JH科学 魔法町シリーズ二次創作 「カガクノミチ」 (きゃら める)
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第一話「花蝶風月」

中秋の名月が近づく頃、湯川はニーナから突然桜の調査を言いつけられる。そんなとき、ニーナ教授に折り合いの悪いミレーユが絡んでくる。微笑むニーナを不審に思う湯川。果たしてこれから何が起こるというのだろうか?


「花蝶風月」

 

 

       * 1 *

 

 

「んーっ、一応できたかな」

 大きく伸びをしながらそう呟いたのは、少女の愛らしさと女性の雰囲気を持つ、ニーナ・アインシュタイン。

 連日の作業で荒れてきてしまっている感じのある金色の髪を整えながら、彼女は国立魔法科学大学内に与えられた実験室内で、壁沿いの机に置いたブラウン管モニターに向い、冷めてしまった紅茶のカップを傾けていた。

 実験が大詰めであったために片づけが追いつかない室内には、中央の大きな机の上と言わず、決して広いとは言えない実験室の床と言わず、様々な機材や道具が放置されたままとなっている。

 しかしニーナが操るPCを置いた壁沿いの机の真後ろ、実験用の机の端だけは片づき、充分なスペースの真ん中に目の細かい鳥籠があった。

 中にいるのは、蝶。

 ニーナの実験の産物であるその蝶は、透明な羽根を持ち、鳥籠の中に渡された何本もの渡木に数十匹が止まっている。

「さて、仕上げと行きましょうか」

 ニヤリと笑って振り返ったニーナは、鳥籠の天辺に取りつけられた真空管と、その根元に接続されている太いケーブルを見、そしてPCテーブルのキーボードに手を伸ばす。

「さぁ!」

 期待に目を輝かせながらリターンキーを叩くと、鳥籠の真空管が黄色い光を放ち始めた。

 それと同時に、金糸のような髪から覗くニーナの耳のイヤホンに取りつけられた、小型真空管アンプ――モントークテクノロジー、精神と物理を繋ぐ技術の産物であるそれもまた、青緑の光を放つ。

 鳥籠がガタガタと揺れ始め、部屋にあるものすべてもまた振動を始める。

 鳥籠の真空管は光を強め、目を開けられないほどとなる。

 光が分厚いカーテンが引かれた窓の外にも漏れ出るほどになったとき、急速に真空管の発光は収束していった。

 ブラウン管モニターには、成功を示す文字列が表示されていた。

 改めて見た鳥籠の蝶は、さっきまで透明だった羽根がすべて、薄ピンク色に染まっていた。一匹残らず、すべてが薄ピンク色の蝶に。

「よしよし。これでよし。でもこれ、どうしようかしら?」

 実験成功の嬉しさに頬を緩ませるニーナは、しかしピンク色の唇を指でなぞりながら考え込む。

 ふと壁に掛けられた、たくさんの時計がひとつに集まった全太陽系時計の地球の表示を見てみると、もう深夜に近い時間になってしまっていた。実験に集中しすぎてしまったらしい。

 外からは聞こえる音はほとんどない。

 微かに、近い階層を走る遠い電車の音と、二〇〇〇メートルに達する魔法科学大学の校舎群の間を通る風の音だけだ。

 椅子から立ち上がったニーナはPCに終了の指示を与え、モニターのスイッチを切り換える。

「実験の許可が出るとは思えないしなぁ……。でも限定空間より広い場所で影響を確認した方が結果は集められるし……」

 荒れ果てている実験室内の片づけは諦め、手元の機材や書類だけ机の中に仕舞ったニーナは、家に帰るために愛用の反重力ホウキに手を伸ばす。

「ん?」

 PC表示から切り換えたモニターに映っているものに気がついて、ニーナはしばしそれに注目する。

「ふふふっ」

 思わず含み笑いを零しつつ、モニターの電源だけ切った彼女は照明を落として実験室の引き戸を開けた。

「さて、どうなるかしらね?」

 楽しそうに声を弾ませたニーナは、そのまま扉を閉めた。

 後には静まり返った実験室と、時折薄ピンク色の羽根を小さくはためかせている蝶だけが残った。

 

 

 

 

 ニーナが実験室を出てきっかり十分。

 静かに、引き戸が開かれた。

 わずかに開いた戸の隙間から滑り込むように入ってきた影。

「鍵をかけ忘れるなんて不用心なこと。さぁて、何かいいものがありますように……」

 少し低めの女性の声でそう呟いた人影は、照明を点けないまま暗い実験室の中を探るように歩く。

 見つけたのはほのかに光っているような薄ピンク色の羽根を持つ蝶が入った、鳥籠。

「これね、いま実験していたのは」

 真空管とケーブルが取りつけられた鳥籠に、ただの蝶でないことを見抜いた人影は、それを慎重に吊り下げられたスタンドから取り外した。

「どうしよう……」

 手に取ったはいいものの、ウェーブのかかった髪を揺らしながら周囲を見回していた人影は、カーテンが引かれた窓に注目した。

 カーテンを開け、押し上げ式の窓を開放し、上弦を過ぎた月が浮かぶ屋外に、鳥籠を向ける。

 鳥籠の小さな扉を開けると、それに反応したかのように薄ピンク色の蝶たちが羽ばたき、静かな星空へと飛んでいく。

 まるで花びらが羽ばたいているかのようなその様子をしばし眺め、人影は窓とカーテンを閉めて忍び足で鳥籠を元の場所に戻した。

「これであの子の鼻を明かしてやれるわ」

 鼻を鳴らし、人影は満足そうに頷いていた。

 

 

       * 2 *

 

 

「うわ、鍵閉めてない。まったく、ニーナ教授は……」

 引き戸を開けて実験室に入った僕は、鍵がかかってないことに不安に感じるよりも、目の前の光景にげっそりと肩を落とした。

 広い実験用の机の上にあるオシロやコイルはともかく、他にも積み上げられた検査機材やケーブルや真空管などなど。床に転がってる謎のボンベはいったい何本あるのか。どっから持ってきたのか、たぶん壊れてる豆腐型PCに、無造作に置かれたあの箱は小型の恒温槽だろうか。

 実験室の中は、荒れ果てていると言って過言ではない惨状だった。

 今日、僕が来たのはニーナ・アインシュタイン――国立魔法科学大学でも天才として名高い教授の、実験室のひとつ。

 僕はここ数日別の実験にかかりきりで、数日ぶりにここに来たわけだけど、ここまでになってるとは思わなかった。

「とりあえず午前中は片づけかぁ」

 ニーナ教授がここで何かの実験をしてたのは知ってたし、それが大詰めだったらしいことはわかっていた。重要な書類の類いは仕舞ってあるっぽいけど、茶渋が残るってのに飲みかけの紅茶のカップすら放り出したままの室内に、僕は大きなため息を漏らす。

 肩に提げた鞄から取り出したのは、白衣ではなく、白い割烹着。

 ニーナ教授の助手となって半年、僕にとっては白衣の次に必須の装備になっていた。

 若干一五歳で、入学するのすら簡単ではない国立魔法科学大学の教授に就任したニーナ教授は、天才というだけでなくその功績もまた凄まじい。

 その功績が評価され、同時に様々な分野に手を伸ばしている研究を円滑に行うため、大学内に研究分野に応じていくつかの実験室を持っている。

 有名人であるが故、もの凄い倍率になった研究生の応募に勝ち抜き、僕はニーナ教授のゼミに入ることになった上、助手の大役まで仰せつかった。

 ただ、助手という名前の、小間使いだったが。

 学内にあるコレクションなんかを置いてある私室は塵ひとつないくらい綺麗にしてるのに、実験が大詰めになったりすると余裕がなくなるためか、実験室なんかは彼女は片づけがおろそかになったりする。

 どんなに惨状になっても本人はどこに何があるか把握できてて実験に支障はないらしいが、僕みたいな一般人には危険きわまりない場所となる。

 最初の頃は事故を起こしたりもしたけど、ニーナ教授の助手となって半年が経ち、彼女のある程度の行動パターンがわかってきた僕は、本人がいなくても掃除くらいはこなせるようになってきた。

 壊れ物を安全な場所に待避させ、正体のわかる機材を邪魔にならないようまとめ、道具類を所定の場所に仕舞っていく。それから正体不明の機材なんかを手袋をして慎重に確認しつつ、片づけに入る。

 ニーナ教授にとってはさほど危険な場所ではないのかも知れないが、実験には液体窒素や反応物質を使うことだってよくある。ヘタをすると爆発が起こるどころか、理解不能な現象も起こることもあるから、実験室の掃除は慎重さと注意深さが要求される。

 こんな風に掃除夫に甘んじてる僕だが、そんな状況にあってもニーナ教授の側を離れる気が起きないのは、いくつかの理由がある。

 国立魔法科学大学の生徒は、充分に勉学と研究に励むため金銭などの生活は保証されてるけど、決して余裕があるわけじゃない。ニーナ教授の助手をすることで得られる手当は、僕にとって充分過ぎるほどに魅力的だ。そして天才の実験を一番近くで見ることで得られるものが多くあること、何より僕が生来の苦労性で、頼まれると断れないし、困ってる人には世話を焼きに行ってしまうというのがある。

「おはよう。もう来てたんだ? 湯川くん」

「おはようございます。と言ってももう十二時過ぎてますよ」

 実験室内があらかた片づいて、一般人が入っても大丈夫になった頃、そんな時差惚けした声とともに入ってきたのは、女の子。

 僕が着ている大学の制服となっているブレザーと同様に、濃紺のジャンパースカートに純白のブラウスを合わせ、ストライプのネクタイを締めている彼女こそが、地元では神童と言われ、十六歳で大学に入った僕でも敵わない、ニーナ・アインシュタイン教授。

 一七〇ちょいある僕より頭ひとつ分近く小柄な彼女は、滝のように流れる金糸の如き髪に、制服に合わせた色合いのレースで飾り立てられたリボンを乗せている。

 大学では私服も認められているのに、教授である彼女が学生と同じ制服を着ているのは趣味らしい。

 確かに制服は学生にも人気だし、彼女が着ているようにブラウスの袖口やスカートの裾をレースで飾ったりといった改造もごく普通のこと。それが祟って、そもそも年齢が年齢だし、学生に間違われることもあったりとデメリットも発生するが。

 そんなニーナ教授の人気の秘密は、学者としての功績と同時に、愛らしい顔と、一五歳とは思えない身体つきと、何より僕にとって目が離せないのは、短いスカートと太股までを覆う横縞のタイツが織りなす絶対領域!

 制服の他にもいろんなタイプの服を着てくることがあって、ファッションにはかなり気を遣ってるニーナ教授は、自分の可愛さ、綺麗さを知ってるはずだけど、友達以外の他人からどう見られているかはあんまり気にしてないらしい。

 研究の功績や真摯に向き合う態度、天使のような見た目の美しさを持つ彼女は、天然ボケの一面も併せ持つ。

「そう思えば、ここでやっていた実験はどうなったんですか? 昨日は夜遅くまでやっていたみたいですが」

「んー。あれはまぁ、いいかな?」

「どういうことです?」

 そろそろニーナ教授が来るだろうと思っていた僕は、準備しておいたポットにヤカンからお湯を注ぎ、紅茶の準備を進める。

 元気そうに見えるけど、いつもに比べ心持ち瞳が暗くなってることから、昨日は夜遅くまで実験をやっていたんだろう。だから普段より心持ち抽出時間を長くして渋めにしたアールグレイをぴかぴかにしたティカップに注ぎ、PCが置かれた机の前に座ってブラウン管モニターでセキュリティのカメラ映像から、僕の掃除によって物がどう動かされたかを見てるニーナ教授に手渡した。

 しばしの間香りを楽しみ、小指を立てて持ったカップを傾け、ひと口飲んだ紅茶の渋さにわずかに目を細めてるニーナ教授は、やっぱり美しい。

 ただ普通の動作に、僕は一瞬見惚れてしまう。

 教授としての仕事や研究をこなしつつ、同年代の友達とショッピングや遊びに出かけたりと、精力的に動き回る彼女のバイタリティとモチベーションは、どこから湧いてくるものなのだろうか。実は大学があるこの町、魔法町にはニーナ教授が三人いるなんて噂があるくらい彼女は活動的だ。

 可愛らしさ、美しさならニーナより優れた女性は世の中にはいくらでもいるが、それでも彼女がみんなに人気で、僕にとって一番魅力的に映るのは、どうしてなのだろうか。

 ――最初の頃は逃げ出そうと思ったこともあるけども。

 そう思ってもいまも続いているのは、彼女の魅力に取り憑かれたからではなく、僕が苦労性で、苦労するのがわかっているのにそれでも放っておけない性格だからだと信じたい。

 何しろ彼女に深く踏み込むことは、危険を伴うからだ。

 天使のような彼女は、ちょっかいを出そうとすると、小悪魔な一面を見せる。

 つい数年前、ニーナ教授がまだ学生だった頃、告白と同時に襲いかかろうとしたロリコンの先輩は、現在はモントークテクノロジーを利用し、アカシックレコードへの読み書きが可能か否かを実験するため、生きた考える人として生涯を研究室内に過ごすことになったと聞いたことがある。

 教授になったばかりの頃、ニーナ教授を排除するために掃除用真空管ドールを改造して差し向けた競合する研究をしていた教授は、翌日自宅を区画ごと「掃除された」という噂があった。

 どんなに魅力的であっても、ニーナ教授にヘタに手を出せば、彼女がそんな小悪魔な側面を見ることになる。

 だから僕は、あくまで助手としての仕事をこなすだけだ。苦労するのがわかっていても。

「いいの、と言っても、確かこの鳥籠の中で何かやってましたよね?」

 思考で中段されていた話題を再始動して、ちょうどニーナ教授の後ろにある空っぽになってる鳥籠を指さす。

 この実験室に来た最後の日には、鳥籠の中に何かが育っていたような記憶があった。

「一応完成したんだけどね。いまは、まぁ、実験中、かな?」

「はぁ」

 ドキリとしてしまうような動作で唇を小指でなぞるニーナ教授は、僕の質問に曖昧な返事をする。

 僕が関わっていない研究にあまり深く踏み込むことはできないにしても、成果は発表されてこそだと思う。

 曖昧に返事をする理由は、よくわからなかった。

「そんなことより、湯川偉雄(ゆかわひでお)くん。今日はこれからやってもらいたいことがあるんだけど、いい?」

 小さく首を傾げながらにっこりと笑うニーナ教授に、僕はイヤな予感を覚える。

 こういう笑みを見せているときの彼女は、何かを企んでいるときだ。

 半年の間に僕はそれを学んでいた。

「え……、まぁ、いいですけど」

「じゃあお願い」

 それでも僕には、小悪魔で、天使な彼女お願いを、聞かないという選択肢はなかった。

 

 

 

 

 中学のときに習ったところによると、いまから三百年ほど前、二一世紀初頭の頃は、主な移動手段と言うと車や自転車などの、車輪を回して地上を走るものだったらしい。

 初めてそれを知ったときはそんな方法でどうやって町を移動するんだと思ったけど、その頃の写真や映像を見てみたら、建物は高いものでも数百メートル、多くの家は地面の上に数階程度の高さしかなかった。

 確かにそれなら、地上を車輪で移動してても問題ないわけだ。

 ニーナ教授から用事を言いつかった僕は、断ることもできず実験室に一番近い大学校舎のエントランスに立った。

 首から提げているのは調査用に渡されたクリップボードとスティック型のテスター。

 右手に持っているのは、ホウキだ。

 エントランスの高さは地上から約一五〇〇メートル。

 この辺りでは魔法科学大学の校舎は高い方だけど、別に東京一高いというわけじゃない。

 東京周辺、いまでは魔法町と呼ばれている町並みは、軒並み一〇〇〇メートルから二〇〇〇メートルの高さがある。

 そんな高さの町を移動する手段は、階層ごとに行き交っている電車と、モジュール化され積み重なっている建物を貫くエレベータ。

 そしてホウキだ。

 ホウキ以外にも絨毯や反重力シューズ、個人用ロケットとか家族向け反重力人力車とかもあるけど、魔法町の主な移動手段と言えば、手軽で小型でどこにでも持って行けるホウキが一般的だ。

 魔法ホウキとか反重力ホウキとか色々呼び名はあるけど、人間の持つ念力を増幅する、精神物理学の成果が内蔵されたホウキは、魔法町の生活になくてはならない移動手段として普及している。

 僕は愛用のアンダーソン社の最新型、ダブルサイクロンホウキにまたがった。

 大学から支給される決して多くない生活費と、ニーナ教授の助手で得られる手当と、暇を見つけてやっていたアルバイトのお金を貯金してやっとこの前買うことができたダブルサイクロンホウキは、従来型のホウキの発展型、サイクロンホウキをさらに発展させ、二重反転式サイクロンにより、推進にジェットを使うタイプのホウキの速度を超える超速度を得られるというご機嫌な性能を持っている。

 地上三〇〇〇メートル以上に走っている高速空路のさらに上空、音速を超える乗り物でしか乗り入れられない、地上一〇〇〇〇メートル以上に位置する超高速空路も走れる速度が出せる。

 ただしこれには罠があって、オプションの風防と、耐寒スーツを着ていないと超高速空路にたどり着く前に風か寒さでめげることになる。

 いまのところどっちも手に入れる余裕のない僕は、性能を出し切れないままダブルサイクロンホウキに意識を集中させた。

 別にエントランスからでなくても、けっこうみんな窓とか校舎のちょっとしたところにある開放広場とかから飛び立つけど、僕は一応ニーナ教授の助手。できるだけ行儀良くエントランスから飛び立つことにしていた。

 ホウキにまたがって蔓を両手で握りしめ、浮き上がるイメージをホウキに送ると、末端のダブルサイクロンがうなりを上げて回転を始める。

 ある程度回転が安定したところで、念力の増幅倍率の高いホウキを操り、出力を絞ってふわりと空へと浮き上がった。

「しっかし、なんでまたこの時期に桜の調査なんて……」

 僕が今日ニーナ教授から言いつかったのは、大学周辺の桜の生長具合の調査。

 それも観光スポットになってる、遺伝子改良により栄養を与え続ける限り永久に花を咲かせる永遠桜ではなく、春に咲く普通の桜の調査だ。

 もうすぐ中秋の名月の時期である秋のまっただ中、気象予言庁ですら春が近づかないと調査なんてしないのに、なんでニーナ教授はそんなことを調査するんだろう、と思ってしまう。

 でもおそらく何か理由があるんだろうから、僕は文句も言わず――言えず、調査へと乗り出した。

 周辺三キロ以内を中心に、最大五キロの範囲という話だったけど、その範囲には天空湖となっている不忍池を中心とした積層上野公園も、超江戸城の外堀空路沿い桜並木まで含まれる。調査する場所はここに来るまでに確認しておいたけど、一日で終わるかどうか微妙なくらいの数と範囲だった。

 エントランスから飛び立った僕は、魔法科学大学最高峰である本館を離れレッドゲートを目指す。

 僕と同じく制服を着ている人、カジュアルだったりロリータだったり着ぐるみだったり、老若男女の人間、グレイ型やタコ型の宇宙人、化け物やロボットやUMAが右と言わず左と言わず上にも下にも行き交う間を縫って、安全運転でホウキを操る。

 レッドゲートに向かうメインストリートの左右は、庭園スペースとなっている。庭園スペースと言っても、そこは一二〇〇メートル級の建物の屋上だ。

 下を見るとどこまでも続く建造物。

 途中の雲に遮られて地上は見えないものの、学生や教授や職員などの関係者だけでなく、様々な人がいる魔法科学大学の校舎を、ずっと下の方まで無数のホウキに乗ったりやロケットを背負った人が自由に行き交っているのが見えた。

 庭園スペースに植えられてる桜に接近して、ニーナ教授に渡された何なのかわからないスティック型のテスターを桜の木に当てて、お尻の部分についてる小さな画面に表示された数値を場所と時間とともにクリップボードに書き込んだ。

「あれ?」

 テスターは何を検知してるものなのか教えてもらえなかったからわからないけど、今年は早くもすっかり葉が落ちてしまっている、黒に近い樹皮だけを見せている桜に、若干の違和感を覚えていた。

 ――気のせいか?

 桜に注目するなんて春以来なわけだけど、大学創立時に植えられたという見事な枝振りと幹の太さの大桜もそうだし、その近くにある記念樹の若い桜にも、注目するのは春以来だからはっきりしないが、首を傾げてしまっていた。

「まぁ、もっと調べてみないとわからないか」

 呟きつつ校内の主要な桜の調査を終えた僕は、レッドゲートをパスして、とりあえず神保町方面を目指した。

 神保町と言えば店舗数は太陽系一を誇る古本屋を中心とした書店街が有名で、隣接する音楽関係の店が並ぶエリア、また書店と同時にそっち方面の人には欠かせないスポーツ用品店、地球人ばかりか宇宙人にも対応してる食事処はとくにカレー屋が多いことで知られてる。

 大学内以上にカオスな往来のある外堀空路の、空が見える神保町の上層付近を僕は流す。

 この上層付近は安全だからいいとして、魔法町全体に言えることだけど、空が見えないほどの下層に行くのは素人には危険だ。

 太陽光の影響が少なくなるのと同時に法律の縛りが何故か緩んでしまう古い町並みでは、その分興味深い店や物品に出会えるけれど、同時に会いたくない不穏な人にも出会ってしまう可能性が高い。

 渋空や新宿なんかは上層から下層までしっかり治安が行き届いてるところが多いが、神保町の面白さは法律にすら捕らわれないカオスさであるとも言えるだけに、僕はこのままでもいいような気がしてる。

 外堀空路を時速百キロくらいとのろのろと流して九段下へ、超江戸城外堀防壁の桜並木を調査する僕は、大学校内でも感じていた違和感を深めていた。

「たぶん、これがニーナ教授の目的なんだろうけど」

 空路脇の路側エリアまでホウキを寄せて一本一本桜にテスターを当てて、出てきた数値を書き込んでいく僕は、ニーナ教授が何を考えてるのかを予想していた。

「また何か変なこと考えてなければいいんだけど」

 研究熱心なニーナ教授は、でもたまにヘンなことを思いついて実行してしまうことがある。というか助手になって決して長くない間に、もう何度かそうしたことを経験している。

 いつものこと言えばいつものことだからたいていは問題ないけど、大事件になりうることまでやってしまう可能性だって、ゼロではない。

「桜でそんな大事件になることはないと思うけどさ」

 他よりも異常と言えるレベルで数値が高い桜を見上げながら、僕は不安を感じざるを得なかった。

 

 

       * 3 *

 

 

「んー。やっぱりおかしいな」

 すっかり日も暮れ、やっとひと通りの調査を終えて大学まで戻ってきた僕は、もうあんまり人のいないエントランスに降り立って首を傾げていた。

 定期的に合法薬を飲んでアクセラレートしてある前頭葉をフル活用して、自宅にしてるアパートモジュールの格安部屋に置いてある脳ハードディスクにアクセスしてみるけど、違和感の正体はわからない。

 気象予言庁のデータを引っ張ってくればもう少し何かわかるかも知れないが、気象庁のデータも公開してるのは初夏の辺りまでだろうから、いまの時期の桜に関する情報は得られそうにない。

 どんなに脳ハードディスクで記憶を拡張し、脳RAIDで高速アクセスを実現しても、それで天才になれるわけじゃない。

 例えば魔法科学大学の図書館クラスの、もっと大きい、アカシックレコードくらいの情報を持っていて高速に検索できるとしても、必要な情報がどこにあるのかわかっていなければ検索には時間がかかるし、そもそも必要な情報を取り込んでいなければ、検索は徒労に終わる。

 薬や機械で学力や思考を加速してても届かないのが天才なんだろうと、ニーナ教授の側にいて最近よくわかってくるようになった。

「終わったのかしら?」

 僕が頭を捻ってる間にエントランスに現れたのは、夜の闇の中でもわずかな電灯に照らされ金色に輝いているように見える髪をしたニーナ教授。

「はい。一応ひと通り終わりました。細かいところまでは調査しきれてませんが」

「充分よ」

 昨日も遅くまで実験してたんだからもう帰ってるかと思ったけど、むしろ元気になってる様子の彼女に、僕は検査結果を記録してるクリップボードを手渡した。

 軽く折り曲げた指を唇に当てている彼女は、僕の調査結果を見て、ニヤリと笑った。

「あら、ニーナ・アインシュタイン教授。奇遇ね。こんなところで何をしていて?」

 ニーナ教授の高く響き渡る声とは対象的に、ハスキーで良く通る声が僕たちにかけられた。

 見てみると、エントランスに現れたのは、手首までを覆うレース袖と裾にフリルがあしらわれた、深緑のワンピースを身につけた女性。

 僕はあまり深く関わることがないからほとんど話したことはないが、彼女は生物工学を専攻しているミレーユ・シュレディンガー助教授だ。

 ニーナ教授の髪を音もなく静かに流れ落ちる金糸の滝だとするなら、ミレーユ助教授の髪は荒々しく乱れ落ちるブラウンの滝。

 そんなウェーブのかかった髪を揺らしながら近づいてきた助教授は、僕たちを蔑むように顎を反らし気味に睨みつけてきた。

 確か僕と同じ一八歳のミレーユ助教授は、独自の研究でそこそこの成果を残しているものの、割り当てるための研究室が不足しているため、教授になれていないという話を聞いたことがある。

 老朽化しつつも予算の関係で――それ以外にも理由があるという噂だが――大学の校舎の増設が難しいため、実験室の空きができ次第教授に昇格予定らしい。

 そんな立場だからこそ、多大な功績により大学内に複数の実験室を持つニーナ教授を目の敵にしていて、何かある度に突っかかってきてた。ただし、ニーナ教授の方はあんまり相手にしてないようだが。

「新しい研究の成果を確認しているところだけど、何か用かしら?」

 ――やっぱり、何かの実験だったんだ。

 最初から不穏に感じていたが、やっぱり僕が今日やっていた桜の調査は、ニーナ教授の実験だったらしい。

 色々と思うところはあるし、突っ込みも入れたいところだけど、余裕の笑みを浮かべているミレーユ助教授の前だから、僕はとりあえず黙っておく。

「いいえ、別に。でも、こんなところで成果の確認なんて、研究が奪われたり、情報が流出したりしないよう気をつけるべきじゃなくって?」

「何か言いたいことでも?」

「さぁ?」

 含み笑いを漏らしつつエントランスの端まで歩いていった彼女は、手にしたジェット推進式ホウキを横座りにして構え、ふわりと浮かび上がった。

「それではごきげんよう、ニーナ教授。貴女の立場が今後も変わらないといいわね」

 そう言い捨てて、ミレーユ助教授はホウキの後端にあるジェット推進装置から青白い炎を放ちつつ、空を飛んでいった。挨拶を返す暇すらない。

「……なんだったんでしょう?」

「さぁね。気にする必要ないわ」

 絶対何か仕掛けてきた合図だと思うのに、ニーナ教授は意に介した様子もなく、クリップボードに挟んである紙をめくり、成果の確認を続ける。

「よし、これなら大丈夫ね」

 ひと通り見終わり、手にしたペンで書き込みを行ったニーナ教授は、僕にクリップボードを返してきた。

 そして、優しい笑みを浮かべた。

 本人は意識していないんだろう、多くの男たちの心を鷲づかみにしてきただろうその天使のような笑みを浮かべているときのニーナ教授は、決して心まで天使であるわけじゃない。

 たとえ実験室の掃除であっても、研究に関わることであればどんなお願いでも助手である僕が受けるのは当然だ。

 でも、天使のような笑みを浮かべ、心に小悪魔を飼い慣らすニーナ教授は、こんなとき助手としては受けるべきではないお願いをしてくるのが常だ。

 そうだとわかっていても、僕は彼女のお願いを聞かざるを得ない。

「ひとつ、お願いがあるんだけど」

「はい」

「明後日の金曜の夜から、印をつけたところの中で一番花見にいい場所を確保しておいてくれないかしら?」

「花見、ですか?」

「えぇ」

 秋の半ばに、それも桜が一番良く見える場所を確保するとはどういうことだろうか。

 でも僕を見つめるニーナ教授の揺るぎない瞳は、冗談を言ってるわけではないのはわかる。

「わかりました」

「うん。よろしくね。他の準備はこちらでやっておくから」

「お願いします」

 嬉しそうに小さく笑い声を立てるニーナ教授に、わけがわからないまでも、僕は彼女が何かを仕組んでいることだけは理解できていた。

 

 

          *

 

 

 国立魔法科学大学の敷地内、レッドゲート近くの積層建造物の屋上、大学創設時に植えられたという大桜は、見事な咲きっぷりだった。

 毎年春に咲くはずの大桜は、金曜の夜辺りから急速に生長し、つぼみをつけ、土曜の昼頃には花を咲かせ始めて夜となったいまは満開となっている。

 小さめの公園のようにとなっているこのスペースに生えている他の桜もまた、薄ピンク色の花を満開にしている。

 けれども、少し離れたところの桜は一切花は咲かず、生長も見られない。

 大学周辺の魔法町でも、同じようにスポット的に桜が開花してるところがあるという報告を聞いていた。

 ――絶対、ニーナ教授が原因だよな。

 わかっていたけど、僕はそのことを口にしない。

 金曜の夜から僕が確保していたのは、桜の真下ではなく、少しだけ離れて大桜全体を眺められる場所。

 僕の隣に座り、月見団子をつまみに、甘酒の入った湯飲みを傾けるニーナ教授は、楽しそうに桜を見上げていた。

 魔法町の人たちは祭り好きだ。

 他にもゲーム好きだったり行列好きだったりいろんな指向はあるが、祭りが好きなのは鉄板だ。

 桜が咲いたとなれば例え秋でも祭りになる。

 いま僕やニーナ教授、教授の友達やゼミ生がいるこの反重力絨毯の他にも、辺りを埋め尽くす勢いで絨毯やホウキが出て、みんな思い思いに桜を眺めていた。

 それだけでなく、大学のサークル、出入りの業者、近くの町内会が咲いてる桜を囲むように様々な露店を展開し、文字通りお祭り騒ぎとなっていた。

 もちろんここ以外にも、桜が咲いている場所では中秋の桜祭りが開催されていることだろう。

 灯された照明に浮かび上がるのは、桜と、ニーナ教授の横顔。

 うっとりと桜を眺める彼女の視線の先には、桜だけでなく、ちょうど今日が満月である月、中秋の名月がぽっかりと浮かんでいる。

 月なんて今時ちょっと遠出するくらいの距離でしかないけど、人が歴史を刻み始めた頃から美しいものとして語られ続けてきたそれは、やはりいまも美しい。

 そして、ニーナ教授も綺麗だ。

 桜と、月と、少し肌寒さを覚える九月下旬の緩やかな風に金色の髪を揺らし、艶やかな唇に湯飲みを寄せている彼女は、まるで一服の絵のよう。

 これを見られただけでも、最初はみんなに笑われながらも場所取りした甲斐があったってものだ。

「ふふふっ。ニーナ・アインシュタイン教授、桜が咲いてしまっていますわね」

 せっかく静かに花見を楽しんでいたというのに、その雰囲気をぶち壊して勝ち誇ったような声とともに現れたのは、ミレーユ助教授。

 乗ってきたホウキを僕たちがいる反重力絨毯に寄せてきた彼女は、顎を逸らしてニーナ教授を完全に見下してる視線を投げかけてくる。

「えぇ、本当に綺麗ね。でも、それがどうかしたの?」

「これは、貴女の失態ではなくって?」

「何のことかしら?」

 勝ち誇ってる助教授と、余裕の笑みを浮かべてる教授の声はみんなにも聞こえてるだろうけど、ふたりの関係を知ってる人にとっては当たり前の光景で気にした様子はなく、露店の呼び声やいったい何人がやってるのかわからないカラオケ大会によって、少し離れた人まではこちらに注目している様子はない。

「とぼけても無駄ですのよ? これは貴女の実験室で――」

「その前にいい? ちょっと見てもらいたいものがあるんだけど」

 ミレーユ助教授の言葉を遮ったニーナ教授は、傍らに置いてあった持ち運び用の小型ブラウン管モニターの電源を入れた。

 不機嫌そうに眉根にシワを寄せながらも、ミレーユ助教授はホウキから身体を乗り出すようにしてニーナ教授とともにモニターを覗き込む。

「貴女が言ってくれたように、研究が盗まれたり情報が流出しないよう、うちの実験室にもある程度のセキュリティはつけてあるのよ」

 モニターの角度と寄せ合うようにしてる身体の位置から、何が映っているのかは僕からは見えない。

 でも、勝ち誇っていたミレーユ助教授の顔がペンキで塗ったように青くなるのを見て、僕はなんとなく事情を察した。

 そんなミレーユ助教授の顔を見ているニーナ教授は天使のような小悪魔な笑みを……。

 ――違う、あれは悪魔の笑みだ。

 その横顔はいつもと同じ天使のような笑みなのに、瞳の奥にいるのは、相手のことを把握し切れてない天然ボケ気味の小悪魔ではなく、こうなることをわかっていた様子のある、悪魔だ。

「それで、どうする? 全部報告する? このことも含めて、ね」

「くっ。な、何でもないわ。ワタシの気のせいだったようよ! ぐぐぐっ、憶えてらっしゃい!!」

 まるで三下悪役のような捨て台詞を残して、ミレーユ教授はジェットを吹かして凄い速度で飛んでいってしまった。

 絨毯に座り直したニーナ教授は、何事もなかったかのように花見と月見を再開した。

「つかぬことをお訊きしますが、なんで花見なんです?」

 さすがに黙っていられず、白玉ぜんざいのお椀を手にしたニーナ教授に、僕は遠回しな質問を投げかけてみる。

「一度桜と中秋の名月のコラボレーションというのを、見られるといいな、と思っていたのよ」

「……そうだったんですね。あとそれから、まったく関係ないことなんですが、あの実験室で研究していたのはどんなことだったんです?」

「遺伝子操作した昆虫の実験ね。精神物理学の応用して人の想いを込めた昆虫を植物に寄生させることで、望んだ結果を得られるかどうかの。ヘタをすると季節外れの花見をすることになったり、込める想い次第では周辺の植物を根絶やしかねないから、実験には慎重を期する必要があったのよね」

 天使のような笑みを浮かべて、この桜祭りは自分には関係ないように装っているニーナ教授だけど、たぶん偶然巻き込まれたんだろうミレーユ助教授のことも含めて、今回の件を誰が引き起こしたことなのかなんて、いまさら言うまでもない。

「もうひとつお訊きたいんですが、寄生するってことはたぶん植物の遺伝子操作を行うんですよね? 危険はないんですか?」

「大丈夫よ。操作するのはほんの一部で、生長に関わる部分だけのものだから。突然変異の可能性はあるから、その辺りの検証は充分にやらないといけないんだけどね。でも突然変異の確率的には極々低くて――」

 そこまで言ったニーナ教授が沈黙した。

 僕とニーナ教授の間にひらひらと舞い降りてきた桜の花びら。

 いや、薄ピンク色の蝶。

 桜に目を向けると、花びらのような蝶が、月を掠めるように何匹か飛んでいるのが見えた。

 どうするかなんて思うよりも先に、強く吹いた風が蝶を空に舞い上げ、すぐに見えなくなった。

 ニーナ教授を見てみると、驚いた顔をしていた彼女は、一度目をつむり、目を開けたときには、どこか遠くを見ていた。

「本当、いい夜ね」

 どうやら気にしないことにしたらしい。

 毎日が不思議が一杯の魔法町で、いまさらこんなことくらい気にする人はいないだろう。僕も気にしないことにする。

 花びらを舞い散らせる桜と、丸い大きな月と、足を崩して絨毯に片手を着き、緩やかな風に金糸の髪を揺らしてうっとりとしているニーナ教授がいれば、いまの僕には充分だ。

 小悪魔で、悪魔で、それでも天使なニーナ教授の側にいることを、僕は望んでいるから。

 

 

                           「花蝶風月」 了



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第二話「相思創AI」

ある日届いた手紙によって、ニーナはまるで恋する乙女のようになってしまう。プライベートに踏み込むのをためらう湯川だったが、絡んできたミレーユに手紙の内容を報告するように言われてしまう。
果たしてニーナに届いた手紙の内容とは? ニーナに恋人ができてしまうのか? 今回もニーナ・アインシュタインを軸に、巻き込まれた湯川がドタバタするお話!


