GIRLS und FIGHTER (ヤニ)
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第1話 「戦闘機道、始めます!」

 耳を割く様な甲高いベルの音に、西住みほはゆっくりと瞳を開いた。そのベルの音が目覚まし時計から発せられていると言う事に気が付くにつれて、次第に意識が覚醒して来る。やがて完全に意識が覚醒すると、みほはベッドから飛び起きた。寝間着を脱ぎ掛けた所で、自分は既に一人暮らしだという事を思い出す。みほの寝坊を叱り付ける人間は、この部屋には存在しない。

 

 真新しい制服に戸惑いながら玄関の鍵を掛けて、マンションの階段を駆け下りて行く。まだ学年が始まったばかりだと言うのに、通り過ぎる同じ制服の生徒達は数人でグループを作り、談笑をしながら登校して行く。その人々の間を縫う様にして、みほは学園を目指した。友達がいらない訳では無い。むしろ孤独は嫌いだ。それでも、みほは人とコミュニケーションを取る事が苦手だった。新しいクラスの生徒の名前は一通り頭に叩き込んであるが、談笑として話しかけられた事はまだ一度も無い。それでも上履きに履き替えて教室の扉を開き、みほは指定された席に着席した。

 

 昼食である。友達の居ないみほにとって、最も酷な時間。

 

「へい、そこの彼女!」

 

一人寂しく便所飯という事になるかも知れないと思っていた所で、背後から声を掛けられた。そこに立っていたのは、赤茶けた髪の軽そうな少女と、どこかおっとりとしている、大和撫子を絵に描いたような少女。同じクラスだ。名前も勿論把握している。

 

「えっと……同じクラスの武部沙織さんと五十鈴華さんだよね?」

 

二人の名前を当ててみせると、彼女達は信じられないといった風に目を見開いた。

 

「えっと……どうして分かったんでしょう?」

 

「いつ話しかけられても良い様に、クラスのみんなの名前は把握してるんだ」

 

まぁ、そのほとんどは虚しい努力に終わっているのだが。それでもこうして会話を出来ているのだから、全く無駄という訳では無かった筈だ。

 

「そう言えば、選択科目、もう決めた?」

 

食堂のおばちゃんお手製のランチセットを頬張りながら、沙織がそう尋ねて来た。

 

「確か……書道か華道、戦闘機道でしたっけ」

 

「そうそう。乙女の嗜み、戦闘機道だったっけ? 少し古臭いよねぇ。男子に嫌われちゃいそう」

 

戦闘機道。その言葉を聞いた瞬間、みほのスプーンを持つ手が止まった。戦闘機道。それを選びたく無いからこそ、自分は大洗女子校を選んだのだ。

 

「えっと……この学校、戦闘機道は廃止になったんじゃ……」

 

「今年から復活だって。みほはもう決めた?」

 

沙織の言葉は、もうみほには届かない。ただ戦闘機道を選ばなければ良いだけだが、それでも毎日戦闘機の駆動音を聞く事になるのだ。

 

『普通一科二年A組西住みほ。普通一科西住みほ。至急生徒会室まで来い』

 

昼休みの校内放送。自分が何かやらかしてしまったのかと不安がよぎったが、転校してきてまだ数日だ。それでも、ようやく出来た二人の友人は、不安を隠しきれない表情でみほを見ている。

 

「みぽりん、何かしたの?」

 

「してないけど……」

 

みぽりん。咎めようとも思ったが、あだ名で呼ばれる事はみほの夢でもあった。

 

「とりあえず、生徒会室に行ってみましょうか」

 

華のその提案で、親睦会を兼ねた昼食は一時中止となってしまった。

 

 「西住ちゃん。キミには、戦闘機道を選択してもらうから」

 

生徒会室に赴くと、会長である角谷杏はそう口を開いた。黒革の座椅子に腰を掛ける杏の後ろには、二人の生徒会役員——小山柚子と河嶋桃が控えている。横暴である。本来選択必修科目とは、みほ自身にその決定権が与えられる。有無を言わせぬ杏の言動に、みほは何も言い返せずに、生徒会室を後にした。

 

 午後になって、選択必修科目のオリエンテーションが行われた。生徒会のメンバー——杏と桃、柚子が前に移動すると、体育館の照明が落とされる。ステージに備え付けられたモニターには、デカデカと『来たれ、戦闘機道!』と映されていた。

 

 ——乙女の嗜み、戦闘機道。優雅に空を舞い、華麗に敵機を撃ち落とす鉄の乙女。貴女も戦闘機に乗って、愛しのあの子を撃ち落とそう!宣伝用の資料映像は、そう締めくくられていた。その宣伝文句を耳にして、男好きの沙織が興奮しない訳が無い。教室に戻る頃には、沙織は戦闘機道を選ぶ気満々になっていた。

 

「良いかもしれませんね。私も、少し楽しそうと思ってしまいました」

 

華道一家の華でさえ、その興味は本家本元の華道では無く、戦闘機道の方へ傾いてしまっている。まずい。本当にまずい。華が華道一家なら、西住家は戦闘機一家だ。代々戦闘機道を極める西住家の一員であるみほも、当然戦闘機一筋の人生を送ってきた。姉妹である西住まほと共に、戦闘機道の名門校——黒森峰女学園に入学した程だ。しかし、姉妹の差は歴然としていた。戦闘機道の歴史にすらその名を残そうとするまほと比べて、みほは平々凡々。その溝が深まるにつれて、みほは黒森峰を嫌いになっていった。そして二年に上がったその日に、みほは黒森峰から、戦闘機道の無い大洗女子に転校したのだ。——しかし。

 

「……はぁ」

 

