薪となりて、灰へと還る (ネイキッド無駄八)
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はじまりの火を継ぐ者

Day ???


 仄黒く燻る空に、血の涙を流す赤黒い月。

 血を吸ったような色で咲き爛れる徒花と、突き立つ無数の剣ヶ原。

 この世界の終わり、果ての果てに、俺はたったひとりで立ち尽くしていた。

 

 いちばん最初に、皆に誓った。

 俺が皆を守る。俺がお前を守る。

 必ず皆で、生きて帰ろう。誰ひとり欠けることなく、誰ひとり取りこぼすことなく辿り着こう。

 皆で、この世界から抜け出そう。

 皆に誓った。そう、あいつに誓った。

 灰血の花畑に立ち尽くし、ひとりきりで笑う。

 なんて、どうしようもない。なんて、くだらない。

 この世界の終わり、果ての果ては、あまりにも救いがない無価値で無意味な景色だった。

 乾きに乾いた灰の世界の果てにむなしく木霊する笑い声は、眼前に広がる無惨な光景よりもさらに空っぽでがらんどう。

 笑っても笑っても全然足りず、俺はいつまでも笑い続けた。気づけばいつの間にやら、膝をついていた。

 

 皆で辿り着く、その誓いを果たせなかったことを詫びたかった。そして、この景色を皆に見せずに済んだことに、なによりもほっとしていた。

 だって、だって、これはあまりにもどうしようもない。

 こんなもののために、俺たちは戦い続けたのか。こんなもののために、俺たちは進み続けたのか。

 こんなもののために、死んでは死んでを繰り返し、数え切れないほどに何度も何度も死んで死んで死んだのか。

 剣で肉を切り裂いた時の気持ち悪い感覚がいつまでも消えてくれないと言って、自らの腕を切り落とした奴がいた。槌で肉を叩き潰した時の音が耳にこびり付いて離れない、そう言って鼓膜を潰した奴がいた。呪術で肉を焼いた時の臭いが鼻の中にずっと残っていると言ったのは、いったい誰だったか。目玉の大きなカエルの化け物の体液を浴びて、あちこち皮膚が破れて血だらけになっても顔を洗うのをやめようとしない気の毒な奴もいただろうか。

 自分をいじめていたグループの主犯格を殺し、死体に向かって短刀をぐちゃぐちゃと突き立てながら笑い続ける女。付き合っていた彼女を崖から突き落としたその足で、その彼女の友人を口説きに行った男。自分の彼女が手篭めにされるのを見せつけられながら、煮え滾った溶岩の中でぐずぐずに灼かれた男。

 亡者になって正気を失い、その手で守り続けてきた級友たちを殺めて回ったお前。

 戦い続けることで心を壊していった級友たち。嘘と裏切りと欺瞞の中で心を病んでいった級友たち。

 こんなもののために、俺は皆を殺した。こんなもののために、俺が皆を死へと駆り立てた。

 こんなもののために、俺は、お前を。

 

 喉が裂けるまで大声で叫びたかったはずが、怒りは空気の抜けた風船のように萎んでしまった。胸がぎりぎり締め付けられるほど悲しいはずなのに、涙は一滴たりとも流れなかった。

 ただ、笑うしかなかった。たったひとりで、ひとりきりで、ひたすらにただただ笑った。

 黒く燻った空と赤い涙を流す月の下、笑って笑って笑った俺は、散々笑ったその後で一本の螺旋剣の傍にのろのろと這い寄った。

 刀身をちろちろと焦がす弱りきった火種は、ぼんやり眺めているその内に気が付けば俺の身体へと静かに燃え移っていた。

 腕から広がった痩せた炎は、あくまでも静かに俺の身体を燃やし尽くす。熱さも痛さも感じなかった。

 喜びも悲しみも、怒りも後悔も。俺の中には最早なにもない。くべられるのはもう、この空っぽの身体だけ。

 焼け焦げていく意識の中で、せめてもと祈る。

 

 もし、次があるなら。この上まだ、やり直す機会が与えられるのだとしたら。

 

 その時は、どうか。出来るなら、どうか。

 俺の代わりに、どうか。

 

 どうか皆を。

 どうかこの世界を―――――。

 

 

 



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零れ落ちる灰
メメン・ト・モリ


Day 49


 

 人は死んだらどうなるのだろう。

 おぎゃあと息を吸い込んだその時から、息が止まるその瞬間まで。人はその答え合わせをするために生きている。

 人が死んだらどうなるのか。誰も知らない。誰も分からない。死ななければ、分からない。

 

「……さみい」

 

 アノール・ロンド。切りつけるような尖風と浅く積もった白い雪に覆われたうすら寂しいこの場所が、かつては太陽の王族が住まう城だったなんて、信じる奴がどれほど居るだろう。威光も、栄華も、ここにはなにひとつ残っていない。ここは静まり返って冷え切った墓場、もしくは霊安室だ。

 正面の大門に続く幅広で大仰な階段のあちこちには、うち棄てられた銀の甲冑がまるで波打ち際の漂流ゴミのような有様で散乱している。歩きながらうっかりなにか蹴飛ばしてしまい、なんとはなしに見てみたそれは銀騎士の兜だった。ちょうど上顎と下顎の間、まさしく口をずっぱりと裂かれたような切断面に怖気が走る。

 俺がこれから対決しなければならないのは、こんな殺し方が出来る奴だ。物理的な可能不可能の問題じゃない、この残酷を容易く許容できるようなメンタルの持ち主と、これから相争わなければならないのだ。

 果たして、奴はそこに居た。

 世界のすべてを見下して、すべてがくだらないとでも言いたげな舐め腐った面構えで、いつもどおりの不敵なスタンスでそこに居た。

 

「よお、遅かったな。佐渡」

 

 片頬杖を突きながら、樋浦は階段の天辺から俺を見下ろしていた。ふた振りの大剣によって標本のように串刺しにされた銀騎士の骸に腰掛け、駅前の待ち合わせに遅れてきたのを咎める時となんら変わりないような気安い調子で口火を切る。

 

「ま、ここまで来れたってだけでも大したもんか。叩き起こした巨人どもに、聖女サマとそのお守りの騎士。つらぬきの騎士、クソ忌々しいメフィストフェレス。それにバカで能無しな烏合の連中。守りに手ェ抜いたつもりはなかったんだけどな」

「そーだな、俺ひとりじゃ無理だったろうさ。あいにくお前と違って、俺には友達がちょっとばかり多かったらしい」

「獣狩りの狂った神父に、無駄に声のデカい太陽の戦士。塔の騎士に長弓、それとあの薄汚い沈黙の長も、か……。モテる男は辛いなあ、この節操なしのタマ無し野郎が。どこでそんなに引っかけてきた?」

「俺がモテたわけじゃねえ。みんな、お前のやらかそうとしてることに文句があるんだよ。他人様の世界を引っ掻き回して、挙げ句の果てに勝手に火ぃつけてはいサヨウナラ? お前こそ何様になったつもりなんだよ」

「あーつまんねえつまんねえ。つまんねえよお前。そのセリフ、暗記でもしてきたのかよ。違うだろ? そうじゃねえだろ佐渡。もっと他に言うことがあんだろ、おい」

 

イラついたように足を踏み鳴らす樋浦だったが、「まあいいか」と不意にピタリと貧乏ゆすりを止めると、指を三本立て、こちらへと差し出して見せた。

 

「3分だ」

「あ?」

「タイムリミットだよ。ざっと3分以内にオレを殺して、那須川から『王の薪』を引き剥がす。それさえクリアすれば、晴れてお前はお姫様を救った英雄サマってわけだ」

 

 まァ、させねえけどな。

 銀騎士の亡骸から大剣を抜き放ち、のっそりと立ち上がる樋浦。赤熱と深紫の炎を纏う、『罪』と『裁き』の大剣。法王サリヴァーンの得物を奴は手にしているとソラールは言っていたが、あれがそうなのだろう。なぜだろう、今日のあいつの笑い顔は妙に腹が立つ。そんな大層なオモチャをぶら下げて、お前は裁判官にでもなったつもりなのか?

 この世界が終わる際も際、お前の望みを台無しにする最後の機会に現れたのがこの俺だというのに、お前の綽々は腹が立つほどいつもと変わりがない。

 俺が底抜けにどうしようもない、救いようがない無能で。だからこそお前の思惑を止められるただひとり、たったひとりの癌細胞であることは、お前がいちばん骨身に沁みているはずなのに。

 この期に及んでも、お前はどうしてこんなにいつもどおりなんだ? 

 

「来いよ、佐渡。オンナ救って世界滅ぼすんだろう? オレを殺して、32人全員皆殺しにするんだろう? な?」

「……樋浦。ひとつ、聞かせてくれ」

「なんだよ。それ、今じゃなきゃダメか?」

 

 ラスボスごっこの邪魔をされたからか、片眉を上げ反対側の目を眇めて樋浦は俺を睨めつけた。

 そうだな、たしかに今、このタイミングで聞くようなことじゃないかもしれない。でも、すごく大事なことなんだ。

 俺たちには義務がある。彼や彼女、彼らの屍の上に立っている俺たちは、それから目を逸らしてはダメなんだ。きっと樋浦、お前だって忘れてはいないはずだ。忘れないまま、分かっていながらこの道を選んだお前の答えを問い質さなくてはならない。

 俺たちは、なぜ。どうして。

 

「なんで、人を殺しちゃいけないんだろうな」

「は?」

 

 思い返せば、これが3回目だった。

 ほんの一瞬、たった数瞬だけ、樋浦は本当に純粋に驚かされたような顔をしていた、ように見えた。

奴に一泡吹かせてやろうという下心が、まったく俺になかったのかと言われればそれは嘘になるだろう。動揺を引き出したかったのかもしれないし、狼狽を期待したのかもしれない。だが、ここまでの反応を拝むことになろうなどと、夢にも思わなかった。

 あまりにも毒気のない、心の底からの素直な驚きのよう。

悪い冗談のようにミスマッチなその色は、しかし俺が面食らっている一瞬の内に、樋浦の顔面から痕跡も残さずに消え失せていた。次の瞬間には、奴はいつもどおりのどこにも隙の生じる余地のない樋浦へと立ち戻ってしまっていた。

 

「……ったくよ。ずいぶん前、いや、そうでもねえのか。まあとにかく、やけに古臭い話を持ち出してきたな」

「そうだな、そんなに前でもないはずなのに、どうも昔話をしてるような気分になっちまう」

 

 古臭いわけじゃなく、青臭いだけ。昔話ではないが、心情的にはだいぶ手の届かないところまで行ってしまった話題だ。

 あの時も、めいめいに悩みながら皆は様々な答えを出した。

 

「うーん、命は失ったら二度と取り返しがつかないから?」

 

 誰にでも思いつきそうなことを心にもなく言いながら、彼女は小首を傾げた。 

 

「それじゃ不十分だろう。ならば仮に取り返しが効くとしたら、殺人は罪じゃなくなるのか? 死んだ人間が生き返れば、人殺しは許されるとでも?」

 

 人を人とも思わないきっぱりとした語調で、誰にでも思いつきそうなことをお前は問い返した。

 

「おぞましくて口にするのもはばかられるけど、罪の重さは今より確実に軽くなるだろうね。傷害罪になるのかな、その場合は?」

 

 場違いに生真面目に考え込みながら、冗談じみたことをあくまで真剣に彼は語った。

 

「はは、なんだか字面と響きだけは平和だね。死んでも生き返れる世界、だなんて」

 

 場違いに爽やかに笑いながら、冗談じみたことをどこまでも冗談のように彼は語った。

 

 何もかもが変わってしまった今、もう一度同じことを訊ねたならとそんなことを考えたが、それはあまりにも意味のない仮定だろう。

 あの時の俺たちはまだ、なにも分かっていやしなかった。今はどうだろう? あの時よりは分かってきたのかもしれないが、きっとその分かり方もどこかがかけ違えて破綻してしまっている。綺麗事をバカにするのが賢くなるなんて嘯くには、俺たちはあまりにもあらゆることを蔑ろにしすぎた。

 

「それで、今のお前はなんて答えんだよ」

「オレが知るか。ただ、お前は殺す。お前は殺してもいい奴だと、オレが決めたからな」

 

 思わず、自分でも驚くほどに大きな溜め息がこぼれてしまった。

 呆れたことに、お前は事此処に至ってもまるで変節出来なかったらしい。バカは死ぬまでなんとやらと言うが、どうやら天才というのは死んでも手の施しようのないタチの悪い病気だったようだ。

 俺は腹を決めることにした。これ以上は、本当に時間の無駄でしかない。

ガスコイン神父、アルフレッドとウーラン、ユルトに、そしてソラール。

こんな俺に、傲慢にも級友たちの、そして世界の救世主を気取ろうとする俺のワガママに。

賭けてくれた彼らの意思を無為にすることだけはあってはならない。

「じゃあ、”ゆく”か。樋浦」

 

 『盗人の短刀』を左に、『深みのバトルアクス』を右に抜き放ち、俺は階段の残りを一気に駆け上がっていった。

 気分はすっかり、処刑台を登っていく死刑囚のようだ。

 

「あぁ、”ゆこう”。佐渡」

 

 『罪の大剣』を左に、『裁きの大剣』を右に垂らし、樋浦は構えすら取らずに悠然と立ちふさがった。

 きっとお前は、処刑人にでもなった気分でいるんだろう。

 

 なぁ、樋浦。本当は、もうひとつ聞きたいことがあったんだ。

 聞かなかった理由は、答えがじきに分かってしまうからだ。 

 

「死ねよ、樋浦――!」

「殺してやるよ、佐渡――!」 

 

 人は死んだら、どうなるんだろう。

 俺かお前、どちらか一方はこれから確実に死ぬ。死んだ方が答えを知ることが出来る。

 だから、樋浦。頼んだぜ?

 

「お前が答えを、教えてくれよ」

 

 



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アッシュ・トゥ・アッシュ

Day 1


 突然だが、諸君は夜寝るときは布団派だろうか。それともベッド派だろうか。

 さながら犬か猫か、あるいはきのこかたけのこかといったように、どちらも善し悪しで一概に甲乙付け難い議論だろう。ちなみに、それらの二択について個人的な所感を述べさせてもらうと、俺はぶっちゃけどっちでも良いしそこまで興味がなかったりする。どっちも美味しいしどっちも可愛い、それで十分な瑣末事としか思えない。強いて白黒つける必要のないところに究極の二択の妙味はあるのだから、いい加減に休戦しても構わないのではないだろうかなんて考えていたりするのである。

 前置きが長くなってしまったが、要するに俺が言いたかったのはだ。

 

「石の棺桶で寝るのは絶対にやめて"おけ"、なんつって」

 

 いや、本当に冗談ではなく身体中がバキバキに痛くて辛抱たまらない。特に後頭部と背中、それに尾てい骨のあたりが壊滅的だ。おまけに石棺の中で寝かされていたからか、尋常じゃなく身体中が冷たい。全身の熱という熱が奪われしまったかのように寒くて寒くてしょうがない。脊髄反射で上腕をこすりこすりしてみると、なぜかこすった部位からパラパラと白い砂のようなものがこぼれ落ちた。

 

「おいおい、マジでどうなってんだよこれ」

 

 墓から蘇るゾンビよろしく――後から思い返してみれば、あまりにも笑えないジョークだ――棺から身を起こして這い出てみて分かったが、そこは洋風の墓石と枯れ木だらけの景色が広がるうら寂しい山間の墓地だった。なるほど、たしかに墓地なら石棺が置いてあっても不自然ではないだろう。もっとも、そこに押し込められていたのがまだ元気に活動している俺という生者であることと、俺がこの棺桶に入っていた経緯が全くの謎であることを除けばの話ではあるが。

 

「よぉ、やっぱお前も居たんだな。これでめでたくウチのクラスの全員が揃ったわけだ」

 

 石棺からそれほど離れていない場所には人だかりが出来ていた。不安そうに顔を見合わせてざわざわと言葉を交わしている彼らの姿を見とめた俺は、自分がとても安心していることに気がついた。努めて自覚しまいとしていた俺の無意識も、どうやら見知らぬ世界でひとりきりという状況には相当堪えていたと見える。俺の姿を見つけるなり、いつものようにシニックな笑みを浮かべた友人の姿が、その時はまるで救いの神かなにかのように頼もしく思えたものだ。

 

「樋浦……」

「お前の姿だけ見えなかったから気になってたんだが、残念だったな。お前ひとりだけ部外者では居られなかったらしいぜ、佐渡」

 

 ざわつく集団の中から抜け出てきた樋浦の背後では、こちらに気づいた何人かがめいめいに俺に向かってリアクションを取っていた。那須川は「よっ」と軽くこちらへと手を振ってみせてから、また仲の良い女子友達との会話に戻った。和卿はいつもと変わらぬ癒しのスマイル。権藤は……ちらっとこちらを窺って、すぐに素知らぬふりで明後日の方向を眺め始めた。俺に気づかない連中も、やはりいつもどおりの姿でそこに存在していた。マルチオタクの菰田は数名の男子に弄られているし、みんなのアイドル武智は今日も清楚で見目麗しい。

それが、逆に言いようのない不安を煽って仕方がない。見慣れない世界に、見慣れたクラスメイトたち。なにもかもが不自然だ。

 

「本当にクラス全員居るみたいだな。いったいなにがどうなってるんだよ、この有様は」

「オレに聞かれても困るな。ついでに言うと、このメンツの中で事態を把握できている奴はひとりも居ない。だよな?」

 

 それな。意味不明だよな。ていうかお前、ここで目が覚める前になにしてたよ? 私は小山田の課題をやってた、よーな気がする……? 俺もテレビ見ながら課題やってたような気がするな。あ、やべぇ、俺すっかり忘れてたわ課題どーしよ。

 口々にまくし立てるクラスメイトの様子から察するに、どうやら本当に誰もこの荒唐無稽な状況を理解できていないようだ。そしてこれはなんの理論的な根拠もないような、それこそただの勘でしかない思いつき程度に過ぎないことだが、俺にはひとつ気づいたことがあった。

 

「なあ樋浦。これがもし、その……”そう”だったら、まるっきり意味がない質問になるかもしれないんだけどな」

「まどろっこしいな。言うだけ言ってみろよ」

「その、俺らが今いるここな。たぶんこれ、夢じゃないような気がするんだ」

「まったくなんて答えたものか迷う質問だが、オレも同感だ。こんな無駄に知った顔ばかりが出てくるような無駄に日常感溢れる夢、今まで見たことがない」

 

 やはり樋浦も俺と同じことを考えていたらしい。樋浦の言うとおり、目の前に居る見知ったクラスメイトたちの姿はあまりにもいつもと変わらず、あまりにも現実味にあふれ過ぎている。見慣れない景色に皆不安そうな雰囲気を醸し出していることを除けば、まるっきり朝のHR前の教室の様子そのままだと言ってもいいくらいだ。これを夢と言い張るには、いささか以上に無理があるように思える。だとすれば、いよいよもってこの状況を説明する合理的な理由付けを探すことが困難になってくる。1クラスの生徒を丸々巻き込んでの大誘拐? はたまた、32名の生徒を被検体とした集団催眠実験? 冗談じゃない、それならまだ超高クオリティな明晰夢でも見ている可能性の方が現実的だろう。そもそも、この場所は日本のどこかなのだろうか? 外観や質感こそどこかで見たような気がしないでもない風景ではあるものの、オブジェクトそれぞれの取り合わせや雰囲気にはまるで親しみを感じられない。まるで、現実世界を題材にして作られたファンタジーの世界に迷い込んだような……

 

「あーもう我慢できねえ、俺あいつにちょっかい出してくるわ! 止めんじゃねーぞ委員長!」

「君はバカか! そんな危ない真似、止めないわけにはいかないだろう! よすんだ安藤くん!」

 

 なにか核心に迫りつつあったような気がする思考を中断したのは、ふたりの男子生徒の口論だった。口々に好き勝手騒いでいた他のクラスメイトたちもぴたりと口をつぐんで見つめる先、白熱した調子で言い争っていたのはヤンチャ者の安藤と委員長の篠部だった。

 

