在る。

……初めて目撃するめいこさん以外のオカルト現象に、嫌な汗が一滴、流れ落ちた。

 

「怯えるな……!」

 

強く首を振り、萎縮しそうになる心を膨らませる。大丈夫だ、めいこさんを持っている以上、僕はこの怪談の主という事になる。襲われる筈がない。

そう自分に言い聞かせ、僕は見えない誰かに向かい、大きく声を張り上げた。

 

「す、すいません! あの、近くに居ますか! この怪談に……宿ってる? 込められてる? そんな……感じ、の……れ、霊魂……」

 

……何やってるんだろう、僕。

幽霊に語りかけるなんて完全に痛い人だ。疲れとは違う理由で、頬がより赤く染まった。

 

「……くっ! お願いします! どうか居なくなった人を元の場所に――こっちに返してください!」

 

ええい、もうどうにでもなれば良い。交渉だなんだと言っても、僕には相手の姿も声も認識できないのだ。だったら必要な事だけ叫ぶしか無いだろう。

 

「あなたが連れて行った人達を返して貰いたいんです! 全員……は、時間が経ち過ぎているから無理でしょうけど! せめて、まだ生きてる人だけは……!」

 

手を振り、掠れるほどの大声で。最早ヤケクソの境地で叫ぶも、反応は無い。

手応えの無さに感じる苛立ちのまま舌打ちを鳴らし、何か変化は無いのかと改めて辺りを見回し――。

 

「……あ?」

 

暗闇が、近付いている。

少しずつ、少しずつ。懐中電灯で照らされた血の筋が、徐々に短くなっている。

 

じわじわと視界が狭まり、崩れ。少しずつ暗闇がこちらに躙り寄ってくるその光景に、寒気が背筋を撫で上げる――嫌な予感が、する。

 

「……こ、この、前の! そう、最悪、一昨日くらいに連れってった人だけ返してもらえれば良いですから! それ以上は何も言いません、から……ッ!」

 

暗闇が波打ち、『何か』が射出された。

何も見えない、けれどそう直感したのだ。触手か、槍か、靄の塊か。全く想像は付かないけれど、あの暗闇から伸びる『何か』は、確実に僕に狙いを定めている……!

 

――それに捕まればどうなるか。山原の悲鳴が脳裏をよぎり、肩が竦んだ。

 

「……ねぇ、待って。分かった、分かったから……」

 

後退り懇願するも、しかし『何か』は止まらない。

怖い、怖い、怖い……!

押し寄せる濃い気配に体と視界が震え、腹の底から冷たい物が湧き出してくる。気分が悪い、いっそ嘔吐してしまいたい気分に駆られた。

 

「待って、嫌だ、待っ――!」

 

そして、それは逃げる事を忘れた僕の眼前に広がった。本能的な恐怖に従い、目を瞑り腕を顔の前に掲げる。

 

様々な罵倒と懇願が胸の内で荒れ狂い。瞼の裏にお婆ちゃんと暮らしていた日々が走馬灯として流れ、消え――。

 

「…………?」

 

……何も、起きない。

刺される事も、引きずり倒される事も無く。ただ不気味な沈黙だけが続く。

 

「っあ……」

 

目を開けば、僕の手にはしっかりとめいこさんが握り掴まれ、迫る気配に対する盾として使用されていた。気配は確実に、彼女の手前で立ち止まっている。

 

「……へ、へへ。な、んだよ、驚かせて、くれて……!」

 

笑い声が、漏れる。そうだ、さっきも言ったが僕は怪談の主なんだ。

緊張に固まっていた体が弛緩していく。こちらの方が立場が上だという稚拙な優越感を感じ。図に乗った。

 

これならばこの怪談を管理できる。根拠もなくそう思い、散々怖がらせてくれた目に見えないそいつに文句を叩きつけるべく口を開いた――けれど。

 

「ぼ、っ――、?」

 

僕の言う事を聞け。その最初の一文字を発した瞬間、突然胸部に強い衝撃を感じ、世界がぶれた。

 

見る物全てが下方に吹っ飛び、暗闇に覆われた空が視界いっぱいに広がった。

全てが遅く、鈍い世界。見上げた空に星一つ見られない事に「曇ってんのかなぁ」と場違いな疑問を抱き――後頭部に強い衝撃を受け星が散る。

 

「っが、は……!? っぁ、ぇ……?」

 

『何か』に、突き飛ばされた。断続的な痛みに悶え、少し遅れて理解が及ぶ。

 

――危害を加えられた。そんな、どうして……!

 

自身の優位性が一瞬で崩れ、焦りと疑問が頭の中をぐるぐると回る。

無意識に衝撃を感じた場所へ手を這わせると、指先に違和感を感じた。視線を落とせば、シャツの胸部が、ボロボロに解れている。

それは良く観察すれば、開いた掌の形に見えなくもない。

 

「な、なに、これ……? 何で、こんな……い、痛い……」

 

『推察。異小路に封入されていた霊魂が、貴方を、』

 

そんな僕の疑問に応えるかのように手の中でカサカサとした振動が生じた。反射的にめいこさんに目を向ければ、歪み開いたページの隙間に文字が見える。

 

『――推察。異小路に封入されていた霊魂が、貴方を言霊の管理者と認めず、変質した霊力を持って、反抗したものと考えられます』

 

「……は? な、何でだよ!? 僕はあんたの所有者で、その霊魂とかを従わせる立場だろう!? それなのに……」

 

『貴方の持つ霊力が、一定水準を満たさず、彼を従属させるだけの力を有していなかった事が原因と、』

 

「ふざけるなよ!? そんなアホな事認められ、っぉ、あああッ!?」

 

一時的に痛みと状況を忘れめいこさんに噛み付いていると、彼女を持っていた手首を『何か』に掴まれ、体ごと振り回された。懐中電灯が手を離れ、宙を舞う。

 

「や、やめっ、ろッ! いや、だぁ! 痛い、痛い……ッ!」

 

上に、下に、右へ、左へ。

それはまるで、めいこさんを力尽くで引き離そうとしている風にも感じられた。

必死になって腕に力を込めるが、見えない『何か』はピクリとも動かない。

 

「いぎぃあッ!? あぐっ……やだ、やめッ――」

 

――ぼぐん、と。右肩の関節が酷い音を立て、ズレた。

 

「――っぎぁ、ぁぁぁあああああああああああああッ!!」

 

そうして半ば空中に体を浮かされ、振り子のように揺られた勢いのまま、塀に叩きつけられ側頭部を強打。

 あまりの痛さに再び涙が溢れてくるが、『何か』は僕を解放してくれない。何度も、何度も、何度も、何度も。同じ勢いで壁に叩きつけられる。

 

「ぐぁッ――ぎっ!――グッ。――かはッ……!?」

 

二回目で舌を噛み。

三回目で唇を切り。

四回目で額から血が飛び散り。

五回目で眼鏡のフレームが歪み。

そして六回目で右側のレンズが割れた。欠片が幾つか目の中に入り、眼球が傷付き痛みが走る。

 

聴覚が鈍くなり、意識がぼやけてきたけれど、必死の思いでめいこさんだけは手放さない。

それは下らない意地だった。これまで培ってきた反骨精神が、このまま『何か』の思う通りにさせたくないと駄々を捏ねたのだ。

 

しかし、それもすぐに後悔した。手首を掴む『何か』はそんな僕に業を煮やしたのか、一際大きく僕を振り回し――そしてぶん投げ、叩き飛ばしたのだ。

一転、二転、三転。僕は鈍い音を立てながら道を転がり飛び、塀に激突。血と唾液を撒き散らし、力無く地面に崩れ落ちた。

 

「っあ、ぁ……は……」

 

痛い、痛い、痛い……!!

呻き声とも、吐息とも付かない音が漏れる。流れた血液が右眼に入り込み、世界の半分を赤黒く染め上げた。

 

(ひ、ぎ。くそ、死ぬ、やだ、死にたく、ない……!)

 

ただその一念を胸に落ちようとする意識へ火を注ぎ、血に濡れた瞳を無理矢理こじ開け――途端、視界に飛び込んできた光景に血の気が引く音を聞いた。

 

変な方向にひん曲がった腕が。

先程まで『何か』に掴まれていた部分が、醜く溶け爛れている。皮と肉が一つに溶け、ピンク色のペースト状になっていた。

 

「あ、ぁあ……ッ!!」

 

明らかに大怪我だ。

しかし痒みも痛みも何一つ感じられず、それが一層の吐き気を誘う。

 

――何なんだこれは! 聞いてない、こんなの!

 

右手を見ないようにして、カサカサ蠢くめいこさんを見る。そして指示を仰ごうと無事な左手で開こうとするが、指が震えて上手くいかない。

まだ近くには『何か』が居るはずなのに、何やってるんだ。胸の内側を引っ掻く焦りが、さらに手元を狂わせる。

 

「……っ!」

 

僕は彼女を開くことを諦め、素早く辺りを見回した。激痛が体を蹂躙するが、歯を食いしばりそれを無視。無様に這いつくばり、壁へ向かう。

 

早く、また『何か』が飛んでこない内に。まだ動ける内に。

血でも何でも使って、怪談の大本たる「界」の文字を消さなければ――!

 

「――ひっ……」

 

ざり、と。僕の目の前に、誰かの足が一本落ちた。

 

健常な左眼には何も映らず、血の染み込んだ右眼でのみ認識できる足。

上手く焦点を合わせられず服装までは分からなかったが、何か黒い液体で濡れているようだ。みるみる内に地面へと粘り気のある水溜りが広がって。そして、その中から幾本もの真っ黒い腕が茸のように生え、伸びていく。

 

「…………」

 

眼球が腕に追い従い、上を向いた。

 

脛から太腿、腹から胸に視界が開くにつれ、その細身の身体は男性の物だと分かった。加えて時折体を震わせており、その度に濁った水滴が飛散する。

酷く粘り気のある、黒い雨。触れるもの全てを犯し尽くす、醜悪な気配を放つそれが――目の前に立る男の顔面から垂れ流されている物だと理解した瞬間、途轍も無い恐怖が膨れ上がった。

 

「っあぁ、ああぁあ、うわあああああああッ!」

 

眼孔、口腔、鼻腔、耳穴。人の持つ全ての穴から際限なく溢れ出る嫌悪の塊。

それを直視した僕は総毛立ち、本能のままに距離を取ろうと必死に這いずる。

しかし相手はそれを許さない。僕に覆いかぶさるように身を倒し、黒い体液に塗れた腕を差し向けた。

 

「やめろ! やめろぉッ!」

 

泣きそうになりながら身を捩り、役立たずの右腕を盾とする。

狙いはやはりめいこさんのようだった。男は右腕の上からのしかかり、激痛と共に黒い粘液を塗りつける。

それに触れた衣服が瞬く間に溶解し、その下に着込んでいたシャツと一体化してペースト状となっていく。

 

このままでは肌や内臓も――僕は強い恐怖を感じ醜く泣き叫ぶが、しかし叫びは聞き届けられず、男の顔が至近距離にまで詰め寄った。

 

「ひ、ッぁ、ぁぁあああ……!」

 

右眼だけに映る彼の顔は、最早人の物ではなかった。よく見れば丸眼鏡をかけているのが分かったが、その他の全ては湧き出している黒い粘液で何も見えない。

人相も表情も、何一つ把握する事が出来なかったけれど――男が持っている感情だけは痛い程に伝わっていた。

 

(憎まれている……? 僕は、憎まれているのか……?)

 

真っ赤な右目の視界から脳の奥へと突き刺さるそれは、殺意に至った憎悪と、狂ってしまう程の嘆き。

人が抱くべき限界を突破したそれらが、僕にとめいこさんに向けられている。

 

その理由を、僕は推察できない。否、きっと誰にも分からないのだろう。

文献による情報に感情は乗らず、それを伝える人は消え、核となる者は狂っている。そんな中で、誰が知る事が出来ようか。

 

「……何、で。あんた、そんなっ……!」

 

めいこさんは言っていた。言霊に霊魂を封入し、編集した文面を認識させ続ける事で現実世界に法を敷くと。

僕はそれを互いに了承した末の物だと思っていた。もっと穏やかな物だと、雇用主と従業員のような関係だと、そう思っていた。

 

しかし、目の前の彼はどうだ。望まぬままに縛り付けられ、汚らしく淀み、濁り、穢れ。おぞましい呪いを撒き散らしている……!

 

「……ぁ……あ、んた、なに、何が、したい……?」

 

めいこさんを持つ左手に力を入れ、男の前に掲げる。

彼は少し身動ぎした様子だったが今度は逃げる様子は無い。ただ、呪いを吐き続ける。

 

「ぼ、僕を嬲って、殺したいのか。異界に連れて行きたいのか。それとも、この手帳か……! どれだ、どうすれば気が済む!」

 

それは間違いなく命乞いだった。

恐怖が許容量を超え、自棄になった上での開き直り。けれど、それに付随して胸の奥から湧き上がる物がある。

何時も心に溜まる黒い粘つきとは別の、もっと高い熱を持った曖昧な塊。

 

「何をすればいい! 僕はこのまま死にたくない! あ、あんただってこんな事したくないんだろ!? だったら、助けてくれよ! して欲しい事、聞いて欲しい事、全部、僕が受けてやるから!」

 

圧倒的な劣勢に置かれ死にかけておきながら、しかし上から目線の命乞い。

自分でも呆れる程に見苦しいが、これが性根なのだから仕方がない。

そうして僕は黒い涙を流す男に自ら顔を寄せ――腹の底から、熱い何かを吐き出した。

 

 

「――言え! あんたの望みを! 僕が、僕がやってやるッ――!」

 

 

――引き金を、引いた感覚。

 

カチリというその音を聞いた瞬間、視界一杯に黒い火花が散った。

撒き散らされた粘液が破裂。赤黒い世界に黒い桜吹雪が舞い散り、踊る。

無色の衝撃が男を中心として炸裂し、僕とめいこさんを真正面から呑み込んだ。

 

「う、ぐ……わぁああああッ!?」

 

当然、その不可思議の力に対し碌な抵抗も出来る訳も無く。

地面に転がり身を削り、より一層の痛みを僕に塗りつける。

眼鏡もめいこさんも吹き飛んだ。だが、決して右眼だけは閉じず、逸らさない。

意地を総動員し、歯を食い縛る。痛みと恐怖が消え、心音だけが煩く響く。

 

「――――」

 

彼は、立っていた。

身を反らし激しく体を震わせながらも、倒れる事無く僕を見つめていた。

 

そこに最早、憎悪や嘆きの気配は無い。彼の放つ衝撃が、その原因たる黒い粘液を引き剥がしているのだ。

溢れる悪意が。全て宙に散らされて、徐々に彼の素顔を覗かせる。

片眼しか見えず、朧げにしか確認出来なかったけれど。それでも――。

 

 

――――たすけて。

 

 

彼の唇が紡いだその言葉は、決して気の所為じゃ無かった筈なんだ。

 

「――ッくぅおおおおおああああああああああああああっ!!」

 

瞬間、泣けなしの体力全てを使い、視界の端を飛ぶめいこさんへと駆け出した。

圧力に逆らい、足を地面に噛ませ、強引に体を前に持っていく。

 

「つ、か――んだァ!!」

 

伸ばした手が、めいこさんを掴んだ。飛ばされそうになるが、離さない。

 

『、縁……の相反する霊……鳴……を認、感情の発露が、』

 

彼女に噛みつき内部を開けば、そこに浮かぶ文字列は所々が虫食いの様に消えていた。紙面のインクが泡立ち弾け、文字の欠片が血飛沫の模様を描いている。

明らかに異常な様子だったけど、慮る事はしない。強い言葉で怒鳴りつける。

 

「ねぇ! あの男を怪談から解放するには、どうしたら良い!? 教えろ!」

 

『霊、、、……にて、。かし、貴方……不可……。、、、ありま』

 

「ああもう! 使えねぇ!」

 

文面は途切れ途切れだったが、良い答えでない事は分かる。

 

(どうする、どうする、どうする……!)

 

霊力は無く、体力も無く、ペンも無く、インクも無く、めいこさんも役立たず。

こんな詰みかけた状態で、どうすれば僕は彼の願いを叶え、山原達を取り戻す事ができる……?

必死に脳を回転させるが、良い案などすぐには出てこない。

段々と立っているのも辛くなり、踏ん張る足から力が抜けて膝をつき――。

 

「……ッ!」

 

目を、見開く。

頭が下がり、視線が向いた先。未だ泡立ち弾け続ける右手首が、気味の悪い気配を放つ黒色に染まっていた。肉と血の面影など、最早微塵も無い。

ブクリと弾ける黒い泡が糸を引き、黒い火花と弾け散っていく。それは延々と止まる事なく、まるで倒れたインク瓶のように溢れ続けるのだ。

 

――僕には、それが男が吐き出す物と非常に似ているように思えて。

 

「これ、なら……!」

 

利用できる。体の異変に怯えるより先に、そう思った。

僕が怪談を編集する事が出来ない理由は、自身の霊力が極端に低く、墨に霊力を込められられないからだそうだ。

 

ならばこの粘液を使えばどうだ?

吹き荒れる霊の力に晒された、めいこさんの主である僕の血肉の成れの果て。

要素だけを見れば、インクとして用いるに足り得るのではないのか――?

 

「お……っく、ぐ!!」

 

『むぎゅ』

 

僕は妙な悲鳴を上げるめいこさんを膝で踏んづけ、地面に固定。

そして――右腕を強引に持ち上げた。肩関節が異音を発し、激痛が走る。

 

「ぎっ……い、異小路の文面ッ!」

 

『了、……ありま、』

 

そして右手首を浮かんだ『異小路』の怪談に叩きつけ、願う。

霊力とは人の意思。その胡散臭い言葉に縋り、『解放』の一念を、強く。強く。

 

「うぐっ……!」

 

途端、広がった粘液が勢い良く紙の奥へと吸収された。

ズルズルと、ジュルジュルと。まるで餓鬼が泥水を啜るかの如き浅ましさ。女性の人格だと仮設定した事を酷く後悔する程だ。

そして霊力とやらを補充したのか、みるみる内に文字の虫食いが修復されていく。

 

『――解放、その対象は?』

 

浮かんだのは、何一つとして僕の意図を察しない簡素な文章。

僕はそれに激昂しかけながら――ありったけの声量でもって、叫んだ。

 

 

「――全部に決まってるだろ! 怪談も、あの男も、山原達も、今まで消えてった人達も、僕だって! 関わった奴全てのあらゆる意味での解放だッ――!」

 

 

――了解であります。

 

紙面にその返答が刻まれた瞬間、怪談の下から湧き出した『解放』の二文字が文面を塗り潰した。

 

「――ぅ、ぐぁッ!?」

 

パキン、と『異小路』の記述が砕け散り、紙面の中から黒い欠片が飛び散った。

紙の燃え粕にも、黒いガラス片のようにも見えるそれらは、眼前に広がり月明かりを反射し、輝き――そうして描き出された光景に、僕は息を詰まらせる。

 

「は……」

 

それは舞い散る桜吹雪のように、或いは降り落ちる灰のように。世界を斑に染め上げた。

 

音も無く、風も無く。くるくると、瞳の中で墨が渦巻く。

闇の黒と光の白。左右の視界を跨ぐその光景は、一種異常と言える程に美しい。

身を襲う負の気配は既に無く、かと言って神聖な気配も存在しない。今まで見たどんな物よりも綺麗に思え、僕は痛みも忘れ、ただ見入った。

 

「……あ!」

 

ふつり、と。柔らかな音を立て、景色が欠けた。

それに伴い黒い欠片も次々と消滅し、周囲は平静を取り戻していくのだ。

 

惜しかった、切なかった。意味も分からぬまま、胸が張り裂けそうになる。

僕は衝動的に黒い欠片を掴みとろうと手を伸ばし――ガシャン、と。

右眼の奥に何かが割れる音が残響。視神経を走り抜け、直接脳に突き立った。

 

「ッ……、え?」

 

そうして我に返った時、既に世界は塗り変わっていた。

 

左右の眼球に映る世界に色以外の差異は無く。闇の靄や嫌な気配もまた同様。

完全に、元の不気味で狭い小路の姿を取り戻している。

 

――めいこさんの中から、悪辣に改変された言霊が消えた。よく分からないが、そういう事なのだろうか。

 

「っ、そ、そうだ。あいつは……」

 

咄嗟に顔を上げ、丸眼鏡の男が立っていた場所を見る。

 

右眼に映る彼は動いていなかった。衝撃に身を反らした姿勢のまま、身動ぎ一つせず、まるで人形のように沈黙していた。

黒い粘液は残滓すら残さず吹き飛び、新たに湧き出す気配は無い。

否、それどころか。

 

(……消えて、いく)

 

彼の姿が崩れていく。手が、足が。先ほどの墨と同じ、黒い欠片となり天へと昇っていくのだ。

 

成仏、という物なのだろうか。

僕には分からなかったけど、恐怖とは別の意味で目を逸らす事は出来なかった。

 

「――――」

 

そうして身体の端から徐々に崩れ、天へと昇って行く彼の口が微かに動いた。

それは朦朧とした意識が見せる都合の良い幻覚か、それとも単なる錯覚か。

幾らでも否定の理屈は捏ねられるけれど、見間違いとは思いたくは無い。

 

 

――ありがとう。

 

 

最後の瞬間、彼がそう紡いでくれたのだと、僕は信じたかったのである。

 

 

                      *

 

 

「……終わ、った?」

 

キョロキョロと落ち着き無く辺りを見回し、ぽつり。

先程は調子に乗った直後に地獄へ叩き落されたため、しばらく緊張を解く事が出来なかったが、何が起こる訳でもなく。安堵のあまり腰が抜け、へたり込んだ。

 

「は――――、っあぉ、ッぐ……!」

 

 右肩に鈍い痛みが走り、ようやく僕は自分の肩がいかれている事を思い出した。

腕がプラプラと揺れる度に嫌な刺激が脳の奥まで走り抜け、肺が引きつり情けない悲鳴が溢れ出る。

 

「……く、ふ、は、ははは」

 

けれど、何故か嬉しかった。

達成感か、満足感か。胸に温かい物が注がれ、満たされていく。

 

(暴力を奮われた、ってのに。馬鹿かよ……)

 

まぁ、あの男にも同情できる部分はある。長い間縛られ続け、望まぬ犯罪の片棒を担ぎ続けた挙句に狂ってしまうなんてあまりにも酷な話だ。

それを成した奴と同じ道具を持っていたのなら、感情が爆発し襲いかかるのも理解出来る。僕だって同じ立場だったら、絶対そうする筈――って。

 

(……なら、しょうがないのか。くそ)

 

考えている内にあっさりと納得してしまった。

大きく深呼吸し、僅かに残った蟠りを息と一緒に吐き出す。

痛みを堪えつつ立ち上がり、すぐ傍に転がっているポンコツ手帳を手に取った。

 

「……ほ、他の人達は。山原達はどうなったんだ。姿が見えないけど」

 

『ええと、過去、異小路に取り込まれた物ならば、あと数十秒後に回帰予定。量が多いために、こちらに流れ着くまでに時間がかかっている模様、であります』

 

「……?」

 

少し文章に違和感を感じたけど、安心感が勝った。ここまで頑張ったのに、誰も帰って来ず目的失敗とか勘弁願いたい。

出来れば全ての人が生きて帰ってきて欲しいと思うけど、それが望み薄である事は察している。僕の両親を含めた十二年前の人達は、多分もう――。

 

(……今更考えたってしょうがない。それより、山原達だ)

 

あれから二日、人が死ぬには十分な時間が経っているように思える。

本音を言えばさっさと病院に駆け込みたかったけど、彼らの安否を確認してからにしたかった。壁に背をつけ、彼らが帰ってくるまで待つ事にする。

 

にしても酷い有様だ。額から出血、右眼は傷つき右肩は外れ、至る所に擦過痕。

これほど凄まじい怪我は経験が無い。骨折しなかっただけ幸運……なのかなぁ。

 

「いや、そうだ……」

 

骨折よりも酷い有様になった箇所があった事を思い出す。コールタールのように溶けてしまった右手首だ。

怪談が無くなった事で戻っただろうが、痕になってたらどうしよう。

 

軽い気持ちで右手首に視線を向け――がぎり、と。音を立て、思考が止まった。

 

「あ……?」

 

 ……手首が、未だ溶けたままだった。

 どろどろ、どろどろ。相も変わらず、真っ黒な粘液を吹き出し続けている。

 

「あ、あれ、なん……え?」

 

あの男を解放したのだから、全て元に戻った筈じゃなかったのか?

景色だって戻ったし、消えた人も戻ってくる。なのに何で、こんな――。

 

――過去、異小路に取り込まれていた物ならば、あと数十秒後に回帰予定。量が多いためにこちらに流れ着くまでに時間がかかっている模様であります――

 

「……物? 量? 流れ、つく……?」

 

悪い、悪い、予感がした

 

致命的な何かを見落としている。気付くべき何かを無視している気がする。

それは――いや、ああ、駄目だ。これは、考えてはならない事だ。

 

「……そ、うだ。病院、ケガ、診て、もらわないと……」

 

帰ってくる人を待っていようなんて殊勝な気持ちは失せていた。

ここまでだ。ここまでなら、終われる。色々な事に気づかなければ、ベターエンドを迎える事が出来る。それは決して逃げじゃない。負けじゃないんだ。

 

(だって、し、知らないんだから。知らなければ、何もない……!)

 

僕は疼くプライドと罪悪感から目を背け。涙を堪え立ち上がり、歩き出し。

 

 

――カサリ。脈絡無く蠢く手帳に、咄嗟に目を向けてしまった。

 

 

『到着、しました』

 

書かれていたのは、何時も通りの無機質な一行だ。その文字列を見た瞬間――ぼとりと、僕の背後で何かが落ちるような、鈍い音が聞こえた。

 

……何かが現れた、何かが落ちたのだ。そこに。

 

「ひ……」

 

ああ、あ。知りたくない。見たくない。理解したくない。のに、どうして。

 

「……あ、やだ……ああああ、あぁ……ッ!」

 

拒否できなかったんだ。

嫌だ、意思とは無関係に、何で、首が回る。回る。回る。回って、回り――。

 

 

――映る。薄い月明かりに照らされた宵闇が。

 

 

  ――映る、映る。所々僕の血で薄汚れたブロック塀と、その背後にある木々の姿が。

 

 

     ――映る、映る、映る。アスファルトに垂れ落ちた黒い粘液が。

 

 

そして……ああ。そして、そして……。

 

 

「……ぁ、ぁ」

 

 

 ……僕、は。

 

     ゆっくり、と。

 

            背後に……ある、そ……れ、を――――。

 

 

 



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火吹き揺らめくは意思の華

                      ■

 

 

――暮六ツ半、戌の二つ時。

 

人が出歩くには少しばかり遅く、妖魔が出るに早すぎる時刻。薄い月明かりが差し込むその場所に、赤い光が舞っていた。

 

石塀に囲まれた小路の半ば――その端に止められた救急車が発する光だ。

常にくるくると動き続けるその光は、車から降りた救急救命士を、道端に落ちる小石を、地に広がる黒い粘液のようなものを照らし、赤く染め上げていた。

 

「……お、あれかな」

 

車外に立ち、道の向こうを見つめていた救急救命士から、声が漏れる。

彼の視線の先にあるのは一台の青い乗用車だ。

それは救命士の誘導に従い、道脇へと流れるように停車した。

 

「いやぁ、この辺は道が狭くて嫌になりますねぇ。ほんと」

 

運転席の窓から顔を覗かせたのは、狐の様な細目の優男だ。

年齢の読めない中性的な顔立ちをしており、端正だとは表現できる。しかし全身に漂う胡散臭い雰囲気が、全てを台無しに打ち消していた。

男は徐ろに胸ポケットから黒張りの手帳を取り出すと救命士の眼前に開き、大きな金の旭日章を見せつける。警察手帳、その中身だ。

 

「告呂市警の水端冬樹です。連絡あったの、ここですよね?」

 

「ええ、違いありません。ご足労頂き感謝します」

 

「あーイエイエ、そういうの省きましょ。あんまり上のヒトじゃないんで、私」

 

冬樹はひらひらと手を振り言葉を遮ると、気負う事無く降車。すぐ様後部席へと向かうと、丁寧な手つきでその扉を開け放つ。

上司でも同乗しているのだろうか。救命士はその様子を見つめ――冬樹の手を取り姿を表した者に目を丸くした。

 

(……女の子?)

 

年の頃は一六、七と言った所だろうか。漆黒の長髪に大きな桜の髪飾りを差した、和服姿の美しい少女だ。

その如何にも大和撫子といった風情にほんの一瞬見惚れかけたものの、やはり状況に対する違和感が先に立つ。

 

「あの、彼女は……?」

 

「協力者ってトコです。ま、良い娘ですので余り気にしないで下さい、ハハハ」

 

 どうやら冬樹に説明する気は無いらしい。救命士の肩を軽く叩き案内を促す。

 

「……はぁ、ではこちらへどうぞ」

 

救命士は暫く迷っていたようだが、最後には警察という肩書を信用したようだ。

怪訝な表情を浮かべつつも冬樹と少女を先導し、小路の奥へと歩を進めた。

 

 

 

――二十時四十分。救急センターに一本の通報があった。

 

通報者はおそらく少年。小路の中ほどにある電話ボックスからの物で、酷く取り乱していたらしい。

 

その内容は全く要領を得ない支離滅裂な物だったが、少年の様子から緊急を要する案件と判断し、救急救命士三名の出動を決定。

そうして四分の後には通報場所へと到着した。しかし、当の電話ボックス周辺には、少年どころか怪我人の姿も見当たらなかったそうだ。

 

目立った騒ぎも無く、周囲を捜索すれど人の気配も目撃者も無し。

質の悪いイタズラ電話の可能性を疑い始めたその時――小路の一部に真新しい血痕を発見、警察への協力を要請したとの事だった。

 

「血痕……ですか」

 

「はい、量は少なかったのですが……ほら、これです」

 

道を歩く救命士は、塀の一部を指し示す。

懐中電灯の光に照らされたそこには、確かに赤黒い跡が残っていた。

 

強く、何度も叩きつけられたのだろうか。飛び散った血液が斑に広がり、良く観察すれば肉片らしき物さえこびり付いている。明らかな暴行の残滓だ。

 

「ははぁ……これはこれは、あまり穏やかではありませんねぇ」

 

「私達はここが現場だと思い、周辺を徹底的に捜索したのですが……何と言えばいいのか」

 

言い辛そうに口篭る。

それを不審に思った冬樹は細い目をほんの少しだけ開き、救命士を見つめた。

 

「……いえ、見てもらうのが早いですね。こちら、どうぞ」

 

やがて某かの結論を付けたらしい。止めていた足を動かし、先へと進んでいく。

 

(見てもらう……ま、確かに捜査しがいはありそうな感じですケドも)

 

粉末の入ったビニールや割れた眼鏡、転がっている懐中電灯。軽く道を見回すだけでも、手がかりになるであろう物は数多い。

冬樹は様々な遺留品らしきものを頭に書き留めつつ歩き続け――やがて、道を塞ぐようにして広げられた、青いビニールシートの元へ辿り着く。

付近には他二名の救命士が控えており、シートの周囲を見守っているようだ。

 

「……これです」

 

救命士は仲間に断りを入れると、水端達をその近くに手招いた。

そしてシートの端を軽く捲り上げ――その中身を晒す。

 

「――う……っ」

 

「…………」

 

それはむせ返る程に濃い肉の匂いを放つ、個体と液体の中間のような不定形の物体だった。

 

鮮やかなピンク色の表面が懐中電灯の光を照り返し、不気味な瑞々しさを放ち。

ピクリ、ピクリと。時折飛沫を上げて全身を震わせるその姿は、見様によっては生物のようにも見えない事もない。

 

「おえッ……な、なんですか、これ……?」

 

「分かりません。この道を塞いでいた物なのですが……全く判断がつかず、触れて良い物かも分からなかった為、ビニールシートで保全していました」

 

「は……ははぁ、それはそれは。なんというか、懸命な判断で……」

 

鼻を摘みながら観察していた冬樹は、手元に落ちていた小石を掴みピンク色の『何か』へと恐る恐る近付ける。

表面に触れた小石は粘着質な音を立てて内部に沈む。少し力を込めて引き抜けば、小石の表面にピンク色の粘液が纏わり付き、ねっとりと糸を引いた。

 

「……うえ」冬樹は細い目を歪ませながら、気味悪げに小石を投棄。

気を抜けば胃の中身を戻しそうになる口元を抑えつつ、救命士に顔を寄せた。

 

「……何かの化学製品の不法投棄、とかどうです?」

 

「は? ……ああ、いえ、しかし。この匂いは無機物だとはとても……」

 

 

「――十三人です」

 

 

鈴、と。

男二人が行う『何か』の落とし所の相談に、涼やかな声が割り込んだ。

 

「……灯桜(ひお)さん?」

 

「これは幾人もの人間が溶かされ、混ざり合った末に生まれたモノ。霊魂の怨念が作り出した、呪いの結果……だと思われます」

 

これまで無言であった灯桜と呼ばれた少女は、独り言のように呟きつつ『何か』の傍へとしゃがみ込む。そうして手に持っていた花束をそれの上に捧げ、合掌。

言葉の胡散臭さとは裏腹に、その姿には巫山戯ている様子など微塵も無かった。

 

「……あの、ちょっと。大丈夫なんですか、あの娘」

 

突然の言動に驚いた救命士は、不審な様子ですぐ横の監督役の耳に口を寄せた。

しかし冬樹はその言葉に答えず、曖昧な笑みを深め灯桜へと向き直る。

 

「ふむ、元人間……ですか。その心は?」

 

「肉体と共に融け合い、混ざり合った意識達。彼らは既にあらゆる意味で人の形を失っていますが、僅かにそのカタチが残っています」

 

霊魂とは、生物の肉体を巡る霊力の集合体に意識が宿った存在である。

それは種によって様々な形を持ち、人なら人、犬なら犬と自らの生きた肉体を模した形を成している。

 

例えどれだけ霊魂が崩れようとも、必ず痕跡は残る。彼女は屹然とそう告げた。

 

「ははぁ、それでは十三人もの市民を殺し、こんな姿にした腐れ外道が居ると」

 

「……これを成した霊魂は、酷い憎悪に苛まれていたのでしょう。詳細は分かりませんが、それだけは感じられる……」

 

余りにも常軌を逸した内容であるが、ごく自然な様子で会話は進む。

そして合掌を解いた灯桜が腕を薙いだ瞬間、『何か』に供えられていた花束が、音を立てて燃え上がった。

 

「なっ……!?」

 

「…………」

 

驚く救命士を余所に、冬樹と灯桜は冷静なままだ。真っ赤な炎はすぐさま『何か』に燃え移り、ビニールシートを熱気で吹き上げ夜空を照らした。

 

「……昇るケムリは丁度十三、成程ねェ」

 

煌々と、轟々と。赤い炎が『何か』を……人の肉だったモノを焼き滅す。

 

それは、慈悲の炎。

それは、浄化の炎。

それは、告別の炎。

 

壊れ果てた魂を天へと葬る、少女の――華宮灯桜による弔いであった。

 

「…………」

 

そうして盛る炎を眺めながら、灯桜は静かに拳を握る。

 

彼女の属する華宮家は、古来より続く怪異の浄化を専門とする名家の一つだ。

憎悪に狂った悪霊や、悪意ある妖魔への対処。そして平和に暮らす一般市民の守護を存在理由としているというのに、今回の結果は何たる事か。

事の委細を何一つ把握できないまま、既に十人以上の被害者を出している――華宮として、あってはならない事だった。

 

胸裏に悔しさと申し訳無さが渦巻き、ただ立ち尽くす。

 

「……あー、っと。処理は完了と言う事で、救命士さんはあっち行きましょか」

 

その姿を見た冬樹はほんの一瞬笑みを消すと、すぐに唖然としたままの救命士へと向き直り、その背を押した。

 

「……え? は!? いや、いい、い、今、火、火が、何が!?」

 

「いいからいいから、はーいこっちでーす」

冬樹は混乱する救命士の手を引き、他の救命士の元に引きずって行く。

気を遣ってくれたのだろう。灯桜は心中で礼をすると、大きく息を吐き出した。まだ事件は終わっていない。沈み込むには早過ぎる。

 

(…………)

 

近くの壁に指を這わせた。そこにあったのは、二つの「界」の文字。血液で斜線の引かれた大きな物と、油性ペンで書かれたらしき小さな物。

……霊力の感じない、単なる落書きにしか過ぎない筈のそれが、何故か無性に気になった。

 

「……解せない」

 

視線をブロック塀の向こう側――さやまの森へと移し、考える。

何故このような事が起きたのか。あの塊となった人々は、何故そのような目に遭わなければならなかったのか。

 

(怪異とは、あまりにも大きな怨念を抱えた霊魂が振りまく呪いの実体化。狂い、思考能力が低下した霊に道理や理屈を求められる筈も無い。それは分かっている。けれど……)

 

納得など、出来る筈が無いだろう。握る拳の力が増し、キシリと軋む。

 

(それに、怪異の姿が視えなかった事も不可解)

 

この小路はさやまの森からの怨念に包まれており、霊力が散らされやすく感知が酷く難しい場所だ。

されど、霊力の残滓一つすら残さずに姿を眩ます事などまず不可能だ。

いや、例え可能であったとしても、呪いを撒き散らす程に狂い果てた怨霊に、そのような器用な真似が出来る訳がない。

 

まるで、そう。誰かが裏で蠢き、手を引いているような。そんな違和感。

 

(…………)

 

……灯桜の脳裏に、一つの記憶が蘇る。

かつて母から聞かされた怪談話。諌め言や子守話といった絵空事ではなく、現実に先達である母が経験してきた、人の悪意が詰まった生臭い話。その中の一つ。

 

「――怪異、法録」

 

それは華宮にとって因縁の深い、最悪で醜悪な怪異だ。

赤い皮張りの書物の姿をしているというそれは、心根の腐った人間の下にどこからともなく現れ、自由自在に怪異を作り出し操る力を与えるらしい。

ある者は金を、ある者は女を、そしてまたある者は権力を。

所有者となった者の欲望を現実に映し、戦前から長きに渡りこの告呂の地に混乱を巻き起こしてきたという。

 

その中には、この小路で起きた事件もあったと記憶している。

もし、それが用いられていたとすれば、今回の出来事も、或いは……。

 

「……まさか、ね」

 

頭を振り、溜息を吐く。黒髪が宙に散らされ、漆黒の粒子を振り撒いた。

 

「…………」

 

そうしてふと思い立ち、懐から小瓶を取り出し月明かりに翳す。

 

中に入っているのは、先程この場で回収した、黒く濁った粘液だ。

灯桜には、ここで何が起こっていたのか分からない。

しかし、これを始めとした現場に残る手がかりを調べれば、何らかの真実には辿り着けるかもしれない。

真っ直ぐに前を見つめるその目の奥には、確固たる意思の華炎が燃えていた。

 

「……待っていて、下さい」

 

自らが葬った十三の魂達にそう呟いて。

遠くから自分を呼ぶ冬樹の声に従い、確固たる足取りで歩き去る。

 

 

「  ……     ぃ    」

 

 

――森の中より注がれる、濁った視線。

彼女は、その気配には終ぞ気付かぬままだった。

 

 

                      *

 

 

キィ、キィ。

電灯が照らす明るい部屋に、仏壇の扉が軋む音が、響く。

 

部屋の中は、乱雑に荒らされていた。

本や服。様々な物が無造作に散らかされ、木製の壁と床に敷かれた畳には、正体不明の黒い液体がこびり付いている。

血飛沫のようにも見えるそれは、部屋の状態と合わせ強盗事件が起こったかのような様相を作り出していた。

 

「……違う」

 

そんな酷い惨状の只中で――その少年は、泣いていた。

ただ、静かに。しゃくり声も、呻き声も上げる事も無く。

流れる雫は囁くような呟き声と共に服に落ち、襟元に透明なシミを作り出す。

 

――ろくちゃんは、良い子だねぇ……。

 

「違う、違うんだ……こんなつもりじゃ、なくて……」

 

彼は外れかけた襖に背を預け、動かない右腕を垂らし。今はもうこの世に居ない誰かへと釈明する。

左手には黒い位牌が握り込まれており、縋るように胸に押し付けられていた。

 

――ろくちゃんは、良い子だねぇ……。

――ろくちゃんは、良い子だねぇ……。

――ろくちゃんは、ろくちゃんは――。

 

「……違う……ごめん、なさい……、……ごめん……」

 

今はもうこの世の何処にも居ない、心を許せるたった一人の家族。

 

彼女からの許しの言葉を求め、少年はただ懺悔する。

誠意も無く心も無く。あるのはただ、心身を苛む後悔と罪悪感から逃げたいという願いだけ。

結局のところ、それはどこまでも見苦しい責任逃れにしか過ぎなかった。

 

 

 

……そしてそんな彼の周辺。その身を折り曲げ、中身を晒し転がる幾つもの本。

 

その内、アルバムと表記されたものから、一枚の写真が顔を覗かせている。

映るのは、穏やかな空気を纏う老婆と、赤子を抱えた女性、そして――少しぎこちなく笑う、丸眼鏡をかけた細身の男性の姿。

 

 

黄ばみかけた紙の中に立つ彼らは皆、未来の幸せを確信したような笑顔を浮かべていた――。

  

 

 




華宮灯桜:生真面目で正義感のある少女。華を媒介に炎を操る術を持つらしい。
【挿絵表示】

水端冬樹:胡散臭いが誠実なキツネ目。ある理由により自身の霊力を上手く扱えないらしい。
【挿絵表示】


丸眼鏡の男:主人公と同じく、最後までそうと気付かぬままだった。



次回は数日くらい間を開けますん。ご了承くだせぇ。


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ゆくえ父めい
1頁 残滓


『ゆくえ父めい』

告呂市のある高校で、在学中の女子生徒が集団妊娠するという事件が起こった。
妊娠した者が一人二人であったならば、まだ素行の悪い生徒が「火遊び」にしくじったという、それなりによくあるヤンチャで済んだだろう。
だが、数が尋常ではなかったのだ。

――二十七人。それが、懐妊した女生徒の数だ。

それは最早風紀の乱れというレベルでは収まらず、告呂市全体を巻き込んだ大騒ぎに発展したらしい。
学校の教師の半数が辞職する運びとなり、生徒達もかなりの人数が転校。
妊娠した女生徒達もその中に含まれ、その全員が堕胎を選択し、何処かへと引っ越して行ったそうだ。

……そう、全員が、だ。

赤子とは、大体において愛する者と創り出した大切な結晶である。
特に学生という多感な時期に、子を孕むほどの愛を重ねた彼女達が、素直に堕胎という結論を選ぶだろうか。

そして興味深い事に、当時女生徒を問い詰めた誰もが、彼女達の父親を特定できなかったという記録がある。
気になる人が居た、恋人が居た。そう言った話はほぼ全員にあった。

しかし彼らがそれぞれの父親なのかと問われると、皆一様に否定し首を振る。
自分達は、決して誰とも逢瀬に及んだ記憶は無いと、そう話すのだ。
多くはそれを嘘だと断じたが――懐妊時期から逆算すると、時間的に異性との逢瀬が不可能である者もまた、確かに存在していた。


では、彼女達の胎に居た胎児は何だったのか?
同時期に全員が懐妊したのは偶然なのか?
逢瀬もなしに、何時、どうやって?


――彼女達は、誰に何をされたのだろう?




