007/暁の水平線より愛をこめて (ゆずた裕里)
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序章 『James Bond, the Admiral』
其の一


 潮の香に鼻をくすぐられ、ジェームズ・ボンドは目を覚ました。

 

 一介のスパイごときが持てるはずのない立派なオフィスの中で、ボンドは椅子に腰かけていた。目の前の机の上には、煙草の吸い殻でいっぱいの灰皿、飲みかけのウォッカ、革のブリーフケース、そして開かれたノートパソコンがあった。ノートパソコンには、ユニバーサル貿易から来た報告書提出の催促メールの通知アイコンが躍っていた。

 

 ボンドは立ち上がって窓の外に顔を出し、大きく息を吸い込むと、再び椅子に座りノートパソコンのキーを叩き始めた。しかししばらくすると、まるでおもちゃに飽きた子どものようにパソコンを閉じてしまった。

 

「まともに報告したら、Mやマネーペニーに笑いものにされるだろうな」

 

 そうつぶやいたボンドは、着ている英国海軍士官の礼服から煙草をとりだし、咥えて火をつけた。

 

 

 

 さかのぼること数日前、ボンドは指令を受け、ロンドンはテムズ川のほとり、「ユニバーサル貿易」と呼ばれる建物の、あるオフィスの一室にいた。この建物こそが、英国秘密情報部、いわゆる「MI6」と呼ばれる機関の本部である。数か月もの間暇を持て余していたボンドは、ようやく退屈から解放されることに心躍っていた。

 

「おはよう、マネーペニー」

 

 久々にボンドの姿を見たマネーペニーは、Mにボンドが来たことを伝えると、ボンドに満面の笑みを向ける。

 

「おはよう、ジェームズ。Mが、今回の任務はあなたにピッタリだって言っていたわ」

「そう?だったら今回も、長い旅になりそうかな」

「あまり旅先で遊ばないでよ、ジェームズ」

 

 そう言ってマネーペニーはボンドに流し目を送る。その視線を受けながら、ボンドは部屋の奥にある、Mのオフィスへと入っていった。

 

「ああ、007。久しぶりだな。まあ座りたまえ」

 

 ボンドが部屋に入ると、Mが椅子に座るよう促す。

 

「007、休暇はどうだったかな?」

「あともう少し連絡が遅ければ、手首でも切ろうかと思ってました」

 

 ボンドは足を組みながら答える。

 

「ハハハ、それじゃあ早速、任務に移ろう」

 

 Mはそう言うと、咥えていたパイプを置いた。

 

「007、近頃北海で、原因不明の船舶沈没事故が多発しておることは知っておるな?」

「マスコミが、第一次大戦のUボート以来の被害だって騒ぎたてているアレですか」

「左様。実は同様の事故は世界中で起きているのだが、その被害が極端に少ない海域がある。日本近海だ」

「ほう」

「そして先日、沈没事件に関連して、日本の公安調査局から我が国に優秀な人間を選んで派遣してほしいとの連絡があった」

「公安……というとタイガー田中から?」

「うむ」

 

 タイガー田中とは、日本の諜報機関、公安調査局の局長であり、以前ボンドが日本で任務をおこなって以来の仲間である。タイガーとは暗号名であり、噂によると本名はトラオともトラジロウともいわれているが、その真相を知る者は親族や親しい友人など、限られたごく一部の人間のみである。また、局長というお堅い身分でありながら、催眠術や心霊捜査など、どこか胡散臭い分野にも興味を持っている人物であった。

 ボンドはタイガーのことを、堅物そうな見た目でありながら接待の得意な、何かとサービス精神の旺盛な男だったと記憶していた。

 

「そしてその人員を選ぶに当たり、公安調査局は三つの条件を提示してきた。一つ目は、日本語に非常に堪能なこと」

 

 ボンドは、ケンブリッジ大学時代には日本語を学んでおり、さらに幾たびもの日本での任務によって、声だけならば日本人と名乗っても問題のないレベルで日本語を話すことが可能だった。

 

「二つ目は、英国海軍の軍人であること。そして三つ目は、女性の扱いに長けていることだ」

「なるほど、私にはピッタリですな。特に三番目が一番しっくりくる。それで、私は日本で何を?」

「それがわからんのだ。日本から具体的な内容が伝わっておらん。追って連絡をするとは言っているようだが」

「……それは妙ですね」

「だから007、君には日本に滞在する間、沈没事件の真相と、日本近海での事件が少ない理由について調査をしてもらいたい。これは、イギリス政府からの命令だ。任務の詳細や、日本からの連絡については、マネーペニーから書類を受け取るように」

「了解しました」

 

 そう言って席を立つボンド。

 

「ああ、007、ちょっと待て」

 

 Mが慌てて静止する。

 

「最後に、タイガー田中から直接、君に聞きたいことがあると連絡があった」

 

 Mはそう言うと、机の引き出しから五枚の写真を取り出し、ボンドに渡した。

 

「この五人の中から一人選ぶように、とのことだ」

 

 ボンドが受け取ったのは、五人の少女の胸から上の写真だった。

 

「どういう意味かは……私にもわからん」

 

 Mは言った。ボンドは椅子に座り、写真を一枚一枚じっくりと見ていった。

 

 一枚目に収められているのは、黒髪の少女。五人の中では一番日本人らしい外見であった。活発そうで、テニスかバレーボールあたりのスポーツをしているかのような印象を、ボンドは受けた。

 

 二枚目は、銀色の髪を長くのばした少女。気の強さをそのまま表したような瞳にボンドはゾクリときたが、タイガーが選ばせている目的がわからない以上、一旦保留とした。

 

 三枚目は、紫色の髪の少女。明るい雰囲気の少女で、ぱっちりとした瞳がボンドの印象に残った。

 

 四枚目は、ブラウンの髪のショートヘアの少女。この中では一番見た目が幼い。タイガーはこの娘たちに何をさせるつもりなのかと、改めてボンドは考えた。

 

 五枚目は、青色の長い髪をした少女。この少女に、ボンドは優しげな印象を持った。きっとこの娘の入れたコーヒーは美味いだろう。

 

 ボンドは写真をしばらく眺めた後、Mに写真を返した。一番上に置かれていたのは、銀色の髪の少女の写真であった。

 

「ほう……なぜ彼女を選んだ?」Mはボンドに聞いた。

 

「いや、ただ私の……そんなことはどうだっていいでしょう」

 

 ボンドはきまり悪そうに言い返すと、立ち上がった。

 

「日本に着いても、下手なことはしないようにな、007。健闘を祈る」

 

 そのMの言葉にボンドはにっこり微笑み、部屋を後にした。しかし、ボンドは先ほどの写真の少女たちにどこか普通ではないものを感じ取っていた。



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其の二

 ボンドはこれまで感じたことのない息苦しさの中にあった。

 周りではメイドの姿をした少女たちが客の男たちと楽しげに話をしている。それはよいのだが、全てが甘ったるいこの部屋の雰囲気に耐えられず、ボンドは机に肘をついた。

 

 ボンドがタイガー田中から合流地点として指示されたのは、なんと東京は秋葉原の一角にあるメイド喫茶であった。ボンドはそこに向かう途中、カラフルなアニメやゲームの看板が立ち並ぶ、東洋屈指のサブカル街の様子に、まるでおとぎの国にでも迷い込んだような印象を受けた。こうしてメイド喫茶に到着したボンドは、この日本特有のサービス業にも当初は戸惑っていたが、以前日本に来た時にタイガーと一緒に行ったお座敷遊びを思い出すと、そこまでおかしな話でもないかと、妙な一人合点をした。 

 

 ボンドは肘をついたまま、卓上の呼び鈴を鳴らす。すると、すぐさまボンドのもとにメイドがかけつける。

 

「ご注文はどうなさいますか?ご主人様」

 

 猫なで声のメイドの呼びかけにボンドは上機嫌に答える。

 

「ああ、メロンソーダをひとつ。バニラのアイスクリームを三段、お団子のように積んでほしい。チョコチップも欲しいな。あと、オムライスもひとつ。おなかがペコペコなんだ。それに、トークを60分。楽しい話をしようか」

 

 ボンドの注文に、メイドが恭しく答える。

 

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ、ご主人様」

 

 かなり詳細な注文をしたボンドであったが、決してメイド喫茶の雰囲気に飲まれたわけでも、開き直ったわけでもない。

 ボンドは注文を聞きに来たメイドが、ロンドンで見せられた写真の少女のうちの一人、紫色の髪の少女であったことに気がついたのだ。そのため以前にタイガー田中から聞いていた合言葉を、指示された通りに言った。ただそれだけのことだ。

 

「お待たせしました、ご主人様!」

 

 その声にボンドが顔を上げると、紫色の髪の少女と、その後ろに、にっこり笑った背広姿の精悍な男の姿があった。

 

「やあ、ご無沙汰だったな、ご主人様……いや、ボンド中佐殿」

 

 この男こそが、公安調査局のトップ、タイガー田中である。固く握手を交わすボンドとタイガー田中。

 

「タイガー!久しぶりだな。君までもがメイド服で出てこようものなら、俺はすぐにでもロンドンに帰ってやろうかと考えてたよ」

「うーん、どうやら君はメイド喫茶がお気に召さなかったようだな」

「メイドには若いころ、いろいろと思い出があってね……本物との間に」

「ハハッ、なるほどな。ではボンド、ついてきたまえ」

 

 ボンドは席を立つと、タイガーと少女に続いて、店の奥へと入っていく。三人はその先のエレベーターに乗りこむと、そのまま地下へと降りていった。

 

「ところでタイガー、今回の要件は?世界中で起きている沈没事件に関係があるとは聞いているが……」

「それにはまず、事件の原因について話さなければならない。地下鉄に乗ったらまた詳しい話をしよう」

 

 エレベーターの扉が開くと、そこには地下鉄のホームが広がっており、線路の上にはタイガー田中専用の地下鉄車両が観音開きのドアを開けて待っていた。三人はエレベーターを降り、そのまま地下鉄に乗りこんだ。

 地下鉄の中にはタイガー田中のオフィスがある。窓の外が暗闇でなければ、まるで丸の内にありそうな、ありふれたオフィスの一室のようだ。以前来たときはひと昔前の客車のようにそれなりに豪華な内装だった気がしたのだが、経費削減のあおりを受けたのだろうか。そんなことを考えているうちに、ボンドと少女はタイガーに促され、黒光りする革のソファに隣り合うように座った。するとオフィス全体が揺れ、一同を乗せた地下鉄はゆっくりと動き始めた。

 

「まずはこれを見てくれ」タイガーは机から大判の封筒を取り出すと中から写真を取り出し、ボンドに見せた。

 

 何だこれは!?写真を見たボンドは驚愕した。写真には、浜辺に打ち上げられた異形の生物の姿が収められていた。

 

「深海棲艦。海で命を落とした人間の怨念を含んだ魂が実体化した怪物だ」タイガーは語った。

 

「こいつらが世界各国で船舶を襲っているんだ。通常兵器ではこいつらを倒せない」

 

 ボンドはタイガーを見つめた。タイガーが何を言っているのか理解できなかったのだ。そんなボンドなどお構いなしに、話を続けるタイガー。

 

「こいつらを倒すためには、同じ魂を以って攻撃しなければならない。そこで私は、先の大戦で戦った軍艦の魂を、少女としてこの現代に転生させ、やつらと戦わせようと考えた。こう見えても、私は心霊学に堪能でな、その知識を活かし、旧海軍の大半の艦をこの現代日本に転生させたんだ」

 

 その時、話を遮るボンド。

 

「待ってくれタイガー、俺はきみがこんな与太話をするなんて思わなかったよ。今の仕事はやめて、小説でも書いたらどうだ?『死んだらこうなる』みたいなタイトルでね」

「私の話が信じられないようだな、ボンド。いくら私でも、真剣な顔をして冗談は言わんよ」

「……なら見せてもらおうじゃないか、その転生した少女とやらを」

「じゃあ……ボンド。左を向きたまえ」

 

 タイガーはボンドの左に座っている、紫色の髪の少女を指さす。

 

「ボンド中佐に自己紹介を」

「はい!特型駆逐艦、綾波型の九番艦、漣です!よろしくお願いします、ご主人様!」

 

 あっけにとられてしまったボンドを見て、大笑いするタイガー田中。

 

「まだ信じないようだな、ボンド君。まあいい、この電車が目的地につけば、嫌でも信じざるを得なくなる」

 

 



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其の三

 地下鉄の終着駅から、ボンドとタイガー田中、そして漣は階段をのぼる。その先にある扉から外に出ると、目の前には大きな港が広がっていた。その周りには赤レンガ造りの倉庫と、昭和モダンを感じさせるデザインの、白亜の建物がずらりと並んでいる。優美さや華麗さ。現代の東京がなくしてしまった風景がここにあるかのように、ボンドには感じられた。

 

「ここは……」

「『鎮守府』だよ。日本中に設置されていて、深海棲艦の脅威からこの国を守っている」

 

 その時、どこかから爆発音が聞こえる。

 

「何だ⁉」

「ああ、みんな砲撃演習しているんだろう。会いに行こう」

 

 タイガーと漣に連れられ、湾内のはずれに来たボンドは目の前の光景に驚いた。ロンドンで見た写真の少女たちが、装備を身にまとい、水上をすべるように進んでいるではないか。

 一人は浮き袋につけられた的を引っ張り、それを一人が追いながら、手に持った砲で撃ちぬいている。それを四人のローテーションで交代しながら、練習をしている。

 

「やっぱり日本は不思議で、奇妙な国だ……」

「分かってくれたかな。彼女たちは娘の姿をした軍艦……我々は『艦娘』と呼んでいる」

「カンムス……」

 

 演習を行う艦娘たちを見つめるボンド。

 

「まあ、心霊学うんぬんの話は置いといて、こういう娘たちがいることは飲みこめたよ。それで俺は……ここで何をすればいいんだ?」

「近いうちに、イギリスにも艦娘による対深海棲艦部隊を作ることが決まっている。もちろん、まだどこにも公表はしていないがね。そこで君には、将来その指揮官の候補として、ここで艦娘たちの指揮を経験してもらいたい。この鎮守府の提督として」

「ほう、まさかこんな形で提督に昇進するとはな。でも俺はイギリス人だ、かつての敵国人が指揮官になって、彼女たちも複雑な気持ちにならないかね」

「心配するな、開戦後に作られた艦に多少そういう感情がある程度だし、彼女たちには私からもちゃんと説明はしてある」

「それは良かった」

 

 タイガーはポケットから銀色に光るホイッスルを出すと、強く吹いた。ホイッスルの音を聞き、演習をしていた四人の艦娘はすばやく岸へと向かい、階段から陸へと上がる。四人がボンドとタイガーの前に一列に並ぶと、漣もその列に加わる。

 

「では、君がこれから指揮することになる艦娘たちを紹介しよう。まずは漣。彼女は地下鉄で紹介したな」

 

 ボンドにウインクをする漣。漣に向けてあからさまな作り笑いをするボンド。

 

「続いて、特型駆逐艦、一番艦の吹雪だ」

「はじめまして司令官!吹雪です!よろしくお願いします!」

 

 ボンドに向けて笑って敬礼をする黒髪の少女、吹雪。ボンドも答礼する。

 

「こちらこそよろしく」

 

「暁型駆逐艦四番艦、電だ」

「電です。司令官、よろしくなのです」

 

 ぺこりと頭を下げる電。頭を下げるボンド。

 

「よろしく」

 

「次は、白露型駆逐艦、六番艦の五月雨」

「五月雨です!一生懸命がんばります!よろしくおねがいします!」

 

 ボンドに敬礼する五月雨。ボンドも答礼。

 

「無理はしないように。よろしく」

 

「そして、君がロンドンで選んだ娘、特型駆逐艦五番艦の叢雲だ。彼女が秘書艦として、君の身のまわりの世話をする」

 

 叢雲はその場に立ったまま、ボンドに向かって何かを要求するように右手を差し出した。ボンドは一瞬その意味が分からなかったが、それを理解すると自ら叢雲に歩み寄り、その手を握った。

 

「あんたが新しい指揮官ね。まあせいぜい頑張りなさい」

「君の方こそ、せいぜい頑張りたまえ」

「!」

 

 振りほどくようにボンドの手を離す叢雲。

 

「以上。叢雲以外は自由時間だ。叢雲、艤装を置いて私とボンドについて来なさい」

 

 解散する艦娘たち。ボンド、タイガー、叢雲は司令部の建物へと向かう。

 ボンドは叢雲に聞こえないように、英語でタイガーに話しかける。

 

「タイガー、ここにはあの五人だけで、他にはいないのか?例えば、フッドとか、プリンス・オブ・ウェールズとか」

「他の艦娘は別の鎮守府だ。ここはできたばかりだから、まずはこの五人で戦ってもらう。戦況によっては、他の艦娘も、追ってこちらにも転属させよう」

「どこの業界も人手不足だな」

「あと、君たちの国の艦だが……私が日本人だからなのか、連合国の艦より枢軸国の艦の方が転生させやすいんだ。気長に待っていてくれ」

「俺がイギリスに戻るまでには頼むよ。帰る時に独りだとさみしいからね」

 

 タイガーに案内され提督の執務室に入ると、ボンドは面食らった。部屋の中には机から鞄掛けまで立派な調度品が並び、ボンドを迎え入れた。机の後ろの大きな窓からは港の様子が一望できる。窓を開け放つと、優しい風がボンドの頬をなでた。

 

「気に入らないものがあれば言ってくれ。すぐに換えさせよう。あと、君の荷物はすべて、君がとっていたホテルから隣の書斎に移しておいた。では、私は自分の仕事に向かうよ」

 

 部屋にはボンドと叢雲の二人だけ。ボンドは叢雲を気にも留めず、ボトル棚の扉を開ける。中にはウォッカやシャンパンの瓶が並んでいる。全てボンドのお気に入りだ。

 

 ボンドは嬉々として、グラスにウォッカを注ぎ、一口目を味わった。

 

「うーん、流石タイガーだ。日本じゃちゃんとしたロシア製は手に入れづらいのに」

 

 上機嫌なボンドに、ぶっきらぼうに話しかける叢雲。

 

「……ねえ」

「どうした?君も飲むか?」

「いつまでその格好でいるつもりなのよ」

 

 ボンドはサヴィル・ロウの老舗で誂えたスーツに、ジョン・ロブの特注の革靴という出で立ちであった。だが、そんなこと叢雲は知ったことではない。

 

「早く制服に着替えなさい!少しは司令官としての自覚を持ったらどうなのよ!」

「ものの価値を知らないとこれだから……」

 

 ボンドはそうつぶやくと、机にウォッカのグラスと瓶を置き、隣接する書斎への扉に消えていった。叢雲はそんなボンドの後姿を見送りながら、一筋縄ではいかないこの英国人に、少なからず興味を持ち始めていた。

 

 あの男のことが気になる。秘書艦としての仕事を抜きにしても―――

 

 そう思った叢雲は、羽のついたほこり取りを手に、何気なくボンドの机へと近づくと、引出しをゆっくり開け、中を覗き見た。来たばかりのため当然か、一冊の本のほかに、引き出しの中は何も入っていなかった。入っていた本のタイトルは、

 

 「On Her Majesty's Knight ―女王陛下の騎士―」

 

 その時。

 

「秘書艦といえど、むやみな詮索はよくないな」

 

 その声に、叢雲は引き出しを閉じる。

 書斎から出たボンドは、肩章付の紺のジャケットにスラックス、王冠の紋章を掲げた軍帽にレザーのブリーフケースと、まさに英国海軍士官といった出で立ちであった。懐に入った右手には用心の為、ホルスターに納められたワルサーPPK自動拳銃が、いつでも抜き撃ちできるように握られていた。だが、叢雲は図らずも、気品と緊張感、そして危険な魅力を同時に漂わせたボンドの姿に、ぼうっと見とれてしまっていた。

 

「何か気になることがあるなら言いたまえ」

「あっ、いや、なっ何でもないわよ!」

 

 そう言って叢雲は机から離れる。叢雲が引くと同時に、ブリーフケースを机に置き、椅子に座るボンド。ボンドに圧倒されタジタジの叢雲は、きまり悪そうにほこり取りの羽をいじっている。

 

「まあ、お互いのことはゆっくり知りあっていこうか。そこそこ長い付き合いになりそうだしね」

 

 ボンドはそう言ってブリーフケースからノートパソコンを取り出し、机の上に広げると、思い出したようにウォッカの瓶とグラスを寄せた。どうにかしてボンドを己が手中に収めたい叢雲は、今度こそはと、机にゆっくりと近づいてその上に座り足を組み、流し目でボンドを見下ろした。

 

「ねえあんた、あたしのことどのくらい知ってんの?」

「君のことか?いや全く」

「ま、英国人だから、知らないのも当然ね。私は……」

「大阪で1928年9月27日に進水し、翌1929年の5月10日に就役。開戦前は満州国皇帝の来日に同行し、開戦後はバタヴィア沖やミッドウェイの戦いに参加。ガダルカナルの戦いでは輸送揚陸や飛行場砲撃で何度も活躍した。そして1942年10月の12日にサボ島沖の戦いで雷撃を受け、最期を迎えた。それくらいしか知らないよ」

 

 ボンドの言葉に閉口する叢雲。

 

「追加情報があれば教えてほしいな。特に今の君のね。好きな色は何?好きなフルーツは?寝るときはいつも何を着て寝るの?」

「……ふん!」

 

 他愛もないボンドのからかいに、自分の優位性をことごとく奪い取られたと感じた叢雲は完全にいじけてしまい、そのまま顔を真っ赤にして部屋を出ていってしまった。

 

 部屋の中で独りきりになり、ボンドは今更ながら自分の大人げなさに嫌気がさした。からかうにしても、もう少しマシなやり方があっただろうに。ボンドは帽子を脱いで鞄掛けのてっぺんにフリスビーのように投げてかけると、そのままウォッカを一気にあおった。そして、ロンドンへの報告書を作成するために、気の進まないままノートパソコンのキーを単調に打ち始めた。

 

 

                     《JAMES BOND WILL RETURN...》

 




《登場人物出典》

・タイガー田中……『007は二度死ぬ』(原作第11作、映画版第5作)に登場。
映画版でのキャストは丹波哲郎。ちなみに『クレヨンしんちゃん 温泉わくわく大決戦』での、温泉の精(演:丹波哲郎)の「ボンドと一緒に風呂に入った」のセリフの元ネタでもある。


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第一話 『叢雲とムーンレイカー』
其の一


 
ムーンレイカー【moonraker】
 (「月を掻き集める人」の意、英国ウィルトシャー州の伝承より)
 ①英国ウィルトシャー州の人。
 ②馬鹿者。
 


 日本時間、〇六五八時。

 ジョギング後のシャワーを浴び、心身ともにさっぱりしたボンドは静かな朝のひとときを楽しんでいた。英国海軍の制服を羽織り、執務室の椅子に腰かけたボンドが机上の本の山から手に取ったのは、大日本帝国海軍の艦艇に関する洋書であった。

 うず高く積まれたこれらの洋書は、鎮守府内の図書館やタイガー田中への注文などで手に入れたものだ。だが、ボンドといえども、艦艇の知識に関してはズブの素人という訳ではなく、これらの書籍はほとんど知識の確認のために読んでいるにすぎない。

というのも先日、ボンドは秘書艦の叢雲に、彼女が艦艇だったときの知識をひけらかした。その手前、今後彼女の前で間違った知識を披露する訳にはいかない。その矜持の高さが、ボンドをこのような行動に走らせたのである。

 

「あっ、あんた何?朝から本なんか読んじゃって。勉強?」

 

 執務室に入ってきた叢雲は、開口一番にボンドに声をかける。

 

「読書は心を落ち着けるためにしてるんだ。勉強より大切なのは経験さ」

「ふーん、それじゃあ、あんたには今日こそ、朝食づくりを経験してもらおうかしら」

 

 このように叢雲は、ボンドが来た翌日から食事作りを命令していたが、何かにつけてボンドはのらりくらりとかわしてきたのだった。そして今日もいつものごとく、ボンドは本に目を通し、聞こえないふりをしていた。

 

「あんた……今日こそは本当に……」

 

 叢雲が言いかけたその時、ボンドの書斎から、ピピピ、とアラーム音が聞こえる。時刻は丁度、〇七〇〇時である。その音を聞いたボンドは、いかにも仕方無さげ、といったように叢雲に話しかける。

 

「分かったよ。朝食と言うには物足りんかもしれんが、いいものをご馳走しようか」

 

 そう言うとボンドは席を立ち、書斎へと入っていった。叢雲はムッとした表情で、ボンドの後に続く。

 ベッドや机、本棚が並べられた書斎の中、その隅の棚の前にボンドはいた。ボンドは棚の上にある、おかしな部分にハンドルのついた、妙な機械を触っていた。その機械についたランプが、赤く点滅している。

 

「何よこれ?」機械に指をさし叢雲が聞く。

「特注のエスプレッソ・マシンだ。私の一日は、この時間にこれを飲まないと始まらない」

 

 まじまじとマシンを見つめる叢雲。

 

「……コーヒーを作るだけなの?これ」

「ああ。それだけ。まあ飲んでみたまえ。ジャマイカ産の高級品だ」

 

 ボンドは二人分のカップに湯を注いで温めた後、壁面をすべらせるように回しながらエスプレッソを注ぐ。ボンドからエスプレッソのカップをもらい、一口飲む叢雲。控えめの苦みと深いコクに、目を見張る。

 

「美味しい……。んっ!ま、まあまあね!」

 

 あくまで意地を張る叢雲を見て、にやりと笑うボンド。

 

「あんた、英国人のくせに舌は馬鹿じゃないみたいね」

「お褒めいただき、恐悦至極に存じます」

 

 ボンドは皮肉たっぷりに言う。

 

「じゃあ、明日からよろしく頼みますよ、叢雲」

 

 カップを片手に執務室へと戻ろうとするボンド。

 

「え!?何をよ!?」

 

 扉口で立ち止まり、叢雲と話すボンド。

 

「秘書艦として、毎朝私のためにエスプレッソを淹れてくれるんだろ?やり方は後で教えるよ」

「何言ってんのよ!あんたが毎朝私に淹れるくらいのことしなさいよ!」

 

 平常運転の叢雲にため息をつくボンド。

 

「なら、私がコーヒーを飲む時間に合わせたまえ。そうしたら、レディーファーストに従って淹れてあげようか。あいにくこっちも、君に合わせる余裕はないからね」

「仕方ないわね……あんたに付き合ってあげるわ」

 

 棚に肘をつく叢雲。ボンドは戸口から離れる。

 

「まあでも、君の淹れたエスプレッソも、飲んでみたかったかな」

 

 そうつぶやきながら、椅子に座るボンド。叢雲はボンドの言葉を聞いて、手に持ったカップを見つめる。

 

「……まあ、別に淹れてあげてもいいんだけど。その分貸しは高くつくわよ」

「あっそう。じゃあその気持ちだけ貰っておこうかな」

「!」

 

 叢雲は一気にエスプレッソを飲み干すと、カップをマシンの隣にガチャンと置く。叢雲が執務室に戻ったとほぼ同時に、タイガー田中が筒状に丸めた紙を手に入ってきた。

 

「おはよう、ボンド!叢雲!」

「おはようございます、タイガー」ボンドの机のそばに立ち、真っ先にタイガーにあいさつする叢雲。

 

 ボンドの机に歩み寄るタイガー田中。ボンドはタイガーに英語で話しかける。

 

「おはよう、タイガー」

「叢雲はどうした?また今朝はえらくご機嫌ナナメのようだが」

「あの手の小娘は、下手に調子づかせるとこっちの得にならないからね」

「ハハハ、でもまあよかろう。君には女を黙らす『最後の手段』があるんだからな」

「冗談じゃない!それが使えりゃこんな苦労はしないよ」

「そこが難しいところだな。それじゃあ、ちょっとした報告に移るとしようか」

 

 タイガーは叢雲に手招きをすると、持っていた紙筒を広げる。それは鎮守府とその周辺海域が描かれた海図であった。海図上には、ペンや鉛筆でいくつもの矢印やバツ印が書きこまれている。海図を覗きこむボンドと叢雲。

 

「近頃この鎮守府の近海にも深海棲艦が出現するようになってきた。どうやら偵察のみでまだ被害は出ていないが、牽制のためにも一度叩いておくようにとの指令が海上保安局から来ている。まあ、ある意味では防諜作戦だ。そこでボンド、君は敵の出現の報告が来たと同時に、叢雲たちを指揮して敵艦隊の攻撃に当たってくれ」

「タイガー、今叢雲たちの指揮をすると言ったが……」

「叢雲から逐次無線で状況報告が入る。それに沿って、艦娘たちに指示を出したまえ。あとは現場判断で任務は進む。なに、君がMの立場になったと思えばいい。もしもの時は私も力を貸そう」

「ありがたい。指揮されるのには慣れてるんだがな」

 

 そのボンドの言葉に、叢雲が反応する。

 

「だったら、今のところは私があんたを指揮してあげてもいいのよ?」

 

 そんな叢雲に、ボンドは冷静に言い返す。

 

「じゃあとりあえず君は他の娘たちと演習に行きたまえ。これからも、こんな感じで君を指揮していくからよろしく」

「……分かったわ」

 

 ムッとしてそのまま部屋を出ていく叢雲。タイガーはそんな彼女を見送り、苦笑する。

 

「まあ、現場は叢雲に一任しても大丈夫だよ、ボンド」

「最悪、彼女だけで何とかなるんじゃないか?提督業は退屈だな」

 

 そう言うとボンドは椅子に腰かけ、艦艇の学術書の続きを読み始めた。

 



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其の二

 ボンドは双眼鏡と無線機を手に埠頭の端に立ち、砲撃音の轟く海を眺めていた。提督としてのボンドの初陣は、鎮守府の正面海域、埠頭から目の届く地点での戦いとなった。

 

 

 

 ボンドがタイガーからの連絡を受けた日の昼下がり、鎮守府内に突如サイレンが鳴り響いた。その音に気づいたボンドが読んでいた本を置いたと同時に、部屋にタイガー田中がかけ込んできた。

 

「やっこさんたち、ついにやって来たぞ。軽巡3、駆逐3の水雷戦隊だ」

「叢雲は?」

「他の艦娘と出撃準備に入った。私たちも行こう」

 

 ボンドとタイガーが執務室から出ると、外ではタイガーの部下が大きなアタッシュケースを持って待機していた。ボンドはタイガーと共に、そのまま埠頭へと向かった。

 

「普通は司令室で指示を出すのだが、今回は近海での戦いだから直接戦況を見ながら無線で指示を出そう」

 

 タイガーがそう言うと、タイガーの部下がボンドに無線機を手渡す。

 

「叢雲にはもうつながってるか?」

「はい」

 

 ボンドは無線機を口元に当てると、旗艦の叢雲に呼びかける。

 

「えー、こちらボンド、こちらボンド、叢雲、応答せよ、どうぞ」

「こちら叢雲。指示はしっかり頼むわ。あんた、初陣なんて言い訳は通用しないわよ」

「こちらこそ、おたくのお手並み拝見といこうか」

 

 そう言ったボンドの目に、単縦陣を組んで港を出ていく叢雲たちの姿が入った。そこから水平線に目を向けると、黒光りした異形のものたちが、編隊を組んでこちらに向かってきている。ボンドは双眼鏡を覗き、異形のものたち――敵の深海棲艦をじっと見つめた。

 

「砲雷撃を集中させて、一隻ずつ確実に沈めていくんだ!攻撃を分散させるな!」

 

 ボンドは無線機に呼びかける。

 

 叢雲たちが近づくと、敵艦隊は大きく進路を変えた。そして、そのまま両艦隊は並列したまま進み、同航戦の態勢となる。

 

「両舷、全速前進よ!」

 

 叢雲は、敵艦隊に対して丁字有利の態勢にもっていこうと考えていた。叢雲たちは進行方向右手を進む敵旗艦の軽巡洋艦を追い越すと一気に面舵をとり、敵艦隊の正面に大きく回りこんだ。そして、叢雲のかけ声と共に一斉に艦砲射撃を浴びせた。煙をあげ、一気に火を噴く敵旗艦の軽巡。それに対し、敵艦隊は再度同航戦に持ちこむつもりか、叢雲たちと平行に進もうと面舵をとる。

 

 そんな中、敵の駆逐艦が一杯、艦隊をはずれ進んでいく。叢雲はそれを見逃さなかった。

 

「三時の方向……逃がさないわ!吹雪、あとは頼むわよ!」

 

 駆逐艦の動きに不審なものを感じた叢雲は艦隊からはずれ、ひとり追撃に向かう。すばやく敵の後ろにつき、雷撃を撃ちこむ叢雲。敵駆逐艦は水柱をあげて大きく損傷する。

 

 しかし、叢雲が追撃に向かったと同時に、敵は突如陣形を崩し、吹雪たちを攪乱しはじめた。ボンドは叢雲たちの様子を眺めていたが、その顔が急に険しくなる。というのも、いつの間にか一隻の軽巡洋艦が艦隊から離れた叢雲の後ろについていたのだ。ボンドが再び双眼鏡をのぞき、戦況をうかがう。他の艦娘は残存艦との戦いで精一杯で、叢雲に気が回っていない。

 

「ボンド、叢雲が……」

「分かってる!叢雲、君の五時方向に軽巡洋艦が!気をつけろ……」

 

 そうボンドが無線機に叫んだその時、叢雲の艤装から火柱と黒煙があがる。同時に無線から、叢雲の悲鳴がもれた。敵軽巡の砲撃が命中したのだ。そのまま海上で崩れおちる叢雲。ボンドは無線機に向かって叫ぶ。

 

「叢雲!大丈夫か!おい!」

 

 叢雲からの返事はない。ボンドは、すぐさま無線機と双眼鏡をタイガーに押し付けるように渡す。

 

「タイガー、後の指揮は任せた!」

 

 そう言い残し、走っていくボンド。

 

「待てボンド、こういう時は無線のチャンネルを……」

 

 そうタイガーが言っているうちに、ボンドは埠頭の端にあったモーターボートに飛び乗って、戦場へと繰り出していった。無論、このモーターボートには何の特殊装備も積まれていない。燃料入りのドラム缶も、照明弾もない。しかしボンドは、気がついたらボートに乗りこみ、そのハンドルを握っていたのだ。全速力でボートを走らせながら、ボンドはしみじみとつぶやく。

 

「こんなことは、久しぶりだな……」

 

 一方タイガーは、無線機のチャンネルを吹雪の無線に合わせると、ボンドの代わりに指示を飛ばす。

 

「吹雪、聞こえるか!君の九時方向で叢雲が大破した!至急もう一隻を連れて救援に向かえ!」

「了解です!」

「それと、ボンドが今、叢雲のもとに向かっている!全力で援護しろ!」

 

 満身創痍の叢雲に迫る敵軽巡。一方ボンドの乗ったモーターボートは、叢雲の近くまであと数百メートルのところまで来ていた。

 武器は効かなくても、あの化け物どもの注意ならそらせるだろう。そう考えたボンドは、ボートのハンドルを片手で握ると、もう一方の手を懐に入れた。そして胸のホルスターからワルサーPPKを抜くと、叢雲に迫る敵軽巡に照準を合わせ、引き金をひいた。

 

 ワルサーPPKが火を噴く。続いて二度、三度。しかし、敵軽巡の装甲は、ワルサーPPKの9ミリ弾程度ではビクともしない。それどころか、敵軽巡はボンドに砲を向けてきたではないか。ボンドは殺気を感じ、思いきり面舵にハンドルを切った。次の瞬間、敵軽巡の砲はボンドに火を噴いた。

 

