雷使い ~風と炎の協奏曲~ (musa)
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プロローグ

 ある二人の男の話をしよう。

 似て非なる人生の軌跡を歩んだ、ふたつの物語を。

 

 一人の男は、無力だった。

 決して才がなかったわけではない。それどころか彼は生まれながらにして、確かな『力』を備え持っていた。

 ただし、その力が本人だけでなく、親族に至るまで長い間見出すことが叶わなかったことが、彼の人生に大きな影を落とす事態になった。

 なぜならば、それによって男は、幼少の頃より周囲の親族たちから「無能」と疎まれ蔑まれながら、生きていかねばならなかったのだから。

 だが周りの評価に反して男は優秀だった。

 通学していた学園では、勉学・運動ともに常にトップクラス。何ひとつとて、同世代の親族たちの中で彼に敵うものはいなかった。

 ただひとつ、あるモノを除いては……

 ソレがないために、男がどれほど優秀さを示そうとも、親族はもとより実の両親すら一度として彼を認めることはなかった。

 それは男の一族にとって他の何よりも代えがたいほど重要視、否――神聖視しているとさえいうべき、ある『力』が彼には備え持っていなかったからである。

 その力は彼の一族の者ならば、誰もが先天的に身に宿しているはずであったのだ。ただ一人、男を例外として。

 この事実が、一族の中で男の価値を決定づけた。

 即ち――無能である、と。

 だが、男も唯々諾々と一族の決定に従ったわけではない。懸命に抗った。力を得んがために血の滲むような努力を重ねてきた。

 来る日も来る日も、何年も何年も、そのために研鑽を積んだ。

 力を、一族の人間と同じ力を――

 それが努力だけでは叶わぬと悟るや、八百万の神々に縋りついた。何より彼の一族が奉じる神に求め願った。

 だが、すべてが無駄であると理解するのに、そう長くは掛からなかった。彼の身の裡には、何処をどう探したところで一族と同じ『力』などありはしなかったのだ。

 その現実を直視してなお、男は諦めなかった。

 別の手段で、別の力を得ることが出来たのなら、両親と親族に認めてもらえるものと信じていたのだ。まだ、その時までは……

 何も彼は大それた力を欲していたわけでなかった。必要最低限の、一族に認められる力さえあれば満足だったのだ。

 何にも増して彼が力を追い求めたのは、それが「手段」であって「目的」ではなかったから。

 男が本当に求め欲していたのは、『力』を得ることで一族から暖かく迎え入れられ、両親から信頼と愛情さえ与えられるのならば、それでよかったのだ。

 普通の人間ならばとくに労力など支払わずとも、ごく当然に享受できたはずの権利。そんな当たり前のモノを、彼は実力で勝ち取ろうとしたのだ。

 それは純粋で穢れなく初々しい行為。如何なる邪まな思いもない無垢なる願い。

 皆の輪に入りたい。家族と繋がりたい。孤独を厭う一人の人間の痛切な叫び。そんな男に対して、周囲の反応は冷淡を極めた。

 親族たちは冷笑と侮蔑を。両親たちは徹底した無関心で押し通した。だが、後に男に降りかかる悲劇を思えば、彼らには解っていたのだろう。――親族たちが男を受け入れることなど決してあり得ないという現実を。

 それを証明するかのように、彼も一向に変わることのない現状を前にして、次第に嘆きと哀しみが心を圧し潰していった。

 何もかも放り投げてしまったわけではない。己を高めるための努力は以前と変わらず継続していた。ただ、かつて彼の心を満たしていた熱意と情熱は冷却され、ただ荒涼たる虚無だけが拡がっていくのみであった。

 にも拘わらず、もはや無駄と知りつつも継続していたのは、頭と体を酷使している限り、見たくもない現実と向き合う必要がなかったからに過ぎない。だから、彼はあたかも機械と化したかのように以前と同じ「作業」を黙々と繰り返していた。

 ――ある重大な事件が起こるまでは。

 彼の一族の宗主が事故により、再起不能の障害を被ったのである。そのため、早期に一族の後継者を決定しなければならなくなった。

 そこで次代の後継者として擁立された一人が他ならぬ彼であった。

 それは彼の実父が一族で絶大な権勢を誇っているための推挙だった。そこに、男の実力は関係なかった。

 対して、彼の他にもうひとり擁立された人物がいた。彼女(、、)は事故によりやむを得ず引退を余儀なくされた一族の宗主の娘であった。

 後継者候補に立てられた理由は、彼と同じくその血縁が最たるものであったが、男と完全に違っていた点は、幼いながらも、すでに確たる『力』を有していることだった。

 一族の後継者は、当然ひとりのみ。しかし、候補者はふたり。

 そうとなれば後は、どちらか一方がより優れているかを決めるしかない。彼らの一族は、遥か昔から『力』こそが正義であることを金科玉条に掲げていたのだから。

 一族の宗主の事故を契機に、勃発する後継者争い。

 だがこの戦いは、始まる前から結果は誰の目にも明らかだった。

 いかに研鑽を積んだところで、結局男は一族の中でも最下級の者にも劣る程度の実力しか身に付かなかったのだ。一族の奉ずる神から授けられる彼らの『力』に並び立つには、当時の彼にはあまりにも高き山であり過ぎた。

 それとは裏腹に、彼の対戦者たる少女は、幼き身でありながら一族の中でも将来を嘱望されるほどの圧倒的な才能を秘めていた。

 これでは男には万に一つも勝ち目はない。いや、それ以前にまともな勝負にもなりはしない。

 それも当然だ。これは、後継者争いの名を借りただけの事実上の公開私刑にも等しい。

 実際、男は彼より年少の少女に完膚なきまでに敗北を喫した。

 最初から勝つ見込みの全くない戦いだった。もしそれを認識していながら、後継者争いに名乗りを挙げたのが他ならぬ彼自身の意思であるならば、それはただの自業自得でしかなかっただろう。

 だが、違うのである。

 彼には一族の後継者になろうなどという身に過ぎた野心などなかった。またそんな力もありはしなかった。他の誰よりも彼がそれを自覚していた。

 故に、彼に勝てないこと確実な後継者争いに名乗りを挙げたのは、彼の意思などではなく、強制されてのことに他ならない。それも、実の父親に……

 そうでありながら、戦いの後、身も心も傷つき疲れ果てた彼と差し向った彼の父の対応は、にべもなかった。謝罪や慰撫の言葉で息子を慰めることもなく、それどころか「出ていけ」であったのだから。

 男は実の父親に勘当を言い渡されたのである。

 驚愕と絶望に駆られた男は、父に縋りつき慈悲と温情を乞うた。それが取り付く島もないと悟ると、母に泣きついた。――が、彼の母は息子を勘当した夫を非難するどころか、積極的に賛成の意を露わにして、父に棄てられた哀れな息子に当座の生活に困らぬだけの資金を手渡し、快く放り出したのであった。

 彼の母は、たとえ血の繋がった子供だとしても、愛することが出来ない人だったのだろう。しかし、彼の父は違った。

 父は息子が一族の属する世界では、到底生きていくことが出来ないと解っていたが故に、彼がまったく別の世界で生きられるように、あえて息子を一族から追放、いや「解放」したのであった。

 そこに悪意はなかった。彼の父親なりのどうしようもない程の不器用な「善意」があるだけだった。

 もっとも、二親から棄てられたと思い込み、悲嘆と絶望のどん底に沈んでいた当時の彼に、そんな父の秘められた想いなど察せられよう筈もない。

 彼はその日のうちに、一族から、故郷の国からも跳び出して、単身大陸へと渡った。

 その地で今までどんなに望んでも得られなかった真の愛情と献身、そしてそれを喪うことによってもたらされる、深い慟哭と絶望を味わう羽目になると知る由もなく……

 

 

 そして、もう一人の男の話を始めよう。

 男には『力』があった。

 生まれながらにして強大無比なる力が。そして――その力が彼の属する一族伝来のものでなかったことが男の人生に不運が見舞う羽目になった。

 それは――これから語ることにしよう。

 そう、数奇なる運命に彩られた『風』と『炎』の協演譚を。

 



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風使いと雷使い①

――……よ。風牙衆の長が命じる。神凪厳馬(、、、、)を暗殺せよ。さもなくば――

 

 

 この世でもっとも憎悪すべき相手の声を思い出し男は顔を顰めた。

 男の名は風巻大和。

 漆黒のロングコートに身を包んだ、二十歳前後の青年である。

 闇ばかりを抱える中でありながら、人目を忍んだような服装であるが、現状においてあまり意味を成していないだろう。なぜなら、大和が陣取っている場所は人目どころか文字通り人すらいない地上から遥か上空に居るのだから。

 科学文明の助けもなく素のままで上空に佇むその姿は、怪異そのものであったが幸か不幸かそれを指摘するものは誰もいない。

 しかし、『風巻』の意味を知るものであるならば、さして不思議には思うまい。最も、風巻大和は彼の一族でも異端に属してはいたが、今は関係ない話である。

 その彼は静かに眼下の地上を見下ろしていた。時間は深夜、しかも人口灯も少なく常人には真っ暗闇しか見えないだろう。

 だが、大和は理外の法の操り手である。この程度の闇はまったく障害にはならない。事実、彼はつぶさに地表の様子を見定める事が出来た。

 そこには深夜の公園で二人の男が戦っていた。

 一人は風を纏う青年の男――

 もう一人は炎を従えた壮年の男――

 両者は殺し合っていた。そう、それは間違いなく戦いであった。刃物の類を持つ事もなく、また殴りあう事もなく、彼らは激しく鎬を削っていた。

 彼らの間では、風が舞い、炎が猛った。

 何もない虚空から火炎が生み出され青年に向って奔り、その都度疾風が迎撃した。

 風炎狂宴。

 風と炎は互いを喰らい合うべく激闘が繰り広げていた。

 アレは只の自然現象ではない。

 アレらは凶器であった。二人のニンゲンが振るう恐るべき力であった。刃物の代わりに自然の力を操る者たち。彼らもまた大和と同じく理外の法の行使者なのだ。

 深夜の公園は常人では理解も介入も出来ない恐るべき異能を持ったモノ同士の決闘場と化していた。

 二人の男は大和にとって既知の人物だった。と言ってもとくに親交があった訳ではない。せいぜい顔見知り程度であったが、二人が何故戦い合っているのか、その理由を知っている程度には関係があった。

 風の青年の男――名を八神和麻という。旧姓は神凪和麻。

 炎の壮年の男――名は神凪厳馬。

 名前からも判る通り、この二人は実の親子である。

 なぜ深夜の公園で骨肉の争いをしているのかについては、複雑な背景事情もあるが一言で表すならば、古く特殊な一族に沈殿した因習ゆえだろう。

 神凪一族――それは火炎を操る炎術師の中でも最強と目される一族である。

 だからこそというべきか、「最強」という名声は一族に強い自負心をもたらし、結果、戦闘能力に至上の価値を見出す風潮が広まるにつれ、他の異能を下術と見下し、自分たちの炎術こそが至高だと信じた。

 そんな一族に神凪和麻は生を受けた。神凪の宗家に生まれながら彼は、まったく炎術の才を持つことなく……

 対して、父である神凪厳馬は宗主の椅子にこそ座ることはなかったものの、神凪家の歴史の中でも最高の炎術師の一人であった。また厳馬が神凪の体質を体現した人物であったことが和麻にとって更なる不幸を呼んだ。

 とはいえ、何処までも他人でしかない大和が、他人の家庭環境を論評する資格などないことは重々承知しているものの、客観的に見てもあまり幸福ではなかった事は確かだろう。

 なぜなら、和麻は四年前に実父から追放を言い渡されたからである。

 ある事件が切っ掛けだったのだろうが、こちらも端的にいうと炎術の才がない事が最大の理由であった。

 にも拘わらず、風の噂によれば、和麻はあの事件の後すぐに日本を離れたはずなのだが、どうやら最近になって再び日本に舞い戻ってきたと言う知らせが、神凪家に轟いた。

 それもかつて無力だった少年ではなく、大気を統べる風術師となって。

 この過去の顛末が今回の事件の始まりであった。

 前日のことである。神凪家邸宅で数名の神凪家分家の術者が惨殺された。調査の結果、犯人は風使いだと判明。神凪家は容疑者を帰国した『神凪』の名を捨てた八神和麻だと断定した。

 犯人は風使いで、また神凪家に恨みを持つ者だと仮定すれば和麻の名が真っ先に挙がるのは至極当然のことであった。

 だが、神凪家は分家でもトップクラスの実力者たちに和麻捕縛の命を出したが失敗。事態の深刻さを考慮に入れて、実質神凪家最強の術者である神凪厳馬がその任に赴いたのである。

 そして、現在に至るという訳である。

 戦いは佳境に入っていた。

 両者は間合いをとって対峙。戦闘開始時とまるで変わらない距離感、しかし刻一刻と高まる緊張感の度合いが戦いの決着が近いのだと教えてくれた。

 先に動いたのは壮年の男――神凪厳馬である。

 膨大な炎の精霊が厳馬へと集束する。

 炎の精霊は歓喜を超えた狂気に近い情動でもって厳馬に向って狂騒する。膨大な精霊が殺到する光景は、さながら海原から大津波が迫るに等しい。

 これ程の規模の精霊、一流の炎術師でも制御はおろか、近寄るだけでも精霊の狂気に引き摺られ、精神が破壊されかねない。だが、厳馬はそうではなかった。

 全ての精霊を制御かつ統合してのける。その業、すでに人の域のものではない。彼の纏う炎が黄金から蒼へとカタチを変えて昇華する。

 <神炎>――それは神凪家の中でも真に選ばれた者のみが行使できる絶対無敵の力。そして、一度解き放たれるや、全てを滅却する神威の具現。

 それを誰よりも承知しているはずの風の男――八神和麻はその神威の発露を前にしてもなお寸毫の恐怖も見せる事なく、涼しげに己が力を振るう。まるで、自らの勝利を確信しているかのような不敵な笑みさえ浮かべて。

 風が集束する。厳馬に劣らぬ――否、あきらかにそれ以上の速度で以って一点に集って

いく。大気の在る所に風の精霊あり。四大の中でも召喚速度において最速を誇る風術師の面目躍如か。

 集う。集う。集う。まだ集う。

 観客と化した大和は背中に冷たい汗が流れた。

 八神和麻の力の規模もまた隔絶した境地に在った。信じがたい事ながら、大和の目に狂いがなければ、精霊の総量においても和麻は、父厳馬を凌駕しているのではあるまいか。

 まさか、あり得ない。神炎使いが、超絶級の炎術師が、四大最弱の風術師に敗北するなど考えられない!

 大和は胸中に生まれた疑問を一笑に付した。そんな事実などあるはずがない。それがこの世界の常識であった。普遍の法則でさえあったのだ。

 だが、大和は忘れていた。

 どんな強固な法則であれ、それは時と供に覆る事もあるという事に。そして、今その現実を大和は目の当たりにしていた。

 先に術が完成したのは、やはり風術師。

 超大型台風を凝縮したかのような莫大なエネルギーが掲げられた手に収束していく。その力たるや、遠めで見ている大和でさえ戦慄を禁じえないものであったが、近場で味わう羽目になった厳馬の衝撃はどれ程のものであっただろうか。

 それを物語るように厳馬の動きが止まる。神凪最強の炎術師もまた和麻の実力は想定の埒外であったのだろう。実戦の最中でありながら、致命的な隙を見せる。

 無論、それを見逃す和麻ではない。風術師は更に風の精霊を手繰り寄せて、エネルギーを蓄える。

 厳馬も慌てて再召喚を試みるも、最早遅きに失した。既に和麻には、厳馬を超える力が集っていたからだ。

 和麻は躊躇なくその力を解き放った。

 超高圧の気圧の塊がフランス公園に吹き荒れる。轟ッという音が風の魔神(ジン)の咆哮ならば、その威力は、その巨腕による一撃だっただろう。

 超自然の暴風は一直線に厳馬に直撃。蒼き炎を薄紙の如く引き千切り、それでも尚止まらず術者の肉体に至り――吹き抜けた。

 そして、敗北者たる炎術者は地に墜ち、勝利者たる風術師だけが地に立った。

「……終わった、か」

 それが一部始終を見届けた大和の感想だった。

 もちろん驚愕の念は胸にある。が、余りにも結果が意外すぎると、人間は返って冷静になれるものらしい。

 だから、大和は神凪最強の炎術師が無頼の風術師に敗北したという事実を、素直に受け止めた。

 何より大和にとっての本番(、、)は、これからであったため余り拘っている暇もなかった。

 なぜならば、大和はこれより風牙衆の命令を遂行しなければならないのだから。

 

 

――風巻大和よ。風牙衆の長が命じる。神凪厳馬を暗殺せよ(、、、、、、、、、)。さもなくば……お前の大切な者を殺す――

 

 

「……ッ!」

 大和は両の拳を強く握り締めた。

 風巻大和は風牙衆の一族の者である。風巻家は先祖代々何百年もの間、神凪一族の下部組織の一翼を担っていた家系であった。

 勿論、そんな家が普通であるはずもなく、一族の人間はほぼ全員が風を操る異能を持つ風術師であった。組織名は風牙衆と呼ぶ。

 その風牙衆の人間である大和が、なぜ公園の上空で壮絶な親子喧嘩を観察していたかと言うと、主筋である神凪厳馬の援護……などではない。その逆の暗殺――その機会を窺っていたのである。

 この事実こそが、現在起こっている神凪家の騒乱の元凶を知らしめていた。

 そう、神凪家の人間を襲撃して幾人かを殺害に至らしめ、先刻大和の真下で骨肉の争いを演出した犯人こそが、他ならない風牙衆なのである。

 これら一連の事件は、すべて風牙衆が神凪の一族を対象とした復讐行為(テロリズム)。そして、これから大和が行う行為もまたその範疇に含まれる。

「……ふん、やはり気にいらないな」

 大和は風牙衆の人間であるが、一族に対する忠誠心などまったく持ち合わせていない上、そもそも神凪厳馬に遺恨すらない。本来ならばこんな任務など引き受ける道理など存在しない。だが……

「こんなところで、ぐだぐた言ったところで始まらない、か。……行ってくるよ、姉さん」

 迷いを断ち切るように呟くと大和は浮遊の術を切り、漆黒の闇と静寂に包まれた地上へと踊りこんだ。役目が首尾よく終わってくれることを心から祈りながら。

 

 

 狂おしいまでの激情はすでに過ぎ去り、八神和麻は地面に腰掛けて呆然と倒れ伏した神凪厳馬を見詰めていた。きちんと手加減したため死んではいない筈だが……

 和麻は自分がなぜ今更日本に帰ってきたのか、今はっきりと解ったような気がした。

 戦いたかったのだ。神凪最強の術者として君臨する男と。かつて和麻のすべてを支配していた父と。

 電話越しとはいえ四年ぶりに父の声を聞いたからではない。日本に帰ろうと決意したその瞬間から、神凪厳馬と決着をつける事を決めていたのだ。

 そうでなければ、どうして日本に帰ろうなどと思うだろう? 

 日本で退魔師として活動すれば、遠からず神凪家に自分の存在が知れ渡るのは確実だった。そうなれば神凪家から何らかのリアクションが起こる可能性は高かった。最も、帰国最初の仕事で神凪家の人間と鉢合わせするとは流石に予想できなかったが。

 ぼんやりと月を見上げながら和麻は思った。

 八神和麻が命を賭けて倒そうと定めた敵は最早いない――

 八神和麻が超えたいと願っていた男を超えてしまった――

 ならばこれから何をすればいいのか、和麻にはまったく解らなかった。月に向かって慟哭しても、和麻が行くべき道を指し示してはくれない。

 深い思考の海に沈んでいた和麻を呼び起こしたのは、膨大な戦闘経験から培われた直感だった。

 直後――黄金の閃光(、、、、、)がバリバリバリッと轟音を鳴り響かせながら、夜のしじまを引き裂いて和麻の頭上に落ちてきた。

(――雷だと、さては新手!? だがコイツは俺じゃない。狙いは親父か!)

 そうと気づいた瞬間、反射的に回避しようとした身体を意識的に止めて、防御に転じた。

 なぜそんな事をするのかと言う疑問は、意識の片隅に追いやりながら。

 和麻が展開した風の結界が雷光とぶち当たり、一瞬ストラボ効果のようにパッと弾けて深夜の公園を黄金色に染め上げると立ち所に消えた。

 そして――

 

 

「やはりこうなったか。まったく面倒なことをしてくれる」

 

 

 ――再度訪れた静寂を打ち破る声が天より公園に響いた。

 声とともに、一人の男が上空より舞い降りる。ひらりと軽やかに着地した黒衣の男は、依然、倒れ付しまま意識のない厳馬を挟んで和麻と対峙する。

 それを視界に収めながら和麻は、出来る限り冷静に状況の把握に努めていた。

 まず黒衣の男は何者なのか?

 ――これは現時点では判断する材料がないため棚に置いておく。

 風術師である自分が敵に存在を直前まで気付けなかったのは?

 ――これは簡単だ。和麻といえども厳馬を相手取って他に余力など残して置けるはずがなかった。通常より策敵能力が劣っていたとしても不思議はない。

 また、目下和麻の最大の敵対勢力は神凪家だったこともあり、地上に意識を割いていた事情もある。まさか敵が上空から襲撃してくるとは想定の範囲外であったのだ。

 だが――本当の疑問はそんな事ではなかった。

「どうしてだ? なぜ炎術師が親父を狙う(、、、、、、、、、、、)?……おまえは何者だ!」

 先の一撃の属性は『炎』であった。『風』ではなく火属性の精霊魔術である。風術師である和麻が、目の前に立つ精霊術師の属性を見間違うなど有り得ない。

 ましてや――神凪家の炎術師を!

 そう、目の前の炎術師は、神凪家の術者。それも黄金の炎を宿した宗家の縁者(、、、、、、、、、、、、、)のはずである。

(だからこそ解せねえ。神凪の人間がなぜ親父を狙う……?)

 そもそも神凪家一派が昨日今日と和麻に襲いかかってきたのは、正体不明の風術師に分家の人間が殺されたからではなかったのか。

 にも拘らず、どうして神凪のNO.2たる和痲の父親が、よりにもよって同族の炎術師に命を狙わなければならないのか。

 そんな疑問を懐きつつ、和痲は乱入してきた黒衣の男をつぶさに観察する。

 年の頃は和痲と同じか、少し下くらいといったところ。今時の若者にしては珍しく一切染められていない黒い頭髪は、短く刈り上げられている。口元はむっつりと引き締められており、その眼光は和痲の戦力を見計っているのか、油断ならぬ冷徹な光を灯していた。

 男は和麻の声に応えることなく無言のまま、明らかにこちらを警戒している素振りを見せている。

 そのことに和麻は軽く舌打ちする。

 神凪の炎術師が風術師を警戒するなど断じてあり得ない。厳馬との戦いを一部始終見られていたと考える方が自然だろう。ならば、弱いふり戦法はもう通用するまい。

 自分たちを最強などと思い込んでいる馬鹿な炎術師を相手にするには、実に有効な戦術だったのだが、残念である。

 だが、あらためて対峙する男の顔を眺めつつ、四年ぶりに神凪家宗家の顔ぶれを記憶の奥底から拾い上げて相互参照を試みたものの、該当する人物に心当たりがまったくない。

 ただ単に忘れただけ、ということもないではない。年齢的には唯一近いと思われる男子が宗家にいたと記憶しているものの、確かまだ高校生くらいの年齢のはずである。

 対して男は明らかに大学生くらいにしか見えない。

 それならば、思い起こす記憶の範囲を拡げて見るべきだろう。あるいは分家の術者から数百年ぶりに黄金の炎の使い手が誕生したのかもしれない。

 そこまで思案して和痲は、はたと思い至ることがあった。男の姿が記憶に残っていないのは、そもそも忘れているのではなく、探っている記憶の範囲事態に誤りがあるからではないか。

 すなわち――あの男は神凪家ではない(、、、、、、、、、、、)

 その瞬間、和麻の脳内で特大の電流が駆け巡った。

 和麻は知っている。憶えている。神凪であって神凪ではない者を。己と似て非なる者を。

 そう、神凪家に生を受けずして、神凪家の秘力たる『黄金の炎』を発現させた者を!