                      1

 

「……ん、委員長か。最近調子が悪そうだが、大丈夫か?」

 

午前中の授業が終わった昼休み。

授業の準備のため、担当教科の教師に会いに職員室まで来ていた僕は、背後から声をかけられた。

振り向けば、鋭い目つきの美女――僕のクラスの担任の若風先生が立っていた。

 

「……ええ、特に問題はありませんが」

 

「そうか? この前の怪我からお前、初日の印象より元気無いように見えてな」

 

前の眼鏡からそのゴツイ眼鏡に変えたせいかな。

そう冗談を言って、先生はどこか心配そうな視線を僕の右肩へ送る。

まぁ、それも当然だ。今はもう殆ど治っているけれど、つい最近まで半脱臼状態で動かす事すら億劫な状態だったのだ。心配されるのも仕方ない。

 

「階段から転げ落ちたんだろ。辛かったら言え。出来る事は配慮してやるから」

 

「……ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、もう殆ど治ってますので」

 

右手首に装着している緑色のリストバンドを抑え、穏やかに笑う。

嘘では無い。先日まで三角巾で吊られていた右肩は快方に向かい、完治まで後僅か。医者からは激しい運動をしなければ問題無いとお墨付きを貰っていた。

 

……ちなみに、怪我の原因に関しても嘘は吐いていない。ただ先生が怪談を階段と間違え(るように話し)、勘違いを(意図的に)正していないだけである。

 

「確かに大きく動かせば痛みは感じますが、そこまで動かす事は稀ですし。このリストバンドだって傷跡を隠す目的の物なんですよ」

 

「なら良いんだがな」

 

その言葉に先生は眉を緩め、笑みを見せる。

そして二言三言会話を続けている内――ふと、彼女の視線が下がった。

 

「……ん? 右手、何か垂れてるぞ」

見れば、制服に隠れた右手首。リストバンドの下に巻いた包帯から黒い粘液が滲み出し、手の甲に垂れ落ちていた。

強い粘性を有したそれは、泥のようにゆっくりと流れ。僕の肌を犯し。どろり、どろりと湿った音を響かせている。

 

「血……じゃあ無いな。どうしたんだ、それ」

 

「…………」

 

そうして訝しげに問いかける先生に、僕は返せる言葉を持っていない。

これが何か、なんて。こっちが知りたい事柄だ。

 

「ああ、別に問題ないですよ、だってこれ――」

 

しかし、僕はにっこりと笑顔を取り繕う。

優等生の仮面を被り、嘘も真実も当たり障りも無い言葉を吐き捨てる。

 

「――ちょっとだけ、インクが零れただけですから」

 

……その時の僕は、ちゃんと笑えていたのだろうか。自信は、無かった。

 

 

                      *

 

 

あれから、およそ一週間の時が過ぎていた。

 

咲き誇る花の奥から若葉の新芽が顔を出し、少しずつ季節は動く。

僕の右肩やその他の怪我も概ね完治。多少の『後遺症』は残ったが、何とか普通の日常を……いや、以前より上等な日々を送れている。

あんな事があったのに、自分でも図太い精神だとは思うが、山原という負の要素が抜け落ちた日々は穏やかなもので、僕に唯一残された救いでもあった。

 

「…………」

 

男子トイレの個室。

妙な匂いの漂う密室の中で、僕はリストバンドを外し、その下の包帯を取る。

不快感を伴う異音と共に顕になった右手首は、誰かの掌の形に黒く溶け爛れていた。僕の体に残る、一番醜い傷跡だ。

 

罪の十字架と言うには醜く、聖痕と言うには穢れ過ぎている。病院でもさじを投げられたこの痕は、一週間経っても元に戻る兆候を見せていない。

 

「……呪い、か」

溜息を吐き、トイレットペーパーで手首を拭う。

どうもこの粘液。常に手首から溢れ続けているらしく、定期的な処理が必要となっている。痛みも痒みも無いのは助かったと言えなくもないが、地味に面倒だ。

 

(……随分と、慣れちゃったもんだ)

 

冷静な自分を軽く笑い。真っ黒な液体を滴らせる紙を便器の中に放り込み、レバーを引いてハイさようなら。

同じく黒くなった包帯を処理し、新しい包帯を汁気の少なくなった患部に巻きつけリストバンドで封をした。これで放課後までは誤魔化せる。

最後に全身をくまなく検分し、黒い粘液が垂れていない事を確認。手洗い場でよく右手を洗い流し――。

 

「……っ……」

 

――何気なく目を上げた瞬間、眼前の鏡に『嫌なもの』が映り込み。出かけた悲鳴を咬み殺す。

 

咄嗟に右眼を隠すように抑え、『嫌なもの』を見ないように覆い隠した。

少し乱れた動悸を深呼吸して落ち着かせ、顎に入った力を徐々に抜いていく。

本当、碌でもない『後遺症』だ。

 

「あー……やだやだ」

 

呟いて、手を下ろす。『嫌なもの』が再び視界に映るけど、甘んじて、見る。

今僕に降りかかる全ては、その殆どが僕の責任によるものだ。それがどんなに理不尽で不可解で非常識な事でも受け入れなくちゃいけない。

僕は投げやりに廊下への扉を開き、教室へと向かって歩き出す。扉が締まり切る直前に右眼に映ったトイレの中――そこには、半透明の女性が虚空を見つめ浮遊していた。

 

「……幽霊、ねぇ。バカじゃないの」

 

手首の粘液に、霊視能力を得た右眼。どうも僕は肉体的にも能力的にも常人の域を逸脱してしまったようなのだ。上になのか下になのかは知らないけれど。

 

 

『――ええと、そのう。あなたの体に起きた変調は、あの場に吹き荒れていた霊力が血液を通し、傷口から体内に溶け込んだ弊害だと思われます。たぶん』

 

この一週間の間。僕はめいこさんへ身体の異変について何度も問いかけた。

 

『そも、霊力とは。肉体を宿として巡る霊魂の欠片であり命の源。同じく全身を廻る血液と共に育まれ、ええっと、自らの生と血に誇りを持ち精神を高める事によって力を少しずつ増していき――』

 

……まぁ詳しい解説は省略。端的に言えば、僕の右手首と右眼は霊障――つまり呪いを受けた状態にあるとの事らしい。

 

呪いとは、霊の放つ怨念によって引き起こされる様々な身体異常の事を言う。それが即ち僕にとっての粘液であり、右眼限定の霊視能力である訳だ。

思えば、手首を掴まれ振り回されたり、ガラス片で傷ついた眼球に血が流れ込んだりと心当たりがあり過ぎる。当然といえば当然の事象と言えた。

 

(かと言って、納得できるかどうかは別問題だけど)

 

午後の授業中、教師の言葉を聞き流しつつその話を思い出し、手首を抑えた。

ブヨブヨとした肉とは思えない柔らかい感触に吐き気が昇るが、肝心の患部には何も刺激を感じない。それでいて指先の感覚は正常な辺り、どうも神経や血管といった物理的な問題を超越しているらしい。

 

(くそ、これも元はといえばこいつの……!)

 

傍らにあるめいこさんの表紙を腹立ちまぎれに引っ掻いた。

彼女が決して善い存在では無い事は、先日の一件で痛い程に理解している。

そうだ。本当ならば、すぐに焼き捨てて然るべきなんだ、こんな物。

 

(……けど、それじゃあ……)

 

しかし。それは逃げでしか無い。彼女は最初から自分の力を述べていただけで、何をしろと命令した訳じゃない。むしろ僕には使えないと再三言っていたのだ。

それなのに怪談を使用するためにあれこれ考え、ルールの隙を突き勝手に使ったのは僕の方。お前の所為だと指差し、処分するのは絶対に何かが間違っている。

 

「……あの、どうしたの? 調子とか悪い?」

 

するとそんな苛ついた様子を見咎めたのか、隣席の十さんがこちらを覗きこんできた。その瞳は僕の肩へと向き、案ずるような色合いを滲ませている。

僕は即座に仮面を被ると、苛立ちを隠しにこやかな笑みで迎え撃つ。

 

「いや、何でもないよ。ちょっと眠かっただけだから」

 

「……ならいいけど、もし具合悪かったらすぐに保健室行った方がいいと思うよ。今朝も無理か何かで倒れた人が居たみたいだから」

 

私も、出来る事があれば助けるからね。

十さんはそう言うと少し照れたようにはにかみ、顔を正面に戻した。

そこには何一つの後ろ暗さもなく、純粋に友人の助けになろうという気持ちが伝わってくる。

 

「…………ッ」

 

僕の腐った心根とは大違い。強く唇を噛み、鉄錆の味を飲み込んだ。

 

 

                      *

 

 

「……陽、ちょっと長くなったかな」

 

放課後を迎え、帰り道。暖かな陽光に目を灼かれながら、僕はぼんやりと思う。

暴力も無く、罵倒も無く。教師も、クラスの友人も、皆優しくて良い人ばかり。今の生活こそ、僕が長い間憧れていた理想の学校生活であった。

 

しかし、その代償はとても大きい物だった。山原達の事、手首の事、そして――最後に見たモノ。取り返しのつく物は何一つ無く、常に罪の意識が付き纏う。

 

「…………」

 

そうして鬱々と歩いていると、やがて住宅街に繋がる小路が見えて来た。今更言うまでもない、異小路の場所へと繋がる道への入口だ。

迂回したい、とは思うけれど。逃げた所で精神が安定する訳も無いし、遠回りした分帰宅時間が遅くなるだけだ。百害あって一利なし。

僕は罵倒を一つ吐き、憂鬱な足取りで狭い道へと体を捩じ込んだ。

 

 

――あの日、最後に僕が見たモノ。それはピンク色の絨毯だった。

 

狭い小路いっぱいを埋め尽くす程の、ここでは無い何処かから現れた粘液の海。

最初は、それが何か分からなかった。いや、本当は分かっていたけど、理解する事を拒んでいたのかもしれない。

 

そして、粘着質な音を立て流れ続ける肉の隙間から、『彼ら』が見えた。

呪いに犯された右目にしか映らない、この世ならざる幽かな存在――人の霊魂。

行方不明事件の被害者と思しき幾人ものそれが、醜悪な肉に埋まっていたのだ。

 

「……っぐ……」

 

……辿り着いた件の現場、肉があった場所にその光景を幻視し、思わず嘔吐く。

 

彼らは、彼らだった物は、最早人の形を成していなかった。肉と同じく、魂さえも一つに融合されていた。

互いの頭が、互いの腹が、手足が。全て一つに混ざり合い、不格好な塊となり。

捻れ、引きつった肌を突き破り生えている腕の先には性器が生え。あらぬ場所から覗く眼球には口腔があり――そして、それが紡ぐ言葉を、僕は聞いた。

 

それは切なる願いにして、同時に叶う事の無い確たる絶望。

 

――たすけて。その四文字が、右眼から脳に突き立ったのだ。

 

……それから先の事は記憶には残っていない。

もしかしたら錯乱するまま救急車かパトカーを呼んだかもしれないが、はっきりしない。気付けば自宅でお婆ちゃんの位牌を抱きしめて泣いていた。

 

「…………くそ」

 

喉元まで迫り上がる酸っぱい物を飲み下し、口元に手を当てたまま小路を歩く。

そこに、肉の塊の姿は無い。まるで最初から存在していなかったかのように一欠片も残さずに消え去っていた。

幻覚だったと思いたかった。しかし塀やアスファルトには血の跡がくっきりと残っている。紛れも無い現実だったと自覚するには、十分すぎる証拠品だ。

 

――では何故、肉の海は消えたのか。気にはなるが、もう考えたくなかった。

 

「…………」

 

歩き様、ブロック塀を指でなぞる。あちこちが欠け、ボロボロになったそこに二つ並んだ「界」の文字。僕の後悔を象徴する、大小様々な線の集合体。

 

「――っ!」

 

力一杯蹴り飛ばすが、僕の力じゃ傷一つ付ける事は叶わなかった。

 

 

                     *

 

 

僕はお婆ちゃんの作る味噌汁が大好きだった。

隠し味に醤油が入った、何の変哲も無いなめこの味噌汁。一日二回。朝と夕方に必ず食卓に並び、荒んだ日々を送る僕の心に活力と安心感を与えてくれたのだ。

一応僕もレシピの伝授は受けたけれど、完全には味を再現できていない。

まぁ、その日は永遠に来ないのだろうな、きっと。

 

「はぁ……」

 

自宅。味噌汁と白米だけの夕餉を終えた僕は、のったりとちゃぶ台に倒れ伏す。

色々な物が染み込んだ木材の香りが、つんと鼻を突く。

 

(……自首、しなきゃいけないよな)

 

警察に、そして山原の父親に。

もし彼らへ赤裸々に罪を告白し何らかの罰を与えられれば、きっとこの鬱屈とした感情や罪悪感に一つの終わりが齎される。

それは正しく、社会倫理的にも最良の選択肢である……と、思うけれども。

 

「……怪談がどうとか、絶対信じてくれる訳ないよ……」

 

事実は小説よりも奇なり、とは言うけれど、余りにも奇をてらい過ぎて説得力が微塵もない。少年院ではなく精神病棟のお世話になる事うけあいであろう。

 

「…………」

 

いや、それは言い訳だ。僕はただ、己が非を認めたくないが故に、自首しない理由作りをしているだけなんだ。

だってそうだろ。悪いのは山原達だ。アイツ等が何もしなければ僕だって何もしなかった。お婆ちゃんを汚そうとした奴らの排除が悪とされるなんて、絶対に納得できない。

そもそも僕は山原の蛮行に長い間耐えてきたんだ。それを全部一纏めにすれば、今回の事よりよっぽど――!

 

「……っぐ!」

 

ゴン、と。

何やら罪悪感がもっと汚い物に変わろうとする気配を感じ、机に頭を叩きつけて思考を打ち切る。空のお椀が倒れ、僅かに残った味噌汁の雫が傍らのめいこさんに飛んだ。

相反する感情が絡み合い、黒いインクとなって僕の心を埋めていく。

 

「……あ」

 

ふと手の甲に違和感を感じ見てみれば、手首の粘液が筋を一つ作っていた。

どうもネガティブな事を考えていると粘液の溢れる速度が増すようだ。僕は思考から逃げるように、慌てて洗面所に走り処理を行い――。

 

(……、そういえば、昼……)

 

ふと学校で見た女幽霊の事を思い出し、右眼で洗面所の鏡を見た。

ひょっとしたらお婆ちゃんの霊魂でも映らないかと期待したが、呪いを受けた右眼には何も映らない。何時も通り、狭い部屋が映るだけだ。

 

「……ねぇ、めいこさん。昼頃に男子トイレに居た幽霊だけど……」

 

『ふわぁああ、しょっぱい、であります。おいしい、であります。ふおおおおー!』

 

「…………何だコイツ」

 

気になる事が浮かび、めいこさんに問いかけると、彼女は味噌汁の味にむせび泣いていた。非常に気持ち悪かったので、無言でパタリと閉じておく。

 

「幽霊、ねぇ」

 

――虚ろな視線で虚空を見上げ、ぼんやりと佇む女性。

まさか、あの人も怪談の核とかじゃないよね。

沈んだ気持ちの中で浮かんだ碌でもない冗談に、乾いた笑いが漏れた。

 

 

                      *

 

 

 

【トイレの花子さん】

 

『階数は問わない。恋文を受け取り、トイレの扉を開いた生徒の意識を刈り取る。倒れた人間は保険医が「問題なし」と判断するまで目覚めない』

 

 

「――何っで収集したその時に言ってくれないかなぁ、怪談……!」

 

翌日の早朝。登校の道中、めいこさんに表示させた怪談を見た僕は頭を抱えた。

冗談などでは無かった。このポンコツ手帳は僕の知らない内に新たな怪談を収集していたのだ。

しかもタイミング的に十中八九あの女幽霊絡みである。最悪昨日の時点でまた酷い目に遭っていたかもしれない訳で、流石に戦慄を禁じ得ない。

 

『え、す、すぐにお伝えした方が、よろしかったでしょうか。あわわ』

 

(今更人間味アピールしてんじゃねぇよ)

 

先日の一件以来、何故かキャラのブレている手帳に舌打ちを一つ。辿り着いたまだ無人の教室に荷物を預けると、すぐにその足で男子トイレへと向かった。

何か下痢が激しくて――では無い。当然、件の女幽霊を解放するためである。

 

「……くそ」

 

正直、会いたくは無い。それは先日の事がある以上当たり前の恐怖だろう。

しかしもし彼女が丸眼鏡の男と同じ境遇だったと考えると、無視という選択は僕の中から消えてしまうのだ。

 

だってそうだろう。例え直接的な関わりが無くとも、めいこさんの主である以上、僕は加害者の側に居る。ならば、行動する義務が発生する筈だ。

加えて前回の罪悪感と懊悩もある。これでただ座しているだけなんて、優等生かつ清廉潔白、眉目秀麗の良い子ちゃんたる僕にはどだい無理な話だった。

 

(すぐに……そう、ササッと怪談を解放して、それでおしまいにできれば……)

 

……でもまぁ、それと勇気を持っているかは別問題だけど。

暫くの間、トイレの前をうろうろうろうろ。端から見れば完全に変質者だ。

 

「……あーもう! くそッ!」

 

とは言え、何時までもそのままでは居られない。僕は負けん気を奮起させ、扉を開け放ち突入。室内に右眼を余すところ無く走らせて――。

 

「あ、あれ?」

 

だがしかし、昨日居たはずの場所に彼女の姿は見えなかった。

ズレた眼鏡――この前箪笥から出てきた骨董品――の位置を直し、個室や用具入れを開けても影も形も無い。

 

「あの幽霊。昨日は確かに、このトイレに居たよな……?」

 

『おそらく、何処か別の場所で再現条件の達成が行われ、霊魂もまた該当場所へ移動した……ものだと思います、きっと』

 

「……まぁ、再現起きやすそうだもんな、これ」

 

僕だって、『トイレの花子さん』の怪談くらいは聞き齧った事はある。

詳しくは知らないけど、三階の女子トイレの三番目の個室を三回ノックすると花子さんという女の子が現れて何か起きるとか、そんな複雑な感じだった筈だ。

だけど、この怪談はそれとは全く別物だ。あの幽霊は花子さんなんて年じゃ無かったし、怪談文も『階数は問わない』など具体的な要素の指定を避け、積極的に再現条件のハードルを下げに来ている。

 

(というか、何が目的でこんなのにしたんだ?)

 

異小路の方はまだ分かる。人を行方不明とする力は多くの犯罪に役立つからだ。

だが今回はさっぱりである。モテる奴への嫌がらせにしか使えないだろ、これ。

暫く首を傾げるが、納得できる答えは出ず。

 

「……いや、別にもうどうでも良いのか。幽霊の人も居ないし」

 

考えを打ち切り、くるりと背を向けた。

主目的の女幽霊が居ない以上、最早出来る事は無い。彼女の力を利用できなくなった時点で、霊力が殆ど無い僕に怪談の解放は不可能となったのだ。

 

つまりはこれ以上新しいオカルトに首を突っ込まずに済むという事で、抱いていた義務感が雲散霧消。複雑な感情を孕んだ安堵の息がほうと出る。

 

(どこに行ったかも分んないし、しょうがないよね。これはさ) 

 

そしてそう自己弁護しつつ僕は歩き出し――カサリと、掌の中で手帳が動く。

見れば、めいこさんが表紙を揺らして某かを訴えかけていた。

 

『ええと、あの。怪談の条件を満たせば、霊魂、呼べるであります……よ?』

 

また僕に襲われろというのかこのポンコツは。

せっかくこのまま終われそうだった所に水を差され、自然と舌打ちが出る。

 

「……あんたも前の時に一緒に居ただろ。幾ら何でも、もうヤダよあんなの」

 

『あ、いえ、そのようなつもりでは……あわわ』

 

「それにこの怪談に関しては僕に条件の達成なんて無理だって、ほらここ」

 

ぐぐっ、と。表示された怪談の序盤、『恋文を受け取り』という一文を指差す。

 

「これ、つまりラブレターを貰えって事だろ。そんな当てあると思ってんの?」

 

受け取り、と書かれている以上自分で書いたものでは意味が無く、従って一人ではどうにも出来ない問題だ。

心に隙間風を感じつつそう伝えれば、めいこさんはページの端を捲り己をちょいちょいと指差した。どことなく照れ臭そうな仕草で、極めてキモい。

 

『そ、そのう……本書が、あります、であります』

 

「は?」

 

『ええと……本書が貴方に向け「すきです」とでも表示すれば、恋文を受け取った事になるのでは……と、推察しちゃったり、なんかしちゃったり。え、えへ』

 

「……、……」

 

人生初のラブレターがオカルトからとか絶対嫌だ。胸元まで上がった罵倒を堪えた偉業を褒め称えて頂きたい。

僕は努めて文を無視。パタムとめいこさんを閉じると、ガザガサ自己主張する彼女をポケットへ強引にねじ込み、トイレの扉を押し開けて――。

 

「うおっ!」

 

――轟音、後、雷音。

 

めいこさんが一際大きくその身を揺らし、部屋中に黒い火花が炸裂した。

世界の半分、右眼の世界にしか存在しないその火花は、バチンバチンと喧しい音を立てて縦横無尽に跳ね回る。

霊力の迸り。その現象だ。

 

『怪談の再現を確認致しました。先程の「すきです」が条件の恋文として認められちゃったようであります……えへへ』

 

「判定ユルユルすぎるだろこのクソ怪談!」

 

毒づき、霊力に中てられ痛む頭を押さえる。右の手首から黒い粘液が流れた。

ひとまずここから逃げなければ――汚い床に手を突き、這い蹲って上半身をトイレの外に出した。その時だった。

 

『――今度はこの子かい。ま、ごめんね』

 

不意に、聞き覚えの無い女性の声が脳裏に響いた。耳ではなく、右目の奥へと刺さる幽霊の放つ言の葉だ。

咄嗟に振り向くと、そこには一人の足の無い女性の姿があった。

年は三十代の前後。整った顔立ちに黒い髪が目立つ、大人の色気漂う美女だ。何時の間にか現れていた彼女は、掌を真っ直ぐ僕の頭へ差し向けていた。

 

「なッ――!?」

 

――トイレの花子さん。書き換えられた怪談の核とされた、不遇な霊魂。

 

昨日見た彼女が顕現したのだと理解した瞬間、僕は強い恐怖に駆られ、咄嗟に垂れる粘液をめいこさんへと押し付けた。

 

『――あん?』

 

瞬間、ガシャンと何かが割れるような音が身体の芯を揺さぶった。

同時に色の無い衝撃が周囲一帯に走り抜け、めいこさんから『トイレの花子さん』の文面が弾け飛ぶ。以前にも目撃した、怪談と霊魂の解放だ。

 

(っこ、これでひとまずは、)

 

安心だ。そう続けようとした途端、僕の頭部を細い腕が鷲掴む。

 

「がッ!?」

 

女幽霊が消えない。視界を覆う手の感触はしっかりと肌を焼き、掌の隙間から見える姿もまた健在。

 

(怪談から解放すれば成仏する筈じゃ無かったのかよ!?)

 

否、そんな事より大ピンチだ。文面じゃ被害者は気絶させられるとの事だが、それだけで済む保証は無い。肩の怪我の時を思い出し、血の気が引く。

 

(頭ッ、く、首! 外れっ、し、死ぬ……!)

 

そんなの御免だ。火花の走り始めた手に爪を立て、引き剥がそうと試みて――。

 

『っと、おや?』

 

「うわぁッ!?」

 

唐突にこめかみに感じていた圧迫感が消滅、僕の両腕が空を切る。

見れば女幽霊から現実へ干渉する力が失われたらしく、彼女の腕が真っ直ぐ僕の顔面を貫通していた。おそらく害は無いのだろうが、初めての感覚に身が凍る。

僕は恐怖。女幽霊は戸惑い。両者違う理由で動けない中、数十秒の時が過ぎ。

 

『……あれ、動ける。どうなってんだい、こりゃ』

 

ぽつり、と。やがて呟かれたその一言が、静かに右眼に染みこんだ。




異小路の1項の後書きにキャラ4人のイメージ図を追加しました。
あくまでもぼんやりしたイメージをそれなりの形にしたものなので、場面想像の補強程度に使って頂けたら幸いです。


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2頁 捜索(上)

                   2

 

 

例えば、監禁事件の被害者と、その加害者の同僚。

僕と彼女の関係を表すならば、それが結構近いのかもしれない。

 

『――で、アンタは何なんだい? アタシ見えてるみたいだけど』

 

「え、ええと……」

 

トイレでの一件より十数分後。すったもんだの末、僕達は教室へと帰還した。

 

当然、それには例の女幽霊――便宜上花子さんと呼ぶが、彼女も一緒だ。

個人的には余り深入りはしたくなかったが、成仏の様子も無いまま放置するというのは当初の目的からして本末転倒だろう。

それにどうも襲ってきたのは自分の意思じゃ無かった節があるし、現状敵意も感じない。状況整理も兼ねて、ひとまず会話の場を設けた次第である。

 

「その、僕は……これ。手帳を使える者……って言って、分かります?」

 

『あ? 何言ってんだい、アンタ』

 

きょとん、と年齢にそぐわないあどけない表情で首を傾げる。

 

まぁ丸眼鏡の男の事から察していたが、一々説明を受けて怪談の核となる霊魂など殆ど居ないのだろう。

……だがそうなると逆上されないかが心配だ。喉を鳴らし、必死に言葉を選ぶ。

 

「……え、と。ですね。出来れば、冷静に聞いて頂きたいのですが、その――」

 

ビクビクと顔色を伺いつつ、知る限りの事を掻い摘んで伝える。

 

僕自身やめいこさんの素性、花子さんがどのような状況に置かれているのか。

出来る限り神経を逆撫で無いよう、多分の自己弁護を混ぜ込んで。

そうして必要な事をあらかた語り終えた僕は、何時でも逃げられる態勢を整えつつ花子さんの様子を伺った。

 

『……ふーん』

 

……しかし、返って来たのはそんな素っ気ない合いの手だった。

その瞳には怒りも嘆きも映しておらず、決定的な無関心。暇そうに首筋を掻いたりして、怯えていた僕がバカみたいだ。

 

「あの、それだけですか? 何か文句というか、思う所とかは……」

 

『そうは言われてもね、どう反応した物やら』

 

「…………」

 

もしかして与太話とでも思われてるのだろうか――そんな疑念が顔に出ていたのか、花子さんは軽く肩を竦めると、『そうじゃないんだよ』と苦笑を一つ。

そして何でもないような風に、爆弾を落とした。

 

『――記憶、無いんだよね。アタシ』

 

「……え?」

 

何て?

 

『だから、アタシはアタシ自身の事を何も知らないし、分かんないってコトさ。それなのに色々言われても……あれだよ、困るだろ?』

 

記憶喪失、と言う奴だろうか。結構な重大事である筈なのだが、しかし当の彼女は特に深刻な様子も無い。

こちらもどう反応するべきなのか分からず、何とも奇妙な空気が漂う。

 

「えと、どうしてそのような事に――いや、それも覚えてないのか……」

 

『まぁね。アタシは気づいたら存在してて、色んなトイレで色んな人を気絶させて回ってた。身体も自動で動くから「そういう習性なんだなぁ」って何も考えてなかったからねぇ……あぁ、さっきはゴメンよ?』

 

「……や、それは別に良いんですけど……」

 

いや、本当は良くはないけど、明確に僕達への恨みを持っていないと分かってホッとする。無意識の内に右肩へ手を這わせた。

……しかし、彼女が記憶喪失となると、それはそれで面倒な事になる訳だが。

 

「……あの、あなたは本当に何も覚えてないんですか?」

 

『そう言ってるだろ』

 

「自分が誰かも、生きていた頃の記憶もまるで無い?」

 

『むしろアタシが人間だったって方が眉唾だけどね。元からこういう妖怪みたいな存在だったってだけじゃないの?』

 

「怪談として過ごしていく事に、不満も苦しみも無かった?」

 

『まぁ流石に小便の臭いにはウンザリだけど、結構のんびり暮らせてるしねぇ』

 

――現状に大きな不満が無かった。

そりゃ成仏も出来ない筈だ。これからどうすりゃいいのか、困った。

 

 

                      *

 

 

「……ああ、どうしよう……」

 

少しばかり時は進み、午前の国語の授業中。

かの有名な羅生門を斜め読みする傍ら、僕は頭を抱えていた。

 

その原因は勿論、背後でぷかぷか浮かぶ花子さんの事だ。彼女は授業風景が珍しいのか、興味津々な様子で教室を見回している。

クラスメイトに霊視能力持ちが居なくて幸運だった。ほんとに。

 

『はぁん、これが授業って奴ね。不思議と懐かしい感じがするわ』

 

『……何か、思い出したりとか』

 

『いや、なーんも』

 

めいこさんの紙面に書いた疑問を見せれば、素気ない返答に更に頭を落とす。

彼女を怪談から解放したのは間違いだとは思っていない。それは果たすべき義務であり、あらゆる面から見ても肯定されるべき行為である筈だ。

 

だけど、霊魂の成仏を念頭に置いていたため、花子さんが現世に留まった場合なんて全く考えていなかった。しかも記憶喪失とか、想定外にも程がある。

 

『……その辺、何か分んないのかよ。専門書』

 

『えっ。ほ、本書でありますか』

 

お前以外に誰が居るんだよ。専門的見地でも述べてみろとページの端を突く。

 

『え、ええと……き、記憶喪失という件に関しては、えっと、もしかしたらあの霊魂は以前、消失した経験があるのではないかなぁ、なんて』

 

『……どういう事?』

 

『霊魂の記憶は霊力に、つまりは存在その物に蓄積します。本書は怪談の再現に伴い欠損のある霊魂を復元する機能を有していますが、完全に消失していたものを復元する際は……その、記憶とか、アレになっちゃう可能性も、はい』

 

『つまり、全損した霊魂を復元しきれず記憶が飛んだ、って事か』

 

何とも曖昧な推察ではあるが、一応理屈は通っているように見えた。

霊魂の消失とは物騒な話だ。何があったのか疑問に思うが、しかし本人の記憶が失われている以上、その原因も覚えていないのだろう。

 

『……あっ、解放後に成仏しなかったのも、そのせいがある、のかも、です?』

 

『怪談の核って境遇に不満がなかったからじゃないのか?』

 

『それも確かな一因でしょうが、失われた記憶の中に、何か未練とか、後悔とか、そういう強い感情が隠れてるせいもあるかもぉ、なんて。へ、へへ』

 

愛想笑いを文章にする手帳を閉じ、チラリとのんびり浮いてる花子さんを見る。

……強い感情? まぁ、今はいい。

 

(……花子さん、ちょっと)

 

『……ああ、花子ってなアタシか。何だい?』

 

さて、何から話すべきか。少し迷いつつ、文字を書く。

 

『――あなたは、これからどうするつもりなんです?』

 

一番気になったのは、それだ。

成仏しなかった以上、彼女には浮遊霊としての日々が待っている。

その在りよう如何によって、僕も対応を決める必要があった。握るペンに力を込め、緊張。

 

『んー、どうするったってねぇ……』

 

すると花子さんは顎に手を当て天井を見上げ、悩み込む。

暫く授業の音だけが静かに響き――やがて、彼女の視線がゆっくりと降りた。

 

『……強いて言えば、アタシがどこの誰だか知りたい所ではあるかな』

 

……やはり、そうなるよなぁ。僕も彼女の立場であったらそう思う。

 

『自分の事を思い出せないってのは、何か気持ち悪いからね。どうせやる事も無いし、適当にブラブラしながら自分探しでもしようかねぇ。ハハハ』

 

旅に出かける大学生のような言い草だが、その内容は切実な物だ。

彼女はどうも大雑把な性格のようだが、きっと内心ではそれなりに現状への不安がある筈なのだ。僕に記憶喪失の経験は無いけど、それくらいは分かる。

……加害者の側に立つ者の、義務。その言葉が、重く頭にのしかかった。

 

『もし、よろしければ』

 

やめとけ。きっと死ぬ程面倒だぞ。対価も無く、ただ苦労するだけだぞ――。

そんな言葉が文字を紡ぐ手の動きを阻害するが、しかし苦労して抑えこむ。

だって優等生を自称するなら、ここで逃げたら負けだろう?

 

そして僕は、負けるのが大ッ嫌いなのだ。故に。

 

『――もし、よろしければ。僕、記憶探しのお手伝いしましょうか?』

 

……書いた。提案してしまった。

すぐに撤回したい気持ちに駆られるが、唇を噛んで押し留め。

 

『え、アンタがかい?』

 

『ええ、あなたを解放したの僕ですし、なら尻拭いし■い、と○、△※……』

 

『……そんな力む程嫌なら、別に無理しなくていいよ?』

 

筆圧が入りすぎて文字が崩壊してしまった。軽く息を吐き、力を抜く。

 

『……いえ、やります。やるんです。やらないと負けるんです、僕は』

 

改めて意思表示した事で退路が消え、腹が座った。

こうなれば、花子さんが記憶を取り戻し成仏するまで付き合ってやる。先程とは別の理由で筆圧が増し、目も座る。

 

『……まぁ、別にどうしてもって訳じゃないから、気楽にしなね』

 

そうしてかけられた言葉は、何処か呆れたような物だった。何故だ。

 

 

 

さて、そんなこんなで安請け合いしてしまった僕であるが、当然ながら記憶探しなんて経験は今まで一度もした事は無い。

 

しかも相手は名前どころか人間であった事すら忘れていた幽霊である。

パーソナルデータは殆どゼロで、これでは探偵や警察に頼む事すら不可能だ。

どうしたら良い。必死に頭を働かせるが、二時間目が過ぎ、三時間目、四時間目が過ぎ。昼休みまで悩み続けても、良い案はまるで出て来なかった。

 

『ねぇ、やっぱり花子さんの情報って載ってないの?』

 

『ええと、大変申し訳ありませんのですが、ですね。本書には、かつての所有者及び使用した霊魂・編集した怪談に関する詳細は何一つ、ですね』

 

(前もそう言ってたもんね……)

 

塩握りをもぐもぐしつつ、鼻から溜息。もう初めから詰んでいる。

せめて何か、とっかかりのような物は無いのか。花子さんの正体とまでは言わない、その周辺に繋がるような、そういう物は――。

 

「……花子さん。そうだ、その怪談その物が……いや、でもな」

 

花子さんが囚われていた『トイレの花子さん』という怪談自体が、何らかの手がかりになるのでは。そう思いかけたが、考え直す。

 

『トイレの花子さん』なんて、日本で1番ポピュラーと言っても良い怪談だ。

当然それに関する話なんて全国に幾らでも転がっているだろうし、編集された内容にしても「被害者が気絶する」という極めて小規模な物と来た。

それから辿って探すにしても、あまり現実的では無いだろう――と、そこまで考え、ふと疑問が浮かんだ。ペンを動かし、めいこさんに問いかける。

 

『聞きたいんだけどさ、あんたって今までどんな所で活動してきたの?』

 

『……? あの、質問は具体的にして頂けると……』

 

『あんたは過去、この街以外ではどんな場所に再現されてきたのか、って事』

 

めいこさんがどんな条件で僕の下に再現されたのかは未だに分からない。しかし、流石に告呂市以外にも、下手したら海外でも再現された可能性はある。

だとしたら更に厄介な話になりかねない……と、眉を顰めたのだが。

 

『非。本書は、告呂の地以外に再現された事は無かったり、しちゃったり』

 

「……へぁ?」

 

予想していなかった返答に思わず奇声を漏らし、周囲の生徒から何事かという視線を受けてしまった。咳払いをして誤魔化しつつ、手を動かす。

 

『何それ、偶然が続いたって?』

 

『ええと、非。本書は、告呂の地にしか再現されないみたい、です。おそらく』

 

『……あんたの怪談には、告呂という土地が深く関わっている?』

 

『……ごめんなさい、そこら辺は、うう、分からないであります……』

 

そう言うと思った。今までの付き合いからこれ以上追求しても無駄だと悟り、張りかけていた気が弛む。

いや、しかし収穫はある。めいこさんが告呂市でしか活動していなかったのであれば、必然的に花子さんが囚われたのは告呂市の何処かで、という事になる。

それが確定できただけでも、結構大きいのではないだろうか。

 

(まぁ、とっかりと言うには弱いけど、それでも)

 

……こうなれば、いっそ市内の学校施設を虱潰しに周ってみるか?

そう、七不思議とか広まりやすい小学校を中心にして、めいこさんにその場所の怪談を収集させ……いや、他校のトイレを訪ね周るとか変質者か。

待て待て、冷静に考よう。少しだけど光明が見えたのは確かなんだから。うん。

 

『……何だいアンタ。昼飯が白いおにぎりだけとか、身体平気なのかい?』

 

そうしていると、心配しているような表情を浮かべた花子さんが顔を覗き込んできた。校内の散策を終了して来たらしい。

幽霊に僕のさもしい食糧事情など心配されたくない。そう返したいのも山々だったが、努めてスルー。何か引っかかる物は無かったのかと目で問いかけた。

 

『……悪いけど、何もなかったよ。でもやっぱ、懐かしい感じはするね』

 

それを察した花子さんが申し訳なさそうに首を振る。

どうやら特に新しい情報は無いようだ。僕は少々気落ちしながら、更に詳しい話を聞こうとして――。

 

「――はーい、席につけー。そろそろチャイム鳴るぞー」

 

突然教室に入ってきた若風先生に、言葉が断たれた。

時計を見ると昼休み終了まで後数分、先生が受け持つ数学の授業までもう間もない時間帯だ。

 

(……しょうがないか。じゃあ詳しい話はまた後で……)

 

『…………、ん、ああ、分かったよ』

 

「……?」

 

一瞬。花子さんの反応に間があった……気がする。

しかし疑問と言う程でも無く、直後に鳴った予鈴に意識が流れた。

 

 

                      *

 

 

それからも一日中悩み続けたものの、無駄に脳が疲弊するだけに終わった。

当たり前だ、そう簡単に解決案が出るならば、僕は今頃少年探偵として名を馳せている筈だもの。

 

『……アンタってさぁ、悪い意味でクソ真面目だよねぇ』

 

「え?」

 

本日の授業を消化した帰り道。引き続きこれからの方針を考えていた僕は、ナチュラルに後を着いて来ている花子さんから、突然そう貶された。

 

「……どういう事です?」

 

『何かさ、カチカチ過ぎるんだよねアンタ。適当さが感じられないというか、追い込まれてる感じさえするよ』

 

ウンザリとそう零し、してもいないネクタイを緩めるようにワイシャツの胸元を緩める。その際ちらりと見えた白く深い谷から、僕はそっと目を逸らした。

……追い込まれている、ね。まぁ合っているといえば合っている。

 

『アタシの事を考えてたんだろうけど、適当で良いってのに一日ずっとムッツリしてさァ。見てて不思議というか、疲れるんだけど』

 

「…………」

 

酷い言い分である。けど言っている事も分からない訳ではなく、反論は出ない。

僕はそんな視線の彼女から逃げるように歩む速度を早めようとしたが――しかし眼前の赤信号に遮られ、止まる。肩の当たりに花子さんが肘を置いた気配を感じ、溜息を吐いた。

 

「……僕、ちょっと前に悪い事をしちゃったんですよ」

 

『あん?』

 

「この手帳、怪談を操る力あるって言ったでしょう。それ使って……色々と」

 

早く信号が変わるよう願いつつ、めいこさんを掲げる。花子さんは胡乱げな表情で彼女を突いたり撫でたりといった仕草をしたが、当然触れられる筈も無く。

 

『……何したかは聞かないどくけど、それの罪滅ぼしって事かい。にしたってアタシにゃ直接関係無いだろうに』

 

「そうかもしれませんけど……」

 

理屈では分かっているが、感情が納得しない。いや、もしかしたら――或いは。

 

「……ただ、時間が欲しかったのかも」

 

『うん? 時間?』

 

結果的に殺人を犯してしまった事、自首を含めたこれからの事。それら全てを整理するには、たったの一週間じゃ少なすぎたのかもしれない。

僕は何だかんだ文句を言いながらも本当は厄介事を求めていて、新たな目的を据える事で、煮詰まった思考を解す為の時間を無理やり作りだした、なんて。

 

「……汚いなぁ、本当」

 

『何の話さ』

 

「いえ、僕は逃げるのも上手いんだなぁって思いまして」

 

軽く笑い、自嘲する。信号が青になり、白と黒の縞々へ一歩踏み出した。

 

 

 




花子さん:記憶喪失の幽霊。人を気絶させる事が特技らしい。
【挿絵表示】



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2頁 捜索(下)

『へぇ、ここがアンタの家かい。随分とまぁ落ち着く感じの家だねぇ』

 

「……それはどうも。次からは鍵開けるまで待ってて下さいよ」

 

結局家まで追随し、壁をすり抜け家主より先に帰宅した花子さんに溜息を一つ。

そうして招いた居間の畳にめいこさんを放り投げ、その相手を頼んだ。

 

互いに触発されて記憶を思い出したり、手帳に記載される情報が増えるかもしれないしね。オカルト同士じっくり話しあうと良い。

 

『……手帳と話せって、何をよ……?』

 

呟きながらめいこさんをツンツンする彼女を尻目に、僕は夕飯の用意に映る。

台所に僕しか出入りしなくなって早半年。その場所は埃が積もる事も無く、小奇麗な様相を保っていた。

お婆ちゃんの物だった聖域を錆びさせる事など、僕に出来る訳が無いのだ。

 

「ご飯はまだあるし……いつもと同じでいいか」

 

お米、味噌汁、野菜炒め、そしてラッキョウ。特に食べたいものが無い場合の定番メニュー。冷蔵庫からキャベツを取り出し、適当な大きさに切っていく。

 

『んー……どーもガサツな手つきだね。もう少しシュッと出来ないのかい?』

 

「っ」

 

突然現れた背筋の寒気で危うく包丁の操作を誤りそうになる。右眼をちらりと走らせれば、何時の間にやら花子さんが背後に浮遊していた。

 

「……男子学生にあまり多くを求めないでくださいよ。めいこさんの方は?」

 

『ああ、何か「おみそしるは、あるのでしょうか。気になります、気になって、しまうのです」って騒いでたからね。ちょっとこっちの様子を見に』

 

厚かましいな、あのポンコツ。とは言えお婆ちゃん直伝の味噌汁を求められて悪い気はせず、上がりかけた口端をこっそり隠す。

 

『にしてもアンタが料理してんのか。家族は共働きかい?』

 

「いえ、両親も祖母ももう居ません。単なる一人暮らしですよ」

 

『え……』

 

切り終えた野菜をフライパンに放り込みつつそう答え――はたと気づく。しまった、「もう」は余計だった。

花子さんを見れば案の定『聞いちゃマズイ事だったかね?』的な表情を浮かべており、罪悪感がむくむくと湧き上がる。僕は努めて気にしていない素振りで、話の矛先を逸らす事にした。

 

「……ところで、トイレの外の世界を見て、どうでしたか?」

 

『あん? 何がさ』

 

「いや……帰る時とか、町並みを見て何か記憶を刺激する物は無かったかなと」

 

花子さんはその言葉に暫く考え込む様子を見せたが、やがて諦めた様子で後頭部をガリガリと引っ掻いた。

 

『……いいや、街中じゃ特に掠る物は無かったよ。強いて言えば、学校で……』

 

「ああ……授業が懐かしいとか言ってましたね」

 

まぁ、怪談からして当然だとは思うけど。そう呟けば、彼女は首を横に振る。

 

『いや、それもそうなんだけど。ほら、アンタの先生。何かひっかかってさァ』

 

……言われてみると、確かに先生を見た時妙な反応をしていた気がする。

僕は真面目に花子さんの話を聞こうと、フライパンの火を止めて、

 

『! ああダメだよ、一回火にかけたら最後まで一気に面倒見ないと!』

 

「え? あ、は、はい」

 

突然強く注意され、思わず素直に従った。

 

『あとさっきから思ってたけど火ィ弱すぎ、もっとガーッと……ああ違う、もどかしいねちょっと貸しな!』

 

「いやあんた触れないでしょ。ちょっ、手元スカスカするの止め、ちょっと!」

 

どうやら生前は料理好きであったらしい。そんな新たな情報を喜ぶ間も無く、僕はなし崩し的に花子さんのアドバイスを受ける羽目になったのだった。

誰かに料理を教えて貰うなんて何時ぶりかな。何となく、鼻奥が湿った。

 

 

 

『で、何てったっけ。アンタの先生の名前』

 

そんなこんなで出来上がった野菜炒めに舌鼓をうっていると、花子さんが思い出したかのように問いかけて来た。

そういえばそんな話だったっけ。テレビの音量を絞り、彼女へと向き直る。

 

「若風先生の事ですか? さっきも言ってましたけど、彼女が何か?」

 

『いや……何か見てると胸の奥が引っかかれる感じがしたんだよね。懐かしい……のかな。よく分かんないけど』

むにゅり、と豊満な胸を強く押し潰すその姿から目を逸し、黙考。

先生と花子さん。外見年齢的には近いが……だから何だ、関係性が見えない。

 

「えーと、具体的に何を思い出したとかじゃないんですよね?」

 

『全然。何が気になってるのかも分かんないし、思い出せない』

 

「……じゃあ、明日学校行った時にでも話聞いてみます?」

 

本音を言えばもう少し深く聞きたい所だが、彼女の様子からこれ以上の情報は望めないように思えた。

 

(でも、どんな話題を振って何を聞いたら良いんだ。生徒と教師だろ……?)

