笑わない天使 (FARADON)
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1話

 最初から全然乗り気じゃなかった。だいたい俺は誰かの指導なんぞするのは得意じゃないし、そういう器でもないと思ってる。だから、ハンター協会から今年の合格者のリストが送られてきた時も、まともに目を通そうとしなかった。今年はルーキーの多い珍しい年だなあくらいにしか興味もなく。

 偶然出会ってしまったら、その時考えよう。そう思ってた。別に志願して誰かの師匠になどなる気も更々なかった。

 俺は生来から、人とつき合うのは得意じゃない。弟子に優しく接してやれる自信もない。人に教えるということも、別に好きなわけではない。

 だから、俺は酷く後悔をした。

 なんで、よりにもよってこんな奴に出会ってしまったのかと。

 本当に、本当に、後悔をした。

 今でも後悔をしている。

 もう、引き返せないから。

 蔓草の様に絡まった複雑な糸は、もう二度と断ち切れない。

 底なし沼に足を突っ込んでしまったような感覚だ。本当に。

 どうかしていた。

 あの時、知らぬ振りをして見過ごせばよかった。

 あんな奴、拾うんじゃなかった。

 本当に。本当に。

 

 

 

 ――――――「此処はどこだ?」

 目覚めた最初の台詞がそれだった。

 助けてくれて有り難うでも、貴方は誰ですか、でもなく。

 だから、随分不遜な口をきく生意気な小僧だなあと思った。それが最初の印象。

「ここは俺の山小屋。お前、道でぶっ倒れてたんだぞ。覚えてないか?」

「…………」

 俺がそう訊くと、その生意気な小僧は一応記憶を辿っているのだろう、伏せ目がちな表情で自分が寝かされていた白いシーツに視線を落とした。

 おや。

 とたんに小僧の印象が少し変わる。

 さらりと流れた黄金色の髪。小僧と呼ぶには随分とはばかられる綺麗な造りの顔じゃねえか。

 まるで女の子のような。

「…………」

 あれ。俺、こいつの顔知ってる。

 絶対知ってる。何処で見たんだ。

 そこまで来て俺はようやく思い出した。確かハンター協会から送られてきた新人ハンターのリストの中にこいつの顔があった。確か名前は。

「ク……」

「……倒れていた私を何故お前はこんな所に連れてきたのだ? 私は天涯孤独の身の上なので謝礼などは一切払えないぞ」

 突然そう淡々と告げた小僧の言葉に、俺の思考が止まる。

「……あのな」

 前言撤回。女の子のようなと言うにはあまりにも無神経なこいつの態度。

 だいたい、基本的に『女』は、保護される側にあると俺は思っている。もちろん女にだって強い奴は大勢いるが、それでも根本的な性質、つまり本能としてだ。女は、大小の違いはあれど、その本能が根本にある。俺はそう思ってる。

 なのに、こいつからはそれが一切感じられない。見えるものは頑なな拒否。人に対する不信感。孤独。誰にも頼ったりしないという、そんな気配。

 気に入らない。

「謝礼なんぞ期待してない。ガキから何か巻き上げようって程には、俺も生活困ってないんでな」

「……そうなのか?」

 そう言ってこいつはゆっくりと値踏みするようにオレの家、というか小屋の中を見回した。

 ものは極端に少ない。というか何もない。とてもじゃないが豊かな暮らしとは言い難いだろう。

「いいんだよ。シンプルなのが俺の趣味なんだ。人間、最後は自給自足が一番いいんだって」

「自給自足?」

「一歩外に出りゃわかるが、ここは山ん中だ。山菜や木の実、魚、小動物、食い物くらいどうとでもなる」

「……そうか」

 なんだか不思議な表情をして、こいつはふうっと息を吐いた。

 人里離れた山の中という場所は、こいつにとって、吉なのか凶なのか。

 この表情はどっちなんだろう。

「…………で?」

 そばに膝をつき、オレが探るようにそう聞くと、こいつは何のことだとでも言いたげに、きょとんという表情をした。やけに幼い。

 まあ、確かにまだ10いくつ…だったかな? 子供と言えば子供という年齢だったはずだ。

「助けてくださって有り難うの言葉がないのは今更もういいとして、お前さんの名前とか、何であんなところでぶっ倒れてたのかとか、俺には聞く権利があるんじゃないのかねえ」

「……名前は……クラピカ。助けてくれたことには感謝している」

「…………」

 おや、意外に素直じゃねえか。取れるんだったら、最初からそういう態度取れっていうんだよ、まったく。

「で、倒れていたのは?」

「…………」

 ふむ。こっちのほうは言いたくないらしいな。

 と思ったその時、こいつの腹から奇妙な音が聞こえた。

 ギュルルルルウ。

「……腹、減ってただけ? そういうこと?」

「…………」

 僅かにクラピカが頬を染めた。恥ずかしいのか悔しいのか、そんな表情だ。

「腹が減ってぶっ倒れてたなんて、確かに言うの恥ずかしいよなあ」

 にやりと笑った俺をクラピカは心底嫌そうに睨みつけた。

「確かに空腹ではあった。だが、理由はそれだけじゃない。不眠不休でずっと歩きづめだったんだ」

「ほう……なんでまた」

 不眠不休ねえ。そう言われてみれば、こいつの目の下の巨大な隈は、寝不足の証だと見て取れる。

 だが、なんでまた。

「何か目的でもあって、何処かへ行く途中なのか?」

「何処かへ行く目的があった訳ではない。ただ……」

「ただ?」

「休んでる暇さえ惜しいと思った。何かしなくてはいけなくて、でもどうすればいいか分からなくて。私は正直途方に暮れていた」

「…………」

「ずっと考えていた。理由が分からなくてずっと考えていたのだ。私に何が足りないのか。何故追い返されなくてはいけないのか。何処が『まだまだ』なのか。早く一人前にならなくてはいけないのに。早く強くならなくてはいけないのに。これでは何のためにハンター試験に合格したのか分からないではないか。そんな事を考えていると、どうしていいか分からなくなって……」

 一気にまくし立てるようにそう言って、クラピカは膝を抱える。シーツの上で堅く握りしめられた拳が小さく震えているのが見えた。

「何を焦ってんだよ、お前さん」

「焦っているわけではない。だが私には時間がないんだ。9月までにある程度のコネと力をつけておかなければ、奴らを見つけても歯が立たない。これでは駄目だ。強くならなくては。私は、早く強くならなくてはいけないんだ」

「…………」

 強くねえ。一見すると、この風貌からはあまりにもかけ離れた希望に見えるぜ。まったく。

 体力勝負より、頭脳労働のほうが向きそうな外見してるくせして。

 高望みにも程がある。

「……すまない。何でもない。忘れてくれ」

 ポツリとつぶやき、クラピカはシーツを払い、立ち上がった。

「何処へ行くんだ」

 そして、そのまま戸口へと歩きだしたクラピカに俺は思わず声をかける。

 空腹どころの騒ぎじゃねえ、いったいこいつは何日ものを食っていないんだと聞きたくなるような細い手足で、クラピカはそれでも立ち止まらない。

 木製の椅子の背に架けてあった自分の上着。何処かの民族衣装のような青い上着を羽織り、クラピカはようやく立ち止まって俺を振り返った。

「これ以上迷惑をかけるわけにはいかないので、これでおいとまする。休ませてくれて有り難う」

「お……おい」

「では、失礼する」

「ちょっ……待てってば!」

 思わず戸口に駆け寄り、俺は通せんぼをするように、奴の前に立ちふさがった。

「…………?」

 不審そうにクラピカは俺を見上げる。

 こうやって見ると、本当にこいつは小さくて細い。

 こんな細身で、栄養蓄える脂肪もなくて、それで無茶をするなんて自殺でもするつもりか。

 しかも、このまま去るだと。

 こいつは人に頼るってことをまったく考えないのか。

 誰も信用してないってのか。

 なんだか、腹が立った。よくわからねえが、腹が立って仕方なくって。

 で、俺は思わず何も考えずにこんなことを口走ってしまった。

「お前、念って知ってるか?」

「……念?」

 クラピカが記憶を辿る。少し伏せ目がちの表情。さっきと同じだ。

 俺の目の前でさらりと金糸の髪が揺れた。

「何処かの図書館で、そのような文献を読んだ覚えはあるが……なんだったかな……」

「それだよ。お前に足りないもの」

「えっ?」

 驚いた顔で、クラピカが顔をあげた。

 あまりの至近距離に、ちょっとだけ焦って俺は一歩後ずさった。

「恐らく、もうちょっと調べてればお前さんも自分でそこに辿り着いたとは思うが、この際だから教えてやるよ。今のハンター達は皆、念使いだ。また、念を使いこなせて始めて本物のハンターとして認められる」