 蘇える記憶とともに、和麻はいま自分が巻き込まれる羽目になった神凪一族襲撃事件の首魁の正体を理解した。

「そういうことか、お前は風巻大和だな? なら俺を嵌めてくれたのは、風牙衆ってことか!」

 告げられた名に、暴かれた真実に男――風巻大和は目に見えて顔をしかめた。

 ひょっとしたら、大和は和麻が憶えていないと考えていたのかもしれない。無理もない。

 最後に顔を合わせてからずいぶんと経つ。

 だが、神凪家を出奔して四年経てなお和麻にとって彼は、そう簡単に忘れられる人間ではなかった。

 どうして忘れられようか。かつてどんなに望んでも得ることが叶わなかった『力』を有するこの男のことを。

 だが、それはもう過去の話である。和麻はもはや無力な少年ではない。神凪家最強の炎術師をも撃破した百戦錬磨の風術師。

 目の前に立ちはだかる男には、依然懐いていた羨望は無論のこと、畏怖の念もまた感じることはあり得ない。

 事実、和麻は動揺する大和の隙を抜け目なくつき、双方が対峙する中間に横たわる厳馬の身を、風を手繰って引き寄せる。

「貴様……ッ!」

 大和がそれに気づいた時にはもう遅すぎた。

 見えざる力に捕まった厳馬は、瞬く間に和麻の後方へと移動、いや乱暴に投げ出される。ごろごろとボールのように転がっていく厳馬。とても大怪我を負っている意識不明の父親に対する扱いではない。もっとも、和麻はそんな細かいことは心底どうでもよかったが。

 風巻大和の狙いは厳馬の命だ。

 だと言うのに、あんなところで呑気に寝転がられては邪魔で仕方ない。守ってやるつもりなのだから、むしろ感謝してほしいくらいだ。

「本当に余計なことばかりする奴だ」

 和麻の意図を察したのだろう、険しい面持ちで睨みつけてくる大和。

 まさに怒り心頭に発する、といったところか。心なしか周囲の炎の精霊が活性化している気がする。だとすれば、炎術師の強い怒りの感情に呼応しているのだろう。

 おお、怖い怖いと胸中で呟きながら、和麻はへらへらとしまりのない顔で笑う。

 それを見咎めた大和は、ぴくりと柳眉を逆立てて、

「……さっきから何を笑っている!」

 その怒号が戦いの合図となった。

 黒衣の青年の周囲でバチバチと紫電が迸るや、黄金色に輝く雷撃の槍が和麻目掛けて解き放たれる。その数、九本。前後に三、上左右にそれぞれ一本ずつ。和麻を取り囲むようにして殺到する、雷撃の牢獄。

 逃げ場はない。躱す隙もない。

 にも拘わらず、和麻の様相は泰然自若の態。完全に落ち着き払い、口元には依然、いつもの人を小馬鹿にするような笑みが浮かんでいた。まるでこの程度、危機でも何でもないと言わんばかりに。

 そして、風術師は右手を悠然と正面に突き出した。すると、それが号令であったのか、彼の足元から烈風が噴き上がる。

 総じて九条の風は、地面から伸び生えた大蛇の如く雷槍に絡みつき、締めつけ引っ張り上げながら、和麻に直撃するはずだった雷撃の軌道を強引に変える。――結果、九本の雷槍はことごとく大地へと引き摺り下ろされた。

 だが雷撃の槍は地面に激突する寸前、やにわに爆ぜるように風の拘束具を引きちぎり、無数にばらけて雷撃の蛇の群と化して、和麻を噛み砕かんと辺り一面で暴れ回る。その様たるや、まるで雷撃の嵐に見舞われたかのようだ。しかし和麻は、

(派手だねえ)

 呆れたように苦笑した。

 雷槍の投擲が不発に終わったと見て取って、大和は攻撃手段を切り替えたのだろう。が、それは無駄な足掻きだ。風の結界を展開した和麻には一切届くことはない。

 とはいえ精霊の密度、術の速度と応用。どれをとっても分家の術者を凌駕している。あるいは神凪家次期当主である神凪綾乃にも匹敵するかもしれない。

 だとしても和麻にしてみれば、所詮その程度に過ぎない。それだけではまったく脅威足り得ない。だがそんな和麻にしても、風巻大和の術に対して不可解な点が見受けられた。

(術の――雷術の行使が早すぎる(、、、、、、、、、、)

 雷術――

 言うまでもなく炎術師とは、『炎』を司る存在のことを言う。

 精霊魔術における『炎』とは、必ずしも火炎といった一形態に限定される訳ではない。光熱や電熱もまた炎術師の司る範囲に当たるのだ。

 だが炎術師が『炎』以外の属性を使用することはまずあり得ない。それは炎術師に成り損ねた和麻でも理解していた。理由は簡単である。無駄が多すぎるからだ(、、、、、、、、、)

 先に述べたように炎の精霊とは、『炎』という単一現象を指した存在ではない。

 なのに、なぜ彼らは「炎の精霊」と呼称されるのか。光熱や電熱を司るなら「光の精霊」や「雷の精霊」と呼ばれても構わないではないか。

 なのに精霊術師は遥か古より昔から彼らを炎の精霊と呼び習わす。

 それは物質界において炎術師に召喚された炎の精霊の顕れ方に起因すると言われている。炎の精霊は術者に召喚されると必ず炎の形態を採って世界に具現化するからだ。

 その理由は誰も知らない。そういう風に何者かによって定められているのだ。それがこの世界に法則なのである。だから術者は、その定められた範囲内で力を行使するしかない。

 つまり雷術を使用するのならば、『炎』を『雷』に変換する必要が絶対にある。

 炎術――『雷炎』。

 だが、この術は一流の炎術師ならばさして難事ではない。

 それでも、召喚する精霊の規模が膨大であればあるほど術の工程は、より困難を極めることになる。炎術師にとってそれは、術として完成する時間が大幅に遅れることを意味する。

 いわんや精霊魔術の最大の利点はその発動速度にある。

 呪文の詠唱を必要としないが故に、術の完成する速度が他の魔術系統に比べて格段に早い。だからこそ雷術の行使は、その点を大幅に損なう愚考といえた。この欠点から炎術師は、炎術以外の使用を嫌うのである。

 ところが風巻大和は、いかなる手段に依るものか雷術の不利を克服したらしい。明らかに彼の行使する雷術の発動速度は、通常の炎術のそれと遜色ない。

(炎術師業界なら表彰モノかもな)

 と和麻は内心で軽口をたたく。

 炎術師による雷術行使には少々驚きはしたものの、だからといって自分がそれだけで不利になるとは思わなかった。雷使いの魔術師や魔獣との戦闘経験もある。どのような攻撃であれ、対処可能であると判断した。

 もっとも風巻大和は術の上手い下手以前に、精神面において未熟な部分を多々残しているようだ。和麻が厳馬の身柄を押さえた途端、目的を見失っているのが良い証拠である。

 さっきの攻撃も和麻を狙うと見せかけて、大和の標的である厳馬を仕留めにかかるものと警戒していたが、そんな素振りさえも見せなかった。

 激情に流せるがまま本来の目的を忘れさり、和麻のみに攻撃の焦点を絞ってきた。まったく呆れた視野狭窄ぶりである。

 よりにもよってあの神凪厳馬を護るなどという、生まれてこのかた想像もしたことがない展開に、和麻の方がらしくもなく困惑やら緊張やらを強いられているというのに、これでは何やらこちらの方が損をしている気分にさせられる。

 それにしても風牙衆は、この程度の術者に神凪厳馬の相手を務めさせるつもりだったのだろうか?

 連中にしてみれば、自分が厳馬を倒してしまったのは、完全に想定外の事態だったはずだ。そうでなければ、一体全体本当にどうする気だったのか。

 おそらく風牙衆の切り札は別にあるのだろう。もしそうでなければ、連中の正気を疑うことになりそうだ。

 とはいえ、和麻に風牙衆のクーデターの行く末を心配してやる義理はない。あとは神凪家と風巻家の問題である。

 いまは厳馬の身を保護するつもりだが、それ以後は和麻には関係のない話である。それが少なくともこの時点での和麻の偽らざる本音だった。

(それにこの程度の相手なら、たいして手間をかけずにすみそうだしなあ)

 和麻は戦闘狂ではない。むしろその逆で戦いに関しては、相手が弱ければ弱いほど燃える性分だった。とくに未熟な術者などは、和麻の大の好物だったりする。

 そうは言っても、和麻に油断の念はない。未熟だろうが関係なくひとたび敵対した以上、冷静かつ確実に制圧にかかる。

 こと戦いにおいて驕慢による油断がいかに度し難い結果を招くか、和麻は放浪の旅の中で嫌というほど学んでいた。

 だからだろう――次の瞬間、研ぎ澄まされた自身の直感が危険を知らせる警鐘を鳴らすのを、和麻ははっきりと知覚できた。それに遅れてコンマ秒、風の精霊もまた風術師の脳裏に警告の声を囁く。

 常より反応が鈍い風の精霊(、、、、、、、、、、、、)に違和感を懐くも、そのときすでに和麻は風の結界を纏ったまま、いまだ吹き荒ぶ雷の嵐を突き抜ける勢いで、後方へと身を翻していた。

 間髪入れず、和麻の過去位置に黒影が躍りかかる。無論大和である。彼は何の躊躇もなく渦巻く雷の真っ只中へと突っ込んできたのだ。

 それはとくに驚くような話ではない。何しろこの雷撃の嵐は、他ならぬ大和が手ずから創り出したものなのだから。

 高位の魔術には、攻撃対象を選別する術がある。まして己で構築した術ならば、自身を対象から外すなど、より容易なことである。

 だが和麻の直感が脅威と感じ取ったのは、そんな些細な術ではない。

 もちろん、大和の挙動はこれだけには留まらない。さらに加えて猛威を振るっていた雷がすべて吸い込まれるように大和の右手に収束し、結晶化――雷光の剣と化す。

 そして、身を退いた和麻に猛烈な勢いで肉薄するや、大和は一刀両断せんと剣を大上段に振りかぶる。

「……ッ!?」

 驚愕に目を見開く和麻。

 稲妻閃く黄金の剣を手に持ち、猛追してくる大和の移動速度が異常までに速過ぎる。これほどまでの速さを得るには、果たして<気>を駆使したところで可能かどうか。

 ――否、<気>の運用だけでは不可能だ。和麻は大和の術の絡繰りに気付いた。

 おそらくは炎の精霊と一体化することで神経伝達速度を高速化させ、運動能力を驚異的に高めているのだろう。

(雷使いならではの技の数々ってことか!)

 そのとき和麻は、先ほど懐いた風の精霊の違和感、その正体を察して歯噛みした。

 雷撃の槍から変化した雷撃の嵐。さながら和麻を封じ込めるように展開された、あの雷撃の牢獄。

 だがあれの真の意図は和麻ではなく、風の精霊の働きを停滞させるための封じの結界だったのだ。和麻と風の精霊との交信をジャミングするために。

 無論、それは和麻を中心としたわずかな空域のみに限った話であり、それも和麻ほどの風術師が相手では、ほんのわずかな時間しか効果は期待できなかっただろう。が、大和にはそれで充分事足りた。

 実際、風の精霊との同調は明らかに通常より齟齬をきたし、結果、和麻は後手に回らざるを得なくなった。

 つまるところ、あの雷撃の嵐は和麻の「視覚」を潰すことにあったのだ。

 ならば、大和の狙いは最初から中・遠距離による攻撃などではなく、白兵戦にて勝敗を決する腹だったのだろう。

 風の精霊への妨害、雷術による身体強化に精霊力の半物質化。

 和麻は油断しているつもりはなかったものの、まさか炎術師が風術師相手にここまで手の込んだ策を弄するとは想像だにもしなかった。

 だが応じる和麻もまた、さすがの一言に尽きた。

 たしかに虚を突かれはしたが、素早く半身を退くことで稲妻の如き一撃を回避してのけたのだから。

 とにもかくにも、和麻はもう一度間合いを開くべく後退するしかなくなった。

 和麻も格闘戦の心得なら充分に持ち合わせているとはいえ、それでも大和と白兵戦を演じる気は毛頭ない。どんな事態に陥ろうとも、和麻の『楽して勝つ』のモットーに変更はあり得ない。

 大和が白兵戦に勝利を賭したというのなら、逆に言えば遠間(ロングレンジ)では勝機はないものと、そう判断したことに他ならない。

 ならば、和麻の取るべき選択肢はひとつしかない。『敵の晒した弱点は遠慮なく突け』もまた和麻の座右の銘のひとつなのだから。だが――

(そう簡単にはさせてはくれないよな……ッ!)

 飛び退く和麻の懐に、まるで同極の磁石が引きあうようにするりと滑り込む黒衣の影。己の刃圏にまんまと再侵入を果たしてのけた大和は、立て続けに雷光の剣を翻し、猛然と攻め立てる。

 怒涛の連撃に和麻は、ただ後退を重ねる以外に対処する術がない。風術で迎撃しようにも、その隙さえ見出せない。最速の中の最速といっても決して誇張にならない和麻をもってしても、だ。

 黒衣の男の剣は、まさに嵐そのもの。いや、雷光を帯びた剣を振るっているのだから、雷の嵐と称するべきか。

 しかもそれは、先ほど和麻に浴びせにかかったシロモノとは、比べものにもならぬほど死を孕んだ即死の雷だ。直撃すれば、和麻とて死は免れ得まい。

 だがしかし――当たらない。躱す、躱す、躱し続ける! 

 和麻の身体には一発たりとも剣の稲妻が降り注ぐことはない。

 世界にあまねく在る風の精霊と同調している和麻の脳裏には、大気を通じてありとあらゆる情報が流れ込んでくる。

 それでも当の術者である和麻を中心にして距離を隔てるごとに情報の精度は、落ちていくことだけは避けられない。

 だがそれも至近距離においてならば、その影響は皆無だ。

 故に、大和の僅かな視線の動きから攻撃箇所を、剣の長さと足運びの距離から斬撃範囲を読み取り、さらに加えて、敵の全身から滾る殺意からタイミングを感じ取ることで見切って躱す。

 ここまでくれば、もはや未来を予知しているも同然である。これではいかに大和の猛攻が凄まじくとも、和麻に当たる道理がない。

 事実、すでに数十もの斬撃を繰り出しながら、ただの一度も有効打に至らず、どころか掠りもしない。なのに――大和の顔に動揺の色は毛筋ほどもない。

 それどころか、むしろ瞳に闘志の炎を爛々と灯し、ますます嵩にかかって剣を振り続ける。

 だが和麻にしてみれば、それこそ相手に最もしてほしくないことであった。

 傍目には和麻が余裕をもって、大和の猛攻をいなしているかのように見えるだろう。が、内実は違う。

 未来予知に等しい見切りの業も、風の精霊から送られてくる膨大な情報を瞬時に脳内で整理と解析を行いつつ、計算結果を肉体にフィードバックしているに過ぎない。

 結局のところ、超常の域にまで達している見切りの業は、和麻の卓越した情報処理能力あってこそなのだ。そのため情報の演算を一つでも間違えようものなら、和麻の身体は即座に一刀両断の憂き目を見るだろう。

 現在の戦況は、そういった極めて繊細な均衡の下、成り立っているのである。

 だが和麻とてこのまま座して防戦一方のまま終わるつもりはない。後退を続けながらも、彼は風を手繰り寄せて、徐々にではあるものの、抜かりなく力を蓄えはじめていた。

 今は一発で勝敗を決めるほどの精霊力は必要ない。それ以前に、そんな隙など晒してくれる相手でもない。

 だからこそ、その必殺の一撃を放つ時間を確保できる距離さえ稼げれば充分なのだ。

 炎術師の至高の力たる《神炎》をも凌駕する出力(パワー)が和麻にはある。よって十全に力が振るえる間合いを得られるなら、自分の勝利は揺るがない。

 大和もそれは解っているのだろう。そうはさせじと、よりいっそう攻めに苛烈さが増していく。

(まだマックスじゃなかったのか!)

 愕然とする和麻を尻目に、さらに猛り狂う剣撃の嵐。

 その攻勢に圧されて、力を蓄えるスピードが目に見えて衰えはじめる。和麻は焦燥に顔を歪めるも、怯むことなく勇を鼓して斬撃を躱し、風の精霊の召喚を繰り返す。

 そして――

(よし、もう充分だろう!)

 ついに充填される風の力。自らの内に脈動する力が、今か今かと解き放たれる瞬間を待ちわびている。

 その衝動に突き動かされるまま、和麻は右手を掲げる。

 直後、束ねられた気圧の塊が、噴流と化して猛然と疾駆する。高圧噴射された疾風の魔弾は、剣を振りかぶり迫る大和に向かって押し寄せる。

 雪崩打つ大気の激流。大和に躱す暇はない。

 それも当然。躱すも何も、そもそも自分から体当たりしているようなものだ。これでは躱しようもあるまい。

 ならば――防ぐか。

 いや、もう遅い。すでに彼は攻撃モーションに転じている。今から防御に移っても間に合わない――

 



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風使いと雷使い②

 否、まだ飲み込まれてはいない。その瀬戸際で踏み止まっている――雷剣で疾風の魔弾を灼き斬りながら。

 回避も防御も叶わないと察したあの刹那、大和は攻撃することを選択した。いや、最初からそれ以外の選択肢などなかった。

 それに攻撃する対象が和麻(ヒト)から疾風(モノ)に切り替わっただけのこと。ならば、何を躊躇う必要があろうか。

 古来、魔術とは物理現象を屈服させしめる秘蹟を言う。なれば、それを成し遂げてこそ魔術師の面目躍如!

 断ち割れる大気の激流。引き千切られる空気が、苦悶の咆哮を上げる。それでも余波だけで黒いコートの裾は激しく煽られ、隙あらば下肢を掬い上げて、大和の身体をはるか後方へと誘おうとする。

 だが黒衣の人影は微動だにもしない。頑と直立することで風の誘いを拒絶する。

 すると、風はまるでそんな彼を攫うのを諦めたかのように一陣のそよ風を送り、コートの裾をふわりとたなびかせるのを最後に、疾風は完全に消え去った。

 大きく跳び退りながら、和麻は自らが放った一撃が無力化されたのを見届けた。

 それでも和麻の顔に無念の色はない。たとえ防がれたところで、和麻には一向に構わないからだ。

 もとより先の攻撃は、相手を仕留めるためのものではない。その狙いは大和の動きを阻むことにあった。

 そして、いま和麻は十メートルの間合いを隔てて大和と対峙していた。

 この距離ならば、大和のスピードにも余裕をもって対処しつつ、渾身の一撃を放つために必要な力を確保できるだろう。今度はどんな手段を用いようとも、防ぐことができない必勝の一撃を。

 瞳に確かな決意を込めて、和麻は黒衣の男を見据える。

 すると、なんと大和は剣の柄を逆手に持ち替えて、右腕を大きく後ろへと流し、胸を張って上体を反らす仕草をした。その様はまるでこれから“何か”を投げ放たんとするかのように。

「……ッ」

 警戒に身構える和麻。

 “何か”などいちいち考えるまでもない。大和が持つ唯一の武装、あの雷光の剣に他あるまい。

 大和は自身の得物を何の躊躇もなく投擲した。目映く輝き放ち、迫り来る雷光の剣。

 それを和麻は風の結界を展開することで迎え撃つ。が、飛来する稲妻の投擲は、風の結界に直撃した刹那――僅かな遅滞もなく貫き通した。

「ちッ!?」

 それを目にした和麻は、理解する。

 あの雷光の剣には、結界殺しの概念、『貫通』の意志が付加されているのだと。

 そして、刃に込められた現実を書き換える術者の意志と、その媒体となる精霊の総量を推し量れば、あの雷剣はいかなる守りをも破壊する魔弾に違いない。

 だが、その程度で怯む可愛げのある心など、生憎と和麻は持ち合わせてはいない。敵が力と重さで仕掛けてくるならば、風術師たる和麻は、技と速さで挑むまでのこと。

 刹那のうちに、風の結界を多重展開する和麻。各層ごとの結界の強度は、神凪綾乃であったとしても一層すら削り取ることも叶うまい。和麻渾身の風の守り。

 だが――

 二層、三層、四層――次々の突破される風の守り。なおも止まらぬ稲妻の一刺し。超々高熱と衝撃波を放射しながら、風術師を射殺さんと貫き奔る。

 にも拘らず、和麻の顔にはそのとき、まるで勝利を確信したかのような不敵な笑みが刻まれる。

 あの雷光の剣は風の結界を突破するごとに、その威力を確実に削ぎ落とされている。ゆえに、いずれ遠からず失速して消え失せるものと、そう見て取った。

 風術師の推測は正しい。雷光の剣は、彼の身に傷ひとつ負わせることなく消滅するだろう。そう、このまま雷使いが何ひとつコトを起こしさえしなければ!

 変化する。飛来する雷光の剣が、眩い黄金の光に代わり、やおら漆黒の輝きに染まっていく(、、、、、、、、、、、、、)。黒曜石の如き荘厳な黒に。

 風術師の背筋が戦慄に凍りつく。このとき、和麻は敵の力量を決定的に読み違えていたことを悟った。

 初っぱなに大和に対して懐いていた未熟な術者という評価など、とっくに改めている。

 面倒くさいが、本気を出す必要がある相手だと。同時に全力で臨めば問題なく制圧できる相手だとも、そう思っていた。

 だが、その認識は誤りだった。風巻大和は和麻が死力を尽くしてなお勝てるかどうか解らない、それほどの相手だったのだ。

 しかし、いったい誰に予想できようか。目の前に立ちはだかる炎術師が、かの神凪厳馬に比肩しうるほどの術者だったなどとは!

 とはいえ現実はそんな事情など一向に斟酌してはくれない。いつだって無常である。

 それを証明するかの如く、今まで以上に勢いを駆って疾駆する黒き魔弾。幾層もの風の守りをぶち抜き、和麻へとひた走る。

 和麻は意志力(チカラ)精霊力(チカラ)を総動員して、風の結界の展開速度と硬度強化の更なる底上げに全力を注ぎ込む。

 無茶苦茶な規模の術の構築に脳髄が軋む。急激な<気>の消費に身体が干上がりそうだ。

 和麻はその一切を無視する。この痛みは、他ならぬ己の油断が招いたこと。ならば、甘んじて引き受ける。

 ただし、これ以上の代償だけは、断固として願い下げだ。和麻は自分の非を全面的に認め、運命の裁きを従容と受け入れるほど、出来た人間ではない。

 また、何よりいま和麻の胸中を占めている思いは、親子揃って同じ戦法で倒れるわけにはいかぬという一念のみ。

 当たり前だ。そんな不様だけは死んでも晒せない!

 激突する剣と盾。一方は漆黒に塗り固められた一振りの雷光の剣。対するは幾層にも重ねられた烈風の盾。

 剣と盾。古代世界から端を発したこの因縁の戦いは、青銅から鉄へ、鉄から鋼へと時代が移り変わるごとにその構造を変化させてきた。

 そして、この現代においては、その構造を魔術に変えて熾烈な戦いを繰り広げた。いま、その激しく鎬を削っていた鍔迫り合いも、ついには終局のときを迎えようとしていた。

 勝利をその手にしたのは――烈風の盾。和麻だ。さりとて勝利は勝利でも、それはまさに薄氷を踏むかのようなものだった。

 なぜならば、雷光の剣は和麻の眉間のわずか数ミリを残すところで、宙に停止していたからだ。

 すると、あれほどの暴威を振るった雷光の剣は、まるで自らの敗北を受け入れるようにあっさりと黒い霞となって霧散した。だが、和麻は安堵の吐息をつく間もなく、すぐさま身を後方に翻す。

 視界に侵入してくるのは、黄金の光芒。間髪入れず、黄金の剣を再召喚した黒衣の影が躍り込み、斬撃を見舞ってきたのだ。

 息をつく間もないとは、まさに今の和麻の状況を言うのだろう。つくづく厄介な相手を敵に回してしまったものである。和麻としては少しくらい小休止(タイム)が欲しいところなのだが。

 地面に着地した和麻は胸中で毒づきつつ、大和の追い討ちを警戒するも……なぜか来ない。訝しげな眼差しで大和を見据える和麻。

 まるで今までの猛攻が嘘であるかのように黒衣の影は、手に持った黄金の剣を消して、沈静を保ったまま、なぜかその場から動こうとしない。

 そのとき、和麻は両者が対峙するほぼ真ん中の地点にあるモノを目に入れて顔を顰めた。

「……そういうことかよ、お前の目的は最初から親父だったのか」

 和麻の視線の先には、神凪厳馬が横たわっていた。いまだ意識はないのか、ぴくりとも動かない。

 和麻がかなり遠くまで移動させたはずなのだが、後退に後退を重ねた挙げ句、こんなところまで戦いの場が移ってしまったらしい。

 ――いや、そうではあるまい。間違いなくあの雷使いに、ここまで誘い込まれたのだろう。

 大和が目的を忘れたかの如く執拗に突っかかってきたのは、和麻の油断を誘うための(ブラフ)だった。のみならず、標的である厳馬に一歩でも近寄る意図もあったようだ。

 まんまとしてやられたわけだ。苦い自嘲を漏らす和麻に、

「まあ、そういうことだ。だが先にお前を仕留められたなら――程度には思っていたのだがな。さすがに父親と同じ轍は踏まなかったか」

 大和は揶揄するように語りかけた。「そうかい」と軽く肩を竦めて聞き流す風術師。が、その双眸は油断なく大和を見据えている。

 対峙する和麻と大和、その中間に倒れ伏す厳馬。まさに戦闘開始時の再演。両者はまったく同じ立ち位置で再び向かい合っていた。

 そんな最中でありながら、大和は改めてどこか呆れた風な眼差しで和麻を見やりながら問いかける。

「ひとつ、いや、ふたつほど後学のために聞いておきたいことがある。あれほどまでの仕打ちを受けたにも拘らず、お前はなぜそうまでして父親を庇う? それとも俺が気付かなかっただけで、実は仲睦まじい親子関係だったのか?」

「俺と厳ちゃんの関係か? どうだったかな、そんなに仲良しこよしってわけじゃなかったのは確かだけどな」

 和麻は口の端を歪めながら、茶化すように答えた。

 逆に大和は無言。それでもその沈黙こそ何よりも雄弁に語っていた。

 即ち――まだすべての質問に答えていないぞ、と言うかのように。それを察した和麻は、苦笑しながらも口を開く。

「ああ、厳ちゃん――親父を庇うワケね。そんなもん決まってるだろう、当然報酬のためさ。親父をお前から護ってやった暁には、神凪さん()にたんまりと金をせしめてやるつもりなんだからな」

 風術師は、おどけた風にそう嘯いた。

 和麻の言葉に興味を掻き立てられたのか、大和は愉快げに口元を緩める。

「ほう、金か。それは中々興味深い理由だな。ちなみに、神凪家に幾ら要求するつもりだ? つまりそれはお前にとって俺の首は、どの程度の価値があるのかということを意味するんだがな」

「……」

 大和の問いに、和麻は言葉に詰まる。

 実際のところ、たとえ神凪家と億単位の雇用契約を交わしていたとしても、果たしてこの男と対峙する事と等価であるかどうか。

 というか、深く熟考するまでもなく、まったくないと断言できる。

 億単位の金銭は確かに魅力的であるものの、和麻ほどの術者ならば、すぐにでも稼げる額でしかない。それも現在の状況ほど危険を冒すこともせずに。

 大和はまるでその和麻の心中を見透かしたように冷ややかに笑う。

「ふん、答えられないか。当然、そうなるだろうな。お前が真に利を追い求める者なら、この俺と戦い合うことだけは必ず避けたはずだからな」

 傲然たる物言いだった。

 だがこの男がその傲慢な宣言を吐くに足る圧倒的な力量を備えていることを、すでに和麻は知っている。

 だからこういう手合いを前にすれば、必ず口より飛び出るはずの皮肉も、いまはひとつだって出てきやしない。

「にも拘らず、お前は俺と戦い合うのを一向に放棄しようとしない。つまるところ、お前の目的は、金などではないということだ。

 ――護りたいんだろう? 父親を、家族を。なにも恥じ入ることはない、誰もが家族は大切に扱うものだ。たとえそれが血の繋がりがあろうとなかろうとも(、、、、、、、、、、、、、、、、)、な」

