GURPSなのとら (春の七草)
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第一話『転生』

序、

 転生トラックによって轢殺された僕は、伝統と格式(あったのか、そんなもの)にのっとり、異世界へ転生することと相成った。うっかり僕を轢殺させてしまった超常存在に問うたところ、“リリカルなのは”の世界に転生するのだとか。

 

 リリカルなのは。

 つまりエロゲのシナリオか。何故素直にとらいあんぐるハートの世界と言わないのだろうか? 初っ端からヒドゥンが絡んでくるとか? 或いはハーヴェイ家に転生するのだろうか?

 いや、もしかしたら。ニ○ニコに大量に存在する、なのちゃんが破壊光線を撃ちまくる謎のアニメーションと何か関係があるのかもしれないが、いずれにせよ謎である。とらハの世界は主人公周りが思いのほか物騒である。変なところに転生しないといいのだが。

 

 

 

 

 

 結論から言えば、僕の心配は杞憂に終わった。取り立てて怪しげな場所に生れ落ちることも無く。僕は無事に、神咲家の子供として転生したらしい。まあ、退魔師なんてやってる家が怪しげでないかと問われれば、ちょっと答えかねるものがあるけれど。

 

 そんなわけで現在僕は病室で、“母親”に抱かれてぼんやりと周囲を観察中である。周囲はぼやけてあまり見えないし、嗅覚もほとんど利かない。体の動きも鈍い。が、きっとそれらは赤ん坊ゆえの問題なのだろう。赤ん坊の視力や嗅覚について詳しく知っているわけではないが。たしか新生児は感覚器官の点で貧弱であったはずだ。

 ちなみに“父親”に抱かれて不思議そうにこちらを見ている赤ん坊は、“薫”と呼ばれていた。会話を聞く限り、僕とは年子か。ともあれ、とらハ3本編開始は大分先の話になりそうだ。えー、24年後?

 

 いやはやしかし、それにしても。

 生まれてからまだ数分しかたっていないのに、しっかり頭が動く。

 赤ん坊の脳は成人のそれよりかなり小さく、神経系も未発達、そうであるがゆえにロースペックのはずなのだが。なんともはや、実に超常的である。

 これがいわゆるチート、転生者ゆえのスーパー能力ということか。人様の話に出てくる分には色々思うところがあったのだが。自分がそうなってみると素直にありがたい。

 

 ほかにもウルトラでスーパーな能力があったりするといいなと思う。ニコポやナデポのような洗脳系能力は歓迎できないけれど。超高効率の学習能力とか、敵もパワーバランスも粉砕するくらいの霊力とか、そのあたりなら大歓迎だ。実際のところ神咲家に生まれた以上、久遠や御架月とは事を構える可能性があるのだ。常人のままでいると命が危ない。

 せめて退魔士の家に生まれついたのだ。霊力くらいはあるといいのだが。抵抗力がないので悪霊に取り憑かれ、泣く泣く家族に切り殺されましたとかは嫌過ぎる最期だろう。どうにかなるといいのだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら 第一話『転生』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 頭蓋の内側で、割れ鐘を乱打されればこんな気分になるのだろうか。

 そんな益体もないことを考えつつ、僕は布団の中で震えていた。

 洒落にならないほど頭が痛い。夏だというのに、歯の根がかみ合わないほど寒い。世界はぐるぐる回っているし、遠近感はいっそすがすがしいまでに狂っている。僕の足の先は一体どこにある? 感覚的には数キロ先なのに、幼いままやせ細ったそれはシーツのしわを不快に感じている。額を冷やす氷嚢だけが、無理やり意識を現実に向けようとしているが。正直モスクワ制圧後のフランス軍よりも期待できない有様である。人も風景も、なにもかもがぐにゃぐにゃだ。そういえば、熱で視覚が狂ったときの恐怖が原因で怪異が現れるマンガがあったような気がする。はて、誰の作品だったのやら。

 

 

 

 転生したこの体は実に貧弱だった。生まれてから3年ほどたっているはずだが、元気によちよちと歩いた記憶が数えるほどしかない。活動可能時間の実に7割が、動けず布団の上で徒然と考えを巡らしていることと、熱によって魘されていることで占められているのだ。病弱にもほどがある。

 1つ上の姉である薫もさり気に病弱だったりするのだが。何だかんだで向こうは既に家業の退魔剣術を学び始めている。実に筋がよく、将来が楽しみなのだとか。さすがは原作ヒロイン。幼少時から高スペックならしい。

 

 まあ、腐るつもりはない。大叔母(最初は祖母だと思っていたが、違ったらしい)は頻繁にやってきては治癒の霊術らしきものをかけてくれるし、母も何かとこちらの面倒を優先して見ているようだ。まあ、授乳期を終えたら何か別のことに忙しそうだったが。うろ覚えだけど、薫姉さんが生まれている以上既に彼女は流派の継承には失敗していたはず。何に忙しいんだろうか?

 

 ともあれ、継続的な超常能力の行使が面倒だからと病院に放り込まず、献身と異能をもってこちらを生かしておいてくれている人々がいるのだ。ごく当たり前のように呼吸ができなくなったりする体だからと、絶望していい道理はないだろう。

 それに、このまま死ぬまで病人をやっていることになるかといえば、そうではないと思う。少なくとも、事態を打開できる可能性はある、と思う。まあ、四六時中熱に煮えているような脳みそでの考えなので、これが正しい推論かどうかは果てしなく微妙なのだが。

 

 

 

 

 何だって“事態を打開できる可能性がある”などと考えたのかといえば、勿論理由がある。

 

 結論から言えば、僕には超常能力が賦与されていたからだ。

 正確には、超常能力を含んだ存在として“デザインされていた”ということになるのだろうが。

 一体どういうことかといえば、つまるところ。僕はGURPSのキャラクターとして構築されているようなのだ。どんな服を着ていても、洋装ならポケットに。和装なら袂か懐から“自分自身のキャラクターシート”が出現する。

 読んでいる僕を見た母親が、熱で幻覚でも……と呟いていたので、恐らく件のキャラクターシートは他人には見えていないのだろう。確かに、何も持っていない手元を見つつ、ぶつぶつ呟く幼女というのも問題があろう。特に、その娘がよく高熱で魘されているのであれば。自分自身のステータスの確認は、人目につかぬところで行うのが吉か。

 

 

 

 GURPSとは米国製TRPGシステムの1つだ。TRPGについての解説はしない。調べればすぐに分かる話だ。

 GURPSは“キャラクター作成時が最も楽しい時間”などと揶揄されるほど、複雑かつ自由度の高いキャラクター作成ルールを採用している。理論上は、スペックの分かっているキャラクターなら、どんなものでも再現できる。できるはずだ、たぶん。……できなかったとしても責任はとらないけど。

 キャラクターはCPと呼ばれる“予算”を使い、キャラクターの能力を購入する形で作成される。所謂ポイント制である。マイナスのCPを持つ能力もあるため、それらを取って不利な特徴を得る代わりに、予算を水増しすることもできる。

 大体一般人が25~50CP。科学者、億万長者、特殊部隊隊員、はたまた“冒険者”が100CP~200CP。叙事詩や民間伝承の主人公は300CP~500CPであるとされている。1000CP程度なら半神ということになる。

 ただし近代兵器の火力が割りと身も蓋もないので、例え1000CPの半神であっても1t爆弾の直撃には耐えられないのだが。

 

 そんなルールの中で、僕は302CPで構築されているらしい。中途半端なのは、恐らくサンプルキャラクターの平均値そのままだからだろう。……C31R07(サンプルキャラクターの一人。一人だけ飛びぬけて強力な戦闘ロボット)は無視されているようだが。

 

 

 

 ぐらぐらと煮えたぎる頭を氷嚢で冷やしつつ、自分のキャラクターシートを思い返す。高熱でほとんど動かないはずの脳みそは、それでも前世のそれをはるかに凌駕する性能でもって思考を進めていく。

 

 僕の性能は実にシンプルであった。本来かなりの書き込みがされるはずのGURPSのキャラクターシートには、随分と空欄が目立つ。

 

 

 

 GURPSのキャラクターは、能力値と、特徴。それに技能でもって構成される。

 能力値とは身体的なスペックを数値化したものであり、体力、敏捷力、知力、生命力の4つで構成される。

 特徴とは暗闇でものが見えるとか、運がいいとか、空が飛べるとか、或いは強欲であるとか。そういった普遍的な数値として表示しにくい能力を示す。

 最後の技能は、例えば長剣の扱いや礼儀作法、呪文の扱いなどにどれだけ習熟しているかといった技量を示す。

 

 

 

 僕の場合

 

 体力7(現在値2)、敏捷力7(現在値2)、知力18、生命力7

 容貌/美人、特殊な背景/魔法学習の機会を得る、魔法の素質Lv25、後援者/両親、放心、非常に不健康、視力が悪い/矯正可能、特異点、社会的弱者/未成年、財産/どん底

 

 ということになる。幾つかの能力値に現在値が記述されているのは、僕が子供だからだろう。GURPSのキャラクターは、そのキャラクターが成人している場合の能力値で作成されるため、あまりに幼い子供は未成熟であることによりペナルティを受ける。

 能力値は、平均的な成人はすべて10となる。13~14が例外的な能力であり、20が人類の限界であるとされる。低い方では7が機能を残した最低限の能力であり、それ以下は通常のキャラクターに設定することは禁止されている。

 

 僕がこの三年ほど、四六時中床に伏せているのは、つまるところ上記のような存在としてデザインされているからだろう。知力以外の能力はすべて最低レベル。おまけに“非常に不健康”の特徴を持っているため病気に対してほぼ抵抗できない。

 

 例えば僕がそれほど悪性ではないインフルエンザに罹患した場合。発症から12時間でほぼ確実に意識不明の重態となり、48時間後にはやはりほぼ確実に死亡する。無論、治療を受けられればその限りではないが(というかそうでないと既に死んでいる身だが)、それにしても凄まじいばかりの病弱っぷりである。

 

 

 

 

 

 いっそ清清しいまでの病弱っぷりをさらしているにも拘らず、僕が“どうにかなる”と考えているのには、2つの理由がある。

 1つは想像の付く話だろう。僕はまだ肉体的には3歳児であり、代謝性が安定していないのだ。知恵袋的なお婆ちゃんに話を聞くとか、或いは発達心理学関係の書籍や育児書などに目を通せば分かると思うが。人類は大体5~6歳くらいで第1回目の肉体的な安定期を迎える。代謝系が多少は安定し、骨格や神経系も一応モノになっていき、内分泌系もある程度マシな状態になる。周りを見たり、保護者に話を聞けば、“小学校に入ったとたん丈夫になった”子供など簡単に見つかるはずである。

 

 また、GURPSのルールにおいても。成人に近づくにつれて幾つかの能力値は上昇する。

 現在の僕のヒットポイントは2点であり、病で4点のダメージを受けると死亡する可能性が出てくるわけだが。この状態は年々緩和され、15歳時点でヒットポイントは約4倍の7点まで上昇する。そうすれば14点のダメージを受けるまでは死ぬ心配はなくなり、平均的人類を明らかに下回るものではあるものの、今と比べれば大幅な頑健さを得られることになる。年を重ねたところで病弱なことに変わりはないものの。風邪が当たり前のように死病のルビを振られるような事態はあと10年程度で終了するはずである。

 

 

 

 もう1つの理由は、GURPSのキャラクターとしてデザインされた僕自身に準拠するものである。

 

 知力18、魔法の素質Lv25―――――

 

 以前の版ならレオナルド・ダ・ヴィンチと同値というトンデモな知力。3レベルまでに規制するべきですとのルールブックの提言を綺麗に無視し、割と現実的にクトゥルフ神の知力抵抗を打ち砕ける狂ったレベルの魔法の才能。

 

 転生した僕は、明らかに魔法使いとしてデザインされている。現在魔法は1つも使えないのが問題だが。超高レベルの魔法使いとなれるだけの素養を、最初から持っているのは間違いない。

 勿論、呪文を1つも覚えていない現在においてはほとんど意味を成さない能力ではある。が、特殊な背景という形で僕は魔法を学べる何らかの機会を得られるようでもある。神咲家にあるのかどうかはともかく、僕が発見できる場所に呪文書なり教師なりが存在するのだろう。

 

 そしてこのGURPSの呪文には病気を治癒する魔法も存在するし、生命力を活性化する魔法も存在する。地道に魔法を覚えていけば。この体の成長とあわせて、病弱さを多少緩和することは可能だろう。

 僕が極度に病弱であるという事態は憂慮すべき話ではある。が、そこまで悲観するべき話でもない。

 

 

 

 

 

 きっとそうだ。こんな熱に四六時中魘され、延々家族に介護されるだけの状態など、あと何年もすれば解消されるは……ず……。

 

 

 

 

 

 それにしても、……あれ? なんだって視界がゆれているのだろうか?

 

 「―――、ちゃんと寝とるかい? って、ちょっと。あんた顔が真っ青じゃぞ!」

 

 様子を見に来た大叔母の声が、妙に遠く聞こえる。はて、僕は寝ていたんだっけ。身を起こしていたんだっけ? そのあたりからして、さっぱり分からな……。

 

 

 

 ……。

 

 

 

 あとで亜弓さん(大叔母だ)に聞いたところ、僕はこの後2日ほど昏睡状態となったらしい。発熱状態で頭を動かしすぎたのがまずかったのか。意識が回復した後、家族全員に怒られる羽目となった。

 

 

 

 

 

 しかし姉さん、つまるところ薫姉さん。倒れるから考えるのも駄目とか、それはちょっと無理難題じゃないかなと思います。4歳になったばかりのあなたが、精一杯お姉さんぶってこちらを怒る姿はとってもかわいいんですけど。

(続く)



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第二話『抱擁』

序、

 四半世紀ちょっとを生きた成人男性たる僕は、超常存在の理不尽によって殺害された挙句フィクションの世界に生まれなおすという、所謂神様転生を体験することとなった。

 TRPGシステムの1つGURPSのルールに準拠しているらしい新たな体は素晴しく病弱で、ヒーリングという超常的な回復手段のある家に生まれたにも拘らず週の大半を寝てすごす羽目となっている。突然ぶつんと意識が途切れ、次に気がついたら集中治療室にいました。などといった出来事も一度や二度ではない。

 

 与えられたGURPSの魔法を扱う才能については、かのグレー・レンズマンを(反撃を受けずに10m程度まで接近し、こっちが抵抗不能レベルのテレパシーでねじ伏せられなければ)洗脳できるレベルのものだけど。呪文の一つも覚えていない現状では宝の持ち腐れである。大体体が貧弱すぎて、習得しても使いこなせない呪文が多数あるのだ。一体どうしろと。

 

 ともあれ呪文の習得以前の問題として、まず生きることが大変な身の上である。

 折角文字通りの意味で“第二の人生”を得られたのだ。前回よりも気の利いた生き方をしてみたいのだけれど。果たしてどうなることやら。大いに不安である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第二話『抱擁』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 相変わらず、僕は病弱である。

 薫姉さんに引っ張り出されて2人で庭で遊んでいたら、ぐらりと視界が歪んだ。ぐるぐると世界が回り、たまらず目を閉じる。

 

 気がつけば、布団の上であった。泣きそうな顔でこちらを見る薫姉さん。じろりとそちらを睨みつける和音婆様。苦笑いしてそれをとりなす大叔母の亜弓さん。

 どうやら僕は、遊んでいるうちに体調を崩し、そのままぶっ倒れたらしい。季節は春。暑くもなく、寒くもなく。実に良い塩梅の気候であった。外で遊ぶには絶好の環境であった。

 にも拘らず、体調を崩したとの認識を得るまもなく、僕は昏倒したようだ。僕は現在3歳児。確かに代謝系が安定しておらず、さくっと発熱したりする年齢ではあるのだが。ううむ。それにしたって、スペックが低すぎるぞ、この体。成人しても体力、生命力共に7は伊達ではないということか。

 

 起きたのはいいが、そのまま何も言わずに考えていたのがまずかったのか。薫姉さんが泣き出してしまった。無理やり外に連れ出してごめんなさい、と。

 実際のところ、薫姉さんが僕を無理やり連れ出す、などといった事実はない。僕は気候や自分の健康状態を鑑みた上で、彼女の誘いに乗ったのである。まあ、外に引っ張り出されたのは確かだが。抵抗しなかったのは僕の判断に拠るものだ。ちょっと外で遊んだくらいでは健康を損なわないであろうと。……実際は、健康を損なうどころか意識が飛んだわけであるが。

 ともあれ、認識の甘さを謗られるべきは、僕であって彼女ではなかろう。

 

 しかしさて、目の前で泣き出した薫姉さんに対し、どう対応したものであろうか。試したことがないので想像するしかないのだが。泣きじゃくる子供に対し、理路整然と当人に非がないことを伝えたところで、たぶん泣き止んだりはしないだろう。某つけ耳エルフの手法は失敗したものと記憶している。

 相手が理を解さぬのであれば、情をもってあたればよいのだと理屈では分かる。が、情であたるとして、どのように言えばよいのか。正直、子供の相手などまともにしたことがないので、どうすればいいのかまったく想像が付かない。相手を泣きじゃくる女性として考えたとしても、同様に対応策は見えてこない。というか、そんな方策が分かるなら。前世でリアル魔法使いまであと2年、などといったステキなカウントダウンがなされることはない。

 

 とりあえず一応、駄目元で。

 理詰めで彼女に非がない旨伝えてみた。

 

 が、姉さんが泣き止む様子はない。やはり駄目か。難しいものである。両親も頭を抱えている。きっと彼らにも、泣き止ますための方策がないのであろう。泣く子と地頭には勝てないのだ。僕らの敗北か。

 亜弓さんが笑っている。彼女には何か妙手があるのだろうか? 亀の甲より年の功。さすがである。……なぜか笑顔のまま梅干をかまされた。痛い、少しは病人をいたわって欲しいものである。

 深く深く、和音婆様がため息をついた。やはり彼女も子供のあやし方については造詣が深くないのであろう。まあ、退魔師などをやっている以上、子育てについて深く知る機会はなかったのかもしれないが。

 

 抱きしめて、頭をなでてやるくらいのことはせんか、馬鹿者が―――――

 

 罵倒されてしまった。理不尽だ。僕はベストを尽くしたぞ。しかしぎろりとこちらを睨みつける老退魔師に、対抗する方策など持ち合わせてはいない。

 そんなもので泣き止むなら世話はないと思うのだが。布団から身を起こし、そのまま姉を抱きしめてみた。

 

 泣きやんではくれない。

 

 しばしの逡巡の後、頭をなでてみた。貧弱な3歳児と、既に剣術を学び始めている4歳児。なでるとなると色々やりにくいのだが。そも、なでると髪がぐちゃぐちゃになりそうなのだが、いいのだろうか?

 

 やっぱり、泣き止んではくれない。

 

 助けを求めて年上連中を見回すが、母はニコニコしているだけ。父はカメラを取り出している。和音婆様はしばらくそうしておれと退室し、大叔母もそれについていく。一体どうしろと。

 

 

 

 

 

 結局、この行動の効果があがることはなかった。

 僕はそれからの数十分。姉が自然に泣き止むまでくしゃくしゃと、拙い動き(こんなまねをした経験は、生前に無い!)で彼女の頭をなで。あなたが悪いわけではない、己の体調を認識できていない僕が悪かったのだと、手を変え品を変えその旨伝える羽目と相成ったのである。

 

 

 

 

 

 泣かせたのが僕であるとされるのは、まあやむをえない。

 慰めろというなら、そうすることも吝かではない。

 

 だが、なぜ大人連中はにやにやとこちらをながめているのだ! どうにも腑に落ちない。

 

 

 

 

 

 あと、和音婆様。

 退室したと思ったら、何ビデオカメラ持って帰ってきているんですか。

 普段どおりのしかめ面のままカメラ向けられると、怖いんですけど。

<了>



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第三話『病床』

序、

 超常存在の“うっかり”によって殺害された僕は、GURPSのキャラクターとして超常能力を得、とらいあんぐるハートの世界へと転生することになった。超常存在は“リリカルなのはの世界”と言っていたが、一体何故ファンディスクの一シナリオ名を強調するのだろうか? 不可解な話である。

 ともあれ、おぎゃぁと生まれてみればそこは神咲家。とらいあんぐるハート2のヒロインの一人、神咲薫の妹として生まれたらしい。退魔師として生きることはほぼ確定か。

 

 この身がTRPGのシステムの一つ、“GURPS”のキャラクターとしてデザインされている以上、霊力その他とらハっぽい超常能力は持ち合わせていないわけだが。はてさて、どうしたものやら。

 とりあえず、GURPSのキャラクターとしての魔法の才能はあるようなので、そちらで霊能の欠如を補う必要はあるだろう。でも、GURPSの魔法って基本的に地味なんだよなぁ。果たしてどこまで補えることやら。大いに心配である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第三話『病床』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 ぐにゃぐにゃ、どろどろ。

 世界はゆがみ、凹んだり盛り上がったりと好き勝手に脈動している。温度感覚は完全に壊れたらしく、大気の寒暖が痛みとしてしか認識できない。距離感どころか空間感覚自体も狂ったらしく、自分の形さえ良く分からない。今の僕なら、極めてアレな元ネタを有する異次元人と見間違えられること請け合いだろう。あくまで僕の主観の中では、だけど。

 

 肺腑の痛みをこらえ荒い息でどうにか呼吸っぽいものを繰り返しつつ、僕は布団の中でうなされていた。今日も今日とて病人生活。平常運転である。

 

 GURPS的に表現するなら、僕の生命力は7である。この能力値7とは明白に“悪い”とされる値であり、僕に出会った人間誰もが無条件で僕が病弱、貧弱であることに気がつくレベルである。

 その上で僕は“非常に不健康”の特徴を持つ。これによって病などに抵抗することは更に困難となっており、ほぼ常に病気にかかっているといっても良い状態である。

 転生した僕の体は、いっそ清々しいまでに病弱なのだ。やりたいことは多くあるが、正直そんなことをやるよりもまず、生きることが困難な有様である。

 

 転生し、2回目の人生を歩み始めた以上。今回くらいは今生の家族に迷惑をかけずに生きて行きたいと思っていたのだが、まったくもって上手くいかない。早いところ、状況を打破する必要があるだろう。

 

 

 

 そんな益体もないことを徒然と考えていると。

 ふと、手にひんやりとした感触を感知する。発熱で狂った感覚はそれを痛みとして認識したが。僕は己の反射的な“それ”を払いのけようとする動作を、意識的に阻止した。

 少しざらつき、乾いた感触。この感触は覚えている。今生において、何度も経験したものだ。

 

 果たして熱で潤んだ視線を向けた先には、見慣れた老婆がいた。大叔母の、亜弓さんである。

 彼女の手が、僕の手を握っているのだ。正座し、僕の手を握ったままじっと目を瞑っている。

 

 「―――――」

 

 ぐわんぐわんと耳鳴りの続く聴覚に、音声が飛び込む。現在機能不全中の僕の耳はそれを言葉として認識できなかったのだが。恐らくは“神気発勝”と言っているはずだ。本来どういう意味なのかは知らないのだが、神咲一灯流においては霊力集中時に用いられる言葉である。

 同時にぼんやりと彼女と僕の手に光が灯る。ほんの少し暖かい、青い光だ。原因は病か、熱か。温度感覚が痛覚と直結したかのような今の状況でさえ、それは痛みではなく暖かさを伝えてくる。体の奥底にまで入り込んできて、僕の最奥にあるナニモノかが活性化される。

 

 「―――――」

 

 次に彼女が呟いたのは、何だったのか。

 青い光は拡散し、僕の体を包み込む。

 数秒の間をおいて、呼吸が楽になった。霞がかかったかのようであった意識がはっきりとし、思考速度が元に戻る。世界が急速に整頓され、耳鳴りが収まる。

 

 亜弓さんの霊能、「癒し」の霊術の結果だ。対象の魂を活性化させることで物理的な治癒力を発揮する術理だそうな。怪我だけでなく病に対しても効果があるかどうかは術者しだいだが、彼女のそれは病に対しても充分に効果を発揮するようだ。

 僕が高熱を出して倒れるたびに、こうして術をかけてくれる。さすがに日課とまではいかないが、週一というほど少ない頻度の話ではない。四六時中霊能の助けを得て、僕は生かされているというわけだ。

 

 「ありがとうございます。大分楽になりました」

 

 布団から身を起こすことなく、僕は礼を言う。

 当然そうすべき行動であるとして、最初のうちは身を起こして頭を下げようとしていたのだが。それをしようとするたびに止められるので、さすがにやるわけにはいかなくなった。

 もう数えるのも馬鹿らしいほど、彼女の霊能の世話になっているのだ。毎回彼女の意向を無視するのは、例え礼を欠くことになったとしても、是とされる行動とはなりえないだろう。

 

 「礼のいる行動ではないはずなんじゃがの」

 

 大叔母がため息をつく。毎度のことながら、妙なことを言う。彼女の「癒し」の霊術は、希少性があり、また大きな価値がある。わずか数分で病を緩和する力とは、金儲けに走れば巨万の富を得ることだって不可能ではない能力のはずだ。そんなものを頻繁にかけてもらっている以上、最低限頭を下げるくらいはしないとおかしいだろう。

 

 とはいえ、当人がそう思っているならば、叛意を促すようなことでもあるまい。僕はそれ以上言葉を連ねようとはせず、口を閉じる。

 

 「……ま、いいじゃろ。

 こんままきゅ(今日)一日は寝ておきなさい。明日には熱も下がっているじゃろう」

 

 ぽん、と僕の頭をなでて、そのまま大叔母は部屋を出て行く。

 無茶苦茶な発言である。僕が今回罹患したのはただの風邪ではなく。マイナーながらも固有の病名を持った、幼児には危険な疾患であったはずなのだが。だが、彼女がそう言うということは今回もまた、その通りになるのだろう。恐るべき能力だ。

 その脅威の能力、「癒し」の霊術は神咲流ではあまり使い手のいない特殊な術だそうで、当代に彼女以外の使い手はほぼいないのだとか。原作で十六夜さんが傷を治してたような気がするが、彼女の治癒能力は傷にしか利かないし、別物なのだろう。

 もう十年もすれば那美という使い手が出てくるわけだが。原作だと那美が霊能力者として神咲家の入ってくるときには、亜弓さんは久遠によって消しズミにされている。勿論この世界においてもそうなるとは限らないし、僕自身どうにかそれは阻止したいところだけれど。

 ん、いや。待てよ? 久遠が那美と神咲家にやらかした損害を阻止すると、那美って神咲家に入ってこないのではなかろうか。両親が生きてたら養女にはならんよなぁ。久遠と那美の友情とかも見事に発生フラグが折れる気がする。……まあ案外そうならないかもしれないし、人の命も懸かっているし、久遠が暴れたら原作の流れなど気にせず全力で阻止することになるだろうけど。

 

 

 

 まあ、そんな未来の話はともかく。

 

 

 

 武芸を嗜んでいるからか、他の要因か。ひどく綺麗な姿勢でそのまま襖を閉める彼女を見つつ、考える。

 

 基本的に退魔業で全国を飛び回るのは現神咲一灯流継承者である和音婆様であり、亜弓さんはこの地に腰をすえている。が、それでも封じた妖怪、悪霊の監視。或いはこの地での霊障への対処など、暇なわけでもない。恐らくはこのままどこかの現場なり何なりに出かけるのだろう。

 本来ならば、彼女はこの神咲家にいるよりも、外を飛び回っている時間のほうが長いはずの立場の人間である。

 にも拘らず亜弓さんが家にいることが多いのは、偏に僕の治療のためである。僕が倒れれば必ず戻ってくるというわけではないのだが。それでも重病となれば必ず彼女は神咲家に舞い戻り、僕を治療する。和音婆様と雪乃母さんは「癒し」の霊術は使えないようだが、退魔業から帰ってきてそのまま僕の看病を……などという事態もままあるようだ。

 基本的に、神咲家の人間はばたばたとあちこちに行っている時間の多い人間たちなのである。

 

 

 

 そう、忙しい人たちなのだ―――――

 

 

 

 視線を横に向ける。敷布団の横に、皿が置いてある。先ほどまで頭が沸騰していたので“いつの間にか”としか言えないが、母が置いていってくれたのだろう。ラップに包まれ、切り分けられた林檎があった。

 

 食べられるようなら、食べて。早く元気になってね。母より―――――

 

 聊か若すぎるきらいのある丸文字で、メモまで残されている。うん、間違いなく母の字だ。

 半ば意識の飛んでいる娘に林檎を置いていってどうするのかという問題。或いは消化器官が疲弊した現状で、固形物は口にできないという実情はさておいて。歪ながらもうさぎ型に切られたそれは、ただ親としての義務感のみでは決して作られないものだ。

 

 たまらず、寝返りを打った。皿に背を向ける。

 僕は転生者だ。

 それは僕自身の意思、選択、努力でなったものではないにせよ、大きなアドバンテージである。

 例えば普通の赤ん坊が言葉を覚えているうちに、他の言語を学べるかもしれない(前世と違う国に生まれれば、自然とそうなるだろう)。常の赤ん坊が二足歩行に苦闘している最中、数学について復習できるかもしれない(教材資材を用意できればだが)。用便その他生理機能の制御についても、外部からの干渉に助けられることなく、自発的に学ぼうという意思を持っていられるのだ。普通の赤ん坊に比べて、転生者である赤ん坊は学ぶのが早いはずだ。

 

 かように転生者とは、本来赤ん坊が学ばねばならぬ多くのことをすっ飛ばし、自分の裁量で様々なことを学べるのだ。ために同年代の子供達に比べて優秀であるのは当然であり、本来凄まじい重労働である子育てについて、家族の負担を減らせて当たり前の立場にある。

 

 にも拘らず、僕の有様はどうか。

 四六時中病に倒れ、忙しいはずの家族に余計な手間をかけさせ、自身は学ぶ時間を大いに浪費している。本来手早く自立できなければならない立場であるのに、その対極をひた走っている。

 

 羞恥の念が身を焦がす、とは。このようなときの情動的反応を表したものだろう。焦ったところで病は治らず、大人しくするのが最良の行動だというのがまた歯がゆい。

 

 ともかく、この病の身を何とかしなくてはならない。短期的には今罹患している病を完治させること、中期的には日常的な発熱による昏倒の頻度を低下させること。長期的には、健康体になることが目的か。

 怪しげな前世の意識などなく、最初から普通の子供として振舞えるならば、家族の恩恵にあずかり続けるというのも当然の選択肢なのだろうけど。さすがに今更それはできない。

 僕にはただの子供には存在しない、恐らくはよりましな選択肢が提示されているのだ。それに目をそむけて家族の手にすがることは、決して許される話ではない。

 

 

 

 早いところ、アレを学ばなければならない―――――

 

 

 

 目的のためになすべきことについては概ね見当が付いている。僕がGURPSのキャラクターであるという認識が間違いなく事実なのであれば、恐らく上手くいくはずだ。

 

 そのためにも現在の病をさっさと治さねば。

 

 気合を入れたからといって治りが早くなるわけでもない。取り敢えず大人しくしている以上のことはできないので、僕は全力で大人しくすべく額の氷嚢の位置を直すのだった。

 間抜けな有様である。病魔が憎い。

 

 

 

 

 

 余談だが、林檎は結局そのままでは食べられず、姉さんが摩り下ろしてくれた。ありがたい話だ。

 

 でも姉さん、人が動けないことをいいことに真顔で “あーん”とかやらないでください。おちょくられてるならともかく、真剣な顔でやられると断れないじゃないですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二、

 1年ほど経った。

 転生し神咲家に生まれた僕は、これで4歳になったことになる。姉たる薫は5歳。一番近い原作はとらいあんぐるハート2であるわけだが。確かその時点で姉さんが高校1年生であったはずなので、原作開始までなお11年の年月が必要ということになる。……それで間違いないはずだ。たぶん。

 

 体調についてはさして改善されていない。流石に日常生活の最中にぱたりと倒れたりすることはなくなったが。それはその前にある兆候を、僕や周りの人間が理解できるようになった、というだけの話でしかない。無意味ではないにせよ、微小な一歩である。

 今日も多少微熱があり、たびたび咳き込んでもいる。まあ動けないほどではないので、床に臥せってはいないが。

 

 

 

 現在、僕はげほごほとやりながら神咲家の蔵の中で書籍を漁っている。4歳児の行動としてはどうかと思わなくもないが、とりあえず、周りにやめろとは言われていない。和音婆様の読んでいた数百年前の神咲家当主の日記を、さらっと読んでみたのが良かったのだろう。前世就職時には散々役立たず呼ばわりされた古代日本史専攻という経験も、こういうときには役に立つ。

 

 ともあれ、なんだって古書あさりなどをしているのかといえば。呪文の習得のためである。

 どうも神咲家古文書の幾つかには、GURPSの呪文習得のための指南書としての働きがあるようなのだ。

 

 勿論、退魔師の家系である神咲家とはいえ、魔法の呪文なんぞというトンデモな代物は伝承していない。少なくとも、原作にそんな描写はかけらもない。

 一応治癒やら何やらの霊術は伝えられているし、実際大叔母である亜弓さんのそれには散々世話になっている。とらハ3では那美も「癒し」の霊術を使っていた。が、それらは魔法ではなくあくまで霊能である。退魔師の家柄である神咲家に、魔法は存在しない。

 にも拘らず僕が魔法やら呪文やらという、世界観を無視したかのような代物を学べるのは。“僕という転生者がいるから“という実にミもフタもない事情によってである。

 

 僕はGURPSのキャラクターとして、“特殊な背景/魔法学習の機会を得る”という特徴を持っている。この能力によって、僕は本来GURPSの魔法が存在しないこの世界において、GURPSの魔法を学ぶことができるのである。

 勿論そんな特徴を持っているからといって、虚空から魔導書を召喚し、それを読むことができるわけではない。理由付けは必要だ。

 恐らくその理由付けのために、“神咲家の蔵に魔法の指南書がある”という状態に“なった”のであろう。

 

 現在、神咲家の蔵を漁れば、祖先の記した霊術指南書として、僕の知る“GURPSの魔法”についてのノウハウが記された書籍が存在する状態となっている。色々まじめに考えると不気味な事態ではあるのだが、役に立つのは間違いない。

 

 

 

 僕が早急に学ぼうと考えているのは、このGURPSの呪文の中の“治癒系”の呪文である。

 

 怪我や病気や毒、或いは精神障害や薬物中毒、果ては失った四肢や老化、死さえも克服する何でもありの系統である。尤も強力な魔法は膨大なエネルギー消費を必要とするので、この方面について相当に強力な才能を持つ僕であっても、単独ですべてを使うことはできないのだけれど。

 

 

 

 

 

 何冊かの書籍を抱えて、部屋に戻る。照明の充実した、誰も使っていない部屋である。書見台に書籍を広げ、正座してそれに相対する。視力の都合上、書物を読むときはかけざるを得ない眼鏡は、古式ゆかしい(……のか?)黒縁眼鏡である。

 ……僕が和服を着ていることもあり、はたから見ると実に時代錯誤な光景だが。少なくとも和音婆様は、読書とはかくあるべしと固く信じているらしい。以前、普通に縁側で脚をぶらぶらさせながら読んでいたら拳骨が落ちてきた。おっかない話である。

 

 ちらりと、時計を見る。午前10時。

 昼食まで2時間。昼食後にまた2時間は読めるだろう。その後肉体年齢の都合上1時間ばかり昼寝することになり、起きれば午後3時すぎ。夕食を食べる7時まではまた読める。それで4時間。いや、ぶっ続けでそこまでは読めない。それに雑多な家の手伝いもある。実質2時間か。

 その後はほとんど読めないだろう。寝る時間も早いし、この体で根を詰めると翌日発熱する。となると。僕は呪文の学習に6時間を費やすことができる。

 因みに、今まで寝ていたわけではない。1時間ほど前までは、姉さんと一緒に礼儀作法を叩き込まれていた。姉さんは今頃剣術のほうを学んでいることだろう。

 基本的に神咲家は、相当に厳しい躾をするつもりらしい。別に僕はそれでもいいのだが、遊びたい盛りの姉さんには辛いのではないだろうか。特に彼女が不満を漏らす様子はないが、それでも心配である。一応外で遊びたいとの旨、両親に進言しておくべきか。うまくすれば、姉さんも同い年の友達と、外で遊べるようになるだろう。

 

 

 

 まあ、今心配しても仕方がない。自分の面倒も自分で見られないのに、他人の心配など思い上がりもいいところであろう。最低限の言伝以上のことはせず、さっさと自分の成すべき事を成すのが吉か。

 

 

 

 さて。

 GURPSのキャラクターの成長には、2種類ある。

 

 1つは冒険による成長。大抵のTRPGが示しているそれと同様のものである。

 何らかの冒険。……例えばゴブリンの群れを撃滅し、村の窮状を救うとか。或いは町に巣食う邪悪な暗黒神官を殺害し、生贄の少女を救出するとか。

 その手の冒険をこなし、それによってキャラクター作成時にも使用した予算“CP”を手に入れ、それを消費して成長する。コンピューターRPGなら、イベントをこなしてレベルアップして、それで手に入れたスキルポイントで必殺技を習得するとか、そのようなものになるのだろう。

 

 もう1つの方法は学習による成長である。

 通常GURPSで遊ぶ場合、この成長は行わない場合が多い。普通素直に冒険した方が成長が早いし、一々計算することを煩雑であると感じる遊び手も多い。

 が、家から出るだけでも大冒険レベルな貧弱さを誇る僕の場合、こちらをもって成長の主軸とするほかに手段はない。呪文を習得する場合も、素直にこちらのルールに従って獲得している。

 

 教科書は神咲家の蔵にあった古文書。十数代前の当主が記した術理に関する指南書である。僕という“特殊な背景/魔法の学習機会を得る”という特徴を持った存在がいることによって、昔からあったことに“なった”書籍である。

 変体仮名で書かれているが、まあたいした問題ではない。旧仮名遣いの古語辞典という、実に笑えない代物が蔵にあったので、それを片手に読めばよいのだ。

 

 教師は、いない。霊術が使えるのだし、亜弓さんあたりに教わろうと思ったのだが。どうも古文書に書かれた呪文は“失われた霊術”や“神通力”扱いならしい。要するに亜弓さんも知らなかったり、存在は知っていても使えなかったりして、こちらに教えることなど不可能な状態であった。結局、僕は古文書片手に独習するしかない。

 

 教師がいない独習の場合、400時間の学習で1CPを得ることができる。ただし、才能のある人間が一を聞いて十を知るように、魔法の素質があるものはある程度この呪文習得に必要な学習時間を短縮できる。僕の場合、240時間の学習で1CPを得、1つの呪文を習得できる。毎日6時間学習するなら、概ね一月半で1つ、呪文を習得できることとなる。

 

 

 

 僕がこの時点までに学んだ呪文は3つ。

 即ち《エネルギー賦与》、《バイタリティ賦与》、《小治癒》である。

 3つ学ぶのに必要な時間は720時間であり、毎日6時間学習に充てている。結果僕は120日の学習でこれらを習得した……と、言いたいところだが。残念ながらそんな真似は不可能であった。

 一応健康に気を遣いながら学習を進めていたが。それでも週の半分は寝込んでいるか、或いはそこまででなくとも学習ができる状態になかったのだ。結局、僕は8ヶ月近くをかけてこれらの呪文を習得している。時間のかかる話である。

 

 僕が治癒系統で覚えようとしているのは《病気治療》の呪文である。

 その名の通り病気を治す呪文であり、これがあれば風邪も肺炎も怖くない。呪文一発で健康体に逆戻りとなるのだ。まあ、本質的に病弱であることに変わりはないので。健康になったと調子に乗ると、一発で意識を失うような疾患に罹る可能性があり油断はできないのだが。

 ともあれ、この呪文を習得すれば僕の病苦も家族の負担も大分軽くなることは間違いない。昏倒している時間を減らすことで、呪文習得に振り分けられる時間も増えることだろう。1つの呪文を習得するのに2ヶ月以上かかるなどという事態も緩和されるはずだ。

 

 が、記念すべき習得呪文第1個目としてこの《病気治療》を取る、ということはできない。

 GURPSの呪文にはたいていの場合、“前提条件”というものがあるのだ。その呪文を習得する前に、もっと単純な別の呪文を覚えていることや、或いは魔法の素質や知力が一定値以上であったりすることが条件として提示されているのである。

 コンピューターゲームで例えるなら。

 某オンラインRPGでファイアーウォールの呪文を覚えたければ、ファイアボルトとファイアーボールを一定のレベルにし、更にサイトの呪文を習得しなければならない。などといったものになるのだろう。

 

 《病気治療》も前提条件を持っており、幾つかの呪文を習得していなければ習得できない。更に、《病気治療》の前提条件となる呪文もまた前提条件を持っており、これもまた幾つかの呪文を習得している必要がある。

 

 結局、《病気治療》の覚えるためには、その前に5つの呪文を覚えておく必要があるのだ。《病気治療》を覚える手間もあるので、まったく呪文の使えない状態から《病気治療》を覚えるには、6つの呪文を取得するだけの時間が必要となる。僕の場合、要求される学習時間は1440時間だ。既に前提呪文のうち3つは覚えているので、これから先の必要学習時間は720時間。8ヶ月かけて、なお道半ばということである。《病気治療》習得後に覚えようと思っている呪文も100を超える。最終目標は勿論すべての呪文習得であり、そこまでいくと1000種以上。先は長いのだ。

 

 

 

 もっとも、前提として覚えた呪文も役に立たないわけではない。今までに覚えた3つの呪文のうち2つは、あまり使う機会のないものだが。最後の1つは役に立つ。上位互換呪文があるので、それを覚えるまでではあるけれど。

 

 

 

 脇においていた筆箱から、小刀を取り出す。鉛筆を削るためのものだが、よく研いでおいたので切れ味は良い。

 

 逆手に持って、そのまますぱっと自分の手を切り裂く。白い手のひらに、真一文字に赤い線が描かれた。一拍の間をおいて、傷に熱さと疼みに似た痛みが走り、切り口に沿ってぷくりと血が盛り上がるように出て来る。見る間に溢れ出たそれは、ぽつぽつと腕を伝っていく。

 

 同時に視界がぼやけ、意識が拡散する。そのまま10秒ほど呆然と何もできないまま座っていると、段々意識が収束し、まともに思考ができるようになる。ルール的には一撃でHPの半分以上のダメージを受けたために大怪我のルールが適用され、朦朧状態となったということである。

 

 

 

 現実的にはおかしな話だが、GURPSのルールでは1点未満のダメージについては端数切り上げで処理することとなっている。つまり、ダメージを受けることがあればそれがどんなに小さいものでも、1点のダメージは受けるということだ。勿論ちょっと小刀で自分の指を切っても、である。

 まあ、ゲーム的なルールと現実とのすり合わせは行われているらしく、例えば屋内でこけてこぶを作った程度ではダメージは受けていないようだ。現在僕がちょっと指を切っただけでダメージを受けたのも、僕がこの先の行動のために“ダメージを受けよう”としたからだろう。僕自身の意図が、ダメージとなるかならないか微妙な損害を、ルール的なダメージに変換したということか。

 

 さて。

 現在の僕のヒットポイントは2点しかない。つまるところ、僕はほんの僅かでも“ゲーム的なダメージ”を受けてしまえば、自動的にそれは大怪我のルールが適用される大ダメージを受けたことになってしまい、朦朧とするか、気絶することとなるのだ。

 今回の行動もうっかりすれば気絶する可能性があり、あまりやっていい行動ではないのだが。今から試そうとしていることは、一度もやらないままにはできない類の行動なのだ。止むを得ないだろう。

 

 小刀を置いて、じっと手を見る。指を一本伸ばし、傷口へと触れた。溢れる鮮血が、指先にべとりと朱をつける。

 精神を集中する。

 

 

 

 1秒。

 

 

 

 空間中の超常的構成物“マナ”を介し、自分の意思を極めて怪しげな法則に基づいて現実へと押し付ける。

 脳裏に文字列が踊る。

 

 《小治癒》、消費1点で使用。

 マナ濃度……並である。ペナルティなし。

 詠唱……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 結印……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 対象までの距離、接触。技能レベルにプラス2のボーナス。

 ダメージにより技能レベルにマイナス1のペナルティ。

 技能レベルにより消費6点軽減。……エネルギー消費ゼロ。

 詠唱時間1秒。

 成功率約9割8分1厘。

 判定……成功。

 対象の生命力を1点回復。

 

 脳裏に浮いたそれら文字列を認識するよりも早く。僕の行った行動の効果は発揮された。

 

 輝く魔法陣も、きらきらと降り注ぐエフェクトもない。効果音さえ一切ない。ただ身も蓋もなく、瞬時に手のひらの傷が消失した。手ぬぐいで出血をぬぐえば、つい1秒前までこの手に真一文字に傷があったとは誰も思わないだろう、やせ細った白い腕が見えるばかりである。

 

 《小治癒》。

 回復呪文の一種だ。エネルギー1点につきHPを1点回復させることができる。手のひらを切った程度のダメージならば1点ぶんで充分に治癒できる。

 本来ならば今回の呪文行使はエネルギーを1点消費する。つまり1点ぶん疲れるのだが。僕の場合、魔法の素質と知力が高いので、6点分エネルギー消費を軽減させることができる。つまり、ノーコストで使用できるのだ。

 

 この呪文は、GURPSのキャラクターはあまり使わない。なぜなら、これを前提として覚えられる《大治癒》という呪文があり、こちらが完全な上位互換となっているからだ。まあ、回復呪文には制限が存在するので、《大治癒》を覚えていても《小治癒》を使う機会は絶無とはならないのだけれど。

 

 

 

 ともあれ、魔法は使えるようになった。あとは習得呪文の数を増やし、できることを増やしていけばいい―――――

 

 

 

 早く健康になって、家族への負担を減らしたい。彼らの役に立ちたい。切実にそう思う。

 

 ただの子供なら、ただの4歳児ならば。

 病弱の身でもあることだし、親に親族に頼りきりのおんぶ抱っこも許されるだろう。むしろ子供があまりそういった事態を気にするのは、良いことでない気もする。

 が、僕は転生者だ。ただの子供ではなく、そうなる前に四半世紀ばかり人間をやっていた身である。子供が経験すべき、惜しみなくたくさんのものを、無条件に与えられる時期はとうに過ぎているのだ。にも拘らずただの子供として振舞うことは、許される話ではない。

 

 僕は可能な限りすばやく、一人立ちできる状態を作らねばならないのだ。無論、その上で彼らと共に生活するのか、それともほんとに一人暮らしをするのかは別問題だが。

 

 

 

 再びけほこほと咳き込みつつ、僕はそう考えをまとめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 余談だが、床に落ちた返り血の片づけを忘れていることに寝る前になってから気が付き、あわてて掃除に走ることになる。

 幸い家族に気がつかれることは無かったが。夜中に動いたことと寝不足で、当然のように翌日寝込む羽目となった。

 

 いや、ほんと。この体、どうにかならないものなのか。

(続く)




 神咲亜弓はオリキャラ……ではありません。とらハ2本編で登場したことは(たぶん)無いはずですが、小説版とらハ3那美・久遠篇で登場します。……まあ、台詞どころか一切の活躍が存在せず、久遠の電撃で消しズミにされてしまうのですが。
 「癒し」の霊術については小説版とらハ3那美・久遠篇準拠です。……病気が治せるかどうかは怪しいのですが、その辺は捏造設定ということで。
 亜弓さんが使えるかどうか、和音や雪乃が使えるのか使えないのかも不明です。”あまり使い手がいない特殊な術”なのだそうですが。このお話では、亜弓さん(とまだ生まれていない那美)のみが使えるということにしています。


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第四話『宝物』

序、

 旧暦と新暦の差。はたまた絶賛進行中らしい、地球温暖化の結果であろうか。

 ちっとも秋らしくない、ある立秋の頃の出来事である。

 

 昼食のあと、いまだ聞きなれないクロイワクツクツの鳴き声をBGMに。畳の上、複雑に折りたたまれた紙片を前で。僕はむむむと唸る羽目となっていた。

 

 「ねえ、無理はしなくてもいいのよ」

 

 横から金髪碧眼の幽霊さんが、こちらを気遣うように声をかけてくる。いわずもがな、神咲家の霊刀、十六夜の精である十六夜さんである。原作とは雰囲気が違うが、あっちは“特別な継承者克成長を見守ってきた年頃の娘さん”相手。現在は“継承者の病弱な孫娘”を相手にしているんだから違うのだろうと思われる。

 

 彼女が発したのはこちらを慮るかのような言葉ではあるが、その表情には困ったような笑いと、それを凌駕する憂慮の情念が示されている。いや、その気持ちはわからなくもない。僕自身前世で彼女のような立場に置かれれば、苦笑するし、その苦笑の対象を心配する。苦笑は嘲笑や悪意と同義では決してないはずだ。

 

 もっとも、その苦笑と憂慮の対象となっている僕としては、隣の盲目の刀精の助言通り諦めてしまう気にもなれない。前世では当たり前にできたことだし、幾つかの超スペックと引き換えに色々な機能が劣っているこの体でも、理屈の上では不可能ではない行動なのだから。

