幻想郷をふらふらと (海のあざらし)
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序章 ユウと愉快な旧友たち 第零話 A mysterious utopia

 普段より幾分か濃度を増したように感じられる闇に覆われた、夜だった。

 

 光を遮る雲一つない天上で煌々と輝くのは、満月。

 

 逢魔が時(大禍時)を過ぎた遥か下界では、人ならざるモノが哀れな獲物を探して跋扈する。もし『彼』が今の場所ではなく下へと降りていれば、彷徨い歩く異形の者共は格好の獲物を見つけたと言わんばかりに嬉々として一斉に彼に飛びかかってくるだろう。

 

 しかし、現実にはそのようなことは起こらない。理由は簡単である。この少年は今、山の頂を遥か下に臨む程に高い所で一人月見酒と洒落込んでいるのだ。第一、凡百の魑魅魍魎が結託したところで少年を捕食することは叶わない。

 

 普通の人間なら、いや、例え度胸のあるものだとしても、これほどまでに高い所で月を見ながら風流な気分で酒など飲めまい。なら、何故この少年はこんな酔狂な所で一人月を肴に酒を飲んでいるのか。いや、そもそも何故こんな翼でもない限りは辿り着けないであろう所まで少年は辿り着けたのか。何故少年は空に()()()いるのか。

 

 答えはこれまた簡単である。少年は自身の中に存在する『チカラ』によって空を飛び、地上より遥か高きところに座って酒を飲む為の土台を作った。ただ、それだけのこと。

 

「………」

 

 少年は、ただ泰然と佇むだけ。時折、思い出したかのように杯に注いだ酒を飲み、また月を眺める。少年の表情には硬さは無い。ただ純粋に一人での酒盛りを楽しんでいるようにも見える。

 

 ふと、少年の月を見上げる漆黒の瞳の向く先が月から外れる。次に捉えたものは、地上にて活動する人外の異形 ── 妖怪。人を喰らい、脅かし、その畏れを糧とする、古来より人の大敵として存在してきたものたち。

 

 その妖怪は、何かを追っていた。その速度は決して早くはない。精々大人がそれなりの速さで走っている程度だ。だが、その妖怪から逃げるものとの間の距離は少しずつ縮まっていく。この分では、逃げるものが追いつかれるのも時間の問題だろう。

 

 少年は続いて逃げるものに視点を向ける。どうやら人間の女の子らしい。必死に妖怪から逃げるその足はガタガタと激しく震えている。体力の限界に達するのも、時間の問題だろう。こんな年端もいかない子供が人外の存在である妖怪から逃げ切ることができる道理はない。

 

 故に、その子供は10年にも満たぬ短い生涯をこの暗い森の周辺で、腹を空かせた妖怪の食事となることで終える ── 筈だった。

 

 徐に、少年は杯に半分ほど残った酒を飲み干しそれを置く。そして、何故かちらりと背後を振り返って嘆息した後、すいとその場から立ち上がり。

 

「……」

 

 数時間前に自らが創り上げた土台から、()()()。全く、なんの躊躇も無く。

 

 常識的に考えれば、この瞬間少年の死は決まったと言って差し支えあるまい。近くにある山の標高でさえ、富士の高嶺の4割は下るまい。そんな山の頂点を見下ろすことができるような高所で、彼は酒を飲んでいたのだ。そして、彼はそのとんでもない高度から飛び降りた。下手をすれば、今妖怪に追われている少女よりも先に、少年の方が重力の所為によって地面にその体を酷く打ち付けてバラバラになってしまうだろう。

 

 だが、この少年は、そんな世の常識に囚われてしまうような存在ではない。彼もまた、人の理解できる範疇を超えた異質なる力の持ち主なのだから。

 

 暫時ただ自由落下を続けていた少年の背中より、一対の純白の翼が生まれる。彼の能力により生成されたその翼は、大きさにしておよそ彼の体よりも7割ほど大きいだろうか。月の光を反射して淡く煌めくその翼は、地上にいるものたちにあたかも天界より天使が舞い降りてきたかのような錯覚を覚えさせるだろう。

 

 そんな、鳥でもない限りは扱いこなせない筈の翼を使って、少年は思うがままに空を飛ぶ。その意図は、たった一つ。今まさに異形の手によって生死の危機に立たされている少女の救出である。

 

高速で飛行する少年、否、少年と思しき何かは程なくして眼前に妖怪と少女を捉える。二者の距離はもう三尺あるかなきかというところまで狭まっており、妖怪は長い腕を今にも少女へと届かせようとしていて。

 

 

 

 

 

 

 

「間に合った」

 

瞬間、水気を含んだ赤に染められた着物と茶けた太い腕の間に、見るものの目を奪うかのように美しい白が音もなく割り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月明かりが、地上を照らす。地上では、しかし管弦に遊ぶなど優雅な催しが開かれているわけではない。

 

 行われているのは、狂った宴。参加者は自らの手で食事を捉え、その場で調理もすることなく口へと運び、咀嚼。今宵もまた宴は開かれる。望まぬままに生き死にを賭け皿に乗せられている哀れなる犠牲者を伴って。

 

 妖怪の、少女を捉えんとする魔の手は少女に迫る。何処と無く老成した大木に似たその妖怪は少女よりほんの気持ち早い程度の速度で、ゆっくりと、しかし確実に少女を追い詰める。その光景はまるで、狡猾にして卑劣な捕食者が弱き獲物を執拗に甚振るかのよう。

 

 太古より、満月の夜は異形の最も活発に行動する時間だと言われてきた。その理由は定かではないが、一説には月明かりと何かの関係があるそうだ。今日の月が欠けるところ無き満月であることを考えれば、普段は木に擬態していてあまり動かないこの手の妖怪が、自らの退化してしまった足を無理矢理に使ってでも獲物を追いかけるのにも説明がつく。

 

 しかし、何故本来滅多には歩かないはずのこの妖怪が自らの意思で少女を追うのか理解したところで、状況は何も好転しない。やがて、一方の命を賭けた鬼ごっこも、終焉を迎えることとなる。

 

「……キャッ!」

 

 逃げるのに集中するあまり足元に頑強に根を張っていた木の根に気がつけなかった少女は、足を取られて転んでしまう。痛みと疲れ、そして恐怖で震える足を無理やりにでも奮い立たせ、立ち上がった少女が最初に見たものは。

 

妖怪が少女を捕らえんとして伸ばした、木の枝にも似た、だが普通のそれよりも圧倒的に太い腕のようなもの。

 

 

 

 

 

 その腕が、突如現れた少年によって掴まれ、動きを止められているというものだった。

 

「……え?」

 

 少女の口から漏れたたった一文字に含まれていたのは、単純に驚きとは呼べないものだった。絶体絶命のこの状況で、思わず死を覚悟した次の瞬間、自分を捉えようとした妖怪を平然と片手で止めてみせた一人の少年。まだ幼き少女に、今の状況を把握することは出来なかった。

 

「ギイイィィィ!」

 

 一方、何の前触れもなくいきなり現れた邪魔者に対し、その妖怪は怒った。

 

 掴まれている腕以外の、計5本の腕を全力で叩きつける。ようやく餌を捕まえたと思ったら、よく分からないうちに腕を掴まれ、食事を妨害されていたのだ。妖怪だからなどという理由ではなく、単純に捕食を妨げられた生物として怒ることは当然の結果といえよう。

 

 少女はその光景をただ見ていることしかできない。逃げて、そのたった3文字さえ言うことは出来なかった。

 

 大の大人が本気で武器を振り下ろすよりも遥かに強い威力を伴うそれにより、少年は頭を潰され、少女より少しだけ早く妖怪の餌となる ── ことはなかった。

 

 少年は、自らに迫る五本の腕を、まるで雨でも降ってきた時のような反応をして気怠げに眺め。

 

 

 

 

 

 まともに防御姿勢を取ることもなく、それら全てを()()()。まるで岩が高いところから落ちたような、そんな凄まじい音が周囲に響き渡る。

 

 少女は、咄嗟に目を瞑った。目を開ければそこに広がる光景は自分にとってマイナスとしかならない。その無意識の防衛反応によって、彼女は自らの視界を遮った。

 

 そして、数瞬の後にはたと思う。自分は先程まで、妖怪に追われていた。今、少年が妖怪に攻撃されてしまった。あれだけの音がしたのだ、少年が生きている望みは薄い。……なら、だ。

 

 ()は、誰になる?

 

 そこまで思い至って、少女は慌てて目を開ける。妖怪からすれば、餌がいきなり目を瞑って動かなくなったのだ。捉えるには格好のチャンスでしかない。少女の開かれた目が、前方の状況についての視覚的情報を得る。

 

 次いで、すぐにでも逃げることを再開しようとしていた少女は、またしても絶句することとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「静かにしろ。子供もいるんだ」

 

 あんなに太い腕による叩きつけ攻撃をモロに受けた少年は、しかしそこから微動だにしていない。彼の立っている地面の近く、妖怪の腕が勢い余って叩きつけた場所は大きな凹みが見られるというのに。少年は、まるで何事もなかったかの如く、変わらず気怠げにそこに立っていた。

 

「ギッ!?」

 

 妖怪が驚くのも無理は無い。人がまともに食らって生きていられる筈もない攻撃を、腕五本で繰り出したのだ。それが、目の前の構えすらロクに取っていない少年の命を奪えないどころかかすり傷一つすら負わせられないのだから。

 

 少年は、掴んでいた妖怪の腕を離す。これで、木の妖怪が使える腕は、計6本となった。だが、有利な状況に傾いたにも関わらず、その妖怪は目立ったアクションを起こさなかった。否、起こせなかったのだ。

 

次に下手なことをしたら、殺される。

 

 もしこの妖怪に人と同じような思考回路があったとしたら、きっとこう考えていただろう。目の前にいる自分の身長の半分もないような人間が自分の一撃をまともに喰らって平然とした顔や態度で佇んでいるのだから。

 

 人間に例えるのなら、大の大人の攻撃をまだ首も座らぬような幼児がノーダメージで耐え切るようなものだ。およそあり得ない話ではある。しかし、少年はそれをいとも簡単にやってのけた。妖怪が怯むのも、当然の話。

 

「帰れ」

 

 不意に、先程まで一言も言葉を発しなかった少年が一言。たった一言、文字数にして僅か3文字。しかしその3文字に込められた()()は並大抵のものでは無かった。それは強烈な効力を持つ言霊となり、妖怪を撃ち抜く。

 

 勿論、この妖怪が言葉を理解できるはずもない。しかし、妖怪は少年が言ったたった3文字の、その()()()()までをも理解した。…理解させられた、という方が正しいだろうか?

 

俺が何にもしてないうちに、早くどっか行った方が良いぞ?

 

 この妖怪とて、決して早死にしたくはないのだ。今目の前で圧倒的な実力差を痛感させられた妖怪に、最早是非のあるはずも無かった。

 

「ギ、ギギギッ……!」

 

 妖怪は目標であった捕食を諦め、一目散に森へと逃げ帰る。自分との天と地ほどの力の差を見せつけた絶対強者から1秒でも早く離れるために。少しでも早くその視界から外れるために。

 

 少年は逃げた妖怪を追うことはなかった。暫くの間逃げ惑う木の妖怪を眺め、そしてあ、と思い出したかのようにゆっくりと振り返り、目の前で起こった、俄かには信じがたい衝撃的な光景のあまり腰を抜かしていた少女に声を掛ける。

 

「大丈夫かい?」

 

 今、私は心配されているのだろうか。取り敢えず、足はガタガタだし精神的にも恐怖と驚愕の連続で大きく磨耗しているが、それ以外に特筆すべき怪我などはしていない。だから、現在の状況と取るべき行動を曲がりなりにも理解してみせた賢い少女はうん、という意思を示すために首を縦に振る。

 

「それは良かった。確かに見たところ大きな怪我はしてないようだし、大丈夫だろう。……とりあえず、お家まで連れてってあげるから、良かったらお家が何処にあるか教えてくれないかな?」

 

 反射的に、少女は迷った。母親に常々言われてきたからだ。『知らない人についていってはいけません』『知らない人に家の場所を教えてはいけません』と。少女は賢い子である。故に、今の今までその教えを誠実に守って生きてきた。

 

 しかし、同時に少女には、目の前にいる少年がとても頼りになると同時に、信頼しても良いという風に思えた。事実、妖怪から助けてくれたのは他ならぬ彼なのだから。なまじ利口なだけに、それなりに長い時間、少女は迷った。母親の教えに忠実になるのが良いのか、それとも助けてくれた優しそうなお兄さんを信頼するのか。

 

 そして、意を決して結論を出す。

 

「……えっと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、少女は少年に家までの道のりを教え、彼に帰宅まで同行してもらうこととなった。お母さん、ごめんなさい。私、約束を守れませんでした。なんだか先程とは別の意味で暗い気持ちに襲われる少女。ここで自己愛を発揮して私悪くないもん!とか言わないあたりが良い子である。

 

 言わずもがなだが、一応補足しておくと少年は決して何も悪行を働いたわけではない。脅迫も恐喝も、一切行っていない。そもそもそんなことをするほど性根が腐っているわけでもない。

 

「あー、お嬢ちゃん?」

 

 少年が、少女へと呼びかける。まだ名前も聞いていないために、お嬢ちゃん呼びである。早めに聞いといた方が良いかな。流石に幼い子が相手とはいえ『お嬢ちゃん』は恥ずかしいものがあるし。彼は、そう思った。

 

「……何ですか?」

 

 やはりまだ少年について測りかねているのだろうか、少女の言葉にはまだ硬さが見られた。

 

「答えたくなかったら、良いんだけどね。こんな遅くに、君はどうして危ない場所へ1人で来たんだい?」

 

 その言葉を聞き、ビクッと肩を震わせる少女。差し詰め、怒られると思ったのだろう。当然だ、身を守る術を持たない子供が1人で夜歩きなどこの世界では自殺行為でしかない。

 

 しかし、ここで隠し事をして誤魔化そうとするような子ではない。

 

「……これを、取りに来ました。お母さんが喜んでくれると思って」

 

 故に、彼女は正直に自分が危険な行動をとった理由を話した。

 

「成る程。その花をお母さんに見せたかった、と」

 

 右手に赤い綺麗な花を持つ少女を背負いつつそう問う少年に、少女は遠慮がちに頷く。

 

 まだ幼い少女にとって、母親に喜んでもらえることは何よりも嬉しいことなのだろう。だからこそ、危険を承知の上で森へと向かったのだ。妖怪から逃げるときも、この花だけは絶対に離さなかったことからも彼女が如何に母親を慕っているかがよく分かるというものである。

 

 ── 妖怪を前にして震えてものも言えなかったような子だというのに、妙なところで意志の強い子だな。

 

 少年は一つ嘆息し、

 

「その年で立派に親を気遣える、か。良い心がけだよ。だけどね、まだ小さな子が一人で出歩くには、特に夜は危ないんだ。今回みたいなことになりかねないからね。次からは、ちゃんと大人と一緒に、妖怪の出ない安全な時間に出るんだよ」

 

 てっきり怒られると思っていただけに、優しい言葉遣いで諭された少女は目を真ん丸にして驚いた。少女からすれば、寧ろこの場で怒られていた方が不思議に思うことも無かっただろう。

 

 そんな疑問を汲み取ったのか、少年はもう一つ声を掛ける。

 

「別に怒りやしないさ。夜は危ないとちゃんと言い聞かせていなかった大人にも罪はある。それに、子供は色々なことを経験して大きくなるものさ。失敗も、成功もね。ま、今回はちょっと怖い目になっちゃったけどね」

 

 あくまでも泰然とした態度を崩すことなく、さして背丈の変わるわけでもない少女を息を切らすことなく軽々と背負い続ける少年は、そう言いつつ首だけを後ろに向け、少女に微笑みかける。少年の気負うところのない様子のおかげで緊張もある程度取れたのか、少女も少しはにかみつつ頷く。

 

「そうだ。お兄さん、お名前はなんですか?あ、私の名前は凛花(りんか)って言います」

 

 ふと気になり、少女は問う。お互いに、名前を知らないで会話しているのが気になったのだろう。

 

 それに対し、少年はやはり平然とした様子を保ちながら答える。

 

 ── この時聞いた命の恩人の名前を、少女は一生忘れることはなかった。

 

「そういえば、名乗ってなかったね。わざわざそちらから名乗ってくれて、ありがとう。

 

 

 

 

 

 俺の名前は、ユウ。宜しくね、凛花ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お?なんか門番みたいな人が立ってるけど。…あれが凛花ちゃんの言ってた人里、とやらの入り口かい?」

 

「そう。…なんで、そんなことを聞くの?」

 

 一緒に人里 ── この世界で人間が暮らす場所へと向かっているうちに、凛花は随分とユウに打ち解けた。堅苦しかった敬語もなくなり、今では年相応の無邪気な様子を見せている。

 

「実は俺、幻想郷に来たのが本当につい最近なんだよ。だから、まだ人里とかがどういったものなのか、イマイチ分かっていないんだ」

 

 幻想郷。

 

 忘れられたモノたちの、最後の楽園。

 

 外の世界、有り体に言えば、普段人々が日常的に人の波に飲まれ、仕事に追われる国、日本。それと同座標に位置する、しかし位相が異なるために目視することは叶わない世界、それが幻想郷。

 

 ユウも、元々『外の世界』にいた。幻想郷へとやって来たのは、何も()()()で忘れ去られたわけではない。ただ、娘が誘いに来たから行くことにした。たった、それだけのことである。何も特別なこともない。

 

「へぇ。じゃあ、お兄さんは外来人さんなの?」

 

 はて。ガイライジン、とは一体何だろうか。ユウは、彼には珍しく割と本気で首を傾げたくなった。

 

 貝来人?何だろう、この世界では外から来た人間のことを貝の中からやって来た人たちだとしているのだろうか。

 

 そんなわけがあるか。外から来た=界の中にいた人達なんて等式が成り立ってたまるか。俺も長く生きたが、貝の中に住んでみたことは流石に一度もないっての。自嘲の呟きを心に留めつつ、ガイライジンとやらについての考察に戻る。

 

 もしガイライジンの漢字が『外来人』なら、外から来た人たちという意味になる。多分、これだろう。そう予測をつけて、返事をする。

 

「そうだな。俺は、外来人さんだ」

 

 と、そんな他愛の無い話をしている内に、門の前へ到着。ここが人里の入り口らしい。

 

 門の前に立っていた壮健な男性がこちらに気がつき、背負っている少女を見て、警戒を強める。門番と思しきその男性は、明らかにこちらをみて警戒の色を浮かべている。原因は、恐らく凛花ちゃんを背負っているからだろう。まあ、確かにこんな夜に子供を背負って歩く男なんて、怪しく思うなという方が無理があるけれど。

 

「……何者だ?何故、人里の子を背負っている?」

 

 俺だって、そこまで身長高くないんだから兄妹的な感じで見てくれたりはしないのかねぇ。顔似てないけど。…なんて言っても門番の警戒が解かれる訳でもないので、事情説明。

 

「妖怪に襲われていたから助けた。それでこの子の家まで送り届けるところだ」

 

「……本当か?」

 

 そして、この流れるようなテンプレ通りの疑いの目の向け方である。そんなに俺は信用無く見えるのだろうか。だとしたら、身の振り方について今一度考え直さねばならないのだが。

 

「本当だよ!このお兄さんが助けてくれたの!」

 

 ナイス凛花ちゃん。ユウは、心中でそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 門番の仕事もそろそろ仲間と交代となる、それなりに夜も更けた時のことだった。人里では見たことのない少年が、逆に人里でよく見かける女の子を背負ってこちらへと歩いて来た。

 

 話を聞く限りでは、どうやら一応信用出来なくは無い位の人物と見える。確か凛花という名前のはずであった少女に目立った怪我がなく、かつ凛花がよく懐いている様子であったので、門番はそう判断した。

 

 それに、もし2人の話が本当なら、この少年は少女を妖怪の魔の手から単独で守ってくれた人物。その実力は間違いなく自分を遥かに上回る。ならば、例え目の前の少年が人里の()であったとしても、無闇に手を出すべきではない。長年の護衛任務によって培われた経験則より、そう結論付ける。

 

「……そうだな。すぐに親を連れてこよう。里の者の保護、感謝する」

 

「どういたしまして。助けられたのだって、偶々の話だしな。……それで、だ」

 

 言い終えて、俄かに纏う雰囲気の変わった少年に、男性は警戒の色を強める。 ── およそ人の子に出せる風格ではない。やはりこの少年、只者ではない!まさか、妖怪か?

 

 交代の時間が来たため、仲間が数名こちらへ向かってきているはずだが、もしこの少年が暴れれば果たしてそれだけのもので抑えられるのか?最悪、仲間がこちらに着く前に暴れ始めたのなら、自分一人で抑えなければならない。

 

 自分の実力を低く見る気もない。並の人間より強い自信はある。…だが、果たしてそんなことができるのか?

 

 目つきを鋭くし、緊張と共に密かに武器を構える。少年が少しでも不審な動きを見せた時に、対処できるように。

 

 少年は、しかし門番を見ていない。少年が見つめるのは、後ろの虚空。別段、何か浮いていたりするわけでもない。怪しい何かが見える訳でもない。

 

 と、徐に少年は踵を返し、歩いて行く。そして、数歩歩き、立ち止まる。何をしているのかと訝しむ門番を尻目に、少年は何もない()()()虚空へと手を伸ばし ── 。

 

 

 

 

 

「いつまで後ろ付ける気だお前は」

 

「あうっ!?ちょ、何するのよ!」

 

 

 

 突如空間に現れた謎の裂け目を割り開き、中にいた女性の頭目掛けて綺麗な型で手刀を食らわせた。

 



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第一話 女二妖半寄れば姦しい

「ちょっとー!久しぶりに、ほんっっっとうに久しぶりに成長した姿を見せようと思って遠路はるばるやって来た娘にいきなり無慈悲にもチョップを撃つなんて酷いんじゃないの?」

 

 俺が酒飲む場所を決めたあたりからずっと後ろを取って、虎視眈々と(チャンス)を伺っていた奴にだけは言われたくない。ユウはそう思った。第一、はるばるなどと宣ってはいるものの、彼女なら何処であろうと文字通り目と鼻の先であるはずなのだが。

 

「酷いわぁ、ただちょっと後ろから脅かしに行こうと思っただけなのに。久しく見ていないうちにお父さんは無愛想になっていたのね」

 

 よよよ、と何処からかハンカチを取り出しわざとらしさを前面に押し出している嘘泣きをする女に、ユウが向ける視線は冷たいものだ。そう、例えるなら悲劇のヒロインを演じたがる感受性豊かな女性を見る男の目つきであった。またそれは一方で、そんな不躾な視線を向けられるくらいに親しい間柄であることを意味してもいる。

 

 女は、美しかった。腰まで伸びる金髪は月の光を受け淡く金色に輝き、その容貌は人と思えぬ完璧な美を体現している。さらに纏う掴ませない雰囲気が、彼女を人間として認識することを拒んでいる。そして事実、空間を割り開いたことから推察できるように彼女は人間ではない。……尤も、看破に容易い泣き真似をしているその様子には、魔性の美も何もあったものではないが。

 

「なっ…貴様、何者だ!?」

 

 突如何も無い空間から紫色のドレスを着た女が出てくれば、普通の人間は焦るというものだ。この門番もそれなりに人生経験を積み上げてきたとはいえ、過去に似たような体験をしたことは全く無い。平静を保てないのも致し方なかった。

 

 それよりも、ユウには門番の発言の中で気になる点が一つあった。

 

「なぁ、(ゆかり)

 

「あら、やっと私のこと名前で読んでくれたわねユウ!」

 

 あっさりと泣き真似を止め、ぱあっと輝く笑顔を見せる女性。涙に濡れたハンカチも何処へやら、流れていたはずの涙の跡すらその白磁の顔には一筋たりとも残っていない。

 

「やっぱり長く会わないでいたらお互いの親愛の情は深まるのね。これが俗に言われてる遠距離恋愛ってやつかしら!そして2人はそのままハッピーエンド一直線はい。すいませんでした、質問には答えるからその握られた右手を開いて頂戴な。児童虐待はこの幻想郷(げんそうきょう)でも変わりなく罪なんだからね!」

 

 お前のような児童がいるか。久方ぶりに振り下ろされる予定だった拳骨を引っ込め、短くため息をつきながらユウは気になる点を彼女 ── 紫と呼ばれた女性(やくも ゆかり)に投げ掛けた。

 

「お前、人里とやらの人間に顔を覚えられていないのか?何者だ、とか言われてるけど」

 

「割と大部分には。誇るわけじゃないけど、流石に私レベルの妖怪が突然事前予告もなくふらふらと人里歩いて、八雲 紫でーす。幻想郷の管理者です、よろしくお願いしまーす!って軽々しく挨拶して回るわけにもいかないでしょ?」

 

 この考え、ユウとて分からないわけではない。太古の昔、それこそ神代が訪れるより遥か前から人と妖とは争いを続けている。人は知恵をもって妖を降し、妖は人外の力をもって人を喰らってきた。両者の間には数百数千の年を重ねてもなお埋めることの難しい溝が存在しているのだ。まして紫は妖怪というカテゴリーで見ても異端級の力量を誇る大妖怪。そんな存在が人の多く集まる地にひょいと降り立とうものなら、比喩でなく阿鼻叫喚が里に木霊してしまう。

 

「だけどなぁ。この地に生きる者達がお前の顔を知らないというのはどうかと思うぞ。やむにやまれぬ事情はあるとはいえ、お前はこの世界の創始者じゃあないか」

 

「……それについては触れずにいてくれると嬉しいわ。なにぶん外とは違ってここの情報伝達手段は文章、若しくは口頭伝えが主なのよ。だから、中々『顔』っていう具体的なイメージを知ってもらうのも難しいのよねぇ」

 

「へぇ」

 

 話には聞いていた。ここの文明のレベルはおおよそ開国和親の数十年後と同等であると。テレビやラジオなどといった、大衆に向けて一斉に情報を発信できるシステムも存在していなくて当然である。

 

 そうなると、確かに紫の顔を皆に知ってもらうことは困難なことであると言えよう。しかし、紫は妖怪の中でも特に深い知恵と見識を有しており、『妖怪の賢者』といえば専ら彼女のことを指しているくらいだ。ユウは彼女がそう呼ばれていることを詳しく知ってはいないが、紫の頭脳が人並外れて優れていることについてはよく把握している。きっと、近いうちに何かしらの打開策を見出すだろうと判断し、彼は若干意識を逸らしていた現実に向き合うことにした。

 

 実は、彼は若干密かに期待していた。時間を稼いだらこのおてんば娘について思い出してくれて、警戒を解いてくれるのではなかろうかと。

 

「援護に来たぞ、無事か!」

 

「敵は何人だ!」

 

「そこにいる2人だ」

 

「……あの男と女だな?女は空中に変な裂け目を作っているところから見て妖怪、男は不明だが人外の可能性が高い、か。捕縛の必要はない、この場で里に入られないよう処分するぞ!」

 

 全くそんなことはなかった。というより、寧ろ悪化した。

 

「お前、本当に知られてないんだな。よく分かったよ」

 

「流石にこれだけいて一人も私のことが分からないっていうのは、ちょっと精神的に来るものがあるわぁ」

 

 天下に名だたる大妖怪らしからぬ知名度の低さである。それはまぁ、空間に生み出す亀裂 ──『スキマ』を使ってあちらこちらへとひょいひょい移動して、すぐにまたどこか違うところへ行っているのだから顔を覚えられていなくて当然である。この残念な妖怪、姿形という具体的なイメージを置き去りにして名前と恐ろしさだけが独り歩きしてしまっているのだ。

 

「……面倒だな」

 

「……私、帰ったらすぐに人里の中央部に私の顔と特徴を人里に広めるよう依頼しておくわね。幸い、私について一定の理解を示してくれてる子が里の指導者を務めてるから、情報の拡散も適切に進むでしょう」

 

「良策じゃないか。どうして今までその手を打たなかったんだ」

 

「あの子が普段こなしてる仕事の量を考えると、おいそれと頼みごとはできなくて……」

 

 相手を気遣うことのできるいい娘、八雲 紫。

 

「相手が妖怪であるとはいえ、数の利はこちらにある。取り囲んで、一気に押し潰すぞ!」

 

 しかしこちらは、ユウ達を気遣って事情等々を尋ねてくれたりはしないようである。一斉に剣や斧などの一目で殺傷性が分かるような獲物を構え、じりじりと2人との距離を詰めてくる。…俺は妖怪じゃないぞと訂正の文言を入れたいものが約一柱いたが、そのものはこの状況がさらに面倒に捩れることを厭い口に出さなかった。年月を経れば、空気を読む力は比例的に増大していくものなのだ。

 

 言ってしまえば、彼に比べればほんの欠片ほども生きていない里の護衛者達はこの状況を冷静に俯瞰して取るべき態度を取れていないということになる。まさにその通りではあるのだが、一方で里を守るものとして突如現れた知らないヤツら……片方は知っておくべきだろうが、とにかく彼らを警戒するのも正しいことである。これはどうやって彼らの立場主義を尊重した上での説明をしたものかとユウが思案を巡らせようとしたところで、別方向から声が飛ぶ。

 

「何をしている!」

 

 紫より気持ち高めな声であった。そちらを見てみれば、青みがかった銀髪の女性が慌てたように自警団の面々を制止しようとしていた。背の丈はユウと紫の丁度真ん中程度、学士の被るような羽根つき帽子を頭に乗せており上下一体となっている濃い青色の服を身につけている。やたらと胸元が開かれているのは今が夏だからか、はたまた普段からこうなのか。

 

慧音(けいね)先生!ここに妖怪がいるんだ、危ないから下がって」

 

「そこにいらっしゃる女性は幻想郷の賢者殿だぞ、すぐに武器を下ろせ。無礼にも程がある!」

 

 具体的な姿形は知られずとも、その名は広く人口に膾炙している。銀髪女性が言い終わるや否や、自警団員達は火をつけられたかのような勢いで武器を地に置いた。中には反射的に投げ捨てるものまでいるのだから、ここにおいて『紫』の一文字が持つ影響力・威力は計り知れないものがあると言えよう。

 

 二十一人目にして漸く紫のことを知る人物が現れた。これでこいつの認識度は暫定的に4.76%だなと至極どうでも良いであろうことを考えつつも、ユウは矛を交えることなくこの状況を収めてくれた思わぬ第三勢力の女性に感謝していた。彼とて、いきなり移住先の住人と喧嘩なんてしたくはない。

 

 慧音と呼ばれたその女性は、取り敢えずという風に自警団員達を下がらせてから、続いて紫の方へと向き直り深く頭を下げた。

 

「すまない、賢者殿。人里の自警団には妖怪側の主要な者達の顔も覚えさせてはいるのだが。徹底できていなかったようだ、重ねがさねになるが申し訳ないことをした、まさか貴女に凶器を向けることになろうとは」

 

「あら、もう手を回してくれてたなんて」

 

「手を回す?」

 

「あぁいえ、こっちの話だから聞き流しておいてちょうだいな。とにかく、こんなことで一々目くじら立てて怒る気は毛頭ないわ。疲れちゃうもの」

 

 ユウもそうでしょ?そう言って隣にいた彼に視線を落とす。確かにその通り、ユウも面倒だと思いこそすれ苛ついたりはしなかった。

 

 彼の性格上、小さなことは気にならない。長く生きていればその分様々な物、出来事に直面し、経験を積むことができる。彼はもはや幾億幾兆幾京の瑣末事に携わったほど生きた、つまりちょっとやそっとで心を動かし惑わせるようなことはないのだ。

 

「そう言って頂けると有難い。だが賢者殿、そちらにいる少年は誰だろうか。見たところ人間のようだが、里の子ではない」

 

「私がお願いしてこちらへ来てもらったの。所謂新規契約者サマってやつかしらね。……ユウ、彼女は上白沢(かみしらさわ) 慧音。人里で子供たちに勉学を教え、さらに里の代表者を務めてくれている子ね」

 

「……へぇ」

 

 中々どうして面白いじゃあないか。ユウは、慧音には認識できない一瞬の間に柔らかな笑みを浮かべた。

 

 慧音は間違いなく人間だ。()()()()()()()()。人間の世界を治める凛々しい守護者の奥底には、確かに人ならざる妖怪の血が湛えられている。さらにそれは、蓄積されるだけでなく脈として体を無尽に巡ってもいる。それはつまり、彼女の中にある妖怪としての力は、例え表に出ることこそなくともしっかりと生きて根付いているということである。

 

 恐らく名前からも推測される通り、白沢(ハクタク)の妖怪でもあるのだろう。白沢といえば知恵を司り、治世に優れた名君の前にのみ姿を現す聖獣だ。紫の前に現れている慧音は、かつて紫のみならず彼女の周りにいた皆の理想(願い)が形になりつつあることを暗に示してくれているとも取れる。

 

「上白沢だったな。俺はユウ、ここにいる紫に誘われてこの世界にやってきた者だ。よしなに頼むよ」

 

 吉兆だなと思いつつも、そんなことはおくびにも出さず挨拶を済ませる。対して慧音も、まさか自分が半人半妖と身バレしているとは露ほども思わないままユウへ挨拶を返した。

 

「おや、随分としっかりした子だな。わざわざ賢者殿が連れてきたというのだから只者ではないのだろうが、この子は一体?」

 

 その問いに対し、紫はうーんと少しばかり悩む素振りを見せ、それからこう言った。

 

「色々と紹介したいんだけど、一言で纏めちゃうと私のお父さん兼神様ね」

 

 言ったのち、慧音は暫し尋ねた時の表情そのままであった。やがてぽかんとした表情を浮かべ、それからすぐにいやいや、と首を降る。

 

「待ってくれ賢者殿。今、何と?」

 

「あら。私、何かおかしなことでもいったかしら」

 

「おかしなことというか、とてもじゃないが信じられないことというか。まさか賢者殿は人間から生まれ落ちた妖怪であるとでも言いたいのだろうか」

 

 慧音がそう言ったのも当然だ。彼女がユウから感じ取っていた気配は間違いなく人間のものであり、神が持つとされる神々しさや威厳など全く感じられなかったのだから。

 

「慧音。言ったでしょう、ユウは神様よ」

 

「……賢者殿、こんな夜も更けてきている時間に私を煙に巻いて興を得るのは御遠慮願いたいぞ。貴女の前で言うのも恥ずかしいことではあるが、私も一応今日するべき仕事を残している身なのだ」

 

 慧音は、紫に良いように弄ばれていると感じていた。彼女からすればユウは何処からどう見たって十代に届くかどうかという程度の男の子。そんな子が神であり、しかも紫の父親であるなどと言われて信じられようはずもなかった。

 

「むー、本当なのに。……そうだわ。ユウ、ちょっと今やってる偽装解除して本来の力を慧音に見せてあげてちょうだいな」

 

 慧音がユウの纏う霊力()()()()を見ているために、中々自分の言うことを信じてくれないのかと思い至った紫。だったら神様としての力を見せちゃえば一発で解決するじゃない!という思考故の提案であった。

 

 そして、ユウもその案に賛成であった。本来飲もうと思っていた分がまだ幾らか余っていたので、もう少し月を見ながらゆっくりと杯を傾けたかったのだ。何なら久方ぶりに紫やここにいるのであろう他の知りあいを呼んで久々に騒がしくするのも彼的にはアリである。

 

「はいはい。……よっと」

 

 ユウが自らにかけていた誤魔化しの術式を解除した。その瞬間、彼の纏う力の質が先程までとは全く違うものへと変わった。

 

 どこか退廃的なものを感じさせながらも普通の人間と何ら変わらなかった霊気は、人や妖怪と明確な一線を画する存在であると言外に示すかのような荘厳な神気になっていた。相手を突き刺すような鋭利さを持つわけでも、振り回すような荒々しさがあるわけでもないが、神気を受け慣れていない慧音からすれば彼の力はあまりに衝撃的であった。

 

「これで分かってもらえたかしら。ちっちゃくて可愛らしい見た目をしているけど、ユウは正真正銘の神様なのよ!」

 

「……」

 

 何故か自分のことのように誇らしげに言う紫に、慧音は返事を返すことができない。びっくりしたのだ。それはもう、今までの生で経験した全てのことの中でも三本指に入るくらいびっくりした。

 

「……本当に、神様だったのか」

 

 一、二分ほど経って漸くまともに口が動くようになったが、それでも上手く頭で言葉を考えられなかった。慧音の心臓はその時、気性の荒い暴れ馬もかくやと言うほどに激しい鼓動を刻んでいた。ばっくんばっくんであった。

 

「あぁ。さっきから紫が煩く言っているとおり、俺は人間じゃなくて神に分類される。済まん、その様子だと驚かせてしまったか」

 

「いや、気になさらずとも大丈夫だ」

 

 慧音の動揺はユウにも伝わっていた。そのため、動揺させてしまった張本人である彼は慧音を気遣うような態度を見せる。…だが、彼女からすれば真に謝らなければならないのは彼でなく他ならぬ自分自身であった。

 

「こちらこそ、心よりお詫びしたい」

 

 だから慧音は唐突に深く頭を下げた。頭に被った帽子がぽとりと地に落ちるのも構わない様子であり、その真剣さはよく見ずとも明らかであった。

 

「神様とは露知らず、大変申し訳ない態度を取ってしまった。この通りだ、どうか寛大なお心をもって許しては頂けないだろうか」

 

 慧音からすれば、さっきまでの自分の言動は神に対する粗相以外の何者でもなかった。自分が天罰を食らうのはまだ自業自得と諦めも付くが、もし彼の怒りが余って里へ向けばどうなるか。少なくとも、慧音は怒れる荒御霊と化したユウを止める自信は全くなかった。多分、今日みたいな満月の夜に相対したとしても成す術なく屠られるだろうというくらいの戦力差を彼女は直感的に感じていた。

 

 事実、その分析は正しい。だがしかし、慧音が恐れたユウVer.荒御霊などというものは、実は何百万年に一度現れるかどうかと言うほどに珍しかったりする。第一彼は外にいた時、人ならざるものであるとバレると面倒と考えて神気を偽っていたくらいだ。今更神と認識されていなかったからどうこうなどと文句を言うつもりは全くないし、大暴れしようなど以ての外。何なら、冷蔵庫の奥の方にわざわざ名前を書いてまで取っておいたプリンを娘が食べてしまった時の方がまだイラッとはしている。

 

「……?」

 

 もっと言えば、彼は時折自らの種族がどのような認識をされているか忘れている節すらある。彼は思考することを苦手とする、所謂おバカというわけでは決してないのだが、時たま抜けた一面を見せもする妙に人間くさい神様なのだ。

 

「……あぁ、そういうことか。別に良いよ、俺の見た目からそう判断したなら仕方ない」

 

 一拍遅れてから何故慧音が真剣に謝ってきているのかを理解したユウは、まるでそのペン使って良いよと友達に言うかの如き軽さで彼女を許した。彼にとって、あの程度の失礼はすれ違いざまに肩がちょっと触れ合った程度のことに過ぎないので、怒る理由は無い。慧音の心も一安心である。

 

「ただ、あまり酷く子供扱いされるのは好まないからそこだけは考慮してもらえると助かる」

 

「勿論、これからは持ちうる全ての礼を尽くさせて頂く所存だ」

 

「いやそこまで望みやしないが。何処ぞのアホ娘のように俺のことを愛玩動物扱いしなければ言うことは特にないさ」

 

 アホ娘、のところでじろりと紫の方を向いたユウ。その視線が彼女の顔を捉えた時には、既に紫の視線は斜め左下の小石へと向けられていた。唇が尖っているのは、口笛でも吹きたいのだろうか。だが生憎、彼女は口笛の吹き方をイマイチよく理解していないために空気がすひゅーすひゅーと漏れ出すような音がするのみであった。

 

「なぁ、紫」

 

「ゆかりんちょっとなにいわれてるかわかんないわぁ」

 

「なら間違えた時に肉体言語込みで教え込んでやるとするか。おバカには多少これを用いると物覚えが早い」

 

「肉体言語込みですって!?ヤダ、ユウったら。慧音もいるのに大胆にも私を指名して求めてくるなんて」

 

 はて、この色ボケ娘については何処で育て方を誤ったか。通算何度目になるか分からない自問自答に頭を悩ませる一方で、一連のやり取りを外から眺めていた慧音も混乱していた。

 

「(私の知っている賢者殿と違う)」

 

 そう。目の前でユウ相手にじゃれつく自称ゆかりんなる謎の女は、今まで慧音が見てきた幻想郷の賢者・八雲 紫と似ても似つかないのだ。姿形が全く同じ別人であると言われれば、この時の慧音は恐らく納得できたことだろう。

 

 まず、発言がおかしい。八雲 紫とは深淵を見ているかのような一見掴みどころのない、しかし根気強く読み解いていけば核心を突いていると分かる発言を主としているはずなのに何故か……その……アレだ、子供に語って聞かせるには不味い内容を口走っている。それに、立ち居振る舞いもおかしい。扇子で口元を隠し、一切の真意を己の中に隠してしまう彼女は一体どこへ行ってしまったのだろうか。まかり間違ってもキャーキャー言うような性格ではなかったはずなのだが。

 

 もしや目の前にいる賢者殿は、形だけ良く似せてある偽者ではないのか?もしそうだとしたら彼女を捜索しに出た方が良いのか。いや待て、私がやるよりも博麗の巫女に頼み出た方が良いのではないか。素人が下手なことをするべきではない。…いやしかしだからといって指を加えてみているだけではいけないだろう。とにかく何をするべきか考えるところから始めなければ。落ち着け、私。そうだ、焦っても良いことなんかない。私は人里の頼れる慧音お姉さんだ、あいつもそう言ってくれた ── 。

 

「上白沢。おーい、上白沢ー?……全然反応がないな。何をこんなに深く考え込んでいるのやら」

 

「一回深く考え出すと止まらない子なのよね、慧音ってば。何を考えこんでるかは私にも分からないけれど、多分どうってないことだと思うから心配しなくても良いんじゃない?」

 

 慧音が里に貼り紙を貼って情報収集に務めるべきかということを検討し始めた頃には、紫のユウに対するちょっかいも済んでいた。まさか勝手に脳内で自分が行方不明者にされているなど想像だにしなかった紫の意図せぬ自虐を訂正することもできず、慧音の思考はさらに混沌へと向かって加速していく。

 

「待てよ。仮に彼女が賢者殿の偽者であるとしたら、放っておくわけにはいかない。容姿はそっくりなんだ、騙されるものが出てしまってからでは遅い」

 

「偽者!?い、いやちょっと待ちなさい慧音。何をどう考えたら私が偽者っていう発想に至るのよ!」

 

 突然偽者に仕立てあげられた紫が抗議するも、一種のトランス状態に突入してしまっている慧音にその声が届くことはない。思いは人を変えるというが、その典型的にして亜種的な例が今の彼女であろう。

 

「答えろ、賢者殿擬き。本物の賢者殿を何処へやった!」

 

「今五体満足で貴女のすぐ目の前にいるのだけれど」

 

「白を切るということは、答える気は無いという意思表示か。ならばここで貴様を打ち倒してから情報を集めるだけだ」

 

「ユウ。助けて、この慧音話が通じないの」

 

 そんな困った顔をして相談されても、ユウにはそれなら話の通じる上白沢を連れてきなさいとしか言えない。そして、そんな慧音は今いない。

 

「覚悟しろ!天誅ッ!!」

 

「み゛ゅ゛っ゛!?」

 

 思い込みって、怖いな。ユウから見てもかなりハイレベルな足のバネを存分に効かせてロケット頭突きを繰り出し、寸分の狂いもなく紫のおでこド真ん中を撃ち抜いた慧音を見て、ユウは客観的な視点の大切さを再認識したのであった。

 

「天誅!」

 

「ぎゃん!?……こ、これ以上トチ狂って頭突きしてくるなら私の方にも考えが」

 

「天誅!!」

 

「ガッ」

 

「天誅ーっ!!」

 

「ぃだっ!?ゆ、ユウ助け……うぅっ」

 

 しかしあの紫、生きているのだろうか。累計4発目の頭突きが紫の頭を捉えた辺りから、霊魂が抜けてきているように見えるのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、女性が女性を頭突きで殴打し続けるという凄惨極まりない事件は8打目にして流石に見かねたユウの制止をもって終わることとなった。

 

 結論から言おう。紫は生きていた。軽い脳震盪こそ起こしていたものの、流石妖怪と言うべきか身体の方は変わらずタフであったらしい。……そんな人を超える頑強さを誇る妖怪の肉体に響くくらいのダメージを頭突きで与えて、特に痛そうにもせずケロッとしている慧音の頭部がどれほどの硬度であるかは推して知るべし、である。少なくともそこらの石なんてものでないことは確かだ。

 

「す、済まない賢者殿。また思考が変な方向に向いていたらしい」

 

「思考が変な方向に向いていたでアレが済むんだったら幻想郷が妖々跋扈の無法地帯になるわよっ!」

 

「申し訳ない……」

 

 幻想郷は妖怪がそこそこ跋扈している地ではないのか?とユウは疑問に思った。だが口には出さない。今下手に口を出したら酒に興じるのが遅れると分かっていて、わざわざ油を撒きに行く阿呆はいない。

 

「もう、折角ユウが幻想郷に腰を下ろしてくれたっていう特大記念日なのに」

 

「俺が何かしたら記念日扱いしたがるよな、お前って。お前の中で記念日にするのは構わないが、頼むから幻想郷全土に大々的に喧伝したりしないでくれよ?俺のことを知っている奴らに知らせてくれる分には有り難いんだが、流石に会う奴会う奴に注目されるのは勘弁だ」

 

「えっ……あ、コホン。了解したわ」

 

「やったならせめて正直にやったと言え阿呆」

 

 反応からして、やらかしていることは明白だった。ユウとしては割と早いタイミングで釘を打ったつもりだったが、暫く会わない間に紫という一人の少女のお転婆っぷりを見定める眼鏡が歪んでしまっていたらしい。まさか幻想郷に誘われた時点でもう既に手遅れだったとは、予想の遙か上を行くハイスピードな面倒事生産である。

 

「で、俺については何と言いふらしたんだ」

 

「黙秘権を行使するわ」

 

「上白沢。俺がここに来る前、紫から何か事前告知みたいなことが為されたりしたか?」

 

「えぇと。確かとんでもなく強くてとんでもなく可愛い男の子が来るが、それは私と一生の愛を約束した神様だから手を出さないようにといった趣旨の宣言が各地に届けられたのだったかな。なるほど、今考えてみれば賢者殿が仰っていたのはユウ様のことになるな」

 

 やってくれた。このおバカ、クリティカルにやってくれた。あまり目立たずのんびりと生活していこうというユウの計画は、娘の裏切りによって儚くも破綻したのであった。

 

「誰が何と言おうと私は真実を喧伝しただけよ!」

 

「誰かの身の安寧のためには語られるべきでない真実もあるだろうよ。……まぁ、噂も何日とか言うことだ。注目を浴びるようなことさえしなければ自然と立ち消えてくれることだろう」

 

「ユウがそう言うのは織り込み済みよ!」

 

 言いつつびしっ!と人差し指で天を指す紫。今度は何を企んだのかと内心僅かに身構えたユウに、紫は強烈なボディーブローを食らわせる。

 

「貴方の歓迎会を今からやるわ」

 

「……」

 

 これには、普段から感情の見えない面持ちがデフォルトとなっているユウの顔も渋くなろうというものだ。第一歓迎会って、幼稚園や小学校じゃあないだろうに。

 

「人にも妖怪にも多数の参加の知らせを貰ってるから、盛り上がること請け合いよっ」

 

 そして間髪入れずに繰り出される左ストレート。だが、その軌道(発言)はある程度読めていた。端的な一言でもって、何とか回避を試みる。

 

「パス」

 

「久しぶりに皆に会いたくないの?」

 

 鞭のようにしなる腕が、避けたはずのユウの顔面を捉えた。チャンピオン、挑戦者の拳に沈む。そう言われてしまうと、何だかんだと言いながらも情を重んじているユウに断る術は無くなるのだ。

 

 してやったりと言わんばかりのドヤ顔を浮かべ、勝ち誇ったような目を向けてくる紫に、ユウはただただ大きく溜息をつくことしかできなかった。どうやら、千年の間に彼女は強く育っていたらしい。

 

「ちなみに聞くが、主な参加者はどうなってる」

 

「ユウに私、里からは慧音とあと十数名。後は天狗に鬼に河童に魔法使いに巫女にと選り取りみどりね!貴方が懐かしいと思えるような顔も沢山見られるわよ」

 

 もう場が荒れる予感しかしない。特に鬼、続いて天狗が不安要素である。この大酒飲み種族ツートップが物の見事に揃う歓迎会が平穏無事に終わる未来など、ユウには欠片ほども見えていない。古い知り合いと会えるのは喜ぶべきことなのだろうが、それならせめて酒の入らない場で再開したかったというのが飾らない本音であった。

 

「ユウ様は人の多く集まる場はあまり好まれないのか?」

 

「そうじゃないんだ上白沢。金棒以上に鬼に渡してはいけないもののせいで、歓迎会の場が大荒れになることを考えると今から憂鬱になるんだよ」

 

「心配なさらずとも、後片付けなどは私や他の者達が責任をもってさせて頂くぞ。酒も勿論沢山用意してあるから、好きなだけ飲んで頂ける」

 

「……沢山、用意したのか」

 

「あぁ、そうだが。……なるほど、酒の質を心配なされているのか。神様のお口に合う程の品質であると断言できないことは心苦しいが、それでも里が提供できる最高級品を用意してある。他の勢力からも良い酒が続々と運び込まれる予定だと聞いているから、楽しみにしていてくれ」

 

 さしものユウも、それには乾いた笑いを返す他になかった。彼の中の何かが、歓迎会に行けば間違いなく面倒事に巻き込まれると警鐘を鳴らしている。例えば酔っ払った鬼に殴りかかられたり、例えば酔っ払った天狗にウザ絡みされたり、例えば酔っ払った紫にセクハラ行為を働かれたり。騒がしいのも嫌いではないが、度というものがあると彼は思った。

 

 その他、河童は彼の知る限りではまぁ比較的良心枠だとしても巫女と魔法使いが正体不明であり不気味だ。鬼よりマシだと思えば幾分か心は楽だが。

 

「それにしても、ユウ様は多方面に交友を持っておられるのだな。これなら、今日はさぞかし盛り上がるだろうな!」

 

「あぁ、盛り上がりそうだな」

 

 慧音とユウとの間の『盛り上がりそう』という言葉について、認識に違いがあることは明らかである。慧音がユウとの温度差に気がついていないのが不思議なくらいだ。

 

「さて、これでユウに伝えるべきことは全て伝えたわね。慧音の紹介もできて、まさに棚からぼた餅だわ。後はあの子が任せておいた仕事を終わらせてこっちに来るのを待つだけなんだけれど」

 

「あの子?」

 

 紫の言い方では、この場にもう1人やってくる予定であるらしい。それも、彼女が仕事を任せるくらいには親しい間柄のものである。さて、候補は結構な数いるが誰なのだろうか。

 

「そう、ユウも慧音も知ってるあの子。特別に貴方が帰ってくるって前もって教えてあげたら、尻尾ぶんぶん振って喜んでたわよ」

 

「尻尾……あぁ」

 

 尻尾を有していて、かつ紫の仕事を手伝えるような者と言われれば分かる。ユウも慧音も、すぐに脳内で候補を絞り込むことに成功した。

 

「今日の朝に教えてあげてから、ずーっと頬が緩みっぱなしでね。いつもなら仕事を任せる時は嬉しそうじゃないんだけど、今日は二つ返事に笑顔で受けてくれたわ。毎日あんな風に頼まれてくれたら私も頼み甲斐というものがあるんだけど」

 

「仕事は自分でやるのが原則。あの子が嫌な顔をするのは道理だ」

 

「デキる女は仕事を自分でやらないものなのよ。だって余りある人徳のおかげで、他人が進んでやってくれるんだもの」

 

「進んでやって貰ってないじゃないか。本当はやりたくないが、強力な主従関係が結ばれてる手前仕方なくってところだろう……ん?」

 

 相も変わらずサボり癖の抜けていないらしい紫に呆れていると、空間の割り開かれる気配 ーー 所謂『スキマ』が開かれる気配を感じた。しかし、紫が普段やるよりも幾分か拙さがある。まだ上手くスキマを扱えていないような、そんな不慣れさもユウは同時に感じ取っていた。

 

「これは、紫じゃないな」

 

「えぇ、あの子が来たみたい。それにしても終わらせるの早いわねー、そこそこの分量はお願いしたはずなんだけど。本当に、どれだけユウに会いたかったのかよく分かるわ」

 

 そんな会話がなされる間に、紫の真横辺りでスキマは開ききった。そのちょっと歪な亀裂の中からばっ!と勢いよく飛び出てきたのは金髪狐耳に九本のふさふさとした大きな尻尾を備える長身美女。

 

「紫様、与えて頂きました仕事を終えました!」

 

 名は、八雲 (らん)。紫の式神を務める強大な妖狐である。美しい毛並みを誇る尻尾の数は九本であり、彼女が伝説に名高き九尾の狐であることを如実に表している。

 

「あら、藍。素晴らしいスピードよ、ご苦労さま」

 

「お褒め頂き恐悦至極。……そ、それでなのですが。あの、ユウ様は現在何処に?」

 

 普段、彼女はどちらかというと寡黙だ。決して愛想が悪いというわけではなく、話す時はそれなりに饒舌に語りをしてくれるのだが平時は紫の後ろに控えていることが多く、話す機会はあまり無い。慧音もそういった認識をしていたため、逸る気持ちを必死に押さえつけながら紫に尋ねる藍は酷く珍妙なものであるように感じられた。誰だろう、このちょっと可愛ささえ感じさせる狐は。

 

「えぇ、確かに教えてあげると約束していたわね。良いわ、彼なら今貴女のちょうど後ろに」

 

「後ろっ!」

 

 いるわ、と紫が続ける前にぐるんと藍が振り向く。その勢いたるや、その視線の先にいた慧音がビク付くほどであった。尤も、そのもう一つ後ろにいたユウは何とも言い難い苦笑いを浮かべていたのだが。

 

「はっはっは。まさかあのちびっ狐がこうも美しく育つとは、年月というものも馬鹿にできないものだな」

 

 ま、所々せっかちなのは変わっていないようだが。ユウがそう言ってやれば、藍は彼を見てあ、と意味を持たない音を発した。次いでぱっちりと見開かれた目にじわりと涙を浮かべて。

 

「……ユウ様っ!」

 

 彼に向かって、走り出した。否、最早それは跳躍と呼ぶべきものであった。

 

「へぶっ」

 

 進路上にいた慧音を跳ね飛ばし、それでも暴走特急藍号は止まることなく直進。一瞬のうちにユウの元へと到達し、その勢いのまま両手を広げて彼を抱きしめにかかる。

 

「おぉ、よしよし。……紫、上白沢を頼む」

 

「頼まれたわ」

 

 それを難なく受け止めたユウは、手を伸ばして藍の頭を撫でてやる。勿論、狐身事故に遭った慧音へのアフターフォローも欠かさない。

 

「ユウ様、千年片時も忘れずお慕いしておりました……!」

 

「うん、それはさっきの綺麗な吹き飛ばしっぷりを見れば何となく分かるぞ」

 

 ちらと後ろを振り返れば、紫が倒れ込んでいる慧音に手を貸しているのが見える。上白沢のダメージも大したものではないようだし、特に心配する必要もないか。そう結論付けて藍の方へと向き直る。

 

「あぁ、お変わりなくいらっしゃるようで何よりでございます」

 

「よく覚えてるものだ。十五年かそこらくらいしか一緒にいてやれなかったというのに」

 

 幻想郷という世界が成立する、少し前に二人は知り合った。その時彼女は力こそあったものの、ようやく幼い少女の形を取ることができるようになったばかりの未熟な妖獣であった。

 

 初めのうち、警戒心の強かった藍はユウに近づこうとしなかった。やっと警戒を解き懐いたその十数年後には、幻想郷が完成し彼女はそちらへと向かい、一方でユウは用事を済ませるため現実世界に残った。以来千年近くもの間、彼らは一度も顔を合わせることすら無かったのだ。それにも関わらず、藍は在りし日のユウと今抱き留めているユウが何も変わらないことを正しく認識している。

 

「貴方様方には、大切なものを沢山頂きました。今こうして私が幸せに暮らしているのも、(ひとえ)にユウ様と紫様のお陰でございます。そのような恩人のことを、例え一時でも忘れられましょうか」

 

 正しく忠義の臣である。予想はできていたが、良い子に育ってくれたなとユウは内心嬉しかった。変にグレたりしなくて、本当に良かった。

 

「真面目だな、お前は。昔のように甘えてきてくれれば俺はそれで良いんだが」

 

「昔の話はおやめください。未熟な頃の話を聞くのは恥ずかしいです」

 

 恥ずかしさを隠すように、藍は抱き締める力を強める。当然、より二人は密着度を増す。

 

「あ、コラ藍!最初にユウとあつーいハグを交わすのはこの私よ。主として命じるわ、今すぐ離れなさい」

 

「申し訳ありませんが、その命令だけは聞けません。今私は、千年の空白を埋めるためユウ様を抱かせて頂いているのです」

 

 ユウの娘を自称する紫が、その状況に黙っているはずはなかった。主人権限を活用して引き剥がしにかかるが、藍も簡単には引き下がらない。さらに強く、それこそぎゅーっと抱き締めて自分のものアピールをする。

 

「藍?流石に痛いぞ、離せとは言わんから緩めてくれ」

 

 ぎしぎしと、不穏な音が聞こえてきそうだったので早めに手を打つユウ。しかし一度ヒートアップした所有権争いを鎮めることは困難だ。紫も藍も、互いにバチバチとした視線をぶつかり合わせて威嚇を行う。それに比例して上昇していく締め付け力に、ユウの体からは遂にあまり聞きたくなかった音が聞こえ始める。

 

 木っ端妖怪の叩きつけ攻撃なんてものではない力が、ユウに現在進行形でかけられている。如何に神と雖も肉体強度が極めて高いというわけではないので、そんな万力のような力をかけられれば痛いし骨も軋む。

 

「け、賢者殿に藍殿。ユウ様が痛そうにしておられるぞ、争うのはやめた方が」

 

「藍。もう一度言うわ、ユウを離しなさい。これは命令よ」

 

「もう一度答えさせて頂きます。嫌です、紫様は私の後で許可をお取りになってからすれば良いでしょう」

 

 慧音の制止も何処吹くそよ風、一柱の神をめぐって幻想郷創始に関わった主従が対立を深める。具体的に何処だと明言するのは憚られるが、藍のぽよんぽよんした二つのお餅地帯に顔を優しく、しかしがっつり包み込まれているユウはそろそろ肺呼吸に支障をきたし始めている。だが哀れ、当のお餅ホルダーがそれに気がつく様子は無い。

 

「そう。……あくまで私に逆らおうというのね、藍。残念だわ、貴女は優秀な式神だというのに」

 

「私にだって、譲れないことがあるのです。大切にしたい、掌中の玉を握っておいておめおめと離せるわけがない」

 

 その掌中の玉が今まさに酸素の欠乏によって危険水域に達しつつあるということに、両者ともに気が付かない。恋は盲目とは、昔の人もよく言ったものである。意味合いは少々異なるように思えなくもないが。

 

 だがしかし、そんなユウの苦しみを理解できるものが、この場には一人だけいた。

 

「ら、藍殿っ!ユウ様が、ユウ様が息をできていないぞ!」

 

 人里の頼れる……かは先程かなり怪しくなってしまったが兎にも角にも統治者、上白沢 慧音先生である。とんでもなく長く生きた神が突然の死を遂げてしまうことを、彼女は良しとしなかったのだ。

 

「……あっ」

 

 ここに至って、ようやく藍も気がついた。ユウの顔を自らの胸に押し付けて、呼吸困難で死に至らしめようとしていたことを。慌ててユウを解放し謝ろうとした藍は、そこでふととある結論に思い至る。

 

 そう、()()()()()()()()()()()。ふわっふわの大きなお胸様に、憧れ慕う神の顔を、思いっきり。そして当たり前のことだが、ユウは生き物とは言い難いものの分類するとなれば男だ。つまりどういうことかと言えば。

 

「あら。あらあらぁ?言われてみればそうね、藍ったら私の知らない間に随分と積極的に育ったのね」

 

「~~~ッ!?」

 

 そう、そうだ。そういうことである。

 

「ゆかりん知らなかったわ、貴女がそんな痴女らしいことを計算打算無しでしちゃうような真性の淫乱狐だったなんて」

 

「こっ、こここ、こっこれはそのあのぅっ」

 

 断っておくと、藍は色事に長けてはいるが慣れてはいない。経験値こそ近しい者達の中では群を抜いてあるものの、根は純粋素朴な少女である。そんな彼女が下の方面で揶揄われては、顔を熟れたリンゴのように真っ赤にしてしどろもどろになるしかなかった。

 

「けけ決して意図していたわけでは」

 

「え、自然とそうしちゃったの。やだわぁ、発情期かしら」

 

「ち、違っ」

 

 今や均衡は崩れ、場の主導権が完全に紫へと移ってしまっていた。年長者の余裕を見せる紫に、慌て続ける藍。もはやどちらに利が傾いているかなど、言われずとも分かることであった。

 

 ユウを奪い返すべく口撃の限りを尽くす紫。賢者の名に相応しい的確かつ高威力のワード使用によって式神を追い詰めていく。ただ一つだけ完璧な場運びをしていた彼女の誤算を挙げるとするならば、もう一歩考慮が足りなかった。

 

「おかしいわねぇ、貴女は獣の本能を理性で押さえつける術を身につけているはずなのに。まさかその理性が利かないくらいの熱い思いが内心で煮えたぎってるのかしらね?」

 

「 ── の」

 

「え?」

 

 そう、手負いの獣ほど恐ろしいものもないのだ。

 

「ほらほら、反論があるなら大きな声で。意思表明ははっきりしなきゃ説得力を持たせられないわよ。尤も、今の貴女が何を言っても納得してもらえはしないでしょうけど」

 

 彼らは基本的に、失うものを持たない。絶体絶命のところまで追い詰められ、もう他にどうしようもなくなってしまった時、獣とはどれだけ大人しく思慮分別のある気質をしていようとも必ず牙を剥いて相手に飛びかかる生き物なのだ。

 

「紫様のっ、ばかー!!」

 

 それは妖獣として最高峰の力を手に入れた藍とて例外でない。彼女らしくない語彙力の感じられない罵倒の言葉を思いっきり叫び、足元に大きなスキマを展開する。全く警戒していなかった紫は声すらあげられないままその歪みまくっている亀裂に落ちていき、次いで藍がそこへ飛び込んでスキマが閉じられる。

 

 先程までの喧騒は何処へやら、里の入口周辺には一瞬にして静寂が訪れる。耳をすませば微かながら虫の声も聞こえるし、狸か何かが動いているような気配や音もする。窮狐が主を噛んだことで、ようやくここら一帯は平和を取り戻したのだ。

 

「藍のやつ、面白い性格に育ったなぁ」

 

 いつの間にあの場を離れていたのか、慧音の左隣でケンカの行く末を見守っていたユウがぽつりと零す。

 

「ユウ様。ご無事で?」

 

「ご無事。あと十秒離されるのが遅かったら、意識危なかったけど」

 

 神とて肺活量が莫大なわけではない。普通の人間より数十秒分くらい長いかなー程度では、二分三分と呼吸できない状態が続けば苦しくなってくるのは必然である。

 

「それは良かった。しかし、賢者殿と藍殿が何処に行ってしまったか分からない」

 

「あいつらは……んー、放っておけばそのうちここに帰ってくるだろう」

 

「神様がそう仰るのなら、きっとそうなのだろう。では彼女達が戻ってきたところで、私はお暇させて頂くとしよう。ユウ様の歓迎会の準備を詰めなければならん」

 

 里の者として、準備に抜かりがあってはならないからな。そう意気込む慧音とは対照的に、そういえばそんな話になっていたなと思い出してしまったユウの表情は冴えない。

 

「頼むから、大事にだけは発展させてくれるなよ」

 

 酒樽はあそこに運び込んで、その後で各勢力の代表者たちに挨拶回りをして。段取りを確認するかのように声に出す慧音に聞こえないよう、小声でぼそっとユウはそう呟いたのであった。



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第二話 少女集結す

「さて、やっと戻ってきたか」

 

 普段より幾分か濃度を増したように感じられる闇に覆われた、夜だった。既視感を感じるなどと言ってはいけない。

 

 準備があるなら、俺が伝えておくから行って良いぞと慧音を返したユウは、凛花を助ける前に酒を飲んでいた場所へと戻ってきていた。理由は言わずもがな、月見酒がしたいからである。

 

 ここで待っていればいずれ紫達も戻ってくるだろうと考えつつ四杯目を飲み干した丁度その時、スキマが開かれる気配を察知した。精度を見るに、このスキマを開いたのは紫のようだ。

 

「はぁい、ユウ。愛しの妻が今戻ってきましたわ。私とお風呂か私を食べるか私と愛を育むか、好きな選択肢を二つ選んで下さいな」

 

「生憎妖怪カニバリズムの気は無いんでね。……その季節感のない紅葉については触れない方が良さそうだな」

 

「狐だからね、咲かせるのに良い時期も分からないのでしょう」

 

 スキマから顔を出すなり紫は軽く毒づいてみせたが、その頬に咲いた紅葉は随分赤々としており、余程強い力でいかれたことは明白である。日本最強の妖獣の全力スマッシュはさぞかし痛かったことだろうと彼は思った。普段温厚であるはずの彼女に手を出させるまで煽ったのは紫なので、同情はしなかったが。

 

「あまり怒らせてやるな、可哀想に。あぁ、そうだ。上白沢なら準備をしに人里へ帰ったぞ」

 

 酒の魔力で記憶を飛ばされてしまわないうちに伝えておくと、紫はぽんと一つ手を叩く。

 

「あら、これはまた良いタイミングですこと」

 

「タイミング?」

 

 気のせいか、少しホッとしているようだ。あまり宜しくない状況を回避できたかのような反応であったため、少し気にかかった。

 

「えぇ。実はユウにお客様が来てるんだけどね」

 

「客ねぇ。それと上白沢の里戻りに何の関係がある」

 

 そう問えば、今度は少しユウの方へ顔を寄せ、声を潜めて事情を説明する。

 

「実はね、そのお客様って慧音がそこそこ警戒してる妖怪なのよ。勿論私が連れてきてるんだから無闇矢鱈に人を襲う奴でもないし、それはユウも良く分かってるはずなんだけど、やっぱり付いて回る黒い噂って中々剥がれないものでねぇ」

 

 なるほど。それは確かに、あまり顔を合わせるべきではないかも知れない。しかし、紫ほどの妖怪に一定の敬意を払っていた上白沢が受け入れ難いとして恐れる妖怪とは?ユウの頭に候補は浮かんでこなかった。

 

「あの子も決して忌避一辺倒ではないの。少しずつ理解していかなきゃって考えてくれてる。でも、やっぱり火のないところに煙は立たないって考えちゃうみたいなのよ。慧音の人里を可能な限り安全な地帯にしたいって気持ちも分からないわけじゃないんだけど」

 

「第三者が下手に介入して解決を急ぐべきではない、と」

 

「何歩も先が見えてる人と喋るのは、話が早くて好きよ。流石私のお父さんね」

 

 ま、それは一旦置いておきましょうか。そう言って、紫はスキマを大きく広げる。体全体を出してユウの作った擬似地面の上に降り立った紫は、中にいる人物もとい妖怪にも出て来るよう促した。

 

幽香(ゆうか)。スペシャルゲストがスキマの外にいるから、出てきてちょうだいな」

 

 幽香、という名を持つ妖怪は一人しか知らない。なるほどあの花娘を呼んだのかと、ユウは納得した。

 

「はいはい。……まったく、夜ご飯を作ろうとしていたのにどうして事情説明もないままに拉致されなきゃいけないのかしら」

 

「文句言わないの。私や幽香達にとって特別な、すっごく特別な人がいるのよ?そこにわざわざ連れて行ってあげたんだから、寧ろ感謝してほしいくらいね」

 

「…ハッタリの類だったら張り倒すわよ」

 

 うんうん、確かにこんな口の悪さだった。藍の時に続いてまたしても昔のことを思い出していたユウの目に、予想通りスキマから出て来る緑色の髪が映る。

 

 どうやら、昔よりだいぶ髪を伸ばしているらしい。首元くらいまでだったのが、紫のように腰近くまで到達している。戦うのに邪魔だから髪なんてある程度で良いと言っていたやんちゃな奔放小娘も、少しは落ち着きというものを悟ったと見て良いのだろうか。

 

「出てきたわね幽香。それじゃあ、満を持して待機してくれていた彼とのご対面の時間ね!」

 

「いや満を持した覚えは無いぞ」

 

 かける言葉も考えていなければ、どう話を切り出そうかも考えていない。ただ、彼は風流に酒を飲んでいただけである。期待されても何も出せない。

 

「左手をご覧下さいなっ!」

 

「左ね、はいはい。それにしても、誰がこんな山より高いところにいるというのかしら……」

 

 如何にも面倒そうに、まぁ旧友の頼みだから仕方なくといった様子で左を向いた幽香と呼ばれる女性。視界の中に盃を置いたユウを捉え、彼女は絶句した。

 

「やぁ、幽香」

 

 二度と会えないとは思っていなかった。いつか、再会する運命であると何となく察してはいた。まさか、まさかまさかのそのまたまさか、こうも唐突に目の前に現れてくるとは予想できなかったが。

 

「再会を祝してお前も飲むか?甘口の酒はお前の好みだったろう」

 

 酒瓶を掲げて幽香を誘うユウの声は、かつて幾度となく聞いたものに寸分も違わない。それに加えてこの計り知れない深さを感じさせる神力に気怠げな雰囲気、もう確定だ。

 

「……本物、なの」

 

 それでも、ようやく絞り出した言葉には信じられないという気持ちが多分に込められていた。

 

 だって、そんな。何の前触れも予兆も無かったじゃあないか。こちらに来るということを、誰も教えてくれなかったじゃあないか。

 

「当たり前だ。逆に偽者と判断する要素が何処にある」

 

 何を言っているのか、とでも言わんばかりにやれやれと肩を竦めたその動作には、凄く見覚えがあった。かつてユウ達と一緒にいた時、彼はしばしばあのポーズを取って紫や幽香に対しての呆れを示していた。たまにやり過ぎたら頭をはたかれるという要らないボーナスが追加されることもあったが、それはご愛嬌というものである。

 

 雰囲気、力、態度。その全てが、彼のことを紛うことなき本者のユウであると言っている。ここまで条件が揃ったならば、最早幽香の中に僅かに残っていた信じ難いという気持ちもさらりと溶けて無くなってしまう。

 

「……そうね」

 

 安心し、自然と目の奥から滲んでくる涙を誤魔化すように、務めて明るい声でユウに聞く。

 

「そのお酒、勿論果物のお酒よね。上物の」

 

「果実酒だよ。質は俺が何杯も飲んでる時点でお察し」

 

 そんな一見ぶっきらぼうな答えが返ってきたので、幽香は久方ぶりに彼の元へと近づいていったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パパー、紫はおねむですわー」

 

「ちょっと、はしたないわよ。離れなさい」

 

 はてさて、どうしてこうなった。右隣に幼児退行してしなだれかかってくる紫を、左隣にそんな彼女を諌めている幽香を置いているユウは、軽く自問をしていた。

 

 幽香が歩いてきて隣に座ったので、飲む意志ありと判断して注いでやったのだ。この酒のアルコール度数はそこまで高くないので、歓迎会という名の宴会前に身体を慣らすには丁度良い。彼女らが、特に紫が先陣切って企画した集まりが宴会と化さないはずがないのだ。ある程度アルコール慣れしてから臨まないと、最悪の場合以後数日寝込むハメになりかねない。

 

 紫もすいすいっとこちらに来たので、三人で今ある分を上手く分けようと考えた。断っておくが、ユウは決して一人あたりの量を異常なものに設定したりはしていない。彼自身飛び抜けた酒豪というわけではないので、元々用意されていた酒もそこまで多くなかった。それを三等分したのだから、酒に弱いものがようやっとほろ酔い状態になる程度の分量でしかない。ないはずなのだ。

 

「紫や。お前がそこまで酒に強くないことは知ってるが、そんなにだったか?」

 

「……んー」

 

 では、この明らかに酒のせいで眠気が到来している金髪娘は一体。まさか暫く合わない間に絶望的なまでにアルコールへの耐性が落ちたわけでもあるまいに、これは何だというのか。少なくともユウの知る限りでは、紫は果実酒を小さな杯で三度飲み干した程度で潰れるようなタマではないのだが。

 

「ここに来る前にも多少飲んだとかかしら」

 

「それは無いと思うんだけどなぁ」

 

 さっき顔を合わせていた時には、酒は入っていなかったように思える。その後狂藍状態のお狐様にかっ攫われてからこちらに戻ってくるまで四半時もかかっていないことを考えれば、その間に飲酒したとも考え辛い。

 

 となると、紫がここまでヘロっている原因は何なのだろうか。

 

「……放っておくか」

 

 まぁ、そんなことに頭の働きを回さずとも良いだろう。酔いが回っているのならゆっくりさせておけば良いのだし、酷く疲れているのなら寝かせてやれば大丈夫なのだから。

 

 このスリープダウン状態の紫を担ぐなりして動かすのも、ちょっと可哀想な気がしなくもない。そう考えたユウは、もうしばらくだけこの場に留まることにした。どうやらパパさんは、暫く会わない間にちょびっとだけ娘に対して甘くなっていたようだ。

 

「あら、優しい。昔ならえぇい引っ付くなくらいは言ってたのに」

 

「ウザ絡みしてこないってのなら別にある程度までなら咎めないよ。……そうだ、幽香。お前って今日の歓迎会とやらには顔を出すのか?」

 

「えぇ。博麗神社(はくれいじんじゃ)でやるやつでしょう?貴方を歓迎するパーティーに私が出席しないわけにはいかないわ」

 

 幽香も参加してくれるらしい。古い馴染みのある妖怪がそう言ってくれるのは嬉しいことだと思いつつも、ユウには彼女の言葉の中で気になるワードが一つあった。

 

「出てくれるのは嬉しいんだが……神社?」

 

 そう。幽香の言う通りなら、ユウ達はこれから神社でどったんばったんするということになる。

 

「神を祀る場で宴会っていうのはどうなんだか」

 

「良いんじゃないかしら。天照大御神だってお祭り騒ぎを聞いて天岩戸から出てきたわけだし」

 

「いやそういう問題では……まぁ良いか」

 

 その神社がどのような神を祀っているのかは知らないが、もし怒りそうだったら謝っておこうと決意。幾ら数々の面倒事に直面してきた彼でも、迎え入れのための会で荒御霊に暴れられるのは真っ平御免である。

 

「大丈夫よ。普段からそれなりの頻度で宴会をしてるけど、未だに誰かが祟られたなんて話を聞いたことは無いわ」

 

「それはまた、えらく心の広い神がいるようで」

 

 自分の住まう場で定期的に騒がれるとなれば、ちょっと心の狭い神なら不埒者達に神罰を与えたとしてもおかしくはない。きっと夜を司るあいつのようにおおらかな性格をしているのだろうと見当をつけたユウに、そっと柔らかな体が寄りかかった。

 

「神社の話は神社でしましょう」

 

「なるほど、道理だな」

 

「ここは月を眺めながらお酒を飲むところだもの。…折角こうして再び会うことができたんだから、今はね」

 

 例え幽香より頭一つほど小さくとも、ユウは幽香にとって何にも代えられない大事な大事なお師匠様なのだ。久し振りに会えば親愛の情も湧こうというものである。

 

 かつて幽香がユウより小さかった頃、彼女はよく彼の隣に座った。何かを語り、或いは何も言わない時もあったが、それでも彼は隣に座ることを決して拒まなかった。

 

 嬉しいことがあれば幽香はユウにそれを話し、彼はその全てに対してそうかそうかと親身になった。嫌なことがあれば、彼はやはりおざなりな対応をすることなくしっかりと幽香の話を聞き、時には恥ずかしさや悔しさから涙を流す彼女をできる限り慰め前を向かせた。幽香にとってユウは全てをぶつけられるたった一柱の存在であり、ユウにとって幽香はいつまでも手のかかる可愛い弟子だ。

 

「もう少しだけ、飲みましょ?」

 

 そしてその関係は、長き年月を経て弟子が師の背丈を遥かに超えた今となっても変わらない。

 

「……もうしばらくだけだぞ」

 

 お疲れ状態の紫をもう少しだけ休ませてやる傍ら、一柱と一妖は今暫くの月見酒に興じるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酒を飲み、互いの近況などを少しばかり話しながら待つこと半時間ほど。紫が目を擦りながら覚醒したので、完全に目覚めきったのを見計らって三人は博麗神社へと出発した。

 

 やがて眼下に、赤い鳥居が見えてきた。紫に聞けばそこが目的地である博麗神社だと言うので、三人は連れ立って鳥居の前へと降り立った。

 

「もう少し奥へ向かってちょうだい。きっとみんな、そこにいるはずだから」

 

「はいはい」

 

 紫の言う通り、鳥居の奥の方からはがやがやと人妖が騒いでいる声が聞こえてくる。気配をざっと探っただけでも四、五十は下らない数がいるだろう。その中には覚えのある妖気や霊気も幾つか見受けられる。

 

 場に向かうかと残り数段の石段を登り、歓迎会の会場へと足を踏み入れようとした三人。

 

「企画した当の本人が遅れてくるってどういうことよ」

 

 その前に、一人の少女が現れた。腋を大胆に露出したえらくアバンギャルドな格好をしているが、よくよく見ればそれが巫女衣装だと分かる。頭についている大きなリボンが特徴的な、何処か世から隔たりのある雰囲気を持つ彼女がこの神社に仕える巫女であるようだ。

 

「あら、ごめんなさいね霊夢(れいむ)

 

「まったくよ」

 

 そんな巫女少女は、企画担当たる紫が会場入りするのが遅いことにやれやれと溜息をついた後、

 

「それで、あんたと幽香に挟まれてるそのちっこい神様が新しい幻想郷の住人ということで良いのかしら」

 

 紫や幽香に対して随分フランクな喋り方のできる子だ。彼女達を恐れることなく対等に接することのできる人間が、まさか齢にして十五に届くかどうかというような少女とは。ユウもこれには少し驚かされた。

 

「いかにも俺が、今日から新しく幻想郷で過ごさせてもらうことになった神だ。ユウと呼んでくれると嬉しい」

 

「ユウさんね、覚えたわ。私は博麗 霊夢。この博麗神社で巫女をしているの」

 

 名乗る前からユウのことを神と見抜くその観察眼も、大したものである。軽くとはいえ一応隠している神気を初見で見破るとは、中々に鋭い少女だ。

 

「紫や幽香と一緒に来ていたけど、知り合いなの?」

 

「それなりに古くからの付き合いがあってね。こいつらにとっては相当長い付き合いになるんだが。そういう博麗も、この二人を知っているのか」

 

「そっちのムラサキ女が形式的には育て親。そっちの緑髪の方はたまに退治するわね」

 

 ムラサキ女は多分紫のことだろう。つまり、紫が霊夢をここまで育ててきているということになる。

 

「これは予想外というか。紫が藍以外にも誰かを育てているとは夢にも思わなかったし聞いた今でも信じられない」

 

「これでももう何十人と育ててきてるのよ?子育てなんて御茶の子さいさいも甚だしいってやつね!」

 

 自慢げに胸をそらしドヤ顔を披露する紫に、霊夢が向ける目は冷ややかなものであった。大方、ちょこちょこ失敗を繰り返しているんだろうなぁとユウは思った。紫の多方面に渡る傑出した才能は彼も認めるところであるが、ちょっとしたところで有り得ないミスが出るのもまた彼女の特徴であると知っている。

 

「ま、私はかれこれ含めれば幾十児の母よ。いつまでもユウの娘という枠だけに収まり続けるゆかりんではないわっ。勿論ユウの娘であることは絶対に手放せないけどね!」

 

 隙あらば喧しい奴である。抱き上げて撫で回すつもりだったのだろう、ハート目で飛びかかってきた紫をノールックの裏拳で撃墜したユウ。奇しくも藍が紅葉を咲かせた場所にクリーンヒットしたため、紫の負ったダメージは並々のものでないと容易に推測できる。どうせ一分もしないうちに不死鳥の如く蘇るのだけど。

 

 そんな彼の横で、些か不服な顔をして霊夢をじとっとした目で見る少女が一人。

 

「退治って貴女ねぇ。私、貴女に負けた覚えが無いわ」

 

 緑髪こと、幽香である。

 

「私だってあんたに負けたとは思ってないわ。こういう時は言ったもの勝ちよ、言ったもの勝ち。別に、納得いかないなら今勝負しても私的にはオーケーよ?」

 

 どうでも良いが、今のところ誰一人としてぶっ飛ばされた紫を気遣う様子が見られない。

 

「魅力的な提案だけれど、今はやめておくわ。彼の歓迎会が始まる前に私達が争うだなんて、無粋なことだもの」

 

 言いつつちらりとユウを見る幽香。その目からは闘争心などというものは欠片も感じられなかった。

 

 ユウとしては、どうせ宴会と化すのだから前座的な意味でやっても悪くはないくらいに思っていた。本人が勝負することを望まないというのなら、勿論するべきではない。

 

「……びっくりした。まさかあの幽香が吹っ掛けられた勝負を断るなんて思わなかったわ」

 

「私だって時と場合を考えてるわよ。今は時が良くないと判断しただけ」

 

 さ、そろそろ中へ入りましょ。そう言って歩き出した幽香から、確かに精神的な成長を感じ取ることが出来た。誰彼構わずケンカの売り歩きをしていた彼女は、もういない。

 

「ユウ、私達も向かいましょう。霊夢もまた後で暇ができたら私達のところへいらっしゃいな。彼がきっと為になる話をしてくれることでしょう」

 

「ハードルを上げてくれるな。それじゃあ博麗、後ほどまた」

 

 はーい、という霊夢の声を背に石段を登りきった二人。そこに見えた光景は、紫にとってはある程度既視感のあるものであり、ユウにとっては全く見覚えのないものであった。

 

 シートが敷き詰められ、そこに数多の妖怪達が座っている。それぞれの種族ごとに領域(テリトリー)を設けているようだが、中には違う種族のものと親しげに話すものも見受けられる。空中では翼の生えた小さな少女達……妖精だろうか、彼女達がわいわいと楽しげにはしゃぎ回っており、空も地も活気に満ち溢れたものとなっている。

 

 彼にとって懐かしい顔も、幾つか見つけられた。例えばシート中央部辺りに陣取っている薄青色の髪の幼き吸血鬼。例えばまだ始まってもいないのに酒盛りに興じている鬼二人。他にも探せばまだまだ見つかるのではないだろうか。

 

「ユウ、見知った妖怪もいるんじゃないかしら?」

 

「あぁ。今ざっと見ただけで四人は見つかったぞ」

 

「へぇ。ちなみに誰が見つかったのかしら」

 

「そうだなぁ。例えば」

 

 そこで彼は言葉を切り、ふいと左を向く。何かしらと釣られて紫が同じ方向を見れば、彼らに向かって突っ込んでくる物体がひとつあった。

 

「この子とか」

 

「あら、紅魔館(こうまかん)の面々とも交流があったのね。流石ユウ、関係の網がワールドワイドね」

 

 そんな話をしている間にも、その物体もとい金髪少女は彼らとの距離をぐんぐん縮めていく。軌道を見るに、着弾点はユウのようだ。

 

 今日誰かに突っ込んでこられるの、何回目だっけ。あぁ確か三回目かと思いながら、彼は勢いを緩めず突撃をかましてきた少女をぼふっと受け止めてやった。

 

「お兄様!」

 

「フラン。昔より大きくなったなぁ」

 

 俺がお前より小さくなってしまうのも、もうすぐか。そう言えばフランと呼ばれた少女は再開を喜ぶように頭をユウの体へぐりぐりする。その光景は、兄によく懐いている妹を連想させるものであった。

 

「お父様から聞いたわ、今日から幻想郷で過ごすんでしょう?嬉しいな、また会えるなんて!」

 

 フランドール・スカーレット。彼女の本名である。幻想郷が完成し、ユウがタイミング悪くそちら側に合流できなかった時から暫く経って、単身欧州へふらふらと足を伸ばした彼はたまたまフランの父親 ── 名をロベルトという男と出会った。酒を酌み交わし語り合ううちに意気投合した彼らは、ロベルト達が住む紅魔館という住居を訪れることになった。それが、フランドールとユウとの最初の出会いである。

 

 実は、欧州においてスカーレットという名が持つ意味は大きい。この名を冠するものは、とある妖怪なのだ。その種族名は、吸血鬼。強靭な肉体と強い魔力を持つ古参強豪の妖怪である。

 

 西欧最強クラスの妖怪である吸血鬼の中でもさらに頂点に君臨するのがスカーレット一族。しかし人間との争いを好まなかった彼らは、人の滅多に立ち入らぬ場所で静かに暮らしていた。

 

 フランドールは彼女より数年早く生まれた姉とともに、家族や館の者達の愛情をめいっぱい受けて育ってきた。そこにふらりとやってきた『お父様』の新しいお友達。天真爛漫で人懐っこい彼女がユウと仲良くなるのは、彼が紅魔館にやってきてから僅か数時間後のことであった。

 

「お姉様も喜んでたよ。また兄様に会えるなんて夢見たいだって!」

 

「レミィもか。それは嬉しいことで」

 

 フランドールの姉であるレミィ、本名レミリア・スカーレットもまた幼少期にユウと出会った吸血鬼の一人である。ちょっとツンツンしたところのある彼女は妹より少しだけ打ち解けるのに時間がかかったけど、慣れてしまえばなんのその。ユウが紆余曲折を経て紅魔館にかなりの長期滞在をした間、吸血鬼姉妹は終始ユウと仲良く暮らしていた。勿論、館の他の者達とも言わずもがなである。

 

「また紅魔館にもお邪魔したいものだ。レミィ、お前は構わないか」

 

「勿論よ。本音を言うなら今すぐにでも兄様を紅魔館へ連れ帰りたいくらい」

 

 フランドールがカッ飛んできた方向から、彼女とは対照的にゆっくりと歩いてくる人影が一つあった。

 

「全く読めない運命が私達に交わるのが見えたのが、数日前ね。それから八雲が兄様の幻想郷入りを伝えに来て、そして今こうして貴方が目の前にいる。これはきっと運命の巡り合わせ……いえ、兄様は運命すら凌駕し超越してしまった存在。となれば、兄様の意志が運命に作用をもたらした結果が今の状況なのでしょう」

 

 幼い少女が一人歩いているだけだというのに、近くにいた妖怪達が皆気圧されたようにそそくさと彼女の進路上から離れる。実力者だけが、その光景を何処か面白そうな目で見ている。

 

 次期スカーレット家当主としての威厳や風格(カリスマ)を、まだ歳若いうちから発揮する彼女こそが件のレミリア・スカーレットである。

 

「レミリア。あまり周りを圧しないでちょうだいな、ユウの歓迎の宴が大妖怪のプレッシャーのせいで粛々と進んでしまうのは望むところではないの」

 

「それについては同意見。悪かったわね八雲、ちょっとした遊び心というやつよ」

 

 意地の悪い笑みを浮かべたレミリアが身に纏っていた覇気をしゅんと収める。途端に緊張を増していた場の空気が一気に切れた糸の如く弛緩し、ほっとした様子で幾人かが元いた場所へと戻っていった。

 

 纏う雰囲気すら意のままに操ってみせるその風格は、何故彼女が幼くして大妖怪の一角に数えられるのかを如実に表している。

 

「さて、改めて。御無沙汰しておりますわ、兄様」

 

 挨拶をし、スカートの両端を摘んで少し持ち上げ優雅に頭を下げてみせたレミリアに、場が時を置かずして再びざわめく。まさか、かの紅い悪魔(スカーレットデビル)ともあろう者が現紅魔館当主以外の誰かに頭を垂れるだなんて。

 

 自らの危険度が意図せぬうちに上げられていくのを何となく察知したユウだが、気がついたからといってどうこうできるわけではない。レミリアに挨拶をやめろと言えるはずもなく、彼はまた一歩のんびりとした幻想郷ライフが遠のいていった音を聞いた感覚を覚えた。

 

「お姉様。こっちに来たんだね」

 

「えぇ。兄様を目の前にしたら、居ても立ってもいられなくなってね。それに今お父様がいない以上、紅魔館の代表として私達が挨拶をしに行くのは当然のことよ」

 

 さて、近年稀に見るレベルで事が上手く運べていないぞと彼が不思議に思う間にも、吸血鬼姉妹は仲良さげに談笑している。

 

 自分が紅魔館を発った後も特に変わりなく仲良くしてくれていたようで何よりである。フランドールにも異常は見られなかったし、紅魔館勢について特に心配すべきところは無いと考えて良いだろう。

 

「二度目になるけれど、引越し後のどたばたが終わって暇ができたら是非とも紅魔館へ来てね。あの時のメンバーは勿論のこと、面白い魔女と瀟洒な時止(ときと)メイドが加入しているから兄様を退屈させはしないわ」

 

「時止メイドっていうのが気になるところではあるが、まぁじきに訪ねさせてもらうよ」

 

 それじゃあ、また後で。手を振るフランドールと見送るレミリアの所を離れ、幽香が取ってくれている場所を目指し歩く。この後は特筆すべきことはなかった。

 

「ユウ。あんたがこっちに来る時を今か今かと待ちわびたよ。積もる話もあるだろうが、さぁまずはいっちょケンカしようじゃないか!」

 

「ないかー!」

 

「紫」

 