 大和の語り口は、どこか和麻に向けて語っているというよりも、まるで自分自身にそう言い聞かせているかのようだった。

 和麻は鼻を鳴らして、失笑する。

「ご高説どうも、たいへんタメになったぜ。だが勘違いだ。俺は別に親父が家族だから護ってやっているわけじゃない。大体家族の縁なんてもんはとっくの昔に切れてんだよ。だから、あくまで金の為だ。報酬の額の方は――お前を()ってから決めることにするさ」

 和麻は全身から殺意を滾らせるとともに、風の精霊の召喚に入る。

「お前はずいぶんと照れ屋なんだな。神凪を出奔する以前は、かなり擦れていたと聞いていたぞ」

 嘲弄の言葉とともに、大和もまた精霊の召喚を始めた。

 集うごとに片っ端から『雷』へと変換される炎の精霊。大和を中心にして吹き荒れる稲妻の暴風。閃光と轟音が夜気を震わせて、激しく渦を巻いていく。

 その直中で、やおら黄金の雷光が漆黒の色へと染め上げられる。

 <神炎>――真に選ばれた者のみが行使できる絶対無敵の力。

 ここにきて大和は自身の真の力――<黒炎>をついに出し惜しみなく発揮させる。それも当然か。もはや秘め隠す意味などない。

 それを見届けつつ、和麻は冷静に思案を練る。

 神炎使いの召喚速度は、はっきり言って……遅い。和麻はそう判断した。無論、あくまで風術師である和麻が視た限りの話である。四大最遅たる炎術師の立場からすれば、充分すぎるほどに速いだろう。

 それでも和麻は当然としても、同じ神炎使いたる厳馬と比べても明らかに一段見劣りする。

 たとえ同じ神炎使いであったとしても、やはり個々の力量においての優劣は、厳として存在しているのだろう。かつて父が宗主に敗北を喫したように。それと同じく大和もまた厳馬より技量において劣っているのだ。

 ともあれ、この事実は和麻にとって何よりの朗報である。

 父と正面から対峙したとき、和麻は小細工を弄して何とか勝ちを掴み取ることができた。が、逆に言えば、それは真っ当な手段では、厳馬には勝利がおぼつかないことを意味する。

 だが相手が大和であるならば、幸いその限りではなさそうである。これならば小細工抜きで真っ向からでも圧し切れる。

 勝利への道筋を見出した和麻は、渾身の一撃を叩き込むべくさらに風を手繰り寄せる。

 凄まじい速さで収束していく風の精霊。逆巻く旋風。風の魔神が吼える怒号さながらに唸りを上げて、集っていく大気の渦……

 すでに自身の手元には、大和を超える力が蓄えられていることを、和麻は了解していた。それもそのエネルギーの総量たるや、先刻の厳馬を打倒してのけた一撃をも上回っていよう。

 今日の夜はひときわ長かった、と和麻はあらためて痛切に思った。

 だが、その長い夜もようやく明けるのだ。『明けない夜はない』――そう詠ったのは、果たして誰であったか。和麻の記憶にはないが、間違いなく至言だろう。

 後は解き放つだけで、すべてに終止符を打つことができる――和麻が勝利を手にすることによって。

「さっきの一撃でケリをつけられなかったのは、完全に失敗だったな。折角、炎術師が風術師相手にらしくもない凝った作戦を練ったってのによ。しかも、切り札を切った上で。だがそれもこれも全部――」

 終わりだ――その宣言とともに解き放たれる暴風の塊。超大型台風が凝縮、圧縮されたかのような超々高圧の気圧の束は、風の魔神の巨腕と化して再度この地に顕現した。

 神凪最強の炎術師すら粉砕した巨人の一撃を前にして、大和はまるですべてを諦めるように目を伏せる。

「八神――貴様は二つの誤りを犯している。ひとつは、俺の作戦は依然として進行中だということ。そして最後に、俺の切り札は何も一つだけとは限らないということだ」

 決然たる言葉とともに、大和の辺り一帯を猛り狂っていた黒き雷は、なんと唐突にその威容を掻き消してしまう。

 それと時を同じくして、雷使いの傍らの空間より巨大なモノが忽然と現れ出でる。

 腕だ。それも全長二メートルを優に超えようかというほどの黄金色に目映く輝く巨大な『腕』が――超々高圧の大気の塊を完全に受け止めていた。

「な……んだと……」

 愕然と目を剥く和麻。

 必勝を期したはずの一撃が防がれる。だが、いまの和麻にはそんなことは意中にない。

 アレは一体何なのか? 和麻によって喚び出されたのが、風の魔神の『腕』であるとするならば、大和が召喚したそれは、果たして一体何の『腕』であるというのか。

 しかも、あの『腕』は比喩ではなく、本当に実体化を果たしている。つまりは、現実に確たる存在しているのである。

(存在しているっつても、おそらくは半実体化だ。なら精霊獣か? いや、違うな。アレはそんな生易しいものじゃねえ……)

 精霊獣とは、一群の精霊を仮想人格に統御させることで一個の生物に見立て、それを使い魔として使役する、精霊魔術と儀式魔術の融合によって創り出された『魔術武器』の総称である。

 大和が召喚した『腕』は、確かに外観のみで測るなら、精霊獣と見積もる方が妥当である。が、和麻はその推測を、即座に否定した。

 それはいかに精霊獣が通常の精霊魔術と比して特異な在り方として発現するからと言っても、精霊魔術における基本法則まで逸脱することなどあり得ないからである。

 即ち、それは物理学におけるエネルギー保存の法則――変換前のエネルギーの総量と変換後のエネルギーの総量は、決して変化することはない。

 それが世界の裏側を司る魔術の領域にまで適用され得るのだ。

 つまり、術者は自らが召喚した精霊の規模を超える術を絶対に行使できない。いかに精霊獣としてカタチを変えようとも、それは同じである。

 にも拘らず、あの『腕』が保有する精霊の密度は、大和がそれまでに召喚していた炎の精霊の規模のおよそ二倍以上。それは明らかに精霊魔術の基本法則を無視した不条理に過ぎる現象であった。

 ゆえに、順当に考えれば、あの『腕』は精霊獣でもなければ、そもそも精霊魔術ですらない。

 そう、魔術理論に照らし合わせれば、あの『腕』は存在する道理がないのだ。が、どれほど理論や論理を振りかざそうとも、あの『腕』が消え去るわけではない。

 そうであるならば、もはや受け入れる他ないのだろう。あの『腕』は既存の魔術理論を超越しながら現実に在るということを。

 そして、その事実を率直に認めることにより、はじめて真実に辿り着ける。

 即ち――風巻大和は何らかの超越的存在の力を借り受けて術を行使しているのだと。

 そして『彼ら』の力の一端を担うということが、いかに容易に既存の法則をぶち壊すのかを、他ならぬ和麻自身が一番良く理解していた。

 そこまで推測を立てれば、和麻はおおよそあの『腕』の正体にも察しがつく。

(とはいえ、奴は俺の『同類』じゃねえ。……そうか、あれが噂に聞く精霊獣――そのオリジナルか(、、、、、、、、)!?)

 和麻は戦慄に総毛だった。

 もし和麻の推測が正しいとすれば、大和の秘策は和麻の『奥の手』にも劣らぬ代物だ。

 事此処に到った以上、もはや一刻の猶予も許されない。和麻もまた今まで秘匿していた切り札を切るしかあるまい。

 だが果たして間に合うか。大和のアレに対抗するには、和麻の方も相応の時間が必要だ。

 ――このとき、風術師の胸中から、これまでの死闘の最中においても、常に守護のために意識の端に留めて置いたはずの父親の姿が、完全に消えていた。

 それもそのはず、雷使いが晒した秘策は、かくも強力にすぎた。最強の風術師たる八神和麻をしてなお、平静さを失わせるほどに。

 無論、幾多の実戦を経て鍛え抜かれた和麻の精神力ならば、すぐさま動揺など鎮められようが、数秒を要することだけは避けようもなかった。――雷使いにしてみれば、それだけでも事を為すには充分すぎた。

「!?」

 和麻がそれに気づいた時には、もう何もかも手遅れだった。

 大和は宙に浮く巨大な腕の矛先を、やおら地に伏す厳馬へと向けるや否や、ぐんと一気に伸び拡げた。黄金色に輝きながら、五指を広げて伸長する巨腕。

 大和の狙いは明らかだ。厳馬の身体を掴み上げ、捻り潰すつもりなのだろう。いや、あの『腕』は、超々高温の塊だ。常の厳馬ならともかく、意識のない彼では、いかに神炎使いであっても一溜りもあるまい。

 和麻は胸中で臍噛んだ。

 なんという失策か。既に和麻自身が看破していたではないか。黒衣の襲撃者の真意は、あくまで神凪厳馬の生命を奪い取ることにあるものと。にも拘らず、当の父親から意識を逸らすとは!

 正気に立ち戻った和麻は、風を手繰ってもう一度、厳馬の身柄を押さえようと図るが、もはや間に合うはずもなかった。

「親父……ッ!!」

 ならば最後の手段とばかりに、風術師は父親の意識を呼び覚まそうと声を張り上げる。

 だが所詮そんなことは、虚しい試みに過ぎない。『最強』を冠するに足る力を有した男とは到底思えない、まさに敗残者が上げるに相応しい哀れな哭き声が、夜空に響き渡る。

(やっぱり俺には、誰も助けることが出来ないのか、翠鈴……!?)

 だがまさか、その叫びに――

 

 

「黙れ、馬鹿息子が」

 

 

 ――応じる声があろうとは!

 和麻と大和はともに凝然と声の発生源に視線を向けた。

 するとそこには、意識のないまま横たわっていたはずの厳馬が、なんと片膝を地面に突きつつ、ゆっくりとではあるが立ち上がろうとしていた。それも蒼く染め上がった炎を全身に纏い、自身を握り潰さんとする巨大な『腕』を押し留めながら。

「神凪厳馬ッ、まさか息子の声を聞き届けて目を覚ましたとでもいうつもりか!?」

 その奇跡に心底感心したとばかりに、大和は大仰に驚いてみせるも、すでにその面持ちには驚愕から転じて、理解の色が拡がっていた。

「いや、それこそまさかだな。貴様、既に意識を回復していたな。今の今までそれを隠し通して隙を窺っていたというわけか。……まったく親子揃って抜け目のない奴らだ」

 だが厳馬は大和の称賛の声に応えることなく、眉根を寄せながら呟く。

「――風巻大和か。この事件の首謀者が、よもやお前たち風牙衆だったとはな……」

 その声色に苦渋の色が含んでいたのは、何もその身に重篤な傷を負っているだけではあるまい。風牙衆がどうして神凪家に対して反逆行為という暴挙に臨んだのか、その真意を察したがゆえだろう。

 むしろその厳馬の洞察に大和の方が驚いた。

「ほう、意外だな。よりにもよって神凪最右翼のお前に風牙の想いを汲み取る想像力が備わっていたとはな。それならばなぜ連中をもっと気遣ってやらなかった? 貴様たち神凪が奴らを正当に評価してやっていたなら、ここまでの事には及ばなかっただろうに」

「……お前は……」

 大和自身の一族に密接に関わる事柄でありながら、まるで他人事のように語るその口調に、今度は厳馬の方が驚愕の呟きをこぼした。

 だが大和は呆れた風な眼差しで厳馬を見やると、

「そこまで驚くようなことか? 知っているはずだろう、所詮俺は『風巻』でもなく、また『神凪』でもない者だということを。だからこそお前たち両家の攻防にも興味はない。

 ――だが、一身上の都合により神凪厳馬、貴様の命だけは貰って行く」

 冷酷な死の宣告とともに、雷使いは巨大な腕に向かって命令を下す――ソレを潰せ、と。

 『腕』はまるで返答するかのように黄金色の燐光を強く発するや、手の平に収めてある憐れな獲物に止めをささんと巨大な五指にさらなる力を込める。

「私を舐めるなよ、若造どもがァァッ!」

 激烈な意志が厳馬の全身から漲っていく。

 伸び拡がる神炎使いの意志は、一体化している己が炎の垣根をも越えて、自身に迫る巨大な腕――超々高温の炎の塊にまで侵攻していく。

 それがいったい何を意味するのか。始めに気づいたのは、当然、大和であった。

「貴様、まさか俺の精霊への制御強奪(ハッキング)を……ッ!?」

 次第にカタチを崩していく巨腕。危険を告げる警鐘であるかのように激しく光の明滅を繰り返すと、『腕』は現れたときと同じく不意に黄金の粒子と化して霧散していく。

 ……それが神炎使いの身体に残された最後の力だったのだろう。全体重を支えていた片膝から、がくりと力が抜け落ちる。また息子に負わされた傷口も開いたのか、厳馬は血飛沫を舞い散らしながらどっと地面へと倒れ伏す。

 それを憎々しげな瞳で見詰めながら大和は、

「やってくれたな、<蒼炎>の厳馬! こんな屈辱は久しぶりだ。……もはや意識もないだろうが、とりあえず聞いておけ。返礼として一瞬で殺してやる!」

 そう怒りを露わに吐き捨てた。

 精霊術師にとって、自らが従えている精霊を、他の術者に奪い取られる事態ほど屈辱的なことはない。この未熟者め、と嘲弄し罵倒されているに等しいのだから。

 さらに加えて、術者として位階が高ければ高いほど、この屈辱感は倍増ししていく。ましてや超一流の術者がこれを仕掛けられたのとなれば、それこそ、その心中は彼のみぞ知る、だろう。

 大和は炎の精霊を集わせる。刹那の内に黒い雷と化し、怒りに任せ力尽きた厳馬に浴びせかけようとして――

「させるかよ!」

 すると、今まで存在を消していた和麻が、怒号を上げて躍りかかってくる。

 これまでの戦いにおいて、距離を開くだけしか念頭になかった風術師が、なぜかここにきて間合いを詰めてくる。

 その不思議に、だが大和は意に介さない。

 ひと度秘策を晒した以上、もはや和麻はさしたる脅威ではない。結局のところ、<蒼炎>を切り裂くにも不意を打たねばならなかったのだ。その程度の出力(パワー)では、何をどうやったところで、大和の『切り札』は超えることなどあり得ない。

 それを知らぬ和麻は、横たわる父親を飛び越えて、一息で間隙を埋めてくる。風術の強化(アシスト)によるものだろう、風術師の突進(チャージ)は大和と比べても何ら遜色ない。

 すぐさま一足一刀の間合いまで潜り込んでくる和麻。そのとき彼の両の瞳が閉じられているのにも、雷使いはまったく斟酌しなかった。ただ大和は冷めた眼差しで和麻を眺めるだけ。この直ぐ後に驚愕を味あわされるとは想像だにせず。

 直後――再びアレが展開される。

 大和と和麻、狭まった互いの間合いの中間に、今度は巨大な――『掌』が現れる。長身の大和にも及ぼうかというソレは、まるで彼を守る壁であるかのように、迫る風術師の前に立ち塞がる。

 だが和麻は一切気にすることなく、さらに大きく一歩踏み込む。同時にそびえ立つ『壁』に突き付けるように繰り出した右手には、蒼く煌めきを帯びた風が集っている。

 和麻は真っ向からそれ(、、)を存分に叩きつけた。

 蒼い奔流が吹き荒れる。莫大な力を内包した常識外の烈風が、それを受け止める『掌』を軋ませる。

 実体化した形態こそ違えども保有するエネルギーにおいては、ついさっき和麻の暴風の一撃を完璧に封殺した『腕』と比較してなお、微塵も引けを取らない。

 それがいま、圧されている。ぎしぎしと崩壊の序曲を奏でている。終わりが始まろうとしている。

「馬鹿な、いかに部分召喚とはいえ『彼』を貫くだと!? たかが風にどうやればそんな力が!」 

 あり得ない現実を否定するように大和が絶叫を上げる。

 いま音を立てて崩れ去ろうとしているのは、彼が召喚した「存在」だけではない。大和が術者として培ってきた「常識」そのものが崩壊しようとしていた。

 そしてその緊迫の直中、大和ははっきりと見咎めた。蒼穹のごとく鮮やかに、どこまでも澄み渡った風術師の瞳を。

「八神、貴様は……ッ!?」

 驚愕の声と同時に、ついに『掌』が崩壊する。瞬時に『掌』の残滓である黄金の粒子を蹴散らして、暴風が大和を木端のように吹き飛ばした。

 大和の身体は人身事故さながらに十メートル余りを転がっていき、ようやくそこで止まる。意識が消失したのか大和は微動だにしない。あるいは、既にもう……

「おい、それはいったい何の冗談だ?」

 そんな大和を半眼で一瞥し、冷ややかに呟く和麻。

「――別に深い意味はない。ただ単に休んでいただけだ」

 そう淡々と呟きながら、大和は颯爽と立ち上がる。その様子はおよそ傷らしい傷を負っているようには見受けられない。完全に無傷だ。

「ふざけんな、くそ野郎……」

 だが、その事実を直視しても、和麻に驚きの念はない。

 和麻の一撃は、その大半があの忌々しい『掌』に吸収し尽されていたことを、和麻は見抜いていた。故に大和の身に到達した時点で、せいぜいただの強風程度に威力を減衰されていたのだ。

「まあ、確かに少しばかり貴様が油断してくれるのを期待していたのは認めるが」

 そう言って肩を竦めると、大和はニヤリと不敵に笑う。だがその眼差しだけは、まるで風術師の蒼き瞳に吸い寄せられるように離れない。

「……だが仕方あるまい。他ならぬ『契約者(コントラクター)』が相手ではな」

 『契約者(コントラクター)』――超越存在(オーバーロード)と契約を交わせし者。

 伝説曰く、そうした者は過去幾人もいたという。

 七十二の魔王を支配したソロモン王。ユダヤの民を率い、神と契約したモーゼ。

 そして、炎の精霊王より炎雷覇を授かった、神凪の初代宗主。

 いま思えば八神和麻が、かの伝説上の存在であったとしても何の不思議もない。なぜならば、あの風術師は神凪家において、伝説と讃えられる神炎使いをも打倒してのけた男である。

 ならば、その和麻がその伝説をさらに上回る伝説の存在、即ち――『契約者(コントラクター)』だったとしても充分に納得のいく話である。むしろ今の今まで、その可能性に思い至らなかった方が迂闊であった。

 そのとき、甲高いサイレンの音が夜空の下を騒ぎ立てる。しかも次第にこちらへと近寄ってくることから、目的地はこの場所に違いない。

 おそらくは公園の常駐スタッフが、この騒ぎを聞きとがめて警察に通報でもしたのだろう。

 高位の魔術師同士の決闘であるため、その凄まじい激闘とは裏腹に、周囲に対して大規模な破壊行為にまでは及んでいない。とはいえ、流石に剣戟の音ばかりはどうしようもなかった。

「……で、どーするよ。まだ続けるつもりか?」

 和麻が問うた。

 なべて魔術は秘匿され得るもの――それが条理の法則から外れた魔術師たちにおいても

なお、通じる暗黙の了解であった。

 その理に従うのならば、ここで手打ちとする方が自然である。

「そんなことは俺の知った話ではないな。どうしても終わりたいと願うならば、お前の父親をここに置いていけ」

 和麻の問いに、大和は冷厳と突き放した。

「やっぱりそうなるか。……だが、どうしてだ? お前ほどの術者がなぜ風牙衆ごときの使い走りなんぞを大人しくやっている。それにそういうお前の方も風巻の一族とは上手くいっていなかったはずだろう?」

 大和の答えを半ば予期していた和麻は、諦めたように溜息を吐きつつ、かねてからの疑問を投げかける。

 そう、それこそが最大の疑問だ。いったい風牙衆は、どうやってこれほどの術者を意のままに操っているのか?

 まかり間違っても、一族の忠誠心などではあるまい。昔も今も、そんな骨董品染みた殊勝な心掛けを自らに科している男には到底見えない。それに恨みつらみで厳馬の首を付け狙っているようにも感じ取れない。

 ならば、今この男は本当に何のために戦っているのだろうか。

「――黙れ。それは貴様には関係のないことだ」

 どうやらこれは気に障る質問だったらしい。大和は双眸に憤怒の火を灯して、和麻を睨みつける。

「そーかい、後学のためにも聞いておきたかったんだが、まあいいさ。俺もそこまで興味があったわけじゃないからな」

 軽口を交えながら、和麻は淡々と語る。

 が、その内容は嘘だ。大和が戦う動機について興味は尽きないものの、この様子ではまともに答えてはくれないだろう。

 その直後、和麻の知覚が周囲の炎の精霊が活性化していく気配を捉えた。それもかつてない程の膨大な規模で。

「もう手を引けとは言わない。お前の正体が判明する前は、なぜそこまでしてあの父親を護るのか不思議で仕方がなかったが、今となってはそれも納得だ。まさか神と契約を交わした正真正銘の『聖人』の類だったとはな。貴様ほどの孝行息子を得られて神凪厳馬もさぞや誇らしいだろう」

 そう言って、大和は口元を歪めて嗤う。

「おい、そんなことより本当にいいのか? このまま俺たちがやり合えば、一般人が大量に押し寄せてくるぜ」

 大和の皮肉をさらりと無視して、和麻はあくまで冷静に現実を引き合いに出す。

 和麻とて裏の世界における暗黙の了解を唯々諾々と守り続けてきたわけではない。過去には衆人環視の中でありながら、建築物を倒壊させたことも多々ある。

 その折は、最低限の良識の働きと幸運にも恵まれて被害は最小限に留められ、大参事にまでは至ったことはない。

 そんな和麻がらしくもなく大和の行動に翻意を促すのは、昔ほどやんちゃをする必要がなくなったこともあるが、これほどの強敵と諸人の目に触れる中で、派手に戦った経験などないからだ。

 さらに加えて、大和が一般人に配慮する意思が欠けていることも考慮に入れるなら、その被害たるや、その面での意識が乏しい和麻であっても背筋に最大級の悪寒が奔る。

「だから言ったはずだ。そんなこと俺の知った話じゃないとな。そんなに周囲が気になるなら、貴様が護ってやればいいだろう。父親と同様にな!」

 大和は冷酷な宣告を下すや否や、さらに精霊を集束させる。

「生憎と慈善事業は苦手でな。ここに来る奴らの面倒までみきれねえよ」

 素直な意見を述べつつ、和麻も風の精霊をかき集める。

「そうか、ならば連中の運命はこれで決まったな。ソイツらは現代に蘇えった何処かの聖人様が守護の任を放棄した所為で死ぬ羽目になる」

 大和の言葉に、和麻は鼻を鳴らして一蹴する。

 風の精霊王との契約に、他者へ(アガぺー)を振り撒け、などという文言を交わした憶えなぞない和麻としては、雷使いの言葉ではないが、赤の他人が何人犠牲になったところで、それこそ知った話ではない。

 だが、敵なら老若男女一切合切容赦しないと、豪語する和麻とて、裏の世界と何の関係もない善男善女に大量の犠牲者が出かねないとなると、さしもの彼といえど、なけなしの良心ぐらいは痛む。あくまで多少だが。

 とはいえ、『契約者(コントラクター)』たる和麻をもってしても、この場をすべて丸く納める方策はまったく思い浮かばない。

 もし仮に今ここで和麻が慈愛と博愛の精神に目覚めたところで、この場に集まる人間全員の生命をカバーしつつ、大和と戦うことなど土台無理な話である。そもそもあの雷使い相手では、そんな余計な力を割いている余裕は許されない。

 大和の翻意は期待できない、守護に割く力もない。そうなると、もう方法は一つしか残されていない。

 即ち、一分一秒でも早く風巻大和を倒す――これしか他に手段はない。

 神凪の始祖にも匹敵しかねない伝説級の炎術師とガチで潰し合うのは、和麻の主義に反するが、もはやそんな贅沢を言っていられる状況ではなかった。

 不承不承、和麻は全身全霊で戦う決意を固めた――その直後、ふと和麻は己の制御化にない風の流れを感じた。

 『扉』を開け放ったいまの和麻は、超々広域に渡り、大気を統べている。にも拘わらず、いかなる理由によるものか、あの風の精霊は和麻の支配下に収まろうとしない。

 おそらくは風の精霊自身の意思によるものだろう。精霊は未分化ながら意思を備えた存在だ。だからこそ、希にお気に入りの術者相手にこういった「好意」を利かせることがあった。

 それにどうやらあの風の精霊は、和麻ではなく、大和の方に用向きがあるらしい。となれば、風の精霊に託した術の正体も察しがつく。

 まず間違いなく、呼霊法に類する術だろう。

 呼霊法とは、風に言葉を乗せて、遠隔地にいる人物に術者の意思を伝達する風術である。

(風牙衆が大和に連絡を寄越してきたのか?)