「…………」

「見たところ、お前はまだハンターになりたての新人だろう。念もまだ知らない。それじゃあ、誰もお前をハンターとして認めて仕事を与えてやろうとは思わねえよ」

 クラピカは大きく瞬きをして俺をじっと見つめた。

「……お前は……誰だ?」

「俺か? そうだな、じゃあ、師匠とでも呼んでくれよ」

 クラピカの大きな目が、更に大きく見開かれる。

 本当に、こんな奴と関わり合いになるなんて、俺はちっとも望んでなかった。

「教えてやるよ。お前に。念を」

 望まないまま、何故か俺は自分の口から出る言葉を止めることが出来なかった。

 

 

 



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2話

「いったいいつになったら念の修行を始める気なのだ。貴様は」

かなりせっぱ詰まった口調で、クラピカが俺にそう言って詰め寄る。

ここ1週間程、ずっとこの調子だ。

「貴様じゃない、師匠と呼べと言っただろう。小僧」

返す俺の言葉も同じ。

クラピカは悔しそうに唇を噛み、俺を睨みつける。

ぶっ倒れてこの山小屋に運んだ当初に比べれば、ほんの僅かだが肉付きも顔色も良くなって来ていたクラピカの顔には、それでもまだ多少の翳りが見える。

「いいか。念というのは、肉体的にも精神的にもベストの状態で取得するのが一番身に付きやすい。まずは身体を完全にしろ。今始めたって、ぶっ倒れるだけだ」

「私はもう平気だ」

もう引く気はないぞ、とでも言いたげに、クラピカは俺の前に立ちはだかって、通せんぼの状態を続けている。

「何処が平気なんだ。そんななまっちろい顔で、細い腕で、今のお前だったら小指一本で勝てる自信があるぞ、俺は」

「なんだと……! だったら今すぐ勝負しろ。それで私が勝ったら私を認めろ」

無茶苦茶言うな。こいつは。

たとえこいつがベストの状態だったとしても、この俺に、新人ハンター風情が勝てるとでも思ってるのか。自意識過剰にも程がある。

「ああ、わかった。勝ったらな」

余裕のつもりで俺がそう言った途端、クラピカは何処に隠し持っていたのか、いきなりヌンチャクのような、柄が紐で繋がれた二本の刀を取りだし、俺に襲いかかって来た。

「……おいっ、てめえ……!!」

咄嗟に防衛し、クラピカの攻撃を避けると、俺はトンと地面を蹴って飛んだ。

「いきなり何しやがる!」

「うるさい! お前に勝ったら修行を始めてくれると言ったではないか」

「だからって……お前なあ……」

素人相手に念を使うのは趣味じゃないが、こいつの本気さ加減をみていると、そんなことも言ってられない。俺は相手の動きを観察しながら身構えた。

クラピカの突きだした刀が俺の頬すれすれを掠める。

スピードはかなりあるほうだ。身も軽い。重量級ではない自分の身体能力を活かすには、技のキレと身軽さ、スピード、間の取り方が必要不可欠。こんな子供のくせに、こいつはもしかしてかなりの修羅場をくぐってきたのではないだろうか。

繰り出される攻撃をかわしながら、俺はクラピカを観察する。

本当に、驚くほどに身が軽い。スピードもどんどん早くなっていってる。

まだまだ俺の敵ではないとはいえ、油断すると危うくなるのも確かだろう。

何故。

不思議になる。

何故、こんな顔した、こんな子供が、こんな技を使う。

これ程までに必死になる。

そりゃあもちろん、ハンターになろうって奴だ。それなりに腕に覚えがなければ、目指したりしないだろう。

だが。これは。

この目は。

「……あっ……やべぇっ!」

思わず本気で発(ハツ)を放ってしまって、俺はしまったと声をあげた。

想像通り、発の攻撃をもろに食らって、クラピカが地面に倒れる。

「……マジでやっちまった……」

完全に気を失っているクラピカを見下ろし、俺は頭を抱えた。

 

 

 

――――――雨が降ってきた。

俺が気絶してしまっているクラピカをそのまま放置して山小屋に戻ってから、小一時間が過ぎていた。

起こすべきか、はたまた小屋に運んで休ませてやるか。少し悩んだ俺は、結局何もせずに一人で小屋へと戻ったのだ。

理由は簡単完結。

奴の全身から、拒否のオーラが発されていたからだ。

まったく。気絶してまで他人を拒否するなよ。あのくそガキ。俺はまだまだ未熟者。あんな態度でいる奴にまで優しく出来るほど心は広くない。

だから、俺は奴を放っておいた。恐らく奴もそれを望んでいるだろう。

多分、奴はかなりプライドの高い方に属する人種だ。いくら念を教えられる師匠相手とはいえ、こうあっさりやられてしまっては、奴のプライドはズタボロのはずだ。だとしたら、今、一番俺とは顔を合わせたくないかも知れない。だから、奴を放っておいていることは奴の希望でもあるのだ。

つらつらとそんなことを考えながら、俺は大きくため息をついた。

だが、さすがにそろそろ迎えに行ってやらないとマズいかもしれない。

俺は降り続く外の雨音に耳を澄ませた。このまま雨に降られ続けたら、せっかく回復しかけた体力がまたなくなっちまう。

まったく、あいつは何をあんなに焦っているのだろう。何であんなにまで頑ななんだろう。

何故、ああまで必死なのだろう。

頑ななまでの必死さ。ピリピリと張りつめた神経。気の休まることのない時間。

あんな状態で保つわけはないのに。

あいつは、まるで、わざと自分自身を追いつめてでもいるみたいだ。

俺は、根っからの楽天家なんで、そういう自虐的な行為ってのは性にあわねえんだがな。

だが、だから気にかかる。

自分と対局にいるあいつが、何故ここまで自分をボロボロにしたがるのか。気になる。

何故ここまで、頑ななのか。

ザーッという音が聞こえる。雨が更に激しくなってきたんだ。

俺は、仕方なしに山小屋の扉を開けて外に出た。すると、クラピカはまるで俺が出てくるのをずっと待っていたかのように、ずぶ濡れの状態で、戸口のところにじっと立っていた。

「クラピカ……お前、いつからそこに……」

「ずっとだ」

消え入りそうな声でクラピカが言った。

「ずっと?」

「ああ……」

雨の音に気配がかき消されていたのだろうか。戸口の外にいたこいつに気づかなかったなんて。

いや、違う。俺は小さく舌打ちをした。

気配を消してたんじゃない。こいつは、消す必要もないほど、憔悴していたんだ。

先程まであった、張りつめたような緊張感も、自分を追いつめてでもいるかのような気迫も。

今のこいつからは感じない。

ただ。

ただ、雨に打たれて、今にも消えてしまうんじゃないかと思うほど、こいつは。

儚げで。

何故。

こんなずぶ濡れのまま。

このままだと、こいつは消えてしまうんじゃないだろうか。雨に溶けて。煙になって。

「……頼む。念を教えてください。師匠」

うつむいたまま、クラピカが言った。雨の滴がクラピカの前髪を滑り落ちる。

「私には……時間がない。早く……」

「…………」

「私は、早く、強くなりたい」

きつく握りしめた拳が色を失って白くなっている。

まだ戻りきってない体調で、真正面から発の攻撃を受けて、その上、雨に打たれて身体も冷え切って。もう、体力なんぞ欠片も残っていないだろうに、それでも。

それでも、強くなりたいのだろうか。こいつは。

強く。

「念を……教えて下さい。師匠」

「……クラピカ……」

「もう、他に頼るべき人はいない。お願いだ」

「…………」

「お願い……します……」

深々とクラピカは頭をさげる。頬を滑り落ちた滴が地面で弾けた。

泣いているのだろうか。

ふとそう思ったが、俺はすぐさまその考えを否定した。あり得ない。この滴は雨の滴だ。

こいつは泣かない。こいつは笑わない。

いつもいつも張りつめた目をして、真っ直ぐに何かを見ている。

そう。一度だって、泣きも笑いもしないのだ。

俺の前では。

そうしてまた、俺は底なし沼に一歩足を踏み込んだ。

 



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3話

「いいか、念能力っていうものは、主に6つの系統に分類できる。まずは自分がどの系統に属するのかを見極めることだ。そして、それからその系統にあわせて能力を磨いていく」

「……ああ」

念についての説明は驚くほど早く終わった。

理解力があるというか、もともと頭の回転が速いのだろう。

1を説明するだけで10を知る。放って置いても俺が所蔵している書物を勝手に読んで知識を増やしていく。どちらかというと机上の論理は苦手だった俺とは正反対の性格なのかも知れない。