大洗女子の戦闘機道の復活。生徒会の強制決定権。そして、ようやく出来た友人達の戦闘機への傾興。自分はそれらを押し退けて、他の科目を選択出来るのだろうか。おまけに戦闘機道を選び大会を勝ち進んで行けば、生徒会から様々な恩恵を授かる事が出来る。遅刻二百日見逃し、通常単位の倍の単位。それだけでも魅力的だ。

 

「……」

 

みほの様子に気付いたのか、柚子が押し黙ってしまう。その空気を察した沙織が、パックのジュースでボコボコと音を立てた。

 

「辞めよっか、戦闘機道」

 

「……え?」

 

「訳ありなんでしょ? それに、戦闘機道って古臭いし男臭いしモテなさそう」

 

「そうですね。私も、華道の方が……」

 

二人とも無理をしているのは明らかだ。我を通してくれないのは不満だが、それでも二人がみほを気遣ってくれているのが、みほにとって何よりも喜ぶべき事だ。

 

「そんな。二人は戦闘機道を選びなよ」

 

「悲しい事言わないでよみぽりん。友達なんだから」

 

「そうです。西住さんに辛い思いはさせたくありません。一緒に、断りに行きましょう?」

 

 「ダメだ」

 

違う科目を選ばせてくれ。そう言った途端、杏はぴしゃりとそう言った。

 

「西住ちゃん。我儘ばっかり言うと、この学校に居られなくさせちゃうよ?」

 

「そんな、横暴よ!」

 

杏の言葉に、沙織がそうまくし立てた。

 

「そんな権利が生徒会にあるとは思えませんが」

 

「ある。貴様らも同じ目に会いたいのか?」

 

売り言葉に買い言葉。姦しいと言ってしまえば明るく見えるが、その中身は女達の口喧嘩だ。更に言ってしまえば沙織と華は、みほの選択必修科目の為だけに、自らの地位を危険に晒している。——その重荷に、みほが耐え切れる訳も無かった。

 

「……あの!」

 

みほの言葉に、生徒会のメンバーも沙織と華も押し黙る。それを確認してから、みほは口を開いた。

 

「私、やります!」



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第2話 「戦闘機、乗ります!」

 選択必修科目の最初の受講日。戦闘機道を履修した履修生達は、校舎の横にある格納庫の前に整列させられていた。みほと沙織、杏は緊張を隠す事が出来ないまま、履修生の前に立つ生徒会のメンバーを見つめていた。

 

「それじゃあまず、戦闘機道の基本ルールを押しておこうか。……桃」

 

『教えておこう』と言っておいて、杏では無く桃が説明を行うらしい。彼女は一歩前に出ると、分厚いマニュアルの中から、付箋の貼ってあるページを開き、履修生達を見渡した。

 

「戦闘機道の試合は、二つの種類がある。まずは制限時間内にどれだけの戦闘機を撃ち落とせるかを競う通常戦。そして、どちらが先にフラッグと呼ばれる気球を撃ち落とせるかを競うフラッグ戦だ。試合には実弾が使われるが、機内は特殊コーティングで護られているから安心してくれ。機体は第二次世界大戦までの物とする。機体の差は、腕と技術でカバーしろ。以上だ」

 

パタンとマニュアルが閉じられる。それを合図にして、格納庫のシャッターが音を立てて上がって行く。その奥が明らかになるにつれて、履修生達の表情は早く戦闘機を乗りこなしたいと言う好奇心から、この学校は大丈夫だろうかと言う懐疑心へと変化して行く。それもその筈である。その格納庫の中には、一台の汚らしい戦闘機がポツンと置かれていただけだからである。

 

「メッサーシュミット Bf109……」

 

みほがポツリと呟く。その機体の名前だ。左右にいる沙織と華にだけ聞こえる様に小声で伝えたのだが、その声は杏にまで届いていた様だ。彼女はまるで悪者の様な笑みを浮かべながら、

 

「流石西住流」

 

と言ってみせた。正直機体の種類など軽く知識を齧った人間なら簡単に特定出来るのだが、それでもみほの知識は、ここにいる履修生の中でも一、二を争うレベルだ。

 

「勿論、この一機だけしか無い訳じゃないよ」

 

それもそうだ。戦闘機一機だけを持って戦闘機道の復活を宣言した所で、どの学校も目を向けてはくれないだろう。そもそも試合にすらならない筈だ。

 

「じゃあ、何処にあるんですか?」

 

沙織が声を上げる。その質問に、杏は再び、にやりと歯を見せた。

 

「何処って、ここだよ」

 

「ここ?」

 

「そう。この学園艦の何処か。この学校も昔は戦闘機道が盛んだったから、その遺物がこの学園艦の何処かにある筈。早い者勝ちで見つけた戦闘機はプレゼントするから、早く探して来てね。整備は整備部に任せるから、キミ達は戦闘機を見つけて、連絡をしてくれるだけで良い」

 

見つけた戦闘機をプレゼント。その見つけた機体によって、どれだけの勝率を積めるかが決定するのだ。最も西住流を教え込まれたみほならある程度の差はカバー出来るが、殆どの履修生はドが付く程の素人だ。機体の差に頼る他は無い。

 

「それじゃ、私達も探しに行こうか」

 

次々に戦闘機を探しに行く履修生達を見て、沙織が口を開く。しかしみほは、その場に立ち止まったままだ。視線だ。妙な視線が、みほの背中に注がれている。沙織と華は気付いていないのか、談笑しながら進んで行ってしまう。

 

「……あのっ!」

 

視線に耐えきれなくなり、みほが振り向きざまに口を開いた。一人の少女が、びくりと肩を震わせる。もじゃもじゃになった天然パーマが特徴的な少女だ。

 

「良かったら、一緒に探さない?」

 