 砲弾は左舷に命中し、轟音と共にモーターボートは炎をあげて吹き飛んだ。ボンドは爆発の勢いのまま海に投げ出される。ボンドが海中で意識を取り戻したその時、真上から別の轟音が鳴り響くのに続いて、自分のすぐ隣を、何か黒いものが沈んでいくのを見た。ボンドが見上げると、いくつもの航跡で海面が、きらきらとゆらいでいるのが見える。その方向に向かって泳いでいくボンド。

 

 そのまま海面に向かって浮上したボンドは、口内の水を吐きだし、大きく息を吸う。ボンドがあたりを見回すと、深海棲艦の姿はどこにもなかった。

 

「大丈夫ですか、司令官!」

 

 ぷかぷかと海面に浮き上がったボンドを待っていたのは吹雪の手だった。もう海中に沈ませるまいと、ボンドの大きくごつい手を握る吹雪のか細い手。

 こんな手を持った娘があの化け物と戦っていたのか……。ボンドの周りに集まった艦娘たちの顔を見上げるボンド。艦娘たちの心配そうな表情を目の当たりにして、ボンドは艦娘たちに対する敬意とほんの少しの面目なさを感じていた。

 

「おーい!ボンド、怪我はないか!?」

 

 タイガーが、また別のボートに乗ってやってくる。タイガーはボンドの腕を握ると、一気に船上に引き上げた。ボンドは後部座席の椅子にもたれかかるように座り、水を吸って重くなっていた制服を脱ぎ捨てると、ようやく一息ついた。ボンドはその時、ぴりぴりと体を走った痛みで、ようやく顔や手足にかすり傷ができているのに気がついた。

 

「まあ、これで作戦終了か……」

 

 その時、思い切りボートの左舷を叩く音が。その音に振り向くボンド。そこには、上半身を船上に乗り出した叢雲の姿が。まだそんな元気が残っているのかと思うほどボロボロの姿で、顔を真っ赤にしながらボンドを睨みつけている。

 

「何してんのよあんた!馬鹿じゃないの!?あんたは提督なんだから、司令室で私たちに指示だけ飛ばしてりゃいいのよ!それとも何?まだ女王陛下の騎士でも気取ってるつもり!?」

 

 叢雲の叫びに近い叱責に、ボンドは静かに答える。

 

「つい一週間前までは俺も指示される側だった。長い間ついた習慣は、そう簡単には抜けない。状況に体が自然に反応するんだ。そうじゃなきゃ生きていけない世界にずっといたからね……。それに……」

「……何よ」

 

 叢雲は疲れ果てたようにボンドに言う。それに対しボンドは答える。

 

「君のエスプレッソが飲めなくなると思うと、辛くてね」

「……」

 

 もはや反論する元気もない叢雲、あきれたようにボートから離れると、そのまま一人港へと進む。叢雲を見送る艦娘たち、タイガー、そしてボンド。

 

「……私たちも戻ろうか。ボンド」

 

 タイガーは俯き加減のボンドにそう言うと、艦娘たちに声をかける。

 

「みんな、ご苦労だったな。全員、帰還せよ!」

 

 一路港へ戻る一同。その左手側から、傾きかけた太陽が強い西日を投げかけていた。



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其の三

 ボンドはゆらめくかがり火と湯煙の醸し出す穏やかな雰囲気に包まれ、まどろみの中にいるのか瞳を閉じていた。

 

 鎮守府近海の戦いのあったその日の晩、ボンドは鎮守府のはずれにある露天温泉に浸かっていた。

 タイガーによると、このあたりには特殊な地脈があり、湧き出る温泉は艦娘たちの負傷や疲労を癒す効果があるという。そして、艦娘たちが心身の回復をはかるためにこの温泉に浸かることは、ドックへの修理にたとえて『入渠』と呼ばれる。普通の人間にとってはただの岩風呂の温泉なので、こうしてボンドも問題なく入っているのである。

 

 しばらく修行僧のように瞳を閉じ、じっとうつむいていたボンドであったが、ふと聞こえた湯のはねる音で目を覚ました。その時ボンドは、反射的に自分の右手を左わきのあたりに伸ばしていた。そこは普段ならば、ホルスターに納めた拳銃がある場所だった。諜報員としての性なのか、人や動物によって水がはねる音は確実に聞き分け、反応してしまうのである。

 どうやら露天風呂の奥に、先客がいるらしい。そう感じたボンドは、音のした方向に目を凝らす。湯煙がたちこめ、影になっておりよく分からないが、誰かの後姿のようだ。時折湯煙がそよ風に揺れると、影の正体を知る手がかりが、ちらりちらりと見えては隠れる。

 絹のように白くなめらかな柔肌、しなやかさを感じさせる華奢な体つき、そして柔らかい光に照らされ、落ち着いた輝きを見せる、さらさらとした銀色の髪……

 

「叢雲……?」

「!」

 

 驚いたような声と共にその影が振り向いた瞬間、叢雲の驚いたような瞳、かがり火の色にも似た朱の瞳が、湯煙の中から一瞬ボンドを覗いた。

 

「なんだ、君も入っていたのか……」

 

 湯をかき分け、叢雲に寄ろうとするボンド。波が立ち、温泉の表面に映る満月が揺れる。

 

「別にこっち来なくてもいいでしょ」

「……これは失礼したね」

 

 叢雲に拒絶されたボンドは、すぐそばの岩に背中をあずける。しばらくの沈黙のあと、湯煙の向こうから、叢雲はボンドに静かに呼びかける。

 

「……ねえ、今日のことなんだけど、あんた、私に貸しでも作ろうとでもしたんでしょ」

「まあ、そう思うのならそう思ってくれて構わないよ」

 

 そうボンドに言われた叢雲は、ムッとした口調で、ボンドに言い放った。

 

「まったく、素直じゃないのね……でも、もしあんたがあの時沈んでたら、どうしようかと思ったわ」

「なに、代わりの提督が来るだけのことだ。私よりもっとマシなやつがね」

 

 叢雲はボンドのその言葉に、一瞬黙り込んでしまった自分に気がついた。

 

「……ところであんた、昼の話を聞く限りじゃあ、誰かを助けたのはこれが初めてじゃないみたいね」

「ああ、そうだよ」

「自信過剰のあんたのことだから、これまでもさぞ見事に助け出してきたんじゃないの?」

「うまくやってきたつもりさ。……ほとんどの場合は」

 

 叢雲は、たった今なにげなくつぶやかれたボンドの言葉に、どこか引っかかるものを感じた。常にどこか飄々とした、この自尊心の塊のような男がはじめて自分の前で、一歩引いたような気がしたのだ。叢雲は少しの沈黙の後、ボンドに問いかけた。

 

「今、ほとんど、って言ったけど……うまくできなかったこともあったの?」

「……」

 

 叢雲の言葉に、ボンドは何も言い返さなかった。ボンドが湯に浸した手拭いで顔を覆うと、かすり傷がぴりぴりと痺れる。このときまで、ボンドはかすり傷のことなどすっかり忘れていた。

 

「……私の言ったこと聞こえた?大丈夫?」

「大丈夫、聞こえてるよ。……全部昔のことだ」

 

 昔のこと。男がこの言葉を使うとき、それが何を指すのかを叢雲は知っていた。

 

「大切な人のこと?」

「その話はもうやめよう」

 

 ボンドはさらりと、しかし突き放すように言い放った。愛と死。ボンドはその双方を経験しすぎたために、感覚はすでに麻痺していた。

 しかし、その二つが同時に、そして密接に関わるとなると話は別だ。ボンドは幾たびかそのような経験をしてきたが、いつも戦うことで決着をつけ、乗り越えてきた。だが決着がついたとしても、辛い記憶というものは、ふとしたことで脳裏に蘇るものだ。

 ボンドはそのまま手拭いを頭に乗せ、肩まで湯につかった。そして、水面に白く輝く満月をボンドはしばらく見つめていた。すると、再び湯のはねる音がして、水面の月がゆらゆらとゆれる。

 

 月を揺らした波の出処にボンドが目を向けた。その先には、胸元を濡れた手拭いで押さえた叢雲が、かがり火の朱色をその肌にゆらめかせながら、湯煙の中をくぐり、ゆっくりとこちらへと歩みを進めていた。湯につかりすぎたためか、その頬は肌にゆらめく朱よりも赤く火照っていた。

 そして、その瞳はかがり火の灯りを受け一層輝きを増し、憐みとも慈しみともとれる眼差しをボンドに投げかけていた。

 叢雲はボンドの隣まで来ると、そのまま腰を下ろし、胸元まで湯に浸かった。そして、先ほどボンドが眺めていた水面の月にその瞳を向けると、静かに言った。

 

「……あんたのこと、全部教えなさいよ。あんたが私のことを知ってて、私があんたのこと知らないなんて……そんなの不公平じゃない。聞きたいの、あんたの話を」

 

 叢雲のその言葉に、ボンドは心中ではあっけにとられていた。まさかこの小娘が、俺の前で一歩引いたようなことを言うとは……。そんなことを考えながらボンドが黙っていると、叢雲は何を思ったのかボンドに振り返り、強く言った。

 

「……いや、これは別に、秘書艦として当然知っておくべきことだと思ったのよ。早く話しなさい!」

「なるほど……結構激しい場面もあるけど……それでもいいんだね?」

 

 飄々と答えるボンドに、叢雲は頬をさらに紅潮させ言い放つ。

 

「もう!なんで勿体つけんのよ!」

「はいはい……」

 

 その後しばらく、この二人は温泉から上がることはなかった。

 そして、ようやくあがるころには叢雲は完全にのぼせてしまい、ボンドに抱きかかえられながら脱衣所の暖簾をくぐる有様であった。



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其の四

「……そう。彼を呼んでおいてくれ。これからの戦いに必要な男だ。……ああ、頼むよ。それじゃ」

 

 ボンドはスマートフォンから公安調査局にいるタイガーに朝一番の電話をかけ終えると、愛用のオメガの腕時計を一瞥した。時計は〇六四六時を指している。執務室までちょっと急ぐか。シャワーを浴び終えたシャツ姿のボンドは、そのまま歩みを速めた。

 

 執務室に入ったボンドは、そのまま書斎の前まで行き、扉を開けた。そんなボンドを出迎えたのは、コーヒーカップの乗った小皿を手にした叢雲だった。

 

「おはよう。どうしたの?今朝は遅いじゃない」

「まあ、野暮用があってね……それは君のか?」

 

 カップの中には、熱々のコーヒーがひとすじの湯気を立てている。どうやら今しがた淹れたばかりのようだ。

 

「……あんなにも飲みたい飲みたいってうるさいから、作ってあげたわよ。感謝しなさい」

「これはどうも。でも、この格好じゃ君は許しちゃくれないだろ?」

 

 シャツを引っ張り、叢雲に見せるボンド。

 

「ほら、早く飲みなさい。冷めるわよ」

 

 そう急かされ、ボンドは椅子に座る。いつもより少し時間は早いが、たまには早めの一杯も乙と言うものだろう。ボンドは叢雲からコーヒーを受け取ると、すぐに口をつける。叢雲はそんなボンドをじっと見ている。

 

「うん、美味しいよ。でも、こいつは……」

「インスタントよ。やっぱり舌は馬鹿なのね、ボンド」

「いや、誰かに淹れてもらったコーヒーっていうのは、それだけで美味しいものさ。ありがとう」

「……!」

 

 人前ではドライに振る舞おうとするボンドでも、してくれたことに対して無下に扱うような野暮はしない。しかし叢雲は思いがけないボンドのその一言にドキリとしてしまい、一瞬言葉を失ってしまった。

 

「そっ、そうよ!そうやってもっと……もっと素直に感謝すればいいのよっ!」

 

 叢雲はぎこちなくそう言うと、そのまま逃げるように執務室を後にした。そんな叢雲を見送りながら、ボンドはコーヒーにこめられた叢雲のさりげない優しさをゆっくり味わっていた。これからあの娘には、何度か励まされることもあるだろう。

 

 それからボンドは今日するべきことをぼんやりと考えた。書類の確認と艦娘たちの様子の確認、それが終わればさっきの件でタイガーから連絡が来るだろう。あと報告書も書かないと。今日は忙しくなりそうだ。

 コーヒーを飲み干すと、ボンドは制服に着替えるために、そして叢雲が戻ってきたときに備えて、エスプレッソのカップを温めるためのお湯を沸かしに書斎へと入っていった。

 

 

                     《JAMES BOND WILL RETURN...》



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第二話 『来たのはやつらだ』
其の一


 ボンドは、外部に続く地下鉄への階段の前で、今日で四本目の煙草をふかしていた。

 ボンドは先日の深海棲艦との戦いの後、自分も艦娘たちのそばで指揮ができるように、ある人物をイギリスから呼ぶようタイガー田中に伝えた。そして、今日はようやくその人物がこの鎮守府にやってくるのである。

 秘書艦の叢雲はボンドの隣に立っていたが、ちょうどボンドから見て風下に立っていたため、ずっと煙草の煙にさらされる格好となっていた。大げさに咳払いをしながら、叢雲はボンドにつぶやく。

 

「ボンド、煙草を吸うときは、周りにも気を配りなさいよ。それが紳士ってもんじゃないの?」

「あっ、これは失礼したね」

 

 そう言うとボンドは叢雲の前を横切り、風下へと移動する。ボンドの身にまとわりついた煙が叢雲の視界から消えると、その向こうの階段の下に何者かの影が現れた。

 

 階段の下から姿を現したのは、黒髪で眼鏡をかけた、いかにもエンジニア、といった風貌の青年であった。この青年こそが、英国諜報部では「Qセクション」と呼ばれる、兵器開発部の主任である。そんな彼は、兵器開発部の外部では担当部門の名前から、しばしば「Q」と呼ばれている。

 

「Q!」

 

 ボンドは煙草を踏みつけて消すと、Qに近寄った。Qはそんなボンドを見るなり、しきりに目をパチクリさせながら、待ってましたと言わんばかりに不満をたれた。

 

「……まったく、冗談じゃないよ、ボンド」

「Q、そんなに嫌そうな顔をするなよ。君の先任だったら、喜んで日本に来てたよ」

「あの爺様がどうだったかなんて僕には関係ないね。突然今の仕事を中断させられて、その上空飛ぶ棺桶にぶちこまれて日本くんだりに送られる羽目になるなんて、最低最悪だ」

「まあそう言うなよ。それじゃ、ここについて……」

「いや、艦娘の情報なら先日こっちにもおりてきたよ。僕自身は、ちゃんとわかってるつもりだ」

「さすが、若いと飲みこみが早いね。ところでタイガーは?」

「他の人を迎えに行ってるよ。誰かは知らないけどね。開発部の部屋で待ってるように言われてる」

 

 叢雲が差し出した手を、Qは細い手で優しく握る。

 

「秘書艦の叢雲よ。よろしく。ミスター……」

「Qと呼んでください。どうぞよろしく」

 

 イギリスでは見せなかったQの紳士的な姿に、ボンドは口を挟まずにはいられなかった。

 

「Q、そっちにはやけに友好的だね」

「僕は、小さな船が好きなんだ」

 

 そう聞いた瞬間、ボンドは妙なものを見る目でQを見た。

 

「飛行機よりもね」

 

 Qはボンドにそう言い捨てると、開発部の部屋へと足を進めた。

 

「君がまだマトモな男でよかった」

 

 ボンドもそう呟くと、叢雲と共に開発部へと向かう。

 

 鎮守府の中央棟の地下にある、開発部の部屋に着いても、Qは相変わらずご機嫌斜めだった。部屋はイギリスのQセクションと変わらないほどの設備が揃っており、ボンドの目には何も申し分ないように見える。しかしQは、やれ照明が明るすぎるだの、やれ潮風で機械が錆びないかだの、ここの技術者はレベルが低くないかだの、文句ばかりたれている。仕事場にかなりのこだわりを持っているか、そうでなければよっぽど日本に来たくなかったのだろう。ボンドが叢雲に目を向けると、叢雲もQに閉口してしまっていた。

 

「ボンド、彼、落ち着きがないのねぇ。大丈夫なの?」

「心配しないで。イギリスでもこんな感じだったから」

 

 正直なところ、Qはイギリスでもここまで文句をたれたことはなかったが、ボンドは叢雲を下手に心配させたくなかった。早くタイガーが帰ってこないものか……とボンドが考えたその時、うわさをすれば何とやら、開発部の自動ドアの向こうからタイガーが現れた。

 

「やあみんな待たせたな!どうだQ、この部屋は?」

「……まあ、いくつか言いたいことはありますが、問題ありませんよ」

 

 タイガーが来てくれたのなら、これで一安心だ。ボンドはこの機嫌の悪い、英国諜報部一の偏屈屋と一対一で発注をする気はなかった。ボンドは先日の戦闘に関してQにさくっと説明した。あまり長話をすると、タイガー同伴とはいえQの機嫌をさらに損ねると思ったからだ。

 

「という訳で、彼女たちと出撃できるような装備を作ってほしいんだ」

「……分かったよ。いつも通りの感じで作ろうか。ただ、敵のデータが分からないからなぁ……」

「いつごろにできそうだい?」

「僕の機嫌が悪い限り……一生出来ないかもね」

「そんなこと言うなよ、Q」

「だいたい君は僕の折角作った装備をメチャクチャにするし……そもそも僕の説明をちゃんと聞かないから……」

 

 また始まった。先任から受け継いだこの台詞にボンドは飽き飽きしていたが、ここまで言ったのなら九割は承認してくれたも同然だ。しかしこの時はいつもの発注はとちょっぴり違っていた。いつも通りのやり取りに横から口をはさんだのは、タイガーだった。

 

「よく言ってくれたね、Q。実は前から君がそういう悩みをかかえていると聞いていてな、頼りになる味方を連れてきたよ」

「えっ?」

 

 タイガーの言うことが飲みこめないQを尻目に、タイガーは自動ドアに呼びかける。

 

「おーい、来たまえ!」

 

 タイガーの呼びかけで自動ドアの向こうから現れたのは、淡い緑色の髪を、エメラルドグリーンのリボンでポニーテールに結んだ、茶色の瞳の少女だった。裾が短めの襟付きシャツと、リボンと同色のスカートの間には、細めのウエストが見えていた。しゃんとした様子で立っているのが活気があって可愛らしい。どこか暗い印象のQとは大違いだ。

 

「彼女が装備の説明をするなら、ボンドもちゃんと聞くだろうと思ってな。自己紹介を」

「はい!軽巡洋艦、夕張です!よろしくお願いします!」

 

 タイガーはキョトンとした表情のQを指すと、夕張に説明した。

 

「そして、彼が君と一緒に仕事をする兵器開発課の主任、通称Qだ」

「これからよろしくお願いしますね!」

 

 夕張はまぶしい笑顔をQに向けると、その手を取りぎゅっと握手をした。Qは一瞬夕張と目線を合わせると、軽くその手を握った。その時Qがかすかに浮かべた微笑みは、叢雲の時のそれとは大きく違っていたように、ボンドには感じられた。

 

「よろしく」

「夕張は兵装実験艦娘でもある。艦娘用の装備を作ったら、彼女でテストしてやってくれ」

「わかりました」

 

 Qと夕張が隣同士で並んでいるのを見て、ボンドがつぶやく。

 

「良かったじゃないか、Q。君にもようやく可愛いガールフレンドができたな」

 

 ボンドのその言葉に、夕張の頬がポッとほのかに赤く染まる。

 

「からかうなよ、ボンド」

 

 Qは静かにそう言うと、俯きながらメガネを直した。

 

「彼女と一緒にいれば、君の根暗も治るかな」

 

 ボンドがそう言ったその時、タイガーはボンドに近づき、小声で話しかけた。

 

「ボンド、君にも会わせたい艦娘がいる。彼女は今執務室で待たせてあるよ。叢雲は遅れて向かわせるから、それまでうまくやりたまえ。君も、彼女のことを気に入ると思うよ」

 

 タイガーはニッコリと笑って言った。

 

「タイガー、お気遣いありがとう。どんな艦娘だろうと、最善を尽くすよ」

 

 ボンドはそう言って部屋を後にする。タイガーは応援するようにボンドの肩を叩くと、叢雲とQ、夕張を呼んで開発部の部屋の説明を始めた。

 

 執務室へと歩みを進めながら、ボンドはこの後のことをぼんやりと考えていた。タイガーが執務室に叢雲を近づけず、自分一人を会わせるということは、そのようなことも期待できるかな……いや、下手にそういうことは考えるもんじゃない。淡い期待というものは、得てして裏切られるものだ。

 

 ボンドは執務室の前に着きドアノブをひねると、数センチ扉を開けて中を覗いた。自分なりに少しでも期待感を煽ろうとしたのだ。ドアのすきまから、若い娘の後姿が垣間見えた。純白の日本の伝統衣装のようなものに身を包み、栗色の長い髪に金色のカチューシャをつけている。

 

「後姿は可愛らしいね。これは期待できるかな」

 

 ボンドが英語でつぶやいた瞬間、ドアの向こうの娘が振り向いた。ぱっちりとした瞳の、あどけなさのある娘。それがボンドの第一印象であった。ボンドはゆっくりと執務室のドアを開けた。

 

「失礼。女の子相手にはまず後ろから、って性分でね」

「あなたが提督ですか?」

 

 娘はボンドに、明るい透き通った声で話しかけた。その日本語での問いかけに対し、ボンドは英語で答える。

 

「いかにも。私はボンド。ジェームズ・ボンドだ。よろしく頼むよ、金剛ちゃん」

「Wow!提督!どうして私のことが分かったんですか?」

 

 ボンドは椅子に座り、煙草に火をつけて一服やりながら金剛に語る。

 

「ドアの向こうでの私のつぶやきに反応しただろう?あのとき私は英語で君を褒めたが、その言葉に君は振り向いた。人間は自分を褒める言葉は耳にスッと入るものだから、あの状況で私の言葉に反応したということは、君は私のイギリス英語を聞き、理解できる艦娘、つまりイギリスと関係のある艦娘だと思ったんだ」

 

 金剛はボンドの話を落ち着きなく聞いている。どうやら当たっているようだ。

 

「日本の艦艇にはイギリスで作られたものがたくさんあるから、そのうちのどれかとは思ったが、そこから先は……勘さ」

「提督すごいデース!まるでシャーロック・ホームズみたいですネー!」

 

 金剛は手を叩いて喜んでいる。見た目には叢雲より年上そうだが、精神的にはまだ幼さがあるとボンドは感じた。

 

「ありがとう。まあ日本の訛りが入っているとはいえ、同郷の言葉をこんな東の果てで聞けると、ホッとするね」

 

 金剛に誉められて上機嫌のボンドには、もはやQのことはどうでもいいらしい。ボンドにとっては、女子の甘い声でイギリス英語を聞けたのが嬉しかったのだろう。

 

「提督はどこの生まれですか?」

「私か?生まれはスコットランドの田舎だ。君はバロー・イン・ファーネスの生まれだろう」

 

 ボンドは、わざときついスコットランド訛りで金剛に言った。スコットランド訛りは早口のうえにクセが強く、英語よりドイツ語のように聞こえることもある。

 

「う~、提督がなに言ってるのかぜんぜん分かんないデ~ス……」

 

 案の定、金剛は聞き取れず困り果てていた。ボンドはにやけながら軽く謝り、再度聞き取りやすい英語で言い直した。金剛はそれにふくれっ面で答えた。

 

「バロー・イン・ファーネスにはヴィッカース社の造船所がある。英国生まれの日本艦のほとんどがここの生まれだ。風情があっていい街だよ。行ったことは?」

「ないデース……」

「そうか……さて……」

 

 ボンドは煙草の火を消すと、金剛のそばに近寄った。改めてボンドがそばに立ったことで、金剛はさらに落ち着きをなくしていた。

 

「君のことはよく知っていたつもりだったが、まだ分からないことがたくさんあるな……」

「なっ、なら、提督にはもっと私の魅力を教えてあげマース!」

「ほう、それは有難いね。そうだ、君にこの鎮守府を案内しないと。まずはそうだな……仮眠室から。そこでじっくり君の魅力を教えてもらおうかな」

「提督ぅ!」

 

 金剛はこのあからさますぎる誘いに顔を真っ赤にした。そんな金剛を抱き寄せ、その頬を撫でるボンド。

 

「ジェームズ、って呼んでくれ」

「Oh,James...」

 

 こうして、そのまま二人は執務室を後にした。

 

 

 



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其の二

 ボンドが金剛と執務室を出てから一時間ほど経った頃。タイガーはボンドを探して司令部の中を歩き回っていた。タイガーは叢雲と手分けしてボンドを探していたのだが、その叢雲とは先ほど、仮眠室へと続く廊下ですれ違っていた。叢雲が顔を真っ赤にしていたことから考えると、どうやらボンドはタイガーが予想した通りのコトをしていたようだ。叢雲はよっぽど頭に血がのぼっていたらしく、タイガーがすれ違いざまに話しかけても完全無視であった。

 

 それから少しして、タイガーはようやくボンドと金剛に出くわした。きまり悪そうな顔をしたボンドの右腕を、金剛が両手で抱き着くようにしっかりと握っている。これにはさすがのタイガーも苦笑いしかできなかった。

 

「ボンド、今まで何をしていたんだ?」

「ああ……日英同盟の再締結さ」

 

 それだけ言ってボンドと金剛はタイガーの前からそそくさと立ち去った。

 

 困り顔のボンドを尻目に、金剛はボンドの右腕をぎゅっと強く抱きしめ、さらに餌をねだる猫のように頬ずりを始めた。

 

「まったく、あんまりベタベタしないでほしいな。はしたないじゃないか」

「んんぅ、ジェームズ……絶対絶対離さないデース!」

「……これは参ったな」

 

 そんな金剛であったが、突然、何かに気付いたかのようにボンドの腕からバッと顔を上げる。

 

「はっ!!!ジェームズ、今何時ですか?」

 

 ボンドはオメガの腕時計に目を通した。短針が目盛の二を、そして長針がまもなく十二を指そうとしていたところだった。

 

「もう昼の二時になるよ」

「Oh,James!うっかりしていました!すぐ準備しますから、執務室で待っていてくだサーイ!」

 

 そう言って金剛はかけだしてどこかに行ってしまった。ボンドはその様子に面食らった。まったく、さっきまではあれだけしおらしくて静かだったのに、色々と起伏の激しい娘だ。

 

 

 

 執務室に戻ったボンドを出迎えたのは、いつもにも増して不機嫌そうな叢雲だった。そんな顔ばかりしていると、普段の顔がそれで固まってしまうぞ。そうボンドは思ったが、うっかり口に出そうものなら金剛よりも厄介なことになるのは火を見るよりも明らかだったので、ごまかし半分の会釈にとどめた。

 

「お帰り、ボンド。で、どうだったの?新しい艦娘は」

「うん、戦艦だったよ。非常に戦力になりそうな子だ」

「面白くもなんともない感想ね。ねえ、あんたがその子に対して知ってること、全部教えてくれない?」

「全部、ねえ……どこまでのことを喋っていいものやら」

 

 ボンドがそこまで喋ったその時、叢雲は視線をさらにするどくして言い放った。

 

「節操のない男は嫌いよ!」

 

 これまで見たことのなかった叢雲の威勢に、ボンドは心中で驚いた。ボンドは今まで何度も叢雲をからかい、怒らせてきたが、ここまで厳しい叢雲は見たことがなかった。本当に言いたかったことをようやく言った感じだな。いや、ひょっとしたらこれは、俺が金剛と仲良くしていることに対するヤキモチなんじゃ……

 

 そこまでボンドが考えたその時、執務室のドアがバンと勢いよく開かれる。

 

「ジェームズ!準備ができましたー!さあ、一緒に来るのデース!」

 

 金剛は執務室に飛びこむと、ボンドの腕を掴み、部屋の外へと引っぱって行った。先ほどの殺気はどこへやら、あっけにとられた表情の叢雲にボンドは叫んだ。

 

「彼女が新しく来た戦艦、金剛だ。また後で詳しく紹介するよ!」

 

 金剛とボンドの姿が完全に見えなくなると、叢雲はため息をつき、開けっ放しのドアを勢いよく閉めた。

 

 

 

 一方、金剛は鎮守府内の広場までボンドを引っ張ってきていた。

 

「まったく、一体俺をどこに連れていく気だ?」

「着きましたー!あそこデース!」

 

 金剛は、広場の一角の、大きな木の下を指さした。そこには、なんとも見事なアフタヌーン・ティーセットの一式が準備されていた。純白のテーブルクロスの敷かれた、洒落たテーブルの上のティースタンドにはスコーンやケーキ、サンドイッチが並べられている。紅茶はインド産のダージリン・ティー。すべて、金剛ご自慢のアフタヌーン・ティーセットだ。さらに、テーブルは木陰の中にあり、海を眺め、そよ風にあたりながらゆったりとしたティータイムを過ごすことができる。これらの準備からは、金剛のボンドと楽しい時間を過ごしたいという思いが強く感じられる。

 

 しかし、一つだけ、そして最大の問題があった。

 

 ボンドは、紅茶が大嫌いなのだ。

 

 朝一番にエスプレッソを飲む習慣を持っていることからも分かるが、ボンドはコーヒー派であり、紅茶に関しては「紅茶なんて泥水を飲み始めたから大英帝国が衰退した」とまで言い張るほど嫌っている。もちろん、付き合いの上でアフタヌーン・ティーに参加することはあるが、それでもだいたい話や食事をする方がメインで、進んで紅茶を飲もうとはしなかった。

 

 そんな訳で、ボンドは金剛とのアフタヌーン・ティーでも紅茶には手を付けず、もっぱらサンドイッチやケーキを食べていたのだが、どうやら金剛は紅茶を飲んで欲しいらしく、会話の合間に、

 

「ジェームズ、折角の紅茶が冷めてしまうデース」

 

と飲むように促してくる。そう言われるとボンドは気付いたように紅茶を飲み干すのだが、飲み干したら飲み干したで、金剛は要求してもいないのにおかわりを入れてくる。下手におかわりをさせまいと、カップの中に紅茶を少しだけ残して置いておいても、金剛はボンドに飲むように言った。ボンドは何回も文句を言おうと思ったのだが、屈託のない金剛の笑顔を見るたびに、その気が失せてしまっていた。我ながら情けないと、ボンドはティーカップに注がれる紅茶を見るたびに思った。

 

 会話する、催促される、飲む、おかわりが注がれる、の流れが何度目かに至った時、金剛はふと、こんなことを口にした。

 

「ジェームズ、私が生まれた町バロー・イン・ファーネスに、この姿になった今ジェームズと一緒に行きたいなって思ってます。どうですか?」

「ああ、いいとも。いつか一緒に行こう」

 

 ボンドは手元の紅茶に目を向けた。この紅茶にブランデーかウイスキーでも入っていれば、もう少しいい笑顔で今の言葉を返せただろう。そうだ、次アフタヌーンティーに引っぱられたときのために、懐に入れておこう。

 

 ティースタンドの軽食が消えてしばらくして、ボンドはようやくアフタヌーン・ティーから解放された。金剛はどうやら明日もやる気満々だったので、ボンドは忙しいから一週間に一回だけだと釘を刺しておいた。金剛はそのことに不満げだったが、ボンドはそんな金剛に言った。

 

「毎日していたら、折角のお茶会も平凡な日課になってしまうだろう?俺は君とのお茶会を特別な日にしたいんだ」

「ジェームズ……確かに、それもそうですネー……」

 

 ボンドの本音をひどく遠まわしに交じえた提案を、金剛はうっとりとして承諾した。

 

 

 

 こうしてボンドは執務室に戻り、エスプレッソを淹れ口直しをしていた。ボンドとしては、金剛とのアフタヌーン・ティーを終えて、まるで一仕事終えたような気分になっていた。ホッとして椅子に座り、書類に目を通すボンドに、叢雲が相変わらず皮肉たっぷりに声をかけた。

 

「おかえり、ボンド。楽しかった?」

「相手の出方を伺いながら押したり引いたりでね。疲れちゃったよ」

「あっ、そう。ところで、明日の一二〇〇時のタイガーとの会合だけど……」

 

 そこまで叢雲が言った時、ボンドは何か胸騒ぎがした。

 

「叢雲!すまないがその会合、タイガーに頼んで一四〇〇時からにしてもらってくれ!」

「えっ!?どうしてよ」

「いろいろと不安要素があるんだ」

 

 深刻な表情のボンドに、叢雲は何かあると感じ、黙って承諾した。

 

「分かったわ。私に変更の連絡をさせたこと、感謝しなさいよ!」

「ありがとう」

 

 そして翌日の一四〇〇時。

 ボンドと叢雲、そしてタイガーは、鎮守府中央棟の応接室にいた。

 

「ボンド!突然時間変更するなんて、何かあったのか」

「いや、それがね……」

 

 そこまでボンドが言った途端、外から何かが聞こえてきた。

 

「ジェームズ!一体どこに行ったデスカー!ティータイムの準備できてますよー!」

 

 その声が聞こえた時、叢雲もタイガーも、すべてを察した。

 

「昨日一応言っておいたのだが、もしかしたらあの時、のぼせ上って忘れちまってるんじゃないかと思ったからね」

 

 そうタイガーに説明したボンドには聞こえないように、叢雲はポツリとつぶやいた。

 

「……小さな男ね」

 

 

 その頃。開発部の一角で、Qはノートパソコンに向かって作業をしていた。せわしなくキーボードを叩いていると思えば、机の上の眼鏡を触ったり、突然目玉をギョロギョロと動かして目の体操を始めるなど、はたから見たら奇妙なことこのうえない。何を考えているかは、Q本人にしか分からないだろう。

 

 そんなQの後ろから突如聞こえてきたのは、夕張の声だった。夕張の手には、湯気のあがった二つのカップの乗ったお盆。

 

「そろそろ休憩しない?コーヒー、淹れてきたんだけど……紅茶の方が良かった?」

「いや、コーヒーで大丈夫。そこに置いておいて。ありがとう」

 

 Qは夕張の方を振り向きもせずに淡々と礼を言うと、机の上の一角を指さした。

 夕張はQの示した場所にカップを置くと、ノートパソコンのモニターを覗いた。モニター上には複雑なプログラムがびっしりと書きこまれており、夕張をきょとんとさせた。Qに目を向けると、夕張のことをいささかも気にすることもなく、モニターをいつもの眠たそうな顔つきでじいっと見ていた。これは邪魔しちゃダメなやつだったかな……という考えが夕張の頭をよぎった瞬間、Qが静かに口を開いた。

 

「一週間」

「えっ?」

「あと一週間で、面白いものを見せてあげるよ。それまで待ってて」

 

 Qはモニターを見つめたまま、相変わらずのそっけない口調で言った。

 その言葉に夕張がニッコリ笑って頷くと、Qは再びキーボードを打ち始めた。

 

 

 

                       《JAMES BOND WILL RETURN...》



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第三話 『金剛石は永遠に』
1. James Bond, The Secret Service is Back


 八月某日、二〇五九時。

 

 ボンドは、全ての鍵をかたく締め切った執務室の中、英国諜報部支給のノートパソコンの前でその時を待っていた。時計の音のみが聞こえる中、部屋いっぱいにピンと張り詰めた空気が流れる。ボンドが手持無沙汰そうに室内の小物に目を向けていたその時、二一〇〇時の時報が執務室全体に鳴り響いた。

 

 それと同時に、ノートパソコンからアラーム音が鳴り響く。誰かから連絡が入ったことを示す音だ。ボンドはマイク付ヘッドホンを装着し、すばやくパスワードを打ちこむと、マイクに向かって調子を確認するような声で告げた。

 

「007。ボンド。ジェームズ・ボンドだ。日本は現在二一〇〇時。天気は晴れだ」

 

 その声に音声認識が反応すると、ノートパソコンの画面いっぱいに、妙齢の男性の姿が映し出された。この男性こそがボンドの上司であり、英国諜報部の主任、通称Mである。ボンドとMをつないでいるのは、英国情報部の専用の秘密衛星通信だ。

 