ということは、系統も具現化系か操作系あたりだろうか。

「一番攻撃能力が高いのは、強化系か?」

普段めったにこの手の質問はしないクラピカが、やけにそのことにこだわった。

「まあ、純粋に攻撃って面だけ考えればな。そういった意味で一番バランスがいいのが強化系だ」

「……そうか」

強化系。まだ試していないので何とも言えないが、こいつは強化系ではないだろう。

強化系はもっと、単純で純粋な精神の奴が属する系統だ。どう考えても、こいつはそういったタイプには思えない。

確かに思っていたよりは闘える。戦闘能力は高い方だろう。この年齢の中では。

だが、はっきり言って似合わない。

闘うという言葉は、こいつには似合わないだろう。

こんな金糸の髪をして、白い肌をして。

大人しく書物を読んでいる方が、どれだけ似合っているか。

俺は、目の前で熱心に念についての文献を読み続けているクラピカを見つめた。

大人しくしていると、本当に少女のように見える綺麗な顔。

「……なあ」

「……?」

何のためにハンターになったんだ。

聞きたくなったが、やっぱりやめた。

聞いてしまったら、本当に後戻りできなくなりそうだったから。

「……なんだ? 私に何か聞きたいことがあるのか?」

「……あ……いや……」

「はっきりしない男だな。何かあるなら……」

ムスッとした口調で口を開いたクラピカが突然、脅えたように目を見開いた。

なんだ。何を見てる。

俺は思わず後ろを振り返り、奴が見ている視線の先を探した。

「……?」

「く……蜘蛛……!」

「え?」

「……この……!!」

言うが早いか、クラピカは持っていた本をそのまま壁際の蜘蛛めがけて投げつけた。

「お……おいっ!?」

見事に蜘蛛に命中して本はどさりと床に落ちる。そして床におちた本の真上に潰された蜘蛛がポトリと乗っかった。

おいおい。朝の蜘蛛は福が来るから殺さない方がいいっていうことわざがあるの知らねえのか。と言いかけた俺の肩越しに、今度は陶器の器がヒュンッと飛んでいった。よく見ると俺の愛用の湯飲みじゃねえか。方向はもちろん蜘蛛。もう動けない蜘蛛を押しつぶし、砕けた湯飲みは更に蜘蛛の身体を寸断する。

「おいっ、クラピカ! お前何やってんだ!?」

完全に絶命しているだろう蜘蛛に向けて、今度はナイフを投げつけようとしているクラピカを慌てて押さえ込み、俺は大声で怒鳴った。

「蜘蛛はもう死んでる! 何やってんだよ、お前は!!」

「………どけ…!!」

信じられないほどの力で、俺の腕をはじき返し、クラピカはナイフを手に蜘蛛に突進すると、その小さな胴体めがけてナイフを振り下ろした。

相手は小さな小さな蜘蛛。

クラピカはその小さな蜘蛛めがけて、何度もナイフを振り下ろす。

何だかクラピカのその行為はまるで人を殺してでもいるかのような錯覚を覚えた。

「いい加減にしろ! クラピカ!! 蜘蛛は死んだ!!」

俺の喝に、引きつったようにクラピカの動きが止まった。

「何やってんだ、てめえは。らしくないぞ」

「らしくない? らしくないとはどういう意味だ」

クラピカの背中はまだ小刻みに震えている。

「貴様に何がわかる。貴様が私の何を知っているというんだ。何も知らないくせに!!」

「…………!?」

「私の事など何も知らないくせに!!」

「クラピカ!!」

「…………!!」

一際大きく、ビクリと肩をすくめ、ようやくクラピカがゆっくりと俺の方を振り返った。

「……あ……」

クラピカの真下には、真っ二つに割かれた蜘蛛と、犠牲になって折れ曲がってしまった本、砕けた陶器の破片が、憎らしげにクラピカを見上げている。

「……あ……す………すまない。お前の…………」

言いながら潰れた蜘蛛と砕けた破片を始末しようとクラピカは手を伸ばそうとする。だが、どうしても蜘蛛に触ることが出来ず、戸惑ったように動きが止まる。

「いいよ、後始末はやっておくから」

俺はそう言ってクラピカの肩を軽く叩いた。

「すまない……」

もう一度クラピカは言う。先程とはまるで別人のようだ。

「いや……別に……もういいよ」

俺はお前と違って、自分の持ち物を大事に扱うような性分じゃない。本にしたって、破れようが凹もうが、読めれば充分だと思っている。湯飲みだって、べつに割れようがどうしようが気にしない。

俺が気にするのは。

「クラピカ……お前……」

「苦手なんだ。蜘蛛は……」

苦手って、そんな程度のレベルじゃないだろう。今の行為は。

こいつが蜘蛛に抱いていたのは、明らかな殺意。

そう、殺意だ。

まるで憎い仇を見るような目で、こいつは蜘蛛を見ていた。

あんなに小さな昆虫に、何故こいつはあれ程までの殺意を覚えるんだ。

「すまない」

もう一度、クラピカが言った。

「分かったから、お前は外に出て顔でも洗って気を落ち着けていろ」

「……ああ」

大人しく俺の言葉に従ってクラピカは小屋を出ていった。

何のためにハンターになったのか。

ハンターになって何をしたかったのか。

聞かなくて良かった。

そんな言葉を口にしなくて、本当に良かった。

『私の事など何も知らないくせに!!』

知らないくせに、か。

まいった。

本当に、本当にまいった。

俺としたことが。

あんな言葉が、此処まで心に痛いと思うなんて。

 

 

 

――――――これだ。あいつの資料。

俺は、ようやくハンター協会から送られてきていた奴の資料に目を通した。

名前クラピカ。誕生日4月4日。出身ルクソ地方。クルタ族。

俺は、めくっていた手を止めてじっと画面を見つめた。

クルタ族。クルタ族って、あの。

幻影旅団によって全滅させられたっていうあのクルタ族か。

生き残りがいたのか。そうだったのか。

ようやくこれで納得した。奴が蜘蛛を嫌う理由。蜘蛛というのは、幻影旅団の呼称だったはずだ。確か。世界を股にかけて暗躍する最強最悪の犯罪者集団。そして、それに滅ぼされたクルタ族の生き残り、クラピカ。

奴は、焦っていた。早く強くなりたいと。

9月までには、それなりの力をつけておかなくては、とも言っていた。

9月。9月に何がある。

「…………」

もしかして。

俺の背筋を悪寒が走った。

9月。確か、世界最大規模のオークションが開催されるのがこの時期ではなかっただろうか。

ということは。

あいつは。

クラピカは。

「やめとけよ。んなこと」

思わず声に出してつぶやいてみる。

あんな子供の頃から、それだけを考えていたなんて、どうかしてる。

そのためにだけハンターを目指すなんてどうかしてる。

どうかしてる。

本当に、奴は、どうかしてる。

俺は届かないだろう言葉を、クラピカに向けて延々と発し続けていた。

 



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4話

 水見式で知ったクラピカの念の系統は、やはり具現化系だった。

 酷く落胆しているクラピカに一通り念の系統の話を繰り返し、そのまま(レン)の修行を続けさせる。クラピカは不満そうな顔をしながらも、黙々と練を続ける。グラスの中の水に起きる変化は日に日に激しくなっていった。

 硬質なガラスのような結晶。まるでクラピカの心を具現化しているようだ。

 クラピカはいつも滝のそばに座り込み、1日中、練をしている。俺が声をかけても気づかないほど、集中して練をしている。まるで何かに追い立てられるように。

 必死に。

 俺はきっと分かっていた。あいつが何を目指しているのか。何を望んでいるのか。

 最初から分かっていた。分からない振りをしていただけだ。きっと。

 念の修行。

 言ったからには教えるさ。自分の言葉には責任を持つ。

 だが、本当にいいのだろうか。

 本当にいいのだろうか。あいつに念を教えて。あいつを強くして、本当にいいのだろうか。あいつは強くなって、そして、どうする気なんだ。

 ルクソ地方の少数民族、クルタ族の生き残り。

 噂でしか聞いたことはなかったが、世界有数の犯罪者集団、かの幻影旅団に虐殺されたという幻の一族。あの虐殺事件があったのは4年、5年前か、だとしたら、その時、こいつは一体いくつだったんだ。