「宜しいのですか!?……申し遅れました。私、普通ニ科C組所属、秋山優花里と申します!」

 

「そ、そう……。私は」

 

「存じております!西住みほ殿でございますよね!?」

 

「う、うん……」

 

異様なまでのテンションに気圧されながらも、みほは優花里を咎めようとはしなかった。彼女は、純粋に戦闘機が好きなのだろう。そして嫌が応にも、西住流は戦闘機道ではかなりの名を残している。調べられていても不思議では無かった。

 

 夕暮れと共に、戦闘機の捜索は終了した。発見された戦闘機は自動車部と整備部により、格納庫の前に並べられている。みほ、沙織、華、優花里の発見した戦闘機は、全部で四機。四人で話し合った結果、みほにはP-51マスタング、沙織にはスピットファイア、華にはソッピース・キャメル、優花里にはフォッカーDr.Ⅰが割り当てられた。そうなれば、後は大まかな掃除である。計器などの修理は、整備部によって済まされている。掃除を行う履修生の中には、何故か機体の色まで変え始めている者さえいた。それを見て、優花里がまるで発狂したかの様に叫び始める。

 

「ああ……!戦闘機の色をピンクにするなんて……!」

 

「そう言ってる秋山さんだって、赤い塗料持ってるじゃん」

 

「私のは良いんです」

 

沙織の突っ込みにそう返す優花里を見て、みほは内心ほっとしていた。強制的に選ばされた戦闘機道だが、少なくともここは実力重視の黒森峰でも無ければ、自分の行動を『恥』とした西住家でも無い。大洗女子だ。ここには、みほを責める様な人間はいない。『純粋に戦闘機道が楽しめる』と言うだけで、みほは既に次の授業が楽しみでならなかった。

 

 翌日。生徒会の権限によって、外部からコーチを行う人間が大洗女子学園艦に降り立った。前日に『格好良い人が来る』と聞かされていた沙織はその女性が降り立った瞬間に小さな溜息を吐いたが、みほには彼女がかなり格好良く見えた。生徒会長の言っていた『格好良い』も、異性として、と言う意味では無かったのだろう。沙織の早とちりだ。陸上自衛隊の蝶野亜美。本職の戦闘機乗りだ。

 

「……あら」

 

亜美は履修生の中にみほを見つけると、そう声を挙げた。

 

「西住流の……。お姉さんは元気?」

 

みほと西住家の確執を、亜美は知らない。それなのに彼女を責める訳にも行かず、みほは曖昧な笑みでそう返した。同じくその確執を知らない沙織も何かを察したのか、

 

「質問でーす!」

 

と、剽軽な声を挙げて見せた。

 

「戦闘機道って、やっぱりモテるんですか?」

 

『馬鹿げた事を訊くんじゃない』と怒られてもおかしくない質問だ。それでも亜美もみほの反応に違和感を感じていたのか、沙織の質問に笑顔で返した。

 

「モテるかどうかは置いておいて、狙った獲物は外した事はないわ」

 

履修生の中から関心の声が上がる。みほは話の矛先が自分から反れた事に安堵の息を漏らし、亜美の次の言葉を待った。教官が来たと言う事は、今日の授業では実際に戦闘機を動かすという事になる。しかし、履修生の大半はコックピットに入った事の無い、文字通りの素人だ。そこでも亜美の矛先は、みほへと向いた。

 

「さて、まずは実践ね。この履修生の中で、通常戦を行うわ。……ルールは聞いているわよね? より多くの戦闘機を撃墜した人の勝ち。でもそれじゃあつまらないから……チームを組みましょうか」

 

亜美の言葉に、履修生達が騒ぎ始める。みほの所属するチームは、あっさりと決まった。共に戦闘機を捜索した仲間――沙織に華、優花里である。

 

「……チームは決まった? それじゃあ、実際に空に舞いましょうか。……西住さん。お手本お願いね」

 

「ええっ!?」

 

亜美の提案に驚いてしまい、みほは思わず叫んでしまった。履修生達の視線がみほに注がれて、思わず萎縮してしまう。みほは、目立つ事が嫌いだった。目立てば目立つほど、自分は姉と比べられてしまう。それでも、この場で戦闘機を操縦出来る生徒はみほを除いて居ない。手本として白羽の矢が刺さる事は、仕方が無い事だった。

 

「……分かりました」

 

手本を見せた所で、コックピットの中まで確認する事は出来ない。離陸の方法は、亜美が個別に指導するのだろう。みほが見せるのは、あくまでタキシングの方法、距離、離陸可能速度程度だ。

 

「大丈夫。戦闘機なんて、ぴゅーっと飛ばしてババババッて撃てば良いんだから。……ね? 西住さん」

 

本当に、この人に離陸の指導なんて出来るのだろうか。そんな不安を抱えながらもみほはプロペラを回し、マスタングに乗り込んだ。計器を確認し、『異常無し』と、亜美に向けて親指を立てる。プロペラの音は次第に威力を増し、学園に爆音が響き渡る。みほはプロペラの音がしっかりと響いている事を確認すると、ゆっくりとマスタングを前進させる。格納庫から直結する滑走路へと頭を向け、次第にスピードを増し――

 

「危ないっ!!」

 

慌てて、ブレーキを踏み込んだ。人だ。滑走路の中心で、少女が横になっている。彼女が近付いて来るにつれて、みほの焦りも増して行く。戦闘機道で死人が出るなんて、あってはいけない事だ。西住家の名に更に泥を塗る事にもなる。何より、学友の未来を奪ってしまうなんて事は、最もあってはいけない事だ。それでも、少女は目を覚まさない。プロペラによる風と轟音の中でも、彼女はピクリとも動かない。そんな中で、もう一つの影が滑走路へと飛び出した。