 

さて、一体どうしたものやら。

まぁとっかかりは見つけられたと思うべきか。僕は溜息を吐きつつテレビの音量を戻し――返す手で味噌汁を小さじにすくい、めいこさんへと振りかける。

 

『おいしいです。おみそしるです。まこと美味しきインク、であります』

 

「インクて」

 

『紙のくせに汁物で喜ぶなんて、変な子だね。全く』

 

最近とみに感情豊かになった彼女だが、これはこれで無機質だった頃より愛嬌があって良いかもしれない。例えその性質が禍に類する物であったとしても。

そうめいこさんと戯れていると――花子さんが何とも言えない表情で僕を見ている事に気がついた。

 

「……何です?」

 

『いや、雑に扱ったりそんな風にしたり、アンタらは妙な関係だと思ってね』

 

「そうですか? ……そうなんでしょうね、きっと」

 

思えば、彼女は僕の両親を奪いお婆ちゃんを悲しませた遠因とも言える存在だ。

しかしそれは道具故の必然であったとも言え、苛立ち以上の悪感情は持てない。

それに、僕は見ているのだ。山原達を解放しに行った際、めいこさんが表示した震えた筆跡を。

当時の彼女はもっと感情の薄い存在だったけど、それでも伝わるものはあった。

 

 あれはきっと、今の僕が抱いている感情と同じ物――罪悪感だった筈なのだ。

 

『おみそしる、もっと頂きたい、であります。お願いします、お願いしちゃったり、するのです。えっへへへ』

 

……本当かぁ?

急に自信が無くなったが、溜息で誤魔化して。明日の事を悩む傍ら、再び小さじを傾けた。

 

 

                      *

 

 

「――あの、先生って何か面白い街の噂とか怪談話とか知りませんか?」

 

「ん? 何だ、いきなり」

 

翌日の放課後。委員長としての仕事である教室の施錠後、鍵の返却に職員室へと訪れた僕(と、花子さん)は、若風先生との雑談がてらにそう問いかけた。

すると途端に怪訝な表情を浮かべられた訳だが、それはこちらも承知の上だ。

 

僕は優等生のイメージが壊れないよう細心の注意をはらい、照れたように笑う仕草を演じた。

 

「いえ……僕、告呂市の歴史とか調べるの趣味で、丁度今そういうジャンルに当たってるんです。先生とかなら、何か知ってるかなって思って……」

 

無論、完全無欠の嘘っぱちである。歴史なんて興味ないよ僕。

まぁオカルトを調べていると正直に言うよりは、まだ社会的信用を得られやすい理由の筈だろう。

実際先生も「向学心があるな」と納得した様子で、心とプライドが微妙に痛む。

 

「……しかし、噂に怪談か。私もそういうのには疎い方だからな……」

 

「ああいえ。別にそんな大層なものじゃなくて大丈夫ですよ」

 

例えよく聞く胡散臭いような話でも、辿って行けば当時の世相が見えてくる。

故に大切なのは「身近にあった事柄」であり、その大小は問わないのだ――と一晩中考えた理屈を捏ね回し、言い包めにかかる。

 

……視界の端に『大嘘……』と目を押さえ俯く幽霊が映ったが、あんたも一緒に考えてくれたでしょうが。呆れる権利なんて無いんだからな。

 

「例えば――子供の頃に聞いたトイレの花子さんみたいな話とか、そういう古臭い話だとむしろありがたいです」

 

チラリ。本当に聞きたい情報を会話に混ぜ込み、様子を窺う。

しかし先生は特に表情も変えず、虚空を眺め記憶を探り始めた。

 

「ふむ、そうだな……私が知っている事と言ったら、さやまの森には妖怪が住んでるって迷信に、ありきたりな七不思議とか……後は――」

 

そこまで言って、ぷつりと言葉が途切れた。

どうしたのだろう。そう疑問に思う内にみるみる先生の眉間にシワが寄り、不機嫌な様子になっていく。思わず焦り、狼狽える。

 

「すいません。何か失礼な事でも言ってしまいましたか?」

 

「んん……いや、お前のせいじゃないんだが……ああ、もう」

 

先生はまるで嫌な夢を見た後の如く後頭部を掻き毟ると、大きな溜息を吐いた。

 

「……図書館とか、そういう所にはもう行ったのか?」

 

「ええ、でも何せ本の量が凄まじいので、出来れば人の話が欲しいなと……」

 

また嘘。だけど今度は半分本当なので、罪悪感はそれ程でもなかった。

そうして先生は決心と何か苦い物を含んだ複雑な表情を浮かべ、僕を見る。

 

「……ん、分かった。じゃあ少し時間をくれないか」

 

「時間……ですか?」

 

「ああ、前に出来る事は配慮するって言っちゃったからな。せっかくだ、昔の話を聞ける人に連絡を取ってやろう」

 

思った以上に大事な提案に、思わず慌てる。

 

「えっ。いえ。僕、あの言葉につけ込むとか、そんなつもりじゃ……!」

 

それは今までの嘘と違い、本当の事だった。

しかし先生は僕の言葉を「分かってるさ」と手で制し、深呼吸の後にいつもの毅然とした表情を取り戻す。

 

「んー、そうだな。今週中一杯か、それくらい待ってて貰えるか?」

 

「……それは、その。嬉しい話ですげど。でもさっき、何か辛そうな……」

 

「あれは……まぁ、別に何でもないんだよ。だから気にするなって、な?」

 

そう笑う彼女の様子は、普段と同じ凛々しい物だ。

しかし同時にどこか弱々しくも感じられ、僕はそれ以上何も問えず、ただ礼と共に頭を下げる事しか出来なかった。

 

 

 

(……何か、変でしたよね。先生)

 

『歴史を調べる趣味ってのがクサすぎた……って感じじゃ無かったけどねぇ』

 

学校を出て、帰り道。

先程の一幕について花子さん達と小声で相談を行うものの、若風先生の様子に関して特に思い当たる事はなかった。

 

いや、何か彼女にとっての地雷のようなものを踏んだ事だけは分かるのだ。しかし、それが一体何処だったのかが分からない……。

 

『というか、大丈夫なのかい? 何か面倒な事になったっぽいけど』

 

答えの出ない疑問に頭を悩ませていると、花子さんが気怠げに僕の肩にもたれ掛かる仕草をする。当然感触はないが、一瞬だけ心臓が跳ねた。

 

(ま、まぁ、とっかかりという意味ではありがたい話なので……それより、花子さんの方はどうでしたか。先生と改めて会って、記憶とか)

 

『ん? うーん……やっぱり、何かは気になったよ。なったんだけど……』

 

(それが何なのかはハッキリしない、と)

 

引き継いだ僕の言葉に、こくんと頷く。

まぁ予想していた事ではあるが、多少期待していた面もあり、少し気落ちする。

そうして今日はもう早く帰ろうと足早に道を行き――「…………」少し考え、道角を曲がった。

 

『……あれ、どこ行くんだい。帰り道こっちじゃないよね?』

 

だがそれは家路ではなく、その数本前の道。街の中心部へと繋がる物だ。

怪訝な表情でこちらを見る花子さんに対し、僕はうんざりと溜息を吐いた。

 

(……図書館に。流石に嘘を吐くだけ吐いて他は何もナシってのは、ヤでしょ)

 

詳しい理由は分からないが、先生にあれだけ苦しそうな顔をさせたのだ。

ならば誠意として、嘘の部分を本当にする努力くらいはすべきだろう。苦々しくそう語れば、花子さんは一度瞬いた後、にんまりと嬉しそうな笑顔を見せた。

 

『アンタ、いい意味でもクソ真面目みたいだねぇ。好きだよ、そういうの』

 

(……褒めてるんですか?)

 

『そりゃもう』

 

手を伸ばして僕の頭を撫でてくれるが、何かおちょくられている感が拭えない。

僕はフンと鼻を一つ鳴らすと、彼女を振り払うかのように足を早めた。

 

 

                  *

 

 

それからの数日、僕達は放課後に図書館へ直行するのが日課となった。

新聞のバックナンバーを探って『トイレの花子さん』の怪談と似た事件がないか調べたり、単純に近代の郷土資料に気になる物が無いか当たったり。

若風先生に対するポーズだけではなく、僕達に出来る事はやっていたと思う。

 

「まぁ、それで結果が出たら苦労しないって話だけど」

 

ぱたむ。もう何枚目になるか分からない過去の地方新聞を閉じ、溜息。

また外れだ、一面からテレビ欄脇まで細かく見ても、それっぽい情報なんてまるで無い。これでは本当に告呂の歴史を勉強しているだけだ。

 

『是。本書もどんどん知識を蓄え、おりこーさんになるであります。むふん』

 

ふと見れば、これまで調べた情報をその身に映しているめいこさんが嬉しそうに何か言っていた。

何とびっくりこの手帳。触れ合っている部分を通して僕の思考を受信し、文字に起こす事が出来るそうなのだ。

メモ帳としては破格に利便性の高い機能。せっかくなので存分に利用させてもらっていた。

 

……まぁ、今まで筆談に割いた時間を思い出すと釈然としないが。早く言えよ。

 

(さて、次の新聞……は、もう無いか)

 

次の新聞へと伸ばした手が空を切る。気付かぬ内に借りた分を全て読み終えていたようだ。

これでもう四十部くらいは読んだのではなかろうか。僕は疲れた目を揉み込みつつ、新しい新聞を借り受けに席を立ち。

 

「……ぐへー……」

 

その際、手にしみついた活字インクの油っぽい匂いが鼻を突き、嫌気が差した。

 

「気分転換でもしないとカビ生えるな、これ……」

 

僕はカウンターに新聞の返却だけをすると、そのままぶらりと館内を彷徨く。

そうして気の向くまま推理小説や伝奇小説の棚へと足を運び――途中、郷土史の棚の前を通りかかり、ふと先日の若風先生の事を思い出す。

 

(何だっけ。そう言えば、機嫌が悪くなる前に何か言ってたよな……)

 

七不思議がどうとか、さやまの森に妖怪が住んでるとか何とか。

 

特に気にかける必要があるとも思えないが、気分転換の意味では良かろう。

適当に目に付いた土地についての解説本を手に取り、パラパラと捲ってみる。

 

(……あそこって、正式名称さやまの森で合ってるのかな)

 

他に正しい地名があるのではないか。そう思ったものの、住宅街近辺に関する項目に『さやまの森』の名を発見した。

 どうも郷土史に載る程度にはポピュラーな名称らしい。少し驚きつつ、黙読。

 

「……事故で開発失敗、森に入った人が変死、放火犯が逆に焼死……?」

 

すると出るわ出るわ、血飛沫に塗れたおぞましい逸話がぞろぞろと。

他にも幾つかの文献を開いてみたが、おおよそは同じ。かの森を巡る出来事には常に凄惨な事故や事件が付き纏っており、さやまの森に入ってはいけないという戒めには、それ相応の理由があったのだと今更ながらに理解した。

 

(そりゃ妖怪だ何だ言われるよ)

 

それに関する直接的な記述は終ぞ無かったが、確かにこれだけ事件が起こっていれば、そんな噂が流れてもおかしくはない。

気分転換どころか逆に気が滅入り、更に雑にページを捲り続け。

 

(……『さやまの森と呼ばれる森林に関する小話』か)

 

そしてページが残り少なくなってきた頃、目の端にそんな題目がひっかかった。

 

(さやまの森。告呂の歴史を語る上で、現在の住宅街付近に広がるその森林地帯は切って離せない場所である。しかしそこは意外な程謎多き場所であり――)

 

それは半ページにも満たない、筆者の雑学を纏めた小コラムだった。

硬い文章の小休止に書かれたような物で、やれ樹木は松が多いだの、やれ悪い事が起こる場所だの。特に重要そうな情報は無し。

まぁそりゃそうだ。最早ガッカリ感すら抱かず読み進めていると、最後の最後、ある一文が目を引いた。

 

――この森には、覚り妖怪が住むという噂もある。案外、数々の不穏な出来事は、そのような摩訶不思議な存在の手による物なのかもしれない。

 

(さとり妖怪……確か、人の心を読む妖怪だっけ?)

 

そんな物の伝承が森にあったのか――そう思っていると、ポケットのめいこさんがカサリと動いた、気がした。

 

(どうしたの?)

 

『……え、いえ、何が? でありますが?』

 

取り出して訪ねてみるが、返ってきたのはそんな一文。

……気のせいかな。首を傾げつつ再び彼女をポケットに戻すと、右眼に花子さんの姿が映る。街の散策から戻ってきたようだ。

そろそろ主目的に戻るか。僕は彼女に片手を上げ、文献を本棚に押し込んだ。

 

――覚り妖怪。その単語だけ、頭の片隅に残して。

 

 




若風涼子:主人公のクラスの担任。過去に何かしらあったらしい。

異小路の最終話に2キャラのイメージ図を追加しました。場面想像の補強にでも以下略。


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3頁 路傍の華(上)

                      *

 

 

【私立羽車学院高等部 事務長 安中弥生】

 

……若風先生からその名刺を差し出されたのは、図書館に籠もり続けた末、碌な手がかりもなく迎えた金曜日の事だった。

 

「私の母校と……学生時代の恩人だ。長く学校に居て、半ばカウンセラーのような事もやっている人だから、きっと色々な話を知っているだろう」

 

そう語る先生の瞳は暖かい物だったが、表情としては苦渋に満ち満ちていた。

矛盾とも言えるそれに僕は大きな疑問を持ったけど、無遠慮に尋ねる程人間関係を捨てているつもりは無い。

結果として僕は感謝と共に名刺を受け取らざるを得ず、またその弥生さんとやらの下へ尋ねる新たな義務を負ってしまった訳である。あーあである。

 

『そんなにヤなら止めりゃ良い……ってのは、今更かね』

 

そしてその翌日の土曜日。トボトボと街中を歩く僕に、花子さんが肩を竦めた。

当然ながら歩く先は私立羽車学院以外に無い。牛歩の上に鈍と重を上乗せした足運びだ。

 

「……止められる訳無いでしょ。よく知らないけど、先生が何か無理をして当たってくれた伝手ですよ。ここで知らんぷりしたら、僕は優等生を名乗れない」

 

『その肩書。こだわるねぇ、アンタは』

 

「むしろそうで無い僕に何の価値があるんですかね。品行方正である事を止めたらただの性悪クソガキに成り下がりますよ僕は」

 

『自覚してんのかい』

 

うるせぇ。

 

「……くそ、そもそも何で今更こんな場所に……」

 

『は?』

 

思わず漏れたその愚痴に花子さんが疑問の目を向けるが、敢えて無視をする。

そう、僕が嫌がっているのは面倒事その物ではない。今から行く場所、その土地自体に原因の大半があった。

 

「…………」

 

それから十数分。花子さんから逃げるように無言のまま歩き続けていると、街中にあって一際大きな建造物が目に入る。

広大な土地、それを囲む高い壁、そして並列したトラック数台分の長大な正門。

 

――私立、羽車学院。そこはかつて、山原が数日だけの高校生活を謳歌していた場所だった。

 

 

 

 

 

「――ああ、君が連絡のあった子かい? 昔の話が聞きたいんだってね」

 

学院内、通された第一校舎の職員室。

来客担当らしきその男性教師は、にこやかな様子で僕を見る。

その目に疑いの色は微塵も無く、むしろ好青年を見る色合いだ。僕は努めて爽やかな笑みを作り、深々と頭を下げる。

 

「今日は休日にもかかわらず、校内への立入許可を頂きありがとうございます。今回は戦後間もない告呂における民間の風説について、長く事務長を務めていらっしゃるという安中さんにお話を伺いたく――」

 

などなど斯く斯く然々云々かんぬん。それっぽい単語を並べ、真面目くさった態度を意識し自己紹介と目的説明を行った。

 

『……アンタさぁ、詐欺の才能あるよね。結構本気で』

 

うるっせぇ。

人が気にしている事をからかい混じりにつっつく花子さんを睨みつければ、彼女はおぉ怖い怖いと引き下がる。ほとほとムカつく幽霊である。

 

「若いのに随分と勉強熱心なんだなぁ。分かった、じゃあちょっと待っててな。すぐに準備させて貰うから」

 

「あ……はい、わざわざありがとうございます」

 

男性教師は勉学熱心(を装った)僕に気を良くしたようで、朗らかな笑みを浮かべた。その丁寧な対応に心が痛むが、ここまで来たらもう引き返せない。

僕はにこやかな表情とは裏腹に、心中で謝罪の意を込めた礼を一つ。職員室に備え付けられた電話に向かっていく男性教師を見送った。

 

(……山原の居た、学校か)

 

奴もこの職員室に来た事があるのだろうか。

 

正直、こんな所には絶対に来たく無かった。

当たり前だ、何が嬉しくて大嫌いな――それも自分が殺した奴の生きた痕跡を見に来なければならない。距離と時間を置くつもりが逆に近づいてるじゃないか。

 

腹の底で黒い物が煮立ち、奥歯の裏で何か苦いものを噛み締める。

 

『……っていうか、花子さんは見覚えないんですか。この場所』

 

『あ? あー……いや、特に引っかかるものは無いかな。今んトコ』

 

気を紛らわせようと傍らの幽霊にめいこさんを掲げれば、返ってきたのは最早聞き飽きた気のない言葉。一体何処なら心当たりがあるんだ。

と、そうしている内に男性教師が戻って来た。手帳を仕舞い、笑顔を被る。

 

「待たせたね。今担当の者と話をして大丈夫だって事だから、これから別棟の事務室で取材する事になると思うけど、それでいいかな?」

 

「はい、特に問題はありません。別棟というのは?」

 

「実習室とかが集まってる場所でね、ここからだと……あ、見えないか」

 

教師は窓に目を向けると、そこに繁る木々の葉を見て軽く眉を寄せる。

 

「……そうだな。案内するから、ちょっと待ってて」

 

「あ、いえ。場所だけ教えてくれれば、後は自分で……」

 

某かの仕事中だったらしく、机のパソコンの中断作業を始めた彼にそう申し出た――丁度その時、ガラリと職員室の扉が空いた。

 

「失礼しまーっす。自動車整備科からの荷物なんすけどー」

 

咄嗟に目を向けてみれば、橙色のツナギを着た大柄な男が、山の様に重なったダンボール箱を抱えて入室して来た所だった。

……いや。長身で引き締まった身体をしてるが、少年だ。抱えたダンボール箱の影になっているのか、どうやら僕の存在には気付いていないらしい。

 

「ん、ああ、そうだな……とりあえずこっち持ってきてくれ」

 

「うっす」

 

そうして男子生徒は教師の指示に従い近くの机に荷物を置き――そこで初めて顔を上げ、僕と視線が交差した。

 

「……?」

 

既視感。どこかで見た事のあるような自信なさげなヘタレた顔と、どこかで見た事のあるような金の髪。

脳のシワの奥底に埋没していた記憶が浮上し始め、彼の存在に色を付けていく。そうだ、僕はこの少年と会った事がある、気がする。んだけれど。

 

向こうも僕の顔を見て、何やら引っかかるような表情を浮かべている。

誰だったかなぁ。そう考え込んでいると、男性教師が少年へと声をかけた。

 

「丁度良かった。お前、彼を事務室まで案内してやってくれないか?」

 

「……え、いや。は?」

 

「!」

 

カチリ、と。聞き覚えのある戸惑いの声が記憶をひっかき、忘れていた記憶が眼前へと広がった。そうだ、彼は確か。

 

「――あの、例の日。山原達と一緒に居た金髪……?」

 

「っ、やっぱお前あん時のメガネかよ……!」

 

男子生徒――嘗て山原達からリョウだかリュウだか呼ばれていた筈の少年は、僕の漏らした声に反応し、思いっきり顔を歪めた。

 

 

 

 

羽車学院は、幼稚園から大学部までが一つの敷地に詰め込まれている、日本でも有数の巨大私立学校だ。

在籍する生徒数は高等部だけでも四千名を超え、それに合わせて敷地も広く、キッチリと整備されている。

モザイク状のレンガ道に、その両脇に植えられた桜並木。学校内とは思えない程に風情があり、どこかの観光名所と勘違いする事もあるかもしれない。

 

で、そんな綺麗な景色を見ながら、別棟までの案内を命じられたリョウ君に連れられている僕といえば。

 

「………………………………」

 

「………………………………」

 

『……ねぇ、この空気どうにかなんないの? ほれ、言霊とやらで何かしてさ』

 

『非。そのような機能は本書にありません、無いのです、であります。はい』

 

歩く桜並木の華やかさとは裏腹に気まずい空気を撒き散らし、美しい風景を台無しにしていた。

まぁ、致し方無い事ではある。僕は彼から暴力は受けていないが、目の前で起こったそれを傍観されたのだ。敵意は無いとはいえ、好意的にも見られない。

もう少し強く一人で行くと主張すればよかった。知り合いならば話が早い――そう笑った男性教師を、心の中でけたぐり回す。

 

「……まぁ、何だ。この前は、さ。悪かった」

 

先に踏み込んできたのはリョウ君の方だった。顔を半分こちら向け、決まり悪げに謝罪の言葉を口にする。

 

「いや、でも俺あいつらの事とか、お前らの関係とかよく知らなくてさ。そんで、その……どう動けばいいか分かんなかったつーか……分かるだろ、なぁ?」

 

そうして後頭部を乱暴に掻きながら、言い訳らしきものを呟いて来る。

 

後ろに浮かぶ幽霊は『何か男らしくないねぇ』と呆れた目をしているが、まぁ彼の言い分も分からなくは無かった。

突然殴り倒されたにも関わらず「友達だ」と言い切り笑った僕。何も知らない人から見れば、仲良しのじゃれ合いと勘違いされても不思議では無いのだ。

 

(せめて山原達のリンチくらいは止めてくれても……いや、もう良いや。終わった事だ、色々)

 

僕は溜息を一つ吐き、もう気にしていないとグダグダと続く言い訳を止めた。

それで気まずい無言が続くのも嫌なので、そのまま会話を継続させる。

 

「……えー、リョウさんでしたっけ。山原達とは友達だったんですか?」

 

「リュウな、桜田竜之進。まぁ山原達とはそこまで深く付き合ってた訳じゃ無くて……つか敬語やめようぜ。多分タメだろ、俺ら」

 

リョウ君改めリュウ君はそう言って、着ている橙色のツナギを引っ張る。

聞けばツナギは学年ごとに色分けされており、今年は橙が一年の色らしい。

……この身長とガタイで僕と同い年かよ。世の不条理を垣間見る。

 

「……んで山原だけど、俺あいつとは学科も違かったし仲良くも無いんだよ」

 

「……? でも彼は君の事友達って言ってた気がしたけど」

 

「ちげーよ。最初の身体検査で引っかかった時に同じ教室で説教受けてさ、そのままズルズルと引っ張り回されてたんだ」

 

また言い訳かとも思ったけれど、彼の嫌そうな表情を見る限り本心のようだ。

大方、ガタイに似合わないヘタレた雰囲気に付け込まれたのだろう。

 

「この髪、染めてねぇっつってんのに信じてくれなくてさぁ。やんなるぜ本当」

 

しかしまぁ、何と言うか。金髪で不良っぽいけど、別に悪い奴では無いらしい。

それ所か山原を嫌っていた者同士、親近感すら湧いてきた気がする。僕は少し歩み寄り、彼の愚痴に乗ってやる事にした。

 

「……もしかして、それ地毛なの?」

 

「ああ、爺ちゃんがイギリス系でさぁ、多分そっからじゃねぇかって――」

 

後は流れに逆らわず、桜の花咲く道を行く。

そこには先程までの重苦しい雰囲気は欠片も無い。

ただ学生が二人、その桜の群れに無駄話の花を添えているだけだった。

 

 

 

「んじゃ、事務室はこの校舎の一階左にあるから。まぁすぐに分かるだろ」

 

「うん、案内どうも。助かったよ」

 

そうして何だかんだと雑談を続け、辿り着いたのは事務室のある校舎前。

予想よりも結構歩いたものだ。僕の学校より余程広く、ほんの少し嫉妬する。

 

「……なぁ、お前今ケータイ持ってっか?」

 

そして大きな校舎を眺めていると、リュウ君がそんな事を言い出してきた。

振り向けばポケットから携帯電話を取り出し、ぷらぷらと振っている。

 

「いや、悪いけど僕はまだそういうの……っていうか、機械類全般苦手で……」

 

「マジで? 化石かよお前」

 

彼は珍しいものを見たかのような(実際見たのだろう、僕を)顔をすると、今度はメモ帳とペンを取り出し何事かを記し始めた。

そしてすぐにページを破り取り、照れの混じった表情で押し付けてくる。

 

「電話番号。あん時見捨てた侘びって事で、何かあったら……まぁ、言え」

 

「……はは、じゃあパソコンとか買う時に相談に乗ってもらおうかな」

 

キャラに似合わぬ男らしい部分に驚いたが、断る理由も無いので素直に受け取っておく。

機械に弱いのは本当の事なので、いつか連絡する日も来るかもしれない。

 

「それじゃな」

 

「うん、また縁があったら」

 

そしてその挨拶を最後に、僕達は別れた。何でも彼はこれから休日特別授業があるそうで、その準備を手伝う途中だったらしい。

何となく清々しい気分で、徐々に小さくなるその背を見送った。

 

『……ふぅん?』

 

「っ」

 

はた、と我に返り。恐る恐る右眼を回してみれば、花子さんがこちらを見つめニヤニヤと笑っていた。意地の悪さが透けて見える。

 

「な、何です。何か問題でも?」

『いや、良かったね。って』

 

彼女はそう言って、僕の頭を柔らかく撫でる。当然その手は僕の頭を透過するが――何だろう、彼女が僕に触れられない幽霊である事を、酷く残念に思った。

 

(……は? いや、何でよ)

 

頭がおかしい。大きく一歩踏み出し、無理矢理彼女の手から距離を取る。

 

『なァめいこ。万が一に備えてその番号をちゃんと覚えときなよ。ものすーっごく大切なものだからねぇ』

 

『了解、であります。確かに、しっかり、それはもう、ものすーっごく、記録いたしました』

 

「……何なんだあんたら、くそ……!」

 

恥ずかしいやら居た堪れないやら。

僕はめいこさんにメモを挟み込むと、早足で校舎の中へと突撃して行った。

 

 

                      *

 

 

「どうもこんにちは。この学校で事務員をしている弥生と申します」

 

そうして会った弥生さんは、六十代始めくらいの上品な印象のある女性だった。

……こんな良い人そうなお婆ちゃんを騙そうというのか、僕は。ものすんげぇ罪悪感が押し寄せ、大きく胃袋が捻じくれる

 

「どうも、本日は羽車学院の卒業生である若風涼子先生の紹介で伺いました。取材に応じて頂き、ありがとうございます」

 

しかしその感情は心の奥に封じ込め、表面上は爽やかに自己紹介。

こんな心苦しい事はさっさと終わらせてしまおう。事務室に用意されたパイプ椅子に腰を下ろし、ペンとめいこさんを握り締め、取材のポーズを取った。

 

「はい、よろしくお願いします。それで、今日な何を聞きたいのかしら。涼子ちゃんからは、昔の色々な話をしてあげてって聞いているけれど……」

 

「はい。実は僕、告呂の歴史を調べるのが趣味でして――」

 

若風先生に吐いた物と同じ嘘を舌に乗せ、淀み無く説明する。

 

「へぇ、それは凄い。お若いのに向学心がおありで、大変立派だと思いますよ」

 

「ははは、いえそんな。僕はただ自分が知りたいだけでして……(ズキズキ)」

 

照れる振りをする傍ら、心中で何を思うのか。擬音で察して頂きたい。

 

「それで、今は近代の噂や怪談……つまり風説・風評について調べていまして。当時の学生達の間で流行っていた話題みたいな事をを聞かせて頂けたら、と」

 

「確かに昔から生徒さんと良くお話してきたから、それなりに話す事もあると思うけど……それでいいの?」

 

「はい、噂からは当時の流行や好まれていた話題の傾向を伺う事が出来ますし、怪談は実際にあった事件に通じている場合もあります。他の情報と合わせれば、その話に至った背景を考察する事も可能かもしれませんから」

 

『アンタの舌ってどうなってんだい』

 

少なくとも根本に二枚目が隠れているなんて事は無い。断じて。

しかし弥生さんは信じてくれたようで、感心したような表情だ。

 

「そういう物なのねぇ。でも、いつ頃の事から話そうかしら。私も長い事ここに居るから、何から話せば良いのか分からないけれど……そうね、まずは――」

 

……弥生さんのお話は、取材云々を抜きにしてもとても面白い物だった。

バブル期に流行った無駄にスケールの大きい噂話、明らかに何かドラマの影響を受けている都市伝説、一年ごとに細部の変わる学校の怪談……。

若風先生の言う通り、様々な話が流れるように出てくる。めいこさんが会話を記録してくれなければ、とてもじゃないが覚えきれなかっただろう。

 

(……でも、ちょっと、まずいかな)

 

しかし、どれだけ聞いても主目的である花子さんに繋がるような話が出て来ない。さりげなく話題を誘導もしてみたものの、反応は梨の礫。

このままでは、約束していた取材時間を越えてしまう。

 

「……そういえば、あなたは涼子ちゃんの教え子なんですってね。彼女、立派にしているかしら?」

 

「っあ、はい。何時も僕らの事を気にかけてくれて、凄く頼りにしています」

 

そんな折、僕にこの学校を紹介した若風先生の事へと話題が転がった。

さて、これ好機と取るべきか否か。チラリと花子さんを見やり、逡巡し――。

 

「そう……それなら良かったわ、本当に……」

 

「……?」

 

何故か心の底から安堵する様子を見せる弥生さんに引っ掛かりを覚えたが――そこで思考を止めた。

今まで何人もの顔色を伺ってきた僕の脳が、これ以上は踏み込んではいけない領域であると直感したのだ。

 

「あの子、昔から苦労人だったから。それが報われて良かった、本当に……」

 

しかしその配慮を無視するように、弥生さんは懐かしむ目で回顧を始める。

 

「あの子がまだ転校してきたばかりの頃は凄かったんだから。周りの人達皆に噛み付いて……書類整備での交流がなければ、私でも近づかなかったわねぇ」

 

転校してきた? という事は、若風先生は羽車学院の前に違う学校に居た?

それがどうした……と思わないでもなかったが、花子さんが先生に既視感を覚えながらも、羽車に関してはそれが無かった事を思い出す。

もしかしたら、その辺りに関わる可能性はある。相槌を打ち、先を促した。

 

「担任の先生やご家族ともあれだけ揉めてて、大人なんて信用しないって言ってたのに。今では立派な先生になって、あなたのような良い子に慕われて……」

 

ただでさえ糸のような目が更に細められ、どこか遠い場所を見る。

そして、その瞳には優しく暖かい光が灯り――ぽつり、唇を震わせた。

 

「――――」

 

――それは多分、僕にも聞かせるつもりは無かったんだと思う。現に僕はただの吐息だと思ったし、弥生さん自身の耳にも届かなかった筈だ。

けれど、この場にはもう二つだけ耳があった。人ではなく、生き物ですらない存在だったけれど――その内の片方の耳には、届いた。届いてしまった。

 

「…………」

 

手元のページに書き出されたその一文を見た時、どんな事を思ったのかは良くは覚えていない。

ただただ大きな申し訳なさと、総毛立つ感覚を得ていた事は心身が記憶している。

 

――あの妊娠事件、辛かったでしょうに。

 

……めいこさんのページの最後。ずらりと並ぶ今までの会話に付け加えるようにして、その一言は載っていて。

視界の端で、幽霊の首がぐりんとこちらに傾いた。

 

 

 




安中弥生:とても優しいお婆ちゃん事務員。多くの生徒から慕われている。
桜田竜之進:ヘタレの善人。手先が器用でイギリス人とのクォーターらしい。

2頁 捜索(上)にキャラのイメージ図を追加しました。場面想像の(略)


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3頁 路傍の華(下)

                      *

 

 

トイレの花子さん。消えた記憶。怪談。気絶。羽車学院。妊娠。転校――。

ぼんやりとした思考の中で、これまで得てきた幾つもの単語が渦を巻く。

 

「…………」

 

川中の竿、喉奥の小骨。強く引っかかる物を感じ、どうにも落ち着かない。

眼球に刻まれた呪いの影響なのだろうか。右眼を貫通して脳に突き刺さるそれは酷く感情的且つ抽象的で、具体的にと問われると何も答えられない。けれど、何故か奇妙な胸騒ぎがあった。

 

「……はぁ」

 

溜息を吐いて、改めて視線の先、立ちはだかる門の中心に刻まれた銘板を見る。

 

――そこに刻まれた名は、告呂歌倉女学院。地元内ではかなり有名な女子校だ。

 

規模は少々小さめなものの、創設時期はそれなりに古く蓄積された伝統と格式はかなりの物。平たく言えば由緒正しきお嬢様学校であり、弥生さん曰く若風先生が転校する前に通っていた場所であるそうな。

羽車学院とは立地的にそう離れていない事もあり、取材を終えた僕達はその足でこの場所へと訪れていた。

 

「…………」

 

チラ、と。同じく女学院を眺めていた花子さんに視線を向ける。

 

もう十分程になるだろうか。彼女はガラス球のような瞳で女学院の校舎を見つめ続け、微動だにしていない。羽車学院の反応とは雲泥の差だ。

いい加減見ていられなくなり、近くの塀に背を付け小さな声で問いかけた。

 

「……あの。そんなに気になるんなら、中見てきたらどうです。今回はアポも何もとって無いんで僕は一緒に行けませんけど、幽霊なら何の問題も無く――」

 

『――ねぇ、あの事務員さんが呟いてた事って本当だと思う……?』

 

ふと気付けばいつの間にか彼女の顔が僕の眼前にまで迫り寄っていて、瞳の中に浮かぶ澱んだ何かを差し向けている。思わず肩が跳ね、後退り。

 

「っひ。わ、若風先生の話です? 僕には嘘には見えませんでしたが……!?」

 

『……そう』

 

恐怖のままに上擦った声でそう言い放つと、花子さんは先程と同じくいつの間にか元居た場所に戻っていた。まるでコマ落ちした録画映像のような不自然さだ。

何だ今のホラー演出。文句を呟きつつホッと一息、ズルリと壁にもたれかかり。

 

「……あ、の。それで。中に入らないんですか?」

 

『…………』

 

反応は無い。彼女は無表情のまま微動だにせず、どこか虚ろな雰囲気を纏う。

僕は再び溜息を吐き、弥生さんの取材記録を見返そうとめいこさんを開き。

 

『――痛むんだよ。引っ掻かれるなんてもんじゃない、抉られるようにね』

 

唐突に、そんな言葉が落とされた。見れば彼女は左胸を掴み、俯いていた。

 

「……えと、胸が、ですか」

 

『多分さ、嫌なんだ。記憶が突つかれる度、近づきたくないって心が疼いてる』

 

「過去に、何か思い出したくない出来事があったとか?」

 

『多分ね。この分じゃ、きっと録でもない事なんだろうさ』

 

大きく溜息を吐き、柔らかな乳房を握り潰す。痛くないのかと心配になったけど、彼女は既に幽霊となっているのだから痛覚も何も無いだろうと思い直した。

 

……しかし、近づきたくない、か。

 

「……止めますか? 記憶を探すの」

 

暫くの沈黙の後、そう問いかける。

元々花子さんの記憶探しを始めたのも、僕の負けず嫌いが祟っての事だった。

当の彼女が思い出したくないのならば、それを尊重すべきなのだ。例え、不完全燃焼であろうとも。

 

「僕にも、何となく察せる。花子さんの失われた記憶は、失礼かもしれませんが、きっと胸糞悪い類の物なんだ」

 

『……ああ』

 

「だったら、やめたって……離れた方がいい事だって、きっとある」

 

『……………………』

 

花子さんも分かっているのか、深く逡巡していた。そして僕が見つめている中、ゆっくりと頭が縦に振られ――。

 

『……いや、それじゃダメだね』

 

――しかし、彼女はすんでの所で踏み止まり、無理矢理首を横に振る。

 

「……どうしてです? 嫌な事は……その、避けても良いと思いますけど」

 

『フフ、随分と似合わない事言うね、頑固者の負けず嫌いの癖に』

 

……刃物で胸を突き刺された気がした。様々な屁理屈と言い訳を捏ね回し、自らの罪と距離をとっている事を皮肉られているように錯覚する。

 

『図書館漁って、嘘吐いて、取材して。一週間と少しの間だけど、アンタの頑張りは見てきたんだ。ここまで来て止めてくれ――なんて、納得しないだろう?』

 

「…………」

 

『……何でそんなショボくれたカオすんだいよ。全く』

 

微かに感じる慈愛と信頼の情が、辛い。そんな僕の様子に花子さんは苦笑して、ゆっくりと頭を撫でてくる。それはやはり暖かく、優しい怖気だ。

 

『だから、アタシも頑張らなきゃ。素性も、記憶も。アタシが何をやらかして、何をされたのか。全部見なきゃいけないんだよ』

 

……そこで言葉は途切れ、暖かさが離れていく。

見れば、彼女は一人で校門の中へと進もうとしていた。

 

「…………」

 

地を踏みしめる足は無い。されど確かに前進する。僕にはその背中が輝いているようにも思え、自然と右眼を眇めてしまう。

羨望、或いは劣等感。

心を苛む激情に強く唇を噛み締めつつ、僕は静かに半透明の背を見つめ――。

 

『…………』

 

 見つめ。

 

『…………』

 

 見つ……。

 

『……悪いんだけどさ、やっぱり付いて来てくんないかね……?』

 

「………………えぇー」

 

輝きが一気に消えた。ガックリと力が抜け、抱いていた感情が霧散する。

せっかく格好良く凛々しい感じだったのに、これでは台無しではないか。

 

『また後日とかにしてさ、アンタも学校に入れるように許可取ってさ、ね?』

 

彼女の顔は年甲斐もなく赤く染まっており、もじもじと指先を弄っている。

いい年こいて何だよそのぶりっ子。

 

「……分かりましたよ。とりあえず連絡してみますが、期待しないで下さいよ」

 

『ああ、ありがとう。それダメだったら……まぁ、一人で頑張るから……さ』

 

自信なさげに照れ笑う花子さんではあるが、僕は彼女に頼られている事に少し嬉しくなった。まぁ、下らない自尊心の充実である。

 

(とは言っても、相手は女子校なんだよな……)

 

問題はそこだ。果たして男子禁制のお嬢様学校が、僕を迎え入れるかどうか。

頭のおかしい犯罪の増加する昨今、取材の申し入れが通る可能性はかなり低い。

少なくとも僕が職員だったら絶対に断る。となれば、どうするか。

 

「……最悪、夜に忍び込むしか……」

 

『…………本気かい…………?』

 

何やら花子さんが性犯罪者を見る目を向けるが、致し方ない事であろう。

先程は彼女一人で行かせようとしていたが、考えてみればそれが今生の別れになるかもしれないのだ。記憶を取り戻して昇天とか、幽霊物のお約束だし。

 

僕だって女子校への不法侵入なんて変態チックな事はしたくない。

でもお別れになるかもしれないのなら、最後まで見届けたいではないか。

 

「まぁ、とりあえず一回家に帰りましょうか」

 

勿論、そんな恥ずかしい事は伝えない。伝えて堪るか。

 

(……羽車の時みたいに、すんなり進めば良いんだけどなぁ)

 

僕は重たい不安を胸に、歌倉女学院を後にして――。

 

 

 

 

「――あの、本校に何かご用ですか?」

 

 凛、と。鈴の音のような声が、通り抜けた。

 

 

                      *

 

 

「……はい?」

 

女学院の生徒だろうか。振り向けば、そこには和装の少女が立っていた。

 

烏の濡羽のような黒髪と、そこに差し込まれた桜の髪飾りが特徴的な美少女だ。

休日の学校と和服とのミスマッチに疑問を待ったが、おそらく茶道部や生花部のようなものがあるのだろうと勝手に納得。

 

それよりも、その警戒心溢れる様子から見て不審に思われている事の方が重大だ。僕は瞬時に誠実の仮面を被り、にこやかな笑顔を浮かべた。

 

「ああいえ、後でこの学院に取材に訪れたいと思っているので、その下見に」

 

「……取材、ですか?」

 

「はい、僕、告呂の歴史を調べるのを趣味にしておりまして――」

口八丁の二枚舌。既に一回経験している為か、更によく回るようになった舌で平然と嘘を並べ立てる。詐欺師でも何でも好きに罵るがよろしい。

 

しかし少女は僕の説明に更に瞳を厳しく細め、あからさまに不信感を醸し出す。

 

『……かなり警戒されてるよ』

 

花子さんが僕の耳に口を寄せる。それは僕も感じてはいるが、今更止められる筈も無い。ここで話を止めれば更に警戒させる事になるのだから。

 

「……それで、よろしければ学院の先生方にお話を聞きたいのですが……」

 

「無理でしょう。報道関係の方ならば許可は降りるでしょうが……個人的な理由で、しかも貴方のような男子学生では許可を得る事は難しいと思います」

 

『……なーんか鼻につく言い方ね』

 

あなたのよーな、だってさ。胡乱げに少女を睨めつけ、花子さんは鼻を鳴らした。

まぁお嬢様学校というのはこんな物なのだろう。特に突っかかる必要も感じられず、スルーする。

 

『しかし、取り次いですら貰えないとなると、最悪の手しか無いのかねぇ……』

 

「……そうですね、やはりそうなりますか」

 

少女の話に納得し、言葉を返す素振りで花子さんにも頷いた。

 

「ありがとうございます。どうやら取材は諦めた方が良さそうですね」

 

「ええ、是非そうして下さい。どうかお引き取りを」

 

決まり悪げに笑い穏やかな人柄を演出しても、警戒は解けない。僕の一挙手一投足を見逃すまいと、頭に当てられた右腕をじっと見つめてくる。

そうしてこの雰囲気に耐えられなくなった僕は、挨拶もそこそこにこの場から離れようとして――どうせもう会う事も無いだろうと、最後に質問を置き残す。

 

「ああ、そうだ。この学校、ひょっとしてトイレの花子さんに纏わる事件とかありませんでした?」

 

「――――」

 

――瞬間、右眼の視界が僅かにぶれた。気がした。

 

「……仮に知っていたとして、何故貴方達に教えねばならないのですか?」

 

命中だ。その質問をした瞬間、少女の瞳に宿る物が変わった。

熱と冷たさを内包した、力強い何か。僕の右眼が朧気にそれを感じ取ったのだ。

 