「だから構うことねえって言ってんだろうがよ! 俺がひとりで行ってくるから、他のヤツらには迷惑かけねえってよお。どのみち、こんなとこでいつまでもウダウダやってたってなんも解決しねえだろうが! 行動しようぜ、行動!」

「いいやダメだ。君がもし怪我でもしようものなら、その面倒は誰が見ることになる? それに、見ての通りここには手当てに使えるような設備もない。持ち物だって、この正体不明の指輪がひとつだけなんだ。無茶な行動は許可できない」

 

 あのふたりはこんな状況でも言い合いかと思わず妙な居心地良さを感じたが、それも束の間、いくつかの気になるフレーズが耳へ飛び込んできた。安藤が指さす先を見ようとしながら身体のあちこちをまさぐる忙しい俺を見かねた樋浦が、なにやってんだと言いたげな呆れ顔で横から教えてくれた。

 

「安藤が言ってるのは、あっちの方に居た黒い外套を羽織ってる人影のことだ。ここからは陰になって見えないんだが、明らかにヤバそうなのがぽつんと立っててな。危険すぎるってことで、今のところはみんな様子見してたんだよ。で、委員長が言ってたのはこれのことだ。どうも、ここに居る全員がこの指輪だけを持って目覚めたらしい。財布も携帯電話も見当たらないのに、こいつだけな」

 

 樋浦が手に取って見せてくれたそれは、あちこち汚れに塗れ細かい罅が走ったひどくくたびれた代物だった。ほどなくシャツの胸ポケットに入っていた自分の物であろう指輪を発見した俺は、ざっとひと通り観察してみてから、なんとなくそれを右の人差し指に嵌めてみた。

 

「安藤がいつ短気を起こすかはたしかに気がかりではあったが、このままここで油を売っていても事態が好転しそうにないのも事実だ。オレも安藤についていって様子見に行こうかと思ってたんだが、お前もどう……、佐渡? おい、聞いてるのかお前。おいったら」

 

 横で樋浦がなにかを言っていたようだったが、奴には悪いが俺の方はそれどころじゃなかった。

 実を言えば、目を覚ましたその時からなんとなく予感はしていたのだ。予感こそしていたものの、俺はその可能性をまったく吟味することなく、すぐさま頭のどこかへとうっちゃってしまっていた。なぜならそれは、集団誘拐や集団催眠よりもさらに輪をかけてありうべからざる可能性であり、敢えて可能性という言葉を持ち出すことすらもおこがましいような非現実的な話だったからである。

 

「おい樋浦。安藤はその、黒外套の人影とやらの方にもう行っちゃったか?」

「ん? ああ、まさにたった今、行ったところだ」

 

 なんてことだろう。奇妙にリアルでありながらそれでいてまったく親近感の湧かない、寂れた墓地の風景に覚えた違和感の正体。そして、見慣れたクラスメイトたちが残らず揃っているこの状況。バカバカしくて口に出すのも気恥ずかしいが、どうやら我々は”招かれて”しまったらしいのだ。

 

「マズイ、ヤバイぞ樋浦。急いで安藤を止めるんだ。でないと……」

「でないと、なんだ? いったいなにがマズくてヤバイと……!」

 

 もたつきながらもどうにかこうにか右手に目当てのブツを引っ張り出した俺は、驚きに目を見開く樋浦を他所に、逸る呼吸と緊張をなんとか鎮めようと試みる。

 右手に握った『盗人の短刀』の重さを確かめながら、俺はもうひとつあることに気がついた。気がついて、今まで生きてきた中でも味わったことのないような、途轍もない不気味さに襲われた。

 

「汗、かかないんだな。この身体は」

 

 最初から、なにもかもが不自然だったのだ。いつもどおりの級友たち、鈍感なことにそんな風に見えていた皆の姿。そんなわけあるはずがない。誰も彼もが押し殺して、装っていただけで、本当は我慢していただけだったのだ。

 

 

「がああああ!! い、いでええええええええちくしょおおおおお!!」

 

 

 火の無い灰である我々は、滅多なことでは汗をかかない。

 そして、火の無い冷たい身体にも、赤い血は通っている。

 安藤の痛々しい絶叫に併発して阿鼻叫喚の有様となったクラスメイトらをかき分けて走りながら、場違いに冷えた頭で俺はそんなことを考えていた。

 




限りなく「オリジナルでやれ」って感じのダクソ3デスゲームモノ。
書き上げてから「激しい発汗」のことを思い出した作者。


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ダイブ・イントゥ・ジャッジ

「よっ、ほっ…… はっ!」

 

 生まれてこの方17年、武道の類の心得がまるでからっきしな俺は、適当にかけ声らしきものを発声しながら右手の『盗人の短刀』をぶんぶん振り回す。

 右から左に水平打ち、返す刀で左から右の斬り払い。大振りのサバイバルナイフよりもさらに大きめな短刀を、見たこともないし当然やったこともない武芸の修練よろしく無心に振り続ける。

 そのまま何度か素振りを繰り返し、短刀の重さと長さになんとなく慣れを感じたところで、そろそろ頃合いと判断して皆のところに戻ることにした。

 墓所の一角の小さな広場を後にして急勾配な岨道を登りながら、俺は右手に見える崖側の景観をちらと横眼にする。遠く見晴かす先に広がるのは、雲をも突かんとそびえ立つ、冠雪した大連山が織り成す雄大な銀世界だ。『百里の一を有無渺茫の間に望む様だ』などと、平常運転なら権藤あたりがそんな気障ったらしい台詞のひとつも知った風に言い出しそうな壮観ぶりである。

 

「平常運転なら、な……」

 

 そして、坂道を登りきった先には俺がおよそ10分前に出て行った時とすっかり同じ風景がそのまま広がっていた。

 ざっと30人弱、ちろちろと燻る小さな篝火に身を寄せ合い、誰ひとり口を利くことなくじっとうずくまっているクラスメイトたち。

 凍えたように身を震わせる彼ら彼女らが、頼りなくゆらめく篝火に手をかざしている様には、率直に言って正視に堪えかねるレベルの痛々しさがある。少し前までの喧騒がすっかり嘘のような不気味な静けさの中、生気乏しいのっぺりとした顔のクラスメイトたちと一緒に居ることに、どうしても耐えられそうもなかった。武器の素振りなどという殊勝な行動に俺が及んだのも、白状すればそんなみっともない理由が大部分だった。

 

「ん、もういいのか? 急かすつもりはないから、気が済むまで練習しておけよ」

「もう十分やった。それにしょせんは素人の付け焼刃だし、気休めにしかならなそうだ」

 

 うずくまる一団から少し離れた場所にいた樋浦が、戻ってきた俺に気づいて声をかけてきた。既にかっちりと騎士鎧を全身に着込み兜を小脇に抱えて立っている。どうやら、すっかり準備万端のようだ。

 

「お前、その格好似合ってるな。まるで何度か世界を救ってるような貫禄だ」

「見た目だけ立派でも意味は無いけどな。そういうお前もなかなか様になってるじゃないか」

「よせよ。盗賊の衣装なんてどんだけ似合ってようが嬉しくない」

 

 実際、全身をファンタジックな中世の騎士鎧で固めているにも関わらず、樋浦の立ち姿は妙にこなれているように映った。クールで精悍なルックスと、鍛えられたガタイの良さがそうさせているのか。あるいは、いつ如何なる状況にあってもブレることのない――少なくとも、俺はこれまで一度だって目にしたことはないし、今この瞬間にしてもそうだ――強固にして絶対の自信が根底にあるからか。どんな理由があるにせよ、ここで重要なのはこいつがつくづく頼もしい奴だという事実だけだ。

 

「どっちみち、あまり悠長なことも言ってられないだろ。みんな限界だ、これ以上このままこうしていてもなんにもならない」

「言われなくても分かってる。だから言ったんだよ、気が済むまで練習しとけって。オレたちがしくじったが最後……」

 

 樋浦はその先を言わなかった。それこそまさしく言われなくても、だ。

 篝火に頼りなく身を寄せ合う皆。彼らが小さく震えるのは、遮る物が無い高原のからっ風が骨身に染みるからだけではない。熱を失った灰の身体とこれからの行く末を思えば、そうせずにはおられないのだ。

 だからこそ、これはまだ余裕がある人間がやらなければいけないことだ。

 俺の余裕が、果たしていつまで続くかどうか。そもそも本当は余裕なんて無くて、これはただの空元気かもしれない。正直、自分でもよくは分かっていない。

 ただ、この場だけは思いたいのだ。

 ありがたい、と。

 

「さて、佐渡。そろそろ”ゆこう”か」

「……はぁ、そうだな。”ゆく”か、樋浦」

 

 ここで尻をまくるような臆病者にならずに済む程度の勇気らしきなにかが、俺にもどうやらあったようだということに。

 勇気ある友人の隣で、こうして肩を並べられていられることに。

 そんな気恥ずかしいことを考えていられるような余裕があることを、この場はありがたいと思いたい。

 人柱になるつもりは毛頭ないが、「危険を冒す者だけが勝利する」というのなら、今がまさにその時だ。

 

 いざゆかん、はじめてのボス戦へ。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「しかし、意外だったな」

 

 目的の場所へと向かう道すがら、先頭を歩く樋浦が肩越しにちらと振り返り、すぐ後ろに続いている俺のさらにその後方を見遣りながらそんなことを言った。

 いったい誰を指しての言葉だろうか。人ひとり通るのが限界の細い道幅の崖道、足元に気をつけながら俺は首だけ動かして後ろを振り返った。

 

「えー、なにそれ心外なんだけど。ふたりが行くんなら私もついてくに決まってるじゃん。抜けがけとかずーるーいー」

 

 はたして、樋浦の言葉に真っ先に反応したのは那須川だった。

 見れば俺のすぐ後ろに居た彼女は、手に持って弄っていた『魔術師の杖』を指示棒よろしく樋浦に向かってびしっと突きつけている。いや、持っているのは正真正銘魔法のステッキなのだから、指示棒というのはこの場合は正確な喩えとは言えないか。

 なんでもいいが、俺は地味にあることに驚いていた。

 

(「ずーるーいー」って……。スイパラに行くとかそういうんじゃないんだけどな、これ)

 

 先ほどの台詞といい今のよく分からない行動といい、那須川の立ち振る舞いにはまるでいつもの様子と変わったところが無い。これは大いに驚きだ。あの樋浦でさえ普段とは幾分違った緊張感を帯びているというのに、こいつときたら「今からゲーセンにでも寄っていこう」みたいないつもの放課後テンションとなんら変わりない。いったいどんな神経をしているのだろう。常々思っていたが、こいつはこいつでやはり一味違う大物なのかもしれない。

 それにしても、だ。

 

「いや、だって、なぁ?」

「うん、まぁ、だよな」

「なーにー? もごもごしてないで、はっきり言ったら?」

 

 参ったなと視線でこちらへと同意を求めてきた樋浦に、俺も首肯しつつ言葉を濁して那須川の方を窺った。彼女の方はと言えば、煮え切らない男ふたりの態度に目に見えてご立腹のようだ。リスのようにぷくぅと頬を膨れさせ、いつもはくりくりとよく動く大粒の両目を細め、眉は広めの八の字を描いている。元が幼めで愛嬌のある顔立ちであるだけにすごんでみても大した迫力はないが、アイアム不機嫌ということだけはありありと伝わってくる形相ではある。

 そのまましかめっ面を続けていた那須川だったが、やがてにらめっこに飽きたのか、すっとこちらから視線を外して露骨に聞えよがしでボソリと呟いた。

 

「……男女差別」

「んなっ!?」

 

 樋浦は目をくわっと見開いてなにか言いたげに口をもごもごさせていたが、結局諦めたのかため息を吐きながら一言言うだけに留まった。

 

「お前のことじゃない」

 

 それはまあ、その通りかもしれない。我がクラス、ひいては同学年のみならず全校の男子の中でも屈指の運動能力を持つ樋浦ほどではないが、那須川も女子基準で考えれば十二分に身体を動かせるタイプの人間だ。下手をしたら、万年帰宅部の俺よりも那須川の方が今からの局面で役に立つという可能性だって有り得るほどだ。いや、もうこの際だから言ってしまおう。運動能力だけでなく頭も切れる彼女のことだ、俺のような凡俗では足手纏いになる公算の方が大きいに違いない。ああ、なんだか言っていて悲しくなってきた。自分の不甲斐なさに涙したくなってきた。

 

「じゃあ、やっぱりあれは僕のことを言ったということかな。樋浦くん」

 

 俺のアイデンティティに対する懊悩を余所に、話はさっさと先へと進んでいく。次に口を開いたのは、列の殿で油断なく周囲に目を配りながら歩く我らが委員長、篠部だった。俺や樋浦が頭の防具を外していたり、さらに那須川は頭防具に加えて着込んでいる『魔術師のローブ』のフードまで被らずにいるなど、めいめい多少の気恥ずかしさにファンタジー装備を適当に着崩している中、彼だけは頭のてっぺんからつま先までかっちりと『伝令』の装備をフルで着込み、両手にはそれぞれ盾と槍まで携えている。こんな些細なところからも、やはり彼はどんな時でも委員長なんだなとこちらまで衿を正さずにはいられない気分にさせられるようだ。うん、させられるようだ。まだちょっと俺にはその勇気が足りないので、実践にまで至っていないのは勘弁して欲しい。

 

「いや、委員長のことでもないが……。まあ思うところがないでもないから、この際だからついでに聞いておこうか」

「どうして付いてきたか、だろう?」

 

 樋浦が言い終えるより先に、先手を打つ形で委員長が答えた。たしかに、このボス攻略決死隊に委員長が同行しているという現状況は、いきなり前言を翻すことになるがいつもの委員長らしからぬ行動と言ってもいい。普段通りの彼なら、むしろここで俺たちを止めに動くのが自然であるように思える。少し前の委員長と安藤との言い合いを思い返しても、それは明らかだ。それがいったい、どういう風の吹き回しなのだろう。

 

「なに、僕なりにけじめを付けようと思った。ただそれだけのことさ。あの場で安藤くんを諌めきれなかったことへのね」

「それは少し見当違いじゃないのか。あれは委員長が責任を感じるようなことじゃあないだろう」

「そーだよ。それに安藤くんだって篝火のおかげで大事にならなかったんだし、たぶん気にしてないでしょ。安藤くんだし」

「誰が気にするとか、そういうことじゃないんだ。これは僕の気持ちの問題だ」

 

 樋浦と那須川が口々にそれぞれの言い分で慰めようとしたが、それらすべてをきっぱりと否定して聞く耳持とうとしない委員長。ふたりに言いたいことを先取りされてしまった俺としては、ただ黙っているほかない。固い意志がそのまま表情筋にまで表出しているかのような決然とした面持ちで、委員長は静かに独りごちた。

 

「クラスメイトが傷つけられて、それで自分だけ安全圏に居ようなんて恥知らずな真似は僕には出来ない。委員長としての責任以前に、これは人として当然の行いだ」

「自己犠牲のつもりか? 尊い行いかもしれないが、ますます見当違いだぜそれは」

「そのへんにしとけよ樋浦。人手は多いに越したことないんだし、傍から見たらたぶんお前だって委員長と大して変わらないだろ」

 

 委員長の精神は高潔で立派で、それを皮肉る樋浦にしても素直にそれを表に出すことを良しとしていないというだけで、その本質はきっと厚い義侠心にほかならないだろう。この極限の状況下にあって、どっちも見上げたものだと思う。

 まったく、つくづく己の凡俗さが嫌になる。嫌になるから、ふたりほどカッコよくない俺は適当なタイミングで毒にも薬にもならないような適当なことを言うしかなかった。やや不完全燃焼気味のむっとした顔ながら樋浦はいちおうそれで矛を収めてくれたし、委員長も目線で、たぶんあれは「ありがとう」と言ってくれていると判断して良さそうだし、これでいいのだきっと。

 そしてここに来て、今まで沈黙を保ち続けていた最後の一人がようやく口を開いた。

 

「お、お前ら、熱くなってるとこ悪いけど、もう目的地だぜ。おしゃべりはそこまでに、し、しろし」

 

 どもり気味な甲高い声でそう言った菰田が指さす先には、いつの間にたどり着いたものか目的ポイントである開け放たれた門扉があった。道中の敵は、戦闘訓練も兼ねた俺と樋浦との働きで露払いが既に済んでいたのもあって、すっかり散歩気分でここまで歩いてきてしまったようだ。

 来訪者を歓迎するかのように全開になった砦門の向こうは、地面の大部分が水溜まりに浸った円形の大きな広場になっている。そして、石畳敷きになっているその広場の中央部に、目当ての”ソレ”は鎮座していた。

 ”ソレ”は、少し前に偵察に来た時とまったく同じ格好のまま、跪いて頭を垂れて、誰かをじっと待ち続けている。

 遠目から窺ってその姿を眺めただけで、確定的なことについてはまだなにひとつ分かっていない。分かってはいないが、理性ではなく本能が、いやさ、これまでの短い人生で未だ機能したことのない「畏れ」のような感情が、アレについて致命的に断定を下している。

 アレはきっと、俺たちがこれから挑まなければならない、最初の審判。俺たちのこれから、この世界での明暗を決める、いちばん最初の試験官なのだ。

 

「事前の様子見ではここまででしか来れていないから、ここから先はなにが起こるかまったくの予想外だ。だから……、言いたいことは分かるな?」

 

 それまで小脇に抱えていたヘルムを被りながら、樋浦は全員の顔をひとりひとり見回してそう言った。さっきまでの雑談の時とは比べ物にならないほど厳しい声音と顔つきに気圧されたのか、菰田が「ひっ」と小さく呻く声が隣から聞こえてきた。

 

(おい、本当に良いのか? いっちょ、冷静になって考え直すべきじゃないのか?)

 

 そして、おや、これはどうしたことだろうか。どうやらいよいよ引き返すことの出来ない瀬戸際らしいと、俺の中の防衛本能がここに来てようやく遅刻気味の警鐘を鳴らし始めているようだ。気のせいか動悸も急速にエイトビートを刻み始めているようだし、熱を失ったはずの頬もカーッとむず痒さを訴え始めている。これはいったい、どうしたというのだろう?