 

「沙織さん!?」

 

少女を抱える親友の名前を叫び、みほは目を反らした。マスタングは速度を失いながらも二人に近付いて――やがて、その二人はみほの視界から、完全に消え失せた。



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第3話 「試合、やります!」

 マスタングの速度が離陸可能速度へ到達すると、みほは操縦桿を引いた。巨大な鉄の塊が、徐々に空へと頭を上げて行く。次第に遥か下になって行く滑走路では、沙織が一人の生徒を抱きかかえていた。

 

「沙織さん。今の方は?」

 

通信機からそう問いかける。機内の通信機は柚子へ通じていたらしい。彼女は右耳に手を当てた後で、沙織の元へ駆け寄った。マスタングは頭を更に空へと向けて、上へ、上へと舞い上がって行く。

 

『お友達だって』

 

プロペラの駆動音に紛れる様に、柚子の声が聞こえてくる。みほはマスタングの高度が亜美に指定された高度へ達した事を確認すると、頭を空から、水平線の広がる正面へ戻した。

 

「西住みほ、指定高度へ到達しました」

 

『了解。続いて、秋山さんが行きます』

 

「了解です」

 

戦闘機はヘリコプターと違い、一か所に滞空する事は出来ない。みほは前進しては旋回を繰り返しながら、優花里の合流を待った。やがて遥か下の滑走路から、深紅の機体が近付いてくる。赤のフォッカーDr.Ⅰ。優花里の機体だろう。やはりコックピットの中では、ゴーグルを着けた優花里がみほに向けて敬礼をしていた。

 

 全ての機体が空へと舞い、みほのコックピットからでも点になってそれが見えていた。いくら視界に入っていようとも、この距離からでは機銃など当てられない。

 

『制限時間は十分!撃ち落とされた者は危険だから、コックピットから出ない事!』

 

――亜美の指令に、みほの視界が揺らいだ。『あの事故』はまるでトラウマの様に、みほの身体に、機体に纏わりついている。間違った行動はとっていない。その筈なのに、自分は姉から、西住家から逃げ出してしまったのだ。

 

『みぽりん、危ない!』

 

沙織の悲鳴の様な叫び声で、漸くみほは我を取り戻した。機体を三十度ほど傾けると、その翼の下を機銃の銃弾が通り抜けて行く。視線を上げると、F6Fが正面を向いていた。通称ヘルキャットとも呼ばれるその機体は、バレー部の部員が搭乗しているのだろうか。機体の彼方此方に、部員募集の宣伝が書かれている。――そのヘルキャットの、遥か後方。いくつもの点が、此方に向かって飛んできている。

 

「――全員、後方へ旋回!」

 

手を組んだのだろう。みほは全国的に見れば平凡的な戦闘機乗りだが、大洗女子の戦闘機チームから見れば、西住流の名を継ぐ立派なエースパイロットだ。まずは此方を潰してしまおうという計画になったのだろう。みほは前方に飛ぶヘルキャットへ機銃を浴びせると、下方へ頭を向けた。ヘルキャットは左翼から黒い煙を吐き、青い海へと飛び込んで行く。みほはその海が頭上まで来ると、機体を急旋回させた。優花里がそれに続き、沙織と華も、それを真似る様に旋回をした。――それがいけなかったのだろう。通信機の向こう側から、華の苦しそうな呻き声が聞こえてきた。

 

「華さん、大丈夫!?」

 

『……頭が、フワフワします』

 

飛行機酔いだろう。通常の旅客機以上の重圧と振動を受ける戦闘機では、慣れない人間が三半規管をやられて酔ってしまう現象は少なくない。

 

「華さん。無理はしないで、滑走路まで引き返して」

 

『そんな、皆さんに迷惑をかける訳には……』

 

『大丈夫!私が付いてるから!男を落とすより簡単そうだし!』

 

沙織の冗談はさて置き、そのまま飛んでいるという事は好ましい事では無い。一歩間違えれば味方機を巻き込む事にもなりうる。華も、それを理解したのだろう。彼女のソッピース・キャメルは次第に下降し、不格好に滑走路へと戻って行った。

 

『あんこうチーム、1人脱落って事で大丈夫?』

 

柚子の声が聞こえてくる。

 

「あ、はい……」

 

『まだだ』

 

2人の会話を割く様に、聞き覚えの無い声が通信に割り込んで来た。

 

『迷惑をかけたからな。私が行こう』

 

どうやら、先程沙織に助けられた少女らしい。

 

『冷泉麻子だ。よろしく頼む』

 

『ちょっと麻子!貴女戦闘機なんて……』

 

『マニュアルは読んだ』

 

戦闘機など、マニュアルを読んだ所で完璧に操作出来るものでは無い。その日の気候、気温によって、対空可能時間までもが変化してしまうものだ。しかし、それは華も沙織も同じである。彼女達だって、マニュアルと亜美の説明だけでここまで飛べているのだ。

 

「……よろしくお願いします!」

 

——麻子の操縦するソッピース・キャメルは、まるで華が乗っていたそれとはまるで別の機体の様に、華麗な駆動音と共に大空に舞い上がった。深緑の機体が太陽を遮り、青い海面に群青の影を作る。麻子は全身にかかる重力などまるで感じないかの様に、コックピットを開き、じっとみほを見つめている。

 

「……えっと、本当に戦闘機に乗った事、無いの?」

 

『無い』

 

正直、みほには麻子が信じられなかった。彼女がソッピース・キャメルを操縦するその姿は、素人では無く、まるで何年も戦闘機に乗って来た歴戦の戦闘機乗りだ。

 

『前方に機影あり!麻子、やってみて!』

 