「承りましたわ」

 

 しゅいん、とユウに飛びかかってきた星模様の一本角鬼と一対の大きな角を持つ鬼がスキマに飲み込まれ、そのままスキマが閉じられたなんてことはなかった。そう、何事もなかったのである。だってほら、その証拠にユウも紫もさっきまでと何ら変わらずゆっくりと幽香の元へ歩いていっているじゃあないか。周りの唖然とした様子については……きっとアレだ、目に毒な幻覚でも見たのだろう。お大事にしてほしいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「紫ィ!?あんたいきなり何てことしてくれるのさ!」

 

「そうだそうだ!」

 

 残念、どうやら幻覚でもなかったようである。つまり、鬼が飛び込んできたのは現実のお話ということ。

 

「私はユウの指示に従ってスキマを開いて閉じただけよぉ。怒られる道理はないでしょうに」

 

「じゃあユウだ。千年会わなかった相手をいきなりスキマ送りにするなんてどういう了見だい!」

 

「了見だい!」

 

 いきりたって攻め立ててくる鬼娘二人を眺めるユウの顔は、何言ってるんだこいつらはとほとほと呆れ果てていた。彼の立場からすれば、自分に害を加え得るものは極力避けたいわけだから紫に指示を出したのもおかしな話ではない。

 

「俺の防御膜も、流石にお前達クラスの鬼の攻撃を受けきるには強度が足りないんだよ。星熊(ほしぐま)伊吹(いぶき)

 

 溜息をつきながら鬼二人の名を呼ぶユウ。その名は、聞くものが聞けば震えが止まらなくなるほどに恐ろしいものである。

 

 かつてとある山を領有し、そこにいた天狗や河童などの妖怪達をみんな支配下に収めてしまった妖怪がいる。それが他でもない鬼だ。術を使ったり策を用いたりするのは苦手としているが、反面誰も彼もが常人離れした力と化け物じみたタフネスを有しており、その単純な力だけで日の本最高峰にまで上り詰めたあまりにも異端かつ強大過ぎる種である。

 

 並の鬼でも人の丈ほどあるような岩をぶん投げたりできるが、その中でも五体の鬼は常人どころか超人すら霞むような力を振るうとされている。鬼子母神(きしぼじん)に山の四天王といえば、大体の古参妖怪はそれらを恐れ近づこうとしない。

 

「根性が足りないのさ、根性が」

 

「気合があればなんでもできるよ。鬼の攻撃だって止められるし、落ちてくる星だって弾き返せる」

 

「そんな真似ができるか阿呆」

 

 そのうち二人、星熊童子と伊吹童子が今ユウ達の目の前でスポ根教師も青ざめた顔でドン引くような根性論を語っている。ちなみに付け加えておくと、星模様一本角の方が星熊 勇儀(ゆうぎ)で一対の角を持つのが伊吹 萃香(すいか)である。

 

「ま、何にせよ久し振りだねユウ。元気にしてたかい?」

 

「一応。お前らは相も変わらずってところだな」

 

「それが私達の売りだからね!」

 

 からからと笑う鬼娘二人。既に先程意図せぬスキマ送りに遭ったことを責める気は無いらしい。

 

「あ、そうだユウ。唐突で悪いけど、一つ提案があるんだ」

 

 やがて笑い終え、勇儀が案を一つ持ちかけてきた。

 

「提案?まぁ聞くが」

 

「そうこなくっちゃ。簡単に言うとね、今からちょいと私とケンカでもど」

 

「紫」

 

「承りましたわ」

 

 瞬間、勇儀と萃香の足元に割り開かれるスキマ。重力に従って、鬼娘達はまたしてもスキマの中へと落ちていく。なんっ、という萃香の短い悲鳴も飲み込んだスキマは、ひゅいんと閉じられる。萃香からすればとんだとばっちりだが、ユウとてこの場から離そうと思っていたのは勇儀だけであったので、これは紛れもなく紫の早とちり出会った。

 

 伊吹 萃香、冤罪に沈む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蒔かれたケンカの種を発芽前に取ることに成功したユウ達は、ようやく幽香の待つ場所へと辿り着くことができた。

 

 幽香は敷き詰められたシートのやや外側付近、神社の境内部分に比較的近い位置を取ってくれていた。彼女曰く、ここなら大体の勢力との距離が均等だからユウを巡る争いも起き辛いだろうとのこと。彼にとっては嬉しい配慮に感謝しつつ、幽香の左隣に腰を下ろす。

 

「大方準備も終わってきたわねぇ。そろそろ始められそう」

 

 紫がユウの左隣を陣取り、これにて見事抜群のスタイルを誇る美女に挟まれた少年の図が完成した。尤も、彼がそれを意識している様子は微塵もない。ぼーっと、何処を眺めるともなく視線を彷徨わせている。

 

「アリス、向こうにいなかったってことはこっちにいる可能性が高いぜ!」

 

「ちょっと、私は神様を探したいだなんて一言も……もう、人の話も聞かないで行動するのはやめてよね」

 

 ふとそんな会話が聞こえてきたので、そちらに意識を傾けてみる。どうやら金髪ロングヘアーの少女と同じく金髪の、こちらはセミロングほどの長さをした少女が彼を探しているらしい。

 

 何を目的にしているかは分からないが、探されているのなら名乗り出た方が良いか。そう思い、彼女達のいる方に向けて声をかける。

 

「おーい、そこ行くお二人さんや。お探しの神とはもしかして俺のことかな」

 

「お、いた!そうだぜ、もしかしなくてもあんただよ、あんた」

 

 見つけたぜと言いながらこちらへ歩いてくる少女。とんがり帽子に白黒のエプロンを連想させる服という装いだが、もしやこの子が先の紫の話にあった魔女なのだろうか。

 

「いやー、本物の神に出会ったのは初めてだな。これは御利益も大いに期待できるってものだ」

 

 ユウの正面に座り、快活に軽口を叩く少女は霊気を内包しているので人間だ。……人間にしては随分と軽々しく紫や幽香に近づいていくなと感心した。霊夢と同じく、大妖怪を怖がったりしないタイプなのだろう。

 

「神様に直接御利益を求める大バカには、決まって神罰が下るわよ」

 

 遅れて彼らのところへやってきた金髪碧眼カチューシャ少女も人間だろうかと内なる気を探ってみたユウは、意表をつく結果に少しばかり目をぱちりとさせた。

 

 人間ではない。だが、それだけならユウが意外そうにすることはなかった。彼女からは、霊気も妖気も神気も感じとることができなかったのだ。代わりに彼が知覚したのは、外でもここ(幻想郷)でもない世界のうちの一つの気配だった。

 

「この品行方正な私に神罰?ハハ、ないない!そうだよな、神様」

 

「……ん、お望みなら与えることも吝かではないぞ。蹴っつまずく程度の軽いものから末代まで続くような重いものまで、俺にかかれば自在だ」

 

「オーケー、謹んでご遠慮するよ」

 

 とんがり帽子の少女に話を振られ、会話の方に意識を戻したユウ。ちょっとした冗談で彼女を割と本気目にビビらせたあと、軽い調子で件の異界少女に声をかける。

 

「そっちの子も、お初に。彼女の友達かな」

 

「えぇ。私はアリス・マーガトロイド。森に住む人形遣いよ。さっきは連れが失礼な口を叩いて悪かったわね、この子に代わって謝らせてもらうわ」

 

 そう言って頭を下げようとした彼女を制止し、失礼かも知れないがと思いつつもう少しだけ深く探りを入れる。

 

 実力は、()()()()()()()()()と言ったところか。奥深いところに隠している真の実力は量も質もとんでもなかったので、今回は敢えて目を瞑ることにする。下手に突っ込むとユウと雖も火傷しかねない。

 

「とんがり帽子ちゃんも、良ければお名前を頂戴したいがどうかな」

 

 これ以上は怪しまれると判断し、早々に撤退。

 

霧雨(きりさめ) 魔理沙(まりさ)だ。ちゃん付けは好まないんでよしてくれ」

 

 反骨気質の強そうな彼女の名前も教えてもらえた。これで、初対面の時に聞いておきたい最低限の情報は全てゲットできた。ミッションクリアである。

 

「霧雨だな。アリスも、覚えたから以後よしなに」

 

「おう。それじゃちょっと急だが私は霊夢の手伝いにそろそろ向かわなきゃならんから失礼するぜ!」

 

 出会いが唐突なら、別れはそれ以上に唐突であった。ダッシュで去っていった竜巻のような少女を見送り、ユウは苦笑いを浮かべる。

 

「なんというか、鬼にも負けないくらい元気な娘だな」

 

「あの子の体力が切れたところを見たことがないわ。まさにビタミンガールね」

 

 うんうんと両横で頷く二人の反応からも、魔理沙がとてつもないバイタルの持ち主であることが分かる。特に強く頷いていた幽香は、きっと彼女に振り回された経験があるのだろう。

 

 さぞかし疲れたことだろうと幽香の胸中を慮っていたユウに、アリスが一言声をかけた。

 

「ねぇ、神様。ユウさんって呼べば良いのかしら」

 

「ユウさんでも呼び捨てでもご自由に。それで、何だ」

 

 ユウが応えれば、スッと中腰になり顔を彼の右耳に近づけて。横にいる紫や幽香に聞こえないくらいの、でもユウにだけははっきり届く綺麗な声で。

 

A secret makes a woman woman(女は秘密を着飾って美しくなるのよ)

 

 何たる演技派か。これにはさしものユウも、ちょっぴり乾いた笑いを浮かべる他になかった。

 

 

 

 

 

 というか、一体いつバレたのだろうか。

 

 

 



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第三話 あな騒がしや、歓迎会

「はーい!それではお集まり頂いている人間に妖怪の皆さん、こちらにご注目ー!」

 

 各所の準備が全て滞りなく終わり、全員が上手くシート上に座ったのを見計らって、先程神社の縁側に移動していた紫が声をあげる。

 

 流石にこの広い会場全域に声を届かせるのは骨が折れるとのことで、スキマによる縮地を利用した即席スキママイクがあちこちに繋げられている。これのおかげで、普段通りの声量でも会場にいる全員に彼女の声が聞こえるようになっているのだ。

 

「大変長らくお待たせしたわ。これからこの幻想郷に新たにやってきてくれた住人、ユウの歓迎会を始めるわよ!」

 

 わぁっ、という声があちこちから上がる。ユウと面識のあるものは勿論のこと、そうでない妖怪や人間からも結構な量の歓待の言葉が投げかけられる。

 

 アリスに女優顔負けの名演技で一杯食わされた後、ユウは各勢力のところに挨拶をしに回っていた。その(上位種)らしからぬ誠実な態度のお陰で、場の大部分からかなり信用できる神だという認識を示してもらえている。別に打算的な意図をもって挨拶しに行ったわけではないが、信用が得られたなら行った甲斐もあったなぁと彼は少し喜んだ。

 

「既に聞き及んでいる人もいるかも知れないけど、彼について二つだけ情報を話しておくわ。まず一つ目だけれど、ユウは神様よ」

 

 神という特殊な種族に出会ったことがあるものは、そういないだろう。八百万の一柱だったのかと河童の集まりの方から驚愕した声が上がったのが聞こえた。

 

 実際のところ彼は八百万の神々でも土着の神でもない少々風変わりな出自なのだが、それを言い出すと非常に事態が面倒かつややこしくなってしまうことは明白なので黙っておくことにする。実にナイス、円滑な進行に大きく寄与する英断である。

 

 変わったところのある神様で通せるだろうと、ユウがのほほんと考えていると俄に縁側の方の雰囲気がずっしりとしたものになった。縁側の方にいてかつ場の空気を変えられるようなやつというと、はて誰かいただろうか。

 

「そして、何より大事なことを一つ言っておくわね。彼はこの場にいる数名を始めとした様々な妖怪や一部の人間と親密な関係があるわ」

 

 いた。思いっきり喋ってるやつが一人いた。育ってなおユウの胃に多大なる負荷をかけ続ける筋金入りのトラブルメーカーにして変態娘、八雲 紫がいるではないか。

 

 和やかに進められるべき歓迎会の場に、誰も望まぬ冷たい緊張が走る。急に厳かな感じになった場において当のルームメーカーは大真面目な顔をしてユウについての二つ目の情報とやらを語り始めた。

 

「私達は皆、ユウを心から慕い付いていく。だから、邪な意思を持ってユウに敵対するということは同時に私を始めとした多くの実力者をも敵に回すということになる」

 

 嗚呼、お前はなんてことを言ってくれたのか。こんなことなら喋り始める前に下手なことは言うなよと釘をさしておけば良かった。ユウが先に立たない後悔に頭を抱えている間に、相変わらず要らないシリアス調を維持している紫は話のシメに入る。

 

「良からぬことを企んでいる不逞の輩がもしこの場にいたとしたら、是非ともこの点に気を配って再度熟考することをお勧めするわ」

 

 このまま紫に喋らせてしまうと、折角築いた信用がそれを上回る恐怖によって上書きされてしまう。それは謹んで御遠慮したいユウ、幽香に断りを入れて立ち上がってから機敏な動きで縁側へと登り。

 

「お前が俺の幻想郷生活に気を配れ阿呆」

 

「ぶっ」

 

 本人的には良かれと思っての注意を終えて一段落つこうとしていた紫の顎をグーで撃ち抜いた。人その痛烈な攻撃を、アッパーカットと呼ぶ。

 

「まったく、お前は俺の印象を一体どんな方向に持っていきたいんだか」

 

 予期せぬ攻撃を受け、ぷるぷると地に蹲りながら顎を抑えるしかできない紫を見やり一つ嘆息。それから展開されているスキママイクを利用して声明を発表し、突然のこと続きで呆然とする他にない場から怖いイメージの払拭を計る。

 

「あー、紫の言ったことは嘘……と言いきれないのがアレだが」

 

 ざわり。

 

 失言につき、至急のカバーが必須となった。

 

「少なくとも俺に敵対しただけで紫達までも敵に回すなんてことにはならないぞ。俺と反りの合わない奴だって一定数いて然るべきなんだ、それを粗相だ無礼だと責め詰る気は無い。だから、媚びることなく自分に正直にしていてくれ」

 

 口達者でないユウなりに精一杯寛容さをアピールしたスピーチに対する場の反応は、様々であった。

 

 河童などの一般的な妖怪は未だ微妙に懐疑的であり、天狗や鬼など上位級の妖怪はなんだ賢者の過言かと納得する。それよりも上の、幻想郷最高峰に位置するような傑物達は、久しぶりにどたばた親子の漫才を見る事ができて非常に満足していた。尤も、ユウとこの場が初対面である霊夢などは、ユウが躊躇なく娘であるはずの紫をぶっ飛ばしたことに少なからず驚いていたのだが。

 

 紫の所為で張り詰めていた場の雰囲気が、少しだけ弛められる。とはいえまだ歓迎会を行うようなムードとは程遠い。もっと自身の危険度を低く見せて安心させなければならない。

 

「それに、俺は戦いがあまり好きな方ではない。絶対にしないとは言わんが、しないで済むならそうしたいと願っているタイプなんだよ。だから余程のことがない限り、俺がお前達に対して怒ることは無いと思っていてくれて結構だ」

 

 だから彼は、自分は和御霊(にぎみたま)的な性質を持つ神ですよアピールをした。その主張をすることに問題は無い。何故なら、事実だから。

 

 湧き上がってくる(戦闘民族)どもからの戦えやブーイングとそこに混じるケンカしようぜというお誘いを華麗に流し、ユウは臨時スピーチを終わらせにかかる。

 

「話が長い、早く酒を飲ませろと思っている奴らがそこそこの数いるようなので、至極簡単に俺の言いたいことを纏めよう。……皆、幻想郷の先輩として是非とも仲良くしてくれ」

 

 それでは、長々と失礼した。一礼してぺたぺたと縁側を歩き、ひょいと降りて幽香のいる所へと戻ろうとする。途中で未だに立ち上がれない紫がお立ち台にて横たわっているのを思い出し、放置はまずいと考えてちゃっちゃかと回収に入る。

 

「よっ」

 

「へぐっ」

 

 襟首を掴みずるずると引きずってからその辺にぽーい。回収、終了。断じて廃棄ではないのでセーフである。

 

「ユウからの愛が足りないわぁ……。このままじゃ乾涸びて死んじゃう」

 

「お前はスポンジか」

 

 お尻に付いた砂をぱっぱと払って立ち上がった紫と共に、席へと戻る。雑な扱いを受けても、口でこそ文句を言っても顔に不満が出ていないことが、ユウと紫の間で強固に構築されている信頼関係の一端を示しているようだ。

 

 …普通は信頼関係があるからといって相手を殴った後に投げたりはしないが、そこは幻想郷だからというファンタジックかつオールマイティな理由で一つ納得頂きたいところである。何と言っても、幻想郷は全てを受け入れるのだから。

 

「おかえりなさい。お酒とご飯は用意しておいたわ」

 

「お、ありがとう」

 

 ユウが衆目の前に立っている間に用意してくれたのだろう。膳の上には所狭しと大盛りの食事があった。傍らには酒の入った一升瓶とグラスが鎮座している。…ふと視界に入った酒の名前が『神堕とし』というのははたして偶然なのだろうか。

 

「ユウが好きだった鮪のお刺身を主軸として、人里で作られたお米に茄子とお肉の炒め物。その他にも様々な人妖が腕を振るっているわ、きっとユウも美味しいって思ってくれるんじゃないかしら」

 

「見るからに美味しそうじゃあないか。早く食べたいものだ」

 

 酒の名前に目を瞑りさえすれば、なんとも素晴らしい献立ではないか。特に鮪の赤身なんて絶品を予感させる鮮やかな赤色ではないかとユウが内心で食べるのを心待ちにしていると、彼の袖をくいくいと引っ張るものが。何かと振り向けば、信じられないものを見たような目をした紫が、自分の前にある膳をじっと見つめていた。

 

 料理に虫でも乗ってしまったのかと視線を向けて、彼はそれどころでない事態を悟った。紫の膳は、他のものとは少々どころでなく異なっていたのだ。

 

「古来より人間は精進料理というものを食べ、修行に励んできたそうね。……それを踏まえてこの私のお膳を見てほしいのよ。凄いわね、沢庵しか乗ってないわ」

 

 そう、そもそも料理が乗せられていなかったのだ。料理が焦げてるとか一品足りないとか、そんな次元の話ではない。

 

「あぁ、それ。それはね、最近お腹周りが怖くなってきている紫のことを慮った霊夢の案なの。なんだかんだと言っても育て親思いの良い子じゃない、良かったわね」

 

「んぇっ!?……な、何故!それは私だけの秘密だったのに、どうして幽香や霊夢が知ってるのよっ」

 

 乙女の秘密(トップシークレット)をバラされた紫が牙を剥いて幽香を問い詰めれば、彼女が自らの後方を人差し指で指さす。ばっと紫がそちらを向けば、そこにいたのは霊夢と親しげに話す金色の狐だった。

 

「藍が、貴女の食事量が制限されてきているって」

 

「らああぁぁぁぁんン!!」

 

 彼女の秘密を明るみに出したものは、例え式神であっても許されない。紫は立ち上がり猛然と地を蹴って走り出した。目的はただ一つ、かの邪智暴虐の式を問い詰めはっ倒すことである。

 

「紫様。如何なされどぅむっ」

 

 ユウ達の比較的近くに座っていた天狗の一団が、唖然とした表情で藍にスマッシュタックルをかました紫を見ていた。自分達を遥かに上回る速さでもって当て身をしてのけたのが、まさか俊敏なイメージを微塵も感じさせない賢者だなんて。彼らが目の前の光景を俄に信じられなかったのも、仕方なしである。

 

 勢いそのままにどしゃーっと地面を滑っていってから倒れ込んだ主従のうち、主は怒り冷めぬといった様子で声を荒らげる。

 

「この口が!この軽い口が機密事項を喋ったのね!」

 

「けほっ、けほっ……痛いです紫様。馬乗りになって私の唇付近をばしばし叩く前に、事情の説明をお願いします」

 

「しらばっくれるんじゃないわよ。あんた幽香にバラしたでしょう、私が食べる量を減らしてること!」

 

 怒れる紫の糾弾に、困惑していた藍も納得。次いであー……と、鳥が見ていたら呆れたであろうほどに言葉を濁した。

 

「それはですね、何と言いましょうか。えぇと、話のタネに使わせて頂いたといいますか」

 

「話を繋げるのに私の最大級の隠し事使ったってこと?バカなの、稀代のバカなの貴女!」

 

「こ、好評でしたよ。笑ってくれましたし、幽香さん」

 

「それはそうでしょう。人の不幸で紅茶が美味しいタイプの妖怪よ、あの花娘は。しかもそれに留まらず霊夢にまで話してしまうなんて、いよいよもって貴女の正気を疑うわよ!」

 

 勿論というか、紫の追撃の手は続く。引き攣った笑みを口元に浮かべて視線を逸らす藍の顔を、紫の瞳が捉えて離さない。眼光鋭く獲物を見据えるその様は、まさに野獣と形容すべき様相であった。間違っても淑女に大して使うべき表現ではないが、あまりにも似合ってしまっているのでまぁアリであろう。

 

「ま、まぁ大丈夫ですよ。紫様は今も昔も変わらずお美しゅうございます。それに、ずっと胸ばかり大きくなってきたのでしたらたまにはお腹も大きくなるというのも一興かと……ん?」

 

 あの口この口で紫を煙に巻こうとする藍だったが、老獪さで勝負するにはあまりに不利な相手であった。さぁどうしたものかと思案する中、左手を掴まれたような感覚がしたのでそちらを見れば、スキマによって挟み込まれていた。驚くより早く右手も両足も固定され、あれよあれよと言う間に藍は抵抗する術を殆ど奪われてしまった。

 

 最強の妖獣というだけあって藍はとても強い力を持っているが、スキマは力一辺倒で閉じたり開いたりできるものではない。当然だ、如何なる強大な力があろうとも物事の境界線は動かせないのだから。

 

「紫様、指を鳴らしますと関節が太くなりますのでお勧めしかねます。そして何よりもこの体勢になっている時にぱきぽきと鳴らされますと恐怖を禁じ得ないのでどうかやめて頂きたいです」

 

「そう。それじゃあ頭ぐりぐり五分の刑に処するわ」

 

「五分って、そんなご無体な痛たたたたたたたっ!?」

 

 (おしおき)、執行。

 

 人も妖も、辛さや痛みなどの強い刺激には滅法弱いものである。だからこそ、そういった刺激を受けた時彼らは飛び跳ねたり走ったりして緩和を図るのだ。

 

「痛いわよね。でもご生憎様、私の感じた心の痛みはこんなものじゃないわよーっ!!」

 

「誠に申し訳ないだだだだだ……」

 

 だがしかし、現在の藍はほぼ体を動かせないと言って間違いないような状態である。今の彼女に、痛みを発散する術はない。是非曲直庁の閻魔様も息を呑みながらドン引きするような、まさしく地獄の責め苦である。

 

 一部の強者達以外は、それを見て言葉を失っていた。彼らの知っていた冷酷無比の主従は何処へやら、目の前でわあわあと騒ぐその様子からは幻想郷の管理者とその式を思い浮かべられない。全く別の魂が憑依したと言われても、殆どのものがそれを信じてしまいかねないくらいには、抱いていたイメージと眼前に広がる現実との乖離が激しかったのだ。

 

 目の前の光景に触れるべきか否か。場の大多数が対応に困り果てたまさにその時、歓迎会の場に小さな、しかしはっきりと聞こえる笑い声が現れる。

 

「……く、く」

 

 笑い声の主は、ユウであった。

 

「何とまぁ、騒がしいことだ」

 

 俯きながらそう言ったユウが笑いを堪えているのは、丸分かりである。普段から表情にも感情にも何処か乏しいところがある彼だが、流石にいきなり目の前に衝撃的なというか笑劇的な光景が飛び出してくると、普通の人間や妖怪と同じように笑う。ただし、流石に大口開けて哄笑したりはしないが。

 

「紫や、藍をいじめるのは後にしなさい。今は会を始めることを優先しようじゃあないか」

 

「むぅ。ユウの言い分に道理があるわね。…仕方ないわ、おバカな式神への制裁の鞭は後で振るうことにしましょう」

 

 悪魔の手から解放されて、絶え絶えな息を必死に落ち着かせる藍。しかし彼女は、残酷な真実に気がついていない。一見助けてくれたように見えるユウは、その実『後回しにしておけ』としか言っていないということを。

 

 始まって暫くすれば、藍は怒りの再燃した紫の手によってまたあの手酷い拷問にかけられる可能性があるのだ。普段ならすぐに気がつけただろうが、如何せん側頭部へのダメージが大きかったために思考能力が低下していたこの時の彼女はその限りでなかった。

 

「取り敢えず、私の分の料理をちょうだいな」

 

 一方、教育という名の虐待を中断した紫は自らの分の食事を要求する。どうせつんけんしてはいても根の優しい霊夢のことだ、きっと何処かに作り置きしてくれているだろう。そう確信しての要求だったのだが、返ってきた返事は彼女の予想を覆すものだった。

 

「作ってないわ。多分誰も」

 

 今明かされる、衝撃の真実。紫の分の食事は、無い。

 

「……えっ」

 

「少なくとも私は作ってないわよ。あと作った可能性があるとしたら、藍くらいじゃないの」

 

 あれれー、おっかしいなー。根は優しい霊夢が、どうして。まさかこれも霊夢なりの気遣いなのだろうか。それだったら、いやそれにしてもそんな方面での気遣いなんていらない。

 

 万が一これが面倒だからという理由の元に行われた行為なのであれば、紫は霊夢の枕元で夜通しすすり泣くという心の臓が疲弊するようなホラー展開を演出することも吝かではない。そんな理由でご飯が奪われては、たまったものではないのだ。

 

「はい、それじゃあ全員酒を持ちなさい」

 

 もはや紫の食事事情などに興味はないのか、会を始めようとする霊夢。だが生憎なことに、彼女の手元には沢庵しかない。

 

「はい、はいはいはい!持つ酒もグラスもありません!」

 

「やかましい奴ね。ほら、これでも使いなさい」

 

「空のグラスをぶつけ合えと!?」

 

 放り投げられたグラスを受け取り、なおも抗議。せめて、せめて酒を入れてくれないと虚しいことこの上ない。

 

「歓迎会の音頭を取るのは初めてだから、よく分かんないけど。……えー、コホン。この度、こうして新たな神様が幻想郷にやって来たことを祝して」

 

 だがしかし、声を大にして叫んだところで酒は来ない。既に皆がグラスを上に掲げており、止められるような雰囲気ではない。

 

「乾杯!」

 

「……あぁもうっ!かんぱーい!」

 

 進退ここに極まれり。えぇいままよと乾いた杯をかちん、かちん。乾杯とは果たしてそういう意味なのだろうかと疑問に思いながらぶつけられていった紫のグラスは、中身が無いせいかやたらと快音を響かせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん~っ!美味しいわ、すっごく美味しい!」

 

「そりゃようござんした」

 

 乾杯も終わり、少し俯いて席に戻ってきた紫は、何か吹っ切れたような目をしていた。

 

 相変わらず妖怪という種族を鑑みたとしてもメンタルが弱い奴だ。溜息をつきながらも、とぼとぼと歩いてきたその姿が見るに堪えず、仕方なくユウは刺身を食べるという一大任務を横に置いて立ち上がった。

 

 巫女に断って博麗神社のお勝手を借り、余っていた食材を拝借して料理を作る。メニューは不平不満が出ないように皆が食べているものと全く同じものとした。

 

 長生きしてきたお陰で身についた料理スキルを存分に活かし、ちゃちゃっと作り終えた。それを紫の膳に乗せていってやれば、一皿ごとに虚ろだった目に生気が戻っていった。最後に鮪の刺身を乗せ終わった頃には、すっかりいつも通りのエナジー溢れる顔を取り戻すことに成功。

 

 感極まって飛びかかろうとしてくるのを能力で作った第三の手で抑えながら、いよいよ彼は楽しみにしていた鮪の刺身に箸を伸ばす。二本の箸で挟み込み、山葵を少量入れた醤油に付け、それからゆっくりと口へ運ぶ。

 

 あぁ、この口に入るまでの待ち遠しい気持ちすら今は愛おしい。逸る気持ちを落ち着けながら小さく口を開き、紅玉のように輝く刺身を迎え入れる。

 

「……うま」

 

 最高だ。程良い脂の乗っている赤身は甘く、それでいて少しだけ感じられる山葵の辛さとの相性も抜群だ。互いが互いを打ち消し合うのではなく、手を組み高め合っている。

 

 自然と顔が綻ぶ。美味しいものを食べた時に起きる、当然の反応である。

 

「幽香、見た?今のユウ、にこって。にこって笑ったのよ!」

 

「だから何なのよ。お刺身が美味しかったんでしょ」

 

「あの顔を思い浮かべるだけでご飯五杯は食べられるわぁ……可愛い」

 

 自然と顔が顰められる。変態が自分を好色な視線で見ていると知った時に起きる、当然の反応である。

 

 まぁ、セクハラに対しての抑止力は物理的にかけているので襲われる心配はない。気にせず食べていこうと、彼は箸を進める。

 

 止められない、止まらない。この世にこれ以上美味しい食べ物があるなら教えてほしいという程に鮪が好きな彼にとって、至福の時が流れていく。

 

 時折近くに座っている妖怪達と会話しながら食べ進め、刺身の残りが早くも四枚となった時、ユウの真正面にどっかりと座った妖怪がいた。

 

「やぁ、ユウ。美味そうに食べるね」

 

 先程二度のスキマ落ちを経験した勇儀だった。ユウの上半身が入るくらい大きな盃を傾け、なみなみと注がれている酒を飲むその姿は、まさに酒豪と呼ぶに相応しいものである。

 

「美味いんだ、これが」

 

「私も食べたからね、分かるさ。いやぁ、あんまり食べないから気が付き辛いんだけど海の魚ってのも侮れないもんだよ」

 

 あの鮪は勇儀にも好評だったらしい。それはそうだろう、アレが嫌いになれる奴がいるなら最早それは類まれなる才能と言うべきである。

 

「刺身にして美味いのは、個人的には海の魚だな。……で、だ。何故に食べ物の話の最中に、体内で妖力を循環させているのかを聞きたいんだが」

 

 勇儀の体をどくんどくんと流れていく、大きな妖力。強大な妖怪が戦闘をする前によく取る、準備運動のようなものだ。つまり、勇儀は今戦う意思があるということになる。そして、その相手になり得る者と言えば。

 

「流石の観察眼だね。一応私なりにそっとやってたつもりなんだけど。まぁ良いや、取り敢えずケンカしようよ」

 

 論ずるに能わず、彼女の目の前で残り少なくなってしまった刺身を惜しんでいるユウだ。これで今日だけで四回目の誘いである。

 

「紫」

 

「はいな」

 

 何かを察したかのように、酒を一口飲みながら勇儀の足元にスキマを開き始める紫。足を開いて難なくそれに着いていった彼女は、ほぼ半円分開脚しながら大酒を飲むという凄いのかどうか分からない技を披露する。そんな態勢になっても動じない足の筋肉と体幹は、間違いなく凄いと言えるのだが。

 

「おっと、危ないが鬼に三度の不覚はない。まぁ、そう邪険にせずにちょいと聞いてくれよ。やっぱりさ、長く会ってない仲の良い相手とはより多く絡みたいだろう」

 

「そうだな。だったら普通に会話をしよう」

 

「だから、ケンカしようじゃないか!」

 

 あぁ、なるほど。勇儀はつまり拳で語り合って久闊を叙そうと言いたいわけだ。如何にも鬼らしい、肉体ありきのやり方である。

 

「勝負と言ったってな、お前。仮にやるとして、場所は何処だ。この神社はもう満員御礼、俺達が戦うに足る広い場所なんてないぞ」

 

「縁側の前が空いてるから、そこでしよう。ちょっと狭いけど、そこは仕方ないと割り切って我慢するさ」

 

「家主の許可は?」

 

「取ってきたよ。この神社に損害をもたらさなければ、何をしてくれても良いってさ」

 

 博麗は、鬼の戦闘が周囲に及ぼす被害を分かっていないのではないか。今からでも遅くないから、実施された場合この神社がどうなってしまうかについて懇切丁寧に解説してきた方が良いかと、ユウは悩む。宴会芸みたいなもので家が倒壊したら、やりきれないことこの上ないだろうから。

 

「霊夢が結界で覆いをかけてくれるらしいよ。あいつの結界は一級品だ、周りをぶっ壊しちまうことも無い」

 

「お前クラスの鬼がある程度以上の力を出したとして、それに耐えられるくらいの強度があるんだろうな」

 

「悔しいところだけど、そうだね。私の拳を直撃させてようやく壊せるかってくらいだ、余波程度なら心配することはないよ」

 

 それはまた、随分な強度だ。まだ幼いとも言える人間の少女がそれほどの結界を張れるというのは、手放しで賞賛に値することである。

 

 末恐ろしい子がいるんだなぁと彼が感心していると、縁側の方から彼を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「おーい、ユウさん。頼まれた通り、結界は張り終えたわよ。早く試合を始めてちょうだい」

 

 あれ。おかしい、いつの間に俺が勝負を受けたことになったのだろうか。ケンカのお誘いに乗るだなんて、彼は一言たりとも言った覚えがない。

 

「いや、待ってくれ博麗。今食事中だ、しかも勝負に乗ってもいない」

 

「良いから早くってば。この結界、張りっぱなしだったら疲れるし張るの自体も面倒だから、さっさとやってくれなきゃ二度と生成しないわよ」

 

 折角大物対決になるって聞いて凄めのやつ作ってるんだから、無駄にしないでほしいわ。しれっとそう言った霊夢に、ちょっとだけじとっとした目を向ける。

 

「……何よ」

 

「刺身は鮮度が命なんだぞ」

 

「腐ってなきゃ食べれるでしょ」

 

「そういう問題じゃあなくてだな……あぁ、分かった。博麗の頑張りを優先するとしよう」

 

 残された宝は、残り二つ。可及的速やかに勝負を終わらせれば、美味しく頂ける可能性は高い。だが、相手は鬼の中でもとりわけ強い力を誇る強者だ。そう簡単に事が運ぶとは思えない。

 

「お、受けてくれるんだね!いやぁ、粘ってみるもんだなぁ」

 

 スキマは既に閉じられていた。胡座を組んで座りながら、勇儀はにやりと笑みを顔に浮かべた。頼まれた通り、とさっき霊夢は言っていた。頼んだのは十中八九勇儀だろう。

 

 わざわざ俺が断りにくい状況を作り出してまで勝負したいのか。彼は鬼でなく神であるので、いまいちそこの所の理解ができなかった。というか、卑怯な手段は鬼の嫌うものではなかったのか。嘘さえついていなければ、案外それで良かったりするのかも知れない。

 

「そこ開けてあるから、そっから入って」

 

「あいよ。ユウも来なよ」

 

「ん」

 

 何にせよ、遠回しに勝負を受けると言ったのだ。神の言葉に二言があってはならない、つまり賽は投げられたのだ。故に彼は重い腰を上げて歩き出す。

 

 ユウが立ち上がった瞬間、場が一気に騒がしくなった。近くで見ようと近づいてくる河童に、これは滅多にないビッグカードだと一斉にカメラを構える天狗。なんだなんだと興味本位で寄ってくる妖精も、数匹いる。挙句の果てにはそこらの妖怪妖獣も見学を始め、祭りの如き大盛況を演出する。

 

 勇儀が大きな盃を地に置いたのも見えた。本気だ、と野次馬根性逞しい者達の中から期待半分恐れ半分の声が上がる。酒置いたくらいで何を大袈裟な、と彼は思っていたが。

 

「観戦者多いな。はいはい、通れないからどいたどいた」

 

 彼が通った直後、結界に意図的に開けられていた穴がしゅんと閉じられる。広大とはとてもでないが言えないくらいの広さの決戦場で、鬼と神とは向かい合う。

 

「何年ぶりだい、あんたとこうして拳を交わすのは。少なくとも、千年を優に超えるくらいはなかったことだよね」

 

 かつてのことを懐かしむように、勇儀はそう言った。まだ彼女が鬼基準で年端もいかぬ小娘だった時に、一度だけ手合わせをしたことがある。その時は、ダイヤモンドに牙を突き立てた蟻もかくやというほどに歯が立たなかった。

 

「そうだな。……当たり前だが、あの時よりは強くなったな」

 

「弱くなってるわけないじゃないか!」

 

 大口開けて、勇儀は笑う。その内心、彼女はちょっと嬉しさを感じた。強くなったと、彼に認めてもらえたから。

 

「今の私は、聳え立つ巨岩をも砕くだけの力を手に入れた。あんたのとんでもなく硬い防御だって、打ち砕ける自信があるよ。手加減は不要、最初から全力で向かってきておくれよ!」

 

 ぎゅうっと右手を握り込む。小手先の技なんて一切考えず、ただ純粋な力だけでもって相手(ユウ)を圧倒すると宣言するかのように。

 

 拳に込められた妖力の大きさは、結界越しでなお下級中級辺りの妖怪を後ずさらせるものであった。ましてや阻むものがないユウには一層激しい圧がかかっているのだが、それに気圧されているような態度は見られない。そんなものは何処吹くそよ風かとでも言わんばかりに気怠げな立ち姿を崩さない。

 

「まともに相対すれば、俺に利はないだろう。ならどうすれば良いか。簡単なことだ、全て往なし受け流す」

 

 首を横に倒してぱきぱきと鳴らす。腕はだらりと垂らし、武術を感じさせるような構えは取らない。勇儀を格下と舐めているわけではなく、これが彼なりの戦闘スタイルである。

 

「できると口で言うだけなら、生まれたての赤ん坊でない限り誰だってできるよ」

 

 牙を剥き、眼光鋭くユウを睨みつけながら右腕を大きく振りかぶって。

 

「信じてほしけりゃ、やって示しなァ!」

 

 博麗神社全域を揺らすほどに強く地を蹴ってユウへと肉薄し、その腕を加減なく叩きつけた。



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第四話 拭えぬ悪寒は嘘か誠か

 鬼。古来より人々にその名を知られる、古き妖怪である。

 

 妖怪の力が飛び抜けて強い国である日の本の妖怪たちの中でも、比肩する種なく最強と謳われてきた。

 

 一般的な鬼ですら、かつては一匹現れれば妖怪退治を専門とする人物が何十人と集められ、入念な準備をした上での討伐が行われた。しかしながら、これだけの人数の差があるにも関わらず、人間側が勝利する確率は決して高くはなかった。このことは、鬼の個体としての強さをよく表していると見て良いだろう。

 

 天狗ほど速い飛行速度を持っているわけでもない。人狼ほど狡猾に生きてもいない。妖精のように自然がある限り無限に復活することができるわけでもない。悟り妖怪のように相手の心が読めるわけでもない。

 

 ただ、彼らは単純に力が強いだけなのだ。…たった、それだけ。

 

 それだけのことで、鬼は最強の名を(ほしいまま)にしてきた。

 

 そのことに不服を唱える他の妖怪が、大挙して鬼へ反旗を翻したこともあった。にも関わらず、今も鬼の血は途絶えていない。一体、何故なのか。

 

 簡単なことである。彼らは全ての戦いに勝利したのだ。数の上でも決して有利では無かったにも関わらず、鬼たちはその拳一つで練り上げられた万の策謀を打ち砕き、存続を確たるものにした。

 

 故に、人々は鬼を恐れ、彼らを最大級の脅威と見なしてきた。彼らより恐ろしい存在など、この世には存在しないのだと唱える者も少なくなかった。

 

 それら鬼の中でも頂点に位置するものがいる。古代ならば齢五、六の子供でもその名を知らぬものはいなかっただろう。日本妖怪史上最強最悪と、皆が口を揃えてその名を語り継いできた。

 

 名は。鬼子母神。全ての鬼の母であるという伝承を持つ、確認されている限りで最も古い鬼である。

 

 曰く、諏訪を落としてみせた軍神ですら、かの鬼を相手にしては互角。

 

 曰く、極めて上質な鋼鉄の塊を、一発の突きでいとも容易く粉砕する。

 

 曰く、人の身では討伐できないと断言できる唯一の妖怪。

 

 ……これほどまでの凄絶な伝説を引っさげている鬼子母神の側を片時たりとも離れることなく、常に守り続けていると言われる四人の鬼がいる。彼らはかつてとある山を支配していたことから山の四天王と称され、鬼子母神同様に恐れの対象となっている。

 

 実質的な鬼の頭領であるとされている、酒呑童子。

 

 酒呑童子の盟友にして舎弟とされ、かつてとある人間と争い、その右腕を失ったという伝説を持つ、茨木童子。

 

 鬼の中では鬼子母神に次ぐほどの怪力を持つ、星熊童子。

 

 鬼の中でもさらに抜きん出た気性の激しさを有していると言われている、虎熊童子。

 

 これら五体の鬼の名を聞けば、古参の妖怪であろうとも震え上がることは避けられない。それこそ頂点級の格を持つ妖怪でなければ、彼らと対等に接することはほぼ不可能であるとされる。

 

 鬼は、遥か数千年の昔より姿を変えることなく、今の世にも生きている。

 

 かつてのように人を襲い、喰らうことはない。いつのことなのだろうか、彼らは幻想郷にあった根城から忽然と姿を消してしまったのだ。理由の一切は闇の中、何処へ移動したのかさえ全くもって不明となっている。

 

 だが、だからと言ってその存在が消えて無くなったわけではない。鬼は今も存在し続け、その恐怖は今もなおその伝説とともに脈々と受け継がれている。

 

 それを理解しているかこそ。

 

 今宵、博麗の社に集い、四天王が一角と新顔の神との戦いを見た者たちは。

 

 

 

 

 

 

 

「うらあああぁっ!これでも食らいな、顔面を撃ち抜いてやるよ!」

 

「大振り、直線的」

 

「ちっ、また流し ── 」

 

 事前の予想を覆すあまりに一方的な展開に。

 

「硬直時間が長い」

 

「あだっ!?」

 

 あんぐりと口を開け、呆然とする他になかった。

 

 まぁ、苦戦くらいはするかも知れない。だけど、なんだかんだ言って姐さんが勝つ(ゴリ押す)だろう。

 

 かつて彼女を含めた鬼が支配していた山に住む妖怪達は、そう考えていた。何せ天狗ですら頭の上がらない最強の種である鬼だ、幾ら相手が神とはいえ劣りはしまい。その力が如何に恐ろしいものであるかを直に見てきた、或いは伝え聞いてきたからこその勝敗予想であった。

 

「痛ったぁ……。何さその受け流し、まるでこっちの攻撃が当たらないじゃあないか。それにしてもおかしな話だ、華扇(かせん)でもこう上手くはやらないってのに」

 

「積んできた年季が違う。あと躱し方もな」

 

 山には、秋を司る姉妹の神や厄神もいる。そういった、所謂戦闘向きではない神が戦ったのならば彼らの予想も当たっていただろう。秋の神のうち姉の方など、今頃頭に大きなたんこぶを作って涙目になっていてもおかしくない。

 

 では、何故力も攻撃の回数もユウを上回っている勇儀が劣勢を強いられているのか。答えは簡単だ、ユウは一般的な神などという枠に収まる存在では到底ないからである。

 

「年季って、あんたねぇ。長生きしただけで私の攻撃ひょいひょい躱せてたまるかってんだ」

 

「千年生きただけの普通の妖怪が俺と同じようにやったら、まぁ当たった箇所が骨折で済めば万々歳だな。言っただろう、躱し方が通常のそれとは違うんだ」

 

「あぁ。その全身に纏ってるやつかい」

 

「ご名答。これのお陰で、お前の馬鹿力も傷なくいなせるって寸法だ。尤も、外郭は結構ボロボロになってきてしまっているが」

 

 ユウは無傷だった。勇儀の攻撃は強力かつ苛烈であり、彼が作り出している保護膜をどんどんと削っていくだけのものであったが、それよりも彼が膜を再生させる方が早いのではどうしようもない。

 

 対して勇儀は、激しく動いたことと的確な攻撃を貰い続けたのが祟り、息も上がってしまっている。ユウはまだ数回しか攻めていないが、その全てが彼女に刺さるという結果は誰も予想していなかった。…他ならぬ張本人たるユウを除いては。

 

「私の力じゃあんたの技を突破できないみたいだねぇ。……このまま続けても、多分暫くしたら私が負けてるだろうさ」

 

 ふぅ、と息をつき勇儀はそう言った。それは、戦い勝つことを何にも代え難い喜びとする鬼らしからぬ言葉であった。ましてや彼女は鬼の中でも五本指に入る実力者だ。そんな彼女が事実上の敗北宣言をするなど、一体誰が予想できたであろうか。

 

 結界の外で、妖怪達はざわざわとする。聞き間違いかと考えるものも、決して少なくはない。同族である萃香でさえ、意外そうな顔をして勇儀を見ていた。

 

「珍しいな、星熊。鬼が弱音を吐くなんて」

 

「そうだね。戦いを好む私らしくない物言いなのは自覚してる。でもさ、私だって完全に自分の上を行く相手に勝てるなんて言えるほど神経太くないよ」

 

 道を塞ぐものは全てその拳でブチ壊してきた。自分を退治して名声を得ようとする人間、自分を倒すことで格を上げようと企む妖怪。そんな奴らは、どいつもこいつも同じように殴り飛ばしてきたのだ。そんな阿呆共は、全員が格下であった。

 

 今自分を追い込んでいるのは、過去に最強の鬼すら下してみせた桁外れの神だ。比べるまでもなく、遥か格上の存在である。

 

 だから、勇儀は負けを認める。それが確かな力を示した強者に対する賞賛であると彼女は思っている。

 

 ……だからこそ、 勇儀は挑みたくなる。自分など歯牙にもかけないような高みにて泰然と座する強敵に、それでも自分の持てる全ての力をぶつけたい。

 

「ユウ。一つ、頼みがある」

 

「頼み?聞くだけは聞くが、叶えられるかは別だぞ」

 

「次の一撃を受けてみてくれ。私の、正真正銘の全力を出すから。それに、勝ってみてくれ」

 

 彼女は思う。もし今までと違い正面衝突をしたら、果たしてどちらが長く立っていられるのだろうかと。

 

「ふむ」

 

 ユウはその頼みを聞き、思案顔になる。

 

 躱せではなく、受けろと来たか。この時点で受け流しは使えない。極論、彼はやろうと思えば異常に厚い壁を作って勇儀の全霊の一撃をやり過ごせる。だが、彼女が求めているものは恐らくそれではないはずだ。

 

 この場合の『受けてくれ』は、ほぼ『撃ち合いをしよう』と同義だと彼は思っている。どうにも勝ち目がないのであれば、せめて純粋な力だけならどちらが上なのかはっきりさせたいのだろう。

 

 自分で言うのも何だが、ユウは自分より勇儀の方が力においては上を行くと認識している。あの頃ならいざ知らず、もう立派に成長した高位の鬼より強靭な肉体なんて持ち合わせていないのだ。即ち、まともにぶつかり合えば身の安全は全く保証されない。それが分かっていたからこそ、彼は先程まで真正面での攻防を避けてきた。

 

 だが、この勝負を断れば勇儀が不機嫌になるのは目に見えている。折角久しぶりに会ったのだから、やはり下手に機嫌は損ねたくないというのが彼の思いである。

 

「……いいだろう」

 

 数十秒ほど悩んでから、彼は結論を出した。

 

「その勝負、受けて立つ。……紫。神社の一角を荒らしたらここの神が怖いから、結界の強化を頼む」

 

「了解したわ」

 

 しっかり防御を固めておこう。そう決意して、彼は勇儀の提案に乗った。

 

「……うん。これで、おそらく大丈夫なはずよ。でももしものことがあったら色々と困るし、周りの妖怪妖獣達は距離をとっておいて下さる?」

 

 神と鬼とのぶつかり合いを完全に相殺できる結界とは、断言できませんもの。その言葉を聞いた妖達は、一斉にざざーっと結界から離れる。

 

 万が一衝突の衝撃に結界が耐えられなかった時、迂闊に近寄っていては命が保証されない。彼らの激突は、寧ろ周りの野次馬の方が危ない可能性すらある。

 

「さて、と」

 

 ユウの周囲を囲んでいる神気が、より強いものとなる。勇儀との衝突に備えて、体の保護膜を硬化させたのだ。

 

 手を軽く握りまた開き、感触を確かめてから()()()。必ず顔か胴体を狙ってくると分かっているなら、構えていた方が早く対処できるからだ。

 

「俺の準備は万端だ。いつでも来てくれて結構だぞ」

 

「そうかい。それじゃあ早速、行かせてもらうとしようか!」

 

 姿勢を低くし、戦闘中にも増して凄まじい妖力を体に巡らせた彼女は、四股を踏むかのように大きく足を上げた。

 

 「四天王奥義『三歩必殺』!」

 

 奥義。別称、奥の手。宴会の余興めいたこの戦いでそのカードを切ってくる辺りが、鬼らしいというか何と言うか。

 

 ユウはこの技がどのようなものかを知らない。かつての勇儀はこんな技を使ってこなかったし、そもそも使えるだけの力もなかった。ある程度のアドリブ的な対処は必要になってくるかと、少し気を引き締める。

 

「一!」

 

 右足で地を踏み抜く。びきん、と地面が砕ける音が聞こえてくる。勇儀の足元に、まるで蜘蛛の巣でも張られたかのようなヒビ割れが出来上がっている。

 

「ニ!」

 

 さらに左足でもう一つ蜘蛛の巣を作ってから、溜めの姿勢に入る。大柄な彼女が大股で二歩踏み込んできたため、既にユウと勇儀との距離は広くない。もう一歩踏み込まれれば彼女の拳はユウに届くだろう。

 

 ちらと顔を見れば、露骨に牙を剥く狂戦士(バーサーカー)。紛うことなき全力を投じていることがよく分かる顔である。

 

 これと張り合うのは難儀なことだと心中小さくない溜息をつきながら、ユウも少し右腕を引く。最大限の腕力を発揮できるまで引き、セッティング完了。後は勇儀と同時に撃ち出すその時を待つのみである。

 

「……さあああぁぁぁんっ!!」

 

 そして、数瞬の後にその時は訪れた。彼より背の高い勇儀が拳を振り下ろし、それに対抗する形でユウが拳を撃ち上げる。衝突点は互いの一撃のエネルギーが最大限に達する場所になるだろう。

 

 ラブもロマンスもまるで感じさせないほどに荒々しく、手と手が触れ合う。その瞬間、目の前に雷が落ちたかの如き爆音が神社を駆け巡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あー、疲れた」

 

 音が止み、結界の中が静かになってから数秒して、縁側付近にいた霊夢は大きく息を吐いた。その様子には、疲労の色が濃く現れ出ている。

 

「紫の補強がなされた私の結界が持っていかれそうになるって何よ、私は怪獣大決戦の審判してんじゃないのよ」

 

 糖分糖分、といつの間にか用意していた大福をぱくつく霊夢に、横で座って観戦していた魔理沙が茶々を入れる。

 

「概ね間違ってもいないんじゃないか?私からすればどっちも怪物じみた強さだったぜ」

 

「柔と剛との頂上決戦とでもいえば良いのかしらね。途中まで軍配は柔に上がりそうだったけれど、最後の最後でどうなったか分からなくなっちゃったわ」

 

 さらにその隣でふよふよと浮く人形を従えながらアリスが一言。それに反応し、魔理沙が勝者予想を始める。

 

「私は勇儀の逆転勝ちに一票。鬼は舐めちゃあいかんからな」

 

「神こそ侮るべからず、よ。私はユウさんが勝ったと思うわね」

 

「ユウさんかしら。何と言うか、彼が負ける未来が見えないわ」

 

 結果は二対一でユウの勝利を予想した人数の方が多くなった。別に何を賭けているわけでもないので、外したところで誰にデメリットが及ぶこともないが。

 

「おいおい、勇儀に賭けたのは私一人か。博徒(ギャンブラー)の血が騒ぐなぁ」

 

「あんたいつからそんなきな臭いご身分になったのよ」

 

 魔理沙のボケに、霊夢の鋭いツッコミが飛ぶ。そんな見慣れた光景から目線を離し、アリスはようやく濛々と湧き上がっていた土煙の収まってきた結界内を見る。

 

「決着はついたみたいね」

 

「お、どうだったんだ?」

 

「引き分けではないわ」

 

 いや、どっちが勝ったか聞いてるんだよ。そんな魔理沙の文句を流し、アリスはそうそうと一つ付け加えた。

 

「魔理沙、何も賭けてなくて良かったわね」

 

「と言うのは」

 

螻蛄(おけら)になるところだったわよ」

 

 そりゃ助かった。そう言いながらからからと笑う魔理沙を見て、何か吹っ掛ければ良かったかと二人は悔いたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……は、は」

 

 ここに雌雄は決された。ユウが立ち残り、勇儀は吹き飛ばされて横たわっている。つまり、この勝負はユウの勝利ということになる。

 

「これは、完敗だ」

 

「腕を上げたな、星熊。最後の奥義とやらはかなりの破壊力だった。……まさか、折られるとは」

 

 だが、その彼とて今度ばかりは無傷とはいかなかった。かなりの強化を施したはずの保護膜は想定以上のパワーの前に砕け割れ、彼の骨までもがへし折られることとなったのだ。

 

 迎撃した姿勢のまま折れた腕と勇儀とを交互に見ていたユウに、痛がるそぶりは見えない。勿論痛覚という概念が存在する以上痛みを感じてはいるものの、やはりそこは並々ならぬ人外。苦痛に顔を歪めるほどのものを感じてはいないようだ。

 

「何を言ってんだい。ケンカで負けて、力比べでも負けた。言い訳のしようもない完敗だよ」

 

「俺の腕を折っておいて完敗はないだろうよ。骨折するのなんて何年ぶりだと思ってる。……まぁとにかく、それなりの傷を負ったんだから後は大人しく酒を飲む程度にしておけよ」

 

「はいよ」

 

 致命傷ではないものの、勇儀の受けたダメージは決して軽いものではない。もう一戦誰かとやり合うのは全くお勧めできないので予め釘をさしておく。鬼から酒は奪えないと分かっているので、そこは仕方ないと妥協したが。

 

「一応ちょちょいと応急処置はするが、この歓迎会が終わるまでに癒える傷ではないし、今日は家まで送っていってやろう。流石に傷身の女を一人で帰らせるのは良くないしな」

 

「そりゃありがたい。喋りたいことも沢山あるし、今日は泊まってくかい?ちょいと事情の複雑な所に住んではいるが、ユウなら歓迎するさ」

 

「うーん。場合によっては紫の家で二次会に発展するだろうし、返事は保留にしておくよ」

 

 先程まで激闘を繰り広げていた二人のものとは思えないほど穏やかに会話しながら、ユウは勇儀に軽い処置を行う。

 

 彼は、自身の持つ特殊な力を用いて魔法のようなものを行使することができる。その特殊な力の源になっているのは、この世界を流れる龍脈である。生物の営みが一種のエネルギーとして地に染み渡り龍脈に流れ込み、その無尽蔵のエネルギーを汲み上げているというわけだ。

 

 生命がこの世から途絶えない限り決して龍脈が枯渇することはないため、事実上ユウは力を使うことによる疲労を起こさない。無論、一度に使用できる力には上限があるが。

 

「おぉ、ちょっと楽になった気がするよ。器用なもんだねぇ、あんたってば」

 

「器用貧乏は俺の取り柄さ」

 

「よく言うよ、器用富裕さん。あんたには得意技と呼べるようなものが山のようにあるじゃあないか」

 

 揶揄いながらも、少しずつ痛みの消えていく体に勇儀は驚いていた。この分なら、じきに歩けるようになるかも知れない。

 

「……む。結界が消されたってことは、これで正式に勝負が終わったんだな。星熊、悪いが俺は席に戻るぞ。忘れかけていたが、鮪がまだ残っているんだ」

 

「おう、行きな行きな。もしかしたらイタズラ娘がぱくっと食べちまってるかも知れないけどさ」

 

「もしそうなってたら、あいつの頭に大きな鏡餅を作り上げてやるよ」

 

 頭の大きさに負けないくらい大きなたんこぶを上下に二つ引っさげ、泣きながらユウの前に正座する紫。あまりにシュールすぎる光景を思い浮かべてしまった勇儀は、誠に失礼ながら笑ってしまうのを堪えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「勝ったわね。…ま、当たり前か」

 

 シートにてワイン片手にレミリアは独りごちる。フランドールは久しぶりに会ったユウと会話をしようと歩いていったため、今彼女の隣にはいない。

 

「鬼ってのも結構な強さだったけど、それでも兄様には及ばなかった。幻想郷で最も強いものは誰かというのは割と前からある疑問だけれど、これで決着を見たでしょう」

 

 ワインを一口飲みながら、ぱっと頭に浮かんだ強力な人妖とユウとを対比する。誰を引き合いに出しても等しくユウの勝ちしか見えず、五人目の藍の時点でそれ以上考えるのをやめてもう一口。

 

「天に届かんばかりの大きな火柱があったとしても、太陽の前には誤差程度のものにしかなれない。幾ら濃い黒の絵の具を塗りたくったとしても、一切の光も差さない闇とは比べるべくもない。……彼の幻想入りは、この幻想郷に未だ嘗て経験したことのない未曾有の変革を齎すことになる」

 

 それが全て良いものであるとは、ユウを慕うレミリアと雖も断言できない。彼自身はその気でないとしても、大異変の間接的な原因になってしまう可能性は、充分に考えられるだろう。

 

 でも、皆が力を合わせて努力すれば乗り越えられないわけではないはずだ。彼が絡んだ時の幻想郷の少女達のパワーは、計り知れないものとなるに違いない。それらを結集させれば、どれだけ硬かろうと壊せない壁などきっと無い。

 

 これを根拠に乏しい妄想だ、妄言だとして疑う気は無い。

 

「……」

 

 だけど、フランドールとの会話に興じている彼を見ているレミリアの気持ちは、どうにももやりとして晴れない。

 

「今気にかかるのは、この運命ね」

 

 ユウと勇儀との激闘の最中、彼を見ていた彼女はとある運命を見た。勿論見えたのは無限の選択肢を持つ運命の内の一つであり、必ずしもその未来が訪れるというわけではない。……だが、そうなってしまう恐れはある。

 

「これから先、数多の人妖に影がかかっている。八雲、風見、それに私達紅魔館の面々にも。…そして何より、兄様にも」

 

 一瞬だけ、幾つかのビジョンも見えた。暗い場所、剥き出しの岩、謎の白い靄のような何か。そして、誰のものかは分からないが止めどなく流れ続ける大量の血。お世辞にも楽しい未来を予感させるものではないために、レミリアは心を悩ませているのだ。

 

「一体、何が起きようとしているのかしら。この気持ち悪い胸騒ぎが杞憂に終わってくれると嬉しいんだけどね」

 

 彼女は知らずのうちに考える。ユウがやって来てから初めて見えた未来がこれである以上、見えた光景はユウに何らかの形で関係してくるはずだ。岩などは、彼がこれから向かう場所を暗示していると見て間違いあるまい。

 

 だとすれば、滝のように流れ落ちるあの血は一体誰のものとなるのだろうか。そんな、まさか ── 。

 

「……いえ」

 

 そんなはずはない。強く念じつつ頭を振って、浮かんできた最悪の想像を追い出す。

 

「兄様が、そんな目に遭うはずがないわ」

 

 きっと、野生動物か何かのものだろう。彼女に近しい存在が流しているなんて、そんな馬鹿な話があってたまるか。彼女ははっきりと心の中でそう唱える。そうでもしなければ、心の何処かで増大し続ける言い知れぬ不安に胸を裂かれそうな気すらしたから。

 

 ワインの残りを一気に飲み干し、嫌な気持ちごと嚥下する。いつまでもうだうだしているのは性に合わないからと、半ば強引に気持ちを切り替えて歓迎会を楽しもうとするレミリアの判断は、きっと間違ったものではなかったのだろう。

 

 後に彼女は、この決断をしたことを心の底から悔やむこととなる。

 

 そう。どうしてこの時点で彼に注意を促さなかったのかと。



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第五話 ちょっぱや天狗娘

「あー……。面倒な片付けさえなければ、文句無しで満点の時間って言えたのに」

 

「霊夢。家に帰るまでが遠足ですわよ?」

 

「片付けが終わるまでが歓迎会ってか。何言ってるんだか」

 

「まぁまぁ。私や紫様も手伝うから、ちゃっちゃとやっていこうじゃないか。他にも何人か手を貸してくれている者もいるし、あまり時間もかからないことだろう」

 

「霊夢、私と魔理沙とで食器洗っておくわ。道具一式を借りるわよ」

 

「ありがと、アリス。……ったく。食い飲みだけ一丁前にやって後は知らんぷり決め込んでる鳥にも劣る奴らには、是非ともアリスの心遣いを見習ってほしいものね」

 

「おいおい、この心強い魔理沙さんの存在を忘れてもらっちゃ困るなぁ」

 

「酔った勢いで私を担ぎ上げて遊んでたことなら、まだ忘れてないわよ」

 

「皿を沢山洗わせてもらうぜ」

 

「五十枚洗えたら不問としてあげるから頑張りなさい。それと紫、急な宴会でうちの食料もある程度使ったから補充しておいてちょうだい。このままじゃ明後日の夜ご飯は作れなさそうだし」

 

「はいはい。何をどれだけ欲しいのかしら」

 

「取り敢えず一ヶ月分の牛肉と鶏肉があれば良いわ」

 

「年頃の女の子がお肉ばっかり食べるものではないわ。野菜も一定量入れとくから、ちゃんと食べなさいね」

 

「分かってるわよ、そんなこと。……あ、あと西瓜も二玉追加で」

 

「お腹を壊すから、一玉にしておきなさいな。それじゃあ、お肉と野菜と西瓜を明日の朝藍に届けさせるようにするわね」

 

「ん。……そういえば、ユウさんも帰ったのよね。まだ彼は後片付けをきっちりとしてくれてるから良いんだけど」

 

「彼は長く生きているからね。それなりの礼儀ってものが身に染みついてるの。ただ小さくて可愛くて強いだけのマスコットじゃないのよっ」

 

「いきなり食い気味に喋らないで、怖気がするくらい気持ち悪いから。ま、ユウさんは少なくとも信用はできるってことが分かったわね。これでお賽銭を定期的に入れに来てくれたら完璧だわ」

 

「お賽銭は神様に強請るものじゃないでしょうに。とにかく、是非ともユウと良好な関係を築いていってちょうだいね?きっと貴女にとって素晴らしい経験となるから」

 

「言われなくても、彼と喧嘩するなんて想像もできないことだわ。一緒にお茶なんて飲みながらのんびりと喋ったりしてたら、良い暇潰しになりそうで良いじゃない」

 

「ふふ。それは嬉しいことですわね。彼も話し相手が増えて喜ぶことでしょう」

 

「私もあいつのことは気になってるんだ。神の力なんて、魔法の研究に応用できればどれだけとんでもない成果が出せるか分かったもんじゃあない。他の奴らに取られる前に、予約を入れておかないとな……あっやべ」

 

「魔理沙、今のぱりんっていう甲高い音は何かしら。まさか魔法のことを考えるのに熱を入れすぎて、手元を狂わせてお皿落としたなんて阿呆なことをやらかしてないでしょうね」

 

「さ、流石霊夢。一字一句間違ってないとは、凄いなぁ!いやー凄いなー、やっぱり博麗の巫女って見てなかったことでも分かっちまうんだなー良いなー!!」

 

「棒読みで褒めても賠償請求しか出せないわよ」

 

「明日代わりの皿を買ってくるぜ。とほほ、あの金は魔法研究の材料費にしようと思ってたのになぁ。急いては事を仕損じる、取らぬ狸の皮算用ってのはこの事だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月が煌々と輝き、足元をゆっくりと歩む小さな虫まで良く見える安全な帰り道。てくてくと家路を進むのは、鬼娘二人に神一柱。

 

「いやー、色んな奴がいて騒いで、楽しい歓迎会だったねぇ。ユウもそう思わないかい?」

 

「あぁ。古い知り合いの顔も幾つか見ることができたし楽しい()()だったな」

 

萃香が同意を求めれば、ユウが何処か皮肉混じりに返す。どうやら彼は、自分達に何か一言物申したいらしい。そう推測した彼女は、何か嫌なことでもあったのかと尋ねてみる。尤も、彼の苦さが浮かぶ表情を鑑みるに、返ってくる答えは分かりきっているが。

 

「頭が痛い」

 

そーら見たことかい。萃香も横で会話を聞いていた勇儀も、やっぱりかという顔をしてユウを見る。先の試合で折れた右腕は魔法で治されており、彼はその右手で側頭部を抑えながら歩いている。無表情を保っている顔にも渋さが増しているように思われるのは、はたして気のせいか誠か。

 

「ユウが酒に弱過ぎるんだよ。そりゃあ鬼の好む酒の中でもかなり強めのやつだったことは否定しないけどさ、だからって一升枡二杯いっただけでもう無理ってのはどうなんだか」

 

「俺は上戸でも何でもないって何度言えば分かるんだ阿呆」

 

そう否定したが、彼は実のところ平均値を大きく上回るくらいには酒に強いタイプである。鬼御用達の酒を二升も飲んで、意識を失うことなくきっちりと自分の足で歩けているのだから、間違いない。単に酒の方が並外れて強かっただけの話である。

 

常人なら、あの酒を一口飲んだだけで卒倒すること請け合いだ。酒には深い味わいを楽しむためのものとただ酔うためのものがあるとユウも聞いたことがあるが、今回飲んだというか飲まされたものはそのどちらにも当てはまらないように思えた。怨敵を確実に殺すための酒と言われた方が彼も納得がいく。

 

正直、下手な劇薬より殺傷能力は高いだろう。それでいて、酒なのだから堂々と持っていても怪しまれることは少ない。はて、酒とは優秀な暗殺武器だっただろうか。

 

「ケンカじゃ手も足も出なかったが、こっちでは私達の方が強いみたいだね」

 

「鬼の飲み相手になれるのなんて、それこそ一部の酒豪くらいじゃあないのか。例えば天狗とか同じ鬼とか、後はちょっと厳しいかも知れないが蛇とか」

 

「今はそんな奴もほぼいないよ。昔はまだ良かったんだ、私達に一晩付き合えるくらいのが幾らかいたからねぇ。今の若造共になんて、十人がかりで挑まれても潰される気がしないさ」

 

強がりや慢心で言っているわけではない。鬼という種族は、乾いた巨大なスポンジが水を吸うかの如き勢いで酒を流し込む。並の天狗の許容量を湯呑み一杯分とするならば、勇儀や萃香はさしずめバケツ一杯分と言ったところだろうか。

 

「もう少し待てば、それなりに飲める奴も出てくるんじゃあないのか。天狗の酒事情なんてあいつ以外はあまり知らないが」

 

「あいつって、前の天魔の爺さんのことか?」

 

いや違うと言う代わりに、彼は首を横に振った。

 

「前と言ったが、あの好色翁はもう天魔じゃないのか」

 

天狗を治める長は、天魔と呼ばれる。基本的に優れた先見の明を持つ聡明な天狗がこの役を務めることになっているのだが、話に出てきた前代天魔もご多分に漏れなかった。ただし女、特に幼子が関わる案件になると途端に鼻の下を伸ばして鼻息を荒くするばかりか目もぎらぎらと光らせるような危険物でもあったが。

 

「割と最近までは第一線で頑張ってたよ。だけど流石に寄る年波には勝てなかったみたいでさ、今は後釜を指名して隠居生活を謳歌してるね。変わんないみたいだよ、天狗のガキにちょっかい出しては白狼天狗に見つかって怒られてるって聞いたこともあるし」

 

「あいつは一回、びしっと締めておかないとそのうち子供攫いが起きかねんなぁ。……それにしても、後釜ねぇ」

 

ユウが知る中でもトップレベルの幼女達の天敵ではあるが、癖の強い天狗を纏め上げていたその手腕は確かなものだった。あれの後を継げるような秀才がいるのだろうかと彼が疑問に思ってしまうのも、無理はなかった。

 

「ユウはもしかしたら知らないかもね。若い時から将来をかなり期待されてた、鬼もお墨付きの逸材なんだけどね」

 

「そうそう。妖力の強さも然りだけど、前任と同じで部下を纏めるのが上手い。それでいて温和な性格してるもんだから、天狗以外の奴らからの信頼も厚いんだ」

 

鬼二人が揃って高い評価をしていることから、中々見所のある奴が今代天魔に就任したことを察したユウ。さて俺の知る中でそんな奴がいたかと記憶を探っていく中で、一人該当しそうな天狗が脳内に浮かび上がってきた。

 

「なぁ。もしかしてその天狗の名前って、射め」

 

次に彼が言いたかった文字は、『い』だった。さらにその次に二文字続いていくはずだったのだが、彼の口からそれらの文字が出てくることはなかった。

 

突如上空より凄まじいスピードで滑空してきた飛翔体が、後ろからユウを撥ね飛ばしていったのだ。あまりに突然かつ突拍子もない出来事であったため、彼も全く反応できずにカッ飛ばされていった。或いは、酒に頭を侵されていなければ回避に臨むことができたのかも知れないが。

 

ずぅんという一瞬重い音の後、ぱぁんと空気が勢い良く弾けるような音を勇儀達は聞いた。その音を認識した時には、既に彼女達の隣からユウの姿は消えていた。千年以上生きる彼女達もこんな経験をしたことは一度もなく、理解の追いつかない事態に唖然としながらユウのいた所へ目線を向ける他にできることはなかった。

 

「……」

 

「えっと……?」

 

萃香がぽかんと口を開け、勇儀が困惑を深める。どうやらユウはぼんぼんとバウンドしながら長距離を転がっていったらしく、地面には断続的に衝突の跡が付いていた。最初の方の跡は軽く地面を抉るほどのものであり、どれだけ強い衝撃を彼が受けたのかを何処か呆れたように物語っている。

 

共に立ち尽くすことしかできないでいること一分足らず、ユウの飛ばされていった方向から何やらとても嬉しそうな声が聞こえてきた。

 

「お師匠様ぁーっ!」

 

あ、このちょっと幼めの声は知ってる。二人はほぼ同時にこの声の主の正体を看破する。

 

「お久しぶりです、お久しぶりの射命丸(しゃめいまる) (あや)が貴方の元に馳せ参じましたよっ!」

 

なるほど、暴走列車の如く思いっきりユウを轢いたのは文であるらしい。姿を視認するのが困難なほどのスピードも、彼女が出したというのなら納得できる。

 

「いやー、お師匠様が幻想郷に来るって話は前々から聞いていたんですよ。具体的な日程時間まで、詳しく紫さんに教えて頂いてましてね。その日に間に合うように仕事を前倒しで終わらせて、わくわくしながら今日を待っていたわけです。……それが、どうでしょうか。今から遡ること半日ほど前、突如舞い込む緊急案件という名のお邪魔虫!急いで解決を図るも、予想外に根が張っていてそう簡単には片付かず、やっとこさ終わったのがついさっきですよついさっき!!」

 

余程フラストレーションが溜まっていたのか、勢い良く不満をぶちまけていく文。仕事のせいで大切な予定を狂わされたことに対して怒るのは分からないでもないが、それは決してユウのせいではない。……だから、あまり思うがままに捲し立てていると。

 

「お陰で歓迎会には顔すら出せず終い。あぁ、大変申し訳ないですお師匠様。貴方の三番弟子として是非とも参加したかったです……あっ、どうしたんですかお師匠様。私の頭を握るみたいに掴んで、撫でてくれるならそっと手を置いて優しだだだだだだだだだっ!?」

 

こうなる。まさに必定、自明の理である。何が行われているのか目で見ることはできないが、大凡を察することは容易であった。

 

「痛い痛いイタイっ!お師匠様、私の頭は握力を測定する装置ではないんですが……え?俺だって今まさに頭痛に苛まれてる、ですか。いやそれとこれとに何の関係があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」

 

猛威を振るう荒御霊の所に割って入ったら、自分達にどんなとばっちりが飛んでくるか分かったものではない。一瞬でアイコンタクトを交わし意思を疎通させ、彼女達は大人しくその場でユウが烏狩りを終えるのを待つことにした。己らの命を最優先とした誠に賢明な判断、天晴れである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、頭が弾けた木の実みたいになるところでした…」

 

数分後、二人は連れ立って戻ってきた。一人は待たせて悪いと軽く謝りながら、もう一人は涙目で頭を抑えながら。

 

「さっきのやつのせいで頭がおかしくなって動くこともままならなくなっちゃったら、責任取って私を献身的に介護して下さいね?勿論お風呂もお任せしますし、食事はあーんです!」

 

「ただでさえ厄介な面倒事製造娘がいるんだ。そんな所にまで手は回せん」

 

「むぅ、久しぶりの再会だというのにつれないですね」

 

ユウと文とは、既に知り合っていたらしい。それも、冗談の範疇で手を出し軽口を叩き合えるくらいに仲も良い。

 

彼女は幻想郷が成立してから外へ出たことはないと、勇儀や萃香は記憶している。つまり、こちらも最低でも千年ぶりの再会となるだろう。自分達といい八雲主従といい文といい、まったく古馴染みの多い奴だと、彼女達は感心半分呆れ半分であった。

 

「こんばんは、勇儀さんに萃香さん。ご無沙汰しております……あれ、勇儀さん。その怪我はどうしたんです?」

 

「おう、久しぶり。いやね、実はユウと模擬戦をしてさ。それでこうなっちまったんだよ」

 

「模擬戦ですか。幻想郷に新しくやってきた神様と力において比肩するもののほぼいない鬼との戦いともなれば、かなり上物のネタとなってくれるでしょう。勇儀さん、もし宜しければお話を伺っても?」

 

「私は良いよ。ユウが構わないってんなら、話してやっても」

 

瞬間、目の前に文の顔があった。あまりに躊躇なく速く迫ったために、三人の目には一瞬文の残像が見えたくらいである。

 

烏天狗の中には、新聞を作りその腕を競うことを趣味とするものがいる。文もその一人なのだが、今丁度めぼしいネタに恵まれていなかったのだ。そこに舞い込んできた、大多数に需要の多そうな情報。食いつかないはずがない。見逃すはずがない。

 

きらきら、きらきら。光り輝く文の目に星が見えたのは、きっと見間違いではないのだろう。期待に満ち溢れた文の目は、じっとユウの顔を捉えて離さない。えらく明るい脅迫もあったものである。

 

すすす、とさり気なく距離を開ければ瞬きする間に寄ってくる。その間に表情がブレるようなこともない。最早下手なホラー展開よりよっぽど今の文の方が怖いと、彼は冗談抜きで思った。こんな無言の圧力をひしひしとかけてくるような子ではなかったはずなのだが、はてさて。

 

「良いよ」

 

これ以上直視されると光に網膜を焼かれそうな気がして、ユウは一も二もなく許可を出した。

 

「だが、星熊も怪我している身だ。分かっているとは思うが、無理をさせるなよ」

 

「当たり前です。幻想郷の清く正しい聞屋の名にかけて、そのような不躾な態度は取りませんとも。……さぁさぁ勇儀さん、許可も出たことです。張り切ってお話を聞かせて頂きましょうか!」

 

「あんたって、新聞のことになると途端にぐいぐい来るよね。ま、元気そうで何よりなんだけど」

 

苦笑いを浮かべながら文に先程の戦いについて語り始めるのを見ながら、ユウは萃香の方へ。ゆっくりとしたペースで勇儀の家へと向かおうと提案する。

 

「そうだね。酒でも飲みながら、ゆっくりね」

 

瓢箪を傾け、ごくごくと喉を鳴らし酒を飲む萃香。歓迎会で大樽一つ空けておきながら、その勢いはまだ衰えることを知らないようだ。これにはユウも、若干引いたような様子を見せる。幾ら急性アルコール中毒になる心配がないとはいえ、飲み過ぎではないのか。

 

「ありゃ、ユウは知らなかったと見える。鬼の酒力に際限という二文字は無いんだよ」

 

「別腹じゃああるまいに」

 

全く、底無し沼は怖いものである。明らかに身の丈に合っていない量の酒を胃に収めるなんて、そんな物理法則にケンカを売ってまでしなくても良いことではないのか。

 

しかし萃香は、幻想郷でも一際癖の強い能力の持ち主だ。炎の拳を放ったり擬似的なブラックホールを生成したりと、何をどうしたらそんな効果が生まれるのかというようなデタラメな芸当ができる。そう考えれば大酒飲みくらい何てこともないのかも知れない。

 

「そうだ」

 

時間が流れる理由を探すように、鬼が酒を限りなく飲む理由も到底解き明かせるものではない。答えの出ない問答に興じられるほど体のコンディションも良くないため、ユウは早々にこの話題から撤退することを選択した。

 

「そういえば伊吹、お前は近々幻想郷に適用される新ルールとやらについて聞いているか?」

 

代わりに提示したのは、もっと重要な話題だった。

 

「というと」

 

「スペルカードルールだったかな」

 

「あぁ、それなら紫から聞いてる。妖怪と人間が同じ土俵の上で戦えるようにするための手段だっけね」

 

歓迎会の最中に、これは知っておいてほしいという前文句付きで紫から聞いた。何でも、無益な命のやり取りを減らすために考案された策なんだとか。

 

攻撃方法は基本的に弾幕とし、回数に限りのある必殺技としてスペルカードなるものを使用するらしい。カードと言ってもそれ自体に効力があるわけではなく、今からこういう技を使うぞと相手に示すことができればそれで良い。さらに、意図して相手を殺傷するような攻撃は禁止される。

 

不慮の事故については各自で注意する他にないが、これらのルールがあれば幻想郷はより平和な世界となっていくだろう。幸いにして幻想郷最強クラスの連中は皆殺しを好まない質だから、圧倒的強者達による蹂躙は起きないはずだ。

 

「採用に値するルールだと思うよ。ただ強いとか避け辛いとかだけを追求するんじゃなくて、美しさも追い求めていかなきゃいけないってのも新鮮で良い。勝負のことを弾幕()()()って言うのは少し不満だけどさ」

 

「あくまでごっこ遊びの範疇に留めろってわけか。なるほど、あいつらしい」

 

ごっこ遊びだって、真剣に向き合って突き詰めていけば質を高めることはできる。強者同士が互いの手の内を読み合うことによる駆け引きなど、見ていて飽きないほどに面白いことだろう。見るも良し、実戦するも良しの素晴らしい制度ではないか。

 

幾何学模様に美しさを感じるものもいれば、百花繚乱乱れ撃ちの弾幕に美を見出すものもいる。その辺りに個性も現れそうで楽しみだ。

 

「スペルカードを考えないといけないな」

 

「私もだ。やっぱりこの能力を活かした格好良いのが作りたいねぇ。……ユウ、実装された暁には一つ戦おうじゃあないか」

 

「ふむ。良いぞ、お前になら本気を出せるしな」

 

「そうこなくっちゃね!ふっふっふ、歳月を経て強くなった私の力を見せる時が楽しみだなぁ」

 

あ、余計な釣り文句だったかも知れない。しまったやらかしたとユウは口角を引き攣らせる。

 

「お師匠様と萃香さんがスペルカードルールのお披露目をすると聞いて!」

 

違うのも釣れてしまった。いよいよもって間違いない、さっきの一言は余計だった。後悔先に立たず、飛び出した言葉は口に戻らない。

 

自分で面倒事を呼び込んでいては世話もない。口に戸は立てられないと分かっていながらも、気をつけなければいつか厄介なことを招いてしまいそうだと、注意を深める。口から出た災いの種を咲かせてしまうと、何が起きるか分かったものではない。

 

安寧を求めて行動しようと、今一度彼は強く決意を固めるのだった。



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第一章 地の底で燻る猛き不穏 第六話 地底入行①

「着きました。ここが私達の住む山である、妖怪の山です。……なんて言っても、皆さん知ってらっしゃるとは思いますが」

 

 のんべんだらりと語り歩く以外のこともせず、歩を進めること十分と少々。ユウ達一行は天狗や河童などが社会集団を築き暮らす場所 ── 妖怪の山へと到着した。

 

「ふむ。懐かしいな、覚えている光景とあまり変わりもないようだ」

 

「ほんとだよ。山ん中に足を運ぶのも暫くぶりだねぇ」

 

「……ん?」

 

 千年見ることはおろか、話に聞くことすらなかった地だ。だから自分が今こうして懐かしんでいるのは道理であるが、どうして彼女までもがこの場所に来るのも久しぶりだと言っているのか。

 

「星熊、お前はここに家があるんだろう。暫くぶりって、何を言っている」

 

「や、違うよ。そういえば言ってなかったっけ、私に限らず殆どの鬼は、もう妖怪の山には住んでないんだ」

 

「初耳だな」

 

 てっきりこの山に住んで、天狗達相手にやれ酒だケンカだと無茶ばかり言っているものだと思っていた。何ならあまり虐めてやるなよと注意する用意もできていたくらいだ。

 

「この山って確か、お前達鬼が周りの種族ごと支配していた領域じゃあなかったか。それが何故、別の場所に家を建てるなんてことになってるんだ」

 

「それについて話すと長くなるし、私の家でゆっくりと教えてあげるよ。……それはさておき、じゃあ私の家が一体何処にあるのかって話をしよう。実は、この山のある場所には一つの穴があるんだ」

 

「穴ねぇ」

 

「そう。すっごく長くて深い、それこそ足滑らせて落ちたらまず助からないような穴がね。その穴を降り切ったら、とある別天地と繋がってるんだよ。私達は、そこを根城にしてる」

 

 つまり、地下深くの空間に居を構えていると解釈して間違いはあるまい。強い人間を見つけてはちょっかいを出して力試しをしてきた鬼が、どうしてその人間を避けるように地下へ移ってしまったのか。謎は残るが、勇儀の言葉によれば、そのことについて話すと長くなるらしい。

 

 なら、今ここで詳細を尋ねるべきではないだろう。今の目的はあくまでも一応怪我人の勇儀を家まで送り届けることなのだから。

 

「地底世界への穴というやつですね。お師匠様に久しぶりに会えたことですし是非ともお供したいところですが、残念ながら私はそちらまでは行けません」

 

「あぁ、そういえばお前は天魔を継いだんだったな」

 

 天魔。天狗を束ね妖怪の山を統治する、所謂エリート天狗である。ユウの知る限りでは、毎日大量の書類に目を通し、定例会議を開いて山の現状を把握するという仕事が課せられている。恐らく、彼の知らない仕事も幾つかあるだろう。

 

 正直、こんな所で油を売っている場合ではないように思うが、当の本人曰く『今日すべき仕事は既に終わっています』。嘘か誠か確かめる術は彼には無いので、彼女が残りたいと言うのならそれに合わせる他にない。

 

「それも大いにあるのですが。実はあの場所、地上の妖怪の立ち入りが禁じられているんですよねぇ」

 

 そのせいで、私もあそこに行ったことはありません。そう言いながら、溜息をつき肩を落とす文。暫く訪ねない間に作られた地底世界とは、どうやら閉鎖的な性格を持つ地域のようだ。

 

「情報の殆どが伏せられている得体の知れない場所ですから、記事にできれば間違いなく大売れするんです。購読者大幅アップなんです。それが分かっていながら指を咥えて諦めるしかないのは、何ともやり切れない気持ちになりますよ」

 

「あまりこういうことを言うべきでないかも知れないが、頼んでも無理なのか?その地底とやらに入るのは」

 

「無理ですね」

 

 きっぱりと言い切った。一度、試みたことでもあるのだろうか。

 

「あそこに住んでいる妖怪は、総じて一癖も二癖もある変わり者ばかりと聞きます。事実、私が地底の主に取材許可の取り継ぎを頼んだ妖怪がそうでした。妬ましい妬ましいと言うばかりで、まともに取り合ってもくれないものですから諦めて踵を返したんです」

 

 あの文が諦めたというのだから、余程脈なしだったのだろう。或いは、まともな応対をしなかったのは相手が地上の妖怪である文だったからかも知れない。…もしそうだとしたら、ちょっとだけ文に同情したい。禁止条例があるのは仕方ないにせよ、せめて話くらいは聞いてやれば良かったのにとユウは思った。

 

「あー。あいつに当たったのかい、文。運がなかったね、アレの機嫌が悪い時に声をかけようものなら妬まれに妬まれてお終いさ」

 

「心当たりがおありのようで。なるほど、あの態度は単に機嫌が悪かっただけのことでしたか。だとすれば、もう一度出向いて頼んでみればいける可能性もあるかも知れませんね」

 

 やはり、転んでもそう簡単に諦めない質は変わっていないらしい。話もろくに通じないままに引き下がらざるを得なかった相手の元にもう一度向かおうなど、並のものに思えることではない。それこそ、ユウだって一瞬躊躇いたくなるくらいだ。

 

 七回転べば、七回起き上がる。しかもその度に学習し同じミスを犯さないよう務める。誰でもやろうと思えばできることだと思われがちだが、その実かなり精神的な強さを持っているものにしかできないことである。

 

「おっと、私としたことがお待たせしたままでいるとは。申し訳ありません、すぐに地底へ続く穴の所へと案内しますね」

 

「お、ありがとう……って、ちょいと待った。私の記憶が確かなら、この山に入るには許可を取らなきゃいけないんじゃないのかい」

 

 天狗は自らの領域に迷い込んだ余所者に対して厳しく接するわけではないが、それでも仲間意識が他に比べて強い種だ。例え敵意を感じなかったとしても外部からの干渉をある程度減らしたがるのは、自然なことだと言える。そして、考案の結果生まれた制度が入山許可制である。

 

 妖怪の山に立ち入りたいのなら、理由を天狗に言ってからにすること。守らなかったものは、どうされようと文句は言えない。先代が作ったこのルールは、千年以上の時を経た今でもまだ生きているようだ。

 

「あ、それは私が出しますのでご心配なく。それに、鬼の方々を止めるような勇気ある白狼天狗(怖いもの知らずのわんこちゃん)はいないと思いますよ?」

 

 …ただし、以前と比べて少しフランクなものになってはいるが。天魔本人の許可ともなれば異議を唱えるものはいないだろうが、見方によっては職権濫用である。入山許可を出す役割を担っている天狗は、他にいるのだ。

 

「文、俺は大丈夫なのか」

 

「勿論!時間があったら山の住人達にお師匠様を紹介したかったくらいですから」

 

 ユウも問題なく入山できるらしい。時間のかかる手続きをしなくて良いのは嬉しいことだ。

 

 正直なところ、ユウはかなり疲労を溜めている。幻想郷という異界へ転移し、即座に開催された歓迎会においてそれなりに激しく運動し、果てには可笑しい程に強い酒にやられたのだから致し方ないことである。つまり何が言いたいかというと、彼は今休みたい。それはもう、ゆっくりと。

 

 だから、面倒な行程が一つ省かれたのは彼にとって大きなラッキーとなった。勇儀を送り届けた後に地上へと戻り、今後の居住地などについて紫辺りと話し合いたいと考えているため、彼女を待たせては悪いという意味でもあまり時間は取りたくない。

 

「よし、それじゃ星熊の家まで行こうか。俺も地底には縁がないから、楽しみだよ」

 

「はい。あまり私から離れすぎると侵入者と見なされて攻撃される恐れがありますので、そこの所を宜しくお願いしますね」

 

 今のユウは、お世辞にも戦闘をしたい気分ではない。なので今日ばかりは気にかかる物を見つけても文の側を離れないでいようと決意する。文はともかくとして、鬼共は迎撃に際した手加減なんて高度技術を殆ど駆使できやしないだろうから。

 

 よしんばできたとして、それが何になるのかという話でもあるのだが。一万度の液体を被ると人はまず助からないが、それは温度を五千度にまで下げたとしても変わらない。つまり、そういうことである。

 

 自分の気紛れのせいで尊い幾つもの命が脅かされるハメになったら、文にどう謝罪すれば良いのやら。自分の身を使って空いてしまった穴を埋める以外の方法が思いつかず、それはちょっと違う気がすると脳内で却下を出しながら彼は文達の進む方向へ続いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それにしても、驚いたよ」

 

 文の同伴はやはり大きな影響力を持っているらしく、山に入った直後に白い狼だか犬だかの少年天狗が事情を尋ねに来た以外は特に何の干渉も受けていない。遠目から数人に見られているが、わざわざ指摘するほどのことではないと判断した。天狗、鬼、鬼、神の四人組は常識的に考えてかなり珍しい組み合わせだろうから、じっと注目したくなるのも理解できる。

 

「驚いたって、何にだ」

 

「まさかユウと文との間に面識があったなんて。しかも会話を聞く限り師弟関係があるみたいじゃないか」

 

 そういえば、そのことは勇儀には喋っていなかったっけか。別に取り立てて話すほどの内容でもない気はするのだが、聞きたいというのであれば話しても良いくらいには考えている。だから彼は、簡単にぽぽんと答えておいた。

 

「昔な。ひょんなことから知り合って、懐かれた」

 

「へぇ。何かしら教えたりしたのかい?」

 

「前の天魔から上手く逃げられるように、速く飛ぶ練習に付き合ったりしたな。後は、助平爺を攪乱できるような飛行技術を教えたりとか、追い詰められた時に使える脱出技術とか」

 

「……今の文のとんでもない飛びっぷりには、そんな下らない由来があったんだねぇ」

 

 本当に下らない話だ。まさかより良く飛ぶための動機がド変態首領から逃げ遂せるためだとは。

 

 ほぼ肉体的に成熟しているであろう今でさえ幼い顔立ちをしているのだから、況や昔などどれだけ人形のように愛くるしい幼女であったことか。しかし、容姿が良いことは誓って本人の罪ではないのだ。罪あるはそれを狙う不逞の輩であり、裁かれるべきはその者ただ一人である。

 

「やっぱり文は飛ぶのが上手いのか」

 

「上手いなんてもんじゃないよ。幻想郷で唯一音より速く飛べるんだよ、あいつ」

 