「あー、もしもし、聞こえるか?007?」

「ええ、感度良好、万事問題なしですよ」

「よし、よかった。周りには誰もおらんな?」

「はい」

「盗聴器は?」

「ありません。先ほど調べました」

「よかろう。それでは007、現在進行中の君の任務に関して、補足事項を伝える」

 

 ボンドはMの映ったモニターに、前のめりになった。

 

「007。深海棲艦については、日本からこちら側にも情報がきておる。しかし、日本側も深海棲艦についての詳しい現状を把握できていないらしく、こちらにもまだ政府が本腰をあげるまでの情報が揃っておらん」

 

 ボンドはMの話を聞き、それは当たり前だろうな、と考えた。ボンドも、深海棲艦についてはタイガー田中から聞いた以上のことは知らないし、その存在についてもこの目で見るまでは半信半疑であった。ましてや報告を受けた本国のお偉方たちは、ほとんどがマトモに受け取らないだろう。

 

「だが、未だに近海での原因不明の沈没事故は後を絶たん。そこでだ。君にはタイガー率いる公安調査局の対深海棲艦に関する作戦にも全面的に協力し、深海棲艦についての情報をより深く探ってもらいたい。とにかく、今ある情報では少なすぎて我々もどうしようもないのだ」

「なるほど……つまり本格的に、英日共同作戦となるわけですね」

「まあ、そうなるな。あと、もしも日本側が出し惜しみしているような情報があれば、全て公安調査局にばれないよう抜き取って、こちらに流してくれ。忘れるなよ、これが本来の君の仕事なんだからな」

「わかりました。そうだ、M」

「何だ?」

 

 衛星通信という慣れない形での命令を出し終え、ホッとしていたMにボンドは言った。

 

「これまでの私の報告、どれだけ信じてもらえてます?」

「全部だ。……奇妙なことだが、君が言うなら信じざるを得ないだろう」

「M、あなたは本当に頼りになる人だ」

「この世界は何事も信用だよ。以上だ007。健闘を祈る」

「それでは失礼します」

 

 モニターからMの姿が消えると、そのままボンドはノートパソコンのデータを抹消するコードを入力した。この連絡を聞き、ボンドは心中のろうそくに再度火がともったような気がした。艦娘相手の提督として、日本の海上保安局から連絡を受け艦娘たちを船舶の護衛につかせる日々を送っていたが、またこうして、かつて英国諜報部でしてきたような仕事ができるのだ。ボンドはかくして、危険と冒険を愛する英国男子の魂を取り戻した。

 

 

 

 翌日の昼過ぎに、ボンドは兵器開発課を訪れた。また近いうちに、Qのおもちゃの世話になるだろう、との思いからだった。ボンドは部屋の中程に、背中に艤装を背負い、椅子にちょこんと座った夕張を見つけた。ボンドが目をこらすと、夕張は太い黒縁のメガネをかけていた。Qがいつもかけているものと同じものだ。

 Qのメガネをイタズラしているのなら、Qのやつにばれたらメチャクチャに怒られるぞ。それとも、Qのやつがわざと、自分と同じメガネをかけさせたのだろうか。だとしたら、あいつは何て趣味をしているんだ。

 ボンドは、ゆっくりと夕張に近づくと、からかうように話しかけた。

 

「やあ、夕張。そのメガネはQにかけさせられたのか?別にあいつのいうことは全部聞かなくても……」

 

 その声に夕張が振り向いたと同時に、艤装の砲塔が一斉にボンドに照準を合わせた。

 

「ああっ、気分を害したなら謝るよ、悪かった」

 

 ボンドは両手を上げ、夕張をなだめるような口調で言った。一方の夕張はそんなボンドの様子を見てクスクスと笑っている。ボンドはなんだか、かつがれたような気になっていた。

 

「ボンド、人のやることなすことにいちいちケチをつけるな」

 

 部屋の奥の暗がりから、サンドイッチを片手にQが現れた。Tシャツ姿にボサボサの髪をしているところから、どうやらつい先ほどまで眠っていたようだ。だが、そんな姿とはうらはらに、Qは珍しく自信満々な口調でボンドに話し始めた。

 

「彼女がつけているのは自動照準装置だ。目線の動きをメガネが読み取って艤装に反映させ、常に目線の先に照準が合うようにしてある。これで彼女たちの砲撃命中率も上がるだろう」

 

 夕張は輝く瞳をグルグルと回し、様々な方向に砲を向けていた。その様子は、ショーウインドウで綺麗な小物に目移りしている女の子のそれによく似ていた。ただ、それを大抵は何もないところでやっているので、ボンドには夕張が幻覚を見ているようにしか見えなかった。そんな夕張を、Qは嬉しそうにニヤニヤしながら見ている。はたから見たら両方とも危ない人間だ。

 兵器開発課には、趣味と実益を兼ねながら兵器を開発している人間が多いが、この男の「趣味」にはいささか注意しなければいけないかもしれんな。ボンドは、白髪頭の前任者を懐かしく思っていた。

 

「彼女、これがひどく気に入ったみたいで……ここ数日間ずっと着けているんだ」

「照準を定めるのは 君の目だけ(For Your Eyes Only)、ってわけか。ところでQ、俺へのプレゼントはどこだい?」

「あともう少し待って欲しい。でも、折角だからちょっとだけ見せようか」

 

 Qはボンドを連れて、部屋の奥へと進んだ。Qが明かりをつけると、そこにはカバーに覆われた、二人乗りの乗り物大のものがあった。ボンドは、久々に胸に湧きあがるものを感じた。これまでボンドは、この手の装備品についてはそこまで感嘆を覚えた経験はなかった。しかし衰えた冒険心がよみがえった今、忘れていた幼心のようなものや、これまでの冒険や戦いの記憶が去来し、ボンドの中であふれそうになっていた。

 

「ボンド、これが現時点での特殊装備付モーターボート、その最新型だっ!」

 

 そう言うと、Qはゆっくりと、しかし誇らしげにカバーを外した。ボンドはそこに現れたものに目を丸くした。ボンドは目の前の光景が信じられず、思わずつぶやいてしまった。

 

 

「……ゴミ捨て場か?」

 ボンドがそう言うのも無理はなかった。肝心のモーターボートは部品がことごとくバラバラにされ散らばっており、かろうじてモーターボートの形をとどめているに過ぎなかった。さらにはそのモーターボートのようなものからは周りのコンピューターに何十本ものコードが伸び、何らかの延命措置をされているかのような状態になっていた。ボンドは、心に湧き上がりし情熱の泉が、一気に干からびていくのを感じた。

 

「フロントガラスには、さっき君にも見せた自動照準装置をつけておく。装備の魚雷や砲も、夕張に頼んで深海の連中に効くものを準備してもらってる。それに……」

 

 ボンドには、Qの説明など全く聞こえていなかった。

 最初にそれを見た時の感動は、あれは一体全体なんだったのか。そうだしまった、期待というものは、得てして裏切られる。そのことをすっかり忘れていた。夕張の浮かれている様子に、俺も飲まれてしまったか?そもそも、こんなガラクタにしか見えないものを俺に見せて、こいつは一体何をしたかったんだ?こんな状態を見せられたら近いうちに完成すると言われても、はいそうですかと素直に信じられるわけがないだろう。

 

 さまざまな恨み言を脳裏によぎらせたボンドに、Qは今更ながらフォローの言葉をかけた。

 

「今はこんな状態だが、開発部のスタッフの全精力をつぎこめば、あと三日で完成させられる計算だ。まあ、楽しみに待っていてくれよ」

「ああ、それまでは叢雲や金剛と一緒に大海原をかけ回る夢でも、見ていようかな」

 

 それが、この時のボンドが言えた唯一の前向きな言葉だった。

 

 

 

 そんなボンドの落ち込みも、長く続くことはなかった。

 執務室に戻ったボンドを迎えたのは、タイガー田中と叢雲だった。タイガーの顔を見たボンドは、水を得た魚のように元気になった。

 

「ボンド!英国から話は聞いたぞ!本格的に我々に協力してもらえることになったようだな。改めて、よろしく頼むぞ、ボンド」

「タイガー、あくまで俺は、英国のために仕事をしてるんだからな。それを忘れてもらっては困るよ」

 

 タイガーとボンドはそうお互いに言い、かたく握手を交わした。

 

「それじゃあ早速、君に任務の連絡だ」

 

 そう言うとタイガーは、自身のブリーフケースからいくつかのファイルや封筒を取り出した。それらにはいずれもマル秘の印と、タイガー直筆のサインがついていた。

 

「ここにあるのは、これまで海上保安局に入ってきた、深海棲艦によって攻撃された船舶会社のリストだ。国内国外で様々な会社の名前が挙がっているが、国内の会社に一社だけ一度も攻撃を受けていない幸運な会社がある」

 

 そう言うと、タイガーは封筒のひとつからある会社のパンフレットを取り出した。

 

「今山海運。東アジアから東南アジアを中心に海上物流を担っている大手企業だ。大小問わず様々な会社の船が襲われている中、今山海運だけは安全をウリに急激に業績を伸ばしている。深く考えなくても、こんなおかしな話はない」

 

 ボンドは今山海運のパンフレットをパラパラとめくる。パンフレットによると社長の名前は「今山寛治」というらしい。名前の隣に、優しげな壮年の日本人男性の写真があった。だが、経歴を見る限りでは、日系のドイツ人のようだ。写真と名前、経歴を見比べながら、ボンドは釈然としないものを感じていた。

 パンフレットをじっと見ているボンドの代わりに、叢雲はタイガーに疑問をぶつけた。

 

「でもタイガー、今山海運が被害の届け出をしていない可能性はないの?大企業なら、世間体を気にして出さないことくらいありうると思うんだけど」

「ああ、その可能性も考えて、公安調査局から一人、今山海運に部下を送り込んだ。捜査の結果、船の沈没や消失の証拠はおろか、それを隠した痕跡すら見つからなかった。それに……」

「それに?」

「その部下は報告をした二日後に千葉県の浜辺で見つかったよ。全身傷だらけのホトケになってね」

 

 それを聞いた叢雲は絶句し、ボンドは目を細めた。普通の諜報戦であれば、その会社が敵の拠点や基地だと考えるのが本筋だが、深海棲艦にもそれが通じるだろうか。ボンドは少し冗談めかして、タイガーに話してみた。

 

「だが、あの化け物どもが一企業と手を組むなんてことがあるだろうか?」

「あるかもしれんぞ?」

 

 ボンドはタイガーの予想外に真剣な様子に閉口してしまった。タイガーはそのまま続けた。

 

「奴らについては分かっていないことが多い。一見ありえないことが事実かもしれないからな」

「ごもっとも」

 

 日本に来てからというものありえないことだらけのボンドは、もう何があっても驚かない自信があった。

 

「それじゃあ俺は、その会社に乗りこんで、情報を手に入れればいいんだろう?」

「ああ。だが、現場でのサポート役として艦娘を一人連れていきたまえ。万が一の時には頼りになる」

「艦娘?となると……」

 

 ボンドはそう言うと、叢雲に目を向けた。叢雲の鋭い瞳はボンドをじっととらえていた。どうやら、叢雲も覚悟はできているらしい。しかし、そんな二人にタイガーは口を挟んだ。

 

「ちょっと待った。君たちが二人で会社に乗りこむつもりか?こっちとしても頼もしい限りだが、今の君らじゃ、どう見ても娘を連れて会社に来た父親にしか見えんぞ。叢雲、気持ちは嬉しいが今回は裏に回ってくれ」

「分かったわ。でも、あとは誰が……」

 

 その時執務室の扉の外から、室内の雰囲気に合わない明るい声が聞こえてきた。

 

「ジェームズ!今日こそは一緒に、ティータイムを楽しみましょう!」

 

 ボンドはタイガーに目を戻すと、タイガーは書類をブリーフケースにしまいながら、普段見せないほどの笑みをニヤニヤと浮かべていた。

 

「アフタヌーン・ティーか。ボンド、今日は私たちもご一緒させてもらおうかな」

「好きにしたまえ」

 

 

 

 この後のティータイムで、「What's!?」と「Really!?」の二単語がひっきりなしに聞こえたのは、言うまでもない。



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2.ジェームズ・ボンドの商談

 その日、東京はまさに日本晴れであった。

 

 東京都中央区にある今山海運本社ビル。その近隣の駐車場に止めてある白塗りのスポーツカー、トヨタ・マークXから、一組の男女が降り立った。男はおろしたてのダークグレーのスーツに、女は体のラインのよく分かる、ぴっちりしたグレーのレディーススーツに、それぞれ身を包んでいた。二人は横並びに本社ビルの正面入口に向かうと、そのまま自動ドアの向こうに消えていった。

 

 ロビーに入った二人は、中央にある受付に一直線に進んでいった。受付に着くと、女は受付嬢に向かって若干英語のアクセントが混じった日本語で言った。

 

「すみません。ユニバーサル貿易日本支部の者です。今日の一時から、御社の社長とお約束がありまして……。彼は日本支部長のエヴァン・トーマス。私は通訳の……金剛デス」

 

 無論、エヴァン・トーマスなる男の正体はボンドである。ボンドは久々に全身の肌で感じるスーツの着心地に、さすがに気分が高揚していた。やっぱりこの格好が一番しっくりくる。

 予想外だったのは、金剛のスーツ姿が案外サマになっていたことだ。普段の金剛の見た目やふるまいを考えると、ビジネスマンの通訳に扮するには若干幼いような気がしていたが、スーツ姿になるとその違和感はかなり抑えられた。当初、金剛はこの服装を嫌がっていたが、実際着てみるとそれほど悪くはなかったし、むしろ魅力的なくらいだ。

 そんなことを考えながら、ボンドは受付と話している金剛の腰からヒップ、ふとももにかけてをじっくり、なめまわすように見つめていた。

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

 金剛は受付との話を終えると、いかにもできる女であるかのごとく、流暢な英語でボンドに話しかけた。

 

「ここで待つように言われました。じきに来るみたいです」

「わかった。この調子で頼むぞ、金剛」

「All right. 私に任せるデース」

 

 ボンドはどこかルンルン気分の金剛をお供に、フロア内を歩き回っていた。見たところ、フロア内に不審な物は見受けられない。例えば、どこかに蛸の紋章があるとか……そんなものが見つかったら、深海棲艦どころの話ではなくなるが。

 

 ボンドと金剛はフロアの一角の、壁にたくさんのパネルが貼られているエリアに足を踏み入れた。パネルには今山海運の成り立ちや業績、国内外の支社についての情報が事細かに書かれていた。しかも、ボンドには嬉しいことに、日本語での解説の下に、英語での解説も書かれていた。その一部を抜粋すると……

 

「今山海運の前身は大正十年に創立された越上海運で、この当時から東アジアを中心とした輸送ラインで業績を伸ばしてきた。昭和六年に日本が本格的に大陸に進出すると……(中略)……平成期にはバブル崩壊のあおりを受け業績が急激に悪化した。

 そして平成十年にドイツのレムリア造船の傘下に入り、社長にはレムリア造船の日系ドイツ人、今山寛治が就任した。それと同時に社名も今山海運株式会社に変更。その後、今山海運は中国の経済発展の後押しを受けながら業績を立て直し、平成二十年にはレムリア造船から完全に分社化され、現在に至る」

 

 続いてボンドは海上輸送ラインの書かれた図に目を向けた。横浜、神戸、那覇、釜山、上海、香港、ジャカルタ、シンガポールなど、アジア各国の大きな港のある都市がそれぞれ赤い線で繋がれている。だがボンドは、この図に何か妙なものを感じていた。そんなボンドの耳に、落ち着いた優しげな声が聞こえた。

 

「お待たせしました、ミスター・トーマス」

 

 その声の正体は、パンフレットに今山寛治の名とともに写真が載っていた、あの壮年の男であった。丸い顔のにこやかな男だったが、ボンドの目には一企業を率いるカリスマ社長には到底見えなかった。だが、人は見かけによらないものだ。全ての社長がタイガーのような男だとは限らない。そう自分に言い聞かせながら、ボンドは男性に頭を下げ、懐から名刺ケースを取り出した。

 

「あなたが社長の今山さんですね。エヴァン・トーマスです。今日はご挨拶に伺いました」

 

 そのボンドの言葉を、金剛は日本語で男性に伝えた。すると男性は、にこやかな顔をさらに笑顔にさせ、名刺を取り出しながらこう言った。

 

「申し遅れました、ミスター・トーマス。私は国際営業部の部長、島田照一です。どうかよろしく」

 

 その言葉にボンドの全身は寒気に包まれたが、ボンドはその感覚を押し殺すよう努めた。ボンドは金剛から改めて同じ内容を英語で聞くと、やりすぎなくらいに明るく振る舞いながら謝り、島田と名刺を交換した。そうでもしなければ動揺が態度に出てしまいそうだったからだ。ボンドには、島田の屈託のないにこやかな顔が、逆に不気味なもののように思えた。

 

 

 

 社長室のある地上十四階へと続くエレベーターの中で、島田はボンドににこやかに告げる。

 

「社長は今、所用で外出中ですので、社長代理の方が代わりにご面会致します。綺麗な方ですよ」

 

 普段ならばその言葉に期待を高めるボンドであったが、今回ばかりは先ほど感じた寒気が後を引き、それどころではなかった。あの一言を聞いてからというもの、ボンドの脳内には数多の疑問が渦巻いていた。

 先ほど貰った名刺にも、間違いなく島田の名前が書かれている。この男が今山だとしたら、なぜ別の名前を名乗っているのか。日系のドイツ人と言う出自は本当だろうか。

 この男が今山でないとしたら、なぜダミーの写真をパンフレットに使ったのか。顔を出せない理由はどこにあるのだろうか。そもそも、今山は実在するのだろうか。

 

 その時、ボンドの代わりに金剛が島田に話しかけた。

 

「島田さん、この会社の社長は一体どのような方なんですか?」

 

 突然の金剛の質問に、ボンドは内心ガッツポーズしていた。でかしたぞ金剛!そうやって妙な含みを感じさせず、何事もさらりと聞けるところが君の強みだ!

 

「うーん、私も直接お会いしたことはあまりないのですが……以前お会いした時は、まさに貫録のある、社長にふさわしい方だったように記憶しています。あとお顔も、かなり彫りの深いお顔をしていらっしゃいましたね」

「Oh...それは、お会いできないのが残念デス」

 

 ボンドも、今山について有用な答えを聞き出せなかったことを残念に思った。

 

 そのようなことを話しているうちに、エレベーターは地上十四階にたどり着いた。そのまま、ボンドと金剛は島田に続いて社長室へと案内される。

 社長室の扉が開かれると、金剛は感嘆の声をあげた。室内は曲面が多用された近未来的なデザインで統一されており、洗練された美的感覚に満ちあふれていた。

 ボンドは用心深く、しかし気づかれないように部屋の中を見回した。部屋の隅には大型船や海底基地の模型、南国の観葉植物の鉢が置かれ、白が基調の部屋に彩りを与えている。監視カメラの類は見られないが、恐らくどこかに隠しカメラはあることだろう。部屋の奥にも、どこかに続く扉がある。……あの扉、今少し開いていた気がしたのだが。

 そしてボンドが、ガラスの床の向こう側に目をやると、楕円形の机のそばに真っ黒なレディーススーツを着た女が立っていた。サイドテールに結んだ髪と鋭く大きな目が特徴的な、金剛よりも一回りほど小柄な女だ。気の強そうなしっかりした女、というのがボンドの第一印象だった。そういえば誰かさんの第一印象も、そんな感じだったな。

 

「彼女が社長代理の赤沢詠美さんです。それでは、私はこれで失礼します」

 

 島田はそう言うと、部屋から速やかに立ち去った。一方、詠美はボンドたちの方へと歩みを進めた。

 

「社長代理の赤沢詠美です。普段は今山社長の秘書を務めております」

 

 彼女、見た目よりもずっと落ち着きがあるな。声の感じも明るく、安心感がある。これも演技か、さもなくば出世のため身につけた処世術か。

 

「ユニバーサル貿易日本支部部長のエヴァン・トーマスです。以後どうかお見知りおきを」

 

 ボンドと詠美(金剛は通訳の際、この名前をはっきり『エイミー』と発音していた)はあいさつを済ませると、名刺を交換した。その際に、ボンドは詠美が左手に革の手袋をはめていることに気がついた。

 

「あっ、ミスター・トーマス。私、幼いころに左手を大やけどして、人に見せられない有様になってしまって……それ以来、いつもこうして隠しているんです。すみません」

 

 ボンドはその言葉を聞いて、彼女に思いをはせた。これまでの人生、そのことで深刻に悩んだこともあっただろう。彼女の今の地位は、怪我によるお情けではなく、彼女の実力だと信じたい。

 このようにボンドには、ハンディキャップのある女性に惹かれるような一面があった。ちなみに、金剛も彼女の心情を察したのか、ボンドへの通訳には「軽い怪我をした」とやんわりとした表現を使っていた。

 

「……それではお話に移りましょうか、ミスター・トーマス。こちらへ」

 

 ボンドたちは、部屋の一角の応接スペースに腰を下ろした。椅子はすわり心地のいい、レザー張りのものだった。これなら長話をしても尻が痛くなる心配はなさそうだ。

 

「ミスター・トーマス、普段はどのようなお仕事をなさっていますか?」

「世界各国を飛びまわっては様々なモノを集めたり、品定めをしたり、ってところですかね」

「といいますと、御社は主に輸入雑貨や家具の取扱いを?」

「まあ、そんなところです」

 

 このように、ボンドはユニバーサル貿易(そもそもこの社名も英国諜報部を指す暗号である)に関しての説明と、ユニバーサル貿易がアジア圏への本格進出を将来の目標にしており、そこで海上輸送のパートナーとして今山海運と取引をしたい、といったことを詠美に伝えた。

 

「お引き立ていただき、ありがとうございます。ところでなぜ、数多ある海運会社からわが社と取引しようとお考えに?」

「それはもう、信頼度の高さですよ。船舶事故が多い今日このごろ、安全安心をモットーに掲げ、確実に信頼を勝ち取っているのは御社くらいだ。もしよければ、何か秘訣のようなものがあれば、教えてもらいたいですな」

 

 そのボンドの言葉に、詠美は動揺を隠すかのように笑いをもらしながら答えた。

 

「えっと、その……強いてあげるとすれば、長所を伸ばすことかと。他社にマネのできない、自社特有の強みを推し進めることが、結果として信頼につながっているのではないかと考えています」

「つまり、御社では具体的に何を?」

「それは……企業秘密です」

「あっ、そう」

 

 ボンドの返事はあまりにも素っ気なかった。

 

 その後もボンドと詠美との間で、取引に関する詳しい話し合いは続いたが、特に大きな問題は起きなかった。時折ボンドがわざと例のスコットランド訛りで難しい内容を喋り、聞き取れず困惑する金剛を見て楽しんでいたことを除いては。

 

 そうこうしているうちに、いつの間にか時計の針は三時を指そうとしていた。ボンドは潮時と思い、詠美に告げた。

 

「それではそろそろ失礼します。楽しい時間は過ぎるのが速いですね」

「ええ、本日は遠路はるばるお越しいただきありがとうございました。御社との取引の件は、社長の今山と前向きに検討致します」

「次に会うときは、社長にもぜひお会いしたいですな。それでは、また会う日まで」

 

 こうしてボンドと金剛は詠美に見送られながら、ここに来たときと同様、島田に連れられてエレベーターに乗りこんだ。エレベーターの中で、ボンドは島田の横顔をじっと見つめていた。

 

 

 

 ボンドと金剛が社長室を去った後、詠美は部屋の奥の扉を静かに開けた。

 扉の向こうには、詠美の二倍は身長があろうかという大男が立っていた。詠美は男の顔を見上げると、先ほどまでとは全く違った、妖しげな声で男に告げる。

 

「あなた、あの男を知ってるのね」

 

 大男は詠美の言葉にゆっくりと頷いた。

 

「……処理はあなたに任せるわ」

 

 大男はニヤリと笑い、鋼鉄でできた歯をキラリと輝かせた。



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3-1.The Longest Tube (前編)

 ひと仕事終えてホッとした金剛は、助手席で大きく伸びをした。

 ボンドと金剛の乗ったトヨタ・マークXは、一路ボンドたちの鎮守府へ向けて、左右にビルや高架の並ぶ国道を南下していた。

 

「ジェームズ、あの会社にはいつ忍びこむんデスか?今日は潜入の下調べのためにきたんでしょ?」

「いや、あの会社に行く必要はないよ。もう一生ね」

「Why?じゃあ今日は、一体なにをしに行ったんデスかぁ!?」

「これを持ちこむためさ」

 

 ボンドはそう言いながら、金剛のカチューシャを指でつついた。

 

「私のカチューシャ……?」

 

 金剛は子どものように首をかしげて、キョトンとした顔でボンドを見つめた。

 

「そう。実はそのカチューシャには、君に内緒でハッキング用の端末が仕込ませてあるんだ。

つまり君が社長室で私のくだらない話を聞いている間に、Qが君のカチューシャを経由して社長室のコンピュータに忍びこみ、データをすべて抜き取っていたという訳さ。私の本当の任務は二つ、君を社長室まで連れて行くことと、商談をしながらハッキングに十分な時間を稼ぐことだ」

 

 ボンドの説明を聞いた金剛はどうやら納得したようで、にこやかな顔をボンドに向けた。

 

「Wow!時々ひどい訛りで喋ったりしてたのはそういうことだったんですネ!」

「その通り。鎮守府に戻るころには、Qがデータをまとめてくれているだろう」

 

 この後も、しばらくボンドとイギリスの話をしていた金剛だったが、ふと妙なことに気がついた。品川方面に走っていたはずの自分たちの車が、いつの間にか大手町周辺を北に向かって進んでいるのに気がついたのだ。金剛は、ボンドの羅針盤が狂ったのではないかと思った。

 

「ジェームズ、そっちは北ですヨ?行先、逆じゃないですか?」

「いや金剛、ミラーを見てみろ」

「?」

 

 ボンドに言われ、金剛はバックミラー越しに後ろを見る。

 

「二つ後ろの軽トラックが、汐留あたりからずっと私たちの後ろについてきてる。行先を北に向けたのに、ついてくるということは……」

 

 金剛はバックミラーの中に白塗りの軽トラックを見つけた。ガラスには遮光フィルターが貼ってあり、中の様子はよく分からない。

 

「きっと今山海運の回し者だろう。彼女たちの気を悪くするようなことでもしたかな?金剛、見張っててくれ」

 

 そう言うとボンドは、懐のスマートフォンでタイガーと連絡を取った。

 

「タイガー、我々の後ろにストーカーがつけてきてる。車種は白の軽トラック、今は国道17号、東京大学のあたりを北西に進んでいる。攻撃はまだ受けていない」

 

『了解、君たちの位置は金剛のカチューシャからの発信で把握している。

ボンド、君たちのまっすぐ先に首都高速の中央環状線がある。そこに乗れ。君の乗っている車なら、高速に乗れば軽トラくらいは簡単に振り切れるはずだ。

それまでの間に奴らが君らに手を出したら、容赦なく金剛の一撃を食らわせてやれ。あと、もしものために私の使いを現場に向かわせよう』

 

 ボンドはその言葉にホッとした。今ボンドたちの乗っている車は、秘密装備てんこ盛りのスーパーカーではない。強いて言うならちょっと普通の車よりちょっと速く走れるだけの代物だ。しかし、「金剛の一撃」とは何だろうか。一見装備らしきものは着けていないようだが……

 

 ボンドが金剛に「一撃」について聞くと、金剛は肩にかけていたビジネスバッグを開いた。その中に入っていたのは、金剛の艤装に積まれていた三連装砲であった。

 

「これは一体……」

「私服時の簡易艤装デース!」

 

 簡易艤装とは、艦娘が私服姿でも使用できるような、最低限の装備で構成された艤装である。金剛の持っているものは、その簡易艤装を仕込んだQ特製の肩掛けカバンであった。

 

 これらの艤装は普段携行可能な分、弾薬量を犠牲にしており、通常の艤装と同じように撃ちまくることはできない。戦艦としては小型な金剛の場合でも、撃てるのは二度か三度である。

 

 その説明を金剛から聞いたボンドは、金剛に指示するまでは撃たないよう言った。さすがにこんな代物は、簡単に街なかでぶっ放せるものではない。使えるのは敵に確実に命中させられる状況に限られるだろう。

 

「OK!ジェームズ、私に任せてくださーい!」

 

 ボンドの心配をよそに、金剛はそう言って嬉しそうな表情をした。

 

 マークXは巣鴨あたりの交差点で赤信号に引っかかった。ボンドはマークXのスピードを落とすと、真ん中の車線に入ると、横断歩道の前の停止線にゆっくりと止めた。別に今は、信号無視をするほど余裕のない状況ではない。

 ボンドはバックミラーに目をやった。例の軽トラックは、マークXと同じ車線のはるか後ろにあった。

 

「う~ん……赤信号って嫌ですね~。海の上だとこんなことないのに……」

 

 そんな金剛の愚痴をぼんやり聞きながら、ボンドの瞳はミラーをじっと見つめていた。

 あの軽トラックがどんどん近づいてくる。どんどん、どんどん……

 

 

 

 

 ……まったくスピードを落とさずに!

 

 ボンドはマークXを急発進させると、そのままハンドルを思いきり左に回した。金剛が急な左折でボンドの方に倒れこんだその刹那、マークXの真後ろを、大きなスリップ音と共に軽トラックがドリフトしながらかすめていった。突然のことに驚き、起き上がる金剛の隣で、ボンドはマークXをを飛ばしながら、何かを吐きだすように大きく息をついた。

 

「ジェームズ!一体何が……」

「金剛、あの軽トラはクロだ!準備しろ!」

「...All right!」

 

 マークXは通りをしばらく進んだところで、細い路地の中に入っていった。軽トラックもそれに続く。

 ボンドは路地に入れば、多少は軽トラックを振り切れると思っていたが、それは大きな誤算だった。日本の住宅街の細い道は、スーパーカーの持ち味であるスピードを完全に殺してしまっていた。

 その上この時間帯は通行人が多く、ボンドは右折や左折を繰り返しながらかわしていくのに精いっぱいだった。ボンドは軽トラックに何度も追突されながら、必死に大きな通りへの出口を探していた。

 一方、金剛はサンルーフから上半身を出していたが、路地を曲がる際に右や左に振られるため、軽トラをしっかりと狙えない。

 

「ジェームズ!ここじゃ揺れすぎて狙えないわ!」

「じゃあ今はいい!しっかり狙えるところで撃て!」

 

 金剛が席に着いたその時、ボンドはようやく大通りへの道を見つけた。国道17号へ続く道、明治通りだ。

 ボンドのマークXは一気に明治通りへと飛び出した。その際大きなクラクションと共に、右から来た車がマークXのリアバンパーをかすめた。そのまま右折し、明治通りを西巣鴨の方向へと進むボンド。その先に、ようやく高速道路が見えてきた。やれやれ、この先の交差点で左折して突っ切ればそのまま……赤信号だ!

 

 西巣鴨の交差点の前では、信号待ちの車が列をなしていた。ボンドがミラーを見ると、あのいまいましい軽トラックが、猛スピードで突っ込んでくる。くそっ、ついてないぜ!ボンドはハンドルを左に切ると、再び住宅街の中に入っていった。

 

 幸いにも、ボンドがこの住宅街を抜け、高速道路下の国道17号線に出るのは簡単だった。ここから中央環状線・滝野川入口までは一直線だ。ボンドがギアを切り替えると、マークXは吸い込まれるように高速道路の入口へと入っていった。

 

 

 

 マークXはそのまま板橋ジャンクションの合流地点に差し掛かった。ボンドがバックミラーを見ると、大きく引き離したものの、まだ軽トラはついてきている。

 

「金剛、このカーブを抜けたら、あの軽トラに一発撃ちこめ。ここなら確実に当てられるはずだ」

「OK!分かりました!」

 

 金剛はそう言ってサンルーフから上半身を出した。同時にボンドはマークXの速度を落とした。カーブに差し掛かったためでもあるが、軽トラとの間があまりに遠すぎても金剛が狙いづらいと考えたからでもあった。

 マークXはカーブを抜けて、直線道路を進み始めた。それを追う軽トラも、数十メートルほど後ろのところまで追いついてきていた。軽トラの運転手はカーブを抜けた時、さぞ驚いたことだろう。スーツ姿の少女が、マークXのサンルーフから仁王立ちで、背中に担いだ砲をこちらに向けているのだから!

 

「……さっきのお返しですよ!ファイヤー!」

 

 金剛が手のひらを前に突きだしながらそう叫んだと同時に、艤装の連装砲が轟音と共に火を噴いた。その反動は大きく、時速80キロほどで走っていたマークXが、一瞬時速120キロまで加速したほどだった。そして、金剛の一撃は軽トラの運転席を貫通し、荷台のコンテナを木端微塵に吹き飛ばした。同時に車体からは真っ赤な炎が上がり、ハンドル操作が効かなくなったのか、路肩にそのまま突っこむと動きを止めた。

 その一部始終をサイドミラーで見ていたボンドは冷や汗をかいた。まさかここまでの代物だったとは……。もし横に向かって撃とうものなら、この車が横転しかねないな。そんなボンドの隣で、金剛はまだ黒煙ののぼる砲を背中に、燃える車を眺めていた。

 

「Oh...ちょっとやりすぎでしたか……?」

「いや、上等だよ。さあ、席に戻ろうか」

 

 ボンドはそう言うと、前方の看板に目を向けた。

 

「この先山手トンネル 可燃物積載車両は進入禁止」

 

 可燃物……金剛の砲はそれに入るのだろうか。そう考えながらボンドは、一息ついた金剛に目をやった。その時車の後部から、パラパラと何か固いものが当たったかのような音をボンドは聞いた。ボンドは最初、小石か何かを轢いて、それが車に当たったものだと思っていた。

 

 その直後、マークXの後部ガラスが、大きな音を立てて割れた。同時にその後方からパパパッと弾けるような音が聞こえ、目の前のフロントガラスに小さな円形のヒビが二つほど入った瞬間、ボンドはすべてを察した。

 

「伏せろ、金剛!」

 

 ボンドは叫ぶと、金剛の肩をつかんで前にかがませた。ボンドはかがんだ自分の頭上を銃弾がかすめ、フロントガラスを貫くのを感じた。追手はあの軽トラだけじゃなかった。もう一台いたんだ!くそっ、タイガーの助けはまだか!?前みたいに電磁石付きのヘリコプターであいつらを吊り上げて、東京湾に叩きこんでくれるんじゃないのか!?ボンドは再び、タイガーに連絡を取った。

 

「タイガー!軽トラは片づけたが、今度は別の追手から銃撃を受けている!今は熊野町ジャンクションを過ぎたあたりだ!早く助けを……」

『いまそっちに向かわせているところだ!あともう少しでつくはずだ、何とか耐えてくれ!』

 

 あともう少しっていつになるんだ!?銃弾を躱すために屈みながら車を運転していたボンドは、周りが突然暗くなったのを感じた。ボンドが顔を上げると、暗がりの中にオレンジと青の光が、前から来ては後ろへとかっ飛んでいった。トンネルに入ったか……このままでは、タイガーの助けなぞ望めるはずがない。

 

 首都高速中央環状線の大井ジャンクションと熊野町ジャンクションの間にある、この山手トンネルは最長区間を走り抜けるならばおよそ15分はかかる世界最長の高速道路トンネルである。

 もちろん間に一般道への出口はあるものの、出たら出たで一般車の通行が多い山手通りに出るため、先ほど通った国道17号のように逃避行には向かない。その上、ビル街や高架の立ち並ぶ一帯であるため、タイガーのヘリコプターもそうやすやす降下できない。一般道を猛スピードで飛ばす危険の中で、来られないかも分からない助けを待つのは得策ではないだろう。

 大井ジャンクションまでの間に、スピードを保ちつつ地上に脱出する道は二つ。首都高速新宿線に続く西新宿ジャンクションと、同じく渋谷線に続く大橋ジャンクション、そのどちらかである。

 

 金剛の砲で敵を撃つという選択肢もあるが、あの威力ならば確実に命中させなければトンネル内を破壊、最悪崩落の危険もある。そうなってしまっては、さすがのタイガーでも尻拭いはできない。さらには金剛を銃弾の雨にさらすことにもなる。彼女は艦娘ではあるが、艤装を外せばただの娘だ。艦娘が普通の人間より耐性があるとしても、命の危険につながる可能性は大いにある。敵をやるならば他のやりかたを考えた方がよさそうだ。

 

 ボンドは頭をあげると、そのままサイドミラーを覗きこんだ。マークXの真後ろを、黒塗りのハイエースが追ってきている。この車に追いつくなんて大したものだ。おそらくエンジンを改造してあるのだろう。

 そうボンドが考えた瞬間、ハイエースの窓からG36Cアサルトライフルを持った手が伸び、火を噴いたと同時にサイドミラーが砕け散った。片腕であのアサルトライフルを扱うとは、なんて屈強な男だ!