 ……隣で同じことをしている姉さんは特に問題なくできている、という事実も、僕を後に引けなくさせていた。姉さんと一緒に野山を駆け巡れ、と言われれば2秒で諦めるけど。屋内で行うこんなことでまでひどい後れをとるわけにはいかない。出来なくたって誰も何も言いやしないだろうけど。一応まがりにも何も、僕にだって意地というものがある。

 

 正方形の紙片を、直角二等辺三角形になる様に半分に折りたたむ。……この時点で三角形の角がひどい有様となっているのだけれど。まあ、許容範囲としよう。

 更にもう一度同じように折りたたみ、そうしてできた2つの三角形のうち、“手前”のそれを膨らませ、折りたたみ。正方形と直角二等辺三角形が連なる様を形作る。うまく正方形を作ることができず、随分ずれてしまったけれど。これも黙認しよう。僕は生物学的には4歳児だ。この頃の子供というのはさして器用というわけでもなく、また自らの体を十全に扱えるというわけでもない。仕方がないのだ。そう、仕方がない。

 横で1つ年上なだけの姉さんが問題なくこなしているという現実からは目をそむけておく。

 

 紙片をひっくり返し、残った三角形を折りたたんで、最初の紙片の4分の1の大きさの正方形を作る。すでにどう見ても1つの正方形ではなく、崩れに崩れた四角形が2つ重なっているだけという気がしなくもないけれど。ああ、ううむ。きっとこれもやむを得ないのだ。完成した状態はきっと悲惨なものとなるだろうけれど、子供の作ったものなどその程度のものなのだ。たぶん。

 

 もっとも、自己欺瞞でどうにかやれたのもそこまでだった。

 正方形の一角を持って上にあげ、開いてひし形を作る段になって、紙片からびりりと嫌な音がする。確認するまでもなく、既にわけのわからないくしゃくしゃでぼろぼろの状態となっていた紙切れは、まごうことなきゴミ屑へとクラスチェンジを果たしていた。己が非力だからと意識するあまり、力を入れすぎたのだ。いかに片手では牛乳パック1つ持ち上げられない僕といえども、一辺が10cmちょっとの紙片を破れる程度には腕力がある。力加減を誤れば、このような事態も当然生じ得るのだ。

 さすがに、この状態から元に戻すのは不可能だろう。いや、生前の僕ならセロハンテープと手先の器用さでなんとかできたとは思うけれど、この体では絶対に不可能だ。こんなもの、日本人なら誰だってできるのに。少佐なら片手で30秒だったはず。ちょっと、悲しくなる。

 

 姉さんが自分の作業の手を止めて、心配そうにこちらを見ている。十六夜さんが少し困った風に笑って、己の手元の紙切れを畳に置いた。盲目の存在が折ったとはとても信じられない見事な立体造形が、とんと片翼を畳に落とした。

 

 「続けるなら、もう少しゆっくりやってみたらどうかしら?」

 

 そう提言してくる十六夜さんに、僕は首肯した。否応もない。次はそうしよう。そう考えて、何枚目になるのかわからない新しい紙片を取り出し、折りたたみ始める。まずは折り目を付けるところから始めるべきか。

 姉さんはといえば、十六夜さんの作った立体をためすがめす確認しつつ、新しい紙片を用意していた。僕と違ってちゃんと作れていたからか、今度は別のものを折り始めているけれど。

 姉さんの傍らに目を向ければ、翼の先端や嘴がやや丸くなってはいるものの、裏地の白がほぼ見えていない、子供が作ったものとしては相当に奇麗なものが鎮座ましましていた。ちゃんとバランスをとって、両翼いずれも地についていないあたり、几帳面な姉さんらしいといえようか。

 

 それはまあ、それとして。

 手元の紙を見つめる。

 

 何をすればいいのかは完全に分かっている。

 さして難しいものではないし、前世では祖母の病気快癒を祈って一人で4桁近く折ったこともある。出来ないはずはない。ないのだ。

 どう折り目をつけ、どう折って、どう畳んで。あるいはどこをどう開けば目的の形になるのかなども、分かり切っている。だというのに。

 体が、腕が、指先が、思うように動いてくれない。必要なだけの力を出せなかったり、あるいは出しすぎて紙を破ってしまったり。適切な場所で指を止めることができず、はたまたそのはるか手前で紙に折り目をつけてしまったり。

 この体がそういうものだとは分かっているけれど。ひどくもどかしい。理由が分かっていたって、嘆きたくもなる。

 

 ああ、本当に、畜生。なんだって僕は。

 

 

 

 

 

 

 

 折り鶴一枚、折れないんだ。と―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第四話『宝物』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 ことの発端は、十六夜さんが折り紙を教えてくれると言い出したことだった。

 昼食後唐突に言われたので。一体何事かと思いもしたのだけれど。

 どうも勉強に剣術に、家事のやりかたに、退魔師として必要な基礎知識の習得にと。幼児のそれとしては学ぶことが多く忙しい姉さんの日常について、思うところがあったらしい。せめて息抜きにでもなればと、提案してくれたようだ。

 そこでの提案が折り紙なのは、外で遊ぶとなると僕が参加できないからだろう。あるいは、病床に伏していることが多い僕が、手慰みに折れるようにとの気遣いもあったのかもしれない。いずれにせよ、僕が足かせになっている気がしないでもないけれど。

 

 ともあれ。あらかじめ買ってきていたらしい真新しい折り紙を広げて、さあ色々折ってみましょうということになったのだが。この試みは最初の段階で躓くことと相成った。

 

 

 

 僕が、折り紙を折れなかったのだ。

 

 

 

 前述のとおり奇麗に折り紙を四つ折りにすることができないし、“袋を開いて折る”ような複雑な動作に至っては、出来以前にその折り方を完遂させることさえできない。僕という幼女が、途轍もなく不器用であるがために、この試みはうまくいかないのだ。

 

 勿論のこと。僕が折り紙さえまともに折れないのは、僕がGURPSのキャラクターとしてデザインされていることに起因する。原因は、僕が“恐ろしく低い敏捷度をもった”GURPSのキャラクターとしてデザインされているからなのだ。

 

 

 

 GURPSのキャラクターが折り紙を折る場合、問題となるのは<趣味技能/折り紙>とその対応能力である敏捷力である。

 折り紙で敏捷力……素早さ……が問題になるの? と思うかもしれないが。GURPSの敏捷力は手先の器用さなども司っているので、このような扱いとなるのだ。

 特に修正がない限り。GURPSのキャラクターは敏捷力が高く素早ければ手先も器用だし、敏捷力が低く鈍重であれば不器用なのである。

 

 そんな中で、僕の敏捷力は生命力同様、7である。これは機能を残した最低限の値であり、誰が見ても一目で分かるほど僕は動きが鈍く、不器用なのだ。……生命力について話すときも、同じようなことをいった気がするが。僕の生命力と敏捷力が同じ数値であるので、仕方のない話だろう。

 

 更にいうなればこの7という値でさえ僕が15歳になった以降のものであり、現時点においては子供であることによってさらに下方修正がかかる。

 

 結果として、いまの僕の敏捷力は2となる。

 GURPSの判定は6面ダイス3つを振って、その出目の合計が目標値を下回れば成功となる。6面ダイス3つを振って出る最も小さな値は3であるため、目標値2の判定はクリティカルしない限り(出目の合計が3か4出ない限り)何があっても絶対に成功しない。

 サイコロ3つの出目の合計が3か4になるのパターンは4つのみ。6面体ダイスを3つ振った場合の出目の組み合わせは6の3乗であるところの216だから。僕が敏捷力判定に成功する確率は216分の4、おおむね1.85%ということになる。

 敏捷力2とは、端的に言って悲惨の一言であり。その数値で持って表現される僕の器用さもまた絶望的なものなのだ。

 

 さらに問題がある。

 僕は<趣味技能/折り紙>という技能を持っていないのだ。折り紙に費やした時間からして、生前の僕はこの技能を多少は持っていたと思うのだけれど。転生したこの体は、そんな技能を習得していない。その割に折り鶴の折り方自体はちゃんと教えてもらうまでもなく覚えていたので、割とその辺りは適当なのかもしれないけれど。

 ともあれ。僕は<趣味技能/折り紙>を持っておらず、折り鶴を折るために適切な技能を行使することができない。

 

 ただし技能を習得していない場合でも、技能なし値というもので判定を行うことはできる。<趣味技能/折り紙>の技能なし値は敏捷力-4であるため、僕は判定値“-2”で折り鶴を折ることができる。

 実は判定値がマイナスでもルール上、クリティカルすれば成功してしまう(判定値が出目の合計未満である場合成功してはいけない、というルール上の文言がない)のだけれど。それにしたところで僕が折り紙を折る判定に成功する確率は、上記のとおり1.85%にすぎない。

 ゆえに僕は“折り紙を折る”という行動を行ってもも、さっぱりうまくいかないわけである。

 

 

 

 もっとも。では絶対に僕が折り鶴を折ることができないのかといえば、(著しく困難ではあるものの)そんなことはない。無論それは、成功率1.85%だから55回折れば理論上1回は成功する、などという頭の悪い方法ではない。

 確かに、普通にやっていては僕はいつまでたっても折り鶴を折ることができないだろう。敏捷力2、<趣味技能/折り紙>技能無しというキャラクターは、そのようなレベルの存在なのだから。

 

 しかしもし、それでも折り鶴を折りたければ。

 GURPSのルールの中で工夫し、色々と自分を有利な立場に置き、ルールを駆使することで。“困難ではあるものの、運が味方すればあるいは可能かもしれない“、といった程度の状態にまでは持っていくことが可能なのだ。

 

 

 

 

 

 自分でもなぜ折り紙一枚にそこまで力を入れねばならぬのか、と思わなくもないのだけれど。ある意味ではこれは必須の行動だと思う。

 なぜならば。折り紙を折る以外の行動についてでも、僕が敏捷力現在値2であるという、絶望的な現実はついて回るからだ。他の器用さを求められる行動で問題が起こる前に、工夫すれば折り鶴を折る程度の行動ならなんとかこなせるのだと、自分と家族に示す必要がある。

 

 

 

 僕は病弱だ。そして僕は不器用だ。

 ただそれだけならば。僕がただそれだけの、単なる子供であれば。そんなことは気にする必要のない話だと思う。当人がそれについてコンプレックスを持つかどうかは、当人の勝手だけれど。少なくとも自分自身をも含めた誰かによって糾弾されて良いような話ではない。

 

 だが僕は転生者で、自分がGURPSのキャラクターとしてデザインされていることを知っており、それらについて自分を有利に扱うことのできる立場にある。

 僕はただの子供として振るまって良い立場にないのだ。

 もちろん、姉さんも、両親も、和音婆様や亜弓さんも、そんなことは知らないのだけれど。少なくとも、この事実を僕自身は知っているのだ。都合によって他人に嘘をつくのはともかく、自分にまで嘘をついていては話にもならないだろう。

 

 

 

 僕は少なくとも自分自身は、自分がただの子供として振る舞ってはならない立場にあると知っている。

 

 

 

 ならば、僕には状況を改善させる義務がある。家族の負担を軽減させ、心配させる頻度をより低下させる責務がある。

 

 僕は転生者であることにより、“状況改善すべきだ”と考えられるだけの判断力があり。GURPS云々の知識によりどうすれば状況を改善できるのかその方策について腹案が、手段がある。

 単なる子供ではなく、問題について判断するだけの知性があり、更には改善のための手段まで持ち合わせている。その状態で何もしないのでは、怠惰以外の何物でもない。

 倒れたときに献身的に看病してくれる人が、心底気にしてくれる人が、異能を持って治療してくれる人が、僕の周りにはいるのだ。ただの子供ではない僕が怠惰に過ごすことなど、決して許される話ではない。

 

 だから僕は全霊をもって、状況を改善しなければならない。

 折り紙は、折り鶴を折る行動は、ただの遊びかもしれない。十六夜さんだって、そんなに深く考えてこのような提言をしてきたわけでもあるまい。

 それでも、その行動を内包する僕の環境を鑑みるならば。僕はこの数十センチ四方の紙切れを、全霊をもって完成した立体にする責務がある。聊か思いつめすぎという気もしなくも無いけれど。まあ、そういうことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二、

 僕が集中して折り紙と格闘しているためだろうか。手持無沙汰であると思しき十六夜さんは、千羽鶴について姉さんに説明していた。

 

 千羽鶴、千羽鶴か。

 前世で、僕も折ったことがある。祖母(和音婆様のことではなく、前世における僕の祖母のことだ)の快癒を祈ってのことだったか。結局、折り終わる前に祖母は退院してしまったので、力一杯無駄になったのだが。やはりあれは、一人で折るものではないと思う。まあ、実行するかどうかはさておき、知っておいた方が良い知識だとは思うけど。

 しかし十六夜さん。5歳児に病気快癒とか長寿とか言っても通じないと思います。十六夜さんの話に、真剣にうなずいている薫姉さんを見るのはなんだか癒されますけど。たぶん姉さんは、あなたの言ってることを理解できていません。

 

 

 

 ともあれ、自分の問題を解決しよう。

 

 敏捷力2、かつ<趣味技能/折り紙>を持たない僕というキャラクターは、どのようにすれば折り鶴を大過なく折ることができるだろうか?

 

 まず吟味するべきは、“行動の難易度”である。

 GURPSのキャラクターは、何も英雄たちだけではない。ごく普通の一般人も、キャラクターとして表現できるようになっている。というか、0CPの、なにも追加しないまっさらなキャラクターというのは。まともな技能も持っていないのになぜか安定した収入を得られるという実に不審な点を除けば。ごく普通の、平均的な、当り前の一般人を表現しているのだ。

 

 一般人のキャラクターは大体25CP~50CPであるとされている。一応まがりにもなにも“叙事詩の英雄並”であるとされる僕が309CP(おぎゃあと生まれたときより増えているのは、僕が転生してからの4年間で学んだものがあるからだ)であることから分かる通り、英雄と一般人との間にはかなりの隔絶がある。

 “叙事詩の英雄並”である僕でさえ、能力値18などといったものは1つしかもっていないのだ。一般人がそのような能力値を持つことはほぼ不可能であり、彼らの能力値はおおむね大体9~12ということになっている。

 

 この時点で大体想像がつくと思うけれど。GURPSの“一般人”が今まで説明したルールで折り鶴を折ろうとすると、ほぼ失敗することになる。平均的な敏捷力の持主、すなわち敏捷度10のキャラクターが折り鶴を折ろうとした場合、<趣味技能/折り紙>がなければ、(つまりその人生において折り紙を400時間以上折っていなければ)その判定値は6ということになる。その場合、成功率は約9.3%ということだ。

 しかし、通常人類とは。折り鶴を折ろうとして10回に1回しか成功しないほど不器用な存在であっただろうか? いくらなんでも、そんなことはないだろう。

 

 このおかしな状態は、GURPSにある前述した“行為の難易度”というものを無視しているために起きている。GURPSのルールは簡単なものには判定値にプラスの修正を、難しいものにはマイナスの修正をかけているのだ。

 

 折り鶴を折るという行為はそう難しいものではない。その行為はありきたりなもので、普通失敗しないだろう。

 日本人でないなら、うまくやれないかもしれないのではなかろうか? と思う方もいるかもしれないが。そうであるならそれは“日本文化に慣れていない”ことでマイナスの修正をかければいいので、ここでは論じない。

 ともあれ、普通失敗しない行動の難易度は“自動的”とされ、僕のように凄まじくその能力について劣っているのでもない限りは、ダイスを振る必要さえない。もしダイスを振るにせよ判定値に+10の修正がかけられる。

 +10の修正がかけられる場合、<趣味技能/折り紙>を持たず、敏捷力は10であるところの一般人は、折り鶴を判定値16で折ることができることになる。この場合の成功率は約98.2%であり、出来がいいか悪いかはともかく、普通の人はまず失敗せずに折り鶴を折れるということになる。

 

 難易度が“自動的”であるならば、僕であっても折り鶴を折るという行動を成功させる可能性は絶無ではなくなる。+10の修正により判定値は-2から8にまで跳ね上がり、その成功率は約26%ということになる。通常人類が98.2%で成功させることのできる行動を、僕は約26%、その4分の1程度の確率で成功させることができるということだ! 実にすばらしい。

 

 ……まあ、ともかく。

 確率のみを見るなれば。僕は4回試行すれば、出来はともかく折り鶴っぽいものを折ることには成功するということだ。

 今まで“何枚折っても成功しなかった”のは、単に僕の運が悪かったということなのだろう。まあ、まだ10枚もは折っていないはずだし、そこまで不自然な出来事でもない。

 

 

 

 その点についてぼやくつもりはない。確率とは、所詮そんなものだからだ。

 

 確率というものは往々にしてあてにならない。

 勝率98%超であるからとガンシップで弓兵に挑んだら、さくっと撃墜されたとか。4回マップを構築し直して、1回も自領に銅が湧かないとか。その手の異常事態はシド星では稀によくあることである。

 別の惑星であったとしても、無傷の盗賊がデュラハンの一撃で即死することだってある。逃走しようとしたラスボスがサクッと槍で刺殺され、ネズミの姿のまま高々と掲げられることだってある。

 

 確率の神様、ダイスの女神さまの御心など、凡百の輩の推し量れるところではない。

 神ならぬ人の身にできることはただ一つ。乱数のあらぶりようから少しでも身を守るため、失敗の可能性を削り、成功の可能性を僅かなりとでも上昇させることのみである。

 

 

 

 ええと、ともかく。

 

 現状における考察が正しいのならば、僕は成功率約26%の行動に連続して失敗したということになる(仮に7回連続で失敗したのなら、そのような事態が起こる確率は約12.2%である)。いろいろと思うところがないわけではないが、繰り言を連ねても状況は改善すまい。

 成功率からして、もう1回やってみればうまくいく可能性も期待できなくはない。しかし、ここは大事をとってもう少し成功率を上げるべく工夫を凝らすべきであろう。

 

 

 

 では、致命的に不器用な小娘が折り鶴をとりあえず形にするためには、これ以上どのような工夫が必要だろうか。

 

 

 

 

 

三、

 GURPSにおいて、超常能力や生得の能力を用いずに判定値を上昇させる方法は3つある。

 

 1つ、無理をすること。

 1つ、CPを消費すること。

 1つ、時間をかけること。

 の3つである。

 

 無理をすること、とは。文字どおり肉体に負荷をかけて無理をし、自分の限界以上の結果を引き出す行動のことである。

 例えば攻撃を回避するとか、重い物を持ち上げるとかいった行動をする場合に、疲労点を消費することでより良い状況を作り出せるのだ。前述の例であれば、回避率は多少(たぶん10%程度)上昇させられるし、持ち上げられる物体の限界重量も、1~2割ほど増やすことができる。

 

 ただし、この方法は“肉体を使った行動”にのみ適用されるルールである。折り紙を折ることも肉体を使った行動ではないかと言われれば、その通りだとは思うけれど。この場合の“肉体を使った行動”とはルールで明白に定められた一連の行動のことを指し、その一連の行動に技能判定自体が含まれていない。ために折り紙を折るためにこの“無理をすること”は利用できない。

 

 

 

 次に、CPを消費するという手段がある。

 これはキャラクターの能力を構成する“通貨”であるCPを消費して、成功を購入する手段である。充分なCPがあるなら致命的な失敗である“ファンブル”を、劇的な成功である“クリティカル”に無理やり変えてしまうことさえ可能である。

 イメージとしては、“剣で敵に斬りかかったら、空振りした揚句剣が手からすっぽ抜けてどこかへ飛んで行ってしまった“という事態を、”剣で敵に斬りかかったらうまいこと相手の防御をすり抜け、相手の首を斬り飛ばした“という状態に無理やり書きかえるようなものである。

 言うまでもなく、きわめて強力な手段である。……要求されるCPの大きさを考えれば、当然の効果と言えなくもないのだけど。

 

 ルール上では、この手段を今回の行動に適用することは可能である。

 が、現状において適用することは不可能である。

 なんとなれば、この場合の消費するCPとは、自分を構築している使用済みのCPではなく、未使用のCPを消費する必要であるからだ。そして僕は学習によって得られたCPをすべて自分自身の強化につぎ込んでおり、未使用CPは1点も持っていない。

 この状態は給料すべてを毎月奇麗に使い切りながら生きているようなもので、大いに問題のある状況なのだけど。僕自身のポンコツっぷりがあまりにひどく、それを一刻も早く改善しなければならないのでこのような状態となっている。

 

 

 

 と、いうわけで。“無理をすること”も“CPを消費すること”も僕がいま、折り鶴を折るためには利用できない。

 しかし、最後の一つである“時間をかける”という選択肢については可能と言ってもいいと思う。

 

 時間をかけるというオプションは、ゆっくり慎重に行動することでその行動のペナルティを下げたり、成功率を上げたりするものである。

 このオプションは“時間をかけたほうがうまくいく可能性が高い”もののみに適用される。例えば金庫を開けるとか、怪しげな古文書を解読するとかいった行動がそれに当たるだろう。

 折り紙とは、素早く折るよりゆっくり折った方が失敗しないであろう行動だ。ために、僕はこの時間をかけるというオプションを、折り紙を折るために利用することができる。

 このオプションで得られる最大のボーナスは、所要時間を30倍にまで伸ばした場合の+5である。+5のボーナスが加えられるのであれば。前述の難易度による+10のボーナスと合計し、僕は+15のボーナスを受けて折り鶴を折ることができる。

 

 僕の敏捷力が2、技能なし値で<趣味技能/折り紙>を判定するので-4のペナルティ。そこに難易度のボーナスである+10と、時間を通常の30倍かけることによるボーナスの+5を加えて判定を行うことになる。2+(-4)+10+5=13である。

 結果としていろいろ工夫した場合、僕の“折り鶴を折る”という行動の判定値は13となる。その場合の成功率は……えーと、83.8%だ。100回試行したとしても、失敗するのはたったの17回程度である。これならたぶん成功するだろう。普通に折り鶴を折る場合の3倍以上の成功率だ。

 

 ただし、折り鶴1枚を折るのに通常人類が5分かかるとするならば。僕はこの方法で折り鶴を折るのに150分、すなわち2時間30分かかることになる。昼食後に開始されたこの“遊び”であるが、すでに時刻は15時近い。

 呪文の勉強や、家事手伝い(精々洗濯物を畳んだり、食事の用意の間台所をちょろちょろする程度だが)だってある。今日中に折り鶴が完成するのかどうかはちょっと怪しいが……まあ、頑張ってみよう。だめだったら、明日続ければ良いのだし。

 

 ふと横を見れば、姉さんは相変わらず折り鶴を折っていた。さっきまでは別のものを折っていたような、と見てみれば、折りかけの三方が脇に置かれていた。何か心境の変化があったのだろうか。

 つらつらと成功率を計算している合間に聞いた限りでは。十六夜さんは他のものの折り方も姉さんに教授していたと思うのだけれど。

 その証拠にほら。ちょっと寂しそうに、十六夜さんが菖蒲を折っている。

 

 まあ、幼児というのは大分フリーダムなものである。姉さんは年齢から考えれば随分聞き分けの良い娘さんだし、素直に大人の言うことを聞くタイプ(と、いうか。都築真紀氏の描く子供はその傾向が強い気がする)でもあるようだけれど。やはり子供は子供である。そういうこともあるのだろう。

 

 ともあれ、自分の折り鶴を完成させなければならない。ゆっくり、慎重に、可能な限りの集中力を費やして。僕は眼下の紙片に注力していくのであった。

 

 

 

 

 

四、

 「うん? なんじゃ。まだやっとったのか」

 

 日も随分と傾き、空が見事な紫に染まってきたあたりで。今帰宅したらしい和音婆様がすと襖を開け、僕たちを覗きこんできた。

 

 正座して作業にいそしむ僕の前には、少々複雑な形を内包した菱形の紙片がある。出来はまあ、悪くはない。群青色のそれはあちこちから白色の内面をさらけ出したりはしておらず、四方の角も及第点を与えられる程度には鋭……くはないが、許容範囲ではある。今まで折ってきた物に比べれば充分な出来であろう。時間をかけただけのことはあるということだ。

 

 ……夕闇の濃くなってきたこの時間においてもまだ完成していないことから想像できるとおり、僕は時間をかけてもなお、1回で折り鶴を折ることができなかったのだけど。

 おやつの時間あたりから気合を入れて折り始めた紙片はくしゃくしゃのゴミ屑となって、さみしくゴミ箱の底を彩ることとなっている。今折っているのは時間をかけて折ろうとしたときから数えて、2代目だ。

 まあ。16.2%はそうなる可能性があったのだし、運命やダイスの女神さまに文句を言う気はないのだけれど。

 

 姉さんはといえば、まだ鶴を折っている。傍らには、山積みにした折り鶴の山。20羽ではきかないだろう。飽きもせずによくもまあ。おさな子の集中力って、凄いと思う。それにしても、そんなに折り鶴の造形が気に入ったのだろうか?

 

 金髪碧眼の幽霊さんはといえば、折り紙って、鶴以外も色々折れるのよ? と、寂しそうにつぶやきながら。細々と薔薇を折っていた。

 僕も姉さんも、折り鶴以外折らない現状に色々思うことがあるのだろう。背後に縦線を背負った十六夜さんに悪いなとは思うけれど。残念ならが彼女と一緒に様々なものを折っていくには、僕は不器用に過ぎる。

 それと十六夜さん。それを折れるのは凄いけど、どう考えても川崎ローズは幼児に教えるものではないと思います。というか、無茶ですって。

 

 

 

 結局、家の手伝いも、呪文の勉強もやらずに折り鶴を折り続けることとなってしまった。

 いや、明日やればいいやなどと思っていると、永遠に完成させられない気がして、やめられなかったのだ。今生における僕の意志力は、生前のそれをはるかに上回っているはず(訓練なしに拷問に耐えられるレベルである……無論、死ななければ)だけど。それを実感できる機会が少ないからか、どうも自分の精神性について信用することができない。

 もっとも。さすがに何もかもをほっぽり出す気にはなれなくて。半時間ほど前に、そろそろ乾いたであろう洗濯物を片づけに庭に出はしたのだ。が、先に来ていた亜弓さんに、やっていることがあるならそれを済ませなさいと追い返されてしまったのだ。重要度の格付けが何か間違っている気はしなくもないが、どうしてだろう。反駁しづらい物言いであった。

 

 

 

 和音婆様はといえば、十六夜さんを呼びに来ただけだったらしい。夕食時には中断するんじゃぞと言い置き、そのまま退室していった。ふよふよと引きずられていく十六夜さんがシュールである。

 

 集中しているのだろう。ああ、まだ完成していないのにと嘆く生前スペイン人だったらしい幽霊さんを、姉さんは一顧だにしていない。姉さん姉さんとつついたら気づいたらしく、いってらっしゃいと手を振って見せてはくれたけど。

 まあ、まだ小学生にもなっていない幼児のすることだ。薄情とは言えまい。どちらかといえば、そこまで真剣に1つのことに注力できる集中力を褒めるべきだろう。

 

 とはいえ流石にそれだけでは十六夜さんに悪いので。襖の向こうに半身を出し、また教えてくださいねと伝えておく。浮いたままするする引きずられれて行く刀精さんは、花が咲いたような笑顔で勿論よと返してくれた。気立てのよい人物(幽霊?)である。

 

 

 

 再び、目前の紙片を折りたたむことに没入して行く。菱形のそれをさらに鋭利なひし形にするべく折りたたむ。その上で、より鋭利な方をひらき、折り曲げ、首と尾を形作る。ここまで形作るために、何度も折り直したため、大分よれよれになっているのだけど。出来はともかく、ここまで来れば完成も目前である。

 首を折り曲げ嘴を形作り(随分歪で、裏地の白色がはみ出したものになったが)、尾の角度を調整し(うまく角度を決められず、何度も折りたたんだ挙句の悲惨なものであったが)、翼をたたんだ状態の鶴が形作られた。後は翼を開いて胴体を膨らませれば、それで完成である。

 

 普通なら考えられない場所まで妙な折り目が付き、皺くちゃのその両翼先端をつまみ、ゆっくりと翼を広げていく。

 えらく時間がかかってしまったが、これで完成である。安堵のため息をつき、紙製の翼を開くのに適量と思われるだけの力を入れる。

 

 

 

 

 

 びりりと、嫌な音がした。

 

 

 

 

 

 折り目を付けるのに何度も失敗し、紙自体の耐久度が落ちていたためか。それとも、僕が折り紙を広げるのに必要な力加減を間違ったためなのか。

 あとワンアクションで完成するはずであった折り鶴は、無残にも片翼を引きちぎられ、ぽとんと畳の上に落下した。空しく指先でゆれる青色の翼を視界の端に認識しつつ、胸中より湧き出でる途方もない虚無感をどうにか呑みこむ。

 

 いや。何度も言うように、わかってはいるのだ。僕はGURPSのキャラクターとしてデザインされており、現在における敏捷力は2だ。鈍重であるとされる牛だって敏捷力は8あるのである。生まれたばかりで、まだまともに体を動かせない子牛だって、敏捷力は3である。ふらふらと立ち上がる子牛と僕、どちらが素早いかといえば前者なのだ。そうであるのだから、別に僕が折り鶴を折れなくたって仕方がない。仕方がないのだ。

 確率的にも、判定値13に2回連続で失敗する可能性は2%強はあるのだ。このような事態も、絶無というわけではない。大体、確率というものが所詮机上のものでしかないのだという現実については、生前嫌というほど体験している。……ダイス運悪かったからなぁ。

 まあ、ともかく。ダイスの女神さまに文句を言っても仕方がない。僕は僕なりに、最善を尽くすしかないのである。

 

 そうは思っても、胸の中のもやもやしたものは収まらない。畜生、Fuck、Wahnsinn 、Putain、Блин, надоело!

 

 適当に覚えている限りの罵倒を内心吐き捨てつつ、新しい紙片を取り出していく。ここまで来たら意地でも完成させてやる。

 無理やり自分を奮い立たせ、もう何度目かわからない試行へと立ち向かう。

 

 

 

 ふと視線を感じて顔を上げれば、姉さんと目が合った。手元を見れば、彼女も未だ折り鶴を折っているらしい。いい加減、飽きないのだろうか? それとも、何か理由があるのだろうか?

 

 よもや僕がいつまでたっても作れないから、それに付き合っているのだろうか。そう思って聞いてみれば、違うと首を横に振られる。では何故かと問えば、いいから続けなさいとやけにお姉さんぶった答えが返ってくる。わけがわからないよ。

 

 首をひねりつつも、自分の作業に戻ることにする。時間的に考えて、今日中に完成させることは不可能だけど。出来るところまではやっておくべきだろう。

 もはや、意地でしかない気がしなくもないのだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五、

 結局。今生において僕が初めて完成させた折り鶴なるものができたのは、翌々日、2日後のことだった。……いや、根をつめ集中しすぎたせいか、翌日は発熱して折り紙どころではなかったのだ。

 

 1羽折るために2時間半かけると決意してから、実に3羽目にしてようやく完成した折り鶴を前に、ふうと安どのため息が漏れる。折り鶴を折り始めてから約11時間、文字どおりの意味での“半日”をかけ、ようやく1羽の完成品ができたというわけだ。

 

 僕が折り紙の続きをやるというと喜んで隣に来てくれた十六夜さんは、我がことのように喜んでくれた。お世辞にも出来の良いとは言えないそれの翼に、嘴に、尾に指を這わせ、丁寧に折ったのがすごくわかるわと光のささぬ目を弓なりに細め、何度もうなずいている。どうにもくすぐったい事態である。……まあ、僕の内面の冷めた部分は。それくらいしか褒めるところがなかったというだけだろうと、平坦な声で伝えてくるのだけれど。人類最高2歩手前の意志力や知性というものも、場合によっては考えものである。

 それでも、彼女の言葉をうけたときのこそばゆさ、心地よさを否定することはできないが。

 

 でも十六夜さん。折り鶴が折れたなら次はといって、“みみずく”の折り方を教えられても困ります。川崎ローズよりは簡単ですけど、どっちにしたって僕には無理です。

 というか、それって80年代の今には存在しないんじゃ。とらハ2の時代設定があいまいだからって、未来予知すぎる。

 

 

 

 

 

 さて、姉さんはといえば。

 僕がひっくり返っていた丸1日も含め、暇な時はずっと折り鶴を折り続けていたらしい。台所から取ってきたのであろう。くしゃくしゃのビニール袋に保管された完成品は、3桁に近い。

 一体何が姉さんをそこまで折り鶴折りに駆り立てているのだろうかと、首をかしげていたのだけれど。

 その疑問は、僕が折り鶴を完成させた時点で氷解することとなった。

 

 僕の作った出来の悪い折り鶴に指を這わせる十六夜さんの隣で、ぴたりと姉さんが作業を中断させたのだ。

 何やら満足そうにうなずいて立ち上がった姉さんに、もう折らないんですかと問いかける。うん、もういいの。ちょっと針と糸を取ってくる。そう返される。

 何の事かと首を傾げていたら、姉さんがぽつりと呟いた。

 

 

 

 「千羽折らなくても、願いがかなったから。もういいの」

 

 

 

 同様に理由を想像できなかったらしい十六夜さんと目……もとい顔を合わせ。半秒と経たぬうちに僕は合点がいき、息をのんだ。十六夜さんも姉さんの行動の理由を理解したのだろう。あらあらと、驚き半分、微笑ましさ半分といった風情の表情で笑っている。

 

 ここまでくれば、姉さんが延々と鶴を折っていた理由については分かるだろう。

 つまるところ姉さんは、千羽鶴を折っていたのだ。

 

 

 

 “妹が折り鶴を折れますように”

 

 

 

 との願いを込めて。

 

 まあ、千羽鶴は病気快癒などを願って折るものであり、願い事なら何でもいいものというわけではない。姉さんは一昨日十六夜さんからその旨説明を受けていたのだし、分かっていないのも少々悲しいものがある。それにまだ100羽ちょっと折っただけであり、1000羽には程遠い。

 子供は往々にして瞠目すべき集中力を発揮する。が、ある時ふとしたことでそれが途切れてしまうといった事態も珍しくはない。仮に僕がずっと折り鶴を折れなかったとして、彼女が1000羽折るまで飽きずにいられたかは怪しいだろう。

 大体、折った鶴にしたところで、段々飽きてきてはいたようで。ちょっとずつ、出来が雑になっている。

 そもそも。超常能力が込められているわけでもない作成中の千羽鶴があったからといって、それが僕の行為判定に影響を与えるとは考えにくい。

 冷めた目で見るならば。姉さんの行動には無数の問題があり、的外れで、実効性に乏しいものだろうとは思う。千羽鶴というものの呪術的意味合いを無視した、見当はずれの行動をとっていたのだと思う。

 

 

 

 ただ、それでも。

 それにしたところで。

 

 5歳ちょっとの幼児が、1つ年下の妹の行動が上手くいくようにと。それも単に頑張れと言うとか、手伝うとかではなく。持続性の求められる“お祈り”をやってみせるというのは。

 ひどく微笑ましくて、“お祈り”される当人としてはどうにも気恥しい、おもはゆい気分のする話だと思う。

 “ありがとう”という、たった5つの音声を姉さんに対して発することが。理性以外のなにかが邪魔していて、ひどく難しかった。ぱたぱたと駆けていく姉さんの方を、まともに見ることができない。

 僕と姉さんを見てくすくすと、一定量の温度をもった笑いを見せている十六夜さんに、なにか皮肉の1つでも言ってやりたいのだけれど。そんな余裕がどこにもない。人類最高2歩手前の意志力や知性、悟性はどこにいったのやら。顔をあげることにさえ障害を感じるほどの感情の波が、僕を襲う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六、

 さて。

 

 

 

 姉さんの作った千羽鶴モドキは、さして出来のいいものとはならなかった。

 

 姉さんは人並み以上に器用ではあるのだけれど。それでも幼児が、泥縄的に、一人で折った折り鶴を連ねるのだ。一羽一羽の出来は段々と劣化しているし、糸はきちんと胴体中央を貫いていない。あちらで右に傾き、こちらで左に傾きと、雑然とした有様で鶴が折り重なる事態となっている。

 そもそも、翼を開いた鶴を連ねているので、妙にこんもりとした状態になっている。千羽鶴は本来、翼は開かないまま連ねるものなのだから当然だ。

 ……5歳児が1人で作ったものとしては、破格の出来だとは思うのだけれど。

 

 とはいえ姉さん自身、自分の作品の出来については気に入らなかったらしい。思わずつつきたくなるような膨れ面をして、完成したその立体群をつまみ上げている。

 むむむと悩んでいるので、どうするのかと見ていれば。数秒も経たぬうちに完成したそれをぽいと放り出して、新しい折り紙を取り出していた。

 こちらを向いて何を言うのかと思えば。今度はもっと奇麗なのを作ってあげる、とのこと。

 もうなんというか。今放り出した物体については何もかも忘れ去ったかのような、晴れやかな笑顔であった。

 

 

 

 切り替えが早いような気はするけれど。

 

 この生のままの、むき出しの、飾らない精神活動。あるいは力一杯直進した揚句、何かにぶつかると間髪入れずに別の方向にすっ飛んで行く行動力というものは、このあたりの年齢特有のものなんじゃないかなぁと思う。

 と、いうか。姉さんって今、某野原し○のすけと同い年なんだよな。アレはちょっとませ過ぎの気がしなくもないけれど。かの人物のバイタリティを思い浮かべれば。今の姉さんの年齢あたりの元気さや思いつきへの突進力については、納得できる部分があるんじゃないかなと思う。……いくら奴と同い年とはいえ、姉さんがケツだけ星人とかやり出したら家族が泣くと思うけど。

 ともかく。

 それがいいのか悪いのかは置いておいて。段々と計画性とか、先のことを予測するだけの経験値とかを積んでいくにつれて。このような全力でどこかにすっ飛んで行くような心のあり方というのはなくなっていくのだろう。

 

 

 

 特に姉さんの場合、とらハ2でのあり方を見る限り。このあたりの特性について他者よりも顕著に喪失していくのだと思う。高校生となった姉さんが原作で見せていた属性はまずもって“生真面目”なものであった。

 

 先を見据え、自制し、日々できることについて重石を載せたかのような沈着な行動を選択していく。

 

 生真面目というものは、つまるところそのようなものであり。幼児性の発露そのものであるかのような切り替えの早さや即断性とは対極にあるものである。

 この先姉さんから、今見せているような幼児ならではの輝きというものはなくなっていくのだろう。代わりにもっと別の、計画性とか、他者から教えられた何物かを忠実に踏襲するとか、そのような美点が現れていくのだろう。

 とかく槍玉にあげられる“真面目”というものだが。別にそれが悪いものであるとは思えない。継続的に、何か良いものを黙々と行えるという特性は、大抵の人が持ち合わせていない美点ではないかなと思う。もちろん、そこに柔軟性や多様な価値観を受け入れられるだけの余裕が挿入されるならば、もっと良いのだろうけれど。だからと言って、一概に批判されて良いようなあり方ではない気がする。

 

 ゆえに姉さんがこの先、原作のような真面目人間一直線を歩んでいったとしても。それは取り立てて止められるべき道ではないだろう。

 ……身も蓋もないことを言えば。へらへら笑って余裕を見せながら習得するには。神咲一灯流という術理はあまりにも重いものであるはずだし。原作で雪乃母さんが若い頃一度家出をしたのも、流派継承に失敗したからだったはず。神咲一灯流は、継承失敗が家族関係崩壊の危機に直結するほど重く、困難な術理であるということなのだろう。

 例えば体力敏捷力共に18であるとか。そのような十二分な才能があるのであれば話は別なのだろうけど。僕よりはよっぽどマシとはいえ、姉さんにそこまでの身体能力があるようには見えないし。やっぱり姉さんは真面目に生きないと、後々苦労する羽目になると思う。

 

 

 

 もっとも、先のことは先のことである。

 今の姉さんは年相応の生命力やらなにやらを発揮した自由な精神を内包しているし、行動もそれに即したものである。

 今現在もほら。放り捨てた千羽鶴モドキのことなど完璧に忘れ去ったかのように、目前の折り鶴に注力している。切り替えの早さとか、集中力とかを、聊かどうかと思われるほどのレベルで発揮している。

 

 とはいえ、そのような美点があるとはいえ、このあたりの子供が“飽きっぽい”のもまた厳然たる事実である。更にいうなれば。姉さんは神咲一灯流の稽古だの、小学校入学が間近であるゆえの学業への傾注だの、はたまた旧家に生まれたが故の伝統的な“基本技能”についての学習だので、随分と忙しい。遊んでいられる時間は同年代の幼児に比べてひどく少なく。更にはその時間すべてを折り鶴に費やすには幼すぎる。姉さんはまだ、遊びたい盛りの子供なのだ。

 

 

 

 結果として。

 それから数日経とうと、数週間経とうと。あるいは半年経とうと。

 

 姉さんのいう“もっと奇麗なの”が完成することはついぞなかった。

 当人もそのことはさっくり忘れ去っているらしく、毎日稽古に、勉強に、あるいは他の遊びにと全力で駆け回っている。病床に伏した僕を看病しようとやってくることもあるが、その時の話題に千羽鶴が上ることはない。すっかり忘れ去っているのだろう。

 

 もちろん、別にかまいやしない話だ。今だ蝉の一生よりも短い時間しか生きていない少女が、一時的にでも、誰かの行動の成就を祈るためだけに時間を割いてみせたのだ。それで充分の話だと思う。

 幼児の、一過性の献身というものは。ただそれだけで価値あるものであり。持続するかどうかなどは論ずる必要がない。少なくとも僕はそう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに僕はもう、もらうものを貰っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四六時中布団の上で魘されている僕の部屋には、和紙で作られた飾り箱がある。亜弓さんが、どこぞに仕事で行った際、土産にと買ってきてくれたものだ。残念ながら実に微妙な大きさである上に強度に問題があるため、本当に“飾って”あるだけになってしまったのだけれど。まあ、土産というものは往々にしてそんな扱いとなるものである。

 ただまあ、それはそれとして。その箱はそこに置いてあるだけで、ちらと視界に入るだけで、聊かの温かみを、僕の内奥に与えてくれる。

 

 何となれば。その華やかな色合いの紙製の直方体の内部には。

 

 

 

 

 

 姉さんが放り投げた揚句一顧だにしなかった。不揃いで段々と出来が荒くなっていく、色とりどりの立体で構成された。

 

 

 

 

 

 今生における、僕の“たからもの”が入っているのだから。

(続く)



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第五話『術理』

序、

 白露のころ、神咲邸での出来事だ。

 

 食欲の秋、読書の秋など色々形容されるこの季節だが、神咲家にとっては剣術の秋なのだろう。庭先で、薫姉さんが和音婆様に剣術を教わっていた。まあ、春夏秋冬いつであろうと姉さんは剣を振っているのだけど。

 

 小石を念入りに取り除かれた土の上、木刀を青眼に構えた姉さんが老婆を中心に円を描くように、隙を窺いながらすり足で動く。対する婆様はといえば油断も隙もないおっかない目つきのまま、その動きに合わせるように木刀の切っ先を向けている。

 

 昼前とはいえ、まだ9月になったばかり。じりじりと照りつける太陽の下での運動は、病弱(僕のような理不尽レベルではないにせよ、姉さんも充分病弱なのだ)な幼児にはつらいのだろう。姉さんの息は荒い。額からこぼれた汗が目に入ってもなお、目を閉じもせず婆様への視線を外さないのはさすがだと思うけど。

 和音婆様の方はといえば、既に1時間以上稽古をつけているにも拘らず、息を上げるどころか汗一つかいていない。何か霊的な術でも使っているんだろうか? OVAを見る限り、割と神咲家の霊術は多機能のようだけど。

 

 なお、日蔭になった縁側で見学している僕も辛い。直射日光にあたっているわけではないので、倒れたりはしないと思うけど。体のスペックが低すぎるからなのか、一定時間ごとに疲労点を消費しているっぽい。半年前までの僕ならそろそろ倒れていただろう。

 もっとも、現時点では練習している2人ではなく見学者が倒れるという珍妙な事態は起こりえない。最近習得した≪体力回復≫の呪文のおかげである。大人しくしている間は自動的に周囲のマナを疲労点に変換できるこの呪文のおかげで、僕は夏場外で座っていても昏倒せずに済むようになったのだ。……本当は呪文の使いすぎや強行軍で疲労した肉体を素早く回復させるための呪文であって、夏場日陰で倒れないための呪文ではないのだけれど。

 

 2人を観察しながらつらつらとあらぬことを考えていたら、相対する両者に変化が起きた。隙を見つけたのか、自棄になったのか。幼いなりに鋭い掛け声とともに、姉さんが婆様に打ちかかったのだ。

 人体の中心を縦に貫く線“正中線”をほぼずれない、実に安定した撃ちこみが老婆へと放たれる。木刀が相手に届く距離まで踏み込む、構えた状態から木刀を振りあげる、相手に刃を当てるために振り下ろす。3動作はひどく効率的に行われ、十分な速さをもって木製の鈍器が婆様へと叩きこまれた。5歳児の撃ちこみとしては、過分なまでに洗練されたものである。

 もっとも、相対する神咲一灯流現継承者にとっては何もかもが不足した一撃だったのだろう。知覚力18、野生動物をはるかに凌駕する僕の感覚器官が捉え難い速度で、老婆の木刀が跳ね上がる。姉さんの木刀が弾き飛ばされるのを見る暇もあらばこそ。間髪入れずに放たれた足払いが、姉さんをものの見事にひっくり返した。アスファルトではなく、手入れのされた土の上とはいえ。受け身も取れずに背中から落ちた衝撃は相当なものだろう。まだ小学生にもとどかない年齢の幼子は目をつむり、痛みをかみ殺す。それでもなお苦痛の声を上げないのは見事の一言では済まされまい。聊か、痛々しくさえある。

 もっとも、そう思っているのは僕だけだったらしい。

 

 大気を震わせる、凄まじいばかりの怒声が飛んだ。

 

 「痴れ者、目を閉じるな!」

 

 婆様の叱咤である。心と体を鍛える剣“道”ではなく、怪しげな魔物や霊との実戦を想定した剣“術”(?)の訓練である。転倒したからといって、状況を認識するための感覚器官を封じるなど許されないということか。

 ついでに足まで飛んだ。倒れた相手に対する踏撃である。転倒時には当たり判定が消えるテレビゲームじゃあるまいし、実際には倒れたところが一番の狙い目ということなのだろうが。容赦の2文字が行方不明との印象はぬぐえない。

 さすがに加減はしていたのだと思うけれど。すぐさま転がって難を逃れた姉さんの首ぎりぎりの場所に、和音婆様の踵が叩きこまれる。地面がえぐられ土くれが飛び散り、汗にまみれた姉さんの顔を彩る。

 それ以上の追撃がなかったのは、ここまでやってなおこれが稽古だからなのだろう。時々不安になるが、これは確かに稽古のはずなのだ。

 聊か離れた場所に落ちた木刀を走って取りに行く姉さんに、婆様からの追撃はない。代わりに木刀が上段に構えられ、鋭い声が飛ぶ。

 

 「薫、最後の1本じゃ。構えい!」

 「はぁっはぁっ……はいっ」

 

 どうにか息を整え、姉さんが構えなおす。両者の距離は10メートルちょっと。少なくとも、一歩踏み込めばすぐさま相手を叩き斬れる“一刀一足の間合い”とは言えない間隔が開けられている。明らかに、剣術の間合いではない。

 

 もっともそれは、退魔剣術である神咲一灯流の間合いでないことまでは意味しないのだけれど。

 

 「神気発勝!」

 

 萎びた喉を震わせ、その言葉が放たれると同時に。和音婆様の全身から湯気のように金色の光がにじみ出し、構えた木刀にまとわりつく。言霊によって自身の霊力を引き出し、武器にまとわせたということだ。霊刀がなくても、神咲一灯流の術が使えないわけではないのだ。

 黄金色のそれは別段激しくくねるわけでも、ばちばちと放電するわけでもないが。本当にエネルギー体かと疑いたくなるような重さと確かな存在感を周囲にふりまきつつ、ゆらゆらと婆様の周囲に滞空する。

 

 「し、しんきはっしょー!」

 

 舌足らずな、甲高い声で姉さんが叫ぶ。姉さんの体から、間欠泉のように金色の、しかし和音婆様のそれよりもやや希薄な光が放たれ……そのまま彼女の周囲を恐ろしい勢いで飛びまわる。明るく、バチバチと放電しているそれらは凄まじいばかりの速度で姉さんの周囲を乱舞しているが、婆様のものに比べると存在感が薄く、軽そうである。それでもなお、当たるとただでは済まなそうには見えるのだけれど。

 

 「行くぞぃ!」

 

 声と同時に、婆様がの木刀に光が集まる。必殺技のためにエネルギーをチャージしているとか、そのような状態なのだろうか? 