 そこまで速くなっていたのか。これにはユウも驚かされた。小さい頃から高い飛行のセンスを持っていたが、それを腐らせることなくしっかり鍛錬しなければ音を超えるなど不可能なことだ。ユウと別れた後も、文はしっかりと鍛錬を積んでいたらしい。良きかな、である。

 

「速度だけじゃなくて、空中での自由度も高いね。前を飛んでたはずの文が、次の瞬間後ろにいることさえある。どうやったらあんな機動力がつくのか、是非とも聞いてみたいもんだよ」

 

空軍(air force)の飛行演習じゃあるまいに」

 

 超音速でかっ飛びながら縦横に飛行機雲を作り出す弟子の姿が、容易に脳内に浮かべられる。幻想郷最速ともなれば、止めるだけで一苦労だろう。まさに空を翔る混乱の種である。

 

「えあ……何だって?」

 

「気にするな。ただの独り言だ」

 

 幻想郷にもスピード違反という概念を普及させる方が良いのではないか。そうでなければ、危なっかしくておちおち空も飛べやしない。例えば空を飛ぶ時は、余程の緊急時を除いて時速六十km以下を規定速度とするとか。空専用の信号を用意してみるのもまた一策かも知れない。

 

「同意を得るのは難しそうだが」

 

 飛行するのは、文だけの特権ではない。他の人妖だって当たり前のように地を離れ飛び回れると先程の宴会の際に知った。つまり、彼女らの事情にも配慮しなければならないのだ。……どう考えても『一々止まるのが面倒』という理由で却下されてしまうだろう。多分彼女達の頭の中からは安全の二文字が薄れ消えつつある。

 

 無論、ユウとて半分妄想的に考えていることだ。来る日も元気に文がぶっ飛んでいるというのなら、それは即ち今まで大きな事故を起こしていないという安全証明でもある。もし何か起こしてしまったら文は迷いなくその行動を自重するだろうから。

 

「お師匠様。もうすぐ穴に到着しますよ」

 

「ん。ありがとう」

 

 何はともあれ、地底世界に続く深い穴までもう少し。まだ見ぬ新天地を探検する機会が訪れるなんて、嬉しい誤算だ。存分に見て回って楽しまなければ、折角のチャンスがふいになるというものだろう。とは言っても、そればかりに気を取られてはいられないので注意は必要だが。

 

「あそこにある看板が見えますか?こちら側から見て看板の右に、穴が空いています」

 

「なるほど。そこから地底に入れるんだな」

 

「その通りです。では、先程も言いましたが私は入ることができませんのでここで……おや」

 

 名残惜しそうに別れの挨拶をしていた文が、何かに気がついた。入口付近を見ているので、そこに何かあるのだろうか。

 

「女の子がいますね。可愛らしい子ですが、どちら様でしょうか」

 

 そちらを見れば、確かに女の子が一人穴の前に立っていた。一見すると桃色髪の少女だが、傍らにケーブルのようなもので体と接続されている目があることから人ではない可能性の方を検討すべきだろう。

 

 夜も深まりつつあるこの時分にこんな所にいる時点で、間違いなく只者ではない。普通の人間の少女なら妖怪怖さに泣きながら家路を急ぐところだ。

 

「……ありゃ、さとりじゃないか。こんなとこで何してんだい」

 

「星熊、知り合いか?」

 

「うん。あいつは地底の妖怪だよ」

 

 地底の妖怪。ユウにとってはファーストコンタクトである。以前何処かで出会った奴が地底の妖怪だった可能性もあるが、聞いてないのでカウント外としよう。

 

「勇儀さん。地底と地上との間には相互不可侵の条約が結ばれていたはずでは?」

 

 相互不可侵。互いに干渉することなく、平和に過ごすために結ばれる条約だ。文が疑問に思っているということは、恐らく双方向の人妖の流れが制限されているのだろう。

 

 先程文が愚痴っていた地上の妖怪の地底への立ち入り禁止が、これに当たるのかも知れない。言ってしまえば地上の妖怪を出禁にしているわけだが、過去に地上組が何か粗相をやらかしでもしたのだろうか。

 

「そのはずなんだけど。まぁ、あいつがわざわざ地上まで出てくるってことは地底で何かあって、それを紫辺りにでも相談しに来たんだろうさ。機が悪かったね、丁度あいつも藍も手が離せない時に」

 

 ちょっと事情を聞いてくる。そう言って妖怪少女さとりの元へと歩き出す勇儀。さとりの方も気がついたらしく、顔を勇儀の方へと向ける。

 

「勇儀さん。貴方も地上に来ていたのですね。その怪我については話が長くなりそうですので触れないでおきましょう」

 

「よう、さとり。お前がわざわざ地霊殿から出てくるなんて、珍しいじゃあないか。何かあったのかい?」

 

 同郷人ということで、仲は良いらしい。さとりも感情に乏しい表情ではあるが、勇儀と話すのを嫌がっているようには見えない。恐らく、あまり感情を表に出すタイプの子ではないのだろう。

 

「えぇ。実は、こいしがいなくなりまして。……いえ、それが今回に限ってはちょっと事情が違うんです。ペットも連れずに一人で出かけていったようで、彼らに聞いても誰もあの子の行方を把握していないんです」

 

「ふむ。それでこちらに探しに来たと」

 

「はい。あの子がふらふらとあちこちに出かけるのは勿論知っていますが、その時には必ずお供としてお燐ないしはお空を連れていくはずなんです。だからこれは変だと思いまして、念のために」

 

 あれ、今何か二人の会話がおかしかったような。

 

「地上でも見ませんでしたか。困りましたね」

 

 やっぱりおかしい。さとりはどうして未来でも見えているかのように勇儀の返答を先取りしているのか。そして、勇儀は何故にそのことについて疑問に思っていない風なのか。

 

 さとりはそういう能力を持っていて、そのことを勇儀も知っていると考えるのが一番自然だろう。近いことはレミリアの運命操作能力でも可能だろうが、タイムラグの発生は否めない。

 

「ユウに聞けば何か分かるかも、ですか。……あそこにいる三人のうち、男の子ですね。分かりました、ご丁寧にありがとうございます」

 

「ご丁寧だったかはさて置き、良いよ」

 

 さとりがユウの所へ歩いて行き、ぺこりとお辞儀をして自己紹介。

 

「初めまして。私は古明地(こめいじ) さとりと言います」

 

「ユウ。ちょっとした神様をやってるものだ。さっきの話を聞くと、どうやら探し人がいるようだが」

 

「はい。妹の、こいしという子を探しているのです。何か心当たりは……あれ?」

 

 コードに繋がれているやたらぱっちりと開いた目をユウの方に向け、数秒。変だなぁと言うようにさとりは首を捻った。

 

「どうして、()()()()()()のかしら。こんなことは今まで無かったのに」

 

 なるほど。名前を聞いた時からもしやとは思っていたが、どうやらさとりの種族はあの(サトリ)らしい。

 

 覚は人の考えていること、つまり思考を読み取り言い当てることができる。所謂読心術に非常に長けた妖怪なのだ。

 

 多分あの目で思考を読むのだろう。それが、予想に反して読み取れなかったからさとりは困惑している。

 

「古明地で良いかな。俺は常時障壁を展開しているんだよ。それがお前の能力の干渉を弾いている。今確認したが、膜に絶えず概念的なエネルギーの接触があった」

 

 彼の生み出す保護膜は物理的エネルギーを軽減できるが、他にも概念的な力をシャットアウトしてしまうこともできる。

 

 神とは他と一線を画する種族であり、その神力のみで作り出されたものは言ってしまえば意思のない自分の鏡映し。本体の分霊と言っても良いかも知れない。つまり、少々大袈裟かつ奇っ怪に聞こえるだろうがユウは自らのコピーを体に纏っているということになる。

 

 一般的な神の存在は、信仰によってより強固なものとなる。強固な存在ほど内面に手を出すのが困難になる。ユウは存在方法そのものが数多の神々と全く違うため、例え信仰を得られずともその存在が希薄になることはない。

 

 どういうことか。ユウの心を読むには、分霊という分厚い壁を越えなければならないのだ。さとりが読心をできなかったのは、壁に阻まれたせいである。

 

「というわけで、今バリアは解除したから読んでくれて良いぞ」

 

「……へ?」

 

 ── 逆に考えるんだ。壁を取り払っちゃっても良いさと。

 

 椅子を退かしたみたいな気軽さで、彼は自身を守っていた盾を消した。

 

「あ、あぁ。言ってませんでしたね、私は相手の思考を読むだけでなく心を掻き乱すという形でも干渉が可能です。勿論無闇にそんなに使い方をする気は全くありませんが、ご自身の安心のためにも障壁とやらを展開し直すことをお勧めしますよ」

 

「ん?いや、要らん」

 

 さとり、頭を抱える。何を言われているのか分からない。貴方を害する危険性がありますよという忠告をしたら、気にするなと返ってきたのだ。そりゃあまぁ誰だって困惑する。

 

 もしかして、お節介だったのだろうか。或いは、心を乱されても平気な自信があるのか。もし後者なら、さとりは弁舌を振るって説得に当たる心積もりだ。どれだけ盤石な土台の上にボールを乗せようと、その土台を傾ければ物理法則に従ってボールは転がり落ちてしまう。

 

 心だって同じだ。平気でいられると思うのは均衡を保っているからであり、一度その均衡を崩してしまえば無事ではいられない。最悪、廃人になることも覚悟しなければいけないだろう。

 

「ですから。貴方、今首元にナイフを突きつけられているに等しいんですよ?私がそれを刺し込まないからって、無防備が過ぎます」

 

「刺さないんなら平気じゃないか」

 

 違う、そういうことじゃない。さとりはいよいよ本当に頭を抱え込みたい気分であった。ひょっとしてこの少年、自殺願望でもあるんじゃあないのか。だとしたら、ここで会ったのも何かの縁。天命を全うするよう説き伏せるのが年長者の務めではないか。

 

「何か難しいことを考えてるみたいですが、楽にした方が良いですよ」

 

 脳内で話が飛躍し始めたさとりに、今まで黙って話を聞いていた文が声をかけた。

 

「貴女は……射命丸 文さんですね。なるほど、ユウさんはそういう方なのですか。確かにそう割り切って考えた方が良いのかも知れませんが、それにしたって初対面の相手に対して無警戒でしょう」

 

「あやや、私の言いたいことが七割がた言われてしまいました。恐るべしやさとりさん」

 

 そして、見事に出鼻を挫かれた。何を言うか考えた時点で、彼女に読み取られて先に言われてしまう。

 

「ですが、私の言いたいことはまだ」

 

「信用頂けているからこその物言いなんですね。まぁ、私なら大丈夫だろうと思ってもらえるのは嬉しいことです」

 

「私の口って、もしかして存在意義無いんですか……?」

 

 文、五体投地。さとりより大きなリアクションで心情をこれでもかと表現していく。そのまま地面に沈んでいきそうな彼女を流石に可哀想だと思ったのか、萃香が寄り添い慰めている。

 

「えっと、ごめんなさい。つい癖で、人の話を最後まで聞くのが苦手でして」

 

「ごめんなさいで済んだら博麗の巫女は要らないんですよぅ……。ぐすん、大変傷つきました。弁償として地底の主への取材許可の取り次ぎを要求します」

 

 転んでもただで起きない女、射命丸 文の本領発揮である。傷心を装い以前達成できなかったチャレンジに再度挑む。とは言っても、彼女自身上手くいけばラッキーくらいにしか考えていない。地底を治める妖怪がどんなのか知らないが、さとりが面を合わせて話せるくらいフランクであるとは限らないわけで。

 

 だから、冗談混じりにそんな要望を出してみたのだ。まさかまさかのそのまたまさか、地底の管轄者とさとりとが仲の良い友達だったりしたら?そうである確率をさて置けば、パイプを利用した取材の申し込みは充分現実的な手段と言えるだろう。

 

「私に取材、ですか?あまり時間が取られないなら、少しくらいは構いませんけど」

 

「……へっ?」

 

「……えっ」

 

 地底の統率者が地上に出ているなんて、そんなはずがないだろう。そんな無意識の先入観があったからこそ、文はさとりが探していた妖怪そのものだと全く気がつけなかった。

 

「さ、さとりさん!貴女地底の主を担当しているんですか?」

 

「はい。私は地底の代表役を務めていますよ。あの、それが何か」

 

「何たる幸運っ!!」

 

「ひぃっ!?」

 

 降って湧いたチャンスではなかった。降って湧いた、大大大チャンスだった。その辺の木箱からよく手入れされた勇者の剣が出てくるように、俄には信じ難いことだ。

 

「まさかこんな所で出会えるとは思ってもみませんでした。さぁさぁさとりさん、是非是非取材の方を!そしてあわよくば地底にお住まいの妖怪の方々への取材許可も何卒!!」

 

「え、えぇっと」

 

 例え予想外の形で現れた取材機会だろうと、活かしてみせるのが一流の新聞記者というもの。準備ができていないからなどと理由をでっち上げて見逃すような奴はまだまだ二流であるとは、文の論である。

 

 鼻息も荒くさとりに詰め寄る。未だ誰も知らない地底についての詳細が得られるまたとない好機なのだから興奮するのも分かるが、詰め寄られているさとりからすればたまったものではない。自分より半尺近くも大きな女性がきらきらとしたオーラを振り散らしながら近寄ってくるのだ。そうかこれが噂に聞く圧迫取材というものかと、焦る頭の隅っこがズレたことを考え出す。

 

「やめんか阿呆」

 

「あ痛っ」

 

 しかし、神はさとりを見捨てなかった。じりじりと接近され続けていよいよ進退窮まってきたかというその時、彼女の窮地を見過ごせなかったらしいユウの手刀が一閃。見事、圧迫取材を敢行した強行的な記者の頭をすぱーんと捉えて成敗したのであった。悪は必ず成敗されるのである。

 

「済まない、古明地。一度やると決めたら絶対曲げようとしないのが、このおバ烏でな」

 

「はぁ」

 

 あんなある意味怖い心を、さとりは初めて見たかも知れない。文の思考を埋め尽くしていた言葉は、僅か三つだった。『ネタだ掻っ攫え』、『取材させて下さいお願いします何だってしますから』、『逃がさない』。この三つだけが覚特有の第三の目を通して怒涛の勢いで流れ込んでくるのだから、そりゃあもう怖さのあまり足も竦むし腰も抜けかける。

 

「話を元に戻すと、妹さんを見つけたいんだよな。良ければ、地底を探しておこうか?どうせ星熊を送ってくんだ、序でに探して見つけたら教えるよ」

 

「良いのですか?そうでしたら、お願いします。灰色の髪で帽子をかぶっている、元気溌剌とした女の子ですからすぐに分かると思います」

 

「ん、お願いされた」

 

 一度深呼吸をして気持ちを落ち着ける。嬉しいことにユウがこいし探しに協力してくれるということなので、ありがたくその助力を頂戴する。良かった、何となくだけどユウさんって頼れる感じがするしこの分ならこいしもすぐに

 

「……って、ちょっと待ってください!」

 

 さとりとしたことが、物凄く大事なことを忘れていた。地底への地上の妖怪の立ち入りは、御法度ではないか。我ながら何てことを忘却していたのかと自らを問い詰めたいところだが、それよりまず先にこのことを伝えなければ。

 

「あの。頼んでおいて大変申し訳ないのですが、地底への地上の方々の立ち入りは賢者の定めた条例によって不可能となっているんです。私個人としては捜索して下さるのでしたら入ってもらうのも吝かではないのですが」

 

 妹探しを快く請け負ってくれた優しい人に、やっぱりルール的に無理でしたと言うのはさとりも心が痛い。だが、そうは言ってもルールに抵触すれば自分達どころか彼の身も危うくなるだろう。そう考えると、どうしても言わずにはいられなかった。

 

「文、地底への立ち入り禁止云々は妖怪に限った話ではないのか?」

 

「すいませんお師匠様、恐らくなのですが地上と地底とで条約の受け取り方が違うようです。紫さんが妖怪と明言していましたので、私もてっきり妖怪限定の話だと」

 

「なるほど」

 

 文の謝罪と説明の言葉に対して、彼は一言そう返したきり黙り込んだ。あぁ、怒っていらっしゃるのではないか。さとりは、気が気でなかった。

 

 優しい性格をしているようだから、声を荒らげて怒ったりはしないのかも知れない。でも、腹の底では決して良く思ってなどいないだろう。今のところ怒気が感じられたりはしないが、意図して隠している可能性だって考えられる。

 

「なぁ、古明地」

 

「はい、誠に申し訳なく……」

 

「何を謝っているのかは分からんが、一つ聞きたいことがある。もしかして賢者って、八雲 紫のことか?」

 

 思っていたのと違う言葉をかけられて、平謝りしていたさとりは目をぱちくりとさせた。

 

「あれ、違ったか。となると後は誰がいたっけな」

 

「いえ、確かに賢者とは八雲 紫のことですが。ユウさん、八雲に直談判をするのはやめておくことを強くお勧めします。アレの機嫌を損ねれば、命を落とすことになるでしょう」

 

「機嫌損ねてもそんなことをする子じゃないさ。精々拗ねてそっぽを向くくらいだ」

 

「何でユウさんがそんな知ったようなことを……嘘でしょう」

 

 ユウがフィルターを解除したため、思考が手に取るように分かる。正直、見えた内容を疑い訝しみたい気持ちで一杯だが、口とは違って心は嘘をつかない。それは、覚である彼女が一番良く分かっていることだ。

 

「見てもらった通り、紫とは旧知の中でな。あまり良いことではないのかも知れないが、多少融通を利かせてもらうくらいならできるのさ。……というわけで、ちょっと入って良いか聞いてくる。悪いが二、三分待っててくれ」

 

「あ、ちょっと!」

 

 止める暇もなく、彼は一瞬のうちに忽然と何処かへ消えてしまった。能力阻害に留まらず、瞬間移動まで事もなげにやってのけたユウに驚かされ過ぎて、さとりはそろそろ跳ね回り続けている心臓に痛みを覚え始めているくらいだ。

 

 一体彼は、何者なのだろうか。当たり前のように鬼達と共に現れ、当たり前のように自分の能力を無効化し、当たり前のように八雲と知り合いである。それでいて、今までその名を聞いたことなど一度もない。いくら人外と異能の蔓延る幻想郷でも、こんな奇々怪々不可思議の塊みたいな存在がそう易々と見つかるだろうか。

 

「さとりと言ったね。一つ助言をしてやるなら、ユウを頭の中で構築してきた既存の物差しで計んない方が良いよ」

 

「と、申しますと?」

 

「お、心を読まなかったのかい。私からすりゃどっちでも良いんだけどさ。……えっとね、凄く簡単に説明するとしたら、私達妖怪の尺度が神に通用するのかってこと」

 

 神?さとりの頭の中で、大量の疑問符が巻き上がる。夜平然と出歩いているのだからまぁまず人間ではないだろうとは憶測していたが、まさか神だなんて。信じられず萃香の思考を読むが、流石は鬼と言うべきか嘘をついてはいないようだ。

 

「神に会ったのは、初めてです」

 

「探せば意外といるもんだけどねぇ、あいつらって。この妖怪の山にだって、私が知ってる限りなら厄神がいるもの」

 

「最近、もう二柱いることが天狗の調べで明らかになっています。何でも秋を司る双神なんだとか」

 

「へぇ、地上には神が結構いるんだねぇ。一昔前とはちょいと変わってきてるみたいだ。ユウ以外の神とも、是非手を合わせてみたいもんだよ」

 

 萃香がえらく無礼な物言いをして、その補足をするように文が横から口を挟む。勇儀は相も変わらず神を腕試し用のサンドバッグとしか見ていないかのようなバトルジャンキーっぷりを遺憾無く発揮しており、この場において神への信仰をそれなりに持っているのはさとりだけとなっていた。

 

 おかしい、神とは信仰されるからこそ和御霊として衆生に恵みをもたらすのであって、さしたることもなしと軽んずればたちまち荒御霊と化して災厄を招くのではなかったか。この鬼に天狗は、神のもたらす災いをも恐れないというのか。

 

「よっと。待たせたな」

 

 行きと同じように、帰りも突然ひょいと現れてきたユウ。ついさっき同じ現象を見ているためか、さとりも今度は驚いたりしなかった。

 

「ユウ、どうだったんだい。我らが地底への立ち入り許可は出たかい」

 

「二つ返事だった。古明地の許しさえあれば、時を問わず入って良いんだと」

 

 ちらりと、ユウがさとりを見る。彼女は、彼は信用するに足ると考えているので許可を出すのに躊躇いはない。とても地底の妖怪と諍い事を起こすような気質ではないだろうし、彼を招き入れたところでまず害はあるまい。

 

「構いませんよ」

 

「ありがとう。それじゃあ、古明地の妹さんを探さなきゃならんし早速出発するとしようか。お前達、俺は先に行くが良いか」

 

「はい。私はさとりさんに取材許可を取ってから向かいますので、お構いなく!」

 

 暗に必ず許可を取ってみせると言っているようなものだ。またあの無言の圧力に押されては堪らない。喋ってはいないが、その心はもうそれはそれは雄弁に気持ちを物語っているのだ。率直に言って、身の危険を感じてしまうほどに怖い。

 

「節度を弁えた頼み方をするようにな」

 

 至言だ。さとりは柄にもなく感動した。やっぱり彼は他人のことを思いやってやれる、心優しい神だ。

 

「星熊は俺が送り届けるから一緒に来てもらうとして、伊吹はどうする」

 

「うーん。着いていきたい気持ちもあるんだけど、今日のところはねぐらに帰らせてもらおうかな。今はもう少し酒に浸りたい気分なんだ」

 

「分かった」

 

 なら、二人で行くか。そう言って、穴に向かって歩いていく。そして程なくして穴の前に辿り着き、ぴょーんと跳んだ。勿論彼は空を飛べるので、投身自殺では断じてない。勇儀も後を追うように跳んだが、しつこく言わせてもらうならば後追い自殺ではない。

 

 ひゅうんと物体が風を切る音がほんの僅か地上に残った三人の耳に届き、やがて鳴く虫の声に掻き消された。



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第七話 地底入行②

「なぁ、星熊。あとどのくらいで着く?」

 

「そうだねぇ。この調子で降りていけば、もうあとしばらくと言ったところかな」

 

 ふよふよと漂うように穴を降りていくユウと勇儀。文達と別れてからそろそろ十分ほどが経過しようとしているが、地底世界への記念すべき一歩目はもうすぐ踏めるとのことだ。

 

 進み始めてすぐに、月の光も差さなくなりまさに一寸先は闇といった状態になってしまった。今は、萃香に借りた行燈片手に降下を続けているところである。思った以上に遠い範囲までふんわりとした光が届くため、暗い中で手元の安全を得るために使うにはうってつけの良品だ。

 

「そうか。お前の言っていた通り、えらく深い穴なんだな」

 

 くぁ、と一つ欠伸を噛み殺す。こうもゆったりとしたペースで進んでいると、どうしても段々眠くなってきてしまうのも致し方ないことではある。

 

「退屈かい?」

 

「少し。変わり映えしない光景が延々と続くと、飽きも来るというものだろう」

 

 これが月をずっと眺めているのなら、まだ良かった。綺麗なものを見て魅入られながらの散漫な考え事というのも、中々どうして乙なものである。だが、生憎こんな地下深い場所から天上に浮かぶ月なんてとても見えやしない。何と言っても彼らは今、月に背を向け遠ざかっているのだから。

 

「まぁ、穴にいる間は見渡す限り土か石かしか見えないからね。その分地底の街に着いた暁には、打って変わって賑やかな様子を見せてあげるよ」

 

「ほぅ。街か」

 

「良いとこだよ。ご飯は美味しいしケンカはできるし、これ以上に住んでて満たされる場所もそうはないだろうねぇ」

 

 前者は嬉しいが、後者については御免だ。ケンカを好む質でない彼が地底の街で楽しめるのは、恐らく美味しいご飯だけだろう。

 

「ま、ユウなら歩いてるだけで方々からお誘いが飛んでくるだろうよ。良かったね、沢山ぶっ飛ばせそうで」

 

「要らんわ阿呆」

 

 俺は虫を惹き寄せる蜜か。わらわらと地底の妖怪達が自分の所へ殺到してくる様子を想像し、ユウは軽く引いた。虫が獲物に集る場面は、見る分にはあまり気にしないが実際に体験するとなると話は別である。

 

「お前なぁ、行く前から渋りたくなるような情報を安易に言うのはどうかと……ん?」

 

 少々げんなりしながら勇儀に文句を言おうとした彼が、途中で言葉を切る。それから欠伸の涙で濡れた目をくしくしと擦って、すいと上を見上げる。

 

「おや、どうかしたかい。恋し恋しや地上ってか?」

 

「郷愁の念に駆られるにしても、あまりに早過ぎるだろう。…俺が知らないであろう妖怪がこっちに向かってきてる。数は一、特別強いというわけではないようだが」

 

 研ぎ澄まされた知覚能力で大凡の数と力量と、そして種族を判別する。その結果、例え敵対したとしてもさしたる脅威ではないことが分かったので臨戦態勢に入ったりはしない。

 

 五秒、七秒と時間が経つ。十秒が経過した辺りで、勇儀にも接近してくる気配が感じ取れた。

 

「あぁ、なるほど。大丈夫だよユウ、私達に害をなす子じゃないからね」

 

「何だ、知り合いか」

 

「うん。妖怪のご多分に漏れずというか、イタズラ好きな子だから一応気をつけておいておくれよ。ここには私もいることだし、下手なことはしないと思うんだけど」

 

 勇儀の注意に了解の意を返してからすぐに、二人の前に件の妖気の持ち主がばーんと現れた。いや、落ちてきたのだからひゅーんと現れたとでも言うべきか。兎にも角にも、二人の前に現れ出たのだ。

 

「ねぐらに帰ろうと思ったら、知ってる鬼さんと知らない妖怪さん」

 

 ()が。…何とまぁ、風変わりな格好をした奴だ。そうそうお目にかかれないであろう希少な姿形に、彼はおぉと感嘆だか呆れだか分からないような声を漏らすしかなかった。

 

 さて、彼……彼女?は果たして妖怪か付喪神か。失礼にならない程度に観察していると、桶の中からぴょこんと小さな少女の首が姿を現した。どうやら、彼女で良いらしい。

 

 種族は、どちらだろうか。見た感じでは本体は少女の方にあるので、恐らく妖怪だと思われる。これで桶の方に核を見出していたら、ユウは桶少女を付喪神と判別していた。…世間には付喪神を妖怪の一種であると考える人も割と多くいるので、そういった人々からすれば彼女は妖怪の中の付喪神であるということになるのだろうが。

 

「ようこそ地底へ、でもここの地面に足つけて蜘蛛と嫉妬にやられちゃう前に戻った方が良いよ?」

 

 勇儀姐さんが一緒にいなかったら、私も上から頭目掛けて落ちてたところだよ。箱入りならぬ桶入り娘は、冗談風にそう言ってくすくすと笑った。

 

 桶に入っていてかつ落ちて頭を狙う妖怪といえば、鶴瓶落としが思いつく。もしやこの少女も、獲物の前に落下しては『夜業すんだか、釣瓶下ろそか、ぎいぎい』などと意味不明なことを言って相手を困惑させてから捕食するという迂遠な手法を採用しているのだろうか。そんなことをしなくても、頭目掛けて落下して大きなダメージを与えればさっさとご飯にありつけるのに。

 

「それは怖いな。そうなってしまう前にきちんと許可を取っていることを言わないといけないみたいだ」

 

「許可?何を言ってるのさお坊ちゃん、まさか地霊殿の引きこもりがちな当主に貰えたわけじゃないだろうに」

 

 誰がお坊ちゃんだ、誰が。そう言って否定したかったが、残念なことに彼の見た目はまさしく十年生きたかすら怪しい少年であり、お坊ちゃん呼びに対して声を大にしての反論はできなかった。手間をかけて創って頂いた容姿に文句など一つもないし、別に年下に見られることが嫌というわけではないのだが、紫が時折やるような明らかな子供扱いだけは御免被る。

 

 とは言っても、このことを一々指摘していては時間がかかることこの上ない。ここは仕方ないと割り切って、話を進めるのが吉だろう。

 

「引きこもりがちって、古明地は普段あまり外に出ない質なのか。確かに散歩とかよりは読書を好みそうではあるが」

 

「さとりのことを知ってるの。うーん、なら許可もらったって話もあながち与太話じゃなさそうだけど。だからって絶対そうとは言えないし、どうしよっかなぁ」

 

 桶の中で腕を組み、うーんと悩む少女。桶がふわふわ浮いているのが、また何とも言えないシュールさを加速させている。

 

 多分、地底の相互不可侵的な条約云々について頭を悩ませているのだろう。今この瞬間に彼女がさとりに事の真偽を確認することはできないだろうから、仕方のないことである。どう説明すれば事情を理解してくれるだろうかと彼が考えていると、横から嬉しい助け舟が。

 

「キスメ、こいつの言ってることはほんとだよ。この私が保証する、ユウにはさとりから直々に地底入行の許可が降りてるってね」

 

「勇儀姐さんが言うなら、疑う必要は無いか。うん、ごめんね名も知らぬ妖怪さん。そういうことなら、立ち入ってもらって大丈夫だよ」

 

 地底に移り住んだ後でもその影響力は多大なものであるらしく、姐さんだなんて仰々しい尾鰭を付けたキスメはあっさりとユウの進行を認めてくれた。…キスメの見た目もあってか、姐さん呼びしていても舎弟というよりは寧ろ歳の離れた従姉妹のように思われる。こんな珍妙で可愛らしい舎弟がいて堪るか。

 

「ん。……あと、一つ付け足しておくと俺の名前はユウだ。もし古明地に許されればこれからも地底には足を運ぶだろうし、是非覚えていてくれ」

 

「ユウ君だね。覚えておくよ、ちょっと早いけどまた今度来た時は止めずに歓迎してあげる。勿論、鶴瓶落としなりの流儀でね?」

 

「楽しみにしてるが、ユウ『君』はやめてくれ。こんな(なり)でも歳だけは立派に食ってきたんでね」

 

「分かったよ、ユウちゃん!」

 

「……わざとだろう」

 

 なるほど、確かに勇儀が言っていた通りにイタズラ好きな子であるらしい。君を遠慮したら今度はちゃんだなんて、狙っていなければ成し得ない順序だ。

 

 にししとイタズラが成功した子供のような笑顔で笑うキスメには、天罰の一つでも与えてやるのが良いか。やろうと思えば、今入っている本人比で広々とした桶が狭く感じるくらいに太らせることだって可能だ。レミリア程の精度はなくとも、神は様々な形でもって運命に干渉できるのだから。

 

「阿呆らしい」

 

 しかし、まぁ待てと考え直す。よく考えてみろ、この程度は幼子のちょっとしたじゃれ合いみたいなものじゃないか。こんなことに目鯨を立てていて、穏やかな気質の神は名乗れまい。幻想郷での平穏無事な生活を実現させるためにも、今は雌伏し印象アップに務めるべき時ではないか。

 

「ん、もしかしてその容姿がかな?だいじょーぶ、需要ならきっと地上地底を問わず沢山あるから!地底にはユウちゃんみたいな子にしか()えない奴が、私の知ってるだけでも五人はいるよ!……そうだ、私の知り合いにもそんな奴がいるんだけど、紹介してあげようか?ユウちゃんは需要があって嬉しい、あいつは可愛い男の子と触れ合えて御満悦。ついでに私は紹介料で酒が飲める。どうだろう、誰も損はしないよ」

 

 やっぱり下そう。神を畏れずおちょくってくる愚か者に、かけられる慈悲はないのだ。自己紹介で種族を明かしていないという点については、深く突っ込んではいけない。

 

 但し、やってやろうと決めたからと言って今すぐに刑を執行することはできない。大掛かりな神事には得てしてそれ相応の準備が必要であり、それを今ここで整えるのは時間的な問題もあって不可能だ。

 

 なのでまた後日、日を改めて臨ませてもらうとしよう。腰周りの一段階肥大は、覚悟しておくが良い。心の中でこっそりと、ユウはほくそ笑むのであった。

 

「こーら、あんまりユウを揶揄わない。やり過ぎちまったら、そのうちでっかい雷が落ちるよ?」

 

「へーきへーき!こんな深い穴の底近くまで落ちてくる物好きな雷なんていないって」

 

「どうだか」

 

 苦笑いしながら、ちらりと勇儀が彼の方を見る。そして口をぱくぱく。…ユウの読唇術スキルにより解析した結果は、一音目から順に『な』『に』『か』『す』『る』『だ』『ろ』『う』であった。

 

「そうだなぁ」

 

 勿論、しますとも。天罰とか天罰とか、あとは天罰とか。

 

 思えば祟神じみたことをするのも久しぶりだ。祟神なんて不吉な言葉を使うと悪く聞こえてしまうが、実質只のやり返しであるので、気に病む必要はない。

 

「ま、何にせよ私はユウちゃんを止めないから通って良いよ。勇儀姐さんに関しては、言わずもがなだね」

 

「ん。話も纏まったし、進んでいこうか」

 

「おぅ、了解」

 

 初対面の相手を軽く弄ったお返しにウェストサイズを拡大されては、こと女性としては堪ったものでないだろうがそこは自業自得というやつであるので大人しく諦めてほしい。

 

 さて、次に会った時彼女はどれくらいまんまるになっているだろうか。桶を大きめに新調していたらここぞとばかりに弄り返してやろうと、ユウは年長者らしからぬ意地の悪いことを考えながら地の底へとゆっくり降りていくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっと到着か。待ちくたびれたというか、降りるのにも疲れたというか」

 

 キスメと別れてから程なくして、二人はようやく地底の地を踏むに至った。地上のあれこれを含めれば割と洒落にならないくらい長い旅路であったため、ユウなどさっきから欠伸をどうにか噛み殺してばかりである。そのせいで彼の目は泣きでもしたのかというほどに潤っており、少し瞬きをすれば容量の限界を迎えている目からぽろりと涙が溢れて頬を伝い、か細い一筋の濡れ道となる。

 

「さて、伊吹の行燈で明かりを得つつ星熊の家を目指そうか……あれ」

 

「ユウ、そっちは何処までブチ抜いたって岩壁しかないよ。私の家とか地底の街とかは、こっちだ」

 

「済まん、よくぞ教えてくれた」

 

 神、新天地到着後の記念すべき第一歩を出し間違える。勇儀の変に生暖かいような視線がひしひしと背中に感じられ、さしもの鉄の心(アイアンハート)・ユウも少し恥ずかしく思った。

 

 そろそろ微妙に頭が回らなくなってきたのを自覚し始めたユウの耳に、明るく高い元気な声と静かで落ち着いた印象を持てる声がそれぞれ一つずつ届く。二人くらいいるなと声のした方を向けば、金髪をおだんごに纏めた少女とこれまた金髪をセミロングの長さにして垂らしている少女が二人の方を見て何やら会話をしていた。

 

「お?ねぇぱるぱる、夕時に出かけてった勇儀姐さんが迷い人連れて戻ってきたよ」

 

「ぱるぱるって言わないで。……でもほんとね、珍しいこともあるものだわ」

 

 キスメに続き勇儀の知り合いらしい少女達は、連れ立って二人の元へと歩いてくる。おだんご少女はにこにこと笑みを浮かべながら、セミロング少女はユウを見定めるかのようにじっと見据えながら。

 

 見てくるので、何か反応を返した方が良いかも知れない。そう考えて、緑眼さんにひらひらと手を振ってみる。気のせいか、先程に比べてこちらに投げかけられる眼光が鋭くなった気がする。おかしい、彼女に失礼なことをしたわけではないはずなのに。もしかして、フレンドリーな態度はあまりお好みでないのだろうか。

 

「勇儀姐さん、お帰りー。その迷い人は、非常食かな?良かったら私の糸でぐるぐる巻きにして捕まえとこ……ねぇボウヤ、ちょっとこっちに来てお姉さんとお喋りしましょ。大丈夫、変なことはしないから」

 

「…そんな血走った目をして鼻息も荒く言われたって、信用できんぞ」

 

 一瞬だった。ともすれば文すら上回りかねない程の超スピードで、お団子さんがユウの手を取っていた。何故あれだけの速度で動きながら手を取る所作が優しさに満ち溢れていたのか、そしてそもそもどうして彼女がこんなに興奮した様子なのか。

 

「うわぁ、うわぁ……可愛い、お持ち帰りしたい、食べたい」

 

「成程、話が繋がったぞ」

 

 多分この少女、さっきのキスメの話に出てきたユウ位の男の子がどーたらこーたらって奴じゃあないのか。ヤバい時の紫にも引けを取らないド変態的なピンク色したオーラが彼女の周囲で強くなり続けているのが、そう考えた根拠である。

 

「肌すべすべじゃん。ちっちゃいじゃん!めっっっちゃ可愛らしいじゃん!!何これ、普段から誠実に生きてる私を労うために神が与え給うた御褒美!?」

 

「ヤマメ、そこまでよ。いえ、今この時点で既に貴女の第一印象は地に落ちているけれども」

 

「ねぇねぇ。ここがどんな場所か、まだ分かんないよね。手取り足取りで親身に教えたげるからさ、ホラちょっとそこの岩陰に」

 

「今あんたへの信頼ってやつが地すら割り開いて奈落へと堕ちていったわよ」

 

 この怖気がしてくるレベルの変態少女の名前は、ヤマメというらしい。取り敢えず名前も分かったところで、彼女から早急に離れた方が良い。間違いない、今まで数多の変態に会って時に育ててきた彼の勘がそう警告してきているのだから。

 

「ヤマメ。盛り上がってるところに悪いが手を離してくれないか。今から星熊を家まで送らなきゃいけないんでね」

 

「こ、これはもしや噂に聞く送り狼。その見た目でするなんて、罪な男の子だねぇ!……勇儀姐さんが襲われたら大変だし、私も着いていこう」

 

「だから、あんたはいい加減にしておきなさいってば。大方、怪我してる勇儀を慮ってのことでしょうに」

 

「煩い!私は行く手を阻むものがあるからって理想郷(アガルタ)を諦めるような女じゃあ断じてないんだよ、例え目の前に聳え立つ巨峰が現れようとも!!」

 

「いっそ清々しい程に本音ダダ漏れにしてんじゃないっ!!」

 

 ぎゃいのぎゃいのと口喧嘩を始めてしまったので、今のうちに先へ進もう。ぱるぱるなる少女はともかくとして、ヤマメは無闇に関わらないに越したことはない。先程知り合ったばかりだが、これは自信を持って断言できる。

 

「おっと、何百年に一度見れるかどうかって上玉だ。おいそれと逃がしやしないよかわい子ちゃん!」

 

「わぁお」

 

 首をぐりん、と回してユウを補足。ほぼ半円分だけ回転してきた首から微かにぱきぱきという音が聞こえてくるのが、また怖さを助長するのだ。

 

 どうやら彼女に気取られずこの場を離れるのは困難であるらしい。さて、どうしたものか。…地上にて紫に許可を取りに行った時と同じことをすれば、あたかも瞬間移動であるかのようにヤマメの眼前から消えることは可能だ。何処に逃げれば一番安全なのか全く分からないのが懸念材料となってしまうが。

 

「ふふ、こっそり逃げ出す悪い子にはオシオキだぁ……」

 

「あーもう、だからあんたは一旦落ち着きなさいってば」

 

「む、ぱるぱる!離せ、はーなーせー!!」

 

 しかし、幸運なことにその必要はなかった。ぱるぱるが羽交い締めにして抑えてくれている間に、ありがたく距離を頂戴するとしよう。

 

「うおー、久しぶりの光り輝くかの如き上物が目の前で遠ざかっていくうううぅぅぅ」

 

「泣くな、血涙を流すな。……ごめんなさいね訪ね人さん、こいつはしばらく止めておくから安心して先へ進んでちょうだいな。殺しても死なないような頑強な奴だから大丈夫とは思うけど、一応勇儀を宜しくね」

 

「おいおいパルスィ、随分な物言いじゃないか。私だって命一つの鬼だ、殺されりゃ死ぬよ」

 

「まるでそんな気がしないから言ってんのよ。妬ましい」

 

 呆れたように溜息をつく少女は、パルスィという名前だったらしい。ぱるぱるは、さしずめヤマメ辺りの付けた渾名と言ったところか。

 

 教えられなかったら、ユウはきっと彼女をぱるぱると呼んでいただろう。そして、何だこいつ初対面なのに馴れ馴れしいなと言わんばかりの冷えた目線を貰うハメになっていただろう。偶然とはいえ未然に気がつくことができて、良かった。

 

「そこの橋も、特別に渡る権利をあげるわ。本当ならもう少し踏んでもらいたかった手順があるんだけど、ヤマメが心情的に迷惑かけたしね。俗な言い方するなら、迷惑料かしら」

 

「それは嬉しいな。ありがとうパルスィ、早速その権利を使わせてもらうよ」

 

「はいはい。それじゃ、さっさと送ってきなさいな妬ましい」

 

 一見すると冷たい印象を受けるが、喋ってみれば全くそんな雰囲気は感じない。色々と助けてくれたので、寧ろ地底の妖怪の中でも比較的取っ付き易い相手なのではないだろうか。まだ地底の妖怪には三度しか出会ったことがないので、結論を出すには些か早いのだが。

 

 ヤマメに対する強い抑止力となることも分かったので、以後地底にお邪魔する上で良好な関係を築いておいて何ら損はあるまい。紫を藍が制御するように、彼女もパルスィによって手綱を握られていればまだ少し安心して向き合える。

 

 うああああぁぁだかふわぁぁぁぁぁだか、とにかく意味の無い文字の羅列で嘆き喚くヤマメの声をBGM(背景音楽)に、二人は地上より少し固めの地面を踏み橋を渡って行った。

 

「パルスィが余所者に、只で自分の橋を渡らせるなんてねぇ。……それはそうと、一つ聞いていいかな。あんた実は送り狼が狙いだったのかい?」

 

「仮にそうだとしたら、俺はあまりに下衆な神じゃないか」

 

「いや、分からないよ。あんたは下衆じゃないが俗世的ではあるからねぇ」

 

「何だ、人間の男らしく夜這いでもしろと?」

 

「やってみるかい。良いよ、迎え撃ってあげる」

 

「やりたいわけでもないことをやった挙句、殴り飛ばされるのは御免だよ」

 

 そんな程度の低い会話が、何故か疲弊した心を癒してくれるようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人が地底の街に到着する、少し前のこと。彼らより一足先に街へ足を踏み入れていた妖怪が一人いた。

 

「あやや、ここがさとりさんの話に出てきた街でしょうか。なるほど、地上のものにも負けず劣らずの活気ですね」

 

 疾風怒涛の烏天狗、射命丸 文である。彼女はユウ達が穴へ飛び込むのを見届けた後、間髪入れずにさとりとの交渉を開始した。言葉を尽くし、丁寧に心を込めて頼んだのが功を奏したのだろうか、最初は少し悩んでいたさとりも快く許可を出したのであった。…文が喜び勇んでユウ達の後を追っていった背後でさとりがほっとした様子を見せていたのは、全くの余談であるので多くを語らずとも良いだろう。

 

 さて、この暴走烏天狗も勿論穴を降りていったわけだが、実は地底に続く穴には幾つか分かれ道が設けられている。それが人為的なものか自然に形成されたものかは今となっては判別がつかないが、ユウ一行は二人いたということもあって一番大きな正規ルートを通って行った。対して文は、早く地底を取材して回りたかったので近道っぽく見えた分岐ルートを通った。

 

 結果、距離は確かに省略できたものの道中でそこをねぐらにしているらしい妖怪に襲われるという痛恨のタイムロスを被ってしまった。遅れてなるものかと奮起し、道を塞ぐお邪魔虫を片っ端からぶっ飛ばして突き進んだまでは良かった……いや良くないが、急ぎ過ぎたので逆に二人より早く街へ到着してしまったのだ。

 

「ふむ。我々と食生活はさして変わらないし服を着てもいる、そして何より道行く全ての方々がそうはお目にかかれないような希少な妖怪。これは、私の予想より更に素晴らしい記事が書けそうです」

 

 地底の妖怪が跋扈する街に、一人だけ紛れ込んでいる謎の地上の妖怪。先程から自分が注目の的になっていることに、彼女は果たして気がついているのだろうか。或いは、気がついていながら敢えて放っておいているのか。

 

「さて。少し、裏路地の方にも探索の網を伸ばしてみましょうか。これだけ大きな街です、もしかしたら隠れた名店なんてものを見つけられるかも知れません」

 

 メインとなるものを紹介すると同時に、人を避けるように構える店などにも視線を向けていく。これができれば新聞の購読者はより一層増えていくのだと、文は長年の経験から良く知っていた。

 

 ひょいと賑やかな通りを離れ、細い路地を歩く。奥へ奥へと進むにつれて、聞こえてくる喧騒の声が徐々に小さなものとなっていく。人の立ち入らぬ秘境に赴く探検家のような気分が味わえるので、文はこの感覚が好きだ。

 

「こちらの方には何かあるでしょうか……おや?」

 

 やがて何度目か分からない左折をした文が、何かの匂いを感じ取った。ネタの匂いがするなどの抽象的なものではなく、また宴会で膨れたお腹をなお刺激するような美味しそうなものでもなかった。

 

 どちらかと言うと、嗅ぎたくない類の匂い。錆びた鉄のような、じわりと鼻をつく匂い。

 

「血、ですね。やはりどのような街も、明るい部分だけで構成されてはいないということですか」

 

 人里でも、ごくたまにある話だ。妖怪か何かの原因で致命傷を負ってしまった人間が、人気のない場所でひっそりと絶命してしまう。その死体は当然と言うべきか長期間に渡って見つかることなく腐敗し続け、ようやく見つかった時には思わず嘔吐いてしまう程の臭気を発している。勿論、()()()()()()()()だって有り得るわけで。

 

 どちらにせよ、少々残念です。多少落胆しながらも、せめて犠牲者に黙祷を捧げるくらいのことはした方が良いと考えた文は血の匂いのする方へと歩き出す。しかし、歩いていくうちにある違和感が彼女を襲い出した。

 

「いえ。長らく放置されていたにしては、匂いが薄過ぎる。この感じだったら、せいぜい数十分と言ったところでしょう」

 

 長期的な放置は受けていない、本当につい先程ここで息絶えたかのような状況であった。自分が後少し早くここへ着いていれば、もしかすれば助けられた命だったのかも知れない。……自然と、足が止まってしまう。

 

 でも、そんなことを考えたって無意味だ。たらればの話をしたところで、死んでしまったものが甦るわけでもないのだから。罪悪感に苛まれ始める心にぴしゃりと折り合いを付け、もう一度歩き出そうとした、まさにその時だった。

 

「……っ!」

 

 文の超人的な聴力が、この場で聞こえるはずのない音を彼女の耳に伝えた。

 

「動いた」

 

 猫や犬が立てた、がさりと言うような音ではない。ほんの微かに何かが身じろぎしたような、ざっという刹那の音だった。

 

 間違いない、大怪我を負った誰かはまだほんの少しかも知れないが生きている。急いでその場へ駆けつけた文の目に、予想していたとはいえショッキングな光景が飛び込んできた。

 

「……酷い」

 

 小さな女の子が、俯せに倒れていた。背中上部を起点とした大きな裂傷からは、どくどくと蛇口を捻ったかのような勢いで血が流れ出していた。臓器にまで到達している傷なのか、口からも決して少なくない量の血がだらだらと垂れ落ちており、地に触れている銀色の髪を赤黒く染め上げていく。

 

 刺激を与えないよう抱き起こし、小さく開かれた口元に耳を近づける。ひゅう、ひゅうと断続的にではあるが呼吸音が聞こえてきた。やはり、彼女はまだ命を落としていない。

 

「早くお師匠様の所へ行けば助かるかも知れない」

 

 今この瞬間何処にユウがいるかなんて、分からない。けど、予測を立てることならできる。地底で唯一と言って良い程に貴重な集い場所であるこの街に立ち寄らないということは、彼の性格を鑑みれば無いだろう。となれば、ほぼ間違いなくユウは勇儀と一緒に街までやってくる。

 

 つまり、今自分は何をすべきなのか。その答えは一つしか無いはずだ。街へと続く道を全力で、かつこの子に負担をかけないよう逆走し、ユウと出会い次第即刻救命に当たってもらう。これ以上の最適解は、最高速で稼働する文の頭でも思いつかなかった。

 

「ごめんなさい。あと数分だけ、頑張ってください。私がどうにもできないのは申し訳ありませんが、必ずや私のお師匠様が貴女を助けてくれますからね」

 

 迷っている時間は、一秒たりともない。今にも呼吸を止めてしまいそうな少女をそっと抱き上げ、文は可能な限りゆっくりとした初速で空高く飛び立った。



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第八話 砕地の赤雷

[地底の街に用があるものは、この分かれ道を右側に進むこと。但し身の安全は保証しない。左の道は、街に続く道である。但し、こちらの道を歩く際は全くの自己責任となる]

 

 どっちだ。歩いている途中で見つけた古びた立て看板を覗いたユウは、まず初めに解けそうにない疑問を持った。

 

 どちらに進んでも街に続いているが、どちらに進んでも危険が待ち受けている。この看板の存在意義は、何処に。

 

「まぁーた下らない嫌がらせに精を出してる阿呆餓鬼がいるのかい。ユウ、正解は右側だよ」

 

 また、と言っている辺り今までにも同様のイタズラをした不届き者がいるらしい。勿論地底の地理をく分かっている勇儀に通用するものではなかったが。

 

「右だったんだな。ちなみに聞くが、左はどうなってるんだ」

 

「落石が余りに多過ぎるから封鎖してる道だよ。本来ここには左の道落石注意の看板が立ってるんだけど、暇してる妖怪がたまにこうやって表示を変えちまうんだ」

 

 二分の一の確率で落石ポイントに誘導するとは、随分と悪質なイタズラである。地底の住人がこんな幼稚な罠に引っかかることはないはずなので、地上からやってきた人妖を嵌めるためのものと見て間違いはないだろう。現に今、ユウは騙される可能性があった。

 

「危ないところだった。良く言ってくれたな、星熊」

 

「ありがたくその感謝は受け取っとくけど、あんたは落石くらいじゃびくともしないだろう」

 

「気分的に嫌なんだよ。上からでかい物が降ってくるっていうのはな」

 

 何と言うか、圧迫感を感じるから苦手なのだ。突然周りが暗くなったと思い上を見れば、視界を埋め尽くすかのような巨岩が降ってきているなんて。別に元々自分の上にあるものに圧を感じることはないのだが、何の前触れもなく突然現れたものに限っては話が違う。

 

 左側は、また時間のある時に見に行くくらいにしておこう。落石があるのなら、それの届かない空から見に行けば全く問題などないだろうし。

 

「さて、進むか」

 

「そうだね。ここから街までなら、歩いて数分ってところだね。向こうに小高い丘があるだろう?あれを越えれば街の入口が目の前に見えるんだ」

 

「ふむ。その街にお前の家があるということで良いのか」

 

「いや、街を抜けて少しのところだ。街自体が中々広いし歩いてたらそれなりに時間かかるけど、いざとなったら飛べば目と鼻の先みたいなもんさ」

 

 それもそうだ。今まで律儀に徒歩で来ていたが、今思えば飛べばもっと早かった。勇儀だって怪我こそしてはいるが全く飛べないわけではないだろうし、速度さえ落とせば良かったのだ。

 

 少々、時間を無駄にしてしまった感は否めない。だが折角地底に入って良いと言われたのだからこの機会に街の様子を覗いておきたいとも彼は思っている。それなら、飛んで行くより歩いて行った方が良く見られるだろう。

 

「多少の時間ロストは仕方ないか……って」

 

 そう思い直して歩き出そうとした時、こちらに向かってとてつもない速度の飛翔体がやってきているのを感知した。

 

 先程のキスメの比ではない。それこそユウに()()()()()()()()()だ。この速度を出すことができる人妖と言われると、やはり脳裏に初めに浮かぶのは彼女だ。

 

「文か。しかし」

 

 同時に、妙な違和感も感じる。地上にいる間に鬼娘達から聞いた話では、文の最高速度は音をも超えるとのことだった。…では何故、今の彼女は飛行速度を敢えて落としているのだろうか。流石に他所様で超速度を出すのは不味いと遠慮しているのか、或いは別の事情があるのか。

 

 近づいてくるにつれて、スピードを更に落とし始めた。まるでユウに当たってはいけないと思っているかのようだ。彼女の妖気は特に乱れてはおらず、超音速を出すことのできないコンディションというわけでもなさそうである。…そして何よりも、文の妖気がぴんと張り詰めたものになっているのが気にかかる。普段の彼女は快活で楽しそうな波長の気配を纏っているのだが、今は所謂真面目な気を漂わせているのだ。

 

「これは、何かあったな」

 

 文の口からどのような言葉が出てきても動揺しないよう、心を落ち着かせておく。勇儀にも何かあったのかも知れないという旨を伝え、二人して文の到着を待つ。

 

 数十秒後、文は彼の知る中でも指折りに遅い速度で飛んできた。そして、高価な壺を置くかのようにゆっくりと地に足をつける。全く妙なこともあるものだと思いながらその服を一目見て、彼はしたかしていないかというくらいに小さく瞠目した。

 

「お師匠様っ」

 

 彼女の着ていた真っ白な服が、胸から腰付近まで真っ赤に染まっているのだ。そして、彼女の腕には一人の少女が抱き抱えられていた。

 

 少女は、薄い緑灰色の髪をしていた。胸の辺りにはさとりのように三番目の瞳が、閉じられた状態で管に繋がっている。事前にさとりから聞いていたとある情報が、一気にユウの脳内を駆け巡った。

 

 ── 灰色の髪で帽子をかぶっている、元気溌剌とした女の子ですから。

 

 よく見れば、髪に自然には付くはずのない癖が付いていた。それなりの時間頭に帽子を被っていたという動かぬ証拠と言える。血液を流し過ぎたのか、青白い顔でぐったりとした女の子から元気というものは感じられないが、少なくとも彼女はさとりの探している妹の特徴を二つ満たしている。

 

「お願いします、この子の怪我を治してあげて下さい!」

 

 背後で、勇儀が息を呑んだ気配がした。…彼はまだ、紫の元へ戻れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……んぅ」

 

 鈍い頭痛のせいか、少女は目を覚ました。

 

「……ん、ここ」

 

 多少揺れていた視界もすぐに正常なものに戻ったので、視線を右に左に移してここが何処かを探る。見慣れた天井、寝慣れたベッド、そして近くのテーブルで何かを話し合っている全く知らない一人と名前を知っている一人と家族一人。

 

地霊殿(ちれいでん)、かな」

 

 自分と姉と、そして沢山のペット達が暮らす場所。彼女が拠り所とする、大切な大切な家。一先ず安心できる要素が一つ見つかって、彼女はほっとした。

 

「こいし!目を覚ましたのね、良かった」

 

 話し合いをしていたさとりが、少女 ーー こいしの覚醒に気がつき駆け寄っていく。それに続く形で、残りの二人もこいしの横たわるベッドへと歩いていった。

 

「お姉ちゃん」

 

「あぁ、良いのよ寝ていて。体を起こすのも辛いでしょう」

 

 さとりの言う通り、上体を起こそうとするだけで背中に激痛が走る。予期せぬ痛みに思わず涙の滲むこいしを、姉であるさとりは心配そうに見つめる。

 

「古明地、心配は要らないぞ。とは言っても、その気持ちは良く分かるが。この子の背中にジェル状の薬を塗ってあるから、多少の衝撃なら吸収できるし動いたって背中を擦ることもない」

 

「すいません、重ね重ねありがとうございます」

 

 さとりが深々と頭を下げて感謝の言葉を口にする。それを見たこいしは、未だ完全に機能を取り戻してはいない頭ながらに疑問を抱いた。

 

「お兄さん、誰?」

 

 そう。この男の子は、一体何者なのだろうか。薬が何とか言っていたことから自分を助けてくれたことは何となく想像がつく。悪い人ではないように見えるが、過去の体験から自然と警戒心を持ってしまう。

 

 優しい仮面を被って近づいてくる恐怖に、何度命を脅かされたか分からない。目の前にいる少年が、絶対に自分の味方であるなんて都合の良い保証は何処にも無いのだ。

 

「ユウ。悪者ではないから、安心してくれて大丈夫だよ」

 

「彼が、こいしを助けてくれたの。大丈夫、貴女を害するような方ではないわ」

 

 こいしの見定めるような冷たい視線も気にすることなく、ユウは名を名乗った。さとりがそれに続き、安心して良いということを彼女に伝える。

 

 信頼している姉が、問題ないと断言しているのだ。なら、信用しても良いのだろう。そう結論付けて、それでもやはり恐る恐る、ベッドの上からユウの顔を見る。

 

「えっと、ありがとう」

 

「どういたしまして。何か困ったことがあれば、遠慮なく俺に言ってくれて良いからな。できる範囲での補助は約束する」

 

 笑顔というわけではなかった。彼が苦手とする数少ないものの一つが愛想笑いの類であり、彼自身それを分かっているからこそ無闇に笑ったりはしない。だけど、一見只の真顔にしか見えないその表情は、全く冷たさを感じさせないものであった。

 

「こいし、本当に何を言ってもこいつなら一つ残らず叶えてくれるからね。本人というか本神も言ってたけど、遠慮なんて一切する必要ないよ」

 

「おい星熊。お前も療養中の身だろう、余計なこと言ってないで大人しく寝ておけ」

 

 この人は、良い人だ。無邪気な子供特有の第六感的な感覚で、こいしはユウの善良性を悟った。

 

 きっと食べ切れない程沢山のお菓子が欲しいとねだったら、大量のお菓子を何処からともなくぽんと出してくれるのだろう。昔本で読んだような、杖一本で何でもできてしまう天才魔法使いみたいだなと彼女が頻りに感心していると、こつこつと外の床を叩く音が近づいてくる。ペット達の誰かかなと思いながら待つこと数秒、足音の主はかちゃりと静かにドアを開けて室内へと入ってきた。

 

「ただ今戻りました」

 

 誰だろう、このお姉さんは。こいしは本日二度目の疑問を抱いた。今日は珍しく知らないお客さんに良く会う日だ。

 

「お師匠様、言われたものを買ってきましたよ……おや、お目覚めですか。月並みですが、良かったです」

 

「先程目を覚ましまして。そうだ、私が買いに行くべきところをわざわざすいません」

 

「これくらいへっちゃらですよ。気にしないで下さい、お姉さんは妹さんに付き添ってあげるべきですから」

 

 可愛い人形をそのまま大きくしたような、あどけなさを残す端正な顔立ち体つきだ。何処を見ても、美しいというよりは可愛いの方が似合う。一部、女性としてはかなり恵まれている部位もあるのが少しだけ羨ましいところではある。

 

「ありがとう、文。それじゃあ食材も届いたことだ、軽食でも作るとしよう。まぁ俺達はさっきそれなりに食べたから、用意するのは古明地姉妹の分だけにするつもりだが、追加で何か食べたいという希望があれば聞くぞ」

 

「酒」

 

「駄目です」

 

 飲むならせめて、自分の家で飲めということだ。そりゃあ、こいしを治療した後に急遽行き先を変更して勇儀の帰宅を遅らせているのはユウだが。

 

 消化に良いうどんかお粥で揃えてやるのが良いかと脳内で献立を検討していると、ちょいちょいと文が手招きしながら彼を呼ぶ。

 

「お師匠様。お料理に取り掛かろうとしているところをすいません、少々お時間の方宜しいですか?」

 

 あまり周りに聞かれたくないのか、いつもより一段階声のボリュームを落としている。勇儀達もそれを察しているようで、こちらにちらりと視線を向けたもののそれ以上は関わってこようとしない。

 

「どうした」

 

 何かあったのかと聞けば、さらにもう一段階声量を落として文は買出し中に得た成果について話し始めた。

 

「実は、少しばかり気になる情報が入ってきまして」

 

「聞こうか」

 

「ここ最近、一際強力な怨霊が地底を徘徊していると専らの噂になっているとか。今のところ誰も自分の目ではっきりと確認できていませんから信憑性はやや低いですが、証言の数から考えれば全くの妄言とは思えません」

 

 強い怨霊が地底にいる。そんな話をしたということは、文はその怨霊が今回の事件の犯人だと睨んでいるに違いない。しかし、ユウは文とは異なる考えを導き出していた。

 

「怨霊が他者を()()()()害することは不可能だ」

 

 怨霊とは、平たく言えば地獄に行った悪人の成れの果てだ。勿論例外もいることにはいるが、大部分がこれに該当する。彼らは人間に取り憑けばその心を乗っ取り互いに争うように仕向け、妖怪に取り憑けばその存在を書き換えて別の妖怪にしてしまうという恐るべき特性を持っている。

 

 だが、逆に言えば怨霊は取り憑くことしかできないのだ。異質かつ驚異的な性質を持ってはいるものの、相手に物理的な危害を加えることは叶わない。

 

 こいしが肉体に大怪我を負っているなら、その犯人が怨霊である可能性はゼロだ。ユウは確信を持ってそう言える。

 

「なるほど。失念していました、確かにその通りです。となると、やはり別の何かが原因となっているのでしょうか」

 

「その怨霊とやらが無関係かどうかは、現段階では判断が付かん。考えられるものの一つとしては、野生動物が挙げられるな」

 

「うーん。これは、こいしちゃんに聞くのが一番手っ取り早そうですが。……流石に、余程煮詰まらない限りは避けたい手段ですよねぇ」

 

「全くだ」

 

 まだ幼い少女に、自分を死の淵まで追い込んだ相手が誰なのか聞くのは余りに酷なことだろう。こいしからすれば、そんなものはもう二度と思い出したくもないトラウマ的存在でしかないのだから。

 

「とにかく、もう少し情報が必要ですね。お師匠様、もうひとっ飛びして詳しく調査をしてきます」

 

 腕まくりまでしてやる気満々な文だが、残念ながらユウがそれを制止した。

 

「いや、良い。お前は古明地姉妹にご飯を作ってやってくれ。調査には、俺が行こう」

 

「何を仰いますか。わざわざお師匠様の手を煩わせるなんて」

 

「お前が言ったんじゃないか、怨霊の噂があると。そんな危ないところに、無策で妖怪のお前を放り込めるか」

 

 ちゅんちゅんと鳴く雀天狗にでもなって帰ってこられたら、どう接するべきか反応に困る。彼は大真面目な顔をしてそう言った。顔と話の内容とがあまりにミスマッチ過ぎて、文は吹き出してしまうのを堪えられなかった。

 

「ぷっ。流石お師匠様、例えが可愛らしいですね」

 

「ほっとけ。とにかく、俺が戻るまではこの屋敷にお邪魔しておいてくれ。古明地や星熊にも絶対に出歩かないよう、釘打ちを頼むぞ」

 

「はい、了解です」

 

 精神に重点を置く妖怪にとって、怨霊は決して克服できない天敵だ。例え勇儀程の高位の妖怪であろうとも、怨霊への抵抗力が並以上に高いというわけではない。故に、彼らが近くにいる可能性があるなら妖怪は大人しくしておく必要がある。外に出るなど、以ての外だ。

 

「あれ。ユウ、何処か行くのかい」

 

「散歩。すぐ戻るから、その間だけ古明地の妹ちゃんを頼むぞ」

 

「……分かった。任せておきなよ、ここでさとり達と待ってる」

 

 目的が別にあることは、分かってもらえた。未だ心の整理など付いていないであろうこいしに余計な不安を与えないよう、務めて平静を装っての会話が成される。

 

 詳しい事情は、文から聞いてくれ。障壁を解除し、心の中でそう唱える。すぐにバリアを消したユウの意図を察したさとりが心を読み、頷いて了承の意を示す。これで、出発前のちょっとした工作は終了である。

 

「お兄さん、散歩に行くの?」

 

「あぁ。ふらりと近場を探索したら、戻ってくるつもりだから、心配しなくても大丈夫だ。万一何かあっても、ここに残っている他の三人が君を助けてくれる」

 

 元より、彼女達が信用できなければ彼も()()になど行かない。こいつらになら安心して預けられると信じているからこそ、彼は自らの身を動かすことができるのだ。

 

「ふぅん。分かった、止めてごめんね。行ってらっしゃい」

 

「はいはい、行ってきます」

 

 送り出すこいしの言葉に、ユウの行動を訝しむ疑惑的な気持ちは乗っていない。純粋な女の子に嘘をつくのは心苦しいことだが、これもこいしのためだ。第三者が聞けば身勝手な言い分だと彼らを非難するかも知れないが、ここはどうか据えかねる腹をどうにか据えて頂きたい。

 

 ドアを開け、部屋の外へ出る。そのまま後ろ手にドアを閉め、鉄の板一枚によって彼女達と隔てられる。

 

「よし。行くか」

 

 誰の声もしない静かな廊下を一人、すたすたと歩く。これから幻想郷に来て初めて本格的な単独行動を取るのかと思うと、妙に下手を打つのが躊躇われるのは何故なのだろうか。初めの一歩が今後を過ごす上で大切だと本能的に理解しているからなのか、はたまた失敗したくないというしょうもない見栄の発露か。どちらにしたって今更この決断について考え直すつもりなど毛頭ないのだが。

 

 第一目的地は地底の街、及びその周辺地帯としよう。頭の中で次の行動の方針を固めながら、彼は一階へ続く階段を一段ずつ降りていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「見渡す限り岩、岩、岩。手掛かりどころか目印になりそうなものすら無いとは、まぁ」

 

 街の外れの上空を、一先ず大まかに探索してみる。何か小さな違和感でも見つけられればそこから探索が進展していくだろうという狙いの元に始めたのだが、まずそもそも小さな手掛かりすら見つからないと来た。

 

 初めから大きな成果を期待していたわけではないが、それでも少しくらい何かあったって良いんじゃないか。街の住人が口を揃えて怨霊が出ると言っていたのなら、痕跡なり何なりが必ず何処かにあるはずなのに。

 

 ある程度の範囲を探したというのに何の成果も得られませんでした、ではちょっと困る。それはまぁ、彼の見立て通り野生動物の仕業であったとしたら痕跡を見つけるのは困難になるし、言い方はアレかも知れないが怪我を治して以後気をつけようということにすれば事は済むのだが。

 

「何かあると思うんだが」

 

 文の話をそのまま鵜呑みにするなら、一際強力な怨霊の話が妖口に膾炙されてきたのはごく最近の話だ。そんな不穏な空気の中で起きた、奇怪な傷害事件にこの噂話が全く関わっていないなんてことがあるのだろうか。例え実行犯でなくとも、何かしらの形で関連してきているように思うのは長く生き過ぎた故の過剰な深慮なのか。

 

 あくまでも噂は噂、と切り離して考えるべきなのかも知れない。しかし、火の無いところに煙は立たないのだ。思い至る選択肢は可及的速やかに全て潰しておきたいところである。もう一度似たようなことが起きないためにも、そして何よりこの一件の進展のためにも。

 

「見つからないってのなら仕方がない。ちょっと戻るのが遅くなるだろうが、向こうの方も探索してみよう」

 

 こいしにすぐ戻ると約束した手前、あまり遅くなるのは避けたいところだ。ちゃちゃっと向こうだけ調べて、それで何も見つからなければ大人しく帰ることにしよう。そう思って、まだ確認していない地点へ飛んで行こうとする。

 

「……ん?」

 

 気のせいだろうか。耳に、低く響く音が届いたような。まるで遠くで雷が鳴っているかのような、ごぉぉんという音だったように感じる。

 

「空耳か?……いや、違うな。また聞こえた」

 

 今度は先程より少しだけはっきりと、音が轟き空気を震わせたのが分かった。

 

 地上と分厚い岩盤で分け隔てられたこの世界で、雷鳴が鳴ることなんてまず無いはずだ。それが人為的若しくは妖為的なものでない限りは。

 

「確かめるべきだな」

 

 或いは、これは雷鳴などではなく地底で定期的に起こる何かしらの現象によって発生する音であり、別段気にしなくて良いものである可能性もある。だが、ユウからすればそんなものは知らない。気にかかるのだから当然この目で確認する必要があるのだ。

 

 飛行中に何かとぶつかると後が怖いので、比較的ゆっくりとしたペースで音のした方へ向かう。先程調べていた空き地らしき場所から北東へ進む間にも、聞こえてくる音はどんどん大きくなっていく。

 

 ここは地底だし、もしかして間欠泉だろうか。だが、そうだとすれば水柱や濛々と立ち込める水蒸気が一切見えないのが変だ。ここ辺りは一面見晴らしもよく、視界を遮る障害物なども無いというのに。

 

「お」

 

 音源地までの距離をそれなりに詰めた辺りで、ユウは数十分ぶりに自分以外の何者かが発する力を感知した。性根の善悪を問わず、生きているものが必ず発している暖かみを全く感じさせないこの力は。

 

「幽霊か?いや、この癖の強さは寧ろ神に近い存在のもの。こうなると、神霊の線が濃くなるな」

 

 神霊。その名の通り、神格化された幽霊である。生前に大きな名声を得た人物が死んだ後、畏怖や尊敬をもって祀られることで信仰を獲得し、その信仰が幽霊に神としての格を与え神霊とする。

 

 一般的に悪意ある幽霊が怨霊で聖人的な幽霊が神霊であるが、たまにこの枠を超えてしまうものがいる。それが、生前に莫大な悪名を縱とした極悪人や、この世に大きな恨みを残して死んでいった高位の人間である。彼らは死後の祟りを恐れた民衆によって畏怖恐怖の念でもって祀りあげられ、怨霊を遥かに凌ぐ負の力を得てしまう。こうなってしまった神霊は祟神とも呼ばれ、更にその存在を恐れられることによって半ば無限回廊的に力を増大させていく。

 

「しかしこいつは、やたらと強いなぁ。これは、下手をすれば三大怨霊クラスだぞ」

 

 そんな祟神達の中にも、勿論力関係というものがあるわけだ。そして、その序列の頂点には三柱の祟神が位置している。俗に彼らは三大怨霊と呼称され、それぞれが恐怖的かつ驚異的な伝承を残している。

 

 東で反乱を起こし、我こそは新しい皇帝であるとして新皇を名乗った平 将門。

 

 後に何十年も続くこととなる源平合戦の大元となった大乱を仕掛けた、崇徳上皇。

 

 そして、残るもう一人は。

 

「む。危ないな、事前の警告も無いとは」

 

 突如、これまでよりずっとはっきりとした雷鳴が轟く。その音を聞くより早く、赤い閃光がユウを目掛けて一直線に走った。一瞬遅れて、破裂音にも似た音が辺り中に響きやがて消えていく。その赤雷の着弾より一瞬早く、悪寒を感じ取った彼が防御の構えを取ったのでダメージは入っていない。

 

 だが、これはつまるところ彼のデフォルトの防御膜では防ぎきれない威力を雷が有しているということを示している。このままでは分が悪いと判断し、彼は纏う膜の防御性能を一段階引き上げた。

 

「近づいただけで殺しにかかってくるとは、その見た目に相応しく凶暴な御仁だ」

 

 苦笑混じりにそう零した彼の前に、雲か煙かと見紛うようなものの集合体がいた。見るものが見れば、それら全てが一つ一つ異なる怨霊だと分かるだろう。……何者かが、周囲一帯の怨霊を取り込み肥大化、同一化を続けているのだ。尤も、ユウにはその何者かについての心当たりがある。

 

 どうしてこんな所に。どうやって外界からあの壁を越えたのか。何故この世界を認識できたのか。疑問は募れど、目の前にいる祟神が答えてくれるとは思えない。まず第一に、口こそあれど喋ることができるのかどうかすら不明である。もしかすると、一切のコミュニケーションが通じないかも知れない。

 

 見れば、古代の貴族らしき出で立ちの祟神の周囲には暗雲が立ち込めていた。膨大な数のそれらからは断続的に赤雷が地に落ち弾ける。その醜怪な様相はまるで、地獄の一部分を切り取ってそのまま地底という別世界に貼り付けたかのようであった。

 

「隙間のない心はすぐに溢れて禍を招く。少しくらい別のことに注意を回して気を紛らせてみたらどうだ。なぁ、()()()

 

 試しに軽いアドバイスも兼ねて話しかけてみる。それに彼は、頷くでもなく歌を詠むでもなく、ふしゅうと濃密で濁った神気を口から吐くことで答えた。百人が今の一連のやり取りを見れば、きっと百人が意思の疎通は不可能という結論を下すだろう。事実、元より期待していなかったが彼はこの時点で会話も身振り手振りもすっぱりと諦めた。

 

 なるほど、さっきの自分の選択はやはり間違っていなかったらしい。黒目の無い、虚ろな目に見つめられながらユウは確信する。だって、仮にあの時文に任せていたら、今頃心血を注いで育てた大切な弟子を一人失うことになっていたかも知れないのだから。



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第九話 地底戦線、激化なり

「お待たせしました。文ちゃん特製、薄味柔らかめなおうどん一丁上がりです」

 

 地霊殿のとある一室、その中で安静にしているこいしの所へと丼に入ったうどんが運ばれていく。近くに設けられているテーブルの上にあった盆に、文はそっと器を置いた。麺と(つゆ)だけのシンプルなものだが、それ故に飾らない素直な美味しさを楽しめるだろうと思わせてくれる一品だ。

 

「そして、こちらがさとりさんのふわたまおうどんです。おぉ、主に親指が熱い熱い」

 

 次いで台所へと戻りもう一つのうどんを盆に乗せ、それをさとりの座る席まで持っていった。こちらは麺の上に濃い黄色をした卵が鎮座しており、特有のほのかな甘みと混ぜた時の程良い瀞みとが売りである。

 

 一階にある台所から二階にある部屋まで熱いうどんが入った器を運ぶのはやはり指的に厳しいものがあるらしく、おーあちちと言いながら早足での運搬であった。

 

「お口に合うかは分かりませんが、よろしければどうぞ食べてくださいな。こいしちゃんの分は、私が食べさせてあげますからご心配なく」

 

「いえ、そんな。作って頂いただけでも申し訳ないのに」

 

「もう暫くすれば日も変わるという時刻です。かなりどたばたとしていましたし、もしさとりさんが夜ご飯を食べていないのでしたら大層お腹が空いたのでは?」

 

「確かに食べてはいませんが、しかし」

 

 言い終わらないうちに、くぅという小さくて可愛らしい音が鳴る。音の出処など、わざわざ探すまでもなかった。

 

「……っ」

 

 自身に言い得ぬ恥をかかせたお腹を押さえ、さとりは頬を真っ赤に染めて俯く。仕方ないのだ。文の言う通り、地上に行ったりこいしの介抱をしたりで食事を取る暇なんて無かった。騒動が一段落付けば、忙しかった時は感じなかった疲れや空腹が大挙して押し寄せてくるのは当然であるし、そんなところに美味しそうなうどんの香りがすればお腹の虫も張り切ってしまうというもの。

 

「伸びないうちに、召し上がれ」

 

「……頂きます」

 

 お腹の空いた子供にご飯を食べさせる母親のように暖かい笑みを浮かべる文。その視線が何処かむず痒くて、でも目の前でほかほかと湯気を立てるうどんの魔力に抗えず、さとりは折れた。

 

 ご丁寧にお箸まで用意してくれているなんて、気の利く烏天狗だ。見れば、文が小さな器にうどんを取り分けて少しずつこいしに食べさせている。こいしが熱さのせいで噎せ込むことのないよう、ある程度冷ましたものを少量お箸で挟んで彼女の口まで持っていってあげているのを見ると、あぁこの天狗さんは子育てとか上手そうだなぁと思わないではいられなかった。

 

「さとり、あんたも食べなよ」

 

「思うところがありまして。勿論、食べますよ」

 

 お箸を手に取り、少し考えた後卵と麺とを絡ませることにした。多分そのために乗せられたものだろうし、さとり自身混ぜ卵のある料理は好きだから。

 

 ほんのりと黄色づいた麺を汁から持ち上げ、小さく口を開けてそれを迎え入れる。瀞みのせいか普段食べているものより熱く感じたのも一瞬、すぐにじんわりと芯から暖められていくような感覚がさとりを包み込んだ。

 

「美味しい」

 

 今まで食べたどんなうどんよりも美味しいかも知れない。少なくとも、心的な幸せすら感じさせるものは自分には作れない。そう思ってしまうほど、美味なものであった。

 

 その後彼女は黙々と箸を進め、気がつけば汁まで綺麗に飲み干してしまっていた。これは危険だ、間違いなく人をダメにするうどんだ。食べ終えたさとりは文の料理の腕に、こたつや布団に匹敵する程のある種の危険性を感じ取った。嗜み過ぎは、堕落の元。

 

「あやや、早いですねさとりさん。麺は少しですが余っていましたし、もう少し多めに作った方が良かったですか?」

 

「いえ、お恥ずかしながらお箸が止まらず。ご馳走様でした、とても美味しかったです」

 

「それは作り手冥利に尽きるというものです。……はい、こいしちゃんも今ので完食です。ぶーたれても追加発注はできませんよ、今はまだ体を労わらないといけませんから」

 

 本当に美味しい料理は人の心を掴むと言うが、どうやらそれは真実だったらしい。文に対しての警戒心を完全には消せていなかったこいしが、たった一杯のうどんを食べただけでかなり心を開きつつあるのだから。

 

 彼らならできるだろうか、と彼女はふと思う。もしかしたら、できるのかも知れない。さとりが心血を注いでもなお達成できていないこの難題も、まるで簡単な足し引きの計算をするが如く。

 

 彼らなら、固く閉ざされた瞳を開くことが ── 。

 

 

 

 

 

 

 

 こんこんとドアを二度ノックする軽快な音が、室内届く。はっ、と思考の海から抜け出し陸へと戻ったさとりは一つ息をついてドアの方へと意識を傾ける。

 

「さとり様。(りん)です、お(くう)も連れて只今戻りました」

 

「あら、お燐にお空。鍵は開いてるわ、入ってきてちょうだい」

 

 許可を得るなり息せき切って室内に入ってきたのは、猫耳らしきものが付いている赤髪少女と、大きな一対の黒翼を備えた黒髪少女だった。

 

「さとり様、こいし様は大丈夫なんですかっ」

 

「えぇ。ここにいる方々ともう一人、散歩に出ている方が助けてくれたお陰でね」

 

 黒翼少女の食い気味な質問に、さとりは彼女が心の中で望んでいた通りの答えを返してやる。それを聞いて、彼女は安堵したように大きく息を吐き出した。

 

「良かったー……。ペット仲間からこいし様が大怪我したって聞いた時は、心臓が飛び出るかと」

 

 ここ地霊殿では、沢山のペットが飼われている。どう見てもさとりに倍する体躯を持つ虎から手に乗るような鸚哥まで、大小種別様々な動物達が館の中で自由気ままに生きているのだ。彼らはしっかりとした躾をされているため、古明地姉妹に襲いかかったりなどという狼藉は働かない。ちなみにだが、ユウが出発した後文を台所まで案内したのは茶色の毛並みをした犬だった。つぶらな瞳がチャームポイントの、四歳の女の子である。

 

 彼らの中にはその特性を活かしてさとり達のために動いたりするものもいるが、お燐もその一人もとい一匹だ。言ってしまえば、彼らは相互に利益のある関係を築いている。さとりやこいしがペット達の安全を保証し、その見返りとして彼らは癒しとちょっとした労働力を提供しているわけだ。

 

 さとりは、ペット達のことを我が子のように可愛がって育てている。だが、忘れてはならない。お燐とお空は現在人間の姿を取っているということを。見た目人間の少女が、自分達のことを事もなげにペットだと言ったのだ。

 

「ペット……?」

 

 文の邪推も、仕方ないと言えばそうなるだろう。一気に疑いの念を増した目が、さとりに向けられる。

 

「あっ、文さん今宜しくない想像をしていますね。違いますよ、この子達は貴女の考えているような意味合いでのペットではなくてですね」

 

「私達は毎日可愛がってもらってるんだよ。お散歩にも連れて行ってもらえるしご飯は美味しいし、さとり様は凄いご主人様なの」

 

 あぁ、お空。何故そんな狙い澄ましても当てられないようなタイミングでその台詞が出てきてしまったの。さとりは天井を仰いで暫く心を何処かに解き放ってしまいたい気分に駆られた。今の文に対して『可愛がって』だの『ご主人様』だの誤解を招くような言葉を発してしまったら。

 

「何ということでしょう。地の底では妖怪が妖怪を飼っているのですね。真実を人々に知らせる新聞記者として、この事実に見て見ぬふりをするわけにはいかないです。少々重く背徳的な内容ではありますが、この射命丸 文が事の仔細を記事として刊行しなければ」

 

 こうなることは必定。あたかも方円の器に随う水のように、文は洗脳されてしまった。

 

「『驚愕!地底には少女が少女を飼う館が。蔓延るのは数多の獣か、それとも貪りたいという本能か!?』といったところでしょうか、次の新聞の一面の見出しは」

 

「文さん。地霊殿はそのように如何わしい場所ではないですから、主としてその記事の発刊は認めかねます」

 

 無論、さとりはその洗脳を解除しようと頑張る。お燐もそんな主人の頑張りを汲み取って、特に口出しをしようともせずこいしの傍に付いておく。だが、そんな空気を察知できないおバ烏が、この場に一人。断っておくと、文ではない。

 

「シンブンキジ?何それ、美味しいの?」

 

「おや、貴女は見たところ烏の妖怪みたいですね。分かりました、同族のよしみで教えてあげましょう。新聞も記事も、何処かであったことを多くの人に伝えるための紙媒体です。凄く分かりやすく言うと、色んな人間や妖怪が見る伝え書きですね」

 

「へぇ。さとり様、この烏に私達のことを記事にしてもらえば、沢山の妖怪に私達は仲良しだって教えられますよ!」

 

 どーよ?と言わんばかりのドヤ顔で胸を張るお空。心を読めば、やれやりましただの褒めて下さいだの、満足感に満ち溢れていた。うん、貴女は確かにやってくれたわ。このまま私が説得を諦めたなら、地霊殿はとっても()()()な集団だと認識してもらえるでしょう。

 

「ほほぅ、他ならぬペットのお空さんの提言とあれば、無視するわけにはいきませんねぇ。分かりました、ありがたく記事とさせて頂きますね」

 

「うん、頼んだよ!」

 

 頼むな。お願いだから、撤回してくれ。そんなさとりの切実な願いは、素晴らしい案を思いついたつもりで有頂天の心持ちであるお空には届かなかった。邪気のない純粋なアイデアは、時に悪魔の策謀すら上回る程に残酷なものとなる。流石にそんなことはないだろうと思っていたさとりだったが、この瞬間にその考えは撤廃した。お空、恐ろしい子。

 

 だがしかし、ここでさとりまでもが折れてしまうと、地霊殿は哀れ地底に復活した遊郭として人妖口に膾炙されることになってしまう。この館のリーダーとして、その事態だけは何としても避けなければならない。ペット達のため、自分のため、そして何よりも純心無垢なこいしを好奇好色の視線思考から守るために。

 

「お空、申し訳ないのだけど食器の片付けをしておいてもらえるかしら。私、今から文さんときっちり腰を据えてお話をしなければいけないの」

 

「さらに良いものを作るんですね!それでは器の方はお任せ下さい」

 

 そんなわけあるか。そう言いたい気持ちをぐっと押さえ込み、次に苦笑いの顔で状況を見守っていたお燐に対して指示を出す。彼女はあまり抜けたところの無いしっかり者なので、それを見込んで大役を与えることにする。

 

「お燐、こいしの傍に。少しでも辛そうにしてたら、すぐに教えてちょうだい。杞憂かもなんて、考えなくて良いから」

 

「畏まりました」

 

 そのままこいしが横になっているベッドの傍らに座り、彼女と談笑を始める。圧迫感を与えないよう、わざわざ膝立ちをして目線を合わせてあげるその気配りは見事の一言に尽きる。

 

「さとり、私はどうするよ。あんたには幾らか世話になってるし、言ってくれれば動くよ」

 

「勇儀さんは客人で、さらに怪我人でしょう。今ペットに寝室へ案内させますから、そこでゆっくりとしていて下さい」

 

「いやでも、私もう軽くならケンカできるくらいになってるよ。それに、今は和やかだって言っても油断できない状況なのは変わらないんだ。こういう時こそ、動ける奴ができることをしないとね」

 

 ぶんぶんと、腕を回して快復をアピールする勇儀。当たり前だが、彼女は鬼なので嘘をついているはずはない。

 

「うーん。では、貴女にもこいしとのお話をお願いしても良いですか?」

 

「勿論構わないが、そんなことで良いのかい」

 

「万一のことがあった時、頼らせて頂きます。全力を出せないとは言っても、四天王級の鬼の援護があると考えればとても心強いですから」

 

 地底では、ただ一人を除けば並び立つ者無しの強者がこちら側にいるのだ。不測の事態が訪れたとしても、彼女さえいればある程度心に余裕を持って対処することができるだろう。

 

「ふむ。そういうことなら、任されたよ」

 

 お燐の横に片膝ついて座り、会話に混ざっていく。お燐もこいしも勇儀に恐れをなすことがないので、話が停滞してしまうこともない。

 

 これで、全員に何かしらの役割を頼むことができた。さらに、最大の障壁となり得るお空は一時的に退出させた。さぁ、地霊殿を守るために自分の拙い舌を精一杯動かそう。そう意気込んで、文の方を向く。

 

「さて。多少時間にゆとりができたことですし、一対一(サシ)での話し合いと行こうじゃありませんか」

 

 文は、しかしさとりの方に意識を向けていなかった。彼女の視線は、窓の向こうにある何かに向けられているかのようであり、さとりを初めとした今目視できる何者にも注がれていない。

 

「……文さん?」

 

 話しかける声が、少し遠慮がちになる。今までの彼女には見られなかった緊張感を伴う鋭さが、すっと細められた双眸にあった。

 

 さとりが見えていない、把握できていない何かを文は見ている。それを知る必要があると感じ、心を読もうとするよりも早く文が静かに口を開く。

 

「すいませんさとりさん、それはまた次の機会に。……勇儀さん、ちょっと宜しいでしょうか。()()、気が付かれましたか?」

 

「あぁ。ユウの神気と、もう一つ凄い邪気だね。さとり、あんたの言ってた万一のことが、早くも現実のものになるかも知れないよ」

 

 この場にいる者達のうち、地霊殿組はまだ何かが起きたことすら感知できていない。だけど、勇儀と文の反応からある程度推察はつく。先程までゆったりとしてはいたが、のっぴきならない方向へと事態が動きつつあるのだろう。そうでなければ、彼女らは唐突にこんなぴりぴりとした雰囲気を纏ったりしないはずだ。

 

「これから何が起こるか、全く想像がつきません。さとりさん、この館で最も安全な場所へ全員で、早急に移ることは可能ですか?具体的な時間を言うと、十分以内が望ましいですね」

 

 地上との交流がほぼ無いさとりは、屈指の実力者というものを紫か藍くらいしか知らない。その他の面々については、名前を聞いたことがある程度のものだ。そんな彼女の目から見ても、文はかなりの実力者である。その文が、迷うことなく退避を選択した。そして、勇儀がそれに異を唱えない。それだけで、さとり達が気を引き締めるには充分過ぎた。

 

「一番安全な場所ですか。そうなると、やはり最上階の一番奥の部屋ですね。私が責任を持って全てのペット達を連れて行きますから、文さんと勇儀さんはこいしを宜しくお願いします」

 

「承りました。……ごめんなさいこいしちゃん、やっと落ち着いて寝られるようになったところで、お部屋を移動することになってしまって」

 

「文お姉ちゃん、何があったの?」

 

 こいしは、酷く不安げな様子である。これだけ場の空気が豹変すれば、それも当然のことだろう。

 

「悪者が現れました」

 

 そんな時、怯える子を勇気づけるには二つすべきことがある。一つは、ある程度真実を伝えること。必要以上に舌先三寸の嘘八百で宥めたって、本当に大丈夫なのか疑われて結局より不安を煽ることになってしまう。

 

「でも心配はいりませんよ。お師匠様や勇儀さんに私、そして何より貴女の家族が付いてますから」

 

 そして二つ目は、確固たる意志をもって確約すること。どれだけ強気な言葉を並べたところで、その中に欠片ほどでも弱気が見られれば、相手はその言葉を信用できなくなる。故に、絶対大丈夫だという姿勢を示していく必要があるのだ。言葉なんて、必要最低限だけあれば良い。

 

「うん。分かった、心配しない」

 

「それで良いのです。すいません、移動するので抱き上げますね。ちょっと痛いかも知れませんが、そこは我慢をお願いします。できるだけそっとしますから」

 

 極力背中の傷に触れないよう、こいしの首真下辺りとお尻付近を支えながら持ち上げる。首をだらりとさせていては疲れるので、肘を上手く頭のところに持っていって即席の枕とする。

 

「案内はお燐、貴女に任せます。お空は私が呼んで、そちらに合流させますね」

 

「はい。……それじゃあ全員、私に着いてきて」

 

 前を歩くお燐に、こいしを抱えた文と勇儀が続く。さとりは皆と別れ、ペット達に呼びかけをするため一階へと駆け足で降りていった。

 

 普段景色を見ながら歩くより少しだけ早足なペースで、しかし振動を最低限に留めるために急ぎすぎないことを常に意識しながら避難地を目指す。階段を登り三階に到達し、さらにそこから奥へ進むこと数分、文達は目的の部屋へと到着した。

 

 がちゃりと内側に開くドアを開けたお燐が、一番初めに部屋の中へと入って電気をつける。ぱっと見た限りでは清掃は行き届いているが、長く誰も使っていなかったのか生活の気配はほぼ感じ取ることができない。そんな部屋のベッドに、抱き上げた時と同じくらい慎重にこいしを横たわらせる。勿論、持ってきたジェル状の薬を背中に当たるよう置いた上でだ。