 

 こうしてボンドと金剛の乗ったマークXは、オレンジと青の照明が曳光弾のように前から飛んでくる、この長い暗闇の中を、鉛玉に追い立てられながら通り抜けていくのだった。



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3-2.The Longest Tube (後編)

「頭を上げるな!まだ伏せてるんだ!」

 

 首都高速中央環状線を進んでいたマークXとハイエースは、エンジン音と銃撃の喧騒の中、西池袋出口付近を猛スピードで通り過ぎていった。ボンドは座席に屈みながらハンドルをさばき、一般車を次々と抜かしていった。金剛に目をやると、彼女も助手席で頭を下げて屈んでいる。

 さあ、これからどうしようか。一番いいのは、この先のジャンクションのどれかで地上に出て、高速道路上でタイガーの救出を待つことだ。早くても数分で西新宿ジャンクションには着けるだろう。それまでに……

 

「ジェームズ!」

 

 金剛の叫びにボンドが頭を上げたその時、ボンドの眼前、同車線に一般の大型トラックが入ってきた。しまった!ボンドがほとんど反射的にブレーキを踏んだその瞬間、右車線を進むボンドのマークXに、左側から強い衝撃が来たのを感じた。金剛の小さな悲鳴が聞こえる。

 

 ボンドはとっさにハンドルを切り、壁際スレスレを進むマークXを車線に戻した。やりやがったな!金剛は大丈夫か?ボンドは助手席側に目をやった。

 そこに金剛の姿はなかった。

 代わりにボンドの目に入ったのは、大きく開かれた助手席のドアと、その向こうで悪魔の大口のごときスライドドアを開けたハイエース、そしてそこで蠢く、いつかどこかで見た大男の姿だけであった。

 

「ジョーズ……!」

 

 ボンドはそうつぶやきながら懐からワルサーPPKを取り出したが、それよりも大男の方が一瞬早くG36CアサルトライフルをマークXに浴びせ始めた。その姿はまるで普通の身長の人間がUZIやMAC10などのサブマシンガンを扱うかのようであった。ボンドはマークXの速度を落とし、ライフル弾の直撃をかわした。すると大男は待っていたと言わんばかりに、ハイエースの乗り口からマークXのボンネットを思いきり蹴りつけた。

 その力は非常に強く、マークXの進路を大きく右にずらすほどだった。ずれた進路のその先は、中野長者橋出口に向かう車線だ。ボンドがハンドルを切る間もなく、傷だらけのマークXは出口へと消えていった。

 大男は、マークXが消えるのを見届けながら、銀色に輝く歯をむき出しにして笑みを浮かべた。

 

 

 

 ボンドが出口から地上に出ると、西新宿方向の道をじっと睨んだ。この時の山手通りの通行量は若干多めだった。ボンドはクラクションを鳴らしながら、できるだけ地下のハイエースとの距離を離さないように走り続けた。そして同時にスマートフォンを取り出すと、すぐさまタイガーとの連絡を取った。

 

「タイガー!金剛が攫われた!奴らはジャンクションから新宿線に出る気だろうか、それとも……」

『落ち着けボンド、こっちは今、金剛の位置を把握してる……』

 

 タイガーからの報告を聞きながら、ボンドは金剛と、あの大男……「ジョーズ」のことについて考えていた。

ジョーズは、かつてボンドとも何度か戦ったことのある、フリーランスの殺し屋であった。この男の武器は二つ。その高身長からくり出される怪力と、鋼鉄製の入れ歯である。この入れ歯は相当鋭く頑丈で、彼の顎の力と組み合わせれば鉄の鎖を食いちぎることも簡単な代物である。その上、体も非常に丈夫な、まさに怪物と呼ぶにふさわしい男であった。

 あの男と、まさかこんなところで再開するとは……ボンドの心中には、厄介な相手が来た不安と、かつての友人に会ったかのような奇妙な感慨深さがぐるぐると渦巻いていた。

 

 

 

 一方金剛は、ハイエースの後部で目を覚ました。金剛はハイエースがマークXに横付けされたその時、ジョーズに腕を掴まれるとそのままハイエースの中に投げ込まれ、気絶してしまっていたのだ。

 ハイエースの中には、金剛以外に三人の男がいた。一人は運転手、一人はサングラスをかけたスーツの男、そしてジョーズだ。スーツの男は、誰かに電話をしていた。

 

「指示通り、女は確保しました」

『……ご苦労。あまり雑に扱うなよ。艦娘は利用価値がある。そのまま高速に乗って本部に戻れ』

 

 私のこと、艦娘と分かってて誘拐した……?

 金剛は電話の向こう側の男の声を聞くと、ふとそんな考えをよぎらせた。そして、まだ艤装入りカバンをかけていたことに気付いた金剛は、スーツの男が電話を終わった瞬間、すぐさま立ち上がると男たちに砲を向け叫んだ。

 

「Freeze!動くと撃ちますよ!」

 

 その瞬間、ジョーズたちも金剛に銃を向けた。ずっと気絶したふりをしても良かったが、この男たちに何をされるかわからない。その危機感が、金剛をこんな行動に駆り立てた。

 

「これの威力は、あなたたちもよく見たはずデース!さあ、全員まとめて吹っ飛ばしてあげましょうかァ!?」

 

 金剛は威勢よく啖呵を切ったが、こんな狭いところで撃っては自分の身も危険だ。だが金剛は、万が一の時はそうしなければならないという覚悟はできていた。

 

 

 

 ボンドの飛ばすマークXがまもなく西新宿ジャンクションに差しかかろうとしたその時、タイガーからの連絡が来た。

 

『ボンド!奴らは地上に出ていない。そのままトンネルをまっすぐに進んだぞ。私の使いも、新宿線に黒のハイエースは見ていないそうだ』

「タイガー、感謝するよ」

 

 どうやらタイガーによれば、もうこのあたりに彼の使いであるはずの、大型ヘリは到着していたようだ。しかしボンドには、ヘリコプターの姿はどこにも見えなかった。姿が見つからなくても、せめてプロペラの音くらいはしそうなものだが……

 ボンドは気持ちと共にギアを切り替えると、中央分離帯に乗り上げ、赤信号をすり抜け、高速トンネルの入口を求めてひたすらマークXを飛ばした。

 

 

 地底トンネルの左車線を進むハイエースの中では、未だ膠着状態が続いていた。ただ、ジョーズ達の方は、少しずつではあるが、じりじりと金剛に近づいていた。

 しかし、金剛は車の隅に追いつめられるばかりだった。覚悟はしているとはいえ、いざ撃つとなるとどうも踏ん切りがつかない。これでは、男二人が金剛に飛びかかるのは時間の問題だ。

 Shit...こんな狭いところで撃てば私も無事じゃ済まないわ……撃つときはジェームズ、せめてあなたの顔を見て……

 

 

 

 その時、金剛の隣にあるバックドアのガラスが弾けるような音と共に割れた。ジョーズ達は何があったのかと一瞬怯んだ。同時に金剛の耳に、天啓のごとくあの聞きなれた声が飛びこんできた。

 

「金剛!トンネルの壁に向けて空砲を撃て!空砲だぞ!」

 

 金剛はとっさにその声に従い、左側の窓を艤装で割ると、そこから艤装を突きだした。

 

「全砲門、ファイヤー!」

 

 金剛は、砲門をハイエースの左斜め後ろに向け、空砲を撃った。空砲とはいえどもその威力は強く、反動でハイエースの車体は大きく右に動き、右タイヤを脱輪させた。ハイエースはそのまま大きくバランスを崩し右に進路を変えると、トンネルの右側の壁に激しくぶつかった。勢いよく運転席のエアバッグが炸裂したが、なおもハイエースは車体を壁にこすりながら進み始めた。

 ハイエースはは大きく揺れ、金剛は今まさに彼女に飛びかかろうとしていたスーツの男とともに、せまい車内を洗濯機の中のようにコロコロところげ回った。ジョーズはその時、バックドアのガラスを割った者に銃弾を浴びせんと右のスライドドアを開けて外を覗いていたため、あわれなことにドアの外に放り出されてしまっていた。

 

「大丈夫か金剛?早くこっちに来い!」

 

 その声に起き上がった金剛が左のドアの外に見たのは、傷だらけのマークXと、その窓から上半身を出し、手を差し伸べるボンドの姿だった。ボンドが初台南入口からトンネル内に戻った時、ハイエースとは相当な距離が開いていたものの、そこから全力で走らせた結果なんとか追いついたのだった。

 

 金剛は起き上がると、すぐさまボンドのもとにつながるスライドドアを全開にした。そして、ボンドが車を寄せると、金剛は火薬の切れた艤装をかなぐり捨て、ボンドのもとに飛び出した。

 

 その時、金剛は何者かが自分の足を掴むのを感じた。スーツの男だ!ジャンプの勢いをなくした金剛の目の前に地面が迫る。

 ボンドはとっさに手を伸ばし、金剛のスーツの襟を掴んだ。そしてマークXをハイエースに寄せながら、猫を持ち上げるように金剛の上半身を車内に引き込んだ。ボンドにとって片手で金剛の体を持ち上げるのはかなり大変だった。運転席に引き込まれた金剛は、もう二度と離すまいとするように、両腕をボンドの首に巻きつけた。

 

 ボンドが前に目を向けると、大橋ジャンクションが迫っていた。ジャンクションはY字の分かれ道になっており、ハイエース側が渋谷線への車線、ボンド側が環状線への車線になっている。このままでは金剛は、車線の間の柱に叩きつけられてしまう。

 

 スーツの男も金剛を放す気はないようだし、ハイエースの運転手も前かがみになっており、生きているのか死んでいるのか分からない。少なくとも、環状線側にハンドルを切ることはないだろう。このようにボンドが様子をうかがっているうちにも、金剛の脇腹めがけ、柱はどんどん迫ってきていた。

 

 考えている暇はない!ボンドはワルサーPPKを手にすると、スーツ姿の男に向けて「00」のライセンスを行使した。乾いた破裂音と共に、スーツ姿の男はその場にあっけなく崩れ落ちた。そして、ボンドは左手でハンドルを切りながら、柱の直前で金剛を車内に引き込んだ。金剛の足にすがるもののいなくなったハイエースはそのまま、渋谷線に続く車線へと消えていった。

 

 ボンドの首につかまっていた金剛は、車内に引きこまれてもその腕を離そうとしなかった。

 

「ジェームズ!」

 

 ボンドはそんな金剛を優しく引き離し、助手席に座らせた。

 

「続きは鎮守府に戻ってからだ」

 

 しかし、ボンドは先ほど金剛を車内に引き込んだ時、車が大きく揺れたことに気がつかなかった。

 

 

 

 ボンドは、まだ落ち着かない頭で、この後の様々なことに思いをめぐらせていた。このトンネルを出るまでは、あと7、8分といったところか。あと金剛は大丈夫だろうか。見たところ問題はなさそうだが……あと、タイガーにこれまで起きたことを報告しなければ。ああ!自分でも考えがまとまらん!一旦落ち着こう。

 

 しかし、ボンドにはそんなことをしている暇はなかった。突然、二人の頭上からメリメリと金属が曲げられるような音が聞こえてきたのだ。二人が上を見ると、サンルーフが50センチほど、まるで缶詰を開けたかのように剥がされていたのだ。

 

 そして、その隙間から、ボンドたちをジョーズが睨んでいた。

 ジョーズはハイエースから放りだされた後も、何とか側面にへばりついていたのだ。そこからハイエースの屋根に上がると、あの出口ギリギリのところでマークXに飛び移ったのであった。

 

「足元に伏せるんだ!金剛!」

 

 ボンドは悲鳴を上げる金剛に指示すると、自分はタイガーに連絡を取った。

 

「タイガー!ハイエースはやったが、今度はまた別の問題だ。トンネルを抜けたところに使いをよこしてくれ。大至急……」

 

 ボンドがここまで言ったところで、ジョーズはスマートフォンを持ったボンドの腕に掴みかかった。そして、ボンドの腕からスマートフォンを奪い取ると、まるで板チョコでも食べるかのように、その牙でバリバリと噛み砕いてしまった。

 

「そんなの食ったら腹壊すぞ」

 

 恨みがましく言ったボンドに、ジョーズはなおも襲い掛かった。ボンドはワルサーPPKを手にすると、ジョーズに向け、狙いも定めず撃ちまくる。しかし、弾倉内の残弾5発は、いずれもジョーズに対して牽制以上の威力を発揮しなかった。

 ボンドが全弾を撃ったことに気付いたジョーズは、ボンドの左手首を掴むと、そのまま口元に持っていった。ボンドは右手でジョーズを引き離そうとしたが、ジョーズの怪力にはかなわない。このままでは、ボンドはヤクザでもないのに指を詰めることになってしまう。

 

 金剛も、そんなボンドの危機に気付いていないわけではなかった。金剛はジョーズの手の届かない助手席の足元にうずくまってボンドとジョーズの攻防を固唾を飲んで見守っていた。せめて、艤装じゃなくてもいいから、何か武器があれば……金剛はあたりを見回す。すると、金剛は自分のお尻のあたりに、赤い棒のようなものがあるのに気付いた。

 手に取ってみると、それは発煙筒だった。金剛がサンルーフを見上げると、今にもジョーズがボンドの指を食いちぎろうと大口を開けている。私がやるしかない!

 金剛は発煙筒に点火すると、そのままジョーズの口の中に煙の出る部分を突っこんだ。目を丸くさせて、鼻の穴や口からモクモクと真っ赤な煙を噴き出しもがきだすジョーズ。ようやくジョーズの怪力から逃れたボンドは、左手首を押さえながら息をついた。

 

「よくやったぞ金剛、そんな武器も持っていたのか」

「イエース!新兵器の発煙弾デース!ジェームズ、これからも私の活躍に、期待してネ!」

「うまく煙に巻いたな」

 

 ボンドが前を見ると、はるか向こうに白い光が見える。もうトンネルの出口も近い。ボンドは希望を見たかのように、マークXを飛ばした。

 

 ジョーズは猛スピードで走るマークXにしがみつきながら、発煙筒を噛み砕いた。今の発煙筒には、さすがのジョーズも怒ったのだろう、半開きのサンルーフに手をかけると、そのまま立ち上がり一気に引きはがし始めた。

そしてついにサンルーフがほとんど剥がされてしまったその時、一瞬にして周りがパッと明るくなった。ついに、ボンドたちは山手トンネルを抜けたのである。

 

 その時ボンドの耳に、小さなプロペラの音が聞こえてきた。タイガーのヘリコプターか?いや、それにしては音が小さいが……その時、金剛のボンドを呼ぶ声がした。

 

「ジェームズ、上を!」

 

 ボンドはその声に、金剛と共に空を仰いだ。

 剥がされたサンルーフの向こうにボンドが見たのは、勝ち誇ったようなジョーズのドヤ顔と、直径2メートルはあろうかという、巨大な電磁石付のドローンだった。

 これが「タイガーの使い」だったのか。それを見たボンドは、とっさにわざと素っ頓狂な声を上げた。

 

「あっ、あれはなんだぁ!」

 

 その声に反応したジョーズは、ボンドの思惑通り上を見た。同時に、ドローンの電磁石がジョーズの鋼鉄の歯を引き寄せ、ガッチリとくっつけた。そのままゆっくりと浮上するドローン。そのドローンと共に、もがきながら空に昇っていくジョーズをボンドと金剛はじっと見ていた。ボンドにはそんなドローンの雄姿に、「どうだ!これぞ現代日本の最新秘密兵器だ!」と誇らしげに声を張り上げるタイガーの姿が見えた。

 

 こうしてジョーズは、頭上に巨大なプロペラをつけたまま、どこかに飛んで行ってしまった。おそらく東京湾のど真ん中か、公安調査局あたりでも連れて行かれるのだろう。その様子を、金剛はサンルーフから体を出して、風に髪をなびかせながらいつまでも見送っていた。

 

「ところでジェームズ、あの巨人は一体何者なんですか?」

「空を自由に飛びたかった男さ」

「Really!?」

 

 金剛はそう驚きの声をあげた瞬間、はるか遠くでドローンが急にバランスを崩し、落ちていくのを見た。ドローンにジョーズの手が届いてしまったのだろう。しかし金剛には、そんなことは関係なかった。こうしてボンドとお互い無事のまま、日の暮れかけた時間帯の高速道路をドライブできるのだから。

 

 

 

 ちなみに翌週の東スポに、頭にプロペラをつけた大男がビッグサイトに突っこみ、そのまま行方不明になったとの記事が載りネット界隈を騒がせたが、すぐに忘れ去られてしまった。




《登場人物出典》

・ジョーズ……『私を愛したスパイ』『ムーンレイカー』(映画版第10作、11作)に登場。
       キャストはリチャード・キール。
       『ゴールデンアイ』や、『エブリシング・オア・ナッシング』
       などのゲームにも敵役やマルチプレイのキャラで登場。


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4.Under the Hibiscus flower

 一面に広がるサンゴ礁の海。色とりどりの熱帯魚が遊んでいるのも相まって宝石箱にも形容されるその別世界を、その世界にはいかにも不釣り合いな浅黒いものが悠然と泳いでいった。それはしばらく泳いだのち、あたりをゆったりと見回すと、自分がその世界には邪魔者だと悟ったのか、そのまま浜の方へと引きかえしていった。

 

 エメラルドグリーンに輝く海から砂浜にあがった海水パンツ姿のボンドは、シュノーケルを外すと、先ほどまで自分が泳いでいたサンゴ礁の海を眺めた。ボンドには、この美しい海に数多の化け物がひそんでいることが一瞬信じられなくなった。まあ、この海の住人にとっては、自分のほうが化け物であっただろうが……

 

 沖縄。この悠久の時の流れる島に、ボンドと金剛は来ていた。那覇に降り立った二人は、そこから車で30分ほどの、賑わいを見せるリゾートビーチで、つかの間の休みを楽しんでいたのだ。

 

 ボンドが海を眺めていると、海中から突如まぶしいビキニ姿の金剛が現れ、ボンドに満面の笑みを向けながら無邪気に手を振った。これじゃあ超弩級戦艦じゃなくて、まるで超弩級潜水艦だな。ボンドもそんな金剛を、海の中に引っ張りこみたいような気分になっていた。

 

 

 当然、ボンドたちはただ水遊びをするためだけにはるばる沖縄までやってきたわけではない。

 

 

 

 先日の都内のカーチェイスの後、ボンドは士官の制服に着替え、タイガーや叢雲、そして普段着の金剛と共に、Qからの報告を聞くべく開発部に向かった。タイガーとボンドは、開発部に着くまでの間、今山海運への潜入の結果についてずっと話していた。

 

「……というと、今山海運本社には、深海側につながるものは何も見つからなかった、というわけだな?」

「ああ。まあこっちも、何が深海側につながるものなのかは、よく分からないけどね」

「金剛は?」

「私も特ににおかしいものは見なかったデース。でも……」

「何だ?」

「私が攫われた時、あいつらは私を艦娘と知って攫ったみたいでした!」

 

 金剛はタイガーの目を見て言った。

 

「タイガー、このことはやつらが深海側の……」

「何とも言えんな。艦娘の存在は公表されていないが、その存在を知る者は別に少なくない。それに、君らを追ってきた奴らが今山の回し者と言う証拠もないだろう。

 もっとしっかりした確証があれば、適当な理由をでっちあげてガサ入れにでも踏み込んでやれるんだが……」

「まあ、Qの発表に期待しましょうか」

 

 

 

 開発部に着いた一同を迎えたのは、机の前で書類をまとめたファイルをかかえたQだった。ボンドは、自分のさきほどまでの苦労に見合った、驚くべき事実がQの口から語られるのを、内心期待していた。しかし。

 

「そこそこに良いことをして、そこそこに悪いことをしている、いたって普通の企業だったよ」

 

 これがQの報告の第一声だった。ボンドはあまりにもあっさりと語られた面白みのない結果に拍子抜けしてしまったが、彼が落胆の表情を見せるのは少々早すぎた。

 

「ただ一点を除いてはね」

 

 そのQの一言に、ボンドはQにギロリと視線を向けた。Qは机上のコーヒーカップを手に取りそのまま口に運ぶと、こう続けた。

 

「数日前に中国から日本に来た今山海運の船が、途中に立ち寄った沖縄で、ある代物を大量に降ろしていたんだ。何だと思う?」

 

 そう言いながらタイガーにファイルを渡すQ。ボンドはQの必要以上に勿体ぶった言い方にうんざりしていたが、資料を確認しないわけにもいかないので、タイガーの開いたファイルを覗き見た。

 

「化学肥料だ。さらにさかのぼって見てみたら、船を変えながら週に数回の頻度で運びこまれていたよ」

 

 ファイルの中の表には、ある船における日ごとの取り扱い品目の一覧が書かれていた。その中に、「化学肥料」と書かれた欄があった。積荷の重量を見ると一回に降ろされる量としては至って普通だったが、これが沖縄に週数回降ろされると考えると、明らかに過剰供給になる量だ。

 

「さあ、これはどういうことだろう。僕としては、サトウキビ農家を全力で応援してるだけであってほしいけどね」

 

 Qがサラリと言ったジョークの後に、一人だけ何もわかっていないような顔の金剛がつぶやいた。

 

「……肥料って、お花や野菜とかを育てる、あの肥料ですよね?それがいっぱいあって、何が問題なんですか?」

 

 そんな金剛の疑問に、叢雲はクールに答えた。

 

「化学肥料に含まれる硝酸アンモニウムは、火薬の原料になるの。だから量によっては、兵器への転用の可能性を考えなければならない代物なのよ。……知らなかったの?」

「そんなこと知らなくても生きていけるデース!」

 

 金剛と叢雲の間でそんなやりとりがなされていた時、ボンドの脳裏には、今山海運本社で見た海上輸送ラインの図がよみがえっていた。その図によれば、アジア諸国から日本に来るへのいずれのルートも、必ず沖縄を経由していた。そしてそれらの船を、深海側が襲わないということは……

 

 そこまでボンドが考えを進めた時、タイガーが声を張り上げた。

 

「よし、ボンド!次の行先は決まったな!今山海運と深海棲艦をつなげる手がかりが、沖縄にあるに違いない。数日のうちに沖縄に向かってくれ。現地での協力者も、こちらで手配しておこう。詳細は追って知らせるよ」

 

 沖縄か……過酷な戦いになりそうだな。ボンドは、まだ見ぬ南国に期待と不安の念を抱いた。

 

 

 

 ボンドと金剛は水着の上にパーカーを羽織った格好で、ビーチからはさほど遠くないヨットハーバーを訪れていた。二人は、この港で沖縄での協力者と合流するようタイガーから指示を受けているのだ。サングラスをかけた金剛は、ボンドに静かに話しかけた。その声には、若干の緊張の色があった。

 

「ジェームズ、ここでは一体誰が待っているんですか?」

「分からん。公安の関係者かもしれないし、もしかしたら艦娘かもな」

 

 そんなことを言ったボンドの肩に、突然ガツンと衝撃が走った。どうやら誰かがすれ違いざまにぶつかってきたようだ。振り向いたボンドの瞳に入ったのは、黒髪に赤い髪飾りをつけた、ホットパンツ姿の少女だった。

 

「うわっ、と……気をつけてよね!」

「いや、すまなかった」

 

 少女はサングラスをかけ直すと、そのまま立ち去ろうとした。

 

「あ、ちょっと君!」

 

 呼び止めたボンドに、少女は再び振り向いた。ボンドが少女を呼び止めたのは、タイガーから協力者が金剛と同じサングラスをかけていると聞いていたからだ。もしかしたら、サングラスをかけているのは仲間であるという合図だけでなく、「この娘は艦娘である」という合図も兼ねている可能性がある。そうボンドは考えたのだった。

 

「この辺に、大きな港はあるかな?」

「ここも大きな港よ。何しに行くつもり?」

「船でも見ようかと思ってね」

「ここでも、船なら嫌ってほど見れるわよ」

「いや、ヨットには飽きたから、別の船を見たくなったんだ」

 

 そう言ったボンドは、サングラスの向こうの少女の瞳に鋭い眼差しを送る。すると少女はボンドの眼差しに答えるようにサングラスを外し、二人にその凛々しい瞳を見せた。

 

「分かったわ。案内するからついてきて」

「ありがとう、嬉しいよ」

 

 先を行く少女についていこうとするボンドの腕に、突然金剛がつかみかかった。金剛はどうやらヤキモチを焼いているようだ。だが無理もないだろう。先ほどの協力者との合言葉でのやりとりは、誰が見てもボンドがナンパしているようにしか見えなかったのだから。

 ボンドは金剛に合言葉でのやりとりだと説明しその頭を撫でたが、金剛はふくれっつらのままだった。どうやらまだ半信半疑でいるらしい。まったく、タイガーもとんでもない合言葉を考えてくれたものだ。

 

 ボンドたちは少女に連れられ、一隻の中型ヨットのもとに来た。そして少女は首に下げたホイッスルを口に加えると、甲高い音で一定のリズムを奏でた。モールス信号か、とボンドは直感した。すると、ヨットの中からTシャツにジーパン姿で、頭に赤いバンダナを巻いた日本人青年が現れた。その姿は、まるで地元の漁師の息子か、休暇中の大学生にしか見えなかった。青年はにこやかな顔で、ボンドに手を差し出した。

 

「沖縄本島鎮守府、提督の神崎健斗です。よろしく、ミスター・ボンド。詳細は全部タイガーさんから聞いております。彼女は僕の秘書艦、軽巡洋艦川内です」

「よろしくミスター・カンザキ。彼女は金剛。超弩級潜水艦だ。30分前までは」

 

 二人の提督は互いの秘書艦を紹介すると、ヨットに乗りこんだ。神崎提督は一見20代前半の青年だが、実年齢は30代を越えているという。ボンドは常々日本人男性は年の割に若く見えることが多いと感じていたが、彼の場合はそれが著しかった。たとえ日本人でも、見た目だけで彼の年齢を正確に当てられる者はいないだろう。年に似合わずハキハキした彼の性格も、若く見える理由の一つだと、ボンドは考えた。

 

 神崎提督に連れられるままボンドと金剛は彼のヨット「甚平丸」に乗りこんだ。と同時に、川内が船室の奥からエールビールを持ってきた。彼女はいつ着替えたのか、先ほどまでのホットパンツ姿から、赤装束と長いスカーフに身を包んでいた。その姿はまるで……

 

「忍者か?」

 

 その言葉に、神崎提督と川内は同時に頷いた。流石はタイガーだ、艦娘でも忍者部隊を作ってしまうとは。ボンドは妙な感心をしながら、川内に注いでもらったビールで神崎提督と乾杯をした。

 



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5.Welcome to My Naval District

 沖縄本島鎮守府に降り立ったボンドを出迎えたのは、訓練に励む艦娘たちの姿だった。大きな湾内はブイの仕切りでいくつかに分けられ、それぞれ砲撃、雷撃、対潜と、状況に特化した訓練が行われている。これを見ていると、ボンドの鎮守府での訓練がまるでお遊びのようであった。この様子を叢雲が見ていたら絶対に対抗意識を燃やし、

 

「ボンド、これを見て何とも思わない?これに懲りてあんたもちゃんと訓練のメニューを考えなさい」

 

などと嫌味を言われていただろう。まったく、自分でやる訓練のことくらい自分で考えればいいじゃないか。ボンドはそこにいない叢雲への文句を考えながら、今回の任務に同行しているのが、ここの訓練の様子を見て

 

「Wow!みんな頑張り屋さんデスネー!」

 

などと能天気に言っている金剛で良かったとつくづく思っていた。

 

「ここでは僕が海上自衛隊にいたころの訓練方法やタイガーのアドバイスを取り入れながら、艦娘たちそれぞれの特徴や自主性を重んじた訓練をしています。ミスターボンドの鎮守府ではどんな訓練をしているのですか?」

「うちでは基本的に、訓練のことはみんな艦娘たちに決めさせてますからね。ここと同じく、みんなのびのびと訓練に励んでますよ」

 

 神崎提督の問いかけに、ボンドは淡々と答えた。

 

 

 

 今回のボンドの沖縄行きに金剛が同行したのは、ボンドの護衛のためだけではなかった。金剛はタイガーから、ここ沖縄本島鎮守府の深海棲艦討伐に協力するように言われていたのだ。ここ沖縄本島鎮守府は、東シナ海に出没する深海棲艦との戦いの最前線だが、配属されている艦娘は軽巡洋艦や駆逐艦などの攻撃力に若干の不安がある艦が大半であった。勿論、戦艦など高い攻撃力を持った艦娘はいることはいるのだが……

 

「ミスター・ボンド、彼女が我が鎮守府所属の戦艦、大和です」

 

 神崎提督の指した先には、スラリとした背の高い、日傘を持った美女が立っていた。彼女はその手になにやら紙を持ち、あたりを見回していたが、ボンドたちの姿を見つけると頭を下げた。ボンドは彼女のお辞儀に対し深々と頭を下げた。

 

「彼女は非常に強力ですけど、あまり出撃しすぎると予算超過で山ほど始末書を書くことになりましてね……」

「だからといって、あまり箱入り娘にしても世間知らずになって良くないよ。なんなら私が彼女を……」

「ジェームズ!」

 

 金剛がボンドの脇腹を突っつくのを見て笑う神崎提督に、大和は指令書を渡した。

 

「ボンドさんの鎮守府から来たって子がお越しになりました。第三発着場で待っておられます」

「了解、ありがとう。ではミスター・ボンド、参りましょうか」

 

 

 

 第三発着場はコンクリート作りの建物で、まるでUボートのバンカーのようにボンドには感じられた。ひんやりとした空気の流れるその部屋の一角では、夕張が赤いファイルを手にボンドたちを待っていた。

 

「提督!お待ちしていました!」

「夕張か。Qはどうした?」

「徹夜でこれを完成させた後に、あとは私に任せるって言ったっきりグッスリですよ。だから私、一人で沖縄に来たんです」

 

 夕張はそう言いながら、隣にとまっている黒塗りのモーターボートに目を向けた。これがQの作った、特殊装備付のモーターボートである。金剛はモーターボートを見て目を輝かせた。

 

「Wow!これがジェームズの艤装ですねー!」

「ん、まあ、そんなところかな」

「これで一緒に出撃できますね!Greatデース!」

 

 はしゃぐ金剛を尻目に、ボンドはひらりとモーターボートに乗りこんだ。一緒に出撃できるだけで喜べる金剛と違い、ボンドはまだ喜べなかった。それも当然だろう。先日研究室でQがモーターボートと称するガラクタを見せられたボンドは、あのガラクタから作られたモーターボートがまともに動くか疑っていたのだ。

 とりあえず、乗りこんでも沈まないってのは分かったぞ。あとは実戦に耐えうるかどうかだ……

 一方、夕張は手元のファイルを見ながら、慣れない口ぶりで解説をしていた。

 

「えっと……まず、フロントガラスは防弾ガラスで、砲撃には数回耐えるようにテスト済みです。あとガラスには自動照準装置……開発部で私がかけてたあのメガネのやつ……がつけられていて、正面の砲と魚雷発射管と連動しています。あと、後部座席の下には、艦娘の艤装が収納できるスペースがあって……」

 

 そんな夕張の説明を無視して、ボンドはエンジンを始動させた。それを見た夕張は、あわててボンドに叫んだ。

 

「ああっ、提督ちょっと、まだ説明は終わって……」

「習うより慣れろ。それが私のモットーでね。行ってくるよ」

 

 そう言って一同に手を振ると、ボンドはまるでそのまま遊びに行くかのように外海にボートを走らせていった。

 

 ボンドはボートを走らせながら、潮風と水飛沫の爽快感に身をゆだねていた。スピードも緩急自在で、走らせていて非常に気持ちがいい。

 ボンドが兵装のスイッチを入れると、フロントガラスにヘッドアップディスプレイが表示され、照準や残弾数などさまざまな情報を映しだした。Qのやつ、なかなか面白いことを考えるじゃないか。

 Qのアイディアに気を良くしたボンドは、そのまま艦娘たちの訓練エリアへと走っていった。ボートに乗って突然現れたゴキゲンな英国人の姿に、訓練に励んでいた艦娘たちは皆面食らってしまい、茫然と見つめることしかできなかった。そんな艦娘たちの間をボンドのボートがくぐりぬけると、高く上がった水飛沫が彼女たちの服を濡らした。

 

「ちょっと飛び入り参加させてもらうよ!」

 

 ボンドは声を張り上げると、海上にずらりと並んだ的を見た。よし、まずは砲撃戦だ。ボンドはボートのエンジンをふかし、的の前を一気に駆け抜けていった。そして、その鋭い目で的を確実にとらえながら、フロントガラス前に装備された単装砲で次々と撃ちぬいていった。おお、これはいいな。艦娘たちもこんな感じで戦っていたのだろうか。そんなことを考えながら、ボンドは砲撃戦の教官をしていた川内に近づき、声をかけた。

 

「今の演習、評価は何点かな?」

「10点満点……Sです!」

「ありがとう、それじゃまた」

 

 続いてボンドがお邪魔したのは雷撃戦のエリアだった。ここでは艦娘が引いている標的に雷撃を行う、実戦さながらの演習が行われている。ボンドはここでも先ほどと同じように一声かけると、そのまま的に向けてボートを進めていった。そして、標的に狙いを定めると、ボートの船首から魚雷を撃ちこんだ。魚雷は海面に航跡を描くと、

その先の標的を木端微塵に吹き飛ばした。ボンドは一撃離脱戦法のように、ぐいっと舵を切ると、艦娘たちに手を振りながらそのまま雷撃戦エリアを後にした。

 そしてそのままボンドは対潜エリアにお邪魔したのち、意気揚々と第三発着場に戻ってきた。その表情はまるで、思いっきりレジャーを楽しんだ後のようであった。

 

「素晴らしいよ、夕張!帰ったらQにそう伝えてくれ!」

 

 しかし、そんなボンドの表情とは逆に、発着場で待っていた一同は浮かない顔をしていた。皆ボンドが帰還時にあげた水飛沫でビショビショに濡れてしまっていたのだ。

 

「あなたがいるといつもQが機嫌が悪い理由、分かった気がします」

 

 夕張のいかにも機嫌悪そうなその発言に、ボンドははにかみながら頭を掻いた。

 

 

 

 その日の晩。

 ボンドと神崎提督は、海を臨むすだれ張りのあずま屋で、沖縄料理をつまみに泡盛を飲みかわしていた。両者のラフな服装もあり、その様子はどう見ても外国人観光客と話しているバイトの兄ちゃんにしか見えないのだが、話している内容はとても深刻なものであった。

 

「……というと、沖縄の今山海運倉庫が怪しいと?」

「ああ。明日明後日中に調査をしようとは考えている。ここからは……」

「南に車を20分ほど走らせたところです。明日詳しい場所をお教えしましょう。あっ、と」

 