沙織の指示で、麻子の機体がみほの前へ出た。みほは機体を減速させて、ソッピース・キャメルの下へ周る。麻子は一度機体を左右に揺らしてみせると、一巡の迷いも無く、機銃の引き金を引いてみせた。機体は身体を右へ旋回させてその銃弾を躱すと、そのコックピットを露わにした。機銃の弾は一発命中していたらしく、Bf109の左翼側の腹部には、黒く銃弾の掠った跡が付いていた。コックピットに乗っている桃は、じろりと縦に並ぶ麻子とみほを睨み付けていた。

 

「生徒会チームです!」

 

みほの叫びを聞いた瞬間、沙織の乗るスピットファイアが2人の後方から姿を現せた。生徒会に騙された事をまだ根に持っているのだろう。

 

『堕ちろぉぉ!』

 

ヘッドセット越しでも耳を塞ぎたくなる様な叫び声と共に、スピットファイヤから機銃がバリバリと音を立てて放たれる。みほも負けじと機体を旋回させると、Bf109へ何発もの銃弾を浴びせた。桃も、まさかもう一機此方へ向かっているとは気が付かなかったのだろう。Bf109は多数の黒穴を開け、黒煙と共に海へ落ちた。

 

『あんこうチーム、また敵を撃破!』

 

柚子の声が聞こえてくる。

 

 その後も秋山の乗るフォッカーDr.Ⅰが正にリヒトホーフェン並みの活躍を見せ、あんこうチームは学園内戦においてトップの成績を叩き出した。

 

『校内試合、あんこうチームの勝利です!』

 

という柚子の全体通信により、校内試合の幕が降りる。あんこうチームは華の飛行機酔いを除き誰1人落とされないと言う革新的な勝利を刻み、格納庫の前で抱き合った。あんこうチームの初勝利である。無論西住流の端くれであるみほにとって、戦闘機道の試合での勝利は初めてでは無い。しかし最愛の友人達と味わう勝利は、今までのどんな試合よりも喜ばしいものだった。

 

「やったよみぽりん!初勝利!」

 

「申し訳ございません。あまり活躍出来なくて……」

 

「ううん。初めての搭乗で、あんなに上手に旋回出来たんだもん。華さんも十分凄いよ」

 

実際、初めて戦闘機を操縦する人間が、あそこまで正確に旋回出来る筈も無い。実は戦闘機道の経験があったのでは無いかと疑ってしまったほどだ。

 

「冷泉さんも……ありがとう」

 

「驚いたよ。麻子にあんな特技があったなんて」

 

「マニュアル通りに動かしただけ」

 

どんなに褒められても、麻子は真顔のままでそう答えた。

 

「冷泉殿。戦闘機道を履修してみては?」

 

優花里の提案に、みほと沙織、華も同意した。それほどまでに、麻子の実力は恐ろしいものだった。しかし、麻子は首を横に振って見せた。戦闘機には乗らない、という事である。

 

「悪いが、もう書道を履修すると決めている」

 

「決めているって……一応、変更は可能だよ?」

 

沙織の説得にも、麻子は応じなかった。一人、また一人と、格納庫の前から立ち去っていく。戦闘機道はあくまで授業の一環。その授業が終われば、皆それぞれ用事がある。麻子も、それに紛れて帰ろうとしていた。一歩前に出て彼女を止めたのは、やはり麻子の幼馴染である沙織だった。

 

「単位3倍だよ!?」

 

ぴたりと麻子の足が止まる。

 

「寝坊し過ぎてヤバいんでしょ!?」

 

ぴくりと麻子の肩が震える。

 

「お婆ちゃん、安心させたいんじゃないの!?」

 

――その言葉が、麻子の意地を完全に崩して見せた。彼女は心なしか頬を赤らめながら、くるりとみほ達と向き合った。

 

「……やる」

 

 

あんこうチーム、結成の瞬間だった。



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第4話 「親睦会、やります!」

 みほの自宅で、食事会を開こう。そう提案をしたのは、他ならぬみほ本人だった。いくら仲が良いとは言え、あんこうチームは言ってしまえば『寄せ集め』だ。せめて少しでも交友を深め、試合時の連携を強めようと言う事である。麻子だけは「帰って眠りたい」と駄々をこねていたが、沙織の説得により強制的に参加することになった。

 

 独り暮らしのみほの部屋に、5人分の食料などあるはずも無い。という訳で、5人は学園艦内にある商店街へ、食材の買い出しへ赴いていた。橙色の夕日が照らす商店街は、何故かみほのノスタルジーを刺激した。艦内では既に戦闘機道が復活した事が知れ渡っているのか、彼方此方に戦闘機の装飾が見て取れる。

 

 「西住殿、武部殿、五十鈴殿、冷泉殿。少し寄りたい所があるのですが……」

 

スーパーへ入ろうとした所で、優花里が両指を突き合せながらそう口を開いた。――断る理由は無い。放課後に寄り道をするという行為は、全国の女子高生の『恒例行事』とも呼べるだろう。誰一人として、彼女の提案に反対はしなかった。そうして優花里が訪れたのは、小さな戦闘機ショップだった。嘗て大洗女子学園が戦闘機道でそれなりの活躍をしていた時から、ずっと経営しているらしい。店舗に並ぶマニアックな戦闘機グッズに、優花里は目をきらきらと輝かせた。やはり彼女は、戦闘機の事となると性格が変わってしまうらしい。

 

 店内にはプラモデルは勿論の事、両翼の形をしたテーブルや薬莢、操縦桿にゴーグル、飛行服まで売られていた。優花里は迷わずに商品の棚を避けて、店の端にある筐体に目を向けた。その一角は戦闘機のコックピットが精工に再現されていて、モニターには稚拙ながらも、ドットで大空が描かれていた。優花里は自らのスクールバッグを開くと、その中から自分のゴーグルを取り出し、コックピットに腰を下ろした。

