ハイスクール・フリート PRIVATEER(完結) (ファルメール)
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VOYAGE:01 艦長ビッグママ

 

「もうすぐ通るよ、もかちゃん!!」

 

「うん!!」

 

 その日、岬明乃と知名もえかはとある岬へと走っていた。

 

 二人が森を抜け、視界が一気に開けたのと汽笛が鳴り響いたのはちょうど同じタイミングだった。顔を上げた少女達の視線の先には大和型一番艦『大和』の勇姿があった。

 

「おーい!! おーい!!」

 

 小さな体を目一杯背伸びして手を振る明乃だが、やはり距離が離れている事もあってか大和の乗員が気付いた様子はない。

 

 と、いきなり明乃ともえかの周りだけ暗くなった。

 

 雲が太陽にかかったのかと思ったが、今日は快晴、空は雲一つない蒼天である。陽光を遮るものは何も無い。

 

 するとむんずと首根っこを掴まれる感覚があって、二人は軽々と空中に持ち上げられていた。

 

「ひゃっ?」「わわっ?」

 

「そんなんじゃいくら手を振ったって見えやしないよ、ミケ」

 

 しわがれた声がして、明乃ともえかがそれぞれ振り返るとそこには一人の女性が立っていた。その女性は二人を片手で猫のように持ち上げていた。暗くなったのは、彼女の体が影になったせいだったのだ。

 

「ママさん!!」「ビッグママ」

 

 少女達は、嬉しそうな声を上げる。

 

 大きな、大きな女性だった。

 

 身長は男性と比べてもとても高く、190センチメートル以上はあるだろう。肩幅も広くがっしりとしていて、お腹には加齢と飽食による余分なものがたっぷりでっぷりと付いていた。

 

 体重は……160キロは軽く超えているだろう。年齢は70過ぎといった所だろうか、長い髪は黒と白が3対7ぐらいの割合で混ざっていて、日焼けして鷲鼻でそしてシワだらけの顔には左眉の上から45度の角度で大きな傷が走っており、右目は革製の眼帯で塞がっている。余分なものは顔にもしっかり付いていて、あごが肉に埋もれて消えかけていた。

 

 両腕は明乃やもえかの腰ぐらいの太さがあって、左右非対称だった。右手は生身だが、左手は肘から先がマジックハンドのような義手になっていた。

 

「ほうら、こうすれば分かるだろ」

 

 ビッグママ。

 

 もえかにそう呼ばれたその女性は二人の体を発泡スチロールで出来ているかのように持ち上げると、それぞれ自分の肩に座らせてやる。視界が一気に広くなって、明乃が「わぁ」と笑った。もえかは少し不安なのか、両手でビッグママの頭を掴んでいた。

 

「ほら、もっかいやってみな」

 

「はい、ママさん!! おーい!!」

 

 100メートル先から見ても一目で分かりそうなビッグママに抱えられているせいだろうか、今度は大和の甲板に立っていた女性士官も気付いたらしい。帽子を取って手を振り返す。気付いてくれたのが嬉しかったらしく、明乃の顔がぱぁっと明るくなった。

 

「もかちゃん!! 私達、絶対、ぜーーーったい、ブルーマーメイドになろうね!!」

 

「うん!!」

 

「海に生き!!」

 

「海を守り!!」

 

「「海を往く!! それが、ブルーマーメイド!!」」

 

「そうかいそうかい、二人はブルマーになるのかい。良い事だねぇ」

 

 肩に座る二人の会話を聞いて、ビッグママはにっこり微笑むと「ガハハ」と笑う。体が揺れるので、明乃ともえかは振り落とさそうになって思わず両手でビッグママの頭に掴まった。

 

「まぁ……どんな職に就いても良いさ。元気で、友達を大切にして、毎日歯を磨いて、煙草はやらずに……そして……」

 

「「そして?」」

 

「あたしみたいにならなきゃ、何になっても良いさ」

 

 

 

 

 

 

 

 9年後の4月、小笠原諸島の父島近辺を一隻の客船が航行していた。

 

 だが只の客船ではない。

 

 普通の客船と何が違うのか?

 

 大きさ? 否。確かに小さな島のように大きいが、同じぐらいの豪華客船は世界に何隻かはあるだろう。

 

 船内設備? 否。確かにプールにカジノ、ショッピングモール、病院、サーカス、エトセトラエトセトラ……色々あるがそれでも同じぐらいの設備を備えた船は世界に何隻かはあるだろう。

 

 他の船との違いは、ずばり船体である。この客船は上はアンテナから下は船底まで、一面金色。シャワー室からトイレ、機関室の内部からスクリューに至るまで全てキンキラキン。眼が眩むような内装だったのである。

 

 一体全体どれだけの財産を注ぎ込めばこんな船が出来上がるのか。ちょっと想像も出来ない。恐らくだがこの客船を質に入れれば小さな国なら一つや二つ買えるのではあるまいか。

 

 と、こんな具合に成金趣味全開な『シャイニングホエール号』。この船で旅行する事は金持ちのステイタスであり、予約は7年先までビッシリだ。このように金はある所にはあると労働意欲を根こそぎ奪うような豪華客船の船長室では、一人の女性が椅子に腰掛けて机に脚を投げ出し、イビキを掻いていた。

 

 ビッグママだ。

 

 髪はもうすっかり真っ白になっていて、体型は9年前よりも一段と太ったようだった。

 

「むにゃむにゃ……もう食べられないよ……むにゃむにゃ……」

 

 テンプレートな寝言を呟いたのと同じぐらいにドアがノックされる。

 

「大変だ、ママ!! 入ります!!」

 

 ドアが勢い良く開け放たれて、3人の中年男が駆け込んでくる。一人は2メートルはありそうな長身で針金のように痩せていて、一人は160センチぐらいで玉乗りボールのように太っていて、一人はスマートで女性のように美しかった。

 

「むにゃ……どうしたんだいお前達」

 

 ビッグママは夢から覚めると、左目だけをこすりながら三人の男へと向き直る。

 

「海上安全整備局から依頼が入りました!!」

 

「内容は?」

 

「西之島新島へ行って、コイツを回収してこいって事です」

 

 ビッグママは痩せぎすの男が持っていた書類を受け取ると、ぱらぱらとめくっていく。写真が何枚か添付されていて、そこには白と茶色のまだら模様をしたハムスターのような動物が映っていた。

 

「このネズミを? 理由は? まさかお偉いさんのペットでもあるまいに」

 

「それが……こちらからの質問には一切応じないと。その分、報酬は多くそれも全額前金で払うって……」

 

 太った男が答える。それを受けてビッグママの表情が眼に見えて険しくなった。

 

「話にならないねぇ。あたし達が”一方通行”の仕事はしないのはお偉いさんも承知の筈だろ?」

 

「でもママ、この仕事の報酬は10億と破格よ。引き受ける価値はある……か……と……」

 

 美しい男が反論しかけるが、ビッグママの隻眼に睨まれて押し黙るしかなかった。

 

「お前達……気を付けぃ!!」

 

「「「!!」」」

 

 一喝され、3人はびくっと体を震わせると一列に並んで、一斉に背筋をピンと伸ばして気を付けの姿勢を取った。

 

 椅子から立ち上がったビッグママは三人の前まで歩いてくると、まず痩せた男の左頬にビンタ!! 気持ちのいい音が鳴る。

 

 続いて太った男の左頬にビンタ!!

 

 更に美しい男の左頬にビンタ!! そしてこいつにだけ返す刀で右頬にもう一発ビンタをお見舞いした。

 

「休めぃっ!!」

 

 声が掛かって、3人はシンクロナイズドスイミングのように完璧なタイミングで、「休め」の姿勢になった。

 

「お前達!! あたしら『ビッグママ海賊団』鉄の掟三箇条を言ってみな!! まずはリケ、お前からだ!!」

 

「は、はいママ!! 一つ、堅気の方には手を出さぬ事!!」

 

 痩せた男が答える。

 

「よし、次はナイン!!」

 

「一つ、事情を話さない奴からの依頼は引き受けぬ事!!」

 

 太った男が答えた。

 

「ロック!!」

 

「一つ、人と麻薬と誇りは売らぬ事!!」

 

 美しい男が答えた。

 

「よーし、良くできた!!」

 

 ビッグママは顔をほころばせて、右手で順番に男達の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。

 

「お前達、いつも口を酸っぱくして言っているよね? いくら贅沢な暮らしをして、いくら美味いものを食って、いくら国家公認であろうがあたし等は所詮は海賊、海のクズさ。けどね、いくらクズであろうとそれでも最低限の誇りだけは無くしちゃあいけないよ。それを忘れたら、あたし達はホントにクズの中のクズ、燃やすとダイオキシンが出る最低のゴミに成り下がっちまうからね。お前達もいつかはあたしの後を継ぐんだから、それを忘れちゃあいけないよ……分かるね?」

 

 噛み含めるように、ビッグママは諭していく。決して怒鳴りつけたりはせずに、優しく、穏やかに。

 

「は……はい、良く分かりましたママ」

 

「肝に銘じます」

 

「目先の欲に眩んだ自分が情けないわ、私……」

 

 三者からの反省の弁を受け、満足げに頷くビッグママ。

 

「よーし、分かれば良いのさ。それじゃあ、今から西之島新島沖へと向かうよ!!」

 

「「「はっ?」」」

 

 予想も付かない言葉に、三人は眼を丸くする。

 

「え? でもママ……たった今依頼は断るって言ったばかりじゃ……」

 

 ロックと呼ばれた美しい男の疑問も当然である。これを受けてビッグママはニヤリと意地悪く口角を上げた。

 

「ああ、依頼は断る……その上でこのネズミ……こいつをあたし等が確保する。そうして、金をガッポリせしめるのさ」

 

 後ろ暗い所が何も無いなら、ブルーマーメイドなりホワイトドルフィンなりが動くだろう。それをせずにヤクザ者に依頼するという事は、何か公になって困るものがあるという事だ。それが何なのかまでは分からないが……手にすれば口止め料として莫大な額が期待できる。10億円など目じゃないだろう。

 

 ロックは、苦笑いを浮かべた。

 

 海上安全整備局の背広組は重大なミスを犯した。『ビッグママ海賊団』へ依頼する時は、事情や背景の説明を絶対に欠かしてはならなかったのだ。それは礼を欠いた行為である。彼等はこの教訓の為に、恐ろしく高い授業料を払う事となるだろう。

 

 クローゼットから取り出した金色の肩章付きコートをばさっと羽織り、海賊帽を被ったビッグママは椅子に深々と腰掛けると、肘掛けの裏側に付けられたスイッチを押す。

 

 すると椅子の支柱を中心として床が円形に開いて、ビッグママは椅子と共にくるくる回りながら穴の中へと消えていく。彼女の巨体がすっかり見えなくなると、床に空いていた穴はシュッと空気が洩れるような音と共に閉じた。

 

 それを見届けると、リケ、ナイン、ロックの3名もそれぞれダストシュート、掛け軸の裏側の穴、そして忍者屋敷のような回転式の壁の裏側へと姿を消して、ものの十秒で船長室からは誰も居なくなった。

 

 

 

 そこは、まるでビルの屋上から眺める夜景のような場所だった。

 

 暗闇の中に赤、青、緑……様々な色の、大小無数の光がチカチカと瞬いていた。

 

 グォォォン、という機械音が響いたかと思うとにわかにその場所はライトアップされ、近代的な内装が分かるようになる。この時代の艦船は少人数でも運用が可能なよう高度に自動化が進められているが、それらの船と比較してもこの空間の機器は数世代先を行っているように見えた。

 

 空間の天井が開いて、椅子に座ったままのビッグママが回転しながら降りてくる。船長室の椅子は、そのままキャプテンシートとなった。

 

「ママ、既に計器のチェックは済んでいます、システムオールグリーン!! いつでも行けます!!」

 

「機関始動、推進各部起動まで40秒」

 

「シャイニングホエール号の底部ハッチ開口を1分後にセットしたわ」

 

 既にそれぞれの指定席へと着いていた男達は、モニターに表示されてめまぐるしく切り替わっていく情報を残らず読み取って、艦長・ビッグママへと伝えていく。

 

「よーし、よし」

 

 ビッグママは頷くと、咥えていた煙管を手に取ってくるくる回し、さっと前方を指し示した。

 

「クリムゾンオルカ……発進!!」

 

 重々しい機械音と共に、水音が聞こえてくる。

 

 世界一の豪華客船『シャイニング・ホエール号』。しかし、海上の煌びやかな部分など所詮は見せ掛け、ただのガワ、卵の殻でしかない。少なくともこの空間に居る4人にとってはそうだ。そもそも『シャイニング・ホエール号』は実は客船ですらない。潜水艦用の自走式浮きドックなのだ。

 

 そして今、船底部のハッチが開いて格納されていた潜水艦『クリムゾンオルカ』が海へと漕ぎ出していく。『シャイニング・ホエール号』の豪華さに目を奪われた乗客達は一人として気付いていない。そうして海賊船は、西之島新島へ向けて海中を進んでいく。

 

 しかしビッグママ達にとっては金目当てで始まったこの航海が、世界の命運を懸けた旅になるとは……この時は、まだ誰も知る由もなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 今からおよそ100年前、日露戦争後の日本はプレートの歪みやメタンハイドレートの採掘などが原因で国土の多くを失った。

 

 その結果、海上都市が増えそれらを結ぶ海上交通の増大により日本は海運大国へと発展を遂げた。その過程でかつての軍艦は民間用に転用され、戦争に使わないという象徴として艦長は女性が務める事となった。これが海の治安を守る「ブルーマーメイド」の始まりである。

 

 今では「ブルーマーメイド」は女子の憧れの職業となり、同じように海の治安を守る男性の部隊は「ホワイトドルフィン」と呼ばれている。

 

 そしてもう一つ……広大な海を跋扈する悪への抑止力として、無法者からの海賊行為を国家から許された者達が居た。

 

 人は彼等を、「クリムゾンオルカ」と呼ぶ。

 



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VOYAGE:02 真雪校長の依頼

 

「おーい」

 

 天気晴朗の春の海。この日、とある民間用ヨットの乗員は、海面に妙な物が浮いているのを見付けた。

 

「あれ、さっきからずっと追い掛けてきてるぜ……何だ?」

 

「イシダイかなんかじゃねーの?」

 

「なんかの浮標(ブイ)みたいだな」

 

「ブイが動くかよ」

 

 そんな風に会話しつつ、釣り人達はからから笑いながら何本目かのビールを開けた。

 

 ヨットと併走しているブイのような物体。海水に浸かっている部分はワイヤーが風船のようにくっついていて、ずっと深い海中へと伸びている。そのワイヤーの先にあるのは一隻の潜水艦。「ビッグママ海賊団」が誇る「クリムゾンオルカ」であった。ブイには通信機能が内蔵されていて、これを海上に露出させる事で潜行しながらの通信が可能だった。

 

 海上安全整備局からの依頼はキナ臭いと断ったビッグママ海賊団であったが、キナ臭いものほど金になるのが世の常。それに後ろ暗い所がある物を奪われても、彼等は表立っては追求できない。脱税して貯め込んだ金を盗まれても警察に届けられないのと同じだ。

 

 そうした計算もあって、ネズミのような生物を横合いからかっさらうべく動き出したビッグママ海賊団であったが、しかし一直線に西之島新島へと向かうような事はせず、まずは近過ぎず遠過ぎずといった距離の海域にて、情報収集を行っていた。

 

「お前達、どんなに些細な情報も聞き逃すんじゃあないよ」

 

「「「はい、ママ!!」」」

 

 クリムゾン・オルカのクルー、リケ、ナイン、ロックの3名は艦長ビッグママへと気持ちの良い返事を返す。

 

 そうしている間にも無線からは様々な周波数の通信が流れていて、テレビ画面はめまぐるしくチャンネルが変わっていく。彼等はほんのちょっぴりな会話も聞き逃さず、画面上に表示される小さなテロップも見逃さずに膨大な情報を処理していく。

 

 だが今の所、見るべき情報は皆無と言って良かった。

 

「ん?」

 

 とその時、ロックがヘッドホンに手を当てる。

 

 流れてくるのは耳障りなノイズだった。ブルーマーメイド所属艦や彼女達の通信機で使われている暗号回線だ。

 

「解析ソフトに掛けな」

 

「もうやってますぜ」

 

 リケの返事と、解読が終わるのはほぼ同じだった。

 

「それじゃあ、流します」

 

 コンソールの操作によって、音声がスピーカーに繋がれて艦内に響き渡る。

 

<……航洋艦「晴風」、エンジントラブルにより予定集合時間には遅刻してしまいそうです。予想到着時間は……>

 

「……こりゃ、学生艦から教官艦への通信ですな」

 

「そういやもう4月。海洋学校では新入生の訓練が始まる季節ですね」

 

「しかし初訓練から遅刻とは……確か「晴風」の機関は高圧缶……まだまだ故障が多いらしいから仕方無いでしょうけど、とんだ失点……前途多難ね。この船の生徒達は」

 

 3名のクルーが各々の感想を述べる中、ある事を思い出したビッグママはポケットからスマートフォンを取り出してアルバムを呼び出す。お気に入りにフォルダ分けされた写真には、今より幾分髪に黒色の多い彼女が真ん中に、そして両手で抱き寄せられるようにして幼い明乃ともえかが映っていた。

 

『そういや、あの子達も今年から高校生か……』

 

 送ってきた手紙によれば、二人とも晴れて横須賀女子海洋学校に入学したとの事だった。ちょっと前まではちびっ子だと思っていたのに。

 

『あたしも年取る訳だねぇ……』

 

 ふぅと息を吐いて、苦笑いするビッグママ。しかし物思いに耽っていたのもここまでだった。

 

「ママ、横須賀女子海洋学校のデータベースにハッキングして調べたんですが、今年の新入生の訓練航海は西之島新島沖で行われるそうです」

 

「あちゃあ……そりゃあまずいね」

 

 やれやれと、肩を竦めるビッグママ。

 

 殆どのブルーマーメイドは、国家公認海賊とも言うべきクリムゾンオルカに対して良い感情を持っていない。概ねがならず者・ヤクザ・犯罪者予備軍という認識である。

 

「分かった。じゃあ暫くはこの海域で待機。訓練が終わって学生艦と教官艦が全て引き上げた後に、調査を行う事にしよう」

 

 ビッグママの指示を受けて、クルー達3人は異存は無いという表情で頷く。あまり良くない関係であるとは言えそれでもこれまで争い無くやってこれたのだ。のこのこ出て行って余計なトラブルの種を蒔くのは避けるべきだろう。

 

「リケ、ロック、ナイン。この時間を使って、三交代制で休息。ロック、お前はもう一度、対毒マスクやNBC防護服のチェックをやっておきな」

 

「分かったわ、ママ」

 

 艦長の指示を受けてロックはブリッジを出ると、武器庫へと向かった。そこには武器弾薬などが大量に積み込まれているが、その中には有害物質や放射能に汚染された場所での活動を可能とする防護服も含まれている。

 

 海上安全整備局から得られた情報では詳細は何も分からなかったが、回収する対象がネズミのような”生物”である事から、ビッグママはこの依頼の『裏』にある程度のアタリを付けていた。

 

 

 

 可能性その①:ネズミそれ自体が目的ではなく、ネズミに付けられた首輪やアクセサリーに何か秘密がある。例えば政治家絡みで黒い金の動きが示されたデータが入っているとか。

 

 可能性その②:単純にこのネズミが超珍しい絶滅危惧種。どうあっても保護しなければならない。

 

 可能性その③:このネズミは危険な病原菌を保菌している。万一本土にでも持ち込まれたら蔓延、パンデミックになる。それを防ぐのが目的。

 

 

 

 ざっと考えられる可能性としては以上のようなものだが、まず②は無いだろうとビッグママは見ている。本当にただの珍しいだけの保護動物なら、ブルーマーメイドでもホワイトドルフィンでも動かして堂々と保護してしまえば良いのだ。わざわざ高い金払ってクリムゾンオルカのようなヤクザ者を使う理由が無い。

 

 その①も怪しい。いくらなんでも映画じゃあるまいし、そんな重要なデータを動物の首輪とかに仕込むものだろうか? 情報が流出する危険が高くなるだけに思える。いや先入観での決め付けは危険だが客観的に見て可能性は低い。

 

 となると残るのがその③……万一の場合、死んでも後腐れが無いように自分達を使おうとした? むしろわざとウィルスだか病原菌だかに感染させて、その効能をテストしようとしたとか? ここまで来ると陰謀論だが、しかしだとしたなら専門のスタッフを動かさなかった事にも説明が付く。

 

 ……真相は分からないが、備えは必要だろう。

 

『……もしあたしの考えてる通りだとしたら……目ン玉飛び出るような大金を制服連中からふんだくってやる……!!』

 

 息巻いていたビッグママであったがしかしこの数時間後、事態は思わぬ展開を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

「晴風が反乱しただって?」

 

 リケからの報告を受けたビッグママは、思わず巨体をキャプテンシートから乗り出した。

 

「はい、ママ。猿島からの救助信号を傍受しました。集合時間に遅れて到着した晴風が突如教官艦に発砲し、猿島を撃沈。そのまま逃走したとの事です……ありえねーだろと思いましたが……」

 

「私も何かの間違いだと思って何度も確認したけど、間違いないわ」

 

 ロックが補足する。

 

「だが重要なのはそこじゃない……ですよね、ママ」

 

 ナインの言葉に我が意を得たりと、頷くビッグママ。

 

「海上安全整備局から来た依頼の目的地が西之島新島沖。『偶然』ここが海洋学校の訓練海域に選ばれていて『偶然』そこで学生艦が反乱して教官艦を撃沈した……お前達、本当にこれが偶然の一致と思うかい?」

 

 試すような口調だが、3人のクルー達からの回答は全て同じだった。

 

「それこそありえねーでしょ」

 

「……レッスン2だったわよね」

 

「二つの偶然は無い……ですよね、ママ」

 

「オウさ」

 

 頷くビッグママ。これには絶対に何らかの作為が働いている。少なくともそう疑ってかかるべきだ。

 

「何かがある……」

 

「何かって?」

 

「分からないねぇ、今はまだあたしにも。だからこそ、事情を知っている者に話を聞く必要がある」

 

「事情を知っている者……って言うと……」

 

「……晴風に接触するので?」

 

「しかしどうやって? 相手は学生で候補生とは言えブルマー。接触できたとして、犬猿の仲の私達に素直に話してくれるとは思えないけど?」

 

 クルー達の意見も尤もである。しかし、ビッグママには勝算があった。

 

「ああ……それなら問題無いよ。あたしの予想では後一時間もしない内に、晴風と接触する為の絶好のカードがこちらに舞い込んでくるさ」

 

「絶好のカード?」

 

「何ですか、それは?」

 

「まぁ、見てなって。取り敢えずこのまま一時間待機だ」

 

 そしてきっかり一時間後。艦内に着信を知らせるメロディが鳴り響いた。素早くリケが計器をチェックする。

 

「ママ、秘匿回線で通信が入ってます」

 

「どこからだい?」

 

「これは……横須賀女子海洋学校からです」

 

「「!!」」

 

 二人のクルー、ナインとロックは驚いた顔になり、対照的にビッグママはにやっとどや顔になった。

 

「繋ぎな。映像をモニターに、スピーカーもオンにするんだ」

 

「了解」

 

 ほんの数秒で回線が接続され、ブリッジ正面の一番大きなモニターに、制服を凛々しく、完璧に着こなした妙齢の女性がバストアップで映った。元ブルーマーメイド、現横須賀女子海洋学校校長・宗谷真雪だ。

 

<ご無沙汰しております、教官>

 

 モニターの中の真雪が、ぺこりと頭を下げた。

 

「あたしはもう教官じゃあないよ。ユキちゃんこそもう校長先生か。立派になったものだねぇ」

 

<ご指導・ご鞭撻の賜物です>

 

 画面越しに二人は視線を交わし合って、旧交を温め合うような挨拶が終わった事を互いに了解すると、先に話を切り出したのは真雪だった。

 

<今回は教官にお願いしたい事が……>

 

「当ててみせようか、晴風の事だろう?」

 

 機先を制するようなビッグママの言葉を受けて、真雪は少しだけ目を見開いて穏やかな驚きを見せた。驚愕が半分、納得が半分という所だ。

 

<流石は教官……既にご存じでしたか>

 

「で……その晴風が猿島を撃沈した事を受けて、海上安全整備局はこれを大規模反乱行為と認定……もしくはその方向へと意見が傾いていて、このままでは拿捕もしくは撃沈しろという結論が出るのも時間の問題……その前にあたしらが春風に接触して、事態を収拾してくれ……って所かい?」

 

<はい……仰る通りです>

 

 ずばずばと言い当てられて、真雪は脱帽という表情になった。

 

<正直……入学したばかりの学生が初航海でいきなり反乱したなど……私には信じられません。何かの事故や偶然が重なった結果である可能性も十分にあると思っています。だからクリムゾンオルカには他に先んじて事態の究明に動いてもらいたいと……>

 

「確かに。学生艦が反乱するなんて……ってぇのはあたしも同意見だねぇ」

 

 シワだらけの顔をもっとシワだらけにして、ビッグママは口元に手をやる。

 

 横須賀女子海洋学校はブルーマーメイド養成の名門校で、学生は日本中から集まる。出身地も母校もバラバラの学生が集まってたった数日で意思の統一に至って、反乱などという大それた事をやらかしたと言うのか?

 

 リケの台詞じゃないがそれこそありえない。「何か」があると考えるのが自然だろう。その「何か」が、海上安全整備局からの依頼とどう関係があるのか、もしくは無関係なのか。それがビッグママの知りたい事だった。

 

 ……尤も、それらは今の所全て真雪やビッグママの推論でしかない。確たる証拠は何も無い。

 

「だから他のどの艦よりも先にあたしらに晴風と接触して生徒達を保護……可能なら、何故猿島を撃沈するような事態となったのかを究明しろって訳だね?」

 

<その通りです。報酬として1000万円、依頼を受けていただくと同時に指定の口座に振り込ませていただきます……あなた方に依頼するには少ない額であるとは承知の上ですが……私がすぐ用意できる額はこれが精一杯なのです。不足分は、後から必ずお支払いすると約束します……何とか、引き受けていただけないでしょうか?>

 

「いいだろ」

 

 ビッグママの快諾を受け、真雪の表情が目に見えて明るくなった。これは彼女を信頼している事の証だ。

 

「ただし、条件があるよ。4つだ」

 

<仰って下さい>

 

「第一に、晴風の保護及び事態の究明を行うに当たって、やり方は全てあたしらに一任する事」

 

<当然の条件ですね。受けます>

 

「第二には、学校側で掴んでいる情報は全てあたし達に開示する事」

 

<それも当然の申し出です。すぐにデータを送信させていただきます>

 

「第三にはこの依頼の遂行中に発生するいかなる被害についても、あたしらにその責任を問わない事」

 

<……いかなる被害も……ですか?>

 

 流石にこの条件については、真雪も即答を避けた。前の二つとは違って、これは意図する所が読めない。

 

「簡単な事さ。晴風が反乱艦認定されてあたしらクリムゾンオルカはその保護に動くが、もし依頼遂行中に他の艦と遭遇し、その時拿捕又は撃沈の指示が出ていた場合、交戦になる可能性がある。あたしらは真っ当な事をやってる連中に手出しはしないが、先制攻撃を受けた場合の正当防衛だけは例外だ。自分達もしくは晴風を守る為に、やむを得ず敵対艦の攻撃力に打撃を与えるケースが考えられる。その時の保障が欲しいのさ」

 

<……確かに、こうした依頼を受けてもらう以上、尤もな条件ですね。教官なら過剰防衛は行われないでしょうし……受けます。最後の一つは?>

 

「報酬は500万、成功報酬で良いよ」

 

<……よろしいのですか、教官……?>

 

 モニターの向こうの真雪が戸惑ったようになったのを受けて、ビッグママはしわくちゃの顔をほころばせる。

 

「生徒の為に1000万の自腹切ろうなんて、ユキちゃんも良い先生になったじゃあないか。あたしからのご祝儀だよ」

 

<……生徒は教師に倣うものです。自分の信念に従え……これは、レッスン1でしたよね。教官>

 

 笑みを交わし合うビッグママと真雪。これは契約成立の合図だった。

 

「それと、この会話は映像音声共に記録させてもらうよ。晴風のクルーに、手っ取り早くあたしらが敵じゃないって信じてもらう為に使えそうだからね。そしてもう一つだけ……ユキちゃんに聞いておきたい事がある」

 

<……何でしょうか?>

 

 ビッグママが神妙な顔になったのを受けて、話される会話の内容に察しが付いたのだろう。真雪の表情に陰が落ちた。

 

「もし……最悪の場合はどうする? つまりこれが、マジに晴風の反乱だったら?」

 

<……っ、それは……>

 

 頭の片隅には思い浮かべていたが、目を背けていたい可能性だったのだろう。真雪は言い淀む。そんな元教え子をじっと見据えるビッグママ。何十秒間か胃が痛くなるような沈黙が過ぎて、

 

「ごめんよ、今のはあたしが意地悪だった」

 

 先に話を切り出したのはビッグママだった。

 

<……教官>

 

「……一応、言っておかなくちゃあならない事ではあるからね。あたしは何でユキちゃんがあたしらに依頼してきたのか、その意味は分かっているつもりだよ。ユキちゃんからの依頼に基づいて、任務は遂行するさ」

 

<……感謝します>

 

 真雪からの依頼に基づいて、というのがミソだ。彼女の意向を最大限に汲み取ると、ビッグママは言外にそう言っていた。

 

<では教官……よろしくお願いします>

 

「吉報を待ってな、ユキちゃん」

 

 ぺこりと頭を下げた真雪を最後に、通信が切れた。モニターには西之島新島を中心とした海図が取って代わる。ほぼ同時にメールの着信を知らせる音が響いて、リケがコンソールを叩いた。

 

「ママ、横須賀女子海洋学校からメールが入りました。今の話通り、晴風と猿島についてのデータが添付されてます」

 

「分割して全てのモニターに出しな。あらゆる角度から情報を検証するんだ」

 

 晴風のスペック、訓練航海の予定、猿島のクルーからの報告……モニターに流れていく多くのデータを読み取りつつ、ロックはビッグママを振り返った。

 

「それにしても流石はママ……晴風に接触する材料として……校長が我々に接触してくるのを読んでたのね」

 

「あたしがまだブルマーの教師だった頃……ユキちゃんは最も優秀な教え子の一人だったからね。クリムゾンオルカを創った後も、何度か一緒に任務を遂行した事もある……だから、どう動くかは大体分かるのさ」

 

 会話しつつも、データの読み出しは次々に終了していく。

 

「ママ、次は乗員のリストを表示します」

 

 そう言ったナインがキーボードを叩くと、晴風乗員の写真付きプロフィールがモニターに映る。

 

「!!」

 

 最初に表示された乗員の写真と名前を見て、ビッグママは表情を強張らせた。

 

「……ミケ……」

 

 晴風艦長・岬明乃。モニターにはそう表示されていた。

 



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VOYAGE:03 晴風との接触

 

「ママ、発見しました。音紋照合……晴風です」

 

 クリムゾンオルカのブリッジで、ヘッドホンを指で叩きながらリケが報告する。

 

「ビンゴ」

 

 キャプテンシートに座るビッグママがぱちんと指を鳴らした。

 

「……予想通り……ですね、ママ」

 

 と、ナイン。ビッグママも頷く。真雪校長から提供されたデータの中には晴風が逃走した方角と、訓練航海の全予定も含まれていた。このコースだと、晴風は第二合流地点として設定されている鳥島沖へと向かっていると推測される。逃走した晴風は位置情報やビーコンは勿論、個人用の通信機器も全て切ってしまっていて正確な位置が掴めない。故に手元にあるデータから進路を予測するしかなかったが……どうやら、当たりのようだった。

 

「しかし……当初予定された合流地点に向かっているって事はやはり反乱行為ってのは何かの間違いなのかしら?」

 

 呟きつつロックはキーボードを叩くと、メインモニターに表示されたクリムゾンオルカを中心とした海図に晴風の現在位置を表示する。

 

「さてね……まずはそれを確認する所からが、あたし達の任務だ。いつも教えてるだろ? 思い込みは重大な危機を招くよ」

 

「はい!!」

 

「レッスン3ね」

 

「自分の眼と耳と、勘だけを信用しろ……ですよね、ママ」

 

「そういう事さ、ナイン」

 

 晴風は依然進路・速度を変えずに航行中。未だこちらには気付いていない。

 

「しかし……反乱の意思の有無を確認すると言ってもどうやって?」

 

「簡単だよ、晴風を停船させてこっちから乗り込む。その上で、向こうのクルーと面と向かって話をするのさ」

 

「まぁ……それが一番手っ取り早いか」

 

「あのミケちゃんが反乱なんて99.9パーセントまで何かの間違いだと思うけど……」

 

「でも0.1パーセントの可能性が残っている。だからまずはそれを検証する……ですよね、ママ」

 

「そういうことだよ。総員戦闘配置!! 推進機関をプロペラから『レッドオクトーバー』に切り替え!! 一番二番魚雷発射準備!! 自動追尾プログラムは晴風のエンジン音にセットしな!! まずは最悪のケース……晴風が本当に反乱していると想定して、事に当たるよ」

 

 

 

 

 

 

 

「……?」

 

 晴風の水測員兼ラッパ手である万里小路楓は、ヘッドホンから聞こえてくる音に僅かな違和感を覚えて音量を調整した。今までの訓練では聞いた事の無い音だ。鯨の声や海底を動くマグマの音かとも思ったが、どれとも違う。念の為登録されているあらゆる洋上艦・潜水艦の音紋とも照合したが、一致する艦艇は存在しなかった。

 

「艦長、後方の海中で何か妙な音が聞こえる……気がします。少しだけ、速度を落としていただけませんでしょうか?」

 

 艦橋からの返事はすぐに来た。

 

<分かった。まろんちゃん、微速まで落として>

 

<合点でい!!>

 

 速度が落ちた事でソナーの性能がより発揮できる状態となり、楓はこれまで以上に全神経を聴覚へと集中させる。

 

「……?」

 

 やはり、何か違和感がある。何がどうとは説明できないが……何か、何かが妙だ。

 

 

 

「ママ、晴風の速度が落ちました」

 

 クリムゾンオルカのブリッジではリケからの報告を受けて、ビッグママは「ほう」と感心した表情になっていた。

 

「乗員は全て入学したばかりの学生の筈だけど……少なくとも水測の子はとても優秀だね」

 

 これは明らかに、何か妙な音が聞こえるから速力を落としてソナーの効力を高め、海中の様子を深く探ろうという動きだ。

 

「この艦が『レッドオクトーバー』を使っている今の状態で「妙だな」と感づけただけでも大したものだよ」

 

 賞賛の言葉はそこまでだった。

 

「だが……ちょいと遅かったね。既に射程距離に入ってるよ!! 探信音撃て!! 同時に推進機関を再びプロペラに切り替え!! 浮上開始!!」

 

「「「アイマム!!」」」

 

 

 

 晴風艦内にカーンと、独特の音が鳴り響いた。

 

「探信音波!?」

 

 艦橋の全員が一瞬顔を見合わせてフリーズする中で、副長・宗谷ましろはいち早く我に返ると水測室へ通信を繋いだ。

 

「ソナー、今の探信音は何だ!?」

 

<後方距離1500、深度100の海中に潜水艦!! 浮上してきます!!>

 

「1500!? そんな距離に近付かれるまで気付かなかったのか!?」

 

<そ、それが……今の今までエンジン音もキャビテーションも無くいきなり現れまして……>

 

「そんなバカな……い、いやそれより拙いですよ艦長。後ろを取られてしかも探信音を撃ってきたという事は……」

 

「うん」

 

 艦長・岬明乃も厳しい顔で頷く。学生とは言え名門である横須賀女子海洋学校の門をくぐる事を許された身である。今の状況は理解している。

 

 演習に於いて潜水艦が洋上艦をロックして撃沈できるぞと合図する時、魚雷の代わりに探信音を使用する。つまりこの探信音を撃ってきたのがどこの潜水艦にせよ、その艦が本気なら晴風は既に撃沈されているという事だ。これはチェスや将棋で言えば王手詰み(チェックメイト)を宣言されたに等しい。

 

 今、やるべき事は……

 

「まりこうじさん、浮上中の潜水艦、艦種分かる?」

 

<は、はい!! 音紋照合……これは……クリムゾンオルカです!!>

 

「クリムゾンオルカ……って……ココちゃん!!」

 

 記録員兼書記の納沙幸子を振り返る明乃。幸子は頷くと手にしたタブレットを素早く操作して、呼び出したデータを読み上げていく。

 

「クリムゾンオルカ……伊201型潜水艦をベースとして独自の改造が施されたカスタム艦で、詳細なデータは公式の記録に存在しません。クリムゾンオルカ制度が制定された時、最初にそれに登録された七つの組織の一つ「ビッグママ海賊団」が保有する潜水艦で、同制度の名前の由来ともなったフラッグシップ……そして現存する唯一のクリムゾンオルカ所属艦です」

 

「!! ビッグママ海賊団……!!」

 

 幸子の報告が終わるのと前後して、再び探信音が今度は激しく何度も発信されてくる。

 

<艦長、これはモールスです!!>

 

「まりこうじさん、解読できる?」

 

<は、はい!!>

 

 

 

”クリムゾンオルカ所属ビッグママ海賊団「クリムゾンオルカ」より航洋艦「晴風」へ。現在貴艦には反乱逃亡の容疑が掛けられている。本艦の魚雷管には既に晴風のデータをインプットした魚雷が装填され発射準備を完了している。晴風に戦闘の意思が無いと言うのなら、速やかに機関停止してこの場に停船せよ。その場合は、晴風全乗員の身の安全は保証する。言うまでもないがそれ以外の行動を取る気配が見えた場合は即座に魚雷を発射・撃沈する”

 

 

 

 解読したモールスの内容は、以上のようなものだった。

 

「どうしますか艦長……状況は本艦が圧倒的に不利……と言うよりも殆ど死刑宣告されたようなものですが……」

 

「この状況じゃこっちが撃つ前にあっちから撃たれるよね……」

 

 トリガーハッピーの気がある水雷長・西崎芽依も流石にこの状況では気弱な発言が飛び出した。

 

 これを受けて、明乃の判断は……

 

「……まろんちゃん、機関停止!! 現海域で完全停船して!!」

 

<りょ、了解……>

 

「……確かに、現状執り得る選択肢はそれしかないだろうが……信用できるのか? いくら立場上は国家に帰属しているとは言え、相手は海賊だぞ? 約束を守るかどうか……」

 

「大丈夫!!」

 

 ましろの危惧に、明乃は自信たっぷりに返す。

 

「向こうの艦長……ママさんの事は知ってるの。ママさんは嘘吐く人じゃないよ」

 

 

 

「ママ、晴風が停止しました」

 

「素直に停まるって事は……やはり反乱は何かの間違いだったのかしら? それとも単純に観念しただけなのか……」

 

「それをこれから確認しに行く……ですよね、ママ」

 

 ナインの言葉を受け、ビッグママは頷いてシートから立ち上がった。

 

「浮上後すぐに出るよ、あたしのスキッパーを用意しな!! ナイン、あんたはあたしに同行、リケとロックは留守番を頼むよ。もしあたし達の身に何かあったと判断したら、その時は躊躇せずどてっ腹に魚雷をぶち込むんだ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、ビッグママとナインが晴風へと乗り込んできた。専用のスキッパーを横付けして、甲板に上がった二人を出迎えたのは明乃とましろであった。

 

「ママさん」

 

「ああ、ミケ……しばらく会わない内に大きくなったものだねぇ……抱っこしてやったのがついこないだのように思えるよ」

 

 そう言ったビッグママは明乃の両脇に手を入れると、ひょいっと持ち上げて抱っこしてしまう。ここだけ見ると完全に久し振りに会ったおばあちゃんと孫の構図である。

 

「艦長はミス・ビッグママとお知り合いなのですか?」

 

 と、ましろ。確かに明乃は、ビッグママについて何か知っている口振りだった。

 

「うん、ママさんは私が昔お世話になった施設の経営者で、子供の頃から色々良くしてもらったんだよ」

 

「お前さんは……」

 

「申し遅れました、晴風副長・宗谷ましろです」

 

「ん? ああ、ああ。そうかシロちゃんだね。そうかそうか、あのシロちゃんか。一瞬分からなかったよ。ミケもそうだが、すっかり大きくなったものだね……時が経つのは早いものだよ」

 

 合点が行ったという顔で眼を細め、にっこり笑うビッグママ。この物言いを受け、ましろは首を傾げる。まるで以前に会った事があるかのような口振りだが、彼女は覚えがなかった。

 

「……失礼ですが、どこかでお会いしましたでしょうか?」

 

「ああ、シロちゃんは覚えていないだろうね。昔……あんたが赤ん坊の頃に何度か会った事があるだけだからね」

 

 そう言ったビッグママは懐からスマートフォンを取り出し、保存してあった写真が表示された状態にするとましろへと渡す。明乃もましろの肩越しに表示された写真を覗き込んだ。

 

「これは……」

 

 そこには、今より幾分年若いビッグママが赤ん坊を抱いていて、その周りにはブルーマーメイドの制服を着た女性と、女の子が二人写っていた。

 

「可愛い。この赤ちゃんがシロちゃん?」

 

「え、ええ……一緒に写っているのが母と姉達で……母とお知り合いなのですか?」

 

「ユキちゃんと……って言うよりも宗谷家と、って言う方が正しいかね。あたしはシロちゃんのひいおばあちゃんが艦長を務めていた艦のクルーで、おばあちゃんの先輩で、ユキちゃん……シロちゃんのお母さんだけど、その教官を務めていたんだよ」

 

「ほえー……ママさんって、凄い人だったんですね」

 

「そ、曾祖母のクルー……」

 

 純粋に感心したという顔の明乃に対して、ましろは圧倒されたという感じだ。彼女の実家である宗谷家は代々ブルーマーメイドを輩出する家柄であり、曾祖母と言えばブルーマーメイドの初代艦長を務めた伝説的人物である。目の前の老婆がそのクルーだとは……歴史の生き字引のような存在が眼前に立っているのだと理解して、彼女は思わず唾を呑んだ。

 

「さて、昔話はこれぐらいにして……あたし達がどうしてやって来たのかを説明しなくちゃならないね」

 

 ビッグママはましろからスマートフォンを受け取ると、今度はビデオのアプリを立ち上げた。真雪校長との通信記録が再生される。

 

 

 

<正直……入学したばかりの学生が初航海でいきなり反乱したなど……私には信じられません。何かの事故や偶然が重なった結果である可能性も十分にあると思っています。だからクリムゾンオルカには他に先んじて事態の究明に動いてもらいたいと……>

 

 

 

「校長先生」

 

「お母さん……」

 

 艦長副長共に表情が眼に見えて明るくなった。これは当然の反応と言える。何かの行き違いから反乱艦扱いされて逃亡者となって精神的に追い詰められていた所に、校長は自分達を信じているという情報が入ってきたのである。嬉しさも一入というヤツだ。

 

「聞いての通り、あたしらはユキちゃんから依頼を受けてあんた達を保護する為に来たんだ。学生艦やブルーマーメイドを動かすにしても、まずは晴風反乱の情報を流している海上安全整備局の連中を説得・牽制しなくてはならないからね」

 

「そこでいち早く事態に対応する為、フットワークの軽い俺達クリムゾンオルカに依頼が来た……ですよね、ママ」

 

「そういう事だね」

 

「キュウさん!!」

 

「久し振りだな、ミケちゃん。今じゃ艦長か。立派になって」

 

「艦長、こちらの方は……」

 

「あたしの艦のクルーで、コードネームは『スレイヴ9』。あたしらはナインって呼んでるがね」

 

「成る程、ナインだからキュウさんですか……」

 

「他に二人、ガリガリの『サークル・リケ』ってのとオカマみたいな『Te:Rock』が居る。あたしらはそれぞれリケとロックって呼んでる。後でまた紹介するよ」

 

「事情は分かりましたが……ならば何故、最初に探信音を撃ったり魚雷を撃つと言ってきたのですか? 一歩間違えば晴風と戦闘になっていた可能性も……」

 

 ましろの疑問も尤もである。これにはビッグママが答えた。

 

「低くはあるけど、晴風が本当に反乱した可能性もあったからね。まずはこっちが圧倒的有利な状況を作って、無理矢理にでも話し合いのテーブルに着かせる必要があったからさ」

 

「むう……」

 

 感情面で完全に納得はしていないが、理屈は分かったのでましろは矛先を納め、話題の切り替えに掛かる。

 

「それで今後の方針ですが……」

 

 空気が変わろうとしているのを読み取って、ビッグママ達も表情を変えた。

 

「ああ、既に晴風が反乱したって情報は流れてしまっているから……あたしらが晴風を拿捕したって事にする。それで学校側に引き渡す為に横須賀まで連れて行くというシナリオさね」

 

「成る程」

 

 頷くましろ。反乱艦という事になっている晴風だが、クリムゾンオルカとぴたりランデブーなら攻撃を受ける可能性も減るだろう。

 

「……で、だ。あんたらの保護ともう一つ、事態の究明もあたしらが受けた依頼に含まれている訳だが……猿島とランデブーした時に何が起こったのか……聞かせてもらえるかね?」

 

 

 

 このようにして事情聴取が始まった訳だが、明乃とましろの口から語られたのは耳を疑うような内容だった。

 

「……つまりこういう事かい? 遅刻して西之島新島沖に着いたらいきなり猿島に砲撃された。釈明しようとしたが無線は応答が無く、手旗信号を送っても代わりに実弾が飛んでくる。それで艦と乗員の安全の為、やむを得ず演習用の模擬弾を発射、猿島に命中した隙に離脱したと……」

 

 ビッグママとナインは顔を見合わせる。二人とも信じられないという表情だ。無理も無いが。

 

「……ミケ、あんたの事は信じてるが確認は必要だ。本当に本当なんだね?」

 

「はい、本当なんです。信じて下さい!!」

 

「艦長の証言に、間違いはありません」

 

 目線でビッグママから補足を求められ、ましろが答える。「ふむ」と腕組みするビッグママ。

 

「あたしもかれこれ70年近く船に乗ってるが、学生艦相手に遅刻程度でしかも警告も無しに実弾をぶっ放すなんて話は聞いた事がない。何か……尋常じゃない事態が起こっていると考えるべきか……」

 

「気になる事はもう一つ。模擬弾一発が当たったくらいで、教官艦が沈んだ事もだ。乗員全員がサボタージュしてダメージコントロールを怠りでもしない限り、そんな事態は避けられた筈なのに……ですよねママ」

 

「…………」

 

 冗談を交えつついつもの調子でビッグママに同意を求めるナインだったが、当のビッグママは相槌を打たずにぽかんと口を開けたままだった。

 

「……ママ?」

 

「……ナイン、今何て言った?」

 

「はっ?」

 

「だから、今何て言ったかって聞いてんのさ!!」

 

 凄みながら尋ねるビッグママ。ナインは思わず数歩後退った。

 

「模擬弾一発で教官艦が沈んだのが……」

 

「違う、その後!!」

 

「……乗員全員がサボタージュしてダメージコントロールを怠りでもしない限り……」

 

「…………それ、あるかも知れないよ?」

 

「へっ?」

 

「ママさん、いくらなんでもそれは……突拍子もなさ過ぎるんじゃ」

 

「そうです、乗員全員がサボタージュって一体全体どういう状況ですかそれは」

 

 突拍子も無いビッグママの推理に、ナイン・明乃・ましろの全員が「ありえない」という顔になるが……当のビッグママは真剣な表情で考え込んでいた。

 

「突拍子もない、ありえないって言うならそれこそ遅刻程度で教官艦が撃ってくる時点で”ありえない”だろ? しかも使われたのは実弾……もし晴風に命中していたら死人が出ていてもおかしくなかった。これは演習とか懲罰で片付けられる域を遥かに逸脱してる。仮に艦長がそんな命令を下したとしても、あたしが副長だったらまず艦長が精神錯乱を起こしたと思って、力尽くでも指揮権を剥奪して艦長室に閉じ込めるよ? ミケ、シロちゃん、お前達はどうだい? 仮に二人が猿島のブリッジクルーだったとして、いきなり遅刻してきた晴風を実弾で撃てと言われて、はい分かりましたと撃つかい?」

 

 晴風の艦長副長は顔を見合わせて……答えはすぐに出た。

 

「いえ……それは撃たないと思います。いくら何でもやり過ぎだって、艦長を止めると思います」

 

「……それについては私も同意見です。少なくとも、まずは晴風と通信を繋いで状況を確認しようとするでしょう」

 

「だろうねぇ。だがもしその時、猿島の乗員が丸ごと正気を失っていたとしたら? サボタージュでないにしても、例えば極度の興奮状態で眼に映るもの全てが敵というような状態で、正常な判断力を失っていたとしたら? それなら……問答無用で撃ってきた事も、模擬弾で沈没した事も説明が付く」

 

 これがこの一件に対する、ビッグママの推理だった。

 

「……ありえない」

 

 ましろの反応は、至極真っ当なものだった。百歩譲って仮に猿島艦内がそんな状況だったとして、何が原因でそうなったと言うのだ? 全てが荒唐無稽に過ぎる。

 

「ああ、あたしもそう思うよ」

 

 推理したビッグママ本人もそれは自覚している事だった。苦笑して応じる。

 

「けど、長いことブルーマーメイドやクリムゾンオルカをやってると、あらゆる可能性について考えるのがクセになってしまってね」

 

「そうか……レッスン4ですよね、ママさん!!」

 

「あ……」

 

 明乃がぽんと手を叩いてそう言った。お株を奪われたナインは、少し悔しそうな顔になった。

 

「ミス・ビッグママ……レッスン4……とは?」

 

「先入観を捨てろ。ありえないなんて事はありえない。実戦では何が起こっても不思議じゃない。そして何でも後から意味が付けられる……って事さ」

 



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VOYAGE:04 晴風&クリムゾンオルカVSアドミラルシュペー

 

「……と、いう訳でこちらがママさん。これからママさんのクリムゾンオルカが、晴風を学校まで護衛してくれる事になりました!!」

 

「よろしくお願いするよ、お嬢ちゃん達」

 

 晴風のブリッジへと通されたビッグママは、そこで艦橋要員の面々へと紹介された。身長が197センチあって腰もピンと伸びている彼女は突っ立ったままではクルー全員が首を痛めるほど見上げなければならないので、持ち込んだキャンプチェアに腰掛けている。しかし折りたたみ式の椅子は170キロはあろうかという体重の負荷を受けて、ギシギシと頼りなさそうに軋んでいた。

 

「既にミケから紹介は受けてるよ。タマちゃんにメイちゃんにココちゃんにリンちゃんだね」

 

「よ、よろしくお願いします……」

 

 一人一人、顔と名前を一致させるように順番に視線を移動させながら、柔和な笑みと共に挨拶していくビッグママ。対して明乃とましろ以外の艦橋要員は、相手がならず者のクリムゾンオルカ、しかもその親玉という事で、艦長の知り合いらしいという情報こそあるがどうにも反応がぎこちない。そうしてブリッジの全員への挨拶が終わった所で、彼女は本題を切り出した。

 

「猿島とのランデブーでいきなり砲撃されたって事は既にミケやシロちゃんから聞いたけど……他にも何か気付いた事はないかい? あればあたしに教えておくれ。どんな些細な事でも良いんだ」

 

 明乃やましろから得られた情報と海上安全整備局からの依頼の目的地が西之島新島であった事から考えて、猿島に何かがあった事はまず間違いない。ビッグママは何かしらの原因で乗員全員が正常な状態ではなかったのではないかと推察しているが、今の所全ては推論・仮説。ネズミもどきとの関係も未だ不明瞭。しかも彼女はその時その場にいた訳ではない。故により状況を正しく把握する為に、少しでも多くの情報が必要だった。

 

「気付いた事ねぇ……」

 

 最初に発言したのは芽依であった。

 

「最初は、ただの脅しだと思ったんだよね。もし本当に当てる気なら、猿島なら初弾で決めていた筈だし……」

 

「……そう言えば確かにあの時、猿島は砲の旋回速度も遅かったし、狙いも正確ではなく、連射速度も遅かった……だからこそ、私も最初は遅刻の懲罰を兼ねた抜き打ちの演習だと思ったんですが……」

 

 補足するましろ。ビッグママは腕組みして難しい顔になった。

 

「ふーむ」

 

 分からない事が増えた。

 

 仮に推測通り猿島の乗員が平常な状態でなかったとしてもこの時代の艦艇は高度に自動化されていて、射撃レーダーのオートコントロールは一度目標をロックすればそれがハエであろうと正確に撃ち抜く精度がある。確かに芽依やましろの言う通り、本気で晴風を沈めようとしたのなら初弾を命中させて終わらせていただろう。

 

「……だんだん……」

 

 ぼそりと口にしたのは、砲術委員の立石志摩であった。

 

「一発ごとに、少しずつ砲撃の精度が増してきた? 方向転換しても撃ってきた? まるでアナログで照準を補正しているみたいだねぇ。敢えて射撃管制システムを使っていなかったか、それとも使えなかったのか……」

 

「……話が通じてる」

 

 驚いた様子の芽依を尻目に、ビッグママは今度は首を捻った。

 

 どうにも、分からない事が多すぎる。加えて考察しようにもその例が猿島だけでしかも明乃達から聞く情報しかないから、判断材料にも乏しい。

 

「……あたしもその場に居るか、せめて似たような状態の艦に遭遇できてれば相違点の比較も出来て、確証は兎も角ある程度の確信も得られたのだろうけどね」

 

 残念そうに呟く。今も昔も情報は黄金に勝る宝物。身に染みて理解していた筈だったが、再びそれを思い知らされた気分だった。

 

「もしかしたら猿島がクーデターを起こしたとか……『我々は、ブルーマーメイドの教官艦というちっぽけな存在ではない』」

 

 幸子の一人芝居にましろは「また始まった」という顔になって、対照的にビッグママは眼を輝かせた。

 

「『じゃあ貴様は一体何だ!!』」

 

 芝居が掛かった声と表情とオーバーアクションで応じるビッグママ。明乃やましろには分からなかったが、幸子には通じたらしい。にやっと不敵な笑みを交わし合う。

 

「「『独立国「さるしま」』」」

 

 決まった。

 

 感無量という様子の幸子とご満悦なビッグママはピシガシグッグッとタッチを交わし合った。

 

「若いのにシブいのを読んでるねぇ、ココちゃんだったけ。あたしもあの先生の大ファンでね。それに……今やアメリカでも有色人種の大統領が誕生して、野球でも流石にシーズン中自責点ゼロとは行かないまでも、一度も負けなかった投手がリアルで現れたりしたからねぇ。時代が先生に、ノンフィクションがフィクションに追い付いてきたって感じだよ。ココちゃん、後5年ほどしたら、あんたとは美味い酒が飲めそうだねぇ……カカカ」

 

 ブリッジに何とも言えない弛緩した空気が広がる。クリムゾンオルカの艦長と言うからもっととんでもない妖怪のような人物を想像していたが、これでは孫のごっこ遊びに付き合ってやっている気の良いおばあちゃんそのままだ。これは幸子のファインプレーと言える。艦橋要員の面々は、少しだけビッグママへの警戒心を緩めたようだった。

 

 と、バカ話はそこで切り上げて、ビッグママはスイッチを切り替えたようにキリッとした表情になった。

 

「……話をしてみて晴風の乗員には反乱の意思など無く、また正常な状態である事は分かった……と、すれば猿島の方に何かがあった事は間違いないだろう。具体的にそれが何なのか? どんな原因でそんな事が起こったのか? それはまだ分からないけどね。今の状況ではデータが少なすぎる……まぁ……あたしらの第一任務は晴風とその全乗員を無事に学校へ帰す事。事態の究明はあくまでそれに差し障りが無い前提で行う第二任務。基本方針としては戦闘行為を回避しつつ横須賀へと向かうのが……」

 

 今後の行動方針を説明していくビッグママ。ブリッジに見張員・野間マチコの緊張した声が響いたのは、その時だった。

 

<右60度、距離30000、接近中の艦艇は、アドミラルシュペーです!!>

 

「アドミラルシュペーって……!!」

 

「ドイツからの留学生艦です!!」

 

 ほんの少し前まで艦橋に漂っていたどこかまったりとした雰囲気は、一瞬でぶっ飛んだ。

 

「ふむ、シュペーか……」

 

 よいしょという声が聞こえてきそうな感じで、ビッグママはデカイ尻をキャンプチェアから上げた。

 

「と、とにかく総員配置に付いて!!」

 

<シュペー、主砲旋回しています!!>

 

「日本とドイツは友好国ですから……晴風が反乱したという情報が、シュペーにも流れているのでは……」

 

 と、ましろ。この分析は恐らく正確であろうと、ビッグママも頷いた。懐から取り出したスマートフォンを操作すると、自分のクルーへと繋ぐ。

 

「ロック、シュペーに打電しな!!」

 

<もう入れてるわ、ママ!! 『反乱艦晴風は、既にクリムゾンオルカ旗艦『クリムゾンオルカ』が拿捕し、現在横須賀へと連行中である』ってね>

 

「よし!!」

 

 クルーの素早い対応を受け、満足げに頷くビッグママだが……しかし事態はそうそう期待通りには動かないようだった。

 

<シュペー発砲!!>

 

「「「何!?」」」

 

 晴風を撃とうとするのは反乱艦という情報が入っているからで納得も出来るが、向こうからも浮上して晴風と並んで航行するクリムゾンオルカの艦体は見えている筈だし、この通信が入っているなら撃ってくる理由など無い。

 

 ……と、言うよりも撃ってはならない。

 

 法的に色々グレーな部分はあるが、それでもクリムゾンオルカは日本に所属する艦である。それをドイツの艦が撃ったとなれば、国際問題待ったなしだ。理性か正気か常識か、アドミラルシュペーのクルーがそれらのどれか一つでも持ち合わせていれば、そんな判断には及ばないだろう。

 

 ……逆に言うなら今のシュペーの乗員は……

 

「……まともな状態じゃないって事か……すまないがココちゃん、シュペーに通信を繋げてくれるかい?」

 

「は、はい」

 

 受話器を受け取ったビッグママはすうっと息を吸い込むと、艦橋の全員が耳を塞ぐほどの大声で怒鳴り始めた。

 

「おいテア!! この声が聞こえてるなら返事をしな!! あんた自分が何してるか分かってるのかい!! 晴風はあたしらクリムゾンオルカが拿捕したって言ってンだろ!! ミーナ、あんたもだ!! 同盟国の艦を沈めるつもりかい!!」

 

 返事は、砲弾だった。至近弾で、晴風の左舷10メートルに水柱が上がった。爆圧が伝わってきてビッグママの腹の肉がぶるぶると揺れた。

 

「……全然効果無かったみたいですが」

 

「そうだね、聞こえていない筈はないから……聞く耳持たないって状況なのかね」

 

 80才を越える老人のものとは到底思えない蛮声に頭がキンキンとする感覚を味わいつつ、ジト目を向けるましろ。この視線を受けてビッグママは大して動揺した風ではなかった。最初に撃ってきた時から、返答に応じない事はある程度予想できていた。それでも一縷の望みを懸けての通信だったが、残念な結果に終わってしまった。

 

「ママさん、シュペーの乗員を知ってるんですか?」

 

「ああ、以前にドイツ海軍との演習で仮想敵艦の役をやった事があってね。シュペーのクルーともその時から親交があるのさ……こんな事やらかすような子達じゃない筈なんだが……」

 

 明乃の質問に答えつつも、ビッグママの思考は続いていく。シュペーに何が起こっているかはこの際後回しだ。まずやるべき事は……

 

「ロック、リケ!! お前達は一度離脱しな!! 後で落ち合おう!!」

 

<了解、ママ!! お気を付けて!!>

 

 この指示に従い、クリムゾンオルカは潜航すると海中に姿を隠してしまう。ひとまず艦長としての役目は果たした。次は……

 

「さて、ミケ……次はこの晴風がシュペー相手にどうするかだが……正直、まともにやり合うのはオススメ出来ないよ。砲力・装甲共にあちらが遥かに上。この艦が勝っていると言えば速度ぐらいのもの。通信も手旗信号も向こうは聞く耳持たない……と、すればエンジンを止めて停船しても降伏の意思が伝わらず、射撃訓練の標的艦扱いになる可能性も低くはない。あたしが艦長なら、ここは逃げの一手だがね……」

 

 最後は言葉を濁す。今の自分はあくまでオブザーバー的な立ち位置。決めるのは艦長である明乃だと、ビッグママはそう言っているのだ。

 

「そ、そうですね……面舵一杯、艦回頭180度!!」

 

 明乃の指示に従い、航海長の知床鈴が舵を回す。この動きに連動して晴風の艦体が回頭し、シュペーに背を向けて逃げ出す格好となる。が、やはりと言うべきかシュペーも追ってきた。そうしている間にも砲撃は続いてきている。

 

 これでは、いずれ直撃弾を受ける。機関も現在の第四戦速を、あまり長時間は維持できない。

 

 一時的な時間稼ぎでも良いから何か手を打たねばだが……

 

「何か手は……!!」

 

「……ぐるぐる」

 

 ましろが焦った声を上げたその時、志摩がぼそりと呟いた。

 

「タマちゃん?」

 

「……ぐるぐる」

 

「!! そうか、リンちゃん取り舵一杯!!」

 

「何をするつもりですか!?」

 

「煙の中に逃げ込むの!!」

 

 現在、晴風は砲撃によって損傷を受け、黒煙を噴いている状態。旋回航行する事によってシュペーと角度を付けて、この煙を煙幕として使う狙いだ。

 

「しかし、レーダーを使われたら何の意味も……!!」

 

「いや、行けるかも知れないよ」

 

 ましろの反論も当然である。が、ビッグママの見立てでは目はありそうだった。

 

「今のこの状況……話に聞いていた猿島の時と酷似してないかい?」

 

「……そう言えば……!!」

 

「!! 確かに……猿島の時も打電や手旗信号には反応が無くて……」

 

「それに、砲撃の照準や連射速度も本来のスペックからはほど遠いものしかなかった」

 

「……原因はさておき今のシュペーに猿島と同じ事が起きているとすれば、同じように電子機器や射撃管制システムが機能不全を起こしている可能性は大いに有り得る。やってみる価値はあるだろう」

 

 会話の間にも晴風は動いていて、果たして煙の中へと逃げ込む作戦は図に当たったようだった。砲撃の命中精度が、目に見えて悪くなった。やはりビッグママの分析通り、今のシュペーは何らかの原因で射撃コンピューターやレーダーといった電子機器が使えない、使えたとしても十全の機能を発揮できない状態にあるらしい。

 

 よって射撃は、目視で弾着を補正するアナログ方式となっているのだろう。明乃の指示によって、今の晴風はランダムに速力を増減してジグザグ航行している。これならそうそう当たるものではない。

 

 が、

 

「しかし、今のままではジリ貧だぞ。戦うにせよ逃げるにせよ、何か決定的な一手が無ければ……」

 

「決定打はあるよ」

 

 ましろの懸念に応えたのは、やはりビッグママだった。

 

「もう少しだけ時間を稼げば、クリムゾンオルカから援護が来る筈だ。それでシュペーの動きを止められるか、最悪でも鈍らせられる。その隙を衝いて機関を動かせる限り最大稼働させ、可能な限りシュペーから離れる。これがベストだと思うがね。何とかそれまで持ち堪えれば、目はある」

 

「……分かりました。まりこうじさん、水中の音に注意して!! まろんちゃん、機関はタイミングを見計らって最大戦速を出すから、それまで何とか持たせて!!」

 

<承りましたわ!!>

 

<ムチャ言ってくれるねぇ……だが分かった、ムチャをするぜぃ!! けど長くは持たないから、出来るだけ早く頼むよ!!>

 

 作戦を指示、実行している間にもシュペーからの砲撃は絶え間なく続いている。電子機器が使えない今のシュペーは、射撃の狙いを(恐らくは)目視で付けているから煙の中なら当たる可能性は低い。だがそもそもの砲力が晴風とは桁違いなので、一発でも当たったが最後この艦は轟沈する。

 

 今の状況は命をチップとして一か八かの運試しをしているにも等しい。操舵を行う鈴が涙目になっているのを、誰が責められるだろうか。

 

 何発目かになる砲弾が晴風の左舷後方に水柱を立てた時、マチコから通信が入った。

 

<シュペーから小型艇が向かってきます>

 

 報告を受けて艦橋に居る全員の視線がシュペーの方向へと集中する。この距離では豆粒のようで目を凝らさないと分からないが、確かに小型艇が一隻、蛇行しながらシュペーを離れていっている。するとシュペーの砲が火を噴いて、小型艇のすぐ傍に水柱を立てた。

 

「……味方を撃っている……?」

 

 ましろは何が何やら分からないという様子だ。無理もない。このような状況は、マニュアルやシミュレーションには存在していないだろう。

 

「……すまないがシロちゃん、双眼鏡を貸してもらえるかい?」

 

「は、はい……」

 

 ましろから受け取った双眼鏡を、隻眼で覗き込むビッグママ。僅かな間を置いてその左目が、ぎょぱっと見開かれた。一度双眼鏡から目を放して、そして二度見する。

 

「あれは……ミーナじゃないか」

 

「ミス・ビッグママ……小型艇の乗員をご存じなのですか?」

 

「ああ、あの子はヴィルヘルミーナっていって、シュペーの副長だよ」

 

「では……副長が単身脱出したと? 一体何が何やら……」

 

<小型艇の乗員が、海に落ちました!!>

 

 マチコから、新しい報告が入ってくる。見ると水柱が上がって、小型艇が粉々になっていた。直撃でないにせよ至近弾だったのだろう。シュペーから発射された砲弾はその衝撃だけで、小型艇を笹舟のようにぶっ飛ばしたのだ。

 

 矢継ぎ早に情報が更新されていき、脳内キャパシティはオーバー寸前。ましろは頭を抱えた。予想外の事ばかりが起こり過ぎている。ああツイてない。思えば入学式からこっちずっと不運だった。今までずっと運が悪かったんだから、そろそろ運が向いてきても良いだろうに。泣きたくなってきた。現実逃避したい。

 

「『私、艦長の指示には従えません!! 晴風を攻撃するなんて!!』」

 

 そんなましろの思考が伝播したかのように、幸子の一人芝居が始まった。

 

「『何だとー、艦長に逆らう気か!!』」

 

「「『えーい、こんな船、脱出してやるー!!』」」

 

 悪ノリして芝居に付き合ったビッグママだが、すぐに真顔になった。

 

「……と、冗談はさておきココちゃん、それマジで有り得るよ。この状況では……」

 

 原因はこの際置いておくとして、シュペーの乗員がまともな状態ではない事は確実。もしヴィルヘルミーナだけが正気を保っていたとしたら、艦からの脱出に踏み切るというのは突飛な想像ではない。

 

 彼女を保護できれば、シュペーで何が起こっているかを聞く事が出来る。だがいつ必殺の砲弾が命中するかというこの修羅場からは一刻も早く離れるべき。情報か、艦と乗員の安全の確保か。ビッグママの中で二つが天秤に掛けられて、僅かな時間だけ釣り合った後はすぐに後者へと傾いていく。ミーナとて知己ではあるが、今は晴風乗員の安全を確保する事が優先だ。命の選択がなされようとして……しかしこの時、誰よりも早く動いた者が居た。

 

「シロちゃん、ここをお願い!!」

 

 明乃である。

 

「ココちゃん、甲板に保健委員のみなみさん呼んでおいて!!」

 

「どこへ行く気ですか!! ……まさか」

 

 この状況で外へ行こうとするのだ。やる事は一つしかない。そこに思い至って、ましろは信じられないという表情になった。

 

「何で敵なのに助ける?」

 

「敵じゃないよ」

 

 当然と言えば当然の疑問だが、一方で明乃にとってはそんな事は論じる事それ自体が無意味という風であった。

 

「海の仲間は」

 

「家族……だね? ミケ」

 

 明乃の言葉を、ましろのすぐ後ろに居たビッグママが継いだ。

 

「行くならあたしのスキッパーを使いな。大きいが速度が出るし、頑丈な完全密閉型で短時間・50メートルまでなら潜水が可能で応急処置ができる設備も積んである。ナイン、一緒に行っておやり!!」

 

「はい、ママ!!」

 

「キュウさん、ありがとうございます」

 

「ナイン、お前が操縦して、ミーナを拾ったらミケは応急処置を行うんだ。晴風が離脱した方向は専用回線で送るから、後で落ち合おう!!」

 

「「了解!!」」

 

「あ……」

 

 こうしてましろが止める間も無く、明乃とナインは飛び出して行ってしまった。

 

「……さっきのも、レッスンの一つですか?」

 

 諦めたように、ビッグママへと尋ねるましろ。老練の艦長は微笑して首を横に振った。

 

「海の仲間は家族ってやつかい? いや、あれはあたしのレッスンじゃあない。艦長からの受け売りだよ」

 

「ミス・ビッグママの艦長……って……」

 

「話はここまで。まだ戦闘中だよ。ココちゃん、何分だい?」

 

「は、はい。14時36分です」

 

 愛用のタブレットの時刻表示を確認する幸子であったが、ビッグママは「ああ、ゴメン」と首を振った。

 

「クリムゾンオルカが潜航してからだよ」

 

「えっと……8分と45秒です」

 

「よーし、恐らく後2、3分で援護射撃が来る筈だ。シュペーはその攻撃を回避する為に、一時的に攻撃を中止するかそうでなくても疎かになる。脱出はその瞬間だ」

 

「分かりました。見張員、水面に注目。雷跡を見逃さないように!! 水測も、水中聴音を厳に!! 機関室、いつでも全速が出せるように準備を!!」

 

 日頃からツイてない、運が悪いと嘆いているが、それさえ除けばましろは名門・横須賀女子海洋学校の入学試験で自己採点ながら全問正解できるような才媛である(尚、解答欄はズレる)。ビッグママから得られた情報を元に、きびきび指示を飛ばしていく。それに触発されたように伝声管を通して、各部署から気持ちいい返事が返ってきた。

 

 この間、更に何発か砲弾が近距離に飛んできて艦が左右に振られる。このままでは援護が来るより先にまぐれ当たりが命中して艦が沈むのが早いような気もしたが……しかし今回は、ギリギリで運が残っていたようだ。最初に、楓の声がブリッジに響く。

 

<聞こえましたわ!! 前方2000に魚雷発射音2!!>

 

 続いて、マチコからも報告が来た。

 

<こちらからも確認しました、雷跡2、シュペーへ向かいます!! シュペー、回避運動に入りました。砲撃を中止して面舵を切ります!!>

 

「よしっ、今だ!! 機関室、全速が出せる時間は!?」

 

<3分!! それ以上は保障できねぇ!!>

 

「分かった、では3分突っ走れ!! シュペーから離れられるだけ離れる!! 取舵一杯!!」

 

「取舵いっぱーい!!」

 

 先程までとは別人のようにいきいきしだした鈴の操舵と、後先考えずに出せるだけの出力を絞り出した機関が生み出す推力によって晴風は加速し、この海域を離れていく。

 

「見張員、クリムゾンオルカの魚雷は!?」

 

<シュペーが面舵を取った事により命中コースから外れ……いや、左30度にターン!! 再び命中コースに入ります!! シュペーまでおよそ300!!>

 

「ミス・ビッグママ、命中させるのですか!?」

 

「いや、あれは”猫だまし”さ。距離100で自爆する。爆圧で艦の姿勢を崩すのが狙いだ」

 

<距離200……150……100!!>

 

 この報告と、シュペーの手前の海面が爆ぜたのは同時だった。艦体が、近距離で起こった爆発でぐらりと揺れるのが見えた。これで5分から10分は時間が稼げる。これなら、安全圏まで離脱できるだろう。

 

 まだ完全に安心は出来ないが、修羅場は脱したと見て良い。

 

 ましろはふうっと息を吐くと、指揮権委譲の証として明乃から預かっていた帽子を取った。彼女の額には、じわりと汗が滲んでいた。

 

「艦長から連絡が入りました。小型艇の乗員を無事救助したとの事です!!」

 

「よし、ココちゃん。あたしのスキッパーに返信。合流地点の情報を送っておやり」

 

「分かりました!!」

 

「シロちゃん、良いかい?」

 

「宗谷さんもしくは副長と……何でしょうか? ミス・ビッグママ」

 

 呼び方の訂正を求めたましろだったが、しかし今のビッグママが戦闘中よりも真剣な表情になっているのを見て彼女も態度を改めた。

 

「安全圏に到達してミケと合流したら、全員を会議室に集めておくれ。晴風の全乗員に、話しておきたい事があるからね」

 



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VOYAGE:05 四海を臨む者

 

 シュペーから命からがら逃げ切り、レーダーや水測でも周囲に艦船の存在が確認できなくなった所で、晴風はクリムゾンオルカ及びヴィルヘルミーナを保護してきた明乃と合流した。

 

 その後はビッグママからましろへの要望に従い、晴風の会議室に乗員全員が(医務室でヴィルヘルミーナを看ている保健委員の鏑木美波を除く)集合してミーティングが行われる運びとなった。その間の周囲の警戒は、クリムゾンオルカのクルー達が行っている。

 

「ママさん、これで全員揃いました」

 

 愛用のタブレットで名簿をチェックしていた幸子の報告を受け、明乃に並ぶ形で上座に腰掛けていたビッグママは「うん」と頷く。ちらりと視線を動かすと、どら猫の五十六もちゃっかり机の上で丸まっていた。

 

「艦長、この集まりは一体何の会議なのですか?」

 

 挙手したのは、機関科・機関助手の黒木洋美だった。

 

「それについては、ママさんから説明が。ママさん、どうぞ」

 

 明乃に促され、ビッグママは立ち上がるとまずは全員を見渡して絶妙に間を置く。その上で話し始めた。

 

「既に、あたし達クリムゾンオルカが真雪校長の依頼を受けて、晴風とその生徒達を保護する為にやって来たのは聞いてると思う。で……だ、それとは別にもう一つ校長から依頼された仕事があるんだ」

 

「……西之島新島沖で、猿島が発砲してきた事の原因究明ですね」

 

 ましろの言葉を受け、「そう」とビッグママは首肯する。

 

「それなんだが、既に原因は分かってるんだ」

 

 この言葉は衝撃的だった。ざわっと会議室全体が一気に騒がしくなった。

 

「そ、それってどういう事です?」「やっぱり猿島に何か黒い秘密が!?」「何を掴んだんですか!?」

 

 めいめい勝手に騒ぎ立てるがそこは副長の面目躍如といった所か、ましろがパンパンと手を叩いて場を統制した。

 

「静粛に!! 質問は話を聞いてからだ。ミス・ビッグママ、失礼しました。先をどうぞ」

 

「ありがとうよ、シロちゃん。では話を続けるよ」

 

 そうして手元のパソコンを操作すると、正面のプロジェクターに数枚の写真が大写しになった。どの写真にも、ネズミやハムスターに似た動物が写っている。海上安全整備局からの依頼に伴い、提供された資料だった。

 

「これは……」「……可愛い」「ネズミ?」

 

「静粛に!! ミス・ビッグママ、続きを……」

 

「あぁ。実は少し前に、海上安全整備局からあたし達クリムゾンオルカに依頼があったんだ。このネズミもどきを回収してこいってね」

 

「海上安全整備局が?」「どうしてクリムゾンオルカにそんな仕事が?」

 

「あの、質問です!!」

 

 挙手したのは明乃だった。ビッグママは手を振って、発言を許可する。

 

「ママさん達は、そのお仕事を受けたんですか?」

 

「いや、断ったよ。海上安全整備局からは破格の報酬を払う代わりに「このネズミを回収してこい」の一点張りで事情や依頼するまでの経緯とかは全然教えてくれなかった。あたしらはそういう”一方通行”の依頼は受けない流儀だからね」

 

「……そう、なんですか?」

 

 意外そうに呟いたのは、右舷航海管制員の内田まゆみだった。

 

「あたしらみたいなヤクザ者は、金を受け取ったら何も聞かずにさっさと仕事に移るだけだと思っていたかい?」

 

 にやにや笑いながらそう返されて、まゆみは「いえ、そんなつもりじゃ……」とばつが悪そうになったが、ビッグママはすぐにカラカラと気持ちの良い笑い声を上げた。

 

「良いんだよ、大体合ってるからね。確かにあたしらは公には出来ないような物の輸送や護衛、危険な任務を請け負ったりする。それ自体は承知の上だし危険な目に遭う覚悟もしてるけど……けど、事情も話せないような依頼で捨て駒になってやるつもりは無いんだ。そーいう仕事は往々にして罠の可能性も高いしね」

 

 依頼を受ける時は必ず”相互通行”で行う。それはビッグママ海賊団の流儀であり、最低限の安全を確保する防衛策でもあるのだ。

 

「……本来なら受けた依頼に関わる情報には守秘義務があるんだが……あたしらの流儀を知った上で”一方通行”の依頼を掛けてくるような無礼者はクライアントとして不適格だし、そもそも依頼を引き受けてもいないからね。それに晴風はこの一件の当事者でもある。知っておく必要があると思ったから、こうして話しているんだよ」

 

「成る程……分かりました、ミス・ビッグママ。続きをお願いします」

 

「ああ、それで海上安全整備局からネズミを回収するよう言われた目的地が……西之島新島だったのさ」

 

「!! それは……」「それって、海洋実習の……」「最初の目的地点だよ!!」

 

 途端に、会議室が先程の倍ぐらい騒がしくなった。

 

 晴風のクルー達は中々察しが良いようだった。ビッグママの言わんとする事を、的確に読み取ったのだ。

 

「そう、海上安全整備局があたし等みたいな黒に限りなく近いグレーな連中に依頼してまでネズミもどきを回収しようとした目的地点が西之島新島。今年の横須賀女子海洋学校の訓練航海の目的地も西之島新島沖だった。そしてその西之島新島沖で、猿島が晴風に対して明らかに演習や訓練の域を逸脱した実弾射撃を行った。それだけじゃない、その猿島と同じ状況に、シュペーも陥っているようだった」

 

 順序立てて説明され、クルー達は先程の喧噪から一転、神妙な表情になった。

 

 海上安全整備局が指定した目的地と、訓練航海の目的地が同じだった。その一つだけなら偶然も有り得るだろう。

 

 だがそこで猿島が謎の発砲を行い、状況証拠だけだがシュペーにも同じ事が起こっていた。

 

「あ……そうか。レッスン2ですね、ママさん」

 

「そうだよ、ミケ。二つの偶然はない」

 

 と、部下や生徒に教えているビッグママであるが、実は彼女の経験では本当に二つの偶然が重なっただけで、何かの作為や陰謀があると決めてかかって結果的に取り越し苦労に終わったケースも少ないながらある。レッスン2はあくまで心構えの話。そうやって疑ってかかった方が、慌てる事が無いという話なのだ。

 

 だが今回は二つどころか三つの”偶然”が重なっている。これはもう絶対に”偶然”では有り得ない。

 

「……じゃあ……このネズミが、猿島やシュペーの異常に関わっている、と?」

 

「あたしはそう思ってる」

 

「……でも、ネズミが何をしたら船の乗員がいきなり撃ってくるようになるんですか?」

 

「さあ?」

 

「さあって……」

 

 あっけらかんとしたビッグママの返答に、ましろは拍子抜けしたようになる。てっきりここまで言い切るからには、何もかもお見通しだと思ったのに。

 

「ただ有り得ない話じゃない。例えばこのネズミもどきが興奮作用のあるフェロモンや麻薬成分を分泌しているとか……まぁ、真実は分からない。とにかくコイツもしくはコイツらが原因で猿島やシュペーの乗員がおかしくなった。ついでに艦の計器にも異常が起こっていた。今の所分かる情報はこんな所だね」

 

 物的な証拠は何も無いが、確かに偶然が重なったにしてはタイミングが良すぎる。ビッグママの推理にも一定の説得力はあった。晴風の乗員達も、隣に座った仲間と話したりして意見を交換している。与えられた情報を真剣に分析し、現状を把握しようと努めているのだ。

 

 だが、ここで話し合っていても結論が出る訳もない。議論が行き詰まった所を見計らってビッグママは先程のましろと同じようにぱんぱんと手を気持ちよく打ち鳴らした。

 

「……と、晴風のクルーにあたしらが掴んだ情報を共有してもらおうというのが、今回の議題だった訳さ」

 

「それじゃあママさん、今後の晴風の行動方針は……」

 

「……基本的には、これまでと同じ。戦闘行為を避けて学校へと帰る事。道中、やむを得ず戦闘行為に突入した場合は、あたしらが対応する。晴風は身を守る事を最優先に行動するように。会議を開いたのは今し方言った通り、あんた達は当事者として知っておく必要があると思ったからだよ」

 

「『君達は自分の身を守る事だけ考えていればいい、余計な事はするな』」

 

「『ママさんはやっぱり私達を軽く見てる。私達だって成長してるんだ。敵をやっつける事は出来るんだ』」

 

「「『ああー、ごめんなさい!! 私達は自分で利口ぶっているだけの最低のマヌケだった!!』」」

 

 またしても幸子の妄想が始まって、ビッグママも少女のような裏声でそれに合わせる。最後の声はちゃんとハモっていて、どうやら二人はこれまでの数回で完全に互いの呼吸を掴んだらしい。不敵な笑みを交わし合って、ピシガシグッグッとタッチした。ましろはやれやれと肩を竦め、明乃は「あはは」と苦笑い。芽依と志摩は「面白いおばあちゃんだね」「oui(はい)」といつも通りのやり取りを交わす。

 

 同時に、会議室全体がどっと笑いの渦に包まれた。艦橋での時でもそうだったが、幸子とのやり取りは良い感じに緊張感を取り除く事に成功していた。

 

 こうした一幕を経て会議は終了、クルー達は解散してそれぞれの持ち場に戻る事になった。

 

「ミケ!!」

 

「はい、ママさん」

 

「これから、あんたには少しばかりクリムゾンオルカに移ってもらいたいのだけど。海洋学校に途中経過を報告するのでね。あんたにも晴風の艦長として、立ち合ってもらいたいんだ」

 

「分かりました。じゃあシロちゃん、私が向こうにいる間、晴風の指揮をお願い」

 