 

 

   「相思創AI」

 

 

          * 1 *

 

 

「真空管ドールとロボットの違いはなんでしょう?」

 昨日掃除したばかりだというのに、もうスナック菓子の袋や飲みかけのペットボトルが散乱している実験室に入った途端、ニーナ教授からそんなことを訊かれた。

 たまたま通りがかった受付で持っていってと言われた郵便物を小脇に抱えた僕は、それを実験用の広いテーブルに置いて、ため息を吐く。

「真空管ドールは真空管とそれ用に造られたボディにより発現する、未解明なことの多いアナログ人工知能によって制御されていて、ロボットはプログラムを基本とするソフトウェアで構成されるデジタル人工知能で制御されている。その違いですか?」

「なんだ湯川君、知ってたの」

「そりゃあまぁ、精神物理学を専攻するなら、アナログ人工知能とデジタル人工知能の違いについては勉強しますしね」

 相変わらず静かな滝の如く流れる金糸のような髪を指でいじりながら、ニーナ教授は唇を尖らせてつまらなそうにしている。

 深緑のシャツにミニスカートを合わせ、ネクタイを締めてるニーナ教授はいつになくゴスロリ成分は少ないが、絶対領域が眩しいニーハイソックスにはしっかりレースがあしらわれている。

 椅子に座って脚を組んでるから、微妙なところで見えてしまっていて、目のやり場に困るが、誘ってるわけじゃない。

 ニーナ教授の場合、他の人からどう見られているかとか、世辞の言葉よりも、自分が綺麗か、可愛らしいかの方が重要らしい。みんなから見ても高評価な容姿と服装は、自分のためのものであって、どんな風に見られているかはよく理解してないようだった。

 そうしたちょっと天然な部分がトラブルの原因になったりもするけど、生来の性質なんだろうから、僕はわざわざ指摘したりはしない。

 それがニーナ・アイシュタインという、たった一六歳にして国立魔法大学の教授にして学長を担い、世界に天才として名を轟かせ、その評価に値する功績を残してきた女の子なのだから。

 一八歳で大学老院生となり、ニーナ教授の助手に抜擢されてからそろそろ八ヶ月。僕はそんな彼女とのつき合い方がわかってきていた。

「真空管ドールは精神物理学的にはかなり興味深いテーマだから、いろいろ実験してみたいとは思うんだけど、難しいのよねぇ」

「まぁ、仕方ないですね」

 真空管をロボットに取りつけるとなぜ人間とほぼ同等の精神が生まれるのかについてはわからないことだらけ。だけど発現することだけは確かだから、真空管ドールには人間ほどではないにしろ権利と義務がある。

 法律で守られてるそれらにより、真空管ドールは本人の意志を無視してロボットのように分解したりすることはできない。

 ニーナ教授と話しながら、僕は手早く手紙の仕分けをする。

 連絡手段としては電子メールも存在するが、地球以外の星との交流も行われてる現在、そうした電子的な手段はどんなに高性能なフィルタをかけてもスパムや勧誘なんかで埋まって、既知の相手以外のメールを拾い上げるのは簡単ではない。

 だから電子メールが一般的になって数百年も経ついまは、逆にアナログな手紙の方が有用だったりする。

 と言ってもやっぱり世界的にも名の通ったニーナ教授宛に送られてくる手紙の大半は、ほとんどが不要なものだ。たくさん届くダイレクトメールや怪しい団体からの勧誘を弾いたり、手紙を彼女に渡すべきものかどうかを判断するのは助手の役を任じられてる僕の仕事だ。

「アナログ人工知能のことを研究できれば、もっといろいろわかると思うんだけどね」

「逆にデジタル人工知能では、アナログ人工知能と同じ精神は獲得できないんですか?」

 ほぼゴミ箱行きだろう手紙の束を、念のためニーナ教授が見るかも知れないから廃棄予定のボックスに入れ終え、意味のある手紙を一通ずつ確認しながら、僕はそう問うてみる。

 話に食いついてきたのが嬉しいのか、妙ににこやかな笑顔を浮かべるニーナ教授。

「いろんな人の論文とか研究成果を見たことはあるし、自分でも実験したことはあるけど、いまのところは無理ね」

「そうなんですか? 町で見かけるロボットなんて、人間とほとんど見分けがつかないものが多いですけど」

 人間に似せてつくられたタイプのロボットは、本当に見分けがつかないものがけっこうある。

 肌の質感や髪、表情なんかは人間のそれと遜色はない。目はカメラアイだから判別つくようでいて、機械義眼を埋め込んだり多機能コンタクトレンズをつけてる人間もいて、ひと目でロボットと人間を判断するのは困難だ。

「確かに外見はほとんど変わりないわね。それを言ったらグレイ系宇宙人とか岩石系宇宙人なんて、地球人じゃ見分けつかないわよ、本人たちにとってはもの凄い違いがあるらしくて、ひと目でわかるらしいけど。それに行動とかも、成長型だったり、巨大データベースに接続して稼動するタイプのロボットは、反応も人間と違いを感じるのは難しいしね。でも、少なくともひとつ、人間やアナログ人工知能と、デジタル人工知能では決定的な違いがあるんだけど、何かわかる?」

「……なんでしょう?」

 外見的な違いは薄く、行動も人間や真空管ドールと違いを感じられないロボットとの決定的な違いは、僕には思いつけなかった。

 生まれ方だって、真空管ドールは工場で生産されてるわけで、部品は一部ロボットと共通してたりするから、人間と真空管ドールに対して、ロボットの決定的な違いにはなり得ない。

 さすがにわからない僕は、手紙の仕分けをする作業の手を止め、首を傾げてしまう。

 にんまりと笑うニーナ教授は、得意げに人差し指を立てて見せながら言う。

「それは、魔法が使えるかどうか」

「魔法、ですか」

「えぇ、そうよ。人間も真空管ドールも、魔法を使って、反重力ホウキで空を飛んだりできるけど、ロボットにはそれができない。ロボットには魔法は使えない。人間だって種族差や個人差で魔法力の強さはまちまちだけど、ゼロという人間はいない。空を飛んだりする方法は、別に魔法以外にもあるからそれほど困ることはないけどね。精神物理学において、魔法が使えるか否か、使える場合、使えない場合の原因やその理論はとても重要なのよ」

 そう言ってウィンクするニーナ教授に、思わず胸がキュンとしてしまうが、本人は無意識にやっているだけだろう。

「まぁそんなこんなで、真空管ドールについては調べてみたいんだけど、難しいわねぇ。真空管にアナログ人工知能を発現させる効果が発見された当時、いまでは考えられないほど凄い実験とかやってたみたいなんだけど、その頃の論文なんかはいま手に入らないのよねぇ」

「なんでまた、突然今日はそんな話を?」

「うん? ちょっとね。昔やってた研究の節目にあたる時期でね。ちょっとそんなことを思い出したの」

 一六歳とは思えないくらい大きく柔らかそうな胸の下で腕を組み、ニーナ教授はうなり声を上げる。

 機材の購入に使ってる業者からの重要と書かれた手紙を手元に置きつつ、どうやらニーナ教授個人宛らしい、横開きの薄い緑色をした封筒を差し出す。

「あ! 今日か明日届く予定だった機材、入荷の遅れで来週になるそうですよ。こういうのは電話か直接営業の人が来てくれないと……。実験遅れちゃうのに」

 納期遅延の連絡を手紙で送ってくる業者に後で文句をつけようと思いつつ、僕はゆっくりと顔を上げる。

 けっこう適当だったり遊んでたり、実験室だろうと構わず散らかしたりするニーナ教授だけど、研究に対してはいつも真摯だ。機材の納期遅延で実験が遅れるなんてことになったら、すねたり文句を零したりかも知れない。

 そう思って恐る恐るニーナ教授の顔色を窺ってみると、なんだか惚けた顔をしていた。

 僕が渡した手紙の、おそらく裏書きを見て、口を半開きにしながら、驚いてるのか目を見開いてる。

「教授?」

「あ、うん。納期遅延ね。わかったわ。じゃあ実験は来週以降ね」

 手紙に目を向けたまま、ニーナ教授は顔を上げすらしない。

 僕の話は聞いていたようだけど、その声は僕に向けられているような感じはしない。

 宛名しか見てなかったから誰からの手紙かはわからないし、いまの僕の位置から差出人は見えない。

「じゃあ今日はもうやることないわね。今日はいいわよ。機材が届いたら知らせて頂戴」

「あ、いえ。明日また掃除するんで、来ますけど」

「あぁ、うん。そう。それはお願いね」

 上滑りだったニーナ教授の声音に、徐々に色がついてくる。

 呆然としていた顔にも、抑えてるようだけど笑みが零れてきていた。

 ――そんなに嬉しい人からの手紙だったんだろうか。

 そんなことを思っても、教授のプライベートにまでは踏み込むわけにはいかない。

 気になるけど、時間ができたことはいいことだ。

 手伝いをしてるニーナ教授の実験の他に、僕にも僕が決めてやっている研究がある。それを続けるために大学老院にまで入ったんだし。

「じゃあまた明日」

「はい。ニーナ教授。お疲れ様です」

 まだ手紙に釘付けになったままのニーナ教授を残し、僕は後ろ髪引かれながらも実験室を後にした。

 

 

          * 2 *

 

 

 ――これは明らかにおかしいよな。

 僕の前に座っているのは、ニコニコと笑うニーナ教授。

 機嫌のいいときはこんな感じではあるんだけど、今日の笑顔は格別だ。まるで顔が光を放っているような満面の笑みを浮かべている。

 注文した食事が来るのを待ちながら、僕はこっちを見ているようで見ていないニーナ教授の顔を見つめて、考え込んでしまっていた。

 僕たちがいるのは国立魔法科学大学の中にある食事処のひとつ。

 テラス席や中二階席があって、オープンスペースなのに観葉植物なんかによってすぐ隣の席との間が区切られていたりと、内装はかなりオシャレだ。

 軽食や喫茶がメインだけど、学内食堂だけあって丼物からラーメンまでメニューも豊富で美味しい。ただし内装と味の分だけちょっとお高い値段設定なので、昼時のいまも満席と言うほどには埋まっていない。

 他にも学内にはもっとリーズナブルだったり量が多い店があるから、この店は教授や外から来た人なんかによく利用されていた。

 けっこう苦学生である僕が今日、この店に来たのは、ニーナ教授に誘われたから。

 それも奢ってくれると言う。

 意外と出不精で、お昼はお菓子や出前で済ませてしまうことも少なくないニーナ教授は、お金関係にはきっちりしてる方で、基本は割り勘だ。

 教授とは言え年下の女の子に奢ってもらう気はあんまり起きないので、それ自体は気にしたことなかったけど、今日は珍しく奢るから着いてこいと言われて、思わず頷いてしまっていた。

 機嫌の良さが半端ない証拠だろうけど、何かがおかしい。

 ――昨日は逆だったしな。

 昨日のニーナ教授は、今日のテンションの高さとは逆で、憂鬱そうにため息を漏らしてばかりいた。

 今日と昨日で違い過ぎるテンションは、おかしいと気づくに充分なものだった。

 ――あの手紙が届いてからだよな。

 一昨日、手紙が届くまではそれ以前のニーナ教授のままだったから、いまの様子はあの手紙が原因であることは明らかだ。

 でも内容はもちろん、差出人も見ていない手紙がどんなものであったのかは、僕にはわからない。

「お待たせいたしました」

「ありがとう。さぁ、湯川君も食べて食べて」

 運ばれてきたのは思ったよりボリュームのあるカルボナーラとたらこスポゲティ。ニコニコと笑いながらニーナ教授は自分用の小皿にカルボナーラを盛りつけて、食べ始める。僕も「いただきます」と声をかけてから、たらこスパゲティを小皿に移して食べ始めた。

 味はかなりいいんだけど、あんまり食べた気にならずに流し込んで、僕は食後のコーヒーを飲み干す。

「えっと、じゃあ、ありがとうございました」

「うん。また後で」

 気色が悪いくらい機嫌のいいニーナ教授を残して、僕は席を立つ。

 笑いながらもこっそり教授の手が上着のサイドポケットに伸ばされているのは、そこに例の手紙が入っているから。

 嬉しいのか憂鬱なのかもわからない手紙を、ニーナ教授は肌身離さず持ち歩いていた。

「うわっ、と! すみません」

 ニーナ教授のことが気になりながらも、食堂から実験室に向かおうと建物内に続く出口を潜ろうとしたとき、人にぶつかってしまった。

「あぁ、うん、いいのよ……。って、あれ? 湯島君、だっけ?」

「湯川です」

 軽く肩が当たっただけなのによろめいて、僕にしがみついて身体を支えてるの女性は、ミレーユ・シュレディンガー。

 若くして生物工学の助教授をしている彼女は、国立魔法科学大学の中でも次に教授になるだろう、と目されている人物だ。

 教授になれていない理由のひとつに施設の不足が上げられていて、ニーナ教授が実験の内容に応じて複数の実験室を校内で占有しているため、何かと食ってかかってくることのある女性だった。

 ――教授になれない理由は施設の不足だけじゃない気もするけど。

 ついこの前起こった事件のことを考えると、施設の不足以外に教授になれない理由が彼女自身にありそうな気がするけど、それは口にしないのが利口というものだろう。

 ニーナ教授とは違うけど、ミレーユ助教授も今日はなんかおかしい。

 ただこちらは見た目でわかりやすいおかしさだ。

 飾り気の多い濃紺の、スカートの裾がふくらはぎまで覆うワンピースを着、荒々しく膝裏まで流れ落ちる滝のような、ウェーブがきつめのブラウンの髪は、今日はいろんなところで跳ねて凄いことになっている。

 いつもなら人を小馬鹿にしたような高飛車な態度のことが多いのに、テンションは昨日のニーナ教授並みに低く、それを表すかのように目の下には歌舞伎役者かと思うほどくっきりとした隈ができていた。

 たぶん極度の寝不足だ。

 ニーナ教授はニーナ教授で胸はもちろん身体のすべてが女の子らしく柔らかいけど、美しさと同時に可愛らしさが強い。

 一九歳でニーナ教授とは三歳しか違わないのに大人びた魅力を漂わせ、ニーナ教授以上の胸を押しつけるようにしがみついてきてるミレーユ教授に、僕はどうしていいのかわからず動くことができない。

「どうしたの? 湯島、じゃなくて湯川君。浮かない顔して。何かあった?」

「え? 僕がですか?」

 確かにいまはニーナ教授のことが気になっていたけど、ひと目で見破られるほどとは思っていなかった。

 というか顔だけなら僕よりミレーユ助教授の方が酷そうだ。

「悩み事なら聞いてあげるから、ちょっとつき合いなさい!」

「いや、僕は、ちょっとっ」

 いきなりテンションが上がったミレーユ助教授は、僕の腕を引っ張っていく。

 食堂から出ようとしていたのに、僕は抵抗しきれずに逆戻りすることになってしまった。

 

 

          *

 

 

 食前のオレンジジュースをストローですするミレーユ助教授は、顔を顰めながら呟く。

「ニーナ教授がおかしい、ねぇ……」

 彼女がちらりと走らせた視線の先には、紅茶を飲みながらいままで開いていた手紙をポケットに仕舞うニーナ教授。

 わざと狙ったわけではないだろうけど、入り口から少し入った奥まった場所にあるこの席は、ニーナ教授からは少し離れていて、気づかれた様子はない。観葉植物も置いてあるから、いまの様子ではこちらに気づくことはないだろう。

 席に着いたミレーユ助教授はウェイトレスを呼びつけて、ニーナ教授ほどでないにしろほっそりとした身体のどこに入るのか疑問を覚える量の注文をした後、僕に何があったのか問うてきた。

「いつも割とおかしいと思うけど」

「いや、そうかも知れませんけど、いまはそうじゃなくって……」

「少しはまともになったとか?」

「それも違って……。それよりも、ミレーユ助教授こそその隈、どうしたんですか?」

 ずいぶん失礼な言葉を口にする口調や表情こそいつもとそんなに変わりないが、目の下の隈はそのままだ。

 ニーナ教授と同じように、ミレーユ助教授もけっこうな研究狂いで知られてる。たぶんその手の理由だろうとは推測ついていたけど、気になるので訊いてみた。

「急ぎの依頼があって、十日ほど実験室に籠もってたのよ。まったく、まともに寝られやしなかったし、外に出ることもできなかったわ。これが十日振りのまともな食事なのよ。そんなことより、ニーナ教授よ」

 詳細はわからなくても手紙が原因なのはわかってる。

 おそらくプライベートなことだろうから、あんまり他の人に話すべきじゃないと思ったけど、話を逸らすのには失敗していた。

「一昨日から様子がおかしいんですよ。憂鬱にしてたり、機嫌が良かったり。手紙を見てばっかりで何も手に着かないみたいだし」

「へぇ。なるほどねぇ」

 面白い物を見つけたように嫌な笑みを見せたミレーユ助教授は席を立つ。

「あ、料理は食べちゃダメだからね! ワタシが全部食べるんだからっ」

「僕はもう食べましたから」

「絶対よ!」

 頬を膨らませてそう言い残した彼女は、するするとテーブルの間を縫ってニーナ教授の前に立つ。

 止めるべきだったのかも知れないけど、いまさら間に合わない。

 僕が話したことがバレないよう、観葉植物の影に身体を隠して、葉っぱの間から助けが必要な状況にならないかどうか見ていることしかできない。

 いつもだったら険悪なやりとりをするのが常なのに、注文した料理が僕の前に次々と運ばれてくる間に、ふたりはなんだか仲良さそうに話をしている。

「ねぇ! 聞いて聞いて!! 研究室ひとつ空けてワタシに譲ってくれるって!」

 満面の笑みを浮かべて戻ってきたミレーユ助教授がそんなことを言う。

 ニーナ教授の方を見てみると、すでにミレーユ助教授のことなんて気にしてる様子もなく、頬杖をついてうっとりとした表情を浮かべてる。

「……たぶん憶えてないと思いますよ、何を話したかなんて。一昨日からそんな感じでしたから」

「そうでしょうね。湯川君の言う通り、おかしくなってるわね」

 寝不足でハイテンションになってても、さすがにニーナ教授のおかしさには気づいてくれたらしい。

 キノコとベーコン入りのペペロンチーノにスペアリブ、担々麺に加え大盛り五目チャーハンが並んだテーブルに着き、ミレーユ助教授は食事を開始した。

 フォークとナイフとスプーンを駆使して上品に料理を口に運ぶミレーユ助教授は、でも恐ろしいペースで皿から食事を消していく。

「ニーナ教授は、恋をしてるわね」

 大食いの人が見せる豪快な食べっぷりとはまた違う、魔法を見てるような速度ながら優雅な動きで食事を摂り終え、ナプキンで柔らかそうな唇を拭ったミレーユ助教授は、そう言った。

「……そうでしょうか?」

「えぇ、そうよ。気分が浮ついたり沈んだり、人の話を右から左に素通りしたりって、典型的な恋の症状でしょう?」

「それはまぁ、そうなんですが」

 得意げに話すミレーユ助教授に、僕は首を傾げることしかできない。

 ニーナ教授の人気は大学の中と言わず外と言わず高いが、こと恋愛になると微妙になる。

 尊敬や羨望、その裏返しである嫉妬の感情を向けられることは多い。けれど思慕となると、少なくとも僕が助手になってからは数回、微妙なのがあった程度だ。

 元々人づき合いがそんなに得意でないこともあってか、恋愛よりも研究や趣味の方に気を取られてるからか、ニーナ教授自身から誰かを好きになったりつき合ったりという話もとくに聞いたことがない。

 教授として、仕事として、友達として男の人とのつき合いはあるけど、恋愛関係で男の影を感じたことは、一度もなかった。

 むしろけっこうあからさまな言葉を向けられても、ニーナ教授が気づかなくてスルーしてしまって、勝手に相手が玉砕するという場面が過去にあったくらいだ。

 ――過去の武勇伝も関係してるんだろうけど。

 ニーナ教授は過去に実力行使で自分の女にしようとした男の人に、実力行使の返事をしたことがある。

 それ以来、彼女にストレートな告白をする人はいなくなったらしい。

「ニーナ教授はけっこう恋愛音痴っぽいんですよね」

「わかったようなこと言ってるけど、湯川君はどうなのよ。恋愛経験あるって言うの?」

「僕は一応、地元にいたときは彼女いましたよ。こっちに来るときに別れましたけど」

「……そうなの?」

 僕の返事に意外そうな顔をするミレーユ助教授。

 ずいぶん失礼なことを考えてそうな気がするけど、確かにいまの僕は研究の方が楽しくて、女の子と遊ぼうという気にならないのは確かだ。

 相対的に格好も助手として失礼にならない程度にはしてるけど、オシャレに気を遣ってるほどというほどではない。女の子に声をかけられるようなことも大学に入ってからはないくらいに。

 ニーナ教授という比較対象が側にいるから、こちらから声をかけようと思える女の子がいないというのもあるかも知れない。

「地元では頭がいいってことでそこそこ有名だったんで、それなりにモテてましたからね。まぁ、こっちに来るのが決まった時点で振られましたけど」

 割と早い段階で気づいてたことだったけど、その頃つき合ってた子はあんまりいい彼女ではなかったらしい。

 気になって大学に入ってから地元の友達に聞いてみたら、僕が彼氏であることを自慢して回ってたそうで、連絡した頃にはもう新しい彼氏とつき合ってるということだった。

 僕も決して恋愛経験が豊富というわけではない。

 でもなんか、いまのニーナ教授の様子は、確かに恋愛感情のような気がするんだけど、どこか少しズレがあるような気もしていた。

 口元に手を寄せて驚いた顔をしてるミレーユ助教授に、せっかく訊かれたのだからと僕も訊いてみることにする。

「そういうミレーユ助教授はどうなんですか? 恋愛経験豊富なんですか?」

「え? それは……、その、ね――」

 ニーナ教授ほどではないにしろ、ミレーユ助教授だって校内で人気があって、一九歳で助教授になるほどの天才。

 ニーナ教授に比べると大人びた雰囲気と顔立ち、胸の大きさに勝るプロポーションは、女性としての魅力は充分過ぎるほどだ。

「ワタシにはほら、つき合うに足る男がいないというか、ワタシが好きになるほど魅力的な男がいないというか――」

「……はははっ。そうですか」

 思わず僕は乾いた笑いを返していた。

 突っ込まれて長いウェーブの髪を振り乱しながら慌ててるミレーユ助教授は、高慢だったり大人びていたりするいつもと違って、ちょっと可愛らしい。

 恥ずかしそうに顔を赤くして軽く握った拳を唇に当て、そっぽを向いてるミレーユ助教授にも、彼氏がいたことがあるって話は聞いたことがない。

 ニーナ教授と同じく研究莫迦で、ニーナ教授以上に変人入ってるミレーユ助教授のことを、恋愛対象としては避けてるという人が多いなんて話を聞いたことがあった。

「そ、そんなことよりよ! そのニーナ教授に届いた手紙の内容見て報告してちょうだい」

「……なんで僕がそんなことしなくちゃならないんですか」

 咳払いをして食後のコーヒーを一気飲みした後にミレーユ助教授が放った言葉に、僕は呆れながら返事をしてしまう。

 もしあの手紙がニーナ教授の想い人から届いたものだったとしても、それを覗き見る権利は僕にはない。

 ましてやそれをミレーユ助教授に報告する義務なんてない。

 口元に笑みを浮かべ、いつもの人を見下すような視線を向けてきたミレーユ助教授は言う。

「それだったら貴方、生物工学部に来なさい。ニーナ教授のところより優遇するわよ?」

「さすがに分野が違い過ぎて、いまさら無理ですよ。それにいまの待遇には満足していますし」

「ちっ」

 いつも上品に振る舞ってる彼女にしては下品に舌打ちし、顔を歪める。

 僕が専攻してる精神物理学とミレーユ助教授が専攻する生物工学は同じ理学部だけど、方向性はかなり違う。

 魔法や超能力を扱う精神物理学は、広い視野で見れば生物工学とかなり被っている部分もあるけど、僕は魔法の使い方について主に研究してるから、ミレーユ助教授のやってることと重なってる部分がほとんどない。

「でも、その手紙に興味はあるでしょう?」

「うっ」

 復活して口元に笑みを浮かべて言うミレーユ助教授に、僕は反論できない。

 恋愛なのかどうかはともかくとしても、いまのおかしなニーナ教授の様子は心配でもあるし、その原因が気になってもいた。

「これ、ワタシの連絡先と自宅の住所よ。三日ほど休みの予定だから、覗き見ることできたら知らせに来て頂戴」

 名刺を僕の胸ポケットに突っ込み、ミレーユ助教授は注文伝票を手に取って席を立つ。

「あっ……」

 その気はない、と言う暇も与えず、さっさと会計を済ませて出て行ってしまった。

「……どうしよう」

 残された僕は、顎に手を当てて考え込んでしまう。

 手紙を見る権利も、ミレーユ助教授に報告する義務もない。

 でも気になってるのは確かだし、心配でもある。

 観葉植物の影からちらっとニーナ教授の方を見てみると、うっとりとした顔で、またポケットから取り出した手紙を眺めていた。

 ――このままじゃいけないのも、確かだしな。

 積極的に覗こうとは思わないけど、見る機会があったら、と考えてる僕は、大きくため息を吐いていた。

 

 

          * 3 *

 

 

「うぅーん」

 腕を組みながら歩く僕は悩んでいた。

 昨日ミレーユ助教授から手紙を盗み見るように言われてしまったわけだが、ニーナ教授のプライベートに触れていいかどうかは判断がつかなかった。

 心配でもあり、気にもなっていて、でもやはり個人的なことに踏み込んでいい立場にあるわけじゃない。助手という比較的彼女に近い立場にあると言っても、引くべき線はあるように思えていた。

 まだ朝早い時間、週明けには注文していた実験機材が来て実験が再開できることを考えて、僕はまだ学生の姿もない廊下を、ニーナ教授が使っている実験室に向かっていた。

「おはようございます」

 いつもよりも早い時間なのにすでに鍵がかかっていないことを確認して、僕はそう声をかけながら扉を開けた。

「……教授?」

 声をかけても反応のないニーナ教授は、部屋の真ん中の広い実験用のテーブルとは別に、壁沿いに置いてある机に突っ伏してる。

 近づいてみると、寝息を立てているのが聞こえてきた。

 何時からいたのかわからないけれど、机の上にも側の床にも、スナック菓子の袋なんかが散らばっていて、空いたペットボトルなんかが散乱してる。

 お菓子が好きでよく食べてるニーナ教授だけど、ここのところ本当に量が増えてる気がする。口寂しいのかも知れない。

 長い睫毛をしたまぶたは安らかに閉じられていて、一六歳の女の子らしいあどけない寝顔を見せていた。

 いつにも増して綺麗に梳かれた金色の髪が顔にかかっていて、ただ眠っているだけなのに、まるで一服の絵のように美しい。

 形のいい胸は机に押しつけられて、その柔らかさを目に見える形で表している。

 実験室に関係のない人が入ってくることはほとんどないとは言え、女の子がこんな無防備に眠っているなんていくらなんでも不用心すぎる。

「いたずらでもされたらどうするつもりなんだ」

 ふつふつといつもニーナ教授に向けているのとは違う感情が湧き上がってきて、押さえることができそうにない。

 僕は半分無意識に、ニーナ教授の顔に手を伸ばしていた。

「ん?」

 顔に触れそうなところまで近づいて、僕は気がついた。

 例の手紙が、机の上に置いてある。

 見てはいけないと思いつつも、僕は手紙に目を向けずにはいられない。手に持っていた極太マジックにキャップをしてポケットに収めながら、横開きのシンプルな封筒に注目してしまう。

 便せんも開かれたまま封筒から出され、ニーナ教授の手が置かれているていても、二枚あるそれの内容は見ることができた。

「……なんだ? これ」

 ダメだと思っていても見てしまった手紙の内容に、僕は眉を顰めていた。

 書かれていたのは数字やアルファベット、記号といったものの組み合わせ。

 薄い罫線に沿って書かれたそれは手紙の文面のように思えるけど、僕には全く内容がわからなかった。

「何かの暗号? いや、でも……」

 無意味な文字列ではなく、なんとなく法則性があるのはわかるから、たぶん何かの文章だ。

 でも暗号とは違うような気がする。あくまで勘だけど、この数字とアルファベットと記号の組み合わせで、文章が出来上がってるように思える。

 強いて近いものが上げるなら、プログラムのコードに似ているかも知れない。かといってプログラムコードほどの明確な記述法があるものとも違う。

 プログラムコードに近い言語で書かれた散文、まさに文章といった風体のものだった。

 ただ一ヶ所だけ、僕にもわかることが書かれていた。

 ――これは、時間と場所、だよな。

 場所については座標で書かれているから調べてみないとわからないけど、時間についてはひと目でわかる。明日の午後だ。

「本当にこれは、いったい何なんだ?」

 恋する乙女のようになったニーナ教授。

 その原因となった内容不明の手紙。

 そして送り主から指定された日時と場所。

 心配や気がかりとは別に、僕はいま起こっていることに、不安を覚え始めていた。

 

 

          *

 

 

 スカイプラチナタウンの町並みを、最高速度は音速を超えられるダブルサイクロンホウキに乗って、僕はできるだけ気を遣って慎重に飛ぶ。

 超高級住宅街であるここは、国立魔法科学大学周辺の積層構造物がそそり立つ町並みと違って、閑静な住宅街だ。

 空路は一直線に伸び、空に浮かぶ建物はすべて一軒家。庭園プレートに綺麗な庭をつくってる家も多く、一軒一軒が上下左右充分な距離があり、建て売りの高級住宅街とも違い、左右の家の区画は接続されず小道になっていて、家の形はそれぞれに違う。

 こんなに空間を贅沢に使っているのは本当に上流階級の人たちが住んでる家だけで、とてつもなく贅沢なことだ。

 ホウキに乗ってすれ違う人たちも明らかに貧乏学生の僕とは違う人種で、場違いさに緊張してしまう。

 でもこの町の中に、僕の目的の場所がある。

「えぇっと、ここだな」

 過去最低だったんじゃないかと思うほどの低速安全運転でホウキを操ってたどり着いたのは、この町の中では比較的小さな家の前。

 それでも前庭は綺麗に調えられていて、建物は僕が住んでるぼろアパート一棟分のモジュールよりも大きいかも知れないほどだ。

 魔法町じゃ見るのも珍しい門の前に降り立ち、僕は呼び鈴を鳴らした。

「――ようこそいらっしゃいました。湯川様、でいらっしゃいますね?」

 比較的狭いと言っても軽くボール遊びくらいできそうな前庭の向こうの建物から顔を見せたのは、にこやかな笑顔を浮かべた女性。

 いや、門の前までやってきた彼女の目は、カメラアイ。

 清楚な黒いワンピースに胸までを覆う白いエプロンを身につけた彼女は、おそらくロボットメイドだ。

「あ、はい。ミレーユ――、シュレディンガー助教授はいらっしゃいますか?」

「――在宅しております。湯川様がいらっしゃいましたら通すよう言いつかっておりますので、どうぞ」

 プログラムされているんだろうけど、ずいぶん丁寧な対応で門を開けてくれたロボットメイドの後を着いていく。

 ――このロボットメイドは、デジタル人工知能で動いてるんだよな。

 目の前で揺れているポニーテールの髪を見ながら、僕は少し前にニーナ教授とした話を思い出す。

 表情も口調にも違和感はないけれど、どこかつくりもの染みた感じのするロボットメイドは、人間や真空管ドールと違い、デジタル人工知能で稼働している。

 人間の精神や真空管ドールのアナログ人工知能と、ロボットのデジタル人工知能の違いは魂があるかどうか、なんて議論もあるようだが、あまりはっきりしたことはわかっていない。

 真空管ドールもまた工場で生産されるロボットであることには変わりないから、その違いは魔法が使えるか否かの差以外には詳しいことはわかっていなかった。

 案内されて玄関から家の中に入った僕は、思わずぽっかりと口を開けてしまっていた。

 ――お金持ちだって噂は、本当だったんだな。

 ミレーユ助教授の家はもの凄いお金持ちだって話は聞いたことあった。それは嘘でも冗談でもなかったらしい。

 こんな高級住宅街に住んでいるのもそうだけど、綺麗な家の内装も、かなり高級そうだった。それも彼女はここにひとりで暮らしてるという話だったはずだ。

「――こちらです」

 案内してもらった二階の一室。

 ロボットメイドの微笑みに促されて、僕は樫か何かの分厚い扉のノブに手をかけて中に入る。

「――お嬢様。湯川様をお連れしました」

 この部屋だけで僕のぼろアパート一室の三倍の床面積はありそうなそこは、どうやら寝室だったらしい。

 足が沈み込む感触のある絨毯の上、部屋の真ん中に置かれた天蓋つきのベッドでもぞもぞと動いて起き上がったのは、ミレーユ助教授。

「ん……。湯川君?」

「うぉ!」

 乱れ放題の髪で、まだ目を閉じて眠そうな顔をしてるミレーユ助教授が来ているドレスのようなネグリジェは、肌が見えるほど透けていた。

「え? やっ。あの、僕は――」

「よく来たわね。ふわぁーっ」

 大きな欠伸をしてベッドから下りた彼女は、一昨日あった目の下の隈もすっかりなくなり、目のやり場に困ってそっぽを向くことしかできない僕に微笑む。

「少し待っていて頂戴。すぐに着替えるから」

「あ、はい。わかりました……」

 見ているこっちが恥ずかしいのに、当の本人は少しも恥ずかしがってる様子がない。

 上流階級の人はプライベートの場所では肌を晒すことをあまり恥ずかしがらないらしいという話を聞いたことがあるけど、ミレーユ助教授もそうなのかも知れない。

 もちろんそれなりの相手に対しては羞恥心を感じるものみたいだけど、僕のようなただの学生程度にあられもない姿を見られるのは気にならないなんだろう。

 ロボットメイドに促されるよりも先に部屋を出て、僕はひと息吐いた。

 客間に通してもらい、淹れてもらった美味しいコーヒーをすすっていると、ずいぶん時間が経ってからロボットメイドとともに、シャワーでも浴びてきたらしいさっぱりしたミレーユ助教授が入ってきた。

「お待たせしたわね、湯川君。ふわぁ、ふわぁーーっ」

 まだ眠たいらしく、手を添えてはいるけれど大欠伸をする彼女。

 大学内で見る姿と違って、助教授らしさも品のある雰囲気もあまり感じないいまの様子が、もしかしたら本来の、一九歳の女の子であるミレーユ助教授の姿なのかも知れない。

「いったいいつから寝ていたんですか」

「帰ってからずっとよ。一昨日貴方と別れて家に帰ってから、ずっと」

「……よく寝ますね」

「そりゃあ十日も籠もっててまともに眠れないで過ごしていればね。聞いてよ、湯川君!」

 思わずしてしまった質問に食いついてきたミレーユ助教授。

 僕と同じくロボットメイドからコーヒーをカップに注いでもらった彼女は、身を乗り出すようにして話を始める。

「十日前、もう十二日前ね。超特急って依頼が入ったのよ」

「依頼、ですか?」

「そうよ。大学だから主にやってるのは研究だけど、企業から調査の依頼や、場合によっては個人からの依頼も入ることがあるのよ。うちはけっこう外部にも知られてるところだし、手広くいろんなことやってるものだから、そういう依頼もあったりするの。その依頼、いったいどんなものだったと思う?」

「いや、さすがにわからないですけど」

 精神物理学専攻の僕は生物工学の方面については詳しくない。表に出てくる成果くらいはチェックしてるけど、日夜どんなことやってるかまでは確認したことはなかった。

 それにミレーユ助教授は大学内でも有名だけど、彼女自身がどんなことをやってるかまでは、同じ校内のことであっても、秘密にすべきこともあるだろうから、耳にしたことはない。

「成人男性の身体の生成よ」

「……それって、大丈夫なんですか? 法律とか、そういうのは」

「問題ないわよ。人工クローンはとくに違法ではないし、内臓や欠損四肢の補填のために医療の現場では広く使われているもの。全身のクローンをつくることも、実験目的などでつくられるものもけっこうあるのよ」

「そんなもんなんですか」

 言われてみれば、確かに治療方法として疾患のある内臓をクローン生成したものに取り替えたり、失った四肢をクローン生成で再生させるようなものは、けっこう使われていることを思い出す。

 歴史の授業で習ったのでは、昔は人工クローンについては倫理問題でずいぶん紛糾したようだけど、いまの技術ではごく一般的なものだし、宇宙に出てしまえば地球の中の倫理なんて大きな問題になるようなことでもない。

 新しいコーヒーを注いだカップを片手に、得意げな笑みを見せるミレーユ助教授は話を続ける。

「でも宇宙には自然生殖の原則があるのは知ってるでしょう?」

「えぇ。でもあれは法律ではないのですか?」

「違うわよ。法律に近い形で扱われてはいるけれど、罰則があるようなものではないし、明確にクローンの生成について禁止した法律は存在しないわ。ただ、あの原則がある限り、人工クローンによる生殖活動は行われることはないでしょうね」

 自然生殖の原則は、割と宇宙では守られているものだ。

 この宇宙には自家クローンによって増殖する人間もいるし、そもそも生殖活動を行わない生物すらいて、古くから生成槽を使って子供をつくるのが普通の星もある。

 凄いのになると超長寿命で、自己進化して一個体一種族なんてのまでいる。そうした生物でも他の個体と交わって、恐ろしく低い頻度で進化の素体となる子供を生成していたりする。

 宇宙の広さは飛んでもない。

「禁止はされていないけれど、全身の人工クローンは犯罪に使われる可能性も高いものだから、監視は厳しいのよね。ちゃんとした理由とはっきりした身元があれば問題になることはないわ」

「そんな面倒な依頼をどうして受けたんですか?」

「仕方なかったのよ。ワタシがお世話になった恩師の教授の姪に当たる人からの依頼でね。断るわけにはいかなかったの。うちの教授は面倒臭がってどこかに逃げちゃうし。センサーの邪魔にしかならないから、実験用の全身クローンなら絶対つけないけど、髪の長さもこれ以上とか、筋肉量は充分にとかっていろいろ細かく指定されてて、繊細な作業と頻繁に監視が必要だったから、学生に任せられるような仕事でもなかったのよ。結局ワタシがほとんどひとりでやることになったの」

「それで十日間も泊まり込みですか」

「そっ。本当大変だったわよ……」

 そう言って大きなため息を漏らすミレーユ教授。

 あんなにくっきり隈が出るほどだったのだから、その苦労はだいたいわかるというものだった。

 今日の用事とは関係のない話だったけど、だんだんと興味が出てきて、僕は思わず訊いてしまう。

「それで、そんな全身クローンなんてつくって、何に使うって言うんです? まさか、身体を入れ換えて延命、とか?」

「さぁ? そこまでは聞いてないけど、実験目的らしいわよ? それにやっぱり禁止はされていないけれど、全身クローンへの身体交換は受ける医療関係者はまずいないわよ」

「そうなんですか?」

 髪や筋肉にまで気を使って生成される成人男性の全身クローンの使用目的なんて、僕には身体の交換しての延命くらいしか思いつかなかった。

 あっさりそれを否定するミレーユ助教授は、三杯目のコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて、ひと口すするようにして飲む。

「身体交換はある意味究極の延命手段だけど、難易度が高すぎるのよ。いまの技術を以てしてもね」

「へぇ」

「実験だけなら以前から行われてて、手段は主にふたつ。ひとつは古い身体から新しい身体に脳を物理的に移植する方法。移植手術自体は可能なのだけれどね、どうしても上手くいかないのよ」

「どういうところがです?」

「老いた古い身体と、若い新しい身体では、他人の身体ではないから違和感はそれほど大きくないはずだけど、その小さな違和感が精神に影響して、ほぼ全員が病んでしまったの」

「なんでまた。四肢とかだと大丈夫ですよね? 身体の一部を機械化してる人もいるのに。それに比べればまだ違和感少ないから、大丈夫なものなんじゃないですか?」

「そこは難しいところでね。大きな違和感はそのうちその違和感を含めて自分の身体の一部と認められるようになるものなんだけど、小さな違和感がずっと長く続くというのは堪えられないものみたいでね」

「なんででしょう?」

「詳しいところはまだわかっていないけれど、強い痛みは何度も受けていると覚悟ができると言うか、そのうち我慢できるようになるものなの。でも小さな痒みは我慢できない、というのに近いらしいわね」

「なるほど。確かに痒みって我慢できませんよね……」

 本当にその通りなのかどうかはわからないけど、痛みより痒みが堪えられないというのは何となく納得できた。痒みは長く続くと気が狂う人がいるくらい堪えがたいものだと聞いたことがある。

「もうひとつの方法とは?」

「もうひとつは、脳情報の転写よ」

 さっきまでの眠かった様子もなく、話してる間に瞳に楽しそうな光りを宿したミレーユ教授。

「記憶の、ですか?」

「いいえ、違うわ。脳は記憶だけでは機能しない。脳神経同士の接続構造によって思考も変化するの。脳情報を転写する場合は、脳のそうした神経接続網をすべて記録して、新しい身体の脳に時間をかけて転写、というか再構成するものなんだけど、再現率が九〇から九五パーセントくらいなのよ」

「それじゃあ足りないんですか?」

「全然。脳神経の接続が二パーセントも変われば、人は別人ってくらい性格や能力が変わってしまうのよ。最低でも九九パーセントを超えないと実用とは言えないわ。それに延命に使うとなると、何世代か脳情報の転写で延命し続けることも視野に入れないといけないけれど、第一世代の段階で別人を生み出すことになってしまうからね。最小でも五パーセントも不足するのでは、まともな病院ではよほどそれ以外に方法がない場合を除けば受けないわね。闇医者とかなら別でしょうけれど。だからいま延命のトレンドは、身体の機械化や薬を使った外部手段、人間由来の強化細胞の移植とかDNA改造辺りね」

 生物工学の助教授だけあって、生物に関する話となるとミレーユ助教授は饒舌になるらしい。

「それじゃあ本当に、何のためにそんな細かい指定の全身クローンの生成なんて依頼してきたんでしょう?」

「さぁね。こちらとしては犯罪利用の可能性が出てくるようなものでなければ問題はないわ。フルカスタムDNAの成体クローンだから、その手の可能性は低いでしょうし。直接でないにしろ、恩師に恩返しもできたしね」

「そんなもんですか」

「そういうものよ」

 意外とそういうところはドライなんだな、と思いながら、僕は温くなってきたコーヒーを飲み干した。

「それで、今日の用事は、例の件じゃないの?」

「あっ。そうです。例の手紙の件なんですが……。って、もうこんな時間? えぇっと、ニーナ教授が待ち合わせの時間がもうすぐなんです。細かい話は行く間に話しますから、ちょっと来てもらってもいいですか?」

「えぇ、もちろん行くわ。ニーナ教授の男関係が見られるんだもの、行くしかないわよ」

 尻尾と羽根でも生えてきそうな暗く意地悪な笑みを見せるミレーユ助教授に、僕はちょっと後悔する。

 でも今日のことは僕ひとりではわからなすぎて、「スキャンダルよ、スキャンダル!」と声を弾ませてるミレーユ助教授とともに、反重力ホウキを持って外に出た。

 

 

          * 4 *

 

 

 調べてわかった手紙で指定された座標は、大学内の食堂だった。一昨日昼食を摂った場所。

 秘密の話でもするだろうに大丈夫なんだろうかと思うけど、一年中二十四時間出入りが可能な国立魔法科学大学と言えど、週末と深夜は人が減る。

 週末の今日、昼食時からも外れたこの時間に食堂にいたのは、早々に食事を摂ってさっき出ていってしまった学生と、ニーナ教授、そして僕たちだけだった。

 先に来ていて外に面した、直接ホウキで乗りつけられるテラス近くの席に、緊張した面持ちのニーナ教授が座っている。

 指定の時間にはまだ少し余裕があり、どうやら待ち合わせの人はまだ来ていないらしい。

 そこから少し離れた、教授からは見えない斜め後ろの席に、僕は興奮を抑えきれないらしいミレーユ助教授とともに座ってコーヒーを注文した。

 最初に注文したジュースは早々に飲み終え、ボトルごと置かれた水をコップに注いで、何度も飲んでいるニーナ教授。

 指定時間きっかりに、外のテラスにふわりと反重力ホウキで乗りつけたのは、僕より年上の、二十代半ばくらいに見える爽やかな青年だった。

 ――あれは……、マヅダのスカイスター? またずいぶん渋いホウキに乗ってるな。

 魔法町で一般的な移動手段として普及しているホウキには様々な方式がある。

 僕が使っている魔法力から直接推進力を得るサイクロン系ホウキの他に、多くのホウキでは魔法によって反重力を得てイオン式やジェット式で推進を行う。人間の弱い念力を増幅するホウキの増幅方式も様々だ。

 マヅダのスカイスターの一般走行用モデルは、ロータリー式の念力増幅器を搭載した形状が特徴的で、レース用の高出力ジェットをデチューンして推進に使っている。

 ただしロータリー式増幅器は、起動念力の閾値が高く、使用者を選ぶことで有名な上、操作も一筋縄ではいかない暴れ馬で、レース仕様の出力と整備のしにくさも相まって、マニア向けのホウキとして知られていた。

 そんなピーキーなホウキを優雅に乗りこなしてテラスに降り立った男性を、僕は観葉植物の影からじっくり観察する。

 ――あの人が、ニーナ教授が好きな人?