 

「こいし様、唐突な移動でしたが大丈夫ですか。痛いところなどありませんか?」

 

「大丈夫だよ、お燐」

 

「良かったです。…それでは、私はさとり様のお手伝いに向かいますからここで待っていて下さい。二人も、それで良いかな」

 

 全員が頷くのを確認してから、お燐は部屋を飛び出して駆けていった。ぱた、ぱたというスリッパ特有の足音がハイテンポで遠ざかっていき、やがて聞こえなくなったところで文が大きな溜息をつく。

 

「はぁ……。えらく急転直下ですね」

 

「全くだよ。外じゃ相変わらずユウの神気と何者かの悍ましい神気だか霊気だかが張り合ってるしねぇ。こんなに慌ただしい夜は、この地底でも久しぶりだ」

 

 文に返事をしながらも、その様子は何処か上の空だ。視線も時折ちらちらと、神気の発生現場の方向へ向けられている。

 

 あぁ、なるほど。これはアレだ、()()()()()()()()。そりゃまぁ、強い者とケンカすることが生き甲斐の一つみたいになっている鬼にとったら、現状は生殺しに等しいものだろう。猛然と挑みかかる正当な理由まであるというのに、別の責務がそれを邪魔している。

 

「ユウには、早く終わらせて戻ってきて欲しいよ。このばちばちした感じだと十中八九戦ってるだろうし、ケンカの感想聞いてから再戦を申し込みたいもんだ」

 

 だけど、同時に今自分に課せられている責務を放り出すべきではないと自らを律するための理性も残している。文一人いればほぼ全ての場合において事足りるだろうが、念には念をと昔の偉人も言った。そして何よりも、友人の妹の命が脅かされているこの状況下で、己の本能的な衝動に従って牙を剥きながら暴れ出すことは彼女の長年積み上げてきた誇りが許さない。……その代わりと言っては何だが、ユウは疲れて帰ってきたところにダメ出しのもう一戦が追加されるだろう。まさに泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったりである。

 

「お兄さん、散歩に出てるけど大丈夫かな」

 

 お師匠様、こちらにはまだ急遽出現した特別演出(エクストラステージ)が残っていますのでどうか頑張って下さい。心の中で彼を哀れむような激励を飛ばしていると、こいしが彼の身を案じて不安そうに呟く。

 

「気にする必要はゼロでしょう」

 

「うんうん。あいつの心配なんて、するだけ時間と気持ちの無駄だよ」

 

「……勇儀さんも文お姉ちゃんも、ばっさりしてるね」

 

 そりゃあ、まぁ。特に文など、今まで何度心配しては肩透かしを食らってきたか分からないくらいなのだ。怪我をしたかと思えば無傷だったり、死んだのではないかと顔を青褪めさせれば無傷だったり、どうあっても助からないと首を振れば無傷だったり。とどのつまり、基本的に彼はどんな死地に放り込まれようとも怪我をせず飄々としながら戻ってくるのだ。過去そうであったし、きっとこれからもそれは変わらないのだろう。

 

 ── そんな確信にも似た予想があったからだろうか。この時点ではまだ、誰も自身の想像を超えてくるような展開を想像していなかった。

 

「おや。いつの間にかお師匠様の気配が、地霊殿に」

 

「ありゃ、ほんとだ。おかしいね、まだ決着はついてなさそうなのに。まさかあんな邪気の塊と言葉だけで和解したってこともあるまい」

 

「こちらに真っ直ぐ向かってきておられるようです。到着まで、分足らずと言ったところですね。何か伝えたいことでもあるのでしょうか」

 

 いや、想像はしたがその可能性を一笑に付したと言った方が正しいかも知れない。

 

「空いてますから、どうぞお入り下さい。……お師匠様、お急ぎのようですが如何なされましたか?」

 

 仕方のないことだ。何故なら彼女達にとってユウとは遥か高みに座す絶対無敵の存在であり、何人も彼を脅かすことなどできないと信じるに足る王者なのだから。

 

 だからこそ、その認識が甘いものだなんて思いもできなかった。彼を、疑えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地霊殿へと、一直線に飛ぶ。菅原公らしき怨霊の気配は既に周囲に満ち始めており、姿を視認できないくらい遠く離れたところでも濃密な怨念を感じ取ることができる。この分だと、地霊殿の方でも異様な気配を察知しているかも知れない。

 

「全く、洒落にならん」

 

 溜息混じりに愚痴をこぼす。地底という独特の閉鎖的な環境が原因か、ここには地上よりずっと沢山の怨霊が住み着いている。仮称菅原公は、どうやっているのか定かでないがそれらを次々に吸収し今もなおパワーアップを続けているのだ。……はっきり言って、このまま成長されればいずれユウの手にすら負えなくなってきてしまう。というか、既にそうなりつつある。

 

 交戦を始めて数分で、防御膜のさらなる強化を必要とされた。現在ほぼ最大強度の膜を纏っているが、それでも雷がまともに当たれば大きく削られてしまう。相手にとっては殺す相手を弱らせるためにジャブ程度のつもりで放っている雷が、勇儀の全力の一撃に匹敵する破壊力を有しているのだ。

 

「久しぶりに、()()()()()()()()よなぁ」

 

 もうあと数分もしないうちに、赤い雷はユウの本気の防御を貫き通すに足るパワーを得るのだ。相手の攻撃を受けきった上で反撃して勝つという横綱試合を得意とする彼にとって、これは非常にまずい。

 

 となると、必然的にこちらもまだ切っていない札を切らなければいけなくなる。だが、そこに物があるから使えば良いじゃないかというわけにはいかない。…何百年ぶりかと言う程に久しぶりに切るカードが上手く機能するか、不安なわけではない。手足のように使いこなすことができる自分の力の出力を無理のない範囲内で上げるだけなのだから、失敗などするはずがないだろう。

 

 ただ、これを実行するとなると、どうしても周囲一帯に莫大かつ超高純度の神気を放出することになる。しかも、一瞬ではなく発動している間中絶えず神気は周囲にばらまかれる。こんなもの、少量でも並の人間が触れようものなら即座に昏倒し最悪の場合そのまま目を覚まさなくなってしまう。…恐らくだが、今のかなり弱っているこいしの立場に立って考えるなら毒ガスが念入りに散布されるようなものだろう。怨霊を撃破する前に余波でこいしの命が奪われかねない。

 

 勿論、ユウはその危険な可能性に気がついている。

 

「戻ってこれたか。急いで文達の所に向かわないと」

 

 だから、彼は一度大怨霊から距離を取ってまで地霊殿へ戻ってきた。その目的は、可能な限りユウと菅原公との戦闘地域から離れるよう伝えること。もっと言えば、影響が及ばない地上まで退避しこいしの容態を安定した状態で保ってもらうことだ。

 

「さっきの部屋にはいないか。さて、館の外には出ていないはずだからこの中の何処かに……いた、この位置からして多分三階だな」

 

 鍵の開いていた正面玄関から中へ入り、先程自分が出てきた部屋に向かうがそこは既に蛻の空だった。一先ず感じ慣れた文の妖気を探り、すぐに場所を特定する。

 

 最短ルートで飛行し、程なくして文と勇儀、そしてこいしの妖気が感じられる部屋の前までやってきた。ノックをする時間すら、今は惜しく思われる。中にいたのが気心の知れた男連中だったなら、きっとユウは何の通達もなくドアを開け放っていただろう。

 

「空いてますから、どうぞお入り下さい」

 

 文の許可があったので、ドアを開けて部屋の中に入る。何処か寛いでいたような表情が、彼を見た瞬間にほんの僅かに引き締められたのが見えた。

 

「お師匠様、お急ぎのようですが如何なされましたか?」

 

「事情は後で話す。何も聞かずに、地上まで全員連れて撤退してくれ」

 

 案の定、彼女達は一瞬の間ぽかんとした。

 

「撤退、ですか?」

 

「あぁ。のっぴきならんというか、加減できんというか」

 

 彼をもってしてそこまで言わしめる程だというのか、あの怪物は。文は突然極圏に放り込まれたかのように背筋が冷たくなるのを感じた。彼の加減なしの本気など、紫から聞いたことがあるだけで実際に見たことなんてただの一度たりともない。

 

「了解しました」

 

 それでも、文の反応は早かった。彼女は飛行速度だけでなく、頭の回転に関しても常人を遥か彼方に置き去りにしてしまえるのだ。故に、今この瞬間に何をすべきかを、誰よりも早く導き出すことができる。

 

「地底へ続く穴の近くに、白狼天狗の駐屯所があります。そこを借りて、こいしちゃんを安静にしておきながらお師匠様を待ちます」

 

「それで頼む」

 

「地底の住人どもに関しては、私が呼びかけて何とか避難させよう。私が言えば、一発さ」

 

 勇儀もユウ達の案に沿う姿勢を見せる。今、衝動に任せてこの場を乱すべきではないと自らを律した上での判断であった。

 

「こっちは別に地上まで上がらなくても、距離取っとけば大丈夫かね」

 

「大怪我してたり弱ってたりするのは、地上に上げた方が良いだろうが」

 

 分かった、と答えた彼女はそれからふっと薄く笑って、彼に一言。

 

「鬼が戦う以外の選択肢を選ぶんだ。それなりの代償は頂くよ?」

 

「美味い酒と模擬戦一回」

 

「ん、それで良いよ」

 

 やはり、どんな状況にあっても鬼は鬼であるらしい。再戦の約束に美酒まで取り付けてしまった勇儀は、中々に強かな女であろう。

 

 勇儀にものを頼むのだから覚悟はしていたが、それでも骨折りな用事が増えたのは痛い。鬼の相手は鬼でやってくれとげんなりしてくる気持ちを留めて、彼はこいしの元へと歩いていく。

 

「お兄さんは、来ないの?」

 

「ごめんよ。悪いのをやっつけんといかなくてなぁ」

 

「勝てるの?」

 

 こいしにとって最も気になるのは、やはりそこだろう。単純な、しかし重い質問だった。

 

「おぅ。勝つぞ」

 

 そもそも、負けるわけにはいかないのだ。万が一、億が一彼が負けようものならあの雷神を止められるものがいなくなってしまうのだから。或いは幻想郷の強力な妖怪達の力を結集して立ち向かえば勝利することはできるだろうが、その際に生じる被害や犠牲は一体如何程のものになるのか。どれだけ事が上手く運ばれようとも、無血の勝利など望むべくもないことは確かだ。

 

 勝てるか勝てないかと言うよりは、勝つ勝たないの話だと彼は考えている。可能か不可能かなんてこの場では問われていない。求められるのは勝ったという結果唯一つ。

 

「頑張って。悪いやつを、やっつけて」

 

「任せてくれ」

 

 ぽふぽふとこいしの頭に二度軽く触れてから、彼は踵を返し扉へと向かう。扉を開き、部屋の外へ一歩踏み出そうとしたユウに、文がそっと声をかけた。

 

「お気をつけて」

 

「ん」

 

 それに対して左手を挙げながら答え、そしてドアを閉じて彼は再び飛行を始める。ここでゆったりしていたら、菅原公が彼の神気を嗅ぎつけて地霊殿までやってきてしまう可能性があった。そうなれば、わざわざここまで戻ってきた意味が無い。

 

 館の外へと出た彼は、すぐに瞬間移動にも似た超高速シフトによって雷神の元へと戻る。地底の龍脈は地上のものと比べてぬるりとしていて、あまり彼好みではなかった。もう少し入り心地が良くなってくれると嬉しいんだけどなぁと彼が考えた時には、既に菅原公が視線の先で胡座を組んで浮かび蠢いていた。ユウを見つけ、やっと見つけたぞと言わんばかりにふしゅると荒い息を吐くその姿は、神話に登場する巨躯の怪物を彷彿とさせるものがある。

 

 目を離していたのは数分間だったが、その間もこいつはペースを落とすことなく怨霊を吸収していたらしい。いよいよもってこのモードでは勝てない領域にまで至ってしまっている。周囲の光景の悍ましさも、心做しか増しているように思われる。

 

 このまま身に怨霊を宿し続ければ、いずれはその負荷に耐えきれなくなって消滅してしまうだろう。だけど、それを待っていては地底の街が危ない。何かの偶然で地上に出てきてしまおうものならば、甚大な被害は妖怪の山及びその周辺にまで広がることになる。

 

「ここで倒す他にない」

 

 一度融合された怨霊達を分離させてやることは、不可能だ。だから菅原公の戦力下降は望めないし、これほどまでの力を得てしまった神霊は理性なんてほぼ消し飛んでいる。和解という最も安全かつ紳士的な道は、既に閉ざされてしまっているのだ。

 

 恐らく学問の神としての彼は、まだ外の世界に残り莫大な信仰をその一身に集めているのだろう。今ユウと対峙しているのは、政敵の讒言によって積み重ねてきた栄華を奪われた男の、死してなお残された大きな怨みだ。

 

「おや、文が移動を開始したか。そうなると、頃合いだな。……悪いね、俺個人としてはお前に因縁などはないんだが」

 

 そんな危険を、この地底に野放しにしておいて良いはずがない。

 

「それでも、看過はできないんだよ」

 

 地底の安寧を取り返すために、彼は長く隠していた全力のその一端を開放する。

 

 急激に彼の内包する神気が膨れ上がる。毒となる程に澄み渡った神力は波動となって空間に拡散していく。やがて、彼の背から一対の真っ白な翼が現れ出てくる。とても現実のものとは思えない程に危ない美しさを放つその翼は、存在する如何なる表現でも言い表せないようであった。

 

 勇儀との対戦の時、彼はかなり本気を出していた。手は抜き難かった。だけど、現在彼は()()を出している。持っている力の中で最善を尽くすのではなく、力の上限そのものを引き上げている。

 

 地上に舞い降りた気高き天使の如き風貌となったユウは、眼前の獲物の突然の変化に警戒心を顕にする菅原公に向けて声高らかに宣言した。

 

「さぁ、第二ラウンドだ」

 

 雷神はやはり黙して語らず、代わりとして先程以上に強烈な雷撃をユウ目掛けて撃ち放った。鉄球を思い切り壁にぶつけたかのような轟音が微かな残響を残し、土煙が巻き上げられて彼を翼まで完全に覆い隠した。



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第十話 Second stage

「こいし、体の方は大丈夫?痛かったりしないかしら」

 

 地霊殿からの避難の道中、古明地 さとりは重傷の身である妹の体を慮った。

 

 文のえらく圧迫的なお願いを聞き届けてから、気持ち疲れた体を浮かせて地底に入った。道中で出会った鶴瓶落としの少女から小さいのと勇儀さんが地底に向かっていったという話を聞き、彼女がいるなら案内も必要ないかと考えて、一度地霊殿に戻ろうとした。橋姫と少し他愛もない話に花を咲かせ、別れを告げてから再び飛んで家まで向かっていた時だった。

 

 ぼちぼち近づいてきたなというところで、何故か地上で見た三人組がいたのだ。特に文など、先程までとは打って変わってぴりぴりとしていたので、どうかしたのかと気にかかってそちらへと寄って初めてさとりはこいしの大怪我を知ることとなった。

 

 正直、目の前の光景をすぐに受け入れられたかと言うと、首は横に振らざるを得ない。見るべくして見るのなら、どれほど残酷かつ凄惨なものであろうともそういうものだから仕方がないとして受容もできようが、心の準備をする時間など只の一秒たりとも与えられなかったのだ。一拍遅れて思考が現実に追いついた後も、大いに慌てふためくと同時に彼女は信じられないという思いで一杯だった。だって、つい数時間前に街まで遊びに行くと言って元気に出ていったばかりなのに。

 

 その後のことは、さとりはいまいち良く覚えていない。地霊殿まで道案内をしたことだけは辛うじて記憶に残っているが、その途中でどんな会話を誰と交わしたかなんて全く思い出せもしない。それだけ焦っていたという何よりの証拠だが、同じ光景を見ていた他の三人はきっと彼女以上に動揺してはいないだろう。各々の成すべきことを素早く把握した上でそれを迅速かつ確実に遂行したはずだ。そう考えると、妹の危機に実の姉が何を腑抜けていたのかと、過去の自分の頬でも殴り飛ばしてやりたくなる気分である。

 

「大丈夫よ。文お姉ちゃんが優しくしてくれてるもの」

 

 それでも、心優しき神の治療によってこいしは一命を取り留めた。今はこうしてさとりに向かって薄くではあるが笑顔を見せられるくらいにまで回復してきている。勿論全治に程遠いことは、未だ血色の薄い彼女の顔などを見れば一目瞭然ではあるが、少なくともこいしの容態は徐々に安定してきている。

 

 本当に、奇跡的なタイミングだったとさとりは思う。神が味方してくれたのではないかというくらいだ。あとほんの数分でも彼らが地底に下るのが遅かったら?そう考えると、背筋がぞっと薄ら寒くなるのを堪えられない。何せ自分一人では絶対に助けられなかったと断言されたって反論できやしないのだ。

 

「揺れは最小限に留めるよう意識していますが、もしそれでもということでしたら遠慮なく教えて下さいね。状況を見て、可能でしたら速度を落とすなどしますから」

 

 こいしを抱きかかえて飛んでいるのは、文だ。今いるメンバーの中で誰よりも飛行に長け、また万が一のことがあれば誰よりも早く場を離脱できるためである。

 

「すいません、何から何まで気を遣って頂きまして」

 

「お気になさらず。それにしても、眼下を見れば大小様々な動物達が綺麗な列を成して行進ですか。あやや、時間が許すのならば是非ともシャッターの一回や二回は切りたかった光景なのですが」

 

 避難の報は、すぐに文達の口からさとりにも伝わった。急遽全てのペット達を引き連れていくことになったので、図らずも動物大行進が開催されることとなった。鸚哥や孔雀などの鳥類から蜘蛛などの虫類、大きいものとなると豹や獅子までもが二列に並んで一つ所に突き進む様は圧巻の一言に尽きる。

 

 これ以上はないというくらい新聞のネタに相応しい出来事が目の前で起きているのだから、カメラを向けたいというのが文の飾らぬ本音だ。元々さとりを初めとした地底の面々の取材をしたいということでやってきているのだから、喉からレンズが出る程撮り回したいのは新聞記者として抗えない性である。だが、彼女とて場を弁えられない幼子ではない。

 

 もしカメラを向けようと片手を使えば、必然的にこいしを片手で支えることになってしまう。腕力的には何ら問題はないのだが、片手で体を支えるとなると支点は背中にするしかなくなる。まだ完全に塞がってもいない背中の傷口にこいしの重みが集中すれば、最悪の場合再出血を起こしてしまうだろう。道徳的・倫理的に許されるはずもない、唾棄すべき愚行である。

 

「百を超える種々の動物を一気に見るなんて経験、地上じや中々できないんじゃあないかな。うちのペット達は日頃からのさとり様の教育がしっかりしてるからね、この程度の集団行動なんてちょろいちょろい」

 

「これだけの数のペットに集団での動きを教え込むのは、並大抵の労力では成し得ないことでしょう。お燐さんの言う通り、さとりさんの手腕の賜物ですねぇ」

 

「確かに有事の際に協調性を持って行動するようには教えましたが、体の小さな子達を大柄な子が運んでいるのは、その限りではないんです。今はそうするべきだと判断したから、私の指示の前に動いてくれています。自立的な判断を下すことのできる、私の自慢のペット達ですよ」

 

「へぇ、それはまた賢いペットがいたものですねぇ。うちのわんこ達はどうにも指示を待ちがちですし、どうですさとりさん。一度融通の利かない真っ白い犬の躾をしてみてはくれませんか?」

 

 わんこ達かぁ。動物の意思だって正確に把握できる自分ならきっと躾られるだろうと思い文の心を読み、さとりは思わずぽかんとした。もし地面を歩いていたら、ずっこけていたかも知れない。文さん、それはわんこではありません。白狼天狗と呼ばれる、天狗の一種です。そう突っ込みたかったが、喉元辺りで気合で押し込めて何とか事なきを得た。何故我慢したのかは、当のさとり本人にも良く分かっていないが。

 

「……特に彼女、ですか。懐刀でもありまた良き友でもあるけど、少々真面目が過ぎるのが玉に瑕。良いじゃありませんか、いざという時には骨身を惜しまず協力してくれそうですし」

 

 さとりが見たところでは、一人の少女が思い浮かべられていた。別に悪い子ではないようだし、寧ろ文のためであれば身を張りもするような、健気な少女だ。

 

「それはそうなんですが。基本的に何をやるにしてもまずは私の意見を聞きに来るのがねぇ」

 

「自発的に動いてほしいってことか。あんた山の主なんだから、天狗だったらそりゃあ聞きに行くのが筋ってもんじゃあないのかい」

 

 勇儀の言葉は、的を得ていた。幻想郷でも有数の厳しい縦社会を構成している天狗は、上意下達をまこと当たり前のように実践する。天魔である文の意思は、そのまま天狗社会の行く末を左右してしまうものなのだ。天狗達が(こぞ)って文の意見を聞きに行ったとしても、彼らにおいては何ら不思議なことでもない。

 

「余程の重要案件であれば勇儀さんの言う通りこちらに話を通してほしいのですが。流石に見回り部隊の休憩時間を数分増やすかどうかなんて、ご自由にしてくれれば良いと思いませんか?白狼天狗の諸々は大体あの子に任せているのですから、自らの意思で決定してくれたって怒りやしないのに」

 

 だが、文はそうした自己決定の不足に不満を覚えているらしい。さとりが読心すれば、一々そんなことに気を回して指示するのは面倒だという思いが大いにあった。気持ちは分からないでもないけれど、上司としてそこはびしっと案を示してあげるのが良いのではないだろうか。

 

「それでも相談してくるというのは、信頼の証ではないでしょうか。文さんに聞けば万事大丈夫、そう思っていなければわざわざ貴女に話を持っていったりはしないでしょう。例えばお空も、たまにですけどそんなに重要でもない瑣末事を尋ねに来たりしますよ」

 

 さとりにも、部下かペットかの違いこそあれども特に重要でもないだろうと一言物申したくなるような報告を受けた経験が少なからずある。毎度毎度気の重くなるような報告ばかりされてもそれはそれで心が参ってしまいそうだが、だからって九分九厘が世間話の域を出ないようなものでなくたって。

 

 さてしょうもない報告をするペット代表として挙げられてしまったお空、若干むっとした顔になってさとりに反論する。

 

「石桜が変な時期に多いのは報告すべきことだと思います、私。怨霊も増えるから怖くておちおち出歩けもしないし……っ!」

 

 そのむすっとした表情が、前もっての予告なく冷や水を打たれたかのようにはっとしたものになる。お空が打たれたのは水ではなく、鮮烈な力の波動であったが。

 

「わっ。これは……神気?いえ、確かにお師匠様の神気で間違いはないですが」

 

 突如波を打って伝わってきた力を感じ取ったのは、お空だけではない。避難を進めていた全員が、何処か霊気に似ながらも明らかにそれ以上に澄み切っている力 ーー 神力を感知していた。

 

「これ、お兄さん?でもこんなに綺麗だったかな。今、すっごくきらきらしてる」

 

「こりゃあまた、浮世離れも甚だしいというか。怖いねぇ、()()()のあいつはまるで全開状態じゃあなかったんだね」

 

 こいしは神気の美しさを、勇儀はそのパワーアップをより強く感じていた。どちらの感覚も正しい。元々混じり気のない純粋な力を持っていたが、今の彼はまるで澄んだ小川に強烈な光を照らしたかのように、ただ綺麗なだけでなく輝いてさえいた。そして発揮されている力も、勇儀を手合わせで降した時と比べてさえ大きく上を行っている。

 

 本気と全力は、似て非なるものである。例えば力の七割を出して真摯な態度でもって相手と戦えば、それは本気を出していると言っても間違いではないだろう。対して、持てる全ての力をとあることに注ぎ込めば、それは全力を出したということになるはずだ。彼が勇儀に勝つために本気を出したのは疑いようのない事実であるが、同時に彼が全力を出して彼女と向かい合ったわけではないこともまた真実なのである。

 

「今のお師匠様の力は、量もそうですが何より質そのものが大きく引き上げられているようです。幾ら彼とはいえ、こんな桁外れの芸当ができるなんて……」

 

「質を変える方法なんて、それこそ種の壁を超えるくらいしか思いつきませんよ。……いえ、或いは彼が神であることを考慮するのであれば、彼の核となっている神格をより強めることで可能となるのでしょうか」

 

「人妖の力の清濁剛儚は内在する核が決定していると言われます。あの方は人妖のどちらにも当てはまりませんが、それでもさとりさんの考えはかなりの割合が正しいでしょう。……お、前方に見えるのは橋でしょうか」

 

 いよいよ謎の相手との戦闘が始まったのかと気の引き締まりを感じてから間もなく、一行の眼前にそこまで大きくはないが細部の装飾の精緻な橋が現れてくる。どうやらいつも橋にもたれてぼーっとしている橋姫は不在らしい。帰ってきたら事情を説明して、暫くの間出歩かないようお願いしておけば良いとさとりは考えた。

 

「あの橋の向こうに、ここと地上とを繋いでいる大穴があります。文さんにはそこを通って地上まで行って頂きたいのです」

 

「お任せを。さとりさんは、この辺りに残られるので?」

 

 文の問いに、さとりは首を縦に振って肯定の意を示す。その幼さすら残るような相貌には、やらなければならないことを成し遂げんとする覚悟があった。そして同様に、迷いも。

 

「私はペット達や勇儀さんと一緒にこちらに残るとします。地底の責任者の一人として、そろそろこちらに向かってくるであろう地底の住人達の誘導をしなければいけませんから。……姉としてこいしに付き添ってあげたいのは山々なのですが、どうか宜しくお願いします」

 

 勿論、さとりとて妹であるこいしの傍に寄り添っていたい。こいしは、体もそうだが心にも決して小さくない爪痕を残されたのだから。こんな時こそたった一人の姉である自分が付き添ってあげないといけないのは百も承知であるが、さとりはこいしの姉であると同時に地底の重要事を取り纏め上手く回るよう管理する立場にもいる。言ってしまえば、彼女は地底の顔なのだ。

 

 それ故に、この緊迫した状況下ですべきことは多い。勇儀に全て投げてしまうわけにはいかないくらいに。…さとりとて、許されるなら仕事なんてほっぽり出してこいしと共にいてやりたい。当たり前だ、どうして愛すべき可愛い妹が弱っている時に一緒にいてやれないのか。そんな無情なことがあってたまるかと、声を大にして主張したいくらいだ。

 

 だけど、私情に惑わされて勝手なことをしてはいけない。地底の住人の命を預かる身として、絶対。だから、さとりは文に最愛の妹を託す。苦渋の決断でないと言えば嘘になる。文が信頼できないわけではないが、それでもそれは自分がしなければいけないことだから。

 

「あやや、頭を上げて下さいなさとりさん」

 

 そんなさとりの決断に混じった苦悩は、文に伝わったらしい。そして、伝わったからには見事望ましい形で応えてみせるのが文という少女である。

 

「私も未熟ながら一組織の長ですから、貴女の地底代表としての責任の重さは分かっているつもりです。貴女の手の回らないところは、遠慮なく他の人達に任せてしまって大丈夫ですよ。さとりさんは一人ではありませんからね」

 

 胸をどんと叩き、力強く自信を表現する。その自信は決して生半可に強大な妖怪にありがちな過信ではなく、積み上げてきた確かな経験に裏打ちされた驕らない確信であった。

 

 文の目を、じっと見つめる。一秒、二秒、そして三秒。彼女は微笑みながら、ただの一瞬たりともさとりから視線を外さなかった。

 

 こっちは大丈夫です。そんな言外のメッセージが、暖かくも熱い文の目から発せられているようで、ほんの僅かに残っていた不安まで溶けてさっぱり消えてしまった。

 

「お姉ちゃん、頑張ってね!」

 

 怪我のせいで声を張るのも辛いだろうに、わざわざ語勢を上げてまで応援してくれる妹もいる。あぁ、何という幸せだろうか。不安や葛藤のせいで渇きつつあった心が幸福で満たされていくのが、良く分かる。今ならきっと、どんな無理難題にも皆で力を合わせて立ち向かっていけるに違いない。

 

「……えぇ。ありがとうね、こいし。それでは文さん、重ね重ねですがどうか妹を頼みます」

 

 最早、迷うまい。彼女は目の前の責務を一つ一つこなしていくことを、固く己の心に誓った。

 

 ずっと読心能力のせいで忌み嫌われてきたから、限られた妖怪以外は誰も信用できなかった。信用の仕方さえ、どうだったかと忘れかけていた時期もあった。しかし、さとりは久方ぶりに心の底より他者を信じることができた。そのことに気がつけるのは、もう少しだけ後の話となる。

 

「念入りに頼まれました。事が一段落つくまでの、暫しの別れと参りましょうか」

 

 さとりくらいの小さな体躯の人妖であればすっぽりと包み込んでしまえるであろう黒い翼を広げ、文とこいしは穴の方へと向かい、そして昇っていった。それなりに急ぎさえすればものの数分で地上まで到達できるだろう。到着した後は、こいしにはしっかりと体を休めておいて欲しい。

 

 既にペット達は、その大体が地底の隅であるこの場所までやってきている。吠えたりあちこちに飛んでいったりすることなく、さとりの元まで来てくれるのはありがたいことである。この様子なら、後はお燐とお空にこちらを任せてしまっても大丈夫だろう。自分達は、同じく避難してきているはずの街の妖を上手く誘導して、必要に応じて現在の状況を可能な限り詳細に説明しなければ。

 

 お燐とお空の二人にペット達の統率を一任してから、さとりは橋を渡ってすぐの開けた広場まで行く。何か揉め事があっては困るので、一応避難してくる妖怪と自分のペット達との間は橋で隔てておく。まさかわざわざ橋を渡ってまで悪絡みしに行く阿呆はいないと信じたいし、悠長に遮断する方法を考えている暇もないので信じるしかない。

 

「案内役なんて、柄じゃないんだけどねぇ」

 

 苦笑しながら、勇儀もその後に続いた。柄でないと言ったが、実際全くもってその通りである。戦って相手を捩じ伏せるのが本職である鬼に、あろうことか避難者の誘導を任せるだなんて。勝負事に全身全霊で臨む猛者が最前線にいないというのは、さとりもちょっと異例なことだと思う。

 

「貴女の声の大きさに頼らせてもらいますね。私が枯れるまで声を張っても、ざわめいている場ではとても通りませんから」

 

「要するに、全員纏めてここに集めりゃあ良いんだよね。仕方ない、それくらいなら協力してやるよ」

 

 それでも、協力してくれると言うのなら臆せず頼むが吉だろう。鬼の大声はさとりの握れば折れるかのようなか細い喉から発せられるそれとは一線を画するだけの声量であるし、地底最強クラスの喧嘩番長の一声に逆らう命知らずもまぁいない。場が混乱してしまうのを避けたければ、勇儀の助力は必要不可欠なものである。

 

「ま、対価は後で貰うけどねぇ」

 

「事が済めば、一杯やりましょう。数十分程度ならお付き合いもできますしね」

 

「中々魅力のある提案だけど、お代は」

 

「はて、払って下さるので?」

 

 いやいや、奢られようじゃないか。はっはっは、と豪快に笑う勇儀に釣られ、さとりもくすくすと笑う。勇儀の飲みっぷりを考えると……そもそも進んで考えたいものではないが、悍ましいことを思案するなと嫌がる頭に鞭打って考慮してやると、さとりの財布は飲み始めと会計終わりとで数倍の重さの差が出るに違いない。無論、前者が重くて後者が軽い。だがそれも、鬼の手を借りられるなら安い費用と言えるのだろう。財布の中身の大半を消し飛ばされてなお安いと言えるのかは、甚だ疑問であるが。

 

「さて、そんな対価を払ってもらえるんなら私もきっちり働かないとね。待ってなさとり、ちょいと街まで出向いて連れてくる」

 

 簡単に言うものだ。しかし勇儀は、簡単に妖怪達を引き連れてここまで戻ってくることができるなんて考えてもいなかった。最早できるできないの次元の話ではなく、自分がやると言ったのだから当然未来がその通りに動くのだと言わんばかりの、ある種この上なく傲慢な態度を勇儀は取っていた。流石、己の力を決して過小評価しない鬼である。ぎゅいんと飛び去っていく勇儀を見送りながら、さとりはこれほどまでに頼れる彼女に触れるのはいつ以来だろうかと記憶の集積地を漁ってみて、思い出すのがあまりに重労働になりそうな予感がしたので中断して一息ついた。今からどうせ息もつけなくなるほど忙しくなるのに、どうして今わざわざしんどい思いをしなければいけないというのか。

 

 ちらとお燐達の方を見て、お空が折角出した指示を悉く流されて涙目になっているのを微笑ましく眺めながら、さとりは勇儀御一行の帰りを待つのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 菅原 道真という名を知らぬ者は、外の世界にも幻想郷にもあまりいないことだろう。類稀なる才覚を有し、時の天皇の右腕にまで上り詰めた男であることは既に広く人口に膾炙されている。そして、その才覚を疎んだ左腕の讒言によって遠く西の地へと左遷され、その地で都を懐かしみ惜しみながら死を遂げたことも。

 

 死後その霊は荒ぶる御霊と化し、各地にどうとも説明のつかない不可思議な現象を起こし続けた。そのため人々は彼の御霊を恐れ、雷神として彼を祀り上げた。後の世になり道真公の祟りの記憶や記録が薄れていくにつれて、生前の博識に肖ってか彼は学問の神としての性格も得ていくこととなった。

 

 菅原 道真は、つまり二面性を持つ神と言える。だがこれは、別に珍しいことではない。神とは元来和御霊と荒御霊との二つの性格を持つものであり、神を良く信仰する衆生が前者の加護を受け、信じない者には後者の怒りが祟りという形で現れてくる。神が尋常ならざるものとして多くの人々の信仰を集めるのは、この両極端な二面性故なのである。

 

『。、、 ,』

 

 そんな道真公のうち、荒の要素が何の因果か剥離して幻想郷へと迷い込み、地底へと潜り力を蓄えた。落とす雷は吸収した怨霊の恨みか彼自身の負の感情からか、血のような重みのある赤色をしている。色に違わず凄まじい重み、即ち破壊力を有している雷撃が、その轟音で空気を震わせながら地面を砕く。

 

 まるで思い切り踏みつけられた煎餅のように、地面はばきばきと割れ砕け散る。これだけ派手に破壊し続ければ、いずれ地霊殿のある階層より更に下に位置する空間を掘り当てるというか砕き当てかねない。それは即ち、地面を支えていた岩盤が一定範囲内に渡って全て砕き割られたということであり、既に無人となった地霊殿ごと地盤が崩落するという結末は避けられないだろう。長い歴史を持つ地底においても、この規模での崩落は前代未聞の大事件である。

 

「これだけ穴をぼこぼこ開けられるとなぁ」

 

 砕くべきは対峙している相手であり、地面ではないのだ。菅原公とてそんなことは百も承知であるし、現に自らの前に立ちはだかる障害を焼き殺してやると言わんばかりに雷撃を放っている。例え強大な力を持つ者であろうとも、地面にクレーターを作ってしまえる程の威力がある雷の直撃を受けてしまえば只では済まないだろう。

 

「後始末が面倒そうだ」

 

 まだ成熟する余地を感じさせながら飄々として掴みどころのない、しかしどうにも気怠げな声は、菅原公の前方に見える真っ白な球体の中から聞こえてくる。彼が放った強力な雷撃の大部分を受けながら、大柄な男を何人も収容できるくらいに大きな球体には傷や罅割れの一つもついてはいなかった。恐らく危険を承知で近くに寄って観察したところで、微細なものの一つだって見えやしないはずだ。

 

 壊れないのならもう一度とでも考えているのだろうか、再度菅原 道真の神霊は雷を撃ち出すべくばちばちという音と共に電気をチャージしていく。彼の頭上で電気が溜まり切るより先に、しかし相手側の方が動きを見せた。

 

 しゅん、と一瞬にして球体が消え去る。勿論菅原公の攻撃が今になって効力を発揮してきたなどということはない。消えたのは、彼の他に消した者がいるからに他ならないのだ。

 

「全く、お前の一撃は重いことだよ」

 

 ()()()なら防ぎ切れなかった。惜しみない賞賛の言葉をかけながらも焼け焦げた所の一つもない彼は、菅原公とは違って泰然とした風に立っている。身の丈が自分の数倍もあるような恐ろしい霊を相手取ってなお、全力の一端を見せているだけの彼は圧倒的な存在として地底に君臨する。

 

 やはり神というものの中にも、格付けが存在している。例えば最高神が天照大御神であったり、もう少し神代を遡れば造化三神と呼ばれる面々がおわしていたり。その他に、神霊と殆ど変わらないような小さな神もいらっしゃる。ユウも菅原公も厳密に言わずとも日本古来の神々ではないのだが、敢えてその枠に当てはめて考えれば一体どれくらいの立ち位置を確保することができるのだろうか。

 

 片や長く生きた()()()小さな神、片や日の本三本指の怨霊として名を売ってきた怪物。幻想郷の実力者各位にこの質問をすれば、皆が口を揃えて同じ答えを返してくれるに違いない。何と言っても、彼女達は目の肥えた歴戦の猛者揃いなのだから。

 

「雷である以上、発射と着弾はほぼ同時だ。並の妖怪くらいならいとも簡単に消し炭にしてしまえるような攻撃を絶えず飛ばせるというのは、まぁ普通に並々ならぬ凄技だよ。誇っても良いだろう、うちの弟子でも流石にこうはいかんだろうし」

 

『 、。。』

 

「だが無意味だ」

 

 (ユウ)に決まってるじゃない。例えば妖怪の賢者の一人に数えられるスキマ妖怪に尋ねれば、こう答えてくれることだろう。まるで太陽の昇ってくる方角を聞かれたかのように、何を言っているのだと言わんばかりに。

 

「お前の攻撃は、一つだって俺に届きやしないさ」

 

『・!?…』

 

「百回殴れば壊れる壁があったとしよう。但し、手を出した回数は一瞬の隙のうちにリセットされてしまう。その壁を殴るのを六十回辺りで辞めたとして、壊せると思うか?つまり、そういうことさ」

 

 地面を深く抉り取る赤雷も、彼の圧倒的な防御力の前には膝をつく他にない。僅か一寸あるかないかの、この状況下で命を預けるにはあまりに薄過ぎる膜が、菅原公の雷撃の連射を悉く防いでしまっているのだ。

 

 自分よりずっと小さい少年を、この雷で殺せない。それどころか、傷の一つもつけられない。人間時代の思考回路などとうに焼き切れてしまっている菅原公がそう思えるはずはないが、それでも思い通りにいかないのは癪に障るのだろう。益々怒りの色を強め、気勢猛々しくユウを睨みつけるが、当の本人がそれを苦にする様子は全くない。

 

「さて。お前ばかりに攻撃をさせていると、地底の景観が荒れたものになってしまう。そんなことになってしまったら、後でさとり達に何を言われるか分かったものではないんだよ。……と、いうわけだ。そろそろこっちからも手を出させてもらうかな」

 

 すっ、と開かれた右手を前に出す。その掌に、ゆっくりとユウの神力が圧縮されていく。

 

 ばちばち、ばちん。そんな弾ける音が絶えず鳴る中で、掌上のエネルギーはまるで際限など知らないと言うかのように高まり続ける。

 

「あいつじゃあないが、俺もこの系統の技はよく使うものでな。何せレーザービームというものは速度も威力も申し分がない上に、命中精度も使い手の技量次第で向上させられるときている」

 

 こんな便利なものがあるのだから利用しない手はない、そう思いはしないか?そんなユウの問いかけが終わる前に、菅原公は無い踵を返して場からの逃亡を図った。

 

 無理だ、もしもあれをまともに受けてしまえば存在できなくなって(死んで)しまう。異形の怨霊にまともな思考をするだけの手段があれば、きっとそう思ったことだろう。生憎彼にそのような機能は備わっていないが、それでもユウの法外じみた神気は、戦闘態勢に入っていた菅原公に撤退を選択させるには充分過ぎた。

 

「まぁ、お前にこんな問いをかけたところで答えなんて返ってきやしないか。死人に口なしとはよく言ったものだが、死霊にも当てはまるものだよ。…言葉で伝え難いというのなら、身をもって体験してもらうのが最良の策だろうな」

 

 怨霊が逃げ始めてから、数秒。既にそれなりの距離が空いているが、彼にとってこの程度では障害になり得ない。超人的な動体視力といっそ余剰があると言えるくらいに積み上げられた経験は、ユウに的を外すことを許さない。

 

 一流の弓の射手は狙い通りの地点に正確に矢を放つが、更にその上を行く超一流と呼ばれる者達程ともなると外そうとしても自然と的を射抜いてしまうと言われている。時に才能は失敗という概念を根こそぎ奪い去り、代わりに絶対の成功を実行者に授ける反則的なものだ。

 

「太古の神が一撃、僭越ながら披露させて頂こう」

 

 ほんの一瞬、刹那すら相対的に長時間となるだけの間、ユウの手元で空間を震わすまでに凝縮されていた神力がすっと静かになった。不気味なまでの静寂が、場に広がりかける。そう、あくまでも広がりかけるだけでその実広がりやしなかった。

 

 掌の向く先、全力での逃亡を続ける怨霊の巨大な体躯を丸ごと飲み込んでなお余りある程に大きな光の奔流が、ユウから放たれる。反動で何処までも吹き飛んでしまいそうな小さな体は何故かしっかりと二本の足でもって支えられており、一方で莫大なエネルギーの通過によって大気は唸りを上げて荒れ狂う。ユウ以外の周囲の全てが、物理法則に則って様々な動き方を見せた。

 

 そんな中で、レーザーは曲がることなく一直線に菅原公の背中へと飛来する。そのまま明るい光の筋は濁った色をした怨霊を飲み込み、なおも直進を続けやがて天井の岩盤に当たり新たな大規模破壊を地底に齎すかというところで発撃者の手によって消失させられることとなった。着弾を原因とする爆発は起きず終いとなり、ただじゅっという短い蒸発音のような音が、ほんの僅かだけ彼の耳にも届いた。



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第十一話 仇となりし情け

「世の中に たえて桜の なかりせば」

 

「もう夏ではありませんか」

 

冥界(こっち)じゃあ、盛りは過ぎたとはいえ晩桜がまだ綺麗じゃない。ならまだ春よ、百歩譲っても初夏だわ」

 

「初夏なら夏ではないですか」

 

「あら。珍しく言うじゃない、夏の桜に風雅を感じるのはいけないことなのかしら?」

 

「これは出過ぎた真似を致しました。ですが餅は餅屋、船は船頭。桜を情緒のあるものとして愛でるのは春の貴方様にお任せすれば、きっと他の楽しみにも出会えることです」

 

「他の楽しみねぇ。夏だとそうね、氷菓子は好きよ。この前紫が沢山持ってきてくれたあいすくりんとやらもまた食べてみたいものだわ、あの舌で蕩ける感じは普通の氷菓子じゃ体験できないものだし」

 

「花より団子ですか……。まぁ、それでこそ幽々子(ゆゆこ)様だとも言えましょうが」

 

「食は文化よ。聞いて想像し見て楽しみ、そして食べて至福を得る。貴女私のことをどう思ってるのか分からないけれど、寧ろ私以上に雅を重んじる者もそうはいないわ」

 

「お腹を満たすまでひたすらに食べ続けるのが、果たして雅を重んじる者のすることでしょうか」

 

「文化の摂取には積極性が不可欠よ。好き嫌い食わず嫌いなんてしていたら、真に良いものには出会えないんだもの」

 

「なるほど説得力のある言葉です、流石幽々子様でいらっしゃる。それではこの国に古くからある剣の技にも、より一層真摯に向き合い下さるということで宜しいのですよね」

 

「私の舌を喜ばせられるのなら」

 

「うーん。鉄は舐めても鉄の味しかしません。となると、何としても貴方様には鉄を美味しいと思って頂く必要があるみたいですね」

 

「悪食は悪しき習慣よ。この私が文化とも呼べぬ稚拙事に興じるとでも思ったかしら」

 

「むぅ。……参りました、ですがせめて最低限自分の身を守るだけの技量はお持ちになって頂かないと。幽々子様が一人では我が身も守れぬ無力な乳飲み子とは申しませんが、自衛の手段が多いのに越したことはないのです」

 

「はいはい、そのうちね。それにしても妖夢(ようむ)、今日の桜はいつにも増して綺麗ね。満開の時の眩しい後光が差すような美しさとは、また違うものがあるわ」

 

「えぇ、私もそう感じました」

 

「貴女、この常ならぬ桜を見てどう思う?」

 

「吉兆を知らせてくれているのではと」

 

「ふぅん。私はちょっと……いえ、大分違う印象を抱いたわ。私にはあの桜は、変革の時を知らせているように思えるの」

 

「変革の時?」

 

「妖夢には言っていなかったわね。ついこの間の話よ、新たな幻想郷の住人がやってくるって紫が教えてくれたわ。恐らくもう、幻想郷に入っているんじゃあないかしら」

 

「外来の者がですか。しかし、それと変革の時とやらにどういった関係があるのですか」

 

「急かないの、仕損じるわよ。それでやって来ているであろう人は、私も良く知っていてねぇ。紫から名前を聞いた時には本当にびっくりしちゃったのよ。ま、妖夢には聞き覚えのない名前なんだけれどね」

 

「私が知らないということでしたら、幽々子様の数百年来のご友人と言ったところでしょうか。訳あって外界に出ていたのを、この度幻想郷に戻った、とか」

 

「当たらずとも遠からず。まぁ妖夢にしては悪くない発想ね」

 

「と申しますと」

 

「おバ堅物」

 

「……むぅ」

 

「あらあら。そんなにむっすりしないでちょうだいな、お団子一本あげるから」

 

「……誤魔化されるつもりはありませんが、それはそれとして頂きます」

 

「やれやれ。それじゃあ話を戻すけれど、新たな要素の投下は世界に何を齎すと思うかしら?」

 

「もぐ、また随分と唐突ですね。えぇと、一言で言ってしまえば変革……あぁ、そういう」

 

「その通りよ。私が保証するわ、彼の登場によって幻想郷には大きな変化が起こる。起こらざるを得なくなる」

 

「幽々子様がそう仰るのでしたら、きっとそうなのでしょう」

 

「それだけの世界に対する影響力を、彼は秘めているわ。私や妖夢では、何なら紫でさえ想像の及ばない強烈な革新の風が、近いうちに様々な世界に吹き荒れるわよ。勿論この冥界も、御多分に漏れないはずだわ。うふふ、早く風除けを新調しておかないと」

 

「実際に風を吹かせるわけではないのでは?」

 

「やろうと思えば、多分彼ならできるわよ?」

 

「お戯れを」

 

「彼に限界なんてあるのかしらねぇ」

 

「生きている以上、無いはずがないですよ。そうは言っても幽々子様の口ぶりから、新しくやってくる方がかなりの実力者であることは推測できますが」

 

「できると思うんだけどねぇ。まぁ今は良いわ。妖夢、仕度をなさい。出かけるわよ」

 

「……先程に輪をかけて唐突な話ですね」

 

「えぇ、知ってる。久しぶりに冥界から出て、現し世に遊びに行きましょ。心配しなくたって、少しここを離れたくらいで霊が溢れ返るってこともないわよ」

 

「貴方様の仰る通り、暫くの間冥界を離れていたところでいっぱいいっぱいになってしまうほど冥界は狭くありませんしね。分かりました、お付き合い致しましょう。件の『彼』に会いに行くので?」

 

「それが一番の狙いね。後は幾つか、冥界では食べられない美味しいお菓子やご飯を食べられたら万々歳だわ」

 

「承知しました。それでは準備等々して参りますので、少々お待ちを」

 

「はーい。ちゃちゃっと済ましてちょうだいね、四十秒だけは待ってあげるわぁ」

 

「私が財布を持っていくことをお忘れなきよう」

 

「……あらぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 、  ・

 

 !…/。

 

 ?。。‥・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見るものに地獄の現出を思わせる、流れ落ちた血のように赤黒い雷。祟神の怨念が凝縮された赤雷は、強固な地底の地面をいとも簡単に砕き割ってしまう。長きに渡って人間のみならず様々な生き物が恐れてきた災害の一つを意のままに操る彼は、なるほど生きとし生けるものの天敵と言えるだろう。

 

 そんな人の身の限界を遥かに超えてしまった神霊の力()()上回ってしまうような、それこそいっそ殺戮兵器(リーサルウェポン)と言ってしまっても良い程の光線を天井の岩盤に当たる前に消した後、撃ち出した反動で濛々と巻き上がった砂煙が晴れるのを待つ中でユウは訝しげに首を捻った。

 

「うーん。一割くらい逃げたか、これ」

 

 どれくらいかは正確に把握できないが、とにかく一割か二割くらいが彼の殺霊光線の餌食となり哀れ消失してしまうという難を逃れたのは確かである。菅原公からすれば決死の回避が辛くも実を結び、ユウからすると完全に殲滅しきれなかったことが悔やまれる展開となった。

 

 しかし、一部を取り逃しながらもユウはさして焦りを見せることはなかった。これが半分以上になってくると続けて第二波をぶち込みに行くことも辞さなかっただろうが、構成要素の八割強を一気に消し飛ばされた怨霊の行く末は想像に難くない。残り少なくなった霊気では菅原 道真という高格の存在を維持することすらままならず、やがて自然に滅されていくことだろう。後世を脅かし伝承に名を残される程に強大な神霊であることが、完全に仇となってしまった形である。

 

 止めを差すべきか。ユウはむむと考え迷う。勿論今ここで消滅させてしまうに越したことはない。もって数時間の存在とはいえ、そこらの怨霊を超える危険度は未だに有しているのだから。だが一方で、もう放っておいても良いのではないかとも考え始めていた。他の怨霊を食らっての再度のパワーアップは、あれ程弱ってしまった霊体が行えば、新たに得た力に体が耐えきれないが故に不可能である。

 

 蠱毒に代表される、同族喰いによって己の力を増幅させるという方法には、相手との大きな力量差が必要不可欠なものだ。被捕食者が持つ全ての能力を受け入れてなお自我を保つというのは、存外に高難度なことである。

 

「一応、完全に消しておいた方が良いか」

 

 万が一も起こり得ないが、億が一まで保証できるかというと彼も首を縦には振れない。どの道生き永らえることは不可能であると言っても、だからと言って一切周囲に害を及ぼさないわけではないだろうから。何と言っても、他者に憑依する怨霊としての特性はまだ残っているに違いない。つまり、所謂予防措置として、きっちりとやり遂げるに越したことはない。

 

 菅原公の霊気を探る。小さくなったとはいえ異質な怨霊の霊気だ、即座に見つけ出すことはさしたる難題でもない。弱り切っている相手に無慈悲に止めを差すのは心が痛まないでもないが、ここは心をすぱっと鬼にして一思いに消去してしまうべきだろう。それが地底の皆のためであり、同時に菅原公のためともなる。恐らく外に残っているのであろう学問の神としての彼も、千年を優に超える程昔の恨みが今なお結界で隔てられた地で暴れ回っていると聞けば、どう思うかはさておき良い気分はしないだろうし。

 

 彼の元まで行くのに、飛ぶ必要はなかった。ユウから三十間程離れたところに、菅原公の残り滓はべっちゃりと横たわっていた。人間か妖怪なら、息も絶え絶えと言った様子であっただろう。時折ぴくぴくと動いてはいるものの、もうこれ以上自力で空を飛びユウから逃げることはできないようだ。

 

「怨霊は死んだらそこで終いだ。お前さんも、例外じゃあない」

 

 一歩ずつ菅原公の元に近づきながら、ユウは半ば独り言のように語りかける。人間は死ねばその魂が冥界に向かい、地獄での閻魔による判決を受けて新たな生を歩み出すことになるが、怨霊はそうもいかない。冥界にも向かわず地獄にすら落とされず、ただ幾ばくかの恨みをその場に残して消滅するのみである。その恨みも然程の時を置くことなく自然作用によって浄化され、怨霊の存在していたという痕跡は何処にも存在しないこととなる。早い話が、怨霊とは輪廻の輪から逸脱してしまっているが故に第二の生というものを受け取ることができない存在なのだ。

 

「決して覆すことの叶わない道理に、例えどんな強固な意志があったとしても横車をけしかけるのは御法度だ。だから、お前がここから命を拾い直してもう一度御霊として暴れ回ることはできない」

 

 彼の言葉に、菅原公は初めて大きな反応を見せた。びちびちと、陸に打ち上げられた魚のように体全体を跳ねさせる。彼にその気はないはずだが、恐らく最後の抵抗なのだろう。大きさを度外視すれば元々人間の体に近しい形を取っていた神霊は、最早原型など留めるべくもなく白い靄となってしまってもなお己に楯突く言い分を全く認めず、荒御霊のあらゆる他者を脅かすという性質だけは忘れることがなかった。

 

 目も腕も足も喉も、何もかも失った。それでも、現し世に命を受け生きる何の生き物にも似ない醜悪な塊と成り果てたとしても、菅原公は最後の一瞬まで荒れ狂う怒りの具現であり続ける。その様子を見たある者は決して途切れることのない怒りに恐怖し、またある者は藻掻き足掻くことを惨めと思うことだろう。

 

 死の間際まで、遠い昔の怨念に囚われたままか。ユウは菅原公に、憐憫の情を抱きかける。和御霊としての彼が結界の外側で今なお多大なる信仰を獲得し続けている一方で、その対局に位置するもう一柱の彼は負の側面を全て請け負い暴れ、ここに至って一度も心休まらなかったであろう業深き生を終えようとしている。如何に千代の昔から猛威を振るい、そして一人の少女を死の淵まで追い込んだ科があるとはいえ、これはあまりにも不憫が過ぎやしないだろうか。

 

 同情は、してはいけない。そんなことは誰に言われるまでもないことだ。しかし、どんな相手でも同じ命一つの持ち主だ。二度と取り戻すことのできない大切なものを奪ってしまうのは、幾星霜の時をかけて何億何兆回繰り返そうと慣れないことである。

 

「初めにも言ったな。俺自体はお前に恨みなんて無いんだが」

 

 もう一度、ユウは力を貯め始める。先程菅原公の大半を消滅させたあのレーザーみたいな弩級の破壊力は、必要ない。今の彼がほんの少し伸ばした手に力を込めてやれば、それで一連の問題全てに片がつく。後はゆっくりと時間をかけてこいしの治療を行い、治り次第また地底の皆で仲良く暮らしていけるよう助力をするだけだ。そう、たった、それだけ。別に太陽を持ってくる必要もなければ月に大穴を穿たずとも良いし、大津波で地上の全てを薙ぐなんて暴挙に出なくたって何の問題もない。

 

 黙して動かない菅原公を、外面は無表情に見下ろしていたユウ。そのあまりの痛ましさに、刹那目線が左に逸れる。

 

 ユウは、かなり無慈悲な部類に入る。倒すべきと判断した相手は、誰であっても分け隔てなく倒してしまう。それはきっと、彼の娘や弟子においてさえ変わらないことだろう。だけど、彼は同時に完全に無情になりきることはできない。半ば能面の如く表情が変化しないのに対して心は存外豊かな振れ幅を持つ気質なのだ。最終的に例外なく遂行するとはいえ、それまでの葛藤は人並み以上に大きい。

 

 或いはそれは、悪魔の手引きだったのだろうか。古来より神に仇なすものの筆頭に挙げられてきた彼らは、忌むべき相手である神がそのまま事に決着をつけることを良しとしなかったのかも知れない。冷徹に戦いを運びながらもやはり情を捨て切ることのできない彼の心優しい性格に、完璧な ── ユウにとっては最悪と言うべきであろうが、そんなタイミングで付け入ったのだから。

 

「……なっ」

 

 背筋が凍りつく唐突な感覚に、ユウは差し迫った身の危険を悟る。

 

 ユウと相見える前、自身の力を高めるために、まさか菅原公はわざわざ怨霊を一つ一つ喰らいにいったわけではないだろう。そんなえっちらおっちらと非効率的なことをするくらいなら、霊の間にしか存在しない独自のコネクションなどを用いて一箇所に呼び寄せ、それから纏めて摂取した方がよっぽど早上がりである。勿論そんな菅原公だけに都合の良い繋がりがあるとは限らないが、もし他の怨霊との間で何らかのやり取りができるとすれば、例えばだが彼らの重く暗い力が大量に溶け込んでいるものをある程度操れたところで何の疑問もない。肉体という外殻を持たない怨霊は、穢れを多く含んだ霊気の塊がぼんやりとした自我を得たようなものであり、彼らに干渉することは霊気に干渉することとほぼ同義である。

 

 彼は、ここまで優位に立ったまま戦いを運んだ。飛来する攻撃は一つとして通さず、対してたった一度の攻撃で菅原公を瀕死にまで追い込んだのだから、圧倒していたと言ったって過言ではない。しかし優勢にありながら、いや優勢にあったがために彼は失念していた。この地底を走る龍脈の特徴を。……彼は、知っていたのだ。特殊な閉鎖的環境である地底を流れる大いなる力は、生命の活気に溢れた地上のものとは異なり重苦しくてどろりとしていることを。何故なら、実際にその身で龍脈へ潜り時間短縮のために活用しているのだから。

 

 例えば石と硬い木の実を置いておけば、賢い動物であれば石を用いて木の実を割るという行動を取るだろう。菅原公はこれと原理的には同じことをして、ユウに向かって手負いの獣の如く猛然と牙を剥いた。そう、使えるもの(干渉力)作用されるもの(龍脈)とを上手く結びつけて死中に活を見出そうとしたのだ。更にそこには、自らを滅せんと迫る絶対強者を退けるという目的もあった。

 

『?!!! ,』

 

 悍ましい雷ではなかった。()()は、真紅と呼ぶにはあまりに醜い赤色でなかった。

 

 どうとも言い得なかった。()()は、菅原 道真の意図がどうであれ攻撃と言うよりは噴出と言うべきものであった。

 

 今までの比ではなかった。()()は、咄嗟に体を逸らし避けようとしたユウの右腕を、根元からじゅっと呑み込んだ。

 

「ッ」

 

 反射的に、バックステップで距離を取る。ぼたぼたと落ちていく血が、彼の動きに流されて少し細長く伸びながら地面に軌跡を描く。出血量を鑑みるに、放置しておいても大丈夫な軽い怪我ではないようだ。

 

 きっちりと両足で着地したはずなのに、左に重心が傾いているように感じる。危うく無様にも横に倒れてしまうところだった。全く、ただでさえ冷静にならなければいけない場面にいるのだから焦らせないで欲しいものである…いや、これは気のせいではない。確実に、体の重心が滅茶苦茶に乱れてしまっている。

 

 だが、長く生きてきただけはあってこの手の経験も既に何度かしている。これはあれだ、手が半分くらい取れかけてしまっているやつだ。近年稀に見る重傷を負ってしまったがこの段階であれば応急処置を施してから菅原公を倒し、その後に本格的な治療を行ってやれば、暫く後には完全な復活を遂げることができるだろう。

 

 さて、俺は何処を重点的に処置すれば良いのか。あまり多いと手間取ってしまうので、できれば数箇所程度に留まってくれていると嬉しいんだけど。そんなユウの願いは、見事に叶うこととなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……は」

 

 治療箇所は、何と彼の予想を超える程に少なかった。だって、とある部分の止血をするだけで良かったのだから。逆に止血以外のことはできないとも言えるのだが、何にせよ治療にかける時間が少なくて済むのは良いことではないか。前を見ればさっきまで白い塊に過ぎなかった菅原公が、満を持して完全復活してしまっている。とは言っても消えかけていた霊体に無理矢理龍脈の力を流し込んで再構築するという荒業をやってのけているので、既に半ば暴走状態にあるようだ。もうほんの四半時も経てば、彼の怨霊としての核が限界を迎えて崩壊し、荒ぶる雷神としての菅原公はこの世から完全に消滅することになるだろう。

 

 だけど、それまでの間だけでも彼を暴れさせるわけにはいかない。もうとっくにこの辺りは戦闘前と風景が一変してしまっているが、だからと言ってこれ以上破壊してもバレないだろうなんてあくどいことを考えてはいけないのだ。さぁ、一秒でも早く怒り狂う祟神を降す必要があるのだから、さっと止血しよう。場所は肩のすぐ傍、腕の付け根だ。

 

 



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第十二話 冥界主従、山へ入る

「はー……久しぶりに来たけれど」

 

 妖怪の山から程近い、とある森の上空。常人が下を見れば足が震え出してくるであろう高度をものともしない様子で、二人の少女が宙に浮かんでいた。尤も、片方は高さ以外のことに悩まされているのだが。

 

「あっついわねぇ、現し世」

 

 そう。片方もとい西行寺(さいぎょうじ) 幽々子を困らせているのは、じっとしているだけでも汗ばんでくるような夏の暑さであった。桃色と黒色の蝶があちこちに散りばめられた青藍色の着物でその豊満な肢体を包む彼女は、着物をぱたぱたとして少しでも風を送り込もうと躍起になっている。時折ちらちらと露出する瑞々しげな大玉西瓜にむしゃぶりつけば、一時の涼を取れるのだろうか。両者様々な意味で熱くなってしまうのが落ちだろう。

 

「夏ですから。冥界が涼しい分、よりこちらが暑く感じられるのも道理です」

 

 一方、もう一人の少女もとい魂魄(こんぱく) 妖夢は夏の夜特有の体に纏わりつく暑さに苦しむ様子もない。幽々子と違って半袖に丈のやや短いスカートを着用しているため、通気性に優れているのが明暗を分けたのだろう。

 

「うぅー……。じめっとしてるせいで、折角の望月も楽しめないじゃない。やっぱり月見は涼しい中でお団子食べながらするに限るわ」

 

 現し世に来たばかりだというのに、早くもむすっとした表情を浮かべて幽々子は愚痴をこぼす。月に叢雲、花に風とはよく言ったものであるが、夏の気候は何も月を見ること自体を妨げているわけではないのだから勘弁してやって欲しいところである。

 

 ぶーたれながらの幽々子の文句に、少しだけ妖夢は苦笑する。全く、普段は誰彼構わず良く回る口で煙に巻いてしまうのに、妙に所々で子供っぽいお方だ。

 

「それならあと二月程お待ちください、今はその時期ではございませんから」

 

「それもそうねぇ」

 

 こうしてけろっと切り替えてしまえるところも、歳不相応の幼さを感じさせる。外見こそ発育の良い少女のそれであるが、その実幽々子の年齢は妖夢を十度生まれ変わらせても足りないくらいだ。当然重ねた年月に比例して凄味というものが現れてくるのだが、幽々子はそれをぽやぽやとした緩い雰囲気の中にすっぽりと隠してしまうのがとても上手である。長く一緒にいる妖夢でさえやる気スイッチの入り切りに着いていくのは困難を極めるので、彼女と付き合いのない、若しくは浅い者では言うに及ばずというところだろう。奔放な態度で相手をあっちこっちそっちに振り回すことに関しては、彼女の右に出る者なんてまぁそうはいない。

 

 思えば、どれだけ自分は我が主に翻弄されてきたのだろう。時に難解な言葉遊びを解き明かすことを要求されたり、また時には夕食の最中にあれが食べたいこれが食べたいなどと食い患いを発動する。かと思えばふと真面目な顔を見せ、自らの職務である冥界の管理を遂行するために自分のことを部下として最大の効率をもって使う。つまるところ幽々子とは、控えめに言って気紛れの過ぎる我が儘少女だ。

 

 何だかなぁ、と妖夢は溜息でもつきたい気分になった。そんな我が儘な主に仕えているというのに、どうしてか逃げ出してやろうとか反抗してやろうとは思えなかった。これが幽々子以外の誰かだったなら、妖夢はとっくに主の傍を離れているに違いない。今までそうしなかったのは、(ひとえ)に彼女が持っている摩訶不思議で強力な魅力のせいだろう。それに強く惹き付けられているからこそ妖夢は今でも幽々子に付き従う者であり続けているのだ。

 

「はぁ、全く」

 

 またしても苦笑。顔に変な皺が刻まれてしまいそうで怖いが、幽々子と共に過ごしていると一日に一回は必ず苦笑いしている気すらするので、恐らくこんな心配をしてもとうの昔に手遅れなのだろう。いつか年月が経って妖夢が老いた時、きっと彼女は苦労人の香りがかぐわしい一端の女になっている。

 

「困ったなぁ」

 

 本日三度目。もう生活習慣の一部になってしまっているのではないかとさえ思う。でも、今日はあと何回も変に口角を上げることになる気はしている。

 

 幽々子は好奇心が旺盛であるが、仕事の関係上滅多に現世へはやってこれない。管理者ともあろう者がその土地を易々と離れるわけにはいかない。そんな彼女が、短い時間になるとはいえ久しぶりに自らの屋敷である白玉楼(はくぎょくろう)から出られたのだ。そりゃあもう、時間の許す限りで心ゆくまで満喫なさるんだろうなぁというのは想像に難くないどころか火を見るより明らかであった。しかしこんな機会が次にいつ訪れるかなんて分からないのだから、是非ともゆっくりと羽根を伸ばしてもらいたいものである。

 

「……あれ?幽々子様は何処へ」

 

「かっがーみーには♪うーつーらーない♪」

 

「あ、あんな所までもう!?」

 

 前言撤回。目を離した隙にふらふらと飛んでいくのはおやめ下さいお願いします何でもはできませんが。明日の夕食の献立に幽々子様の要望を多めに盛り込むくらいなら、何とかできますから。護衛すべき主がふと見たらいないだなんて、心臓に悪い。

 

 しかも悪いことに、飛んでいっている先を見れば白い頭髪に狼のような鋭い耳を持つ少年少女が、何やら沢山いるではないか。偶に食材の買い出しなどで現世までやってくることのある妖夢には分かる、彼らは白狼天狗と呼ばれる集団だろう。となると、幽々子が今にも降り立たんとしている場所は、天狗の縄張りとして有名な妖怪の山である可能性が極めて高いわけで。

 

「幽々子様止まって、止まって下さい!」

 

 妖夢の記憶が確かなら、天狗は極めて高度かつ閉鎖的な社会を構築しているために外部からの侵入者に対しては一切の容赦も手心も加えないと聞く。冥界を統率する亡霊姫である幽々子と雖も、優遇されるとは考え辛い。第一、彼女の名前が現し世にまで浸透しているという確証すらないのが現実である。

 

 怒られる前に何とか彼女をこちらに連れ戻さないと、冥界の名折れの他にない。一つの世界の最高責任者が不法侵入でしょっぴかれるのは、面目的な意味で非常にまずいのだ。

 

「はぁい、わんちゃん達。どうしたのかしら、そんなにばたばたして」

 

 だがしかし妖夢の切な願いも虚しく、幽々子はあろうことか自ら声をかけに行ってしまった。呼ばれれば反応するのが耳のある生き物ということで、その場にいた白狼天狗と思しき妖怪達が一斉に幽々子の方を向く。ばっ、と振り向いている者もおり、一気に場の警戒度が急上昇したのが遠目から見ている妖夢にも良く分かった。良く分かってしまった。

 

 嗚呼、せめて謝って済む範囲にいるうちに事を収めなければ。そう考え直し、急いで幽々子の元へと飛んでいく。というか幽々子様、初対面の相手にわんちゃんって呼ばないで下さい発育の良い争いの種でしかありません。

 

「こんな時に侵入者とはな。機の悪いことだ」

 

「立ち去れ、ここは妖怪の山である。特別な許可のない者に、この土は踏めないぞ」

 

 刀に手をかける者も、ぱっと見ただけでも二か三はいる。すぐにでも切りかかるような尖った殺気は感じないにせよ、穏やかでないことは一目瞭然である。本当に刀身を閃かせられる前に、調停に入らねば。

 

「ご、ごめんなさい。すぐ去りますから。ほら幽々子様、行きましょう」

 

 緊迫した雰囲気の中にさっと降り立ち、さっと幽々子の腰を抱き抱えて回収する。あぅー、と何処となく楽しげな幽々子に説教をするべく、腰から手を離してじっと幽々子を見据えようとした。

 

「幽々子様、妖怪の山は外部からの侵入を極めて厭う場所で……っ!」

 

 新手の出現を鋭敏に感じ取り、妖夢は説教を中断した。下を見れば、今さっき幽々子を拾った場所に白狼天狗が一人増えていた。他よりほんの少しだけ背丈の低い、女の子と形容すべき少女であった。だが、この場にいるどの白狼天狗よりも強い。それも、ちょっとした差ではなく一対多でも引けを取らないだろうと思わせるくらいには。

 

 少女は、他の天狗に比べればそこまでぴりぴりとはしていなかった。殺気だけなら、周りで警戒行動を取っている彼彼女の方が強い。だが、注意すべきは新しく現れた彼女であろう。一振りの刀を携えているが、その腕前は小さく見積もっても妖夢と真正面から張り合えるくらいだろう。同じ剣を振るう者として、妖夢は瞬時に彼我の実力を比較できた。幽々子ならともかく、自分は間違いなく油断できない。

 

「殊更強い力を感じたから来てみれば」

 

 小さな見た目以上にどっしりとした貫禄をもって、少女は口火を切った。その視線は絶えず幽々子と妖夢を捉えており、二人の一挙一動をつぶさに観察していた。

 

「霊か?人の姿を取り言葉を話す辺り、知能も高いようだが」

 

「あら嬉しい。聞いたかしら妖夢、あのわんちゃん私のこと、頭良いって」

 

 もう彼女の中で、白狼天狗はわんちゃんと呼称されることになっているらしい。何でそう呼ぶに至ったのだと頭を抱える妖夢の肩をばしばし叩きながら喜んでいる幽々子を、少女は見たことのないものを見たような目で見ていた。呆れながらも視線が全く逸れないのは評価される点であろうが、それよりもこの穏やかならぬ状況で特大のボケを放ってみせた幽々子の底無しの胆力に驚かされる。

 

「まぁ私は幼少の頃から学を積んできた教養豊かな令嬢だもの。そう見えるのも然もありなんよねぇ」

 

 間違ってはいない。日常に溢れている美しい自然を題材に、即座に雅ある和歌を詠んでみせる才覚は妖夢も知るところであるし、彼女の古くからの友人も歌詠みに関しては天賦の才があると称賛する程だ。語学的には間違いなく素晴らしい素質を持ち合わせていると言えるのだが、多分というか絶対少女の言う知能はそういうことではないだろう。

 

 普通は意思の疎通などできないはずの幽霊が当たり前のように会話をしてきたら、その幽霊は同種と比較して高い知能を有していると言われて当然だ。しかも天狗少女は幽々子の頭の優秀さを褒めたかったわけではなく、単に比較的高い知能があると思ったために口に出したに過ぎない。

 

 幽々子様もそれを分かった上で敢えて呆けてみせたのだ。その目的としては、自分の余裕を相手に見せつけて私の方が優位に立っているのだと示すためであろう。妖夢はそう信じたかったが、未だに主の顔がにやけているのを見ると、もしかして本当に勘違いしたまま喜んでいらっしゃるのかと疑わずにはいられなかった。

 

「随分と、剽軽な霊だ」

 

 言い得て妙である。気はぽわぽわとして軽く、往々にして巫山戯がちだ。剽軽という言葉は、常時の幽々子を最も良く表現している言葉なのではないだろうか。

 

「ふふ、友好的と言ってほしいわ。何と言っても久しぶりの現世だもの、喧嘩なんて無粋なことをしちゃったら折角の楽しい時間が興醒めよ……あら」

 

 ふと、天狗少女に返事をした幽々子の視線が彼女から外れる。直接的な戦いに発展していないとはいえ、立場上二人は白狼天狗達に襲われてしまう可能性を多分に残しているのだ。そんな中で相手の代表格からひょいっと目線を外してみせる幽々子の、何と奔放なことか。勿論目を合わせずとも大丈夫だという無意識下の保証があるからこその行動なのだが。

 

 彼女の目線の先では、何かを隠しているのか大きな白い布が上面のない直方体を構成していた。そして、その布の内側にあるものを守るかのように立つ天狗が数人、予断なく周囲に目を光らせているのが遠目にも分かる。こちらの騒ぎにはほぼ全員が気がついているのか、幽々子の方をじろりと見るものが大多数であったが、それでも場を離れてまで冥界コンビを引っ捕えに来る者はいない。

 

「誰か、怪我してるわね」

 

 すらりと細く白い指で屋根のない駐屯地のような場所を指し示した幽々子は、特に脈絡などもなくそう言った。ふわりと吹いた風が幽々子の指さす右手に垂れる袖を微かに揺らし、天狗少女の目が誤差の範疇に収まる程度に細くなる。

 

「いきなり何を言うかと思えば」

 

「命の危機はない、でも倦怠感はかなり強いみたいね。そこそこの大怪我だったのかしら、可哀想」

 

 幽々子の言葉を文面通りに受け取れば、布を指さして怪我人がいると言っていることになる。普通ならば何の妄言を吐いているのかと正気を疑われたって文句の一つも言えやしない。だけど、出てくるはずのない台詞を口に出した幽々子は頭が何処かおかしくなってしまった様子はなく、ただ見えたままの事実を喋っているように見える。それに、白狼天狗達も彼女の言葉を戯言として一笑に付すことなく、それどころか更に警戒の色を濃くした目で幽々子を見据えるではないか。

 

 きっと、あの布で隠されているのは怪我をした何者かなのだろう。天狗達の反応からもそれが伺えるが、何より仕える主がそう言っているのだ。従者の身にある自分がどうしてその言葉を疑えようか。

 

「何にせよ、貴女達に関係はないことだ。訳あってこの刀は抜きたくない、今なら咎めもしないからどうかここを去ってはくれないか」

 

 負傷者がいることを否定はしなかったが、それでも冥界少女達を山から追い出すという当初の目的は変わっていないらしい。最後にやってきた少女を除く全ての白狼天狗が、刀をいつでも引き抜けるよう手の位置を変更した。

 

 恐らくこれは、もう後は無いぞという最終警告なのだろう。これで立ち去らなければ、害意ありと見なされて四方から斬りかかられるに違いない。そうなれば、我が身はおろか幽々子までもを危険に晒すことになってしまう。妖夢は状況の優劣を考え、一刻も早くここから退避しなければいけないことを再認識した。別に意地を張ってまでここに残る必要は無い。先程はびっくりしましたねとでも言って笑い合いながら此岸遊覧の続きに興じれば良いだけの話である。

 

 ぎすぎすしたままの終わりとなると、幽々子の機嫌も良いものではなくなるだろう。夜も深く、里は無法妖怪の襲来を防ぐため門を閉じているはずだ。彼女の機嫌を回復するのに一番手っ取り早くかつ効果的なものが甘い菓子の類であるのだが、残念なことに里での入手は望めそうにない。仕方がない、最近巷で話題になっている妖怪雀の屋台とやらに向かって少々遅い夕飯としよう。幽々子にそれを提案しようと思ったのだが、幸か不幸かまたしても彼女の行動は完遂前に遮られることとなった。

 

「ちょっと、貴方達。寝ているこいしちゃんの近くで剣呑な雰囲気を出さないで下さい」

 

 またしても新手の登場だ。言いたいことでもあるのかぷんすかと怒っている新入者の実力は、あくまで妖夢の視点から語るのであれば規格外の一言に尽きる。力だけを言うなら、幽々子と差し向かっても一歩も引けを取らないだろう。

 

 まずい。これは本当にまずい。妖夢の焦りは急加速しながら上昇していった。元より頭数で不利を被っていたのが、新たなる強者の登場のせいで総合戦力までも逆転されてしまったではないか。周りの白狼天狗と違って黒色の翼を有しているところから、恐らく彼女は烏天狗若しくは大天狗なのだろう。どちらにしたって幻想郷でも上位に位置する強い妖怪だが、後者であればそれも尚更となる。願わくばまだ活路の広い前者であってくれと神に祈りたい気分になった。

 

()()様!大変申し訳ございません、すぐに片をつけます」

 

 あっ、道が封鎖された。驚きの声をあげた少年天狗の、初めの二文字を聞いた瞬間に妖夢は危うく体を律する力を失って膝から崩れ落ちかけた。いやだって、天魔ってあれでしょう。完全な階級社会を形成している天狗の中で頂点に立つ、この世界屈指の大妖怪でしょう。何でそんな怪物がここに来ているのか、そもそも自身の職務があるだろうにそれを置いてまで来た目的は何なのか。考えたくもないが、どうしても思考が悪い方へ悪い方へと引きずられるように向かっていってしまう。

 

「そうではなくて、事を荒立てないでと言っているのです。…そちらはお客さんですかね、うちのわんこ達が迷惑をおかけしたようで申し訳ないです」

 

 最早完全に臆してしまった妖夢を尻目に、天魔 ーー 文は特に二人を敵視するようなこともなかった。それどころか逸る少年天狗を諫め、剰え謝罪までするという低姿勢っぷりである。

 

「気にしてないわ。わんちゃんが一杯見えたから近寄ってみたら怒られちゃったのよ。怪我してる子がいるみたいだから何とかして楽にしてあげましょうかって言おうとしたのに、去れって」

 

 亡霊姫なり天魔なり、強者達はどうやら白狼天狗のことをわんちゃんだのわんこだの子犬扱いする傾向にあるようだ。彼らにも面目というか尊厳があるので、犬呼ばわりはやめてあげるが吉だろう。それに第一、敢えて動物にするなら彼らは犬でなく狼だ。

 

「ほう?確かに今ここでは怪我をした女の子が一人、療養しているところです」

 

「やっぱり。私は能力の関係か知らないけれど、そういった気配には聡いのよねぇ」

 

 足がそろそろ生後間もないバンビと化しかけている妖夢とは対照的に、幽々子は依然としてぽやぽやとして掴みどころのない雰囲気のままで文と話をしている。その雰囲気は、衝突一歩手前まで行ってしまった場とは到底想像もつかないくらいに和やかなものであった。

 

 天魔様、そいつらは侵入者ですので早く追い払わないと。一名を除く外野はそう口を出したかったが、どうにも話に割り込むタイミングを見つけられず、結果として大物会談は滞りなく進んでいく。

 

「能力ですか」

 

「私の友達には『死を操る程度の能力』って呼ばれてるわ。でも私は『死との距離を操る程度の能力』の方がより良くこの力を表せていると思うけど」

 

 あっけらかんと言ったが、その実幽々子の能力は途轍もなく異質で驚異的なものである。何せ死という遍く生命にとっての究極の終末との距離を自由自在に操ることができるのだから。

 

 距離を零にすれば問答無用で相手を殺せるし、離してやれば幾分か体の調子を持ち直してやることも可能となる。干渉に対する絶対的な防御方法を確立し得ない、神にも匹敵する異能だと言っても大きく外れてはいないだろう。

 

「死との距離を操る、ですか。ふーむ。…ちょっと物は相談なのですが幽霊さん」

 

「あら、相談事かしら。良いわよ、多少の縁も重んじるべしってことで聞いてあげる」

 

「ありがとうございます。それで相談というのはですね、その力を弱ってしまった妖怪に使えば、もしかしてもしかすると体力を回復する薬となってくれたりはしませんか?」

 

 へぇ、と今度は幽々子が感心する番だった。能力の呼ばれ方を聞いただけだというのにその使い方に思い至るとは、子供みたいなくりっくりのおめめして随分頭が回るじゃあないの。

 

 常人が幽々子の能力について聞けば、反応は様々あるだろうが大別すれば二種となる。或いは彼女のことを怒らせたら赤子の手を捻るかのように一瞬で殺されてしまいかねないと多大な恐れを抱き、また或いは世迷言をと笑い飛ばす。そして特に前者は、保身のためにひたすら彼女のご機嫌を伺うという卑屈な行動を何の躊躇いもなく起こすだろう。得てして人とは特定の恐怖を煽る単語が出てきた際に、消極的な方向にしか発想を飛躍させられなくなってしまう生き物である。まだましな言い方をすれば生への執着が強いとなり、身も蓋もなく言い切ってしまうなら小心者がお誂え向きか。

 

 だが、よく考えてみれば分かることだ。死との距離を操ることを可能とするのなら、できる芸当は相手と死との間の短縮に留まらない。文は持ち前の洞察力ですぐさまそのことに気がつき、幽々子に話を持ちかけたのである。

 

「なるわよ。でもこの能力は怪我を立ち所に治せるわけじゃなくて、あくまでもその時点での体の状態の中での操作ができるに過ぎないわ」

 

 例えば幽々子の能力を瀕死の重傷を負った子に使ったところで傷を塞げはしないから、ほんの数分余命を伸ばせる程度の効力しか発揮しない。その時その時の対象の生命力を限界まで引き上げてやることができるのであって、死に瀕する重篤人を奇跡の如く復活させるなんて真似はできないのだ。

 

 それを聞いて、文は満足したとでも言うかのようにうんうんと二度頷く。

 

「構いません。少しでも体の痛みが取れてゆっくりと休めるのなら」

 

 文も、全治させてくれるなんて美味すぎる話は望んでいなかった。ただ、傷が熱を持ってしまい辛そうにしているこいしを見て、多少なりとも容態を安定させてあげられないかと手段を模索していた。そこにたまたまふらりとやってきたのが、まさしく文が探し求めていた回復を可能とする人材(ゆうれい)である。

 

「どうでしょう、幽霊さん。子供が一人、大きな傷を負って苦しんでいるのです。どうか私共にその力をお貸し願えませんでしょうか」

 

 文が深々と頭を下げるのを見て、妖夢は目をぱちくりとさせた。強い妖怪ほど己に対する自信は強固なものとなり、それが天魔ともなれば最早自らの優位性を信じて疑わないはず。表面的には誰に対しても笑顔を浮かべてにこやかでいながらも、真に友好的であることは少ない。第六感のようなもので何となくそれを察せるからこそ、誰も強大な妖力を誇る妖怪には近づこうとしない。

 

 触らぬ妖に祟なし。そう言われるに値する実力を持つ妖怪の中に、間違いなく文は名を連ねられる。だと言うのに目の前の天魔は、子供一人のためだけに七珍万宝にも勝る影響力を持つ頭を垂れたのだ。

 

 何も、妖夢はその行動を首領に相応しくないなどと難癖つけて非難したいわけではない。誰かのために姿勢を低くできるのは、徳の成せる行いである。彼女だって、どうしても誰かの助力を得なければいけない事態に直面すれば迷うことなく誠心誠意のお願いに向かう。

 

「頼まれたわ。ほら、交渉は成立したんだからさっさと行きましょう」

 

 急いであげなきゃ可哀想じゃない。そう言いながら野外に作られた療養所へと飛んでいく幽々子。ぱあっと目に分かる程顔色の明るくなった文が、即座にその後に続いた。一拍遅れて、主人に置いていかれてはまずいと妖夢が慌てて追いかけていき、それとほぼ同時に一番最後に場にやってきた白狼天狗の少女も身を翻す。

 

 急に人口密度の減った山の一角には、元々そこで警備を行っていた白狼天狗数名のみが残されることとなった。これからどうして良いか分からず、近くにいる同僚と話し合う者もいれば、あまりに目まぐるしく回った状況の余韻から抜け出せず呆然とする者もいる。暫くの間彼らはてんやわんやとしていたが、やがてとある天狗の独り言めいた発言によってもうそれしかあるまいと半ばやけっぱちのように方針を固めることとなる。即ち、つい先程全体に与えられた任務である『負傷した女の子の護衛兼外敵の監視』に戻るということであった。

 

 ── しっかり警護さえしていれば、後で隊長や天魔様に怒られることもないんじゃないかなって。提案をした男の白狼天狗は、後にそう語ったとか、そんなことはないとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「有り難い!助かりますよ、幽霊さん」

 

「あら。助かるのは貴女じゃなくて、怪我をした子じゃなくて?」

 

「あやや。違いありません、これは一本取られました」

 

 軽快な掛け合いを交えながら、療養所に到着する。先程の場所から視認できる程に近いところに設営されているというだけあって、辿り着くのに一分とかからなかった。

 

「ここね。お邪魔するわよ」

 

 垂れた布を持ち上げ、中へと入っていく。一人の少女を収めているにしては広いと言えるであろう療養所の内部にはこれまた大きめのベッドが置かれており、そこには幽々子の知らない緑灰色の髪をした女の子が横たわっていた。夢に魘されているかのように唸っているが、意識が覚醒しているのは明白だ。包帯が身体の上部に何重にも巻かれていることから、胸か背中の辺りに小さくない怪我を負ったことも容易に想像がつく。…傷の痛みに苛まれているのだろう。人間の少女よりはずっと長く生きているだろうが、それでも痛いものは痛いし慣れられるものでもない。

 

「ん……。だぁれ、お姉さん?」

 

 幽々子の気配に気がついたのだろう。ゆっくりと顔を彼女の方へと向ける。枕の傍の机に置かれた小さな灯りがぼんやりと照らし出したその顔は、一目で健常ならざる状態に置かれていることを把握できるものであった。血の通わない肉体ではあるまいに、どうして幽々子にも劣らない程顔が白いのか。いや、白いと言うよりは青白いという表現の方が適切であろう。容態は安定こそしているものの、辛いのでは小康状態にあるとは言えない。死の危険が高密度で充満する地帯から二、三歩だけ抜け出したところで留まっているような印象を受けた。

 

 体に必要なものを運ぶための血が足りていない。だけど、幽々子にはその問題を解決してやることはできない。お肉を一杯食べるなりして、量を増やしていく他にはないだろう。

 

「こいしちゃん、彼女は私のお友達です。体を楽にしてくれる不思議な力を持っているので、来てもらったんですよ」

 

「そうよ。遅れちゃったけど初めまして。彼女のお友達の西行寺 幽々子よ」

 

 袖振り合うも多生の縁と、昔から言われてきた。ならば、目的を一にした相手はもう立派な友人だと言ってしまって良いはずだ。別に、文のことは嫌いでもないし。

 

「体を楽にしてくれるの?」

 

「えぇ。体の怠さとか重い感じとか、そういうのを軽くしてあげるわ」

 

 早速やっていくから、ちょっとだけじっとしていてね。そう言いながらこいしの元へと歩いていく。やはり今見知ったばかりの相手が近づいてくるのは怖いのか、こいしはベッドの上で身を固くした。慌てて文が二人の間にしゅばっと割って入り、彼女は良い人ですから大丈夫ですよと励ます。

 

 初対面の相手が距離を詰めてくれば不安がるのは子供にありがちな反応であるが、それにしても彼女は気後れの程度が激しいように感じられる。結構内気な子なんだなと思い、幽々子は一旦歩み寄るのを止めた。怯える相手に不要に近づいても、益々怖がらせてしまうだけだ。まずは慌てずに少しずつ喋るところから始めないと、気難しい子だといつまでも心を開いてはくれないだろう。

 

「ちょっとお喋りしましょ、可愛いお嬢さん。良かったら名前を教えてくれるかしら」

 

「……えっと、こいし。古明地 こいしです」

 

 名前は教えてくれたが、まだ口調は棒読みであり、幽々子のことを警戒している様子だ。でも、別に問題はない。少しずつでも会話を交わしていくことが、打ち解けるためには最善手なのだから。今はまだ、その一歩目を踏み出したに過ぎないと幽々子は考えた。

 

「こいしちゃんね。今日二回目の自己紹介だけど私は幽々子、西行寺 幽々子よ。それで、今ちょうど入ってきたのがうちの、まぁお庭を作るちんちくりんってところね」

 

「幽ゆ……くっ」

 

 やってきて二秒でちんちくりん呼ばわりされた妖夢が反論しようとするが、包帯を巻かれたこいしを見て大きな声を出すべきではないと判断。寸でのところで抗うことを諦め、悔しながらに泣き寝入りをすることにした。

 

「お庭を作るちんちくりんさん、こんばんは」

 

「……はい、こんばんは」

 

 今小さく吹き出したのが天魔という高位の妖怪でなければ、後で峰打ち込みのお説教に及んでいたかも知れない。誰がちんちくりんだ、誰が。ただちょっと身長が足りず、幽々子と立って並べばその豊かな胸がぴったり頭に乗せられるだけだというのに。

 

 妖夢と初対面であるこいしからすれば幽々子の言ったことを信じるしかないのだから、当然先程のアレを庭を作る人の名前だと認識せざるを得ない。さとりの徹底的に計画された教育の元で蝶よ花よと大切に育てられてきた彼女が、ちんちくりんという俗的な言葉の意味に疎いのも、致し方あるまい。一方の妖夢は自らにつけられた酷い呼び名を訂正するタイミングを与えられなかった。故に両者共に非はなく、強いて誰が悪かったかと言われると幽々子になるだろう。

 

「それじゃ長くて言うのも面倒になっちゃうから、ちんちくりんで良いわよ。ねぇ、ちんちくりん?」

 

「はい、そうですね」

 

 よし、今日の晩ご飯は抜きだ。こいしから見えないように顔を背け、意地悪い笑みを浮かべる幽々子はすっかり忘れているのかも知れないが、今日財布の紐を握っているのは他ならぬ妖夢なのだ。彼女が財布を開かなければ幽々子はご飯にありつくことができず、空腹に耐えながらいつもより寒く感じられる夜を過ごすことになる。健啖家の幽々子にはかなり惨たらしい罰であるが、これも彼女の口が災いした結果であるので素直に受け止めて再発防止に務めて欲しい。その代償として、今は心に鞭打ってちんちくりんと呼ばれることを許そう。

 

「えっと、ちんちくりんさんも含めて二人に挨拶します」

 

「お硬いわねぇ。肩の力を抜いて、敬語も要らないわ。いつも喋ってる時みたいにしてくれて、大丈夫よ」

 

「ありがとうございます、じゃなくてありがとう。私は地底の妖怪で、悪い何かに襲われたんだけど文お姉ちゃんとか()()()()()()()()とかに助けてもらって、今はここでゆっくりしてるの」

 

