真姫ちゃんが大好きで大好きで、好きが高じて作品を投稿してしまいました。週に一度の頻度で更新していく所存です。まったり更新ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
世の中では、スクールアイドルというものが流行っているらしい。
「穂乃果に誘われまして……私にできるかどうかは分かりませんが、やるからには全力で取り組みたいと思っています」
昨日最愛の妹から聞かされた宣言。昔から生真面目で、そういった俗な物事には(表面上は)興味を示さなかった彼女がスクールアイドルユニットを組むことになったと言い出した時は正直耳を疑ったが、同時に嬉しくもあった。ウチの家が日本舞踊の家元なこともあり、自ら堅苦しい姿を見せているようにも感じていただけあって、これはまたとない機会だ。父さん達も「穂乃果ちゃんが誘ったなら」と文句を言う気もないらしいので、これを機に是非とも思春期女子高生ライフを謳歌してほしい。
しかしながら、兄としては何かできるならばフォローをしてあげたい。既に嫁入りしてどこかへ行ってしまった姉曰く、「私の分も海未の手助けをしてあげなさい」とのことである。勝手に出て行った身でよくもまぁとは思うが、僕も僕で実家の跡継ぎを海未に放り投げている立場ではあるからそれ以上は言うまい。つくづく末っ子に迷惑をかける姉兄である。
スクールアイドルに詳しい友人から聞いた話によると、最近ではUTX学園の『A‐RISE』とかいうユニットが人気を博しているようだ。三人組のグループで、卒業後はプロデビューも確定しているとかなんとか……正直言って、唖然の一言である。大学も二年目に突入した僕でさえ将来のヴィジョンが浮かんでいないというのに、高校生の彼女達は将来を約束されているというのは果たして幸か不幸か。大変だなぁと他人事ながら呆気にとられる始末だ。
スクールアイドルについて知るならば、UTX学園、そして秋葉原に行くべし、とのお達しを受けた僕は本日、大学の授業終わりに早速例の学園前に降り立った次第。秋葉原駅から徒歩すぐの場所にあるドでかい建物が噂の学園らしく、純白の制服を着た女子高生達が最新のタッチ改札を通って下校しているのが印象的だ。妹が通っている音ノ木坂学院とはまさに月とスッポン。伝統があるとはいえ、近くにこんな最新鋭のイカした学校が出来てしまえば、そりゃあ入学者も取られるのは自明の理と言わざるを得ない。致し方ない。
『UTX学園にようこそー!』
綺麗な声につられて顔を上げると、そこには建物の中間部分に設置された巨大なディスプレイに映る三人の美少女。あれが噂のA‐RISEとやらなのか。画面に彼女達の姿が映った瞬間から、周囲の通行人達がざわめき色めき立っていた。どうやらスクールアイドルが人気というのはあながち間違いではないようだ。にしてもこの盛り上がりぶりは、まるで本物のアイドルが現れた時のよう。スクールアイドルって凄いなぁ。
「……ふん」
そんな感じでぼんやりとディスプレイを見上げていると、何やら険しい表情で鼻を鳴らす女の子が視界の隅に映った。赤毛の、気が強そうな雰囲気の子だ。紺色のブレザーを見る限り、妹が通っている音ノ木坂学院の生徒。リボンが水色なので一年生といったところだろう。真横なので顔は良く見えないものの、それなりに整った顔立ちだ。大学にいたらサークルに勧誘されまくること請け合いな美人さん。それが僕からの第一印象。
これが僕の大学の仲間だったら即座に声をかけに行っただろうが、僕は
周囲の女子高生達の視線に薄ら寒いものを感じながらも、パンフレットを一枚取ると早足で学園を脱出。やはり、どうしても異性からの視線にはなれない。春なのに冷や汗で濡れた身体をハンカチで拭きつつ外へ出る。これ以上ここにいると、僕の精神衛生上よろしくない気がした。