『……ねぇ、早く切り上げた方が良いんじゃないのかい?』

 

「まぁ、それもそうですね。下らない事を聞いてすいません。では」

 

耳元で囁く花子さんへの同意と少女への謝罪を同時に行い、一礼。これ以上の不信感を与えないように、自然な様子を心がけて歩き去る

 

背中に視線が突き刺さっているのが分かるが、決して反応はしない。

……そうして、改めてこれから先に少女との縁が無い事を祈り、僕はその視線を振り切った。

 

 

 

 

――貴方達。

 

彼女が放ったこの一言。

もしこの時それに気づいていれば、後の展開も色々と変わったのかもしれない。

けれど残念ながら、当時の僕はポンコツだったようである。

 

 

 




「――霊魂と、違和感。関係者? いえ、だとしたら霊力が少な過ぎる――」




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4頁 泥と墨

                     3

 

 

編まれた髪は芯とされ、伸ばされた骨は紙となる。

 

 

                      *

 

幼子と暮らす日々は、決して優しさに溢れた物ではなかった。

私達の持つ異能、その子に集う怪異、それを疎んじる周囲。精神的にも肉体的にも、傷の原因となるものは幾らでもあったのだから。

 

否、傷だけで済むのならばまだ良い。時には命を脅かされるような出来事もあり、その度に私達は自らの住む村から距離を取っていく。

無論何も思わない訳が無い。私の事はどうでも良い、既に老い先短いこの身と心にどれ程の傷を受けようが、乾き切ったそれらは一滴の血すら流さないのだ。

しかし、幼子を拒絶し傷つける事だけは我慢がならなかった。あの子には何一つとして罪は無いというのに、何故あのように傷つかねばならないのか。

 

……だが、その子は憎悪に駆られた私を見て嬉しそうに笑い、告げる。

 

――私はだいじょうぶだよ、おじいちゃん。しんぱいしてくれて、ありがとう。

 

違う。大丈夫の訳がない。私の異能と違い、幼子の異能は人の心を見通す。自分に対する悪意を直接叩きつけられて、傷つかぬ筈が無い。

されどその子はそれを感じさせない明るい笑顔を持って私に抱きつき、怒りと憎悪を治めようとするのだ。

 

……私は、それに流されるしかなかった。その子が常に優しくあろうとするならば、私もそうならなければならない。

 

――そうか。お前がそう云うのならば、穏やかに暮らそう。奴らの側より離れ、何者にも脅かされぬ場所で過ごすのだ。

 

村より排斥されたのは、ある意味では望む所であったのかもしれない。

事実、再び山へと戻り共に暮らした数年間は至極平和なものであり、温かく素晴らしい記憶として残っている。

 

このまま永遠に過ごせたらいい。そう思って、ならなかった。

 

 

                      ■

 

 

『――時間であります。起きる、であります。そう、すみやかに、目覚めよく』

 

「……ん」

 

カサカサ、と。何か硬いものが胸を擦る感触で目が覚めた。

 

……せっかく、穏やかでいい夢を見ていたのに。

ぼんやりとした意識のまま胸元に手を這わせれば、ポケットの中のめいこさんがバッタの如く跳ねまわっていて――「うわっ」衝動的な嫌悪感を感じ、思わず引き抜き投げ捨てる。

気持ち悪いな。寝ている隙に服に潜り込むなんてムカデじゃないんだから――。

 

『……そりゃ無いんじゃないかねぇ。目覚まし頼んだの、アンタだろうに』

 

「ぅん……?」

 

胸元を擦りつつ振り向けば、花子さんが呆れた目でこちらを見下ろしていた。

寝ぼけ眼をぱちくりと瞬き、何用かと問いかけようとして――そこでようやく、我に返った。慌ててめいこさんを拾い上げ、折れ目の付いたページを伸ばす。

 

そうだった。仮眠するに当たり彼女に目覚まし時計になってくれと頼み、懐に入れておいたのは僕だった。

 

「ご、ごめん、ちょっと寝起きで分かんなくなってて……」

 

『非。へいき、であります。かなしくなんて、無かったり、するのです……』

 

どうやら多少なりとも気分を害してしまったらしい。どことなく刺々しい筆跡に罪悪感が込み上げる。

僕は今しがた見た夢の事もあっさりと忘れ、只管ご機嫌取りを続けたのであった。

 

――日曜日、時刻は深夜一時半。僕が歌倉女学院への不法侵入を決行する、少し前の出来事である。

 

 

                      *

 

 

『……ねぇ、本当にやるのかい? 女子校に潜り込むとか変態みたいなさ……』

 

「……言わないでくださいよ。僕だってそう思ってるんですから」

 

何だかんだでめいこさんの機嫌を直し、支度中。僕は大きく息を吐く。

 

一応、歌倉女学院での一件よりすぐ後、僕は電話で取材の申し入れを行った。

しかしあの髪飾りの少女が言った通り「お断りします」とけんもほろろに一刀両断。まともに取り合ってすら貰えなかったのだ。

本当は他の方法を探すのが物分りの良い選択なのだろうけども――。

 

(僕の事だ。どうせ時間を置けばそれだけ及び腰になって動かなくなる)

 

そうしたら、また図書館詰めに逆戻りだ。なら羽車学院に潜入した勢いに乗って行動した方がずっと良い。

 

「…………」

 

良い、のかなぁ。

一度人殺しを経験している所為か、犯罪に対する忌避感が薄れてきていないか、僕。

 

優等生とは何だったのか。心の裡で嘆きつつ準備を進め、最後にめいこさんをポケットに入れ――よく見れば、指先が軽く震えている事に気付いた。

 

緊張しているのだ。血液が冷たくなり、心臓が煩いほどに跳ね回っている。

何だかんだ言いつつも、やはり精神的にはキていたらしい。能動的に法を犯すという事実へまだ怯えられる自分に、少しホッとした。

 

『……悪いね、アタシが意気地無いばっかりに』

 

そんな声に振り返れば、花子さんは申し訳無さそうな表情で目を伏せていた。

気怠い表情か、こちらをからかう表情。主にその二つしか見ていなかったが僕にとってそのしおらしい態度は新鮮で、口元が綻ぶ。

 

「いいですよ、別に」

 

その言葉は、意外な程にすんなりと出た。彼女の似合わない態度のせいか、それとも単純に彼女への好感度が高まったのか。まぁ、どっちでも良い。

 

「……よし」

 

ともかく、行こう。

僕は懐中電灯を握り締め、玄関のドアノブを握った。

 

 

 

 

そもそも女学院に侵入し何をするのか。答えは単純、花子さんと共に校内を練り歩くだけである。

 

実際の学校の空気を直接肌で感じさせ、彼女の記憶を刺激すると同時、めいこさんに怪談や言霊を集積して貰うのだ。

記憶が戻ればそれでよし。例え戻らずとも、何らかの進展は見込める筈だ。

思えば、不法侵入までしてする事が学校観光というある種の「軽さ」が、罪の意識を薄れさせているのかもしれない。

 

『……開いたよ』

 

ガチリ、と。鉄錆が擦れる音と共に、閂が回る。歌蔵女学院の裏。体育館横の金網に設置されている、用務員用らしき小さな出入り口の鍵だ。

本来で専用の鍵が必要となるが、今の僕達には何の意味も無い。音を立てずに押し開き、素早く身体を滑り込ませ、再び施錠。瞬時に物陰へ身を潜めた。

 

酷くアッサリと事が済んだ。脈動する心臓を抑え、眼鏡をかけ直す。

 

『はぁ……片棒、担いじゃったなぁ……』

 

暗闇の中、花子さんが今しがた閂を外した右手を軽く振る。よく見れば、その姿は若干ながら存在感を増しているように見えた。

 

――融通。僕達の行った事をめいこさん風に表現するならば、それに尽きる。

 

怪談として再現された霊魂は、現実世界へ干渉出来る。その法則を利用し、予め敷地内に花子さんを移動させた上で実体化、内側から鍵を開けて貰ったのだ。

 

(……まさかまた、この怪談を利用するとは思ってなかった)

 

ちら、と金網の外を見る。狭い道を囲む石塀に二箇所、雑草に隠れる程の低い場所に小さく落書きが描かれていた。

 

それは二つの『界』の文字――『異小路』を再現した、その痕跡だ。本当は他の怪談を利用したかったのだが、悔しい事にこの場で再現出来得る程に汎用性の高い怪談が他に存在しなかった。

その為めいこさんに頼み込み、血を吐く思いで削除されていたそれを復活して貰ったのである。

 

何せ告呂の地という大前提を守れば、道に文字を二つ書くだけで容易に再現できるのだ。反則だろこれ。

 

『……どうしたよ、そんなしょっぱい顔してさ』

 

「いえ、別に。それより用済みの怪談から解放しますけど、良いですか?」

『ああ、別に構やしないけど……』

 

まぁ、その事に対するアレコレは今考える事では無い。

 

現在時刻は二時を少し回った所。学校関係者の第一陣が何時登校してくるのかは分からないが、残り時間は決して多くはない筈だ。

僕は花子さんと頷き合うと、物陰から身を晒し、足早に校舎へと向かった。

 

……小さく震える彼女の指先には、気付かなかったふりをして。

 

 

 

女子校。しかもお嬢様学校であるのだから、さぞ華々しい場所なのだろう――そう思っていたのが、見た感じでは普通の学校と余り差異は無いように思えた。

別に何かいかがわしい期待をしていた訳ではないが、ガッカリ感は否めない。

 

「警備員とか、居ないみたいですね」

 

『……そうだね』

 

自転車置き場の影から顔を出すが、少なくとも見える範囲に影は無かった。

とは言え油断はしないまま、照明の無い真っ暗な道を歩く。

 

「にしても、女子校って言っても結構普通なんですね。フリフリのフリルが至る所にあったり、フローラルな香りが漂ってたりとか想像してたんですけど」

 

『……そうだね』

 

「ええと、とりあえず、どうしましょうか。時間的に不安がありますし、トイレの方から回りますか?」

 

『……そうだね』

 

「……。あの、花子さん?」

 

気のない返事に違和感を覚え、花子さんの様子を窺えば、その目は虚ろに窪み、意識はここに在らずといった風情。記憶の裡に潜行しているようだ

 

(まぁ、集中散らすのもアレか……)

 

溜息を一つ。手持ち無沙汰になった僕は、何か怪談が収集されていないかと、めいこさんを開いた。

と言ってもまだ敷地に入ったばかりなので、期待はしていなかったが――。

 

「……『ゆくえ父めい』?」

 

意外にも、よく分らない怪談が一つだけ収集されていた。

 

『霊魂の封入されていない、無編集・非活性の怪談、のようであります』

 

「ふぅん? どんなの……って、長いな。何か」

 

それはこれまでとは違い、丸々一ページ近くに渡る口語文だった。

軽く斜めに目を通せば、それはどうもこの学校で起きた集団妊娠事件に関する話のようで、その趣味の悪い内容に眉が皺寄る

……だが、記憶を擽るものもまたあった。

 

(妊娠、事件……)

 

思い出すのは、弥生さんが漏らした例の呟き。

何か、関係があるのだろうか。僕は不快にざわめく胸を抑えてもう一度、今度は深く目を通し――。

 

『――ッガ!?』

 

「ッ、うぐァっ……!?」

 

前触れ無く文章が黒い火花となり弾け飛び、右眼を衝撃が貫いた。

 

大きく首がネジ曲がり、意識が飛びそうになるが――「ぃ、ぎッ」しかし歯を食いしばって堪え、同時に聞こえた花子さんの声に右眼を向ける。

すると彼女は身を仰け反らせ、痙攣を繰り返していた。限界まで見開かれた目は血走り、明らかに異常な様子だ。

僕は閉じそうになる右眼を指で無理矢理こじ開け、彼女の下へと走り寄った。

 

「ぅぐ……は、花子さん!? どうしたんですか、花子さん!」

 

背中をさすろうとしても触れられず。ただ焦りが積もる中、どうすれば良いのかも分からず唇を噛み。

 

『――ここで、さ。注意した。気がするんだ』

 

「っ、は、はい?」

 

ぽつり、と。仰け反ったままの花子さんが、震える声でそう言った。

 

『その娘の自転車、ブレーキが壊れてたんだよ。なのに大丈夫って言って聞かなくって、しょうがないから自転車屋まで送ってやって……いや、そう、そうだ。他にも、アタシは』

 

「あの、どうしたんですか。ねぇ」

 

『皆、とてもいい子だった。優しくて、正義感があって、でも少しやんちゃで。あの頃はまだ共学だったから、女子も結構男子どもに流されてるのが――……多く、て……』

 

そうして緊張と共に花子さんの記憶の断片らしき物を聞き続けていると、最早独り言と呼ぶのが相応しいであろう彼女のそれがプツリと途切れ。

 

『違――な、……っを、何も、アタシは、見てただけで……――ぁぁぁあああああッ!』

 

「っ!?」

 

唐突に、叫んだ。

酷い悪夢か、それとも嫌な記憶でも蘇っているのだろうか。

右眼を通して花子さんの絶叫が脳内に反響し、吐き気と頭痛さえ催してくる。

 

(っく、くそ、どうする。えと、とにかく、何か対処を、)

 

混乱し、助けを求め手帳へ視線を落とした瞬間――当の花子さんと目が合った。

…………、は?

 

「ぁ――、うぉああああああッ!?」

 

本当に、何時の間にか。血走った瞳が眼前に迫り、僕を覗き込んでいたのだ。

気付けばあれほど煩かった声も既に無く、反対にこちらが絶叫し、飛び退る。

 

『……ぁ、あ。行こう、行く、ンダ。あぁ、タシは、アタシ、は…………』

 

「っひ、ぁ、え? い、いや、ちょっと……?」

 

恐怖に心臓が激しく脈動する中、花子さんは何事も無かったかのように身を起こすと、昼の時と同じく途中動作を省いたコマ落ちの動きで暗闇の中へと進み――やがて、その背が黒に溶け、消えた。

 

「な……なんだ? 今、何が……」

 

『こ、こわい、であります。いつもの、やさしい、と違うであります。ひぃ』

 

ポンコツ手帳と二人、暫くそのまま呆然。心に恐怖が生まれ、じわりと燻る。

 

(っ、く、くそ、でも……!)

 

けれど、放っておく訳にはいかない。すぐに我を取り戻し、僕もまた慌てて暗闇の中へと沈んで行った。

 

 

                    *

 

 

《――中庭にある灯籠、よく悪い事に使われてたな。中にタバコとか突っ込まれて、隠されてて……》

 

《――この壁。昔は蔦がベタベタに張ってた。ああ、それを伝って、二階に登ったバカが居たねぇ……》

 

《――華宮、思い出すね。そう、学校でも一番の美人さんで、生徒の中じゃ1番仲良しだった。若風と、三木。あいつらとよくつるんでた……》

 

 

「何だ、この声……」

 

姿の見えない花子さんを探している最中、僕の頭には彼女の声が響き続けていた。否、それだけでなく、声に呼応した情景すらもうっすらと脳に奔っている。

それはまるで、彼女の記憶を――いや、思考を読み取っているような……。

 

「……思考を、読み取る?」

 

呟く内にふと気づき、手に持つめいこさんを見た。

彼女は思考を読み取り文章に起こす能力を持っている。それが現状に何らかの作用を齎していても、僕は不思議とは思わない。

先程受けた衝撃で何かの回路が繋がったのだろうか。痛みの消えない右眼を抑え、悩み。

 

《――この窓枠、木目。無いのは走り回る生徒だけで、殆ど前と変わっちゃいない。はは、そういえば声がイカれるほど怒鳴った事も――》

 

「っ、いや、今は考えるより追わないと」

 

次々に流れてくる声に頭を振り、気を取り直して走り出す。

 

窓枠という事は、既に校舎内に入っているのだろう。

幸いというべきか、この学校は生徒数が比較的少なく、校舎の数も少ない。手当たり次第に当たったとしても、大した手間にはならない筈――。

 

「……そうだよな。今の時間、鍵なんてどこも閉まってるよな! バカか!」

 

懐中電灯に照らされる、しっかりと締め切られた校舎を見ながら毒づいた。

前言撤回。やっぱり手間だ。

 

《――皆、大好きな子達だったのに。守るべき、子達だったのに……》

 

……そうして、延々と、延々と。片っ端から鍵の開いてる場所を探している間にも、花子さんの声は止まない。

そして垂れ流される言葉と情景を見聞きし続ける内に――気付けば、彼女の正体について大方の察しがつき始めていた。

 

「花子さん、生前はここの教師だったのか……?」

 

語り口からいって、その筈だ。

そして理由は分からないが、彼女は酷い自己嫌悪に陥っている。それも、絶望と表現出来る程に深く。

 

(くそ、何処だ。何処かに入れる場所は無いのか?)

 

とてもとても、嫌な予感がする。焦りのままに校舎の窓を弄ってみるけど、やはり開かない。

僕は大きく舌打ちを打ち鳴らすと、すぐに別の場所へと向かい、

 

《――……ソイツはね、この学校の保険医だったんだ》

 

まるでスイッチを切り替えるかのように、花子さんの声質が冷たい物へと変化した。

同時に背後で小さな音が響き、振り向けば先程弄り回していた窓が開いていた。

 

「……開けてくれた……ん、ですか?」

 

恐る恐る周囲を伺い問いかけるが、やはり返事は無く。

 

「…………」

 

開かれた窓。その内側から善くない何かが流れ出ている錯覚がしたのは、きっと気のせいじゃない。

しかし、他の選択肢は無かった。一度深呼吸をし、意を決して窓枠を跨ぐ。

 

「……暗いな。当たり前だけど」

 

『あしもとには、気をつける、のでありますよ』

 

入りこんだ教室の中は真っ暗で、廊下に出てもそれは同様。

月明かりは遮られ、唯一消火栓の赤いランプが灯るだけ。少し先の光景すら闇の中に霞んでいた。

 

《――好青年、ってぇのはあんな風な事を言うんだろうね。何時もきっちりしてて人当たりも良くて、学校内でも人気者だった》

 

それにしても、先程から何の話をしているのだろう。

保険医という男について話しているのは分かるが、その意味が分からない。

 

まだ錯乱したままなのか、それとも。疑問に思いつつ、廊下を進む。

教室、物置、そして本命のトイレ。一階の様々な場所を覗いたが、花子さんの姿は見つけられず。そうして、二階への階段に足をかけ――。

 

《――……思い返してみれば、アンタと少し似ていたよ。眼鏡とか、外見も》

 

「え?」

 

いきなり水を向けられ、思わず天井を見上げる。

独り言かとも思ったけど、眼鏡がどうこう言ってたし、僕だよな。多分。

さっきの話からすると褒められているような感じだが――何故か、全くその気がしない。逆に貶されている気さえする。

 

《――でもね。アイツの心の中は、ドス黒く汚れてたんだ。外面だけ取り繕って、裏じゃ保険医って立場を利用して、女の子達相手に好き勝手やってたのさ》

 

……正直、色々と突然過ぎてまるで真意を察せなかったが、意味不明と切って捨てるには言葉に重みがありすぎた。

僕はただ流されるそれを脳に刻みながら、続いて二階の探索を行う。けれどやはり彼女の姿は見つからず、すぐに切り上げ三階に。

 

「……?」

 

その際、階段の踊り場を通り抜ける一瞬。窓から見える校門の前に、青い乗用車が止まっているのがうっすらと見えた。

誰か職員がやって来たのか。咄嗟に懐中電灯の明かりを絞り、物陰に身を隠す。

そして暫く様子を窺うものの、光もエンジン音も無く、人の気配も無し。

 

(……駐車しただけの無関係か、或いはもう校内に入っているのか)

 

何にせよ、警戒は強めた方が良い。喉を鳴らし、静かにその場から離れた。

 

《――アタシがその事に気付いたのは偶然だった。たまたま保健室に立ち寄った時に、一冊のノートを見つけたんだ。

 少し席を外していたみたいでね、保険医の姿は無かった。ノートは机の上に書きかけのままで放置されていて……そん中には何人もの女生徒の「記録」が事細かく残されてたよ》

 

「…………」

 

三階に上がった途端、空気が澱んだ錯覚を受けた。

怒り、嘆き、悔恨。右眼が再び強く疼き始め、敏感に負の感情を察知する。

そしてそれは――始めの予想通り、トイレの方から漂っているように思えて。

 

「……やっぱり、結局ここに戻るのか」

 

トイレの花子さんという怪談における根幹的シチュエーション。

男子か女子かの違いはあれど、当の怪談で指定されていない以上は無視できる。ゆっくりと、廊下を進んでいく……。

 

《――ぞっとした。書かれていた「記録」にはアタシの知ってる名前もあってね、でもそんな事されてるなんて、全然思いもしてなかった》

 

……詰まる所、酷く屈折した女好きだったって事さァ。それこそ、醜悪な程に。

屈折した女好き。それがどういった意味を孕むのか理解出来ない訳では無かったけれど、意図的に思考を鈍らせる。胸糞悪い事柄だと容易に予想できたから。

 

そしてそれきり、プツリと声が止まった。丁度、トイレの扉に触れた所だ。

 

「……続きは中で……ってか」

 

硬い軽口を叩きつつ、指先で扉を押し開く。

……こういう場所はどこも同じらしい。トイレ特有のすえた臭いが鼻を突き、今度こそ完全に女子校へ抱いていた幻想が壊された。

 

そして、部屋の中央。探し求めた彼女は、タイルの床にしゃがみ込んでいた。

 

「! 花子さん!」

 

女子トイレに入るという行為に、忌避感なんて抱いていられなかった。

僕は衝動的に彼女の下へと走り出し――。

 

「っ」

 

ぴちょん、と。何か、粘性のある雫が落ちるような水音が聞こえた。

同時に右眼が強く痛み、嫌な予感が足をその場に縫い付ける。

 

『それで、呆然としてたらアイツが帰って来た。タイミングが悪くノートを持ってる所を見られて、言い争って揉み合って、それで首を締められて……気付けば、ア、アタシは、今のこれ。目だけ残して縛られて、狭い所に押し込められた……!』

 

手洗い場の蛇口に目をやったけれど、どこも開いては居なかった。

白い石造りのその場所は乾いたままで、水の気配は微塵もない。

 

……では、どこから?

 

『ぐるぐるぐるぐる。ずっと文字が回ってたァ。き、気持ち悪い情欲が、理解したくもない達成感が、延々と延々と頭の中にねじ込まれるんだよ』

 

ぴちょん、ぴちょんと水音は続き、やがてその間隔も狭くなる。

周囲の空気が焦げ付いたように重く淀む。右眼が、脳が一層痛みを訴える。

耳鳴りが酷く、膝を突いた。胃の奥から寒気が上り、肌の泡立ちが止まらない。

 

『ああ、気持ち悪い、反吐が出る。思い出しただけでも吐きそうだァ……!』

 

「は……、花子、さん…………?」

 

彼女が何を言っているのか、何を伝えようとしているのか。答えは既に僕の中で形作られているというのに、それに理解が追い付いていない。

もどかしさの余り、僕は低い唸り声を上げ――「……ッ」見た。見てしまった。

 

……彼女の朧げな足元に、黒い水たまりが広がっている。

 

『……なぁ。アタシが押し込まれたその場所、何処だと思うよ』

 

「……、………………っ」

 

理解は及んだ、口も開く。だが、答えない。

何故ならそれは既に明確となっている事柄であり、前提でもある以上言葉にする必要すらないのだから。

 

――そうして何の反応も返さない僕に、花子さんは滑らかさの欠けた緩慢な動きでこちらを振り返った。

 

「ひ……――、っう」

 

彼女の両眼は、黒い粘液によって濁りきっていた。

計り知れない程の悪意と嘆きが込められた、汚泥の詰まった深い沼。それは先日の丸眼鏡の男と同じく、只管に負の感情でもって僕を貫き、見つめ。

 

『アンタはアイツに、よく、似ている。それは在り方であり、容姿であり――そして、最後に、もう一つ……ッ!』

 

カチリ。何か引き金を引くような音を聞いた瞬間、喉元を衝撃が突き抜けた。

 

「ぁ――ッガ、は……ッ!?」

 

首が外れたかと思った。音もなく伸びた彼女の腕が、僕の喉を握り絞めたのだ。

ミチミチと肉を締め付け、骨を潰す。何故、どうして。そんな疑問は今更抱くべくも無い。

僕をその保険医とやらと似ていると言い、激昂した。それはつまり、そういう事なのだ。

 

「……ぁっ……あ゛ぁ……!」

 

痛い、苦しい。強い圧迫で首から上に血が昇り、旋毛から血や脳みそが吹き出しそうだ。涙と鼻水が流れ落ち、恐怖が心を支配する。

慌てて彼女の腕に爪を立てようとするけど、それは触れるに至らず空を切る。

 

待て、待ってよ、おかしい。このままじゃ僕は、死――。

 

「――…………――……」

 

……いや、それも当然の結末なのかもしれない。度を超えた苦しみと混乱の中、冷静な部分の僕がそう囁いた。

無論、僕も死にたくない。死にたくない――けれど。

 

(……で、っも。僕が、やった事、めいこさんを持っていた奴らの、事。それ、考えれば、殺されるの、って……?)

 

――酷く、妥当なんじゃないか。

 

ふとそんな考えに至った瞬間、僕の中から抵抗する気力が抜け落ちる。

まずい、と思ったけど手遅れだった。

力が抜け落ち柔くなった首に一層深く指が食い込み、頸動脈が潰され視界が真っ黒に染まった。

 

「……――……か、びゅ」

 

グルン、と眼球が裏返る。鼻奥にツンとしたしょっぱさが込み上げ、それを最後に僕の意識が暗転。感覚も思考能力も、全てが唐突に終わった。

暗い、昏い、冥い。脳が、心臓が、内臓をかき分け下方へと落ちていく。

地面に叩きつけられたそれは音を立てて弾け、彼女の垂らした汚泥と混じり合い――。

 

 

――ぷくり。右の手首が弾ける音が、真っ暗な世界に残響した。

 

 




故・保険医:女性に対し某かのコンプレックスを持っていたようだ。


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5頁 邂逅、そして

                     ■


――そのノートの内側には、所有者の劣情が記されていた。

元々、それは単なる日記帳に過ぎなかった。
日々のちょっとした出来事を連ね、ほんの少しのストレス発散と共に記録する。そんなささやかで、些細なもの。

……しかし、それが歪み始めたのは何時の頃からだっただろう。
ページを埋める内容が不満に満ちたものへと変わり、それはやがて劣等感や憎しみといった負の感情となり。最終的に、自らが陥れ蹂躙した者達の「記録」へと成った。

そうして長い間――それこそ数年、何十冊にも渡り積み重ねられてきたそれらは最早怨念にも等しく、文字の一つ一つに異常なまでの情念を纏い、放ち。
霊気、或いは妖気。見る者が見れば即座に「善くない物」と看破できたであろうそれは、最早魔本とでも表現すべき物となっていたのだ。

――だからこそ、「彼女」が宿る条件を満たしてしまった。

きっかけは、とある女性の死。
「彼」は、偶然からノートの中身を目撃し、尚且つそれを公にしようとしたその女性を口論の末に殺害してしまったのだ。
女性は自らの首を絞める「彼」に激しく抵抗し、その指や腕を力の限り引っ掻き、肉を抉る。
殺意と焦燥の含まれた、赤。それはほんの僅かな量であったが、激しく揉み合う内にノートに降りかかり――この瞬間、ノートは一線を越えたのである。

……怪異を操る超常の力。その使い方を理解した「彼」は、己の歪んだ欲望に容易く屈し、箍を外した。

殺害した女性の亡骸を怪異を用いて処理し、魂すらも自らの欲望の糧として。「彼」は女性の全てを奪い尽くした上で、極めて陰惨な蹂躙を行ったのだ。

――身動きの取れぬ場所に縛り付けられ、他者を貶す為に消費される日々。

それは善き教師であった彼女にとって、これ以上無い程の地獄であった。
一体何度泣き叫んだだろうか。止めてくれと、許してやってくれと懇願しただろうか。それこそ肉体があれば喉から血が吹き出す程に、叫び、叫び、叫んだ。

しかし、その悲痛な声は「彼」に喜びしか齎す事は無く、「彼女」の無機質な心にも届かない。
彼女が醜態を晒す度に「彼」は笑みを深め、行いの悪辣さを加速させるだけだ。
後先も考えず、手を変え品を変え趣向を変え、一人、また一人。彼女にとって愛すべき存在だった者が穢されて行く。その光景を間近で見せつけられる内に、彼女は怒りと憎しみに支配され、怨霊へと成り下がった。

拓かれるのは最悪の未来。「彼」の欲望が満たされ、劣情に満ちた哄笑が響き続ける世界。
怨霊は、これから先その醜悪な時間が永遠に続くのだと絶望し――。


「――梅の火、焔の明――!!」


――しかし、炎に揺らめく一輪の華が、その一切を終わらせた。

慈悲、浄化、告別――三つの意味が込められた、優しく色鮮やかな炎の華。
猛り狂うそれは、「彼」も女性も、魔本も、劣情も、怨念も。何かもを平等に焼却したのだ。

……本来ならば、怨念を払われた女性は穏やかに天へと昇る筈であった。しかし彼女の精神は癒やされる事は無く、炎に塗れた身を抱え慟哭した。

何故、早く来てくれなかった。何故もっと早くに気付いてくれなかったのか。
もう既に数多の不幸がばら撒かれ、手遅れとなっているのに。
どうしようもない未来に育ち、悲劇を実らせる種が撒かれてしまったのに。何故、何故、何故――!

失われたものが戻らぬ以上、彼女に救いは存在し得ない。
狂い果て、理性が戻る事も無く、魂の消滅するその瞬間まで黒い汚泥を撒き散らし、呪詛の言葉を吐き続けた。

最早、自分が憎んでいたものが誰なのかも、自分が何者なのかも思い出せず。残ったのは、常軌を逸する程に昏き怨念だけ。

「……先生ぇ……」

……意識の消える末期に見た、焦げ付いた景色の中で涙を流す少女。
きっと大切なものであった彼女の名前も、黒に汚れ読む事は叶わなかった――。



                      ■

 

 

――その夢から覚めた時。気付けば僕は、冷たいタイルに身を伏せていた。

 

「ッガ、ひゅ……ッ!」

 

脳に刺さるのは、背骨を走る激痛と断続的に後頭部へと襲い来る鈍い熱。

本能的に呻き声を上げようとするけれど、気道が詰まり声が出ず――ここに至り、ようやく呼吸すら満足に行えていない事を知った。

 

「は――っげほっ、何……っぐ、ぁっ……?」

 

背中が痛い、首が痛い、何より頭が凄く痛い。

一体何が起きたんだ。床に爪を立て身を起こしながら、必死に頭を回転させる。

 

『……く、っう。そ、うだ。華、み……』

 

「!」

 

反射的に顔を上げれば、目から汚泥を垂れ流し、懊悩するように膝をつく花子さんの姿が見え――その瞬間、僕はついさっきまで死にかけていた事を思い出す。

多分、彼女に首を絞められ失神した後、ぶん投げられるか何かをされたのだ。

壁にでも打ち付けたと思しき背中が一際酷く痛み、その推察を補強する。

 

「っく、は、早く、ぅ……!」

 

現状把握をしたのなら取る行動は一つだ。震える眼球を必死に抑え、手元から離れためいこさんを探す。

足元――無い。体の下――無い。目の届く範囲――無い。

どこだ、どこに行った。今の花子さんはまともじゃない、何とか出来るのは彼女だけなのに……!

 

『…………めん、よ』

 

「っひぅ……!」

 

ビクリと肩を震わせ、恐る恐る花子さんの様子を窺った。

視線の先で蹲っている彼女は、未だ某かを呟き続けている。先ほどの絞殺される恐怖が蘇り、無意識の内に壁に縋りつき――。

 

『――ごめん、ごめんよぉ……あ、アタシ、アタシは……ッ』

 

……その声を聞き、初めて彼女が本当の意味で泣いている事に気がついた。

 

「っは、花子、さん……?」

 

先程まで抱いていた恐怖を忘れ、思わず声をかけてしまった。

しかし彼女はタイルに手を付き項垂れたまま、悔恨を湛えた黒い水溜りを作り続けるままだ。

 

『……こ、ここさ。このトイレで、三木も、若風も、沢山の娘が倒れた』

 

「……え?」

 

『最初に印をつけるんだ。ロッカーに「好き」って書いた紙を入れるだけで良い、それだけでその娘は爆弾を持つ事になる。アタシの手元まで導火線の繋がった、ふ、不幸が、詰まった、爆弾……!』

 

一瞬眉を顰めたが、すぐに『トイレの花子さん』の再現条件だと察した。

ラブレターを受け取りトイレを開けた生徒を気絶させ、保険医が許可を出すまで目覚めないという文面。

 

何の為にそんな怪談を編集したのか、ずっと疑問ではあった。

だけど、今ならば分かる。それは――哀れな餌の捕獲方法だったのだ。

 

『あ、後はその娘が手洗いに行くのを待てば良い。女の子ってのは何かと入用だからね、一日に一回は絶対行く。そうして……アタシが、気絶させて、あのクソ保険医の所に運ばれて、それで――それで……ッ!』

 

「っ」

 

右眼が再び痛み出し、彼女の記憶が脳裏に奔る。

 

それは、断じて僕みたいな十五のガキが見て良いような光景じゃない。

保健室。眠る少女達の裸と、彼女達に対する保険医らしき男の行為。

それは正しく畜生未満の行いだ。劣情なんて欠片すらも湧かず、ただ強烈な不快感だけが渦を巻く。

 

『酷い、話になった。ああ、思い出せるよ。町では面白おかしく噂されて、騒がれて。アイツは、それを聞いて笑ってた。自分がやったんだって、傷だらけになったあの娘達を、指差して……』

 

ふと、ここに侵入した際に収集した『ゆくえ父めい』という怪談を思い出す。振り返れば、それが花子さんの様子がおかしくなったきっかけだ。

僕はどのような怪談だったか思い出そうとして――掌に痛みを感じ、止める。

 

見ると握り締めた拳から一筋の血が流れていた。

……怒り。そう、激しい怒りを感じているのだ、僕は。

 

『……ごめん、よ』

 

すると花子さんがほんの少し顔を傾け、大量の汚泥を流し続ける瞳を上げた。

視線は黒に覆われ見えない。でも、言葉は確かに僕の方へと向いている。

 

『アンタは、アイツとは無関係――それも、そんな風にあの娘らの為に怒ってくれる優しい子だ。感謝こそすれ、手を挙げるなんて筋違いに過ぎるのに……本当に、ごめんね』

 

「……い、え」

 

許す、とは簡単に言えそうもなかった。

詳しい原理は分からないが、僕は確かに花子さんの過去を見た。保険医と同じ力を持った僕を殺そうとした気持ちは、理解できなくもない。

 

だけど、殺されかけた相手にいきなり歩み寄れ、なんて。それが例え肉親でも難しい事だと思う。少なくとも、僕にその度量は無かった。

花子さんはそんな僕の様子に寂しそうに笑い、ふらつきながら身を起こす。

 

『……あと、これもだね』

 

「……!」

 

その手に、めいこさんが握られていた。

ポタポタと黒の滴る指で、赤い表紙をゆっくりとなぞる。

 

「あ、あの……それ……」

 

『何もしやしないよ。分かってんだ、これは――今のこの娘は、かつての冷たかったもんとは別モノだ。そもそもただの道具で、悪いのは使った奴……ああ、そうさ。何やったって駄々捏ねにしかならんのさァ。もう、ねぇ』

 

しわがれ、掠れた声。何もかもを諦め、この世の全てに疲れ果てた者だけが持つ声域。

 

『……自分勝手だけど、思い出さない方が良かった。こんな気持ちになる位なら、アンタを殺そうとする位なら、いっそ何も思い出さないままで良かったよ……』

 

……その言葉は、僕の深い所に突き立った。

 

この一週間と少しの結末がそれなのか。ショックを受ける僕を他所に、花子さんは静かに中空を見つめる。

何か、楽しかった頃を思い出すように。或いは自らの罪を思い返すかのように。

窓から差し込む月明かりに照らされながら、懇々と、粛々と。眼孔から流れ出る物が無ければ、ドラマか映画のワンシーンのようで――。

 

 

――――ああ、しにたい。彼女は絞りだすような声で、そう言ったのだ。

 

 

「え?」

 

カシャン、と。何かが砕ける音がした。

小さく、しかし確かにその音は僕の右眼を貫き、穿ち。同時に彼女の頬が弾け、黒いガラス片となり地に落ちる。

丸眼鏡の男の時と同じ現象にも見えたが、そこに救いは感じられない。

 

『……ん、ああ。何だ、消えるのか、アタシは』

 

その欠損は身体の各部位にも及び、少しずつ人としての形が失われていく。

しかしそんな状態だというのに、彼女は取り乱す事さえしなかった。そこには一片の未練も無く、あるのは諦めによる後味の悪い解放感だけだ。

 

「っ、は、花子さん!」

 

このまま彼女を見送ってしまえば、僕はきっと一生後悔する。右眼の疼きに、そう予感した。

 

「あの! それで良いんですか? だって、あなたはそんな、ええと……!」

 

『良いんだよ、贅沢言うなら地獄にでも行ければ万々歳なんだけどねぇ』

 

「そうじゃなくて、だから……ああもう! 国語は得意な筈なのにッ!」

 

何て言えばいい。何をどう言葉にすれば、僕は。

 

伝えるべき言葉が出て来ない事がもどかしく、頭皮を引っ掻き地団駄を踏む。

花子さんはそんな半べそをかく僕を見て、泥を隠すように目を細めた。その諦めに満ちた表情に、目を逸らす事が出来ず。

 

『もう、良いんだ。アタシは、アンタの前から消えるべきなのさ――』

 

――頭の中を回る焦燥が、ハッキリとした像を結ぶ。

 

それは恥を晒すに等しい告解だった。しかし幾ら葛藤しても他には選択肢は無い。紡ぐしか、無い。

 

「……さ、さっき、花子さんは僕を優しい子だって表現しました、よね」

 

『うん?』

 

「だけど、違うんだ。僕はそんな良い人間じゃない、もっと……侮蔑されるべき人間で……!」

 

訥々と。ともすれば震えそうになる声を無理やり押さえつけながら、痰の絡んだ言葉を吐き出した。

 

「本質的には、あんた以上に酷い奴なんだ。保険医ってクズとはベクトルが違うかもしれないけど、同じくらいに腐ってる。そうだよ、だって僕は」

 

『……なぁ、アンタ何言って――』

 

 

「――――僕は! もうとっくの昔に二人殺してるんだよッ!」

 

 

……言った、言ってしまった。

 

彼女に幻滅される事、山原達への行為を罪と認めた事。色々な事から逃げたくて堪らなくなり、僕は何も見ないよう顔を俯かせ、続ける。

 

「ひ、一人は僕の幼馴染で、もう一人の事はよく知らないけどクズだったって事は分かってる。そう確信できる程の事をされたんだから」

 

伏すべき秘密を他人に向かって吐き出す高揚感。あれ程鈍っていた舌がよく回る。

 

「使ったのはさっきも再現した『異小路』っていう怪談。僕は最初、殺すまでとは思ってなくて、異世界かどこかに飛ばすだけって受け取ってた。だ、だけど、違かった。引きずり込まれた二人はぐちゃぐちゃのよく分からない何かになってて、アレは絶対人間として死んでいた」

 

きっと、山原と井川という存在はその根底から死んでしまったのだろう。

人間としての形を失い、魂すらも交じり合っていた。もしアレで生きていたとしても、それは彼らでは無く別の存在となっていた筈だ。ならば殺したという事には何ら変わりない。

 

「最初あんたの願いを聞こうと思った切っ掛けも、殺人って重圧から逃げるためなんだ。ダメだって分かってるのに、何だかんだ理由をつけて自首やら罪の意識やら嫌な物から距離を離そうとしていた」

 

『…………』

 

彼女が何を思い、どんな表情を浮かべているのか。俯く僕には分からず不安が心を掻き毟るけれど、今ここで立ち止まっては意味が無い。

 

『……それで? アタシにそれを告白してどうしようってんだい』

 

「別にどうも、しない。ただ知って欲しかった。僕がやった事、優しい人間じゃないって事……そ、そして――」

 

 

――そして、あんたが消えれば、僕はまた新しい理由をつけて逃げ出すんだ。

 

 

『……あァ?』

 

その情けない言葉に返って来たのは、ドスの利いたハスキーボイス。

人生で初めて教師に怒られる事になるかもしれない――そんな事を嘆きつつ、僕は粘着く唾を嚥下した。

 

 

                      *

 

 

『それは……どういう事だい。あまりよろしくない意味に聞こえるけど』

 

強まる寒気に眼球が微細に震え、緊張に胃が引きつった。けれど、正攻法に説得している暇なんて無い。

 

「だ、だってそうでしょ? 教職に就いてた人が罪を償わずに逃げようとしているんだ、だったら優等生たる僕はそれを見習って然るべきだ」

 

『っ……』

 

僕のその屁理屈に、花子さんは痛いところを突かれたように大きく顔を歪める。

 

「疲れたっていうなら、僕だってそうだ。疲れてるんだ。胃が痛んでる。悩んで、後悔して、理性は頷くけど、到底納得できなくて、嫌で、嫌で嫌で嫌で……!」

 

もう自分でも何を言っているのかよく分からない。

興奮し、上昇した体温に浮かれたまま、思いつく事を並べ立てるだけだ。

 

「そう、そうだよ。あんたがそうするんなら、僕だって地獄で償うさ。あんたが大義名分を用意した新しい逃げ道。まぁ自殺するつもりは無いし、そも寿命が来た時に罪の意識を覚えてるかなんて分かんないけどさ!」

 

『……ア、アンタは……!』

 

感じるのは怒りと憤りの混じる激烈の情。花子さんは歯を食いしばり、両眼から流れる粘液の勢いを強めた。

だが、その代わりなのかどうかは知らないが確実に消滅する速度は遅くなっている。未練、執着。そう呼べるものが彼女の裡に生まれ始めたのかもしれない。

 

『……もう一度言うよ、アタシにそれを告白してどうしようってんだい……!』

 

「だから、ただ知って欲しいだけだ! 僕がどういう人間なのかを、そして、」

 

『そんでアタシが居なくなれば逃げるってんだろ!? だからそれを――』

 

はた、と。

そこまで怒鳴った瞬間、彼女は突然言葉を切った。猛る怒気も瞬時に立ち消え、歪んでいた表情も元に戻り。

 

『……なぁ、もしかしてだけどさ。アンタ、アタシを引き止めてんのかい?』

 

「…………」

 

返事はしない。ただ、まっすぐに花子さんを見つめる。

すると彼女は先程の剣呑さを引っ込め、虫食いの片手で静かに顔を覆った。黒い泥のおかげで泣いているように見えたけれど、微かに笑い声が漏れている。

 

『……そう、そうかい。アンタは、一人じゃダメって事かい。まったく呆れる程に面倒な子だよ、ほんと……』

 

そう零す彼女の瞳は泥に塗れていたが、負の感情は無いように見えた。

強張る肩から力が抜け落ち、自然と口元が緩む。

 

『……アンタはアタシにどうして欲しい。まだるっこしいのナシで言ってみな』

 

「……背中に、憑いていて下さいよ」

 

『誰の?』

 

「僕の」

 

『それでどうする?』

 

「罪から逃げ出さないよう監視して、泣き言吐いたら尻を蹴っ飛ばすんだ」

 

『足、無いけど』

 

「なら飛ばすのは視線だけでも良い。惰性の優等生たる僕にとって、見られてるって事自体が重要だから」

 

それは僕が生きてきた中で初めて、お婆ちゃん以外にしたお願いだった。

 

 

 

「――あんたが居ないと、優等生が一人グレるんだ。教師なら、更生させてくださいよ……!」

 

 

 

懇願と見るには捻くれ、脅迫と見るには幼稚に過ぎる言い分。

出来ればもうちょっと格好良い事を言いたかったけどしょうがない。性根腐ってる奴なんて基本情けない物だ。

 

そうして互いに無言のまま、しばしばかりの時が過ぎ。

 

『……正直さ、アンタを見守ってもどうにもならないと思ってる。今更教師振れる訳も無いし、手遅れは手遅れのまま何も変わりゃしないんだ』

 

やがて彼女はそう告げると、僅かに残る掌で両眼を拭う仕草をした。

にちゃり、くちゅり。不快な音を立てて粘液が払われ、その下から閉じた瞳を覗かせる。その長い睫毛の内側からは、新しい黒は流れてこなかった。

 

『でも、アンタはめいこの持ち主なんだよね。元凶みたいな、その一つ』

 

「……ええ、まぁ」

 

『なら、さ。これを持つアンタの背筋を正せるんなら、それはきっと――』

 

 

――――少しは、アタシにとっての償いになるのかもしれないね――――。

 

 

――再び、引き金を引く音がした。

 

花子さんがめいこさんを掲げて力無く笑った瞬間、周囲を舞う黒のガラス片が一斉に動きを止めた。

顔から垂れようとした黒い雫さえも空中に留まり、やがて青い光を帯びて彼女の身体へと舞い戻り。欠損部分を次々と復元させていく。

まるでホタルが舞い踊っているかのような、美しい光景だ。

 

(この世に残りたいと思ってくれた、のかな……)

 

そう思った瞬間、途方も無い疲労感が押し寄せた。

立っていられなくなり、床へ座り込みぼうっと光の乱舞を眺め続ける。

 

『あーあ、戻っちまったよ。しょうがないね、どうも』

 

そして光が止んだ後、そこには元通りの花子さんがふわふわと浮いていた。つまらなそうに身体を眺め回し、溜息なんかをついている。

当然ながら、その表情は晴れているとは言い難いものだった。けれど黒い泥に塗れていた時よりは大分マシなものであり――徐ろに、彼女はめいこさんを差し出した。

 

『ま、これから精々、罪悪感の慰め合いを頑張ろうじゃないさ』

 

「……もうちょっと、言い様なかったのかなぁ」

 

そういえば、めいこさんも含めてこの場には犯罪者しか無いのか。いやはや何とも薄汚い集団である。

反吐混じりの溜息と共に、苦笑を落とす。

 

(でも。これはこれで、居心地の良い関係性かも知れない、なんて)

 

流石にそれは後ろ向きに過ぎるかな。

 

僕はネガティブな爽快感という意味不明な情動を感じつつ、めいこさんを受け取った――。

 

 












「――桜の火、焔の灯」

――凛、と。鈴の音のような声が通り抜け。何かが焦げる音がした。


「あ、っと、と……っ?」

ぽとり。いきなり花子さんの指先から手帳が零れ、条件反射でキャッチする。
またからかいの類だろうか。僕は軽く混乱したまま、何気なく視線を上げて、

「は?」

――だけど、そこには何も無かった。

諦めと無気力が内包された眼も、意地悪そうに釣り上がった口端も。
あるべき場所にある筈の彼女の顔が無く、代わりに焦げ粕にも似た何かが桜吹雪のように舞い散っていた。

「……成程。やはり、貴方でしたか」

現実感の薄れた世界に再び声が響き、その方向に意識を転がす。
焦げ粕の舞う花子さんの身体の先。トイレの入口に、静かに佇む人影があった。

暗くて顔は余り良くは見えなかったけれど、シルエットは間違いなく少女のものだ。夜闇よりも深い黒髪がたなびき、その一房に差し込まれた桜の髪飾りが月明かりを反射する。

(……桜、の……?)