 間合いが離れている上に、態々姉さんに霊力の集中を命じたのだ。恐らくは神咲流の飛びどう……もとい奥義、“真威楓陣刃”あたりを使うつもりなのだろう。さすがに姉さんが使えるとも思えないので、相殺させるのではなく、防がせる気でいるのだろうけれど。

 霊力を使えるのであればアレは防げる技らしいので、恐らくはそうなのだろう。しかし、一撃で幽霊を打ち倒し、数百年にわたって神咲家に祟り続けてきた霊刀の精にダメージを与えられる技を、いまだ紐解きも済んでいない孫娘にぶちかまそうというのだろうか。“厳しい訓練”の一言では済まされない苛烈さが感じられる事態である。

 

 このまま見ていて、神咲流の超常的な技がどのようなものか見学したいところだが。ちらと見た時計は、既に僕の休憩時間が残り少ないことを示していた。そろそろ奥に引っ込んで、自分の学ぶべきことを学ぶ準備をすべきだろう。

 この暑さの中外で木刀を振るう姉さんと、今空調の利いた部屋へと戻ろうとしている自分。聊か思うところがないわけではないが。僕が姉さんと同じ場所で動けば間違いなく倒れるのだ。姉さんが剣をふるっているのなら、その姉さんができない部分で僕は努力すべきだろう。

 無為なやるせなさ、無力感を腹の中に押し込め、その場を立ち去る。

 

 

 

 

 

 「防げぃっ! 真威……楓陣刃ァッ!!」

 「っ~~~~~!!」

 

 

 

 

 

 和音婆様の怒声と、霊力放射時に放たれる奇怪な効果音。そして姉さんの、声にもならぬ悲鳴を背後で聞きながら。僕は部屋へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第五話『術理』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 「あら、早かったのね? もう“休憩”はいいの?」

 

 部屋に戻れば、小首をかしげて十六夜さんがそう問うてくる。休憩と言いつつ、僕が姉さんの稽古を見学していたことを踏まえての言葉だろう。見るのも、勉強だ。特に、僕のように自分でやることのできない立場の人間ならなおさらである。

 つまるところ、多少は普通に休んだらどうだと言外に提言してくれているわけだが。大人しく座って≪体力回復≫の呪文を稼働させていた以上、いまの僕は疲労していない。必要ないだろう。時間を有効に使いたいならむしろ、さっさと勉強を始めたほうが良い。

 

 否と応えれば、十六夜さんもそれ以上は勧めてはこなかった。頷いて、居住まいを正す。僕も乏しい筋肉に命令を下し、背筋を伸ばした。和室で正座して相対する、和装の女性と幼女。随分と時代錯誤な光景である。……まあ、十六夜さんは思いっきり西洋人な見かけ(実際、生前は確か西洋人だったはず)だから、妙なアンバランスさがあるのだけれど。

 

 「じゃあ始めましょうか。まずはさっきの続き、結界の構築のし方だけど……」

 

 僕の顔を見ているようで、少々ずれた方向に視線を向けたまま、十六夜さんの授業が再開される。結界の基本構造、構築方法。各種祟り、幽霊、魔物への封印の方法、種別、傾向。呪符の書き方、保管方法、霊術において呪符を使うことの長所と欠点……。

 莫大な情報を、片っぱしからこちらに伝えてくる。こちらはそれを言われる傍から記憶していき、覚えきれなかった所や怪しいところについては聞き返す。少なくとも300年間退魔業に就いてきた家の知識の集大成を、暗記していく。

 

 いわゆる、口伝である。

 

 別にノートにとるなという話ではない。僕自身、この“授業”が終われば教えられたことをノートにまとめるし、そもそも蔵には先代、先々代、先々々代……の残した覚書や書籍が大量に残っている。書物から学ぶことはたくさんある。

 それでも口伝の形式をとるのは、1つには目の前にいる女性の存在があるからである。神咲家が300年以上にわたって行ってきた退魔業のほぼすべてを、目前の刀精、十六夜さんはつぶさに見て……もとい聞いて……きているのだ。文字どおりの“生き字引”がいる以上、彼女から学ばない手などない。

 聞きながらノートを取ってはどうかと思うかもしれないが。そういうわけにもいかない。口伝の形式をとるもう1つの理由は、これが記憶術の習得も兼ねているからなのだ。

 

 

 

 妖怪や幽霊、祟りは出現地域の伝統や歴史、生活習慣などに密接なかかわりがある。

 例えば神隠しに遭った子供を捜し出す方法は、伝統的に大勢の人間が鉦や太鼓を鳴らして大声で呼ばわりながら練り歩く(捜し歩く)というものが代表的である。ここまでは大体どこの地域でも同じだ。

 しかし叩くものが鍋釜である場合もあるし、捜し歩く一団が手ぬぐいで互いの体を結びつける場合もある。

 呼ばわる文句もさまざまだ。“かやせかやせ(返せ返せ)”と叫ぶところもあれば、“南無阿弥陀仏”のところもある。歌を歌う場合だってあるし、その場合の歌は大抵の場合特定の何かだ。

 神隠し一つとってもこれだけ色々なパターンがある。さらに問題なのは、これらが現代日本では行われていないということだ。精々、行われていて昭和中期までであり、戦後大分経ってからもこのような呪いが地域住民の手によって行われるということは(たぶん)ない。当然すでに誰も覚えていなかったり、記憶も定かでない地域の古老から聞きださなければならない場合だってある。

 覚えることや、思いだすことについて詳しく助言できないようでは、必要な術を学ぶことさえできない可能性があるのだ。

 

 退魔師は切羽詰まった状態で記憶を漁らなければならない事態も多い。

 これで封印できると思ってやったやり口がまったく通用せず、たけり狂う妖怪をあしらいながら、その場で別の封印方法について吟味しなければならない事態だってないわけではない。

 来るまでに調べたであろう、地域の歴史に関するあの自費出版の小冊子の内容は思い出せるだろうか? 一度だけ翁が歌ってくれたわらべ唄を、間違えずに歌うことはできるか? 寺の奥に打ち捨てられた屏風には短歌が書かれていたが、さて、下の句は何だっただろうか? そういえば天井に描かれた竜の絵は、おかしな方向を向いていた。どちらの方角だっただろうか?

 民俗学者ならもう一度行って確認するとか、録音テープを聞き返すという手もあるわけだが。退魔師にそれをやっている時間があるとは限らない。

 

 更には、霊的な術のいくつかは口伝のみで継承される場合がある。安易な拡散が危険な術や、強力極まりない術などにはよくおこなわれる手法である。おかげですでに失伝している術は、神咲流に限らず多くあるらしいが。これら術を伝統的なやり方で先々まで残したければ、最低でも口伝された人間がちゃんとそれを覚えておく必要がある。伝承されましたけど忘れちゃいました、ではそれまで伝えてきた人々も泣くに泣けないであろう。

 

 と、いうわけで。

 記憶力を高めるべく訓練を行うことは、退魔師にとっては必須の教養といえるであろう。

 

 幸いにして、僕は記憶力に関して不足がない。僕の持つ最も高い能力値は知力であり、この知力という能力値は記憶力の良さも司っているからだ。

 GURPS Who’s Whoを読み解く限り、僕の知力はアインシュタインの3歩先、人類最高の2歩手前、アイザック・ニュートンと同等であるそうだ。それがどの程度なのかと問われると今一分かりかねる部分はあるのだけれど。

 ともかく目標値18であるところの僕の知力は、史上に名前を残せるだけのスペックをいかんなく発揮し、十六夜さんの伝える情報を吸収している。

 

 

 

 

 

二、

 何度かの休憩をはさみつつ、十六夜さんからの口伝は続いていく。何でも明日から和音婆様との退魔業で遠出するらしく、普段よりも教わる量が多いのだ。

 

 時間がたてば周りの環境も変わってくる。

 障子から差す日の光が茜色に染まり、正座する僕の影法師が随分と長くなってきた。

 庭の方から幼い掛け声やしわがれた怒声が届くことは大分前からなくなっており、代わりにキリキリと囀るカワラヒラの声、気の早いスズムシの羽を擦り合わせる音などが、残暑の大気を震わせている。

 襖の向こう、廊下の彼方から、味噌と酒、それに少々潮の匂いが漂ってくる。夕食の用意であろう。魚を味噌漬けにでもしているのだろうか。……まあ今作っているならば、味噌漬けは今日のおかずではなかろうが。

 

 足音、呼吸音、ステンレスの流し台に置かれる調理器具がぶつかり合う音、水音。

 調味料の、魚の、野菜の、人の、消毒液の(稽古でできた傷のためだろう。たぶん、姉さんだ)匂い。

 音が、臭いが、感覚器官を介して僕の脳内に諸々の物体の位置情報を提示していく。

 今まさに魚をタッパーに漬けている母の立ち位置。その隣で大根を剥いているらしい和音婆様。移動する陶器の匂いは、足音から判断して多分姉さんが何か手伝っているのだろう。皿でも運んでいるのか。

 家の構造上、角部屋であるこの部屋の調度反対側、家の中で最も遠い対角線上にある台所の状態が、脳裏に浮かぶ。

 

 この体、視力はともかく聴覚と嗅覚は凄まじいまでに鋭い。流石に音紋を判別したり、フェロモンを感知したりはできないが。単純な“音や臭いに感づく”能力だけなら野生動物より鋭敏である。特にその手の不利な特徴を取っていないので、香水を振りかけられたら悶絶する、などといった不利な事態も起きない。が、知覚範囲が広いため特徴的な音や匂いがあれば、見えない場所の状態に気を散らされることはある。

 

 「あら、まだ夕食には早いわよ」

 

 わずかに頭を上げた僕の所作をどう解釈したのか。少々笑みを含ませて十六夜さんが声をかけてくる。揶揄するような台詞だがさっぱり嫌味が感じられないのは、彼女の人柄ゆえか。

 盲しいた双眸の端を緩ませる彼女に、いえ、と硬く短く返す。

 食べ物の匂いを感知したのは間違いないが、別に空腹を感じてのことではない。食い意地を張っての反応と見られるのは不本意だ。聊か安っぽいが、矜持の問題というやつである。

 嫌味の有無以前の問題から、そっけなく返し、背筋を伸ばす。

 未だ“授業”の最中である。さ、先生、続けましょうと促して見せたわけである。稚気と見られても仕方がない対応である気がしなくもないが、理性と感情は別物であり、取り立てて強烈に理性が自己主張するような事態でもない。

 超スペックの意志力といえども、無駄なところで僕の精神を制御したりはしないのだ。と、いうか。四六時中カタログスペックどおりの意志力や知力が発現していたら、それはもはや僕という人間ではない。昆虫にも似た、効率のみを重視したただの生体ロボットである。

 そんなことを顰め面らしく考え居住まいを正した瞬間。

 

 

 

 くう、と。お腹が鳴った。

 

 

 

 僅かな、しかしそれが間であるとはっきり認識できる、奇妙な沈黙。

 

 静寂を振り払うかのように、“そうね続けましょう”と言う目前の刀霊の視線が生暖かい。というか、お願いだから十六夜さん。突っ込みさえ入れずにニコニコするのはやめてください。今日はちゃんと残さず御飯が食べれそうね、とか続けるのも勘弁してください。確かにこの身体だと、お腹一杯ご飯を食べるとかほぼ不可能なのだけれど。

 

 とはいえ。十六夜さんの何とも言えない反応もまあ、仕方があるまい。彼女の視点からすれば、どうも食べ物の匂いに勘付いたと推測される幼女が、“お腹すいてなんかないもん”と、つんと澄まして見せた次の瞬間、体は正直とばかりにお腹を鳴らしたのだ。

 言葉もしゃべれぬ時分からずっと見守ってきた幼子の、背伸びしたかのような振る舞いと、年相応の素直な肉体的反応。狙ったかのように起こったそれらによる連鎖に対し、彼女が微笑ましげに対応したからと言って誰に責められようか。

 抗議こそしないものの、話に乗ろうともしない僕に対し、ええ、勿論貴方が空腹で集中力を乱したなんて思ってないわ、本当よ。と取り繕うとしてくれているが、それはフォローになっていないと思う。顔から火が出るとは、まさにこのことだ。

 

 Qu'vatlh、畜生。別に僕のお腹が鳴ったことと、僕が空腹であることには、必ずしも因果関係があるとは言えないじゃないか。お腹が鳴るのは胃腸のガスが原因で、胃の中が空かどうかということとは別の問題だ。全力で僕は無罪を主張したいぞ。今自分の正当性を主張したところで、十六夜さんが納得するとは思えないから、黙っておくけれど。

 

 

 

 結局、十六夜さんの生暖かい視線は今日の“授業”が終わるまでずっと続き。その間僕は言語化できない、しかし憤懣やるかたないもやもやしたものを胸中に抱きつつ全力で学ぶ羽目となったのだった。

 この精神状態でも学ぶことに全く問題がないというのは実に不気味だが、気にしても仕方がないのだろう。常人が、人類の限界2歩手前の意志力や知性を持って生きていくということはこういうことなのだ。分不相応な能力を賦与されて転生されたんだなぁと、実に実感できる事態である。

 

 

 

 

 

 ところで、まあ。

 それはそれとして。

 

 

 

 

 

 現在の時刻と、普段のこの家の慣習を鑑みるに。

 夕食までは、推定であと2時間13分、7980秒である。このくらいならカウントダウンできそうだな。

 

 いや、特に何がしかの理由があってのことではないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

三、

 僕が十六夜さんの授業によって得ているのは、以下の4つのものである。

 1つ、記憶力の特徴

 1つ、神秘学の技能

 1つ、職業技能/退魔師の技能

 1つ、除霊の技能

 である。

 

 記憶力の特徴は、通常なら吟遊詩人や語り部が持っている技能だ。意識を集中して覚え、かつ思い出すときに知力判定に成功すれば、結構な量の情報を細部に至るまで思い出すことができる。呪文やら儀式やら伝承やら、莫大な量の知識を頭に収める必要がある退魔師にとっては必須の特徴といえよう。

 なお、この記憶力という特徴。第三版では一定の種類の技能に費やしたCPを2~4倍して技能レベルを計算するという恐ろしい効果があったのだが。第四版ではさっくり削除されていた。恐らく、強力すぎたので削られたのだろう。

 

 神秘学、職業技能/退魔師の技能は大体想像がつくだろう。つまり魔物や妖怪、幽霊、祟り、魑魅魍魎の存在についての知識や、それらへの対処方法。はたまた退魔師としての社会とのかかわりや振舞い方。除霊を生業とするものとしてやっていいことと悪いこと、こっそりやった方がいいことなどの知識を習得する技能である。

 自前の霊力を用いない、既存のお札や注連縄などによる封印や結界もこれで運用する。イメージとしてはクトゥルフ系TRPGの超常能力を持たない探索者が、その場に既に存在する祭具や神像を用いて神話的生物を退散さる、といったところだろう。超常的なパワーがあるのは扱う人間ではなく、道具の方であるということだ。

 なお、僕はお札を自作できない。術式の理解のために作り方は学ぶが、実施するための超常的パワーを持っていないのだ。まあ、原作で薫姉さんも自作はできていなかった(態々持って来てもらっていたシーンがある)ので、別に問題はないのだろう。作る人は、神咲一族の別の家の人なのだ。

 どうしてもそれっぽいものを自作したければ、GURPSの霊薬や護符、マジックアイテムとして作るしかないが……尋常でなく手間がかかるのでやるかどうかはちょっと微妙である。

 

 除霊技能は宗教的なパワーによって霊や悪魔を取り付いた場所、人から退散させる技術だ。宗教ごとに効果があるかどうかは分かれているとされているので、キリスト教系の悪魔に憑依された子供にユタや歩き巫女の憑き物落としは効果がないし、狐憑きの人物にエクソシストが儀式を行っても効果はない。ポルターガイストや家鳴りについても同様だ。

 僕が学んでいるのは神道系の除霊技能のようだ。舶来ものの怪異にこれが通じるかどうかは微妙ということだ。まあ日本の妖怪相手なら、相手が仏教系でも密教系でも通じるだろうけど。

 日本の怪異の系統は割とあやふやな場合が多い。天狗はもともとは仏教僧への敵対者、堕落を誘うものだったはずなのに、時代が進むにつれていつの間にか特に密教系の存在との関わりが取り沙汰されるようになる。鬼だって本来ならば良いも悪いもない超自然的なパワーの顕現であったはずのものが、地獄で獄卒をやっていたりするのだ。おそらく多分、除霊に際して厳密に区分する必要などないのだろう。

 

 

 

 退魔師としての教育を本格的に受け始めてから、まだ1年ちょっと。健康上の問題もあって毎日受けられるわけでもなし、呪文の勉強だってある。結局教師のもとできちんと教育を受けているにもかかわらず、僕はそれらの技能に1CPずつしか割り振れていない。

 

 特徴に用いる分に至っては目標額にまったくとどいていないため、学習によって得たCPは未使用CPとしてプールされている状態である。つまり僕は、100時間以上記憶力についての教育を受けているにもかかわらず、さっぱり物覚えの程度が良くなっていない、進歩していないということだ。

 十六夜さんは笑って“ゆっくり覚えていけばいいのよ”と言ってくれているが、切歯扼腕とはまさにこのことか。非常に歯がゆい。

 

 まあ、技能の方はLv17、Lv16などといった状態に達しており、今すぐにでも専門家として振る舞えるだけの知識が身についているのだけれど。知力が高いとこういったことには有利である。

 

 とはいえそれら技能でさえ、300年にわたってこの手の技能を伸ばしてきたであろう十六夜さんや、戦前から退魔業に就いている和音婆様や亜弓さんに比べれば、お話にならないレベルの、程度の低いものにすぎない。

 転生者とはいえ生前学んだことのない知識についての話であり、更には肉体的には5歳児なのだから、仕方がないといえばその通りなのだろうけれど。

 

 

 

 一歩一歩、着実に学んでいくしかない。

 

 

 

 それは分かっている。分かっているのだ。

 しかしそれでも、気が急くのは事実である。

 日々の生活や家の手伝いによって、家事と礼儀作法にちょっとずつCPが割り振られたなどといった明るい話もないわけではないのだけれど。

 

 

 

 やらなければならないこと、考えなければならないことはたくさんある。

 例えばこの先習得すべき呪文についてだ。

 

 ≪病気治癒≫の呪文はもう少しで習得できる。一発で病気を快癒させることのできる呪文を習得すれば、状況は大分良くなるはずだ。病に伏せっている時間を大幅に短縮できるのだから当然である。

 ただ、≪病気治癒≫の呪文を覚えればもうほかの呪文を覚えなくてもいいというわけではない。効率よく学習ができるようになったのだから、他の呪文をどんどん覚えていくべきなのだ。

 では、そのときどんな呪文を覚えればよいのだろうか?

 やはり退魔師らしく死霊系の呪文を覚えるべきだろうか?

 死霊系はゾンビを作成するようなネクロマンサー的なものもあるが、死霊を打ち倒したり、話し合ったり、あるいは単純に普通は見えない幽霊を見えるようにする呪文などもある。これらを習得すれば“退魔師らしい”活動ができるようになるだろう。

 あるいはこのまま治癒系の呪文を習得するべきだろうか?

 今の僕は精々傷を癒すくらいしかできないけれど。治癒系の呪文は失った四肢や感覚器官を再生させたり、精神異常を治癒したり、はたまた死んだ人間を復活させたりする呪文も存在する。強力なものはどれもこれも行使に桁違いのエネルギーが必要とされるので、その点をどうにかしなければならないのだけれど。当面このまま治癒系の呪文を習得していくというのも、神咲家の人々の役に立つという点では良い判断かもしれない。

 はたまた知識系の呪文を学んでいくというのも悪い手ではないだろう。遠隔視やサイコメトリー、記憶喚起などの効果を持つ呪文は退魔業を行う上で強力な手段となり得るはずだ。

 それとも移動系を学ぶべき? 防御系の方が良い? いや、そもそも系統で考えるよりも、必要とされるであろう呪文とその前提呪文の組み合わせから逆算して効率よく複数系統の呪文を習得した方が……。

 

 呪文の習得についてだけでもこれだけ考えるべきことがあり、学ぶべきものがある。

 技能についてだってそうだ。僕の意志力は高いが、その意志力で何もかもの超常識的な術理に抵抗できるとは考えにくい。テレパシー的な効果を実に原始的な方法で防ぐ“思考防御”や、気合で相手の術を防ぐ“強靭精神”のような技能は習得しておいた方が良いような気がしなくもない。

 誰かと交渉することがこの先あるなら、“外交”や“言いくるめ”は必須だろうし、幻術を学ぶ気があるなら“美術/幻影”の技能は取っておくべきだ。さらに言うなら、魔法使いとして成長していくつもりなのだから“魔法理論”や“錬金術”は取らないという選択肢自体がありえない。

 

 実生活についてだって懸案事項がないわけではない。

 例えば姉さんの人間関係についてだ。

 一応両親に折を見て“姉さんっていつ友達と遊んでいるんですか”と首をかしげて言ってはみたのだけれど。それで姉さんの行動パターンが変わったようには見受けられない。薫姉さんは相変わらず修行と学業に明け暮れており、友達と外で遊んでくる、などといったことはしていない。少なくとも僕はそんな現場を目撃したことがない。

 大体、姉さんは幼稚園にも行っていない。はたして姉さんには友達がいるんだろうか? 健康上の都合で家と病院以外に行ったことのない僕ならともかく、姉さんまでもが僕並に世間が狭いってことはないと思うのだけれど。もう少し気にした方がいいのだろうか? いやでも。あまり姉さんのことばかり言いたてるのも、思いあがりという気もするしなぁ。

 

 ついでに言うならば。

 現状では優先度が低いが、御架月や久遠のことも気になる。

 御架月は現在行方不明、久遠は絶賛封印中のようだが。もう少しちゃんと動けるようになったら、一応それらを確認してくる必要はあると思う。最終的に彼らに対しどう対処するのかについては、今だ悩んでいるのだけれど。長期的には、両者について無策というわけにはいかないのだ。

 

 

 

 兎にも角にも、僕には学ばねばならぬこと、考えねばならぬこと、決断しなければならないことが無数にある。焦っている暇など、どこにもない。

 病に倒れたなら、全力で大人しくする。

 一応動けるなら、呪文を学び、或いは退魔師としての技能を学ぶ。

 ずっと学ぶべきではないと指摘されたなら、家事を手伝い。

 機会があり、姉さんがそれを求めるならば、姉さんと一緒に遊ぶ。

 

 気を急かしたり、わが身の不幸を嘆いたり、薄らぼんやりとしていることが許される時間など、かけらも存在しない。して良いはずがない。

 折角例えば“別のことを思考” しながら、“目前のことに集中できる”ほどの高いスペックを与えられているのだ。この転生によって得られた、分不相応にハイスペックなおつむを十全に活用して、自身を高めていかねばならない。

 

 十六夜さんからの口伝を片っぱしから記憶しつつ、僕はそう、考えをまとめた。

<続く>




 神咲の退魔の術がどんなものか……は劇中でも重点的に語られることは無かったので、基本的に捏造です。
 そもそもこの人たち、結界とか張れるんだろうか?
 OVAでお札でドア閉めたり十六夜さんを封じたりはしていますけど。じゃあマクー空間や封絶みたいな隔絶した空間は、というとよく分かりません。
 このお話ではほいほい使えるものではないけれど、一応存在し、建造物にかけられていたり、退魔師や妖怪が運用することもある。としています。

 和音と薫の霊的なオーラの色が間違っていたのを修正。小説版、OVA版ともに彼女たちの霊力は金色の光を放つようです。

 第七話以降はいくつか完成していますが、第六話が完成していないので、次の更新はちょっと先になります。
 それでわ。


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第六話『怪異』

序、

 時計の針は4時50分を示している。

 ノートに記帳してきた時間と照らし合わせるに、現在238時間50分が経過していることになる。

 

 

 

 雪はさっぱり見られないし、橘の木の葉がどうなっているのかも知らないけれど。

 ともかく小雪のころ、11月の終わりのあたりのことである。

 

 神咲邸の一室、普段僕が勉強部屋として使っている和室の、書見台の目の前で。外より聞こえる姉さんと和音婆様の気合の声、木剣の撃ちあわされる音をBGMに。僕は正座し、呼吸を整え、精神を集中することとなっていた。

 

 体調は、悪い。

 手足の感覚はなにやらぼんやりとしているし、咳のしすぎで喉や肺どころか、さしてあるわけでもない腹筋までもが痛い。普段に比べれば頭の回転も鈍いし、視界も少々潤んでいる。頭痛だって、決して無視できるような軽いものではない。

 風邪なのか、それとも何か別の固有の名称を持った病なのかはわからないが。ともかく何らかの病気にかかっているのは間違いのない状態だ。驚異のHP2点を誇る僕が倒れていないので、インフルエンザのような頻繁にダメージを与えてくる病気に罹っているわけではなかろうが。それでも普段であれば寝ているべき事態である。

 週の半分程度は寝込んでいる僕にとっては日常茶飯事の有様、今日も今日とて平常運転といったところであろうか。

 

 もっとも、今の状況には普段と異なる要因が存在する。平時とは異なる状態であるからこそ、今の僕は寝て養生すべき状態でなお、起きて活動しているのだ。

 

 けほっけほっと咳き込みながら、書見台に視線を向ける。漆塗りの、丁寧に磨かれた(和音婆様の指示により、定期的に僕が磨いているのだ)木目も鮮やかなその上には、和綴じの古文書が載せられている。

 見開きにされたその紙面は少々黄ばんではいるものの、虫食いなどは見られない。カビの匂いも、ほとんど感じられない。地道に、几帳面に、長らく。一定期間ごとに虫干しなどの手入れが施されてきたのだろうと容易に想像のできる代物である。

 

 江戸時代中期の神咲家当主による、霊術の手引書だ。

 

 書き連ねられた文章は当時の法律書などで使われていた“変体漢文”をお経などと同様のノリで楷書で書くという、書かれた時期を考えれば相当にガチガチのお固いものである。

 別にそれが悪いとは欠片も思わないけれど。和音婆様といい、薫姉さんといい、この書籍の著者といい。神咲家の人物ってお固い人でないといけない規則でもあるのだろうか?

 

 まあ、ともかく。

 目前の一品は恐らくは僕の祖先、そしてこの書籍の著者の子孫が書きこんだのであろう、草書体や旧仮名使いのメモが余白を彩っている、実に歴史を感じる代物だ。なんとなく生前の学生時代に大学付近の古本屋で買った、教科書代わりの文庫本を想起させられる有様である。尤も後者は前者と異なり、役に立たない落書きもいっぱい書いてあったが。

 

 

 

 かち、こち、かち、こち。

 長短2本、真鍮製の針が時間を刻む。

 現在夕方5時15分。239時間15分経過、残り45分。

 

 

 

 この古書は“特殊な背景/呪文習得の機会を得る”という特徴をもったGURPSのキャラクターである僕が現れたことによって、“昔からあった”ことになった呪文書のうちの一冊である。

 そうであるが故に、用途も当然限られている。つまるところ、僕は呪文習得の勉強のためにこの書籍を使用しているわけだ。この目前の古文書が呪文の教科書なのである。

 

 その教科書に、改めて目を通す。

 

 構成すべき論理、空間中に遍在するマナ(書籍の中では別の呼び方だが、ともかくGURPSの呪文の行使に必要なマナ)への干渉法。練り込むべきエネルギーの総量、それを対象へと流し込む場合の魔法的なルート、その選択における注意点。現実的な医療との協調への提言。その留意点。

 

 呪文を運用するにあたって必要な知識に再度目を通し、確認作業を続けていく。

 

 

 

 かち、こち、かち、こち。

 長針と短針はそれぞれ上と下を向き、直線に近くなっている。

 現在夕方5時50分。239時間50分経過、残り10分。

 

 

 

 必要なだけのエネルギーを抽出する方法。尋常一様のものでない献身か、或いは十分な知性と異常極まる領域の才覚がある場合にのみ可能であろう(つまるところ僕には充分に実現可能な)、己の肉体ではなく空間中のマナから直接エネルギーを消費する方法への展望。傷を癒す≪大治癒≫からの発展形である、対象の微細な部分に対する治療、滅菌、腫れや炎症の修復。一時的に病を緩和する≪病気緩和≫の呪文から導き出される神経や内分泌系への干渉。

 必要ならば用いてみよと書かれている、詠唱すべき呪文、組むべき印。意外に達者な絵図による説明を確認し、不要とは思いつつも一応実際に組んでみる。

 

 呪文は“マユキラテイ・ソワカ”を真言とする陀羅尼(仏教における長めの呪文)の省略版である。

 省略していいのかという気もするが、そもそも神道系っぽい神咲家の退魔師が真言を唱えているというのは相当におかしいのだ。気にしても仕方があるまい。唱えるなら祝詞なのではなかろうか?

 まあ、GURPSの呪文詠唱や身ぶりは自身の集中を助ける以上の意味は持たないし、技能レベルが一定以上なら省略さえ可能なのだ。詠唱時間そのものも、普通1~2秒で済んでしまう。細かく考えても仕方がないのだろう。まあ、……今回習得しようとしている呪文は詠唱時間が長いのだけれど。

 印は合掌したまま両手の指を拡げ、親指と小指は合わせたまま残りの6指をそれぞれ交互に組むといったもの。孔雀明王印というやつか。例の車酔いの激しいパチンコ好きな生臭坊主が使っている印といえば、大体想像がつくだろう。初期の絵柄の方が好きだったんだけどなぁ、あのマンガ。

 いや、まあ。それはともかく。

 

 

 

 かち、こち、かち、こち。

 かち。

 2本の針が一直線に並ぶ。部屋の外、居間の方からぼーんぼーんと鐘の音が聞こえる。

 現在夕方6時00分。240時間0分経過。

 そう、数か月前からコツコツと行ってきた≪病気治療≫の呪文の学習時間が、ついに240時間に達したのだ。

 

 

 

 GURPSのキャラクターは、教師のいない教科書のみの独習であれば、400時間の学習でもって1CPを得ることができる。僕は呪文については魔法の素質のレベルによってその学習時間を短縮することができ、結果として240時間の独習で1CPを得、一つの呪文を習得することができる。240時間≪病気治療≫を学んだことによって、僕はこの呪文を習得したことになるのだ。

 

 脳内で、今まで学んできた呪文に必要な諸要素が整理統合され、実際にマナに干渉して使える状態にまで昇華される。≪病気治療≫行使において今一不明だった部分、実感の湧かなかった部分についてまで理解が行きわたり、これまでに学び、行使してきた≪体力回復≫や≪小治癒≫同様己が行使できる呪文として内部に定着する。

 

 定められた時間勉強すると、突如として学んでいたものが使えるようになる―――――

 

 生物の学習形態とはとても思えないデジタルな出来事であり、自身の内部に突如として“一つの呪文を行使する能力”が生ずる事態というのは聊か不気味でもある。が、これが僕が転生者として持つ怪しげなスーパー能力、“GURPSのキャラクターとして構成されている”というものの効果なのだから仕方がない。

 

 勿論、一定時間学習すれば突如として技能や呪文が得られるからと言って、そのための勉学に手を抜いたりはしていない。が、そうであるが故に、地道に努力し、学び、考察し、己の中で咀嚼していたはずのものが、酷く空虚に感じられるのも否めない。足を運ぶ速さに関係なく、一定時間後突如として目の前にゴールの現れるマラソンというのは、酷くモチベーションを低下させるものだ。面倒を見てくれる“家族”がいたからこそ、続ける気になれるのだ。

 

 ともあれ、必要だと考えていた呪文をついに習得したのだ。さっそく使ってみるべきだろう。

 けほこほ、けほこほと咳きこむ。

 正座したまま身を折って震える体に鞭打ち、先ほど学んだ印を組み、呪文を唱える。

 

 結印にせよ、呪文にせよ。

 僕の知力と素質ならば必要のないものだが、やはり気分的なものはあるし、何らかの事情で技能レベルに制限がかかる場合を想定するならば、一度実際に試してみる必要はある。

 

 精神を集中し、空間中の超常的構成物“マナ”を介し、自分の意思を先ほど習得した法則に基づいて現実へと押し付ける。

 

 脳裏に文字列が踊る。

 

 《病気治療》使用。

 マナ濃度……並である。ペナルティなし。

 詠唱……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用による効果なし。

 結印……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用による効果なし。

 対象までの距離、接触。技能レベルにプラス2のボーナス。

 対象の病気を特定できないことにより、技能レベルにマイナス5のペナルティ。

 技能レベルにより消費6点軽減。……エネルギー消費ゼロ。

 詠唱時間19秒。

 成功率約9割8分1厘。

 判定……成功。

 対象の病気を治療。

 

 通常なら10分かかる集中を19秒で済ませれば。脳裏に文字列が踊り、一切合財エフェクトや効果音のないままただ効力のみが発揮される。

 

 切り裂かれた様な喉の痛みが、体の節々の鈍い痛みが、頭痛が、感覚の異常が、熱による思考能力の低下が。瞬時に取り除かれる。

 あくまで病気を治す呪文であり、体にかかった負担まで治すわけではないので、咳のしすぎによるあちこちの筋肉の疲労は軽減されなかったけれど。今までであれば大人しく寝て治すか、「癒し」の霊術に頼るしかなかった病魔を自力で迅速に撃退できたのだ。

 

 呪文がきちんと効果を発揮したことへの安堵の念から、ふうとため息が漏れる。ルール上はあり得ないことだが、うっかり間違って学んでいたためにきちんと呪文の効果が発揮されない可能性だって、絶無とは思えなかったのだ。幸い、杞憂に終わったわけだが。

 同時に頬が緩むのを感じた。胸中より歓喜の念が湧き上がる。

 ようやく、自身の病弱さを大幅に緩和する手段を手に入れたのだ。このことにより、看病などによる家族の負担は軽減されるだろう。病魔によって学習に費やすべき時間が失われるといった事態も大いに減ることはずだ。まあ、生命力が低く、“非常に不健康”の特徴を持っているという点に変わりはないので、本質的には病弱のままだけれど。

 

 ともあれ、最大の懸案事項であった四六時中病に倒れているという事態は大幅に改善されることとなる。

 

 僕自身のことについて考えなければならないことは今だ多くある。なさねばならぬこと、考えなければならないことは山積みだ。

 

 ただ。今この時、この呪文習得について喜ぶくらいは良いと思う。

 いやはや、よしよし。うまくいったぞ。素晴らしい。あちこちの筋肉痛や疲労を除けば完全に健康体となったことなんて、転生してからこのかたあっただろうか? 体が軽い、もう何も怖くない。……まあ、物理的に体が軽いのはいつものことだけれど。ちゃんと食事ができる日の方が珍しいものなぁ。

 そうだ、次は何の呪文を学ぶべきだろうか? とりあえず、折角元気に動ける期間が延びたわけだし、前提呪文の少ない、それでいて移動能力を強化する呪文などがあればいいのだけど。いい加減、少しは外にも出てみたい。

 ≪飛行≫なら3つ呪文を覚えれば習得できるな。いや、でも待てよ。姿も消さずに空なんぞ飛んだ日には目立ってしょうがない。≪透明≫も覚えることとなると前提呪文を含めて10個の呪文を習得する必要が……流石にちょっと重い。前提呪文の大半が有用なものなので、覚えておいて損はないと思うけれど。優先的に覚える必要があるかと問われれば疑問が残る。どうしたものか。

 

 

 

 ようやく目的の呪文を習得できた嬉しさにかまけ。そんな風にいそいそと、半ば獲らぬ狸のなんとやらをやっていると。

 

 

 

 視界の端で、何かがうごめいた。

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第六話『怪異』

 

 

 

 

 

一、

 神咲家の朝は早い。

 

 まだ暗いうちに騒ぎだす目覚まし時計をぴしゃりと叩いて黙らせ、もぞもぞと布団から這い出る。

 僕の生命力は恐ろしく低いため、自然に一定の時間に起き出すような真似は不可能だ。が、逆に意志力が高いため二度寝の誘惑に負ける可能性はほぼあり得ない。どんなに眠くとも外的要因で一度目が覚まされれば、そのまま起きることができるのだ。……二度寝の誘惑程度で意志力判定が発生していると考えると実にシュールだけれど。

 

 いつも通り、体調は悪い。体の節々にむくんだような感覚があり、視界も歪んでいる。背骨の芯から全身へと放散され皮膚の下で蠢く寒気を感じ、身をすくめる。今までの経験からして、39度近い熱が出ているはずだ。

 以前の僕であればそのまま寝ていなければならなかっただろう。当然そんな高熱がすぐに下がるわけもなく、十六夜さんに退魔師としての知識を教わることも、自分で呪文の学習をすることもできなかっただろう。ただ布団の中で大人しくし、場合によっては亜弓さんから「癒し」の霊術による治療を受けることとなったはずだ。

 

 しかしそれは“以前であれば”である。今の僕は違う。

 そのまま19秒集中し、≪病気治療≫の呪文を自身にかける。輝くエフェクトや効果音がないので、外からでは今一何が起こったのか分かりにくいのだが。体がすっと軽くなり、感じていた痛みや寒さが奇麗さっぱりと消滅する。罹患していた何らかの病が治癒されたのだろう。僕のこの貧弱な体は一応健康体となり、常人と同様活動が可能になる。病に罹っていたにもかかわらず、床に伏している必要がなくなったのだ。

 転生して病弱幼女にクラスチェンジした僕にずっしりとのしかかっていた重石は、随分な軽量化がなされたというわけである。

 

 

 

 が、僕という存在を構築するGURPSのキャラクターとしてのデーター群は、次の難題を突き付けてやろうと手薬煉引いて待っていたらしい。

 

 

 

 視線を感じ、そちらに目を向ける。壁と本棚が目に入った。一見すると誰も、いない。隠れられるような場所もない。しかし、そちらから視線は感じる。

 あわてず騒がず、そのまま注意を一か所に向ける。本棚と壁の、数センチもない隙間へとである。

 はたして、そこに視線の主はあった。壁と本棚のごくわずかの隙間から、女がじっとこちらを見ている。人間が入り込めるわけのない場所から、その真っ黒い大きな眼で、僕のことを見つめている。

 

 隙間女、というやつか。

 

 ある日ぱったりと同僚が仕事に出てこなくなり、一体どうしたのかと彼の家に行ってみれば、ぼんやりと同僚が座っている。一体どうして仕事に出てこないのかと問えば、“女が嫌がるんだ”と返される。その女はどこにいると問えば壁と家具の隙間を指さされ、その決して人体が潜り込みようのない場所から、暗い双眸がこちらを見つめている。

 決して人間がいようのないひどく狭い場所からこちらを見つめる怪異、隙間女である。

 まあ、物理的な被害をもたらす怪異ではないらしく、そのまま同僚を引っ越させれば彼は正常に戻るのだけれど。

 

 僕の部屋に出てきたこいつも似たようなものなのだろう。生憎、僕は病院に行くのでもない限り家にいる身なので、僕の部屋に居候するこいつに外出阻害能力があるのかどうかは分からないのだが。

 なお、この怪異には被害者を引っ越させる以外の対処方法も存在する。要するに壁と家具の隙間にいるだけの存在であるので、家具を思いっきり押して壁と家具の隙間を無くしてしまえば、ぐえと潰れておしまいになる。

 もっとも僕の場合、力一杯ぶつかっても本棚が動かず、逆に彼女に憐みの視線を向けられる羽目となったのだけれど。畜生、≪念力≫の呪文を習得したときがお前の最後だ。首を洗って待っていろ。……まあ前述のとおり、実害のある相手ではないので本当に実行する気にはなれないのだけれど。

 

 

 

 微塵も驚かれないのが残念なのだろうか。少々寂しげな視線を背後に受けながら、そのまま部屋を出る。洗面所で踏み台に乗り、身を切るような冷たさの水で顔を洗う。

 再び視線を感じて顔を上げれば、洗面台の鏡に映った僕の顔が、じっと半眼でこちらを見ている。無論、僕にわざわざ半眼で自分の顔を見るような習慣はない。明らかに、僕の表情と鏡に映った鏡像が一致していない。そうこうしていると今度は鏡の中の僕がにやりと笑ってみせる。

 鏡に映った自身の顔が、本来映るべきものとは異なる有様となる。怪談などでは御馴染の出来事だろう。

 もっとも、だからと言って怖れ慄いてやる義理などない。

 そもそも、意志力18の存在というものは極端に恐怖に強いのだ。常人ならば物理的に数年年を取ってしまうほどの凄絶な恐怖に出会っても、数秒くらっとする程度で済んでしまう。現代怪談程度の出来事で何らかの感想を抱くことはありえない。

 べえと舌を出してやれば、鏡像がムスッとした表情となり、そのままもとに戻っていく。数秒舌を出した自身の顔とにらめっこを続けた後、怪異は去ったのだろうと判断、顔を拭くべく踏み台を降りた。

 

 幸い朝に出たのはその2つだけだったのだけれど。それから先も怪異は続く。

 部屋の外からぱたぱたという軽い足音がするので、姉さんかと思いきや、肝心の姉さんは隣にいる。この家にいる軽い足音の住人など、僕と姉さんしかいないのに。

 姉さんと昼寝に就き、ふと目を覚まして天井を見れば、板張りのそこから浮き上がるように、じっと大きな目玉がこちらを見下ろしている。夕方けほこほと再び罹ったらしい病に難儀していれば、“がんばれー、がんばれー”と数人の小人が部屋の隅よりエールを送ってくる。寝る前になんとなく庭先へと視線を向ければ、迷いこんできた犬の頭部は人間のそれであった。夜中にトイレに起きるなどすれば、トイレにたどり着くまでに確実に2つ3つは怪異に出会う。

 

 

 

 そう、≪病気治療≫を覚えてからのここ数日。僕は異常な数の怪異と遭遇することとなっているのだ。確かに神咲家は退魔師の家であり、高い霊力を持った住民が複数住んでいる場所である。当然、霊的なものが引き寄せられる場所であり、怪異が起こることそれ自体は何らおかしなものではない。

 しかし僕は神咲家の娘として転生してから今まで、全く怪異に出会っていないのだ。にも拘らず何故今になって突然怪異との遭遇率が跳ね上がったのか。

 ……などと疑問形で言ってはみたものの。原因についてはおおむね見当が付いている。恐らくこの奇妙奇天烈な現状は、僕の持つ不利な特徴の一つ“特異点”が関係しているのだと推測される。

 

 

 

 

 

二、

 特異点。

 GURPSにおける不利な特徴の一つである。-15CPと結構な額のもの(自分をナポレオン・ボナパルトその人であると信じ込むという、深刻な妄想と同レベルの不利な特徴ということだ)であり、その効果はそうそう軽いものではない。

 

 この特徴の持主の周りでは、頻繁に奇妙な事件や風変わりな出来事が起こることとなる。

 文明破壊を目論む暗黒結社が邪悪な計画を実行するのであれば、大神官や世紀王候補が直接襲うのはこの特徴の持主だ。魔界樹にエナジーを与えんとする宇宙人は、この特徴の持主に理由はともかく大いに興味を持つだろう。巨乳で眼鏡をかけ、一人称がボクな古書店店主はお茶に誘ってくるだろうし、ムー大陸の切り札が人面岩から解放されるなら、丁度そのときこの特徴の持主はそこに居合わせる。世界でただ一匹の喋るフェレットが厄介事を持ち込むのであれば、その相手は間違いなくこの特徴の持主だ。兎にも角にも、奇怪千万、摩訶不思議な人生を歩む羽目になるのが、この特徴の持ち主なのである。

 

 この特徴は時には良い方向に働くこともある、ということになっている。実際のところ、僕がGURPSを遊んでいてそんな場面に出くわしたことはなかったが。ともかくそうなっている。が、基本的にこの特徴で引き起こされる事態は恐ろしかったり、危険であったりする出来事であり、つまるところこの特徴の持主は、無数の厄介事に巻き込まれることになる。

 幸いなのは、この特徴は決して“所有者を即死させない”ということだろうか。例え目の前に真っ黒い魔剣を携えた第428代皇帝陛下が虚ろな目をして登場したとしても、その彼にはまだ一応話を聞く程度の余裕はあるはずだ。まあ、“即死しない”だけであって“命の危険がない”わけではないので。そんな状況になったらさっさと逃げたほうがいいと思うけど。

 

 僕が先日から散々に怪奇現象に悩まされているのは、上記のような特徴を持っているからであろう。

 ではなぜ今までは怪異に出会うようなことがなかったのかといえば、恐らくはそれもまたこの“特異点”の特徴が原因である。

 この特徴による効果はその持主を即死させたり、完全に生活を破壊してしまったりはしないのだ。そうであるが故に、あまりにも幼い赤ん坊や、普通に生活しているだけで死にかける病弱者相手では、効果を発揮しようがないのである(別にそのようにルールブックに書いてあるわけではない。が、そうでないとこの特徴を所持するキャラクターが、何故その年齢まで生き延びられたのか説明がつかなくなる場合がある)。

 神咲家の人々がそんなことをするとは思えないが。生まれたその瞬間から怪異に出会い続けている赤ん坊というのは、ただそれだけで養育者に遺棄される可能性もないとは言えない。

 TRPGのキャラクターが持つ特徴である以上、当人にどうにもできないところで死亡が確定する事態を引き起こすわけにはいかない。ために僕は≪病気治療≫を習得して多少元気に動き回れるようになるまで、この特徴による面倒事と遭遇しなかったのだろう。

 

 なおGURPSのキャラクターは態々明記しない限り、“普通の人間”と同様の能力しか持たない。ために僕には人類として平均的な霊力しかないし、格別に霊や怪異が見えるような能力もない。現在周りに現れている怪異が僕に見えるのは、彼らが態々姿を現してくれているからにすぎない。

 

 当然僕にも見えるくらいにしっかりと“こちら側”に現われている彼ら怪異は、神咲家の他の人々にも見えている。もっとも退魔師や退魔師の卵で構成されている神咲家の人々といえども、実害がない相手を態々祓う気はないようで、ほぼすべての怪異は見逃されている。精々トイレの中にまで出て来た怪異が叩きだされる程度である。

 和音婆様は僕たちに掃除も洗濯もきちんと教え手伝わせるのに、トイレ掃除だけはやらせないなぁとは思っていたのだが。もしかして流石にそこだけは作業手順に除霊(?)があるからやらせていなかったのだろうか?

 便器の中から現れた白い手をむんずと捕まえ、遠慮なく窓から放り出す和音婆様は実に頼もしいが、同時にシュールでもあった。まあ、封印前を合わせれば数百人の人間を殺している久遠でさえ殺さずに封じる人なのだ。妖怪であるから、怪異であるからといって問答無用で殲滅する気はないということなのだろうけど。

 

 なお最近僕が怪異を見えるようになっただけで、神咲家に怪異がいるのは昔からのようだ。食事中、襖の影からこっそりこちらを見つめている童女を見るともなしに見ていたら亜弓さんに、“なんじゃ、ようやく見えるようになったのか”と驚かれてしまった。見えるようになったのではなく、相手が“見せるように”なっただけなのだが。

 推測にすぎないが、向こうが僕に見えないようにしようと思えば、それを阻止する手立てはない。あくまで“特異点”は不利な特徴であり、そうそう便利な使い方はできないのだ。和音婆様や薫姉さんのように、見られようと思っていない怪異まで見ようと思えば、それなりの呪文を習得する必要がるだろう。……どの呪文を習得すればいいのかは、ちょっと考える必要があるが。

 

 けほこほ、けほこほ。

 箸を置き、喉の痛みを吐き出すように咳きこむ。肺が痛い。また何かの病気に罹患したらしい。食事中なので一応周りに断ってから集中し、≪病気治療≫で病を癒す。身を折る僕とは異なり、畳に映る影はそのまま食事を摂っている。がんばれー、がんばれーとの声に背後に目を向ければ、小人さんたちがエールを送っていた。

 それにしても。自前の治療手段があってなお、この体の病弱さというのは難儀なものである。まあ、それで結構な額のCPを捻出しているのだから当然といえば当然なのだけれど。

 

 

 

 

 

三、

 数日が経った。

 ぴつりぴつりと忙しなく鳴くヒガラの声を聞きながら、十六夜さんの授業を受ける。

 先ほどまでは、何だか二頭身に見えるやたらとすばしこい小鳥の声以外に、いつまでぇいつまでぇという鳴き声も聞こえていたのだけれど。厳しい顔の警官が和音婆様の助力を乞いに来てから暫くして、その声は納まることとなった。どこかで死体遺棄事件でもあったのだろうか?

 

 ともあれ、学習、学習だ。この体では撃剣で役に立つことはできないのだ。呪文の他に知識も深めておかねば話にもならなかろう。

 

 「結界は一般的に“ウチ”と“ソト”を隔てる壁なの。あくまで壁でしかないから、外側からのものも内側からのものも移動を妨げられる。だから物理的にも存在する怪異を阻害する結界は、内側の人間の離脱をも阻害するわ。

 まあ、結界を操作できるなら穴をあけて出ていけばいいだけだし、半透過性のものもないわけではないし、実際に運用する私たちが困ることはないでしょうけれど。ただ、強力なもので半透過性のものは少ないし、昔の人が張った結界を利用する場合や、一般の人を守るときには気をつけなければ駄目よ?