 

(お前、もしかしたらここで――――)

 

「冗談。最初から言ってるでしょ、ふたりが行くなら私も行くって。これ以上つまんないこと言ったら蹴っ飛ばすかんね」

「覚悟ならとっくに出来てるよ。お荷物にだけはならないように努力するさ」

「お、俺も、まあ、それなりに……。うん、俺なりに」

 

 那須川は両手を腰にで自信満々だし、委員長もまるで揺らいだところがない凪いだ面持ちだ。菰田は、ちょっとよく分からないがたぶん奴なりに頑張るつもりなんだろう。三者三様、なんとガッツにあふれた(若干一名違う気がするが)顔つきではないか。

 なんだ、怖気づいたのは俺ひとりだけなのか? ああ、なんだか急に恥ずかしくなってきた。さっきまでとは違う意味であっつくなってきた。穴があったらを通り越して、今すぐ右手の無間奈落に飛び込みを決めたい気分だ。

 

「行こうぜ、樋浦。このままこうしてたら、一目散にみんなのところまで戻りたくなりそうだ」

 

 結局、俺のいまいち締まらない台詞でトリを飾ることになってしまった。

 いいさ、どうせ俺は凡俗だ。そのことに負い目をこれっぽっちも感じちゃいない。そんな風に虚勢を張るのがささやかな俺なりのプライドだ。笑いたくば笑え。

 「お前なあ」と苦笑を隠せない様子の樋浦は、最後に一同の顔を見渡してから、ヘルムのバイザーをがしゃりと下ろした。

 

「では、命知らずの勇敢な諸君に感謝を。そしてせいぜい、互いの生還と勝利を祈ろうぜ」

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「ところで菰田。さっきは言いそびれたんだがな」

「あ? な、なんだよ樋浦」

 

 門を抜け内部に踏み込み、慎重に一歩ずつを踏みしめながら中央の巨躯の鎧へと向かって近づいていく、その最中。

 思い出したかのように先の質問の続きを始めた樋浦に、「このタイミングでいったいなんだ」と言わんばかりに食い気味で菰田が答えた。

 

「オレが意外と言ったのは他の誰でもない、お前のことだ。お前、いったいなにを考えてる?」

「なんだよそれ。お、俺が付いて来ちゃ悪いのかよ。なんか文句でもあんのかよ?」

「文句はない。ただ、どうにも解せないんだ。オレはてっきり、お前はこんな状況に陥った場合に真っ先に逃げ出すタイプの人間だとばかり思っていた。オレはお前を見誤っていたのか?」

 

 お前こんなタイミングでなんてこと言い出すんだと樋浦に突っ込みかけて、いや待てよと俺は俺で口から出かかった言葉を途中で飲み込んだ。

 そう言われれば、菰田はこの場に居るのが俺以上に不釣合いな人種であるように思える。成績も並、運動能力は平均以下。そしてなにより、言ってしまってはなんだが、彼はなんというか、あまり強い人間ではない。安藤やその取り巻きたちにいつもちょっかいをかけられている菰田は、クラスの中ですっかり「イジられ」担当になっている。この極めて微妙なニュアンスは、学び舎で過ごした経験のある人間になら、おそらくなんとなくだが伝わってくれるのではないかと思う。癒し担当のマスコットにはやや遠く、ムードメーカーと呼ぶにはかなり微笑ましさが足りない。時たま過激さを帯びるイジリ、クラスの誰もが無意識に彼を軽んじている風潮。彼はいつも、卑屈そうな引き笑いを浮かべていた。

 

「ふ、ふへっ。そ、それはお前の思い違いだぜ樋浦。俺はやる時はやる、そういう男だぜ常考」

「それは心強いが。その気概があるなら、せめて装備くらい身に着けたらどうだ。戦闘が始まった直後に即死されたんではこっちも寝覚めが悪い」

「即死? ふへっ、甘えよ。そんなんじゃ甘いよ、樋浦。なんせ俺の見立てが正しけりゃ、俺らはこれから両手じゃ数え切れない回数は死ななきゃならねぇんだからな」

 

 そう言った菰田の顔は、たまに彼が教室で見せたことのあった、ひどく優越感に満ちた表情をしていた。

 俺はお前らの知らないことをこんなに知っている、どうだ、すげえだろ。

 そんな、無知を嘲る類の暗い笑みを浮かべていた。

 

「菰田くん、それってどういう意味? もしかして、この世界についてなにか知ってることでもあるの?」

 

 訝しげに尋ねた那須川に、下ろしたバイザーのせいで感情が窺えない樋浦。固い表情の委員長に、そしてきっと間抜け面を晒している俺。

 注目を集めたことにすっかり気を良くした風の菰田は芝居がかった仕草で大仰に腕を広げ、しかしおっかなびっくりとした足取りでもって、頭を垂れる巨躯の鎧の傍らまで移動した。

 しばらくその外見をしげしげと観察してみてから、やがて震える両手で鎧の胸元に突き刺さった剣を掴むと、体重をかけて思い切りそれを引き抜いた。

 

「菰田くん! あまり考えなしに行動しない方が……!」

 

 委員長が慌てて止めに入ろうとしたが、時既に遅し。

 剣はすっかり鎧から抜き取られてしまい、菰田は踏ん張りきれずに勢いで地面に尻餅を突く羽目になった。

 菰田が立てた『ばちゃり』という水音が、いやに耳につく響きを奏で、

 

 

 ――――ぎしり。

 

 

 楔から放たれた鎧が、油の切れた鉄どうしが軋る異音と共に小さく身じろぎをした。

 

「教えてやるよ。こ、この世界はなぁ……! ”死に覚えゲー”ってやつなんだよ……!」

 

 俺は知っている、知っているぞ。

 笑う菰田の声が耳障りな余韻をとどめに残し、審判の開始を告げる合図となった。

 

 



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灰の審判者、グンダ

「おいおいおいおいやばいぞやばい! 菰田、いい加減ふざけてないで防具着ろって死ぬぞ! 那須川は魔法使いだっけか!? あまり前線に出ずに後ろの方から援護頼むぞ! 委員長はなんだ、伝令? よく分かんないけどとりあえず伝令っぽいなにかでなんとかしてくれ! 樋浦、樋浦! どうすんだこいつ予想よりはるかに危険っぽいんだが! 大丈夫なんだろうな、勝てんだろうなこれ!? ていうか生きて帰れるのか俺たちは!? なあおいなんで俺ひとりだけバカみたいに騒いでるんだ!? みんなどこに行ったんだよ居ないのか!?」

「口より先に身体を動かせーー!!」

 

 樋浦の怒声を背に受けながら、俺は全力で右横へと身体を投げ出した。それと同時に、俺自身の力とは別の作用、つまりは謎の風圧だか爆圧だかによって、俺の身体は想定していたよりもかなり勢いがついた状態で水溜まりへと投げ出される羽目になった。

 

「っつー、あだだ……。……う、うおおお!?」

 

 そして、おお見よ! つい一秒前まで俺が立っていた地面一帯には、一般的な男子高校生の上半身よりもさらにひと回りほど大きなサイズの物騒な刃渡りを持つ斧槍が深々と突き刺さっているではないか! 岩盤に発破でもかけたかのような先ほどの爆音の正体は、どうやらアレによるものだったらしい。いったいどんな膂力があればあんな芸当が可能なのだろう? あまりの衝撃に、転んで擦りむいた頬の痛みもどこかに吹き飛んでしまったほどだ。

 

「無事か佐渡! よし大丈夫そうだなさっさと立て! 体勢を立て直さないと次は避けられないぞ!」

 

 俺と鎧の審判者との間に、盾を構えた樋浦が割って入ってきた。樋浦の脇を固めるようにカイトシールドを携えた委員長も俺の前方へと素早く進み出て、スピアの切っ先を巨人目掛けて突きつける。臨戦態勢ばっちりなふたりへと、俺は礼を言う代わりに先ほどから気になっていた疑問をぶつけた。

 

「那須川と菰田はどこに行ったんだ?」

「分からない。いつの間にか隣から消えていたみたいだ。アレが動き出したあたりで僕はふたりの姿を視界から外していたけど、あの一瞬でこの広場から走り去ったなんていくらなんでも無理がありすぎる」

「物理法則を無視した方法でこの空間から追い出されたとでも? 空恐ろしい話だが、今回ばかりはありがたい話かもしれないな」

 

 ありがたい。その含みのある言い方に、いよいよ事態がのっぴきならないところまで来てしまったことが改めて思い知らされる。

 地面を食い破り深く深く沈み込んだ斧槍。あれを、菰田や那須川が食らってしまったなら。樋浦はそんなことを考えたのかもしれない。ああ、それは大変だ。それはまずいだろう。

 一瞬だけ視線を背後にやってみる。そして、俺たちが通ってきた入口が厚い霧のような壁で塞がれているのを確認したことで、俺はようやく少しだけ頭を冷やせたような気がした。

 これで俺たちに逃げ場はないが、同時に誰もここには入ってこれなくなったというわけだ。

 

「樋浦、作戦は?」

「一人がアレの注意を引いて、残り二人が死角から攻撃。それしか無いだろうな」

「そりゃいい、分かりやすくて最高だ。ところで樋浦、『言うは易し、行うは難し』ってありがたい言葉を知ってるか?」

「お前こそいい加減腹を括れ。易かろうが難かろうが、やれなきゃここで全員お陀仏だ」

 

 分かってる、分かってるさ。それくらい重々承知だ。もはや勝てる勝てないを議論する段階に話はない。

 あの剛力無双の巨鎧を、あの人知を越えた怪物を、この場で俺たちだけでなんとかしなくてはならない。

 やるか、もしくはやるか。そのどちらかしか道はないのだ。

 

「やることは分かったし、異論はない。けど樋浦くん、佐渡くんが言うとおり、その作戦だと囮役の負担が大きすぎるんじゃないか?」

 

 委員長は慎重な顔で樋浦を窺う。そう、なにも俺がごねたのは臆病風に吹かれたからだけではない。正味、樋浦の打ち出した作戦はあまりに博打性が高すぎる。あの恐ろしい斧槍を相手取って大立ち回りを演じる? 賭けてもいいが、俺なぞ10秒も持たないだろう。

 委員長の懸念に対し、樋浦は間髪入れずにきっぱりと答えた。

 

「囮はオレがやる。ここはオレが引き受けるのが筋だ」

「正気かよ。そんな重い鎧着てちゃ、ジャッキーだってスタントしくじるぞ」

「お前の防具は軽装すぎて掠るだけで致命傷になりかねないし、委員長もきっとこんな荒事の経験は無いだろう。それともなにか、お前が代わりに『シャンハイナイト』でも見せつけてくれると?」

 

 なるほど、返す言葉もない。俺のような大根よりも樋浦の方がよほどハマり役というわけだ。荒事の経験と来たら、この場でいちばん動けそうな奴は樋浦を置いて他には居るまい。自分自身まで戦力のひとつとしてあくまでも公平に計上する樋浦の顔からは、些かの怯えも躊躇も見出せない。その冷静さは毎度頼もしいことこの上ないが、いったいこいつの正気はどこにあるのだろう。

 

「そら来たぞ。委員長、佐渡、準備はいいな?」

 

 額を突き合わせて話し合う俺たちに向かって、一分の隙も見当たらない磐石の足運びでこちらへと歩を進める、斧槍携えた灰の審判者。

 封印から目覚めた時は錆び付いた機械が無理に駆動しているような無様な有様だったというのに、今やその所作は一流の武人さながらの、ある種の気品すら感ぜられるほど。長大な斧槍を持て余した様子も、物々しい鋼鉄の鎧に引き摺られる雰囲気もない。一歩ずつこちらとの間合いを縮めるその足取りが、質量を持った死そのもののようだ。

 

「ああ、こっちはいつでもいけるよ」

「俺はちっとも良くないけどな。けどいいぜ、さっさとやってくれ」

 

 俺の理性が、再三の疑問をこれまでとは比べ物にならないほどに強く発令する。

 果たして、俺たちはアレを相手に勝利を収めることが本当に可能なのだろうか?

 どころか、アレを相手にして、俺たちは生き残ることが出来るのだろうか?

 

「よし……、行くぞ!」

 

 ええい、ままよ。

 号令一下、樋浦の合図で俺たちは迅速に散開した。樋浦は盾を正面に構えたまま、直線距離でしろがねの鎧目掛けて猛ダッシュ。委員長は樋浦から見て左側、張り出した大樹の根が絡みついた壁側に向かって大回りで鎧の右横を取る位置へと走る。それらを視界に収めながら、俺は自分のポジションを定める。

 

「オオオッ!」

 

 鎧の審判者の注意は、猛々しく吠えながら最短距離でまっすぐ突撃してくる樋浦へと注がれている。

 俺は樋浦を軸に委員長とは線対称の方向、鎧の左側へと大回り気味に全速力で駆ける。奴の携える恐ろしいスケールの斧槍の側を、勇気が許す限りのギリギリまで距離を縮めた大回りで、駆ける。

 日頃の運動不足が祟ったか、それとも視界にちらつく斧槍への恐怖か、妙に足がもつれ気味だ。冗談じゃない、ここでコケたらあの巨鎧より先に樋浦に殺されかねない。まだだ、もっと速く、もっと距離が必要だ。鎧の左横をさらに通り過ぎ、そのまま5メートルほど駆け抜けたところで、俺は頃合いと判断した。

 速度を緩めつつ制動を掛け、そのまま180度の方向転換を決めながら、1メートル弱だけおまけに距離を稼ぐ。うむ、我ながら上々な首尾だ。

 

(どんな時でも、チェック・シックスってな)

 

 樋浦が正面、委員長が右側面、そして俺は奴の背後。即席包囲網の出来上がりだ。

 それにしても、大した距離は走っていないというのに、早速膝がガクガクと笑い始めている。自衛隊の訓練じゃあるまいし、鎧や武器なんて身につけて動き回ったのはこれが初めてであるからある意味当然といえば当然の反応であるが、どうやら本気で運動不足を憂慮した方がいいのかもしれない。

 

(それにしても、なぁ……) 

 

 視界に収めるは堂々たるしろがねの巨躯、そのおそろしく幅広な背中。その圧力はまさしく尋常ではない。どれだけ足音を殺して近づいたとしても、即座にこちらへと振り向いて斧槍を叩き込んできそうだ。これと正面から対峙している樋浦のクソ度胸には本当に舌を巻く。

 適材適所、なるほどたしかにその通りだ。俺には正面からの囮役など逆立ちしても出来っこない。足が竦んでいる間にハエのように叩き潰されるのが関の山だろう。ならばこそ、ビビリはビビリなりにやることをやる他ない。

 どう見ても通常の人類規格ではない寒々とした輝きを放つしろがねの背と、手の中の短刀とを見比べる。バタフライが可愛く見えるような物騒な刃渡りの『盗人の短刀』だが、果たしてこいつであの鎧にどこまで傷をつけられるのかは甚だ疑問だ。樋浦のロングソードならいざ知らず、あの鎧の材質が塩化ビニルでもない限り、インパクトの瞬間にこちらがポッキリいくのではなかろうか。

 加えて言うなら、俺は切り裂きジャックでもなんでもない、どこにでも転がっているような一介の男子高校生に過ぎない。ナイフの扱いに関して心得があるどころか、包丁よりも長い刃物なんて久しく手に取ったことがないほどだ。

 

『いいか、コツは”身を任せる”ことだ』

 

 数刻前、樋浦から賜ったアドバイスが脳裏をよぎる。

 身を任せる、ねぇ。

 樋浦の言葉を反芻しながら、俺は短刀の柄をぐっと両手で握り込む。樋浦が注意を引き受けているおかげで、鎧の審判者はこちらの姿を視界に入れていない。アレと真正面から対峙していたらと考えるだけで逃げたくなるが、背中を向けている今ならなんとかいけそうだ。

 よし、やるぞ。やってやるぞ。

 一世一代の覚悟で己を奮い立たせ、俺は半ばヤケクソ気味に脚へと全速力を叩き込む。

 

(身を任せる、身を任せる)

 

 言うまでもないことだが、俺に怪物退治のスキルなど当然あるはずもない。というより、そんな経験のある人間など居るはずがない。

 ドラゴンが実在すればいいと、そう願う奴は居るだろう。剣を執って戦いたいと本気で考えている人間も、ひょっとしたら世界のどこかには居るのかもしれない。

 それらの願いの根底にあるのは、絶対的な「ファンタジーの非実在」という大前提としての常識だ。

 剣も魔法もモンスターも、実在しないと分かっているからこそ「もしも」と人は願う。

 いま俺が目の当たりにしているこれが現実なのか、それとも最高に生々しい夢なのかはひとまず置いておくとしても、黒いボロをまとったあの骸骨や眼前の鎧の審判者は、俺の常識の埒外に存在するイレギュラーであるという事実に揺ぎはない。常識外の相手に対するに、俺がこれまで培ってきた常識はおそらく役には立つまい。郷に入りてはなんとやらと、要はそういうことだ。

 

(身を任せる、身を任せる、身を任せる……)

 

 なるだけ余計なことは考えず、身体から余分な力を抜いておけというのが樋浦の言だったが、生憎となんのことかさっぱりだ。

 身体の力を抜け? 抜いたらどうやって身体を動かせばいいんだ?

 こちとら万年帰宅部、言うまでもなく武道にはとんと縁がないし、運動神経もいい方ではない。明鏡止水のめの字も知らない俺には、心を無になどというご大層な真似は出来っこない。出来っこないので、せめて、ひとつのことだけを考え続けて頭をいっぱいにしていく。

 

(身を任せる身を任せる身を任せる、身を任せる……!)

 

 まるで子供のおつかいだが、行為としては似たり寄ったりなのが最高に皮肉だ。

 流れに身を任せる。指示は一瞬、後は流れに身を任せさえすれば、それでいい。

 

(走って、斬る。走って、飛びかかって、斬る!)

 

 思考に引っ張られ、身体が”流れ”に乗る。

 まるで、回路を切り替えて、違う誰かに身体を明け渡したような感覚だ。

 闇雲にめちゃくちゃだった足運びが、無駄のない踏み込みへと変わる。徒競走のバトンのように無造作に握り締めていた短刀の柄が適度な間隔の握りに持ち替わり、フリーだった左手が柄頭近くに添えられる。

 まるで手練のナイフ使いにでもなった気分だ。俺の知らない、経験したことのない動作。それをさも手馴れたがごとく、常識であるかのごとく、俺の身体が実行する。

 気づけば、鎧の審判者はもう目前。身体は走る動作を終え、次の挙動へと淀みなく移行する。

 一歩目でほんの僅かに身をかがめつつ勢いをつけ、二歩目で思い切り踏み切って、跳躍。工程のすべてにおいて失速は無し。ダッシュで蓄積した速力を余さず跳躍に転化させ、アクションは最終工程へ。

 

「……らああぁっ!」

 

 いちおうそれっぽく掛け声らしいなにかを発声してみたが、どうやら自己満足以下の大した意味もない行動だったようだ。

 すべては、結果が明快に示している。疑う余地はどこにもない。

 全体重プラス助走からの跳躍を乗せた渾身の一撃は、鎧の審判者の背に深々と根元まで食い込んでいる。短刀の刃は折れも欠けもせず、堅固な鎧に弾かれることもなく、しっかりと審判者の肉体へと深々と……、待てよ、肉だと?

 

(なんだ、この手応え?)

 

 それは、なんとも珍妙で気味の悪い感覚だった。

 インパクトの瞬間には間違いなく鎧と短刀とが耳を覆いたくなるような壮絶な金属音を発し、手首が砕けたかと思うほどの衝撃が跳ね返ってきた。しかし、腕に伝わって来る感触はすぐにまったくの別物へと変わってしまったのだ。

 硬さから、柔らかさ。金属でもなければ鉱石でもないし、もっと言えば、無機物の類でさえない。

 最初は、引き締まった肉かと思った。例えて言うなら、そう、身の引き締まった鶏胸肉だ。短刀の刃から感じる手応えは、ぎっしりと身の詰まった肉を切りつけた感覚に近かった。

 しかし、肉にしてはなにかがおかしい。少なくとも、"人の肉"を切った手応えではない。

 肉よりもずっと弾力に富み、より瑞々しい。オノマトペで表すなら、ずちゅりと、そういう音がしそうな手応えだ。

 思い当たるような可能性を強いて挙げるとするならば、これは。

 

(ゴム質……、いや、ゲル?)

 

 想像した瞬間、怖気が走った。さっきまでは神秘的な畏怖をすら感じていた眼前の鎧が、急に得体の知れないおぞましい代物に思えてならない。

 このしろがねの鎧の中に詰まっているのは、いったいなんなんだ?

 

「オラアッ!」

「はっ!」

 

 樋浦と委員長の声が耳に飛び込んできたことで、俺はようやく現実へと引き戻された。

 そうだ、今は悠長に考え事をしている場合ではない。俺は俺の役割を果たさなくては。

 突き立ったままの短刀を取っ掛りに逆上がりの要領で下半身を跳ね上げ、 

 

「よっ、とお……!」

 

 両足をドロップキック気味に鎧の審判者の背中へと叩き込み、その反動で短刀を引っこ抜く勢いでバク宙を決めて着地。まるで軽業師だ。本当にどうなってんだ俺の身体。着地の姿勢から立ち上がった俺は巨鎧から距離を取り、戦場をざっと俯瞰してみる。

 すると、おや。これはどうしたことだろう?