そのどこかで見たような髪飾りに記憶が擦られ、止まっていた思考に火が灯り。
同時に、先程見た光景を思い出し、そして。

「……あ、は、ぁ、あっ、あっ、ぁ――――!!」


――視界の端に映る、花子さんの身体。

胸部より上の部分が抉り取られたように焼却され、消滅していく彼女の姿を正しく認識、理解した瞬間。

僕は――本当に、馬鹿みたいに、情けなさ極まる泣き声を張り上げた。


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炙らる黒墨は夜闇に溶ける

                       *

 

「ぁ、ぁあ、あっ」

 

消えていく。

 

「ま、あ、待って、待っ……!」

 

彼女の身体が、霊魂が。焦げ粕となり何処へともなく消えていく。

 

慌てて残る彼女の手を引き揺するけど、当然ながら反応は無い。それどころか衝撃によって焦げ粕が散らされ、逆に消滅の速度を早めてしまった。

故に、何も出来ない。重さの無い彼女の身体を抱え、辛うじて残った右手を握り締めるだけだ。

 

「……その霊魂には悪い事をしました。怨霊に貶される運命となるのなら、昼の内に浄化するべきだった」

 

「!」

 

何も考えられず、呆然としている僕の鼓膜を鈴が揺らす。

顔を上げれば後ろ手に扉を閉めた少女が冷たい視線を向けている。どんな手を使ったのかは不明だが、状況的に花子さんを葬ったのは彼女なのだろう。

 

激しい怒りが吹き上がり、歯を砕かんばかりに食いしばる。

 

「お前……っ! 誰、何で、何でこんな……ッ!」

 

「貴方がその書の所持者であり、この場所に居る。それ以上の理由は必要無い」

 

淡々と、感情を感じさせない声音でそう吐き捨て、少女はこちらに歩み寄る。

そうして窓から差し込む月明かりの範囲に入り、その全身が照らされた。

 

髪飾りを見た時から予感はしていたが、昼に会った女学院生のようだ。和風の服装も冷たい敵意も何一つとして変わっていない。

 

「クソ、クソがっ!! 何で消したんだよ! 邪魔するなよ! 僕達にはこれからやらなくちゃいけない事があったのに! さっき一緒にって決めたばっかりだったのにッ!!」

 

怒り、悲しみ、恐怖。感情に突き動かされるまま大声で喚き、唾を飛ばして叫び散らす。さっきまで描いていた未来が潰えた事も合わせ、涙が一筋地に落ちた。

 

「消したのでは無く葬送ったのです、死せる魂をあるべき場所に。それが彼女の為でもある」

 

「余計なお世話だ! 訳の分からない事ばかり言いやがって! 返せよ、花子さんを、元に戻せよぉ!」

 

「……怪異法録にとっては、霊魂とは燃料に過ぎないのでは? それなのに、よく嘆く――」

 

少女は僅かに怪訝な表情を浮かべ、袖口から長方形の紙束を取り出した。桜の花弁が押し花とされた栞だ。

一体どういうつもりなのか。僕は睨むように観察し――ズキリ、と。脈絡なく右眼が強い熱を訴える。今までに無い反応に戸惑い咄嗟に指を這わせ。

 

「――桜の火、焔の灯――」

 

「うわッ!」

 

――煌、と。

 

少女がその内の一枚を翳し、某かの呟きを放った瞬間。激しく栞が燃え上がり、その美貌を赤く照らし出す。

唐突に生まれた炎は瞬時に和紙を焼き尽くし、渦巻く火球の形を成して彼女の傍らに浮遊し、侍る。

 

つい先程、花子さんの記憶の中で見た物と同種の炎。

おそらくあれで花子さんを焼いたのだろう。それは分かる。分かるのだが、しかし。

 

(超、能力? こんなあからさまな、う、嘘、だろ……!?)

 

幾ら何でもそれは無いだろう。

現実を受け入れる事に手間取っている僕を無視し、少女はこちらへ歩み寄る。

 

「貴方はもう、追い詰められています。怪異法録さえ手放すのならば、これ以上の手荒な真似は致しません。渡して下さいますか?」

 

「か、かいい、ほうろく? めいこさん、いや、この手帳の事か……?」

 

僕の問いかけに少女は静かに頷くと、ゆっくりと火球を近づける。炎の熱が僅かに鼻の頭を嬲り、本能的に腰を引いた。

 

「っ……な、なぁ。お前、何か勘違いしてないか。僕、別に何も、」

 

「渡すか、渡さないか。どちらですか」

 

僕の言い訳はにべもなく一蹴。まぁ夜中の女子校、しかもトイレに侵入しておきながら語れる言葉なんてある筈も無し。

どうする。花子さんを燃やした奴に下らなきゃいけないのか、僕は。

徐々に活発化する心臓を抑えながら、なお距離を詰める少女へと問いかける。

 

「……っあの、こ、これ、渡したら。命は助けてくれるの……?」

 

「ええ、約束しましょう」

 

「五体満足で、怪我も無く?」

 

「ええ」

 

「…………僕は、警察に捕まる?」

 

すると少女は眉を揺らし、不快気な表情を浮かべた。

 

「……喜びなさい。現在社会において、怪異を用いて行った犯罪を立証する方法はありません。よって失うものは書に纏わる記憶のみとなり、貴方自身は穏やかな平穏へと、」

 

「論外ッ!」

 

その言葉を聞いた瞬間。僕は花子さんの身体を抱え、出入口へと駆け出した。

 

五体満足、命が助かる。それは結構な事だとも。

だが、記憶を失うのはダメだ。そうなれば僕はきっと何くわぬ顔で山原の居ない日々を謳歌してしまう。

そんな事になったら、僕はもう。

 

「――どこにも、顔向け出来ないッ!」

 

少女を目掛け、強く地を蹴った。

女の子に怪我をさせたくは無かったが、配慮している余裕は無い。

無様にして不格好。全身全霊を込めた体当たりは、勢い良く彼女の身体へと吸い込まれ――。

 

「――荒い!」

 

「っぐ、ぅぉわっ!」

 

視界が回転。肩先が少女の身体に触れた瞬間、僕の身体は空中に弾れていた。

当然僕に体勢を立て直す身体能力がある訳も無い。再び背中から手近にあった壁に激突し、背中から墜落。情けない呻きを上げながら崩れ落ちる。何をされたのか、理解さえできなかった。

 

「げほっ、ぁ……ぐ、く」

 

「……そこまで力が惜しいのですか、見苦しい」

 

痛みに苦しみ悶える僕に、屑を見るような冷たい視線が突き刺さる。

 

(好き勝手言いやがって……!)

 

涙に滲む目を薄く開くと、横倒しになった世界の先。ほんの少し開いた個室のドアの中に、ページを開き転がるめいこさんの姿を見た。どうやら衝撃で手放してしまったらしい。

髪飾りの少女もそれを把握し、真っ直ぐにめいこさんの下に近づいていく。

 

「ちく、しょぉ……!」

 

記憶を消す。どんなエスパーを使うのかは知らないが、言うからにはきっと某かの方法があるのだろう。

 

冗談じゃない。足掻き、もがき。必死に何かを成そうとするけど形に成らず、目尻に浮かぶ涙の意味が変化した。

花子さんだけじゃない、僕もめいこさんもここで終わるという事が堪らなく悔しい。ぽたぽたと、眼前のレンズに水滴が落ちる。

 

「これが、サヤマの怨念……」

 

少女は一言そう呟いて。慎重な手つきで個室の扉を押し開き、ゆっくりめいこさんのページへと触れ――。

 

 

 

『すきです、であります』

 

「え?」

 

 

 

――唐突に、そんな文字が浮かび上がった。

 

『怪談【トイレの花子さん】の再現条件を満たしました。これより霊魂の復元と怪談の再現を開始します』

 

「きゃあっ!?」

 

バチン!

静電気が炸裂するような音と共に、めいこさんから黒い火花が飛び散った。少女の触れていた指先が勢い良く弾かれ、一歩二歩とたたらを踏む。

 

(な、何だ……?)

 

長く関わっていた僕だからこそ分かる。あれは怪談の再現が成された時の現象だ、おそらく少女が触れた事で某かの条件を満たしてしまったのだろう。

しかし、一体何が? 僕の知らないうちに新しい怪談が収集されていたのか――いや、違う。これはまさか。

 

「霊力の発現? 何故このタイミングで――うあっ!」

 

少女の言葉が突然悲鳴へと変わった。見れば彼女は苦痛に表情を歪め、自らの頭を抑え身を捩る。

よくよく観察すれば頭髪が奇妙な形に乱れており、まるで不可視の掌に掴まれているようだ。

 

『――大人しそうなツラして、いきなりとんだ挨拶じゃないかい』

 

「!」

 

……右眼に響くハスキーボイスに、一瞬心拍が停止した。

慌てて花子さんの身体を確認すれば、彼女の亡骸は今や全てが砕け散り、霊魂の欠片へと変わっていて――そこまで観察し、気づく。

周囲に漂うそれらが青い燐光を帯び、めいこさんへと向かっていた。

 

「……は、……」

 

その意味する所を察し、ゆっくりと顔を上げれば。少女の頭を掴む者の姿が徐々に顕になっていく。

見慣れた服に、見慣れた表情。それは、現在僕が求めて止まない人の影。

 

「花子、さん……!」

 

――『トイレの花子さん』という怪異を纏った幽霊が、そこに復元されていた。

 

『アンタ、もしかして華宮の――明梅の娘かい?』

 

「わ、私達、を。母、を。知って……!」

 

『まぁ燃やされるのは二度目だからね、色々と察せないでもないさ』

 

チリチリ、と。小さく何かが弾ける音が周囲に響く。それは花子さんの腕を掴む少女の手から放たれているようで、何らかの抵抗をしている事が伺えた。

 

彼女達の言う『華宮』とは一体何なのだろう、鈍い胸裏に疑問の芽が顔を出す。

 

『まぁ、アタシはどうなったって良いよ。でも悪いんだけどさァ、あの子の記憶だけは勘弁してやってくんないかね。償う気持ちはあるんだよ、これでも』

 

「っぐ、さ、桜の火、焔の――!」

 

『聞く耳持たずか。親と違って真面目だねぇ!』

 

「うっ、ああああっ!?」

 

一際大きな炸裂音と火花が散って。磁石の対極を近づけた時のように、互いに逆方向へ吹き飛ばされる。

 

花子さんは個室の最奥を透過し、少女は僕の方角に。咄嗟の事に反応出来なかった僕は、そのまま激突されると目を瞑ったが――「うぁッ!?」突然誰かに片手を引かれ、タイルの上を引きずられた。

床下を透過した花子さんの腕が、僕を窓際まで運んだのだ。

 

『気絶まで持ってけなかった、焼かれる前に逃げるよ!』

 

「ひぃッ!?」

 

ガラリと頭上の窓が開き、当の花子さんが顔を出す。

彼女はドサクサに紛れて回収したらしきめいこさんを僕に投げると、一本釣りの要領で僕を窓の外へと放り投げ――いや待っておかしいってこれぇ!

 

「え―――ぇぃぁぁあああああああッ!」

 

「ま、ちなさい……!」

 

眼下には三階の高さから臨む遠い地面が映り、僕の股間が縮こまる。

しかしそれ以上景色が近付く事は無く、宙を浮遊する花子さんに抱えられ真っ暗の夜空を滑空。

少女の苦しそうな声と飛んでくる火球を背にして、本舎から飛び去った。

 

(空を飛ぶとか反則だろ……?)

 

呆れ、驚き。どちらとも判断がつかないまま、半透明の身体越しに少女の方角を伺った。彼女は駆けつけた仲間らしき男に支えられているようだったが、追って来る様子は無い。

 

『にしても良くやったねぇ、めいこ。普段アホの子の癖に、よく機転効かしたよ』

 

『ふふーん、であります。あの少女、個室とはいえ「トイレの扉」を押し開いていた、であります。あとは恋文に相当する物と封入する霊魂があれば、こんなもん、であります』

 

そうして安堵の息を吐きつつ視線を戻せば、開かれたまま僕に握られるめいこさんと花子さんが談笑していた。

成程、確かに紙である彼女に好意を伝える文が書いてあれば、一応は恋文として扱える事は証明済みだ。

 

周囲には花子さんの霊魂の欠片も漂っており、怪談の条件を満たす環境は整っていたのだろう。

そして霊魂の大半をリサイクルされた所為か花子さんの口ぶりにも記憶の欠損は見えず、総合的にはベストの判断だったと言わざるを得ない。けども。

 

「やっぱ、マッチポンプくさい……」

 

しかしもう突っ込む気力も沸かず、僕は夜景をぼんやり眺め続けた。

花子さんが無事だった事、『華宮』とは何か。色々騒ぎたい事はあったが、とりあえず言いたい事はただ一つ。

 

「――ああ、良かった」

 

本当、色々な意味で。

するとそれを聞いた花子さんは一瞬ぽかんとした後、嬉しそうに唇の端を釣り上げた。

 

『フフ。ひっひっひ……!』

 

あー、嫌な笑い方。苛ついたが、反応するのも面倒で。

 

途方も無い疲労感を抱え、つらつら先の事を考える。

お先真っ暗な道に生まれた灯火は、寄れば焼け死ぬ桜の劫火ときたものだ。生死の懸かった面倒事がまた一つ増えた事に重たい溜息を禁じ得ない。

 

――ああ、これから僕はどうなるのだろうか。

 

胸の手帳に問いかけたけれど、その答えは例によって『非』の一文字であった。

 

 

                      ■

 

 

「――逃した……ッ!」

 

ギリ、と。悔しげに噛み締めた奥歯から異音が鳴る。

 

確実に間合いにあったというのに、むざむざ凶悪犯を逃してしまった。

このような事になるならば、即座に所有者ごと焼却すべきだったのだ。命を奪う事を躊躇ってしまった自責の念と脳を刺す頭痛に苛まれ、堪らず窓枠にもたれ掛かる。

先程の霊魂との攻防で何かしらの不具合を被ったらしい。視界が真っ直ぐ定まらず、胃の奥より吐き気が湧き上がっていた。

 

「灯桜さん、大丈夫ですか?」

 

「……水、端さん」

 

彼女の肩を支えるのは、共犯者の存在に備え学校内の警戒を頼んでいた冬樹だ。

悲鳴を聞いて駆けつけて来てくれたらしい。素直に身体を預ければ、嗅ぎ慣れたコロンの香りがふわりと漂い、灯桜の心に幾許かの余裕を与えた。

 

「……申し訳ありません。霊力が微量だと侮っていたようです……」

 

「ああいえ。そもそも全部を灯桜さんに投げたのは私ですからね、責められるべきはこちらですよ」

 

冬樹は胡散臭く笑みを浮かべ、灯桜を元気づけるようにその背を叩く。

 

「……こうしては居られません、早く追いましょう。今からならまだ追いつけるかもしれません」

 

「うーん、そりゃ難しいんじゃないですかネェ。空ですよ、空。灯桜さんもそんなんですし、今から追っても……」

 

「だとしても放って置けません! このまま彼らを放置すれば、きっと新しい被害が生まれてしまう!」

 

以前の小路の件は詳しく把握していないが、今回に関しては確実に『黒』だ。

あの怪異法録の少年は、歌倉女学院の歴史において最も悪辣な事件――『トイレの花子さん』を用いた霊的犯罪について調査していたようだった。

 

しかも実際に校内に侵入し、よりによってトイレで何事かを行っていたのだ。

幸いこの学校は「網」を張っていた為早期に彼の侵入に気づけたが、遅れていたら何を仕掛けられていた事か。贖罪だなどと、到底信用できる筈がない。

 

「彼らは既に怪談の情報を得た可能性が高い。最早猶予はありません!」

 

「灯桜さん……」

 

最悪の想定として、もし少年がかつてこの学校で醜悪な行為を敷いていた外道と同種の人間であったとするならば、事態は極めて深刻と言わざるを得ない。

何も知らぬ民間人や、自らの学友達が被害者となるなど、決してあってはならない事だ。

 

「絶対に、逃がさない……っ!」

 

貧血にも似た症状。グラグラと揺れる世界の中で、彼女は強く決意する。

今は逃したかもしれないが、顔はしかと把握した。次に何か事件を起こす前に、必ず捕縛してみせよう。

二度と油断も容赦もしない。もし再び抵抗するようならば、今度こそ。

 

「――今度こそ、確実に焼き屠る」

 

怒り、憤り、正義感。様々な猛りを糧として、意志の華炎が花開く。

全ては、あの腐れ外道を止める為に――。

 

 

 




おまけ:
【挿絵表示】

次回はまたもや数日置かせて頂きマッスル。


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怪異法録
1頁 展望


【本書が唯一記録する、『私』に纏わる想いの欠片】


――認められるか、こんな事が。

彼女は優しい子であったのだ。聡い子であったのだ。
凡そ「悪」という言葉から程遠くに位置した、純真無垢な子であったのだ。

あのような異能を持ちながら、真っ白な人の心を持っている。それがどれほど尊い事か、貴様らは理解していなかったのか。

力だけを見るのではない。より深い、人間としての本質を見定めるべきだった。
あの子は笑顔を見たかったと言っていたよ。貴様らのような下衆で傲慢な輩の笑顔を、笑い声を聞きたかったと言っていたんだ。

怪異の血が混ざっていた事が何だという。それでもあの子は正道に居たではないか、ただ焼き屠るだけの貴様や覗き見しか出来ない我らよりもずっと真っ直ぐに立っていたではないか。

……妻も息子も守れず一族の血を絶やした私にとって、彼女は唯一の希望であったのだ。
異能の類似だけでは無い。絶望と喪失の淵に立っていた私に、暖かさを思い出させてくれたのだぞ。彼女にどれだけ救われたか、貴様に分かるか?
そうさ、分かるものかよ。老骨である私と違い、貴様にはまだ未来が在る。それは彼女にも与えられるべきものだった筈だ。

そんなにも血が大切か。そんなにも外聞が大切か。そんなにも貴様は。


――――――――。


……そうか。ならばもう、良い。何も期待せぬ。

ここより先は私一人で往く。貴様があの子を、そして私を認めなかったように。私もまたこの結末を認めない。
無駄だと嗤うか、それも良いだろう。こちらに近寄らぬならば気にもせん、好きに貶し言を吐くが良い。


嗚呼、待っておれ。私の寿命が尽きるまで、何もかもを懸けてお前の魂を復元してやる。金も、手段も、身体も、倫理でさえも。文字通り全てだ。
おそらく策が成るのは遠い遠い未来となるだろう。それまでの間に生まれる罪は皆私が背負うつもりだ。

そうだとも、そうだとも。お前は気にせず眠り続けておれば良い。どのような外道に逢おうとも、その一切は覚えんで良い。忘れ、惑い、最後に笑え。


なぁ、私の可愛い可愛い孫娘――――――――さとりの愛遺子(めいこ)や。





                      1

 

 

晴天。

何時もの登校時間より少しだけ早い、朝靄のかかる住宅街。

僕は周囲へ気を張り巡らせつつ、慎重に通学路を歩いていた。

 

『少し先に小学生が歩いてるから、気ぃつけて』

 

住宅街を通る歩道の壁に手をつき、万一にも人目につかないよう壁や地面の中に身を隠す花子さんのナビに従い、おっかなびっくりと進む。

 

眼鏡を外した、レンズを通さない世界。何もかもが霞がかって見える今、視力の悪い僕はこうでもしなきゃ歩く事も出来やしない。

 

『次、左前にオバサンね……あー、壁ん中って息苦しいね。気分的に』

 

(しょうがないでしょ、今の状況じゃ)

 

少々挙動不審気味に大通りの人を躱しつつ、口内で毒づく。

自分でも面倒だとは思っているけど、これには変装の意味もあった。

 

花子さんは幽霊という身分上、霊視能力のある人には目立ちすぎる。

今使っている丸眼鏡も少々古臭い……というか骨董品を思わせるような特徴的なフレームをしており、出来る事なら使用を控え、発見される要素を少しでも減らしたかったのだ。

 

誰に――なんて、そんなの決まっている。つい先日に会った超能力者、花子さんが『華宮』と呼ぶ桜の髪飾りをした少女に。である。

あんな別れ方をしたのだ、僕の発見に躍起になっていたとしてもおかしくない。

 

自意識過剰であると願いたいが、用心をしていて損になる事は無いだろう。

 

(…………)

 

ゾクリ、と。脳裏にあの冷たい目が蘇り、悪寒が背筋を駆け上がる。

 

『んなキョロキョロしたってアンタにゃ見えないだろ。居ないよ、近くにはさ』

 

そうは言われても、不安なものは不安なのである。

あの炎の熱、命の危機。現代社会に生きる人間が僕に殺意を持っているという事実は、ある種幽霊に襲われるよりもずっと恐ろしい事だった。

 

(あの少女は、自らを私達と言った。それはつまり、仲間がいるという事……)

 

実際、僕は逃げる最中に彼女を支える男の姿を見た。

確かに近くに少女は居ないのだろう。しかし、他の仲間が居るかもしれないではないか。

僕は詳細不明の『華宮』の影に怯えつつ、学校への道を急ぐ。

 

……あの夜の出来事から日曜を挟み、二日経っての月曜日。

僕は未だ様々な事に対する解決法を何一つ見出だせないまま、ビクビクと震え続ける日常を送っていた。

 

 

 

 

――悪いけど、華宮についてアタシが知ってる事はそう多くないよ。

 

歌倉女学院から這々の体で我が家に帰還し、一心地付いた後。ぶり返してきた恐怖やら痛みやらで取り乱した僕の質問に、花子さんはそう答えた。

 

『華宮ってのは昔から続く名家でね……簡単に言えば大地主って感じかな? 県庁とか、文化ホールとか。告呂にある大きい建物には、大体どっかにその名前が入ってんじゃないかね』

 

知ってる事はそれくらいだと軽く肩を竦める姿に鼻白んだものだが、どうやら嘘偽りは無いようだった。

しかし色々と察するに、髪飾りの少女の母親は花子さんと仲の良い教え子だったように思えるのだが、それでも何も知らない物なのか。するとそんな疑念が顔に出ていたのか、彼女は静かに首を振り。

 

『ちょっと感覚麻痺してないかい。アンタは自分の先生に「僕は霊能力者です」って告白した事ある?』

 

ぐぅの音も出なかった。

実際僕も手首やオカルト関係の事は若風先生のみならず。知人の誰一人として打ち明けていないのだ。当然花子さんにおいても何も伝えられていなかったとして違和感は無い。ああ、無いのであるが。

 

(死活問題だぞ、これは……!)

 

朝の学校。クラスメイトが訪れる前の静かな教室で一人、思案する。

敵意を持ち、強力な殺傷能力を持つであろう者を相手に、ちっぽけな情報だけでどう立ち回れと言う。

 

(今から調べるにしても、どうやって。華宮の歴史はともかく、あの炎の超能力について解説してる文献なんて無いだろ)

 

というか、そもそも調べて何になるというのか。

戦う気か? 逃げる気か? それとも交渉か、はたまた命乞い? それらに必要な情報って、何?

 

どうする。どうすればいい。一体どうしたら僕は助かる。脂汗が滲み、身体が震える。そうして心が鉛を吸ったかのように重くなり、吐き気すらをも催して。

 

『……だいじょうぶ、でありますか?』

 

「っ……!?」

 

カサリ。傍らに開いためいこさんが蠢き、心臓が軋む。

感情が伝わったのだろうか。苛立ち紛れに髪をかき乱し、大きく溜息を吐いた。

 

「……大丈夫。少し落ち着こう。怯えるな、冷静になって考えろ……」

 

敢えて声に出し、自分にそう言い聞かせる。

この二日間見えない恐怖に意識を割いて来たが、そろそろ具体的な行動を起こすべきかもしれない。

でないと、嵩む不安で押し潰されてしまいそうだった。

 

(まず僕の目的は、死ぬ事も記憶を失う事も無く逃げ延びる事)

 

一番手っ取り早いのは警察への出頭だが、華宮の言葉では現代社会では僕を裁く方法が無いらしい。つまり、僕の告解は全て狂言扱いになるという事だ。

現実的な手段にも関わらず、現実的な選択肢でないという摩訶不思議。本当にオカルトってのはもう。

 

(で、華宮の目的は僕の処理……というか、めいこさんを燃やす事。だと思う)

 

あの夜の事を思い出す限りでは、めいこさん――華宮が怪異法録と呼ぶ彼女をどうにかする事が第一で、僕自身については二の次だったような気がする。

 

しかしそれでも記憶の消去はするつもりであったようだし、喧嘩をふっかけてしまった以上、最早穏便に済むとは思い辛い。

ここからどう動けば、僕は最良の結果を掴む事が出来る。何が可能で、何をするべきなのか。必死に頭を働かせるが、答えは出ない。

 

『……まぁ、一個だけパッと思いつくものはあるけどね。するべき事』

 

「! それは、どういう……?」

 

窓辺から校庭を眺めていた花子さんが突然呟き、思わず立ち上がる。見れば彼女は何やら辛そうな表情を浮かべながら、正門の辺りを指差していた。

そこに一体どんな活路があるのか。その表情に疑問を覚えつつも駆け寄り、身を乗り出す勢いで示された方角に目をやって――。

 

『――若風の過去。それ知って、これからどう接するかだよ……』

 

「……………………」

 

……いや、確かに悩ましい問題ではあるけども、今その話はしてないです。

花子さんの指先で歩いている先生の姿を見た瞬間、僕は色々な意味で頭を抱え膝から崩れ落ちたのであった。

 

 

                        ■

 

 

――古来より。この世界には幾千、幾万もの『異常』が在るとされている。

 

それは物理法則や世界の在り方を凌駕した超常の物。人間は勿論、自然と共に生きる野生動物でさえも適合する事の出来ない、強大で不定形の事象。

 

例えば魔法、例えば神話、例えば魔物、例えば呪い――――例えば、怪異。

古今東西世界各地。それらは長きに渡り人の想像や獣の恐怖の裏に張り付き、時に悪辣な魔物や災害として立ち塞がり、時には良き隣人や道具として手を握る。

 

その存在は決して公にならぬまま、遥かな過去より長い時間をかけて浸透し、馴染み。現在においては、一般市民の与り知らぬ場所で『常識』の一端として扱われていた。

 

当然ながら日本の地にも怪異とそれを鎮める霊能力者という形で顕現し、長い歴史の裏側で人知れず攻防を繰り返している。

 

――その中にあって、一際大きな力を持つ家が六つ。

 

華、酒、稲、魂、舞、刻。怪異に捧げ鎮める六つの供物の字を冠し、千年に渡り日本を支え守護する力、その具象。

 

――灯桜の属する華宮の家はその一つ、死者を悼む『華』を捧げる一族である。

 

                      *

 

「――それで、あんたはおめおめ怪異法録を持ったガキを逃した、と」

 

告呂の地、静かな郊外に厳然と聳える華宮の屋敷。その和室。

竹のかち合う乾いた音が響き、鮮やかな梅の絵が描かれた扇子が閉じた。

 

本来であれば扇子を痛める無作法ではあるが、不思議と不快感は感じられない所作だ。

それを成した者の対面に座る灯桜も特に表情を変える事無く、静かに頷く。

 

「……申し訳ありません。私の力が至らぬばかりに……」

 

「全くだよ。甘々だよ甘々、あんたの桜は華じゃなくてさくらんぼかいっての」

 

バッサリ。配慮というものを微塵も感じさせない軽さで持って、扇子を持った女性――華宮家当主である明梅は、娘である灯桜の言い淀む先を切り捨てた。

 

(うぅ……)

 

灯桜は胸中で怪異法録の少年を恨むものの、しかし己の油断が招いた不徳である事は変わりない。故に何も言わず、ただ項垂れる。

 

「そうさ、アレを取り逃がすなんてとんだ大失態だよ。こっちの存在がバレた以上、怪異法録側も用心深くなるんだ。ホントなら罰の一つくらいは受けて貰うトコ……なんだがねぇ」

 

「……?」

 

母からの叱責を粛々と受け止めていた灯桜は、その煮え切らない声音に顔を上げた。

常に大雑把かつ決断力のある振る舞いをする明梅にとって、このような態度をとる事は非常に珍しい光景だ。

彼女は軽く溜息を吐くと、またもやパチンと扇子を叩く。

 

「とりあえず、今回に限っては特にお咎めはナシって事にしとくよ。喜びな」

 

「……それは、母としての温情と言う事でしょうか」

 

「まさか。あたしがその辺のエコヒイキが嫌いってのはよく知ってるだろ」

 

「では、何故?」

 

「……気にしなくていいよ。あんたにゃ関係無い事さ」

 

明梅はパタパタと扇子を振ると話を切り上げ、灯桜へ鋭い視線を向けた。

その瞳の奥に燻る華炎を見た気がして、自然と居住まいが改められる。

 

「ともかく、もう一度だけ聞くけど、あんたがやり込められたっていう『花子さん』の核らしき霊魂。その人は年行ったオバサンの姿だったんだね?」

 

「はい。随分と綺麗な方だったと思いますが、おそらくは」

 

「そんで『自分の意志を持って』動き、法録を持ってたガキを守った」

 

「はい。少なくとも少年が指示していたようには見えませんでした」

 

彼のあの驚き様、そして悲鳴。

全てが想定外の出来事であったと察せられ、とても演技の類には見えなかった。

 

そう伝えれば明梅はむっつりと黙りこみ、何事か考える様子を見せる。

そして無言のままの時が流れる事、暫し。

 

「……分かった。じゃあ、もう行って大丈夫だよ」

 

「……あの、今後の事については……」

 

「言ったろ、一先ずお咎めナシだ。降りたいんなら止めやしないが、やる気あんならそのまま追跡を続けな」

 

素っ気なく、そう告げられる。

その甘い判断に疑問を覚えるが、おそらくそれも『あんたにゃ関係無い事』の内に入るのだろう。

灯桜は問いたい気持ちを押し留め、強引に自己完結。深く礼を返し、腰を上げた。

 

(術はある。早く、あの少年を追わないと……)

 

それは、ある意味では歳相応の意地でもあった。

華宮としての義務感、そして市民を守りたいという正義感。それに怪異法録の少年に対する屈辱が混じり、強い執着心を生み出していた。

 

余計な事を考えず、ただ目の前の目的だけを見据え。一刻も早く少年を捜索すべく静かに襖を引き――。

 

「灯桜」

 

「っ、はい」

 

不意に背後から呼び止められ、咄嗟に振り返った。

そこには穏やかな、同時にどこか悲しそうな表情を浮かべた明梅が、こちらに視線を向けており。

 

「……あんたが最後にどんな判断を下しても、全部ケツを持ってやる。だから……あたしの分まで、頼んだからね」

 

「? ……は、はい、ありがとうございます……」

 

やはりいつもとは違う母の様子に首を傾げたが、その激励は素直に受け取った。

最後に彼女に向けて一礼し、開いた襖の外へと消える。

そして廊下を歩む傍ら携帯電話を取り出すと、迷いなく冬樹の下へと繋いだ。

 

「……もしもし、水端さんですか。お仕事中申し訳ありません、少し試したい術があり、協力をお願いしたいのですが――」

 

……意気燃ゆる灯桜は、怪異法録を焼き屠る為に行動を開始する。

中庭に咲く散らない桜――華宮家の象徴たる御霊華の花弁が風に舞い、そっと彼女の背を押した。

 

 

 

 

「――ったく、真面目だねぇ。あたしとは大違いだ」

 

……灯桜が去った後の和室。残された明梅は、一人乾いた溜息を吐いた。

 

よくもまぁ、こんなガサツな自分からあのような大和撫子が産まれたものだ。懐から取り出した煙草に火を点けながら自嘲する。

 

(あたしの躾が良かった……なんてね。全部、貴女の教えの真似っ子だ)

 

静かに紫煙をたなびかせ、彼女は手元に置かれた書類を一枚つまみ取る。

それは灯桜がしたためた、怪異法録の所有者に関する情報が書かれたものだ。

 

持ち主である少年の似顔絵、口にした言葉。灯桜の記憶する限りの情報が事細かに記されている。

やれ似合わない眼鏡だの、平均より背が低いだの。余程腹に据えかねているのか、その殆どに刺々しい私見の注釈が添えられているが――その中に、一つ。明梅の目を大きく引く項目があった。

――黒い長髪、白いシャツとタイトスカートを纏った、三十代程の女性霊魂。

 

「……あたしでは、貴女を救えていなかったのでしょうか」

 

ぽつり。力なくそう呟いて、書類を床にひらりと落とす。

思い返すのはかつての恩師。尊敬し憧れ、そして己の手で焼き屠った筈の存在。

 

もし彼女が現世に留まり、そして己を取り戻しているにもかかわらず少年に手を貸しているのならば、それは――。

 

「…………」

 

そこまで考え、頭を振る。

既にこの件は自らの手を離れ、娘へと受け継がれている。

例えどのような真実があろうが、それに対する答えを出すのは灯桜の役目。最早、己が関わるべき物では無い。

 

(……先生ぇ)

 

今は見えない灯桜の背中を追い、襖の先を見つめる。

そこに広がるは後悔と絶望の過去。彼女には確かにその光景が見えていた。

 

……出来る事ならば、自分よりもより良い結果へと辿り着いて欲しい。

勝手な事ではあるが、そう願わずにはいられなかった――。

 

 




主人公の丸眼鏡:以前壊れた眼鏡の代用品。
        骨董品めいた外見ではあるが、高いお金を出して新品を買う気にまではなれず、
        オシャレアイテムだと言い張りながら使い続けているようだ
【挿絵表示】


華宮明梅:華宮家の現当主。学生時代は相当なヤンチャぶりを見せていたらしい。


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2頁 繋がる華

                      2

 

 

コトコト、コトコト。小鍋が煮える。

白い蒸気がもわりと上がり、換気扇に流されどこへともなく消えていく。

鍋の中身は牛肉、白菜、豆腐に糸コン、唐辛子。まぁ普通の肉鍋である。

 

『ほれ、もうそろそろ火ィ止めな。あんま煮立つと具が硬くなる』

 

「はーい」

 

隣に浮かぶ花子さんの言葉に従い火を止める。

 

彼女と出会ってからこちら、僕は料理に関して少々のアドバイスを受けている。

特に今は何時死ぬか分からない環境だ、少しでも美味しいものを食べておきたいと考えるのは至極当然の事だろう。

 

『ならどっかに美味いもん食べに行きゃ良いのに……』

 

「外出て見つかるのも嫌ですし、それに僕はこういう家庭料理が好きなんです」

 

『お袋の味とかかい。はン、男の舌ってのは何時の時代も変わらんねぇ』

 

そんなこんな花子さんと言い合いつつ、めいこさんと共に食卓を囲む。

そこにはもう最初の頃にあったぎこちなさは無い。

家族とまでは行かないが、それなりに気が置けない関係は築けていると思う。

 

『おいしいです。しょっぱいです。そしてほんのりからい、であります。ひー』

 

『そら良かったけどさ、アンタ紙なのにどうやって味分かってるんだい……?』

 

「はは……」

 

……やはり、失いたくないと思った。

 

お婆ちゃんがいなくなってもう手に入る事は無いと思っていた、団欒の空気。

薄氷の上に成り立つそれは誰かが欠けるだけではなく、僕の記憶やめいこさんが燃やされる事でも失われてしまう。

例えそれが犯罪者にとって相応しい結果であったとしても、座して素直に受け入れたくは無かった。

 

「……多分、深く知るべきなんだ。めいこさんの事」

 

『うん?』

 

空になった茶碗を置き、ぽつり。誰にでも無くそう呟いた。

 

『……やる事、決まったんだね?』

 

「ええ。今日一日ずっと考えていましたが、それしか思いつきませんでした」

 

逃亡、迎撃、出頭、観念。その他色々無理難題の艱難辛苦。

限られた、それでいてデメリットばかりの選択肢に必死に頭を悩ませた結果、僕の聡明(で、あるつもり)な頭脳はこれが一番「可能性」のある選択肢だと判断したのだ。

 

『疑。それは、何故でありましょう』

 

「僕と華宮って家、元々は何も接点なんて無かったんだ。でも今はこうして追う者追われる者の関係になってる。その原因は……まぁ、僕の行動なんだけど、起点という意味でいえば」

 

『まぁ、めいこだろうねぇ』

 

そう、僕と華宮を結ぶ存在。それが彼女達が怪異法録と呼んでいためいこさん。

もしかすれば、そこに何か付け入る隙のようなものがあるかもしれない。

例えば――何かもの凄い力が眠ってて、それで「話聞いてくれなきゃ暴走させるぞ!」とか脅して交渉の場に立たせたりとか。我ながら最低の考えだ。

ともかく。

 

「逃げ隠れしたって、やがてその生活は破綻する。立ち向かったってきっと勝てない。僕達が望み通りの結果を得られる可能性は、もう、これくらいにしか無い……のかなぁ、なんて」

 

言ってる内に不安になり、チラリと二人(?)の様子を窺う。すると花子さんは呆れたように苦笑した。

 

『そんな情けない顔するなって。華宮が追ってるもんに目をつけるってのは、多分現状正しい事さ。めいこもそう思うだろ?』

 

『是。本書はあなたの選択に異議を唱えない、であります。むしろ、そう、なんと。お力になるべく、がんばって本書の事を思い出す、であります。むーん』

 

一冊ほど緊張感が欠けているのはさておき、その言葉に少し照れくさくなる。

重荷の共有というやつだろうか。ストレスを一人で抱えず分け合うというのは、僕にとって初めての経験だった。

 

「……まぁ、ありがとうございます」

 

僕は口元を隠すように彼女達から顔を背け、礼を残して席を立つ。

そうして心を覆う暗雲が晴れたような気になって、食器を洗う最中も口端は上がったままだった。

 

 

                      *

 

 

さて。ひとまずの方針は決まったものの、僕に出来る事はそう多くなかった。

 

引き続きの警戒は当然として、花子さんの時と同じく図書館で地域の怪談話の文献を漁るか、パソコンで似たような話を探すか。精々それくらいだ。

当然ながら進展は殆ど無い。一日が経ち、二日が経ち、三日四日と過ぎても手がかりになりそうなものは見つけられず、無為な時間が過ぎていくだけ。

ただ以前と違い、僕に惰性の感情は無い。逆に焦りや逸りが付き纏い、恐怖すらをも伴い僕の背中をせっついている。

未だ花弁の一枚すら見せない華の気配が、そうさせていた。

 

「……これも、ハズレかな」

 

週末の図書館。

立ち並ぶ本棚の隙間にある読書スペースにて。僕は静かに本の表紙を閉じた。

告呂に関する迷信や怪談話を集めた期待度の高い資料だったが、怪異法録という単語や、めいこさんに繋がるような話は一文たりとも記載されていなかった。

 

(……とりあえず目についたのはメモしたけど、望み薄だよなぁ)

 

怪異を操る書物なんて特徴的な方だろうに、その記述が影も形も無い。

よっぽど隠密性に長けているのか、それとも華宮が隠しているのか。

 

(また新聞漁りでもするか? いやでも、余り現実的でもないか……)

 

過去に告呂で起こった様々な事件や災害。その中にめいこさんによって引き起こされた事件があるのかもしれないが、どう見分けろとおっしゃる。

せめてナマハゲのように大っぴらな形で残ってくれていれば助かるんだけど。

メモ帳という本来の用途で使用されているめいこさんを見て、嘆息。

 

『ご、ごめんなさい、であります。本書に記載されている情報が、説明項に許された権限が、もう少し深く、広いものであったならば……くすん』

 

「いやまぁ、別にいいよ。その辺は」

 

こういった場面で役立たずなのは、これまでの経験からよーく理解している。

期待なんて最初からしていないので安心してくれ――そう伝えれば彼女の身体はしんなりと湿り、ベロンベロンに柔らかくなった。気持ち悪っ。

 

(……にしても、思い出すと随分変わったよな。これ)

 

以前の彼女は感情を感じさせる部分など殆ど無く、もっと無機質であった筈だ。

少なくとも、こんな嘆くなんて事は絶対にしていなかったと思う。

 

(きっかけは多分、アレだよな。丸眼鏡の男が出した衝撃波……みたいなやつ)

 

その前にも兆候はあったが、あれを境界として明確に変わった。

感情の発露、或いは霊力の炸裂。そう表現するべき衝撃を受けた前後から今の彼女になった気がするのだ。

別に特に害があるという訳でも無く、個人的にこっちのほうが好ましいので放っておいた事柄ではあるが。

 

(まぁ、アプローチの一つとして考えてみるのもいいか)

 

頭の片隅で考えつつ次の本を手に取り、さっと目次に目を通し。

 

「……お、覚り妖怪」

 

その一角に見覚えのある単語を見つけ、目が止まる。

確か、以前花子さんについて調べている時に見た名前だ。とくに何が気になった訳ではないが、何となくパラパラとそのページを捲り開いた。その瞬間。

 

「っと?」

 

カサリと、めいこさんが揺れた。

 

はてさて今度は何ですか――そこまで考え、思い出す。

確か、以前も同じようなタイミングで反応していたような。

 

「……めいこさん、どうしたの?」

 

『疑? なにがで、ありま しょう』

 

「いや、覚り妖怪がどうかしたのかなって……」

 

『  疑?』

 

しかし、問いかけても彼女は首の代わりに表紙の端を傾げるだけだ。

よく見れば紙面に空白が生まれている気がするが、文章が辿々しいのは今に始まった事ではないし、判断に困る。

 

(……関係ある……のか?)