 

 そうそう。海外にこの世を“霊界に浮かぶゴムボールのようなもの、ゴムボールの中の空気もまた霊界のものと同じなのだ”と説明した方がいたけれど、それは言い得て妙な話だと思うわ。結局のところ、結界を張ったからといってそれでその内側にあるものがいなくなるわけではないの。ちゃんと結界の内側を浄化しないと困ることになるわよ?

 それに浄化したところでその中の霊力が消滅するわけじゃないわ。ゴムボールのなかを真空にするのは無理でしょう? ゼロ気圧に、ゴムボールが耐えきれないもの。あまりに微弱な霊力や怪異は空気と同じよ。残るのはやむを得ないし、感じ取ることだって難しいでしょうね。

 

 舞奈、あなたが薫と一緒に仕事をするようになれば、たぶん結界を多用することになるでしょうから。結界のことはよく覚えておいてちょうだい。基本的な術だけれど、学ばなければならないことの多い、奥の深い術理だから。

 それで、この間話した術式の組み方の続きだけれど……」

 

 柔らかい声で続けられる十六夜さんの授業を聞き、片っぱしから記憶していく。

 成長は、しているようだ。職業技能/退魔師の技能と記憶術の特徴には、1CPずつCPが追加されている。後者については単に未使用CPが増えただけだけれど。

 牛歩という気はするが、学習効率を上げる手段が存在しないのだから仕方がない。GURPSにおいてはスペックが高いことと学習効率が高いことは別であり、僕は呪文以外について後者に関係する能力を持ち合わせていないのだ。

 

 ああ、そういえば。

 舞奈とは僕の名前だ。神咲舞奈がフルネーム。

 最初に自分の名前を聞いたとき、なるほど、GURPSは“マイナー“だもんな、と思ったのは秘密だ。……いくらなんでも、真面目に考えてくれたのであろう両親に失礼だし。

 

 障子の向こうから聞こえてくる、姉さんのものではなさそうな軽い足音を聞き流したり、小人さんの視線を感じたりしつつ、授業を受ける。

 途中二度ほどくらりと来て、≪病気治療≫をかける羽目となった。寝ていた方がいいんじゃない? との十六夜さんの言葉に否と返し、授業の続きをお願いする。呪文を使っている以上、病は特に問題とならない。あまり体を酷使すると、寝ている間に意識不明の重体になりました、などのオチがつかないとも言えないので、ある程度の自重は必要だけれど。

 

 

 

 

 

四、

 僕が怪我や病気を治す術を行使できるということは、既に家族には伝えてある。

 勿論いきなり5歳児を退魔師やその補助として使うとは思っていない。が、神咲家に傷や病を癒せる術師が一人増えたというのは、きっと彼らの役に立つことだ。看病、養育などの恩を少しでも返せればいいのだけれど。

 なお、和音婆様からは“光や音を術で出せるようになるまでは、他人様の前で術を使うな”ときつく言い含められた。当然だろう。神咲家の霊術は光や音を出すのだ。そこで僕が全くエフェクトを出さない術を使ってしまえば、僕のみならず神咲家の人々まで不審がられることとなる。

 

 あいつら神咲家の連中は、いつも光や音を出して術を使って見せていた。だがあの神咲家の小娘はそんなものを出さずに術を使っている。俺たちに術を使ったのかどうかわからないように、超常の技を使っている。

 もしかして神咲家の連中は、本来は光や音を出さずに術が使えるのではないか? 今までもそうやって秘密裏に何らかの術を使って、俺たちにはわからないように、何か不届きな真似をしていたのではないか?

 

 そんな風に、疑いをもたれる可能性があるからだ。超常能力を使えない人々が被害者であってなお、魔女狩りのような陰惨な出来事が起こるのだ。実際に超常能力を使える人々が、その能力を私しているのではなどと疑われたのならば。その時起こる出来事など、想像したくもない。

 

 勿論和音婆様にせよ、歴代の神咲家の人々にせよ、善良な“人間の味方”だ。

 少なくとも記録を読み解く限り。そして何より現継承者である和音婆様の人となりを見る限り。超常の術を己が欲望のために使うとはとても考えられない。大体GURPSの呪文ではない、通常の神咲一灯流の技はこっそり使うには難がある。

 が、そのことと超常能力を持たない普通の人間がどう考えるかということは話が別である。怪しまれないためにも、余人の目がある場所では≪完全幻覚≫や≪作音≫&≪彩光≫などの呪文も併用して目的の呪文を行使する必要があるだろう。まあ、≪完全幻覚≫にせよ≪作音≫、≪彩光≫にせよ、いまだ習得していないのだけれど。

 

 

 

 茜色というにはまぶしすぎる陽光が建物の後ろ側に完全に隠れ、雲間から薄らぼんやりと自己主張する月が見え始めたころ、十六夜さんの授業がひと段落する。

 

 「それじゃあここまでね、お疲れ様。そうそう、終わった後にノートを取るのもいいけれど、その前に薫と一緒にお風呂に入ってきなさい」

 

 女の子が汗まみれでふらふらするものじゃないわ。僕ではなく襖の方を向き、笑顔でちくりと続ける十六夜さん。床の振動、僅かな衣擦れの音などから、襖の向こうで和装で軽い体重の持主がびくりとするのが感じられた。

 自主鍛錬の終わった姉さんが、部屋の外でこっそり待っていたらしい。珍しく健康(……健康?)な妹と、一緒に入浴したかったのだろうか。声もかけずに待っていたのは、十六夜さんの授業を妨げぬようにとの配慮のためか。

 先ほどから暫く何かいるのは感じていたのだけれど、座敷わらしではなく姉さんだったのか。知覚力18といえども、流石に部屋の外の小柄な童女の識別までは不可能だ。そこまでやりたければ走査感覚あたりの特徴が必要だろう。

 

 立ち上がって襖を開ければ。果たして姉さんが、決まり悪げに十六夜さんの方を覗いている。十六夜さんの方はといえば、長湯はしないようにねと笑って返すことで、さして手酷く咎めているのではないと言外に伝えていた。

 その手の細かい機微が6歳児である姉さんに伝わっているのかどうかは怪しいが。じゃあ姉さん、待っていてください、本を部屋に置いてきますと声をかければ、私も行くとその小さな手で僕を引っ張ってきた。

 身体能力の都合上半ば引っ張られるように廊下を進む傍ら振り向けば、にこにこした十六夜さんが手を振ってこちらを見ていた。部屋の隅にはやっぱりこちらに手を振る小人さんたち。暇そうに本棚と壁の間で爪の手入れをしている隙間女。賑やかな部屋である。退魔師というものは、こんな世界で生きているわけか。

 

 

 

 姉さんに引っ張られつつそんなことを考えていれば、突如として胸に痛みを感じ、がくりと膝をつく羽目となった。手にした幾冊かの本が、保持しきれずに床へと落ちる。

 

 「まいな!?」

 

 驚いて駆け寄る姉さん。異変に気付き、急いで近づいてくる十六夜さん。駆け寄る(浮き寄る?)二人に大丈夫ですと返し、そのまま≪病気治療≫の呪文をかける。痛みは激しい。閉じた目の裏側に火花が飛び散り、必死に噛みしめる歯が顎にひどい負担をかける。

 随分と長い19秒ののち、病が治癒される。先ほどまでの痛みが嘘のように消え去り、ただ噛みしめ、力を入れた部分の肉体的疲労だけが空しく残る。

 

 「ごめんなさい、もう大丈夫です」

 「本当(ほんのこ)て? ねてなくて大丈夫(だいじょっ)?」

 「はい、病は治しましたから」

 「本当(ほんのこ)て? 本当(ほんのこ)て大丈夫(だいじょっ)?」

 「大丈夫ですよ、姉さん」

 「ほんのに、ほんのに、ほんの?」

 

 本当に? 本当です。本当の本当? 本当の本当です。本当の本当の本当? えー、はい。本当の、本当の、本当ですよ。

 何とも子供らしい同じ単語の連続に答えつつ本を拾い集め、再び立ち上がる。うん、問題ない。病気は完全に治癒されている。僕は健康だ。……健康なのだが。

 

 無論、いまさっき突然倒れた子供に入浴を許すほど、神咲家の育児はいい加減ではない。子供の湯あたりや湯ざめは明らかに健康に悪いのだ。

 十六夜さんに少し横になって休んでいなさい、後で体を拭いてあげるわと伝えられ。姉さんの方はといえば、そのまま十六夜さんに手を引かれて行くこととなった。倒れかけた僕ではなく姉さんの手を引いていったのは、単に僕と姉さんの“聞き分けの良さ”の差だろう。姉さんだって病弱なのだ。何か感染する病気に僕がかかっていたのなら、一緒いにいるのはよろしくない。

 無論薫姉さんも、その辺りのことはある程度分かっているのだろう。嫌だ妹と一緒にお風呂に入るんだとごねることはしなかった。しかし感情的に納得できたわけでもなさそうで、何度もこちらを振り向きながら、盲目の刀精に手を引かれていく。かわいそうな気もするが、仕方のない話でもある。

 

 「姉さん」

 「なに?」

 

 自室に戻る前に、十六夜さんに手を引かれ、ちょっと膨れて見せている姉さんに声をかける。

 

 「また今度、一緒に入りましょうね」

 「……うん、約束(やっじょ)だよ?」

 「はい、勿論です」

 

 姉さんの幼いかんばせから、僅かに不貞腐れたような表情が消えることはない。ただ僕に小さく手を振った後は、もうこちらを振り向くことはなく。目の見えぬ十六夜さんを先導するように廊下の向こうに消えていった。ちょっとは機嫌を直してくれた、ということなのだろうか。薫姉さんの、幼い子供にしかありえない、我儘さと優しさが同時に存在し得る生のままの振る舞いに、少し頬が緩むのを感じる。

 

 

 

 

 

五、

 それにしても。

 それにしても、だ。

 

 自室に戻り、押入れより引っ張りだした布団の上に倒れつつ、考える。

 

 なるほど、僕は病弱だ。家族の献身がなければ、霊術の恩恵がなければ、とっくに彼岸へと渡っているだろう貧弱な肉体の持主だ。ここ数日元気に動き回れているのは、≪病気治療≫の呪文を使い倒しているからにすぎない。いくら呪文を覚えたところで、この身が健康とは縁遠いという事実に変わりはないのだ。

 仰向けに寝転び、幽霊だろうか? 天井からこちらを見下ろす半透明の老翁とにらめっこをしつつ思考を進める。

 

 

 

 しかし。

 それにしたところで、ここ数日の罹患の頻度は高すぎる。病弱といえども、僕は週の半分ないし半分未満程度は、一応活動で来ていたのだ。にもかかわらず、今日僕は何度≪病気治療≫の呪文を使った? こんな頻度で病に罹っていたのなら、今まで僕はもっと倒れていただろうし、もっと動けなかったはずだ。明らかに、異常な事態である。

 

 このような異常な頻度で病にかかるようになったのは、ここ数日。すなわち≪病気治療≫の呪文を習得し、同時に特異点の不利な特徴で怪異に出会うようになってからである。

 ならば、この家にて大いに出会う怪異達のいずれかが、この病頻発の原因だろうか?

 

 しかし、それは考えにくい。

 確かに神咲家には多数の怪異が存在するが、いずれも力が弱く、害のない連中のはずだ。……いくらなんでも、害のある怪異を退魔師である和音婆様や亜弓さん、雪乃母さんが放っておくとは思えない。彼らは人に害をなさない、少なくとも今のところは無害の怪異だからこそ、家にいても気にされないのだ。あまりにプライベートな場所“トイレ”に出る怪異については、和音婆様が祓っている……或いは追い出している……わけだし。紺屋の白袴といったところで、限度というものは存在するはずだ。何もしていない、無警戒とは考えられない。

 彼らが察知できないほど高度な術理が僕にかけられている、という可能性もないではないが。その場合当代有数の術者である和音婆様や、数百年を生きる霊刀の精である十六夜さんを欺くような相手が、何だって僕のような貧弱な生き物を嬲るような真似をするのか、という疑問が残る。絶対にありえないとは言えないが、ちょっと考えにくい可能性である。

 

 或いは原因は怪異ではなく、≪病気治療≫そのものにあるのだろうか?

 ルール上、僕が≪病気治療≫の呪文を間違って習得するという事態はあり得ない。しかし僕が学んだ≪病気治療≫の呪文が、“実は≪病気治療≫の呪文ではなかった”という可能性はないだろうか?

 例えば僕が間違って、“今罹患している病気を治す代わりに、時間差で何か別の病気にかかる”という呪文を≪病気治療≫の呪文だと思って習得してしまったのであれば、現状の説明はつく。僕は大まじめに呪文で病を癒し、同時に時間差で別の病にかかるお膳立てまでしてしまっていたというわけだ。

 

 だが、そんな可能性があり得るのだろうか?

 

 確かに僕は“240時間の学習で呪文1つを習得する”という、随分とゲーム的でデジタルな理屈でもって呪文を習得している。しかしその学習に用いた240時間は、ただ教科書である古文書を眺めていたわけではない。書かれていることを分析し、咀嚼し、理解し、記憶し。己の血肉とすべく貪欲に取り組み続けているのだ。術式の内容やマナをどう扱い、どう肉体に作用させているのかなどは詳細に分かっている。

 勿論実は僕がそう思っているだけで、僕の学習にはゲームシステム的な意味以外の何もない、という可能性もなくはないのだけれど。それを疑い出すときりがないし、精神衛生上極めて悪いのでやめておく。

 

 僕が呪文の構成内容を咀嚼した上で“システム的な”習得をしているとするならば。例えゲーム的なシステムのみによって呪文を行使しているとするにせよ、その内容について勘違いしているというのは不自然である。

 

 

 

 現れた怪異達のいずれかが危害を加えているわけではない。そうであるならば、家族が気がつかないはずはないのだから。

 習得した呪文が間違っている可能性もない。そうであるならば、僕が気がつかないわけはないのだから。

 

 

 

 考えられる2つの可能性は、いずれも否定されるべきものだ。ならば、この異常事態はいったいいかなる要因でもって勃発したのか。根本的な情報が足りないのか、それとも知力判定でファンブルでもやらかしたのか。人類最高2歩手前、アリストテレスの一歩先という極度に高い知力は、何らまともな答えを出すことができない。

 

 

 

 一体この数日前から起こっている、病気に不自然なまでに病気にかかり続けるという事態は、いかなる要因によって引き起こされているのか?

 

 

 

 複数の可能性を模索しつつ、しかし結局回答を導き出せぬまま。

 心配そうにこちらを見る隙間女の視線を感じつつ。僕はいつの間にか、眠ることとなるのであった。

<続く>

 




 特異点とプレイヤー・キャラクターに関する諸々の事情については筆者の独自見解です。
 一人で生きていくには無理があり、それでいて致死的な不利な特徴を持っているならば。そのキャラクターは夭折するのが道理であるという考えもまたあるでしょうし、筆者にそれを否定する気もありません。ただ、このお話では作中のような解釈で特異点という不利な特徴が運用されているということです。ご了承ください。
 ついでに、神咲家に怪異が出まくっているという設定も捏造です。原作にそんな描写はありません。ただ神咲家が霊的な溜まり場になっていたり、しょっちゅう怪異が現れていてもそんなに変ではないと思います。このお話では、特異点持ちがいるわけですし。

 ブログのほうで第四話におけるルール運用の間違いをご指摘いただきました。折を見て直しておこうと思います。
 それにしても方言って難しいです。これで薫の喋り方はあっているんだろうか?
 ともあれ。今回はこれにて失礼いたします。


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第七話『煩悶』

序、

 ……さて、ラジオニュース、お昼のコーナーです。

 鹿児島県各地で63年ぶりに、笹の一斉開花が観測されました。記録に残されたものよりも1~2ヶ月早咲きで、結実も同様に早めのものと見られます。笹の実は野麦とも呼ばれ、古来より救荒食として利用されてきました。

 当時を偲び、周知してもらう意味もあり……あり……ええと、なんだっけ。

 そうそう、……近隣自治体は笹の実から作ったパンを無料配布するイベントなどを企画している模様で、模様で、で、で……開催場所は……。

 ……うむむ。流石にこれ以上は。まあいいや、次だ、次。

 おんぐ、だくた、りんか、ねぶろっど、づぃん、ねぶろっど、づぃん、おんぐ、だくた、りんか、よぐ、そとーす、よぐ、そとーす、ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅぐあ、ふぉまるはうと、んがあ・ぐあ、なふるたぐん、くとぅるふ、るるいえ、うが、なぐる、ふたぐん……。

 

 

 

 僕の勉強部屋となりつつある神咲邸の一室。煩わしいことこの上ない眼鏡をかけ、書見台に乗せた書籍と格闘しつつ。僕は脳内で半年以上前のニュースの内容だの邪神礼讃だのの一節を、延々とリピートすることとなっていた。

 

 僕が転生に際して与えられた凄まじく高い知力は、例え“並列思考”の特徴を持たずとも2つの精神的活動を同時に行う程度の真似は可能である。

 ……少なくともGURPS SPACE SHIPSには操舵をしつつ火砲を扱う場合や、センサーで広域を索敵しつつ目前の敵艦をスキャンする場合にどんなペナルティがかかるのか設定されているのだ。特に専用の特徴を保持しておらずとも一定のペナルティさえ受ければ、GURPSのキャラクターが同時に複数のことを行うことは可能のはずである。例えば今行っているように、怪しげな口上を頭の中で繰り返しつつ書籍の内容を吟味するような行動に問題はない。ないはずだ。

 勿論そのような行為によって発生するペナルティは結構なものであり、一定以上知力が高くないと役には立たない。が、僕の知力は充分に高い。問題ないのだ。

 折角知力が高いという転生者としての特典を賦与されているのだ。それを利用しない手は無いということである。例えそのお高い知力とやらが何の努力もなくカミサマパワーによって賦与されたご都合主義能力であったとしても、だ。そも、才能というものは普通当人の努力によって得られたものではないのだし。

 

 

 

 さて、現状において行うべき事柄は2つある。

 1つは長期的な視野に基づいての“訓練”。

 もう1つは短期的な視野に基づいての“確認”だ。

 

 

 

 長期的な視野に基づいての“訓練”とは、“思考防御”の技能を習得するための訓練を指す。

 “思考防御”は表層思考において意味のない連続的な思考活動を行うことによって、自分の精神を読まれることを防ぐ技能である。この“意味のない連続的な思考活動”とは、詩でも、数式でも、カーレスを称える歌でも。はたまた前述のようなラジオニュースと呪文のごっちゃになったような滅茶苦茶なものでも構わない。ともかく何でもいいのでずっと考えていられるなら効果を発揮する。この技能を訓練する場合もやることは同じだ。僕の精神を読もうとする誰かさんの読心を邪魔できればいいのだから当然である。

 この技能があれば、魔法を使おうと超能力を用いようと、僕の精神を“読む”ことは困難となる。思考の表層に無意味な思考の連なりがすっと張り付いているのだから、心を読むのが難しいのは道理である。

 少なくとも、その手の超常能力で僕の心を読まんとすれば、まず僕の“思考防御”の技能との即決勝負(GURPSにおける判定方法の一つ。より技能……場合によっては能力値……レベルの高いほう、6面ダイス3個を振って出た出目の合計がより低い方が有利となる手っ取り早い勝敗決定方法)に勝つ必要が生じる。イメージとしては、某太陽系帝国大執政官殿の精神ブロックあたりをイメージしてもらえばいいと思う。まあ、あれはテレパシー能力によるものだけれど。

 この技能を用いている限り、超能力的なテレパシーだろうと妖術的な“さとり”だろうと、コンパクトにしてあげるよな人のギアスだろうと。僕の精神を読もうとすればまず表層のこの意味のない思考の羅列を突破する必要があるのだ。

 

 遠近問わず直接攻撃が得意なら、心を読む相手に“考えない”ことで対抗することも可能なのかもしれない。が、生憎搦め手による戦いがメインとなるGURPSの魔法使いには、そのようなやりかたは許されない。莫大な数の呪文を駆使し、相手を“無力化”する戦法をメインとするのがGURPSの魔法使いなのだ。ために自分の心を読まれてしまうというのは非常に深刻な事態だ。

 

 で、ある以上、超常能力による精神走査を警戒し、自分の心を雑念の波で覆うこの訓練は不可欠のものといえよう。今すぐに役に立つものではないが、今後のことを考えれば是非とも取っておかねばならない技能であり、訓練は早めにしておいた方が良い。何時僕の心を読むような存在と相対する羽目となるかなど、わかったものではないからだ。

 

 なお、流石に十六夜さんの授業を受けている時や自分で呪文の学習をしているときにまでこの訓練を行うことはできない。同時に複数の思考活動を成立させる“並列精神”の特徴があるわけではないので、ルール的な学習を2つ同時に行うことはできないからだ。あくまで、学習でない作業をと並列させているからこそ出来ることである。

 

 

 

 短期的な視野に基づいての“確認”については、今現在書見台に置かれた書籍を相手にやっていることがそれに当てはまる。

 一体如何なる要因が作用してのことであるのかはわからないのだが。僕は≪病気治療≫の呪文を習得してからこのかた、異常な頻度で病にかかる羽目と相成っている。幾ら≪病気治療≫の呪文習得により病弱であることによる負担が減ったとはいえ、この奇妙に病の発症が頻発する事態の原因を解明できなければ、日常生活を送るだけでも多量の問題が発生してしまう。

 

 この“異常な頻度で病にかかる”事態については、原因と推測される事情が2つある。

 1つ目は≪病気治療≫を習得した直後から、恐らくは特異点の特徴によってこちらを気にしだしたと思しき多量の怪異の存在である。隙間女、人面犬、小人さん、座敷わらし、奇怪な影や目玉やら。そういった連中のいずれかが僕に怪しげな術をかけるなどして病を頻発させている可能性がある。

 2つ目は僕がそもそもこの≪病気治癒≫の呪文を間違って覚えているという可能性だ。ゲームシステム的にはそんなことはありえないはずなのだが。現実的には≪病気治療≫の代わりに、似たような効果を発揮するが同時に病にかかる可能性も極端に上昇させる呪文、などといったものを習得してしまった可能性だって絶無とは言い切れない。

 

 ここ数日、僕が病弱であることを勘案してなお異常な頻度で病に罹っているという事態の理由としては、“怪異の仕業”と“呪文を間違って覚えた”の2つのうちいずれかではないかと考えているわけだが。困ったことにどちらも考えにくい状態である。

 

 怪異の仕業である可能性はないといってもいいだろう。如何せん、ここは神咲家。退魔師の家である。和音婆様にせよ亜弓さんにせよ当代随一と言って良いほどの腕前を持った術者であり、人様に直接害をなすような怪異や術に気がつかないとは考えにくい。

 確かに彼ら神咲家の人々は怪異を問答無用で祓うような人々ではない。原作でも親類縁者を殺されたにもかかわらず誤解の解けた御架月を受け入れているし、現代においてさえ数人の人間と肉親一人を惨殺した久遠を力を封印するだけに留めている。神咲家の術者は疑わしき怪異を皆殺しにするような“確実な”手段はとらないようである。

 勿論、だからと言って人に仇なす怪異を放置しておくようなこともしない。例え自分に助けを求めてくる幼稚園児の霊であったとしても。それを救う方法が斬ることしかなければ、放っておけば人々に害をなすならば、遠慮なく駆逐するようなのだけれど。

 

 ともかく。神咲家には多数の怪異がいるようであるが、あくまで彼らは“人に直接害を与えない”存在であるから放っておかれているのであって、“人に直接害を与える”であるならば和音婆様あたりが除霊しているはずなのだ。ためにこの神咲家で僕にちょっかいを掛けようとする怪異がいても、それは精々脅かそうとする程度のことであり、病に罹患させようなどといった術を用いているわけがないのである。

 

 ならば何故、僕は≪病気治療≫の呪文を習得してからこのかた、異常な頻度で病に罹っているのか。

 

 怪異の仕業でないのなら、習得した≪病気治療≫の呪文に問題があるとしか思えないのだけれど。いくら調べても習得した≪病気治療≫に問題は見当たらない。

 部屋の外から明らかに姉さんではない童女の視線を感じつつ、古文書の記述を反芻しているわけであるが。どう考えても、僕の習得した呪文に不備があるようには見受けられないのだ。

 大気中のマナを呪文行使のためのエネルギーとして消費する方策。消費したエネルギーによって世界そのものに干渉する術式。世界を構築する一部であるところの、対象の状態の認識方法。対象の正常な状態を呼び出すやりくち。対象の現状とあるべき状態を一致させる書き換え方。書き換えによって生ずる問題についての地味で退屈な無数の対処方法。

 いずれを見直してみても問題は見当たらない。僕が習得した≪病気治療≫……少なくとも、僕はそう認識しているもの……は完全に問題のない“病を治療する呪文”であり、おかしな副作用が出る余地はあり得ない。

 まあ、呪文の構成に関して理論立てて研究する“魔法理論”の技能を取っていないので、絶対にありえないと確言することはできないのだけれど。ただ、1つの呪文の習得に240時間以上の時間を費やした身として述べるのであれば、僕はこの呪文を間違って覚えている可能性はない。無いはずだ。

 

 僕が自身の肉体的素養を勘案してもなお、異常な頻度で病に罹患するというこの事態。その原因として考えられる2つの事情は、いずれも現状の説明をなすには説得力に不足がある。

 

 病を頻繁に発症する原因として怪異を挙げるのは正当とは言えない。彼らは神咲家に現われているのであり、その神咲家は幼子に危害を加えるような怪異を放っておくとは考えにくい。

 病を頻繁に発症する原因として僕が習得した呪文の不備を挙げることも難しい。いくら念入りに探したところで、僕が習得した≪病気治療≫の呪文に問題は見当たらない。

 

 

 

 しかし同時に、僕が明らかに不自然な頻度で病にかかり続けているのも否定しようのない事実である。

 僕は尋常一様でない病弱っぷりを晒す貧弱幼児であるわけだが。それにしたって限度というものがあるのだ。1日のうちに何度も≪病気治療≫の呪文を行使しなければならない状態は、明らかに自然のものではない。

 ≪病気治療≫を習得してから既に一週間が経とうとしている。自分一人で色々とこの奇怪な状況について説明をつけようとあれこれ模索してみたわけであるが。どうにもうまくいかない。

 

 ならば、どうすべきか。

 それはもちろん、決まっている。

 

 

 

 

 

 僕一人で解決できない問題であるのならば、他の人を頼ればいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第七話『煩悶』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 「ううむ、そうじゃのう」

 

 床の間に寒椿を生けながら、姿勢のしっかりとした老婆が首を傾げる。掛け軸の前に置かれた花瓶は素焼きのものの一部に上薬をかけただけの特徴的な陶器、備前焼だ。濃い桃色の花弁が沈みきった原始的な土の色の上で、浮き上がるような存在感を見せている。

 

 現状で僕が抱えている問題。≪病気治療≫を覚えてからこのかた頻発する病について相談した相手は、十六夜さんでも和音婆様でも雪乃母さんでもなく大叔母の亜弓さんだった。

 

 理由は単純なもので、他に相談できる相手がいなかったからである。

 和音婆様は先日から警察と何らかの事件の捜査に行っており、家にいない。現継承者である和音婆様が退魔師の仕事で出ている以上、十六夜さんも一緒に出かけている。

 雪乃母さんは何をしているのかよくわからないが、ともかく出かけている。いつものことではあるのだけれど、彼女もまた忙しそうだ。退魔師の仕事だろうか? 僕については別にかまわないのだが、姉さんはあまり相手をして貰えず寂しそうである。

 一樹父さんは道場の関係で遠征中である。尤も父さんは神咲一“刀”流の師範であり、剣術はともかく霊術は使えない。当然、退魔師でもない。ほかのことについてならばともかく、怪異や術については相談のしようがない相手ではあるけれど。

 薫姉さんは元気に庭先で素振りをしているが、彼女に相談をしても仕方がない。6歳児としては相当に聡明な娘さんだとは思うけれど、それでもその年の子供に相談しても相手を困惑させるだけであろう。いや、真剣に考えてはくれるのだろうけど。

 

 

 

 選択の余地がなかったとはいえ、亜弓さんは今回の問題について相談を持ちかける対象として適切な相手ではあるはずだ。

 他の技能についてどうなのかはわからないが。少なくとも治癒術について神咲家の中でも優れた人物が亜弓さんでる可能性が高いからだ。

 まあそう判断した理由は、僕に治癒の霊術をかけてくれる人物が彼女であるから、というだけのものなのだけれど。

 とはいえ、まさか治癒術の苦手な人物に孫娘の治療を任せるとも考えにくいので、彼女は神咲家の人々の中で相対的に「癒し」の霊術を得意としているか、或いはまともに病気を治療できるレベルの「癒し」の霊術を使えるのが彼女だけなのではないかと思われる。

 ともかく。恐らく多分治癒術や怪異について彼女に相談を持ちかけることは、適切な判断であるはずだ。

 

 「お前さんの異常に病にかかり続くいちゅう事態が、怪異の仕業(さた)ある(あっと)か、霊術の不備である(あっと)か、と問われてものう」

 

 とりあえず、生け花は終わったのか。僕の話を聞き終わった彼女は、畳の上に正座する僕に向き合うように正座する。

 

 「まず、舞奈。お前さんの霊術に問題がある(あっと)かと言われても良くわからん。そもそも、普通の霊術を使かう(つこ)にはある程度の霊力が必要じゃが、お前さんの霊力は神咲家の人間としては低い(ひき)。常人並じゃ。雪乃より(よっか)低い(ひき)

 

 亜弓さんの言葉に僕は黙って頷いた。GURPSのキャラクターは、キャラクターシートに特記されていない部分に関しては、普通の人間と同じだ。“特殊な背景/とらハ世界の霊力を持つ”などといった特徴でも持っていれば話は別だが。そうでない限り僕の霊力は“常人並”で当然である。

 

 「わしらが使かうよう(つこよ)な普通の霊術はお前さんには使えん。……結界や呪符を用いた術なら、使えるはず(つこがなっはず)じゃが。そっちは大した霊力を用いないからの。

 お前さんが使かうような(つこがなっ)治癒の術は、古い時代(ふりじで)の、霊力に左右されん霊術じゃ。記録(きろっ)には残っているものの(のこっちょものの)、そん古い(ふり)霊術はわしらには使えん。

 お前さんが使って(つこて)いる術についての資料は読んでみたが、使えない以上術についての実感もなく、実際に術を使える相手にできる(つこがなっえてにでくっ)助言もない」

 

 案の定、亜弓さんたちが古い霊術であると認識しているGURPSの呪文は、GURPSのキャラクターではない亜弓さんたちには使えないようだ。その内容についても詳しいことはわからないと。

 逆に僕が神咲一灯流の技を使うこともできないということだ。例えば僕はどれだけ練習した上で十六夜さんを構えたとしても、真威楓陣刃を放つことはできない。或いは放てたとしても一般人が無理矢理放った程度の威力しか出せない。

 勿論一般人程度の霊力はあるので、この世界の一般人同様きちんと訓練を受ければ、超常的なエネルギーを自分ではなく周囲やガジェットから引き出す類の術は使えるようだけれど。

 

 ややこしい話だが、GURPSの超常能力ととらハ世界の霊力霊術は完全に別のものであるということだ。

 僕のようにGURPSの呪文が使えるからと言ってとらハ世界の霊能力者になれるわけではないし、神咲家の人々のようにとらハ世界の霊能力者であるからといってGURPSの呪文が使えたりはしない。

 更にややこしいことに、とらハ世界において霊能力者と一般人の垣根は曖昧だ。一般人にも霊力はあるし、神咲家の人々並に霊力が高い人間も存在する。実際に、とらハ2の主人公はルート次第では十六夜さんや御架月を継承することになる。つまり一般人である彼は、少なくとも退魔師として振る舞える程度には霊力が高いのだ。

 逆に神咲家、退魔師の人間であるからと言って霊力が高いとも限らない。例えば雪乃母さんの霊力は一般人よりは高いといった程度だし、父さんの霊力は常人並だ。

 そんな状態であるから、霊力が常人並に低くても使える霊術は存在する。結界や一部の除霊術、封印、探索系の術などである。勿論、使用者の霊力が低い以上別の何かから霊力を持ってくる必要があり、何らかの儀式や道具を用いる必要があるのだけれど。

 GURPSのキャラクターとして表現されている僕の場合、それら霊力が低くても使える術については、除霊や職業技能/退魔師といった技能を学習することで使えるようになるようだ。

 ただし十六夜さんから学んでいるものの、現状では実践を伴わない理論のみの状態である。技能レベルそのものは高くとも、どんな効果が出るのかは未知数だ。不安な話である。

 

 

 

 

 

二、

 亜弓さんの話は続いていく。

 

 「怪異については、少なくとも(すっのとも)わしらが感知出来る(でくっ)異常はない。

 誰か(だいか)を病に罹らせる術とはつまるところ(つまいのはて)呪い(まひね)”じゃが、どんなに(どげなに)微弱であろうともそんな(そげな)ものが屋内で使われてわしや和音が気づかんちゅうこちゃない。間違いなく(まっげなく)、お前さんを呪っている怪異はいない(いもはん)

 力の弱い(よえ)術ならば誰を狙った(ねろた)のかわからんちゅうこともあるが、そもそもこん屋敷(やしっ)で呪詛は使われておらん(つこわれちょらん)弱い呪い(よえまひね)でお前さんを害そうとしているということも(しちょっ、ちゅうことも)ないじゃろ」

 「遠方から呪われている可能性はありますか?」

 「それ(そい)もない。神咲邸の結界は、必要とあらば人間の出入りさえも(でいいせか)妨げる強固なものじゃ。下手に外部から呪詛しようものなら呪詛の反射(かやりの風)を喰らうのがオチよ。

 お前さんの習得した術の(ほい)に異常は……まあ、見つからんから聞いてきたのか」

 

 ええ、まあと頷く。困ったのうと老婆が思案気に首をかしげた。

 

 周りを見る。

 亜弓さんがいるからだろうか。戸棚の影からおっかなびっくり隙間女がこちらを覗いている。天井では逃げたものかどうかと半眼で悩む大きな眼球が張り付いている。障子の向こうにはこっそりと、がんばれーとこちらにエールを送る小人さんと、不思議そうにそれを眺める童女……座敷わらしなのだろうか……が。うん、実ににぎやかだ。

 特異点の効果だけではこうはなるまい。もともと神咲家が霊的に目立つ環境であることもこの状況を作り出す一因となっているのだろうか。

 そんな部屋の有様を見て亜弓さんが笑う。

 

 「好かれておるの」

 「そうなのでしょうか」

 「うむ。まあ気にかけているだけ(かけちょっだけ)かもしれない(しれもはん)し、そうであっても(あっで)悪さをしないという(あたをせんちゅう)ほど単純なものでもないのじゃが。少なくとも(すっのとも)彼ら(あいどん)は、お前さんを呪ってはおらんよ(いもはん)

 ほれ、そこの(そこん)小人どもなどはお前さんを言祝いで(ゆえで)いるではないか(あいもはんか)戸棚(ぜんだな)の間にいる輩は……まあ、お前さんが外に出るように(でっように)なったら追い散らすかのう(おいちらしもんそ)。外出は邪魔しそうじゃ」

 

 そう言って老退魔師がちらりと視線を向ければ、異様に細長い女怪異はびくりと身をすくめて影の中へと消えていった。亜弓さんと隙間女の間には、相当な実力差があるのだろうか。まあ、普段知らん顔して家にいることを許している以上、そうでなければおかしい気はするけれど。

 肺に激痛を感じ、半ば身を折るようにしながら≪病気治療≫の術をかけ、病を癒す。どの怪異の仕業であるかと見まわしてみるが、当然のように怪しげな動きをしているものはいない。勿論、部屋の外にいる怪異がやっていたら気付きようもないのだけれど。

 が、僕の異変に気づいた亜弓さんも油断なく周りを観察し、結局周囲のいずれの怪異にも視線を定めていない。やはり怪異のせいではないのか。

 

 「お前さんを呪っている輩は見当たらんの(見当たいもはんね)

 

 そう結論付ける亜弓さん。亜弓さんがそういうのだから、きっとその通りなのだろう。

 しかし、怪異のせいでもなく、呪文のせいでもないならば、僕の異常は一体何が原因なのか。

 考え込む僕に亜弓さんの言葉が続けられる。

 

 「そうじゃの。

 お前さんは、怪異や妖怪(めん)、霊の類を随分(あばてもなか)と惹きつける身であるの(あっと)間違いないことじゃの(まっげねごちゃっじゃの)。霊力の強さに関わりなく、そういった者は稀に(まねけん)いるものじゃ。特に、わしらのよな退魔師の家のものとしてはさして珍しい(めずらし)状態でもない。神咲の当代にはお前さんだけじゃが、昔はちょくちょくいたらしいしの」

 

 あるいは、それが原因やも知らぬ。

 ぽつりと放たれたその言葉に、僕は顔をあげた。

 

 「お前さんはひど病弱じゃ。物質的、霊的問わず、普通の人間よっかより小さい(ちんけ)干渉で体調を崩す(くやす)こともあるじゃろ。

 多く(うお)の怪異に囲まれて生きることで、余人では問題とならん、しかし体の弱い(よえ)お前さんにとっては問題となるよな体内の霊的な均衡の崩れが起こっているのかも知れん」

 

 なるほど。僕の極端に弱い身体と特異点の不利な特徴が、ハタ迷惑な化学反応をして見せたという事か。

 不利な特徴と不利な特徴が合わさって新たな問題が起こる、というのはGURPSのルール的にはなさそうな気がする。が、この世界はあくまで現実のものであり、GURPSのルールもある程度デフォルメされている可能性がある。……少なくとも、絶対にないとは言い切れない。

 

 しかしだ。もしそうだとすると非常にまずい。

 もし本当に亜弓さんの言う通り、僕の持つ特異点と退魔師の家という霊的な場所で過ごしているということ、それに病弱な諸々の特徴が連鎖した結果として異常な頻度で病に罹っているのであれば、対処法がないからだ。

 

 

 

 

 

三、

 現在行っている場当たり的な対処法、すなわち病気にかかるたびに≪病気治療≫の呪文を使い続けるという手段は、長期的には使えない。或いは有効な手段とは言いにくい。

 

 GURPSの呪文を行使する場合、(恐らくたぶん)必ず判定が発生する。僕が自分に呪文を使うのであればその成功率は約98.1%、ルール上の限界値である。失敗率は約1.85%。失敗し、それがファンブル(致命的失敗)である可能性は約0.46%である。

 意識するほどの失敗率かと首を傾げるかもしれないが、如何せん現状において僕は1日に数回、多ければ10回以上≪病気治療≫の呪文を使っているのだ。仮に1日に平均で8回≪病気治療≫の呪文を行使するのであれば、そのすべてが成功する確率は86.1%。10日間、合計80回の呪文行使がすべて成功する確率は約22.4%である。

 そして≪病気治療≫の呪文は、一度失敗した病気に対しもう一度行使することができない。つまるところ、現状のまま≪病気治療≫の連発のみで事態を乗り切ろうとした場合、僕は77%ほどの確率で、10日に1度は病に倒れることになる。そしてその病を自分の呪文で癒すことはできない。

 今までに比べれば随分と事態は改善されたといいたいところだけれど。この程度の状態改善のために≪病気治療≫の呪文を習得したわけではないし、ファンブルする可能性だって217回に1回程度はあるのだ。1日平均8回≪病気治療≫の呪文を行使し続けている場合、3週間に1回程度はファンブルするということだ。そしてファンブルの効果の中には効果を逆に発揮するとか、暫く呪文を忘れてしまうとか、或いは敵対的な悪魔を召喚してしまうというような深刻なものもある。

 3週間に1回程度、呪文で治すことのできない重篤な病に罹ったり、1週間ほど≪病気治療≫の呪文を忘れてしまったり。はたまた呪文能力と肉体的な強壮さ、知性、そして限りない悪意を持った超常存在を呼び出すような事態とは、ちょっと許容して良い事態ではないと思う。……まあ、ファンブルしたからといって必ずしもこのような重大な事態を引き起こすわけではないのだけれど。それにしたって問題なのは間違いない。

 

 現実的な行動と違い、明白な確率というものと密接に関係しているのがGURPSの呪文行使だ。継続的で連続的な行使は避けてしかるべきだろう。どんなに低い確率だって、継続して試行するならば、いつか現実に起きうるほどの確率を伴うようになるのだから。

 

 

 

 亜弓さんの予想が正しいのならば。神咲家にいなければ、霊的な場所に近づかなければ、この異常な病の頻発は納まるだろう。

 “神咲家から離れる”というのも一つの対処法だ。

 僕が病弱であることと神咲家のような霊的な場所にいることの2つが問題となって現在の状態となっているのならば、その2つの問題のうちの1つを除外することで己の安全性を高めるというのは当然の判断といえよう。

 が、この“神咲家から離れる”という選択肢は取る気にはなれない。それでは彼ら神咲家の人々の役に立つことができないではないか。ようやく彼らに恩を返すための下地ができ始めたというのに、自分からそれを捨て去ってどうするのか。

 

 病気や気絶に関する判定値が4(成功率は約1.85%だ)、HP2点の状態でも今まで生きてこれたのは、彼ら神咲家の人々の助力があったからだ。言わば神咲家の人々は、僕に対し継続的に命の恩人で“あり続けて”きてくれたのだ。そんな相手に対して何の対価も支払えないなど、冗談ではない。

 神咲家にいることなく彼らに恩を返す方法はあるだろうか? 無論知力が高いのだから金儲けに走ってもうまくいく可能性は高い。財貨で持って彼らに恩を返すことは決して非現実的なやり方ではないと思う。

 が、金で命は買えないのだ。少なくとも、僕は自分の命に金額を付ける気にはなれない。

 それに僕の場合金の力を使うより、素直に呪文を駆使した方が事態打開につながる可能性が高い。例えば重篤な病気などは最新の医療機器を用いるだけの財貨を得るより、19秒集中して呪文をかける方が手っ取り早いし、確実だ。

 大体、呪文ならば現代医療で治せないような病気でも治せるのだ。試していないので確言はできないが、僕の《病気治療》の呪文の技能レベルを勘案するなれば。僕は末期ガンだろうとエボラ出血熱だろうと一発で完治させられるはずである。

 既に今習得している呪文のみであってさえそのような有様なのだ。この先習得していく4桁にも登る種類の呪文の有用性については言うまでもないだろう。

 やはり神咲家にいて退魔師(或いはGURPSの魔法使い)として超常能力を磨いた方が、彼ら神咲家の人々の役に立てると思う。

 

 

 

 僕の呪文能力では対処できないし、確実な方法であるこの場所からいなくなるというものは容認できない。

 そんなわけで。現在起こっている問題が、亜弓さんの予想通り霊的な場所にいるからという原因を孕んでいる場合、僕には“対処法が無い”。しかし現実に直面している自体について“解決策はありません”で済ませるわけにもいかない。どうしたものか。

 

 

 

 「……奈、舞奈? どうしたんじゃ?」

 

 

 

 気がつけば、亜弓さんがこちらを心配そうに覗きこんでいる。はて、時間的には考え始めて数秒しかたっていないはずだけれど、と思いきや。どうも亜弓さんの発言には続きがあったらしい。話しかけているにもかかわらず突然反応がなくなったので、何事かと思ったそうな。

 僕の持つ不利な特徴のひとつ、“放心”の特徴が発動したのだろう。あまりにも気になることができてしまったので、それ以外について気が回らない状態となったのだ。

 突如として話を聞かなくなった非礼を詫び、もう一度お願いしますと頭を下げれば。亜弓さんは苦笑してもう一度繰り返してくれた。

 

 「お前さんの身に起きている(おきちょっそん)“病の頻発”が、お前さんが怪異に興味を持たれること、体が弱い(よえ)ことの相乗効果である(じゃい)じゃい場合、対処方法()は簡単じゃ。今度術者に“怪異の興味を逸らす”護符を作ってもらえば良い(よか)良。そいで(なん)もかもが良くなるか(ゆなっか)わからんが(わかりもはんが)今よりは(いまよっかは)良くなるじゃろう(ゆなっじゃんそ)

 ……ん? どうしたんじゃ(どげんしたと)、舞奈。頭なんぞ抱えて」

 

 どうやら最初から、亜弓さんには実現可能な腹案があったらしい。数秒とはいえ、深刻に悩んでいた自分が間抜けである。

 内心“何の対価も支払えないなど、冗談ではない”などと深刻ぶっていたことが、酷く恥ずかしい。素直にそのまま話を聞いていれば解決されるであろう事態について、何をやっているのか。

 所詮一部については超スペックの体を持っていたとしても、“中の人”が凡夫ではこの程度という事か。カミサマ転生の結果、身の丈に合った能力を貰ったなどとはとても言えたものではない有様である。

 

 

 

 

 

四、

 護符については今度賦与術者(亜弓さんは単に術者としか言っていなかったが、ともかくそのようなもの)に依頼して作ってもらうので、半年ほどはかかるだろうとのこと。完成すれば、現状のように多量の怪異に囲まれて過ごすことにはならないだろうと、それに伴い病の頻発という事態も改善されるだろうと、亜弓さんは言ってくれた。

 

 まあ、その護符がちゃんと亜弓さんの言う効果を発揮して見せたところで、僕の持つ“特異点”の効果は消えないだろうし、面倒事に巻き込まれる可能性は常にあるだろう。

 ただ、亜弓さんの言う通りこのあまりにも多い周りの怪異の大半は僕への興味を失うはずだ。……いくら“特異点”の効果があるとはいえ、常に周囲に怪異が存在する事態というのはおかしい。退魔師だらけな上に霊的に強力な拠点である神咲家にいるからこそ、ここまで極端な形で怪異と出会い続けているのだろう。

 

 

 

 話は終わったということで立ち上がれば、そのままぐらりと立ち眩みを覚える。平衡感覚を失い、ふと我に返れば背に畳の感触を覚えつつ、天井を見上げる羽目となっていた。世界はぐるぐると回転し、あちらの怪異、こちらの妖怪が興味深げに僕を覗き込んでいる。畜生、今度はどこがおかしくなったんだ? 胸に手を当てるだけの気力もわかず、助け起こしてくれた亜弓さんの腕にくたりと倒れこんだまま19秒集中。病を癒す。

 

 「なんにせよ、今日(きゅ)はもう寝ておれ。

 お前さんの得た術理は優れたものじゃが、それだけ(そしこ)で人間様の体を好きに出来る(でくっ)ものでもないじゃろ」

 あとで粥を持って行ってやるからの。大人しくしておれ―――」

 

 どこか呆れた風情でそう述べる亜弓さん。僕は同意と感謝を口にし、立ち上がり、自室へと足を向ける。確かに、これ以上動き回っていても仕方がない。数値的にはともかく、長時間の行動はそれ以外の点で僕自身の肉体を消耗させているはずだ。無理をした挙句翌日意識が無い、などといった状況になっては対処の方法がない。≪病気治療≫の呪文が有効なのは、あくまで僕の意識があり、呪文を行使できる場合のみなのだから。

 しかし、しかしだ。それにしても。

 

 人間様の体を好きにできる―――――か。

 

 確かに、今の僕にはそれは不可能だ。腕や足が折れたら≪接合≫が必要だし、消し飛ばされたなら≪再生≫が必要だ。生命力を賦活させるのは≪活力≫の呪文であるし、自在に変化しようと思えば≪大変身≫を修める必要があろう。ほかの何をするにせよ、そのためには各々異なった呪文が要求される。そしてそのいずれにせよ、僕はまだ習得していないのだ。

 

 僕はまだ学ばねばならない。

 僕はまだ強くならねばならない。

 

 そうだ、折角ある程度健康に動き回れるようになったはずなのに。こんなおかしな状況で躓いていいわけがない。1つでも多く、1時間でも早く呪文を習得しなければならない。1日でも多く学び、1CPでも多く技能を習得しなければならない。恩を返すのだ。与えられたものに応えるのだ。そうでなくして、何が転生者か。前世の記憶か。超常能力か。

 

 

 

 そうだ、僕は―――――

 

 

 

 「ぐ、えぁ……。うぁっ……」

 

 唐突に、肺腑の奥より焼け火箸でも押し当てられたかのような灼熱感が生ずる。足がもつれ、手をつくこともできぬまま板張りの床へと倒れ伏す。

 

 「う……げほっ、げほっ……」

 

 転倒による痛みをこらえて口を押さえれば、不健康な白い掌がべっとりと赤く塗装されていた。また病に罹患したのか? ちょっと待て、幾らなんでも間隔が短すぎる。さっき≪病気治療≫をかけてからまだ数分しかたっていないぞ。にも拘わらずこの様なのか?

 

 呪文のせいなのか?

 妖怪、怪異の仕業なのか?