 

「えっと……飛来物は無いと思うけど」

 

「何を言いますか、西住殿!戦闘機乗りとして、コックピットに座る時はそれなりの格好をしなければなりません!」

 

ビシリと敬礼して見せる優花里だが、背景故かあまり格好良くは見えなかった。しかし彼女は既に歴代のエースパイロットになったつもりなのか、モニターに映るドットの戦闘機を次々撃ち落としていく。その姿に、みほもいつの間にか酔い痴れていた。

 

 スコアが表示されてゲームが終了すると、優花里がゴーグルを外し、コックピットから立ち上がった。その席にすかさず華が腰を下ろす。こういった類のゲームを好むとは思えなかった彼女に、誰もが驚愕の声を上げた。

 

「少しでも、操縦に慣れようと思いまして……」

 

「飛んでる内に慣れると思うけど……。それに、操縦に関しては華さんは完璧だと思うよ」

 

幾ら操縦技術が上がった所で、三半規管が丈夫になるわけでは無い。そこは慣れて行くしか無いのだ。しかし華はコインを投入すると、自らのゴーグルを装着し、真剣な顔でモニターと向き合っていた。

 

「そう言えば、麻子の機体はどうするの?」

 

華の座るコックピットの背もたれに肘をつきながら、沙織がそう尋ねて来た。確かに、あんこうチームにある機体は4機で、その全てが1人乗りだ。

 

「やっぱり、学園艦の中を探すしか無いかな」

 

「それなら、明日探しに行きましょう!」

 

明日は日曜日。ほぼ丸一日を戦闘機の探索に使えるのだ。しかし、夕方からはフラッグ戦の演習も控えている。仮に戦闘機を見つけたとしても、夕方までに整備を終える事は不可能に近い。

 

「私なら、ぶっつけ本番でも大丈夫だ」

 

眠たげな瞳のまま、麻子がそう言ってのける。かなり慢心に満ちた発言だが、不思議と麻子なら本当に大丈夫な気がしてしまう。

 

「麻子もこう言ってるんだしさ。午前中に集まって、戦闘機を探しに行くのも良いんじゃ無いかな」

 

「せめて昼過ぎにしてくれ!」

 

沙織の発言に、麻子が悲鳴を上げた。朝が苦手なのだろうか。

 

「冷泉さんは、朝起きれないの?」

 

「ほら、言ったでしょ? 麻子、遅刻のし過ぎで単位が……」

 

そう言えば、沙織が麻子を説得する際、そんな事を言っていた様な気がする。しかし、大会が始まれば早起きは日常茶飯事だ。試合の会場はクジ引きで決められる為、遠い場所での試合となればそれなりの時間も必要になってしまうからだ。

 

「それなら、私が起こしに行きましょう」

 

優花里が、どんと胸を叩いて宣言する。

 

「起床ラッパの練習が陽の目を見る機会がやっと訪れました!」

 

「やめてくれ……」

 

麻子はそう言っているが、優花里は本当にやってのけるだろう。

 

「……やりました!」

 

華が声を上げる。モニターに目を向けると、ハイスコア更新の画面が表示されている。つまり彼女は、この店内での最高記録を叩き出したのだ。

 

「五十鈴殿!どうかご教授を……!」

 

「ご教授と言われましても……集中して、冷静に撃っただけなのですが」

 

「それが難しいんですよ!」

 

「それなら、華道をやってみてはいかがでしょう。落ち着きますよ」

 

華のその言葉に反応したのは、優花里だけでは無かった。みほも、部屋に花を飾ってみたかったのだ。五十鈴家は華道の名門。どうせ花を生けるのなら、それなりに様になる飾り方をしてみたいのだ。

 

「教えて頂けるんですか?」

 

「ええ。まずはハサミの素振りを一時間ほど……」

 

「……遠慮して置きます」

 

「自分も」と言い出さなくて良かった。と、みほは嘆息した。優花里が操縦桿を握ると性格が変わる様に、彼女も華道に没頭してしまうのだろう。そんな彼女達が、みほはただ羨ましかった。自分には、それほど夢中になれる事は無い。戦闘機道だって、『西住家に産まれたから』と言う理由で続けているだけだ。それでも今は、黒森峰に居た時よりも数倍、コックピットに入る事が楽しくなっていた。

 

 みほの部屋を開けると、友人達は感嘆の声を上げた。みほからして見れば普通の部屋なのだが、彼女達にとってはそうでは無いらしい。

 

「女の子らしい部屋じゃん!」

 

ソファーに置いてあるぬいぐるみを抱きしめながら沙織が言う。ただぬいぐるみが好きなだけなのだが、それだけでも十分女の子らしいのだろうか。

 

「それじゃ、作り始めようか。みほはゆっくりしてて」

 

そう言って沙織が腰をあげる。

 

「あ、悪いよ。私も手伝う」

 

「良いから良いから。その代わり、操縦のコツ、教えてもらうからね」

 

そんな沙織を見て、みほは小さな疑問を抱いた。彼女の大らかな性格。そしてその口ぶりからして、料理の腕もあるだろう。そんな彼女が何故男に飢えているのだろう。その疑問を察したのか、麻子が勉強用の椅子に座りながら口を開いた。

 

「男の前だと妙にテンパるんだ、沙織は。だからいつも男に引かれる」

 

「そこ、うるさい!」

 