 神崎提督は泡盛の瓶を手に取り、ボンドに見せた。ボンドは自分の空のグラスを差し出すと、泡盛のおかわりを注いでもらう。

 

「あっ、どうも。それで、そっちはどうだ?明日明後日あたりは」

「沖縄近海一帯の一斉巡回をかけようかと考えてます。艦隊を四方に分散させて。こちらとしても小競り合いばかりではなく、そろそろ敵の拠点を見つけて叩かなくてはいけませんから」

「私の方からも、倉庫の調査で何か分かったら教えるよ」

「よろしくお願いします。おや……?」

 

 ボンドが神崎提督の視線の方向に振り向くと、東屋の柱のかげに金剛が立っていた。どうやら艦娘たちの食事会も盛り上がりのピークを過ぎ、落ち着いてきたらしい。しかし金剛は、いつもと違いどこか浮かない顔をしていた。神崎提督は明るい声を張り上げて金剛を呼んだ。

 

「なんだ、君か!おーい、どうだ、飲めるなら……」

「いや、彼女は私にだけ用があるみたいだ。宴に入りたいときは、彼女は自分から入ってくる」

「そうですか……」

「それじゃ、ちょっと失礼」

 

 ボンドは落ち着いた様子で神崎提督を制すると、畳から立ち上がり金剛のもとに歩いていった。

 

 

 

 あずま屋を離れた後、ボンドは金剛とともに鎮守府近くの海辺を歩いていた。そんな二人を照らすのは、煌煌と輝く鎮守府の明かりと、やわらかな三日月の明かりだけであった。波の音しか聞こえない空間の中、まず口を開いたのは金剛だった。

 

「ジェームズ……私、今まで感じたことがないくらい不安で……」

「えっ?」

「何が不安なのか分からないデスけど……その……」

 

 俯く金剛に、ボンドはなんとか勇気づけてやらなければと考えていた。明日からの戦いは、これまで金剛が経験してきたような普通の深海棲艦との戦いにはならないのではないかと、彼女も薄々感じているのだろう。先日の東京でのカーチェイスで、敵に攫われかけたことを考えれば、金剛の不安ももっともだ。

 明日からは金剛とは別行動になることも、彼女の不安を大きくしているのだろう。明日からの戦いがどうなるかは自分にも分からないが、このままでは金剛は普段通り戦えそうにないのは確実だろう。

 

「金剛、落ち着いて聞いてくれ」

 

 そう言ってボンドは、金剛の髪を撫でた。

 

「明日がどうなるかなんて、誰にもわからないさ。この私にだって分からない。それに、何事も準備をしっかりした後は出たとこ勝負だよ。日本ではこう言うんだったかな?『人事尽して天命を待つ』。心配することはないさ」

 

 そう言ってもなお、金剛はどこかさみしげな様子を見せていた。

 

「それに、戦う者というのは、みな大切な人とは離れたところで戦うものさ。そうじゃないと、絶対に生きて帰ってまたあの人に会おう、って気持ちが薄れてしまう。それは、今も昔も、どこの国でも同じことだ。もっとも、絶対に生きて帰れない中で、そのことを思いながら戦った人たちもいたわけだが……そうだ」

 

 ボンドはポケットの中から何かを取り出すと、金剛の手に握らせた。金剛が手のひらを開くと、そこにはボンドがいつも使っている9ミリ弾の実包があった。

 

「お守り代わりになるかは分からないが……持っていたまえ」

 

 金剛はそのまま手を握りしめると、ようやくいつもの笑顔をボンドに見せた。

 

「さすが紳士の国、英国の軍人さんネ……Thank you, ジェームズ!これで私も天下無敵デース!」

 

 その笑顔を見たボンドはホッとした。しかし同時に、ボンドは今言った金剛の一言に、ある重要なことを思い出した。

 

 それは、自分が今、命令で日本に来た「英国海軍中佐ジェームズ・ボンド」で通っていることである。つまり、ボンドのことを英国諜報部員だと知っているのは、鎮守府内ではタイガーと彼の関係者とQ、そして唯一自分から正体を明かした叢雲だけなのだ。他の人間や艦娘、そして金剛にさえも、ボンドが「007」であるとは知られていない。

 もしボンドの正体が英国のスパイであったことが分かれば、艦娘たちはボンドを必要以上に警戒し、最悪の場合英日合同の対深海棲艦作戦の継続が不可能になってしまうこともありうる。

 

 金剛は自分を「007」であると知らない。彼女にとって俺は「日本に出向した英国海軍中佐ジェームズ・ボンド」でしかない。もし金剛が俺のことを英国の犬と知ったとしても、同じ笑顔を向けてくるだろうか……。

 

「Hey!今度はジェームズの方が不安になったデスか!?」

 

 ボンドは金剛の明るい声で我に返った。どうやら変に深刻な顔になっていたようだ。金剛も、そんな自分の顔を見て、今度は自分が励まさなければと思ったのだろう。健気な女だ。

 

「あ、ああ、そうかもしれないな。よければ今夜は……一緒にいてくれないか」

「...Of course!」

 

 少なくとも今はそのことを考えるときではない。そうボンドは思いながら金剛に口づけた。

 



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6.Agent Under Fire

 〇一三〇時。

 

 ボンドは監視カメラや明かりを避けながら、フェンスの金網を切り、その奥へと入っていった。行先は、今山海運沖縄集積所。この大型倉庫群に、ボンドは単身乗り込んだのだ。

 

 これらの倉庫は一見なんの変哲もない普通の建物にしか見えない。しかしボンドが昼間に視察したところ、一帯は厳重な警備で守られており、その上警備員の脇に妙なふくらみがあるのを確認した。大きさからして、ベレッタM92あたりの拳銃だとボンドは考えた。日本の、しかも普通の警備員がそんな代物を持っているなど普通では考えられない。それだけでも、怪しさは五割増しといったところだ。

 

 両側にコンテナの立ち並ぶ中をくぐり抜けたボンドは、そのまま倉庫の陰へと駆けていった。そして倉庫の壁にダクトを見つけると、そこから中へと潜りこんだ。

 

 これまでの調査の結果からしても、ここに今山海運と深海棲艦を結ぶ何かがあるのは確実だ。その確証が掴めれば、神崎に報告して艦娘たちで一気に制圧しよう。いや、それよりもタイガーに報告して海上保安局あたりを動かしてもらう方がいいのだろうか……

 

 そんなことを考えているうちに、ボンドの目の前に赤い光が見えた。ダクトの蓋の隙間から漏れる、倉庫内の薄暗い明かりだ。ボンドは明かりに近づくとブラインドのようなダクトの蓋から部屋の中を覗いた。倉庫は海からそのまま入れるようになっており、小型の船舶なら倉庫の中で積み下ろしなどの作業ができるようだ。その様子は倉庫と言うよりも、潜水艦基地のようにボンドの目には見えた。しかし、赤い照明と薄暗さのため、倉庫内の全体像はよく分からない。

 

 ボンドは意を決してダクトの蓋を取り外し、倉庫の中に降り立った。真っ赤な照明が、何の変哲もない倉庫を毒々しい雰囲気で包み込んでいる。何の変哲もない小型クレーンや、ドラム缶や木箱などの物資でさえも不気味なもののようにボンドには見えた。ボンドがドラム缶や木箱を調べると、中は石油や火薬などの戦略物資であった。

 火薬?ボンドは訝しんだ。その原料になる肥料や硝酸がここに置いてあるならば、前日に降ろしたことで筋は通るが、すでに生成された火薬が置いてあるというのは、一体どういうことなのか。

 

 その時、倉庫内が水銀灯の点灯する音と共に一気に明るくなった。ボンドは反射的に、埠頭沿いの物資にかけられていたカバーの中に身を潜めた。その直後に、海に面した大きな扉がパトランプの回転と共にゆっくりスライドする。こんな時間に荷揚げをするとは、秘密裏に何かを運んできたのだろうか。そんなことを考えながらカバーから扉を覗いていたボンドは次の瞬間、我が目を疑った。

 

 

 扉から倉庫内に入ってきたのは貨物船ではなく、異形の怪物、深海棲艦の一団であった。ボンドが見ただけでも総勢十二隻の大船団である。その連中が入ってきたと同時に、倉庫の奥から紺色のツナギに身を包んだ男たちが姿を見せ、横付けされた深海棲艦たちに駆け寄っていく。

 

 ここはただの倉庫じゃない。深海棲艦の前線基地だ!今山海運は深海棲艦に他社の船を攻撃させて業績を上げ、逆に今山海運は深海棲艦に前線基地を提供する……。ここに来てようやく、今山海運と深海棲艦の密接なつながりが証明されたというわけだ。

 

 そしてツナギの男たちの後ろから、MP5k短機関銃を持った警備員と共に現れたのは、赤い瞳が不気味に輝く、異様に白い肌をした女だった。その女は深海棲艦のメンテナンスを始めたツナギの作業員たちに指示を飛ばしている。おそらくあの化け物どもの同類だろうが、ほとんど人間と変わらないじゃないか!もしかしたら、より人間に似た奴が、社会に潜んでいるかもしれない……あんな深海棲艦の存在を、タイガーたちは知っているんだろうか?

 

 

 この光景を写真に収めようと思い、ボンドは小型カメラを手にした。しかしその時、突如ボンドを覆っていたカバーが引きはがされた。振り向いたボンドの眼に入ったのは、あの時大空に飛ばされたはずのジョーズの姿だった。ボンドは念のためワルサーPPKを携帯していたのだが、小型カメラを持っていたおかげでとっさに抜くことができなかった。

 

 「こんなところまで飛ばされてきたのか!」

 

 恨み言のようにボンドは吐き捨てると、ジョーズの腕をかわすためとなりの木箱の山に登った。ボンドが深海棲艦や警備員たちの前に姿を現したと同時に、一気に倉庫内が騒がしくなった。ボンドは出入り口から一気に警備員が入ってくるのを見たが、それよりも今はジョーズを何とかしなければいけなかった。このあたりは危険物の集積場だし、下手に銃を撃ってはこないだろう。足を掴もうとするジョーズの頭を蹴りながら、出入り口に向かっていたその時……

 

 ボンドの頭を銃弾がかすめ、はるか背後の壁に穴を開けた。

 

 一気に背筋がゾクリとするのを感じたボンドは思わず動きが止まった。ジョーズに視線を向けると、ボンドと同じように目を丸く見開いて硬直してしまっている。二人はしばらく視線を合わせていた。

 

 「ヤバいぞ!」

 

 ボンドのその言葉と共に、二人は山から飛び降り、危険物の中をスタコラ逃げるように駆け出した。直後に二人のいた木箱の山は爆音を立てて吹き飛び、周りの箱やドラム缶も次々と、ボンドとジョーズを追いかけるように誘爆していった。クソッタレ!ここの警備員はジョーズ以上のアホばかりか!?

 そんな呆れにも近い感情を抱えながら、ボンドはワルサーを取り出すと、その怒りを一撃づつ警備員たちに叩きこんでいった。できるだけ物資にあたらないように撃っていたつもりだったが、ボンドはもうやけくそに近かった。ボンドはようやく出入り口にたどりついたが、その扉は鍵がかけられていた。ジョーズが鍵を壊そうとノブをひねる間、ボンドは倉庫の奥側にある広めの集積場に出て、別の出入り口を探していた。

 

 その時、ボンドの全身を熱波と衝撃が襲いかかった。ボンドは瞬時に荷物の中に屈んだものの、熱波の勢いは凄まじく、容赦なく埠頭の水の中へと叩きこまれてしまった。明らかに危険物いっぱいの倉庫に引火したレベルの爆発だった。ボンドは薄れる意識の中、この爆発を不審に思った。どういうことだ?まだ火は他の倉庫まで回っていないはず……

 

 

 

 

 

 〇九〇〇時。

 

 「タイガー、お久しぶりです」

 「神崎、現時点での報告を。今山海運の集積所で何が起こった?」

 

 那覇空港から出た車の中で、タイガーは神妙な面持ちで神崎に問いかけた。

 

 「昨夜〇二〇〇時ころ、集積所は突如大爆発を起こし、完全に消滅しました。警察は倉庫内の危険物が発火したとして調べを進めているのですが……」

 「何だ?」

 「調査の結果、発火地点が海沿いの第三倉庫なのに対して、爆心は内陸の第五倉庫だそうです」

 「第三倉庫から第五倉庫に引火したんじゃないのか?」

 「いえ、確実な情報ではないのですが、第五倉庫の残骸に、引火した形跡はないそうです。ただ、残骸からみて、火薬の精製設備があったことは確かです」

 「そうか。それでボンドはどうだ?」

 「昨晩集積所に潜入すると言って以来行方不明です。川内たちに集積所周辺を探させているのですが、出るのは深海棲艦の残骸やボンドより小柄な遺体ばかりで……あと集積所周辺からどこかに泳いでいく大男を見たという報告もありましたが、ボンドとは特徴が合わなかったため調査を中断しました」

 「やはりあそこは深海棲艦に関係があったという訳だな。となると集積所もボンドが爆破したか、さもなくば、証拠隠滅の為敵に爆破されたか……ってところだろう」

 

 

 

 

 

 

 タイガーが沖縄に降り立った翌日の一四〇〇時頃。

 

 どこまでも続く大海原を、戦艦を旗艦に駆逐艦を引きつれた艦娘の船団が進んでいた。旗艦を務めるのは、思いつめた形相の金剛だ。彼女は他の駆逐艦と違い、ボンドの行方不明を知った昨日の昼からずっと、休みもとらずボンドの捜索に繰り出していた。

 タイガーや神崎は交代するように忠告したが、金剛はそれを無視し続けた。そのため、今朝はもう二人とも金剛に何も言わなくなっていた。ボンドの遺体が揚がりでもしない限り、金剛は探し続けるだろう。そうタイガーは神崎に語った。

 ジェームズは生きている、きっと生きていて、この海のどこかにいる。今度は私がジェームズを助けなきゃ。その思いだけが金剛を強く奮い立たせていた。昼夜休むことなく出撃し、鋭い視線で水平線を360度見回すその様子に、数日前までのどこか弱気な金剛の姿はなかった。

 それでも時折航海中にふらつくその様は、駆逐艦たちをひどく心配させた。

 

 「金剛、無理してはいけません。休むことも任務ですよ」

 「大丈夫デース。心配しないで!」

 

 声をかけてくれた駆逐艦、浜風に、金剛は笑顔を向けた。

 

 「どの道そろそろ交代の時間なので戻りましょう。あなたも含め、みんなクタクタですし」

 

 その浜風の提言を聞いたその時、金剛の電探に大きなノイズが引っかかった。ただの深海棲艦のノイズではない。駆逐艦たちの電探にもこのノイズは引っかかったらしく、皆動揺を隠せなかった。金剛はノイズのした方向をじっと睨んだ。何か島のようなものが、南方の方角、そう遠くない距離に浮かんでいる。あれ?ついさっきまでは、あんなもの見えなかったのに……

 

 「金剛、この件は報告だけして、あとは交代要員に任せて……」

 「私はあの島を一度見てきます。皆さんは先に鎮守府に戻っていてください」

 

 その言葉に浜風は目を丸くしたが、金剛のいつも以上に険しい面持ちに、言葉を失ってしまった。駄目だ、今の金剛は何を言っても聞く耳を持たない。

 

 「分かりました……くれぐれもお気をつけて」

 

 金剛は鎮守府へと去っていく浜風たちをじっと見送った。そして水平線の縁に艦隊が消えると、金剛は洋上に浮かぶ得体のしれないものに向かって進んでいった。

 金剛の胸中には一抹の不安もなかった訳ではない。しかし金剛には、それ以上のボンドへの思いがあった。そして同時に、金剛は少し嬉しさも感じていた。金剛はボンドからたびたび、彼の武勇伝として、単身様々なところに乗りこんでいった話を聞いていた。今まで金剛はボンドの話を聞くだけだったのだが、こうして自分が乗りこんでいく身になったことで、少しだけボンドに近づけたような気がしたのだ。ジェームズ、あの日の夜、貴方が倉庫に乗りこんでいった時も、もしかしたらこんな気持ちだったのですか?

 

 金剛は自分の進む先を睨みながら、ボンドから貰った弾丸をしっかりと握りしめた。




  ―ごあいさつ―

ご無沙汰しております。

前回の更新からだいぶ間があいてしまいましたが、スランプからの脱却も果たして、ようやく更新再開です。
これからは新作(言いようによってはリメイク?)と同時進行で進めようかと考えているので、以前のようなペースで更新できるかは分かりませんが、出来る限り早めの更新を心がけていきたいとは思います。

よろしくお願いいたします。


PS 劇場版艦これ、見に行きました。
物語冒頭の流れから、ミッションインポッシブルみたいに深海側のスパイ探しのサスペンスが始まるんじゃないかとひとり密かに期待しておりました。


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7.You Know My Name

 目が覚めて真っ先に目に入ったのは、板張りの天井だった。

 

 ボンドはまだ夢の中のようにぼんやりする意識を無理やりはたらかせ、ようやくここが日本家屋の一室らしいことに気がついた。床は四畳半の畳張りで、その上に敷かれた布団の上で今の今まで眠っていたようだ。布団の隣は障子張りで、外の明かりがかすかに漏れている。明かりの強さから時刻は早朝だろうか。

 

 ボンドはもしかしたら、自分が今まで夢の中にいたんじゃないかと思った。いわゆる胡蝶の夢というやつで、今までの出来事は全部嘘で、今日が東京での任務の一日目だったんじゃないか。それでここは東京の旅館で……そこまで考えて、ボンドは妙なことに気付いた。

 

 まず起き上がろうとすると、パンツ一丁の全身がズキズキ痛む。痛みに体を抑えるとまるで火傷の跡のように水ぶくれなどができていた。ボンドが現実で爆風を受けた、なによりの証拠だった。

 そして時間を見るために部屋の中を見回すが、時計がないどころか、冷蔵庫や金庫など、旅館にあってしかるべき物すらどこにもない。この部屋には布団と押入れと、外に続くと思われる木目の柄のついた扉しかない。

 極めつけに、部屋の中は冷房の稼働音以外は何の音も聞こえず、異様に静かだった。ここは一体どこだ?

 

 ボンドはまず扉を調べた。取っ手がついていないところを見ると自動ドアだろう。しかし、ボンドが目の前に立っても、扉は微動だにしなかった。扉を蹴りつけ、体当たりもしてみたがビクともしない。

 諦めたボンドは続いて押入れを開いてみる。中は上下に分かれており、上段には何もなく下段にはワイシャツやスラックスなどラフな紳士服一式が入った箱があった。そのセンスはボンドの好みではなかったが、ちょっと冷房が肌寒くなってきたので、仕方なくその紳士服を着ることにした。着替えはあるのに姿見はないのか、とボンドが思ったその時だった。

 

 「着心地はどうかな、ボンド君?」

 

 ボンドは部屋の中に響いた、ドイツ訛りの英語に体をこわばらせた。この声は、部屋のどこかにあるスピーカーから聞こえるのだろう。まるで盗聴器や隠しカメラもあるかのような口ぶりだ。

 

 「客にプレゼントする服はもっといいものを選びたまえ。あんたは誰だ?」

 「冗談言っちゃいけない。私の名は知っているはずだよ、ボンド君」

 

 確かに言われてみれば、どこかで聞いたことのある声だ。だが、どこの誰の声だったか……ボンドは記憶をたどったが、どうも思い出せない。

 

 「もったいぶらずに出てこいよ。どうせ今の俺はあんたに会いに行けないんだからな」

 「あまり強がるなよボンド君。まあいい。今すぐ君に会いに行ってやる」

 

 ボンドはそう聞いて、武器になりそうなものはないか探した。布団などどうにもならないし、服の入っていた箱はペラペラのやわい紙だ。服の一式にベルトはなかったし、布団を裂いて首を絞める紐でも作るか……いやそれよりも。

 ボンドは出入り口をはさんだ壁の両側に足をかけるとそのまま上に登った。出入り口の前の通路を細く作ったのが命とりだったな。扉から入ってきたところをぶちのめしてやる。

 

 しばらくすると、扉の外から足音が聞こえてきた。足音は一人分。扉の前で止まる足音。そろそろだ……ボンドが身構えると扉はすっと開いた。そしてボンドの股の下に何か動く影が見えた。今だ!

 ボンドは天井から踊るように飛び降り、相手の背中を踏みつけた。さらにボンドは、ダメ押しとばかりに相手の後頭部に肘の一撃を食らわせる。そして……

 

 「動くなボンド君!」

 

 後ろからカチリという音とともに、恫喝するような声が聞こえた。あの音は拳銃の撃鉄を起こす音。そしていま俺が気絶させたのはただの下っ端だ。二人一緒のリズムで歩いて、足音を一人に思わせていたというわけか……

 

 「君の考えることなどたかが知れているな。さあ、部屋の奥に」

 

 ボンドは声の主に促されるままに部屋の奥へと歩いていった。

 

 「答え合わせといこうか。こっちを向いてもらおう」

 

 ボンドの振り向いたその先に立っていたのは……髪の薄い白髪頭に彫りの深い顔をした初老の男だった。ボンドはこの男が、本社に行った時に島田の言っていた、社長の今山寛治かと思った。だが、俺はこの男に会ったことはないはずだが……

 

 「今山寛治だな」

 「そうでもあるが、そうでもない、と言っておこうか」

 

 ボンドは男の顔をじっと睨んだ。

 

 「沖縄の倉庫を爆破した件でここ数日、会社に顔を出さなきゃならなくなってな……」

 

 そう言うと男は銃を持たない手で部屋の障子を全開にした。障子の向こうを目の当たりにしたボンドは面食らった。窓の外には沖縄の海底が広がり、色とりどりの魚やウミヘビなどの海洋生物が泳ぎ回っていたからだ。同時に、ボンドはこの男が何者なのか、ようやく思い出した。

 

 「お前は!」

 「……地中海でお別れして以来だな、ボンド君」

 

 男は自分の顔を撫でると、顔の肉や毛がぼろぼろと取れるように剥がれていった。そしてその向こうに現れたのは、かつてボンドがその野望を打ち砕いた海運王、カール・ストロンバーグの悪辣な顔だった。

 

 ストロンバーグは海洋学者であると同時に、ストロンバーグ商船の社長であった。海の神秘性に魅了された彼は『海底こそ人類の未来』という考えのもと、海底都市を作り、そこを自らの理想郷とする野望を持っていた。

 そしてそれを実現するために敵対国の原子力潜水艦を拉致した上、双方の国を核攻撃させて核戦争を誘発し、堕落した現代文明を滅亡させようと企んだのだ。

 しかし、ボンドの活躍により核攻撃は阻止され、ストロンバーグも地中海の海底基地でボンドが射殺した……はずだった。

 

 「またこんな海底基地を作って、世界を滅ぼそうなんて考えているのか」

 「いや、滅ぼすのは『彼女』たちだよ。あの時死にかけていた私を助けたのは彼女たちでね。彼女たちこそ、私がずっと求めていた存在だった。美しく、残忍で、醜く、そして優しい……私は彼女たちの手助けをしてやるだけだ。私は何年も素性を隠しながら、彼女たちを支援するための体制を作り上げてきたのだ」

 「引退した年寄りの唯一の楽しみにしては、ちょっと趣味が悪すぎるんじゃないか?」

 

 そう言いながらボンドはストロンバーグに一歩ずつ近寄った。そして銃口まで十数センチのところまで進んだその時、拳銃を持った右腕に掴みかかった。銃を持っているとはいえ、小太りの初老の男ひとりをなんとかするなどボンドには造作もないことだった。

 ボンドはストロンバーグを畳に投げとばし拳銃を奪うと、ストロンバーグに銃口を向けた。今度は確実に仕留める!

 

 しかしボンドが引き金を引く前に、拳銃は衝撃とともに部屋の奥に跳ね飛ばされた。出入り口に誰かいる!反射的に目を向けたボンドの瞳に、自分をきっと睨む女の姿が映った。

 

 社長秘書の赤沢詠美だった。しかしその瞳は赤くぎらりと光っていた。その上肌も異様に白く、先日集積所で見た人間型深海棲艦の同類であることは間違いなかった。そして本社では「火傷の後遺症」として包帯を巻いていた左手は今は黒くごつい形をして、ボンドの頭に向けられている。飛び道具でも入っているのか……?

 

 「……実に優秀な子だよ、彼女は」

 

 しみじみとつぶやきながら起き上がるストロンバーグ。続いて詠美はボンドに近づき、ボンドの腹に左ボディーブローを叩きこんだ。鈍く重い痛みがボンドの腹部いっぱいに広がり、ボンドはその苦しさにうずくまることしかできなかった。

 

 「死にかけていた私を助けてくれた彼女に、私は『赤エイ(Red Stingray)』とあだ名をつけた。その理由は二つ。一つ目は、彼女の左人差し指が毒針を撃ちこむ空気砲になっているからだ」

 

 うずくまるボンドを見下ろしながら、ストロンバーグは海洋学者らしく知識をひけらかすように話し始めた。

 

 「魚のアカエイの尾には、敵から身を守るための毒針がある。彼女のこの武器も、同じようなものではないかと思ってね。彼女たち深海棲艦も、進化の過程で自分たちの身体を武器にしたのだろう。素晴らしい自然の摂理とは思わないか?」

 

 そう言いながらストロンバーグは、水かきのできた手で詠美の左手をうっとりしたような表情を浮かべながら撫でた。

 

 「あともうひとつの理由は……」

 「『傾城魚』だからってとこか。日本の海産物の文化を知っていればだいたい分かるよ。江戸時代の春画にも……これ以上はよしておこう」

 

 ボンドはストロンバーグに向かって、吐き捨てるように言った。

 

 「君も多少の興味がある分野だとは思っていたが……すでにご存知だったか。流石だよボンド君」

 

 その言葉と共にストロンバーグは、蛸を思わせる手つきで詠美の細い肩を抱き寄せる。そんな詠美が視線を下にそらしたのを見て、ボンドは露骨に顔を歪ませた。

 

 「彼女の紹介はこのあたりにしよう。ところで……」

 

 ボンドの髪をストロンバーグは鷲掴みにして持ち上げると、カサカサの唇をボンドの耳元に近づけた。

 

 「そういえば君も『艦娘』たちと行動しているそうじゃないか……敵味方とはいえ、シンパシーを感じるよ」

 「社長、殺しますか?」詠美は妖しげな声で言った。

 「その前に、この竜宮城でも案内してやろう。それが冥土への道案内だ。立て!ついて来たまえ」

 

 ボンドは詠美に左手を突きつけられながら立ち上がると、二人に導かれるままに部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 一同は薄暗いチューブのような廊下を進んでいった。この基地も社長室と同様、全体に曲面を多用したデザインがなされているのだろう。

 

 「この基地の名前も、彼女と同じ『レッド・スティングレイ(赤エイ)』。もっとも、こちらの由来は日本の伝説にある、島のように巨大なエイだ。深海棲艦を載せながら四本の脚で海底を進み、東シナ海のどこでも彼女たちを展開できる移動基地だ」

 「なら沖縄の集積所は……」

 「あそこはただの補給基地に過ぎない。ばれてしまうよりはましと思って、証拠隠滅のために爆破させたよ」

 

 そしてボンドたちは、廊下の先にある黒い扉に突き当たった。詠美が扉の横のボタンを押すと、扉はゆっくりと開く。中は小さな個室になっていた。エレベーターのようだ。

 

 「下におりるぞ。乗りたまえ」

 

 ストロンバーグに促され、ボンドはエレベーターに乗りこもうとしたが、ふと手前でその足を止めた。以前ストロンバーグの海底基地に潜入した時の記憶が、ボンドの脳裏をよぎったのだ。

 

前の基地ではエレベーターの床が抜けて、そのままサメの水槽に落ちる仕組みになっていた――。

 

 ボンドが後ろを振り向くと、こちらに向けて左手を構える詠美の隣でストロンバーグが満面の笑みを浮かべていた。

 

 「どうしたボンド君。もっと基地の中を見たくないのかね?」

 

 二人はボンドに向かってじりじりとにじり寄ってくる。この調子だと、ストロンバーグは俺が落ちるところをこの目で見るつもりらしい。このまま乗らなかったり、床が開いても縁に足をかけて落ちないようにしたらすぐ射殺する気だろう。いっそのこと床が抜けず、何事もなく二人が乗ってくる可能性にかけるか?

 

 ボンドが一瞬のうちに、様々なケースを頭に思い浮かべていたその時。

 

 『ストロンバーグさん、至急指令室にお越しください』

 「仕方がない、乗れ!」

 

 突然の館内放送に、二人はボンドを押し込むように乗りこんだ。三人を乗せたエレベーターは、何事もなくゆっくりと下に降りていった。

 

 ボンドはエレベーターを降りた先の、指令室らしき部屋に連れていかれた。中では朱色の制服に身を包んだ人間のスタッフが作業を行っている。この基地の運用はストロンバーグとその部下がやっているのだろう。指令室は各種操作盤や計器類などで埋まっており、一見すると大型戦艦のそれのようであった。

 指令室の様子を見たボンドは、深海側もこちら側の鎮守府とほとんど変わらないのではないかと思った。しかしその考えは、直後に消し飛んでしまうことになる。

 

 「基地底部4階に部外者の反応が有りました」

 「監視カメラで探して中央のモニターに映像を出せ」

 

 ストロンバーグがスタッフと話をしている横で、ボンドはふと司令部の端にある窓ガラスを覗いた。その向こうの光景を見下ろして、ボンドは絶句した。

 

 指令室の下の階は全体が生簀のような広いプールになっており、その中では一面おびただしい数の深海駆逐艦たちがびっしり並び、ひしめき合っていたのだ。その様子はまるで、池に投げ込まれた餌に群がる大量の鯉のようであった。

 

 今度はここに俺を落とすつもりだったのだろうか。ボンドは黒光りする異形のものどもが大量に蠢くさまにおぞましさを覚えた。そんなボンドに、ストロンバーグは後ろから静かに話しかける。

 

 「彼女たちのうち位の高い者は人間のような姿をしており、生物学的にも水のない陸地、高いエリアにあがることが許される。他の深海棲艦は基本的に階下の生簀で艦種ごとに待機しておる。出撃の時は生簀の底から続くチューブを通り、基地側面の発射口から大海原に出るんだ。君たちの側にもここまでの戦力をもった基地はないだろう?」

 「……なるほど、この基地で日本近海の攻撃をすべて受け持っているという訳か」

 「それは違うぞ。日本近海の深海には、私の関わらない基地がたくさんある。この基地はたくさんある基地の一つにすぎん。他の基地ががどうなっているかは私も知らんが……ここよりもっとおぞましいかもしれんぞ」

 

 ボンドはそこまで聞くと、ふたたび巨大な生簀の中をのぞいた。こんなものを抱えた基地が日本近海だけでなく、英国の周辺や北海にもあると思うと、ボンドはぞっとした。一刻も早く対策を打たなければ、英国にとって深刻な脅威にもなりうる。

 

 ここで数少ない見たこと聞いたことをもとに、ボンドはこの基地の全体像を把握しようとした。

 

 まず基地の屋上は海上に出すことが可能と言っていたし、『会社に行く』という言葉から推測されるように、恐らくヘリポートか何か外へ出るための設備があるのかもしれない。それ以外のことは分からない。

 そして上部階にはボンドが目を覚ました休憩室や深海棲艦の待機室があり、その下には指令室やドックなどの設備が揃っている。さらにその下は、今見た通りの化け物でひしめく巨大な生簀と、下級深海艦たちの設備でもあるのだろう。

 もしかしたら、どこかにモーターボートの発着場や脱出ポッドもあるかもしれない。二つとも、奴が以前に作った海底基地にはあったものだ。

 

 なんとかしてこの悪魔の巣を破壊しなければ。これだけの大きさの移動基地だ、絶対にアキレス腱があるに違いない。ボンドがそう考えたその時。

 

 

 「見つけました!」

 

 その声にボンドたちは、中央のモニターに目をやる。そこに映し出されたのは無機質な廊下と、そこをうろつく、見慣れた巫女服の少女――金剛の姿だった。モニターを指さし、声をあげる詠美。

 

 「社長、この女です。これが本社に来た通訳の女です!」

 「そうか……これがジョーズの手でも捕まらなかった……マイクを寄こせ。彼女に伝えたいことがある」

 

 「何をする気だ!」

 「獲物を捕まえるにはまず弱らせてから、だ」

 

 そう言ってニヤリと笑ったストロンバーグは、マイクに向かって優しく話し始めた。

 

 「えー、聞こえるかね、金剛君?」

 

 ストロンバーグの言葉に、モニターの中の金剛が不安げに宙を見上げて反応する。おそらく声の出処を探っているのだろう、しきりにあたりを見回している。

 

 「私は君たちの探していた男――君らの言う『社長』だ。私たちは君を歓迎するよ。恐らく君はジェームズ・ボンドと言う男を探してここに来たんだろう。安心したまえ、ボンド君は無事だ。じきに君にも会わせてあげよう」

 

 モニターの金剛の表情が一気に明るくなった。同時に何かをしきりに叫んでいる金剛。しかしボンドは、そんな金剛の様子を神妙な顔で見つめることしかできなかった。おそらく金剛は俺を呼んでいるのだろう。ボンドは何もできない自分にもどかしさを覚えた。

 

 「でも君は……この男のことをどこまで知っているかな?」

 

 ストロンバーグの声色が、突如ドスの効いた不気味なものになる。カッと目を見開くボンド。

 

 「奴をただの海軍軍人と考えてるなら、それは大間違いだぞ。正体は英国諜報部のスパイ、『007』だ。日本には君たち艦娘の情報を探りに潜入しに来たんだろう。奴はイギリスだけに忠誠を尽くす犬だ。一見優しそうに見えても、祖国の為なら君や君の仲間だって容赦なく裏切り見殺しにする、冷酷な男だぞ?」

 

 その瞬間、金剛の顔から笑みが消え、困惑の表情になった。

 ボンドはストロンバーグに掴みかかろうとしたが、数人がかりでスタッフに腕や肩をつかまれ制止された。その上、後ろから首を絞められ声すら出せない。ボンドが抵抗できないのをいいことに、なおも嘲るように話しかけるストロンバーグ。

 

 「ベッドの中で彼からそう聞かなかったかね?まあ、その時君は楽しい時間だったかもしれんが、奴にとっては君を利用するための手回しか、任務の合間の暇つぶしにしか過ぎなかっただろうさ。今さっきも私の隣で君の姿を見ながら、この出しゃばりの小娘が、俺の代わりに死ねばいい、などとうそぶいておったよ」

 

 首を絞めていた相手に後頭部で頭突きをかましたボンドは、手が離れた隙に声の限りに叫んだ。

 

 「違う!金剛聞こえるか!この男の言うことを信じるな……」

 

 しかし、直後にお返しとばかりに顔面を殴られる。そしてそれを皮切りにした容赦のない鉄拳や足蹴の雨の中、声が届いていたのかいないのか、モニターの中で茫然と立ちつくす金剛の姿にボンドは心をえぐられた。

 信じるな、と叫んだが、全部が全部嘘ではない。半分は本当のことなのだ。いつも誰か、時には自分さえも騙さないと生きていけないのがこの稼業だ。仕方がなかった。そう、全ては仕方がなかったのだ……。

 

 そして、金剛へのとどめとばかりにストロンバーグは淡々とした口ぶりでマイクに言い放った。

 

 「……聞いたか今の言葉を。白々しい、嘘つきはみんなそう言うものだ。君も言いたいことがあるなら本人の前で言ってやるといい。今から迎えに行くからそこで待っていたまえ。以上だ」

 

 マイクの電源を切ったストロンバーグは、モニターを見てニヤリと笑うと、スタッフと彼らのリンチを眺めていた詠美に声をかけた。

 