「了解しました、艦長」

 

 ましろは明乃から差し出された艦長帽を受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 明乃とビッグママは十年来の付き合いであるが、クリムゾンオルカに通されたのはこれが初めてだった。ビッグママは明乃やもえかにはそのコードネーム同様、母親のように接してはいたが闇の仕事に従事するクリムゾンオルカへは決して巻き込まないようにという姿勢を一貫していたからだ。

 

 この艦のあらゆる機能が集中している発令所は晴風のものと比べてもずっとシンプルで、しかしそれは無骨だとか古臭いといったものではなく、寧ろ機能を洗練し尽くしていった結果、余計な物が削ぎ落とされて必要最低限の計器のみになったという印象を明乃は持った。ビッグママを除けばたった3名のクルーで艦の全機能を統括するのだから、いくらリケやロックが優秀でもここまで自動化が進んでいないと操艦がおぼつかないのだろう。

 

「お久し振りね、ミケちゃん」「大きくなったなぁ」

 

「イワさん、エンさん!! お久し振りです」

 

 ビッグママとナインの二人に連れられてクリムゾンオルカに乗り込んできた明乃が、元気よく挨拶する。イワとエンというのは、それぞれロックとリケのあだ名だ。ロックのコードネームは『Te:Rock』。Rockだから岩、だからイワさん。同じようにリケのコードネームは『サークル・リケ』サークルだから円。だからエンさんなのだ。

 

 ナインこと『スレイヴ9』が席に着き、ビッグママも彼女専用に大きく作られたキャプテンシートにどっかりと腰を下ろした。明乃はそのすぐ傍らに用意されたゲスト用の席に座っていたが、落ち着かなさそうでそわそわと体を動かしていた。

 

「リケ、秘匿回線を横須賀女子海洋学校に繋いでくれ。ユキちゃんにこれまでの調査結果を報告する。同時に、海上安全整備局安全監督室にも連絡を入れな。シモちゃんにもこの話の内容は伝えておきたい。ロック、お前は作成した報告書を二人へ送信してくれ」

 

「「了解、ママ」」

 

 訓練されたクルーが時計の針のように滑らかな動きでキーボードを叩くと、数十秒ほどで回線が繋がって真っ正面の一番大きなモニターとそのすぐ横の二番目に大きなモニターに、海洋学校長の制服を身に着けた妙齢の女性と、ブルーマーメイドの制服を着た女性がそれぞれバストアップで表示される。明乃は、どちらの女性も知っていた。

 

 一人は横須賀女子海洋学校の現校長である宗谷真雪。入学式での挨拶が印象に残っている。

 

 もう一人は海上安全整備局・安全監督室室長の宗谷真霜。彼女は現在、全ブルーマーメイドを統括する立場にあり、ニュースにも度々出ている。

 

<こうして教官から連絡があるという事は……事態に何かしらの進展があったと思って良いのですよね?>

 

<おばさま、ご無沙汰しております。母が晴風や猿島の調査を依頼した件は聞いています>

 

 ゲストシートに座る明乃は、驚いた顔ですぐ隣のビッグママを見た。真雪はかつてブルーマーメイドの総旗艦である『大和』の艦長を務めたほどの大物で、真霜は現役のブルーマーメイドのリーダーである。まだ学生である彼女にとってはどちらも遥かな雲上人なのだ。

 

 その雲上人二人から、ビッグママは明らかに敬意を払って接されている。確かに70年近く船に乗っていて、ブルーマーメイドの初代艦長のクルーだったと言うから百戦錬磨という言葉も霞むほどのとんでもない大ベテランには違いないが、それだけとも思えない。まだまだビッグママには自分の知らない秘密がありそうだと、明乃は直感した。

 

「ああ、分かった事もあったし、ひとまずこれまでの経過を報告しようと思ってね。それとこの報告にはこの子にも立ち合ってもらうことにしたよ」

 

「は、晴風艦長の、岬明乃です!!」

 

 校長とブルーマーメイドのトップが相手とあって、緊張した様子で起立した明乃が敬礼する。動きはどこかぎこちなくて、声も上擦っていた。

 

<……無事で良かった。岬さん、まずはリラックスして……落ち着いて、その上で話を聞かせてもらいます>

 

「は、はい」

 

 明乃が着席した所で、ビッグママは体を揺すって姿勢を整えると話し始めた。

 

「まずは結論から話すけど……晴風が反乱したというのは絶対に何かの間違いだ。あたしも直に会って色々と話してみたが、艦長以下乗員全員に反乱の意思など無い事がはっきり分かった」

 

 この報告を受け、真雪と真霜は目に見えて安堵した様子だった。特に真雪は校長として生徒達を信じてはいるが、やはり一抹の不安はあったのだろう。それが取り除かれたことでほっとしたようだった。

 

「で……だ、詳細は送信した報告書を読んでおくれ」

 

 モニターの中で、真雪と真霜がそれぞれ視線を動かす。二人はどちらも自分のオフィスに居る筈だから、メールに添付されていた中間報告書に目を通しているのだろう。

 

 そうして数十秒ほどの間を置いて、モニターの中の真雪がビッグママと明乃に向き直った。

 

<では教官……この、ネズミのような動物が一連の騒動の元凶だと?>

 

「あたしはそう確信している。報告書に書いた通り物的証拠などは何も無く、状況からの推測だけだがね。そして間違いなく、海上安全整備局の一部が関わっている……」

 

 ここでビッグママは一度言葉を切り、少し体を乗り出す姿勢になった。

 

「ユキちゃん、一つ聞きたいのだけど……この航海実習に関連する事で、海上安全整備局から何か言ってきたりしなかったかい? 例えば適当な理由を付けて、自分達の息の掛かった人間を猿島に乗船させてほしいとか、西之島新島沖まで道中の護衛を頼みたいとか……」

 

<……!! それなら、あります。ちょうど訓練航海の前日に……西之島新島沖で海洋生物の研究をしたいので研究員を猿島に同乗させてほしいと……>

 

<母さんは、それを認めたの?>

 

<ええ、急な話だったけど提出された書類は正式な物だったし、断る理由も無かったから……>

 

「ふーむ」

 

 ビッグママは消えかけたあごに手をやって唸り声を一つ上げると、尋ねる。

 

「ユキちゃん、その申し出があったのはいつだい?」

 

<3月31日の……13時頃です>

 

「あたし達に依頼があった、ちょうど次の日か……」

 

<母さん、おばさま。それなら解けますよ。恐らく時系列はこうです>

 

 

 

 ① 西之島新島で、ネズミもどきが発見される。

 

 ② 海上安全整備局はなるべく事を秘密裏に済ませたいので、自分達の関係者を動かしたくない。そこでビッグママ海賊団に依頼が入る。

 

 ③ ビッグママは依頼を拒否する。

 

 ④ 仕方がないので海上安全整備局が自分達のスタッフを動かす。スタッフは猿島に同乗し、西之島新島へ。

 

 ⑤ 到着したスタッフはネズミもどきを回収しようとする。だがそこで何かのトラブルが発生し、猿島及びその乗員に異常が発生する。

 

 ⑥ 異常な状態の猿島が、晴風に発砲する。

 

 

 

「ああ……多分、シモちゃんの考えている通りで間違いないだろうね。しかし恐ろしい事は別にあるよ」

 

 そう言うビッグママの顔は、真剣そのものだった。隣に座る明乃は、思わずごくっと喉を鳴らした。

 

「ママさん、恐ろしい事って……?」

 

<ドイツのアドミラルシュペーに猿島と同じ異常が発生していた事ですね>

 

「そう……シュペーは西之島新島へは近付いていないにも関わらず、だ」

 

 写真で見る限り、ネズミとハムスターの合いの子のようなこの動物はとても島から島までの距離を泳ぎ切れるような体の構造はしていない。なのに遠く離れた海域を航行していたシュペーは、問答無用の攻撃や電子機器の異常など猿島と同じ状態にあるようだった。

 

 つまり……

 

<……何らかの手段で、この生物が海に出ている?>

 

 ビッグママの言わんとしている事、危惧している内容を読み取った真霜の顔は、心なしか蒼くなっていた。

 

「勿論、こんなネズミみたいなのが長距離を泳げる訳もないし泳げたとしてもサメのエサになるだけだろうから、生身って訳じゃないんだろう。そうだね……多分、防水性のケージみたいなのに入れられて、漂流している所をシュペーが拾ったんじゃないかね? それでシュペーの艦内にネズミの被害が広がったんだと思う」

 

 ここまで言うと、事の重大さが明乃にも伝わった。

 

「ま、待ってくださいママさん……それじゃあ……」

 

<あなたの考えている通りですよ、岬さん。このネズミが全部で何匹居るかは計り知れませんが、海に出たもしくは出されたのがたった一匹だけと考えるのは現実的ではありません。むしろ、何匹か何十匹かが一斉に放流されていて、その内の一匹がシュペーに拾われたと考えるのが自然……!!>

 

<……つまりこの先、どの船や海上都市にでも猿島やシュペーと同じ事態が発生する危険があるという事ね>

 

「そんな……!! じゃあ、どうすれば……!!」

 

 悲痛な声を上げる明乃だったが、ビッグママがぽんとその肩に手を置いた。それだけで明乃は、根拠は何も無いが凄く安心できる気分になった。

 

「だから、ユキちゃんとシモちゃんに連絡したんだよ。この通信は任務の中間報告でもあるが、同時にブルーマーメイドに協力を要請する為のものでもあるんだ。この事態は既に、クリムゾンオルカだけで収束させる事は不可能だ」

 

 クリムゾンオルカがブルーマーメイドに秀でる点は、国に帰属しつつも半民間的な立場であるが故のフットワークの軽さ、即応性だ。何か事故や事件が起こってからでないと動けないブルーマーメイドと違って、究極的には艦長の一存でどこへでも自由に移動できるクリムゾンオルカは隠密行動や迅速さを求められる任務には非常に適している。

 

 逆に組織の規模や動かせる人員の数に於いてはそもそも勝負にすらなりはしない。クリムゾンオルカ制度が全盛の頃ですら、構成員はブルーマーメイドの十分の一にも満たなかった。ましてや現在、クリムゾンオルカの資格を持つのはビッグママ海賊団の一団体4名一隻のみ。今回のように広範囲を同時にカバーする任務は物理的に遂行が不可能なのだ。

 

<……分かりました、教官。では、具体的にどう動くべきでしょうか?>

 

「……まず海上安全整備局に探りを入れる必要があるね。ネズミもどきが単に自然発生した危険生物というだけなら、クリムゾンオルカに依頼する必要は無い。自分達のスタッフを動かすだけで十分だった筈だ。なのに高い金払ってあたしらを雇おうとしたって事は、公にしたくない”裏”があるって事だからね」

 

「ママさん、その裏って……」

 

「……このネズミは自然に生まれた生き物じゃなくて、品種改良や人工交配、遺伝子操作などで人為的に生み出された生き物の可能性があるって事。それの糸を引いていたのが海上安全整備局だとすれば……彼等がこのネズミの事を知っていたのにも説明が付く。だからそこを調べれば、このネズミがどういう原理で人を異常な状態にするのか、機械を狂わせるのか? そのカラクリが分かるかも知れない。あわよくばその解決方法も見付かるかも」

 

<では、その役目は私に任せて下さい。今の私なら、色々と顔が利きますからね>

 

 サブモニターの中の真霜が、自信に満ちた笑みを見せた。

 

「次にユキちゃん、あんたは西之島新島を中心とした海流の動きや速さを計算して、そこから出た漂流物が流れ着く可能性のある島・海上都市・沿岸およびその周辺の海域を通過するあらゆる船舶に通達するんだ。『このネズミに似た生き物は危険な病原菌を持っていますから、見付けた場合は絶対に触らずに、ブルーマーメイドに連絡を入れて下さい』ってね」

 

<分かりました>

 

「……それとユキちゃん、これはあたしの予想だがね。多分この先、ネズミの被害に遭うのは猿島やシュペーだけでは済まないだろう。学生艦・教官艦の区別無く、相当数の艦艇が命令に無い行動を取って、所在不明になると思うよ。このネズミは、結構な数が居るだろうからね……」

 

<……ぞっとしますね>

 

「違う」

 

<ハ?>

 

 ビッグママの顔は先程よりもずっと険しくて、切り株のような顔に年輪が増えていく。

 

「こんなのはまだ序の口さ。寧ろ今の段階だからこそ、被害がこの程度で済んでいると見るべきだろう」

 

<……それは、どういう意味ですか? おばさま>

 

「確かにネズミもどきはそれなりの数が居るとは予想できるが……逆に千や万といったとんでもない数は居ない筈だ」

 

<何故そう言いきれるのですか、教官?>

 

「仮にそれほど居るとしたら、海上安全整備局はもっと大規模なチームを動かして捕獲もしくは駆除に当たるだろう。でも実際には猿島に研究員が同乗する程度の規模の人員しか動かさなかった……だろ? ユキちゃん」

 

<そうです。総勢6名の……研究チームとの事でした……書類の上ではね>

 

 実際には最初からネズミを回収するつもりの、対バイオハザードチームだったのだろう。

 

「連中は秘密裏に事を済ませたかった筈だから、その人数で全てのネズミを回収する心算だったんだろ。つまり、十名足らずの人員で回収仕切れる数しか居ないって事だ……まだ、ね」

 

<……まだ?>

 

<!! おばさま、それって……!!>

 

「マ、ママさん……まさか……!!」

 

 奥歯に物が挟まったような言い方だったが、しかしビッグママの言いたい事は確かに伝わっていたようだ。真雪、真霜、明乃の顔色が蒼白へと変化した。

 

「……ネズミもどきが何故人間や機械を狂わせるのか? 何かのウィルスかフェロモンなのか……それは謎だが……こいつらは数十から百程度の数しか居ないから、今はまだこの程度の被害で治まっているんだ。だがこの先もそうとは限らない……!!」

 

<……子ネズミを生む、という事ですか……!!>

 

 その意味する所を理解して、真雪は祈るように両手を固く握りしめた。

 

「こいつらが流れ着いた船や沿岸都市から本土に上陸して、日本中に縄張りを移されたらもう何もかもが手遅れだ。今は現場が海上だから暴走するのは影響を受けた船員及びその人間が乗っている艦船に留まってるけど……それが日本中の人間になったら? そしてその手に刃物が握られていたとしたら……どうなる?」

 

<<…………!!>>

 

 地獄絵図としか形容の出来ない光景が脳裏に浮かんで、真雪と真霜が息を呑むのがモニター越しの明乃にもはっきり分かった。

 

「ネズミの妊娠期間は種によってある程度の違いはあるが、大体が二週間から二十日といった所。よって誤差を含めて考えれば、デッドラインはおよそ十日。それまでに何としてもこのネズミの謎を解き明かし、抗体なりワクチンなりの対策を用意しない限り、日本……いや世界が終わる。知っての通り今やこの国は世界中のあらゆる国家に所属する船が訪れる海運大国だからね。汚染が他国に広がったら、歯止めが利かなくなる」

 

<十日間……!!>

 

 想像以上に事態は深刻でありそして切迫している事が分かって、真雪の表情も娘である真霜が見た事もないぐらい険しいものになった。

 

<分かりました、おばさま。時間は物凄く少ないんですね。早速調査を始めます!!>

 

<私も各方面に連絡と、海上安全整備局の説得を行います>

 

 モニターの向こうで、真雪と真霜が立ち上がった。そしてクリムゾンオルカの発令所でも、起立した者が一人。

 

「あの!! 私達にも手伝わせて下さい!!」

 

<岬さん……>「ミケ……」

 

<無理よ、気持ちは分かるけど、あなた達はまだ学生なのよ?>

 

 真霜の意見は大人としては、至極真っ当なものだ。同じ気持ちは、真雪やビッグママも持っている。だが今の状況は、猫の手も借りたい非常時である事も確かだ。

 

「ミケ、あんた達を衛るのが、ユキちゃんから受けたあたしらの任務だ」

 

「でも、ママさん……!!」

 

 だが、ビッグママの言葉には続きがあった。

 

「だから、あんた達はあたしらが絶対に衛る。その上で、あたしらの仕事に協力してもらいたい」

 

<おばさま!!>

 

<待ちなさい、真霜……教官、あなたは晴風を、それを動かす生徒達をどう見ますか?>

 

 真雪の問いは、どこか試すような響きがあった。それを受けてビッグママはニンマリと、不敵に笑った。

 

「メイちゃんは晴風は新入生の中でも最底辺が集められた落ちこぼれ……なんて言っていったけど、とんでもないねぇ。あたしが見た限りお世辞抜きにみんなとても優秀だよ。ここには尖った才能を持った子を集めたんじゃないかね? 野球で例えるなら、打てない・守備がザル・足が遅い・肩が弱い・リードがヘタクソでも、150キロのナックルボールを捕球できるキャッチャーが居たらそれは間違いなく天才だ。そんなタイプの子ばっかり集めた特殊枠なんだろ? え?」

 

<…………>

 

 意地悪そうで楽しげな顔をしたビッグママのこの問いに、真雪は答えなかった。代わりに、迷いを振り切った顔になって明乃に向かい合う。

 

<岬さん、後ほど、晴風の被害状況を報告して下さい、明石・間宮を動かして補給を取り付けます。あなたは乗員の皆とよく相談して、それで同意が得られたのなら教官の指示に従って、この事件の解決に協力するように。ただしあなた達はあくまで学生、艦と乗員の安全を最優先にする事。良いわね?>

 

「はい!!」

 

 気持ちの良い返事と共に、敬礼を返す明乃。ほんの十数分前のものよりずっと様になっているように、真雪には見えた。

 

「海の仲間はみんな家族、だからね……家族は必ず衛るさ。どんな事があっても」

 

「ママさん……!!」

 

 明乃は思わず、涙がこぼれそうになった。

 

「ミケ、そしてユキちゃん、シモちゃんも。よく聞きな。この言葉はあたしの艦長からの受け売りだが……あたしはもう一つ、この言葉について別の解釈をしている」

 

<……聞かせて下さい、おばさま>

 

「どんな陸地も、四海に囲まれている。だから海の仲間を家族と想い、衛る事は同時に……陸に生きる人達みんなを友として慈しみ、衛る事なんだってね……」

 

<<…………>>

 

「…………」

 

「ミケ、ユキちゃん、シモちゃん。あんた達はブルーマーメイドやその候補生で、あたしはそこから袂を分かってクリムゾンオルカになった人間だ。船を戦いに使わないという、その禁を破ってね……だが人魚だろうがシャチだろうが、公務員だろうが海賊だろうが、深い所で共通するものをあたし達は持っている筈だ」

 

<……ご教授下さい、教官>

 

 真雪の要望を受け、ビッグママは真剣な顔で頷くと、真霜と明乃をそれぞれ見てから、言葉を続けた。

 

「それはあたし達は皆船乗り……四海を臨む者であるという事。静かで平和な海の為に、力を合わせようじゃないか」

 

 海洋学校校長と、ブルーマーメイドのリーダーと、学生艦の艦長。3名の顔がそれぞれ我が意を得たりとばかりに輝いた。

 

「はい、ママさん!! 私、精一杯協力します!!」

 

<私もです、おばさま。早速調査に当たります!!>

 

<……あなた以上に頼りになる人を、私は知りません。晴風の事、よろしくお願いします。教官……いえ……>

 

 真雪は一度言葉を切って、畏敬の念と共に言い直す。

 

<元ブルーマーメイド艦隊総司令、潮崎四海(しおざきよつみ)特等監察官……!!>

 



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VOYAGE:06 晴風の針路

 

「校長、海上安全整備局から通達が」

 

「読んで」

 

「はい、今回の晴風及び貴校所属艦が統制を離れ逃亡した一件、速やかに学内で処理できない場合は大規模反乱行為と認定する。その際、貴校所属艦は拿捕、それが出来ない場合は撃沈する……との事です」

 

 横須賀女子海洋学校の会議室、その上座に座る真雪は肘掛けをぎりっと握り締めつつ、椅子を回転させて背後に表示された大型モニターに向き直った。

 

 壁一面に埋め込まれた画面に映し出された海図には、学校に所属する艦艇の位置が表示されている。その中で正確な位置が把握できているブルーの輝点は半分ほどで、もう半分の輝点は赤く光って「LOST」と表示されていた。最初に反乱逃亡を行ったとされる「晴風」を初め、「武蔵」「五十鈴」「磯風」「比叡」「涼月」……これらの艦艇は晴風と同じでビーコンや位置情報を切ってしまっていて正確な位置が掴めず、表示されているのは最後に確認された位置だ。

 

 晴風一隻でも学生の反乱など信じられない所に、これほどの数の艦が行方不明になるなど前代未聞、横須賀女子海洋学校開校以来……どころかブルーマーメイドの歴史が始まって以来のとんでもない異常事態だ。

 

 だが……真雪は思ったより落ち着いている自分を自覚していた。

 

『ここまで全て……あなたの予想通りになりましたね、教官……』

 

 脳裏によぎるのは、ほんの二時間前に秘匿回線で交わしていた会話だ。

 

 

 

<ユキちゃん……何回でも言うけど、海上安全整備局が黒幕、ネズミが猿島やシュペーの暴走に絡んでいる。これらはあくまで状況から導き出したあたしの推理だ。勿論あたしは確信を持っているが、証拠は何一つ無い。だから真実は全く別物かも知れない。でも……もしも全てがあたしの考えている通りだとしたら、次に何が起こるかは予想できるよ>

 

「……教官は……何が、起きるとお考えですか?」

 

 モニターの向こうのビッグママは少し言い淀んで、居心地悪そうに隣の明乃をちらっと振り返った。

 

 これは何か言い辛い事があるのだろうと明乃は読み取ったらしい。「大丈夫ですよ、ママさん」と促した。

 

<もし……あたしの推理通りなら、そろそろ海上安全整備局が次の動きを見せる筈だ。晴風は当然猿島を撃沈した反乱艦として、他に学校の統制を離れた艦が出ていたらそれも晴風に同調した反乱分子として、全艦を武装解除もしくは拿捕……それが出来ないなら撃沈もやむなしってね……>

 

<そんな……!!>

 

<……おばさま、いくら何でも考えすぎでは? 確かに猿島が沈没して古庄教官から晴風が反乱したと連絡があったのは事実ですが……今はまだ事実関係を調査している段階です。拿捕や武装解除は兎も角、撃沈許可なんて性急な行動に及ぶとは……>

 

「待って、真霜…………教官、あなたは何故海上安全整備局がそのような強行に及ぶと思われるのですか?」

 

 この問いに、ビッグママは<あくまであたしの推理が全て正しいという前提の上での話だが>と再三前置きして話し始めた。

 

<猿島やシュペーの暴走の原因はネズミで、そのネズミを生み出したのは海上安全整備局、そして彼等は高い金払ってあたしらに依頼してまでこの事を公にはしたくなかった……つまりネズミは、そこまでして海上安全整備局が隠したがっている暗部の、物的証拠になり得る。外に漏れては困る訳だ。”一方通行お断り”のあたしらにそれを承知の上で事情を話さなかったのも、その為だろう……ここまで言えば、あんた達なら分かるんじゃあないかい?>

 

 ビッグママの言わんとしている事を理解した真雪は、十分前にネズミが本土で繁殖した場合のシミュレーションを脳内で行った時と同じぐらいか、それ以上のどす黒い気分を味わう事になった。噛み締めた歯がギ……と軋む。

 

「……晴風は事の真相を、その一部でも掴んでいる可能性がある……制御を離れた艦にはネズミが入り込んでいる可能性が高い……だからそれらの艦を先手を打って拿捕し、艦内のネズミを捕獲もしくは回収する。それが無理なら艦・乗員と共に全ての証拠を海に沈める……と?」

 

<そんな……いくら何でもそこまでやるでしょうか?>

 

<やらないと思うかい? 上の連中の頭の中にあるのは国民や生徒の安全なんかじゃあなく、保身と自分達の責任逃れだけさ。それはいの一番にあたしらみたいなヤクザ連中に依頼してきて、事実を隠蔽しようとした時点で証明されているだろ? 少なくとも「やる」と考えて対策を練っておくべきだ>

 

「確かに……」

 

 真雪は頷いた。実際にどうなるかはさておき、最悪の事態は想定しておくべきだろう。

 

「分かりました。では私はこれから国交省に働きかけて可能な限り時間を稼ぎます」

 

<その間に私がネズミについての情報を収集する訳ですね>

 

 と、真霜。ビッグママも自分の意図が完全に伝わったのが分かって「うむ」と頷いた。

 

<晴風の事は、あたしに任せときな。生徒達は必ず全員無事で、陸に帰すよ>

 

 

 

 

 

 

 

 晴風の艦橋では艦橋要員の他、機関科から柳原麻侖、主計科から等松美海が代表として集まっていた。そこには当然、ビッグママの姿もある。

 

「……と、状況の説明は以上になるよ。晴風を護衛するという任務はこのまま継続するが……その上で、晴風にあたしらへの協力を頼みたい」

 

 ビッグママの口から語られた内容は、にわかには信じられないものだった。集まったクルー達の顔も半信半疑といった感じで、狐につままれたといった感じだ。

 

「ほ……本当に私達、そんな陰謀に巻き込まれてたんですか?」

 

 幸子も流石にこの状況では、一人芝居に興じる余裕は無かった。今のこの状況は爆弾テロが失敗したから諦め半分でサンドイッチを食べていたらたまたま標的が通り掛かって暗殺が成功するとか、弾丸が有り得ないような軌道を描いて大統領の狙撃が成功するレベルでノンフィクションがフィクションを追い越してしまっている。事実は小説よりも奇なりとは、良く言ったものだ。

 

「しつこいが、これは推理だ。証拠は何も無い。だがこれまでに起こった出来事とあたしらが持っている情報を繋ぎ合わせるとその可能性が高いんだよ」

 

 キャンプチェアに腰掛けたビッグママは腕組みしてううむと唸った。

 

「む、無理ですよぅ……私達は学生で、そんな事……」

 

 涙目になって訴えるのは、操舵中の鈴であった。彼女の意見も尤もではある。

 

 只でさえ殆ど濡れ衣を着せられたに等しい反乱艦扱いで精神的に参っていたのだ。そこへ校長の依頼を受けたクリムゾンオルカが護衛にやってきてくれて一安心といった所で、今度は国とか世界とかスケールが大きすぎて実感が湧かないような事件に巻き込まれていると言われて、更にはその解決の手伝いを求められているのだ。拒否したいと思うのが当たり前だろう。

 

 ビッグママもそれは分かっていたので、怒ったり声を荒げたりはせず静かに頷いた。

 

「ああ、あたしも無理を言っているのは百も承知だ。だから断ってくれても構わない。無論、その場合も晴風護衛の任務は引き続き行わせてもらうよ」

 

「……艦長は、どうされたいのですか?」

 

 ましろが尋ねる。この問いを受けて明乃は少し言葉に詰まった。クリムゾンオルカの発令所では一も二もなく協力を申し出たが、あれは岬明乃という一個人としての話。ここでの彼女は晴風の艦長としての立場があり、艦と乗員の安全について責任ある身。軽々な発言は憚られた。

 

「私は……協力したい、と思ってる。これは沢山の人の安全に関わる事だから……」

 

 方針を述べはするが、語気も弱くなっている。

 

「……確かに、証拠が無いにせよミス・ビッグママの推理は筋が通っていますし、これは人道問題でもあります。私も協力する事にやぶさかではありません」

 

「じゃあ、シロちゃん……!!」

 

 顔を輝かせる明乃であったが、「しかし!!」とましろが一声強く言った。

 

「今の晴風は主砲やレーダーも損傷し、機関も十分な速度が出せる状態にはありません。まずは明石・間宮と合流して艦の修理と補給を行うのが先決かと」

 

「あたしも副長の意見に賛成でぃ。シュペーから逃げる時に機関を一杯に回したから、総点検が必要になってる。協力するにせよ断るにせよ、艦を万全の状態に持ってくのが第一だろ」

 

 と、麻侖。

 

「私も同意見です。まず晴風が完全な状態になってから、もう一度全員を集めて相談した方が良いかと」

 

 これは幸子の意見だ。

 

「そう、だね。確かにまずは体勢を整える必要がある、ね……」

 

 色々思う所があるようで明乃は歯切れが悪いが、しかし理性の部分でましろ達の意見が正しい事を理解している。彼女もましろの意見に賛成票を投じる事になった。

 

 このやり取りを少し遠巻きに見ていたビッグママは「まぁこんな所か」と頷きを一つ。

 

 彼女としても手放しで協力が得られるとは思っていなかった。寧ろそんな事態になったら、晴風のクルーは現実が見えていないという事になってかえって不安になりそうだった。学生である彼女達が初航海からこんな荒事に巻き込まれるのは、イレギュラー中のイレギュラーなのだ。鈴のような反応こそ自然だし、寧ろ艦が万全な状態になれば協力を前向きに検討するというましろの姿勢だけでも喜んで受け入れるべきなのだ。

 

「しかし、ママさん。協力するのは良いけどあたし達で役に立てるかな?」

 

 尋ねたのは芽依だった。

 

「と、言うと? メイちゃん」

 

「いやだって、晴風は新入生の中でも最底辺の成績の生徒が集められた艦だし……そんな私達だと、かえって足手纏いになるだけなんじゃ……」

 

「そうは思わないね。あんた達は自分で思っているよりもずっと優秀だよ。それはこのあたしが保証するさ」

 

「保証……って」

 

「言っておくが、これは気休めとか激励の類の話じゃない。確かな根拠があって言っている事だよ。例えば水測の子……楓ちゃんだったね。あの子はとても良い耳を持ってる」

 

「そう……なんですか? まりこうじさんが?」

 

 明乃の問いに、「ああ」とビッグママは深く頷いた。

 

「最初に晴風と接触する直前、あの子は何か、海中で妙な音がするとか言わなかったかい?」

 

「あ、はい。それなら確かにそう言ってましたが……」

 

 その後、水中聴音の為に艦の速度を落としたが、結局何の音かはっきりさせる事は出来ず、そのすぐ後に撃沈と同義の探信音を受ける事になってしまった。

 

「音を捉えられなかったのは恥じゃあないよ」

 

 ビッグママはそう言って、指を三つ立てた。

 

「あたしらの艦、クリムゾンオルカは伊201をベースとして改造を施した艦だけど、単純に可潜深度や速力を高めただけじゃない、他のどんな艦にも搭載されていない三つの特殊兵装を積んでるんだ」

 

「……三つの特殊兵装?」

 

「そう、『パウラ』『レッドオクトーバー』『ダンス・ウィズ・ハングリーウルブズ・インザシー』の三つ。その内の一つ『レッドオクトーバー』は詳細は省くけど、これまでの常識を覆す静粛性を持った水中航行を可能とするシステムなんだ」

 

「……だから、あの距離まで水測が気付かなかったのか……」

 

 と、ましろ。あの時、何故1500もの近距離に接近されるまで水測がクリムゾンオルカの存在に気付かなかったか不思議だったが……そんなものを積んでいたとしたならそれも合点が行く。

 

「本職のブルーマーメイドでも、レッドオクトーバーの『音の無い音』を聞き分けられる耳を持った子はざらには居ない。しかもそれは、艦が完全に停止していた場合の話。例え微速であろうとエンジンが動いている状態で聞き分けられるのは5人いるかどうかって所だろう。それを「妙だな」と感付けただけでも大したものだよ」

 

「はぁ……万里小路の奴は凄いんだなぁ……」

 

「凄いのはあんた達もだよ、マロンちゃん」

 

「あ、あたし達?」

 

 この褒め言葉は予想外だったのか、麻侖は素っ頓狂な声を上げた。

 

「そうさ、あんたの他、この船の機関科の子達は皆良い腕をしてる」

 

「そ、そんなお世辞は要らねぇよ……大体あんたは機関室には入ってもいないのに……」

 

 麻侖の言葉から感じられる感情は嬉しさ半分、穏やかな怒りが半分といった所だ。褒められて悪い気はしないが、おべっかを使われるのは江戸っ子気質な彼女としては、尻の据わりが悪いのだろう。

 

「……あたしはかれこれ70年近く海で生活して、色んな船に乗ってきた。だからエンジンの音を聞けば、整備の善し悪しは分かる。いい音させてるよ、この晴風は」

 

「……わ、分かってるじゃねぇかぃ……」

 

 麻侖は顔を赤くして、ぽりぽりと頭を掻く。今度は嬉しさと照れくささによるものだ。

 

「……まぁ、そういう事さ。この船の子達は皆とても良い才能を持っている。猫の手も借りたいということわざがあって、実際に今はそういう状況だが……しかしあたしが晴風に望むのは猫の手じゃない。あんた達の才能と能力を評価した上で、その力を貸して欲しいと思っている。無理を言っているのは自覚しているし、学生でしかないあんた達にこんな事を頼むのは筋違いなのも百も承知だ。だが、それでも敢えて頼む……この戦いに、力を貸してはくれないかね」

 

「クリムゾンオルカの戦いですか?」

 

 まゆみの問いに、ビッグママは首を横に振る。

 

「あたし達だけの戦いじゃない。日本だけの戦いでもない。これは海と、陸に生きる全ての人の未来を懸けた戦いなんだ。だからあたし達は、何としても勝たねばならない。助けが欲しいんだ」

 

「「「…………」」」

 

 艦橋に集まったクルー達は、どう返事したものか言葉に詰まってそれぞれ顔を見合わせたり俯いたりした。

 

「どうか……お願いする!!」

 

 立ち上がったビッグママは、姿勢を正すと深々と頭を下げた。ざわっと、艦橋がどよめく。

 

 確かにこの状況はビッグママが晴風にお願いしている立場ではあるが……5倍以上も年上の相手に頭を下げられると、受けるかどうかの迷いよりも驚きの方が先立つというもの。明乃がいち早く我に返って「マ、ママさん……頭を上げて下さい」と肩を掴んだ。

 

「……と、兎に角……ひとまずは明石・間宮との合流を目指す……その間に各科のメンバーにも話を通して、乗員の総意を確認する。そうして補給と修理が完了した後にもう一度乗員全員で相談して結論を出す……今の所は、それで良いんじゃないでしょうか、艦長」

 

「そうだね、シロちゃん。ママさんも、それで良いですか?」

 

「ああ、十分だよ。ここまで言っておいてなんだが、あたしは無理強いするつもりはない。皆とよく相談して……」

 

 顔を上げたビッグママが言い掛けた、その時だった。艦橋に、通信が入った事を知らせるベルが鳴った。

 

「!! 非常通信回線!!」

 

 一番近くに立っていた明乃が、受話器を取った。

 

「音声をスピーカーに!!」

 

「は、はい!!」

 

 ビッグママの指示を受けた幸子が素早く機器を操作して、通信がブリッジの全員に聞こえるようにする。

 

<こちら武蔵、こちら武蔵……非常事態発生……!!>

 

「!! この声は……!!」

 

「もかちゃん!? あたし明乃!! どうかした!? 何があったの!?」

 

 武蔵からの通信という事でブリッジの全員に緊張が走るが、特に幼馴染みの明乃と幼い頃から面倒を見てきたビッグママはそれが顕著だった。

 

<本艦の現在位置は……至急救援を……至急救援を……!!>

 

 そこまで言った所で、耳障りなノイズと共に通信が切れた。艦橋に、先程とはちがったざわめきが走る。電波状態が良くないのか雑音混じりであったが、もえかの声は明らかに動揺していて、震えていた。非常事態と言っていたが、本当に尋常ではない事態が起こったのだとこの場の全員にすぐ伝わった。

 

 だが、一大事はこれだけでは留まらなかった。

 

<艦長、大変です!!>

 

 伝声管を通して、先程のもえか程ではないにせよ慌てて早口な声が聞こえてくる。電信員の八木鶫だ。

 

<海上安全委員会の広域通信を傍受しました!! 艦橋にプリントアウトして送ります!!>

 

 十秒ほどの間を置いて、電文の内容が記された紙が送られてきた。明乃がそれを受け取って、左隣にましろが、右隣にビッグママが立って内容を覗き込む形になる。

 

「現在、横須賀女子海洋学校の艦艇が逸脱行為をしており、同校全ての艦の寄港を一切認めないものとする。また、以下の艦は抵抗するようなら撃沈しても構わない……」

 

 その後は、「五十鈴」「磯風」「比叡」と艦艇の名前がずらずらと並べられており。一番上には「航洋艦・晴風」と記されていた。

 

 がちん、と金属音が鳴る。ビッグママが咥えていた煙管を噛み締めた音だ。純銀製の高級品だが、くっきりと歯形が付いてしまった。

 

「……腐っていやがる」

 

 晴風のクルーには聞こえないように吐き捨てる。

 

 予想はしていたが、それが全て当たる形になった。

 

「撃つのは好きだけど、撃たれるのはやだぁ~!!」

 

「私達完全にお尋ね者になってるよぉ!!」

 

「……もしかしたら、武蔵も同じ状況なのかも。だから非常通信を……」

 

「恐らく、それで間違いないだろう。乗員が猿島やシュペーと同じ状況で、もかだけが正気を保っていて、それで救援を求めてきた……って線が一番濃厚だね」

 

 明乃の意見を、ビッグママが補足する。

 

「だが武蔵はこっちと違って、簡単に沈む船じゃない」

 

「でも、助けを求めてた!! だから……!!」

 

「今はこっちの方が助けが必要だろう!!」

 

 語気を強めたましろに一喝されて、明乃は怯んだようになる。縋るようにビッグママを見やるが、老艦長は神妙な顔でじっと見返した。

 

「……もかを助けたいのはあたしも同じだが……これについてはあたしもシロちゃんと同意見だねぇ。小破している晴風では助けに行けないだろう。あたしらも、護衛対象を放っては動けない。まずは明石・間宮と合流して補給を受け、晴風を万全の状態に持っていく事が最優先だ」

 

「でも……」

 

「ミケ!!」

 

 それでも食い下がろうとする明乃であったが、ビッグママは威圧するようなものではないにせよ少しだけ声を大きくして、じっと彼女を見据えて言った。

 

「レッスン6……言ってみな。これはブルーマーメイドを目指すなら、一番大事な事だと繰り返し教えた筈だよ?」

 

「う……」

 

 その内容に思い至ったのだろう。明乃は少しだけ言葉に詰まって、そして答えた。

 

「レッスン6……『人を助けるのには、大きな船が必要』」

 

 ビッグママは「そう」と頷く。

 

「自分の事さえおぼつかないような”小さな船”では、人を助けられない。溺れている人を助けようと引き上げても、その重みで転覆してしまって助けようとした人どころか自分すらも死なせてしまう。人を助けるには、最低限自分と要救助者の重みを受け止められるような”大きな船”が必要だ。自分さえ助けられないのに、誰かを助ける事など出来ない。ましてミケ、今のあんたは艦長だ。自分の判断で自分一人だけ死ぬならいざ知らず、乗員を巻き添えにする訳には行かない……分かるね?」

 

 今のビッグママの口調は決して怒ったり威圧するようなものではなく、噛み含めて諭すように穏やかだった。

 

「繰り返すが今できる最善は、艦・乗員共に晴風を完全な状態へと持って行く事だ。その上で、対応を考えるべきだろ」

 

「……分かりました。シロちゃんやママさんの言う通りです」

 

 明乃の決断を受け、ビッグママは内心ほっとしていた。最悪指揮権をましろに委譲して一人だけスキッパーで飛び出していくという事態も想定していただけに(その時はひっぱたいてでも止めるつもりだった)、そうならなくて一安心だった。

 

「晴風はこのまま、校長先生から指定されたポイントへ向かい、明石・間宮との合流を目指します。それじゃあ、私が艦橋にいるからみんなは休んで……」

 

「今夜の当直は私とりんちゃんです」

 

「正しい指揮をするには、休息も必要だ」

 

「私なら大丈夫だから……」

 

「ココちゃん」

 

 パチンと、ビッグママが指を鳴らす。それを合図として幸子が、どこから取り出したのか丸いサングラスを掛けると目一杯低くした声でいつもの一人芝居を始めた。

 

「『徹夜はするな。睡眠不足は良い仕事の敵だ。美容にも良くない』」

 

「う、うん……分かったよ、ココちゃん」

 

 効果は覿面。良く分からないが兎に角シブさに圧された明乃はブリッジから出て行った。その背中を見送りつつ、幸子とビッグママはグッと親指を立てた。

 

「それじゃあ、あたしも一度クリムゾンオルカに戻るよ」

 

 

 

 

 

 

 

 それから数時間後の真夜中、事態は動きを見せた。

 

「ママ、水中に音源!! 潜水艦です!!」

 

 クリムゾンオルカの発令所にて愛読書の「イーグル」を読んでいたビッグママであったが、リケの報告を受けてすぐに意識を戦闘モードに切り替える。

 

「艦種は!?」

 

「音紋照合……東舞鶴校所属の伊201です!!」

 

 報告を受け、ビッグママは「ほう」と息を吐いた。

 

「この艦のオリジナルか」

 

 恐らくは近海で訓練中だったのが海上安全委員会の広域通信を受け、晴風を拿捕する為にやって来たのだろうが……

 

 そんな風に思考を回していると、今度はコーンというアクティブソナー特有の音が聞こえてきた。

 

「リケ、今のは伊201からかい?」

 

「いえ、ママ。晴風からです。この長・短の変則探信音は……モールスですね。解読します……所属と艦名、それに戦闘の意思は無い事を伝えていますが……」

 

 しかし伊201は、進路を変更して深度を増していった。どうやらソナーマンが解読出来なかったようだ。

 

「……向こうの水測はあまり耳が良くなかったみたいね」

 

「しかしだとすると、伊201のクルーは単純にアクティブソナーを受けたと思っている訳ですから……これは晴風の方から先制攻撃を行ったに等しい行為と受け止めている……ですよねママ」

 

「ああ、その通りさナイン。ロック、晴風に通信を繋ぎな」

 

 受話器を取るビッグママ。明乃は、数秒の間も置かずに通話に出た。

 

<ママさん!!>

 

「ミケか。状況は把握してるよ。伊201に敵対してると思われたみたいだね」

 

<すいません、私のせいで……>

 

「反省は後!! 今はこの状況をどうするかが先決だろ? 晴風はまだ戦闘には耐えられない。操艦は逃げる事を最優先に心掛けるんだ」

 

<分かりました。ママさんは?>

 

 ビッグママは一度言葉を切って、にやっと口角を上げる。

 

「昨日今日潜水艦に乗り始めたボーヤ達と遊んでやる。過去の海戦史に無い戦術を、見せてやるさ」

 



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VOYAGE:07 クリムゾンオルカVS伊201

 

「さて……伊201の相手は俺達がする事になりましたが……どんな風に相手しますか、ママ?」

 

「クライアントからはこの任務の遂行中に起きるいかなる被害についても我々に責任を問わないと約束してもらってるし……ここはサクッと沈める?」

 

「いや……確かに依頼条件はそうだけど、相手は未来ある学生で何も知らず命令に従っているだけ……流石に殺すのは忍びないし教え子である真雪校長に撃沈・乗員全員死亡の責任を負わせるのも心苦しい……ここは一人の死傷者も出さず、スマートに圧倒的実力差を見せ付けて戦意を喪失させる……ですよね、ママ」

 

 クリムゾンオルカの発令所ではリケ、ロック、ナインのクルー達がそれぞれ接近する伊201に対して選択するオプションについて話し合っていた。最後に出たナインの意見を受け「ああ」とビッグママは頷くと、左手のマジックハンド型義手をガチンガチンと鳴らす。

 

「後学の為、潜水艦戦のお手本を見せてやろうじゃないか」

 

 ビッグママはそう言うと、懐から一枚のCDを取り出した。

 

 

 

「!?」

 

 晴風の水測室。万里小路楓はヘッドホンから聞こえてきた音に自分の耳を疑って、音量を調節してもう一度耳を澄ましてみる。しかし聞こえてくる音はやはり間違いなかった。信じられない事だが、彼女は水測員の役目として耳で聞いたありのままを、艦長へと伝えなければならない。

 

「か、艦長……」

 

<どうしたの? まりこうじさん>

 

 伝声管から明乃の声が聞こえてきて、楓はそれでも少しだけ躊躇ったが……意を決して報告する。

 

「艦長……クリムゾンオルカから音楽が聞こえます」

 

<音楽?>

 

<僚艦のスクリュー音やキャビテーション・ノイズじゃないのか?>

 

「いえ、間違いありません……クリムゾンオルカは先程まで後方500、深度100を10ノットで航行中でしたが……急に大音量でミュージックが流れ始めました。この曲は……『夢の渚 ~the silent service~』です」

 

<……潜水艦が自ら音を出すとは……ミス・ビッグママは何を考えているんだ!?>

 

 ましろの疑問も尤もである。

 

 洋上艦と潜水艦の違いは、物凄く大雑把に言えば装甲と隠密性だ。

 

 つまり、海上に姿を晒している代わりに装甲が厚いのが洋上艦。潜水艦はその逆で、海中に姿を隠せるから隠密性には優れるが装甲は薄い。魚雷もしくは対潜弾の一発でも直撃すれば沈没は免れない。故に可能な限り音を抑えて行動し、その存在を隠す事こそが潜水艦操艦の基本にして奥義。

 

 だが今のビッグママの行動はその基本に真っ向から反逆するような暴挙である。

 

<大丈夫だよ、シロちゃん>

 

<艦長?>

 

 伝声管越しに聞こえる明乃の声は、臨戦態勢にあるとは思えぬほどに落ち着いていた。

 

<ママさんは、晴風には逃げる事を最優先とした操艦を行うようにって言ってた……それなら必ず、この状況から晴風が逃げるチャンスを作ってくれる筈。私達はその時を逃さないように、離脱する準備を整えておくべきだと思う。マロンちゃん、機関はどれだけの速度を出せる?>

 

<出せて第三戦速(19ノット)まで。それ以上は今は無理でぃ!! ぶっ壊して良いなら話は別だけど!!>

 

<分かった、じゃあそれまではこのままの速度・針路で航行。何か状況に変化があった時、出せるだけの速度を出して逃げるよ!! まりこうじさん、水中の様子をよく探って。何か変わった事があったら、すぐに教えて!!>

 

「……承りましたわ」

 

 明乃の指示を受け、ヘッドホンの音量を調節する楓。変化はすぐに読み取れた。

 

「……? 艦長、少し前から……ミュージックの音量が少しずつ小さくなっているように思えます」

 

+

 

+

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 各所に据え付けられたスピーカーからビッグママお気に入りの曲がフルボリュームで鳴り響いていた。

 

 ビッグママはキャプテンシートにふんぞり返ってご満悦という顔だが、クルー達は戸惑ったような表情だ。やはりサブマリナーとして、自ら存在をアピールするような艦長のこの行動は理解の範疇を超えているらしい。

 

「ロック、動力をメインのレーザー核融合炉からサブのバッテリーに切り替え、針路はこのまま。速度を少しずつ落としていってくれ」

 

「了解よ、ママ」

 

「ナイン、今から少しずつ、スピーカーの音量を小さくしていくんだ」

 

「分かりました」

 

 発令所にジャンジャンと響く音楽が、少しずつ治まっていく。最初は耳を塞ぎたくなるような大音響だったが、漸くバックミュージックとして心地よいぐらいのものになっていく。

 

 ビッグママはしかしもう、音楽を楽しんではいないようだった。懐から取り出した懐中時計をじっと睨んでいる。そして分針が動いたその瞬間、伏せていた顔を上げた。

 

「リケ、アクティブソナーを打ちな!!」

 

「は? でもママ……それじゃあ本艦の位置が伊201に……」

 

 パッシブソナーによる水中聴音は、こちらから音を発さないので存在を知られる心配は無いが、その分精度に欠ける。逆にアクティブソナーは音波を発して反響音を捉えるので高い探知力を持つが、こちらから音を発するので使えば自艦の位置も知られてしまう。故に普段は周囲の状況をパッシブソナーで探り、ここぞという時にアクティブソナーを使うのが潜水艦戦の鉄則。

 

 ビッグママのこの指示は、またしてもセオリーから逸脱するものだった。

 

「教えてやるのさ、晴風にも伊201にも。今、このクリムゾンオルカがどんな位置に居るのか」

 

「そうか」「成る程」「面白い手ですね、ママ」

 

 艦長がここまで言った時、3人のクルー達もやっと合点が行ったようだった。リケが、アクティブソナーのスイッチを押す。

 

 ピン!! と発信音が鳴って、ほぼ同時にカーン!! と反響が返ってきた。

 

 

 

 晴風の水測室。

 

 このアクティブソナーは、当然晴風からも捉えられていた。

 

 楓が、思わず耳を押さえる。しかし今は鼓膜の心配よりももっと大変な事が起こっていた。

 

「か、艦長!! 大変ですわ!!」

 

<どうしたの? まりこうじさん!!>

 

「クリムゾンオルカは……伊201の真横にくっついています!!」

 

<真横!?>

 

「はい、伊201と同深度・左舷距離30!! 接触するほど近距離です!!」

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

 ましろは楓の報告がにわかには信じがたいようだった。目を白黒させている。

 

「い……一体どうやって、そんな距離にまで? そこまで近付く前に、伊201のパッシブソナーが接近を感知する筈では……!!」

 

 疑問も当然である。艦橋要員を見渡すが、何が起こったか理解している者は誰も居ないようだった。ある者は押し黙って、ある者はふるふると首を横に振る。しかしこの時、明乃だけが「そうか」と、顔を上げた。

 

「音楽だよ」

 

「音楽って……さっきまで水測が捉えていたミュージックですか?」

 

 明乃は「そう」と頷く。

 

「まずクリムゾンオルカの中でフルボリュームで音楽を鳴らして、少しずつ音量をダウンさせていく……と、同時に無音航行で伊201へと近付いていく。そうする事で、距離は縮まっていくけど音が絞られていくから、伊201のソナーからは同じボリュームで音楽が聞こえている状態が続く……」

 

「そうか……音楽が同じ音量で聞こえてくるイコール、クリムゾンオルカが同じ距離を保っているという思い込みを利用したんですね」

 

「成る程、頭良い!!」

 

 これは幸子と芽依のコメントである。

 

 音を出さずに存在を隠すのではなく、敢えて音を出して存在を誤認させる。逆転の発想と言えた。

 

 それにしても、いくら微速であったとは言え30メートルという至近距離にまで艦を近付けるなど異常とも言える勘と度胸と操艦技術である。一歩間違わなくても、衝突事故を引き起こしかねなかったのだから。無茶苦茶な真似と言い切れる。

 

「そのムチャを平気でやるのがクリムゾンオルカ……ミス・ビッグママという事か……」

 

 ごくりと喉を鳴らして、ましろが呟く。その声に滲む感情は、畏怖とも感嘆とも付かなかった。

 

「……しかし、ミス・ビッグママはこれからどうされるつもりでしょうか? 確かに横にぴったり付いてしまえば、心理的な意味でも伊201への牽制にはなるでしょうが……艦長、今から出せるだけの速度を出して逃げますか?」

 

「待って、シロちゃん。多分だけど……ママさんはここから何かすると思う」

 

「何か……とは?」

 

 ぎゅっと、明乃は手を握った。

 

「分からないけど……でも、分かるの。今の状況でも牽制の効果はあるけど、まだ決定的じゃない。ママさんなら必ず何か、決定的に状況を変える一手を打ってくるよ」

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 ビッグママは依然、懐中時計とにらめっこを続けていた。時計の秒針が、そろそろ文字盤を一周する頃だ。

 

 老艦長の顔には、にんまりと不敵な笑みが浮かんでいる。

 

「さて……どう動くか……」

 

 偶然だろうが彼女がそう呟いた瞬間、リケがヘッドホンに手をやった。何か異変を聞き取ったのだ。

 

「ママ、伊201のエンジン音が急に大きくなります。機関増速中、面舵を切ります」

 

「あーあ」

 

 ビッグママは「しょうがないなぁ」という顔で苦笑いした。

 

 この状況でいきなりエンジンをフル稼働させ面舵を切るという事は、左舷にぴったりくっついたクリムゾンオルカを引き離そうという動きだ。

 

「賭けは私の勝ちね、ナイン。あちらさんは、予想以上に慌ててるみたいよ」

 

「そうだな、ロック。俺はもう少し冷静に対応すると思ったんだが……これは悪手……ですよね、ママ」

 

「ああ、そうだよナイン」

 

 ビッグママはそう言って、ぱちんと懐中時計を閉じた。

 

 確かに少し前まで前方数キロを晴風と並んで航行していた筈の艦がいきなり探信音を打ったと思ったら、自艦のすぐ隣までジャンプしてきていたのである。衝撃を受けるのは当然だ。そしてこの状況では、いつ接触事故に繋がるかという心理的なプレッシャーも尋常ではないだろう。

 

 またこんな近距離にまで近付くという自殺行為にも似た真似を仕掛けてくるのである。下手に晴風へと魚雷を撃てば、クリムゾンオルカは体当たりしてくるかもしれない。

 

 そうした圧力を受ける状況から少しでも早く逃れたいと思うのは当然だ。

 

 しかしこの状況は、確かに伊201は迂闊に晴風を攻撃できないが、逆に晴風からもクリムゾンオルカからも伊201を攻撃できないのである。実際には五分かそれに近い程度の状態と言える。それに晴風を攻撃させない為にはクリムゾンオルカは常に伊201へとへばり付いていなければならないという制約もある。

 

 つまりもし伊201の艦長がビッグママであれば、艦を微速で動かしてクリムゾンオルカを誘導し、恐らくは近くまで来ているだろう教官艦の所にまで連れて行くという行動を選択しただろう。

 

「もっとも、それならそれで伊201を晴風から引き離せるし東舞鶴校の教員には教え子も沢山いるから、エスコートしてもらった先で事情を説明して交渉ができる……と、踏んでいたんだがね……まぁ、まだまだ学生、動揺した時の判断ミスもやむを得ないか。50点といった所だね」

 

 大きな体を揺らして笑うビッグママだが、すぐに真剣な顔になった。

 

「よし!! 速力20ノットまで増速!! 伊201の前に出ろ、進路を塞げ!!」

 

「了解、ママ!!」

 

 けたたましいエンジン音が鳴り響き、クリムゾンオルカはオリジナルである伊201を遥かに超える加速力を発揮、完全に追い越した所で大きく面舵を切り、同じ針路へと入った。

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

<……!? 艦長、先程まで聞こえていた、伊201のエンジン音が聞こえなくなりました。聞こえるのは、クリムゾンオルカのエンジン音だけです>

 

 水測室からの報告を受け、艦橋要員はまたしても顔を見合わせる。

 

「聞こえなくなったって……消えたって事? そんなバカな……」

 

「バッフルズだ」

 

 何が起こったか、ましろは理解していた。

 

「シロちゃん、バッフルズって……」

 

「艦の航跡に発生するソナーの死角です。そこに入った艦はソナーでは捉えられなくなります。ただ……そこでは自らのソナーも使えませんから、よほど勘が鋭くないと衝突事故を引き起こしかねない危険な場所です……」

 

 ビッグママはクリムゾンオルカを伊201の針路へと割り込ませて強制的にバッフルズへ伊201を引きずり込んだのだ。

 

「ソナーが使えない……!!」

 

 明乃が、はっとした顔になる。

 

 待っていた決定的な瞬間とは、まさに今この時だ。

 

「今だよ、シロちゃん!! 今なら、伊201はソナーが使えなくて晴風を見失ってる!!」

 

「成る程……まさか、こんな手があったとは……!!」

 

「マロンちゃん、第三戦速出して!! この海域から可能な限り離れるよ!!」

 

<合点でぃ!!>

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

「ママ、晴風が転進、19ノットで現海域から離脱するコースを取ります」

 

「よーし、いいぞミケ。分かってきたじゃないか」

 

 この報告を受け、ビッグママは満足そうに眼を細める。以心伝心という言葉があるが、今のクリムゾンオルカと晴風のコンビネーションはまさにそれだ。十分な訓練も無しに、ここまでの連携プレイが決まるのは気分が良い。

 

 しかし、良い気分に浸ってばかりいる訳にも行かない。

 

 現在の伊201は艦首ソナーをクリムゾンオルカの航跡によってすっぽりと覆われ、完全な盲目状態である。そんな状態から一刻も早く逃れたいのは当たり前だ。

 

 そしてこの状態では、クリムゾンオルカとて自らの騒音と気泡で伊201の動きは探知不能。

 

 ……では、ないのだ。

 

「ママ、後方の伊201に動きあり。面舵50度を切ります。バッフルズを抜ける気です」

 

「同じく面舵50度!!」

 

 ビッグママが指示した針路は完全に、伊201と同じものだった。

 

 クリムゾンオルカは伊201をベースとしながらも3つの特殊兵装を初めとして内部的には原型を留めないほどの改造が施されている。現在、後方のバッフルズ内の伊201を捕捉している左右両舷6つのサイドソナーもその一つだった。

 

「伊201、今度は取舵50度を切ります!!」

 

「こっちも同じく取舵50度、合わせな!!」

 

 当然、針路を変えるだけではバッフルズもそれに応じて移動するので脱出する事は出来ない。

 

 バッフルズ内の伊201が、左右への動きを止めて直進航行へと移る。これは伊201の艦長及び乗員の戸惑いが操艦に現れているのだ。

 

「どうしてバッフルズから出られないか、疑問に思っているな……」

 

 いいぞいいぞと笑うビッグママは、出来の良い生徒を指導する教師のようだった。

 

 これまでの動きで左右への動きではバッフルズから出られないと、伊201は悟った筈だ。と、すれば次は……

 

「ママ、伊201のエンジン音が小さくなります」

 

「エンジンを止めて、距離を取ろうとする……ですよね、ママ」

 

「そういう事だよ、ナイン。よーしよしよしよしよし、ますますこっちの狙い通りだ」

 

 うぷぷっと、ビッグママは込み上げてくる笑いを噛み殺した。

 

 クリムゾンオルカから離れる為にエンジンを止めた事で、逃げる晴風との距離はますます開いていく。

 

 今のビッグママが第一とするのは伊201を沈める事ではなく晴風を遠くへと逃がす事。バッフルズ戦法は、この展開を見越しての操艦だった。

 

「!! ママ、後方の伊201から、魚雷発射管注水音が聞こえます!!」

 

「あっはっはっ」

 

 あっけらかんと、笑いを一つ。しかし先程と同じくすぐに真顔に戻った。

 

「そりゃあこんだけふざけた真似をやらかして任務を妨害し、挑発したら怒るだろうねぇ。あたしでも怒る。これであたしら、撃沈されても文句は言えなくなったねぇ」

 

「……では、どうします? 艦を反転、撃たれる前に撃って沈めますか?」

 

「まぁ落ち着きな、リケ。まだ互いの距離はせいぜい500メートルといった所。安全距離の関係で魚雷は撃てない。そして魚雷発射準備に取り掛かったという事は、完全にあちらさんの注意は晴風からあたしらへと向いたって事だ」

 

 つまり今の伊201はクリムゾンオルカを撃沈するか無力化を確認するまで、晴風を追う事はしないという事だ。いよいよもってビッグママの思う壺に嵌ってきた。

 

「ここは時間稼ぎが見破られないぎりぎりのスピードで距離を取ろうとしていると見せ掛け、晴風が逃げる時間を稼ぐんだ」

 

「了解、では針路このまま機関3分の1、15ノットで前進を続けます」

 

 ビッグママは再び懐中時計を開くと、時間をチェックする。

 

「ロック、向こうが撃ってくるとしたら距離5000だ。その距離に艦が達するまで後どれぐらいだい?」

 

「……後、30秒よ、ママ」

 

 再び、時計へと視線を落とす。

 

 25秒……15秒……5秒……

 

「!! 魚雷発射音2!! 真っ直ぐ向かってきます、ママ!!」

 

「ここは全速を出して魚雷を振り切りましょう!!」

 

「いや、それよりも距離2000まで引き付ける……ですよね、ママ」

 

「そういうことさ、ナイン!! 取り舵50度、回避!! 一番魚雷発射管、ノイズメーカー用意!!」

 

「了解!! ママ」

 

 発射された魚雷の速度は41ノット、クリムゾンオルカが現在の速度で逃げ続けるなら距離2000までおよそ3分45秒。

 

「魚雷が30度ターン、こいつはアクティブソナー・ホーミングです、ママ!!」

 

「分かった、速力はこのまま15ノット、十分引き付けるんだ」

 

 3分45秒まで……後、10秒……5秒……

 

「よし、今だ!! デコイ発射!! 同時にエンジンストップ!!」

 

「「了解、ママ!!」」

 

 訓練されたクルーの流れるような作業により、10秒と掛からずにスクリューが完全に停まってエンジン音が消失する。

 

 間髪入れず魚雷発射管から囮魚雷が発射。その魚雷にはクリムゾンオルカのエンジン音を仕掛けたテープがセットされている。

 

 ホーミング魚雷は、囮魚雷をクリムゾンオルカと誤認してそちらを追走。迷走した挙げ句に食い付いて爆発を起こした。

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

<艦長、後方の海中に爆発を確認!! 魚雷です!!>

 

 見張り台のマチコからの報告を受け、明乃は顔を青ざめさせた。

 

「ま、まさかママさん……やられちゃったんじゃ……」

 

<いえ、一分前に魚雷発射音が聞こえています。伊201の魚雷が命中したのは、クリムゾンオルカから発射された囮魚雷でしょう>

 

 水測室の楓からの報告を受け、ほっと胸を撫で下ろす。だが事態はまだ楽観を許すものではなかった。

 

「……しかし、撃たれたとなってはミス・ビッグママも黙ってはいない筈……撃ち返すんじゃ……」

 

 ましろの懸念は、すぐ現実のものとなった。

 

<クリムゾンオルカから魚雷発射音2!! 伊201へ向かっていきます!!>

 

「「!!」」

 

 とうとう魚雷戦が始まった。ブリッジクルー全員が、思わず息を呑む。

 

「伊201の動きは!?」

 

<面舵を切って転舵!! 回避行動に移ります!! 今……クリムゾンオルカの魚雷がターンしました!! 伊201を追尾していきます>

 

 これは先程のクリムゾンオルカと同じ操艦だ。恐らくは距離2000にまで引き付け、ノイズメーカーを使って魚雷をかわしに掛かるだろう。

 

 魚雷回避のお手本のような操艦だ。

 

「……何か、おかしくない?」

 

 疑問を口にしたのは、芽依だった。

 

「おかしいとは?」

 

「いやだって、囮魚雷で敵の魚雷を避けられるのは、おばあちゃんが実際にやってみせたじゃない? こうすれば魚雷をかわせるって。当然、伊201もクリムゾンオルカの動きを観察していたから、同じようにして魚雷を避けようとする筈……そんな無駄な事を、あのママさんがするかなぁ……?」

 

「oui(はい)」

 

「…………」

 

 確かにそうだ。ましろは頷き、顎に手をやって思考を回す。

 

 ましろの曾祖母のクルーであったビッグママは現役最古参、経験に於いては世界中のあらゆる船乗りの中でも最高峰のものがあるだろう。それほど老練の艦長が、そんな無駄な事をするとは信じがたい。何か、この魚雷には意味がある筈。だが一体どんな?

 

 それ以上は、ましろの思考も及ばなかった。そうしている間にも、海中での動きは続いている。

 

<魚雷と伊201の距離2000!! 伊201から魚雷発射音1、囮魚雷を発射しました!!>

 

 ここまでは、先程のビッグママの操艦をそのままトレースしたような動きだった。恐らく今頃は、エンジンを止めて魚雷のセンサーを狂わせに掛かっているのだろう。

 

 後は、クリムゾンオルカの魚雷が囮魚雷を追い掛ける筈だが……

 

<!? クリムゾンオルカからの魚雷、迷走しません!! まっすぐ、伊201に向かっています!!>

 

「な、何で!? 魚雷は伊201のエンジン音を追い掛けるようにセットされてたんじゃないの!? その証拠に、伊201が曲がった時に同じように曲がって……」

 

 芽依の疑問も当然だが、今はそれどころではなかった。

 

<魚雷2本、伊201へ突っ込んでいきます!! 伊201、エンジン再スタートしました。回避運動に入ります、機関増速中……!!>

 

「……あの魚雷は、ホーミングじゃなかった?」

 

<回避、間に合いません!! 距離30!! 2本とも、伊201に命中します!!>

 

「!! ママさん、ダメ!!」

 

 恩人が、自分達を助ける為に誰かを殺そうとしている。今まではどこか現実味が希薄だったその事実を眼前に突き付けられて、明乃が悲痛な声を上げる。

 

 自分達の為という事は分かっているが……でも明乃はそれが為されてしまったら、もう二度とビッグママの顔をまっすぐ見れないような気がした。

 

 だがもう、全ては手遅れ……!!

 

「………………」

 

「…………」

 

「……?」

 

 5秒、10秒、20秒……時間が過ぎたが、しかし予想していた爆発音も水中衝撃波も伝わってこない。

 

「水測、何があったか分かるか?」

 

<……最後に、魚雷がドスンと何かにぶつかるような音が聞こえてきて……その後、伊201のスクリュー音が消えました……何が起こったのかは……>

 

「……爆発が無かったって事は……2本とも、不発だったんでしょうか?」

 

「違う、弾頭を外した魚雷を撃ったんじゃ」

 

 言いつつ艦橋にずかずか入ってきたのは、ドイツ海軍の制服を着こなした金髪の少女だった。アドミラルシュペーから小型艇で脱出して、明乃が救出した子だ。

 

「スクリュー音が消えたという事は、魚雷2本が敵潜のスクリューに命中して、プロペラが全て折れたんじゃろう」

 

「……では、囮魚雷に引っ掛からなかったのは?」

 

「キャビテーションやエンジン音を追尾するようにセットされていたんじゃなく、敵潜がどんな動きをするかを完璧に読み切って、あらかじめ決まったコースを魚雷にプログラムしておったのじゃ。2000メートル進んだら、30度ターンしろという具合にな」

 

「……そんな曲芸じみた真似がまぐれではなく、しかも実戦で出来ると言うのか?」

 

 あらかじめ針路を設定した魚雷を発射し、伊201が動いた先でしかもピンポイントでスクリューに2発とも命中させる。

 

 ありえない。信じられない。認めたくない。出来る訳がない。今までましろが学んできたあらゆる常識が、それを否定する。だがたった今起こった事は、そうでも考えなければ説明が付かない。

 

「話は保健委員から聞いておる。今、敵潜と戦っているのはアドミラル・オーマーなのじゃろ? あの方ならそれぐらいは朝飯前じゃ。演習では我がアドミラルシュペー含む20隻もの艦隊を、たった一隻の潜水艦で全艦撃沈したお方じゃぞ?」

 

 シュペーから来た少女が語るビッグママの武勇伝も、明乃の耳には入っていなかった。今の彼女の胸を占めているのは、たった一つの事実。

 

「ママさん……傷付けないでくれた……」

 

 偶然かも知れない。色々な事情があって、実弾を使う訳には行かなかっただけかも知れない。

 

 それでも明乃には、ビッグママが伊201を沈めずにいてくれたのがとても嬉しかった。

 

 

 

「ママ、伊201から国際救難信号の発信を確認しました。浮上していきます」

 

「よーし、ナイン。見事な照準だ、良くやった。警戒を通常値に戻せ」

 

 ビッグママはそう言うと、深々とキャプテンシートに体を沈めた。

 

「まぁ……高く付いたが良い授業だったろう」

 

「……確かに良い授業でしたが……絶対、学校へ帰港した後には退学者が続出しますよ? ママ……厳しすぎでは?」

 

「そうそう、沈めるよりエグイ事するわね」

 

 戦闘能力を奪われて、浮上を強制される。これは潜水艦乗りにとっては、撃沈以上の屈辱だ。

 

 しかもそれをやったのが無弾頭魚雷の命中だったから、これは伊201のクルー達にクリムゾンオルカが本気だったなら簡単に沈められていたという事実を突き付けたに等しい。精神的なショックは計り知れないだろう。

 

「良いんだよ。それで……その程度で潮気が抜けるなら……最初からホワイトドルフィンなんて目指さない方が良い……ですよね、ママ」

 

「そうさ、ナイン。ブルーマーメイドにしてもホワイトドルフィンにしても、その仕事は常に命懸け。艦と仲間と、自分の命を保証するのは艦長含め乗員全員の果断な即応……その為には練度を上げるしか手はない……と、あたしは艦長に教えられた……まだ、見習いの炊事委員だった頃にね。だからあたしは昔から、訓練に手を抜いた事は無い。自分にも、他人にも……今は伊201の子達が、この恥辱をバネにして良いサブマリナーになれる事を祈るとしようじゃないか」

 

 そう言って、ビッグママはシートから立ち上がる。

 

「ようし、進路変更!! 晴風と合流するよ!!」

 

「「「了解、ママ!!」」」

 



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VOYAGE:08 ビッグママの教え子達

 

 伊201を撃退した後、周囲50キロに他の艦船の存在が無い事を確認すると晴風は一時停船、クリムゾンオルカもそのすぐ脇に浮上して停船した。

 

「え、ミーナの意識が戻ったって?」

 

<はい、今は食堂で食事を摂っています>

 

「分かった。すぐにあたしもそっちへ行くよ」

 

 通信でこうした会話を経た後、すぐにビッグママは晴風へと移ってきた。

 

 食堂に入ってみると、今まで意識を失っていたせいで空腹だった分を取り戻そうとするかのように、空の皿を量産している少女が目に入った。ビッグママがヴィルヘルミーナと呼んでいた、アドミラルシュペーから脱出してきた小型艇の乗員だ。

 

 ビッグママの大きな体を認めたミーナは、食事の手を止めると弾かれたように立ち上がってカツンと踵を揃えると、ビシッという擬音が聞こえてきそうな程に完璧な敬礼を行う。

 

「お久し振りです、アドミラル・オーマー!!」

 

「久し振りだねぇ、ミーナ」

 

 ビッグママも同じように、こちらは気安く敬礼して返した。

 

 案内してきた明乃は少し戸惑ったようだが、タイミングを見計らってビッグママへ尋ねる。

 

「あの、ママさんはこの……ドイツ艦の子と知り合いなんですよね?」

 

「ああ、そうだよミケ。知っての通り日本とドイツは友好国。あたしらクリムゾンオルカは日本政府の依頼を受けて、演習の敵艦役として派遣された事があるんだ。この子と知り合ったのもその時さ」

 

「じゃあ、アドミラル・オーマーというのは?」

 

「あぁ、それね。いや、最初の内は普通に対潜水艦のノウハウを教える為に学生艦相手の演習を繰り返してたんだが……いくら乗員が学生とは言え、潜水艦の本場であるドイツの艦が一度も勝てないから段々上の連中が熱くなってきてね……」

 

「我がアドミラルシュペーも、5回も撃沈されてしまっての……それで最終的には教官艦や本職の軍艦まで繰り出して、総勢20隻からなる艦隊でクリムゾンオルカを迎え撃ったのじゃが……結果は惨敗。全艦撃沈されてしもうた」

 

 語るミーナは、さばさばとした様子だった。

 

 話を聞く限り負けようが無いような状況で、それでも負けたのである。そこまで完膚無きまでに負けると、悔しくも何ともないのかも知れない。

 

「い……1対20……!!」

 

 明乃と共にビッグママを案内してきて、話を聞いていたましろは頭痛を感じて頭を押さえた。上体がくらっと揺れる。

 

 曾祖母のクルーであったこの老婆が百戦錬磨の古兵という事は十分理解していたつもりだったが……まだ自分の認識が甘かった。母が校長を務める横須賀女子海洋学校に入る為、操艦術や海戦についても猛勉強したものだが……そんな常識を超えた真似が出来るなら、自分が勉強してきたのは一体何だったんだという気分だった。

 

「……シロちゃん、別にあたしがやったのはそこまで凄い事でもないよ?」

 

 と、ビッグママ。知らずに俯いていたましろは、はっとして顔を上げた。

 

 しかし1対20で勝つのが凄くなくて何なのか。謙遜も過ぎれば嫌味だとましろは思ったが、ビッグママの言葉には続きがあった。

 

「良く言うだろ、過ぎたるは及ばざるがごとしって。薬も飲み過ぎれば毒になる。あたしはそこにツケ込んだだけさね」

 

「……そう、なのですか?」

 

「そうとも、大体シロちゃんが読んだ教本や体験したシミュレーションには潜水艦一隻を大艦隊で相手するようなシチュエーションがあったのかね?」

 

「それは……無かったですが」

 

 そもそも想定する意味が無い。艦を動かすのだってタダではない。そんな戦力の過剰投入は通常なら作戦を司令部に進言した時点で無駄の一言で片付けられてしまうからだ。

 

「だろ? 例えるならハエを落とすのに戦艦の主砲を使うようなもんだ。上の連中が意地になって現場に強要しただけの、対潜作戦のセオリーを無視した大愚策だよ、あれは。教官時代のあたしなら、作戦を立案した奴には赤点をプレゼントしてた。実際ミーナ、あの最後の演習で、あんたらは途中から殆ど自滅レベルで指揮が乱れてたろ」

 

「うっ……」

 

 話を振られて、これについては恥ずべき過去と捉えていたのかミーナの顔が赤くなった。

 

「数だけ集めても逆効果。あたしとあたしのクルー、そしてクリムゾンオルカならあんな艦隊は20隻が50隻でも、100回やって100回勝てる。寧ろあたしには、統制がしっかり取れた5、6隻ぐらいの艦隊のがよっぽど恐ろしいね」

 

「コホン……まぁ……それは兎も角として1対20という絶対的な数的不利を覆した事で軍上層部も遂にシャッポを脱いでな……この方に提督の称号を贈る運びとなったんじゃ。そこでビッグママというコードネームと合わせて、誰ともなくアドミラル・オーマー(おばあちゃん提督)と呼ばれるようになった。その後は、アドミラルシュペーに乗艦されてワシや艦長のテアの指導にも当たってくださったのだ」

 

「ママさんは、他の国でも先生をやってたんですか?」

 

「あぁミケ。この年まで生きてると、どこの国に行っても教え子の一人や二人は居るものでね。ロシアの高等潜水艦学校で教鞭を取った事もあれば、アナポリスに派遣された事もある。それに、日本では東舞鶴校にもね」

 

 老艦長の隻眼が、優しく細められる。

 

「色んな子が居た……特にユキちゃん、つまりシロちゃんのお母さんだね。あの子はあたしの最も優秀な教え子、誇りだよ。赤ん坊の頃からの付き合いだが、今では立派になって……グス」

 

 にじんできた涙を、ビッグママは慌てて袖で拭き取った。

 

「おっと、年を取ると涙もろくなってかなわないねぇ……まぁ、昔話はこれぐらいで良いか」

 

 そう言うとビッグママはミーナの対面に着席した。明乃とましろもその両脇を固める形で着席する。

 

「ミカンちゃん、スパゲッティーを頼むよ」

 

「あ、はーい」

 

 厨房から明るい声が返ってきて、そしてミーナに向き直るビッグママ。

 

「ミーナ、実はこの晴風は以前に、教官艦・猿島がシュペーと同じような行動を取るという事態に遭遇している。だから、あんたの話が聞きたいんだ。あの日、シュペーで何があったのか? 聞かせてくれるかい?」

 

「はい。我がアドミラルシュペーは横須賀女子海洋学校の合同演習に参加する為、鳥島沖へと向かっていました」

 

「ふむ、ミケやシロちゃんはこの話は聞いていたかい?」

 

「いえ……」「初耳ですね」

 

「……と、すると学校側のサプライズ企画か。時々あるんだよね、そーいうの。続けておくれ、ミーナ」

 

 ミーナはスパゲッティーと一緒に運ばれてきた紅茶を一口飲んで間を置き、そして話を再開した。

 

「はい、それで当初の予定通り、横須賀女子海洋学校の艦隊が到着するまではそこで待機する手筈となっていたのですが……あの時、突然電子機器が動かなくなり、原因を調べようとしたら乗員の誰もテアやワシの指示に従わなくなり、接近してきた晴風に攻撃を行おうとしたのです。テアもワシも何とか止めようとしたのですがどうにもならず……それでテアはワシだけでも脱出し、他の船に知らせよと……」

 

「……乗員が命令に従わなくなったとは、具体的にどんな感じだったんだい?」

 

「ワシも緊急事態で子細を観察している余裕は無かったですが……少なくとも全員、明らかに正気ではありませんでした。呼び掛けても返事を返さず、視線も虚ろで……まるでホラー映画に出てくるゾンビのようでした」

 

「ふぅむ……」

 

 ビッグママは脂肪で消えかけた顎をさする。

 

 明乃とましろは、ビッグママの大きな体越しに顔を見合わせた。

 

 乗員が異常な状態になり、電子機器が異常をきたす。これはどちらも、件のネズミもどきがもたらす影響として考えられていたものだ。異常が起きた艦から脱出してきたミーナのこの証言によって、ビッグママの推理に裏付けがなされた形になった。

 

「異常な状態になる前に、何か前兆はなかったかい? 高熱や吐き気、体のだるさを訴えていたとか」

 

「いえ……何も、これと言った事は」

 

「ふーむ」

 

 腕組みするビッグママ。猿島やシュペーに起こった異常の原因がネズミだとして、ミーナの知る限り前兆が無かったというのは厄介だ。体に湿疹が出来てかゆみを訴えるとか昏睡状態に陥るとか何らかの前兆があれば、仮にネズミが入り込んでいてもそうなった者を隔離する事で被害を最小限に留められる。その手が封じられたとなると、ネズミを一匹たりとも艦に入れないか、艦に入ってきたとしてもすぐ退治するしかない。自分達は厳しくなってきた。

 

 一つ、幸運があったとすれば、

 

「この艦に五十六が乗っていた事かね」

 

 補給艦ではネズミ退治の為に、猫を飼っている艦も多いと聞く。話では出港時に偶然乗り込んできたという話だが、無理矢理下ろさなかった明乃の判断は結果的に正しかった訳だ。ツキはある。

 

「アドミラル・オーマー、ワシはテアから預かった艦長帽を彼女に返したい。どうか力を……貸して……くれとは、言えない状況らしいな」

 

「私も心情的には協力したいが、今はこの晴風の方が助けが必要な状態だからな……」

 

 ましろは申し訳なさそうにそう言って、明乃とビッグママへと交互に目をやる。この件については、二人とも同意見のようだった。

 

「そう、じゃな……」

 

 意気消沈したミーナは残念そうに顔を伏せるが、ビッグママは両手でがしっと彼女の頭を掴むと、首の関節がぐきっと鳴りそうな勢いで上を向かせた。

 

「マ、ママさん?」「ア、アドミラル・オーマー?」

 

「ミーナ、あんたは今のシロちゃんの言葉、良く聞いていなかったのかい?」

 

「は?」

 

「シロちゃんは、今は晴風の方に助けが必要って、そう言ったんだよ。今は、ね」

 

 ちらっとましろの方に目配せして「そうだな」とビッグママは確認する。言質を取られたましろは迫力に圧され、思わず背筋をぴんと伸ばした。

 

「それにあたしの考えでは、今後はシュペーに起こっているのと同じ異常が近くの海域を通る船や、学生艦・教官艦にも広がる。だからシュペーを助ける為に動く事が、他の艦を助ける事に繋がる……艦長・副長共にそれは理解しているね?」

 

「はい、ママさん」「そう、ですね。ミス・ビッグママ」

 

 多少強引な所はあるが、確かにビッグママの言う通りでもある。明乃にしてみれば「海の仲間はみんな家族」であり家族を助ける事に思考を挟む事自体有り得ないという認識だし、一方でましろからは「そういう考え方もあるな」と、様々な可能性を考えるきっかけになったようだ。

 

「……しかし、アドミラル・オーマー、一つお聞きしてよろしいですか?」

 

「ん?」

 

「先程までの口振りだと、あなたはシュペーの乗員がおかしくなった原因をご存じのようでしたが……この件について、何か知っておられるのですか?」

 

「ああ、それなら……」

 

「艦長!! ママさん!! 大変、大変です!!」

 

 言葉を遮る形で食堂に飛び込んできたのは、応急長兼美化委員長の和住媛萌だ。

 

「どうしたんだい、ヒメちゃん」

 

 美甘が運んできたスパゲッティーをフォークにくるくる巻き付けながら、ビッグママが尋ねる。そのまま口に運ぼうとして、続く媛萌の言葉に動きが凍り付いた。

 

「今、海をさらってたら……!! 例の、ネズミもどきが釣れました!!」

 

 

 

「ネズミもどきが見付かったってのは本当かい!?」

 

 明乃、ましろ、ミーナを引き連れ、マジックハンド型義手で器用に皿を支えつつスパゲッティーをかき込みながら医務室に飛び込むビッグママ。凄い勢いでやって来て、鏑木美波は圧倒されたようだった。

 

「……ここに」

 

 机の上には密閉型の小さなケージが置かれていて、中に入れられている生き物は確かに、ビッグママが持っていた写真に写っていたネズミもどきと同じ特徴を持っていた。

 

「今、簡単な検査を行っているが……確かに、遺伝子構造が少しネズミと違っている……現在、血液から病原菌もしくはウィルスを抽出して解析し、可能なら抗体を作る作業に移ろうと思っている」

 

 見てみろと顕微鏡を指差す美波。促されて明乃とましろは代わる代わる接眼レンズに目をやるが、専門知識の無い二人には何が何やらさっぱりといった様子だった。

 

「確かに、このネズミには何か秘密がある……だから調べるのは賛成だが抗体を作るって……そんな事が出来るのか? この晴風の設備で」

 

「無問題(モーマンタイ)」

 

「成る程、確かにみなみちゃん、あんたならやれるかもだね」

 

 空になった皿を置いて、ソースまみれになった口元を拭いながらビッグママが言う。この発言を受けて明乃が不思議そうに、老艦長を見上げた。

 

「ママさんはみなみさんの事、知ってるんですか?」

 

 しかし問われたビッグママは、少し困ったように溜息を一つ。懐からスマートフォンを取り出すと何やらアプリを立ち上げて「ニュースぐらいチェックしなよ」と言いながら明乃へと渡した。ましろも明乃の肩越しに、画面を覗き込む。

 

「これは……」

 

 ニュースアプリには、アカデミックドレスを纏って表彰状を持った美波の写真が掲載されていて、見出しには「海洋生物医大にて、史上最年少で博士号を取得。天才少女・鏑木美波」と書かれていた。思わず明乃とましろは、スマートフォンの画面と実物の美波をそれぞれ見比べた。

 

「……飛び級していたので海洋実習はまだだったから……今回済ませようと思って、校長に頼んで乗せてもらった」

 

「す、凄いんだね、みなみさん……!!」

 

「後でクリムゾンオルカから防護服を取ってこよう。釈迦に説法だろうが、作業は細心の注意を払って行うように……」

 

 他にも細かい詰め合わせをしようとしていたが、そこで今度は伝声管から見張り台のマチコの声が聞こえてきた。

 

<艦長、接近中の艦艇2。ランデブー予定の補給艦、明石と間宮です>

 

 

 

 

 

 

 

 事前に乗員へと通達していた事もあって、合流した明石・間宮からの物資の補給並びに損傷箇所の修理は滞りなく進められていた。

 

「晴風艦長、修理した箇所や補給した物資の詳細なリストはここに」

 

 明乃とましろは明石艦長・杉本珊瑚からデータが入ったUSBを受け取り、現状の報告や作業終了時間の見通しなど細かい説明を受けていた。

 

 と、それが一段落した所で一人の女性が声を掛けてきた。明乃達の憧れの制服を纏った、正規のブルーマーメイドだ。珊瑚の話だと、明石に同乗してきたらしい。

 

「海上安全整備局、二等監察官の平賀です。早速ですが岬艦長、クリムゾンオルカ艦長のビッグママと連絡を取る事はできますか?」

 

 平賀の態度は事務的で、微妙に声のトーンから棘が感じ取れた。明乃とましろはそれぞれ複雑な表情になる。

 

 ビッグママは「あたしらは多くのブルマーから良くは思われてないからね。顔を見せて余計なトラブルを招く事もないだろ」と、補給が開始される前にさっさとクリムゾンオルカへ引き上げていってしまっていた。彼女の言葉は正しかった訳だ。

 

 明乃にとっては幼少時から世話になった恩人だし、ましろにとっても最初はならず者の親玉という印象しかなかったが、実際に話してみればとても気持ちの良い人物であり、的確なアドバイスや大胆かつ沈着な判断と行動で晴風を助けてくれた事実もある。仕方のない部分もあるとは言え、そういった人物が風評から良く思われていないというのはあまり気分の良いものではなかった。

 

「はい、通信を入れたらすぐ出てくれるとは思いますが……ママさ……ビッグママ艦長に何か?」

 

「横須賀女子海洋学校の宗谷真雪校長と、安全監督室室長、宗谷真霜一等監察官両名からの伝言です。現時刻から30分後、1400に専用回線で会議を行いたいと」

 

「母さ……校長と、宗谷室長が?」

 

「何か……あったみたいだね」

 

 ビッグママのクライアントである真雪と、現在ブルーマーメイドのトップである真霜。この両名からの呼び出しとあれば、何かただならぬ事態が起きた事を悟らせるには十分だった。

 

「尚、この会議には晴風の艦長並びに副長も同席する事を要請されています」

 

 

 

 事情を話し、クリムゾンオルカの発令所へと通された明乃とましろ。

 

 先だっての中間報告の時と同じように、ビッグママはキャプテンシートにどっかりと腰掛け、その両脇のゲストシートに明乃とましろがちょこんと座っていた。

 

「時間ですママ。回線、開きます」

 

 報告と同時にリケが計器を操作してモニターがザッ、ザッと僅かな雑音を立てた後、人影が映り込む。

 

 中央の一番大きなメインモニターには真雪が、そのすぐ脇のサブモニターに真霜、更に今回はもう一つのサブモニターに、真っ黒に日焼けして髪とヒゲが白くなりかけている50代後半ぐらいの精悍な男性が映った。

 

<ご無沙汰しとります、潮崎先生>

 

 男性が、画面の中でペコリと一礼する。ビッグママも「久し振りだねぇ、テッちゃん」と気安く手を振って応じた。

 

「ユキちゃんもそうだが、ついこないだまでヒヨッコだと思ってた子達が、もう校長先生か……時が経つのは早い早い」

 

 しみじみと語るビッグママ。彼女の言葉に入っていた「校長先生」というキーワードで、ましろはこの男性の素性に察しが付いたようだった「あっ……」と声を上げる。

 

「ミケ、シロちゃん、二人とも挨拶しな。東舞鶴男子海洋学校の、永瀬鉄平(ながせてっぺい)校長先生だよ」

 

 ビッグママがそう言ったと同時に、晴風の艦長・副長は反射的な速さで立ち上がって敬礼した。

 

「晴風艦長の、岬明乃です!!」

 

「同じく副長の、宗谷ましろです!!」

 

<東舞鶴校の、永瀬じゃ。晴風の話は聞いちょる。嬢ちゃんら、初航海から大変な事になったのぅ>

 

 まさに海の男というイメージの永瀬校長は砕けた感じで敬礼すると、モニター越しに真雪と真霜を見ているのだろう、視線が少し動く。その動きに連動するように、真雪と真霜が頷きを返した。

 

<嬢ちゃんらは、何でワシがこの会議に顔を出したか気になっちょるな?>

 

「もしかして……先の伊201と交戦になった件でしょうか?」

 

 おずおずと挙手した明乃がそう尋ねるが、永瀬校長は「がっはっは」と呵々大笑してみせた。

 

<ウチの生徒共は運が良い。まさか潮崎先生直々に潜水艦戦の手ほどきを受けられるなんてな。ワシが知る限り、先生は最高の艦長じゃ。いくら大金積んだって、こんな経験は出来るもんじゃないけぇのぅ。生徒達の事なら嬢ちゃん達が気にする事ぁない。まだまだガキじゃが仮にもホワイトドルフィン候補生。心も体も、あれぐらいで折れるようなヤワな鍛え方はしとらんけぇ>

 

 伊201の航行能力を奪って強制浮上させた件ではないという事が分かって、明乃もましろもほっと胸を撫で下ろす。

 

 だがこれで分からなくなった。では何故、東舞鶴校の校長がこの会議に参加してくるのだ?