 そう考えて間違いあるまい。が、和麻にとって問題は、果たしてそれが現状にどう影響を及ぼすのかという一点にあった。

 和麻ならば、大和に向かって投げ掛けられた術を解呪することは簡単だった。だがそれを、彼はあえてやらなかった。

 とくに深い考えがあったわけではない。呼霊法に記された大和への伝達内容が何であるにしろ、これ以上状況が悪化することだけはないだろう、という実に消極的な思考の結果である。

 それに内容次第では、あるいは切羽詰まった現在の状況に、一縷の希望が差し込んで来ないとも限らないではないか。その万が一の可能性に和麻は、賭けてみたくなったのだ。

 果たして一陣のそよ風が大和の耳元まで到達した途端、雷使いは大きく目を見開き、身じろぎもせず、まるで凍りついたかのように動きを止めた。

 主の動きに呼応して大津波の如く大和の下へと押し寄せていた炎の精霊も、ぴたりとその流入を止めていた。

 それは、まぎれもなくこの戦いであの雷使いが晒した初めての隙だった。

 和麻はそれを――突かなかった。

 もちろん、いきなり騎士道精神に目覚めたわけではない。たった一度の隙を突いた程度で倒せるような可愛げのある相手なら、そもそも和麻がここまで追い詰められるはずもないからだ。

 大和のあらたな動向を見定めるまで、とにかく和麻は静観を決め込む腹だった。

 だがそれでも、和麻は呼霊法に対して、「解呪(ディスペル)」は執り行わなかった。が、「感知(ハッキング)」の方は実行した。

 つまり、変転する状況を少しでも把握しておくために、呼霊法の内容を窺い知ろうと試みたのである。それは当然、成功した。

 そしていま和麻の耳には、大和とまったく同じ「声」が運び込まれていた。

『――大和、お願いだから、わたしのために無茶なことはしないで頂戴ね。そして、どうか今も無事でありますように』

 女の声だ。優しさと穏やかさを湛えた静謐で美しい声色。

 送り込まれたメッセージはとても短かった。それでもその言葉と声色は、大和の身を真摯に案じていることを窺わせるには、充分すぎた。

 大和がかくも必死になって戦う理由を和麻は、ようやく理解した。――『彼女』のためなのだ。

 そして、この声の主人が今どういう境遇に陥っているのかも、おおよそ悟った。

 古今東西、こういう輩は掃いて捨てるほどいるものだ。和麻も過去幾人もその眼で見てきた。その折には、うち何人かは己の手で始末した事とてある。

 和麻同様、メッセージを聞き終えた大和の眼差しから、すでに殺意の黒い影は取り払われていた。

「……ふん、八神。せいぜい感謝するんだな。今日の所はこれで終わりにしてやる」

 苛立ち混じりにまるでチンピラのようにそう言い放つと、大和は踵を返して足早に立ち去っていく。

 その黒衣の背中が視界から消えるまで、和麻は身構えたまま黙して見送った。

 気配が完全に遠退いたのを確認すると和麻は、初めて警戒を解き、ほっと安堵の吐息をついた。

 まったく今夜はなんと騒々しい日であったことか! 日頃の行いは善い方だと自認する和麻からすれば、踏んだり蹴ったりな一日であった。

 だがそれも今度という今度は、どうやら本当に終わりのようだ。後は滞在しているホテルのベッドの中で甘い眠りを貪るだけだと、このとき和麻は心から信じきっていた。

 

 

            ×             ×

 

 

「くそ……」

 大和は盛大に悪態を漏らす。風牙衆より言い渡された「仕事」は完全に失敗した。

 なにも神凪厳馬暗殺が容易なことであるなどと考えていたわけではない。だがそれでも、自分にならそれが可能だと確信していたのは事実である。

 それに失敗したとはいえ、今もその確信まで揺らいでいるわけではない。あんなイレギュラーさえ介入してこなければ、今頃は万事滞りなく仕事を果たし終えて帰路へと着いていたことだろう。

 ……いや、そんな仮定の話はどうでもいい。いま重要なのは、これで「彼女」の身に危険が及ぶ可能性がますます高まったということである。

 やはりさっきあの場から退いたのは、致命的な誤りであったのではなかったか? 今からでも遅くない。引き返して仕事を続行するべきか?

 たしかに八神和麻はかつて大和が遭遇した中でも極めつけの強敵である。――が、それでもなお自分が死力を尽くせば決して打倒できない相手ではない。

 そう、多大なリスクこそ伴うものの、やってやれないことはないだろう。そして、その後に標的たる神凪厳馬を仕留める……

 つい彼女の声を聞いたことで戦意が萎えるあまりに矛を納めてしまったのは、やはり早計だったかもしれない。

 だが神凪厳馬のみならず、その息子やあの戦いの場に集ってくる一般人に至るまで皆殺しにするなどという所業を、きっと彼女は決して許しはするまい。

 たとえそれを行わねばならない理由が、当の彼女の命を救い出すためだったとしても。いや、それならばなおのこと厭うに違いない。大和が姉と慕う人は、そういう女性だった。

 そう理性では理解しているものの、感情は簡単には納得してくれない。

 神凪厳馬を殺せ――その前に立ち塞がるというならば、息子もそれ以外の連中も、どいつもこいつも皆殺しにしてしまえと、心が猛る。

 だが大和とて本当は解っているのだ。こうして風牙衆の命令に従い続けたところで、彼女が無事に戻ってくる保証など、どこにもありはしないのだと。

 それでも、大和にはこうする他に術がない。ひとたび風使いに隠れ潜まれてしまえば最後、雷使いである大和には、彼らを探し出す手段がない。

 いま大和に必要なのは、戦闘能力ではなく、探査能力の方なのである。ただし、それこそ雷使いにもっとも欠けている力に他ならない。

 そのときコートの懐に仕舞い込んでいた携帯電話が振動するのを、彼は感じ取った。大和は発信者を目で確認することなく、ポケットから無造作に取り出し耳に当てた。

 どうせ風牙衆の誰かに決まっている。胸糞悪いことは手っ取り早く終わらせるに限る。「仕事は失敗した」と短く告げるつもりだったのだが、

「……お前は……」

 そこで予想もしていなかった人物の声を聞いて、大和は驚きのあまり息を呑んだ。

 しばし会話を続けた後に、大和は再び携帯電話を懐に入れるとコートの裾を翻して夜の闇の中へと溶けるように消えていった。

 



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遭遇する悪夢①

 風の精霊は、メッセージをきちんと彼に届けてくれただろうか。

 何もない夜の闇を映し出すばかりの窓の外に目をやりながら、彼女――風巻春香は憂いに満ちた面持ちで風巻大和のことを想った。

 春香を姉と慕う大和であるものの、彼女たちは実の姉弟というわけではない。等親が幾分か離れた親族である。

 だが幼い頃より共に過ごした絆は、実の姉弟同然に強く、そして深い。――だからこそ、それを最もよく知る「敵」に利用されたのだ。

 それが、風牙衆――風巻春香が属する一族の総称であり、風巻大和がついに溶け込むことが叶わなかった組織である。

 哀れな子だった――などという同情と憐憫は、誰よりも誇り高い彼を傷つけるだけだということは解っている。しかし、それを誰よりも知る春香であってもなお、大和の半生を憂いなくして想うことはできなかった。

 『炎』が大和の運命の流れを激流に変えた。あの力さえなければ、きっと大和はもっと穏やかな人生を歩めたに違いない。そう、彼の両親とともに、今も……

 大和の両親は、既に早世している。だが意外に思われるだろうが、実のところ、大和は二親と血が繋がっていた(、、、、、、、、、、、)

 そう、風巻大和は、その身に『神凪』の力を宿しながら、たしかに『風巻』の血が流れているのだ。

 その事実は、科学的にも証明されている。そして、それはもちろん神凪、風巻両家にも伝わっていた。

 にも拘らず、大和一家を取り囲む両家からの軽蔑と敵意の視線は、まったく取り払われることはなかった。

 おそらく両家の人々は、DNA鑑定という最新の科学技術による目に見えにくい「証明」よりも、大和の身に発現した『力』という実際の目に見える「現実」を重視したのだろう。

 即ち――風巻大和という人間は、その母が不義を働いた末に生れ落ちた“悪魔の仔”であると。

 そんな周囲の雰囲気を感じ取ったのだろう、ただでさえ出産により身体を壊していた大和の母親は、その無行の圧力に耐えきれず、結局、快癒することなくそのまま病没した。それから数年後、大和の父親もまた任務中の事故により他界した。

 こうして大和は、一〇歳になる頃に孤児の身となったのである。その後、大和の境遇に同情した春香の一家が、周囲の一族の反対を押し切り、それとなく彼の面倒を見てきたのだ。

 その春香の両親も既に他界している。だからそんな彼女たちにとって、いまや本当の意味で「家族」と呼べるのは、お互いのみであった。

 大切な家族、別ち難き絆。それが今、春香の同胞と呼ぶべき人々の手によって利用されている。いや、もしかしたら風牙衆にとって既に春香は同胞ではないのかもしれない。

 そう、孤児だった大和を家族として迎え入れた、一〇年以上昔から。

 物思いに沈んでいた春香の耳に、ふと部屋の外から足音が聞こえてきた。その足音は扉の前で止まると、

呵々々(カカカ)、春香よ、邪魔するぞい」

 皺がれた声とともに部屋の扉が押し開かれ、一人の男が現れる。全身から陰惨な気配を漂わせた不気味な老人である。

「……長、さま」

 表情を厳しく引き締め、春香はそう呟いた。

 この老人こそが、風牙衆頭領、風巻兵衛である。

 風牙衆の長年に渡る神凪家の怨讐と憎悪を晴らさんがため、ついに復讐計画を実行に移した首謀者。そして、そのために春香を誘拐し、大和を意のままに操り、無理矢理に彼をこの謀略に利用している人物でもあった。

 その一族の長を前にして、春香は意を決して嘆願する。

「長さま、私はどうなっても構いません。ですから、どうかお願いします。大和は解放してあげてください!」

 あまりに必死な春香の様子に、兵衛はさも面白いものを見たとばかりにクックックッと愉快気に喉を震わす。

「おお、何とも麗しい姉弟愛じゃのう。だがそれはできぬ相談じゃて。あの“血の裏切り者”には、まだまだ役に立ってもらうつもりじゃからのう」

 兵衛の言葉を聞き、春香は怒りのあまりに顔色を朱に染める。

 血の裏切り者――それは風巻と神凪が大和に押し付けた蔑称だった。

 仮にも同じ「組織」に属しながら、長きに渡り反目し合ってきた両家は、大和の存在によって各々の血統の誇りと伝統を汚されたと感じ取ったのだろう。奇しくも、まったく同様の蔑称()を大和に贈った。

 そんな時だけは、風巻と神凪はお互いに懐く感情を忘れ去り、まさに息ぴったりな以心伝心ぶりを発揮したのだ。その皮肉に春香は、寂しい笑いを溢さずにはいられなかった。

 だがしかし、いったい大和が何をしたと言うのか? 子は親を選んで生まれてくることはできない。

 結局、すべての人間は、多くの面において運命という巨大な大河の流れに身を任せる他にないのだ。己の出生などは、その最たるものと言えよう。

 だからこそ、自身の力ではどうしようもない領域のことで、大和を非難するのは、あまりに理不尽な仕打ちであった。

 だが風巻と神凪の一族の者たちは、その春香にとって当たり前な物事の道理に、誰も思い致そうとはしない。その事実に春香は、ずっとやるせない想いを懐いていた。

「くくく」

 だがそんな彼女が悩み苦しむ様は、兵衛にとって心底からの愉悦であるらしい。

 窪んだ眼窩の奥から、まるで鬼火のように炯々と輝きが灯り、春香の全身を舐めるように凝視した。

 改めて見ても、ひと際美しい娘である。美人にありがちな、何処か対面する者を威圧するような硬質な雰囲気はまったくなく、むしろそれとは逆に、穏やかな気持ちにさえさせてしまうのは、慈愛溢れる彼女の人柄の成せる業かもしれない。

 とはいえ、真の意味でいま兵衛を愉快にさせているのは、春香の外装(ようし)ではない。彼女の「中身」の方である。

 いよいよ、かねてから計画していた、もう一つの仕込み(、、、、、、、、)を成就させる時が来た。怨敵たる神凪はもとより、あの裏切り者たる大和などは、さぞや驚き慌てることだろう。

 その瞬間を想像するだけで、兵衛は愉快でたまらなかった。

「だがのう、春香よ。我が風巻家の直系の一人たるお主がそこまで懇願するのなら、儂もそこまで鬼ではない故、大和の処遇について考えてやらんでもない」

 そんな本心をおくびにも出さず、老風術師はさも心から春香を案じている風に語りかける。

「ほ、本当ですか!?」

 心にもないそんな兵衛の言葉に、だがそれを知らぬ春香は、跳び上がらんばかりに喜びを露わにする。

 それを満足げな面持ちで見やりながら兵衛は、

「うむ、そのためには春香よ、お主には更に役に立ってもらわねばならぬ。我が息子――流也のように、な」

 そう言ってニタリと顔を歪めて嗤った。

 

 

                ×             ×

 

 

 横浜市の閑散とした夜道を、少女は一人歩いていた。

 時間は深夜、それも学生の制服姿での少女の一人歩きは、かなり奇異に映るものの、だがそれを気にする者は誰もいない。もし仮に心無い者に絡まれたとしても、彼女なら心配あるまい。

 少女の名は、風巻美琴。神凪傘下の退魔組織、風牙衆当主家の娘である。彼女も異能の操り手たる退魔師の一人、風術師なのである。

 いま美琴は急いでいた。ある人物との待ち合わせがあるためだ。一刻も早く彼と会って今後のことについて相談しなければならない。

 そうしなければならない原因は、風牙衆にあった。

 美琴は、最近一族全体の様子に強い違和感を懐いていた。ピリピリとした肌を刺すような緊張感が伝わってくるのである。まるで激しい戦いが迫っているかのような。

 美琴もこれが、神凪邸襲撃事件が起こった今ならば、さして不思議には思わなかっただろう。だが、一族の様子がおかしくなったのは、あの事件より以前の話なのである。その事実に、美琴は胸中で嫌な予感がしてならなかった。

 実のところ、美琴は風巻家の直系に生まれながら、幼少の頃から神凪宗家の本家屋敷に奉公に上がっていたため、一族との繋がりはかなり希薄だった。

 それでも、昔から風巻本家には定期的に顔を出すようにと、一族の頭領である風巻兵衛に命じられていた故に、一族とは完全に交流が断絶しているわけでもなかった。

 だが美琴は、以前から一族の者たちの自分を見る眼差しに、どことなく冷たい敵意のようなものを帯びていることに気づいていた。おそらく彼らは、美琴を神凪家の命令によって風牙衆を監視している密偵だと見なしているのだろう。

 勿論、そんな事実など存在しない。美琴は自分を幼い頃より神凪宗家に召し上げた、神凪家宗主たる神凪重吾の真意を、年齢が長じるにつれて徐々に察するようになっていた。

 そうした考えに至った理由は、美琴が奉公に上がった後に命じられた、役目の数々にあった。

 彼女の最初の仕事は、神凪家次代の宗主最有力候補と目されていた現宗主の娘である神凪綾乃の付き人だった。それも四年前にその任を解かれた途端、次に下された役目が、綾乃と同様に宗家の人間である神凪燎の付き人だったのである。

 次代の神凪の中核を担うであろう人物たちと、風巻直系である美琴を早くから縁を結ばせるのは、間違いなく宗主の意図があってのことに違いない。

 それと言うのも、同じ「組織」に属しながら、一向に不和の絶えない神凪と風巻を将来において融和させんとする遠大な目的の一環なのではないかと、美琴は考えていた。

 組織改革には、まず頭から開始しなければならないことは、古今東西および表裏の世界に関係なく人間世界の現実なのだから。

 美琴はこの宗主の理念に、次第に強い共感と理解を感じ取るようになっていた。風巻家と神凪家の関係を憂うる気持ちは、彼女とて同様であったからだ。

 それ故に、美琴は以前から風牙衆の異様な状況について、宗主に相談を持ちかけようと考えていた。神凪宗家に奉公に上がっている美琴には、宗主との面会が比較的容易に可能なのだ。――が、美琴はその選択をしなかった。いや、できなかったというべきか。

 美琴の疑惑には、確たる証拠がない。あるのは状況証拠でもない美琴個人の心象でしかないのだ。もしそんな状況で宗主との面会が適ったとしても、宗主を納得させることなどどだい不可能だっただろう。

 また、美琴個人の思惑もあった。風牙衆は神凪家内で地位は決して高くない。いや、むしろ冷遇されているとさえ言える。

 それは戦闘能力に至上の価値を見出す神凪では、当然の帰結であった。

 だからこそ、一族の人間として風牙衆の疑惑を、何の証拠もなしに不必要に喧伝するのは、あまり得策ではなかった。

 ――だが、いま思えばその判断は、致命的な誤りだったのかもしれない。

 なぜならば、美琴が感じ取っていた異常は、ついに現実を侵食し始めていたからだ。

 昨夜、神凪家の分家の人間が何者かによって殺害された。それも、犯人は風術師だという。

 神凪家は下手人を八神和麻だと断定した。彼には神凪家を深く憎悪する動機があり、なおかつ風術師でもあった。これ以上ない完璧な容疑者だったのだ。

 美琴はそこに疑問を懐く。あまりに出来すぎてはいまいか。八神和麻が犯人ならまだいい。だが、彼が生贄の羊(スケープゴート)に仕立てられているとしたら? 

 ならば、裏で糸を引いている黒幕がいることになる。まさかそれは、彼女の一族なのではあるまいか?

 そう思えばこそ、美琴は彼――風巻大和にコンタクトを取ろうとしているのだ。大和には既に連絡を通してある。

 とはいえ、美琴は大和と特に親しい間柄というわけではない。むしろ美琴と親交があるのは、彼の義姉である風巻春香の方である。実際、彼女を通じて面識があるだけである。 

 だが、その春香もしばらく前から連絡が途絶していた。彼女に限って万が一にも悪事に加担するとは思えないが。ならば今一体何処に?

 嫌な想像を振り払い、美琴は歩調を速める。アスファルトを叩く軽快な音が街路に響く。

「急がなくては。大和さんなら何か知っているかもしれません」

 美琴の呟きは、虚空へと消えるはずだった。それを――

 

 

「若い娘がこのような時間に出歩くとは、あまり感心できないぞ。美琴」

 

 

 ――拾う者さえいなければ。

 背後から聞こえてきた声に愕然と振り向く美琴。彼女が歩いてきた舗装路、ついさっきまで無人だったはずの場所に、いま壮年の男が佇んでいた。

「おじ様……」

 美琴は呆然と呟いた。

 彼の名は風巻藤次。美琴と同じく風巻家の直系の人間である。そして、彼の背後にぴたりと侍っている三人の男たち。皆一族の者だ。

「なぜここにっ!?」

 動揺が抜けきらない美琴の声には、震えが混じっていた。

「こんな夜更けに、可愛い親族の娘が一人出歩いているのだ。迎えに行かないわけには行かないだろう?」

 芝居がかった口調で藤次は、にこやかに笑みを浮かべながら言った。

 たしかに美琴と藤次は親戚関係にある。だが少なくとも、美琴の帰りが遅いからと言って、迎えに来るほどの交流はない。

 とはいえ、神凪家襲撃事件が起きたばかりだ。まったくあり得ないというわけではないが。

 そこまで考えて、ようやく自分の思考が正常に戻るのを自覚した。

 そもそも、この横浜に藤次がいること事態があり得ないのだ。今日美琴が外出することは、無論、誰にも告げていない。故に迎えに来れるはずがない。そう、あらかじめ尾行していない限りは。

「くッ――」

 美琴は身構えた。致命的なまでの行動の遅さに内心で、ほぞを噛む。

 当然、敵はその隙を見逃さない。美琴の背後にさらに二人。新手だ。気配で分かる。間違いなく風牙衆。

 そう、敵だ。それを目で、肌で美琴は理解する。風牙衆――やはり彼女の一族こそが、神凪家の真の敵であったことを!

「お前がこそこそと嗅ぎまわっていた事を、我々が気付かないとでも思っていたのか」

 驚愕と焦燥に身を震わす美琴に頓着せず、藤次が冷厳と言う。

 そこには親族に向ける温かみなど微塵もない。口調も眼差しも北風にも似た冷気を纏い、美琴の全身を突き刺す。

「なぜですか……どうして反逆などをッ!」

「何故だと、それを今更問うのか? それほどまでに神凪に毒されたか!」

 美琴の悲痛な叫びは、だが藤次の嘲笑と憎悪で返された。

 解っている。彼女とて解っているのだ。

 三〇〇年前の昔、風牙衆は暗殺、誘拐、破壊工作を生業にする犯罪結社だった。その残虐行為を見咎めた時の幕府は、神凪に討伐命令を出した。激闘の末、風牙衆は敗北を喫し、神凪の下部組織として吸収された。それが、風牙衆の零落の始まりである。

 神凪の支配直後は、それこそ奴隷の如き扱いを受けていたと伝え聞くが、時代が進むにつれて、社会の枠組みの変化は神凪にも及んだ。現在では、仕事を行えば正当な報酬もでる。物質面での供給は、三〇〇年前とは雲泥の差である言えるだろう。 

 だがしかし、風牙衆が欲するもう一つのモノは今なお手に出来ていない。

 それは――名誉であり、誇りである。

 この世の理の守護者たらんとする神凪。それを補佐する風牙衆も神凪の一員なのだと。風牙衆もまた『正道』を行く精霊術師なのだと、神凪に認められたことは今も、ない。

 風術は下術だと公然と罵倒され、風牙衆(オマエたち)は弱いと嘲笑される。

 たしかに風牙衆は物質面では改善されたが、精神面では未だ神凪の奴隷であり続けた。

 それが風牙衆の現実だった。

「そう、奴隷の時代は終わったのだ。今度は我らこそが神凪どもを支配するのだよ!」

 藤次の哄笑が夜風に乗って響く。

「そんなことは不可能です!」

 神凪と風牙衆を隔てるのは、圧倒的な力の差である。

 風牙衆の戦闘能力は神凪の分家にも劣る。それもまた現実なのだ。だからこそ、三〇〇年に渡る隷属を耐え忍んできたのではなかったのか。

「ふん、そんな事は最早問題ではない。その気になれば今からでも神凪を破滅させられるのだからな」

 両家の間に存在する絶壁を、だが藤次は勝ち誇った笑みを相貌に刻みながら、一言で斬って捨てた。まるで神凪など、もはや敵ではないと言わんばかりに。

「ッ!?」

 そんな藤次の様子に、美琴は疑問を感じて必死に思考を巡らせた。

 本来、力の差が明々白々にも拘わらず、風牙衆は神凪の術者を惨殺し、真っ向から反逆の狼煙を上げたのである。強力な切り札を用意しているものと見て、間違いあるまい。

 ならばそれはやはり風牙衆の歴史に記された、かの『神』なのであろうか?

 三〇〇年前、風牙衆の力の源として君臨していたとされる『超越存在(オーバーロード)』。まさかそれを復活させる手段でも見出したのか。

 現にそう考えでもしなければ、これ程の暴挙を冒す説明がつかない。それともあるいは、この事態の背後には、美琴がかねてから風巻兵衛の命令によって受けさせられていた、あの施術(、、、、)と何か関係しているのだろうか?

 ……解らない。いま判明しているのは、状況は明らかに美琴が当初想定していた以上の速度でもって悪化し続けていることだけだ。

 こんなところで足止めを食らっている場合ではない。一刻も早く事態の収拾を図るために動かなければならない。こうなったら手段を選んでいる贅沢など許されない。

 ある決意を固めた美琴は――そのとき、ふと藤次の自分を見る眼差しに言い知れぬ悪寒を感じ取った。

 藤次の顔つきは醜く歪みきり、双眸は美琴の懊悩を悦んでいるかのように嗜虐の光を灯して彼女を凝視する。

 言葉を交わさずとも理解した。風巻藤次は、どうしようもなく風巻美琴を憎悪しているのだと。

「……何故だ。風牙衆の勝利のために、これまで我々は多くのものを失った。頭領においては、実の息子を捧げまでしたのだ!