 己の意思で耐え忍ぶことを選択したとはいえ、やはり心にぐっと来るものがある。無論、感動や感嘆の類ではない。抗議の声に代えて、彼女はじっと幽々子を見つめてみた。

 

 幽々子は、驚いた顔をしていた。儚げな外見に反して胆力もあり大抵のことには眉一つ動かさない彼女が、口元に手を当て目をぱちくりと開いている。妖夢が向けたあからさまな視線に少しも反応しなかったところに、彼女の驚きの大きさが現れていると言えるだろう。

 

「こいしちゃん。そのユウっていう神様、今どうしてるか分かるかしら」

 

 彼女がこいしの言葉の何処にそこまでの驚きを見出したのかは分からない。だから、妖夢は暫く二人の会話を見守ることにした。言いたいことが泡沫のように突然消えたわけではないが、今はそれは後に回すべきだと判断した上で出した結論である。

 

「今、悪いものと戦ってると思う」

 

「なるほどねぇ。もう、こちらへ」

 

 一体この方は、何を喜んでいるのだろう。出発前に語っていた、この世界に大きな革新をもたらす外来人とは何か関係があるのだろうか。疑問は尽きないが、静かな口調の中に隠しきれない興奮を滲ませる幽々子に尋ねたところで答えてくれるとは思えなかった。

 

 暫時彼女は黙して語らず、何か適切な言葉でも探しているかのようであった。文とこいしは彼女もユウの知り合いなのかと興味を抱きながら続く言葉を待ち、妖夢はユウなる神が主と浅からぬ交友を築いていることを朧気ながらに勘づく。四者共々相異なる理由動機で口を開かず、或いは口を開けずにいた。

 

「っ!」

 

「……」

 

 そんな沈黙を、どろりと粘り気のある力が無粋にも妨げた。こいしが反射的にぶるりと背筋を震わせ、それから何か思い出したくもない惨事の記憶(トラウマ)を蘇らせてしまったかの如く顔を伏せ小刻みに震える。すぐさま文が膝をついたままその両手を取り、大丈夫だからと懸命に励まして心を強く保たせようとする。妖夢も主と神との関係についてあれこれと考察するのを止め、気を辺りに張り巡らせて四方の警戒を強化する。万一敵襲があれば秒未満で相手を斬るという強い覚悟の元に、二振りの刀のうち長身の方に手を添える。

 

 俄に緊迫感を増した療養所。だが、そんな中においても幽々子だけは凪いだ湖面の面持ちで欠片の焦りも見受けられなかった。

 

「ごめんなさい、こいしちゃん。もっと貴女とお喋りしたかったけど、私は友達に会いに行かなきゃいけなくなっちゃったわ。…今から私の能力で貴女の抱える辛さや痛みをある程度無くすから、少しだけ頭に手を置かせてね」

 

 否、一瞬すら経過した時間を表すには長過ぎるという程に短い間だけ目をきっと鋭くした彼女を見たものは、その様子を冷静()()()()と形容すべきなのだろうか。

 

 言い終わった時には既に、幽々子の右手はこいしの小さな額の上に置かれていた。二言三言を交わし合っただけでもその温厚な人柄もとい幽霊柄が伝わったのか、今度はこいしもぴくりとしただけで、迫ってきた手に対して明確な恐怖を示しはしなかった。

 

 幽々子の手がぽふりと置かれると、すぐにひんやりとした冷たさを感じた。昔風邪を引いて病床に伏していた時に姉が用意してくれた、冷や水に浸された手拭いを思い出させる心地良い冷たさは、思い出すのも厭うべき記憶から身と心を守ってくれているように思えた。それからすぐに、背中から絶えず発信されていた身をちりちりと焦がすかのような鋭い痛みが軽減されていくのが実感できた。この世界で幽々子だけが使用できる特異的な能力のお陰だということは、こいしにも想像に難くない。

 

 痛いのが飛んでいってる。こいしが未だ知らざる未知の感覚に翻弄されたのは、数秒のことであった。幽々子の手がそっとこいしから離れ、そこで彼女は背中からの痛みがほぼ無いものも同然となっていることに気がついた。定期的に意識を向けなければ、そこが深く抉られた箇所であると忘れてしまいそうな程に痛みが軽減されたのだ。神の手を持つと褒め称えられる医者でもこうは上手くやれないだろう。

 

「これで、大分落ち着いたはずよ。今晩の快眠は夢次第ってところかしら。でも私の能力による措置はあくまでも応急処置の範疇を出ないものだから、これからも暫くの間は安静にさせてあげて頂戴な」

 

「ご協力に感謝します……が、もし地底へ行くつもりなのでしたら私は貴女達を何としてでも止めなければいけません」

 

 幽々子は先程こう言った。『友達に会いに行かなきゃいけなくなっちゃった』。文は話の流れを知る者の一人であるがために、その友達が誰であるかなんて火を見るのにも劣らないくらいに明らかである。だから、自分には幽々子達をどうにか説得して引き留める責任があると彼女は考えた。第一、全幅の信頼を置いているお師匠様と約束事を交わしたというのに自分からそれを破っていては弟子の名を名乗る資格など微塵もない。

 

「実は現在、地底には」

 

「三大怨霊ないしはそれに比肩する程に強い怨霊がいる。ユウが対処しているけど、危険なことに変わりはないから立ち入ってもらうわけにはいかない。…天魔さん、貴女の言いたいことは大体こんなところかしらね」

 

 どれだけ今の地底が危険であるか、百万言を尽くして説明しようとしたところを、幽々子が遮る。彼女の台詞は話し方や言葉尻こそ違えど大筋としては文の言いたいことを外していなかった。

 

「何で分かるんだって顔してるわね。それはそうでしょう、私は幽霊よ?同族の気配なんて慣れたものだしある程度の力の有無くらいを把握するのに苦労はないわ。尤も、あんな力を扱っている時点で並大抵の悪戯小僧じゃ済まないことは明白だけどね」

 

「だから三大怨霊という言葉を出したのですね。…えぇ、そうです。相手の正体は分かりませんが、少なくともお師匠様が過去千年は見せなかったような力を使うという異常事態を誘発するだけの力はあります。もしかすれば、本当に菅原公か将門公、ないしは崇徳院が顕現して大暴れをしているのかも知れない」

 

 ユウが戦う場所からこの療養所まで、一体何里離れているだろうか。こいしの体を慮ってかなり速度を落としていたとはいえ地霊殿から妖怪の山までそれなりに時間がかかったのだ、二や三では利かないはずだ。それほどまでに距離の隔てがある戦場から、分厚いなんてものではない厚みのある空気の壁と岩盤とを貫いて力が伝わってきたのだと考えれば、寧ろ三大怨霊級でなければおかしいくらいである。

 

「あら。それは確かに尋常ならざることね」

 

「ですからどうか、地上にて彼の凱旋をお待ち下さい。お師匠様の知り合いなのでしたら、彼の強さはよくご存知でいるはずです」

 

 文とて、ユウの身に対して不安が全くないかと言えば答えは否だ。地上に上がってくるまではまぁあの人だからと状況を楽観視もしていたが、地底に出現した怨霊は彼女の想像を遥かに超えて強大で凶悪なものであった。飾らぬ心情を吐露すれば、今からでも地底に飛び込んでユウを急ぎ回収して彼の身の安全を確立したいくらいなのだ。

 

 もしあの怨霊と一対一で戦ったとしたら、まず歯が立たない。怨霊というだけで精神的な脆さの目立つ妖怪にとっては最大級の天敵であるのに、その上純粋な力の量でも後塵を拝しているのだ。これで紫のように異次元の能力を有していれば話はまた別なのかも知れないが、彼女には長年に渡って鍛え上げてきた飛行速度の他に特筆すべき得意分野というものがない。培われてきた伝家の宝刀を信じて全力でもって逃走しなければ、ものの数分で取り憑かれて心を蝕まれ、物も言えぬただの依り代と成り果てることとなる。

 

 決して幽々子や妖夢を軽んじはしない。だけど、相手が悪過ぎる。幸いにして幽々子は怨霊の実力や危険度をある程度正しく把握できているようなので、無茶な真似に走るということはないだろう。仮に妖夢が単身で向かおうとしても、止めに回ってくれるはずだ。

 

「尚更私が行かないといけないわ。ねぇ、妖夢」

 

「そうですね。幽々子様のご友人様が苦労なさっているということでしたら、貴方様のお力で怒れる霊をお鎮めになるのが最良かと存じ上げます」

 

 そう思っていたがために、文の受けた衝撃は大層大きなものとなってしまった。



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第十三話 「断ち切れ」

 地霊殿より数里は離れた、大小様々の尖った岩石に覆われた地帯。その外観は、まるで砂漠の一風景を切り取ってそのまま貼り付けたかのようなものであった。水の少ない過酷な環境に耐え得る小さな虫が幾らか巣を作っているだけで、他のどのような動物も妖怪もこの地に定住して生活を営むことは叶わない。人間などを放り込もうものならば、立ち所に五体を地に投げて許しを乞い、安息の地である人里へ帰ることを望むだろう。

 そんな人妖の生きる気配を感じさせない荒地で始められた神と祟りの神霊との一大決戦は、荒地を更地に変えてしまった。視認できる範囲内の岩は、その大きさを問われることなく尽く砕き割られ、爆撃を雨霰のように降らせてもここまでにはならないだろうと人々が息を飲み震える程に地面は抉れている。この凹凸では、たった数歩まっすぐ歩くだけでも困難を極めることは明白である。

 二柱の力の残滓は、戦闘が行われていた場に色濃く揺蕩っている。並の人妖では、気圧されてしまい近づくことすらままならない程だ。例え強力な妖怪であろうとも、体を粒程の隙間もなく滅多刺しにする強烈な怖気を感じさせる力には近寄りたがらないに違いない。…だが、場に充満した二種の異なる神気がこれ以上その存在感を増すことはないだろう。何故なら地の下の激闘には決着がつき、既に勝者が崩れ落ちた敗者を見下ろして今にもとどめを刺さんとしているのだから。

 

『。 ・』

 

 勝者 ーー 菅原公は、その巨躯を形成する不可欠要素(おんりょう)を制御できないでいた。今まで圧倒的な支配力によって吸収した怨霊を自らの体の一部とし、着実に力を蓄えてきたが、彼に初めて訪れた本格的な存在の危機を乗り切るのに払った代償はあまりに大きなものであった。即ち、怒り狂う雷神としての菅原 道真の死霊を維持するための基盤が壊れることを省みないレベルでの力の操作だ。

 世界を循環する大いなる力の流れを暴走させて、自らを消滅一歩手前まで追い詰めた強敵を打ち倒したまでは良かったものの、訪れる悲劇的な結果が変わることはなかった。ただそこに至るまでの過程が編集されただけであり、菅原公が祟神としての性質を失い純然たる学問の神へと成るという未来を捻じ曲げてしまうことは終ぞできず終いとなった。

 

 この世には因果応報の原則がある。報復という脆く薄汚れた大義名分を掲げて時平や光を手にかけ、更に地底世界を脅かした報いが今こうして巡り巡った末にやってきたのだと考えれば、彼の死は自業自得と言う他にないはずだ。

 

 だが、敗者 ── ()()は、何故数秒の後に力尽き消え果ててしまいそうなまでに追い込まれなければいけないのだろう。世の道理に背いたわけでも世界に大規模な危機を齎したわけでもないというのに。ただのんびりゆったりと生きて沢山の友人や弟子達と送る新たな生活を心の内で楽しみにしていただけだというのに。

 彼の敗北は或いは、神もまた理の中の存在だということを、皮肉にもこれ以上ない形で証明してしまったのかも知れない。普通尋常の境界線を超えたとしても、道理の外には出られない。いや、そもそもユウが道理そのものでない以上、超越するなど考えるにも値しない妄想なのだろう。

 

 勝ったから勝者なのであり、負けたから敗者なのだ。この世に二つ目の命が誕生した瞬間から、絶対的に認められてきた『勝ち』と『負け』という二項対立に則って菅原公が勝利を収め、ユウが敗北を被った。ただ、それだけのことに過ぎない。故に、彼の死は悲しまれ嘆かれながらも、本人を含めて全ての者に理解され納得されなければならないのだ。生命体がこの世を離れてあの世に行くことは摂理であり、これに逆らうことは特例を除き比肩するもののない大罪である。

 

 そう言えば、それまでなのだろうが。全く間違ったことは述べられておらず、誰もが皆例外なくこの真理の前に頭を垂れる他にないのだろうが。それでも、その結末の受容を拒む者はいる。死なんとしている本人であったり、またそれを慕い愛する縁者であったり。まだ死にたくない、死なせたくないという思いは最期の時まで消えることがない熱い炎のようなものなのだ。

 

「こ、の」

 

 まだ死ねないと心に強く念じるには、それ相応の理由がある。例えば、家に残してきた家族がいるという単純かつ明快なものである場合も然もありなん。

 この時のユウもまた、まだ死ぬわけにはいかないのだという裂帛の気合いでもって辛うじて命を繋いでいた。何故なら、自分を今見下ろしているのは絶対に倒さなければいけないと数十分前の自分が誓った恐ろしい祟神なのだから。放っておけば、誰かに害を為すより早く神気の塵となって消え去ってしまうことなどユウの頭の中には記憶されていなかった。彼は今ここで菅原公を滅する以外の選択肢を用意していない。

 

「あと、一撃」

 

 彼は最早、意志がか細く小さい生命維持装置となって体を生かしているに等しい。肉体はもう既に臨界点を目前に捉えており、到達まで秒読みの段階にまで来てしまっている。常人であれば出血多量によってとっくに意識を失い、横たわったまま死を待つだけの肉塊となっているところを、際どくはあるものの意識を保たせているのだから彼の精神力の強さは並外れていると言えるだろう。

 

『!?!!』

 

 だけど、根性論では枯れゆく花も死にゆく命も救えないということは、飛躍的な発展を遂げた医学によって再三証明されていることだ。腕が消し飛び焼失面の最低限の止血すらままならず、じゃあじゃあと微かに黒がかった血を流すユウの余命は、希望的観測に基づいて長く見積もったとしても同じく消滅の危機に瀕している怨霊より短い。

 菅原公の、糸を引くようなねっとりとした神気が丸太の如き右の剛腕に集中していく。先程噴出させた龍脈のエネルギーに比べれば数段劣るものの、それでも死に体のユウに完全な引導を渡すには充分過ぎるだけの力だ。集められていく神気の一部が上手く制御できず霧散してしまっていることを考慮しても、放たれればその瞬間彼の余命は零時間零分零秒となる。

 

「あと一撃入れられれば……っ」

 

 無論、自分に降りかかる災禍を黙って見ているユウではない。がたがたの体に鞭を打ち、左手一本を支えにして立ち上がる。がくがくと震える足で何とか地を踏みしめて、殆ど消えてしまっていた翼に再び神力を流し込んでいく。そうして再度構築されていく翼は、しかしもうこれまでの遥かな幽玄さえ感じさせるような純白でなかった。

 仮に、何らかの理由で大決戦の場へとやってきてその翼を見た者がいたとしよう。その人物なり妖怪なりが地上へと帰り、友人や家族にユウの様子を語れば、きっとこのような文章が口から飛び出ていくのではないだろうか。

 

 ── あの翼は。小さな少年に不釣り合いな大きさをしていたあの()()()()は、まるでこの世の闇を一つ所に収束したものであるかのように禍々しく、また身震いを禁じ得ない恐ろしいものであった。

 

「こいつで、終いだ」

 

 彼が本来持っている性質。優しくて暖かくて、そして清き泉のように澄んだ心を持っているのがユウだ。それを、まるで真逆にして表現したかのような黒い翼。優しさは残酷さに、暖かさは冷たさに、そして澄んだ心は一切の光の進入を拒む闇色に。

普段の彼なら、こんな災厄の凝縮にも等しいものを振るうのを良しとしない。寧ろ周囲の安全を案じて、率先して対処しに向かうだろう。

 何故、彼の翼は今この状況下において色を変えたのだろうか。大怪我のせいで平時であれば息をするように取れていた制御が利かず、このような色になってしまったのか。はたまた、彼の感情の移ろいに翼が呼応したのか。幾つかの理由が考えられるだろうが、真相はまさに照らし出すことのできない闇の中にある。知りたければ、その闇に飲まれながら意識を保つという難行に臨む他にはない。

 先程まで己の前に倒れ伏していた敵が不死鳥の如く起き上がったことで、菅原公に小さくない動揺が広がる。体の一部を吹き飛ばされて、まだ立つだなんて。そして剰え、満足に動きもしない重傷の体に凄まじい神気を充填して、もう一度自分に攻撃を仕掛けてくるだなんて。

 殺気が、まるで違う。彼の神気が凛として真っ直ぐであったからこそ祟神とて清らなる神を堕とすという目的の元で真正面から向き合えたのだ。それが、向けられた相手を表面からどろどろと溶かしてしまうかのような腐食性を纏ってしまえば、菅原公はただ何もできないままに圧されることしかできない。自分と()()()()()()()を、自分など歯牙にも掛けない程の惨烈さをもって発する相手に、一体どのような心持ちで立ち向かえば良いというのか。

 

 あまりに、最早別次元から来たのかと問いたくなるくらいの力量差が遂に露わとなった。数分前に自らの右腕を焼き落とした憎むべき力までもを強化の糧として、彼は戦闘開始直後に翼を解放した時を優に超えるだけの酸鼻的な神力を得るに至ったのだ。それは、ユウが大逆転の一撃を放つ用意が始まったという点では良いことなのだろう。今や勝者と敗者はその立ち位置をぐるりと反転させようとしていた。臥地した神は翼を取り戻して、最後の一撃を放とうとしていた神霊は進むか退くかの選択を迫られている。

 

 だが、振るわれる力とは何も倒したい敵だけを倒す万能のツールではない。度を過ぎた強大な力は、言い換えれば全てを壊してしまう悪魔の兵器でもある。使い方や機を誤れば、滅びは極めて広大な範囲に及ぶだろう。建造物を瓦礫の山に変え、本来撃破したかった敵を友人知人諸共物言わぬ体と為す。そして破滅を齎した張本人は、濛々と巻き上がる砂煙の中でふと我に帰り、砂煙が晴れた後に眼前に現れる光景を見て顔を覆い涙ながらにこう独白するのだ。こんなつもりじゃなかった。私が望んだのは、こんなもの(廃壊)じゃないんだ。

 

 言うは易しである。己の都合にかまけて他を省みることのない自己中心的な愚か者には、世界は懐の深さを見せずただ厳しさのみをもって対峙する。確かに後悔先に立たずとはよく言ったものであり、人も妖も、神でさえも行動してからでなければ悔いて次はしないと反省することができない。しかし、それでも何かをする前に本当にこれで良いのかと熟慮すれば、自分の行いが周囲にどのような影響を与えるのかある程度は想像がつくではないか。それすらせずに、単に思い立ったままに猪突猛進を続けることは一本筋が通っていると評価し褒めるに能わない馬鹿げた愚行である。

 ユウは、眼光鋭く異形の怨霊を睨みつけながらぎりぎりと黒翼を引き絞り、そんな愚か者の仲間入りを果たそうとしていた。木っ端微塵に砕き散らそうとしている地底のことも、巻き込んで余りある場所に位置する地霊殿のことも、あらゆる懸念事項が彼の頭の中より消え去っている。

 

「済まないが」

 

 菅原公に視線を固定したまま一歩大きく踏み出し、ついでとばかりにぽつりと口に出されたそれは、何と軽薄な謝罪であったか。欠片も祟神の征伐を厭わないという固くも悍ましい意志を見え隠れさせながら、彼は言葉を繋ぐ。

 

「 ── 死ね」

 

 たった二文字、忌避されるべき二文字。普段の彼なら例え冗談であっても絶対に使いたがらない、生命を全力で否定する悪魔的な言葉は皮肉にも対極に存在する神によって発せられてしまった。

 死にたくない。今の彼の前に立ったものは、例外なくそう思う。仮に強い被殺傷願望があったとしても、それは否応なく対象に生への執着をこんこんと湧き上がらせるに足るだけの恐怖性を孕んでいた。そして、このことは菅原公すら例外としない。

 盲目的な殺意から僅かでも距離を置こうと、祟神は格好など気にする余裕もないといった必死さでもって後退する。しかし、圏外に退避するよりも翼が振り出される方が早かった。背を向けていたがためにその瞬間を目視していない菅原公に、走馬灯は走らない。本能的に助けを得ようと逃亡し、自覚もできぬままにいつの間にか存在しなくなる。そして程なく、目的を達成したユウは心身ともに擦り減らし果てて神去る。深く暗い地の底で事前予告もなしに勃発した神戦は、両者共倒れという異例の形での決着を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「断ち斬れ、白楼剣」

 

 そのはず、だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を、少し遡る。神々の騒乱が続く地底へと続く長大な穴を降下する者が、二人いた。

 

「彼に会うなんて、何年ぶりかしら」

 

「ユウさんですよね。幽々子様の古くからのお知り合いということですが、どのような方なのですか?」

 

 文の制止を振り払ってきた、幽々子と妖夢である。とは言っても、力に任せて振り切ったわけではない。ちゃんと彼女を説得した上で納得を得て、それから穴へと入ってきたので何ら問題は無い。ではどうやって入行に否定的だった文を説得したのかと言うと、簡単に言えば取引を持ちかけたのだ。ユウの安否が気になるだろう、見てきてあげるから私達を地底に向かわせろと。

 

 今までに体感したことのないような悍ましい霊気の波動を感じたということもあり、如何にユウを知って長い文と雖も内心幾ばくかの不安を感じていた。どうせいつもの如くあっさりと無傷での生還を果たすのだろうが、そう思っていてもやはり拭い切れない懸念というものがあった。しかし、彼女はユウから直々に地上への撤退を言いつけられた身だ、それを反故にして戻れば後でこっ酷く叱られることは想像に難くない。結果、渋々と言った様子ではあったが、彼への強力な救援になると踏んだ文は冥界組を通したのである。

 

「さっきも言ったけれど、世界に対して極めて多大な影響を与え得る神よ。実力でも、そして存在そのものでもね」

 

「やはり神ということだけあって、お強いのですね」

 

「強いというか、堅固ね。私の能力も通らないもの」

 

 二人はかなりの速度で下降を続けており、もうあと一、二分もすれば地底特有の少し赤茶けた地面が見えてくることだろう。穴に入ってから感じた幾つかの妖気は、全て無視してここまできているので時間的な損失はゼロだ。暫く前にユウと勇儀が時間をかけてふわふわ降りていたのとは、訳が違う。

 

「幽々子様の能力が、ですか。まるで紫様ですね」

 

「今のところ、私の能力が通じない二人が彼と紫よ」

 

「俄には信じられないことです」

 

「私も初め、一言一句違わず同じことを思ったわねぇ。恥ずかしいことに防がれるわけないって驕ってた時だったから、本当にびっくりしたのを覚えてるわ。…あら、ここで穴はお終いなのね」

 

 ユウについて話しているうちに、穴の底まで辿り着いた。眼前には数分ぶりに真っ暗な岩壁ではなく開けた空間が広がっている。尤も、天井部分はとんでもなく分厚い岩盤によって塞がれてしまっており、どこまでも制約のない地上と比べると解放感は少ない。

 

「どの方向へ向かえば良いのかは、探るまでもないようです」

 

「そりゃあ、こんなに霊気駄々漏れにしてたらねぇ」

 

 取り敢えず、今向いている方向に前進すればユウの戦っている場所に到着できるはずだ。方角が分かりやすく、何よりである。

 すぐ近くにかなりの数の妖気が密集しているのが把握できるが、きっと騒ぎに巻き込まれることを恐れて避難しているのだろう。中には幾つか油断ならないくらいには強いものもあり、さらに飛び抜けて膨大なものも一つ確認できた。しかし、進路上にばっちりいるというわけではないので避けて通ることは可能である。少しの間だけはできるだけ内包している霊気を抑えながら進み、この集団に気が付かれないようにすれば時間を食う揉め事も起きないはずだ。

 

「さて、急ぎましょうか。さっきから極悪じみた霊気ばかりで、彼の綺麗な神気が全然感じられないのも気にかかるところだしね」

 

「承知しました」

 

 確かに、察知できる力は一種類だ。地上にまで届いた悪霊のものに張り合う神力は、今のところ二人とも見つけられていない。だが、逆に言えば怨霊がそれだけの霊気を継続して放出しなければいけない状況に置かれているわけで。そして、そんな状況を作り出しているのはほぼ間違いなくユウであろう。

 必然的に、二者の戦闘は未だ集結していないということになる。勝利の女神がどちらの方に微笑もうとしているのかは分からないにせよ、少なくとも()()()()()()()()()()は発生していない。だからこそ幽々子は戦場へと急ぎながらも焦ることはなかった。穴を降りている時とほぼ同じスピードで、霊力の発生源へと向かっていく。

 

「やっぱり土の中だし、地上に輪をかけて蒸し暑いわねぇ。飛んでる時の風がなかったら、きっと今頃汗をかき始めてる頃だわ」

 

「土の中と言いますと些か語弊がありますでしょうが、確かにそうですね。随分と湿度も高いように感じられます」

 

「聞いた話では、地下からは時折とても熱いお湯が噴き出てくることがあるらしいわ。触ったら火傷じゃ済まないとも聞いたんだけど、えぇと」

 

「間欠泉、ですか?」

 

 人差し指を唇に当てて、あの現象は何と言う名前であったか思い出そうとする幽々子。彼女が記憶を探り終える前に、並行して飛ぶ妖夢から正解が出された。冥界には間欠泉を発生させるような水脈も地下熱源も存在しないため、彼女にとっては馴染みの薄いものであるのだが、主の役に立ちたいと日々勉学を怠らない健気な従者の苦労が実った形となった。

 

「そう、それそれ。その間欠泉っていうお湯のせいで、この地底はこうも蒸し風呂の様相を呈しているんじゃあないかしらね」

 

「有り得る話かと。湯で地面が熱されていると考えれば、辻褄も合うように思います」

 

 冬の冥界に欲しい、その仕組み。身も凍るあの厳しい寒さを思い出し、幽々子は羨ましげな視線を下に向ける。眼下には二股に分かれた道が走っており、少し目を前に向ければ小さくではあるが街のようなものも見える。なるほど、あそこに住んでいる妖怪が大挙して避難していたのだろう。

 

「それにしても」

 

 幽々子に倣って視線を落としていた妖夢が、左右をちらりと見つつぽつりと呟く。

 

「本当に人一人、妖怪一匹もいませんね。冥界よりも静かです」

 

 誰もいない街の上空を、自分と幽々子の二人で飛び去っていくというのは奇妙なものだ。冥界なら霊がそこら中にふよふよと漂っているし、現世の人里を飛べば必ず誰かが屋内ないしは外にいる。だけど、今この時の地底の街からは誰かがいることを示す活気が全く感じられなかった。

 どこを見ても無人、無人、また無人。まるで狐か狸かにでも騙くらかされているようで、妙に気持ちが落ち着かない。

 

「良いことじゃない。私好きよ、静かなところを飛ぶって。心を落ち着けるに適してるもの」

 

「私は逆ですね。何と言うか、いるはずの妖怪などがいないとそわそわしてしまいます」

 

「剣士は常に獲物に飢えているのね。怖いことだわ」

 

「……辻斬りの趣味はありません」

 

 別に、この二振りを振るうのに丁度良い妖怪や人間が欲しいわけではない。この剣で斬り捨てるのは()()()の過ぎた輩で充分であり、それ以上は不必要な殺生である。

 

 全く、隙あらばこの主は取るに足らない揶揄いを入れ込んでくる。仮にも楽ではない戦いに身を投じている旧友を助けに行く身なのだから、ぴしっとして欲しいものだ。今だって、近づいてきているからか怨霊の強烈な陰的霊気が秒毎に存在感を増して ── 。

 

「……え」

 

 一瞬、妖夢の記憶が飛んだ。ふっと我を取り戻せば、何故か妖夢は幽々子に抱きかかえられながら運ばれていた。

 

 一体、何が。何の前触れもなく自身を襲った異常に、妖夢は激しい混乱を覚える。自分は何をされたというのか。

 

「……っ、申し訳ございません幽々子様。不覚を取った上にお手を煩わせてしまいました」

 

 意識が飛んだ影響か、頭痛が酷い。視界も揺れて、目眩がする。

 

「気にしないで良いわ。あれは貴女が堪えられる範疇になかった」

 

 幽々子は、妖夢を咎めない。視線を真正面に固定し、油断なく前を見据えている。先程までの何処かおちゃらけた軽々しい雰囲気は掻き消え、代わって現れ出たのは優に千年を生きる古豪としての西行寺 幽々子であった。

 気がつけば、地底に満ちる力は大きくその質を変貌させているではないか。怨霊の濁り淀んだ霊気は妖夢の気を引き締めさせるには充分なものであったが、これは兜の緒を締めるどころではない。死兆が波を打って伝わってきているかと錯覚してしまう。あたかも幽々子の能力に当てられている時のようで、妖夢は心臓が暴れ馬の如く跳ね回るのを抑えられなかった。

 

「ユウ、何をしているの」

 

 微かに震えた声で、幽々子が零す。彼女に運ばれる妖夢には、背筋に悪寒を走らせ続けるこの異常な力を発しているのが誰なのか分からない。言葉を読み、恐らくユウさんの所業なのだろうという推測が立てられるに過ぎない。

 

「幽々子様、一度退きましょう」

 

 こんな環境下では、滞在するだけで体に小さくない悪影響が及ぼされてしまう。万が一幽々子の体調が崩れるようなことになっては、冥界の管理が立ち行かなくなる可能性だってある。そうなれば、冥界にも現し世にも大量の霊が溢れかえるという極めて緊急性の高い事態にすら発展しかねない。故に、急ぎここを去る必要があると妖夢は考えた。

 

 全く当然、文句無しに百点満点の優等生的な判断である。まだ戦地から少し距離がある今で、既に幽々子が気を抜けない状況にあるのだ。これ以上近づいた時に、危険度すら推し量れない不測の事態が自分達に牙を剥かないとは思えない。予防策があるのであれば、それが何であれ最大限に利用するべきだろう。

 

「妖夢」

 

 なおも速度を落とすことなく飛びながら、妖夢は腕の中の従者の名を呼ぶ。

 

「気遣いは有り難いのだけど、私は戻らないわ」

 

 えっ、と漏らしかけて、妖夢は寸でのところで堪えることができた。戻らないということは、つまり。

 

「それは、このまま進まれるということですか?」

 

「そうよ」

 

 彼女の判断に、迷いはない。体が内側からゆっくりと瓦解していくような、頼まれたって一秒たりとも味わいたくない感覚をもたらす脅威に、確固たる意志をもって立ち向かうと言ったのだ。予期せぬ答えに、妖夢は目を丸くした。

 

「恐れながら申し上げます。このまま戦場へと接近するのは、危険です」

 

「承知の上よ。私は、今ここで引き下がるわけにはいかない。もし逃げてしまえば、私は二度と彼の友人を名乗れなくなってしまうから」

 

「……貴女様の、ご友人を案じる気持ちは量られるべきものでしょう。しかし、幽々子様ご自身の身はどうなりますか。従者の立場より意見させて頂くのでしたら、何よりもご自身の安全を最優先に考えて頂きたい」

 

 これがそこらの野良妖怪の蛮勇であるのなら、これ以上引き止めずとも良いだろう。彼女とは何ら親しくもなければ時間をかけて思い留めさせるべき要人でもないのだから。しかし、守るべき主の行動ともなれば話は全く別物になってくる。幾千言を用いてでも心変わりをさせる必要があるし、それでも変わらないのなら引き摺ってでも地上まで退避しなければならない。主人に対する不敬だとか粗相だとか言っていられない状況下に置かれているということは、妖夢も良く理解していた。

 

「幽々子様、どうかご決断を」

 

 抱えられたまま、妖夢は顔だけを上に向けて幽々子に嘆願する。敬愛する主に迫る危険は、全て排除したい。そんな思いが真っ直ぐに伝わってきて、幽々子は飛行を止めて空中で静止した。

 何時如何なる時も自分のことを第一に考えてくれる忠誠心に溢れた付き人がいるのだから、自分は間違いなく果報者だと幽々子は考えている。彼女の親友も、何だかんだと言いながらも長く付き従ってくれる式神を召し抱えている。彼女もまた、大変な幸せ者だろう。つまるところ、従者なり式神なりと良好な関係を築けている者は例外なく幸福なのだ。例え現状では越えられない巨大な壁に道を阻まれようとも、彼女達は常に側に控えてくれているのだから。膝を屈しかけた時にことりと熱いお茶が運ばれてくる、たったそれだけで尽き果てたと思っていた力も湧き上がってくるし、どんよりとした気分もからりと晴れ上がる。

 

「私はね」

 

 だから、幽々子はとても申し訳ない気持ちになる。純度十割の提案を、自分の一存で退けるのだから。

 

「今、逃げているの」

 

「……どういうことでしょう」

 

「もう何年になるかしら。千年じゃ済まないわね、もっともっと長い間。いつか必ず決着を付けなきゃいけないことから、ずっとずっと」

 

 彼女は亡霊だ。亡霊(死せる者の魂)である以上、必ず生前という期間が存在する。だが、幽々子にその時の記憶は何一つ残っていない。死後経過した年月を考えれば大部分が上手く思い出せないのも道理ではあるが、それにしてもただの一つたりとも生前のことを思い出せないというのは些か普通でない。

 

「妖夢、私はそんなに器用な女じゃないの。だから二人以上の追手は、同時に往なせないわ」

 

「……」

 

 ここで後ろを向くわけにはいかない。もし楽を求めて眼前に広がる現実から目を背けてしまえば、いつか必ず後悔することになるだろう。それは三日後かも知れないし五ヶ月後かも知れない。百年後の可能性だってあるし、二秒後であってもおかしくない。だが、遅かれ早かれ将来の幽々子はその判断を愚の骨頂と断じ、腸の煮えくり返るような一種の悔しさに苛まれる。

 それは当然、嫌なわけで。

 

「ねぇ、妖夢」

 

 再度、彼女は忠義の臣に呼びかける。無茶なことを頼んでいるのは重々承知の上で、それでも支えて欲しくて。

 

「問いましょう。私と一緒に、暗く昏く曖く冥い底まで赴く覚悟はあるかしら」

 

 貴女のためなら、命だって惜しくない。心など込めず、ただ己のちっぽけな徳をひけらかすことを目的として言うのなら、代償なんて発生しない。だが、実際に誰かのためにその身を削ることのできる勇気ある者が、果たしてこの世界にどれだけいるのだろうか。誰だって自分がたまらなく可愛くて愛おしくて、守ってあげたくなるものだ。そんな生物の本能的な自己愛に抗い他者に尽くすのは、例え生来優しくたって困難なことである。

 幽々子の腕の震えが、妖夢の体に伝わってくる。もし断られたら、とでも考えているのかも知れない。確かに事は幻想郷の危機と言えるまでになっており、本来であれば管理者としての立場にある妖怪の賢者達が何とかして止めに向かう必要があるはずだ。そんなところに、まだ発展途上の妖夢を連れていくのがどれだけ危険なことか。

 

「分かりました」

 

 そう考えると、どうやら自分への信頼というものは存外あるらしい。妖夢はふと思い至った。恐らく、最悪の事態すら覚悟しておいでだ。着いて来れるかという質問は、つまりは()()()()()()なのだろう。

 

「そこまで仰るのであれば、私に是非はありません」

 

「妖夢」

 

「この未熟な雛でも構わないと言って下さるのでしたら、喜んでお付き合い致します」

 

 危ない橋を、共に渡れ。そう言われてしまっては、妖夢は断れない。だってそれが、自分に与えられた最大の役目なのだから。

 友人思いの幽々子がこうも頑固に言い張ったのだから、ここからは何が何でもユウを止めようとするだろう。その時に自分が果たす役目が、懐刀なのか肉壁なのかは分からない。それでも、妖夢は別段気にはしない。どんな役割を担うにせよ、彼女には力の限り奮迅するしかできないのだ。

 

「急ぎましょう。このままでは、きっとユウさんにも良い影響はないはずです」

 

「そうね」

 

 幽々子が腕を解き、半ば抱き枕としていた妖夢を離す。それから、まるで示し合わせていたかのように同時に最高速度で飛行を開始する。あっという間に街を越え荒野へと繰り出し、流星の如く一直線に彼の元を目指す。

 変化は、街を出てすぐに現れた。

 

「……!」

 

 今まで桁外れの残酷非道な力しか感じ取れなかったのが、ここに来て漸くその姿を拝むことができた。とは言ってもユウ本神の体を確認できたわけではなく、何十尺に及ぶのかという程の巨大でドス黒い翼が視界に飛び込んできたに過ぎないのだが。

 

 遠目からでも、翼から一部がぼたぼたと垂れ落ちているのが見える。欠落した部位は滲むようにじわり、じわりと再生されていく。地獄もかくや、長く見ていると心が蝕まれていきそうだ。あれは本当に、この世界のものなのか。俄には受け入れ難いが、現にこうして目視している以上疑いようもない。

 

「妖夢」

 

「はい」

 

「かなり近くまで来たみたいだし、これから貴女の仕事を伝えるわ。よく聞いておいてちょうだいね」

 

「なんなりと」

 

「たった一つよ。()()()()()

 

 成程、そういうことか。誰に教えられるでもなく、妖夢は合点がいった。こればっかりは、幽々子ではなく妖夢でなければできないことだ。彼女が任務として一任するのも良く分かる。

 

「私は、怨霊の方に対処するわ。貴女はただ真っ直ぐ前に進んで、ユウを斬って」

 

「承知」

 

 短い返答を最後に、二人の会話は終了する。神と神霊の元に辿り着くまで、あと数秒といったところだろう。もう二人は、戦う両者の姿が見えるところまで来ている。

 幽々子と妖夢を足してもまだ足りないという巨躯を誇る怨霊が、妖夢の背丈にも満たない小さな神の振るわんとする黒翼から必死に逃げ遂せんとしている。

 

 幽々子が進路を変え、彼に背を向ける怨霊の元へと飛び行く。臆しない背中を横目に見ながら、腰に差していた一振りの短刀を引き抜く。

 

「……」

 

 目を細め、脇構えにて構える。銘にはこの刀を打ったとある妖怪の名が刻まれ、その傍らに人の理解を遥かに超えた太古の年月が彫られている。

 代々魂魄の家系に受け継がれてきた、あらゆる『迷い』を断つ刀。妖夢はまだ知らぬことだが、その性質がために過度の使用を禁じられてきた妖刀。

 その刀身に妖力を込めれば、灯火のように朧気な青白い光を纏う。一条の光も通さない濃密な暗黒を前にしては、とても頼れた光源ではない。そんなことは、妖夢の前進を刹那たりとも妨げない。

 

 彼を斬れ。厳密には、ユウと黒翼とを斬り離せということで間違いはあるまい。あの翼が彼の暴走状態を作り出していることは、容易に想像がつく。そして、あれが妖夢の取り得る如何なる物理的手段をもってしても害せそうにないことから、必然的に使用すべきは長身の刀に非ず。

さらに言うならば、この小太刀を振るうということは、黒翼は彼の迷いの具現化したものということになる。そう、だからこそこれは彼女の役目なのだ。

 

 斬るべきは翼の付け根と定め、触れるだけでどろどろに溶け落ちてしまいそうな闇には目もくれず。

 

「断ち斬れ、白楼剣」

 

 すっ、と刀を振った。



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第十四話 背負う者達

『。、s!! 』

 

「妖夢は上手くやってくれたみたいね。かの名刀を閃かせて彼の迷いを断ち、すぐさま地上へと連れ帰る手際は見事なものだったわ」

 

 逃げようとしていた菅原公の前に降り立った幽々子は、今ここにいない従者に惜しみない賛辞の言葉を送る。彼女が身の危険を顧みずこの場所まで着いてきてくれたことを、そして意識を途絶したと思しきユウを背負っていってくれたことを、幽々子は本当に有り難く思っている。

 彼女は自分のことを、未熟な雛だと卑下した。成程確かにまだまだ手のかかりそうな子だ。気は逸るしおっちょこちょいだし、正面三寸四方しか見えていないし。私の意思も聞かずに鞘から抜ける懐刀があってたまるかと、突っ込んでやりたくなることすらある。

 真っ直ぐで愚直で、しかしそれ故に愛おしい。主人の我儘に命を懸けて付き合うその忠義が、何にも増して自分に活力を与えてくれる。

 

「それにしても」

 

 そんな忠臣の働きを、無駄にするわけにはいかない。ユウがあと一歩まで追い詰め、妖夢が場を整えてくれたのだから、自分はしっかりと一連の騒動に終止符を打つ義務がある。

 

「彼、片腕がなかったように見えたのだけれど。貴方、何かご存知かしら?」

 

 あくまで疑問であり、詰問ではない。菅原公に問いかける形をきちんと取っている。幽々子は、自分の言葉についてそう認識していた。もしこの場に彼女と長い付き合いのある紫などがいれば、矛先が自分に向かないようじっと黙って事の行く末を見守ると思うけども。

 重ねて言うが、幽々子はユウの腕がなくなった原因を知らない。だって、その瞬間を見ていないのだから。そう、故に菅原公にはただ尋ねているだけなのだ。ほんのちょっとだけ、心の奥底に無理矢理捩じ込んだ怒気が漏れ出していたとしても、それ以上の意味は持たせていない。

 

『.:●・!gw』

 

 幾ら死霊を操る力を持っていても、その意図を読むことはできない。そもそも意思も本能もなく、ただ自身の性質通りに行動し続けるものに、考えるという概念は存在しない。存在しない感情は見たままから推し量る他にないということである。

 多分『必死』という言葉が今の菅原公の様子を一番良く表している言葉だろう。消えたくないから、数多の霊を吸収して際限なく強くなっていった。消えたくないから、敵は全て消滅させてきた。

 

 消えたくないから、ユウに瀕死の重傷を負わせた。

 

『,。!! r?/』

 

 この怨霊のしたことは、それ自体が生物かどうかをさて置けば生物の行動における常識の範囲内に収まっている。追い詰められた鼠がユウという強敵(ねこ)を、生き延びるために殺しにかかった。結果として鼠はただ死を待つのみの体となってしまったが、猫もまた首を噛み切られて瀕死の重傷を負うこととなった。

 右も左も霊ばかりな冥界からあまり出ることのない幽々子でも、被食者の立場に立たされる生き物が往々にして捕食者に手痛い反撃を食らわせることは知っている。別にそうした下打上をおかしなことだとは思わない。精々がそんなこともあるのかと少し驚くくらいだ。文字通り別の世界で生きる者達が織り成す生存競争である以上、そこに如何なる情も挟む余地はない。

 

 だが、此度の猫は幽々子にとって尋常ならざる意味を持つ。彼が痛手を負ったなら、友を自負する彼女が黙っているわけにはいかない。此岸における死の摂理など、彼岸の住人たる幽々子が知ったことではない。彼が関わるなら、幾らでも口手を出すことを厭わない。

 愚かな鼠に、罰を。

 

『/m:.=cz」^;†∀§nθ』

 

「貴方みたいな怨霊、冥界に連れて帰ったら皆怯えて何処かに隠れてしまうわね」

 

 右の腕を怨霊に向けて伸ばす。手は開き、あたかも前方にいる菅原公を掴まんとしているかのようだ。異常な気配を感じたのか、怨霊は身を引き摺って幽々子から距離を空けようとする。だが、その動きは彼女の魔手から逃れるにはあまりにも遅過ぎた。

 伸ばした右腕の下でひらりと舞った袖が、無風の中でその動きを止める。同時、幽々子は開かれていた手を静かに閉じた。握ったと言うには、些か穏やかで優雅な所作であった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 背中に自分より小さな男を背負い、可能な限り早く地上を目指す。来た道を戻るだけの簡単な作業だ、さして時間はかからない。だというのに、その道のりがとても長いもののように感じる。まるで千里の道を駆けているかのような気分を、妖夢は味わっていた。

 

「街はもう抜ける。もう少しで、地上には着くわね」

 

 彼の腕の断面が焦げ付いているのは、不幸中の幸いなのかも知れない。水でいっぱいの桶をひっくり返したかのような出血が、断面の極めて重大な火傷によって防がれている。奇しくも彼の腕を焼き尽くした赤雷の電熱が、彼の余命を伸ばしていた。

 だが、完全に血が止まったわけではない。少しずつ、だが着実に彼の血は流れ出していた。腕の断面は血で紅黒く染められ、それと対照的に彼の顔色は蒼白くなっていく。彼を救いたければ、一分一秒を争わなければいけない。これまでになかった程の速度で、妖夢は空を飛んでいた。

 

 別に、旧知の仲でもなければ遥か高みに座す剣神でもない。妖夢と彼の直接的な接点は、何もなかった。ならばどうして、その見ず知らずの神を背負って薄暗い地の中を急いでいるのか。

 主が懇意にしているからというのが、主な理由だろう。普段の飄々たる仮面を取り払ってただ彼の元へ急ぐ幽々子を見て、例えか細い一助であろうとも添え加えたいと思ったからこそ、妖夢は落命の危険を承知の上で彼女に同伴した。

 だが、それだけではないようにも思う。彼を見ていると、死なせてはならないという毅然たる意思が沸々と心の奥底から湧き上がってくる。片腕を失ってから、何分経つのだろうか。普通なら死んでしまったっておかしくない、まだ辛うじて息があるのが奇跡と言えるくらいの怪我を負う彼に、何故か無性に助かってほしい。勿論、死に際の者が黄泉比良坂を渡らないよう願うのは何ら悪いことではないが。

 

「……軽い」

 

 しかし、この奇跡が長くは続かないことを妖夢は察していた。彼の体が、あまりに軽い。まるで穴の空いた風船が急速に萎んでいくように、生の気が異常な速度で抜けつつあるのが彼女には分かる。

 もう、持たない。妖夢に、そしてユウに残された時間は幾許もなかった。あの漆黒の翼が彼の体力から生気まで、凡そ彼を生かすために必要な全てを貪り食ったのだろう。三大怨霊級の怪物を瀕死に追い込むために払った代償は、ある意味で等価交換の原則に則っているようでもあった。

 

 何があれば、己の命を擦り減らしながら戦うという選択肢を選ぶことになるのだろうか。妖夢には、到底想像がつかなかった。常温の頭で考えれば、それは極めて愚策かつ非効率的なものでしかないから。

 自分にだって命を懸けて戦わなければいけない時はある。主人のためならば、命を亡くしたって惜しくない。だけど、初めから亡くす前提で戦いに臨むのはただの自殺志願者だ。戦闘の中で死んでしまう可能性を肯定しながらも、そうならないよう全力で抗い、一秒でも長く立ち、刀を振るって敵を倒す。妖夢が求め、また求められる戦いとはそういうものである。

 だが、ユウが愚かな選択をしたとは思えなかった。頭の片隅で、納得している自分がいる。同じ状況下に置かれれば私も同様の手段を取っただろうと、彼の判断に賛同する自分がいる。お世辞にも良い考えだとは言えないが、それを否定できない。頭の何処かに、死に瀕する自分を愛おしく思う自己陶酔的な部分がある。

 或いはこの衝動にも似た感情は、本能的なものなのかも知れない。死の匂いを強めていく彼に当てられたように、憧憬はどんどんと強く ── 。

 

「……っ」

 

 思いっきり、舌を噛んだ。そうしなければ、顔まで沼に沈みこんでいたから。

 口内に広がる生温かい塩気を感じながら、何を考えていたのだと自責する。死にゆく者に憧れを抱くなど、何たる不謹慎なことか。彼は決して死を約束されたわけではなく、寧ろ是が非でも現し世に命を繋ぎ留めなければいけないというのに。

 

 地上へと続く長大な穴までは、もうすぐだ。遠くに見覚えのある橋が架かっているのが見える。あれを越えれば、後は上へ上へと昇っていくだけである。あと僅か数分、されど数分もあるという状況の中で、いつしか妖夢の息は上がってきていた。それは地の底で全力飛行を続けたせいか、はたまた別の要因からか。この時の妖夢にどちらだと尋ねても、きっと明瞭な答えは返ってこなかっただろう。

 原因不明の心の高揚を抱えながら、妖夢は穴に近づくにつれて飛ぶ速度を落とす。そして視界が一面の岩肌から見通せない闇へと切り替わった刹那の後、彼女は背に負った神を落とさぬよう細心の注意を払いながら、しかし彼女の出せる最高の速度でもって真上へと飛翔した。天狗のいる山に向けて飛ぶ中で昂った気持ちは鎮められていったが、一片の靄だけは心か頭か、とにかく何処かで海月の如く揺らめいていて決して消えることがなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「苦悶の色は薄いですね。あの亡霊さん、中々に凄い能力を持っていらっしゃる」

 

 穏やかに眠る覚の少女を見て、文は一心地付いたように息を吐く。ずっとこいしが身体の痛みに苛まれていたことを知っている彼女としては、漸く心安らかに休息を取る時間ができて良かったと思う。長くは眠っていられないかも知れないけれど、少しでも体力と気力を回復できることを願っている。

 妖怪は、良くも悪くも精神面に左右されやすい種族だ。心の持ちようさえしっかりしていれば怪我も早く癒えるだろう。薬による治療も大切だが、気を強く保つこともまた重要になってくるのである。

 現状は落ち着いたと言って問題なさそうです。確かめるように頷く文に、横から抑えられた声がかかる。彼女が声のした方を向くと、白い髪を短く切り揃えた少女が立っている。赤い頭襟を乗せた頭には一対の獣めいた耳が備わっており、腰には刀の鞘が挿されている。

 

「文様。宜しかったのですか?」

 

「心配しなくても、貴女の責任にはなりませんよ」

 

「そんなことは聞いてません」

 

 あの二人を地底に向かわせたのは、文だ。いや、向かわせたと言うよりは向かう許可を出したという方がより正確か。薄い青の着物に身を包んだ亡霊には、確かに完全に主導権を握られたが、それを失態だったとして天狗の頭領が直々に下した許可の責任を背負わされるのは納得できない。

 文がそんな()()()真似をするとは、彼女も思っていない。彼女が気にしているのは、他でもない文自身であった。

 

「貴女も気にしているのでしょう。そのユウなる神のことを」

 

「……ふむ」

 

 先程から、どうにもそわそわとして落ち着きがない。駐屯所の中を歩き回ったりはしていないが、妙に心ここに在らずと言うか。地底へ続く穴を見て何か真剣に悩んでいる時間も見受けられたことから、少女はこの烏天狗が地底に残って何やら恐ろしい化け物と戦闘を繰り広げている神を案じているのだと推察したわけだ。

 彼女が文から聞いた話は、恐らく概略に過ぎない。詳しい事情を知るのは、文を含めたほんの数名であろう。地の底で全てを見たからこそ、拭えない不安も生じるというものだ。神ならばそう簡単にはやられないだろうと少女は思っているが、恐らく事態はそこまで単純ではない。

 

「このわんこは、歯に衣を着せていないようですねぇ」

 

 一瞬だけ文の目がすっと細まる。それを隠すかのように、明るい声色で文は少女に冗談を飛ばした。

 

「狼です」

 

「上司のプライバシーを慮らないお馬鹿は、わんこに降格させます。今日から貴女は白犬天狗ね、序でだから他の皆も犬ということにして良いでしょう」

 

 あぁ、やっぱり図星か。えらく分かりやすい反応だったが、そこを突っ込むのは控えた方が良さそうだ。自分だって、あまり踏み込んで欲しくない領域の一つや二つくらい持っているから気持ちは分からないでもない。自分のされたくないことは人にもしないよう心がけるのが、できる大人というものである。

 仕方がない、今は長の軽口に付き合ってあげよう。やれやれと少女が溜息を吐き、都合良く上司の面を被るなと攻め込んでやろうと思った時であった。

 

「……!」

 

「あら」

 

 突如として、彼女達の背後に尋常ならざる気配が出現する。何事かと少女が振り返ると、そこには金髪九尾の妖狐が拱手して立っていた。彼女の頭上の空間はやや歪んだ形で裂けており、そこを通ってやって来たのだろうということは容易に想像が付いた。

 

「天魔殿、夜分に申し訳ない。ユウ様はお戻りになりましたか?」

 

「こんばんは。いいえ、まだ地底にいるようです」

 

 幻想郷の異能畢しと雖も、異空間への干渉を可能とする能力はただ一つと言って良いだろう。他の物と比べて段違いの危険度を有するこの能力を行使できるのは、たった一人だけ。だがそのたった一人の式である彼女にも、限定的ではあるものの行使権が与えられているらしい。

 

「八雲 藍か。今宵は強者によく会うな」

 

「白狼天狗。争うつもりはないぞ」

 

「そのようだが」

 

 あまり簡単にここまで来られると、我々哨戒役の天狗の面子が丸潰れだ。今日の夜だけで三人の侵入を許したからか、少女は些か毒々しい雰囲気で狐に苦言を呈する。確かに短時間で複数人があっさりと山の中へ踏み入ってきているというのは、白狼天狗としては見逃し難いことだ。

 

(もみじ)、やめなさい。客人に失礼ですよ」

 

「……はい」

 

 しかし、天狗の総纏め役たる文は藍の侵入を咎めなかった。共に比類するものなき大妖怪だ、昔からの交流でもあるのかも知れない。天魔の友人が遠路遥々かは定かでないが、ともかくとして訪ねてきているのなら、多少は融通を利かせた方が良いのか。一つ特例を認めるとあれもこれもとなってしまいかねないという理由から、正直気が進まない椛だったが、彼女はまだ知らない。過去に何度も狐の主が哨戒天狗の監視を鮮やかにすり抜けて、文のところへ遊びに来ていることを。

 

「それで、どうしたんです。どうやらある程度の事情はご存知のようですが」

 

「紫様より、事態の詳細を……おっと、確認するよう申し付けられております」

 

「耳が早いことで。当の紫さんは何を?」

 

「今し方地底へ向かわれました」

 

 話す途中で眠るこいしに気がつき、声量を落とす。その返答に、あちゃーと文は額を押さえた。怪訝な顔をする藍に、彼女は地底からの避難に先んじてユウから預かっていた言いつけを伝える。

 

「何と、そのような仰せ付けがありましたか」

 

「知らなかったのですから、責められることではありません。お師匠様も、その辺りの事情は酌んで下さることでしょう」

 

 何も聞かずに、地底から避難してくれ。彼の言伝の大意を取れば、このようになる。勿論巫山戯てこの言伝を無碍にしてやろうなどとは一切考えていないが、既に二人の霊と一人の妖怪が禁を破って地底に立ち入ってしまっているのは覆しようのない事実だ。誰もユウの邪魔をしようと思っていたわけではないので、きっと彼も苦い顔をするくらいで済ませてくれるだろうけれど。

 

「そうだ、先程お師匠様の知己を名乗る亡霊さんが従者を連れて地底へと向かったのです。訳あって私の独断で黙認したのですが、ご存知だったりしますかね」

 

「それは西行寺 幽々子殿ですね。付き人は魂魄 妖夢で間違いないかと。幽々子殿は紫様とも千年来の親友ですし、妖夢は真面目で善良な彼女の従者です」

 

「ほう、紫さんの。それは信用に足ることです」

 

 いつ何処で起爆するか分からない爆弾のような妖怪少女と千年も友達でいられるのなら、きっと良い亡霊なのだろう。紫に知られれば流れる水も凍る良い笑顔でお仕置きを加えられそうなことを考えていると、霊気が一つこちらへと急速に接近してくるのが感じられた。

 

「おや、噂をすれば帰ってきたようです」

 

「あやや、またえらく急いでいますねぇ。岩に頭を打たなければ良いのですが」

 

 さて、事情聴取のお時間です。そう言って座っていた簡易的な椅子から立ち上がる。認可しておきながら帰ってきたら尋問とはご無体なと、呆れながら後に続いた椛はその勢いのままに正面の壁へと顔を強かに打ち付けた。

 ぽふっと柔らかい壁であったため、鼻っ柱を抑えて蹲る羽目にはならなかった。だが、予期せぬ衝突に驚いたのは事実だ。そんなところで立ち止まらないで下さいと文句を言おうとした椛は、後ろからちらりと見えた文の横顔が酷く引き攣っているのに気がついた。

 

「文様?」

 

 問いかけにも反応を返さず、文の視線は地底へと続く大穴に固定されている。微かに開かれた口はぴくぴくと震え、まるで受け入れ難い現実を目の前にしているかのようだ。突然どうしたと言うのか。先程まで話をしていた藍なら分かるかと思って彼女の方を向くと、同じく動揺を隠しきれない様子で立ち尽くしていた。

 天下御免の大妖怪が、二人揃って茫然自失の体をなしている。何か椛の想像を遥かに絶する凄まじいことが起きているのは察せるが、それが具体的に何なのか浅識な彼女には分からない。

 二人共穴の方を見ているのだから、そちらに何かあるのは確実だろう。自身の能力で視野を拡大させ、二人に倣って地底への穴を注視した椛の目に、丁度地上世界への帰還を果たした銀髪剣士の姿が映った。全力飛行のせいか絶え絶えという表現が似合う程に切れた息を整えもせず、地を駆けて駐屯所へ急ぐ彼女の背には、一人の子供が負われている。恐らく少年だろう、力なくぐったりと妖夢の背に体を預けるその姿から、意識は完全に喪失していると思われる。

 

「ちっ」

 

 妖夢は程なくして、駐屯所へと駆け込んできた。同時に、部屋の空気が瞬間的に凍りついたのを椛は知覚した。まるで自分と妖夢以外が物言わぬ氷像と化したかのような、強烈で異質な違和感は椛の全身を総毛立たせるのに充分過ぎるものであった。

 

「 ── 治療をっ!」



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第十五話 まだ諦めるには早い

 瀕死の重傷を負ったユウが妖夢に抱きかかえられて地底から出てきて、数日が経過した。現在、彼は博麗神社の一室に運び込まれている。

 あの時自分がどうしたのか、紫は今でも大部分を思い出すことができる。いっそ忘れてしまいたいが、あの一夜は数日が経った今でも彼女の脳内に深く、深く刻み込まれている。

 

 ユウが運び出されて白狼天狗の駐屯所に横たえられた後、一番早く我を取り戻したのは文だった。呆然と立ち尽くす藍の肩を揺すり、すぐさま紫をこの場に呼ぶよう頼んだ。治癒の術に明るい八雲主従が揃っていなければユウを救うことはできないという文の迅速な判断が、明暗を分けた。

 結論から言えば、治療は成功した。高く険しい峠を、場に居合わせた全員が一致団結して乗り越えた。……だが、それにも関わらず眠るユウをじっと見つめる紫の表情は暗い。いつもなら嬉々として飛びかかっていくはずの彼女が、消沈の面持ちでただ傍らに座している。何故なら、ユウはまだ目を覚ましていないからだ。

 生きている。それは、確かだ。呼吸も弱々しいながらもしているし、心臓も拍動が小さいとはいえ動いている。間違いなく、ユウは生命活動を行っている。

 だけど、意識が戻らない。体に刻まれていた大小無数の傷は既に大半が塞がり、出血などでこれ以上命が危ぶまれる状況は抜けた。だというのに、ユウはただ一切の感情がすっぽりと抜け落ちた顔で神社の布団に横たわるばかりで、一向に起き上がる気配がない。

 

 初めに藍がスキマの中から文字通り転がり出てきた時は、突然の彼女の奇怪な行動に唖然とした。焦りのあまり何度も噛んで詰まった藍の説明は、しかし紫にユウの危機を伝えるという役目を充分に果たした。地底の管轄担当である古明地 さとりから話を聞くのをスキップして、急ぎスキマで妖怪の山まで向かった時点で、既に彼は顔色どころか体全体が殆ど色を失い白色化している状態で、誰が見ても血液が絶対的に不足していることは明らかだった。

 混乱する頭の手綱を取りながら彼の体を見れば、無傷の部位がないという程の惨状だった。裂傷は顔から腕、さらには体全体にまで及んでおり、筋肉や骨が剥き出しになっているものすら確認された。そのグロテスクな様相は、とても見るに耐えるものではなかった。

 一体、何があったらこんな酷い大怪我を負う羽目になってしまうのか。そう思いながら、ユウの主たる傷への治療を開始しつつ妖夢からある程度の事の始終を聞く。彼女は、地底へと向かっている最中に突如として彼が破滅的な力を解放したと言った。その力で形作られた翼は闇にも映える程に黒く、見る者の心を凍てつかせる怖気を周囲に撒き散らしていたとも聞いた。

 紫の知るユウの翼は、輝く光のように明るい純白をしていたはずだ。まるで真逆の色を彼が発現した理由は、考えるに至らなかった。なおも妖夢の報告を聞きながら、最優先に治療すべき箇所を探してユウの体の上に目を隈なく走らせる。胸部に傷があるのを見つけた時にはぞくりと震えたが、幸いにも心臓までは達していなかった。とは言え肉が抉れ血が流れ出ているのは軽傷では済まされない。一先ずここから直していこうと胸部に視線と意識を集中させた紫は、すぐに強烈な違和感を覚えた。左右が対称でない。紫から見て右側にある腕は見えているのに、どうして左側にあるはずの腕は視界に映ってこないのだろうか。

 

 ……或いは、私は最初に地底から出てきたユウを見たときに既に()()に気がついていて、しかしながら無意識のうちにそれを認識しなかったのかも知れない。だって、少し距離があったとはいえあんな大きな喪失に気がつかない筈はないから。

 

 気がつきたくなかった。夢であってほしかった。そう、これはきっと何かの悪夢だ。もう少しで夢は醒める。そして現に舞い戻り、嫌な悪夢だったと振り返りながら寝室を出れば、いつも通りにユウがあののんびりとした表情で朝の日差しを一身に浴びているんだ。藍は使い古した割烹着に身を包んで朝ご飯の準備をしていて、私は夢の残滓を振り払うようにユウに抱きつきに行ってあえなく弾かれる。それを見て、藍がまたかとでも言いたげな表情で苦笑する。

 

 醒めては見れぬ世界が、夢に現れ出てくるという話を耳に挟んだことがある。質の悪い夢魔にでも憑かれたのか、絶対に有り得ない空想世界をここまで鮮明に見せられようとは ── 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()

 

 一瞬、紫は確かに時が止まったのを知覚した。

 視界に映る物、色、景色。その全てが映像を一時的に停止するかの如くぴたりと静止した。沈黙する世界の中で、ただ紫の脳だけが滅茶苦茶で意味の無い回転を続けている。それはまともな思考を生み出すものでは到底なかった。

 ずっと止まった感覚に浸っていられたら、彼女はある種幸せだったのかもしれない。言語に絶するような現実を受け入れずに済むのだから。

 

 だけど、現実は非情なものだ。一瞬の後、紫の頭は暴走状態を終えて正常な回転を取り戻し、そして世界は動き出す。それ即ち彼女が、彼女の頭が本能的な願いもむなしく目の前に広がる現実を、理性に基づいて受け入れてしまったということ。神の悪戯か聡明なる者の運命か、彼女の理性は本能を押さえつけてしまった。

 

 吐くかと思った。いや、覚えていないだけでもしかすれば吐いていたかもしれない。あるべきものが。絶対に無くてはならないものが、ユウの体からすっぱりと消え失せている。違和感なんて言葉では、到底済ませられなかった。

 おかしい。有り得ない。不条理だ。規格外の実力を有し、私では比較にならないほどに永き時を生きてきた彼程の強者が、腕一本失うほどの重傷を負うなんて。

 しかし、現実にその有り得ない事態は発生している。つまりそれは有り得るどころか実現した現実である。起きてしまった悲劇を悠長に嘆いている暇は、一秒たりとも無かった。その一秒が彼の体から血を流し、活力を奪い、余命を削り取っていくのだから。

 ユウを死なせてはならない。治療に際して紫がこれ以外に考えていたことは、恐らく無かっただろう。言語に絶する被害を被ったであろう地底の再建も、情報を地上で広めないようにするための箝口令の発布も、そういった所謂幻想郷の管理者としての思考は何一つとして頭に浮かんでくることは無かった。

 

 体の傷が開かないように処置を施し、ユウの体にかかる負荷が極力小さくなるように最大限に慎重を期し、かつ最小限の時間で容態を安定させる。その一方で、藍には断裂した筋肉に対する治療を担当させる。

 紫も藍も、かつてこれほどまでの大怪我を負った者の治療経験などない。故に、今回のことは全く初めての試みだった。しかし、怪我の状態や部位を見てどこから手を付ければ良いのか判断する、それを行うだけの知識と技術はある。幾冊もの医に関する本を読み、また幾度もの実践経験も積み上げた。彼女らが手を組み治療を施せば、どんなに酷い怪我にだって対処することができる。それはユウも認めるところであった。

 だというのに、いざ治療を始めると二人して何度も二の足を踏んだ。先に出血に対処すべきか、それとも焦げ付いている右手の切断跡の治療からするべきなのか。果たして何が正しいのか、まるで頭に浮かんでこなかった。

 経験不足が原因だったのだろうか。それとも、彼女達に知識が足りなかったのか。否、ユウの負った怪我の一つ一つは二人の技量があれば治療をすることが可能な範囲に収まるものであった。ただ、その数があまりにも多過ぎた。冷静さを欠いた中で随所に早急な治療を必要とする損傷があっては、迷いが生じるのも当然のことだ。

 

 嘗て経験したことのない窮状、しかも救わねばならないのは皮肉にも彼女達に医術の心得を授けた神。紫が前後不覚に陥りかけたのだから、藍もさぞかし混乱していたことだろう。

 それでも、結果として二人が死力を尽くした処置は成功した。妄言でも妄想でもなく、彼の命はこの世に繋ぎ留められた。だから、後はユウが目覚めるのを待つだけ。そう、何も不安に思うことはない。ユウのことだ、どうせ今日の夜にもなれば目を覚まし、誰も見ていない隙をついて勝手に布団を抜け出し、一人で月見酒にでも興じているだろう。

 数日もすれば、夥しい数の痛々しい傷も全快するはずだ。ユウの治癒力は凡百のそれを凌駕する。増して彼は、回復力をさらに助長させる術式にも明るい。故に、紫は何を恐れる必要もないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……(鼓舞)か、それとも(言い訳)か。

 

「っ!」

 

 瞬間、邪念よ消えろと頭を振り払う。何を考えているのだ、私は。ユウに慈しみ慈しまれ、愛し愛されてきた私がこんな馬鹿げたことを考えてはならない。

 嗚呼、つくづく自分が嫌になる。たった数日ユウが目覚めないだけで悲観的なことを考えてしまうこの頭は、いっそ新しいものと取り替えてしまいたい程に恨めしい。

 彼は、強いのだ。私の理解の及ばぬ程に、強く堅固なのだ。私如きが心配することなど無い。……それだけのことを純粋に信じることができないこの心が、憎い。

 彼はすぐに目覚める。そしてまた、日常が戻ってくる。騒がしくて楽しい、いつもの日々が戻ってくる。そう心から願いながらも、同じ心の奥底でほんの僅か揺らぎを見せてしまうこの弱い意志が腹立たしい。

 

「……ごめんなさい」

 

 ユウに対して何を謝ったのか、彼女自身も分かっていなかった。ユウの生存を信じきれていないことか、それともユウ一人に神霊の域へと達していた強大な怨霊の討伐を任せてしまったことか。若しくはそれ以外に、何か謝罪の言葉を口にさせる理由があったのかも知れない。だとすればそれは、己の怠慢の痛感であろう。

 

 もし紫が地底までユウに同行していれば、大怪我をする前にスキマで逃げられた可能性は高い。ユウが地底に向かったことは知っていたし、それが彼にとって地底への初めての訪問となることも当然理解していた。だというのに、その時に何故道案内でも買って出なかったのか。今更悔やんでも正しく後の祭りであると頭では分かっていても、あたかも海の水を巨大なポンプで汲み上げているかのように、後悔は無限に溢れ出てくる。

 

「紫、入るわよ」

 

 一人負の思考に溺れていた紫の元に、誰かがやってきた。そのふわふわとした高めの声を、彼女は良く知っている。

 

「……幽々子」

 

 従者を率いて地底へと向かい、ユウが一命を取り留める大きな要因となってくれた亡霊。彼女達が妖怪の山で足踏みをしていたら、或いは文の融通が利かず妖怪の山から追い返されていたら、彼を助けるのはさらに困難を極めていたに違いない。

 

「そういえば、ちゃんとお礼を言えていなかったわね。ありがとう、貴女と妖夢のお陰で素早い処置が可能になったわ」

 

「礼には及ばないわ。彼を()()()のは妖夢だし、瀬戸際で踏ん張ったのは貴女と藍でしょう」

 

 自分の功績など微々たるものだと幽々子は謙遜したが、実際彼女の貢献は声高に誇っても咎められぬ程に大きなものであった。もし地底へと潜ったのが妖夢一人であったならば、ユウを連れ帰ることなどできやしなかったのだから。幽々子は妖夢の存在があって気を鼓舞することができたが、彼女も同様に守るべき主がずっと傍らに付き添ってくれたからこそ勇敢な懐刀でいられたのだ。

 間違いなくこの一件における功労者の一人にありながらも、幽々子はそれをほんの少したりとも意識していないようであった。いつものぽわぽわとした和やかな目ではない、すっと引き絞られた双眼で紫を真っ直ぐ見据えている。

 

「貴女、そろそろ休みなさいな。ユウがこっちに移されてから、纏まった睡眠を取っているのを見ていないわ。ご飯だって、折角藍が作ってくれてるのに手も付けないし」

 

 紫の隣に座り、ややあって幽々子が話したことの内容は、概ね紫の予想に違わなかった。ろくに休みも食事も取らなければ、如何に頑丈な妖怪でもいずれ無理をした代償に襲われる。三日三晩飲まず食わず寝ずを続ける紫の体力は、既に限界に近づいていた。

 

「大丈夫よ」

 

 でも、どうしても休憩を取ろうとは思えなかった。まだ昏睡状態にあるユウを差し置いて、私がのうのうと体を休めていて良いのか。そう考えてしまうと、途端に立ち上がって食卓や布団まで行こうという意思は粉々に粉砕される。だから、声をかけられる度に気遣いはいらないという旨を伝えていた。

 

「大丈夫そうに見えないから声をかけているの。この調子じゃあ、ユウが目覚める前に紫が倒れるわよ」

 

「……なら、私が倒れる前に彼の意識を取り戻せば良い」

 

 体が今にも崩れ落ちそうな崖際に追い込まれているのは、紫とて自覚している。そろそろ休息が必要だ、人の恐れも絶対的に不足している。彼女の体なのだから、彼女自身が一番良く状態を把握できるに決まっている。

 精神的なダメージの甚大さも、理解はしていた。胸の奥を絶えず鷲掴みにされているかのような感覚は、過去にも覚えたことがある。その場から一歩も動いていないのに動悸が激しくなり、地がゆらり、ゆらりと不規則に揺れ動いているような錯覚に襲われるのだ。

 

「違う」

 

「違わない」

 

「……何が貴女を、そこまで駆り立てているの」

 

 それは、紫にも分からぬことであった。娘と認めてもらった者として、或いは償いの感情。彼女自身、何が自分を彼の傍らに縫い付けているのか釈然としていなかった。

 ともすると、紫はユウを()()()()()()のかも知れない。然程の時間を経ずして必ず起き上がるのだから、その時に自分が近くにいなくてどうするのか。そんな強迫観念が、彼女を博麗神社のとある一室の畳の上に縛り付けているようにも思われた。

 

 幽々子からすれば、手ぐすねを引く死神の奸計のように見えた。罠にかかり沈んでいく紫が、完全に落ちてくるのを今かと舌なめずりをしながら待ち構えている。彼女が頭まで罠に囚われてしまった時、死神は背負う鎌を生気なく横たわる彼女に振り下ろすのだろう。残された時間は、もう幾許もない。この僅かな猶予の間にユウの意識が戻れば窮地を一気に脱することができるのだが、あまり期待できることではない。

 だが、幽々子は現状どうしてやることもできない。奇跡的な力で危機に瀕する父子を一遍に救えるなら、彼女は迷うことなくそうしていた。だが、彼女の死を司る能力は、あくまで今この瞬間の対象を死から可能な限り遠ざけられるに過ぎない。意識を途絶させて横たわる神を長い眠りから解放することも、酷く摩耗した妖怪の心を癒すこともできやしないのだ。

 無力なものだと、幽々子は内心で自嘲する。自身の能力ではユウの意識を浮上させることはできないと、彼女ははっきり理解している。だからこればかりは周囲の人妖の介抱と彼の生命力に委ねるしかないのだが、ならばせめて気を病んでいる親友の心を少しでも支えてはやれないものか。折れ切ることがないように、例え一厘であっても苦しみを負担してはやれないのか。

 しかしその役目は、きっと自分では果たせないのだろう。無念だが、他の誰かが紫の精神的な支柱となってくれることを期待する他にはないようだ。最も適材たる彼が適所を見失い、それが結果として鋭利堅固な鑿となって紫の心の耐久値を刻々と削り減らしているのは何たる当て付けか。

 

「今は、何を言っても無駄みたいね」

 

 幽々子が隣にいても、紫は心を安らぎの中に置くことができない。この事実は、彼女の胸に深い影を落とすに充分なものであった。互いに親友だと認め合い、心を許し合っていたはずの妖怪は、亡霊を頼らなかった。未曾有の悲劇によって砕け散った心の欠片を拾わせてはくれなかった。

 立ち上がり、音を立てないように襖を開けて部屋を去る。後ろ手に襖を閉める直前に一度後ろを振り返りかけたが、結局躊躇いに負けて叶わなかった。紫の様子も表情も、故に見ることはなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 重い足取りで博麗神社の居間へと戻る。そこにいたのは、この神社の巫女と紫の式神を務める金毛九尾の狐だった。

 

「幽々子殿。紫様は」

 

「……あそこを動くつもりはないみたい」

 

 紫の身をずっと案じている藍に、何と言葉をかけるべきか迷う。しかし幾千言を尽くしたとしても繕いようもないと悟り、単直に紫の言外の意思を伝えた。藍の美麗な顔に、隠しきれない落胆の影が差す。

 

「ごめんね、藍。私では力不足だったみたい」

 

「何を仰いますか。幽々子殿が謝ることではありません」

 

 幽々子が謝ったのは、欠けた紫の冷静さを取り戻させることができなかったからだ。正直なところ、言葉を選んで丁寧に説得すれば紫も聞き入れてくれるだろうと思っていた。一旦休めば気持ちの整理も付くだろうから、これ以上の精神の崩壊は避けられると推し量っていた。

 ……大きな誤算であったと言う他にない。紫の体を乗っ取った深過ぎる闇は、幽々子を静かに、しかし強烈に圧倒した。事前に頭の中で用意していた文句なんて、何処にも挟み込む余地がなかった。

 

「結局のところ、これからどうするのよ」

 

 霊夢は、幽々子や藍程には状況を悲観していない。安心立命の立ち位置を変えることなく、建設的な案を練ろうとするだけの余裕がある。

 全員が悲壮感に打ちひしがれていては、危機の打開などできようはずもない。彼女が話を前に進めようとしたことで、幽々子達も暗澹たる胸の内の思いを一旦隅に置くことができた。

 

「無理矢理にでも引っぺがして休ませた方が良いんじゃないの?」

 

「それは正しく今際の際まで追い込まれた時まで取っておきたいわ。放置しておくよりは微かに希望が持てるってだけの手段は、できれば頼りにしたくないけれど」

 

 今の紫を無理にあの場から動かそうとすれば、どのような抵抗を受けるか分からない。正気を失った大妖怪より怖いものは、この幻想郷には無いと言って良い。下手に力に訴えれば、幽々子達は勿論のこと、無防備に眠るユウの身までもが危険に晒される可能性があるわけだ。この閉塞的な状況をどうにかしたいのは皆山々なのだが、紫が余りにも安定を欠いているために迂闊には手を出せない。

 

「藍、あんたもスキマを使えたわよね。それでユウさんだけぱっと回収して、後は三人で紫を抑え込むのに専念したら何とかなりそうだけど?」

 

「それは私も検討したよ。だが如何せん私のスキマは紫様の劣化複製に過ぎなくてな。恐らくだが、開く前に勘づかれて潰されてしまうだろう」

 

 それに、仮に上手くいったとして、三人がかりでも正気でない紫様なんて抑え込めるかどうか。溜息を吐きながら、藍は愚痴を零すように返した。誰よりも長く紫の傍にあり続けてきた彼女だからこそ、霊夢の提案を実現するのがどれだけ困難なことか理解できる。

 

「できないとは言わん。幽々子殿もお前もいるんだからな、可能性はある。ただ、良くても神社が全壊することになるだろう」

 

「悪けりゃどうなるのよ」

 

「粉微塵か、或いは跡形もなくなるか」

 

「成程。それは避けないといけないわね」

 

 それだけ抑制が熾烈を極めるなら、別の手段を考えなくてはならない。博麗神社は幻想郷を包み込む結界の何とかかんとかだと以前耳にしたことがあるし、何よりここは霊夢の家だ。粉微塵にされたり跡形もなく消し飛ばされては、堪ったものではない。

 紫を一瞬で無力化する方法があれば、事態は解決するのだが。いや、それだってユウの意識を取り戻す前に紫が復活したのでは意味がない。これが引き金となり、敵対の意思ありと認識されてしまえば、どの道戦闘は避け難くなってしまう。

 

 事情を知らぬ人妖がこの場にいれば、考え過ぎだと一笑に付すだろう。彼女らだって、流石に気が動転しているとは言っても少し刺激しただけで襲いかかってくるとは思いたくない。

 普段の紫は、一時の激情に流されて過ちを犯してしまうような短絡的な妖怪ではない。決して怒らないわけではないが、その怒りを制御し発散すべきところで適切に発散するだけの理性を備えている。そして何よりも、彼女は友人を害する者を、自身も含めて絶対に許さない。本来八雲 紫とは、強靭な理性と深い友情を内に秘めた心優しくも強い少女である。だが、笑い話にもならないような事態を想定し回避に動かなければいけない程に事は切迫しているのだ。

 幽々子達は、今紫がどのような凶行に走っても驚かない。最早()()は、紫の体を乗っ取った別の何かである。

 

「……あら」

 

 ふと、霊夢の視線が縁側の方へ向けられる。幽々子達も釣られてそちらを見ると、丁度少女が一人空から博麗神社に来訪してきたところであった。

 

「珍しいわね、あんた一人でだなんて」

 

「お邪魔するわ。お父様達が今手を離せなくて、代わりにお兄様の様子を見に来たの」

 

 翼まで完全に覆い隠すことのできる大きな日傘を閉じて、靴を脱ぎフランドール・スカーレットは博麗神社の居間へと上がった。

 

「悪いわね、ユウさんはまだ起きてないのよ」

 

「……そう」

 

 珍しいこともあるのね。霊夢にそう返し、フランドールは居間の誰も座っていない座布団の一つに座った。日傘はサイズ的に持ち込んでも邪魔になるだろうと判断し、縁側に立てかけておく。

 

「お兄様は何処に?」

 

「向こうの部屋。でも今は行かない方が良いわ、紫がいるんだけどちょっとね」

 

「あぁ。この前の宴会で見た時、凄く仲良しそうだったもんね」

 

 紫とはたまに彼女が紅魔館へ会談に訪れた際に顔を合わせることがある程度の関係だ。故にあの夜の宴会まではレミリアすら時に翻弄する底知れない深淵を身に宿す賢人という側面しか知らなかった。

 博麗神社でユウと楽しげに語らう彼女を見て、当たり前だが彼女にも心から打ち解けて話をすることができる相手がいるのだと思った。彼女の姉に向けられる信用と、ユウに向けられる信頼はまた別物なのだろうと気がついた。即ち、頼れる提携者か親愛なる友人か。一口に信用だ信頼だと言っても様々な種類があるものだと、フランドールは齢五百も近づく中で考えさせられた。

 ユウの容態は気になるところであるが、彼女が彼の枕元を離れていないなら邪魔をするのは宜しくない。フランドールは彼を見に行きたいという思いを一先ず心の奥にしまっておくことにした。

 

「それにしても、あのお兄様が数日目を覚ませないところまで追い込まれる敵って何なのかしら。霊的な存在だとは聞いたけれど」

 

「幽々子」

 

「えぇ。あれは恐らく、天神様でしょう」

 

 ユウと文字通りの死闘を繰り広げた相手については、霊夢もフランドールと同程度にしか聞き及んでいない。ここ数日は忙しく、考えこそすれそれを誰かに聞く機会は中々巡ってこなかったのだ。

 地底へ赴き実際に相手と対峙した幽々子に説明を求めようと声をかければ、彼女はそれを察して話し始めてくれた。そこで出てきた名前は、霊夢をして微かに驚きの感情を催す程の高名な御名であった。

 

「貴女は、幽霊かしら」

 

「いかにもその通りよ。初めまして、吸血鬼さん。……それで天神様だけれど、彼はかつて菅原 道真という名を持っていた昔の権力者よ。色々あって死後に神へと昇華した、神霊と称される存在になるわ」

 

「初めまして。でも、()()()でも特に何ともなかったらしいお兄様が、こうも手酷くやられちゃうなんて」

 

「菅原公は地底の怨霊を尽くと言って良い程の勢いで吸収していたの。その結果、彼に届き得る強大な力を手に入れたというわけね」

 

 一体何百何千の霊を支配下に入れたのか、想像もつかないけれど。悍ましいことを口にした時のように、幽々子は平時より若干低いトーンでそう言った。彼女の話は正しく悍ましいと表現するに値するものであり、そうした口調になるのも当然と言えた。

 妖怪の天敵たる怨霊を自らの糧にするなんて、とんでもない相手もいたものだ。こうも凶悪な大怨霊と戦って大きく傷ついたからといって、誰もユウのことをさして強くもない雑多の神だとは罵倒できないだろう。きっと彼以外が戦っていたなら、勝利はおろか善戦すら困難を極めたに違いない。

 だが、ふと何かに気がついたようにフランドールが目をぱちくりとさせる。ユウと紫がいるという部屋の方をじっと凝視し、それから幽々子達の方へと向き直りこう尋ねた。いや、或いはそれは独り言に近いものだったのかも知れない。

 

「お兄様は、確かにここにいるんだよね」

 

「えぇ。何よ急に、嘘なんかついてないわ」

 

「うぅん、気を悪くしたならごめんね。大丈夫、私も彼がここにいるのは分かってるから」

 

 霊夢に一言謝りはしたものの、どうにも納得がいかないことがあるような様子である。ユウ達のいる部屋がある方面を、訝しむような視線で見つめてはやはり変だと言う風に首を小さく傾げている。

 

「何か腑に落ちないって感じね。言ってみなさいよ、黙って一人で抱えてちゃ解決も遅くなるわ」

 

「それもそうか。霊夢、私の能力は知ってるわよね」

 

「『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』でしょ。あんたから前に聞いたわ」

 

「そう。そしてその原理は、破壊する対象の『目』を私の手まで移して握りしめるというもの。この能力の性質上、私には常にあらゆるものの『目』が見えているわ」

 

 ここで一度台詞を区切り、霊夢により理解してもらうため言葉を選ぶ。フランドールの中だけで理解が完了していたって、霊夢には何のことだかさっぱりだろうから。

 

「私は、お兄様の『目』も見ることはできる。掴もうとしたことはないから、潰せるのかは知らないけれど」

 

「ふむ」

 

 フランドールが今この場で自身の能力について話したのには、意味がある。彼女は私達に、何を伝えたいのだろうか。少し考えれば、聡明な彼女にはそれが分かった。

 

「つまり、あんたはユウさんの『目』とやらが見えないと言いたいのね。それで違和感を感じてた、と」

 

「かなり事実に近い結論ね。お兄様のは、とってもぼんやりと、それでいて薄くしか見えないのよ。今はっきり見える『目』は、五つだけね」

 

 フランドールを始めとした、博麗神社の居間にいる四人、そして紫。存在がはっきりとしている人型の生物は、この五人だけであると彼女は言う。

 彼女の話を聞くに、『目』が朧気にしか見えないというのは存在そのものが不安定であるということと同義であろう。存在の不確定性が強まっているということは、つまり。

 

「ちょっと待ってくれ」

 

 彼女が来てから沈黙を守っていた藍も、そのことに気がついたらしい。震える声に、いつもより大きく開かれた双眸に、そんな現実は断固として認めたくないという彼女の強烈な感情が如実に表れている。

 だが、事実は時として無慈悲で残酷なものである。あらゆるものを破壊することができる能力を持つフランドールが、破壊において不可欠な『目』を良く確認できなかったのだ。この異常な結果が示すことを悟るのは、藍にとって余りに簡単な作業であった。

 

「お前達の話を纏めれば、今ユウ様は」

 

「うん。……多分、今のお兄様は説明のつかない何かへ変わりつつある」

 

 藍が何も言えずに絶句した瞬間を、霊夢はともすれば初めて目撃したかも知れない。それだけ、フランドールが自らの能力を活用して導き出した結論は衝撃的なものであった。

 かく言う霊夢だって、声にこそ出してはいないがとても波風立たぬ平常心など保ててやいない。つい数日前に宴会の舞台に参加し、鬼と決闘を繰り広げていたのに。それが何故、たったの二、三度日を跨いだだけで世の理から脱却せんとしているのか。

 或いは、斯様の如きが神去りなのかも知れない。不謹慎であると分かっていながらも、そう考えずにはいられなかった。人妖とは一線を画する存在である神という上位存在の死。それは人間の常識の埒外にあって然るべきものではないのか。あぁだこうだと人妖の常識を基盤とした理屈付けを試みること自体が、そもそも間違っているのではないだろうか。

 

「この世界の物の定義から外れかけているんじゃないかな。私もこんなのは初めてだし、確かなことは言えないけど」

 

 死に瀕して存在が希薄になっているというわけではないはずだ。生きていようが死んでいようが、はたまた命を持たない無機物であろうが実体を保有する物である限りはフランドールの能力からは逃れられない。

 つまり、彼が足を踏み入れようとしているのは、この世界の道理を超越した先にある領域だろう。異次元とでも言えば良いのだろうか、そこでは彼女達の知る法則の一切が適用されない。彼女の異能とて、例外ではない。

 

 暗澹たる雰囲気が、深い霧となって博麗神社を包み込んでしまったかのようであった。どういった手段を取れば良いのか、まず初めに何から手を付ければ良いのか誰にも分からない。実体があるのかも分からない場所へ向かおうとしている彼の意識を常世へ引き戻す方法があるというのなら、それはきっと最期の時まで希望を捨てるな等という精神論を機軸としたものであろう。そんな稚拙ここに極まれりと唾棄されるべきもので助けられるなら、紫の一途な願いによって彼はとっくに目を覚ましているだろうに。

 

「それで、ここからが相談の本旨になるんだけど」

 

 だが、フランドールの目に絶望の黒色は映っていなかった。まだ完全には見失っていない。唯一彼が未だに現し世の住人であることを確認できる少女は、ここに一筋の勝機を見出した。

 

「一度、近くでしっかりとお兄様の『目』を確認したいの。私の予想が正しければ、それは何処かへ繋がっているでしょう。そっちの方に存在の重きを置いてるから、こっち側で『目』が薄くなっているんじゃないかと思うの」

 

 もし彼女の予想が的中していれば、ユウを救える可能性は残っている。フランドールは、彼女に与えられた力を活かして掛かる闇を切り裂く剣となることができる。その剣は、しかし、諸刃の造りであった。一歩間違えれば、いとも容易く彼を殺してしまうだけの殺傷能力を秘めている。

 生と死、勝利と敗北。様々な概念が表裏一体となって自分に付属していくのをフランドールは感じていた。表か裏か、大団円か惨劇か。かつて経験したことのない大博打に、体が芯からぞわりと冷える感覚に襲われる。それでも、この力を誰かのために使うことができるなら。壊すことしか能がないと思っていたこの異能が慕う兄のような神を、そして彼のために心を削り削って嘆き悲しむ少女を助けられるというのなら、私は絶対に怖じ怯んではいけない。少女が決めた不退転の覚悟は、彼女に無限に近い活力を供給する源となった。

 彼女の言葉に篭った橙色の熱が、どんよりと滞留していた空気を動かした。薄桃色の瞳に少しばかりの張りを取り戻した幽々子が、彼女にその行動の真意を問う。

 

「何処かについて詳しく問うのは、ここでは置いておきましょうか。吸血鬼さん、ユウの『目』というものが繋がっていると考えたのはどうしてかしら」

 

「『目』は本来綺麗な球形をしているの。動物植物、雌雄の全てにおいてこれは共通しているわ。でも、お兄様は少しだけ縦に細長くなっている。その先端を辿っていく過程で、私の目では捉えきれない程に『目』が希薄になるの」

 

「成程。そういうことね」

 

 たった一つの根拠ではあるが、確かに何処かと繋がっているとは考えられる。幽々子は、フランドールの主張が建設的な思考の筋道に基づいているものだと察した。

 現状、ユウを救うための手がかりを見つけ得るのは彼女を置いて他にはいない。ここでそれでもないこれでもないとただ只管に手を拱いているよりは、彼女の能力を頼り一つでも多くの情報を獲得する方がずっと得策だ。

 それに、悠長に手段を選んでいられる時間は、残念なことに無いに等しい。ユウの『目』が完全に別世界へと移ってしまう前に、そして紫の心が急速に満ちていく闇に飲まれ切ってしまう前にこの一件には決着を付けねばならないのだ。

 

 だから幽々子は、フランドールの提案にこう返す。

 

「良いんじゃあないかしら。賭ける価値は、充分にあると思うわ」



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第十六話 Morpheus mundus

 虚無。彼の立つ場所を表すのに、これ以上適切な言葉はなかった。

 ついさっきまで、自分は何をしていたのだったか。そんな普通なら思い出せて当たり前のことが、今のユウにはどうしても思い出せなかった。頭の内部を覆い尽くすが如き真っ黒な靄が、彼に記憶を取り戻すことを許さない。きっとこの靄が晴れた先に、彼が落としてしまった記憶が姿を表すのだろう。靄は、しかし密にして薄まる様子を見せない。