 少し離れてるこの場所からでもわかる柔らかな笑みと雰囲気の彼は、軽く手を上げながらニーナ教授の席に近づいていく。

 教授は慌てて椅子から立って、たぶん久しぶりだからだと思うけど、顔だけじゃなく、全身を上から下まで何度も眺めていた。

「けっこう、いい感じの人ですね」

 そんなに気を遣ってないのもあるけど、自分の容姿にさほど不満を感じたことがなかった僕でも、ニーナ教授のお相手には劣等感を抱いてしまうほどだった。

 何より彼が纏う雰囲気が、貧乏学生とは違って余裕があり、大人びた貫禄を漂わせている。

 別にニーナ教授のことが好きとかそういうことではないが、自分より明らかに格上と感じる彼に、抱いてしまった敗北感を拭えずに小さく息を吐いていた。

「そうね。いい感じね。……ふんっ」

「ミレーユ助教授?」

 僕の声に答えた彼女は、先ほどまでの鼻息の荒かった様子はなく、伺い見てみると眉根にシワを寄せ、不機嫌そうに顔を顰めていた。

 話し込んでニーナ教授に気づかれてしまうのもまずいと思って、ミレーユ助教授の様子が気になったけど、僕はニーナ教授の方に注意を戻した。

 最初の緊張はほぐれたのか、和やかに話をしてるふたり。

 そのうち鞄から取り出したノートにお互いに何かを書きつけたりして、話というか議論を交わすようになった。

 ――研究仲間? いや、でもな……。

 学者だけあって、ニーナ教授は同じ分野の学者や生徒と議論を交わすこともある。

 でも彼女の場合、他の人より一歩も二歩も進んだことをやっているか、特殊な方面に手を伸ばしてることが多いから、まともな議論がやりとりできる相手というのはけっこう限定される。

 学内では研究に関する議論を交わせる人は何人かいるけど、それは僕が全部把握してる。外部の人でも連絡取り合ってる人については、会合の際などにスケジュール調整しなくちゃならないこともあるから、顔と名前と連絡先はだいたい憶えてる。

 あんなに若くてニーナ教授と熱く激しい議論を交わせる人物を、僕は知らなかった。

 小一時間ほど喧嘩じゃないかと思えるほど激しいやりとりに発展した議論の後、ノートを仕舞ったニーナ教授と彼はそれ以前の雰囲気に戻り、新しく頼んだ紅茶を飲みながら笑顔を交わし合う。

 ――でも、違うな。

 にこやかな笑顔を浮かべてるニーナ教授に対して、男性の方は笑顔ではあるけど、どこか影が差しているように僕には思えていた。

 まだ続いてるふたりの話は、そこから段々と雲行きが怪しくなっていった。

 何かを諭すように話して見える男性に対し、声こそ聞こえないけどニーナ教授は怒ったような表情をし、それは段々と落胆へと変わっていく。

 そして、新たな人物が反重力ホウキに乗って現れた。

「やっぱり……」

「え?」

 ワインレッドのロングスカートを穿き、地味めのジャケットを羽織る清楚な感じな女性を見て、ミレーユ助教授が呟くように言う。

 それを問うより先に、迷うことなくニーナ教授のテーブルに歩み寄った女性は、男性の隣に立つ。

 椅子から立ち上がった彼は、女性に寄り添うようにして、彼女と手を繋いだ。

 見た目には同じ年頃のふたりは、僕の目からでもお似合いの恋人同士に見えた。

「これは……」

 もう結論を言葉にしなくてもわかる。

 ニーナ教授は何かを飲み込むように目を強くつむった後、微笑みを浮かべてふたりのことを見た。

 そんな教授に深く頭を下げ、ふたりは手を繋いだままテラスに出て、互いのホウキに乗って飛び去っていった。

 どさりといった感じに椅子に身体を預けたニーナ教授に、僕は立ち上がって側に寄っていくことも、声をかけることもできなかった。

 でもミレーユ助教授は立ち上がる。

「行くわよ」

「え? でも……」

 誰に対してなのかわからない怒りの色を瞳に浮かべ、僕のことをちらりと見た彼女は、それ以上何も言わずにニーナ教授の方に行ってしまう。

 ふたりだけにできなくて、僕も席を立ってふたりの元に急ぐ。

「聞かせてもらうわよ、ニーナ教授」

「ミレーユ助教授? ……湯川君も? どうして?」

「そんなことはいまはどうでもいいでしょう。あの男は誰なの? いえ、何なの?」

「――じゃあ、あの身体をつくったのは、貴女なのね」

「そういうこと。事と次第によっては警察沙汰にもなりかねないんだから、ワタシには聞く権利があるでしょう?」

 一度うつむき、唇を噛んで何かに堪えるようにするニーナ教授は、顔を上げていまにも泣きそうな微笑みを浮かべた。

「うん……。そうね。わかったわ」

 

 

 

 

 丸テーブルのニーナ教授の正面にはミレーユ助教授が座り、僕はふたりと同じ距離の位置に座る。

 当事者でも関係者でもない僕がこの場にいるのは居心地が悪いけど、いまさら席を立つわけにも行かないし、何があったのかは知るべきであるように思えた。

「何から話したらいいのかな……」

「最初から話なさい。全部聞いてあげるから」

「うん……」

 怒ってるように眉根にシワを寄せているミレーユ助教授だけど、その口調は荒々しくはない。

 諭すように言ったその言葉に、表情を曇らせたままのニーナ教授は話を始める。

「あれは、もう十二年前の話。まだその頃は本格的なことはやってなかったけど、興味のあることを調べたり、自分なりに実験やってたりしたのよ」

 十二年前と言えばまだニーナ教授が四歳の頃。

 確かその頃合いから精神物理学やその周辺に関することで名前が知られるようになったと、僕の記憶にある。天才としてはもう少し前から名が知られていたけど、具体的な成果があったわけじゃない。

 脳NASにアクセスしてその頃のことをいま調べてみたけど、ニーナ教授の成果が表で発表されたのは五歳のときがたぶん最初だ。四歳のとき、彼女が何をやっていたかまではわからない。

「そのとき興味があったのは、人間の精神とデジタル人工知能の違いについて。人間は魔法が使えるけど、デジタル人工知能は使えない。その違いがどこから生まれてくるのか調べるために、あるものをつくったの」

「あるもの、と言うと?」

 思わず突っ込んでしまった僕に、優しげな笑みを浮かべるニーナ教授。

 でもその笑顔は悲しげだ。

 この前、手紙が届いた日に僕に話しかけてきたことは、もしかしたらこの話と、あの男性に関係があったのかも知れない、と思い至る。

「そのときつくったものに、私は電子網遊弋型自己進化人工知能、と名前をつけた」

「それって、もしかして?」

「……何よ、それ」

 僕はその名前からだいたいどんなものか予測がついたけど、生物工学専門のミレーユ教授にはわからなかったらしい。きょとんとした顔で僕とニーナ教授の顔を交互に見ている。

 口が重いらしいニーナ教授に代わって、僕が説明する。

「たぶんですが、一種のコンピュータウィルスです。名前からしてネットの中を自由に動き回って、状況に応じて進化していくタイプの」

「あくまでつくったのは人工知能で、何かを壊したり盗んだりするウィルスじゃなかったんだけどね」

「それでも端から見たらウィルスって判断されますよね」

「そうね。最初に与えた命令や、進化の方向によっては充分ウィルス化する可能性はあったしね。あれのはそういう進化をするような命令を与えなかったけど」

 紅茶をひと口飲んで唇を濡らしてから、ニーナ教授は話を続ける。

「あの頃はまだ、やっていいこととか悪いこととかの前に、知らないこと、知りたいことに全力だったからね。四歳だったけど女の子だったし、男の子にも興味はあったんだけど、同じくらいの歳の子とは話が合わなくってね。話が合うくらいの歳の人はずいぶん年上ばかりで、ちょっと悩んだりしてたの。だから電子網遊弋型自己進化人工知能に与えた命令は、十二年後、話の合う素敵な男になって、戻ってくること」

 いまにもこぼれそうなほどの涙で瞳を揺らすニーナ教授は、それでも嬉しそうな笑みを浮かべる。

「その命令は、正しく果たされた。素敵な男になりすぎて、恋人までつくって戻って来ちゃったんだけど」

 こんなにつらそうな笑顔を、僕はこれまで見たことがなかった。

 泣きそうなのに、必死で笑顔を浮かべているニーナ教授は、まるで大声で泣き叫んでいるように僕には見えていた。

 ニーナ教授が恋をしていたのかと問われれば、僕にはそれに対して答えられる言葉がない。

 そうであったのかも知れないし、そうでなかったのかも知れない。

 ただ彼女は、この十二年の間、彼が自分の元に戻ってって来ることを、期待していたのは確かだ。

「彼がこっちのことを探ってる感じがあったのは、何となく気づいてた。たぶん彼だろう、って。それで戻ってきた彼は、同じ精神物理学を勉強してて、さっき話してて、凄い知識を持ってるのも確認した」

 本当に嬉しそうな、満面の笑みを浮かべてるニーナ教授は、もう抑えることができず、涙を頬に零れさせる。

「たぶん、理想の男って言えるくらいの人になってた」

「でもあいつは貴女とじゃなく、あの女性と一緒になることを望んだんでしょ?」

 それまで黙って聞いていたミレーユ助教授が口を開く。

「うん、そう。精神物理学をいま以上に研究するためには、身体が必要だったんだって。それでネットでたまたま知り合ったあの人に助けを求めて、デジタル人工知能の自分を認めてくれて、……お互い想い合える存在になっていったそうよ」

「さっきの女性はワタシの恩師の姪に当たる人よ。確か外神田魔工学大學で精神物理学の教授をしてたはずで、聞いた限りではずいぶんヘンな発想をする変人だと聞いてるわ」

 慰めてるわけではない様子の、澄まし顔で女性の素性を明かすミレーユ助教授。

 変人って意味ではそんなデジタル人工知能をつくったニーナ教授も、全身クローンをひとりでつくってしまうミレーユ助教授も負けていなさそうな気がしたけど、あえて僕はそれを口にしないことにした。

「彼は言ったわ。この人と一緒に生きたい。この人と一緒に歩んでいきたい。そのために人間の身体と、有限の寿命を手に入れたんだ、って。それから最後に、つくってくれてありがとう、って……」

 笑っていることもできなくて、両手で顔を覆ったニーナ教授は嗚咽を漏らし始める。

「……でも、あの人は反重力ホウキに乗ってましたよね? デジタル人工知能じゃ魔法は使えないんじゃなかったでしたっけ」

「そう思えばそんな話も聞いたことあるわね。ほぼ人間の身体に電脳を乗っけても魔法は使えなかったはずよ」

 僕が口にした疑問に、ミレーユ助教授も首を傾げる。

「どうして魔法が使えるようになったのかはわからない。元がデジタル人工知能でも、進化して得たのかも知れないし、ネット上では無限だったはずの彼が、人間の身体を手に入れて有限の存在になったからかも知れない。でも、それはもうあのふたりが追求すべき研究テーマね。こっちは別のアプローチで調べていくしかないわ」

 目を真っ赤にしながらも、顔を上げたニーナ教授が言う。

 笑おうとしてるみたいだけど、頬がひきつって上手く笑えていない。

 無理して笑おうとしても、零れてくるのは笑みじゃなく涙ばかりだ。

「はぁ、まったく……」

 鬱陶しそうに頭を掻いたミレーユ助教授が、盛大にため息を吐く。

「つまり貴女は、失恋したってことね?」

「失恋とは、ちょっと、違うと思うけど……」

「好きだったかどうかは知らないけど、気になる男に恋人がいたんでしょ。それで泣いてるなら、それは失恋って言うの。少し違うと言っても、少しだけでしょ。だったらそういうこと」

 反論の言葉が思いつかなかったらしく、ニーナ教授はうつむきながら唇を引き結んで押し黙る。

 そんな様子をちらりと見たミレーユ助教授は、手を上げて店員を呼んだ。

「いま、ケーキバイキングは大丈夫?」

「はい。承っております」

「じゃあそれを三人。大至急よろしく」

「かしこまりました」

 丁寧な口調で答えた女性の店員は、早速奥に下がって準備を始めたらしい。

「ここのケーキは美味しいのよ。普段も出してるけど、パティシエが鬱憤溜まるとケーキを大量につくって、そのときだけゲリラ的にケーキバイキングが開催されるの。今日やってるなんて運がいいわね」

「いまはそんな気分じゃないんだけど……」

「鬱憤が溜まってたり、気持ちが沈んでるときは美味しいものをやけ食いするのが一番よ。奢ってあげるから吐くまで食べなさい」

 そんな話をしてる間に運ばれてきたのは、カットはしてあるけどホールケーキが三つ。

 この時点で食べきれる気がしない。

「やけ食いはいいんですけど、どうして僕まで……」

「ここまで関わったんだからつき合いなさい。男の子なんだからたくさん食べられるでしょう?」

「うぅ……」

 甘い物は好きだけど、そんなにたくさん食べる方じゃない。

 鼻歌を歌いながらチーズケーキに手を伸ばしているミレーユ助教授に、僕も覚悟を決めてショートケーキを小皿に移し、フォークでひと切れ口に運ぶ。

「――美味しい」

 生クリームは甘いのにしつこくはなく、舌の上でとろけるよう。スポンジの控えめな甘さと、酸味が強めのイチゴともマッチしていた。

 ニーナ教授の方を見てみると、チョコレートケーキを口に含んで、赤いままの目を見開いていた。

「もっとじゃんじゃん持ってきて!」

 ミレーユ助教授の声に新たに運ばれてきたフルーツタルトと巨大なプリンアラモード。

 夕食も入らなそうなその量に何も言えなくなる。

 ニーナ教授の方を見ると、僕と視線を合わせた彼女は、少し寂しそうではあったけど、自然な笑みを見せていた。

「はぁ……」

 大きくため息を吐いた僕は、小皿のショートケーキを一気に食べて、フルーツタルトに手を伸ばした。

 そこからはケーキが運ばれてこなくなるまで、僕とニーナ教授とミレーユ助教授は、食べて食べて、ひたすら食べまくった。

 

 

          * 5 *

 

 

「苦しい……」

 昨日食べたケーキはどれくらいの量だったろうか。

 二ホール食べた段階で数えるのは止めた。

 胃薬を飲んで寝たのにまだ重くてたまらない胃を抱え、濃いめのコーヒーを何杯飲んでも甘ったるさが残る口を引き結びながら、僕はまだ朝早い大学内を歩く。

「おはようございます」

 すでに解除済みの鍵を確認し、扉を開けると、どこか懐かしむような目で手紙を開いているニーナ教授がいた。

「おはよう、湯川君」

 手紙を封筒に収めて机の引き出しの中に仕舞った彼女は、椅子から立ち上がって僕に微笑みをくれる。

 その目は、まだ微かに赤い。

 でもいま浮かべている笑みは、それ以前の彼女の浮かべるものに相違なかった。

「そう思えば実験器具の到着が遅れてるって話だったと思うけど、いつ届くの?」

「予定では明日です。今日はまだ、何もできませんね……」

「じゃあ今日は明日の準備しかできることないかな。湯川君、お願いね」

「……僕に丸投げですか」

「ふふっ」

 仕事を僕に丸投げしてくるニーナ教授にげっそりしながらも、本調子を取り戻したらしいことに安堵を覚える。

 ――やっぱり、ニーナ教授はこうでなくちゃね。

 ため息を吐いた後、僕も笑みを返していた。

「でも今日はどうしようかしらね。他の仕事も朝のうちにあらかた片づけちゃったし、やることないのよね」

「少しは実験の準備しましょうよ」

「うぅーん。それに、ちょっと困ってるのよね」

 僕の提案なんて右から左に聞き流したらしいニーナ教授は、顎に手を当ててなにやら考え込む。

「どうかしたんですか?」

「昨日ケーキ食べすぎて、体重計が怖い……」

 やけ食いの成果が身体に表れるのは仕方ないことで、それを女の子が気にするのも当然のことだ。

 それでもやっただけの意味はあったようだし、肉さえ増えなければ問題ないことだろう。

 ――ニーナ教授はもう少しふっくらしてても良さそうだけど。

 胸はともかく腕も脚も細い彼女は、もう少し柔らかい身体をしてても良さそうだとは思う。でも女の子なのだから、体重はどうしても気になるのは仕方ない。

「だったら後でお空場でも行きませんか? 夏にプールだったブロックを改装したフィールドアスレチックが先日オープンしたばかりなんですよ。障害ホウキレースなんかもできるみたいですし、魔法使ったり身体使ったりすれば、カロリー消費しますよね」

「いいわね、レース。負けないわよ」

 意外と負けず嫌いのニーナ教授は目を不適に輝かせて乗ってくる。

 僕だってダブルサイクロンホウキのマスターだ。負けるつもりは欠片もない。

 対抗意識を燃やす僕とニーナ教授は、攻撃的な笑みを交わし合った。

「そこに行くなら、ミレーユのことも誘って上げようかしらね」

「いいですね」

「き、昨日奢ってもらったからだからね! ミレーユに貸しをつくりたくないだけだからね!!」

 聞いてもいないのに理由を述べるニーナ教授に、僕はちょっと笑いそうになっていた。

 ――うん、いつも通りのニーナ教授だ。いや、これまでとはちょっと違うか。

 いままで通りの様子だけど、これまでとは少しだけ変わった彼女。

 まだ一六歳の彼女は、これからもいろんな経験をして、変わっていくんだろう。これからもっと素敵な女性になっていくんだろう。

 僕もまだこれから、いろんな経験をして、いろんなことを知って、より僕らしい僕になっていく。そのつもりだ。

 デジタル人工知能になんて負けていられない。

「だったらさっさと出かけられるよう、準備手伝ってくださいよ」

「えーーっ。うぅ……。あ! そうだ。ミレーユのこと誘ってくるから、その間に準備お願いね!」

 そう言い残して、僕とすれ違って小走りに実験室から出て行ってしまう。

 すれ違い様、彼女が残していった「ありがとう」の言葉を胸に抱きながら、僕はもうひとつため息を漏らして明日の準備を開始したのだった。

 

 

                 「相思創AI」 了

 

 



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第三話「色即Z喰」

実験室を訪れた和服の女の子、ゾフィア・フランケンシュタイン。
ニーナの以前からの知り合いらしい彼女が持ってきたのは、湯川も驚く素晴らしい発明品だった?!
ゾフィアに対し微妙な態度を見せるニーナ。彼女の発明品の実験につき合わされる湯川。ミレーユも巻き込んで魔法町で起こることとは?!


 

   「色即Z喰」

 

 

          * 1 *

 

 

「マズいな……」

 老若男女の「人間」はもちろん、グレイ型や鬼型、岩石型などの様々な生徒や教師や関係者が行き交う廊下を歩きながら、僕は小さくつぶやいた。

 鼻がむずがゆい。

 肌がかゆいなら掻けばいいが、くしゃみが出るほどでないむずむずがあるのは、鼻腔の奥だ。指を突っ込んでも解消できるものじゃないし、こんな人が多い場所でそんなことはできない。

 そもそも鼻の穴に指を突っ込むなんて品のないことは、若干一六歳にして国立魔法科学大学の学長を務めるニーナ・アインシュタインの助手たる僕が、できるわけがない。

 それはニーナ教授の品位も落とすことになりかねない。

 ――できるだけ草のあるとこは避けてたんだけどなぁ。

 十月もまっただ中、秋本番のいま、僕は自分の身体が花粉症にさいなまれていることに気がついた。

 鼻炎の薬でも準備しておけば良かったんだけど、イネ科の植物で起こる秋の花粉症は、スギ花粉で起こる春のと違い、飛散距離が短いためアレルゲンに近づかない限り起こりにくい。

 油断していた僕は、薬の準備をしていなかった。

「あぁ、湯川君」

 これからニーナ教授のとこに行って気の重い報告をしないといけないのに、と思ってる僕の気をさらに重くさせる事実に顔を顰めていたとき、声をかけられた。

 正面からやってきたのは、僕と同じくらいの、女性としては背が高い人。

 濃い紫の足首丈のワンピースは、レースや襞で飾られ、ニーナ教授に通ずる、ロリータではないがゴシックな雰囲気を醸し出している。

 綺麗なウェーブを描く、荒々しい滝のような長い髪をしたその女性は、ミレーユ助教授。

 以前はニーナ教授の関係者ということで、見かけても睨まれたり無視されたりすることが多かったのに、つい先日のAIの事件以来、割と気さくに声をかけてくれるようになっていた。

 助教授という役を担ってるんだから考えれば当然だけど、噂ほど子供っぽかったり悪い人ではないらしい。

 ニーナ教授と仲が悪かったのは、やっぱり自分の研究室を持ちたいという向上心というか、功名心だかがあったからのようだ。見知ってみれば悪い人ではない。

 ――そんなこともないか。

 いまだニーナ教授に対してはちょっかいを出してることを考え、僕は思い直す。

「ちょっと湯川君? 声かけてるんだからボォッとしてないで返事くらいしたらどうなの?」

「え、あっ。はい。こんにちは、ミレーユ助教授」

 美しく整った顔の眉根にシワを寄せ、自分の考えに没頭してしまった僕を睨みつけてきている彼女に慌てて返事をする。

 人が行き交う廊下の隅に寄ったミレーユ助教授に視線で促され、僕も端に寄る。

 腕に下げたバッグに手を入れて何かを探り出した彼女は、それを僕に押しつけてきた。

「はい、これ。一昨日話してた奴」

 手渡されたのは、小さなタブレットケース。半透明なそれには何錠かのカプセルが入っている。

「あぁ、憶えててくれたんですね」

「たっ、たまたまよ! 余りがあったから、せっかくだから消費してもらおうと思っただけ!」

「ありがとうございます」

 素直に謝意を述べると、顔を少し赤くしたミレーユ教授は早口に言い訳していた。

 一昨日、たまたま彼女と校内の食堂で出会った僕は、そのとき花粉症の話をしていた。そしたら試験が終わった試供品の薬があるということで、機会があればだけど、分けてくれると言われていた。

 まさかこんなに早くもらえるとは思ってなかったから、ちょうど症状が出てきたタイミングでもあったし、素直に嬉しかった。

「一昨日も少し言ったけど、花粉症なんて鼻の粘膜取り替えちゃえばいいんじゃないの? 近くに細胞ガァデンの支店ができたし、そこなら安いのあると思うけれど」

「うぅーん。それは、どうかなぁ」

「手術なんて半日で済んで即退院できるし、確か細胞ガァデンには手術の代わりに、機能代替細胞に置き換えるDNA活性薬というのも売ってたと思うけれど?」

 脚派、というより絶対領域至上主義である僕ですら視線が釘付けにされそうな、大きく柔らかそうな胸の下で腕を組んで小首を傾げているミレーユ助教授。

 不都合のある身体の器官を機械や人工培養器官や、高機能器官に取り替えるというのは、魔法町ではごく一般的に行われていることだ。

 医療機関で行う手術が確実だけど、合法のものから非合法のものまで、DNAをいじるような薬も数多くある。

 ミレーユ助教授が言うように、花粉症なんて症状を抑える薬を使わなくても、根治方法がいくらでもあるのが、いまという時代だ。

 でも僕は、どうしてもそういうものには抵抗があった。

「そういうので手術するのは、なんか抵抗ありますね……。薬の方は、細胞ガァデンって店はあんまりいい噂聞かないんですけど、どうなんです?」

「私が行くのは反重力町の本店の方だけど、たまにいくと掘り出し物があったりして面白い店よ」

「……自分に使う薬を買ったりするんですか?」

「……主に実験用よ」

 真正面からミレーユ助教授の瞳を見つめて問うたら、目を逸らされた。

 店長だかオーナーがやり手で、品揃えはもちろん、銘品から珍品まで手に入るという細胞ガァデンは、扱ってる商品だけの問題でなく、強引な販売方法でトラブってる話をちょくちょく聞く。

 知り合いの知り合いにも、その店にはまり込んで大学から消えたという人がいた。……どういう理由で消えたのかまでは聞いていなかったが。

「でも湯川君、手術も薬もイヤなんて、ちょっと考え古いんじゃない? 貴方なら、脳NASは使ってるんでしょう?」

「それはまぁ、使ってますけれど」

 険しげに目を細めて問うてくる彼女に、僕は頷きを返した。

 遠隔地に設置した外部ストレージと脳を接続して記憶領域を増設する脳NASは、扱うのにちょっと知識が必要なのと、セキュリティに気をつけないとクラックされて飛んでもないことになる場合はあるが、世の中に普及している。

 通信方式はいくつかあるが、記憶と記録を接続するモントーク技術を応用した極超短波によるものが主流だ。

 極超短波の送受信を行うためには外部アンテナを装着したり、身体に埋め込んだりする。

 僕はできるだけ快適なアクセスを目指して、脳NAS用に超小型の増幅装置とアンテナを身体に埋め込んでいた。

「なんと言うか、微妙なんですけど、機能を増やすためなら許容範囲なんですけど、機能を代替するために身体をいじるのは抵抗ありますね」

「わからなくはないわね」

 僕の言葉に同意してくれたミレーユ助教授は、腰に手を当て、魅力的な胸を反らして言う。

「まぁ、私はそんなことをしなくても、完璧なのだけれどね!」

 どこからそんな自信が出てくるのだろう、と思うけれど、顎を逸らして僕を見下ろしてくる彼女の身体については、文句のつけようもなく完璧だと思えた。

 でも……。

 ――この人の性格のつけ替えは、手術や薬じゃできそうにないな。

 得意気に笑うミレーユ教授に、僕はそんなことを考えていた。

 

 

            *

 

 

 わずかに締め切っていない実験室の扉の隙間から見えたのは、和服の後ろ姿。

 小柄な女性のようだけど、ポニーテールに結われた髪から覗くうなじのラインが美しい。

「来客かな?」

 ミレーユ助教授と別れ、小走りにニーナ教授の待つここまで来た僕は、軽くノックをしてから扉を開けた。

「あら? こんにちは」

 真っ先に振り向いて僕に声を掛けてきたのは、後ろを向いていた和服の女性、というか女の子。

 年の頃はたぶんニーナ教授より若い。

 暖かみを感じる肌の色をしたその顔立ちに朗らかな笑みを浮かべる女の子は、控えめながら美麗な柄の和服と相まって、日本人形を思わせる出で立ちだ。

 ニーナ教授よりもさらに小柄な彼女に、僕は見覚えがない。

 不審者というわけではないだろう女の子にどう対応するか考えあぐねて、いつも通り椅子に座って、じっくり見つめてしまいたくなる、濃紺のミニスカートと黒のニーハイソックスで形作られた絶対領域を見せつけるニーナ教授に目を向けると、彼女は不機嫌そうに眉を顰めていた。

「初めまして、ですね。ニーナの助手の方でしょうか?」

「あっ、えぇ、はい。湯川偉夫(ゆかわひでお)です」

「ご丁寧にありがとうございます。わたしはゾフィア・フランケンシュタイン。ニーナとは以前からの知り合いです。よろしくお願いします、湯川さん」

「はいっ、よろしくお願いします」

 伸ばされた小さな手に、僕は自分の手を伸ばして握手をする。

 猫を被ってるときのニーナ教授よりもさらに丁寧な口調と、静々とした華麗さを感じるその女の子、ゾフィアさんの様子に、見た目よりも年上なのかも知れないと思う。

「えぇっと、もしかして、お邪魔でしたか?」

 名前にも憶えがないので、ニーナ教授とは僕が大学に入る前からの知り合いかも知れないゾフィアさん。

 助手とは言え邪魔してしまったかと思い、僕はにこにこと笑顔を浮かべているゾフィアさんと、なにやら相当分厚い紙束を手にして難しい顔をしているニーナ教授に恐縮してしまう。

「お茶でも淹れますね」

「必要ない」

 いつもの紅茶ではなく、ゾフィアさんに合わせて日本茶でも入れようと一歩踏み出た僕を、ニーナ教授の鋭い声が止めた。

「お構いなく」

 やっぱりにこにこ笑っているゾフィアさんにもそう言われ、動けなくなった僕はその場に立ち尽くす。

 ――どういうことだろう?

 今日はちょっと抑えめの、でも濃い紅のネクタイを締めた紺色のシャツの袖口や、ニーハイソックスには精緻なレースがあしらわれた服装のニーナ教授。彼女が目を落としている紙束は、そのまま本にできそうなほどに分厚い。

 しかめっ面で紙束を読むニーナ教授を、にこにことした笑顔で見つめているゾフィアさんが持ってきたもの、というのがいまの状況だろうと思う。

 知り合いであるというのを否定せず、時間がかかりそうな紙束を読む間もお茶すら出さないというニーナ教授の指示には、その曇りきった表情も合わせて、不穏なものを僕は感じていた。

「今日は実験があるからここまで。預かっておくから、読んだら連絡するわ。さ、湯川君。実験の準備に入ってちょうだい」

 興味引かれる事柄でも見つけたのか、片眉をピクンとつり上げたニーナ教授だったけど、直後にそう言ってめくっていた紙束を戻し、いつも通り美しいのに、いまは少し乱れた感じのある金糸のような髪をかき上げながら立ち上がった。

 ゾフィアさんがいたことでお預けを食らっていた僕は、頭を掻きながらそんなニーナ教授に報告する。

「あー、それなんですが、今日は実験できないんですよ。液体窒素が手に入らなくって」

「液体窒素が手に入らないって……。在庫の管理と保管は徹底させてるはずでしょう?」

 この国立魔法科学大学の学長も兼任しているニーナ教授は、実験資材や機材の管理にはうるさくはないが、徹底するよう指示を出している。

 大学という場所だから、意外なところから新たな知見が生まれることもあるわけで、余裕は持たせてあるし、ちょろまかしや遊びでの使用を徹底的に取り締まっていたりはしない。ただ、そうした用途での消費についても管理しているし、監視している。

 面白いことがあったら首を突っ込もうと思ってやってる気がしないでもなかったが。

 液体窒素は大学でも消費量の多いものなので、在庫は切らさないようにしているし、突発的な不足にも対応できるよう複数の業者と提携して管理されている。

 それなのに今日は、その液体窒素の在庫が壊滅していた。

 これから行うニーナ教授の実験でも使うというのに。

「それがですね、今日搬入される予定だった液体窒素が事故で全部流出してしまったそうなんです。いま魔法町の極々小さい地域では秋の雪祭りが開催中ですよ……」

「いったいなんでそんなことになったの?」

「そこまではちょっと、情報が来てないそうで。事故があったそうなんですけれど。影響が大きいんで急いで手配してるそうなんですが、どんなに急いでも到着は明日になる予定です」

「……ったく」

 いつになく不機嫌そうな顔になって、唇を噛んでいるニーナ教授。

 ゾフィアさんを邪険にしている雰囲気はあるのに、それをはっきりと態度や言葉で出していない、この曖昧な様子はいったい何なんだろうか。

 今日使う予定の液体窒素はそんなに大量じゃない。

 大学で契約してる業者以外にもつき合いのある店なんかはあるし、液体窒素の入手が無理ってわけじゃなかった。

 でもさすがに、僕の反重力ホウキでは大型のボンベをぶら下げて飛ぶのは無理だし、小型のボンベ数本を持って帰るのも骨の折れる仕事だ。

 実験を理由にゾフィアさんを遠ざけるのは無理そうに思えた。

「それはちょうど良かったかも知れません」

 ぽんと手を叩いて、ゾフィアさんはにっこりと笑む。

 さらに不機嫌そうに眉を顰めるニーナ教授のことを気にした様子もなく、彼女は僕に笑いかけてきながら言う。

「液体窒素を買ってくるついでに、わたしの実験につき合っていただけませんか? 湯川さん」

「実験?」

「えぇ。わたしもニーナと同じように、科学を目指す者なのですよ。今日はその成果である論文と、理論を実践した発明品を持ってきたのですよ」

 言ってゾフィアさんが大きな巾着袋から取りだし、広げたもの。

 白い半月のようなそれは、二枚の布を縫い合わせたような造作で、まっすぐな部分が開くようになっていた。服に縫いつけられていないポケットのようだ。

「なんなんです? それは」

「これはこうして使うのですよ」

 和服の帯のところにぺたりとポケットを貼りつけたゾフィアさんは、ずいぶん伸ばせるらしいポケットの口を引っ張って大きく開け、手首に下げていた巾着袋をその中に入れた。

 そして、閉じられたポケットの口。

 たぶん論文を入れてきたんだろう大きな巾着袋を入れたのに、閉じられたポケットには厚みはない。広げて見せられたときと同じぺらぺらだ。

「これは.……もしかして!」

「えぇ、その通りです」

 ニーナ教授とは違う、可愛らしい笑顔をゾフィアさんは浮かべる。

「四次元――」

「空間ポケットです」

「で、でもこれはやっぱり四次――」

「空間ポケットです」

「……」

「空間ポケットです」

 どう考えても創作伝承上の青ダヌキが持っていたポケットと、形も機能も同じものだとしか思えない。

 それなのに空間ポケットと主張するゾフィアさんの変わらない笑顔に、僕はそれを以上指摘することを諦めた。

「伸ばせると言っても入り口のサイズに限界がありますから、大型のボンベは無理です。ですがこの中に入れれば重さもなくなりますから、小型のボンベならば何本でも収納できますよ」

「これは……、すごいですねっ」

 素直にそう思う。

 宇宙人が行き交い、真空管を取りつけられたドールが人格を持って闊歩する魔法町と言っても、中に入れるだけで重さもサイズも関係なくなる空間ポケットのようなものはこれまで存在していなかった。

 ニーナ教授の助手になって、やっかい事はもちろん、不思議なことにも出会ってきた僕だけど、この空間ポケットというゾフィアさんの理論を実証したんだろう発明品に、興奮を覚えずにはいられなかった。

「それではニーナ。貴女の実験のためでもあるし、しばし湯川さんを借りますね」

「ちょっと行ってきます、ニーナ教授!」

 巾着を取り出したゾフィアさんの手によって、シャツの上から僕のお腹の辺りに貼りつけられた空間ポケット。

 思わず興奮して声を弾ませてしまいながら、僕はニーナ教授に買い出しに行くことと、ゾフィアさんの実験につき合う意志を告げた。

「……まぁいいけどね、湯川君がその気なら。でも行くのはいつものあの店でしょ? だったらポイントつけてきてちょうだい」

 そう言ったニーナ教授は、机の引き出しからちょくちょく利用している実験機材の店のポイントカードを出して差し出してきた。

「わかりました。では早めに行って帰ってきます」

「気をつけて行ってきてね」

 なんとなく気になる声音と視線で言われ、僕はそれについて訊こうと口を開く。

「さぁ、早く行きましょう、湯川さん」

 何かを言う前に、僕の腕に腕を絡め身体を密着させてきたゾフィアさんに、言葉を飲み込んでしまう。

 つややかな黒髪からだろうか、間近から香ってくる女の子らしい匂いに、僕は何も言えなくなってしまった。

 目を細めて、心配しているような視線を向けてくるニーナ教授に見送られて、ゾフィアさんに引っ張られる僕は実験室を出た。

 

 

          * 2 *

 

 

「ふふふふっ」

 唇の片端をつり上げているミレーユは、抑えきれず笑い声を漏らしていた。

 そんな彼女が右手に持っているのは、卵。

 ニワトリの卵にしてはふた回りほど大きいそれを、ミレーユは手の中で弄びながら、教室区域と実験室区域の間にあるエントランスに近い廊下を歩く。

 早くも講義が終わったらしい学生が、反重力ホウキなどを片手にいち早く食事処に向かおうとする中を歩くミレーユは、人並みの中に見知った顔を見つけた。

「あれは……、湯川君? この前はあんなこと言ってたのに、やるわね」

 彼が愛用しているダブルサイクロンホウキを持って歩いている湯川を遠目に発見し、よく見てみる。

 彼の隣に立つのは、ずいぶん小柄で、和服を纏う女の子。

 先日あった、ニーナの恋愛未遂事件のときには、恋人はおろか、好きな人もいないと語っていた湯川だったのに、いま彼の腕は着物の女の子の腕ががっちりと絡みついている。近づきながら見る限り、ふたりの様子はラブラブなカップルだ。

「てっ、あれは! あわわわっ」

 距離が近づき、行き交う学生の間から見えてきた女の子の顔。

 見覚えのあるその子の顔を思い出した瞬間、ミレーユは思わず手の中の卵を取り落としそうになっていた。

 慌てて両手に包んで落とすのを回避したミレーユが見ると、湯川と女の子はちょうどエントランスからそれぞれのホウキで飛び立つところだった。

「まさか……、あれが戻ってきてるなんて……」

 声をかけることもできず、飛び立ったふたりのことを青ざめた顔で見送ったミレーユ。

 眉根にシワを寄せ、小首を傾げた彼女は思い直す。

「どうせ目的はあれだろうし、問題はないかしら? こっちに被害がなければだけど」

 そして手にした卵を見、にやりと笑う。

「ちょうどいいかもしれないわね。あれが戻ってきて慌ててるニーナにこれをカマしてやれば、ぎゃふんと言わせてやれるわ」

 ミレーユが手にしている卵は、生命工学の成果。

 その名も、爆植卵。

 衝撃を与えることで発芽する種を栄養で包んだそれは、名前の通り爆発的な速度で成長する。

 砂漠であろうが酸素のない惑星であろうが空から撒くだけで森を生み出せるそれは、ミレーユにとって会心の出来とも言える研究成果だった。

 ただ、力を入れて研究しすぎたためか、少しばかり成長速度が速すぎ、成長を開始して一秒後にはその先端は音速を超えてしまう。栄養が切れた時点で枯れ始めてしまうため、森をつくり出すどころか枯れ野を生み出すことしかできない。

 それはそれで用途はなくはなかったが、衝撃波をまき散らして成長する爆植卵はいくらなんでも扱いづらく、成長速度を百分の一程度に落としたものを研究中だった。

「まぁでも、いたずらに使うには最高の一品よね」

 そうつぶやきながら、実験室の集まる区画までやってきたミレーユは、忍び足でニーナがいるはずの部屋へと近づいていく。

 室内に人の気配があることを耳を近づけて確認し、爆植卵を投げ込むために閉められた扉をゆっくりと開ける。

「何してるの? ミレーユ」

「ひっ」

 ぎりぎり突っ込める程度に開けた扉の隙間に腕を入れたとき、横合いから声とともに手が伸ばされてきた。

 取り落とした卵はニーナの左手がキャッチし、手首を右手でつかまれたミレーユは逃げることができない。

「な、なんでもないのよ。えぇっと……、研究頑張ってるみたいだから、差し入れでも、と思って……」

「ふぅん」

 足で扉を開け、ミレーユに冷たい視線を投げかけてくるニーナ。

 冷や汗をかきながらの説明は、通用している様子がない。

「まぁいいわ。ちょうどいいから手伝ってちょうだい」

「え? ワタシが? 貴女の手伝いを?!」

 実験室の中に引っ張り込まれたミレーユは文句を述べるが、次のニーナの言葉で黙るしかなくなった。

「まずはこの卵について説明してもらうわよ」

 

 

            *

 

 

 ゾフィアさんと一緒に反重力ホウキで乗りつけたのは、大学からほど近い化学系の資材や消耗品が充実している店。

 反重力ホウキなどの空を飛ぶ道具が普及しているために、地表から数百メートルの積層する建造物の中層にあるにもかかわらず、外に対して開かれている。

 箱の面ひとつを斬り落としたような構造もその店は、魔法町ではごく一般的な形で、左右には同じ形で同じサイズの店が並び、見下ろすと霞むほど下まで似たような店がずっと続いている。

 ホウキを使わない人が歩くのにも使われる広いキャットウォークに降り立ち、僕は早速ボンベや実験機材などが陳列された店の中に入った。

「よぉ、湯川君じゃないか。ニーナ教授は元気かい?」

「えぇ、元気ですよ。今日はちょっと液体窒素を少し分けてもらいたくて」

「いいぜ、売るほどあるからな。ちょっと待ってな」

「あぁ、小さい方のボンベで、えぇっと、四本お願いします」

 了解の返事を手を振って返してきた店主の親父さんを見送る。

 大学が契約している大口取引先というわけではないが、何かと小回りのきく品揃えで、僕はもちろんニーナ教授も贔屓にしているこの店の店主とは、すっかり顔見知りだ。ニーナ教授はポイントカードをつくってるくらい、けっこう頻繁に利用している。

「今日はなんだか魔法町で液体窒素が高騰しててな、ちょっと割高だが、これでいいか?」

 膝下くらいまでの高さがある金属製のボンベは、液体窒素が漏れないようしっかりしたものであるため、僕じゃ二本持つのがせいぜいなくらいだ。

 それを四本、両方の脇に抱えて持ってきた親父さんは、奥にあるレジでいつもよりちょっと高めの金額を提示してきた。

「えぇ、いいですよ。こっちも急ぎで必要になったものですし。請求はいつも通り大学に送っておいてください。それと、これを」

 提示された金額はいつもよりけっこう高かったけど、ここに来るまでに見た、今日貼り替えたらしい別の店の店頭価格に比べれば良心的だ。借用になる小型ボンベの保証金込みの金額が書かれた受領書にサインをして、納品書を受け取った。

 代わりにさっきニーナ教授から受け取ったポイントカードを差し出す。

「ありゃ? こいつは使えねぇぞ。なんかカードの情報が読み出せねぇ」

「えぇっ。……ニーナ教授のことだから、雑な扱いでもしたのかなぁ」

 カードリーダーを通した親父さんにそう言われて、僕はため息交じりにそう答えていた。

 いろんな機材が置かれている実験室だから、リーダーで読み出すタイプのカードなんかは使えなくなることもある。

 ニーナ教授がまた雑な扱いでもしてたんだろうと、僕は仕方なく差し出されたカードを受け取った。

「会員情報はこっちにあるから、ポイントはこっちで加算しておくよ。新しいカードは準備しておくからよ」

「はい。お願いします」

「それで、この時間からだと届けるのは明日になっちまうけど、いいか?」

「あぁいや、今日は持って帰ります」

「持って帰るって……、小さい方だからって、ホウキで持ち帰れる重さじゃないぜ?」

「そこはちょっと、これを使うのとは別の実験をしてるところでして」

 心配と不審を含んだ親父さんの視線に、僕はにやりと笑って見せる。

「あぁ、それはそのままつけて使ってください。着用者の体温からエネルギーを供給しているものなので」

「なるほど」

 僕のお腹のところに貼りつけられた空間ポケットをはずそうとしたとき、店の入り口に立ったまま中に入ってこようとしなかったゾフィアさんが言いながら近づいてきた。

「ここはかなり伸びますから、こうやって――」

「おぉ、すごい」

 ゾフィアさんが空間ポケットに手をかけて引っ張ると、伸びて小型のボンベなら楽に入るくらいになった。

 ポケットの中は、まるで宇宙か何かのように真っ黒だ。

 脇に並んだボンベに手を伸ばして、恐る恐る入れてみる。

 完全にポケットの中に入り、手を離すと、ボンベは黒い空間に吸い込まれるように消えた。

 ひと抱えもあるボンベが入ったはずなのに、空間ポケットが膨らんだりはしないし、重さも感じない。

 僕は思わず感嘆の声を上げてしまう。

「おぉ、凄い! ……でも、取り出すときはどうするんです?」

「入れたものを思い浮かべながら手を入れてみてください。それで思ったものを取り出すことができます」

 ゾフィアさんの説明に、ほんの微かに恐怖を感じながらもいま入れたボンベのことを考えながら、黒い空間に両手を差し入れる。

 何かをつかむ感触があって、引っ張り出してみると、ボンベの頭が黒い中から現れた。

「でもこれ、収納したものを憶えてないと取り出せなくなりそうですね」

「そうかも知れませんね。そこのところは改良の余地があるかも知れません」

 驚きとわくわくで顔が緩んでしまっている僕に、ゾフィアさんは優しげな笑みを見せてくれる。

 ――なんか、凄くいい人だな、ゾフィアさんって。

 教授として、研究者としては凄くて、大学の学長もやってるニーナ教授。

 でも掃除が苦手だったり、機嫌が悪いと八つ当たりもしてきたりといった面もあったりする。

 それに比べてゾフィアさんは、まだ今日知り合ったばかりだけど、優しげで当たりも柔らかく、見た目も口調も可愛らしい。ニーナ教授と仲良しとは思えないくらい良い人のようだった。

 ――あれ? でも、仲が良いの、かな?