 

「ネズミもどきについて、何か分かったって訳でもないようだね?」

 

<はい、おばさま……現在各方面に働きかけて調査中で……もう暫くだけ時間が必要になります>

 

 声に申し訳なさを滲ませ、真霜が頭を下げる。

 

「じゃあ……この会議は一体?」

 

<岬さん、それについては私が説明します>

 

 と、中央のモニターに映った真雪が、口を開いた。そこから咳払いを一つして絶妙に間を置くと、語り始める。

 

<本日1030、東舞鶴校の哨戒艇が武蔵を発見しました>

 

「「!!」」

 

 この一言は、クリムゾンオルカ発令所に集まった面々へ衝撃を与えるには十分だったようだ。ビッグママはぴくりと片眉を動かし、明乃は思わず席から立ち上がってしまった。「座りな、ミケ」とビッグママに制されて再度着席するが、明らかに落ち着かない様子だった。

 

<既に武蔵の生徒達を保護すべく、ウチの教頭を司令に据えた教員艦の艦隊が動いちょるが……この事を宗谷校長に報告して話を聞いてみたら、今の武蔵は艦・乗員共にまともな状態ではない可能性があるらしいからの……それで、今はワシの命令で艦隊の動きを止めちょる。ンで、聞けば先生や晴風は、同じ異常が発生した猿島やシュペーと交戦経験があるらしい。それでワシもこの会議に顔出させてもろうたという訳じゃ>

 

「……つまりこれは、武蔵の生徒を保護する為の作戦会議、という訳だね」

 

<はい、その通りです教官。あなたが予想された通りあの後、武蔵や比叡など行方不明艦が続出しました。状況から考えて、各艦に猿島やシュペーと同じ事態が起こっている可能性が高いと見ています。そこで、実際にその場に立ち合った教官や晴風の生徒からも、参考の為に意見を聞かせてもらいたいのです>

 

「……それならココちゃ……晴風の記録員が作成したレポートがあります。これを見ていただけたら……イワさん、送信お願いできますか?」

 

「分かったわ、ミケちゃん」

 

 ロックは明乃から受け取ったUSBを計器に差し込むと、手際良くコンソールを叩く。ほんの十秒ほどでそれぞれのオフィスにレポートが届いたのだろう、モニターに映る3名の目線が左右に動く。そうして数分ほど掛けてレポートに目を通した後、まず口を開いたのは永瀬校長だった。

 

<……ほうほう、要点を押さえて良く纏まっちょる。専門の秘書官でも中々こうは行かんぞ。宗谷校長、そっちには良い生徒が居るようですな。羨ましいわい>

 

 かっかっかっと大笑いする永瀬校長。社交辞令……には見えない。これは彼の本心だろう。真雪はモニターの中で目礼する。明乃も少しくすぐったそうに体を揺らした。やはり自艦のクルーが褒められるのは、悪い気はしない。

 

<……しかしこれを見ると、猿島の時もシュペーの時も、晴風は殆ど視界に入ると同時に撃たれたとあるな? 武蔵も同じような状態だとすると……通信に出ないのを単に計器の故障か何かだと思ってノコノコ近付いたが最後、いきなり主砲をお見舞いされる可能性があるか……>

 

<ですが艦砲射撃の精度・連射速度共に本来のスペックを発揮できない……これも猿島・シュペー両艦に共通して見られた特徴とありますね……この点については、シュペーから脱出してきたヴィルヘルミーナさんの証言とも合致します>

 

<……これらのデータから総合的に判断するなら、武蔵が撃ってくる可能性を念頭に置いて行動すれば、十分な装備を整えている教官艦もしくはブルーマーメイド・ホワイトドルフィンなら対応は可能だと思いますが……教官は、どう思われますか?>

 

 真雪から意見を求められ、難しい顔で腕組みしていたビッグママは「ううむ」と唸り声を一つ上げた。

 

「確かにデータ通りで油断せず装備も十分ならば、学生を殺傷する訳にはいかないという縛りがあったとしても、それでもこちらに五分以上の利があるとあたしも思う。電子機器に異常が生じているなら、その影響は武蔵のような大型艦ほど、顕著に現れるだろうからね」

 

 この時代の艦船は高度に自動化されてはいるが、それでも船を動かすのは究極的には人間の仕事だ。これが本職のブルーマーメイドやホワイトドルフィンの艦なら、常に艦が最高のパフォーマンスを発揮できるよう三交代制を取れるだけの乗員を乗せているから、電子機器が利かなくなったとしても非番の乗員も駆り出して何とか対応も出来るだろう。

 

 しかし武蔵は学生艦で、今回の横須賀女子海洋学校の訓練航海に出た艦は、一艦につき乗員は1クラス30名。これは晴風でも比叡でも武蔵でも変わらない。そして電子機器に異常が生じれば当然、艦の自動化機能にも制限が生じる。この影響は乗員の数が同じなら、艦の大きさに比例して大きくなるだろう。一名当たりが行う仕事量が多くなるからだ。

 

 つまり今の武蔵はとても十全の機能が発揮できる状態には無い、と推測できる。ビッグママや真雪達が勝機と考えているのはその点だ。だが……

 

「やはり……ネズミもどきにはまだ未知の部分が多い……何にしてもこれがひっかかるね。あたしらが持っているのはあくまで猿島・シュペーの2艦のデータでしかない。たった2つ。武蔵がその2艦と何かが違うという可能性も十分に有り得る。そこが気になるねぇ。あぁいや、シモちゃんを責めてる訳じゃあないよ。まだ調査を始めたばかりだ。すぐに欲しい情報が見付かる訳はないさ。報告書にもあるがネズミのケージは「Abyss」の箱に入っていたらしいからね、その辺りから当たってみたらどうだい?」

 

 「Abyss」とは、昨今世界的に有名な通販会社である。ビッグママも何かにつけ利用している。

 

<分かりましたおばさま、その線で探ってみます>

 

<……ネズミの件は平行して進めるとして……武蔵の事に話を戻そうや。確かに、我々にはデータが少ない。ここは近隣のブルーマーメイドやホワイトドルフィンに招集を掛け、更に十分な戦力が整うまで待つべきかのう?>

 

「あの……」

 

 雲上人ばかりの会話に、萎縮しつつ挙手したのはましろだった。

 

「発言、よろしいでしょうか?」

 

<勿論よ、まし……宗谷副長。現場にいるあなた達の意見も聞きたいからこそ、この会議に出席してもらってるのだから>

 

 真雪からの許可を受け、頷いたましろはゲストシートから立ち上がった。

 

「招集を掛けるのは、拙いのではないでしょうか?」

 

「戦力を集中させる分、警戒網に穴が空くから……だね? シロちゃん」

 

 ビッグママの補足に、ましろは頷き返した。

 

<……確かに……現在学校の指揮を離れているのは武蔵だけではなく比叡、五十鈴、磯風、比叡、涼月も……それもこれはあくまで現時点での数。今後も増えるかも知れませんしね。これらの艦を発見した時に即応する為にも、艦隊の配置を崩すのは得策ではないわね……>

 

<警戒網を解いてしまったら、次に行方不明艦を発見した時には東京湾を航行中だったという可能性もある……永瀬校長、申し訳ありませんが……やはりここは貴校の艦隊のみで対応してもらう他はないかと>

 

 先の会議でビッグママが言及したように猿島やシュペーの異常にネズミが絡んでいるとすれば、そいつらを乗せた艦が本土に突っ込んで内地に入り込まれでもしようものならもう事態の収拾は絶対不可能。奴等は文字通りネズミ算で増え続け、日本中どころか世界中にまでこの影響が広がる。それこそがまさに最悪のシナリオであり、何としても避けなければならない。その為にも、艦隊の布陣を変更する訳にはいかない。

 

<まぁ、やむを得ませんな>

 

「あたしらクリムゾンオルカも協力させてもらうよ。いざという時は無弾頭魚雷を武蔵のスクリューにブチ込んで動きを止める。その上で、ワクチンの開発なり情報の収集なり手を打てば良いだろ」

 

「あの、私達晴風も何か協力を……」

 

「艦長、私達は……!!」

 

 発言しかけた明乃を、ましろが制した。これは各校の教員並びに正規のブルーマーメイドやホワイトドルフィンの作戦だ。学生である自分達が介入できる余地は無い。彼女はそう言おうとしていた。

 

 しかし。

 

<いや……嬢ちゃん達にも、一つ仕事を頼みたいが>

 

 そう発言したのは、永瀬校長だった。

 

<先生が仰った通り、我々にはまだデータが足りん。武蔵に猿島・シュペーとは違うイレギュラーが発生している可能性は十分ある。晴風の現在位置は武蔵から近いけぇ、作戦の監視・記録を行う役目をお願いしたい。よろしいか、宗谷校長? ……無論、戦闘行為を行わせる気は毛頭無いけぇ……晴風の足なら遠巻きからの監視に徹すれば、いざという時は逃げ切れるじゃろ>

 

<……分かりました。そういう事でしたら……岬さん、聞いての通り晴風には東舞鶴校教員艦隊の作戦行動を記録する役目を命じます。戦闘行為は厳禁、危険だと判断したらすぐに撤退する事……良いですね?>

 

「あの……」

 

 明乃はまだ何か言いたげだった。ビッグママには今の彼女の胸中が、手に取るように分かる。武蔵には、無二の友であるもえかが乗っているのだ。艦長という立場さえ無ければ、すぐさまスキッパーで飛び出して行きたい心境だろう。ビッグママとて気持ちは同じだ。だが……

 

「ミケ、ここは聞き分けな」

 

「……ママさん……」

 

「それにこれはある意味、最も重要な任務だ。今まで話したように、武蔵が猿島やシュペーと同じなら、この作戦はまず成功する。逆に言うなら失敗するとしたら、まだあたし達が持つデータに無い”何か”が、武蔵に起こっているケースだ。その場合、晴風は全てのデータを記録し、持ち帰り報告しなければならない。それが、結果的に武蔵を……もかを……そして多くの人達を救う事にも繋がる。それが全て、晴風の働きに懸かっているんだ」

 

 ビッグママの大きな手が、明乃の頭に優しく乗せられた。

 

「艦長として、義務を果たすんだ。分かるね」

 

「……はい」

 

 完全に納得はしていないにせよ、了解の意を示した明乃を見てビッグママは「よーし、いい子だ」と頷き、モニター内の永瀬校長へと向き直った。

 

「テッちゃん、あたしは今や部外者であんたンとこの学校の艦隊に命令する権限など無いが……それでも一つだけ、艦隊への命令に付け加えてもらいたい事がある」

 

<……伺いましょう、先生>

 

「レッスン7だ。嫌な予感がする。こーいう時のあたしのカンは、良く当たるんだよ」

 

<<!!>>

 

<……レッスン7……!!>

 

 その言葉の意味する所を悟ったのだろう、真雪と真霜の表情が強張った。

 

 意図が掴めないましろが明乃に目をやるが、明乃も首を横に振るだけだった。

 

「ミケやもかにも、レッスン6から先は教えていなかったね」

 

 と、ビッグママ。その顔からは、既に先程まで明乃を諭していた時の柔和さは消え失せていた。

 

「レッスン7……『予想外の事が起こったら撤退しろ』だよ」

 



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VOYAGE:09 武蔵救出作戦 Ⅰ

 

 武蔵救出作戦の開始予定時刻まで、後30分。晴風と、並行して浮上航行中のクリムゾンオルカは目標の海域に到達した。

 

<距離35000。確認しました、武蔵と東舞校の教員艦隊です>

 

 伝声管からマチコの声がブリッジに響く。それを聞いて、双眼鏡を持つ明乃の手にもぐっと力が入った。

 

「もかちゃん……」

 

「艦長……艦長!!」

 

 二度目はほんのちょっぴりだけ語気を強くして、ましろが言った。

 

 親友が乗っている武蔵に注意が行っていた明乃だったが、すぐに自分の役目を思い出した。

 

「……あ、そうだね。晴風はこの位置で停船。ただしいつでも離脱できるよう、エンジンはアイドリング状態を保って。りんちゃん、舵はしっかり握っていて。のまさん、遠くて分かり難いとは思うけど武蔵の主砲の動きに注意を!!」

 

<合点!!>

 

「はいぃ!!」

 

<お任せあれ>

 

 ブリッジに緊張が立ち込める中、頭に響くベル音が鳴った。幸子が受話器を取る。

 

「はい、こちら晴風……艦長、クリムゾンオルカ・ママさんからです。代わりますね」

 

「はい、ママさん。明乃です」

 

<あぁ、ミケ。あたしらは予定通り、これから教員艦隊の支援に向かう。そっちはどうだい?>

 

「こちらも準備が整いました。晴風は主戦場からの距離を保ちつつ、作戦の監視・記録を行います」

 

<よろしい>

 

 ビッグママはここで一呼吸置いた。

 

<……ミケ、もう一度確認するよ。ここでの晴風の任務は戦闘の様子を記録し、収集出来る限りのデータを持ち帰って報告する事だ。無論、この作戦で武蔵を停船させ、生徒達を救出できれば万々歳だが……もし失敗した場合、晴風がもたらすデータが次の作戦の正否を決定する事になる。ましてや、今の晴風ではみなみちゃんがネズミのウィルスだか病原体に対する、抗体を開発している……つまりこの戦闘では、何があっても晴風は沈んではならないという事だ。操艦は生存・逃げ延びる事を第一優先で行うように>

 

「は、はい……」

 

<……極端な話、ここで東舞校の教員艦もクリムゾンオルカも全て沈んでも、データを記録した晴風一隻さえ生き延びれば、作戦は成功。この戦いはあたしらの勝ちだ。だからミケ、あんたは何があっても晴風を沈めるな。艦長の義務を果たせ>

 

「ママさん、そんな……」

 

 縁起でもない事を言い出す恩師に明乃は上擦った声を上げる。ましろ達艦橋要員の表情も厳しくなった。

 

<なぁに、あたしは後150年は生きるつもりなんでね。今度、あたしのタブレットを見てみるかい? 予定は三年先までビッチリだよ。今のは心構えと勝利条件の話さ……それに……>

 

「……それに、何ですか? ママさん……」

 

<あんたはこれぐらい言っとかないと、一人で飛び出して行きかねないからねぇ>

 

「うっ……」

 

「『二度とここへは帰れなくなるよ!!』」

 

 すかさず、幸子がいつもの芝居が掛かった声を上げる。ブリッジの面々はもう「また始まった」という呆れ顔をしなかった。みんなすっかり慣れっこになってしまっている。

 

「『分かってる!!』」

 

 と、ここで少年のような声で合いの手を入れたのは意外や意外、ミーナであった。これには、明乃もましろも鈴も驚いた顔になった。

 

「『覚悟の上だね!!』」

 

「『うん!!』」

 

 更に、期待に輝いた二人の目がスピーカーへと向いた。見えている訳もないがそれに呼応するように<はぁ……>と小さな溜息が聞こえてきて、

 

<『40秒で仕度しな!!』>

 

 ぱちぱちと、拍手する幸子とミーナ。通信機越しでも、小芝居の呼吸はぴったり合っていた。

 

<……と、こんな具合に思い詰めてぶっ飛んでいきそうだからねぇ。先に釘を刺させてもらったよ>

 

「ミーちゃん、今のは……」

 

「以前、アドミラル・オーマーがシュペーに乗艦されていた時、漫画やジャパニメーションのDVDを色々持ち込まれての……訓練が終わった後にはよく皆で集まって上映会をやっておったのじゃ。お陰で我が艦の乗員はすっかり日本通になってもうた」

 

「日本が誤解されそうだ……!!」

 

 頭痛が襲ってきて、ましろはこめかみを揉みほぐす。

 

 とは言え、これまで緊張でカチコチだったブリッジの空気が、ほどよくリラックスできたようにも思える。図らずもこの通信には良い効果があったと言えるだろう。

 

<……ミケ、一つ言っておくよ>

 

 ビッグママが会話を再開する。既に声色は、真剣なものに戻っていた。

 

<戦闘記録を見たが、あんたには良い艦長の素質がある……何十人と艦長を育ててきたあたしが言うんだ、間違いない。猿島との戦闘時も、結果的に艦と乗員を救う為に最善の選択が出来ていたしね。だからあんたが艦の指揮を放棄するもしくは誰かに任せて飛び出す事はあんた一人の問題じゃあない。艦と乗員全員の生存率を下げるのと同義である事を覚えておくんだ>

 

「……」

 

 これは明乃の独断専行を戒める目的の方便でもあるのだろうが、ましろは少しばかり複雑な心境だった。自分が適性や能力で劣ると言われたようだったからだ。そんな事を考えている間にも、ビッグママの話は続いている。

 

<そしてこれを聞いてる晴風の皆にも言っておく。艦長とクルーはどうあるべきかってのについてね。これはレッスン8『信頼について』だ>

 

「艦長とクルーがどうあるべきか……ですか?」

 

<そうだ、あまり時間が無いから手短に言うが……良いかい? クルーってのは、艦長の方針には好きなだけ文句を言って良いし、自分の意見もガンガン言って良い。むしろ言うべきだ。だがそれらは全て、艦長にとってはあくまで『判断材料』でしかない事を覚えておくんだ。だから仮にクルー全員がプランBを推していても艦長がプランAで行くと決めたなら、クルーはそれに従うべきだ>

 

「…………」

 

 ちと極端ではあるが、正論でもある。艦の指揮系統が確立されて上意下達の体制がしっかりしていなければならないのは当然だし、クルーとしては艦長の判断を立てるべきなのも確かだ。ブリッジの全員が、黙って聞いている。ちなみにこの会話は現在、晴風全体に流れている。機関室にも、調理室にも。

 

<だがミケ……艦長はそこまで反対を押し切って決めたんだから、その決断には責任を持って、必ず成功させるんだ。そして……>

 

「クルーの方は『これだけ言っても艦長は意見を曲げなかったんだから、何か成功の確信があるんだ』と信じて付き合う事……信頼というのはそういうもの……でしたよね、アドミラル・オーマー」

 

 途中からは、ミーナが引き継いだ。彼女もまたビッグママから、教えを受けた一人なのだ。スピーカーから<ほう>と感心したような吐息が聞こえてくる。

 

<おお、良く覚えていたね、ミーナ>

 

「……この一年、ワシはシュペーの副長として常にそれを心掛けてきましたので」

 

<……本当なら、もっと段階を置いて教えていきたかったけど……ここからは監視・記録の任務とは言え実戦だからね。艦の安全の為にも、この心構えは持っていてもらいたかったんだよ……どうか皆これを忘れずに、事に当たってもらいたい。以上だ>

 

 これを最後に、ブツッという耳障りな音と共に通信が切れた。それとほぼ同時に、水測室と見張り台から報告が入る。

 

<クリムゾンオルカ、10ノットで前進開始。艦内に注水音が聞こえます>

 

<見張り台からも確認。ゆっくりと潜行していきます>

 

 艦橋からもその様子は見えていた。やがて艦全体が水中へと姿を消したのを見届けると、明乃はすうっと深呼吸して両手で自分の頬を叩いた。パン、と気持ちいい音が鳴る。

 

「よーし……!! まりこうじさん、採音を始めて!!」

 

<承りましたわ>

 

「のまさん、ビデオカメラ回して!! 作戦の様子を記録!!」

 

<了解!!>

 

「つぐちゃん、艦隊や武蔵から何か電信が入るかも知れないから、それを見逃さないように!!」

 

<分かりました!!>

 

「めぐちゃんも、周辺を航行する船舶の様子には常に注意して!! 近付く艦があったらすぐに知らせて!!」

 

<了解>

 

 てきぱき指示を飛ばしていく明乃を見て、ましろは「うん」と一つ頷く。

 

「いいぞ、艦長」

 

 今日の明乃は、今まで見てきた中で一番艦長らしく見える。

 

 先程のビッグママの物言いには少しばかりプライドが傷付いたものだが……だが確かに猿島との遭遇戦で魚雷を撃って逃げようという明乃に対して自分は敢えて反撃せず、砲撃に耐えるべきだと進言した。もし明乃がその意見に同意して反撃しなかったら、自分達は今頃ここには居ない……どころか晴風が浮かんでいるかどうかすら怪しいものだ。結果オーライな面も多分にあるが、しかし教本通りに動いて轟沈しては意味が無い。艦と乗員の安全が最優先である以上……ビッグママの評価は間違っていない。

 

 明乃は艦長として、正しかったのだ。

 

 ならば自分も副長として、とことんサポートせねばなるまい。

 

 腹を括ったましろは今し方明乃がそうしたように、深呼吸して顔を叩くと気合いを入れ直す。

 

「よしっ……各部署に連絡!! 戦闘行為が禁止されているとは言え、これは実戦だ。一瞬も気を抜くなともう一度徹底させるんだ!! ……ですね、艦長?」

 

「うん、ありがとうシロちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

「しばらくは潜望鏡深度を維持。レッドオクトーバーを使って、距離を置きつつ武蔵に気付かれないよう艦尾に回り込むんだ。取舵50度」

 

「了解、ママ」

 

 潜望鏡を覗き込みながら、艦の動きを指示するビッグママ。

 

 ナインがコンソールを叩くと同時にクリムゾンオルカの外部ではスクリュープロペラが停止し、代わりに艦首と艦尾両舷の一部がスライドして左右合計で4つ、魚雷発射扉よりも倍ほど大きな”穴”が現れる。僅かな時間を置いて、後部の”穴”の周りの水が揺らいだ。高圧水流が噴出されている為だ。

 

 これがクリムゾンオルカに搭載される3つの特殊兵装の一つ、トンネル式無音航行システム『レッドオクトーバー』であった。

 

 アメリカやロシアの海軍ではキャタピラー・ドライブとも呼ばれ研究が進められている装置であり、極々簡単に言えば”水中のジェットエンジン”である。前方の扉から海水を取り込み、高圧を掛けて後方の”穴”から噴出する事で推進力とする。従来のスクリュー推進との相違点は、その静粛性にある。

 

 この推進機関はスクリューと比べて動く部分が無い上にスクリュー推進につきものの気泡・キャビテーションノイズが発生しないから、遥かに音が静かなのだ。よってビッグママが言ったように、本職のブルーマーメイドであっても水測が音を拾えない。よしんば拾えたとしても鯨の声や海底火山の音だと誤認する可能性が高い。

 

 海中に姿を隠す潜水艦とは、恐ろしいほどに相性の良い装備であると言える。

 

 艦がエンジンを動かしていてソナー効力が落ちている状態でありながら、水中聴音に違和感を覚えた楓が優秀だと評されたのはこういう理由からだった。

 

 今回の任務でクリムゾンオルカが果たす役割は、予想外の事が起こって東舞鶴校の艦隊が武蔵を保護するのが困難となった場合に、無弾頭魚雷でスクリュー・シャフトを破壊して航行不能にする事である。

 

 だがありとあらゆる所に手が入ってベース艦の伊201とは最早ガワが同じだけの別の艦と化しているクリムゾンオルカでも、後方へと魚雷を撃つ事は出来ない。よって、まずは武蔵に気付かれないよう背後を取り、スクリューを狙えるポジションを確保する必要があった。

 

「ママ、艦隊に動きあり。一隻が、武蔵に近付いていきます。予定通り、まずは保護しに来たという旨を伝えるようです」

 

「あぁ、リケ。あたしからも見えてる」

 

 さてどうなるか……

 

 何事もなく停船して保護を受け入れるか、それとも撃ってくるか。

 

 潜望鏡のグリップを握る手に汗が滲んでいるのを、ビッグママは自覚していた。僅かばかり期待はあるが、正直前者は望み薄だと彼女は見ている。

 

 恐らく、武蔵は撃ってくる。問題はそこからだ。そんな事を考えていると……

 

「ん!!」

 

「ママ、海上で発射音……この音は……!! 武蔵の主砲です!!」

 

「ああ、こっちでも見えて……!?」

 

 次の瞬間、ビッグママは言葉を失った。

 

 武蔵の主砲が火を噴いて、撃ち出された砲弾は東舞鶴校教員艦4番艦の機関部に、正確に命中したのだ。

 

「艦体破壊音及び、浸水音が聞こえます!! 当たりました!!」

 

「あぁ、見りゃ分かる!! あれじゃあ航行不能だ!!」

 

 予想はしていたが、動揺はあるのだろう。いつものビッグママより少しだけ語調が荒かった。だがそれも一時。体に染み付いた経験が、すぐに精神状態をニュートラルに戻す。

 

「初弾で当ててくるって……いきなり予想外の事が起こったわね。シュペーの時は、人の目で狙いを付けてるみたいに照準が大雑把だったのに」

 

「偶然やまぐれ……って考えるのはおめでたい……ですよね、ママ」

 

 いつも通り同意を求めるナインに対し、ビッグママは「その通りだよ」といつも通りに返す。

 

「命中したのは武蔵が狙ってやった事だ。最初の一発で当てるなんて、猿島やシュペーとは明らかに何か違う……まず照準は正確……では、連射速度は……?」

 

 答えはすぐに出た。

 

 スコープの中の武蔵は搭載された主砲・副砲を滑らかに動かし、照準し、東舞鶴校の艦隊へと圧倒的火力を雨あられと浴びせていく。見る限り砲塔の旋回速度・連射速度共にビッグママの脳梁に叩き込まれたカタログスペックとほぼ遜色は無い。

 

 教員艦隊はジグザグに回避航行を取っているが、夾叉や至近弾も多い。完全にはかわしきれずに何発か被弾してしまう。

 

「……こりゃダメだ」

 

 諦めたように呟いたビッグママはグリップを畳むと潜望鏡を収納するよう指示を出して、どかっとキャプテンシートに腰を下ろした。少しふてくされているようにも見える。

 

「……ロック、東舞校教員艦隊に打電を」

 

「もう送ってるわ、ママ。『武蔵の攻撃性能は万全にほぼ近い状態を維持している事を確認。これは本作戦の前提条件を完全に覆すものである。よって貴艦らは、速やかに当海域からの撤退を開始されたし。本艦はこれを援護する』とね。同じ内容を、横須賀女子海洋学校・東舞鶴男子海洋学校・海上安全整備局安全対策室にもそれぞれ送ってます」

 

「よろしい」

 

 仕事の早いクルーにビッグママは満足そうに頷き、その後で大きく溜息を吐いた。

 

 レッスン7『予想外の事が起こったら撤退しろ』。嫌な予感がしたからそう心掛けろと言っていたが、嫌な予感ほど当たるものだ。ちっと舌打ちする。

 

 そもそもこの武蔵保護作戦は武蔵が撃ってくる所までは想定内だが、同時に武蔵が本来のスペックを発揮できない事を前提として立案されている。東舞校の教員艦の装備は最新鋭のものがあり、クルーも生徒を指導する立場にある教員だから当然練度・経験値は高い。故に能力をフルに発揮できない武蔵であれば、向こうが撃ってくる可能性を念頭に置いて行動したのなら制圧できる見込みは十分あった。

 

 だが現状、その前提条件は根幹が吹っ飛んでしまっている。

 

 武蔵は艦のポテンシャルを十全に引き出して、正確な射撃を教員艦隊へと浴びせてきている。それでも、沈めていいなら数の差もあって五分以上に渡り合えたろうが、教員艦隊の目的はあくまで武蔵の生徒を保護する事。必然、選択し得る攻撃オプションは限定されてしまう。一方で武蔵はお構いなしに実弾を撃ってくる。この差が、そのまま海上での旗色の差となってしまっていた。

 

 正直な所、教員艦隊があまり長く持ち堪えられるとは思えない。

 

「ママ、東舞校と横女からそれぞれ通信が入りました。モニターに出します」

 

<先生、状況は把握しちょります>

 

<教官のカンが……当たりましたね>

 

 メイン・サブの2モニターに、深刻な顔をした永瀬校長と宗谷校長がそれぞれバストアップで表示された。

 

「ああ……懸念していた事が起きた。やはり例のネズミもどきには”何か”がある。人を好戦的にさせたり電子機器を狂わせるだけじゃない。”何か”まだ……あたしらが知らない謎がある。それに武蔵の様子は、猿島やシュペーとは全く完全に違う。何でそんな違いが生じるのか? それも含めてネズミの秘密を全て暴かない限り、事態を収拾するのは難しいだろう」

 

 がちんと、煙管を噛み締めるビッグママ。これは不機嫌な時に出る彼女のクセだった。

 

<……艦隊の警戒網を崩す訳には行かないにせよ……宗谷一等監察官の調査が終わるまで待つべきじゃったでしょうか?>

 

<いえ……猿島・シュペーの乗員が暴走したのがネズミのせいなのは教官がお持ちの情報から考えても確定的……ならば原因として可能性が高いのはやはり何かの病原菌やウィルスの類……その感染が武蔵や他の行方不明艦にも広がっているとすれば、生徒達がいつまでも無事でいる保証もありません。保護の為には一刻も早く動く必要がありました>

 

「……ユキちゃんに同感だね。それに猿島とシュペーには相違点は無く、武蔵も同じである可能性はあった……と言うよりその可能性の方が高かった。作戦が成立するには十分なほどにね。これは単純に予想外の事態が起きただけ……よくある事だよ、実戦ではね……逆に何もかも予想通りで上手く行く方が、よっぽど珍しい」

 

 語るビッグママの目からは、既に苛立ちや悔しさの色が消えていた。今の彼女は完全にそうした余計な感情を排除して、この状況から得られる全ての情報を次の作戦に活かせるよう、脳内で分析とシミュレーションを進めているのだ。

 

「とにかく、こうなった以上は艦隊を速やかに撤退させるべきだ。だが武蔵がバンバン撃ってくるこの状況では、背を見せては退けないだろ。だからあたしらが、撤退を援護する。それであわよくば武蔵のスクリューを破壊して足を奪う。これで行こう。ユキちゃんは引き続き国交省や海上安全整備局に働きかけて時間を稼いでくれ。テッちゃんは負傷者の受け入れ体制を整え、艦隊の再編を急ぐんだ」

 

<了解しました。苦労を掛けます、先生>

 

<お気を付けて>

 

 通信が切れると、ビッグママはごっつい尻を少しだけ浮かして座り直す。

 

「ママ、これ以上潜望鏡深度は危険です」

 

「そうだね、深度200につけな。それとレッドオクトーバーを停止させて再びプロペラ推進に切り替え。後、アクティブソナーを打つんだ」

 

 無音の推進装置であるレッドオクトーバーは潜水艦に最適な足と言えるが弱点もある。その一つがスクリューと比較した時のエネルギー効率の悪さだが、ディーゼル潜ならいざ知らずレーザー核融合炉をメイン動力とするクリムゾンオルカはエネルギーなど有り余っており、これは無視できる問題と言える。

 

 ならば艦を軽量化する為にもスクリューをオミットすれば良いと考えるのが普通だが、ビッグママは敢えてスクリューとレッドオクトーバーの併用を選択していた。彼女は70年になろうという乗船経験からただ単に音を抑えて見付かりにくくするよりも、音を立てるスクリューと無音のレッドオクトーバーを使い分けて緩急を付けた運用を行う事で相対的に静粛性がより強調され、更に隠密性を高める事が出来ると考えていたのだ。

 

 そして今回のように、本来姿を現してはならない潜水艦が敢えて自ら存在をアピールするという運用すらも、彼女は自らの戦術に組み込んでいた。これは伊201との戦闘で行ったミュージックを利用した戦法からも証明されている。

 

「成る程、近くに潜水艦が居ると武蔵に教えてやるんですね」

 

「教官艦隊を追撃するか、こっちへの対策を取るかを迷わせる……ですよね、ママ」

 

「そういうこった」

 

「了解、アクティブソナー、打ちます」

 

 スイッチを押してすぐにピンと発信音が鳴って、ややあってカーンと反響が返ってきた。

 

 堂々と音を立てての移動と探信音波。これで武蔵は、確実にクリムゾンオルカの存在を知った。

 

「さて、どう出る……?」

 

「ママ、武蔵の動きが少しだけ鈍くなったようです。砲撃のペースが落ちています」

 

 リケの報告を受け、ロックとナインはぱんと手を叩き合わせた。武蔵の判断を迷わせるという作戦は、上手く行ったようだ。

 

「ママ、海上で発射音多数。教官艦が噴進魚雷を発射しました」

 

 噴進魚雷とはその名の通り、洋上艦から発射されるとまず噴射機構によって空中を推進、その後着水して通常の魚雷と同じように水中を進むという兵器だ。

 

「よーし、良い判断だ。無弾頭であろうと牽制ぐらいにはなる。これで武蔵の足が鈍った所で、全速を掛けて逃げるんだ」

 

 東舞校教員の判断を、ビッグママは賞賛した。確か司令官は教頭だと聞いていたが、流石の経験と練度だ。ほぼゼロ時間でこちらのピンガーの意味を完璧に読み取って、武蔵に生じた一瞬の隙を逃さずに最善手を打ってきた。そしてこのチャンスは、自分達も最大限に活用させてもらう事にしよう。

 

「ロック、一番二番発射管に魚雷を装填。噴進魚雷が当たって武蔵の動きが鈍った所を狙って発射する。照準は武蔵のスクリューシャフト、弾頭は外しておくんだ」

 

「分かったわママ。セットはどうします? やはり武蔵のエンジン音やキャビテーションを追尾するように? それとも有線誘導で?」

 

「いや……」

 

 ビッグママは僅かな時間だけ、判断に時間を割いた。

 

「……ここは敢えて直線セットで行こう。ミーナはシュペーで電子機器が使えなくなったと言っていた。武蔵にも同じ事が起こっていると考えると……魚雷が武蔵に接近したらセンサーが狂って迷走を始めるかも知れな……いか……ら………………」

 

「? どうしました? ママ」

 

「……武蔵に接近したら……魚雷のセンサーが狂って……迷走を始める……?」

 

 頭を伏せてぶつぶつと呟き始めるビッグママ。心配したナインが声を掛けるが、老艦長はいきなりばっと顔を上げた。

 

「ナイン、魚雷発射は中止!! リケ、海面の様子に注意しな。今、教員艦が発射した噴進魚雷の動きに気を付けるんだ!!」

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

 武蔵が圧倒的な攻撃力を発揮し、東舞校の艦隊が撤退を開始しているのはこちらからも観測できていた。

 

「艦長、これ以上は……本艦も危険です」

 

「うん、そう……だね……」

 

 明乃の握り締めた手が白くなっているのが、ましろには見えた。

 

 武蔵には親友が乗っていると聞いていたが……大切な友であった事が、良く分かる。

 

 助けたいだろうが……それは任務に反する行動だし、この状況で晴風にそれは不可能だ。ビッグママのレッスン6にも反するし、作戦開始前にこんこんと諭され、戒められた。

 

 いよいよとなったら晴風だけでも逃げ延びろと。

 

「……りんちゃん、取舵一杯。まろんちゃん、機関最大戦速。最速で、現海域を離脱します」

 

 全ての感情を押し殺した能面のような顔で、明乃が命令する。いつもの彼女とはあまりにも違うこの様子にブリッジクルー達は戸惑ったようになるが……

 

「聞こえなかったのか、取舵一杯!! 一刻も早く安全圏まで脱出するんだ!!」

 

「は、はいぃ!!」

 

<合点!!>

 

 副長の一喝を受けて我に返ると、それぞれ自分の仕事をこなし始める。

 

 ましろは眼を細め、じっと武蔵を睨んだ。もしあれに乗っているのが、母や姉達だったとしたら……そう考えると、明乃の気持ちが良く分かった。

 

「……艦長、あまり一人で抱え込まないように。副長として、私もサポートします」

 

「シロちゃん……」

 

 振り返った明乃の瞳は、揺らいでいた。

 

「あ……ありが……」

 

<か、艦長!! 大変ですわ!!>

 

 言い掛けた声は、ソナー室から聞こえてきた楓の声に掻き消された。口調は少し噛み気味でいつになく動揺が感じ取れる。

 

「どうしたの? まりこうじさん!!」

 

<先程、東舞校教員艦から発射された噴進魚雷が着水、航走開始……クリムゾンオルカへ向かっていますわ!!>

 

「何だと!?」

 

「ママさん!!」

 

 

 

「ウオ!!」

 

 時を同じくしてクリムゾンオルカのブリッジでは同じ報告が、リケから発せられていた。

 

「ママ!! 教員艦の撃った魚雷が二本、こっちに向かってきます!! 距離0まで3分!!」

 

 味方から魚雷攻撃を受けるという想定外の状況に、ビッグママ自慢のクルーも流石に早口になっていた。口角には泡も見える。

 

「来たか……!!」

 

 ビッグママは臍を噛む。またしても嫌な予感が当たった。

 

 電子機器に異常が生じてセンサーが狂うなら、噴進魚雷とて例外ではなかったのだ。こっちへ向かってくるのは流石に偶然だろうが、まさか味方の魚雷に怯える事になるとは想定外だった。

 

 だが、ギリギリのタイミングとは言えその可能性に思い至れた。ならば対応策も打ち出せる。

 

「この距離とタイミングじゃデコイや囮の物体による攪乱は間に合わない。ここは回避だ、マスカー開始!!」

 

「「「了解、ママ」」」

 

 動揺しているとは言えクルー3名の練度は流石に高く、すぐに自分を取り戻すと艦長の指示に従い、素早く機器を操作していく。

 

「マスカー開始します!!」

 

 マスカーとは魚雷のセンサーを攪乱する為、気泡を発生させる装置である。艦体を気泡で包み、自艦が発生させる音をシャットダウンする効果がある。

 

「……!!」

 

 ごくりと、誰かが唾を呑んだ音が異様に大きく聞こえた。

 

 出航前の艦のチェックは万全だったし、このクリムゾンオルカに搭載されている装備は全て最新鋭の物だ。今頃は気泡が艦をすっぽり覆っている筈。これなら確実に魚雷のセンサーは狂う。だから大丈夫、の、筈なのだが……

 

 この時ばかりは、正直生きた心地がしない。深度200の海中に出て頭を冷やす羽目になっても、ちゃんとマスカーが作動しているかどうかハッチを開けて確認したい気分だ。

 

「魚雷到達まで、1分!!」

 

 ピン……ピン……

 

 魚雷が発するアクティブソナー音が、聞こえてくる。

 

「距離50!! 来ます!!」

 

 ピン、ピン、ピン……

 

「リケ」

 

「は!!」

 

 爆発音から耳を守る為、ヘッドホンを外そうとしていた手が止まった。

 

「掛けときな。こいつらは当たらない」

 

「……分かりました、ママ」

 

 下手をすれば一生音の無い世界の住人になりかないが……それ以上は何も言わず、リケはヘッドホンを戻した。

 

 少しは気休めになるのか、ナインは手足を突っ張るとショックに備えて体を固定する姿勢となった。

 

 ピピピピピピ…………

 

 ピピピ…………

 

 ピ……

 

 ……

 

 爆発音も、衝撃も襲ってこない。

 

 魚雷は、外れたのだ。

 

「ふうーっ……」

 

 ナインが大きく息を吐いた声が、発令所に響く。

 

 ロックが、汗でびっしょり濡れていた額を拭った。

 

「武蔵との距離が離れていきます。追跡しますか?」

 

「いや……武蔵の状態は我々が想定していたものとはあまりにもかけ離れていた。作戦の続行は不可能。ここは撤退して戦力を整えると同時に、宗谷真霜一等監察官の報告を待って十分なデータを揃えた上で、作戦を練り直してから挑むべき……ですよね、ママ」

 

「そういう事だよ、ナイン。残念ながらこの作戦は見事に失敗した。完膚無きまでにね」

 

 ビッグママは愛用の煙管を握力でへし折ってしまった。

 

 屈辱ではある。いち早く生徒の安全を確保する為とは言え、データ不足で突っ込むという愚を犯したツケを支払わされる形となってしまった。

 

「だが……あたしはまだ生きてる。息子(クルー)達も、この艦も健在……そして何より、晴風が生存している」

 

 手痛い打撃を受けはしたが、立て直せる余地はある。切り札も残っている。

 

 ビッグママはスマートフォンを操作すると、保存されている写真を呼び出した。9年前の、明乃ともえかと自分が写っているものだ。

 

『もか……必ず助けに行く。もう少し、もう少しだけ……待っていておくれ……』

 

 心中でそう呟くと、ビッグママはスマートフォンの画面を消した。

 

「機関全速!! 現海域より離脱後、晴風と合流する!!」

 



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VOYAGE:10 教官ビッグママ

 

「むう……」

 

 タブレットに表示された情報を睨みつつ、ビッグママは眉間を揉みほぐす。

 

 武蔵救出作戦が失敗し、安全圏に離脱したと同時に彼女が行った事は情報の収集だった。

 

 先の作戦が失敗した原因は一にも二にも情報不足、これに尽きる。確かに実戦に於いて予想外の事態は付き物ではあるが、それでも先の作戦では十分な情報があればその内の幾つかは回避できていた。

 

 その最たるものが、武蔵の射撃の精度と速度。猿島やシュペーのそれとは明らかに違っていた。

 

 電子機器に異常が生じているのなら最初は乗員の練度の差かと思ったが、その可能性はすぐに却下される。猿島に乗っていたのは横女の教員だから、当然練度は学生より上だ。その猿島でさえ射撃が中々当たらなかったのに、学生が乗っている武蔵はいきなり初弾を当ててきた。つまり、乗員の練度は関係無い。

 

 ……と、いう事は……

 

『原因がネズミだとして……猿島やシュペーに入り込んだネズミと、武蔵に入り込んだネズミは何かが違う?』

 

 そこまで推論は立つが……

 

『……じゃあ何がどう違う?』

 

 次にそう考えた所で思考が止まってしまう。

 

 やはり圧倒的に情報不足。どんな名探偵も情報無しには推理できない。情報無しの推理は推理に非ず、ただの当てすっぽうである。これでは次の作戦の立てようが無い。可能性を無視して作戦を立てるのは最も危険な行為だ。

 

 こうした事情からビッグママは改めて武蔵に関連する情報を洗い直させていたが、その中で興味深いものが見付かった。

 

「『4月5日2000、西之島新島沖で、貨物船が武蔵と思われる艦艇から砲撃を受け大破……救難信号を受信……』」

 

 学生艦が貨物船を襲う理由など存在しない。つまり、この時点で武蔵にはネズミの影響が出ていたのだ。

 

「ロック、チャートだ」

 

「はい、ママ」

 

 メインモニターに、西之島新島を中心とした海図がディスプレイされる。

 

「次はユキちゃんから送られてきた訓練航海における武蔵の予定航路を映して」

 

「了解」

 

 海図に横須賀から西之島新島までの赤いラインが引かれた。これは横須賀女子海洋学校から送られてきた、訓練航海に於ける武蔵の予定航路である。そのライン上に、一定間隔ごとに黒点が付けられて日付と時間が表示される。これは武蔵がその海域を通過する予定時刻だ。

 

「その次は……」

 

「貨物船から救難信号が出たポイントですよね、ママ。只今表示しますよ」

 

 ナインがピアノを弾くようにキーを叩くと、バツ印が海図に出現した。その位置は、ちょうど赤ラインの上に乗っている。そしてバツ印を挟む二つの黒点に表示された時刻と巡航速度から割り出されたこの地点に武蔵が居た(と予想される)日付と時間は、やはりと言うべきかピタリ4月5日20時。これで貨物船を砲撃したのが武蔵である事がほぼ確定した。

 

「だとすると……おかしな事があるねぇ」

 

「は?」

 

「おかしな事とは、ママ?」

 

「……猿島が集合地点である西之島新島へ到着したのは4月6日。猿島には海洋安全整備局のスタッフが同乗していたそうだし、我々に依頼が来た事からもそれまでネズミは西之島新島に居た事は確実……なのに猿島が到着する前の4月5日には既に、武蔵にネズミの影響が出ていた……これですよね、ママ」

 

「そういうことさ、ナイン……リケ、今度は現時点で行方不明になっている艦とその艦が最後に確認されたポイント及びロストした時刻を表示しておくれ」

 

「分かりました、ママ」

 

 コンソールが叩かれ、十数秒ほどで「五十鈴」「磯風」「比叡」「涼月」といった艦名が輝点と共に表示された。

 

「……見ての通り、ネズミの被害が出たと思われる艦の位置や時刻には全くパターンが無く、バラバラだ。よってこの一連の事件は計画的なものではなく、偶然や事故が重なった結果発生した一種のバイオハザードである可能性が高い……つまり猿島に乗っていた海上安全整備局の連中がヘマをしたから、猿島や集合していた艦艇に影響が広がった……という線を考えていたんだけどね」

 

「……違う、と?」

 

 リケの言葉に、ビッグママは頷く。

 

「……晴風が回収した「Abyss」の箱。あたしは当初、ネズミもどきが防水性のケージか何かに入って海に放されたのだと見ていたけど、それは当たっていた」

 

 あの後よく調べてみると、箱の中のケージには水とエサも入っていた。

 

「……だが分からない事が一つ」

 

「……あんなのに入っていたって事は事故でも何でもなく、明らかに何日か海を漂流するのを前提として誰かが意図的に流したって事になるが……じゃあ誰が? 一体何の為にそれをやったのか? それが分からない……ですよねママ」

 

「海上安全整備局……は、有り得ないわよね。彼等の目的はネズミを回収する事。ネズミを放流するなんてその目的と180度正反対の行いだし」

 

「あるいは当初の俺達みたいに、ネズミの秘密を掴んで金をせしめようとした連中が居たとか」

 

「それも考えにくいねぇ。仮にそんな連中が居たとして、ネズミをネタに海上安全整備局を揺すろうって魂胆なら尚更ネズミを放流などする訳がない。手元に置いといた方が良いに決まってる。それに、もしそうだったらそいつらが猿島や他の学生艦に見付かっていなければ不自然だ」

 

 むすっと頬杖を付くビッグママ。

 

 大体してここまでの事態の推移を見る限り、件のネズミもどきがもたらす影響は全く制御不可能な事象である可能性が高い。原因が大方の予想通りウィルスや細菌だとして、抗体があるかどうかさえ怪しいものだ。そんなのを闇雲に海に放っても破壊とカオスが生まれるだけだ。実行犯が破滅願望のある狂人なら話は別だが……

 

『そうでないとするなら……一体誰が居る? ネズミを海へ解き放って得する奴……政治家? 役人? 実業家? それにネズミを放ったそいつは一体それで何を得る? 金? 地位? 名誉? いや……どれもしっくり来ないな……何か違う気がする』

 

 思考は八方塞がりの迷路に入ってしまっている。

 

 だがどれも正解でないのは直感で分かる。根拠は何も無いが、考え方それ自体が根本から間違っているような予感がある。

 

 もやもやとした気分が胸に広がって、居心地が悪くなったビッグママは首をゴキリと鳴らした。

 

「俺なら事情を知っていたら、どんな大金をもらっても遠慮したいね」

 

「そうよねぇ。私も同意見よ。死んだら金は使えないし」

 

 クルー達も、犯人には見当が付かないようだ。

 

 ……だが。

 

「…………」

 

「ママ?」

 

 コンパクト片手に化粧を直しながら言ったロックは、しかし艦長がじっと自分を見詰めているのに気付いて首を傾げる。

 

「ママ? ……ママ?」

 

 口をあんぐり開けて目の焦点が合っていないので、さっさっと眼前で手を振ってみる。反応は薄い。

 

 しかし次の瞬間、物凄い速さでビッグママの右手が動いて彼の手を掴んだ。

 

「あ、いただだだだ!! 痛い!! 痛いわ、ママ!!」

 

「ど、どうしたんですか!? ママ!!」「と、兎に角落ち着いて……!!」

 

 135キロの握力で手を握られて、悲鳴を上げるロック。ミシミシと骨が音を鳴らしている。リケとナインは訳が分からないながらも制止しようとするが、しかしビッグママは有無を言わせぬ剣幕でロックに額を付き合わせた。

 

「ロック、あんた今何て言った!? 同意見よ、のその後!!」

 

「え? え?」

 

「何て言ったかって聞いてるんだーーーーっ!! 何て言ったぁっ!?」

 

 今のビッグママは鬼気迫る形相で、リケとナインもこれが只事ではないと悟って制止しようとする手を引いた。自分達の艦長は、意味無く暴力を振るう人ではない。これほどまで取り乱すとは、余程の事情があるのだろう。ロックも同じ思考に至ったらしい。涙目になりながらも、答える。

 

「し、死んだら金は使えないって……」

 

「…………それだ」

 

「ふぇ?」

 

「……それだよ。ナイスだ、ロック」

 

 ビッグママはぱっと手を放した。解放されたロックはふーふーと息を吹きかけて握り締められた部分をさする。

 

「どうしたんですか、ママ……いきなり……」

 

 尋ねるリケを振り返ったビッグママの表情は、異様にスッキリとした爽やかで晴れやかなものに変わっていた。

 

「すまなかったね、ロック。いきなり手を握ったりして。でもお手柄だよ。あんたのお陰でパズルが解けた」

 

「ママ、それじゃあ」

 

「ああ、分かった。謎は解けたよ。ピーンと来たんだ、間違いない。ネズミを海にバラ撒いて得をする奴は、居る。ただし証拠が何も無いから、シモちゃんの調査と照らし合わせる必要があるけど……それに武蔵の動きも気がかりだ。作戦の後、再びロストしてしまったからね……」

 

 ビッグママがそう言った瞬間、ベルの高い音が鳴り響いた。リケが反射的な速さで動いて、計器をチェックする。

 

「ママ……横女の宗谷校長からです」

 

 

 

 

 

 

 

 十分後、晴風のブリッジには主だったメンバーが集められ、ビッグママもこちらに移ってきていた。

 

「ママさん、今回はどんなご用件ですか?」

 

 全員を代表して、艦長である明乃が質問する。ビッグママは頷くと、場の全員を見渡して間を取って、そして語り始めた。

 

「みんな、知っての通り先の作戦の失敗で、武蔵をロストしてしまった」

 

 まずは事実確認。これを受けて明乃の表情が露骨に曇る。やはりもえかの事が気がかりなのだろう。だがビッグママは、この場では敢えて彼女の反応を無視した。

 

「ブルーマーメイド・ホワイトドルフィン各艦は他の行方不明艦に対応できるよう警戒網を敷いて動けないか整備の為にドック入り、もしくは外洋任務に就いていてすぐには戻れない状況だ……もっとはっきり言えば、武蔵を発見したとして、すぐさま駆け付けられる位置に居るのはあたし等クリムゾンオルカと」

 

 ビッグママはこんこんと踵を何度か踏み鳴らした。

 

「この晴風のみという状況なんだ」

 

 ざわっと、クルー達にざわめきが走る。全員の脳裏に、武蔵と戦闘になる未来がよぎったのだろう。そして不安と恐怖を感じている。最新鋭の装備を誇る教員艦ですら歯が立たなかったのに、自分達で何が出来るのかと。

 

「静かに!!」

 

 だがそのざわめきも、ビッグママは鶴の一声とばかりに黙らせた。

 

「そこでだ。宗谷校長から連絡があって、晴風は別命あるまでこの近海にて待機、その間は海上訓練を行う事……とね」

 

「訓練……ですか?」

 

「そうだよ。色々あったが立場上、現在の晴風は補習中という扱いになっているからね」

 

「あの、質問です」

 

 挙手したのはましろだった。

 

「はい、シロちゃん」

 

「訓練をするのは分かりましたが、我々には教官となるべき人物が……」

 

「目の前に居るだろ?」

 

 何を言っているのだという顔で、ビッグママが言った。

 

「マ、ママさんが!?」「ばあちゃんがか!?」「大丈夫なんですか?」

 

 少しばかり失礼な声もちらほら聞こえるが、ビッグママは少しも怒った様子は無く場が落ち着くのを待って話し始める。

 

「一応言っておくが、あたしはちゃんとブルマーの教員資格は持ってるよ。それに、あんた達の校長である宗谷真雪……彼女も、あたしの教え子の一人だ。つまりあたしはあんた達の校長先生の先生という訳。何も問題は無い」

 

「ワシやシュペーのクルーも、アドミラル・オーマーから指導を受けた身じゃ。だから保証する。この方は厳しいが、最高の教官だ。指導を受けられる機会など、そうそうあるものではないぞ」

 

「「「…………」」」

 

 ミーナのフォローもあるが、晴風のクルー達はビッグママが教師をやるという事にイマイチ乗り気ではないように見える。これは予想できた反応なのだろう。ビッグママは怒ったり不機嫌になった様子は無かった。

 

「……まぁ、エラそうな事ばかり言っているバアさんに、いきなり自分がお前等の先生だと言われたって納得できないだろ。まずは、あたしの腕を見せよう」

 

 そう切り出すと、ビッグママは「あれを」と、窓の外を指差した。

 

 釣られて晴風クルーが視線を移動させると、波間に何か赤い点が見えた。ましろが双眼鏡を覗くと、射撃訓練の標的ブイである事が分かった。それなりの大きさはあるが目視ではそれこそチェリーほどにしか見えないぐらいの距離が開いている。

 

「まずは艦砲射撃の手本だね。ミケ、訓練弾を使う許可をおくれ」

 

「あ、はい許可します。ママさん」

 

 艦長の許可も下りた事でビッグママは手慣れた様子で計器を操作していく。その手際を見て驚いたのは、やはりと言うべきか砲術長である志摩であった。

 

「……手で?」

 

 この時代の艦は高度に自動化されていて少人数でも運用が可能となっている。無論、射撃管制とて例外ではなく射撃レーダーによるオートロックは極めて高い精度を誇っている。しかし今のビッグママは、そうしたコンピューターの補助を全て切った上で照準を付けていた。

 

「そう。どれだけ自動化が進んでも、結局艦を動かすのは人間の仕事だ。なら、訓練では人間の性能を高めようというのがそんなに突飛な発想とも思わないがね」

 

 話をしながらも、ビッグママは片手ながら手際の良い操作を継続していく。彼女の言葉を受けてクルー達の反応は「確かに」「成る程」と頷いた者と、口には出さないものの「古いな」「アナクロニズムだね」という顔をした者が4対6ぐらいの割合で分かれた。

 

 そうこうしている間に、準備は完了した。要した時間は殆ど最短、自動照準と大差無しだ。

 

「240度に合わせて……角度は2-0-4って所か。よし、発射」

 

 間髪入れず主砲が火を噴いて、訓練弾ながら反動がブリッジに伝わってきた。二名を除いてこの場の視線全てが、ブイへと集中する。ビッグママは無言で腕を組み直す。ミーナはこれから怒る晴風クルーの反応を予想して、にやにやとした顔になった。

 

 数秒の間を置いて、水柱が上がった。訓練弾はピンポイントで命中、ブイは粉々に吹っ飛んで、海面に破片を撒き散らした。

 

「あ……当たった」

 

 芽依が「ウソォ……」と言いつつ、ましろから借りた双眼鏡から目を離した。

 

「手動で……初弾を当てた……」

 

 通常、初弾は観測の為に発射する。弾が落ちた地点を観測して第二弾以降で誤差を修正、照準を補正し、最後に命中させるのが常識だ。それをビッグママは静止目標とは言え、射撃コンピューターによる補助も一切無しで、いきなり命中させた。

 

 まぐれ、とは思えない。そう考えるには、ビッグママの一挙一動はあまりに滑らかすぎた。彼女の表情には少しの緊張も無く、鼻歌でも聞こえてきそうな軽やかさだった。これだけでも彼女がロートルではなく、恐るべき練度を持つ現役バリバリの老兵だと証明するには十二分であった。

 

 志摩は、信じられないという想いが半分、尊敬の念が半分という心境だった。彼女も砲術長を任されるだけあって射撃の腕は最高ではないにせよ誇りに思って良いものだという自負はあるが、それも射撃コンピューターのサポートがあってこそ。それらを一切用いずに恐るべき精度の射撃を朝飯前にこなしたビッグママの技量は、困惑を通り越して感動すら覚えるものだった。

 

 明乃も、目を丸くして呆然としている。ましろは、開いた口が塞がらなかった。

 

「さ、あたしが教官やるのにまだ不満な子は?」

 

 両腕を広げて、ビッグママが尋ねる。

 

 しかし答えなど聞くまでもなかった。

 

 こんな芸当を見せ付けられてまだ手を挙げるような勇者にして愚者はもう一人も居なかった。予想通りの反応が見れたミーナは、くっくっと喉を鳴らしている。

 

 一応の納得が得られた事を確認したビッグママは「よろしい」と頷いた後、今度は懐から取り出した書類を麻侖へ差し出した。

 

「機関科の子達にはこれを」

 

「ばあちゃん、これは?」

 

「昔、あたしが島風の艦長をしてた時の、機関科からの報告書を纏めたものだよ。同じ高圧缶を積んだ艦のものだから、参考になると思う」

 

 先程よりも大きなざわめきが、ブリッジに満ちた。

 

「ば、ばあちゃん島風に乗ってたのか……ですか?」

 

 ましろが明乃を見るが、艦長もふるふると首を振るだけだ。どうやらこの老艦長には、まだまだ秘密があるらしい。

 

「島風だけじゃない。金剛、赤城、大和……と言うか、艦に新しい技術が導入されたらその度に艦長をやってたよ。データ収集を兼ねてね。それでかれこれ30年、現在ブルマーで使われている艦では、殆ど艦長をやった経験があるよ」

 

「……お、おみそれしやした」

 

 とんでもない経歴だが、今の射撃の腕を見た後ではまんざら嘘とも思えない。麻侖は脱帽という表情だった。否、彼女だけでなくミーナを除くこの場の全員が。

 

「よし、ミケとシロちゃん、それにリンちゃんとココちゃんは別に話があるが……実はあたしは朝食がまだでね」

 

 ビッグママはぽんぽんと、大きなお腹を叩いた。

 

 

 

 こうして晴風の食堂にて、食べながら話をするという流れになったが……晴風のクルー達は箸が全く進んでいなかった。

 

 ナイフとフォークを動かしているのは、ビッグママだけだ。

 

「どうしたんだい? 朝ご飯、食べないのかい? 朝食は一日のエネルギー源。特にあたしら船乗りは体が資本だからねぇ。食べれる時にしっかり食べとかないと、いざという時パワーが出ないよ?」

 

 機嫌良く話すビッグママ。

 

「い、いやそれにしても……ねぇ」

 

「え、ええ……」

 

「マ、ママさん……昨日は夕食を食べなかったんですか?」

 

「うん? いや……普通に食べたけど……」

 

 聞きにくそうに尋ねる明乃に対して、ビッグママはもぐもぐと口を動かしつつ応じる。

 

 晴風クルー達の視線を集めているのはテーブルの上、ビッグママの前に置かれた皿であった。そこに乗っていたのは彼女達が今まで生きてきた時間の中で、見た事もないほどの巨大な肉であった。ステーキだ。鉄板の上を、殆ど占領してしまっている。

 

「……一体何グラムあるんですか?」

 

「800グラムだけど」

 

 事も無げに答えるビッグママ。ちなみにこの肉は晴風にあった物ではなく、クリムゾンオルカの冷蔵庫から持ち込まれた物だ。

 

「……クリムゾンオルカではいつもこんな朝食を?」

 

「そうだよ。あたしだけじゃない。ナイン達3名も同じ物を食べてる。人間最後に物を言うのは体力だからね。それに何だかんだ言って潜水艦内の密閉空間はストレスが溜まりやすいから良い物を食べなきゃだし、自分一人だけ美味しい物を食べる艦長など言語道断だからね。伊208をクリムゾンオルカに改造する際、良い食材ををたっぷり積めるように、冷蔵庫を大きくするのは真っ先に取り掛かった箇所なんだよ」

 

 冗談めかして笑うビッグママだが、これも全く冗談に聞こえない。それに食事の量は兎も角として、言っている事は普通に正論である。明乃は勿論の事、炊事員の美甘・あかね・ほまれも神妙な顔で頷いていた。

 

「みかんちゃん、ほっちゃん、あっちゃんは後で栄養学の講義だよ」

 

「「「は、はーい」」」

 

「……ミス・ビッグママは、炊事にも通じられているのですか?」

 

 と、ましろ。ナプキンで口元を拭きながら、ビッグママは頷く。

 

「今でこそ艦長だが、あたしは元々そっちの出さ。初めて海に出たのは12歳の時……艦長の船に、見習いの炊事委員として乗り込んだのさ。それで艦長や、みんなと一緒に色んな海を駆け巡り、色んな国へ行って……色んな人と出会って…………昔の仲間も、もう片手の指で数えられるぐらいになってしまった。そして今も海に居るのはあたしだけ……」

 

 しんみりした雰囲気になって、ビッグママの隻眼が涙ぐむ。

 

 以前にそうしたように、老婆は慌てて目許を拭った。

 

「昔話はまた今度、ゆっくりするとして……本題に入ろうかね」

 

 食べながら聞くといい、と前置きして「ココちゃん」と手を振るビッグママ。幸子は阿吽の呼吸で「はい」と愛用のタブレットを差し出す。

 

 テーブルの上に置かれたその画像には、天気図が表示されていた。

 

「これは……」

 

 天気図上で本来なら海の青色が占めているであろう部分は、今は白い渦が取って代わっていた。

 

 これを見た明乃の顔色が、目に見えて悪くなった。

 

「中心気圧950ヘクトパスカル、中心付近の最大風速75メートル。近海に、季節外れの嵐が発生してね。運の良い事に、晴風がこのままの進路だと明日には最接近する」

 

 楽しそうに語るビッグママ。今の言葉を受けて、鈴は思わず耳を叩いた。今のは何かの聞き違いか? このおばあちゃんは、台風が近付いているのを「運が良い」と言ったようだったが……

 

 聞き違いであってくれと祈る鈴であったが、幸か不幸か彼女の聴覚は正常だった。

 

 嵐が近付いてきていて、しかもそれを「運が良い」と発言するという事はつまり……!!

 

「ま、まさかミス・ビッグママ……この嵐の中に突入しようというのですか?」

 

「願ってもない訓練になるよ」

 

 あまりにもあっさりと、ビッグママの口が鈴にとっての死刑宣告にも等しい言葉を紡ぎ出した。

 

「あ、あの……ママさん……」

 

「横女でも、二年目の航海実習は台風の季節を選んでスケジュールが組まれているのは知っているだろう? いつかはする体験が今になっただけさ。それどころか、一年も早く嵐の海が経験できるんだ。むしろ喜ばなくちゃ」

 

 何か言い掛けた明乃だったが、ビッグママは少しだけ声を大きくして彼女の言葉を封殺した。

 

「う、うーん」

 

 恐怖がリミットを超えたらしく、鈴が目を回してぶっ倒れてしまった。慌ててほまれとあかねが、保健室に連れて行く。

 

「まぁ……りんちゃんのリアクションは少しオーバーだが、正常な反応ではあるね。海はバケモンだ。70年近く船に乗り、人生の大半を海で過ごしてきたこのあたしでさえ、時化は未だに怖い。だが、だからこそ晴風の皆は海の怖さを知っておくべきだ」

 

「……艦長、私はミス・ビッグママの意見に賛成です」

 

 賛成票を投じたのは、意外と言うべきかましろだった。

 

「……シロちゃん」

 

「ブルーマーメイドになったのなら、台風だからと救助を中断する訳には行きません」

 

 これは正論である。航海実習に出る前に、古庄教官も言っていた。「穏やかな波は良い船乗りを育てない」と。

 

 明乃は一度深呼吸して「よしっ」と拳を握った。

 

「……分かりました、晴風の針路はこのまま。台風の中での、航海訓練を行います」

 

 言葉は頼もしいが、明乃の体は小刻みに震えていた。その小さな肩に、ビッグママの大きな手が乗せられる。

 

「……ママさん?」

 

「大丈夫だ、ミケ。あたしらがついてる」

 

 明乃が顔を上げるとビッグママが会心の笑みを浮かべていて、彼女は気付かなかったが震えはいつの間にか止まっていた。

 

 幸子がテーブルに視線を落とすと、ビッグママの皿は空になってしまっていた。800グラムのステーキはものの5分で彼女の胃袋に消えたのだ。

 

「『見事にたいらげましたな。まるでこの北日本(ノースエリア)をたいらげるように』」

 

 いつも通り一人芝居が始まった。幸子とビッグママはぐっと、サムズアップを交わし合う。

 

 ましろは冷ややかにこのやり取りを眺めていた。「北日本(ノースエリア)」というのが何の事かは分からないが、どうせマンガか何かが元ネタだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、ママも思い切った事をされますねぇ」

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 艦長であるビッグママが留守なので、代理を務めているナインがそう呟いた。

 

「ん? 何が?」

 

 愛読書である「太陽の黙示録」から視線を上げて、リケが尋ねてくる。

 

「嵐の中へ晴風を突っ込ませるって事だよ。ミケちゃんが昔の経験で、嵐や雷がトラウマになってるのはご存じでしょうに」

 

「だからこそ、でしょ」

 

 爪をヤスリで研ぎながら、ロックがくるりとシートを回して同僚二人へと振り返った。

 

「ブルーマーメイドになったら、嵐に巻き込まれた船を救助する任務に就く事だってある。その時、艦長の腰が引けてちゃしょうがないでしょ。今なら、私達でフォローできる。台風の中の航海経験を積むというのもあるだろうけど……この機会にミケちゃんにトラウマを克服させる事こそが、ママの狙いよ」

 

「逆療法か」

 

「でも、そう上手く行くかな?」

 

 それを受けてロックは、ふっと息を吐いて爪の粉を飛ばした。

 

「その為に、私達が居るんでしょ?」

 



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VOYAGE:11 嵐の海

 

 10年以上も経つが、あの日の事は今もはっきりと思い出せる。

 

 だけどその景色には色が無い。空も、海も、全てがモノクロームだ。

 

 揺れて傾く船、人でごった返す救命ボート。

 

 自分を逃がしてくれた両親の事を、ずっと考えていた。

 

 その、嵐の海を割って潜水艦が浮き上がってきた。

 

 艦橋(セイル)のハッチが開いて、大きなおばあちゃんが姿を見せた。

 

『遅かったか……!! お前達、直ちに救助活動に掛かれ!! もう誰も死なせるな!!』

 

『『はい、ママ!!』』

 

 海面に溢れる救命ボートを見渡したその人が叫ぶと、甲板の前部と後部のハッチが開いて、ガリガリに痩せた長身の人と玉乗りボールのように太った男の人が現れた。彼等は素早く救命ボートを誘導して、要救助者を艦内へと収容していく。

 

 そうしていると私が乗っている救命ボートも潜水艦の近くへと寄せられて、おばあちゃんが私を抱き上げた。

 

 その人は手も体も、いや存在そのものがとても大きなようで、不思議とその人の周りだけ空気が静かで落ち着いているように思えた。

 

『もう大丈夫だよ。ブルーマーメイドも、すぐにやって来るからね』

 

 耳元で優しく囁かれて、私は疲労と安心感によって意識を手放してしまった。

 

 私、岬明乃はこのすぐ後に駆け付けてきたブルーマーメイド隊に保護され、とある海辺の孤児院へと引き取られる事になるのだが……

 

 このおばあちゃんに抱っこされていた時、世界に色が戻っていた事にその時の私はまだ気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 現在。晴風はいよいよ嵐へと近付いていて、波は荒くなって空も曇りつつあった。既にマチコは見張り台から艦内へと退避している。これから未体験の嵐の中へと突入するとあって、ブリッジは勿論の事、艦全体の空気がぴりぴりと張り詰めているようだった。

 

「よーしよし、みんな程よく危機感と緊張感を持ってるね。良い傾向だ」

 

 機嫌良く「うむ」と頷くビッグママ。今現在、晴風に乗っていてリラックスしている風なのは彼女だけだ。アシスタントとして同乗しているロックでさえ、肩に力が入っているように見える。

 

「ううう……」

 

 舵を握る鈴は既に涙目になっていた。これも無理からぬ反応であろう。

 

「さて、ミケ。晴風はこのまま進むと後一時間で暴風圏に突入する。そこで嵐の中での晴風の操艦だが……」

 

「……」

 

「ミケ!!」

 

「!! は、はいママさん……」

 

 蒼白い顔の明乃は、強く声を掛けられてやっと返事した。

 

「……艦長、昨日からずっとそんな感じですが……具合でもお悪いのですか?」

 

 ましろが心配そうに顔を覗き込みながら言うが、明乃は「だ、大丈夫だよシロちゃん」と返すだけだ。とてもじゃないにせよ大丈夫には見えない。極度の緊張で滅入っているのか只の船酔いか。念の為に額に手を当ててみるが、熱はない。風邪ではないようだ。

 

 ……まぁ、よほど体調が優れないなら自分から言い出すだろう。一応、自分がいつもより少し気を付けておこうとましろは思った。

 

「コホン、話を続けるよ。嵐の中での晴風の操艦だが……習うより慣れろと言うだろ。よってあたしは一切手出し口出しはしない。あんた達だけで何とかしてみせな!!」

 

「ええっ!?」「そんなぁ!!」「ミ、ミス・ビッグママ……いくら何でもそれは……」「ちょ、ちょっちょ……!!」「今からでも引き返そうよぉ!!」

 

 流石にこれにはブリッジ内のほぼ全員が悲鳴じみた声を上げた。例外はミーナとロックだけだ。

 

「……なんて、ムチャ振りはしないよ。まず最初に、あたしが手本を見せる。ロック、あんたにも手伝ってもらうよ」

 

「はい、ママ」

 

「次に台風下における航行の要点や注意点を説明する。そしたら今度はミケ、あんたが操艦をやるんだ。そんであたしは今度は教官役。気になった所を指摘していく。こんな感じで行こうと思うが、何か質問は?」

 

「「「…………」」」

 

 返事が無い。明乃以下ブリッジの全員に緊張が広がっている。一度ビッグママの教導を受けたミーナですら、これほどの嵐に突入するとなるとやはり恐怖が先立つらしい。体中に余計な力が入ってガチガチになってしまっている。

 

「まぁ、そこまで緊張する必要は無いよ。あたしも教官歴はそれなりに長いから、引き際はちゃんと見極めてる。無理や無茶は沢山言うが、無謀な事はさせないからそこは安心してくれていい」

 

「そ、そうなんですか?」

 

 少し怯えたように、小さく挙手してまゆみが尋ねてくる。

 

「……まゆちゃん、まさかあたしが年だからって『水を飲むな』とか、先をバラバラにした竹刀を持ち出してきて何かあればバシーンと叩くとか『一度でもミスした奴は即刻他の者と交代させる。その緊張感が大切』とか、そんな時代遅れの教育思想を持っていると思っているんじゃあるまいね?」

 

「え、いや、そんな……」

 

「……思ってたんだね」

 

 しかしビッグママはケタケタ笑って、少しも不快に思ったり怒った素振りも見せなかった。

 

「良いんだよ。あたしみたいな年代の指導者はそんな風なイメージを持たれやすいってのは、自覚してるさ」

 

 ガチンガチンと、マジックハンド型義手が開閉して音を立てる。

 

「確かにあたしは厳しいが、あんた達がまだ入学したばかりの学生である事を忘れちゃあいない。最初から何もかも上手くやれるなんて思っちゃあいないさ。それに、これでも褒めて伸ばすタイプなんだよ。本当だ」

 

 これを聞いた幸子からちらっと視線を向けられたミーナは、静かに頷いた。本当らしい。

 

「……いきなり生徒だけに全てやらせてそれで正しい答えに辿り着けとか、怒鳴り散らしてミスを責めるだけの教育なんてナンセンスだ。……ねぇ、五十六。あなたもそう思うでしょう?」

 

 ひょいっと足下に来ていた五十六を抱き上げると、背中を撫でながら語るビッグママ。大艦長の肩書きを持つデブ猫はいつも通りの少し不機嫌そうな顔のままで「ん」と鳴いて返した。

 

「ふふふ……」

 

 持ち込んだキャンプチェアに腰掛けたビッグママは膝の上に五十六を寝かせると、明乃へと向き直った。

 

「ついてはミケ、一時的に艦の指揮権をあたしに委譲して欲しい」

 

「え?」

 

「訓練とは言え艦長が健在なのに部外者が頭越しに指揮するのは掟破りだからね。ちゃんと、手順を踏まないと」

 

「あ、はいそうですね。じゃあ、ママさん……お願いします」

 

 至極真っ当な意見を受け、明乃は艦長帽を差し出した。

 

「ん」

 

 受け取った帽子をぽんと頭に乗せるビッグママ。

 

「全員、整列!!」

 

 明乃が手を振るとブリッジクルー達は全員、一列に並んで姿勢を正した。

 

「ママさ……いえ、潮崎教官。ご指導、よろしくお願いします!!」

 

「勉強させていただきます」

 

 共に頭を下げる艦長・副長に倣うようにして、他の者も一斉に頭を下げる。これを受けてビッグママも立ち上がって五十六を下ろすと姿勢を正し、敬礼を返した。

 

「こちらこそよろしく願いする」

 

 そう言うと、ビッグママはマイクを手に取った。

 

「晴風乗員全員へと告げる。私は今回、晴風の指導に当たる事となったコードネーム・ビッグママ、潮崎四海だ」

 

 スピーカーを通して、彼女の声が晴風全体へと響き渡る。

 

「これより晴風は、嵐の中へ突入する。風速70メートル以上、平均的な波の高さおよそ30メートル。この規模の風と波の中を航行するのは、確かに至難の業だろう。しかし、私は既に学校から送られてきた諸君の入学試験に於ける座学と実技の成績には目を通している」

 

 芽依は少しだけ不安な顔になった。晴風は入学試験の中でも最底辺の成績を取った落ちこぼれが集められた艦と聞いていたからだ。そんな不安を肌で感じたのだろうか、ビッグママは彼女へと目を向けると、隻眼でウインクしてみせる。

 

「……はっきり言おう、諸君等はとても優秀だ。断言する、全員が持てる能力を完全に発揮すればこの程度の嵐は大した障害ではない!! 私の指示に迅速に従ってくれさえすれば、易々とは言わないまでも確実に切り抜けられる程度の難所だ。この嵐を越えた時、この艦の全員がより良き船乗りとなっているだろう。各人の果断と即応を期待する!! 以上だ」

 

 ビッグママはマイクのスイッチをオフにする。訓辞は終わったのだ。

 

 こうして、晴風は季節外れの大嵐の中へと突っ込んだ。

 

 しかし突入してものの5分で、艦内には悲鳴が充満した。

 

 海運大国たる日本では、船で生まれ育った者は珍しくない。そして日本は気候や地理の関係上、毎年台風に見舞われる国である。だから乗っている船が嵐で揺れるというのは珍しい体験ではない。だがそれでもこれほどの嵐は殆どの者が未体験であった。

 

 波を越える度に艦首が数十度も上下に振れる。

 

 十数倍にもスピードアップしたエレベーターに乗って、ひっきりなしに上がったり降りたりしている様な感覚だ。地に足が付かないという言葉があるが、まさにその気分だった。床に立っていられない。空中へと体が持ち上げられる。

 

 晴風クルーは全員が安全装置を装備し、ヘルメットとスタンキーフード(救命胴衣)も着用してはいるがそれらは少しも恐怖を和らげる働きはしてくれなかった。

 

 また一つ、晴風が波を越えて浮遊感が生まれる。

 

「来るぞ!! 総員ショック対応姿勢を取れ!!」

 

 ビッグママの指示から数秒後、艦全体に叩き付けるような衝撃が襲ってきた。

 

「ひいいいいっ!!」

 

「と、飛んだ!! 今、一瞬だけど絶対晴風が空を飛んだ!!」

 

「落ち着け!! 各区損傷及び怪我人無いか!! 素早く報告せよ!!」

 

 鶴の一声とばかりビッグママが一喝すると場が統制され、浮き足立っていた乗員達はそれぞれの役目を思い出す。

 

<烹炊室、伊良子美甘他二名、無事です!! 炊飯器も茶碗も大丈夫です!!>

 

<機関室、柳原麻侖以下全員、ケガはねぇ!! エンジンも快調、6万馬力健在でぃ!!>

 

<第二魚雷発射管、姫路。大丈夫です>

 

<水測室、ソナーに異常無し。良く聞こえますわ>

 

 他にも矢継ぎ早に報告が入ってきて、今の所怪我人や損傷箇所が無い事が分かった。

 

「よし!! りんちゃん、舵はしっかり握ってるんだ。艦のバランスを失うな!!」

 

「ほ、ほぃぃぃっ!!!!」

 

 もうだばだば流れる涙を拭う暇も無く顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも鈴は必死で舵を切って指示通り艦の安定に全精力を傾けていた。

 

 そうして少しだけこの嵐にも慣れてきたのか、僅かに艦の揺れは治まってきたようだった。

 

 そう思った瞬間、

 

「き、教官!! 左舷前方から高波40メートル!!」

 

 左舷航海管制員の山下秀子が、目を見開いて絶叫した。

 

 ブリッジ左の窓が切り取っている景色の半分以上を、高波が占めている。

 

「慌てるな!! 取舵10度、機関最大戦速!!」

 

「と、取舵10度、了解ぃぃっ!!」

 

<機関最大戦速、合点!!>

 

 復唱を受け、出した指示の通りに艦が動いているのを確認するとビッグママは頷きを一つして、マイクを切り替える。

 

「ブリッジより応急員へ!!」

 

<こちら応急員、和住姫萌・青木百々!! 二人とも、準備できてます!!>

 

「よーし、ヒメちゃんモモちゃん、左舷倉庫積載備品の固定ワイヤをチェックするんだ!! ロック、一緒に行っておやり!!」

 

<イエスマム!!>

 

 

 

「よし、聞いての通りよ二人とも。急いで左舷倉庫へ点検に向かうわよ!!」

 

「「はい!!」」

 

 ビッグママの指示を受け、ロックは応急員二人を先導して艦内通路を駆けていく。ビッグママに鍛えられたクリムゾンオルカのクルーである彼は、流石に経験に於いては学生とは比べ物にならない。揺れる艦内でも、後ろの二人よりもずっと安定した足取りで素早く進んでいく。

 

 と、また波を越えたのか艦が大きく上下に振れた。姫萌と百々は何とか手近な物に掴まって体を固定したので無事だったが、運悪く掴まれる物が無かったロックは流石にバランスを崩して背中から壁にぶつかった。

 

「ぐえっ!!」

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 咄嗟に百々が手を差し伸べるが、

 

「私より荷物よ、二人とも!! 崩れたら艦のバランスも崩れる!! 荷崩れした時が晴風がひっくり返る時と思って、しっかりチェックしなさい!!」

 

「は、はい!!」

 

 叱咤された二人は、慌てながらも自分達の役割を遂行しに掛かった。

 

 

 

<和住姫萌よりブリッジへ!! 左舷倉庫、備品の固定はしっかり出来ています!! ワイヤーにも弛みはありません!!>

 

「よーしよくやった!! 配置に戻れ!!」

 

 ここでマイクのスイッチをオフにすると、ビッグママはすぐ後ろで一挙手一投足を見落とすまいと目を皿のようにしている艦長と副長を振り返った。

 

 明乃は調子が悪いながらも何とか堪えて頑張っているし、ましろは純粋にビッグママの操艦術を尊敬の目で見ていて、そこから少しでも何かを盗み、学び取ろうとしているようだった。

 

「さて、ここでミケとシロちゃん、二人にクイズを出そう。当たったら50点獲得だよ」

 

「……クイズ、ですか?」

 

「そうだ」

 

 こんな状況で何を、とも思ったがしかしこの老いた船乗りが意味の無い事をするような人でないのはこれまでの経緯で良く分かっている。二人とも戸惑い以上の反応は見せずに、話を聞く姿勢に入った。

 

「今、備品をチェックに行った時にワイヤが切れて荷崩れが起こったとしよう。ヒメちゃんは荷物に押し潰され骨折して重傷、モモちゃんも打撲で軽傷を負った。さてこの場合、あんた達が指揮を執っていたらどのように対応するかね?」

 

「どう対応する……って」

 

「…………」

 

 明乃は困った顔になって、ましろはこれは何かの引っ掛け問題なのだろうかと即答を控えた。そんな二人の思考はビッグママに読まれていたらしい。

 

「……当たったらとは言ったが、これはペーパーテストじゃないんだ。答えだけ合っててもダメだよ。ちゃんと理由を説明できないと」

 

 事前に釘を刺してくる。しかしこれは正論だ。ちゃんと理解していないと、応用も利かない。

 

「それは……私なら、重傷のヒメちゃんから医務室に運ぶよう指示します」

 

「私もです。まずは重傷者から手当を行うべきかと」

 

 この回答を聞いたビッグママはまずにやっと笑って、

 

「二人ともブーーーーッ!!」

 

 両手でバッテン印を作った。

 

「「ええっ」」

 

「ミーナ、あんたはどうかな?」

 

「はい、アドミラル・オーマー。ワシならまず軽傷者から医務室へ搬送するよう指示します」

 

「理由は?」

 

「今が訓練中、つまり戦闘時だからです。重傷者は、応急処置で現場に復帰する事は不可能ですから」

 

「うむ、良くできた。復習はキチンとやってるようだね。私も鼻が高い」

 

 カカッと笑ったビッグママは、すぐに真剣な顔に戻って明乃とましろを見た。「分かったかい?」と表情で尋ねてくる。

 

「……そうか、軽傷者なら応急処置を行えば現場に戻る事も出来ますね」

 

「成る程、優先すべきは動ける人員を確保して艦のパフォーマンスの低下を防ぐ事という訳ですね」

 

「そーいう事だ。二人とも呑み込みが早くて、大変よろしい」

 

 賞賛の言葉と共に顔をほころばせるビッグママ。しかしやはり数秒で真顔に戻って、説明に入る。

 

「知っての通り現代の艦は自動化が進んで最小限の人員で動かせる分、一人一人の仕事量や果たす役割は大きい。だから一人でも人員が欠ける事は艦機能を大きく低下させてしまうんだ」

 

 交代要員の居ない学生艦の場合は特にその影響が顕著となる。

 

「よって戦闘中に負傷者が出た場合は、人員の確保を最優先とする事。冷たく思うかも知れないが、それをしないで艦のパフォーマンスが落ちて、結果轟沈しようものなら重傷者も軽傷者もみんな助からなくなる。指揮官はそうした点も踏まえて、大局的な視野を持つ事が大切だ。無論、これが平常時や相手が海難事故等の避難民だった場合はまた話が変わるよ。その場合もしっかり状況を見極めて、臨機応変に対応する事。良いね?」

 

「「はい!!」」

 

 二人の気持ちいい返事を聞いて、ビッグママは「うんうん」と何度も頷く。

 

 そうしてブリッジを見回すと、その視線が泣きながら舵を動かす鈴で止まった。

 

 熟練の船乗りらしく、揺れをものともしない足取りでガタガタ震えながら操舵する航海長へと近付いていくビッグママ。

 

「怖いかね、りんちゃん」

 

「ほ、ほぃぃぃっ……」

 

 答えなど、聞くまでもない。このまま放っておいたら、三方ヶ原の戦いに於ける徳川家康のようになりそうだ。

 

 しかしビッグママは決して失望したり怒ったりという様子は見せなかった。むしろ、にこりとしている。

 

「良いかね、りんちゃん。そのままで良いからお聞き」

 

 大きな手が、そっと鈴の肩に置かれた。しかし今の鈴にはそれを気に懸けている余裕も無さそうだった。構わず、ビッグママは話し始める。

 

「怖いのは今の内だけさ。何度か経験すれば、こんな嵐は怖くも何ともなくなる」

 

「……そ、そうなんですかぁ?」

 

「そうとも」

 

 大きなお腹をさするビッグママ。

 

「より正確に言うと怖くなくなるんじゃなくて、恐怖に慣れてしまう……怖いと思う機能が麻痺してしまうというのが正しいかね」

 

 コンコン、とこめかみをつつきながら言うビッグママ。

 

「そ、それなら……」

 

「だが!!」

 

 ビッグママはヘルメット越しに鈴の頭を掴むと、ぐいっと自分の方を向かせる。

 

「ひいっ!!」

 

「だが、ね。そうなったらおしまいだ。私に言わせりゃ恐怖を感じないブルーマーメイドなど三流以下だ、使い物にならん。怖いと思える事は、とても大切なんだ」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「そうとも。”怖い”というのは、突き詰めれば危険から遠ざかる為の感情だ。つまり歩いていて怖いと思ったら、この先は危険だと分かる訳だ。分かるかね、私の言いたい事が?」

 

 ブルーマーメイドの任務で代表的なものの一つに、海難救助がある。それはつまり、危険の中に入っていって人を助ける仕事だ。

 

 だが怖いと思わない、どこまでが危険でどこからが安全なのか分からない人間では、実際には危険な場所を安全と思って要救助者をそこに置き去りにするかも知れないし、到底生還できない危険の中に突っ込んでいって無駄死にするかも知れない。

 

「怖さを感じない事は断じて勇気とは違う。ましてブルーマーメイドは人を助ける仕事。レッスン6、言ってみな。ミケ」

 

「……『人を助けるには、大きな船が必要』」

 

「よーし、良くできた」

 

 教え子へと振り返ったビッグママは、にっこり笑っていた。そうして再び鈴に向き直る。

 

「人を助ける為には、まず自分を守らなければならない。だから身を守る為に、怖いと思う事はとても大事なんだ。私が海戦・海難救助を初めとして飽きるほど修羅場をくぐりながらも、この年まで生き延びている理由の一つを教えよう」

 

 ビッグママはぐっと顔を近付け、鈴と額をくっつけた。

 

「それは、私が兎のように臆病だからだ。怖いと思う事は大切。だが、恐怖で身がすくんではしょうがない。大切な事は恐怖に心身を支配されない事。逆にこっちが恐怖を支配してやるぐらいの気持ちでいるんだ。それが、身を守る術だ。覚えておくように」

 

 コン、と音が鳴る。

 

 ビッグママが義手で軽く鈴のヘルメットを小突いた音だ。

 

「さあ、もう一踏ん張りだ。しっかり舵を握って!!」

 

「は、はい!!」

 

 涙を拭って、鈴はぐっと前を見据える。思わず「おおっ」と声が上がった。

 

 ビッグママのレクチャーが行われたのは僅かな時間だったが、鈴の雰囲気が先程までとまるで変わっていた。

 

 これは一時の事かも知れないが、それでも鈴の中で何かが変わったのは間違いないだろう。

 

「……恐怖に支配されない……恐怖を支配する……」

 

 何度かぶつぶつと口中で呟く明乃。

 

「あの、潮崎教官!!」

 

「どうしたね、ミケ?」

 

「私、艦の様子を見て回ろうと思います!!」

 

「…………ふう、ん?」

 

 ビッグママが観察するように眼を細める。今の明乃の顔つきは何か、腹を括ったようで不思議に落ち着いているように見えた。

 

 こいつ、何かやる。直感でそれが分かった。

 

「…………良いだろう。こうした状況で艦がどんな風になってるか……自分の目で見るのも艦長として大切な経験だ。行っておいで」

 

「分かりました……行ってきます」

 

 敬礼して、ブリッジを出て行く明乃。それを見送ると、ビッグママは応急員へとマイクを繋いだ。

 

「こちらブリッジ、ヒメちゃん。聞こえているか?」

 

<はい、こちら応急員。良く聞こえます>

 

「よし。今、艦長が艦内を見回っているが……もし倉庫にやってきて、ワイヤーとか縄を貸してほしいと言ってきたら、黙って貸しておやり。責任は私が持つ」

 

<は、はい……分かりました>

 

「きょ、教官? 今のは一体……」

 

 通話が切れると同時に、ましろが詰め寄ってきた。他のブリッジの面々も、只今のビッグママの指示は真意が読み取れず怪訝な顔だ。

 

「じゃあ……シロちゃん、見てくるかい? 艦長が何するつもりか。レッスン3『自分の眼と耳と勘だけを信用しろ』だよ」

 

「は、はぁ……」

 

 ましろがブリッジを退出すると、ビッグママは少し遠い目になった。明乃が何をやろうとしているか? 彼女にはおおよその見当が付いていた。かつての部下や教え子に、”同じような真似”をしでかした奴が何人か居たからだ。

 

 ビッグママは思う。10年前から自分はいつも明乃やもえかを守って、その意思を尊重し、二人の背中を押してきた。今も、もえかを武蔵から何としてでも助けようという気持ちは変わっていない。だが今回の明乃だけは助けられない、守れない。自分に打ち勝てる者は、結局の所自分しかいないからだ。

 

「来るべき時が来た……って事だね。越えられない波はない……成長を祈るよ、ミケ……あたしは、見守っている」

 

 

 

 

 

 

 

 明乃を追う形でブリッジを出たましろであったが、機関室にも烹炊室にも艦長の姿はなかった。

 

 倉庫に行ってみると、数分前に明乃がやってきてワイヤーを借りていったと姫萌が答えた。事前の打ち合わせなど何も無かった筈だから、明乃はビッグママの予想通りに動いた事になる。

 

 ワイヤーなど何に使う?