 そして、その事件をきっかけに、こいつがハンターを目指すことになったんだとしたら。

 だとしたら。

 9月。9月までには。そう言った。初めてあった日。

 9月には、ヨークシンシティで大規模なオークションがある。恐らく幻影旅団の奴らも、そのオークションに出品される品々を狙ってやって来るのだろう。

 クラピカの言う9月というのがそれを指していることは一目瞭然。

 では、そのヨークシンシティに行って、幻影旅団に会って。

 こいつは、どうするんだろう。

「お前、笑わねえな」

「…………?」

 俺はクラピカの背中に向かってぽつりとつぶやいた。

「お前が此処へ来てからもうかれこれ1ヶ月だ。なのに、俺、お前が笑ったところを見たことねえぞ」

 クラピカは心外だとでもいうような表情で、憮然と振り返って俺を睨みつけた。

「別に私は此処へ観光に来ているわけでも遊びに来ているわけでもない。笑う必要などないだろう」

「そりゃそうだろうけど、それじゃ精神衛生上よろしくないんじゃないかと。俺はそう思うわけだ」

「何が精神衛生上だ。笑いたくなければ笑う必要などない。私は貴様のように終始にやにや笑っているような人間にはなりたくない」

「失礼な奴だな。俺はもともとこういう顔つきなんだ」

「では、私も同様だ。私も生まれつきこういう顔なんだ」

「何言ってんだ。お前は……」

 お前は。

 言いかけて言葉につまる。俺は何を口走ろうとしてんだ。らしくない。

 でも、少し思ってしまう。

 きっと。

 きっと笑ったら。

 笑ったら。

「私は念を取得する為に此処にいる。それ以外の全てのことは私には不要なものだ」

「そんな肩肘張ってばかりじゃ、そのうち呼吸できなくなるぜ。せっかくの大自然の中にいるってのに」

 言ったそばで、小鳥が飛び立つ羽音が聞こえてきた。

 木々のざわめき、川のせせらぎ、鳥の鳴き声、風の音。

 そのどれも、こいつにとっての癒しにはならないんだろうか。

 頑なに。一点だけを見つめて。

 こいつは、何処へ向かうんだろう。

 このまま。

 この調子でいけば、恐らくあと少しで、こいつは裏ハンター試験に合格する。

 合格を宣言して、俺はこいつと手を切れるのだろうか。

 手を切って、それで終わりにできるのだろうか。

 季節はもう春だというのに、通り過ぎた風はやけに冷たく感じた。

 

 

 

 ――――――「何をしている?」

 パソコンに携帯用通信機を取付け、画面を見ていた俺の後ろからクラピカが声をかけてきた。

「見りゃわかんだろ。自分のメッセージボックスに伝言が入ってないか確認してるだけだ」

「ほう」

 意外そうな口調でクラピカが感嘆の声をあげた。

「なんだ、その態度は。俺だってハンターの端くれだ。こんな人里離れた山奥に住んでるからって、文明の利器くらい使いこなせる」

「文明の利器があっても、ここは圏外かと思っていたぞ」

 からかい口調でクラピカが言う。今日はいつもより少し穏やかな気分なのかもしれない。表情が少しだけ軟らかい。修行が順調なおかげだろうか。

「そうだ。お前もたまには自分のメッセージボックスに何か届いてないか見ておいた方がいいんじゃないか? 何なら俺が見てやろうか?」

 にやりと笑って俺がそう訊くと、クラピカは慌てたように、俺からパソコンを取り上げた。

「い……いいっ! 貸せ。私が自分で見る」

 おや、意外にも反応が早い。

 これは何か本当に誰かから連絡が入る予定でもあるんだろうか。

 何だか、このクラピカが誰かとそんなふうに繋がっているというのが不思議な感じがして、そして少しだけ、いつもと違うクラピカの様子に興味をひかれた。

 膝の上に乗せていた通信機器をさっとクラピカに渡してやる。

「ほら、携帯用の連絡機器だ。これならハンターサイトに簡単にアクセス出来るし、もちろん調べものも出来る。めくることも出来るし、ここに、自分のホームコードを入れてだな……」

 ひととおりの説明を上の空で聞きながら、クラピカはそっと自分のハンターカードをスロットに差し込んだ。キーボードの上を滑らかに指が走る。

 やがて、ピッと音がしてメッセージボックスに何かが入っているシグナルが鳴った。

 とたんに、ふっとクラピカの表情が和らいだ。

「…………?」

 思わず俺はくるりと後ろを向いた。

 何故だろう。見てはいけないものを見ちまった気がした。

 柔らかな笑顔。初めて見るこいつのこんな表情。

 一瞬心臓が跳ね上がった。

 何だよ。何だよ。こいつ、こんな表情もちゃんと出来るんじゃないか。

 年相応の嬉しそうな笑顔。

 いつものムスッとした堅い表情の何万倍も魅力的だぜ。まったく。

 そろりと俺は横目でクラピカの様子を探った。

 熱心に画面を見つめるクラピカの表情は相変わらず初めてみる柔らかな顔だ。

 まるで少女のような。

 …………。

 あれ。こいつ、性別はどっちだったんだっけ。

 頭の中で、昨日めくった電脳ページの画面を思い出してみる。

 えっと、確か、性別は。

「…………」

 空欄だった。そういえば。

 昨日はたいして気にもとめていなかった。ただの記入漏れだろう。それくらいに思って。いや、それくらいさえも思わないほど、気にとめていなかった。

 だが。もしかして。

 実際にこいつとつき合って実感する。

 こいつに限って記入漏れなんぞするはずがない。では、わざと。

 わざとだ。

「……クラ…ピカ……」

「な…何だ?」

 俺に見られていることを思い出したのか、クラピカの表情がいつものものに戻り、手がキーボードの上を滑らかに滑ると、通信を切るピッという音が聞こえた。

「も……もういいのか?」

「ああ」

 短くクラピカは頷く。完璧にいつもと同じ表情に戻っている。

「大事な伝言じゃなかったのか?」

「別に大事ではない。ただの近況報告だ。まったく、いちいちメッセージなど残さなくても、今頃試験勉強で忙しいことくらい知っているというのに……」

 微妙な表情でクラピカはそっとそうつぶやいた。

 何故か、少しだけ胸が痛んだ。

 酷く感傷的になっている自分に、俺は自身で舌打ちをした。



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5話

「やるときはやる。休むときは休む。そうでなけりゃ本当に効率のいい修行なんかできゃしねえ。根をつめたって無駄なだけだぞ」

裏ハンター試験の合格を宣言しても、結局俺はクラピカと手を切ることが出来なかった。

いや、俺自身が手を切りたくなかったのかもしれない。

まったく。こうなることが分かっていたから、余計に関わりたくないと思っていたのに。

だから、後悔したというのに。

ある程度、念の習得が出来てもクラピカは満足しない。こいつは、自分一人で闘い抜くための力が欲しいと言いやがった。

その物言いが、俺の勘に障る。

こいつは、此の期に及んで、まだ一人で闘う気なのだろうか。誰にも頼らない気なのだろうか。

誰のことも信用しないつもりなのだろうか。

しかも強化系の能力を欲するなど、無茶な欲求甚だしい。

念の系統ってのは、個人の資質の問題だ。最初から決まっている。それを覆すことなど出来はしない。

そんなことは百も承知のくせして、奴はそれでも力が欲しいと言う。

力が欲しい。強くなりたい。

クラピカは繰り返しそう告げる。

強くなって、こいつは何をする。何を得るんだ。何を。

「別に私は根を詰めているわけではない」

真夜中を過ぎても一向に眠ろうとしないクラピカ。

いい加減にしろと言いに行った俺に、反抗的な目をしてクラピカはそう言い返した。

「必要だと思うからしているだけだ。放っておいてくれ」

「放っておいて構わない時期はもう過ぎた。クラピカ。何故眠らないんだ」

「眠くないだけだ。私の身体が眠りを欲していないのだから、眠る必要はない。必要があれば、ちゃんと眠る」

「…………」

俺はポリポリと頭を掻いて、大げさなため息をついた。

「お前、頭は良いが馬鹿だな」

「…………」

クラピカが妙な顔をして俺を見上げた。

「なんだ?」

「師匠。その二つの言葉は相反するものだと思うが。どういう意味だ」

「そうか? 俺には同義語に思えるぜ」

ますますクラピカが不審そうな目をする。本当に可愛くない奴だ。

「分からねえんなら、お前のためにもうちっと易しい言葉で言ってやろう。お前は頭は良いが言葉を知らないと見える」

「貴様にそんなことを言われる筋合いはない」

「貴様じゃねえ。師匠だ。師匠と呼べと言っただろう」

ピシャリと言い、俺はクラピカをじっと見下ろした。

数年前の残虐シーン。こいつの頭の中にはまだその時の記憶が生々しく残っているのだろうか。

性別を隠し、強くなる為の力のみを欲し。脅えて。

何日も、何ヶ月も、何年も。そうやって襲い来る恐怖に脅えていたのだろうか。

「お前は眠れないんじゃない。眠りたくないんだろう」

俺の言葉にクラピカが目を見開いた。

「この二つの言葉は似て非なるものだ。そういうことだ。……ま、俺には関係ないけどな」

くるりと背を向けた俺にクラピカがせっぱ詰まった声をあげた。

「待て!」

「…………」

「どうして私が眠りたくないと思っていると言うんだ。その根拠はなんだ」

俺はゆっくりと振り返る。

「……それくらい分からねえとでも思ってんのか? 俺はお前の師匠だぜ」

言ってて気分が悪くなった。

師匠だから。

師匠だから、分かる。

でも、師匠でしかないから、何も出来ない。

何も。

本当に、何も。

 

 

 

――――――鎖を具現化したい。

裏ハンター試験の合格宣言を受け、その上で修行を続けたいと言ってきたクラピカへ、『何を具現化するか決めろ』と返した俺の言葉に対し、奴は驚くほどの早さでそう答えてきた。