 

 いつからともなく、ふと気がつくとユウはここに立っていた。ここへ来たのは自分の意思か、はたまた誰かの企みの結果なのか。それも残念なことに今の彼には見当が付かなかった。

 ぐるりと辺りを見渡してみたところ、どうやらこの場所は白と黒、たった二つの色だけで構成されているらしい。彼が立つのは光など少しも通さないような黒い地面で、頭上には光そのものの明度を誇る白色の空が広がっている。

 

 しかし、地を踏みしめているという感触はユウにはなかった。まるで宇宙空間に揺蕩うかのような状況だが、呼吸するだけの空気は充分にある。

 それに、ここが宇宙であると言うには余りにも気温が穏やか過ぎる。地球などの極めて希少な例を除けば、宇宙の気温は何千何万度というレベルだ。更に加えてこの非常識的な温度が氷点下か否かという選択肢も存在する。

 

 ならば、ここは地球か。……ユウには是とも否とも言えなかった。彼が知る限りでは地球上にこれ程までに両極端な二色で構成される場所は無い。そしてそもそもの話、この場所が現実のものであるという保証は何処の誰もしていない。

 

 もしここが地球なら、龍脈を辿っていける。そのことに少々遅いながらも思い至り、星に流れる膨大なエネルギーを探すためにひょいとしゃがみ込んだ。

 普段ユウは、龍脈に干渉する際に右手を地面に付けている。体の何処かが地面に接していないと、彼は龍脈の恩恵を受けることができないからだ。逆に言えば足が地面に付いていれば何ら問題はないのだが、余りそうしないのは何となく手を通じての操作をしたいという妙な拘り故である。

 長く生きていれば、その分癖も増えるし拘りも強くなる。一つの形に固執し過ぎるのは先入観を生んでしまうので良くないと思っているが、この習慣はどうにも無くしてしまうのが難しいらしい。

 まぁ直接問題を引き起こすような習慣でもないので、改めずとも良いだろう。通算何度目かも分からない言い訳を自分の中で唱え、特に何も考えることなく容易に膝を曲げたところで異変は生じた。

 

「おっと」

 

 引っ張られたかのように、左側へと体が傾いた。左手を出して事なきを得たが、変なこともあるものだとユウは訝しんだ。ただ単にしゃがんだだけなのだが、どうして体がふらついたのか。眩暈も覚えていないし、ここのところ貧血気味だったなんてこともない。

 触った感触は無かったが、地面と思しきところで伸ばした手はぴたりと止まった。不思議な空間だと思い、体勢を整えてから手を離すと左手には真っ黒な煤のようなものが付着していた。じっと見ても正体にはぴんと来ず、一先ずぱぱっと払っておくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なかった。

 

「……は、」

 

 一瞬、彼はいっそ()()()()()驚きの声を上げかけた。そこにはあるべきものがないことへの強い疑念と、今の今まで大きな喪失に気が付かなかったことへの驚きとがあった。

 この衝撃によって漸く、彼は一連の騒動についての全容を思い出した。地底へ勇儀を送り届けに向かったこと。道中で大怪我をした少女に出会ったこと。古明地 こいしと名乗った少女に瀕死の重傷を負わせた怨霊と交戦状態になったこと。

 

 そして、その中で腕を消し飛ばされたこと。

 

「……いや」

 

 自分の体に起きた大きな異常を忘れるとは、流石に気が抜け過ぎではなかろうか。ほとほと呆れ返りたい気分であったが、そうばかりもしてはいられない。

 記憶を取り戻したことで、自身の現状についてもある程度の推測が立っていた。恐らくだが、ここはある種の夢の中と言って差し支えないだろう。現実世界において腕一本を落とした自分は死に瀕しており、そのせいで見る夢までもがごちゃごちゃになってしまっているのではないか。

 いや寧ろ整然としているか、と訂正を加える。一応自分で自分の結論に突っ込むくらいの心の余裕はあるのだと考えると、逸りそうになっていた気持ちも落ち着きを取り戻した。焦っても良いことがないというのはずっと現役を張る鉛筆ばりに使い古された言葉であるが、一方で非常に鋭く真理を突いているとも思う。特に神や妖怪のように精神の面に重点が置かれている存在にとっては、尚更金言である。

 差し当っては、考えるべきは夢から覚める方法か。しかし何らかの確たる外部的ないしは内部的要因があるからこそ眠っている者が目覚めるのであって、幾ら夢の中で起きる方法を模索しても意味などない。だって、それは夢を脱する手段を探っているという夢に過ぎないのだから。

 

 こうなると、ユウのできる有益な思考は誰が暴れ狂っていた自分を止めたのかというものに限られてくる。他に考えなければならないことも、考えたいこともない。夢を今すぐに立ち去れないのは仕方がないことだとしか言いようがなく、もう時間の経過に事を委ねる他にないのだ。

 

 右腕を焼かれた後に自身が発現した禍々しい黒翼は、はっきりと記憶の中に残っている。最終的に怨霊に向けて引き絞った翼を振り抜けたのかについてだけは、あやふやになっていて判明しないが。

 発揮した神力に体のコンディションが着いていけなかったのが、普段とは異なる性質の翼を生み出した原因だろう。しかしまさか理性が千切れ飛ぶ寸前まで破壊衝動が強まるとは、予想できなかった。今思い出してみると、余りに似つかわしくない強烈な狂気に鳥肌が立つ。

 

「感情に左右されたか」

 

 怨霊を是が非でも打ち倒すという決意が、翼にどす黒い殺意を授けたのだろうか。しかしこれまでも相手を殺すと明確に意思決定した上で力を解放したことはある。その時に現れたのは白い翼であり、今回のようなことは過去に起きたことがない。

 或いは、それだけ濃い殺意を抱いていたということか。腕一本を失うというのはユウの生きてきた中でも初めての経験であり、普段では有り得ない強度の殺害欲を防衛反応として獲得するのもおかしい話ではないように思える。

 

 殆ど我を忘れて破壊を周囲に撒き散らすだけの特級危険荒御魂と化していたユウを、では果たして誰が止めたのか。彼にはその勇敢な人物に心当たりがあった。

 意識が途絶える前の、最後の記憶。まさに菅原公を滅せんとした瞬間に彼の耳に届いた、幼くも凛々しい少女の声が大きなヒントとなってくれた。

 

『断ち切れ、白楼剣』

 

 ユウの知る中で、白楼剣と銘打たれた剣は一振りしかない。そして、その所有者についても彼は知っていた。

 しかし、声は全く違った。所有していたのは精悍な武士のような男だった。対してユウが聞いた声は、どう贔屓目に見ても人間で言えば十代後半に届くかどうかというような少女のものだ。

 尤も、大凡の推測は立てられる。大方寄る年波には勝てないということで代替わりでもしたのだろう。彼は確か人と霊のハーフという極めて珍しい二種の混血であったはずだ。人間よりずっと長命ではあるが、一方で純粋な人外よりは早く衰えが来てしまう。

 

 冗談も通じない堅物ではあったが、主のためならばその身を挺することを厭わない忠義を心に宿していた。そんな彼が自らの得物を託したというなら、跡を継いだ少女はきっと彼と同じように主君を守る気概に満ちた立派な懐刀なのだろう。成程、荒れ狂う神へ肉薄することを恐れなかったわけだ。

 

「それにしても」

 

 振るわれたのが白楼剣であるということは、一考の価値がある。何せこの一振りには、肉や骨を斬る以外に面白い用途がもう一つ隠されているのだ。

 白楼剣と言えば、斬った対象の迷いを断ち切る短刀だ。本来は現世に未練のある霊を斬ることで迷いを断ち、成仏させるために振るわれる刀であるが、何処かで生きて感情を持つ者にも応用できると聞いたことがある。

 この応用編については実際目の当たりにしたことはなかったが、まさか記録に残る第一号が自分自身となるとは。奇なこともあるものだと、ユウはさり気に肩でも竦めたい気分であった。

 

 さて、ここからが最も彼の注意を引く点となる。果たしてユウは、白楼剣の効果によって迷いを断ち切られたのだろうか。

 いやそもそも、ユウが抱いていた迷いとは何だったのか。黒翼を発する前はともかく、出した時点で菅原公を消し去るのに躊躇はしていなかった。他に心にあった迷い事は、特に思いつかない。

 しかし、無性に気持ちがすっきりしているのは彼自身はっきりと感じていた。腕を失ったことに気がついた時も、驚きこそしたが取り乱すことはなかった。どうやら惑いの元となるあれこれは、白楼剣の使い手によってすっぱりと斬り去られたらしい。ユウはそう結論を付けた。

 斬られた感情がどうなるかなんて、流石に彼も正しく説明することはできないが、取り敢えず無くなるのだろうと当たりを付けるくらいは可能だ。何を迷っていたのか思い出せない理由も、きっとこれだろう。脳から抜け落ちた記憶を取り戻せないように、心から断たれた迷いも追憶できないと考えるのが筋に適っているように思える。

 

 夢を抜け出したら、久方振りに彼女の元を訪ねてみよう。入れ違いなどにならなければ当代白楼剣使用者にも出会えるだろうし、時間が許すなら少し話をしてみたくもある。恥ずかしながら地底の事情が考慮から外れていた自分を止める一因となってくれたことへの感謝は、少なくとも必ず伝えておきたいところだ。

 

 さて、気になっていたことについて考えるのも終わったし、目覚めてすぐの予定も立った。起きるまでの残された時間は、どう使ったものやら。ここに来て大きく立ち塞がってきた問題に、ユウは頭を悩ませる。

 地平線の果てまで嫌がらせかという程に広がるモノクロ調の世界、自分の他に誰もいないという孤独。これはあれだ、つまるところ。

 

「……暇過ぎる」

 

 呟くのを、抑えられなかった。意識が覚醒するまでの時間を、ただ只管に座して待てとはこれ如何に。

 殺しても死なない不死者を、それでも殺すために用いられるのが究極の退屈だと言われている。要は肉体を殺せないなら精神を殺してしまえという話である。ユウもまた生命を奪うのが極めて困難な部類に入る神であり、故にと言うべきか退屈には人一倍耐性がなかった。

 何もすることがない日にのんびりするのとは、また話が違う。ただただ虚ろな気持ち面持ちをしながら、時間が過ぎていくのを何処か他人事のように待つのは、ユウの性格に最も合わないものの一つである。

 

 誰かが自分を起こしてくれないだろうか。今自分の肉体が何処にいるのか分からないので誰に、とは願えないが、もうこの際誰でも良い。寝覚めが悪ければ、多少強引な方法に訴えてくれても今回ばかりは咎めない。流石に鬼か幽香かの目覚ましビンタは、威力的にご勘弁頂きたいけれども。

 

「掘れば出られたりするかねぇ」

 

 そう言えば、夢と現実はある程度連動している節がある。風呂の中で寝落ちすれば、決まって水に漂う夢を見るのは、現実世界で体が置かれている状況が夢にも反映されているからだと思う。

 ならば、夢の中の自分が夢から脱出しようとしていれば、それは本体の意識が深い眠りの周期を過ぎて、微睡みという表層まで上がってきたという兆候なのではなかろうか。

 試してみる価値はありそうだ。差し当たっては、真下の地面を行けるところまで直下掘りしてみようということで納得し、ユウは左手に思いっ切りエネルギーを収束させた。何せここは夢の中、幾ら力を発揮しようとも周囲のあれこれを壊してしまうなんてことはない。だから彼は、神力のレーザービームをぶっ放して掘れるところまで掘ってやるつもりでいた。

 

「ちょ、待って!早まらないで下さい!」

 

 だが、それを止める声がする。何事かと声のした方を見れば、何やらサンタクロースのような帽子を被った青髪の少女が慌てた様子でユウの元へと駆けてきていた。

 制止があったということで、一旦ユウは凝縮していた神力を霧散させた。彼にビームをかっ飛ばす意思がないと分かり、駆け寄ってきた少女は安堵の息を吐いた。

 

「良かった。御自身の夢を意図的に破壊しようとするなんて、何と無茶なことを」

 

「おや、こんな所で誰かに会うとは」

 

「それはまぁ、私獏ですもん」

 

 レア度的には、確かに珍しいですけど。そう言った少女は、先程自身のことを獏だと言った。

 獏と言うと、人の夢を食べて生きる伝説上の生物だ。伝えられた姿形に近い動物にバクという名が付けられ、その名が世界中に浸透するなど、仮想生物の中では割合メジャーな方とも考えられよう。

 但し、実際にその姿を目にするのは論理的に不可能である。それも当然のことで、獏を招くには夢を見る必要がある。一方で、夢を見ている間は意識が奥底に沈んでいる。悲しいかな、その御尊顔を拝するには起きながらにして夢を見るという空前絶後の難行を達成しなければいけないというわけだ。

 勿論ながら、ユウも獏の存在こそ知っていても、姿は未確認であった。しかし最近の獏は夢の中にまで出張してきてくれるらしく、何と全身像を拝むことができてしまった。これはひょっとしなくても、彼女の言う通りレアな経験だ。

 

「申し遅れました。私、ドレミー・スイートと申します。先程ちらっと言いましたが、夢を創ったり消したりしている獏の妖怪でございます」

 

「ユウ。ちょっとした神だ、どうぞ宜しく」

 

 まぁ、話し相手になってくれるなら獏だろうが麒麟だろうが白沢だろうが大歓迎。危うく無間地獄という場面で仏を見た気分であった。元地蔵様なら、地獄におわすのだけれど。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「何と、それは災難でしたねぇ」

 

「全くだよ」

 

 白と黒しか見えない殺風景極まりない所から離れ、二人はドレミーが拠点にしているという区域まで歩いてきた。見渡す限りに発色の良い紫が広がっているそこは、先程の場所より色こそあるが、全体的な評価を下すのであれば妖しい所であった。紫のスキマ内部の色を少し薄めて透明の蛍光塗料を適量加えたら、丁度こんなくらいになると思う。

 

 流石に覚えている記憶をそっくりそのまま話すわけにはいかないので、所々ぼかしながらこれまでの経緯を語った。最近幻想郷にやってきたこと、地底に行ったこと、そしてそこで右腕を失ったことはきちんと言ってあるので要点は押さえている。

 仮にドレミーが人間であったなら、腕を失ったとストレートに言うのは躊躇われた。勿論神や妖怪にとっても軽視できない怪我であるのは間違いないのだが、人間を基準とした時に腕一本の喪失とは取り返しのつかない極めて重篤なダメージになる。この手の話は彼女が妖怪であるからこそできたと言えよう。

 

「成程、事情は分かりました。ですが、如何なる状況下においても夢を破壊するなんてことは絶対にしてはいけません」

 

「承知したが、何か理由でも?」

 

「夢とは、全て根底で繋がっているものです」

 

 ある夢の中での出来事は、隣接する別の夢にも影響を及ぼし得る。幾星霜の年月を生きてきたユウにも、初耳の事実であった。

 

「そうだったのか。助かったよ、関係ない人妖に迷惑をかけてしまうところだった」

 

「いえ。貴方が良識のある神様で良かったです」

 

「所構わず当たり散らすような真似はしないさ。……ところで、夢に詳しいドレミーを見込んで聞きたいことがあるのだが」

 

「私なら、ユウさんを送り出せますよ」

 

 ユウの言いたいことを汲み取り、ドレミーは先んじて答えを述べた。夢に干渉する妖怪というだけはあり、醒めさせるのもお手の物ということか。

 

「それは良い」

 

「ただ、すぐにというのは無理ですね」

 

「ふむ。準備もあるだろうしな」

 

「いえ、作業自体は一瞬のことです。問題は、貴方の魂の状態にありましてねぇ」

 

 頬に手を当てて、ドレミーは憂う。どうやら夢から帰るにも幾らかの条件があるようで、彼の魂はその条件を満たしていない。

 御魂という言い方が、この国にはある。殆ど神と同義と見て間違いはないだろう。怒り狂い暴れ回る神を荒御魂、穏やかで落ち着いた性質の神を和御魂と言うのはこのためである。他にも幸御魂や奇御魂なんて領域にカテゴライズされる神々もいるにはいるが、荒御魂と和御魂の二種に大別されるのが一般的である。

 つまり、神とはほぼ魂に等しい存在であり、魂の状態に異常があるというのは神の存在そのものに何らかの変調がきたされているのに同じだ。存在を危ぶめるような行為には手を染めていない、と声高に宣言したいところだが、至極残念なことにこれだと思われる心当たりが一件ある。

 

「夢の世界に来ている貴方の夢魂を通じて見てみましたが、度肝を抜かれるかと思いましたよ。ここに存在の核まで持ち込む方は、今までいませんでした」

 

「悪いが、詳しい説明を頼めるか?」

 

「合点承知でございます。まず、夢とは眠った生き物の夢魂がこの世界で見るもの全てを指します」

 

「あぁ、そうだな」

 

「ですが、貴方は貴方であるための核の一部……もう過半と言ってしまった方が良いでしょうか、それをも持ち込んでいるのです」

 

「ほぉ」

 

「平たく言いますと、六割強だけ幽体離脱してます」

 

「……ほぉ?」

 

 生きている者から魂が抜けることを、幽体離脱と言う。結界の外側にいる人間達は幽体離脱を自由に行える技術を会得したとか聞いたことがあるが、危険極まりないので取り組まないことを強く推奨する。抜けた魂を体に戻す技術が確立されたという話は、聞かないので。

 ユウの場合、魂が六割強だけ体から抜けている状態だということだ。肉体に四割弱しか残っていない現状は非常に宜しくないため、早急に在るべき所へ帰ってもらう必要がある。

 

「生憎、夢魂以外の魂は私の専門外でして。貴方の内部に返して差し上げたいのは山々なのですが、門外漢が半端に触ること程怖いものもありませんから」

 

「成程なぁ……」

 

 だが、ユウは存在の核なるものを感知できない。それが自分から見て何処辺りにあり、どんな形状をしているのかなどの基本的な情報もない中では、対策なんて考えたくても考えられない。

 ドレミーには見えている、ないしは感じ取れているらしいが、失敗するリスクの高い中での挑戦は躊躇って当然である。他人の命を賭け皿に乗せた博打程、打ちたくないものもないだろう。

 

「貴方は良い神様ですし、魂が落ち着くまではここでごゆっくりしていって下さい。家なども、私が用意しますから」

 

「それは手間だろう」

 

「手間と言うまでもありませんよ」

 

 ぱちん、とドレミーの指が軽快な音を奏でる。すると突然、ユウの目の前に一軒の家が現れた。京の町屋を彷彿とさせる、木造二階建ての構成を持つ建物は、その古めかしさに反して人を拒む冷たさを感じさせないものであった。

 態度や顔には殆ど出なかったものの、ユウはかなり驚いた。墨俣城でも一夜を要したとされているのに、余りに早過ぎる。小説や伝説の中に登場する才能に満ち溢れた魔法使いと比較してすら遜色のないスピードで物体を創造するとは、この獏相当な熟練度である。

 

「こんな風に、私は夢の世界に限れば色々できるんです」

 

「これは凄いな。ドレミーの能力なのか?」

 

「えぇ。夢の世界の創造と消滅を司る……と言えばあたかもこの世界の王みたいですけどねぇ。実際のところは及ばない事柄も多い、しがない力です」

 

「謙遜する必要は無いさ。大した能力じゃあないか」

 

「ふふっ。そう言って下さると、嬉しいです」

 

 ささ、一先ず中へどうぞ。先立って歩き始めたドレミーに置いていかれないよう、ユウもその後ろ姿を追っていった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……」

 

 辺り一面が紫に染まっており、毒霧でもかかっているのかと問いたくなる空間。普段はとある少女の他に通る者もいないため静寂に包まれているこの空間を、極大の白光が裂き登っていった。

 すわ何事かと見咎める者は、今ここにいない。元より立ち入る資格を持つ者が十といないのが夢の世界だ、これ幸いとばかりに彼は思う存分能力のチェックを行っていた。

 細分化したレーザーを無数に配置した的に当てていくという照準のチェックは、もう済んでいる。次は現状の最大出力を知っておきたいということで、予め用意していた分厚い壁に全力の光撃を撃ち放ったところである。火力はそこそこ大きな弱体化をしてはいるが、コントロール性能については特別衰えてもいなかったので、経験と立ち回りで何とかカバーできるだろう。

 

「慣れるべし、だな」

 

 腕一本を失くすという一大事が、出力の上限に制限をかけているようだ。不安定な状態で無闇に全力を出せば、反動に自分の体が耐えられない。だから無意識下で力を抑制するようなプログラミングが為されたということだろう。……逆に言えば、体の状態が安定してくれば自ずと使用できるエネルギーも戻ってくる可能性が高いわけだ。今のところは弱化にそう悲観することもない、と彼は一応の結論を纏めた。

 色良い結論を導けたなら、疲れたかどうかに関わらずやはり一息吐きたくなるものだ。上空に設置した壁を消し、肩の力をふっと抜いた彼の耳に、こちらへ向かってくる硬い足音が聞こえてきた。

 

「精が出ますねぇ」

 

「ドレミーか」

 

「はい、ドレミー・スイートでございます。夜まで暇なので、来ちゃいました」

 

 ドレミーは、良く世話を焼いてくれる。家を作ってくれただけに留まらず、朝や昼にはユウの元を訪れて諸々の話を交わし、彼を少しばかりも退屈させない。

 ドレミーの持ってくる話は、ユウにとって面白いものだ。彼の知る誰それの夢はこんなだったとか、夢魂から遡って見た彼彼女はどんか人柄をしていたとか。話の仕方が上手いというのもあるだろう、気が付けば何時間も話し込んでいる。

 

「義手の調子はどうですか?」

 

「悪くないが、まだ完全には使いこなせていないと言うところだ」

 

「まだ三日目とかですしね。不慣れで当然、焦らずに頑張っていきましょう」

 

「あぁ」

 

 患者と看護師みたいだなぁ、とユウは思った。言葉巧みにリハビリを励ましてくれる辺りが、どうもそれっぽい。

 義手について提案をしたのは、他ならぬドレミーだった。きちんと意思通りに動いてくれる義手があれば、右腕のロストも補えるはずだというのが彼女の考えであり、成程その通りだと感心したユウは能力で仮の腕を創った。彼は自身の持つ力を手足のように操るだけの技量があり、故に創った右腕も早々にかなり使いこなせるようになった。

 

「……すみません」

 

 しかし、唐突に患者に謝る看護師はいないか。何せそれは、患者に大きな不安を与える行為である。尤も、ユウはドレミーという少女の献身に感じ入っていたから、不信感などは抱かなかったけれど。

 

「どうした、突然」

 

「いえ」

 

 顔に微かな苦笑を貼り付けたドレミーは、それから申し訳なさそうに顔を伏せた。

 

「貴方の核を私が戻せたなら、話は早かったのに」

 

 あぁ、そのことか。ドレミーのせいではないのに、彼女はあたかもユウの目覚めが遅れているのを自分の責任であるかのように捉えている。

 万人に聞けば万人が、ドレミーに罪はないと言うだろう。ユウが夢の世界に繋ぎ留められているのは疑いようもなく彼自身の行いの結果であり、そこに彼女が干渉したという事実も干渉し得た余地もない。ドレミーの役回りは魂を戻せない未熟な呪術師でなく、来訪者に住処を提供する心優しい宿屋の看板娘である。

 

「俺は何も気にしていないぞ」

 

「ですが、貴方には帰るべき場所が、世界がある」

 

「今の時点でもう返し切れない程の恩を受けたさ。この上気を配ってもらっては、いよいよ俺の面目は丸潰れだ」

 

 彼女の言う通り、ユウはいずれ現の方へと戻らなければならない。ドレミーが望む物を生み出してくれるこの世界は居心地が良いけれど、いつまでも蝶のまま悠々としていては彼女達に怒られてしまう。何日も何をしていたのか、とっとと帰ってきてくれても良かっただろう、と。

 とまぁこんな風に精神はのんびりと休養を取っているが、肉体からしてみればずっと意識不明が続いているわけだ。向こうの皆はいつまでも目が覚めないので気が気でないだろうから、勿論さっさと戻れるに越したことはない。

 だが、急いては事を仕損じると昔から言われている。慎重を期して、確実な道だけを選び続ければ世の中の大抵のことは上手くいくのだから、そうかりかりせず海のように大きな心で機を待てば良いのだ。幸せは歩いてこないのではなく、歩くのがちょびっと遅いだけなのだから。

 

「うぅん」

 

「寧ろ俺がお前を手伝わせてもらいたいなぁ。よくよく考えたら世話になりっ放しで、申し訳なくなってきた」

 

「お手伝いですか」

 

 顎に手を当てて、少し考え込む。何もないのに無理に捻り出してもらうのは、それはそれで気が引けるのだが。

 

「それでしたら、今日一晩お付き合い願えませんか?」

 

「構わないが、そんなことで良いのか」

 

「いやー、最近仕事が忙しくて夜遊びもろくにできてなかったんです」

 

 ぽんと手を打ってドレミーが持ちかけてきたのは、夜遊びだった。少し意外な気もしたが、仕事が忙しいなら息抜きをしたくもなるだろう。それに付き合うくらいはお易い御用である。

 

「夜遊びって、何をするんだ」

 

「パジャマパーティーです!」

 

 あまり聞き慣れない言葉だったが、一応彼の中にも知識としては存在していた。世の中に数あるパーティーと名の付く催しの中でも一際歴史の浅いものであり、内容もパーティーと呼ぶには些か日常的であったように記憶している。とどのつまりは夜のプチ女子会だ。

 

「最近、人間がよく嗜んでいるパーティーなんだとか。夜を徹してお喋りをしたりトランプをしたり、お菓子を食べたりして親交を深めるのが目的だそうですよ」

 

「へぇ。しかし、二人とはちょっと寂しいな」

 

「ふふん。そう言うと思ってましたよ」

 

 えらく特徴的なしたり顔であった。人に不快感を抱かせない得意げな表情というのも、中々に珍しいのではなかろうか。刻苦勉励が功を奏してテストで良い点を取れた少女のような、純粋に喜んでいる様子は見ていて寧ろ微笑ましくなるくらいだ。

 

「実はもう一人、参加者がいるんです。訳あって無口ですけど根は良い娘なので、きっとユウさんとも仲良く慣れるはずです!」

 

 成程、今宵のパジャマパーティー参加者は三人か。ユウも、多過ぎず少な過ぎずの範囲に収まっている適度な人数だと思っている。行き過ぎた騒がしさは単なる喧騒でしかなく、かと言って一人や二人ではどうにも盛り上がりに欠けるだろう。三人いれば大体の遊びは成立するし、誰か一人が疲れから眠りに落ちてもまだ話し相手は一人残っている。

 

「まぁ、楽しそうだし良いか」

 

「決まりですね。パジャマ等々必要になりそうなものはこちらで用意しますので、ご安心を!」

 

 下準備はドレミーが能力でぽんっと済ませてくれるらしいので、取り敢えずそれに甘えよう。

 何でもちょちょいと生み出せてしまえるなんて、つくづく羨ましい限りである。のんびりとした性格をしているとはいえ彼とて手間を省きたくなる時はある、そんな時にドレミーの力があればどれだけ楽か。頼り過ぎるとあっという間に堕落していってしまいそうなのが、唯一怖いところではあるだろうけれど。

 

「パジャマパーティーか」

 

 夜更し会の開催決定に喜び跳ねるドレミーを尻目に、ふと友人知人の少女達の姿が頭をよぎった。彼女達が色とりどりのパジャマを着て仲睦まじく団欒している様子を思い浮かべてみようとしたが、それは見事なまでに失敗に終わった。

 

「……驚く程に似合わん」

 

 仲良くも女子らしく、会話に遊びに花を咲かせるようなタマは彼の知り合いの中ではあまりいない。初めこそ和気藹々としていても、絶対に途中で和を乱す戯け者が出てくる。そして高い確率でそれは紫か文だ。この二人のどちらか、最悪の場合両方が余計なことをしでかして和やかだったパーティー会場に血腥い空気が訪れる未来は、余りに容易く予見できるものであった。

 きっとそれに比べれば、今夜開かれる集まりは理知的で落ち着いた雰囲気のものとなるのだろう。そういった雰囲気の方が彼としては好みなので、心に一物を抱えることなく単純に楽しめたらと思う。

 

 ついでに似通った空気感を彼女らにも求めていきたいところだが、その実現には少しばかり厳しい道のりが待ち構えているのかも知れない。力技でも良いから、暴れ出す不逞の輩を抑え込める猛者は何処へ。



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第十七話 ハッピー・ブレイク

 背後で静かに襖が開く気配を感じて、紫はゆっくりと後ろを振り返った。

 先程幽々子が来てから、そこまで時間も経っていない。ユウの見舞いに訪れた客人かと思ったのだが、そこには思いがけない珍妙な組み合わせが立っていた。

 

「……フランドール。それに、藍も」

 

「ご機嫌よう、とは言えないわね。顔を洗ってきたらどうかしら、今にも雨が降り出しそうな曇天みたいな顔になってるわよ」

 

 まだ太陽の出ている時間帯に彼女が博麗神社まで出向いてくるのは、かなり珍しいことだった。彼女の姉は時折日傘を広げつつ従者を傍らに控えさせてやってくるのだが、元来吸血鬼という種族は日光に滅法弱い。例え防げるものがあったとしても、燦々と日差しが照りつける時間帯に外出するのは控えたくなるだろう。

 

「お見舞いかしら。悪いけれど、彼はまだ目を覚ましていないわ」

 

「最初はそのつもりだったんだけど」

 

 フランドールは紫の吐き出した定形的な文章に受け答えしつつ、ひょいと右手をユウの方へと向けた。

 フランドールのやりたいことが分かっている藍は邪魔をしないよう黙って見ていられるが、彼女の強大な能力しか知らない紫は穏やかではいられない。何せ彼女はあらゆる防御手段を無視して、対象を一瞬のうちに破壊してしまえるのだから。

 彼女の能力は、大別すれば概念的なものとなる。普段のユウであれば、纏う膜によって問題なくシャットアウトできるだろう。だが、今の弱り切った彼が破壊の力に抵抗できるとは考え難い。故に紫が口を挟むのは、ある種当然のことと言えた。

 

「……何のつもりかしら」

 

「別にお兄様を爆発四散させる気はないから安心して。ちょっと確認したいことがあるの……っと、見つけたわ」

 

 フランドールの能力は、ユウの『目』の導かれる先を発見するに至った。果たして事前の予想通り、彼の魂は本来繋がるはずのないおかしな場所へと接続していた。

 だが、その場所が何処かというところまではフランドールには分からなかった。彼女の能力はあくまで彼の『目』の大半が異界に飛んでいっていることを確認できるだけであって、その場所の詳細を知ることができるわけではない。

 ただ、今回はそれだけで充分であった。何せ彼女がユウの眠る部屋までやってきた目的は、彼の魂のうちはっきりと確認できなかった部分を明瞭に認識することだったのだから。

 

「見つけたとは、何を?」

 

「そうね。八雲、貴女には私達が考えた秘策の細部までを知る権利がある」

 

 そうよね、狐?振り向きざまの問いかけに、藍は微かに緊張した面持ちで小さく、しかし確かに頷いた。

 

「何をするつもりか知らないけれど、余計なことをしようというなら看過できないわよ」

 

「まぁ、最後まで聞いてちょうだい。私には、秘策があるわ。眠り続けるお兄様を再び起き上がらせるためのね」

 

 彼女の言葉に、咎めようと動きかけた口が止まった。フランドールの滔々とした口ぶりから、その場を凌ぐための嘘やはったりの類ではないように思えた。

 治療を施してからというものの、ユウはただの一度も瞼を開いていない。精巧な人形のように深く、深く沈黙しているだけであった。そんな彼を目覚めさせられるなら、藁にだって縋りたかった。だから紫は、一縷の望みをフランドールの話に託した。

 

「聞きましょう。その秘策とやらを」

 

「良いでしょう。私の能力で飛び出しているお兄様の『目』を掴んで体に戻す、これが秘策よ」

 

 だが、その藁は神の命を託すには余りに細く脆いものだった。

 

「……気は確かかしら、フランドール」

 

「失礼な。今の貴女よりは現実に向き合えてる自信があるわよ」

 

「そう。なら質問を変えるわ。フランドール、貴女の秘策とやらはユウを殺すためのものということで間違いないかしら?」

 

 みしり、と神社の軋む音がしたのは多分幻聴ではないだろう。フランドール達の目の前で圧倒的な妖気が膨れ上がり、内から博麗神社を押し広げんとしていた。

 ユウの看病と自責の念によって酷く疲れ果てながら、発された妖気は物理的な影響を及ぼすレベルであった。流石に幾千年を生きた妖怪は力の底が知れない。さしものフランドールも莫大な妖気を前に、口元が引き攣るのを抑え切ることができなかった。

 

「ゆ、紫様。違うのです、どうか彼女の話をお聞き下さい」

 

 勿論、フランドールに紫が懸念していることを実行する気は全くない。彼女の人となりは藍も知らないわけでなく、故意にユウを傷つける陰険な性格ではないと言い切ることができる。だが、彼女の語った手段を取っている中で握る力の加減を少しでも間違えてしまえば、ユウの魂はぐしゃりと握り潰されてしまう。それもまた、事実であった。

 紫の心配も、良く理解できる。全ては彼を愛するが故に。その愛が一片の曇りもない真正のものであるからこそ、彼女はユウの命にリスクを負わせたくないと願う。

 

「何もかも破壊してしまえる驚異の力で、事もあろうにユウの魂を掴む。そうする意図が彼の殺害以外にあるとでも?」

 

「紫様が疑う気持ちも、分からないとは言えません」

 

 藍とてその気持ちは同じだ。できることなら、後は時間に任せて彼の目覚めを待ちたい。

 非常に汚い言い方ではあるが、時間とは藍にも紫にも、そしてフランドールにも責任を背負わせないものだ。既に常識で考えられる手を尽くしている彼女達は、ここからユウの行く末を傍観していたって責められやしないはずだ。他ならぬ彼本人だって、閻魔の手で裁きを受けるその時まで絶対に彼女達を恨まない。それどころか自らを救うため尽力してくれたことへの感謝を抱きながら、輪廻の輪に組み込まれていくことだろう。

 

「確かにフランドールの能力は、ユウ様の魂をいとも容易く潰すことができるでしょう。それこそ赤子の手を捻るよりも簡単に、我々の制止すら間に合わない一瞬のうちに」

 

「それを知りながら、どうして」

 

()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 それがどうしようもなく嫌だから、フランドールは途轍もない危険を承知の上で賭けに出た。その意思に共鳴したから、藍は彼女に協力することを決めた。

 

「紫様、今のユウ様が立たされておられる窮地をご存知ですか」

 

「窮地?」

 

「フランドールの言葉を借りるとすれば、ユウ様は刻一刻と説明の付かない何かへ変わりつつあるそうです。言い換えるなら、ユウ様がユウ様でなくなり始めているのです」

 

 初めにこの結論を出した時、フランドールは如何なる感情を覚えたのだろうか。口調も荒れず、静かに語ってくれたが、内心はきっと穏やかでなかったに違いない。

 それでも、動揺する内面を表に出しはしなかった。藍は心臓を鷲掴みにされたかの如き悪寒に襲われ、瞬時に絶句したというのに。

 思うに彼女は、精神的な強さを有している。未だ藍の半分も生きてやいないが、心の強度は一級であると言える。衝撃的な事実から目を逸らさず、すぐに対策を考えつく強靭な精神を宿す少女は、ユウの命を瀬戸際で繋ぎ止めようとたった一人で知恵を巡らせたのだ。

 

 ならば、その勇気に応えねばなるまい。作戦を実行できるのがフランドールだけだというなら、紫の抱く強い疑念を払拭するのは己の役目だ。式神として、誰よりも長い時間を傍らで過ごした者として、責務を果たさないわけにはいかない。

 

「は、」

 

 唐突に突きつけられた残酷な現実に、言葉を失う。ユウに無限の愛を抱く彼女の反応としては至極真っ当なものであるが、今は心を悪魔にして話を前に進める必要がある。

 

「残念ながら、私は本気で言っているわ。水が地面に染み込むみたいにゆっくり、でも確実にお兄様は変質しているの」

 

「……よしんばその言葉を信じるとして、彼の変容を食い止めることと貴女の破壊能力がどう結びつくというの」

 

「さっきも言ったけれど、『目』を掴んであるべき場所に返すの。勿論、握り潰してしまわないよう細心の注意を払いながらね」

 

「貴女の言う通り上手く行けばユウは助かるだろうけど、失敗すれば彼は死ぬ。当然、このリスクは承知の上なのよね?」

 

「やる前から余計なプレッシャーを掛けないで欲しいものね。当然認識しているわ、これは究極の賭けよ」

 

 世の中に数多ある賭け事で、ユウの生死を決める大博打に勝る重圧を掛けてくるものが一つでもあるだろうか。少なくともフランドールは空前絶後、乾坤一擲の大一番になると確信していた。

 

 考えると、顔の表情筋が震えてくる。高い所から落ちている時のような、内蔵の浮く感覚も覚える。今まで味わってきた緊張と呼んできたものが可愛く思えてくる程のプレッシャーが、あたかも海を成しその最深にて身を押し潰さんとするかの如きであった。

 未経験の重圧を嫌がって暴れ跳ね回る心の手綱を、フランドールは何とかして取ろうとしていた。一度大きく息を吸い込み、ゆっくりと時間をかけて吐き出していく。

 普段絶えず行っている呼吸のペースを落としただけなのに、何故かこの深呼吸という行為は少しだけ気持ちを落ち着かせてくれるから有り難い。今のように胃がきりきりと攣る場面では、特別有り難みも強く感じられた。

 

「これはうちにいる魔女の言なんだけど。すぐに『目』が彼の体内へと戻れば問題はないそうよ」

 

 かつてフランドールが今よりも好奇心の強い少女であった頃、彼女は隙を見ては居館の知識の中枢に赴き、そこで日がな一日本を読み耽っている博識な魔女にひっきりなしに質問を飛ばしていた。その度に彼女は本を読む手を止め、嫌そうな顔もせずにフランドールの疑問を解決した。

 何故かはもう思い出せやしないが、その中で彼女はこう問うたことがあった。もし自分の能力で『目』を潰すのではなく、掴み取って体の外へ投げたらどうなるのか。実践して訳の分からない事態になり、両親に怒られるのは嫌だったので結果だけ先に聞いておいてやろうという魂胆だった。

 魔女が答えるには、『目』の抜けた物体は直前まで有していたあらゆる機能を失うとのことであった。生き物の『目』を掴んで放れば、その生き物は一切の痛みも外傷もなく息絶える。

 つまり、潰そうが投げようが相手は死ぬのね。改めて怖い能力を生まれ持ったのだと、結論にやや辟易としていると、魔女は少し考え込むような仕草をした。それからぴっと指を立て、たった一つだけの限定的な例外について教えてくれた。

 

「神は肉体より魂への依存の方が強いから、健全なる魂があれば多少体に異常が出ても立ち所に快復する。確かそう言ってたわね」

 

「……」

 

「何もできずに手を拱いているよりは、行動を起こした方が良いと思わない?一と零は、似て非なるものよ」

 

 破滅的な運命を座して待つくらいなら、こちらから変えに行ってやる。ユウの生死を天秤にかけるような真似をするのに躊躇いがないとはとても言えないが、このままみすみす状況が悪化していくのを見ているよりはずっと良い。

 ふと、フランドール達を気圧していた妖気がしゅんと消え失せた。大きな憂いを帯びた紫の口から微かに吐息が漏れ出し、それから彼女は至極緩慢な動作で立ち上がった。

 

「八雲?」

 

「……ごめんなさい。貴女や藍の言う通りだってこと、頭では理解しているつもりなのだけれど」

 

 膝に手を付き、体を小刻みに震えさせながら立ち上がっていく。それは酷い痛々しささえ感じさせる動きだった。

 紫が一気に五千の年を経たかのように、藍は感じた。まるで紫に流れる時間だけが何百万倍ものスピードで巡り巡っているような、不思議で心の痛む感覚であった。

 紫の心の内で狂乱する葛藤は、如何程のものなのか。衰弱して輝きを失った鈍重な妖気が、式神のラインを通じて藍にも視えた。

 どす黒く濁り切っている。こんな妖気を体内で循環させていたら、幾ら頑丈な妖怪でも身が持たない。ほんの僅かでも構わないから、どうか休息を取ってほしい。これ以上の領域に踏み入ることになれば、本当に紫の命が危機に晒されることになってしまうから。

 

「少しだけ」

 

 そんな藍の願いは、結果的に叶うこととなる。立ち上がった紫は覚束無い足取りながらも襖まで歩いて行き、開け口に手を掛けたところで一言だけを二人に置いていった。

 

「少しだけ、眠ってくるわ」

 

「……()()

 

 その一言に隠された意味を、フランドールは見抜いていた。そして敢えて、確認は避けた。ずっとユウの側にいた彼女がここに来て部屋を別にする意図なんて、たった一つしか考え付かなかったから。

 紫は、この件をフランドール達に一任した。無責任な話だとは思わない。これまで数日間ユウの身の回りの世話をしてきたのは彼女であり、故に十分な休息を取る権利がある。全快は無理でも、ある程度だけでも心身共に落ち着かせて欲しいところだ。

 次に彼女が目を覚ました時、状況は進展しているだろう。どのような形を取っているかは、フランドールが立案した作戦の成功の是非に掛かっている。紫の目覚めを最高のものとするためにも、ここで力みを得てはならない。

 

「狐、八雲を追わないのね」

 

「何を今更」

 

 千年も共に過ごした主のことなど、嫌という程知っている。構えて深き眠りの邪魔をするつもりはない。溜まりに溜まっている管理者としての仕事についても、今回ばかりは代わって処理しておく。だからどうか、今だけは何もかも忘れて泥のように眠りについてもらいたい。

 

「退出した方が良いだろうか」

 

「そうね。居間にいる二人にも、ここに近づかないよう伝えておいて」

 

「頼まれよう」

 

 これから暫くの間は、誰もフランドールの所へ行くべきではない。極限の集中力を長時間に渡って持続させる必要がある。ほんの小さな物音も、微かに感じ取れる程度の気配も、ありとあらゆる障害を取り除かなければならない。

 防音の結界なども、張るべきではないだろうか。結界特有の霊的な気配は妖怪であるフランドールにとって心地良いものではない。きっとじわじわと気を削いでいってしまうだろう。

 藍や霊夢にできることは、これで無くなった。後は静かに結果を待つのみである。

 

「済まないな」

 

「何かしら」

 

「お前一人に全てを託すのは、酷なことだ」

 

「あぁ。対価は高く付けさせてもらうから」

 

 貴女なら咲夜の元で立派なメイドになれるでしょう。フランドールの一言に、苦笑を浮かべつつ返す。

 

「期限次第では検討しよう」

 

「貴女の説得がそこそこ効いたことを鑑みて、まず試用期間が五年ってところかしら」

 

「勘弁してくれ」

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「さて」

 

 ── 始めましょう。負けられない、勝負を。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ユウさーん、お客様ですよー!」

 

 柔らかいソファに深く座り眠たげにしていたユウは、チャイムと共に聞こえてきた元気な高い声にぴくりと反応を返した。家の提供者が、客を連れて来ているとなれば応じないわけにはいかない。ソファから立ち上がり、玄関の方へと歩いていく。

 

「はいな……って」

 

「こんにちは」

 

 ドアを開けた先、ドレミーの隣にいたのは、昨日のパジャマパーティーで知り合った白髪の少女だった。まさか昨日の今日で再会を果たすとは思いもよらず、ユウも少し拍子が抜けたような顔になった。

 

「聞きたいことがあって、ここへ来た」

 

「こんにちは。俺に答えられることなら、何でも」

 

「率直に問う。貴方は何者か」

 

「……ほぉ?」

 

 これはまた、哲学のような問いだ。それでいて、俺は俺だというような非常に簡素な答えを求めているのではないだろう。第一、そんな格好付けた返しは彼とて好むところでない。

 難儀な質問だ、と微かに苦笑する。それを気が乗っていないが故の苦笑いだと思ったのか、少女が補足の言葉を口にした。

 

「済まない。言葉足らずだった」

 

「分かっている。素性を探るような真似をする程お前は卑しい性格をしていない」

 

 彼女の性格をどうこう言えるだけの付き合いはない。知り合って何年どころか、まだ二十四時間も経過していない。だが、共にいれば大凡の人柄は推し量れる。言葉を交わせば大体の気質は把握できる。彼の目に映るこの少女は、少なくとも他人に取り入って情報を引き出すような悪質な性格をしてはいない。

 彼女と同郷の人物を数人知っているが、皆彼女と同じく癖が強いながらも誠実な人柄をしている。担当する職務が職務なので取り敢えず真面目なポーズだけ取っているという可能性を否定し切れないのが約一名いるが、そいつだって根が腐っている悪人ではない。ご多分に漏れないどころか群雄割拠から抜け出るレベルで癖は強いけれど。

 

「ありがとう」

 

「いや、何。折角訪ねてきてくれたんだ、少しくらい喋っても良いかもな」

 

「良いの?」

 

「あぁ。流石に全て語り尽くすというわけにはいかないが、触りくらいなら隠すこともない」

 

 気前良く教える姿勢を見せたユウに、少女の目がきらりと光る。ユウの神性がそれなりに気になっているから、わざわざ夢の世界まで再度足を運んできたわけだ。彼が乗り気でいるのを見逃すという阿呆なミスは犯さない。

 

「なら、教えて欲しい」

 

「分かった。何を聞きたい?」

 

「まずは、一番気になっていること。貴方は日の本の神々?」

 

「違うな。彼らと関係は持っているが、同系統の神ではない」

 

 何言ってるんだこの人達。目の前で井戸端会議ばりに軽く始まった壮大なスケールの話に、ドレミーは只でさえ丸っこい目から更に角を削った。

 百歩譲ってユウが神だから神に関した話が出るのは分かるとして、日本神話に登場する神々までもが話題に登ってくるとはどういうことなのか。しかもさらっと、関係があるとまで来た。……魂が今までにない強烈な存在感を放っているので薄々思ってはいたのだが、まさか彼は中々『凄い』神なのではないだろうか。

 

「成程。では次、神力は如何にして得ている?」

 

「龍脈と言って分かるかね。基本的には、そこからだ」

 

 予想外の会話にたじろぐドレミーを他所に、少女は淡々と話を進めていく。日本神話の神々と知り合っているというとんでもない情報が出てきたのに、まるでそれすら想定の範疇にあると言わんばかりの冷静さである。

 と言うか龍脈をエネルギー源にしているって何だ。地球を循環する途方もないエネルギーを味方につける神とは、最早一本の物語の主人公を張れるじゃあないか。

 いや、幾ら主人公にしてもちょっと派手要素を盛り過ぎな気がしてきた。これはあれだ、互いの主義主張がぶつかり合う戦いを、面白い余興だと薄笑いしながら見下ろしている絶対強者的なポジションに収まるやつだ。

 

「ふむ。次、貴方はどうして数日に渡って夢の世界へ留まっている?」

 

 これをネタに小説でも書いて娯楽の少ない場所に持っていけば、多分飛ぶように売れると思う。向こうの通貨も貯蓄しておくに越したことはないから、小説家としてのキャリアを始めるのも悪くはないのかも知れない。人知れず新たな道を模索するドレミーの隣では、少女によるユウへの質問が三つ目を数えていた。

 ドレミーはファーストコンタクトの時点で聞いていたが、そう言えば彼女には話していなかったか。まぁ確かにパジャマパーティーの場で進んで話したい話題ではない。

 

「ろくな理由じゃあないが」

 

「結構。血腥い、グロテスク、愛憎劇、何でもござれ」

 

「それなら良いか。実は、大怪我……ん?」

 

 人間のマイナス方面の感情が生み出す夢は、味がどろどろしているから苦手だ。辛いと言うか苦いと言うか、渋いと言うべきか。どれでもあってどれでもないような絶妙に微妙な味がするので、敬遠しがちである。他に美味しい夢なんて幾らでもあるのだし、わざわざ劇物に手を出すこともない。

 

「何か」

 

「いや、寒気が……何と言うか、体の芯からがっつり掴まれているような感覚がしてな」

 

「もし本当なら一大事だけれど。有り得ない話、安心して良いと思う」

 

「だよなぁ」

 

 映画特有の客を惹き付けるための過剰なフィクションが夢にはないので、見る分には大層楽しめるのだけれど。味がもう少しましになればなぁ、と叶いそうにない願望を胸に抱いていると、ふと妙な違和感が感じられた。

 ユウがこの世界へやって来てからずっと傍に付いて回っていた大きな気配が、薄まっていく。否、見る限りでは何処かへと流れ出ていっているようだ。途中までは道筋を目で追えるが、ある時点で流れがぷっつりと途切れてしまいそれ以上の追跡が不可能となっている。

 

 か細い流れは丁度、ユウの足元で断たれている。まるで、そこが夢とその外側との境目だと主張するかのように。

 

 まさか、これは。彼の足元に視点を合わせて現実世界の方を覗き込む。畳の敷かれた質素な内装の部屋に、これまた装飾の少ない一枚の布団が見えた。

 傍らには、見た感じまだ子供の域を出ない金髪の少女が座布団も用意せずに座っている。夢と現の境界を超越した流れは、布団の中で眠る人物に向けて切れることなく続いていた。

 

「ゆ、ユウさん!大変です、ここに来ている貴方の魂が現実世界へ戻っていってますよ!」

 

「……おん?」

 

 急いで本人に知らせたところ、返ってきたのはえらく間の抜けた返事であった。自分の魂が意図せずに動いているというのに、呑気が過ぎる。もしかしてだが、こののんびりとした性格をもう少しだけでも引き締められていれば腕の運命も変わっていたのではないだろうか。たらればの話で大変恐縮ながら、ドレミーはそんな考えを抱いた。

 

「有り得ない話が有り得たみたいね」

 

「有り得る話だったってわけか。しかしドレミーよ、魂というのは自然に帰っていくものなのか」

 

「それこそ有り得ない話ですよ。霊ならまだしも、魂が独りでに動くだなんて」

 

 誰かが外からユウの魂に干渉している可能性が高い。眠る彼の傍にいたあの少女が何かしているのかも知れないが、魂という実体のない虚的な存在を導く異能とは如何なるものなのか。

 ドレミーも、能力の性質上やろうと思えばできなくはない。何せ彼女の主食は夢魂だ、その近縁種に位置するものに手出しができるのはある意味普通とも捉えられよう。だが、夢魂と核たる魂はあくまで似た物であって同一ではない。いつも食事をしている時の感覚で操作に臨めば、どんな不測の事態が発生するか分かったものではないのだ。だからドレミーは能力を駆使するのを避け、時間の経過に解決を委ねたのである。

 

「あれ。ユウさん、心做しか体が透けているように見える」

 

「体が……うわ、本当だ」

 

 自分の手を見たユウが、ぎょっとしていた。この短い時間で天寿を全うして幽霊になったのかと錯覚させる透明ぶりであった。きっと今ならちょっとした壁くらい自由に通り抜けられるのではなかろうか。

 体の末端部分は、既に殆ど見えないまでになっていた。このペースで透明化が進めば、彼が完全に見えなくなってしまうまで数分とかからないだろう。興味を惹かれたのか、少女が徐に消えかかっているユウの手を握った。まだ微かに形が残っていたからか、今にも崩れてしまいそうな脆い感触がありながらも何とか握手はできたらしい。

 このタイミングで消滅寸前の彼の腕と握手をしに行く独特な心的センスは、磨けば色々な意味で面白くなること請け合いである。或いは開花させずに置いておくべきものなのかも知れないけれど。

 

「これは何の兆候だかね」

 

「肉体が睡眠を終える時、夢の世界にいた人妖は体が薄くなっていきます」

 

 恐らく、魂がある程度以上戻ったことで体が目覚めつつあるのだろう。誰がどのようにしてユウの魂を体に帰しているのか、情報が少ないせいで詳細ははっきりとしないけれど、それでも一つだけ間違いのないことはある。

 

「おめでとうございます。時間はかかりましたけど、遂にお目覚めですよ!」

 

「へぇ。思ったよりかは早かったな」

 

 ユウが、そしてドレミーも待ち侘びたグッド・ニュースだ。当時夢についての知識に疎かった彼が自身の見ている夢を粉々にしようとしているのを慌てて止めてから、もう四日近い日が経った。かなり長めの夢見滞在となったが、これにて無事幕引きである。

 

「凄い。ユウさんが透けて、ドレミーがうっすら見える」

 

「そろそろ起床ってことだな」

 

「これは希少な体験」

 

「生憎これ以上上手い返しのできない気性でね。……さて、ドレミー」

 

「はい」

 

「色々と世話をしてくれて、ありがとう」

 

 神というのは人妖の上に立つ存在で、故に地上に生きる者達に対して高圧的な態度を取るものだと思っていた。事実今までに出会った神と名乗る者達は、その例に漏れることがなかった。

 だが、目の前の小さな神様は紳士的だしお礼もきちんと言ってくれる。対等な立場での付き合いを好み、決して上から見下そうとはしない。

 

「こちらこそ、楽しい時間を過ごすことができました。もしまたお会いすることがありましたら、その時はどうぞよしなに」

 

「あぁ」

 

 こんな神様だったら、もう一度と言わず何度でも会って交友を深めたい。夢の世界は衣食住にこそ困らねど、友には事欠く場所だ。気兼ねなく語らえる友人が増えれば、やはり嬉しい。

 一旦の別れを前にドレミーへの感謝の気持ちを伝えたユウは、次いで白髪の少女の方へと向き直る。成程、彼女にも一言残していくのか。内容が気になったので、聞く態勢に入り彼の口が開くのを待った。

 すっ、とユウの口角が吊り上がったように見えた。この数日間で見てきたどんな笑みとも違う、まるで一計を案じた軍師のような笑い方であった。この時点で、彼の体は輪郭が辛うじて視認できるというところまで消えかけていた。

 

「……地底、という所に出向いていてな」

 

「……ちょっ」

 

「そこでひょんなことから途轍もない力を誇る神霊と

 

「待って、話の途中で消えないで」

 

 そのまま彼は、遂に何の痕跡も残すことなく夢から旅立っていった。一人の少女の心に、解消され難い大きなもやもやを植え付けるというオプションをおまけして。

 正直なところ、ドレミーもその話の続きには興味があった。体の大切な一部分を無くす程の大怪我を負った経緯は、流石に進んで聞きたいと思わなかったので本人に問うこともしなかったが。第一本人だって、そんな苦い記憶を一から十まで語り切るのは遠慮願いたいはずだ。少女には疑問が解決せず気の毒だが、真相は自分達の前に引き摺り出すことなく暗がりの中に放置したままで良いのではないか。

 

「ドレミー」

 

「何ですか」

 

「凄く、消化不良」

 

「タイミングが悪かったですね。いえ、ある意味完璧でしたが」

 

 しかし、最後の最後に意外な一面を曝け出してくれたものだ。ただ優しいだけではなく、ユウという神は中々に茶目っ気に富んでもいる。益々彼との再会が楽しみになるドレミーであった。

 

 

 

 

 

「絶対聞き出してみせる。というわけでドレミー、暫く厄介になるわ」

 

「彼が来るのを待つつもりですね。私は構いませんが、あちらのお仕事は良いので?」

 

「……むぅ」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「っは、はぁ」

 

 吸血鬼の並外れた肺活量をもってしても息切れを起こす程に長く、息を止めていたらしい。緊張の余り呼吸を忘れていたと言った方が正しそうだけど。

 酸素が体に行き渡っていないのが、何となく分かる。体全体が言いようのない怠さに包まれていて、息を整えるのも億劫に感じるくらいだ。その癖して張り詰めていた緊張の糸が緩んだ体は今更ながらにぷるぷると震え出し、立毛筋が潤い豊かな乙女の柔肌に似つかわしくない鳥肌を浮かび上がらせる。

 勿論呼吸を省けば頑丈な吸血鬼といえどひとたまりもないわけで、仕方なしにフランドールは大きく息を吸い込み新鮮な酸素をその小さな肺に供給した。

 

「はは」

 

 未だ少し荒い息に混ぜ、微かに笑う。まだ顔の筋肉が引き攣っているので、とてもじゃあないが可憐な幼き少女がして良い顔にはならなかった。この場に今の彼女の顔を見る者がいないのは、幸いと言う他にない。

 尤も、当のフランドールはそんな瑣末事に気を取られてはいなかった。彼女の目は、眼前で小さな呼吸を規則正しく繰り返す男に熱く注がれていた。

 

「成功……した、よね」

 

 ユウに、明らかに生気が戻っていた。瞼を閉じた精巧な人形の真似事を終えて、彼は一柱の神として意識が表層に浮上してくるのを待つ段階へと入った。それを三度、時間をかけて念入りに確認し、漸くフランドールは成功の二文字を口にするに至った。

 閉め切られた部屋では、真っ赤に染められた頬を冷やす風の一つも吹き込みやしない。引きそうだった体の熱が再度滾るマグマのようにぼこぼこと盛り上がってくる。背中をしとどに濡らす大汗は、しかし不思議と不快に思えなかった。

 

『目』を潰すことに特化した能力で、事もあろうにその『目』を傷つけることなく持ち主の中へと還す。前代未聞の難行に打ち勝ったという達成感は、まだフランドールに湧き上がっていない。胸を一杯に満たす虚脱感が強過ぎて、他の感情を起こす余裕がないのだ。

 心ここに在らずといった表情で暫し呆然としていたフランドール。何を考えることもなく、ごちゃごちゃになった思考を整頓しもしない。あたかも次は彼女が魂の抜けた作り物になったかのように、ぴくりとも動くことがなかった。

 

 蜃気楼めいてぼやけていた彼女の意識がはっと明確な状態に戻ったのは、微かな衣擦れの音を聞いた直後のことであった。

 

「お兄様!」

 

 地底より戻り来てからこの方身じろぎもしなかった彼が、動きを見せた。ともすれば見逃してしまいそうな一瞬の出来事だけど、彼が生きているという何よりの証明になる。

 

 目覚めは、近い。座ったままではいられなかった。

 

「狐!霊夢!幽霊!来て、お兄様が、お兄様が!」

 

 思わず立ち上がり、大声で居間にいる三人を呼ぶ。眠る神がいるのだから静かにしなければいけないとか、そんなことまで考えを巡らせることはできなかった。状況を詳しく把握できないがために気を擦り減らして待っている彼女達に早く知らせたかったし、一秒でも早くこの部屋に来て欲しかった。ただそれだけの純粋な思いが、彼女に昂った声を上げさせた。

 

「フランドール!何事だ!?」

 

「お兄様の体が動いたの。きっともう目が覚めるんだわ!」

 

 すぐさま血相を変えて飛んできた狐こと藍の発した金切り声に負けない音量で、フランドールは声を張り上げた。

 ほんの数瞬、藍はらしくない惚けた表情を浮かべた。フランドールの言ったことを理解できない赤子のように、目を真ん丸にしていた。

 

 鼓膜を揺らした音が脳の中で再生され、無作為に思考の表面を駆け巡る。はて、要領とは如何にして得るものであったか。後から残る二人がやって来て、霊夢にそこ邪魔と背中を叩かれるまで、藍は部屋へ踏み入るための一歩目を踏み出すことができなかった。

 頭の中で言葉を細切れにして、ゆっくりと反芻して漸く彼女の言葉が意図するところを悟るに至った。そして、脳内で確かな理解を得てからの藍の挙動は打って変わって迅速なものであった。

 

 ユウの眠る布団に駆け寄り、さっと片方の膝をつく。姿勢は前に傾けて、彼の顔を覗き込む。親愛の情と逸る気持ちが赤青の糸で綯い交ぜになって、寝起きに見るには中々重いだろう。後ろで巫女がほんのちょっぴり苦笑いしているのは、彼の起床に全神経を集中させていたがために気が付かなかった。

 左隣に誰かがやって来たのは幾ら集中していた藍でも分かったのでそちらの方へ顔を向けると、幽々子が同様にして彼を見つめていた。視線に気がついた亡霊姫の返したたおやかな微笑みは、未だ緊張を保っていた藍の心を優しく揉みほぐしてくれるようであった。

 

 小さく息を吐き、ユウを挟んで藍の真正面にどかりと少々荒く座り込んだのは霊夢であった。その右隣に、置いていかれては嫌だとばかりにいそいそとフランドールが腰を下ろす。

 これでユウは、四人の少女に見守られながらという移植極まりないシチュエーションでの寝覚めをすることとなった。事情を知らない者が見れば魔術の儀式でも執り行っているのかと誤解しそうな絵面だが、特に誰も気にしてはいなかった。ユウとの親交が深い人外三人は数日ぶりに彼の漆黒の瞳を見るのを今か今かと心待ちにしていたし、まだ知り合って数日しか経過していない人間は取り敢えず紫を叩き起こして快気祝いという名の宴会の準備を手伝わせようと考えていたから。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ── ……ぁー。

 

 

 

 ただいま。



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第十八話 心身ヒール!癒しと化した神様

「この部屋ね」

 

「そうだな」

 

 博麗神社のとある一室。その入口の前に、二つの少年少女と思しき人影が静かに立っていた。

 一方は、紙一重で天国を勝ち取った少女ことフランドール。他方は、そのフランドールのお陰で再び現世に活動の場を戻すことができた神ことユウであった。

 

 彼らが見ている障子の奥には、とある妖怪が眠っている。姿はまだ視認していないが、部屋に充満しているどんよりとした妖気は障子越しでもはっきりと感じ取れる。あぁ、彼女は間違いなくこの部屋にいる。

 普段であれば、二人して苦笑していただろう。淀んでるわね、淀んでるなぁなんて言いながら。それから、ユウがやれやれ仕方ないといった風を装って事情を聞きに向かっていたはずだ。

 だが、此度は少々気色が異なっていた。屈託のない笑顔を浮かべるフランドールの真横で、仏頂面のユウが異様な存在感を発していたのだ。能面と形容するには少しばかり苦渋の色が強く、かと言って苦虫を五匹程纏めて噛み潰したような顔をしてもいない。若干納得のいかない事態に直面している時の顔と言えば、想像もできようか。

 

「良いこと、お兄様。しっかり労うのよ?」

 

「……どうしてこうなった」

 

 話は、数十分前に遡る。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「時にだが、藍」

 

 数日ぶりに言葉を交わすとなれば、言いたいこともあれやこれやと沢山ある。無論それは、ユウにおいても同様であった。この件に関わることとなった全ての人妖に謝罪と感謝を伝える義務が、自分にはある。ユウはそう認識していた。

 

 地底で意識を飛ばしてしまった自分を地上へと運び込んでくれたのは、幽々子の従者を務めている()()だそうだ。彼の記憶では少なくとも千年前の幽々子の従者は精悍な老骨だったのだが、寄る年波には何とやらということで代替わりでもしたのだろうか。

 地上へ出てきてから傷の手当をしてくれたのは、八雲主従だ。千年の間に治癒の術にも精通したらしく、僅か数日であれ程の大怪我が完全に塞がってしまっていた。体を動かしても殆ど違和感すらなく可動するので、この分ならすぐに動き回れるようになりそうである。

 そして気になる菅原公のその後だが、これは幽々子がきっちりと落ちを着けてくれたという。大方、彼女の霊を操る力で冥界に引き取りでもしてくれたのだろう。……正直なところ、冷えた頭で思考してなおあれは完全に滅しておくべき御霊だと思う。或いは幽々子もそう考えたのかも知れないが。

 

「何でしょうか」

 

「紫は何処へ?」

 

 しかし、紫の姿が何処にも見えないのが妙に気にかかった。少し自意識過剰な発想となろうが、紫は自分が目覚めるや否や誰にも増して早く喜んでくれるものだと思っていた。それだけ睦まじい仲を築いてきたから、千年無沙汰にしていても幻想郷へ誘ってくれたのだろう。

 こうして幽々子達が会いに来てくれている一方で紫の姿が見えないのは、少し寂しくもある。断じて娘の第一次反抗期(もっともきついじき)を迎えた父親の気分なんて味わってはいないけれど。そう、断じてだ。

 

「別室でお休みになっております」

 

 紫の居場所を尋ねたところ、藍の挙動が一瞬ぴたりと凍った。その直後、瞳がふらりと揺れて視線がつつ、と斜め左下へ向いた。何か隠しているのが、丸分かりである。

 藍はぽんぽんと嘘を吐くタイプではない。しかし木を隠すには森の中とは良く言ったものであり、真実の言葉の中に何か違和感のようなものが巧妙に潜んでいる。

 

「そうか。紫にも礼を言いたかったんだが」

 

 違和感の正体は、口にするのを憚られるものであるのか。大凡の検討を付ける以上のことはできないが、少なくとも今この場では言及したくないらしい。どうせ遅かれ早かれ分かるだろうし、今は一先ず藍の答えを鵜呑みにしておくことにする。

 

「礼を言うだけじゃ足りないわ。勿論それも大事だけれど」

 

 感謝の言葉をかけたいと言うユウに、フランドールが物申す。とは言っても剣呑な雰囲気が醸し出されることはなく、寧ろ彼が当然そのことについて思い至っていると考えた上での、確認の意味を含めた発言であるように思われた。

 他の四人の視線が、フランドールに集中する。それを待っていたかのように、彼女は自身の意見について話し始めた。

 

「八雲が喜ぶようなことをして、感謝の言葉も述べる。態度と言動が合わさって初めて『礼』と言うことができるのではなくて?」

 

「ふむ。道理だな」

 

 フランドール曰く、二つの方法で感謝を示せとのことだ。全くその通りだと誰もが賛同する意見であり、場の皆も反対意見など唱えやしなかった。

 

「……西洋の妖怪よね、あんた」

 

「どちらかというと悪魔よ」

 

「そこは今どっちでも良い」

 

 しかし東洋的、儒学的な考えであったので意外だとは思われたようだが。生まれも育ちも欧州の吸血鬼が提唱する意見としては、確かに些か色物な感じがすると言えよう。

 尤も、幻想郷は西洋から見れば東の果てである日本の古き時代を色濃く残す世界だ。フランドールは吸血鬼の館で当主の娘として西洋的な暮らしをしているが、古には孟母三遷の例もある。この地で暫く生活していれば、東洋的な思考がある程度身につくのもまた然りと言ったところか。

 

「む。あいつの喜ぶことか」

 

 日頃紫は、自分に何を求めてきていたか。彼女の求めることをしてやるのが、無難と言ったところだろう。さて、何が丁度良いかと紫の願望を思い出して

 

「考えるに能わん」

 

 みたのだが、彼女の願望は尽く脳内にて即時却下されることとなった。紫は普段からあぁして欲しい、こうして欲しいとストレートに口にするが、その内容ははっきり言ってユウに叶えられる範疇を逸脱している。いっそ宝の山の在り処を教えてくれと願われたなら、彼女の知らなそうな所を一つくらい紹介してやれると言うのに。

 

「お悩みのようね、お兄様」

 

「紫の願いはどれもこれも突飛が過ぎるんだ」

 

 スキンシップ自体は良い。軽くボディタッチが入るのも、まぁ黙認しよう。これらで済まないから、ユウは常々紫がかっ飛んだりすっ飛んだりして来るのを防御しているのである。自分の身は自分で守れ、さもなくば変態娘の餌食になる。それはそれでと喜ぶ男衆も多かろうが、彼にとっては何と過酷な環境であろうか。

 

「なら、一緒に寝るのはどう?」

 

「それが突飛の代表例だろう」

 

 自分ならどうするかと頭を捻り、フランドールが出したアイデアはユウにとって絶対に回避したいものであった。

 飛んで火に入る夏の虫にはなりたくない。敵陣に単身切り込むのは時として勇敢を超え蛮勇となる。幾星霜を生きてきた彼だからこそ、死の匂いが濃く漂う危険地帯に身一つで飛び込むなんて浅はかな真似をするのは躊躇われた。

 

「私はやるけどねぇ。お父様が疲れていたら、よく」

 

「親子なら特別おかしいと言うわけでもない。お前達くらい仲の良い父と娘なら、特にだ」

 

「お兄様と八雲も、親子なんでしょう。狐から聞いたわよ」

 

「違わないけど違う」

 

 ユウと紫の間に、血の繋がりは無い。単にユウが紫の幼少期からの成長過程を見てきたから、半ば自然に父と娘のような間柄になっただけである。

 フランドールが父親と一緒の布団に潜り込むのは、父親に対する親愛の情があってこその行動だろう。彼女の父親も、可愛い娘が懐いてくれるのが嬉しいので喜んで迎え入れていると言ったところか。想像してみると、何とも微笑ましい親子の一幕ではないか。

 

「お兄様は八雲と寝るのが嫌なの?」

 

「嫌とはまた違うんだが」

 

 彼女のことは、勿論好きだ。目に入れたって痛くないくらいに。但し、その『好き』はlike(娘として)であってlove(恋愛感情)ではない。紫がまだ小さな子供であった時ならまだしも、彼女はもう既に立派な大人へと成長した。この上布団を共にするのは、色々と躊躇うものがある。

 歯に衣着せたかのような、はっきりしない物の言い方をするユウに、何かを感じ取ったのだろうか。フランドールの瞳が、獲物を見つけた猛禽類のようにきらりと光った。

 

「ははぁん」

 

「その目は何だ」

 

「お兄様、照れてるのね」

 

 一瞬、ユウが虚を突かれたかの如く黙り込んだ。その反応は、まるでフランドールの指摘が図星であることを暗に認めているかのようであった。と言うか、事実図星なのだが。

 しかし、ユウとて人生経験の豊富さでは他の追随を許さない。怒りや悲しみなどの感情を殺し平坦を装うくらい何度も経験してきた。この経験は、今こそ活かされるべきである。

 咳払いを一つ、それから目線をフランドールの瞳に固定する。目線の揺らぎは心の揺らぎを相手に教えるサインとなるが、逆を取れば視線が安定していると相手に気の振れ幅を悟られにくい。ちょっと意識を傾けるだけの小技一つで、生物の外面など幾らでも取り繕えるのである。それはまさに数多の面を被る凄腕の能楽師の如し。

 

「何をまた。俺が照れるなんぞ」

 

「顔が赤いわよ?」

 

「……」

 

「嘘だけど」

 

 ── これはあれだ。まだ起きたばかりで、充分に脳が覚醒していないのだ。そもそも人も神も、目が覚めてから数分は充分に脳のポテンシャルを発揮できない。何故なら目覚めとは夢の世界から現実へと意識を戻す行為であり、どのような形であれ異なる二つの世界間を移動すれば適応に時間を要するのも当然であろう。

 なんて言い訳が一瞬のうちに頭の中で構築された辺り、自己逃避の脳内回路だけは正常に作動しているらしい。今きちんと働くべきはそこではないのだけど。遥か歳下の少女に完全にしてやられたユウは、左手で顔を覆い力なく二度首を横に振った。

 皆の微妙に生暖かい視線が痛い。見なくても感覚で分かる、今俺は同情と揶揄の入り混じった目を六個向けられている。なお、残った二個については考えたくないので置いておこう。

 

「良いじゃない、ユウさん。英雄色を好むって言うんだし、英雄より凄い神様が色情魔でも」

 

 誰が色情魔か、誰が。これでも清廉潔白を信条として生きてきたのだ。例え容姿が咲き誇る華の如く素晴らしくとも、女に色目を使うなど有り得ない。誠実たれという教えに沿って過ごしてきた膨大な月日が、彼にダイヤモンド級の強固な自信を与えている。残念なことに、その自信は今軽く結合の崩壊を起こしかけているが。

 

「私は引くけど……うわぁ」

 

「勝手に想像して気色悪がるのはやめてくれ」

 

「うわぁ♪」

 

「幽々子?」

 

 身に覚えのない咎で距離を取ってくる霊夢に突っ込みを入れていると、左斜め後ろでも悲鳴が上がる。その悲鳴が何とも楽しげなのは、一体どうしてなのか。狭心者でもあるまいに、人の不幸で興を得ないでもらいたい。そして剰え便乗して攻勢に出るのは、もっと勘弁して欲しいものだ。

 

 決まったわね、とばかりにぽん、と膝を打ったのはフランドールだった。はて、今の一連のやり取りで何か決定したことがあっただろうか。ただ藍を除く三人がユウをおちょくっていただけのようにしか思えない。

 おのれ不敬なるぞと格好良く言い放ってやろうかとも一瞬考えたが、他ならぬ彼女達が自身の命の恩人であるのを思い出すと反撃の意思も萎んでしまった。そして、この好機は見逃されることがなかった。

 

「善は急げよ、ほら立ってお兄様」

 

 フランドールの中で、ユウが紫と添い寝るのは確定事項となったらしい。布団をべしべしと叩き、彼に起き上がるよう促す。紫や藍の初期処置が適切だったお陰で目立った外傷は既に治癒していたが、余りに長い期間を眠って過ごしていたのでまだ体が強い倦怠感に包まれている。どうか、あと数日は寝たままで体調の回復に務めさせてくれないだろうか。

 とか何とか言っても、一度行動すると決めたフランドールの気を変えるのは至難の業である。頼みの綱の藍も、幽々子に何やら言いくるめられている様子だ。こと舌戦において幽々子のように飄々として捉えどころの無いタイプは藍の真面目さを良い鴨にしてしまう。これは彼女からの助けは期待できそうにない。

 

「悪魔の妹とは言い得て妙よな」

 

 進退ここに窮まれり。腹を括るしかないのかと、ユウは幻想郷に来てから一番の深く大きな溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 深く深く、昏い夢を見ていた。

 

 夢の内容を、克明に思い出すことはできなかった。だが、それが紫にとって酷いなんて言葉では済まない悪夢であったのは疑いようもない。柄杓で水を叩きつけられたような大量の汗が、言葉なく紫の心情を物語っている。

 まともな思考も纏め上げられないまま、紫の心臓はどくん、どくんと暴れ馬のように跳ね回っている。血が普段に倍する勢いで身体中を巡るせいで、呼吸もままならないくらいだ。吐き出す吐息は、小刻みに震えていた。

 

 落ち着くために深呼吸などとは、とても考え付かなかった。無力な人間の子供のように、ただ只管に身を縮めて大波の過ぎ去るのを待つのみであった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 気が付くと、紫は再び夢の中にいた。

 

 鮮血のような紅色の空に真っ黒な雲が広がり、地には角張った岩が剥き出しになっている。凡そこの世のものとは思えない光景に、呆然と立ち尽くす他になかった。一方で、非常識的な光景が広がっていたからこそ、ここが夢の中だと理解できたのもまた事実である。赤より紅い空など、世の摂理に真っ向から喧嘩を売る超常現象でしかないから。

 いつの間に眠ってしまったのだろう。こんな夢を見ては休息もままならないことだ、悪化していく前に手早く目覚めてしまいたい。そんな彼女の願いは、他ならぬ彼女自身の精神的逼迫によって叶えられず終いとなってしまった。

 

 遠くの方で、地面がぼこりと盛り上がった。体に付着した土を払いもせずに、それは生物らしからぬ異形を数本の足で支え立ち上がった。

 体は真っ白だ。体躯は巨大と呼ぶに差し支えないもので、横に並べば紫の倍は軽く超えるだろう。常に五本の足が触手のように地面を這いずり回る様はエイリアンか何かのようで、不気味であった。

 しかし、何よりも紫の目線を釘付けにした部位がある。何故それがそこにあるのか。自分のせいで親しい神が傷つけられたと気を病んだ彼女への、最低にして最悪の当てつけなのか。ゆっくりと紫の方へ向かってきているようにも見える異体は、沈黙して何も語ることはない。

 

 異形の白体は、()()()()()()()()()()()()()。まるで双子のように、いや、双子にしても全く一緒の顔を持って生まれてくることはない。完璧な複製体(クローン)でもない限り、絶対に有り得ない事象が紫の眼前に姿を現していた。

 酷く無感情な顔は、しかし彼と違って確かな暖かみまで捨てていた。彼の顔を忠実に再現した能面とでも言うべきか。その能面を付けた化け物は、唖然とする紫を余所にのそのそと地を這っていた。

 

 異形が接近してきても、紫は距離を取ることができなかった。ユウの顔をしているというたった一つの要因が、彼女を影まで地に縛り付けた。長い首をもたげて思い切り顔を近づけてきても、顔を背けることすらしなかった。

 抵抗が無いことに気を良くしたのか、異形はその体格に見合わない細く長い腕を紫の両肩に掛けた。少しだけびくりと肩を震わせたが、振り払ったりという行動には至らなかった。やがて手に込める力が強められたかと思うと、続いて右腕からかち、かちとダイヤルを回すような音が聞こえてきた。

 

 かち、かち。紫はその硬質な音に、どうしてか聞き入っていた。

 

 かち、かち。化け物は紫の肩を掴んだまま、一切の動きを見せない。

 

 かち、かち。音は尚も鳴り続ける。

 

 かち、かち。かち、かち。かち、かち。かち、かち。かち、かち。かち、かち。かち、かち。かち、かち。か

 

 

 

 

 

 『dpseraanntklomyth』

 

 何の前触れもなく、化け物がけたけたと笑い始めた。表情を一切変えることなく、微かに開かれた口から大音量で哄笑を吐き出す姿に思わず紫の顔が歪み。

 

 次の瞬間にふっ、と左肩に掛けられていた圧力が取り払われた。体の重心が急激に右に傾き、紫は転倒しそうになりながらもたたらを踏みつつ何とか踏み堪えた。一体何のつもりか。訳も分からないままに、視線を怪異に戻す。

 嘔吐かなかったのは、意識が夢中にあったからか。それとも、視界に飛び込んできた情報が体の全ての機能を停止させる程の途轍もない衝撃を紫に齎したからか。

 

 『raktgalopigod』

 

 異形の口が横に大きく裂け、どろどろと白く濁った液体を流しながら腕を咀嚼している。右腕があったはずの場所からは、同じ白濁の液体が鉄砲水のように噴出していた。

 誰がこの陰惨極まりない情景を受け入れられようか。夢の中にいるというのに、意識が遠くなる感覚を覚えた。しかしそれは全く仕方の無いことである。この世の憎悪を全て凝縮したに等しい悪夢なんて、きっと地獄の閻魔でも見せやしないはずだ。

 紫の脳にこびり付いた自責の念が、無意識的にこの酸鼻たる夢を創っていた。しかしながら、ぶちゅぐちゅと肉の潰れる音も、それに混じる乾いた破砕音も、とても現実のものでないとは感じられなかった。頬に飛んできた液体を幻だと言い切るには、余りにも冷た過ぎた。

 

 残された左腕が肩から離れる。そのまま触腕めいて滑らかに動き、柔軟な鉄線のような指が紫の首に伸びる。

 

 もし明晰夢の中で死ねば、どうなるのか。単なる悪い夢の中では、夢魂が仮初の肉体を創っているに過ぎず、その肉体が幾ら傷つき朽ち果てたとて魂には何の影響も無い。だが、自分が眠っているという自覚があれば。今立っている地が常世のものではないと知ってしまえば、仮は真となるのではないのか。

 知らない、分からない世界の中にいるからこそ幻影たり得るのであって、理解してしまえばそれは現実と何が違うというのか。雲は流れ体は温かく、そして心は揺れる。そこに現実との差異なんて、何一つ無い。

 

 つまり死は正しく死であり、やはり逃れられぬ(カルマ)として立ちはだかるのだ。そう認識した途端、初めて紫は明確な抵抗の意思を瞳に宿した。

 死への恐怖が、目の前の異形への困惑を上回ったのだ。紫を縛っていた鎖は解れ、今ここに彼女は行動の自由を得た。

 しかし、彼女に反抗の意思が芽生えるには遅かった。これだけ接近を許してしまっては、敵の思う壺でしかなかった。何かするよりも早く、死を齎す異質な手が紫の首を握り潰さんとする。

 死を隣人に迎える覚悟なんて、この短時間では決められるはずもない。余りに明確に感じられた危機の気配に、思わず固く目を瞑り。

 

「大丈夫ですか?」

 

 柔らかい女性の声が投げ掛けられるまで、紫はずっとそうしたままであった。恐る恐る瞼を開くと、そこにはふよふよと宙に浮く薄桃色の塊に腰掛ける青髪の少女が微かな笑みを浮かべていた。

 暫く惚けた様子で青髪の乙女を眺めていたが、彼女が少し困ったような苦笑いをするので、そこで意識がはっきりとした。先程まで見上げていた化け物は、影も形も無くなっている。手段は想像もつかないが、推察するにこの少女が寸での所で助けてくれたらしい。一先ず礼を言おうと紫が口を開きかけるが、それより一拍早く少女が喋り始めた。

 

「相当疲れていらっしゃる様子。……本来は越権行為も良いところなのですが、貴女のことを見て見ぬふりしたくはありませんね。何せ貴女、彼の ──」

 

 後に続いた言葉を、紫は聞き取ることができなかった。急に襲ってきた、激しい疲労にも似た倦怠感のせいで立ってもいられなくなる。堪らず膝を折り、心の中で存在感を増していく億劫を何とか押さえ込みながら震える首を持ち上げていく。

 青髪の少女が見せた笑みの朧気なのは、彼女の笑い方なのか自身の目が霞んでいたのか。息も吐かせない疾風怒濤の二転三転が与えた超速度の混乱に翻弄されているという自覚も持てぬまま、紫の視界は真っ暗な闇に包まれた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 深く深く、昏い夢を見ていた。

 

 夢の内容を、克明に思い出すことはできなかった。だが、それが紫にとって謎という言葉では済まない恐ろしくも奇妙な夢であったのは疑いようもない。脳内で大渦を巻く混乱が、言葉なく紫の心情を物語っている。

 

 布団で寝ていただけにしては、変に動悸が激しい。呼吸をする度に湯気のような吐息が吹き出し、熱を持った肺が冷まされていくような感覚すら覚える。まるで妖怪の山を全速力で駆け上がった後のような体の状態は、寝起きに味わうには少しどころでなく悪意に満ちた刺激を伴っていた。

 着ている服は、既に汗で濡れているというレベルではなかった。一滴残らず絞ったら、ちょっとした水溜まりができるだろう。こんなことなら霊夢に寝巻きでも借りておけば良かったと、脱力し冷め切った頭で考えた。

 

 日々の業務で疲れた時に、一歩も動きたくないと思うことはある。だが、今は最早指をぴくりともさせたくない程の疲労が蓄積されている。性根が尽き果てたというやつだ、こうなってしまうともう本当に数時間はその場でぐったりとしたままになる。だらりと体を伸ばし、焦点の定まらない瞳が天井に向いた。

 

 ユウは今、どうしているのだろうか。やはりまだ眠ったままなのか、もしかすれば目を開けて藍辺りと話でもしているかも知れない。起きているのだとしたら、それはこの上ない朗報(グッドニュース)である。

 だが、あの部屋に戻りたいとは思えなかった。もし彼が起きていたとして、どの面を下げて向かい合えば良いのか分からなかった。

 一眠りした後でも、万力のような罪悪感は緩んでいない。自身が怠慢と思う箇所を思い出す度に胸をきりきりと締め付けて、今にも潰さんという勢いだ。ただ、数日ぶりに短時間ではあるが纏まった休息を取ったからか、微かに冷静な思考の元となる理性が強まっていた。

 

 フランドールのユウを救う試みは、もう終わった頃だろうか。ほんの僅かな手元の狂いで彼の命運を左右してしまう賭けに出るなんて、はっきり言って正気の沙汰ではない。紫が挑戦するとなればまず大き過ぎるリスクのせいで嫌でも身が竦むし、そもそも挑もうと考えすらしないはずだ。

 だが、待つだけでは状況が変わらない時というのも確かにある。彼女も言っていたが、零と一は似て非なるものだ。数字の上ではたった一の差に過ぎず、どちらも小さな数の代表格であるが、成程事態を動かす力があるかないかで言えば大きく異なる。

 

 フランドールのユウを助けたいという気持ちは、本物だろう。賭けたのが己の身などでなく他ならぬ彼自身の命だというのは、見方によっては偉大な神の生き死にをたった一人の妖怪少女が決めているということになるが。この視点に立って見れば、これ程傲慢な話も世にそうはあるまい。

 だが、彼女はリスクを承知の上で、それでもユウを救いたいと真に願ったからこそ危険な大勝負に打って出た。ただ只管に悲観に暮れていた自分とは違って、彼女は脳裏に浮かんだ微かな閃きを追い求めていったのだ。

 

 ……紫は藍と力を合わせ、ユウに対して各々が知る限りの知識を総動員した極めて高度な治療を施した。この治療が殆ど消えかかっていた彼の命の灯火を守ったのは誰の目にも明らかなのだから、彼女がユウに対して何もできていないというのは明らかな自己分析の仕損じである。

 寧ろ紫はフランドールや藍、妖夢と肩を並べる彼の救世主なのだが、己への嫌悪感に酷く苛まれるこの時の紫にそんな明るい思考は求めるべくもなかった。千の涙を湛えた目は既に赤く充血して腫れ上がっている。しかし、最早流す涙も枯れ果てた。光の無い虚ろな赤目は、見開かれも潤みもせずにただ数秒おきの瞬きを続けるしかなかった。

 

「……っ?」

 

 頭に何か、小さく柔らかい物が触れたような気がした。茫然自失の体を為していた真っ最中のことだ、気のせいだろうと自身を納得させた紫だが、触れられているという感覚は一向に消える気配が無い。それどころか左右に動いてすらいる。そう、まるで()()()()()()()()()()()()()()

 嫌悪を催すような感覚ではない。かつて何度も経験したことがあるようにも思える、胸の奥にこびり付いた不安までじんわりと溶かしてくれるような暖かみが紫の頭の上にあった。

 邪魔だと振り払うには忍びないが、ただただ為されるがままになるわけにもいかない。とうに掠れた濁声で、側にいるらしい誰かを問う。

 

「……だれ」

 

「誰とは酷いことを言う」

 

 間を置かずに返ってきた返事に、紫は一時の間呼吸を忘れた。比喩ではなく、本当に体の時間がぴたりと止められたかの如く息を吸いも吐きもできなかった。

 最も聞きたい声だった。ある意味、最も聞きたくない声でもあった。でも、やっぱりいざ聞くと望外に嬉しかった。この幼くも深淵たる声を再び聞けたなら、それはバトンが完璧な手順でもって回ったという何よりの証拠に他ならない。

 

 紫の奮闘は、他の皆より少しだけ遅れて報われることとなった。

 

「えらく魘されていたな。悪い夢でも見たか」

 

 付いた実は、崖っぷちからの復活を遂げたユウとの再会。この結果に紫がじっとしていられるはずもなく、とうに限界を迎えていたはずの体が半ば独りでに跳ねて声のした方を向いた。いつもなら呆れた顔と冷ややかな目線を向けてくる彼は、此度だけは柔軟な鉄仮面の奥に紫への心配を忍ばせていた。

 

「……ユ、ウ」

 

「いかにもその通りだが、しかしその声は頂けんな」

 

 鈴も磨かざれば錆びるんだぞ。そう言いながら溜息を吐く様子は、疑いようもなくユウがいつもやっているものであった。嬉しさを通り越して、懐かしささえ感じる所作だ。

 

「俺が寝ている間、ずっと傍で様子を見守ってくれていたそうだな。勿論感謝しているが、それで体調を崩して欲しくはないよ、俺は」

 

 一語一語を探るように紡ぐユウの言葉が、胸に沁みる。きっと起きてから然程時間も経っていないだろうに、彼は既に普段通りの冷静さと聡明さを取り戻しているようだった。

 あぁ、ユウは本当に目を覚ましたんだ。そのことを遅ればせながら心の中で反復させていると、ふと頬を温いものが伝う感触が感じられた。

 

「いや待て。怒ってなんかいないぞ、ただ自分の体は大切にしてくれと言っているだけであって」

 

「わがっでる」

 

 既に乾涸びたと思っていた涙が、こんこんと目の奥より湧き上がってくる。その涙は自身の愚行を咎められたが故の悲し涙に非ず、さりとてユウに感謝されたことを喜ぶ嬉し涙でもない。彼と共に歩む生の道程が途絶えなかったことへの、感動の涙であった。

 

 柄にもなく、ユウが慌てている。表情も変わらず声の調子が上下するわけでもないが、彼の心の機微は何となく把握できる。共に過ごした年月の長さと、深めた親交がそうさせてくれるのだ。

 今回は怒っていないという結論を先に口に出したりと、結構な度合いで焦っているらしい。誤解を解かねばと躍起になっても、嗚咽が漏れるばかりで意味のある言葉の羅列を作ることができない。余りに上手く喋れないので、遂に紫の方が涙よ止まれと気を逸らせる始末だ。

 

「ほら。取り敢えず顔を拭け」

 

 涙やら汗やら鼻水やらのせいでとても可憐な乙女のものとは思えない顔を、渡されたふかふかのタオルで拭く。しかしぐしゃぐしゃと拭いたものだから擦った跡が顔に残り、ユウの目線が何をしているんだこいつと言わんばかりにじとっとしたものになる。

 この展開は予想済みだったのか、次は水で濡らされたタオルを渡された。暫くぶりに清められた顔には、完全ではないが艶が戻ってきていた。ユウもまぁ良いかという風に小さく頷く。

 

「……本当は添い寝の提案だったが」

 

「ぅえ?」

 

「何でもないよ」

 

 未だ小さなしゃくり上げはあるが、何とか気持ちの波は収まってきた。それでも精神的に不安定な状態にあることに変わりはなく、何がきっかけで再び涙腺が決壊するか分からないのが怖いところである。

 しかし、働きを取り戻しつつある頭でよくよく考えてみると、私は今ユウの前でぼろぼろ涙を零していたのか。子供のような失態に今更ながら恥ずかしさを感じ始めた紫の頭を、ユウはぽんぽんと優しい手つきで叩いた。

 