 だというのに何故お前のような神凪に媚びへつらう裏切り者が無事なのだ!」

 裏切り者――その弾劾の言葉に美琴は胸を穿たれた。だが、彼女は己を叱咤する。このようなところで、呆けている場合ではない。

 認めよう。彼らからすれば自分は裏切り者である。そして、これから行うこともまた、その範疇に含まれるだろう。

 ――宗主にすべてを話し、慈悲と恩情を請うのだ。

 美琴は風牙衆全員が反逆行為に加担しているとは考えていない。必ずや自分と同じように反対するものがいるはずだ。だとすれば、まだ望みはある。

 そうだ。どんな逆境でも諦めさえしなければ、つねに希望の光は差し込んでくるはずだ。

 為すべきことがはっきりすると、心中で荒れ狂っていた動揺と焦燥の感情は、嘘のように鎮まり返り、今の美琴には包囲を抜ける隙はないものかと四方に視線を走らせる余裕すらできた。

 そんな美琴の変化に、藤次は彼女の心中を推し量らんとするかのように目を細めた。

「まさかお前は、この期に及んでまだ神凪に縋りつくつもりなのか?」

 ずばりと的を射た鋭い藤次の指摘に、思わず目を見開く美琴。

「――図星か。何処までも見下げ果てた奴だ」

 藤次は心底軽蔑したとばかりに冷やかな眼差しで美琴を見据えた。

「まったく理解出来んな。なぜ自分の力で立ち上がろうとしない? なぜ神凪などという古く腐りきった大樹なぞに寄りかかろうとするのだ?」

「それは、私が――」

 美琴はそこで一旦言葉を切り、物思いに沈むように静かに目を伏せた。が、美琴はすぐさま目を開けて決意に満ちた瞳で、

「――いいえ、私たち風牙衆もまた『神凪』だからです。今更三〇〇年前のような邪道には戻れません」

 そう決然と言い放った。

 その言葉には次代の風牙衆を背負うとともに、一族の者たちを正しき道へと導かんとする気概と意志が宿っていた。

「み、美琴さま……」

 すると彼女の威厳ある立ち振る舞いに、藤次が率いていた一族の者たちが揃って狼狽えた。美琴の想いの丈に、感銘を受けたのだろう。

 それを見咎めた藤次は、怒りを露わに吐き捨てた。

「ええい、愚か者どもめ! こんな小娘の戯れ言に毒されよって!」

「し、しかし藤次さま。美琴さまのお言葉にも一理あるのでは……」

 藤次の背後の控えていた一人が彼の剣幕に怯えながらも、必死になって抗弁した。

「そんなモノがあるはずなかろう! 何より我らの征くべき道は、邪道ではない、正道なのだ」

 藤次は断固たる口調で滔々と語る。

「三〇〇年前に神凪によって捻じ曲げられた我ら風牙衆の『道』を、今こそ正しいカタチへと回帰させるのだ!」

 だが美琴もまた負けじと声を張り上げる。

「それこそが邪道なのです! 三〇〇年前に風牙衆はその『道』を歩んだがために、一度滅びたではありませんか。もしかつてと同じ道を歩めば、今度こそ完全に滅ぼされるでしょう」

 だからそうなってくれるなと言う、彼女の切なる祈りにも似た言葉は、だが――

「その通りだ。故にこそ我らが滅ぼされる前に、神凪を滅ぼさねばならぬのだ!」

 藤次の心には、微塵も響くことはなかった。

「貴様たちは忘れたのか、頭領が手に入れられたあの『力』を! アレらさえあるならば、神凪とて敵ではない。

 何よりそれ以上に、神凪の人間を手にかけたことで、我らには逃げ道など、とうに残されていないのだ。そう既に賽は投げられた。

 ――前進せよ、同胞たちよ! 我ら風牙衆に突き進む以外に道はない!」

 美琴の言葉に戸惑っていた風牙衆の者たちも、

「そ、そうだ、おれたちにはもう後戻りはできないんだ……」

 と藤次の演説を聞き、たちどころに動揺を鎮めた。それを見て彼は、不敵な笑顔を浮かべる。

「そうだ。それでいいのだ、同胞たちよ。さあ、その小娘を捕えよ。頭領の許へと引き渡せば、我らに更なる力が得られるだろう!」

 美琴を取り囲んでいる一族の者たちの視線に、冷徹な光が灯る。これで、もはや彼らの翻意を期待できなくなった。

「くっ」

 どうやら藤次には、扇動者(アジテーター)としての才能があるらしい。対して自分には、その資質が著しく欠いていることを認めざるを得なかった。

 扇動とは、つまるところ他者を自分の考えに巻き込むことを言う。口に乗せる言葉に、相手の理解と納得を獲得させうる、確かな説得力を持たせることも当然だが、何より自分自身が己の言葉の「正しさ」を信じている必要が絶対にある。

 それも当然だ。自身すら「説得」できない人間が、どうして他者の理解と納得が得られようか。

 そして今の美琴には、自らが語ったにも拘らず、その『正道』を完全に信じきれていなかった。

 もし風牙衆が投降したとして、果たして神凪は平和的に受け入れてくれるのだろうか? もしそれが叶ったとして、神凪と風巻の融和はいっそう遠退くことになるのは確実だった。いや、今後その関係はますます悪化していくものと考えた方が自然である。

 ならばそこに、美琴が思い描いた理想像たる風牙衆の未来は、果たして存在するのだろうか。

 ……きっとそんな彼女の迷いを、一族の者たちに見透かされたに違いない。そもそも、こんな自分が、彼らを説得しようなどと思ったこと事態おこがましかったのだと、美琴は自嘲した。

 だがそれでも美琴は思う。自分が風牙衆の反乱に加担することだけは、決してできないと。それだけは、まぎれもない美琴の内にある真実だった。

 ならば、いまは生き延びねばならない。おそらく藤次に捕まれば命はあるまい。美琴は、そんな漠然とした予感を感じていた。――が、それはかなりの難事であることは明らかだった。

 隙がないのだ。一族の者たちが動揺していた瞬間も、美琴は目敏く隙を窺っていたのだが、包囲に綻びが生じることはついになかった。

 本当に優秀な術者たちだ。風牙衆は、神凪家にその力量が認められずとも、実力派集団なのだと改めて痛感する。

 やはりどう考えても自分一人では、この包囲を突破することは不可能だ。それでも諦めるわけにはいかない。美琴は意を決して敵中へと跳びかかろうとしたそのとき――突如黄金の炎が噴き上がった。

 

 



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遭遇する悪夢②

 その炎は、じわじわと包囲の幅を狭めかかっていた風牙衆たちから、まるで美琴を守護する壁の如く立ち昇る。慌てて後退る風牙衆たち。すると炎の壁が消えると同時に、

「無事か、美琴!」

 彼女の身を心配する声が響く。

 この力、そしてこの声。美琴には覚えがあった。なぜなら、この四年に及び仕えている彼女の主人なのだから。

「まさか、燎さま……!?」

 まるで美琴の呼びかけに応えるが如く、彼女の背後に陣取っていた二人の風牙衆たちの間隙を縫うように駆け抜けてくる人影があった。

 美琴の纏う学生服と似た基調をした制服を着込んだ男子学生だ。眼鏡をかけた大人し気なその風貌は、人畜無害な学園の優等生を思わせる。だが両手に持った二振りの日本刀の凶悪な存在が、その印象を完全に裏切っていた。

 神凪燎。神凪家宗家の炎術師である。彼は美琴の傍らまで駆け寄ると、周囲の敵たちを威圧するように二刀を構えた。

「燎さま、どうしてここにッ」

「ここ最近――とくに昨日の美琴の様子は、明らかにおかしかったからな。……すまないが、屋敷を出ていく君の後をつけさせてもらった」

 詰問する美琴に、燎はきまりが悪そうに俯いた。

 美琴と燎は、たしかに公的には主従関係であるとはいえ、同世代の女の子を、しかも夜中にストーキングする行為が決して褒められた行動ではないことは、一般の倫理観に照らし合わせれば明らかだ。どうやら彼には、その自覚があったらしい。

 だが美琴は、そんな主の自己反省に気づく余裕はなかった。

 同族である風牙衆だけならともかく、炎術師である燎にまで尾行されながらまったく気づかなかったのは、美琴の失態以外何ものでもない。風術師失格である。どうにもさっきまでの自分は、相当深刻な人事不肖に陥っていたらしい……

 だが燎は、そうした従者の自己反省に気づくことなく顔を上向け、周囲を見渡す。

「風牙衆がどうして美琴を襲っているんだ? いや、待てよ……」

 剣呑な気配を撒き散らしつつ、美琴を包囲している――“風牙衆”。昨夜、神凪邸を襲撃した――“正体不明の風使い”。

「そうか、そういうことか! お前たち、風牙衆が犯人だったのか!」

 脆弱な力しか持たない風牙衆と神凪の分家の術者を惨殺した強力な力を有した風使い。

 神凪家の誰もが一致させることが叶わなかったこの二つのピースが、いま燎の脳内でぴたりと組み合わさった。それはひとえに己の従者たる風巻美琴が、『自分たちの側(神凪)』であることに何の疑いもなく信じているからこそ出来たことかもしれない。

「――ほう、宗家の炎術師どのは、随分と察しがいい。どうやら君は身体の『弱さ』とは違い、頭の方は存外『弱く』ないらしい」

 藤次は燎を見据えながら、口元を歪めて嗤う。

 燎は四年前に大病を患った。そのため神凪宗家の人間にも拘らず<継承の儀>にも参加できず、この数年病に苦しんでいた。

 とはいえ、いまはその病気も快方に向かい、日常生活も何の支障もなく送れるほどに回復していた。ただ、まだ完全に治っているわけではなく、燎自身、自らの「弱さ」に激しい憤りを懐いていた。

「おじ様、貴方は何ということをッ!」

 四年前に宗主より大病を患った燎の付き人に命じられて以来、美琴は彼を必死で看病し励ましの言葉をかけ続けてきた。

 だからこそ美琴は、彼がどんなに病に苦しんできたか、彼がどんなに病に倒れた自分自身を責め苛んできたのかを、誰よりも身近で見てきた。故に、依然病魔が燎の身体に巣くっていることと同じく、その苦悩と懊悩もまた癒えきることはないのだ。

 そんな燎を知りもせず、ただ「弱い」などという嘲りの言葉で彼の苦しみを皮肉る藤次を、美琴は到底許すことができなかった。

「いいんだ、美琴」

 怒りを露わにする美琴を宥めるように燎は声をかける。

「確かに俺は弱い。だけど、そんな俺でも『神凪』としてやらなきゃならないことは、きっちりやるつもりだ」

 そう言うと、燎は藤次を静かに見据えて決然と宣言する。

「風巻藤次並びに風牙衆たちに告げる。――降伏せよ。いま降れば、寛大な沙汰を下してもらえるように俺から宗主に架け合うつもりだ」

「燎さま……」

 美琴は燎の言葉に深く感じ入った様子で小さく呟いた。

 それも当然か。それこそ彼女がどれほど求め欲しようとも、決して果たせないことなのだから。だが藤次は、燎の慈悲の想いを鼻で笑って一蹴する。

「降伏しろだと? 笑止だな、むしろ降伏せねばならないのは、貴様たち神凪の方だろう!」

「な……ッ」

 美琴も燎も藤次の放言に揃って呆気にとられた。

 燎の降伏勧告は、この場における最後通牒も同然だ。なぜなら、藤次率いる風牙衆たちは、美琴を捕縛できても、燎を捕殺することだけは絶対にできないのだから。

 それが神凪家と風牙衆を隔てる力の差、現実という名の壁だった。

 なのに、そうした事情を誰よりも理解しているはずの藤次は、だが神凪宗家の炎術師を前にして、平然と笑っている。

 その状況に美琴は、再度言い知れぬ悪寒が全身を走り抜ける。いったい風牙衆はどんな『力』を手に入れたのだろうか? ――その答えはすぐに出るはずだと彼女は直感した。

「宗家の術者か、憑依仕立ての試運転の相手としては悪くない」

 にやりと不敵な笑みを浮かべながら、藤次は何処にいるとも知れぬ相手へと呼びかける。

「――来い、春香(、、)。お前の力、見せてみろ!」

 藤次の号令一下、変化は静的でありながら劇的に起こった。

 いつの間にか、対峙する美琴たちと藤次の間に何者かが忽然と姿を現したのだ。炎術師である燎はもとより、風術師である美琴ですら眼前に現れるまでその存在を感知できなかった。

 さながら瞬間移動でもしたかの如く、ソレは瞬時に現れ出でた。

 おそらくは遥か上空から物凄いスピードで垂直降下してきたのだろう。となれば、十中八、九相手は風使い。

 ……だがそんな推測を巡らす必要もなく、藤次と挟むようにあらたに対峙する存在は、美琴にとって既知の人物だった。

「……春香……さん……?」

 美琴はあまりの驚愕と恐怖に唇をわなわなと震わせた。

 そう、目の前に立ちはだかる人物こそ、風巻春香に他ならなかった。だが美琴が知る春香と今の彼女は、まったく見る影もない有様だった。

 かつて健康的だった肌色は、今や青白く、もはや死人のそれだ。同性の美琴でも憧れた、手入れの行き届いていた長く美しい黒髪は、ばらばらに乱れ、風にゆらゆらと煽られて四方八方に蛇のようにくねらせている。まさに鬼女と呼ぶに相応しい風体だった。

 だがそれよりもなお一層異常なのは、春香の身体から吹き上がる膨大な妖気の気配。――間違いない、もはや彼女は人間ではない。

「妖魔に取り憑かれているのか……」

「はい、それも相当強力な存在に」

 呻くように呟く燎に、美琴は冷静に首肯して応じた。が、その表情は蒼褪めていた。

「燎さま、祓えますか?」

 一縷の望みを託すように美琴は燎に訊いた。

 神凪家の炎術師の行使する炎には、不浄を焼き清める破邪の秘力を宿している。この『浄化の炎』により、神凪の術者は妖魔邪霊に対して絶対的な優位を獲得している。

 ましてや神凪宗家の術者たる燎の技量ならば、憑依された被害者を傷つけることなく、妖魔のみを対象に焼き尽くすこともできる。だが――

「……すまない、無理だ。それに彼女から妖魔を祓うどころか、普通に戦って勝てるかどうかも解らない」

 申し訳なさそうに目を伏せて、燎は返答した。

「……ッ」

 主の答えを聞いて、美琴は苦渋の呻きを漏らす。

 今思えば神凪の分家の術者が惨殺されたのは、当然といえば当然のことだったのだろう。宗家の術者である燎をも上回る妖魔と相対しては、彼らに生き残る術はなかったに違いない。

 なるほど、これほどの力を有する妖魔を従えているならば、さっきからの藤次の絶大な自信の程も納得である。しかも、風牙衆が使役しているのが、春香に憑いている妖魔一体であるとは限らないのだ。

 ふと美琴は、つい先刻藤次が言い放った台詞が脳裏に過った。

 ――何故だ。風牙衆の勝利のために、これまで我々は多くのものを失った。頭領においては、実の息子を捧げまでしたのだ!――

 風巻流也。この数年、誰も目にしたことがない頭領の子息。……まさか彼もまた春香と同様に妖魔と化しているのだろうか?

「美琴、君は早くここから逃げろ」

 そのとき、低く感情を押し殺した燎の声が、美琴の思考に割り込んできた。

「な、なぜですか、燎さま。私も戦います!」

 予期しなかった言葉に、愕然と燎を見返す美琴。

 彼女とて未熟といえど、退魔師の端くれである。戦場で倒れる覚悟はとうに出来ている。そういう風に気遣われるのは、むしろ心外であった。

「違うさ。むしろ美琴には、重要な要件を片づけてもらわなくちゃならなんだ」

 憤慨する美琴に、燎はこんな最中でありながら、とても穏やかな視線を向ける。

 美琴は四大最弱の風術師、一方燎は病弱な炎術師。

 そうした二人だからこそ、退魔師の覚悟という点においては、生まれながら強大な力を身に宿し、いかなる挫折も知らず故に自分自身の「弱さ」に直面することがなかった神凪綾乃よりも、よほど優れているのかもしれない。

 現に、この絶望的な状況下にも拘らず、二人の瞳には揺るぎない意志が宿っていた。

「何を、でしょうか?」

 ようやく合点がいった美琴は、静かに問うた。

「ここで起こった出来事、その全てを宗主に報告して欲しいんだ」

「あ……」

 燎の返答に美琴は、言葉を失った。

 燎の言い分は、もっともである。神凪家はいまだに何一つとて知らぬのだ。

 神凪邸襲撃事件の真の首謀者が風牙衆であることも。その風牙衆が強力な切り札を携えて神凪家に反乱を画策していることも。

 そして何も知らぬまま今の風牙衆と対峙しようものなら、あるいは神凪家は本当に壊滅してしまうかもしれない。それを阻止するためには、真実を知った二人のどちらか一方が、風牙衆謀反の知らせを神凪へと持ち帰る必要があった。

 となれば、必然その役割は美琴に期せられるのは明らかだった。なぜならば、この場に居残る一方が、殿を務めて退避する味方の背後を守るために妖魔と風牙衆を足止めしておかねばならないからだ。

 従って、その役目は二人の内もっとも戦闘能力に秀でた者が果たさねばならないのは道理である。つまりそれは、神凪の炎術師である燎にしか出来ぬことであった。

 美琴に反対する余地は微塵もありはしなかった。二人同時に退却する選択肢はあり得ない。それを素直にさせてくれる相手たちではない。

 逆に美琴が残ると言う選択もまたあり得ない。藤次たちに囲まれただけで行動不能に陥っていた美琴が、妖魔の増援でさらに戦力が増強された今の風牙衆の足止めなど出来ようはずもない。

 燎の決断と行動は、立場の上下関係や人間的感傷の入り込む余地などない、極めて合理的な判断力によって支えられているのだと、聡明な彼女には理解できてしまった。

「……解りました、燎さま」

 故に、主の鋼の意志を、従者は受諾した。――彼を困らせたくなければ、そうする他に仕方がなかった。

「――クク、今生の別れは交わす時間はもう済んだのか?」

 悲壮な決意を固めた二人を見守りながら、藤次は愉しげな笑みを刻む。

「では始めるとしようか。春香、せめてもの情けだ。二人仲良く切り刻んでやれ!」

 藤次の下知が飛ぶのと同時に、春香の全身から殺意の波が迸り瀑布となって押し寄せる。

「……ッ、行くんだ、美琴!」

 そう叫ぶとともに、燎は二振りの刀身に黄金の炎を纏わせ、怯むことなく妖魔へと躍りかかった。

 その直後――金色に煌めく雷光が天空より飛来し、燎目掛けて降り注いだ。

「がッ」

 呻き声とともに崩れ落ちる燎、それを見て美琴は悲鳴を上げる。

「燎さま!?」

 慌てて駆け寄り、何とか抱き留める。見る限り外傷はなく、呼吸音も規則正しい。どうやら気絶しているだけのようだ。美琴はほっと安堵の吐息をついた。

「一体何が……?」

 周囲を見回すと、春香も藤次の命令によるものか動きを止めている。

「何が、だと? あの男(、、、)を呼び出したのは、お前ではないか」

 途方に暮れる美琴を、失笑とともに見返しながら藤次は告げた。そう言われて美琴もようやく気づいた。辺り一面に漲っていく膨大な炎の気配に。

 驚愕とともに美琴は背後を振り返る。彼女の霊視力は燦然と輝き放つ力の波動を、たしかに捉えていた。

 ――否、見紛うことなどあり得ない。それはまるで太陽が地上に降臨したかのように。あるいは宇宙において超新星の爆発が発生したかのように。その存在はあまりに圧倒的であり過ぎた。

 彼は、悠然とした足取りでこちらに歩み寄ってくる。二人の風牙衆たちは恐れ戦くようにたじろぎ、ただ黙して見送るしかなった。

 それも当然だ。彼から放射されているのは、強大な力の気配ばかりではない。凄まじい殺意と憤怒の念が、辺り一面に荒れ狂っている。力を揮うことはおろか、声を発するだけでその怒りの矛先がそちらに向きかねない。

 風巻大和。美琴は彼が神凪家において、異端の炎術師であることは、無論知っていた。だが、これ程の術者であろうとは、想像だにもしなかった。

 大和の力は、燎はもとより綾乃をも明らかに凌駕している。……あんな圧倒的な力の規模と質の持ち主が、よりにもよって風巻家から生まれ落ちた事実が到底信じられない。

 おそらくは隔世遺伝によるものだろう。神凪家と風巻家は、極一部にしろ、数世代前に血の交流があったに違いない。なればこそ、『黄金の炎』が発現し得たのだろう。――つまり彼の体内には、風巻のみならず、やはり神凪の血もまた、脈々と流れているのである。

 神凪家と風巻家にとって、風巻大和の存在によりもたらされるのは、希望か――それとも破滅なのか。

 両家の融和を至上命題に掲げる美琴にしてみれば、大和は実に頭の痛い存在だった。彼を“救世主”と見るか“破壊者”と断じるか、彼女には未だ判断がつかなかった。

「ようこそ、大和。随分と遅かったではないか。しかし、我らに忠誠を示すために神凪の炎術師を攻撃したのは感心したが、手加減でもしたのか? そいつはまだ生きているぞ」

 そう言って藤次は、顎をくいっと傾けて美琴たちを指し示す。

 意識のない燎を抱き締めたまま、はっと身を固くする美琴。そんな彼女を横目に、大和は美琴の脇を通りすぎ、藤次と――いや、春香と対峙する。彼は一切言葉もなく、ただ凝然と変わり果てた姉を見つめ続けた。

 それを見て取った藤次は、にんまりと破顔し、

「どうした、春香と会うのは久しぶりなのだろう? ならばもっと嬉しそうな顔でもしたらどうだ」

 そう嘯いた。

 藤次の言葉に、美琴は信じられないとばかりに目を見開く。

 彼には、周囲一帯の空間を席巻する、この狂乱した膨大な炎の精霊が視えていないのだろうか? もし仮に大和が号令一つ発しようものなら、辺り一面は瞬く間に炎の海と化すというのに!

 にも拘らず、藤次のあの平然とした態度はどうか。春香に憑依している妖魔とは、そこまでの力を有しているとでもいうのか……

「――黙れ、それ以上囀るな」

 大和が冷ややかに宣告した刹那、目映い黄金の煌めきが彼の全身から立ち昇るや、雷撃の槍が藤次目掛けて殺到する。

 藤次はたしかに一流の風術師ではあるものの、規格外ではまったくない。故に、その彼に大和の攻撃を防ぐ手段はない――はずだった。

 風が唸り、精霊の絶叫が鳴り響く。凶気と妖気に染め上げられた禍々しい黒い烈風が、雷撃の槍を木端微塵に打ち砕いた。

「!?」

 瞠目する大和に、藤次は勝ち誇った高笑いを上げた。

「ハッハハハ、どうだ! これこそ、頭領が我らに授けてくださった風牙衆の『力』だ!」

それ(、、)のどこがお前たちの『力』だ」

 嫌悪のあまり顔を顰めて、大和はそう吐き捨てた。

「些細な問題だ」

 藤次は鼻で笑って言い切った。

「貴様たち『神凪』を滅ぼすことができるならな!」

「俺は神凪ではないぞ」

 藤次の口上を、間髪入れず、大和は否定した。

「ハ――そんな力を揮いながら、何を今更言うつもりか! だが仮に貴様が『神凪』でなかったとしても、『風巻』でもあるまい。――ならば貴様は、一体何者のつもりなのだ」

「俺は俺だ。それ以上でもなければ以下でもない」

 大和は、自らの存在理由(レゾンデートル)を何の躊躇もなく口にした。まるで彼にとって、あえて考える必要もないほどに自明のことであるかのように。

「何? どういう意味だ、それは……」

 だが、藤次は意味を解しかねたらしい。怪訝な顔をして大和を見やる。

「神凪だの風巻だのと、そんな下らないことは、どうでもいいと言っているんだ。いつまでも、そんな小さな世界(、、、、、)にしがみついているから、お前たちは三〇〇年経ってもなお、何も変わらないんだ」

「おのれ……貴様如きが、我ら一族を侮辱するつりかァ!!」

 大和の言葉によほど怒りを掻き立てられたらしい。藤次は憤激を露わにする。

 そういう話じゃないんだがな、と大和は胸中で呟いた。

 大和の真意はつまるところ、風牙衆による神凪家からの「離反」を暗に指し示していた。

 反逆ではなく、あくまで離反である。お互い長きに渡って共に在るからこそ、憎しみ合うのだ。ならばいっそ、離れてしまえばいいではないか。『神凪』と言う名の呪縛から永遠に逃れるのだ。そうすれば、憎悪と怨讐からも無縁でいられよう。

 もとより風牙衆は、風術師集団としては一流の腕前を持つ。ならば神凪家から離脱しても充分にやっていけるはずである。

 なのに、なぜか風牙衆からそんな話題が上ることが一度としてなかった。まだ、これが神凪家の立場であるなら理解できる。連中にしてみれば、自分たちの欠点を補ってくれる風牙衆と言う便利な道具を、わざわざ手放す理由はないからだ。

 だが風牙衆は違う。彼らには神凪から離脱する理由が充分すぎるほどにあった。

 それでも、風牙衆の口から「反逆」という言葉は聞けども、「離反」という言葉が出たことはない。

 まるで風牙衆の世界観において、神凪こそが燦然と輝く太陽であるかのように。風牙衆の存在理由にとって、どうしても神凪が不可分であるらしい。

 彼らにとって「共生」か「破壊」以外に道は存在しないも同然なのだ。共生も破壊もカタチは違えど、結局、ただ一つに交わらんとする行為に他ならない。

 故に、そこに「第三の道」があったとしても気づくことがない。神凪や風巻などという小さな世界から一歩、外へと踏み出すだけで、世界はかくも無限に広がっているというのに。

「……まあいい、こんなところで貴様などと仲良く人生哲学を語り合う気はない。――そろそろ始めようか」

 腰を屈めて、大和は臨戦態勢を整える。

「ふん、確かに貴様とこれ以上無駄話を興じる気にはなれんが……さっきから見ていれば随分と冷静じゃないか。姉をバケモノに変えられたのだ。貴様はもっと怒り狂うものと思っていたがな」

 そう言った途端、何か思い至ったのか藤次は、陰惨に表情を歪めて、

「ああ、それともこの女は貴様にとって、さほど価値のある存在ではなかったということか?」

 そんな言葉を言い放った。

 次の瞬間、大気が揺らめき空間が脈動する。否、それは正確ではない。一帯の空間に内包している炎の精霊が、“雷使い”の感情に呼応して、歓喜の声を上げているのだ。

「――俺が、冷静だと? 阿呆が、何処を見ている。怒りのメータはとうの昔に振りきっていることが解らないか」

 語る言葉とは裏腹に、大和の声は激情を心に宿しているとは思えぬほど、低く冷たく醒めきっていた。

 さもありなん。そうでなければ、どうして姉を救うことが出来ようか。

 炎の性は『烈火』。憤怒こそが、炎の精霊と同調し得る鍵だ。しかし、それだけでは到底足り得ない。激しい怒りと、それを制御し得る自制心を持つ者だけが、一流の炎術師になれるのだ。

 故に、春香を救うためには怒りに溺れる、などという贅沢は許されない。春香の肉体に巣くう、汚らわしい化物のみを焼き尽くすには、そうする他に術がないのだから。

「なるほど、春香を救うために怒りを制御しているわけか。だが、そんなことは誰にも出来はしないぞ。たとえそれが神凪の宗主であったとしてもな! 貴様に出来ることは、せいぜい春香共々妖魔を焼き尽くすか、姉の手にかかって死ぬことだけだ!」

 合点いったとばかりに口元を歪めると、藤次は冷酷な現実を突きつける。だが大和は何の痛痒も感じていないかのように平然とした面持ちで、淡々と口を開いた。

「だから、お前の小さな世界の話などは俺の知ったことではないと言っているだろう。とっとと始めよう、お互いのためにな」

 脅し文句が何の効果も発揮し得なかったと見て取るや、藤次はさも忌々しいとばかりに顔を顰めた。

「いいだろう。そんなに進んで絶望を味わいたいと言うなら――」

 藤次は唐突に言葉を切ると、頭上を仰ぎ見て静かに目を伏せた。

「何だ?」

 大和はそんな藤次を訝しげな眼差しで見遣りながら、小さく呟いた。

「おそらくは呼霊法です」

 背後からそう答えてくる美琴を、大和は肩越しにちらりと一瞥し、また視線を藤次に戻した。

「呼霊法だと? なら、奴は――」

「はい、おじ様はいま風牙衆と連絡を取っているものと思われます」

 緊張に身を固くする二人が見守る中、やおら藤次は興奮した面持ちで口を開いた。

「おお、流石は頭領だ。神凪の小僧を首尾よく確保したか。これで計画は次の段階に移行する。ならば、もはやこの場に用はない」

「何だと? 貴様、それはどういう意味だ」

 藤次の台詞に不吉な予感を感じ取り、鋭い語調で詰問する大和に、藤次は余裕の笑みを浮かべつつ答える。

「言葉通りの意味だ、大和よ。この場で貴様を始末したかったが、どうやら運命はもっと相応しい舞台を用意しているようだな。何より、決戦の地としては、あの場所より相応しい所など存在しない」