 

「オオオッ!」

 

 驚くべきことに、樋浦はあの鎧の審判者を相手取り、なおかつ一歩も退かぬ立ち合いを繰り広げているではないか。

 烈空一過、今もまた大きく振りかぶられた審判者の斧槍が轟音を伴って振り抜かれると、それをダッキング気味に躱しつつ自身は距離を詰め、

 

「ッ、オラァ!」

 

 踏み込みを乗せた右撃ちの水平斬りで、鎧の審判者の胴元へとロングソードを打ち込みせしめた。距離の開いたこちらまで届くような快音が響き、仰け反らないまでも僅かに苦悶するように、巨鎧の動きが数瞬鈍った。

 なんと堂に入った動きだろう。もしやあいつは過去に剣を片手に魔物と戦ったことでもあるのだろうかと、知らない人間が目にしたらそんな風に疑いたくなるだろう身のこなしだ。

 

(しかしまぁ、それもあながち嘘でもない、のか)

 

 つくづく、手馴れてやがる。

 しかし、俺の驚きはそれだけではなかった。

 

「はっ!」

 

 樋浦の奮戦ぶりには流石に一歩譲るものの、委員長の方も俺の予想を遥かに上回る戦いぶりだ。

 常に巨鎧から一定の安全マージンを確保した位置に陣取り、隙が生まれるや否や逃さずにそこへスピアを突き込む。

 

『……!』

「すまない委員長、助かる!」

 

 それに釣られる形で、審判者の攻撃の矛先が樋浦から委員長へと変わる。

 仕返しとばかりに直線軌道でぶち込まれた斧槍を、やや危なかっしく左のカイトシールドを使って逸らし受け流す。ぎこちないながらも、しかし挙動自体は冷静に実行された手堅い防御だ。

 こうして委員長が慎重な防戦を行っている間に、樋浦が調息を完了させて体勢を立て直すというパターンがここに生まれる。

 あのデカブツを相手にチャンチャンバラバラを繰り広げる樋浦のパフォーマンスは相当だが、それに追従しかつ動きを阻害することなく援護を成立させている委員長もかなりのやり手だ。まさかとは思うが、あの委員長にも、もしやこういった修羅場の経験でもあるのだろうか? 人は見掛けに拠らないとはよく言ったものだ。

 

(にしても、な)

 

 俺は知らず、自分が片頬で気の抜けた苦笑めいたなにかを浮かべていたことに気がついた。

 樋浦はおよそあらゆる物事において優秀な、自他ともに認める”天才”だ。頭の回転が速く、強堅な肉体を持つ。大抵のことを人並みよりはるかに上手く、そつなくこなせる。言葉にすればあっさりしたものだが、あれほど”完成された”人間を俺は他に知らない。

 この右も左も分からないファンタジックな環境にいち早く順応し、”戦い方”を見出してすぐさま体得したのもあいつだ。一切の誇張抜きで、樋浦が居なかったらクラス一同まとめて一瞬で野垂れ死にしていたに違いなかろう。

 

『ユウはね、不完全燃焼なんだよ。いっつもつまんなそうにしてるでしょ』

 

 いつだったか、那須川がそんなことを言っていた。那須川が言わんとすることを俺がある程度まで理解出来たのは、それからずいぶん後になってからだった。俺が鈍いというのもあるが、比較的よくつるむ方である俺でさえしばらく気付けなかったほどだ。果たしてクラスメイトのうちでいったい何人が、それに気づいているだろうか。

 しかし、目の前のアイツを見ていれば、俺でなくてもはっきりと分かるだろう。

 

「合わせてくれ、委員長!」

「分かった!」

 

 コンディションを整えた樋浦が一歩を踏み出すのに合わせて、委員長がポジションをやや左へと移した。

 

「せいっ!」

 

 移動と同時に、委員長は審判者が突き出した斧槍へとカイトシールドを力強く打ち付けた。それまで行ってきた受け流しの防御よりも乱暴な、"逸らし"ではなく"弾き"、パリィの一手だ。

 

『……!?』 

 

 結果、斧槍はガクンと大きく軌道を狂わせ、審判者は体勢を大きく泳がせた。

 そこに、一分の無駄もないタイミングで樋浦が仕掛ける。委員長が空けた分のスペースへと瞬時に滑り込み、

 

「食らいやがれッ……!」

 

 半身を反らすほどに大きく引き絞られた溜めから、抉り込むような急角度で渾身の突きが放たれた。肉を深々と穿つえげつない音がこっちまで聞こえてくる。俺の短刀の一撃がお遊戯に思えてくるような凄絶な一撃だ。

 

「どうだよ、ちっとは堪えたか、デカブツが」

『…………!!』

 

 巨鎧を足蹴にしながら、突き立ったロングソードを樋浦は荒々しく引き抜いた。打ち合わせなしのぶっつけ本番だとは到底思えないような完璧なコンビネーションアタックに、上体をくの字に折った審判者がたまらずにたたらを踏んで後退する。

 那須川の言を借りるなら、”不完全燃焼の天才”。それが樋浦という男だ。大抵のことは単独でこなせる上に、むしろ他人と組むというのはあいつにとっては殆ど枷にしかならない。そういう奴なのだ、あいつは。

 そんな奴にとって、自分が他人に合わせてやるということはあっても、その逆というのは滅多に成立し得ないレアケースなのである。

 事実、最初に樋浦が俺たちに提示した作戦では、樋浦ひとりが囮を引き受ける手筈だった。それが、樋浦と委員長がふたりで分散してターゲットを取る方策へと、実に自然に転換している。奴にとっておそらく、これは嬉しい誤算なのだろう。

 

(楽しそうな顔しやがって……、状況分かってんのかよあいつ)

 

 足を引っ張らない他人と組むこと。そしてなにより、剣を片手に魔物とヤットウという正気の沙汰ではないこの状況。こんな機会も経験も、俺たちが知る”常識”のどこにも存在し得ない。この世界での”戦い方”をあっさりと見出した樋浦にしても、それは無論のこと例外ではないのだ。

 ぎらぎらと充溢したその瞳の輝きが物語る。

 遊び古した玩具に飽きた子供が喜ぶのは、新しい玩具を与えられた瞬間に他ならない。

 溌剌と振るい、活達と暴れまわる我らが天才児。

 誰が見ても明らかなほどに、樋浦は今を楽しんでいた。

 

『……■■、■■……、■■……!!』

 

 そして、樋浦の会心の一撃が流れを変えた。ついに戦闘に転換の兆しが顕れたのだ。

 ふたりの猛攻をその身に受けた鎧の審判者が、鎧の胸元を抑えて苦しみもがき始める。人語として成立していない不明瞭な呻き声を上げ、あの威容がついに膝を屈したのだ。

 

「これは、やったのか?」

 

 委員長が肩で息を吐きながら、疑問符付きで呟く。

 

「さあてね! あと、委員長! その台詞は俗に言う、フラグってやつだ! やめといた方がいい!」

「えっ? フラグ? 僕はなにか、まずいことを言ってしまったのか!?」

「余計なことを言うな佐渡。お前の台詞の方がよっぽどフラグだ」

 

 ふたりから距離が離れていた俺がやや声を張り気味に放った戯言に、委員長は焦ったように生真面目なレスを返し、樋浦は吐き捨てるように一蹴した。うう、しいません。

 軽口もそこそこに、俺たちは鎧の審判者の様子をやや遠巻きから観察する。

 

『■■……! ■■■■……!』

 

 先ほどまではこちらの斬撃をものともせずに、まるで意志持つ彫刻かと錯覚させるほどに小動もせずに斧槍を振り回していた審判者。それがここに来て唐突に悶え苦しんでいる姿には、正直かなり不気味なものがある。

 卑近な喩えで本当になんだが、清純派で売っていた芸能人の、裏で行っていた下衆な所業がすっぱ抜かれたのを見た気分とでも言えば良いのだろうか? なにやら、見てはいけないものを見せられている気分だ。 

 

「樋浦くん、これはチャンスなんじゃないか? 今のうちに畳み掛けるべきなのでは?」

「オレも賛成だが、どうも様子が妙だ。下手に仕掛けるのは危険かもしれない」

「どうせならこのまんまポックリ逝ってくれれば、それが一番いいん、だけど……、な……?」

 

 俺の発言の終わり際、まるで俺の言葉がトリガーにでもなったかのような嫌なタイミングで、”それ”は起こった。

 

『………………』

 

 審判者が、動きを止めた。

 痛苦に歪められたような呻きも、惨痛に藻掻くような挙動も。

 まるで一時停止でも掛けたかのように、一切の動きをぴたりと止めたのだ。

 

「…………?」

「…………!」

「な、なぁ、これ……」

 

 委員長は訝るように目を細め、樋浦は瞠目して武器を構え、そして俺は間抜けに独り言を漏らしていた。

 反応はそれぞれではあったが、おそらく、この場の三人がまったく同じことを考えている。

 本当に、やばい。

 この世界に来てから起こったなによりも、次の瞬間に起こることはやばい。

 凍りついた時の中で、俺たちは同じ感覚を、一切の齟齬のない凶兆を共有していただろう。

 

 ――これは、死んだな。

 

 予測でもなければ、予知でもない。

 事実としての、厳然たる事実としての”死”を、決定されてしまったのだ。

 

 

『■■、■■……!! ■■■■■■■■!!!!』

 

 

 叫びと共に、膿は弾けた。

 



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ザ・ファースト・ブラッド

 聞くに耐えないおぞましい吠え声をあげながら、そいつは這い出てきた。

 まるで、”膿”だ。

 ぬらぬらとツヤを放つその体表は、あらゆる怨嗟、妬み嫉みに憤激に嗜虐、あらゆる人の悪性の吹き溜まりを煮詰めた煮こごりのよう。

 間断なく垂れ流される絶叫は、悲鳴と怒号、嘲笑に侮蔑、あらゆる負の感情をいっしょくたに奏でた不協和音。

 鼻がもげたかと思うほどの凄まじい悪臭は、下水と肥溜めと残飯と腐らせた牛乳とを混ぜ合わせたようだ。

 見るに耐えず、聞くに堪えない。目と耳を塞げども、手が回りきらなかった嗅覚が訴える。

 腹の底からこみ上げてくるのは嘔吐感だけではない。むかむかとしたこの感覚は、信じられないことに義憤だ。

 アレを許してはならない。アレを正さなければならない。弾劾しなければ、吊るし上げなければ、晒し者にしなければならない。ありとあらゆる手段でもってアレを貶めなければならないという、激しい義務感と正義感だ。それこそが世界のために必要な仕打ちだと、叫ぶ俺がどこかに居るのだ。

 こんな存在が許されるのか、こんな醜く爛れた汚物が認められるのか。同じ空気を吸うことすらアレルギーを起こしそうな、拭い難い生理的嫌悪がこれ以上なく雄弁に物語っている。

 あれは、俺だ。

 樋浦であり、委員長だ。那須川であり、菰田であり、安藤や和卿や権藤、認めたくはないが、きっとあの地上の天使のような武智でさえあるだろう。

 誰もが目を背けたい、自分のものではないと否定したい、そんな悪性腫瘍。人類種に寄生した手に負えない癌であると同時に、人類そのものが救いようのない癌であると反証する冷酷な鏡。

 あれは紛れもない、”人の膿”なのだ。

 

『■■■■■■■■■■!!』

 

 などとらしくもなく、余計なことをつらつらと考えていたのがまずかった。

 ”膿”が絶叫し、どす黒い大蛇のような体躯を大きくしならせて尻尾を振りかぶったところまでは、視界が捉えていた。

 

「ぐ、え……?」

 

 自分がなにをされたのか理解するより早く、先に認識したのは自分が宙を舞っているということ。

 遅れて、鈍い痛みが脇腹を中心にじんわりと広がり始め、息を吸おうとしてそれが出来ないことに気づく。

 

「……渡くん!? 」

「余所……るな、委……! ……を視界に……、まで後ろに……るんだ……!」

 

 ふたりがなにかを口々に言い合っているのが断片的にしか聞こえてこない。耳がイカレたのだろうか? なんだか頭もぼんやりして、まともな思考が出来ていない気がする。空気が肺まで来なくて苦しい。全身の感覚が希薄で、息苦しさしか認識できない。地面はどこだ? 俺の身体は今どうなっ

 

「…………あ」

 

 どすん、ずざざっ。そんななにかを引き摺ったような鈍い感覚が、いの一番に来た。

 そして、次の瞬間。

 

「いっ…………!?」

 

 痛い! 痛い痛いいたいイタイ死ぬ死ぬしぬしぬ!!

 唐突に感覚が戻ってきた! そしてなんだこれは!? 痛い! 痛い痛い痛い! なんだこれ!? なんだこれ!?

 色も音も遠ざかったふわふわした世界に、蛇口を全開にしたような勢いで情報が一気に押し寄せてきた。とりあえず痛い! 尋常じゃなく痛い! 打ち上げられた魚のように口をパクパクさせて必死に酸素を取り込む。そのまましばらく無様な呼吸を続けることどれくらいだろうか。体感では永遠のようにも思える拷問のような時間の甲斐あって、絶息からなんとか全力疾走直後くらいの状態まで呼吸が戻ってきた。酸素が身体に入ってきたことで、思考の方も段々調子を回復させてきている。

 

「……っってえええええ、ちくしょお……!」 

 

 ショック死を防ぐために重大な損傷を負った時には一時的に痛覚を遮断するという人体の機能から鑑みるに、俺のダメージは「やや軽めの致命傷」といったところらしい。いやどんだけだよ。言った俺がよく分からん。

 ざっと自己分析した感じ、どうやら辛うじて五体は満足で済んでいるようだが、中身の方まで大事無いかはかなり怪しいといったところか。相変わらず脇腹を中心に筆舌に尽くしがたい激痛が全身を苛んでいるが、これが話に聞く肋骨が折れた痛みというやつなのだろうか? 呼吸をするだけで地獄の苦しみだし、あまりにも痛みが激しすぎて何故だか寒気まで感じてきた。今の時点で既に死ぬほど痛いが、「ほっといたらこのまま本当に死んでしまうのではないか?」という強迫観念に心臓が早鐘を打ち始めている。

 そして、俺がそんな生き地獄に喘いでいる間にも、状況は片時も待ってはくれない。

 

『■■■■――■■■■■■!!』

  

 ばちん、そんな音と共に。

 ”膿”が一際大きく喚き散らかし、そして次の瞬間、その身を大きく膨張させて爆発四散させた。

 痛みに滲んだ不明瞭な俺の視界に映ったのは、まるで支離滅裂で理不尽な光景だった。

 

「なんだ……!?」

 

 ”膿”と正面から相対しつつじりじりと後退していた樋浦が、素早く視線を周囲に巡らせた。委員長の方も動揺を隠せない調子で、狼狽した様子で一歩を後じさる。

 おそらくふたりの位置からは、”膿”が唐突に爆発して視界から消え失せてしまったように見えたのだろう。審判者との距離が俺より近かったふたりには、そこまでしか把握しきれなかったのだ。

 吹き飛ばされたことで”膿”から距離が離れ、結果的に戦場の様子が見渡せる位置に居た俺には事態の全容が辛うじて掴み取れた。

 知らせなくては、ふたりに知らせなければならない。

 

「う、うえ……、ぎぃっ! 上だ、ぁ……! あが……っ」

 

 必死の思いで上体を起こし、どうにかこうにかふたりの所にまで届くだけの声量で知らせることは出来た。その代償に、一瞬意識が断絶しかけるほどに桁外れの激痛が脇腹を駆け巡る。再び絶息しかけながら、俺はすぐに気づいてしまった。

 伝え方を、間違えたと。

 言うべきは、状況そのものではなく、解決策であり事後策だったのだ。

 

『全力でその場から離れろ』

 

 俺はそのように言わなければいけなかったのだと。

 

『――――■■■■■■』

「なっ……!」

「チィッ……!」

 

 まるで、走馬灯でも見せられているかのようだった。目の前の光景が、ひどく緩やかにじりじりと流れ行く。

 膿が、宙を舞っていた。

 どす黒い腐肉がぶよぶよと弛み、宿主であったしろがねの巨鎧はその腐肉の中に胴体の殆どを呑み込まれ、わずかに外にはみ出た手足が糸の切れたマリオネットのように、ぶらんぶらんと無様にばたついている。

 軟性と弾性とを小賢しくも存分に発揮させて、”膿”はその巨体を、瞬間的に目で追うのが困難なほどの速力で一気に跳躍させたのだ。

 スローモーに動く視界の中、人の膿が、まるで悪性の流星のように墜落していく。

 忌々しげに舌打ちしながら、驚きに固まる委員長を樋浦がタックルで以て強引に着弾地点から押しやろうとする。

 俺だけが、動けない。俺の落ち度が生み出した惨事を緩慢と見せつけられながら、俺だけが動けない。

 恐怖に竦んで? さすがにそこまでのチキンじゃない。 

 耐え難き激痛で? それはそうだが、今に限っては少しばかり違う。

 俺の胸に去来したのは、諦観だ。諦めが、俺の動きを止めてしまったのだ。

 俺がこの状況でどう動いたところで、もはやどうにもならない。どうしようもない。そんな腑抜けた感情が、激痛をおして俺に身体を駆動させる気力を奪い去ったのだ。

 ふざけるな、やってもいない内に諦めるだと? それは臆病者以上に救いがたい、卑怯者の行いだ。お前のミスが招いた結果からお前が目を背けてどうするんだ。

 立て。立って、挽回するんだ。出来ることを限界までやれ、手を尽くせ。蹲ってないで行動しろ!

 だが、心と身体を必死で奮い立たせようとする俺に、心のどこかで、冷めた目線のもうひとりの俺が言うのだ。

 ああ、またか、と。

 

『”今回も”、こういう結果に終わるんだな』

 

 樋浦と委員長は、避けきれなかった。

 ドッパアン、そんな音がした。水面に思い切り平手を叩きつけた時のあの音を百倍凶悪にしたような、おそろしい音だった。

 黒い大蛇を象った”膿”が、のっそりと鎌首をもたげる。寡黙な武人であった鎧の中身を占めていた黒膿は、宿主とは対照的にすさまじく五月蝿い奴だった。休みなくシューシューと吠え声をあげ、せわしなく蛇腹をのた打たせる。黒い総体の中、真っ赤な眼窩だけがぬらぬらと気色悪く光を放っていた。

 

「が……、クソッ……」

 

 爆心地近縁の樋浦のダメージは甚大だった。身に纏っていた『騎士の鎧』はあちこちが見るも無残にひしゃげて鉄屑同然の有様で、あれではもはや鎧としての機能を果たすどころか完全なるデッドウェイトでしかない。それでも、樋浦の身体そのものがマッシュポテトの憂き目に遭わずに済んでいるということは、鎧はいちおうはその役割を全うしたということだろう。しかし、負傷の度合いは俺などより遥かに深刻、生きているのが奇跡的なレベルだ。

 

「そんな、樋浦くん」

 

 樋浦の苦肉の策がギリギリで功を奏した結果、俺たち三人の中で最も傷が浅いのは委員長だった。質量爆弾の中心からはどうにか逸れ、脚部が”膿”の触腕部分の下敷きになったという状態が「最軽傷」というのは、なんとも皮肉な話だが。

 

「どうして、僕を。僕よりも、樋浦くんの方が、どうして」

 

 ただ、軽傷で済んだ筈の委員長の表情は、悲壮すぎてとても見ていられる代物ではなかった。

 傷は一番浅い筈なのに、一番辛そうな顔をしていた。

 

『クラスメイトが傷つけられて、それで自分だけ安全圏に居ようなんて恥知らずな真似は僕には出来ない。委員長としての責任以前に、これは人として当然の行いだ』

 

 戦いが始まる前に委員長が言っていたことだ。

 誰かが傷つくくらいなら、自分が傷ついた方がマシ。真面目で高潔な、委員長らしい考え方だ。だけど、樋浦も言ってただろう? 自己犠牲は誰も救わない。その考えで救われるのは自分だけだ。委員長みたいな生真面目な奴がひとりで傷つく、それが自己犠牲なんだよ。

 樋浦は委員長に身を以てそれを示した……、わけでは勿論ないだろう。奴がやったことだって、立派な自己犠牲にほかならない。結果的に、こうして三人が三人残らず死に体の有様だ。どいつもこいつもクソ真面目で、傷だらけで。

 ちくしょう、俺のせいだ。俺ひとりだけが、何を為すこともなくこうしてへたばっているわけだ。こんな滅茶苦茶な話があってたまるか。

 

「委員長……! 早く、そこから、逃げろ……!」

「そう……だ、はや……、グッ……! ア……!」

 

 俺は”膿”からふたりより少しだけ遠い位置に居る。そして、樋浦は既に瀕死だ。ならば、”膿”が次に狙うのは委員長に決まっている。そして実際、事態はそのように運びつつある。

 