 

 前者はともかく、後者は周囲を観察すれば何かわかるかもしれない。そう思って辺りを見回そうにも、体がまともに動かない。ただただ、肺腑が、喉が熱い。口腔にひどい苦みが広がり、視界が点滅する。

 

 ああ、いや。違う、馬鹿。そんな場合じゃない―――――

 

 早く≪病気治療≫をかけないと。この病は深刻なものだ。取り除かなければ、意識を保てないではないか。呪文、呪文、呪文だ。この際、習得した呪文が本当に正しいかなど気にしていられない。ともかく、今だけでも治さねば。集中して、周囲のマナを感じて……エネルギーを空間から引き……ああ、畜生。意識が……。

 だめだ、とても19秒も集中していられない。まず時間を得なければ。そうだ、相対的に詠唱の短い≪病気緩和≫の呪文を……。集中して……集中して……。

 

 「げほっ……げほっ……。かはっ……」

 

 己のどこにこれほどの力があったのかと思うほどの勢いで、体が痙攣する。駄目だ。呪文に集中できるような状態ではない。世界が回る。周囲が暗くなる。音が遠くなる。頬に感じる板の間の冷たささえ、彼方へと過ぎ去っていく。意識が、真っ黒な深淵へとどんどん遠ざかっていく。

 

 

 

 ……んば…………、が……ば……ー―――――

 

 

 

 ひどく遠くの、どこかから。奇怪な音の羅列を耳にしつつ。僕の意識は、深い深い闇の中へと引き込まれていくのだった。

<続く>




 神咲家の霊能力とGURPSの超常能力との関係性については筆者の捏造設定です。”除霊”や”職業技能/退魔師”が何処まで便利使いできるのかについてもかなり拡大解釈したものとなります。
 何故こんな解釈をしたのかといえば、偏に舞奈のCPを少なくするためです。如何せん、マンガやゲーム、エロゲの超常能力などをGURPSのルールで再現するとトンでもない量のCPを必要としてしまうので……。
 亜弓の方言をルビを使用して書いてみました。上手く表示できていれば良いのですが。
 次の話はもう少し早めに投稿できればいいなと考えております。
 それでは、これにて失礼いたします。


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第八話『予感』

序、

 しゅうしゅうと、冷たく薬臭い空気が肺の中へと押し込められてくる。

 我が物ながら折れやしないかと不安になってくる細腕の内部に、得体の知れない何かが注ぎ込まれる。いまだぼやけた視界が捕らえた、僕へと突き刺されたチューブの数は1本や2本ではない。野生動物よりも鋭い聴覚は、ベッドの横にある心電図のものであろう。いささか不規則で、どこか弱弱しい電子音を、嫌味なほどクリアに伝えていた。

 

 自宅で血を吐いて倒れた僕が目を覚ました場所は、何度も通院したことのある大学病院の、集中治療室のようであった。異常なほど病弱であるとはいえ、霊術による治療を受けられるのが僕こと神咲舞奈である。継続的な状態管理が必要な患者のみが入れられる、この物々しい場所に放り込まれた経験は数えるほどしかない。

 ……まあ、逆に言えばそれだけの便宜を図ってもらえる身であるにも拘らず、“数えるほど”放り込まれたことがあるほど貧弱であるともいえるのだけれど。

 ともあれ。そのような環境にあって尚僕がここにいるということは。僕の現状は、病弱者のありさまと考えてなお危険な状態であるということなのだろう。

 

 《病気治療》の呪文を行使するべきか否か。

 

 半ば朦朧とした意識のまま悩む。

 無論、ただ僕の健康のことのみを考えるならば、使わないという選択肢はありえない。

 

 確かに。ここで僕が《病気治療》の呪文を用いればほぼ確実に僕は健康体となり、無数の点滴や呼吸器、はたまた胸にぺたぺたと貼られた心音感知用のパッドから解放される。看護婦さん達(そう。現在はいまだ保健婦助産婦看護婦法が改正される2002年より前の時期であり、時期的にまだ看護“婦”さんが存在する時代なのだ)は死に損ないの患者一人の世話から解放され、病院側としてもベッドが一つ空くことになる。姉さんだって、亜弓さんや十六夜さんだって、僕が死の淵に瀕しているよりは元気でいる方が心労が少なかろう。僕がこの場で《病気治療》の呪文を行使することは、一見良いこと尽くめのように思われる。

 

 が、以前和音婆様に僕が“霊術”を見せたときに刺された釘。即ち“周囲に通常の霊術であると誤魔化せるようになるまで人様の前で霊術を使ってはならない”という文言と、そこから推察されるGURPSの呪文を神咲家の人間(つまり僕、神咲家の次女たる神咲舞奈)が行使することによって引き起こされるデメリットが、僕に超常能力の使用を躊躇させる。

 

 この病院は神咲家の人々が退魔師という超常能力者の集団であるということを知った上で受け入れてくれる“事情の分かった”場所であるのだが。

 それは即ち、神咲家の霊術がどんなものであるかある程度知っているということをも意味するのだ。彼らは神咲家の霊術は通常その行使に際してぴかぴか光ったり、効果音が鳴ったり、お札が飛んだりと、“ハタから見て何かやっているのがわかる”術であると知っているのだ。

 にも拘らず、ここで僕がGURPSの呪文で自分の病気を治癒してしまったらどうなるだろうか。

 

 

 

 彼らの視点からは、以下のように見える可能性がある。

 ……奴ら神咲家の人間は、その超常能力の行使に際し、余人が見てその発動を認識できるやり口しか持っていないかのように振舞っていた。

 しかし見ろ。神咲家のあの病弱な小娘は、我々には感知できないやり方で超常の術を行使し、己の体を治して見せた。

 あんな小娘でさえ、こちらにその行使を気づかせることなく超常の術を使えるのだ。ならば他の神咲家の術者も当然、俺達に感知できないよう術を行使することが可能であるはずだ。

 にも拘らず、奴ら神咲家の連中が今まで態々俺達の前では光ったり、音を出したりして術を使っていたのは何故なのだ。

 或いはもしや、奴らは俺達に”自分達の術の行使は貴方が見ても分かるだけの特徴があるのですよ“とことさらに強調しておいて、裏ではこの神咲家の小娘がそうであるように、俺達にわからぬよう超常の術を行使していたのではないか。何か良からぬことに、その妖しの術を用いていたのではないか……。

 

 そう推測され、神咲家の人々が怪しまれ、場合によっては迫害される可能性さえあるのだ。

 誇大妄想と思うかもしれないが。例え現代においてであり、超常能力など持たない人々であっても、一旦“もしかしたら超常能力者かもしれない”とみなされれば最後、陰惨極まりない迫害を受けているのだ。幾つかの中東の国では今なお“魔法をかけられた場合の対処”について公的機関が対応していたり、或いは幾つかの国の法律で今尚魔術が禁止されていることを知れば、概ね想像がつくだろう。魔女狩りは、白色人種が必死にその被害者数を削りに削っている、歴史上の、過去の出来事ではない。今この瞬間にも起こっている可能性さえある、実にモダンな出来事なのだ。

 そうであるが故に。本物の超常能力者が人々に危険視された場合に受ける迫害とはひどく身近なものであり。更には古今東西の人間が遠慮なく叩きのめせる大義名分を得たときそうであったように、飛鳥了に踊らされた人々がやって見せたがごときに陰惨な暴力が“超常能力者”に振るわれることとなってもそれは当然の帰結といえよう。

 

 「地獄へ堕ちろ! 人間ども!」

 

 そう叫んで《火吹き》の呪文で人類を虐殺する気があるのでもない限り。他者にその効果を明白に確認される状況で呪文を行使するのは考え物であろう。

 

 別に僕は死にたいわけではないのだが。だからといって、神咲家の人々に極度の(極度の、だ。多少なら仕方がないということにするつもりである)迷惑をかけてまで生き延びたいとも思わない。彼らから受けた恩なくして、僕は今まで生きてこれなかったのだから当然である。……まあ、殊勝なことを考えてみたところで、今際の際になったら別の感想を抱くのかもしれないけれど。現状はそこまで切羽詰ってはいない。極端な話、現在罹患しているこの病のせいで僕が重篤な障害を得てしまったとしても、今後も呪文の学習と行使が可能であるならば、魔法によって治療することはできるのだ。あと数秒でこの世を去る羽目になるという話でもない限り、和音婆様の言いつけを破るか否かで悩む必要はないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第八話『予感』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 しかし、まあ。

 周囲を観察しつつ、考える。いやはや、随分と設備の良い病院である。未だ80年代半ばであるにも拘らず、超電導MRIがあったりする(勿論、現在近辺にあるわけではなく、以前ここに来たときに見たということであるわけだが)。うろ覚えだけれど確かこの時期、臨床実験中の装置じゃなかったか? 僕の腕に刺さった点滴だって、当然のように自動点滴装置が取り付けられている。……後者については何時開発されたものなのか知らないので、この時点で運用されているのは当然なのかもしれないけれど。

 施設そのものも新しいらしく、開放的で間取りも広い。ここは個室だけれど、その割りに随分と広く、ストレスを感じるようなものではない。

 病院の作りそのものだってそうだ。古い病院にありがちな低めの天井や、狭い通路。いかにも無理やり増改築しましたと言わんばかりの廊下のツギハギなども存在しない。随分都合よく近所によい場所があるものだなぁと思わせられる有様だ。

 

 

 

 とはいえ新しかろうと古かろうと、ここが病院という生と死の双方に大いに関わりのある“境目”の世界であることには違いない。当然幽霊怪異魑魅魍魎の類の出現頻度はその他の場所とは比べ物にならないほど高く、僕という特異点持ちがいることでその状態は更に悪化している。

 

 ここで意識を取り戻したのは半日ほど前のことであるが。そこから今までの12時間程度の間に、僕は千客万来とはまさにこのことかと言わんばかりの勢いで超常現象に出会う羽目となっている。

 窓の外を見れば、どこから伸びているのやら。ロープで首をつった男性がぶらぶらと揺れながらこちらを見ている。

 最初に様子を見に来た看護婦さんは、酷く顔色の悪い、というか半分顔が崩れている上に、半透明のご婦人であった。

 うとうとしているとき、ふと視線を感じて目を開ければ、僕と同じくらいの年齢だろうか。暗い目をした金髪碧眼の幼女が、ベッドの脇に立ったままじっとこちらを見下ろしている。

 当然のように、ベッドの下に何かがいる。……ごそごそされると邪魔である。出て行けとは言わないがおとなしくしていただきたい。

 

 人類としては例外的なまでに鋭い聴覚でもって、部屋の外、廊下、或いは階段。はたまた同じ階にあるらしいナースステーションでの会話を聞いてみた限りでは。どうやら運び込まれてから暫くの間、僕は大部屋の集中治療室にいたようであるのだが。

 当然のように僕目当てでやってきた怪異たちは、大部屋であるところの集中治療室で、同室の人々にも影響を及ぼしたようなのだ。

 その時点で同室であった人々にどの怪異が見えて、どの怪異は見えないのかまでは分からないが。うなされる人、容態の悪化する人、怪異をしっかり見てしまったらしくパニックに陥る人。僕が集中治療室に搬入されてからわずか半日程度のうちに。重篤な人間をしっかり管理看病していなければならない設備の内部は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していたようなのだ。

 

 別に呪われたり齧られたりした人がいるわけでもなく、更に言うなら直接脅かされた人さえ僕以外にはいないようなのだけれど。流石に病院側としても怪異を呼び込む怪しげな幼女を放置しておくわけにはいかなかったらしい。

 そんなわけで。今現在僕は個室の集中治療室に入れられているようだ。部屋の外での会話を聞いた限りでは、個室と大部屋の差額は病院持ちであるとのこと。この病院は、本人に咎があるわけでもない問題によって、余分な負担を患者に求める気はないようだ。良心的である。いや、或いは僕の持つ不利な特徴と有利な特徴がせめぎ合った挙句の対応なのかもしれないが。

 

 

 

 そんなことをつらつらと考えていると、階下から言い争う声が聞こえてきた。周囲を慮って抑えた声量で言葉の応酬を重ねる二人の人間が、階段を上っている。いずれの声音も聞き知ったものであり、慣れ親しんだ人物のものだ。

 一人は亜弓さんだ。さっさと僕を病室から連れ出し家に連れ帰るのだと主張している。僕の治癒術の効能を知っているからこその判断だろう。僕の意識が戻っている以上、この神咲舞奈という病弱な小娘は、病室に入れておくよりも迅速に余人の目の届かないところに連れて行って治癒術を掛けさせた方が手早く健康体になれるのだから当然の判断である。

 とはいえ、彼女の主張は僕の魔術的能力を知らない人間からすれば暴論というレベルでさえない異常な主張である。ごく普通に判断するなれば。つい半日前にようやく意識を取り戻した、現在なお集中治療室に入っている幼児を退院させるなど正気の沙汰ではない。当然のこととして、大叔母の口論の相手はそれに反対していた。

 

 亜弓さんと言い合いをしている声の持ち主は、矢沢医師だ。若手の……なにやらちょっと特異な専門分野を持った人物である。いかなる理由があるのか、概ね大体僕がここに担ぎ込まれると、彼が対応してくれている。医師技能も診断技能も持ち合わせていないので、この煙草臭い人物がどの程度の腕前の医者なのかはいまいち判断できないのだが。周囲の評価を聞く限りでは優秀な人物であるようだ。僕自身、少なくとも医療ミスで殺されかけたことはないので、きっと信頼できるのではないかなと思う。

 

 ごくまっとうな判断力を有しているらしい彼は、僕を病室から出すことに反対している。実に妥当な判断である。彼らの話を聞く限り、僕は運び込まれてから昨晩までの間に複数回心肺停止状態となっていたらしい。医療現場の常識に造詣が深いわけではないが、普通そういった子供はそのまま入院させておくものだろう。

 一般的な常識に照らし合わせるのであれば、亜弓さんの言っていることは無茶苦茶であり到底容認されてよい主張ではない。毎回毎回診断の時に煙草の臭いが気になる件の男性医師の主張こそ認められてしかるべきである。

 

 

 

 ……あくまで、“一般的な常識”に照らし合わせた場合の話ではあるのだけど。

 

 

 

 「うむ、舞奈。目が覚めたようじゃな、帰るぞい」

 

 

 

 二人の口論は、僕の部屋にたどり着く直前には終わることとなった。がちゃりと個室の集中治療室の扉を開けた亜弓さんの言葉が放たれた時点では既に、矢沢医師は明らかに納得のいった風ではないが、亜弓さんの主張に口をはさむことはしなくなっていた。

 結局のところ、退魔師という“超常識的”な人々を止めるのに、“一般的な常識”を論拠に反論を構築したところで効果は薄いのだ。足場とする前提がそもそも異なるのだから当然である。これがごく普通の病院であったならばまた違った結果となったのかもしれないが、そもそもこの病院自体、僕たちが退魔師(やその卵)であることを知ったうえで受け入れているのだからなおさらである。

 

 

 

 「容体が悪化したり……いや、短期で劇的に改善されるのでもない限りすぐまた連れてきてください。舞奈ちゃんは本来は退院などもってのほかの状態なんですから」

 

 

 

 深刻な顔でそう亜弓さんに言い含める矢沢医師。本気でこちらを心配してくれているのだろう。現状では単なる有難迷惑だが、その善意は悪くとらえようのないものだ。

 うちのものがお世話になりましたと頭を下げる亜弓さんも、その点については同じ感想を抱いているのだろう。面倒がって会話を打ち切ることもせず、殊勝に頷いている。

 

 とはいえ、まさかこのまま病院にとどまるわけにもいかない。

 幾つかの点滴が取り付けられたまま車に乗せられた僕は、車が発進し、亜弓さんが外からの視線を遮る位置に移動してくれた時点で、すぐさま《病気治療》の呪文を自身にかけるのであった。

 

 

 

 

 

二、

 「まいな!」

 

 家について門をくぐれば、木刀を持った女の子が全力で突進してきた。……いや、単に数日前に意識不明となった妹の無事を歓迎する姉の抱擁なのだけど。体重や身体能力に酷い差があるので、全力でこられると僕にとっては攻撃技でしかない。案の定、受け止めきれずにひっくり返る羽目となった。舞った土埃の臭いが随分と新鮮に感じられる。……徒歩で外に出ることなんかまずないものなぁ。

 

 僕がひっくり返ったのが予想外だったのか、こちらに馬乗りになったままきょとんとしている姉さん。まあ、剣術でしっかり体を作っている6歳児と、先ほどまで半死人、たいていの場合は半病人をやっている5歳児の体重差など、幼子には想像しにくいのだろう。なんで妹はひっくり返ったんだろうかと不思議そうにしながらも、未だ大人に比べると少ない語彙でもってこちらの安否を気遣いつつ、上からどいてくれる。

 恐らく直前まで素振りをしていたのだろう。木刀を放らずにそのまま来たのは和音婆様の教育の賜物か。緊急時に手元に武器がないなどといった不測の事態を防ぐためにも、その辺りの躾は非常に厳しく施されているようだ。

 

 「これ、薫。妹をひっくり返すやつがあるか」

 

 亜弓さんが苦笑してたしなめると、しゅんとなってうつむく姉さん。こっちと顔を合わせた瞬間の“花が咲いたような笑顔”という形容の見本のような表情、続いて僕をひっくり返した時のきょとんとした表情、そして今の落ち込んでいますと言わんばかりの表情。いやはや、本当にくるくる表情を変化させるものである。見ていて飽きないとはこのことだ。

 

 

 

 玄関口で扉を開ける前に、ふと違和感を覚えて頭を上げる。もう夕方と言って良い刻限である。にも拘らず、家の中から生活音が聞こえない。いや、小さな軽い足音や、何かを引きずるような音などは聞こえるのだけれど。あれは座敷童や小人さん、或いは隙間女や天井の目が立てるものであって、うちの家族ではない。この時刻、この曜日に家に誰もいないというのは随分と珍しい話だ。

 胡乱気に亜弓さんの方を見れば、どうしたんじゃとこちらの意図をまったく察せぬ様で返される。

 一瞬何故気が付かないのかと不思議に思ったが、良く考えてみる間でもなく当然のことだった。通常人類は、よっぽどの大騒ぎが行われてでもいない限り、家の外から家の内部の人間の所在など分かるわけもないのだ。畢竟亜弓さんからすれば僕がいったい何に気付いて自分の方を見たのかなど想像がつくわけがない。

 

 「今日は皆出かけているんですね」

 「ん? そうじゃの。急用が重なっての」

 

 間の悪いことじゃが、お前さんの快気祝いは三人で、ということになるの。と続ける老退魔師。僕の快気祝いなんざやってたらキリがないのではないだろうか。いや、無論ありがたい話だとは思うのだけれど。

 

 

 

 それにしても。“急用が重なって”家に誰もいない、か―――――

 

 

 

 何か嫌な予感がする。別に未来予知の特徴を持っているわけでもなければ何れの種類の《神託》の呪文を習得しているわけでもないので、データー的な裏付けがあるわけではないのだが。何か……そう、何かわからないが、ひどく嫌な予感がする。

 超常能力によるわけではない“嫌な予感”である以上、そいつは勘と呼ばれるべきかもしれない。で、その勘とやらは、どこぞのローズバンク隊長が言うように僕自身の知識や経験の蓄積から導き出されているのだろうけれど。どうやってそれを思いついたのかが今一良く分からない。

 人類最高二歩手前のおつむがきちんと認識できない“勘”って一体なんだ。あまりにも茫漠としているから思いつけない? いや、それは考えにくい。クァチル・ウタウス一歩手前の知性がそこまで低性能だとは考えにくい。ではなぜ僕はこの“勘”を言語化できないのだ。外部からの要因? それとも僕自身の何らかの欠陥によるものなのか? うむむ、わからん。

 

 「これ、舞奈。何をぼさっとしておる。さっさと家に入りなさい」

 

 亜弓さんの、心持大きめの声にふと周りを見れば。いつの間にやら亜弓さんも姉さんも家に上がっている。どうやらまた“放心”の特徴が発動したらしい。思考に集中して、周りが見えなくなっていたようだ。この欠点を抱えることによって15CP分余分に強化された身の上とはいえ、難儀な話である。

 

 「さ、夕食を作るからお前さんたちも手伝いなさい。朝方、きびなご(小魚の一種。痛みが早いため、捕れる地方以外ではあまり見ない)のおすそわけがあったからの。天ぷらにするぞい」

 「おーばさま、うち釜揚げがいい!」

 「わしゃ青紫蘇か。大叔母じゃ、“おおおば”。……半分くらいはそうしようかの」

 「おおおおばさま! あ、でもお刺身(おさしん)も食べたい(たもごろちゃっ)」

 「うむ、うむ。今度は一つ多くないかの? 薫もちゃんとばらばらにせず捌けるようにならんとのう」

 「うち、そげな失敗(しくじい)はしないもん(しもはん)!」

 「だといいんじゃがのう」

 

 何とも実に微笑ましい“祖母と孫娘”っぽい会話をしながら亜弓さんと姉さんが台所へ向かっている。いや、二人は大叔母と曾姪孫の関係なのだが。祖母である和音婆様が遠慮なく木刀で孫をぶちのめした挙句、倒れた幼女に追撃をかますような人であるため、どうにもこうにもこういった心温まる光景は亜弓さんが作り出している場合が多い。別段、和音婆様が格別に冷血であるというわけではなく、神咲一灯流継承者としてやむを得ないからやっているのだろうけれど。当人にそういった事情を伝える気が希薄な上、姉さんもまだ幼いからなぁ。

 姉さんが親や姉妹などよりも少し遠い血縁との触れ合いを多く経験するためにも、久遠との戦いについては良く備えておいた方が良いのだろう。このまま何もしなければ、7~8年後の久遠との戦いで亜弓さんは消し炭になるのだから。

 

 そんなことを考えつつ、二人の後を追って家に入っていく。靴箱の下から隙間女が、玄関の床の間(俗称で、実際は単に床としか呼ばないらしいが、ともかく)に飾られた掛け軸の裏からは干からびた老人が。あちらの戸の影からは“がんばれー”とエールを送る小人さんたちが。

 あちらに、そちらに、こちらに。数多くの怪異が僕を見ているのが分かる。うん、“特異点”の不利な特徴も絶賛稼動中ということだ。

 当然のようにやって来た臓腑への痛みを《病気治療》で癒しつつ台所へ向かう。

 

 

 

 

 

三、

 取りあえず、うっかり死にかけた事態からは生還できた。倒れた瞬間周囲に家族がおり、ついでに恐らく救急車がこちらにやって来るのが素早かったおかげである。しかし別段、僕を襲うかの“異様に重篤な病に侵される頻度が高くなる”という原因不明の問題が解決されたわけではないのだ。どうにかこうにか何とか今回、僕は生き残れたというだけにすぎない。

 

 問題は解決されておらず、その根源についてもわかってはいない。

 

 僕は非常に大きな危地に見舞われていると言えよう。しかし何の解決策も見いだせていないのかと言えば、別段そういうわけでもない。ああ、いや。解決策というには実に不確かで、本当に期待していいのか怪しくて、実に実に不安な要素ではあるのだけれど。ともかく真っ暗闇の中ではなく、一筋の光明くらいはさしているのではないかなという状態である。

 

 そう、僕は“嫌な予感”を感じたのだ。

 

 そう感じた以上、事態はより悪化する可能性が高い。しかし現状が複数のどうしようもない原因によってもたらされているわけでもない限り、“嫌な予感”を感じた理由を解明できれば、事態そのものの解明に持ち込める可能性が高い。ヘビー級ボクサーのストレート・パンチは恐ろしいものだが、それに対して綺麗にカウンター・パンチを決められるのであればそれは反撃の糸口として期待できるものであろう。

 例え“事態の悪化”というものであったとしても、状況の変化という何らかのアクションは、事態の解明に繋がるいくばくかの情報を含んでいるものなのである。

 光明は、ある。絶無ではないはずだ。きっと。

 まあ、勿論。その“事態の悪化”によって僕が死ななければ、という大前提を潜り抜ける必要があるのだけれど。

 

 “嫌な予感”を感じたということは何らかの“状況が動く”兆候をとらえたということで、つまるところ事態の打開につながるなんらかのファクターを掴みとれる機会が訪れたということでもある。

 ならばあとは僕自身の機能のすべてを用いてその機会をものにすればよいというだけの話だ。特段、難しい話ではない。実際どうであるかはさておき、そう思っておくことにする。

 どこぞのフランス人が言うまでもなく、悲観主義は気分に依るものであり、楽観主義は意志において実現し得るものだ。そして別段僕の努力が介在しているわけではない僕の意志力は、カミサマによってデザインされたスペック上では、人類史上有数のものなのだ。

 僕の手にあるカードが少ないなら、それでどうにかするべく上手いこと算段を付けるしかないし、それについて虚無的な感想を抱くのは無益である。……現実的にどうであるのかはともかく、そう思っておくことにする。

 

 

 

 余談だが。案の定、姉さんの捌いたきびなごは残念な出来であった。……割合調理の簡単な小魚相手のこととはいえ、6歳児の魚を捌く腕に期待する方が間違っていると言えばその通りだが。

 ほぼ包丁を用いず、素手で捌けるこの小魚であるが。姉さんの作ったそれはばらばらの惨殺死体になってたり微妙に内臓が残っていたりと、食事とは生命をいただいているのだということを強く想起させる有様となっていたのである。

 

 「次は失敗(しくじい)せんもん!」

 

 そういう姉さんが妙に悔しそうなのは、一緒に手伝った僕が捌いたものが綺麗な出来であったからであろうか。折鶴さえまともに折れぬ不器用な娘がなぜ料理をまともにできるのか、と思うかもしれないが。実はGURPSのルールにおいて<折り紙>技能は敏捷力基準であるが、<調理>や<家事>技能は知力を基準としているのだ。厳密にルールを適用すると色々と例外的な要綱が出てくるのだが。この世界のゲームマスターはそこまで面倒は判定方法を取る気が無いらしい。

 そのため僕は花弁折りどころか山折り、谷折りの時点で作品を崩壊させかねないレベルで不器用であるにも拘らず、料理については(法的な面を無視すれば)今すぐその辺の食堂に就職して売り上げを伸ばせるレベルの腕前を持っていたりする。この僕こと神咲舞奈という生き物は、折り紙をまともに折れぬほど不器用なくせに料理はきちんとできるという、実にゲーム的で理不尽な存在であるということだ。

 

 上記のような事情があるため。姉さんと僕がそれぞれ半分ずつ刺身用のそれを捌いた結果の産物は、同じ皿の右半分と左半分。どちらを誰が担当したのか、明白にわかるさまとなっていたのである。ほおを膨らませて自分の捌いたものと僕の捌いたものを見比べる姉さんの表情は、思わず抱きしめたくなるほど愛らしいものであった。……まあ、現状で本当にやったら不貞腐れられるどころでは済まないので、やれなかったが。

 

 

 

 最後に、そんなことがあったからであろうか。

 以後、近所の漁師からキビナゴのおすそわけがあるたびに、うちがやる! と台所に突進する姉さんの姿が見られるようになる。

 一年もたたぬうちに、内臓や頭部の残骸のくっついた“小魚の死体の山”が、円形に綺麗に盛り付けられた美味しそうな刺身に様変わりしたのだから、実に大したものである。無論、そうなるまで少々苦み走った刺身を文句の一つも言わずに食べていた和音婆様たちも、その忍耐を賞賛されるべきなのだろうけれど。

<続く>

 




 随分と間が開いてしまいました。次はこのようなことが無いようにしたいものですが。
 脳内でお話を妄想することと、プロットを作ること、そして実際にお話として書きだすということには。アトラク・ナクアが架設中の吊り橋もびっくりな隔たりがあるような気がいたします。
 ともあれ、次は第九話でお会いいたしましょう。


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第九話『襲撃』

序、

 嫌な予感は膨れ上がっていく。碌でもないことが起こるのは間違いない。そう確信させられるだけの何かを感じる。

 腹の底に得体のしれぬ重いものを感じる。背中から、首から、耳の後ろ辺りから。ひどく不快で底冷えのする汗が流れる。つばを飲み込もうとして、のどがカラカラになっているのに気が付いた。お茶でも飲んでおいた方が良いのだろうか。

 一応、単に病気になっただけかと《病気治療》の呪文を行使するが、事態は改善されない。本当に、ひどく“嫌な予感”を感じているということであり、体調の問題ではないということのようだ。

 

 しかし現状で予知能力を持たない僕が何故“予感”などというものを覚えるのだろうか。

 

 勿論、普通の人間だって嫌な予感を覚えることくらいあるだろうし、そういった意味では僕という(幾つかの能力を除けば)ただの人間が予感を覚えたっておかしくはない。

 とはいえ、普通の人間が覚える“予感”とは、それまでの経験や知識から脳が過程をすっ飛ばして導き出した“予測”であるはずだ。常人ならばそのすっ飛ばした過程を明文化できない可能性もあろうが、ティンダロスの猟犬に匹敵する僕のIQ(知能指数でもインテリジェンス・キューブでもない。GURPSの能力値の一つであるところの知力)でそんな事態が起こるというのはおかしな話だ。

 ではどういうことなのか、と問われても困るのだけれど。なぜ僕はその“予感”に至った理由について明文化できないのだ、わからん。

 

 そしてもちろん、事態の変化というやつは僕の悩みなど知ったことかとばかりに起こるものであるし、大抵の場合人が悩んでいたり、困っていたりする時に起こる変化というやつは良いものではない。

 

 「舞奈、すまんがちょっと……」

 

 僕が勝手に勉強部屋として使っている和室でどうしたものかと唸っていれば、襖を開けてすまなそうな表情で亜弓さんが入ってくる。さっき姉さんを風呂に入れていたのに、今彼女が纏っているのは式服……退魔師としての仕事時に着ていく巫女服に似た仕事着……である。更には手にしっかり布を巻いた弓を持っているのだから、これはもう予感がどうとかいう話ではない。

 

 

 

 「夜半にすまんが、わしはちょっと出かけねばならん。薫と一緒に、留守を頼むぞい」

 

 

 

 ……いや、ちょっと待って欲しい。いくらなんでも、夜分に5歳児と6歳児のみを家において出かけるのはどうなんだろうか。日本はその辺りさっぱり気にしていないので違うのだが。子供の権利にうるさい国ならば、2回もやれば親権を取り上げられるレベルの問題行動だったはずなのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第九話『襲撃』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 継続的におかしなことが起こっている状態で、更には嫌な予感がしている最中に、唯一の大人が家からいなくなる。ちょっとどころでなく歓迎できない事態である。

 翻意を促すべくあれやこれやと言ってみたのだが、徒労に終わった。いや、まあ当然ではあるのだ。

 

 神咲家は人ごみでごった返す街の中を、抜き身のまま闊歩しても咎め立てされないレベルの特権(神咲一灯流の剣士は戦闘中鞘を捨てて戦っているので、そうでなければ悪霊の位置次第で自分がお縄につく羽目となる)を持った退魔師集団だ。当然その権利に付随する義務も大きく、重い。

 どこからが慣習で、どこまでが法律で定められているのかが今一はっきりしないのだが。ともかく神咲流の人々は退魔の業務と自己の家族や良心が天秤に掛けられた場合、前者へと傾く傾向にある。彼女たちは必要とあらば自分に助けを求めてくる幼子の霊だろうと切り捨てるし、過去には数百人、現代においては少なくとも人間3人(うち一人は自分の肉親)を殺した怪物であろうとも、故が無ければ切ろうとはしない。兎にも角にも、退魔師の仕事が優先されるのである。

 で、あるからして。無論自分の孫(違った、曾姪孫)が危険な状態になりかねないとわかっていても、夜中自宅に6歳児と5歳児二人のみを残さねばならぬ状態となろうと、退魔の仕事が入ればそちらを優先するものなのだ。

 

 別段、それは彼女がことさらに薄情であったり、人情に欠けていることを意味するのではない。

 幼児二人に留守番させるという点については、明らかに精神年齢がおかしい僕がいる以上(社会的にはともかく実質的には)さほど問題はない。姉さんだって年齢を考えれば十分成熟している方だ。少なくとも、大人がいないからと火遊びをするタイプでもない。……子供の“何々するような子ではない”というのは往々にして吃驚するほど当てにならないものだが、まあともかく。

 

 万が一怪異に襲われた場合については、神咲邸の結界の操作についてのあんちょこを渡された。<職業技能/退魔師>の技能レベルも十分高いので“必要とあらば人の出入りさえ拒む”強力な結界についても、これさえあればどうにか操作できよう。家の外から怪異が襲いかかって来たならば神咲邸の結界をもって対処すればよい。遠隔地から呪術を掛けられた場合も同様である。400年以上にわたって退魔師を輩出してきた一族の屋敷である。その霊的な防御能力は尋常一様のものではないのだ。

 

 一番心配なのは僕が病気で倒れた場合の処置である。《病気治療》の呪文が間に合うならば何の問題もないのだが。先日のように呪文をかける間もなく意識を失ってしまえば僕にはどうしようもない。一旦気絶してしまったら最後、6歳児たる姉さんに己の命を委ねるしかないということだ。

 はたして未だ就学年齢にも達していない彼女はちゃんと黒電話を操作して救急車を呼び出し、自分の住所と妹の状況を先方に伝達し。更にはやって来るであろう救急隊員と不審者の区別をきちんとつけて門の鍵を開けることができるのだろうか? 僕が倒れた場合の対処法が平仮名で書かれたメモを穴が開くほど見つめている幼女の姿に、不安を覚えぬわけではない。

 が、これについてはもう運を天に任せるしかない部分がある。極論すれば、家に大人がいたって呪文も医療機関も間に合わずに死ぬ可能性はあるのだ。この点についてはきっと大丈夫だと決めてかかるしかない。船到橋頭自然直、Queseraseraだ。……それしかないのだから、腹をくくるしかない。

 

 

 

 ブラウン管テレビの向こうで、マスコットキャラクターを取り込む鬼畜ロボを擁するスーパー戦隊が活躍していた年。

 年の瀬も迫ってきた、大雪と冬至の狭間であるところの時期。

 

 僕と姉さんの、“はじめてのおるすばん”が始まった。

 

 

 

 なお、どこぞの成人向けパソコンゲームとは無関係である。とらいあんぐるハートシリーズもまた同じジャンルのソフトだが、関係ないったらないのだ。……あってたまるか。

 

 

 

 

 

二、

 かちり、かちり、かちり。

 

 違い棚の上で、古色蒼然とした置時計が無機質に時を刻んでいく。雨戸の閉められた和室の中は、蛍光灯の光があるにもかかわらずそちらに、あちらにと濃い闇を残しており、なんとも息苦しい。横たわった布団の汗や脂肪、洗剤が陽光で分解された、所謂お日様の匂い。或いは畳の籠ったイグサの臭いは、普段であれば好ましいものと感じているはずなのだが。不思議と今は閉塞感を増幅させる、不快な異臭と感じられる。

 

 せめて感覚だけでも広く、外へと向けようとしてみれば、台所から軽い足音がする。最初は規則正しく奏でられていた足音が途中数歩分だけ、虚ろで大きなものとなる。床下収納の上を歩いたのだろう。何かを引きずる音、小さな金属のこすれる音に続いて水音。喉が渇いたのであろうか。姉さんが水を飲みに行っているようだ。引きずる音は踏み台を引っ張り出したことによるものか。

 さらに外へと注意を向ければ家の外、塀の傍でなぁぁご、なぁごと何かが鳴いている。猫かと思いきや、同時に羽音も聞こえた。大木葉木菟か。方向からして、庭から張り出した柘榴の木に止まっていたのだろう。……庭から塀の向こうへと張り出した枝の上は、神咲邸の結界の内側なのだろうか、外側なのだろうか?

 

 亜弓さんが出かけ、神咲邸に僕と姉さんしかいなくなってから既に1時間以上経つ。

 幼児には遅い刻限である。ここからでは見えないが既に外は真っ暗のはずだし、普段から多いとは言えない人の通りも少ない。最後に外のアスファルトから人の足音が聞こえたのは40分以上前の話だ。

 時刻が時刻なのでこの幼い身体はもう眠らなければならないはずなのだが、どうにも寝付けない。いや、眠る気になれない。嫌な予感は未だ残っているどころかいやますばかりだ。いったい何故なのか、どうしてこんな感覚を味わっているのか。ぽてんと布団の上にあおむけに倒れこみ、思考の表層に雑念を走らせる思考防御技能の訓練を行いつつ、むむむと考え込む。

 

 或いは姉さんもそうなのだろうか―――――

 

 ふと、そう考える。

 普段から体を良く使っているからだろう。薫姉さんはひどく寝つきがいい。そんな彼女が、なんだって今日に限ってのそのそ台所に行っているのか。或いはもしや―――と考えるのもそうそう的外れな推測ではあるまい。

 もっとも姉さんも“嫌な予感”を覚えていたからと言って、彼女と相談したり、或いは彼女が“嫌な予感”を覚えた理由を考慮することで、僕がおぼえた“嫌な予感”の原因を推察するのは不可能だ。如何せん、彼女は僕と違ってちゃんと霊感があるのだ。超常的な未来予知や霊力の乱れの感知などができる存在の予感など、言語化できるわけもない。当然のこととして、僕の“嫌な予感”とのすり合わせも不可能であるということだ。

 

 

 

 やはり眠れないな―――――

 

 

 

 姉さんが部屋……ここの部屋ではない姉さんの部屋に、だ。病み上がりの娘と一緒に寝かせられるほど、姉さんの体も丈夫ではない……に戻ってからも暫く悶々としていたのだが。寝ようと電気を消す気にさえなれない状態で床についていても仕方がない。てぺてぺと起き上がり、部屋を出る。

 そのまま襖の桟を踏まぬようまたごうとすれば、奇妙な抵抗を覚えることとなった。

 

 部屋から出たくない。

 

 理由も何も一切ないまま、己の内側からひどく強い調子でそのような考えが沸き起こる。桟をまたごうとした利き足が中空でぴたりと止まり、そのままバランスを崩してぽてんと体があおむけに倒れる。これも“嫌な予感”の産物か? いや、そうではあるまい。どこぞの合気柔術の先生でもあるまいし、幾らなんでも僕の予感ごときがここまで即物的な状況を作り出せるとは思えない。ならば何故、僕は部屋から出たくない? 考えるまでもない。部屋から、家から犠牲者を出させない怪異を僕は知っている。

 

 倒れたままひょいと顔を“上”へと向ければ。天地逆さになった視界の目の前。調度というよりは飾りに近い棚と壁の隙間から、じっと女がこちらを見ている。その女が人類であるなれば、どう考えたところでそんな場所に潜り込めるわけもない。ひどく大きな双眸の持ち主たる彼女は、人間ではない。人様を部屋や自宅から出さないようにする怪異“隙間女”である。

 普段であれば彼女の妖力は僕の行動を阻害するほど強くはない。彼女が加減しているのか、和音婆様辺りが神咲邸内での怪異の能力に制限をかけているのかは良く分からないが。ともかく彼女は僕を含めた神咲家の住人の行動を掣肘しない。或いはできない。

 が、彼女にとっての邪魔ものである和音婆様や亜弓さんがいない今となっては、その妖威は随分と高まっているらしい。彼女のもっとも有名な妖力は僕をからめ捕り、普段とは異なりちゃんと僕の行動を阻害するだけのパワーを発揮しているということだ。

 

 もっとも。

 だからと言って僕がこの部屋から出られないかと言えば、そんなことは無かったりする。

 ひょいと……もとい敏捷力の都合上酷く鈍くさく仰向けの状態から起き上がり、再び畳の上に二本の足で立つ。きっと隙間女を睨み付けてから襖へと向かい、再び桟をまたいで部屋から出ようとする。

 

 先ほどと同様、抵抗が発生する。物理的なものではなく、精神的な、ここから出てはならないという拘束が僕の脳を捕える。まるで不可視の触手が、僕の内面をからめ捕ろうかとしているような圧迫が感じられる。

 が、そのまま決然と一歩を踏み出せば、あっさりとその拘束は失われ、僕の足は桟をまたいで廊下へと着地する。振り向けばどことなく不貞腐れたような表情で、女がこちらを見つめていた。後ろ手にひらひらと手を振って、そのまま廊下へと足を進める。

 

 僕がやったことはさして難しいことではない。単純に、彼女の妖術を精神力で打ち破ったのだ。GURPSのルールにおいては、他者の精神に干渉する術とは基本的に、意志力によって無効化することができる。勿論相手の術の精度や出力、こちらの意志の強さ、そしてもちろん運次第で、無力化に失敗することもある。が、僕の意志力は訓練なしで拷問に耐えられるレベルの非常に強力なものである。ある程度以上強力な術ならばともかく、件の怪異の精神干渉程度ならば簡単に耐えきってしまえるのだ。

 

 

 

 そのまま廊下を進んでいく。明かりひとつつけられていない板張りの廊下は、ひどく暗い。襖の間から漏れる僕の部屋の灯り、それに雨戸を閉じていない幾つかの窓から差す星明りが光源と言えなくもないが、いずれも随分と心もとないものだ。

 とはいえ、僕にとってはわざわざ背伸びして廊下の電気をつけるほどのことでもない。取り立てて夜闇を見通す特徴を持っているわけではないのだが。根本的な知覚力が秀でているため、鼻をつままれても分からぬほどの真っ暗闇でもない限り普段の生活で光量の多寡に悩まされることはないのである。

 

 今現在も特異点の不利な特徴は絶賛発動中だ。

 廊下を歩けばはしごか踏み台でもない限り覗き込めない、高い位置の窓の外から、しわくちゃの老爺がこちらを見下ろしている。その双眸にはあるべきものがなく、ただ真黒い穴が二つ、寒々しく口を開けているのみであった。いつもならば、この怪異は塀の外にいるはずなのだが。今や家屋のすぐそばまで近づいているということだ。

 或いはトイレの扉より、内側からカリカリと引っかかれている音がする。便器から出てくる白い手の仕業だろう。入院前に和音婆様に放り出されていたはずだが、戻ってきていたのか。

 ふと襖の僅かに開いた部屋へと視線を移せば、僕と同程度の年齢の童女が薄く笑みを浮かべて手招きをしている。座敷童だ。普段であれば別段近づいたところで問題がない相手のはずだが、態々僕と同じ寝巻を着て、髪型まで真似ているとなれば話は別である。恐らくは僕を神隠しに遭わせ、自分で僕に成り変わる目算でいるのだろう。付き合う道理はない。何も見なかったことにしてそのまま進んでいく。

 

 家の中を歩いていけばあちらの影から、そちらの隙間から、或いは僕の視界をわずかにそれたあたりから。ここに、あちらに、かしこに。蠢く影が、奇怪な光が、不可思議な歪みが見て取れる。

 生臭い、腐った水。熱を感じさせる、獣臭さ。けぶるような草いきれの臭い。本来人の住む家屋の中にあるはずのない、現世ではなく幽世の臭いが鼻を刺す。

 

 声が聞こえる。

 姉さんのものではない。彼女は自室で落ち着かなげに寝返りを打っている。押し殺したひそひそ声。苦痛とも怨嗟ともつかぬうめき声。場違いに明るく、それでいて何とも虚ろなエールも聞こえる。肺から喉にかけてひどい熱を感じ、同時にごぼりと口腔から鮮血があふれ出た。貧弱な筋肉が、何もしなくても折れそうなか細い肋骨を締め付け、肺腑を収縮させ、僕をせき込ませる。

 膝をつき、口元を抑えつつ《病気治療》の呪文を掛ける。廊下の血痕は後で片づけなければならないなと思いながら、再びふらふらと歩きだす。

 

 どこかに誘われているだろうか―――――

 

 茫漠とそのように考える。

 今この退魔師一族の住居であるところの神咲邸には、退魔師が一人もいない。いるのは退魔師の卵である薫姉さんと、GURPSの初心者魔術師たる僕のみだ。脅威となる霊能力者がいないからだろう。周囲に蠢く怪異は普段よりも力をつけ、こちらへの干渉を強めているように思われる。この周囲の有様こそ、まさにその証左と言えよう。

 

 そんな状況でなぜ僕はふらふらと家の中を歩き回っているのか。

 布団をかぶって震えているのが正しい選択とは言えないにせよ、無防備に怪異の中を彷徨うこともまた明らかにおかしな選択肢である。

 現状で僕が茫漠と家の中を歩き回っているのは、先ほど隙間女にやられたようにどこかの怪異に妖術を掛けられ引き寄せられているからである、という可能性は充分あり得るだろう。僕を呼ばわっている相手が必ずしも危険な存在とは言えないにせよ、神咲邸に退魔師がおらず魑魅魍魎の類の力が強まっている現状で態々危ない橋を渡る必要もない。誰が僕を呼んでいるのか気になるのなら、和音婆様や十六夜さんが帰ってきてから会いに行ったっていいのだ。

 妖術を掛けられたかもしれないと“考え付けた”以上、意志を強く持って姉さんのところにでも行けばよいのだ。彼女と一緒に電話の傍か玄関にでも控えているのが正解であろう。助けを呼ぶにせよ逃げるにせよ、その方がずっと効率的である。少なくとも、このままふらふらと家の中を彷徨うのは悪手であろう。

 

 

 

 ―――――と、考えられたのは良いのだが。

 

 

 

 どうやら術に抵抗するのが遅すぎたようだ。意志を強く持って己の思考に介在する糸を引きちぎるまでもなく、ぴたりと足が止まる。僕は既に、目的の場所にたどり着いてしまったらしい。

 僕が自然と立ち止まった場所は、普段勉強部屋として使っている和室の中であった。いつの間に襖をあけ、そして閉めたのか。術理に抵抗しようと意志力を振るわんとしたときには、既に僕は薄暗闇の中、四畳半の真ん中に立つこととなっていたのである。

 

 嫌な予感は、既にしなくなっていた。あれほど感じていた緊張も、喉の渇きも、背筋を走る寒気も既に感じられない。暗闇の中一人和室に立つ僕は、もうそんなものを感じることはないのだ。

 

 ああ、いや。それは当然と言えば当然なのだろう。僕が感じていたのは“予感”だ。事を“あらかじめ”暗示させる何某かの感覚だ。あらかじめ、前もって、それが起こる前に感じるからこそ予感なのだ。

 

 

 

 そう、今この瞬間に起こっている厄介ごとについて、“予感”などというものは働かないのだ―――――

 

 

 

 

 

三、

 そろそろ“いそがし”が人様の家で踊り狂うのであろう、年の瀬も近い冬のある日。その鼓膜が張り詰めるような静かな夜半。

 俯いた檸檬色のろうばいが活けられた、四畳半の和室で。

 僕こと神咲舞奈は、散々感じていた“予感”の主と相対することとなっていた。

 

 とはいえ“それ”と相対する前に、解決しなければならない面倒事とも対面したのだけれど。

 

 

 

 部屋の中央に立った途端、悲鳴を上げることさえ出来ぬほどの激痛が全身を走り抜け、急速に世界が小さく、闇の中へと窄んでいく。呼吸ができない。口の中が血の味でいっぱいだ。痛みに胸をかきむしろうとした両腕はどこに行ったのか。ちゃんと僕の脳の命令を四肢が受け付けているのかどうか、それさえ分からないほどの全身の異常。

 恐らく多分僕は激痛を感じて倒れたのだろうけれど。あおむけに倒れたのか、うつぶせに倒れたのか、それさえ分からない。視界に映る光景を、脳がきちんと意味化できなくなっている。

 

 先日倒れ、集中治療室で目を覚ました時と同様の、病弱者のそれと考えてなお異常なほどの急速な病状の悪化だ。恐らくこのまま《病気治療》の呪文を詠唱しようとしても、先日同様詠唱が完了する前に僕は意識を失うのだろう。

 前回は亜弓さんの目の前で倒れたから何とかなったが、今回家にいるのは僕を除けば未就学児であるところの姉さんのみである。おまけに彼女はこの場におらず、自室で寝ようとしている。ここで僕が自力で病を治癒できぬまま意識を失えば、そのまま死ぬことになるだろう。

 もっとも、前回同様僕は成す術もなく意識を失うのかといえば、そういうわけではない。

 

 

 

 既に慣れ切った行程でもって、空間中の超常的構成物“マナ”へと干渉。自分の意思を極めて怪しげな法則に基づいて現実へと押し付ける。

 脳裏に文字列が踊る。

 

 《病気緩和》を使用。

 マナ濃度……並である。ペナルティなし。

 詠唱……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 結印……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 対象までの距離、接触。技能レベルにプラス2のボーナス。

 技能レベルにより消費6点軽減。……エネルギー消費ゼロ。

 詠唱時間10秒。……技能レベルによって短縮される。必要詠唱時間1秒に変更。

 成功率約9割8分1厘。

 判定……成功。

 対象を10分の間健康体とする。

 

 脳裏に文字列が踊るのとほぼ同時に、意識がはっきりする。胸の痛みが消え、息ができないのが単に口腔内に溜まった血液によるものだときちんと認識できるようになる。べちゃりと余裕なく血を吐き出し(ああ、後で掃除しなければ)、なるほど僕は俯せになっていたのかと確認しながら、ふらり、ふらりと立ち上がる。

 

 そう。前回僕が呪文の詠唱が間に合わずに気絶したのは、詠唱に本来ならば10分もかかる《病気治療》の呪文を用いようとしたからである。確かにその呪文を使えば病気は完璧に治るわけであるが、如何せん今まさに気絶しようとしているときに、神格並みの才覚を持ってなお19秒もかかる呪文を練っている暇はない。急速な病状の悪化で気絶するのが嫌ならば、一定時間しか健康体になれぬとはいえ、兎にも角にも一応即座に健康体になれる《病気緩和》の呪文を行使すべきだったのだ。