何事もなくUTX学園の外に出ることができた僕ではあるが、ふとさっき美少女がいた辺りに視線をやっていた。さすがに彼女は姿を消していて、もう影も形もない。音ノ木坂の制服を着ていたからか、それとも美少女だったからか。どうしてか頭の中に彼女の姿が残っている。どうしたのだろう。別に、そこまで目を惹くような子ではなかったはずなのだが。
妙な違和感に苛まれている僕ではあったけれど、さっきまであの子が立っていた場所に何か手帳のようなものが落ちていることに気が付いた。普段ならば特に気にすることもないはずのソレ。だが、僕は何故だか、それが彼女に関係するものではないかと思ってしまっていた。我ながらおかしい、と自覚はあったけれど。
周囲を見渡しつつ近づく。手帳と思っていたものはパスケース……というか、学生証だ。黒塗りの生地に金色で描かれた音ノ木坂の校章。妹が同じものを持っているのですぐに分かった。おそらくは、例の赤毛の子が落としたのだろう。しっかりしているように見えたが、意外とうっかりなのかもしれない。思わぬギャップに苦笑が浮かぶ。
このまま放置しておくのは些か良心が痛む。妹に預けて、後日本人に渡してもらおう。
学生証を拾い上げ、ポケットに入れる。……の前に、名前だけでも確認しておこうと手を止めた。もしかしたら別人の可能性もある。ここから音ノ木坂学院まではそう遠くない。彼女以外の学院生もここを通る確率は大いにある。あくまで確認の為であり、邪な思いは決してない。妹に誓って。
パスケースを開く。中にはやや不機嫌そうな表情で写った彼女の顔と、『西木野真姫』の文字。西木野というと丘の上にある総合病院が脳裏に浮かぶが……いや、余計な詮索はやめておこう。女性に関わってロクな目にあった試しがない。
今度こそポケットに学生証を突っ込む。UTX学園を羨ましそうに、憎たらしそうに見上げる西木野さんの顔がやけに目に焼き付いていたが、理由は未だに謎だ。
「西木野真姫さん、か」
気が付くと彼女の名前を呟いていた。それだけなのに、何故か心臓がトクンと鳴る。いつもの
海未の部活が終わるまでに資料を集め、迎えに行かないと。
謎に高鳴る胸をなんとか押さえつけ、僕は人で溢れる秋葉原の街に飛び込んでいくのだった。
☆
音ノ木坂学院高等学校は、神田神社の近くにある長い伝統を持つ学校だ。
かつては音楽系部活が有名な学校として知られていたが、今では少子化の影響もあり廃校の危機に晒されているとかなんとか。一年生に至っては一クラスしかないというのだから、その過疎っぷりは凄まじい。園田家では母も姉も音ノ木坂に通っていた為、思い入れのある学校ではある。女子高だから僕は近くの公立校に通っていたが、それにしても無くなってしまうというのは少々悲しい。
そんな音ノ木坂の正門前で柱に背を預けながら、僕は部活終わりの妹を待っている。女子高に私服の大学生がいることに違和感があるのだろう、下校中の学院生達が奇異の視線をこちらに向けていた。
「ねぇ、あの人誰なんだろう」
「ウチの生徒の彼氏? 大学生とお付き合いしている人とかいるんだ」
「にしても、女子高の門の前で待つとか目立つわよねー」
こちらをちらちら見ながらの呟きが聞こえてくる。一応音声をシャットダウンするために音楽を聴きながら目を瞑って立っているのだが、異性からの視線、声を完全には無視することができない。それどころか、特に酷いことを言われているわけでもないのに動悸が速まってきた。意識して抑えないと、呼吸も荒くなってしまう。……もう何年も経つのに未だに治らない、この持病。女性からの言動にいちいち体調が異常をきたす。冷や汗でインナーがじっとりと濡れ始めていた。
音楽プレイヤーの音量を上げる。気にしないように、流すように意識を落としていく。大丈夫。別に悪口を言われているわけじゃない。落ち着け。