 「詠美。金剛を捕まえに行け。少なくとも、ボンドよりは役に立つはずだ。人質にして取引に使うもよし、『ドクター』に引き渡すもよし、だ。君たちからもあと二人、ついてきたまえ」

 

 返事をしたスタッフの二人が、部屋の傍らに置かれた小銃を手に詠美に続く。

 

 「ボンドの奴はどうしますか?」と残されたスタッフの一人。

 「そのへんで適当に殺して、駆逐艦どもの餌にでもしてやれ」

 

 もう興味をなくしたかのように言うと、ストロンバーグは指令室中央の席にどかりと腰を下ろした。スタッフ達は、火傷の上にアザを作ったボンドを無理やり立たせると、そのまま引きずるようにして部屋を後にした。

 

 




《登場人物出典》

○カール・ストロンバーグ
……『私を愛したスパイ』(映画版第10作)に登場。
作中で演じたのはクルト・ユルゲンス。『眼下の敵』のUボート艦長の役でも有名な役者さんです。
ちなみに、『私を愛したスパイ』はブロフェルドが再登場する予定だったが、大人の事情で変更になったとのこと。


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8.Battle at Red Stingray

 長い階段をのぼった先で、ボンドは朦朧としかけていた意識を取り戻した。

 ボンドは痛みをこらえながらも五感を働かせ、あたりの様子を探った。片方ずつ肩をつかみ、自分を引きずっている男が二人。前には誰もいないが、足音や男たちの会話から、後ろにあともう一人。

 男たちの腰にはホルスター。銘柄はベレッタM92。両側の二人は銃を抜けないが、後ろの男はすでに銃を抜き、自分の頭にいつでも鉛玉を撃ちこめるように銃口を向けているかもしれない。

 少なくとも全員が自分に注意を向けている今の状況では、一気に三人仕留めるのは難しい。せめて一人が他に注意を向けていればあるいは……

 ボンドはただ、その時をひたすらに待ち続けた。

 

 

 ストロンバーグは指令室の中央に腰を下ろし、手元のパネルをいじりながら監視カメラの映像をじっと見ていた。引きずられるボンドと、立ちつくす金剛。二人の行く末を、同時に見届けてやろうという思いがあった。キャビアを口にしながら映像を見ているその姿は、まるでテレビでスポーツ観戦でもしているかのようだ。

 

 

 ボンドは時折首を上げ、一帯に監視カメラがないかを確認した。反撃のチャンスがあっても、監視カメラに捉えられては元の木阿弥だ。それどころか、今度は陸上型の深海棲艦に襲われるかもしれない。そうなっては拳銃しか扱えない今のボンドにはなすすべがない。

 指令室を出てから、ボンドはどこに連れて行かれるものかと考えていたが、十分弱基地内を引きずり回されたところでようやくその答えが出た。銀色に光る取っ手のない自動ドアだ。その向こうが物置なのか独房なのかは分からない。ただ一つ確実なのは、そこがボンドの処刑場になることだけだ。監視カメラは遠くだが、こっちに向けられている。後ろについていた男がゆっくりと、扉のカードリーダーに近づいたその時だった。

 

  ドーン……ドーン……

 

 ボンドの耳に、反響するような鈍い音が飛びこんだ。この基地のどこかが動いたのか……?そうボンドが思ったのもつかの間、耳をつんざく爆音とともに、ボンドのいた階が地震のように大きく揺れた。

 

 ボンドはすかさず体勢をくずしひざまずくと、左隣の男のホルスターから拳銃を抜き、その脇腹を撃ちぬいた。銃声にキーを開けた男がバッと振り向く。

 ボンドは飛んでくるだろう銃弾から身を守るため、右隣の男の腕をつかみ、引き寄せて盾にした。盾の男が身をのけぞらせた瞬間、ボンドは盾の男の肩越しからキーの男の額に銃を向けた。

 直後、キーの男は自分が先ほどボンドを殴った位置に風穴を開けて倒れた。同時に、動かなくなった盾の男もその場に崩れ落ちる。この間、わずか五秒もかからなかった。

 

 「ようやく来たか……」

 ボンドはカードキーを拾うと、爆音の正体を察した。

 

 

 爆音の鳴り響いた直後、基地の指令室はストロンバーグの叫びが響いた。

 

 「この音は何だ!?」

 「爆雷です!おそらく艦娘かと!」

 

 スタッフは叫びながら、潜望鏡からの映像をストロンバーグの眼前のモニターに映し出す。そこには、金剛のカチューシャに仕込まれた発信機の信号に導かれ、「レッド・スティングレイ」の攻撃にやってきた川内たち水雷戦隊の姿が映し出されていた。

 

 「奴らを放て!」

 

 ストロンバーグの号令にスタッフの一人がパネルを操作すると、生簀から駆逐艦が次々と大海原に放たれていく。

 

 「敵の増援が来たら、浮上して迎え撃つ。その準備を」

 

 ストロンバーグは余裕を感じる口ぶりで、静かに指示を飛ばした。

 

 

 

 一方川内たち先陣を切った連合艦隊十二隻は、突如現れた大量の駆逐艦を相手にしていた。川内は、司令部とのやりとりをしながら、次々襲いかかる駆逐艦相手に大立ち回りを繰り広げていた。

 

 「……はい、敵は多数、大和さんたち第二陣と機動部隊は……はい!急いでください!」

 「川内さん、増援は来ないんですか!?」そう叫んだのは駆逐艦、時雨。

 「今こっちに第二陣と機動部隊が向かっているところよ。頑張って!」

 

 そう言った川内は、今自分たちが爆雷攻撃をしていた地点から、何かが浮き上がってきたのに気付いた。

 

 「全員いったん退避!」

 

 退却を始めた川内たちが振り向くと、浮き上がってきたものは巨大な島となっていた。そしてその沿岸には、陸上型深海棲艦やその砲台が次々と並び、すぐにでもこちらを狙わんとしていたのだった。

 

 「まずい……司令部、司令部応答願います!」

 

 応えたのは神崎提督。そばにはタイガー田中もいる。

 

 「こちら司令部、どうした?」

 「……敵の砲台が多数出現しました」

 「どういうことだ?そこは海のど真ん中だぞ」

 「浮上した巨大な敵基地の上部に大量の深海棲艦の砲台があるんです!」

 

 そこまで言ったその時、川内のすぐ近くに敵砲台の弾が着弾し、水柱を上げた。

 

 「ぐうっ!地上攻撃の準備をお願いします!」

 「了解!増援が来るまで持ちこたえてくれ!」

 

 神崎はマイクのチャンネルを変えるとふたたび話し始めた。

 

 「第三陣は魚雷から砲、対地用ロケランがあればそれに積み替えろ!あとは機動部隊を呼び戻し、艦攻を艦爆に積み替え……」

 「待った!」叫んだのはタイガー田中。

 

 「機動部隊を呼び戻して換装するのは時間がかかりすぎる。大和がいるとはいえ、もちこたえられるだろうか」

 「それでも艦攻では陸の敵に攻撃できません!」

 「なら海に敵はいないというのかっ!航空雷撃で海上の敵を一掃してから、陸の敵を残った艦娘と第三陣で叩くほうが犠牲は抑えられるだろう。もっとも、敵の最大数が分からん以上、大きな賭けだがな……」

 「いずれにしても賭けならば……タイガー!ここは私に一任させてください!」

 

 神崎の熱のこもった言葉にタイガーは静かに頷いた。このような状況では、タイガーの力を以ってしてもどうにもならない。人事を尽くし、あとは天命を待つのみだ……

 

 

 

 一方、「レッド・スティングレイ」指令室で戦いの流れを見ていたストロンバーグのもとに、金剛を探していた詠美からの連絡が入った。

 

 「社長、金剛の居場所はどこです!?」

 「待っておれ、今探す!」

 

 先ほどまで基地の底部にいた金剛も、艦娘たちの基地への攻撃と同時に動き始めていたのだ。発信機の信号は基地に届いたものの艤装の無線は妨害電波のためか雑音を発するばかりで、金剛から基地に連絡することはできなかった。

 

 ストロンバーグはパネルを慣れた手つきで触りながら、基地底部周辺のカメラ映像を切り替えていった。十数回映像を切り替えたその時、ようやく金剛がカメラから奥に走っていく映像を見つけ出した。

 

 「見つけたぞ。底部2階のA3廊下を基地前方に向かっている!」

 「了解しました。すぐ捕らえます」

 

 その時、スタッフの一人がストロンバーグを呼んだ。

 

 「ストロンバーグさん!」

 「何だ!?」

 「見てください!」

 

 そう言ってスタッフがストロンバーグの眼前に映しだした映像には、ボンドによって仕留められた三人のスタッフの姿が映し出されていた。

 

 

 処刑の危機から脱したボンドは、拳銃を片手にカードキーで次々と部屋を覗いていった。目的は、この基地の弱点を見つけ出すことである。これだけ大きな基地なのだから、どこかに絶対弱点があるはずだ。

 

 監視カメラに見つからないように基地の最上階にたどりついたボンドは、カードキーで目の前の大きな扉を開けた。扉の向こうは強化ガラス張りの海中トンネルとなっており、ガラスの向こうでは巨大な油圧ジャッキが、さらに巨大な海底基地を地上に押し上げるべくゆっくりと動いていた。そうか、このジャッキで天板を押し上げる仕組みだったのか。別の方向に目を向けると、はるか遠くの洋上で艦娘と深海棲艦が撃ちあいを繰り広げているのか、沈んでいく深海棲艦が見える。

 

 ボンドはこの油圧ジャッキが基地の動力源だと考えた。これと同じものが基地の四方にあって、このばかでかい基地を押し上げている。ジャッキはメンテナンスのしやすさのためか外部にむき出しになっている。潜水艇か、深海側の工作艦にでも修理をさせているのだろう。いずれにしても四本のうち二本を潰せば、基地は傾いて横転する。

 

 だがジャッキをどうやって潰す?あの巨大なジャッキを吹き飛ばすほどの爆薬がどこにある?艦娘たちに攻撃させるにしても、果たして海中にあるジャッキに気付くだろうか?艦娘たちに無線か何かで知らせることができれば……せめて金剛と合流できれば……

 

 そこまで考えてボンドは、基地の最上階、通路の奥に基地の上部へと続く階段を見つけた。

 

 ……艦娘たちに最速で攻撃目標を伝えるにはこれしかない。

 

 ボンドは脇目も振らずに階段を駆け上がり、屋上に続く扉のハンドルを握った。

 



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9.Dance into the Fire

 これまで襲い来る深海棲艦を片っ端からなぎ倒してきた川内たちだったが、その数の多さにさすがの彼女たちも疲弊の色を隠せずにいた。

 

 「キリがないっ……」川内が思わずつぶやいたその時。

 

 戦場の空気を震わせる巨砲の轟きと共に、ついに彼女たちの希望がやってきた。

 超弩級戦艦・大和をはじめとする最精鋭の艦娘の揃った連合艦隊、総勢十二隻。

 

 「お待たせしました。あとは私たちに任せて、第一陣の皆さんは後方に下がってください!」

 

  大和は基地上部の陸上型深海棲艦に砲撃を撃ちこみながら、川内たちに声をかける。しかし川内はニヤリと笑って収納管から魚雷を取り出し、ペンを回すようにくるりと回転させると、

 

 「せっかく賑やかになってのに、帰れなんてヒドいですね」

 

 そう言って右舷側の敵巡洋艦に向けて魚雷を叩きこんだ。

 

 「あと二時間すれば夜ですし、それまで粘らせてください!」

 

 その言葉に大和は大きく頷くと、基地に向けて艦載機を飛ばした。

 

 

 

 

 

 扉を開けて基地上部に出たボンドは、まず耳をつんざかんばかりの爆音に襲われることになった。深海棲艦たちが砲撃をしているのは十数メートル離れたところだったが、それでもボンドの耳はその砲撃音でほとんど麻痺してしまった。ボンドは両手で耳を抑えながら、深海棲艦どもには目もくれずに大空を見上げた。

 

 ボンドがしばらく硝煙たなびく空を見ていると、砲撃音の鳴りやまぬ方角から、緑色の飛行機がこちらに近づいてきていた。零式水上観測機、大和の飛ばした偵察機であった。よし、思った通りだ!

 ボンドは偵察機を見つけると、抑えていた耳から手を離し、聴覚が狂っていくのも気に留めずに必死に両手を振り回した。だがその振り回し方は普段人がやるような振り回し方とは明らかに違っていた。

 

 そんなボンドの姿は、偵察機を通して大和にも伝わっていた。

 

 「敵基地上部に、ボンドさんを発見!何か手を振って……」

 「一体何のつもりなんでしょうか」川内は言った。

 

 「これは……手旗信号です!『……シヲウテ』」

 

 川内たちは大和がボンドからの信号を読み取る間、大和を全力で援護した。

 

 「『キチノアシヲウテ』……『基地の脚を撃て』!」

 「基地の脚……雪風、双眼鏡で確認して!」

 「はいっ!」

 

 川内から命令を受け、雪風は基地に双眼鏡を向けた。

 

 「水中ですが、確かに脚みたいなものがあります!」

 「私も今、偵察機で確認しました」と大和。

 「分かった……全軍、基地の脚の部分に雷撃よ!……本部、応答願います!」

 「こちら本部、どうした川内」

 

 川内からの連絡に、神崎が応答した。

 

 「提督、タイガーさん、今ボンドさんから連絡がありました。ボンドさんの報告によると、海面下にある基地の脚を攻撃するようにとのことでした」

 「了解!そのまま基地を攻撃してくれ!以上だ!」

 「……賭けに勝ったな」とタイガー。

 「ボンドさんは大丈夫でしょうか」

 「ヤツが攻撃しろと言っているんだ。心配いらんよ」

 「了解……機動部隊に告ぐ、機動部隊に告ぐ」

 

 神崎はそのまま機動部隊に無線を切り替えた。

 

 「機動部隊は攻撃隊全機に基地脚部への集中攻撃を指示せよ。繰り返す、機動部隊は攻撃隊全機に基地脚部への集中攻撃を指示せよ!」

 

 

 

 

 

 ボンドは自分の真上を旋回する偵察機にひたすらに手旗信号を送り続けていた。そしてボンドは、偵察機がひらひらと左右に機体を傾け、そのまま飛び去っていったのを見て、ようやく手を下ろした。なんとか伝わったようだ。とボンドが思ったその時だった。

 

 ボンドは深海棲艦の一体がこちらに砲を向けているのに気がついた。ボンドが扉から下る階段に飛びこんだ次の瞬間、先ほどまでボンドのいた扉は爆音とともに炎と煙をあげていた。はからずも階段から落ちてしまう形になったボンドだが、通路の奥から銃を手にやってきた数人のスタッフを認めると、すぐさま起き上がり反射的に彼らの心臓に銃弾を撃ちこんでいった。

 これで遅かれ早かれ基地は沈む。あとはその時までに金剛を見つけ、脱出するだけだ……。ボンドはそう考えながら、通路をかけだしていった。

 

 

 

 

 ……なんとかしてジェームズと合流して、ここから脱出しないと。金剛はその思いを胸に、基地底部の廊下を走り回っていた。金剛はストロンバーグから聞いたことなど、なに一つ気にしてはいなかった。タイガーに紹介された人だから信頼できる、という気持ちもあったが、そもそもボンドの正体が何者であろうと金剛には関係なかったのだ。金剛にとってボンドは、『私が愛した提督』以外の誰でもなかった。

 

 「いたぞ!こっちだ!」

 

 金剛は振り向きながら、すぐ後ろに迫るスタッフ二人を見た。そして廊下の角を左に曲がり、いつでも反撃できるように背中の艤装を確認した。そして正面を向いたその時。

 

 「動くな!」

 

 金剛の眼前には、こちらに指先を構えた詠美が立ちはだかっていた。金剛を挟み撃ちにするように追い込んだのだろう。

 

 「あなたは会社にいた……」

 「久しぶりね、通訳さん。おっと動かないで。少しでも動いたら毒針が貴女の身体を貫くわよ」

 

 金剛の背後の曲がり角にも、先ほどのスタッフ二人がついていた。唯一の逃げ道は、金剛の右手側にある、両開きの大きな自動ドアのみ。しかしこれも、カードキーか何かがないと入れないようだ。ここまで来て、金剛は覚悟を決めた。

 金剛はすぐさま砲を扉に向けると、ためらいもせず扉を撃ちぬいた。砲撃で起きた硝煙を煙幕の代わりにして、金剛は扉の向こうに駆けこんだ。その時金剛の長い髪を、二度ほど素早く小さいものがかすめていった。

 

 硝煙の中を抜けた金剛は、目の前の光景に足を止めてしまった。金剛の出た先は、あの深海棲艦の生簀の一部だった。出撃でほとんどが出ていったとはいえ、まだまだかなりの量の深海棲艦が金剛の立っている足場の周りに残っていた。金剛が遠くを見据えると、生簀の奥の壁にさらに奥へと続く扉があった。金剛には考えている暇はなかった。

 

 金剛は足場を蹴って飛び出すと、ひしめく深海棲艦の背中を因幡の白兎のごとく飛び移りながら扉の方に向かった。時折足蹴にした深海棲艦が怒って飛び跳ねるのも気にせず、金剛は一気に駆け抜けた。そして最後の深海棲艦から飛び降りて着水すると、金剛は奥の扉を撃ちぬいた。その時生簀全体に甲高いホイッスルのような音が鳴り響いたが、金剛は自分に襲い掛かった深海棲艦を一匹仕留めると、そのまま部屋を後にした。

 

 生簀の部屋に鳴り響いたのは詠美の口笛だった。その音に深海棲艦たちはいっせいに詠美に注意を向けた。そして詠美が手を生簀の奥に降ると、深海棲艦たちは一斉に金剛の出て行った扉へと殺到した。

 

 生簀の外は廊下に水が張ってあるような水路になっており、深海棲艦が移動できるようになっているようだった。金剛はその中を進みながら、追ってくる敵を倒していった。そして詠美が追いつくと、双方ともに激しい砲撃戦を繰り広げた。

 

 

 

 

 

 砲弾と硝煙、怒号の飛びかう大海原に、また一つ新たな音が加わった。その鈍く風を切るような音は、次第に大きくなっていくと、戦場にその銀翼をきらめかせた。

 十数機の零戦五二型に守られた九七式艦攻や流星、その数総勢四八機が、基地の脚を雷撃せんがため艦娘や深海棲艦の間を低空で飛んでいった。

 そしてこれらの攻撃機はある一点を目指して収束しはじめた。その一点こそ、それまで川内たちが雷撃をぶつけてきた、「レッド・スティングレイ」左舷後部の脚である。そして、大和や川内たちが見守る中、ついに攻撃隊による空襲が始まった。

 

 魚雷は次々と海中に投下され、何条もの白い航跡を作りながら脚部へと向かっていく。そしてそれらが扇のような形を作った次の瞬間、脚部周辺に立て続けに水柱が上がっていった。湧きあがった白波とともに、淡い黄色をした液体が浮かび上がった。

 

 「油です!油が浮き上がってきました!」

 

 戦いの合間に双眼鏡を覗いていた雪風の報告に、川内は声を張り上げた。

 

 「さあ、前脚もつぶすよ!」

 

 

 

 一方指令室の中では、左舷後脚が破損したことを示すサイレンが鳴り響いていた。

 

 「ストロンバーグさん、このまま前脚までやられたら……」

 「潜れ!海中に潜れ!」

 

 ストロンバーグの指示に、スタッフは基地が足をたたんで潜るようにパネルを操作する。

 

 

 

 川内たち水雷戦隊は、魚雷を前脚部に十数本撃ちこんだところで基地の動きに気がついた。その頃には、基地上部はほとんど水に浸かってしまっていた。雪風が基地を指さして叫ぶ。

 

 「見てください!基地が沈んでいきますよ!」

 「いや、潜っていくんだ。沈むならあんなゆっくり沈まない!」と川内。

 

 爆雷では前脚にダメージを与えるのに魚雷よりも時間がかかる。艦娘たちにも疲労からか損害が出始めていることを考えると、なるべくなら今すぐにカタをつけてしまいたいところだ。

 

 「させません!」

 

 そう叫んだ大和は、前脚部に徹甲弾を撃ちこんだ。弾は基地の手前で着水したが、勢いそのままに魚雷で弱っていた前脚部の付け根を貫通し、基地内部で炸裂した。その威力は凄まじく、海上に水柱と共に炎が上がった程であった。その際砲弾は油圧ポンプを完全に破壊した。そして、左舷側の支えを失った巨大海上基地は、どんどん左へと傾いて行った。

 

 

 

 

 基地の中はもはや沈没船のような状況だった。傾いていく基地の中で、ストロンバーグはマイクに向かって叫んだ。

 

 「総員退避!詠美は金剛を仕留めてから退避せよ!」

 

 そう言い残すと、ストロンバーグはスタッフと共に指令室を後にした。

 

 「脱出ポッドから逃げるぞ。護衛の深海艦をつけてな」

 

 

 

 

 基地底部は、上部よりも悲惨な状況になっていた。水路の水は基地の傾きに伴って大きく波打ち、金剛も詠美も飲みこまれかねない程だった。さらに、水が漏れだした上部からは、海水が油圧ポンプなどから漏れ出た油や小物と共にドッと流れこんでくる。その状況では、双方とも撃ちあいをしている余裕などない。二人とも混乱の中で、互いを見失ってしまった。

 

 そんな状況がようやく落ち着いたのは、基地の右脚だけがかろうじて基地を支える形になって止まった時だった。傾きはおよそ四十五度。詠美はまるでビックリハウスの傾いた部屋のようになった基地内で、金剛を呼んだ。詠美は、金剛を仕留める許可が出たことでようやく深海棲艦としての本性が完全に現れたようだった。

 

 「金剛……もう観念しなさい……今はあなたも私も油まみれよ!私の武器なら空気銃だから無理なく撃てるけど……あなたが砲を撃ったら引火して火だるまになるのよ!……さあ、早く私の前にひざまずきなさい」

 

 詠美は赤く光る眼をギラつかせながら、黄色く光る水面をゆったり進んで金剛を探した。あたりはかなり浸水が進み、生簀の一部では天井まで水が届くほどになっていた。

 

 金剛はその声を聞きながら、基地の奥へと追い込まれていった。階段やほとんどの扉は、水が押し寄せたり開かなかったりなどで進めなかった。疲労と極度の緊張、そして追いつめられる恐怖が、しだいに金剛の身体を蝕んでいった。そんな中でも金剛はボンドを心のよりどころにした。ジェームズなら、こんな時どうするかしら……

 金剛は、拳をぎゅっと握りしめた。

 

 

 

 

 ストロンバーグとスタッフ五名は、基地上部にある脱出ポッドの発着場にたどり着いた。脱出ポッドは一人乗りの小さな潜水艦で、甲標的と呼ばれるものに近かった。脱出ポッドを前にして、スタッフの一人がストロンバーグに尋ねた。

 

 「他のスタッフたちはどうしますか」

 「犠牲になってもらう。将軍は戦場で死ぬわけにはいかんからな。そして、君たちは選ばれた存在だ」

 

 そう言ったストロンバーグの瞳は、青く光っていた。

 ベルトコンベア上に並べられた脱出ポッドにストロンバーグたちは乗りこむと、自動で発射管に押し込まれ、射出された。

 射出された先の海中では、潜水可能な人間型の深海棲艦が待機しており、ストロンバーグたちを先導して青く深い闇の中に消えていった。

 

 

 

 

 詠美は基地底部で回れる箇所を回りつくし、最後の部屋、指令室直下の生簀だった部屋に入ろうとしていた。金剛は確実にこの部屋にいる。詠美は心して、部屋に足を踏み入れた。

 

 その時扉の陰から金剛が飛びかかり、詠美の左手を両手でつかんで抑え込もうとした。詠美は至近距離から金剛を撃とうとするも、金剛に腕を左右に振り回され、金剛に砲門を向けられない。しばらくもみ合っていた二人だったが、詠美が金剛の腹部に膝蹴りを入れ、金剛をふりほどいた。そしてさらにダメ押しとばかりに金剛の頬に固い左手の一撃を食らわせた。

 水面に叩きつけられた金剛は泣くような、うめくような声をあげて、部屋の奥、指令室の窓のあたりにふらつきながら逃げていった。この期に及んで逃げ場所でも求めているのだろうか、時々水面に倒れながらもがいて逃げていく様子は、詠美にはひどく哀れなもののように映った。

 しかし詠美はそんな金剛をゆっくりと、容赦なく追いかけていく。

 

 「金剛?あなた『ヒョウモンダコ』って知ってるかしら?体に青い斑点のついたとってもキレイなタコなんだけどね、人ひとりは軽く殺せるような猛毒を持っているのよ。唾液にテトロドトキシン……フグの毒と同じ成分が入っていて、噛まれたら神経が麻痺してだんだん息ができなくなるんですって。……私の毒もこれに似たような毒なの。社長は『アカエイ』なんて名前をつけてくれたけど、毒の種類を考えたら、こっちのほうが合ってたかもしれないわねぇ~」

 

 詠美がまるで聖書でも暗誦するように述べるうちに、金剛は指令室の割れた窓の下に追い込まれてしまった。窓までは金剛の身長の倍ほどの高さがあり、金剛の手では届かない。金剛はその事実を知って絶望したのか、壁を背にして腰を落とした。その頬には青いアザがついていた。

 

 「かすり傷からじわじわ苦しんで沈んでいくのと、ひと思いに頭を撃ちぬかれて沈むの……どっちがいいかしら」

 「待って!」

 

 詠美が左手を金剛に向けたその時、金剛は叫んだ。しかし命乞いのような悲痛さはなく、どこか力強さがあった。

 

 「今の話、なかなか面白い話だったデース。折角だから最後に私も、海の生き物……海産物に少し関係ある話をしたいネ。OK?」

 

 詠美は依然として金剛に左手を向けながら言い返す。

 

 「いいわ。小話だろうと遺言だろうと聞いてあげる」

 「Thanks. 私は料理が好きで、よくジェームズにもいろいろな料理を作ってあげていました。その中でも一番得意な料理がカレーライスだったのですが……」

 

 その口調は場に似つかわしくない、明るい世間話のようであった。しかし金剛は詠美のギラつく瞳にじっと目線を合わせ、一瞬たりともそらすことはなかった。これがこの時の金剛の張れる、最大限の虚勢だった。

 

 「シーフードカレーを作る時に、ジェームズの秘書艦の叢雲から、ひと手間かけてもっと美味しく作る方法を教えてもらいました~!何だと思いますか?」

 「何って……あなたなめてるの?」

 

 にじりよる詠美に、金剛は手を突きだして慌てて静止した。

 

 「NO!NO!NO!まだ撃たないで~!そう!その美味しく作る方法っていうのが、具材を鍋に入れる前に、お魚も貝も、一度油でカラッとあげることだったんデース!そうすれば一緒に入れる野菜がトロトロに溶けるくらい煮こんでも、魚介類の旨みがある程度具材に残るので、カレーも具も両方美味しくなるのデース!そう聞いて一度作ってみたら、ジェームズにもタイガーにも褒められてしまいました~!いつもは私の料理にベリーハードな叢雲も、『今日はまあまあね』なんて言ってくれたりなんかして……」

 

 詠美は眉間にしわを寄せながら、モノマネ交じりの金剛の話をじっと聞いていた。なんでこんなくだらない話を聞いているんだろうか、と思っていたその時だった。

 

 「う~、こんな話をしていたら、最期の最期に料理がしたくなってきました……だから……」

 

 金剛はそこまで言うと指令室の窓に手を伸ばし、その縁をつかんだ。浸水で底部に流れてくる水により、いつの間にか金剛の手が届く位置にまで水かさが上がっていたのだ。今の金剛の話は、すべて水かさがあがるまでの時間稼ぎだったのだ。

 

 「貴女を素揚げにするのデース!ファイヤー!」

 

 決め台詞のように言い放つと、金剛はそのまま飛び上がり、指令室によじ登ろうとした。しかし、それを詠美が見逃すはずはない。詠美は出し抜かれた怒りから、赤く目を光らせた修羅の形相で金剛に左手を向けた。

 

 「オノレエェェェェェッ!」

 

 そう叫んだ次の瞬間、詠美の左手の発射口から、火薬の爆ぜる音と共に、出ないはずのマズルフラッシュが噴き出した。突然のことに詠美は絶句したが、それも一瞬だった。マズルフラッシュの炎は油を浴びた詠美の全身、さらに生簀の水面に張った油に引火し、生簀一帯は文字通り炎の海になった。

 金剛は間一髪指令室の中に転がり込んだため、引火は免れた。

 

 金剛は詠美に飛びかかった時、詠美の空気砲の発射口に、数日前ボンドからお守りとして貰った拳銃弾を詰めこんでいたのだ。そして毒針が発射された際にその先が詰められた銃弾の尻をたたき、暴発したというわけだ。飛び出した弾丸は詠美が発射時の反動に耐え切れず手を動かしたため、見当違いの方向へと飛んでいくことになった。

 

 金剛は明かりの消えた操作パネルに寄りかかりよろめきながら立ち上がると、指令室の窓から詠美の叫びと共に真っ赤に燃えさかる生簀をじっと見つめた。ジェームズ、またあなたに助けられてしまいましたネ……さあ、いま会いに行きますよ……

 

 金剛はふらふらと指令室を出ると、そのまま上に続く階段を登った。途中階段の傾きがきつい部分があったため、金剛はそこで艤装を捨てた。そこから何階か階段を上がっていったが、金剛の体力はこれが限界だった。基地の上部に達したところで、金剛は階段から離れ廊下に出ると、そのままバタリと倒れてしまった。

 

 それからしばらくすると、金剛の倒れている階も水がつかり始めた。しかし金剛は起き上がらなかった。

 その時金剛の顔の前に、男物の革靴を履いた、大きな足が立ち止まった。

 



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10.Nobody Does It Better

 基地左舷の脚部が破壊された時、ボンドはひたすらに撃ちあいを繰り広げていた。次第に傾き始めた基地の中で、ボンドは金剛を探してひとつのフロアを駆け回っては下の階に降り、またフロア内を駆け回って、を繰り返した。坂道となった廊下に海水が流れ込み、急流となってボンドに襲い掛かってもその足は止まらなかった。

 

 そうしているうちに、ボンドは基地上部・二階の一室から聞こえる物音に気がついた。ボンドは息を殺してその部屋の扉に近づくと、扉の間に指を入れ、数センチほどこじ開けた。ボンドがその隙間から中を覗くと、二人のスタッフが、何か作業しているのが見える。音をたてないように、ゆっくりと扉を開けるボンド。

 しかし、ふと鳴った扉のきしむ音が、ボンドの存在を二人に知らせてしまった。中の二人が拳銃に手をかけたと同時に、ボンドは扉の隙間に持っていた拳銃を突っ込み、容赦なく撃ちこんだ。あまり扉が開かれていなかったことが、ボンドにとっての幸運だった。もしあと数センチほど扉を広く開いていれば、ボンドの左目は銃弾に貫かれていただろう。

 

 ボンドは扉を完全にこじ開け、二つの亡骸が横たわる室内に足を踏み入れる。亡骸のうち一つは魚雷発射管の前の、小さな潜水艇に乗りこもうとしていたようだ。ストロンバーグが脱出した際の余りが、まだ二つ残っている。どうやらこいつらは、これで逃げようとしていたんだな。

 

 その時廊下から、急にもくもくと煙が立ち上ってきた。焼け焦げるような煙の臭いと、全体的に生臭い基地内の臭いが混ざり、ボンドは軽く吐き気を覚えた。それでもボンドは、その煙の立ち上る廊下へと果敢に飛びだしていった。さらに下の階に、自分の助けを待っている娘がいるのだから……

 

 シャツの袖で口元を押さえながら、ボンドはその階を一通り回ると、そのまま階段をかけ下りた。しかし、ボンドは踊り場のところまで来て足を止めてしまった。階段の先は水没してしまっており、ボンドが茫然と見ているその時も、水かさはどんどん上がってきていたからだ。

 もう一階より下は完全に水に飲まれた。このままだと脱出もできなくなる!

 

 ボンドは踵を返し、底部が水没する前に金剛が上の階に昇ったことを祈りながら階段を駆け上がった。そして再び上部二階の廊下に出たその時だった。

 

 

 

 のぼり坂となった廊下の先を、ゆっくりと横切る巨大な人影――ジョーズの姿がボンドの目に飛びこんだ。そしてさらにボンドの心をかき乱したのは、ジョーズの大きな背中にまるで小さな子どものように背負われている金剛の姿だった。ボンドは手にした拳銃の残弾を確認すると、全身にまとわりつく疲れや痛みをものともせず一気に坂道を駆け上がっていった。

 

 坂を登りきった先の廊下に、ボンドは開け放たれた扉を見つけた。先ほどボンドが中を確かめた潜水艇の発射室だ。ボンドは息を殺して扉に近づくと、扉の陰から中を覗く。

 

 部屋の中では、ジョーズが金剛を背中から降ろし、潜水艇の中に入れている。続いてジョーズは潜水艇のそばのパネルの操作を始めた。金剛はぐったりとして微動だにしなかった。その一連の流れが、ボンドの目にはまるで金剛が棺の中に入れられ、そのまま葬られていくかのように映った。もしかしたら、金剛を深海に送るつもりなのだろうか。ボンドは胸が締め付けられるようでたまらなかった。

 

 「動くな!ジョーズ!」

 

 いてもたってもいられなかったボンドは、部屋に飛びこむとジョーズに銃を向け叫んだ。その照準はしっかりとジョーズの眉間を狙っていた。

 

 「パネルから離れて壁際に行くんだ!」

 

 そう言われたジョーズは、妙におとなしく壁際へと下がっていった。ジョーズが下がる間に、ボンドは自分の足元まで水が上がってきたのを感じた。

 

 ボンドはジョーズに銃を向けながら、金剛の眠る潜水艇によると、空いている方の手で金剛を抱き寄せる。

 

 

 ぎゅっと密着させたボンドの身体に響く、金剛の鼓動と微かな息遣い。その生命の息吹が感じられただけでもボンドにとっては大きな希望だった。もしそれさえも失われていたら、ボンドは怒りに任せ引き金を引いていたかもしれない。

 

 ボンドは一息つくと、拳銃を持つ手を変え、パネルを操作しはじめた。ジョーズは依然として直立不動で動かない。潜水艇は二人ほどなら少しきついが入ることはできる。このまま脱出して、そのまま海上まで上がれれば……

 

 

 

 その時、ボンドの耳に何かが弾けるような音が響いた。同時にパネルの表示から部屋の照明に至るまで、すべての明かりが消え、あたりは一瞬闇に包まれた。どこかで電源がショートしたのだ。そして再び予備電源の鈍い明かりが暗闇に灯ったその時。

 

 ジョーズの牙が、薄暗い部屋の中に輝いて襲い掛かった。

 

 ボンドは再び金剛を寝かせると、ジョーズの顎にかかとの一撃を食らわせ、ふたたび拳銃を向ける。しかしその一瞬、ジョーズの大きな手はボンドの手首を掴み、浸水してきた入口へと投げ飛ばした。拳銃は廊下へ飛んでいきそのまま水中に没した。ボンドはひねられた手を抑えながら、足元に転がるスタッフの亡骸に近づいた。こいつらも拳銃を持っていたはずだ。しかしその拳銃は弾を出しつくし、スライドが開いてしまっていた。それでもこの部屋には、あともう一人が使っていた拳銃があるはずだ。それを見つけたいところだが……

 

 ボンドはせまい室内で、ジョーズの腕をかわし続けながらあたりに目をやった。この部屋には何かないのか。感電させられそうなもの、火をつけられそうなもの、奴の動きを封じれそうなもの、ぶん殴れそうなものだっていい、なんだっていいんだ!