 彼がそう言葉を発した途端、黒い旋風が竜巻のように藤次と春香を包み込む。凄まじい突風が吹き荒れ、咄嗟に前へ出ようとした大和の脚に絡みつき、前進を阻まれる。

「くっ……貴様、まさか逃げるつもりか!」

 吼える大和に、狂ったような哄笑を上げながら、藤次は傲然と告げる。

「――大和よ、もう一度春香に会いたいたくば、来るがいい。我ら風牙衆の『神』が眠りし地、忌まわしき神凪の聖地へ……!」

 哄笑と旋風が鎮まった後、藤次と春香がいた場所には、もう誰もいなかった。風牙衆たちも既にその存在を消していた。それを目の当たりにした大和は、肩を震わせて怒りを爆発させた。

「待て、風巻藤次! くそ、姉さん……!!」

 だがしかし、その声は天へ向かって虚しく響くばかりで還ってくる言葉はなかった。その様子を、月が誰も届かぬ高みから、静かに見下ろしていた。

 

 



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決戦の地へ

 忌み子、鬼子、そして――血の裏切り者。

 生まれてこのかた風巻大和は、そうやって蔑まれて生きてきた。

 とりわけ子供たちは、無知と無邪気さによる残虐性を大和に対して発揮した。大人たちの大和に関するそうした雰囲気を敏感に感じ取り、暴力をもって血と泥の中で屈服と服従を強いてきたのだ。

 そんな場合に限って、最後の防波堤として大和を守護するのは、決まって彼が身に宿した強大無比な『力』であった。この力こそが、大和を現在の境遇へと陥れた元凶にも拘らず……

 運命が用意したその皮肉に、だが大和は笑う余裕などありはしなかった。なぜなら、彼の『力』は、身体を保護してくれても、精神(こころ)までは護ってくれなかったのだから。

 神凪家や風巻家にとって風巻大和という人間は、決して生まれてはならない存在だった――それを大和は物心がついた頃には、既に理解していた。

 そんなことはない、風巻大和は生まれてきても良かったのだと、そんな風に彼の存在をあるがままに肯定し、受け入れてくれる人間は幼い大和の前には誰もいなかった。

 実際、そうした面において実の両親は、まったく役立たずも同然だった。母親とは彼が生まれて間もなく死別していたので致し方なかったとしても、父親の方は息子に一切の関心を示さなかったのだから。

 大和の記憶にある父の姿は、彼のすべてを拒絶するかのような後ろ姿だけ。頭を撫でられたことも、優しい言葉をかけられたことも、一度としてないまま父はある日突然逝った。

 父の訃報の知らせを受けても、しばらくの間大和の日常にさほどの影響は見られなかった。

 ――無理もない。その頃には、既に大和にとって父親というモノは、いようがいまいが彼の人生に影響を与えうる存在ではなかったのだ。

 何より、父や親族たちに長年に渡り疎まれ蔑まれてきた幼い大和の精神は、とうの昔に外界の一切を拒絶するように分厚く寒々しい氷の帳によって覆い尽くされていた。それは子供ながらの一種の自己防衛だったのだろう。

 これ以上精神が壊れてしまわないように――

 これ以上辛い想いを味あわないように――

 幼い大和の精神は、深く冷たい闇の中へと隠れ潜むことを選択したのだ。

 もしこのまま幼い大和の精神が、深い闇の奥底に沈んだままであったなら、彼の魂はどうしようもない程に歪みきっていただろう。

 己の内的宇宙である氷の牢獄に閉じ籠ったまま、永久に囚われの身になっていたか、あるいは己をこんな境遇に追いやった者たちに、殺意と憎悪を募らせて復讐の業火に身を委ねたかもしれない。

 だが、そんな事態に陥ることは決してなかった。

 それは灰と氷に覆われた氷河期さながらの大和の心象世界の中で、突如暖かく優しい太陽の光が差し込んで来たからだ。

 風巻春香。暗黒と寒々しい世界しか知らなかった幼い大和に、光明と暖かな世界もあるのだと、教えてくれた女性。

 ――大丈夫、あなたはもう大丈夫だから――

 彼を抱き締めながら、そう囁いてくる声が風巻大和の本当の意味での人生の幕開けだった。

 

 

            ×               ×

 

 

 新幹線の車内に設けられた個室の中に、四人の男女が乗り合わせていた。二〇歳前後の男二人に、一〇代半ばの女子高生と思しき女の子二人。

 一見するだけならば、何だか遠出のダブルデートでも愉しんでいる風情である。エアコンも程よく効いており、室内は予約制のため他の乗客に侵入される心配もない。

 そうすると、室内はさぞや緊張と興奮が入り交じった、ピンク色の春の花々を連想させる初々しい会話で華やいでいるに違いない。

 ……普通ならそう想像するだろう。だが現実はそんな愉しい想像とは裏腹に、室内はギスギスとした険悪な雰囲気に満ち満ちており、まるで冬の肌を刺すような荒涼たる空気がその場には充満していた。

「……」

「……」

「……っ」

「ハ……ハハハ……」

 女の子の一人が対面に差し向かう男二人を凄い剣幕で睨みつけているが、男どもは我関せずとばかりに超然と座席に身を預け、寛いでいる。もう一人の女の子がそんな様子を何かを諦めたかのような乾いた笑み溢しながら、見守っている。

 四人の男女――八神和麻、神凪綾乃、そして風巻大和、風巻美琴は、揃って同じ新幹線へと乗り込み、一路、京都を目指していた。

 こんな奇妙な経緯に至ったのには、もちろん理由があってのことである。

 風巻藤次率いる風牙衆たちが退却した後、大和と美琴は手短に今後の行動方針について相談し合った結果、すぐさま神凪邸へと赴くことで意見の一致をみた。が、両者の考えは見事なまでに食い違っていた。

 美琴はあくまで神凪家に忠誠を誓う一術者として、神凪宗主へと現状において彼女が把握している限りの情報を報告する義務を果たす。その折に風巻の人間として同胞たる風牙衆の者たちの助命を嘆願するつもりだった。

 一方大和はといえば、藤次が最後に言い捨てた神凪の聖地なる場所の情報を宗主から聞き出す腹である。そのためならば、いかなる手段の行使も辞さないつもりだった。

 二人の想いは、方向性は違えど、不退転の決意で臨んでいるという点では同様であった。それはきっと互いに譲れぬものがあるからだろう。

 そして各々の覚悟を胸に秘めて、大和と美琴は神凪邸の門前のすぐ間近までというところで立ち止まった。なぜならば、二人はたちどころに予期しなかった異変を目の当たりにする羽目になったからである。

 なんと神凪邸の門前の辺り一帯で、一〇数人の神凪の術者たちが折り重なるようにして倒れ伏していたのだ。何者かの襲撃の跡であることは一目瞭然だった。

 当然、このとき大和と美琴の脳裏には風牙衆の存在が過ったのは言うまでもない。急いで二人は門を潜った途端、邸内を何やら慌ただしく動き回る神凪の分家の術者たちとばったり鉢合わせた。

 瞬間、蜂の巣をつついたような騒ぎの後、たちまちの内に数十人に及ぶ炎術師たちに包囲されてしまったのである。

 この時点での大和と美琴が与り知らぬことではあるが、このとき宗主直々に風牙衆全員の拘束命令が発令されていたのである。二人は何とも間の悪い時に神凪邸へと戻ってきてしまったのだった。

 一触即発の緊迫した空気の中――主演役者を変えて門前の惨劇の再演を邸内で繰り広げられるのを救ったのは、やはりというべきかこの時も神凪重吾だった。

 騒ぎを聞きとがめ、再度(、、)駆けつけて来たのである。二人の事情説明を聞き入れた――主に話したのは美琴だったが――重吾は、周囲の反対を押し切り、大和と美琴を神凪本家へと招き入れた。そのまま宗主の私室へと通された彼らは、そこに二人の先客――和麻と綾乃がいることに目を見開いた。

 さらに、ここでもちょっとした騒動があった後、当初は重吾、和麻、綾乃の三人だったこの場に、偶然にも大和と美琴二人を加えることによって、ようやく一連の事件についての完全な真相が判明した。

 まず神凪邸襲撃事件の真の首謀者は風牙衆であること。風牙衆は強力な妖魔を風巻流也に憑依させて制御化に置いていること。大和は春香を人質に捕られ、風牙衆に従わざるを得なかったこと。

 その春香も今は流也と同じく妖魔に憑依させられ、風牙衆の支配下に入っていること。風牙衆の最終目的は、かつて彼らの力の根源であった『神』を封印から解き放つこと。その封印解放の鍵となる神凪家の直系――神凪煉は既に風牙衆に誘拐されたこと。

 そして、最後に封印の地は、炎神たる火之迦具土を祀る霊山。地上にありて、天界の炎燃ゆる契約の地。即ち――京都。

 それらすべての情報を共有し合った一同は、かつての事故の影響で実戦に赴くことが叶わない重吾と、ある事情により決戦に不参加を余儀なくされた神凪燎を神凪邸に残し、四人は宗主が手配した京都行きの新幹線へと飛び乗った。

 そして――今に至るというわけである。

 

 

 気に入らない、気に入らない、気に入らない!

 どうしようもなく綾乃は、対面に座っている男たち――和麻と大和が腹立たしくて仕方がなかった。

 そんな激情が迸るあまり殺気混じりの視線を投げつけるも、二人は微塵も気にした様子がない。

 和麻は悠然と脚を組み、煙草をくわえて、ぷかぷかと紫煙を燻らせていた。一方大和は腕を組み、眠るように目を伏せていた。

 よりにもよって、なぜこんな二人と共闘しなくてはならないのか。……たしかに力量の程は認めよう。

 綾乃とて神凪家次期宗主である。その地位を占めるに適した、相手の力量を見抜く洞察力ならば養ってある。間違いなく和麻と大和は、自分を凌駕する術者たちだろう。もっともあくまで現時点では、というただし書きがつくが。

 それでも所詮この二人は、神凪の異端児ではないか。つまるところ、部外者も同然である。神凪家の存亡がかかっているこの重要極まる一戦に、馳せ参じるに相応しい「格」の持ち主たちでは絶対にない。

 なのに、父重吾は明らかに自分よりも和麻や大和を高く評価していることが、綾乃の不機嫌をよりいっそう助長させていた。

「ふぅ……」

 猛る気炎を何とか深呼吸一つで鎮め、綾乃は男どもに問い質す。

「ちょっとあなたたち、随分とリラックスしているみたいだけど、少しは作戦とか立てた方がいいんじゃないの?」

 もし父親が見ていたならば、泣いて喜びそうな程の自制心の発露であった。

「――と、神凪さん家のお嬢さんが言っているが?」

 綾乃が投げかけた会話のボールを、あっさりと大和に投げ返す和麻に、

「知るか」

 速攻でキャッチボールを放棄する大和。

「~~~っ!」

 男たちの素っ気ない対応に、綾乃はまたもや胸の内で怒りの炎が燃え立つ。

「実際、作戦を立てたければ、八神とだけ話し合え。俺は関係ない」

 まさかそんな綾乃に気を遣ったわけでもないだろうが、大和はもう一度口を開いた。

「なんでよ? あなただってあたしたちと一緒に戦うんじゃない。なら関係は大ありよ!」

 さも自分だけは部外者だと言わんばかりの大和の言い分に、綾乃はますますいきり立つ。――ついさっきまで彼女はその心中で、彼らはただの部外者ではないかと、口酸っぱく非難していたことなど既に綺麗さっぱり忘却していた。

「そもそも俺は、お前たちと共に戦うつもりはない」

「はあ? それじゃあ、あんたは京都に何をしに行くつもり? 遊びにでも行くの?」

 戦闘放棄も同然の大和の台詞に、鼻を鳴らして皮肉る綾乃。

「俺は姉さんの相手をする。だから、その間お前たちは流也とでも遊んでいろ」

 皮肉に皮肉で返されて、綾乃はやや鼻白むも負けじと言い返す。

「誰が誰の相手をするなんて、そんなの解んないでしょ! 結局は風牙衆の都合次第なんだし」

「――いいや、解る」

 大和は即答で応じた。

「なんで、そんなことがあんたに解るのよ」

 綾乃は怪訝な表情で疑問の声を上げるも、だが大和は押し黙ったまま一向に口を開こうとしない。どうやら説明をする気はないらしい。

 そうと察した綾乃は、溜まりに溜まった怒りを爆発させようとしたそのとき――

「綾乃さま」

 ――綾乃の隣に腰かけていた美琴が彼女の腕をそっと掴んで、静かにかぶりを振った。

「美琴?」

 驚いてすぐ傍らに視線を移すも、かつての従者の顔は、苦痛と哀しみが刻まれていた。

「どうしたっていうのよ……」

 綾乃は訳も分からず困惑する。

「鈍い奴だな、まだ解らないのか?」

 今まで煙草を吸いながら、面白そうになりゆきを見守っていた和麻が、ここにきて口を挿んできた。

「だから何をよ!」

「要は、共に想い合うこいつ等姉弟が、壮絶に殺し合う姿を心底から見たいと思って入る奴がいるってことだ」

 当初、綾乃は和麻が語る言葉の意味を上手く飲み込めなかったようだが、理解が及ぶにつれて、みるみる内に顔を青褪めさせた。

「な、何なのよ、その外道はっ!」

 言葉を失う綾乃に、和麻は何か不愉快なことでも思い出したのか、顔をしかめて吐き捨てるように答えた。

「いるんだよ、そういった外道が風牙衆(せかい)には、な」

「……だったら尚更作戦が必要じゃない! 実質、敵は妖魔に憑依された二人だけでしょ。ならあたしたちの方が戦力的には優位なんだし、全員で一気に畳みかければ――」

 綾乃は言いさした言葉を失う。そうせざるを得なかった。目の前から放たれる濃密な殺気の渦に身体が搦めとられ、指一本とて動かせない。

「いいか憶えておけ、神凪の後継者。姉さんを傷つける者は、誰であろうと許さん。必ず殺してやる」

 大和は冷酷な死の棘を含めてそう告げた。

 神凪の姫は、ただ頷くことしかできなかった。そうすることが、屈辱だとすら思えなかった。反抗はおろか反論すら死を招くと本能が理解していた。

 そんな綾乃の様子をじっと見定めた大和は、不意に視線を隣に転じる。

「八神、お前もだ。解ったな」

「オーケー、俺もそれで構わないぜ。厄介な妖魔を一体引き受けてくれるってんなら、こっちも楽が出来ていいしな。――なあ、綾乃(、、)

 和麻はいつものへらへらと締まりのない笑いを浮かべながら、だが彼女を呼ぶその声だけは強烈な力が込められていた。

「……ぁ」

 恐怖によって呪縛されていた綾乃の身体は、和麻の声に打たれて、ようやく自由を取り戻した。

「はあ……はあ……」

 荒い息と震える身体を何とか鎮めつつも、綾乃は大和を睨みつける。今この瞬間に、抵抗の意思を示しておかなければ、二度と逆らえなくなる。神凪家次期宗主の誇りに賭けて、そんな無様だけは晒すわけにはいかなかった。

 そうした彼女の精一杯の強がりを、しかし大和は目もくれず、まったく興味もなさげに腕を組み、再び自己の世界に没入した。

「く……このっ」

 綾乃は怒りを露わにするも、結局、それ以上何かできるはずもなく振り上げた拳を下げるしかなかった。

「そーそー、人間、平和が一番だぜ」

 茶化す風に語りかけてくる和麻を、綾乃はきっと睨み据える。

 そして、相変わらずぷかぷかと旨そうに煙を吸い込む、まさにニコチン中毒者そのものなその姿を視界に入れた途端、さっき助けられた件について礼を言う気も失せた。

(――最低)

 それは自堕落なジャンキーに向けての言葉なのか、それともあんな奴に助けられなければ呼吸一つままならなかった、不甲斐ない自分自身に向けての言葉なのか、綾乃にも解らなかった。

「あたしもう寝る」

 一方的に宣言すると、彼女は目蓋を閉じた。少しも制御できない、苦い己の感情を意識の奥に追い散らし、甘い眠りのことだけを考える。数秒後、綾乃は完全に夢の世界へと旅立って行った。

 

 

「和麻さん、少し話があるのですが……」

「なんだ?」

「風牙衆の件についてです」

「あー、それか。宗主にも念を押されているからな、一応善処はするさ」

「……はい、よろしくお願いします」

 和麻と美琴の一連の会話を左右の耳で聞き流しながら、大和は深く黙考する。

 風牙衆の思惑も、宗主や和麻、美琴の目的も興味はない。今考えるのは、この手に姉を取り戻すことのみ。

 そのためならば、風牙衆――とりわけ風巻兵衛や風巻藤次に対しての憎悪や復讐すら二の次、三の次に堕する。

 いまの大和に余計な思考を割いている余地はない。上級妖魔に憑依された人間を救い出すということは、大和ほどの術者をもってしても困難を極めるのだ。

 僅かな失敗は、もちろん即己の死に繋がる。――が、そんなことは些細な問題である。大和が本当に恐れているのは、その僅かな失敗で春香を殺してしまう可能性があることである。

 大和は自らの力量に絶大な自負を抱いている。だがそれは、あくまで敵を打倒するという一点に尽きる。故に、浄化の秘力をもって妖魔のみを祓うとなれば、話は違ってくるのだ。

 浄化の炎――大和のみならず、多くの人々の生涯を狂わせた元凶たる力。一時は疎み呪ったこともあるこの力を、大和は今となっては何ら思い煩うことは、ない。

 ……その筈である。だが、もし仮にこの力に対して、大和が気づかぬうちに一片の疑念でも胸に懐いているとするならば、浄化の炎は完全にその威力を発揮できず、妖魔だけでなく春香をも巻き込み、滅してしまうかもしれない。

 つまるところ、大和にとって妖魔に憑依された春香と対峙するということは、八神和麻が父厳馬と戦った状況と同様に、自分自身の過去の「弱さ」と向き合うことに他ならない。

 そして和麻は、父親を超えることによって過去と決別した。ならば――

(奴に超えられたというなら、俺にもできないはずがない)

 隣にいる男に強烈な対抗心を燃やしつつ、大和はそう誓った。

 

 

 

            ×               ×

 

 

 一行は京都駅に到着すると、宗主が移動手段として手配した車を受け取るべく、駐車場へと直行した。指定された駐車スペースに四人を待ち受けていたのは、威風堂々たる佇まいの4WD車であった。

 レンジローバー。四輪駆動のロールス・ロイスとも称され、イギリス王室御用達のロイヤルカーとしても採用された経歴を有する高級クラシックカーである。

 和麻は重悟から預かった鍵を使用し、レンジローバーの運転席に乗り込み、大和は反対側の助手席に座り込んだ。綾乃と美琴は後部座席のシートに身を預ける。全員が乗り込んだことを確認した和麻は、エンジンに火を入れて、アクセルを踏み込んだ。

 一行を乗せたレンジローバーは、しばらくの間、古色蒼然とした京都の街並みを堪能する観光ドライブを続けていたが、やがて市街を離れて開発の手が及んでいない深い山林の間を縫うように敷設された国道線に出た。

「もう! 一体いつになったら着くのよ」

 京都市内では窓から窺える景色を、観光客さながらに愉しんでいた綾乃だったが、車が山間部に入ってから、走れど走れど一向に変わらない景観にいい加減飽き始めたらしい。そんな文句を言いだした。

「俺は観光バスの運転手じゃないぞ」

 和麻はバックミラー越しに後部座席の不満顔なお嬢さまを一瞥し、呆れたように呟いた。

「ただ、そろそろそんなことは言えなくなりそうだぞ? ――いたぜ!」

 顔を引き締めて、和麻は前方を凝視する。行く手の路上に人影を見咎めたのだ。

 春香だ。彼女は舗装路の中央に平然と独り佇んでいた。和麻は既にブレーキを踏んで、減速をかけていた。レンジローバーの優れたブレーキ機構は、乗り手の意に応えて直ちに車体の運動エネルギーを消失させ、停止させた。

「全員出ろ!」

 和麻に言われるまでもなく、大和はいの一番にドアを開け放ち、飛び出るように路上に躍り出る。和麻も同時に車外に出た。遅れて後部座席の二人が慌てて降りてくる。

「嘘、何て妖気なの……」

 四人の中で、唯一始めて妖魔を目の当たりにする綾乃が、掠れた声を漏らす。

「お前たちは早く行け」

 変わり果てた姉をじっと見つめたまま、大和が三人に先を促した。新幹線の中で宣言した通り、彼は独りで戦うつもりなのだ。

「そんじゃまあ、お言葉に甘えて楽をさせてもらうとするか。乗れ、綾乃」

 和麻は綾乃に声をかけると、すぐさま運転席へと乗り込んだ。

「ちょっと待ちなさいよ!」

 慌てて再度後部座席に座ろうとした綾乃は、レンジローバーの反対側で降り立ったきり、まったく動く素振りを見せない美琴に気づき、眉を顰める。

「美琴、何をしているの、あなたも早く乗りなさい」

「いいえ、綾乃さま。私はここに残ります」

 かぶりを振りながら、美琴にきっぱりとそう告げられ、綾乃は驚きに目を丸くする。

「な……何を言っているのよ!?」

「和麻さんがおられるのならば、今の綾乃さまに私は必要ありません。むしろこの場にこそ、私は必要だと思います」

 たしかに風術師として和麻と美琴の力量は、天と地ほどの隔絶とした差がある。そうである以上、綾乃たちに随伴したところで、彼女に出来ることなど皆無に等しいだろう。それ故に、この場に残るという選択は、充分に理にかなっている。

「それは……はぁ、解ったわよ」

 それが理解できたのだろう、綾乃は不承不承頷いた。

「綾乃さま、どうかご武運を」

 そう言って、美琴は深々と頭を下げた。

「あなたもね」

 綾乃は頷いて答えると、車内に乗り込んだ。

 それを待っていたように、和麻はレンジローバーを発進させた。春香の脇を通り過ぎるも、彼女は微動だにもしなかった。

 やはり事前に予期していたように、標的は大和のみなのだろう。瞬く間に鬱蒼とした山林に阻まれて、レンジローバーは視界から消える。

「おい、俺はお前など必要としていないぞ」

 それを見届けた大和は視線を春香に固定したまま、美琴に向かって冷酷な色を帯びた言葉を吐く。返答次第では只ではすまさぬと、言外に語っていた。

「安心して下さい。お二人の戦いに介入するつもりはありません。ですが、それ以外に私にも出来ることはあります」

 美琴は一切動じることなく、冷静に答える。

「……いいだろう。何をする気か知らないが、手を出すつもりがないのなら、後は好きにしろ」

 低い声でぽつりと呟くと、大和はゆっくりとした足取りで春香へと近寄り、対峙する。

 距離五メートル余り。二車線道路に車両なし。人影なし。戦闘の場としては悪くない環境である。

 春香の両手の爪が、妖気に侵されて漆黒に染まり、爪剣の如く伸び拡がる。一方大和の右手には雷光が煌めき、黄金の剣が瞬時に形成された。

 両者ともに交し合うべき言葉はない。大和にその意思はなく、春香にその機能がない。姉弟がいま持ち合わせているのは、攻撃する意思であり、機能だけ。

 故に――大和と春香は真っ向から激突した。

 

 

 



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風巻大和

「両方とも派手だねぇ。ま、死なない程度に頑張って時間稼ぎをしてちょうだい、と」

 風術によって上空を飛翔する中、八神和麻はそんな手前勝手な独り言を漏らした。

 その和麻は、今単独で行動していた。

 風巻大和と風巻美琴の意を汲んで、敢えて二人を死地に残したままレンジローバーを発進させた和麻だったが、幾らもしない内に、風巻流也に襲いかかられてしまった。

 すぐさま車外に躍り出た和麻ともう一人の同乗者――神凪綾乃は、流也と対峙する。

 ――が、流也を前にしてもなお意気込む勇ましい神凪の姫君を、独りその妖魔(バケモノ)の前に置き去りにして、和麻は単身その場を離脱したのだった。

 もちろん、命惜しさに逃亡したわけではない。あのお嬢さんには目的を果たす上で、重要極まる役割を請け負ってもらったからだ。

 すなわち――囮、である。まぁ事後承諾になってしまったのは、不可抗力というものである。彼女の尊い犠牲は無駄にはするまい。

 そして、和麻は知覚力を最大限に拡げて封印の地を走査していた。いや、正確に言えば、捜索対象は三昧真火である。宗主の説明によれば、何でも三昧真火の内に風牙衆が奉じる『神』が封印されているらしい。

 三昧真火とは、一切の不純物のない『火』の元素(エレメント)の結晶。地上には存在し得ない天界――高天原(たかあまはら)にのみ存在する、赦しなく触れたモノを、悉く焼き尽くす純粋なる炎のことである。

 そうなれば、三昧真火をかき分けて封印の深奥に辿り着くことができるとしたなら、たしかに神凪の直系しかいないだろう。だからこそ、風牙衆は和麻の弟――神凪煉を誘拐したのである。

 とはいえ不幸中の幸いというべきか、なにせものが三昧真火であるだけに、和麻にしてみれば、太陽を見つけるのと同じくらいに簡単な作業だった。

「あれか――なら、我が弟は……見ーつけた」

 上空から封印の地の様子を、和麻ははっきりと見て取れた。神代から謳われる伝承の地であり、『神』が封じられた祠にしては、想像以上に小さい。

 周辺には、煉と風牙衆の頭領――風巻兵衛と数十人の配下の風術師が控えていた。宗主の依頼によれば風牙衆の人間の殺害は、やむを得ぬ事情がない限り御法度ということになっている。

 和麻個人の信条では、『人間を生贄にする奴は即刻死刑』と決めていたのだが、それが雇い主の意向とあれば、是非もない。どちらにしろ風牙衆ごとき、和麻の手にかかれば生かすも殺すも、たいした手間ではないのだから。

「それじゃまぁ、お仕事、頑張りますか」

 何処までも気楽にそう嘯くと、和麻は戦場へと降り立った。

 

 

             ×               ×

 

 

 風巻大和は劣勢に陥っていた。

 妖気と怨嗟に染まった黒い烈風の魔弾が次々と撃ち出され、大和はそのたびに手にした黄金の剣で、あるいは雷撃を召喚して迎え撃つ。

 一〇、二〇、三〇――そのすべてを斬り伏せ、燃やし尽くしてなお、敵の手数が途切れることはない。

 これぞ風使いの真骨頂。精霊術師の中でも“最速”と謳われる、風術師が誇りし至高の業。

 その事実をあらためて噛みしめながら、大和は手を緩めることなく漆黒の弾幕を蹴散らしていく。――が、できるのはそこまでだった。

 攻勢に移れない。攻撃が出来ない。敵が、姉が、誰よりも大切な家族(あいて)が、それをさせてくれない。

 いや、それ以前にそもそも自分は――本当に攻勢に移りたいと思っているのだろうか?