 前回はその判断が遅きに失し、今回は前回の反省を踏まえて即座に必要な呪文を選択することができた。ために以前亜弓さんの前で倒れた時には意識を失う羽目となったが。今回においては倒れることなく、一応健康体となって立ち上がることができたのである。一度だけならまだしも、二度も三度も同じ間違いをしでかすようであれば、人類最高二歩手前の知力が泣くというものだ。

 

 そのまままっすぐ前を睨み付ければ、そこにいたのは“小人さん”たちであった。身の丈10センチメートルほどの、古代中国、或いはその影響を受けに受けた古代日本の冠服を纏った、古の貴人のごとき装いの怪異である。数人の貴人と、より多くの従者で構成された小人さんの一群が僕の目の前、数メートルのところに立っている。

 彼らには見覚えがある。いつも僕に向かって“がんばれー”、“がんばれー”とエールを送ってくれていた小妖怪たちだ。

 

 が、事ここに至ってまで彼らが善意溢れる妖精さんのごとき存在であると考えるのは無理があろう。恐らくは何者かに“呼ばわれて”この部屋に入った途端以前意識を失った時と同様の急速な病状の悪化が起こったのだ。

 無論第三者が僕と小人さんを敵対関係に陥れるべくこのような状況になるよう仕向けたという可能性も絶無とは言えない。が、その考えは頭の隅にでも留めておくべきものであり、今現在その可能性を前提に行動するのは危険であろう。彼らこそが僕に病をもたらしていた怪異であると、そう考えて行動するのが妥当である。

 

 それにそもそも、小人さん側も既に“病気の幼児を応援する優しい怪異”という仮面をつけている気はなさそうであった。

 

 「がんばれー、がんばれー」

 

 貴人の小人さんが笏をわずかに動かし合図を送れば、従者の小人さんたちが一斉にエールを送り始める。同時に再び僕の全身に激痛が走り、血を吐いて倒れる羽目となる。やはり彼らが僕に病を頻発させていた元凶であるらしい。神咲邸にまともに戦える術者がいない今となっては、無害な妖怪を装う理由もないということか。

 

 「がんばれー。……がんばれー、がんばれー……」

 

 しかし亜弓さんも言っていたが人様を病に罹らせる術理とはすなわち“呪詛”であり、神咲邸で呪詛を用いた怪異はいなかったはずだ。今も彼らは僕に向かって応援をしているだけであり、どう考えても呪詛を放っているようには見受けられない。一体どうやって僕を病に罹患させているのか。内心首をかしげつつ、《病気緩和》の呪文で病を治し、立ち上がる。

 小人さんたちはエールを送りながらも一部の連中が左右に分かれて壁際を行進し、こちらの退路を断つかのような動きを見せている。病に罹患させるだけでは僕が中々死なないので、物理的手段に訴える腹づもりなのであろう。

 

 「がんばれー。……ょう……がんばれー、がんばれー……き」

 

 時間がたつにつれてだんだんと彼らのエールの内容に奇妙な音が加わってくる。呪文か? それとも別の何かか? 今一分からないが、ともかく今は逃げるのが先決である。背を向けて逃げては跳びかかられたときに対応できないので、彼らに正対したまま、じりじりと襖の方へと後ずさっていく。部屋の出入り口までの数メートルが、ひどく遠い。

 

 「がんばれー。びょ……きがんばれー、がんばれー……ょうき」

 

 左右の壁際を行進していた小人さんたちが、僕の両横からじりじりと迫ってくる。彼らがもう少し先まで行って、僕の後ろをふさぐように進んでいたならば、僕は退路を失って詰んでいたと思うのだが。この小型怪異群はそこまで思いつかなかったようだ。

 幼女の両横より迫りくる小人さんたち。それを横目に、じりじりと畳の上を後ずさる幼子。目の前の小人さんたちによる“がんばれー”のエールをBGMに、実にシュールな光景が展開される。

 

 「がんばれー。びょうきがんばれー、がんばれーびょうき」

 

 “頑張れ病気、病気頑張れ”、か。ああ成程、畜生。そういうことか。

 “誰も僕を呪詛していない”し、“小人さんは僕を言祝いでいる”。にも拘らず僕が不自然な頻度で病に罹り続けていた理由がようやく分かった。

 つまるところ、小人さんが僕を“言祝いで” いたのが原因ということだ。この小さな妖怪たちは“病気頑張れ”と、僕の中の“病の要素”に限定して僕を“言祝いで”いたのだ。祝福され、力を増した僕の中の病気は、それがどんなに小さなものであってもたちまち肥大化し、宿主たる僕を害するだけの力を手に入れる。だからこそ、僕は異常な頻度で病に罹り続けていたということか。

 複数の退魔師がいる神咲家においてでさえ、彼らの凶行が明るみに出なかったのもむべなるかな。僕のような貧弱で病弱な小娘が倒れるには、ほんの少しの、実に些末な、大いに弱弱しい病気でも充分である。ためにさほど強く言祝がずとも、僕を打ち倒す程度に病を強化することは可能であったのだ。

 

 極めて微弱で、そうであるがゆえに感知が困難な祝福の術でもって“犠牲者の一部”であるところの“犠牲者の中の病の要素”を強化する。それが小人さんの術、エールの正体なのであろう。

 

 恐らく、言祝がれた対象が平均的な成人男性であれば。和音婆様たちは即座に、いかなる存在のいかなる術が原因であるのか見破れたのだろう。なぜならば普通の人間の、ごく当たり前の免疫系を突破するだけの病を“誰でも持っている病の要素”を強化して作り出そうとすれば、それ相応の妖力なり霊力なりが必要となるからである。

 しかし言祝いで病にかける相手がこの神咲舞奈であれば話は違ってくる。何となれば僕は、一応健常であると言い張れる最低ラインの生命力と、病への抵抗に大きなペナルティを受ける“非常に病弱”の特徴を持つという、日常生活を送る上での理論上最低値に等しい不健康さを誇る貧弱な小娘なのだ。

 畢竟僕を病に罹患させるために必要な“病の要素の強化率”は実に実に小さなもので済み、そうであるがゆえに要求される霊力なり妖力なりも極度に微細なものとなる。小さくか細い超常的パワーの残滓は感知が困難であるし、あまつさえそれが“相手を病気にさせる”という効果から連想される“呪詛”ではなく、本来良いものに使われる“祝福”であるなれば、いかな百戦錬磨の退魔師たる和音婆様や亜弓さんと言えども、その悪意に気づけるものではないだろう。

 

 僕が想像を絶するほど貧弱であるということ。

 小人さんたちが素直に僕を呪詛せず、僕の中の“病の要素”を“言祝ぐ”ことで病の頻発という事態を引き起こしていたこと。

 

 その二点を原因として、“原因不明の病の頻発”という事態は起こっていたということである。

 

 いったいいかなる理由で日本有数の退魔師の家に居ながら超常現象が原因と思しき病に罹患し続けているのか、とは思っていたが。かような要素が原因ともなれば和音婆様や亜弓さんに何故気づかなかったと恨み言を言うわけにもいくまい。

 こんな原因分かってたまるか、というものである。

 

 

 

 いやはや、しかしどうしたものか。

 

 

 

 夜中、日本家屋の一室で怪異と相対する。相手は時代がかった装いの身長10センチメートルほどの小人さんの集団だ。彼らは僕の目前、そして僕の左右の三つの場所からこちらをうかがっている。

 前方の集団はこちらに近付かず、ただ僕の中の病にエールを送ってこちらを病に罹患させてくる。左右の集団は、物理的に僕を害そうとしているらしい。じりじりとこちらに距離を詰めている。

 

 ここで彼らと向かい合っているのが僕ではなく大の大人であれば、素直に蹴散らすという手段も使えよう。如何せん、彼らは随分と小型だ。その肉弾戦闘能力についても推して知るべしといった程度であろう。

 が、彼らと戦うのがこの神咲舞奈である場合話は違ってくる。片手では牛乳パック一つ持ち上げられぬ腕力と、子牛にも劣る敏捷力でいったい何をどうしろというのか。ここは素直に逃げるしかあるまい。無論、逃げ出すまでにたった2点しかないHPが0になればそこで終わりなわけだが。

 

 現状は危機的だ。

 相手は小型で、さして戦闘能力の高くない怪異と思われるが、こちらはそれに輪をかけて低性能である。逃げ切れるのか。逃げ切る前に、病に罹らせる妖術や、或いは暴力によって殺されてしまうのではないだろうか。そんな不安が、頭をよぎらぬわけではない。

 しかし僕に与えられた知力や意志力は、命の危険や死の恐怖程度でその精神活動を停滞さる気はさらさらないらしい。今の僕は怪物に殺されかねぬ状態でありながら、鼓動も呼吸も実に平静だ。五感は淡々と相手の情報を得ようと観察を続けているし、思考は戦術的なシミュレーションをごく当然に行っている。万が一彼らに読心能力がある可能性を考慮して、表層に雑念を走らす“思考防御”を用いる余裕さえある。

 “神咲舞奈”の肉体は生前ただの社会人であった“中の人”に、呆れるばかりの高性能さを提供しているのだなと痛感させられる事態である。こんな状況、生前の僕であれば間違いなく精神に恐慌をきたしている。

 

 とはいえその高性能さをもってしても、この状況を生きて切り抜けられるかは定かでない。僕自身の性能のすべてと、物理法則のみならずGURPSのルールをも駆使して、ようやく生き残れるかどうかといったところであろう。

 

 

 

 さあ、神咲舞奈。これが正念場というやつだ。気をしっかり引き締めろよ―――――

 

 

 

 そう自分に言い聞かせ、僕は小人さんの襲撃から生き残るべく行動を開始するのであった。

 <つづく>




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 それでは。


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第十話『損壊』

序、

 兎にも角にも、死にたくなければ行動する必要があろう。

 

 取るべき戦術、成すべき行動、その成功率、或いは失敗した場合のフォローの方策などについて明確に策定する。更には現状までの敵手の動きから、ある程度相手の行動についても予測を立てる。

 半秒にも満たぬうちに、常人であれば1時間近くはかかるであろう思考を済ませてみせ―――――

 

 

 

 ―――――動いた。

 総重量12.5kgの矮躯(なに、軽すぎる? 当然だ。エロゲヒロインの妹が現実的な体重であるわけがないのである)が、訓練された軍人並み。いや、或いはそれ以上の素早さと精密さで間髪入れずに後ろへと跳ぶ。

 同時に、小人さんも動いた。僕を半包囲しつつ近づいていた小人さんの群れが、わっとばかりに襲いかかってきたのだ。

 

 先に攻撃が飛んでくるのは、“想定通り”左側の相手からだ。彼らの手には、どこから取り出したのやら。彼らの体格に見合った棍棒が握られている。大きさは精々キングバトルえんぴつ程度のものに過ぎないが、金属製のようだ。大人ならともかく、僕がアレで殴られればただでは済むまい。

 が、少なくとも今回ばかりはその威力を気にする必要はない。幼子を撲殺せんと振るわれた小人さんたちの棍棒は、対応して更に跳ね飛んだ僕が“運よく”姿勢を崩したことで空振りする。

 

 正面の集団。即ち貴人の小人さんが率いる集団については、そもそもこの時点では接近して来ることさえなかった。後ろに跳んで壁際、襖の前までたどり着いた僕が。目を向けることなく、どこにあるのかと位置確認さえせずに引っぺがした掛け軸を、彼らに向かって正確無比の投擲術でもって投げつけたからである。不安定な形であるにも拘らず狙い通りに飛翔したそれは、貴人率いる小人さん群へと覆いかぶさるように落着する。当然のこととして、貴人率いる小人さんたちの移動は大いに疎外され、狙い通りの場所に行くまでに時間をかける羽目となった。掛け軸は即席のネット……では言い過ぎであるが、簡易的な障害物替わりとでも言うべきものとして機能したのである。

 小人さんたちの移動速度はひどくゆっくりとしている。彼らが小柄であることを勘案してもちょっと不可思議なレベルで、だ。現状、彼らが落ちてきた掛け軸を払いのけ、或いは迂回して僕に接近するためには、件の小怪異達が実は現在の倍の速度で動けたとしても2秒はかかる。

 

 現状における僕の目標はこの1秒間、生き残ることだ。

 とにかくこの1秒を凌げれば、次の1秒で僕は襖を開けて部屋の外へと逃げだせるのだ。詰まる所今この場では、彼ら正面の小人さん群は無力化されたも同然ということだ。

 

 最後の一群。右側から僕に迫る小人さんの一群については、そもそも攻撃が来ることは無かった。当然である。

 何故なら僕は最初に跳び、更に左翼の小人さん群の攻撃を避けるためにもう一度跳んだことによって、彼ら右翼の小人さん群の斜め後ろに着地しているからである。彼らが旋回し、こちらを攻撃可能な位置まで接近するのに必要な時間は、僕が襖を開けて出ていくまでの時間よりも長い。彼らもまた、この瞬間は無力化されているのだ。

 

 

 

 総括するなれば。

 僕は戦うと決めたその次の、1秒未満の間に。

 常人であればそもそも視界が無に近い暗闇の中、この身長103cm(五歳児としてはちょっと小柄だ)の身体で。

 1メートル後方に撥ね飛びつつ後方の掛け軸を見もしないまま手に取り、更には空気抵抗の大きなそれを正確無比に相手に投げつけ。それと同時にもう一度1メートル、今度は別方向に飛びずさりつつ怪異の攻撃を回避し。挙句の果てに位置取りによって敵勢力の3分の1がこの瞬間攻撃不能な位置であり、1秒後には部屋を離脱できる位置でもある場所にたどり着いたということである。

 通常人間には不可能であるか、著しく困難な行動である。

 

 ちょっと待て、お前はのろ臭く不器用で非力な小娘ではなかったのか。何故そんな超人的ともいえる行動をとれるのか、と思うかもしれない。無論、それは正当な感覚から導き出される感想だ。何も間違ってはいない。

 が、僕はただの貧弱な小娘ではない。魔法が使えるとか、退魔師の眷属であるとか、そういった“この世界でのプロフィール”以前の問題として、僕は“GURPSのキャラクターとしてデザインされて”おり。

 

 

 

 

 

 そうであるがゆえに、物理法則ではなく“GURPSのルール”に則って活動することができるのだ―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第十話『損壊』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 TRPGのルールはたいていの場合、ある程度現実的な理屈を再現できるようにデザインされている。

 例えば力持ちで一撃で人間を殴り殺せるほどの腕力を持った大男であれば、通常よりも重いものを持ち上げることができる。足の速いキャラクターは、そうでないキャラクターよりも高く飛び上がることができる。湿った軟泥を掘るのと、硬い岩盤を掘るのではその掘削速度には大きな違いが出る。現実では勿論、TRPGのルールにおいてもその辺りは変わらない。

 当然のことだろう。TRPGは人間同士が話し合い、互いに想像の光景を共有して進めていく遊びなのだ。発生する事態があまりに現実と乖離していては、遊び手がゲーム上の光景を共有することが困難になり、ひいては遊ぶことそのものが難しくなってしまう。

 狙ってやっているならばともかく、普通に作った金剛力の持ち主たるキャラクターが。相手を一撃で撲殺することはできてもフライパンひとつ持ち上げられないというルールでは、遊び手全員の共感を得ることは難しかろう。GURPSのみならず、どんなTRPGのルールであっても。ある程度物理法則に即したルールが存在するのは当然である。無論、物理法則のみならず、社会的な行動や、人々の精神活動についても同様である。

 ……まあ、TRPGのルールにも色々あるので一概にそうだとは言えないのだけれど。現実的な諸々の法則に即したルールの存在するTRPGが多数あるのは本当のことだ。

 

 とはいえ、TRPGがゲームである以上、現実の物理法則そのままをルールとして持ち込むことは不可能である。キャラクターが高所から落下するたびに等加速直線運動の公式どころか、空気抵抗や重力定数まで持ち出さねばならぬゲームを誰がやりたいというのか。ゲームとして遊ぶならば、現実的な物理法則はプレイ可能な状態まで簡略化され、デフォルメされる必要がある。

 が、デフォルメするということは現実に起こる現象の幾つかを無視するということであり。つまるところTRPG世界においては現実世界では起こりえないシュールな事態が物理的にも、社会的にも往々にして起こりうるということになる。

 

 例えばあるファンタジー世界において同郷の幼馴染同士が会話をする場合、5割近い確率で話が通じないとか。有名な剣と魔法の世界でも、長さ15cmの槍(……槍?)で30cm突撃(……突撃?)すると通常の倍の筋力をでもってダメージを与えられるとか。或いは某スペースオペラ世界においては、人類の限界の筋力があれば、216回に1回くらいはパンチの一撃で宇宙駆逐艦を小破させられるとか。

 とにかく、TRPGのルールにおいては現実的にはあり得ない、ゲームであるが故の奇妙な事態というのが存在するものなのだ。

 

 先ほどの僕の動きについても理屈は同じだ。

 後方へステップを踏むとか、或いは回避に際して僅かに後ろに下がるとか。そういったさしたる距離の移動ではない、しかし戦闘中に頻発する行動について、一々細かい距離を算出していてはゲームが進まない。ためにGURPSのルールは幾つかの移動を伴う戦闘中のオプションについて、最低値を定めている。僕が利用したのはそれである。

 ゲームにおけるヘクス上での話ならば、詰まる所1マス動く程度の動きであるのだが。小柄な幼女が現実に同じ動きをする場合、とんでもない反射神経と運動能力を発揮して飛び跳ねていることになるのだ。

 

 無論、僕が運用したルールはそれだけではない。

 ステップを行う場合、自身の向き変更が無制限であること。行動判定値が低く成功が見込めない場合でも、ファンブル値を減らすために行動値にボーナスを得るという手法。以前折り鶴を折るときにも吟味した、疲労点を消費しての行動成功率の上昇。CPを消費して強引に確率を弄るやり口。選択ルールである戦闘時の小細工が基本的に知力判定であるということ。etc. etc. . . . . .

 

 使えるルール、費やせるリソースをすべて注ぎ込み。実際のTRPGのセッションでやるには聊かどころではなくお行儀の悪いルールの悪用をしてみせ。ゲームであればマップ上の僕と敵の駒を俯瞰してのものになるであろう、ゲームマスターがうんざりするほどの長考を行い。その果てに完成したのが前述の1秒未満における行動なのだ。

 

 支払った代償も大きい。僕はこの一連の行動を成立させるために、CPを1点失っている。大雑把にいってしまえば、MPでもHPでもゴールドでもなく、EXPを永久的に消費したのだ。無論、EXPはケアルやエルフの飲み薬で回復したりはしない。

 この1点は十六夜さんとの記憶術の学習で得た……そして必要な額に足りないため未使用CP欄にプールされていた……ものであり、即ち盲目の刀精さんの授業を200時間ばかり受けたがゆえに得られたものである。勿論のこと、そんな値を消費した以上、僕の頭の中から記憶術に関する記憶は半分ばかり消え去っている。絶賛工事中であった記憶の宮殿は木端微塵に爆砕されてしまい、煙を上げる基礎が残るばかりと相成ったのである。記憶術の習得については大いに後退してしまったということだ。生死を分ける行動を成功させるためとはいえ、たった一瞬のために地道に毎日一日一時間、7ヶ月近い月日続けていた努力が消滅するというのは随分な話である。

 更に言うなれば、CPを消費して強引に“成功を購入する“この方策。1度使うとそのセッション中では二度と使用できないものである。現実の人間の一生の中で、どのあたりからどのあたりが1つのセッションとなるのかは分からないが。少なくとも小人さんとの戦いがひと段落するまでは使えないとみておくべきだろう。

 つまるところ。先ほどやって見せた回避行動はこの危地にあってはただ一度きりの物であり。もう一度同じ事態に遭遇すれば今度はやられるしかない、とっておきの切り札にすぎないのである。

 

 

 

 しかしまあ、ともかく。

 当面の難関は乗り切ったと言っていいだろう。三つの勢力に分かれた小人さんはそれぞれ攻撃済み、障害物に引っ掛かる、位置の都合上攻撃不能となっており、今この1秒の間に攻撃可能な者はいない。次の1秒後には僕は部屋の外に出るので、彼らは僕を追いかけつつ攻撃しなければいけない。当然、激しく移動しながらの攻撃は、狭い部屋での乱闘よりも著しく命中率が下がる。更には子供程度の大きさでも問題にならない襖の敷居は、彼らの体長では随分な障害物となる。それらを勘案すれば、彼らが現実的な命中率で僕を殴れるようになるまでには数秒の時間が必要となるだろう。先ほど動き始める瞬間に、大声で姉さんに助けを求めておいたし、うまくすれば無傷で姉さんと合流することだってできるかもしれない。

 無論姉さんと合流できたところで現状が危地であることに変わりはないのだが。それでも一応戦闘能力を持った味方と一緒にいられるというのは重要なことだ。

 

 はははっ、やれるじゃないか! やれる、やれるぞ―――――

 

 実にTRPGの高知力プレイヤーキャラクターらしい、インチキじみた超高速思考の中、内心そう笑って見せる。

 が、どこぞの縦長テロリストの真似なぞしてみたのがいけなかったのか。想定外の事態が発生する。

 

 

 

 「がんばれー、がんばれー。びょうきがんばれー」

 

 

 

 貴人の小人さんの指揮で唱和しつつ。すでにこの一秒の間では方向転換が間に合わず、攻撃できないはずの“右側の小人さん群”が突如加速し、驚くべきスピードでこちらに突っ込んできたのだ。決して目に捕えられないような所謂“超スピード”ではない。が、明らかに先ほどまでとは段違いの、今までの動きからは想像もできない素早い動きである。無論、今までの“倍の速度”で動く可能性程度を想定していたところで対応できるわけもない。

 

 ちょっと待て、おかしいだろう―――――

 

 内心そう毒づく。

 そんなスピードで動けるのなら、何故今までゆっくり近づいていたのだ。素直にそのスピードで三方から襲いかかっていればとっくに僕を殺せているではないか。或いはそれが何らかの理由でできなかったにせよ、そのスピードの半分でも出していれば、僕を半包囲ではなく完全に包囲できていただろう。それをやられても、やっぱり僕は詰んでいた。

 そも、僕が動き始めた時点でそのスピードを出していれば、僕の“この瞬間攻撃されない位置に移動する”という絢爛舞踏モドキの戦法そのものが成立しなかったはずだ。

 スペックを誤魔化したい何らかの事情があったのか?

 いや、それもおかしい。だったらなぜ今になってスペックを誤魔化すのをやめたというのか。

 僕の行動が何らかのトリガーとなり、彼らの素早く動くという能力が解禁された? 例えば僕が素早く動いて攻撃を回避したから、連中も素早く動けるようになった、とか。

 ……それもないだろう。だったら僕が動いた最初の瞬間から、彼らは素早く動けたはずだ。何故このタイミングで? 何故今までゆっくり動いていた?

 そしてなによりも。

 

 

 

 何故、残りの二つの小人さん群は今まで通りのスピードでしか動いていないのだ?

 

 

 

 三つある集団のうちの一つだけ。それもリーダーらしき輩のいない一集団だけが、いったいどうしてスピードを上げて見せたのか。理由がさっぱり見えてこない。

 

 何故、どうして、状況から推測を、周囲を、敵手を観察して、情報を。思考して、試行して、技能と能力を吟味して―――――

 

 今まで以上のスピードで伍長閣下の五歩先を誇る知性が全力で回転し、想定外の事態に理由づけをしようと火花を散らす。が、そうしている間にも金属棒で武装した小人さんの群れは迫ってくる。

 もはやどうしようもない。僕の回避率が低すぎ、確率を捻じ曲げる方策を使い切っている以上。避けようと試みることさえ無駄な危険を増やす公算が大きいのだ。どうしろと。

 いかん、詰んだか。

 

 回避、よけ、無理。止め、できない。受け、成功率ゼロ。ダメージ軽減、方策がない。嫌だ、死ぬ、怖い、痛そう、姉さん、助けて、姉さん。ああ、手が、金属棒が。小人さんが、小さな手が―――――

 

 振りぬかれる小人さんの達の金属棒がひどくゆっくりと見える。高速思考の弊害である。どこぞの黄金体験 に殴られたが如く、不可避の死の恐怖がゆっくりと、回避不能なまま襲い掛かってくるのを只々見ているしかないのだ。今の僕は手塚治虫の描いた、眼帯についた薬を舐めるナチ将校の気持ちだって理解できるだろう。何十、何百、何千倍にも引き延ばされた時間の中、只々避けえぬ破局の迫るさまを傍観するしかないのだ。

 

 そう、もはや僕に出来ることは何もない。

 既に切り札は切ってしまっているのだ。無論素の能力で対応することは可能であるが。この低スペックの体でいったいどうしろというのか。できることなど精々、小人さんの放った攻撃のダメージ決定ダイスが振るわないことを、さっぱり僕の味方をしてくれないダイスの女神様に祈る程度である。

 超スピードではあっても何の役に立たない、思考の羅列が濁流のように脳内を流れるのを感じつつ。その思考速度ゆえに、ゆっくりと、しかし確実に迫りくるる小人さんたちの棍棒を視界に入れ。

 

 

 

 

 

 凄まじい衝撃を右腕に感じて、僕の意識はぶつりと切れた。

 

 

 

 

 

二、

 「……な、ま……、…………っ!」

 

 胸の中央、心臓のあたりに暖かい光を感じ、僕の意識はまるでフィルムの逆回しを髣髴とさせる奇妙な過程を持って、真っ暗闇から引き揚げられた。宵闇色の霧が立ち込めた思考の中、ぼんやりと耳朶を打つ波に意識を向ける。

 

 波とは声であるようだ。耳朶を、鼓膜を打つ、弱く悲痛な漣である。

 甲高く、柔らかい。未だ使い慣れていない、未成熟な声。

 幼子が、悲嘆と焦燥をありありとこめた声音と調子でもって、何かを叫んでいる。

 ひどく切迫した様子だ。なにか差し迫った事情があって叫んでいるのだろう。

 

 「ま…………、……いな、……い……っ!」

 

 何度も叫ぶその声色は悲鳴のようなありさまだ。余程のっぴきならぬ、差し迫った事情があって、その細く頼りない喉を震わせることとなっているのだろう。ご同情申し上げる。しかし、僕に関係のあることなのか。

 

 「……いな、ま……な、まい……っ!」

 

 何か、何か……抑揚からして人名か。幼女は誰かの名を呼んでいるらしい。片手には木刀。武装した幼女とは、いやはや。マッポー的アトモスフィアとはまさにこのことか。

 しかし件の名前は一体誰のものであろうか。その名には聞き覚えがある。かなり近しい人物であったと記憶しているが。

 いや、いや、待て。

 そもそも。この声に聴き覚えがある。はて、誰であったか。姉さんの声にそっくりなのはわかるが、三十路まで幾ばくも無いこの僕に姉などいなかったような……。

 ん? 姉? ねえさん!? 姉さん!!

 

 ―――――薫姉さん!?

 

 「まい……わひゃっ!」

 

 跳ね起きた途端、視界に星が散る。額に、頭部に、脳に感じる衝撃。神経パルスの明滅の中、ひどく暗い屋内を背景に、目じりに涙をためた姉さんの顔が視界に映る。どうも慌てて起き上がったせいで、顔を近づけていた姉さんにヘッドバッドをかます羽目となったようである。額に作った擦り傷らしき場所にぶつかったのも、彼女のダメージをより大きくしているのだろう。

 

 怪異に襲われ孤立無援の中、気絶する幼い少女と、それに必死に呼びかける、さして年の変わらぬ幼子。

 ひどくシリアスな場面と言えようが、事態の一部が解決した結果が双方額を抑えて蹲る様であっては、聊か喜劇的に過ぎるオチとなったと言わざるを得ないだろう。

 もっとも額を赤くした二人のうち一方の事態を鑑みれば、いるのかどうかわからない(どこぞのヒーリング・ファクター持ちでもあるまいし、僕は第四の壁を突破しているわけではない)観測者の皆様方も、笑ってばかりはいられないのだろうけど。

 

 ごちんと額をぶつけ、反射的に両手を額へと上げようとしたところで愕然とする。

 右腕が、先ほど小人さんの一撃を受けた右のかいなが動かない。

 視界を向ければ、息をのむ事態がそこに展開されていた。……実際には、人類最高2歩手前の意志力が発揮されて、息をのむどころか表情筋の一本も動かさずにその光景を見ることになったのだけれど。まあ、それはともかく。

 

 

 

 血まみれの僕の右腕の内側から皮膚を突き破り。朱色の液体に濡れてら光る、白い棒が突き出ている。

 

 

 

 白い棒とは言うまでもない、僕の腕の骨だ。

 小人さんの一撃を受けた僕の右腕はあっさりと骨折し、脆弱極まりない筋肉と皮膚は内側でへし折れた固形物をそのまま内部に押し込めておくことができなかったということだ。結果として僕は現在、内側から突き破って出てきた腕の骨が、引き裂いた皮膚の中から盛大に顔を出している様をまざまざと見せつけられることとなっているわけである。所謂開放骨折というやつか。ここまで派手なものは珍しいと思うけれど。

 小人さんの打撃力が貧弱な僕を一撃死させることさえできないほど貧弱だったのか。それとも“GURPSのルール的に”攻撃が腕に命中したがゆえに、僕が受けるダメージにキャップが被せられたのか。その何れであるかは定かでないが。ともかく小人さんの攻撃は僕の腕を“使用不能”にすることはできても僕自身を殺すことはできなかったらしい。直撃したところが腕であったのが僥倖ということだ。胴体に当たっていたら、恐らく多分僕は今頃死んでいただろう。

 

 当然のこととして、右手は動かない。

 現実的な話をするなれば。小人さんの打撃か、その後の骨が内側から突き出る衝撃がためかは定かでないが。その何れかが重要な筋の幾本かを引きちぎったということであろう。

 幸運なことに、神経は綺麗に避けて行ったらしく、感覚はそのものは生きている。肘のあたりから指の先まで感覚はしっかり残っており、気絶して目が覚めたばかりというのでもない限り、己が腕の損傷の具合について、一々視認しなくても確認できるということだ。実に結構なことである。

 が、禍福は糾える縄のごとし。この“感覚が残っている”という事実は別の厄介ごとを誘発させている。当たり前といえば当たり前だが、骨が内部から外へと突き出るレベルの怪我をしているにも拘らず感覚が残っているということは、即ちとてつもなく“痛い”のだ。

 

 当然である。骨が折れている、皮膚が裂かれているのは勿論。へし折れた骨が内部から外部につき出るまでに前腕部内部を無茶苦茶に引きちぎっているのだ。破壊された組織の各部からはこれでもかというほどの発痛物質が放たれ、神経から視床下部、脳へと進む強烈な痛みの神経信号となって僕の精神を稲妻のように焼き尽くしている。奔流のように放たれた“痛い”という信号の嵐は尋常一様のものではない。四六時中病に倒れ死にかける僕としても、このあまりにも直截的な痛苦は鮮烈であった。“生前の”僕ならば口から泡を吹いてのた打ち回り、(そんな元気があるならば)泣きわめき、浅ましくあちこちから体液を垂れ流し、みっともなく悲鳴を上げていたことだろう。

 無論、馬鹿げたレベルの意志力が賦与されている“今生の”僕としては、意識すれば眉をしかめる必要さえ無いのだけれど。“痛みに強い”の特徴がなくとも、この程度のやせ我慢は当然のようにできるらしい。

 

 ともかく、このままでは血液の流出でまた意識を失ってしまう。治療する必要があろう。

 慣れた手順で、《小治癒》の呪文をもって傷を塞ぐ。光も音もなく、ただ瞬時に肉が、皮膚がずるりと伸び、引き裂かれた肉を、失われた血液を、破れた皮膚を修復する。

 一秒と経たぬうちに、血まみれで複数個所から肉どころか骨さえ見えていた僕の腕は、きれいな肌と白い骨を見せるおかしなオブジェへと変化する。腕がへし折れたまま、骨が外に顔を出したまま、ただ“怪我だけが”修復されたのだ。傷は癒えたが、相変わらず腕はおかしな方向を向いているし、骨は皮膚を突き破って露出したままだ。突き出た骨の“根本”にうっすらと健康な皮膚が張り付いているのが不気味である。

 GURPSのルールにおいて、HPを回復させることと使用不能となった四肢を再び使えるようにすることが別であることがこの現象の理由であろう。少なくとも今回の場合は、傷を癒すことと、へし折れた骨を修復することは別の問題なのだ。四肢の骨折を瞬時に治すには《瞬間接合》の呪文が必要だが、生憎習得していない。まあ、習得していたところで必要なエネルギーを賄えない(所謂”MPが足りない”状態)のでどのみち使えなかっただろうけれど。

 

 更に言うなれば、ここまでおかしな治し方をしてしまうと《瞬間接合》でも、そして勿論通常の医学でも、修復は不可能だ。

 何せこの状況、骨の折れた状態もまた“治っては”いるのだ。即ち折れた骨が間違った状態で繋ぎ直され、その状態で安定化してしまっているのである。“やぶ医者におかしな骨接ぎをされた結果、永続的に骨格が歪んでしまった“という状況の、更に酷いもと思えば間違いない。即ち僕の右腕は現実的な手法を見ても、僕の”手持ちの“呪文を鑑みても、治療手段の存在しない永続的な使用不能状態となったということだ。腕の内側から骨が突き出るような明白な解放骨折を、骨接ぎもせずに自然治癒させたのと同じ状況であるのだから当然である。

 無論GURPSの呪文すべてを総括してみるなれば、やりようがないわけではない。が、ここまで面倒なことになると。その治療には僕の魔術的素養をもってしても複数の、そして高度な呪文の運用が必要となってくる。

 

 そんな面倒な事態になるなら治癒呪文などかけるなと思うかもしれないが、そういうわけにもいかない。解放骨折状態の傷を放っておくなどといった真似をしてしまえば、この貧弱な体はあっさりと出血多量で死んでしまうのだ。細かいルールが多いことに定評のあるGURPSの細目には勿論、出血多量がゲーム的にどの程度の損害を与えるものなのかということもきちんと定められているのである。

 後々大いに困ると分かっていても、現時点で治癒呪文を行使しないという選択肢はあり得ないのだ。

 

 

 

 いやはや、しかしまあ。

 たった一撃、それもさして強力ともいえない怪異の一撃を受けただけでこのありさまなのか。自身の肉体的な性能の低さを痛感させられる事態である。

 

 更に言うなれば、己の右腕が現代技術によっては絶対に完治不能。魔法によっても治療が著しく困難か、或いは不可能である有様となっているにも拘らず、僕の精神のこの凪いだ様は一体なんなのか。

 ああ、いや。勿論馬鹿げた意志力が賦与されているのがその理由だとは分かっているのだけれど。我がことながら不気味である。

 大体、そんな御大層な意志力がある割には、さっき小人さんに殺されかけた時には随分と僕は取り乱していたように思われる。恐らくは以前も考察したように、この意志力というやつがあまりにも人格(中の人)に影響を与えてしまうので、必要な時以外は発動しないようになっているからなのだろうけれど。どんな場合に意志力の補助が失われるのかが今一わからない。

 先ほどは既にどうしようもなかったので構わないのだが。未だ継続している戦闘のさ中に突如として強烈な意志力の補助が消えたりしたらことである。一体どんな場合に意志力のサポートを失うのかも把握しておく必要があろう。目じりに涙をためてはいるものの、孤立無援の中悲惨な怪我を負った妹を引きずってきた割りには冷静な姉さんを見ながらそう考える。

 

 

 

 そうそう。腕から骨の飛び出た妹を引きずってきた姉さんが泣き叫んでいないのはそこまで驚く話ではない。

 如何せん原作でも姉さんは。死体が二つ転がり、目の前で大叔母が消し炭にされ、祖母が瀕死の重傷を負った孤立無援の中。事実上の初陣で、(封印が解けたばかりで弱っていたらしいとはいえ)とらハ世界日本史上五指に入る強壮無比の大妖怪を一対一で下しているのだ。その肝の太さは余人の及ぶところではないのだろう。……まあ、現状では未だ六歳児にすぎないので、どこまで大丈夫なのかは怪しいところであるが。

 

 

 

 

 

三、

 数瞬の内に自身の損壊の様を認識、対処したところで、更に二つの疑問が浮かぶ。

 奥歯のスイッチを入れたのか、或いはベルトについたカブトムシのおもちゃでも弄ったのか。思考速度はいまだ加速したままだ。それはそれで結構なことだが、同時に現状がいまだのっぴきならぬ危地にあることも意味している。危地が過ぎ去っているのならば、僕の思考速度は普段通りのそれに戻っているはずなのだから当然である。

 

 さて、疑問だ。

 まず一つ、僕はなぜ意識を覚醒させることができたのか?

 そしてもう一つ、どうしてあの状況で姉さんの救援が間に合ったのか?

 

 一つ目の疑問はいつものことながら、僕が恐ろしく弱弱しい生き物であることが原因の疑問だ。端的に言って、僕がダメージを受けて気絶した場合、その意識が回復する可能性は非常に低い。病院で手当てを受けて、ならばともかく。周囲の光景を見る限り、現状はいまだ小人さんから絶賛逃亡中の神咲邸の内部。時刻も小人さん襲撃からさして経っていないように見受けられる。そんな状況で意識不明の重体であったこの虚弱幼児が自然に目が覚めるとは考えにくい。

 まかり間違って6歳児たる姉さんの<応急処置>技能が成功したとしても、状況はさして変わらない。無論ダイスの女神様が全力で微笑んでくれれば話は別だが、現在までの有様を鑑みるに、僕は彼の神格に好かれているとは言い難い。ならば何故、小人さんの一撃で気絶した僕は、今意識があるのか。

 

 一瞬にして意識に上がったその疑問については、しかし即座に解決された。

 なんのことはない。意識が回復されるまでのプロセスと、今なお蹲る(……別段姉さんが僕のヘッドバッドで大ダメージを受けたわけではない。僕の思考が加速されているので、彼女が蹲ってから起き上がるまでの時間が、ひどく引き伸ばされているだけの話である)姉さんの手に残る青い光の残滓がその答えである。

 

 つまるところ、姉さんが“癒しの霊術” モドキを使用したのだ。

 

 勿論、神咲薫は“癒しの霊術”を使用できない。原作でもたぶん、使って見せたことは無い。が、“癒しの霊術”とは対象の魂を活性化させ、当人を“本来の姿”に引き戻すことで結果的に怪我を癒す、という効果の術である。……原作中でそんな説明がされていたか? と思うかもしれないが。小説版とらハ3那美編でしっかりその旨説明されていたので間違いはない。

 ならば姉さんが怪我を治すほどの効力は発揮できずとも、対象の本来の姿、即ち“意識のある状態”に引き戻す程度の芸当ができたとしても別段おかしな話ではない。怪我を治すほどではないので“癒しの霊術”ではないが、それよりもより低位の、気絶した人間を起こす程度の術が使えた、ということである。

 原作中でそんな術を使っていなかったのは。恐らく気絶した人間を迅速に起さねばならない事態が無かったからであろう。瞬間的に対象を治癒できる術のある世界ならともかく、通常の超常バトルものの世界でそんな術を使う機会もそうそうなかろうし。

 

 

 

 さて、一つ目の疑問に回答が見いだせたところで、もう一つの疑問について考えるべきだろう。

 即ち、“何故僕は生きているのか”という疑問についてである。

 

 薫姉さんが助けてくれたから、というのは間違った回答ではない。が、同時にあまりにも言葉足らずな回答である。

 何故なら、僕は小人さんの目の前で意識を失ったのだ。それも相手に殴られて、である。

 畢竟次の一秒で僕は更なる追撃を受け、ミンチにされているはずだ。相手の間合いの中で気絶したのだから当然である。

 大ダメージを受けたので僕が吹き飛ばされ、相手が攻撃不能な位置まですっ飛んで行った。という可能性も絶無ではない。が、それにしたところで吹き飛ばされる距離は精々1~2メートルのはずだ。それ以上吹き飛ばされた場合、僕は襖どころか壁に叩きつけられることとなり、そのダメージで死んでいるはずだからである。そして1~2メートル吹き飛ばされた程度ならば、あの小人さんの出して見せた驚くべきスピードがあれば即座に詰められるはずである。やっぱり僕は死んでいるはずだ。

 僕の助けを求める叫びを聞いてから、姉さんが間髪入れずやってきてくれたとしても、彼ら小人さんには数秒の時間があったはずだ。その、死にぞこないの小娘を彼岸へと叩き込むに十分な時間の間、彼らは何をしていたというのか。

 

 これについては涙目で額をさする姉さんに僕を助けた時の状況を聞いてみたことで……さらに謎が深まった。

 姉さんが駆け付けた時、小人さんたちは襖ごとひっくり返った僕に接近しようと“ゆっくり動いていた”というのだ。ために僕の叫びを聞いて即座に駆け付けた姉さんの救援は間に合ったのだと。

 更には、姉さんが僕を引きずって逃げようと悪戦苦闘していれば、最初のうちはゆっくりとした移動速度で僕たちの追跡を行っていたらしいが。暫くすると突然姉さんとは逆側、即ち今来た方向へと速度を上げて……僕の腕をへし折った時と同様の“驚くべき速度で”……駆け去って行ったというのだ。

 小人さんが意味不明の撤退(?)を行ったおかげで、こうして僕たちは額を抑えたり右腕をグロテスクなオブジェに変えたりと色々できているようであった。

 

 ……本格的にわけが分からなくなってきた。

 

 小人さん達は何故普段、大きさを勘案してなお“ゆっくり”移動しているのか。

 そして何のつもりで、明らかにおかしなタイミングで加速能力(?)を使用するのか。

 更にはいったいいかなる腹積もりがあって、気絶した小娘を引きずる幼女などという絶好の獲物を前に、加速能力(?)まで使用して撤退したのか。

 

 耳を澄ませば神咲邸の丁度こことは反対側の廊下から、小さな複数の足音が聞こえる。撤退した小人さん達であろう。僕たちの位置が正確にわかっているのかどうかは分からないが。ともかくその音はだんだんとこちらに近付いている。

 が、その近づきようもどうにも奇妙なものだ。足音から彼らの行動を推察するに。彼らは加速したり、ゆっくりと動いてみたり。はたまた廊下の真ん中を素早く駆けたかと思えば突如として斜め後ろに進んだ挙句、今度は廊下の端をゆっくりと進んで見せたりと、実に奇怪千万な動きでもって移動しているらしい。あの連中は、いったい何がしたいのか。

 

 

 

 

 

四、

 更に言うなれば、彼ら小人さんの動向以外にも気になることがある。

 

 気絶から醒めてからこの方、神咲邸内が奇妙に“静か”なのだ。

 本来ならば、強力な退魔師が軒並み出払ったこの神咲邸内には、怪異がひしめいているはずだ。そしてそうであるがゆえに、天井の目の這いずる音、隙間女の戸棚を引っ掻く音、座敷童のくすくす笑い、或いは便所の白い手が水面を揺らす音など、様々な音が聞こえているはずである。

 にも拘らず今現在、それら多種多様の音がまったく聞こえてこないのだ。神咲邸の外、塀の近くで羽を休めているはずの大木葉木菟の心音さえ聞こえない。小人さんの位置やその動静。或いは姉さんから発せられる多種多様な音はしっかり聞こえているので、僕の耳がどうにかなったというわけでもなさそうだ。いったいどういうことなのか。

 

 一体どういうつもりで、小人さんは意味不明の加速と減速を繰り返しているのか。

 何故彼らは、まっすぐ進まず右往左往しながら移動しているのか。

 更には何故、この家を闊歩していたはずの魑魅魍魎その他の存在が感知できなくなっているのか。

 

 神話生物並みのおつむを全力回転させてなお、諸々の疑問に回答を得ることはできない。恐らくは答えを得るための、真実にたどり着くまでの材料が足りないということなのだろう。その材料とやらが、僕が感知できないものなのか、現在神咲邸にいては入手しようのないものなのか、或いはそもそも現時点の時間軸には存在しないものなのか、は分からないけれど。

 

 現状は全く改善されておらず、むしろ悪化している。

 

 敵対するは、小なりとはいえまともにやっては勝ち目が絶無の怪異の集団。

 ほぼ孤立無援で、救援は期待できない。

 唯一の味方はヒヨコどころかそもそも殻に罅すら入れていない退魔師の卵であり、おまけに6歳児だ。

 僕本人はといえば腕から骨が付きだした状態であり。更にはその右腕は、現状では恒久的に完治を期待できない、極めて異常な修復を施す羽目となっている。……失血死を防ぐ方法がほかになかったのだから仕方がないのだけれど。

 かてて加えて、周囲の状況も奇妙なものである。神咲邸にいたはずの怪異たちは、いったいどこに行ったのやら。

 更に言うなれば、そもそも敵の正体がまったくわからない。意味不明の加速と減速を繰り返しながら迷走する、病に関係があるらしい小人さんの集団。……そんな妖怪、いるんだろうか? 前世でも妖怪やら民俗学は最高学府でも学ぶ程度には興味を持っていたし、今生ではその手の英才教育を受けて育っているわけだが。そうであるにも拘らず、知力18のおつむの中身を検索してもさっぱり彼らの正体が見えてこないのだけれど。

 

 

 

 疑問は多く、それらの答えに至る光明はなく、状況は絶望的だ。

 ここにいるのがただの五歳児なら既にパニックに陥っているだろうし、大人であったとしてもまともな思考能力など期待できまい。

 が特段努力して手に入れたわけでもない僕の常人離れした意志力は、この状況下においても冷静な思考が可能な状態を僕に供与し続けている。

 延々と怪異妖怪の興味を惹き続けるとか、まともに折り紙が折れないレベルで不器用だとか、死ぬほど病弱だとか。あっちこっちで悲惨な状態を突きつけられている今生のこの身であるが、強大な意志力については素直に有り難い。これが無ければ、とっくに僕は死んでいただろう。

 

 ああ、そうだ。

 状況は聊かどころでなく劣悪であるが、僕にはまだまともに動く頭が残っている。思考するだけの理性があり、戦うだけの意志がある。五体だって……まあ、9割がたは機能する。

 まだ僕は負けたわけではない。ちょっと概ね孤立無援で、敵の攻撃を受けると一発で四肢が破壊され、対手の正体がつかめないうえに片腕が恒久的に使えなくなっただけだ。大丈夫、まだやれる。

 

 「姉さん、行きましょう」

 

 ほぼ真っ暗闇の部屋の中。微妙に僕とは違う場所に視線を返す姉さんを促し、僕は立ち上がる。

 再び高速で回転する高性能おつむが瞬時に幾つかのプランを打ち立て、そのうちの一つを試してみようと結論したのだ。上手くいくかどうかはわからないが、試すに足るやり口を見いだせないわけではなかったということである。

 

 このまま死んでなるものか。

 僕はまだ、この病弱者を助けてくれたこの神咲家の人々に何一つ返していないのだ。

 善意には善意を、献身には献身を、情愛には情愛を。

 与えられたものに応えずして、何が転生者か。二度目の生を受けるというご都合主義があってなお、不義を働くなど、許されることではない。……いや、人道とか、倫理とかの殆どは割とどうでもいいので、あらゆる不義を働くまいとは思っていないけれど。個人的に示されたものについては、やはり気にするべきものであるように思われる。

 

 この状況で、やはり不安なのであろうか。ぎゅっと僕の左手を握りしめてきた姉さんの小さな手を握り返し、僕はそう考え、行動を開始するのであった。

 

 

 

 

 

 ……ところで姉さん。

 今更慌てて顔を拭ったところで、泣きべそをかいていたのは誤魔化せませんよ。

 いや。この期に及んで先導しようと僕の手を引き、“お姉ちゃん”をやろうとするあなたの心意気は素晴らしく、たまらなく愛おしいものなのですけれど。

<つづく>




 小人さんとの戦いは次回で決着の予定です。
 一応このエピソードは、複数の伏線を張ったうえでの舞奈就学前の山場ですので。長いのは諦めていただければなと思います。
 それでは。


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第十一話『看破』

序、

 余人には見通せぬ暗闇の屋内。氷の様に冷え込んだ板張りの床の上で、小柄な影と、それよりも更に小柄な複数の影が交錯する。

 奇怪千万なことに数多の怪異の姿さえ消えたこの夜半の神咲邸の中で、薫姉さんと、小人さんたちが戦っているのだ。

 部屋から出た僕たちはさして時間のかからぬうちに小人さんの集団に捕捉され、ちゃんちゃんばらばらの戦闘へと雪崩れ込むことと相成ったのである。

 幾ら小人さんの集団がおかしな動き方をしているとはいえ。総合的には幼女二人が逃げる速度よりも素早く移動できたということなのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第十一話『看破』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 「せぇぇぇっ! やあぁぁぁぁっ!!」

 