 実験室でのニーナ教授の顰めっ面を思い出して、僕は小首を傾げてしまっていた。

「さぁ、どんどん入れてしまいましょう」

「はいっ」

 促されて、僕は残り三本のボンベを空間ポケットに収める。かなりの重量とサイズが入ったのに、ゾフィアさんの手が離れて口が閉まった空間ポケットは、中に何かが入っている様子は微塵もない。

 ――本当に凄い発明品だ。

 人間の体温で稼働するほど省電力で、思い浮かべるだけで取り出したいものを選択できるのは精神物理学の応用だろう、空間ポケット。

 僕はその出来の良さにすっかり感心してしまっていた。

「じゃあ、今日はこれで」

「あっ、あぁ……」

 顔を上げて親父さんに挨拶すると、何故か彼は顔を硬直させ、大量の汗をかいていた。

 それに気づいたゾフィアさんが、彼ににっこりと笑いかける。

 その瞬間、親父さんは埃を巻き上げながら店の隅まで後退っていった。

「どうかしま――」

「さぁ、早く行きましょう、湯川さん」

「え? あ、はいっ」

 また僕の腕に腕を絡めてきたゾフィアさんに、親父さんの様子は気になるけど店の外へと向かう。

「少し、寄り道をしていきませんか?」

 店の入り口に立てかけてあったホウキにまたがって飛び立つと、ゾフィアさんはそんな提案をしてきた。

「いや……、早く帰って実験に入らないといけませんし……」

 まだ昼前とは言え、液体窒素の入手のために朝から始めるはずだった実験はずいぶん遅れてしまっている。ニーナ教授も実験室で待っているだろうし。

「わたしはしばらく離れていたので、魔法町は久しぶりなのですよ。少し見て回りたいですし、ついでにニーナの好きな和菓子も買って帰ろうと思うのです。ここからそんなに遠くないお店ですよ」

「なるほど」

 アパートの部屋から大学までの往復ばかりにしても、僕がここに来てから魔法町がそんなに変わった印象はない。

 けれども久しぶりというゾフィアさんにとっては違うんだろう。

 それにケーキなんかの洋菓子を食べてることが多いニーナ教授は、実はけっこう和菓子にもうるさい。おやつ選びのバリエーションはあるに越したことはない。

「わかりました。行きましょう」

「ありがとうございます。こちらです」

 横に並んで飛んでいたゾフィアさんが、行き先を指さしながら先行する。

「え?」

 彼女が前に出ようとした一瞬、その口元に浮かべられた、唇が裂けそうなほどの笑みに、僕は驚きの声を上げてしまっていた。

「どうかされましたか?」

「あ、いえ。なんでもないです」

 振り返ったゾフィアさんが浮かべていたのは、今日知り合ってから一度も崩れたことのない穏やかな笑顔。

 ――気のせいかな。

 日差しの加減で幻でも見たのかも知れないと思い、僕は先行するゾフィアさんの後を追ってホウキを飛ばした。

 

 

          * 3 *

 

 

「これ読んで」

 言ってニーナがミレーユに押しつけたのは、紙束の半分。

 鈍器にでもなりそうなほどの量がある、ゾフィアが持ってきたその紙束は論文、のようなもの。

 理論に関する実験や証明だけでなく、それを利用した完成品にも触れているそれは、文章表現が決して得意ではないゾフィアが書いたもので、読めば理解できるが、読み進めるのは困難を極める出来だった。

 内容は、空間ポケットに関するもの。

「あの子が書いたものには興味はあるけれど……。精神物理学の論文でしょ? これ。ワタシじゃ畑が違いすぎて、理解できるとは思えないんだけれど」

「何でもいいから違和感があったら教えてくれればいいの! あれが何を考えてるのかわからないから、これを読んで理解するしかないのっ。あ、こっちは今回持ってきた完成品の設計図とかね」

 分厚い紙束とは別の、折り畳まれた紙を湯川がいつも綺麗にしていて、広々とした実験用テーブルにニーナは広げた。

「相変わらずなのね? あの狂才Zは」

「たぶんそうよ。ただ、今回は私が言いつけたことをやってきてるから、追い返すこともできなくてね……」

 手にした論文をめくり始めたミレーユと顔を見合わせ、ニーナはふたりでため息を吐き出していた。

 ゾフィア・フランケンシュタインは、国立魔法科学大学の中で、また大学周辺で彼女を知る者からは『狂才Z』と呼ばれ、恐れられている。

 彼女の性質は研究者と言うより、発明家と言う方が近い。

 つくりたいものをつくるために、理論の発見と証明から始めて、ひとりで実現してしまう彼女は一種の天才。

 しかしながらその性質と、起こした数々の事件から、彼女は恐怖の対象となっている。

「何を言いつけて遠ざけたの? あの子、聞き分けは良かったでしょ、貴女に対しては」

「まぁね」

 ゾフィアはニーナが学長になる前の頃に、少しの間だけ教授として担当していた生徒だった。多くの問題を起こし、しかし様々な事情があって退学処分にはできなかったため、困難な研究を押しつけることで遠ざけていた。

 自主退学までして研究に没頭した彼女に、ニーナは安心して過ごすことができるようになったはずだったが、今日になって突然舞い戻ってきた。

 彼女がもし望めば、いまは学長であるニーナの意思すら撥ねつけて、周囲が復学させてしまうだろう。起こす問題は大きく深刻ではあるが、ゾフィアにはそれだけの魅力がある発明家でもあった。

「あれに言いつけたのは物質転送機、ワープ装置の完成品、もしくは応用した物体の作成か、そのための理論の構築よ」

「ワープ装置って……。あれはずいぶん昔に販売禁止になったはずじゃないの?」

「販売は禁止されてないわ。製造が禁止されただけ」

「あぁ、だからたまに骨董品屋とかで本物かどうかわからないけど、売ってたりするのね」

 ワープ装置は、ニーナが生まれるより前に製造され、販売されていたことがある、夢のような道具だった。

 機能は文字通り物質を違う場所に転送するというもので、冷蔵庫のような見た目の転送機が二個セットで販売され、双方向に物質を転送し合うことができるものが主だった。

 とても便利な道具であったが、ほんのひととき世の中を騒がせた後、アッという間に姿を消した。

 納得したように頷いたミレーユは、重ねて問うてくる。

「なんでまた、製造禁止になったの? 信頼性に問題があったって話は聞いたことがあるけれど」

「信頼性、というのとは少し違うかな? でもまぁ、そんな感じね」

 立ったまま論文の前半をめくるミレーユは、目にかかってきた髪をかき上げながらニーナのことを見つめる。

 自分でも論文を読み進めるニーナは話を続けた。

「当時のワープ装置は転送達成率が九九.九九パーセント、コンマゼロ一パーセント程度不足していたの」

「それくらいあれば充分なものじゃないの?」

「成功率だとしたらもうあと何桁か高くないと商品にはならないわよ。でもね、ワープ装置に不足していたのは、転送割合。一回ごとにコンマゼロ一パーセント程度、転送した物体の構成物質が失われていくの」

「それくらいなら問題にならないんじゃない?」

「えぇ。一回二回の転送なら、ね。ワープ装置は形状保証が優先されていたから、見た目ではすぐには気づかない。毎日のように使っていると、問題になってくるのよ」

 精神物理学より純粋物理学の方が近い領域ではあったが、興味があったので、ニーナもワープ装置については少しの間研究したことがあった。

 しかし、その研究は断念することになった。

 自分が断念することになった研究を押しつけたはずのゾフィアが、完成品を持って戻ってきたことには嫉妬を覚えなくもなかったが、それよりも彼女のこれまでの所行を考えれば、戻ってきた理由の方が気になった。

 戻ってきた理由のヒントは、渡された論文にあるはずだと、ニーナは考えていた。

「毎日使っていると、どうなるの?」

「どんどん代替の物質に置き換わっていくの。貴金属なら純度が下がっていくし、宝石なんかだったら不純物が増えるから段々と色味が変わっていくわね。機械の類いはしばらくは問題ないけど、そのうち不調を来すようになる。代替される物質を選ぶ方法は見つからなかったし、傾向はあったけれどどんな物質に置き換わるのかは解明できなかった。新陳代謝をする生物だと問題が少ないんだけど、一度情報化、データライズして余剰空間を通して別の地点に持って行く感じなんだけど、倫理的なオリジナル問題が発生してたわね。そんなこんなで、もうずいぶん前の話だけど、製造が禁止されたの」

 ミレーユは論文のページをめくりながら、眉根にシワを寄せる。

「割合の問題なら、それを上げていけばいいことじゃないの?」

「その通りよ。製造が禁止されても、研究は続けられていたわ。転送割合が一〇〇パーセントにならないのは、データライズした物質が余剰空間を通るときに摩擦が発生していることが原因、というのは究明されて、スムーズに通す方法が研究された。そしてもうずいぶん昔に、小数点以下十三桁までの転送割合を実現したワープ装置は完成した」

「完成してるんじゃない。どうして販売されないの?」

「別の問題が発生したからよ」

 不思議そう表情で論文から顔を上げたミレーユに、ニーナは苦々しい顔を見せた。

「別の問題って?」

「コストの問題よ。当時試算されたのでは、一家に一台程度にワープ装置が普及した場合で、平均的な家庭一世代が生涯に得られる収入の――」

 ミレーユから視線を外し、ニーナは大きなため息を吐いてから言う。

「約十世代分」

「……計算間違いじゃなく?」

「えぇ。計算間違いじゃなく」

 ニーナの言葉に、ミレーユはあんぐりと口を開けていた。

 販売されていた当時、様々な事件を引き起こしたワープ装置は、再度製造するに当たって様々な制限が設けられた。

 それが性能保証のための認定と、認定を受けるための検査で、小数点以下十三桁の転送割合のワープ装置を製造するためには、職人芸どころではない超精密な調整を必要とした。

 それによって算出された一台単価が、十世代分。子々孫々、十代に渡って払い続けてやっと終わるような、膨大すぎる金額。

 それでも便利で日常的に使い続けられるものならば、世代を跨ぐローンなどで購入もあり得なくはなかったが、認定を維持し続けるためには十年から二十年に一度、再検査が必要であった。

 検査だけでも相当な金額がかかり、認定されなかった場合、再調整が必要となる。再調整には一世代分の収入程度の金額がかかることがわかり、コストを改善する技術的なブレイクスルーがあるまで事実上、ワープ装置の量産は見送られることになった。

「金持ちとかどうしても必要なところだったら、購入するんじゃないの?」

「それだと製造コストが何桁か上がることになってね。重要な物品を厳重に運ぶのに比べると見合うものではなかったのよ」

「……あの子を遠ざけるためとは言え、ずいぶん無茶なものを押しつけたものね」

「無茶だから遠ざけ続けられると思ったんだけどね。それなのに一応、そのままのものとは言えないけれど、応用した完成品をつくってきちゃってるのよね」

 空間ポケットは、物質をデータライズしてA地点からB地点に転送するワープ装置とは異なるが、それに使われている技術や理論を応用した発明品だった。

 純粋物理学の結晶であるワープ装置を応用し、精神物理学を組み入れた空間ポケットは機能の維持に魔法、人間が発する念力を使っており、それにより体温からの発電で稼働できるほど省電力となっている。

 まだ実物は触っていなかったが、論文から察するに、複数の物体を格納したときの取り出しには人間の精神力を応用したモントーク技術が使われ、取り出す物体の選択は考えるだけで可能だ。

 使い方を知っていれば誰にでも使えるワープ装置とは違い、魔法を応用し、反重力ホウキのように使用を個人に限定している空間ポケット。入口と出口が同じであり、余剰空間は利用しているものの、データライズした物質を格納しているだけなので、遠距離転送時にある存在摩擦もほぼ発生しない。

 ゾフィアが書いた論文と設計図は彼女らしく理解が難しい部分があり、量産にはいくつかのハードルがあるような気はしていた。

 しかしながら、価格はワープ装置のような異様な価格になることはないはずで、個人で買える程度に収まりそうな具合だった。

「完璧じゃない」

 そんなニーナの説明を聞き、ミレーユは感心したように言った。

 けれどもニーナは、眉を顰めたまま論文をめくる手を止めない。

「あれがつくったものよ? 一見完璧に思えても、落とし穴がありそうな気がしてならないのっ」

「そりゃあまぁ、狂才Zのつくるものだからねぇ……」

「それにイヤな予感がしてならないの。私が指示したことだとは言え、あれがその指示通りに完璧なものをつくるとは思えないのよね」

「……信用してないのね」

「信用できると思う?」

 顔を見合わせたふたりは、返事の代わりにため息を吐き出していた。

 ふたりで論文に視線を戻したとき、ミレーユが声を上げた。

「ねぇ、ここのところってちょっとおかしくない? 気のせいかも知れないけど」

 そう言って彼女が指さしたのは、論文に書かれた空間ポケットの構造概念図。

 それから実験机に広げられた、今回持ってきた実物の設計図を指さす。

 概念図と設計図では描き方が違うため、同一にはなっていない。けれども概念図を元に実際に作成の際の設計図がつくられたわけで、内容としてはほぼ同じになっているはずだった。

 専門外だからかいまひとつどこが違っているのかわからないらしいミレーユは、概念図と設計図を見比べて困ったような表情を浮かべているだけだった。

 ニーナもそのふたつを見比べ、ミレーユが感じただろう違和感の正体を見つけようとする。

「これって……。ちょっと待って」

「どうしたの?」

 ミレーユの指摘した違和感の正体に気づき、ニーナはその問題から派生する別の問題を確認するために、自分の手元の論文後半をめくる。

「あれの目的がわかったわ!」

「いったい何だったの?」

「説明は後! たぶん、湯川君が危ない!!」

「湯川君が? 彼はいま、狂才Zとお出かけ中でしょう? いまどこにいるのかわかってるの?」

 実験室の壁に立てかけておいた自分の反重力ホウキを手にしたニーナは、ミレーユの腕を引っ張って廊下へと出る。

「こんなこともあろうかと、湯川君にはポイントカードに偽装した発信器を持たせてあるのよ」

「いざというときのためなんでしょうけれど、貴女もよくそんなものつくるわね」

「ご託は後回し! 詳しいことは行きながら話すから、貴女も急いでっ」

「仕方ないわね」

 悪態を吐きつつも一緒に廊下を走るミレーユとともに、ニーナは湯川の元に向かうためエントランスへと急いだ。

 

 

            *

 

 

「この辺はずいぶん変わりましたね」

 店からホウキをゆるりと流して上野方面へ。

 大学周辺の雑多な街並みは少しずつ整備された街並みとなり、積層する建物は変わらないものの、神田や秋葉原周辺に比べると綺麗な景観になってきていた。

 行き交う人も学生とかの若い子よりも、ビジネスマンなどの大人の割合が多くなってきている。

「そうなんですか?」

「えぇ。わたしはしばらく魔法町を離れていましたから、いろいろ変わっているところがあって、少し驚きますね」

 上野近辺は近くにある合羽橋の道具屋街に、実験で使う刃物を研ぎに出すときに来るくらいで、あまり馴染みはない。

 それでも僕が大学に通うようになってからはあんまり変わった印象はなかった。

 ――ゾフィアさんって、いつからニーナ教授の知り合いなんだろう?

 僕がニーナ教授の助手になる前、大学に入ったときには見かけた憶えのないゾフィアさん。

 その頃にはもう魔法町を離れていたのだとしたら、けっこう時間が経っているはずだ。

 隣に並んでホウキで飛んでいるゾフィアさんの薄く笑みを浮かべた横顔は、彼女の年齢はニーナ教授よりひとつかふたつか下、十四、五歳に思えた。

 そこから考えると、魔法町を離れたのは十歳前後かも知れない。

 魔法町では身体を弄るような改造は一般的で、僕は花粉症を治すのすら抵抗があるくらいでやっていないけれど、見た目と年齢は連動していないことも多い。それどころか、人間のように見えるけれど人間じゃない人だっていくらでもいる。

 ゾフィアさんは実は僕やニーナ教授よりも年上かも知れないし、それどころか逆に、見た目よりも若いかも知れない。

 ただ、僕の知らないニーナ教授のことを知っていることは確かだった。

「あの、ちょっと聞いていいですか?」

「なんでしょう?」

「どうして、空間ポケットをおひとりでつくられたんですか?」

 僕の問いかけににっこりと笑んだ顔を向けてくれるゾフィアさん。

 見下ろしたお腹に貼りついている空間ポケットは、もの凄い発明品だ。もし普及したとしたら、魔法町の有り様は大きく変わりかねない。それほどに凄いものだ。

 ちょっと聞いた限りでは、機能を起動させて余剰空間を生み出すには魔法を使っているそうだし、取り出す物体の選択にはモントーク技術が使われている。

 精神物理学の成果とも言える空間ポケットは、ニーナ教授にとっても興味深い発明品のはずだ。

 それを何故、知り合いで、ニーナ教授はなんか不機嫌そうだったけど、ゾフィアさんの方は仲がいい様子があったんだ、一緒に研究しなかった理由がわからない。

 踏み込んでいいことかどうかわからないけれど、僕は興味が湧いてきて、それを訊いてみることにした。

「目的があったからです」

「目的?」

 そう答えて楽しそうに笑うゾフィアさんの言葉の意味を、僕は計りかねた。

 もう少し深く訊いてみようと口を開いたとき、それを制するようにゾフィアさんが先に言った。

「この辺りはあまり変わっていませんね。よかった」

 その言葉に辺りを見回してみると、いつの間にか積層上野公園の近くまで来ていた。

 反重力の妙技とも言われる空中不忍池は、空中に浮かぶ巨大な水の球で、それを囲むように板状の庭園が何層にも重なっている。

 地上から噴出する湧き水を循環させ、透明度の高い空中不忍池は、ただそこにあるだけで見惚れるほどに美しい景観だ。

 でも、この時期の積層上野公園は、僕にとっては鬼門と言えた。

 そろそろ昼が近いらしく、多くの人が集まりつつある庭園には、様々な植物が生えている。

 その中にはもちろん、白い穂を垂れる、イネ科の植物も多くある。

 まだ距離があって、見ているだけなのに、僕は鼻がむずむずし始めていた。

 ――そう思えば、まだミレーユ助教授にもらった薬、飲んでなかったな。

 研究室に着いたら飲もうと思っていた薬は、ゾフィアさんに連れ出されてしまったから、まだ飲んでいない。飲んでいれば多少の症状なら抑えられると思うけれど、これ以上庭園に近づくとクシャミが止まらなくなりそうだった。

「実験もありますし、お菓子はまたにしてそろそろ大学に帰りま――」

「わたしは、ニーナのことが好きなのです」

 帰ろうと促す言葉を遮るように、突然ゾフィアさんがそんなことを言った。

 彼女の浮かべる涼やかな笑みは、今日これまで見てきたものと変わらないように思える。

 でも、その細めた目の奥、瞳の底にあるものに、僕は底知れない寒気を感じていた。

「本当は離れたくなんてなかったのです。けれど、わたしはあのとき、彼女の命令を聞くしかありませんでした。できればわたしは、ニーナをわたしだけのものにしたいと望んでいます」

 もう見なくても、その言動だけで異常だとわかるゾフィアさんの様子。

 危険を感じて逃げ出そうとした瞬間、上野公園の庭園プレートの縁にホウキを寄せたゾフィアさんは、そこに生えた白い穂を垂らす背の高い草に手を伸ばし、引き抜いた。

 ――まずい!

 と思ったときには、僕の顔の目の前、鼻先で白い穂が振られていた。

 なんでこんなことを、と思ってゾフィアさんの方に目を向けると、僕から遠ざかっていくのが見えた。

 その彼女が呟くように言った言葉。

「美しい花にたかるものは、例えミツバチではなく無害な羽虫だったとしても、排除すべき邪魔な存在なのですよ」

 正常とは思えない笑みと言葉を残して、ゾフィアさんは遠くへと消えていった。

「ぐふっ」

 それを追っていくことができない僕は、こみ上げてくるクシャミを抑えるために、両手で鼻を押さえる。

 ホウキの操縦が乱れることなんて気にしていられない。

 ――ダメだっ。いまクシャミしちゃダメだ!

 理由はわからない。でもいまクシャミをしたら終わりだ。

 そんな思いが僕の頭を駆け巡って、顔を覆って必死でクシャミを抑え込もうとする。

 でも無情に、花粉で刺激された僕の粘膜は、クシャミを繰り出そうと横隔膜を震わせる。

 ――もうダメだ!!

 我慢が限界を超え、肺に溜まった空気を全部吐き出す勢いでクシャミをしようとした、そのとき。

 背中に柔らかい感触。

 それが衝突してきたのと同時に、ひねり潰す強さで僕の鼻を細い指がつまみ上げた。

「んぐっ」

「我慢しなさい! ミレーユ!!」

「わかってる!」

 後ろから聞こえたニーナ教授の声に応えたミレーユ助教授は、すれ違い様に僕のお腹から空間ポケットを剥がし取った。

 それを、ニワトリのものにしてはずいぶん大きい卵に被せ、すぐ側の積層上野公園の庭園の縁に叩きつけた。

 途端にそこから伸び上がったのは、蔓。

 まるで童話のジャックと豆の木のように、叩きつけられた地面から真っ直ぐに伸びていく太い蔓は、一瞬にして視界に収まらなくなり、見上げた空の一点に向けて微かな衝撃波を発しながら伸びていった。

 突然のことにクシャミの気配もなくなり、先端は青い空の霞んで消えてしまっている蔓を見ていた。

 背中に感じてる柔らかい感触は、ニーナ教授の胸。

 まだ僕の鼻を捻り上げてる彼女も、僕と一緒に空を見上げていた。

 鼻をつままれてからほんの一秒ほどのこと。

 どうしたのかと問おうと思った次の瞬間、見ていた空に変化があった。

 黒い球体。

 さっき感じていたのとは別の危険を感じた僕は、無意識のうちに振り返ってニーナ教授の身体を抱き締める。

 黒い球体から溢れるように発せられた光。

 爆発的なそれは、光が身体に届いたと思ったときには、衝撃波が襲ってきていた。

 片腕でニーナ教授の身体を、片腕で彼女の頭を守る僕は、衝撃波によって吹き飛ばされた。

 近くにいた人々も、公園の木々や不忍池も、激しい衝撃波によってもみくちゃにされる。

 地面に背中から叩きつけられるものの、痛みはあっても意識を失うまでには至らない。運良くすぐそこの上野公園の上に落ちたらしい。

「大丈夫、ですか? ニーナ教授」

「……えぇ。助かったわ、湯川君」

 一瞬だった衝撃波は過ぎ去り、僕の胸元から顔を上げたニーナ教授は、土を被ったりしていたものの、怪我をした様子はなく微笑んでいる。

 まだ事情はわかっていないけれど、ニーナ教授が無事であることに安心する。

「きゃあーーーーっ!!」

 安心したのもつかの間、そんな悲鳴とともに濃い紫色の物体が空から降ってきて、お腹に直撃した。

「ぐほっ」

 荒々しく流れ落ちる滝のような髪に、それがミレーユ助教授であることを認識したときには、お腹をお尻でプレスされた僕は、うめき声とともに意識を口から吐き出していた。

 

 

          * 4 *

 

 

「つまり、魔法安定装置を搭載してなかったってことですか?」

「そうよ」

 空間ポケットが上空で爆発した後、僕は大学の医務室に担ぎ込まれた。他にもたくさん怪我した人がいたために、最速で治療してもらえるようニーナ教授が気を回してくれたおかげだ。

 背中とお腹にけっこう酷い打撲と、肋骨の何本かにヒビが入り、頭にも包帯を巻いているという僕は、満身創痍の状態になっていた。

 入院するまでではなく、痛み止めと治癒を促す薬で数日程度で治りそうなくらい軽いものだったのが不幸中の幸いか。怪我の原因は爆発というより、ミレーユ助教授のヒッププレスだったような気がするけれど、わざとではないし、気にしないことにする。

 いま僕は実験室に戻ってきて、椅子に高く足を組んで不機嫌そうに眉を顰めているニーナ教授に説明を受けたところだった。

 他には何故か無傷のミレーユ助教授と、簡易的な拘束服に着させられたゾフィアさんがいた。

「むっ、無茶苦茶危険じゃないですか!」

「そういうこと。入荷するはずだった液体窒素が大量に漏れた事件もこいつの仕業だし、こいつは危険なのをわかってて、それをここに持ち込んだの。――貴方を、抹殺するためにね」

 ニーナ教授の言葉に、僕は思わず身体が震えていた。

 説明によると、空間ポケットには魔法安定装置が搭載されていなかったという。

 魔法安定装置は、反重力ホウキなど、魔法で動く道具には必ず搭載されている回路のことだ。

 人間が身体から発している魔力、念力は決して一定ではなく、平常時でもリズムを刻むように強くなったり弱くなったりする。感情が高ぶると強くなったり、逆に沈むと弱くなったりもして、常に一定の力が放出されているわけじゃない。

 体調が悪いとほとんどゼロになることもあり、身体の変調によって瞬間的にはゼロになることも少なくない。

 もし魔法安定装置が搭載されていなかったら、魔力の放出がゼロになった瞬間、例えば反重力ホウキなら落下することになる。

 ゼロになるのはたいてい一瞬のことだから地面まで落ちることはないけれど、事故の原因にもなり得るから、それへの対策は魔法安定装置を搭載するという方法で必ず行われている。

 魔力の放出がゼロになるのは、激しく驚いたときや、強い痛みを感じたときなど。

 それから、クシャミでも起こり得る。

 もしあのとき僕がクシャミをしていたら、その瞬間空間ポケットは機能を停止していたことになる。

「機能が停止するだけだったら問題はなかったはずだったんだけどね、あの空間ポケットは、機能停止と同時に中身をその場で再構築するように仕込まれてたの。あの、ポケットの中の狭い空間で」

「それで、あの爆発だったんですね」

「えぇ」

 詳しい理屈は推測するしかないが、本来よりも大幅に圧縮された形で再構築された四本の小型ボンベは、たぶん小規模な核融合爆発か、それに近い現象を起こしたんだと思う。

 あのときはクシャミの代わりに、ミレーユ助教授がいたずらのために持ち込んだ爆植卵で身体から離され、体温のエネルギーと魔力の供給を断たれたために上空で爆発した。

 もしあのとき僕がクシャミをしていたとしたら、一度機能を停止し、内容物を再構築した空間ポケットは、魔力が復活しても再格納するよりも前に爆発していたという。

 そんなことをゾフィアさんは、失敗したからではなく、爆発させることを目的として、空間ポケットから安定装置を取り除いていたという。

 僕を、抹殺するために。

 口こそ塞がれていないが、拘束服によって見ることも歩くこともままならないゾフィアさんから、僕は震えながら距離を取った。

「な、なんでこんな人が野放しになってるんですか!」

 今回の爆発で、積層上野公園はかなり荒れてしまった。しばらくは閉鎖して、再整備が必要なくらいに。

 怪我をした人も一〇人じゃ下らなかったはずだ。

 そんなことをし出かしてしまう、それどころかニーナ教授の話では今回が初めてではないというゾフィアさんが、捕まりもせず外を出歩いてることが信じられない。

「そこの辺は複雑な事情があってね。今回もこの後、しかるべき場所に連れて行かれると思うけど、たぶんいつも通りすぐ出てくると思うわ」

 机に頬杖を着きながら言うニーナ教授の言葉が飲み込めない。

 いくら不思議なことや驚くことが多い魔法町と言えど、騒動を起こし、人に怪我をさせたり公園を荒らしたりしたら、捕まるのが当然のことだ。

 そんな人がすぐに出てきてしまうなんて、あり得ることじゃない。

「なんでなんですか……」

「まぁ、湯川君も感じたと思うけれど、こいつは天才的な発明家なのよ」

「それは、わかりますが」

「だから、こいつに恩を売るためにお金を出す人はいくらでもいるわ」

 法が整備された魔法町であっても、お金の力によってある程度どうにかなってしまうのは、今も昔も同じだ。お金を積めば保釈されることもあるし、腕のいい弁護士を雇えばよほどのことをしてない限り、無罪や軽微な罰則で済んだりもする。

 実体は恐ろしいものだったわけだけど、空間ポケットは確かに凄い発明品だった。僕も感心してしまったくらいだし。

「ただいろいろと問題があってねぇ……。こいつが一番最初に世の中で注目されたときにつくったものって、なんだと思う?」

「いえ、わかりませんが」

「確か停蔵棺桶、だったわよね?」

「えぇ」

 わからない僕の代わりに答えたのは、ミレーユ助教授。

 ニーナ教授と同じように眉根にシワを寄せ、複雑な表情を浮かべている彼女の言った停蔵棺桶というものを、僕は知らなかった。

「どんなものなんです?」

「限定された空間の時間を、ほぼ停止させる技術が確立されているのは知ってるわね?」

「えぇ。でもあまり実用的じゃなかったですよね」

「その通りよ」

 限定された空間、例えば冷蔵庫程度のサイズの中身の時間をほぼ停止させることができる技術は、理論としては実現できていた。

 ただし時間を停止させるためには、限定された空間の中だけとは言え、恐ろしいほどの電力を必要とし、その上安定性がいまいちで、ちょくちょく部分的に通常時間に戻ってしまう現象の発生を抑えきれないことが知られていた。

 時間が停止した空間は光はもちろん、あらゆる観測手段が使えないため、ムラのある通常時間復帰を観測することも難しく、実用性の低い停蔵庫しかつくることができていない。

「こいつはね、以前大学にいたときに、電力供給も不要で、ムラなく完璧に時間を停止させられる上、外からの観測も可能なものをつくり上げたのよ」

「……凄いっ」

 空間ポケットでも驚いた僕だけど、その停蔵棺桶にはさらに大きな驚きを覚えていた。

「でも、なんで棺桶なんです?」

「……はぁ」

 僕の問いに、ニーナ教授は大きくため息を漏らす。

 そんな彼女の代わりに、ミレーユ助教授が答えてくれる。

「ガラス張りの棺桶でね、中に入れたものの時間は完璧に停止してるのに、外から光学観測が可能だったのよ。理論自体は以前からある時間停止と変わらないのに、どうして外から観測できて、ムラなく時間を停止できるのか、結局解明できなかったそうよ。この子の発明品は、他の人には再現できないものが多いのよ」

 見せつけるように胸の下で腕を組むミレーユ助教授も、そう言って大きなため息を漏らした。

「まぁそんなものだったわけ。棺桶である理由のひとつは、空間ポケットと同じで、魔力で稼働するものだから。中に入れられるのは人間に限定されてるの」

「なるほど。それで棺桶」

「それだけじゃないわ。こいつがそれをつくった理由はね――」

「永遠に、ニーナをいまのまま保存するためですよ」

 ニーナ教授の言葉を遮り、場違いな元気のいい声で言ったのは、ゾフィアさん。

「ニーナ教授を、永遠に保存?」

「えぇ。湯川さんはニーナのことが美しいと思いませんか?」

「それは……、まぁ」

 ちらりと見たニーナ教授は、少し金糸のような髪が乱れていたりはするが、確かに綺麗だと、美しい人だと思う。

「老いによって衰えることなく、改造などの手も加えず、永遠にその姿を保つためには、停蔵棺桶に入れるしかなかったのです。ニーナはそうして保存するに足る人です。でも、拒否されてしまったんですよー。不思議ですね」

 本当に理由がわからないように、ゾフィアさんは小首を傾げて見せる。

 目隠しもされてるからわからないが、たぶん本気で不思議そうな表情を浮かべていることだろう。

「そりゃあ私だって永遠に老いないというのには興味がないわけじゃないけど、そのために時間を停止されて保存されるなんてまっぴらよっ」

「本当に残念です。ニーナは人類にとっての宝だと思いますのに。保存が叶わないなら、いっそのこと食べてしまいたいですね。そうすれば、わたしとひとつになって、ニーナは永遠にわたしの中で生き続けることになりますし」

 そんなゾフィアさんの言葉に、クシャミが出そうになっていたときよりもさらに強い恐怖と寒気に、僕は襲われていた。

 ――狂ってる!

 ここに戻るまでに聞いた、ゾフィアさんの通称。

 狂才Z。

 見た目もちょっとした言動も普通なのに、まさにその通称がぴったりの思考を、彼女がしていることを僕は理解した。

「もういいわ。連れて行ってちょうだい」

 ニーナ教授の言葉に、実験室の外で待っていた警備員がふたり入ってきて、ゾフィアさんの腕を抱えて持ち上げた。

「また近いうちに会いましょう、ニーナ」

「イヤよ!」

「本当にいけずですね、ニーナは」

 拒絶の言葉も気にした様子もなく、クスクスと笑い声を漏らすゾフィアさんは、実験室から連れ出されていった。

 どっと疲れた僕は、近くの椅子を引き寄せて座り込んだ。

「なんか、凄まじい人ですね……」

「えぇ。本当に。あぁいう人もいるのよ。いえ、本当に人なのかしら? 地球人なのかどうかも、不明なのよね、あれは。何にせよ、今回の件はこれで終わりよ。いろいろ、不安はあるけれどね」

 そんなニーナ教授の宣言に、僕たち三人は同時に大きなため息を吐いていた。

「でもまさか、クシャミで死にかけるとは思いませんでしたよ。ミレーユ助教授の言うように、手術とか薬で治した方がいいものなんですかね」

「そういう方法があるってだけのことよ。別に強く勧める気まではないわ。手術や薬に頼りたくないという価値観も、別に否定されるものではないもの」

 朝もそんなに強く勧めてきていたわけじゃないミレーユ助教授は、僕の視線に肩を竦めて見せていた。

「別にいいんじゃない? 湯川君の好きにすれば」

 目を細めながらそんなことを言い出したのは、ニーナ教授。

「そうですか?」

「えぇ。この魔法町では、いろんな価値観の存在が許されてるんだからね」

「それは……、そうですね」

 魔法町に住む人の価値観は、本当に多様性がある。

 地球人の価値観なんてほんのひと欠片のものでしかなく、宇宙からやって来た人だって多いし、歴史の授業で習おうような昔の倫理観なんてもうすっかり形骸化してしまっている。

 多様にして雑多、そしてそんな様々な価値観の折り重なりから発生するエネルギーこそが、いまの魔法町を活気づけていることは、誰も否定することではないだろう。

「その許される価値観の中に、狂才Zのものもあると言うのかしら?」

 ぽつりと言ったミレーユ助教授の言葉に、僕とニーナ教授は顔を見合わせ、何度目なのかわからない大きなため息を漏らしていた。

 

 

                    「色即Z喰」 了



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第四話「百花霊乱」

先日起こした事件を起こして捕まったはずのゾフィア・アインシュタインが営業の男性とともに訪れ、紹介してきたのはARコスプレガジェット「ゴスト」。
参加を要請されたハロウィンパーティを、湯川は警戒するが、ニーナは前向きに検討するという。不安を抱える湯川の、そしてニーナたちの運命はいかに?!


 

   百花霊乱

 

 

          * 1 *

 

 

 大型のブラウン管モニタに向かい、手元のキーボードで実験結果の数値を打ち込んでいたニーナは、ぽつりとつぶやいた。

「面倒臭い」

 細く白い左手の指でかき上げた腰までの髪は、一本一本が黄金でできた糸であるかの光沢を持ち、さらさらと背中に流れた。

 色は濃紺と控えめであるが、ふんわりと広がるスカートの裾や、チューリップの花のように開いた袖口にレースがあしらわれた服を身につける。

 ダークグリーンのネクタイが緩やかに、けれどはっきりと曲線を描く胸元の上、小さな顔にくっきりとした意思の見せる輪郭をした顔は、いまはその眉根に深いシワが刻まれていた。

 ゾフィアが持ち込んだ空間ポケットの暴発により、積層上野公園周辺が破壊されてから一週間。

 死者こそひとりも出さなかったものの多数の怪我人と、完全修復に半年はかかるという公園の被害を出したが、事件としては一応落ち着きを見せている。犯人であるゾフィアはいまは警察に留置されているはずで、大学も、ニーナの周辺も日常が戻りつつある。

 しかしながらあのとき骨折や打撲などの大怪我を負った湯川は、まだ大学に復帰していない。

 完治まで三ヶ月と診断された怪我は、ゾフィアから分捕った医療費を注ぎ込み、手配できる最高の病院と最新の医療技術、回復促進剤などを投入し、おそらく今日辺りには復帰できる予定であった。

「早く帰ってきてくれないかしら? 湯川君」

 ひとつため息を吐き、ニーナは入力を中断してため息を吐く。

 湯川の復帰が待ち遠しくて仕方がなかった。

 ニーナには彼の存在が必要であると、いままでも思っていたことであったが、いまこそ彼の存在がほしくて仕方ないと思ったことはなかった。

 振り返って見てみた実験室内。

 実験用の机の上はもちろんのこと、床にも実験機材やボンベ、紙類のゴミなどで溢れ、すっかり腐海を形成している。パソコンを置いてある机の方にも、いくつもの紅茶のカップであるとか、お菓子の袋の群であるとか、片付けが必要なもので溢れてしまっている。

 助手の湯川が、いまこそ必要だった。

 先週から事件のことで警察に何度も行っていて実験室の利用率は高くない。片付けようとも思っていた。

 けれどやるべきこと、やりたいことがあると、どうしても片付けは後回しになってしまう。

 教授であるニーナに対し文句も言えば、小言も言うし、親かと思うくらい口うるさいこともあるが、それでも湯川は助手として優秀だった。

「早く帰ってきてくれないと、貴方の今週の残りの仕事、片付けだけになるわよ」

 自分のことは棚に上げ、キーボードをどかして机に突っ伏したニーナは、そう愚痴をこぼしていた。

 そのときだった。

 ところどころペンキの剥げた、実験室の扉を叩くノックの音がした。

「湯川君かしら?」

 ――よしっ、これで部屋も片付くし、美味しい紅茶も飲める!