 考えるな、ソレは余計な思考だ。

 集中しろ。いま考える必要があるのは、いかにして春香を救うのか、ということのみ。それ以外はすべて些事である。……しかし、そうするには、春香の肉体ごと妖魔を焼き祓わねばならぬという矛盾を孕んでいるのだが。

 そして、その矛盾を解決してくれる筈の唯一の手段――浄化の秘力。

 だが、果たして自分は本当にあの力に、何よりも大切な姉の命を預けることを心底から同意できるのだろうか? 生まれてこのかた風巻大和の人生において、不幸と災いばかり撒き散らしてきたあの『炎』などに?

「!?」

 これまでにない規模の暴風の一撃を斬り払った大和だったものの、威力に圧されるあまり上体が僅かに泳いだ。

 その隙を妖魔は見逃さない。風の魔弾を防いだ影響で、いまだ乱気流渦巻く空間にも拘わらず、平然と横切り、怒涛の如く殺到する春香。振りかざすのは、手から伸び生えた爪剣。それを弟に向けて情け容赦なく振り下ろす。

 大和は咄嗟に剣を掲げて応じるも、体勢の不利ばかりはどうしようもなかった。あっさりと後方へと弾き飛ばされる。

 路面に放り出された大和は、二転三転しつつ即座に起き上がらんと図る。が、そこに妖魔の追撃の手が伸びる。

 それを気配だけで察知した大和は、そうはさせじと牽制による雷撃の一撃を見舞った。迸る雷撃の槍は一直線に春香目掛けて突き進む。

 だが、彼女は腕の一振りで風を起こし、雷撃をあらぬ方向へと弾き飛ばした。そのまま今度こそ何の障害もない間合いを走破し、再度襲いかかってくる。

 だが、大和とて先刻の再演を繰り返すつもりなぞ毛頭ない。既に万全の態勢を整えて待ち構えていた彼は、真っ向から春香と斬り結んだ。

 激突する黄金の雷剣と漆黒の爪剣。舞い散る火花とともに刃越しに交わる視線。普段の穏やかで優しさを湛えた姉の眼差しは、そこに欠片も見出せなかった。ただあるのは、底なしの憎悪と狂気にまみれた双眸だけである。

「く……っ」

 そんな場合ではないと弁えている。それでも激しい怒りと絶望で胸が押し潰されそうになる。

 いま大和の前に立っているのは、かつて姉であったというだけの、ただの怪物に過ぎない。その現実をまざまざと見せつけられる。

 だからこそ救い出さなければならない、それも今すぐに! そのための方法もとうに解っている。だが……

 何も大和とて浄化の秘力をもって、人々に憑いた魑魅魍魎を焼き祓うのは、これが初めての事態というわけではない。これまで退魔師として、その経験ならば幾度も積んでいる。

 なのに、この期に及んで大和が躊躇うのは、これまで浄化してきたのが所詮は低級な邪霊に過ぎなかったからである。つまりは、自らの『力』の由来に思い悩むまでもなく、あっさりと焼き祓うことが出来たのだ。

 だが春香に憑依しているのは、上級妖魔である。これまでと同じというわけにいかぬのは、道理であった。実際、大和を以ってしても全身全霊で『力』を振り絞らねばならない相手なのだ。

 もとより炎の性は――『烈火』。ひとたび術者の制御を離れるや、すべてを焼き尽くさずにはおかぬ激烈な破壊の力である。まして相手が上級妖魔であるならば、僅かな心の揺らぎが術式の制御を暴走させてしまうだろう。

 故に大和はこれまで深く考えずにいられた、己の身に宿る『炎』について直視せざるを得なくなったのだ。つまるところそれは、風巻大和とはそもそも何者であるのか、ということに他ならない。

 春香の猛攻を捌きつつ、そうやって大和が表情を歪めて苦悩する中――

『クク……どうした、大和よ? 随分と苦戦しているようではないか』

 ――低く陰湿でありながら、どこか喜悦の色を含んだ声が、そのとき何処からともなく響いてきた。

 風巻藤次である。どうやら近辺の山林に身を潜めて、大和たちの戦いの様相を覗き見ていたらしい。

『先日は何やら大言壮語なことを口にしていたようだが、蓋を開けて見ればその様よ。これで理解しただろう? 貴様には春香を救うことなど出来はしないということに!』

 耳障りな哄笑とともに嘲りを浴びせてくる藤次。

 大言壮語? 『俺は俺だ。それ以上でもなければ以下でもない』――あの言葉のことだろうか? 

 あの台詞の意味するところは、風巻にも神凪にも縛られることのない、「自分だけの道」を進み行くということにあった。事実、あの言葉自体に嘘はない。心からの本心である。――故に、そこにもう一つの矛盾が成立してしまうことに、今さらながらに大和は気づいてしまった。

 大和は、風巻の『風』でもなく、神凪の『炎』でもない第三の道――『雷』を選び取った“雷使い”である。

 だがいま大和が直面している状況は、ただの雷使いでは決して解決できない問題だった。なぜなら、妖魔に憑依された春香を救済せんと欲するならば、どうしても神凪の『炎』――浄化の秘力が必要なのだから。

 かくして、大和はこれまで貫いてきた自身の在り方を、真っ向から否定する挙にも出なくてはならなくなったのである。

 己の人生を歪めた『炎』に、最愛の家族の命を託さなければならない不安――

『炎』を行使することによって、これまでの己の道を否定しなくてはならない苦悩――

 二重の重荷が大和を責め苛む。力の行使に踏み切るのを躊躇わせる。姉を救わねばならぬと心は急くも、どうしても決心が定まらない。

 そんな大和の焦燥の念を嘲笑うかのように、藤次はからかう口調で言った。

『大和よ。貴様の大事な姉を救う方法ならばあるぞ』

「何だと!?」

 まったく予期しなかった言葉に思わず目を見開く大和。

『何、実に簡単なことだ。――貴様が死ねばいいのだ』

 そんな彼に、藤次は酷薄な色を帯びた口調で冷厳と告げるのだった。

 

 

 

 

 

「はあ……はあ……はあ……」

 同時刻、孤軍奮闘する神凪綾乃もまた妖魔(りゅうや)相手に苦戦を強いられていた。いや、戦闘の内容を詳しく検分すれば、大和の戦いよりもいっそう厳しいかもしれない。

 神凪家の至宝たる炎雷覇の一撃は悉く漆黒の爪剣に弾き返され、炎術による攻撃は風術によって完全に封殺される。なのに、流也の爪剣は風術は、振るわれる度に確実に綾乃の肌を切り裂いて血飛沫を宙に散らしていく。

 宗主が娘のために用意した、最高級の呪的防御を施した特注の学生服は、妖魔の攻撃の前にはただの布服同然の有様だった。

 近接戦闘能力、防御力、そして炎術師の専売特許である火力に至るまで、妖魔が綾乃のそれを大きく優越していることは明らかだった。

 綾乃が初めて経験する、遥か格上の相手。このまま戦い続けたところで勝機などない。その現実を誰よりも認識しながら、綾乃は必死に緋色の刃を揮い続ける。

 そんな怪物と対峙していてなお、恐怖と絶望に身体が凍えることは、ない。なぜならば、それを塗り潰すほどの激情が綾乃の胸の内でふつふつと燃え上がっているからだ。

「そこをどきなさい……どけって言ってるでしょうがァァァッ!!」

 名家の令嬢にあるまじき咆哮を上げて、神凪の姫君は懸命に抗う。

 何のために? 目の前に立ち塞がる流也を倒すためか?

 ――否、否、否!

 それは、あの裏切り者に天誅を下すためだ、あの卑劣漢を斬り捨てるためだ、八神和麻に呪いあれ! 

 もはや綾乃は流也など眼中にない。いまの彼女は和麻憎し――その一念のみで戦っていた。ゆえに、綾乃は不屈の闘志を胸に灯し、格上の相手にも怖じることなく立ち向かえるのだ。

 戦闘の火蓋が切られてよりこのかた、一体どれ程の時間が経過しただろうか。終始、無我夢中で剣を揮っていた綾乃は、まったく記憶していなかった。

 ふと気がついたそのときには、既に流也の姿は影も形もなかった。――倒したのではない。それだけははっきりと憶えている。ならば、一体何処に消えたのか?

 だが綾乃には、それに思いを致す余裕はなかった。酷く身体が重い。まるで自分の身体ではないかのように、思い通りに動いてくれない。

 無理もない。彼女の身体は至るところに裂傷を負っており、その傷口から体内に妖気が侵入し、心肺機能を破壊しはじめていたのだ。にも拘わらず、綾乃はその身体を押してさらに先へ進まんと、ふらふらとした覚束ない足取りながらも移動を開始した。

 勿論、流也を追撃するためではない。和麻に、あの卑劣な裏切り者に、正義の裁きを加えてやるのだ。その想いだけを胸に秘めて、綾乃は路面に血の軌跡を刻みながら、ゆっくりと歩み出す。

 すでに炎雷覇をきちんと持つ力もないのか、垂れ下がった右腕の先に辛うじて引っかかっているだけという有様だった。切っ先が地面に擦過し、耳障りな音響を奏でる。

 そんな風に歩くことしばらく、ぼやける視界の中、綾乃はたしかに仇敵(かずま)の姿を見咎めた。その傍らに小さな人影(れん)が付き従っているのを見届けたものの、綾乃の意中にはなかった。

「このっ……」

 綾乃は二人の前で立ち止まった途端、双眸から憎悪と殺意を滾らせて、卑劣な裏切り者に向かって断罪の刃を振りかざした。が、それを振り下ろす力は、もはや残されていなかった。崩れ落ちる身体と同時に、意識もまた深い闇の中へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

「俺が死にさえすれば、姉さんは助かるのか……?」

 春香の仕掛けてくる苛烈な攻めの応酬を、剣を盾にして防ぎながら大和は静かに呟いた。

『そうだ! もとより貴様は生まれてきてはならない存在だったのだ。だから、その穢れた血を、その呪われた生命を、天へと還すがいい!』

 大和の言葉を聞きとがめたのか、藤次は嬉々として声を張り上げて答える。

 たとえ姿が見えずとも、いま山林の陰に身を潜める藤次の表情が、喜色満面に彩られているであろうことは一目瞭然だった。

 彼は期待している。大和の死の瞬間を。もっとも愛する者に殺されることによって奏でられる、絶望と悲嘆の断末魔の瞬間を。血肉を沸き立たせ、胸の鼓動に早鐘を打ち立てながら見守っている。

 それを脳裏で幻視して、大和は――自分自身の馬鹿さ加減を笑った。

 もし仮に大和がこの場で自害し果てたところで、風巻藤次が、風牙衆が、春香を解放するはずがない。間違いなくその命が尽き果てるまで、使役され続けられるだろう。

 つまるところ、大和の死は春香の死も同然なのだ。その現実が、逆に冷え切っていた彼の心に火を灯した。

 だからとはいえ、不安や苦悩が直ちに消え失せたわけではない。だが発想を逆転させうる切っ掛けにはなった。

 これまで姉の命をただ背負うことばかりを考えていた。だから、その恐怖に精神が怖気づき、その重さに身体が竦んだ。

 だが違うのだ。始めから背負う必要などなかったのである。なぜならば、現在の状況に際し、大和と春香の命は同義(イコール)なのだから。

 なぜ自分の命(、、、、)をあらためて背負う必要がある? 己の命であるならば、自分勝手に使い切ればいい。これまでがそうであったように。

 どうせ死ねばもろ共。これより試みるのは、心中覚悟の大博打。事後承諾になるものの、姉には黙って付き合ってもらうことにしよう!

 そう意気高らかに決するや、雷使いは腹の底に溜まりに溜まった怒りをここにきて解き放つ。

「フ――ッ」

 大和の全身から雷電が迸る。荒れ狂う雷火。のたうち回る紫電が大気を灼く。

 どうやら妖魔であっても生存本能はあるらしい。まるで死の恐怖に駆られるかのように春香は慌てて飛び退く。

 そして、その判断は正しかった。雷使いの行使する『炎』が変化する。黒曜石の如き荘厳なる漆黒へと。

『黒い雷……まさか、神炎だと!? 貴様、春香を殺す気かッ!』

 それだけは決してするまい思っていたのか、驚愕のあまり声を荒げる藤次。

 無論、否である。ただ大和は結末(エンディング)に気を遣わないことにしただけだ。幾通りも脳裏で再現される幸福と破滅の未来。それに一喜一憂するあまり現実の行動が疎かになった。

 故に――考えない。未来とは現実から派生する結果のことである。将来において起こり得る可能性だ。つまり、未来は何も決まっていない(、、、、、、、、、、、、)、ということである。

 ならば、そんなモノに心を煩わせる必要はない。それに、たとえ未来がどうであろうとも、大和の成すべきことは何も変わりはしないのだ。

 春香を救う。この世で唯一の家族をこの手に取り戻す。そのためならば、大和の胸の内でこれまで灯っていた偽りの誇り(、、、、、)を打ち捨てる。

 ――そも、風巻大和とは何者であるのか?

 決まっている。雷使いであると自らを定めた者である。

 そして、その在り方を誇りにすら思っていた。しかし、いま思えばそれは誇りに懐くほどの決断であったかどうか。

 結局は事実から目を背けるための逃避でしかなかったのではないか。そう、風巻大和が風巻と神凪の血脈であるという現実から。

 風巻も神凪も自分を嫌悪し否定した。故に風巻大和もまた風巻を神凪を嫌悪し否定する。

 その決断の末の“雷使い”。

 ……だとするならば、これほど滑稽な話もあるまい。結局のところ、自分もまたあれほど嫌悪していた者たちと同じことをしていたのだから。

 この自己矛盾から抜け出す方法は一つしかない。

 ――認めるのだ。自分自身に流れる二つの血脈を。

 雷使いという「殻」を自ら被ることで、現実を誤魔化すようなことはもうしない。自分は神凪と風巻の血脈を受け継ぎし混血児(いかづちつかい)。それこそが、風巻大和の正体であった。

「あああああァァァッッ!!」

 間違った不安を打ち払った炎術師が吼える。歪んだ苦悩を打ち壊した雷使いが吼える。新たな誕生の産声を上げるかのように、風巻大和は高らかに咆哮した。

 それに呼応するように、黒い雷が大和を中心に雷火の花を咲かせ、凄まじい勢いでますます猛り狂う。

 すると、大和の身体が突如、ふわっと羽毛のように軽やかに浮き上がった。雷使いの身体が地表から三メートル余りの地点で静止した途端、あれほど猛威を揮っていた黒い雷の嵐がぴたりと嘘のように鎮まり返る。

 そして――

 

「出でよ――建御雷神(タケミカヅチ)!」

 

 

 ――大和が召喚の言霊を詠唱した。

 凛然と輝く黄金の光が大和の身体を柔らかく包み込むや、広範囲に伸び拡がり瞬時に収縮して、巨大な人型を象る。

 身の丈は六メートルを優に超えているだろう。その巨大な体躯を、狩衣と呼ばれる日本の古い装束で包んでいる。……これだけでも充分すぎるほどに怪異であったが、何より驚愕するのは、その巨人の頭部。そこには、なんと雄々しい二本の角が伸び生えた牡鹿の頭が据えられていた。

 黄金色に輝く鹿頭人身の光の巨人。よりにもよって、この日本の地でそんな冗談じみたあり得ざる存在が顕現した。

『な、ななななんだ、それはぁぁぁ……ッ!』

 藤次の絶叫が周囲に響き渡る。

『――上級精霊』

 怪異なる姿に化身したにも拘わらず、不思議とその声は以前のままの大和の肉声だった。

 上級精霊。

 それは人々の想念――世界よ、かくあるべしといった、自覚無自覚問わず、諸人の祈りや願望を『世界』が受け取りカタチを成したモノ。

 ヒトの想念の結晶たる神話や伝説。それに名を遺す神々、英雄たちの伝承を『核』として、一群の精霊を一柱の神や英雄に見立てて、世界(ほし)が具現化させた神秘の存在。

 それが、上級精霊。

 これが、前回最強の風術師をして驚嘆せしめた大和の切り札だった。

 そして、風巻大和が招聘した上級精霊の名は、建御雷神(タケミカヅチ)。ここ日本で古来より奉られている一柱の『神』である。

 その怪異なる巨人が一歩前へ踏み出す。半実体化を果たしたために、本来精霊にはあり得ない筈の質量を帯びたのだろう、脚が踏み締める大地に衝撃が奔る。が、そんなことにまったく頓着することもなく、己は発生した瞬間からこうだったと言わんばかりに、鹿頭人身の上級精霊は春香目掛けて突進する。

 その偉容を目の当たりにした妖魔は、まるで怯えたように後ずさりすると、既に周囲の空間に装填済みだった漆黒の魔弾を次々と撃ち出しつつ後退をはじめた。

 砲火とともに絶叫する大気。空間ごと捩じきり奔る風の矢は、狙い過たず迫り来る巨人へと殺到した。

 結果は、全弾――命中。

 さもありなん。そもそも黄金色の巨人は、防御も回避も一切取ることなく、ただ愚直に突進を続けるだけであった。故に、この結末は必然だ。

 魔弾による一斉掃射の直撃に晒された爆心地は、狂ったように大気が渦を巻き、粉塵が巻き上がっている。

 そんな有様にも拘らず、春香はまだ足りぬとばかりに攻撃の手を緩めない。続々と射出される大気の弾丸は、ミサイルよろしくさらに爆心地へと放り込まれる。

『殺ったか……!? ハーハハハ、どうやらソレはとんだ見かけ倒しだったようだな!』

 その戦況を山林の奥から見届けた藤次は、高らかに勝利の凱歌を上げた。

 だから、気づかなかった。春香が攻撃を叩きつけながらも、着実に後退を続けているということに。

 これほどの猛撃を加えながら、未だ妖魔は臨戦態勢を解いていない。――警戒しているのだ。では、何を? その答えはすぐに出た。

 もうもうと立ち込める粉塵の中から、鹿頭人身の巨人が躍り出る。金色に輝くその巨体に損傷の痕は見受けられない。まったくの無傷である。

 タケミカズチはその巨躯に似合わぬ俊敏さで以って疾走を続行。相変わらず愚直な直進ぶりで春香へと肉薄する。

 無論、妖魔とてそれを黙って見過ごす道理はない。再度装填される暴風の魔弾。空間に固定された漆黒の砲台の数は、四〇挺を超えている。その照準がすべて黄金色の巨人へと向けられる。

 殺意を引き金として、放たれる黒い砲火――全弾一斉射撃。再度絶叫する大気。妖気に侵されて狂乱する風の精霊が上げる悲鳴とともに、暴風が雨となって降り注ぐ。

 まさにそれは先刻の再演だった。回避や防御を行わず、直進するタケミカズチ。そこに飢えたサメの如く殺到する魔弾の群。

 故にこの結末もまた繰り返されるのは、必然だったのだろう。

 容赦なく巨人を滅多打ちにする黒い暴風の一斉掃射は、だが――

『馬鹿な……効いていないだとッ!』

 ――何の効果も発揮しなかった。

 もはや脇目も振らず逃げる春香に、それを追うタケミカズチ。両者の間隙は、瞬く間に埋まっていく。その様子は、さながら荒熊が野うさぎを追い立てるかのような、見る者に哀れみを誘う光景だった。

 そこにはもう風牙衆の誇る切り札、強大な力を持つ上級妖魔の威風など見る影もない。黄金色の巨人の前にいるのは、ただの狩られるだけの獲物に過ぎなかった。

 やがて、ついに巨人の両腕が春香の身体をわし掴みにする。凄まじい絶叫を上げる妖魔。

 それは当然といえば当然の結果だった。なぜなら、鹿頭人身の巨体を構成しているのは、浄化の炎に他ならないのだから。

 従って、春香の身に危害が及ぶことはない。大和によって完璧に制御されているが故に。

 大和は苦悩と不安を乗り越えて、ついに宿願を果たし得たのである。

 ――いや、まだだ。最後の仕上げが残っている。

 依然、妖魔は巨人の手のひらの中で、しぶとく生き延びている。これを完全に滅することで、大和は本当の意味で姉を取り戻せたと言えるのだ。

 鹿頭人身の巨人は春香を収めたままの両手を、まるで大切な宝物を抱え込むよう己の巨大な胸元へと押しつける。すると、声にならない妖魔の絶叫が迸ると同時に、辺り一帯は清浄な黄金の光に包まれた。

 

 

 化身を解き本来の姿に戻った大和は、その両腕に春香を抱き上げたまま、ゆっくりと宙を下降していった。足先から静かに地面に着地を果たすと、大和は腕の中で眠る姉の容態を確かめる。

 春香の身体に巣くっていた妖魔は、既に欠片も残っていない。が、血色はあまり良くない。とはいえ、さっきまでの死人のような青白さに比べれば、遥かに生者の肌艶に戻っている。意識の方は依然戻らず、どころか時折苦しげに顔を歪めてさえいる。

 無理もない。浄化の炎はたしかに妖魔を焼き祓ったが、長期に渡る憑依によって春香の身体は、少なくないダメージが蓄積されている。さしもの浄化の炎といえど、その負傷までは癒せない。

 春香の身体を案じるならば、至急霊的治療の施せる専門機関に診てもらう必要があった。

 ……だがそうすれば、この場に集結した風牙衆を確実に取り逃がす羽目になる。

 とりわけ風牙衆の主犯格である風巻兵衛と風巻藤次。この二人にひとたび逃亡を許せば後々の禍根となり得るのは明白だった。個人的な報復を執行すると言う意味でも、是が非でもこの場で仕留めておきたかったのだが。

 やむを得ない。姉の安全と引き換えにはできない。

 業腹ではあったが、どうやら神凪陣営に後を託すしか他にないようだ。それに八神和麻の力量を鑑みれば、万が一にもあの二人を取り逃がすような事態にはなるまい。

 そう結論を下したそのとき、大和はこちらに近づく気配を感じて振り返った。

 学生服を着込んだ女学生――風巻美琴である。そう言えば、彼女もまた近辺の山林に身を潜めていたのを、大和は思い出した。戦闘が終息したのを見計らって出張ってきたのだろう。

「大和さん、お疲れ様でした」

 大和の腕の中で眠る春香を見遣って、美琴はほっと安堵の吐息をついた。

 大和はそんな美琴の様子を眺め見て、彼女が姉と親交があったことを思い出す。どうやら彼女は彼女で春香の身を案じてくれていたらしい。

「それで、何の用だ?」

 そう水を向ける大和に、美琴もまたすぐに応じてくる。

「大和さんは、これからどうするおつもりですか?」

「……姉さんを病院に連れていくつもりだ」

 大和は会話の意図を理解しかねて眉を顰めるも、別段隠すことでもないため正直に答えた。

「やはりそうですか。……大和さん、一つ提案があるのですが聞いていただけませんか?」

 大和の瞳を真っ直ぐに見つめながら、美琴は口を開いた。

「提案だと? なんだ、それは?」

 美琴の言葉にますます胡乱げな面持ちになっていく大和に、

「春香さんは私が責任をもって病院に連れていきます。ですから――大和さんには、長さまたちを追ってほしいのです」

 美琴はきっぱりとそう告げた。

 大和は驚きに目を見開いた。美琴の提案はまさに寝耳に水だった。まるで大和の葛藤を見透かしたかのようなピンポイントな話。――だが、実に魅力的な話であるのも事実であった。

 たしかにその提案に乗れば、大和も後顧の憂いなくして兵衛たちを追討することができるだろう。ましてや近辺に潜んでいた藤次は、既に逃走した後だろう。となれば、大至急追撃を仕掛けたかった。

 彼女に姉の身柄を預けるのは、少しばかり抵抗があるのは事実である。が、風牙衆の謀略に馳せ参じるどころか、こうして神凪陣営の一員として彼らの妨害作戦に赴いている以上、今さら美琴が春香に危害を加える可能性は極めて低いだろう。

 ……その理屈を頭では理解していながら、それでも素直に返事をできないのは、やはり春香から離れて行動するのに「少しばかり抵抗がある」程度では済まない自覚があるからだろう。

 美琴の信頼云々という話ではなく、ただどうしようもなくイヤなのだ。幼い子供が母親のスカートの裾を握り締めて放さないのと同じ理屈である。

 我ながら情けない有様だったが、一瞬でも目を離せば最後、再び誘拐されるのではないか、という恐怖がどうしても頭から離れてくれない。

 そうやって、いつまでも煩悶の渦から抜け出せずにいると――

「……行って……きな……さい」

 ――大和の腕の中から小さく掠れるような声が響いた。

「姉さん!?」

「春香さん!?」

 二人はともに凝然と春香に目を向けた。

 春香はうっすらと目を開き、苦しげに面持ちを歪めながらも精一杯言葉を紡ぐ。

「私は……もう大丈夫……だから……あなたは、自分のすべきことを……やりなさい……」

「――姉さん」

 姉の言葉を聞くや否や、大和の思考を曇らせていた迷いの霧は瞬く間に晴れていった。

 そうだ。この世に己の果たすべき使命というものがあるとするならば、それは姉を護ることに他ならない。

 そして、いまその使命を脅かしている障害は、風巻兵衛と風巻藤次なのだ。姉の安全は既に確保している。ならば、自分はあの二人の追討に全力を傾けるべきだ。

 ひとたび決断を下すと、彼の行動は迅速だった。無言のまま大和は美琴の両腕に姉の身体を、大切に大切に譲り渡した。

「行ってくるよ、姉さん」

「ええ――いってらっしゃい、大和」

 そして姉弟は、ほんの一時だけの別れの言葉を交わし合う。

 それを最後に大和の全身は黄金の輝きに包まれる。再度顕れる鹿頭人身の巨人。タケミカズチは、遥か上空へと一気に飛び跳ねてその場を後にした。

 