「ありがとう。お前は最高の娘だよ」

 

 ──そんなの、ずるい。折角落ち着けたのに、無駄骨ではないか。

 

 この後紫は、実に七枚もの濡れタオルを消費することとなり、提供主は怒るに怒れず複雑な顔をしたとかしていないとか。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「全く」

 

 結局、ユウは紫が三度(みたび)眠りにつくまで彼女の枕元を離れなかった。何とも優しい父親ぶりだが、裏を返せばその間藍も幽々子も、そしてフランドールも待ちぼうけを食らっていたわけだ。皆が彼と個々に話す機会を眈々と探っていたが、今のところ図らずもそれを達成したのは紫だけである。

 

「良いなぁ」

 

 あんなに優しくしてもらえるのは、やっぱり父と娘の間柄あってこそなのだろうか。こっそりと部屋の外から様子を伺っていたフランドールは、羨望の気持ちを抱く。

 ユウは彼女を拒まない。飛び込んでくれば受け止めるし、会話だって嫌な顔一つせずに付き合うくらいには友好的な関係を築き上げている。

 しかし、それは彼女の姉に対しても同様である。それどころか、フランドールが知る限り殆どの相手に対して一様に接している。これまで見たことのある例外なんて、フランドール達の父親に対して幾分か砕けた態度を取っていたくらいだ。それと、門番を務める中華麗人にも他とは違うフランクな接し方をしていたように思う。

 

 自分のことを大切にしてくれているのは、痛い程に分かる。そうでなければ()()()だって体を張って助けてくれたりはしなかっただろうし、何百年も付き合いが続くこともない。分け隔てることなく全員と仲良くしているのも、彼の美点の一つだ。

 しかし、もう一歩踏み込んだ関係というものに興味がある。何をませたことを、という突っ込みも浮かぼうが、何もあっつあつの恋仲になりたいとまでは言わない。ただちょっとだけ、他の皆よりユウと仲良しになれたら良いなぁ、なんていじらしい乙女チックな思いが心の内に秘められていた。

 

「……帰ろ」

 

 しかし、その感情を御するだけの理性をフランドールは有していた。或いは御してしまうと言った方が正しいのかも知れないが、ともかく彼女は目覚めたばかりのユウに自身の心情を吐露しに行くという蛮行に走る少女ではなかった。

 別段、現状に不満を持ってはいない。ただ、人間も妖怪も一度あるレベルで満たされてしまうと更に高い程度の幸福を求めてしまう生き物だ。一方でそれはあくなき向上心を燃やし続ける原動力となるが、他方それは身を滅ぼしていく底無しの傲慢と化す。

 吸血鬼の基準で見ればまだ幼い部類に入るとはいえ、フランドールはもう既に齢五百を目前に控える身だ。愚かな人間や三流の妖怪が嵌る泥沼のことは知っているし、それ故にその沼が如何に深く重いものであるかも見てきた。例え彼女の父親や母親が娘に与えられ得る悪影響を懸念してそうしたものから遠ざけようとしても、何百年もの間一切触れず聞かずというわけにはいかなかったのだ。

 

 だからこそ、過度に欲張りたくない。極上の幸せを得るために他者と競うよりも、皆で仲良く生活をしてそれなりの幸せが欲しい。

 でも心の中で、悪魔が囁いてくる。お前はユウの命を救った最大の功労者だ、その恩を最大限に押し出せば関係は自ずと望むままになるのだと。反対側で天使の曰く、そんなことをしては彼との関係が二度と修復不可能な程に崩壊してしまう。構えて恩着せがましくするべきではないと。

 

 悪魔の内にて、天使と悪魔が伍して睨み合う。彼女がユウを慕っているのを分かってか、嫌らしい悪魔はにやにやと下卑た笑みを浮かべている。さぁ乗ってこい、成功は確実だとでも言わんばかりに。

 

 やれやれ、とフランドールは溜息を吐いた。

 

「邪魔」

 

 天使に命じて、悪魔を思いっ切り殴らせる。まさか靡いてこないとは思っていなかったのか、悪魔は悍ましい断末魔を上げることもなく極めて静かに爆発四散した。

 

 その程度の格で純血の吸血鬼、それもスカーレットの一族の者を誑かせるとでも思ったのか。そんなのでは担ぎ上げられたお姉様より甘いわ、とフランドールは薄く自嘲を込めて笑った。

 こんな低俗下卑な悪魔を内に孕んでしまうなんて、まだまだ精神的には未熟と言ったところか。この場でぶっ飛ばせたのが、せめてもの救いである。誇り高き吸血鬼として、そして何より彼の友人として恩を売るなど論外にすら値しない蒙昧な愚挙なのだから。

 

 はぁ、ともう一度肺の中の空気を外に出す。それから異質な翼を広げ、フランドールは帰るべき場所へと飛び立っていった。



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第十九話 これからの「未来」の話をしよう

 妖怪の山にいた射命丸 文に一報が入ったのは、陽も完全に落ちようかという時分であった。

 

 折しも自らの書斎にて書類事務に追われていた文の元に、博麗神社へ向かわせていた白狼天狗が戻ってきたのだ。もしや、彼の身に何かあったのか。震えた声で何事かと問えば、仰っていた神が息を吹き返した模様ですとの報告があった。

 その瞬間、文は大きく大きく息を吐いた。そのまま仰向けに床へと倒れ込み、手足を大の字に広げる。いきなり頭領が倒れたので、白狼天狗が面食らって駆け寄ってくる。

 

 安心したのだ。それはもう、本当に。体を打った痛みもどうってことないくらいに、彼女の中には暖かな充足感が満ちていた。

 無論、文はユウが必ず復活すると信じていた。だけど、存外に眠る期間が長かったので内心気が気でなかった。嫌な予感が頭を過ったことも、一度や二度ではない。最悪の事態を覚悟しなければならないという暗い思いが影を寄せつつあったところに生存の報告が来れば、さしもの文も喜び余って倒れ伏すというものであろう。

 

 弟子として、師匠の元に馳せ参じたい。至極当然な思いを抱いた文は、一秒の後に行動を開始した。

 

「ごめんなさい、ちょっと出掛けます」

 

 伝令役を務めてくれた白狼天狗に一言断り、その返事を聞くよりも早く空いていた窓から飛び出す。そのままぐんぐんとスピードを上げていき、僅か十秒と少しで音を置き去りにするに至った。背後からの制止の声が聞こえなかったのは誰も止めなかったからではなく、止めようとした声が文に追いつけなかったが故であった。

 

 妖怪の山を瞬きする間に抜けて、なおも文は加速を続けた。最早音を比較対象とするのが烏滸がましい程の速度が出されており、げに恐ろしいことにまだ彼女は幾らか加速する余地を残していた。

 そんなスピードで飛んでいたものだから、博麗神社に到着するまでほんの数分足らずであった。神社を視界の中に捉えた段階でブレーキを掛けていき、漸く風切り音以外の音が文の耳に届いた。

 そのまま着地するのに安全な速度まで減速し、それでも地面にスライド跡を盛大に残しながら、文は博麗神社に降り立った。随分と派手な登場になったので、神社にいた面々も例外なく気が付き外を覗きに出てくる。

 

「む。何しに来たのよパパラッチ」

 

「夜分に失礼します。お師匠様が目を覚まされたと聞いて飛んで来たのですが」

 

 その中にユウの姿は無かったが、よくよく考え直せば彼はまだ目覚めたばかりだ。あれ程の大怪我から回復してすぐに出歩かれたら、寧ろそちらの方が心配になる。速やかに彼の寝室まで直行し、快気のおめでたを伝えなければ。文は直後の行動の方針を、頭の中で素早く組みたてた。

 

「お師匠様……あぁ、ユウさんなら中にいるわよ」

 

「そうでしたか。上がっても?」

 

「えっ。あー、今はちょっとやめた方が良いと思うわ」

 

 しかし、霊夢は余り文を上げるのに積極的ではなかった。夜ももう遅いから嫌だとか、そんな彼女の個人的な理由あっての答えではなさそうだ。彼女の意思を超えて、何処か別の場所に問題点があるような、そんな返事であった。

 

「体調が優れませんか」

 

「そうではないけど」

 

 そっとしといてあげてと言うか、何と言うか。歯に衣着せない彼女には珍しいことに、言葉を選ぶせいでの言い淀みを募らせている。

 今この瞬間、自分がユウと顔を合わせられない理由とは。文は自問する。意識不明の状態で寝ていた間はきっと湯浴みもできなかったはずだし、もしかしたら久しぶりのお風呂でゆっくりと羽を伸ばしているのかも知れない。それなら確かに、少しばかり時間を空けた方が良いというのも分からなくはない。

 

「まぁ、邪魔はできないわよねぇ」

 

「おや。貴女は、あの時の」

 

「はぁい、天狗さん」

 

 古明地 こいしの怪我の痛みを和らげるに際して世話になった亡霊が、神社にいた。目的は文達と同じで、ユウの顔を一目見ることだろう。死の世界の住人とまで交流があるとは、彼の顔の広さに只々驚きである。

 今日は、隣にいた銀髪の剣士少女はいないらしい。置いてきたのか、はたまた他の用事があってこちらに来れなかったのか。ユウを救う要の一つとなってくれた彼女には、感謝を述べたかったのだけれど。

 

「随分と早い再会になったわね」

 

「その節は、どうも助かりました」

 

 ユウと交戦した怨霊 ──聞いた話によると三大怨霊に匹敵する怪物だったというが、それに重傷を負わされたこいしに対して、痛み少なく療養するための手助けをしてくれた。能力を上手く利用しての痛覚の緩和は効果覿面であったらしく、彼女に能力を使用された後のこいしは安らかな顔でぐっすりと眠りについていた。

 

「こいしちゃんの容態は如何かしら」

 

「安定していると伺っております。直に寝床から立てるようになるとも」

 

「それは朗報ねぇ。ユウも存外に元気よ、今し方起きたばかりだというのに」

 

 幽々子が既にユウとの対面を果たしているのは、明らかだ。口振りからして霊夢も会っているだろうし、そうなれば藍とて顔を合わせていないとは考え難い。彼の覚醒を喜びたい一方で、ならばどうして私は面会を遠慮しなければならないのかと不満も募る。

 だが、横車を押してユウの元へ突撃することこそは論外であるとも理解をしていた。常々の体調が万全な彼であれば最高速度での飛翔突進も厭わなかっただろうが、命に関わるレベルの危機からやっとのことで脱した相手にぐいぐいと行くのも、どうにも躊躇われる。つまるところは、文の中に形成されている倫理観の問題であった。

 

「『世の中に 思ひあれども 子をこふる』」

 

 そんな文の複雑な気持ちを読み取ってか、幽々子が古の歌を諳んじた。非常に有名な歌というだけあって、その場にいた誰もが意味をすぐに思い浮かべるに至った。

 

「……あぁ」

 

 親子の絆というものは、非常に興味深いものである。人妖が生を受けて初めに ── 妖の中には例外もいるが、大体の場合において一番最初に結ばれる絆となる。だからなのか、親は時として自らの配偶者よりも子を大切に想い、子はそんな親の元で育ちやがて添い遂げる異性と出逢い、親になる。

 太古の昔から連綿と続いてきた流れは、あたかも大河の如く未だに絶えることを知らないかのようである。当然、自らの血を分けた子を可愛くないと思うことが悟りを開くのに比肩する難度を誇る難行なのだが、親子とは必ずしも血の繋がりのある両者を指す言葉というわけでもない。義理の親という概念があるように、血縁関係が無くとも異なる二者は親子と呼ばれ得るのである。そう、彼らの間に深く侵されざる親愛の情がありさえすれば。

 

 成程、そっとしておいてあげてと言うわけだ。文も事情を把握して、決して高温ではなかった溜飲を下げた。それは確かに、邪魔をするべきではない。例え自分が弟子を名乗るものであったとしても。

 

「蚊帳どころか、宅の外に置かれるわけです」

 

「人を饗しもできない馬鹿みたいに言わないで。お茶くらい出すわよ、上がりなさい」

 

「それでは失礼して」

 

 仕方が無い。二人の意思を尊重して、少しだけ待ってあげるとしよう。やれやれ、慌てて飛び出してくることもなかったなぁと思いながら、文は先を歩いた霊夢達に続いて博麗神社の屋内へと上がっていった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「あたいが、ですか」

 

 地霊殿の一室、主の仕事場となっている書斎で、炬燵も無しに猫が丸くなった。丸くなったとは言っても、それは体ではなく目であったが。

 

「えぇ。頼めるかしら」

 

「そりゃあさとり様の頼みでしたら是非もありませんけど、またどうして」

 

「ユウさんの様子を見てきて欲しいの」

 

 任された仕事の一つに、地底に蔓延る怨霊の管理がある。放っておくと地底の街に流れていって悪さをしかねないので、時折ふらふらしている奴らをとっ捕まえたりするのが燐の役目となっているのである。

 不倶戴天、相性最悪の天敵たる怨霊を妖怪が管理するというのも変に聞こえるかも知れないが、それは何の霊的抵抗手段も持たない一般的な妖怪にのみ当てはまる話。燐の能力を用いれば、逆に元来脅威たる彼らに対して強く主導権を握ることができるのだ。

 

 それはさておき、燐は異変の後も変わらず鼻歌を歌いながら仕事に取り組んでいた。さとりが仕事場まで足を運んできたのは、そんな折であった。

 奇怪だし、何より危険極まりない行動に燐はいたく面食らった。さとりに手を出すリスクは、地底に住まう者達なら例外なく極大なものだと分かっている。故に消滅を前提として蛮行に走る阿呆はいないに等しいわけだが、だからと言って怨霊があちこちに漂っている場所に身一つで足を運ぶのは如何なものなのかと燐は危機意識の欠如しているらしい主を小一時間程問い詰めたい衝動を感じた。権力者だから大丈夫という理屈が罷り通るなら、出来心なんて言葉はこの世に生まれていないのだから。

 

「本当なら私が出向くべきところなのだけど、旧都のあれこれで首もまともに回らないのが現状でねぇ」

 

 まぁ、分かってはいたが世間話をしに来たということはなかった。幾らかの憂いを帯びた声で頼まれたのは、先日の騒動における()()の見舞いであった。

 事の始終に深く関わっていたとは言い難い燐には、薄っぺらい結果論しか語れないが、少なくとも彼のことを主犯と呼ぶのは宜しくない。何せ主の妹の怪我を処置し、地底を滅ぼす気かと言いたくなるような化け物(怨霊)を激闘の末に見事退けてみせたのだから。言うなれば英雄、救世主と称しても尊大ではなかろう。

 

 だが、彼が払った代償は相当に大きかったらしく、さとりから聞いた話では右腕が殆ど消失してしまったそうだ。それでも命は保ったと聞かされていたので、良かったと燐は胸を撫で下ろしていた。

 そんな彼の見舞いと言うなら、燐にも理由を付けて断る気は無い。正直見舞いくらいならペットに任せてくれても良いだろうにと燐は思うのだが、主人としては可能なら直接顔を出したいらしい。折り悪くも管理者としての立場に拘束されているがために、急遽代案として選ばれたのが燐であった。

 

「お空は安易に持ち場を離れられないし、貴女より賢いペットもいない。そんなわけで、白羽の矢を立てたのよ」

 

「成程。分かりました、お任せを」

 

「ありがとう。……行けと言って後出しのようになりますが、お気をつけを。彼は幻想郷の要たる神社で養生しているそうですが、その周囲を囲むは海千山千の猛者ですから」

 

 まるで見てきたかのように、迫真の口調でそう語るさとりに、冗談ですよねとは聞けなかった。

 彼女をして猛者と言わしめる怪物は燐にも数名思い当たるが、そんな奴らが一箇所に固まっているとは思い難い。怪物は得てして一癖も二癖も捻られており、それでいて暴れれば常識の埒外に出た力を他者に見せつけるものだ。

 加えてその手の奴らは、異常なまでに自らの力を信じている。無論信じるに足るだけの力はあるのでおかしな話だとは思えないが、つまるところ化け物同士が顔を合わせたら、どう考えたって雌雄を決するための戦が始まる。それこそ八雲のように主従関係でもない限りは、決闘は避けられぬ運命であろう。

 

「あの鴉天狗、聞くところによると天魔だそうで」

 

 ふぁっ。

 

「更に境界の賢者とその式、そして神社の巫女がいるのはほぼ確実でしょう。信じ難い話ですが、これでもまだ序の口である可能性は拭えません。九分九厘心配無用と言えますが、残りの一厘については何とも、というのが私の正直な気持ちです」

 

「一厘が出しゃばってこないのを切に祈ります……」

 

 万が一にも一厘に当たり、しかもその一厘が()()に転んだとしたら、生還は潔く諦めるのが吉か。砂のような笑顔をさとりに見せてから、燐は妙に軽快な足取りで地霊殿を発った。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「あ、お燐だ」

 

 一%の確率で逃れられぬカルマ()が訪れるとかいう、デンジャラスな地へ赴く一兵卒のような気持ちを味わっていた燐は、もうすぐ橋姫の橋に差し掛かるという所にて声を掛けられた。

 燐を呼び止めたのは、黒谷 ヤマメ。地底に住まう、蜘蛛の妖怪である。大妖怪程ではないが癖の強い地底の妖怪の中にあって、明るく人付き合いの良い性格をしているので、燐を含め友人知人は多い部類にいる。

 

「お出かけかな。付き合うよ」

 

「や、済まないね。出かけるので違いないが、お申し付けあってのことでさ」

 

「ありゃ。それは邪魔できない」

 

「邪魔するつもりだったのかい」

 

 軽快なやり取りも、もう慣れたものだ。形だけの渋面を作ってやれば、彼女はけらけらと、快活に笑う。友人の多いわけだ。彼女と一度でも会話をすれば、大抵の人妖は簡単に気を許してしまうだろうから。

 かく言う燐も、知り合ってから親しくなるまでに殆ど時間が掛からなかったのを覚えている。当時は()()覚のペットということで、悪い意味で一目も二目も置かれていたので、よくもまぁ飽きずに話しかけてくるものだと不思議がっていた。飼い主と対極にいる妖怪だなと思ったのは、幸いなことに『本人』にはまだばれていない。

 

「あ、そうだ。もし用事とやらが済んで時間が余ってたら、色々と地上の情報を取ってきてよ。地上の強大な妖怪も、結構な数が今回の異変に関わってるんでしょ」

 

「つまりは、いつものってわけかい」

 

「そーいうこと!」

 

 地底で何か騒ぎがあれば、ヤマメはそれについての情報を獲得しようと躍起になる節がある。お祭り好きな気質なのだろう、近場であれば直に見学しにいくことすらあるくらいだ。危ないからやめておけと周りも諭してはいるが、この習慣ばかりはどうにも治る気がしないのはきっと燐だけではあるまい。そして毎度の如く無事に帰ってくるのは、彼女の防衛能力以上に運の強さが絡んできていると燐は睨んでいたりする。

 

 しかし、今の燐はちゃんとした用事があって地上へと赴く身だ。長居はできないので余り期待せずに待っていてくれと伝えると、その用事とやらが何なのか尋ねてきた。特に秘匿しておけとも念押しされていないので、良いかと思ってヤマメにも話すことにする。

 如何にも友人同士らしい、日常的な会話であった。二人の間に流れる雰囲気も、至極和やかなものである。

 

「実は、見舞いの代理を頼まれてねぇ」

 

「見舞い?誰のさ」

 

「ユウって神──」

 

 一瞬、燐の目にヤマメがぶれて映った。あれ、と思うより、燐の真正面にいる姿を視認する方が早かったかも知れない。おかしい、ほんの数瞬前まで体一つ分の距離が二人の間にあったと記憶しているのだけど。

 

「──、」

 

()()

 

「え、えっと」

 

()()()()()()

 

 和やかな雰囲気とは幻想か何かだったのか、鬼気迫る表情で問い詰めてくる。本人に問い詰めているという自覚があるかは分からないが、圧を受けている燐はそう感じた。

 何せ機嫌の悪い勇儀と喋っている時でもここまでか、というレベルで体が髄まで竦み上がっている。ヤマメがばら撒いている不穏な空気は、燐の恐怖的本能を手荒く刺激するに余りあるものであった。

 

「……聞く限りでは、違うと思う」

 

「大怪我ってことかしら」

 

「あぁ。一命こそ取り留めたが、今なお意識が回復しない状態にあるとは聞いてるよ」

 

 下手に隠すのは良くなさそうだ。煙に巻く話術の心得も無いわけではないという自負があったが、果たして今の彼女に一切の疑念を抱かれることなく自らの知る真実を隠し通せるだろうか。多分無理だろうとすぐさま脳内で否定の判断を下し、大人しく知っている情報を伝えることにした。

 この蜘蛛、あの神のことを知っているようだ。もしかすれば、燐よりも良く。彼が地底に潜っていたのはほんの一日にも満たないはずだが、何処でそこまで親しくなったのか。偶然出会い、少し喋って少し仲良くなったくらいなら有り得なくもないけれど。

 

「私も見舞いに行くわ」

 

「えっ。いやいやちょいと待ってよ、そりゃ不味い。今回あたいはさとり様の頼みだからってだけで」

 

「あんたちょこちょこ破ってるじゃない」

 

 うっ、と燐が言葉に詰まる。確かに火車の乗客を探すという名目で不可侵の禁を破ることは往々にしてあるが、この場合脆弱ではあるものの大義名分は存在している。だからさとりに咎められたことは無いし、精々が気をつけなさいと注意される程度だ。

 しかし、ヤマメの目的はユウの見舞に同行することだ。これはちょっと、いやかなり御法度と言えよう。火車で運ぶものは地底のエネルギー源の維持にも関わっているのでぎりぎり認められようが、見舞いは明らかに個人的かつ私的な理由であり、露見すれば地底・地上双方の代表者がヤマメに何らかの制裁を加えるのは目に見えている。というより、どれだけ忍んだってばれないわけがない。だって、さとり曰くユウが寝ている博麗神社には八雲 紫が極めて高確率でいるというのだから。

 

 流石に友人がきつい罰を受けると分かっていて連れ出すのは無理だ。すぐさま諌めたが、ヤマメの決心はそう簡単に揺らぐものではなかった。

 

「さとりの愛猫が許されて、私が駄目とは言わないわよね」

 

「うぅん」

 

 これは、説得しても無駄か。かくなる上は緊急策を講じるしかない。被害が少なそうで、かつヤマメが満足するような手段は何かないものか。頭を捻り、そして今回は中身の伴った苦々しい所作を取りながらヤマメが地上へ行く理由(言い訳)を考え出した。

 

「仕方ない、じゃああたいの連れ添いってことで行こうか」

 

「話が早くて助かるわ」

 

 結論を急いたのはそっちだろうに。喉に引っかかった文句は、燐の意思により嚥下されることとなった。今の傍目にも平常運転していないヤマメに下手なことを言えば、何が返ってくるか分からないから。

 かくして賽は投げ込まれた。燐が自発的に投げたのは事実だが、抗い難い圧力に負けて投げたのだ。断じて喜んで右腕を振りかぶったわけではない。だからどうか神様よ、早計にも我が運命を決定付けないでおくれ。地の底からでは遠過ぎるだろうに、願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「お邪魔す」

 

「 」

 

「お姉様。この天狗、『目』が見えないわ」

 

「〆る手間が省けて良かったじゃない。今宵の肴は鳥肉料理ね」

 

 博麗神社の襖をヤマメがすぱーんと開き、一番初めに目に入ってきたのは力なく仰向けに横たわる一羽の烏天狗であった。予想だにしない光景に、さしものヤマメも二の句が継げないようだ。あと、もう少し静かに開いて欲しかった。集まる注目的な意味で。

 神社までの道のりは、はっきり言って何事も無かった。瑣末事でも良いから話せ、と言われたって何も無かったと答えざるを得ない程であった。語るも無駄とはまさにあの道中を形容するためにある言い回しである。

 

 そんなつまらぬ道すがらはさておき、燐はぐったりとしている烏天狗に見覚えがあった。彼女はつい先日、地霊殿までやって来ていた。食べ物の味に拘るさとりが、素直に美味しいと褒めそやす素晴らしいうどんを作るお手前があった。料理上手なんだなと感心していたが、ついさっき天狗の頭であるという衝撃の情報を得たので、今となっては口が裂けても美味しそうなうどんを作ってたねぇなんて気軽に言えやしない。

 

「あん?誰よあんたら」

 

「ユウ君の知人。怪我したって聞いたから、そこの猫と一緒にお見舞いに」

 

 成程、この子が。脇といい足といい、えらく簡略化された巫女服を纏う人間の少女を見てすぐにそれが誰か理解するに至った。

 燐自身、当代博麗の巫女をその目で見るのは初めてであった。聞いていた通りの莫大な霊力の持ち主だったが、同時に意外にも敵意らしきものは感じ取れなかった。悟られぬよう隠しているのか、それとも敵視するに能わないと見切られているのかを燐に知る術は無いが。

 まだ十四、五くらいの歳若い少女ながら、この場にいる誰もを恐れない。燐など獰猛な猫に囲まれた鼠の気持ちを肌で感じていたというのに、大した少女である。霊力も先々代、或いはもう一代前の博麗の巫女と比べてさえ遜色が無いように見える。この血筋は、代々規格外を生み出すのが確約されている筋なのだろうか。

 

「あたいは火焔猫 燐。地底の管轄者であるさとり様のペットだよ。目的はそいつが言った通り、ユウさんの見舞いだね」

 

 名乗った瞬間、自分達に視線が突き刺さるのを燐ははっきりと知覚した。概ね予想していた通りの結果だが、それでも体が震えるのは抑えられなかった。

 

 忌避の感情が感じ取れなかったのは、ある種の奇跡と言っても良いだろう。地底の妖怪が神社まで尋ねてきているのが余程物珍しいのか、好奇と興味が大挙して二人に押し寄せていた。

 八雲のように地底と一定の関わりがある妖怪でもなければ、地底の住人をその目で見たことのある者は少ない。それだけ地上との間にある不可侵条約が徹底して守られてきたということにもなるが、果たしてそれは手放しに喜ばれるべきか。

 

 この中にあって、博麗の巫女だけは如何なる感情も地底組に向けることはなかった。燐にはそれが、ひどくおかしなことに思えた。まだ歳若く、地底という場所の性格を詳しく知らないが故の無関心なのか。それらしい理由を探すには、しかし彼女との付き合いが浅過ぎた。

 

「あー、取り敢えずは見舞い客ね」

 

 ユウさんならそこで寝てるわよ。示された先を見ると、そこには布団から身を起こした少年。否、少年の姿を取る何者かが天魔に向かって何とも言えない微妙で曖昧な笑みと思しき表情を向けていた。呆れの余り顔の筋肉が引き攣っているだけのような気もする。

 

 ふと、彼の目が二人を焦点とする。少し遅れて来客があるのに気がついたのだろうか、何かこちらに合図を送ろうとしているのが見える。ただ、送ろうとしているだけであって実際に行動に移せたわけではなかったが。だからこそ燐も、本来見流してしまう一場面を認識することができたのである。

 たっぷり三秒は、無言のままに向き合っていた。いや、ユウの視線は燐の何処をも捉えていない。彼が注視しているのは唯一人、燐の隣にいる何故か息を荒げ始めた蜘蛛であるようだ。ぎしり、と不自然に固まった彼の体が再び動き出すのと、真横でヤマメの気配が掻き消えたのは燐の感覚の上ではほぼ同時の出来事であった。

 

「……」

 

「紫様かと思い割り入れば、女郎とは」

 

 ユウとヤマメの間に、長身の女が立っている。まるで彼らの間を裂く意地悪な継母のように立ち塞がるその姿は、例えに負けず結構な威圧感を放っていた。だがユウは突然の乱入にも何ら驚いた様子を見せず、寧ろ何処か感心したような目で眼前の女が揺らす尻尾を見ていた。

 彼が魅入ったのは少女の鮮やかな割り込みか、それとも見事な金毛尾か。たった今襲われた者のそれとは思えない程に彼は冷静で、そして漆黒の瞳に艶やかな光沢を与えていた。

 

 突如として砲弾の如き勢いで地を蹴ったヤマメを止めたのは、いっそ喧しい程に尻尾が自己主張の讃歌を歌い叫ぶ妖怪。燐はその妖怪との対面こそ初めてだが、話には良く、よーく聞いてきている。その立場についても、そして力についても。

 故に燐は脊髄反射で次なる行動を決定する。ヤマメを止めなければ、と。

 

「宿で貪るだけでは、飽き足りんか」

 

「何よ、狐か何か知らないけど退きなさいよ」

 

「そうはいかん。お前からは紫様に近いものを感じる」

 

 ヤマメと八雲の間に、類似点があると言うか。言ってはなんだが、著しく何か思い間違えてはいないだろうか。燐が想像できる限りでは、対極に位置する性格の持ち主達なのだが。

 八雲 藍が蜘蛛娘の何処に己が主と似た要素を見出したのか、気になるかと言われればまぁ確かに気になるが、今は燻り始めた火種に砂をかけるのが先だ。すいすいと靱やかな動きでヤマメの後ろを取り、最大限の笑顔を作ってから肩をとんとんと叩く。

 

「まぁまぁ、ヤマメよ。あたいらは見舞いに来たんだし、ほら。式さんも、大人しくしてるんで見逃してもらえると嬉しいんだけど」

 

「……ユウ様」

 

「良いよ」

 

 藍から見れば燐は、主のビジネスパートナーのペットだ。顔も知っているし、さしたる危険な妖怪でないことも分かっている。有り体に言えば信用に足ると判断したため、最終的な決定はユウ自身に任せることにした。

 ヤマメは、燐の仲裁に異議を唱えなかった。後ろから肩を掴まれてぐいぐい引っ張られても、抵抗らしい素振りも見せなかった。かっ飛んでいった割には大人しく引き下がったなぁ、と燐は少し意外に思った。そちらの方が場を穏やかに収められるので有り難かったのは、言うまでもないことだろう。

 

 もぞもぞと布団が動き、手招きされているのが見えた。ちらっと藍の方を窺っても、ただ拱手して立っているだけだったので、燐の頭で勝手に許可のサインだと認識して近づいていった。横を通り過ぎても何も言われなかった辺り、正解の判断を下せたのだろう。

 

「遠路遥々済まないね。古明地の遣いか?」

 

「うん。さとり様に代わって、礼を言わせてもらうよ。地底を助けてくれて、ありがとう」

 

 燐自身、その感謝の言葉は飾りではなかった。地底という世界を、そしてそこに住まう全ての者を救ってくれたことには感謝してもし切れないと思っている。便宜上さとりの名を借りたが、同時に燐個人の思いを伝えた謝辞でもあった。

 

 ユウは、しかしどうしてか儚げに憂えた。

 

「助けた、かぁ」

 

 まるでそうではないのだと言いたげに、しかし言い出すことは無かった。中身の溢れそうな容器に無理矢理蓋をしたかのように、ユウの中で感情が大いに湛えられている。憤怒か悲哀か、それとも卑屈か。容器はか細くも分厚く、中身を知ることまでは叶わない。

 燐が訝しむより早く、ユウは話題を変えた。故に誰もがこの一瞬に込められた奇妙さを追求することができなかった。

 

「いや、独り言だ。……そうだ、古明地の妹さんはどうしてる?」

 

「あ、こいし様だね。元気だよ、完治までもう遠くはないってところさ」

 

「それは良かった」

 

 そうだ、と話し始めた時、既に彼は内に秘めたる感情を完全に制していた。とても穏やかに、こいしの元気であることを心から喜んでいた。数瞬前に見えた心の渾沌が、何かの見間違いだと思える程に自然体での会話だった。

 しかし、穏やかならぬ少女がいた。何故か先程から一言も発することなく、じっと俯き立っていた少女であった。

 

「ユウ君」

 

「君付けは慣れないな。ユウ、で結構」

 

「その腕は、何」

 

 声の震えたヤマメの視線は、本来肉感的な右手があるはずの場所に釘付けになっていた。そう言えば、軽くない怪我を負ったと言っただけで、詳細については伝えていなかったか。燐は別に意図して彼の状態を隠していたわけではなく、ただ伝えそびれていたに過ぎない。

 

「大怪我って、まさか」

 

「主たるものの一つとは言えるな」

 

 ヤマメは、明らかな動揺を見せていた。普段の快活さはすっかり鳴りを潜め、纏うは震慴の雰囲気であった。歯の根が噛み合わずにかたかたと硬質な音が鳴る。

 こちらをじっと見つめていた藍が、怪訝そうな目をヤマメに寄越す。普段なら嫌でも気がついていたであろう白地なそれにはぴくりとも反応せず、彼女は蒸し暑い夏の中で強く震え続ける。

 

「ヤマメ?」

 

「……その腕、治るの」

 

「再生という意味なら、残念ながら」

 

 ヤマメの顔から表情というものが滑り落ちたのを、燐は確かに見た。或いは見てしまったと言うべきか。それは主人の妹が時折見せる無感情な様体にも似通っていた。

 快楽も哀惜も憤怒も、そして怨嗟までもが彼女から消え去った。その瞬間、ヤマメは人形ですらなかった。

 

「ちょっ、ヤマメ?ヤマメってば!」

 

 人形でなかったが故に、彼女はいっそ滑らかなまでの挙動を見せた。誰も制止の声を挟めず、ただ走り去っていく地底蜘蛛娘の後ろ姿を眺めるのみであった。

 知人の突然の奇行に、燐は暫しの間目を丸くしていた。やがて我に返り、本人に代わってユウに謝罪した。

 

「はぁ。ごめんね、余り気を悪くしないでおくれ。あいつ、ユウさんの怪我にびっくりしたみたいだよ」

 

「気にしやしない。しかし、俺の知っている彼女とはえらく違ったな」

 

 地底へ降りていた時に出会ったヤマメは、劣情を全面的に露わにしてユウへ飛びかかろうとしていた。パルスィが羽交い締めにして抑えてくれなければ、初対面の相手を迎撃する羽目になっていたかも知れない。気が進まないこと甚だしいので、迎え撃つ必要が無くなったのは良かったと思う。

 

「もう少し……何と言おうか、複数の意味で突き抜けていたんだがなぁ。尤もこの痛々しいまでの体たらくだ、見ていられないという気持ちも理解できる」

 

 ユウの神気は、現在不安定になっている。彼の意思に関係なく波が立ったり、逆に沈みこんだりしてしまうのだ。原因は、重傷を押して神力を体に流し込んだことだろう。地底の龍脈を流れるエネルギーが地上のそれに比べて幾らか淀んでいたのも、彼の受けた霊的ダメージに拍車をかけていると見られる。

 五体満足の状態であれば問題は無かった。安定して龍脈のエネルギーを吸い上げ、多少の淀みくらいなら体内で濾過してしまえた。結局は体の損傷を鑑みない無茶をした代償でしかなく、彼にとってこの不安定さも自業自得として受け入れる他になかった。

 

「燐、で構わなかったか」

 

「うん。何かな」

 

「お節介で傲慢だと承知の上で頼む。もしもヤマメを咎めるつもりなら、それはどうか留まって欲しい。彼女の反応は至極当然のものだ、礼を失してはいない」

 

 だから、と言うと少し語弊も生じるが、兎に角ユウはヤマメが踵を返していったのを微塵も咎めるつもりがなかった。誰しも見たくないものがあり、それに出くわしたならば逃走するくらいは充分に考えられることだ。彼だって発情した紫と向き合えば脇目も振らずに逃げの一手を打つし、目を輝かせた勇儀を見れば即座に龍脈に潜って射程圏外へ出る。

 

 とは言え、彼女の同行は燐が容認したものだ。ユウがおおらかな態度を取ってくれたって、責任は感じるし何か詫びは必要だと思う。日を改めての再訪問をさとりに打診しておいた方が良いかと考えていると、唐突にユウが顔を伏せた。

 否、寧ろ伏せたと言うよりは、力なく首が落ちたように見えた。何かと思った直後、彼は酷く咳き込み始めた。口元を押さえる右手の縁から、ぽたぽたと赤い液体が垂れ落ちている。すかさず数名の妖怪が駆け寄り、背中を擦ったり濡れた布巾で血の跡を拭き取ったりしている。まだまだ彼が本調子より程遠いことを示す一幕に、燐の心はちくりと痛んだ。

 

「ユウ様、もうお休みに」

 

「もうあと一つ、付き合ってもらえるか?」

 

 藍の提言を左手で制し、ユウは再度喋り始めた。この後の予定も特に無いので燐は構わないが、吐血の症状が出ているのだから今日はもう横になって休んでおいた方が良いのは明らかだ。喀血があるということは、喉か内臓に出血を伴う深刻な傷が刻まれている証拠である。

 そんな燐の気持ちを察してか、彼はさらに一言を付け加えた。

 

「俺の体調は気にしなくて良いよ。だが、俺の口から話すべき内容ではあるまい」

 

 藍に向けて、然るべき妖怪をこの場に呼ぶよう頼む。彼の意思を尊重してか、彼女は何も異論を挟まず部屋を出た。部屋に残った他の妖怪達も、複雑そうな視線を向けはしたがそうするに留まった。

 そこまでして、今この場で達成したい要件とは何なのか。斯様に重大な案件なら、自分ではなくさとりが出向かなくても良いのか。燐の頭には幾つもの疑問が巡ったが、そのどれをも解決できないままに、藍はとある妖怪と共に部屋へ戻ってきた。

 

「お呼ばれしてきましたわ」

 

「来たな」

 

 その妖怪は、燐の予想していた数名の妖怪のうちの一人であった。この場に集まる錚々たる顔ぶれを見て、逆に何故ここにいないのか疑問に思っていたところだ。

 別の部屋で職務にでも携わっていたのだろう。燐が思うのも何だが、もし仕事で忙しかったならわざわざ御足労頂いて恐縮である。管理する場所は違えどさとりも一つの世界の取り纏め役だ、彼女が時に隈を作りながら仕事に励んでいるのを燐も幾度となく見てきた。

 

「あら。地底の猫ちゃんじゃない」

 

「どうも、賢者さん。今日は見舞いで来させてもらったんだよ」

 

「まぁ。どうぞごゆっくり……とはいかないかしら」

 

「そうだねぇ」

 

 紫は地底へさとりとの話し合いに来ることがあり、燐とも面識があった。絶対にさとりを地上へは招かず、必ず紫が地霊殿まで出向くのだが、この辺りは誠意の見せ所なのだろうと睨んでいる。どんな理由がそこにあっても、出不精な主にとっては移動の手間が省けて有り難いのだろうけど。

 

「それで、ユウ」

 

「お察しの通り」

 

「そう」

 

 やっぱり、と言うような顔であった。紫は燐を ── 少なくとも地底の住人を交えた話し合いをすると予見していたようだ。

 自然と背筋が震えた。いつもはさとりに撫でられながらだったので綺麗な妖怪だなぁ程度にしか考えていなかった紫が、今は微笑みの裏に幾重もの思考の網を張り巡らせている凄腕の狩人にさえ見える。自分の中でのさとりという存在が如何に大きなものであったか、再認識するには良いタイミングだった。もし燐の願い事が一つだけ叶うとすれば、彼女は迷うことなくさとりをこの場に呼び寄せていたに違いない。

 

「では、燐。地底の代表として、私の話を良く聞き覚えて下さいね。他の皆も、取り立てた用事が無ければ聞いていくのを勧めるわ」

 

「天魔殿は如何致しましょうか」

 

「またそんな固い呼び方。ま、起こしてあげて。彼女が知ればその情報は風よりも早く幻想郷を吹き渡ることになるもの」

 

 神社に入って初めて目にしたものは、倒れた天魔であった。冷静に考えるとどういう状況下で天魔がぐったりしているのか分からないので怖いのだが、今の今まで誰もそのことに触れてこなかったので、燐も介抱や看病について言い出せなかった。

 まさか日常茶飯事というわけはないだろう。天狗の王が日常的にダウンしているなら、地上は決して楽園に非ず。悪鬼羅刹の集う、地獄である。

 

「天魔殿」

 

「 」

 

 天魔は黙して語らない。語らないというか語れない彼女は、藍の呼びかけにも反応を返さず目をぐるぐると回している。一体誰が、彼女をここまで追い込んだのだろうか。

 

「……私のせい?」

 

「全面的に。首根っこ掴んで引き摺り回されたら、誰でもへばるわよ」

 

 あー、成程。花の妖怪にそんな雑な扱いをされれば、そりゃ意識も飛ぶ。寧ろ命を手放さなかったのが頑丈さの証である。これが燐なら、多分捥げていた。尻尾とか首とか。

 

「引き摺ってはないわ。掴んで飛んだだけよ」

 

「似たようなものじゃない。ほら、ちゃちゃっと起こして」

 

 何で私が、とかぼやきながら、風見 幽香は白く美しい手のうち左手を文の肩に掛け、右手の人差し指を首の中心部付近に当てた。何をするのだろう。今の時点で、良い予感は欠片もしないのだが。

 

「えいっ」

 

「ぇぐぇっ」

 

 嗚呼、鬼畜。幽香の人差し指は、文の首を思い切り押し込んだ。ある意味目覚まし効果は非常に高い方法だが、力加減を間違えるとそのまま永久の眠りにつくことになるので乱用というか使用そのものを禁じられるべき手段である。本当に、文が妖怪で良かった。

 げほげほと噎せて、意識の浮上した文は目を白黒とさせる。気絶のせいで記憶が一時的に朧気になっているようで、事態を飲み込めないという混乱の表情を強く顔に張り出していた。

 

「な、何……」

 

「おはよう」

 

「あ、おはようございます?」

 

 取り敢えず挨拶をされたので、無視するわけにもいかず鸚鵡返しをしておいた。おはようって、私は眠っていたのか。そう言えばさっきまでしていたことも思い出せないし、何だ私はぐっすりと寝こけていたようだ。だが、何故か首に強烈な違和感を感じるのだが、寝ていたにしてはおかしい感覚ではないか。まるで喉の中を拗られ

 

「それじゃあ文も起きたことだし、話を始めていきましょうか。肩肘張って聞けとは言わないけれど、そこそこ重要な話という点をお忘れなきよう」

 

「あのー」

 

「皆、地底と地上の間にある条約についてはご存知よね」

 

「無視ですかそうですか」

 

 真実はいつも一つ、されど光の元に引き出せるとは限らない。軽く往なされぶーたれる文を他所に、霊夢が問いに答えた。

 

「確か相互に侵すべからず、みたいなのがあるのよね」

 

「えぇ。この条約に基づいて、地上と地底は独立した、それでいて何の関わりも無い別個の世界として確立されていたわ」

 

 この条約は、古くより在る妖怪にとっては良く知られたものである。地上を粗方知り尽くした古参妖怪の興味は大別して天と地の二箇所へ向けられるのだが、天に関しては存在しているにも関わらずそこへ行く手段が無く、地は条約の効力によって立ち入ることができない。いや門戸開けよ、と彼女達が何度思ったか分からないくらいだ。

 幻想郷の賢者と地底の管理者の間で互いに関わり合うことを止めようという結論に至り、共に納得した上で不可侵条約を締結した。表向きにはこのようなカバーストーリーが適用されているが、信じていない妖怪が大多数を占めているのが現状である。

 

 地底という世界が確立するより前、まだ幻想郷に天界と地上と地獄しか存在していなかった頃、ある妖怪種が地上を去り地下空間に独自の楽園を築いた。これが地底の始まりであるとされる。

 地獄が切り捨てた土地を活用し、地上に適応できなかった妖怪の溜まり場を作ったのは鬼であった。鬼は好き勝手に暴れるのを好み、故に統治というものにはてんで無頓着だった。だから彼らは、自分達に代わって楽園を治める者を立てた。さとりが地底を統治する以前の、地上と地底との距離が最も大きかった時期の話である。

 

 賢者がそのような状況を無視して、円満に相互不可侵の条約を取り付けたなんて考えられない。誰もが膾炙される通説の裏を読まずにはいられなかった。それだけ地底との間で交わされた約束事は謎の多いものであり、また現在においても不明な点が多岐に渡る。

 

「此の度、私と地底の管理を担当する古明地 さとりという妖怪とで話し合いをしたの。その結果、相互不可侵の禁を撤廃するという結論で合意に達しましたわ」

 

 その謎多き条約に、突如齎された撤廃宣言。場の皆が驚き、或いは真意を測るような目を紫に向けた。

 

「何かご質問があれば」

 

「はい!はいはいはい!!」

 

「焦らずとも答えるわよ。文、どうぞ」

 

「合意に達したと言いましたが、それは具体的に何時のことですか?」

 

「三時間くらい前ね」

 

 三時間。百八十分。スリーアワーズ。鉄は熱いうちに打て、ネタは熱いうちに広めろと天狗界隈では常々教訓として語られているが、ここまで新鮮な、それも幻想郷の今後に関わる重要な情報を得られたのは文の天狗生活の中でも初めてと言えた。

 いち早く情報を掴んだ喜びも多分にあるが、裏で密かに進んでいた話の内容を知ってしまったことに対する戸惑いも少しあった。この衝撃的な暴露を記事とするかは、もう少し紫の話を聞いた上で慎重に考慮する必要があるだろう。

 

「じゃあ、あたいからも。さとり様は、その提案について心から納得して同意をしたの?」

 

「ふむ」

 

「誤解しないでね、賢者さんがさとり様を脅して無理やり認めさせたとは思っていないよ。でも、余りに急な話だから」

 

 地底に住む燐からしても、やはり寝耳に水な話であったようだ。さとりからは恐らく何も聞かされていなかったのだろう。燐と並んで長くさとりの元にいる空も、同様である可能性が高い。

 燐からこの質問が投げ掛けられるのは想定の範囲内だったのか、間を殆ど置かずに紫は回答を述べた。文は話に聞き入るように目を輝かせ、幽香は泰然として清聴の構えを崩さない。吸血鬼姉妹にとって、やはり地底は馴染みの薄い場所なのか、彼女達は興奮より好奇心が前面に現れ出ていた。

 

「構想自体は、暫く前から私達の間に構築されていたわ。八割組み立てられていた概形を一気に完成まで持っていったのは、ご想像の通り今回の一件よ」

 

 どうして化け物が生まれ、そして暴れてしまったのか。原因を突き止め、解決に必要であると感じたからこそ彼女は撤廃に乗り出したわけだ。さとりも紫の考えに共鳴したことで、強い願望は確定した未来へ姿を変えた。

 此度の事件の中核にいたユウは、滔々と流れる娘の言葉を聞いていた。あくまで聞くだけで、口を挟むことは無かった。だが、彼が真摯な態度で聞き入っているのは誰の目にも明らかであった。

 

「話題が話題だから、機密性を考慮してこの問題は極々一部が知るに留めていたの。驚かせてしまったのはごめんなさいね。さとりの同意については、私は嘘偽りのないものであると信じているわ」

 

「分かった。ありがとう」

 

 燐は紫と特別長い付き合いも無ければ、さとりのように心を見透かすこともできないが、彼女の語った内容が虚構であるとは思えなかった。一歩引いて脳内で情報を整理したら、どうにも信じ難い眉唾物の百鬼夜行だと言うのに。

 本心からの言葉で、あしらうような態度も取らずに懇切丁寧な説明をしてくれた。少なくとも燐は、そう認識することに一切の抵抗が無かった。ならば自分の役目は、この会談の中身を漏れなく主人に伝えることに変わりない。掛ける準備の整っていた脳内の解釈(フィルター)を破棄し、以後の話を聞く姿勢へと戻った。

 

「では次に、近い未来のお話を。まず、文が妖怪の山にこの知らせを持ち帰ってから七十二時間後に相互の通行を許可します。これは地底へ続く唯一の道の入口が妖怪の山にあるから、そこに住む天狗や河童などへの情報伝達に必要な時間として設定しているわ」

 

「成程。しかし、二十四時間もあれば充分とは思いますが?」

 

「私達にも準備があるもの」

 

 つまり、妖怪の山の住人への宣伝期間と称しておいて、実は裏でやることがあるらしい。何も折角最高の形で纏まった状況をぐちゃぐちゃに引っ掻き回すつもりは無いだろうから、静観しておけば良い。流石にこの面子は紫の性格も行動パターンも把握しており、非常に冷静であった。燐だけは、すわ最後の大詰めをするのかと緊張の影を差した面持ちであったが。

 

「そして、地上からの第一陣は私と藍が担当することになっているわ。私達は地底の街でさとり、及びそのお連れと会食をするの。私達が帰ってきてから二十四時間後に、本当の意味で自由な行き来を認めるというのが、大まかな流れね」

 

 賢者と地底の責任者が同じ卓に座るというのは、両者の友好と融合を確認し、過去を精算するために必要な行為である。後ろ暗い過去は教訓として胸の内に残され、一方で人妖の目は、足は未来へと向けられるのだ。

 革命は往々にして世界に望まれる。きっかけは些細なものだ。漣が隣の水を飲み込み、それを繰り返すことでいつしか何もかも洗い流す大津波となるように、革命は世を根底から一新し得る究極の一手だ。民衆が武器を手に悪政を敷く王権を打ち倒すのと同じく、紫やさとりも因習蔓延る苦境に否を突きつけたのである。唯一の差を挙げるとすれば、彼女達は刀も銃も用いなかった。

 

「同様に、何かあれば受け付けますわ」

 

「それじゃ、お連れっていうのは勇儀の姐さんのこと?」

 

「いいえ、貴女と空のことよ。さとりの希望があったから、勝手ながら加えさせてもらっているの。()だってペットみたいなものだし、両者ペット同伴と思えば和やかかなって」

 

 革命の旋風を巻き起こした幻想郷のジャンヌ・ダルクこと八雲 紫は、くすくすと面白そうに笑うのであった。ペットと扱われた藍の、式神に訂正してくれという抗議の目線には知らないと言わんばかりに背を向けて。



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第二十話 過去を超えろ

 ある日の、日も落ち喧しい蝉までもが寝静まった夜更け。妖怪の山は、常ならぬ喧騒に包まれていた。

 

「号外!号外!号外ッ!!」

 

 大きな黒翼を羽ばたかせ、凄まじいスピードで空を翔るものがあった。否、生物に『あった』という言葉を使うのは間違いである。正しく言うなれば、空を翔る者がいた。

 

 妖怪の山を高速で飛び回るのは天狗の他にいないが、少女はその天狗の中でも頭一つ飛び抜けた飛行速度と、木々の間を縫う精密な飛行を可能とする。まるで昔から山のことを知っているかのような慣れた様子で、少女は飛びながら何かを撒き散らしていた。

 

 よく見れば、それは紙の束であることが分かる。表裏にびっしりと字や図が詰められたそれは、烏天狗の手により作られた新聞であった。今、一部の烏天狗の間に新聞作成の流行が到来しており、少女はこの流れに乗りかかって自らの作った新聞を配って回っていたのだ。尤も絨毯爆撃もかくやという莫大な量を投下しているので、配布しているようには何処から見ても見えなかったのだが。妖怪の山の紙資源が尽きるのは、案外遠い未来の話ではないかも知れない。

 

 やがて、持参した全ての新聞を投下もとい散布……でもなく配布し終わった烏天狗は、一本の木の枝に座ってふぅと一息つく。少し疲れを滲ませながらもにこやかな顔は、一仕事を終えたことを喜ぶ働き者のそれであった。家に酒は、何本あったっけ。彼女も天狗というだけあって、酒は人並み妖怪並み以上に好きだ。ある分全て使って幻想郷の朗報に乾杯しようと、託けたことを考えていた。

 

「……文様」

 

 下から声が掛かったので見下ろしてみると、白いわんこが文を見上げていた。手には剣と盾を持ち、さながら外敵と対峙している時のような格好であった。

 

「おや、椛。何かあったのですか?」

 

「妖怪の山に突如として黒い高速飛翔体が現れたと報告が上がったのです」

 

 成程、そういうわけでの武装か。椛の堅苦しい格好については理解できたが、はて、彼女の言う黒い高速某なんて見たっけか。新聞は河童の沢を含めた山の全域に配っており、その中で姿どころか気配さえ確認できていないのだが。まぁ、きっと位置取りなどの問題で偶然感知できなかったのだろう。

 

「家で久方ぶりの非番を満喫していた私は、その報を受けて慌てて駐屯所へ戻りました。白狼天狗ではとても追い切れない程の速度だということで、急遽烏天狗の方々に協力を要請しました」

 

「何とまぁ。誰が援軍として出たのです?」

 

「はたてさんと(おさか)さんが、折り良く協力を申し出て下さいました。しかし我々より速く飛ぶ御二方を以てしても、その飛翔体は捕えられなかったのです」

 

 あの二人が追いつけないとは。これには流石に文も驚いた。確かに飛行速度で彼女達を振り切れる人妖は数名思いつくが、ただ速いだけでは山の木々に阻まれてあえなく激突、墜落からの拿捕である。そうならなかったということは、つまり謎の物体は妖怪の山に関わる何者かである可能性が極めて高い。

 烏天狗を空中で撒き、尚且つ山の地理に明るい存在。そうなると、大天狗くらいしか候補は残っていない。彼ら十人のうちのいずれかが何らかの理由で山を飛び回ったと考えるのが最も妥当だろう。彼らが脇目も振らずに猛スピードで飛びに飛ぶ動機があるのかは、現時点では不明である。

 

「御二方は、懸命に追い縋って下さいました。そのお陰で、()()()()()謎の飛行物体の正体を掴めたことは、大いに感謝したいと思っています」

 

「……ん?」

 

 今こうして、とか言ったかこの白わんこ。つまり椛は、現在進行形で高速飛翔体に向き合っているということに他ならない。今、たった今、just nowで彼女が視界に収めているのは、たった一人である。

 

「単刀直入に申し上げるのでしたら、はたてさんと刑さんに今すぐ謝罪に向かうべきかと。共に大変な怒りようでしたから」

 

 あっ、私か。記憶を振り返ってみれば、確かに自分は諸々の条件を満たしている。烏天狗が二人後ろから追跡してきていたら普通は気が付きそうなものだが、あの時は新聞を配るのに熱中していて周囲への警戒が疎かになっていたような気がしなくもない。

 よし、とっとと謝ろう。文の第六感は、やばい予感をひしひしと脳へ伝達し続けている。何か自分にとって良くないことが起ころうとしており、そしてその危機はもうすぐそこまで迫ってきている。

 

「二人は今何処に?」

 

「はたてさんは刀を取りに一旦自宅へ。刑さんは縄と鞭が必要と仰り、やはり帰宅されました」

 

「ふぁっ」

 

 駄目だ、このままじゃ私が死ぬ。当たってしまった嫌な予感に頭を抱えたくなるが、強い意志で踏み留まって深呼吸をする。突然リラックスし始めた上司を見て椛が要領を得ないといった表情を浮かべているが、そんなものは路傍の石よろしく無関心にて対応させて頂く。

 危機を前にした者には、得物よりも落ち着きが必要だ。問題は無い、私はこれ以上のピンチだって何回も乗り越えてきた。自らに語りかけ、心の内に自信を育んでいく。

 

 言霊の重ね掛けで、文は精神的に劇的な強化を果たした。流石は精神に重きを置く妖怪、簡単な自己暗示が有り得ないような効力を発揮している。今の彼女なら、内面より溢れ出る満々の自信で一切衆生を跪かせることができよう。

 

「あら、文」

 

 なお、怒れる友人は一切衆生に含まれないものとする。予定外の補足によって迸っていた自信が戦き、精神強化の状態が解けてしまった。通常状態に戻った文には、彼女がいつもの三割増しで大きく見える。おかしい、位置的に上から見下ろしているのだから小さく見えるはずなのに。

 

「奇遇ね、こんな夜更けに」

 

「そうですね。刀の訓練でも?」

 

「うん。斬れ味の確認だけしに来たの」

 

 常より平坦な声で紡がれる台詞に、背筋が冷たくなるのを感じた。さて、彼女は何で斬れ味を確かめようとしているのか。もう少し突っ込んで言うなら、誰で確認するつもりなのか。多分豆腐ばりにすぱすぱ斬れるので、指標とするには向かないと思う。

 一先ず木から降りて、地に立ち少女に相対する。相当なスピードでここへ来たのか、前髪が少し乱れているのが見えた。そこまで速やかに私に会いたかったのか。嬉しさのあまり、鳥肌がぷつぷつと沸き立ってきた。

 

 笑いもできない冗談はさておき、このまま互いに睨み合っているわけにもいかない。何とかしてこの状況を打破しなければ、私に明日は無い。聡明な頭脳を最大限に回転させて目の前の刺客を煙に巻く方法を構築していたところに、遅れてもう一人の少女(しにがみ)が手に鎌を携えてやってきた。

 

「文様」

 

「あ、刑。その節はお騒がせしたようで、すみませぇっ!」

 

 到着一番、宣言もなしに長大なロープめいたものを振るう。間一髪のところで横に跳んだ文が一瞬前までいた場所が、鋭い破裂音と共に深く抉られた。本当に鎌ならぬ鞭を持参して文の下に馳せ参じたというわけであるようだ。

 何てものを振るっているのだこの烏。避けたから良かったものの、もし当たっていたら史上空前の激痛に七転八倒していたことだろう。とても天狗の首領に対する仕打ちとは思えない。

 

「避けないで下さい」

 

「進んで鞭に打たれる阿呆とお思いですか」

 

「思っていません。でも貴女には、これが必要です」

 

 必要か否かを問うなら、紛れもなく否である。蚯蚓脹れを貰いに行く理由が、一体何処にあると言うのか。よしんば何処かにあるとして、その理由とやらはどんな外面をして居丈高な態度を取っているのか。叶うならその横っ面を殴りつけてやりたい。拳は勿論、握り締めながら。

 それができないから、文は現在進行形でかきたくもない汗をかいているのである。頭の中で千二百九十六通りの対策を考え出したが、そのどれもが有力な効果を発揮すると断言するには値しないものばかりであった。成程、二乗しても駄目ならもう如かぬ策に打って出る他にない。ふわりと翼を広げ、天高く飛び上がろうとした文の視界が、一瞬にして黒一色に染まった。

 

「……えっ」

 

 満天の星空、その中でも一際強く、大きく輝いていた月までもが漆黒に覆い隠される。咄嗟に飛び立つのを思い留まった文に、上空から厳しい男の声が降ってきた。

 

「天魔様。ご機嫌麗しゅう」

 

「こんばんは、鞍馬(くらま)。どうして私は包囲されているのですか?」

 

 天狗の社会において、天魔に次ぐ地位を占める者達がいる。烏天狗の中でもとりわけ才覚に溢れた古参が選出されることが多いが、歳の老若が選考基準として設けられているわけではなく、若い個体がその座に就くこともある。

 大天狗。天魔の手足と称しても過言ではない辣腕を誇る、十人の秀でた烏天狗である。そのうちの一人、渋い顔立ちをしたこの男は名を鞍馬と言う。

 

「理由は様々ございますが、主たるはやはり今宵の一件でございましょうな」

 

 様々あるんですか。この清廉潔白な射命丸 文が、と思いはしたが、よくよく思い出して見ると寧ろ囲まれる理由に満ち溢れている気がしなくもない。でもそれは既に許されているはずだ、そうでなければ夜なべして書いた始末書や謝罪文の意味が無くなってしまうではないか。

 

「そこな刑の要請で大天狗及び烏天狗の頭数を揃え、決して天魔様を逃がすなとのことでしてな。皆一も二もなく参加を表明したのは、間違いなく天魔様の徳故かと」

 

「わぁい指名手配」

 

 鞍馬、それは徳じゃあない。鬱憤晴らしだ。普段から忙しそうにしている連中までもが余すことなく包囲網を形成する一羽となっていることが、平時よりどれ程文が天狗衆を掻き乱してきたかを如実に示している。何というか、流石に過去の行いを顧みた方が良いかも知れないと思った。

 

 それにしても刑め、まさか完全な私情でこの面子を動かすとは。恨めしさ一割呆れ九割で構成される目線を向けたが、当の彼女は煌めきの消えた目を不気味に開いて薄笑いを浮かべるのみであった。

 いつ取り出したのか、くすんだ茶色の縄を手に取り品質確認をするように細部まで眺め渡す。やがて満足したように頷き、文に対してぴんと縄を伸ばしてみせた。

 

「先ず縛ります」

 

「嫌です」

 

「なら良いです。逃げられないようにするのが目的なので、翼を切り落とせば目標達成ですから。はたてちゃん、やっちゃって」

 

「如何様にも、どうぞ」

 

 身体の物理的束縛と、飛行機能の喪失。両者を天秤にかけた場合、どちらの腕が下がってくるかは明白であった。乙女の柔肌に痛々しい縄の痕が付くのは歓迎できないが、翼には代えられない。腕なり足なり、好きに束ねて頂こう。

 

「先輩、切り落とした上で縛っといた方が確実ですよ」

 

「ほう」

 

 この少女、鬼か。いや、鬼だってそんな悪辣極まりない提案をするものか。さながら心というものにとんと縁の無い悪鬼羅刹と例えられよう。

 想像だにしなかった闇を見せた少女に恐怖を覚える文を他所に、刑は妙案を得たとばかりに感嘆の声を漏らした。いつからこの山は暴力的思考の蔓延る人外魔境と化してしまったのだろうか。元から人外の集まる地ではあるが、残虐な手段に訴えて自己の願望を果たす傲慢な輩はいなかったはずなのに。

 

「『ほう』以外に言うことがあると思うのですが」

 

「そいつぁグレートだ」

 

「刑?」

 

 この山は ── 少なくとも天狗は、変わってしまったのかも知れない。生物の集団である以上、性格が変化するのはある程度受容していかなければならないとはいえ、過度の過ぎる転換と言わざるを得ない。

 在りし日の皆と仲良く笑い合っていた日々は、もう戻ってこないのか。一人的外れな悲しみに打ちひしがれる文は、縄を体に巻き付けられながらさめざめと涙を零すのであった。果たしてその涙は、何故に。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「しかし、珍しいですね」

 

 四方を囲む岩肌は、含有する酸化した鉄分によって赤茶けたものとなっている。周囲で弱く揺らめく炎に照らされる岩肌は、この先が尋常ならざる空間であると暗に示しているかのようであった。

 事実、彼女達にとってこの世界は普通と定義することができない。いずれ当然のように訪れる日がやってくるだろうし、またそうなることを切に願うが、今はまだ地底という世界は地上の民に幾らかの疎外感を齎していた。

 

「紫様がスキマを使われないとは」

 

「私は今、地底の知識に乏しい。幻想郷となるこの地の理を知らずして、賢者が名乗れるかしら」

 

「仰る通りでございます」

 

 この疎外感を払拭するために、今宵紫は藍を連れて地底へと降り立っていた。紫はいつも浮かべている胡散臭くも美麗な笑みを引っ込め、代わって表情を油断なく引き締めていた。雰囲気も張り詰め、普段の彼女からは想像もできない凛とした気配を醸し出していた。

 

 或いは、緊張なさっているのかも知れない。言葉にこそしないけれど、藍はその可能性もあると見ていた。昨日は余り眠れなかったようだし、今朝も朝食が上手く喉を通らない様子であった。

 異なる二つの世界を融合に導くための会談ともなると、さしもの大妖怪でも浮き足立つことだってありそうなものだ。それを恥ずかしいことだとは思わないし、仮に主が少しばかり落ち着きを欠いていたとしても嘲るつもりはない。

 

「人間や力の弱い妖怪だと、ここの空気に気後れしてしまいそうですね」

 

「独特の空気も地底の特色の一つと言えるでしょう。慣れさえすれば、寧ろ心地好くなるはずよ」

 

 肩の力を抜いて差し上げようという従者らしい心配りで当たり障りの無い話題を振ってみた。返ってきた答えはこれまた平均的で穿った所も無かった。やや素っ気なく、早口になっていたので自分の推測は的のほぼ中心を射ていたのだなと確信した。

 

 しかし、八雲 紫と雖も緊張する時はあるものだ。ただのらりくらりと掴み所の無いだけが彼女の性質ではない。長く式神を務めていればそれくらいのことはとうの昔に脳の深奥へ叩き込まれているのだが、やはり仕える者がふと見せる弱さというものは言いようもなく愛おしい。

 それはきっと、自分が支える余地があるからなのだろう。あらゆることを単独でこなしてしまえる完全無欠の存在には、どういった形で貢献すれば良いのか分からなくなってしまうから。

 

 主従は暗い道を、灯された僅かな灯りを頼りに歩いていく。互いに言葉は無く、ただ二人の足音が静かに岩肌へと吸い込まれていくのみであった。そのまま歩くこと数分にして、彼女達の目の前に木組みの橋が現れた。

 橋の欄干には、女がもたれかかっていた。エメラルドグリーンの瞳が美しい、艶やかな金髪の麗人であった。突然やってきた来訪者に驚く様子も無く、女は凪いだ瞳で二人を見た。

 

「貴女がこの橋の守護者かしら」

 

「えぇ。八雲主従ね、話は聞いているわ。どうぞ、通ってちょうだい」

 

 橋に立ち塞がるでもなく、水橋 パルスィは橋の先を示し通行を促した。事前に話が通っていたのだろうと思わせる手っ取り早さは紫にとって有り難かった。

 これから地底に起こる変化についても、既に聞き及んでいたりはするのだろうか。地上の広報係は文が務めてくれるが、一方で地底の住人が開放直前まで何も知らされていなければそれは情報の差別だ。一見細かいことを気にし過ぎているように見えるかも知れないが、デリケートな問題を扱う上では如何に小さな問題点や疑問点であってもそのままにしておかないことが大切になってくる。

 

「えぇ。地上と地底が、何百年ぶりかに関係を修復するのでしょう」

 

 パルスィ曰く、そのことは既に地底に広く知れ渡っているとのことであった。皆がその話題について膾炙し、喧々諤々と熱い議論を交わしあっているとも。反応としては賛否が分かれているが、有力な面々は軒並み歓迎ムードでいるそうだ。

 

 地上との交流の再開に否定的な妖怪がいることは、言ってみれば当然だろう。寧ろ全員が全員諸手を挙げて賛同の意を示していると言われたら、紫はパルスィの言葉を疑っていた。

 否定するにも、理由がある。その理由を突き止めて少しでも不満な点を改善していくのが自分に課せられた役目である。百パーセントの納得は得られないという前提に立ち、それでもその領域に近づいていく努力を怠らなければ、きっと両者の融和は上手くいく。

 

「私も、此度の貴女達の決定には賛成派なのよ。地上と地底が一歩でも多く歩み寄ることを期待しているわ」

 

「えぇ。是非ご期待頂ければ」

 

 為すべきことの再確認はできた。しかし、それはあくまで近い未来の話である。今日この日に設定した目標を達成しなければ、成し遂げようと努力する権利すら剥奪されてしまう。

 パルスィに感謝を告げ、再び歩き出す。目指すは市街地、地底で最も騒がしく活気のある地帯である。予定ではそこでさとり及びそのペット達と食事をしつつ談合するという段取りだ。

 

 これまで地底に出向く機会はそれなりにあったが、条約もあって地霊殿以外の場所へは行けなかった。二人とも今日が地底街デビューの日となるのだ。地理の分からない街をふらふらと歩くのなんて久しぶりだから、藍は密かに到着を楽しみにしていた。

 これから来る回数も増えることだし、この機会に気になる店の一つや二つに目を付けておくのも良いだろう。勿論会談には真摯に臨むが、四六時中肩肘を張っていては不要に疲れるだけである。……いつもは怠けるな仕事しろ書類山積だと口を酸っぱくする日々だが、今日ばかりはもう少し気を楽にしても良いのではと進言したい気分であった。結局は当人の心構えの問題となってくるので、余り押付けがましいことは言えないけれど。

 

 澄んだ川は所々に流れているものの、植物の緑は目を凝らしても中々見つけられない。あったとしてもぽつんと寂しそうに自生しているものが殆どで、所謂草原地帯や森林と言ったものは見受けられなかった。風土の違いとはかくも大きなものであると一種の感心を覚えながら藍は歩いていた。確かに湿度が高く陽の光が差し込まないここでは、植物の生育は難しかろう。

 

 彼も同じ光景を見たのか。ふと、そんなことに気がつく。数日前、彼も自分達のように地底へと潜った。目的こそ違ったが、話を聞くに橋を渡り街の近くを経て地霊殿まで到達したそうな。

 今、私達は彼の軌跡をなぞっている。それは、何とも言えない不思議な感情を齎した。同じように地底の情景を見た彼は、何を思ったのか。荒涼たる物寂しさを感じたのか、それとも静かな空間を心地好いと捉えたのか。考えても分からないことだと理解はしているが、藍の思考は強く引っ張られている。まるで蛍を初めて見た幼子のように、微かな光に惹かれ惑う。

 

「おーい、紫!」

 

 遠方から投げ掛けられた声が、導きの光を打ち消した。はっとして前方に目を凝らせば、顔の知ったる女がこちらに駆け寄ってくるところだった。

 

「聞いたよ、とんでもない決断をしたねぇ!」

 

「勇儀。怪我はもう大丈夫みたいね」

 

「あー?……あぁ。当たり前だよ、私は鬼さね」

 

 歴戦の鬼が相手では生半可な攻撃に留めることもできず、彼もやきもきしながら戦っていたことだろう。結果として傍目にも重傷だと分かる大怪我を負っていたと記憶しているが、豪快に笑い大杯を飲み干す彼女にその時の面影は見えない。

 

「で、これからさとりとご飯を食べるんだっけ」

 

「えぇ。話したいことも沢山あるわ」

 

 地底ではさとりと並んで統治者的な性格を有しているからだろうか、食事の予定についても把握済みであった。隠すようなことでもなし、勇儀が知っているからと言って咎める気など毛頭無い。

 さとりは辛いものが苦手だから、隙を見てご飯に七味でもぶち込んでやれば良い。笑いながら冗談にもならないことを宣う勇儀には、彼女の能力について覚えているのかと突っ込んでやりたくなる。幾ら綿密な計画を立てたって、それが露見してしまえば脆くも瓦解すると言うのに。

 

 そもそも、真面目な話し合いの場で七味サプライズなんてやる阿呆がいるか。呆れ顔をする藍の横で、紫は少々歯切れ悪そうに口を開いた。

 

「鬼には心地の悪い決断かしら」

 

「んー?」

 

 数百年前のことを言っているのだと、すぐに分かった。かつて人に失望し、彼らが干渉できない新天地を開拓した鬼にとって、長い歳月を経て再び人間が自分達の領域にやって来る権利を得たのは許容し難いことなのかも知れない。

 鬼は卑怯を嫌い、一方で人間は生存を賭けて策を弄した。どちらが正しくどちらが間違っているかという話ではない。事はもっと単純であり、単に狩る側の嗜好と狩られる側の尽力との不一致である。

 

 鬼の地底入りは、人と妖が今よりも隔絶していた時代を象徴するような昔話である。人にとっては最早口承されてもいない逸話の類でも、鬼からすれば実際にその身で体験した過去だ。在りし日々に抱く思いは、決して人間や他の妖怪に推し量れるものでもない。

 

「昔は昔、今は今だろう」

 

 とは言え、中にはもう割り切った考えに辿り着いた者もいる。勇儀などその最たる例で、過去に囚われることを嫌う彼女らしい結論であった。

 まるで諭すような口振りに、固い表情になっていた紫も思わず笑みを零した。成程、少し過敏になり過ぎていた節はある。

 正直な所、今回の不可侵条約撤廃に際して最も現実的な不安要素として懸念していたのが、鬼からの反対であった。そもそも地底という世界が生まれた大元の理由が鬼と人間との間に生じた確執である以上、相互の門戸から錠前を取り除くということは、それらの錠前を彼らに向けて投げつける行為にも取られかねない。それ故に紫はかなり気を揉んでいたのだが、しかしそれも、頭領に限りなく近い立ち位置の勇儀が賛成しているならあまり心配はいらないだろう。

 

「……そうね」

 

「私は楽しみだよ。今の人間がどれだけやるのか、存分に見させてもらうさ!」

 

 要するに、戦えればそれで良い。白熱した勝負になれば、尚更素晴らしい。そこに人間とか妖怪とかいう種族的な概念は関係してこない。目的はさておき、何と平等な物の見方か。本当に目的以外は尊敬に値する。

 贔屓目に見ても、勇儀と戦える人間は片手で数えられる程度しかいない。互角の好勝負を演じられるともなると、ただ一人を除き誰もが検索対象から振るい落とされてしまう。

 

「こんなこと話してたら、火が付いちゃった。藍、ちょっと相手しておくれよ」

 

「生憎、私は忙しいんだ。同族でも捕まえることだな」

 

「ちぇっ、釣れないねぇ」

 

 釣れて堪るか。四天王の一角、それも力の二つ名を冠する膂力の怪物と一戦交えようものなら、会談どころの話ではなくなる。怪我的な意味で。それに、藍の戦闘スタイルからして勇儀の最も好む力と力のぶつかり合いとはかけ離れたものだ。どうしても我慢できないなら知り合いに適任が一人いるので、是非彼女を誘って頂きたい。

 

「さとりはもう地霊殿を出てるよ。街に着くのも、そろそろじゃないかな」

 

「あら、早いわね」

 

 それでは、少し急ぎましょうか。主の意思に、了承の返答をする。談合の企画者が遅れていくようでは、面子が立たない。ここらで勇儀との立ち話は切り上げるのが良いと思われる。

 

「勇儀、ここで失礼するわね」

 

「おう。さとりをあんまり脅すなよー!」

 

 揶揄いの色濃い物言いに、藍の双眸がきりりと細められる。だが当の紫は気にも留めておらず、とんとんと彼女の肩を二度人差し指で叩いた。命令に背くわけにもいかず、渋々と顔を伏せた藍に、鬼女はにやにやとした笑いを送っていた。おのれこの馬鹿力、苔にしてくれる。もし隣に紫がいなければ、弾幕の一つでも当て逃げしていたかも知れない。

 

 手を振る勇儀に見送られながら、三たび街への歩みを再開する。顔馴染みと話ができたお陰か、紫の緊張は幾分か解れているようであった。纏っていた岩のような固い雰囲気が和らぎ、表情を形作る筋肉もやや緩んだように見える。

 街の外郭は、もう見えている。木組みの壁が街と外を分ける境界として機能しているが、そんなものは関係ないと言わんばかりに空から街へ突入している妖怪も見られた。尤も、人間の里だって状況としては同じなのだけれど。

 

 重厚な石造りの門に、見張り役の妖怪は付いていなかった。閂もされていなかったので、通りたければ空けて通れということなのだろう。他に解釈のしようもあったが、出入り口として門があるのだから利用したって悪いはずがない。迂回ルートの探索はせず、門を開いていった。

 地鳴りのような低い音を立てながら、人の身長にも勝る巨石が細い腕に押されていく。藍の顔は平常時のそれと全く変わらず、思い切り力んでいるようには到底見えない。人間なら何十人必要になるかという重量があるはずなのだが、流石は高位の妖獣と言ったところか。

 

 するりと左に寄り、恭しく紫に道を献じる。彼女のすぐ後ろに続く形を取って、藍は地底の都市に記念すべき初めの一歩を刻んだ。勿論開けた門を閉めるのも忘れない。立つ鳥跡を濁さずというわけではないが、最低限の礼儀というものである。

 何の前触れも無く、それこそ勝手知ったる住人のような自然体でやってきた見知らぬ妖怪二人に、周囲が驚きざわめく。前の出来事もあってか、相当な警戒心が彼女達に向けられていた。心地好いものではないにせよ、別段二人を竦み上がらせる程でもなかった。

 

 騒ぎは伝染し、拡大していく。ものの一分で、沢山の野次馬が賢者とその式を取り囲むこととなった。誰もが地上では見られない種類の妖怪であり、目新しさを感じさせる者ばかりであった。

 中には如何にも喧嘩っ早そうな若い鬼もいたが、突然現れた謎の地上の民に対して誰も威勢を張ることはなかった。紫を守るように立つ藍がふわりと揺らす九本の大きな尻尾が、その最たる理由だ。様々な伝承に名を残す九尾の狐に正面切って喧嘩を売る度胸は、さしもの曲者揃いな地底妖怪と雖も持ち合わせていなかった。

 

「八雲 紫」

 

 さて。街に到着したは良いが、ここからどうやって古明地殿と合流したものか。狐火でも打ち上げて居場所を知らせてみようかと考えていたら、折り良くも此度の会談のお相手様があちらから出向いて下さった。

 さぁっと妖怪が左右に退き、三人の通る道ができる。桃色の髪の小さな少女が、左右に溌剌そうな黒猫と黒烏を従えて二人に歩き近づいてきた。猫が周りにごめんね、ちょいと通るよと手を合わせているが、烏は呑気に鼻歌でも歌い出しそうな緩さを醸していた。

 

 桃色少女 ── 古明地 さとりの発言により、いよいよ街の一角は悲鳴すら交じる大騒ぎの様相を呈してきた。地上の情報流入が極めて制限されていた地底においてさえ、紫の名は地上を治める強大な妖怪として広く知られていた。そんな彼女が剰え最強の妖獣を傍らに侍らせて訪問してきたと判明したのだから、蜂の巣をつついたような大混乱が発生するのも致し方ない部分がある。

 

「わざわざの御足労、感謝します」

 

「お気になさらず。地底の入口から旧都まで、この目で見られたのは大きな収穫になりましたから」

 

 しかし、渦中の五人は周囲の喧騒など気にかけない。式神やペット達が見守る中で、互いに目を逸らすことなく、はっきりとした口調で第一声の挨拶を交わした。



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第二十一話 本日の悩める妖怪がこちらになります

 橋には、どうしてか来客が多い。水橋 パルスィは常々そう思っている。

 地底の中では、という条件は付くが、彼女の守護する橋には種々様々な妖怪がやってくる。目的も色々で、単にパルスィとお喋りを嗜みに来た者もいれば、地上へ向かうための通路として利用する者もいる。その過半数はにこやかに話しかけてくれるので、彼女としても別段悪い気持ちは抱いていない。

 

「それでね、ヤマメったら帰ってきて以来一言も喋ってないんだよ」

 

「……」

 

 とはいえ、彼女にも睡眠は必要不可欠なわけだ。人間とは種族も生活様式もまるで違うけれど、彼女もまた三大欲求を漏れなく持ち合わせている。意識に黒い帳を下ろして脳を休ませてやらなければ、そのうち何処かでばったりと倒れてしまうだろう。

 だと言うのに、よりにもよっていざ寝ようとしていたところに話し手が舞い込んできた。友人を邪険にあしらうわけにもいかず、布団との逢瀬を泣く泣く順延し、仕方なく話に耳を傾けることにした。

 

「話しかけてもふらふらしながら歩いていくし、何なのよあいつ……って、パルスィ?」

 

「……ごめんなさい、途中から寝てたわ」

 

 パルスィの中で、眠気と友情が熾烈な相撲を取っている。先の場所では睡魔が見事な押し出しで勝利を獲得した。以後も恐らく友情が勝ちの目を見ることは無いだろう。兎にも角にも眠いったら眠い。もし今すぐに就寝する権利を得られるなら、布団に愛の言葉を臆面もなく囁けるくらいには。

 

 あのおちゃらけ蜘蛛娘のことだ、どうせ放っておいたら明日の昼には完全復活を果たしているだろう。多少気落ちしているくらいで、こちらから心配してやるだけ無駄と言うものである。

 冷酷な態度と取られるのかも知れないが、何もヤマメのことを見捨てようだなんて思っちゃいない。彼女の友人と呼ばれるべき仲にあるのは自覚している。パルスィは単に、彼女の性格を鑑みれば当然導かれる結論に依拠しているだけである。

 

「まだ丑三つ時だよ」

 

「『もう』丑三つ時なのよ」

 

「今からが私達妖怪の時間じゃんか。朝までないとふぃーばーしようよ、ないとふぃーばー」

 

 何とも元気で宜しいことだが、だからと言って徹夜のどんちゃん騒ぎに巻き込もうとしないでもらいたい。飲めや歌えやの大騒ぎがしたいなら、鬼でも誘えば蜊蛄より簡単に釣れるから狙い目だ。手酷い発言にも聞こえるが、それが事実なのだから如何ともし難い。

 ひらひらと手を振り、橋の近くに作ってある家を目指して歩いていく。家とは言っても殆ど屋根の付いた立方体に等しく、寝泊まりして簡単な食事を作る以外の機能は付加していない。簡素と言うよりは最早おんぼろと形容すべき粗末な一軒家だが、当のパルスィは自宅の様相など気にしやしない。だって、現状生きる上で何の問題も生じていないのだから。

 

「ちぇーっ」

 

「貴女も早く寝なさい、明日に響くわよ」

 

「分かったよお母さん」

 

「川にぶち込むぞ」

 

 きゃー怖ーい。けたけたと笑いながら飛び去っていく箱入りならぬ桶入り少女の背中に鋭い一睨みをくれてやり、それから不意に眠気を思い出したかのように欠伸をした。エメラルドグリーンの瞳が、涙で扇情的に潤む。

 誰が母だ、誰が。あんなお転婆ちびっ子が実の娘だなんて、真っ平御免である。きっとストレス過負荷の毎日で、胃を休める暇も無くなってしまうだろうし。

 

 第一、伴侶も無しに子が成せるものか。私は単一で子孫を残せないのよ妬ましい、と呆れるように呟いて家路を急ごうとした。布団は主の帰還を今か今かと待ち侘びているはずで、パルスィはそれに急ぎ応える心を決めていた。少なくとも、視界の端で動いた人影を見るまでは。

 

「あれ?」

 

 こんな時間に橋の周辺でうろついている妖怪は、流石にいない。何者かと思って目を凝らして見れば、影の正体は良く知った少女であった。纏う雰囲気だけはどうにも彼女らしくない陰鬱で近寄り難いものだったが、姿形は間違いなく黒谷 ヤマメのそれであった。

 目線を足元に落とし、まるで全財産を失った哀れな輩の如くとぼとぼと項垂れながら歩いている。この数十年で1度も見たことの無い光景に一瞬面白いものを見たと目を輝かせかけたが、洒落にならない落ち込み方をしていると分かると浮かび上がりそうだった笑みも引っ込んだ。

 

 パルスィの知る限りで、こうも窶れたヤマメは未だ嘗て目撃されたことが無い。裏を返せば、彼女がはっきりと肩を落とすだけのことが起きたとなる。成程、キスメが相談に来るわけである。

 ヤマメは彼女に気がついている様子もなかったのだから、そのまま見なかったふりをしても良かった。己の睡眠欲に忠実に従っていたって、罰は当たらなかったに違いない。何故ならパルスィは彼女の気落ちの原因などまるで知らず、また知ったことでもないからだ。

 

「こんばんは」

 

 それでも見捨てられないからこそ、友達と言うのではなかろうか。眠気とお節介を天秤に掛けて、ぎりぎりお節介の方が比重として重かったからパルスィは家へ向かいたがる足に進路の変更を命じたのではないか。

 きっと、そうなのだろう。地底は捻くれ者の寄せ集めだとか言われるが、それはある種正解でまたある種においては間違った見方である。確かに地上の妖怪と比べて性格や週刊の面で異なるところもあるが、彼らにも情はある。友人という概念、及び周辺を固める根拠は、地上と何も変わりやしないのだ。

 

「パルスィ」

 

「今日はとても良い夜ね。袂が再び合わさるこの素晴らしい夜に、よりにもよって貴女が鬱ではいけないわ」

 

「えらく饒舌だね。酒でも飲んだの?」

 

「……妬ましい」

 

 但し、感性の違いは無視して通るには少々無理があるかも知れないが。今日は良く喋るね、と声を掛けたら嫉妬全開の目でじろりと睨めつけられるなんて派生は、地上ではまぁ出会えないに等しいものだろう。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「民主化の波を起こすわよっ」

 

 凄く久しぶりに紫の支離滅裂な言動を聞いた気がする。嫌味らしくもなく、ただ純粋にユウは懐かしんだ。

 無論彼女とて本気で言っているわけではなかろうが、この幻想郷で民主主義と来たか。ここまで机上の空論という言葉が似合う事例も、そうはあるまい。

 彼は何も民主主義を否定するつもりも無ければ幻想郷を虚仮にする意図も持っていない。長い歴史の中で争いを少しでも避けるために人間が考え出した統治の方法だ、その成果も併せて軽く見るべきでないのは明らかだ。しかし、幻想郷のシステムを鑑みればすぐにこの地と民主制の相性の悪さが露呈することだろう。

 

「紫様。まずはここにいる皆様に説明を」

 

 幻想郷を管理しているのは、賢者と呼称される妖怪達であるそうだ。彼ら彼女らはあくまでその頭脳や力によって選定されているに過ぎず、遍く人妖の投票によって栄えある地位を得ているわけではない。端的に言えば、彼らは能力に富む集団であるが、政府的組織であるかと言われれば限りなく疑わしい。

 

「No think,feel!」

 

「……『考えるな、感じろ』と仰っています」

 

 そもそも本当に有能なんだろうなという疑問は、是非持って頂きたい。何事にも信用と疑義の二目を以て臨むのが宜しいと思われる。特にいきなり別言語を用い出して碌な説明もしようとしない荒唐無稽な奴は、疑いの方に重点を置いて見るのが良い。極稀に強烈な光を放つダイヤモンドの原石が紛れ込んでいるが、9割9分9厘は張りぼての建築に余念の無い石ころであることも、念頭に置いておくことをお勧めする。

 

 本筋に戻ろう。ならば統治者を投票で決めれば良いではないかと考える諸氏もいることだと存じている。その発想は中々良いものだが、投票を手段として確立する上で一つ難点が浮上してくる。何を隠そう、妖怪個々の我の強さである。

 誰それが上に立つのに良い。人間ならそうも言えようが、殆どの妖怪はそうはいかない。自分こそ相応しいと主張する者が果たして何十何百出てくるだろうか。もしその全員に被選挙権を与えようものなら、前代未聞の候補者数を擁する超巨大規模選挙が開幕してしまう。当然、そんな選挙が成立するはずもない。選挙は踊る、されど進まず。

 

「紫様は、人間の里で地底との交流回復を宣言なさるおつもりです。それに際して、もう一人誰か横に立って下さる方を探しているのです」

 

「ふむ。つまり同伴者を探すのが『みんしゅか』であると?」

 

「民を主とするのが民主ですので、上位者の専制的な決定を回避できる意思決定手段が民主的なものであると思って頂ければ。今回は投票を採用されるようですね」

 

 結局、民主主義は部分的に採用するに留まるのだ。この地は理性ある強者によって理知的に治められるのが、恐らく最も安定する。政治形態としては初期を通り過ぎて原始的ですらあるが、安寧を保てるのであればそれでも一向に問題は無い。最先端の統治機構が最も良いという保証は、誰にもできないのだから。

 

「そういうことでしたか。ご説明、痛み入ります」

 

「本来は紫様がなさるべき説明です。全く」

 

「王は玉座に座るのが仕事ですわ」

 

「王政復古が早過ぎるんじゃあないかしら」

 

 Great Britainでもそこまで早くはなかったけれど。冗談めかしてくすりと笑うレミリアだったが、フランドールと紫以外は何のことかさっぱりという表情を浮かべた。身内ネタを使うのは結構だが、彼女の故郷は地方どころか国まで異なっているので通じる可能性が極めて低い。寧ろ紫が知っているのが、流石博識な少女であると感心することである。

 

「西欧にも色々あるのね」

 

「Far East程ではないと思うけれど」

 

「……ふぁーいーすと?」

 

「極東って意味よ、花妖怪さん」

 

 また横文字を使ったな。上手い言い回しが思いつかないなら平易な表現に頼れと周囲から常日頃あれ程言われているのに、この姉は全く。心中大きな溜息を吐きながら、フランドールは幽香に補足説明を献じた。

 これがちゃんとした彼女との会話の第一声とは。他に用いたい話題は幾つもあっただけに、何とも度し難い思いが込み上げてくるが、元はと言えば実姉の蒔いて下さりやがった種だ。発芽したなら速やかに抜根するのが縁者の務めというものであろう。

 

「昔ね、私達の住んでた国から見て日本は地図上東の端っこにあったのよ。だからその時の名残でFar East(東の最果て)って言うこともあるの」

 

 今ではそう呼ばれることもめっきり減ったが、未だに歴史学の領域などでは頻繁に使われる表現だ。人々の興味が歴史から逸れない限り、まだまだこの呼称が廃れることは無いだろう。……幽香が感心するのは良いとして、何故貴女まで頻りに首を振っているのか、姉よ。英国では割合民間にも浸透している有名な話だと言うのに。

 

「して、紫さん。投票ということですが」

 

「藍の説明した通りね。付け足すなら、霊夢には特別な用事の無い限りは参加して頂きたいわぁ」

 

「言われる気はしてた」

 

 英国淑女による和訳の授業の傍らで、紫は事を前に進めていた。置いていかれては嫌だと、慌てて3人が彼女の話に意識を向けた。人間の代表としてしばしば名前を挙げられる霊夢の参加は自然だとして、文には1つ腑に落ちない点があった。

 

「里に妖怪が、それも意図的に集結して良いのですか?」

 

「里の守護者には、既に了承を得ているわ」

 

 手の早いことだ。納得するように頷きながら、内心文は舌を巻いた。古明地 さとりとの管理者会談を恙無く終えたのがほんの昨日の出来事であり、紫はこれに並行して人里とも連絡を取り合っていたというわけである。並の手腕とバイタリティでは成し得ない素晴らしい成果と言える。

 了解が得られているなら、妖怪が里に白昼堂々侵入しても咎められることは無い。怖気付かれる可能性は高いが、そこは寧ろ好都合だと捉えるべきだろう。天狗の頭領である文が自ら里の人間に歩み寄っていけば、例え固い警戒心であっても揉みほぐしてしまえる自信がある。何せ親人派の天狗だ、人間と言葉や交流を交わすことに抵抗感も忌避感も全く無い。

 

 里と山の連携を強化する、またとない好機だ。一度多大な利益が見込めると分かれば、そこからの文の行動は疾風の如く迅速であった。

 