 

 ましろはそれを考えて、ほんの数分で背筋がゾッとする想像に至った。

 

『ま、まさか……?』

 

 思い返せば晴風が嵐の中に突入する事を決めた時から、明乃の様子は何かおかしかった。

 

 嵐に対して、どこか怯えているような……

 

 そして鈴に対してビッグママが行ったレクチャーに触発されて、自分の中の恐怖に打ち勝とうとしたのなら……!?

 

 そこまで想像して、導き出される結論は多くなかった。

 

 ましろは甲板に出る。現在、荒天により甲板の通行は禁止されているが……

 

 果たして右舷甲板に、明乃は居た。未だに雨も風も強く、打たれる肌が痛いぐらいだ。

 

 その中でずぶ濡れになりながら、明乃は柵に掴まって荒れ狂う海を睨んでいた。良く見ると腰にワイヤーが巻かれていて、彼女はそれを命綱にして自分の体を艦に固定していた。

 

「艦長!! 一体何をされる気ですか!?」

 

 今の明乃の行いは、自殺行為としか思えない。甲板でまともに波を受けたが最後、命はない。

 

 ごうごうという風に負けじと張り上げたましろの声に、明乃は歯を食い縛りながらガチガチに引き攣った笑みを浮かべつつ、振り向いた。

 

「私は……晴風の艦長だから。いつまでも、嵐や雷が怖い自分じゃいられない……!!」

 

 ごくりと、ましろは生唾を呑んだ。

 

 海に目を向けると、先程のと同じぐらいの高波が、こちらへと向かってきているのが見えた。

 

「来た……!! お前なんか、怖くない……!! 私は今までの自分を、今日、乗り越える!!」

 

「艦長ーーーっ!!!!」

 

 反射的に、ましろは走り出していた。

 

 ほぼ同時に晴風が波に乗り上げ、そのまま着水。巨大な衝撃が襲ってくる。

 

「ぶわっ!!」

 

 一瞬、凄まじいまでの水しぶきで視界が完全にゼロになった。

 

 何かにぶつかって僅かな時間だけ意識が途切れていたましろは、咄嗟に差し出した右手に何かを掴んでいる感覚があるのに気付いた。吹っ飛ばされそうだった明乃の腕を、間一髪捕まえていたのだ。

 

「だ、大丈夫ですか、艦長!! お怪我は!?」

 

「大……丈夫、だよ。ありがとう……シロちゃん……」

 

 目線や受け答えもしっかりしているし、見る限り大きなケガも負っていない。ましろはほっと息を吐いた。

 

「何故、こんな無茶を……」

 

「ごめんね、心配させちゃって……」

 

 苦笑いしながら、倒れていた明乃が立ち上がる。

 

「私ね……昔、乗っていた船が嵐で沈んで……それからなの、嵐や雷が怖くなったのは……」

 

「だから……トラウマを克服しようとこんな無茶を……」

 

 まだ少し足取りがおぼつかないので、ましろが肩を貸した。

 

「潮崎教官も仰っていたでしょう。自分でさえ時化の海は怖いと。そんな急には……」

 

 だが、ましろの言葉に明乃は首を振った。

 

「……私には、時間が無いの。晴風のみんなの為にも、もかちゃん……武蔵の艦長で……私の親友の為にも……」

 

「艦長……」

 

 ましろはこんな時、どうすべきか分からなかった。

 

 明乃の行動を、自殺行為だ愚挙だと非難する事は簡単だ。実際にその通りだった。

 

 だが……

 

 ましろはこの時、何故か明乃の事でなく自分の事を考えていた。

 

 ましろの実家である宗谷家は、曽祖母から始まって代々ブルーマーメイドを輩出している名門だ。家族に限らず母や姉の友人にもブルーマーメイドが多く居て、ましろはそんな人達に囲まれて育ってきた。だから彼女は、物心付いた時には自然とブルーマーメイドになる事を目指していた。そうなるのが当然だと思っていた。

 

 今でもそれが間違いとは思っていない。ブルーマーメイドを目指すのは単なる憧れだけではない。家族の事は誰より愛し尊敬しているし、ブルーマーメイドが素晴らしい職業だとも信じている。

 

 でも……今まで自分はブルーマーメイドになるという夢に、目標に、どこまで真剣であったろうか?

 

 自分の命を……死を懸けてまで、ブルーマーメイドに相応しい人間になろうという気概を持っていただろうか?

 

 自問するが、答えは出ない。

 

 しかし、確かな事が一つあった。

 

「放っておけないですね、艦長は……危なっかしくて」

 

「え? 何、シロちゃん?」

 

 ふっと、微笑するましろ。

 

「前にも言いましたが、あまり一人で抱え込まないで下さい、艦長。海の仲間は家族……なんでしょう? なら、家族を信じて頼るぐらいしても、バチは当たりませんよ」

 

「シロちゃん……」

 

 明乃はしばらく眼を丸くしていたが、やがてにっこりと笑う。

 

「そうだね……ごめん。私が軽率だった」

 

「これからはムチャは控えて下さいよ。さぁ、早く艦内に……」

 

 ましろが言い掛けた、その時だった。スピーカーかピーと独特の音を立てた後、ビッグママの声が響き渡る。

 

<全乗員に告げる。たった今、新橋商店街船からの救難信号を受信した。この嵐で船体のバランスを崩し、傾斜して航行不能状態に陥ったとの事だ。ブルーマーメイド・ホワイトドルフィン、及び横須賀女子海洋学校には既に連絡を入れているが、現時点で最も近い位置に居るのは、この海域で訓練中の晴風と随伴艦であるクリムゾンオルカの2艦のみ!! よって訓練は中止、我々はこれより新橋商店街船の救助に向かう!! 総員配置に付け!! 救助活動の準備を整えろ!! また、艦の指揮権を返還するので艦長及び副長はすぐブリッジに上がってくるように!!>

 

「!! 艦長!!」

 

「うん、行こうシロちゃん!!」

 

 明乃とましろは肩を並べ、通路を駆けていった。

 



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VOYAGE:12 生還

 現在、晴風は30ノットで新橋商店街船へと向かっている。その晴風の左舷300メートルを、クリムゾンオルカもほぼ同速度で浮上航行中である。

 

「……しかし、クリムゾンオルカは凄い艦ですね。潜水艦が海上とは言え、30ノットも出すなんて」

 

 晴風のブリッジにて窓から見える船体を見ながら、幸子が呟く。嵐は既に西に逸れており、まだ波は高いが雨は止んでいて夜とは言え視界は悪くなかった。

 

 愛用のタブレットにはクリムゾンオルカの原型艦である「伊201型」の情報が表示されている。データによれば伊201型潜水艦の水上航行スピードの限界はおよそ16から17ノットである。つまり、今のクリムゾンオルカはオリジナルの最大戦速の、更に倍近い速度を出している事になる。しかも先程から軽く10分以上はこのスピードを維持し続けているから、これでもまだまだ全速ではないと考えられる。

 

 ……つくづく、オリジナルとは外見が同じなだけの別の艦だと、改めて思い知らされた気分だ。

 

「まだまだこんなもんじゃないよ。全速を出せば水中速度でもこの晴風とお友達になれるし……更に”奥の手”もあるんだ。三つの秘密兵器とは別にね」

 

 と、自慢げに話すビッグママ。彼女は明乃へと艦の指揮権を返還した後、クリムゾンオルカへ戻る時間も惜しいのでそのまま晴風に乗船していた。

 

「お、奥の手……?」

 

 ましろが明乃へと視線をやるが、明乃も知らないらしい。ふるふる首を振るだけだ。

 

 一方で幸子やミーナは、”秘密兵器”とか”奥の手”というキーワードが琴線に触れたらしい。きらきらと眼を輝かせている。

 

 そんな眼を向けられて、ビッグママは思わずうずっとした感覚が胸に生まれるのを自覚した。

 

 人間、自分だけが出来の良いオモチャを持っているとついついそれを自慢したくなるのが性というもの。齢80を越えるこの身でも例外ではないらしいと、ビッグママは自己分析する。しかしここは我慢我慢と、自分を制御した。兵器を扱う者に最も求められるのは克己心である。それは拳銃から核魚雷まで同じだ。面白半分で軽々に引き金を引くような輩に、兵器を扱う資格は無い。

 

「……まぁ、使う時があれば教えてあげるさ。その時が来ればね」

 

 そう言って煙管の火を消して懐に仕舞うと、ビッグママは「それより」と前方を指差した。

 

「見えたよ」

 

「!!」

 

 明乃が双眼鏡を覗くと、確かにまだ遠いが左に傾いた状態になっている船が見えた。救難信号を発した、新橋商店街船だ。距離が詰まっていくにつれ、全容が分かるようになる。情報通り左舷に大きく傾いている。

 

「よし、ダイバー隊とボートの用意は出来ているね? 転覆・沈没の可能性を考えて、巻き込まれないように晴風とクリムゾンオルカは一定の距離を保ちつつ停船。同時にボートを下ろし、救助隊が接近していって、救助活動に移る。晴風とクリムゾンオルカは避難民の収容を行うんだ。救助隊の指揮は、あたしがやろう」

 

「私もサポートします」

 

「ワシも行きましょう!!」

 

 立候補したのは、ましろとミーナだった。

 

「よし、では二人にあたしの補佐を頼もう。クリムゾンオルカはナインがあたしの代理で動かす。ミケ、あんたはここから全体の状況を見極めて、指示を出すんだ」

 

「分かりました、ママさん」

 

 てきぱき指示を出していくビッグママ。本来ならばブルーマーメイドではない彼女に晴風への指揮権は無いのだが、これまでの航海で彼女の恐るべき実力を見せ付けられたのと、現在は非常時である事も手伝って文句を言う者は居なかった。

 

 救助隊を指揮すべく、3名がブリッジを退出していく。その背中を見送っていた明乃が、不意に声を上げた。

 

「シロちゃん!!」

 

「はい、艦長……」

 

「……気を付けてね」

 

 ましろは数秒ほどぼうっとしていたが、すぐに微笑して姿勢を正すと、敬礼を取った。

 

「艦長も、ここの指揮をよろしくお願いします」

 

「頑張ってね」

 

 明乃も同じように、敬礼して返した。

 

 

 

 舳先に仁王立ちするビッグママ以下、救助隊を乗せたボートは晴風を離れ、真っ直ぐ商店街船へと向かっていく。

 

「……到着まで後5分って所か。手筈通りダイバー隊は潜って船体の損傷を確認。航海科と応急員は甲板上及び救命ボートに乗っている避難民を、晴風及びクリムゾンオルカへ誘導するんだ」

 

「中学で救助訓練は散々やったけど、実戦は初めてぞな~」

 

 これは航海員の勝田聡子の発言である。それを聞いてビッグママはくるっと彼女を振り返った。

 

「サトちゃん、緊張するのは当然だが慌てるな。ここに居る子達に教えておこう、レッスン9だ。ミーナ、覚えてるね?」

 

「は……アドミラル・オーマー。レッスン9『実戦は真剣に、しかし頑張るな』でしたね」

 

「うむ、良くできた。あんたは非常に優秀な生徒だ。あたしも大変鼻が高いよ」

 

 満足そうなビッグママと照れくさそうなミーナであるが、このやり取りを聞いたボートの他の乗組員が「ええっ」という声を出した。

 

「ミ……ミス・ビッグママ……それはどういう事ですか? 救助活動を頑張るなって……!!」

 

 戸惑いつつ抗議の声を上げたのは、ましろだった。

 

 これは訓練ではない。人命の掛かった救助活動なのだ。それを頑張るなとは、いったいどういう了見なのか。

 

 しかし当然と言えば当然の問いを受け、ビッグママはにやっと笑って返す。

 

「良いかい? 確かにこれは実戦だ。訓練とは掛かるプレッシャーも段違いだろう。だからその緊張に負けないように頑張らねば……シロちゃんの言いたい事はそれだろう?」

 

「は、はい……」

 

 ちっちっちっ、とビッグママは悪戯っぽい笑みを浮かべながら指を振った。

 

「それじゃあダメだ。そんなのはどこまで行ってもマイナス志向に過ぎん。緊張に負けないように緊張してしまって、余計な力が入って、挙げ句は空回りしてミスするのがオチだ。いいかい? あんた達みんな、同じシチュエーションの訓練ではちゃんと出来てたんだろう?」

 

「は、はい……それはまぁ……」

 

「うむっ」

 

 ビッグママは深く首肯した。

 

「つまりあんた達の中には、既にそれを為し得るだけの能力が十全に備わっているという事だ。ならば頑張る必要など無い、全ては訓練通りに。出来て当たり前なんだ。もう一度言うよ。それだけの力は既に持ってる。あんた達なら、出来るさ」

 

「……よ、良し。やれる……やれるよ」「そうだね。訓練で出来たんだし。出来るよ」「出来る。出来るよ!!」「やるぞな!!」

 

 救助隊の様子を見たましろは、思わずビッグママへと目をやる。

 

 今のレッスン9が本気にせよあらかじめミーナと示し合わせての演出にせよ、効果は確かにあった。救助隊全員の士気が上がり、しかもリラックスできたようだ。自分がただ「頑張れ」とか「肩の力を抜け」とか言うだけではこうは行かないだろう。こうした人心掌握術もまた歴戦の艦長の技量かと、ましろは尊敬の念を覚えていた。

 

「……流石ですね」

 

「こんなのはタダの猿マネさ。艦長の、ね」

 

 語るビッグママは、今は少し自嘲気味だった。

 

「ミス・ビッグママ……それはやはり曽祖母の……」

 

「あぁ……艦長や仲間達との冒険の話は、またいずれ聞かせてあげよう。それより今は任務だ」

 

 そう言うとビッグママは片手で顔を叩いて気合いを入れ直した。

 

「よし、ダイバー隊、かかれ!!」

 

「「了解!!」」

 

 指示を受けたダイバー隊が水中に突入すると同時に、残りのメンバーは商店街船へと乗り込んだ。

 

「船は左舷に約40度傾斜して現在も少しずつだが沈降中。動く時は気を付けるんだ!! ありったけの救命ボートを下ろせ!! 負傷者は怪我の度合いによってタグを色分けして付けていくんだ!! 重傷者から順番に、晴風及びクリムゾンオルカへと収容!! 慌てるな、訓練を思い出せ!!」

 

 陣頭指揮を執るビッグママはてきぱき指示を出し、しかも流石と言うべきかその姿は堂に入っており自信に満ち溢れているので、その自信が晴風のクルー達にも伝播したようだった。彼女達はまだ経験が少なく多少のぎこちなさは残るものの、敏速に動いて救助活動を進めていく。

 

 と、船内を捜索していたチームから報告が入った。

 

<ミス・ビッグママ。スプリンクラーが作動していません。この船の非常用システムはダウンしているようです>

 

「あぁ、こっちでも確認した。防水シャッターが動いていない。どうやら全てのシステムがイカれているようだね」

 

 ビッグママは船の制御室にて、この通信を受けていた。

 

 既にこの時点で新橋商店街船が沈没するのは避けられない未来。ならば最優先されるのは艦の安否ではなく、乗客を安全に避難させる事にある。現在船は左舷に傾いている。よって救助活動を円滑に進めるべく右舷の浸水を防いでいる防水シャッターの一部を開いて注水し、トリムを少しでも水平に近付ける。それがビッグママの狙いであったのだが、残念ながら失敗に終わった。

 

<アドミラル・オーマー、指示を!!>

 

「……次の指示は『指示を待つな』だ、ミーナ。時間は、あまり残されていない。とにかく急げ、一刻も早く!!」

 

<了解!!>

 

 次にビッグママは通信機を、晴風に繋ぎ直した。

 

「こちらビッグママ!! ココちゃん、収容した要救助者の数は!?」

 

<現在、529名まで収容を確認しています!!>

 

「よし」

 

 ビッグママは頷きを一つする。

 

 事前に確認していた情報によれば新橋商店街船の乗員は552名との事だから、残りは23名。既に全乗員の9割以上が避難を終えている事になる。

 

「ミケ、もう一度乗客及び船員のリストを確認して、モレや間違いがないかをチェックして収容者数をカウントするんだ。その際、ミスを防ぐ為に必ず二人で行う事!! クリムゾンオルカにも人員を送って同じようにカウントを行うんだ!!」

 

<はい!!>

 

 通信機を切ると、ビッグママは少しだけ意識を自分の内面へと向けて思考に耽る。

 

 やる事は全てやっているか? 何か、見落としは無いか?

 

 脳内でこれまでの経験と、叩き込まれ常に最新版へと更新し続けている救助マニュアルを何度も参照していく。

 

 問題は……無い。今の所は。

 

 その時、手元に置かれていた通信機が再び着信を知らせた。

 

「こちらビッグママ。避難状況は?」

 

<乗員の避難はほぼ完了してます。ただ……小さいお子さんが一人行方不明だそうで……副長が探しに行きました>

 

「シロちゃんが?」

 

<はい、晴風の方と確認しましたが、船員・乗客合わせてその子で最後です。アドミラル・オーマーも早く退避を!!>

 

「あたしは一番最後、シロちゃんとその子供が避難するのを見届けてからだ。子供の名前は?」

 

<多聞丸……と、ご両親が仰っていました>

 

「……ふむ、ん?」

 

 おかしい。

 

 ビッグママは顎に手を当てた。救助活動に入る前に、船員から送信されてきたリストには目を通してそこにあった全ての名前を記憶している。船員名簿にも乗客名簿にも、多聞丸という名はどこにも無かった。自分はトシだが、頭の回転はまだ鈍っていない筈だ。

 

 ……とすれば考えられるのは単純な記載漏れか、赤ん坊や幼児だから乗客リストに名前まで登録されなかったケースか、そもそも記載する必要の無い……犬猫とか乗客のペットなのか。

 

 いくつかの可能性が脳裏に浮かぶが、ビッグママはここでは体を動かす方を優先した。

 

「……いずれにせよ、助ける事に変わりはないがね。ミーナ、救助隊の指揮はあんたが引き継いで、船から退避するんだ。あたしもシロちゃんと多聞丸を見付けたらすぐに脱出する。シロちゃんが向かったのは?」

 

<1階の、食料品を扱っているブースです……お気を付けて、アドミラル・オーマー>

 

 ミーナとの通信が切れると同時にぐらっと船体が揺れて、ビッグママは上手く体重を移動して転倒を避けた。「ちっ」と舌を打ち鳴らす。

 

 通信機のスイッチを入れると、晴風に通信を繋げた。

 

<ママさん!!>

 

「ミケか。良くお聞き。思ったより船の沈降が早い。マロンちゃんに言って、いつでも晴風を動かせる状態にしておきな。もし沈没が始まったら、すぐに離れさせるんだ」

 

<で、でもそれじゃシロちゃんとママさんが……>

 

「シロちゃんはあたしが必ず拾って脱出する。今は、晴風の安全を第一に考えるんだ」

 

<……分かりました>

 

「……ようし、いい子だ」

 

 そう言ってビッグママは通信機のスイッチを切ろうとする前に……もう一言を付け加えた。

 

「心配するな、必ず戻る」

 

 

 

 晴風のブリッジ。

 

 明乃は切れた通信機をじっと見ていたが、じっと商店街船を睨みながら指示を出していく。

 

「避難してきた人達に、毛布と……何か食べ物を……手が空いている人は医務室へ手伝いに」

 

「了解……」

 

 同じ空間に居る幸子の声も、どこか遠くで聞こえてくるようだった。

 

 心配で、頭がどうにかなりそうだ。

 

「待つって……辛いね」

 

 出来るなら、今すぐスキッパーで飛び出して二人を助けに行きたい。

 

 だがそれが艦長としての責任放棄であり、単にこの苦しさからの逃避である事を明乃の中の冷静な部分が告げていた。

 

 晴風の艦長として、その役目を全うする事。それだけを考えろと、頭の中で繰り返し自分に言い聞かせる。

 

「二人とも……どうか無事で……」

 

 

 

 新橋商店街船内。

 

 少しずつ揺れが大きくなってきていて、一歩一歩歩くごとに少しずつ体の重心を変化させながら、ビッグママは通路をずんずん進んでいく。

 

 途中からは窓も無く灯りが落ちたエリアに差し掛かったが問題は無い。

 

 右目を覆う眼帯に手をやると表面のカバーを剥がす。露わになったそこには、緑色に光るカメラアイのような機器が見えた。ほんの僅かだけキュイッと機械音が鳴る。

 

 これは只の眼帯ではなく高度な複合センサー機器であり、熱源を視覚化するサーマルゴーグルや僅かな光量を増幅するスターライトスコープの機能も持っていた。これだけの機能を眼帯サイズに詰め込んだ物は、まだどこの軍や特殊部隊にも出回っていない傑作・最新装備である。

 

「ん!!」

 

 曲がり角から足音が聞こえてきて、ビッグママは歩みを止めた。

 

 現れたのはやはりと言うべきか、ましろだった。手には、小さな子猫を抱いている。

 

「ミス・ビッグママ!!」

 

「シロちゃん、行方不明の子を探しに行ったと聞いてたが……その子が?」

 

「はい、この子が多聞丸です」

 

 確かに、首輪に「TAMONMARU」と書かれている。予想が当たった。ペットの猫なら、乗客名簿には載っていない訳だ。

 

「よし。既に他の乗客の避難及び救助隊の退避は完了している。残っているのは、あたしらだけだ。急ぐよ」

 

「はい!!」

 

 走り出した二人だったが、10メートルも進まない内にビッグママは立ち止まると、手を上げてましろを制した。

 

「……? どうされたのですか? 早く脱出しないと……」

 

「……コイツはヤバイよ、シロちゃん……」

 

 そう言ったビッグママの声は、聞いた事がないほどに真剣であらゆる感情を排したものだった。これは、ましろに良くない事が起きたと教えるには十分だった。

 

「何かに掴まって、体を固定するんだ。急いで!!」

 

 言いながらもビッグママは動いて、手摺りを掴むと同時に腰を落として安定の良い姿勢を取る。

 

 ここまでで、何が起ころうとしているのかましろにもほぼ分かった。慌てて手摺りを掴むと、両足を目一杯の力で踏ん張って体を固定する。

 

 この二秒後に、いきなり重力の方向が変わった。

 

 最初、ましろにはそう感じられたがすぐに違うと分かった。船が、傾いているのだ。

 

「こ、これは……!!」

 

「船が転覆してるんだ。沈むよ、これは……」

 

 体勢を変えて傾斜に対応しながら、ビッグママは床になりつつある天井へと足を付いた。

 

 

 

「ママさん!! シロちゃん!!」

 

 晴風のブリッジ。

 

 転覆して艦底が露わになって、急速に海中へと没していく商店街船の姿を見ながら、明乃が悲鳴じみた叫びを上げた。

 

「だ……」

 

 誰か、ここをお願い。

 

 喉の奥まで出かかったその言葉を、辛うじて呑み込んだ。

 

 晴風の艦長として、己に課せられた役目を全うする事。艦の安全を第一に考える事。

 

 頭の中で自分に何度も言い聞かせていた言葉が残響となって、明乃の中での感情と理性の戦いは僅差で後者が勝利を収めた。

 

「まろんちゃん、機関始動!! りんちゃん、面舵一杯。晴風を安全圏まで退避させて!!」

 

<お、おう……>

 

「で、でも艦長……副長とママさんが……」

 

「……急いで」

 

 決して大きい声ではなかったが、絞り出すようなその声を聞いて異議を唱える者は、もう居なかった。

 

「あの……艦……」

 

 言い掛けた幸子は、思わず息を呑んだ。

 

 明乃の口元には、噛み締めた下唇から血が滴っていた。

 

 

 

「ん……」

 

 ふわふわとした感覚から、ましろは意識を浮き上がらせた。

 

 ぼんやりしていた視界が少しずつはっきりしてくる。

 

「あぁ、目が覚めたかい。シロちゃん」

 

 声がする方に目を向けるとビッグママがあぐらを掻いて座っていて、腕には多聞丸を抱いている。

 

「船のバランスが崩れた時に、頭を打ったんだよ。まぁ、気を失ってたのは5分ぐらいだから大したことはないと思うけど……晴風に戻ったら、みなみちゃんに診てもらうようにね」

 

「ミ、ミス・ビッグママ……今のこの状況は……」

 

「……良い知らせと悪い知らせ、どっちから聞きたい?」

 

 尋ねるビッグママの口調はおどけているが、目が笑っていない。これは問わず語りというやつだ。状況が良くないという事を、ましろはすぐに悟った。

 

「では……良い方から」

 

「まだ生きてる。あたしらもこの子もね」

 

 多聞丸の背を撫でながらあまりにもあっさりと、ビッグママは言い放った。ましろは今の自分は酷い顔をしているだろうなと思った。

 

「で、では悪い知らせは……」

 

「この船は現在逆さまになって沈没しており、水深約50メートルの海底に着底している」

 

 何か周囲の雰囲気が違うように思っていたが、その理由が分かった。上下が逆さまになっていたからだ。良く見ると蛍光灯が足下にある。

 

「あたしらはその中に取り残された格好だね。しかも浸水が続いていて空気が漏れてる。このままだと、後30分ほどで窒息死するだろう」

 

「そ、そんな……」

 

 淡々と語られる内容は一つ一つが死刑宣告書を読み上げられているようで、ましろは明瞭になった視界が再び暗転した気がした。

 

 ブルーマーメイドが到着したとしても、後30分で救助が間に合う訳が無い。この状況は、既に棺桶に両足を突っ込んでおまけに蓋を閉め掛けているような状態だ。事態は最悪のどん底を更に突き破って落ち続けているようなもの。ここは既にあの世だ。

 

 運が悪い、ツイてないとばかり思っていたが、最期までツイてなかった。こんな所で人生が終わるなんて。

 

「シロちゃん、人生終わったような顔するもんじゃないよ」

 

 絶望的な状況下だと言うのに、ビッグママは穏やかにそう言ってのけた。

 

「な、何でそんなリラックスしてるんですか!! あなたなら今がどんな事態か分かっているはずでしょう!!」

 

 半ば八つ当たりに近い形で、感情を爆発させたましろが怒鳴った。

 

「そう大声上げない。貴重な酸素が減るだけだよ?」

 

 年長者の余裕か、ビッグママは怒号を柳に風とばかりに受け流してからから笑う。

 

「シロちゃん、あんたが今何考えてるか当ててみせよう。あたしらは既にあの世にいるとか、大方そんな所じゃないか?」

 

「う……は、はい……」

 

 心を見透かされたようで、ましろはたった今喚いた罪悪感も手伝って勢いを削がれた。

 

 にやっと笑ったビッグママは、義手を開閉してガチンガチンと音を立てる。

 

「あたしが何でリラックスしているか、その質問に答えよう。あたしはクリムゾンオルカ……真紅のシャチ。シャチは冥界の魔物……ここがあの世と言うなら、あたしにとっては言わば第二の故郷。今更ビビるようなものではないさ」

 

「あ、あの……」

 

「それにね、シロちゃん。あたしがブルーマーメイドだった頃は、生還率0パーセントの状況から生還するなんて事は、呆れるほどやってきた。あたしは年貢を納める気などさらさら無い。生涯に渡って踏み倒す。無論、今回もね」

 

 言い回しは独特だが、言わんとしている事はましろにも伝わってきた。

 

 ビッグママはこの絶望的な状況にあっても、少しも諦めてはいない。絶対に生きて帰る気でいる。

 

 自分はどうだろう?

 

 その考えに至った時、ドス黒い気分が少しずつ引いていくようだった。ましろは急速に頭が冷えていくような感覚を味わっていた。

 

『そうだ、諦めてどうする。今までツイていなかったからこそ、これからの人生ではそれを取り戻さなきゃ』

 

 終わってたまるか。こんな所で。

 

 諦めてたまるか。

 

 絶対に、生きて帰る。

 

「こんな所で……死・ね・る・かぁぁぁ!!」

 

 先程よりもずっとポジティブに、爆発的に発生した感情のままに、ましろが吼えた。多聞丸はびくっと体を震わせて、対照的にビッグママはにやにや笑いつつしきりに頷いていた。

 

「そうそう、良い傾向だ、シロちゃん。あたしは心理学も勉強しているが……怒りは絶望より余程役に立つ」

 

 そう言うと、どっこらせと立ち上がった。

 

「そろそろ、船の沈没で攪拌されていた海流が治まる頃だ。と、すれば洋上との通信も……」

 

 ビッグママが言い掛けたその時、通信機がガガ……と音を立てた。

 

<こちら晴風……ママさ……シロ……応……ママさん、応答願います!!>

 

 大分掠れてはいるが、明乃の声だ。ビッグママの読み通り海上との通信が、復旧したのだ。

 

 この空間は薄暗いがましろの顔が明るくなったのがはっきりと分かった。洋上の晴風とコンタクトが取れた。それでこの死地から脱出する術が見付かった訳でも酸素の量が増えた訳でもないが、やはり仲間とのコンタクトが取れると取れないとでは、安心感が違う。

 

<こちら晴風。ママさん、シロちゃん、応答願います。状況を知らせてください。どーぞ!!>

 

「ミケか。こちらビッグママ。あたしもシロちゃんも、猫の多聞丸も無事だ。今の所はね」

 

 通信機の向こう側で、恐らくはブリッジに詰め掛けているであろうクルー達が「おおっ」と声を上げたのが分かった。

 

<良かった、ママさん。ブルーマーメイドはもうすぐ到着すると学校から連絡がありました。何とかそれまで……>

 

「残念だがミケ、救助を待っている時間が無い。この船に残された酸素は、後30分とは保たない」

 

<そんな……30分!?><艦長、それじゃブルーマーメイドが到着してもとても間に合いません!!>

 

 今度はブリッジが悲鳴や絶望の叫びに満ちているのが分かった。改めて考えると、自分達の置かれている状況がどれほど絶望的なのかがはっきりと分かる。ましろは燃え上がった意気が再び萎えそうだった。

 

<マ、ママさん……諦めないでください。必ず、何か方法が……い、今からみんなでそれを考えて……>

 

「考える必要は無いさ、ミケ」

 

 あっさりと、ビッグママは明乃の言葉を切って捨てた。

 

「30分以内に生還する方法はある。一つだけね」

 

 ここで一度言葉を切って「良くお聞き」と前置きし、ビッグママは話し始める。

 

 まずは状況説明から。

 

 現在、新橋商店街船は転覆した状態で180度逆さまになって、深度50メートルの海底に着底している。つまり甲板が下に、船底が上になっている状態だ。

 

 ビッグママ・ましろ・多聞丸は船底部のスクリュー室にほど近い一角に待機している。彼女がこの場所へ移動しているのには、理由がある。

 

「この辺りなら鋼板が薄いから、上手く穴を開けられる筈だ」

 

 ビッグママの話を聞いていたましろは、自分の耳がどうかしてしまったのかと思った。

 

 聞き違いでなければ……ビッグママは穴を開けると言った。

 

 穴を開ける? この、沈んだ船に?

 

 

 

 洋上、晴風のブリッジ。

 

 集まったクルー達の反応も、ましろと似たり寄ったりだった。

 

「マ、ママさん……穴を開けるって……」

 

 信じられないという表情で、明乃が鸚鵡返しする。

 

<そうだ。洋上から魚雷を撃って、船に穴を開ける。そこから脱出するって寸法さ>

 

「そんな!! ママさん、ムチャです!!」「出来る訳がないよぉ!!」「二人とも死んじゃいますよ!!」

 

 これは当然の反応だと言える。明乃も同じ意見だった。

 

「ママさん、いくら何でも危険過ぎます!! 洋上からじゃ正確な射程を取るのは難しいし……もしほんの2メートルでも誤差が生じたら、ママさんやシロちゃんの居る区画に魚雷が命中しちゃいます!!」

 

<このままでもあたしらは助からない。感情じゃなくて合理で動きなよ、ミケ>

 

 自分の命が吹っ飛びかねない危険を冒すと言うのに、ビッグママの声はとても落ち着いていた。

 

 だが正論ではある。他に脱出経路があるとすれば船の通常の出入り口だが、そこも既に浸水しているだろう。水圧で通常の何倍にも重くなった扉を開けて入り組んだ通路を泳いで抜けて船から脱出し、それから洋上へ浮上するなど全く現実的ではない。

 

<選択肢は二つ。何もせずに30分後に死ぬか、生還の可能性に賭けて、バカな事をするかだ!!>

 

「……ママさん……」

 

 背中を、押された感覚があった。

 

 明乃の中で、既に結論は出ていた。方法など、一つしかない事は最初から分かっていたのだ。ただ、自分がその決断を下す事を恐れていただけで。

 

 ビッグママの言葉は、背中を押してくれた。ただしこれは、崖っぷちからの一押しだったが。

 

 覚悟は、決まった。後は、進むだけ。

 

<それにミケ、正確な射程は取りにくい、そう言ったね?>

 

「は、はい……」

 

<それなら問題は無い。クリムゾンオルカには海中の状況をコンマ1ミリの誤差も無く、正確に把握する機能がある。めいちゃんと楓ちゃんは、クリムゾンオルカに移っておくれ!! ナインに伝えな!! 第二の秘密兵器『パウラ』の使用を、このビッグママが許可するとね!!>

 

 

 

 海底、新橋商店街船。

 

 通信機を切ったビッグママに、ましろが詰め寄ってきた。

 

「ミス・ビッグママ……『パウラ』とは? 何か……高性能なソナーのような物なのですか?」

 

「あぁ、当たらずしも遠からずって所だねぇ。突然だがシロちゃんは、超能力って信じるかい?」

 

 本当に突然なその質問に、ましろは面食らった。

 

 人の心が読めたり、スプーンを曲げたり……その手の、胡散臭さ全開のテレビ番組などは何度も見たが……正直それらは眉唾ものだ。視聴率稼ぎの為のトリックだと思っている。

 

 そんなましろの思考を読み取ったのだろう、ビッグママはくっくっと喉を鳴らす。

 

「信じられないのも無理は無いが……でも世界各国のあらゆる国防機関や防諜組織では実際に、超能力の軍事利用を目的とした研究が進められているんだ。それこそ大真面目にね。そしてその歴史は古い。今からおよそ70年前……当時ドイツのとある機関で水を媒介として周囲の状況を感知する超能力を、潜水艦の感知システムに応用しようという研究が進められていたんだ。何人もの子供たちの体を切り刻み、機械に繋いでね……」

 

「な……70年も前に、そんな事が?」

 

「そう。だが、そんな反吐が出そうになる研究は台無しにしてやった。艦長を初めとした当時のブルーマーメイドの手で、ぶっ潰してやったのさ。あたしも見習いながらその作戦に参加して、そして実験体として使われていた子供たちを解放した。んでもって実験施設には研究途上のデータが残されていたから、ついでにそれを頂いた」

 

「では……!!」

 

 明晰な頭脳を保つましろは、段々と話の流れが分かってきた。ビッグママはにっと不敵に笑う。

 

「そう、半世紀以上の時間を掛けて改良に改良を重ね、記録されていた実験体の子の脳波パターンを機械的に再現し、既存のソナーとは一線を画す音響兵器として完成された物が、クリムゾンオルカに搭載されているのさ。その兵器のコードネームである『パウラ』とは、実験体として使われていた子供の名前だ」

 

「は、はぁ……」

 

 あまりのスケールの大きさにましろは圧倒されたようだったが、大切な事をまだ聞いていなかったのを思い出した。

 

「その『パウラ』の機能なら、海中の状況を正確に把握できるのですか?」

 

「ああ」

 

 自信を超えた確信の笑みで、ビッグママは深く首肯した。

 

「普通のソナーが『耳』だとすれば、あれは『眼』だ」

 

 

 

 クリムゾンオルカの艦内。

 

 発令所ではナイン、リケ、ロックら3名のクルーによる計器の操作によって照明が落とされ、この空間の中心数メートル四方ぐらいの空間に緑色のホロ映像が投影された。

 

 芽依と楓は、思わず息を呑む。

 

 ホログラムというまだまだSF映画の中の代物という認識から出ない技術を目の当たりにした驚きもあるが、真に驚くべきはこの精度。

 

 現在深度10メートルに静止中のクリムゾンオルカを中心として、洋上の晴風は勿論、海底の地形や新橋商店街船の位置も克明に映し出されている。それだけではない。周辺の海中を回遊する魚や、浮き上がってくる気泡すらもが表示され、映像の海面は常に形を変えている。

 

 良く見るとホログラムの晴風は波の影響で常に微妙に動いていて、新橋商店街船も逆さまではあるが180度完全にひっくり返っているのではなく、少し角度を付けて斜めに着底しているのが分かった。

 

「こ、これ……全部、リアルタイム映像なんですか?」

 

「そうよ、これがクリムゾンオルカ第二の秘密兵器『パウラ』の能力。通常のソナーとは比べ物にならない精度で、海中の状況を把握できるの」

 

「ただし、膨大な電力を必要とするからさしもの本艦でも、使えるのは一日に精々3分間が限度だがね」

 

 だがその3分で、起死回生の一手を打つ。

 

「これから、海中のデータを入力した魚雷を発射する。めいちゃん、魚雷のプログラミングを手伝ってくれ」

 

「な、成る程……」

 

 自分がここに呼ばれた意味を理解して、呆気に取られていた芽依はここで漸く我に返った。腕まくりする。

 

「よ、ようし……この西崎芽依……一世一代の魚雷!! 謹んで撃たせていただきます!!」

 

 勇んでコンソールに向かうと、キーボードを叩いて海中のデータを少しも漏らさず魚雷にインプットしていく。

 

「そして、万里小路さん」

 

 水中の状況をチェックしつつ、リケが言った。

 

「は、はい」

 

「魚雷を発射した後、このクリムゾンオルカは10秒間だけ機関を最大稼働させその後はエンジンストップして惰性で潜航、船から脱出した二人を海中で拾う。どんな僅かな物音も聞き逃さないよう、水中聴音を手伝ってほしい」

 

 重大な役目と言える。だが、楓の眼に怯えは無い。

 

「承りましたわ。万里小路の名に懸けて」

 

 決意の言葉と共に楓がヘッドホンを掛けた。同時に、

 

「プログラム完了!! いつでも撃てるよ!!」

 

「よし!! 炸薬量は通常の半分にカット!! ダウントリム10度、30秒後に発射する!!」

 

 ナインの指示とほぼ同時にタンクの注水音が聞こえてきて、艦体が前方へと徐々に傾斜して……そして止まる。今現在が、最適の射撃角度だ。

 

「めいちゃん、頼む」

 

「よーし……発射っ!!」

 

 芽依の指が一番発射管の発射ボタンを、叩き割る勢いで押す。

 

 同時に、魚雷が飛び出した反動が発令所に伝わってきた。

 

 

 

「……聞こえた。クリムゾンオルカが魚雷を撃ったよ」

 

 新橋商店街船で、ビッグママがびくりと反応して頭上の床を睨んだ。

 

「シロちゃん、ショック対応姿勢を。およそ1分でこの船に命中するよ」

 

 ましろはごくりと唾を呑んで、固く目を瞑ると両手で手摺りを掴んだ。ビッグママも両足を大きく開いて踏ん張って安定の良い姿勢を取る。

 

「後、これを口に」

 

 ビッグママは懐から、フルートを目一杯小さくしたような道具を取り出した。

 

「ミス・ビッグママ……これは?」

 

「ブリーザーだ。つまり水中呼吸装置。酸素は20分は保つ」

 

 言いながら、ビッグママは片手が義手にもかかわらず器用に紐を使って多聞丸にも同じ器具を咥えさせた。

 

「ミス・ビッグママ、あなたは……?」

 

「残念だが二つしか持っていないのでね」

 

「な……!? それじゃあ……」

 

 更にましろが何か言いつのろうとするが、それ以上は何も言えなかった。その肥満体からは信じられないほど素早く動いたビッグママが全身を使って、体を壁に押し付けてきたからだ。

 

 ほぼ同時に、ズシンと重い衝撃が船全体に走った。魚雷が突き刺さった音だ。

 

 ましろの顔が蒼白になった。突き刺さった、つまり爆発しなかった。不発。ここまで来てツイてないのか……!!

 

「違うシロちゃん。こいつは遅発信管だ。すぐ爆発するよ」

 

 言葉が終わるか終わらないかという所で、すぐ隣のフロアから爆発の衝撃が伝わってきた。区画を隔てるドアが吹っ飛んで、ビッグママ達が居るフロアも上下左右、あらゆる箇所のパイプが破損して浸水が始まった。

 

「ぶわっ!!」

 

「よし、行くよ!!」

 

 全身に水流を浴びてあっぷあっぷしているましろの手を掴むと、ビッグママは既に腰の高さにまで達している水の抵抗をものともせずに進んでいく。

 

 ドアが嵌っていた穴をくぐって隣のフロアに入ると、突き刺さった魚雷の爆発によって空いた穴から水が入ってきていて、小さな滝のようになっていた。

 

「よーし……しっかり掴まってな」

 

 多聞丸を懐に入れたましろを背中に抱えると、ビッグママは思い切り息を吸った。

 

 肩に回されたましろの手が、かたかたと震えているのが分かった。ビッグママは生身の手を、そっと添える。

 

「心配するな、シロちゃん。さっきも言ったろ? あたしはクリムゾンオルカ、シャチは天敵不在の海のギャング。あんたは今、その背中に乗ってるんだ。今日ばかりはナナミになった気分でいると良いさ」

 

 そう言って、前方の水柱を睨む。と、ここでましろが一言。

 

「……ナナミって誰です?」

 

「…………」

 

 振り返ったビッグママの顔を見たましろは、この老婆が今何を言いたいかが凄く分かった。

 

 ずばり『折角カッコよく決めたのに空気読めよこの野郎』である。

 

「……帰ったら、上映会だね」

 

 そう言い捨てるとビッグママは凄い速さで両手を回して鯉のように水柱を泳いで登っていき、そのまま海中へと飛び出した。

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 ヘッドホンを装着したリケと楓は眼を閉じて、体が持つ全ての機能を両の耳にだけ集中していた。

 

 芽依は息を止めて、呼吸する音が二人の邪魔にならないようにしていた。

 

 現在、クリムゾンオルカは10秒だけ全開で回したスクリューの惰性で航行中。海上目指して浮き上がってくるであろうビッグママとましろを捕捉するつもりだった。

 

 手足が水を掻く音すら聞き逃すまいと、聴覚を研ぎ澄ましている楓は不意に不自然な物音に気付いた。

 

 金属音。

 

 ガチン、ガチンと……何かがぶつかるような音だ。

 

「リケさん、何か不自然な音が……」

 

「ああ、聞こえた……金属と金属がぶつかるような……」

 

 これは一体、何の音だ。

 

「義手だよ!! ママさんの!! あのマジックハンドみたいなのが開いたり閉まったりしてぶつかる音だよ!!」

 

 芽依の言葉が正解だと、この場の全員が瞬時に理解する。

 

 クリムゾンオルカのクルー達の反応は早かった。これはビッグママが自分達の居場所を教える為のサインだ。

 

「ロック、面舵30度、アップトリム5度に修正!! ママ達を捕まえる!!」

 

「了解よ、ナイン!!」

 

 

 

 海中。

 

 ましろを抱えて泳ぐビッグママは、ゆっくりとこちらに向かってくるクリムゾンオルカの艦体を認め、口角を上げた。

 

 義手を思い切り前方に突き出すようにして、かざす。

 

 すると先端部分がスペツナズナイフの刀身のように発射されて、クリムゾンオルカの手摺りへと高所作業で使う安全帯ベルトのように引っ掛かった。

 

 射出された先端と基部はワイヤーで結ばれていて、巻き取り機能によって一気にビッグママとましろの体はクリムゾンオルカへと引き寄せられる。ワイヤーの巻き取りが完了するのを待たず、ビッグママは生身の手で手摺りを掴むとぐるりと体を回して、艦体に両足を付けた。

 

 背中のましろを振り返ると、手を何度も上から下へと動かす仕草を見せる。

 

「……?」

 

 最初は分からなかったが、ましろはすぐに理解した。

 

 水中で声は聞こえないが間違いない。何でも良いから、艦を叩けと言っているのだ。

 

 水の抵抗に負けないように精一杯の力を腕に込めると、ましろは手にしていた懐中電灯を思い切り甲板にぶつけた。

 

 

 

 ガン!! ガン!!

 

「何の音だ?」

 

「甲板に何か当たった!!」

 

 クリムゾンオルカの発令所に、乾いた音が響いてきた。

 

「これは合図だ。たった今、艦に乗り移って体を固定した。一気に浮上しろ……ですよね、ママ」

 

「た、確かなの?」

 

 芽依の疑問には、ロックが答えた。

 

「ナインが言うなら間違いないわよ。悔しいけど私達3人の中で、ママの思考を一番理解しているのはナインだからね。よし、機関最大戦速!!」

 

 これまでの静寂から一転、ハードロックのような爆音が響き渡る。数秒ほど遅れて振動が走ってきた。

 

「す、凄い……これが……この艦の全速……」

 

 楓が、呆然と呟いた。体がシートに押し付けられる。外は見えないが、信じられないほどの加速度が艦に掛かっているのが分かる。

 

「前部バラストブロー、浮上角最大!! しっかり掴まってろ!!」

 

 リケがそう言っている間にも、艦が今度は上へと傾き始めていた。

 

 芽依は悲鳴を上げながら潜望鏡に掴まって、楓はシートベルトを締めた。

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

 明乃は瞬きもせずに、海面を睨んでいた。

 

 長い。今なら100メートル走で10秒を切れそうな気がする。それほど時間が長く感じる。唾が苦く、心臓の鼓動音が五月蠅く感じる。

 

「ココちゃん、何分!?」

 

「2分37秒です、艦長!!」

 

 幸子が時刻ではなく、魚雷が商店街船に命中してからの時間を報告してきた。

 

 2分半を過ぎた。

 

 拙い、拙い、拙い。

 

 ナインの話ではビッグママは常に予備の物を含めて水中呼吸装置・ブリーザーを2つ携帯しているそうだ。だが今回、ビッグママとましろと、そして多聞丸。呼吸装置が必要なのは3名。必然的に一人は呼吸装置を使えない。

 

 恐らく、いや間違いなくビッグママはブリーザーを使わないだろうと、明乃は思った。10年の付き合いだから、分かるのだ。あの人なら絶対にそうするだろうと。

 

 時間は、もう無い。

 

 何か、何か無いか。自分に出来る事はもう無いか? 本当に全てをやり尽くしたのか?

 

 考えて、考えて、考える。

 

 自分に出来る事、自分に出来る事、自分に出来る事。

 

 頭を回して、回して、回す。

 

「!!」

 

 一つ、ある。まだ、出来る事はある。

 

 機関室に通じる伝声管を開けて、怒鳴った。

 

「まろんちゃん、機関最大戦速!! 全速を出して!!」

 

<りょ、了解!!>

 

「りんちゃん、面舵50度!! 急いで!!」

 

「ほ、ほい!!」

 

 鈴が体を跳ねさせて、舵を回す。しかし一方で、幸子は正気を疑うような顔で明乃に詰め寄った。

 

「ま、待って下さい艦長!! そのコースはちょうど、浮上してくるクリムゾンオルカに真っ向から向かっていく事になります!! 下手をしたら晴風がクリムゾンオルカに乗り上げるかも……!!」

 

「今は説明している時間は無いの!! まろんちゃん、お願い!!」

 

 

 

<今は説明している時間は無いの!! まろんちゃん、お願い!!>

 

 開けっ放しの伝声管から、明乃の切羽詰まった声が、機関室に聞こえてくる。当然、先程の幸子とのやり取りも筒抜けである。

 

 機関長の柳原麻侖は数秒だけ難しい顔をした後、ぐっと唇を引き結んで厳しい顔になった。

 

「分かった。機関最大戦速!! ぶっ飛ばすよ!!」

 

「ま、待って麻侖!! 今の話聞いてたでしょう? そんなコースに全速で突っ込んだら、晴風がクリムゾンオルカとぶつかるかも知れないって……宗谷さんが乗ってるのに……!!」

 

 明乃の命令は、暴挙としか思えない。機関助手である黒木洋美が反対するのも当然だった。彼女だけではなく、機関員4人組も同意見のようだ。

 

 しかし麻侖が「静かに!!」と一同を一喝する。

 

「ばあちゃんも言ってたろ!! 艦長がこうと決めたら、クルーはそれに従えって。それに、こんな事するからには艦長にも何か考えがある筈だ。それを信じるんだよ!!」

 

「麻侖……」

 

 洋美はそれでも迷いを振り切れなかったが、今は瞬時すら惜しい瀬戸際という事を思い出して、彼女も腹を括った。

 

「……宗谷さんを死なせたら、絶対に許さないから!!」

 

 ブリッジに聞こえるように大声で叫ぶと、エンジンに最大出力を発揮させる為の作業に入った。

 

 

 

 晴風の動きは、クリムゾンオルカからもキャッチされていた。

 

「晴風が全速で転舵、真っ直ぐこちらへ向かってくるぞ」

 

 リケの報告を受け、芽依と楓は顔を見合わせた。

 

「か、艦長!! 何やってるの!?」「そ、それより回避ですわ!! ロックさん、すぐ転舵を……!!」

 

「いや、これで良いのよ!! 本艦と晴風との距離と速度を計算、トリム修正!! 晴風の艦底ギリギリをすり抜けるわ!!」

 

 手が白くなるほどハンドル型の舵を強く握って、眼を血走らせたロックが叫んだ。

 

「そう、これで良い……ミケちゃん、ナイスアシスト、良い機転だ!! やるじゃあないか!!」

 

 やや引き攣ってはいるが、笑みを浮かべたナインが此方も全速を出しているエンジン音に負けじと叫ぶ。

 

「今……!! 晴風がちょうど真上を通り過ぎますわ!! 艦が、晴風の航跡に入ります!!」

 

 この瞬間、一同を奇妙な浮遊感が襲った。

 

 艦が、上へと動いている。

 

「う、浮いてる!?」「これは一体……!?」

 

「上昇水流さ」

 

 リケが言った。

 

「艦が通過したその航跡には、上昇水流が発生するのよ」

 

 と、ロック。

 

 当然、晴風の航跡に入っているクリムゾンオルカはその影響をモロに受ける事となる。

 

 上昇水流、即ち浮力。

 

「この浮力に艦を乗せる!! ミケちゃんはこれを狙ってたんだ。潜舵アップトリム最大、全タンクブロー!! 全速浮上!!」

 

 芽依は、深度計に目をやった。

 

 深度は10メートル。海面まで、後数秒。

 

 

 

「アドミラル・オーマー……!!」

 

 救助隊の指揮を執っていたミーナが、祈るように呟いた。

 

「ミーナさん、下を!!」

 

「下……? ウオオオオオ!!!!」

 

 視線を下げると、ちょうどボートの下をクリムゾンオルカが通過していた。

 

「急げーーっ、クリムゾンオルカ!! もう時間が無い!! 早く!! もっと早く!!」

 

 体を乗り出したミーナが落ちそうになって、媛萌が慌てて肩を掴んで引き戻した。

 

 海面が、隆起を始める。

 

「ママさん!!」

 

 双眼鏡を覗きながら、幸子が叫んだ。

 

 潜望鏡が、露頂する。

 

「来た!!」

 

 海面を睨むマチコは、瞬きの一つもしていなかった。

 

「……来る」

 

 素早く手当に当たれるよう、甲板に上がってきた美波が呟いた。

 

 海が、割れる。

 

 クリムゾンオルカの艦体が海面に飛び出し、空中を舞う……いわゆるドルフィン運動によって浮上する。

 

「ママさん、シロちゃん……死なないで……!! 生きていて……!!」

 

 両手を合わせ、瞳を閉じた明乃が呟いた。

 

 そのまま艦の前部が海面に着水して、雨のような水しぶきが上がった。

 

 

 

 肌にまとわりつく水流の感覚が無くなった事で、ましろはクリムゾンオルカが浮上した事に気付いた。

 

 多聞丸は……!!

 

 無事だ。凶暴だから口枷をされた犬のように、無理矢理咥えさせられたブリーザーを何とか外そうと、頭を振っている。

 

 ビッグママは……!!

 

 はっと、視線を前に向ける。

 

 老艦長は、義手と生手で手摺りを掴んで、うずくまっていた。

 

 水中に出て軽く2分は経っている。息が続いているか……どうか……

 

「ミス……ビッグママ……」

 

 ブリーザーを捨てて、伸ばしたましろの手を……ぬっと伸びてきた手が掴んでいた。

 

「へっ!?」

 

 思わず顔を上げると、真っ白になってしまった髪を肌に貼り付かせて、隻眼で自分を見て……

 

 いつも通りの不敵な笑みが、ましろに向けられていた。

 

「あ……ああ……」

 

 双眸に、自然と涙が浮かんできた。

 

「ぶはぁ~~っ!!!!」

 

 大きく息を吐いて、立ち上がったビッグママは両手を高々と掲げ、ガッツポーズを取る。

 

 瞬間、静かな海が歓声に包まれた。

 

「生きてる!! 生きているぞ!! アドミラル・オーマーが生きてる!!!!」

 

「奇蹟だ!! 奇蹟だよ!!」「ママさんが奇蹟を起こした!!!!」

 

 ボートの上で媛萌と百々が感涙しながら抱き合って、興奮したミーナは「今そっちに行きます!!」とボートから飛び降りてクリムゾンオルカへ向かって泳ぎ始めた。

 

「やったあぁぁぁぁぁ!!!!」「し、信じられないよぉ!!」「凄い!! 凄い!!」「夢じゃないよね!! これ夢じゃないよね!!」

 

 騒ぎになっているのは晴風でも同じだった。ブリッジではテンションMAXになった幸子がぶんぶんと鈴の体を揺すって、まゆみと秀子は互いに頬をつねり合っていた。

 

「宗谷さん……」

 

 機関室では、緊張の糸が切れた洋美がへなへなと座り込んでしまった。

 

 晴風の甲板には既に救助された商店街船の乗客達が詰め掛けていて歓声の嵐が巻き起こり、ウェーブまで始まっていた。美波も参加していた。

 

「やったよ!! ママさんも副長も生きてるよ!! 万歳、バンザイーーーッ!!!!」「やりましたわね!! 奇跡が起こりましたわ!! 起こしましたわ!!」

 

 ハッチを開けて出て来た芽依と楓が飛び跳ねながら諸手を挙げる。興奮のあまり、二人とも海に落ちそうになった。

 

「ママさん……シロちゃん……」

 

 双眼鏡を下ろした明乃の双眸からは、涙が滂沱として流れていた。彼女は胸の気持ちをどう表現したら良いか分からず、それ以上は何も言えなかった。

 

「ふん……久し振りに空気の美味さを味わったよ……しかしたかが3分ちょっと息を止めたぐらいで苦しくなるなんて、あたしも衰えたねぇ。昔は軽く8分は平気だったモンだが……トシかな」

 

 頭を振りつつ呟くビッグママ。息苦しいとは言ったが、実際にはまだまだ余裕があるようにましろには見えた。既に呼吸は整い、肩も上下していない。

 

「ほれ」

 

 懐から通信機を取り出すと、投げ渡してくるビッグママ。ましろはお手玉しそうになったが、何とかキャッチできた。

 

「ミ、ミス・ビッグママ……?」

 

「シロちゃん、副長としての仕事を全うしな」

 

「……あ!!」

 

 柔和な笑みと共に掛けられた言葉の意味を、少しの時間を置いてましろは理解した。

 

 通信機のスイッチを入れて、晴風に繋ぐ。

 

<シロちゃん!!>

 

 明乃が、反射的な早さで通話に出た。

 

「艦長……新橋商店街船、全要救助者の確保を確認……これにて、救助活動を終了します」

 

 救助隊の指揮を執っていた者として、救助活動の完了を報告する事。これが、ましろの役目だった。

 

<……了解。お疲れ様>

 

 安心しきった声が、通信機から返ってきた。

 

 不意に、ましろの頭に重い物が乗った。ビッグママの大きな手だ。わしゃわしゃと頭をなでくりなでくりしてくる。

 

「良くやった……誇りに思うよ」

 

 そう言うと、ビッグママはひょいっと通信機を受け取った。

 

「あー、ココちゃん。聞こえるかい?」

 

<はい、ママさん。感度良好です>

 

 にやっと、ビッグママは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「スピーカーの音量を最大に上げるんだ。派手にぶち上げよう」

 

<……!! 了解!!>

 

 

 

<スピーカーの音量を最大に上げるんだ。派手にぶち上げよう>

 

「……!! 了解!!」

 

 主語が無いが、これで幸子には十分伝わったらしい。晴風のブリッジでは、こちらも悪戯っ子のような笑みを見せていた。

 

「ココちゃん、今のは?」

 

 きょとんとした顔の明乃が、尋ねてくる。

 

 既にスピーカーの操作を終えた幸子が、艦長に向き直った。

 

「艦長、私と一緒に宣言しましょう!!」

 

「せ、宣言?」

 

「そう!! 宣言です!!」

 

 

 

<あー、あー、こちら晴風艦長、岬明乃です!! 6時13分現在、新橋商店街船の乗客船員、一人の死者も無く全員を収容しました!!>

 

 音量マックスの晴風のスピーカーから、明乃の声がこの海域一帯へと聞こえてくる。

 

<繰り返します、全員の収容を確認しました!!>

 

 次に幸子の声が聞こえてきた。

 

 クリムゾンオルカの甲板で、ましろは何となく先程のビッグママの言葉の意味が分かって、頭が痛くなった。

 

<<われわれは何も失ってはいない!!!!>>

 

 明乃と幸子、二人の声が揃って少しハウリングを起こしながら響き渡った。

 

 一瞬の沈黙。

 

 然る後に、先程に数倍する歓声と喝采が晴風とクリムゾンオルカを包んだ。

 

「……これは何が元ネタですか?」

 

 ジト目で呆れ顔のましろの頭を撫でつつ、ビッグママはにっこり笑う。

 

「今度、貸してあげるよ。あれはあたしのバイブルだ」

 



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VOYAGE:13 事件の真相

 

「……はい、はい。ええ……でもそこを何とか頼むよ、長い付き合いじゃないか……ええ、そう……スパシーバ(ありがとう)。次に会う時には、一緒に釣りでもしようじゃないか。あたしの腕は知ってるだろ? ライ麦の黒パンを焼いて、極上のキャビアを持って行くからさ……ああ、楽しみにしてるよ。ダスビダーニャ(また会う日まで)」

 

「そう……そう、そうなんだよ。是非お願いしたい。この前は無理を聞いてあげたじゃあないか。あなたの権限で是非……ええ、ええ。シェイシェイ(ありがとう)。では、また……その時はあんた好みの激辛の麻婆豆腐を持参するから、楽しみに待っていて……ツァイチェン(さようなら)」

 

「久し振りだねぇ……実は……そう、そう……勿論、タダでとは言わないよ。強力に後押しを……資金の提供も……そう、そう。約束するよ。では、よろしく。この前、良い茶葉を手に入れたんだ。スコーンを焼いていくから、一緒に食べながら007でも観ようよ。ええ、ええ……ではまた……グッバイ」

 

 新橋商店街船の救助者をブルーマーメイドへと引き渡した後、クリムゾンオルカへと戻ったビッグママは艦長室に入ると、彼女専用の通信機を使っていずこかへと連絡を取っていた。もう3時間もぶっ通しで行っている。

 

 通話を切って受話器を置くと、テーブルに置かれたリストに「○」印を付ける。○と×の比率は、3対7という所だ。

 

「ふうっ……」

 

 シートにもたれ掛かると大きく息を吐き、眉間を揉みほぐす。

 

「やはり急な話だからねぇ……中々上手くは行かないか」

 

 そう呟いた時、発令所からの通信を示すランプが点灯してベルが鳴る。ビッグママはすぐに受話器を取った。

 

「ナインか、あたしだ」

 

<ママ、ブルーマーメイド統括・宗谷真霜一等監察官から連絡が入ってます>

 

「来たか、シモちゃん!!」

 

 聞く前から朗報を確信して、喜色を思い切り顔に出すビッグママ。

 

<調査に目処が付いたので、報告と対策会議を行いたいとの事です>

 

「分かった。では10分後に通信を繋ぐ。晴風に連絡を入れて、ミケにも同席させるんだ」

 

 

 

 

 

 

 

「時間です、ママ。横女・東舞校・海上安全整備局安全監督室への通信を開きます」

 

 10分後、クリムゾンオルカの発令所ではキャプテンシートには勿論ビッグママが、その隣のゲストシートには明乃が腰掛けていた。呼び出しを受け、晴風の指揮権をましろに委譲してこちらに移ってきていたのだ。

 

 リケがコンソールを操作し、発令所の3つのモニターにそれぞれ宗谷真雪・永瀬鉄平・宗谷真霜。通信相手の姿がバストアップで表示された。

 

<一人も欠ける事のない参加を、感謝します>

 

 まず、この会議の開催を提案した真霜が発言した。

 

<挨拶はえぇよ、宗谷一等監察官。今は非常時、早速本題に入ってもらいたい>

 

 と、永瀬校長。真霜は気を悪くした様子も無く<それでは>と、視線を落として何か計器を操作しているような動きを見せる。

 

「ママ、宗谷一等監察官からメールが入っています。ファイルが添付されていますね。ウィルスチェック……問題なし。手元のタブレットに転送します」

 

 ナインが手元の画面を見ながらキーボードを叩き、ビッグママと明乃が手にしたタブレットに添付されていた画像データが送られてきた。

 

 開けてみると、まず黒い紙に金色の文字で「密閉環境における生命維持及び低酸素環境に適応するための遺伝子導入実験」と記入された表紙が目に入った。ページを進めると、まず潜水艦の写真が添付された報告書が表示された。

 

 同じ物を、遥か離れた横女や東舞校でも見ているのだろう。モニターの中の真雪と鉄平も視線が下へと向いている。

 

「実験艦は深度1500メートルまで沈降……制御不能、サルベージは不可能……」

 

「深度1500か……このクリムゾンオルカでも、可潜深度は圧壊覚悟でムリして1250が精一杯……そりゃあ引き上げは不可能だねぇ」

 

<しかし只の潜水艦ならそこまで手間を掛けてサルベージするものでもなかろう? 何か……そこまでしても回収したいデータでも積んどったのか?>

 

 ビッグママと永瀬校長がそれぞれコメントする。これを受けて画面の中の真霜が頷いて<では次のページを>と促してくる。

 

 そうして明乃とビッグママが手元のタブレットのページを先に進めて……二人の表情が強張った。

 

「これは……!!」

 

<そう、サルベージ不可能の筈が、海底火山の噴火によって押し上げられてしまったのです。その場所が……>

 

<西之島新島……今年の海洋実習の集合地点ね>

 

 更に次のページを見てみると、またしても明乃とビッグママの表情が厳しくなった。

 

 報告書に添付されていた写真に写っていたのは、ビッグママが海洋安全整備局から回収依頼を受けたネズミもどきであったのだ。

 

「ここまでは思った通りか……」

 

 急速に点と点が繋がっていく爽快感を、ビッグママは覚えていた。ぼそりと呟く。

 

「シモちゃん、続きを」

 

<はい、おばさま……海底プラントでの実験は文部科学省海洋科学技術機構・海上安全整備局装備技術部・国立海洋医科大学先端医療研究所の三者共同で行われており、その過程で偶然、この生物が生み出されたのです。コードネームは『RATt(ラット)』と呼称されていました。この生物が媒介するウィルスは生体電流に影響を及ぼし、感染した生物は一つの意思に従い行動するようになります>

 

<……先生、読めてきましたぞ。前に見せてもらった報告書によれば、海上安全整備局から派遣された海洋生物の研究調査チームが猿島に同乗していたとの事。そいつらはやはり、先生達が依頼を拒否されたから、代わりに実験艦からネズミと研究データを回収する対バイオハザードチームだったんでしょうな>

 

<その通りです、永瀬校長……付け加えるなら全てのデータを回収した後、実験艦を自沈させる事も彼等の任務には含まれていました>

 

 自沈させる。即ち証拠を消すという事。

 

 つまりネズミ及びウィルスの研究は海上安全整備局や文部科学省にとって、どうしても明るみには出したくない暗部だったのだろう。だからクリムゾンオルカに高い金を払ってでも依頼しようとした。そして晴風及び行方不明艦への撃沈許可を出したのも、ビッグママが考えた通り全ての証拠を艦ごと海に沈めるつもりだったからだ。

 

<……それにしても、この短期間でよくここまで調べられたわね>

 

 と、真雪。画面越しに、真霜はくすぐったそうに笑った。

 

<おばさまのアドバイスがあったからこそですよ。この計画には通販会社「Abyss」の一部も絡んでいます。ネズミを含めた海底プラントでの実験の産物を、本土に持ち帰る為のカムフラージュとしてね。私は逆にそこから事件を辿って、真相に辿り着く事が出来たんです>

 

<成る程ォ……>

 

「そ、それじゃあ猿島が合流地点でいきなり撃ってきたのも、そのウィルスやネズミの仕業だったんですか?」

 

<その通りよ。私は先日意識を取り戻した古庄先輩と話をしたけど、彼女は晴風に先制攻撃を行った事それ自体は覚えていたけど、何故遅刻程度で先制攻撃に及んだのかは何度質問しても思い出せないとしか答えなかった。しかも彼女だけではなく、猿島の乗員全員が攻撃時の記憶を失っていたの。これもウィルスの影響よ。感染源であるネズミの命令により動かされていたから、行動の理由が説明できなかったの>

 

「一つの意思によって統率される、か……まるで群体だね。昆虫のような」

 

 顎に手をやって、ビッグママは何か考えるような仕草を見せた。画面の中の真霜は、更に説明を続けていく。

 

<周辺の電子機器が狂うのも、その生体電流の影響です>

 

「……そうか、だからあの時、東舞校教員艦からの噴進魚雷がクリムゾンオルカに向かってきたのね」

 

 ロックがそうコメントした。

 

<先の新橋商店街船避難民を受け入れた際、晴風で開発されたウィルスの抗体が送られてきています>

 

 悪いニュースばかりだったが、ここで朗報が舞い込んできた。

 

「みなみさん……!!」

 

<では、その抗体を増産すれば……ネズミの被害を食い止める事が出来る?>

 

<その通りです。つまり量産体制が整うまでの間、行方不明艦が本土や海上都市に帰港する事を防げばこの事態を収束できます>

 

 漸くこの事件を解決する糸口が見えてきてほっとした空気が漂うが……

 

 しかしこの中で、苦虫を噛み潰したような顔の者が一人。ビッグママだ。

 

 気に入らない。まだ、これだけではパズルのピースが足りない。歴戦の艦長のカンが、そう告げていた。それに、まだ解いていない謎が残っている。全ての秘密を解明しない限り、この事件を完全に解決する事は出来ない。カンはそう言っている。

 

「……シモちゃん、ネズミの親玉について何か記録は残っていなかったかい?」

 

「……ママさん?」

 

<親玉、ですか?>

 

「一つの意思によって全体が動くようになるってデータがあるって事は、少なくとも一度はそれを証明する為の実験が行われた筈だ。それに関するデータは、残っていなかったかい?」

 

<…………>

 

 この問いを受け、真霜が目を丸くする。

 

<……おばさま、ご存じだったのですか?>

 

「……只の推理だよ。確証は無かったがね」

 

<……では、最後のページを参照して下さい>

 

 タブレットを操作して画像ファイルを進めていくと、一体のネズミの写真が添付された報告書が表示された。

 

「これは……」

 

<RATtの中で、ウィルスによる命令系統の最上位として確認された個体……『ボルジャーノン』と呼称されたこのRATtは、異常な知能を発揮して他のRATt達を完璧に統率したと記録が残されています……>

 

「ママ……!!」「これは……!!」「やはり推理通りで……」

 

 クリムゾンオルカのクルー達がそれぞれ反応を見せる。明乃と、そして画面に映る3名はそれぞれビッグママへと視線を集めた。

 

 この老婆は、自分達よりも更に先の領域へと思考を進めている。

 

<……教官、何かご存じなのですか?>

 

「あぁ、ユキちゃん。今までは確たる事ではなかったので話さなかったが、シモちゃんからの報告を受けて確信できた」

 

<……と、言うと……>

 

「ずばり、この事件の発端についてだよ」

 

「<<<!!>>>」

 

 明乃と、画面の中の全員の表情が厳しくなった。

 

 確かにこれまでの報告で事件の原因については分かったが、そもそも何が原因でこの事件が起こったのかは分からなかった。ビッグママは、そこに思い至っているらしい。

 

「そもそも、皆は不思議に思わなかったかい? 晴風が拾ったAbyssの箱に入っていたネズミ……入れられていた箱の中には何日か分の食糧や水があった。つまり海に流されたのは何かの偶然や事故の類ではなく、明らかに作為的に行われた事、少なくともそうなるのを想定していたという事だ。だが、そんな事をして誰が得をする?」

 

<誰が……か。確かにそれはぱっと思い付きませんなぁ>

 

 モニターの向こうで、永瀬校長が首を捻っている。

 

 晴風へと発砲した猿島。もしこれを個人対個人のレベルへと落とし込んだらどうなるか。

 

 砲弾の代わりが、刃物や銃であったなら……? そんな事が、世界中で起こったのなら?

 

 RATtウィルスによるパンデミックが起これば、国はおろか世界が終わる。

 

 そんな危険生物を海に流して、誰が得をする?

 

 政治家や役人、実業家の類ではあり得ない。世界が終わったら、金や地位や名誉など何の役にも立たない。北斗の拳やマッドマックスのように、札束がトイレットペーパーの代わりにもならない世界がやってくる。

 

<では、自滅覚悟のテロリストか……それかウィルスの力に魅せられたマッドサイエンティスト……?>

 

<何か、違う気がしますね……>

 

 大体してRATtウィルスは美波が作るまでは、抗体すらない欠陥持ちの(良く言って未完成の)生物兵器だったのだ。テロリストだろうがマッドサイエンティストだろうがそんなのを世界中にバラ撒いては、全ての破滅しかない。勿論、実行犯が正気を失っていたとしたらその行動が理屈では説明できないのも道理ではあるが……

 

 しかしそれだけで片付けるのは、あまりに短絡的である。

 

 ならば誰がいる? ネズミを海に放して、利益を得る者は……?