聞こえていたのだろう。キッチンから沙織の叫び声が聞こえて来た。華は先程の興奮がまだ冷めていないのか、本棚にある戦闘機の雑誌へ目を通していた。優花里はと言うと鞄をあさり、その中からまるでキャンプに使用する様な飯ごうを取り出していた。

 

「いつも持ち歩いてるの、それ?」

 

「いついかなる時でも食事を取れる様に、万全の準備はしてあります」

 

それが必要になる事態は、しばらく訪れる事は無いだろう。陸ならまだしも、ここは巨大な艦の上だ。地震など、ここしばらく体感していない。

 

 楽しい時間は早く過ぎるとはよく言ったものだ。楽しい肉じゃがパーティーも、御開きにしなければならない時間になってしまっていた。帰り支度を済ませた沙織が扉を開けると、既にそこは夜の闇の中だ。

 

「それじゃ、また明日」

 

「うん。バイバイ」

 

友人達の背中が小さくなって行くごとに、一人暮らしの寂しさが重くのしかかって来る。みほはその虚しさを誤魔化す様に、扉をゆっくりと閉めた。

 

 翌日の朝8時。格納庫の前には、既に沙織と華が立っていた。

 

「ごめん。遅れちゃったかな」

 

「いやいや。待ち合わせだって、8時頃ってアバウトな時間しか決めて無かったし」

 

そう談笑していると、地を踏む足音が聞こえてきた。優花里だ。彼女は露営の歌を熱唱しながら、ずりずりと麻子を引きずっていた。流石と言うべきか、彼女は優花里の歌を耳元で聞きながらも、小さな寝息を立てていた。何はともあれ、これであんこうチームの集結である。

 

「それじゃ、戦闘機探し、始めよっか」

 

みほの宣言により、麻子の戦闘機捜索の幕は切って落とされたのだった。



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第5話 「旋回練習です!」

 いくら全国大会まで存在する人気科目と言えど、戦闘機道はあくまでも授業の一環である。つまりそれ以外の時間には他の授業も行われている為、戦闘機を探す時間はかなり限られてしまう。5人は就業のチャイムと共に直様ジャージに着替えると、学園の裏山を訪れていた。

 

 校舎の周囲は自然に囲まれている為、戦闘機探しは困難を極める。何せ、この学園が戦闘機道の世界で名を馳せていたのはそれなりに昔の事だ。戦闘機も泥を纏い、まるで迷彩を纏った狙撃兵の様に山に身を潜めている。足の裏が踏みしめる地面、迂回しなければならない池。どこにでも戦闘機がある可能性が隠れているのだ。

 

「華さんは、どんな戦闘機に乗りたいの?」

 

草をかき分けながら、みほが華に尋ねる。華は顎に手を当てて暫く悩んだ末に、困った様な笑みを浮かべる。

 

「そこまで戦闘機に詳しい訳ではないので……。そうですね……。願わくば、一撃離脱を主とした戦闘機の方が、やりやすい気がします……」

 

「一撃離脱!メッサーシュミットBf109などが有名ですね。しかしBf109は既に生徒会の河嶋殿が使用していますから……」

 

一撃離脱に重点を置いた機体は、メッサーシュミットBf109だけではない。むしろ薄い装甲がメインとして使われていた大戦中は、一撃離脱戦法を用いた機体の方が多い筈だ。

 

「疲れた。休憩」

 

戦闘機を探せる時間は限られて来る。日も傾きかけて急がなければならないと言うのに、麻子が岩に腰を下ろした。休憩を入れるという事は既に確定事項だったのか、彼女は腰にあるポーチの中から、コンビニエンスストアで販売している小さなケーキを取り出した。

 

「仕方がないなぁ。ごめん、みぽりん。少し休憩しない?」

 

やはり幼馴染の我儘には弱いのか、沙織も地面にハンカチを敷き、その上に腰を下ろした。みほも、勿論嫌がる皆を強制的に引っ張って探す様な人間ではない。焦りの気持ちは残しながらも、みほもその場に座り込んだ。

 

「そうだね。休憩しようか」

 

「ああ、それなら私が良い物を持ってきているでありますよ!」

 

優花里が背負っていたリュックを下ろし、ステンレス製の水筒を取り出した。そして全員にまたステンレス製のカップを配ると、水筒の蓋を開ける。コーヒーの香ばしい匂いが、辺り一面に漂った。

 

「……飲まなかったらどうするつもりだったのですか?」

 

「その時は、私が一人で飲んでました!ささ、五十鈴殿」

 

優花里が華のカップにコーヒーを注ぐと、白い湯気が立ち上った。

 

「華さんって『お茶』ってイメージがあるけど、コーヒーも飲めるんだね」

 

「ええ。コーヒーも好きですよ」

 

華はコーヒーを一口啜ると、ふぅと息を吐いた。その動作が妙に艶やかだった事が気に食わなかったのか、沙織も華を真似する様に、ズッと一口だけ吸い込んだ。

 

「やっぱりコーヒーは大人の女って感じがするよね。私、益々モテちゃうかも」

 

「沙織さんは男性におモテになるのですか? その割には、男性とお付き合いをされている所を見たことがありませんが……」

 

「華は黙ってて!」

 

男性経験が少ないと言う華の予想が当たってしまったのか、沙織は顔を真っ赤にしてコーヒーを飲み干した。思いのほか熱かったのか、涙目でチロリと赤い舌を出している。そういった沙織の動作はやはり同性のみほから見ても魅力的で、彼女が何故モテないのか、不思議で仕方が無かった。麻子はと言うと。カップを持ったまま突然立ち上がり、沙織の隣に腰を下ろした。

 

「どうしたの麻子? 一人で岩の上は寂しかった?」

 

「違う。なんかツルツルして座りにくかった」

 

「……ツルツル?」

 