鎖。

何故だろう。俺は初めから、こいつがそう言うだろうと思っていたような気がする。

刀、銃、鉾、攻撃する武器はいくらでも思いつく。

だが、こいつは、そんなものを選んだりはしないだろう。

何故だか、今のクラピカに鎖という言葉は無性に似合っている気がした。

何故鎖なんだ、と聞いた俺の問いに、奴は『冥府に繋いでおかねばならないような連中が、この世で野放しになっているからだろう』と、そう言った。

連中とは、幻影旅団。

だが、俺に見えるのは、鎖に縛られてがんじがらめにされているクラピカの姿だ。

本当に。何故そこまで自分を追い込む。

何故、そこまで必死なんだ。

同胞の仇。憎しみというものは、どれ程時間が経っても消えないんだろうか。

消えないまま、永遠にこいつの周りに鎖になって張り巡らされてでもいるのだろうか。

貴様に何が分かる。

吐き捨てるように奴は叫ぶ。悲痛にも聞こえる声で。

腹が立つ。こんなガキ相手に何をムキになっているんだろうと、自分でも思うが、それでも腹立たしいことに変わりはない。

目指すものはブラックリストハンター。目的は幻影旅団捕獲。いや、殺害か。

力を得て、幻影旅団を倒せたとして、それでこいつはどうなる。

復讐を遂げたところで、こいつに何が残る。

「あまり自分を過大評価するな。お前は、自分が思っているほど強くはない」

俺が言った言葉にクラピカは怒りを露わにする。

「何だと!?」

「言っておくが、戦闘能力のことを言ってるんじゃない」

「では何だというのだ」

「わからないのか?」

「ああ、わからない」

俺は呆れたように息を吐く。

「ほら、やっぱりてめえは馬鹿だよ。言葉を知らなさすぎる」

「…………!?」

「正しくは、分からないじゃなく、分かりたくない、だろう」

カッとクラピカの頬に怒りのため朱が走る。

「お前は復讐という大義名分があったからと言って、人を殺して平気でいられるような人種じゃない。」

「……!?」

「お前は、そこまで強くはない」

「…………」

「このままではお前は」

「……私は?」

壊れる。きっと。このまま行き着くところまで行ってしまったらこいつを待ち受けているのは狂気の世界だろう。俺は、それを分かっていて、それなのにこいつの背中を押している。

まったく。

だから嫌だったんだ。関わりたくなかったんだ。

「私は……なんだ」

「何でもない」

クラピカの笑顔が見たい。

バカバカしい話だが、何故か無性にそう思った。

ふっと気が緩んだ時、誰かを思いだしている時、あいつは微かな笑顔を見せる。

幻影旅団を倒したら、なんだか、その僅かな笑顔さえ失われてしまうような気がして仕方なかった。

締め付けている鎖が、そのままの勢いで奴を潰してしまうような気がした。

このままで本当にいいのだろうか。

奴が望む力を得る為の助力を、俺はこのまま続けていいのだろうか。

後悔しないか。そんなことをして。

いいや。後悔している。最初から言ってる。俺は後悔しているんだ。

奴と関わってしまったことを。奴と知り合ってしまったことを。

「やめておけ。復讐なんて虚しいだけだ」

そう言った俺に、クラピカは、僅かに目を見開いた。

蜘蛛の糸に縛り付けられ、もがき苦しむ蝶。

俺は、この手で、その蝶を救い出したいと思った。

そんなこと、出来ないことは重々承知していたが。それでも。

それでも。



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6話

「やめておけ。復讐なんて」

何度目の言葉だろう。俺は奴にそう語りかけた。

クラピカはじっとオレを見据えて言い返す。

「私からその言葉を取ったら、他には何も残りはしない」

「…………」

平気な顔をして、奴はそう言う。何も残りはしない。

何故だ。何故、そんなことが言える。

お前の中には復讐しかないのか。

それ以外の悲しみも喜びも何もないというのか。

「……復讐、復讐って、それってつまりは人殺しじゃねえのかよ」

つい、そう言ってしまってから、俺は慌てて口を閉じた。

さすがに、この言い方は奴の逆鱗に触れたこと、間違いないだろう。

「貴様に何が分かる」

思った通り、いつもの決まり文句が奴の口から発せられる。

「こんな場面でありきたりな正義論を唱えようとでもいうつもりか。私相手に。私には許される殺人と許されない殺人の定義などわからない。だが、やつらは殺さなきゃならないんだ。始末しなければ……」

「…………」

「お前に分かるか。一人生き残ってしまった者の罪の重さが」

「罪……だと?」

「皆、死んでしまった。生き残った私が同胞の無念を晴らすのは当たり前の義務だ。私がやらなければ、誰がやるんだ。このままでは誰一人浮かばれない。私は……」

「…………」

こいつは何を言ってるんだ。

罪とはなんだ。

一人生き残ってしまったことは罪なことなのか。

生きることが罪なのか。

生き残ることに、生き延びることの何処に罪がある。

何故生きてはいけない。何故同胞が死んだからって共に死ななければ罪になるんだ。

そんな理屈、俺は分からない。分かりたくもない。

「お前、どっかおかしい。狂ってる」

「……なっ……なんだと」

クラピカの顔にサッと怒りの炎が見えた。

「お前は、罪という言葉をはき違えている。間違ってる。勘違いも甚だしい」

「貴様……」

「お前から復讐という言葉を取ったら、何も残らない。そう言ったな」

「ああ」

「じゃあ聞くが、お前は、この世に未練も執着も何もないっていうんだな。復讐さえ遂げられたら、それ以外の事には全て無関心でいられるというんだな。お前には、それ以外何もないって言うんだな」

「ああ、その通りだ。それの何処が悪い!」

「多いに悪い!!」

俺はおもむろにクラピカの腕を取り、そのまま地面に引きずり倒した。

無性に腹が立った。腹が立って腹が立って仕方なかった。

そして、こいつをめちゃくちゃにしてやりたくなった。

「…………!?」

「そんなに自分自身に執着がないっていうなら、俺がお前を奪ってやるよ」

「なっ……!?」

「言ったろう。復讐以外のことには無関心だと。だったら何をされても平気なわけだ」

掴んだ腕を捻りあげたまま、俺はクラピカの首筋に唇を押しつけた。

「なっ……何をするつもりだ!?」

「うるさい。黙ってろ」

言いつつ、俺はクラピカの服の裾をたくし上げた。真っ白なサラシを巻いた胸が露わになる。

やはりな。

性別を隠したがる理由。実際に男であったら隠す必要はないことだ。

女であるが故の不利。こいつはそれが許せなかった。そんな自分を認めたくなかった。

力が足りないことも、戦闘能力が男より劣ることも、何もかも。それが自分が女である所為だなどと認めたくなかった。

だから。

サラシで胸を覆い隠して。

心まで覆い隠して。

それで隠せるとでも思っていたのか。それで女である自分を隠せるとでも思っていたのか。

きつく巻き付けたサラシに手をかけると、クラピカが真っ青になって身体をよじった。

「よせ!何をする!やめろ!!」

思った通り、この細腕では実際の力比べで俺に勝てるはずはない。油断していたとはいえ、ここまで見事に押さえ込まれてしまっていたら、身体の自由は完全に利かない。掴まれた腕を振りほどこうともがいても無駄な抵抗だと思い知るだけだろう。

クラピカの顔からさっと血の気が引く。

きつく縛ってあった結び目をほどくと、やけにあっさりとサラシが緩み、白い肌が見えた。

日の当たらない白い肌は本来のこいつの肌の色。きめ細かく滑らかで。

「……き……貴様……」

クラピカが更に身をよじる。その行動は完全な逆効果だろう。緩んだ白い布の隙間から、成長途中のほんのり膨らんだ胸が覗いた。

「…………!!」

恐らく今まで誰も触れたことのない部分だろう。

クラピカは顔面蒼白のまま、俺の行為をどうすることも出来ずに額に汗を浮かべる。

瞳に宿っているのは、拒否と嫌悪と驚愕。

俺がちらりと見えた胸の突起に手を伸ばした瞬間、とうとうクラピカが叫び声をあげた。

「やめろ!嫌だ!……レ……レオリオ……!!助け……」

悲鳴のような叫び。

「レオリオ……!!」

オレはそれを引き出してようやく掴んでいた手をゆるめた。

束縛から解放され、クラピカは胸を隠しながら俺の手を逃れて壁際に身を寄せる。

乱れた呼吸。上気した頬。微かに震える肩。

女の顔。

俺はほっと安堵の吐息をもらし、床に胡座をかいて座り直した。

「何だ、ちゃんとあるじゃないか。未練も執着も」

クラピカが驚いたように目を見開く。

「…………」

「レオリオ……か。なるほどね」

「…………」

「そいつに逢いたいんだろう」

「…………」

「ちゃんと、あるじゃないか。未練が」

皮肉な顔で笑って見せると、案の定クラピカは怒り心頭に達したという表情になった。

「貴様……私を試したのか!?」

緋色の目がちらりと覗く。

ああ、これが緋の目なんだ。

世界7大美色のひとつと言われる緋の目なんだ。

やけに冷静な目で、俺はじっと、その見事な緋色を見つめていた。



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7話

「レオリオは……」

ぽつりとクラピカがつぶやいた。

一瞬独り言かとも思ったが、どう考えてもその口調は誰かに話しかけているものだ。ということは相手は俺以外にあり得ないだろう。

「あいつは、いつもへらへら笑っていて、いい加減で、だらしがなくて。何処までが嘘で何処までが本気かわからない。そんな男だった。第一印象は最悪。なんだこの男は、と思った。初めて会った途端、私達は船の上で決闘までしたのだ」