『■■■■■■……!』

 

 斧槍を勇壮に振るう鎧姿にはある種美しい彫像のような品位さえあったが、今の蠢く黒蛇の姿からはただただ生理的嫌悪しかこみ上げてこない。今もまた、奴はだらしなく図体を揺らしながらじりじりと委員長へと這いずり寄っていく。鎧が門番としての務めを果たすため、さながら使命の下に俺たちと鉾を交えていたのだとするなら、今のあの”膿”は、完全なる嗜虐の思惑の下に俺たちを甚振ろうとしているに違いない。下品にシューシューと鳴き声を上げながら、こちらの恐怖を煽るように嫌らしく牛歩で歩み寄らんとする奴の歩みが、ひたすらに不愉快だ。

 だからこそ、俺がそんな風に思っていたことを、委員長もまた感じていたのだとしても不思議はなかったのだ。

 

「……いや、逃げないよ、僕は」

 

 自らへと歩みを進める”膿”と真っ向から対峙して、委員長はきっぱりと言い切った。

 表情は相変わらず痛ましげなままだったが、義憤に燃えた目の色は先程までとはまるで別人のようだ。だが、この状況で、委員長ひとりでなにをするつもりだというのだ? 三人でかかって互角だった奴を相手に、ひとりだけでなにが出来るというのか。

 

「なにを考えている……! はやく、この場から離脱し……、ぐぅっ……!?」

「君こそなにを考えているんだ、樋浦くん。優秀な君らしくないじゃないか。どうして僕を助けたんだい? 僕を切り捨てて自分の身を守る方が、よっぽど合理的なのに」

「見くびるな、俺が……、そんな風に、割り切るタチだと……ごほっ、思っていたのか……?」

 

 あくまで忌々しげに悪態をつく樋浦に、委員長の方もあくまで取り合おうとはしない。樋浦の言葉を聞いているのかいないのか、盾を外した左手で触媒――タリスマンを取り出し、その場で瞑目して一言唱える。

 

「――癒しよ」

 

 文言を唱え終えると、委員長の身体を白みがかった微光が包む。静かに光が止むと、委員長は負傷していた筈の脚をまるで何事もなかったかのように動かして樋浦の元へと歩み寄る。

 

「僕は少なくとも、そう思っていた。君はいざとなれば、非情に徹してでも最適解を選ぶ、そういうタイプだと思っていたんだけどな」

「なに……?」

「動かないで」

 

 委員長は懐から瓶詰めをひとつ取り出した。

 この世界で俺が目を覚ましてすぐ、安藤が墓地を徘徊する黒外套にちょっかいを出して負傷した。消毒薬や包帯、どころか絆創膏のひとつすら持ち合わせがなかった俺たちでは、本来なら安藤の怪我をどうすることも叶わなかっただろう。

 だが結果として、奴は無事に一命を取り留めることが出来た。それも、さしたる後遺症も身体への負担もない、実にインスタントで拍子抜けな工程によって。

 篝火――訳も分からずに放り出された奇妙な世界で、寄る辺なき俺たちの寄る辺となった小さな燈火。いったい如何なる法理の元にか、いやおそらく考えるだけ無駄だ。これもこの世界の”常識”というやつなのだろう。ともかくそれに触れることで、真実、魔法のように瞬時にそれも完璧に安藤の負傷は全快されたのだ。

 如何なる負傷も体力の消耗も、ただ暖を取るように手をかざすというその行為だけですべて完膚なきまでに癒し尽くす。そんな魔法の篝火にちろちろと燃え盛るそれを汲み上げて瓶に詰めたもの、それが『エスト瓶』だ。

 負傷した樋浦の側に跪いた委員長が、瓶を樋浦の口元へと宛てがう。瓶の中に収められた生命の火種で、樋浦を回復させようというのだ。

 

「馬鹿……、状況が分からないのか……! いいから早く……!」

「僕はね、樋浦くん。君がやらなかったことをやろうとしているだけなんだ」

「やかましい……! オレはそんなこと、頼んだ覚えはない……!」

「僕が生き残っても、勝ち目はゼロだ。なら、それは避けなければならない。僕では、ダメなんだ」

 

 君でなければ。委員長は決然とした面持ちでそう呟いた。

 もはや抗うだけ無駄と悟ったのか、委員長にされるがまま、樋浦は死ぬほど悔しそうな顔で拳をギリギリと握り締めている。

 その視線の先には、大きく頭部を振りかぶった黒蛇の姿。背を向けている委員長とて、それに気づいていないわけがない。それでも、委員長は回避行動ではなく、樋浦の回復を最優先させた。

 

『■■■■■■■■!!』

「委員長!」

 

 黒蛇の顎門に捕らえられ、身体が天高く掲げられてもなお、委員長は顔色ひとつ変えなかった。

 万力に掛けられているかの如く、ぎしりぎしりと鎧が悲鳴を上げる。恐怖の色ひとつ、後悔の色ひとつ、委員長の目には浮かんでいなかった。

 

「みんなのこと、頼んだよ。樋浦くん、佐渡くん」

 

 それだけ言って、委員長はひっそりと笑んだ。

 あんな笑い方を、俺はこれまでに見たことがなかった。俺の薄っぺらな人生経験では、あの表情を上手く言い表すことは到底出来そうもなかった。それでも敢えて言うのなら、それは。あの笑みは。

 

「ああ、これで」

 

 ぐしゃり。

 人ひとりが噛み砕かれたにしては、ひどくあっさりした音だった。

 高々と擡げられた”膿”の顎から、ばたたと赤黒い血が滴り落ちて石畳にいくらかの血だまりを作る。

 真っ二つになった委員長の身体は地面へ落下することなく、光を結ばなくなった虚像のように何処へかとふっつりと消え失せてしまった。

 呆気なかった。それだけだった。委員長は、消えてしまった。

 

「……そんな」

「クソ……!」

 

 言葉が出てこなかった。人が自分の目の前で死ぬ光景、殺される光景なんて、初めて見た。

 人とは、こんなにあっさりと死んでしまう生き物だったのか。18年生きてきた人間のすべてが、こんなにあっさりと終わらせられてしまうのか。

 これでは、救いがなさすぎる。こんなにあっさりと、こんなに簡単に。

 言うべき言葉が見つからなかった。なにかを訴えたかった。なにかに憤りたかった。

 言葉に、ならない。

 だから、叫んだ。 

 

「…………樋浦ああああああ!!」

 

 掛け値無しに腹から声を出したせいで、またも意識が吹っ飛ぶかと思うほどの激痛が走った。

 だが、それがなんだ。そんなこと、知ったことか。

 

「立てええええ!! へばってんじゃねえぞおおおお!!」

 

 痛みがなんだ。なんだというんだ。

 無我夢中で叫びながら、言うことを聞かない身体を全霊を込めて動かす。

 ついさっきまで俺は、あの”膿”に対して「この世に生かしてはおけない」という強い義憤を感じていた。今だって、それは変わらない。奴を生かしてはおけない。なにがなんでも倒さなくてはならないという気持ちに変わりはない。

 だが、今、俺の胸にあるのは義憤ではない。そんな取り繕ったような、嘘くさい感情ではない。

 これは、仇討ちだ。どうしようもないほどに野蛮で原始的な、報復の意志。

 応報しなければ収まらぬという、本能の叫びだ。

 

「……うるせえな。分かってんだよ、そんなことは」

 

 心底鬱陶しそうに呟きながら、樋浦の奴ものっそりと立ち上がった。自らを睨めつけてくる黒大蛇を正面から見据えて、左手に携えていた『騎士の盾』を無造作に傍らへと放り投げた。

 

「……分かってるってんだよ! そんなことはァァ!!」

 

 石畳に亀裂が走るほどの凄まじい震脚を伴って、樋浦がロングソードを両手に構えた。姿勢を右に開き剣先を角に見立てて相手へと向けた、ドイツ剣術で言うところの「雄牛の構え」で、”膿”へと全速の突貫を仕掛ける。

 

「オオオオオオッ!! ラアアアアアッ!!」

 

 まさしく文字通り猛牛さながらのとんでもない速力で一瞬で間合いを詰めた樋浦は、”膿”が反応する隙を一切与えなかった。

 ほぼ捨て身に近い勢いの加速が余すところなく転化されたカチ上げ式の一撃が、杭打ち機の如く”膿”の顎をブチ抜いた。

 

『■■■■■……!? ■■■■■!!』

「クソッ! クソが! クソが! ガアアアァッ!!」

 

 凶暴な獣のように吠え猛った樋浦は、勢いもそのままに荒れ狂う暴風が如きゼロ距離ラッシュを叩き込み続けた。

 あれはもはや、斬撃と呼べるような上品な次元の代物ではない。相手の身体を徹底的に破壊する暴力、殴りつける暴風雨そのものだ。

 だが、それだけではない。それだけでは、収まらないのだ。

 天才たる奴が行うならば、ただの暴力でさえもそれは徹頭徹尾”昇華”される。

 真に恐ろしきは、あれほどまでに暴性剥き出しの攻撃でありながら、そのすべてが冷静な計算の下に繰り出された緻密なコンビネーションであるということ。

 怒涛の両手横薙ぎ釣瓶打ち四段構え、それらの一発一発がすべて”流れに乗った”一撃であり、さらにはそれらすべて”流れに乗せ”た上で自身の体捌きをも上乗せし、相乗効果的に最終的なダメージの累加を実現させた、俺がどうにかこうにか行った”法理の利用”の上位駆動、云わば”法理の応用”とでも呼ぶべき攻撃なのだ。

 そのインパクトは、先程までの攻防で俺や樋浦、委員長が放ったどの攻撃もまるで比にならない。人間業を越えた凄まじい連撃が炸裂するその度に、比喩でもなんでもなく”膿”の身体が一撃一撃毎に左右に泳ぎ、衝戟に踏ん張りきれずどんどん後退していく。

 

『■■■■■――!』

「しゃらくせェ!」

 

 苦し紛れに迎撃の触腕を振るうも、それすらも樋浦の進撃を止めることは叶わない。

 全身を発条のように伸び上がらせ、渾身の力を込めたカウンターのアッパースイングで以て、樋浦は自らへと振り抜かれた触腕を逆に斬り飛ばしせしめる。

 おぞましい悲鳴を上げる”膿”はよろよろと力無く千鳥足を踏んで後退するが、さすがの樋浦もいい加減気力体力共に限界に達したのか、昇竜斬りの着地をしくじって不格好に尻餅をつく。双方ともに消耗著しく、ついに極限の膠着状態へと陥ったのだ。

 

『■■……■■■…………■■……!』

「はあッ、はあ……、くっ……、はあッ……!」

 

 完全に息が上がった樋浦に対し、奴が叩き込んだ会心の連撃で総身に夥しく傷を負った”膿”もまた、傍目からも明白なほどに虫の息の有様。

 どちらが先に相手へと一撃を加えられるか。もはやそれだけが、勝利への要件だった。

 

「ったく……、つくづく、タフな野郎だ……!」

 

 そして、”膿”の方がわずかに快復が早い!

 ロングソードを杖がわりにどうにか立ち上がろうとする樋浦よりも早く、先に”膿”の方が体勢を立て直した。一歩を進むごとに、身体のあちこちから黒い膿が剥げ落ちる。一歩を踏みしめるごとに、生命が削られていく。あれでは、樋浦にトドメを刺すことが出来ても自壊は免れないだろう。

 なんという執念か。すべての生物に対する妄執に、赤い眼孔がぬらぬらと濡れている。

 

「やらせる……、かよ……!」

 

 俺の位置は、二者からだいぶ離れている。手傷を負った身体では、走って”膿”へと一撃お見舞いすることは厳しいと言わざるを得ない。仮に万全のコンディションで走ることが出来ても、距離を詰める前に樋浦がやられてしまう公算の方が高いだろう。

 だが、やらなければならない。出来るかどうかではない、やらなければならないのだ。

 

「ぎいっ……!? いってえ……、なああぁ……!」

 

 激痛に悲鳴を上げる身体を、”流れに乗せる”ことで無理やり動かす。意志の力で、不可能を可能にする。

 本来なら絶対安静して然るべき負傷なのだろう。肋骨がギリギリと突き刺さる。腕骨がミシミシと軋る。それらすべてを度外視して、己の身体を目的のための手段と化す。

 痛みがなんだ。負傷がなんだ。そんなもの、委員長が感じたであろう痛みに比べればカス同然だ。

 「みんなを頼む」と、委員長は言った。樋浦にだけじゃない、俺の名前を呼んで、委員長は言ったのだ。

 こんな役立たずで良いとこ無しな俺の名前まで、委員長は呼んでくれたのだ。

 チキンで無能な俺にだって、芥子粒くらいのプライドはあるのだから。

 委員長の言葉に報いたいと、思ったのだから!

 

 

「くっ……、おお……、おおおおおおっ!!」

『……■■■、■■■■!!』

 

 

 俺の動作の完成と、”膿”がバルディッシュを突き出すのと、いったいどちらが早かったか。

 あれだけ啖呵を切っておきながら間に合わなかったらどうしようと、今更俺が不安を覚え始めていると。

 

「――お前なら、やってくれると思ってたさ」

 

 こちらとは目を合わせず、片頬を釣り上げて樋浦は俺へと笑ってみせていた。

 本当だぜ? と、ご丁寧にセルフフォローまで入れてくる始末。賭けてもいいが、あれは間違いなく精々が半々程度、もしかすると三割の信用もしていなかったであろう笑い方だ。

 

「るせー。うっかり手元が狂ってお前に当てたりしなかっただけでも幸運に思え、ちくしょう」

「まったくだ。ノーコンでならしたお前らしくもない。ひょっとして、そっちの才能はあったのか?」

 

 断末魔すら上げずに、”膿”はゆっくりと砂の城を崩すように消え去っていった。奇しくもその消え方は委員長のそれに酷似していたが、なんだか嫌な偶然を発見してしまったようだ。

 立て膝の姿勢を維持するのもそろそろ限界だったので、俺は重力に逆らわずに大人しく尻餅をついた。

 構えていた『ショートボウ』も地面へと放り出し、番えていた『木の矢』も取り落とすままに任せた。

 樋浦の言うとおり、もしや弓の才能には期待してもいいのだろうか? いや、どうだかな。俺はただ、”流れに身を任せ”ただけに過ぎない。きっと、俺よりも数段上の使い手がクラスメイトの中に現れるに決まっている。弓道部の尾形あたりが、ウィリアム・テルばりの弓術を見せてくれるに違いない。

 それでも、今はこの付け焼刃の弓が助けになったのだと、少しだけ胸を張りたい。委員長の言葉に報いることが出来たのだと、少しだけ余韻に浸っていたい。

 

「勝ったのか、俺たちは?」

「さて、な。勝ちはしたかもしれないが、失ったものの方がずっと大きい。少なくとも俺たちは、取り返しのつかないことをしでかしてしまったんだ」

 

 淡々と樋浦は言う。奴には珍しい自虐的な言葉だったが、それは虚飾のない厳然たる真実だ。

 

「少なくとも、”こんなもの”では到底割には合わないだろうさ」

 

 掌を太陽に、いや、灰の墓所の曇り空にかざしながら言う樋浦に倣って、俺も己の掌をじっと見つめてみた。

 掌に、いや、掌だけでない。全身に、ちろちろと赤い火の粉がちらついている。なんだか妙に懐かしい感覚が、全身に広がる。

 

「”Bonfire Lit”、か」

 

 物憂げに呟く樋浦の視線の先には、こちらからやや遠く、審判者の広間入口から駆け寄ってくるクラスメイトたちの姿。

 遠巻きからでは興奮冷めやらぬアトモスフィアしか把握できないが、徐々にひとりひとりの表情が見えるまでの距離になって、みんながどんな顔をしているかが分かった。

 沈鬱半々、喜び半々。少しだけ、喜びの方が大きそうだ。

 人並みをかき分けてずんずん進みくる那須川と、”委員長”を背負いながら那須川の後に続く、いつもの引き笑いをほんの少しだけ引っ込めてすまなそうな顔をした菰田は沈鬱の色の方がやや強いか。

 無理からぬ話だろう。こうして委員長の死を目の当たりにした俺や樋浦、そして中でなにが起こったかをなんとなく察しているだろうふたり以外は、本当なら心の底から飛び上がって喜びを露わにしたいに決まっている。俺たちの、そして委員長の手前、不謹慎だということは承知の上だからこそ、あからさまに態度では示さないだけだ。

 

『僕のことは気にしなくていいから、目一杯喜ぶといい』

 

 きっと委員長なら、そんな風に言うのだろう。俺の身勝手な解釈ではない、間違いなく委員長ならそう言うに決まってる。

 生真面目で高潔、自己犠牲を厭わない、あの委員長なら。

 

「おつかれ、ユウ。佐渡くん」

 

 この短い時間の間に、俺は自分の人生経験の浅さを心底思い知った。

 皆の前に進み出た那須川の、笑顔のような泣き出しそうな、そんなくしゃくしゃな表情をいったいどう言い表したものか、またも俺には分からなかったからだ。

 

「みんなに体温が、熱が、戻ったよ」

 

 

 

 このささやかな勝利と大きな犠牲とが、俺たちの第一歩だった。

 そう、これはまだ、ほんのはじまりに過ぎない。

 そして、一歩を踏み出したのは、俺たちだけではなかったのだ。

 あの時の俺たちでは知る由もなかったことだが、俺たちがこの無辺で荒涼とした救いのない世界でようやく一歩を踏み出したとき、既にこのロスリックの地のあちこちで、嵐の兆しは現れ始めていたのだ。

 

「……なんと数奇な巡りあわせであることか。こうしてまた、卿らと見えられようとはな」

「ハッ、べーつにオラ……、私はオマエの面なんぞ二度と拝まずとも結構だったんだけどな、メタス?」

「…………」

「心にもないことを言うなウーラン卿。ほら、『素直になれ』とアルフレッド卿も言っているではないか」

「言ってない! いつもいつもアルが無口なのをいいことにテキトーな通訳してんじゃないよオマエは!」

 

 例えばそれは、ボーレタリアに名高き、伝説の三英雄たち。

 

「臭う、臭うぞ。貴様らから、貴様らからだ。薄汚い獣の、腐りきった獣の臭いだ。堪らぬ、こらえきれぬ、狩らずには、いられない臭いだ……」

「お下がりください、アストラエア様。いと高き御身に下賤の者が触れること、この”暗銀の騎士”の名にかけて、決して許しはしませぬ」

「ガル、ブラムドを収めてください。この方は救いを必要としています。堕ちた身とはいえ私は第六聖女、使命を果たさなくてはなりません」

「……薄汚い売女が、俺に説法でも垂れるつもりか。その生臭い口で教えを説こうなどと、笑い話にもならないな。クハッ、ハハハ……」

「貴様ッ……!」

 

 例えば、血を求め狩りを求めて彷徨う堕ちた神父。神の教えに背き真の救済にその身を捧げた穢れた聖女と、その守護騎士。

 

「いったい今宵は、どんな夢だというのだ。覚めぬ悪夢は散々味わったが、よもや今度は見知らぬ地で目覚めようとは。これもまた、狩りと血の楔の為せる業とでも? 私はいったい、いつになったら解放されるのだろうな」

「……私には、分かりかねます。ですが、私のやることは変わりません。新たな狩人が現れるのを、ゲールマン様と共に待ち続けるだけです」

 

 例えば、夢に囚われた原初の狩人と、灰髪の美しい人形。

 

 俺たちと、俺たちではない異邦人。

 皆が殺し合い、皆が血を流した。それが現実となるのは、暫し先の話だが。

 この呪われた世界と呪われた俺たちに、どうか救いあれと願う。

 願う相手が誰かも分からないが、それでもそうせずには居られないのだから。

 

 



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断章 1

Fragment 1


「それじゃあ、修学旅行の班決めをはじめます」

 

 僕が口火を切ったことで、教室は俄かにみんながわいわいと歓談する声で賑わい始めた。今のところは「騒がしい」と隣の教室から注意されない程度の賑々しさに、ひとまず時間までは放任で良いだろうと僕は教壇から降りることにした。