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選択の果て

「嘘でしょ、何なのよ、この精霊力(チカラ)は……ッ!?」

「これは父様? ……いや、違う。じゃあこれはまさか!?」

 和麻と煉に合流した途端、力尽き倒れた綾乃だったものの、和麻によって口移し(わた)された霊薬の効果で、既に完全回復を遂げていた。

 その後しばらくして、再び来襲してきた流也と対峙していた三人は、だがその直後に莫大な炎の精霊力を感知して驚愕の声とともに空の彼方を仰ぎ見た。

 この場に居合わせた者たちの中で、唯一事情に通じていた和麻だけが冷静でいられたが、さしもの風術師といえど、その力の規模には流石に戦慄を禁じ得なかった。

(まさかこれ程とは、な)

 和麻は苦々しく一人ごちた。

 予想と現実の差異を、まざまざと見せつけられた気分だった。とはいえ、『出す』までに随分と手間取ったようだが、それでも結果は上首尾に終わったらしい。和麻は風の探知を行使して妖魔の消滅と春香の生存を確認した。

『馬鹿な、何だコレは!?』

 不意に山林の中を陰々と木霊するように声が届いた。

 風巻兵衛だ。近辺の山林に潜んでいたはずだが、想定外の出来事に動揺を隠せなかったのか、荒げた声を轟かせた。

「なぁ……爺さん。テメエまさかとは思うが、大和の奴が神炎使いだってことぐらいは、知っていたよな?」

 呆れたように問うてくる和麻の声に、兵衛は苛立ち混じりに答えた。

『当たり前だ、そんなことはとうに承知している!』

「……嘘、あの人――神炎使いだったの!?」

「え……知らなかったのですか、姉様!?」

 新たな事実にまたもや驚愕する綾乃に、そんな“姉”の様子に言葉を失う煉。

 そうした姉弟コントを無視して、兵衛は先を続けた。

『神炎使いのことは、昔からよく知っておる。だがこの力の規模はあり得ぬ! これではまるで宗主が――』

 言葉に詰まる兵衛に、和麻はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべるや、老風術師の言葉を先取りするように続けた。

「まるで宗主が――炎雷覇を手にしているかのようだ(、、、、、、、、、、、、、、、)、か?」

『……ッ』

「あんた、何言ってるのよ?」

「兄様?」

 そんな戸惑う神凪の炎術師たちを見据えて、依然、和麻は意地の悪い笑みを張り付かせたまま、もったいつけるように口を開いた。

「どうやら神凪も風巻も、大和が神炎使いだってことは把握していても――奴が上級精霊と契約を交わしていることまで知らなかったようだな」

『上級精霊だと!? 馬鹿な、あれはただの伝説ではなかったのか!』

「ほ、本当ですか、兄様!?」

 ともに愕然と声を張り上げる兵衛と煉。そんな最中、綾乃だけが周囲から取り残されたように困惑げな面持ちでぽつねんと立ち尽していた。

「えっと、上級精霊って、何……?」

 そう問いを投げかけると、和麻はさも呆れかえったとばかりに溜息をついた。煉もまたあんぐりと口を開けて言葉もない様子だ。

「お前なあー」

「姉様、本気で言っているのですか?」

「な、何よ、知らないものは仕方がないでしょ! だいたい上級精霊ってただのファンタジー用語じゃなかったの!? なんでそんなモノが現実に存在しているのよ!」

 羞恥のあまり頬を赤く染めつつ声を荒げる綾乃だったが、もはや最後の方が完全に逆ギレだった。

 和麻の弟とは思えないほど心持ちの優しい煉は、怒り心頭な綾乃をなだめつつ、懇切丁寧に上級精霊の知識を伝えた。

「……一群の精霊を一柱の神や英雄に見立てて、具現化させた存在? あれ、その言葉、何処かで聞いてことがあるような?」

 綾乃は小首を傾げながら、考えをめぐらせた。

「へぇ~、まんざらアホでもないらしいな。目の付け所は悪くない」

 そんな綾乃を眺めながら、和麻はさも感心したとばかりに褒めたたえる。

「何ですって!?」

 ギロリと目を細めて、綾乃は険悪な眼差しで和麻を睨みつけた。

「姉様、兄様は姉様を褒めているんです! そうですよね、兄様!」

 緊迫化する二人の間にその小さな身体を割り込ませ、煉は必死になって“姉兄”の中を取り持とうと奮闘する。

「ん? ああ、たしかに褒めているぞ。アホの割には頭を使っているな、てな」

 だが彼の兄は、はなはだ非協力的だった。

「兄様!」

「――煉、退いていなさい。流也より先にコイツを斬るわ」

 双眸に殺意を滾らせ、綾乃は緋色の刃を握り締める。

「お、落ち着いて下さい、姉様! その流也がまだ目の前にいるんですよ!」

 煉の制止の声に、綾乃ははっと身を強張らせ、慌てて流也に視線を送る。が、妖魔に動く気配は見られない。空の彼方へと頭を向けたきり、騒がしい綾乃たちに一瞥もくれることはない。やはりこの尋常ならざる精霊力の持ち主を警戒しているのだろう。

 綾乃はほっと安堵の吐息をつく。そうして彼女は怒りのボルテージを少し控えめに、だが険悪な眼差しだけはそのままに和麻を睨みつける。

「……目の付け所は悪くないって、どういう意味よ?」

 先刻の和麻の言葉の前半部分を、取りあえず忘れることにしたらしい綾乃がそう訊いてくる。

「言葉通りの意味だ。お前の聞き覚えがあると言った――『一群の精霊を一柱の神や英雄に見立てて具現化させた存在』――の下りは、精霊獣の術式にも通じる部分だからな」

 今度は和麻も茶々をいれることなく真面目に答えた。

「ああ! そうよ、精霊獣! だから、聞いたことがあったのね。……あれ、でも何で?」

 ようやく合点がいったとばかりに、綾乃はうんうんと何度も頷いた。が、新たな疑問が浮上して、またもや小首をかしげる。

「簡単だ。上級精霊こそが精霊獣の原型(オリジナル)だからだ。

 精霊獣、あるいは精霊式と呼称され現代においても伝承されるあの術式は、もともと上級精霊を模倣して創り出された魔術なのさ」

「上級精霊を模倣?」

 天上界でもなければ魔界でもない、この地上を平然と闊歩する神の如き力を有する存在――上級精霊。その在り方(メカニズム)を解明するに至って、古の魔術師たちは願った。コレを人為的に創り出せないものか、と。

 上級精霊の『核』である人々の想念――神々、英雄たちの伝承を、魔術師たちが編み上げた仮想人格(術式)に置き換え、一個の生物に見立てることによって一群の精霊を統制し、人造の上級精霊を創り出そうと試みたのだ。

「……それは、成功したの?」

「まさか、当然失敗したさ(、、、、、、、)

 そもそも始めから不可能だったのだ。

 上級精霊の『核』たる人々の――全人類の想念を、たかだか数える程度の魔術師たちが、たかだか数える程度の歳月で編み上げた術式如きで、代替えできる筈もなかった。

 総数が違う。歳月が違う。上級精霊とは全人類の想いを呼び水に、『世界』が数百、数千年の歳月をかけて現出させた奇跡の産物。集合的無意識――ヒトという名の『神』が創り上げた神造の生物なのだ。

 いかに魔術師たちが探求に励もうとも、最初から再現できるはずもない試みだったのだ。それを察した魔術師たちは、一人また一人と見切りをつけて、別の魔道の探究に『真理』を求め出した。

 結果、『人造の上級精霊の創造』という魔道探求は、急速に廃れはじめ、現代では完全に失伝した。――ただ一つの遺産だけを残して。

「それが精霊獣……」

「まぁ、そういうことだ。たしかに『人造の上級精霊』は創り出せなかったものの、それなりに便利で使い勝手の良い『魔術武器』なら既に完成していたからな」

 だから現代まで遺産の継承が成されてきたのさ、と風術師はそう言って魔道の歴史を締めくくった。

「……ねぇ、今の話だと上級精霊って神話の数だけ存在しているってこと?」

 だが綾乃は依然、納得がいかないことがあるらしく神妙な面持ちで質問を重ねてくる。

「いや、必ずしも神話の中の神さま連中が、全部が全部、上級精霊として現出するわけでもないらしいが、それでも古代じゃ相当数いたらしいぜ。もっとも現代じゃほとんど見かけなくなったがな」

「何でよ?」

「古代の神話が廃れたから上級精霊も消滅したって説を唱えている連中もいるが、真相は解っていない。だから今じゃ上級精霊は、『伝説の存在』扱いされちまっているのさ。

 ……しかしまぁ、上級精霊といい、上級妖魔といい、風巻家の人間は妙なものを引っ掛けてくる才能があるのかねぇ」

 和麻は呆れた口調でそう溢した。

「ちょっと、そんなこと言ってる余裕あるの? あたしたちはその妙なものの内一つと、これから戦わなくちゃいけないのよ!」

 あまりに場を弁えない風術師の言葉に、綾乃は苛立ちまじりに吐き捨てた。

「そうなんだよなぁ。ああ、めんどくさい。……おっと、噂をすれば影――来たぜ」

「兄様?」

「何が――ぁ」

 気のない表情から一転、不敵な笑みを浮かべる和麻に、煉と綾乃は訝しげな眼差しで彼を見るも、だが二人はたちどころにこの場所に近寄る気配を察知した。

 視線を向けると、樹間の奥から不意に人影は現れた。

「あれは、たしか風巻家の……」

 必死の形相で走り寄ってくる男の姿を見定めて、綾乃は眉根を寄せて呟いた。

『お主、藤次ではないか……!』

 兵衛の言葉を聞きとがめたのか、藤次は足を止めて歓喜のあまり顔を綻ばせ、頭上を仰ぎ見た。

「おお、その声は頭領! お願いします、どうか助け――」

 言いさした言葉は、だが虚空より飛来した黄金の剣によって遮られた。

 刃渡り二メートルを優に超える長大な刀身は、まるで薄紙を貫くように藤次の胴体を串刺しにし、彼の身体を大地に縫い止めた。

 藤次は恐る恐る自らの身体を検めるや否や、

「……あ? ……い、いやだ! 私はまだ死にたくない!」

 絶望に表情を凍らせて絶叫した。

 だが黄金の剣は、食らいついた獲物の状態に微塵も斟酌することなく、まるで藤次の生命を啜り取るかのように刀身をますます妖しく輝かせる。次の瞬間――目映い黄金の輝きが藤次の全身を包み込むや、激しい轟音と共に地上から天上目掛けて稲妻が駆け抜けた。

 すると、風巻藤次がいた場所は、もはや誰も――いや、何一つとて残されていなかった。

 そこ(、、)には、ついさっきまで、たしかに一人の人間が存在していたはずなのだ。息を吸い、心臓が脈打ち、血液が身体中を駆け巡っていた――生きたニンゲンが。

それが完膚なきまでに消滅していた。天が強引に彼を連れ去ってしまったかの如く。あるいは風巻藤次という人間は、そもそも最初から存在していなかったかの如く。

「……ッ!」

 煉は恐怖に身を竦ませた。

 無理もない。未だ戦場の匂いに慣れていない少年にとって、先の光景はあまりに衝撃的であり過ぎた。煉より少しばかり経験のある綾乃ですら、顔色を失っていた。

 だが実際のところ――二人が本当に戦慄していたのは、さっきの残酷きわまる展開と言うよりは、むしろその気になりさえすれば、自分たちもまた同種の光景を繰り広げることが決して不可能ではないという事実の方だった。

 とりわけ何ら対魔能力を持ち合わせていない一般人相手なら確実に可能だろう。そして、自分たちはそんな人々と、普段何食わぬ顔で「善き友人」として接しているのだ。彼らのうち誰一人として知る由もない。時と場合によって、自分たち炎術師は、彼らの生命を蹂躙できる怪物になり得るということに!

 こんな現実を思い知らされ、自分たちは今後、彼らとどう接すればいいのだろうか。

深い苦悩の海に沈む綾乃と煉の耳元に、そのとき呆れるほど呑気な声が届いた。

「ほぉ~、完璧な証拠隠滅か。やっぱり炎術は便利だねぇ」

「兄様、不謹慎ですよ!」

「そうよ。いくら敵だったとはいえ、人が死んだのよ!」

 軽率過ぎる和麻に向けて諌める言葉を投げかけながら、綾乃と煉は内心で安堵していた。

 実際、あのままでは思考のどつぼに嵌っていただろう。ここは既に死地なのだ。余計なことに思考を割いている余裕などない。……あるいは、和麻は自分たちを正気に立ち返らせるために、敢えて馬鹿げた発言をしたのだろうか?

 綾乃は探りを入れる視線で和麻を見つめるも、相変わらず風術師はへらへらと締まりのない笑みを浮かべているだけだ。どう見ても深謀遠慮を巡らせているようには見えない。

 やはりただの勘違いだ。そう思い直し、綾乃は流也へと意識を集中した。どのみち戦いの流れが変わった。決着の時は近いと本能が告げていた。

 神凪の姫君の予測の正しさを証明するかのように、かつて風巻藤次と呼ばれた人間が存在した空間を、まるで踏みつけるようにして宙から巨大なものが舞い降りた。

 激震と同時に露わになる黄金の巨体。鹿頭人身の巨人――タケミカズチ。

『何処にいる、兵衛ェェッ!!』

 その巨人から激烈な怒号が迸った。

「これが、上級精霊! これが、風巻大和のチカラ……ッ!」

 いま綾乃の全身を駆け抜ける戦慄は、この場に居合わせる全員が等しく感じているものだったに違いない。あの和麻ですら、あらためて間近で目の当たりにする上級精霊の偉容を前にして、いつもの減らず口を叩く余裕はなかった。

 それでもいち早く冷静に返ったのは、やはりこの風術師であった。和麻はたちまちに普段の締まりのない笑みに戻り、巨人を見上げながら揶揄するように口を開く。

「残念だったな、兵衛ならとっくの昔に逃げたぞ。もっとも、そんな物騒なモノで乗り込んで来られれば、それも当然だろうがな」

『では奴は何処にいる。お前ならば、当然捕捉しているだろう』

 黄金の巨人は鹿頭を下向かせ、和麻を見据えながら、先に上げた咆哮が嘘であるかのように、とても落ちついた声色で言った。胸の内に宿る激情を完璧に制御できている証である。

「まぁ、たしかに知らないとは言わないさ。けど、タダで教えてやる理由もないな」

 和麻は肩を竦めてそう嘯いた。

『貴様……』

 黄金の巨体から滾る憤怒が周囲の炎の精霊に伝播する。

「ちょっと、下手に挑発なんかしないでよ!」

「うッ」

 炎の精霊と感応できる炎術師だからこそ、その精霊を通じて大和の強烈な圧力をダイレクトに感じ取っているのだ。しかし、和麻は二人の抗議の声を黙殺して、口元を挑発げに歪めて黄金の巨人を仰ぎ見る。

『――八神、何が目的だ』

 和麻の視線を受け止め、大和が感情を押し殺した声で問いかける。すると、風術師はゆっくりと右手を掲げて、流也を指し示し言い放った。

「そんなもん、決まっているだろう。奴を仕留めるのに手を貸せ」

『いいだろう』

 即答だった。鹿頭人身の巨人は、おそらく和麻の答えを予期していたのだろう。あまりの展開の早さに目を白黒させる綾乃と煉を横目に、大和と和麻はこの先の詳細を詰めていく。

「せいぜい気をつけるんだな。流也はさっきお前が始末した妖魔より強力だぞ」

『ふん、そんなことは貴様に言われずとも承知している。八神、時間が惜しい。本気で俺に戦って欲しければ、貴様の方も切り札を晒せ(、、、、、、)

 大和の言葉に、和麻は肩を竦めただけで答えなかった。が、黄金の巨人は風術師の反応を肯定の意と受け取ったのか、それ以上言葉を重ねることなく流也へと向き直り――その直後、漆黒の暴風が鹿頭人身の巨体へと襲いかかった。

 再度激震に見舞われる大地。吹き荒れる大気。だが、まだそれで終わりではなかった。今の今まで沈黙を通してきた流也は、眼前に現れた黄金の巨人を脅威と看做したのか、ここにきて嵩に懸かたように激しく攻め立ててくる。

 矢継ぎ早に繰り出される暴風の連打は、全弾黄金の巨人をつるべ打ちにする。だが――

「嘘、無傷……!?」

 それは鹿頭人身の巨体の前に、ことごとく屈服した。

 綾乃は先だって対峙したからこそ、あの妖魔の法外な攻撃力の程を誰よりに解っていた。

 故に断言できる。何の防御手段も講じずに、あれを防げる筈がないことを。

「なるほど不滅の概念、か」

「不滅?」

 和麻の呟き聞きとがめた綾乃は、風術師を問いただす。

「ああ、上級精霊――あの黄金の巨体を構成する炎の精霊すべてに不滅の概念、『屈強』の意思が付加されているのさ。……おそらく大和の意志力と精霊力を超えない限り、奴に対するありとあらゆる攻撃は強制キャンセル――つまり『燃やされる』んだろうな」

 和麻の淡々とした解説に、その意味するところを理解して唖然とする綾乃と煉。

「兄様、大和さんの意志力と精霊力を超えない限りって、そんなの誰が超えられるっていうんですか? きっと父様でも……」

「そうだな、たしかに親父でも、宗主でも無理だろう。――それこそ炎雷覇でも持っていない限りは、な」

「え?」

 二人の疑問の声を無視して、和麻は自問自答する。

 果たして自身の『切り札』は、大和の上級精霊(あれ)を超えられるのか?

 膨大な戦闘を経て鍛え抜かれた風術師の直感は――是、と答えた。おそらく不可能ではあるまい。だが……

(やはり奴とは、もう二度とやり合いたくないな)

 和麻は「恐怖」ではなく、「億劫さ」から強くそう想った。戦闘愛好者ではない和麻としては、昨夜のような胆の冷える戦いは、二度と御免だった。

『おい、神凪ども! 喋っている暇があるのなら、早く手を動かせ。この戦いはお前たち一族の問題だろう』

 度重なる攻撃の嵐に晒されているにも拘らず、黄金の巨人は微塵も怯むことなく両手を突き出す。直後、雷光が瀑布となって迸り、漆黒の暴風を蹴散らしながら流也目掛けて殺到する。

「は、はい!」

 素直な煉は大和の叱咤の声にすぐさま応じ、炎術を行使する。

「何を偉そうに言ってるのよ! もともとあんたの一族が仕出かしたことでしょうが!」

 一方、素直ならざる綾乃は文句を溢しつつも、炎雷覇を振りかざし黄金の火炎流を走らせる。

 雷と火は混じり合い、溶け合うことで極大の雷火と化し、妖魔を討ち取らんと輝き奔る。

 対する流也は、眼前に迫る脅威を前にして、即座に攻撃を取り止め防御に転じる挙に出た。突如、流也を護るようにして噴き上がる大気流。気圧の障壁は真っ向から雷火と激突した。

 超々高熱の束は、だが風の外壁を抉り取るだけでそれ以上侵攻できない。

 後もうひと押しだなと、和麻は戦況を冷静に見積もる。漆黒の城壁と黄金の破城槌は、現状五分の割合で競り合っている。従って、和麻が次の一手を有効に指すことができたなら、勝利の天秤は一気にこちら側に傾くだろう。

 その最後の一押しを加えるべく、風術師は精神を奥深くへと沈める。『扉』を開け放ち『彼の者』が坐する空間へと己が精神を繋げる。

 そして和麻の脳裏に拡がるのは、果てなき遥かな蒼穹。天と地が別たれた――世界創世の時代より存在する『始源の一』たる力が満ちる次元。この空間そのものが『彼の者』なのだ。

 和麻は『彼の者』と繋がることによって、惑星(すべて)の風を統御する権能を授けられるのである。

 やがて一陣の蒼い風が吹き寄せる。神聖な霊気を帯びたその風は、雷火と絡み合うようにして一体化、蒼い奔流となって風の障壁を瞬時の遅滞もなく吹き散らす。無論、その結界に護られていた流也もまたその運命から逃れようはずもなく、蒼い奔流に呑み込まれ消え失せた。

 後には、戦いの終わりを告げる静寂が訪れる。

 

 

           ×               ×

 

 

 なぜだ? どうしてこうなった?

 兵衛は木々の合間を全速力で疾走しながら、しかしその思考は混乱の極みにあった。

 自身が練り上げた計画は完璧であったはずなのだ。一〇〇を超える下級妖魔に上級妖魔二体を擁した新生風牙衆。

 これほどの戦力ならば、たとえ神凪家と正面から決戦を挑んだところで充分に勝利を見込めるほどであった。実際凡百の指揮官ならば、そうしたに違いない。だが兵衛は、より必勝を期すためにさらなる策を講じた。

 まず老風術師は春香を誘拐することによって、大和を完全な支配下に置いた。これは大和が、風牙衆の決起に最初から非協力的であろうことを事前に予期していたがゆえの処置であったのは勿論だが、それだけでなく、当時風牙衆における最大の懸念材料であった神凪最強の炎術師たる厳馬の対処を、大和に命じる意図もあった。

 そしてもし仮に、任務に失敗して死んだところで、それはそれで何の問題もなかった。風牙衆の汚点がたいした手間をかけることもなく消えてくれるからである。

 逆に任務に失敗しても生き残っているか、或いは成功して帰還してきたならば、そのときはあらためて妖魔を憑依させた春香を使役し、大和を始末する算段だった。

 一方、和麻を計画に巻き込んだのは、大和の場合とは打って変わり、完全に兵衛の独断であった。

 かねてから進めていた計画の準備も滞りなく済み、いざ決行するという段に至って、無能故に神凪家から放逐された落伍者が、よりにもよってこのタイミングで日本に舞い戻ってきたと知った兵衛は狂喜した。そして、兵衛はそのとき和麻を利用した策を閃いた。

 神凪家を恨んでいるに違いないあの落伍者を生贄の羊に据えることで、風牙衆の反乱を宗主たち目から逸らし、その隙にじわじわと内側から神凪家を破滅させるつもりであった。

 そうして最後には、重吾や厳馬を筆頭に、累々と積み重なった神凪一族の屍の山の頂を踏み締めて、兵衛たち風牙衆は三〇〇年に渡る屈辱と恥辱に塗れた歴史に終止符を打つことができた筈だったのだ。

 ……なのに蓋を開けて見ればこの有様だ。いま破滅しようとしているのは、神凪でなく兵衛の方だった。

 こうなった原因は、大和と和麻にあるのは明白だ。兵衛はあの二人の力量を完全に読み間違えていたのだ。まさかあれほど法外な力を持っていたとは想像もつかなかった。

 いま兵衛の脳裏には、留めようもなく「if」の考えが過っている。

 大和に対しては、春香を誘拐した折にあの娘を盾に取り、始末しておけばよかった――

 和麻に至っては、手など出さずそのまま放置しておけばよかった――

 事実、その通りにしていれば、間違いなくこんな惨めな境遇に陥ることはなかっただろうに。

 だがそれも今となっては詮無い話である。それに兵衛はまだすべてを諦めたわけではない。

 それは、決してただの負け惜しみなどではなかった。真実、老風術師には起死回生の策があった。

 その鍵となる存在こそ――風巻大和に他ならない。

 どれほど強大な力を備えていようとも、依然、大和は身の内に致命的な弱点を抱え込んでいることに変わりはない。即ち、彼の姉、風巻春香である。

 あの娘を手中に収めさえすれば、大和を意のままに操れることは既に証明されている。ならば、再び春香を誘拐せしめ、今度こそあの“血の裏切り者”を、神凪を滅ぼし尽くすためだけに使役してやればいい……

 兵衛はそんな企てを胸中で秘め育てていた。――が、それ故に気づかなかった。いや、本当のところ、老風術師はすべてを理解していたのかもしれない。

 なぜなら、彼もまた痩せても枯れても優れた風術師の一人に違いないのだから。ゆえに気づかぬはずがなかったのだ。自身に迫り来る、かの者が宿す莫大な炎の気配に。

 兵衛の行く手を遮るように、黄金色の巨体が大地に降り立つ。もちろん、鹿頭人身の巨人――風巻大和が化身した姿、上級精霊たるタケミカズチである。

 何という強大な力だ――兵衛はあらためて間近で目の当たりにする上級精霊の威容に、恐怖に先んじて畏怖の念が込み上げてくる。

 今この力を行使しているのが、長年に渡り神凪家に蔑まれてきた風巻一族の人間であると言う事実に、兵衛は無性に笑いたくなった。たとえその力の源が、とうの神凪一族のものだったとしても。

 あるいはこれもまた、神凪と風巻の融和のカタチなのかもしれないと、兵衛は思った。

 彼とて何も最初から神凪討滅を信条に掲げていたわけではない。若かりし頃は、兵衛もまた神凪と風巻の良き未来について真剣に思いを馳せたこともあった。

 だが、時を追うごとに神凪は絶対に変わることはあり得ないと確信するにつれて、次第に兵衛の考えも変わってしまった。

 だからとはいえ、兵衛は変質した己の心の在り方を後悔する気持ちは微塵もない。それは自分自身の「正しさ」を今もなお確信していたからだ。

 だが――己の敗北だけは、流石に認めざるを得なかった。故に、

『終わりだ、兵衛』

 そうして向けられた死の宣告も、兵衛は何の動揺もありはしなかった。

 ただ黙したまま、黄金の巨人が右手に持つ長大な雷剣を振りかざす様をじっと見守っていた。

 風巻兵衛はここで終わる。それは仕方がない。運気と力量が足りなかったが故の当然の末路である。だが願わくば、どんなカタチでも構わない。風牙衆の未来に繁栄が約束されていることを祈るばかりである。

 散り逝く兵衛には、もはやそう願うしかなかった。そして、それを最後に風牙衆の長は、振り下ろされる断罪の刃に従容と身を委ねた。

 

 

 かくして、風牙衆の反乱計画はこうして幕を閉じた。

 



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