 未だ成熟していない、柔らかい喉を震わせ。裂帛と称するには聊か舌足らずな叫びと共に、姉さんが木刀を振るう。

 振るわれる太刀筋は、今世において主流となる日本の“剣の扱い方”、即ち剣道のそれとは聊か趣を異にしたものである。複数の、必ずしも近接武器のみで武装しているとは限らぬ相手への対応を想定した、現代においては一種異様のものだ。彼女の用いるその構えも、その動きも。一般に習得できる剣道では見受けられないものである。……いや、構えのみを見るなら剣道型で見られるものも含まれているのだけれど。

 ともかく、本来発生させられるはずの金色のオーラを纏う余裕さえ無く戦う彼女は、複数の、そして“己よりも遥に小柄な”相手への対処を目的とした“きちんと教育された”動きでもって怪異と相対しているのである。

 

 姉さんの動きが剣道のそれと異なるのは特段驚くにあたらない事態だ。

 剣道は概ね大体一対一で、自身と同じ一本の日本刀……普通は竹刀を使うが……で武装し、自分と同じような教育を受けた剣士と、いっせーのせで真正面から戦うことを主眼に置いている。……まあ、実際は薙刀とだって試合をするし、複数との戦いを教えている道場も存在する。かてて加えて、年齢次第では二刀流をやったって構わないのであるが、ともかく。

 少なくとも剣道は、雷が上から降ってきた場合の対処法とか、相手が空中に浮いている場合とか。はたまた敵対者が火を吐いたり矢を射ってきたり、挙句の果てには機関銃で攻撃してきたりする場合について対応していない。非実体が複数でまとわりついてくる状況に対しても、恐らく多分想定していない。

 

 が、退魔剣術であるところの神咲一灯流は前述のそれらすべてに対して想定し、門弟に必要な対策を教え、型を組み上げている。

 当然の帰結であろう。神咲の退魔師たちは奇襲することもされることもあるし、相手が一人とは限らない。更には稲妻を放つ鵺とも、上空から襲い来る白溶裔とも、はたまた口から火を噴く悪魔とも戦う必要があるのである。無論、場合によっては重装弓騎兵であるところ平家の落ち武者や、うっかり日本で死ぬ羽目となった禁酒法時代のシチリアン・マフィアの亡霊と戦う羽目となるやもしれないのだ。彼らと日本刀一本で互角に戦うためには。霊力によるエネルギー波以外にも、撃剣の技術によってそれら通常剣術が想定しえない戦力に対抗できなければならない。

 

 と、いうわけで。

 “通常剣術が想定しえない奇妙な戦いをも想定した流派“である神咲一灯流の剣士たる姉さんは、“きちんと教育を受けた動き”でもって、“複数の武装した小人さん”と戦うことができるのである。

 

 ……上記のごとき表現を用いると、姉さんが抜群の技巧を持って小人さんたちと戦っているように思えるかもしれないが、残念ながら彼女の動きは端的に言って稚拙だ。

 足さばきは常に完璧の物とはお世辞にも言えない。時折どたばたと走り回るかのように足を上げ、構えは乱れ、上体の場当たり的な動きのせいで無駄に体力を消耗している。姉さんの息が荒いのは敵が素早いからではなく、緊張と動きの無駄で本来不必要なレベルで体力を消耗しているからであろう。

 当然小人さん達にあちらで殴り飛ばされ、こちらで噛み付かれ、あっちこっちに傷を作り、そのたびに僕の《小治癒》で傷を癒されている状態だ。

 

 これもまた、必然である。

 数多くの種類の敵手との戦いを想定して型を学んでいれば、畢竟一つ一つの型に掛けられる時間は限られてしまう。無論ある程度諸々の型を効率的に統合するとか、そもそも “敗北と死がほぼ同義(或いは死ぬよりひどい目に遭う)”の退魔剣術と“心と体を鍛える”剣道では練習密度が桁違いであるとかそういった考えもあるにはあろう。が、それら反論を鑑みたところで、やはり限界というものがある。人生は有限であり、人間が一日に学べる時間には明快な限界が存在するのだ。

 原作で半ば日常生活を振り捨ててまで“命がけで戦うための”訓練を受けていた姉さんが“剣道のルール”では同年代の少女の中に自身より強い剣士が複数存在したように(原作の姉さんは剣道では“全国レベル”。つまるところ剣道という枠組みの中では、自分より強い剣士が複数いた可能性が高い)。無数の状況に対応するよう訓練を受けているがために、神咲一灯流退魔師の卵は一つ一つの状況に対する対応能力はそこまで高いわけではないのである。……勿論、年齢を考えれば充分に熟達しているのだけれど。

 

 

 

 

 

二、

 邪魔にならぬよう、狙われぬよう。少し下がった場所にいる僕を尻目に、姉さんと小人さんの戦いは続いていく。

 

 横合いから襲ってきた小人さんを柄頭で迎撃し、跳びかかってきた対手を身を沈めてやり過ごし。そのまま“何度も練習した”手慣れた動きでもって。幼女は倒れこみながらの地面すれすれの横薙ぎを撃ち放つ。恐らくは姉さんの思惑通りなのであろう。イスノキの材木より削りだされた鈍器は未熟な、しかし剣士の年齢と状況を考えれば過分なまでの練度をもって複数の小人さんを吹き飛ばす。

 

 「がんばれー、がんばれー」

 「びょうきがんばれー」

 

 僕が《小治癒》の呪文で姉さんを援護していることを理解しているのか、していないのか。僕の中の病を言祝ぎつつ小人さんたちは起き上がり、相も変わらず理不尽な速度変化と方向転換を繰り返しながら、また姉さんへと襲い掛かる。能天気な声を上げ迫りくる連中の中には今さっき姉さんに弾き飛ばされ、手や足がへし折れた者もいたはずなのだが。特段損傷は見受けられない、五体満足の有様である。

 

 そんな“いつの間にやら回復する”という理不尽な怪異の襲撃を、先ほどの一撃の都合上俯せに倒れこんだまま、姉さんは強引に迎撃する。冷たい板の間に未だ成人より軟骨の多いその身を打ち付けた痛苦などおくびにも出さず、俯せから転がって仰向けになると同時に木刀を跳ね上げ、飛び込んできた小人さんの顔面をしたたかに打ち据えたのだ。

 更には残りの連中が襲い来る前に体操の跳ね起きの要領で立ち上がり(6歳児としては驚愕すべき運動能力であろう)、反動で姿勢を崩しつつも、横合いから襲い来る金属棒を持った小人さんをどうにか肘打ちで跳ね飛ばす。

 

 とはいえ、小人さん達もただやられるばかりではない。姉さんの肘打ちで吹き飛ばされると同時に彼らの棍棒が幼女の胸部に叩き込まれ、彼女の形の良い桜色の唇から明るいピンク色の血が吐き出される。胸のへこみ具合からして、胸骨を複数本と、内臓……恐らくは片肺……を潰されたのだろう。呼吸器官を破壊され、酸素を多く含んだ血液が口腔から噴き出たのだ。当然のように姉さんは立っていることさえできずに倒れこむ。現実的に考えるなれば、即死かどうかはともかく、数分以内に確実に死に至るであろう致命傷である。

 尤も、この場にGURPSの魔術師がいる現状においては、“そんなもの”が死因となりえるはずもない。

 僕が間髪入れずに放った《小治癒》の呪文が瞬時にへし折れた胸骨、つぶれた肺、失われた血液、千切れた無数の血管、その他もろもろの損傷を修復し、瞬きするよりも早く姉さんは健康体に逆戻りする。

 

 《小治癒》や《大治癒》で骨折は治せないのではないのか? と思うかもしれないが。実際のところGURPSの治癒呪文が問題にするのは“特定部位が使用不能になったか”であって“骨が折れたか”でも“内臓が破壊されたか”でもないのだ。ために腕や頭が吹き飛んだのならばともかく、胴体に受けたダメージについては取りあえず対象が生きてさえいればどんな状況であろうと瞬時に修復できるのだ。……何とも理不尽な現象であるが、ゲーム的な魔法を現実に当てはめる以上異常極まりない状況が現出するのはある意味仕方のない話と諦めるほかない。

 

 つらつらと益体の無いことを考えているうちにも、姉さんと小人さんたちの戦いは続いていく。

 追撃を受ける前に打撲によるダメージを修復された退魔師の卵は、今を好機と突っ込んできた怪異へと転がったまま鉄槌打ちを叩き込み、妖怪の血と反吐で白く柔らかな手を汚しながら、よろよろとどうにか立ち上がる。浅葱色の寝巻を朱に染めた幼子は、そのまま踏みつけで倒れた小人さんへ追撃を行おうとしていたようだが。さすがにそれは間に合わなかった。

 裸足で力いっぱい踏みしめた先が柔らかい怪異ではなく、クロマツの板であったためであろう。動きを硬直させる姉さんを尻目に、小型生物(?)ゆえの脆さで体の形を大きく崩した小人さんは、いたいよぅいたいよぅと鳴きながら集団へと逃げ帰る。

 手や足に大きなダメージを負い、はたから見ても分かるほどほかの小人さんとは異なるありさまとなっていたはずの逃げ帰った小怪異は。奇怪なことに群れの中に埋没するとあっという間に見えなくなり、一体彼らの集まりのどのあたりにいるのかさっぱり分からなくなってしまった。

 

 小人さん対姉さん……と、回復役兼足手纏いの僕……の戦いは、明白に僕たちの不利で進んでいる。

 え、薫姉さんは小人さん群とちゃんと戦えているようなのになぜ? と思うかもしれないが。姉さんは小人さんの攻撃全てを回避できているわけではない。彼女が受けたダメージを僕が即座に回復させているからこそ何とかなっているのだ。

 姉さんに呪文による援護が行われている間は問題なく戦えようが。それがなくなれば、必死に木刀を振るう幼女剣士は数秒で血だまりの中に沈む可能性が高い。そして如何にインチキじみた魔術的才覚を持つ神咲舞奈といえども、治癒呪文の連続行使によって発生するあらゆる問題を解決できるわけではない。

 

 簡潔に言うなれば。GURPSの治癒呪文は、24時間以内に同じ相手に行使する場合。行使回数に比例して呪文の成功率が低下してしまうのだ。

 下手な神格より高い僕の技量の都合上、通常のGURPSの魔術師のように5回を数えずして回復が覚束なくなることは無いのだが。如何せん敵の数は多く、姉さんの回避率は低く、その耐久力も低劣である。

 流石に僕ではあるまいし、姉さんは小人さんの打撃を受けても一撃で戦闘不能になったりは(たいていの場合)しないようなのだが。だからといって2回も3回も攻撃を受けてから回復させるほどの余裕があるわけでもない。

 結果として姉さんにかける治癒呪文の頻度は高くなり、加速度的に姉さんへ治癒呪文をかける難易度は上がっていく。この状況があまりに長く続けば、僕の神格並みの技量をもってしても姉さんを回復させることは困難となるだろう。

 

 問題はもう一つある。

 姉さんが散々に木刀で殴り倒しているにも拘らず、一匹たりとも敵怪異を殺害できていないのだ。今さっき姉さんがしたたかに打ち据え、外観を大きく崩すほどの損傷を与えた小人さんについても、“いつの間にか”すでに集団の中でどこにいるのかわからないほど傷が治っている。先ほど、姉さんが弾き飛ばした小人さん達と同じ現象だ。

 非常に困った事態である。怪異は往々にして死ねばその正体を現すので、姉さんが一体でもこの小怪異を殺害してくれれば、彼らの正体について大きな手掛かりを得られると思うのだが。なかなかどうしてうまくいかないものである。

 

 とはいえ、事態打開のヒントとなる現象がまったくないわけでもない。

 姉さんの攻撃が綺麗に決まった小人さんが群れに帰り、集団の中に埋没した時。人類最高2歩手前の観察力で見なければわからない程度ではあるが、微妙に“小人さんの集団“全体の規模が小さくなっているように見受けられたのだ。もしかしたら、この小人さんの群れ。個々の小人さんが負ったダメージを、曖昧模糊とした”小人さんの集団“という一群で肩代わりできるのかもしれない。

 GURPSのルールで無理やり表現するなれば。少々変則的な”群れの特徴“と、一定の”防護点“ををもったキャラクターといったところであろうか。彼らを倒したければ十分な打撃力を内包する剣力か、一撃で何もかもを吹っ飛ばすような何らかの範囲攻撃が必要であろう。無論、その何れもこの場に存在しないわけであるが。

 

 大体わかっていたことだが、まともに姉さんが戦って勝てる相手ではなさそうである。

 一人は戦闘訓練を受けているとはいえ、幼女二人が相対して未だ死人が出ていない敵手である。客観的に見ればさして強い怪異というわけでもないのであろうが。僕と姉さんという現有戦力にとっては致命的な相手であるのは間違いない。安易な戦闘で決着をつけるという手段は避けておくのが無難であろう。

 そろそろまともな成功が覚束なくなってきた《小治癒》ではなく、《大治癒》に運用呪文を切り替えつつ、僕はそう決断する。

 

 

 

 

 

三、

 決断した以上、後は行動あるのみである。

 

 姉さんと小人さんたちがチャンチャンばらばらやっている間にこっそり引きずってきた古式ゆかしい(前世ではもう製造されていないレベルのものだ)転倒式化学泡消火器ひっくり返し、周囲に煙と泡をぶちまける。もともとそういうものなのか、退魔師の家で使うために何か特殊なものでも入れてあったのかは寡聞にして知らない(と、いうか。この種の消火器自体一般家庭においてあるような代物ではないので、何か理由があるのだろう)のだが。鼻が曲がるとはまさにこのことと言わんばかりの酷い臭いと共に、白い煙がもうもうと立ちこめる。

 暗闇に加えてここまでの煙が発生してしまえば、暗視持ちだろうが人類の限界に近い視力があろうが周りなど見えようもない。案の定、姉さんも小人さんも相手の位置が分からないらしく、右往左往している。

 勿論僕も視覚で周囲の状況を確認することは不可能であるが。この状況を意識的に作り出したのが僕である以上、視界が塞がれる最後の瞬間、誰がどこにいてどんな状況であったのかはしっかりと把握している。更に言うなれば、音だってきちんと聞こえている以上、姉さんがどこにいるのかはその心音や息遣いからはっきりとわかる。

 つまるところ、消火器の泡と煙で周囲がおおわれたこのタイミングにおいては。神咲舞奈のみが彼我の位置関係をきちんと把握できているということであり。姉さんや小人さん達に先んじて移動のイニシアチブを掴むことができるというわけである。

 息を止め、突然の視界の悪化に戸惑う姉さんの手を引く。一瞬びくりと震えた豆だらけのその手は、しかしすぐさま僕の手を握り返し、ためらうことなく僕の先導に従っていく。

 

 「がんばれー、がんばれー。びょうきがんばれー」

 

 小人さんの合唱は、こちらに近付いたり、離れたりとふらふらするばかりだ。相も変わらず素早く動いたり、はたまた突然ひどくゆっくりと動いたりと、その移動の有様は奇妙奇天烈なものである。が、そうであっても聊か動きが悪いように思われるのは、放出された二酸化炭素による窒息効果故であろうか。ともあれ狙い通り、こちらの位置を見失ってくれたらしい。

 

 小人さんに気付かれぬよう黙って、ただ手を引く動きのみで姉さんを促す。化学泡消火器は周囲を冷やすと同時に二酸化炭素を放って消火を目論む装置である。ぼやぼやしているとこっちまで窒息してしまいかねない。

 幸い、姉さんはどこまでかはさておいて、こちらの意図を理解してくれたらしい。きちんと僕の先導する方向へとついてきてくれる。

 

 「がんばれー、がんばれー」

 「びょうきがんばれー、しねーまいなー。がんばれーびょうきー、かおるしねー」

 

 もはや病を言祝ぐだけではなく、明確にこちらに呪詛を放ってくる小人さん達を尻目に。

 僕たちは泡だらけの廊下を後にすることとなったのである。

 

 

 

 

 

四、

 弱弱しい月明かりと、それさえも頼もしく見えそうな脆弱な星明りのみを光源とした、神咲邸の庭先。

 魔除けの為であろう、柊、南天。まさか有事にでも備えているのか、桃、柿、松などの植わったその場所を、白い息を吐き出しつつ姉さんと駆け抜ける。

 消火剤をぶちまけて一時的に小人さんを撒いた僕たちは。息を乱し、寒空の中汗をかきつつも、神咲邸の門の前まで走ってきたのだ。

 

 目的は勿論、逃げるためである。

 400年以上続く退魔師の家であるところのこの神咲邸には、当然のこととして結界が張られている。以前十六夜さんも言っていたが、必要とあらば人間の出入りさえ拒む、非常に強力なものだ。この結界を利用し、自分たちが神咲邸から脱出した後結界を張り直せば、小人さんを神咲邸に閉じ込めることとなり、僕たちは安全に逃げ出すことができるというわけである。

 今までの状況を鑑みるに、僕と姉さんでは、小人さんをまともに倒すことは不可能であろう。が、特段僕たちで小人さんを倒さねばならぬ理由があるわけではないのだ。僕にせよ姉さんにせよ、未だ幼い退魔師の卵にすぎない。ここで見逃せば小人さんたちが数千の犠牲者を出すとでもいうなら逡巡するフリくらいはしないでもないのだが。そうでもない限りいったん撤退し、和音婆様辺りが帰ってきたところでその助力を願ったところで別にかまわないのである。小人さんたちが強敵であるのは、あくまで僕たちにとってであり、熟練の退魔師である和音婆様や亜弓さんにとってはさしたる脅威でもあるまい。

 勝てないのなら逃げればよい。実に明快である。

 

 ……まあ、特異点持ちで四六時中怪異妖怪に出会う病弱小娘が。寒空の中まともな防寒着もなく、今一どこがとは言い難い“安全な場所”まで逃げられるのか、という疑問はあるのだけれど。このまま勝ち目のないチャンバラをやっているよりは現実的な選択肢であろう。

 

 

 

 取りあえず、結界を開く作業に取り掛かる。亜弓さんから渡されたあんちょこは既に暗記してあるので不要だ。懐から取り出すこともなく、結界運用の作法へと取り組むことにする。

 結界操作のためには印を組んで呪文を唱える必要があるわけだが。生憎僕の腕は一本使用不能状態である。まともに印を組むことはできない。

 とはいえ、だからと言って結界を操作することができないわけではない。神咲家で育ち、学んできたこれまでの5年の間に、僕は<職業技能/退魔師>に2CP分振り分けることに成功している。常人ならば、一つの技能に2CP程度振り分けた程度では駆け出しとさえ呼べない素人でしかないのだが。無論この神咲舞奈の知力ならば話は別である。

 2CP振り分けたことによる僕の<職業技能/退魔師>のレベルは18。既に専門家ではなく達人と呼ばれてもおかしくない程度の技量に達しているのだ。

 そして当然のこととして。専門家や達人と呼ばれるに足る退魔師が自宅の結界を操作するのに、ちょっと一本手足が足りない程度の事態が障害となりえることは無い。印を組めずとも、呪文の詠唱に反閇……足運びを加えることで結界を操作する。ルール的には、成功判定にペナルティが課せられたものの、特段問題なく技能判定に成功したということなのだろう。

 

 呪文と反閇で必要な儀式を済ませて見せれば。邪魔にならぬよう僕の手を握ったりはせず、しかしやはり不安はあるのだろう、僕の寝巻の裾をぎゅっと握っていた姉さんが。何かに気づいたように門を見上げ、鍵の元へと走っていく。僕の行動によって、門の結界が解かれたのであろう。

 ……いや、僕は結界操作の方法は知っていても霊力を感知できないので、姉さんの反応を見ないと結界がどうなったかは分からないのだ。それでいいのかと思うかもしれないが、普通の人々だって電気信号を感知できないにも拘らず電気式の鍵を操作しているのだ。霊的な感知能力を持たない僕が霊的な結界を操作できたところで特段不思議はないのである。

 

 耳を澄ませれば、小人さんは未だ神咲邸内を右往左往しているらしい。未だこちらの位置を見抜けてはいないようだ。僕たち姉妹に勝ち目が薄く、そうであるがゆえに逃走を選ぶというのはさして難しい予測でもなかろうに、先回りするだけの知恵もないものと見受けられる。彼ら小人さんたちがあまり頭のよくない怪異であるというのは、僕たちにとって朗報であろう。

 今後の逃走ルートと、それを進むに必要な体力について考えると同時に、小人さんの能力についてもそう考察する。

 

 そうこうしているうちにかちゃりと金属音がした。背伸びをして門のねじ式の鍵と格闘していた姉さんが、ようやく鍵を外し終わったようだ。やれやれ、ようやくこちらを害そうとする怪異群から逃げることができる。内心ほっとため息をつく。姉さんも同じ思いなのだろう。走って来る間に散々躓いたせいで泥のついた顔からは、緊張の糸が緩んだ様がうかがえる。

 

 そして引き戸の門をがらりと開け、一歩外に踏み出そうとして。

 眼前の光景に、僕たちは茫然とすることとなった。

 

 神咲邸の門を開けた先。本来ならばそこには、閑散としたアスファルトの道路と、地主不明のススキ野が広がっているはずであった。野中の一軒家の周りとはまさにこのようなものであると言わんばかりの、田舎でもそうそう御目に罹れないであろう寂れた光景が広がっているはずであった。

 

 しかしどういうことであろうか。

 門の外、塀の向こう側、神咲邸の外には。

 

 

 

 

 

 “何もなかった”のである―――――

 

 

 

 

 

五、

 消火器を利用し、小人さんたちの目を欺いて(まあ、彼らの感覚器官が何をメインに僕たちを感知しているのかは寡聞にして知らないのだが。便宜的な表現というやつである)神咲邸の門まで逃げてきた僕たちこと神咲姉妹。一旦神咲邸の結界を門の部分においての解除し、件の自宅から離脱。然る後結界を張り直すことで追撃者たる小人さん達を神咲邸内部に閉じ込め、自分たちは安全な場所に逃げ出すことを目論んでいたわけであるが。そのたくらみはものの見事に破砕される羽目となった。

 

 何となれば。結界と、門の鍵を解除して開いた神咲邸の外。引き戸の門を開いたその先には“なにもなかった”からである。

 門の先には見慣れたアスファルトや薄野が存在せず。いやさ、それ以前に空や地面さえも存在せず。ただ曖昧模糊とした暗褐色の所謂“異空間”が広がるばかりだったのだ。

 となりで呆然としている姉さんを尻目に、小石を一つ拾って門の外に放り投げてみる。そのまま耳を澄ませてみるが……何も聞こえない。この門の外に広がる怪しげな空間には地面がないのか、或いはあっても大分下の方にあるということなのだろう。

 門を開けても僕たちが吸い出されたり窒息したりはしなかったので、不思議空間にありがちなことに何故か1気圧と呼吸可能な大気、地球上と同じ重力などは存在するようだが。正直現状で門の外に出るのは自殺行為であろう。気になって一応門の内側から空を見上げてみるが、神咲邸内から見る分にはごく普通に夜空が広がっている。首だけ出して門の外を見てみるに、そちら側では上空もまた暗褐色の異空間が広がっているのだが。

 

 ……まさか“神咲邸を含む空間“ごと異空間に転送でもされたのか? これも小人さんの仕業なのか? 家屋どころか敷地ごとのテレポーテーションとか、いったいどれだけのエネルギーがあればできるのだろうか?

 確かにGURPSの魔術には似たような真似のできる呪文が存在するのだけれど。莫大な、それこそ死者復活をも凌駕するエネルギーが無ければこんな真似は不可能だったはず。小人さんたちはそこまでパワフルな怪異なのか? それにしては幾らなんでも近接戦闘能力がお粗末に過ぎやしないか?

 まあ、結界を貼ったり周囲の空間をテレポーテーションさせたりする能力が高いからと言って、物理的な暴力に強いとは限らないのだろうけれど。それにしたって実にアンバランスである。わけがわからないよ。

 

 

 

 左手に痛みを感じてそちらを見れば、姉さんが僕の手を、自分の指が白くなるくらい強く握っていた。裾をつまんだり、普通に握っているだけでは不安だったのであろうか。流石に如何にインチキじみた脆弱さを誇る僕の腕とはいえ、六歳児の握力で折れたりはしないのだが。痛いものは痛い。

 姉さん、痛いですと言ってはみたが、反応がない。二度、三度とすこし大きめの声で言えば、退魔師の卵はっと今気が付いたかのようにこちらを見、ごめんと言って慌てて手を離そうとするが……離れない。

 

 強く強く握りしめているがゆえに真白く、つぶれた豆の上からまた豆のできた、細く繊細な五指。

 凄惨極まりない修練と、幼子のそれゆえのたおやかさが絶妙なバランスで両立されたそれは、持ち主たる姉さんの意志に反し、ピクリとも動かず。逆に不安におののくライナスが握りしめる毛布の如く。僕の腕を力いっぱい握りしめている。

 自分の体の奇妙な反応に驚いているのだろう。急いで左手で右手の指を一本一本引きはがそうとしているが、気が動転しているのか指が滑り、うまくいっていない。

 

 いや、まあ当然の反応であろう。

 如何せん、僕たちは門を開けて、結界の張り直しをすれば。追跡者たる小人さん達を神咲邸内に閉じ込め安全に逃げられると思っていたのだ。そして実際に小人さんの追撃から一時的にのがれ、門の前にたどり着き、更には結界と門を開けることにも成功していたのだ。

 つまるところ姉さんにせよ僕にせよ、生きるか死ぬかの恐るべき状態において、“もう少しでうまくいく”、“もう大丈夫だ”という心理に陥っていたのである。

 にも拘らず、いざ門を開けてみれば外は異空間。脱出は不可能である。“もう殺されそうになることは無い”、“もう大丈夫だ”と安心したところで、明快な絶望を突きつけられたのである。

 

 

 

 人間の精神は、一定の方向からの負荷には随分と強い。拷問だろうと極限的に劣悪な環境だろうと、虎よりなお恐ろしい苛政であろうと。人間は“馴れて”しまうからだ。

 どのくらいその“馴れ”が強壮無比の物かといえば。地獄の悪鬼も頭を抱えるレベルで業にまみれきったこの人類が数千年かけてなお、拷問の技術が進歩し続けていることからも分かるだろう。歴史をほんの少しでも学べば分かる通り、碌でもない真似をすることについては恐ろしく有能なこの人間様が、数十世紀かけてなお人の心の壊し方については習得しきっていないのだ。

 

 とはいえ、人間の心というのは案外簡単に壊す方法があるのも事実であり、そのやり口は尋問や拷問、或いは精神的な強度を推し量るために実際に利用されていたりする。

 端的に言ってしまえば、人間の精神は一度耐性の構築できた負荷には空恐ろしいまでの頑強さを示して見せるが。一度その心理的障壁を解除されてしまえば、その内側にある深奥の部分はあまりにも脆く、柔らかくできているのである。

 

 例えば拷問するにあたって散々に対象を甚振り、苦しめ、悶絶させ。数日間攻めに攻め抜いてみる。それでも対象は口を割らない。無論、その日数を増やしてみたところで状況は変わらない。口を割る前に対象が責め殺されるのがオチである。

 が、一度対象への拷問を止め、簡易的な治療を施し、シャワーを浴びせ、髭を剃ってさっぱりさせ。挙句の果てに豪華なディナーに招待する。拷問していた人間の上司がにこやかに現われ、いやすまなかったね。手違いだったんだ。こいつは侘びだ。気兼ねなく食べてくれたまえと、礼儀正しく食事を勧める。

 先ほどまでの壮烈な拷問から解き放たれ、さっぱりした対象が安心して食前酒に一口口をつけた時点で……拷問吏が荒々しく扉を開け、対象の腕をねじり上げる。安心し、弛緩し、ほっと一息をついていた対象に、さて、拷問を再開しようかと告げる。

 ……ほとんどの場合、対象はそれ以上の拷問を必要とせず口を割るそうだ。連日にわたって拷問に耐え抜き、それ以上拷問しても口を割る前に衰弱死するであろう程の。死に抗いたいという生物的欲求を意志によって完全に抑え込めるほどの猛者であっても。一度心理的障壁を解いてしまえば恐ろしく脆いのだという。人の心というのは、一度構築した耐性を失ってしまえば悲しいまでに無力なのだ。

 

 似たような事例としては。日本の警察が特高の時代から得意としているらしい拷も……もとい尋問方法である良い警官、悪い警官が挙げられよう。

 即ち尋問に際し怒鳴りつけ、脅しつける“悪い警官”と、それをとりなし対象に同情的な“良い警官”を配置し。対象が“良い警官”に対してある程度心理的に寄り添った時点で、今度はその“良い警官”が鬼の形相で怒鳴りつけ、脅しつけて対象に自白を迫る。これもまた心理的障壁の解除を利用した人の精神の壊し方と言えよう。

 

 はたまた軍隊の訓練。兵士となるべき人間の精神の強度を推し量るやり口の一つとして。

 極限の負荷を与える、しかし進まねばならぬ距離の明示された行軍訓練を施し。対象が死ぬ思いでその距離を踏破し、疲労困憊しながら教官の待つゴールにたどり着いた時点で。“お疲れ様。だが、悪いがこの訓練はまだ続くんだ。もう20kmばかり同じ条件で行軍してくれたまえ”そう告げる方策があるのだという。

 実際にはその行軍は教官が告げた内容とは裏腹に、あと2kmも歩けばおしまいであり。そこまでの長距離行軍を耐え抜いた人間にとっては、肉体の負荷のみを鑑みれば誤差の範疇にすぎぬ距離を歩けば合格になるものなのだが。一旦ゴールにたどり着いた、もう安心だと思った人間の中には。その2kmにさえ耐えきれず脱落するものが続発するそうだ。

 

 

 

 もう大丈夫、ここまでで安心だ。

 

 

 

 そう思ったあとに待ち受ける最悪の事態に対し、気力を奮い立たせ、精神を再構築して立ち向かっていくということは、外宇宙の怪物ほどの精神的頑健さを持っていない人類にとっては致命的なまでに困難なことなのである。

 如何に原作でインチキじみた鋼の精神を誇っていた姉さんとはいえ、この“もう安心だ、逃げられる”と思った先に待ち受けていた“逃走経路が異空間になっていた”という事態による心理的なダメージは尋常一様のものとはならないであろう。大体、原作の姉さんよりも目の前の僕の姉さんは幼いのだ。畢竟、その心は脆く、柔らかく、弱弱しい。この異常極まりない事態に際し、精神の均衡を保ちがたくなったからと言って誰が責められようか。

 

 

 

 

 

六、

 必死に僕の腕をつかんだ自分の手の指を引きはがそうとしている姉さんの額に、こつんと自分の額をぶつけて見せる。……本当は彼女の手に優しく自分の手を重ねて止めてやれればよかったのだけれど。生憎僕の右腕は奇天烈極まりないオブジェとなっており、使用不能である。

 ん、左腕はどうしたのかって? 絶賛姉さんに握りつぶされようとしているのがその左腕なんだよ。

 

 いや、まあ、ともかく。

 このままで僕は大丈夫です。姉さんが手を握ってくれていた方が僕も安心するから、無理に剥がさないでください。姉さんの顔についた泥がこちらにも引っ付くのを気にもせず、そう笑って見せれば。目前の健気な幼子はぎゅっとめをつむり、歯を食いしばり、目じりに溜まった涙を振り払うように首を振って。数秒もしないうちにきちんとその双眸を開いたうえで。

 ごめん、ありがとう。それで、この先どうするの? と、問うてきた。

 自分は大丈夫だ。それよりも今後どうするのが最善であるのか、知恵を貸してくれ。半ばばかり言外に、そう示して見せたのである。

 

 彼女の中から、今までに積み重なったストレスが消えてなくなったわけではあるまい。恐怖も、煩悶もあろう。転生者であり、前世と今世あわせて30年ばかり生きている僕よりも。目前の、たった6年しか生きていない“お姉ちゃん”にとって、現状ははるかに不安なものであろう。

 しかし、にも拘らず。眼前の六歳児はこの危地に際し、差しのべられた救済に完全に寄りかかることなく精神を再構築して見せ。次にとるべき手を問うて来たのだ。いやはや、ほんとにメンタルの強い娘さんである。

 概ね孤立無援のまま怪異に殺されようとしている現状において。唯一の味方である姉さんの精神が頑強であることは、実に歓迎すべき事態である。

 

 とはいえ、姉さんの精神にも限界が近いのは間違いない。あまりのんびり現状に対処していると、僕たちの肉体の無事以前に姉さんの精神の均衡が崩れてしまう。何とかしなければ。

 しかし、どうやって?

 まともにやりあっても勝てない以上何か別の工夫が必要であるわけだが。相手の正体が未だ持って不明なのだ。

 

 人様を病気にさせる。

 おつむの出来は宜しくない。

 その集団すべてでもって一つの妖怪である可能性が高い。

 移動に際してさっぱり理由の窺い知れない加速減速を行いつつ、突然の方向転換を行う。

 見てくれは小人さんの集団であり、恐らくは日本古代をルーツとしている可能性が高い。

 大型日本家屋を周辺の庭ごと異空間へテレポーテーション(……なのだろうか?)させる。

 

 彼ら小人さんは、上記のごとき特性を持った怪異であることが分かっているわけだが。

 いるのか? そんな妖怪。

 

 そもそも、知力18、達人並みの退魔師としての知識をおつむに詰め込んでいるはずの神咲舞奈が見破れない怪異の正体とはいったい何なのか。

 勿論、シャーロック・ホームズさえ分からないような密室殺人のトリックと同等のペナルティを与える高難易度の問題であれば、僕だって答えにたどり着けない可能性があるのだが。ここまで怪しげな特性を持ちつつ、そんな理不尽なまでにマイナーな妖怪って存在するんだろうか?

 

 せめて敵の正体が分かれば、対象のしようもあるのだが。

 

 

 

 

 

七、

 敵の正体が、小人さんが一体如何なる怪異であるか分からない。

 対手をやっとうで片付けられない以上、もっとも注視すべきその問題について頭を悩ませていれば。ごしごしと額を擦られる。いったい何事かと目を向ければ。姉さんが寝巻の裾で僕の額を拭いてくれていた。女の子が泥だらけのままじゃ駄目だとのこと。

 いや、姉さん。それを言うなら庭を走っている間に躓きまくっていた姉さんの方が泥だらけですし。そもそも僕の額に泥が付いたのだって姉さんと額を合わせたからなのですが。

 

 とはいえ、聊か不安になるほど真剣に僕の顔を拭いている姉さんにそれを言うわけにもいかない。

 十中八九、姉さんは“妹を守るお姉ちゃん”という役割を強く意識することで、自身の精神の平衡を保っているからだ。自分より弱く、脆い、己の眷属を守らねばと思うからこそ、この危地にあってどうにか自分の心を奮い立たせられているということである。

 無論僕は現状において人様の心が読めるわけでもなければ、専門家並みの心理学技能を持っているわけでもないのだが。僕の手や着衣の裾を握りしめることに少々偏執的なまでに執着したり。或いは今現在の聊か場にそぐわない“お姉ちゃんらしさ“を発揮したりする彼女の振る舞いを見ていれば、概ね想像できるというものである。

 別段姉さんにその手の振る舞いをされることが嫌なわけではないのだが。この幼い退魔師の卵が本格的に精神を壊す前にこの危機的状況を脱しなければならなく。そのためには敵手の正体を見破る必要があるのだ。自分の汚れをさっぱり気にせず妹の顔を拭いている姉さんに構っている暇などないわけ……で……。

 

 

 

 ……うん?

 

 

 

 いや、ちょっと待て。おかしいぞ。姉さんが泥だらけ?

 何故?

 決まっている、庭を走っている最中に姉さんがあっちに躓きこっちにぶつかりと、まともに走れなかったからだ。

 

 何故、姉さんはまともに走れなかった?

 これも当然の帰結だ。夜空の星月以外光源の無い、木々の茂った夜中の屋外を、明かりも持たずに走れば泥だらけにならない方がおかしい。無論、僕のように野生動物並みかそれ以上に五感が鋭ければ話は別だが。姉さんにそこまで鋭い感覚は無い。こけつまろびつ走った挙句泥だらけになるのは必定である。

 

 そう、そこまではおかしな話ではない。

 しかし、しかしだ。だったら何故、今まで姉さんは小人さんと。

 

 

 

 

 

 “明かりのついていない真夜中の屋内”で、的確に戦えていたのだ―――――

 

 

 

 

 

 光源がないのであれば、屋外よりも屋内が暗いのは必定である。そして屋外でまともに走れないほど周りが見えていない姉さんが、明かりの無い屋内で戦うために必要なだけの視界を確保できるわけがないのだ。畢竟、姉さんは屋内において、小人さんと戦うことなどできなかったはずだ。暗すぎて姉さんの視覚では小人さんを探知できないのだから当然である。

 にも拘らず、何故姉さんは今まで小人さんと立ち回ることができたのか。

 

 疑問が疑問のまま残ることは無かった。

 新たに見出された疑問に対し、人類最高二歩手前の知力が高速で回転し、間髪入れずに答えをはじき出す。

 同時に、今まで疑問と感じることができなかった幾つかの問題を認識し、それらについてまでも回答を得ることに成功する。更には、それら問題を認識できなかった理由についてまでも、あっとういう間に理解する。

 僕に賦与された知力は尋常一様のものではない。一旦歯車がかみ合えば、今までまったく光明の見いだせなかった問題に対してさえ、一瞬で回答を見出してしまえるのだ。

 

 そう、今この瞬間。“何故姉さんが暗闇の中小人さんと戦えたのか”という疑問に答えを得た瞬間。このチート知力持ちの転生者たる神咲舞奈は、“小人さんの正体”が分かったのだ。

 姉さんが暗闇の中小人さんと戦えた理由を解明するにあたって必要な要素が、“小人さんの正体は何であるか”という疑問に答えを見出すための要素と同一であったためである。

 無論、その要素があったところで普通の人間が同じように答えを出せたかと問われれば相当に怪しいのだが。少なくとも外宇宙の怪物並みの知力を持ったナマモノにとっては十分なヒントであったということである。

 

 

 

 ああ、畜生。そういうことか。

 

 

 

 僕は内心、歯噛みする。

 結局のところ問題は、今まで小人さんの正体を見極められなかったその理由は。この神咲舞奈という存在が”TRPGのキャラクター”と”中の人”を同時に演じているという点にあるのだ。

 自身を転生者であると認識している、三十路まで幾ばくも無い年齢で死んだ成人男性が。GURPSの高CPキャラクターであるところの極めて知力の高い、放心持ちの5歳児の中に存在しているというのが問題なのだ。

 

 成程。客観的に見るなれば、僕は天才という表現でもなお足りぬ馬鹿げた才覚の持ち主である。

 齢五つにして達人と呼ばれてもおかしくない退魔師としての技量を持ち、特段努力することなくプロ並みの調理の技術、口車、演技力、その他もろもろの莫大な特性を持ち合わせている。常人離れした記憶力や理解力、思考速度に至っては言うまでもないことであろう。

 神咲舞奈という幼女は、数多の天才少女の中にあってさえ異彩を放つ、極大の才能の塊である。

 

 が、それらを持っているのは、あくまでも“放心持ちの5歳児”だ。

 即ち興味を持って今邁進していること以外については日常生活に支障が出るレベルで興味を持つことができず、更には未だ発達段階にある幼子であるのだ。

 おまけにその欠陥天才幼児を動かしているのは、贔屓目に見ても精々“人より頭が良い”程度の社会に出たばかりの若僧である。老獪さや、経験の深さからくる問題に先回りしての対処など期待すべくもない白面郎である。

 

 敵の正体が分からない?

 

 当然だ。この僕が、神咲舞奈を構成する諸々の要素が未熟であるためだ。今まさに目の前に示された、余りにも馬鹿馬鹿しい、明快なことこの上ないヒントが無ければ永遠に答えにたどり着けなかったであろう。酷い欠陥をこの転生幼女たる僕が持ち合わせていたが故だ。

 

 

 

 しかし、既に問題はない。

 ヒントは示され、問題点は明明白白となり、それらへの解決策はすべて示された。

 注力している一点以外にはあまりにも興味を持てない、未だ幼い天才五歳児の知性の前に。あらゆる材料が、彼女の認識できる形で示されたのだ。

 

 そう、もはや問題はない。

 敵の、あの怪しげなふるまいをし続ける小人さんの正体は明確である。

 

 単機で複数惑星を所有する星系間国家一つを運営するに足る、超光速メガ・コンピューター(理論上最高速度を出せても等光速でしかない電気信号ではなく、その数万~数千万倍の速度で伝播する超光速信号を利用して計算を行う超巨大コンピューター)。その建造物並みの巨大さを誇る遠未来の超大型コンピューターに匹敵する馬鹿げた知性が、今まで認識した出来事と教授された知識を統合し、検索し、必要な要素を抽出し、答えを叩き出す。

 

 生前民俗学関係の授業で学んだ知識。獣医志望の友人の実験に付き合って見た光景。十数年前に一度だけ読んだ書籍の文言。

 生前の親戚に何度か言われた。経験上では西は岡山、東は茨城まで。実際は全国どこででも確認できるらしい、一人で留守番する人間に告げる古びた慣用句。

 十六夜さんに、和音婆様に、亜弓さんに。徹底的に詰め込まれた、今生における退魔師としての英才教育からなる怪異妖怪魑魅魍魎に対する知識。

 或いは今生において八か月前ばかりに、一度だけ聞いたラジオのアナウンスの内容。

 

 それらが混然一体となり、魔女の大釜も真っ青のカオスの権化たる神咲舞奈の知性の中で生成され。須臾どころか清浄の間に答えがはじき出される。

 

 

 

 「まいな?」

 

 

 

 僕の様子が変わったことを、不安に思ったのだろうか。姉さんが訝しげな表情で、僕の顔を覗き込んでくる。

 走って来る際にかいた汗。右腕を破壊されたときの、或いは姉さんが重篤な怪我を負った時に浴びた返り血。はたまた姉さんの寝巻の裾で拭かれたがゆえに広がった額の汚れ。

 本来は整っていて、見目の良いはずの。しかし今となってはさまざまな理由でぐちゃぐちゃの、己の持つ幼子の相貌。それを笑みの形に歪め、姉さんをまっすぐに見返す。

 僕の振る舞いに何を感じたのであろうか。訝しげに視線を返す姉さんに、不安になるほど弱弱しい肺腑と喉を用いて音声を届ける。

 

 「姉さん、敵の……小人さんの正体がわかりました」

 「まいな? 何(な)よ言(ゆ)てるの?」

 

 不審げに聞き返す原作ヒロインに、笑って言葉を続ける。

 ああ、そうだ。小人さんの正体はわかったのだ。何故彼らがおかしな加速減速、方向転換をするのか。何故彼らが病を呼び込むのか。何故彼らのおつむが足りないのか。何故彼らが、神咲邸の外を異空間とすることができたのか。

 すべて答えは判明しているのだ。明快で、明白で、すべての疑問は白日の下にさらされ、真実は僕の前には明らかであるのだ。

 

 「小人さんの正体が分かったんです。彼らは謎の怪異などではなく、明快な習性と弱点を持った、単なる弱弱しい小妖怪にすぎません」

 

 再度答えた僕の振る舞いに、姉さんが口をつぐんだ。答えの代わりに、目線と表情で続きを促す。

 自分自身よりも、妹の方が頭の回転が速いこと。自分が分からなくても、妹には分かることがあるということを、きちんと理解できているのだろう。そこで不貞腐れずに話を聞こうとする姿勢は、年齢云々に関わらず恐ろしく希少な美徳であろう。

 姉さんへの評価を上方修正しつつ、僕は言葉を続ける。

 そう。つまるところ、対手たる小怪異。小人さんの正体とは……。

 

 

 

 「彼ら。あの複数の小人さんからなる怪異の集団の正体は……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「“鼠禍”です―――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、敵の正体ははっきりと分かったのだ。

 あとは、反撃するだけである。

<つづく>




 小人さんとの戦いは今回で決着の予定でだったのですが。
 思いのほか長引いてしまいました。たぶん、第十二話で小人さんとの決着はつくはずです。きっと。

 なお筆者の調べた限りでは、”鼠禍”という妖怪は存在しません。
 ではなぜ舞奈は小人さんを”鼠禍”と称したのか。などは次回で説明できればなと思います。
 それでは、第十二話でお会いいたしましょう。


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第十二話『正体』

序、

 幼子というのは往々にして、大人から見れば奇妙な精神性を発露するものである。

 例えばコップが倒れているのを見て“コップさんが疲れている”と表現したり、或いは見えない何物か、乃至ぬいぐるみなどの明らかな非生物を相手に会話をしたり。

 

 無論それらはおかしなことではない。未だ精神の未成熟な幼子は、生物と非生物の区別をつけるだけの分別を持っていない場合があるのだ。またイマジナリーフレンドとの会話は、こと子供がやっている場合には精神疾患のみがその原因というわけでもない。単に幼いだけのごく普通の子供であっても、現実と夢想の区別をつけられず、カミサマやコロちゃんとおしゃべりする可能性はあるのだ。

 子供の精神とは未だ発展途上にあり、大人からすると信じられない機能の未成熟さを残しているものなのである。

 

 精神が発展途上であるというのは、神咲舞奈の“外の人”についても同じことが言える。

 “中の人”である僕はともかくとして。その外面たる神咲家の次女は未だ五歳児であり、その脳は大人であれば決して増えないはずの神経系さえをも増大させている、絶賛成長中の存在なのだ。

 

 そんな彼女の持ち合わせていない特性の一つとしてあげられるのが、“他者の視点”であろう。つまるところ、“自分以外の他人が現在の状況をどう認識できているのか”を考慮する能力が欠落、乃至不足しているのだ。

 その“他者の視点”というのがどんなものなのかを例示するなれば。今日の昼の(そう、僕は病院から帰ってきたその日に小人さんに襲われているのだ)姉さんの振る舞いが適当であろう。

 自分ならこの程度の勢いで抱き着かれても倒れない。だから妹も大丈夫だろう。

 自身よりもはるかに貧弱な僕を相手にそう考え行動したからこそ、僕はひっくり返る羽目となったのだ。

 “相手の状況からならば現状がどう認識できるのか”という思考は大人にとっても多少高度なものであり、いまだ人間に近付いている最中の幼い子供にとっては難しい思考展開なのである。

 僕自身にせよ、“家人が家の中にいないことをトンデモ聴覚を持たない亜弓さんは気づけないだろう”という事態を想像できず、おかしな振る舞いをしていたことがあるわけだし。

 

 上述の問題こそが、僕が“小人さん”の正体に気が付けなかった理由である。

 僕は暗くてもどうにか物が見える。しかし姉さんは見えないはずなのに、小人さんと戦っていた。何故か。

 そんな疑問を“外の人”が抱くことができない、という点に“中の人”が気付けなかったからこそ、小人さんの正体が分からなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第十二話『正体』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 前述の疑問への回答を得ることは、“他者の視点”というものを鑑みた場合容易である。

 つまるところ、僕に無くて姉さんにある感知能力を吟味すればよいのである。僕には見えず、姉さんには見えるもの。そんなものは一つしかない。“霊力”だ。

 更に言うなれば、単に小人さんが霊的に光って見えているだけでは、まともに戦闘はできない。

 神咲邸は古い作りの武家屋敷であり、相応の広さがある。とはいえ、やはり日本家屋である。土地の有り余った異国の家屋と異なり、立ち回りが自在にできるほどの広さがあるわけではない。ただ小人さんが見えているだけでは、壁にぶつかり、敷居に躓き、まともに戦えまい。にも拘らず幼女剣士が戦えたということは。薫姉さんが壁や床(或いは壁を意識させるだけの量で床のみを)をある程度認識できるだけの光源乃至目印を小人さんが提供している、ということに他ならない。

 ……まあ、実際には僕が想定しえない別の事情で全く関係のない何某かの存在が、姉さんのみに見える超物理的な光源を与えていた、という可能性だってないわけではないのだけれど。今回は小人さんが霊的な光源を与えていたと考えた方が辻褄が合うのでそこまでは吟味しない。

 そしてこの小人さんが何らかの“光源か、或いは目印を提供している”という点。これは小人さんの正体を見定めるにあたって非常に重要な鍵となりえる情報であろう。

 

 もう一つ、小人さんの動きを“不合理”と称するのも“他者の視点”の欠落を示す証左と言えよう。

 確かに、僕にとっては小人さんの動きは不合理に見える。が、だからと言って彼らにとってまであの動きが不合理であるとは言い切れないはずだ。彼らは怪異。異界の理屈で動いているのだから当然である。

 彼らの動きを不合理と切り捨てるのは。裏口の前に立っている吸血鬼が、玄関前にいる人間を襲うために家の中を通って最短の直線コースを取らず、態々家の周りをぐるっと回って襲い掛かるのを不合理と笑うも同じである。招かれねば家屋に入れぬ件の怪異にしてみれば、移動可能な最短距離は直線コースではなく迂回コースとなるのは当然だろう。人間ならばまっすぐ家の中を突っ切ってこれるからと言って、怪異にとってもそうであるとは限らず。畢竟、小人さんがおかしなルートを通って僕たちを襲ってきたからと言って、それが彼らにとっても不合理な移動であるとは言えないのだ。

 

 更に言うなれば、“神咲邸の外を異空間とする”というのも“他者の視点”の欠落した見方だ。確かに、僕からすれば神咲邸の門の外は異空間となっているように見受けられる。しかし、本当にそうなのだろうか?