 希望の部分は口から漏らさないよう気をつけ、できるだけ平静を装いつつ、しかし唇の端が笑みにつり上がるのを押さえきれないニーナは、オフィスチェアから立ち上がって扉に近づいて行った。

 

 

            *

 

 

 愛用のダブルサイクロンホウキから降り立った、大学の本校舎中層にあるエントランスには、ホウキや反重力シューズなどで飛び立つ人、僕と同じように降り立つ人で賑わっている。

 ちょうどお昼時。

 大学内にいくつもあるそれぞれ個性のある学食や売店は人でごった返す時間で、食事処の多い大学の周辺で昼食を取る人も多い。

 この辺りでもひときわ高い国立魔法科学大学の校舎の周囲には、上にも下にも様々な人が飛び交っていた。

 ――なんか懐かしいな。

 今日の午前中に行った病院で、僕は医者から完治を言い渡された。

 ゾフィアさんからの医療費とか言うので時間優先で治療してもらえたため、貧乏学生である僕が出せる金額じゃ診断通り三ヶ月はかかっただろう怪我は、たった一週間で治ってしまっていた。

 ニーナ教授やミレーユ助教授には怪我がなかったし、僕もこうして大学に復帰できたし、ゾフィアさんもいない。事件の爪痕はまだ残っているだろうけど、今日からはこれまでと同じ日常が始まる。

 早めに昼食を済ましてきた僕は、ホウキをエントランスのとこにある鍵付きロッカーに収め、早速ニーナ教授がいるだろう実験室に向かう。

 ――ゾフィアさんとは、もうしばらくは会うことはないだろうな。

 空間ポケットなんてものを造れちゃう凄い人なのはわかるけど、積層上野公園はもちろん、僕を含めてたくさんの怪我人を出したんだ、実刑を免れることはないだろう。

 ニーナ教授への執着の凄まじさもあるし、可愛らしい笑みの裏で僕に対する敵愾心むき出しのこともあるし、見習いたいくらい凄い人なのはわかってるけど、二度と会いたくなかった。

 ――ニーナ教授の助手を続けてたら、また会うこともあるのかなぁ。

 そんなことを思ってため息を吐きつつ、比較的人の少ない実験室ばかりが集まってる区画までやってきた。

 三日の入院の後は自宅療養で、一週間ぶりの実験室。

 もうすっかり見慣れてしまっているその古い扉に、やっと戻ってこられたのだと実感した僕は、笑みを零しつつ軽くノックをした。

「失礼します」

 部屋の照明が磨りガラス越しに点いているのを確認した僕は、中にいるだろうニーナ教授に声をかけながら扉を開けた。

 実験室の中では定位置となってるパソコンを置いてあるデスクの前のオフィスチェアに座る、ニーナ教授。

 一週間ぶりの彼女は相変わらず見惚れてしまいそうなほど綺麗で、可愛らしい。

 が、部屋に一歩踏み込んだ僕のことを見るその眉根には、深いシワが刻まれていた。

 たった一週間で腐海となりつつある実験室の中よりも気になったのは、ニーナ教授の側に立っているふたりの人物。

 ひとりはたぶんどこかの営業らしい、満面の愛想笑いが板についている男性。

 パリッとした彼が着ている黒のビジネススーツはでも、おしゃれなデザインのものだ。よく大学に出入りしている業者の人とは違い、ハイソな業界の営業であることを窺わせるものだった。

 それからもうひとりいる、小柄な人物。

 赤い柄物の和服と、しっとりとした長い黒髪。それから、どこか人形染みた整った顔立ち。

 ゾフィア・フランケンシュタイン。

「え? あれ? あ?」

 彼女のことを認識した瞬間、意味不明な声を漏らした僕は、その場にへたり込んでしまっていた。

 

 

          * 2 *

 

 

「なんでゾフィアさんがいるんですか?!」

 そんな僕のできるだけ抑えた声に、ニーナ教授は疲れた顔で乱れた金色の髪をかき上げた。

 腐海に飲まれつつある実験室では椅子も場所も足りないので話をすることはできず、ゾフィアさんはともかく営業の男性は外来客なので、応接室に案内することになった。

 一番近い食堂でお茶と茶菓子を用意してもらい、それをお盆に乗せた僕はニーナ教授と並んでゾフィアさんが待つ応接室に向かっている。

 ゾフィアさんには正直会いたくないが、さすがにニーナ教授だけで会わせるわけにはいかない。

「まぁ、あの子がすぐに出てくるのは予想通りではあったんだけどね……」

「予想通りぃ?」

 そう言って深いため息を吐くニーナ教授に、僕は驚きの声を上げてしまっていた。

 あれだけの事件を起こし、警察に捕まって、しばらくは陽の下を歩けなくなっているはずのゾフィアさん。

 それなのに彼女は、今日アポイントもなく相談があるとニーナ教授を訪ねてきたのだという。

 彼女が外を出歩いていられる理由を、僕は思いつけなかった。

「湯川君も知ってる通り、あの子は研究者というより発明家なのよね。大学にいたときも、その前も、私も知らないけどたぶん大学を離れていたときも、いろんなものを造っていたのよ」

 肩を並べて廊下を歩くニーナ教授の美しい髪は、いまはいつもに比べてツヤがないように思えた。

「私たちのような研究を旨とする者でもそれなりに企業とはつながりがあるんだけど、あの子の場合はそのパイプの太さと数が比較にならない。気が向くままにほしいものを造って、それを登録していろんなパテントを持ってる。造るものが造るものだから直接製品化できるものは多くないみたいだけど、空間ポケットもそうだったように、応用すればとんでもない製品に化ける」

 ニーナ教授の言うように、僕だって自分の研究関係とか、助手をする中で企業や他の大学とのつながりはある。自分の研究を公表して、個人や法人からの支援を受けるのも普通のことだし。

 逆に大学に許可を取って、外から依頼された実験や検証で小遣い稼ぎ程度の仕事を受けることもある。

 でも僕たちがやっている基礎研究というのはたいていの場合、即座にお金になるものじゃない。

 研究の大半は、人から評価されていたとしても、直接お金になることは少ない。ずいぶん時間が経ってから注目されることも珍しくないし、場合によっては論文を発表した本人が亡くなってから意味を持つなんてこともあったりする。

 それに対して発明家寄りのゾフィアさんの造るものは、彼女が造ったものが直接製品にならないとしても、基礎研究に比べれば圧倒的に製品に近いと言える。

 この前の空間ポケットだって、あの使い方はどうかと思う。でもそれに使われている理論や技術の組み合わせは、空間ポケット以外にも応用が利く、画期的なものであることは僕にもわかっていた。

 そうしたものをたくさん造っているのだとしたら、彼女は多くの企業に注目され、引っ張りだこになっていても不思議ではない。

「そのことと、いまゾフィアさんが外を出歩いていることと、どう関係しているんですか?」

「わかると思うけど、あの子の持ってるパテントを利用したいって企業は多いのよ。だからあの子がひと声かければ、保釈金を出してくれたり有力な弁護士をつけてくれたり、裁判を有利に進めるための証拠を揃えてくれるってとこはいくつも出てくるわ。過去に何度も捕まってるんだけど、毎回そんな感じですぐに出てきちゃうのよ」

 真っ暗な顔をしたニーナ教授は、細く綺麗な親指と人差し指で輪をつくり、僕に見せつけてくる。

「世の中はつまり、お金でどうにでもなっちゃうってこと。悲しいことだけどね」

「まぁ、そうかも知れませんが、ね……」

 お金で望んだことが何でもできるというのは幻想に過ぎないけど、社会の中に限定すればそれは真実だ。

 僕だってゾフィアさんのことは怖いけど、ニーナ教授がこれほど嫌がってる理由を、いまこそ理解した。

「でも……、今日は何しに来たんでしょうかね」

「さぁ? 付き添いと言ってけどね。何でも一緒にいた男の人が、私に紹介したい商品があるんだって」

 ゾフィアさんのインパクトに隠れてしまっていた、営業の男性のことを思い出してみる。

 スーツはけっこう高級そうで、髪や肌の手入れも怠っていなさそうだった。何より愛想笑いが板についていて、それなりの経験があり、それなりの業界にいる人物だと想像できる。

 理系の、それも魔法科学系大学に出入りしているには、生徒はもちろん職員も、さらに業者なんかも野暮ったいか、怪しい感じの人が多い。

 もちろん割合の問題で、ニーナ教授やミレーユ助教授のような美少女、美女だっているし、まともな人もおしゃれな人も少なくない。中身がまともかどうかは、言及しないが。

 あの営業さんについては、どうにも僕やニーナ教授が触れることの多い業界の人物ではないように思えていた。

「悪い予感しかしないんだけどね……」

「それは確かに……」

 応接間の前に着いた僕とニーナ教授は、扉に手をかけながら、一緒に大きくため息を吐いていた。

 

 

            *

 

 

 営業の男性の話を理解することを、僕は放棄した。

 比較的簡素な応接室で、僕は眉を顰めながら壁を背にして立つ。僕の斜め前でソファに座るニーナ教授も、微妙な表情を浮かべてることから察するに、同じように聞き流しているらしい。

 ファッションをレヴォリューションしてイノベーションをクリエイトするガジェット、の売り込みに来たという営業さん。

 その見事にカタカナ言葉ばかりを並べた営業文句は、細かいことを考えていない人にはその勢いと笑顔で押し切れるかも知れないが、僕やニーナ教授には通用するののじゃない。

 僕たちも学術用語を多用することは多いけれど、それとはまた違う翻訳が必要な言葉を並べられても、呆れるばかりで魅力を感じることはない。

 ニコニコとした笑顔を浮かべながら話を続けてる営業さんのことは無視して、僕は手渡された資料を眺めていた。

 ――ゾフィアさんは、いったい何を考えているんだろう?

 付き添いできただけだと言い、挨拶の後はいまのところ口を挟んでこないゾフィアさん。

 こうして見ている分には、その整った顔立ちの可愛らしさに見惚れてしまいそうだ。

 でも営業に来るだけだったら、正規にニーナ教授にアポイントを取ってくればいい。それが大学や研究に関係することだったり、個人的にであってもニーナ教授が興味を持つようなことであれば、邪険にすることはない。営業さん単独なら、だけど。

 それでも今日、わざわざここに一緒に来たと言うことは、ゾフィアさんなりに理由があるんだと思う。

 けれど僕は、彼女の思惑を推し量ることができないでいた。

「――えぇっと、つまり、新しいコスプレグッズってことで良いのかしら?」

「そうですね。そうしたワードでエクスプレスするのがわかりやすいかも知れませんね」

 さすがに辟易してきたのか、ニーナ教授が営業さんのトークを遮るようにそう言った。

 資料の他にローテーブルの真ん中に置かれているのは、幅も厚みもそこそこある銀色のブレスレット。

 小型の真空管が埋め込まれるように取りつけられたそのブレスレットの商品名は「ゴスト」。

 資料と営業さんの話を総合すると、魔法を応用した拡張現実(AR)の進化形、魔法現実(MR)技術を組み込んだ商品らしい。

 単体で機能するものじゃなく、複数人が端末であるゴストブレスレットを填め、別途ホストとなるゴストシステムを設置する必要がある。

 ブレスレットには装着者の精神波を送受信する機能があり、ゴストシステムを介することにより装着者全員に望む姿を見せることができる。

 言うなればARコスプレだ。

 ARと言えば遥か昔から利用されている、モニターや眼鏡型ディスプレイを利用し、カメラを併用することで現実には存在しない物体をあたかも存在するかのように見せるものが一般的。そこから発展して精神波を利用したダイブデバイスがあったり、看板なんかのネオン装飾の代わりに使われている、ホロンというホログラムもARの一種と言える。

 遊びや装飾だけでなく、広告なんかにはよく利用されてるし、高空の空路では渋滞などの変動する情報を表示するのにホロンが使われている。

 ブレスレットとホストが必要なゴストは、ブレスレット装着者同士しか衣装が見えないため、ホロンほど汎用性は高くない。現実に投影するものであるため、モニターに表示される旧来型ARほどの自由度があるわけでもない。

 でもその両方にとって中間的な位置にあり、比較的閉鎖的な場所での使用、例えばコスプレパーティであるとか、結婚式であるとか、準備に時間と手間がかかるような場所で、それらの圧縮と手軽さを武器に売り込もうという商品だということはわかった。

 コスプレと言えば、昔ながらの衣装のみのものがいまでも一般的だけど、他にもDNAコスプレといった価格的にはちょっと高く、同時に入手ルート次第では危険が伴うものなどがある。

 ゴストは安全で、まずはパーティ会場での貸し出しが想定されているため、荷物なしでコスプレが楽しめるという、興味がある人にとっては魅力的な商品のように思えた。

「行く行くはゴストをごく一般的なファッションアイテムにしていきたいと考えています。服を着る代わりにゴストで着飾る。気分やシチュエーションが変わればその場で着替える。という社会イノベーションが我々の目標です」

「……これ、見た目だけなら環境変化に弱いんじゃないの? 暑かったり寒かったりすると、大変じゃない? 厚着はコスプレ衣装からはみ出そうだし」

「それについては問題ありません。精神波を使いますので、はみ出しは認識しないようにできます。ゴストブレスレットにはボディコンディショナーが内蔵されていますので、多少の暑さ寒さは気になりません。それでも厳しい環境では、専用のアンダーウェア、ゴストウェアを用意しております。ブレスレットとウェアを組み合わせれば、砂漠のど真ん中でも、真冬の南極大陸でもコスプレパーティを開催できます」

「なるほどねぇ」

 営業さんのはきはきした声に、ニーナ教授は資料をめくりながら気のない返事をしていた。

 ――でも、ゴストにはゾフィアさんが関わっていそうなところ、ないよな。

 資料を見てみた限り、確かに商品としては画期的なんだけど、空間ポケットのような常識から隔絶した発想や技術が組み込まれているようには思えない。

 見えない部分で関わっているとしたら、そこをネックに恐ろしいことが起こりそうで、面白そうではあっても使う気にはなれなかった。

「これ、貴女の手が入ってそうな気配はあるんだけど、それはどこなの?」

 僕が覚えた疑問をニーナ教授も持っていたのか、黙ってニコニコと笑っていたゾフィアさんに質問した。

「それはここの部分ですね」

 自分の資料をめくってテーブルに置いたゾフィアさんは、ページの一カ所を指し示した。

「イマジュネーションコンバータ?」

「そうなのですよ! フランケンシュタイン様にはそのイマジュネーションコンバータの部分で協力してもらっていますっ。ゴストはブレスレット装着者が予め用意したファッションデータと、ホストに入力したデータの他に、装着者がイメージした姿に変身する機能があるのですっ。また、データがある場合でも細部のディティールなどの補完や調整にイマジュネーションコンバータを利用しています。自由に、そして不都合なく思いのままファッションを楽しむことができるのは、その技術を組み込んだためです!」

 熱を籠めて語る営業さん。

 彼の言う通り、データなしでも変身でき、あまり細かいところまでつくり込まれていないデータでも利用できるという、けっこうコアな部分の機能のようだった。

 ただ、この機能には空間ポケットのような危険性は感じられない。

「元々は別のことに使おうと思って開発したものだったのですけれど、上手くいかなかったのでパテントだけ取って放っておいたのですよ。それをここの方が使いたいと連絡を頂いたので、提供することにしたのです」

 笑みを浮かべながら言うゾフィアさんは、嬉しそうにパチンとひとつ手を叩いていた。

 その姿だけ見ると、純粋に嬉しがっている可愛らしい女の子だけど、彼女にはその裏があることは充分以上にわかっている。警戒は解けない。

 それにたぶん、このタイミングで一緒に現れたってことは、ゾフィアさんの保釈金を支払うなり、弁護士をつけて留置所から外に連れ出したのは、営業さん本人ということはないだろうけど、ゴストの会社なのだろうし。

「元はどんなものに使う予定だったの?」

「それはですね!」

 ニーナ教授に質問されたのが嬉しかったのか、輝かんばかりの笑顔で応じるゾフィアさん。

「女の子の永遠の夢、違う自分になりたいという変身願望を叶える道具、変身ブレスレットをつくるための技術だったのですっ」

 変身願望は女の子だけのものじゃないと思うけど、そこについては置いておく。

 何となく背筋に冷たいものを感じ始めた僕は、口をへの字に曲げてそれ以上ゾフィアさんの言葉を聞きたくない気持ちになっていた。

「変身ブレスレット?」

「はいっ。DNAレベルで人間を変身させるブレスレットを造ろうと思って、望む姿になれるようイマジュネーションエンジンを組み込んでみたのですが、うまくいかなかったのですよぉ」

「DNAレベルで、って……。いったいどんなところが上手くいかなかったの?」

「アニメやゲームのように瞬時に変身が完了するようにしたかったのですが、全身のDNAをすべて書き換えるとなると最低でも数時間、平均で数日はかかってしまったのです。それに、当然なのですが脳などの中枢神経も造り替えられてしまうので、記憶や経験の保持が難しかったのです」

 さらっと凄いことを言っているゾフィアさん。

 思った通りのものはできなかったようだけど、機能するものは造れたわけだ。ただし、もし人間が使ったら、変身どころか別人になってしまうものだけれど。

 驚きに口を小さく開けてしまった僕に対し、ニーナ教授は眉根のシワを深くして、さらにゾフィアさんに質問をする。

「それ、実験動物でテストしたわけ?」

「まさか。変身願望を口に出してしまうほど強く持ってしまうのは知的生命体だけですよ? 実験動物では充分な検証ができませんよ」

「――実験、したの?」

「えぇ、もちろん。あ! でも心配ありませんよ? 世の中のゴミがほんの数人ほど、無垢でまっさらな美少女という、新しい人生を歩むことになっただけですから、世の中に何も損失は出していません」

「……」

 驚きのあまり声も出ない。

 倫理観や常識を求めるても仕方ない人だろうとは思うけれど、にこやかな笑みで語るゾフィアさんのことが同じ人間と思えないほどだった。

 彼女の隣に座っている営業さんも、同じように笑みを浮かべている。

 意味はわかっているはずなのに、いまの発言に対する思うところがあるのかどうか不明だ。ある意味、そんな人だからこそゾフィアさんと一緒に営業に来たのだろうけど。

 ゴストはDNAを操作するような商品ではないから、イマジュネーションコンバータが変身ブレスレットのように危険のある効果を持つことがなさそうなことだけが、救いかも知れなかった。

 諦めいきったため息を吐いたニーナ教授は、今日の来訪の理由をふたりに問う。

「それで、画期的な商品だというのはわかったけど、どうしてそれを私に紹介しに来たわけ?」

「えぇ、それが今日の本題なのです。ゴストのプロモーションを兼ねて、来週ハロウィンパーティを開催することになったのです。良いパーティになりそうなので、ニーナを誘いに来たのですよ」

 一気にきな臭くなった話に、ニーナ教授はもちろん、僕も眉根にシワを寄せていた。

「このハロウィンパーティは我が社が主催する一大イベントでして、魔法町だけでなく、地球中から有名コスプレイヤーを集め、さらに地球外の著名人を招待しております」

 ゾフィアさんの言葉を受けて営業スマイルで話す男性は、書類鞄からパーティのポスターを取り出して広げた。

 覗き込んでみると、コスプレパーティという割りにかなり大きな規模らしい。

 大学で開催するパーティでも何百人という規模になるものは、それほど多くない。費用の問題もあるし、主賓のスケジュール調整や、使える会場が限られてくるとかの様々な理由がある。

 このハロウィンパーティは、開催する会場から想像するに、三〇〇から五〇〇人規模のようだ。ゴストのプロモーションイベントだから招待客がかなり多いようだけど、大半は一般客らしい。

「一般参加の方のチケットは希望者多数だったため、抽選の上で完売しております。最終的には五〇〇人を少し超えるくらいの参加者数で調整中です」

 ポスターは一般客向けらしく、参加方法や開催内容の記載もある。

 豪華な食事つきのパーティが有料なのは珍しくないけれど、料金は僕が参加したことがあるパーティに比べ、ひと桁近く高い。

 それで抽選が必要になった上、完売しているというのだから、ゴストの注目度は一般にもかなり高いとわかる。

 笑みを浮かべるゾフィアさんと営業さんに見つめられているニーナ教授の横顔には、かなり渋い表情があった。

 先日のことがあったのだ、いくらお祭り好きのニーナ教授とは言え、ゾフィアさんが関わるとわかっていて参加する気にはならないだろう。

「パーティの出店リストはこちらです。わたしも協力して、多少無理を通してお願いをしたところもありますが、良いお店に出て頂けたと思います」

 そう言ってゾフィアさんが取り出した紙には、パーティにブースを出すお店のリストが並んでいた。

 ――あ、これはヤバいな。

 見た瞬間、僕はそう思ってしまった。

 視線を飛ばして見ると、先ほどまで厳しく細められていたニーナ教授の目は、大きく開かれ瞳が輝き始めている。

 リストに並んでいるお店は、僕でも知っている名前がいくつもあった。知ってるだけじゃなく、利用したことがあるところも少なくない。

 魔法町の有名店はもちろんのこと、全国どころか世界中の名店が名を連ねている。とくにスイーツには力を入れているらしく、たまにニーナ教授が奮発して取り寄せをしている、遠方のスイーツショップの名もあった。

「参加者は全員、こちらのお店の料理が食べ放題なのですよ」

「……参加費用が必要とか言うの?」

「いいえ。ニーナのことはわたしの枠を使って招待いたしますから、費用なんていりません。先日迷惑を掛けてしまったので、そのお詫びの代わりです」

「んー」

 右手の人差す指でピンク色の唇をゆっくり撫でているニーナ教授。

 考え込むような仕草をしているけれど、もう負けは決まっている。彼女の頬は、いまにも緩みそうなほどぴくぴく震えているのだから。

「参加の条件ですので、ニーナにもゴストを着けて頂きます。ハロウィンパーティで仮装しないというわけにはいきませんからね」

「――はぁ、わかったわ。でも条件があるの」

「何でしょうか?」

 笑みを絶やすことのないゾフィアさんを細めた目で見つめ、ニーナ教授は言う。

「先週のことは私だけじゃなく、ここにいる湯川君や、ミレーユも迷惑を被ってるわ。お詫びというなら参加者は三人、そのゴストのブレスレットも三つ、いま用意してもらいたいんだけど?」

「ミレーユ? お友達、ですか?」

 僕のことはともかく、ミレーユ助教授の名前を聞いた瞬間、ゾフィアさんの顔から笑みが消えた。

 ――どうしたんだろう? ニーナ教授。

 ここのところ打ち解けてきている僕や本人の前でならともかく、国立魔法科学大学の教授で、学長でもある立場から、ニーナ教授は外の人に対してミレーユ助教授のことを呼ぶときには、「ミレーユ助教授」ないし「シュレディンガー助教授」と言うのが普通だ。

 でもいまは、呼び捨てにしていた。

 睨むような視線で見つめ合うニーナ教授とゾフィアさんに、営業さんもそれまでの愛想笑いを保てずにおろおろとしている。

「貴女も知っているでしょう? ミレーユ・シュレディンガー」

「あぁ、あの人ですか。ニーナはあの人からずいぶん迷惑をかけられていたと思いましたが」

「いまでもそれはあまり変わらないけどね。さすがに時間が経ってるから、少しは打ち解けてるのよ」

「――そうですか。なるほど」

 相づちを打ってわずかに目を伏せたゾフィアさんは、しばらく考え込むように黙り込む。

 それからニッコリとした笑みを戻し、営業さんに言いつける。

「ブレスレットあとふたつなら、いまお持ちですよね?」

「え? あ、はい。ありますが……」

「では無理を言ってしまって悪いのですが、全部で招待者は三人ということでお願いします」

「いや、あの、ですが……」

「お願いします」

「――はい」

 ニーナ教授しか呼ぶ気がなかったらしい営業さんだけど、ゾフィアさんの笑顔の圧力には敵わなかったらしい。

 鞄の中からあとふたつ、ゴストのブレスレットを取り出してテーブルに置いた。

「当日、わたしはスタッフとして裏にいると思うので挨拶もできないと思いますが、楽しんでください」

「こっちもスケジュールがあるから絶対参加するとはこの場で回答できないけど、時間が許す限り参加させてもらうわ」

 立ち上がったゾフィアさんと営業さんに合わせて、ニーナ教授もソファから立ち上がった。

 みんな笑顔なのに、いまにも最終戦争が始まりそうな気配に、僕は息を飲んでいた。

 

 

            *

 

 

「罠、ですよね? これ」

 ゾフィアさんと営業さんが帰り、僕はニーナ教授とともに実験室に戻ってきていた。

 腐海への対応は、明日になりそうだ。

 彼らの残していったゴストの資料と、パーティのポスターを横目で見ながら、僕はニーナ教授の返事を待つ。

「さぁ? どうでしょうね。さすがに先週のこともあったし、今回は何もしてこないんじゃないかしら? 壊れてるけど、表面的な部分は常識的よ、あれは」

 新しく入れた紅茶のカップを口元に寄せながら、ニーナ教授はそんなのんきなことを言う。

 本心で言ってるかどうかはわからない。

 先ほどまでと違って、苛立ったり訝しんでる様子のないニーナ教授は、長い睫毛をわずかに伏せて、資料に目を落としている。

 ――でもなぁ。

 そんな彼女の横顔を見ながら、僕は不安を拭えずにいた。

 ゾフィアさんのニーナ教授へのこだわりは、常軌を逸している。

 先週事件を起こしたばかりだから、なんて常識的な判断は、彼女が持っているようには思えなかった。

「湯川君の言いたいこともわかるんだけど、パーティはあの子が主催するものでも、コントロールしてるわけでもないからね。問題を起こしたらそれこそ、いまのタイミングじゃ留置所に戻ることになるでしょうし。それにね――」

 僕に振り返り、満面の笑みを浮かべたニーナ教授は言う。

「これだけのお店の料理を好きなだけ食べられる機会は、そうそうないわよ?」

「それもそうなんですが……」

 出店リストに載っているお店には、貧乏学生の僕じゃ奮発しても行けないお店がいくつも並んでる。

 ゾフィアさんが関わっていなければ、前日から食事を抜いて万全の体制で参加したいくらいだった。

 ニーナ教授は、出店リストを見てニコニコしている。

 果たして僕が怖がりすぎなのか、ニーナ教授が脳天気すぎるのかは、わからなかった。

 ――でも、ゾフィアさんとのつき合いは、ニーナ教授の方が長いからなぁ。

 僕が知っているわずかなことよりも、ニーナ教授はゾフィアさんのことを知ってるはずだ。それでも大丈夫だと言うなら、大丈夫なのかもしれない。

 ――それにどうせ、僕は行くしかないしな。

 命の危険があるかも知れない場所に飛び込むのは莫迦だし、もし命令されても、それが教授権限だろうが、学長権限で発せられていようが、従う義務はない。

 でもニーナ教授が参加するというなら、僕は一緒に行くしかない。

 いろいろ複雑な想いはあるけれど、その中の一番大きなものは、「放っておけない」という気持ちだ。

 僕が苦労性だというのは自覚してる。それについてはもう諦めてる。やらないで後悔するより、やって後悔した方がいいというのは、まだ十八年程度の人生だけど、何度も経験してきてる。

 頬に笑みを浮かべてるニーナ教授のことを眺めながら、僕は苦笑いを漏らしていた。

「まぁ何にせよ、大丈夫よ、湯川君」

「何が大丈夫だというんですか?」

 頬には笑みか零れているのに、碧い瞳は笑っていないニーナ教授。

 射貫くような攻撃的なものじゃない。でも揺らぐことのないその強い視線に、彼女の決意を僕は感じていた。

「何かあっても大丈夫なように、対策も考えていくから」

「……対策が必要にならないことを願いたいですけどね」

「ふふっ。まぁ、そうね!」

 ため息を漏らした僕に天使のような笑みをかけてくるニーナ教授に、僕も不安な気持ちが落ち着いて、笑みを返すことができていた。

 

 

            *

 

 

 金糸のような髪を床にばらまくようにして倒れているのは、ニーナ。

 大きく口を開け、だらしなく舌を垂らしている彼女の側には、大きな金盥が転がっている。

 オフィスチェアに座り、ティーカップを口元に寄せながらその様子をじっと見つめているのは、ニーナ。

 足首近くまでスカート丈のあるワンピースを着て倒れているニーナと、濃紺のシャツとスカートを身につけて椅子に座るニーナのふたりが、いまの実験室にはいた。

 床に倒れているニーナを放っておいて、椅子に座るニーナは金色の髪を掻き上げながらパソコンのモニタに向かい合う。

 キーボードの脇にケーブルが接続されて置かれているのは、ゴストブレスレット。

 データ入力用に営業が置いていった専用ケーブルではなく、ワニ口のクリップが接続されたブレスレットの真空管は、青白い光を弱く放っていた。

「やっぱり、ゴストの中身を弄るのは難しいか……。上手いことつくってあるわね。ヘタに弄ると正常に使えないようになってる。別の対策が必要ね」

「うくっ、くくく……」

 唇を人差し指で撫でつつつぶやいているとき、頭の天辺を手で押さえながら、床に倒れていたニーナが立ち上がる。

「おはよう。そろそろ来ると思ってたから、仕掛けておいてよかったわ」

「おはようじゃないわよっ! まったく、こんなものを仕掛けてるなんて、どういうつもり?!」

「それはこっちの台詞でしょ。そんな顔で何するつもりだったの? ミレーユ」

「うっ」

 ニーナの言葉に、ニーナの顔をしたミレーユは半歩下がって怯む。

 それから大きくため息を吐き、首の付け根に爪を立て、肌を剥ぎ取る。

 マスクのような肌をめくり上げた下から現れたのは、くっきりとした目鼻立ちをしている女性、ミレーユ・シュレディンガー。

 金色の髪とともに完全に剥ぎ取ると、クセの強い濃い茶色の髪が荒々しい滝のように流れ落ちた。

「ちょっと驚かせようとしただけだったのに、痛いじゃないの?! というか少しぐらい驚きなさいよ!」

「ノックもせずに入ってこようとするからでしょ。自業自得よ。いまさら貴女のやることで驚くとでも思ってるの?」

 できてしまったコブに触れ痛みに片目を閉じながら、ミレーユはニーナが差し出した手にマスクを渡した。

「よくできてるのね、これ」

「少し前に企業から依頼があって共同開発した最新型のDNAマスクよ。母体浸食型ではなくて、予めインプットしたデータに基づいて、装着と同時に形状が変化するタイプ」

「それで私の顔のデータを使ったわけね」

「ふふんっ。不自然にならないほどの薄さで顔の輪郭から骨格まで変えているように見えるし、肌や髪の質感まで完璧でしょう? ちょうどいまの時期はハロウィン需要でいい小遣い稼ぎになってくれてるわ」

 DNAマスクを撫でたり引っ張ったりしているニーナの前で、ミレーユは胸をこれでもかと反って得意げな笑みを浮かべる。

「まぁそんな話はともかく、よ。来週ハロウィンパーティが開催されるのよ。ミレーユ、貴女にはそれに参加してもらうから」

 言いながらニーナは、マスクを丸めてゴミ箱に放り込み、代わりにパーティ告知のポスターを広げて見せる。

「……参加してもらうから、って。パーティなんかに参加してる暇はないのだけど? 研究が溜まってるから」

「これは学長命令よ、ミレーユ」

 手近な椅子を引き寄せて座ったミレーユに、睨みつけるような強い視線を向けたニーナはそう言った。

 大きく顔を歪め、ミレーユは不快さを露わにする。

「学外のパーティでしょう? 学長命令を言いつけられる謂われはないと思うのだけれど?」

「貴女分の参加資格は確保済みよ。これを見ても参加しないと言える?」

 ニーナは見せていたポスターの代わりに、出店リストをミレーユに手渡した。

「こ、これは……」

「参加すれば会場では食べ放題よ」

 リストの上から下までをゆっくりと、食い入るように見ているミレーユに、ニーナは唇の端をつり上げて笑いながら言った。

「――でも、学長命令というくらいだから、このお店もワタシを釣るためのエサなんでしょう? 何が目的?」

 顔を上げ厳しく目を細めて問うてきたミレーユに、ニーナは小さくため息を吐く。

「このゴストってものの開発にね、あの子が関わってるの」

「あの子って……、ゾフィア・フランケンシュタイン?! 今回はまた、ずいぶん早く出てきたのものね」

「ゴスト自体はたぶん問題はないと思うのだけど、これだけのイベントに関わっていて、あの子が何も仕掛けてこないなんてことは考えられない」

「なるほど、ね……」

 出店リストの紙をニーナに返したミレーユは、顎に手を当てて考え込む。

「私にちょっかいかけてくるなら、今回ばかりはキッチリ処分しておきたいから、協力してほしいのよ」

「あれにはあまり関わりたくないのだけれどね……」

 ニーナの求めるような視線に、ミレーユは憂いを浮かべた瞳で見つめ返す。

「でもまぁ、これだけのお店を食べ放題というのは魅力的だし、この前のことはワタシも腹が立っているからね。できる限りの協力はするわ」

「ありがとう、ミレーユ」

 安堵の息を吐き、笑みを浮かべたニーナに、ミレーユも柔らかい笑みを返していた。

「それで、貴女にはいくつか用意してもらいたいものがあるのだけど――」

 椅子から立ち上がったニーナは、早速ミレーユにお願いを始めた。

 

 

          * 3 *

 

 

 ホテル・ニアムーン。

「これは……、すごいな」

 僕は思わず、そんなつぶやきを漏らしていた。

 夕暮れに沈みつつある、魔法町の上空に停泊しているホテルの全景を眺めるために、僕はダブルサイクロンホウキを操り空を高く上がっていた。

 その偉容は、まさに天空に浮かぶ城。

 隕石などの物理はもちろん、宇宙から降ってくる有害な精神波を防護する装置や、レーダーを収めた尖塔がいくつもあるホテルは、本当におとぎ話に出てくる白亜の城のようだった。

 規模は小規模な街ほどあるホテル・ニアムーンは、空を回遊している反重力町のようないくつものブロックが集まった街とは違い、ホテルの建物が浮かんでいる単体浮遊建築物だ。

 必要な時間、必要な場所に停泊するここは、そのとき以外は上空二〇〇〇〇メートルくらいまで上昇する半閉鎖型建造物となり、名前の通り地球で月に一番近いホテルとなる。

「さぁ、そろそろ行きましょう」

 僕と並んでホテルの全景を眺めていたニーナ教授に声をかけられ、一緒に来たミレーユ助教授と三人でエントランスへと降下していく。

 正面入り口の前で待ち構えていたボーイさんにニーナ教授が名乗り、ホウキを預ける。左右ひとりずつのボーイさんが開けてくれたガラスの扉の向こうは、白亜の城らしい豪華な空間だ。

 三階まで吹き抜けのエントランスフロアの天井には、豪奢なシャンデリアが吊り下がり、国立の中でも日本最高位と言っても過言じゃないうちの大学の学長室よりも明らかに高級な絨毯を踏み、地球だけでなく宇宙中から集められた品の良い調度品の数々を眺めつつ、僕は先を歩くニーナ教授の後をミレーユ助教授と並んで着いていく。

 キッチリとしたドレスコードがあるほどには高級ではないが、気安く泊まれるほどではないここに、僕は入学式以来仕舞い込んでいたスーツを着込んできていた。

 これから参加するのはハロウィンパーティなんだから、服はどうでもいいんだけど、人気が高く、老舗としても有名なニアムーンに、大学に通ってるときのような服で来るわけにはいかない。

 ミレーユ助教授もいつものワンピースよりも少しドレス調のものを着ているし、ニーナ教授は着崩していなければたいていそこそこの格好なんだけど、今日はいつもよりパリッとしたシャツを着、折目正しいプリーツのミニスカートを履いている。

 ただ、ニーナ教授は早速ハロウィン気分なのか、頭から真空管が生えているし、なんでか実験のときに羽織ってる白衣姿だったりするんだけど。

「……ここも、すごいな」

 ロボットのメイドさんに案内してもらってたどり着いた、パーティ会場前の廊下。

 開け放たれた扉の向こうに見えるのは、様々なコスプレ姿の人々。

 ホテルに到着する前に身につけるよう指定されていたゴストのブレスレットによって、僕はその様子を見ることができる。

 妖精、妖怪、怪物といったハロウィンにふさわしい姿はもちろん、偉人と思しき格好の人や、古いものから最新のものまでのアニメやコミックスのキャラクターたち。

 怖いものから可愛らしいもの、果ては凄まじいのまで、世の中の不思議を一同に会しているような、すごい空間があって、匂いだけでもヨダレが出て来そうな美味しいものを手に、楽しそうに過ごしている。

 今回は宣伝イベントということもあり、仮装コンテストも行われるというから、みんなの気合いをひしひしと感じる。

 決して安くない費用を払ってでも参加したい気持ちが、入り口から中をひと目見ただけでもわかるほどだった。

「浮かれてないで、さっさと準備するわよ」

「あ、はい。……準備?」

「ニーナから聞いてるでしょう? あれが仕掛けてくる可能性がゼロではないんだから、対策くらいするわよ」

「なるほど。そうですね」

 すっかり他のことに気を取られていた僕は、ニーナ教授とミレーユ助教授の言葉にやっと警戒心を取り戻す。

 会場のすぐ近くにある控え室に、メイドさんの案内で入った。

「貴方はこれ、せっかくだから着てね」

 他に参加者のいない控え室で、ニーナ教授が差し出してきたのは、ゴスト用のアンダーウェア。

 ダイビング用のウェットスーツか、簡易遊泳用の宇宙服に似たそれは、希望者が着られるように控え室に置いてあったらしい。

 意外と広い控え室には、鏡の前に設置されたカウンターテーブルと椅子、休憩室を兼ねているらしく簡易な応接セットがあり、他に着替え用のカーテンで仕切ることができるブースがあった。

「えー。僕だけですか?」

「そうよ。不満?」

「――いえ」

 少し前屈みになって僕を見つめてくるニーナ教授。

 子供っぽい感じがするのに、頬を膨らませて上目遣いのニーナ教授の攻撃力は、僕には必殺だった。

 そんな彼女の攻撃に僕が抗えるはずもなく、ひとつため息を漏らしてから着替えブースに入って服を脱ぎ、アンダーウェアに着替えた。

 中にあったクロークに預ける用のボックスに服を入れ、そこには入らないコートを肩に引っかけてブースを出た。

「あ、湯川君。コート貸して。会場内、ちょっと室温低いみたいなのよね」

 ミレーユ助教授と何か相談をしていたらしいニーナ教授は、出てきた僕を見つけて、ニコニコとした笑みで近づいてきた。

「寒そうなんだったら、ニーナ教授もアンダーウェア着ればいいじゃないですか」

「イヤよ。着替えるの面倒臭いから」

 しようもない理由で僕の提案を拒否したニーナ教授は、さっさと僕の肩からコートを奪い取っていく。

「汚したりしないでくださいよ。それ以外に冬用のコート持ってないんですから」

「男のクセに細かいわね。代わりにこれ貸して上げるから、我慢しなさい。防刃防弾仕様だから、ちょっとは安心でしょ?」

 僕のコートを着込んだニーナ教授は、代わりにいままで着ていた白衣を差し出してくる。

「うっ……」

「どうかした?」

「いえ……」

 仕方なくアンダーウェアの上から白衣を羽織った僕は、いつも感じてるのよりも強いニーナ教授の匂いに、小さく声を上げてしまっていた。

 決して広くない実験室の中で触れるほど近づくこともあるし、白衣の洗濯なんかは僕がやってるんだけど、手で触れる距離と着込むのとでは匂いの強さが大きく違う。

 甘く、爽やかさもあり、汗なのかほんの少し鼻につくニーナ教授の匂いに、僕はこっそり白衣の襟元を鼻に寄せて、深呼吸をしてしまっていた。

「何してるの? 湯川君」

「え? あ、いや、何でもないですっ!」

「まぁいいんだけど、念のためこれも被っておきなさい」

 言ってミレーユ助教授が無理矢理頭に被せてきたのは、マスク。

 ゴム臭かったりはしないけど、窮屈で肌にぴったり貼りついてくるようなマスクを首のところまで被せられてしまった。

「……何ですか? これ。のっぺらぼう?」

「これでもし仮装が消えても、貴方を湯川君だとわかる人もいないでしょ」

「まぁ、そうかも知れませんが」

 何かの技術を使ってるのか、鏡で見たのっぺらぼうにしか見えないマスク越しでも外は見えるようになってる。よく見ると小さい目があるのがわかった。

 白衣ののっぺらぼうってのは、いまひとつどういうコンセプトなのかはわからないけれど、確かにミレーユ助教授の言う通り、こんな格好であれば、僕のことを認識できる人はいないだろう。

「さて、じゃあ準備も終わったし、そろそろ会場に行きましょ。思いっきり食べるわよっ」

「そうね。負けないわ、ニーナ」

「湯川君もせっかくだから、しっかり食べるのよ?」

「わかってます。準備は万端です!」

 徐々に肌に馴染んで、開けやすくなった口でニーナ教授に僕は応える。

 左腕に着けたゴストブレスレットのスイッチに指をかけながら、僕たちは控え室の扉を潜った。

 

 

            *

 

 

 ――昨日から食事制限しててよかった……。

 本当にそう思えるくらい、中央のテーブルに次々と追加される料理も、出店ブースでつくられる料理も美味しかった。

 ピラフを盛っていたお皿を平らげ、僕は満足感に息を漏らしていた。

 舞台に立ってゴストの説明をしている営業さんの表情がわからないくらい広い会場内には、それだけの広さがあるのに、趣向を凝らした格好の人たちで人口密度が高い。

 コスプレ百鬼夜行。

 会場内の様子をひと言で表すなら、それが一番ふさわしいかも知れない。

 ハロウィンというより、ゴストのプロモーションをメインとしたコスプレパーティの意味合いが強い。そのためハロウィンらしい怖い系の仮装は半分くらいで、あとは可愛いのとか格好いいのとか、まさにコスプレって感じの人が多かった。

 ゴストの特徴でもあり、ブレスレットを操作するだけで入力したデータの姿か、ホストに登録している姿に変身できるため、次々と姿を変更してる人も見られる。

 商品説明が優先され、このあと仮装コンテストもあるのでまだ強いお酒は出されておらず、中身がどんな人なのかわからない人が大半なのに、みんな楽しげに談笑し、和やかな雰囲気が流れていた。

 そんな中で、会場の隅に置かれた丸テーブルを占有する、僕たち国立魔法科学大学の三人。

「ゴスト、すごいですね」

「そうね。こういうパーティ会場で使うなら、いろいろと楽しい使い方ができそうね」

 がっつり系の食事はそこそこに、僕の声に応えたニーナ教授は、餡子と生クリームが添えられた抹茶ババロアに舌鼓を打っている。

 ミレーユ助教授もプリンアラモードの器を左手に、右手のティーカップを口元に寄せて満足そうな笑みを浮かべている。

 テーブルの上にはお寿司やミニ鰻丼といった食事系は少なく、徐々にスイーツ系の器が増えてきている。

 いつもだったら僕が取りに行かせられるんだろうけど、今日はニーナ教授もミレーユ助教授も積極的に動いて、好きなものを取ってきている。

 わざわざ僕の分まで取ってきてくれる親切さは、滅多に食べられない料理のおいしさにはしゃいでいるからかも知れなかった。

「でも、なんでこんな仮装なんです?」

 ミニ鰻丼を片手に、僕は右側に立ってるニーナ教授にそう訊いてみる。

 僕の右隣に立っているニーナ教授の仮装は、日本妖怪だ。

 お寺の童子風の服は、仮装なんだから仕方がないけど、いつもの可愛らしいニーナ教授のイメージは欠片もない。

「ひとつ目小僧、というより、Ωドールですよね、それ」

「別にいいじゃない。たまにはこんなのも」

 顔に目がひとつではなく、頭部が目玉になってるニーナ教授の仮装は、真空管がないだけで、小僧衣装のΩドールにしか見えなかった。

 ミレーユ助教授の方は、経帷子の純和風幽霊。

 ただ、クセは強くてもきっちり手入れされてる長い髪で目元を隠してるいまの彼女は、ともすると呪いでもかけられそうな怖さがあった。

「それはまぁ、いいんですけど、僕の方はどうしてこんななんです?」

 見下ろした自分の身体。

 黒い服の腰とか胸元とかが、リボンが巻きつけられたようになってる露出度の高区なっているそれは、たぶんサキュバスの仮装。

 男でそんな格好をしてたら非難囂々だろうけど、いまの僕は金髪をなびかせる美少女だ。

 サキュバスに扮したニーナ教授が、僕のコスプレだった。

 会場は低めの室温になってるけど、ブレスレットとアンダーウェアのボディコンディショナーで、見た目にはけっこうな露出度なのに寒いことはない。

 さらに精神波を送受信して変身するゴストは、僕とニーナ教授の身長差をピンヒールで偽装するだけでなく、布地の感触や肌の質感、さらにはさらさらの金糸の髪の感触も、実際のものを再現している。