 僕らの代の修学旅行の行き先は沖縄である。

 これはあくまで僕個人の考えなのだが、修学旅行の目的地に沖縄が据えられるというのは世間一般の高校生からしたら比較的レアケースなのではないだろうか。京都の寺社仏閣、東京のディズニーランドあたりがメッカで、沖縄というのはあまり聞かないような気がする。

 ちなみに、僕らの高校が代々修学旅行の行き先を沖縄に設定しているかというと、別にそんな話はない。なぜだか唐突に、「沖縄に行こう」とそんな風に目的地が決められたらしい。大方、教師陣の誰かに沖縄を強烈に推した人でも居たのだろう。

 そこらの裏事情はともかくとして、これにより生徒の反応は大きく割れることになった。「変わったところに行けて嬉しい」という声が三分の一、あるいは四分の一ほど。夢の国に行きたかった派が半数ほど。金閣寺や五重塔を見たかった派は、五分の一ほどだろうか? そして残りは無党派、すなわち「どうでもいい」派だ。

 

「まあ、場所はあんまし問題じゃなくね? メンツよメンツ。結局は」

 

 色川くんあたりはそんなことを言っていたけれど、たしかに一理あると思う。どこに行くかではなく、誰と行くか。旅行で大事なのは、案外そこのところなのかもしれない。

 僕の席は教室の窓側、後ろから二番目にある。この席はほどよく教壇からは離れており、かつ窓側ということで、クラスメイトの一部は席替えの度に虎視眈々と狙っている人気のポジションだったりする。くじ引きで決まった席であり、別に僕にはこの位置への特段の希望があったわけではない。ただ、実際に座ってみて分かったこととして、たしかにあの席は悪くない。ほとんど教室中が一望できる位置からみんなが普段どんな風に授業を受けているかを観察するのが、最近の密やかな楽しみになりつつあるのだ。

 なんとはなしに教室の様子を眺めながら、自分の席へと戻る。菰田くんはまた色川くんたちにいじられているが、まだ止めに入るような段階ではなさそうだ。尾形くんや福嶋くんら体育会系グループは班決めもそこそこにグルメスポットのチェックに余念がない。女子は概ね武智さんを中心に大きなグループを作っており、和卿くんやマドカくんが一部の女子たちから熱烈な勧誘を受けていた。うん、男女仲が良いのは良いことだ。青春青春。

 そして、この三人は本当にいつも変わらない。教室の中心から少し離れたところで、三人でのびのびと自分たちの世界を造っている彼ら。

 僕が近づいてきたことを察して、読んでいた旅のしおりを傍らに置きながら樋浦くんが顔をこちらへと向けた。 

 

「委員長。班決めに混ざらなくていいのか?」

「そうだね、いい加減にしないとどこも入れなくなりそうだし、ぼちぼち参加するつもりだよ。樋浦くんたちは自主研修でどこを回るとか、もう決めてしまっていたりするのかい?」

 

 なにかと手際のいい彼のことだし、とうにグループ決めのその先、自主研修の計画立案も済ませているのかもしれないと踏んで聞いてみたところ、意外なことに彼はかぶりを振った。

 

「オレは個人的に見て回りたい所がないでもないが、ふたりがどうかはまだ聞いてない。おい那須川、お前はどうなんだよ」

「私? 私はまずビックサンダーに行きたいかなー。あ、でもでも、スプラッシュも外せないなー。あ、ねえねえ委員長、ホーンテッドマンションってやっぱり本当は残念アトラクションだったりするの? こういうのは行ったことある人に聞かないとわかんないよねーやっぱり」

「那須川さんは夢の国派だったんだね」

 

 那須川さんは僕に向かって、読んでいたガイドブックを開いて見せながらそんな風に尋ねてきた。

 樋浦くんの方をちらと窺うと「こいつのことはほっといてくれ」と言いたげな顔をされた。冗談、あるいは当てつけで言っているようには見えなかったけれど、彼女は本気で修学旅行はディズニーランドに行けると思っているのだろうか。とりあえず人の話を聞いて、ひとまず目の前のしおりを読むところから初めて欲しいと思う。ていうか那須川さん、夢の国に行ったことなかったのか。少し意外だ。

 

「佐渡くんはどう? どこか気になってる場所とかは?」

 

 何をするでもなくぼんやりと窓の外を眺めていた三人組の最後のひとりは、声をかけられたことで初めて僕の方を振り向いた。

 彼は即答せず、僕と樋浦くんとの間で視線を少し彷徨わせてから、ゆるりと首を傾げて、

 

「特にないなぁ。俺はふたりにくっついてくだけだと思う」

 

 相変わらずの主張しないスタイルだ。

 彼は、菰田くんのように変におどおどとしているわけでも、マドカくんのように内気気味なわけでもない。彼らのように目立つことを好まないタイプの人間でも、独特の”隠れようとする”空気が伴っているのが常ではあるのだけれど、佐渡くんの場合はそれとも異なる。ただただ、極端に自己主張が薄いのだ。

 もちろん本人たちには口が裂けても言えないし、こんな考え自体品が無いというのは重々承知してはいる。おそらくこの先、答えが得られる機会はないであろう質問を、僕は何度目になるか分からないほど飲み下した。

 いったい彼のどこが気に入って、樋浦くんは佐渡くんとつるんでいるのだろう? 

 

「それよりな委員長。しつこいようだが、そろそろ班決めに加わった方が良いと思うんだ。早くしないと、どこも満員になるぞ」

「ん、それもそうだね」

 

 実を言うと、僕自身はあまり班決めに興味がなかったりする。

 委員としての仕事でクラス内ひいては学年全体との調整に追われていた身としては、ひとまず自分の職務の遂行が手一杯で、自分が楽しむ余裕が二の次になっていた感があったからだろうか。大変だと思わなかったわけではないけど、それはけして苦痛ではなかった。みんなが余計な気兼ねをすることなく存分に羽を伸ばせるようにするのが僕の務めだと理解していたし、自分のしていることが確実に誰かの為になっているという手応えもあった。要は、僕の性分に合っていたのだ。

 ただ、いざこうして改めて自分のことを顧みてみると、行きたい場所も一緒に組みたい相手も特に希望が浮かんでこなかった。

 いや、どちらかというと、ここで僕が希望を言うことによってせっかく整ったクラスの雰囲気が綻びることを避けたいという気持ちがあった。僕個人の楽しみを優先させるよりも、クラスのみんなの邪魔をしないことの方が良いことに思えたのだ。

 誤解の無いように補足すると、僕は別にネガティブな思考でそんな風に考えたわけでは断じてない。先ほども言ったとおり、自分の行動が誰かの為になっているという感覚が、僕は嫌いではなかった。僕の我侭を通すよりも、僕がみんなの邪魔をしないことの方が僕には好ましく思える。それだけの話だ。

 

「委員長ー、どこも入れそうになかったら私たちのところに来ていいからねー。それでいいでしょ、ユウ?」

「ああ。俺たちが最終防衛ラインだと思ってくれていいから、ここで妥協するよりもまず他に入れそうなグループがないか探してこい……って、ああ。どうも、その心配は要らないらしいな」

「え?」

 

 喋りながらひとりで納得し始めた樋浦くんの様子についていけない僕に、佐渡くんが「ん」と僕の後方を指し示す。

 

「あ、あのっ、篠部くん。少し、いいかな?」

「どうかしたの、笹井さん?」

 

 振り返ってみればそこには、やけに緊張した面持ちで副委員長の笹井さんが立っていた。わざわざこの場で僕を呼び止めたということは、なにかお任せしていた仕事でトラブルでもあったのだろうか。

 

「篠部くん、まだどこのグループに入るか決めてないよね? それとも、もしかして那須川さんのところに入れてもらおうとしてた?」

 

 ところが、彼女の口から出たのはまるで予想だにしていない方向の話題だった。彼女までグループ決めの話を持ち出してくるとは、僕はそんなにみんなから見てかわいそうな有様だったのだろうか? 優しいクラスメイトに恵まれて幸せだとは思うけど、大きなお世話すぎないだろうか。ともあれ、たしかにいつまでもふらふらしている訳にもいかないのは事実だ。せっかくだから、この場で樋浦くんたちのグループにご厄介になることに決めてしまうのが良いだろう。

 

「あー、うん。実は」

「イヤイヤイヤ! そーんなことない! そんなことないよね委員長!」

「えっ」

 

 そう思っていたものだから、僕の発言を遮って那須川さんが突然大声を上げたことに、僕は上手くリアクションを取ることが出来なかった。

 あまりにもすごい剣幕だったもので、僕だけでなく佐渡くんや近くの席でひとりでスマホを弄っていた権藤くんも目を白黒させてしまっている。いったい、どうしたというのだろう?

 

「あの、いや、僕は」

「そんなことないったらないんだよ! だよねユウ!? 佐渡くん!?」

「あー、まぁ、そうだな。ああ、そんなことないぞ、笹井」

「あれ? 君らついさっきまで最終防衛ラインがどうとか言ってなかったっけ?」

 

 佐渡くんは変わらず面食らったままであるものの、なぜだか訳知り顔の樋浦くんも那須川さんの言に乗り始めているし、それを聞いた笹井さんはどういうわけか「そうなんだぁ」と緊張を解いて安堵の表情を浮かべていた。もうなにがなんだかだ。

 それから笹井さんは改まったように表情を引き締め、僕の方へ半ピラの用紙を差し出しながらこう言った。

 

「そのね、篠部くん。よければなんだけど、私たちのグループに入らない?」

「えぇ?」

 

 予想外だった。

 まさか、笹井さんまで僕を自分たちのグループへと引き込もうとしているとは。今日の僕はずいぶん人気のようだ。

 しかしまさか、だ。僕が気を遣うことはあっても、僕が気を遣われることになろうとは。どうやら、みんなには要らない心配をかけてしまったようだ。これは、由々しき問題である。

 

「わ、私ね、考えたの! 委員長と副委員長が同じグループなら、連絡とかなにかと都合がいいだろうなって! それで、安藤たちも私たちのグループに入れるの! そうすれば、問題児を見張ることもできるし、一石二鳥でしょ!?」

「あ、あー、なるほど。それはたしかに、いい考えかもね」

 

 僕個人としては、役職持ちを同じグループに入れてしまうと全体の監督には逆に不便だとか、そもそも安藤くんたちは今教室に居ないのに勝手に編入の話をしてしまってもいいものかとか、いろいろ言いたいことはあった。

 僕がそれを言わなかったのは、「余計なことを言ったら噛みつくぞ」と言わんばかりの表情の那須川さんや、「しっしっ」と手で追い払うような仕草をこちらにして見せる樋浦くんが視界の隅に映ったというのもある。

 けれど、それ以上に、顔を赤くしながらまくし立てる笹井さんを見ていたら、断る気なんて全然起きてこなかった。こんなに一生懸命誘ってくれているのにそれを撥ね退けるだなんて、僕はそこまでSにはなれそうもない。

 

「……うん、分かった。僕で良ければ、笹井さんのグループに入れてくれないかな」

「もちろん! いいよいいよ! 良くないわけないよ!」

 

 僕に気を遣っているんじゃないかとか、失礼なことを考えていた自分がバカみたいだ。僕がグループに入ることで、彼女が喜んでくれるというなら。うん、それは、僕にとっても嬉しいことだ。

 笹井さんから半ピラのメンバー表を受け取って自分の名前を書き込んで、少し考えてから僕は用紙を彼女へとそのまま返した。

 

「いちおう、安藤くんたちにも確認だけ取っておこうか。この場で勝手に名前を書いちゃうのは、さすがにまずい気がするし」

「ええ? 別にいいんじゃない、安藤たちのことは。むしろ邪魔……、じゃなくて、こっちで名前まで書いちゃっても」

「まあまあ。とりあえず、探すだけ探してみるよ。この時間だと、屋上に居たりしないかな……」

 

 教室の後ろの扉へと向かいながら、僕はLHRが終わるまでのこのあとの時間をどう潰そうか考えていた。

 安藤くんたちには悪いけれど、彼らを探しに行くつもりはなかった。まあ、安藤くんもきっと雨宮さんや冷牟田くんとグループを組むつもりだろうし、邪魔するのも忍びない。そういうことにしておこう。

 

「あ、笹井さん。適当な時間になったらメンバー表は集めておいてくれないかな? 僕らのグループのも、そのまま出しちゃっていいから」

「……! わかった!」

 

 言いたかったことを笹井さんが汲み取ってくれたであろうことを確認し、したり顔でサムズアップしている樋浦くんと那須川さん、そして怪訝な顔でふたりと僕の方を代わる代わる見比べている佐渡くんに軽く笑ってみせてから、僕は教室を後にした。

 

 

 



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ライク・ア・ライジングサン

Day 2


 

 曰く、『奇襲』とは、規模などによって4つのパターンに分けられるのだという。

 ざっくりと言えば小部隊による奇襲攻撃、大規模部隊による奇襲作戦、国家間戦争における奇襲開戦。

 そして第一次大戦の戦車や毒ガスといった類の、未知の技術によるわからん殺し的奇襲ということらしい。

 それぞれについて、やれハンニバルはどうのだとか島津の釣りのぶせがどうのとかいう話を期待されても、あいにくと俺には答えようがない。そういう話は菰田とか習志野あたりが生き生きと薫陶を垂れてくれることだろう。俺の領分じゃない。

 曰く、小部隊による奇襲攻撃はせいぜい数十秒の混乱しか望めない。

 大事なのは、さっきまでの打ち合わせの最後に樋浦が付け加えたその言葉が、たった今俺の胃に尋常ならざるストレスを与えているということである。

 カサカサの唇を湿らせ、焦げ臭い空気を吸い込みながら、横を走る那須川へと合図を出す。

 

「那須川、合わせろ!」

「オッケッケ!」

 

 那須川が足を止めた気配を確認し、ダッシュの勢いを殺しながら前方の標的へと意識を集中させる。

 

『胴体を狙って、矢を放つ』

 

 思考を受け取った身体が最適化された行動を即座に実行していく。

 身体が右に開き、背筋がぴしりと伸びて足が肩幅に間隔を取りスタンスを形成し、木矢を番えた弦をきりりと引き絞る。

 さっきからずっと嫌な緊張で背中はじっとりと汗ばんでいるし、心臓はバクバクと早鐘を打っているが、身体の方は俺のヘタレた心情とは裏腹にきっちりと仕事をこなそうとしている。便利なシステムもあったものだ。

 

『胴体を狙って、矢を放つ』

 

 欲を出すならヘッドショットを決めたいところだが、未熟な使い手である俺では『流れに乗せた』攻撃であってもそれは確実とは言い難い。よって、狙いは胴体。確実に狙って、目標の動きを止める!

 

「ふっ!」

 

 風を切るひょうという静音を伴い、放った矢は吸い込まれるように一直線に標的へと命中した。

 

『■■■!?』 

 

 ガッチャ! 俺は心中でガッツポーズを決めた。

 期待通り、無防備な背中を射抜かれ、標的の『盾持ち』がよろめく。

 すぐさま攻撃された方角、すなわちこちらの方を振り向こうとするが所詮は雑魚亡者。奴がこちらの姿を捉えるより、那須川の魔法の方がはるかに速い。

 

「へいりっひ!」

『■■■……!』 

 

 魔術師の初歩呪文、『ソウルの矢』。涼やかな飛翔音と共に、青い尾を引く魔術の矢が強かに標的を穿つ。

 俺と那須川のふたり分の狙撃を受けた『盾持ち』が低い断末魔を上げて倒れ伏す横を、樋浦は猛然と突き進む。

 

「フッ……!」

 

 お仲間が排除されたことを察知したもう一体の盾持ちが迎撃態勢を取ろうとするも、残念ながら時既に遅し。すれ違いざまに斬り捨て一閃、崩れ落ちるもう一体の『盾持ち』には目もくれずに、樋浦は休みなく指示を出し続ける。

 

「次! 城壁の陰に退避だ! ドラゴンブレスが来るぞ!」

 

 先に目的地へと到達し手招きしている樋浦の元へ、那須川は軽やかにひょいひょいと、俺は不格好なハードル走さながらにどたどたと、倒れ伏す『盾持ち』の亡骸を飛び越えながら急ぐ。どうにかこうにか石壁の陰に滑り込んで間もなく、俺の背後をとんでもない熱量が奔り抜けていった。同時、肉と鉄が焼ける金臭い匂いがむっと立ち込める。

 

「うおおっ! あっつ!?」

「ヒャアすっげ! マジウルトラホットドラゴンブレス! 直撃したらガチで死ぬんじゃないのコレー!」

「そうならない為に作戦を立てたんだろうが。テンション上げるのは勝手だがしくじるなよお前ら。ドラゴンより先にオレがしばき倒してやる」

 

 そりゃ大変だ。正直ドラゴンよりもよっぽどそっちの方が恐ろしい。

 ドラゴンブレスがはるか後方、先ほどまで俺たちが潜んでいた城楼のあたりまで到達したのを確認した樋浦は、最後にもう一度城壁の陰から様子を窺った後で最後の指令を下した。

 

「よし、今だ! 走れ走れ走れ!」

「ヘヘイヘイヘーーイ!」

「いいいぃぃい!」

 

 先頭を樋浦、殿を俺、そして真ん中に那須川を入れた隊列で、死に物狂いで城壁下の回廊を駆ける。

 未だ足元には龍が吐き散らした炎がチリチリと燻り、哀れファイヤーの憂き目に遭った亡者共の亡骸(?)が鼻を突く香ばしい臭いを発している有様。なんという地獄絵図。心がすごい勢いで荒みそうな世紀末的光景だ。

 前を走っている那須川が城壁の方を見上げ、うげえとカエルの潰れたような悲鳴をあげる。

 

「ちょ、やばいやばい、来る! ドラゴンブレス来る!」

「おいおい間に合わないぞ……!」

 

 南無三! つられて見上げれば、そこには通路を一掃射終えて、再度ブレスを放射する態勢に入ったドラゴンの姿。その照準が向けられているのは疑いようもなく俺たち。そして最悪なことに、このままではカバーポイントまでのあと一歩が間に合わない!

 

「クソが……! 仕方ない、オレの陰に入れ!」

「おい那須川! 頼むからもうちょっと詰めてくれ! はみ出る! 俺はみ出るから!」

「ぐええあつくるしー! むさいんだけどー!」

 

 歯噛みした樋浦がわずかの逡巡もなく対応策を打ち出し、それを聞いた俺と那須川がぎゃあぎゃあと喚いている間に、ドラゴンブレスが俺たち目掛けて殺到する。

 

「グッ……、ウウウッ……!」

 

 身を呈して灼熱の息吹の防波堤となっている樋浦が、ギリギリと歯を食いしばり苦悶の声を洩らす。いくら盾があるとは言え、あのブレスを真正面から受け止めようなどと、とてもじゃないが正気の沙汰ではない。樋浦の苦痛の壮絶さは俺の想像など及びもつかない境地にあるに違いない。

 

「っ……、樋浦ぁ……!」

「ユウ……!」

 

 踏ん張りながらも竜の炎の大出力にざりざりと押し流されていく樋浦の背中を、俺と那須川とで後ろから懸命に支える。間近で鉄が焼ける金臭い匂いが容赦なく鼻腔を突き、支えとなるために樋浦の鎧と接している俺の肩は文字通りの焼け付く痛みを激しく伝えてくる。途方もない熱気で目も開けられないし、灼熱の空気は呼吸すらも許してくれない。火事で死ぬのだけは絶対にごめんだと、酸欠気味のぼんやりした頭で考えながら、ただただ必死に倒れまいと足を踏ん張った。

 そして、無限に続くのではないかと思われた地獄の時間は、なんの前触れもなくいきなり終わりを迎えた。

 ふっと前方からのベクトルが消え失せ、全身の力を振り絞っていた俺は向けていた力の行き場を失って思いっきりつんのめった。あたりに充満していた熱気が和らいでいたこと、そしていつの間にか呼吸も出来るようになっていたことに気づいたのは、その後だった。

 

「フゥー……、クソッタレ……」

「樋浦!? 大丈夫か、おい!」

 

 恐るべき執念とタフネスで最後まで盾の役割を全うし切った樋浦が、重苦しく息を吐き出しながら膝から崩れ落ちた。俺が肩を貸そうとすると、煩そうにそれをはねのけて咳き込む。

 

「バカ野郎、早く行け。次のブレスが、来るぞ……」

「いや、お前……」

「佐渡くん、早く!」

 

 頭上を仰いだ那須川が、ちらと樋浦の方を見遣ってから俺を振り返った。那須川の強い眼差しとかち合ったことで、俺はやっと決心をつけることが出来た。

 そうだ、なにを心配することがある。那須川に保証されるまでもない、出来ないことは決して言わないのが樋浦という男なのだ。

 

「さっさと追いつけよ! 最後の関門はお前が居ないと無理くさいんだからな!」

 

 言い捨て、先を駆ける那須川に続く。そう、ドラゴンブレスはあくまで難関のひとつでしかない。高い高い壁には違いないが、あくまで壁のひとつなのだ。

 回廊を抜け、ゴールである城楼の前の渡広場に至るため階段を駆け上る俺の視界に、”奴”の姿が飛び込んできた。

 物々しい鎧に身を固め仰々しいカイトシールドと直剣を一分の隙もなく装備し、赤いマントを翻す堂々たる立ち姿の騎士。

 俺たちが攻略しているこの場所、『ロスリックの高壁』と同じ名を冠した敵、『ロスリック騎士』だ。

 そしてまずいことに、こちらが向こうを視認したと同時に、向こうもこちらの姿を捉えたようだ。近眼で耳の遠い雑魚亡者は誤魔化せても、奴さんはそう甘くはないらしい。こちらが迎撃態勢に入るより先んじて、逆に騎士の方から距離を詰めに来やがった!