「…………」

「あいつは金に汚くて、女好きで、男として最低だと思っていた」

「…………」

「思っていたのに……」

そう言ってクラピカは俯く。金糸の髪がさらりと揺れた。

そうなのか。

何とも言い難い感情が俺の中に湧いてくる。

そうなのか。

そんなに。

そんなに好きなのか。

いい加減でだらしのない、その最低の男が。

「レオリオって、お前と同じ第287期のハンター試験合格者だな。確か今は医者になるための勉強に励んでいるとか聞いたが……」

「……よく知ってるな」

ほんの少し意外そうにクラピカが言った。相変わらずこいつときたら、人を馬鹿にするにも程があるぞ。

「お前なあ。俺を誰だと思ってるんだ。今年の新人ハンターの情報くらい全部網羅している」

「……そうか……そうだったな……」

自分自身を抱きかかえるように、クラピカはきつく膝を抱えていた。

先程乱れた衣服はすでに整えられている。ただ、ほどけたサラシだけがまだ床に残ったままだ。

ちらりとその白いサラシに目をやり、俺はどうしたものかと髪を掻き回した。

未遂に終わったとはいえ、さすがに酷いことをしてしまったという自覚はある。だが、謝る気はおきなかった。クラピカも特に謝罪の言葉を求めては来ない。

正直言って、こいつは、俺を数発ぶん殴って、そして出ていくだろうなあと思っていた。

実際、怒りにぶち切れたから目が緋色になったんだろうし。

それなのに、奴はその緋色の目のまま、じっと俺を見つめ、そしてそのまま動こうとしなかった。

奴のその目は、何だか助けを求めているようにも見えたんだ。

初めて見た、すがるような目。

チクリと胸が痛む。

「……以前、何故眠りたくないのかと聞かれた」

「……え?」

「レオリオにも聞かれた。眠れないんじゃなくて、眠りたくないんだろうと」

ああ、レオリオにね。

「そんなに私は分かりやすい表情をしているのだろうか」

「…………」

俺は肯定も否定もしなかった。

クラピカの表情は決して分かりやすいほうではない。どちらかというと感情を読みとるのに苦労する程度にはポーカーフェイスだろう。

わかるのは、ただ単純に、見ていたから。

そういう目で。そういう気持ちで見ていたから。

「夢を見るのだ。眠ると必ず」

「…………」

「死体を数えているんだ。何体も何体も。いくら数えてもきりがない。どんなに数えても終わらない。周り中血の海で、私はそこに気が付いたら首までどっぷり漬かってしまっている。目の前が真っ赤で、これは瞳が緋の色になった所為なのか、それとも自分自身、赤色しか認識できなくなったのか解らなくて。何度目をつぶっても赤色は消えなくて。永遠に消えなくて」

数える死体は同胞のもの。

緋色の目をしたまま殺されていったという、クルタ族の同胞のもの。

「一度も? 本当に一度もゆっくり眠れたことはないのか?」

俺の問いに、ふっとクラピカは目を伏せた。いつもの記憶を辿る仕草。憂い顔。

少女の表情。

「……そうだな。一度もと言うのは嘘だ。正確に言えば、一度だけゆっくり眠れた時があった」

「それは、いつ……?」

「ハンター試験の……いや、何でもない。今更言っても詮無いことだ」

やるせない表情。届かない想い。揺れる金糸の髪。

「逢いたい……のか?」

『誰に』とは聞かなくてもクラピカには分かっているだろう。

クラピカは不安そうに膝を抱え直した。

「そうかも知れない。私は、奴に今のうちに逢っておきたかったのかも知れない」

「今のうちにって……」

「私の手が血に染まる前に……だ」

「……!」

「あいつは人を生かす仕事をしている……」

クラピカの表情が歪む。

「あいつは私の対極にいる」

「…………」

「遥か彼方の対岸に居るんだ」

どうしようもない。本当にどうすることも出来ない。

「もう一度だけ言うぞ。やめておけ。復讐なんて」

「何度言われても私の気持ちは変わらない」

そう言ってクラピカは顔をあげた。

その顔を殴りつけてやりたいほど、胸が痛んだ。

 

 

 

――――――抜けられない迷路か、終わりのないダンジョンのようだ。

光の射さない暗闇で、もうもがくことさえ忘れる程の長い時間。苦しんでいるという自覚さえ分からなくなる究極の現実。

次の日からしばらくの間、クラピカは高熱を発し、床から出られない状態となっていた。

永遠に続くかと思われる緊張の糸が一瞬緩んだ所為なのだろうか。

休息を与える良い口実が出来たので、俺的には万々歳という感じだったのだが、奴にとってはこの状態はかなり不満だったらしく、俺が目を離すたびに何とか抜け出そうと試みては失敗を繰り返していた。

「何度も言うようだが、念の習得っていうのは、心身共に健康な時に一番吸収率が高いんだ。早く強くなりたいなら、今は大人しくしていろ」

クラピカは俺の言葉に不満そうな目で応える。

相変わらずの生意気な態度ではあったが、以前に比べたらほんの少しだけ表情に変化が見られた。

だからって、こんなクソガキのことを、可愛いとか思ったりはしない。絶対。

だから、これは情にほだされたわけではないのだ。

無理矢理自分自身を納得させながら、俺は今日街で購入してきたあるものをクラピカに手渡した。

「ほら、今はこれをやるから、しばらくは起きるんじゃないぞ」

「…………?」

ジャラという音と共に長い鎖が袋の口から顔を覗かせた。

「これ……鎖……」

「お前、物質を具現化する為にはどれくらいのイメージ力と集中力が必要かわかるか」

「イメージ力?」

鎖をぎゅっと握りしめたままクラピカが俺を見上げた。

「まずは、その鎖を身体で覚えろ。手で触った感触や重さ、強さ、味、匂い、お前の全神経を集中させてその全てを把握するんだ。それが出来てから、初めて実際の具現化が始められる」

「感触……味……匂い……」

つぶやきながら、クラピカはぺろりと赤い舌をだして、鎖を舐めた。妙に艶めかしいじゃねえか。

「……どうした?」

舐めたとたん、クラピカが微妙に妙な表情をした。

「何か変な味でもしたか?」

「血の……」

「……え?」

「血の味がする」

そう言って、クラピカは再び鎖をぺろりと舐める。

「お前、相変わらず言葉使いがおかしいぞ。それを言うなら逆だろうが」

俺は呆れ顔で肩をすくめた。

「鎖が血の味なんじゃなくて、血が鉄の味なんだ。馬鹿か」

「鉄の……?」

クラピカはしげしげと鉄の鎖を見つめる。そして、その顔にふっと笑みが走った。

「なんだ、では鎖は血と同じもので出来ているのだな……」

クラピカのその言葉に、俺の背筋がぞくりと震えた。

再び気分が悪くなった。



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8話

鎖の具現化。

ただでさえコントロールが難しい具現化能力の中において、金属物質を具現化しようなんて、考えてみたら念を覚えたての新人ハンターには荷が勝ちすぎる課題だろう。

だが、クラピカは譲らない。本当に頑固者というのは始末が悪い。そう思う心の反対側では、ここまでの執着心は、ある種尊敬に値するのだろうか等とも考える。

ただ、状況はそんなに単純なものじゃない。

いくら尊敬に値するといっても、この状態を見過ごすわけにはいかないだろう。

毎日、毎日、何時間も何時間もクラピカは具現化能力を習得するための訓練を続ける。

神経が焼き切れそうな程、集中して。

毎日毎日、倒れるほどに。

そして、それに比例するように、またクラピカの睡眠時間が目に見えて減っていく。

自分自身を追い込んで、追い込んで。

こいつは、まるで死にたがってでもいるのではないかと錯覚する。

どんなに消耗していても止めようとしない。どんなに苦しくても止めようとしない。

そして、更に笑顔が消えていく。

笑わない。もう。

どうやれば笑えるのか、そんなことも忘れてしまったかのように、今のクラピカは笑わない。決して。

こんな気持ちになるなんて。本当に。

だから嫌だった。本当に、本気で、本心から嫌だった。

浅い眠りの中で、俺はクラピカの声にふと目を覚ます。

苦しげな声、苦痛の呻き。

少しでも眠れるようにと渡した睡眠薬も何の効果もない。というか、こいつはそれを飲んでいないのかも知れない。

「おい、クラピカ」

さすがに心配になって声をかけてみる。

苦痛と恐怖の中で、それでも睡眠をとるのと、その恐怖から逃れる為に目を覚ましておくのと。もう、どちらが正解なのかすら分からない。

「おい、クラピカ、目を覚ませ」

ただ、見ていたくない。

だから、これは俺のエゴだ。俺が我慢できないだけなんだ。

「クラピカ!」

「……し……師匠……?」

ぼんやりと開けた瞳の色が、微かな緋色だった。

「……うなされてたぜ、お前。大丈夫か」

「……あ…ああ、大丈夫だ。すまない」

意外に冷静な声でクラピカは答えた。瞳の色はいつもの色に戻っている。

俺は丸めてわきに置いていたタオルをポンとクラピカに投げて渡した。ひどい汗が頬を伝っているのが見えたから。

クラピカは素直に受け取り、頬と首筋の汗を拭う。

いつまでも。何年経っても心の中から消えないのは、単純に忘れられない程の恐怖だったからなのだろうか。なんだかこいつを見ているとそれだけではないような気になってくる。