 

根拠と言える物は無く、調べても時間の無駄になる可能性が高いだろう。

かと言って、このまま流すのも何か気持ちが悪い。

 

「…………」

 

僕は暫く逡巡した後、軽く溜息を吐き別の本へと手を伸ばす。

 

――日本の妖怪図鑑。

それは古今東西津々浦々、日本全国に伝わる多くの妖怪について記された文献であった。

 

 

                      *

 

 

そも、覚り妖怪とは何か。

図鑑によると江戸時代の画家、鳥山石燕による『今昔画図続百鬼』に記述のある妖怪の一匹だとの事だった。

 

猿に似た姿形をしており、山や森林の奥深くに生息し、旅人の心を読む事で隙を作らせ取って食おうとする凶悪な妖怪。

日本各地に伝承の残る、妖怪の中では比較的メジャーな存在といえるだろう。

 

「……で、だからどうしたっていう」

 

図書館帰りの夕焼け小焼け。優しい赤に染まる道を歩きつつ、溜息。

一応覚り妖怪について詳しい事は分かったけども、めいこさんとの繋がりは分からず終いだ。何というか、徒労感が凄い。

 

『んー、心を読むとか、一応共通点はあるっぽいけどねぇ』

 

「え? ……ああ、思考読みメモの事ですか」

 

地面から頭だけを出した花子さんの言葉に頷く。

心を読む。思考を読む。成程、確かに共通した能力と言えなくもないだろう。

 

(……そうなると、怪談収集の能力に関してもか?)

 

以前受けためいこさんの説明曰く、怪談とは無数の人々が語った噂や迷信が言霊としてその土地に宿った的な感じの物であった筈だ。

それを収集し記載するという事は、言い換えれば無数の人々の意識を――心を読んでいるとも表現できるのではなかろうか。

まぁ、人か土地かで結構な違いはあるけれど。

 

「ねぇ、本当に思い当たる事無いの?」

 

『……ごめ んなさい。何度、問われて も 分から ない。で、あります』

 

めいこさんに再三問えば、やはり文章に空白が生まれていた。

どう見ても気のせいでは無い……そうは思うが、何度訪ねてもこの返答のまま変わらないのだ。

これ以上強く問い詰めても、果たして意味があるのかどうか。

 

『ちょっと時間置いてみたら? 焦ってるってのもあるかもしんないしさ』

 

「……まぁ、そうですね。何度も聞いてごめん」

 

『 い え。こちらこそ、おちからになれず、であります……』

 

とりあえず、覚り妖怪の事は一度忘れた方が良いのかもしれない。

僕は花子さんに同意を返し、小さく震える手帳をあやすように一撫でしておく。

そうして何となく気まずい空気の中、花子さんの指示に従い歩き続け――。

 

「……あぁそうだ、もう一個聞きたい事があったんだけど」

 

さやまの森の横。山原の消えた例の小路に行きがかった際、もう一つの疑問が蘇る。即ち、めいこさんが今のポンコツになった理由についてだ。

空気を変えるには良いだろうと、世間話のノリで話しかける。

 

『ええと、今度は、何でありましょうか?』

 

「いや……あの丸眼鏡の男の衝撃波を喰らった時から、かな。あんた何かバグってるよね。あれ何が起こったのか、今になってちょっと気になって」

 

『ばぐ……』

 

「文字が乱れてる。おかしくなってる。無機質さが消えた……まぁ、そんな感じ」

 

めいこさんは僕の言葉に文字を止めると、そのまま反応を示さなくなった。

呼びかけても振っても折り曲げても特に動かず、花子さんと二人見合わせる。

 

「あの、別に責める気ないから、無いんなら無いってハッキリ……」

 

『――ゆめ。とも言うべき何かを。そう、見たの、であります』

 

突然、そんな一文が浮かんだ。

 

「夢?」

 

『そも、あなたが言っている衝撃波とは、霊力の炸裂。つまりは、霊魂の抱く感情の暴発、であります。そして、当夜に該当する霊魂が放ったそれは酷く濃く、そして強大であった』

 

「まぁ……人間一人が吹き飛ばされたくらいだものね」

 

あの男は大量の泥を吐き、怨霊と呼ぶに相応しい様相を呈していた。そんな彼の抱く情念が小さい筈が無い。

 

『本来であれば、外部からの霊的干渉に対し、本書は耐性を備えています。しかし、あなたの霊力が味噌っかすである為、本書は間近で炸裂した霊力を防ぐ事が出来ず、そう、いわばアテられてしまったの、であります』

 

「味噌っかすって単語好きだよねあんた」

 

『おみそしるが、すきです』

 

聞いてねぇよ。

 

『ともあれ、その際に何かしらの影響を受けてしまったものと思われます。おそらく、きっと』

 

「何か頼りないなぁ……それで、夢ってどんな内容の物を見たんだよ?」

 

以前僕が見た花子さんの過去のように、丸眼鏡の男の過去でも見たのだろうか。

あの無機質な文面をここまで崩す程だ、余程ショッキングなものだったのだろう――そう思っていたのだが、めいこさんの反応は淡白なものだった。

 

『森、であります』

 

「へ?」

 

『木々の生い茂る森の中。詳細不明の老年男性が……誰かに、そう、誰かに、語りかけている……たぶん、そんなゆめだったように、おもいます』

 

「……?」

 

その文面はどこか自信の無いような空気を纏い、彼女もよく覚えていないのだろうと伺える。

……何だろう。文面に空白とは違う違和感を覚えたのだが、気のせいかな。

 

『この辺りで森って呼べるくらいの場所って言うと、そこのさやまの森くらいだけどねぇ』

 

肩口からめいこさんを覗き込んでいた花子さんが、ついと塀の外側を見つめる。

つられて目を向ければ、そこにあるのは鬱々と繁る蒼。近隣住民にとってのタブーにも等しいその場所は、相も変わらず陰気な空気を撒き散らしていた。

 

(……森と、老人……)

 

心中で呟き、反芻する。

 

『……ん? どうした、何か心当たりでもあるのかい』

 

「いえ……」

 

心当たりとまでは行かないが、引っかかるものはあった。

けれど、それが上手く言葉に出来ない。どうしたものかと口をまごつかせ、助けを求めるように森林を眺め、

 

 

 

 

                 (――ぁ  い、め   ……ぅ    お)

 

 

 

 

「――――ッ!?」

 

 

――深く、昏い蒼。そこに潜む【何か】と、目が合った。

 

 

そして同時に強烈な存在感が僕の身体を通り抜け、一拍遅れて衝撃が奔る。

 

痛みは無い。頭が、腕が、足が、臓物が、肉が骨が血が皮が髪が細胞の一片ですらも骨から剥離し、流れ誘われていくのだ。

 

向かう先は遥か後方、刻の彼方。

 

既に棄てられた、ぬばたまの夢へと。僕の意識/魂は、引きこまれ、そして。

 

そして。

 

そして――――。

 

 

 

 

 

 

 




                      ■


幼子が見目麗しき少女へと成長し、私の身体が碌に動かなくなった頃。一人の女性が私達の下を訪れた。

私の既知であり、協力者だった女だ。
他人に不信感を抱いていた私であれど、彼女を完全に拒む事は出来なかった。

異能により彼女の心を見通していた筈のあの子も悪意は感じていないようで、その日は久方ぶりに他人との触れ合いを楽しんだ。
女は徐ろに口を開き、語った。何の事は無い、かつて住んでいた村を困らせているという悪質な怪異の話だ。

女はそれを討伐するに辺り、あの子の力を借りたいと言ってきた。
当然、私は止めたとも。命の危険があると、お前を排斥した奴らの為に頑張る事は無いと。何度も、何度もだ。
しかしあの子はそれを聞かず、自分が力になれるならと笑った。

――私、あの人達の嫌な顔だけじゃなくて、笑った顔も見てみたかったんだ。

……私には、その言葉を遮る事が出来なかった。

あれ程傷つけられてなお抱けるその想いを、一体誰が止められるという。
黙りこむ私を他所に、女はその子の言葉に真摯に頷いた。
そうして懐から取り出した一枚の花弁を差し出し、私が止める間も無く彼女に呑ませ……。


呑ませ、た。
そう、そう、だ。呑ませたのだ。
見送ったのだ。私はそれを。

何故、そんな、馬鹿な事。
悔やんでも、私は、あ、ああ、あ……。


「 ぃ で    ……ぁ  ……」


……嗚呼。嗚呼。嗚呼。

私は、本当に、愚かであった。


                      ■


『――おい、大丈夫かいアンタ。ねぇちょっと!』

「っ!」

パチン、と。泡沫が割れ、意識が脳に回帰する。
気づけば塵より細かく分解された筈の身体は元に戻り、尻餅をついていた。じんじんとした痛みが腰に伝わり、顔を顰める。

『一体どうしたのさ、いきなりぼうっとしたと思ったらへたり込んで』

「え……?」

見上げた花子さんは訝しげな表情を浮かべてはいるものの、僕の身体が粉々に吹き飛んだ事に対する反応らしき物は無い。
……咄嗟に【何か】と目が合った場所を確認しても、何も、居ない。

(幻覚、いや白昼夢……?)

しかし、そうとするには余りに生々しく思えた。軽く頭を振って意識をハッキリとさせても、先の記憶は薄れないままだ。

――否、それ所か、むしろ。

『……風邪でもひいて熱でも出た? 調子悪かったら無理しちゃダメだよ』

「え? あ、ああいえ。何ていうか……逆にすっきりしてます、多分」

『すっきりしてる子は尻もちつかないと思うがねぇ……』

心配そうにこちらを慮る花子さんを他所に、再びさやまの森を見る。

(……森。老人を語り部とした、夢)

そうだ。何時だったかは覚えていないが、僕はこれまで二回程、同じような夢を見ていた筈だ。
単なる微睡みの無意識。意味のないものだと思い、記憶に残す事すらしていなかった。

けれど花子さんの一件からこちら、僕は他者の過去を夢として観察できる場合があると分かっている。
おそらくめいこさんの能力の一端なのだろうが――あの夢もまたそのパターンだと考えるならば、どうだ。要素的には矛盾は無い、と思う。

(いや、でも。だとしたら、僕は誰の記憶と繋がっている?)

最初に夢を見た時期と花子さんと出会った時期を考えると、彼女の物では無い。
かと言って、登場人物の特徴からして丸眼鏡の男の物でも無い筈だ。

(……それに、もう一個)

例の夜。歌倉女学院での騒動の中、転がっためいこさんを拾おうとした際に華宮の少女が口にしていた言葉が蘇る。

――これが、サヤマの怨念。

「…………」

偶然の一致、なのだろうか。
どうしてもそうは思えず、先程【何か】が潜んでいた筈の『さやまの森』の暗がりを注視する。
そこは先程と同じく、視線も人影も無く、ただ鬱蒼とした茂みが広がるだけで。

……無意識の内に一歩、後退っていた。


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3頁 誘手

                      *

 

 

さやまの森。

住宅街付近に広がる森林地帯がそう呼ばれ始めたのは何時からか。実のところ、その辺りはよく分かっていないらしい。

 

語源は不明、由来も不明。気づけば民間の中でその名称が広まっており、誰も疑問を持たないまま今に至る。

一説では開拓民の指導者や当時の村長の名を取ったとも言われているが――まぁ数々の事故事件の逸話から考えるに、そのような真っ当な理由とは考え辛い。

 

――さやまという名には【何か】がある。それも、善くない【何か】が。

 

「…………」

 

夕焼けが沈み、辺りを宵闇が包み始めた頃合い。

一度帰宅し態勢を立て直した僕は、意気もそこそこに再び小路へ向かっていた。

 

目的は単純明快。直接さやまの森に分け入り、直接その【何か】を調べ回るためだ。歌倉女学院の時とほぼ同じシチュエーションである。

 

「……うう、気が重い……」

 

『まだ言ってんのかい。しっかりしなって、ね?』

 

……まぁ、前回と違って今回は花子さんが主導であり、僕は嫌々なのだけど。

鬱々と下を向く僕を見て、壁の中から手を出した花子さんが、励ますように背中を叩く仕草をした。

 

『森に気になるもんがあるってんだろ? なら行ってみようよ、早い内にさ』

 

「それはそうですけど……」

 

刻限が何時なのかは分からないが、決して余裕ある状況じゃないのは確かだ。

それに歌倉とは違い人目を盗んで不法侵入する必要もない。逆に率先して行うべき方法の筈である。

 

……しかし、昔からこの辺りに住む僕らは、さやまの森に入る事を幼少時より強く禁じられている。

これまでの事から、最早犯罪的な意味での抵抗は(悲しい事に)小さいが、記憶に刻み込まれた禁忌感まではどうしようもないのだ。

加えて、昼に見た森に潜むもの。これで「わーい行きたーい」とか宣うアホウが居たら僕は迷わず張り手する。

 

「あのぅ、花子さん? もしよろしければ僕の代わりにあなた一人で……」

 

『あ? 尻蹴っ飛ばしてくれって言ったのはどちら様でしたっけなぁ』

 

「はい、この眉目秀麗かつ清廉潔白な優等生様です。クソが」

 

肩を落とし、観念する。

自分の言った事には責任を持たねばなるまい。それが良い子という物だ。

 

「――よし、分かった、分かりました。ちゃんと頑張りますから、これまで以上に周囲の警戒お願いしますよ。近所の人にバレたら村八分なんだから」

 

『……あの森に入るってなァ、そこまでの事なのかい?』

 

「ちょっと調べた限りでは、それに足る理由はありました。当然と言って良いと思います」

 

めいこさんを開いて、以前軽く調べた時のメモを呼び出せば、一番新しい事件の日付は二十年程前の事。

無断で森を伐採しようとした業者が多数事故死したらしく、当時は呪いだ何だと結構な話題になっていたそうな。

それに、もしかしたら表沙汰になっていないだけで、近年も森に入って不幸な目に遭った人が居た可能性もある。

 

『……はっ。ひ、ひょっとして、本書達も入ったらまずい、のではっ?』

 

「だろうね、きっと」

 

流石に入った瞬間に即死という事は無いだろう。しかし、それでも『事故』と表現できる何かは起こる可能性は高い。

以前の僕ならば鼻で笑うような眉唾予想だが、これまで幾つかのオカルトと出会ってきたのだ。過去の事例を迷信や偶然と切り捨てられる程、愚鈍であるつもりは無かった。

 

するとめいこさんは慌てたようにわたわたとページの端を振り、取り乱す。

 

『な、なにを、おちついている、のであります。あぶない、でありますよ。まずい、でありますので、ありますがっ』

 

「……落ち着いてる訳無いだろ。怖がってるんだ、これでも」

 

嘘じゃない。現在進行形で緊張し、横隔膜は慢性的にぴくぴく痙攣中である。

だが、可能性があるなら、例え危険でも最短距離を突っ切らねばならない。華宮に追いつかれる前に、早く。

 

『うう、どうして、どうして、そんな……』

 

「僕にとって、華宮に捕まるのはこれ以上無く避けたい事なんだ。それこそ最悪死んだ方がマシってくらいにはね」

 

『だ、だめ。だめっ。そんなこと、いわないでほしい、であります』

 

「……?」

 

その何時になく強い言葉に違和感を抱いたが、そういえば彼女の目的は『存在し続ける事』だったと思い出す。

成程。持ち主である僕が「死んだ方がマシ」とは、確かに怒りたくもなるだろう。しかしそれは紛う事なき本心であり、撤回する気は無い。

 

「……まぁ、あんたには悪いと思ってるよ。もしそうなったら、花子さんに頼んであんたを持って逃げて貰えるよう何とかしてみるからさ」

 

『ちがう、であります! わたしは、本書より、あなたの方が――』

 

 

『――めいこを隠しなッ!』

 

 

 

「っ!」

 

突然右眼に声が響き、すぐ横の壁から突き出した腕が眼前を掠った。反射的に小さく身体が仰け反り、息を呑む。

混乱しつつよく見ると、それは会話から外れていた花子さんの物だった。

 

「い、いきなり何ですか。驚かさないで――」

 

『良いから。黙ってめいこをしまって自然体を装いな、早く!』

 

早まる脈拍を抑え抗議の声を上げようとすれば、彼女は焦った様子でめいこさんを懐に戻すよう訴える。

その剣幕といったら只事では無く、気圧された僕は戸惑いながら指示に従い、静かに歩みを再開させる。胸ポケットの中でめいこさんがカサリと揺れた。

 

(……あの、何かあったんですか)

 

流石に不審に過ぎる行動だ。小声で壁の中の花子さんに問いかけると、彼女は半身を露出し背後を強く警戒しながら、僕に真剣な目を向けて――。

 

『――暗くて見えないかもだけど、すぐ後ろの道角に男が居る。アイツ、この前トイレで華宮の娘と一緒に居た奴だ』

 

「……、へ」

 

 

 ――ギチリ。胃袋が強く拗じられるような音が、鼓膜を揺らした。

 

 

                      *

 

 

――歩く、歩く、歩く。

 

靴底を鳴らし、小石を蹴飛ばし。決して急いでいる事を悟られぬよう、出来得る限りの自然体で住宅街を進む。

 

『……やっぱり、付いてきてるよ。あの男』

 

壁に身を潜める花子さんの声に、懐中電灯で辺りを照らす振りで背後に意識を向ける。

レンズを通さないぼやけた世界、それも闇に覆われている為良く見えなかったけれど――微かに。本当に微かに、靴で砂利を擦る音が聞こえた。

 

花子さんから教えられなければ絶対に気づけなかっただろうそれは、確かに人間の放つ音。ぞっとして、血の気が引く。

 

(……あの、本当なんですか。その、今つけて来てるのが……)

 

『多分ね。アタシもあん時にチラッと見えた程度だけど、あのキツネ目はそうだった筈さ』

 

確かに歌倉女学院から逃げる際、髪飾りの少女を助け起こしていた男は居た。

僕と違って視力の良い花子さんの言う事だ、まず間違いないと言って良いだろうし、実際につけられている以上否定する材料は無い。

 

(くそ、何でバレたんだ。確かに顔は見られてたけど、それだって……!)

 

いや、むしろ今までよく持った方だったのだろうか。

 

とにかく、何とか撒くしか無い。いきなり火の玉が飛んで来ない所を見る限り、あちらもまだ完全には僕の情報を把握していないのかもしれない。

だとすればまだ、希望は潰えていない筈だ。

 

『でもどうする? 何とかして撒かないとかなりヤバいよ』

 

(分かってますよ……!)

 

姿の見えない男の気配に怯えつつ、考える。

まず撒くとしても、僕はどう動けばいい。家には戻れないとして、街中まで行って人ごみに紛れるか?

いや、それには街まで続く無人の道を通らなければならない。住宅街と違って完全に人の気配が無い場所だ、襲いかかられない自信は無かった。

 

では当初の予定通り、さやまの森に入って隠れて――いや、それもダメだ。

あの華宮の少女が言っていた「サヤマの怨念」と、さやまの森に本当に関係性があったとしたら、逆に煽る事になりかねない。

 

どうすれば逃げられる。切迫した状況に脂汗が滲み、思考が空転し始めた。

 

《……足、止めちゃダメだよ。自然に、考えが出るまで時間を稼いで歩くんだ》

 

男の様子を見に離れているのか、花子さんの声が脳内に響く物へと切り替わる。

気付けば立ち止まりかけていたらしい。動かす足は酷く重たく、不自然の無いよう歩く事に苦労した。

 

そうして男の気配を張り付けたまま 十分程歩いただろうか。とうとう小路の前まで辿り着く。

……そう。人気の無い、細く昏い道の前に、だ。

 

(畜生、どっか行ってくれよぉ、頼むから……!)

 

これ以上引き伸ばしは不可能に近い。良い考えは未だ浮かばず、身が震える。

 

《……こうなったらもう、イチバチ賭けるしか無いかもしれないね》

 

(イチバ……? あ、ああ、一か八かですか)

 

《ああ。この小路、蜘蛛の巣みたいになってんだろ? でもアンタには土地勘があるんだ。逃げ切るのは決して不可能じゃない……と思うよ》

 

まぁ、土地勘に関しては地元民としてそれなりに持っていると自負している。

しかし動くと同時に、男はこちらが逃げようとしている事を確実に悟るだろう。

そうなれば命がけの鬼ごっこの開幕である。正直、体力的には不安しか無い。

 

(でも、他に有効な方法は……)

 

大体にして、既に仲間を呼ばれているのかもしれないのだ。

花子さんによれば追いかけてきているのは一人だけのようだが、それも何時増えるか分かったものじゃない。

 

それでもし髪飾りの少女が召喚されでもしたらその時点で終了。オカルト組は焼かれ、記憶を失った僕は元の糞メガネとなり山原の居ない日常を謳歌する。

 

「…………」

 

一瞬、『異小路』を使って男を異界に葬る事も考えたが、それでは何も変わらない。

深呼吸を一度すると右眼を抑え、花子さんへと呼びかける。まるでテレパシーだ。

 

《……やるんだね?》

 

(失敗したら一生恨んでもいいですか……?)

 

《おや、アタシの事は記憶消されても覚えといてくれるのかい。まぁ、上からキツネ目の動き見て伝えるから、頑張んな》

 

ポン、と頭に手を置かれた感覚がした。当然、錯覚だろうけど。

 

僕は無理して口角を歪めると、痙攣する腹底に力を込めて抑え込む。

懐中電灯を握り直し、眼鏡をかけ、前方をしっかり照らして進路オーケー。

 

(やる、やる、やる。逃げ切るしかない、僕には……!)

 

そうして僕は一際強く歯を食いしばり――その一歩を、震える足で踏み込んだ。

 

 

                      *

 

 

「――!」

 

背後で一際大きく砂利を擦る音が聞こえたが、気にせずダッシュ。

僕の走力なんて見られたもんじゃないけど、それでも歩くよりはマシだ。軽く息を上がらせ、枝分かれする道を走り進む。

 

『向こうも追ってきたよ! 左の道を走ってるから右寄りな!』

 

花子さんの指示に従い右の細道へと舵を切り、高揚する脳裏に地図を開き逃走経路を構築する。

どう進む。このまま街に出るか。それとも裏を突いて住宅街に戻る道を行くか。

僕は懐中電灯を握り直すと、次の分岐を更に右へと――。

 

《っ、ダメだ! そっち迂回! アイツ先回りしようとしてるよ!》

 

「は、はぁッ?」

 

花子さんの言葉に急ブレーキをかけ、咄嗟に進路を変えた。

その際転びかけ足を挫きそうになったが、気にしてはいられない。走りながら顔を上げ、闇空に紛れ見えない彼女へ抗議の視線を送る。

 

《分かんないよ! 何かアイツ、ピンポイントにアンタを察知してるんだ! 今だって迷いなくそっち向かってる!》

 

「くそッ!」

 

最早隠す事無く悪態を突き、小路のより深い場所へと全力で走る。

森が深まり道が入り組み始めるが、何故か男を振り切れない。どれ程イレギュラーに動こうとも、花子さんの警告が降ってくるのだ。

 

「っな、なん、だよっ! は、発信機でも、付いてるって、いうのかッ……?」

 

もしくは、そういった追跡の為の超能力があるのかもしれない。

何だよその反則、考えが甘かった事を後悔したがもう遅い。

 

《右の道、次左! まずい、どんどん距離が……!》

 

そうこうしている内にすぐ近くから足音が聞こえ、咄嗟に背後を振り向いた。

 

そこに男の姿は無かったが、しかし近くに居る事は確かだろう。

どうすればいい、どうすれば。焦燥に灼かれる頭で考えるも意味は無く、逆に疲れと緊張で思考が働かなくなっていく。

そして弾けそうな程に心臓が脈打ち、激しい運動の所為もあり強い吐き気が押し寄せて。

 

《早く角を曲がって! もう見えるよ!》

 

「――ッッ!」

 

その悲鳴のような声を聞いた瞬間、気づけば僕はめいこさんを取り出していた。

 

本当に、無意識の行動だった。

きっと何らかの怪談を再現させ、窮地を脱しようとしていたのだろう。どの怪談の条件も満たしていない事も忘れてだ。

 

後悔や罪悪感は消え失せ、ただ逃げる為だけに唾棄すべきそれを行おうとする本能。何と浅ましい。

結局は、それが僕の本質だったのかもしれない。

 

《――――!》

 

そうして、何もかもがスローモーションになった世界。

 

花子さんが某かの叫び声を上げ、振り向いた視線の先、石壁の影よりゆっくりと男の姿が現れる。

もう駄目だ。嫌だ、失いたくない、捕まりたくない。僕はバランスを崩しつつも必死に、思い切り、右手を振り下ろし、そして、

 

 

 

「  ぇ  ……い、こ    っち にぃ ……!」

 

 

 

――瞬間。圧倒的な存在感を、背に感じた。

 

「ッ、ひ」

 

度を越した悪寒が全身を包み込み、振り下ろそうとした手が強制的に停止する。

そして怯えるまま咄嗟に振り向き――ガチリと強い力で頭を捕まれ、勢い良く背後へと引っ張られた。

 

「がッ!?」

 

首が嫌な音を立てて、同時に声が漏れ。そのまま崩れかけたアスファルトに全身の肉を強く打ちつけた。

 

頭の中に星が散り、激しい痛みと共に感覚がブツリと切れて。

何が起こったのか、何が居たのか。それらをたった一つとして理解する事無く、意識は暗闇へと飲まれ、深い闇へと落ちていく。

 

……ただ、一つだけ。白い何かが、視界の端を擽った気がした――。

 

 

                      ■

 

 

「おっかしぃなァ、何で気付かれたんでしょ……!」

 

煩雑に、複雑に。

大樹の細枝が如く分岐する小路を走りながら、水端冬樹は愚痴を零す。

 

追いかけるのは、自らの追う怪異法録の所有者――の、可能性がある少年だ。

とある道具によりその姿を発見したは良いのだが、聞いていた特徴の眼鏡も無く、加えて話に女幽霊の姿も無かった為、一先ず尾行してその住居を確かめようとしていたのだ。

 

しかし、どういった訳か看破されていたらしい。ストーキング技術にはかなりの自信があっただけに、割とショックな冬樹であった。

 

「次は……右!」

 

彼は掌に握る何かに目を落とすと、的確に少年の居る位置へと走る。

視線の先にある物は、澄んだ液体と黒い粘液が入れられた小さな瓶。以前、この小路で灯桜が採取した黒い粘液と、霊力を豊富に含んだ神酒だ。

 

粘液はまるで生き物のように神酒の中を泳ぎ蠢き、コンパスのように少年の居場所を指し示している。それの持つ霊力と同質の存在を追っているのだ。

少ない手がかりから生み出した苦肉の術。小路の一件で粘液となった、怪異法録の被害者達の一欠片であるという可能性もあったのだが――。

 

「ま、当たりですよね、この反応は……!」

 

必死とも言える少年の逃げ様から言って、何らかの関係が有る事は確実だろう。

尾行がバレた事はさておいて、プラスに考え追う事暫し。

 

(示す方向……この角の先か)

 

尽く先回りを回避されたが、ようやく追いつめたようだ。カタカタと小刻みに揺れる小瓶を一瞥し、速度を落とす。

油断なく懐から取り出した拳銃を構え、冬樹は勢い良く少年の下へと突入した。

 

「……、?」

 

……が。飛び出した先に人影は無し。

あるのはT字路を形作る石壁と、その先に広がる鬱蒼とした森だけ。姿どころか足音までもが忽然と消えていた。

 

「……もしもし、少年くーん? 投降すれば命までは取りませんよー……?」

 

決して警戒を解かないまま、ゆっくりと道を進む。

立ち去る足音も聞こえない、少なくともそう遠くない場所に潜んでいる筈だ。

 

否、もしや既に自分は法録の操る怪異に呑まれているのだろうか。心の隅に不安が過り、拳銃のグリップを握り直し辺りを見回した。

 

何も無いT字路。唯一『界』と書かれた落書きが目を引いたが、それだけだ。

再び小瓶を見ると、粘液は直ぐ目の前――石壁の向こう側を指し示し、カタカタと強く振動していた。

 

「…………ふむ」

 

冬樹は徐ろに灯桜の霊力が込められた御霊華の花弁を取り出すと、足元の小石をその中に包み込み。塀の内側へと弾き入れ、

 

「――っ」

 

バチン、と。小石が塀を越えようとしたその瞬間大きな炸裂音が轟き、花弁ごと木っ端微塵に砕け散る。破片すら残さぬ程に完全に、完璧に。

……冬樹の額から一滴の冷や汗がれ落ち、アスファルトに染み跡を生んだ。

 

「……ちょっと、無理っぽいですかね」

 

これ以上深追いすれば、自分はおそらく死ぬだろう。冬樹は瞬時にそう判断し、身を翻すと脱兎の如く離脱する。

 

怪異から生還するコツは、退き際を見誤らない事だ。

灯桜への連絡は既に済み、最低限の役は達している。無茶をする理由はどこにも無い。

 

 

――後に残るのは、不気味な静けさを湛え広がる森の蒼。それだけであった。

 



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4頁 追憶

                      3

 

 

捏ねた血肉は糊となり、砕いた臓腑は墨となる。

 

 

                      ■

 

 

――あの子が、死んだ。

 

村を困らせる悪質な怪異――それは、あの子の事を指していた。

 

そうさ、彼女は嵌められたのだ。

私達が村を去った後も村人共は変わらず私達を貶し続け、起こった飢饉を、村人の不幸を、天候の荒れを、他人の悪事を、自分の過失を。都合の悪い事全てをあの子に擦り付けていた。

 

そして奴らはあの家に、あの女に討伐を依頼した。あの、あの……ッ!!

 

……あの子の、身体には。焦げ跡一つ無かった。

おそらくはそれがあの女のせめてもの情けだったのだろう。そう、身体の内から、呑ませた花弁を媒介とし正確に魂だけを焼き屠り、私の目の前であの子を殺したのだ。

事実を承知の上で。ただ怪異の血が入っていたというそれだけの事で、あの子を騙し。燃やして! 殺した!

 

――認められるか、こんな事が。

 

あの子の欠片。唯一掴み取れた霊魂の焦げ粕を胸に、慟哭した。

嗚呼、私はこんな結末を認めない。

 

許される訳が無いだろう。あんな優しい子が、何故殺されなければならない?

魂を焼かれ、屠られ。訳が分からなかっただろう、自分が殺される事を理解出来なかっただろう。

認めない、認めて堪るものかよ。私は。絶対に、絶対に、絶対に――。

 

 

「――――絶対、に……ッ!!」

 

 

 

                      ■

 

 

 

……死体が。

 

「――許してくれ、私は、お前の、為なんだ。お前、の……」

 

死体が、目の前にあった。

年の頃は十代の中頃、と言ったところか。

涼やかに整った顔立ちに色素の薄い長髪を垂らした、一糸纏わぬ少女の肢体。

 

「何、心配はするな。痛いだろうが、無駄ではない。お前の身体は余す所無く呼び水と、そして媒介となる……!」

 

そして、その傍らに傅く影がある。

 

先程まで語り部であった、白衣を纏った老人だ。

彼は祭壇の上に横たわる少女に愛おしそうに手を這わせ、両手から流れ出る血液と、零れ落ちる涙と唾液を肌の上に刷り込んでいた。それは時間を経る毎に激しく、そして激情を帯びていく。

 

……狂っている。そう、狂っていたのだ。ここへ至った時には、彼はもう。

 

「――……ぃッ……!」

 

――狂気が、高らかに渦巻く。

 

老人は全身を震わせながら、自らの体液に塗れた指でメスを握り締め。何度も何度も死体を刻む。

皮を剥ぎ、肉を削ぎ、臓腑を抉り、骨を外し。美しかった少女の躯が次々と解体されていく。

 

石壁に囲まれた地下の部屋、その隅にある書物に血液が飛び散った。

それは「怪異法録」と題されていたようにも見えたが、今この時に置いては些末事。

ただ、只管に、ずっと。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと。

 

「め、いごぉぉ…………ッ!!」

 

そう呼ばれた彼女が「加工」される光景を、ずっと。僕は、見続けていた――。

 

 

                       ■

 

 

「――――が、っご。ぼ」

 

『! 大丈夫かい、ちょっと!』

 

意識を取り戻した僕が感じたのは、息苦しさと苦味。そして鼻奥を抜ける悪臭だった。

 

「ぐ、ぼおぇッ」

 

何か生暖かい物で口内が満たされ、呼吸する度に気道を逆流する。見なくても分かる、それは強い匂いを放つ吐瀉物だ。

どうやら僕は気絶しながら吐いていたらしい。吐瀉物の匂いが嗅覚を内外から刺激し、定まらない意識を強制的に覚醒させ――そして、再び嘔吐。

ビチャビチャと下品な音が木霊した。

 

「ぐ、く、ぅ……ッ」

 

気持ち悪い。消化液と溶けかけた食物の匂いだけじゃない、今まで見ていた誰かの夢。老人の行為、凄惨な光景、その結果出来上がった「それ」。その全てが気持ち悪くて堪らない。

 

『とりあえず落ち着きな。ほら、深呼吸して……』

 

「は、っぐ。ぁ……?」

 

感触は無いが、背中を擦っているらしき花子さんの声に幾分落ち着きを取り戻し、そこで初めて自分の置かれた状況に考えが及んだ。

……暗緑の中だ。前後左右を見回せば、深く生え揃った濃緑の葉々が夜闇の中に浮かんでいる。

 

どうやら僕は今、どこかの森の中――おそらくは、さやまの森の中――に居るらしい。

 

「う、あ。ぼく、何が……?」

 

『そりゃこっちのセリフだって。いきなり森ン中に引っ張られて、やっと見つけたらこんな……何があったのよ』

 

「何、て……」

 

……そう言えば、何かに強く首を引っ張られた気がする。自覚した瞬間、思い出したように全身が痛みを訴えた。

 

察するに、僕は気絶した後そのままこの場所へと引きずり込まれたのだろう。

何が、何の為に。考えるのが怖い疑問は多々あるが、頭を振って先の夢ごと強引に振り払う。今考え始めたら、何もかも訳が分からなくなりそうだった。

 

「……う……?」

 

そうしてある程度落ち着くと、身体を支える掌に伝わる感触が土の物では無い事に気がついた。

ざらりとした、硬い石の感触。僕の吐瀉物に塗れたそれは、森の中と居場所には似合わない石床のようだ。

……いや、縁にある取っ手のような突起をみる限り、床というよりは、むしろ。

 

「地下、扉……――っ、う、うわぁッ!」

 

地下、暗室、老人。連想ゲームの如くあの凄惨な夢が蘇り、転がるように飛び退いた。

そうしてついでとばかりにポケットのめいこさんも投げ捨て、必死に、無様に、距離を取る。

 

『……本当にどうしたの、アンタ。大丈夫かい』

 

「っど、どうしたも、だって、こんな、こんなッ……んぶ、ぐッ」

 

……老人が、少女の死体を加工する。唾棄すべきそれを鮮明に思い出し、再び吐き気が喉元を塞いだ。

幸い今度は吐き出す事は無かったものの、団子虫のように身体を丸め、ただ耐える。

 

「……ふーっ……ふーっ……!」

 

酷く荒い呼吸音が夜の森を木霊して。土と草の匂いが、鼻の粘膜をくすぐった。

 

「……び、尾行、は。あの男は、どうなりましたか……?」

 

『……分からない。今無事って事は、追ってきてないんだと思うけど』

 

のろのろと目線を上げ、腕時計を見れば深夜帯。どうやら僕が気絶してから結構な時間が経っていたようだ。

それでも捕まっていないのだから、おそらく一時は凌げたと見て良いのだろうけど――しかし、状況は悪化している。

 

僅か一週間足らずで僕を見つけた手際の良さ、こちらを追尾し続けた謎の技術。

完全に特定されるのも時間の問題なのかもしれない。

 

「っぐ、く……」

 

脱力感に苛まれる身体を起こし、手近な樹の幹に背を預ける。

 

確実に詰んでいるとしか言えないこの状況。既に頭の大部分は諦めで支配されていたが、しかし不思議と絶望は無かった。

それはまだ夢の事を引きずっているのか、頭が追いついていない所為なのか。

多分そのどちらでもあるのだろう、フラフラと心の置き場が定まらない。

 

『……吐いたって事は、頭。さっき引っ張られた時に強く打ったみたいだったから、病院で診て貰った方が良いよ。逃げらんなくなるかもだけど、命には代えられないだろ』

 

「いえ……そういうんじゃ、ない……。気分の悪さは、さっきの、夢の……」

 

心配そうな花子さんへそう返し。一瞬の躊躇の後、足元に転がり中身を晒すめいこさんを視界に捉える。

 

『――――』

 

ワインレッドの革表紙、そしてその中に挟まる黄白色の紙束。彼女は確かにそこにあり、ただ沈黙していた。

ひょっとすると、森に入った事で記憶が刺激され、何かを思い出したのかもしれない。

 

例えば――さっき僕が見たものと同じ情景、とか。

 

「……あんた、は」

 

投げ出したいと、強く思った。でもそれをやったら負けなのだ。

必死に、詰まりそうになる言葉を絞り出す。

 

「あんたは、人間だったのか。その……そうなる前は」

 

『――――』

 

反応は無い。

花子さんが何かを聞きたげな表情を浮かべたが、空気を読んだのか声はかからなかった。

 

「み、見た。見たんだよ。本当なのか分かんないけど、どこか冷たい場所で、綺麗な女の子の、し、し死体が……本に、加工されてた」

 

『――――』

 

反応は無い。

 

「出来た物は、不格好な大判ノートみたいで、間違っても手帳じゃなかったよ。でも、多分あれはあんただ」

 

『――――』

 

「……だって、それをやってたお爺さんは、その娘を『めいこ』って呼んでたんだ。分かるだろ。前の、前の、前の――最初の、あんたなんだよ、きっと」

 

反応は。

 

「初め、名前を決める時に感じた違和感、あれは気の所為じゃなかったんだ。そう呼ばれる事を望んだろ、意識的か無意識かは知らないけど」

 

『――――』

 

反応は――。

 

 

 

「――そろそろ何とか言えよぉッ!」

 

 

 

ダン、と。強く足を踏み鳴らし、めいこさんを風圧で揺らす。

 

八つ当たりだったのかもしれない。だけどもうウンザリだった。

オカルトなんて趣味じゃない物を調べる事も、追われる事も、逃げる事も、何もかもが分からない事も――あんな光景を見せられた事も、全部。

 

「何なんだよあんたは! 一々意味深な態度取りやがって! 何で知らないんだよ、何で曖昧なんだよ、もう書物なんだろう、その身体はッ!」

 

『ちょ、ちょっと落ち着きなって。言ってる意味はよく分かんないけどさ、頭冷やしなよ。ね』

 

激高し、花子さんに抱き締められた。その感覚なんてあるべくもないが、多少なりとも血は下がる。

そうして何度も深呼吸を繰り返し、気を落ち着かせていると――めいこさんのページに、ゆっくりと文字が浮かんだ。

 

『――ごめん、なさい。わからない、のです』

 

「はぁ……?」

 

やっと反応が返ったと思えばその一文。怒気が再燃しそうになり、再び花子さんに押し留められた。

するとめいこさんはそんな僕に怯えるかのように、震える筆跡で続きを紡ぐ。

 

『ほんしょには、わたしの記憶が、ないのです。おもいだそうとしても、きさいされておらず。わからない、のです』

 

「……それはもう、何度も聞いた」

 

『はい、違う、是。でも、ほんとなんです。わたし、いえ、本書も。わたしのきおく、見た夢とか、検索したい、のに。思い出したい、のに。説明項には、なにも、なにも……』

 

「…………」

 

その文面は不安に満ち溢れ、泣きそうでもあり、彼女自身も考えが纏まっていないように見えた。

 

……何というか、気弱な女の子を苛めているような気分だ。

こちらをジト目で見る花子さんの視線と合わせ、ちくちくと罪悪感が突かれる。

 

『ごめん、なさい。ごめん、なさい……』

 

『ええと、まぁ、うん。アタシにはさ、めいこの気持ちも分かる気がするよ。記憶が思い出せないってなァ、何か収まり悪いんだよね。ねぇ?』

 

そうして終いには子供が泣きじゃくるような雰囲気を出し始め、慌てて花子さんが飛び寄り宥めすかす。

これでは完全にこちらが悪者だ。そっと目を逸らし、舌打ちを鳴らした。

 

(……いや、でも。もしかしたら本当にそうなのかもしれないのか?)