 現実で羽織っている白衣から漂ううっとりしてしまう香りもあって、僕は本当にニーナ教授になったような、新しい扉を開いてしまいそうな感覚に浸りつつあった。

 中身が僕のようなうだつの上がらない男子であっても、精神波によって好みの姿に変身できるのが、ゴストの最大の特徴だ。これが普及した世界は、果たしてどんな風になってしまうだろうか。

 ――服は脱げないそうだけど、後でトイレに行ったときに、胸の感触も確かめてみよう……。

 ゾフィアさんへの偽装のためなのか、ニーナ教授が用意した仮装のデータを存分に味わうことを決意しつつ、僕はそろそろ溢れそうになっているテーブルの上の料理を食べ進めていた。

「裸の王様ね」

「え?」

 緑茶の湯飲みを手にしながら、ニーナ教授がぽつりとつぶやいた。

 会場内を見回してる教授は、――たぶん目を細めているんだろう、ひとつしかない巨大な瞳を歪ませながら、会場内の人々を見つめていた。

「教授?」

「なんでもないわ」

 そうは言われたけど、ニーナ教授のつぶやきの意味を聞いてみようと口を開いたとき、司会者の声が響いた。

『ここでゴストのもうひとつの機能、ホストサイドチェンジャーをみなさんに体験していただきます!』

 

 

 

 ――ホストサイドチェンジャーって、あれか。

 先週、営業さんが来たときに置いていった資料の内容を思い出しながら、僕は食べ終わった鰻丼の茶碗をテーブルに置いた。

 いま会場に集まっているみんなは、自分で用意したデータをブレスレットに入力して変身する、クライアントサイドチェンジャーを使って仮装しているはずだ。

 ホストサイドチェンジャーは、ホストシステムに予め入力しておいたデータで変身する機能だ。

 前者は今回のようなコスプレパーティに向いた機能で、後者は結婚式の花嫁さんのためにとか、ひとつのユニフォームを着たりとか、閉鎖的な集まりに向いた機能だ。

 今回はプロモーションを兼ねているから、そうした機能も紹介したいのだろう。

『皆様にはこの後、男性はタキシードに、女性はウェディングドレス姿になってもらいます。ダンスミュージックも用意しておりますので、好みの相手と踊っていただければと思います!』

 ――確かにゴストは便利そうだなぁ。

 他のみんなと同じく、遠い演台でマイクを握っている司会者の方を見ながら、僕はそんなことを思う。

 これだけの広さと人数をカバーできるなら、例えばスポーツの試合で、選手のユニフォームはもちろん、観客の服も応援するサイドで統一させることもできるだろう。

 もし営業さんの言っていた通り世界に普及するようになったら、普段着をゴストにしてしまうのも良いかも知れない。

 僕はあんまりファッションには詳しくないし、持ってる服の数も少ないから、大学に着ていく服に悩むこともよくある。ゴストが普及すれば、そんな悩みから解放されそうだと思えた。

 ――でも、ウェディングドレスか。

 ちらりと僕は、ひとつ目小僧に視線を飛ばす。

 ニーナ教授がウェディングドレスを着たら、その美しさはいかほどのものだろうか。

 実際教授が結婚式を迎える日、ってのはあんまり想像できないけれど、ウェディングドレス姿は是非見てみたかった。

 目が髪で隠れてしまってわかりづらいけど、ミレーユ助教授の口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

 ひとつ目小僧のニーナ教授の表情は、その目玉からは読み取れないが、教授も女の子なのだ、ウェディングドレスは嬉しいんじゃないだろうか。

 今回の企画を発案した誰かに心の中で賞賛を送りつつ、僕は司会者が指示した通り、ブレスレットのボタンに指を添えた。

『それでは一斉に、どうぞ!』

 そのかけ声とともに、みんなは同時にブレスレットのボタンを押した。

「――あれ?」

 ひとつ目小僧から姿を変えたニーナ教授。

 いつもと変わらぬ、いや、いつも以上に美しく輝く金色の髪。

 でも、その服はウェディングドレスじゃない。

 濃紺のシャツとプリーツスカート、それから濃い緑のネクタイ。

 大学でよくニーナ教授が着ている、いつもの服だった。

 何かの不具合か、変身が解けてしまったようだった。

 ――いや、そんなはずはない。

 いまのニーナ教授は、僕のコートを羽織ってるはず。

 変身が解けたなら焦げ茶色のコート姿になるはずなのに、違っていた。

 会場内に広がっていくざわめき。

 顔を上げた僕て見たものに、僕は言葉を失った。

 無数の、ニーナ・アインシュタイン。

 美しい金色の髪を持ち、可愛らしい顔立ちの女の子が、僕の視界いっぱいに広がっていた。

 それはさながら花畑。

 ガラス張りの天井から降り注ぐ月明かりに照らされ、金色の花を咲かせる、ニーナ・アインシュタインという花のフラワーガーデン。

 見える範囲だけでも一〇〇を遥かに超える金色の花が、僕の視界に咲き乱れていた。

 何となく、僕はゾフィアさんの望むものを理解できるような気がしていた。

 もしこの花の一輪でも、自分だけのものにできるならば、どれほど幸福感を得られるだろうか。

 そんなことを思ってしまうほどに幻想的な風景が、僕の視界に広がっていた。

 しかしそれはあくまで幻想。

 僕自身も含めて、ゴストによって変身した人々による、幽霊のような、残像のような、偽物の花。

 本物はニーナ・アインシュタインはたったひとり。

「これはいったい?」

 いろんなところで歓声や悲鳴が上がり始める。ざわめきが広がるのと同時に、混乱した人たちが入り口の方に向かって移動し始める。

 つまり、こちらの方向。

 ――ゾフィアさんの仕業か!

 それに思い至った僕は、とっさに本物のニーナ教授、――だと思う人を背中にかばって立つ。混乱によって波のように押し寄せてくる人々に巻き込まれないよう、しっかりと足を踏ん張った。

「見つけましたよ、ニーナ」

 そんなささやきを耳元で聞いて、僕は身体が動かなくなってしまう。

 ニーナ教授を逃がさないといけないと思ってるのに、間近で聞こえたゾフィアさんの声に、身体が固まってしまっていた。

 ――いや、違う。

 恐怖や緊張で身体が動かなくなったのではなく、何かが身体に巻きついていることを認識したとき、僕の視界は真っ暗となり、口元を強く押さえられて気が遠くなっていっていた。

 

 

          * 4 *

 

 

 扉を閉めると、大きくなっていた人々の声は隔てられ、遠退いた。

 舞台の裏にある、機材室。

 今回のハロウィンパーティのものだけでなく、舞台イベントでよく使われる大道具や機械類が納められたそこは、高い位置から弱い照明が照らしているだけで、薄暗い。

「ふふふっ。やっと手に入りましたね。――しかし、意外と重いですね。もう少し軽いと思っていましたのに」

 そんなつぶやきを漏らし、扉の鍵をかけたのは、ニーナ。

 彼女は小柄な身体で、意識がないらしいもうひとりのニーナを、肩に担いでいた。

 パチンと指を鳴らすと、ゴストが停止し、変身が解けた。

 自分と同じ体格の人物を担ぎながら機材室の奥に歩を進めているのは、ゾフィア・フランケンシュタインだった。

 彼女がたどり着いた場所は、外に続く搬入口の近く、機材が取り除かれて小さな広場になっている場所。

 そこの真ん中に置かれていたのは、横にして置かれた、ガラス張りの箱。

 停蔵棺桶。

 内部の時間を停止させる装置が組み込まれた、底面の基部以外の五面はガラスで囲われ、その中には布団のように色とりどりの花が敷かれていた。

 上面を片手で開け、ゾフィアは肩で担いでいた人物を停蔵棺桶の中に横たえさせる。

 腰近くまで伸びた金糸のような髪と、どんなものよりも可愛らしい顔。

 閉じられた瞼のために海よりも深く、空よりも遠い碧い瞳が見られないのは残念だったが、いまはそんなことは気にしていられなかった。

 湯川やミレーユがニーナの不在に気づく前に、停蔵棺桶を運び出さなければならない。

「けれど、やはり美しい」

 乱れているニーナの髪を整えながら、ゾフィアはその顔をうっとりとした表情で見つめてしまう。

 やはりニーナは美しいまま保存されるべき人物だった。

 本人には拒絶されたが、湯川のような特定の男が、自分を差し置いて側にいることが、ゾフィアには許せなかった。

 男女の関係になるようなことはおそらくないが、何事にも間違いや偶然は起こり得る。そんなことが起こる前に、ニーナが汚れる可能性を排除したかったが、前回は失敗した。

 それならば直接本人を、と思い、今回は成功した。

「あぁ、ニーナ。貴女はもう、永遠に、このままの姿で、わたしのものですよ」

 目覚めることのないニーナに、ゾフィアは嬉しそうに呼びかける。

「本当にこのタイミングでよかった。やはりあの男からは、早く引き離すべきでしたね」

 ニーナの身体からは、微かに湯川の匂いが漂っている。彼が常に側にいれば、身体や関係性だけでなく、ニーナの放つ香りをも汚されてしまうだろう。

 横たえさせたニーナの、白衣の襟元をたぐり寄せ、ゾフィアは花よりも香しいその匂いを存分に吸い込む。

「ひと段落したら、身体を綺麗にして、あの男の匂いを消してあげますからね、ニーナ」

「貴女に身体を弄られるのなんて、ゴメン被るけどね」

 ゾフィアのつぶやきに答え、搬入口のスライドドアを開いて現れたのは、ニーナ・アインシュタイン。

「……どうして?」

 驚きの表情を浮かべるゾフィアに、茶色のコートを羽織ったニーナは、蔑みの視線を向けていた。

 

 

            *

 

 

「わたしは確かに、貴女を捕まえて……」

 停蔵棺桶の中に横たわったニーナと、搬入口に立つニーナを交互に見るゾフィアは、驚きに目を見開いていた。

 その様子を呆れを浮かべた瞳で見つめるニーナは、小さくため息を吐いた。

「どうせ貴女のことだから、何か仕掛けてくるとは思っていたからね。いろいろと対策を立てさせてもらったわ」

 怒りなのか、顔を赤く染めるゾフィア。

「いったい、どんな対策を立てていたというのです!」

「ブレスレット自体を弄ると貴女にバレるみたいだったから、精神干渉自体をキャンセルしてたの。ゴストのシステムからは正常に精神波の送受信が行われているよう偽装してね」

 言ってニーナは、頭に着けていた真空管つきのヘアバンドを外した。

「それからね――」

 停蔵棺桶に近づきいたニーナは、横たわっているニーナの首のつけ根に手を伸ばす。

 爪を立ててはがしたDNAコスプレマスクの下から現れたのは、意識なく目をつむる湯川の顔。

「姿の方も偽装してたの。身長も靴で調節してたし。ちゃんと驚いてくれたみたいで良かったわ」

「それだけでは、ありませんよね?」

「えぇ、もちろん」

 ゾフィアの問いに答えながら、ニーナは湯川の身体に手を伸ばし、苦労しながら停蔵棺桶の中から引っ張り出す。

「貴女のことだから、ゴストは使ってるだろうと思ったのよね。外見以外で私と他の人を、あの人でごった返してる会場で判別する方法、それはたぶん――匂い」

 支えきれずに湯川の身体を床に転がしたニーナは、顔を真っ赤にして身体を細かに震わせているゾフィアを睨みつける。

「他にもまぁ、ミレーユに頼んで私と湯川君に発信器仕込んでおいたり、もう少し大きな騒ぎになるような仕掛けもあったんだけどね。上手いこと湯川君と私を間違えてくれて良かったわ」

 先日空間ポケットと湯川を引き離すのに使った、音速を超えて蔓が生長する爆植卵に、遠隔スイッチで割れるよう装置を取りつけたものをコートのポケットから取り出して見せながら、ニーナは言った。

「わたしは……、わたしは……」

 下ろした両手を強く握りしめ、深くうつむいたゾフィアは声と身体を震わせる。

「わたしはただ、貴女を愛していただけ! ただ貴女を愛し、愛されたいがために――」

「嘘よ。貴女のそれは愛なんかじゃない」

 ゾフィアの叫びを静かな声で止め、顎を反らして彼女を見下す。

「貴女が愛していたのは、私の顔や身体、外見だけ。ゴストに使ってるイマジュネーションコンバータも、おおかた貴女が私に成り代わるために造ったものでしょ。それに、その姿は何人目? 本当の貴女は、一体何者? ねぇ、フランケンシュタインの怪物」

 歯を見せて奥歯を噛みしめ、ゾフィアは沈黙した。

「私に近づいて取り入るために努力もしていたし、貴女には才能があったのはわかってる。そこの部分は純粋に、私は貴方を評価してる。でもね――」

 目を細め、ゾフィアを見下すニーナは、言った。

「私、貴女こと、嫌いなの」

 瞬間、ゾフィアの表情は凍りついた。

 大きく目を見開いて、色を失った瞳でニーナのことを見つめている。

 徐々に色を取り戻したゾフィアの瞳に真っ先に浮かんだのは、怒り。

「ニィィィィナァァァァーーーッ!!」

 全身を、近くにあるすべてを震わせるような低い声でニーナのことを呼び、彼女を捕まえようと両手を上げたゾフィア。

 いままさに飛びかからんとしたとき――。

「そこまでね」

 つんのめるようにして、後ろから引っ張られたゾフィアはニーナに近づくことができなかった。

 声とともに彼女の背後に現れたのは、ミレーユ。

 ゾフィアの両手首に手錠をかけたミレーユは、驚く彼女が我に返る前に腰をつかんで身体を持ち上げる。

「待って! 待って、ニーナ!!」

 ミレーユによって停蔵棺桶の中に投げ込まれ、ガラスの蓋を閉じられたゾフィアは叫ぶ。

「わたしを、どうするつもりなのですか?!」

「このまま眠っていてもらうことにするわ。大丈夫よ、永遠に閉じ込めておくつもりはないから」

「そんなの! そんなのイヤです!! ニーナ! こんなことをして、タダで済むと思っているのですか?!」

「それは問題ないわ。貴女は自ら進んで、停蔵棺桶の長期間被検体になった、ということで処理しておくから。嘘を吐くことになるけれど、わたしが生きている間は、この中にいてもらう」

 ゾフィアは上手く身動きのできない停蔵棺桶の中から脱出しようとするが、ニーナとミレーユが蓋を押さえて、出てくることができない。

「さようなら、ゾフィア・フランケンシュタイン。永遠に」

 碧い静かな瞳で見つめるニーナ。

 表情を絶望に染め、嘆きの色を瞳に浮かべるゾフィア。

 そうして、ニーナは停蔵棺桶の下部の、運転開始ボタンに手を伸ばす。

「ニィ――」

 ガラスの蓋に顔を押しつけていたゾフィアが、羽毛よりも遅い速度で、ゆっくりと敷き詰められた花に落ちて行く。

 スローモーションのように、ゆっくりと、ゆっくりと花の上でバウンドし、そして完全に停止した。

「才能だけなら、私は貴方のことを認めていたのだけれどね」

 花の布団にに身体を沈み込ませることなく、絶望の表情とともに停止したゾフィアを見つめながら、ニーナはそうつぶやいていた。

 

 

          * 5 *

 

 

「えぇっとつまり、ニーナ教授は僕を身代わりにしたってことですか?」

 ハロウィンパーティの翌日、実験室を訪れた僕は、先に来ていたニーナ教授に詳しい事情を聞いていた。

 パーティに出かける前にも掃除していったというのに、早速荒れ果てる兆候が見え始めている実験室。

 定位置であるオフィスチェアに座っているニーナ教授は、不機嫌そうな顔を僕に見せ、彼女の回りにはいつも以上に高級そうなチョコだとか、クッキーだとかの箱が散乱させていた。

 ――何があったんだろう。

 何故かはわからないけど、ニーナ教授は朝からやけ食いをしていたらしいことはわかった。

「別にそうなるとわかってたわけじゃないのよ」

「でも、可能性のひとつだったんですよね」

「それは……、そうなんだけどね」

 ばつが悪そうに目を逸らすニーナ教授に、僕はため息を吐いていた。

 ニーナ教授がハロウィンパーティに参加したのは、ゾフィアさんが仕掛けてくると確信しているからだった。

 どんな風に仕掛けてくるかはわからなかったから、いろんな準備をしていたという。そのひとつであった僕を身代わりにするという方法にゾフィアさんがはまり、彼女を捕らえることができたということだった。

 でもそれは、結果に過ぎない。

 前回に続き今回も、僕は危険な目に遭うことになったのだから。

 ――そりゃあ、ゾフィアさんとはいつか対決しないといけなかったんだろうけどさ。

 どれくらい前からかはわからないけど、ゾフィアさんはずっとニーナ教授のことを狙っていた。

 彼女をどうにかしなければ、平穏な時間は訪れない。

 平穏にならなければ、僕もまた今回や前回のように、ゾフィアさんに狙われることになっていただろう。

 ――そういう意味では良かったのかも知れないけど。

 昨日帰る前、目を覚ました僕が受けた説明では、ゾフィアさんは停蔵棺桶に入れ、大学内で保管することになったそうだ。期間はニーナ教授が大学を離れ完全に縁が切れるまでか、亡くなるまで。

 事実上、ゾフィアさんはもう二度とニーナ教授に会うことができなくなった。

 これでもう、ゾフィアさんによって平穏が乱されることはなくなった。

 だから僕は、今回のことは水に流すことにする。

 小さく息を吐いて、気分を入れ換えた。

「話は変わりますが、ニーナ教授に色々と手紙が届いています」

 下で受け取って、実験室に来るまでにある程度仕分けておいた手紙を机の上に置いた。

 一〇通を軽く超える封書は、どれも企業関係からのものだ。

 ただし、これまでつき合いのあったところではなく、新規のところからのもの。

「そっちも多いわね……」

「やっぱり、電話も来ていますか……」

 顔を見合わせて、僕はニーナ教授と一緒に深いため息を吐いた。

 昨日の事件、というよりハロウィンパーティは、ニュース番組で中継が行われていた。

 その中継の途中に起こったのが、あの一斉ニーナ教授化事故。

 元からニーナ教授は天才として、若くして国立魔法科学大学の教授に、学長になったことで有名だったけれど、テレビで流れたことで、さらに名を馳せることになってしまった。

 畑に咲くたくさんの花のように、画面に溢れるニーナ教授の姿は、その招待がハロウィンの幽霊であっても、かなりのインパクトを視聴者に与えたようだ。

 届いた手紙のいくつは、テレビ局からのものだったり、芸能事務所からのCM出演依頼などだった。

 加えて、昨日あんな事件があったというのに、いや逆にあれだけの事件があったために、ゴストは一躍有名となり、あの会社からはイメージキャラクターとしての出演依頼が届いていた。

「騒ぎがひと段落するまで、平穏な時間は訪れなさそうですね……」

「そうね……」

 大学の学長というだけでも仕事はいくらでもあるというのに、研究が大好きで、他にも好きなこととかを精力的にこなしているニーナ教授。

 それらに加えて芸能活動なんて、している時間はたぶんない。

 でも一度有名になってしまったら、世間の熱がある程度冷めるまでは、騒がしい日々が続くことになるだろう。

「でもほら、ゾフィアさんのことは片づいたんですし、そっちの方は平穏になるじゃないですか」

 慰めにもならないかも知れないけど、僕はできるだけ明るい声で言う。

 ――あれ?

 僕の言葉に、ニーナ教授はむしろ暗い顔になり、箱に残っていたクッキーを一度に三つも頬張った。

 嫌な予感がして、僕は問う。

「どうか、したんですか?」

「えぇ、どうかしたのよ」

 もう冷めてるだろう紅茶を一気に飲み干し、口の中のクッキーを流し込んだニーナ教授。

 やさぐれたように猫背になって腕を机に預ける彼女は、言った。

「あの子、やり込められることを想定していたのよ」

「え? どういうことですか?」

 何を言ってるのかわからなくて、僕は首を傾げてしまう。

 ゾフィアさんは停蔵棺桶の中だ。

 ニーナ教授の言う「あの子」を示す人物のことが、思いつけない。

 いや、考えたくない。

「自分が停蔵棺桶に押し込められることを想定していたのよ! 夜のうちにあれは大学内に運び込んだけど、タイマーが仕込んであって、一定時間で機能が一時的に停止するようになってたのっ」

「えっと、それはどういう?」

 目に涙を溜めながら、僕のことを睨むように見つめてくるニーナ教授。

「だから、朝になったらあの子、停蔵棺桶から逃げ出して、行方不明!!」

「……冗談はよしてください」

「冗談じゃないのよ! あの子の方が私より一枚上手だったの!!」

 目尻の涙を光らせ、悔しそうに歯を噛みしめているニーナ教授。

 はっきりと言われたその言葉に、僕は目の前が暗くなってくるような錯覚を覚えていた。

「じゃあまた、ゾフィアさんが僕たちの前に現れる可能性がある、ってことですか?」

「そうよ!」

 思わず僕は、その場にへたり込んでしまっていた。

 顔を上げると、疲れ切ったニーナ教授の顔が見えた。

 僕もまた、一気に疲れを感じて、その顔を見つめ返す。

 ふたり同時に漏らしたため息からは、まるで魂が抜けていくような気がしていた。

 

 

                  「百花霊乱」 了



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第五話「清廉欠白」

 

 

   清廉欠白

 

 

          * 1 *

 

 

「決して、良い結果にはならないと思うんだけど……」

「そんなことないわ、ニーナ」

 実験室の椅子に座り、身体ごと振り向くようにして、鬱屈した曇天に似た表情を見せているのは、ニーナ・アインシュタイン。

 密かなレースがあしらわれた濃紺のワンピースに、薄手のジャケットをあわせ、金糸のような細く艶やかな髪を背に流すニーナは、誰もが美しいと評価するだろう外見に反して、その眉根には深いシワが刻まれ、不機嫌さを露わにしていた。

 そんなニーナと向かい合っているのは、ひとりの女性。

 まるで咲き誇る大輪の花。

 落ち着いた深い赤色のジャンパースカートと純白のブラウスに身を包む二十代半ばと思われるその女性は、本当に幸せそうな、晴れやかな笑顔を浮かべている。

 若干一六歳にして国立魔法科学大学の教授にして学長を務め、研究者としての成果でも注目されているニーナは、女性的な魅力でも人気を集めている。

 しかしながら、いま彼女の前に立つ女性は、花の化身、妖精だと言われても納得してしまいそうなほどの、別の世界の存在であるかのような魅力を放っていた。

「今度の人は大丈夫ですよ、ニーナ。誠実で、真面目で、ワタシだけを見てくれる人なの」

 しっとりとした長い黒髪を揺らし、女性はうっとりとした表情で両手を大きな胸の前で合わせ、最愛の人のことを語る。

「それに、この実験に適した人は、ワタシ以外にはすぐには見つけられないでしょう?」

 言って女性は、腕に下げたポーチからそれを取り出した。

 五つの球根。

 女性の両手に乗せられたそれに手を伸ばすことなく、ニーナは球根をじっと見つめる。

「それは……、そうでしょうけどね」

「大丈夫よ。ワタシとあの人との約束が破られることなんて、絶対にないわ。あの人こそ、ワタシの運命の人なのだから」

 少しゆっくりした口調で、女性は輝かんばかりの容姿よりも眩しい笑顔を浮かべ、話す。

 可憐で、どこか世間離れしている雰囲気を放っている女性に、ニーナの表情が晴れることはなかった。

 

 

            *

 

 

「持ってきましたよ、ニーナ教授……」

 言いながら実験室の扉を開け、押してきた台車に注意を向けながら室内に入った僕は、顔を上げた。

 二輪の花。

 いや、花を思わせるふたりの女性がいた。

 ひとりは言わずと知れたこの実験室の主、ニーナ・アインシュタイン。

 金糸のような細く長い髪のニーナ教授は、まるで黄色く咲く百合。

 それに対して、教授の前に立って僕に微笑みを投げかけてきてくれている女性は、大輪のバラのよう。

 見慣れたと言っても、やっぱりニーナ教授に見惚れてしまうことは多い。魔法町には美しいもの、可愛らしいものが様々にあるけれど、ニーナ教授はどこか別格の可愛らしさと美しさを持ち合わせる女性だ。

 けれどもうひとりの女性は、それとは別次元の、純粋な美しさを凝縮した存在のように思えた。

 正直なところ、女の子とか恋愛とかよりも、研究してる方が好きな僕だけど、それでも目の前に現れた美しさに身動きができなくなっていた。

「見とれるのもいいけど、持ってきた機材を机に上げてくれる? これから使うものだから」

「あっ、はい!」

 ニーナ教授の冷気を含んだ声に我に返り、僕は女性に軽く頭を下げて場所を空けてもらって、台車を実験テーブルに近づけた。

 魔法によって反重力を生み出して空を飛ぶホウキと同じ、魔法を使った小型クレーンのような昇降機でゆっくりと持ち上げているのは、分厚いガラスで造られた直方体型の実験器具。

 僕の身長の半分くらいの横幅と、その半分強の高さのあるその中は、三割くらい土で満たされている。

 さしずめガラス製の密閉プランターといった様相のそれは、底面と背面の部分は金属製で、たぶん温度や空気を調整する機械が仕込まれている。

 今日の朝、この国立魔法科学大学に登校する前にニーナ教授から連絡を受けて、生物科のミレーユ助教授のところに取りに行ったこの密閉プランターは、今度の実験で使うらしい。

 かなりの重量があって、ひとりで運ぶにはかなり苦労したから文句のひとつでも言おうと思ったけど、バラのような女性の笑みに、僕は何も言えなくなる。

 いや、来客中に小言なんて言ってられないわけだけど。

「この子が、ニーナの彼氏?」

「え?!」

「そんなわけないでしょ。助手よ、助手。大学老院生の湯川君」

 女性に彼氏なんて言われて驚いてしまうが、ニーナ教授は取り合う様子もなく僕のことをそう紹介する。

 けれどめげる様子のない女性は、含み笑いを漏らし、いたずらな色を瞳に浮かべていた。

「そうなの? もし結婚式を挙げることがあるなら、サービスするわよ?」

「その予定もその相手もないから。で、この人はタレイア。魔法町で花屋を営んでる人」

「初めまして、湯川さん。本当にニーナの彼氏じゃないの?」

「違います。……初めまして」

 即答で答えた僕は、紹介してもらったタレイアさんの伸ばす右手に、緊張しながら自分の右手を伸ばして、その温かい手と握手を交わした。

 まだ疑ってるらしいタレイアさんの視線に、僕がニーナ教授に助けを求める視線を向けると、呆れたようにため息を吐かれるだけだった。

「今日はタレイアに珍しい実験資材を持ってきてもらったの。差し込みになるけど、早速今日から実験を開始するから」

 そう言ったニーナ教授が視線を向けたパソコンデスクには、五つの球根が一直線に並べて置かれていた。

 ――手紙?

 間隔を離されて置かれた球根には、ひとつにつき一通、封書が添えられている。

 ただの封筒ではなく、封蝋により厳重に封印されたそれに、僕は眉を顰めていた。

 デジタル封蝋。

 封をする際に絶対時間による封印時間と、念波から個人判別情報を記録し、開封するときにも同じ情報を記録できるようになっているデジタル封蝋は、滅多に使われることのないデバイスだ。

 差出人本人と、受取人本人の間で取り交わされるかなり重要な親書であるとか、時間記録を取って情報封鎖が必要なほど、厳密な実験くらいにしか使うことがないものだった。

 そんなものが必要なくらい、きっちりとした記録が必要な実験をこれから行うということだろう。

 ――でも、球根とどう関係するんだろう?

 球根と密閉プランターの関係はそのままだからわかるけど、一から五番までの番号が大きく書かれたそれぞれの封筒の意味はよくわからない。

 内容を詳しく聞いてみようと思ったけど、鋭い視線を向けてくるニーナ教授の様子に、僕はとりあえずこの場では問わないことにする。

「ニーナにもやっと彼氏ができたと思ったのに、残念ね……」

「余計なお世話よ」

「……僕なんて、釣り合わないですし」

 頬を膨らませてるのに少しも美しさが損なわれないタレイアさんの言葉に、ニーナ教授は肩を竦め、たまに知り合いからそんなことを言われることもあるので慣れてる僕は、明後日の方向に顔を向ける。

「あぁ、そうだ。ワタシの方はね、春には結婚するのよ」

 ニコニコとした笑みになったタレイアさん。

 本当に幸せそうな空気を身体の内から漂わせる彼女に、いまさっき会ったばっかりなのに、僕はちょっと嫉妬しそうになる。

「ほら、この人なの。ワタシの婚約者の、園部幸夫さん」

 そう言ったタレイアさんは、腕にかけた鞄から二つ折りの大柄なパスケースを開いて、写真を見せてくれる。

 ――あれ?

 写真目線ではない、少し斜めに立っているスーツ姿の男性を見て、僕は心の中で首を傾げていた。

 誠実そうで、真面目そうな感じのする、たぶんタレイアさんより少し年上の、二十代後半だと思われる男性、園部幸夫さん。自覚のある実験莫迦である僕なんかより何割もいい男なのは写真だけでもわかるし、雰囲気からして裕福そうなのも見て取れる。

 でも魔法町在住の女性たちの中でも、おそらく上位に位置している美しさだろううタレイアさんに釣り合うか、と言うと、凡庸とも思える普通の男性だった。

 ――まぁ、相手を選ぶ基準は顔だけじゃないからな。

 本当に幸せそうで、嬉しそうな笑みを浮かべてるタレイアさんは、心から園部さんを愛してるのが彼女の様子を見てるだけでもわかる。

 絶世の美女が惚れるほどの理由が、写真からではわからない何かあるんだろう。

「でも、年が明けるまでは会うことができないの……」

 途端に花が萎れたように、悲しげな顔になるタレイアさん。

 そんな顔を見ていると、僕まで悲しくなってしまう。

「それは……、寂しいですね」

「えぇ。とても寂しいわ。けれど大丈夫。あの人はとても誠実で、ワタシだけを愛してくれる人なの。だから誰かに言い寄られたりしても、ワタシ以外によそ見することなんてないから」

 とても信頼してるんだろう、笑みを取り戻したタレイアさんに、僕も笑みが零れてしまう。

 誰かに言い寄られるなら、その婚約者さんよりもタレイアさんの方なんじゃないかとか思ったりはするけど、彼女は彼女で浮気するような人じゃないのは、その言葉と信頼しきった表情を見ていればわかる。

「それにね、あの人とは約束をしているから――」

「タレイア。それ以上は実験に支障を来すから」

「あぁ、そうね。そうなのね」

 うっとりと、夢見る少女のような表情で語り始めたタレイアさんを止めたのは、ニーナ教授。

 力強く頷いたタレイアさんは、意に介した風もなく微笑みを浮かべている。

「大丈夫よ、ニーナ。実験は必ず成功するわ」

「……そう祈ってるわ。それと、これを外さずにつけておいてね」

 そう言ってニーナ教授が差し出したのは、真空管がはめ込まれた腕環。

 つい先日騒動に巻き込まれた、ARコスプレグッズの「ゴスト」に似ているシンプルな腕環を、ニーナ教授はサイズを調整し、差し出されたタレイアさんの腕にはめ込む。

 取り外しボタンとか見えないから脱着できず、けっこうぴったりサイズの腕環をしげしげと眺めているタレイアさん。

 彼女は資材を持ってきてくれただけでなく、たぶん実験の被験者なんだろう。

 ちらりと見てみたニーナ教授と目が合う。

 何も言ってきてくれない教授は、言葉以上に目で言いたいことを語っていた。

「簡単に外せるようにはなっていないけれど、その腕環は絶対に外さないでね」

「えぇ、わかりました。では実験結果を楽しみにしていてね、ニーナ。それじゃあ湯川さんも、頑張って」

 ニコニコと笑うタレイアさんは、何を頑張ればいいのかわからないけど、僕に応援の言葉を残して実験室から出ていった。

 

 

          * 2 *

 

 

「……本当に生えてる」

 実験室の扉を開けた僕は、真っ先にその言葉をつぶやいていた。

 昨日、あの後タレイアさんが持ってきてくれたという五個の球根を、密閉プランターに植えた。

 手袋越しでも直接触れちゃいけないと言われて、どうやら特別製らしい小型シャベルを使い、拳よりもふた回りほど小さな球根を半分くらい見えるよう植える作業は、ニーナ教授が手伝ってくれなかったから意外と面倒臭かった。

 朝には根を張って茎を伸ばし、蕾をつけると言われてたけど、実際そうなった。

 いま、実験室の密閉プランターの中では、等間隔に植えられた、右から一番から五番までの球根から真っ直ぐに茎が伸び、その先端は小さな蕾ができている。

「言った通りでしょ」

「えぇ。でもさすがに、こんなに早いとは……」

「これくらいの勢いで伸びる草は、けっこうあるものよ」

 僕よりも早くに来ていたニーナ教授が、たぶん実験機材だと思われるものを準備しながらそう言った。

「とりあえずこれをそれぞれの茎と、蕾のつけ根につけて、ここの外部端子に接続して頂戴。それとそれぞれのレコーダをセットして」

「あ、はい。わかりました」

 言われて僕は、プランターの上部蓋を開け、クリップ状のセンサーを茎が傷つかないように慎重に取りつけた。ついでに中に設置されてる受け口にセンサーの端子を接続する。

 さらに音波や振動のレベルを記録するのに使う、ロール紙に受信した信号の強度を描くレベルレコーダを球根一個につき一台設置し、プランターの外部端子からケーブルを伸ばして接続した。

 蓋を閉めてロックすると、ガラスだから中は見えるけど、空調も温度も、土の湿度管理もできる密閉式プランターの内部は、完全な密室となる。

 たぶんだけど、可視光線は通しても、それ以外の電波や、魔法なんかも通さない素材でできてるんだと思う。

「これって、何なんですか?」

 平常の植物の生体活性だろう小さな振れ幅を記録しているレベルレコーダが、紙と同時にデジタルデータでも記録できてるかを確認しつつ、プランターを睨んでいるような表情のニーナ教授に訊いてみる。

 ここまで見る限り、どう考えてもニーナ教授が専攻し、僕が助手を務める精神物理学分野の実験じゃない。植物の研究ならこのプランターを貸してくれたミレーユ助教授が専攻する生物学の分野だ。

 それでもニーナ教授が行い、そしてタレイアさんが被験者になってるってことは、たぶん精神物理学の実験なんだ。

「あの人が持ってきたのはね、宇宙シャガの球根よ」

「宇宙シャガ?」

 生物分野にはあまり造詣が深くない僕には、初めて聞く植物の名前だった。

 遠隔で精神波を介してリンクしている、僕のアパートの部屋に設置した脳NAS内のライブラリを検索してみても、該当する項目が見つからない。

 ネットワーク経由で大学図書館のデジタルライブラリを検索してみると見つかったが、たいした情報は得られなかった。

 地球外の発見された植物で、和名は宇宙シャガ、絶滅が危惧される植物であることと、花の写真程度。植生などの詳しい情報はなく、本当に名前くらいしか情報がなかった。

 土に触ったので手を洗い、お湯を沸かして紅茶の準備をする間、流しに置かれたカップを濯ぎながら、僕は続けて訊いてみる。

「その宇宙シャガが、精神物理学の実験に関係あるんですか?」

「それはもちろん。だからこそ実験するんじゃない」

 ニーナ教授の目が、キランッと音を立てた気がした。

 沸かしたお湯を茶葉を入れたティポットに注ぎ、葉が開くのを待つ間にニーナ教授が話してくれる。

「宇宙シャガはね、精神物理学の最大命題解明の鍵になるかもしれない実験対象なのよ」

 椅子に座って僕の方に振り返り、短いスカートじゃちょっと危険なほど高く脚を組んだニーナ教授は、嬉しそうな、でもちょっと自分の世界に入り込んでいる笑みを浮かべる。

 まだまだわからないことの多い精神物理学は、命題と呼ばれている課題が数多くある。

 でも最大命題と言われると、その中のどれなのかパッとは思いつかない。

 スカートから覗く眩しすぎる太股よりもさらに輝かしい笑みを浮かべ、ニーナ教授は僕の瞳を見つめてきていた。

「最大命題、ですか」

「えぇ。湯川君は念波が主にふたつに分類されるのは知ってるわよね?」

「それはもちろん。念力と精神波ですよね?」

 精神物理学で主に研究対象となるのは、念力と精神波だ。

 念力は正確には念動波と呼ばれ、主に生物の脳から放射される波動だ。

 魔法と言う形で科学的に扱い、ホウキに内蔵された増幅回路を使って強化し、反重力を発生させて空を飛んだり、機械的な装置で発生させて反重力町のように空飛ぶ町を建造したりと、いま現在の世の中では必須のものとなっている。

 利用している割にわかっていないことも多く、何故生物からは念動波が積極的に発せられるかとかは、いまでも研究が続けられ、解明しようと多くの人が取り組んでいる。

 もうひとつの精神波は主に通信などに使われている。念動波と同じく人間の脳から発せられていて、でも念動波と違い物理的な現象への干渉力は弱い。

 けれど音波に近い性質を持ち、音波に準じた扱い方で利用できたり、デジタルデータに変換できたりする。脳から発せられるだけでなく脳への入力にも使えるため、通信に利用したり、バーチャルなゲームで使われたりと、応用範囲がかなり広い。

 個人個人でユニークな波紋のある精神波はセキュリティに使われたりもするけど、同時に人間の精神そのものに影響があるため、それを応用した技術は毒にも薬にもなる。悪質なウィルスに感染して、最悪の場合別人にされてしまう、なんてこともあったりする。

 ニーナ教授は精神物理学を中心に、かなり広い範囲の研究を行っているため、念動波とか精神波とか特定分野に特化した研究だけをしてるわけではない。そんな広い範囲で多くの成果を残していることが、教授の凄いところだったりした。

 精神物理学の基礎とも言える研究対象を述べた僕は、にんまりとした笑みを浮かべてニーナ教授の青く澄んだ瞳を見つめた。

 けれど、返ってきたのは呆れを含んだため息だった。

「その答えじゃ落第よ、湯川君。確かにここの大学生までだったらそれでもいいけれど、大学老院生で、私の助手の貴方がそんな答えじゃ困るんだけど?」

「え……」

 そんな風に言われて、僕は顎に指を添えて眉を顰める。

 僕がこれまで魔法科学大学で勉強と、研究をしてきた内容から考えれば、念動波と精神波で間違いがないはずだ。でも、ニーナ教授は落第だと言う。

 それ以外のもので、そして精神物理学の最大命題だとされるもの。

 深く、深く考えて、やっと僕は思い着く。

 ――あっ!