なんだろう。よく分からないが、他に理由があるような。

そう、忘れられないんじゃなくて、忘れたくない。忘れてはいけない。

そう心で思いこんでいるような。

「…………」

馬鹿な。いくらなんでもそんなこと。

普通、人間ってのは、嫌な記憶は早く忘れたいと願うものだ。中にはその為に記憶喪失になる輩だっているという。自分を護る為には、あまりにも酷い心の傷はオブラートで包んで、見えなくして、そして、消去する。そうしないと生きていけない。あまりにも苦しすぎて生きていけない。

人間ってのは、そういった自己防衛本能というものがあるはずなんだ。

それなのに、何故こいつは、忘れない。

いつまでも、いつまでも、忘れない。

「眼球をくり抜かれた死体というのを見たことがあるか?」

ぽつりとクラピカがつぶやいた。

「いいや、幸運にも俺はそういう体験はないんでな」

「そうだな……普通、そういうものだな」

「…………」

「転がっている死体を見ても、最初は分からなかった。血の海に紛れて、よく見えなかった。腕を出して身体を抱え上げようとして初めて気づいたんだ。緋色に変わっているだけだと見えていたそれは、緋色の眼球なんじゃなくて、目のあったはずのくぼみに溜まっている血だったんだと」

「…………」

「血の涙というものを初めて見た。あんなふうに流れる涙を、私は初めて見た。手が血の涙に赤く染まって、それ以外何も見えなくなって……」

俺は目を反らさず、じっとクラピカを見つめていた。そうすることしか出来ない自分を心底腹立たしく思いながら。

「私の心は罪の意識に苛まれている。あの時、皆と一緒に死ねなかったという罪の意識に」

「……なんで、それが罪なんだ」

死ねなかった罪。そんなもの、何処にも存在するわけはない。

クラピカは酷く傷ついた表情で顔を歪めた。

「みんな死んだ。父様も母様も、いつも優しくしてくれた叔父も、一緒に遊んだ友人も、歴史や地理を教えてくれた先生も。みんな。みんなだ。私だけが生き残ったんだ。何故」

何故。

そう言って、クラピカは更に顔を歪める。今にも泣き出しそうな程に。

「……何故、私は死ねなかった。死ななかった。何か理由があるはずだ。私が死ななかった理由が。でなければ……」

「…………」

「そうでなければ、生きていけない……!」

その理由が、復讐か。

俺はクラピカから視線を外し、きつく唇を噛んだ。

「……私は自分が許せない。一人生き残ってしまった自分が。皆と一緒に死ねなかった自分が」

クラピカは膝を抱える。

差し伸べられるすべての温かい手を拒否するように。

復讐の意味。

相手が憎いから復讐するのではなく、一人だけ生き残ってしまったのは、仇を討つためなのだと。だから自分は生かされているのだと。そう思わなければ生きていけなかった。死ねなかった自分自身を許せなかった。生き残ってしまった者の義務として、同胞の仇を討つ。それ以外の人生など許さない。でなければ苦しんで死んでいった我等が浮かばれない。

なんて一族だ。吐き気がする。

本当に、吐き気がする。

こんな幼い少女に。

いくらでも倖せになっていい権利を持っていたはずの幼い少女に。

まるで、拘束具で手足をがんじがらめに縛られてでもいるようだ。

復讐をしなければいけない。

怒りを忘れてはいけない。

同胞の無念の思いを忘れてはいけない。

そうでなければ、生きていてはいけない。

それは一種の強迫観念ではないのか。

「クラピカ……」

俺はそっとクラピカの肩を抱え込むように抱き寄せた。クラピカは抵抗せず、すっぽりと俺の腕の中に入ってくる。

小さな身体。思った以上に柔らかい。やはり少女なのだ。本当にこいつは、まだ、少女なのだ。

「俺はお前に師匠として言うぞ。他の誰が何と言おうが、お前は生きていていいんだ」

ぴくりと俺の腕の中でクラピカの身体が震えた。

「大丈夫。俺が許す」

「……許す……?」

「ああ、お前は生きていていいんだ」

「…………」

「生きていていいんだ」

許すから。お前が生き続けることを。俺が、許す。

だから。

生きていて欲しい。

ずっと、ずっと、ずっと、生きていて欲しい。

やがて、クラピカの身体が小刻みに震えだした。くぐもった小さな声が聞こえる。

「本当に……私は、生きていていいのだろうか……」

「ああ、そう言ったろう」

「…………」

「お前は生き続けていていいんだ」

笑わない天使が、今、俺の腕の中で透明な涙を流す。

このまま、永遠に時が止まればいいのにと思った。



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9話

それは幸せな予感でもなんでもなかった。

毎日続く滝のそばでの具現化能力の修行。本当に何度言ってもあいつはぶっ倒れるまで止めようとしない。そして、その甲斐あってのことなのか、ある日、奴のオーラが突然弾けるように広がった。

「とうとう……やったか」

俺はいつもクラピカがいる滝から流れ込む河の下流に行ってみた。

思った通り、クラピカがゆっくりと河の中を浮きつ沈みつしながら、流されてくるのが見えた。そして、奴の指から延びている長い長い鎖。

川底に、蜘蛛の糸のように張り巡らされた鎖。

捕らわれた蝶。

成功したのだ、とうとう。鎖の具現化に。

奴の望みが叶ったのだ。

俺は長いため息をついた。

本来だったら、弟子の成長は師匠として喜ぶべきことのはずなのに。

やはり、少しも嬉しくない。心に沸き上がるのは、どうしようもないジレンマだけだ。

これでいいのだろうか。本当に、これでいいのだろうか。

何十回、何百回と繰り返してきた問いを、もう一度繰り返す。

やはり答えは見付からない。

俺は河の中に入っていって、気絶しているクラピカの身体を抱き上げた。

指から延びた鎖がすうっと消えていく。

完全に気を失っているクラピカの濡れた身体は、思ったより軽かった。そして、その表情はとても穏やかで。

「……クラピカ?」

声をかけても起きる気配はない。具現化に成功して気が抜けたんだろう。本当に。

俺はそっとクラピカを抱きかかえたまま小屋に戻り、柔らかなシーツの上に寝かしつけた。

せめて、今だけは穏やかな眠りでありますように。

いつもの死体を数える悪夢ではありませんように。

俺の願いが聞き届けられたのか、クラピカの寝顔はいつもと違う穏やかなものだった。

じっと俺がクラピカの寝顔を覗き込んでいたら、クラピカが少しだけ身じろぎをした。金糸の髪からつーっと滴が流れ落ちる。

一瞬、濡れた身体を拭いてやった方が親切なのだろうか、とも思ったが、意識のない間に、俺に身体を触られたと分かったら、こいつはそれこそ俺を許さないんじゃないかとも考える。

しばらく試行錯誤したあと、俺は結局起きたら気づくようにと、タオルを一枚、クラピカの身体の上に置いた。

とりあえず、これが精一杯。俺の役目はここまで。俺はこれ以上踏み込んではいけない。

そう思ったのに、俺は何故かそのままその場を動けないで、じっとクラピカを見下ろしていた。

白い肌。細い肩。濡れた唇。伏せられた長い睫毛。

本当に、こうやってみると、こいつの顔の作りがやけに綺麗な事に今更気づく。

きちんと髪も伸ばして綺麗な服でも着たら、みんなが振り向く美少女ってやつなんじゃないだろうか。もしかして。

もしかしなくても。きっとそうだろう。

俺はそっとクラピカの濡れた頬に手を添えた。クラピカが小さな吐息を吐く。ほんのりと赤みを帯びた唇が微かに開いた。

「…………」

触れるほど近くに顔を寄せて、俺は動きを止める。

何をやってんだ。俺は。弟子相手に。こんなクソガキ相手に。

「……止めた止めた」

吐き捨てるようにつぶやいて俺は小屋を出た。

何をやっているんだろう。本当に。

この俺があんなガキ相手に何を。

そう言いながらも俺は足を止めて、もう一度小屋を振り返った。

なんでだろう。あいつを見ていると、苦しくなる。

どうにかしてやりたくて、苦しくなる。

このままあいつが修羅の道を進むことが、耐えられないと思えてくる。

何度も引き返そうと思った。こんな底なし沼に引きずり込まれる前に、やめておけば良かった。

本当に、やめておけば良かった。

こんなにあいつのことを。

クラピカのことを。

愛おしいと思う前に。

 