 

「居るんだ。得するヤツはね」

 

<……おばさま、それは?>

 

「ネズミ自身さ」

 

<なっ……?>

 

 あまりに突拍子もないビッグママの言葉に、全員が固まったようになる。思わず彼女の顔を見るが、冗談でも何でもなく本気の目をしていた。

 

「あたしがこの事について考えている時、ロックがこう言ったんだ。『死んだら金は使えない』ってね。その言葉で、ピーンときたんだよ」

 

 『死んだら金は使えない』つまりネズミを海へ流した者は、利益を目的とはしていなかったのだ。

 

 今まではネズミを海に流して何の利益があるかとばかり考えていたが、それでは答えがでないのは当然だった。そもそも発想の出発点からしてズレていたのだ。

 

 目的は、生き延びる事。あるいはそれこそが最大の利益であると言って良いかも知れない。

 

<ネズミが……生き延びる為にこの事件を起こしたと?>

 

「そう。無論、徹頭徹尾計画通りという訳ではないのだろう……偶然も、多分に絡んでいた筈だ」

 

 ガチン、とビッグママが義手を鳴らす。

 

「恐らく……海底プラントの沈降と海底火山による浮上……ここまでは偶然だったろうね。そしてこれはあたしの想像によるが……猿島や横女の学生艦が西之島新島沖へと到着するよりも更に早く、実験艦に接触した者が居たんだ。恐らくはたまたま近くを通り掛かってね。それが漁師か、ダイバーやサーファーみたいな観光客かは分からないが……好奇心猫を殺すと言うけど……そいつらが、実験艦に立ち入ったんだ」

 

<まるでホラー映画ですな>

 

 永瀬校長がぼそりと一言。

 

 確かにこれは、ホラー映画で良くあるシチュエーションだ。

 

 発掘チームや冒険者が古代の遺跡に立ち入って、そこで厳重に封印された棺や箱を見付ける。何かの宝物が入っているかと思って開けたそこには、実は怪物が眠っていて……!!

 

「RATtの親玉……ボルジャーノンは実験艦に入ってきたそいつにウィルスを感染させて操り、用意されていたAbyssの箱に自分達を詰め込ませて海に流させたんだ。西之島新島に到着していないシュペーや武蔵にウィルスの感染が広まったのはこれが理由だろう。晴風と同じで、流されていたAbyssの箱を誰かが拾ったんだ。そしてそれを開けてしまって、ウィルスが艦内に蔓延した。一方で西之島新島の実験艦にもRATtは残っていて、そいつらが猿島や学生艦へとウィルスを感染させた……」

 

<確かに辻褄は合いますが……人間を操るとか、そんな事をネズミがやるでしょうか?>

 

「ユキちゃん、出来ないと考えるのは早計だよ。少なくとも、ウィルスに感染させた対象を凶暴化させて自分に近付く者を攻撃させる所までは可能だという事は、既に実証されている。ならば生体電流ネットワークの親玉に高い知能があればそこから更に進んで、対象を思いのままにコントロールする事が出来ても不思議はない」

 

<……むう>

 

「それに、これはそこまで特別な能力と言えないのかも知れないよ。自然界ではエメラルドゴキブリバチといって、ゴキブリの中枢神経を毒で破壊しゾンビのような状態にして巣穴に連れ帰り、卵を産み付け、生きたまま幼虫の餌にしてしまう蜂や、冬虫夏草のように寄生した蟻を自分の生存に適した場所へ移動させ、その後で死ぬように行動をコントロールするキノコの存在が既に報告されている。天然物の進化ですら、そんな奇妙奇天烈な能力を持った生物が生まれるんだ。ましてや人間の手が入った歪な進化なら、そんな能力が発現しても不思議はない……寧ろ必然とさえ言えるかも」

 

 ビッグママのレッスン4にこうあった。『先入観を捨てろ。ありえないなんて事はありえない。実戦では何が起こっても不思議じゃない。そして何でも後から意味が付けられる』。今の状況はまさにその通りである。他の生物を操る天才ネズミなど、恐らくは人類史上最初の敵であろう。

 

<……つまり、その親玉ネズミ……ボルジャーノンを仕留めない限りこの事件は解決できないって事ですな。先生……>

 

<しかし、難しいですよ。海に流されたネズミは何十匹いるのかは分かりませんし、ましてやその中のたった一匹を見付けるとなると……>

 

「いや、ボルジャーノンがどこに居るかは既に分かっている」

 

<えっ!!><何と……>

 

「ママさん、それはどこですか!?」

 

「武蔵だ。ネズミの親玉は、間違いなく武蔵に居る」

 

「!!」

 

 武蔵。親友の乗っている艦の名前が出て、明乃がばっと顔を上げた。

 

 これは曖昧な推測ではない。ビッグママの声色には、確信の響きがあった。

 

<教官……根拠をお聞かせ願えますか?>

 

 ならば、その裏付けは何なのか? 当然、真雪が質問する。

 

「武蔵だけ、猿島やシュペーとは明らかに様子が違ったからさ」

 

 事も無げに、ビッグママが答える。

 

<あ……>

 

 確かに、晴風が接触した猿島やシュペーは、砲撃の精度は低く連射速度も遅かった。対して武蔵は、東舞校の教員艦に対して初弾を命中させてくるなど恐るべき射撃能力を見せ、しかもほぼカタログスペック通りの連射性能も発揮していた。確かに、前者2艦とは何かが違っていた。

 

 その秘密が明らかになった。何の事はない、操っている者が特別製だったのだ。

 

「つまり……他の行方不明艦を捜すのは勿論大切だが、武蔵を見付ける事は更に重要になる。ユキちゃん、シモちゃん、テッちゃん!!」

 

<ハッ、教官!!>

 

<動ける全てのブルーマーメイドを動員し、不明艦の捜索及び海上都市・本土への上陸を阻止します!!>

 

<ワシの権限でホワイトドルフィンに大動員を掛け、海上の警戒網を強化しましょう。もしかしたらウィルスに感染した生徒にスキッパーに操らせて、それで脱出するというケースも考えられますからな。ボートの一隻も見逃さないよう、監視を徹底させますけぇ>

 

 次々に、対策が打ち出されていく。

 

「ママさん、私達は……」

 

 明乃がそう言い掛けた時、計器をチェックしていたリケが声を上げた。

 

「ママ、広域通信でアドミラルティ諸島近海に大型艦の目撃情報が多数寄せられています……識別体は白と黒……ドイッチュラント級装甲艦3番艦「アドミラルシュペー」です!!」

 

「!!」

 

「ミーちゃんの船……」

 

 見れば、モニターの3名も手元や後ろを振り返っている。恐らくは、同じ報告が入っているのだろう。

 

「……リケ、確認するが目撃されているのはシュペーだけだね? 他の駆逐艦や武蔵の姿は見当たらないのだね?」

 

「はい、ママ。確認されているのはシュペーだけです」

 

「分かった。聞いたね? みんな……」

 

 ビッグママが、正面のモニターへと向き直る。ブルーマーメイド・ホワイトドルフィンのトップ達は、それぞれ厳しい顔で頷いた。

 

「アドミラルティ諸島はここから目と鼻の先……そしてシュペーが単艦で動いているなら、今は絶好の好機と言っていいだろう。僚艦の居ない戦艦なら、潜水艦であるクリムゾンオルカが圧倒的に有利。RATt達にはまだまだ未知の部分が多い……しかもあたし等が持っているあらゆる戦術は、人間が動かす艦を相手とする事を前提として構築されたものだ。奴等にそのまま通用するかどうかは疑わしい。これはRATtの攻撃パターンを分析し、ブルーマーメイドやホワイトドルフィンが奴等に操られた艦に遭遇した際にどのように対応すべきか、その為のデータを採る事が出来るまたとない機会、大チャンスだ。逃す手は無い。あたしらクリムゾンオルカで対応する」

 

 そう言うと、ビッグママは明乃を振り返った。

 

「ミケ、晴風にはデータ取りと、シュペーの射程ギリギリの位置での陽動を頼みたいが。無論、クルーのみんなの承諾が取れた上でね」

 

「分かりました、ママさん。あ……」

 

 そこまで言って、明乃はモニターに映る真雪へと視線を移した。

 

 晴風はあくまで学生艦。学校長である真雪の許可無しで動く事は出来ない。画面の中の真雪は苦笑して、明乃を見た。

 

<……分かりました。乗員の皆とよく相談した上で、作戦への参加を許可します。教官、晴風の事、引き続きよろしくお願いします>

 

「あぁ、分かっているとも、ユキちゃん。あんたから受けた依頼はまだ有効だ。晴風のメンバーは一人も欠けさせず、必ず陸に返すよ」

 

 ビッグママは真雪へと頷いて返し、そしてすぐ傍の明乃にも、同じように頷いてみせた。

 

 大丈夫、きっと大丈夫だ。

 

 真雪にも明乃にも、言葉で説明は出来ないがそんな確信が持てた。

 

 そうしてビッグママは、膝を叩くとキャプテンシートから立ち上がった。

 

「よし!! クリムゾンオルカ及び晴風、発進準備にかかれ!!」

 



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VOYAGE:14 シュペー救出作戦 Ⅰ

 

 晴風とクリムゾンオルカは現在、巡航速度でシュペーが目撃された海域へ向けて航行している。

 

 晴風内部の教室には、操舵を行う鈴や周囲の状況を把握する為に見張り員のマチコ・電測員の慧・水測を担当する楓、機関科の4人組を除いた晴風クルーとビッグママが集まっていた。次なる作戦に向けての、ブリーフィングを行う為である。会議の席には猫の五十六と、もう一匹、多聞丸の姿もあった。先の新橋商店街船の一件の際、飼い主夫婦の好意から譲られたのだ。

 

「……目撃情報によるシュペーの進路・速度から計算すると、晴風・クリムゾンオルカが現在の速度のままなら戦闘距離に達するのはおよそ3時間後。以前にミーナから得られた証言から考えて、シュペーにも間違いなくRATtが入り込んでいて乗員が操られていると想像できる……だが、報告によるとシュペーは単艦で行動中だ」

 

「ならば……」

 

「そうだよ」

 

 ましろの言いたい事を察して、頷くビッグママ。

 

 対潜用の駆逐艦も随伴していない戦艦一隻なら攻撃オプションが限られてくるので、潜水艦であるクリムゾンオルカが圧倒的に有利。この作戦は、シュペーを航行不能もしくは撃沈するだけならばビッグママ達には造作もない作業だ。

 

 しかしこの有利な状況だからこそ、やっておきたい事がある。

 

「この機会にRATtが動かす艦の行動パターンについて、採れるだけのデータを採っておきたいんだ」

 

「データ、ですか?」

 

「そう。あたしはかれこれ70年近く船に乗っているが、人間以外が動かす艦と戦った経験は無い。当たり前だがね」

 

 苦笑しながら語るビッグママ。これを受けて、少しだけ教室にも笑いが洩れた。しかし続く言葉ですぐ静かになる。

 

「それでデータ不足で突っ込んで、前回の武蔵救出作戦のような結果になった」

 

 全員の表情が引き締まった。ことに明乃は、やはり親友の事を思っているのだろう。より厳しい表情になってスカートをきゅっと掴んだ。隣に座るましろはそれが見えていたが、何も言えなかった。

 

「同じ失敗は二度繰り返さない。あたしは経験を頼りにはするが、経験に縛られるつもりはない」

 

 どんなベテランであろうと、初めて戦う相手に対しては只の初心者。ビッグママはその事実を正しく認識していた。彼女に、慢心は無い。

 

「シュペーとの戦闘データを得る事の意義は、この戦いだけに留まらない。武蔵を初め、今後ブルーマーメイドやホワイトドルフィンが他の行方不明艦を相手にする時、データがあると無いとでは作戦の難易度は天と地だろう。より多く、より正確なデータを得る為に晴風の協力を求めたい。だがこれは実戦だ。危険も伴う。あんた達の意思を無視して強制する事は出来ない。幸い、まだ時間はある。どう行動するか、この場でよく相談して決めてほしい」

 

 最後に軽く一礼して締め括ると、ビッグママは黒板前に用意された席にどっかり腰掛けて、明乃へと視線で合図する。ここから先は艦長である明乃が会議を進行し、決断しろと言っているのだ。

 

「……ミーちゃんは、どうしたい?」

 

「ワシか?」

 

 話を振った先は、シュペーの副長であるミーナだった。これは晴風の問題ではあるが、同時にシュペーの問題でもあるからだ。

 

 少しばかりの時間を置いて、ミーナの答えは。

 

「ワシは……テアを……シュペーの皆を助けたい。力を、貸してはくれぬか?」

 

 腰を90度曲げて、頭を下げるミーナ。

 

 しばらくの間は、誰も何も言わなかった。

 

 不安になって、上目遣い気味にミーナは顔を上げる。晴風クルー達に動きがあったのは、ほぼ同時だった。

 

「カチコミです!! 助けに行きましょう!!」

 

 幸子が切り出すと同時に、楓は木製のナギナタを、美波は白衣の内側に仕込んだ抗体入り注射器を見せる。

 

「やってみましょう!!」「やろうやろう!!」

 

 これを皮切りとして賛成の声が、一気に上がる。

 

 と、洋美が挙手した。

 

「少し良い? 艦長……」

 

「何? クロちゃん」

 

「……私としても友好国の船を助けるのはやぶさかじゃないけど……一つだけ聞かせて。勝算は、あるのね?」

 

「うん。既にママさんとシロちゃんとで、大まかな作戦については話し合ってるの。校長先生にも見てもらってるから、行けると思う」

 

「補足するなら、最初にも言ったが攻撃の主体となるのはあくまでクリムゾンオルカ。晴風はシュペーの動きを観察する役目を主体として担ってもらうつもりでいるから、危険度は低いだろう」

 

 明乃とビッグママの説明を受け、洋美は頷いて明乃の方をじっと見詰めた。明乃は、視線は逸らさないが少し戸惑ったように首を傾げる。

 

 視線を外すタイミングを逃してしまったようで暫くは睨めっこのような状態が続いたが、やがて洋美の方が根負けしたのか「はぁ」と溜息混じりに目を伏せた。

 

「……分かったわよ。クルーは艦長がこうと決めたら艦長を信じるべき……だったわよね。新橋商店街船の時も、ムチャクチャやってるように見えてそれでちゃんとママさんと宗谷さんを助ける為の手を打ってた訳だし……クルーとして、艦長を信じるわ」

 

 そう言って、どかっと席に着く洋美。同時に「良く言ったクロちゃん!!」と隣の席の麻侖が抱き付いてきた。

 

 そんなやり取りを微笑しつつ眺めながら、明乃はビッグママへと振り返った。

 

「ママさん。クラス全員の同意が取れました」

 

「ああ」

 

 頷くと、ビッグママは「どっこいしょ」と立ち上がった。

 

「では、詳しい作戦内容を説明しよう……だが、その前に……みんな、集まっておくれ。輪を作って」

 

 大きく手を広げたビッグママに促され、起立した晴風クルー達は円陣を組んだ。

 

「よし、じゃあ次はみんな、手を出して。重ねるんだ」

 

 何をやりたいのか、分かり掛けてきた。少女達はそれぞれ頷き合って、重ね合う。ご丁寧に、抱っこされた五十六と多聞丸の前足も重ねられていた。満足げに頷くビッグママ。

 

「よーしよし。じゃあ、ミーナ。音頭はあんたが取れ」

 

「ワシが……ですか?」

 

「……あんたやココは、こんな時にどんな台詞を吐けばいいか……分かっている筈だが?」

 

 老艦長はニヤニヤ笑いながら、隻眼をウインクしてみせる。ミーナは知っている。これは……絶対に何かの悪ふざけをする時の顔だ。

 

 幸子はこの時点で察しがついたらしい。こちらは仕掛けた落とし穴に獲物が嵌るのを物陰から見守っている悪戯っ子のような顔になった。そしてややあって、ミーナも感付いた。「うむっ」と頷く。

 

「みんな……ワシに力を貸してくれるのなら……一緒に、こう言ってくれ」

 

 クルー達の重ねられた手の一番上に、ミーナの手が置かれた。

 

「悪いウィルスをやっつけよう!!!!」

 

「いいとも!!」「分かりました!!」「応さ!!」「やろうよ!!」

 

 クルー達が、口々に同意する。その後で一瞬だけ、全員の声が静まった。そして、

 

「「「「「一緒に悪いウィルスをやっつけよう!!!!」」」」」

 

 わっと、皆が肩を抱いて手と手を取り合って蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 

 この喧噪からは少し離れた所で、ましろは冷ややかな目をビッグママに向ける。

 

「……今度は、何が元ネタですか?」

 

 諦めたように、苦笑いしながら尋ねる。しかし決して不快には思っていない目をしていた。仕掛けが上手く行ったビッグママは、大きな体を揺らしながらくっくっと喉を鳴らした。

 

「今度、シロちゃんにも見せてあげよう。あたしは色んな映画を観たが、あれは最高だ。今のは、個人的にその映画のハイライトシーンなんだよ」

 

 

 

 

 

 

 そして、3時間後。ほぼ予測通りのランデブー時間・地点にてシュペーの姿が確認された。晴風はシュペーを後方から追尾する形となっている。

 

「まりこうじさん、めぐちゃん、周囲に他の艦艇が居ないかどうか、もう一度確認して!!」

 

<晴風の周囲100キロ圏内において、レーダーに感無し。水上艦の存在は、認められません!!>

 

<海中も同じですわ。クリムゾンオルカ以外のスクリュー音は聞こえません>

 

 電測室・水測室からの報告が伝声管から返ってきた。

 

 つまりこの海域にはシュペーだけ。武蔵や他の不明艦の横槍が入る心配は無い。これで、作戦の前提条件が完全に満たされた事になる。明乃とましろは頷き合った。

 

「ママさん、準備完了です」

 

<分かった、ミケ。では晴風は手筈通り動いて、シュペーの動きを調べてくれ。その間に、クリムゾンオルカは有利なアタックポジションを確保する。ただ……これだけは覚えておくように>

 

「レッスン7。『予想外の事が起こったら撤退しろ』ですよね、ママさん」

 

<……>

 

 機先を制するような明乃の言葉を受け、ほんの少しだけスピーカーが沈黙する。その後で息を吐いたような音が聞こえてきた。

 

<よろしい。ちゃんと学んでいるね。優秀な生徒を持って、あたしは教師冥利に尽きるというものだよ>

 

 心なしか、ビッグママの声は弾んでいるように聞こえる。しかし、すぐ落ち着いた声に戻った。

 

<……ミーナ、もう一度確認するよ。あんたには悪いが晴風が沈んだらテアやシュペーの子達を助けるどころじゃない。その場合は一度退却して、作戦を練り直す。これは譲れない一線だ、異存は無いね?>

 

「……は。アドミラル・オーマー。分かっております」

 

 僅かな間を置いて、答えたその声は重く沈んでいた。幸子が視線を落とすと、ミーナの両手は固く握りしめられて震えていた。頭ではそうするのが最善だと理解してはいるが、感情面で承伏しかねる所がある。それが今のミーナの偽らざる心境だろう。

 

<……まぁ、そう悲観的になるもんじゃあないよ>

 

 通信機越しではあるが、まるでミーナの顔が見えているようにビッグママが言ってきた。

 

<あくまで人命が最優先だ。それはシュペーの子達だって例外じゃない>

 

 ここで、ビッグママは一度言葉を切った。そして意を決しようとするように、すうっと息を吸う微かな音が聞こえてきた。

 

<言いにくい事だが……ウィルスに感染した子達がいつまでも無事でいる保証はどこにも無いからね>

 

 これは先の武蔵救出作戦の折、永瀬校長が真霜による情報収集の完了を待たずに作戦決行に踏み切った理由と同じだ。

 

 RATtそれ自体もそうだが、奴等が媒介するウィルスに関しても謎は依然多い。

 

 最悪の場合、ウィルスに感染した人間が感染源に操られるようになるのは実は初期症状に当たるものであり、感染した状態がずっと続くとやがては死に至る……などという事態が発生する危険も多分にある。それを避ける為にも、早期の抗体投与は絶対に必要な措置である。

 

<……だから、予想外の事態が起きたら撤退という姿勢自体は変えないが、ギリギリまでの努力はする。ベストを尽くす。それは約束しよう>

 

「……十分です。アドミラル・オーマー」

 

 はっきりとした事はビッグママにも言えなかったが、しかしベストを尽くすというその言葉だけで、ミーナには十分だった。教え子である彼女は、ビッグママが言う「ベスト」という言葉の意味を良く分かっているのだ。

 

<……では、作戦開始だ。ここからはクリムゾンオルカは潜航するから、通信も出来なくなる。以降はミケ、あんたの判断で動くんだ。良いね?>

 

「……はい、ママさん!!」

 

 「うむっ」と頷くような声が聞こえてくる。

 

<良い声だ。頼りにしているよ>

 

 ブツッという音がして、通信が切れた。ここからはもう、ビッグママに助言を求める事は出来ない。そう思うと心細くもあったが、明乃はすうっと深呼吸すると艦長帽を被り直して気合いを入れ直した。頼りにしているという言葉。ビッグママは今、自分達を庇護の対象としてではなく、仲間として対等に信頼してくれている。その気持ちに、応えねばならない。

 

「まろんちゃん、機関半速!! まずはシュペーの主砲の射程ギリギリの距離にまで付けて反応を見る。のまさん、シュペーの動き、特に主砲の角度や旋回に注意して!!」

 

<合点でい!!><承知しました>

 

 晴風は徐々に加速し、シュペーへと近付いていく。

 

 舵を握る鈴の手に、力が入った。シュペーが次の瞬間にも撃ってくるかも知れない。そうなったらすぐに舵を切って回避行動に入らなくては。彼女は口の中がカラカラになっているのに、やっと気付いた。

 

「艦長……後、10秒でシュペーの主砲の射程に入ります」

 

 腕時計の秒針とシュペーの船体を交互に見ながら、緊張した面持ちのましろがカウントダウンする。

 

「5……4……3……」

 

 ましろ以外には、もう誰も咳一つ発さなかった。

 

 そしてシュペーの主砲の射程距離に、入った。

 

「……っ!!」

 

「……?」

 

 ぎゅっと目を瞑っていた幸子だったが、何秒かが経過しても発砲音が聞こえず衝撃も襲ってこないので恐る恐る目を開ける。

 

「のまさん、シュペーの様子は?」

 

<砲に仰角が掛かったり、旋回する様子は見られません>

 

 この距離ならRATtの生体電流の影響でレーダー等電子機器が使えないにしても、晴風は既に視界に入っている。だから撃沈もしくは撃退しようとするならすぐに撃ってくる筈だ。しかし実際にはその準備に掛かる気配すらも見せない。敢えて無視しているようにも思える。

 

「……これは主砲の射程に入りながらもシュペーが撃ってこず砲台にも動きが見られない場合だから……パターンCですね、艦長」

 

「そうだね。まず晴風からは攻撃せずに、シュペーの動きに何らかの変化が見られるまでは少しずつ距離を詰めていくよ。まろんちゃん、速度このまま。のまさん、引き続き注意よろしく!! りんちゃん、何かあったらすぐ逃げるから一瞬も気を抜かないで!!」

 

<応っ!!><承知!!>「ほいいっ!!」

 

 明乃の指示に、三者がそれぞれ応える。

 

 ましろは双眼鏡から徐々に大きくなってくるシュペーを睨んでいたが……ややあってその目が細められた。

 

「んっ!!」

 

 ほぼ同時に、伝声管からマチコの声が聞こえてきた。

 

<シュペーに動きあり!! 主砲・副砲がこちらを向きます!!>

 

「!! 来たか!!」

 

「まろんちゃん、機関減速!! このままの距離を保って!!」

 

<了解!!>

 

 素早い明乃の指示によって、晴風の速度が落ちる。一方でシュペーだが、砲口はぴったり晴風を向いていて仰角も掛かっているが目立った動きはそれきりで、撃ってくる気配は見られない。

 

「艦長、これは……」

 

「うん、シロちゃん。多分この距離が、ネズミの”間合い”なんだと思う」

 

 番犬などに言えるが、見知らぬ人間が視界に入ってもごろりと寝転がってリラックスしている事がある。しかしある一定の距離にまで近付くとすくっと立ち上がって警戒する態勢を取り、それでも近付いたら唸り声を上げ始め、最後には吼えて招かれざる客を追い払おうとしてくる。

 

 これは、番犬が不審者が相手でもある一定の距離を越えてこられない限りは危険は無いと考えているからの行動だ。RATtがシュペーの主砲の射程距離内にも関わらず晴風を撃たないのも、同じ理屈と考えて良いだろう。

 

 この距離は主砲の射程圏内ではあるが副砲からは射程圏外というどうにも中途半端な位置。そんな所でいきなり晴風の迎撃態勢に入るのは、人間が指揮している動きとは考えにくい。

 

 人間が操艦を行っているのなら、砲の射程距離に入るずっと前に敵性艦の接近を確認・その時点で進路を変更したり艦を回頭したりして逃げようとするか迎撃態勢を整えるだろうし、撃つ前に通信なり手旗信号なりで警告も行うだろう。それ以上近付いたら撃つぞと。そしてそれでも敵艦が距離を詰めてきたなら、主砲の射程に入った時点で撃ってくる。こうした動きを行うのが自然だし効率的だ。

 

 しかし実際にはシュペーは晴風の接近が確認されても針路・速度共に全く変更せず、主砲の射程に入っても晴風の存在など無きが如くに航行を続けていた。そしてある一定の距離に達した所で、思い出したかのように迎撃態勢を取ってきた。これは操艦を行っているのが人間ではなく、彼女達を操っているネズミだからこその事象であろう。

 

「今まで無反応だったのがいきなり主砲が動くという事は……これ以上近付いたら警告無しで撃ってくると見るべきですよね」

 

「そうだね、ココちゃん。次は……」

 

「艦長、この状況は想定されていた中ではパターンC-2です。次は離れた時にシュペーがどう動くかを確認しましょう」

 

「うん、そうだねシロちゃん。まろんちゃん、速度を3分の1にまで減速。一旦シュペーから距離を取って」

 

 いつも通り<合点>と威勢の良い声が返ってきて、晴風の速度が落ちていく。それまでは一定だったシュペーとの距離が、徐々に開いていく。シュペーは速度に変更はなく、相変わらず撃ってくる様子は見られない。

 

<砲の仰角・向きは、先程晴風に向けられた時のままです。射角を修正する様子は見えません>

 

 見張り台のマチコから連絡が入る。明乃とましろは、それぞれ顔を見合わせる。

 

 やはり、先程のシュペーの射撃準備が晴風が間合いに入りかけたからだという推理は正しかったようだ。晴風が間合いの外へと出て行ったから、不審者が屋敷から離れていったのを確認して昼寝を再開する番犬のように、それ以上は何もしないという事だろう。

 

 念の為、離れてからもう一度角度を変えて接近してみると、やはり先程と同じ距離に達した時点でシュペーの砲が動き、晴風への攻撃準備態勢を取った。そして離れてみると、それ以上は何の反応も示してはこない。

 

「……やはりシュペーに乗り込んでいるネズミは一定距離に接近する外敵を排除するという動きしかしないようじゃな」

 

 と、ミーナ。これは非常に動物的な反応と言える。最初に晴風と遭遇した時に撃ってきたのは、進路上の障害物を蹴散らすような感覚だったのだろう。今回の晴風は針路を塞いでいる訳ではないから、危険距離を越えて接近してきたり向こうから攻撃してきたりしない限りは、何もしてこないという事だろう。

 

「よしっ……ひとまず晴風側のデータ収集は完了……作戦を第二段階に移すよ。まりこうじさん、アクティブソナーを打って!! ママさんに合図を!!」

 

<承りましたわ>

 

 

 

 

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 カーン、カーン、カーンと三連発のアクティブソナー音が響いてくる。現在クリムゾンオルカはシュペーの後方深度100に、絶好の射撃位置を確保していた。

 

「ママ、晴風からの合図が来ました。予定していたデータ収集が完了したようです」

 

「分かった。では、今度はこちらのデータ取りだね」

 

 キャプテンシートにふんぞり返ったビッグママは組んでいた足を解いて、ガチンと義手を鳴らした。

 

「よし、まずは有線誘導を試してみよう。1番2番、発射用意」

 

「了解、ママ」

 

 指示通りコンソールを叩き、20秒ほどの間を置いて発射管の注水音と発射管外扉の開口音が聞こえてくる。

 

「ママ、発射準備が整ったわ」

 

「よし、発射だ」

 

 ズンという重い音と同時に艦に発射の衝撃が伝わってきて揺れが走った。

 

「リケ、本艦と魚雷、そしてシュペーの現在位置をモニターしてくれ」

 

「分かりました、5秒ください」

 

 言葉が終わってからきっかり5秒で、正面の大型モニターに輝点と針路を示す点線だけで構成されたシンプルな図が現れた。画面の中心の大きな輝点がクリムゾンオルカで、点線を引きながら素早く移動していく小さな二つの光点が発射された魚雷、そしてその進行方向の大きな輝点がシュペーだ。

 

 有線による魚雷誘導は、魚雷に接続されたコイルを通して針路の情報を送って動きをコントロールする。その性質上、ノイズメーカーのようなジャミングを受けにくい点が最大のメリットであると言える。魚雷の燃料が尽きるか誘導コイルの長さが限界に達しない限り、命中するまでクリムゾンオルカがコントロールする事が出来る。一方で角度によっては潜舵にコイルが引っ掛かる危険があるのがデメリットだが、今回はシュペーとの位置関係からその心配は無いと言って良かった。

 

「このままの速度・針路だと本艦の魚雷は後3分でシュペーとドッキングします」

 

「よし……ではロック、二本とも大きく左から回り込むような動きを取らせて、シュペーの艦底を取舵から面舵へと抜けさせるようなコースを取るんだ。そしてその後は再び左にターンするようにコントロールしてくれ」

 

「了解、ママ」

 

 ロックの美しく毛の生えていない女のような指が、ピアノのようにキーボードを叩いていく。

 

 モニターでは、それまでは直線コースを取っていた魚雷が左に逸れて、後方斜め左からシュペーに向かっていくような軌道に移っていた。

 

「針路の修正完了、このままだと1分50秒後にシュペーとすれ違います」

 

「よし……お前達、シュペーと魚雷がどのような動きをするのか、よーく観察するんだ。シュペーは接近する魚雷に対してどんな動きを取るのか、魚雷がこちらのコントロールを受け付けなくなるのはどれぐらいの距離にまで近付いた時か。どんな細かなものでも良い、行動パターンをしっかり記録するんだ」

 

「「「イエス・マム!!」」」

 

 話している間にも、モニターされる魚雷二本とシュペーとの距離はみるみる縮まっていく。

 

 距離500……シュペーに回避しようとする動きはなく、魚雷も二本とも迷走などはせずに真っ直ぐ進んでいく。

 

 距離300……依然シュペーに動きはなく、魚雷にも異常は無し。

 

 200……100……50……距離はどんどんと縮まっていくが、シュペーは未だ何事も無いかのように同じ針路・速度で進んでいる。魚雷の方も依然クリムゾンオルカのコントロール内にある。

 

 40……30……

 

「ママ!! 今……本艦の魚雷がシュペーの艦底をすり抜けます!!」

 

「コントロールは!?」

 

「未だ有効、1番2番共に本艦の制御下よ。指示通り動いてるわ!!」

 

 モニター内で小さな二つの光点が、シュペーを示す光点と重なって、そして右側へと抜けた。更にそのまま左へとターンして、シュペーの艦首前方を通り過ぎていく。これは全て、ビッグママが事前に指示していた通りの動きだ。つまり二本の魚雷はシュペーに最接近しても、最後までコントロールを失わずにクリムゾンオルカの制御下にあった事になる。

 

「ママ……これは、どういう事でしょう?」

 

「……まだデータ取りの途中だよ、リケ。コイルをカット、次は事前にコースを与えた魚雷を試す。3番4番発射準備。コースは今の1番2番のものをトレースするように、シュペーの針路と速度、そして雷速とを計算するんだ」

 

「はい、ママ。任せて」

 

 標的の動きに合わせてその都度針路を修正できる有線誘導と違って、あらかじめ針路を設定した魚雷は当然のことながらプログラミングされた通りの針路しか取る事は出来ない。故に、コース入力の難易度は有線誘導とは比べ物にはならないが、しかしビッグママのクルーであるロックは鼻歌交じりにキーボードを叩くと、ものの10秒で全てのプログラミングを完了した。

 

「ママ、発射準備完了です」

 

「よーし、ぐずぐずするな発射だ」

 

「3番4番発射、アイ!!」

 

 再びズズンという音と衝撃が伝わってきて、モニターには二つの小光点が表示される。

 

 魚雷2本は先程の有線誘導だった1番2番と同じで、まず左にターンしてその後右に反転、左後方からシュペーへと向かっていく軌道を取る。

 

「距離500……シュペーに回避行動は見られません。魚雷も真っ直ぐ進んでいます。迷走したりする様子は見られません」

 

「引き続き、モニターを続けるんだ」

 

 距離300……200……100……先程の焼き直しのように、シュペーは悠然と進んでいて魚雷もそのまま突っ込んでいく。

 

 シュペーに近付いていく際の晴風のように、クリムゾンオルカ内でもこの時だけは静まり返って誰も何も言わなかった。

 

「距離50……シュペーに動き無し、我が方の魚雷にも異常無し!!」

 

 モニター内の3つの輝点が一つになって、そしてまた3つになった。小さな二つの輝点は、今度は左へとターンする。全てプログラム通りの動き。そのままシュペーの艦首前方を通り過ぎていって、やがて燃料切れで沈降していった。

 

 ビッグママは先程の有線誘導魚雷と同じコースをトレースするように指示を出していたが、シュペーの動きまで含めて第一弾の焼き直しのようになった。

 

「ママ、これは……」

 

 シートをくるりと回して、リケがビッグママを振り返った。

 

 生身の手でこめかみをトントンと叩いていたビッグママは、煙管を手に取るとふうっと紫煙を吐き出した。紫煙は換気扇に吸い込まれて、すぐ発令所からは消えた。ナイン達に受動喫煙の心配は無さそうである。

 

「……予想は出来ていた事だね。晴風は猿島に魚雷を一発だけ当てて、動きが鈍った所で逃げ出したと報告にあったろ」

 

「魚雷を当てて……そうか」

 

「成る程……もしネズミが魚雷のセンサーを狂わせたり回避行動を取ったりするなら、猿島は回避して魚雷を避けるなり、晴風の魚雷を迷走させるなりして被弾を避けた筈。演習用の模擬弾頭だったから良かったようなものの、実弾だったかも知れない訳ですからね」

 

 まぁ、それでも結果的には乗員が操られた状態でダメージコントロールが出来なかったから猿島は沈没する羽目になった訳だが。

 

「つまり……RATtには魚雷のセンサーを誤作動させるような事は出来ないし、そいつらに操られた艦は魚雷を避けたりするような動きは取れない……ですよね、ママ」

 

「その通りだが……」

 

 ナインの同意を求める言葉に対して、今回のビッグママは珍しく言葉を濁した。これにはナイン以外の二人のクルーも穏やかな驚きを見せた。

 

「……これはあくまでノーマルタイプ相手の話だ。武蔵に乗っているボルジャーノンは噴進魚雷の軌道を狂わせて狙いを外すような芸当までしてみせた。同じような真似が出来るヤツがそうそう居る訳じゃないってのは立証されたが……今回のテストは単独行動中のシュペーが相手だからね」

 

 尤も、だからこそこの実戦テストに踏み切った訳だが。

 

「……ボルジャーノンの指揮下にあるノーマルタイプは、どんな動きをするのか? それが観察できないのが不安だが……」

 

 とは言え、無い物ねだりをしても仕方がない。情報とは予算と同じで、不如意なものだ。あるもので何とかするしかない。

 

「まぁ、今のシュペーから得られるデータはこんなトコか」

 

 手の中で、煙管をくるりと回すビッグママ。

 

「よし、作戦を第三段階に移行する。データ収集は終わりだ。1番2番に無弾頭魚雷を装填するんだ。シュペーの足を止める!!」

 

「1番2番装填、アイ!!」「針路をプログラムするわ」「シュペーの針路・速度を再度チェックします」

 

 3名のクルーは艦長の意図を正確に理解し、それぞれの役割を果たしていく。25秒で全ての準備は完了した。

 

「ママ、1番2番発射準備完了。撃てます!!」

 

「よし、発射!!」

 

 三度目の魚雷発射。モニターに再び光点が二つ現れ、先程のものとは違って今度は真っ直ぐシュペーに向かっていく。

 

 距離はどんどんと縮まっていき……やはり、シュペーは回避に動かない。

 

 そして、距離はゼロに。

 

 爆発はない。

 

 代わりに、金属がひしゃげるようなけたたましい音が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 

<水測からブリッジへ。クリムゾンオルカからの魚雷が、シュペーに命中!! 爆発音は聞こえませんがシュペーの推進音が消えました!!>

 

「ああ、こちらからも見えている。シュペーの動きが止まった。ミス・ビッグママがやってくれたらしい。円を描くように動く様子も無いから、二発とも正確にスクリューに当たってプロペラが折れたみたいだ」

 

 伊401との戦いでも見せたクリムゾンオルカの絶技・スクリュー潰しだ。しかも以前は回避運動を取り更には三次元航行する潜水艦のスクリューに、未来予知が出来るかの如く当ててみせたのである。魚雷を避けようともせず、しかも二次元の動きしか出来ない洋上艦に当てる事など、ビッグママ達には朝飯前を通り越して晩酌前の芸当だったに違いない。

 

「ホントママさんは凄いねぇ……水雷長として、憧れちゃうよ」

 

 と、芽依。

 

「では、これからスキッパーでシュペーへの乗り込み作戦を開始します!! 突入部隊は私とミーちゃん、まりこうじさんとみなみさん、のまさん、モモちゃん、サトちゃん、ミミちゃん。そして五十六で!! 晴風は危険距離ギリギリから、シュペーの注意を引き付けて!!」

 

「Ja(分かった)」

 

 ミーナはシュペーの艦長帽を被ると、五十六を抱っこしてブリッジから退出していく。

 

 明乃は自分もブリッジから出ようとするが、その前にましろへと向き直った。ましろも、副長として姿勢を正して艦長と相対する。

 

「宗谷ましろ、私達が戻るまでの間、晴風の指揮権を委譲します。以後は貴女の判断で、当艦の指揮をお願いします」

 

 差し出された艦長帽を、ましろはしっかりと握り、受け取った。

 

「分かりました」

 

「じゃあ……行ってくるね!!」

 

 そうして明乃は走り出すが……

 

「艦長!!」

 

 ましろに呼び止められて振り返った。

 

「……お気を付けて」

 



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VOYAGE:15 シュペー救出作戦 Ⅱ

 

「シュペーの様子は?」

 

「……晴風のみんなが上手く引き付けてくれてくれてるようじゃ。まだ、こっちに気付いた様子は無い」

 

 海面を高速疾走するスキッパー上で、波飛沫を肌で感じながらミーナが手にした双眼鏡を覗く。

 

 シュペーの主砲・副砲は、接近中の二台のスキッパーからは全く見当外れの方向を向いてひっきりなしに動いている。これは先程までのテストで得られたRATtの行動パターンに基づいた、晴風の陽動によるものだ。

 

 ノーマルタイプのRATtは、先制攻撃を受けない限りは一定距離に接近する外敵を排除しようとする行動しか取らない事は既に証明されている。それも突然撃ってくる訳ではなく、まずは砲塔を標的に向けて照準を合わせるという威嚇にも似た行動を取る。

 

 これらのデータを活かして、晴風は攻撃は行わずにRATtが警戒して威嚇行動を取る”危険距離”ギリギリを出たり入ったりしてオチョクるように、シュペーの意識を引き付けているのだ。その甲斐あってかシュペーは明乃達を気にも留めていない、どころか存在にすら気付いていないかも知れない。旋回する砲口の先は晴風と繋がっているが如く動くが、針路や速度には依然として変化が無い。こちらの存在に気付いているのなら、いくら少人数とは言え迎撃なり回避なり何かしらの反応はあっても良い筈なのに。

 

 この事で、もう一つデータが得られた。

 

 RATt達はスキッパーのように小型で接近するものは探知できない。

 

「これなら……いけるか?」

 

 ミーナのすぐ隣で、美波が呟いた。

 

「行くしかないぞな!!」

 

「今こそが、千載一遇の好機!!」

 

 聡子とマチコの言葉に、スキッパー上の全員が頷く。

 

 シュペーに十分接近した所で、マチコがワイヤーガンを発射した。

 

 射出された先端部分は、見事にシュペーの手摺りに引っ掛かって巻き取り機構によってマチコを引っ張り上げていく。

 

 抜群の運動神経によって宙返りを打ち、シュペーの甲板へと降り立つマチコ。

 

 ここまでは抵抗無しで来られたが、流石に本丸に乗り込んでからはそこまで甘い話もないだろうと、これはブリーフィング時のビッグママの予想であった。

 

 老練な女艦長の予想は的中し、ミーナが所属する海洋学校の制服を着た少女達がぞるっと現れた。

 

 ミーナの証言通り、全員目が正気ではない。今にも飛び掛かってきそうだ。

 

「……」

 

 しかしマチコは少しも慌てず、ガンベルトに入れていた二丁拳銃を抜き放った。これはビッグママ達から提供された麻酔銃だ。弾丸は注射器状になっていて、着弾の衝撃によって充填された麻酔薬が注入される仕組みになっている。今回は麻酔薬の代わりに、美波が開発したウィルスへの抗体が仕込まれていた。

 

 パン、パン、パン!!

 

 意外と地味な発砲音が鳴って、麻酔弾がシュペーの生徒達に命中する。

 

 ウィルスに感染してからある程度時間が経った対象への投与は初めてであり、どの程度の効果があるかは未知数・神のみぞ知るという所ではあったが……

 

 しかし、今回は運があったらしい。撃たれた生徒達はぐらりと崩れ落ちて動きを止めた。

 

「効いた?」

 

 ワイヤーをよじ登ってきた美波が尋ねてくる。

 

「……恐らく」

 

 倒れた生徒達の首筋に手を当てていたマチコが応じる。指先は、規則正しいリズムを感じている。脈拍は正常。命に別状は無いようだ。

 

 味方がやられて、シュペーの生徒達は少し驚いたらしい。たじろぐように後退る。

 

 二歩、後ろに下がった所でその背中がどん、と何か大きな物にぶつかった。

 

「?」

 

 こんな所に壁は無かった筈。そう思って振り返った所でその生徒は世界が一秒以内に何回転もして重力の方向がひっきりなしに変わる感覚に襲われた。

 

 次の瞬間、襲ってくる衝撃。声も上げられずに意識を失う。

 

「アドミラル・オーマー、来てくれたのですね」

 

「教え子達のピンチだからね。あたしも黙って見ている訳には行かないさ」

 

 シュペーの生徒を投げ飛ばしたのは余人に非ず、ビッグママその人であった。彼女も乗り込んできていたのだ。

 

「さて、ここからは……」

 

 乗り込んできた突入班へビッグママが言い掛けたその時、またしても操られた生徒が4人現れた。

 

 マチコが麻酔銃を構えるが、ビッグママは大きな手で銃を押さえて下げさせた。

 

「……潮崎教官?」

 

「大して多くもない弾を、バラバラ無駄遣いするんじゃあないよ。ここはあたしに任せな」

 

 そう言ったビッグママは左手の義手の根本を掴み、引っ張る。するとキュポンと空気の抜けるような音がして、その下からは生身の手が現れた。

 

「えっ?」

 

 外した義手を、ぽいと投げ渡すビッグママ。反射的にキャッチした美海は、目をぱちくりさせて義手とビッグママを交互に見やる。自分も義手に手を突っ込んで中にあった引き金を引っ張ってみると、マジックハンドのようになった先端部分が動いてガチンガチンと音を立てた。

 

「えっと……その左手って、怪我してたとかじゃ……」

 

「キャラ付け、ファッションだよ。あたしは海賊だからね。海賊の手は義手だと、昔から決まっているだろ?」

 

 と、左手をニギニギしながら、ビッグママが応じる。

 

「キ、キャラ付け……」

 

「それにソイツには色々ギミックを仕込んでるからね。何かと役に立つんだ。新橋商店街船からの脱出時みたいにね。しかし今回は白兵戦だ」

 

 ビッグママは拳をボキボキと鳴らした。

 

「両手が自由に使える方が、メリットが大きい」

 

 ビッグママは今度は眼帯を外して、美海へと渡した。久し振りに空気に触れたであろうそこには、やはり生身の右目が健在だった。

 

「それに目もね。格闘に遠近感は大切だ……ん?」

 

 美海がちらちらと視線を向けてくるのを見て、少しだけ不思議そうな顔になるビッグママ。しかし流石の洞察力か、すぐに視線の意味に気付いた。

 

「……まさかミミちゃん、あたしの背中にファスナーが付いていて、それを下ろしたら中から美少女が出てくるんじゃ……なんて思っているのではあるまいね?」

 

「え? イヤーソンナマサカー」

 

「……思っていたのかい」

 

 あからさまな棒読みに対し、くっくっと肩を揺らしてビッグママは苦笑する。

 

「残念だがこの体は自前さ。年を取って、すっかり太っちまったよ。今度あたしの昔の写真見せようか? きっと驚くよ」

 

「ア、アドミラル・オーマー!! 後ろ!!」

 

 ミーナが叫ぶ。シュペーの生徒が飛び掛かってきていた。

 

 しかしビッグママは「ふん」と鼻を鳴らして信じられないほど低く身を屈めると、自分の体を使って足を引っ掛けるようにして生徒を転ばせてしまった。

 

 続いて向かってきた生徒の腕を取ると、空いている手で足を掬って飛び掛かってきた勢いをそのまま利用するかのように一回転させ、背中から甲板に叩き付けた。

 

 三人目。手首を取ってドアノブを捻るように回して、連動させるように体全体を回して倒す。

 

 四人目。一度腕を掴んでぐいっと引き、生徒が反射的に引き戻そうと反対方向に体重を掛けた瞬間を狙って、その力を利用して投げ飛ばす。

 

 この間、ものの10秒足らず。いくら体格や筋力に差があるとは言え、4人を軽く倒してしまった。

 

「お見事です、アドミラル・オーマー」

 

「柔道と……それに合気道もですわね。どちらもかなりの腕前ですわ」

 

「ああ、そうだよ楓ちゃん。柔道は5歳の頃から始めて八段。合気道は五段を持ってる。こっちは昔、アメリカ海軍の戦艦「ミズーリ」に研修で乗っていた時、そこのコック長から教えてもらったんだ。あいつは強かったなぁ……あたしも任務の失敗や負け戦は沢山経験したが……男だろうが女だろうがタイマンで負けたのは、80年以上生きてきて後にも先にもあいつだけだ。そんで艦長の誕生日パーティーが行われる日に……」

 

「……潮崎先生、また出てきた」

 

「ん!!」

 

 ついつい昔話に熱が入ってしまっていたビッグママであったが、美波の声を受けてすぐに真面目な顔になる。

 

 またもや、RATtに操られたシュペーの生徒が現れた。

 

「武勇伝はまた今度だね」

 

 ごきり、と首を鳴らす。

 

「ミーナ、あたしは派手に暴れて連中の注意を引き付けつつ、遠回りしつつ艦橋を目指す。陽動だね。あんたはその隙に皆を連れて、最短コースで艦橋へ行くんだ」

 

「は……しかしいくらアドミラル・オーマーでもお一人では……」

 

「あたしを誰だと思っているんだい? 心配要らない。それより、早くお行き。テアが待ってる」

 

 ミーナにはまだ迷いはあったが、しかし『テア』の名前が背中を押した。

 

「……御武運を。こっちじゃ」

 

 晴風のクルー達がこの場を離れるのを見届けると、ビッグママは「さて……」とシュペーの生徒達へと向き直った。

 

「さっきの話の続きだが……友人だったミズーリの艦長の誕生日の日に、テロリストが襲ってきてねぇ……コック長と一緒にそいつらを、千切っては投げ千切っては投げしてやったものさ……ククク……昔を思い出すよ」

 

 ぐるぐると、腕を回す。ビッグママは気合い十分である。

 

「……正気に戻った時、ちょっと体の節々が痛んでるかも知れないが……それは許しておくれよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「こっちじゃ!! 艦橋はこの先!!」

 

 万里小路流の薙刀術を振るう楓や、体を張って足止めしてくれた美海の助けもあって、ミーナや美波はシュペーの艦橋にまで辿り着いていた。既に、連れてきた五十六は艦内に放っている。今頃はRATt達を追い掛けてシュペー中を走り回っているだろう。

 

 そうして艦橋へと飛び込んだ一行を待っていたのは、ドイツ海軍の将校服の上にマントを羽織った少女だった。彼女こそがこのアドミラルシュペー艦長、テア・クロイツェルである。振り返って目が合ったミーナは、思わず息を呑んだ。予想はしていたが、やはりテアの目は正気ではない。彼女も、RATtのウィルスに感染して操られている。

 

 獲物を狙う猫科動物のように腰を落として今にも襲い掛かってきそうなテア。それを見たミーナ達もそれぞれ身構える。

 

 一触即発。

 

 しかし、ふとミーナはおかしな事に気付いた。

 

 急に、テアの周りだけが暗くなったのだ。

 

「……?」

 

 上に何か太陽を遮るようなものでもあったか? と、ミーナは顔を上げて……

 

「!!」

 

 そしてそこにとんでもない物を発見した。

 

 ビッグママが、上から落ちてきていたのだ。

 

 ミーナや美波、楓は反射的に後ろに跳んで無事だったが、操られていて反応の鈍いテアはそうは行かなかった。飛来した巨体の下敷きになって、姿が見えなくなった。申し訳程度にビッグママのお腹の下から、両足だけが伸びていた。

 

「よっ、と……」

 

 フライングボディプレスでテアを押し潰したビッグママは、何事もなく立ち上がった。80を越える老人のものとはとても思えない頑丈な肉体である。押し潰されたテアは当然と言うべきか目を回してノビてしまっていた。

 

「な……な……」

 

 度肝を抜かれた状態のミーナと晴風クルー達に、ビッグママは顎をしゃくって合図する。

 

「ほれ、美波ちゃん。早くテアにも抗体を打っておやり」

 

「……そ、そうだった」

 

 自分の役目を思い出した美波は慌てて白衣から注射器を取り出すと、着衣の上からテアに注射した。ちなみにこれは火傷の時などに行われる処置である。

 

「う、うーん……」

 

 少しの間を置くと目をしばしばさせて、テアが目を覚ました。ミーナが気遣わしげに覗き込む。

 

「艦長、ご無事で……」

 

「ミーナか……何か……悪い魔女になった夢を見ていた気がするが……」

 

「「「……分かる気がする……」」」

 

 マチコ、楓、美波の視線が一斉にビッグママへと向いた。ドロシーの家の代わりをした老婆はコホンと咳払いする。

 

「さ、美波ちゃん……あたしがぶっ倒したシュペーの子達にも抗体の投与が必要だ。こっちへ来ておくれ」

 

「は、はい……」

 

 いたたまれなくなったのか逃げ出すようにそそくさ動いたビッグママに案内された美波は、移動したその先で絶句する事になった。

 

 30人近いシュペーの生徒達が、通路に所狭しと転がっていたのである。ビッグママはたった一人でこの人数を制圧し、しかも遠回りなコースを通って最短コースの自分達より早く艦橋にまでやって来て、更には170キロ超の体重で誰にも気付かれず高所によじ登っていたのである。恐るべき手練れと言える。

 

「……死屍累々……」

 

「失敬な。あたしは力加減を誤るほど未熟ではないよ。一人も殺したりしてないさ」

 

 その後でぼそりと「腰を痛めたりとかはしてるかもだけど」と小声で付け加えた。

 

 驚きつつも手際良く、美波は自作抗体を注射していく。ビッグママは昏倒させたシュペーのクルーがいつ起き上がってきても対応できるよう油断無く目を光らせていたが……ふと、足下に何か動く気配があるのに気付いた。

 

「ん」

 

「ああ、五十六……あなたですか」

 

 かがむと、どら猫の頭をポンと撫でてやる。五十六は捕まえてきたRATtを床に放した。RATtは追いかけ回されて消耗したのか、ぐったりとしていた。

 

「大変かとは思いますが……よろしくお願いしますね」

 

「ん」

 

 小さく鳴いて返事すると五十六はまた、新しいRATtを捜して走り出していった。

 

 ひとまずは、これでシュペー救出作戦は成功したと見て良いだろう。RATtによって操られていた生徒達は全員が抗体を投与されるか気絶している。そしてシュペーは両舷のスクリューを破壊された状態。火器も使えず身動きも取れない。戦闘力を完全に奪った形である。

 

 ビッグママは懐から通信機を取り出すと、晴風へと周波数を合わせる。

 

「こちらビッグママ。晴風応答せよ」

 

 数秒ほどのノイズの後、回線が繋がる音がした。

 

<こちら晴風。宗谷ましろです。ミス・ビッグママ、そちらの状況はどうですか?>

 

「こっちは乗員の制圧が完了し、順番に抗体の投与を行っている段階だ。今のシュペーになら、近付いても危険は無い」

 

 この報告を受けて、通信機の向こう側の晴風では「おおっ」と歓声が上がるのがバックミュージックとして聞こえてきた。

 

「それで、シロちゃん……シュペーは現在スクリューが壊れているから航行不能だ。だから修理の為に別の艦が近くの港まで曳航せねばな訳で……ブルーマーメイドかホワイトドルフィンに来てもらうべきだが、近隣を航行中の艦は居るかい?」

 

<……>

 

 少しだけ、言い淀んだような沈黙が降りる。

 

「? どうした、シロちゃん」

 

<は、はい……最も近くだと……ブルーマーメイド所属艦・インデペンデンス級沿海域戦闘艦「弁天」です。連絡を取った所……すぐに向かうと返事がありました>

 

 ぴくっと、ビッグママの片眉が動いた。

 

「……弁天って言うと……確か……」

 

 

 

 

 

 

 

 およそ一時間後、やってきた弁天は晴風のすぐ横で停船した。

 

 そして弁天の甲板から新体操の選手のように軽やかな身のこなしで一人の女性が飛び出してきて、晴風へと降り立った。ブルーマーメイドの制服の上にマントを羽織っており、艦長帽子を含めたそれらの装いを全て黒で統一していた。短く切り揃えた髪から、中性的で凛とした印象を受ける。

 

 応対に出て来たのは明乃、ましろ、幸子、テア、ミーナ、そしてビッグママの6名だ。シュペーの乗員達は今は医務室に担ぎ込まれていた。それなりに手加減されていたとは言えビッグママの投げ技はやはり強烈で、彼女達には少し安静が必要だと、美波の診断であった。

 

「ブルーマーメイドの宗谷真冬だ。後は任せろ……お!!」

 

 真冬は、出迎えに来た面々の中で何故か顔を背けていたましろに目を付けた。

 

「シロじゃねーか!! 久し振りだな、おい」

 

「ちょっと姉さん、やめてよ、もう!!」

 

「何だ何だ縮こまりやがって!! 久し振りに姉ちゃんが根性を注入してやろうか?」

 

 こんなやりとりが繰り広げられて、どうにも一同は反応に困った顔になる。幸子が、くいっとビッグママの袖を引いた。

 

「ママさん、あの真冬艦長って……」

 

「ああ、シロちゃんのお姉さんさ。名字が同じだろう?」

 

 ひそひそ話している間に、またしても別の動きがあった。

 

「根性……あの、お願いして良いですか?」

 

 明乃が、そう申し出たのである。ましろが「バカ!! 止め……」と制止するも、真冬に黙らされた。

 

「よし……!! では、後ろを向け」

 

「は、はい!!」

 

 くるっと180度回れ右して背中を見せる明乃。すると真冬はぎらりとした目付きになって、両手をわきわきと動かす。

 

「行くぜ……!! 根性注入~~~っ!!!!」

 

 伸ばされた手が明乃の尻に届こうとして……割り込んだましろの尻に阻まれた。真冬は思うさま、妹の尻を揉みしだく。

 

「根性、根性、根性……あれ? シロ」

 

「こんな辱めは、身内で留めておかないと……」

 

 羞恥で顔を真っ赤にしながらましろが言うが、そこで横合いからビッグママの声が掛かった。

 

「残念だがシロちゃん……その台詞は、70年ほど言うのが遅いねぇ……」

 

「あ!! 四海ばあちゃん!!」

 

「ミ、ミス・ビッグママ……70年って……ま、まさか……」

 

 色んな意味で嫌な予感がして、ましろの頬を冷や汗が伝った。

 

「あたしも艦長にやられた。今のシロちゃんより、ずっと小さい頃にね」

 

 ブルーマーメイドの初代艦長。宗谷家の祖。

 

 自分の中にあった曽祖母の偶像がガラガラと崩れていくようで、ましろはくらっと目眩を感じて頭を押さえた。

 

 と、ビッグママに向き直った真冬の顔がこれまでのおちゃらけたものから真剣な、ブルーマーメイドの艦長として相応しいものへと変わった。脱帽の後、一礼する。

 

「四海ばあちゃん……あ、いえ、潮崎特等監察官。ご無沙汰しております!!」

 

「元、ね。元特等監察官だ。あたしがブルーマーメイドだったのは、もう30年も前の事さね」

 

 世間話のような会話だが、しかしそこに含まれる意味をビッグママは正確に読み取っていた。真冬は自分の事を、特等監察官と呼んだ。つまり単純な旧知の仲であったりクリムゾンオルカとしての自分ではなく、元ブルーマーメイドとしての自分に、何かしらの用があるという事だ。

 

 目線で「話しな」と合図する。この意図は真冬にも伝わったらしい。首肯を一つすると、本題を切り出す。

 

「数時間前、武蔵及び他の行方不明艦の所在が確認されました」

 

「「「!!」」」

 

 根性注入によって和んだ空気から一転、全員の表情が強張った。特に明乃はそれが顕著であった。それも当然、武蔵には親友のもえかが乗っている。彼女の無事を信じたいが……しかしウィルスが蔓延し、正気を失った生徒が徘徊する艦内では正直それも望み薄であろう。加えてビッグママが危惧していた、ウィルスの感染が長時間続いた場合に感染者の体に何が起こるか分からないという懸念もある。

 

 まだ若い、幼いと言って良いかも知れない明乃は、そんな心中の動揺を隠す術を身に付けてはいなかった。

 

「武蔵の他、比叡、鳥海、摩耶、五十鈴、磯風、涼月……これらの艦が一固まりになってウルシー南方から針路を西へ、フィリピン方面に向かう動きを見せています。これに対し我々は、ブルーマーメイド・ホワイトドルフィン合同で戦力を集中させ、上陸の阻止、及び生徒を救出する作戦を立案しており……艦隊の指揮を潮崎元特等監察官。あなたに任せたいと……これは横須賀女子海洋学校・宗谷真雪校長、東舞鶴男子海洋学校・永瀬鉄平校長が連名での依頼です」

 

「ほう……」

 

 普段のどこかふざけた調子でもない、作戦の遂行時に見せる凛とした表情でもない。凪の海のように、静かで一切の感情が読み取れない無表情で、ビッグママは相槌を一つ。だが、思考に要した時間はそう長くはなかった。

 

「良いだろう。その依頼、受けると伝えておくれ」

 

「ママさん!!」

 

 思わず詰め寄ってくる明乃の頭にぽんと手を乗せ、ビッグママは頷く。

 

「ミケ、フユちゃんの台詞じゃあないが、根性を入れるんだ。次が、最後の作戦になるよ」

 



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VOYAGE:16 束の間の離別

 

 横須賀女子海洋学校・校長室。

 

 執務机に置かれたパソコンのモニターを見て、次女から送られてきたメールの内容を確認する真雪。

 

「そう……教官は、艦隊の指揮を執る事を了承してくれたのね」

 

 うん、と一つ頷く。

 

 依頼を受ける時に、ビッグママへと言った言葉は嘘ではない。彼女以上に頼りになる人物を、真雪は知らない。たとえ相手が艦隊であろうとこちらも五分以上の戦力を揃えている上に、今回は最高の将帥が指揮を執る。慢心は禁物だと日頃から心掛け、戒めてはいるがしかし「これで勝ったも同然」という感情が胸中に湧いてくるのを彼女は抑えられなかった。

 

 と、その時。パソコン画面の右下に新着メールの存在を教えるアイコンが表示される。

 

「? ……ダートマスから? 留学生艦の受け入れ要請?」

 

 こんなタイミングで? と首を捻る。既にRATtウィルスの影響で多数の学生艦が学校の統制を離れて暴走状態にあるのは、各国のブルーマーメイドが周知の筈。なのに留学生の受け入れを打診してくるなど空気が読めないというレベルではない。

 

 そんな思考を浮かべつつメールを開こうとすると、またしても別のメールの着信があった。

 

「ウラジオストック……アナポリス……高雄市からも?」

 

 目を通してみると、それらのメールはどれも各国の海洋学校からの留学生艦の受け入れ要請だった。

 

 1校だけならば兎も角として、これだけの数の学校が一斉にコンタクトを取ってくるのだ。絶対に偶然ではあり得ない。

 

 だが一つ一つ順番に目を通していくと、この疑問にも得心が行った。

 

 送られてきたメールには、全て同じ名前が記されていたからだ。

 

 くすっと、真雪は苦笑する。

 

「流石は教官……既にこのような手を打たれていたとは……抜かりはありませんね」

 

 

 

 

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

「ママさん……行ってしまうんですね」

 

「そんな顔をするでないよ、ミケ」

 

 不安そうに顔を伏せる明乃を前にして、ビッグママは両手で頭を掴むとぐいっと自分に視線を合わさせた。明乃の首関節がごきっと鳴る。

 

「そりゃあこれは実戦で……あたしもいつ死んでもおかしくない身だけどさ……でも、敢えてこう言わせてもらうよ」

 

 ビッグママはにっ、と会心の笑みを浮かべる。

 

「またすぐに会えるさ。もかも、一緒にね」

 

 必ず助ける。老艦長はそう言っているのだ。これは無責任な気休めでは断じてない。自分の力で望む未来を絶対に実現させるという固い決意であった。

 

 十年来の付き合いである明乃に、それ以上の言葉は必要無かった。今まで、ビッグママに期待を裏切られた事や約束を破られた事は一度としてない。きっと今回もそうなる。確信が持てた。

 

「四海ばあちゃん、弁天は最寄りの海上都市までシュペーを曳航した後、集合地点に合流します。クリムゾンオルカは先に、集合地点へ向かって下さい」

 

「あ……」

 

「じゃあ、ミーちゃんは……」

 

「当然、我々と共に行く事になるが……」

 

 最後のはテアの発言である。しかしこれは正論だ。ミーナは元々シュペーの副長。RATtウィルスの蔓延によって一時は離艦し晴風に乗船する事となったが、その騒動が収まってシュペーに戻れる状態になったのなら、元の鞘に収まるのが当然ではある。

 

 幸子は内心のショックを隠せず、引き攣った顔になった。無理もない。趣味が共通している事もあって、晴風クルーで最もミーナと打ち解けていたのが彼女だったから。

 

 だが、ミーナは予想外の言葉を発した。

 

「……テア、いや艦長。お願いがあります。ワシは今暫く、晴風と共に行動したいのですが」

 

「……理由を、聞かせてくれるか?」

 

 単なる私情で言っているのでない事は、目と顔ですぐに分かった。

 

「……海に放流されたRATtの総数は未だ不明。もしかしたら、どこかの船に拾われて船から船へ、既に手の届かない所へ行ってしまった個体が存在するかも知れません。そしていつかその個体が繁殖して、我がドイツの艦を乗っ取るかも知れない。今回の救出作戦には、後方支援ながら晴風も参加します。ワシはその時に備えて、出来る限り対RATtのノウハウを学んでおきたいのです」

 

「……成る程」

 

 神妙な顔になったテアは頷くと、艦長帽を取って明乃へと向き直り、踵を揃えた。

 

「聞いての通りだ、岬艦長。今暫く、我が艦の副長が厄介になるが……構わないだろうか?」

 

「勿論!!」

 

 明乃は即答する。

 

「やったぁミーちゃん!!」

 

「もう暫く、よろしく頼むぞ。ココ、そしてみんな」

 

 感極まって抱き付いてくる幸子の背中をぽんぽんと叩きつつ、ミーナが言う。明乃やましろの他、ブリッジクルー達が一斉に彼女の周りへと集まっていく。

 

 そんなやり取りを尻目に、ビッグママと真冬は作戦についての打ち合わせを進めていた。

 

「で……四海ばあちゃん、作戦の詳細はこちらに」

 

「あぁ、分かったよフユちゃん」

 

 真冬から渡されたタブレットを覗き込むビッグママ。そこにはフィリピン近海に一つの輝点が表示されている。今回の作戦の概要はこの海域にブルーマーメイド・ホワイトドルフィンの戦力を集中して、RATtに操られた学生艦の艦隊を迎撃するというものだ。

 

 既にクリムゾンオルカと晴風が共同で行ったデータ収集によって、ノーマルタイプのRATtの行動パターンは裸にされている。故にいくら学生を殺傷する訳にはいかないという制約があるとしても、単艦ならば無力化する事は本職のブルーマーメイド・ホワイトドルフィンであれば難しくはない。

 

 しかしフィリピンへと向かっているのは現在まで確認されている全ての行方不明艦が集結した艦隊であり、しかもスペシャルタイプのRATtであるボルジャーノンによって統率されている。

 

 ボルジャーノンの行動パターンについてはデータが無い。しかもヤツが乗り込んでいると予想される武蔵は、非常に高い射撃精度と連射速度に加えて噴進魚雷に働きかけて軌道を狂わせるような芸当までやってのける事が以前の救出作戦の折に確認されている。更に不気味なのが、RATtに操られた艦が集まった時にどのような艦隊行動を取るのかが不明な点だ。

 

 今更ながら、敵が人間ではなく別種の知的生命体だという事を痛感する。

 

 相手がどんな戦法を使わないか分からないのは不気味であり、不安要素である。

 

 ならば確実を期す為に戦力を集中させ、物量で以て押し包む。それが武蔵を含む行方不明艦の救出を目的とした『パーシアス作戦』の肝であった。古今東西を通じて、物量に勝る作戦は存在しない。

 

 とは言え、かつてビッグママが演習にてクリムゾンオルカ単艦で20隻から成るドイツ海軍の艦隊を全艦撃沈した例もあり、大部隊には様々な問題が生じる事も事実。なればこそ最高の経験値を持ち、海戦を知り尽くしているビッグママに司令官の依頼が来たのだ。

 

「腕の見せ所というヤツだねぇ。艦隊の指揮など40年振りだが、期待に応えてみせようじゃないか」

 

 ビッグママの表情と言葉は自信たっぷりである。

 

 と、彼女はマイクを手に取って艦全体に放送を掛けた。キーンと、独特の音が鳴る。

 

<あー、あー……晴風の全乗員に告げる。こちら臨時教官の潮崎四海……ビッグママだ>

 

 この時、明乃は見えてはいないが晴風の全乗員が作業の手を止めて、ビッグママの言葉に耳を傾け始めたのが分かった気がした。

 

<知っての通り、あたしはパーシアス作戦に参加する為に晴風から離れる事になった。主力艦隊の指揮を執る為だ。晴風の指導を途中で切り上げねばならないのは残念だが……もう一つ、教えておこう>

 

 レッスン9だ、と前置きしてビッグママは話を続ける。

 

<レッスン9は……『仲間を信じ、頼れ』だ。基本中の基本ではあるが、一番大事な事だ>

 

 ましろはすぐ後ろにいたミーナを振り返った。シュペーの副長は、真剣な表情で頷いて返す。教え子である彼女は、当然この教えを受けていた。

 

<当たり前の事だが、船は一人では動かない。自分の役割を全うし、そして仲間を信じる事。相手への信頼が、唯一つ勝利を生む。そしてそれは家族でも同じだ。海の仲間は、みんな家族……仲間として、家族として、同じ船に乗る皆を信じる事。それを忘れるな。何があっても>

 

 以上(オーバー)と締め括って、ビッグママはマイクを切った。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして合流地点へと移動したクリムゾンオルカ。

 

 その海域には、既にブルーマーメイド・ホワイトドルフィンの主力艦が集結していた。その中には艦隊の再編に成功した東舞校の教員艦の姿もあった。

 

「ママ、東舞校教員艦から通信が入っているわ。繋ぐわね」

 

 ロックがそう言いながら計器を操作し、一番大きなモニターにはこの数週間で何度か見た顔が映った。東舞校の、永瀬鉄平校長である。

 

<お久し振りです、潮崎先生>

 

「テッちゃんか。あんたもこの作戦に参加するのかい?」

 

<ええ、これは日本どころか掛け値無しに人類の存亡を懸けた戦いですからな。ワシの権限で動かせるホワイトドルフィンは全て動員しました。ブルーマーメイドも同様に、最低限の守備隊を除いて全ての戦力がこの海域に集中しています>

 

 別のモニターには、集結している艦の名称と艦種、それに取っている陣形が表示された。

 

「結構。これなら行けそうだ。後、生徒にウィルスの抗体を打ち込む為に白兵戦に突入する可能性もある。その準備は?」

 

<抜かりありません。弾頭に抗体を装填した麻酔銃も十分な数を揃えていますし、抗体それ自体もたっぷり用意してあります。無論、突入部隊も既に編成済みでスキッパーも準備してあります>

 

「よろしい。では……命令系統の確認を……」

 

 しかしこうして作戦の必要事項を確認しつつ数十分ばかりが過ぎた所で、思いも寄らぬ報告が入った。送信元は海洋安全整備局の安全監督室。真霜からだ。

 

<富士の観測台から連絡が入りました!! 行方不明艦の艦隊は二手に分かれました。比叡と磯風の二艦が想定された針路のままフィリピンへ向かっており、武蔵を初めとする残りの艦は、日本へと針路を取っています!!>

 

 血相を変えた真霜の顔がモニターに大映しになって、彼女が感じているであろう動揺が艦隊にも伝播したようだった。通信を聞く全員の顔が強張る。

 

 このパーシアス作戦はRATtに操られた艦がひとかたまりになってフィリピンを目指す動きを見せていた事から、こちらも戦力を集中して行方不明艦の艦隊を一斉に無力化・拿捕する事を目的として立案されている。しかしこの動きは、作戦の前提条件を根底から覆すものであった。

 

 一箇所に戦力を集中するという事は必然、他の箇所の守りが疎かになる。完全に策が裏目に出た形となってしまった。

 

「シモちゃん、日本へ向かう艦隊を迎撃できる戦力は?」

 

<九州沖に福内さん達の艦隊を、守備隊として配置してあります。今から動いて間に合うのは彼女達と、それに位置と速力の関係から後方に配置した晴風ぐらいのものです……>

 

 送られてきたデータに目を通したビッグママは、ぎりっと奥歯を鳴らした。

 

 守備隊の戦力はインディペンデンス級沿海域戦闘艦「御蔵」「三宅」「神津」「八丈」の4艦。動かすのが本職のブルーマーメイドである事もあって、まともな戦いなら五分以上に渡り合えるだろうが、学生を殺傷する訳にはいかない(正確にはするとしてもいよいよ追い詰められた時の最後の手段であり、最初からそれに踏み切れない)という縛りがあるこちらと違って、行方不明艦側は最初からこちらを殺す気で実弾をガンガンぶっ放してくる。

 

 しかも、艦隊の中で少なくとも武蔵は東舞校の艦隊に対して恐るべき射撃精度と連射速度を見せていた。もし……ボルジャーノンに指揮される事で他のノーマルタイプRATtが操る艦も同程度の攻撃力を発揮するとしたら……?

 

「無理だね。止められない」

 

 手持ちの情報を総合的に分析し、ビッグママは断じた。

 

「しかしだからと言って何もしない訳には行かないだろう。シモちゃん、守備隊を迎撃に向かわせるんだ。それと晴風にも指示を。自艦の安全を最優先に、武蔵を初めとする艦隊を捕捉し続けろとね!!」

 

<分かりました、おばさま!!>

 

<先生、とにかくここは急いで救援に向かいましょう!! 守備隊は止められないまでも、時間稼ぎはしてくれる筈。その時間を使って、何とか追い付くのです!!>

 

「それが出来ないように、ネズミ共は全艦で日本に向かうのではなく比叡と磯風だけは、変わらずこっちへ向かわせているんだ」

 

<!!>

 

 冷静に返され、永瀬校長もビッグママの言わんとする事を察したらしい。先程までは少し浮き足立っていたが、表情に落ち着きが戻った。大きく深呼吸を一つする。

 

 この戦いでRATt側の勝利条件は、自分達の乗った艦がどこかの海上都市か陸地に寄港・上陸する事。つまり、人類側としては行方不明艦を一艦たりとも陸地へ上げる訳には行かないのだ。よって、このパーシアス作戦では全艦を確実に制圧できるよう十分以上の戦力を集めていた。

 

 フィリピン沖の戦力を大幅に振り分けて日本に回せば、別働隊である比叡と磯風が手薄になったここを破ってフィリピンへと上陸を果たす可能性がある。故に戦力を割くとしてもあまり多くの艦を動かす事は出来ない。

 

 敵の狙いが分かっていても、そうせざるを得ない。これは典型的な陽動作戦だと言える。

 

<……つまり、こういう事ですか? ワシらは、ネズ公共にしてやられた、と?>

 

「……そうなるね。あたしもまだ侮っていた。親玉の頭が良いのは分かっていたが、戦術レベルを飛び越えてこんな戦略レベルの思考が出来るなんてね」

 

 しかしそう語るビッグママの眼光は、鋭い。敵の脅威評価を大きく上方に修正しつつも、彼女はまだ少しも諦めてはいなかった。

 

「……テッちゃん、現時刻を以て、この艦隊の指揮権をあんたへと委譲する。ここの艦隊を使って、比叡と磯風を止めるんだ」

 

<は!! しかし、先生はどうされるので?>

 

 モニターの中のビッグママは「分かり切った事を聞くでないよ」と不敵な笑みで返した。

 

「クリムゾンオルカはこれより、日本へ向かう!!」

 

「「「!!」」」

 

 この宣言を受け、発令所の3名のクルーの表情に緊張が走る。

 

<確かに……先生が操るクリムゾンオルカはこの艦隊の中でも間違いなく最強戦力。それを本命にぶつけて、他の艦で別働隊を迎撃する。作戦上間違いではないでしょうが……いくら先生の船でも、今から行って間に合うでしょうか?>

 

 データによればクリムゾンオルカの最高速力は45ノット。ボルジャーノン艦隊の航行速度と彼我の距離から考えて、奴等が日本に上陸する迄に追い付けるかは疑問が残る。守備隊がどれだけ時間を稼いでくれるか、一か八かの勝負だとも言える。

 

 だが、ビッグママには確信があるようだった。

 

「大丈夫だ。絶対に間に合う」

 

<は……>

 

 永瀬校長も、それ以上は何も言わなかった。教え子である彼には、ビッグママがいいかげんな事を言う人物ではないのが良く分かっていた。

 

「それよりテッちゃん、これより先はあんたが艦隊の指揮を執るんだ。ちゃんとやれるね?」

 

 問いを受けて、モニターの中の壮漢はふんと鼻を鳴らした。にぃっと自信の笑みを浮かべる。

 

<ワシは先生に一人前にしてもらったんじゃ。何だって、させてもらいますぞ>

 

「その意気だ」

 

 うむうむと、ビッグママは満足そうに笑って何度も頷いてみせた。

 

「自信を持って事に当たるんだ、テッちゃん。ユキちゃんもそうだが、あたしに出来てあんたらに出来ない事は、何一つとて無い筈だ。あたしは、そのようにあんた達を指導した」

 

<レッスン8『実戦は真剣に、しかし頑張るな』ですな、先生。分かっちょります、全ては訓練通りに>

 

「よろしい。ではこれより、クリムゾンオルカは日本へ向かう。潜航開始、深度50!!」

 

「はい、ママ。潜航開始します!! タンク開け、注水!!」

 

 永瀬校長との通信を切り、ビッグママの指示を受けてクリムゾンオルカが艦体を海の中へと沈め始める。

 

 この動きは、東舞校教員艦の旗艦からも確認できていた。

 

 その艦橋では今回、副長として乗り込んでいた教頭が怪訝な顔を見せていた。

 

「校長、潮崎艦長は何をする気でしょうか? 状況から考えると、すぐにでも全速で日本へ向かうべきでしょうが……」

 

「まぁ……見とれ。先生は確信の無い言葉を口にするお人じゃない。何か、とっておきの”奥の手”があるんじゃろ」

 

 その時、伝声管を通して水測室から報告が入った。

 

<潜航したクリムゾンオルカの周囲に、おびただしい気泡の破裂音を確認。どうやらマスカーを作動させているようです>

 

「マスカーを?」

 

 教頭は首を捻る。

 

 マスカーとは、魚雷が向かってきた時にそのセンサーを狂わせる為に、気泡を発生させる装置だ。実際に第一次武蔵救出作戦の際にも、クリムゾンオルカはマスカー装置によって接近する魚雷を見事にかわしてみせた。また、艦全体を気泡ですっぽりと覆えばアクティブソナーの探信音波を吸収して自艦の位置を隠すのにも使える。

 

 しかし現在、周囲に敵艦の存在は確認できず魚雷がいきなり飛んでくるような事態などあり得る訳もない。アクティブソナーを警戒する必要性も皆無。

 

 ならば何故、こんな所でいきなりマスカーを使うのだ? 狙いが読めない。

 

 一方で永瀬校長は、些かの心当たりがあるようだった。報告を受けてからしばらくの間は顎に手をやって考えていたが、やがてはっと何かに思い至ったような表情になった。

 

「もしや……あれをやる気か?」

 

 

 

 

 

「マスカーは順調に作動中。間もなく、本艦全体が気泡によって完全にコーティングされます」

 

 クリムゾンオルカの発令所では、リケが報告を行っていた。彼のすぐ前にあるモニターには、クリムゾンオルカの艦体が線によって描かれた画像がディスプレイされており、その周囲を囲むように小さな丸が無数に描かれている。この丸印が、マスカーによって発生させられた気泡だ。艦表面の状態が、リアルタイムで映し出されている。

 

「……テストと訓練は飽きるぐらい入念に行ったけど……やはり本番となると緊張するわね」

 

 ロックが、一筋だけ頬に伝っていた冷や汗を拭う。

 

「訓練で乗員は自信を獲得し、指揮官は可能性を確認する。”奥の手”を使う事もまた、既に我々の戦術マニュアルには組み込まれている……ですよね、ママ」

 

「その通りさ、ナイン。30秒後に発進する!! 機関は10秒で最大戦速に達せよ!! ここからは日本までノンストップさ!! お前達、振り落とされるんじゃあないよ!!」

 

「「「イエス・マム!!!!」」」

 

 指示を出しながら、ビッグママはシートベルトを装着する。3名のクルーもまた、倣うようにしてシートベルトを付けた。

 

 そして、30秒があっという間に経過し、キャビテーション・コーティングの完了とエンジン出力が臨界に達した報告が入った。ビッグママは「うむ」と頷くと、深呼吸を一つ。そして、高らかに命令する。

 

「発っ進っ!!!!」

 

 

 

 

 

<ウオ!!>

 

 東舞校教員艦、その旗艦のブリッジでは伝声管からソナー員の泡食った声が聞こえてきた。

 

「どうした、ソナー。状況を報告せよ」

 

<は、はい……クリムゾンオルカが始動しました!! 凄い速度で遠ざかります。見た事もない加速性能です!! し……しかしこの速度は……速い……い、いや!! 速過ぎる!! 現在40ノット……50ノット……60……65……たった今70ノットに達しました!! し、しかもまだ加速を続けています!!>

 

「バカな!! 水中で70ノットも出る潜水艦など、理論上有り得ん!! 何かの間違いだろう!!」

 

 教頭は否定するが、永瀬校長は「成る程ォ……」と納得の溜息の後、どかっと艦長席に身を沈めた。

 

「流石は潮崎先生。既にアレの実用化に至っていたとは……これなら確実に間に合いますな」

 

 苦笑しつつ、帽子を被り直す。

 

「教頭!!」

 

「は、校長!!」

 

「日本の事は潮崎先生と守備隊、それに晴風に任せる。ワシらは比叡と磯風の迎撃に当たる!! 各艦に戦闘準備をさせよ!!」

 

「ハッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 伊豆半島沖。

 

 武蔵を中心とする行方不明艦によって編成されたRATtが操る艦隊とブルーマーメイドの守備隊による艦隊戦は、ビッグママが予想した通りの展開を見せていた。

 

 ブルーマーメイドの装備は最新鋭のものがあり、あくまで練習艦である武蔵以下学生艦に決して劣るものではない。それどころか大きく上回っている。乗員の練度にしても、本職VSその見習いですらない今年海洋学校に入ったばかりの学生。比べるべくもない。

 

 しかし、やはり学生を殺傷する訳には行かず、実弾を使用できない縛りが大きく響いていた。ブルーマーメイド側は、攻撃力が圧倒的に劣っている。

 

 対して武蔵を先頭に単縦陣を敷いた艦隊は、恐ろしく正確な射撃をしかも連射で撃ち込んでくる。武蔵は当然の事、鳥海、摩耶、五十鈴、涼月といった各艦は本職のブルーマーメイドが真っ青になりそうな、さながらシンクロナイズドスイミングのような完璧な艦隊行動を見せて、効果的な攻撃を仕掛けてくる。

 

 艦隊が戦闘力を奪われ、退避もままならず全艦が航行不能に陥れられるまで、長い時間は掛からなかった。

 

 この様子は、駆け付けた晴風の艦橋からも見えていた。

 

「そんな……ブルマーが……」

 

 双眼鏡から目を外した芽依の声は、震えていた。

 

 ブルーマーメイド艦隊の戦力が、劣っている訳ではない。寧ろ、学生である自分達では到底真似できないであろう操艦や射撃・連携を随所に見せて、卓越した技量を示している。しかしRATtに、否、ボルジャーノンに統率された学生艦の艦隊は”連携”という言葉を通り越して、まるで一つの意思が艦隊の全てをコントロールしているようだった。

 

 いや、”まるで”ではなく”まさに”なのだろう。RATtが媒介するウィルスは生体電流に影響を及ぼし、感染した生物を一つの意思の元に統率する。今や武蔵は勿論の事、学生艦の、それに乗り込んでいるRATtと感染した学生の全てが命令の系統樹の頂点に位置するボルジャーノンの意思によって操られているのだろう。

 

<艦長、ブルマーから通信が。晴風は至急退避するようにと!!>

 

「退避……!!」

 

 明乃は逡巡を見せた。

 

 やっと、武蔵を捉えた。親友を助けるチャンスが、再び巡ってきたと言うのに。

 

 しかし今の自分は一個人の岬明乃ではなく、晴風の艦長であると繰り返し言い聞かせる。自分の私情で、クルー全員を危険に晒す事は出来ない。

 

 あるいは以前のように武蔵が単艦だけなら危険と知りつつも救出に踏み切ったかも知れない。しかし、眼前に展開されているのは信じられないような練度で完璧に統率された艦隊。1パーセントの勝機があるならそれに賭ける手もあるだろうが、向こう岸に着地できる可能性が絶無と知りつつ崖から飛ぶのは、それは只の自殺である。

 

「艦長……残念ですが、私もここは退避に賛成します。晴風の戦力では、到底あの艦隊には対抗できません」

 

 ましろの意見は極めて正論であった。あるいは卓越した技量を持った指揮官が居ればまだ何とかなるかも知れないが、学生である自分達にそんな能力など望むべくもなく、無い物ねだりと諦める他は無かった。

 

「そう……だね、シロちゃん。晴風はこれよりたい……」

 

 退避をと、そう言い掛けた瞬間だった。

 

<待って下さい、艦長!! 後方から、物凄い速度で接近する音が一つ……この速度は……ま、まさか?>

 

 楓の、慌てて上擦った声が伝声管を通してブリッジに響いた。

 

「水測、報告は正確に!!」

 

 ましろが、少しだけ声を強くして注意する。

 

<は、はい……接近中の音は、潜水艦のエンジン音です。速度は……信じられませんが……計器の故障でなければ105ノットと出ておりますわ>

 

「ひゃ……105ノットだと!? バカな!!」

 

 高速を誇る晴風の最大戦速が37ノットなので、3倍近い速度が出ている計算になる。しかも水の抵抗をより大きく受ける水中で。

 

 そんな速度を出せる潜水艦など、世界中のどの国でも開発されていない。公式に存在する水中航行速度のワールドレコードが、パパ級原子力潜水艦の44.7ノットであった筈だ。その倍以上も速い艦など、存在し得る訳がない。

 

 しかし現実に、晴風のソナーはその艦の存在を捉えている。

 

 明乃はいち早く頭を切り換えた。今はスピードにブッ魂消ている場合ではない。重要な事は。

 

「まりこうじさん、接近中の潜水艦の艦種は識別できる!?」

 

 重要な事は、接近中の艦が敵か味方か。まずはそれである。

 

<はい……音紋照合……これは……クリムゾンオルカですわ、艦長!!>

 

「ママさん!!」「ミス・ビッグママが!?」「アドミラル・オーマー!!」

 

 一瞬でブリッジ全体、それどころか晴風全体の空気が変わったようだった。

 

 胸中の暗雲が一気にぶっ飛ぶような爽快感を、今の明乃は味わっていた。暗い部屋に閉じ込められていて、一週間目にやっと光が差し込んだ時はこんな気分なのだろうかと思った。

 

「し、しかし……一体どうやって105ノットもの高速を……?」

 

「恐らく、スーパーキャビテーション航法じゃ」

 

 ミーナが発言する。

 

「ミーちゃん、それって?」

 

「我がドイツ海軍でも、研究が進められている技術で……簡単に言えば、水中を動く物体の周囲をキャビテーションで包む事によって、水の抵抗を極限にまで減らす技術の事じゃ。理論上、この技術を実装した魚雷は最早砲弾と言っても良い速度で水中を進むらしい。しかし各国の海軍でも未だ実験段階にある筈の技術を、既に魚雷どころか潜水艦に実用化していたとは……」

 

 この超高速航行技術こそが三つの秘密兵器をも凌ぐクリムゾンオルカの”奥の手”であり、ビッグママはこれを使う事でフィリピン沖から伊豆半島沖まで有り得ないほどの短時間で移動し、埋まる筈がない時差を埋めてきたのだ。

 

<今……!! クリムゾンオルカの速力が急激に低下します。現在、30ノットにまで落ちました!!>

 

 無論、リスクやデメリットもある。スーパーキャビテーション航法は静粛性や攻撃力を度外視し、ただひたすらに速度だけを重視して魚雷を振り切ったり戦闘海域から確実に離脱する事を目的とした技術。使用中は当然ながらクリムゾンオルカの魚雷は使用不可能となるし、性質上エンジンを全開で回さねばそもそも使う意味がないので周囲にコンサートでもやっているかのような騒音を撒き散らし、姿を隠す筈の潜水艦が存在をアピールする事になる。当然、艦内がそんなライブハウス状態ではソナーの効力も著しく低下する。

 

 ビッグママは戦闘海域に入った事で、潜水艦本来の戦い方に戻るべくスーパーキャビテーション航法を解除したのだ。

 

<!! ……海面にクリムゾンオルカの潜望鏡が露頂しました!! 発光信号を確認、読み上げます>

 

『これより、武蔵を初めとする学生艦の救出作戦を開始する。晴風には、本艦の援護を求む』

 

「艦長!!」

 

「うん、シロちゃん!!」

 

 先程とは打って変わった表情で、ましろが詰め寄ってくる。明乃も、強く頷いた。

 

「ママさんが来てくれたなら、やれるよ!! 晴風はこれより、武蔵以下学生艦の救出に向かいます!! 各員戦闘態勢!!」

 

<了解!!><分かりました><承りましたわ><合点!!>

 

 次々と、気持ちの良い声が返ってくる。

 

「のまさん、クリムゾンオルカへ手旗信号を!!」

 

 

 

 

 

 

 

「リョ・ウ・カ・イ・キ・カ・ン・ヲ・エ・ン・ゴ・ス・ル……と」

 

 その隻眼で潜望鏡を覗き込んできたビッグママは、見張り台のマチコの動きを読み取って「よーし」と深い頷きを一つ。

 

 潜望鏡を収納して、キャプテンシートに腰を下ろす。

 

「本当にすぐ再会する事になったが……さぁ、お前達……そしてミケ……腹を括りなよ……!!」

 

 その言葉はクルー達と、自分自身にも言い聞かせるものであった。

 

「これが、最後の戦いだ!!」

 



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VOYAGE:17 RATtの謎

 

「……これは……?」

 

 晴風の水測室。

 

 楓は、すぐ傍を潜航中であろうクリムゾンオルカから、妙な音を聞き取った。

 

 データベース内の記録を参照し、パターンを解析する。一致する音を見付けるのに要した時間は数秒だった。

 

「艦長、クリムゾンオルカから魚雷の装填音。続いて発射管の注水音が聞こえますわ」

 

 この報告を受け、艦橋にざわめきが走った。

 

「ママさん、いきなり魚雷を撃つ気かな!! 撃っちゃうのかな!!」

 

 興奮気味な芽依を見てまた始まった、という顔で首を振る志摩を尻目に、明乃は顎に手をやって思考を回す。

 

「……まりこうじさん、装填された魚雷は何発か分かる?」

 

<……恐らくは、一発。あ、今、発射管外扉が開く音がしましたわ。魚雷が、発射されます!!>

 

 ズン!!