 

以前僕は、花子さんの記憶喪失の原因は焼かれた霊魂が完全に復元し切れなかった為だと聞いた。

 

そして、その上でめいこさんの事を考えると、どうだ。

僕はめいこさんに何も情報が記載されていない事を、単にそういう仕様の道具だからと思っていた。けれど彼女が元が人間であったとするならば、それは。

 

(――そうか。焼かれた事で、全部無くした。だからこその、存在理由……)

 

夢での出来事、老人の嘆き、狂気、その真意。

一部の事情の裏を朧気ながらに察せられた気がして、思わず両目を閉じる。

 

(そもそも、めいこさん自身の怪談が記載されてないって時点でおかしいんだ)

 

異小路も花子さんも、近寄った際に自動的にその怪談が収集されていた。

 

なのに一番近くに再現されていためいこさんの怪談だけが、書に載らない。

それはつまり、怪談としての再現条件自体が存在しないという事になる。

 

されど現実として、めいこさんは告呂市のあちこちに再現され続けている。彼女だけが、彼女自身の提示した怪談を巡るルールから外れ、独立しているのだ。

 

(……そして、その矛盾を成り立たせる理屈は、一つしか無い)

 

カチリ、カチリと。

 

頭の中で、これまでに得た情報の欠片が継ぎ接ぎながらも組み上がる。

脳の奥が明滅し、腹の底が重くなり。知らず、大きく吸った息が震えた。

 

追い詰められた状況が生んだ、都合のいい妄想かもしれない。だけど、その時の僕はそれを真実としか思えず――。

 

『ああもう、ほら。アンタも機嫌直しなよ。大体喧嘩してる場合でもないだろ、今はさぁ』

 

「…………ふん」

 

花子さんの言葉に従った訳じゃないけれど。僕はゆっくりと目を開け、めいこさんを見つめる。

視線を受けてか、ビクリという擬音が聞こえそうな程に手帳が揺れたが、無視。

静かに近づき「……っ」必死に嫌悪を堪え、拾い上げた。指先の汗と革の表紙が擦れ、湿った音を上げる。

 

『ひっ。あのう、その。ごめん、なさい。わたしは、ほんしょは、やくたたずで、その、えっと……』

 

「……何も分からない、知らない。それは理解できた。だから、一つだけ聞く」

 

もう、グダグダ言うのは止めだ。

最後に一つだけ確認し、その後の事を決めようと思った。即ち。

 

「――あんたは、どうしたい」

 

――沈黙。この場の誰もが黙り込み、手帳に浮かぶ文字を待つ。

 

彼女が道具でなく人であったとするならば。形は違えど、丸眼鏡の男や花子さんと同じく縛られた存在であったとするならば。

僕は聞かなきゃいけない。その義務を、感じた。

 

『……ほ、ほんしょは。本書の目的は、唯一つ。存在するし続ける事、だけで』

 

「そういう事じゃない。分かるだろ、それくらい」

 

『ぁ、え……』

 

返るテンプレートを切り捨てると、彼女は一瞬戸惑った様子を見せて。

そうして暫くの沈黙の後――やがて、意を決したように、一つ。その身体を小さく揺らした。

 

『……いたい。まだ、あなたと、いたいです』

 

それは器物ではなく、人の声。震える線の集合体で発せられる、感情の波。

 

『いろんなことが、分からないけれど。でも、分かる。いまのわたしは、ここにあるけれど。燃えてしまえば、わたしは別の本書になって、またどこかにいく。全部が、きえてしまう」

 

「……うん」

 

『嫌、なのです。わたしは、もっともっと、ここにいたい。あなたと、れいこんと……いいえ、はなこさんと、お話して。あなたのおみそしるを、たべて。いろんなことを、感じたい……!」

 

 

――おねがい、です。もっと、いっしょにいたい、いさせて、ください。

 

 

その叫びは空気を震わせる事は無い。けれど、確かに僕の耳へと届いた。夢で見た、誰かも分からぬ少女の姿を伴って。

 

そして、それに返す言葉なんて、考えるまでも無く決まっている。

息を吐き、目を眇め、唾液を飲み込み、瞳孔が収縮し――。

 

 

「――分かった。僕が、やってやる」

 

 

声に出した瞬間腹が座り、意識がしっかりと定まった。

 

『は、い』

 

そしてその言葉を最後にめいこさんは文字の羅列を止め、安心したような雰囲気を纏った。

心なし手帳の重量が増した気がしたが、それは思い上がりだろうか。

 

……思えば、この言葉に真っ直ぐな意味を籠めたのは初めてだ。かつて同じ言葉を放った二つの場面を思い出し、思わず苦笑が零れ落ちる。

 

『……話、纏まったっぽいのは良いんだけどさ。展望あるのかい、これから』

 

会話が終わった頃合いを見計らったのか、背後から花子さんの声が掛かる。

まぁ自信満々にやってやるとは言ったが、現状は詰んでいるに近い。

 

希望なんて無いに等しいと言って良いだろう――けれど。

 

「そうですね……まぁ――」

 

僕は諦観とも覚悟とも言えない粘ついたもので心を固め、めいこさんのページを弄り、そして。

 

「――僕の本質に沿って、何とかやってみようかなって。思います」

 

ゆっくりと、自嘲と共に。

彼女から引き抜き翳したその指には、数字の羅列された紙切れが一枚。ひらりと風に揺れていた。

 



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5頁 対峙(上)

                      ■

 

 

――初めに怪異法録が確認されたのは、今より二百七十三年前。まだ告呂の地が華宮の管轄になる前の事だ。

 

創りだした者の名は、七代目査山鉄斎。

告呂を支える家の一であり、千里眼を得意とする霊能力者一族の長であった。

 

彼は誠実な人間であり、周囲からの信頼も厚かった。妻と子供は早逝し、七十を越えた頃に右眼に霊障を受け、それを機に査山の名と共に隠居したと記録されている。

……しかし何らかの理由により彼は発狂し、生きながらに怪異へと変貌を遂げた。

そうして残りの生を賭して怪異法録を作り上げ、当時告呂に住む多くの者達を巻き込み自滅する事となった。

 

直前に妖怪を保護したという話も残っており、それ故怪異に取り込まれたとも言われているが、今となっては知る術は無い。

後に発見された小数の書物を始め、資料の全てが意味を成さない線の集まりで記され、誰にも読み解く事が出来なかった為だ。

 

結果として、怪異法録は現在に至るまで告呂の地に厄災と不幸を振り撒き続けている。何度浄化しようとも時をかけて復活し、華宮の前に立ち塞がるのだ。

 

欲を出すな。持った物は須く狂い、その魂を外道へと腐らせた。

焼き捨てろ。それが我らが可能な唯一の対抗手段であり、同時に犠牲者となった者達への献華となるだろう。

 

――忘れるな。彼の狂気と怨念は、常に我らの傍に在る。

 

 

                      *

 

 

完全に日が落ち、人工の光さえも失われ行く時間帯。

車に揺られる灯桜は、流れ行く暗い町並みを見つめていた。

 

その手の中にあるのは、冬樹より返却された黒い粘液の入った小瓶だ。怪異法録の少年の居場所を表すそれは常に一定の方角を指し示し、彼女の視線もまた追随する。

端から見れば恋する乙女のような所作であるが、その内に湛える感情は全く逆の物だった。

 

「……動き、ありませんか?」

 

運転席の冬樹が、バックミラー越しに問いかける。

 

「ええ、先程一度だけ揺れたように思えますが、その後は特に反応はありません。大きく場所を移動した様子もなく、落ち着いたものです」

 

「小路周辺を張らせてる者からも異常の報告はありませんし、まだ例の森に潜んでいるんでしょうかねぇ。てっきりすぐに逃げ出すと思っていたんですけども」

 

「……いえ、隠れるといった意味においては最適解ではあります。あそこは少し、乱れすぎていますから」

 

少年が逃げ込んだという森。あの地はかつて怪異法録の創造主である査山鉄斎が住み、そして怨念を残し没した場所だ。

木々を刈ればその者は死に、踏み入れば呪われる。華宮の華炎を持ってしても完全に浄化しきれないその念の中であれば、追跡の手は伸び辛くはなるだろう。

 

「……あの少年くんがそこまでの事考えますかね。元一般だとするなら霊系の知識は無い筈でしょう?」

 

「そうですね、法録から何らかの情報を得ているのかもしれませんが……もしかすると、他の目的があるのかもしれません」

 

「他の目的、ねぇ」

 

あの狡猾な少年の事だ。例え隠れた所で時間稼ぎにしかならない事は分かっているだろうし、こちらに彼を探知する術がある事も既に予想されているかもしれない。

単に動きようがなくなって隠れているだけという可能性もあるが、短絡的にそう結論付けるには一度出し抜かれている事実が髪を引く。思慮に思慮を重ねて損は無い。

 

「……見つかるのを待って降伏の用意、とかなら楽でいいんですけど、っ?」

 

「……?」

 

突然、何かに気づいた冬樹が道端に車を停車させる。

 

到着したのは彼らの目的地であった件の森の程近く。名も無き小路の入り口――その暗緑の隙間に、人影が一つ、立っていた。

平均身長には届かないであろう小柄な体躯に、それなりに整った顔に乗せられた特徴的な丸眼鏡。服装に差異はあるが、それはまず間違いなく。

 

「…………」

 

冬樹と二人視線を交わし、車を降りて相対する。アスファルトと靴底の擦れる音が鮮明に周囲へと響き、空に散った。

 

「……お久しぶり、とでも言いましょうか」

 

その人影――怪異法録の少年は、灯桜の声に肩を揺らすもののそれ以外に目立った反応は無く、逃げる様子も無い。

先程の冬樹の冗談が頭を過ったが、すぐに切り捨てる。それ所か彼の周囲に女幽霊の姿が見当たらない事に不信感を強め、警戒を一層深めた。

 

「まさか、貴方の方から姿を表して頂けるとは。燻り出す手間が省けました」

 

「……僕、だって。本当は会いたくなかったさ。でも逃げたって何時までも追うつもりなんだろ、あんたら」

 

「ええ、それが責務なので」

 

緊張に寄るものか、少年の声は怯えを多分に含む酷く掠れたものだった。

されどその目には意思の炎が灯っており、未だ諦観は無い事が伺える。

 

……灯桜は袖口より取り出したる桜の栞を油断なく構え、臨戦態勢。容赦の楔を意識から外しておく。

 

「私としましては色々と言いたい事はあるのですが――今はいいでしょう。それよりも」

 

「分かってるよ。めいこさんを渡せっていうんだろ。そして断れば……」

 

少年はその先を濁し、溜息。めいこさんと呼ぶ怪異法録を開き、鋭い目つきでこちらを見た。

やはり素直に捕縛されてくれるつもりは無いらしい。灯桜は血流を巡る霊力に活を入れ、栞へと収束。封入される桜の花弁に『華宮』としての力と意味を宿し、そして。

 

「……一応聞く。交渉とか、してくれる気ある?」

 

「そうですね、法録を渡して下されば検討は致しましょう」

 

「悪いけど、それはちょっと待ってくれないかな。まず僕の話を聞いてから――」

 

――轟、と。

 

言葉の終わりを待たず、栞を火種とした火球が少年の下に炸裂する。高温の空気が渦巻く甲高い音と共に華炎の柱が立ち昇り、闇夜を赤く染め上げた。

 

「おおっと。い、いきなりですか……?」

 

「ええ、これ以上語る必要を感じません」

 

心なし引いた様子の冬樹の声に素気無く答える。

 

法録を手放さない意思表示がされた以上、こちらに少年を慮る理由は無くなった。ならば書ごと彼を焼き払うのが最善の一手。

言霊の詠唱を破棄した為威力は弱まっており、運が悪くとも全身火傷で済むだろう。怪異の被害者達と比べれば、不相応に軽い代償の筈だ。

 

灯桜は灰となった栞を風に流しつつ、ゆっくりと黒焦げになった筈の少年の様子を確認しようとして――不愉快気に鼻を鳴らす。

 

「……やはり、一筋縄では行きませんか」

 

炎が晴れたその場所に彼の姿は無く、ただ石壁に黒い焦げ跡が残るだけ。

そしてその壁は数瞬前まで確かに無かった物であり、小路の入り口を塞いでいた。

 

否、変化はそれだけではない。壁は道に、道は森に、森は壁に。ピシリと何かがひび割れる音と共に景色が歪み、今居る場所がここではないどこかへと変貌を遂げていく。

 

――……分かった。いいさ、そっちがその気ならやれるとこまでやってやるよ。

 

警戒する二人の耳に、風に乗った少年の声が運ばれる。それは変化し続ける壁に反響し合い、近くに居るようにも遠くに居るようにも感じられた。

 

「……貴方は、」

 

――ゴタゴタ言うなよ。追うなら来い、絶対に逃げ切ってやるから……!

 

それを最後にガラスの砕けたような音が撒き散らされ、堪らず冬樹は耳を塞ぐ。

しかし灯桜にとっては長く慣れ親しんだ物。霊力の発露、その音だ。

辺りを見回せば既に景色は完全に変わり切り、鬱蒼とした森に囲まれた小路と舞台を変えていた。

 

乗ってきた車も、通ってきた道も、何も無い。完全に異界へと誘われている。

 

「は、っはっは。こりゃまた何というか……」

 

そうして冷や汗を垂らした冬樹の寒々しい呟きが流れる中、灯桜は少年への認識が間違っていなかった事を確信する。そして新たに数枚の栞を取り出し、霊力を通す。

 

「桜の火、焔の灯――!」

 

仕留めるべきは、近くに隠れている筈の外法者。脳裏に浮かぶ彼の姿を穿つかのように白炎の灯火が迸り――夜闇を鮮烈に切り裂いた。

 

 

                      ■

 

 

「――くそ、馬鹿か! 問答無用とか馬鹿じゃないのかッ!」

 

華宮達から遠く離れた場所。遠くに聞こえる無数の爆音を背景に物陰へと身を潜めていた僕は、あんまりといえばあんまりな展開に悪態を付いた。

 

勿論、元より穏便に済むなどとは思っていない。むしろ交渉決裂からの戦闘の流れは半ば必定であると睨んでいたが、まさか話の途中で火球を撃ち込まれるとは流石に予想外である。

対話の可能性に縋り顔を出すべきじゃなかった。めいこさんと花子さんが機転を効かせ怪談の再現を行ってくれなければ、今頃丸焼き眼鏡が出来上がっていた事だろう。

 

「大体来るの早いんだよ、まだ完全に準備は出来てないのに……向こうの様子は?」

 

『相当やる気みたいだよ、あの娘ら。片っ端から壁を燃やして強引にこっち向かってる』

 

僕のすぐ隣には目を閉じた花子さんが漂い、華宮達の動向を逐次報告してくれている。

 

……いや、というか石壁を燃やしてこっち来てるってどういう事だ。確かに直線距離で詰められるだろうけど、石に火だぞ。ちょっと無茶苦茶に過ぎないか。

 

『ええっと、たぶん。石その物ではなく、異界を構築する霊力そのものを焼いているものと、思われます……きっと』

 

「……所詮はオカルトのまやかしって事か。人を溶かす能力ありで行けばちょっとは違ったかな」

 

『はン。今からでもやるかいよ?』

 

「言ってみただけです。ああくそ、怪異に関しては向こうの方が詳しいって分かってた筈だけど……!」

 

やはり、納得しづらい物はある。慣れたと思った理不尽を改めて目前に感じ、ガリガリと頭を掻き毟る。

そうしてそんな僕の片手に握られためいこさんの紙面。彼女が浮かべた文章のすぐ横に、一つの怪談が霊力を帯びて薄気味悪く輝いていた。

 

――異小路。これまで何度も利用してきた、忌々しい怪談。

 

悔しいけど、最近僕はこれを作った奴を天才なんじゃないかと思い始めていた。

 

 

 

 

目を覚まし、さやまの森から出た僕がまず最初に行った事。それは小路の至る所に「界」の文字を書き記す事だった。

手首の肉液をインクに見立て、小路の内部から入り口近くまで時間の許す限りに片っ端。今回は核となる花子さんのおかげで任意に再現のトリガーを引ける為、どこか一部を欠けさせる必要も無い。

 

――何の目的でそんな事をするのか? そう問われれば、時間稼ぎの為、華宮達から逃げる為と答える。

 

『異小路』とは「界」の文字を門として異界を発生させる怪談だ。ならばその門が至る所に散らばっていたとしたらどうなるか。

 

『――そこの角。少し先の方に居たから、位置を入れ替えといた。気をつけな』

 

「分かりました」

 

答えは、異界の迷宮化だ。

異界の中に異界を開き、小路の別の場所に記された門と繋げる。それを繰り返す事で小路内の空間を入れ替え、パズルのごとく組み替えるのだ。

 

そして怪談の核となり、異界そのものと同調した花子さんが華宮達と僕の位置を把握し、今のように追い付かれないよう距離を調整する。

ついでにめいこさんに地図と現在位置を絵にして貰えば隙は無い。

 

……考えてみれば、華宮に負けないくらいの無茶苦茶かもしれない。まぁ短時間でこしらえた「融通」にしては、頑張って考えたのではなかろうか。

 

『……チッ。素直に道なりに進みゃ良いのに』

 

そうして少しでも有利になるよう、新しく「界」の文字を追加する僕の耳に舌打ちが届く。

どうやらまた壁を焼き屠り、迷路のセオリーを無視したようだ。

 

(大丈夫だよな……文字)

 

壁と一緒に焼かれて消えれば、通路の入替えが出来なくなってしまう。

無論それを防ぐ為に、文字は電柱の裏や地面の近くといった目立たない場所に書くよう留意しているが、さて。

 

「……何時まで、持ちますかね。これ」

 

『さぁね。少なくとも十分や二十分で破られはしないだろうとは思うけど……』

 

何時かは捕まる。長くは持たないだろうね――切った言葉の先にそう続いた気がして、心中にあった不安が急速に膨らんだ。

このまま姿をくらましたいとも思ったが、このような厄介な状況に置かれてもなお、華宮達は正確に僕の居場所を捉え続けている。

 

それの意味する所は明白だ、「界」を書く手に力が篭もる。

 

(イザとなれば、人を溶かす性質も……いや、駄目だ。やらないって決めたろ)

 

山原の成れの果てを思い出し、即決で却下。あんなものをまた作り出すくらいなら、黒焦げになった方が幾分かマシだ。

 

『……ここからでも、見えるか』

 

「……?」

 

ふと零れた花子さんの言葉に顔を上げれば、火の灯りに炙られた夜空と、高く昇る何本もの煙が見て取れた。

おそらく焼却された霊力の成れの果てだろう。見ようによっては何かの供養に――線香の煙のようにも見え、縁起でもないと背筋を震わせる。

 

「……どうか、ああはなりませんように」

 

僕は信じてもいない神様にお願い一つ。煙から目を逸らすように壁を向き、文字を書き続ける。肉液に触れる事にはもう慣れていた。

華宮が来る前、既に野暮用は消化し、種は蒔いた。キツネ目の男の時とは違って追跡の対策も取ってある。後は場が整うまで逃げまわるだけ。

 

華宮の動きは早いわ容赦は無いわでどうにも成功するビジョンが見えないが、不安は唾と一緒に吐き捨てる。

僕にはもう、やり遂げるしか道は残されていないのだ。

 

「……くそ。負けるもんか、負けるもんかよ……!」

 

――ぽたり、ぽたり。

 

周りに充満する霊力に反応する肉液が垂れ、アスファルトを黒く汚した。

 

 



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5頁 対峙(下)

                      ■

 

 

「――炎桜樹。焔の大灯ッ!」

 

力強き詠唱。

一際大きな霊力が脈動し、灯桜の持つ栞が燃え上がり。それを媒介として現れた巨大な火球が直線上にあるものを須らく焼き尽す。

 

壁も、その先にある森も。霊力で編まれたまやかしは皆蒸発し、後に残るのは焦げ跡で出来た道。

灯桜と冬樹は未だ煙を吹くそれを渡り、小瓶が示す方角へと一直線に走る。

さやまの森に霊力が散らされまともな探知が出来ない今、唯一の信用できる道標だ。

 

「えーと、次は右――いや、逆。左に変わりました、反対!」

 

灯桜は再び栞を取り出すと冬樹の指示した方角に火球を放ち、強引に道を作り出し、渡る。これの繰り返し。

 

どうやら少年が操る怪異は常に変化を続ける迷路のようなものらしい。

しかも道筋と同時に彼我の位置関係までも変化しているようで、どれ程追いかけても彼の姿を捉える事が出来ないでいた。

 

「黒幕ならどっしり構えてて欲しいもんですが。あっちこっち居場所を変えてグルグルグルグル、本当いやらしい」

 

今まさに示す方角を変えた小瓶を見ながら、冬樹はうんざりしたように愚痴を零す。

灯桜としてもその意見には全面的に同意である。

単に異界へ誘われただけならばいざ知らず、地形まで変化させこちらの妨害をし続けている辺り少年の用心深さと性根の悪さが伺える。壁の穴に周囲の霊力が集い修復されていく光景を見ながら、眉を顰めた。

 

(さて、どうする?)

 

おそらく、このまま異界を焼却し続ければ怪異は直に消滅するだろう。

どれ程少年が異界の復元を続けようと、彼の持つ霊力が極めて微量である以上、例え怪異法録の補助があろうとも必ずどこかで破綻が起きる。

重なる負担はそう遠くない内に彼の許容量を超え、やがて異界の維持すら出来なくなる。そうなれば後は容易く追いつき処理できる筈……なのだが。

 

(それはきっと向こうも分かっている筈。なのに、何故留まっている……?)

 

そう。少年が本当に逃走を主目的に置いているのならば、既に現状に見切りをつけ、この怪異を足止めに何処かへと逃げ去っているべきなのだ。

しかし、彼は異界内に留まり目立った攻撃すらしてこない。抵抗の方法が無いのか、それとも何か狙いがあるのか。疑念が加速度的に増していく。

 

「あー、何かヤな予感しますよネェ。こう、あからさまに時間稼ぎされますと」

 

「……やはり、水端さんも引っかかりますか」

 

「そりゃまぁ。絶対に逃げ切ってやる、なんて大見得を切ってこれですもの」

 

冬樹は周囲を注意深く観察しつつ、肩を竦めた。

 

(……一度、立ち止まるべきでしょうか)

 

彼も同じ疑問を抱いているとなれば、決して自分の考え過ぎという訳では無いだろう。

そう判断した灯桜は足を止めると、周囲に霊力を籠めた栞をばら撒いた。

それらは瞬時に陣を成し、悪意を弾く簡易的な結界を展開する。

 

「おや、作戦タイムですか?」

 

「はい。このままでも少年は捕らえられるでしょうが、時間稼ぎの目的が気になります。……彼の狙いについて、何か思い当たる事はありませんか?」

 

灯桜には、事あるごとにすぐ冬樹を頼る癖がある。

高位霊能力者とはいえ未だ年若い彼女にとって、経験豊富な警察官である彼の見識や技術は得難い物だ。長年の付き合いによる深い信頼もあり、彼の肩へもたれ掛かる事に遠慮は無かった。

 

「うーん、そう言われましてもネェ。経験上この手の物は私らを返り討ちにしようとしてるか、協力者との合流を図っていたってのが大抵のオチですが……」

 

「……逃げる事も攻撃する事もしていない以上、そうであるとは思い辛いのですけれど」

 

「でしょうね。となると後は怪異法録を用いたオカルト作戦の内ってのが有力ですが、灯桜さんが分からないんなら私にもお手上げですよ。お手上げ」

 

ばんじゃーい。情けない顔で両手を上げる冬樹に、しかし灯桜は眉の一つも顰めない。彼の言葉がそれで終わる筈は無いと信じているのだ。

そんな真摯な信頼に冬樹は苦笑を漏らし――上げた両手の指を曲げ、何とも決まらないポーズでとある一点を指し示す。

 

「でもまぁ、気になるものはありますよ。ホラ、そこの壁」

 

「え……?」

 

咄嗟に示された場所に視線を向ける。そこにあったのは最早見慣れた石壁と、その先に続くさやまの森。霊力で編まれた、まやかしの異界だ。

これがどうしたというのだろう。疑問に思いながらも、冬樹の言った事だと深く注視し――そして、気づいた。

 

壁の下方。雑草に隠れるようにして、「界」の文字が小さく書き記されている。

 

「……落書き、でしょうか」

 

「さぁ、詳しい事はよく分かりません。でもそれ、よくよく見れば色んな所にあるんですよ」

 

冬樹の言葉に改めて周囲を見回すと、確かに様々な場所に「界」が散らばっている。

以前にも同じ落書きは見た事がある。しかし今回はそのどれもが人目を避けるような場所にひっそりと配置されており、単なる落書きとするには些か不自然に見えた。

 

(……この、インク。森の所為で霊力が散らされて、上手く探知できないけど、もしかして小瓶の……)

 

そうして、灯桜が軽く文字に触れた――その瞬間。

 

「っ!」

 

ぱちりと、指先に衝撃が弾けた。弱く、薄い、霊力の迸りである。

 

「……成程」

 

幾ら霊力の散らされる場と言っても、直接触れれば察知は容易だ。

そしてたった今感じ取った物は、数日前に夜の歌倉女学院でこの身に感じたものと同じそれ。

灯桜の口端がうっすらと上がり、瞳が鋭く細められる。

 

「お、やっぱり何かしらありましたか。手がかり的なサムシング」

 

「ええ。彼らの目的はさておいて、手段に関しては、少し」

 

そう言って冬樹にも笑いかけ。服の袂から新たな栞を一枚摘み、霊力を込める。

和紙の繊維に染み込ませるように、深く、静かに。糸を手繰るような精密さを持って意識を研ぎ澄まし――そして。

 

「――桜火、葉脈照らし」

 

パン、と。

言葉と共に栞が弾け、現れ出たる無数の閃火が黒のインクへと殺到した。

 

 

                      ■

 

 

『――ッ、ぐ』

 

ふと、くぐもった声が背後で聞こえた。

 

「……花子さん?」

 

『い、や。何でもない、何でもないよ。それより早く文字書きな』

 

振り向き花子さんを見てみれば、彼女はニヒルに口の端を上げ作業の先を促す。

見た限りでは何も異常は無さそうであはあったが――鼻先に嘘の匂いを感じた。

何というか、既視感のある態度だ。今更花子さんを疑うような事は無いが、自然と眉間に皺が寄る。

 

「あの、本当にどうしたんですか。何か気になる事があったら言って下さいよ」

 

『はは、大丈夫、だって。ホント、何も無い……から』

 

「でも様子が……、?」

 

カサリ。途中でめいこさんが揺れた。花子さんへの追求を続けるべきか一瞬迷ったが、それは後でも出来ると手早くめいこさんに視線を落とし。

 

『たいへん、です。「異小路」に何者かの、たぶん、はなみやの干渉を、受けています。核となる花子さんが、危ないです。危険、です――!』

 

勢い良く顔を上げ、再び花子さんを見た。その顔はやはり猫のようなすまし顔だったけど、今なら分かる。

あれは、苦痛を内に押し殺した表情。昔に鏡を通してよく見た顔だ。

 

「っ、花子さん! あんたまさか、」

 

『――っぐ、うぁぁッ!』

 

――慌てて近寄ろうとした途端、彼女の二の腕から火が吹き上がる。

 

それは決して大きな炎ではなかったが、その身体を確実に焼いて行く。当然花子さんは態度を取り繕う余裕もなく、その顔を大きく苦痛に歪めていた。

 

『た、たぶん、書き残した文字を通し、直接怪談に、霊魂へ攻撃を……! ああ、だいじょうぶですか、はなこさん。はなこさん!』

 

『……平気、平気さ。ちょっとヤケドしただけだからさ……アタシの事はほっといて、早く文字を……』

 

「そ、そんな事出来る訳無いだろ! くそ、今すぐに怪談から外して……!」

 

作戦の事なんて頭から消えていた。僕はめいこさんに「解放」の二文字を念じ、後先を考えないまま右手を振り上げ――その手を誰かに掴まれ止まる。

焼け焦げ、ボロボロになった腕。怪談の再現に伴い実在化した花子さんの指が、手首の粘液に絡まっていた。

 

『馬鹿な事するんじゃないよ。今怪談が消えたら、アンタなんてすぐに捕まっちゃうだろうが!』

 

「で、でも、こんなになってるのに!」

 

『忘れたのかい、アタシはめいこが居れば頭ァふっ飛ばされても元に戻るの。だから、こんなもん屁でも無い――い、っぎ!』

 

「花子さんッ!」

 

言葉を遮るように、今度は背中から炎が飛び出す。

彼女の言う通り霊魂の復元能力が働いているのか、手首を掴む指が徐々に綺麗な物へと戻って行く。

 

しかし、だからと言って放っておけるものか。

僕は必死に腕を動かそうとした。だけど、万力に掴まれたかのように動かない。

 

『……アタシがこうなってるのは、怪談自体が燃やされてるからだ。書き記した「界」の文字が、片っ端から無くなってる感覚がするんだよ』

 

そして今の状態が長く続けば、やがて「界」は全て無くなり空間の入替えも出来なくなるだろう。時間稼ぎどころか、逃げる事すらままならなくなる。

……炎に巻かれながら、彼女は必死にそう伝える。

 

『い、今だって、華宮の居る付近は文字が燃えて動かせなくなってるんだ。そしたらあの娘らが追いつく前に、文字増やして備えなきゃいけないだろ!』

 

「…………」

 

『心配しないでも、これが終わったらでっかい埋め合わせは求めるさ。だから――ぐぅッ、ち、ちょっとくらい我慢しておくれよ……!』

 

「……く、そッ!」

 

今一番我慢している花子さんにそう言われてしまったら、もう何も言えないではないか。

 

僕は自分自身に対する悪態を吐き捨て、彼女の手を振り払い壁に向き直った。

背後に響く押し殺された苦痛の声は一先ず無視。これが終わったら、現状を乗り切れたら、後で土下座でも切腹でも何だってしてやる。

 

「めいこさん、今あいつらはどこに居て、どこの文字が消されてるか分かる?」

 

『え、ええと。地図に表すと、こんなかんじ、であります』

 

そうして手帳に映しだされた地図は、かなり酷いものだった。

華宮の周囲の文字がある場所には尽くバッテン印が付けられ、離れた位置の文字の多くまでもが焼滅済み。

これでは花子さんの言う通り、空間の入替えは出来そうになかった。

 

完全に怪談の絡繰がバレている。

焦燥、怒り、嘆き、憤り。溢れ出そうになる負の感情を歯を食いしばって抑え込み、地図上の華宮を強く睨みつけ。

 

「……?」

 

そうしてふと感じたのは、強烈な違和感。

気の所為だろうか。先程からずっと、華宮は一箇所に留まったまま動いていないように見える。

 

いや、現に動いていない以上、気の所為ではない。文字を消す為に何かをしている最中なのか、単に休憩しているだけか。それとも。

 

(何だ、一体何を見落としている……!)

 

とてつもない重大事に気付けていないような、そんな引っ掛かり。

僕は壁に文字を記す事も忘れ、僕達の位置を、華宮の位置を、バツ印の位置を何度も何度も確認し――。

 

「――ッッ!」

 

――印の多くが僕へ向かって一直線状に並び、今この瞬間すぐ近くに一つ増えた。

その意味に気付いた瞬間、僕は花子さんへと跳びかかっていた。

 

『っぐ、何をッ――!?』

 

 

――轟!

 

 

直後、極大の火炎球が僕達の居た場所を通過した。

壁を抜き、地面を焦がし、荒れ狂う灼熱の暴風を必死に耐える。

もう少し察知するのが遅れていたら一瞬でお陀仏だっただろう。

 

『……っ、早く起きな! この辺り、さっきので文字が……!』

 

「全滅だってんでしょ。分かってますよそれくらい!」

 

打ち付けた膝を擦りつつ身を起こし、痛みを堪えてひた走る。

今の一撃の余波で、付近にこしらえていた「界」は全てお釈迦だ。既に壁の穴から足音は聞こえているし、こうなれば新しく書くより文字のある場所まで走った方が早い。そう、思ったのだが。

 

「! ひ、うわああぁッ!」

 

しかし、またもや火球が壁を突き抜け足元に着弾。

堪らずバランスを崩し、無様に地面と抱き合った。

 

どうやら最後の追い込みをかけてきたらしく、その後も連続して華炎の雨が飛来する。すぐ頭上を通る無数の熱が恐怖を煽り、頭を抱えたまま動けなくなった。

 

「……っく、クソ、クソ、クソッ!」

 

いや、駄目だ。まだだ。まだ諦めない、諦めてたまるか。

這うようにして手近な壁へと縋りつき、手首を擦り付け大きく「界」の文字を引きずった。

 

『もう片方も早く! 残ってる場所とすぐに入れ替えるから!』

 

花子さんが手を引いて反対の壁に引っ張ってくれるが、返事をするのももどかしい。

僕は半ば投げられるようにして道を横断。何時かのように壁に頭を強打し、眼鏡が落ちた――そこで、時間切れだった。

 

「――見つけたッ!」

 

「!」

 

――耳朶を打つのは、鈴の転がるような澄んだ声。

 

咄嗟に視線を向けると、壁の穴から飛び出した髪飾りの少女の姿があった。

その整った顔は僕の視力ではハッキリとは分からなかったが、疼く右眼は強くそれを感じている。そう――強烈な、敵意。

 

『チッ、もうちょっとだけ迷っててくれりゃ良かったのにさァ!』

 

「――桜の火、焔の灯ッ!」

 

花子さんが大きく手を広げた途端、夜闇の中から無数の青白い腕が伸びる。

自らの世界へと連れ去り、跡形もなく消し去るという『異小路』の末文、その権化だ。

 

彼女の合図に従いそれらは鋭く空を裂き、華宮を捕らえんと殺到する。しかし同時に放たれた火球によりその尽くが焼却され、霊力の欠片へと還ってしまう。

 

(足止めにもならないのか……!)

 

その様子を音で把握しながら、僕は肉液を壁に押す。

そして、もう少し。界の介の人、その払う一角を加え「界」を完成させようとしたその瞬間、前触れ無く壁が爆ぜ「界」の一部が抉られた。

 

「なッ――!」

 

反射的に振り向けば、華宮の影から一人の男が何か黒い物を向けていた。

 

――拳銃による狙撃。

当時眼鏡を外していた僕には分かるべくもなかったが、キツネ目の男は正確にそれを成していたのである。

 

『ぐ、うあぁぁぁあぁぁぁッ!』

 

「花子さん!」

 

花子さんも押し寄せる炎を押し止められず、左半身を焼かれ崩れ落ちる。

そして、倒れた彼女の身体の向こう。そこには当然炎があった。

 

長い長い年月をかけ、幾人もの僕の前任者達を焼き殺した慈悲の熱。そしてそれは今度は僕を燃やすべく、少女の指先で踊っている。

 

 

(――死ぬのか、僕は)

 

 

命の危機を直接視覚に収めた影響か、流れる時間がとても遅い。

 

動向が収縮し、毛穴が開き。体の芯から熱い何かが吐き出されていく。

 

 

死にたくない。

 

         死にたくない。

 

                  死にたくない……!

 

 

極度の緊張、極度の恐怖。

 

僕が見ている中で、彼女は。

 

単なる的でしかない僕目がけ、炎を纏うその指を、振り下ろし――――。

 

 

 

 

「――お、おーい! 誰か居ないのかぁ……?」

 

 

 

 

「!!」

 

――この場に居る誰のものでもない、一つの声。それが響いた瞬間、二つの事が同時に起こった。

 

一つは、声に気を取られた少女が一瞬動きを鈍らせた事。

もう一つは手に持つめいこさんが僅かに震えた事。

 

そしてその余白の数秒の中で、とある一文が彼女の内に記された。即ち。

 

『――まちびと、到着。であります――』

 

 



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6頁 墨と華

                      4

 

 

助けてくれ、今、ストーカーに追われているんだ――。

 

……彼がそんな助けを受け取ったのは、そろそろ眠りにつこうかという頃合いの事だった。

 

携帯電話から繋がる先は公衆電話で、電話の主はまだ声変わりもしていない少年の物。

イタズラ電話の類だろうか。最初はそう思っていた彼だったが――その聞き覚えのある名前と少年の酷い焦りようを聞き、事実であると認識するのにそう時間はかからなかった。

 

少年とは付き合いの浅い、それこそ友人と呼べるかどうかも定かではない関係であった。しかし知った顔である以上、聞かない振りをする訳にも行かない。

彼は咄嗟にバットを手にして家を飛び出し、電話で指定された場所へと走りだした。

 

友情、義務感、焦り、興奮。当時の彼の心には、幾つもの感情が渦を巻いていた。その中でも一際大きく存在を主張していたのは、やはり「申し訳無さ」であろう。

かつて彼は電話の主を見捨てた事がある。率先してそうなった訳では無かった物の、その過去は小さくない刺として心を苛んでいたのだ。

 

――しかし、ここで助ける事が出来れば、少しは救われるかもしれない。

 

彼は無意識の内にそう思い、夜の闇を駆ける。

ストーカーとは、警察への連絡より先に自分へと助けを求めたのは何故か。

そんな疑問は浮かばなかった。例え浮かんだとしても、自分の都合の良いように考えただろう。

 

同年代よりも数段大柄な体躯と、それに伴う高い身体能力。精神的に脆い彼であったが、肉体的には少しばかりの自信があった事も手伝った。

彼は力の限り足を動かし、電話の主の想像を上回る速度で現場へと到着し――結論として、これ以上なく鮮やかに利用されたのだ。

 

――彼、桜田竜之進。

 

完全なる一般人であった彼は。何一つとして委細を理解しないまま、怪異の中へと放り込まれていた。

 

 

                      *

 

 

(今ッ! これが最後の……!)

 

ようやく訪れた、最大にして最後のチャンス。

その隙を逃さず、指先に肉液をこびりつけ後ろ手に文字を書く。

 

逆さまになろうが「界」は「界」。そしてズタボロではあるが花子さんも健在だ。ならば――!

 

「っ、貴方、何を!」

 

不審な僕の動きに気づいたのか、それとも霊力の流れでも感じたのか。声に気を取られていた髪飾りの少女は今度こそ指を下ろす。

それに伴い火球が僕へと走るが、もう遅い。

 

「……え? な、何だ、景色が……」

 

「くっ!?」

 

ガラスの割れるような音と共に空間が揺れ、火球のすぐ前に人影が出現した。

咄嗟に火球を掻き消した彼女を他所に、僕の意を汲んだ花子さんが無数の青白い腕を用いてその人影を素早く拘束。叫び声を上げる彼を見せつけるように、中空へと晒し上げる。

 

丁度、僕の盾となる位置。髪飾りの少女とキツネ目の男は動きを止め、強くこちらを睨みつけた。

 

「う、うわぁッ! 何だ、手が、何なんだよ、おい!」

 

そんな中、状況が分からず花子さんの拘束を外そうと藻掻く少年が一人。

桜田竜之進、リュウ君。ひょっとしたら、僕と良い友達になれるかもしれなかった少年だ。

現状把握が満足に出来ていない彼は、酷く混乱し怯えた表情を見せている。

 

(……ごめん。けど、こうでもしなきゃ僕は死ぬんだ)

 

胸裡に盛る罪悪感と自己嫌悪。それらを必死に堪え、非情の仮面で心を覆った。

 

 

 

――僕が立てた作戦。それはご覧の通りリュウ君を人質に取り、無理矢理交渉の場を作る事だ。

 

華宮と相対する前に、予め小路の中に設置されている公衆電話で彼を呼び、逃げ回りつつ時間を稼いで到着を待つ。

徹頭徹尾行き当たりばったり。そもそも髪飾りの少女達を善性と仮定し、人質が効く前提での作戦だったが――結果的には成と出た訳だ。

 

眼鏡を拾って改めて彼女を見れば、その瞳には嫌悪の激情が揺れていた。

 

「……動くな、なんて言わなくても分かってるよね」

 

「く……貴方は、一体どこまで卑劣なッ……!」

 

呼吸を整え口を開けば、想像以上に低い声が出た。気張り過ぎだ。

そしてそれに反応したのか、リュウ君は即座にこちらに視線を向け、安心したような笑顔を見せる。先程の会話は意識の外にあったようだ。

 

「あ、お、お前ここに、ああ、無事で。いやそれより助けてくれよ! 頼む! この何か変な腕、俺掴んだまま離れねぇんだ!」

 

「…………」

 

当然、それには応えない。助けを求める彼の顔をまともに見れず、歯を食いしばりながら視線を外した。

 

「お、おい? 聞いてんのか? おい、おいって――ッガ!」

 

『寝ときな、その内に終わるから』

 

突然火花が弾ける音が響き、彼は唐突に意識を失った。

見れば、道端に転がる花子さんが再生した左腕をひらひらと振っている。どうやら気を利かせて十八番の気絶技をかけてくれたらしい。

 

「ッ! 分かりました、言う通りにしますから、その方に手を出さないで!」

 

そしてその光景をどう見たのか、髪飾りの少女は眦を釣り上げ栞をくしゃりと握り込む。意図せぬ武装解除の成功だ。

彼女の傍らに立つキツネ目の男も銃を捨て、冷や汗を一筋流し口を開いた。 

 

「しかし、おかしいですネェ。そこの方……君の知人のようですけども、小路周辺に張らせた者からの報告は無かったんですが……?」

 

「あんたら、この怪談の絡繰はもう粗方分かってるんでしょ。ならどっから入ってきたか予想できると思うけど」

 

「……あぁ、成程。文字があったのはここだけでは無かったと。こりゃ盲点」

 

そう、実を言えば、リュウ君を呼び出したのはここでは無い。歌倉女学院の前――以前僕達が侵入の為に『異小路』の条件を揃えた道だった。

 

相手が組織と仮定する以上、僕をこの小路から逃がさないように、或いは他者を巻き込まない為に人員を配置する事は目に見えていた。その対策だ。

 

「この怪異は空間を操るみたいですからねぇ、別の印を付けた場所からご招待した訳ですか。それも、わざわざ肉盾にする為に。用心深いこってす」

 

「……心底呼び出しといて良かったと思ってるよ。彼が来るまで、他に代わりになるような人は通らなかったからね。正直、焦ってた」

 

「ははぁ、そうですか。では一つお聞きしたいのですが……何故、君はそれを使ってここから逃げなかったんでしょうかね」

 

すぅ、とキツネ目が更に細まり、僕を射抜く。

髪飾りの少女の視線と合わせて恐怖に震えそうになるけど、おくびにも出さない。出して堪るものか。

 

「それ所か、君はこちらに攻撃らしい攻撃もしてこなかった。前にここで起こした怪異では、人を肉の粘液へと変えていたと記憶しとりますが」

 

「大方、私達の手からは逃れられないと悟ったのでしょう。だから人質などを取り、脅迫をする……!」

 

「……まぁ、目的としてはそれで間違っちゃいないよ。でも、それは……」

 

でも。でも、何だ。これは理由があればやっても許される事なのか。

否、断じて違う。人の想いを踏みにじる行為は絶対に許されてはならないもので――だからこそ、僕は今に至っている。決して、飾ってはいけない。

 

「……いや、そうだね。僕は今から、あんた達に命乞いをするんだ。彼を死なせたくなければ僕達を見逃せと、情けなく、無様にね」

 

「……人質を離すのならば、命は助けましょう。記憶と怪異法録、そしてそこの霊魂に関してはその限りではありませんが」

 

「だから、ダメなんだよ。それじゃ」

 

もう何度か聞いたその選択肢に対し、僕は今回も首を振った。少女の怒りが更に激しく燃え上がる。

 

「……貴方は、それ程に手放したくないのですか。怪異法録、人を不幸に陥れる力を、そこまで……!」

 

「手放したくないね。最もそれは怪異法録じゃない、めいこさん達の方だけど」

 

「めい……? 何の話ですか?」

 

僕は息を一つ吐き、頭の中を纏める。

そうだ、僕が彼女達に要求する事は――目的を叶える道は、ただ一つ。

 

「――単刀直入に言う。どうか僕を。僕達『三人』を、あんた達の保護下に置いて欲しい」

 

……深く、頭を下げる。空気が凍てついた音を、聞いた気がした。

 

 

                      *

 

 

「……保護、ですって? 貴方は、キサマは一体何を言っているのです……!」

 

どれ程沈黙が続いただろうか。

薄汚れた地面しか映らない視界の中、髪飾りの少女の怒声が轟いた。

頭を上げれば彼女の身体を華炎が包み、その怒りを表している。リュウ君を盾にしていなければ、即座に焼かれていただろう。

 

「怪異法録を捨てたくないが為に華宮に取り入る? 戯言を! 私は――華宮はッ、キサマのような穢れを屠る為の家なのです! それを、都合のいい逃げ場とするなどッ……!」

 

「……あんた達の矜持か何かを傷つけたって言うなら、謝る。でもこっちも本気なんだ。牢屋に入れられたって構わない、僕から彼女達を奪わないでくれ」

 

「――ッ!」

 

その一言が更に油を注いだのか、漆黒の御髪が炎の熱で舞い踊り――ぽん、とキツネ目の男が彼女の肩に手を置き、宥め。

 

「ままま、落ち着いて落ち着いて。今はこちらに不利な状況ですし、とりあえずは話聞きましょ。それにほら、きっと少年君にも何かしら言い分があるのでしょうから――ネェ?」

 

こちらを見る細目には、背筋に伝わる程の冷気が込められているように見えた。

何かを間違えたらそこで終わりなのだと、粘着く唾液が乾いた喉を潤す。

 

「ふむ、ではまず何故怪異法録を……ああいえ、めいこさんでしたか? を手放したくないのか、理由をどうぞ」

 

「……一緒にいるって約束したって事もある。だけど、一番の理由は……仲間、だからだ」

 

「ほぅ、約束、仲間。まるでそれに意思があるような物言いですが――だとすれば、犯罪者仲間とか何かですかね?」

 

「そうだよ。そしてその表現なら、花子さんも合わせて贖罪仲間って事になる」

 