「念動波と……、それから念信波、ですか?」

 念信波は、精神物理学でも研究対象にしている人が少ない分野。

 それは何より、観測が困難であるから。

 現実に干渉する念動波や、音波に近い性質を持つ精神波と異なり、念信波はほとんど現実に干渉しない波動であることがわかってる。

 精神波は念信波が脳から放射される際の副次的な波動であるらしいということがわかってきていたりするが、宇宙的にはかなり昔から存在が予言され、間接的には観測もされているのに、ほとんど研究が進んでいない。

 宇宙物理学になぞらえるならニュートリノのような、物質に対してほとんど干渉しないことがわかっている素粒子に近い意味合いを持つ。しかしそれよりもさらに現実への干渉をしない念信波は、研究すること自体が困難であるため、この魔法科学大学でも研究しているゼミはふたつしかないし、成果が上がったという話も聞いたことがない。

 念動波をテレキネシス、念信波をテレパシーと呼ぶこともあり、遠隔地との情報交換や思考のやりとりが可能とされてる念信波だけど、自発的に扱えるという人は確認されていなかった。魔法使いと呼ばれる人々は強い念信波を発するという話もあるけど、それも噂程度だった。

「その通りよ。この実験はね、念信波に関係する研究なの」

 険しい表情だったニーナ教授はニッコリと笑み、そう言ってくれる。

「……でも、この宇宙シャガがどうして念信波の実験になるんです?」

「念信波は脳を持つ知的生命体同士でやりとりができることは知られてる。でも念動波と違って、念信波は植物からも放射されている可能性が示唆されてるの。この宇宙シャガは、念信波を受信して特別な振る舞いを見せるとされているのよ」

「そんな植物があるんですかっ」

 観測が困難であるため研究者の中では軽視されがちだけど、確かに念信波は精神物理学の最大命題と言える波動だ。

 何しろ性質が不明のため、念信波はいろいろな可能性が示唆され、様々な説が唱えられている。精神波も通信技術の向上により光の速度を超える方法が発見されて超遠方へのリアルタイム通信が可能になっているが、念信波は空間だけでなく時間すらも飛び越えるなんて説まであるほどだ。

 本当に宇宙シャガが念信波を受信して何らかの振る舞いを見せるのだとしたら、それはこの実験室で宇宙的な発見があるかも知れなかった。

「それは本当に凄いですね……」

 僕もひとりの研究者。

 しがない学生で、教授でもなくただの助手でしかないけど、さすがにそんな実験に立ち会えるなんて興奮してきてしまっていた。

 拳を握り締めて、さっきからほとんど変化のないレベルレコーダに見入ってしまう。

「それでこの実験の被験者が、タレイアさんなんですよね? どういう内容の実験なんですか?」

「それは……」

 言葉を濁らせたニーナ教授の方を見てみると、表情を曇らせていた。

 それは昨日タレイアさんがいたときに見せていた、複雑な表情だった。

「実験の内容についてはいまはまだ明かせないわ。昨日も言った通り、余計な情報は実験の失敗を招きかねないのよ」

「僕にも、教えられないんですか?」

「えぇ、そうよ。貴方は宇宙シャガと記録に大きな変化があったら、それを報告してくれればそれでいいから」

「……わかりました」

 何となく釈然としないものの、実験に支障が出ると言われたら仕方がない。

 いつになく眉根のシワを深く刻んでいるニーナ教授の、悲しそうな青い瞳に、僕はそれ以上訊くことを諦めるしかなかった。

「実験期間はどれくらいになるんですか?」

「そうね。長くても来年の一月には最終結果が出ているはずよ」

「最短だと?」

 とくに意味があったわけではなく、そう訊いてみると、ニーナ教授はこれまでで一番大きく顔を歪め、少し震える声で言った。

「早ければ、一週間で結果が出るかも知れないわね」

 

 

            *

 

 

 請求先の指定を済ませた僕は、受付担当の看護師さんに挨拶を済ませてその場を離れた。

 国立魔法科学大学付属の病院は、そろそろ夕方になろうという時間だというのに、ロビーに並んだソファには隙間がないほど人がいた。

 午前と午後の診療の他に、主に夜行性の人向けに夜間診療もやっているここは、深夜の時間帯に入るまで人が引けることはない。

 地球人類はもちろん、宇宙人と言わず、真空管ドールと言わず、ロボットの診療まで請け負う大学付属病院の、朝の大学正門前より様々な人が集まってる広いロビーを抜け、僕は巨人でも通れそうな正面入り口の自動ドアを潜った。

「でも、それも今日で終わりか」

 僕が病院に通っていたのは、経過観察のため。

 つい先月には時間凍結保存されかけ、さらにその前の月には空間ポケットの爆発に巻き込まれて大怪我を負った。

 原因は主にゾフィアさんなわけだけど、そのとき負った怪我は完治はしている。ただ、念のため経過観察を入念に行うってことで、ニーナ教授が一部は自費まで使って病院に通わせてくれていた。

 それももう大丈夫ってことで、病院に通うのは今日で最後。

 明日にはそのことの報告と、お礼をニーナ教授に述べるつもりだった。

 ――それとも、まだ実験室にいるなら今日の内に報告しておくべきかな?

 そろそろ遅い時間なので、どうするか迷ってしまったときだった。

「ん? あれ?」

 ホウキの後ろに客席をくくりつけた反重力人力車が待つタクシー乗り場を横目に、ひっきりなしにホウキなどで人が降りてきたり飛んでいったりしている病院前の発着スペースで、自前のダブルサイクロンホウキにまたがろうとしたとき、気がついた。

 まるで恋人同士であるかのように、一本のホウキに身体を密着させて降りてきた男女。

 どこか緊張しているような硬さも感じるが、仲よさそうに微笑みを浮かべながら僕とすれ違っていったふたりのうち、男性の方に見覚えがある気がした。

 発着場の縁に立ったまま、僕は記憶を掘り返す。

 ――あ!

 思い出した僕は、病院の自動ドアを抜けていくふたりに振り返った。

 僕のことなんて気にもしていない男性には、確かに見覚えがあった。

 でも、面識があるわけじゃない。

 知り合いでもなければ話したことがあるわけでもその男性は、園部幸夫。

 タレイアさんが昨日、婚約者だと言って写真を見せてくれたその人だ。

 ――隣の女性はいったい誰だ?

 来た道を戻って、病院の中には入らず園部さんの隣に立ってる女性のことをじっくりと見る。

 スズランのような人だった。

 タレイアさんが大輪のバラだとするなら、園部さんの隣に立ち、微笑みながら歩いている女性は、肌が白く、儚げで、ともすると夜露とともに消えてしまいそうな雰囲気をした、まるでスズランの花のような女性。

 誰からも注目されるだろうタレイアさんの華やかな美しさと違って、どこか園部さんと似た、ひっそりとした魅力を漂わせ、美少女の雰囲気を持つ、たぶん二十代そこそこだろうその女性は、予約でもしてあるのか迷うことなく受付のひとつに向かっていく。

 ――あそこは……。

 総合病院である大学付属病院は、受付ごとに科が違う。

 園部さんとスズランの女性が向かった受付は、確か婦人科だ。

 ――どういう関係なんだ? あのふたりは。

 病院に行くからか緊張してる様子はあるけど、微笑み合っていて、打ち解けた感じがあった園部さんと女性。その距離の近さは、ただの友人とは思えないほどに見えた。

 ――僕に、何ができる?

 ニーナ教授は、昨日タレイアさんとあんまり話さないように言っていた。実験に支障が出る可能性があると言うなら、それに従うしかない。

 でもあんなに幸せそうにしていたタレイアさんが、婚約者のことでトラブルを抱えることになるのも問題なように思えた。

 選択肢はふたつ。

 見なかったことにして、この場を後にすること。

 タレイアさんに報告をして、警告すること。

 一度少し話しただけとは言え、知り合いになったのだから、婚約者が浮気しているかも知れないことを知らせるべきなように思える。

 でもニーナ教授に止められていることを考えると、軽々しくそんなことはできない。

 ――とりあえず様子を見よう。

 園部さんの隣にいるのが浮気相手だとは限らない。

 そう無理矢理自分を納得させた僕は、自動ドア前を離れて家に帰ろうとする。

「済みませんっ」

「あっ、いえ! こちらこそっ」

 振り返った途端、ちょうどやってきた人とぶつかってしまった。

 そろそろ夕方になると寒いからだろう、厚手のコートについたフードを目深に被っている、その涼やかな声からすると女性と思われる人物と謝り合う。

 急いでいるのか、女性はそれ以上何も言わずに、自動ドアの向こうに小走りに入っていった。

「とりあえず、帰ろう」

 園部さんのことは気になるけど、浮気だという確証もなければ、タレイアさんとあんまり話しちゃいけない僕にはできることなんてない。

 発着場の端までのろのろと歩いていった僕は、ダブルサイクロンホウキにまたがって、ふわりと空に飛び上がった。

 

 

            *

 

 

 鍵を解除して実験室の扉を開ける。

 いつもよりけっこう早い時間だから、実験室にはまだニーナ教授は来ていなかった。

 昨日家に帰って、食事をして近くの銭湯に行った後、悶々とした頭を抱えながら眠った。

 眠りにつくまでずいぶんかかったのに、朝も早く目覚めてしまって、二度寝もできそうになかったのでいつもより早く実験室に来ていた。

 部屋の灯りを点け、密閉プランターを見てみる。

「あ!」

 昨日実験室を出るときまではなかった変化に、ひと目で気づいた。

 宇宙シャガ一号の蕾が、落ちていた。

 ――どういうことなんだろうか?

 念信波に関係する実験だとは聞いてるけど、蕾が落ちた理由については僕にはわからない。

 ――でももしかしたら……。

 タレイアさんは園部さんと約束をしていると言っていた。

 もし昨日園部さんと歩いていた女性が彼の浮気相手だとしたら、タレイアさんとの約束が破られたということなんじゃないだろうか。

 蕾が落ちた理由は、約束破りかも知れない。

 ただの推測に過ぎないけれど、僕はそんなことを考える。

「おはよう、湯川君。今日は早かったのね」

 言いながら入ってきたのは、ニーナ教授。

「教授。これ……」

 いつも通り美しい金色の髪をなびかせて近づいてきたニーナ教授に、僕は一号の蕾を指し示す。

 険しい表情になった教授は、すぐさまプランターに近寄って、僕を押しのけるようにしてその後ろに置かれたレベルレコーダに手を伸ばした。

 巻き取られていた記録紙を引っ張り出し、たぐっていく。

 僕も後ろから覗き込むと、宇宙シャガがそれまでにない激しい反応を見せたのは、一分にも満たない時間なのがわかった。

 記録紙の横に刻印された時間を確認してみて、僕は気がつく。

 ――ちょうど僕が病院から出たくらいの時間だ。

 時計を見たりしてたわけじゃないから正確ではないけど、診察室を出て少し経ったくらいの時間だから、たぶんそれくらいだ。

 その時間にあったと僕が確信できるのは、園部さんのことだけ。

 ――でも、それが理由なのか?

 理屈については僕にはわからない。

 僕が女性と歩いてる園部さんを発見したことと、宇宙シャガ一号の蕾が落ちていることに関係があるのかもわからない。

「どいて」

 僕を腕で払ったニーナ教授は、密閉プランターに向かい合うように置いてあるパソコン用デスクに向かい、パソコンの電源を入れた。

 少しして立ち上がったパソコンをキーボードを打って操作し、レベルレコーダのデジタルデータを呼び出した。

 反応した記録も、時間も、記録紙に残されたものと同じだった。

 唇を噛み、苦々しげな表情を浮かべるニーナ教授。

 僕にはその表情がどんな意味を持つのか、理解することも推測することもできなかった。

「あの……、ニーナ教授――」

「湯川君、実験を継続するわよ」

 僕が何か言う前に、ニーナ教授はそう宣言した。

 宇宙シャガ一号用のレベルレコーダの電源を切り、教授は大きなため息を吐く。

「えぇっと、タレイアさんには、連絡するんですか?」

「それは湯川君が気にすることじゃないわ。貴方の仕事はこの実験を観察し、記録を取ること。わかった?」

「……わかりました」

「じゃあ紅茶を淹れて頂戴。こっちは観察と記録だけだから、次の変化があるまではそのまま継続。今日は半端になってる実験を再開するわよ」

「はい、ニーナ教授」

 いつもなら実験を始めるならウキウキとし出したり、にやけた顔になるニーナ教授なのに、今日は沈みきった表情をしていた。

 でもニーナ教授は、僕に話してくれる様子はない。

 言われた通り紅茶の準備を進めながら、僕はもやもやとした気持ちを抱え続けるしかなかった。

 

 

          * 3 *

 

 

 やっと運ばれてきた食後のコーヒーに、僕は背中に冷や汗が伝い落ちていくのを感じていた。

 ――助かった……。

 こっそり安堵の息を漏らしてる僕の正面に座り、満足そうな笑顔を浮かべてコーヒーカップを口元に寄せているのは、ミレーユ・シュレディンガー助教授。

 荒々しく流れ落ちる滝のような癖のある長い髪を背に流し、清楚な感じの深緑のワンピースを身につけ、たぶん実験の際の汚れ防止のためだろう真っ白なエプロンを掛けている、美人という言葉が似合う女性。

 僕とほんの一歳しか違わない一九歳であるが、国立魔法科学大学ではニーナ教授にも次ぐ天才と噂され、しかし性格的に問題があることが理由で教授になれないとまことしやかに語られているミレーユ助教授が、今日の僕の昼食の相手だった。

 研究室に詰めていてひもじそうにしていた彼女を、奢ると言って誘ったら喜んで着いてきてくれた。

 昼食の場所として選んだのは学食。

 それも広い大学の敷地の中にいくつもある学食のうち、学生よりも職員や外からの人が利用する方が多い、美味しくてちょっと高めのところを選んだ。

 よく食べる人なのは知ってたけど、予想よりふた皿ばかり多かった注文に冷や汗をかきつつ、財布の中身で足りることに僕は安堵していた。

「それで、今日は何の用事があってワタシを呼び出したのかしら?」

「えっと……」

 とくに用事があると言ってお昼に誘ったわけではなかったけど、ミレーユ助教授にはバレバレだったらしい。

 どう切りだそうか迷って、僕は挙動不審になってしまう。

「あぁ、もしワタシと付き合いたいってことなら、美味しい食事よりも、何か珍しいものをプレゼントしてくれるか、誰も知らない素敵な穴場スポットにでも連れて行ってくれた方が嬉しいかな?」

 ニーナ教授の実家も相当なものだけど、ミレーユ助教授はそれに輪をかけて裕福な家柄だ。

 世界でも有数の大学とは言え、何でこの魔法町の国立魔法科学大学で助教授やってるのかよくわからないくらいだし、大学に通うために世田谷の超高級住宅街の大きな私邸に住んでるのも凄まじい。

 美味しい食事なら、ミレーユ助教授であればこんな学食よりも良いものを食べられるだろう。

「えぇっと、今日はそういう用事じゃなくってですね……」

「へぇ?」

 なんでか突然目を細め、冷たい視線を向けてくる助教授。

「まぁ、そうでしょうね。湯川君だしね」

「えっと、まぁ、そうですね」

 どういう意味なのかいまひとつわからないけれど同意の言葉を返しておいて、僕は今日の用事を伝える。

「それでですね、ミレーユ助教授は、宇宙シャガって植物のことはご存じですか?」

「宇宙シャガ、ですって?」

「はい」

 それまでは外の空気よりも冷たい視線を向けてきていたミレーユ助教授が、いまにも雷でも鳴りそうな険しい表情になった。

「――あぁ、なるほど。この前ニーナに貸したあの実験用のプランターはそれ用だったのね。またずいぶん珍しい土壌の指定をしてくると思ったら……」

「えぇ、そうなんです。それでいま、宇宙シャガを使って実験をしてるんです」

 あまり学生が多くないと言っても、昼時の学食だ。

 食事の値段がそこそこするだけあって快適性も重視されてて、席と席の間はけっこう離れてる。それでも僕は声を潜めて、納得した顔で頷いて見せたミレーユ助教授と話す。

「実験してるってことは、被験者がいるのよね?」

「えぇ、います」

 いろいろ調べ回って結局たいした情報を得られなかった僕と違って、さすが生物学課の助教授、名前を聞いただけで実験の内容までわかったらしい。

「誰なの?」

「宇宙シャガの球根を持ってきてくれた、魔法町で花屋を営んでるという方――」

「もしかして、タレイア?」

「えっ、あ……、はい」

 宇宙シャガについて聞きに来たとは言え、被験者となれば個人に関する情報。名前まで言わずに済まそうと思ったのに、ずばり言い当てられてしまった。

 タレイアさんの名前を口にしたミレーユ助教授は、眉根に深いシワを寄せた。

「ご存じなんですか?」

「まぁ、ワタシもあの人には世話になってるからね」

「生物学ですもんね」

「えぇ。図鑑でしか情報がないような希少な植物を、種の段階で判別するような、一種の超能力の持ち主よ、あの人は。この魔法町にはいろんな人が住んでいるけれど、あの人ほどの植物の知識と、魔法使い染みた直感力を持ってる人はいないからね、けっこう有名人なのよ。……いろんな意味でね」

「なるほど」

「宇宙シャガなんて魔法町にだって過去に何回か持ち込まれたことがあるかどうかの植物、あの人でなければ発見することはできなかったでしょうし」

 プライドが高く、自尊心も人一倍で、けっこう嫉妬深いところもあるような気がするミレーユ助教授が素直に褒めてることに、ちょっと驚く。

 でもその表情は相変わらず曇りきったままだ。

 話すなと言われてるから会ったりはしてないけど、タレイアさんのお店についてはちょっと調べてみた。

 魔法町にはいくつもある、地球産はもちろん、地球外の植物も扱っている街の花屋さん、というのがタレイアさんの店のようだ。

 規模的には個人経営のため小さく、人も雇っていないようで不定期な休みがあったりする。

 ただ普通のお店と少し違うのは、好事家やミレーユ助教授のような研究者の引き合いが多いということ。法律的な問題があるようなものは扱ってないようだけど、宇宙シャガのように地球に入ってくることが珍しい植物を扱ってることがけっこうあるようだった。

「しかし、よく宇宙シャガなんて手に入ったわね」

「そんなに珍しいんですか?」

「ワタシも実物を見たことはないわね。売買になんて出されたら、速攻で大学とか研究機関がかっさらっていくくらいにはね。……でも、そうか。あの人が手に入れて、被験者になってるのね」

 濃い緑の瞳を僕から逸らして、魅力的なニーナ教授の胸よりさらに大きな胸の前で腕を組み、考え込むように目を細める。

「それで、宇宙シャガというのがどんな植物で、どんな実験に使えるものなのかお訊きしたいのですが……」

 怒っているかのように顔を顰めているミレーユ助教授に、僕はおずおずとそう問う。

 実験に支障を来すようなことをしてはならない、というのはわかってる。でももしかしたらタレイアさんが婚約者に、園部さんに裏切られているかも知れない。

 精神物理学では発生した現象を主に研究対象とする。精神に関わる学問なのだから、必ずではないけれど多くの場合、実験には被験者がいる。

 実験に私情を持ち込んではならないと、いつもニーナ教授には言われてる。

 でも裏切りが本当なら、何も知らずに黙っていられそうにはない。

 だから僕は、すべてを見透かすように僕の瞳を見つめてくるミレーユ教授の瞳を見つめ返していた。

「ここの支払いは持つから、今度はどこか素敵な場所にでも連れてちょうだいね」

 ひとつ大きなため息を吐き出して、ミレーユ助教授は席を立つ。

「えっと……、あの……」

「ニーナにも被験者に接触しないよう言われているでしょう? 湯川君」

「それはまぁ、そうなんですが……」

「だったら実験が終わるまで待っていなさい。実験が終わった後なら、ニーナもちゃんと全部話してくれるだろうから」

「……そうですか」

 哀れみなのか、目を細めたままそう言った彼女は、行ってしまった。

 温くなったコーヒーで喉を潤し、僕はどうしていいのかわからないまま、ただ椅子に座り込んでいた。

 

 

            *

 

 

「次はこのデータの入力お願い」

「はい、わかりました」

 ニーナ教授の声に応えて、僕は受け取った書類の束を実験用の机の隅に広げる。

 ノートパソコンを操作して新しいファイルを作成し、渡された書類に記載されたデータの入力を始めた。

 今日はここのところやっていた実験の成果を入力する作業をやっている。面倒な作業だけれど、データをまとめる作業はやっておかないと論文を書くときにさらに面倒なことになる、必須の作業だった。

 本当はその入力作業も論文を書く本人がやった方がいいと思うんだけど、今年度に入ってからのニーナ教授の論文は、僕が手伝わないといけない程度にはなっていた。

 けっこう大量にある入力にげっそりしながら、ちょっとだけ止める。

 ちらりと見た、密閉プランター。

 二号から五号までの宇宙シャガの蕾が並んでいて、一号の蕾が落ちた一昨日のような変化は見られない。

 ――まだ、大丈夫なんだな。

 この実験でどんな成果が得られて、蕾が落ちた意味がどういうものなのかはわからない。

 けれどたぶん、タレイアさんの言っていた約束が関わることだろうことは予想できた。

 変化がないということは、たぶんタレイアさんと園部さんの間で変化がないということだと思う。

「まだかなり残ってるんだから、集中してもらえる?」

 知らぬうちにプランターをじっと見つめていたら、ニーナ教授にそんなことを言われてしまった。

「あっ、はい……、すみません」

 愛用のCRTモニタから首だけ振り向かせて、厳しい視線を向けてきているニーナ教授。

 そのときだった。

「あっ! あぁ……」

 ぽとりと、二号の蕾が落ちた。

 僕の、目の前で。

「ニーナ教授!!」

 座っていた椅子から立ち上がって僕は叫ぶ。

 こちらに視線を向けることなく、ニーナ教授はじっと落ちた蕾を見つめていた。

「これは、どういうこと、なんですか?」

「蕾が落ちたこと? 変化が出たってことは、実験が正常に継続されている証拠よ」

「そう……、なんですか?」

「えぇ。むしろ何も変化がなかったら、この実験は失敗なのよ」

「そうなんですね……」

 こちらを見ることなく、まだ落ちた蕾を見つめているニーナ教授が、正常に実験が継続していることを喜んでいる様子はない。

 目を細め、唇を引き結んで、何か思うところがあるように見えるのに、その口から何かが語られる様子はない。

「蕾が落ちるというのは、どういう状況なんでしょうか?」

 恐る恐るそう訊いてみる。

 ちらりと刺すような視線を一瞬だけ僕に向けてきたニーナ教授は、身体を元に戻して、入力作業を再開した。

「実験の内容については、全部終わったら話して上げるわ。だからそれまでは余計なことは考えないように」

「わかりました」

 タイピングの度に微かに揺れる金糸の髪越しに聞こえる声からは、何を考えているのかまではわからない。

 一号で取ったのと同じく、二号のデータが正常に記録されてるのを確認しながら、僕はそれ以上のことが何もできないでいた。

 

 

 

 

 CRTモニタに微かに映っている湯川の様子を見てみると、宇宙シャガの蕾に目を落としているのが確認できた。

 魔法町でも密かに名前の知られているタレイアに心を奪われているという感じは、していない。

 あの日タレイアに接触したために何らかの感情移入をしているのかも知れないとも思ったが、実験の詳細を知らせていないのだ、共感できそうな要素はそれほど多くない。

 表示された入力画面に注意を戻し、作業を再開する。

 ――何かあったのかしらね。

 良くも悪くも湯川は研究莫迦だ。

 実験対象に疑問を持つことはあっても、感情移入するということは少ない。ましてや心奪われて実験をおろそかにすると言うタイプでないというのは、最初に会ったときにも、これまで見てきた彼の行動から考えても、そうありそうなことではなかった。

 大きなため息を漏らして、湯川が作業を再開した。

 それをちらりと確認したニーナは、眉を顰めていた。

 ――実験が終わるまで、何事もなければ良いのだけど。

 

 

          * 4 *

 

 

 研究とは、人を幸せにするために行うものだ。

 僕はそう考えてる。

 ニーナ教授を手伝ってやっているような、精神物理学の基礎研究では、成果がすぐさま人を幸せにするなんてことはあり得ない。でも、原則としてこれから先の、誰かの幸せにやるべきだと思うし、実験や研究によって不幸になる人がいちゃいけないと思う。

 あくまでそれは理想論だから、誰ひとりとして不幸にならない研究なんてのはあり得ない。同じ大学の中でも、世界中の研究者の間でも、予算や研究対象による競合はあるんだから、理想の完璧な実現はたぶん無理だ。

 それでも少なくともできる範囲では不幸な人が出てほしくないと思う僕は、いま神保町にいる。

 日本有数の規模を誇る国立魔法科学大学のデジタルライブラリでも、大図書館にも、宇宙シャガに関する詳細な情報はなかった。

 でもこの神保町の、魔法世界になる前から存続している古本屋街では、人が文字を編み始めた頃の石版から、宇宙の果てから流れ着いた書籍まであると言われてる。

 薄暗い廊下から見えるのは、立ち並ぶ小さな古書店の入り口。

 一歩踏み込むと無限の敷地を持ってるような、書棚に整然と差し込まれた古書たち。

 神保町の中でも最下層に近い位置に建つ、旧神保町古書センターに踏み入れた僕は、途方に暮れていた。

 宇宙シャガの情報を探すために、植物関係の本が多いところか、念信波関係の本に目星をつけて探してるけど、前者は数が多すぎて発見が難しく、後者は数が少なすぎて見つけるのが困難だった。

 地球外の本となると言葉ももちろん地球外のもので書かれてるし、宇宙で公用語として使われてる言葉もたくさんあるから僕が読める本は決して多くなかった。

 一冊本を手に取ってぱらぱらとめくるが、ため息を吐いて戻す。

 タイトルは僕でも読める宇宙公用語だけど、中身は現地語と思われる言葉で書かれていて読めない。

 大学帰りにこうして神保町に寄るようになって二日目。僕はすでに徒労感を覚え始めていた。

 ――やっぱり、ニーナ教授か、ミレーユ助教授に聞くしかないかな。

 しゃがんで下の方にある、読める宇宙語で書かれた本のタイトルを一冊ずつ確認しながらそんなことを考える。

 どんなに聞き出そうとしても、ここまでのふたりの態度から想像するに、実験が終わるまで宇宙シャガのことを教えてくれることはないだろう。

 待つことができない僕は、やはり自分で探すしかない。

「徒労に終わりそうな気もするけど」

 小さくつぶやいてため息を吐く。

 ニーナ教授は早ければ一週間で実験が終わると言っていた。

 すでに蕾はふたつ落ちている。

 実験は一週間は超えられるかも知れないけど、一ヶ月になることはないだろうと思えていた。

「探しものですか? 湯川さん」

 ここでの捜索を終えてもう一軒回ったら帰ろうと思ったとき、声をかけられた。

 立ち上がろうとした動きが硬直する。

 背筋に冷たい予感が走り抜けていく。

 かけられたのは穏やかで優しい感じの声なのに、僕は死の予感を覚えていた。

「ゾフィア、さん……」

 声をかけてきた人物に目を向けると、喪服を思わせる黒い和服に身を包む、ゾフィア・フランケンシュタインがいた。

 人形のように整った顔立ちと、しっとりとした長い髪。

 柄はあるけどほとんど黒一色と言っていい和服のゾフィアさんなのに、ニッコリと笑む彼女が醸し出しているのは、菊の花の雰囲気。

 それも、仏前に飾る、造花の菊を思わせた。

「先日はご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

「い、いいえ。えっと、僕はこれで――」

「何か、探しものだったのでしょう? こんな下層の古書店までいらっしゃるとは、よほど見つかりにくいもののようですね。先日のお詫びに、わたしの知っていることでしたらお教えしますよ」

 後退って逃げようとした僕の袖口をちょこんとつまんだゾフィアさん。

 振り払おうとしたのに、袖をつかんだ彼女の手はぴくりとも動かない。

 恐怖に駆られた僕は、思わず口にしていた。

「宇宙シャガという植物を、ご存じですか?」

 瞳が光ったのかと思った。

 口元の優しい笑みは変わらないのに、ゾフィアさんは瞳を輝かせ始め、目尻を垂らす。

「えぇ、知っていますよ。知っていますとも。けれど湯川さんが知りたいことは、ここで話せるほど簡単な内容ではないでしょうから、近くの喫茶店に行きましょう」

 そう言ったゾフィアさんは有無を言わせず袖を引っ張って店の外に歩いていく。

「いや、でも、僕は……」

「大丈夫ですよ、湯川さん。ニーナからは貴方を含めて会いに来てはならないと言われてしまっていますが、ここで会ったのはただの偶然です。偶然会って、わたしは訊かれたことに答えるだけ。偶然ですから貴方に危害を加えるようなものも持っていませんし、ただお話をするだけです」

 弾んだ声でそんなことを言うゾフィアさん。

 可愛らしい女の子にお茶に誘われてるわけだから普通なら喜ぶところだけど、彼女の本性を知っていたら逃げ出したい気持ちの方が強い。

 けれど僕は、宇宙シャガのことと、タレイアさんのことが気がかりで、ゾフィアさんの手を振り払うことができないでいた。

 

 

            *

 

 

 近くの、と言っていた割に、美味しいお店があるからと言われて、僕は神保町中層の商店エリアまで連れてこられることとなった。

 区画を貫通する中層アーケードには様々な種類の店が集まり、人がごった返している。

 ゾフィアさんが選んだのは、人通りの多いアーケード沿いの落ち着いた喫茶店。

 暗い路地に入っていくなら逃げようと思っていたけどそんなことはなく、テーブル席で向かい合ってニコニコとした笑みを浮かべているゾフィアさんの真意はわからない。

「宇宙シャガとは、またずいぶん珍しいものを手に入れましたね、ニーナは」

「……えぇ」

「確か公式の記録では地球に持ち込まれたのは過去に一度、球根が二個だったはずです。非公式で一回、やはり二個。合計四個しかこれまで持ち込まれてはいないと思います」

「そんなに珍しいものなんですか」

「そうですね」

 運ばれてきた紅茶セットと、薄手のパンケーキ三枚重ねに嬉しそうに笑み、早速手を着け始めるゾフィアさん。

 上品に食べ進めながらも、彼女は話を続ける。

「本当に珍しい植物ですからね。探しても資料は得られなかったでしょう?」

「はい」

 一度は殺されかけたのだから、警戒を解くわけにはいかず、僕は警戒しつつコーヒーのカップを傾けた。

「運が良かったですね、湯川さん」

「え?」

「こちらをどうぞ」

 言ってゾフィアさんは、隣の椅子の上に置いた自分の巾着袋に手を入れ、何かを取り出した。

 古びた感じの本。

 かすれて見えにくくなっている表紙に印刷されたタイトルは、明らかに地球の文字ではない。開いて見せてくれたページには、僕が調べたときに見ることができた、宇宙シャガの特徴がある花のイラストが描かれていた。

 ただ、タイトルはもちろん、ページに書かれた内容も、僕の知ってる宇宙公用語とは違って、読むことはできなかった。

「今日は少々不要な本の処分に来ていましてね、この本はページがいくつかなくなってしまっているので買い取ってもらえなかったのですよ」

 めくって見せてくれた次のページにもびっしりと文章が書かれている。

 イラストにより特徴的な部分も描かれてるその本は、一般人向けの図鑑や、園芸関係者向けの専門書と言うより、植物学者向けのカタログのように思えた。

「えっと、これは?」

「わたしの蔵書の一冊ですが、もう使うことはないので差し上げます。少し珍しい言葉で書かれていますが、辞書があれば読めます。湯川さんは内容、読めましたか?」

「いえ……」

「でしたらお教えしますね」

 こうして見ているだけなら可愛らしい純日本風の女の子であるのに、胸の奥で警笛が鳴り響いてる。

 それでも僕は、ゾフィアさんの説明に聞き入ってしまっていた。

「宇宙シャガが念信波に感応する性質を持っていることはご存じですね?」

「え、えぇ、一応」

「それはとくに、約束に感応することが知られています」

「約束に、ですか」

「そうなのです」

 ニーナ教授も見せることがある、好きなことを好きなように語る楽しそうな、でもギラギラとした色を瞳に浮かべているゾフィアさん。

「宇宙シャガは、その性質をよく知る人たちからは『プロミージア』と呼ばれています。地球にはほとんど入ってきたことがないので、宇宙シャガという学名が定着していますが、通称は約束草と言います」

「約束に感応する、約束草?」

「はい。例えばこの人と必ず結婚をするという約束をプロミージアに籠めて植えると、結婚式で誓いの言葉を述べた際に花が咲くという、そうした性質があるのです。逆に約束が破られると蕾が落ちるそうです。そうした性質ですので、まだ数多くあった頃は縁起のいい花として使われていたという記録が残されています。でも、すっかり数が減ってしまいましたね」

 祝いに使われる花だとしたら、どんな方法を使ってでも増やしそうなものなのに、宇宙シャガは何故か絶滅が危惧されている。

 ポットに残った紅茶をカップに注ぎ、ミルクも入れてニコニコとしているゾフィアさんに訊いてみる。

「なぜ絶滅しそうになっているんですか? 栽培しにくい植物なんですか?」

「花を咲かせるだけなら、約束を籠めて適切な土壌に植えればいいだけなので、栽培は簡単なのですよ。ですがプロミージアは増やすことが難しい。球根では増えず、種で増えるのですが、一説によると命懸けの約束が成就したときにしか種ができないとか。元々は文明が滅び去り人類がいなくなったある惑星の実験施設で発見されたそうで、どういう意図で、どういう植生であるのかは発見当時からわからなかったそうです。人造の植物であることだけは、確かだったのですが」

 楽しそうに笑んでいるゾフィアさんから、僕は目を伏せる。

 いま落ちた蕾はふたつ。

 被験者に選ばれるような、命懸けの約束を交わしただろうタレイアさんと園部さん。

 しかしその約束はすでにふたつ、破られたってことだろう。

 破られた約束が具体的になんなのかはわからないけど、その原因はたぶん、園部さんと一緒にいたスズランのような女性に関係しているだろうことはわかった。

 ――でも……。

 ちらりと見たゾフィアさんは、笑みを浮かべたままカップを口元に寄せている。

 彼女が本当のことを語っているとは限らない。これまでもニーナ教授に、そして僕に仕掛けてきた人なんだ、その言葉を全面的に信じるわけにはいかない。

「ちなみに、わたしの言葉を信じられないのはわかりますが、いま語った内容はその本にすべて書かれているものです。ですから、翻訳してその本を読んで頂ければいまの言葉にウソがないことはわかると思いますよ」

 まるで僕の思考を読み取ったかのように、口元に笑みを浮かべたままゾフィアさんが言った。

 そこまで言われても信じることができない僕だけど、それはいま僕の手元にある本を読めばわかることだろう。

 こちらに寄せられた本を手に取り眺めながら、それでも僕は警戒を解くことができない。

「どうして、僕にそんなことを教えてくれるんですか? ゾフィアさんは僕のこと、邪魔に思っていますよね?」

「えぇ、その通りです。できるならいますぐに消し去ってしまいたいと思っていますよ」

 柔らかな笑顔を浮かべながら、とんでもなく物騒なことを言うゾフィアさんに背筋が凍りつく。

「けれど、ニーナに言われてしまいましたからね。こちらからニーナや貴方に近づかないように、そして危害を加えないように、と。今日は偶然出会って、問われたから答えたまでです。理由は……、そうですね。わたしもニーナと同じ研究者ですからね、知的好奇心に駆られている人を放っておくことはできません。それから、お詫びです」

「お詫び?」

「えぇ。ひと思いに貴方を消し去れなかったことへの」

 全身から汗が噴き出したような気がした。

 花のように明るい笑顔を浮かべているのに、ゾフィアさんの言葉はあまりに不穏すぎる。

 立ち上がった僕は、思わず身体を反らしてしまっていた。

「大丈夫ですよ、湯川さん。ニーナにあれだけキツく言われていますから、貴方に手を出すことはありません。もし次、偶然出会ったとしても、そちらから呼び止めるようなことでもない限り、追いかけていったりはしませんから。それがニーナとの約束、です」

 以前も思ったことだけど、やはりゾフィアさんは正常じゃない。

 いや、様々な人がいる魔法町なんだ、彼女のような人がいることも別に不思議でもおかしくもない。

 ただ、僕やニーナ教授とは違うチャンネルで思考しているゾフィア・フランケンシュタインという人間とは、わかり合うことも理解もできないと言うだけだ。

「そう、……ですか」

「はい。あぁ、ここのお代は持ちますから、構いませんよ」

「ありがとうございます」

 澄ました顔で言うゾフィアさんを見ていられず、一応礼だけ言って、僕は席を離れて出口へと向かう。

 しっかりと、ゾフィアさんが渡してくれた本を持って。

「それでは良い実験を」

 何か含みがあるような声が追いかけてきたけれど、振り返る気力も返事をする元気もなく、僕は古びた木製のドアを開けて外に出た。

 

 

            *

 

 

「はぁ……」

 大きな息を吐き出して、壁に背をつける。

 喫茶店のすぐ前を離れて、人混みの中に立ちすくむ僕は、どっと疲れを感じていた。

 ――やっぱりゾフィアさんには近づくべきじゃないな。

 充分わかっていたはずなのに、何故近づいてしまったのか。

 自分に問わなくても理由はわかってる。宇宙シャガ――プロミージアと、タレイアさんのことが気がかりだからだ。

「でも、恐い思いをした成果はあったな」

 右手に持った、古びてページも一部抜けてしまっている本を見、僕は肩から提げた鞄にそれを収めた。

 今日はもう帰って早く休もう、と考えていたときだった。

「!!」

 顔を上げた瞬間、僕のすぐ側をすれ違っていったのは、園部さんとスズランのような女性。

 病院に入っていったときの、少し緊張した様子もなく、ふたりは微笑みを向け合いながら人混みの中を歩いていく。

 園部さんが手に提げているのは、マーケットにでも寄っていたのだろう、食材が入っていると思しき袋。

 楽しそうにアーケードの中を歩くふたりの距離感は、友達同士のそれではない。それに買い物袋を見ながら話し合っているらしいその様子から、たぶんこれから食事をつくって家で食べるんだろうことも想像できた。

 ――ふたりは一緒に暮らしてる?

 タレイアさんと婚約しているのに、別の女性と暮らしている様子の園部さん。

 それが裏切りでなくて、約束破りでなくて、なんと言うのだろうか。

 ――追いかけよう。

 思って一歩踏み出す僕だけど、留まる。

 タレイアさんを通して顔くらいは知っているけど、園部さんは別に知り合いじゃない。追いかけても何にもできないし、声をかけても不審に思われるだけだ。

 僕には、何もできない。

 一瞬頭と身体を駆け巡っていった熱をため息とともに吐き出して、遠退いていく園部さんたちを見送り、振り返る。

「あっ!」

「きゃっ!!」

 人混みの中で立ち止まっていたのが悪かったんだろう。

 振り返った瞬間、人にぶつかってしまった。

「ごめんなさいっ。大丈夫ですか?」

「え、えぇ……」

 反射的に腰に手を回して相手が倒れないよう抱き寄せた僕は、フードを目深に被ったその女性の顔を見てしまった。

「タレイア、さん?」

「あ……。確か、湯川さん、でしたね」

 彼女の腰に腕を回したままの僕は、顔を上げたタレイアさんと間近で見つめ合う。

 ――あ!