 

 距離が近い事もあって、ブリッジクルーにも発射音が聞こえた気がした。同時に、見張り台のマチコから報告が入る。

 

<クリムゾンオルカが魚雷を撃ちました。雷跡1!! 艦隊へと向かいます!!>

 

「ママさんが魚雷を撃ったぁ!!」

 

「……しかし、何故一発だけしか撃たないんでしょうか? 相手は5艦だぞ?」

 

 ましろの疑問も当然である。

 

 クリムゾンオルカの得意技であるスクリュー潰しで航行能力を完全に奪うには、最低でも2発の魚雷が必要となる。一発だけでも片舷のスクリューを破壊してまともに航行出来なくする事は出来るだろうが……

 

 何か、しっくり来ない。

 

「アドミラル・オーマーは予想は裏切るが、意味の無い事をする方では断じてない。この魚雷には、必ず何かしらの意図がある筈じゃ」

 

 教え子として、ミーナが分析する。

 

「一発だけの魚雷……? ダメージを与えるのが目的じゃない……?」

 

 ぶつぶつ呟いていた明乃であったが……はっと、目を見開く。脳裏に、閃きが走った。

 

「まりこうじさん、ヘッドホンミュートに!! これは音響魚雷だよ。艦隊の手前で爆発する!!」

 

<は、はい!!>

 

 考え、話している間にも魚雷は艦隊へと真っ直ぐ向かっていく。RATtに操られた艦隊は全艦が取り舵を切り、回避行動を取り始める。

 

 だがこのタイミングでは艦が全速に達するよりも魚雷が艦とドッキングする方が余程早い。しかし一発だけの魚雷では、決定打にならない。

 

 しかしそれで良い。この魚雷は艦隊に打撃を与える為のものではない。

 

 魚雷と、艦隊を構成する艦の一つである摩耶との距離が300に達した瞬間、水柱が上がった。魚雷が、自爆したのだ。

 

 同時に、海中へと巨大な音が撒き散らされる。最新型のソナーでは一定以上の音量は自動的にカットされるようになっているから、ヘッドホンを無音状態にしていなくても水測員が耳を壊されたりはしていないだろうが……

 

 この一発の魚雷は、いわば煙幕。忍者が使う煙玉。

 

「まりこうじさん、クリムゾンオルカのエンジン音は? 聞こえる?」

 

<……それが、爆発の5秒前に音が消えましたわ>

 

 やはり。頷く明乃。

 

 魚雷が爆発する瞬間にエンジンを切って、無音航行に切り替えたのだ。

 

 潜水艦は姿を隠してこそ。スーパーキャビテーション航法で伊豆半島沖へと駆け付けたは良いが、エンジンを全開で回した所為でクリムゾンオルカの位置は艦隊に知れてしまっている。ビッグママはまずは潜水艦操艦の基本へと立ち返り、姿を隠す為に音をバリアーとして使ったのだ。

 

「……艦長、我々はどうします?」

 

「……晴風だけじゃ、あの艦隊には太刀打ちできない」

 

 まずは状況確認。

 

 ボルジャーノンの意思によって完璧に統率された艦隊の連携は一糸も乱れず、まさに完璧と言って良い。統制が取れていない烏合の衆であればその指揮の乱れに付け込むという勝ち筋も考えられたが、その目は早々に潰された。

 

 ならば、この状況で晴風が執るべき戦術オプションは……

 

「……うん、晴風はこのままの距離を保ったまま待機。ママさんなら必ず、艦隊の指揮を乱してくれる筈。そうして指揮が乱れた所で晴風もクリムゾンオルカを援護する。そのチャンスを待とう」

 

「……分かりました。ミス・ビッグママを信じましょう」

 

「アドミラル・オーマーなら必ず、やってくださる」

 

 

 

 

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

「ママ、レッドオクトーバーは問題無く作動中。後30秒で、涼月の航跡に入ります」

 

 リケの報告を聞きながら、ビッグママは正面モニターを睨んでいる。そこにはRATt艦隊の動きがディスプレイされていた。

 

 現在、RATt艦隊は武蔵を中心とした輪形陣を取っていて、航行する方向を前として最後尾に涼月が配置されている。

 

 音響魚雷で身を隠したクリムゾンオルカはエンジンストップと同時に無音航行システム”レッドオクトーバー”を作動させ、無音のままで少しずつ艦隊へと近付いている。

 

「涼月の航跡……バッフルズに入りました。何も聞こえません。ソナーの効力が失われます」

 

 艦の航跡に発生するキャビテーションの中では騒音と気泡によってそこへと入った艦の存在が捉えられなくなる。正体不明(バッフルズ)と呼ばれるソナーの死角だ。ただしそこでは自らのソナーも役に立たないので、潜水艦にとっては殆ど盲目状態で航行する事になる。よほどカンが鋭くなければ衝突事故に繋がりかねない危険な場所だ。

 

 だが百戦錬磨のクルーを率いる万戦錬磨のビッグママは、その危険地帯をも活用した戦術をいくつも心得ていた。今回使っているのもその一つ。

 

「RATtの親玉……ボルジャーノンが乗り込んでいるのは武蔵であると推測されていたが……これで確定だね。100パーセント、ヤツは武蔵に居る。そこから全ての艦に乗り込んだネズミ共、そしてウィルスに感染した生徒達を操っている」

 

 武蔵を中心とした輪形陣を見れば、問わず語りというものだ。最も守りが堅く最も安全な中心の艦に、最も守られるべきもの、つまり、指揮官が居る。

 

「いいかい、お前達。クリムゾンオルカはこのまま涼月にべったりと貼り付いて、そしてタイミングを見計らって離脱し、武蔵のバッフルズへと入るよ」

 

 これは単艦で艦隊を相手にする際の戦術である。

 

 集団戦闘に於けるセオリーは、まず優秀な敵もしくはリーダーから叩く事。今回の場合は、艦隊を統制しているボルジャーノンが乗り込んでいる武蔵がこれに当たる。だが武蔵は前後左右を随伴艦によってがっちりガードされていて、迂闊には近付けない。いくら超静粛航行を可能とするレッドオクトーバーを使っているとは言え、距離があまりにも近ければ看破される可能性はゼロではない。

 

 そこで今回の作戦だった。

 

 まずは周囲を固める艦のバッフルズに入って姿を隠し、機を見て離脱、武蔵のバッフルズへと飛び移る。巡回している見張り兵士の背中にぴったりとくっついて、警戒厳重な基地へと潜入する忍者のように。

 

 そうして武蔵の背後という絶好のアタックポジションを確保した所で、お得意のスクリュー潰しで足を奪う。

 

 今の所は、この作戦プランは順調に運んでいると言える。

 

 そう、順調に。

 

『それは結構だが……しかし順調過ぎる気もするなぁ。こーいう時は、得てして落とし穴があるもんだ……』

 

 根拠は無い。論理的でもない。しかし長年の経験と直感から、ビッグママは嫌な予感を覚えていた。そして嫌な予感ほど良く当たる。

 

 具体的に何が起こるのか? そこまでは分からないが……しかし不測の事態が発生しても即応できるよう、一度深呼吸して気を引き締め直す。

 

「よし……確認するが三番と四番発射管の状態は?」

 

「先程の爆発音が響いている間に、既に魚雷の装填は完了。発射管の注水も済んでます」

 

「よーし、では始めようか。涼月のバッフルズから出て、武蔵のバッフルズへと飛び移る。面舵50度!!」

 

「面舵50度、アイ!!」

 

 ビッグママの命令に従い、ナインが舵を切ってクリムゾンオルカの進路を変更した、その時だった。

 

 異常事態が、起きた。

 

「……?」

 

 水中聴音に違和感を覚えたリケが、ヘッドホンに手を当ててソナーの感度を調節する。10秒ばかりその操作を行った所で、彼は明確にその異常を認めた。

 

「ママ!! まだバッフルズの中です!! 涼風が本艦と同じ方向へと転舵しました!!」

 

「何!?」「バカな……!!」

 

 ナインとロックの二人も、信じられないという顔になる。一方、ビッグママは無言で厳しい顔のまま、がちんと煙管を噛み締めた。

 

 偶然、クリムゾンオルカが面舵50度を切ったのと同じタイミングで、涼月も面舵50度で転舵したと言うのか? それこそ「バカな」だ。

 

「……だが、まずは偶然か否か、そこんとこはっきりさせようか。取舵50度!!」

 

「アイマム!!」

 

 ナインが先程とは逆方向に舵を切った。

 

 さて、どうなるのか……? 期待と不安が半々という視線がリケへと集まるが……彼は首を横に振って応じた。

 

「ダメです、ママ。まだバッフルズの中です。涼月が取舵50度で転舵しました」

 

 これで確定。二度の偶然は無い。

 

 どういう手段なのか? そこまでは不明だが……間違いなく、RATt達はクリムゾンオルカの位置を正確に把握している。

 

「……ロック、確認するがレッドオクトーバーはキチンと作動しているね?」

 

「はい、ママ。全ての機器を再チェックしましたが診断はオールグリーン。異常はどこにも見当たりません」

 

「……装置の故障ではない」

 

 ほぼ無音で航行するクリムゾンオルカが、しかもソナーが効かないバッフルズの中に入っている。つまり、音で探知している訳ではない。アクティブソナーが打たれた様子も無かった。そして涼月だけではなく艦隊が装備しているセンサー類では、今のクリムゾンオルカを発見する事は不可能な筈。

 

 ならば考えられる可能性は、一つだ。

 

『……ネズミ共には、まだあたし等が解いていない謎があるという事か』

 

 ぎりっ。

 

 歯軋りの音が、妙に大きく発令所に響いた。

 

 艦の性能を活かして上手く立ち回ったつもりがその実、まんまとネズミの罠に嵌った形になった。

 

「ネズミを駆除するつもりが……この状況、狩られているのはあたし達の方かも知れないねぇ……差し詰め蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶々って所か」

 

 だが、繰り言はそこまでだった。こういう時こそ、冷静にならなければ負ける。

 

「ママ、どうしますか? この状況は……」

 

「ああ、ロック。たった今、あたしは蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶々って言ったが……じゃあ、巣に蝶々を引っ掛けた蜘蛛は……次にどうすると思う?」

 

「どうって……」「そりゃ……」

 

「獲物を食べる為に近付いてくる……かしら? ママ」

 

「あぁ、その通りだねぇ。より正確にはまずは噛んで毒を注入し、動けなくしてから食べる訳だが……」

 

 ここまで話されたら、クルー達にもビッグママの言わんとする事が理解出来た。

 

 噛んで、毒を注入してくる。……つまり、盲目状態にして動きを封じた状態のクリムゾンオルカを、何らかの手段で攻撃してくるという事だ。

 

「じゃあ、ママ。ここは一旦レッドオクトーバーを止めて離れますか?」

 

「向こうはそれを待っているんだ」

 

「は……?」

 

「方法や探知範囲までは分からないが、とにかくネズミ共にはこっちの位置が分かるんだ。とすれば、離れたとしてもこっちの位置は把握出来るか、仮に有効な索敵範囲からロストしたとしてもそのロストした状況から、大雑把な位置は逆算出来る筈。動きを止めたら、その一帯を狙って対潜弾や魚雷が何十ダースも雨あられと降ってくるよ」

 

「……!!」

 

 ごくりと、リケは苦い唾を呑んで喉を鳴らした。

 

「では、ママ……それなら連中はどんな手段でこっちを攻撃してくると思いますか?」

 

「それだね……」

 

 頬杖付くビッグママ。

 

 ネズミ相手に人間の思考がどれほど通用するかは未知数だが……

 

 涼月諸共クリムゾンオルカを沈める気なら、他の艦から魚雷や砲弾をガンガン撃ってくるだろう。クリムゾンオルカを仕留めるだけならこれが最も確実だ。特にRATt達は哺乳類のクセにボルジャーノンを頂点としてアリや蜂のような真社会生物の特徴を持っているから、極端な話ボルジャーノン一匹だけを確実に生存させられるならば他は全て捨て石として消費するような戦術だって平気で使ってくるだろう。

 

 しかしそれなら、とっくに攻撃が始まっていていい筈。それをしてこないというのは、ボルジャーノンにはそれをするつもりがないという事だ。

 

『……まだ戦力を温存したがっているな』

 

 陽動作戦で主力をフィリピン沖に引き付けたとは言え、人間側にどれほどの防衛戦力が残っているか、それはボルジャーノンにも不明という事だろう。

 

 ビッグママは考える。仮に自分がボルジャーノンの立場にあったとして、この伊豆半島沖を抜かれたら人間側にはもう、戦艦形態へと移行した横須賀女子海洋学校ぐらいしか防衛戦力が残っていないのを知っていたとしたら、涼月ごとクリムゾンオルカを確実に沈めるというオプションを選択するだろう。その状況なら今更5艦が4艦になった所で大きな変化は生じ得ない。

 

 逆にそれを知らないのなら、戦力を出来るだけ減らしたくはないだろう。ここを突破したら、またしても守備艦隊が待ち構えているかも知れないのだから。

 

 つまり次の攻撃には涼月に被害を与えない、与えたとしても軽微なものですむような、そんな方法が選ばれる。

 

『……と、すればその攻撃オプションは……!!』

 

 推理から敵の攻撃方法にアタリを付けて、ビッグママは目をきゅっと細めた。

 

「リケ、涼月の動きに注意するんだ。左か右、どちらかに転舵してバッフルズが晴れると同時に、魚雷が飛んでくるよ。推進力をレッドオクトーバーからプロペラに切り替え!! 向こうにこちらの位置が分かる以上、音を控える意味は無い。静粛性よりも加速力・トップスピードを重視で行く!!」

 

 

 

 

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

 現在、晴風は艦隊から付かず離れずという距離を保ちながら状況の監視に終始している。そしてRATt艦隊は晴風にはもう興味をなくしたかのように、突然艦隊全体が面舵を切ったり取舵を切ったりと目的が不明な航行を繰り返している。

 

 晴風を攻撃しようとはしてこないし、かといって真っ直ぐ日本へ向かおうともしていない。ビッグママ達が何かしているのは分かるが……それが何なのか? そしてどうなっているのか? さっぱり分からない。

 

「ママさん……」

 

 明乃はさっきから、ひっきりなしに爪を噛んでいた。もう爪先はギザギザだ。

 

 以前にビッグママは話した事がある。「20艦掻き集めただけの烏合の衆よりも、統制がしっかり取れた5、6隻の艦隊の方が自分にとってはよっぽど脅威だ」と。RATt艦隊はまさにその「統制の取れた5隻の艦からなる艦隊」である。ビッグママに限って万一は有り得ないと信じているが、それでも「まさか、いやひょっとして」と考えてしまって、心臓がバクバクいっているのが分かる。

 

 その時だった。伝声管が、見張り台にいるマチコの声を伝えてくる。

 

<艦隊に動きがあります!! 輪形陣の先頭を進んでいた摩耶が転進します!! これは……魚雷の発射位置を確保しているようですが……>

 

「「!!」」

 

 報告を受け、ブリッジクルーの表情が引き攣る。魚雷の発射準備? どこを狙っている? まさかこの晴風を?

 

<あ……摩耶の動きが止まりました。この角度だと……発射可能角度の先にあるのは……涼月です!!>

 

「み、味方を撃つ気か!? どうして?」

 

「……もしや、涼月のバッフルズにクリムゾンオルカが居るのでは……」

 

 ミーナが言い掛けた瞬間、再び伝声管が鳴った。

 

<今……摩耶が魚雷を撃ちました!! 雷跡2!! 涼月へ向かいます!! あ……!! 涼月が面舵を切りました!! 魚雷の命中コースから外れていきます!!>

 

 同時に、水測室から通信が入る。

 

<こちらソナー!! クリムゾンオルカのエンジン音を感知しました!! 先程までの、涼月の航跡(ウエーキ)の中に居られますわ!!>

 

「「!!?」」

 

 先程に倍してクルー達の表情が引き攣り、凍り付いた。

 

 涼月はたった今、面舵を切って魚雷の命中コースから離れた。その、涼月の航跡の中にクリムゾンオルカが居るという事は……!!

 

「!! ママさん、避けて!!」「エンジンを止めて下さい!! ミス・ビッグママ、この魚雷はクリムゾンオルカのエンジン音にセットされてます!!」「いや浮上じゃ!! 急いで!!」「それより急速潜航だよぉ!!」「エンジン全開で避けて下さい!! ママさん!!」

 

 

 

 

 

 

 

「!! 来やがった」

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 「ちっ」と舌打ちして、リケが毒突いた。

 

「ママ、お客さんです。魚雷2本接近!! 面舵転舵した涼月の左舷を掠めるようにして向かってきます!! 距離300!!」

 

「ママ!!」

 

 この状況では、一瞬の判断の遅れが命取りだ。考えている時間は、無い。

 

 ビッグママの決断は早かった。

 

「機関全速!! 面舵一杯回避!!」

 

「ママ、こいつらはエンジン音セット……」

 

「涼月の航跡(ウエーキ)の中、バッフルズに入っていたクリムゾンオルカのエンジン音は捕捉できない。魚雷はただ、直線で来る!! エンジンは全開で回せ!! 舵は目一杯切れ!! 急げ!!」

 

「「「アイマム!!!!」」」

 

 クルー達はそれ以上は意見を挟まず、艦長に従った。この辺りは、クルー達のビッグママへの信頼が為せる業と言える。

 

「涼月、全速で離脱します!!」

 

 これは、魚雷がクリムゾンオルカに命中した際の爆発に巻き込まれまいとする動きだ。やはりボルジャーノンは犠牲止む無しの大火力による飽和攻撃でなく、ピンポイントの魚雷攻撃でクリムゾンオルカを仕留める戦法を執ってきた。

 

「距離180!! 魚雷、突っ込んできます!!」

 

「ナイン!!」

 

「一瞬も力を緩めるな、舵から手を離すな、切り続けろ!! ですよね、ママ!!」

 

「ああ、その通りだ!!」

 

 こんなやりとりをかわしている間にも、魚雷は接近を続けている。

 

「距離50!! 30……!!」

 

 リケはヘッドホンを外そうとはしなかった。ビッグママならば、この魚雷はかわす。彼はその確信を持っていた。

 

「距離10……!!」

 

 ビッグママも含め、全てのクルーがモニターに表示される音源を、瞬きもせずに睨んでいた。

 

「魚雷、左舷20メートルを通過!! 外れました!!」

 

 人間で言えば、弾丸が耳を掠っていったような超至近距離だった。

 

 もしビッグママの指示が1秒でも遅れていたら、もしくはクルー達が即応出来なかったのなら、間違いなく命中していたであろうギリギリのタイミングだった。あるいは推進システムをレッドオクトーバーのままにしていても当たっていた。加速力と最高速に分があるプロペラ推進に切り替えていたのが功を奏した形だ。

 

「うっ!!」

 

 リケが、悲鳴じみた声を上げた。

 

「ママ!! 第二波攻撃が来ます。魚雷2本、距離300!! 今のに気を取られている間に発射されていました!!」

 

「ふん……しつこい男は嫌われるわよ!!」

 

「エンジン停止、無音航行!! 海のモズク……じゃなくて藻屑になりたくなけりゃ、10秒で止めるんだ!!」

 

「ア……アイマム!! エンジン停止!!」

 

 驚きながらも、流石にビッグママに鍛えられた精鋭である。体はしっかり訓練通りに動き、敏速に作業をこなしていく。みるみる内に、発令所内に響く騒音が小さくなっていった。

 

「ママ……これは……」

 

「バッフルズが切れた所を、エンジン音セットの魚雷で襲う。二段構えの攻撃だよ、これは」

 

 ピン……ピン……ピン……

 

 エンジンを止めて聴音状況が良くなった事で、魚雷が発信するアクティブソナーが聞こえるようになる。

 

 ピン、ピン、ピン……

 

 発令所では誰も咳一つせず、自分の心拍音すらが五月蠅く思えてくる。

 

 ピピピピピ……

 

 衝撃は無い。爆発音も無い。探信音は、徐々に小さくなっていく。

 

 エンジン音にセットされていた魚雷は目標を見失って迷走し、沈降。外れたのだ。

 

「ぶはあっ……」

 

 リケが、肺に溜まった二酸化炭素を吐き出した。これで取り敢えずは、一息……

 

「……!?」

 

 吐けなかった。

 

 ヘッドホンに手を当てる。聞きたくもない音が、また聞こえてきた。

 

「ママーーーっ!! またまた来ます!! 第三波攻撃!! 魚雷4本接近中。距離950!!」

 

 屈強な海の男も、流石に涙目になって報告する。

 

「き、き、きぃぃぃーーーーーっ!! 何てしつこいヤツ!!!!」

 

 ロックが、頭を掻き毟りながら叫んだ。

 

「泣き言なんて聞きたくないね、しっかりおし!!」

 

「マ、ママ!! この魚雷のセットは!?」

 

 直線か、それともクリムゾンオルカのエンジン音にセットされているのか。

 

「両方だ!!」

 

「両……」「方!?」

 

「ああ、4発の内、2つは直線セットでもう2つはエンジン音セット。二段構えどころか、三段構えだった訳だ!! 避けなければ直線で命中する。だが避けようと動けば、エンジン音セットの魚雷がホーミングで食い付いてくる!!」

 

 詰み、である。

 

「……この状況、昔読んだラノベを思い出すよ。滅んでしまった国に、そうとは知らずに帰ってきた男の話だね」

 

 ただしそれは普通の艦の場合。乗っているのが普通の艦長であった場合に限った話である。

 

 この艦はクリムゾンオルカ。それを駆るは最高の艦長であるビッグママ。老艦長にはまだまだ余裕があった。

 

「確かに、完璧な作戦だ。教官をやっていた頃のあたしなら、100点……いや、180点をあげても良い」

 

 この作戦を立てているのが本当にネズミかと、信じられない気分だ。人間でも、ここまで徹底的にしかも執念深く慎重に仕掛けてくるヤツはそうは居ない。

 

「だが……あたしの息子達は全員300点で、あたし自身は500点だ。相手が悪かったね。さっきラノベの話をしたが……この状況をどう打破すれば良いか? それもそのラノベに書いてあるんだよね。どんな本でも読んでおくものだよ」

 

 くっくっ、とビッグママは肩を揺らして、そして真顔に立ち戻る。

 

「ロック、3番4番魚雷発射!!」

 

「アイマム!! 魚雷発射!!」

 

 ズズン!!

 

 振動が、伝わってくる。

 

「魚雷2本航走中!! 向こうの魚雷と交差するまで、後15秒!!」

 

「よし、今だ!! 急速潜航、ベント開け!! 機関最大稼働、10秒突っ走れ!!」

 

「ベント開口アイ!! 注水開始!! 機関最大!!」

 

「交差まで……後9秒!!」

 

「ダウントリム一杯!!」

 

「アイマム!! 潜舵ダウン一杯!!」

 

 急速に艦が前傾して、全員が手近な物を掴んで体を固定する。

 

「ママ……魚雷が交差するまで、後7秒!!」

 

「ネガティブブロー、縦舵面舵一杯、艦回頭120度!!」

 

「ネガティブブロー、縦舵面舵一杯、艦回頭120度、アイ!!」

 

「5……4……3……!!」

 

「エンジンストップ!!」

 

「エンジン停止、アイ!!」

 

 よしっ、とビッグママは無意識の内に拳を握っていた。ギリギリだったが、全ての作業が間に合った。自慢のクルー達が、間に合わせてくれた。

 

「よーし、総員、ショック対応姿勢!! ちなみに、あたしはとっくに対ショックだよ!!」

 

 こんな時でも、ビッグママの余裕は健在である。クルー達はそれに奇妙な安心感を覚えつつ、襲ってくる衝撃を覚悟して全身に力を込めた。

 

 1秒後に巨大な衝撃が襲ってきて、リケやナインは缶を振られるビールやコーラの気持ちが分かった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 爆発は、晴風のブリッジからも観測できていた。

 

 巨大な水柱が上がるのが見える。誘爆も含めた都合6発分の魚雷の、一斉爆発だ。

 

<魚雷爆発!! クリムゾンオルカから発射された2発が、摩耶から発射された4発とすれ違う瞬間に自爆、全て巻き込んで誘爆させましたわ!!>

 

「やったぁ!! 凄いよママさん凄すぎるぅ!!!!」

 

 芽依が興奮して捲し立てる。トリガーハッピーの気があり、魚雷にかけては五月蠅い彼女だからこそ、今の攻防の凄さが分かる。

 

 既に先の第一波、第二波攻撃の時点で、クリムゾンオルカはスピードや進行のズレなど、魚雷のデータを全て記録していたのだ。そのデータを、既に装填済みであった自艦の魚雷に入力。向かってくる魚雷をめがけてピタリと航走させ、交差の瞬間に信管を作動させる。

 

 ……と口で言うのは簡単だが、魚雷の速度は物にもよるが50ノットは出るから、相対速度100ノット(およそ時速185.2km)で接近する中で、許容される誤差はほんの数メートル。時間にして約0.07秒である。ビッグママ達はそんな針の穴を通すような芸当を、しかも波状攻撃に晒されながらやってのけた事になる。

 

「で、でも……あんな至近距離で魚雷が爆発したんじゃ……クリムゾンオルカは大きなダメージを受けたんじゃ……」

 

 魚雷爆発の安全距離は、およそ1500から2000メートル。対してクリムゾンオルカは魚雷6本の爆発地点から、1000メートルも離れていなかった。直撃ではないから沈没は免れたにせよ、かなり大きなダメージを受けたと考えるのが自然だ。

 

「ソナー、浸水音や艦体破壊音は聞こえるか?」

 

<いえ……爆発音で不明瞭ですが、聞こえませんわ>

 

「これは……」

 

「……確か、爆発の直前にクリムゾンオルカは急速潜航したとの事だったな?」

 

 ミーナが尋ねてくる。水測室の楓から<その通りですわ>と返ってきた。

 

「……急速潜航と転舵によって爆破の圧力をかわし、同時に爆発音を利用して艦隊から姿を隠す。アドミラルオーマーなら、やるじゃろう」

 

「……そんな操艦が人間に出来ると思うのか? 潜水艦はジェットコースターじゃないんだぞ?」

 

「じゃが、至近距離での爆発による艦の損傷を避けるにはそれしかない。クリムゾンオルカが沈んでいないとすれば……可能性はそれだけじゃ」

 

 向かってくる魚雷を魚雷で迎撃・誘爆させるだけでも凄まじい練度であるが、更に神業的な操艦によって爆圧さえもやり過ごす。

 

 これがクリムゾンオルカ。これが、ビッグママ。

 

 ましろは今、自分が帽子を被っていたなら間違いなく脱いでいたろうと思った。

 

「……」

 

 一方で明乃はこうした会話に加わらず、じっと前方を睨んでいた。

 

「艦長? どうされたのですか?」

 

「シロちゃん、気付かなかった? 摩耶の動き……あれは明らかに、涼月のバッフルズに隠れていた、クリムゾンオルカを捕捉してた」

 

「……!! 確かに」

 

 涼月がクリムゾンオルカをバッフルズに釘付けにして、摩耶がそこを狙い撃つ。これは、クリムゾンオルカの位置がはっきり分かっていなければ出来ない作戦行動だった。

 

「人を操ったり、電子機器を狂わせるだけじゃない……RATtには何か……私達の知らない謎が、まだあるんだよ」

 



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VOYAGE:18 爆雷回避せよ

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

「ママ、艦内状況のチェックが終了しました。自己診断プログラムオールグリーン、各区損傷無し」

 

「よろしい」

 

 ナインからの報告に、ビッグママは大きく息を吐きながら頷く。紙一重のタイミングではあったが、魚雷6本の爆圧をやり過ごす事には成功した。潜水艦は海中に身を隠す事が出来る分、装甲は紙。直撃でなくとも安全距離より内側でまともに爆圧を受ければ、衝撃によって構造的に脆い部分から破損して浸水、即命取りだ。

 

 1000メートル以内という近距離での爆圧を受け、尚かつ無傷というのは通常では有り得ない話だ。それをやってのけたのは偏にビッグママの卓越した操艦技術と状況判断、そしてクルー達の異常とさえ言える練度の賜物であろう。

 

 だが、一息吐けたのはそこまでだった。ビッグママはすぐにちょっぴりだけ緩んでいた気持ちを張り詰め直す。

 

 考えるべき事はいくつかあるが……その中でも最も大きな物は、やはり明らかになったRATtの新たなる秘密。

 

 バッフルズの中に隠れていたクリムゾンオルカの動きを完璧に探知した謎の能力。タブレットを取り出すと、横須賀女子海洋学校に所属する学生艦全てのデータを参照する。これは晴風の保護と事態の究明依頼を受けた際、真雪から送られてきたデータだ。

 

 閲覧したデータは全て頭に叩き込んでいる筈だが……しかしビッグママとて人間である。万に一つ見落としでもあったのかと思っての行動だったが、やはりそんなものは無かった。涼月は勿論の事、武蔵も含めた他の全ての行方不明艦にも、クリムゾンオルカに搭載されているサイドソナーのような、バッフルズ内の艦を探知できるような機能・装備は搭載されていない。ついでに言うなら晴風や明石・間宮といったRATtウィルスの難を逃れた艦も同様である。

 

 ならば可能性は一つ。やはりRATtには真霜が収集した海底プラントでの実験データにも記録されていない、未知の能力が存在する。

 

 それが何なのか? 考察したい所だが現状ではあまりにもデータが不足している。

 

 敵の戦力が想定より上回っていた、予想と違った能力・装備を有していた。これは極めて深刻な事態である。事前に立てた作戦が通用しなくなるという事なのだから。

 

「……本来、こういう場合は撤退がセオリーなんだがねぇ……」

 

 苦々しげに、ビッグママは煙管を噛んだ。

 

 彼女も生徒達にはレッスン7で『予想外の事態が起きたら撤退しろ』と教えている。

 

 しかし自分自身の教えであるが、今回ばかりは従う訳には行かない。

 

 既にこの伊豆半島沖は事実上の最終防衛線。ここを抜かれたらその後には、満足な防衛戦力は存在しない。

 

 まだ戦艦形態へと変形した横須賀女子海洋学校が残ってはいるが、単艦ならば兎も角相手は艦隊。そしてRATt側は艦隊を構成する5艦の内の1艦と言わず、いよいよとなれば感染した生徒にスキッパーを操らせ、それに乗り込んだたった一匹のRATtが本土へと上陸を果たせばそれで勝利条件が達成されるのだ。防げる見込みは、甚だ少ないと言わざるを得ない。

 

 もっと分かり易く言うのなら、この海域を抜けられたら人類側の敗北がほぼ確定する。

 

 よってビッグママは何とかこの状況からRATtの秘密を解明し、切り込む対策を立てねばならなかったが……しかし状況は悠長に頭を回転させている時間など与えてくれないだろうと、いくつかのシミュレーションを並列で処理している老いた脳が訴えてくる。

 

「リケ!! 海上の様子に注意しな」

 

「は!!」

 

「恐らく……そろそろ海上では艦隊が別の動きを取り始めている筈だ。多分今頃は、このポイントを中心としてぐるりと囲むような動きを取っているだろう」

 

 

 

 

 

 

 

「む……」

 

 晴風の見張り台。

 

 マチコは、鷹の目のような視力でRATt艦隊の次なる動きを捉えていた。

 

「見張り台から艦橋へ。艦隊に動きあり。円を描くような航行を始めました!!」

 

 この報告を受け、ブリッジがざわっと五月蠅くなった。

 

「艦長、艦隊のこの動きは……」

 

「多分……戦法を変えたんだよ。シロちゃん」

 

「戦法を?」

 

 うん、と明乃が頷く。

 

「今までの攻撃は、クリムゾンオルカの位置を捕捉した上で魚雷を撃ってピンポイントで仕留めようってものだった……」

 

「はい。でも、失敗した」

 

 そこまで言って、はっとした表情になるましろ。ピンポイントで相手を刺す事に失敗したとなれば、次の一手は……!!

 

「恐らくだけど……艦隊が描く円の中のどこかにクリムゾンオルカが居るんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

「そうして、本艦の居る位置に大体の目星を付けて、闇雲に爆雷をバラ撒いて来るよ」

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 ガチンガチンと義手を動かすビッグママが、苛立たしげに言った。

 

「拙いのでは……」

 

 と、ナイン。

 

 敵は数の利を活かした作戦に出た。海中のどこかにクリムゾンオルカが必ず存在する事が分かっているのだから、その一帯全てをめくらめっぽう攻撃してくる。単艦では難しいだろうが、5艦も揃っていればそれも可能となる。

 

 装甲の薄い潜水艦にとっては、至近弾の一発でも致命傷になりかねない。投下される爆雷全てをかわしきるのは、至難の業と言える。

 

「……確かに、拙い」

 

 ビッグママの表情も流石に険しい。この状況はまさしく絶体絶命。しかし、

 

「だが、良い事もある」

 

 言葉には続きがあった。

 

「広範囲に爆雷をバラ撒いてくるって事は、正確な場所を把握する事は出来ないって事だ」

 

 居場所がハッキリ分かっているなら、続け様またピンポイントで魚雷を撃ってくるだろう。それをしてこない、出来ないという事はつまり今、RATt艦隊はクリムゾンオルカの位置を見失っているという事になる。

 

「これで一つ、分かった。RATt共の探知能力はそんなに遠距離までは届かない。これまでのデータからして周囲の状況を正確に把握できるのは……ああ、精々100メートルか200メートル程度だろうね……」

 

「うむむ……一体どのようなトリックなのかしら……」

 

 ロックが首を捻るが、答えは出ない。しかし今は、じっくり考えている時間は無さそうだった。

 

「ママ、そろそろ海中の状況がクリアーになり、ソナーの効力が戻ります……ん!!」

 

 リケが片手で音を漏らさないようヘッドホンを掴んで、もう一方の手で計器を操作する。

 

「ママ!! 海上に多数の爆雷発射音!!」

 

「来たか!!」

 

「今……本艦周囲の海面に多数の着水音!! 数は……10……20……正確には数えきれません!! 軽く数十発、広範囲に撒き散らされました!!」

 

「よし、機関最大戦速!! アップトリム最大、深度50につけな!!」

 

「アイマム、潜舵アップ一杯、機関全速!!」

 

「ママ、これは……」

 

「爆雷の爆発深度は、艦隊に被害が出ないよう100メートル以上に設定されている筈。ここは深度を浅く取って回避する……ですよね、ママ」

 

「そうだ、ナイン!!」

 

「し、しかし爆雷が深度100に達するまでおよそ30秒……それまでに深度50につけるでしょうか?」

 

 どこか不安そうに自分を振り返ったリケに、ビッグママは自信の笑みを向けた。

 

「あたしが手塩に掛けたお前等なら出来る筈だ!! この艦のポテンシャルを、限界以上に引き出すんだ!!」

 

「「「イエス、マム!!」」」

 

 機関が最大稼働し、轟音が発令所にも響いてくる。急加速とアップトリムを取った事で、背中がシートに押し付けられる。

 

「思い切り海水を吐き出せ!!」

 

 全速を出して著しくソナー効力が落ちている状況でも、水測を務めるサークル・リケの耳は何とか周囲の状況を捉えていた。ゴボゴボと、くぐもった音がすぐ近くから聞こえてくる。これは爆雷が水を掻き分ける音だ。浮上するクリムゾンオルカと、沈んでいく爆雷がすれ違っているのだ。

 

 ビッグママは懐中時計を取り出すと、秒針を睨んだ。

 

 爆雷が深度100に達するまで、残りおよそ3秒。

 

「リケ、ヘッドホン外しな!! 総員、ショック対応姿勢!!」

 

「「「とっくに対ショック!!」」」

 

 そう返してクルー達が手近な物を掴んで足を踏ん張った瞬間、爆音と共に四方八方から衝撃が襲い掛かってきた。しかも一度ではなく、何回も続け様に。

 

 空き缶の中に入れられて、その缶を蹴られたらこんな感じなのだろうかとロックは漠然と思った。シートベルトを締めていなかったら、最初の衝撃で体が投げ出されて壁にぶつかっていただろう。今も下からの爆圧で重力が相殺されて、全身が浮き上がりそうだ。シートベルトが体に食い込む。

 

 しかし何とか歯を食い縛って耐えて、5回目の衝撃をやり過ごした所で、漸く攻撃が止んだようだった。恐る恐る、リケはヘッドホンを掛け直した。

 

「ママ、深度50に達します!!」

 

「よし、アップトリムを5度に修正、浮上速度10ノットに減!!」

 

「アップトリム修正、機関減速、アイ!!」

 

「ママ、艦内のチェックが終わりました。ギリギリ何とかでしたが各区に浸水や損傷は認められません」

 

 ナインの報告を受けて、リケとロックはほっと息を吐いた。一秒でも遅れていたら大破沈没して少しもおかしくないようなギリギリのタイミングであったが、しかし彼等は無茶な注文にしっかり応えて、やり遂げたのだ。

 

「か、かわした!!」

 

「安心するのは早いよ、お前達!!」

 

 が、緩みかけた空気はビッグママの一喝によってすぐ引き締められた。

 

「今のはフェイントだ」

 

「「な……っ?」」

 

「敵は、読んでいる。爆雷による一斉攻撃を掛けられれたらあたし等は、深度を浅く取って回避する事をね。最初の魚雷攻撃と同じさ、本命は次の攻撃だ」

 

「「「あっ……」」」

 

 クルー3名の表情が、等しく何かに気付いたものになった。

 

 確かにRATt達は涼月のバッフルズにクリムゾンオルカを閉じ込めた時も、三連続かつしかも毎回違ったパターンでの魚雷攻撃を仕掛けてきた。そこまで執念深く襲ってくる相手が、今回の爆雷攻撃ではたった一度だけで諦めるとは思えない。第二波攻撃が来る可能性は高い。むしろ来る方が自然と考えるべきだ。

 

 魚雷攻撃の時は、まずは直線セットの魚雷攻撃を全速で回避させた所を、すかさずエンジン音セットの魚雷で襲ってきた。

 

 と、すれば今回は……まず爆発深度を深めにとった爆雷攻撃を仕掛け、かわす為にクリムゾンオルカに深度を浅く取らせて顔を上げた所を狙って……!!

 

「た、大変だ!! ママ、すぐに潜航しましょう!! 二次攻撃は、爆破深度を浅くセットした爆雷が来るわ!!」

 

「違う、ロック。敵はこっちがそう考える事まで……」

 

「待ってください!! ママ、ロック、静かに……!!」

 

 ビッグママが言い掛けた時、リケが声を上げて場を制した。

 

「ママ、再び海上に無数の発射音!! すぐに爆雷が来ますよ!!」

 

「「「!!」」」

 

 クルーの視線が一斉にビッグママへと集まった。指示を求めてのものだ。

 

「艦の深度このまま!! 浮上角度を3度に修正しな!!」

 

「ま、待ってママ!! この爆雷群は、浅い深度で爆発するようセットされてるわ!!」

 

「違う!! 敵の親玉、ボルジャーノンは魚雷攻撃のパターンから、こっちが第二波がどう来るかを想定する所まで読んでいる!! つまり、二次攻撃の爆発深度は浅く取っていると読んで深度を下げた所を狙い撃つという訳だ。この爆雷群も、爆発深度は深めに設定されている!!」

 

「「!!」」

 

 裏の裏を読む、というヤツだ。

 

「深度維持・浮上角修正、アイ!!」

 

 最も素早く、ナインが指示に従って動いた。

 

「し、しかし……!! もし浅めのセットだったら!?」

 

 これは当然の疑問と恐怖である。戦いは水物、絶対など存在しない。ビッグママの勘働きとて同じだ。深読みし過ぎて裏目に出るという可能性だって十分に有り得る。だが。

 

「あたしのカンを信じろ!!」

 

 その言葉で、クルー達はぐっと押し黙った。

 

 何の根拠も無いカン。しかしそれを信じたからこそ、自分達は数え切れない修羅場を潜り抜けて生きてここに居る。ならば、今回だって信じるべきだろう。皆の意見は一致した。自分達は一蓮托生。死ぬ時は全員一緒、このクリムゾンオルカを棺桶に、艦長と心中だ。

 

 着水音が聞こえる。爆雷が沈んでくる。後、ほんの数秒でクリムゾンオルカと同深度に達する。

 

 もしビッグママの読みが外れていれば、至近弾の爆圧をモロに浴びる事になる。そうなったら終わりだ。この艦も自分達もバラバラになって、魚の餌になるだろう。舵を持つナインの手は、力の入れ過ぎで白くなっていた。

 

 ……5秒経過。

 

 ……10秒経過。

 

 爆圧は……襲ってこない。

 

 爆雷群はまだ沈降を続けている。ビッグママの判断は正しかった。爆雷は深い深度で爆発するように設定されていたのだ。老艦長のカンは当たっていた。

 

「来るぞ!! 総員、ショック対応姿勢を取れ!!」

 

 言葉が終わるか終わらないかというタイミングで、再び下から突き上げるような爆圧が襲ってきた。しかし未だ、何とかであるが艦に致命的な損傷は無い。

 

 今度こそかわした。誰かがほっと息を吐きそうになった所で、再びビッグママが怒鳴った。

 

「よし、全ベント開け、急速潜航!! すぐに第三波攻撃が来る。今度こそ爆発深度を浅く取った爆雷が降ってくるよ!!」

 

 ビッグママがそう言った瞬間、カーン!! という独特の音が聞こえてきた。洋上艦からのアクティブソナーだ。いつ聞いても嫌な音だと、耳を押さえながらリケが毒突いた。

 

「来るぞ!! 爆雷回避!!」

 

 

 

 

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

 海に水柱が上がるのを見る度、晴風のクルー達は息を呑んで顔を青くしていた。

 

 RATt艦隊は円を描くように航行するエリアのどこかにクリムゾンオルカが居ると見て、飽和攻撃を行っている。ビッグママの操艦技術が神懸かっているのは今やクルーの全員が認める所であるが、あれほどの物量を連続で叩き込まれて果たして無事でいられるのだろうか。

 

「マ……ママさん、やられちゃったんじゃ……」

 

 縁起でもない事を言うなと、志摩が目で芽依を制する。しかし三度に渡って何十発という爆雷を雨の如く受けてはいくらなんでも……そう考えるのは自然な反応である。

 

「……のまさん、海上に何か浮遊物は浮いた?」

 

<……いえ、今の所は認められません。流出したオイルなども見えません>

 

 見張り台からの報告に、明乃はほっと息を吐く。いきなり胸がすっとした気分になった。円陣を取ったRATt艦隊が爆雷攻撃を始めてから、生きた心地がせずにずっと息を止めていたような気がする。

 

「どうやら……ミス・ビッグママはまだご無事のようですが……」

 

 ましろの言葉は、どうにも歯切れが悪い。言いたい事は明乃にも分かっている。

 

 クリムゾンオルカは今の所、奇跡的とも言って良い正しい選択の連続、細い道を踏み外さず辿るような操艦によって全ての攻撃をかわしているが、しかし防戦一方である事も事実。このままでは物量の差に押し切られて、いつかやられる。

 

 やはりRATtの謎。これがネックである。

 

 最高度の訓練を受けたブルーマーメイドのように艦隊を統率し、ソナーのような計器によらず周囲の状況を把握する未知の能力。これによって当初立てた作戦は全て覆されて、劣勢を強いられてしまっている。

 

「何とかして秘密を解かねば……これでは対策の立てようがないぞ」

 

 ミーナが、ぎりっと歯を噛み締める。

 

 その時だった。伝声管が鳴る。医務室からだった。

 

「みなみさん?」

 

<艦長……状況は把握している。それで……突然だが……>

 

「?」

 

<奴等の能力の秘密……私、分かったかも>

 

 

 

 

 

 

 

 現在、クリムゾンオルカは深深度を取って海底に着底しつつ停船していた。

 

 その発令所では、

 

「ママ、被爆深度はクリアしました。各区損傷無し」

 

「ああ……」

 

 ナインの報告に生返事を返しつつ、ビッグママは手にしたタブレットを睨んでいた。しかしそれも一時の事、タブレットを傍らの机に置く。

 

「ママ?」

 

「謎は解けたよ、お前達」

 

「「「では……!?」」」

 

「ああ、どうしてネズミ共があんな精緻な艦隊行動を可能とするのか、そして何故涼月がレッドオクトーバーによって無音航行していてしかもバッフルズに入っている本艦を捕捉できたのかも、全て分かった」

 

 ビッグママはタブレットをケーブルで艦のコンピューターに繋ぎ、正面の大型モニターと画面を同期させる。真霜が調べていたRATtに関する調査資料のデータが大映しになった。

 

「まずはこれまでの情報のおさらいだ。ナイン」

 

「はい……RATtウィルスに感染した者はウィルスが発する電磁波のハブとなって周囲の二次感染者の脳波に干渉、生体電流ネットワークを構築して単一の意思に基づいて行動する『一つの群体』となる。そしてより強力となった電磁波によって感染を拡大し、周囲の電子機器に異常を発生させる……ですよね、ママ」

 

「そうだ」

 

 頷くビッグママ。ここまでは既に明らかとなっている情報だ。そしてその一つの意思の根幹を成すのがRATtの上位個体であるボルジャーノンである。

 

「だが……生体電流ネットワークでやり取りされるのが上位個体からの『命令』だけだと考えるのは早計という事だろう」

 

「と、言うと?」

 

「『命令』は上から下への『一方通行』で間違いない」

 

 更に言うなら下位の個体は上位個体からの命令には逆らえない。そうでなければ命令が錯綜して、一つの意思の元に全体が行動するなど到底不可能だ。

 

「だがそれぞれのネズミ達が見聞きして、感じている『情報』は、生体電流ネットワークによって『リアルタイム』かつ『双方向』でやり取りされているんだろう」

 

「? ど、どういう事? ママ……」

 

「……つまり、仮に武蔵に乗り込んでいるRATtが晴風を見ていたとしたら、摩耶や涼月に入り込んでいるRATtも同じ光景が『見えている』という事……RATtのどれか一匹が見聞きしている全ての情報を、全てのRATtが生体電流ネットワークによって共有しているという事……ですよね、ママ」

 

「あぁ、その通りさナイン」

 

「し……しかし……トランシーバーのように声を伝えたりするぐらいなら兎も角、視覚や艦の状況を共有するなんて可能なんでしょうか?」

 

「……レッスン4だよ、リケ。先入観を捨てろ、だ」

 

 実際に、全く有り得ないという話でもない。

 

 見える、聞こえる、感じるという五感は、突き詰めれば脳内での電気信号だ。極端な話、リンゴなどどこにもないのに『目の前にリンゴがある』という情報がオープンチャンネルラジオのように電波として脳内に飛び込んできたとしたら、実際に目の前にリンゴがあるように見える筈である。

 

 ましてやRATtは電波どころか脳波を用いた生体電流で、群体を形成するのだ。ならば脳内の情報を直接やり取りする事も十分に有り得る。

 

「信じられないほど見事な艦隊行動をするのは、それが理由だ」

 

 人間ならどんなに訓練された艦隊でも、①艦隊司令官が艦隊の状況を把握する→②各艦に命令を出す→③各艦の艦長がそれを受ける→④艦長がクルーに命令を下す→⑤クルーが命令に従って艦を動かす……と、こうしたプロセスをどうしても経る訳だがRATtの場合『親玉が艦隊の状況を把握し命令内容を考えると各艦のRATtがそれを感じ取り、全ての個体に同時に命令が行き渡ってそれに従って艦を動かす』というワンアクションだ。

 

 クッションも経ないし、タイムラグも無い。トップから末端までダイレクトに意思が伝わる。成る程、異常なまでに統率された動きを見せる訳だ。

 

「それにこれは何もRATt固有の特性という訳でもない。最新の研究では、アマゾン川に住むデンキウナギは体から発生させる電気を、外敵を追い払ったり獲物を狩ったりするだけではなくオスとメスのコミュニケーションの為に使っているという報告も上がっている。電気を使う生物として、RATtにもそれが出来るんだ」

 

「……で、でもママ、そんな使い方を、ネズミ共が思い付くかしら?」

 

「……ロック、そもそも『使う』とか『思い付く』とかいう発想自体が的外れなのかも知れないよ?」

 

「はっ?」

 

「例えば暗号だが……解けない奴には何時間頭を捻っても解けないが、分かる奴にはそもそも『解読している』という意識すらなくラノベのように『読める』っていうからな……鳥が生まれながらに空を飛ぶ事を識っているように、魚が生まれながら泳ぎ方を本能に刻み込んでいるように。RATtもそうした事が『できる』んだ」

 

「じゃあ、バッフルズの中の本艦を探知したのは?」

 

「それも、生体電流ネットワークの応用だ。さっき、デンキウナギを例に挙げたが……他にもシビレエイやデンキナマズといった他の発電魚にも共通する特性として、連中は弱い電界によって定位……レーダーのように周囲の状況を把握する事が出来る。ネズミ共も、同じように十体二十体と集まれば生体電流が増幅し合って『結界』のように、微弱電流の反射で周囲の状況を把握する事が出来るんだろう」

 

 そして水中では電波が減衰するから、あまり長距離までの知覚は出来ない。これで探知範囲が狭い事にも説明が付く。

 

「……恐るべき能力ですね、ママ……」

 

「ああ、その通りだ。ナイン……」

 

 ビッグママは認めた。

 

 こんな敵とは、未だかつて戦った事がない。しかも能力を抜きにしても、執念深く慎重な攻撃を仕掛けてくる知能・指揮能力には恐るべきものがある。

 

「だが……!!」

 

 べきっ。乾いた音が鳴る。ビッグママが、手にした煙管をへし折った音だ。

 

「タネと仕掛けが分かった以上、反撃は可能になった!!」

 

 巨体が、勢い良くキャプテンシートから立ち上がる。

 

「ネズ公共……最早これまでのようには行かないよ……覚悟する事だね!!」

 



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VOYAGE:19 クリムゾンオルカVSボルジャーノン・フリート

 

「生体電流ネットワークで……思考や感覚の情報を全ての個体が共有している……だと? そんな事が……」

 

 愕然とした表情で、ましろが呟く。ちらっと、幸子や芽依を見やる。しかし彼女達も現状を判断しかねているようで、戸惑ったように互いを見詰めるだけだ。

 

<だが……それなら全てに説明が付く。ネズミがあれほど統率の取れた艦隊行動を可能とする事も、ソナーに頼らずクリムゾンオルカを捕捉した事も……>

 

「か、艦長……」

 

「……みなみさんの推理は、当たっていると思うよ」

 

 と、明乃。少なくともこれまでに得られたRATtの情報からして、そういう事が出来てもおかしくはない。

 

「……問題はそれよりも……」

 

「奴等のトリックを、どのようにして破るか、じゃな」

 

 明乃の言葉を、ミーナが引き継いだ。我が意を得たりと、頷く明乃。ましろもすぐ頭を切り換えた。確かに敵の能力の原理を考察する事も重要ではあるが、それ以上に重要なのはその能力を持った敵をどうやって攻略するかである。

 

 しかしこれはちょっと考えただけでも難しいと分かる。

 

 正攻法では、こちらの戦力は駆逐艦・晴風と潜水艦・クリムゾンオルカの2艦だけ、対してRATt艦隊は戦艦である武蔵を初めとして重巡洋艦・軽巡洋艦も含む計5艦。数の差もあって攻略は難しいだろう。

 

 どれか1艦に集中的・電撃的な攻撃を仕掛けて指揮を乱すという手もあるが、RATt側とてそれを想定しないほど愚かでもあるまい。こちらの動きに対応して即座に他の4艦が迎撃行動に移ってくるだろう。

 

「何か作戦は……」

 

「手は、あるよ」

 

 明乃が発したその言葉を聞いて、ブリッジクルーの視線が全て彼女に集中した。

 

「ほ、本当ですか、艦長!?」

 

「勝てるの、あの艦隊に!?」

 

「うん。私なら、RATtの連携を破れる。多分ママさんも同じ作戦を使うと思うよ」

 

 自信ありげに語る明乃。ざわっと、ブリッジの面々は隣に居るクルーとそれぞれ顔を見合わせた。そんな一同の疑問を代表する形で、ましろが一歩進み出た。

 

「艦長、それはどのような作戦なのですか? 説明を……」

 

「それは……」

 

 と、明乃が言い掛けたその時だった。伝声管が鳴る。水測室からだ。

 

「どうしたの、まりこうじさん!!」

 

<海中にエンジン音を確認。音紋照合、クリムゾンオルカです>

 

「「!!」」

 

 ブリッジの空気が、明らかに変わる。

 

 ビッグママが、動いた。

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

「ママ、艦のアップトリムが50度に達しました」

 

 ナインの報告を受け、ビッグママは「よし」と頷き同時に次の命令を下す。

 

「1番発射管、噴進弾発射!!」

 

 

 

 晴風の水測室。

 

「!!」

 

 楓が、反射的にヘッドホンに手を当てた。素早く音量を調節しつつ、並行してコンピューターを操作、たった今聞こえてきた音と、登録されている音のデータを参照する。

 

「海中に、魚雷発射音1!! クリムゾンオルカが魚雷を撃ちましたわ!!」

 

<<!!>>

 

 ざわっ、と発令所がざわめいたのが伝声管越しにも分かった。

 

 その間にも楓は水中聴音を続けている。しかし耳に入ってくるのはこれまで何度か聞いた魚雷の推進音とは、少し違っているように思えた。ソナーの感度を高めに調整する。違和感の正体はすぐに分かった。

 

「これは……!! 艦長、高速推進音が仰角60度にターン!! 先程の報告を訂正、魚雷ではありませんわ!!」

 

 モニターに、音紋から解析されたデータが表示される。

 

「噴進弾です!! 現在洋上へ向けて上昇中。15秒で海面に飛び出します!!」

 

 噴進弾はその名の通り、噴射機構によって空中を推進する弾頭である。これにはいくつかのタイプがある。艦から発射されて空中を推進しそのまま目標へと着弾するタイプ。空を飛んだ後に着水してその後は水中推進で目標に向かっていく噴進魚雷。そして海中の潜水艦から発射され、空中へ飛び出した後に目標へ向けて落ちてくるタイプ。

 

 今回クリムゾンオルカが使用したのは3番目のタイプである。

 

「けど……どうして一発だけしか撃たないのかな?」

 

 ブリッジにて、楓の報告を受けた芽依が首を捻りつつ呟いて……ましろの顔がさあっと蒼くなった。最悪の想像が、脳裏をよぎったからだ。

 

 一発しか撃たないという事は、一発で十分だという事。つまり……!!

 

「ま、まさかミス・ビッグママはこの噴進弾で晴風やブルマーごと艦隊を吹き飛ばすつもりでは……!! み、見張り要員はすぐに艦内に退避を……!!」

 

 条約で日本は核兵器を持てない事になっているが、しかしクリムゾンオルカは『レッドオクトーバー』や『パウラ』、更にはスーパーキャビテーション航法など、どこの国の艦にも実装されていない装備を開発し、実用化している。更に彼女達は国家公認海賊(PRIVATEER)。テロリストや犯罪者を食い物にして、上前をはねる事を生業とする者達だ。そんな彼女達なら核弾頭の一つや二つ隠し持っているのがそんなに不思議な事だとは、ましろには思えなかった。

 

 だが。

 

「大丈夫!!」

 

 泡食って伝声管に叫ぼうとしたましろを制したのは、明乃だった。その表情には確かな自信と信頼が見て取れる。

 

「シロちゃん、ママさんはそんな事は絶対にしないよ」

 

「し、しかし艦長……」

 

「海の仲間は、みんな家族。その家族を衛るって、ママさんは約束してくれたから。ママさんは、約束を破る人じゃないよ」

 

 晴風が初めてクリムゾンオルカと接触した時と同じ言葉を、知らず明乃は口にしていた。と、続くようにしてミーナが進み出る。

 

「ワシも同意見じゃ。アドミラル・オーマーは断じてそんな最低の戦術を使う方ではない。寧ろ逆。あの方は常に、最悪の状況からでも最高の戦果を叩き出されるのだ!!」

 

「う……うむ……」

 

 二人に圧されたように、ましろは伝声管の蓋を閉じた。

 

「でも……だとしたらこの噴進弾にはどんな意味が……」

 

 これは幸子の発言である。

 

 既にこれまでの経緯から、ビッグママは予想は裏切りまくるが無駄・無為・無意味な行動は一切取らない人物であるのは分かっている。ならばこの攻撃にも、絶対に何らかの意図がある筈。では、その意味は一体何か? 広範囲の大量破壊兵器でないのなら、たった一発の弾頭で何をするつもりなのか?

 

 そう思考し、議論している間にタイムリミットになった。

 

<噴進弾、海上に飛び出します!!>

 

 楓の報告と同時に、RATt艦隊と晴風の中程の位置の海面を割って、巨大な金属筒が浮上した。クリムゾンオルカから発射された噴進弾だ。まっすぐ上空へと向かっていく。ブリッジの全員が、それを見ようと窓に詰め寄った。

 

 

 

「……」

 

 見張り台で、マチコは思わず唾を呑んで取っ手をぐっと掴んだ。

 

 もしこの噴進弾に装填されているのが『核』だとすれば、艦の外に身を晒している自分が最も強く影響を受ける。恐らくその時は、この身は影すら残さず消し飛ぶだろう。

 

 だが、今からでは艦内への退避も間に合わないし、第一この距離では外に居ようが中に居ようが同じだ。一瞬で吹っ飛んで蒸発する運命に変わりはない。

 

 出来る事は一つ。艦長と、ビッグママを信じる事。それ以外には無い。

 

 取っ手を掴む手が汗ばんでいるのが分かる。

 

 噴進弾が高々度に達する。爆発まで、後数秒もない。

 

「……っ!!」

 

 思わず、目を閉じる。

 

 ドォン!!

 

 爆発音が、響いてくる。

 

 しかし覚悟していた熱風も衝撃も襲っては来なかった。

 

 数秒ほども目を閉じていたマチコは、大きく息を吐いてやっと目を開けた。

 

 明乃の判断は正しかった。クリムゾンオルカから発射されたのは通常炸薬の弾頭だった。

 

 が、だとすると分からない事が一つ。

 

「……何の為に?」

 

 核弾頭で無かったのなら、今の噴進弾は何の為に撃たれたのか。まさかハッタリでもあるまい。

 

 そう思った時、マチコは周囲にちらほら、大量の何かが舞っているのに気付いた。

 

「……雪?」

 

 最初はそう考えたがすぐに否定する。今は5月、雪の降る季節ではない。目を凝らすとそれは、細かく千切られた紙切れのようだった。

 

 すっと手を伸ばすと、紙吹雪のように舞っていたそれが幾つか腕に付着した。その小さくペラペラな物体は、銀色の光沢を持っていた。

 

 そうした所で、彼女はやっと宙を舞っているこの物体が何であるか気付いた。と、同時にビッグママの狙いをも理解した。

 

「これは……チャフ(アルミ箔)!!」

 

 

 

「チャフ……それが弾頭に仕込まれていたのか……!!」

 

「そうか……!! これならネズミの連携を崩せるかも!!」

 

 空間に散布されたチャフは電波を乱反射させる。この為、チャフが散布された一帯ではレーダーや赤外線誘導のような電子機器が一時的に無効化されてしまう。

 

 哺乳類であるRATtが群体生物のように一つの意思を共有できる原理は生体電流ネットワークによって脳波を繋いでいるからだ。つまりそれぞれの個体が感じている思考や感覚といった脳内情報をネットワークにアップロードし、無線LANに繋がれたパソコンのように全ての個体が共有しているのだ。

 

 だがそれには、電波状況が良好である事が絶対条件となる。ならば……チャフによって電波がジャミングされれば? それによって個体間の通信がままならなくなれば?

 

「のまさん、艦隊の様子はどう!?」

 

<……待ってください……ん、少しですが各艦の動きが不安定になったように思えます!! 足取りが、乱れているような……>

 

「……チャフで電波が乱反射して、生体電流ネットワークがジャミングされているのか……」

 

「今こそがチャンス!! 機関最大戦速!! 艦隊を牽制します!!」

 

<機関全速、合点でぃ!!>

 

 機関室から、麻侖の元気の良い声が返ってくる。

 

「砲雷撃戦用ーーー意!! メイちゃん、タマちゃん、配置について!!」

 

「やっと撃てるぅっ!!」「ウイ!!」

 

 水雷長と砲術長がそれぞれ持ち場に着いたのを見て、明乃は頷きを一つ。

 

「……しかし、艦長。艦隊に接近するという事は晴風もチャフの影響を受けます。艦の機能のいくつかは使えなくなりますよ?」

 

「それは大丈夫。みんな、ママさんの訓練を思い出して!!」

 

 クルー達ははっとした表情になる。

 

 ビッグママの訓練方針は「どんなに技術が発展しても艦を動かすのは結局人間だから、人間の技能・練度を高める」というものだった。実際に彼女は砲撃に於いては止まっているとは言え手動照準で射程ギリギリの標的に初弾を当てるほどの凄まじい練度を誇っていた。

 

 しかしこれは今の時代にあっては全く実用的ではない、例えるならサーベルタイガーの牙やマンモスの角のような、オーバースペックとも言うべき域にある練度である。凄い事は間違いないが、ただ凄いだけ。無駄に凄いと言い換えても良い。

 

 そこまで到達できるほどの時間と労力を掛けるなら他の訓練を行って多岐に渡る技能の習熟に努めた方があらゆる状況に対応出来て潰しが利くし、実戦的だ。何より車より速く走れる人間やモーターボートより速く泳げる人間が居ないのと同様で、どれだけ練度を高めた所で最新装備との間には埋めようのない溝が存在するのだから。

 

 だが、そんな不毛に思われた訓練が今、RATtに対抗する為の有効な手段として活かされている。短期間とは言え、ビッグママに訓練された晴風クルーはマニュアル操作であっても、十全とまでは行かないにせよ艦のパフォーマンスの低下を最小限に抑える事が出来ていた。

 

 ……まさかここまで読んでいた訳ではあるまいが、しかしビッグママのお陰で、晴風は戦える。

 

<艦長、艦隊各艦の砲塔が全てこちらを向きます!! 迎撃態勢を取っています!!>

 

「来るよ、りんちゃん!! 回避運動、しっかりね!!」

 

「ほ、ほぃぃ!!」

 

「大丈夫、今の艦隊の砲撃はそうそう当たらないよ!!」

 

 明乃が言い終わるか終わらないかという所で、無数の艦砲が火を噴いた。

 

 しかしそれらは一発も晴風には命中せずに、周囲の海に水柱を上げただけに終わった。

 

「……照準がブレてる……猿島やシュペーの時みたいに……!!」

 

 ボルジャーノンによって統率された艦隊は、武蔵のみならず摩耶や涼月までもが信じられないほど正確な砲撃による猛攻を仕掛けてきた。しかし今は、その射撃精度がまるで失われている。チャフによるジャミングによって、ボルジャーノンの指揮が各艦に届かなくなった為だ。

 

「これなら、行けるかも……!! あの嵐の海はもっともっと怖かったから……全てかわしきってみせます!!」

 

「……撃つ!!」

 

「憧れの全門一斉発射……!! 謹んで撃たせていただきます!!」

 

 鈴がめまぐるしく左右に舵を切って、全ての砲撃を確実に回避していく。

 

 並行して全ての砲、全ての魚雷。砲撃は人が居る可能性の低い区画を狙い、魚雷は信管を外しているとは言え、今の晴風が持つ最大火力が艦隊へと叩き込まれる。

 

 撃沈にこそ至らないが、艦隊の動きが鈍ったのが分かった。

 

 

 

 

 

 

 

「ママ、晴風に動きあり。艦隊に接近して砲撃や魚雷攻撃を行っています!!」

 

 リケの報告を受け、「ほう」とビッグママが頷いた。

 

「良い援護だ、ミケ。こちらの噴進魚雷の意図……しっかりと把握したようだねぇ」

 

 現在、RATt艦隊は晴風の攻撃によって足止めを受けている。これなら、狙いが付けやすい。確実に命中させられる。

 

 そしてモニターに表示される情報から判断して、チャフによる攪乱はRATtのネットワークをジャミングして艦隊の指揮を乱すのに有効である事が明らかとなった。

 

 作戦の第一段階はクリア。ここからが本命。

 

「2番発射管、魚雷発射!!」

 

「2番発射アイ!!」

 

 ズン!!

 

 鈍い音と共に振動が発令所にも伝わってきた。

 

「ママ、我が艦の魚雷が航走開始しました。雷速50ノットに達するまで30秒!!」

 

「よし、機関全速!! アタックポジションを確保する!! 魚雷発射管、全門装填急げ!!」

 

「機関最大戦速アイ!!」「魚雷全門装填了解しました!!」

 

 クルー達の即応を受け、ビッグママは頷きをもう一つした。

 

「さあ、覚悟しなよネズ公共……!! クリムゾンオルカの真の実力を、今こそ見せてやるぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 左舷50に砲撃が着弾。爆圧で、晴風が揺れる。

 

「ううっ……距離も近付いてきたし、照準も少しずつ正確になってきてる……!!」

 

<こちら機関室、艦長!! このまま全速じゃ長くは保たねぇぞ!!><油もバカ食いしてるし……!>

 

 鈴も回避航行を頑張ってくれているが、数撃ちゃ当たるという言葉もある。たとえまぐれの一発でも、装甲の薄い晴風では当たればそれでアウツ。艦の機能に支障をきたし足が止まって、後は鴨か七面鳥のように撃たれるだけだ。

 

「艦長、このままでは……!!」

 

 そろそろ引き時ではと、ましろが進言してくる。

 

 元々、晴風だけではどうにもならないのは分かっていたのだ。この作戦はクリムゾンオルカと協力して行う事を大前提としたもの。援護が来るまで……それまで5艦の猛攻に晴風が持ち堪えられるかどうかがカギだ。

 

「勝負所じゃ、狙う者より狙われる者の方が強いけぇ!!」

 

「後が無いんじゃ……!!」

 

 小芝居を繰り広げるミーナと幸子も、流石に顔が引き攣ってきた。

 

 その時だった。伝声管が、鳴る。水測室からだった。

 

<艦長、艦隊へと接近する魚雷1本!! クリムゾンオルカから発射されたものですわ!!>

 

 またしても1発。今度はどんな狙いがあるのか……?

 

「まりこうじさん、魚雷の狙いは!?」

 

<艦隊の左翼、鳥海に向かっていますわ!!>

 

 同じ情報を、鳥海も察知したのだろう。回避する為に機関を増速するが間に合わない。

 

 魚雷は猛スピードで接近。あっという間に距離がゼロになる。

 

 聞き慣れた金属がひしゃげる耳障りな音がヘッドホンに響いて、楓は思わずソナーの感度を下げた。しかしそれも一瞬の事で、すぐに気を取り直して水測を再開する。

 

<命中!! スクリューが粉々になったようです!!>

 

「……!! そうか!! これがママさんの狙い……!!」

 

 報告を受けた明乃の対応は早かった。

 

「リンちゃん、面舵一杯!! 巻き込まれないよう、一旦艦隊から距離を取るよ!!」

 

「りょ、了解……!!」

 

「艦長……何が起こっているのですか? 巻き込まれるって……」

 

「今の魚雷で、鳥海は恐らく……右舷のスクリューを破損した。つまり、左舷のスクリューは無傷。その状況で機関を回し続けたら……どうなると思う?」

 

「それは、当然……!!」

 

 ここで、ましろにも合点が行った。

 

「見張り台、艦隊の動きはどうなっている?」

 

<鳥海が大きく面舵を切って、他の艦と衝突コースに入ります!! 武蔵、摩耶、涼月、五十鈴が衝突を回避する為、それぞれ回避航行に入ります!! 陣形が……乱れます!!>

 

 スクリューを片方だけ破壊された鳥海は、生きている左舷だけが回るのでその針路は当然大きく右へと逸れる。RATt艦隊が構成する陣の左翼に配置された鳥海がそんな動きを取れば、当然陣形の真っ直中に突っ込む形となる。そしてこれも当然ながら、他の艦は衝突を防ぐ為に針路を変更して回避航行を取らざるを得なくなる。

 

 結果、艦隊陣形は大きく崩れてしまう。

 

<……!! 艦長!! また魚雷です、数1!! 鳥海へ向かいます!!>

 

 楓の報告から20秒後、再び歪な金属音が聞こえてきた。同時に、鳥海のスピードが目に見えて遅くなって、やがて停止した。

 

 クリムゾンオルカからの第二弾が鳥海の残った左舷のスクリューを破壊し、完全に推進力を奪ったのだ。

 

 しかし、この攻撃による影響は鳥海一隻から推進力を奪い、無力化するだけに留まらなかった。

 

<艦長、艦隊に動きあり!! 武蔵以外の……摩耶、涼月、五十鈴がそれぞれ全速、針路はバラバラにジグザグ航行を始めました!!>

 

<ソナーからも確認できましたわ。航跡がジャミングします!!>

 

「これは……」

 

「親玉からの指示が届かなくなったのと鳥海がやられた事で、他の3艦は次は自分がやられると恐怖に駆られたんじゃろ。足を止めていては魚雷の格好の餌食だ、とな。それで守りに入ったんじゃ」

 

 ミーナが説明する。

 

「じゃあ……ここからはママさんにも厳しいって事?」

 

 芽依の質問に、しかしミーナは勝ち誇った表情で「チッチッチッ」と指を振った。

 

「逆じゃ」

 

「は?」

 

「我がドイツ海軍20艦も、演習ではこれと全く同じシチュエーションでアドミラル・オーマーに完敗した。確かに、足を止めていれば魚雷の絶好のターゲットじゃが……各艦が連携を取らずバラバラにしかも全速で艦隊行動して海を泡立てたら、クリムゾンオルカもクリムゾンオルカから発射された魚雷も探知出来ん。この混乱を作り出すのがアドミラル・オーマーの魔術であり、海中の状況がまるで分からない今の状況こそがまさしくクリムゾンオルカのホームグラウンドなのじゃ」

 

 その時再び、伝声管が鳴る。水測室からだ。

 

<魚雷4本、探知しました!! 艦隊へと向かっていきますわ!!>

 

<見張り台からも確認、雷跡4!!>

 

 4本の魚雷は途中から二手に分かれ、2本が摩耶に、2本が涼月にそれぞれ向かっていく。

 

 両艦共に全速で艦を左右に振り、めくらめっぽう砲撃を行って迎撃しようとするが、悲しいかなボルジャーノンの制御下に無い今のRATt達では精度の高い攻撃など行う事は出来ず、4本の魚雷が4つのスクリューに次々命中。2艦共に航行不能となる。

 

 残ったのは武蔵と五十鈴のみ。

 

 そしてターゲットとなったのは、動いている五十鈴の方だった。

 

<また魚雷ですわ!! 2本、五十鈴へと向かいます!!>

 

 向かってくる雷跡は、五十鈴からも見えているのだろう。回避する為に面舵を切る。これで命中コースから艦体が外れた。

 

 かに見えた。

 

 魚雷が、ターンして五十鈴に向かっていく。五十鈴は今度は思い切り取舵を切ったが、しかし魚雷は再び今度は逆方向にターンして、もう回避行動は間に合わなかった。

 

 スクリューが吹っ飛んで、五十鈴も動きが止まった。

 

 これで、RATt艦隊は親玉であるボルジャーノンが乗り込んでいる武蔵を除いて、全艦が航行不能・無力化された事になる。しかも乗員への被害はほぼ皆無の上で、だ。

 

 しかも要した時間は最初に鳥海がやられてから、5分とは掛かっていない。

 

 これがクリムゾンオルカ、ビッグママの実力かと、明乃達は敬意を通り越して感動すら覚えていた。

 

「そ、それにしてもあれだけ海が掻き混ぜられているのによくあそこまで魚雷が当たるよね……!!」

 

 芽依の声にも、魚雷撃ちとして畏敬の響きがあった。普通なら魚雷のセンサーが狂って迷走、とてもターゲットには当たらないだろうに。

 

「伊201の時と同じだね。エンジン音とかキャビテーションセットじゃなくて、どうすれば敵艦がどう動くかを完璧に読み切って、魚雷にあらかじめ決まった進路をプログラムしてるんだよ」

 

 と、明乃。こればかりは理屈やマニュアルではどうにもならない、熟練の医師が患者を一瞥しただけで何となくどこが悪いかを直感的に察するような、武道の達人が歩き方だけでその人間のおおよその実力を計れるような、長年艦に乗ってきた艦長だけに備わった経験則なのだろう。

 

 ともあれ、残るは武蔵1艦のみ。その武蔵は、今の混乱の中にあって動かないでいる事でクリムゾンオルカからの攻撃をやり過ごしたが……次はどう出るか?