キツネ目の男の嫌味を全肯定し、静かに頷く。

贖罪という単語に、少女が小さく反応した。

 

「キサマは、自分のやった事を悔いていると……そういう事ですか?」

 

「…………」

 

すぐに答える事は出来なかった。

後悔、罪悪感、反省。全て感じている事ではある。けれど、もしまた山原達を殺した時に戻れたとしても、他に選択肢が無かった以上同じ事をしただろう。

何十回、何百回と繰り返したとしても、きっとそれは変わらない。

 

「……答えられないのですか。ではやはり、キサマは……」

 

「――あいつらは、死んで当然の奴だったんだよ」

 

少女の言葉を遮り、吐き捨てる。

飾らないと決めたのならば、本音をぶつけていくしか無い。

 

「僕が殺した二人、山原と井川は人間のクズだった。特に山原は小さい頃から色々やってて、あの時だってそうだったんだ」

 

「……二人? 以前この場で見つけた肉の粘液は、それ以上の被害者の……」

 

「他の人らは多分、先代の手帳所持者がやったんだ。十二年前の連続行方不明事件の結果が纏めて出てきただけ。あの粘液には、僕の両親も混ざってた筈さ」

 

投げやりに吐き捨てる。どうやらそこまでは調べていなかったらしく、二人は軽く息を呑んだ。少しは同情を引けたらありがたいけれど。

 

「……成程。まぁそれらについては分かりましたが……しかし、君の口ぶりでは贖罪の意思なと感じられませんがねぇ」

 

「――相手がどんなクズでも、人殺しは悪い事。認めたくないけど、当たり前の事だろ……!」

 

まだ感情では納得していない。けれど、それは向き合わなくちゃいけない事だ。

 

「山原を殺した後、その父親が訪ねてきたよ。アイツの境遇、考え、遺族の心――聞きたくなかった事を聞いて分かった。アイツらを殺したのは僕にとっては肯定したい事柄だ。でも、絶対にやっちゃいけない事でもあった」

 

「……場合によって人の焼殺を行う私達にとって、耳が痛い倫理ではあります」

 

「なら分かるでしょ。記憶が無くなれば、この気持ちを無くしてアイツらのいない天国を謳歌する。許せるかよ、そんなクソみたいな負け犬の結果……!」

 

「……何か変にプライド高いですねぇ、君」

 

吐き捨てるようなその釈明に、髪飾りの少女達から敵意が薄れたように思えた。といってもあくまで微量で、余り信じている様子ではないが。

 

「では歌倉女学院での件はどう説明するつもりですか? わざわざ忍び込んでトイレに行って、邪な目的以外考えられませんけども」

 

『それに関してはアタシの所為だね。ぶっ飛んだアタシの記憶を追って、その子は色んな所を周ってくれた。そしてその終着点があそこだったって話さ』

 

今まで様子を見ていた花子さんが声を上げ、これまでの経緯を軽く説明する。

おそらく、少女達はかつて歌倉で起きた不名誉な事件を知っていたのだろう。途中顔を険しくする場面もあったが、特に攻撃の意思は見られなかった。

全てを聞いた少女は静かに目を閉じ、更に眉間からしわを消す。

 

「……私達の間に様々な誤解や行き違いがあった、と。成程、お話は分かりましたが――やはり解せない事は残ります」

 

「解せない事?」

 

「はい。そこの……ええと」

 

『花子でいいよ。今更生前の名前で呼ばれる資格もないし、この子らにもそう呼ばせてる』

 

「では、花子様の事ですが、彼女は華宮の現当主、私の母に浄化されたのでしょう。ならば何故、貴女は未だ現世に留まっているのですか」

 

「……霊魂を復元したからだよ。これは、怪談と一緒に霊魂も戻す。あんただって花子さんの事何回も燃やしたけど、この通り元に戻ってるだろ」

 

「ええ、それは把握していますが……天に昇り、かなりの時間を経た霊魂でも、呼び戻す事ができるのですか?」

 

ちょこんと首を傾げる少女に、こちらも首が傾く。

これは――まさか。もしかして、だけど。

 

「……ひょっとして。あんたらめいこさんの事――怪異法録って奴の事、よく分かってないのか……?」

 

そう問いかけた途端、少女は僅かに目を細め、キツネ目は明後日を向き口笛を吹く。

どうやら図星のようだ。

 

「……こちらが把握している情報は、相対した場合に予測出来たものしかありません。詳細となれば、書を扱うキサマ……失礼、貴方より知識は少ないと言わざるを得ないでしょう」

 

「……言い方からして、何十年も追ってきた感じなんだろ。だったら……」

 

「秘密主義なんですよね、その手帳。過去に持ち主を捕らえ情報を探ろうとした際、持ち主と取り調べに当たった者は全員狂って死んじゃったそうですよ。怖いですネェ」

 

咄嗟にめいこさんを見ると、彼女はページの端をぶんぶん左右に振り『わたし知りません』アピールをしていた。気持ちが悪い。

 

(でも、そうなると苛烈な対応に納得は行く……)

 

過去にめいこさんを持った前任者達。

その軌跡を見る限り、大半は碌でもない犯罪者崩れだったのだろう。

それに加え、無理矢理手を出せば狂って死ぬと来たものだ。焼却処分する以外にどうすれば良いんだ、こんな物。

 

「あの歌倉での夜。私は貴方の霊力の少なさを見て書に手を出そうとしましたが……今を見れば、それは侮りだったようですね」

 

少女はそう言って気絶したままのリュウ君に視線を移すが、その目に宿る怒りは少なく――僕は、もう十分なのだと悟った。

 

「……花子さん」

 

『ん……あぁ、分かった』

 

年の功、とでも言うのだろうか。花子さんは僕の考えを察し、リュウ君の拘束を解いた。人質という切札が手元から離れ、少女達の前へと置かれたのだ。

 

「……何のつもりでしょうか。私達はまだ貴方を信用した訳では無いと、そちらも分かっていると思いますが」

 

「まだ、って言葉が付いただけでいいんだ。人質はもう、必要ない」

 

それに、新しいカードはたった今増えた。同時に情報を渡せば狂い死ぬかもしれないという恐怖が生まれるが、敢えて無視。

ここを凌がなければ、どうせ終わりだ。

 

「……さっきの、霊魂の復元に関する話。めいこさん――怪異法録は怪談を記録して、編集し。好きなように操る書物だ」

 

「……唐突ですね。そのくらいは知っています」

 

「じゃあ、その理屈は?」

 

「詳細は把握していませんが、地に宿る霊力と他者の霊魂を用い、記録した言霊を怪談という形で利用する、後付の霊能力としているのだと推察しています」

 

後付の霊能力とは、またぴったりの解釈である。僕は頷きを一つ返し、めいこさんを眼前に翳す。

火で狙い撃ちにされるかもしれないという危惧はあったが、彼女達は僕みたいに卑怯じゃないと信じた。

 

「本当は指向性何とかって用語があるみたいだけど、今は良い。彼女の中に怪談が記載されているからこそ、僕はちょっとだけ怪談の力を借りる事ができる」

 

「……ちょっとだけ?」

 

「霊力がみそっかすらしいからね。だから僕は花子さんと出会うまでは、正確には右腕がこうなるまでは霊力を使ったアプローチも出来ず――怪談の条件を整える事だけで再現してた」

 

「……ッ!」

 

少女の血相が変わる。察しは良いらしい。

 

「そう、最初にめいこさんの力を使った時、僕は霊魂の封入なんて手順を踏んでいない。分かるだろ、この意味」

 

「まさか……では、それでは……!」

 

「――元から霊魂は封入されてて、解放されて無かった。あんたらがどんなに焼いても、生きたままだったんだ。怪談は」

 

怪異法録と霊魂を燃やしても、囚われた霊魂には何の効果も及ぼさない。霊魂は怪異法録ではなく、怪談という形の無いものに封じられているのだから。

 

歴代の華宮が行った浄化とやらは尽くが不成立であったという証明。それは相当に少女の精神を揺さぶったと見えた。

彼女の身体がふらりと小さく揺れ、咄嗟にキツネ目がその背を支える。

 

「あー……っと、それが本当だという証拠とかは……」

 

「花子さんは当然として、この小路にあった肉の粘液。過去にあんたらが解決したっていうんなら、今になって現れる訳無いだろ」

 

「……まぁ、ですよねぇ」

 

ハハハと笑うキツネ目も、心なしか動揺しているように見える。

自分達のやっていた事が、根本的な解決になっていなかった。そのショックは僕には分からなかったけど、先程の家を誇りに思っていた様子からして決して小さくは無いのだろう。

 

――たたみかけるならば今ここだ。瞳孔が収縮し、呼吸が浅くなるのを感じた。

 

「そして、それはめいこさんにも当て嵌まる」

 

「……どういう事ですか」

 

キツネ目の腕の中で少女が僕を睨む。その目は決して適当な事は許さないという意思が込められており、喉元に言葉が詰まる。

けれど、ここまで来たらもう後には引けない。

 

腹に力を込め、ダメ押しのように言葉を重ねた――。

 

 

「――僕は、ここに居るめいこさんは本当の怪異法録じゃない。そう考えてる」

 

 

                      *

 

 

『……え……?』

 

カサリ、と。手元で揺れた手帳に、たった一文字が記された。

 

「……どういう事ですか。その手帳が、偽物だとでも……?」

 

「ある意味ではそう……なのかな。完全に纏まってる訳じゃないんだ、僕も」

 

確証は無い。しかし例の夢や調べた情報、これまでに見知った全てを合わせるとそうとしか思えないのもまた事実。

 

「あんたらは知らないだろうが、めいこさんには過去の所有者の軌跡……その全てが記載されてない。それは人間で言えば、記憶を失っているとも表現できる」

 

今なら分かる。以前彼女がよく言っていた『その情報は本書に記載されておりません』という一文。

あれは仕様や不親切さから来る物では無く、記憶喪失であるという自己申告でもあったのだ。

 

「多分、めいこさんと花子さんに起きた事は根本的に同じなんだ。どっちも過去にあんたらが言う所の浄化ってやつで燃やされて、けれど解放されないまま、記憶だけを失い復元され続けている……」

 

「……確かに要素だけを見ればそうでしょう。ですが書物は書物、人ではない」

 

「じゃあ、人間なんだよ。めいこさんは」

 

少女達が訝しげな表情を浮かべるが、残念ながらその事実は証明する手立てが今は無かった。故に、努めて無視するしか無く。

 

「そもそも彼女に限っては、何回も焼かれて復活する所か存在からしておかしいんだ。怪異法録の怪談はめいこさんの中に記載されてないんだから、再現される条件も何も無い筈なのに、ここにある」

 

「いいえ、呪いや怨念というのはそういう物です。理屈や道理など無視し、ただ強い執念により発生する」

 

「それこそ違うね。めいこさんはしっかり手順を踏んで僕の下に来た。オカルトなんて時点で大概に滅茶苦茶だけど、それでも前提の理屈と道理は守ってる。それが矛盾を示しているにもかかわらずさ」

 

思い出すのは、かつて見た花子さんと保険医の記憶。

その中で彼は生前の彼女の抵抗に遭い、血飛沫を己の情念を綴ったノートに飛び散らせていた。そして直後に一線を越え、ノートは怪異法録へと生まれ変わった……。

 

おそらく、それが怪異法録という怪談の再現条件だったのだ。

文章にするならば、『己の濃い念を綴った書物に、血液を垂らす』とでも言った所だろう。

そうとするならば道理は通る。僕もまた、元の手帳に鼻血を垂らす事で確かにそれを満たしているのだから。

 

「……僕はこれまで、怨念に塗れた幽霊を二人見たよ。どっちも黒い泥を吐いて、僕を殺そうとして、 狂ってるって表現がピッタリの有様だった」

 

『……耳が痛いね』

 

「でも、めいこさんはそれとはまるで違う。現れた当初から今に至るまで……まぁ、色々変わっちゃったけど、怨念なんて言葉とは全く無縁だ」

 

触れ合えば霊力から来る寒気は奔る。でも、悪意を感じた事は一度だって無い。

僕は赤い革表紙を一撫でし、中身を見せつけるように少女へと開く。

 

『え、ええっと。わたしは、本書ではない? ではわたしは、なにものなので、あっ、にせもの? いやそんなばかな、むーん、わけがわからない、およよ』

 

「……何時もこんなだよ。コイツ」

 

「…………」

 

その場にそぐわない雰囲気の文章を見た少女は、ついっと静かに視線を外した。

どうやらあちらも怨念だの執念だのは無理があると思ったらしい。

 

「怨念を持たないのならば、他に要因がある筈だ。彼女が現実にここにあるのなら、それを成す為の理屈と道理が、絶対に」

 

「……それが、もう一つの怪異法録だと?」

 

「ああ、そう考えれば全部纏まる。めいこさんに自身の記憶が無い事も、何度焼かれても復活する理由も。僕が見たあの記憶の理由だって、全部……!」

 

熱に浮かされたように舌がよく回り、記憶の奔流が脳裏を灼いた。

それは少し前にも見た、色あせた老人の記憶。

 

彼が幼い少女を拾った日。

彼女と暮らす穏やかな日々。

彼女を失い、その焦げ粕を胸に抱いての慟哭。

憎しみに狂い果て、その死体を分解し書物へ作り変える惨劇。

 

そして――怪異法録と書かれた書物に血が飛び散った、あの一瞬。

 

老人の怨念を含んだ死体がめいこさんの雛形となり、怪談の、怪異の呼び水として完成したあの瞬間。

同じ時間、同じ場所で、正に条件を満たした可能性を持つ書物があったではないか。

 

そう、それだ。それこそが、きっと設計図。

 

 

「――この街には、あと一つ。めいこさんとは別に、『怪異法録』という怪談を記した怪異法録があるんだ……!」

 

 

――そしてその怪談には、ある妖怪の欠片が封入されている筈だ。

 

騙され焼かれ、何も分からぬまま殺された覚り妖怪の霊魂。その焦げ粕。

怪談の再現という能力は副次的効果に過ぎない。それに伴い行われる魂の復元という現象こそが本命。

 

花子さんが焼かれた記憶を、失った霊魂としての存在を取り戻したように。

このシステムを作った者は、幾度も繰り返される『怪異法録』の再現の中で、長い永い……それこそ気が遠くなるような時間をかけて、愛しき彼女の霊魂が完全に復元される時を待っている――。

 

「…………」

 

「…………」

 

痛いほどの静寂。

単なる素人の妄言と言えばそれまでであり、すぐに反論か何かが飛んでくるとも思っていた。しかしそれも無く、ただ虫の鳴き声が微かに響き続けるのみ。

 

そうして嫌な緊張感に耐えていると、やがて少女が静かに口を開いた。

 

「……率直に、言って」

 

「……?」

 

「貴方の言う事を全て信じる事は……出来ません。もう一冊の怪異法録など、与太話にすぎる」

 

……まぁ、当然だろう。僕だって逆の立場であれば必死に穴を探している。

彼女を見据え、首肯を一つ。

 

「……でも、これで僕を処分するという選択肢はかなり選び辛くなった筈だ。めいこさんを燃やしても意味は無く、むしろマイナスになり得る」

 

言わば僕は、トカゲにおける尻尾の部位だ。

消せば取っ掛かりが消え、返って本体の捕獲が難しくなる。

 

「それは……甚だ遺憾ではありますが、認めます。ですがやはり、私は……」

 

少女は眉を顰め、深く深く思考する。

 

きっとその胸中には、僕の及びもつかない様々な物が渦巻いているのだろう。

お硬いな、と彼女を責める事は出来ない。実際世間にとってめいこさん――怪異法録とは害以外の何物でもなく、関わった者はその多くが取り返しのつかない事になっている。

 

僕も、めいこさんも、花子さんも。本当ならここに立っている事すらおこがましい。

 

(……だったら……)

 

全力で逃げ、全力で立ち向かい、全力で説き伏せた。

倫理観や良心を殺し、優等生で居る事に必要な殆どの事をぶん投げ、ただ華宮達を凌ぐ事だけを考えていた。

 

だったら今更躊躇する事も無い。僕はすぐさま地面に膝を付き――心中で暴れるプライドを下唇ごと噛み切って、勢い良く額を接地させる。

 

 

――土下座。世にも情けない負けの姿勢を、負けない為に取ったのだ。

 

 

「……貴方は……」

 

「――頼むよ。最初に言った贖罪したいって言葉、あれは誤魔化しでも何でもない本心なんだ」

 

少女が困惑した声を上げるが、顔は見えない。目に映るのは地面の黒だけだ。

……土下座なんて山原にだってした事無かったのに。手酷い敗北感が去来し、心に隙間風が差し込んでくる気さえする。

 

「服役しろって言うならするし、罰が下るならそれも受ける。怪談に囚われた霊魂を全部解放したいのなら、全面的に協力もする。だから、僕達を僕達のままで居させてくれ……!」

 

『……アタシからも、頼む。許してやってくれとは言わない、ただ、謝らせてやっておくれよ』

 

『えっ、あ、わ、わたしも。わたしからも、お願いする、でありますっ』

 

「…………」

 

すぐ隣で花子さんが頭を下げる気配がした。同時に握ったままのめいこさんもカサカサと自己主張していたが、決して顔は上げない。

 

「僕はこのまま、犯罪者のままで終わるのは嫌だ。ちゃんとやった事を覚えて、贖罪と約束を果たしたい。そうじゃないと、顔向け出来ないから」

 

「……誰に対して、ですか」

 

「花子さん、めいこさん、殺した二人、優等生の僕と……そして――」

 

……その先は、声に出なかった。

思い出すのは、小さい頃から僕を褒めてくれていた温かい声。

今の僕の芯ともなっている、たった一言。

 

 

――ろくちゃんは、良い子だねぇ……。

 

 

「……顔を、上げてください」

 

はぁ、と。溜息を吐く音が聞こえた。

恐る恐る顔を上げれば、見えたのは厳しさのある双眸。よくよく見れば迷いの光が揺らめいており、僕の心を不安で炙った。

 

「…………」

 

しかしそれもすぐに消え、少女は静かにこちらへと歩み寄る。

僕として生きるか、それとも死ぬか。今が判決の時だ。

 

緊張に身が震え、取り繕った仮面がボロボロと剥がれ落ちていく。

 

息苦しい。動機が荒い。

そんな一杯一杯の僕の眼前に立った彼女は、袖口から栞を一枚取り出して、

 

――そして一瞬の躊躇の後、僕めがけ、それを投げ放った。



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日の一を、墨で持って記録する

                      終

 

 

はらり、ひらりと。桜が舞う。

 

陽光に照らされ薄白く輝く、柔らかな花弁だ。

無数に落ちるそれらは、まるで雨のように。しかしそれとは全く異なる不規則な軌道を描き、縦横無尽に空を踊る。

 

告呂においての満開の時期は既に過ぎ、ここ最近は葉桜ばかり見ていた『花子さん』にとって、窓から見えるその景色は少しばかり鮮烈なものと映った。

 

『……見事なもんだ。随分と遅咲きだったみたいだね』

 

「…………」

 

ぽつり。その独り言のような呟きに、彼女の前を歩く少女がチラリと目を向けた。

 

桜の髪飾りをつけた、和装の少女――華宮灯桜だ。

 

趣のある木造りの屋内。

深い漆塗りの廊下を歩く彼女は形の良い顎に指を添え、ほんの少し悩む様子を見せ。やがて、小さな溜息を一つ。

横道に逸れるよう進路を変えると、一つの襖を……中庭へと続くそれを引き開けた。

 

『……、これは――』

 

その先に広がっていたのは、今までとは比べ物にならない程に絢爛と舞う桜の嵐。

そして――その中心に聳え立つ、一本の古大樹であった。

 

『は……はっは、凄いね。なんとも』

 

「御霊華、と言います。この華宮の家に代々伝わる象徴と言うべき神聖な櫻樹であり、一年を通して決して散る事の無い、我らの不屈の証です」

 

太く、光を伴い脈動する幹に、枝先に集う桜の雲。溢れ出るのは、ただ純粋で静謐な霊力

 

霊魂という存在だからこそよりよく分かる、魂の根底から吹き飛ばされそうになる程の存在感だ。

『花子さん』は無い筈の汗腺から冷や汗が垂れる錯覚を覚えつつ、引きつった笑みを浮かべた。

 

 

――『花子さん』は今、己にとっての敵地たる華宮の本家に連れて来られていた。

 

 

少年とポンコツな手帳は無く、一人きり。

何時燃やされるかも分からない、恐怖と不安の付きまとう訪問であったが――しかし、怯える事はない。

 

何故ならば、これは必要な事なのだ。

己が見守りたいと願う少年にとって、手帳にとって。そして何より、自分にとっても。

 

《……だから、もうちっと頑張れって。アタシよ》

 

胸裏でそう呟き、『花子さん』は御霊華に揺らされる自己を抑え、固めて。最後に、もうする意味のない深呼吸を一つ。

そうして何時ものように気怠げに腕を組み、こちらを見定める灯桜に対し小馬鹿にした表情を取り繕う。

 

情けない姿を見せる生徒は、彼が最後と決めていた。

 

『この前、火種に使ってた押し花の栞。あれ、もしかしてこの花弁かい?』

 

「……ええ。桜の字を持つ私にとって、御霊華ほど相性の良いものもありませんので」

 

そしてその態度は、この賢しい少女の御眼鏡に何かしら適ったようだ。

『花子さん』へと薄く微笑み、元来た道先へと戻っていく。先程よりも少しだけ、歩みの速度を遅くして。

 

「……ここです。貴女に言うべき事では無いのでしょうが、どうか失礼のないように」

 

そのまま雑談混じりに歩く事、暫し。

灯桜はやがてとある襖の手前で止まり、『花子さん』をその先へと促した。

 

『ああ。ありがとうね、こんな機会くれて』

 

「いえ。……そうした方が私達にとって善いと、判断したまでですから」

 

『だからさ。本当に、ありがとう』

 

本心からの礼を受け、灯桜は僅かに頬を染め……それを察知される事を嫌ったのか、手早く一礼すると身を翻し去って行く。

『花子さん』はそんな可愛げのある様子に口の端を上げ――数瞬の躊躇いの後、静かに襖を引き開けた。

 

『――……』

 

煙草の香りが僅かに残る、広い和室。その中央には、一つの影が座している。

 

灯桜とよく似た顔と、勝ち気な目つき。

記憶にあった姿よりも幾分年は重ねていたが、ああ、忘れる筈が無い。二度も忘れてなるものか。

 

――呼ぶべきその名を隠す黒は、既に拭い払われているのだから。

 

 

『……久しぶり。随分と擦れたね、明梅』

 

「はは。湯ヶ谷先生も、酷い顔してるよ」

 

 

華宮明梅と、『花子さん』――湯ヶ谷響子。

 

かつての教師と教え子は、互いに泣きそうな顔で、笑った。

 

 

 

                      ■

 

 

 

「なぁ、お前放課後暇か?」

 

五月。

春も半ばを過ぎ、梅雨の足音が聞こえる季節。

 

教室で読書を楽しんでいた僕は、後ろから投げかけられた声により物語の世界から引き戻された。

 

若干の苛立ちを感じつつ振り返ると、目に飛び込むのは茶髪とピアス。

校則をこれでもかと言うくらいに無視をした、クラスメイトの星野君だった。

 

「……えっと、何かあるの?」

 

「や、今日学校終わったらさぁ、まーた皆でカラオケ行こうかなって話になったんよ。今日こそ行こうぜ、お前も」

 

ニカっと屈託ない笑みで指差す先には、クラスメイト達が楽しそうに駄弁っていた。

あの輪に僕も加われと言う事らしい。

 

「……カラオケって、大通りの?」

 

「おー、いやあそこ使い勝手良いわ。綺麗だし店員さん美人だし、あと持ち込みもある程度許してくれるしな」

 

「へぇ」

 

気のない返事をしながら思案する素振りをする。

まぁ答えは既に決まっている。会話を楽しむ気も無い為、引き伸ばしはしない。

 

「悪いけど、遠慮しとくよ。今日は放課後にちょっと人と会う約束があってさ」

 

「そーなん? じゃあ仕方ねーか……って何か前もそんな事言わなかったか?」

 

「言ったよ。約束のある日に限って誘ってくる君が悪い」

 

訝しむ様子の星野君にそう返すと、彼は面食らった様子で目を丸くして――やがて吹き出し、誠意の欠片も無い謝罪をした。

 

「ハハ、わりーわりー。んじゃまぁしゃーねーからまた今度誘うわ。ちっと番号教えろよ」

 

「…………」

 

携帯電話。番号。

ズキリと心が痛み、目元がヒクつく。

 

「……どした?」

 

「いや、何でも。携帯電話なら一応持ってるけど、つい数日前買ったばかりだから操作の仕方が分からないんだよね」

 

「ジジババかって。ちっくら貸してみ……うわ、三件しか登録されてねぇ」

 

悪いか。星野君はひったくるように携帯電話を奪うと、何かしら操作を施しすぐに返却した。

画面を見ると彼の番号らしき文字列が表示されている。

 

よくあんな速度で操作出来るものだ。

尊敬にも似た感心をする内に、彼は座っていた机から離れ歩き出す。

 

「ま、そんじゃ戻るわ。またなぁ」

 

「うん。番号ありがとう」

 

ひらひらと手を振る彼の後ろ姿をこちらも手を振って見送った。

 

「…………」

 

……彼が一歩足を進める度に、腰元からまろび出たシャツの裾が動物の尻尾の様に揺れている。

今すぐ駆け寄ってズボンの中に突っ込んでやりたい衝動に駆られたが、勿論実行に移すなんて事はしない。

 

しない、けれども。

 

「――そうだ、星野君。シャツは入れた方がもっと格好良くなると思うよ」

 

……何気ない、指摘の言葉。

 

それに反応した星野君は一瞬きょとんとした後、理解が及んだのか頷きながら、思いの外素直に身支度を正した。

そしてきっちりベルトまで締め直し、何やらシャッキーンとでも擬音が付きそうなポーズを決めて僕を見る。

 

――どうよ?

 

――うん、イケメン。

 

お互い無言のままに通じ合い、笑みと共にどちらからとも無くサムズアップ。

隣席の十さんがそんな僕らを見て、生暖かい笑顔を浮かべていた。

 

 

 

                      *

 

 

 

――私の一存では決めかねます。数日、家の方と相談させて下さい。

 

今となっては数日前。命を懸けた鬼ごっこを繰り広げたあの日に少女から下った判決は、そんな曖昧な物だった。

 

「ああ、ご学業お疲れ様です。いやはやこうして見ると絵に描いたような優等生ですねぇ、君」

 

「……どうも」

 

本日の授業を終え、迎えた放課後。

学校の校門から出た僕を待っていたのは、スーツ姿の胡散臭い笑顔だった。

 

水端冬樹。例のあの日、共に全力の追いかけっこを楽しんだキツネ目の男である。

 

僕の監視任務も請け負っているのか、ここ数日ストーキングされている。

最も、僕ごときがそうと分かっているという事は、監視よりも抑止力の意味合いが大きのかもしれないけれど。

 

「部活、やってないんですか? この学校って何かで全国行ってましたよね?」

 

「いや、そういうの興味ないんで……」

 

「あらそうなんですか、お若いのに勿体無い」

 

何がおかしいのかヘラリと笑う。

 

どうも僕はこの人が苦手だ。

同族嫌悪と言うべきか、自分の大人となった姿を見ているような気がして何となく落ち着かない。

そっと目を逸らしつつ、本題を促した。

 

「……あの、わざわざ待ってたって事は、結果か何かが出たって事ですか」

 

「お話が早いですネェ。華宮家の方でとりあえず一先ずの結論が出たという事なんで、その案内に参りました。行ってくれますか、怪談師どの?」

 

「やめてくれませんか、その呼び方」

 

「本職の方々とは多少趣が異なりますが、なかなかピッタリだと思うんですがねぇ。ま、こっちでーす」

 

バカにしとんのかこいつは。軽く苛つきつつ、その背に従い道を行く。

 

このまま華宮の家に向かうのかとも思ったが、僕のような存在を迎え入れるのは絶対に避けたいそうで、近所の公園を使う心積もりらしい。

僕としても敵地の真ん中に突っ込む勇気は無かったので、ありがたくはあった。

 

(……大丈夫、だよな)

 

ちらり。右手首に貼り付けられた栞を見る。

華宮の結論が出るまでの数日間、僕がめいこさんを使わないように戒める封印具の様なものだ。

 

何でも霊力を封じると同時、華宮の意思一つで僕の右手は焼け落ちるそうな。

華宮がめいこさんを所持できず、また彼女自身が僕から離れたがらなかった為に仕方のない措置ではあるが、おっかない話である。

 

(……今手首が燃えてないって事は、少しは良い結果になったのかな)

 

そうであって欲しいと願いつつ、ポケットの中のめいこさんに指を這わせる。

 

――ごめんなさい。そんな声が右眼に響いた気がして、別にいいよと口の中で呟いた。

 

 

 

 

『お、来た来た。アタシが居なくても元気してたかい?』

 

公園には、少女の他に花子さんが待っていた。

念には念を入れてめいこさんを使用不可にしたいという事で、彼女は華宮が管理するという形をとっていたのだ。

 

連れて行かれた時は不安だったが、特に何をされた様子は無いようだ。

それ所か何故か憂鬱が晴れたかのような爽やかさを伴っていて、こっそり安堵の息を吐く。

 

……大分重くなってるな、僕。

 

「どうも、大凡三日ぶりと言った所でしょうか」

 

それはともかく、件の少女。

以前までと違い歌倉女学院の制服を身に纏った彼女は、相変わらずお硬い雰囲気を湛えつつ静かにそこに佇んでいた。

 

常に和服でいるイメージがあり分からなかったが、こうして見ると歳相応の幼さがあると分かる。

そのギャップにやられ、ほんの一瞬目を奪われた。

 

「思えば、まだ自己紹介もしていませんでしたね。奉納六家が一、華宮の灯桜と申します。以後、よろしくお願い致します」

 

……専門用語を使われても、上手く耳に入って来ないんだけどなぁ。

僕は軽く頭を下げると――こちらもまた己の名を口にした。

 

「――……日墨、録一」

 

彼女は僕より年上だと思うのだが、何故か敬語を使う気にはなれなかった。

まぁこれまでもそうだったのだし、本人も冬樹さんも咎めてこないのだから別に良いのだろう。多分。

 

「……日の一を、墨を持って記録する。成程、怪異法録の主に相応しい名かもしれません」

 

「褒めてんのかな、それ……、っと?」

 

その時、丁度ポケットでめいこさんが揺れ、その存在を主張した。

とりあえず引っ張りだして見てみれば。

 

『あなたのなまえ、わたしとお似合い。きろくしました、であります。えへへ』

 

「…………」

 

無言で閉じた。

それはさておき。

 

「では早速ですが、貴方の処遇についてお話させて頂きます」

 

「……うん」

 

髪飾りの少女――灯桜は澄ました顔で咳払いすると、改めて居住まいを正しこちらを見る。

 

鬼が出るか蛇が出るか……とはちょっと違うか。めいこさんを胸に抱き、緊張に耐える。

……肩に置かれる花子さんの手が、少しだけありがたかった。

 

「――家が出した結論としましては、貴方と花子様、そして怪異法録の全ては、私達が保護するという形になりました。

 貴方の求め通りとは行きませんが、概ねそちらの意志に沿う物となったのではないでしょうか」

 

「――…………っ」

 

それを聞いた瞬間、全身から力が抜けそうになった。

しかし崩れそうになる膝を必死に支え、持ち堪える。まだだ。まだ、完全に安心する事は出来ない。

 

「……概ね、っていうのは?」

 

「どうしても貴方の要求に反してしまう事が二つあります。まず、記憶の消去に関する事」

 

「!」

 

咄嗟に身構え逃走姿勢を取ったが、剣呑な雰囲気は無い事に気づき、ゆっくりと姿勢を戻す。

アンタは野生の仔リスかい、背後でそんな声が聞こえた。

 

「貴方の事ではありませんよ。貴方に関わりのある一部の者――桜田竜之進及び、山原浩史と井川健介の家族に対し、私達は記憶の処理を行いました」

 

「……え?」

 

「桜田竜之進に対しては、あの夜から遡り貴方に関する記憶を消去。被害者家族に対しては子が行方不明という事実を心の奥底まで刷り込み、それを矛盾なく認識させた……という事です」

 

それはつまり、リュウ君や藤史さんに贖罪する機会が失われたと同義であった。

呆気にとられる僕の間抜け面を見て、灯桜が静かに目を伏せる。

 

「……子を愛する親の想い。行方不明という扱いでは絶対に得心が行かず、深い執念で原因となった怪異の存在へと辿り着いてしまうかもしれない」

 

「この場合は怪談師くんですね。そして怪異を知った親が、その力に縋り復讐する……これ結構ポピュラーな話で、ほっとくと二次被害が出るんですよ」

 

だからこそ記憶を弄り遺族達を無理矢理納得させ、その芽を摘んだという。

言いようのない感情が渦巻くが、彼女達の判断ならば何も言う資格なんて無い。

 

(……ッ)

 

――これで藤史さんに告解せずに済む。

 

リュウ君との縁が切れた事より、遺族達の悲しみの事より、何よりも先にそう安心してしまった自分が、吐き気を催すほどに醜い。

 

「よって、貴方には今後一切、山原・井川両家への接触を禁じます。術も絶対の物ではありませんので、無駄な刺激は控えた方が良いでしょうから」

 

「……リュウ君の方は?」

 

「人質に取ったという事実を思い出されたいのならば止めはしませんが、今行っても不審者扱いされるだけではないでしょうか」

 

なら謝る為にはもう一度初めから知り合い、友人関係を築かなければならないのか。

難題。僕の優秀な頭脳をフル回転しその方法を模索している内に、灯桜は更に言葉を重ねる。

 

「そして次は、もう一つの怪異法録の説に関する事」

 

「……うん」

 

来た。

正直胡散臭いと自覚しているとはいえ、僕の処遇が保護と決まった以上はそれなりに華宮の心を動かしたのだろうと思うのだが。さて。

 

「貴方が話してくれた情報と推察は破綻が少なく、何よりこの地における覚り妖怪討伐の記録もしっかり残っていた為、一定の説得力のあるものでした。おかげで家の者達が揉めに揉め……」

 

『ああ、隔離されてた部屋からも怒鳴り声が聞こえてきたよ。相当やり合ってたみたいだね』

 

「……けほけほ」

 

灯桜が咳払いで誤魔化した。

何やら火種を投げ込んでしまったようで、ちょっと気まずい。

 

「ともかくこれでは埒が明かないと見ましたので、貴方の別の発言を頼る事にしました」

 

「えっと……何だっけ」

 

「貴方が見たという夢の話と、引きずり込まれた森中にあったという地下室の扉――査山と関連があると思しき、あの場所です」

 

「ああ……」

 

あの日灯桜達との決着が付いてから、僕は知っている情報を洗いざらい吐かされた。

思い出せば、確かにそれらの事も話した気がする。

 

「いやぁ、苦労したみたいですよ。何せ私達、君と違ってあの森から嫌われてまして、入ったら即アウトですから」

 

「しかし、ごく短時間であれば、僅かに呪いを弾く事も可能です。苦労しましたが、貴方の示した場所に地下室への入り口を確認しました」

 

何でも草むらに僕の吐瀉物の付いた石扉が打ち捨てられており、その近くの地面にぽっかりと穴が開いていたそうだ。

そうして彼女達はその中に入り、時間の許す限りの調査をしたそうで――。

 

「……?」

 

むくりと、胸中に疑問が湧き上がる。

気の所為だろうか、僕の記憶が正しければ、その地下室は。

 

「……おかしいな。僕、扉動かしてないんだけど……」

 

「――それは真ですか?」

 

独り言のようにそう呟いた瞬間、灯桜から苛烈な視線を向けられ、思わず一、二歩たじろいだ。

 

「え……な、何だよ、いきなり」

 

「答えて下さい。貴方はあの地下室に足を踏み入れていない――本当に、間違いなく?」

 

「あ、ああ、うん。あの時は色々ありすぎて自棄っぱちみたくなってて、リュウ君を人質に取る作戦を思い付いた後、すぐ行動に移したから……」

 

彼女は探るような視線で僕を射抜いていたが、やがて信じてくれたのか静かに目を閉じる。

そして眉間に深い溝を作りつつ、大きく息を吐いた。

 

「あの、何か問題あったの?」

 

「……私達が調べた地下室は、酷い有様でした。大半が風化していたとはいえ、部屋の中央にある祭壇を中心に血痕らしきものが広く飛び散り、カビと埃も混じってそれはもう……」

 

(……夢と、同じか)

 

やはり、夢の記憶で見た部屋はあそこだったのだろう。

 

その場所で老人は死体の少女を切り刻み、めいこさんを――怪異法録の雛形を作り上げたのだ。

あの凄惨な光景が脳裏をよぎり、咄嗟に口元を抑える。

 

「しかしそのような中で妙な痕跡がありました。ある床の一部分だけが、長方形の空白を晒していたのです」

 

「……血が飛び散った後、何か長方形の物が持ち去られた、って?」

 

「ええ。それも、あまり遠くない時期に」

 

それを聞いて、先程の視線の意味を察した。

何かを持ち去っていたのは僕ではないかと疑っていたのだ、彼女は。

 

「い、いや、待って。信じられないかもしれないけど僕じゃない。大体、あんな重そうな扉がこの枯れ枝みたいな腕でどうにかなるとでも……!」

 

「ええ、それは今確信しました。何か悪意や後ろめたい事があれば、その手首の栞が反応している筈ですから」

 

つまり僕の右手が燃えていたらアウトだったと。恐ろしい話だと右手を擦る。

 

……では、それなら一体誰が持ち去ったのか。

それだけじゃない、そもそも僕をあの場所まで引きずったのは誰か、あの時見た白い物は何だったのか――。

 

「――…………」

 

ゆっくりと。公園の外にある雑木林を見る。

 

僕の健常な左眼に見えるのは、何の変哲も無い木々の群れ。

青い葉が、風に吹かれて揺れていた。

 

「ともかく、その場所からは査山鉄斎が記したと思われる多くの資料も見つかり、貴方の話は大筋において真実の可能性が高いと証明されたのです。けれど……」

 

「まぁ、分かるよ。それが新しい疑いとなったんだろ」

 

「……はい。持ち去られた何かは、空白のサイズから察するに押収した資料と同じ、大判書籍ほどの物であると予想できました。家の中ではそれこそが本物の怪異法録であり、貴方がこちらを出し抜く為に隠したのだという意見もあります」

 

「大体押収した資料も子供の落書きみたいにぐちゃぐちゃな文字で、まだ殆ど解読できてませんからネ。状況証拠は幾らでも、されど疑わしきも幾らでも、と」

 

「……そんなんでよく保護なんて結論出せたね」

 

当然といえば当然の疑惑。

何故僕の要望が概ね聞き届けられたのか、不思議でならない。

 

「その辺りは私の母の意向です。何でも、過去の清算の一つなのだとか」

 

『…………』

 

灯桜はそこで静かに目を瞑っている花子さんを一瞥する。

どうして――と思いかけ、気付く。そういえば、彼女と灯桜の母親は、確か。

 

(……成程)

 

この妙にこちらに配慮された処遇や、花子さんのどこか吹っ切れた表情の理由。

その裏を僅かながらに察し、頭を下げた。

 

灯桜はそんな僕を他所に胸元から小包を取り出し、中から薄い何かを摘み取る。

それはとても綺麗な桜の花弁、少々時期の外れた春の象徴であった。

 

「とはいえ、やはり疑いのある貴方を首輪も無く放つ訳には行かず……保護扱いにするに当たり、これを呑んで頂く事が条件として課せられました」

 

「それは?」

 

「御霊華の欠片。これを取り込む事で私の霊力が貴方の魂へ同調し、私の意思一つで何時でも貴方の処分が可能となります」

 

「…………」

 

花弁を呑むという行為。

思い出すのは夢の光景。喜々として花弁を呑み込み、そして死んだ少女の……生きていた頃のめいこさんの姿。

 

……そうして恐る恐ると灯桜を見る僕の視線は、どれ程情けない物であっただろう。

それを受けた彼女も、流石に困ったように眉を下げた。

 

「あ、あの……誤解はしないで欲しいのですが、貴方の保護という結論は本当です。しかし……」

 

「……わかってるよ。疑ってる奴を警戒するのは当たり前だ、それがあんたらにとっての宿敵なら、尚更」

 

震える声を押し殺し、花弁を受け取ろうとするも、中々手が伸びない。

 

当たり前だ、自分を殺す可能性を迷いなく手に取れる奴なんて居るものか。

それは理屈云々ではなく、生存本能から来る忌避感だ。けれど。

 

『――――』

 

かさりと、胸の中でめいこさんが揺れる。

それは僕の背を押しているようにも、手を抑え首を振っているようにも感じられた。

 

いや。それだけじゃない。

花子さんも、灯桜も、水端も――そして『彼』も。皆が皆、僕の選択を注視しているのだ。

 

(……上等だ)

 

罠だろうが何だろうが、そうなった時はその時だ。

 

僕は静かに花弁を摘むと、一思いに口内へと放り込む。

香りや味は無く、すぐに舌を滑り喉奥へと張り付いた。

 

途端、走馬灯のように幾百幾千の記憶が蘇る。

辛かった事や嬉しかった事、数多の過去が僕の裡を流れ――最後に、一つの疑問が浮き上がった。

 

 

――これで、良かったのか?

 

 

「――……」

 

見る。

先ほど目を向けた雑木林。

 

そこに立つ、何か――そう、『大判書籍のような物』を携えた一人の老人。

 

灯桜や花子さんも彼に気付かず、だからこそ何も言えなかった。

もしかしたら、本当に幻覚なのかもしれない。

 

僕の右眼だけに映る老獪は、深い傷跡の残る禿頭を皺で歪め、激情の陰影を刻んでいる。

それは憤怒、或いは狂喜。どちらとも判別の付かない、おぞましい物だ。

 

 

「   ――  ……ぃ    あぁ、  」

 

 

いつか聞いた筈のその言葉は、やはり聞き取れなかった。

 

僕が華宮に下った事を責めているかとも思ったけれど、そうじゃない。

 

きっと全ては些末事なのだ。

彼にとって大切なのは、怪異法録の―ーめいこさんの存続だけ。

 

僕のような木っ端や、もしかしたら華宮達だって。

誰が何をしようとも、彼の心は微塵も揺れないのだろう。

 

……だけど。

 

(――あんたは、僕を助けてくれた)

 

冬樹さんから逃げていた時、森に引っ張り手助けをしてくれたのは、おそらく彼だ。

 

それは、少なからず老人の望む道を進んでいるという事なのか?

 

僕の行動は、選択は。彼の目的に――めいこさんを存在させ続けるという結果に繋がっている、という事なのか?

 

(…………)

 

見る。白衣姿の老人は狂った表情のまま霞と消えた。後にはもう、何も無い。

 

結局何一つとして伝えてくれはしなかったけど――間違っているともまた、言わなかったのだ。

 

(……やる、やるよ。これで良いのなら、良い、僕がやってやる……)

 

心中で呟いたその返答は独り善がりで、きっと的外れな物だろう。

だけど新たな約束を得た事で、先の疑問は肯定へと変わった。

 

最後の躊躇を捨て去って。大きく喉を鳴らし、喉に張り付いた花弁を嚥下する。

 

――華炎と、情動。胸の奥から昇る熱は、果たしてどちらによる物か。

 

僕は強く目を瞑り、抱く彼女に力を込めた。

                                                           

 




これにて一部完、的な。
きっと生きてたとしてもこれから先主人公は死にかけ続け、後悔は止まない事でしょう。
かわいそうに。

ともかく、今まで読んで頂きありがとうございました。
何時になるかは分かりませんが、もしかしたら続きを書く事もあるかもしれないので、その時はまたよろしくお願い致しますー。


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