 

「ちっ……!」

 

 止まっていては間に合わないと反射的に走りながら一矢を放ったが、集中が足りなかったせいで十分な威力を出すことができなかった。乾いた音を立て、無情にも矢は鎧に弾かれてしまう。

 

(この距離じゃ弓は使えない……!)

 

 迫り来るロスリック騎士に対するため『盗人の短刀』を抜いたが、正直敵う気がまったくしない。三人で城楼を突破する前段階として、下調べの偵察であの騎士がどれだけ動けるのかは既に確認済みだ。その剣速、馬力、盾による防御。すべてにおいてあの騎士は樋浦と互角、あるいはそれ以上の水準の戦闘能力を備えているのである。

 情けないのは百も承知で敢えて言わせて欲しい。俺が奴とつばぜり合ったところで、おそらく五秒と持たないことだろう!

 どうする、切り抜けるには、どうするのが正解だ!?

 

「ちょおっと、肩、借りるよっと!」

「え、おおっ!?」

 

 焦りに固まる俺の真横を、涼やかな風が吹き抜けた。 いたずらっぽい声に振り返ろうとした俺の左肩に、とんっ、と小さく重さが乗る。なんだと確かめている間もなく、すぐに重さはふわりと掻き消えた。

 

「はいやーっ!」

 

 宙を舞うローブがはためいて、薄曇りの空に浮かぶ雲よりもより白い軌跡を描く。

 魔術師、空を飛ぶ。 俺の肩を踏み台にして、那須川は高く高くハイジャンプを決めていた。

 

「ひゅう……!」

『――■■!』

 

 接敵寸前の緊張感を一瞬忘れ、俺とロスリック騎士はふたり揃って間抜け面を晒し、空高く駆け上がった那須川の姿にすっかり魅せられてしまっていた。

 K点越えの大曲芸を決めてのけた那須川はあっという間にロスリック騎士の頭上を飛び越え、いや、飛び越しながら構えていた杖をかざし、

 

「へい、りっひ……!」

 

 空中で詠唱を完成させ、騎士のドタマ目掛けて上空から彗星の如く『ソウルの矢』を撃ち込みせしめた。まったくの意中外から飛来した矢に打ち据えられ、すっかり那須川の術中に嵌りきった騎士の上体が大きく傾ぐ。

 

「ナイス那須川!」

 

 そして、騎士よりも少しだけ遅れてマジックから覚めた俺も、慌てて追撃に入る。

 那須川が鮮やかに作り出した千載一遇の好機をふいにするわけにはいかない。集中し、手足に命令を伝達させる。

 

(『後ろに素早く回り込み、隙を突く』!)

 

 指示に従った身体が、素早く処理を遂行する。最小限の体重移動と足捌きでするりと騎士の背後へクイックステップを決め、無防備な背中へと渾身の一撃をお見舞いする!

 

「ふぅっ……!」

『■■■!?』

 

 呼吸、溜め、体重の乗り方。すべてが充実した、我ながら最高の手応えだ。

 致命的な一撃をもたらした『盗人の短刀』を引き抜きがてら、樋浦が灰の審判者相手にやっていたのを見様見真似で、ロスリック騎士の背中を乱暴に蹴り飛ばす。無作法極まるムーブにちょっとだけアヤシイ高揚を覚えながら、すぐさま足蹴にした騎士へと追い打ちを掛けようとして、いや待てよと俺は足を止めた。

 いくら物覚えの悪い俺でも、さすがに短期間にこう何度も同じケースに出くわしたなら学習のひとつもするというものだ。

 

『……■■■、■■!』

「うおっ、やっぱり……」

 

 体勢を崩されながらも、騎士は直剣を横薙ぎに振るって追い打ちを刈り取りに来た。あのまま一歩進んでいたらバッサリいかれていたところだったが、俺にも少しはそこらへんが分かってきたらしい。

 曰く、相手の攻撃を空振りさせてからこちらは攻撃に移るべし。樋浦の教えどおり、騎士の斬撃の終わり際を狙って俺はトドメの一撃を与えるべく距離を詰めた。

 が、しかし、その必要はなかったようだ。

 

「フンッ……!」

『■■■……、■■……』

 

 直剣を振り上げる体勢のまま固まり、胸の中心からロングソードの刃を生やしたロスリック騎士は、短く低い断末魔を上げながら前のめりにつんのめって絶命した。騎士の亡骸をまたぎながらロングソードを適当に払って腰の鞘へと戻し、こちらへとのっそりと歩を進めてくる樋浦へと那須川が労いの言葉をかける。

 

「おっつおっつー。見事にオイシイところ持ってきやがったねー」

「なに言ってやがる、MVPは間違いなくお前の方だ。あんな雑技団まがいの動きをするような魔術師は、古今東西探してもどこにもいやしないだろうよ」

 

 賞賛半分呆れ半分で樋浦が鼻を鳴らし、那須川はそれを見てますます気を良くする。腰に両手を当てて、得意満面で胸を張って一堂をぐるりと見回す。

 

「ふっふっふー、見ましたか! あの華麗な那須川マジックを! これからはあのジャンプを『ナスカワスペシャル』と名付けようと思うんだけど、どう思う?」

「35点」

「10点」

「ひっでえ」

 

 彼女のためを思って率直に伝えてあげた俺と疲れ顔で吐き捨てた樋浦へと、足元の小石を蹴っ飛ばす那須川。

 これが映画なら、誰かひとりがメンバーの顔を見回しながらくつくつ笑い、やがてみんなでそれに釣られて笑い合って「生きててよかった」なんて噛み締め合いながら分かち合うところなのだろうが、あいにくと俺たちにそんな小粋な小芝居を打っている余裕はなかった。

 

「……しんど」

「それ」

「ああ」 

 

 ウィットの欠片もないやり取りを最後に、崩れ落ちるようにへたり込んだ俺たちはしばしの間、無言の小休止に入った。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「なあ、樋浦」

 

 地面に縦置きした矢筒から矢を一本引き抜きながら、樋浦の方をちらと見遣る。

 

「なんだ」

 

 奴の方はと言うと、相変わらず『遠眼鏡』を覗き込んだままでこちらを一瞥もしない。聞いているんだかいないのだか分からないおざなりな返事に、しかし怒る気力さえ湧かず、俺は粛々と自分の仕事をこなす。

 『ロングボウ』に矢を番え、目標をしっかりと見据え、『頭部分を狙って矢を放つ』と念じる。

 これでもう……、あれ、何回目だっけかな? ともかくさっきからずっと繰り返し続けているルーチンを惰性で実行する。

 十分に集中が定まったところで(この『集中が定まる』という感覚も、どうにも妙な感じだ。なにせ、こうして俺の内心は集中もへったくれもない雑念だらけの体たらくでありながら、身体の方だけは勝手に呼吸を調整して射撃の構えを取るのだから。つくづく、便利なシステムだ)引き絞った弦を放つ。

 ひょうと風切り音が響き、ひと呼吸置いて後、はるか遠くで、射抜かれた刺激に反応して大騒ぎしながら身をよじったドラゴンが、件のドラゴンブレスを回廊に向かってひとしきりぶちまけている。

 はじめこそ背筋が凍るような畏怖すら覚えたそんなファンタジーここに極まれりな光景も、こうして数えるのも億劫になるほど見せられてはもはや感動もへちまもない。ただ、図体の立派なトカゲが口からでろでろと炎を垂れ流しているだけでしかない。慣れとは恐ろしいものだ。

 

「弾着」

「よーんじゅうはーち」

 

 そうか、48本目だった。

 『遠眼鏡』で矢の到達成果を確認した樋浦が平坦な声で言い、胡座の中心に矢筒を抱えた那須川が間延びした声でだるそうにカウントを取る。

 那須川が支えている矢筒から49本目を抜き、『ロングボウ』に番え、目標を視界に入れて、頭部分を狙って矢を放つ。

 

「弾着」

「あふ、よんじゅきゅーう」

 

 樋浦が無感動な調子で報告し、那須川があくびを噛み殺しながらカウントする。

 矢筒から50本目を抜き、つがえ、放つ。

 弾着。ごじゅう。抜いて、放つ。弾着。ごじゅういち。抜いて、放つ。弾着。

 抜いて、放つ……、抜いて、抜いて、あれ?

 

「佐渡?」

「ん……、あ」

 

 訝しげな目つきで樋浦が俺を見上げていた。そこでようやく俺は、自分が矢も持っていない空っぽの手で弦を引いていたことに気がついた。

 矢筒を抱えた那須川は「ンフッ、フフッ」と気色悪いテンションでツボに入っているし、呆れ顔の樋浦は大儀そうに腰を上げたかと思ったらノーモーションでローキックを入れてきやがった。それを見た那須川がさらに笑い出す。バツが悪くなった俺は、不愉快な流れを断ち切るついでにさっき言いかけてやめた話を切り出すことにした。

 

「その、なんだ。良かったのか、あれで」

「なにがだ」

 

 歯切れの悪い俺の言い様に、樋浦は眉根を寄せてこちらの顔をずいと覗き込んできた。奴にはそのつもりはないのだろうが、なんだか詰問されているような気分になってしまう。なんとなく樋浦の視線から目をそらしてしまいながら、俺はこれまで胸の内で引っかかっていたことを思い切って吐き出してみた。

 

「みんなのこと、残してきて良かったのかよ」

 

 足元で胡座をかいたままの那須川はしつこく笑い続けていたのをやめ、樋浦は右の目をすっと細めて首を傾げながら逆に問い返してきた。

 

「お前はどう思う。残してきたのは間違いだったと思うか」

「まさか」

 

 我ながらスッカスカな会話だ。質問を質問で返す樋浦も樋浦だし、聞いておきながら対案もない俺も俺だ。

 

「現状、戦闘を経験しているメンバーで残ったのはオレと佐渡だけだ」

 

 腕を束ねて俺の顔から遠く城壁の竜の方へと視線を移し、樋浦は話を続ける。

 

「福嶋や尾形は腕も立つだろうが、あいつらまで連れて出たら戦えない奴らを守る人間が居なくなる。祭祀場が安全地帯だというのは念入りに確認したが、それでも万が一ってことがある。言うまでもなく、闇雲に動いて全員が消耗するのは言語道断。だからオレたちが先遣隊を務めることにしたんだろうが」

「わかってる、わかってるって。そういうことを言いたかったんじゃなくてな」

 

 顔は竜の方を向けたまま、目線だけこちらに寄越して樋浦は言葉を切った。「じゃあなにが言いたいんだ」とは催促してこなかった。奴も内心では、俺と同じことを考えているのだろう。

 

「みんながどーかはともかく、ささちゃんは置いてきて正解でしょ。今は、そっとしておいてあげた方がいいよ」

「そうだよな。そうするしか、ないよな」

 

 物憂げに言う那須川に、思わず食い気味で俺は追従した。顔色こそ変わらなかったが、樋浦はわずかに目を伏せる。

 あの後、灰の審判者――奴は『グンダ』という名前だったらしい。あの大男の遺した『ソウル』に情報が刻まれていたのを、那須川が読み取って教えてくれた――を倒したことで奴が背後に守護していた門扉が開かれたことで、クラスの皆は興奮冷めやらぬ様子で我先にと門の奥を目指して進んでいった。

 

『待ってくれ、笹井』

 

 そんな中、広場を通り過ぎて行く一団のうち、呼び止められた副委員長が歩みを止めてこちらを振り返った。

 笹井のことを呼び止めた樋浦は、あちこちが痛ましく損壊した鎧のせいでやや歩きづらそうにしながらも、しっかりとした足取りで彼女の前まで歩み寄ると静かに頭を下げた。

 

『すまなかった』

 

 それだけ言って、樋浦は顔を上げようとしなかった。きっと、笹井に良いと言われるまでそうするつもりだったんだろう。目の前で頭を下げている樋浦の姿をじっと十秒ほど見つめた後、彼女は言った。

 

『樋浦くん、顔を上げて』

 

 笹井に促されたことで、樋浦はようやく下げ続けていた頭を戻した。もう広場には俺と那須川、樋浦に笹井、それと『委員長』、笹井に付き添っていた彼女と仲の良い女子であるアレクサンドラと辺見が出口の門扉近くで遠巻きに心配そうな表情でこちらを見守っているだけで、あとはもうみんなとっくに出て行ってしまっていた。がらんとした広場に、笹井の言葉がいやによく通って響いた。

 

『あなたのせいじゃないから、気にしないで』

 

 それだけ言って、笹井は樋浦へと笑ってみせた。

 立ち尽くしていた樋浦は、彼女が広場を出て行くまでその背を見送ってから、目を閉じて横たわっている委員長を背中に背負った。俺も那須川も、何も言えずに樋浦の後に続いて広場から出た。

 その後、道を進んだ先にあった『火継ぎの祭祀場』を探索し、そこがどうやら安全地帯らしいということを確認した俺たちは、クラスの皆には「ここで待っているように」と頼んだ上で、祭祀場に存在した篝火からこの『ロスリックの高壁』まで跳んで来たというわけだ。

 

「オレが居ない方が彼女の精神衛生上、都合がいいだろう。いや、都合がいい話をしてるのはオレの方なんだが」

 

 祭祀場を出ようと決めた時と同じことを言いながら、樋浦は自嘲するように頬を歪めた。

 とんでもない、都合のいいことをやっているのは俺の方だし、タチが悪いのだって俺の方だ。 あの時、彼女に頭を下げたのは樋浦だけだった。もちろん、俺にだって責任の一端があるのだから、俺が笹井に謝らなくていい道理があるはずがない。ただ、情けないことに、俺にはそれが出来なかった。

 気にしないでと言って、彼女は笑った。その笑顔が、あまりにもひどかった。

 笹井が委員長のことをどう思っているかなんて、委員長以外でクラスに知らない奴はひとりも居ない。俺や樋浦は彼女から責められるべきだったし、笹井には間違いなくその資格があった。けれども笹井はきっと、それを自分自身に許せなかったんだろう。

 あの決壊する寸前の笑顔を前にして、俺は臆病にも何も言えなくなってしまった。何にも動じることのない樋浦をして、やはりあの笹井の一件は相当に堪えたのだろう。だから俺と樋浦は半ば逃げるように祭祀場を後にし、そうする必要も責任もないのに、那須川は俺たちについてきてくれたのだ。

 

「射てよ、佐渡。まだ矢は残ってるぞ」

「ん、ああ」

「はい、おかわり」

 

 樋浦に促され、俺は那須川が手渡してきた矢を『ロングボウ』に番えた。

 『ロングボウ』に矢を番え、目標をしっかりと見据え、『頭部分を狙って矢を放つ』と念じる。

 ひょうと風を切り、矢は遠く火を吐くトカゲへと命中する。流れ作業で矢筒から次弾を引き抜こうとして、俺はふと目の前の光景がおかしなことになっているのに気がついた。

 

「……お、おお?」

『■■――! ■■――■、■■■――!!』

 

 遥か遠く、城壁に我が物顔でのさばっていた竜が、大きく大きく翼を広げていた。

 のっそりと身を起こしたドラゴンは、ひとしきり吠え散らかしたと思ったら、そのままばさりばさりと翼をはためかせ、根城にしていた城壁を悠々と後にしてしまった。

 なんてことだ、まさか本当に上手くいくとは。

 『弓矢で射ち続ければ、あそこから追い払えるかもしれない』と、最初に樋浦がそう言った時は正直欠片も信じてはいなかった。だって、このスケール差だぜ? やっこさんからしたら、俺の矢なんぞ精々が一寸法師の針みたいなもんだろう。あ、一寸法師なら通用してもおかしくはないのか。いや、だとしても、あの冗談みたいな大きさのドラゴンを、俺が?

 

「おいおい、マジかよ」 

「……弾着」

「ンフッ、ごじゅうにー」

 

 満足そうに『遠眼鏡』から目を外しながら樋浦が最後の状況報告を出し、喉の奥で笑いながら那須川がラストカウントを取った。

 

「成果を持ち帰る。それだけだ」

「うん?」

 

 俺の肩を裏拳で軽く小突きながら、樋浦は言う。

 

「それだけが、オレたちに許されたことだと考えよう。今は、そうやって進むしかない」

「……都合のいい話だな。それでいいのかよ」

「いくないけど、いーんじゃない?」

 

 ずいぶん軽くなってしまった矢筒をこちらに突き返しながら、那須川が眉を弓にして笑んだ。

 そうだ、これで良いわけがない。俺がたとえここであの龍を退けたところで、それで委員長が帰ってくるわけじゃない。俺たちが探索を進めて何かを得たところで、それで笹井の心が晴れるだなんて、この場の誰もそんな虫の良いことは考えちゃいないだろう。

 でも、だとしたらいったい何が正解だっていうんだ? 結局、何をどう言い繕ったところでそれは都合のいい解釈でしかない。委員長の意志を俺たちが手前勝手に汲み取ろうとすること自体が間違いなのだから、やっぱり俺たちは都合良く解釈していくしかないのだ。

 

「どうする? 一旦、祭祀場に戻って矢を補充した方がいいんじゃないか?」

「いや、もう少しだけ進んでみよう。那須川?」

「うん、魔法はだいじょーぶ。遠距離は私が受け持つよ」

 

 いくないけど、いい。そんな風に、今は進むしかないんだろう。

 立ち止まっているのは耐えられないし、戻るのも気まずいしな。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「読めない? どういうこったよ?」

 

 検分をふたりに任せて周囲を警戒していた俺は、那須川の言葉の意味が分からずに反射的に聞き返す。

 那須川はうーーむと唸りながら、『魔術師の杖』の先端で地面に描かれた『それを』トントンと叩いた。

 

「他の文字は読めるんだけどねー、なんていうか、これは無理っぽい。無理ってゆーか、不可能?」

「不可能ってーと……、もうちょっと俺にも分かるように言ってくれないか?」

「……壊れてるんだよ」

 

 那須川の言葉を引き継いで、地面に刻まれて光を放つ文字列、サインを睨みつけながら樋浦は言った。

 

「このサインは、壊れている。いや、壊されている、のか? どういう仕組みなのか分からないが、読み取りが出来ないようになってやがる。長さから見るにおそらく固有名詞だろう程度のことしかオレにも分からない。ともかく、これは読めないんだ」

 

 文字列が壊れている、だって?