 

 緊張と共に明乃達が注視していると、動きがあった。

 

 武蔵が両舷全速で前進を開始。針路は、まっすぐ本土を目指している。だが、晴風のクルー達は慌てなかった。むしろ「やった」という雰囲気が強くなった。

 

「焦ったな!! 音を立てて動いたら、ママさんの餌食だよ!!」

 

 と、芽依。彼女だけではなく、他のクルー達もすぐにクリムゾンオルカから魚雷が飛んできて武蔵のスクリューを破壊する未来が映像まで頭の中に浮かんでいたが……

 

 30秒、1分、2分……

 

 時間が過ぎても、魚雷は来なかった。

 

「か、艦長……ママさん、どうしたのかな……?」

 

 明乃は暫く考え込んでいたが……ややあって一つの可能性に思い至った。

 

「ま、まさか……」

 

 

 

 

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

「ママ、摩耶、鳥海、涼月、五十鈴はそれぞれ航行不能状態になりました。武蔵は全速で前進を開始、本土へ向かっています」

 

「ほぉ……」

 

 呟くビッグママは、少し意外そうな声を出した。

 

 てっきり、動いて音を出して魚雷の的になる事を嫌い、その場でジッと堪えて耳を澄まし、こちらの居場所を特定する事を優先すると思っていたのに。

 

 今の武蔵の動きは、もう多少の被弾や損害は覚悟の上。その巨体を活かして、強引に本土へ乗り込もうというものだ。

 

 しかしこれは、実はこの状況ではRATtにとっては最適解であった。

 

「あたしの採点では他の艦が全速でジグザグ航行を開始した時点で、それに乗らず動かなかった時点で190点を付けても良かったが……ここで敢えて動くとは。どうやら、感付かれたか。理詰めだけでは……ただ頭が回るだけではこうは行かない。良い読みだ、カンも冴えてる。210点を付けてやろうじゃないか、ネズ公」

 

 クリムゾンオルカは武蔵を撃たないのではない、撃てないのだ。

 

「ロック、通常魚雷の残存本数を確認しな」

 

「はい、ママ……残り、1発です」

 



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VOYAGE:20 帰ってきた女、ビッグママの艦隊

 

 RATtに操られた学生艦は、残るは武蔵一隻。

 

 しかしクリムゾンオルカの方も、残された攻撃力は魚雷が一本のみ。

 

 他の艦に行ったようにスクリューを破壊して航行能力を奪う戦法を実行するには、最低でも2本の魚雷が必要となる。かと言って通常炸薬を装填した魚雷を使おうにも、駆逐艦ならばいざ知らず武蔵ほどの大型艦では一発程度では大きなダメージとはならないだろう。

 

 となれば晴風に期待したい所ではあるが、単純な火力勝負では武蔵と晴風とでは話にならない。如何に広域に散布されたチャフによって艦砲射撃の精度が低下していると言っても『下手な鉄砲数打ちゃ当たる』の言葉もある。当たるのが十発中の一発でも、その一発が装甲の薄い晴風には致命的である。

 

 よってこれ以降の作戦は晴風メインに切り替えるとしても、援護は絶対に必要となる。しかし援護しようにも、クリムゾンオルカには魚雷が一発のみ。

 

 詰み、と言える。

 

「どうしますか、ママ?」

 

「そうだねぇ……」

 

 リケの言葉を受け、ビッグママはたぷたぷしたお腹を揉みほぐした。

 

『残念ながら残った攻撃力では、武蔵を完全に止める事は不可能。ここは武蔵を完全に止める事は諦めて、足止めや時間稼ぎに作戦を切り替えるべきか……?』

 

「ママ、ここは最後の一発で武蔵のスクリューの片方を破壊して航行能力を低下させるべきかと」

 

 ナインの意見も尤もだと、頷くビッグママ。自分の考えとも一致している。

 

 少なくとも武蔵以外の学生艦を行動不能に陥れる事は出来たし、十分な時間稼ぎは果たした。

 

 この先の海域には真雪校長が動かす戦艦形態へとシフトした横須賀女子海洋学校が控えている。

 

 相手が艦隊であれば抜かれる危険性も高いが、武蔵一隻ならば止められる目は十分ある。ならばここは武蔵のパフォーマンスを低下させて、真雪の負担を軽くしておくのが現実的な対応であろう。最善が実現不可能であれば、次善に切り替える事こそが結局は最善の一手であろう。

 

「ふむ……」

 

 ビッグママは一度、懐から懐中時計を取り出して時間を確認する。

 

「……一応手は打っていたが……間に合わなかったかねぇ……とは言え、来るかどうか不確かなものを当てにする訳にも行かないか」

 

 ふう、と溜息を一つ。その後でぱちんと懐中時計の蓋を閉じた。

 

「よし。ロック、最後の魚雷を1番発射管に装填しな。狙いは武蔵の左舷スクリューだ。真っ直ぐ走れなくしてやる」

 

「了解、ママ」

 

 艦長の指示を受け、ロックは滑らかな手付きで計器を操作していく。それと連動して、機械音が艦の前部から伝わってくる。

 

 クリムゾンオルカの魚雷装填は油圧を利用したオートマチックによって行われる。そのスピードは他のどんな艦と比べても10秒は早いだろう。ほどなくして発射準備が完了した。

 

「ママ、魚雷の発射準備完了。データのインプットも終了しています」

 

「よし、発っ……」

 

「待って下さい、ママ!!」

 

 しかし発射命令を出そうとした一秒前に、リケの報告が入った。

 

「どうした!?」

 

「ソナー、後方に感あり!! 艦数6!! 艦隊が接近中です!!」

 

「ママ、これは……」

 

 振り返ったロックの視線を受けてビッグママはにんまりと、悪戯が上手く行った子供のような笑みを見せた。

 

「……どうやら、際どかったが間に合ったようだね。よし、浮上開始!! この戦い、これで勝った!!」

 

 

 

 同じものは、晴風のソナーでも捕捉されていた。

 

<後方から接近するエンジン音、数は6……速度や陣形はバラバラですが……洋上艦・潜水艦が接近中です!!>

 

 水測室の楓に続き、見張り台のマチコからも報告が入ってくる。

 

<まず……一番先頭を航行しているのはフランスの軽巡洋艦、エミール・ベルタンです!!>

 

「エミール・ベルタン!!」

 

「フランスの学生艦です!!」

 

 幸子がタブレットのデータを参照し、報告してくる。

 

<続いて……ロシア国籍グネフヌイ級駆逐艦・リョーフキイ!! アメリカのバージニア級戦艦・ニュージャージー!! 中国の軽巡洋艦・逸仙!! イギリス、アドミラルティⅤ級・ヴァンパイアも!! それに、東舞校の潜水艦、伊201も深度20を航行しつつ接近中です!!>

 

「全て……各国のブルーマーメイド・ホワイトドルフィン候補生の為に使われている学生艦です!!」

 

「し、しかし……どうして世界各国の学生艦がこのタイミングで集まってくるんだ?」

 

 ましろの疑問も当然だが……それにはミーナが答えた。

 

「それは簡単じゃ。誰かが、各国のブルーマーメイド・ホワイトドルフィンの養成校に連絡して援軍を要請したのじゃろ」

 

「援軍要請って誰が……あ!!」

 

 口にしかけた疑問を、しかし言い終える前にましろは理解する。

 

 世界各国のブルーマーメイド・ホワイトドルフィンに連絡を取って動かせるほどの人物などそうはいない。

 

 ましてこのRATt事件に関与している中でそのようなパワーを持った大物など、一人しか居ない。そう言えば彼女は、世界中に教え子が居ると言っていた。

 

「ママさんが……」

 

「だとすれば……」

 

 そう、だとすれば。この艦隊がビッグママが呼び寄せたものだとすれば、その目的は決まっている。

 

 エミール・ベルタン、リョーフキイの艦砲が動き、発砲。その先にあったのは……武蔵。直撃弾は無いが、周囲に水柱が上がる。

 

 これではっきりした。この場に集結した世界各国の学生艦は、RATt艦隊の上陸阻止及び晴風・クリムゾンオルカの援護の為に駆け付けたのだと。

 

「しかし……RATt艦隊の目的地が日本だと分かってから連絡を取っていたのでは間に合わなかった筈……つまり、アドミラル・オーマーはかなり前の段階からこの援軍を手配されていたのじゃ」

 

「そこまで読んでいたなんて……やっぱりママさんは凄いね……」

 

 畏敬の念を込めた声で、明乃が呟く。そして表情には隠し切れない喜びの色が滲み浮かんできていた。

 

 武蔵の上陸阻止は、晴風とクリムゾンオルカだけでは難しいと思っていたが……しかしこれなら、いける!!

 

 明乃は興奮気味に、伝声管の蓋を開けた。

 

「のまさん!! 各国の学生艦に連絡を!! これより晴風は武蔵に乗り込みます!! 援護求むと!!」

 

<了解!!>

 

 見張り台から気持ちの良い返事が返ってきた。

 

 確かに、これで戦力比は作戦開始当初2対5だったのが8対1になった。掛け値無しにこちらに分があると見て良いが、ましろの表情は些か暗い。

 

「どうしたの、シロちゃん?」

 

「いえ……確かに戦力は整いましたが……しかし、集まった学生艦の足並みが揃うかどうか……」

 

 「あ」と、幸子が声を上げる。今までは援軍が来てくれた高揚と歓喜で気付かなかったが確かにそれは問題点である。

 

 世界各国から駆け付けてきた学生艦は、速度や陣形がバラバラである事から分かるように所属する国も命令系統も違う、悪い言い方をすれば烏合の衆である。6艦全ての足並みが揃わなければ、持ち得る能力を十全に発揮する事は出来ない。

 

 全艦がうまく連携した艦隊行動を取ってくれるのなら、確実に武蔵を足止め出来るだろうが……

 

 その時、再び見張り台から報告が入った。

 

<……待って下さい、学生艦の艦隊中央に海面隆起……クリムゾンオルカが浮上します!!>

 

「クリムゾンオルカ……ミス・ビッグママが……?」

 

 ましろが、信じられないとでも言いたげな表情になった。

 

 潜水艦は本来、姿を隠して行動する事が鉄則。作戦行動中にも関わらず浮上航行を行うなどそのセオリーから逸脱した愚行と言える。

 

 無論、それが分からないビッグママでもあるまい。と、すればこの行動にも何らかの意図があっての事なのだろう。

 

 ならば、その意図とは?

 

「決まってるよ、シロちゃん」

 

 

 

 同時刻、同じ状況が本土にある海洋安全整備局・安全監督室、本作戦の総指揮を執る真霜からもモニター出来ていた。

 

 そして遠く離れた場所に居る妹のそれと同じ懸念を、彼女も抱いていた。

 

『かなり早期の段階でこの事態までも想定し、援軍を手配していた手腕は見事の一言に尽きます。流石はおばさま……でも……』

 

 各国の学生艦が、ちゃんとした連携行動を取れるのだろうかと。

 

 その時、部下から報告が入る。

 

「近海を監視中の飛行船のカメラから映像が入りました!! モニターに映します!!」

 

 艦の現在位置を示す輝点と地形を映し出していたモニターの一部を切り取って、リアルタイム映像が表示される。

 

 武蔵へ向けて接近中の各国の学生艦、そしてその艦隊中央を航行するクリムゾンオルカ。

 

「……あれは……!!」

 

 真霜が、くわっと目を見開いた。

 

「画像、クリムゾンオルカの……艦橋部分を最大に拡大して!!」

 

「はい!!」

 

 オペレーターが返事と同時にキーボードを叩き、5秒と経たずにクリムゾンオルカの艦橋部分がアップになる。しかしまだ解像度の荒いドット絵のような画像である。だがそれも束の間、数秒と経たずに鮮明な映像へと差し替わっていく。

 

 そうしてクリムゾンオルカのブリッジが今、どうなっているのか。それがはっきり分かるようになった。

 

「あれは、やっぱり……!!」

 

 我知らず、真霜はぐっと拳を握っていた。

 

「帰ってきた……」

 

「は?」

 

 隣に座る部下は、まだ状況を把握出来ていないようだ。そんな彼女に、真霜はにいっと笑みを見せる。

 

「ブルーマーメイドの百年に渡る歴史の中で、たった一人だけ特例として特等監察官の地位を与えられた人……現役の船乗りの中で、ブルーマーメイド初代艦長のクルーであった最後の一人。潮崎四海……」

 

 今の浮上航行するクリムゾンオルカの艦橋には、ビッグママが姿を見せていた。

 

 その手には、旗が握られていた。

 

 ブルーマーメイドの紋章が描かれた旗が。

 

「最高のブルーマーメイドが、帰ってきた」

 

 

 

<艦長、各国連合艦隊に動きあり……速度が揃い、陣形が整い始めました……!!>

 

 晴風では、マチコからの報告が入っていた。

 

「艦長、これは……」

 

「うん!!」

 

 ましろ対し、明乃も頷く。

 

「ママさんが、やってくれたんだよ!!」

 

 

 

 クリムゾンオルカの艦橋。

 

 潮風を肌に感じつつ、ブルーマーメイドの旗を手にしたビッグママは周囲を航行中の各国学生艦をそれぞれ見渡していく。

 

「陸は海で……海は陸で繋がっている……みんな……よくぞ……よくぞ来てくれた……!!」

 

 これは先輩のブルーマーメイドとして、また教官として、彼女が後輩やブルーマーメイド・ホワイトドルフィンの候補生に教えていた事でもある。

 

 人生の大半を、海で生きてきた自分が至った境地。

 

 海は一つ、そして殆どの国へ繋がっている。だから一人の危機を万人の危機と捉え、その助けとなるべく力を尽くす事。遠い国の出来事を対岸の火事と思わず、自分に出来る事を全うする事。そうした”海からの視座”を持つ事が大切だと説いてきた。

 

 指導を受けた者の何人かは、今では真雪のように後進を指導する立場や各国のブルーマーメイド・ホワイトドルフィンで輝かしい地位に就いている。

 

 自分一人の力では、ここまでの戦力を集める事は出来なかったろう。これは彼等が自分の教えを忘れず、力を貸してくれたからこそ実現出来た奇跡と言って良い。

 

 じわっと目に浮かんできた涙を、老艦長はぐっと拭い去った。

 

<ママ、集結した全艦から発光信号による返信を確認。各艦共に、本艦の指揮下に入る事を同意しました!!>

 

「よーし、分かった。これより本艦は、6ヶ国学生艦連合艦隊の旗艦として、行動を開始する!!」

 

 風向きが変わって旗が翻り、ブルーマーメイドの紋章がはっきりと見えるようになった。

 

 今のクリムゾンオルカは単なる一潜水艦ではない。現役最古参にして最強のブルーマーメイドが指揮を執る、ホワイトドルフィン・ブルーマーメイドや国の垣根をも越えた、連合艦隊のフラッグシップであった。

 

「ロック、晴風に通信を。ココちゃんに言って、この一帯の海流データを送るように。あの子なら、色んなデータを収集してるだろ。あたしの手元にも一時間前のデータはあるが、最新情報を今一度知りたい」

 

<了解!!>

 

 ロックの返事から数分経って、ビッグママが手にするタブレット端末にメールが送られてきた。晴風の、幸子からだ。

 

 添付されていたファイルを開くと、この伊豆半島沖一帯の海図に、無数の矢印が描かれた画像が表示された。矢印は海流の流れを表示していて、しかも赤や青に色分けされている。これはそれぞれの海流の深度を表していた。

 

 ビッグママは「うむ」と頷く。

 

「良い仕事するねぇ。流石はココちゃんだ」

 

 晴風は入試で最底辺の成績を取った生徒が集められた艦だと芽依は言っていたが、やはり実際には一芸に秀でるなど尖った能力を持った子達を集めた特殊枠だったのだろう。これほどのデータを収集するだけではなく短時間でしかも分かり易く整理するなど、簡単に出来る事ではない。

 

 これで、作戦の成功率は更に上がった。

 

「よし!! エミール・ベルタンとニュージャージーは右、リョーフキイ、逸仙、ヴァンパイアは左翼へ!! 両側から武蔵に砲撃を浴びせ、針路3-1-0へ追い立てろ!! 伊201はこれより当艦が指定するポジションへ移動し、待機するよう発光信号で伝えるんだ!!」

 

<了解、ママ!!>

 

 クリムゾンオルカの潜望鏡のライトが点滅し、ビッグママの命令内容を各艦へと伝えていく。

 

 6隻の学生艦はそれぞれその指示通りに動き、5艦は左右へ別れる。伊201も露頂させていた潜望鏡を収納して、姿を消す。

 

 後方には旗艦であるクリムゾンオルカただ一隻が残される形となった。

 

 ビッグママは晴風に視線をやる。マチコが手旗信号で「援護求む」と連絡してきていた。

 

「ああ、了解だ。晴風に返信を。これより各艦で武蔵の動きを止める。晴風はそこを狙って武蔵に殴り込みを掛けろとね!!」

 

 

 

<……との、事です。艦長>

 

「了解、と返信して」

 

 マチコからの報告を受け、明乃はそう指示するとブリッジの全員へと向き直った。そして、マイクを取って艦全体に放送を掛ける。

 

「みんな、これから最も危険な操艦に入るよ!! ママさんがやってくれると言ったからには、必ず武蔵の足を止めてくれる!! 晴風は武蔵の砲撃を回避出来るギリギリの距離を保ちつつ、隙を見付けたらすかさず接近して接舷します!! 全員にこの航海の中で最高の能力の発揮を期待します!!」

 

「うむ!!」「了解!!」

 

「前進一杯!!」

 

<前進一杯でぃ!!>

 

 晴風も高速艦の性能を遺憾なく発揮し、こちらは武蔵のほぼ真後ろから接近を開始していく。

 

 先程とは違って、今は左右に5艦が展開しているので武蔵の標的もバラけていて、砲火も先程より弱まったのがはっきりと分かる。

 

「こ、これなら行けるかも……何とか、避けられます!!」

 

 涙を堪えつつも、鈴はしっかり舵を握って晴風の動きを制御していく。

 

<!! 各国の学生艦が、噴進弾を撃ちました!! 武蔵へと向かっていきます!!>

 

「!!」

 

 マチコの報告を受けた明乃が窓にへばりつくようにして見ると、確かに各艦から噴煙の軌跡が武蔵へ向けて飛んでいくのが見えた。

 

 それらの噴進弾は武蔵めがけて落ちていくのかと思われたが、実際には違っていた。

 

 全弾が武蔵のほぼ真上の空中へと達した瞬間、自爆。

 

 空間に、銀色に輝く紙片が撒き散らされる。

 

 先程のクリムゾンオルカの攻撃と同じ、チャフだ。

 

 チャフ(アルミ箔)が撒き散らされた空間内では電波が乱反射する。そしてRATtがウィルスに感染した生物に命令を下せる原理は、生体電流を応用した送受信によるもの。故に電波状況をジャミングする事で、RATt達及びその親玉であるボルジャーノンが生徒達を操る精度を低下させる事が出来るのだ。

 

 そしてチャフが散布された空間内へ、学生艦は次々に突入していく。

 

 この時代の艦船は高度に自動化されて最小限の人数でも動かせるようになっているので、それらの機能が麻痺してしまうと途端に艦のパフォーマンスが低下してしまう。

 

 特に武蔵の場合、当然ながらRATtに艦の計器は直接操作出来ないので生徒を操って艦の計器を操作させる訳だが、現在はチャフの大量散布によって『生徒を操る精度』と『計器の精度』、その双方が大幅に低下してしまっている。武蔵救出作戦の際、東舞校の教員艦に初弾を命中させた恐るべき射撃精度は見る影もない。

 

 闇雲に発射された砲弾は、全てまるで狙いのズレた海面に水柱を立てるだけに終わった。

 

 チャフによる影響は、当然ながら武蔵以外の艦も受ける。

 

 だが各国学生艦は、何の支障も無いかのように至近弾を連発して武蔵を追い立てている。

 

「これは……」

 

「恐らく、この場に集まった全ての艦には、アドミラル・オーマーから指導されたクルー達が乗っているのじゃろう」

 

 と、ミーナ。「我がシュペーのクルーも、正常であればあれぐらいは手動で出来るぞ」と付け加えた。

 

「確かに……今のあたし達でもあそこまでとは行かないにせよ、近いレベルの芸当は出来るからね」「Oui」

 

 と、これは芽依と志摩のコメントである。実際に先程まで晴風はチャフの影響下で、見事な操艦を見せている。各国の学生艦は短期コースの晴風クルーとは異なり完全な形でビッグママからの教導を修了しているので、チャフなど関係無いとばかりに艦を動かせているのだろう。

 

 左右両方からの砲撃を受け、何発かは直撃弾もあるがしかし弾頭が外されている事もあって武蔵は未だに健在。それどころかスピードを更に上げている。これはもう、多少の損害はやむを得ないから一刻も早く本土へ到着して勝利条件を達成してしまおうという動きだ。

 

 これは、拙いかも知れない。そう考えたましろが明乃に詰め寄った。

 

「艦長、どうしますか? 武蔵の勢いは止まりません。このままでは致命打が武蔵に入るよりも、この海域を抜けられる方が早いかも……今からでも接舷しますか?」

 

「いや……」

 

 ましろの意見を受け、明乃はこの時は明確に却下する。

 

「予定変更の作戦じゃ、武蔵を止める事は出来ない。ママさんは、ママさんなら必ずやってくれる。それを信じて!!」

 

「艦長……はい、分かりました」

 

 ましろもまだ完全に納得した訳ではないが、しかし今までのビッグママの実績に裏付けられた信頼が、明乃の意見を認めさせる。

 

「……頼みますよ、ミス・ビッグママ」

 

 

 

 クリムゾンオルカの艦橋で、ビッグママは双眼鏡を下ろした。

 

「やはり武蔵の針路は3-1-0。そう、本土へ上陸しようとすればそれが最短コースだからね」

 

 にたり。意地悪そうに、口角を上げる。

 

 左右両側から砲撃を加える事で、武蔵がそのコースを選択するように上手く誘導した。武蔵を操るボルジャーノンは状況が不利と見て勝利条件を達成する為、本土までの最短距離を自分が選択したかのように思っている事であろう。

 

 しかし実際には、ビッグママが指揮する学生艦艦隊の攻撃によって、それ以外の選択肢を封じられてそのコースへと誘導されていたのだ。

 

「そして……」

 

 ビッグママは今一度、手元のタブレットに視線を落とす。

 

 幸子から送られてきたデータによれば、海流は北西から南東へ向けて3ノット。

 

 これで作戦の達成条件は、全て整った。

 

「ロック、もう少ししたら武蔵の動きが不安定になる筈だ!! そこが、狙い時だ。一瞬も気を抜くな!!」

 

<イエス・マム!!>

 

 各国学生艦の砲撃を受けながらも武蔵は未だ航行を続けている。

 

 ビッグママは艦橋に据え付けられたヘッドホンを取ると、艦内のソナーと繋いだ。これでリケが聞いているのと同じ音が、彼女にも聞こえるようになる。

 

 爆発音や、各艦のエンジン音、破泡音と、様々な音が混然となって耳に入ってきた。

 

「そろそろか……」

 

 ビッグママがそう呟いた、まさにその瞬間だった。

 

 ガガガガガガガッ!!!!

 

 けたたましい金属音が響いてきて、思わずヘッドホンを放り投げた。

 

<マ、ママ!! 今のは……!!>

 

 リケも同じ音を聞いたのだろう。悲鳴じみた声が上がってきた。

 

 これを受けてビッグママは、見事なドヤ顔を見せる。

 

「これは名付けて、サソリの尾作戦だよ」

 

「サソリの尾……?」

 

「そう、洋上艦5艦による左右からの砲撃は、武蔵の針路を限定させてこちらの想定通りのコースを選択させる狙いもあったが、それ以上にネズ公共の意識を洋上へと向けさせ、海中をノーマークにさせる事にあったのさ」

 

 洋上には5艦が展開して晴風が後方から追尾、しかも左右の艦は絶え間なく砲撃を繰り出してきている状況。更に武蔵は一刻も早く本土へ上陸すべくエンジンを全開にしている。確かにこの状況では海中にまで注意が及ばなくても仕方無いし、仮に海中の動きに警戒していたとしても、海が掻き混ぜられているのでソナーが役に立たず、満足な情報は得られなかっただろう。

 

 ビッグママはその間隙を縫うようにして、伊201を動かしていたのだ。

 

 出していた指令の内容は、こうだ。

 

『海上で砲撃が始まったら全速力で指定されたポイントへ急行し、到着後はエンジンを切って無音航行、ワイヤーアンテナを伸ばして潮流にたなびかせた状態で待機せよ』

 

 武蔵の針路は3-1-0つまり北西。そして潮流は北西から南東へ3ノット、伊201はワイヤーアンテナをその海流に乗せて待機している。

 

 ならば、その状態で伊201の上を武蔵が通過するとどうなるか?

 

<当然……回転するスクリューがワイヤーを吸い込んで、絡みついて……そうか、ママはこれを狙っていたのですね!!>

 

「ああ、そういうこった。まぁ、実戦では中々ここまで綺麗には決まらないが今回はこちらの数的有利や相手の勝利条件がはっきり分かっていたから、上手くこちらの狙い通りに誘導する事が出来た」

 

 策は、見事に当たった。

 

 今の伊201の働きで、武蔵は左右どちらかのスクリューにワイヤーが絡みついて動かなくなった筈だ。問題は、どちらのスクリューが機能を失ったかだが……

 

 じっ、と隻眼で彼方の武蔵を睨むビッグママ。

 

 巨艦の針路が、右へぶれた。

 

 それはほんの僅かな時間、すぐに軌道の修正が行われたが、ビッグママは見逃さなかった。

 

 針路が右に逸れるという事は、右舷のスクリューが作動していないという事だ。

 

 ならば。

 

「ロック、狙いは武蔵の左舷スクリューだ!! 魚雷発射!!」

 

<イエス、マム!!>

 

 ズン!!

 

 既に装填済みだった魚雷が発射された振動が、艦橋へと伝わってきてビッグママのたっぷりついた腹の肉をぶるぶる揺らす。

 

 最後の魚雷が航跡を引き、真っ直ぐに武蔵へと向かっていく。

 

「……命中だ。これで、あたしらの役目は終わり。後は任せるよ、ミケ」

 

 

 

<聞こえましたわ!! クリムゾンオルカから魚雷発射音1!! 武蔵へ向かっていきます!!>

 

 晴風の艦橋。

 

 楓の報告が、伝声管から響いてくる。

 

「ママさんが魚雷を撃ったあっ!!」

 

「艦長、これは……!!」

 

「うん、恐らくこれが……クリムゾンオルカに残された魚雷の、最後の一本」

 

 これまでの状況証拠から、明乃とましろはクリムゾンオルカの残存戦力をしっかりと把握する事が出来ていた。

 

「外したらもう一度は無いという事か……!!」

 

「大丈夫だよ!!」

 

 ましろの危惧を受け、しかしこれに明るい声で返したのは芽依であった。

 

「ママさんなら絶対に当てるよ!! 外す訳ないって!!」

 

「……まぁ、それには同意見じゃな。アドミラル・オーマーの射撃は常に一発必中で百発百中。必ず、当たる筈じゃ」

 

 と、ミーナ。

 

 そうしている間にも、たった一本の魚雷は海に航跡を引いて、武蔵へ向かう軌道を取っている。

 

「距離0まで……後……5秒!!」

 

 ミーナが、今し方自信たっぷりに言ったもののやはり実際に当たるかどうかの瀬戸際となると緊張してきてごくりと唾を呑んだ。

 

「4」

 

 志摩が、祈るように両手を合わせた。

 

「3」

 

 ましろは、魚雷の航跡と武蔵の動きを双眼鏡で追い続ける。

 

「2」

 

 明乃が、懐中時計をぐっと握り締めた。

 

「当たれ!!」

 

 芽依が叫んで、ワンテンポ遅れて武蔵の艦尾に一本の水柱が立つ。

 

 同時に、水測室・楓のヘッドホンには金属がひしゃげるようなけたたましい音が聞こえてきた。これは今や聞き慣れた音だった。

 

<命中!! スクリューが粉々に砕けたようですわ!!>

 

 わっ、と晴風中に歓声が上がった。

 

 明乃達も、流石にワイヤーアンテナが絡みついた事は分かっていないが、武蔵のスクリューに何かが起こった事は楓が音を拾って把握している。そして今、もう一方のスクリューが魚雷攻撃によって吹っ飛んだ。

 

 ならば必然……!!

 

<艦長、武蔵の動きが……止まりますわ!! 速力が落ちていきます!!>

 

「うん、こちらからも見えてるよ!!」

 

 武蔵の航行スピードが目に見えて低下していき、やがては完全に停止した。

 

 武蔵の動きは止まった。ビッグママの宣言は、確かに履行されたのだ。

 

「艦長!!」

 

「うん、今がチャンス!! 晴風はこれより武蔵に乗り込みます!! 救出部隊、突入準備を!!」

 

「ね、ね!! ママさんなら当てるって言ったでしょ!? あは……はははっ!!」

 

 興奮してテンションがおかしな事になっている芽依の肩に、志摩がポンと手を当てる。

 

 ビッグママが率いるクリムゾンオルカ。

 

 世界各国のブルーマーメイド・ホワイトドルフィン候補生。

 

 RATtの情報を調べた宗谷真霜一等監察官。

 

 防衛線を敷き、陽動部隊として動いた比叡・磯風を相手してくれているブルーマーメイド・ホワイトドルフィンの面々、東舞校の永瀬校長。

 

 晴風を信頼してくれた真雪校長。

 

 全ての人の努力があったから、ここまで来れた。

 

 皆の希望と、世界の命運が今、自分達に託されている。

 

 その重い事実を認識した明乃は、すうっと深呼吸を一つ。そして強い瞳で武蔵を睨み据える。

 

「さぁ……行こう、みんな!!」

 

<<<「「「了解!!!!」」」>>>

 



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VOYAGE:21 武蔵救出作戦 Ⅱ

 

「急げ!! 全てのデータを消すんだ!! 証拠は何も残すな!!」

 

 海洋安全整備局、海洋生物の研究部門。

 

 その一室では白衣姿で研究者然とした男達が慌ただしく駆け回っていた。

 

 ある者はキーボードを物凄い勢いで叩いてデータの削除に躍起になっていて、またある者は資料を一杯に詰め込んだ段ボール箱を前が見えなくなるほど抱えて右往左往していた。

 

 一団の長と見られる恰幅の良い中年男は、遅々として進まない作業に苛立ってガリッと爪を噛んだ。

 

「まさかこんな事になるとは……」

 

 横女の学生艦に入り込んだRATtの被害は、フィリピン方面に向かった陽動部隊である比叡と磯風がブルーマーメイド・ホワイトドルフィンの合同艦隊によって制圧され、日本に向かっていた武蔵を初めとする艦隊も全艦が航行不能に陥った事もあってひとまずは収束の気配を見せている。

 

 場合によっては日本どころか世界が終わるような最悪のケースさえ想定されていただけに、これで一安心。

 

 ……とは、問屋が卸さない。少なくともRATtの研究開発に関わっていた者達は。

 

 世界が終わって法律も金も無意味な末世がやってくる瀬戸際となれば、誰が悪い誰が腹を切るべきだなどと責任の所在をどうこう言っている場合ではない。

 

 逆に言うのならそうした危険が排除されたのであれば、一時の喜びの後に今度はこの一件は誰の責任によるものなのかを問う段階となってくる。

 

 彼らはRATtの研究に最初期段階から関わり、責任追及の槍玉に挙げられる立場であった。

 

「くそっ……こんな事なら最初からクリムゾンオルカに全てを明らかにして依頼しておくのだった……!!」

 

 愚痴をこぼす。

 

 RATtの存在は秘密裏に処理するのが望ましく、また可能な限り漏れる口を少なくする為に、公的な機関を動かす事は躊躇われた。よってグレーゾーンの仕事を請け負うクリムゾンオルカに依頼を行った訳だが、しかしこの時、助平根性を出したのが良くなった。

 

 彼は秘密を知る者を一人でも少なくしたいという考えが先に立って、ビッグママに事実を伏せたままでその代わり口止め料として破格の報酬を提示して依頼したのだ。

 

 しかしそうした「報酬を払うのだから余計な事は聞かずにさっさとやれ」というクライアントからの”一方通行”はビッグママの最も嫌う事であった。仕事を請け負う自分達への誠意が無いし、第一そういう依頼は往々にして罠の可能性も高い。これはフリーランスが、身を守る為の知恵だ。恐らくは更に10倍の金額を提示したとしてもビッグママは断ったであろう。

 

 仕方なく海上安全整備局から選出した対バイオハザードチームを、海洋生物の生態を研究する為という名目で海上演習を行う猿島に同乗させて対処する運びとなった訳だが、しかし彼らは失敗して、感染が学生艦に広がる結果となってしまった。

 

 最終的に、各国の学生艦を招集して事態の解決に尽力したのが彼が最初に依頼したクリムゾンオルカひいてはビッグママであると言うのは、とてつもなく皮肉に満ちた結果であると言えた。

 

「とにかく……全ての証拠を消す事だ……この件を追求されたら我々は一巻の終わり……」

 

「遅かったですね」

 

「!!」

 

 凜とした声が響いて、ドアが開く。

 

 研究員達の動きが止まって、視線が入り口へと集中した。

 

 完全装備のブルーマーメイドを従え、現れたのは現ブルーマーメイドの最高責任者である宗谷真霜であった。

 

「!! む、宗谷一等監察官……!!」

 

「既にあなた方がこの一件に深く関わっている事は、調べが付いています。ご同行、願えますよね?」

 

「なぁっ……!!」

 

「……最初から、おばさま……ミス・ビッグママにクリムゾンオルカの流儀で依頼を行うべきでしたね」

 

 ビッグママ海賊団は、クリムゾンオルカの艦内にバイオハザード装備を常備している事から分かるように対生物災害の訓練も積んでいるプロ中のプロ。彼女達ならば、少なくとも海上安全整備局のチームよりは任務達成の可能性は高かったであろう。

 

「あ……ああ……」

 

 証拠隠滅の指揮を執っていたその男は全てを諦め、がっくりと膝を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 伊豆半島沖。

 

 スクリューが機能停止して、航行停止した武蔵の舷側をぶち破る勢いで晴風は接舷(激突とも言う)し、既に編成済みであった救出部隊が武蔵への乗り込みを開始していた。

 

「突入!!」

 

 陣頭に立つのは、万里小路流薙刀術免許皆伝の腕前を持つ楓だ。木剣を振り回しながら、即席の連絡通路を駆け抜けて武蔵の甲板に降り立った。

 

「うっ!!」

 

 出迎えに現れたのは、シュペーの時と同じ尋常でない目つきをした武蔵の乗員、横女の生徒達だった。やはりRATtに操られているのだ。

 

 楓は油断無く木剣を構えて、すぐ後ろに控えていた媛萌やマチコ、それに一緒に突入していた明乃もそれぞれ手にしていた麻酔銃の感覚を確かめる。最後尾の美波は、白衣の内側から血清の入った注射器を取り出した。

 

 まさに一触即発。

 

 武蔵の生徒達は今にも飛びかかってきそうだ。

 

 しかし晴風クルーにはまだ、頼もしい援軍が居た。

 

「よう、どうやら最後のパーティーには間に合ったようだね」

 

 先端に磁石が仕込まれたワイヤーガンを使って、ビッグママが専用のスキッパーから甲板に這い上がってきていた。

 

「ママさん!!」

 

「おう、ミケ!!」

 

 ビッグママの大きな体を認めた瞬間、クルー全員の顔に笑みが浮かぶ。彼女が来てくれるとは、こんなに頼もしい事は無いというものだ。

 

「ふふふ……」

 

 ビッグママは義手を外してその下から現れた生身の手をニギニギと動かす。そうして眼帯をも外す。シュペー救出作戦の時にも見せた、彼女の近接戦闘モードだ。

 

「ミケ、ここはあたしに任せな。あんたはこのまま艦橋へ急ぐんだ」

 

「で、でもママさん……」

 

「行くんだ。もかが待ってる」

 

「……っ!! みんな、ママさん!! ここは頼みます!!」」

 

 有無を言わせぬ口調で、しかし頼もしさが感じられる笑みを浮かべるビッグママ。

 

 明乃は、艦長としての義務感から辛うじて堰き止めていた感情が吹き出したようだった。感極まった表情になって、一直線に艦橋へと走り出す。

 

 当然、武蔵の生徒達は彼女を追いかけようとして動き出すが、

 

「おっと」

 

 ビッグママがその間に立ちはだかった。

 

「あんたらの相手はあたしだ」

 

「潮崎教官、援護しますわ」

 

「ああ、頼むよ楓ちゃん」

 

 ビッグママは隣に並んだ楓に頷いて返すと、そっと首筋に手をやる。

 

 すると、背中に隠されていたのだろう。襟口から木刀が姿を現した。少しだけ、楓が目を見張った。

 

「潮崎教官は、剣も使われるのですか?」

 

 問いを受けて、にいっと子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべるビッグママ。

 

「あぁ、あたしは柔道の達人で合気道の達人でもあるが、同時に剣の達人でもあるのさ。武芸百般だ」

 

 ビッグママはくるくると、片手で木刀をステッキのように回して野球のバッティングフォームのように、五行の構えで言う八双に構えた。

 

 楓は少しだけ驚いたようだった。現代の剣道ではルールの関係上、八双の構えを主力で用いる者は稀であるからだ。しかし構えるビッグママの全身から漲る迫力たるやどうだ。味方であるにも関わらず身震いするものがある。そして構えには一分の隙も無い。楓は自身も武の心得があるが故に、それが良く分かった。

 

 話している間に、武蔵の生徒達に動きがあった。

 

 全員が諸手を挙げて、姿勢が気持ち前屈みになったようだった。

 

 動く。来る!!

 

 楓が肌でそれを感じて、身構えた瞬間だった。

 

「きええええええいっ!!!!」

 

 怪鳥音とも雄叫びとも付かない咆哮を上げて、ビッグママが飛んだ。

 

 跳躍したのだ。

 

 身長190センチオーバー、推定体重170キロオーバーの巨体が自身の頭よりも高く飛び上がると、信じられないほどあっさりと宙返りを打って武蔵生徒の眼前に着地。操られていても流石に驚いた様子の生徒達に生じた一瞬の隙を衝いて、思い切り体を回転させるとその怪力と遠心力をたっぷりと乗せた太刀を的確に急所へと命中させ、全て一撃の下に意識を刈り取っていく。

 

「ママさん、後ろ!!」

 

 姫萌の声に振り返ると、3人の生徒が飛びかかってきていた。

 

「いえぇぇぇえいっ!!」

 

 しかしその誰も、ビッグママを捕まえる事は出来なかった。

 

 ビッグママは再び跳躍、手近な手すりに着地すると、そこから更にジャンプした。いわゆる三角跳びと呼ばれる離れ業だ。だがこんなものは曲芸と言って良い技術であり、少なくとも楓は実戦で使われるシーンなど見た事が無かった。

 

 しかしそれをあまりにも容易くやってのけたビッグママはそのまま空中で新体操選手のように体を捻って武蔵の生徒達の背後に着地すると、そのまま首筋を打って気絶させた。

 

「す、凄……」

 

 ビッグママの戦い振りを目の当たりにして、五十六を連れてきていた百々はあんぐりと大口を開いたままになる。

 

「見とれている場合じゃないよ!! 私達も援護しなきゃ!!」

 

「そ、そうだった……!!」

 

 姫萌の声で我に返ると、麻酔銃を撃っていく。専門訓練も受けていないので命中率はお世辞にも良いとは言えないが、しかし銃声は牽制にはなったようだった。びくりと、操られた生徒達が体を竦ませて動きが止まる。

 

 その間隙を縫うようにして、楓の木剣やマチコの銃撃が的確に命中し、生徒達を倒していく。

 

 美波は、意識を失った生徒達に持参した血清を手際良く注射していく。

 

「ふう……」

 

 一息吐いたビッグママは木刀の峰で肩たたき器のように肩を叩くと、空いている手で腰を叩いた。

 

「潮崎先生、大丈夫ですか?」

 

 すぐ傍らにやってきた美波に、ビッグママは「あぁ」と返す。

 

「久し振りに棒振りすると少し腰が痛いねぇ。腕は落ちていない筈なんだがあたしも今年で85……いや、86だっけ? まぁ兎に角トシだからねぇ。年々、体が上手く動かなくなるねぇ」

 

「……それは、ひょっとしてギャグで言っているのですか?」

 

 加齢で体が上手く動かない人は、宙返りや三角飛びを決めたりはしない。

 

「ははは……だがこれで、武蔵の生徒達の制圧は上手く行くだろう」

 

 からからと笑いながら話していたビッグママは、しかしすぐに真剣な表情に切り替わった。

 

「しかし美波ちゃん、油断は禁物だ。まだこの武蔵にはRATtの親玉……ボルジャーノンが潜んでいる」

 

「はい」

 

 RATtは蟻や蜂のような真社会生物の特徴を持っている。ボルジャーノン以外のRATtは究極的には只の働き蟻・捨て駒に過ぎない。女王とも言えるそいつを何とかしない限り、事態を収束させる事は出来ないのだ。

 

 しかもRATtの体はネズミくらいの大きさしかないから、ちょっとでも目を離せばどこへでも侵入してくる。

 

 もし晴風にでも潜入されたらまたしても感染が広がって、それこそミイラ取りがミイラになってしまう。

 

 よって現在、晴風と武蔵をつなぐ唯一のルートであるこの臨時の連絡通路は、是が非でも守らねばならない絶対防衛線であった。だからビッグママと美波はここを動かないのだ。動けないと言うのが正しいか。

 

 楓達は、今頃は艦内を制圧しつつスキッパーを確保しに向かっているだろう。RATt達は操った生徒にスキッパーを運転させて、それで脱出する可能性もあるからだ。

 

「……さて、兎に角今はここを確保しつつネズミ達の炙り出しを……」

 

 言い掛けて、ビッグママの表情が凍り付いた。

 

 美波のすぐ背後の壁に、一匹のRATtがへばり付いていたのだ。

 

「美波ちゃん、後ろだ!!」

 

「え……」

 

 叫び声に反応して美波が振り返るのと、そのRATtが彼女へ飛びかかるのはほぼ同時だった。

 

 すかさず、ビッグママは木刀を振ってそのRATtを叩き落とそうとする。

 

 しかし、遅かった。

 

「ん」

 

 ビッグママの木刀が振るわれるよりも早く、飛びかかった五十六が前足でそのRATtをはたき落とし、そのまま甲板に押さえ付けたのだ。ビッグママは、ぴたりと木刀を止めた。

 

 RATtはじたばた手足を動かして逃げようとしたが、五十六の力は強くて抜け出せない。やがて、諦めたのかそれとも力尽きたのかそのRATtは動かなくなった。

 

「……こいつは……」

 

 そのRATtを見ていたビッグママは何かに気付いたようにスマートフォンを取り出すと、そこに表示された画像とそのRATを何度か見比べる。

 

「……間違いない、こいつがRATtの親玉……ボルジャーノンだね……写真と毛皮の模様が同じだ」

 

 恐らくだが、晴風が接舷するのとほぼ同時にこの連絡通路の近くにまで移動してきていたのだろう。航行不能となった武蔵に代わって、晴風を乗っ取る為に。そして、他のクルーが武蔵艦内に移動して連絡通路に美波とビッグママの二人しか居なくなったのを見計らって美波に襲いかかったのだ。彼女にウィルスを感染させて意識を乗っ取り、傀儡として動かす為に。

 

 ただし五十六の存在だけは、計算に入っていなかったのだろう。

 

「ありがとうございます、五十六……助けられました」

 

「ん」

 

 ビッグママの礼に、五十六はいつも通りどこか不機嫌そうな声で応じる。

 

 そんなデブ猫に頷いて返すと、ビッグママはしゃがみ込んでそのRATt、ボルジャーノンを見据えた。ボルジャーノンの方も五十六に拘束された不自由な体勢ながら可能な限り首を動かして、ビッグママと視線を合わせる。

 

「ボルジャーノン……」

 

 本当はRATtの間でだけ使われる別の名前があるのかも知れないが、ビッグママはそれ以外にこのRATtを指す呼び名を知らなかった。

 

「……あんた達は悪くない。あたしら人間が、勝手にあんた達を生み出したんだからね」

 

 それでたまたま自分達には邪魔な性質を持っていたから殺処分しようなどとは、勝手で傲慢極まりない話ではある。それはビッグママも認めていた。

 

「だが……あんた達を生かしておくと人類が滅びるんだ。これは善悪の問題ではなく、生存競争……生と死の問題、種が滅ぶか滅ばないかの問題なんだ。あんた達だって、もし勝っていたのなら世界中の人間にウィルスを感染させて支配下に置いて、滅ぼすなり支配していた筈……残念だが……生き残った方が正しいという事で納得しておくれ」

 

 ボルジャーノンがいくら高い知能を持っているからと言って人間の言葉を解するかどうかは分からないが……それでもこの言葉は、ビッグママなりのせめてものけじめ、手向けだった。

 

 その時、ビッグママが手にしたスマートフォンが鳴った。画面には真雪の名前が表示されている。

 

「あぁ、ユキちゃんか。あたしだ」

 

<教官、ご無事で……>

 

 電話の向こうの元教え子の声が、どこか弾んでいるのがビッグママには分かった。

 

<先程、真霜から連絡がありました。海上安全整備局の、RATtの研究開発に携わっていた者と全ての研究資料を確保したと。フィリピン沖の永瀬校長からも比叡と磯風を制圧、現在生徒達の治療を行っていると報告が入りました>

 

「そうか、ユキちゃん……こっちも武蔵以下RATt艦隊を航行不能にし、武蔵を制圧……親玉ネズミも捕まえた」

 

 ちらりと、視線を上げる。

 

 最近は少し霞みがちな視界だが、艦橋で抱き合っている明乃ともえかの姿が、はっきりと見えた。

 

「生徒達も無事に制圧または保護し……現在、血清の注射を進めている」

 

<それでは……>

 

「あぁ」

 

 ビッグママは頷きを一つすると、振り返って海へと視線を向ける。

 

 各国の学生艦とクリムゾンオルカが、RATtに制圧された横女の学生艦へと、生徒達の救出の為に近づいていくのが見えた。

 

「ミッション・コンプリートだ」

 



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VOYAGE:22 波濤遙かなり

 

 現在、横須賀女子海洋学校は、千客万来と言って良かった。

 

 勿論、晴風と武蔵。そしてクリムゾンオルカ。

 

 更にはビッグママの召集に応えてやって来た各国の学生艦。

 

 イギリスからはアドミラルティⅤ級・ヴァンパイア。アメリカからはバージニア級戦艦・ニュージャージー。ロシアからはグネフヌイ級駆逐艦・リョーフキイ。フランスの軽巡洋艦エミール・ベルタン。中国の軽巡洋艦・逸仙。

 

 更には東舞校の伊201。

 

 所属も国籍もバラバラの各国の船が、所狭しと埠頭に詰めかけていた。

 

 他のブルーマーメイド所属艦は、現在伊豆半島沖でスクリュー大破によって航行不能となっている学生艦の救助活動を行っている。

 

 ボルジャーノンに操られた中で片舷のスクリューはワイヤーアンテナを外せば動作可能だった武蔵だけが、他の艦に曳航される形で横女へと帰港できたのである。

 

「あぁ~、陸地だぁ……とうとう戻ってきたよ……」

 

 自分が立つそこがゆらゆらと動く船上ではなく、しっかりとした地面である事を噛み締めるように、芽依と志摩は地面に寝転がって全身を使ってその感触を確かめる。他の晴風クルーも、彼女達ほどオーバーではないにせよ同じような状態だった。

 

 まぁ無理も無い。

 

 まだ入学したばかりでまずは船の扱いに慣れる事が主目的である筈の最初の実習で、いきなり実戦どころか掛け値無しに世界の命運を懸けた任務に従事したのである。恐らくは世界中探しても、こんな経験をしたのは自分達だけではないだろうかと、下船して晴風を振り返った明乃は改めて、とんでもない航海であったと溜息を吐いた。

 

 今にして思えば、よくやり遂げたものだと自分達を褒めてやりたくなる。

 

『……いや、違うね……私達がやり遂げられたのは……』

 

 ちらりと、クリムゾンオルカから降りてきたビッグママへを見やる。

 

『ママさんの指導が良かったからだね……きっと……』

 

 と、そんなビッグママに数名の男女が駆け寄ってきていた。

 

「ヘーイ、グランド・アドミラル!! ご無沙汰してマース!!」

 

「おお、アリスか。ヴァンパイアの艦長も、大分と板について来たようだねぇ」

 

 最初に話し掛けたのは、何故か着物姿で和傘を持った金髪少女だった。

 

「ご指導・ご鞭撻の賜物デース!!」

 

「その点には、agree。ミス・ビッグママは俺が知る限り最もgreatなInstructorですネ」

 

 アリス艦長に同意したのは、テンガロンハットを被って靴には拍車を付けたアナポリス海軍兵学校の制服を着た少年だった。何故かクラシックなガンベルトを身に付けていて、流石にモデルガンだろうがシングルアクションアーミーがぶら下がっている。全体を見ると出来損ないのカウボーイのようだ。

 

「おぉ、グラント。ご家族は元気かね?」

 

「yes。everybody、今もホワイトドルフィン・ブルーマーメイドとしてworldを飛び回っています」

 

「お前達もだ。急な話だったのによく来てくれたねぇ」

 

「ハラショー。教官の依頼とあらば、私は地球のどこからでも駆けつけますよ。ハラショー」

 

「ああ、スターシャ。そんな格好して暑くないのかい?」

 

「ハラショー。ダー。ロシアと言えばこの格好です、ハラショー」

 

 次にビッグママに話し掛けてきたのは、ロシア帽子を被ってモコモコした毛皮のコートに身を包んだ白人の少女だった。5月に入って段々と暑くなってきているこの時期には、見ている方が暑くなりそうな格好だが彼女は汗一つも掻いてはいなかった。

 

「その通りアル。あたしら、大姐姐(おおあねご)に一人前にしてもらったのでね。犬馬の労も厭わないアルよ」

 

 続いて、チャイナドレスを身に付けた東洋人の少女が進み出た。

 

「文麗(ウェンリー)か。あんたも良く来てくれた」

 

「海の仲間は皆家族……これは、あなたが教えて下さった事ですわ……教官」

 

 今度はスカートが膨らんだ豪奢なドレスを纏った女性が話し始めた。エミール・ベルタンの艦長だ。

 

「おぉ、マリー……二年ぶりかねぇ。随分大きくなったもんだ」

 

 見た目も言動も個性的な各国学生艦の面々を見て、晴風のクルー達は圧倒されたようになる。

 

 ビッグママは世界中に教え子が居ると前に言っていたが、その言葉は嘘ではなかったのだ。

 

「いやぁ……こうして見ると壮観ですなぁ。校長からは凄い方だとは聞いてましたが……これだけ各国のブルーマーメイド・ホワイトドルフィンの候補生を教えられているとは……俺たちでは歯が立たなかったのは当たり前じゃったという事か……」

 

「!」

 

 声を掛けられた明乃が振り返ると、東舞校の制服を着た少年が話し掛けていた。

 

「あの、あなたは……」

 

「ああ、申し遅れました」

 

 少年は艦長帽を取ると、ぺこりと一礼する。

 

「東舞校所属艦『伊201』艦長の小倉です」

 

「あ、横須賀女子海洋学校・晴風艦長の岬です。その節はどうも……」

 

「いや、良いんですよ。そもそもウチのソナーマンがモールスを聞き分けられなかった事にも原因があった訳ですし……」

 

 そんな風に話していると、ビッグママがぱんと手を叩き合わせる音が響いた。

 

「お前達……久し振りに会えたのは嬉しいが……」

 

「「「はぁ」」」

 

「普通に話して良いんだよ。そのコスプレも不要だ」

 

「「「…………」」」

 

 ビッグママの言葉を受けて各国学生艦の艦長はそれぞれ顔を見合わせ、そして……

 

「あぁ、良かった良かった。初めて日本に来るから気合いを入れてキャラ付けしてみたんですが……やり過ぎでしたかね?」

 

 ヴァンパイア艦長のアリスが、ワンタッチ式の着物を脱ぎ捨てる。彼女はその下に、ダートマス海軍兵学校の制服を一分の隙も無く着こなしていた。

 

「日本人が抱くアメリカ人像と言えばテンガロンハットとピースメーカーだと思っていたんですが……やはりアニメとリアルは違いますね」

 

 ニュージャージー艦長のグラントも、カウボーイハットとガンベルトを外しながら、隣のアリスに話し掛けた。

 

「いやぁ、テーマパークで着ぐるみに入っている人の気持ちが、私は少し分かった気がしますよ」

 

 リョーフキイ艦長アナスタシア(通称スターシャ)も、そう言いつつロシア帽子を取ってコートを脱ぎ捨てる。見るからに暑そうな帽子とコートの内側には、びっしりと保冷剤が仕込まれていた。

 

「でも折角日本に来るんだから、この衣装のお披露目時だって気合い入れてたのに……少し、残念ね……」

 

「まぁまぁ。あなたはチャイナドレスだからまだ良いでしょうが、私などパーティードレスですよ? 動きにくいったらなくて……」

 

 逸仙艦長の文麗、エミール・ベルタン艦長のマリーも、話しつつチャイナドレスとパーティードレスを脱ぎ捨てると、やはりと言うべきか二人ともそれぞれ所属する学校の制服を着込んでいた。

 

「みんな日本語ペラペラだね……」

 

「さっきまでの妙な語尾はキャラ付けだったのか……」

 

 と、晴風の艦長と副長はあんぐりと口を開けたままになった。

 

「恐らくはワシらと同じパターンじゃな」

 

 これはミーナのコメントである。

 

「我がシュペーのクルーも、研修中にアドミラル・オーマーが持ち込まれたジャパニメーションのDVDやブルーレイを色々と見たりマンガを読んだりしてな……研修が終わる頃には、皆すっかり日本通になっておったのじゃ。日本語はアニメの台詞で覚えた」

 

「……世界中で日本が誤解されているような気がする……!!」

 

 誇らしげに語るミーナとは対照的に、めまいを感じたましろはくらっとしゃがみ込んでしまった。流石の明乃も「あはは……」と乾いた笑いを漏らすしか出来ない。

 

 そんなやりとりが交わされた後、ざわめきと共に人混みが割れた。

 

 全員の視線が集中するその先には、横須賀女子海洋学校校長・宗谷真雪が進み出てきていた。ビッグママ達の今回のクライアントである。

 

「教官」

 

「あぁ、ユキちゃんか」

 

 真雪はビッグママのすぐ前まで来ると、踵を揃えて最敬礼する。ビッグママも同じように、ビシッという音が聞こえてきそうな見事な敬礼で応じた。

 

「今回の依頼、色々と無理を聞いていただき……感謝の言葉もありません……」

 

「良いんだよ。可愛い元教え子の頼みだ。多少のサービスはさせてもらうさ」

 

 そう言ったビッグママが「さて」と胸を張る。

 

「次の仕事もある……そろそろ、行かなくてはね」

 

「あ……」

 

 明乃は思わず、ビッグママに手を伸ばしてしまって……そして手を下ろした。

 

 ほんの一月あまりであったが物凄く濃密な時間を共有してきて、ひょっとしたらこのままずっと一緒に居られて自分達を教えてくれるような気さえしていたが……元よりビッグママはたまたま晴風と一緒に行動するようになっただけなのだ。

 

 それを思い出した。

 

「ママさん……」

 

「ん……ミケ……」

 

「お別れ……なんですね」

 

 ビッグママは次の任務を果たす為に、再び海へ。明乃達は、学校へと戻る。

 

 老艦長はそんな明乃の胸中を察したのだろう。にやりと不敵な笑みを見せた。

 

「なぁに、陸地は海で、海は陸地で繋がっている……またすぐに会えるさ」

 

 ビッグママは、そう言って明乃に握り拳を差し出す。

 

「……?」

 

 明乃はその意味を測りかねたように自分も手を差し出す。

 

 と、ビッグママが手を開いて、握り込まれていた物が明乃の掌へと滑り落ちた。

 

「でないと、それを取り戻せないからね」

 

「これは……」

 

 ブルーマーメイド候補生である明乃には、それが何であるかすぐに分かった。

 

 多少、自分の知る物とはデザインが違うし、造られてから何十年も経っているのか金属光沢も色褪せてはいるがこれはブルーマーメイドの卒業メダルだ。横女は勿論の事、日本中どころか世界中の女子海洋学校の生徒が、これを目指して日々学業や訓練に励んでいるのだ。

 

「ママさん、これは……」

 

「多少詰め込み式ではあったが……晴風のクルーは皆、あたしの訓練に耐えて優秀な成績を修めた。こいつは、卒業の証だよミケ……艦長、皆を代表する立場として……これは、あんたの物だ。同じ海の仲間……家族だからね」

 

「ママさん……」

 

 じわっと、明乃の目が潤む。ほぼ同時に、各国学生艦のクルーや横女の教員達から万雷の拍手が降り注いだ。

 

「……失礼、岬さん……少し、良いかしら? そのメダルの、裏側を見せてもらっても?」

 

「あ、はい……校長……」

 

 真雪に言われるまま明乃がメダルを裏返すと……そこには経年劣化で掠れていて読み取れない部分も多いが辛うじて「1916」「MUNETANI」と刻まれているのは分かった。

 

 これが年号であるとすれば今よりちょうど100年前。ブルーマーメイドの歴史が始まった年だ。そして「MUNETANI」とは間違いなく、真雪やましろの家名であろう。代々、ブルーマーメイドを輩出する名門中の名門、宗谷家の事だ。

 

 真雪にはすぐに、このメダルが意味する所が分かったらしい。はっとした顔になって、ビッグママを見る。

 

「教官、これは第一期ブルーマーメイド……私の祖母の……」

 

「……あぁ、そういう事だよ。ユキちゃん……」

 

 ふっと笑ったビッグママは、相変わらずその巨躯と高齢からは想像出来ないほどの身のこなしを見せると、クリムゾンオルカへと飛び乗った。

 

 それが合図だったのだろう。改造潜水艦は、微速で前進を開始。少しずつ、陸から離れていく。

 

 甲板に立つビッグママは、先ほどの真雪のように明乃達へ向き直って最敬礼する。同じように明乃達晴風クルーは勿論、ミーナ、もえか達武蔵の生徒、横女の教員一同、他に各国学生艦のクルー達も一様に整列して、一斉に敬礼を返す。

 

 ビッグママが開いたハッチから艦内に入って、そしてクリムゾンオルカの艦体が潜行して完全に海中へと姿を消すまで、その敬礼は一糸も乱れる事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

「良かったんですか、ママ」

 

「うん?」

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 上機嫌でキャプテンシートに腰掛けるビッグママに、淹れ立てのコーヒー片手にリケが話し掛けてきた。

 

「良かった、って?」

 

 渡されたコーヒーを啜りながら、隻眼をぎょろっとクルーに向けるビッグママ。

 

「あのメダルの事よね、リケ……だってママ、あれは……70年以上もずっと、ママの宝物だったんでしょう? いくらミケちゃんとは言え……」

 

「良いんだよ、ロック……ミケは」

 

「ミケはきっと、あたし以上に良い艦長になる。艦長からあたしに託された物があるように、今度はあたしがミケに託す……そうして受け継がれていくものこそが……本当に大切なもの……ですよね、ママ」

 

 いつも通り自分の思考を見透かす部下に、ビッグママは呆れたように笑いかけた。

 

「あぁ、その通りだよ。ナイン……」

 

 そう言ったビッグママは一息で大きめのマグカップ一杯のコーヒーを飲み干すと、キャプテンシートから勢いよく立ち上がった。

 

「さぁ、お前達!! 持ち場に付け!! 次の任務は、既に始まっているよ!!」

 

「「「イエス・マム!!」」」

 

 威勢の良いクルー達の声にビッグママは頷くと、指示を飛ばす。

 

 そうしてクリムゾンオルカは、果て無き蒼の中を進んでいく。

 

「ミケ……クリムゾンオルカとブルーマーメイド、選んだ道は違うが……あたし達は皆船乗り、四海を臨む者だ……だがミケ……あんたは……四海を超える者になるんだ。みんなと、一緒に……!! あんた達ならどんな波濤をも超えて……いつか必ずなれる……あたしは信じてるよ……!!」

 



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外伝:潮崎四海の冒険
その1


「そう言えば、一つお聞きしたかったのですが」

 

 切っ掛けは、ましろのそんな一言だった。

 

「ん? どうしたね、シロちゃん」

 

 晴風の食堂。

 

 大きなマグカップ片手に、マジックハンド型義手で器用にスコーンを摘まんだビッグママが隻眼を向けてくる。

 

「ミス・ビッグママと曾祖母は……どんな風に出会われたのですか?」

 

 ましろのこの質問を聞いて、食堂に集まっていた晴風クルー達の間にざわめきが広がった。

 

 ビッグママこと潮崎四海は、現役最古参の船乗りにしてブルーマーメイド初代艦長のクルーでもあった伝説的人物である。

 

 しかし、そのビッグママはどんな風に宗谷艦長と出会い、どんな任務に従事したのか? そうした事は今まで語られなかった。年若いブルーマーメイドの候補生としては、老練な大艦長の冒険譚・武勇伝の一つも聞きたいというのは自然な反応ではあるだろう。

 

「あ、それなら私も聞きたい!! ママさんが最初の艦長になった時って、どんな風だったんですか?」

 

「じゃあ私は……ママさんがその暗号名(コード・ネーム)……ビッグママって名乗り始めた時の事を聞きたいです」

 

 芽依と幸子それぞれの申し出を受け、ビッグママはマグカップの中身を一息で空にすると、にんまりと笑う。80年以上も生きているにしては信じられないぐらいに子供っぽい、柔和で無邪気な笑顔だった。

 

「おいおい皆……そのように一遍に話されてはアドミラル・オーマーも困られて……」

 

「いや、良いさ……ミーナ……」

 

 3個のスコーンを大きな口に放り込んで、むしゃむしゃしてゴクリと嚥下するとビッグママは座り直す。

 

「シロちゃん、メイちゃん、ココちゃん……話してあげよう。あんた達の望む話を」

 

 潮崎四海が宗谷艦長と初めて出会った時の話。

 

 潮崎四海が最初に艦長となった時の話。

 

 潮崎四海が、ビッグママになった時の話。

 

 その、物語を。

 

 遠くを眺める時のように、ビッグママの隻眼が細められる。

 

「あれは……そう、今から……70年以上も前の話だ……あたしが、十歳の時……」

 

 

 

 

 

 

 

 パゴパゴ島。

 

 この日、フィージー共和国を構成する群島の一つであるこの島に訪れた定期船から、一人の日本人女性が降り立った。

 

 年の頃は40を過ぎたぐらいだろうか。女性にしてはとても長身で、170センチは軽く超えているだろう。黒い瞳は彼女が内包する強靱な意志を反映しているかのように鋭い。美しい黒髪は流れるようで、腰までの長さがある。

 

 彼女が海を主な活動圏とする人間である事は、真っ黒に日焼けした肌を見れば明らかだ。

 

 一目見て、彼女の肉体は屈強な海の男と格闘戦をやらかしても決して引けを取る事はないでろうほどに鍛え抜かれているのが分かる。それに何かの武術の心得もあるのかも知れない。歩く姿には、体幹のブレが全く無い。

 

 そしてその完璧な肉体を包んでいる白と青を基調とした衣装は世界中の女子の羨望の的である「ブルーマーメイド」の制服である。

 

 総じて女性美と人間美を両立したような完璧な美しさを持った女性だった。

 

 彼女は、道行く島の住人達に完璧なフィジー語で何度か同じ質問をすると、やがて目的地を見定めたのだろう。しっかりとした足取りで歩き始める。

 

 そう広くもないこの島で、目当ての場所に辿り着くまでそう時間は掛からなかった。

 

 ニッパ椰子で葺かれた簡素な作りの、この島では珍しくもない家だ。海に面していて、桟橋が延びている。

 

 当然ながらそんな作りの家に呼び鈴などある訳もなく。

 

「ごめんください。どなたかおいでですか?」

 

 フィジー語でそう尋ねると、家の中から「どうぞ、勝手にお入りよ」と、こちらも同じくフィジー語でしわがれた声が返ってきた。

 

「失礼します」

 

 一礼して入室すると、目を引くのは一面の本だった。

 

 壁沿いにずらりと並べられた大きな本棚にはギッチリと海洋学や民俗学の専門書が敷き詰められていて、床にも胸の高さにまで達する本の山がいくつも出来上がっていて足の踏み場も無い。いや、辛うじて足の踏み場はあるものの、それらは小島のように転々としていて、女性は飛び石を渡るように室内を移動せねばならなかった。

 

 室内には幾本もの紐が張り巡らされていて、そこには部屋干しの洗濯物のように、無数のメモが洗濯バサミで止められていた。

 

 メモの内容は女性には分からないものも多いが、分かるものも幾つかはあった。海洋生物の生態に関する研究資料のようだった。

 

 部屋の中央には、揺り椅子に腰掛けた白髪の老婆がいた。

 

 肌は強い日差しで焼けていて分かりにくいが、顔の造形には日本人の特徴がある。

 

 ブルーマーメイドのその女性は、彼女が自分の探し人であると確信する。

 

「潮崎博士ですね? 私は……」

 

 名刺を取り出そうとして、老婆に「ああ、ああ」と制される。

 

「この島に日本人のお客さんとは珍しい。観光かね? それで、土産話にこの島の昔話をと……」

 

「いや、私は……」

 

「まず、この島の伝承として代表的なものは海の守り神が……」

 

「潮崎博士!!」

 

 女性が少し強い口調になって、老婆はぴくりと体を竦ませたようだった。

 

「残念ながら私はこの島の伝説を聞く為に来た訳ではないのです……」

 

「しかし、それでは……」

 

 老婆は、戸惑ったように視線を揺らがせる。

 

 ブルーマーメイドの女性は、手にした鞄から一枚のプリントを取り出した。

 

「潮崎四海……二年前から海洋生物や民俗学について刺激的な論文を幾つも発表するも……学会からの評価は……はぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、異端児……と、まぁ……散々な言われようですね……」

 

 女性は鞄の中から、今度は少し分厚い書類の束を取り出した。

 

「実は、あなたが一月前に発表されたこの論文について……お話を伺いたいのですが」

 

「……」

 

 老婆は、それを聞いて神妙な顔つきになった。のっそりと揺り椅子から立ち上がる。

 

「付いておいで」

 

「は、はぁ……」

 

 言われるままに女性は老婆の後を付いて進み……

 

 二人は桟橋に出た。

 

 足下の海は透明度が高く、泳ぐ魚や水底までもくっきりと見える。

 

「よつみ!! よーつみー!!」

 

 海に向けて、老婆が大声で怒鳴る。

 

 その声は海に響いてやがて聞こえなくなる。

 

「……?」

 

 意図を掴みかねたように、女性はキョロキョロと周囲を見渡す。

 

 しばらくして、ざばっと近くの海面に水飛沫が上がった。

 

 そして海を割って背びれが姿を見せて、まっすぐこちらへと向かってくる。

 

「サメ……? いや……」

 

 凄いスピードで近づいてくるその背びれが、桟橋まで5メートルにまで迫った時だった。

 

 ざばあっ!!

 

 水飛沫が上がって、全体が水上に姿を現す。

 

 サメではない。

 

 大きく海面から飛び跳ねて、桟橋の遙か上を飛んでいくのはシャチだった。

 

 そしてそのシャチのジャンプがアーチの頂点に達した時、

 

「でいっ!!」

 

 可愛らしい声が響いて、小さな人影が飛び出してきた。恐らくは、シャチの背中に乗っていたのだろう。

 

 その人影は、空中で見事に一回転すると両膝と左手を使って桟橋に見事な三点着地を決めた。

 

 そうして、すくっと立ち上がる。

 

 年齢は顔立ちから推定して十歳ぐらいだろうか。身長は150センチあるかないか。この年頃の少女としてはかなり高い部類に入る。肌は、女性がここに来るまでに出会った島の住人達よりずっと日焼けして真っ黒になっていて、長い黒髪をポニーテールに結っていた。

 

 ほっそりとした体にフィットした水着姿で、腰には魚籠を付けて右手に持った銛には仕留めたばかりなのだろう、先端に刺さった魚がじたばたと動いていた。

 

「ふうっ」

 

 少女は大きく息を吐くと、水中ゴーグルを外して頭を振る。海水の飛沫が飛び散って、陽光を反射してきらきらと輝いた。

 

「四海、あんたにお客さんだ」

 

「……それでは、おばあさん、あなたは……」

 

「あたしは身代わりだよ。”潮崎博士”を訪ねてきた相手に、適当な土産話を聞かせて帰ってもらう為のね。仮にも博士の正体が、こんな子供じゃまずいだろう?」

 

 ブルーマーメイドの女性は、丸くした目を二三度しばたいた。

 

「……では、あなたが?」

 

「ええ、そうです」

 

 日本語で、少女は返事する。

 

「私が四海。潮崎四海です」

 

 魚が刺さったままの銛を置き、手を差し出す四海。

 

 その手を、ブルーマーメイドの女性は握り返した。

 

「四海ちゃん……いえ、潮崎博士……私は六花。宗谷六花です」

 



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その2

 

「まぁ、何もない所ですが……ゆっくりしていってください」

 

 客間へと通された六花。しばらく待っていると、水着からラフなシャツとショートパンツに着替えた四海がティーセットを持ってやって来た。少女は慣れた手つきで紅茶を煎れて、客人へと差し出す。

 

「お砂糖は一つで良いですか?」

 

「ええ、潮崎博士……ありがとうございます」

 

 角砂糖を一つ、六花の紅茶へ落とす四海。

 

「さて、本題に入りましょうか」

 

 四海は自分の紅茶には、3つの角砂糖を落とした。

 

「こんな片田舎に引きこもっている偏屈学者に、ブルーマーメイドがどんなご用ですか?」

 

 少しばかり自虐的な口調で、大人用のソファーに寝転がるように腰掛けた四海が尋ねた。

 

「……」

 

 一口紅茶を口に挟んで間を置くと、六花は傍らに置かれていた鞄から書類を取り出して机に置いた。それを見た四海の片眉が、ぴくりと動く。

 

「これは一月前……あなたが学会に発表された論文です」

 

「あぁ……」

 

 呆れたように、四海は溜息を吐くと紅茶に角砂糖を2つ落とす。

 

「最初に大笑いされて、最後はこれでもかと言うほど酷評・悪評で扱き下ろされた論文ですね」

 

 欠伸する四海。六花はそんな彼女を見て少しばかり不機嫌そうな顔になると、ページをめくって論文を読み上げていく。

 

「今から6500年前……この地球上で最も繁栄していた種……恐竜が絶滅したのは巨大隕石の衝突によって舞い上がった大量の粉塵が太陽光を遮った事による氷河期の到来だというのが一般的な説ですが……しかしごく限られた一部の地域では……気候や海流の関係で氷河期の影響が少なく済んだと考えられる場所があり……それらの場所では、絶滅した筈の恐竜の子孫が今も生き存えている……あなたはこの論文の中でそう書かれていますね、潮崎博士」

 

「子供の戯れ言、夢物語、学者になるより小説家になった方が大成するだろうと、大御所の先生方には滅茶苦茶に批判されました」

 

 むすっとした表情になって、四海は角砂糖を一つ紅茶に落とした。

 

「勿論、全く無根拠という訳ではなく……日本の大戸島、マーシャル諸島のラゴス島、ベーリング海のアドノア島……あなたが論文の中で例に挙げたこれらの島の近隣に古くから住む人々の間には、例外なく巨大な怪物の伝承が伝わっている……そして、フランス近海にも」

 

「……それで? そんな荒唐無稽な話を鵜呑みにして、はるばる日本からここまで来られたのですか? ブルーマーメイドも随分と暇なお仕事のようで。いや、ブルーマーメイドが暇なのは良い事なのでしょうが」

 

 皮肉っぽく言うと、四海は角砂糖を3つ紅茶に投入した。

 

「……無論、それだけなら変わった論文だとしか私も思わなかったでしょう……しかし、二週間前の事です。これを」

 

 六花が、懐から一枚の写真を取り出すとぽいと投げ出す。写真は、机を滑って四海の前まで来た。

 

「ふむ? 拝見します」

 

 角砂糖を一つ紅茶に入れると、四海は写真を手に取った。

 

「これは……」

 

 座り直して、四海は両手で保持した写真をじっと睨む。

 

 白黒で解像度も荒いが、何が写っているかおおよそは判別出来た。

 

 まず場所は、背景からしてどこかの船上のようだ。船の機材と、数名の水夫の姿が見える。

 

 何より目を引くのは、写真の中央に写っている”もの”だった。

 

 何かの海洋生物の死骸のようだ。一目見て、魚やサメにでも食い散らかされたのだろうか、損壊が激しく死後かなりの時間が経過しているのか腐乱しているのが分かった。そして、一緒に写っている水夫との対比からしてかなりの大きさがある事が分かる。首が長く、手足に当たる部位にはヒレがあった。

 

「……亀の死体でしょうか? 甲羅の外れた……」

 

「……実際は分かりません。この生物の遺骸は近海の漁船が漁の最中に引き上げた物です」

 

「この死体はどうしたんですか?」

 

 尋ねる四海の表情は、先ほどまでとは比べものにならないぐらい真剣なものに変わっていた。

 

「大きな死体を船に積めない事、腐敗臭が酷い事などを理由として、数枚の写真を撮影した後に海に投棄されたとの事です」

 

「……つまり、その死体を詳しく調べる事はもう出来ないという事ですか」

 

 呆れたような溜息を一つ。四海は再び3個の角砂糖を紅茶に落とした。

 

「……真相は不明です。しかし、もしこの死体がまだ未発見の海洋生物のものなら……」

 

「……他に群れが居る、と?」

 

 六花は頷いた。

 

 種族にもよるが、生物が種として繁殖して存続する為には一定数以上の個体が存在している必要がある。その数は、例えば爬虫類であれば最低でも30体から40体程度は必要であると言われている。

 

「はい、それで……この論文を書かれた潮崎博士の意見を是非お聞きしたいと思い、こうして参りました」

 

「……」

 

 四海は角砂糖が一杯になった紅茶をぐいっと飲み干してがりがりと溶け残り噛み砕くと「ふうっ」と一息。

 

 その時だった。

 

 部屋に置かれていた時計が「ビーッ」とけたたましい音を鳴らした。六花が、思わず体を竦める。

 

 対照的に四海は慣れているのか慌てた様子も無く「もうこんな時間か」とひとりごちて立ち上がると、時計を叩いて音を止め、そして物陰に置かれていたバケツを手に取った。

 

「それは……」

 

 じっ、とバケツを覗き込む六花。そこには大量の小魚が入れられていた。

 

「どうですか、六花さんも一緒に」

 

「一緒に……と、言いますと……」

 

 問われてにやっと、年相応の子供っぽい笑顔を見せる四海。

 

「家族に食事をあげる時間です」

 



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その3

 

「さぁ、こちらへ……」

 

 四海に連れられて、六花は桟橋を通って海に出てきていた。小一時間ほど前に、四海がシャチに乗って現れた所だ。

 

「潮崎博士、あの……」

 

「あぁ」

 

 四海はにっこり笑いつつ、六花を振り返る。こうした顔だけ見ると、普通の十歳の女の子だなと六花は思った。

 

「私の事は四海で良いですよ。敬語も不要です。六花さんの方がずっと年上なのですから」

 

「……そう。じゃあ、お言葉に甘えて……四海ちゃん、これは……?」

 

「いいからいいから」

 

 そう言って四海は桟橋の端に立つと、手にしていた棒で銅鑼のようにバケツを叩いた。ガンガンと甲高い音が響いて、六花は反射的に手で耳を覆った。

 

「リケ!! ナイン!! ロック!! ご飯だよ!! 出ておいで!!」

 

 大声でそう叫ぶと、小さな水飛沫が三つ上がって水面に黒いくちばしが姿を見せた。

 

 シャチだ。

 

「……この子達が、あなたの家族なの? 四海ちゃん」

 

「えぇ、六花さん」

 

 四海はそう言いつつしゃがみ込むと、バケツに入っていた小魚をぽいっと放る。三匹のシャチたちは、器用に体を動かして魚を口でキャッチしていく。

 

「この一番大きいのが『スレイヴ9』群れのリーダーです。こっちの顔に傷があるのが『サークル・リケ』。この大人しい子が『Te:Rock』。この子達は怪我をして入り江に迷い込んできたのを私が助けたのが縁で……今では家族同然です」

 

「ほほう……」

 

 腕組みした六花は、何か考え込むように唸り声を上げた。

 

「皆、偉大な海の英雄の名前を貰っているのね。光栄な事だわ」

 

 このコメントを受けて四海が「へぇ」と感心するような表情を見せた。

 

「分かるんですか。流石はブルーマーメイド」

 

「まぁね。海の先達についても、当然勉強はしているわ」

 

 すっと、六花の指先がスレイブ9に動いた。

 

「まずはこの子……スレイヴ9ね……スレイヴは奴隷、9はそのまま九。奴隷・九。どれいく。フランシス・ドレイク。マゼランですら出来なかった生きての世界一周を成し遂げた、イギリスの偉大な提督。星の開拓者」

 

 続いて今度はサークル・リケへと指が動く。

 

「サークルは円。リケはそのままリケ。円リケ、エンリケ。エンリケ航海王子。大航海時代の幕を開き、地球を一気に広く……また一気に狭くした英雄の一人」

 

 最後にTe:Rockを指さす六花。

 

「Teはローマ字読みでテ、Rockは岩。つまりテ岩、テイワ、鄭和。7度の大航海を指導した、中華が誇る大艦隊の司令官」

 

「ははは……私は、良い名前だと思っていますよ。みんなね」

 

 笑いながら、四海は順番に魚をシャチたちへ与えていく。

 

「どうです、六花さんもやってみますか?」

 

 小魚を差し出す四海。六花は僅かな時間だけ躊躇った後、表面のぬめりで取り落とさないように注意しつつ魚を掴んだ。

 

「ほら、お食べ」

 

 恐る恐る差し出された小魚を、丸呑みする勢いでリケは口の中に入れた。

 

「はは、人懐っこいでしょう?」

 

「ええ……驚いたわ」

 

「じゃあ、今度はこいつらのテクニックをお見せしましょう。ナイン!!」

 

 四海が口笛を吹くと、3匹のシャチの中でスレイヴ9だけが海の中へと姿を消した。そうして一分ばかりの時間が過ぎる。

 

「……そろそろ良いかな。六花さん。その魚を空中に投げてみて」

 

「え? ええ……」

 

 言われるままに六花が、小魚を放り投げる。すると絶妙なタイミングで水面からナインが飛び出して、ジャンプしつつ投げられた魚を空中でキャッチすると、再び水中に姿を消す。着水の際の飛沫で、二人の衣服は水浸しになった。しかし、二人のどちらもそんな事を少しも気にしてはいないようだった。

 

「いかがです?」

 

「素晴らしい、素晴らしいわ。そこらの水族館のシャチよりも、よほど良く訓練されているのね」

 

 感動を隠そうともせず、少女のように目を輝かせる六花。そんなブルーマーメイドを四海はじっと見詰めていたが……やがて決心が付いたように、話し始めた。

 

「……六花さん、そろそろ本当の事を話してもらえませんか?」

 

「……本当の事、とは? 四海ちゃん」

 

 とぼけるような口調で六花が返すが……表情は、真剣な大人のそれに戻っていた。

 

「誤魔化しは無しにしましょうよ」

 

 四海は、苛立ったように体を揺すった。

 

「近海で未確認生物の死骸が上がった。もしかしたら近くに未確認生物……希少種の群れが居るかも知れない。その意見を聞く為に来た……しかし、これだけでははるばる日本からブルーマーメイドがやって来る理由としては些か弱い……何か他に、別の理由があるのではないですか?」

 

「…………」

 

 六花はしばらくは無言のままでじっと四海を見返していたが……

 

 睨めっこは、残念ながら彼女の敗北に終わった。先に目を逸らして、諦めたように息を吐く。

 

「あなたを騙すのは無理のようね」

 

 そう言うと、先ほどよりもずっと真剣な顔になった。

 

「実は今回の一件……フランス海軍が動いているの」

 

「海軍が? どうして……」

 

「実はフランスは、この近海で核実験を計画しているの」

 

「核……」

 

「これはフランス政府が、莫大な予算と時間を投じて水面下で進められてきた一大プロジェクトで……彼らとしては何としても成功させなければならない大計画なの。そして当初の予定通りなら……計画は、何の支障も無く遂行される筈だった……」

 

 そう言った後、「例の写真の死骸さえ揚がらなければね」と付け加える。

 

「……ま、待ってください六花さん……もし、あの死骸が未確認の希少動物のもので……核実験が行われる予定のポイントにその群れが生息しているとすれば……そしてそれが新聞やラジオで全世界に報道されたとしたら……?」

 

「……当然、絶滅危惧種保護の観点から核実験は中止……政府や軍関係者が受けるダメージは計り知れないわね……」

 

 顔を蒼くして話し掛けてくる四海に、六花が応じる。

 

「……だから、”そんな動物は居なかった”。居てはならないのよ……彼らにとってはね……」

 

「……くだらない……典型的な、海が自分達だけの物だと思い上がっている連中特有の考えですね」

 

 不快感を隠そうともせず、四海が吐き捨てる。

 

「希少な海洋生物の保護も、ブルーマーメイドの重要な任務。もしそれが事実なら核実験が強行される前に、私達はその生物が存在する確証を掴んで世界に伝えなければならない。私はその為に、四海ちゃん……あなたの意見を聞きに来たの。あなたが論文の中で述べた恐竜の子孫が生きている可能性は、本当にあるのか? 仮に生きているとして、どんな生態だと予測されるのか? あなたの頭脳を貸して欲しいの……どうか……協力を、お願い出来ないかしら?」

 

 頭を下げようとする六花を、四海は肩に手を置いて制した。

 

「……六花さん。そういう事なら喜んで協力させてもらいますが……その前に、あなたに見てもらいたいものがあるんです……こちらへ……お前達!! 悪いが後は自分達で食べてくれ!!」」

 

 四海はそう言うと、バケツの中身を海にぶちまけた。

 

 

 

 

 

 

 

 再び、四海は六花を伴って彼女の家に戻っていた。二人して壁際に立つ。

 

「四海ちゃん、見せたいもの……とは?」

 

「すぐに分かります……これですよ」

 

 ガン!! と部屋の壁を乱暴に蹴る四海。

 

 すると壁の一部が回転式のドアのように動いて、忍者屋敷のようにその先に空間が広がっていた。

 

 四海と共に、その先の空間へと踏み入る六花。

 

「……こ、これはっ……!!」

 

 絶句。

 

 そして、二度三度と目を擦る。

 

 その後で、予想通りの反応が見れたのかにやにや笑っている四海へと恐る恐る視線を動かした。

 

「よ、四海ちゃん……し、し、し、失礼だけど……わ、わ、わわ……私の頬をつ、つねって……くれるかしら……?」

 

「これで良いですか?」

 

 ぐにっと、四海は手を伸ばして六花の頬を引っ張る。

 

「い、痛い……って、事は……ゆ、夢じゃない……の、よね……四海ちゃん……」

 

「まぁ……六花さんの反応は正常ですね……私も、この子を初めて見た時は……同じような状態になりました……」

 

 隠し扉の先の部屋は、その容積の半分が巨大な水槽で占められていた。

 

 その、個人の家に置かれるものとしては常識外れに大きな水槽は、たった一匹の生物の為だけに用意されたものだった。

 

 長い首と尾を持ち、手足に当たる部位には四枚のヒレを持った生物。

 

 ちょうど、六花が四海に見せた写真の死骸が生きていてその生き物に子供が居ればこんな風であろうと想像出来る姿をした生物が、大きな水槽の中を悠々と泳いでいた。

 



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その4

 

「こ……こんな事が……!!」

 

 夢を見ている訳では無い事は分かったが、しかしそれでも六花は眼前の光景を信じられないようだった。

 

 四十年以上も生きてきて、ブルーマーメイドとして任務に従事する中で修羅場も数えきれぬ程くぐり、珍しい物も飽きるほど見てきた。

 

 しかし、それでも尚。

 

 こんなものを生きて目の当たりに出来る幸運に恵まれるとは想像もしていなかった。

 

「……よ……四海ちゃん……一応……確認するけど……この子は……その、アレ……なのよね? 例えば……アザラシとかではなく……?」

 

「……」

 

 当然と言えば当然の反応ではあるが、六花のリアクションを見て四海は「はぁ」と息を吐いた。

 

「六花さん……体毛が無くヒゲも無い、首が長く、ヒレの形も違う、尻尾も長くて割れていない……これがゴマフアザラシに見えるのなら、今すぐに眼鏡を買いに行く事をお勧めします。それともあなたは翼長が15メートルもあって羽毛が無く牙があって人を襲う怪物を見て、それが鳥だと思うのですか?」

 

「……甲羅の無い亀とかでもなく……?」

 

「亀の甲羅は肋骨が変化したものですから……無ければ呼吸出来なくなって死にます」

 

「……じゃ、じゃあ……やっぱりこの子は……」

 

 震える指先で水槽内を泳ぐ生物を指さす六花に、四海は頷く。

 

「プレシオザウルス……間違いありません」

 

 何百万年も前に絶滅した筈の、竜の血族。

 

 様々な図鑑にその姿を描かれ、多くの少年少女の胸をときめかせてきた生物が、目の前で生きて、動いている。

 

 胸中の困惑をどのように表現すれば良いのか。六花は自分の語彙力の無さを恨めしく思った。

 

 否。それは困惑ではなく、感動だった。

 

 今この時だけは、十代の少女に戻った気さえする。こんなに胸が震える感覚は、久しく忘れていた。

 

 もし今の自分と同じ気持ちを共有出来たのなら、若返るどころか干物だって泳ぎ出すのではないかと思えた。

 

「プレシオザウルスが生きていて……その子供を見る事が出来るなんて……い……未だに信じられないけど……でも……事実なのね……」

 

 四海は神妙に頷く。

 

「あなたが目にされているものが事実です……それ以外には、ありません」

 

「……そう……」

 

 六花も深く頷くと、あからさまに何かを決意した表情になる。

 

「……兎に角、生きたプレシオザウルスに出会えた……と、なれば……やる事は一つしか無いわね、四海ちゃん」

 

「ええ、一つしかありませんね。準備は出来ていますよ、六花さん」

 

 二人は頷き合うと、六花は水槽の前に立ってポーズを取り、四海は部屋のテーブルの上に置かれていたカメラを手にする。

 

「それじゃあ撮ります。はい、チーズ!!」

 

 パシャッ!!