 そんなボンドの願いも空しく、ボンドにできたことはその辺にあった小物や工具を投げつける程度だった。普通のスタッフなら反撃の糸口にでもなっただろうが、ジョーズ相手では蚊に刺されたほどのダメージもなかった。

 

 その時水に浸かったボンドの足元に、何か固いものがぶつかった。ボンドは水中から反射的にそれを拾い上げ、ジョーズに向けた。ここから逃げようとしたもう一人のスタッフの、置き土産の拳銃だ。スライドも開いておらず、手には弾の入った重みも感じる。ボンドはジョーズの頭部に照準を合わせ、引き金を引く。

 

 拳銃はホチキスのような音を立てただけで、何も起きなかった。ボンドが二、三度引き金を引いても全く動じない。ボンドがスライドを引き排莢する暇もなく、ジョーズの両腕はボンドの喉を掴んだ。

 

 ジョーズは暴れるボンドを持ち上げると、潜水艇にボンドを押しつけた。そしてボンドの首を掴む手に一層力を入れるジョーズ。次第に薄れていく意識の中でボンドは、なぜか金剛と初めて会った時のことを考えていた。扉を少し開け、金剛の姿を見た。名前を当てて、イギリスの話をした。そして……

 

 その時、ボンドはひらめいた。これしかない!

 

 ボンドは勢いよく自分の右足を振り上げた。その先にはジョーズの股ぐらが。その直撃にジョーズがひるんだその瞬間、ボンドは台に上がるとまるでドロップキックをかますように両足でジョーズの顎を蹴りつけた。

 部屋全体が傾いていることもあり、ジョーズは後方へと勢いよく飛んでいった。そしてジョーズは、複雑なボタンやスイッチが取り付けられた機械に背中から突っ込んでいった。

 

 その時、何かスイッチが反応したのか、潜水艇がゆっくりと発射口へと入っていく。ボンドは金剛に覆いかぶさるように潜水艇に乗りこむとハッチを閉めた。すると潜水艇は完全に発射口に入りこんだのか、あたりは完全に闇に包まれた。周囲からは泡が立っているような音しか聞こえない。不安げなボンドは、金剛をしっかりと抱きしめていた。

 

 すると突然、すさまじい音と共に周りが一気に明るくなった。その明るさはしだいに強くなっていき、そして背中を焼かれるような熱さとともにそれは頂点に達した。ボンドはそのまま顔を上げて、傾きかけた真夏の太陽を仰ぎ見た。そしてハッチを開けると、吹き寄せる潮風を胸いっぱい吸い込んだ。

 

 「金剛、金剛!」

 

 ボンドは、まだ意識が戻らない金剛の頬を軽く、そして優しく叩いた。しばらくボンドが呼び続けて、ようやく金剛は眠りから覚めた時のように、まぶしそうな目をした。

 

 「うーん……」

 「ようやく目を覚ましたか……心配したぞ」

 「んっ……ジェームズ?」

 

 その呼びかけにボンドは微笑んでいたが、心中ではまだ不安が残っていた。ボンドが英国のスパイであると知って、金剛がどう思っているか気になっていたのだ。

 そんなボンドの顔を見た金剛の瞳が、急に潤み始めた。それを見て無意識に瞳をそらすボンド。

 

 「ジェームズ……生きてる……生きてる!」

 

 そう叫んだ金剛は跳ね起きると、勢いそのままにボンドに抱きついた。少しも変わらない、いつもの無邪気な金剛の姿がそこにはあった。

 

 「ジェームズ!心配かけさせて!もう……!」

 

 ボンドは、金剛の胸から響く熱い鼓動を感じた瞬間、感情があふれだした。発射室で感じたかすかなものではない、確実な命の高鳴りだった。ボンドは金剛から向けられた情熱に力強く返すことしかできなかった。

 

 思えばこの娘は突然護衛としてタイガーから選ばれたのだ。自分の戦ったことのない、俺たちの世界での戦いで、彼女は何度も怖い思いをしてきたことだろう。

 何度も体験したことのない危険な目にあってきただろう。それでも彼女はずっと、俺のそばで共に戦ってくれたのだ。そして今……

 

 二人は沖縄の青い海のど真ん中で、男と女として再会の喜びを分かち合っていた。

 

 

 

 

 

 「金剛さんの反応が移動した?雪風、左舷前方を見て!」

 「はいっ!」

 

 その頃、川内たち連合艦隊はボンドと金剛の捜索にあたっていた。金剛の電探からの信号から位置を特定し、回収することが彼女たちの任務だった。なのだが……

 

 「雪風、何か見えた?雪風?」

 

 雪風は川内の呼びかけにも答えず、口をぽかんと開いたままずっと双眼鏡をのぞいている。

 

 「ちょっとどうしたの?」

 

 そう言うと川内は雪風から双眼鏡を取り上げ、雪風の見ていた先を見た。しばらく海上を見回していた川内だったが、ふと双眼鏡の手を止めてしまった。しばらく眺めた後に、川内は苦笑して大和に話しかける。

 

 「大和さん、これは……」

 「そうですね……偵察機で見てみましたが、これは提督に連絡した方が……」

 「はい……これって私がやんなきゃダメですよね、無線連絡……」

 

 川内は苦笑したまま、司令部へと無線を飛ばした。

 

 「司令部応答願います、応答願います、どうぞ」

 「こちら司令部、どうぞ」

 「こちら川内、ボンドさんと金剛さん、発見しました」

 「そうか、よかった。川内、二人は無事か?」

 「無事も無事、とっても元気みたいです。だって、真っ昼間から二人で夜戦突入してるんですから……」

 

 

 

 

                     《JAMES BOND WILL RETURN...》



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第四話 『戦慄のカジノ・アドミラル』
其の一


 「日本に来てこんなことをするなんて思ってもみなかったでしょう、ミスター・ボンド」

 「なに、お呼びがかかればいつでもどこでもなんでも、それが私の仕事さ」

 

 屋外に作られたバーのカウンター席で、英国海軍士官の礼服を着たボンドは明るく答えた。ボンドと話しているのは、バーボンのグラスを手に、海軍の礼服を着た日本人の男だ。この男一見端正だが、ぼんやりとした印象の目をしており、どこか考えが読めない。

 

 ボンドは三重県のとある島にある鎮守府で行われているパーティに、秘書艦の叢雲と共に来ていた。この鎮守府の提督、堂本新次郎は、時折提督など関係者を集め、このようなパーティを開いている。ボンドと叢雲、そして堂本は、このパーティの屋外会場の一角のバーカウンターにいた。叢雲は普段の白い制服ではなく、淡い水色のレディスドレス姿だった。

 

 「鎮守府生活は退屈ではないですか?」

 「いや、退屈はしちゃいないよ。時々物足りなく感じることはあるがね」

 「一人でもお酒に精通した艦娘がいれば、この生活にも張り合いが出ますよ」

 

 堂本はカウンターに肘をつくと、拳で机をコンコンと叩いた。その呼びかけに近づいたのは、黒のタキシードを宝塚歌劇の劇団員のように華麗に着こなした重巡洋艦・那智だった。

 

 「何にします?」

 「そうだな……」

 

 ボンドは一呼吸置いて、那智の切れ長の眼を見つめて言った。

 

 「ウォッカ・マティーニを。ステアじゃなくてシェイクして」

 「お嬢さんのほうは?」

 

  堂本は叢雲にも声をかける。

 

 「そうね……ジョニー・ウォーカーのロックを頂くわ」

 「分かりました。しばしお待ちを」

 

 那智が準備をしている間、退屈しのぎにボンドは叢雲にささやいた。

 

 「無理は禁物だよ。君はカナダドライでよかったんじゃないか?」

 「アンタ……馬鹿にしてんの?」

 

 そんなボンドと叢雲を見て、堂本はにこやかに二人を静止した。

 

 「まあまあお二人とも。ミスター・ボンドから先ほど秘書艦のご紹介もいただいたわけですし、それでは僕の方も」

 

 そう言った堂本の後ろには、栗色の髪をボブカットにし、黒いドレスに身を包んだ背の高い女が立っていた。那智に頼んだグラスを手にしたボンドと叢雲に、堂本は自慢するかのように胸を張って話し始めた。

 

 「彼女は戦艦、陸奥。僕の秘書艦にして、この鎮守府のエースだ」

 

 紹介を受けた女、陸奥はボンドに微笑んだ。その微笑みには、本人が自覚していないだろう色気があった。

 

 「陸奥よ。よろしくお願いね」

 「ボンド。ジェームズ・ボンドだ。こちらは秘書艦の叢雲。よろしく」

 

 長いまつげを揺らしながら煌めくグリーンのつぶらな瞳、主張しすぎない程度に豊満な胸、そしてスラリと長い脚の脚線美……その雰囲気はまるで牝鹿のようであった。ボンドはそんな陸奥を頭から足の先までじっくりと見つめると、言った。

 

 「素晴らしい艦影ですな……観艦式ではさぞ目を引くことでしょうね」

 

 そんなボンドを叢雲はジロリと睨みつける。

 

 「あらあら、ありがとう、ボンドさん」

 「いや、ジェームズ、って呼んでほしいな。もっと親しげにね」

 

 なおも陸奥に色目を使い続けるボンドに、叢雲はプイと背を向けてどこかに行こうとした。

 

 「おい叢雲、どこへ行くんだ?」

 「知り合いが会場にいたのよ。挨拶しにいって何が悪いの?」

 

 ボンドに強く言い放った叢雲は、そのまま参加者の人ごみに消えていった。そんなボンドと叢雲を見た堂本と陸奥は笑っていた。

 

 「まったく、落ち着きのない秘書艦だ……これはお見苦しいところを見せてしまった」

 「いやいや、一連の流れを見ていた側としては、なかなか微笑ましいものでしたよ。楽しげな鎮守府生活が眼に浮かぶようで、羨ましいですね」

 

 ボンドも笑みを浮かべながら、マティーニを口にした。しかしその一瞬、ボンドの瞳は殺し屋のそれになって堂本を睨んだ。

 

 

 

 

 

 ボンドがこのパーティーに出席したのは、一週間ほど前にタイガー田中の依頼を受けてのことだった。

 

 

 「堂本新次郎、三十一歳。三重県の鎮守府を受け持っている提督だ。ここは伊勢湾から紀伊半島沿岸、さらには渥美半島あたりまでを管轄としており、対深海棲艦作戦にもそこそこの功績があるのだが……近頃妙なことが判明してな」

 

 叢雲はタイガーから渡された、堂本のファイルに目を通していた。ボンドはそれを脇から覗きながら聞き返した。

 

 「妙なことって?」

 「この鎮守府だけ艦娘の轟沈率が異様に高いんだ。他の鎮守府に比べ、轟沈の報告が四倍近くある。そこでだボンド。今度彼の鎮守府で、提督を集めたパーティが開かれる。そのパーティに潜り込んで、彼の鎮守府、ひいてはこの海域一帯を調査し、轟沈率が高いわけを調べて欲しいんだ。それが分かれば、あとは我々が事を進める」

 

 ボンドはそこまで聞いて、不機嫌な顔でタイガーに言った。

 

 「タイガー、これは深海棲艦との戦い、戦争だろう。古今東西、戦争には犠牲がつきものだ。轟沈率が高いのも多少の犠牲を払っても任務を達成させる考えの人間だからだろう。別におかしいことじゃないし、功績を挙げているのならむしろ軍人としてはまともじゃないのか」

 「ボンド!」

 

 叫んだのは叢雲だった。

 

 「普段の艦隊運用をしっかりとしていれば、本来轟沈なんて起こりえないの。ここまで轟沈の報告があるのは異常なことなのよ!覚えておきなさい!」

 

 そう言い放った叢雲には、普段以上の気迫があった。ボンドは珍しくその気迫に押されながら頷くと、タイガーに続けて言った。

 

 「しかし……そもそも俺は英国諜報部の人間だ。どうして俺が君らの内部調査をしなければならんのだ。これは本来おたくの部下の仕事だろう。君の部下に熱い心を強い意志で包んだGメンみたいな連中はいないのか?」

 「堂本は提督全員のリストを持っているのか、公安の人間から選ばれた提督はパーティに呼んでいない。だが君は軍人扱いされているからか、こうして招待状が来ているんだ。私たちの関係者でパーティに呼ばれているのは、君しかいないんだ」

 

 タイガーはファイルから抜き取ったボンド宛ての招待状を見せた。しかし、それでもなおボンドは食い下がった。タイガーには悪いが、この仕事を引き受ければ、これからなし崩し的にいろいろとさせられることになるだろう。

 

 「それでも俺はごめんだね。ここに来てからの仕事だって、俺は少なからず英国の為だからやっているだけだ。英国諜報部の人間として、全く旨みのない仕事はお断りするよ」

 「そうか……ならこうしようか。君が任務を成功させれば、報酬として英国政府にまだ公開していない艦娘の情報を渡そう。この任務が英国の防衛に多少なりとも関わることになるぞ。それでも嫌と言うならば、無理にとは言わんが」

 

 タイガーは何としても俺に協力して欲しいようだ。考えてみれば日本の艦娘は皆、彼の娘のようなものだ。そんな感情論を抜きにしても、情報提供のネタをちらつかされては仕方がない。どうも釈然としないが……まったく、駆け引きのうまい男だ。

 

 「ああ、分かったよ」

 「協力に感謝するよ、ボンド。あと、パーティの参加は秘書艦の同伴が必須なんだ。叢雲、ボンドと行ってやってくれ」

 「分かったわ。ボンド、私の恥になるようなことしないでよ」

 「わかりました。ところで……パーティに行くドレスは持ってるの?」

 「艦娘関連のパーティなんだし、戦闘時の服装で十分でしょ」

 「そっか、持ってないんだね」

 「持ってるわよ。何?私のドレス姿、見たいの?」

 「行先は戦場じゃなくてパーティ会場だ。もし周りの艦娘が皆ドレス姿だったら逆に目立ってしまうじゃないか。ちなみに見たいかどうか、っていうのは……まあ微妙なところかな」

 「相変わらずカンに障ることしか言わないのねアンタは……」

 

 

 

 鎮守府がある島は小さな漁港から数キロ先の沖合にあった。その港から出ている定期船が島への唯一の行き方なのだが、ボンドは車で牽引してきたQボートで島へと乗りこんだ。この島はかつては風光明媚な観光地として映画の撮影にも使われていたらしいが今ではその面影はなくなり、鎮守府以外には寂れた旅館の廃墟を残すのみとなっていた。ボンドは島のはずれの岩陰にQボートを隠すと、港で合流した叢雲と共に鎮守府に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 バーカウンターから離れた叢雲は、古今東西の料理が並ぶテーブルの方へと歩いていった。叢雲が見たところでは、参加している艦娘の制服とドレスの割合はおよそ半々程度だった。結局どっちでもよかったんじゃない。叢雲は他の艦娘たちを見ながらそう思った。

 そして叢雲は会場の一角で若い提督と話している、ブラウンの髪をツインテールに束ねたセーラー服の少女のもとに向かうと、ボンド相手の時とは全く調子の違う優しい声をかけた。

 

 「久しぶりね、白雪。元気してた?」

 「あっ、叢雲ちゃん!……司令官さん、紹介します。私の姉妹艦の叢雲です」

 

 白雪は、一緒に話していた提督に叢雲を紹介した。提督は叢雲に敬礼した。叢雲も答礼。

 

 「そういえば叢雲ちゃん……あれから転属になったんだってね」

 「……うん、そうよ」

 「あっ、ごめんなさい、言わない方が……」

 「いいのよ。もう気にしてないわ」

 「本当にごめんね。それで、えっと……新しい司令官さんは?」

 「あそこでかっこつけてるイギリス人よ」

 

 白雪は背伸びをして、叢雲の指さした先を見た。その先では、ボンドが堂本と陸奥を相手に談笑している。またくだらない冗談でもかましているんだろうと、叢雲は呆れながら思った。

 

 「なんていうか……素敵な雰囲気の司令官さんね」

 「ふぅん、だったらあんたにあげようか?」

 「いやいや……」

 

 白雪は苦笑した。

 

 

 

 

 「そういえば堂本さん、ギャンブルが好きだとお聞きしておりましたが……」

 

 ボンドは堂本の人となりを資料で把握していた。そのボンドの問いかけに、堂本の目がどこか爬虫類的な、不気味な輝きを見せた。

 

 「いえいえ。正確には……『ギャンブルを持ちかける』のが好きでしてね。僕にそう聞いたところをみると、ミスター・ボンドは……?」

 「まあ、たしなむ程度には」

 「なら良かった。世の中には自分の金のみならず、手をつけてはいけない金を全部ギャンブルにつぎこむような間抜けもいますからねえ。もしよければ早速……いかかですか?」

 「ええ。ギャンブルの内容は私が決めても?」

 「どうぞ。何でも準備しますよ。カードでも、花札でも、チェスでも……コイントスでも。フフッ」

 

 堂本はニンマリと口元に笑みを浮かべた。流石に気持ちが悪いと思ったボンドだったが、そんな素振りを見せないようにして言った。

 

 「もっとシンプルなのがいいな。……そうだ」

 

 ボンドは自分のマティーニのグラスを堂本に見せるように高く掲げた。

 

 「お互いの飲んでいるマティーニとバーボン……この二つのグラスをトレイに乗せてテーブルを回らせ、先に取られた方が勝ち、というのはどうだろうか」

 

 ボンドの提案に、堂本はマティーニのグラスをビシッと指さした。

 

 「乗った。いいでしょう。那智、マティーニと氷なしのバーボンを」

 

 那智が慣れた手つきで準備を始めると、堂本はボンドに向き直る。

 

 「それで、賭け金はおいくら?」

 「んー、五万円、でどうだろう」

 「マティーニ一杯にかける値段にしては、ちょっと高めですね」

 「これは絶対勝つという自信にかけた値段だよ。なんならもっと払ってもいいけど」

 「まあまあ、そのへんにしときましょう」

 

 そんな会話をしているうちに、那智は二人分のグラスを準備してしまっていた。

 

 「お待たせしました」

 「ありがとう。ちょっと失礼」

 

 トレイに乗ったマティーニとバーボンのグラスをボンドは手に取って見た。縁や底に目を配り、どこにもイカサマがないことを確認すると、そのまま陸奥に渡した。

 

 「じゃあ陸奥、頼んだよ」

 「ええ。勝負は公平に、ね」

 

 そう言うと陸奥はトレイを両手で持ち、テーブルの方へと歩いて行った。

 ここまでのうちに、堂本が合図をするような素振りをボンドは確認できなかった。それ以後もボンドは、グラスを確認しながら堂本の様子を伺っていた。しかし。

 

 「ミスター・ボンド、私よりもグラスをちゃんと見ててくださいよ」

 

 その言葉に思わずボンドがグラスに目をやったその時。

 陸奥の持っていたトレイに人ごみの中から手が伸び、片方のグラスを取っていった。

 残ったのは……

 

 マティーニのグラスだった。

 

 ボンドが渋い顔で自分のマティーニを飲み干した横で、堂本は嬉しそうに言った。

 

 「おや、残念。僕の勝ちですね」

 「たまにはそんな時もあるさ。長い人生だからね」

 

 ボンドはそう言いながら小切手をとりだして記入すると、堂本に渡した。

 

 「きっちり五万円だ。君の艦娘たちへのプレゼントの足しにでもしてくれ」

 「では確かに。今夜はありがとうございました。あともしご興味があるのであれば……今度僕が経営しているカジノにお越しください」

 

 堂本は小切手をしまったその手で名刺を取り出すと、ボンドに渡した。その名刺にはネットカジノのものと思しき、海外ドメインのURLが書かれていた。ボンドはギャンブルは好きであったが、この手のものには興味は持てなかった。場の雰囲気にひたりながら、相手の顔をじかに見て勝負をすることがギャンブルの醍醐味と考えていたからだ。

 

 「この五万円は僕のカジノであなたが取り返すその時まで、こちらでお預かりしておきますよ」

 「金は天下の回りもの、だね。それではまた」

 「それでは、ミスター・ボンド。明日になったら一緒に、モーターボートでも走らせましょう」

 

 テーブル側へと歩いていくボンドに、トレイを手にした陸奥はすれ違いざまに声をかけた。

 

 「残念だったわね、ジェームズ。景気づけに、はい」

 

 陸奥はボンドにマティーニのグラスを渡そうとした。そんな陸奥に、ボンドは流し目を送る。

 

 「いや、それは君のマティーニだ。君に私のお気に入りを飲んでもらえるのなら、負けて損なしだよ」

 

 ボンドはそう言って陸奥に微笑みかけると、人ごみの中に消えていった。そんなボンドに、陸奥の顔も思わずほころんだ。

 

 「あらあら……」

 

 

 

 人ごみの中のボンドは、バーボンのグラスを取った女を探していた。あの人ごみの中から伸びた腕の細さは明らかに女のものだった。きっと見つけ出して……その後どうしてやろうか。

 

 バーボンのグラスが取られたあたりのテーブルにボンドはたどり着いた。さて、どこにいるか……と思った矢先。

 

 「残念だったわね、ボンド」

 

 その声にボンドが振り向くと、テーブルのそばに叢雲が立っていた。バーボンの入ったグラスを手にして。

 

 「そう言われるのは君で三度目だ。聞き飽きたよ」

 

 叢雲はボンドに背を向けると、前かがみになりテーブルに肘をついた。

 

 「戦艦相手に色目ばかり使ってるからこうなるのよ」

 「……まったく、君も小粋なことをするようになったな」

 「損した分だけど、経費じゃ落ちないわよ。ま、授業料と思うのね」

 「あの程度は痛くもかゆくもないさ。経費でギャンブルしてあんな目に遭った時に比べれば」

 「えっ?」

 

 振り向いた叢雲を気にも留めず、ボンドは続けた。

 

 「さあおしゃべりはおしまい、ここからは仕事の話だ。何かわかったことは?」

 「ふん、報告はアンタが先よ」

 「それじゃあ……戦艦相手に色目使った結果、堂本氏のもう一つの顔が分かりましたよ」

 

 そう言ってボンドは手品のように堂本の名刺を取り出すと、叢雲に渡した。

 

 「このパーティの目的はカジノの宣伝、その開催資金の出処もカジノの上がり、ってところかな」

 「ふぅん、なかなかのやり手、ってわけね。じゃあ次は私。その堂本って男、とんだ一杯食わせ者でもあるわ。あの男を見て」

 

  叢雲は視線を右にやった。ボンドもそれに続く。二人の視線の先には、ガードマンとして立っている、ガタイのいい五分刈りの男がいた。その男の左耳の後ろには、ハッキリと十円ハゲができている。

 

 「あの円形脱毛症の男。陸奥がこっちに来た時、その後ろをずっと追いかけてたわ。あの耳のBluetoothの受信機が堂本側の盗聴器から続いていて、それを聞いてマティーニが取られるよりも先にバーボンを取る気だったのね。まあ、きっとどんなギャンブルをしたとしても、向こうは同じようにイカサマを仕掛けたと思う」

 「なるほど。でもどうしてそんなことが分かった」

 「Qに頼んで、電探に無線の盗聴機能をつけてもらったの。おかげでアンタにも一杯喰わせてやれたわ」

 

 叢雲はどこかいたずらっぽく、兎の耳のような形をした頭の電探を触った。そんな叢雲に、ボンドは不機嫌そうに続けた。

 

 「まあ、あいつがいかさま師と分かったところでどうにも……」

 

 その時、ボンドは目の前にいた提督の一人がテーブルの上のコースターを拾って持って行くのを見た。しかもその様子は、どこかコソコソしているようにも見えた。なぜコースターを持って行く?それも後ろめたそうに。

 

 「どうしたのボンド?」

 

 自分の立っているそばのテーブルを見つめるボンドに叢雲は言った。しかしボンドは、そこにコースターがないことを知ると、そのまま離れていった。しばらく歩き回り、ボンドはテーブルの一角にあるコースターをさりげなく手にした。そのコースターをじっと見つめるボンドに、突然ほったらかしにされた叢雲は不満げに近づいた。

 

 「一体なんなのよ!?」

 

 そんな叢雲に、ボンドはコースターの表面を爪でこすりながら言う。

 

 「コースターの表面に黒い点みたいなものが……叢雲、部屋に戻ろう」

 「ええ?」

 

 一時はボンドを出し抜いたものの、結局ボンドに振り回されてしまった叢雲は不満と若干の興味を胸に、ボンドと共にパーティ会場を後にした。



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其の二

 ボンドは提督ごとに用意された英国調の落ち着いた雰囲気の個室の中、ひとりベッドの上で横たわり瞳を閉じていた。下着姿で微動だにしないその様子は、まるで眠っているか死んでいるかのようだった。

 その時突然、ボンドのスマートフォンに着信が入る。その音にボンドは目を開けると、上体を起こしてスマートフォンを手にし、そのまま耳に当てた。

 

 「いけたか?」

 『ああ、楽勝だよ。あとはパソコンで会おう』

 

 ボンドはスマートフォンを切ると、バスローブを羽織りながらドアの向こうにいる叢雲を呼んだ。その呼びかけに、どうも分かりかねたような顔をして部屋に入ってくる叢雲。続いて大き目のキャリーバッグからノートパソコンを取り出したボンドに、叢雲は声をかける。

 

 「ボンド、アンタ一体何してたの?」

 「この部屋に入る前、君はこの部屋には隠しカメラと盗聴器が仕掛けられてるって言ったろう。だから、Qに頼んでカメラと盗聴器をハッキングして、ダミー用の映像と音声を録ってもらっていたんだ。今録った映像と音声を一晩中ずっと流していれば、この部屋で何をしても相手にはばれないってわけさ。無線発信のカメラと盗聴器だったからできた芸当だよ」

 「ふぅん、そんなこともできるのね」

 

 感心しているような、していないような微妙な口ぶりで叢雲は言う。

 

 「で、さっきのコースターは何だったのよ?」

 

 と言いながら、ベッドの上、ボンドの隣に座る叢雲。

 

 「今からQに何もかも説明するから、その時まで待っててくれ」

 

 不満げにふくれっ面をする叢雲をよそに、ボンドはベッドの隣の小さな棚の上にノートパソコンを置き、操作している。しばらくすると画面にQの姿が現れた。それを見て、叢雲はボンドのすぐそばまで近づき画面を覗きこんだ。

 

 『あ、来た来た。そっちは僕の姿映ってる?』

 「ああ、バッチリだ」

 『で、僕に見せたいものって何?変なものはいらないよ』

 「実はこのコースターなんだが……」

 

 そう言ってボンドはパーティ会場から持ってきたコースターを、パソコンのカメラに見せるように取り出した。

 

 「この真ん中の黒い点が、どうやら超小型メモリらしい。それを解析して、中身を見てほしいんだ」

 『分かった。同封してあるスキャナーをUSBにつないで、その上にコースターを置いてよ。あとはこっちでやっておく。あっ、読み取り中はコースターに触るなよ。下手すりゃ最初からやり直しだ。あと99%のところで触りでもしたら、僕はもう通信を切ってやるからな』

 「通信の切れ目が縁の切れ目、ってやつだね」

 「くだらないこと言ってないでさっさとやんなさい!」しびれを切らした叢雲が叫んだ。

 

 ボンドは四角い板のようなスキャナーを取り出すと、ノートパソコンのUSBに差した。そしてスキャナーの上面、光沢のある黒い板の部分にコースターを乗せる。すると、Qのいる画面からピッ、という電子音が鳴る。

 

 『おっ、来た。超小型メモリ、って読みはどうやら当たりみたいだ。待っててよ……うわあ。読み取れたけどひどく複雑に暗号化されてるなあ……こいつを解除するからちょっと待ってて』

 「どのくらい待てばいい?」

 『『ちょっと』さ、『ちょっと』!』

 

 そう言うとQは画面の中で前かがみになる。ノートパソコンの画面には、Qのボサボサ頭しか映らなくなった。

 

 「やれやれ……じゃあ、こっちも情報を漁ってこようかな」

 

 ボンドはそう言うとバスローブを脱ぎ、素肌にそのままワイシャツを羽織った。

 

 「ボンド、どこ行くのよ。私はどうするのよ!」

 「ちょっと探りをいれてみるのさ、『ちょっと』ね。君はこの部屋でQからの報告を聞いていてくれ。また帰ってきたらお互いに情報交換しよう」

 

 そう言う間にボンドはワイシャツにスラックスというラフな姿になり、扉の向こうに消えてしまった。

 

 「ねえちょっと!……ふん!」

 

 完全に放っておかれてしまった叢雲は、不機嫌そうに立ち上がるとキャリーバッグから制服を取り出した。そしてバスルームまで行くと、パーティの間中ずっと着ていたドレスを脱ぎ始めた。そんな叢雲は鏡に目をやると、自分の顔をまじまじと眺めながら、今の自分の状況をふと考える。

 

 ボンドはあんな調子だし、Qはひたすら暗号解読に夢中で、自分には見向きもしない。まったく、どいつもこいつもどういう神経をしているのかしら。

 そんなことを思いつつも、叢雲はどこか違う世界で生きているかのような隔たりを二人との間に感じていた。鏡の中から自分に向けられる切なげな視線を振り切るかのように、叢雲は俯く。

 

 叢雲が着替えて部屋に戻った丁度その時、ノートパソコンからQの声が聞こえてきた。

 

 『お待たせ。叢雲、ボンド、できたよ』

 「Q、何の情報だったの?」

 『なにかのログインIDとパスワードのようだ。どうやらそのメモリ自体が、専用のプログラムで暗号解除するとそのままログインできる代物みたいだね』

 

 そこまで聞いて、叢雲はピンとくるものがあった。

 

 「Q、もしかしたらこれと関係があるんじゃ……」

 

 叢雲はQに、パーティの時にボンドから受け取った堂本の名刺を見せた。

 

 「この鎮守府の提督の名刺。この男が一枚かんでるっていうネットカジノへの行き方がここに書いてあるわ」

 『あっ、そのURLだね。そこでこのIDを使うと、一体どこに行けるのかな……』

 

 そう言うと画面の中のQはキーボードを打ち始めた。

 

 『ああ……このID、『深層ウェブ』に繋がるやつだ……』

 「深層ウェブ?」

 『普段使われるインターネットじゃ潜り込めないようなさらに奥深いところにある、素性を知られては困る連中が使っているサイトのことだ。そこは魑魅魍魎の世界。何でもござれの無法地帯さ』

 

 素性を知られては困る連中、って一応アンタもそうなんじゃないの?叢雲はそう思った。

 

 『こういうところに潜るには細心の注意を払わないといけない。僕ら政府の人間さえも出し抜こうとしている輩の集まりだからね。叢雲、準備をしなきゃいけないからまたちょっと時間をくれ。閲覧できるようになったら、また呼ぶよ。すまない』

 「大丈夫よ。待つのにももう慣れたわ」

 『そうだ。僕が準備をしている間、夕張から今回の特殊装備の解説を聞いていてくれないかな。夕張!』

 

 画面の外から夕張の元気な、はーい、という声が聞こえた。

 

 『叢雲に装備の解説をしてやってくれないか!叢雲、夕張の方にカメラを切り替えるぞ』

 

 そう言ったQの姿が、一瞬にしてニコニコ笑顔の夕張の姿に切り替わる。

 

 『はーい、じゃあここからは私が、Q特製キャリーバッグの説明を……あれ?ボンドさんは?そこにいないの?』

 「ボンドはさっき出ていったわ」

 『そう……じゃあ叢雲ちゃんだけでいいから聞いてくれない?ねっ!』

 「……分かったわ」

 

 夕張は楽しそうに足元からボンドの持ってきたキャリーバッグと同じものを取り出した。

 

 『それじゃあ始めます!まず、このバッグのここ、伸ばせる取っ手は取り外しができます。さらにこの取っ手は、こんな感じに……持ち手と管まで分解できます。そうしたら持ち手の、伸ばす時に押すボタンの横にフタがあるので、それも外します。これで、持ち手の片側に、もう一つ穴ができるわよね。そうしたら……』

 

 そこまで言うと、夕張は持ち手と管をそれぞれ片手ずつに持ち、突然ビートの効いた鼻歌を口ずさみながらその場で踊り始めた。

 

 『アイハブアチューブ♪アイハブアハンドル♪ンッー!……』

 「いやそういうのはいいから真面目にやって頂戴」

 

 叢雲の反応はこの上ないほど冷ややかだった。

 

 

 

 

 

 

 一方のボンドは、堂本の執務室への潜入する方法を考えながら、廊下を進んでいた。もしかしたら、この鎮守府にある艦娘の資料から、轟沈の真相の手掛かりが掴めるかもしれない。あのコースター以外何も手がかりがない以上、そこに当たってみる価値はあるはずだ。そう考えていたその時だった。

 

 「あら、ジェームズ!」

 

 ボンドは自分を呼ぶ声に振り向く。緊張していたためか、その右手はワルサーの入った右手に伸びていたが、それを使う必要はなかった。声をかけたのはへそ出しにミニスカという、あまりに挑発的な制服姿の陸奥だった。

 

 「何してるの?こんな時間に」

 「いや、ちょっと探し物を……」

 「探し物ってなぁに?私も暇だし、よかったら一緒に探すの手伝ってあげるわ」

 

 そう言って、陸奥はボンドにウインクする。しかし、ボンドはそのアプローチに目を伏せた。

 

 「いや……もう大丈夫だよ」

 「えっ……?」

 

 戸惑う陸奥の眼前まで近づき、そのエメラルドの如く緑色に煌めく瞳をじっと見つめるボンド。

 

 「探していたものは、今見つかったからね」

 「あら、あらあら……」

 

 

 

 

 

 

 『……それじゃあ説明はこれでおしまい。装備は無傷のままで返してね!』

 「分かったわ。ねえ夕張、ちょっと聞きたいんだけど」

 『ん、なあに?』

 「アンタ、Qとはうまくやってるの?」

 『えっ!?ちょちょっ、なんでいきなりそんなこと聞くの!?』

 

 突然顔を赤くしてどぎまぎしはじめる夕張に、叢雲は冷静に言う。

 

 「勘違いしないで。そこの連中にはうまくなじめてるかって聞いてんのよ」

 『あっ、うん……ま、まあ、最初は戸惑うこともあったけど、なんだかんだでうまくやってるか……な。ちょっと変な装備のテストしたりするのも、結構楽しいし!』

 「ふぅん、そう……」

 

 その時。

 

 『夕張、叢雲、カメラを切り替えるよ』とQの声。

 『あっ、う、うん!』

 

 夕張がまたどぎまぎしはじめた直後、画面がQの姿に切り替わる。それと同時に、Qは深くため息をついた。先ほどまでのQとはどこか雰囲気が違う。

 

 「Q、どうかしたの?」

 『叢雲、今ログインした先のサイトを見てきたんだけど……』

 

 そう言って、Qは勿体ぶるように椅子に座りなおした。叢雲は言いだしたい気持ちを抑えながら、Qの姿を見守った。

 

 『……正直言って、僕はあのサイトの内容を君に見せたくない。恐らく君たち艦娘にとって非常にショッキングな内容だと思う。君ならともかく、夕張に見せたらどうなることか……』

 

 どこか煮え切らない態度のQに、叢雲は毅然とした態度で言いきった。

 

 「そんなこと言っていたら何も分からないじゃない。私への気遣いは感謝するわ。でもそれが今の私の仕事だし、アンタの仕事でもあるわけでしょ!私だって、覚悟はできてるつもりよ。……ほら何してんの、早く私に見せなさい!」

 『……分かったよ』

 

 画面内のQがキーボードを操作すると、画面の右の隅に、小さな別の画面が現れた。それがQのみていた、『例のサイト』が映るウインドウだった。かなりの覚悟をしていた叢雲は最初そのウインドウを見た時、何か分からず拍子抜けしてしまった。

 

 

 