川の流れで揉まれ水中に転がる石なら分かるが、『ツルツル』と言う表現は、地面に半分ほど身を埋める岩には到底似つかない。みほはコーヒーを飲み干して立ち上がると、岩の表面を手で撫でてみた。指の当たった所から、ポロポロと固形になった砂が落ちていく。――やはり、それは岩では無かった。

 

「……これ、戦闘機だよ!」

 

 整備部と自動車部によって格納庫に運ばれたその機体を見て、優花里は感嘆の声を上げた。

 

「F2A! バッファローの愛称を持つ、ブルースター社制の艦上戦闘機です!12.7mm機銃も無事みたいですから、明日のフラッグ演習でも飛ばせますよ!」

 

「ゆかりん、戦闘機の事となると性格変わるよね……。ほら、華。座ってみたら?」

 

沙織の誘いに、華が頷いた。彼女は鞄からゴーグルを取り出して装着すると、ゆっくりとコックピットに腰を下ろす。密閉性のコックピットの中は、整備部により快適に修理されていた。計器も問題は無さそうだ。

 

「時間は遅いけど……飛行訓練だけしておこうか。タキシングの方法とかは大丈夫?」

 

「ええ。一通り覚えています」

 

そう言うと華は、コックピットを閉めた。密閉性のコックピットでは、蓋を閉めてしまえば此方の声は届かない。みほは携帯電話を取り出すと、華へ電話を掛けた。華はしばらく計器の不備を確認していたが、此方の電話に気が付いたのか、ポケットから携帯電話を取り出した。

 

「通信機代わり。音質は悪いけど、何もないよりはマシだよね」

 

『ええ。ご指導お願いします』

 

華が操縦桿を傾けると、バッファローの頭が、次第に滑走路と直線状になって行く。やがてバッファローの頭が滑走路と直線状になると、華が操縦桿を押し込んだ。重低音と共に、バッファローが次第に速度を増して行く。プロペラの音が、みほの鼓膜を揺らしていく。バッファローがぐらりと揺れた。プロペラの影響だろう。

 

『みほさん。どうすれば……』

 

「落ち着いて、ラダーペダルを踏んで調整して」

 

通信機の奥で二、三度深呼吸が聞こえると、機体の頭がようやく元の方向へ向いた。後は離陸のみだ。バッファローはみるみる速度を増して行き、瞬く間に離陸可能速度へと到達した。

 

「操縦桿を引いて!」

 

バッファローの車輪が、滑走路から離れる。長年土に埋もれていたバッファローが、ようやく再び、空を舞い上がる時がやって来たのだ。

 

『夜の海……。とても綺麗です』

 

月明かりの反射する海面に見惚れて、華が声を漏らす。みほも同感だった。月に照らされる漆黒の海面は、どんな宝石よりも美しさを誇っている。

 

「華さん。もう少し上昇して、下方に旋回して。練習試合では、絶対に旋回が必要になると思うから」

 

『旋回……ですか……』

 

華の声が篭る。

 

「こればっかりは、慣れるしか無いからね」

 

旋回による圧力を跳ね除ける方法があるのなら、是非使いたいものだ。みほも何度となく戦闘機に乗ってきたが、全身を痛め付ける圧力は耐え難いものがある。

 

 バッファローは機首を下方へ向け、ぐるりと反転した。風圧に煽られた海面が、小さな波を立てる。ここで操作を間違ってしまうと、海面に頭から突っ込んでしまう。しかし上下感覚を失ってしまいがちな初心者は、操縦桿を引いてしまう事が多かった。結果機首は海面へ近付き、操作不能となり、機体を大破させてしまう。

 

「華さん。操縦桿を倒してください」

 

なるべく冷静に話し掛ける。機体は反転したまま頭を無限の星が広がる空へと向け、ようやくコックピットを上へと向けた。

 

『……ッ!やりました!』

 

華が歓喜の声を上げる。少し調子は悪そうだが、その場で上げてしまう程のものでは無い。これならば、ある程度のドッグファイトも可能だろう。

 

「それじゃ、着陸しようか。あの時は上手く出来てたけど……大丈夫そう?」

 

『やってみます。機首を下に向けながら減速……ですよね?』

 

「うん。勿論、忘れずにタイヤを出してね」

 

華の機体が、減速しながら滑走路へと近付いてくる。プロペラの振動が空気を震わせ、みほの鼓膜から心臓までをも突き抜ける。

 

「もう少し減速。そう……機首を上げて。タイヤが滑走路に当たる時は少し揺れるけど、失敗した訳じゃ無いから冷静に」

 

『はい!』

 

威勢の良い返事と共に、バッファローのタイヤが滑走路を捉えた。機体は小さく跳ねながらも、機体は重力に従い続ける。

 

「そのまま減速」

 

みほの指示通りに、バッファローが減速して行く。プロペラの音は次第に弱まり、やがて夜の静けさが滑走路を包み込んだ。コックピットが開くと、優花里が歓声を上げる。

 

「凄いです!感動です!こうして間近でF4Fバッファローの着陸を見られるとは!」

 

「凄いよ華!見惚れちゃった!」

 

「上手だった」

 

三者三様、照れて笑う華を褒め称える。みほにとっても、彼女の飛行に不満は無かった。機体も申し分無い。

 

「格好良かったよ、華さん。みんなも……明日は頑張ろう!」

 

明日。フラッグ戦演習を終えた大洗女子学園は帰港し、聖グロリアーナ女学院との練習試合が行われる。勝つ自信は無い。大洗女子学園は、圧倒的に戦闘機の練習時間が足りていないからだ。それでも、楽しむ自信はある。黒森峰の生徒だった時には感じる事の出来なかった高揚感が、みほの全身を包んでいた。



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