 

 

――――――制約と誓約。

その話をした時、奴は命をかけると言い切った。

自分に課した2つのせいやく。それを遵守することで、己の能力を更に高める方法。

奴は言った。

捉えたら決して逃がさない鎖が欲しい。ターゲットは蜘蛛。蜘蛛以外には使用しない。

その掟を破れば、奴に襲いかかるものは死。

此の期に及んで、俺は再び後悔の念に苛まれる。

だが、もう、後戻りは出来ない。出来ないんだ。

だったら、俺はこいつを生かす為に何でもしよう。

たとえこいつが望まなくても、こいつを生かし続ける為に、何でもしよう。

強くなることで、こいつが少しでも楽になるのなら。ほんの少しでも楽になるのなら。

何が正しいのか分からない。どうすることが一番良いことなのか分からない。

ただ、少しでも楽になるのなら。強くなることで、お前が少しでも楽になるのなら。

その為だけに、俺はお前を導こう。

緋の目になった時、クラピカのオーラの絶対量が変わったのに気づき、俺は奴にもう一度水見式をやらせてみた。

奴の中の隠されたもうひとつの能力。

特質系能力の発見。

これがあれば、クラピカはもっともっと強くなれる。

俺はクラピカの能力を伸ばすために考えられるあらゆる事を試してみた。

奴は、真綿が水を吸収するように、俺の指導を習得していく。

奴の中の何かがどんどん目覚めていく。

クラピカの持つ特質系の能力は、他の全ての系統の能力をも100%発揮する力だった。それこそ、奴がもっとも望んでいた強化系の能力さえも、奴は緋の目である間は自由自在に扱える。

もう、誰にも止められない。成長していくこいつの能力。念の力。

クラピカの想い。

クラピカは強くなっていった。驚くほどの速さで。

強くなりたい。もっともっと、力が欲しい。

もっともっともっと。

クラピカは、ずっとそう言い続けていた。

クラピカの望む強さとは何だろう。復讐の為の強さ。つまりは相手を殺すための強さなのだろうか。

鎖の具現化。制約と誓約の誓い。エンペラータイム。絶対時間。

本当に、よくもここまでと言うほどの短期間の間に、クラピカは成長した。

蜘蛛に対してのみということで言えば、もう完璧と言っていいほどに。

「クラピカ……」

「…………」

名前を呼ばれてクラピカが振り返る。

「お前、本当にそれでいいのか?」

「…………?」

クラピカが首を傾げる。

今のクラピカが持っている強さは、心の強さではない。決して。

クラピカの念能力が強くなればなるほど、反対に、俺には奴の心がどんどん脆くなっていっているような気がしたのだ。

どうしようもないジレンマ。本当に、どうしようもない心の痛み。

クラピカが強くなればなるほど、俺は苦しくて仕方なくなっていった。



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10話

「一応、俺が教えられることはすべて教えたつもりだ。あとはお前自身が決めろ」

「……わかった。有り難う」

俺の合格宣言にクラピカは小さく感謝の意を唱えた。

やれるだけのことはやった。

蜘蛛に対してのみという限定付きでいいなら、こいつの能力は、他の新人ハンターなど足下にも及ばない程の強さになっただろう。

チクリとうずく胸の痛みを抑えて、俺はニッと奴に笑いかけてみた。

「そうそう、あと、現段階で俺が知ってる情報を教えておいてやる。お前と同じルーキーの新人ハンター達のうち、ゴンとハンゾーは念の修行を終えたそうだ」

「本当か?」

先日、ハンター協会から来ていた資料の中身を見せてやると、クラピカは興味深そうに俺の手元を覗き込んだ。やはり一緒に試験を受けた者達のその後の動向は気になるのだろう。

「ゴンが修行を終えたのか。そうか……ではキルアもだろうか……?」

クラピカは、懐かしげにその少年達の名前を呼んだ。

「キルア? ああ、ゴンと一緒に修行したという少年か?」

クラピカが頷く。

「その少年なら、ウィングが言うにはゴンよりも飲み込みが早く、優秀だったらしいぞ。あと、レオリオだが……」

僅かにクラピカの表情が緊張した。

「奴は、医師になるための勉学が先だというので、まだまともな修行は一切行っていない。師匠もついていないようだ。まあ、潜在能力は低くはないんで、修行したらすぐに習得できるんじゃないかってのが、ハンター協会の考えらしいが」

「そうか? 案外レオリオはそういうところ不器用だぞ」

言いながらクラピカの表情がふっと柔らいだ。

相変わらず、レオリオの名前を呼ぶ時だけ、こいつは少女の顔になる。

それが、少しだけ。

少しだけはがゆい。

って、俺は何を考えているんだ。

ふっと湧いてきた感情を無理矢理押しとどめ、俺はブンブンと頭を振った。

「そういえば、ヒソカは、どうしている……?」

「…………!?」

クラピカの口から出てきた名前に、俺は一瞬言葉を失う。

「ヒ……ヒソカ?」

「ああ」

「…………」

ヒソカ。その名前には覚えがある。今年の新人の中での要注意人物。ハンターになる前からすでに念を取得していたので、無条件で裏ハンター試験合格を告げられた奴だ。

試験中、奴の所為で受験者が数名命を失った。ある意味殺人鬼に属する輩だろう。間違いなく。

「試験中のことはともかく、あんな男とはもう接触しないほうがいいんじゃないか?」

ついついそう言ってしまった俺にクラピカは少し唇の端をあげて自嘲的な笑みをみせた。

「そういうわけにはいかない。奴の情報は私にとって必要なものだ」

「情報?」

「ああ……」

とてつもなく嫌な予感。

「その情報っていうのは、蜘蛛…幻影旅団に関することか?」

「…………」

クラピカは無言で応える。肯定の意味だろう。

俺は大きくため息をついた。

結局そうなのだ。こいつの頭の中にあるのは、蜘蛛の事。復讐の事。

がんじがらめに張り巡らされた蜘蛛の巣という鎖に捕まった1匹の蝶。

助けようとして手を伸ばしても、不器用な俺の指では、反対に羽根をもいでしまいかねない。

そんな蝶。

こいつは、そんな奴だった。

 

 

 

――――――「行くのか?」

「ああ、長い間世話になった」

季節はもう夏。こいつがここに来た時は、まだ冬だったはずなのに。いつの間に、こんなに時間が経っていたんだろう。

そんなことを思いながら、荷物をまとめているクラピカに俺は声をかけた。

裏ハンター試験に始まって、絶対時間の習得まで。約半年。

こいつと過ごした時間。長くて短かった時間。

もう二度と戻らない時間。

「いいクライアントが見付かるといいな」

「ああ」

小さくクラピカが頷いた。

ずっと見慣れていた金糸の髪がさらりと揺れ、細い首が覗く。

初めて会った時、随分気に入らない小僧だと思った。

闘うより、頭脳労働のほうが似合っているのにと思った。

俯いた顔が少女のようだと思った。

真っ白なサラシで隠された肌は、きめ細かくて美しいと思った。

鎖を舐めた赤い舌が、やけに艶めかしいと思った。

一度だけ抱きしめた身体は、思っていたよりずっと小さくて柔らかかった。

一瞬触れかけた唇は、淡いピンク色だった。

そして。

「……」

「……」

「クラピカ」

「……なんだ」

「気が向いたら戻ってこいよ。あ、そうだ、目的を遂げたら、師匠のおかげですって挨拶にくるのが礼儀だぞ」

「そうだな。そうしよう」

叶って欲しくて、叶って欲しくない願い。

無駄と知りつつ、最後にもう一度言ってみる。

「これで最後だ。復讐なんてやめておけ」

「…………」

クラピカは何も答えなかった。背中越しに言ったので、奴の表情も見えなかった。

ただ、奴は深々と俺に頭を下げて、そして無言のまま去っていった。

いつか。

戻ってこい。そして、その時。

ほんの一瞬でかまわないから、倖せな笑顔を見せて欲しい。

結局、一度も見ることのなかったその表情を、俺は改めて欲している自分に苦笑した。

ヨークシンシティで開催されるオークションの日は、もう目前に迫っていた。

 

fin.



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