 しかし、この後にQの説明を聞いた叢雲は、全身が総毛立ち愕然とすることとなる。



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其の三

 ボンドはモスグリーンのカーテンを静かにかき分けるように開けると、そのまま両開きの窓を開け放った。それと同時に、ボンドの鼻を秋の風の香りが優しくくすぐる。満月の柔らかい光を一糸まとわぬその身体に浴びて、ボンドはフーッと長い一息をついた。

 

 「ここの提督さんは、あまり君の相手をしてくれないのかい?」

 「ええ、……本当のことを言うと、ここ最近はずっとご無沙汰だったの」

 

 ボンドの後ろのベッドに横たわった陸奥がシーツを胸元まで引き上げ、流し目を送りながら言った。その瞳は月光に照らされているためか、それとも秘めたる女の(さが)のためか、妖しげな光をボンドに投げかけている。

 

 「なるほど、道理で……」

 

 ボンドはしみじみとつぶやいた。

 

 この部屋はここの鎮守府の秘書艦、陸奥の部屋だ。ボンドたちの個室よりもはるかに広いスイートルームには、大型テレビにキッチンなどの最新設備が揃っていた。この部屋での豪華な暮らしぶりが、ボンドには容易に予想できた。陸奥のような女ならば誰もが夢見るような生活だっただろう。

 

 「ジェームズ……こんなことしてたら、あなたの秘書艦の子に怒られちゃうんじゃない?」

 

 そう陸奥に言われたボンドは振り向いて、陸奥の熱い視線に応えながら言った。

 

 「なに、いつものことさ。どうも考えが合わないみたいでね。もう慣れちゃったよ」

 

 そう聞いて、陸奥は思わず笑みをこぼした。

 

 「でもパーティの時、あなたとその子が一緒にいたときの様子……まるで親子みたいだったわ」

 「そう、よく言われるよ。まるで複雑な時期の娘をもった親父みたいだって。私にはどうもピンとこないが」

 「そうね……もしかしたら、実際のところはあなたの方が『坊や』なのかも。ふふっ」

 「えっ?」

 

 考えもしなかったようなことを言われたボンドに、陸奥は悪戯っぽく笑った。

 そんなやり取りの中、ボンドは窓のそばの椅子にかかっている自分のスラックスから煙草を取り出し咥えた。そして、獅子の刻印の入ったジッポライターに火をつけたその時。

 

 「ジェームズ、待って!」

 

 ボンドはその叫ぶような声に、煙草に点火しようとする手を止めた。

 

 「どうした?」

 

 煙草とライターを椅子のそばのテーブルに置いたボンドは、陸奥の隣に座った。陸奥はボンドの方を見ようともせずに俯きながら、静かに言う。

 

 「……ごめんなさい、ジェームズ。でも、もし煙草を吸うなら、次からは私のいないところでしてほしいの」

 

 そう陸奥が言ったその時、ボンドの脳裏に、戦艦陸奥の艦歴がよぎった。

 戦艦陸奥は大戦中の昭和十八年六月八日、瀬戸内海の柱島泊地付近で爆沈を遂げていた。その原因には煙草の火の不始末や放火、弾薬の自然発火、海底に落ちた爆雷の不発弾が炸裂し引火したなど諸説あるが、いずれにせよ三番砲塔周辺の弾薬庫の不審火であったことは間違いなかった。

 もしかしたら、そのことがおぼろげながら記憶の奥底にあり、彼女のトラウマになっているのだろうか。

 

 ボンドが陸奥を慰めるようにその白い肌にそっと触れた。

 

 「私の方こそすまなかった。姿は変わっても……不安なのは変わらないのか?」

 「ええ……でも、もう大丈夫よ、ありがと」

 

 陸奥の声は普段のように明るくなる。だがその様子は、どこかボンドを不安にさせまいとしているようにも見える。

 

 「ジェームズ、あなたって優しいのね」

 「……そうでもないよ」

 

 ここでボンドは、さりげなく問題の核心を突くような質問をぶつけてみることにした。もしかしたら今なら、陸奥の口から有用な情報が聞けるかもしれん。ボンドはちゃっかり楽しみながらも、この時をずっと待っていたのだった。

 

 「ここの提督さんは、あまり優しくないのか?」

 「そんなことはないわ。時々機嫌が悪い時もあるけど、いつもちゃんとした理由があるもの。昨日も工廠の作業棟に足を運んだら、提督に怒られてしまったの。お前たちの艤装は僕たちがしっかりと管理する、だから君らが気にする必要はない、って」

 

 それを聞いて、ボンドは心中で首をかしげた。ボンドは提督になったばかりではあるが、タイガーや叢雲から艤装の管理を任されたことなどなかった。特に叢雲などは、艤装は自分の体の一部よ、と言い張って、ボンドには触れさせようともしなかった。それがここの方針、と言ってしまえばおしまいではあるが、それでも艦娘たちにさえ自由に触れさせないのは余りにも奇妙なことだ。

 

 ボンドはふうん、と一息ついて立ち上がると、そのままワイシャツを羽織りはじめた。そんなボンドに、陸奥は名残惜しそうに声をかける。

 

 「ジェームズ……どこか行く気なの?」

 「ああ。そろそろ自分の部屋に戻っておこうかと思って。あまり朝帰りすると、うちの()()がうるさいからね。君も明日は早いんじゃないの?」

 「ええ。朝一にこのあたりの敵を掃討しに行くの。明日の晩もパーティだから、きっと景気づけのためね。……だから今夜は一晩、あなたと一緒に明かそうかと思ってたんだけど」

 「ちゃんと眠っておかないと、綺麗なお肌が荒れちゃうよ。それじゃおやすみ」

 

 笑いながらそう言い残して、ボンドは扉の向こうへと消えていく。閉じていく扉を見て、陸奥はクスリと笑った。

 

 

 

 

 

 

 モニターを見つめる叢雲の眼差しは、普段以上に鋭さと真剣さに満ちていた。しかし、Qの忠告とともにモニターに映し出されたそれは、叢雲の脳内をクエスチョンマークで満たした。

 背景が黒一色の画面に、白い枠で表みたいなものが作られている。HTMLと CSSのみで作られた、近頃ではあまり見かけないシンプルな作りのサイトだ。表には何かの品目のように、英単語と小数点第二位までの数字と、入力できる白地の枠とボタンが、それぞれの段に作られていた。他になにも装飾のない味気なさが人の心を感じさせない無機的なものに思えてきて、叢雲は不気味さを覚えた。

 

 Qは何も言わない。カメラに目線さえ向けない。どうやら自分から説明するのが嫌で、叢雲が気付くのを待っているようだった。

 Qから再び表に目線を戻した叢雲は、表に書かれた英単語が奇妙なものであることに気付いた。叢雲はそれらの英単語を小声で読みあげていく。

 

 「...Mutsu...Nachi...」

 

 叢雲の息が詰まった。

 

 「Q!これってここの鎮守府の艦娘の一覧じゃない!これは機密漏えいよ!すぐタイガーに知らせなきゃ……」

 「叢雲、それも問題だけど、もう一つ大きな問題がある。この表はただの艦娘の一覧なんかじゃない。これは……賭けの配当表なんだ」

 「……なんですって!?」

 

 信じられない、と言わんばかりに目を見開いた叢雲に、Qは淡々と告げる。

 

 「この一か月以内にどの艦娘が任務遂行中に轟沈するかを対象にした賭け、いわゆる死亡予想ゲーム(デッド・プール)、その配当表だ。艦娘の名前の横に書いてある数字は配当の倍率。見てもらえれば分かるけど、戦艦の倍率は駆逐艦の何十倍にもなってる。そして数字の横の枠にそれぞれの艦娘にいくら賭けるかを入力し、表の下のボタンで確定するんだ」

 

 叢雲はQの説明する間、一言も口にすることはなかった。ただその瞳に、静かな悲しみと怒りをたぎらせていたかのように、Qの目には映った。

 

 「叢雲?」

 「……Q、それで、これをどうするつもりなの?」

 「とりあえずは証拠としてサイトのスクリーンショットとデータのコピーを取っておこうと思う。それにこのサイトを開くところまでを動画で保存してあれば証拠は十分。あと、その名刺とコースターがあれば、相手はもう逃げられないはずだ。証拠が出そろったら、あとはタイガーに任せよう」

 「……今すぐやって頂戴」

 

 叢雲はただ一言、静かに言った。それを最後に、部屋はわずかなパソコンの機動音以外に何も聞こえなくなった。

 

 

 

 

 一方のボンドは、鎮守府の中を夜の散歩でもしているかのように歩いていた。無論、叢雲の待つ部屋に戻るわけではなく、その足は工廠の方角へと向けられていた。

 ボンドはできるだけ街灯や明かりのともる建物のまわりを避けながら、陰から陰へと歩いて行った。こんなことになるなら、白いワイシャツ姿じゃない方が良かったかな、とボンドは思ったが、下手に黒一色の服でいるよりも見つかった時にごまかしが効く、と考えることにした。作業棟に良さ気な服があったら着替えようか。

 

 ボンドは作業棟に着くと、そのまま裏手に回った。そのまま見上げて屋根のあたりに目をやると、ビルの三階ほどの高さにあるすりガラスの窓には明かりが煌々と灯っている。ボンドは潜入するため扉をいくつか調べたが、いずれも鍵がかかっていたりそばに姿を隠せる場所がないなどで潜入するには向かなかった。

 

 ボンドはポケットからキャップ付きの黒いボールペンを取り出した。だがボンドがボールペンのキャップを外したところにあったものはペン先ではなかった。そのままボンドがボールペンの軸をひねると、傘のように四本の鉤爪がバッと開く。勿論これは、Qの作ったおもちゃである。

 ボンドはさらにベルトのバックルからワイヤーを引き出すと、鉤爪部分の根元のクリップにひっかけた。そして変わり果てた姿となったペンをサイレンサーのようにワルサーPPKの銃口に取り付けると、明かりの灯る作業棟の窓に向け、撃ちこんだ。そのまま鍵爪を窓枠にかけると、ボンドはワイヤーの巻き取られる力に引かれるままに、作業棟の壁を歩くように登っていった。

 

 作業棟の中は様々な機材が並び、大き目の町工場のようであった。これらの機材はすべて、艤装の手入れや装備の開発に用いるものだ。ボンドはそれらの陰に隠れながら、あたりを伺った。この作業棟の室内は水銀灯で明るく照らされてはいるが、ここの主役というべき作業員の姿がいない。もしかして退出時に電気を切り忘れただけか?そうボンドが思ったその時。

 

 「ああ、もうすぐ締め切りだ」

 

 扉を開く音とともに聞こえた声に、ボンドは艤装の収納された棚の陰に隠れた。あの声は、堂本の声だ。

 

 「そっちの準備は?ふん、よし。あとはこっちで任せとけ」

 

 ボンドは陰から声のする方を覗きこむ。扉から入ってこちらに歩いてくるのは、堂本と作業服の男が四名、ほかにワイシャツ姿の男が三名。携帯電話で話をしている堂本以外は、皆黙ったままだ。ボンドは息をひそめて、一団の動きに神経をとがらせていた。

 

 「……ちょっと待て、かけ直す」

 

 その堂本の言葉にボンドは一瞬息を飲んだ。しかし堂本は、再び携帯をいじると、ふたたびどこかに連絡を始めた。その間、一同は作業棟の片隅に向かい、何かを待つようにじっと固まった。

 

 「……何だ。……なに?馬鹿野郎!それを何とかするのがお前の仕事だろうが!こっちは今から最終テストなんだ、俺に連絡なんかする暇があったら……」

 

 パーティ中の様子では考えられないほどの罵声をあげる堂本。はたしてこんな堂本の姿を、陸奥は知っていたのだろうか。そんなことをボンドが考えるうちに、作業服の男がそばにある機械をいじると、堂本たちの立っている床は地中へと降りていく。大き目の機材などを運ぶときに使うような、作業用の大型エレベーターだった。

 

 ボンドはぽっかり四角い穴のあいた床へと近づいていった。穴から下を覗くと、どうやらかなり深いところまで続いているらしい。深さはこの建物と同じくらいの高さだろうか。ボンドはそばの手すりに先ほどの鉤爪をワイヤーで留めるようにかけると、そのまま地下へと再び壁を歩くようにしてゆっくり進んでいった。

 

 ワイヤーが伸びるのに時間がかかるため、地下へ進むスピードは歩く速さとそう大して変わりはなかった。ワイヤーを命綱にしてバンジージャンプのように飛びこみ、一気に地下まで降りることができればいいのだが、この装備でそれをやるは耐久に少し難がある。もう少し改良してほしいものだと、ボンドは考えた。

 

 ボンドが穴の丁度半分あたりまで降りたその時、突如周りが赤い光に包まれた。壁に埋め込まれた赤いパトランプが光りはじめたのだ。あたりを見回していたボンドが再び地下に目を向けると、先ほどまで目指していた地の底のエレベーターが、数人の男を乗せてこちらへと迫ってくるではないか!ボンドは踵をかえすと、ワイヤーを巻き取りながら地上へと向かっていった。

 

 ワイヤーは伸びるのに時間がかかるならば、巻き取るのにも時間がかかる。ボンドは後ろを振り向かずに一心不乱に地上に進み続けたが、後ろからは大きな話し声とともに地の底が迫ってくる。ボンドは赤いパトランプの毒々しい点滅の中、少しでも早く登るために、袖で手のひらを守りながらワイヤーを手繰り寄せていった。その姿はまるで蜘蛛の糸を手繰り地獄から這い上がらんとするカンダタのようであった。

 

 天井からつり下げられた水銀灯の明かりが、ボンドにもはっきり見えるようになってきた。一度部屋に戻って、叢雲と一緒にこの島を脱出しよう。そうしたらタイガーに報告して、この島を調査させる。あとはタイガーに全部任せればいいだろう。

 そうボンドが考えたその時、ボンドの足首を、肩を、首を、髪の毛を、無数の腕が掴んだ。そして一気にすべての腕に力が加えられると、ボンドを支えていたワイヤーの手ごたえがなくなった。ワイヤーは素早い蛇のようにボンドのベルトのバックルへシュルシュルと納まっていった。

 

 きっと、地獄に引きずりおろされるというのはこんな感覚なのだろうな。ボンドは最後にそう思うと、目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 パソコンの画面には、忌々しい一覧表のダウンロードの進捗状況が映し出されている。現在の時点で30%。叢雲は口元を手で押さえ、なにか思案しているように画面をじっと見つめていた。Qに悟られまいとしてはいるが、まだショックが抜けていないのだろう。

 Qもそんな叢雲の様子を時折見ながらも、あくまで何でもないようにコーヒーをすすっている。一見冷たいようではあるが、それがQなりの気遣いでもあった。

 

 そんな状況が変わったのは、ダウンロードが54%を過ぎた頃だった。

 

 突如画面いっぱいに、エラー音とともに「ERROR!」の文字が映し出される。

 

 「一体どうしたの?」叢雲の声は明らかに動揺していた。

 「ちょっと問題が起きただけだ。気にしないで大丈夫」

 

 そうQは言って、キーボードを叩き始めた。何でもないように対処していくQの姿に、叢雲は少し安心した。しかし、次第にQの言葉に悪態が多くなり、余裕が見られなくなっていく。そんなQを見ていた叢雲は耐えかねたように呼びかける。

 

 「ねえ、大丈夫なの!?」

 

 次に叢雲の聞いたQの声は、これまでに聞いたことのないほど真剣なものだった。

 

 「……もしかしたら相手が動き出したかもしれない。そっちの動きがばれないように、今位置情報をかく乱しているところだ。最善は尽くしてはいるけれど、最悪の状況も考えて行動してほしい」

 

 普段あまり汗をかかないQの額に、みるみる汗がにじみ始めた。このような攻撃に対するカウンター用のプログラムが次々と開かれていく。さらにQはキーボードを叩く。Qは自分の持てる技のすべてを尽くして、叢雲を守ろうとしていた。Qのデスクのサブモニターが、みるみるコードで埋め尽くされていく。今まで一覧表が映し出されていたモニターが白一色になる。そして、サブモニターのコード入力が止まったその時。

 

 Qはノートパソコンの中から叫んだ。

 

 「逃げろ叢雲!そこはもう……」

 

 そして勢いよく開いた扉の音とともに、飛来した無数の機銃弾が部屋の中のありとあらゆるものを貫いた。



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其の四

 冷たい。全身が冷たい。

 そんな感覚に、ボンドは目を覚ます。だがあまり気持ちのいい目覚めではないようだ。どうにも息苦しくてたまらない。ボンドは暗がりの中目を凝らしてあたりの様子を伺いながら、今の自分の状況を把握しようとした。

 ボンドは素裸に剥かれ、体を体育座りのように曲げられて地面に掘られた穴の中に詰めこまれていた。穴はきつくて身動きがとれない。下手に動くと体のあちこちの傷が痛む。

 そんなボンドを見下す眼差しを、堂本と取り巻きたちが向けていた。

 

「さて……おたくはどこの回し者だ?」

 

 しゃがみこんだ堂本の冷静な声が、ボンドの耳に飛びこんでくる。

 

「教えてもいいが……どんなスペシャルサービスを受けさせてもらえる?そうだ、あのバーテンの子をつけてくれ。まだ夜明けまで時間が……」

 

 そこまで言うと、ボンドの頭は強い衝撃を受けてのけぞり、後頭部を穴のふちにしたたかに打ちつけた。ボンドは今しがた自分の額を蹴りつけた堂本のブーツのつま先を、恨めしげに睨みつけた。

 

「……まあ、どこの誰だろうと関係ない。でも折角この鎮守府に来てくれたんだ……それなりのもてなしをしなければいけないね」

 

 堂本が左手を振って合図をすると、取り巻きたちは米袋大の袋をナイフで切り裂き、その中身をボンドの周りに入れ始めた。土だろうか?だが土にしては冷たいな……そう思ったその時、体中の傷口をしみるような痛みが襲い掛かった。まるで小さなピラニアが、全身の薄皮をつついているかのようだった。

 ボンドは痛みに思わず下唇をかんだ。その汗のふいた下唇が、しょっぱいを通り越して塩辛くなっていた。

 こいつら、俺の周りに塩をつめている!

 

「……日本には、『敵に塩を送る』ということわざがあってね。敵の苦境を救ってやることを言うんだが……その意味で使われるのは今日限りだな」

 

 堂本が得意げに話す間に、塩はボンドの首筋までしっかりと詰めこまれた。絶え間なく続く痛みが、まるで自分を少しずつ死に追いやっているように感じる。というよりも、事実そうなのだ。塩は傷口から少しずつボンドの体の水分を奪っていき、渇きの苦しみに追いやるのである。

 

「安心しろ、ミスター・ボンド。日本の戦国武将も敵に討ち取られたとき、その首は塩漬けにされたんだ。それと同じことだと考えてくれ」

「しょっぱい殺し方だな。いっそのこと一思いに首を飛ばしたらどうだ?」

「そんなことをしては話ができないじゃないか。私は、お前から情報を聞き出すためにこんなことをしているんだよ。ちゃんと話してくれるなら、塩漬けになる前にここから掘り起こしてやる」

「お断りだ。今日初めて会った人間を漬物にしようとする奴なんかに話すことなんてない。

「さてさて、どこまでその勢いが続くのやら……」

「はっ、こんなことくらい朝飯前さ。漬物だけにね」

 

 ボンドはひたすらに、堂本を煙に巻くような言葉をなげかけた。

 それは堂本に会話の主導権を完全ににぎらせないためでもあったが、それよりもボンドが自分の正気を保つためでもあった。どんなひどい状況でも、ひたすら威勢よく軽口をたたいていれば、体の中から生きる気力がわきあがってくるものだ。

 一方の堂本は、そんなボンドの軽口に卑屈な笑顔で返した。見かけは笑ってはいるものの、額には青筋が立っていた。

 

「まあ、いいでしょう。それでは失礼しますよ。あいにく私は、塩風呂に浸かっている人間とあまり長く話している時間はないので。しばらくしたらまた戻ってきます。もし君がこの塩風呂に飽きたら、その時に言ってくださいね。まだまともな口がきければ、の話ですが」

「お気遣いありがとう。欲を言えば、もう少し塩かげんを温かくして欲しいんだけどね」

 

 相変わらずのボンドに、堂本は返事の代わりに蹴りを入れた。

 続いて二度、三度。

 しかし堂本蹴りを入れるたびに、ボンドは痛みに耐えながら心の中でほくそ笑んだ。

 一見まともな知識人に見える人間が、ただの俗物であることがばれる姿ほど、見ていて醜いものはない。

 堂本はあと数発ボンドに蹴りを入れると、満足したのか振り向きもせずに取り巻きを連れてボンドの目の前から去っていった。

 

 顔にいくつもアザを作ったボンドは、小さく乾いた笑い声をあげた。堂本の化けの皮を思いっきり引っぺがしてやったことが愉快だった。ざまあみろ、こんな姿はタイガーや艦娘たちには見せられないだろう。

 ボンドはひとしきり笑った後に、まだ意識がはっきりしているうちに考えを整理しようとした。

 

 

 

 まず、堂本が鎮守府の提督として活動している裏で何かをしようとしているのは確かだ。あのマイクロチップのアドレスと、地下へと続くエレベーターの先に、その答えがあるはずだ。それは……。

 ボンドは愕然とした。手がかりらしい手がかりをまだなに一つ見つけられていないことに、自分のことながら幻滅した。

 ちくしょう、せめてあのマイクロチップが何だったのかを知ったうえで探りに出ていれば、それをネタに堂本から更なる情報を聞きだせるかもしれなかったのに!

 

 そんなことを悔やんでいるうちにも、ボンドは喉に渇きを覚えはじめていた。パーティでカクテルを飲んだことが、今となってははるか昔のようにも思える。

 ボンドは身体をひねり、少しでも塩から抜け出そうとした。しかし塩はすでにボンドの身体の水分を吸って固まりかけており、びくともしなかった。ボンドがじわじわと殺されていく準備は、確実に整っていた。それでもなんとか抜けだそうと、ボンドがもがいていると……

 

 突然、ボンドは自分の腹に、なにか強い響きを感じた。どうやら、地面の底から衝撃が伝わってきているようだ。その正体はいささかも察しがつかないものの、嫌な予感を覚えたボンドは、すぐにここから抜け出そうと塩の詰まった穴の中を必死になってもがいた。

 

 しかしそんなボンドも傷口から少しずつ体力を奪われていき、ついに体の力を抜いた。もう一度あの強い響きが聞こえてくれば、ボンドはもうしばらく諦めずにもがいていたかもしれない。しかし響きももう聞こえない今、こうなってしまっては、ゆるやかにミイラになっていくのを待つしかない。

 

 ボンドは少しずつ強くなる渇きに苦しみながら、頭を上げた。目の前には、見渡す限りの大海原が広がっていた。今ならあの海の水だって全部飲み干せそうな気がする。そんなことをぼんやりした意識の中で考えていたボンドを、鋭い頭痛が襲いはじめていた。



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其の五

 ボンドが作業棟でとらわれの身になっていた、その時。

 二人の男がボンドたちの部屋の扉を蹴破り、持っていたサイレンサー付のMP5サブマシンガンをフルオートで撃ち放った。味気ないタイプライターのような音とは裏腹に、放たれた銃弾はノートパソコンやベッド、机の上の灰皿に至るまであらゆるものを蜂の巣にした。

 一通り撃ち終えた男たちは、ポケットからマガジンを取り出すと再装填した。そしてバスルームやクローゼットの中、ベッドの下を、銃を撃ちこみながら片っ端から漁っていく。

 

 「確かにここにいるんだろうな?」

 「そのはずだ」

 

 そう言って一人が弾痕から月明かりの漏れるカーテンを引きはがす。その向こうの窓は大きく開け放たれていた。

 

 「しまった!逃げられたか!」

 「探しに行くか」

 「いや、まずは出口を塞ぐのが先だ。ついてこい」

 

 二人は静かに部屋を出ていった。

 

 それからしばらくして、クローゼットの扉がパタンと倒れた。恐らく蝶番に弾が命中していたのが、今まで持ちこたえていたのだろう。続いてクローゼットの中から、ところどころに生々しく弾痕のついたキャリーバッグが倒れる。

 キャリーバッグが床にぶつかると同時に勢いよく蓋が開くと、中から憔悴しきった叢雲が息を切らしながら外に転がり出てきた。Q特製の防弾キャリーバッグは、その身を穴だらけにして叢雲を守ったのであった。

 

 叢雲は汗まみれだったが、ずっと部屋にいる訳にもいかなかった。

 たぶんあの男たちはすぐにでも戻ってくる。このことをすぐにでもタイガーに連絡しないと……たぶんQも連絡してくれるだろうけど、彼も何が何だかさっぱりってのが正直なところだと思う。電話はボンドが持っていってしまったし、この部屋にある他の通信装置はすべて壊された。

 あと外との連絡に使えそうなのは……私の艤装の通信機!

 

 叢雲はすぐさまキャリーバッグの取っ手を引き抜くと、夕張に教えられた手順を思い出しながら分解、組み立てていった。

 

「まずハンドルを外して……」

「ネジも外す……」

「そしたら二本の管を繋げる……」

「それをネジ穴に刺す……」

 

 すべての手順を終えた叢雲の手には、竹の水鉄砲にグリップがついたような、奇妙な形の消音拳銃が出来上がっていた。これはいわゆる一般的な拳銃というよりは、大戦中に英国の特殊作戦執行部が使った隠密用消音拳銃、ウェルロッドに近いものだ。

 弾は一発しか装填できず、排莢は銃身の、太さの違う二本の筒を水鉄砲のように前後にコッキングして行う。そしてバッグのハンドルを伸ばす時に押すストッパースイッチが引き金の代わりだ。しかし代物が代物なので、精密射撃には向かない。用途は護身に限られるだろう。

 

 叢雲はバッグの内布の裏地に入っていた9ミリ弾を一粒、筒の側面にあけられた排莢口から装填した。そして窓の外を伺い、ひと気がないのを確認すると、ボンドと合流するため夜の闇へと飛び出していった。

 私に艤装じゃなくてこんなものを持たせるなんて、と考えながら。

 

 

 

 ぽつぽつと灯っている電灯の薄明かりの中、叢雲はつい三十分前にボンドがたどった道のりを進んでいった。艦娘たちの艤装は、すべて艤装整備棟のなかにおさめられている。

 叢雲はあたりを小動物のように注意深く見回しながら、先へ先へと進んでいった。少しでも物音が聞こえるたびに、叢雲は音のする方へと注意を向けた。

 その姿は、大海原で堂々と深海棲艦を戦う艦娘とは、大きくかけ離れたものであった。もちろん艦娘にも夜戦で闇の中から忍び寄り、敵を奇襲することはあるのだが、ここまでコソコソと臆病者のように隠れることはあまりない。

 

 闇から闇へと隠れて進みながら、ついに叢雲は艦娘整備棟へとたどりついた。整備棟の中は、まだ灯りがついている。叢雲は白く塗られたトタンの壁に耳を当て、中の様子を伺った。なにか話し声がのようなものが聞こえるが、何を言っているかは分からない。

 もしかしたら、無線か何かを使っているのかも。そう思った叢雲は、頭の艤装に精神を集中し、Qが組み込んでくれた盗聴機能を作動させた。

 中にいる人間とは距離があり、さらにトタンの壁を挟んでいるためか盗聴には少々時間がかかったものの、しだいに会話の内容が分かってきた。

 

 『……ええ、いい最終試験になりました。しかし、あれをぶっとばすには……』

 『当たり前だ。今回はそのために、特製のものを用意したんだからな。あともう少ししたらそっちに行くぞ』

 『かしこまりました』

 

 通信の声は、それでとだえた。相手はたしかに、この鎮守府の提督、堂本であった。

 叢雲はこの時、堂本が今夜何かを企んでいると確信した。でも何をするつもりなの?あのネットカジノと何かの関係があるのかしら?それに『特製のもの』って一体……?

 

 数多の謎が脳裏をかけめぐるうちに、叢雲は肌寒さを覚え、自分の華奢な身体を抱きしめるように抱えた。しかし、その肌寒さは港から吹く海風とは関係なかった。深海棲艦を相手にするのとは違う、得体のしれない気味の悪さが、叢雲の心胆を寒からしめた。

 叢雲は先ほどQと見た艦娘の『轟沈予想』に、艦娘でない人間の、底知れない闇を感じた。この鎮守府に隠された謎を追うことで、その深淵を今、叢雲は覗こうとしているのだ。ここから先は、どんな危険が待ち受けているか、彼女にも分からない。もしかしたら、無事で戻ることも叶わないかもしれない。

 

 叢雲は大きく息を吸うと、同じくらいの時間をかけてゆっくりとはいた。その瞬間、叢雲の肝が据わった。ここでじっとしていたって、ボンドがなにかしてくれるわけじゃない。とにかく、私のできることをやるだけよ。それで最悪の結果になったとしても、それだけのことよ。

 叢雲はそう考えると、整備棟への入り口を探すため身をかがめて進み始めた。ただ歩いている間も、叢雲は心の中で、延々とボンドへの恨み言をつぶやいた。こんな時にあの男は、いったい何をしてるのよ。あんなことを言っておきながら、きっとどこかで他の艦娘と仲良くやっているのよ。そうよ、そうに違いない。だいたいあの男は……

 

 しかしそうしているうちに、叢雲は身体の肌寒さが、少しずつ収まっていくのに気づいた。普段ボンドと話をする時のような、しょうもない恨み言を繰り返すうちに、叢雲の心を覆っていた不安な気持ちが収まっていったのだろう。

 それでも安心はできない。この事態を打開しない限りは。叢雲はただ、その思いだけでひとり闇の中を進んでいた。

 

 

 

 

 

 叢雲は整備棟の外周を回るうちに、整備棟の裏手に妙なものがあるのに気付いた。二メートルくらいのトタンで囲われた敷地内に、なにかが山のように積まれている。その日、月は出ていたものの、敷地は整備棟の陰に隠れているために、何があるのかは遠目にはよくわからない。敷地内にはいれるように開けられたトタンの隙間に、叢雲はその正体を確かめるために近づいた。

 

 トタンの間から覗きこんでようやく、叢雲はそれが何か分かった。

 

 敷地内にうず高く積まれていたのは、すべて破損した艦娘の艤装であった。

 艦娘のために開発した艤装でも、老朽化や深海棲艦との戦いでの破損は避けられない。そういった艤装は普通の工業製品と同じく、スクラップとして取り置かれるのが普通であった。

 

 ただ、叢雲はスクラップ置き場のど真ん中に立ち、その艤装の山をまるで死体の山であるかのように見つめていた。

 

 この艤装……何かおかしい。

 

 艤装の山にふと覚えた違和感と、墓場のような禍々しさに、叢雲は動けずにいた。その違和感の正体を、この時の叢雲はまだ見つけられていなかった。

 

 叢雲が艤装の山を見回していると、その一角に何か見覚えのあるガラクタを見つけた。まさか……と思いながら叢雲は、そのガラクタに近づいていく。そしてそれの姿をはっきりと自身の目で認めた時、叢雲は言葉を失った。

 

 それは紛れもない、叢雲自身の艤装なのだった。艤装の表面の一部が焼け焦げ、側面は食い破られたように大きな穴が開けられていた。おそらく、叢雲が脱出したり、島の外部に連絡を取れないように、堂本の手下たちによって前もって破壊されてしまったのだろう。

 叢雲は突き動かされるように山から艤装をおろし、問題なく起動することを願いながら背中に担いだ。しかし願いも空しく艤装は何の音も立てず、大きな風穴に夜風が吹きこみ木枯らしのような音を立てるだけだった。

 

 叢雲は大きな喪失感とともに艤装を下した。無線が使えないということも大きかったが、何よりも自身の体の一部でもある艤装が破壊されたことに、ショックと憤りを覚えた。しかし叢雲はふたたび艤装に目をやると、いくつかの奇妙な点に気づいた。

 

 まず、艤装の大きな穴は外から開けられたものではなく、内側から破られてできたものだった。それは外からの力で叩きこわれされたというよりも、内側から機関が爆発を起こした時のものに似ていた。そして艤装の内側は焼け焦げ、そこからはまだかすかに焼けるようなにおいが漂っている。穴の中に手を入れてみると、ほんの少しだけ温かい。

 これはもしかして……叢雲は続いてほかの艤装にも目をやった。叢雲の予感は的中した。スクラップになっている艤装はいずれも、内側から爆発したかのような穴があいているか、膨張したかのように変形していたのだった。

 叢雲の感じた禍々しさも、そこにあった。これらの艤装は、明らかに普通の戦闘や解体などの、外側からの力で壊されたものではない。

 

 轟沈の多い鎮守府、艦娘の轟沈予想賭博、そして内側から破壊された艤装……。

 今までの謎がひとつに結びついた瞬間、改めて叢雲は、自分がとんでもないところに足を踏み入れてしまったと実感した。

 

 とにかく、今はボンドと合流しないと。叢雲はこの禍々しいスクラップ置き場から立ち去ろうとすると、その一角に、自分の艤装の槍が半分ほどに折られて捨てられているのに気づいた。叢雲はその槍を拾い上げ、月明かりにかざした。折られた部分の切り口が竹槍のように鋭くなっており、短くても十分役には立ちそうだ。

 もしかしたら、今の戦いだとこれくらいのほうが使いやすいかもしれない。叢雲はそう思うと、右手の拳銃をポケットに納めて、槍に持ちかえた。そして月明かりを避けるようにトタンの陰に隠れながら、スクラップ置き場を後にした。

 

 

 

 

 

 叢雲は工廠に置かれている資材の陰を、音を立てぬように慎重に進んでいった。あたりはしんと静まり返り、虫の鳴くような、かすかなリリリという音しか聞こえない。叢雲は高ぶる神経を抑えながら、常にあたりに気を配っていた。少しでも物音を立てたのを敵に感づかれたら、一巻の終わり。叢雲はこれまで感じたことのない緊張の中にいた。

 

 ところでボンドはどこにいるのよ。こっちの手がかりは全然つかめてないじゃない……。そうだ、ここの鎮守府の秘書艦、陸奥のところに行けば、何かわかるかも。……正直、行くのはかなり気が引けるけど。

 それにしても、まだ夜は明けないのかしら。叢雲は部屋が荒らされてからずいぶん長いこと時間が経っているような気がしていた。しかし東の空はまだ、いささかも明るくなっていない。叢雲の長い夜は、まだまだ続きそうだ。

 

 叢雲は宿舎へと続く途中の倉庫街に入った。それでも大きな通りを堂々と進むわけにはいかないので、倉庫と倉庫の間の暗がりに入った。

 何が落ちているかも分からないような暗がりの中を、叢雲は槍で足元の安全を確認しながら進んでいく。

 

 と、その時。

 

 通りに面した方向から、かすかに足音が聞こえてきた。叢雲は気づいた瞬間進むのをやめ、じっと息を殺した。足音と一緒に、数人の男たちの話し声も聞こえてくる。最初は何を話しているかわからなかったものの、声が近づいてくるに従って内容がしだいにはっきりしてくる。

 

 「英国のスパイか……まあいい、殺してから上に報告する。機密を守ったと言えば何をしようとお咎めなしさ」

 

 聞き取れたその一言だけで、叢雲はボンドの身に何かがあったと察した。まずい状況にあるみたいだけど、命はまだ大丈夫みたい。そう思った瞬間、叢雲の緊張の糸が、ほんの少しだけほぐれた。そうしているうちにも、男たちの姿は叢雲の目の前を通り過ぎ、声も次第に遠のいていく。

 

 叢雲は通りに出ると、遠くに男たちの姿を認めた。男たちはあわせて五人で、うち一人は先ほどの声から堂本だと分かった。残りの取り巻きのうちひとりは、パーティにいたあの十円ハゲの男だろう。

 

 あの連中についていけば、きっと何か分かる――。

 

 そう思った叢雲は意を決したように槍をぎゅっと握りなおすと、男たちと十分に距離をとりながら、その後ろをつけていった。



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