 いま、ここにタレイアさんがいる理由を、それも正体がバレないよう顔を隠してる理由を、僕は一瞬で理解した。

「あの……、突然ですが、湯川さんにお願いがありますっ」

 潜めた声を、潤んだ瞳とともに向けてくるタレイアさん。

 彼女の頼み事は、詳しく聞かなくてもわかった。

「あのふたりを、追えばいいんですか?」

「え? えぇ……。ふたりのいま住んでいる家がわかれば……」

「わかりました」

 ちらりと視線だけ振り返って、まだ園部さんとスズランのような女性がアーケードにいるのを確認する。

 タレイアさんが懐から取り出した名刺を受け取り、泣きそうで、すがるような瞳に見つめられながら、僕はこっそりと園部さんたちの後を追いかけ始めた。

 

 

          * 5 *

 

 

 ぽとりと、蕾が落ちた。

 窓の外ではすっかり夕暮れの日差しも消え、実験室が固まっているこの区画には人の気配もほとんどない。

「やっぱり、ダメじゃない」

 そうつぶやいたのは、ニーナ・アインシュタイン。

 湯川が帰ってからもうずいぶん時間が経っていた。

 静まり返った実験室内で、手櫛で金色の髪をかき上げ、椅子に座ったニーナは厳しい目を密閉プランターに向ける。

 実験は、ある意味で順調だった。

 過去に地球で行われた宇宙シャガ――プロミージアの実験では、一度は蕾すらつけることなく終了し、そのまま球根が長期保管の間に行方不明。もう一度は蕾をつけはしたが、蕾が落ちることも花が咲くこともなく、育った茎が枯れて終了し、球根は地球外に売却された。

 蕾をつけ、それが落ちるという反応があるだけでも、実験は成功していると言えた。

 しかしながら蕾が落ちたということは、約束が破られたということ。

 タレイアの顔を思い出し、ニーナは顔を歪めていた。

 大きなため息を吐き出したとき、廊下の方から近づいてくる足音が聞こえて来た。

「ニーナ! 大変よっ」

「ミレーユ、湯川君にプロミージアのこと、話した?」

 ノックもせずに扉を開けて入ってきたミレーユの声を遮るように、ニーナは彼女に問いかけた。

「え? プロミージアのこと? 訊かれたけれど、話さなかったわよ。被験者のこと、聞いたしね。どうかした……、のね」

「まぁね」

 プランターの傍までやってきたミレーユは、落ちた蕾に目を向け、厳しく目を細めた。

「まだ一週間も経ってないわよね? これはいくつめ?」

「今日で六日目ね。これはさっき落ちた三号。早々に落ちる可能性は考えてたんだけど、思った以上に早いのよ。だから貴女が湯川君に話したのかな、って」

「まさかっ。ワタシが実験の邪魔をするとでも?」

 怒った顔でそんなことを言うミレーユの顔をじっとりと見つめると、目を逸らされた。

 なんだかんだで実験の邪魔をされた回数は、軽くふた桁になる。すべて、事前に察知して実害はなかったが。

「そっ、そんなことより! 大変よ、ニーナ」

「どうしたのよ。被験者のことならいまは聞く気はないけれど? 私まで実験に支障を来すようなことはできないからね」

「そんなことじゃなくて!」

 必死そうな、焦りを感じさせる色を浮かべた瞳で言うミレーユに、不穏な空気を感じ取り、ニーナは黙った。

「ゾフィアが、大学の近くをうろついてたって報告が入ったのよ」

「あれが? 今度こそあちらからは私にも、湯川君にも接触しないよう言い含めたから大丈夫なはずだけど……」

 ゾフィアは妙なところで素直で律儀な性格をしている。

 これ以上あちらから接触してきたら、存在しないものとして扱う、と言うと、絶望したように彼女は守ることを約束した。

 以前成果を見せるように言い、空間ポケットをひっさげてきたときもそうだったが、ゾフィアは多少解釈がおかしい場合はあっても、一度した約束を破ることはない。

 彼女のことは放っておいても実害はないように思えた。

 ――いえ、そうね。

 ゾフィアの解釈の範囲の広さを思い出し、ニーナは椅子から立ち上がる。

「あれのいる場所はわかる?」

「昨日も今日も同じ場所で見かけたそうだから、まだそこにいるならわかるけれど……。会いに行くつもり? それがあいつのやり口よ」

「わかってる。でもたぶん、いまはあれに会って、話を聞かないといけないタイミングだと思うから。ミレーユはここに連絡入れて。緊急事態だってことで」

 言ってニーナは、机の引き出しから折り畳んだメモを取り出し、ミレーユに渡す。

「気をつけなさいよ、ニーナ」

「わかってる。もしかしたら一刻を争う事態になってるかも知れないから、早めにお願いね」

 愛用のホウキを手に取ったニーナは、一緒に実験室を出たミレーユと視線を交わし合い、互いに逆方向へと走り出した。

 

 

            *

 

 

 すっかり日が落ちた街の中を飛び、僕は住宅街のある区画に降り立った。

 ミレーユ助教授が住んでいる世田谷の高級住宅街のように、一区画一軒なんていう贅沢な土地の使い方をした家はないが、僕の極小サイズのアパートとは違い、それなりに高い階層の人が住むような閑静な住宅街。

 地上から一〇〇〇メートル近い高さがある積層建造物の外側に設置された、キャットウォークというにはずいぶん広い通路に立ち、僕は辺りを見回す。

 魔法町の中でも閑静な住宅街で、もう夕食時にも遅い時間だからか、近くの部屋はどこも屋内に光が灯っているのは見えるが、歩いている人はまばらだ。

 昨日、プロミージアのことをゾフィアさんに聞き、たまたま園部さんを見かけ、タレイアさんに頼まれて後を尾けた。

 無事にいま彼が住んでいる家を確認した僕は、タレイアさんにその場所を教えた。

 そして翌日の今日、タレイアさんはそこを訪れて話を聞くという。

 僕には直接関係のないことだし、実験の被験者に触れるのも問題だと思ったけれど、第三者として話し合いの席にいてほしいと涙ながらにお願いされて、断れなかった。

 ――ニーナ教授に怒られるかな……。

 偶然とは言えこんな状況になってることに、教授に何を言われるかはわからない。実験にどんな影響があるのかも不明だ。

 でも、タレイアさんが園部さんに裏切られてるのだとしたら、放っておくことはできなかった。

「でもちょっと、早すぎたな……」

 昨日タレイアさんと約束した時間は、約一時間後だ。

 今日の大学での作業を終え、一度アパートに帰って食事も摂ってから来たけれど、どうしても気が急いてしまって早く来すぎてしまった。

 タレイアさんが来るまでこの辺をぶらぶらしていようか。

 話し合いになったらできるだけ聞くだけにしておこう。

 なんてことを考えながら、昨日突き止めた園部さんの部屋の前に立っていた。

「……君は、誰だ?」

 誰かがホウキに乗って凄い速度で近づいてくると思ったら、声をかけられた。

 建物にぶつかる勢いで着地し、ゆっくりと立ち上がって僕に怒ったような視線を向けてきたスーツを着た男性は、園部さん。

「え? いや、僕はその、ちょっと人と待ち合わせてて……」

 顔の前で手を振って何でもないとアピールしようとするけど、自分でもわかるほどの慌てっぷりはたぶん逆効果だ。

「もしかして、君はタレイアとここで待ち合わせでもしているのか?」

「タレイアさんと? あ、いえ! えぇっと……」

「彼女はいまどこにいる!!」

 僕がタレイアさんの知り合いと認識したんだろう園部さんは、襟をつかんで顔を近づけ凄んでくる。

 これ以上は誤魔化しきれず、僕は話した。

「た、タレイアさんとは、その、一時間くらい後の待ち合わせをしていて、まだここには……」

「一時間後? そうか……。いや……。君は、いったい何のためにここに来たんだ?」

「それは――、タレイアさんが話し合いをするから、第三者として立ち会ってほしいって言われてて」

「立ち会い?」

 何かを考えているらしい、僕を睨みつつも別のところに注意を向けている様子の園部さん。

 何かを思いついたらしい彼は、つかむ場所を襟から腕に変え、言った。

「君も一緒に来てくれ!」

 外に面した扉のノブに手をかけ回した園部さんは、僕の腕を引っ張ったまま部屋の中へと入っていった。

 

 

            *

 

 

 格子状の木枠にガラスをはめ込んだ古風な扉を開け、それほど多くないカウンター席と、いくつか並んだテーブル席の置かれた店内を見回し、ニーナは目的の人物を発見する。

「どうかしたの? ニーナの方からわたしに会いに来るなんて」

 近づいて行ったニーナに、そう言って花が咲いたかのように笑みを零れさせているのは、ゾフィア。

 ミレーユに場所を聞いてやってきた、神保町にほど近い喫茶店。

 目撃証言があった通り、喫茶店にはゾフィアがテーブル席に座り、優雅にお茶を飲んでいた。

「わたしからは接触してはいけないと言われていたけれど、ニーナから会いに来たのだったら問題ないのよね? せっかくだからお茶でもいかが? このお店はとっても紅茶が美味しいのよ。ディナーを、と言いたいところだけれど、まだアフタヌーンティセットも頼めると思うから、どうかしら? 美味しいスイーツとお茶を飲みながらゆっくりお話ししましょう」

 本当に楽しそうに、ニコニコと笑いながら言うゾフィアに、ニーナはため息すら出ない。

 こうして自分のいる場所に誘導することが、ゾフィアの目的であることは十分理解していた。そうした姑息な手を使う人物であることは、充分過ぎるほど理解していた。

 だからニーナは、テーブル席に着いているゾフィアの前には座らず、テーブルに片手を着いて彼女を睨みつける。

「どうして湯川君に、プロミージアのことを話したの?」

「せっかくこうして貴女から会いに来てくれたというのに、そんな話なの?」

 不快そうに眉を顰めているゾフィアの言葉に取り合うことなく、ニーナは彼女を無言のままじっと睨みつける。

 小さくため息を吐き、ゾフィアは話し始めた。

「ニーナがやっている実験の手伝いをしたかっただけよ」

「手伝い?」

「えぇ。プロミージアが種を実らせるのは、とてつもなく強い念信波を受信したときだけ。それほどの念信波をプロミージアが受け取るのは、究極的な願いの成就か、極限的な破局のとき。そうなるよう、湯川さんに話しただけです」

 テーブルの向かい、いまは誰も座っていない席を見つめ、ゾフィアは言う。

「ちょうどこの席で、昨日、彼に」

「昨日、ここで、湯川君に……」

 言われた言葉を反芻しながら、ニーナはゾフィアから顔を上げ、大きく取られたアーケードに面した窓の外を見る。

 そろそろ昼営業が中心の店がシャッターを閉め始め、夜に営業する店が目当ての人々に客層が入れ替わりつつある通りを見つめて考えていた。

「あ、でも勘違いしないでくださいね。湯川さんと会ったのは本当に偶然で、彼に会おうとしたわけではないのですよ。プロミージアのことを話したのもあくまであちらから問うてきただけで――」

 言い訳を並べているゾフィア無視して、ニーナは彼女の意図を読み取ろうとする。

 ――そうか、そういうことね。

 何故ゾフィアがここで湯川と話していたのか、理解できた。彼女が何をしかけようとし、結論がどうなるかについても、推測できた。

 テーブルに着いていた手を離したニーナは、そのまま喫茶店の出口へと向かう。

「待ってニーナ! どこへ行くの?!」

 慌てて椅子から立ち上がったゾフィアは、ニーナの行く手を阻んだ。

 店員やまばらにいる客が驚いて顔を向けてきているが、両腕を広げて立ち塞がっているゾフィアは気にしている様子もない。

 そんなゾフィアも無視して、ニーナは彼女の腕とテーブルの隙間に身体をねじ込み、無理矢理通り抜けようとした。

「どうしたの? ニーナ! せっかくまた会えたのに、もう行ってしまうの?! 少しくらい、少しくらいわたしと話を――」

 そう言って服にすがりついてくるゾフィアに一瞬だけ冷たい視線を向け、ニーナは手を振って障害物をどかそうとする。

「どうしたの? ニーナ。なぜ何も言ってくれないの?! わたしは……、わたしはこんなに貴女のことを愛しているのに!! 貴女のことを、誰よりも大切に想っているのに!」

 目に涙を溜めて言うゾフィアは、可愛らしく、美しい。

 しかしそれは毒を持つ花。

 誘い込み、死に至らしめる食人植物。

 目を細め、感情の籠もらない視線で震えているゾフィアを見下ろしたニーナは、ため息を漏らしながら言った。

「貴女は私にとって不要な存在なの。確かに貴女の研究やその成果は素晴らしいわ。けれどね、私にとって貴女は邪魔になる存在。私の行く道を遮る存在。だからいらないの。私は貴女を存在しないものとして扱うわ」

 冷たく言い放ったニーナに、ゾフィアは表情を凍りつかせた。

 それでも彼女はニーナの服を離さない。

「わたしは……、わたしは貴女を誰よりも愛していて、貴女を永遠に愛して――」

「いらないのよ、貴女の愛なんてね。不要なの、ゾフィア・フランケンシュタイン」

 感情を籠もらない言葉をへたり込んだゾフィアに降らせ、ニーナは喫茶店の外へと出た。

「急がないと……」

 顔を歪め、ミレーユに借りた高速型のジェット推進式ホウキを手に、ニーナはアーケードを走り抜けた。

 ――間に合って!

 そう心の中で祈りながら。

 

 

          * 6 *

 

 

 首を吊った女性。

 園部さんに引っ張られて部屋に入り、狭い廊下を抜け、宇宙を股にかけた貿易商人にふさわしい高級そうな家具が置かれたLDKにある扉を開け、踏み込んだ。

 寝室になっているそこには、天井に剥き出しになってるパイプにロープをかけ、首を吊っている女性がいた。

 灯りが点けられていない寝室であっても、その女性が誰なのかはわかる。

 スズランのような女性。

 園部さんの浮気相手かも知れない女性が、寝室で首を吊って死んでいた。

「雪菜……」

 つかんでいた僕の袖から手を離し、力を失ってしゃがみ込む園部さん。

 ――なんで、こんなことになっているんだ?

 ぜんぜんわからなかった。

 たぶんこの部屋で、園部さんとふたりで暮らしていただろう、雪菜と呼ばれた女性。

 昨日見た限りでは園部さんと一緒に幸せそうな笑みを浮かべていた彼女が、どうして首を吊っているのか、僕には理解できなかった。

「あら? 幸夫さん?」

 そんな声が聞こえてきたのは、奥の壁に沿って置かれたベッドの影、よく見ると天井から伸びたロープが伸びている先からだった。

 そこから立ち上がったのは、嬉しそうな笑みを浮かべた、タレイアさん。

「どうしたの? 幸夫さん。仕事で今日はあと一時間くらいは帰らないはずではなくって?」

 ニコニコと笑み、本当に嬉しそうな視線をタレイアさんは園部さんに目を向けている。

「そこにいるのは湯川さん? 貴方も何故ここにいるのかしら? 約束していた時間には早いじゃないですか。まだ準備を始めたばかりなのですから、いくらなんでも早すぎますよ」

 ベッドの影から出てきて、天井からつり下げられゆらゆらと揺れている雪菜さんの隣に立ったタレイアさんは、困ったように眉根にシワを寄せた。

 まったく状況が理解できない。

 園部さんと話し合うときの立会人として呼ばれたはずの僕が、雪菜さんの死体を発見し、その部屋の中には一時間後に会うはずのタレイアさんがいる。

 こんな状況をどう理解していいのか、思考が止まっている僕にはわからなかった。

 呆然とする僕は、儚く綺麗だった雪菜さんのことを見上げる。

「あ!」

 と声を上げた瞬間には身体が動いていた。

 手にしたままだったダブルサイクロンホウキにまたがり、勢いがつきすぎて天井に頭をぶつけながらも飛び上がる。

 雪菜さんの眉がわずかに動いたのが見えた。

 だから僕は、脚でホウキを支えて彼女の身体を抱え上げた。

 急いでロープを緩めて外してやると、咳き込みながら息を吹き返す雪菜さん。

「雪菜!」

「あら? やっぱりまだ早かったようですね。あと数分遅ければ、確実に仕留められていたのに」

「わ、わたしは……」

「説明は、その……、後で」

 涙を流していた園部さんは安堵の表情を浮かべ、微笑みを崩さないタレイアさんは口を尖らせていた。

 何が起こったのかわからないらしい雪菜さんは僕の視線の先に気づき、しがみついてきた。

 ――あれが、タレイアさん……。

 こちらに笑顔を向けてきているのに、瞳が少しも笑っていないタレイアさん。

 彼女はただ美しいバラなんかじゃない。

 トゲを持ち、茨を伴った、人を傷つける者だ。

 それも人を傷つけることを知っていながら、それが当たり前だと認識している、茨姫。

 そんなタレイアさんに近づけなくて、僕はホウキにまたがったまま、できるだけ彼女から離れて部屋の隅で滞空する。

「なぜ……、なぜこんなことをしたんだ、タレイア!」

 とりあえずの雪菜さんの安全が確保されたからか、ゆっくりと立ち上がりながら園部さんはタレイアさんに向かって叫んだ。

「なぜって……。そんなの決まってるじゃない、幸夫さん。貴方を愛しているからよ」

 愛情なのだろう。

 園部さんに向けた視線から幸せそうな感情をあふれ出しているタレイアさん。

 まるで一服の絵のように美しい。

 幸せな笑みを浮かべるタレイアさんは、ただそれだけなのに、芸術的とも言える美しさを放っていた。

 でも雪菜さんが震えながら僕にしがみつき、部屋の中央に首つりロープがぶら下がっているこの部屋でそんなことを言っても、感じるのは幸福感なんかじゃない。

 ただ、恐いだけだ。

「湯川さんのせいですよ。準備が整ってから来てくだされば、それが完全に息絶えてから発見して、自殺ってことにできたのに」

 不機嫌そうに口を尖らせるその表情も美しいと思えるのに、いまは美しければ美しいほど、恐怖が湧いてくる。

 いまのタレイアさんは、異常だった。

 ゾフィアさんに似た、人間性の壊れた、どこか違う世界で思考している人物だった。

「約束……、したじゃないか! 雪菜が……、妹の病気が治るまでの間だけだってっ。その間だけ待ってくれれば、実家とは縁を切るし、君とも結婚するって……。雪菜が来てる間は、俺を探さないし、俺を追いかけないし、俺の家を突き止めたり、雪菜に危害を加えないと、君は約束してくれたじゃないか!!」

 ――妹!

 園部さんの叫びに、僕は理解した。

 病院に行っていた理由も、一緒に暮らしていた理由も、そして近くで見てみれば似ていると感じられるふたりが、兄妹であることも。

 それと同時に間違っていたことに気づく。

 ――約束を破っていたのは園部さんじゃなく、タレイアさんだったんだ!

「どうして約束を破ったんだ……。たった一ヶ月なら大丈夫って、言ってくれたじゃないか……。俺はそれを信じたのに……」

 悲痛な声を上げる園部さん。

 片手で顔を覆い、震えている彼は、泣いているらしい。

 そんな彼を見つめて、やはり幸せそうに笑んでいるタレイアさんは言った。

「だって、仕方ないじゃない。貴方の傍にはわたし以外の女がいてはいけないのだから。たとえ妹でも、我慢なんてできないの。わたしはそれほどに、貴方のことを愛しているのよ」

 とても香しい猛毒。

 そう表現するしかない笑みを湛え、タレイアさんは園部さんに手を伸ばす。

「やめてくれ!」

「……え?」

 伸ばされた手を振り払った園部さんは、悲しそうに顔を歪めている。

「君の望みはできるだけ叶えてきた。君以外の女性も遠ざけてきた。君が俺の傍にいた女性を傷つけても、我慢してきた! でも……、でも家族を傷つけることだけはダメだっ。雪菜を……、妹を傷つける奴を、家族にすることはできない!!」

「でも、貴方はわたしのことを愛しているって……。それに、貴方は……」

「あぁ、愛していたさ! 打算があったことも認めるが、君は俺が会ったことのあるどんな女性よりも素晴らしい女性だったさ! でももうダメだっ。雪菜を傷つけた君とは結婚なんてできない。借りた金も返すから、俺の前から消えてくれ!!」

 婚約者だった女性のことを見ることなく叫ぶように言う園部さんに、タレイアさんは絶望の表情を浮かべる。

「結婚してくれるって、約束したじゃない!」

「約束したさ! 結婚するつもりだったよっ。けれど君は、自分が口にした約束を破ったじゃないか!!」

 悲しみではない、怒りを、怨みを宿した目をタレイアさんに向ける園部さん。

 それを見たタレイアさんは、驚愕に顔を染めた。

「わたし……、わたしは――」

「消えてくれ! 君とはもう結婚なんてできない!!」

 タレイアさんの言葉を最後まで言わせず、園部さんははっきりと宣言した。

 涙を目尻に溜め、零れさせたタレイアさん。

 でも、彼女は微笑んだ。

「わかった。けれど、最後の約束だけは、守るから」

 そう言って、彼女は驚いた表情を浮かべた園部さんの脇をすり抜け、部屋を出ていった。

「俺は……、俺は……」

 言葉にできない言葉を吐き出し、座り込んでしまった園部さんは、タレイアさんを追いかけることなく身体を震わせていた。

 

 

 ――戻って、来ないよな?

 タレイアさんが走り去り、戻ってくる様子がないのを確かめてから、僕はゆっくりとダブルサイクロンホウキを降下させた。

 僕の腕から逃げるように飛び出した雪菜さんは、園部さんに駆け寄って抱き合う。

「あの……、追わなくていいんですか?」

 余計なお世話かも知れないと思いながらも、言ってみる。

 妹は、家族は大切だろう。

 でも新しい家族になるはずだったタレイアさんのことも、大切だからこそ結婚しようとしていたはずで、でも――。

 まだぶら下がったままのロープをちらりと見て、僕はそれ以上なにも言えなかった。

「彼女とは、もう終わったんだ……」

 胸に顔を埋めて身体を震わせている雪菜さんの髪を優しく撫でながら、天井を仰いでいる園部さんは涙を流してそう言う。

 ふたりで交わしたはずの約束を破ったのは、タレイアさん。

 家族を傷つける人とはさすがに結婚できないだろう。

 あんなに幸せそうで、園部さんを信頼しきった目をしていたタレイアさんが、どうしてこんなことをしたのかは、僕には理解できなかったけども。

「というか、そもそも君は誰なんだ? タレイアの友人かなにかか?」

「え? あ、いや、僕は……」

 どう説明していいのかわからなくて、涙を止めて鋭い視線を向けてくる園部さんから距離を取る。

 正直、タレイアさんの知り合いかというほど関係はないし、実験のことを話していいのかもよくわからない。改めて考えると、どうしていま僕がこんなところにいるのかすらよくわからないくらいだ。

 雪菜さんと抱き合ったまま立ち上がり、警戒した視線を向けてくる園部さんは、僕から距離を取り部屋の隅に逃げていく。

 警察でも呼ばれたら面倒だ、なんて考える僕が、園部さん側にある部屋の扉をどうやって通過しようかと考えてるとき、女神が現れた。

「その子は私の助手よ。うちの学生の湯川君」

「ニーナ・アインシュタイン教授?」

 園部さんの後ろから、金糸の髪をかき上げながら現れた女神、ニーナ教授。

 悲愴な顔をしている園部さんに笑みを向けた後、彼女は怒りを露わにした視線を僕に突き刺してきた。

「……ということは、例の実験の関係者ですか」

「えぇ。今回の実験も助手として使っていたんだけど、運悪くタレイアと接触してしまったのよね。何もないよう計らう予定が、止めきれなかったわ。ごめんなさい」

 どうやら園部さんとは知り合いらしいニーナ教授。

 いまここでは言わないようだけど、明らかに「後で言いたいことがあるからね!」と目で語りかけてきていた。

「いいえ。結局、これは俺と彼女の問題ですから。おそらく、彼が何もしなかったとしても結末は変わらなかったでしょう。むしろ彼が介入して、ニーナ教授がそれに気づいて俺に連絡してきてくれたんだとしたら、それで最悪の事態を避けられたんでしょう」

「そう言って頂けると助かるわ。彼女のことも含めて、あとはこちらで対応するわね」

「お願いします」

 雪菜さんを抱き締めた園部さんとニーナ教授の会話に入る隙間もなく、僕はできるだけ小さくなっていた。

「とにかく、いまは無事だったとは言え、念のため妹さんを病院に――」

 そう言ってニーナ教授がふたりを外に誘導しようとしたとき、バタバタという足音が近づいてきた。

「ニーナ! 大変よっ」

 慌てた様子で部屋に走り込んできたのは、ミレーユ助教授。

 ただでさえクセが強くてよく乱れていたりする髪をさらに振り乱した彼女は、園部さんと雪菜さんの方をちらりと見、ニーナ教授の耳に口を寄せた。

「構いません。おそらく彼女のこと、ですよね?」

 毅然とした表情で言う園部さんに、ミレーユ助教授はニーナ教授に目配せする。

 頷きを返されて、ミレーユ助教授は小さなため息の後、話し始めた。

「タレイアが死んだわ。彼女の店のところから、転落死。そのときの様子を見た人の話だと、事故じゃなく、たぶん自殺だろうって……」

「タレイアさんが?!」

 驚いて声を上げてしまった僕だったけど、ニーナ教授はため息を吐いただけだった。

「そうか」

 園部さんに至っては、さっきまで婚約者だった女性の死を聞いても、そのひと言つぶやくように言うだけだった。

「では俺は雪菜を病院に連れて行きます」

「わかったわ。後日報告に覗うわ」

「はい」

 そんなやりとりをして、僕たちは園部さんの部屋を出た。

 病院に向かってホウキに乗り飛び立っていった兄妹を見送った後、怒っているけれど、どこか冷たいものが籠められた視線に向き合った。

「ミレーユもありがとう。落ち着いたら貴女にも知らせるから」

「えぇ。そうお願いするわ」

「彼女が運び込まれた場所はわかる?」

「ここよ」

「ありがと。私たちは行くわよ」

 言ってニーナ教授は、ミレーユ助教授から受け取ったメモをポケットに収め、ホウキに腰を乗せた。

「どこへです?」

「タレイアのところよ」

「でも、タレイアさんは……」

「わかってる。けれどこれも実験の一環よ。一緒に来なさい、貴方も関係者なんだから」

「……はい」

 ニーナ教授の鋭い視線に頷きを返し、僕はダブルサイクロンホウキにまたがった。

 

 

            *

 

 

 ホウキに乗ってやってきたのは、園部さんの家からそう遠くない、僕もこの前まで通っていた大学付属病院。

 それも患者向けの正面入り口ではなく、地上から頂上まですべて病院になってる建物の、かなり下層の方。

 たぶん関係者とかしか入れないだろう、それほど大きくない入り口に降り立ち、ホウキを駐箒ラックに立てかけて窓口に向かう。身分証なんかを出して入り口を通っていったニーナ教授の後を追い、僕も廊下に踏み込んでいった。

 人が三人並んで歩いても余裕があるほど広い廊下には、煌々と照明が点けられ、しかし明るいのに薄暗く感じる重苦しい雰囲気がある。

 いくつか並んでいる扉からも、人が行き交っていない廊下からも気配はなく、病院らしい消毒液のものとはまた少し違う、独特の匂いが感じられた。

 奥へ奥へと進み、一度廊下を折れてもう少し進んだ先にあったのは、小さな広場のような場所。

 奥の壁には小部屋らしき両開きの扉が並び、そのすべてが閉じられている。

 キッチリとしたスーツを着た男性が脇に立っている扉に近づいて、ニーナ教授はその男性に話しかける。

 少し離れた場所に立つ僕は、ここがなんであるかを理解していた。

 消毒液と、据えた匂いよりも特徴的な、雰囲気にはそぐわない清々しさを感じる香り。

 それがここの場所が何であるかを表していた。

 話をし、書類を示して何かを交渉していたらしいニーナ教授は、話がまとまったのか僕に目配せを飛ばしてきた。

 たぶん刑事さんだろう男性に鍵を開けてもらい、踏み込んだ部屋。

 薄暗く灯りが点けられた部屋にはほとんど何もなく、真ん中に簡素な寝台があるだけ。

 線香と、血の臭い。

 誰かが寝ている様子の寝台には白い布がかけられ、誰がいるのかはわからない、

 ――タレイアさんだ。

 ついさっき、ほんの少し前に話をしていた女性が、いま霊安室で横たわっていることに、僕はどこか心が身体から離れてしまいそうな感覚を覚えていた。

「さっさと終わらせるわよ。こっちに来なさい」

 たぶんまだちゃんと処置されていないんだろう、線香と血の臭いの他に、生肉が発するなんとも言えない据えた臭いに吐きそうになった僕を、ニーナ教授はそう促す。

 寝台の奥へと回った教授は、かけられた布を少しだけ開いた。

 美しい、タレイアさんの左腕。

「持って、しっかり支えて」

 言われて僕は彼女の手を取った。

 ――冷たい。

 死んでいるのだから当然だけど、彼女の手は冷たかった。ただ冷たいだけでなく、そこまで温度が低いはずはないのに、氷に触れて体温を奪われているような錯覚があった。

 ニーナ教授は震えそうになりながらタレイアさんの手を両手でつかんでいる僕に近づき、彼女の手首に填まったブレスレットを慎重に外した。

 それは一番最初、実験を始めるときにニーナ教授がタレイアさんに渡していた、たぶん実験用のブレスレットだ。

「もういいわ。戻してあげて」

「はい」

 指示通りに腕をベッドに戻して、布もかけてタレイアさんの身体を隠す。

 吐きそうになってる僕のことも、死んでしまったタレイアさんのことも気にする様子もなく、霊安室の外へと向かうニーナ教授。

 取り外したブレスレットと書類を刑事さんに示して外へと促された僕とニーナ教授は、霊安室の前を離れて出口に向かった。

「こんな風に巻き込まれるだろうと思ったから、詳しいことは話さなかったのに」

 そうつぶやくように言って、どこか泣きそうな、やるせなさを含んだ瞳を向けてくるニーナ教授。

「はい……」

 どんな言葉を返していいのかわからず、僕はそう返事をするだけで精一杯だった。

 

 

          * 7 *

 

 

「被験者や関係者に危険が及ぶ場合には、実験を中止してでも危険を取り除くのは当然のことよ? でもそうしたことがあるなら、まず最初に報告すること。ひとりで突っ走ったりしないこと。そんなこといまさら言われなくてもわかっていることでしょう?」

「はい……」

 もうすっかり日が暮れ、泊まりがけの実験をやってるとこにしか灯りがなく、静まり返った国立魔法科学大学の実験棟。

 その廊下を歩き、ニーナ教授の実験室に向かう間、僕はこってりと教授に絞られていた。

 ミスや勘違いなどで怒られるのは当然のこと。

 でも今回、タレイアさんに自分の勝手な判断で接触し、ニーナ教授に報告しなかったことは、全面的に僕の落ち度だ。

 そのことをこうしてしっかり言い聞かされていた。

 ――いや、たぶんそれは三分の一だ。

 三分の一は、たいして話しても仲が良かったわけでもないけれど、知り合いとなったタレイアさんがついさっき死んで、そのことに衝撃を受けている僕への配慮。

 こうやって怒られている間は、ただ落ち込んでばかりじゃいられない。

 残りはおそらく、ニーナ教授自身。

 それなりにつき合いがあったろうタレイアさんを失い衝撃を受けているのは、僕だけじゃない。

 国立魔法科学大学の教授で、学長でもある凄まじい天才と言えるニーナ・アインシュタインと言えど、彼女はまだ一六歳の女の子。

 僕もそうだけど、彼女もまた人の死に馴染んでいるわけじゃないことは、いつもより早口で、途切れることなく喋り続けていることからもわかる。

「まぁでも、結果から考えれば、褒められた行動とは決して言えないけれど、貴方が介入したからこそ雪菜さんは助かったんでしょうしね」

「園部さんにもそう言ってもらえましたね」

「えぇ。だからと言って、良いことではないわ。後日報告と、大学としても謝罪に覗うから、そのときはちゃんと着いてくるのよ」

「わかりました」

「けれどねぇ……、今回の件はあれに誘導されたんだろうし、不可避な状況でもあったのよね」

「あれ……。ゾフィアさんですか? やっぱり僕は、あの人に利用されたんですね」

「えぇ。もちろんね。そのことも含めて後で始末書書いてもらうからね」

「はい……」

 いつもの実験室にたどり着き、灯りがついたままの部屋の中に入る。

「あ……」

 実験室に入った途端、見えた。

 蕾が落ちた、三号と四号のプロミージア。

 そして、花を咲かせている、五号。

「どうして花が……」

「ふぅん」

 驚いてる僕に対して、ニーナ教授は落ち着いた様子で、なめらかな絹の布地を小さく集めたような花を見つめていた。

「……プロミージアって、どういう植物なんですか?」

「それはあれにも聞いたんでしょ」

「えぇ。ゾフィアさんにも聞きましたし、本にも書いてありましたが、よくわからないんです」

 タレイアさんは約束を破り、園部さんとの婚約を解消された。

 約束を破ることで蕾が落ち、約束が成就することで花が咲くのだとしたら、五号に籠められた約束とは何だったんだろうか。

 タレイアさんと園部さんの間で、いまさら果たされる約束なんてあったんだろうか。

「貴方も知ってる通り、プロミージアの花が咲く条件は約束の成就。過去の事例では、約束は破られたけれど、被験者から強い精神波の放射が確認されたときには花が咲いたことがあるらしいわ。でも、基本はやはり約束の成就が条件なのよ」

「でも、タレイアさんと園部さんの間で成就する約束なんて、いまさらないですよね?」

「なるほど。そういう刷り込みをされたのね」

 隣に立って、碧い瞳で僕の顔を覗き込むように見上げてくるニーナ教授は言った。

「プロミージアに籠められる約束は、人間同士で交わされる約束ではないの」

「え?」

「約束は、ひとりでするの。自分自身にする、制約としての約束。それがプロミージアに籠められる約束なの。タレイアはたぶん、最後に何かの約束を、命をかけた約束を成就させたんだと思うわ」

 これまでのことが腑に落ちた気がした。

 ニーナ教授から視線を外し、美しく咲くプロミージアの花を見つめる。

 タレイアさんが被験者で、園部さんが実験開始の際に実験室に来ていなかったことも、蕾が落ちたのはタレイアさんが約束を破ったと自分で認識したタイミングであろうことも、なんとなくわかった。

 でも不思議なことが残る。

 ――このプロミージアに籠められた約束は、何だったんだろうか。

「約束の内容はデータを確認して、咲いた花が次どうなるかを観察し終えてからになるから。今日はお疲れさま。明日もやることたくさんあるから、今日は帰りなさい」

「はい……」

 まだ実験室に残るらしいニーナ教授に言われ、僕は仕方なくその場を後にした。

 

 

            *

 

 

 僕とニーナ教授を挟む実験用机の間に広げられたのは、開封された封筒とその中に納められていた便せん。

 五通あるそれは、一号から五号までのプロミージアに対応した、タレイアさんが籠めた約束が書かれている。

「これは……、どういうことなんでしょう」

「うぅーん。わからないのよね、私にも」

 うなり声を上げているニーナ教授のティカップに紅茶を注ぎ足した僕もまた、うなり声を上げてしまっていた。

 一号、園部さんやその家族を探さない。

 二号、園部さんやその家族を追いかけない。

 三号、園部さんやその家族の家に無断で踏み込まない。

 四号、園部さんやその家族を傷つけない。

 ここまでは約束の内容はわかる。

 正直わざわざ約束をするような事柄でもないだろうと思わなくはないが、タレイアさんにとって、これらはプロミージアに蕾をつけさせるほどに強く、重い約束だったんだ。

 問題は最後の約束だった。

 五号、死んでも園部幸夫のことを愛し続ける。

 ラブロマンスもののストーリーで使われるなら疑問にも思わない約束だけど、プロミージアに籠められ、花を咲かせることになった約束だと考えると、疑問を覚える。

 ふと思って、僕はニーナ教授に訊いてみる。

「タレイアさんって、どんな人だったんですか」

「……そうね、湯川君は結局ほとんど面識なかったのよね、彼女と。いろいろと凄い人なのよね」

 タレイアさんが亡くなってから、もう一週間。

 その間に園部さんに謝罪に行ったり、実験妨害の廉で大学老院をやめさせられそうになったのを、ゾフィアさんのことを出してニーナ教授が説得してくれたりと、いろいろとあった。

 不安や悔恨だけでなく、様々な気持ちと行動によってアッという間に時間が経ってしまった一週間の間に、僕は結局タレイアさんのことを知ることができなかった。

 湯気の立つ紅茶のカップを口元に寄せながら、ニーナ教授は語ってくれる。

「元々彼女の一家は、園部さんと同じ宇宙貿易商で、相当大きな資産を成してたんだけど、事故でタレイアを残して一族郎党亡くなっちゃったのよね。一種の成金というのかしら? 金に執着した一族で、稼ぐ人のことはもてはやすけど、子供だったタレイアのことは家政婦任せだったという話ね。で、事故で生き残ったタレイアは、一夜にして新興開拓惑星ひとつかふたつくらいなら買えるくらいのお金を手に入れたわけ」

「凄いんですね、タレイアさん。……それに、美人でしたし」

「それだけじゃなく、本人が凄い努力家だからね。家事全般も得意だし、料理は宇宙人料理までマスターしてたらしいわ。もちろんできないこともあるだろうけど、超能力染みた植物の見抜きもあるし、その気になれば相続した資産をもう一回ひとりで稼ぎ出すことも不可能じゃなかったんじゃないかしら?」

「……えぇっと、なんかもう、とんでもない人だったんですね。それなのに、小さな花屋をやってるだけだったなんて」

 想像もつかないような資産を持っていて、女性らしい技術も優れていて、さらに美人であったタレイアさん。

 見た目なら二十代半ばくらいだろう彼女が、まだ結婚してなかったことの方が不思議なくらいだった。

「花屋をやってたのも子供の頃からやってみたい仕事だった、って話してたからね。あれだけ何でも持ってたらそりゃ引く手数多だったのよね。――でも、湯川君も見た通り、彼女はヘタすればあいつに匹敵するほどの壊れた、いわゆる地雷物件なのよ」

「……そうですね」

 確かにあの日のタレイアさんは、ゾフィアさんに匹敵するほどの恐ろしさを感じた。

 多くのものを持っていたとしても、ついでにあんな性格まで持ち合わせていたら、付き合いたいという人もあまりいないだろう。

「育ちが悪かったんでしょうね。異常に愛情に飢えてて、凄まじい独占欲だったの。それも、攻撃的なくらいに。実際、半分くらいは噂だけど、園部さんの前に付き合った恋人は、自殺した人が三人、行方不明が五人、逃走した人は十人は下らないって話よ」

「そんな人なのに、園部さんはタレイアさんと婚約したんですか」

「えぇ。一年くらい前だったかしら? 園部さんの会社が事業に失敗して危機に陥ったとき、貿易の仕事で知り合ったタレイアがかなりの金額を貸したそうよ。女性として最高、資産もあるしお金を借りてしまっている。でもやっぱり、結果はあの通りだったわね」

 大きくため息を吐き、ニーナ教授は目を伏せる。

 園部さんとはあんまり話してはいないけど、たぶん彼はタレイアさんのことを愛していたんだと思う。愛情があった上で、でも妹さんを殺そうとしたタレイアさんに我慢ができなくなったんだろう。

 約束さえ守られていれば、不幸は起こらなかった。

 けれど、約束を守れるタレイアさんだったら、たぶんもっと早くに結婚して、納まるところに納まっていたんだろうとも思えた。

「まぁタレイアのことも問題なんだけど、とりあえず私たちにとっての問題なのは、こっちなのよね」

 そう言ってニーナ教授が目を向けたのは、密閉プランター。

 五号のプロミージアは、笑顔だったタレイアさんを思わせる美しさだった花も萎れ、いまはそこに小さな種ができつつあった。

 地球ではたぶん初めて、宇宙でも記録に残っている回数は少ない、プロミージアの種だ。

「何が問題なんです?」

「五号の約束、『死んでも園部幸夫のことを愛し続ける』ってのは、どの瞬間をもって成就したと認識されると思う?」

「ん? 成就のタイミング、ですか?」

「えぇ、そうよ」

 言われて僕は顎に手を当てて考えてしまう。

 死んでも、ということは、死なないと成就しない約束だ。でもプロミージアは、成就したもしくは破ったと約束を籠めた人が認識した時点で発せられる念信波を受け取って、花を咲かせたり蕾を落としたりする。

 だとしたら、死ぬ前でも死ぬことが確定した時点でタレイアさんが約束の成就を認識すれば、プロミージアはそのときの念信波を受け取ることができることになる。

「やっぱり、死ぬ直前だったんじゃないですか?」

「そう思うわよね。これを見てくれる?」

 そう言ってニーナ教授が見せてくれたのは、五号に接続されたレベルレコーダの波形。

 デジタル記録されたデータと照合して、波形が大きく動き出した時間と止まった時間が追記してある。

 もう一枚見せてくれたのは、弱い波形が記録された、たぶんデジタルデータを印刷した紙。

 そっちのデータの方は、途中から波形がまったく動かない、真っ直ぐな線が引かれている。

「ん?」

 二枚目の波形データを見た僕は、その前の四号や三号のデータと、ニーナ教授が差し出してくれた紙を照合する。

 三号、四号の蕾が落ちたタイミングで、レベルレコーダにはプロミージアの生体活性が大きくなったことが記録されている。

 ニーナ教授が渡してくれたデータの方も、完全に一致する時間、ほぼ同じ波形が記録され、それぞれが三号と四号に対応してることがわかる。

 しかし、五号は対応しない。

「あの、こっちの紙は、なんのデータなんです?」

 なんとなくイヤな予感を覚えつつ、僕は顔を上げてニーナ教授に訊いてみる。

 表情を引き締め、眉根にシワを寄せつつ、ニーナ教授は答えてくれる。

「タレイアに持たせていたブレスレットで記録した、精神波のデータよ。強い念信波が放射されるとき、必ず精神波も大きな乱れが観測される。プランターは精神波を完全にシャットアウトする構造だから、間接的ではあるけど、空間を飛び越える性質があることがわかってる念信波の放射と受信が観測できたと言えるわね」

「なるほど……。でも、五号はおかしいですよね? プロミージアの方は生体活性が記録されてるのに、ブレスレットでは観測されてない」

 もう一度見直した、五号に対応したタレイアさんの精神波のデータ。

 たぶん飛び降りたタイミングだと思うのに、驚くほど乱れがなく、むしろ落ち着いている様子すら感じられる穏やかな精神波の波形。

 そしてプロミージアが念信波を受信したと思われる時間には、精神波が観測されなくなって、一本の真っ直ぐな線になっている。

「これって……」

「えぇ、たぶんね」

 あることに気がついた僕がつぶやくと、ニーナ教授は大きく頷いて見せた。

 ブレスレットの波形が線になった瞬間に、タレイアさんの脳の活動は停止した。

 つまり、その瞬間に彼女は死んだ。

 精神波も、念信波も人間の脳から放射されることはわかっている。

 でも、プロミージアが念信波を受信したと思われる時間には、タレイアさんは死んでいた。

「じゃあいつ、どうやって、プロミージアは念信波を受け取って……。いや、違う。タレイアさんはいつ、願いが叶ったと認識したんだ?」

 死んだはずの人間から念信波を受け取ったプロミージア。

 じゃあその念信波はいつ、誰が、どうやって放射したものなんだろうか?

 僕にはそれがわからず、口元に笑みを浮かべ始めたニーナ教授の顔を、ただ見ていることしかできなかった。

「さぁね。精神物理学最大の命題は、まだまだわからないことが多いわ。今回のデータを元に、これからも研究を重ねていくしかないわね」

「そうですね」

 小さく息を吐いて微笑んだニーナ教授に、僕も笑みを返していた。

「もしかしたら、幽霊の存在や、死後の世界を科学的に解明できるかも知れないわね」

「それって、何かメリットあります?」

「そりゃあもう! 理屈さえわかれば夜の暗がりを恐れる必要はなくなるでしょう?」

「……そうでしょうか?」

 最先端と言える精神物理学の研究をしているニーナ教授だけど、意外に幽霊とか怪談話とかは苦手だ。

 金糸のような美しい髪をかき上げつつ、残りの紅茶を飲み干した、師であるニーナ教授を、僕は不思議な気持ちを抱きながら見つめていた。

 空になったティポットを取り、新しい紅茶の準備を始めながら、僕は問うてみる。

「もし幽霊とか死後の世界の存在が証明されて、その証明のために幽霊と会わないといけなくなったら、どうします?」

「……それはあまり、考えたくないわね。もし会う必要があるなら、できればご先祖様辺りで頼みたいわ」

 実験用机に肘を着き、げっそりした顔でため息を吐くニーナ教授。

 そんな姿でも彼女は美しく、可愛らしい。

 ――僕は、ニーナ教授の助手になれて良かったな。

 ここ最近の女運の無さを思い出しながらも、一番身近にいる女性がこの人であることを嬉しく思う僕は、心を込めて新しい紅茶の準備を進めた。

 

 

                  「清廉欠白」 了

 



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