 他者の視点を意識してみよう。例えば、和音婆様や亜弓さんが神咲邸に戻ってきた場合、そこには何があるのだろうか?

 僕達ごと神咲邸が異空間に飛ばされているから、そこには取り残された怪異のひしめく更地がある? そんな大規模な異変を、小人さんは起こせるのか? 何か不自然ではないか?

 無論、そうでないとは言い切れない。が、基礎を含めれば駆逐艦一隻分に迫る重量を持つ武家屋敷とその周辺建造物を、僕たちと小人さん以外の怪異全てを通常世界に置き去りにしたまま異界にテレポーテーションさせているなどといったトンデモな事態が、本当に起こっているのだろうか? そこまでの細やかな融通の利く大規模テレポーテーションの実行というのは、小人さんがこれまでに示したスペックを鑑みれば、得意不得意を勘案してなお幾らなんでも不自然ではなかろうか。

 或いは、神咲姉妹が、“神咲邸に極めて近い隣り合った異次元”に取り込まれているだけという可能性はないだろうか? GURPSのルール的にはあり得る話であるし、そうであったとしてもやはり僕は“神咲邸に小人さんと相対しつつ二人ぼっちで取り残され、外は異界”という事態に放り込まれるはずなのだけれど。 更に言うなれば。僕の仮説が正しかった場合、はたから見ればそれはどう呼ばれるべき現象であるのか。

 

 この、小人さんが。

 床と壁に痕跡を残す、乃至壁を意識させるレベルで光源か痕跡を残す存在である可能性。

 ハタから見ると不合理だが、当人たちにとっては大変に合理的なルートを通っている可能性。

 僕達ごと屋敷をテレポーテーションさせたわけではなく、僕達だけを先ほどまでと同じような光景の場所に引きずり込んでいる可能性。

 

 上記三つの可能性が、僕に小人さんの正体を見極めさせたのだ。

 無論、実際にはその他にも僕自身の予測を補強する材料が無数にあったからこそ、いきなり小人さんの正体を確言して見せたのだけど。まあ、ともかく。

 

 上記三つを勘案するならば、小人さんの正体が鼠禍。即ち“天災レベルで大発生した鼠の怪異”であるという結論に至るのだ。

 さて、ではなぜそうなると言えるのだろうか。。

 

 

 

 

 

 

二、

 そも、鼠禍とはなんだろうか? その辺りから見ていく必要があるだろう。

 

 鼠禍―――――

 

 人口に膾炙しているとはとてもいえない(古語辞典でも載っていない場合がある)この単語は古語であり、天災の一種であるところの鼠による災いを意味する。

 

 鼠による被害が何故天災扱いなのか? と思うかもしれないが。

 例えば静岡県富士宮市北山にある“ネの神様”と呼ばれる神社の記録によれば。天保十二年前後に、鼠の大発生により近辺の地域すべてで農作物の収穫高が“ゼロになる”被害を受けたとされている。往時の大被害を“鼠の大群という祟るカミサマ”と見做し、祀って今後の被害を抑えようとして出来たのが件の神社なのだとか。

 或いは昭和十年に箱根連山で異常発生した時は、何を思ったのか皆で一斉に芦ノ湖へ飛び込み。その死体の浮いている様が“木の葉を掃き散らしたよう”であったとされている。小型生物の死体だけで面積7平方キロの水面に“木の葉を掃き散らしたよう”と形容されるだけの有様を作るのに、どれだけの数が必要かと考えれば。大量発生した鼠の規模が想像できようというものである。

 

 鼠禍についてのもっとも古い記録としては、恐らく『続日本紀』巻二十三の記述がそれにあたろう。宝亀七年に河内、摂津で大発生した鼠の集団は、五穀どころか草木まで食べ尽くし。当時の天皇が諸国の群神に奉幣の使者を出すまでの事態となった、という漢文である。また同時期、下総国で数キロにわたって鼠によって草木がすべて食い尽くされるといった事態さえ起こっているのだとか。

 

 現代、即ち昭和の御世に入っても(お前は何を言っているのだと思うかもしれないが、僕の生きる今はまだ昭和である)、昭和三十四年には1,200平方キロを超える森林が鼠によって破壊されているし、“現代”でも毎年推定500~600億円ほどの被害を農業に与え続けている。

 更に言うなれば、前述したすべては食害だけを問題にしたものであり、鼠の脅威の一部を示したに過ぎない。実際には彼らはペストを筆頭に様々な病を運ぶ恐るべき害獣である。欧州での黒死病の大流行を例に出すまでもなく、世界的にはこちらの方が問題であろう。なお、フィリピン政府は未だに“鼠だけを殺す病気”を開発した場合賞金10万ドルを与えると約束していたりする。

 

 近隣地域すべての収穫をゼロにしたり、死病をまき散らしたり、数キロ平方の湖に木の葉の如く死体を並べる数で動き回ったり。はたまた国家元首が直々に対応するほどの深刻な影響を与えるのが鼠による被害なのだ。古の人々にとって鼠の被害とはまさに天変地異の一種であり、日照りや長雨、津波などと同様、人の防ぐことのできない“天災”の顕現だったのである。

 

 

 

 斯様な大被害をもたらす鼠の群れであるが、人間とて馬鹿ではない。そこまでの被害をもたらす存在であるからこそ、彼らの振る舞いについては大いに研究され、探求され、知性の輝きの元にその有様は詳らかにされている。

 

 その明らかにされている習性の一つが“鼠の道”である。

 鼠は警戒心の強い動物であり、こと人家の内においては、何度も通り、複数回自分自身の感覚器官で安全と確認できた場所しか素早く通ろうとはしないのである。初めての場所、或いは未だ然程通ったことのない場所においては。鼠は驚くほどゆっくりとしか進もうとしない。一歩進んでは耳を欹て。一歩進んでは鼻を蠢かせ。あるかもしれぬ近隣の脅威に常に備え、襲い来る敵手からいつでも逃れられるよう緊張し、ほんのわずかずつ。さながら11フィート棒で石畳を叩きながら進む冒険者(マンチキン)の如く自らの安全圏を確立していくものなのだ。

 そうして警戒に警戒を重ね何度も通り、己の痕跡によって黒ずんだ道が“鼠の道”である。鼠が素早く移動するのは、この己自身の五感で明快に安全と確信できた通路のみであり。そうでない未知の場所においては件の小動物は驚くほど慎重に動くものなのである。

 更に言うなれば、いったんできたこの“鼠の道”は鼠にとって絶対のものだ。例えば人間が実験のためにえさ場までのもっと安全なルートを用意し、挙句の果てにこの“鼠の道”にべったりと嫌鼠剤(鼠よけの薬)を塗った紙の壁を立てておいたとしても。鼠は人間の用意したルートを通ろうとはしない。本来ならば決して近付かないはずの嫌鼠剤を塗られた紙の壁を態々ぶち抜いてまで自身の確立したルートを通ろうとする。鼠というと何やら賢くて機転の利く生命というイメージが抱かれやすいものであるが。実際の鼠は空恐ろしいまでに伝統墨守の頑固者なのである。

 

 さて、この“鼠の道”とそれにまつわる鼠の振る舞い。どこかで見たことが無いだろうか。

 そう、僕たちを襲う小人さんの振る舞いに見事に重なるのだ。

 彼らは一定の奇妙なルートを通る場合においては素早く動くが、例え瀕死の敵が目の前にいようとも、こちらのあずかり知らぬ何らかの事情があらば驚くほどゆっくりとしか動かない。相手が足手纏いを抱えてゆっくり逃げているにも拘らずそれよりも更に遅い動きでしか追跡しないかと思えば、まったく異なるルートから僕達を素早く襲撃する。更に言うなれば、彼ら小人さんは数か月前から神咲邸におり、多くのルートにおいて散々に“安全確認”を済ませるだけの時間がある。

 小人さんの移動が不合理? それはあくまで“僕から見た場合”の感想である。実際には彼ら小人さんは実に合理的に動いていたのだ。即ち安全であるとここ数か月で確信できたルートにおいては素早く動き、未知のルートについてはゆっくり警戒しながら動く。相手が未知のルートばかり通ってまともに追跡できなければ、距離的に酷いロスがあろうとも、安全確保のできたルートを使って大回りに追跡を続行する。

 彼らの動きを思い返してみればいい。部屋の真ん中に、小人さんが普段行かない場所に立つ僕を襲おうとした小人さんの一群は、始終ゆっくりとしか動いていなかったではないか。翻って部屋の壁際に立っていた小人さんの一群は、僕が部屋の“出入口”……即ち人間も小人さんもそこには行かざるを得ない場所……に立った瞬間、凄まじいスピードで襲い掛かって来たのではなかったか。

 小人さんはおかしな動きなどしていなかったのだ。彼らは彼らのルールの下で、最大限の効率でもって僕たちを襲撃していたのである。

 勿論、姉さんの見えていた“光源”とはこの霊的な鼠の怪異が発する“鼠の道”だ。一応確認のために姉さんに聞いてみたところ、“黒く発光する光源”が床のあちこちにあるので、家の中では別段行動に困らなかったとのこと。姉さんにとっては見えているのが当たり前のものであるため、何故態々そんなことを聞くのかと訝しがられてしまった。話すと長くなるので、説明はちょっと後にすることにしよう。僕の頭の中でぐちゃぐちゃやっているだけならどんなに長かろうと一瞬で済ませられるが、姉さんに説明するためには舌を回さねばならないのだ。生憎僕は魔法使いであってエスパーではないから、“完全同調(第三版GURPSサイオニクスで確認できる、テレパスが行える特殊な意思伝達手段。会話の十倍の速度でコミュニケーションをとることができる)”は使えないしなぁ。

 

 

 

 

 

三、

 なぜ鼠の怪異が“古い日本風の(或いは中国風の)衣服をまとった貴人と従者の小人さん一行”などという姿をしていたのかについては説明する必要はないだろう。石川鴻斎の夜窓鬼談や、或いは河内屋徳兵衛の絵本妖怪奇談などを見れば一目瞭然、そのままな描写の鼠の怪異が描かれている。鼠の怪異というものは斯様な姿をしているものなのである。……流石に、小人さんの見てくれから彼らの正体を見破るのは無理があると思うけれど。一定の時代の衣装をまとった小人さんの群れ、という情報では、余りに該当する怪異が多すぎる。とはいえ彼らの姿については正体が正体である以上なんらおかしなところはないということだ。

 

 小人さんが僕たちを異界に引きずり込むというのも、彼らが鼠の怪異であるということを勘案すれば特段おかしな話ではない。

 生前民俗学を修めていた僕個人としては東は茨城、西は岡山辺りまででしか確認できていないのだが、実際は全国で確認できるらしい一人で留守番する人に掛ける慣用句がその根拠となる。

 そう、すなわち。

 

 鼠にひかれないで―――――

 

 と、いうやつである。

 単純な意味としては、鼠に連れて行かれないでね、というものであり、転じて御留守番気を付けてね、という意味の言葉であるが。その語源を見ていくなれば。これは鼠が穀物を盗む場合、その体の小ささから少しずつしか盗めない。しかし何度も盗むので“いつの間にか”人間が認識できるほど多くの穀物が盗まれてしまう。結果として“いつの間にか”“人間が認識できるほど多量の”穀物が鼠のせいで消えてしまうという事態をその祖としている。

 “いつの間にか”、“たくさんの物が消えてしまう”というのは古の人々にとってはすなわち “神隠し”である。

 これにより鼠にひかれないで、という言葉は。鼠の振る舞いによって古人の認識に刻まれた一種の“神隠し”を表すものであり。そうであるがゆえに、鼠の怪異が“神隠し”を行うことは特段不思議なことではない。

 ために、小人さん達が神咲姉妹を“誰もいない”神咲邸に放り込むことが可能だったとしても特段不思議はないのである。何となれば。それは他者から見れば神咲姉妹を“神隠し”に会わせた事態に他ならないからである。

 

 

 

 「ん……舞奈の()ていることは(こちゃ)分かった」

 

 人類よりは宇宙戦艦(ジャパニメーションの、巨大ロボットが出てくると単なるやられ役に成り下がるそれではない。等光速宇宙船が本当に作中でカタツムリ呼ばわりされる、スペオペ世界でのそれ)と比べた方が手っ取り早いインチキ知性で要約し、姉さんに小人さんの正体を説明する。上記の台詞は僕の平明簡略なことこれ極まりない説明を聞いた、姉さんの反応である。

 

 「でも(しかし)、鼠禍という(ちゅう)のは大量発生した(ねずん)怪異(めん)のことを言うんでしょう(ゆんじゃんそ)? 何故舞奈は小人さんが大量発生した(ねずん)怪異(めん)ってわかったの?」

 

 続けて示された姉さんの疑問に、僕は笑って答える。実に明快な問いであったからだ。

 

 「ああ、それなら簡単です。」

 

 「8ヶ月ばかり前に、笹の一斉開花があったじゃないですか」

 

 ほら、野麦のパンがどうのとか、ラジオで言っていたでしょう? そう告げるが、姉さんは首をかしげるばかり。……やっぱり覚えていないか。まあ、仕方がない。

 ともかく。

 笹は200年周期で実をつける……実際、本当にそうかは怪しいらしいが、非常に長い周期で一斉に実を結ぶ植物だ。その実は小麦をも凌駕する高い栄養価を持ち合わせているうえに。中国の伝説にも語られ、戦中日本が実際に研究した挙句不味過ぎて開発がとん挫した多産米を(味についてはともかく量については)凌駕する実の多さを誇っている。一説によれば、可住面積三割を切るこの山がちなまほろばの地が“黄金の国”と呼ばれた所以は。逆に言えばその七割を占める山を彩る笹が実らせる“金色の”笹の実が演出したのだという話さえあるのだ。そこまで莫大な量と栄養価を兼ね備えた穀物が自然現象によって周期的に自然の恵みとしてもたらされるのであれば。鼠の集団たる怪異が件の植生の一斉開花によって活性化したとしても何の不思議もあるまい。

 と、いうか。この笹の一斉開花と鼠の大発生というのは基本的に周期が一致しており、他の要因で鼠が大発生することこそあれど。笹の一斉開花が起こったにもかかわらず鼠が大発生“しなかった”ということは日本史上において無いのである。ために鼠の妊娠期間その他を考慮して、八か月前に笹の一斉開花が起こったから今この時に鼠の大発生をモチーフとする怪異が猛威を振るうというのは至極当然のことであると言えるのである。

 

 「うん、舞奈の言うことは(ゆこちゃ)わかった。正しい(ただし)思う(おも)

 

 僕の説明に、姉さんは頷き。少し考えてから、更なる疑問を紡ぎだす。

 

 「でも、小人さんが鼠だという(ねずんだちゅう)なら、なんであんなに(あげん)頭が悪い(わり)の? うちたち(どん)が門に逃げる事なんか(にぐっことなんち)わかり切ってるのに、まだ門に来れないなん()おかしいよ

 それに(そいに)動物だっていう(だちゅう)なら、舞奈が消火器使った時点ですぐに逃げない(いっきにげん)のも変。あんな(あげな)おかしな匂い(かざ)してる(しちょっ)のに、なんで小人さんはすぐに(いっき)その(そん)場所から離れなかったの?」

 

 「それも明白です。彼らの判断が悪く、頭の巡りが悪いのは“幼かった”からですよ。彼らは亜成獣の怪異です」

 

 鼠は多量の食糧がある場合、一気にその数を増やす。即ちたくさん食べれば成獣はすぐに子を成し、その子は富栄養下では通常よりも未成熟な状態で子を成せる状態となる。素早く子を成せるようになるということは短いスパンで更なる子孫を作成できるということであり、これが鼠が沢山の食べ物がある場合に一気に増えるからくりである。

 が、当然短い年月で無理やり大人になるということは生物学的に無理があり、このような環境下で生殖可能なまでに育った鼠は通常よりも小柄なものとなる。実際に野生動物としての鼠の亜成獣が愚かであるかどうかはさておいて。呪術的に考えるなら、“幼いまま大人になった”ものというのは頭が悪くて当然と言えよう。それに食糧が一気に増えたことから始まって8ヶ月という期間(実際は小人さんは数か月前から神咲邸にいるので、想定される期間はもっと短い)は、鼠にとっても少々短いものに過ぎる。彼ら小人さんが、“短い期間で成長する大量発生した鼠の顕現”でない限り、今ここに鼠禍をその正体とする小人さんがいられるはずがないのである。

 

 ここまで説明すれば、彼らが集団で一つの妖怪であるというのも別段疑問を持たれるような事態ではあるまい。彼らは鼠禍という“天災”の顕現であり、何か個々の妖怪が寄り集まってあの集団になっているわけではないのだ。

 

 古い本に描かれた鼠の妖怪の姿については、今生における神咲家での英才教育で。

 ことわざや、鼠禍についての知識については、生前民俗学を専攻していた故に。

 鼠の道や、彼らの頑固な行動については、生前獣医志望の友人に連れられ、野次馬気分で見物した動物行動学の実験から。

 笹の一斉開花については、生前中学生辺りに、一度だけ読んだ書籍の内容から。

 

 あちらで聞きかじり、こちらで半目で見。そちらでたまたま見聞きし、遙か前にちらりと読み。

 それら僕の前世と今生での経験のあちらこちらに散らばったピースがインチキ知力の下一つとなり、小人さんの正体を明確にする。

 

 

 

 正体が明快ならば反撃の方法など瞬時に組み立て可能である。

 即座に二つばかり計画を立てては見たのだが。残念ながら戦力不足もいいところの神咲姉妹では、一方的な勝利など望むべくもなく。いずれも一長一短。手ひどい問題を抱えている。

 いずれにせよ主戦力たる姉さんがひどい目に合うわけであるが。さて、どちらにすべきであろうか。

<つづく>




 お久しぶりです。
 鼠禍の正体解説回でした。……短縮しすぎたせいで、回収不能になった伏線があるとか。
 まるごと消滅したエピソードが二つばかりあるとか、色々あるのですが。
 同じ文言が何度も出るという事態は多少は意識して減らしました。無論、読者の方々がその見解に同意してくださるかどうかは別問題ですが。

 今回は二話同時投稿です。
 第十三話で小人さんとの戦いに決着はつきます。
 ともあれ、第十三話でお会いいたしましょう。


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第十三話『微塵』

序、

 さて、敵の正体は分かった。あとは反撃して全滅させればそれでよい。

 が、その前にやらねばならぬことを済ませておこう。

 

 目を閉じ、自分自身の記憶の中から必要な情報群を引きずり出す。

 

 最初に、神咲邸内部の正確な形を思い出し、その内部で音がどのように反響するのかきちんと認識する。

 次に、僕が最初に小人さんの存在に気が付いた日から今日まで、神咲家で聞いた音全てを思い出す。

 更に、時系列に従って神咲邸内部における住人(と怪異)の位置情報を分かっている限りすべて引き出す。

 最後に当時の天候や周囲の状況を、それらによって発生が発生させる音を思い出す。

 

 さて、後はノイズキャンセリングを行うだけである。

 記憶から引き出した数か月分の音の中から、家人や小人さん以外の怪異が立てた音を彼らの位置情報や行動から想定し、その音を削除していく。勿論、僕自身は常に同じ場所にいるわけではない。僕自身と彼ら家人の位置関係によって消去すべき音の波は変わってくる。僕が自室に伏していて、姉さんが庭にいるならば。姉さんの発した音は廊下を伝わり、障子を震わせ、大気と畳(と布団)の両方から僕の耳へと入ってくるはずである。それは当然目の前にいる姉さんが立てる音とは異なったものとなっているはずであり、その点を考慮しなければ正確に音を削れない。

 更に天候によるものも削除する。新聞やテレビ、ラジオ放送の記憶を掘り出し、或いは単純に自分の見聞きした有様を思い出し、雨音、風の音、木々や虫、鳥のざわめく環境音を消去する。

 そうやって僕が如何なる音であるかしっかり認識できる音を片っ端から消していけば、ほら。いくつもの小さな足音が聞こえる。小人さんについての音波情報である。これを当時の自分の位置と神咲邸の構造を鑑みてあれやこれやと修正していけば、ここ数か月間、小人さんがどこを歩き、どこを走ったのかが委細漏らさず明らかとなる。

 更にこの小人さんの移動履歴を脳内に作り出した神咲邸の模型の中に張り付けて行けば。彼らの移動ルート“鼠の道”の脳内地図の完成である。

 

 素直に小人さんの立てた音だけを思い出してもルートは確認できるだろうと思うかもしれない。が、それは不可能だ。

 如何せん僕は《放心》の特徴を持っている上に完璧な記憶力を保証する《写真記憶》の特徴を持っていない。数ある怪異の一つが立てる小さな音などといった、あまりに細かいことについてはそもそも大雑把にしか覚えていないのだ。ために総体としての“自分が聞いた音”から自分が覚えている音を差し引いていくという手順を踏まなければ、聞いた音のどれが小人さんの足音であるか分からないのだ。

 

 

 

 門の前から玄関にまで戻り、実際に鼠の道が見えている姉さんに確認する。あちらの床に十字路がありますね? あっちは随分道が無い。こちらの道はL字型のものがふたつ重なるように配置されている。それでドアの前のあそこは……。

 ……聞いてみた限りでは、特段問題なさそうだ。

 

 取りあえず小人さんと相対するにあたって、一つ有効な武器ができたと言えるだろう。

 小人さん……鼠禍……はこのルートに大きく依存して移動を行うのだ。彼らの作りだした道が分かっているというのは、彼らに相対するにあたって大きなアドバンテージを得たということなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第十三話『微塵』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 さて、小人さんと戦うにあたって取りうる戦法は二つある。即ち彼らを打ち倒すに十分な剣力を得るか、一撃で何もかもを吹っ飛ばすかである。

 前者については、素直に姉さんに戦ってもらえばよい。

 ちょっとまて、お前はそれでさっき勝てそうにないと判断したのではないかと思われるかもしれないが、今は状況が違う。

 何せ脳内地図がある以上、僕自身の知性でもって相手の移動ルートも完全に見切ることができる。早い話、姉さんに適切な助言ができる。更に言うなれば、簡易的な清めの儀式(祝詞を唱えて台所にある塩と酒を撒く)で相手のルートを寸断し、おびき寄せたり、或いは移動ルートを制限することも可能だ。

 さらに言うなら敵の正体が分かっている以上、こちらは総力を持って戦うことができる。想定外の出来事があるかもしれないから、というのは考える必要が無いのだ。後先考えないならもう少しやりようはある。

 例えば日本語版GURPSの一つ、ルナル・サーガでストッキング男爵家の末裔が行っていた戦法辺りは有効だろう。即ち前衛……姉さんだ……に完全に防御を捨ててもらい、攻撃だけに集中してもらうのだ。GURPS的に言うなれば、常時全力攻撃のオプションを採用し、回避判定を放棄するということである。勿論そんなことをすれば今まで以上に姉さんは怪我をする羽目になるが、それは呪文で治せばよい。GURPSの治癒呪文の使い手がいるなれば、前衛は肺が潰れようが肋骨が粉微塵になろうが、或いは腸がぶらんぶらんとはみ出ていようが戦い続けることが可能なのだ。

 先ほど廊下で姉さんと小人さんの戦いを見たことで、小人さんと(実戦における)姉さんの戦闘能力は把握できている。小人さんの正体から想定される彼らの耐久力を鑑みるに。戦法を変え、ルートを限定し、適切な助言と回復魔法の乱発があれば。僕が治癒の術を姉さんに掛けられなくなるよりも前に、姉さんは小人さんをミンチに出来るだろう。……十中八九可能なはずだ。

 

 が、この戦法には二つの問題がある。

 一つは水物でどっちに転ぶか分からない近接戦闘で決着をつけねばならないという点だ。疲労している姉さんが足を滑らせすっころんだ挙句木刀を放り出してしまう、などといった事態が起きたらフォローは不可能だ。そうなれば姉さんは小人さんに殺到されるだろうし、僕は戦闘中、治癒魔法を放てるだけの案山子にすぎない。

 二つ目の問題は、姉さんの精神についてである。この戦法、只でさえ精神的に限界が近い姉さんに、臓腑を食い荒らされるレベルでずたずたにされながら戦えと求めねばならないのである。無論、この戦法を姉さんに承諾させることは可能だ。僕と姉さんの知力差と、説得に用いる技能の持つ特性を鑑みれば。この危機的状況にあって、僕はこの戦法以上に自殺的な行動であろうとも、姉さんに承諾させることができるだろう。

 が、可能であるからと言って実行に移すかどうかは別問題だ。

 そも、現状における僕の目的は神咲家に与えられた恩を返すことだ。生き残ったはいいが姉さんは廃人になりましたという事態はちょっといただけない。治癒系呪文を駆使すれば廃人の精神を再構築し直すことは可能ではあるのだけれど。生憎その呪文はまだ習得していない。数か月か、何年か。姉さんのSAN値がゼロのままというのは、僕自身が許容しかねる事態である。

 

 

 

 

 

二、

 では二つ目の戦法はどうかといえば、こちらも問題を抱えている。

 一撃で何もかもを吹っ飛ばす、即ち小人さんをおびき寄せて爆殺する心算であるわけだが。……おびき寄せるための囮が無い。

 

 移動ルートが分かっている以上、ルートを制限して小人さんを一定地区に追い込むことはさして難しくない。爆殺も簡単だ。折り紙を折るときにも吟味した技能なし値を用いれば、僕は特段その手の教育を受けていないにも拘らず、“専門の教官よって2400時間ばかりの教育を施された平均的なおつむのテロリスト”と同程度のトラップ作成能力を行使できる。ちょっと台所の物を弄って自動発火装置と、適切に大気と混ぜられたプロパンガスといったシチュエーションを演出するのは朝飯前だ。低位の怪異にすぎない小人さんがガス爆発に耐えられないことも間違いはない。

 

 問題は彼らの知覚能力だ。

 小人さん……鼠禍……はほぼ間違いなく嗅覚をその感覚器官の主力として用いている。

 え? 鼠って目がいいんじゃないの? と思う方もいるだろう。実際、呪術的には鼠は目が良いことになっている。鼠の糞や黒焼きにした死骸を用いて作る薬は、いずれも目に良いとされるものである。

 が、実際の動物としての鼠というものは特段目が良いわけではないのだ。彼らが危機回避に用いるのは基本的に嗅覚であり、大量発生した促成栽培の鼠の群れであるところの鼠禍は、勿論呪術的な相よりも動物としての相の方が強いのだ。消火器の煙を浴びた際に右往左往していたのも、煙幕によって視界が遮られたことが問題だったのではなく、同時に発生したあの酷い匂いに困惑していた可能性が高い。

 

 そしてこの匂いによって彼らが僕達を探知しているというのが問題だ。視覚を頼りに動いているなら誤魔化す方法は幾つかあるのだが、匂いは難しい。如何せん、一瞬そこにあって後には何も残さない視覚情報とは異なり、匂いは残るのだ。例えばおびき寄せようと今着ている服を囮にしたところで、彼らは騙されないだろう。その囮があった位置から、もっと強い匂いを持つ“僕たちの身体”が移動した履歴を、彼らは確認できてしまうのだから。

 勿論もっとも強い僕たちの匂いを持つ存在。即ち僕か姉さんを囮に使うというのは却下だ。爆殺するつもりである以上、僕の行う攻撃は間違いなく囮も巻き込むし、そうなっては囮をやった方は助からない。僕は死ぬ気はないし、姉さんを殺す気もない。

 

 或いは、もっと強い。……そう、“僕たち自身よりも強く”僕たちの匂いを発するものがあれば何とかなるのだが。

 しかしそんな不可思議なもの、この場にあるだろうか? 時間があればそんな物品を用意することは不可能ではないのだけれど。今すぐお手軽にとなると無理がある。

 

 

 

 ……。

 

 

 

 あ、いや。待てよ。無くはないのか。うん、あるな。

 しかし僕だけでそれを調達するのは不可能だ。姉さんに手伝ってもらう必要がある。恐らく小人さんに自殺的突撃を敢行すること以上に渋るだろうが、どうにか説得するしかない。

 それに多分、妖怪の群れを相手に臓腑を喰いちぎられながら戦うよりは姉さんの負担も軽いと思われる。勿論、僕にかかる負担など度外視して良い。僕のインチキ精神は、小妖怪相手に少々異常な戦法を取った程度では、小揺るぎもしないのだし。

 

 作戦は決まった。採用するのは無論後者の戦法である。後は行動に移すだけだ。

 思考速度の差故に、鼠の道についての確認をしてから一切遅滞なく行動に移したように見えたからだろう。不思議そうに僕を見つめる姉さんに伝えることを吟味しつつ、僕は神咲邸の奥へと進んでいく。

 

 

 

 

 

三、

 一応何度か姉さんに確認を取りつつ、鼠の道の一部を清め、ルートを潰していく。

 当面、小人さんに襲われる心配はない。彼らの位置は足音でわかるし、鼠の道は既にいくつか潰しているのだ。彼らが僕達のところに追いつくには相当の時間が必要だろう。

 遭遇しないで済むやり口があるなら、そのまま逃げ続ければよいのではないか、と思うかもしれない。態々戦う必要なんてないじゃないかと。無論それも、一つの方策ではあるだろう。

 が、この場合それは悪手だ。何となれば、僕たちは絶賛神隠しに遭っている最中なのだ。どうにかして彼らを打ち倒し、術を解除しなければ通常空間に戻れないのである。無論、神咲邸での出来事である。時間を稼げば和音婆様あたりが救出に来てくれる可能性はあるのだが。この神隠しを起こしている空間と実際の空間で同じ時間が流れているとは限らない。外での三日がこちらでは三か月間、などといった時間流の乖離があった場合、流石に逃げきれない。

 なお、小人さんを殺害しても術が解除されない可能性は考えなくもないが。その場合は驚異のなくなった異空間で救出を待ちつつ食いつないでいけばいいのであまり気にしていない。呪術的な異空間であるためヨモツヘグイ(正しい用法ではないが、要するに異空間でそこの産物を食するというのが異空間そのものとのつながりを深める場合があるという意味で用いている)が心配だが……そこまで考えていられる余裕がない。CP総計が高くとも所詮は幼い幼女にすぎない僕では、そこまで踏み込んだ対策を立てるだけの手立てがないのだ。

 

 鼠の道の改変が終われば、次は罠の作成だ。台所で手早く済ませてしまう。ガスの匂いが時間と共に強くなっていくが、これで小人さんが警戒するということは無いだろう。そこまで頭が使えるならば、そもそも消火器が放った強い臭いを浴びた時点で右往左往などしていないはずだ。或いは、怪しい臭いを感じたら逃げるという野生動物の本能のようなものは、妖怪であることによって失われてしまっているのかもしれない。

 

 知力差と人生経験の差、それにGURPSのキャラクターとして使える幾つかのやり口を用いることで、嫌がる姉さんを協力させ、“囮”を作成する。他に方法が無いので仕方がないのだが、やはり姉さんの意に沿わぬやり口を強要するというのは気分の悪い話だ。作成を終え、真っ青な顔でへたり込む姉さんを横目に、必要な場所に“囮”を放り込む。

 

 準備は完了した。台所にゆっくりとガスが充満し始め、簡易的な自動発火装置は今か今かと炸裂の瞬間を待ち望んでいる。無論、小人さん達はこちらの居場所に気が付いている。彼らが鼠の道を通り、こちらに近付いてくる足音は既に聞こえているのだ。彼らは進んできている。僕達が改変し、特定のルートを通らせるよう細工した鼠の道を、だ。件の怪異群はこちらの思惑通りの時間をかけ、もっともガスと空気の混合率が適切な瞬間、仕掛けた“囮”に殺到することだろう。

 

 姉さんと共に台所の床下収納に潜り込む。僕達もまた僕たちの匂いという目印を発している。“囮”が機能しようとしまいと、台所から出てしまってはさすがに小人さんもおかしいと思うだろう。

 爆発というものは下から上に行くものだ。部屋のもっとも下方にある床下収納にいれば、被害は最低限に抑えられるはずである。……たぶん。

 

 ……本当に大丈夫なんだろうな、これ。

 

 幾らスペックがインチキじみていても、この戦いは事実上神咲舞奈の初陣だ。机上の学問が実戦でも通じるのかどうかなど分かったものではない。今のところ想定通りに物事は動いているが、だからと言って今後もその通りだという保証はない。精神力が超然とした振る舞いを可能にしてくれているとはいえ、中の人も外の人も不安を感じないわけではないのだ。

 

 いや、大丈夫だ。僕の論理的思考が問題ないと弾きだした以上、何の不安があるというのだ。情動にかまけるような余裕があるわけでもなし、震えるのは後にしろ―――――

 

 そう自分に言い聞かせ、姉さんと狭い空間で身を寄せ合う。姉さんは勿論のこと、不安におびえる余裕さえない。青白いを通り越して白い顔で、ずっと下を俯いている。こちらについても、どうにかフォローしなければならないのだけれど。当然のように今できることは何もない。大丈夫だという代わりに、何も言わずに彼女を抱きしめるくらいが精々である。……左腕しか動かないが。

 

 

 

 

 

四、

 「びょうきがんばれー、まいなーしねー」

 「びょうきがんばれー、かおるーしねー」

 

 病を言祝ぎ、僕たち姉妹を呪う声と共に、段々と小人さん達の小さな足音が近づいて来る。

 傍らの姉さんが震えているのは、先ほど水を被ったからだけではあるまい(少しでも匂いを抑えるための、涙ぐましい小細工だ)。現状で僕たちの位置が看破された場合、そこで“おしまい”である。床下収納は幼女二人が収まれば一杯一杯で、木刀を入れて置く余裕はなかった。大体、こんな狭い場所で小人さんの攻撃に対応できるわけもない。あくまでこの戦法は、次善の策など考えない爆殺にすべてを賭けた、一発勝負の代物である。

 

 「びょうきがんばれー、がんばれーびょうきー」

 「まいなしねー、しねーまいなー」

 

 呪詛と言祝ぎは適当に行っているのだろう。時たま、彼らの放つ術理は、姉さんのみ、或いは僕の身を狙って放たれる。姉さんのみに行った場合、こちらに何の被害もないのだが。僕の方に来てしまえばそうはいかない。すっと体が冷えていき、逆に肺だけがまるで煮え滾る湯につけられたかのように熱くなる。喉元へと走る苦味は、間違いなく血だ。何時もならそのままげほごほと吐血するのだが、今それをしては臭いで位置が分かってしまう。必死に血を呑み込み、その催吐作用にえづきながら、治癒術で病を癒す。僕の異変に気が付いたのだろう。姉さんがぎゅっと僕の左腕を握る。

 その振る舞いは隣の生き物を確認し、自らの恐怖を和らげるためか。守るべき相手の存在を確かめるためか。妹を守るというお姉ちゃんの決意の表出なのか。恐らく彼女自身、分かってはいないだろうし、或いはその何れでもない、極限状況に対する渾沌とした情念の表れにすぎない可能性さえある。いずれにせよ、爪が真っ白になるほど強く握りしめるそのさまは、姉さんの小さな体の内側に渦巻く、手ひどいストレスの存在を大いに想起させるものだ。

 

 「かおるーどこだー、まいなーしねー」

 「まいなーどこだー、かおるーしねー」

 

 呪詛に別の言葉が入り始める。小人さんは既に台所を視認できる場所まで近づいているのだ。匂いを辿ってやってきてみれば、目標たる僕たちが見当たらないのだから、彼らの反応も当然のものと言えよう。

 彼らが気付いたのは僕達か、それとも囮か。くそ、判断材料がない。何かほかに情報は……ああ、いや。落ち着け。今ここでグダグダ考える意味は無い。よしんばこの時点で囮が見破られていたとしても、僕たちに出来ることは何もないのだ。既に彼らは僕達に近付きすぎているし、こちらは丸腰だ。分かっている、分かっているんだ。いずれにせよ彼らに勝つためには乾坤一擲な勝負を仕掛けるしかない。チャンバラよりはましだと爆殺を目論んだのは僕自身だ。胸すわって進むしかない。畜生、葉隠覚悟の意志力は何点だ。真面目に考えれば絶対に僕の方が強い意志力を持っているはずなのに、このザマか。

 胸中より湧き上がる不安を押し殺し、少しでも暖かみを得ようと恐怖ではなく寒さに震える体を姉さんに押し付ける。床下収納の真っ暗闇の空間。まともに動くこともできぬその中で、姉妹揃って震え抱き合う。姉さんが僅かに鼻を鳴らし、腕を握っていない片手でぎゅっと僕の頭を抱きしめた。僕の振るえを恐怖の発露と認識したのか。泥と涙で汚れた顔が、僕の頬に擦り付けられる。

 無論、嫌悪など覚えようはずもない。ああ、そうだ。六歳児だってお姉ちゃんをやっているのだ。神咲舞奈が不安を抱いてどうするのか。どうするのか。そう念じてなお、腹の底で蜷局を巻く黒い不安は、しゅうしゅうと舌を鳴らして僕の理性に齧り付かんと様子をうかがっている。

 

 「かおるーいないぞー、まいなーころせー」

 「まいなーいないぞー、かおるーころせー」

 

 がんばれー、がんばれーと言っていた時と何一つ変わらない。能天気でどこか空虚な小人さんの唱和が、虫の音一つしない夜半の大気を小さく震わせる。既に彼らは台所の入り口にまでたどり着いている。あとは一直線に進んでくれれば囮にたどり着くわけだが。そのルートはものの見事に床下収納の上を通るものである。

 なんだってそんな馬鹿げた誘導をしているんだと思うかもしれないが。鼠の道はその成り立ちの都合上、僕達には消すことはできても新しく作ることはできないのだ。ために誘導ルートはどうやっても限定されたものとなり。彼らを爆殺に最適な場所に誘導するためには、どうしてもこんな間抜けなおびき寄せ方をせざるを得なかったのだ。

 

 ………………

 …………

 ……

 

 小人さんの声が止まる。足音が近づいて来る。なぜ黙った。なぜだ。

 いや、そうか。獣は得物を襲う際、声を出さない。或いは彼らも―――――

 

 姉さんが僕を抱きしめる力が強まる。どくりどくりと、僕のそれよりも遥に力強く脈打つ心臓の早鐘が、僕の皮膚を、筋肉を、肋骨を介して内臓にこだまする。baQa'! さっさと通り過ぎてくれ。不安に震える中の人。馬鹿げた意志力によって冷静極まりなく、悲鳴どころか嗚咽の一つも上げぬ外の人。高性能なキャラクターの中にいるのも考え物だ。六歳児と一緒に、或いはそれにさえ劣る臆病さでもって震える中の人。そんな奴のことは知ったことかと冷静なままの外の人。それら状況を極客観的に観測可能な……ああ、くそ。そいつは誰だ。僕は神咲舞奈だ。だが神咲舞奈とはいったいなんだ。

 そんな事態になってなお、その不安を僅かでも和らげようと、神咲舞奈は冷静に左手で姉さんの背中をさすっている。

 

 

 

 夜の帳の落ち切った時刻に相応しい、耳の痛くなるような静寂が取り戻される。

 小人さんの、近づく足音さえ止まったのだ。

 その位置は。

 

 

 

 床下収納の、僕たちの真上だ―――――

 

 

 

 

 

 「みーつけた」

 

 

 

 

 

五、

 薄板一枚隔てて告げられる能天気な死刑宣告。

 その声の意味するところを理解したのだろう。危うく悲鳴を上げそうになった姉さん。慌ててその口を手でふさぐ。

 ここまでか。絶望が鈎爪付きの手で僕の心臓をわしづかみにする。どっと脇や背中から冷たい汗が流れ、足の裏のあたりがギュッと縮まる感覚がする。心中悲鳴を上げる中の人。なおも打開策を考える外の人。

 

 一か八かここで、この位置関係で爆破を試みるか。いや、無意味だ。ここまで近ければ、共倒れか、どちらも生きているかの二択だ。いずれにせよ僕たちの敗けである。

 他に方策は。……ない。

 積んでいる。投了だ。どうしようもない。

 

 早鐘のようになる心音。これは姉さんの。恐怖に怯え、酷く早い。

 弱弱しい、落ち着いた心音。僕のだ。この期に及んで、神咲舞奈は冷静だ。が、だからと言ってできないものはできない。

 更に複数の心音。小人さんのそれか。一丁前に心臓もついているのか。大きさが大きさのため僕のそれよりもさらに小さいが、幾つもの音がバクバク、どくどくと……。

 

 

 

 いや、待て。

 音が遠い。

 奴らは僕たちのすぐそばにいるんじゃない。

 上だ、上にいるんだ。

 

 奴らは流し台の上、その上の棚に上っている。

 床下収納があまりに流し台に近いため、正確な位置が分からなかったのだ。彼ら小人さん達は、X軸、Y軸上ではほぼ僕達と重なる位置にいるが。Z軸上では上方にいる。

 みーつけた、か。成程、その通りだ。彼らは確かに見つけたのだ。より強い臭いを発する目標を。即ち僕が作った“囮”に引っ掛かったのだ。

 

 僕の考えが正しかったことはすぐさま証明された。がちゃりと、僕たちの上の方で、流し台の上の棚が開かれたのだ。

 奴らはこの部屋の上方に固まっている。僕達は床の更に下で蹲っている。爆発が起きた場合に受ける影響には雲泥の差があるのは道理である。

 ガスの充満速度から推定して台所内の空気は爆破に最適。彼我位置関係問題なし。更に言うなれば彼らは無防備に囮を見ている最中。

 これですべての条件はクリアされた。

 

 内心どこぞのシスコン悪逆皇帝の真似をしつつ、アルミ箔と針金で作った簡易的なスイッチを押す。

 コンロの傍で、ぱちりと火花が跳ねる。

 

 

 

 

 

六、

 耳を弄する轟音と共に、床板越しに背中を焦がす熱波を感じる。流石に、床下収納が揺れたりはしなかった。そこまでの爆発規模ではない。しかし、小人さんを爆殺するには十分なものだ。

 勿論、僕たちとて無事に済むわけもない。

 さして頑丈というわけでもない床板は当然のように爆発の衝撃で砕け、無数の破片が僕たち姉妹に降り注ぐ。

 姉さんを庇うわけにはいかない。この貧弱な身体でそんな真似をしたら絶対に助からない。姉さんの安全は姉さん自身の判断に任せ、まともに動けない狭い空間の中、必死に身を縮める。

 立て続けに、酷く重く、いかにもまずいものであると全身で感じられる衝撃が複数、背中に突き刺さる。体が宙を舞い、暫しの浮遊感の後地面にたたきつけられる。

 

 間髪入れずに治癒呪文を発動させようとするが、発動しない。恐らく既にルール上はHPがゼロになり、気絶したということなのだろう。気絶したはずの(或いは死んだはずの!)キャラクターが状況を認識出来たり喋ったり、挙句仲間と作戦会議をしたりするのはTRPGではよくあることである。多分喜びの野はともかく、大喜びの野やぬか喜びの野は割と現世の近所にあるのだろう。僕が呪文を発動できないのに意識はあるというのは別段おかしなことではない。

 

 まともに動かない体で周囲に目を走らせる。姉さんは……無事だ。ちょっと焦げてて血を流していて、意識も朦朧としているようだけれど、死んではいない。問題はないということだ。

 小人さんは全滅していた。ようやく死んだことで正体を現したらしい。黒こげになった小柄な鼠の死体が、あちこちに散乱している。

 周囲に感覚を向ければ、虫の声が、木々のざわめきが、人の声が聞こえる。

 太陽がまぶしい。やはり神隠しの空間と通常世界では時間の流れが違ったのだろう。……ついでに言うなれば、神隠しの空間で爆破しても通常空間に影響はあるようだ。台所にいるはずなのに、青空が見える。

 

 聞き知った声がして、誰かが近づいて来る。亜弓さんか。既に帰宅していたようだ。彼女が帰ってきているのであれば、治療について心配する必要は無かろう。

 

 敵は全滅した。

 僕も姉さんも生き残っている。

 通常空間に帰って来ることができた。

 

 詰まる所、僕たちの勝利だ。僕達は勝ったのだ。

 とはいえ、素直にそれを喜べるかといえばそれはまた別問題だ。

 

 特段強いわけでもない、大人が一人いれば(そしてその人物が怪異の襲撃という異常事態に際し至極冷静に活動できるなら)どうにでもなった相手に対してこのザマである。僕も、姉さんも、余りに弱すぎる。改善すべきところ、学ぶべきもの、得るべき経験は無数にあり、こんなところで勝利の余韻に浸っている暇はない。

 

 

 

 そしてもう一つ、僕が用いた“囮”にまつわる問題がある。

 彼ら小人さんが流し台の上の棚を開き、そこにこそ僕たちがいると匂いによって確信した、そのデコイ。小さな体でわらわらと寄り集まってどうにか開けた棚のその奥にあったものは。

 

 今なお大きな血管から血を流し、更にはずたずたに切り刻まれているがゆえに酷く強く僕の匂いを発し続ける。

 

 

 

 切断された、僕の右腕だ―――――

 

 

 

 そう。僕はへし折れ無理やり治療したがゆえに二度と使い物にならなくなった己の右腕を切り落とし、それを囮として棚に配置したのだ。小人さんが僕とそれを“嗅ぎ誤った”のもむべなるかな。間違いなく彼らは僕に向かって襲い掛かったのだ。彼らの行動に問題があったとすれば、僕の大部分は別の場所にあったという、ただその一点だけであろう。

 

 僕は初陣で右腕を失った。まずそれが問題である。

 

 更に問題はある。

 僕は貧弱だ。そうであるがゆえに、腕を切り落とすほどのダメージを受けてしまえば、或いはそれ以下のダメージでも気絶してしまう。当然気絶してしまえばその後の行動は行えず、腕を切り落とすまで、そして切り落とした後も意識が持続するよう何らかの対処を行わなければならない。

 《痛みどめ》の呪文でも修得していれば特段問題はなかったのだが。治癒呪文を最優先で取っている僕がそんな肉体操作系の呪文を覚えているわけもない。

 では何故僕は腕を切断しても気絶せず、その後も行動できたのか。

 それは勿論、姉さんに手伝ってもらったからだ。姉さんの癒しの霊術は傷を癒すことこそできないものの、意識をつなぐことはできる。彼女の使う治癒の霊術モドキを持続的にかけてもらうことで、僕は腕を切断しようと作業している間中、意識を保っていたのである。

 

 姉さんが受けた精神的衝撃はいかばかりの物であったか。

 この退魔師姉妹のお姉ちゃんは、夜半妖怪に襲われ神隠しに遭った孤立無援の極限状況で、己の腕を切り落とそうと何度も自らに包丁を振り下ろす妹に、“彼女が腕を切り落とせるように”治癒の術を使うことを求められたのだ。他に方法がない以上どうしようもなかったのだが。それにしたところで酷な体験であろう。この先の彼女の人格にどんな影響を与えるかという点において、大いに不安である。

 

 悪夢的な状況で妹の四肢切断を手伝った姉さんの精神。

 これが二つ目の問題である。

 

 問題は無数にあり。解決すべき課題は山積みだ。うち二つは“撲殺に適している”などと揶揄されるガープス・ベーシック完全版どころか、広辞苑並みの分厚さで僕をふてぶてしく見下ろす有様である。その他の課題だって、職場の教養並みに薄っぺらい物は一つたりとて存在しない。いずれにせよ昨今のTRPGにおける大型サプリメント程度には分量があるように見受けられる。更に言うなればその内容については、娯楽用ゲームのルールやデーターと比べるべくもない難解至極のものである。どうしろと。

 

 

 

 とはいえ、現状で僕に出来ることは何もない。

 僕は気絶状態で、呪文も使えず、大怪我を負っている。右腕はどこかその辺に黒焦げで転がっているのだろう。あれは無理だ。間黒男氏にだって繋ぎ直すことはできまい。魔法で生やすしかないということだ。なに、そこまでの難事でもない。ちょっと僕の全生命力の40倍の魔法的エネルギーを調達できれば何とかなる。まったく簡単だ。

 更に言うなれば、現状でこのまま意識が飛べば、僕は現在の怪我を魔法で癒すことなく意識不明の重体となる羽目になる。以前病気でそうなったこともあるが、幾ら僕が治癒呪文を使えようとも、その技を振るう暇もなく気絶してしまえば宝の持ち腐れなのだ。次に目を覚ますときはまた個室の集中治療室であろう。

 ……火葬場でないことを願うばかりだ。生憎ダブルタイフーンの持ち合わせはないので、脱出は不可能だし。

 

 ……段々意識が遠くなってきた。

 亜弓さんが僕を呼ぶ声が聞こえるが、どんどん小さくなっていく。

 

 いやはや、僕は何度気絶すれば気が済むんだろうか―――――

 

 そんな思考を最後に、僕の意識は物理と途切れ、闇の中へと落ちて行った。

<つづく>




 ようやく小人さんを爆殺できました。

 ともあれ、第十四話でお会いいたしましょう。
 インターミッションなお話ですので、さして時間がかかることなく書ける……といいなと思います。


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