 那須川と樋浦の後ろから地面のそれを覗き込みながら、俺は樋浦の言わんとしていることを理解しようとした。

 今さらだが、この世界の文字は日本語表記ではない。何語なのかは分からないが、少なくとも俺はこれまでに一度も拝んだことがないような文字だ。ついでに言うと、言語の方もどうやら日本語ではないらしい。なにやら持って回った言い回しになってしまったが、それというのも、読むことは出来ないが聞くことの方は俺にも出来るのだ。『火継ぎの祭祀場』に居たこの世界の住人の何人かと会話をしてみて分かったのは、「言語は分からないものの、何を言いたいのかは理解できる」というなんとも奇妙な事実であった。

 そしてこれまた奇妙かつ面白くないことに、クラスの中でもこの読み書きの能力については差が生じていることが判明した。具体的に言うと、俺や福嶋、安藤あたりはこの世界の文字を読むことが出来ず、樋浦や那須川、それに武智や習志野といった面子はスラスラと苦もなく読みこなすことが出来ている。要は、成績優秀で頭の良い連中は読めて、赤点常連のお馬鹿さんには読めないということだ。なんとも不愉快な話である。

 話を戻そう。ともかく、どれだけにらめっこを続けても俺の目にはぐにゃぐにゃした幾何学模様でしかない地面のそれが、どうやら樋浦や那須川には違った様子で見えているらしい。

 

「で、どうするんだよ。向こうは見るからにボスが待ち構えてそうな雰囲気で、本来ならこのサインは俺たちの手助けをしてくれる協力者を呼んでくれるシロモノなんだろ? それが壊れてるとなると、ちょっと厄介なことになるんじゃないか?」

「そこが悩みどころだ。原則を信用するなら白のサインは協力者で赤のサインは敵対者ということらしいんだが、まずそもそもこのサインは色が違う」

 

 そうだな、赤でもなければ白でもない。誰がどう見てもこれは黄色、もっと言うと黄金色だ。

 

「加えて、サインが破損していて召喚相手の名前が読めない。これはもっとも、読めたところでオレたちにはそいつが何者なのかを判断することは難しいだろう。あまり問題にはならないが、胡散臭いことに変わりはない」

「うーん、せめてその壊れているっていうのが俺にもちょっとは理解できればなぁ。なにがなんだかさっぱりなんだよ俺には」

「ともかく、少し考える時間をくれ。こいつをどうするか、ここではっきりさせておきたい」

 

 そうやって俺と樋浦とが言い合っていると、チャウチャウの如くしかめっ面をしてうーんうーんと唸り続けていた那須川が、ぎりぎり俺の耳に届くか届かないかくらいの声量でぼそりと一言つぶやいたのが耳に入ってきた。

 

「……どぅーいっと」

「ん?」

 

 どうやら思索に没頭し始めた樋浦には聞こえなかったらしく、俺ひとりだけが那須川のつぶやきに反応していた。

 そういう那須川も膝を抱えてサインをツンツンと突っついているだけで、完全に自分の世界に入り込んでしまっている。結果的にハブりの憂き目にあった俺は、所在なく突っ立って見張りの真似事の続きをするしかなくなった。しかし、十秒も経たないうちにまた那須川がブツブツ言い始めたので、俺は那須川の隣にしゃがみこんで耳をそばだててみることにした。

 

「じゃすつ、どぅーいっと」

「いや、ジャス……、なんて?」

 

 ジャスドゥ、とはなんだろう? ノアの双子……、はジャスデロか。

 よりしっかり聞き取ろうと俺が距離を詰めた瞬間、いきなりがばと立ち上がったかと思いきや、那須川は杖をサインに向けると癇癪でも起こしたように大声をあげた。

 

「なせばなる! なさねばならぬ、っつってんだよ! ヒャア召喚だあ!」

「うるさっ!? んだよいきなり!」

 

 キンキンする耳を塞いで抗議の声をあげた俺は、目の前で何が起こっているのかを理解して、全身の血がサッと引いていくのを感じた。

 サインが、光を発している。うすぼんやりとした淡い光を放っていただけのサインが、今やまばゆい金色の光で燦然と輝く太陽のようだ。

 え、まさかこいつ、やりやがったのか? やってしまいやがったのか? 

 

「なんだ!? 何をした那須川!」

 

 流石に騒ぎを聞きつけたのだろう。思索を中断した樋浦がアホみたいに固まっている俺を足蹴で押し退けながら那須川に詰め寄った。

 不動明王もかくやのおっかない形相で肉薄してきた樋浦に、那須川はだだっ子のように手をブンブン振り回してまくし立てる。

 

「うるせー! 私はなー、目の前にボタンがあったら押したくなるサガなんだよ! ロープがゆらゆらしてたら引っ張りたくなるし、ねこじゃらしがじゃらじゃらしてたら飛びつきたくなるんだよ! おわかり!? ワカリティ!?」

「TPOを弁えろこのアンポンタン! お前、この……、この……、バカァ!」

 

 イライラのあまり語彙力を失いながら、樋浦は目元を抑えて天を仰ぐ。那須川は「カモン、カモン!」と勇ましくシャドーボクシングを始めるし、いよいよ場の収拾がつかなくなってきた。いかん、これはいかん。せめて俺だけでも冷静にならなくては。

 那須川が強引にサインを起動してしまったことで、あとどれくらいかかるかは分からないが、とにかくここには何者かが『召喚』されてしまう。それが話が通じる相手だったらよし、協力を申し出る。もしそうでなかったら、そうでなかったら……、どうしたらいいんだ?

 そんなこんなで一向に冷静さを取り戻せないまま俺があたふたしている内に、ついに地獄の釜が開く時が来てしまった。

 黄金の輝きが渦を巻き、揺らぐ光が像を結んで立ち昇る。

 

「――フッ、ヌウン!」

 

 その瞬間をいったいどう言い表したものか、俺の美的感覚ではどうにも上手い表現が浮かびそうもない。なんというか、もう色々と限界だった。

 幸い、俺の至らなさを見事に補う形で、那須川が極めて率直な解答を提示してくれた。

 

「……Y?」

 

 そう、一言で言うなら、『Y』。金色の、『Y』だった。

 光の中から気合の篭った渾身のポーズを決めて現れたのは、全身が黄金色に輝く珍妙な格好の騎士だった。

 鎧の胸元にはなんともアバンギャルドなタッチの太陽の意匠を抱き、トップには赤い羽飾りのついたバケツヘルムを被った騎士が、高々と両腕を天に掲げてY字ポーズを決めて現れたのだ。

 ビシリとポーズが決まったことで満足したのか、バケツ頭の騎士は余韻をじっくり噛み締めるように残心を解きながら俺たちひとりひとりの顔を見渡すと、首を傾げながら不思議そうに問うてきた。

 

「ム、貴公ら……、もしや以前に、どこかで会ったことがあるだろうか?」

「いや、どう考えても初対面です」

「そうだったか、それは失礼した。なにやら懐かしい雰囲気を感じたような気がしないでもなかったからな。許せ許せ、ウワッハッハ!」

「いや、あなたみたいなインパクトの塊、一度会ったら一生忘れないと思います」

「黙れ那須川。あー、おほん。オレたちは、協力者を求めてサインを頼った者だ。召喚に応じていただき、感謝する」

「気にすることはない。あのサインは太陽のサイン。俺たち『太陽の戦士』の力を必要とするすべての仲間のために輝く、神と太陽の光ゆえな。助けに応じることに否などあるはずもなかろうさ」

 

 深みのある声で力強く語りながら、バケツ頭の騎士は鎧の胸元をどんと叩いてみせた。ナリこそけったいではあるものの、どうやらこうして話をしている限りの印象では見た目ほど怪しい人間というわけではないらしい。

 

「かたじけない。オレは樋浦。こっちの気の抜けた面をした男が佐渡で、この落ち着きのないちまい生き物が那須川だ」

「どうも、気の抜けた面の佐渡です。よろしく」

「はいはーい! 落ち着きのないちまい生き物こと那須川でーす! それとユウは後で覚えとけよ」

「ウム、ウム、よろしくな諸君」

 

 俺たちひとりひとりとがっしりと握手を交わしながら、バケツ頭の騎士は感慨深げに何度もうんうんと頷いていた。こういう仕草をする奴を、俺はよく知っている。自分が他者の助けとなることを心の底から願うような、底なしのお人好しの仕草だ。この乾ききった世界でまさかそんな奴に出会えるとは思ってもみなかった俺は、なんだかほろ苦い気分で胸がいっぱいになった。

 

「申し遅れた。俺の名前は……、あー、名前は……」

 

 なぜか妙なタイミングで間を持たせたバケツ頭の騎士は、腕組みをしてムムムと唸ってから、まるでその場でハッと思い出したかのようにやや走り気味の口調で自己紹介をした。

 

「ソラール。太陽の戦士、ソラールという。この巡り合わせに感謝しよう、太陽万歳!」

 

 



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冷たい谷のボルド

 

太陽のサインの先の空間は、ロスリック高壁の外側に通じているようだった。

 役割でいうと、”虎口”という場所がそれに当たるらしい。海外のみならず日本の城についても疎い俺に樋浦が教えてくれた。ざっと70メートルほど前方に物々しい大門が見え、わずかに開いた門扉の隙間からは外界からのものであろう光が薄く差し込んでいる。左右をぐるりと石壁で囲まれた袋小路という状況でその先に光が差しているというのはなんとも出来すぎたシチュエーションのようにも思えるが、俺たちに出来るのはおっかなびっくり進むことだけだ。

 

「ねー、ソラールさん。聞いてもいいかな?」

「さんは要らないぞ、若き不死の少女よ。どうかしたか?」

 

 樋浦と共にポイントマンを務めるソラールへと那須川が気安く声をかけ、ソラールの方も砕けた調子で応じる。

 

「じゃあ、ソラール? あそこの入口にあった『太陽のサイン』を書いたのって、ソラールなんだよね。ってゆーことはあれって、ここじゃないロスリックのこの場所で、ソラールがサインを書いたってこと? 合ってる?」

 

 那須川が訊ねた内容は、俺も少し気になっていたことだった。

 召喚サインを蝋石で記すことで霊体となって他世界に渡ることが出来、サインを頼ることで他世界の者に助けを請うことが出来る。祭祀場に居たあやしい婆さんから蝋石を求めた時にそのように説明されたものの、いまいち俺はピンと来ていなかった。

 特に、”別世界”というのがいちばん分からない。文字通り、俺たちが居た世界とこのロスリックという世界を指してのことなのか、あるいはパラレルワールド、平行世界、そういうSF的概念で言う別の世界なのか。召喚という魔法(と言っていいのかは、これもよく分からない。那須川曰く、この世界の”魔法”と”奇跡”とは別種のシステムであるらしい。俺にはやはり理解できていない)の仕組みが明らかでない状態でそれを使うというのは、正直あまり心臓にはよろしくないのだ。

 

「ウム、およそ、そういう理解で合っているぞ。俺には俺の世界があり、貴公らには貴公らの世界がある。こうして霊体として召喚されたのを見るに、どうやら貴公らと俺の世界とは重なり合ってはいないようだ」

「世界が、重なる?」

 

 興味をそそられたのか、樋浦も前方への警戒は緩めずに視線だけちらと横を行くソラールへと向ける。バケツヘルムのおとがいのあたりを撫ぜながら、ソラールは遠いどこかを懐かしむような調子で語った。

 

「ここは、まったくおかしなところだ。時の流れや地理は言うに及ばず、枝分かれした可能性、もしくはまったく法理までもが異なる世界に至るまで、すべてがゆらぎ、ずれている。霊体として召喚されるということは、ずれを渡りゆらぎを越えるということなのさ」

「ゆらぎ、ずれている、か。なあ樋浦、もしかして……」

「オレたちが陥っている状況に、なにかしら関係がある。ほぼ間違いないだろうな」

 

 話しながら、気づけばエリアの中央付近を既に通り過ぎてしまっていた。話に少し熱中しすぎていたようだ、いかんいかん。しかし、未だに状況にはなんの変化もない。このエリアへ侵入する前段階でソラールが話したような事態に発展する様子は、今のところ微塵も感じられない。

 

「なあソラール。あんた、別の世界のこの場所から召喚されたって言ってたよな。もしかして、あんたの世界とここじゃ、同じイベントが起きるとは限らないんじゃないか?」

「イベント、というのはよく分からんが。しかし、若き不死よ、油断は禁物だぞ。冷たき外征騎士は、たしかにこの場に潜んでいる。我らがこの場から抜け出すことを、必ず阻みに来るだろう」

 

 ソラールの言葉に気負ったところはなかったが、しかし微塵も油断は感じられなかった。これがいわゆる、死線に身を置く者の心構え、というやつなのだろうか。忠告に従い、審判者グンダと対峙した時のことを今一度思い起こしながら、俺は『盗人の短刀』の柄を改めてしっかりと握り直した。

 ほどなくして、俺たちはついにエリアの最終点、大門扉の前まで到着した。ただでさけ大仰で重苦しい扉のあちこちには蔦が絡みつき、半端に開いている扉を無理矢理縛り付ける形で封が施してある。明白に、あからさまに俺たちを先へと進ませまいという意図を感じさせるようだ。

 

「いちおう、開ける方法がないかどうか調べてみる。ソラール、佐渡、警戒を頼む。那須川はオレを手伝ってくれ」

 

 慎重に扉を観察していた樋浦は、少し考えてから『ロングソード』の切っ先で絡みつく蔦の一部をゆっくりと突き刺した。

 

「「「「……!」」」」

 

 瞬間、全員が知覚した。

 来る。

 空気が急速に冷却され、肌が粟立つ。極低温の吠え声が、空間を震わす。湧き出した幽暗から、巨鎧の獣が這いずり出す。

 

「あれが……!」

「そうだ。あれこそが、冷たき谷より来る外征騎士。法王の眼を与えられた獣の騎士」

 

 奴が現れたことで荒れ始めた低温の大気に顔を顰めながら、樋浦が俺たちの最前列へと進み出で、『太陽の盾』と『太陽の直剣』を豪快に撃ち合わせて樋浦と肩を並べたソラールが、厳かに眼前の敵を呼ばわる。ローブの襟元をかき合わせた那須川は『魔術師の杖』をかざし、俺は『盗人の短刀』を鞘へと戻して矢筒から一本の矢を引き抜く。

 そして、冷たい獣は高々と戦鎚を打ち鳴らす。

 

『――――■■■、■■■■!!』

 

 かかってこいと、そう言わんばかりに。すべて氷漬け、打ち砕くと嘯くように。戦端を開く号砲のように、『冷たい谷のボルド』は凍気を激しく炸裂させた。

 

「行くぞ! 作戦通り、ソラールは俺に続いてくれ! 佐渡と那須川は距離を維持して撃ち続けろ!」

「応!」

「オッケッケ!」

「了解!」

 

 ブリーフィングに従って、俺たちはそれぞれの位置についた。

 構成はエリアに入った時と同じ、前衛を樋浦とソラールが務め、その後ろに俺と那須川が陣取るフォーメーション。俺と那須川はそれぞれ散開してボルドを狙い、遠距離組の射線を遮らず、かつボルドが俺たちふたりへと接近するのを阻害するように樋浦とソラールが立ち回る手筈だ。

 

「ヌン!」

「オオッ!」

 

 ボルドが振るう大鎚の横殴りを『太陽の盾』で力強くソラールが受け、生じた隙に樋浦が仕掛ける。混戦が始まったのを見届けた俺は、背負っていた『ロングボウ』を抜き放ち木矢を番えた。見れば反対側の地点では、ちょうど俺と同じように射線を確保した那須川が詠唱を終えたところだった。

 

「へいりっひ!」

「そら!」

 

 木とソウルのふたつの矢が風を裂き、巨躯の外征騎士へと吸い込まれるように着弾する。ボルドの様子はと言うと、大して堪えた様子もなく眼前の前衛ふたりへとバカでかいメイスをぶん回し続けている。見た目通りの耐久力、大仰な鎧は見掛け倒しではないということらしい。舌打ちしつつ、次の矢を番えて射線を確認する。

 

『■■■■――!』

「太陽よ!」

 

 射線の先では、ソラールと外征騎士ボルドが一進一退の攻防を繰り広げていた。

 彼の頼もしい立ち振る舞いは、やはり実力の裏打ちであったらしい。巨躯から生み出される圧倒的なトルクを振るうボルドに対し、ソラールは冷静に間合いを計り、時に盾でいなし、時にステップで回避し的確にメイスをやり過ごす。そして、ただ躱すだけには留まらない。

 

『■■■、■■!』

「ヌウッ!?」

 

 空を震わす衝撃が、俺の立っている辺りにまで伝播する。ボルドの膂力に力負けすることなく倔強に踏ん張り、ソラールは真正面から大鎚を盾でガッチリと受け止めた。

 

『■■、■■……!』

「ワッハッハ、なんたる剛力、なんたる重さか! 流石はイルシールが誇る外征騎士、荒ぶ吹雪が如き一撃よ。だが……!」

 

 石畳を割り沈み込むソラールの脚が、鎚の威力の凄まじさを如実に物語っている。ヘビープレッシャーにソラールの足元からは蜘蛛の巣状に裂罅が走り、石畳ごとバケツヘルムが沈み込む。あわやこれまでかと肝を冷やした次の瞬間、

 

「ぬああ!」

『■■――、■■■!?』

 

 気合裂帛、なんとソラールはボルドの大鎚を力技で押し返してしまった。あえて力比べの均衡を自分から崩し、生じた間隙に乗じて瞬く間にパワーゲームを制したのだと俺が気づいた時には、既にソラールの横打ちと突きの二連撃がボルドへと炸裂した後だった。

 

「つ、つええな、あのバケツヘルム。正直、召喚した時の主にポーズがアレで期待値が怪しかったけど、メチャメチャ頼りになるじゃねえか」

「てゆーか、もしかしなくてもユウより強くない? ソラールって」

「フン、少なくとも経験値はオレより段違いだろう。立ち回りに余裕が有る、躊躇もない」

 

 頼りになる太陽戦士様の勇姿に俺は脱帽しきり、那須川は意地の悪い顔で樋浦を煽り、とてつもなく不本意そうではあるものの樋浦もその奮闘ぶりを捻くれ気味に賞賛する。正味、このまま見届け人をやっているだけで趨勢は決してしまいそうな雰囲気ではあるが、それではあまりにもダサすぎて誰にも顔向けが出来ない。

 

「このまま畳み掛ける! 佐渡、那須川、奴さんにキツいのをお見舞いしてやれ!」

「言われなくても! そら、食らっとけ!」

「■■――!」

 

 俺は『ロングボウ』の”戦技”――これを実行するには、通常の「流れに乗った」行動よりもさらに大きく集中力と気力を要する。端的に言えば、必殺技のようなものだ――である、「強射」を発動する。平常の射撃よりもさらに大きく弦を引き絞り、限界まで溜めたところで、リリース。ぶおう、とパワフルな風切り音を伴い、木矢がボルドの鎧に深く突き刺さる。

 

「へいへーい、りっひぃ!」

「■――■!」

 

 通常より長い詠唱を終え、那須川は「ソウルの矢」の上位魔術、「ソウルの太矢」を放った。水色の尾を曳く流星はその名に偽りなく、平常の魔矢よりも口径と速度を増強させてボルドのフェイスプレートを手酷く撃ち抜いていく。

 

「ラアアッ!」

「■■、■――■!?」

 

 トドメとばかりに、樋浦の連斬が打ち込まれた。水平斬り釣瓶打ち四連、大きく引いた左半身の溜めを一息に炸裂させたスティンガー式のスタブで、ボルドの上体が大きく傾ぐ。

 かなり打点は稼いだ。負傷らしい負傷も誰ひとり受けていない。事前のプランが上首尾で運び、期待通りの成果を挙げた。

 正直、これで決した、そう思った。勝ちを確信した、そう言ってもいいだろう。

 甘い、まったくもって甘かった。油断するなと、ソラールはきちんと忠告していた。

 俺は、審判者での敗北からなにも学べていなかったのだろうか。

 

「――■■■■、■■■■■!!」

 

 大鎚を激しく打ち鳴らし、冷たい獣はウォークライのブリザードを荒れ狂わせた。

 冷たい谷から這い出た暗いソウルが、大豪雪の瘴気を運ぶ。

 なにも済んではいない、なにひとつ終わってはいない。

 我が戦いは、我が外征はこれからである、と。

 

 



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