 

 フラッシュの光で、薄暗かった室内が一瞬だけ明るくなった。

 

 生きたプレシオザウルスに出会えたのだ。やるべき事は、一つしか無い。記念撮影だ。

 

「現像出来たら焼き増しして送りますよ、六花さん」

 

「お願いね、四海ちゃん……仲間達にも、是非見せてあげなくちゃ……!!」

 

 興奮を全く隠さずに、娘ほども年の離れた少女にはしゃいだ笑顔を向ける六花。

 

 しかしすぐに、真顔に戻った。

 

「冗談はここまでにしておきましょう。いや、写真は後でちゃんと送ってね。それで……四海ちゃん、あなたはこの、プレシオザウルスの子供を……どこで?」

 

「二週間ほど前の事です。砂浜に打上げられている所を、私が拾いました。当時は生後24時間も経過していない様子でしたよ」

 

「……では、写真のあの生物の死体は……」

 

「漁船が死体を引き上げたポイントとこのパゴパゴ島の位置関係・距離や海流の動きを考えると……出産の為に群れを離れた所をサメにでも襲われ母親は死んでしまったけど……しかし死の直前、最後の力を振り絞って産み落とした赤ちゃんが、海流に乗ってこの島に流れ着いた……そう考えるのが自然ですね。一応の辻褄も合います」

 

 この辺りは十歳という幼さながら、学者として四海が見事な分析を見せた。

 

 プレシオザウルスの子供は、ガラス越しに四海の傍に寄ってくると踊るような動きを見せる。

 

「随分、懐かれているのね……」

 

「雛鳥の刷り込みと同じものでしょうか……どうにも、私は母親だと思われているようで」

 

 照れたように、四海が笑う。

 

「……では、四海ちゃん……目下の所、大きな問題が一つあるわね」

 

「……えぇ、その通りです。六花さん」

 

 六花のその言葉を受け、四海も真剣な顔で頷いた。

 

「名前をCoo(クー)にするかピー助にするかでずっと悩んでいて……」

 

「この子をあなたはどうするつもりなの? ずっとここで世話し続けるのか、育ったら自然に帰すのか、あるいは専門的な研究機関に引き渡すのか……」

 

 声を揃えて語る二人。

 

「「……えっ?」」

 

 同じ結論に達していたと確信していたのに、その実相手がまるで違う事を考えていたのに、二人ともぽかんとした顔になった。

 

「えっと……四海ちゃん、あなたはこの子を……」

 

「勿論、自分で魚を獲れるようになったら、海に帰すつもりですよ、私は」

 

 何故そんな当たり前の、分かり切った事を尋ねるのか理解出来ないという様子で、四海が言った。

 

「……良いの? 生きた竜の子供……これを世界に公表したら、どうなると思う?」

 

「どうなるんです?」

 

「そりゃあ、まず学会のお偉方は掌を返したようにあなたを褒め称えるでしょうね」

 

「……それだけですか?」

 

「勿論それだけじゃない。向こう一ヶ月間は、世界中の報道機関で繰り返し繰り返し、あなたの名前が読み上げられるでしょう。毎日毎日、あなたの記事があらゆる新聞紙の一面を飾り、あらゆる新聞社が号外を出して、全てのメディアがオウムのようにあなたの名前を叫び続ける!!」

 

「……他には?」

 

「最後にはあなたの名前は教科書に載るわ。理科や生物だけじゃない、歴史の教科書にも!! いやそれだけじゃない。あなたが死んだ後も、あなたのこの歴史的発見は映画化されて、伝記も出版される!! 人類史に潮崎四海の名前が、未来永劫残り続けるのよ!!」

 

 興奮して捲し立てる六花。対照的に四海の反応は、冷ややかだ。

 

「……で? その代わりにこの子は連れて行かれますね? それで研究室のプールで一生飼い殺しにされるか、水族館で見世物にされるか……あるいは解剖されて博物館で標本にされるかも知れない」

 

 バン!! と、四海は小さな握り拳をテーブルに叩き付けた。

 

 衝撃で、机上のノートが床に落ちる。広げられたページには、この竜の子供の飼育記録が写真付きで詳細に綴られていた。

 

「ふざけるんじゃない!! この子が学術的にどんなに貴重な研究資料か知らないけど、私はそんなものの為に、この子を助けた訳じゃない!! まして、私はこの子にママと思われてるんだ!! どこの世界に、自分の栄達の為に子供を売る母親が居るんですか!?」

 

「……はは、そんなもの、か」

 

「……六花、さん?」

 

「学者であれば、誰もが望むであろうまたとない栄誉を、そんなものと言い捨てるのね……青いなぁ。きれい事ね。それは」

 

「……」

 

「でも、だから良い。あなたは立派な人間よ。四海ちゃん。知り合えた事を誇りに思うわ」

 

 優しく微笑んだ六花が、両手をそっと四海の両肩に置いた。

 

 成る程、と合点が行った表情になる四海。

 

 六花の先ほどまでの言動は、全て心にも無い戯れ言であったのだ。それで四海がどんな人物なのかを見定めようとしていたのだろう。

 

「ならば私はブルーマーメイドとして、あなたに全面的に協力するわ。差し当たってはこの子の名前だけど……」

 

 しばらく考えた後、ぽんと手を叩く六花。

 

「ブラン、というのはどうかしら?」

 

「……ブラン、ですか?」

 

「えぇ、ケルト神話の「ブランの航海」という物語の主人公の名前でね……ごくごく簡単に説明すると、ブランは仲間達と共に女人の島を目指す航海に出て、見事その島に辿り着き、一年間そこでの生活を楽しむのだけど……それから故郷へ帰ってみると、故郷では何百年という時間が過ぎていたと……まぁ、早い話がケルト版・浦島太郎よ。永い時を超えて私達の前に現れた竜の子供には……相応しい名前だと思わない?」

 

「良いですね。それは良い」

 

 満面の笑みを浮かべる四海。そうして、水槽の前に駆け寄るとプレシオザウルスの子供の眼前にて大きく手を広げる。

 

「名前が決まったわ!! ブラン!! あなたはブランよ!!」

 

 漸く名前を与えられた竜の子供も、気に入ったらしい。くるくると水中で体を回した。

 

「……しかし、四海ちゃん。あまりのんびりともしていられないわよ」

 

「……と、言うと? 六花さん……」

 

「……さっきも言った通り、何としてでも核実験を強行したいフランス政府・海軍にとって、この子……ブランは近海に絶滅危惧種が生息している事のこれ以上無い証拠になる。彼らは証拠を消す為には、どんな手でも使ってくるでしょうね」

 

 証拠を消す。

 

 敢えてそうしただろう迂遠な言い回しが意味する所を悟って、四海は苦虫を噛み潰したような顔になった。

 

「そして彼らの情報部が無能でないのなら……襲撃は近いと思った方が良いわ」

 

 六花が、水槽のガラスをノックするように叩く。

 

「こんな大きな水槽、この島では用意出来なかったでしょう? つまり、外に発注した……そうよね?」

 

「……!! 発注記録を辿られて……それで足が付くと?」

 

 頷く六花。

 

「これは個人の家で熱帯魚を飼うにしては大きすぎる。つまり……これが必要になるぐらい大きな、あるいは大きくなるであろう生き物を飼育する為だと……彼らがそういう結論に達するのが、そんなに突飛な推理だとは、私には思えないわね」

 



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その5

 

 深夜。

 

 日本では草木も眠る丑三つ時と言われ、最も暗い時間である。

 

 ましてこのパゴパゴ島では、島民全て朝日と共に目覚め日の入りと共に休むという実に健康的な生活を送っていて毎日が死ぬほど平和である事も手伝い、悪意ある者が足音を殺して動いていても、みんな深い夢の中で気付く者は皆無であった。

 

 夜戦用に黒を基調とした軍服に目出し帽を被った三人組の男達が、蠢く影のように四海の家へと近付いていた。

 

 彼らは簡単なハンドサインで合図すると、先行した一人が用心深い足取りで家の入り口へと近づいて、ドアノブに手を伸ばす。

 

 今回の彼らの任務はこの家に侵入して、ここで飼育されているという珍しい生物を確保するというもの。家の住人は少女一人と客人の女一人。実に簡単な任務だ。

 

 さっさと終わらせて、報酬でバカンスに行ってプールサイドで女を侍らせながら冷えたビールを飲もう。

 

 そんな風に考えていた。

 

 そうしてドアノブに触れた、その瞬間だった。

 

 ばちっ!!

 

 ドアノブから火花が散った。

 

「うわわーーーーっ!!!!」

 

 彼は悲鳴を上げて、全身をぶるぶる震わせて痙攣させる。

 

「ぎゃーーーーーっ!!!!」

 

 たまらず後ろに弾かれるようにして、倒れた。

 

「な、何だ!!」

 

「どうした!?」

 

「ド、ドアに電流が……」

 

 感電した男は、震える手でドアを指さす。

 

「電流……」

 

 男達は、顔を見合わせる。

 

 素人相手だと思っていたが、これは敵を甘く見すぎていたかも知れない。

 

「俺が突っ込む。援護しろ」

 

「了解」

 

 一人が前方に出て、もう一人は敵がいつ現れても大丈夫なように距離を置いて周囲を警戒する。

 

 前に出た男は、ドアノブには触れないようドアを蹴破る。

 

 すると、

 

「ぐえっ!!」

 

 いきなり彼の顔面に、強烈なパンチが炸裂した。

 

 しかしそれを繰り出したのは人間の腕ではなかった。先端にボクシンググローブを嵌めた丸太が、ちょうど顔面の高さに突き出されてきたのだ。彼はひとたまりも無く吹っ飛ばされて地面を何回転もしてやっと止まった。

 

「く、くそっ……!!」

 

 ドアノブには電流、ドアを蹴破ったら丸太のパンチ。一般家庭に仕掛けられるにしては凶悪に過ぎるトラップだ。しかし、電流はさておき丸太は一度きりの手品だった。今は突き出された状態のままで、無害なオブジェと化している。

 

 今度こそ自分達を阻む物は何も無い。三人目の男は勇んで家の中に踏み込んで、そして踏み締めた足に妙な感覚を覚えた。

 

 瞬間、彼の視界は床で一杯になる。

 

 踏み込んで重みが掛かった瞬間、床の一部が90度起き上がって、彼の顔面を強打した。

 

 彼は背後にぶっ飛んで、家から叩き出される羽目になった。

 

「く、くそっ……日本人ってのはみんなこんなに用心深いのか……?」

 

「騒ぐな!! 二人とも、この際ドアから入るのは諦めよう」

 

 最初に感電した男が、怒鳴る仲間を制する。

 

 街灯も自動車も無いこの島の夜は暗くて静かで、身を隠すにはもってこいではあるが逆に、騒ぎ立てては自分達の存在をアピールしてしまう。そうなると誰かが起き出してこないとも限らない。そうして人目に付くのは彼らとしても避けたい事態だった。

 

 男が指さす先には、ガラス窓があった。

 

 窓際に移動する3人。

 

 もしや先ほどのドアと同じように窓枠に触れると電流が流れるようなギミックがあるのでは恐る恐る調べてみるが、どうやら窓にはそうした仕掛けは施されていないようだった。布で触れてみるが、何の反応も無い。

 

「よし、突っ込もう」

 

「いや、待て。開けると何かトラップが作動するかも」

 

 じっと、ガラスに顔をへばりつけるようにして中の様子を伺う。

 

 ドアの開閉を感知するピアノ線のような仕掛けは、この窓とその周りには無い。

 

「よし、良いだろう」

 

 ガラスを叩き割ると、その穴から手を突っ込んで鍵を外し、窓を開ける。

 

 もしかしたらと警戒していたが、やはり何らかのトラップが作動する気配は無い。

 

 先頭の一人は窓から室内へと入って……そして、足先に妙な感覚を覚える。何か滑るような……いや違う。床が、動いている。

 

 妙だな?

 

 そう思った時にはもう手遅れだった。

 

「う、うわああああっ!?」

 

 悲鳴を上げながら、彼は部屋の中を滑っていく。

 

 実は、窓のすぐ下には大きめの台車が置かれていたのだ。窓から入ってきた彼はその上に乗り上げる形となり、彼を乗せた台車は勢いのまま部屋を横切って、桟橋へと出てしまうと彼ごと海にダイブした。大きな岩を落としたような水音が聞こえてくる。

 

「畜生、一体何なんだこの家は!!」

 

 毒突きながらも、もう台車のトラップは無い事を確認した男は、漸く入室を果たした。もう一人も、おっかなびっくり部屋の中に入ってくる。

 

「やっと入れた……一体全体どうなってんだ、この家は……」

 

「こう暗くちゃ何も見えん……電気のスイッチは……」

 

 後から入ってきた男が、手探りで壁をまさぐっていく。ややあって彼は、指先に良く知った感覚を捉えた。電灯のスイッチだ。

 

「ああ、あったぞ」

 

「……!! よせ、触るな!!」

 

 先に部屋に入った方の男が叫ぶが、遅かった。スイッチがオフからオンに切り替えられる。

 

 ボン!!

 

 空気が破裂するような音と共に、部屋中に煙が充満した。煙幕だ。

 

 煙の催涙効果で、二人は涙が止まらなくなる。

 

「げほっ、げほっ……!!」

 

 二人とも反射的に、新鮮な空気を求めて開けっ放しの出入り口から外へと逃げ出した。いや、燻り出されたという表現が適切だろうか。

 

 すると横合いから手が伸びてきて、一方の男の胸ぐらを掴むと綺麗に一回転させて背中から砂地に叩き付けた。

 

「かはっ……!!」

 

 全身に衝撃が走って、投げられた男は声も上げられずに意識を失う。

 

 今、男を投げ飛ばしたのは六花だ。お手本のように綺麗な一本背負いだった。

 

「く、くそっ……」

 

 残った一人が、懐から取り出した拳銃を向けてくる。しかし六花の方が早かった。

 

 彼女は早撃ちのように懐から、しかしこちらは小さなスプレー缶を取り出すと、男の顔で唯一露出している目に突き付けて勢いよく噴射する。

 

 プシューッ!!

 

 スプレー独特の空気が抜けるような音が出て、

 

「ぎゃあああっ!! 目が、目が!!」

 

 男は顔を押さえると悲鳴を上げてのたうち回った。

 

「ふん……」

 

 六花は呆れたように、溜息を一つ。

 

「どこの誰かは知らないけど、素人さんね……こんな、ワサビとトウガラシのスプレー程度でジタバタするなんて」

 

 彼女はそう言うと、自分の口内にスプレーを吹き付ける。

 

「一吹きすると、鼻の通りが良くなるわ」

 

 平然とした顔で、そう言い放った。

 

 これで、四海の家に押し入ってきた三人組は全てやっつけた。

 

 しかし、腑に落ちない点が一つ。てっきりフランス軍の軍人がやって来るとばかり思っていたが……実際には、招かざる客人達はそれなりに腕に覚えがありそうではあるがまるで只のチンピラだった。

 

 単純に、軍が手を汚すのを嫌ってまずは裏家業の人間を使ったのだろうか?

 

「ふむ……しかし四海ちゃんも大したものね。僅かな時間でこれだけ悪質なトラップを家中に仕掛けるなんて」

 

 感心しつつそう呟いて、彼女が四海の家に目を向けたその時だった。

 

「動くな!!」

 

「!」

 

 ずぶ濡れになった男が海から這い出てきて、手にした銃を六花に向けていた。。台車のトラップで海に沈んだ男だ。

 

「……なんだ、泳げたのねあなた」

 

「大人しく、ここで飼われている生物を引き渡してもらおうか……」

 

「……どうしてこんな事を?」

 

 両手を挙げた六花が、尋ねる。男は、六花が抵抗を諦めた様子を見て取ってあからさまに安心したようだった。張り詰めていた気が急速に緩むのを、六花は肌で感じ取った。

 

「へへへ……理由なんて俺は知らないさ。ただ、政府の連中がこの仕事に破格の賞金を弾んでくれるって話だからな……それに……」

 

 ようやく闇に慣れてきた目で、男は六花の齢四十を越えて尚保たれている完璧なプロポーションを上から下へ、嘗め回すように見回す。

 

「どうやら、役得もあるようだしな……」

 

 目出し帽越しで分からないが、六花はこの男が舌なめずりしているのを透視出来た気がした。「はぁ」と溜息を一つ。この溜息には、二つの意味があった。一つは「男ってやつはこれだから」という呆れと侮蔑が混ざったもの。もう一つは。

 

「……あなた、やっぱり素人さんね」

 

「何?」

 

「初歩的なミスを犯しているわ」

 

「……どういうこと……」

 

「動くな!!」

 

 横合いから、高い声が掛かる。

 

 見れば四海が、先ほど六花が投げ飛ばして気絶させた男の懐から拳銃を奪い取って、ずぶ濡れの男に突きつけていた。

 

 形勢逆転。

 

 六花は動けなくなった男から易々と拳銃を奪い取ると海に捨ててしまった。そのまま関節を決めて、男を拘束する。

 

「四海ちゃん、彼のミスを教えてあげなさい」

 

「……あなた、ぺらぺらと喋り過ぎなのよ。銃を向けた瞬間、黙って撃っていれば勝てたのに」

 

 銃を構えてじりじりと間合いを保ったまま、四海がコメントする。

 

「獲物を前に舌なめずりは三流のやる事……あんたは典型的な見栄っ張りのバカだね」

 

「あ」

 

 と、六花が間の抜けた声を上げた。

 

「?」

 

「お前も決して利口とは言えんぞ、小娘?」

 

 横合いから、四海に拳銃が突きつけられていた。

 

「……!!」

 

 今度は、四海があんぐりと口を開けて銃を手放す番だった。

 

 二人とも、これは失念してしまっていた。

 

 ここへ来ていたのは、チンピラ3人だけではなかったのだ。

 



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その6

 

「妙な動きはしないでいただこうか」

 

 四海に銃を突き付けているのは、肩幅も広く筋肉質でがっしりとした体格の男だった。スーツ姿ではあるが、しかし六花は(警察官などもそうであるが)ブルーマーメイドとして働く中で、軍関係者など同業者はたとえ退役していようが私服姿であろうがすぐにピンとくる。

 

 間違いなくこの男は軍人だ。このタイミングで軍人がここにやって来るという事は……

 

「……フランス海軍か」

 

「その通り。私はメルベール大佐だ。お目にかかれて光栄だよ。現ブルーマーメイド統括・宗谷六花一等監察官」

 

「……ブルーマーメイドの統括……!!」

 

 慇懃無礼に、四海に銃口を向けたまま語る大佐。

 

 一方で、四海は六花が只のブルーマーメイドではなくそのトップに立つ人物だと知って、驚いたようだった。彼女の視線は間近の銃口よりも、少し離れた所に立つ六花へと向いている。

 

「……大佐殿、その子や私に手出しするつもりなら……それは、賢い行いとは言えませんね」

 

「ほう?」

 

 大佐の目が、値踏みしているかのように六花を見据えた。

 

「この一件、裏でフランス政府や海軍が動いている事は先刻承知の上……ならば、何の根回しも備えも無くやって来るほど私は不用心ではありません。この任務中、私からの定時連絡が途絶えた場合……あなたの政府や海軍が私に危害を加えたと、疑いが向くようになっています」

 

 それを聞いた大佐は「はん」と鼻で笑った。

 

「ハッタリは止したまえ、宗谷一等監察官」

 

「信じる信じないの判断はあなたに一任しますが……もし私の言っている事が本当で、これが国際問題に発展した場合……上の方々はあなたを庇って責任を取ってくれますかね?」

 

 大佐の話を、六花は聞いていないようだった。これは交渉事では基本的な姿勢と言える。相手の土俵に立たず、ペースを握られないのはとても重要だ。

 

 そして六花の話は、大佐にとって痛い所を突いていた。

 

 恐らくはブラフだと思われるが……しかしもし万が一本当であった場合、政治家や軍のトップは彼を庇ったりはしないだろう。寧ろその逆、自分達の責任逃れの為、スケープゴートとして自分を切り捨てるに違いない。トカゲの尻尾切りだ。

 

 上手いな。と四海は思う。

 

 彼女はまだ十歳で軍の階級などには詳しくはないが、それでも大佐と言えば軍内でもかなりの地位であり、そして自分に銃を突き付けている男はそうした地位に就くにしてはかなり若いように思える。恐らくは六花よりも年下だろう、齢は四十に届いていないかも知れない。つまりはそれほどの若さで、高位の階級を得るに至ったエリートだという事だ。

 

 経歴が完璧であればあるほど、エリートコースを歩んできた者ほど、その経歴に傷が付き、コースから外れる事を恐れるもの。

 

 目敏い四海は、大佐の首筋に一筋だけ汗が伝うのを見て取った。

 

 この交渉は、六花の勝ちだ。

 

 恐らくは、六花の言っている事は全てハッタリなのだろう。自分が見る限り定時連絡などしていなかったし、仮にしていたとしても何らかの事故によって定時連絡が途絶えるといったケースも有り得る。それなのに連絡が切れたら問答無用でフランス政府や軍に疑いが向くように仕向けるなど乱暴な論理が過ぎる。99パーセント、彼女の言葉は口からのでまかせだ。

 

 だが、1パーセントの可能性が残っている。

 

 例えば100人で一人の相手に襲いかかるとする。そうすれば確実に勝てる。しかしその一人がナイフを持っていて、次に刺されるのが100人の中の一人だとしてもそれが自分かも知れないという可能性を無視する事は、人間中々出来ないものだ。

 

 今回の大佐のケースも、それにぴったり当て嵌まっているようだった。

 

「……確かに、私としてもブルーマーメイドと事を荒立てたくはない。この子は解放しよう。しかし宗谷一等監察官、銃を渡していただこうか?」

 

「……良いでしょう」

 

「……」

 

 僅かに迷いを見せた六花だったが、しかしそれも一瞬だった。無駄に粘って交渉それ自体をご破算にしてしまっては本末転倒だし、四海の命には代えられない。

 

 まず彼女は、ゆっくりと懐に手を入れて、これまたゆっくりと手を出して拳銃を砂浜へと放り捨てた。

 

 次にまた懐に手を入れて、取り出して、捨てて……

 

 同じ所作が繰り返されて、砂浜に落ちた銃は十五挺にもなった。他にナイフが10本出てきた。おまけに手榴弾も一発持っていた。

 

「「…………」」

 

 これには、思わず大佐と四海もドン引きした表情で顔を見合わせた。

 

「それで全部かな?」

 

「ええ、全部です」

 

 と、六花。

 

「……良いだろう」

 

「四海ちゃん、こっちへ」

 

 用心しつつゆっくりとした足取りで、大佐から視線を外さずに四海は六花の傍へと移動した。

 

「……さて、では私の任務を果たさせていただこうか」

 

 大佐がさっと手を上げて合図すると、木陰から小銃で武装した数名の軍人が姿を現した。それに混じって、白衣を着た老齢の男も一人。他の者と違って彼は身長も低く、体付きも鍛えられたものではない、学者然としている。

 

「例の生物は?」

 

「……あちらの林の中に。水を張ったタライに入れてあります」

 

「六花さん!!」

 

 あっさりとブランの居所を明かしてしまった六花に四海は抗議の声を上げる。一方で大佐は「ほう」と感心と共に嘆息した。

 

「参ったな。私が雇ったチンピラどもがターゲットの生物を目当てに家の中に侵入して、あれだけのトラップが仕掛けてあったのに肝心の目標は既に別の場所に移されていたとは。いや、これは素直に感心するよ」

 

 四海は大佐が自分達を愚弄しているように感じたが、これは純粋に彼の賞賛だった。トラップで侵入者を撃退出来ればそれで良し、仮に全てのトラップが突破されたとしても、ターゲットが奪われないようになっていたとは。これだけの作戦を、短期間で仕上げたのは彼の中で評価に値するものだった。

 

 しばらくすると、林の中に走って行った部下の軍人達が折りたたみ式の担架を広げて戻ってきた。

 

 担架の上には、ブランがベルトで体を固定されて拘束されていた。

 

 ブランは、自由になる首を必死に動かして助けを求めるように甲高い声を上げている。

 

「ブラン!!」

 

 思わず四海が駆け寄ろうとするが、六花が肩を掴んで制した。きっ、と六花を睨む四海。

 

「……で、大佐? あなた方はその水棲爬虫類の子供をどうするつもりですか?」

 

「さて? それは私の専門外なのでね。しかし恐らくだが、こちらのグーバッカー博士は後一年もすれば、画期的な論文を発表して学会のトップに躍り出ると予想されるね。何しろ生きたプレシオザウルスを解剖する機会など、世界で一人にしか与えられないだろうからね」

 

「あんた達……!!」

 

 ぎりっ、と四海の口から噛み締めた歯が軋む音が漏れた。

 

 今にも飛びかかっていきそうだが、六花が肩に置いた手に力を込めて動きを制した。

 

「良いかね? 私も約束は守ろう。私達はこのまま島から立ち去る、その代わりに君たちはこれ以上私達に手出しはしない。良いな?」

 

「ええ、分かりました。大佐」

 

「六花さん!!」

 

 抗議の声を上げる四海だったが、六花は取り合わない。

 

 そうしている間に、フランス海軍は浜辺に停められていたボートに乗って引き上げていってしまった。

 

 そうして侵略者が引き上げていったのを確認すると、六花は四海に向き直った。

 

「よし、では四海ちゃん……早速ブランを助ける作戦を練りましょう」

 

「え……」

 

 掌を返したような六花の反応に、四海も戸惑っている。

 

「で、でも六花さん……あの大佐が手出しをするなと言って、分かったって……」

 

「分かったとは言ったけど、承知したとは一言も言ってないわ」

 

 六花は、ぬけぬけとそう言い放った。

 

「それにあの状況では、私達の方が圧倒的に不利。最終的にブランを取り戻すにしても、体勢を立て直す事は必要でしょう?」

 

「なっ……」

 

 これには流石の四海も目が点になった。

 

 自分から交渉を持ち掛けておきながら、舌の根も乾かぬ内にこんな屁理屈を持ち出すとは。いやそれどころか、彼女は最初から交渉を反故にする気満々だったのだ。

 

「いい性格してますね、六花さん。大人って汚いです」

 

「褒め言葉と受け取っておくわ」

 

 くすくす笑いつつ、六花は肩を竦める。

 

 しかし四海も、議論はここまでとすぐに頭を切り換えた。

 

「よし……でも、奴らを追いかけるにしてもまずはどこへ向かうのか、情報を突き止めなくては。付いて来て下さい、六花さん。私の秘密基地に案内します!!」

 



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その7

 

「こ、これは……っ!!」

 

 プレシオザウルスの子供が出てきた時点でもう四海が何を見せてきても自分は驚かないだろうと考えていた六花であったが、その予想はあっさりと覆された。

 

 秘密基地、というキーワードを聞いた時にはそれはよくある子供の遊び場であろうと想像していた。

 

 四海のような年頃の子供は(男の子に多いが)誰でも、自分達だけの聖域を持っているものだ。六花自身も彼女ぐらいの年齢の頃はそうだった。それは工事現場や資材置き場、あるいは大きな屋敷の土蔵などの場合もある。あるいは大きな木の洞だとか。

 

 四海に案内されたのは、島の海岸沿いにある小さな洞窟だった。これも秘密基地としてはポピュラーな部類に入る。

 

 洞窟の中の、更に小さな穴にベニヤ板をくっつけただけの即席のドアをくぐる。

 

 通されたその先にあったのは……!!

 

「無線機、電算機、盗聴電波の受信機……」

 

 まずドアの先に広がっていた空間には机が置かれていて、その上には最新機器がずらりと並んでいた。そして棚には、

 

「小型カメラ、隠しマイク……」

 

 いやはや参ったと首を横に振って、苦笑いする六花。

 

「ここは、まさに秘密基地ね……」

 

「そりゃあ、私はこの年で学者ですからね。普通じゃない女の子なんだから、秘密基地が普通じゃないのも当たり前でしょう」

 

「確かに」

 

 くっくっと喉を鳴らす六花。

 

「では、無線を傍受してみましょう」

 

 四海はそう言って受信機の前に腰掛けると、スイッチを入れてヘッドフォンを耳に当てる。六花もそれに倣って予備のヘッドフォンを装着した。すると、ノイズにしか聞こえないような耳障りな音が入ってきた。

 

「暗号通信ね」

 

「ふふん」

 

 四海はにやっと不敵に唇の端を吊り上げると、懐から一冊の手帳を取り出した。表紙には「ANGO」と書かれている。

 

「暗号変えたって無駄だよ」

 

 視線を手帳にやって数秒。笑みが消えて、口元が真一文字に引き締まった。

 

「駆逐艦を呼び寄せたな!!」

 

 あっという間に暗号を解読してしまった四海を見て、六花は被っていた艦長帽を脱いだ。

 

「末恐ろしい十歳児ね。あなたが将来大人になったら、世界一の大人物か大悪党のどちらかになるわ。あるいは両方かも。私が保証するわ」

 

 しかし冗談はここまで。彼女も笑みを消して表情を引き締める。

 

「連中は海上で駆逐艦と合流して、ブランを乗せて外洋に出る気ね……!! どこへ向かうか分かった?」

 

「そこまでは話してなかったです」

 

 恐らくは、合流後にあの大佐が艦内で直接艦長に会って行き先を指示するのだろう。ちっと舌打ちする六花。しかしすぐに気を取り直して頭を切り換える。

 

「だが、話など聞かなくても何処へ行くかは分かるわ」

 

「そうですね、六花さん」

 

 四海はブルーマーメイドに笑い返す。

 

「彼らの中には博士が居た。ブランを解剖すると言っていたから、その生態について興味を持っている海洋生物の研究者ね」

 

「フランス政府・軍の目的は核実験を遂行する事。もし実験が行われたら、当然の事ながらその海域の環境は実験が行われる前とはかけ離れたものになってしまう」

 

 お互いの考えを述べ合って、それを確認し合うブルーマーメイドと海洋学者。ここまでは両者ともに見解が一致している。頷き合う二人。

 

「「だから必ず、実験が行われる前にその生息環境のデータを採る為に当該海域へと出向く……!!」」

 

 二人は声を揃えて、そして視線がテーブルに広げられた地図の一点へと注がれた。六花が万年筆の先端を、そのポイントに突き立てる。

 

「つまり四海ちゃん、ここね。あなたが論文で述べた、古代生物の生息域と目される海域……!!」」

 

「ガムビエール諸島近海……!! 奴らは必ずそこへ向かう筈。そしてそこの環境の調査が終わる迄はブランに危害を加えたりはしないでしょうね。希望的観測ではありますけど」

 

「よし、ならば私達は先回りしてそこで連中からブランを奪い返す……と、言いたい所なのだけど……」

 

 もう一度、二人は頷き合う。これで奴らの移動手段と、目的地は知れた。しかし問題はまだ残っている。

 

「向こうも私達が追い掛けてくる事は予想していたんでしょうね。島中の船という船は全て沈められていたわ。優秀ね、悔しいけど」

 

 自分達がそこへ行く為の足が無いのだ。

 

「船ならありますよ」

 

「!! 何処に?」

 

 聞き返してくる六花に、四海はにやっと年相応の子供っぽい、悪戯っぽい笑みを浮かべて返した。

 

「ここに」

 

 

 

 

 

 

 

「あなたには驚かされてばかりね、四海ちゃん……」

 

 今日何度目になるか分からない溜息を吐いて、六花は言った。

 

 電算機器や無線機が置かれたスペースには、更にその先に空間が広がっていてそこは海に繋がって入り江のようになっていた。長い年月を掛けて、風と波の浸食によって造られたものだ。

 

 そしてそこには、一隻の船が停められていた。

 

 全体が木製で、手作り感溢れる船だった。だがその形は、漁船や貨物船の類ではなく、ヨットとも違う。

 

「これは……イカダね。それも、太平洋を渡る為の」

 

 ひょうっと四海は口笛を吹いた。

 

「やっぱり、流石はブルーマーメイドですね。分かりますか。前にスペイン人から手に入れた図面を元に二年間掛けて完成させたんですよ。今日が進水式だ」

 

「この木は……桐……いや、バルサね。良い素材使ってるわ」

 

 船体を触りながら、六花はしきりに頷いて目を輝かせていた。

 

「しかし、動力はどうする? いくら私達は目的地が分かっているからと言って、風任せ波任せでは追い付くのは無理よ?」

 

「それも問題無いです」

 

 四海はそう言って、口笛を吹く。

 

 響いた高い音色が、洞窟内に反響していく。

 

 その音が、聞こえなくなった時だった。

 

 海面から、黒い塊が3つ顔を出した。

 

 ナイン、ロック、リケ。四海の家族であるシャチ達だ。

 

「この子達が声を掛ければ、近隣のシャチ達が何十匹と集まってくる。その群れ(ポッド)に引っ張ってもらえばいい」

 

「よーし……決まりね。ありったけの食料と水を持ってきなさい。それと使えそうな物は何でも積み込むのよ。急いで!!」

 

 作戦は決まった。

 

 四海と六花は島中駆けずり回って四海の家の備蓄は勿論の事、島民全員から少しずつ分けてもらって食料と水を船に積み込んだ。

 

 それに嗜好品として、四海の家にあったコーヒー豆に茶葉、角砂糖。携帯コンロ、鍋、万能包丁。

 

 秘密基地にあった六分儀、発信器、無線機器。

 

 それに娯楽も必要だ。本、ぬいぐるみ、それに四海のコレクションだったビー玉、打ち上げ花火。

 

 思い付く限りの物資を積み込んで、出港準備が整った。集まってきたシャチ達にも、ロープを繋いで牽引の準備が完了している。

 

 これで出港の準備は完了……いや、やるべき事がまだ一つ残っていた。

 

「六花さん、お願いがあるんですけど、良いですか?」

 

 切り出したのは四海だった。

 

「何かしら? 何でも言いなさい」

 

「この船には、まだ名前が付いていないんです。名前を付けてもらえませんか」

 

 意外な申し出を受けて、六花は一瞬だけポカンとした表情になる。そうした後で、にっこりと笑った。

 

「そう、ね……では……コンチキ号……というのはどうかしら」

 

「……? コンチキ……ですか?」

 

「えぇ」

 

 日本語でコンチキショーという蔑称を思い浮かべたのだろう。四海の顔が曇る。その反応を目の当たりにした六花は、くすくすと笑った。さしもの天才学者にも、知らないものはあったらしい。

 

「そう捨てたものじゃないわ。由緒ある名前よ。コンチキとは、古代インカ帝国の太陽神ビラコチャの別名でね……1500年前……イカダで1万キロの海を越え、ポリネシアに渡ったペルーの人達は、自分達を太陽の子だと信じていた……勇気と、絶対に諦めない根気が彼らの誇りだったのよ」

 

 六花の手が四海の頭に伸びて、撫でた。

 

「四海ちゃん、あなたも……お母さんとして……絶対にブランを諦めないんでしょう? たとえあの子が居る場所が外洋だろうと、この世の果てだろうと」

 

「勿論!!」

 

 打てば響くその応えに、我が意を得たりと六花は頷いた。

 

「ならば、四海ちゃん……コンチキという名前は……あなたの船に相応しい」

 

 そう言って、六花は四海の頭に自分が持っていた艦長帽子を被せる。まだ子供の四海の頭に帽子のサイズは大きく、ずれてしまった帽子を四海は直した。

 

「六花さん、これは……」

 

「言ったでしょう? これは、あなたの船だと。あなたが艦長よ。さぁ艦長、号令を掛けて」

 

 六花の両手が四海の肩に置かれて、それから背中をバンと叩いた。

 

「よーし……!!」

 

 四海も少しばかり戸惑っていたようだったが……やがて腹を括ったらしい。覚悟と闘志に充ち満ちた、凜々しい表情を見せる。彼女はもう一度、艦長帽を被り直した。

 

「コンチキ号、出港!!」

 

 ♪~~♪~~♪~~~

 

 六花が、秘密基地から持ってきたラッパを吹き鳴らして見事な旋律を奏でる。

 

 シャチの群れに引かれた船は、ゆっくりと外海へ向けて進み始めた。

 



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その8

 

 南太平洋フランス領ポリネシア・ガムビエール諸島。

 

 珊瑚礁が美しく多くの無人島が点在するこの海域に、一隻の筏が停泊していた。コンチキ号だ。

 

 早いもので四海と六花がパゴパゴ島を出発してから、既に一週間が過ぎていた。フィジーからは、計算するのも面倒なぐらいの遠い海。こここそが、ブランの本当の故郷なのだ。そして恐らくは、彼の一族の。

 

 傍受した無線から得られた情報によると、フランス海軍の駆逐艦・トリトン号がこの海域へと到着するのは今夜になるとの事だった。目的地を割り出して先回りして待ち伏せするという作戦の第一段階は、まずは達成されたという訳だ。四海と六花の読みは、正しかった。

 

「夜まで6時間か……まぁ、ゆっくりと英気を養いましょう」

 

「待つのは嫌いですね……」

 

 スコッチのグラスに入れる氷のように、マグカップ一杯に入れた角砂糖をがりがりと噛み砕きながら、退屈そうな四海が愚痴った。

 

「忍耐は、良い艦長の条件の一つよ」

 

 海面から顔を出していたリケに小魚をやりながら、六花は諭すように言った。

 

「そうは言ってもこう暇だとね……」

 

 瓶の中から取り出した4つの角砂糖を全て飴玉のように口内に放り込むと、四海は何かを思い付いたような顔になった。

 

「そうだ、六花さん。何か話をして下さいよ」

 

「話?」

 

「えぇ、統括の一等監察官って事はブルーマーメイドになって長いんでしょう? それなら、後輩とか候補生に訓示とか色々したりする事もあるんじゃないですか? そういった話が、聞きたいです」

 

 申し出を受けて、六花は「ふむ……」と少し考えた顔になる。そして今の四海と同じように、何かを思い付いた顔になった。

 

「じゃあ……船の話をしましょうか」

 

「船の……?」

 

「そう……人が、最初に船で海に出た時の話を……」

 

「……へえ」

 

 このテーマは興味を引いたらしい。四海は、マグカップをテーブルに置いて姿勢を正した。

 

 生徒が聞く体勢に入ったのを見て、教師も講義を行う姿勢を見せる。

 

「……そうは言ったけど、人類が最初に船を造ってその船で海に出てから、どれぐらい経つのかは私にも分からない」

 

「……そりゃあ、まぁ……」

 

 そうだろうな、と四海は頷く。

 

「でも、最初に海に出た人が何を考えていたか、どんな気持ちでいたかは分かるわ」

 

「どんな気持ちだったんですか?」

 

 四海の姿勢が、気持ち前屈みになったようだった。興味津々で、目が爛々と光っている。

 

 教師冥利に尽きるこの反応に、六花も上機嫌になったようだ。柔和に笑う。

 

「そう、ね……四海ちゃん……あなたも、まさかこのコンチキ号を一人で組み上げた訳では無いでしょう?」

 

 首肯する四海。

 

 どれほど優れた才能を持っていても、彼女は所詮子供でしかない。幼児が一人で船を汲み上げる事は出来ない。

 

「はい、船造りの名人のディンおじいさんに、組み方の指導を受けました。イカダに釘は使わない。釘は波に揉まれたら保たないからシュロやヨシで編んだ紐を使って……甲板は竹を使って組むようにとか……それに島の最長老の大婆様に、資材の調達を手伝ってもらいました。どこで何を揃えれば良いかを教えてもらって。他にも沢山の人に、組み立てを手伝ってもらいました」

 

 四海の答えを受け、六花は頷く。

 

「船はね、四海ちゃん……設計された時からそれに関わる人達の、沢山の夢を乗せているの。目の前に見える海より、もっと向こうへ行ってみたいという自由な夢を。それはきっと、最初に海へと漕ぎ出した勇敢で偉大な人が胸に抱いていた気持ちと、同じものなの」

 

「……自由な夢……」

 

 鸚鵡返しする四海の頭を、六花が撫でる。

 

「船は、夢へと向かう自由なのよ……四海ちゃん。この先、あなたがどんな船に乗るにせよ……それを忘れなければ良い……」

 

 

 

 

 

 

 

 そして、6時間が過ぎる。

 

 予定通り、フランス海軍所属の駆逐艦・トリトン号が姿を現した。

 

 既に、四海と六花は十分な休息を取って装備も調えている。心身共にコンディションはベストと言って良かった。

 

「いよいよ、作戦開始ですね」

 

「えぇ、その通りよ。覚悟は良いかしら? 四海ちゃん」

 

 六花に尋ねられて、四海は困ったように笑った。

 

「うん……実を言うとちょっと、不安ですね。六花さん。ここはひとつ、作戦開始前の訓示をお願いします」

 

 そう言うと、四海はびしっという音が聞こえてきそうな程に綺麗な直立不動の姿勢を取った。

 

「……そう、ね……四海ちゃん。私はあのパゴパゴ島で、ブランを見た時……まだあなたぐらいの頃、恐竜図鑑でプレシオザウルスの想像図を初めて見た時の……あのときめきを、思い出したわ。昔の私は夜毎に、何度も夢に見た。彼らと一緒に海を泳いで、彼らの背中に乗って海を征く夢を……」

 

 それはきっと、世界中の男の子と女の子がそうだろう。いつの時代も恐竜たちは図鑑の中やあるいは博物館の骨格標本として人々に、取り分け子供達に夢を与え続けてきた。

 

「その夢を、夢で終わらせなくする機会が与えられた。この戦い、私がブルーマーメイドとして希少な海洋生物を保護するという任務を果たす為だけでなく。あなたが母親として、ブランを取り戻す為だけでなく。世界中の子供達の、夢を守る為にも戦いましょう。さぁ、潮崎四海。危険に飛び込む心の準備は良いかしら?」

 

「Sir、yes、Sir!!」

 

 六花に敬礼する四海。六花は「うむ」と頷く。

 

「では……四海ちゃん……あなたに根性を注入してあげるわ」

 

「は……? 根性、ですか?」

 

 当惑した表情になる四海。

 

「えぇ、そうよ。後ろを向いて」

 

「は、はぁ……」

 

「では……行くわよ……!! 根性注入~~~っ!!!!」

 

 わきわきと指を動かして、六花は四海の尻を揉みしだき始めた。

 

「ひゃうっ!?」

 

「船乗りはお尻が命だからね。根性、根性、もう一発根性……!!」

 

「あっ……あん……らめぇ……っ……ああーーっ!!」

 

 ……と、まぁ、こんなやり取りを5分ばかり続けた後に、上気した顔の四海はじっと、トリトン号の船影を睨む。

 

「四海ちゃん、考えてたんだけど状況はイーブンと言えるかも知れないわね」

 

「イーブン、五分だと?」

 

 何を言っているのだという顔で、四海は六花を見上げた。

 

 これから自分達はたった二人だけで、駆逐艦に潜入する。

 

 相手は軍人がどんなに少なく見積もっても100人、恐らく200人以上は居るだろう。物量の差では話にならない。圧倒的に不利。なのにイーブンとは?

 

「連中は、私達が先に来ている事を知らない。ましてやたった二人で乗り込んでくるなんて思ってもいないでしょうからね」

 

「成る程……でも六花さん、それは違いますね」

 

「……ふむ?」

 

 首を傾げる六花に、四海は不敵に口角を上げた。

 

「あなたが居る。こっちが有利だ」

 



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その9

 

 落ち着いた夜の海。

 

 しかしその静寂は、あっさりと破られる。

 

 迫撃砲にも似た尾を引くような音の後、響く爆音と破裂音。

 

 敵の攻撃かと思って、トリトン号の船員達は緊張の内に配置に付いた。

 

 しかし夜空に咲いた光の花を見ると、その緊張もすぐに解けてしまった。

 

 日本の、打上げ花火という文化を話には聞いていたが、実際に見た事がある者はクルーの中にも殆どおらず、艦長を初め船内のほぼ全員が見取れてしまっていた。

 

 しかし、この時点で少なくとも艦長は思い至るべきであった。こんな南太平洋のど真ん中で「誰が」「何の為に」花火を上げているのか?

 

 花火は、艦首の方向から打上げられている。その反対側、つまり艦尾の方向から花火の弾ける音に紛れて聞こえないが、水音が聞こえてきていた。

 

「ふふふ……まずは、潜入成功ね」

 

 ずぶ濡れの六花が、人気の無い甲板を進んでいく。

 

 花火は四海達の作戦であった。

 

 まず、コンチキ号をトリトン号の前方、気付かれないぐらいの距離に停泊させる。次に四海が持ち込んでいた打ち上げ花火に時限装置で点火し、打上げる事で乗員の注意を艦首方向へと集中させる。その隙を衝いて、まずは六花が艦尾から潜入する。

 

 肝心の駆逐艦へ乗り込む手段であるが、これはリケやロック達、今までコンチキ号を文字通り引っ張ってくれてきたシャチ軍団だった。

 

 最初に六花が、艦尾すぐそこまで泳いで接近する。

 

 その状態から、水中で十分に加速を付けたリケがジャンプして六花を空中へと押し出す。そしてジャンプが頂点に達した所で、六花がリケの鼻先を足場に使って更に跳躍。この二段ジャンプによって高さを稼いで、ロープなどを使うよりもずっと早く、彼女は駆逐艦への潜入を果たしたのだ。

 

「さて」

 

 濡れた髪を掻き上げた六花は、きょろきょろと辺りを見渡す。

 

 差し当たってやるべき事は……「ある物」を見つける事だった。船に限らず、どこにでもあるような物だが……

 

 目当ての物を見つけるのに要した時間は一分足らずであった。

 

「お、あったあった」

 

 

 

 

 

 

 

「それにしても、花火なんて珍しいものが見れたもんだな」

 

「しかし、何でこんな所で花火なんて……うん?」

 

 肩にライフルを担いだ二人の水兵は、雑談しながら艦内を見回っていたが……そこで、異様な物を発見した。

 

「おい、何だこりゃ?」

 

「段ボール箱……だよな?」

 

 彼らの前方に段ボール箱が一つ。無造作に置かれていたのである。

 

「「……?」」

 

 顔を見合わせる二人。

 

 どうして段ボール箱が、いきなりぽつんと一つだけしかも通路のど真ん中に置かれているのだ?

 

「まさか、誰か入っているとか?」

 

「いやあ、まさかな……」

 

 冗談めかして話しつつ、一人が持ち上げる際に指を入れる為の穴へと視線をやって中を覗き込もうとする。

 

 もう一人が、ひょいっと箱を持ち上げた。

 

 中に誰かが入っているのなら開けられまいと押さえ付けたりするかと思っていたが、思いの外何の抵抗感も無く箱は持ち上げられて……そして、箱には何も入っていなくて、誰も中には居なかった。

 

「「……??」」

 

 二人は再び顔を見合わせて、首を傾げ合う。

 

 中に何も誰も入っていないのは分かったが……しかしだとしたらどうして、段ボール箱が一つだけ置かれていたのだ?

 

 疑問に思って……そして視線を落とすと、彼らはとんでもないものを発見した。

 

 ライトに照らされて床に落ちる人影が、”三つ”あったのだ。自分と、相棒と、そしてもう一つ。

 

「……!?」

 

 反射的に振り返るが、しかし謎の人影の正体を確かめるより前に、彼は視界がブレるほどの衝撃を受けて呆気なく意識を手放した。

 

「なっ……」

 

 もう一人は、辛うじて背後に立っていた人物の姿を確かめる事は出来た。

 

 ブルーマーメイドの制服を纏った妙齢の女性だった。

 

 しかし、彼が収集出来た情報はそこまでだった。

 

 次の瞬間には腹に鉛を埋め込まれたような重い衝撃が走って、彼はひとたまりもなく意識をブラックアウトさせた。

 

「ふん……フランス海軍は接近戦には弱いようね」

 

 僅か数秒で二人の海兵を無力化したブルーマーメイドの女性・六花は、やれやれと首を振った。訓練は不十分なようだ。

 

 これ見よがしに通路に置かれた段ボールは彼女の策略であった。これは言わば撒き餌。それに注意を引かせた所で、背後から忍び寄って二人を制圧する。

 

「さて……次は……」

 

 二人の肩に掛けられたライフルを見て、六花はにやりと唇を歪め……そして懐から、口紅を取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 数分して、艦内はにわかに騒がしくなった。

 

 通路に気絶した海兵二人が転がされていて、しかも一人は携帯していたライフルを奪われていた。更にはご丁寧にもライフルを奪われた海兵はシャツに口紅で「NOW I HAVE A RIFLE HO-HO-HO(ライフルは頂戴したホ、ホ、ホ)」と落書きされていた。

 

 艦内に侵入者。しかもそいつは海兵から奪ったライフルを持っている。

 

 打ち上げ花火を目にしての観光気分など、一瞬にして吹っ飛んだ。

 

 4名の海兵が急ぎ足で通路を横切っていく。

 

 彼らが曲がり角を横切って姿が見えなくなった所で、天井を走っている通風口の網が外れて床に落ちて、次にはその穴から少女が姿を見せて、通路に着地する。四海だ。

 

 これが二人の立てた作戦の全容だった。

 

 まずは打ち上げ花火で乗員の意識を艦首方向に集中させて、その隙に六花が艦尾から潜入してそして騒ぎを起こす。そうして乗員の意識を六花に集中させた所で、時間差で侵入した四海がブランを奪還するという策であった。

 

「さて、ブランは……?」

 

 このタイプの艦の構造は、既に六花からレクチャーを受けて頭に叩き込んでいる。恐らくは正規の海兵ではなくこの艦のゲストなのであろう博士……グーバッカーと言ったか。彼にあてがわれているであろう部屋には、程なくして辿り着いた。六花の陽動が上手く行っているらしく、そこまでは海兵と遭遇せずに移動出来た。

 

 見ると部屋のドアには「ドクター・グーバッカー」と書かれていた。ビンゴ。

 

 音を立てないよう、ゆっくりとドアノブを動かして部屋に入ると、壁際には大きな水槽が置かれていて、その中にブランが入れられていた。部屋の主であるグーバッカー博士は、机に向かって何やらレポートを綴っているようで四海にはまだ気付いていない。

 

「ようし……」

 

 そろりそろりと近付いた四海は、博士のすぐ背後まで肉迫する。博士は、まだ気付いていないようだ。

 

 しかしその時だった、水槽の中のブランが四海に気付いて「キィ、キィ」と鳴き声を上げたのだ。

 

「?」

 

「!!」

 

 博士は何だろうと背後をのっそりと振り返って、対照的に気付かれた事を悟った四海の動きは速かった。

 

 振り向いた博士と、四海の目が合った。

 

 そして次の瞬間、四海は持っていた木製バットを博士の頭に振り下ろした。

 

 ゴン、と気持ちのいい音が鳴って、博士は一瞬で白目を剥いてぶっ倒れた。

 

 それを見た四海は手際良く懐から取り出したテープで博士を後ろ手に縛り上げて足も縛って動きを封じ、口にもテープを貼るとロッカーの中にその体を仕舞った。この間、ほんの2分の出来事である。

 

 そうして邪魔者を排除した四海の胸に、水槽からジャンプしたブランが飛び込んできた。そんな竜の子供を、ナイスキャッチして受け止める四海。

 

「キィ、キィ……」

 

「あぁ、良かった……ブラン。無事で……本当に……」

 

 まだ別れてから一週間しか経っていないが、数年も離れていたかのように四海は感じていた。

 

 ブランの体は、一週間前よりも大きくなっていた。

 

「さぁ、ブラン……ここから出るよ」

 

 ブランを抱えて部屋から出る四海。横断歩道を渡る時のように、左右を確認する。海兵達の姿は見えない。

 

 四海はおっかなびっくり、艦内を移動していく。

 

「よし……」

 

 甲板を歩いていると、艦に搭載されているスキッパー(水上バイク)が目に入った。

 

「……」

 

 にやり。

 

 面白い悪戯を思い付いた子供のような意地の悪い笑みを見せると、彼女は瓶に入っていた角砂糖を取り出して、ガリガリと噛み砕いた。

 



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その10

 

「はっ……はっ……」

 

 荒れた息を整えつつ、壁を背にした四海は額の汗を拭った。

 

 色々とスペシャルな彼女ではあるが所詮は十歳の少女の肉体でしかない。成長したブランを抱えながら艦内を走り回るのは中々に、堪える。

 

 しかし、休憩はすぐに終わりにしなければならなかった。ここは敵地なのだ。あまり長く留まって、警備の海兵とバッタリという事態は避けたい所である。休むのはここから逃げ延びて、安全な所に避難した後でいくらでも楽しめばいい。

 

 今はここから逃げ出す事、それ一つに集中しなければ。その為には無茶でも無理でもしなくてはならない。

 

「もう少しの辛抱だよ、ブラン……」

 

 息を整えた四海は、胸に抱えたプレシオザウルスの子供へ安心させるように囁きかける。それに応えるようにブランは「キィ」と鳴いた。

 

「!!」

 

 通路を進んでいくと曲がり角から何者かが駆けてくる気配を感じて、四海はブランを片手で抱え直すと右手でバットを構える。

 

 ジャキッ!!

 

 曲がり角から現れた人物は四海にライフルの銃口を突き付けてくるが……しかし、すぐに下ろした。四海も同じように、構えていたバットを下ろす。

 

「四海ちゃん!!」

 

「六花さん」

 

 パートナーと合流出来たのを確かめると、六花の視線が四海が抱えている物に動いた。

 

「首尾は、上場のようね」

 

 そっと、六花がブランの頭を撫でようと手を伸ばす。ブランは長い首を伸ばして、彼女の指先をぺろりとなめた。

 

「わぁ……」

 

 それまでは鉄のようだった六花の顔が、一瞬の間に綻んで少女のように変わる。

 

 そして、すぐに鉄の顔に戻った。

 

「急いで。脱出するわよ。こちらへ!!」

 

「はい!!」

 

 六花に先導され、艦内を駆けていく四海。遂に甲板上の通路に出た。海風が、火照った肌に心地よく感じる。

 

 もう少しで、この船からおさらば出来る。

 

 そう、四海が思った瞬間だった。

 

 夜闇で薄暗かった視界が、いきなり真っ白になった。

 

 無論、実際にそうなったのではなくそうだと錯覚するほどの光量が二人と一匹に浴びせられたのだ。トリトン号に搭載されているサーチライトだ。これで、完全にトリトン号は二人の存在に気付いた事になる。

 

 前方の通路から、大勢の人間が駆けてくる足音が聞こえる。やがて角を曲がって、海兵達が姿を見せた。

 

 ライフルを構える六花。しかし、やってくる海兵の数は多い。10人以上も居る。

 

「六花さん、こっちからも!!」

 

 たった今自分達が走ってきた反対方向の通路からも、ライフルを構えて緊張した面持ちの海兵がぞろぞろと現れた。そしてその海兵の先頭に立っているのは、二人にとっては見知った顔だった。一週間前にパゴパゴ島にやって来た、フランス海軍のメルベール大佐だ。

 

「侵入者と聞いて来てみれば……お嬢ちゃんと宗谷一等監察官、あなただったとはね」

 

 大佐が、懐から銃をドロウした。銃口は四海にぴったり、正確には彼女の胸に抱かれたブランへと向けられている。

 

 前にも後ろにも海兵が十人以上居る。流石の六花も、これだけの数を一度に相手しては勝ち目はあるまい。何よりも、手強い六花と戦うまでもなく彼らは勝利する事が出来る。彼女のウィークポイントは、一緒に居る四海だ。十歳児でしかない四海が組み伏せられてしまえば、そのまま人質。それで勝利確定だ。

 

 戦うもならず、逃げるもならず。

 

 進退窮まったとはまさにこの事である。

 

 だが、その時だった。

 

「!」

 

 ぴくりと、四海の耳が動いた。何かを探すように、キョロキョロと周りを見渡す。

 

「? 四海ちゃん?」

 

 この反応に気付いた六花が、怪訝な表情を見せた。

 

「残念だけど大佐さん、勝負は付きましたよ」

 

「?」

 

「私達の勝ちだ。地の利は、こちらにある」

 

 四海の言葉の意味を測りかねたのだろう。大佐は少し間の抜けた顔になる。対照的に六花は、その言葉の意味が正確に理解出来ているようだった。「成る程」と頷いた。

 

「じゃあ……行きますよ、六花さん」

 

「えぇ……四海ちゃん……跳べぇっ!!」

 

 ほぼ同時のタイミングで、二人は安全柵を越えて跳んだ。

 

 当然、後はそのまま海へと真っ逆さま。そのまま海面に叩き付けられる……かと思われた、その瞬間だった。

 

 ざばあっ!!

 

 海を割って、黒い巨体が飛び出した。

 

 シャチだった。四海の家族である、スレイヴ9だ。

 

 ナインは絶妙のタイミングで、二人と一匹を空中でキャッチするとそのまま円弧を描いて着水。そうしてシャチ特有の物凄いスピードで泳ぎ去って行く。四海達の姿は、夜の闇に隠されてすぐに見えなくなった。

 

 凄まじい脱出劇を見せ付けられて大佐も海兵達も呆気に取られていたが……数秒が過ぎて大佐が「はっ」と我に返った。

 

「何をしている!! 急いでスキッパーを下ろして後を追うんだ!!」

 

「は……はい!!」

 

 大佐の怒鳴り声に当てられて、海兵達は慌ててスキッパーを海面に下ろして、エンジンをスタートさせる。

 

 ところが彼らのスキッパーは、10メートルも進まない内にエンジンが異音を立てて動きを止めてしまった。

 

「な、何だ? どうした?? 故障か!?」

 

 

 

 

 

 

 

「……おかしいわね? てっきり、向こうは逃げた私達をスキッパーで追ってくるかと思っていたけど……」

 

 ナインの体にしっかりと掴まって振り落とされないようにしながら、六花が後方に見えるトリトン号の船影を睨んだ。

 

 追っ手のスキッパーが、こちらへと向かってくる気配は無い。

 

「あいつらなら、追ってこれませんよ」

 

 と、四海。

 

「スキッパーのエンジンタンクに、角砂糖を入れておきましたから」

 

「!! ほう……」

 

 感心した表情になる六花。

 

 砂糖をエンジンタンクに入れると熱で水飴のようになって融けて、フィルターに詰まって燃料噴射が上手く行かなくなってエンジンが上手く掛からなくなる。四海はブランを抱えて逃げる傍ら、逃げる時に追っ手が掛かる事を予想して相手の足を潰してもいたのだ。全く以て手際の良い事である。

 

 これで、しばらくは時が稼げる。

 

 だが、このままずっとナインに掴まって逃げ続けるというのも考えものだ。

 

「駆逐艦との鬼ごっこなどしたくないですね……それに私達も、いつまでも海に浸かっていたら低体温症になりかねませんし……」

 

「……四海ちゃん、それに関しては既に手は打っているわ。そろそろ、来る筈なのだけど……」

 

「来る? それはどういう……!?」

 

 聞き返した四海は、しかし前方に異様な気配を感じて振り返った。

 

 視界が、黒く塞がっている。

 

 夜の闇によって、ではない。

 

 何か、とてつもなく巨大な物が海に浮かんでいるのだ。

 

 それが何なのか? 四海は目を凝らしてシルエットの全体像を把握しようとしたが、それは叶わなかった。

 

 何故なら彼女たちの前方にある物は、全体が視界に収まりきらないほどに巨大であったからだ。

 

 ぶつからないように、ナインが左へとカーブした。

 

 ほぼ同時に、暗かった視界が照らされる。

 

「!!」

 

 見上げると何隻もの飛行船が飛んでいて、サーチライトで夜の海を照らしていた。

 

 その光に照らし出されて、眼前の巨大な物体の全容が分かるようになった。

 

 船だ。

 

 しかしその大きさたるやどうだ。

 

 仮にも軍艦であるトリトン号が、ゴムボートに思えるほどに大きい。距離が近い事もあって、四海は目の前の金属壁が船体である事を把握するのに少し時間を要した。それほどに、巨大な戦艦だった。

 

「ブルーマーメイドだ!!」

 

「良かった。間に合ったわね」

 

「……六花さん、これは……」

 

 四海に尋ねられて、六花はくすっと笑みを見せた。

 

「ブルーマーメイド総旗艦『大和』……ここへ来るように、無線で連絡していたのよ」

 

「ここへ来るように……って……」

 

 鉄のようだった六花の顔が、再び女の子のような無邪気さを帯びた。

 

「改めて自己紹介させていただきますね、潮崎博士……現ブルーマーメイド総括・ブルーマーメイド総旗艦『大和』艦長の、宗谷六花です」

 



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その11

「へぇ……これが、戦艦大和か……」

 

 普段は大人顔負けの行動力や冷静沈着さを見せる四海であったが、今日この時ばかりは興奮と好奇心を隠そうともせず、大和の内装に目を輝かせて見入っていた。そんな少女学者に、この艦の長である六花はぽいとタオルを投げ渡した。

 

「見学も良いけど、四海ちゃん。体を拭いて服を着替えなさい。それと食事も用意させるから……」

 

「はい、六花さん……」

 

 こんなやり取りを経て、着替えた四海は大和の艦橋へと通された。

 

 ブリッジでは、ブルーマーメイドの制服に身を包んだ女性達がびしっと整列して二人を出迎えた。全員、背中に一本の棒でも入っているのかと思うほどに背筋がぴんと伸びていて動きもきびきびしている。ブルーマーメイド総旗艦のクルーだけあって高度に訓練されている事が、素人である四海にも良く分かった。

 

 しかしブルーマーメイド達の視線は、全員が一カ所に注がれている。四海の胸に抱かれたプレシオザウルス、ブランへと。

 

「えっと……それ、ぬいぐるみじゃないよね?」「ほ、本物?」「触っても良い?」

 

 こんなやり取りが交わされていると、通信機器が音を立てた。早速、士官の一人が計器を操作してヘッドフォンに手をやる。ブランに気を取られてはいても、そこは訓練された反射的な動きだった。

 

「艦長、トリトン号から通信が入りました」

 

「内容は?」

 

 カツカレーを頬張りながら、六花が尋ねる。

 

「はい、当艦がフランスの領海を侵犯しており、即刻退去するようにと……それから艦長とそちらの……」

 

「四海です、潮崎四海」

 

「はい、四海ちゃんがトリトン号に侵入して艦のクルーや同乗しているグーバッカー博士に暴行を働いた件についての謝罪と賠償責任についての説明を行う事と、盗み出した研究資料の即時返還を求めています」

 

「断った場合は?」

 

「これを国際問題として、日本政府に正式に抗議すると……」

 

「ふん……」

 

 カツを二切れまとめて口の中に入れてしまうと、六花は鼻を鳴らした。傍らで同じようにカツカレーを食べていた四海も似たような反応だった。

 

「自分達こそ、私の元からこの子……ブランを盗み出したクセに……盗っ人猛々しいとはこの事ですね……」

 

 六花の手が、四海の肩へと置かれた。

 

「大丈夫よ、四海ちゃん……絶対にブランは渡さないから」

 

「艦長、返事はどのように?」

 

「バカメ。よ」

 

「は?」

 

「バカメと、そう言ってやりなさい」

 

「分かりました、大和よりトリトン号へ。バカメ、バカメ。どうぞ」

 

 すると、トリトン号のクルーが激怒して怒鳴っているのが、漏れ出てくる雑音からヘッドフォン越しにも分かった。

 

「艦長、向こうが怒ったようです」

 

「まぁ、そうでしょうね」

 

 大盛りのカツカレーを平らげた六花が、空の皿を机に投げ出して応じる。

 

「しかし艦長、真面目な話どうしますか? このままでは本当に国際問題になるかも……私達ではその責任を取るのは……」

 

「責任は全て私が取るわ。それに……」

 

 六花は立ち上がると、水を張った大きな金タライに入れられているブランへと歩み寄って手を伸ばす。ブランは首を伸ばして、六花の指先をぺろりと舐めた。クルー達から、驚きや羨望の声が上がる。

 

「もし、本当にこの海域にプレシオザウルスが群生しているとしたら……私達はブルーマーメイド……海に生き、海を守り、海を征く者として……間違っても核実験など、させる訳には行かないでしょう?」

 

「それは、そうですが……」

 

 副長の視線が、四海と彼女が抱えるブランへと動いた。

 

「確かにこうして生きた首長竜の子供が居る以上、頭から否定する事も出来ませんが……しかし、プレシオザウルスの子供一匹が生きているだけでも奇跡的……いえ、奇跡そのものと言って良いでしょう。ましてや、群れが生きているなど……」

 

 その時だった、伝声管が鳴る。六花が蓋を開いて対応した。

 

「こちらブリッジ、何かあったのかしら?」

 

<水測よりブリッジへ!! 本艦周辺に、多数の潜水艦が接近中です!!>

 

「潜水艦? バカな、この時期、この海域に他国の潜水艦など居る訳が……」

 

「どこの国の潜水艦なの? 国籍の特定は出来るかしら?」

 

<そ、それが……音紋を取ろうにも該当する艦種が存在せず……そもそもスクリュー音らしいものが殆ど聞こえないのです>

 

「……ふむ?」

 

「か、艦長!! 外を見てください!!」

 

 ブリッジクルーの一人が、声を上げた。

 

 彼女の指さす方向へと視線を動かすと、海面の隆起が見えた。それも一つや二つではなく、大和やトリトン号の周囲に、無数に。

 

 やがて海を割って、巨大なものが姿を見せた。

 

 古代より海の伝説に語られるUMA(未確認動物)シーサーペントかと思われたが……しかし、違っていた。

 

 現れた巨大な影は、全てブランをそのまま大きくしたような姿をしていた。プレシオザウルスだ。間違いない。

 

 図鑑の中でしか見られなかった筈の絶滅動物が、現実に生きて、次々に浮上してきていた。

 

「し、信じられない!! 艦長、プレシオザウルスですよ!! 夢じゃないですよね!! これ、夢じゃないですよね!!」

 

「こ、こうしちゃいられないわ!!」

 

 興奮した副長が、伝声管を開いて全艦放送を掛けた。

 

<手の空いている者は前後左右どちらでも良いから見なさい!! 手が空いていなくても見なさい!! プレシオザウルスの群れよ!!>

 

「フィルムに撮っておきます!!」

 

「よろしい、許可するわ。艦内のフィルムを全て使い切っても構わない。撮れるだけの映像と写真を撮影するのよ。彼らを背景にしての記念写真を撮影しても良いわよ」

 

 この指示を受けて、大和の艦内が「わっ」と湧いた。クルー達は我先にと甲板へと駆け出し、写真の撮影をそれでなくとも生きたプレシオザウルスを一目見ようと詰め掛けている。感極まって海に飛び込もうとする者さえ居たが、流石に危険なので他のクルーに止められていた。

 

 ブルーマーメイド総旗艦のクルーとは到底思えないような狂態・乱痴気騒ぎではあるが……それも無理はあるまい。生きた首長竜を、しかも百匹単位で目の当たりにしたのだから。誰でも興奮し、忘我状態となるだろう。

 

 それに、六花の指示も満更乗員へのサービスだけの為ではない。稀少海洋生物の保護というブルーマーメイドの任務に照らし合わせるのなら、ここで一枚でも多くの写真を撮って記録を残しておく事には、大きな意味がある。

 

 これで、この海域にプレシオザウルスの生き残りが群生している事は確実になった。もしフランス政府がこれでもこの海域で核実験を強行したのなら、彼らは稀少などという言葉では到底言い表せない恐竜の生き残りが生息している事を承知の上で、彼らが本当に絶滅しても構わないと世界中にその行動で表明した事になる。

 

 そんな喧噪からやや離れた位置に居る者が一人。

 

 四海だった。名残惜しそうに、ブランの体を撫でている。

 

 六花にも、他ならぬ彼女自身が話していた事だった。ブランが、どんなに学術的に価値のある研究資料だろうと自分は彼を水族館で見世物にするつもりも、研究所のプールで一生を終えさせるつもりも無い。大きくなったら、必ず海へ還してやるのだと。

 

 本当なら、魚を獲れるようになるぐらいまでは自分の手で育てたかった。

 

 思っていたよりも少し早かったが……その時が、訪れたのだ。

 

 四海の肩に手が置かれた。六花だ。

 

 無言で自分を見る笑顔に、四海は頷いて返す。

 

 二人はタラップを降りると、ゴムボートに乗り換えて海へ出た。

 

 集まったプレシオザウルス達の中の、取り分け大きな一匹が何かを語りかけるように首を伸ばしてくる。同じように四海に抱えられたブランも、まだ彼らとは比べものにならない小さな体を精一杯使って、首を伸ばす。

 

 四海は、そっとブランを海へと放した。

 

 ブランはすうっと海中を泳いでいって……そして海面に顔を出して、群れと、そして四海とを代わる代わる見やる。

 

 まるで、どちらの側に行くかを決めかねているかのように。

 

「ブ……」

 

 四海が名前を言い掛けて……止めた。

 

 最初から、分かっていた事だった。

 

 いつか必ず来る日が、今、来たのだ。それだけの事だ。

 

 四海はそれ以上は何も言わず、ぷいっとブランに背を向けた。

 

 六花も、同じように無言でボートを大和へと戻す。

 

 ブランは、視線を四海から群れへと動かして……そして、群れの方へ向かって泳ぎ始めた。彼が、本来居るべき所へと。

 

「……!!」

 

 四海が、ばっと振り返る。その時だった。

 

 海面に、ブランが飛び出した。

 

 上り始めた太陽を背景に、濡れてきらめく姿。

 

 それが、四海がブランを見た最後だった。

 

 そして、七十余年を経て後も、彼女の目に焼き付き続ける姿だった。

 



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その12(おわり)

「ああ、まだここに居たのね」

 

 大和の甲板。

 

 安全柵をぐっと握って、そこに立つ四海は海をじっと睨んでいた。

 

 ブラン達、プレシオザウルスの群れが去って行った海を。

 

 早いものであれから、3日が過ぎていた。

 

 大和もトリトン号も、3日前の投錨位置からぴくりとも動かずに、睨み合うようにして動きを止めている。

 

 プレシオザウルスの群生を目撃するという超級の異常事態を受けて有耶無耶になっていたが、六花と四海がトリトン号に不法侵入して、船員や博士に暴行を加えたのは紛れもない事実である。とは言え、そもそもその原因となったのはフランス海軍のメルベール大佐が四海の家にチンピラをけしかけてブランを強奪しようとしたのが始まりだ。

 

 互いに、相手の弱みを握って相手に弱みを握られている状況で動くに動けず、またプレシオザウルスの群れの生息地という事実を受けて、フランス政府がどのように動くかも未だ不透明である。稀少動物保護の観点から実験を中止するのか、それとも強行に及ぶのか。

 

 いずれにせよ、そうした不確定な要素が多い為にブルーマーメイドも艦を引き上げる訳に行かず、膠着状態となってしまっていた。

 

「はい」

 

 持っていたおむすびを差し出す六花。四海は受け取ったそれを「どうも」と一礼して頬張る。

 

「良い知らせがあるわ」

 

「悪い知らせが一緒じゃないんですか?」

 

 からかうように笑う四海に六花は「それは無いから安心しなさい」と、笑うと、自分もかぶりついておにぎりを食べながら話していく。

 

「フランス政府が、この海域での核実験の中止を決定したわ。大統領が、正式に声明を出したのよ」

 

「わぁ」

 

 まだ半分以上残っていたおにぎりを一口で平らげると「本当ですか!?」と詰め寄る四海。

 

「えぇ……フランス政府も、ここは自国の国益よりも稀少な海洋生物の保護を優先する……という大義名分を優先したんでしょうね。流石にここまで世界中に公表してしまった以上……反故にすれば大統領の政治家声明は一瞬にして吹っ飛ぶ……まぁ、安心して良いでしょうね。その証拠に、見なさい。トリトン号が、引き上げ始めたわ」

 

 六花が指さす先を見やると、確かにこれまでは完全に停泊していたトリトン号が、回頭してこの海域から離れ始めていた。四海と六花の不法侵入・暴行の一件に関しては、フランス側も四海の家に盗みに入った件を不問とする代わりにブルーマーメイド側もこの件についてはこれで落着とすると、一種の取引が交わされて有耶無耶になったらしい。

 

「……そう、ですか」

 

 四海はしばらく考えるように顎に手をやって、そして尋ねる。

 

「六花さん」

 

「何かしら、四海ちゃん」

 

「これで……終わったんですか?」

 

 少女の問いの意味を少しばかり考えた後、六花は慎重に言葉を紡いだ。

 

「何もかも全てが……とは、行かないわね」

 

 この答えは、まだ少女ながら聡明な四海には分かっていたのだろう。彼女は少なくとも表面上は、失望したり怒りを覚えた様子を見せなかった。

 

「確かに、この海域での核実験は中止になった。でも、ここで実験が行われなくても別の所で実験が行われる。それがどこか他の海なのか……あるいは砂漠なのか? それは、分からないけれど……」

 

「……仕方ないですね」

 

 頷く六花。しかし彼女の言葉には、続きがあった。

 

「でも、この海で起きた事は必ず……世界に伝わる……いや、もう伝わっている……それも、確かな事よ」

 

「……」

 

「四海ちゃん……あなたの行動は、近視眼的な開発や発展だけを求める今の世界の流れに……確実に、一石を投じた」

 

「私は……自分に在るもの全てを出し尽くしただけ……ベストを尽くしたまでです」

 

 六花は四海の言葉に満足したように頷いた。

 

「それで十分だったのよ。あなたと、ブランと、私……3人で、世界に勝ったのよ」

 

「世界に」

 

 もう一度、六花は頷いた。

 

「後は、人々の良識と判断力を信じましょう」

 

「そうですね、六花さん……ところで、もう一つお聞きしたいのですが」

 

 四海が、話題を変える。

 

「何かしら?」

 

「……私は、ブランのママを……きちんと出来ていたでしょうか?」

 

 ほんの二週間ほどの間だったが、ブランは四海が嬰児の段階で拾い、刷り込みによって母親と思って懐いたのを育てた。

 

 四海は出会ってから別れるまで、ブランの為に全ての時間を費やし、やれる事は全てやって全精力を注いだつもりだったが……上手くやれていたかどうか、本当にやり残しは無かったか、出来うる限りを尽くせていたのか。それだけが不安ではあった。

 

「そうね……四海ちゃん、私にも娘が居るの。その、子供を持つ親の視点から見てみると……あなたは……」

 

 一度、六花は言葉を切った。

 

 四海は試験の結果を待つ学生のように、ごくりと唾を呑んでブルーマーメイドの次の言葉を待つ。

 

「とても立派に、母親が出来ていたと思うわ」

 

「……そう、でしょうか?」

 

「そうよ。あなたは私とたった二人で、彼を助ける為に二百人以上は敵が居るであろうトリトン号へと乗り込んだ。自分の子供の為に、自分の身をそんな危険に晒す事を躊躇わない人が、立派な母親でない訳が無い。私はあなたを、同じ母親として……尊敬するわ……四海ちゃん……いえ、ビッグママ」

 

「……ビッグママ?」

 

 くすっと、六花が微笑した。

 

「あなたの事よ。ビッグママ(偉大な母親)。相応しいコードネーム」

 

「偉大な母親、ですか……私には、ちと荷が勝ちすぎる名前だと思います」

 

「……では、精進する事ね。いつか……いつかその名前に、相応しい人となれるように」

 

「……はい、六花さん」

 

 頷き、一礼する四海。そして何呼吸か置いて、今度は言いづらそうに口を開いた。

 

「……さて、六花さん……これで、お別れですね」

 

 元々六花は、フランスの核実験から絶滅危惧種であるプレシオザウルスを保護する任務の為に、四海に協力を求めたのだ。そしてプレシオザウルスの群生が確認されて、フランスの核実験も阻止された。

 

 六花の任務は、終わったのだ。

 

 ならば、四海はパゴパゴ島へと帰り。六花は次の任務へと旅立つ。

 

 ブランとの別れがそうであったように、この六花との別れも、来るべき必然。避けられない運命だった。

 

 しかし六花は四海のその言葉を受け、首を横に振った。

 

「なぁに……また、すぐに会えるわよ」

 

 六花はそう言って、ポケットに手を入れると何かを握り混んだ手を抜いた。

 

 その握り拳が、四海の眼前に差し出される。

 

「……?」

 

 反射的に、四海はその拳を掬うように両手を出す。

 

 そうして、六花は拳を開いた。

 

 掌中に握られていた物が、四海の手に滑り落ちる。

 

「でないと、これを取り戻せないからね……」

 

 微かな重みを感じて、四海は渡された物を見る。

 

 ブルーマーメイドの、卒業メダルだった。新品ではなく僅かな瑕が見える。裏返してみると背面に「1916 MUNETANI RIKKA」と刻まれていた。1916年は、第一期・最初のブルーマーメイドが誕生した年だ。そして六花の名前が刻まれているという事は、これは六花が海洋学校を卒業した時、授与された物なのだろう。

 

「六花さん、これは……」

 

「あなたの物よ、四海ちゃん……同じ海の仲間……家族だからね……」

 

 渡されたメダルを、四海はぐっと握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

「さようならー!!」「元気でね、四海ちゃん!!」「また一緒に航海しましょうね!!」

 

 大和の甲板で、クルー達が口々に叫びながら四海に手を振っている。その中には当然、六花の姿もあった。

 

 シャチ達に牽引されるコンチキ号に乗った四海は、艦長帽を振ってそれに応えた。この帽子は、メダルと共に六花から贈られたものだった。

 

「さよなら、六花さん!! いつか、必ず……もう一度、会いに行きますから!!」

 

「待っているわよ、四海ちゃん!!」

 

 大和が、動き始めた。次なる任務が待つ海へと。

 

 その潮流に巻き込まれないよう、シャチ達も動き出した。

 

「さぁ……みんな、私達も帰ろうか……フィジーへと……やるべき事、学ぶべき事は、山ほどあるわ」

 

 

 

 

 

 

 

「……それが、今から七十年以上も前の話……あたしの最初の航海、最初の冒険の話。艦長と出会った時の話。あたしが最初の船・コンチキ号の艦長になった時の話、そして艦長から、ビッグママというコードネームをもらった時の話さね」

 

 現在。

 

 ビッグママの話が終わって、晴風クルー達は聞き入っていたが……

 

「すっごい!! ママさん、そんな子供の時から、凄い大冒険してたんですね!!」

 

 数分して、沈黙を破ったのは芽依であった。

 

「ガムビエール諸島近海は、現在は世界で唯一のプレシオザウルスの生息域・群生地として特別保護海域に指定されている。その制度が施行されたのが……今から70年以上前……では、潮崎教官が……?」

 

「そうだよ、美波ちゃん」

 

 ビッグママは傍らに置かれていたバッグを開く。そこには古ぼけた艦長帽が仕舞われていた。

 

 明乃の物とは少しばかりデザインが異なっているようだ。

 

「ミス・ビッグママ……これは……」

 

「さっきの話に出てきた、艦長から貰った物さ……ちょっと失礼するよ、シロちゃん」

 

 ビッグママはそう言ってましろの髪に手を伸ばすと、ボニーテールを束ねていたリボンをそっと解いた。ましろの長い黒髪が、さらりと彼女の背中に流れる。そうした所で、ビッグママはぽんと艦長帽を乗せた。

 

「あ……」

 

「ふうむ」

 

 にやにや笑いながら、値踏みするようにビッグママは隻眼を細める。

 

「そうしてると、艦長そっくりだよ、シロちゃんは……」

 

「あの、ミス・ビッグママ……これは……」

 

「その帽子は、シロちゃんが持っていると良い。ミケにはメダルを渡したが、あたしの訓練に合格したのは晴風クルー全員だからね。シロちゃんには、この帽子をプレゼントしよう」

 

「私が、曾祖母の帽子を……」

 

 感無量という様子で、ましろは肩を震わせていた。

 

 他のクルー達は、それぞれ戸惑ったように顔を見合わせて……タイムラグを置いて「わっ」とざわめき、万雷の拍手が巻き起こった。

 

「副長、おめでとうございます!!」「シロちゃん凄いですよ。流石は我が友!!」「やったわね、宗谷さん!!」

 

 そんなブルーマーメイド候補生の様子を眺めつつ、ビッグママは腕時計に目をやった。時刻は15時を過ぎたぐらい。まだ、時間はたっぷりとある。

 

「さて、次はどんな話をしようかね? ベーリング海のアドノア島で、プテラノドンを見た時の話はどうかな? あぁミケ、飛び級で進学した大学で考古学を履修していた時、教授と一緒にキリストの聖杯を探しに行った話はしたかね? あれも凄い冒険だったよ……他にも……」

 

 これは幕間の物語。

 

 晴風クルー達とビッグママこと潮崎四海との、触れ合いの一幕であった。

 



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