「でしたら、ここは私めが!」

 

 声を上げた瞬間に、文は勝利を確信していた。だって、他のメンバーは前にしゃしゃり出てくる目立ちたがりではないから。いつもは一歩引いた大人な彼女達を羨ましく思うこともあるが、今回は開き直って皆の奥ゆかしさを存分に利用させてもらおうではないか。

 唯一レミリアだけは名乗りを上げてくると思われるが、あんな我儘幼女など天才美少女天狗の前には対抗馬足り得ない。来るなら来い、実質1人勝ちのようなものである。

 

「天魔」

 

 そら来た。彼女に見えないようこそっとほくそ笑む。まさに蝶を絡め取った蜘蛛のようだ。最早貴女は、私の引き立て役でしかない。薄青色のセミロングとくっきりした目鼻立ち、そして幼女特有の丸みを帯びながらも決して太ましいと見えない健康的な肢体が織り成す容姿の可愛らしさは認めざるを得ないが、貴女の敗因はただ一つ。外行きの面の差である。

 要は媚を売れるか売れないかなのだ。人に取り入る能力を客観的に評価してもらっても、レミリアに負けないという絶対の自信が文にはあった。事実それは間違いではない。片や笑い、片や嗤うことを鑑みても一目瞭然であろう。

 

「おやおや。この私と票の奪い合いをしようと言うのですか、レミリアさん」

 

「ん?いや、私は立候補していないわよ」

 

「可哀想ですが、手加減はしませんよ。本気で行きますので貴女も全力を……、……」

 

 あれ、蝶が逃げた。いざ取って食ってやろうと大口を開けた所で、徐ろに糸を引きちぎってぱたぱたと。てっきり仰々しい文言を引っ提げて対抗心を燃やしてくるかと思っていたので、驚き面食らってしまった。

 

「……はい?」

 

「今回貴女と争うのは、私ではなくフランよ」

 

 その時、文に激震走る。青天の霹靂と形容すべき衝撃であった。

 

 もし競争相手になったら手強いだろうなぁと考えていた二人のうちの一人が、まさか参戦を表明するとは。蝶が転じて大鷲となる可能性なんて、彼女も想定していなかった。

 

「想定外の強敵がっ……!」

 

「まるで私など端から眼中に無かったかのような物言いね。癪に障る、貴女の魅力でぼこぼこにしてしまいなさいフラン」

 

「私を餌にするお姉様なんて嫌いだわ」

 

「……勢力伯仲の好勝負を演じてきなさい」

 

 姉に劣らぬ容姿に加えて、人当たりまでもが良いとなれば必然的に文の有利性は揺らぐ。何か彼女より勝る点をアピールしなければ、妖怪の山と人間の里の更なる交流発展の機会が奪われかねない。別に新たな機会を設けて人間と仲良くなれば良いのだが、チャンスが目の前にぶら下がっているならそれを逃したくないのが文という少女である。

 

「私は弁舌に関して、誰にも負けない自信があります」

 

「人間を言い負かすのが目的じゃあないわ」

 

「人々の警戒心を早く解けます」

 

「フランドールなら尚更ね」

 

「か、彼女は吸血鬼です。日光に当たってしまうかも知れない場所に長時間拘束するのは宜しくないかと」

 

「日光くらい藍が遮りますわ」

 

 しかし現実は無情であった。二つの主張点と一つの配慮が、全て一言でばっさりと斬り捨てられてしまった。察するに、紫はややフランドールを推す立場にいるようだ。何故なのか、そりゃあ確かに愛くるしいことこの上ないけれど。

 可愛さか、理性の代名詞めいた賢者も怒涛の可愛さには膝を屈してしまうのか。もしそうだと言うのなら、何なら今からぶりっ子全開で紫に擦り寄っていくのも吝かではない。

 

「二人ともに協力してもらえば良いじゃあないか」

 

「何人も前に並ぶのは、ちょっと見栄えがねぇ。私と霊夢、あと一人が丁度良いくらいよ」

 

 あっ、でもユウは安静にしておくんだから駄目よ。先んじて張られた予防線を、彼は無理に越えようとはしなかった。不承不承といった様子ではあったものの、仕方ないと納得する姿勢を見せた。

 

 目が覚めて暫く経ったが、まだ体調が急激に不安定になる時間帯がある。無理が祟って、彼の内包する神気が荒れてしまったのが原因と見られる。そんな身体事情を押してまで出てくるなという制止は、彼女の心からの気遣いである。そう分かっていても、そろそろ布団で養生するのにも飽きてきたのは否めない。身体機能は衰えなくとも、気持ち的に落ち込むのを避けられない以上一刻も早い出歩き解禁が望まれる所だ。

 

「お師匠様、お助けを」

 

「お前も間違いなく適任の一人だろうが」

 

 フランが相手ではなぁ。憐れむような声に、いよいよ文は膝から崩れ落ちた。頼みの綱のユウまでもが、フランドールの支持に回ってしまったのでは到底勝ち目など存在しない。だらりと頭を地面に垂らし、蚊の鳴くようなか細い声で降参を表明した。皮肉にもレミリアの望む通りの結果(圧勝)が導かれたが、流石の吸血鬼でも敗者に鞭打つ真似は躊躇われたのか複雑な面持ちで妹の勝利を賞賛するに留まった。

 ここにこの投票戦は、投票を行うまでもなく完膚無きまでにフランドールの勝利と相成った。ほんの数分前まで、誰もが文の当選を確実視していたわけだ。勝負は最後まで分からないとは、よく言ったものである。

 

「良いですよ良いですよ。髪を金に染めて、翼を色とりどりに装飾すれば私だってフランドールさんになれますし」

 

 えらく大きなフランドールもいたものである。五体投地しやさぐれる文は、とても明朗快活な彼女に似ないけれど。

 ここに天魔の痴態を難ありとして咎める者がいないのは、彼女にとって不幸中の幸いだ。今はどうか、このままそっとしておいてあげて欲しい。山に帰ってお気に入りの日本酒でも飲めば、嫌な思い出も汗か何かと一緒に排出してしまえるはずだ。よしんば忘れてしまえなくても、一晩の時を置けば冷静さは取り戻せるだろう。

 

 天魔について、強者揃いの天狗を取り纏める手腕・実力共に飛び抜けた女傑と聞いていただけに、フランドールの面食らったギャップはかなり大きなものとなった。感情を前面に出すタイプなんだなぁと意外に思いながら文を見ていると、不意に目線があった。不自然に開いた瞳孔は中々に恐怖を誘い、彼女の細い肩を小さく跳ねさせた。

 

「そもそも、どうして立候補したのです?」

 

「事は凄く単純なんだけどね」

 

 そう前置きをして、それからちらりと姉を見る。何故私に視線を向けるのか。訝しむレミリアに用意されていた答えは、彼女にとって銀のナイフにも等しいものであった。

 

「万一お姉様が参加したいってなった時に、抑止力が必要でしょう」

 

「フラン?」

 

「こんなの人前に出したら紅魔館の面目丸潰れよ。お父様とお母様に申し訳が立たないわ」

 

 口はサーベルより強し。容赦のない言葉の嵐がレミリアの心をずたずたに斬り裂いていった。胸を押さえて蹲った姉を見下ろす目は、その場に居合わせた歴戦の妖怪達をして底冷えのする程に冷たかった。

 こんな時に限って、慰めてくれるメイドは館で業務に励んでいる。その次に優しくしてくれそうな実の妹に滅多刺しにされた。おのれ、私が一体何をしたって言うんだ。心の中で大粒の涙を零すレミリアは、これを良い機会として是非普段からの行動を見直してみると良いのではなかろうか。確かに今日はまだ何もしていないが、フランドールはこれまで見てきた495年分の姉を総合的に評価して言及しているのだから。

 

「決まりかしらね。ではフランドール、明後日の正午に里の入口で貴女を拾います。くれぐれも遅れないよう」

 

「分かった。何か用意するものは?」

 

「多くの人間を前にして緊張しない度胸をお願いしますわ」

 

「平易な持ち物で助かるわ」

 

 人間の里にお邪魔するのは、思えばこれが初めてとなる。ファーストコンタクトが大事だ、気合を入れて行こう。とは言っても妖力をばちばちに纏ったり無数の眷属を引き連れたりなどの威圧行為に走るつもりは毛頭無い。幻想郷きっての常識人らしく、友好さを前に押し出していく所存である。

 負った心の傷が度を超えて甚大であったからか、紅魔館次期当主第1候補としての仮面がレミリアから剥がれつつあった。と言うか、ユウを一心不乱にわしゃわしゃと撫で回していた辺り、ほぼ剥がれていた。心の癒しを求めてペットを撫でくり回すような感覚なのだろうが、当のペットもといユウは非常に微妙な表情をしながらされるがままになったいた。髪がぼさぼさになるから嫌だなぁとか漫ろに考えていそうな、何処か眠たげな顔であった。

 お兄様を撫でるとは羨まけしからん。病人に不届きな真似をする姉を1発叩いてから引き剥がし、尚も楽園を諦めず追い縋ろうとする手をその執念ごと掴んで握り締めた。どうだ、これが姉に対して効果抜群の妹力だ。希望をそのぷにぷにの掌で粉砕したエンジェリックデビルは、まるでそのことに僅かながらの快感を覚えたかの如く薄い愉悦の笑みを零した。

 

 この姉にして、この妹あり。血は争えないものである……と言うと、きっと彼女は怒りながら否定の言葉を羅列するはずなので黙っておこう。沈黙は金、口は災いの元。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ただいまーっ!」

 

 レミリアが抵抗虚しくフランドールに引き摺られて神社を強制退去した丁度その頃、地霊殿のドアが元気な帰宅の挨拶と共に開かれた。ばたん、どたばたと俄かに騒がしくなった玄関に向かって、落ち着いている方の姉(古明地 さとり)は平時よりやや声を張った。

 

「こいし。出掛けるなら声を掛けてとあれ程」

 

「無意識のうちに出掛けてたんだもん。無理だよ」

 

「……仕方ないわねぇ」

 

 無意識ならしょうがない。ある種の免罪符のように地底で横行する釈明だが、事実こいしにどうこうできる次元の話ではない。怪我をしてからでは初めての外出だ、取り敢えず無事に帰ってきてくれて良かったと思うことにした。

 地上の面々の治療が功を奏し、こいしはかなりのスピードで傷と体力を癒していった。全く、彼ら彼女らには感謝してもしきれない。お陰でこうしてまた元気な妹の姿を見ることができるようになったのだから。元気余る所まできっちりと快復しているのは、この際目を瞑るべきか否か。姉とはかくも難しい立場の役回りである。

 

「それでね、お姉ちゃん。地上では地底と仲直りしたことを大きく知らせるらしいよ」

 

「あら。()()()の提案かしら」

 

 先の会談以降、さとりは彼女の呼び方を変えた。姓もしくは姓名纏めていたのを、少し縮まった心の距離を示すように名前だけで呼ぶようになった。数年前までは想像だにしなかったことだが、これも良い変化の一環だと言えよう。

 紫は何時からかこちらの呼称を『さとり』に固定していた。家族、そしてペット以外とこうも親しげに呼び交わす日が来るとは、地上との交流再開も意外な余波を届けてくれたものである。或いはある程度知った仲ならこれが普通で、今まで寧ろさとりが仰々し過ぎただけなのかも知れないが。何せ外出する機会は限られており、世間の常識には若干疎い所があるので。

 これからはこちらにも沢山の地上の妖怪、そして時には人間もやってくることだ。いよいよ愛想というものについて真剣に考える時が来たのかも知れないと、増えた課題に自然と瞳が中央に寄る。最近瞳が正位置に無いことが多いという燐の感想は、どうやら正しかったらしい。

 

「私達も何かやろう!」

 

「お風呂入ってきなさい。もうすぐご飯よ」

 

「私達も何かやろう!」

 

「聞こえなかったわけではないのよ、こいし」

 

 もしかすると、斜視かも知れない。原因は様々なものがあるが、1つにはストレスが挙げられる。ストレスで目が寄るのかという疑問を抱く諸兄もいようが、ならばこのさとりを見よ。こいしの芽吹かせようとしている問題の種を前に、くいっと目が動いているではないか。

 

「何で何もしないの?」

 

「逆に聞くけれど、何故何かしないといけないのかしら」

 

「告知は大事だよ」

 

「既にしているわよ。皆とっくに地上への道が開かれたことを知っている」

 

 こんな所で医学の正確性を証明したところで仕方がない。催し事を為せと要求してきた妹に対し、その必要が無いことを理由も添えて諭す。

 燐が地上から例の話を持って帰ってきた後、さとりはすぐに地底のもう1人の責任者である勇儀と対応を協議した。喧々諤々、両者の意見が余す所無く出された話し合いは実に8時間 ── 議論30分、酒盛り7時間半の長丁場となり、その果てにさとりは地底全域への布告を是とする結論と4日後まで残る体の倦怠感を獲得した。青ざめた顔で燐と空に立て看板の設置を依頼したのは朧気ながら記憶に残っていたが、きちんとやってくれたようで強烈な嘔吐感を堪えながら安心したのが印象的だった。

 

「えぇー。やろうよ、お姉ちゃん高い所から号令掛けるの好きでしょ?」

 

「100余年一緒に連れ添っても趣味嗜好は理解し得ないものなのね」

 

 つまるところ、重ねて告知していく必要性は乏しい。妹の建議を却下するのは可哀想と思わなくもないが、生憎多忙の身なのでそのお願いを聞いてあげることはできない。諦めてお風呂に入り、とっとと夜ご飯を食べようではないか。代わりにと言っては何だが、今日はハンバーグにしてあげよう。(料理担当)が。

 そら、お風呂沸かしてあげるから行ってこい。人差し指でちょいちょいとお風呂のある方を指し示してやれば、こいしはぶーたれながらも素直に従って歩いていった。

 

 よし、今日は終始機嫌の良い日だった。彼女に悟られる可能性は零だが、それでも一応ひっそりと喜んだ。ご機嫌斜めの日だと癇癪を起こして飛び掛かりからの全身撫で回しを食らうから怖いのだ。怪我で衰えた分を考慮しても力は彼女の方が強いので、ひとたび襲われたらこいしより更に強い空に助けを求めるしかなくなってしまう。その空も最近『あぁまたじゃれ合ってるなぁ』とか『今日の晩ご飯はおうどんが良いです』などと考えながらいやに生暖かい目で静観を決め込むことがあるので、頼みの綱に切れ込みが入っていくのを見守るしかないような気持ちである。

 

 妖力も腕力も才能に大きく依拠するから困る。しかもあの子の成長ぶりは留まる所を知らないと来た。……姉ってこんなに疲れるのか。もし境遇の似た人妖と知り合えたら、ちょっと相談してみようかしら。可愛い家族による気苦労の絶えないさとりの耳に、こん、こんと遠慮がちなノックの音が届く。

 

「客人かしら」

 

 敵襲なわけがないだろう、律儀にノックまでしているのに。以前たまたま地霊殿に来ていた勇儀に笑われながら言われたことが脳裏を過ぎる。ぽつっと漏らした独り言くらい水上の葉の如く流せないものか。いない相手に突っ込みながら、ドアを開けるべく玄関へと向かう。

 廊下のど真ん中でとぐろを巻いて寝そべっていた蛇をぺしぺし叩いて横に退かせ、スリッパを履いてドアを開ける。そこにいたのは、少し意外な妖怪であった。

 

「夜分に済まないね、さとり」

 

「まだ寝る時間でも無いので構いませんが」

 

 何やらご相談のあるようで。敢えて詳細を言及しなかったさとりに、ヤマメはちょっとね、と力の抜けた彼女らしくない苦笑を返した。

 



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第二十二話 Who are you?

 明日里に来る妖怪の内訳を聞いて、慧音は当初7割5分だけ納得することができた。

 

 賢者たる八雲 紫は当然来ると分かっていた。人間側の代表たる博麗 霊夢についても同様だ。後ろに紫の式である藍が控えるというのも、おかしな話ではなかろう。

 

「……フランドール・スカーレット?」

 

 はて、4人目の登壇者として名を挙げられたこの御方はどちら様でいらっしゃるか。全く聞き覚えの無い名前に、首を傾げた。スカーレットという名前の吸血鬼がいたはずだ、その親族なのだろうという推測くらいは立てられたが、肝心の人となりが欠片程も分からないのは不安が過ぎる。

 紫から聞いた話を総合すると、大妖怪に分類される連中の中で一二を争う常識人だそうだ。真なら大変嬉しい人選だが、()()レミリアの妹が本当に落ち着いた物腰で人間に向き合ってくれるのか。確たる保証が欲しいと思うのは、里の守護者として当然の思いであった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ほうほう。それでわざわざ、人間の里から足を運んで来られたと」

 

 昼食を摂っているであろう時間帯を少し避け、太陽が真上に登るより少々早い頃合を見計らって慧音は大きな鉄の門を守護する妖怪の前に姿を見せた。用件を聞かれたため包み隠さず正直に答えると、得心したようにうんうんと2度頷いてくれた。

 異国の服装だと一目で分かる露出の多い格好をしていたが、不思議と官能的な雰囲気を醸してはいなかった。体の均整は非常に整っており、女性らしい起伏にも恵まれた肢体は健康的な印象を与えた。

 

「気を悪くしないで頂けると。里の一端の責任者として、やって来る妖怪の性格は掴んでおきたいんです」

 

「や、私もその気持ちは分かります。見てもらっての通り門番なので、どういう人物がどういった理由で館に入ろうとしているのかには気を配ってますから」

 

 ほんわかとした笑顔を浮かべる女性だというのが慧音から見た第一印象であった。それでいて昼行灯などではなく、高い実力を巧妙に隠しているようであった。その底まではとても見通せやしないが、自分に半分だけ流れている獣の血が、目の前の女性がやろうと思えば大抵の人妖に勝てるだけの力を有していると囁いてくる。自然と総毛立ったのを隠すように、努めて笑顔で言葉を繋いだ。

 努力の甲斐あってか、さして怪しむことも無く門番は共感してくれた。場所は違えど共に守護する者だ、慧音の心情を察するのは容易い。

 

「しかし、ちょっと時間帯が合わないかも知れませんねぇ」

 

「あぁ、フランドールさんがお忙しい時分でしたら後程参ります」

 

「そうではなくてですね。吸血鬼という種族は、夜を活動の時間としているんですよ」

 

 申し訳なさそうに吸血鬼の生態の一部を教えてくれた門番。それを聞き、慧音は瞬時に自らの下調べの甘さを悟った。

 夜に活動するなら、きっと昼時が睡眠の時間となっているのだろう。幾ら何でも不眠の一族ということはないはずだし、今の時間は寝ている可能性が極めて高い。何てことだ、焦らず縁起を確認しておけば良かった。

 

「……抜かった」

 

「我々とは生活の習慣から異なりますから、仕方ありません。宜しければ館の中でお待ち頂いても結構ですよ?」

 

「いや、それには及びません。夜分にもう1度お邪魔させて頂くとします」

 

 夜のいつ頃起きるのか分からない以上、館で滞在させてもらうのは気が引ける。最低でも数時間、下手をすれば10時間余所者がいれば、寛大な心の持ち主でも流石に不快感を顕わにする。

 手間にはなるが、礼儀には代えられない。夜半に再度足を運ぼうと思い直した慧音は、次の瞬間に隠せない程大きく肩を跳ねさせた。

 

 とんでもなく嫌な気配が、全身に纏わりついてくる。あたかも猛獣と対面した時のような、内臓が引き攣る感覚を覚える。どっと冷や汗が噴き出し、瞬く間に体をびしょびしょに濡らしていった。

 何か不味い。恐ろしいものが、門番を隔てて前にいる。決して荒ぶることなく、ただそこにいるだけで周囲を圧倒してしまう規格外の怪物がゆっくり、ゆっくりとこちらへ歩を進めているのが分かる。

 見たくはないが、見なければどうにかなってしまいそうだ。折れそうな心を必死に支え、ぎぎぎ、と錆びた金属よろしく首を動かしてみたところ、視界に捉えた動体は無意識に創り出していた空想(イメージ)に反してまともな人の形をしていた。

 

「おっと、そうだ。驚かせて悪かった」

 

 外見は20代後半の成人男性という風であった。眉目秀麗にして容姿端麗、街を歩けばあらゆる女性を振り向かせる程の妖艶な姿形をしていた。恐怖を味わっていなければ、慧音も数瞬見惚れていたかも知れない。

 眉の辺りで切り揃えたパープルグレーの髪、王の証明たる黄金の瞳、そして不敵に微笑む口元。その全てが彫像の如く美しく、しかしそれ以上に悪魔の如く恐ろしかった。

 

「意図的ではない、許してくれ」

 

「……ッ」

 

「お館様、起きておいででしたか。彼女は里の守護者である上白沢 慧音さんです。ご存知でしょう」

 

「カミシラサワ・ケイネ……あぁ、貴女が」

 

 彼が己の圧を弱めてくれたので、どうにか慧音も挨拶を喉の奥から絞り出すことができた。力加減というものは女心に並んで扱い難い、と軽く笑う美男子 ── 現在幻想郷で確認されている中で最も強大な力を誇る吸血鬼の王を、軽率な発言を控えるよう門番が窘めている。その傍から見れば然程違和感を感じさせないであろう光景を、夢見心地の気分で眺めていたい衝動に駆られた。

 まだ鳥肌はびんびんに立っているし、心臓は早鐘を打ち続けている。体が落ち着くまでには、もう少し時間を要する有様であった。

 

「して、本日は如何なる用で紅魔館にお越しかな」

 

「フランドール・スカーレットという方に会いに来たのです。しかし現在寝ていらっしゃるという話をそちらの門番殿から聞きましたので、時間を改めて再度」

 

「あぁ、フランか」

 

 待っていてくれ、呼んでこよう。またも軽い調子で宣った吸血鬼は、そのまま館へと戻り始めた。

 

「ちょ、ちょっと待った当主殿!」

 

「ん?どうしたミス・カミシラサワ。あと堅苦しいのは苦手だから、気安くロベルトと呼んでくれ」

 

「み、みす……?じゃなくて、良いのですか?ご子息は今、お休みなのでは」

 

「問題無いぞ」

 

 客が来ていると言えば、起きてくるからな。特に気にした様子も無く、門番もどうぞこちらに、と前を歩き始めてしまった。寝た人を睡眠の途中で起こすのは良心が咎めるが、他ならぬ彼が良しとするなら慧音が気にするべきことではないのかも知れない。逡巡したが、結局2人の後を追うことにした。

 

 大きな門をくぐり、1歩中へ入ればそこは別世界のようであった。巨大な庭園が左右に広がり、見たことも無い花が美しく咲き誇っている。綺麗な水を噴き上げる噴水の周囲には鳥が集まり、この夏場において貴重な涼を取っていた。生命の鼓動に溢れた和やかな光景に、早くも疲れていた慧音の心も幾分か癒された。

 ふと視線を感じたので見上げると、2階の窓からこちらを覗く少女がいた。1度里に来たことがあったので、彼女には見覚えがあった。今回紅い館に来た目的の、実の姉である。

 

「おん?今日5人目の腕試し希望者かしら。まずそこにいる美鈴(メイリン)を倒してごらんなさい。それができたら、私が相手になってあげるから」

 

「お嬢様、彼女は礼儀正しきお客様ですよ」

 

「だろうね」

 

 とても戦いに来た輩の顔じゃない。何が愉快なのかは推し量れないが、兎に角くつくつと愉快そうにレミリアは笑った。直前にロベルトで鍛えられたからなのか、付け焼き刃も甚だしいとはいえ彼女に対して恐怖心を抱くことは無かった。彼と会っていて良かった……とは、今の所口が裂けても本心からは言えないけれど。こんな荒療治があって堪るかということである。

 

「済みませんね。お嬢様は基本的にあぁいうお方なのです」

 

「あぁいうって何だこの門番め、錬気マッサージさせるわよ」

 

「本日の湯浴みの後でしてあげますから、余り客人を威圧なさらないで下さい」

 

 あれ、と慧音は疑問に思った。特別レミリアに圧されているとは感じられないのだ。急激な妖気の受容によって感覚が麻痺してしまい、恐怖を感じ取れなくなったというなら話は別だが、認識できる範囲内では体に異常は見受けられない。怪訝に思っていると、それを察したのか美鈴が違和感の種を丁寧に解説してくれた。

 

「今は私がお嬢様の圧を防いでいるんです」

 

「な、成程。良く分かりませんが有り難うございます」

 

「華人小娘は私らの知らない技術を沢山持ってるからね」

 

 結構強めにぶつけてたんだけど。さらりと恐ろしいことを言ってのけ、それからレミリアはひょいと窓を閉めて中に篭ってしまった。こちらへの興味を失ったのだろうか。妙なちょっかいを掛けられるよりは何倍もましなので、何も言うつもりは無い。

 庭園を左右に見ながらの遊歩も終わり、いよいよ吸血鬼の根城へ進入する扉の前に立った。自分でも気が付かないうちに生唾を飲み込み、扉を開いてくれた美鈴に感謝を述べてからそっと中へ踏み入る。

 

 紅い。第一に出てきた感想は、これだった。廊下の壁面から天井まで、兎に角紅1色に染め上げられていたのだ。何も言われていないのに頭が勝手に血を連想してしまい、軽く目眩がした。初めての方には優しくない色合いですよねぇと彼女が笑ってくれたのが、少しだけ嬉しかった。

 いつまでも入口でじっとしているわけにもいかない。深呼吸を3度して、腹を括った。矢でも鉄砲でも持ってこい、もう私は怖気付かないぞ。

 

「お、お邪魔します」

 

「ようこそお越し下さいました」

 

「ぅあっ!?」

 

 括ったそばから手際良く解きにくるのは、やめて欲しい。何だここは、来訪者を心臓の疲労で殺す館なのか。この時の彼女は最早涙すらその目尻からちょちょ切らせていた。

 いつの間に後ろを取ったのか、嫋やかな笑みを浮かべていたのは紅魔館でメイド長を務める優秀な人間であった。良く里に買い物をしに来るので、こちらもそれなりに知る所であった。しかしこんな悪戯めいた登場の仕方をする剽軽な性格であっただろうか。何度か話をした感じでは、冷静で物静かな少女だと思っていたのに。

 

「そう驚かなくとも良いではありませんか、守護者さん」

 

咲夜(さくや)か。肝が潰れるかと思ったぞ、心臓に悪い登場の仕方はやめてくれ」

 

「これはこれは、お客様に大変なご無礼を。以後善処致しますわ」

 

 確約しろ、確約。迫真さ満載の苦言も意に介さず、メイドは意図の読めない微笑みを絶やさなかった。今日から夜道には気をつけようと心に誓ったが、警戒したところで彼女の仕掛ける奇術は如何ともし難いものだ。頑張れ慧音、負けるな慧音。早く慣れるのだ、心臓が過労で息の根を止める前に。

 

「そういうことなら、どうぞ中へ。すぐにお茶とお菓子をお持ちします」

 

「お構いなく。長居するつもりはないし」

 

「お待たせ致しました」

 

「……うん、有り難う」

 

 話を聞けと言うかで迷ったのだが、何も迷惑をかけられたわけではない。用意してもらったのだから有り難く頂戴するとしよう。うん、美味しい。クッキーもきっと焼きたてなのだろう、仄かに温かくしっとりとしていた。

 

 そもそも、何故今私は座っているのだろうか。記憶が正しければ、ついさっきまで自分は紅魔館の玄関口に立っていたはずだ。それがどうして、ふかふかのソファに腰掛けて西洋人のように香り高い紅茶を堪能しているんだろう。深く考える程に思考が底無しの泥沼に嵌っていきそうな気がして、慧音は考えるのをやめた。人間は考える葦であると嘗ての偉人は言ったが、それはあくまでも人間に通用する言い回しである。いや、半分は人間だけども。

 

「向かいを失礼するぞ」

 

 色々余計なことを考えながら紅茶を飲んでいたら、対面に座る美形が1人。覇気じみていた妖気が抑えられたからか、先程のようにみっともなく取り乱すことはなかったが、それでも隠しきれない凄みはぶるりと体を震えさせた。

 机を挟んだ向こうに、吸血鬼の王が鎮座している。紫との会談に臨んでいる時とはまた違う、言葉には表せない緊張感が心に巣食っていた。まだ彼の妖気に慣れていないのが主たる理由であろう。

 

「ミス・カミシラサワ。貴女と話がしたい」

 

 慧音では首が千切れるくらい見上げても影も見えないような、遥かなる高みにおわす大妖怪は、彼女から視線を切らさずにそう言った。紳士的な物腰柔らかい態度は、確かな実力の賜物か。成熟した妖怪が人間に近い思考経路を持つようになるという何処ぞの誰かが提唱した説は、どうやら信憑性に足るようだ。

 

「明日、そちらにフランが何やら喋りに行くのだな」

 

「えぇ。地底への立ち入り禁止が解かれたことについて里の者達に知らせてくれると賢者殿からは伺っています」

 

「やはり八雲が発起人か」

 

 慧音の飲んでいるのと同じ紅茶を一口嚥下し、それから我が意を得たりと言わんばかりに微笑を顔に貼り付ける。同じ微笑みでも咲夜のは淑女的だったが、彼のは大局を見極めた軍師のようであった。フランドールの布告への参戦すら何かの布石にしているような錯覚がしてきて、慌てて頭を振り邪な考えを脳内から追い出した。

 肩を跳ねさせたり頭を振ったりと、彼から見れば激しく挙動不審であるだろうに、苦い顔も指摘もせず話しかけてくれる辺りこの吸血鬼は温厚な性格をしているらしい。或いはこういった反応にはもう慣れっこという可能性もある。

 

「あいつは何を考えているのか、いまいち良く分からん。悪巧みをしては……いやしている時もあるそうだが、取り敢えずこの幻想郷への愛だけは本物と言った所だ。貴女もあの奇異な妖怪には大分振り回されているのではないか?」

 

「は、はは。それは私が未熟故のことですから」

 

「ほう、謙虚は美徳というやつか。だがなミス・カミシラサワ、この年長者が1つ良いことを教えておこう。歳を食っても、分からんものは分からんぞ」

 

 現に私が、理解できていない。困ったものだと凪いだ声色で呟く姿は、強大な力を振るえる妖怪らしくもなく小さく見えた。分からないものはどうしたって分からないから、放っておけ。そんな意味を込めた教訓なのだろうと、自分の中で勝手に解釈した。

 

「今回のこともそうだ。あの子から伝え聞いた所によれば、先に意欲を示していた天魔を押し退けての抜擢だとか。正直に言うならば、フランより彼奴の方が適任だ。八雲もそれくらい把握しているだろうに」

 

 娘よりも、他者の方が優っている。まさか父親からはっきりと宣言されるとは思っておらず、少したじろいだ。そんなことは無い、と咄嗟に否定の言葉が口を飛び出しかけたが、媚を売るような安易な雑言と取られてしまうような気がして、寸前で口を覆った。隠したつもりではあったが、慧音の葛藤はきっと透明なガラス越しに海を覗くが如くお見通しだったに違いない。彼の口角がぴくりと上がったのが、良い証拠だ。

 

「天魔はやたらと口が回る。まさしく衆目の前で演説をするためにあるような口だ。斯様な吉事を広めるなら、幻想郷に奴以上の堪能の者はいない」

 

「賢者殿にも何か意図あっての選択でしょう」

 

「その意図とは、何だ。最高の情報拡散能力と引き換えにできるようなフランの強みとは、何だ」

 

 ティーカップをゆらゆらと揺らしながら、穏やかに吸血鬼(ちちおや)は問う。桜でも眺めているような風情さえ漂わせながら、一片も語気を強めることなく。カップの中で紅茶は揺れ混ざり、全体的な均質性を獲得していく。彼の興味は、味という個性を失いゆく飲み物にその大半が向けられているようであった。

 だと言うのに、全身を鎖で締め上げられたような圧迫感が襲った。体の軋む悪寒を気の迷いだと切り捨てることは、余りの生々しさ故にできなかった。

 

 かたん、と小さな硬い音を立ててティーカップが手元に置かれた。その音が、戒めを破り慧音に自由を授けた。呼吸すら忘れていた彼女は、その瞬間に大きく息を吸い込み肺へ酸素を送り込んだ。荒い呼吸を繰り返す彼女に向けられたのは、先程までの鷹揚な笑みであった。

 

「まだ会ってもいない妖怪のことなど、問われても合点が行かんのは必定。悪かった、意地の悪い質問だったよ」

 

 娘と面識のない半妖に答えを求められる質問ではない。投げかける前にその判断は済んでいたが、それでも投げずにはいられなかった。返答の一切は期待せず、ただ出口の無い自問自答を繰り返していた。

 誰かに問いかければ、漆黒の帳で隠された八雲の狙いも少しは明るみに引き摺り出せるかという淡い期待があった。だがそう上手く事は進まず、結局闇に光を差し込ませることはできなかった。

 

 紫のことは、信用していないわけではない。良き提携者として、良好な関係を築き上げていけたらと願っているし、そうなるよう行動を欠かさない所存だ。しかし、友人として更なる付き合いを構築するには余りにも胡散臭過ぎる。

 敵ではないが、味方と断言も難しい。こんな踏み入った話を知り合ったばかりの若い女にしている時点で配慮が足りていないのは明白だ。この場に美鈴が同席していれば、間髪入れずにお小言を頂いていたことだろう。予め門番の業務に戻ってもらっていて、助かった。

 

「初めはな、私はどちらかと言うと反対の気持ちの方が強かったんだ」

 

 言い訳をするのであれば、この上白沢 慧音なる半妖は極めて話しやすい。雰囲気の影響なのだろうか、彼女にならあれもこれも話せると思ってしまう。聞き上手はスカーレット一族の中では妻ぐらいしかおらず、その妻が今病床に伏せているために、ついつい話を膨らませ過ぎたかも知れない。

 ここまで喋った上で話を切るのも、非常にもやもやが残る。どうせだから最後まで話し切ってしまおう。都合の良いことに、フランドールもまだ来る気配が無いことだし。

 

「愛する我が子を、たった1人で見知らぬ場所へ送り込める程私は子離れできていないのだよ。お恥ずかしい話だがね。増してそこに八雲の影が見えるともなれば、尚更だ」

 

「子を想う親として当然の心情です」

 

「そう言ってくれるか。いやしかしな、想い過ぎるのも良くはないだろう」

 

 いつまでも父親の影がちらつけば、フランも嫌がるからな。少しだけ寂しそうに、彼はそう付け加えた。子を愛するのは結構だが、愛と称して飛び立とうとする娘を手元に留め置くのは誰の為にもならない。理解も納得もしているが、我が子可愛さにどうしても干渉と黙認の境界が揺らいでしまうのが心苦しい。こんな時に八雲が颯爽と手助けをしてくれたなら、1発で心の鎧を脱ぎ捨てるだろうに。

 

「貴女がこんな折に来てくれたのは、本当にグッド・タイミングというやつだった。だからこうして僅かながら顔を合わせて話をさせて貰ったのだよ。そして確信できた、貴女になら娘を任せられる。八雲の思惑に乗るようで癪ではあるが、娘の希望は極力叶えてやりたいのが父親という生き物でな」

 

 この言葉に、慧音は今までと違うものを見た。非常に曖昧で言葉にし辛いが、端的に言い表すならば自分への期待。お前なら信用に足るという信頼であった。彼が自分に何を見出したのかは甚だ謎だが、誰しも信頼を寄せられれば嬉しいのは道理である。

 期待されたなら、応えたい。正義などという重々しい大義名分ではなく、単純に真面目な性格をしているがためにこうした発想に至る。ここまで散々怖い目に遭わされているという事実など一瞬のうちに忘却の彼方に捨て去った。後にこの時の瞬間忘却を、彼女は我ながら都合の良い頭だとやや自虐的に振り返ることになる。

 

 面倒見が良く、重大性の大小に関わらず頼まれ事を断れない性格だ。当然、自覚もしている。とある知人には、いつ優しさに付け込まれるか心配でならないと本気で将来を案じられているが、それでも自分は見て見ぬふりで救いの手を取捨選択できる程に賢くない。

 

「ふむ。これではまるで婿にあの子をやっているみたいだな。いやこれでも長生きはしてきた、人を見る目というのは相応に養ってきたつもりだ」

 

「勿体ない言葉です」

 

 慧音の表情がきりりと引き締まった。教師の血が目を覚まし、おいここって私の出番じゃないのかと体の奥で騒ぐ。何とも喧しい奴だが、確かに今回やってくる賓客は幻想郷屈指の大妖怪であると同時に、父親に信じられ送り出される娘というわけだ。普段寺子屋に通っている子供達と、全く同じではないか。

 

「私如きにできることなど限られましょうが、明日の件がフランドールさんにとって良い経験となるよう尽力させて頂きます」

 

「うむ」

 

 ならば、守護し新たな発見をさせてやるのが自分の務め。固い意志の感じられる決意表明に、彼は満足そうに頷いた。少し温くなってしまった紅茶を一口で飲み干し、それから徐ろに席を立つ。

 

「来たな」

 

「えっ?」

 

「では、私はこれで失礼するよ」

 

 思う存分、フランと喋ってくれて構わない。手をひらひらと振りながら正面の一際大きな扉へ歩いていく。それとほぼ同時に、左の方でがちゃりとドアの開く音がした。

 入ってきたのは、金色の髪を両側で括った女の子だった。およそ揚力など得られない形状の翼が背中から飛び出しており、吊るされている色とりどりの結晶が屋内の証明が放つ光を反射してきらきらと煌めいている。あぁ、来たってそういう。

 

「こんにちは。貴女がお客様?」

 

「えぇ。わざわざ時間を割いてもらって有り難うございます」

 

「敬語じゃなくて良いわ」

 

 この見てくれに敬語を使うのも、違和感あるでしょう。茶目っ気たっぷりにウィンクしながら冗談を飛ばしてみせたフランドールに、愛されるわけだと慧音は得心した。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 「ごめんくださーい!」

 

 博麗神社の静かな夜更けは、突然の大声によって儚くも破られてしまった。鳥居付近から放たれた声が障子を隔てて布団で爆睡していた霊夢の意識を覚醒させた辺り、相当な声量であったらしい。近所迷惑も良い所である。この付近の家屋と言えば、博麗神社ただ1軒だけだが。

 人が気持ち良く寝ていた所に、特大のお邪魔をしてくれやがったな。寝間着姿のままぺたぺたと外へ出て、さて今回はスキマか文屋かと順調に苛々ゲージを貯めていると、見えてきた人影には全く見覚えが無かった。前述の2人なら問答無用でぼこして布団に戻れたのだが、当てが外れてしまった。

 

「……妖怪、ね。何、こんな真夜中に喧嘩の訪問販売?」

 

「違うよ。ユウさんっていう神様、ここにいる?」

 

「いるけど」

 

「じゃあこれ渡しておいて!」

 

 お願いねー。手紙と思しきものを霊夢に渡し、そのまま飛び去っていってしまった。何だお前と威圧したら、平然と躱された上に質問を返された。取り敢えず答えたら文書の伝令役を押し付けられた。余りに急展開過ぎて、鬱積していた苛立ちも大量の疑問符に塗り潰されてしまった。

 あの烏、ユウの知り合いらしい。彼なら突然の大迷惑訪問の真相を知っているかも知れない。今から叩き起こして問い詰めようかと怪我人にまでバイオレンスな思考を向けようとしていた霊夢の背後に、純粋な神気がふわりと舞う。起こす手間が省けて良かったと喜んだが、彼からしても手荒な目覚ましをされずに済んだので助かったとなる。無論、未遂に終わったため彼がこのことを知る機会は永遠に訪れなくなったのだけど。

 

「客がついさっきまでここにいたわよ」

 

「そのようで。今のはお空かな」

 

「おくう?」

 

「古明地の所のペットだよ」

 

 この前火焔猫 燐っていう妖怪が来ただろう、その子の同僚だ。ユウの説明で、霊夢もそういやそんな猫いたなと思い出すことができた。先日の出来事なのだから忘れないであげてと言いたいが、他者への興味が並外れて薄い彼女がちゃんと記憶から掘り起こせただけでもましな方なのかも知れない。もし一切覚えていないとでもあっけらかんと申告されようものなら、彼は余計な説明の手間を取らされていた。

 

「手紙だけ私に預けて帰ったわ。行水してんじゃないっての」

 

「忙しなさそうな子だったし、多少は許してやってくれ。それで、その手紙はもしや俺宛てか?」

 

「多分ね」

 

 ひょいっ、と手紙を投げて寄越す。丁寧に折り畳まれて小綺麗な封筒に入れられたそれはくるくると宙を舞い、回転の方向に従って左へ進路を変更しかけた段階でユウの手に収まることと相成った。神宛ての手紙を、よりによってその神に投げる巫女は世界広しといえどここにしかいないのではなかろうか。

 尤も、そんなことを気にする程狭量ではない。封を開けて中身を確認する。

 

「……ほう」

 

「何て?」

 

「地底で宴会をするから、友人知人お誘いの上で是非だとさ」

 

 差出人は古明地 さとりとなっていた。てっきり宴会とくれば勇儀辺りの差し金かと思っていたので些か意外ではあったが、わざわざお誘いを頂いておきながら欠席するのは忍びない。話したいことも幾つかあることだし、好機と見て参加させてもらうとしよう。

 

「明日の夜からだそうだ」

 

「他に予定も無いし、私も行こうっと」

 

 さとりのことだ、人間だからといって排斥することは無い。しかし地底の酒は果たして人間が耐えられるレベルに収まっているのだろうか。味やアルコール的に。

 地底の一般的な酒を飲んだことは無いので何とも言えないのだが、鬼が居住している時点で少なくともどぎつい酒の存在は確定している。もし霊夢達が飲めば、いちころであろう。まさに鬼殺しならぬ人殺しである。ついでにユウや紫らも巻き込んで撃沈すれば、無差別連続殺人犯だ。

 

「それじゃ、明日の段取りも決まった所で私は戻るわ。あー眠……」

 

「おぉ。お休み」

 

 時刻は恐らく丑一つ時くらいだ。人間の娘は本来熟睡している時間帯であり、起きていれば眠気に襲われるのも致し方ない。かく言う彼だってさっきから何度か欠伸を噛み殺している。夜は妖怪の時間であるが、残念ながら神の時間ではないのだ。

 手紙は拝読したことだし、俺も寝るか。涙で潤んだ瞳を軽く擦り、久しぶりに感じられる地底訪問に思いを巡らせる。

 

 古明地姉妹については、仲良く元気にしていると燐から聞いた。他の皆についても、言及が無かったということはいつも通りなのだろう。地底は確実に、かつての姿を取り戻しつつある。大変喜ばしいことである。

 かつての姿を知らない者が一丁前に言うことでもないか。ちょびっとだけ心の中で反省しながら手紙を元通りに折り畳んで封筒に入れようとした。

 

「おっと」

 

 しかし、突然の風が彼の手から紙を攫う。無くしてはいけないとすぐさま能力で擬似的な指を2本生成し、ひゅーんと伸ばして舞い踊る紙をはしっとキャッチした。

 危ない所だった。一息吐きながら手紙を折り直そうとして、ふと2文字の漢字が目に入った。それは主題が書き終えられた後に、新たな内容を付け足したい時に用いられる文言であった。

 

[追伸。貴方と個人的にお話がしたいと希望している妖怪がいます。もし良ければ、聞いてあげて下さると幸いです]

 

「おや」

 

 話のしたい妖怪か。勿論拒みやしないが、はて誰であろうか。この書き方だと地霊殿姉妹では無さそうだが、彼女達以外で特別自分に話のある相手には心当たりが無い。

 

「心の準備だけしておくか」

 

 話が水平線を行き続け、終いに荒事に発展しないことを祈ろう。折角の酒の席で場を興醒めさせるようなことに加担したくはない。自分は1人静かにちびちびと、会場の熱気活気乱癡気を肴に酒を嗜むタイプなのだから。



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第二十三話 どうか、心の色眼鏡を取り去って

「強度・面積共に問題無し。うむ、完成だ」

 

 作業終了を告げた慧音の一声に、少しほっとしたような溜息があちらこちらで散見される。何に対して安堵したのかは個々人によって異なってくるが、ともかく刻限に間に合って良かったというのが皆の総意であった。

 布告用の舞台を組み始めたのが、およそ四半刻前だ。里の男衆から有志を募り、足りない分は手の空いている者達に頼み込んで補った。当日の朝まで引っ張ったが何とか材料も人手も確保し、いざ木組みを始めたところで予想外の助っ人が参戦してきた。

 何を隠そう、里へやって来たばかりの紫とフランドールである。先日の約束通り正午に里へ入り、2人仲良く軽い昼食を摂ってから本日の目的地へ出向いたところ、絶賛作業中であったので食後の運動も兼ねて手伝うことにした次第だ。

 

 賓客である彼女らに手伝ってもらうわけにはいかない。慌てて押し留める慧音をひょいっと往なし、2人は当然のように作業に混ざっていった。男が複数人で漸く持ち上げられる大きな木材を、まるで子猫でも持ち上げるみたいに片手で運んでいき、これまた手際良くぱぱっと配置していく。

 どう考えても手の大きさ的にあの直径の木材を鷲掴みできるはずもなく、事実殆ど手を添えているだけだったのに。この矛盾と言うか謎には、しかし首を突っ込まずとも良い。特殊な力の無い人間が幾ら考えた所で正解を導けやしないし、当の本人達も笑ってはぐらかすだろうから。

 今日里にやって来ることは皆が知っていたが、それにしたって突然な登場だったので初めは場が俄かにざわめいた。しかし2人、途中でスキマ妖怪の式神までもが参加したので実質3人が我関せずとばかりにてきぱきと作業を進めていたので、どよめいていた集団もそのうちぽつぽつと建築に戻っていった。結果、一刻を予定していたそれなりの大事業は所要時間4分の1にて計画の完遂を迎える果報を得たのである。

 

「良い汗をかきましたわ」

 

 晴れやかな表情で労働の喜びに感じ入っていた紫だが、汗どころか息も上がっておらず、事情を知らない者が見れば何処か涼しい場所で怠けていたんじゃあないのかと糾弾したくなるような平常体で振る舞われた緑茶を嗜んでいた。尤も、語られることの無い余裕に満ち溢れていたのは他2人も同じであったけれど。

 とても幻想郷の歴史の転換を告げる直前とは思えない、穏やかな雰囲気が彼女らの周囲を漂っていた。友人とお茶でもしているのか ── 実際に茶は飲まれているが、何とも平和でほのぼのとした少女の集団が人里の一角に形成されていた。

 

「紫様、他より倍は動いておられましたからね。何故指定された場所と真逆の方向に木材を持っていってしまったのですか、それも複数回。だからあれ程夜更かししてはいけませんよと」

 

「主人に何たる暴言を吐くのかしら、この狐。棒で打ってやるわ、お尻を出しなさい」

 

「猥褻行為強要の咎で霊夢に申し訴えますよ」

 

 起きながらにしてかました寝ぼけた失態を突っ込まれ、取り敢えず主人権限を行使して反撃に出たものの、古代の五刑は時代と共に発展した法律には到底叶うものでない。一刀の下に斬り捨てられ、むむと眉を顰める羽目になった。主って、何だっけ。こうもざくざく無遠慮に切り刻まれるのは、もしかして主従関係的におかしなことではないのか。

 疑問は抱いたが、それを藍にぶつける勇気は無い。投げ込んだが最後、どんな豪速球が顔面目掛けてかっ飛んでくるか分かったものではない。己の式神相手に怖気付くへたれと笑いたくば笑え。こちとら彼女の生の大半に関わってきた身だ、絶妙な距離感くらいとうの昔に把握している。いきがって主人面をぶら下げたがる蛮族とは、積み重ねてきた経験値の桁が違うのである。

 

「こほん。予定していた時間よりは大分早いけど、もう始めようかと思うの」

 

「宜しいかと」

 

 一見賢者らしく立場に囚われない、柔軟で寛容な意見を保持しているように思えるが、第三者の視点から少しばかり考えて見れば式神に頭が上がらないぽんこつ妖怪だ。賢者としての威厳もへったくれも、この様ではありやしない。

 心に刺さる恥ずかしさを誤魔化すように、咳払いを1つ。藍も主の言外のメッセージを受け損なうことなく、すぐさま拱手して彼女の提案に賛成の意を表明した。舞台が計画していたより早く出来上がったので、予定を順々に繰り上げていくつもりらしい。確かに、特にやることも無くじっと待機を続けるのも時間の無駄だ。予定を早めていくのは人妖双方にとって英断であると言えよう。言い負かされ逃げたと見えなくもないのは、きっと気のせいや勘違いではないと思われる。

 

「ちょっと見てくるわ。もし準備ができていたらそのままこちらへ連れてくるから」

 

「御意」

 

 スキマを開き、飲み込まれるようにしてその中に消えていく。いつもより若干早足な主人を見送った藍は、ふと後ろで自分の尻尾が撫でられているのに気がついた。振り返って見たところ、予想通り尻尾と戯れていたのは吸血鬼妹であった。

 

「ふかふかねぇ。あ、嫌だったら悪いわね」

 

「別に構わないよ」

 

 白魚みたいにか細い手が、黄金の毛並みの中を泳ぐ。触れた毛は貼り付くこともなく、さらりと手を撫でていくだけだ。微かな擽ったさを伴う極上の快感に浸るフランドールの顔は、見た目相応にふにゃりと蕩けていた。

 暫く為されるがままになっていたが、ふと悪戯心が鎌首をもたげてくる。もし今先日の()()()()を話したら、彼女はどんな反応をするだろうか。真面目な彼女のことだ、きっと緩み切った頬をきりっと締め直してくれるだろう。流石は狡猾なる策略家な狐、ただでもふもふを提供してはくれないらしい。

 

「そうだ。この前、レミリアは私の尻尾の中で寝ていたな」

 

「あの阿呆め」

 

 そら来た。姉の不祥事(お馬鹿)に敏感な世話焼きさんが、瞬きする間に表情を切り替える。何気無い世間話を装った揶揄いは、フランドールには抜群の効果を発揮した。

 これが見たかったので、目標は達成である。余計な一石を上手く投じられたので、密かにほくそ笑む。ぴっちりしている普段との齟齬が大きいせいか、より一段と悪どい笑みであった。

 

「お姉様が迷惑かけたみたいね。重ね重ねごめんなさい」

 

「律儀だなぁ。お前もどうだ、お近付きの印に」

 

「お気持ちだけで、遠慮しておくわ」

 

 私まで世話になるわけにはいかないのよ。口ではそう言うが、尻尾を撫で回す手は止まらない。自分で誇るのも何だが、さぞかし気持ち良いだろう。磨きに磨いた千年ものの逸品だ、そうそう手は離せまい。

 

 空いている8本のうち1つをフランドールの頭に被せ、適当な2つで両サイドを包み込む。あっ、と力の抜けた声で鳴いたが、その時既に遅し。避ける暇も無く完全にもふもふに包囲されてしまった。

 ある意味重厚な牢屋より脱走が困難な毛の檻は、羽毛布団めいて彼女に覆い被さる。何とかして脱出を図るも体から力が急速に奪われていくので叶わない。ここに居続けるわけにはいかない、ああでも身の安らぐ温かみとふんわり漂う良い香りが凄い。お父様お母様ごめんなさい、娘は抗い難い快楽に屈しました。期待された役目を果たせないことをお許し下さい。

 

「こーら」

 

 薄れゆく意識の中で、誰かが自分の肩に触れた感覚があった。誰だろう、そんなことを考える前に体が数秒ぶりの風を得る。瞬間、暗い場所に落ちかけていた意識が魚もびっくりの速度で表層まで浮上してきた。続いて足が固いものを踏みしめた。察するに、と言うか当然だが地面であろう。

 微かに靄のかかった頭で、現状の把握を試みる。目の前には蠱惑的に揺らめく金色の布団じゃなかった、尻尾がある。そして自分の横で、誰かが腰に手を当てているのがちらりと視界の端に映る。このど派手なパープルドレスの該当者は、少なくともこの場においてはたった1人だ。

 

「おっと、お帰りなさいませ」

 

「えぇ、ただいま。余りフランドールを腑抜けさせないでちょうだいな」

 

 寸での所で帰ってきた紫により、辛くも生還を果たした。廃人にならなくて安心したような、至高のふわふわ感が無くなって残念なような。快適とも不快とも言えない至極もやもやとした感情が、心のうちで火種を求めて燻っている。しかし、先程のような抵抗が意味を為さない程の暴力的な魅力にまで発展していくことは無い。1度全身で味わって耐性が付いたのだろうか。

 紫の横には、いつも通りの巫女服に身を包んだ霊夢がいた。心做しかとろんとした瞳は、彼女が起きてからそこまで時間が経っていないことの物的証拠だ。いや、でも彼女は大体こんな感じの目をしているような気もする。つまりこれは通常運転なのかも知れない。自分のことを棚に上げるようだが、人の前に立つのだからもう少し目と言うか表情を凛々しくした方が良いのではないだろうか。

 

「霊夢も起きていたし、これで始められるわね」

 

「あんたが来なかったら二度寝できたのに」

 

「規則正しい生活は健康への第一歩よ」

 

「蝙蝠のあんたがそれを言うか」

 

 蝙蝠じゃなくて吸血鬼なんだけど。確かに変化(トランスフォーム)できないわけでもないし姉はしょっちゅう化けて何処かに出て行っているが、正体は由緒正しき吸血鬼であり、基本的に蝙蝠と言えば眷属として従えるものだ。様々な概念を十把一絡げにしている東洋人にとってはさしたる問題でもないのだろうが、張本人的には看過できないので訂正させて頂きたい。

 

 そんなこんなをしている間に紫が慧音に話を通し、彼女の了解も得られたようで手に丸を作りながら戻ってきた。さて、いよいよ本番というわけだ。最初は姉に対する抑止力として立候補したが、当然地底と地上の関係修復について思う所はある。例え自分が直接先の件に関わってはいなかったとしてもだ。自分の所感を余す所無く話し、率直な賛辞を送りたい。

 立派な熱意だ。願わくば真横で呑気に欠伸を噛み殺している楽天少女にも、その熱い思いの欠片で良いから分けてあげて欲しい。何ともてんでばらばらと言うか、纏まっている感じのしないチームである。個々が強過ぎて纏まれない感は否めないけれど。

 

「長ら……うわっ、本当に声が遠くまで」

 

 手元に開かれた紫色の亀裂に向けて話された言葉が、一瞬遅れて方々からも届いてくる。集客率についての懸念も、既に手を打っていたらしい。いつ配備したのやら、策の早いことである。尤も、結構な人数がこの場に集まってきているので、やや徒労に終わったように見えなくもない。里中に声を届かせるために必要なスキマの数や面積を考えると、結構な負担になっているのではなかろうか。これに限らず、彼女の頑張り所は微妙にずれているように思えてならない。

 

「こほん。これより賢者殿と博麗の巫女、そして吸血鬼による、地底との交流再開についての意見表明が行われる。声は賢者殿のご配慮のお陰で里の全域に届くということなので、この場に来れない者もそれを聞いておいてもらいたい」

 

「慧音、私は喋んないわよ。あくまでこいつらの見張り役だから」

 

「そうなのか?」

 

「そうなの」

 

 では、と演説者の人数を訂正した慧音。藍はそもそも数から省くようお達しがあったのか、最初からカウント外となっていた。さしずめ紫の式という立場にあり、且つ結界の維持という形で里に関わっているから連れてこられたのだろう。彼女程の大妖怪に発言の機会が無いのは少しばかり違和感を覚えるが、本人は別段異を唱えたりはしていない。

 

「ではどなたから話される?」

 

「そうねぇ。フランドール、お願いしますわ」

 

「……えっ」

 

「はい、どうぞ」

 

 一瞬考え込むポーズを見せ、それからごく自然な所作で横を向く。そしてそこから流れるようにフランドールを指名した。いやいや、どうぞじゃない。ここは立場面目その他諸々を考慮して貴女が最初じゃないのか。彼女としては至極真っ当な疑問をぶつけたつもりだったのだが、紫は動じることも無く平然と返答を返した。

 

「お気になさらず。思ったことを言って頂ければ結構ですわ」

 

 そういうこと聞いてるんじゃないし、別に言葉が思いつかないわけでもない。ほら、立場的に貴女から私になるのが無難だろう。最初の出だしが私では、何かこう締まらないものがあるじゃあないか。異国の文化にできるだけ則して訴えてはみたものの、効果は今一つであった。無念、日本の文化はその場当たりの付け焼き刃で引用できる程浅くはなかったようだ。

 

「昔、ある者が言いました。辛抱強い我慢と運命に対する積極的な闘争こそが勝利を生むのだと。今貴女は、無難という壁を己の忍耐によって破れるかという岐路に立たされているのです」

 

「日本のポエマーは、急がば回れと言ったそうじゃない。折角だから私はこっちをリスペクトするわ」

 

「いやねぇ、そんなの面白くないじゃない」

 

 結局個人の感覚の問題か。紫は柔和な巨岩の如くどっしりと構えていて動かせそうにないし、隣からは早く誰か行けという無言の圧力がじとぉっとした視線に乗せられてぶつけられている。最後の頼みの綱を求めて藍に目配せをするも、さっと目線を切られてしまった。嗚呼、孤立無援。

 もう賽は投げられており、誰かが喋らなければいけない状況だ。しかしその誰かとは、絶対私ではないはずだ。権力者を立てるのは欧州のみならず極東の国においても同様ではないのか。とか何とか言ってもどうすることもできないわけで、それはつまりフランドールに唯一残された道を順当に行けという運命のお告げに違いないのだ。

 

 何て運命を寄越してくれたんだ。帰ったら引っ掻いてやると九分九厘無実であろう実姉への濃い恨みを胸にしかとしまい込み、仕方なくスキマの所へ歩いていった。

 慧音がお前も大変だなという風に肩をぽんと叩く。全くだと彼女に愚痴を言いかけたが、もしあのスキマに拾われたら里中に自分の愚痴が流れるという失態(ぽんこつ)を晒してしまうことになる。慌てて口を噤み、事なきを得た。

 

 大きく、体内の邪気悪気を換気するイメージで深呼吸を1つ。吐き出す息にあらん限りのネガティブエモーションを込めて、体の浄化は完了だ。

 もう1度、今回はやや小さめに息を吸い込む。話の出だしは、何処か感覚を探るような口ぶりであった。

 

 

 

 

 

「ご機嫌よう、里の御一同。まず最初に話をさせてもらうフランドール・スカーレットです。今、そして以後もどうぞよしなに」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

『今、そして以後もどうぞよしなに』

 

 もう始まるのか。里のうどん屋でいつもより少し遅めの昼食を摂っていた少女は、思っていたよりもずっと早いスタートに面食らった。麺も食らっていた、もとい啜っていたので、取り敢えず食べつつ聞こえてくる話に耳を傾けることにした。

 店内の照明に照らされる髪は明るい茶色、いつもぴょこんと飛び出ている翼は人目を憚ってか収納されている。注文したのは山菜山盛り生姜乗せうどんであり、彼女が大人しい性格に似合わず食の挑戦者であると証言しているかのようであった。男でもこんなのを食べたら胸焼けするはずなのだが、特に辛そうな表情をしていないので存外健啖家なのかも知れない。

 

 姫海棠(ひめかいどう) はたてが今日こうして里へやって来たのには、訳がある。古い友人であり、同時に上司でもある文に頼まれたが故だ。

 初めは自分で行けと突っぱねたが、急に入った仕事が忙しくて行けない、重大な発表に際しての人間の反応も含めて見てきてくれと頼み込まれた。金は色を付けて渡すし調査が終わったら明日まで休みにするから、と中々の好条件を提示され、それならまぁ良いだろうと了承して里に足を踏み入れた。

 

 結果から言って、得られた情報は質・量共に上々だ。これを餌にして文に更なる()()()をせびったら、多分認可されるだろうなというくらいに。はたて自身も今作っている新聞の一助を獲得できたので、満足である。

 

『皆、話は聞いているかしら。一応概要だけ説明しておくと、地底世界と地上世界が再び手を取り合い、共に維持発展を目指していくことが決まったの』

 

 しかし、このフランドール・スカーレットなる妖怪については完全に初耳だ。名から察するに吸血鬼の関係者なのだろうが、その容姿は何一つ判明していない。ふんわりとした声もあって、まだ妖怪基準では幼い方の女の子という印象がある。情報通の天狗にとっても謎の多いブラックゾーンだし、近々紅魔館の方にも取材に出向いてみようか。

 

『まずはこのことに、最大限の賛辞を。そして両者の益々の繁栄と協調を願って序盤の締めとさせて頂きましょう』

 

 物腰柔らかな話しぶりは、育ちの良さを窺わせる。流石高家のお嬢様は話し方1つ取っても気品に溢れていらっしゃる。皮肉っぽく斜に褒めて、セットで注文していたタラの芽の天麩羅に箸を伸ばす。

 一口噛めば、さくさくとした衣からタラの芽特有の仄かな苦味が滲み出てくる。これだ、やはり山菜の王はこうでなくては。おひたしにしても美味しいとは思うが、こいつは天麩羅にしてこそ真価を発揮する気がしてならない。

 

『さて、ここからは私の個人的な思いが強くなるわね』

 

 店の席は疎らに埋まっており、時折ぽつぽつと話し声が聞こえてくる。それらを纏めて掻き消すかのように、外ではみ゛い゛ぃ゛ん゛み゛い゛ぃ゛ん゛と喧しい茶色の羽付き騒音兵器が喚いている。とは言っても、見渡す限り木だらけの妖怪の山よりは何倍もましだけど。

 雌へのアピールは結構だが、大声を出すより積極的に絡みに行く方が効果的だと思う。来年以降に羽化する予定の蝉には、是非そちらの路線への進化を遂げてほしいものだ。

 

 湯の沸く音と話し声、そして命を燃やしながら飛ぶ騒音被害。何とも平和な昼下がりを享受していた。ご飯とちょっとした買い物ができて、おまけに現状最高の注目度を誇る件の取材までこなせたことを考慮すれば、美味しい依頼であった。偶にはお得な相談を持ちかけてくるじゃあないか。はたての中での文への評価が、ほんの誤差程度だけ上を向いた。

 

 後はこの少女と、次に出てくるであろう境界の賢者の演説を記録すれば今日の業務は終わりとなる。思いがけず舞い込んできたご褒美に内心小躍りしながら、天麩羅を食べ切った。

 

『私は、地底について何も知らないわ』

 

 知っているのは、その名前だけ。端的な、言い終わるのに5秒もかからない台詞には、不思議な魅力が篭められているように思えた。期待、扇動、そして微かな自虐。艶々の漉油(コシアブラ)に伸ばしかけた箸が、寸前でぴたりと止まった。

 

『知らないものは、怖いわよね。想像してみてちょうだい、貴方達の目の前に突然身の毛もよだつような悍ましい雰囲気を醸し出す化け物が現れた時に、それに好奇心を持って接することはできるかしら。

 少なくとも、私は怯えるわ。そして、持てる力を結集して戦うか逃げるかするでしょう』

 

 強大な妖怪が自ら怯えるだろうと申告したのは、意外なことだと思った。例えば文も、公的な場では決して弱みを見せない。彼女の場合は長としての責任感からくる態度だが、自尊心を理由とする者もいる。

 フランドールには、己の弱さを認めることについての抵抗が無いのだろうか。もしそうだとすれば、大妖怪の中でも異色の存在であると言える。初めて彼女個人に興味が湧き始める。

 

『戦闘か逃走かは、どちらでも良いわ。とにかく誰もが、化け物に対して好意的にはなれないはずよね。

 ここでもう1つ、質問を投げかけるわ。今私は化け物と言ったけれど、これについてどんな姿格好をしていると想像したかしら』

 

 化け物と言うのだから、それはそれは気味の悪い姿であるはずだ。それこそ、直視を躊躇うくらいには。

 当然辿り着く帰結など、わざわざ聞いてどうするのか。発言者の意図が読めない質問程、無駄なものは無い。はたてはそう考えている。勿体ぶってないでとっとと本題を話せば、掛ける時間は少なくて済むし相手がストレスを溜め込むことも無いと言うのに、何故世の中の頭が切れる御方々はひたすらに話の道筋を捏ねくり回した挙句求めているのとは違う答えをその素晴らしい口から弾き出してくるのだろうか。

 昔の僧侶がやっていた問答とやらが、まさにそれだ。何々はどうこうですか、という是か非かの問いに、わざわざ壮大な修飾を貼っつけてくる。それでも是か非か答えてくれたらまだ良い方で、酷い時には導かれる結論が不透明(ごめんちょっと分からない)と来た。だったら初めからそう言え。誰しも与えられた時間は有限なんだ。

 

 彼女もまた、迂遠な道を行くようだ。折角興味が芽生えつつあったのに。私も長く生きたら、いずれ最短距離で物事に言及できなくなってくるのだろうか。今はまだまだ遠い老いた先のことを考えて少し鬱な気持ちになりかけていたはたては、ふと漫然とした疑問を抱くこととなる。

 

 はて、フランドールは容姿を指定したっけか。

 

 雰囲気の恐ろしい化け物。彼女の定めた条件は、これだけだ。この条件になら、何だったら本気で怒っている文でも当てはまる。普段の彼女が溌剌とした風なら、激昴している際は苛烈な台風と言ったところか。温厚な性格故に滅多に無いことだが、怒髪天を衝いている時の彼女を醜いと思ったことは、ただの1度たりとも無い。

 

『そうね。大半が、とんでもない異形を思い浮かべたのではなくて?頭から足先までぐずぐずに崩れ落ちて、何処を見ているかも分からない腐敗したナニカ。……地底の妖怪達には些か失礼な比喩で申し訳ないのだけれど、これで私の言いたいことを理解してくれる人間もいるのではないかしら』

 

 先入観で、ごく小さな1本を取られた。苦手なはずの禅問答で、微かに感心を覚えた。再度食指が動き、彼女が次に語る言葉への集中力が高まっていく。もしかして、もしかするかも知れない。掛けた期待は、この時はまだ軽微であった。

 

『里の皆が知っている地底って、どんな所かしら。妖怪が蔓延るこの世の悪夢めいた最果ての地、そう思っている人間もさぞかし多いことでしょう。此度の決定に賛成できない者も、沢山いるのでしょう。

 偉そうに決定に従えだとか言える立場にはいない。人間の気持ちも分かるだなんて気取った聖職者みたいな飾り言は言いたくない。私は私の言葉を使わせてもらうわ。

 

 心ある者よ、どうか、心の色眼鏡を取り去って』

 

 妖怪(わたしたち)は、皆が皆人間を脅かすわけじゃない。フランドールの言葉は、同じ妖怪であるはたてから見てもこの上なく独善的であった。

 何らかの形で人を脅かすから、妖怪なのだ。人と完全に友好的な関係を築けるなら、最早それは妖ではない。外面だけそれっぽく取り繕った、何者でもない純粋な器である。

 

 物の怪を名乗る以上は避けられない命題に、彼女は確たる証拠も無いままに背こうとしている。余りに破綻していて、余りに無軌道。まさしく一笑に付すべき愚昧な主張である。

 

『誤解の無いよう補足しておくと、絶対地底の妖怪と仲良くなって欲しいわけではないの。ただ私は、私達が当然そうであるように彼らの本質を曲解してほしくないだけ。フラットな目で見て交流を作れそうだったら作れば良いし、無理だと思ったならそこで引けば何の問題も無いわ』

 

 それでも、鼻で笑えなかった。お前の語っているのは中身の無い空虚な理想だと斬り捨てられなかった。フランドールの言葉を、心が真剣に受け止めているように感じる。まるで尊敬する先達の金言のように、脳がそれを忘れまいと強く記憶しているのが分かる。

 体が俄かに熱を帯びる。ぞわりと末端の熱が奪われる悪寒ではなく、芯からじんわりと広がっていく熱感だ。これは一体、どういうことなのか。はたてのこれまでの経験からでは、納得の行く答えを練り上げることはできなかった。

 

『理解の及ばないものが、必ずしも醜悪な姿や害悪な思考をしているとは限らない。だってそれは私達が知らないだけで、この世の生きとし生けるものの理解から外れているわけではないんだから。

 

 私は、地底について何も知らないわ。だけど、だからこそ、これから一杯知っていきたいと思っている。宜しければご一緒にどう?道中の護衛くらいならお手の物よ』

 

 出発は夕方になるけど。冗談めかした戯け言だったが、本当に頼んだとしてもきっと彼女は請け負ってくれるだろう。地底のことをもっと知りたいという欲求は、嘘でも瞞しでもなさそうだから。

 熱はいよいよ全身を包み込み、さながら砂風呂の如きであった。熱いと温かいの僅かな狭間に位置するこの熱気に、何と名を付けようか。名状し難い奇異な温度は、熱に浮かせるようにはたてを苛み悶えさせる。

 

『では、この辺りで私からの話は終了としましょうか』

 

 ご清聴、どうもありがとう。かくして話は締め括られたが、はたてに掛けられた魔法はまだその効力を持続させていた。ほう、と熱い吐息が店内に染み込んでいく。店主はまたうどんを茹でる作業に戻っており、ぱしっぱしっと湯を切る威勢の良い音が聞こえてくる。話し声の音量も元に戻り、紫が話し始めるまで束の間ではあるが日常が店に復活していた。そんな中で、まだ彼女だけが衝撃に囚われたままだった。

 

 何のためにかも分からず、ただ温くなり水分を過剰に吸収したうどんを少量啜る。ふにゃふにゃでべっとりしていて、味なんて全く感じなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 宴会が控えていると思えば、厄介な奴らの子守りもそこまで苦にならない。数時間の外出にしては軽やかな足取りで、博麗神社へ帰ってきた。

 里の人々が、今日来た面子にどんな反応をするか、正直推測の域を出なかった所はあった。彼女にしては珍しくちょっとだけ気を揉んでいたのだが、いざ蓋を開けてみれば最悪の事態は余裕を持って避けられたと言えよう。特にフランドールの時など、そこかしこから感嘆の声や溜息が上がっていたくらいだ。寧ろ成功の部類に位置付けても良いのではなかろうか。

 

「あれ?」

 

 良い意味で期待を裏切る恙無い出来に、比較的上機嫌で帰ってきた霊夢。だが、彼女に応えてくれるはずの応答が無い。夜になったし、寝ているのだろうか。まだ眠るには少し早い時間だと思うが、まぁそんなことも偶にはあるかと考え直して部屋を覗く。

 

「……?」

 

 しかし、そこにも彼はいなかった。敷かれた布団は乱雑に吹き飛ばされており、幾つかの物が机から落ちたり風に煽られたように飛ばされたりしていた。退出したのは間違いなくなったが、それにしたって部屋をここまで荒らして出るはずがない。彼はそんな素戔嗚尊じみた乱暴者ではないことを、この数日で彼女本人が良く理解している。

 考えられる可能性は、2つだ。部屋の片付けをしている暇すら惜しい程の重大な事態が発生したか。

 

「連れ去られた、とか」

 

 何者かに強制的に拉致されたかだ。尤も、彼程の実力者がみすみす誘拐されるとは思えないが。怪我の影響で本調子を出せないとはいえ、そこらの妖怪風情がどうこうできる神ではない。あぁでも案外のんびりしている所もあるし、あれよあれよという間に持っていかれた可能性も無きにしも非ずか。

 

「やな予感がする」

 

 彼の身についてではない。それくらい自衛して余りあるだろう、心配する必要性は皆無だ。一躍幻想郷の要石へと躍り出た彼の突然の失踪が、何を齎すのか考えた時に、しかし1つ冗談にならない緊急事態が脳裏を過ぎる。

 それ即ち、勘違いした大妖怪(阿呆共)の結託だ。思い込んだ彼女達の暴走機関車ぶりは凄まじいものがある。増してそれが複数台爆走していたら、さしもの霊夢でも止めようがない。力に訴えてぼこぼこに叩きのめそうにも、奴らは仲間の屍さえ乗り越えて猛然と進撃を続ける。全員地に叩き伏せるよりも先に、霊夢の体力が尽き果てるのは明白だ。

 

 このことは、誰にも知らせない方が良い。即座に判断し、単独で捜索することを決める。希わくは近場で彼が見つからんことを。帰宅して幾分ともせず2度目の外出となった霊夢の表情は、憤懣やる方無いと言ったダークネスフェイスであった。



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第二十四話 宴のさなか

 「ユ~~~」

 

 喧しいのが来た。

 

 「ウ~~~~~!!」

 

 来てしまった。

 

 

 

 

 

 話の大元は、数時間程前に遡る。神社へ帰ってきた霊夢は、養生しているはずの神の姿が何処にも無いことに気がついた。これはあらゆる方面に対して隠しておかないと不味いと判断し、秘密裏に彼の捜索を開始した。

 しかし秘密はいずれ暴かれるものだ。運悪く、本当に最悪のタイミングで紫が神社を訪れた。察するに宴会の場へのスキマを開き、彼をそこに通そうとしたのだろう。当然すぐ彼の不在に気が付き、大慌てで霊夢と合流し事態の説明を求めた。

 

 こうなっては、隠し通せない。よりにもよってこいつが気がついてしまった、と深い深い溜息を吐きながら、帰宅した時には既に何処かへ行った後だったということを伝えた。

 果たして紫は、顔色を一瞬にして蒼白にした。それからすぐ我に返り、空の王者たる天狗の助けを借りて大規模な捜索隊を結成するなどと宣い始めた。

 

 いや流石に、一個神の失踪に対して割く労働力が大き過ぎるだろう。やるにしてもせめて常識的な範囲に収めておけと忠告はしたものの、そんなものをはいそうですかと素直に聞き入れる紫ではない。即座に妖怪の山へ移動し、天魔へ直談判を開始した。

 

 しかしここで、驚愕の事実が判明する。文が、抱えられて運ばれていくユウを見たというのだ。それはいつ頃だ、抱えていたのは誰だと問えば、つい先程、地底の烏だと言う。

 地底の烏と言えば、思い当たる節は1つしかない。礼もそこそこに地霊殿直結のスキマを展開し、宴会の準備でてんやわんやしているさとり達の元へと現れた。

 

 さとりはユウが来ていることを知らないと言うので、直接お空を問い質すことにする。テーブルのセッティングをしているという情報を得て、すぐさまそこへと向かった。

 ぱっぱとテーブルクロスを敷いて回っていたお空を呼び止め、ユウを知らないかと聞けば、私がここまで連れてきたという答えを受けた。今は宴会が始まるまで別室でゆっくりしているとも教えてくれた。

 

 所在が分かれば、焦る必要は無い。彼の眠る部屋へ繋がるスキマを開き、そこからにゅっと頭だけを飛び出させる。顔を見た瞬間の渋柿を纏めて4個くらい食したような表情には遺憾の意を表明したいが、まぁ何にせよ何事も無くて良かった。連れていくなら、そうすると事前に声をかけておいて欲しいところである。折角の宴会を前にして、要らぬ精神的疲労は負いたくないし。

 

「んーふふふふふ」

 

 その精神的疲労を癒すために用いられたユウは、本日通算6つ目の渋柿を頂戴する羽目になった。腕に頬擦りするな、邪魔くさい。自由に動く左腕でべしべしと頭を引っぱたくも、炬燵を見つけた猫の如く1歩も動く気配が無い。俺は湯たんぽか、この阿呆め。

 

「勝手に出かけちゃ駄目じゃない。心配したのよ?」

 

「空が送ると申し出てくれてな。有り難く好意に甘えたんだよ」

 

 書き置きしなかったのは、悪かった。素直に非を認めて謝ったが、そんなもので離すわけがあるか。より一層くっつき、遂には彼の胸に顔を埋めた。嗚呼、硬さの中で微かに自己主張しているぷにっとした胸肉が凄い。

 これは辛抱堪らないというやつだ。がっつり腕でホールドし、ぐりぐりと頭を擦り付ける。最早引き剥がすのは諦めたのか、されるがままに任せて本を読み始めた。紫の頭を本置きに使っている辺りに、気心の知れた様子が良く見て取れる。正直ただのバカッ

 

「失礼します。御二方、準備が整いましたのでどうぞおいで下さい」

 

「おお。ありがとう」

 

 2ページだけ読めた本に栞を挟み、紫の脳天に指突を食らわせる。痛みと衝撃で拘束が解かれた隙を突き、するりとベッドから下りて自由を獲得した。動きがあまりに熟れているので、このやり取りがもしや日常茶飯事なのかとさとりは疑った。その疑問、是である。

 部屋を出た瞬間、会場から漏れ出た活気や熱気の類が廊下に満ちつつあるのが分かった。会場外でこれなら、中に入った時のエネルギーはどれ程になるのだろうか。以前神社で歓迎会を開いた時よりも、さらに多くの人妖が集まっていそうだ。

 

「地上・地底合わせて3桁は下らないだけの人妖がやって来ています。鬼の開く酒宴でも、これだけの数が集まることはそうそうないでしょう」

 

「全くね」

 

 時折聞こえてくる誰かの話し声を聞きながら、廊下を歩いていく。誰も彼もが楽しそうであり、宴会を主催した意味は少なくとも零ではないらしい。嬉しそうに、それでいて何処かほっとしたようにさとりの頬が緩んだ。出来心で紫がぷにっと突っついたため、即座にきりっと引き締められることになったのだが。折角ふにゃっとしていて可愛かったのになぁ、と心中惜しむ。

 

「さて、こちらが今宵の宴場です。皆、お二人を首を長くしてお待ちでしたよ」

 

「熱烈な歓迎を受ける心構えはありますわ」

 

「……えぇ、きっと熱い歓待にて饗されることでしょう」

 

 すっ、と視線を逸らしたさとり。はて何か障り事でもあったかと思い返すが、特に思い当たる事柄も無い。もしやもう既に皆()()()()()()()()のかとも考えたが、それにしては乱痴気騒ぎの気配は漂っていない。怪訝に思っていると、さとりがちょいちょいと手招きしているのが目に入る。

 お呼ばれしてみれば、彼女は耳を貸せと言う。紫には聞かせられない内緒の話があるらしい。よし来た、その手の話は歓迎だ。耳を近づけ、身の丈五尺にも満たぬ小さな2人は秘密を共有する。そこに若さ故の甘酸っぱさもいじらしさも、ありやしなかったけれど。

 

「──」

 

 あぁ、成程。それは大変だ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「紫。このお酒お代わり」

 

「はぁい、ただいまぁ……」

 

 結果、紫は丁重な饗しを受けた。鮮烈な霊力を乗せたお祓い棒による無慈悲なぶっ叩きは、丁寧なことに綺麗な円球型の膨らみを彼女の頭部に建立した。単層丸屋根丸家屋の建築物など、例え大きさが適切でも住みたいという気持ちは湧いてこないが。

 振り回すだけ振り回して、その後何の報告もしなければそりゃあ怒られても致し方ない。ユウが発見された後で伝えるだけでもしていたら、まだ暴力的手段に出られることもなかっただろうに、それを怠った痛恨の失敗であった。振り回していたのは半分以上彼ではないのかと涙ながらに訴えたが、主文は被告人、煩いの一言で斬り伏せられた。法による外法、これ法なり。

 

「丁度良かった、私にも注いでくれ」

 

「この私を無条件に使役するなんて、身の程知らずも良い所よ。貴女はアリスと仲良くいちゃこらしてなさい」

 

「注いであげなさい」

 

「……ぐすっ」

 

 怠慢の償いとして、霊夢に顎で使われる大妖怪。強者としての威厳なんて、これっぽっちもあったものではない。終いにはこの件に対して特に関係無い魔理沙にまでお酌を強要される始末だ。今回ばかりは、流石に泣いても許されるのではないだろうか。いや、既に半ば以上泣いているのに許されていないということは、つまりそういうことなのだろう。

 

 涙を目に浮かべながら、そこそこの度がある日本酒をグラスに注いでいく。しっかりとラベルを上に向けている所にそこはかとない哀愁を感じる。何故こうも扱き使われているのか、立場の上では間違いなくここに来ているメンバーの中でも頂点に位置していると言うのに。

 影が差したのでふと振り返ってみると、天狗が酒瓶を2本抱えて立っていた。顔に浮かぶにまにまと憎たらしい笑みは、擦り切れかけていた紫の心に怒りの灯火を灯す程のものであった。

 

「おやおや、知恵が膨らみ瘤となった賢者様がいらっしゃいますねぇ」

 

「あとでおぼえてろきさま」

 

「まぁまぁ、そんなに怒らないで下さいよ」

 

 可愛い妹分が美味しいお酒を持ってきたんですから。そう言って、酒瓶をごとんごとんと並べ置く。曰く、私蔵から持ってきた逸品であり、世に出回るのは10年に1度あるかないかという程に希少なのだとか。紫も初めて見る銘柄であり、傷心ながらも期待が膨らんでいく。

 

「というわけで霊夢さん、お邪魔しますね」

 

「給仕が1人増えたわね。魔理沙、烏をあげるわ」

 

「あっれれー?」

 

 揃って人間の下僕扱いされるとは、それでも妖怪か。彼女達には実力者及び権力者としての誇りと維持を取り戻してもらい、是非とも部下を傍らに侍らせてみて欲しいものである。

 この短時間で一気飲みしたらしい魔理沙に同じ酒を再度注いでやり、それから文持参の良酒を頂く。味は濃いめだがさっぱりとしていて、苦味が後に尾を引かない。成程、これは良質な酒だ。まさに天の美禄と言うべき銘酒である。

 

「と言うか皆さん、地上の面子で集まり過ぎでは?もっと地底の妖怪とも飲み交わしましょうよ」

 

「それをネタにするあんたがいなきゃ、そうしてる」

 

「何という究極の2択」

 

 目的の写真を得るために必要な条件が、事もあろうに他ならぬ文の不在とは。これは固定カメラでも天井のそこらに設置してから退出する他に無いかも知れない。だがそうすると、今度は文が1人楽しい飲み食いの場から弾かれることになる。それは写真がゲットできないことにも増して辛いので、泣く泣く貴重な画像の獲得を見送った。

 

「今のところ、地底組と飲んでる写真がお師匠様の分しか撮れてないんですよ。もう少ししたらはたてが鬼に潰される頃合いなので撮りに行きますけど」

 

「惨たらしいなぁ」

 

「所詮は鳥よ」

 

「霊夢さん今日きれっきれですね……」

 

 研ぎ澄まされた言葉の刃を受け、うっ、と胸を抑えたが、多分これは霊夢の意見に道理がある。友人でもあり部下でもある烏天狗が酔い潰された所をフィルムに収めようだなんて、下手をすれば大量飲酒を強請った鬼連中より罪深い。きっと後日、へべれけ酩酊な烏天狗のあられもない痴態が紙媒体に乗って幻想郷を駆け巡り、当事者が怒りと羞恥にその身を燃やすこととなるのだろう。

 余程の醜態となれば、さしもの文にも良心が出張ってきて呵責してくれるはずだから、もうお嫁に行けないなんて笑えない展開にはならないと思われるのが一縷の救いだ。完全なる絶望にまでは落ちずとも、大きな精神的損傷を受けるとほぼ確定しているのを救いだなんて、こんな馬鹿げたことがあるかと声を大にして叫びたくはある。

 

 弟子への教育がなっていないぞ、そら出番だ。都合の良い口実を引っ提げて呼び寄せてやろうと彼の姿を探したが、先程まで地底妖怪に囲まれていたはずの小さな背中が見えない。文も霊夢の視線が向く先を覗き、おやと呟いた。

 

「お師匠様がいませんね」

 

「まーたどっか行ったのかしら」

 

 どうせ何処かのグループに連れていかれただけだろう。あっちにふらふら、こっちにふらふらと忙しないんだか暇なんだか良く分からない神だ。

 初めて出会った相手とも平然と杯を交わし、それを写真に収められても気に留めない。もしかしたら諫めの言葉の1つくらいはあったのかも知れないが、それでも削除しろと迫るような真似はしない。

 

 気質穏健を地で行くおっとり神様だ。而して付和雷同、優柔不断ではなく、流し攫わんと遅い来る魔手を退けるだけの意思と力を有してもいる。たまにぼーっとしている時なんかは場の趨勢に身を任せていることもあるが、それは参考記録的な扱いにして良かろう。

 神という不二の特質を鑑みても、絵に描いたような非無き者ではないか。それでいて嫌味でもつまらなくもないとは、一体全体どんな奇術幻術を駆使しているのだろう。人間である霊夢には、種も仕掛けもとんと見当がつかなかった。

 

「そろそろですかねぇ」

 

 カメラをかちゃかちゃ手元で弄りながら、天狗が一旦失礼していった。良い感じに完成されているであろう同族をスクープしに出向いた彼女を、止める者は誰もいなかった。

 やんややんやと酒盛りに食事に忙しいので、天狗娘達の方にまで充分な注意を回せなかった。直前まで少し深く入って考えていた人を惹き付けるのが上手い神のことも、酒と一緒に嚥下されて胃酸消化の憂き目を見る。

 

 結局は目の前の酒とご飯が1番強いということを、図らずも少女達はその身でもって体現してみせた。花より団子、神より享楽。噴き上げるマグマのような熱気は、当分収まる気配が無かった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 さとりが教えてくれた場所は、ここか。扉に掛けられたプレートを頼りに、目的の部屋の前まで辿り着くことができた。

 

 貴方に話のある妖怪がいる。空が届けてくれたさとりからの手紙には、その旨が記載されていた。さて、誰がこの部屋の中で自分を待っているのだろう。新たな出会いか、暫くぶりの再会か。

 

待って帰る、後生だから帰らせてぇっ!

 

観念しなさい、もうそろそろ彼も来る頃合いです

 

に゛ゃ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!

 

 ……10割方後者だな。部屋の中を見るまでもなく、ユウは確信した。攻防を繰り広げているらしい声の主には、心当たりがある。

 ドア越しに小さく聞こえてきた彼というのは、多分ユウのことであろう。それを聞いて、怒髪衝天の猫の如き叫び声を上げて暴れるとは何事か。少し悲しい気持ちになった。

 

 忘れたふりをして、この場から立ち去ろうか。割と本気で悩みはしたが、さとりがこの部屋ですと伝えてくれたのが僅かに数分前のことだ。そんな直近のことも覚えていられない痴呆神のようなことはしたくない。着いてきたくないとおすわりで抵抗してくる気持ちを無理矢理引っ張って、ドアをノックした。

 

……ッ!?

 

 息を呑むような声が聞こえてきた。これは、金髪娘の方の声だ。そんな、暗闇で不審者に出会ったみたいな詰まった声を出さなくたって良いじゃあないか。

 はて、俺は彼女に嫌われるようなことをしたか。頭の中で最近の記憶を掘り返していく。初対面の時には地底版八雲 紫がいようとは、とこちらが逆に恐れを抱き、2度目の邂逅は自身の有様が酷いものであったせいか走って逃げられてしまった。あぁこれは十中八九2度目が原因だな、でもなってしまったものはどうしようもないので是非とも寛大な心でもってお許し頂きたい。

 

「入るぞ」

 

ま、待って。会場に戻って皆とお酒飲んでる方が楽しいと思うよ。ほら、ユウ君ならきっと引く手数多だろうし行ってあげなきゃああああああ何で開けたのっ!?」

 

 部屋に入るために来たのに、ドアを開けない奴がいるか。いたとすれば、そいつは瞬間移動できるか窓から出入りしているかだ。無論、彼はそのどちらでもない。

 

 ああああああああ、という悲鳴を聞きながら入室する。宴会が始まる前に滞在していた部屋と、造りは特に変わりないようだ。ベッドの上で2人の少女が揉み合いになっている以外は、だが。

 

「……」

 

「ユウさん、貴方は今何をしているんだこいつら、と思っていますね」

 

「大正解だよ。何をしているんだ、お前達」

 

「わざわざ声に出して頂かなくても結構でしたのに」

 

 さとりがマウントポジションを取って、ヤマメを押さえつけている。言葉にすると以上になるが、目の当たりにすると中々に異常な光景だ。彼が突っ込みを入れるのも、妥当である。

 第3の目と体を繋ぐケーブルを上手く駆使して、ヤマメの腕を絡め取っている。そのお陰か、妖怪の中では非力な部類に入る彼女でも優勢に立てているらしい。何とも器用なことである。

 

「もうお察しのようですが、貴方に話のある妖怪とは、彼女のことですよ」

 

「そのようで」

 

「放せ!はーなーせーっ!」

 

 当の本人からすれば窮地なのかも知れないが、さとりの下でびったんびったんと藻掻いているのは、何とも笑いを誘われる光景であった。ヤマメの動きに合わせて一瞬ふわっと宙に浮くことがあるが、激しい抵抗のためなのか彼女が小さく軽いためか。

 

「さとり、これ解いてどいてよ!」

 

「そうしたら貴女逃げるじゃないですか」

 

「もおおおおおおおぉっ!」

 

 あら、元気な牛だこと。くすくす笑いながら、ヤマメのお腹の上でリズミカルに上下するさとり。何となく察してはいたが、やはり彼女は誰かを弄っている時が1番輝いているように思える。大方蜘蛛娘のことも、良い反応を返してくれる動きの激しい玩具と見ているに違いない。あな恐ろしや、サディズム悟り妖怪。

 ちらっとさとりが視線を向けてくる。その横には、見開かれた第3の目。しまった、彼女の能力のことを忘れていた。失態を悔いたが、もう遅い。その後悔だって、彼女には筒抜けだ。横文字に疎くて意味が理解できないとかいう可愛らしいお助けポイントはないだろうか。ある程度分かりますか。はい、そうですか。

 

「はぁ。解いてやってくれ」

 

「良いのですか?」

 

「話したくないなら、別に後日でも良いさ」

 

 逃げるなら逃げるで、それでも良い。取り敢えず、話を前に進めよう。地底少女達のじゃれ合いは見ていて大変楽しいが、いつまでも見ているわけにもいかない。こんな現場を誰かに目撃されようものなら、何だこの神様と不審がられること請け合いだ。