手足がわずかに震えている。目を瞑っていなければ、視線は完全に泳いでいただろう。傍から見れば相当に変な人に見えたに違いない。我ながら無茶な荒療治をしている自覚はあるが、ここで音をあげるわけにはいかなかった。太腿あたりをギュゥと抓み、時間が過ぎるのを待ち続ける――――
「お待たせしました、兄さん」
ハッと意識が浮上した。気が付くと片耳のイヤホンが外されていたようで、聞き慣れた透き通った声が鼓膜を震わせる。弾かれた様に横を向くと、競技用の弓を収納したケースを抱えた黒髪の女子高生が、穏やかな笑みを浮かべて僕を見上げていた。
幼いながらも凛とした表情に、さっきまで悲鳴を上げていた心臓が落ち着きを取り戻す。
「遅くなって申し訳ありません。部活の後、穂乃果達とダンスの練習をしていたもので」
「あぁ、いや、頑張っているようで何よりだよ海未。それと、海未を待っているのは僕の勝手な自己満足だからさ、気にしないで」
「ありがとうございます。ですが、
「ごめんごめん。でも、ほら、前に比べたら多少はマシになってきたんだって」
「もう……」
なるたけ妹を心配させないように明るく振る舞う。僕の内心を悟ってくれたらしい海未は、それ以上追及することはせずに隣に並んでくれた。気遣いのできる妹に相変わらず頭が上がらない。
園田海未。将来はウチの家業を継ぐことになっている、どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹。少々耳年増な部分は否めないながらも、年相応の可愛らしい女性に育ってくれた。クールな性格とはっきりとした言動のせいもあり、同性からの人気が高いとは幼馴染のことりちゃん談だ。自慢の妹が人気だというのは鼻が高い限りだが、女子高ということもあり
「……兄さん。何かとても不本意な事を考えていましたね?」
「うぐ。い、いや、まったくもってそんなことはないよ?」
「嘘です。十何年兄さんの妹をやってきていると思っているのですか。それくらいのことは分かります」
「手厳しいなぁ」
「兄さんがそうやってすぐに誤魔化そうとするから、面白がって穂乃果が真似するんです。苦労しているのですよ、あの性格には」
「僕のせいなのかなぁそれ」
「多少なりとも影響は与えているはずです」
ちょっとだけ理不尽な物言いに反論してみるものの、ぴしゃりと論破されてしまい二の句を継げない。相変わらず固いというか厳しいというか……悪い子に育つよりはマシだけれど、もう少し遊びのある性格に育ってくれるのを期待していたよ、海未。
「あ、そういえば海未。さっき音ノ木坂生の学生手帳を拾ったんだけど、この子に見覚えはない?」
「学生手帳、ですか?」
首を傾げる海未にポケットから取り出した西木野さんの手帳を見せる。何度見ても不機嫌な表情だ。三年間は使わなければならない手帳の写真くらい、もっと明るい表情で写ってもいいだろうに。この子も大概気難しい性格なんだろうなぁ、と大して知りもしない相手を勝手に想像する。
海未は僕から手帳を受け取ると、まじまじと内容を読み取り、
「西木野真姫……この子は確か、以前穂乃果が言っていた……」
「え、まさかの知り合い?」
「いえ、知り合いというよりは、私が一方的に知っていると言いますか」
心当たりがあるような反応に軽く驚く。衝撃の事実だ。世界は狭いとはよく言うが、ここまで小さくなくてもいいだろうに。手間が省けるという点ではありがたいが。……音ノ木坂が廃校寸前だというのがここに来て影響していると思わざるを得ない。そりゃ全校生徒二百人もいなかったら顔くらいは見たことあるか。
にしても、知っているのなら話は早い。
「頼みというか何というか、この手帳、西木野さんとやらに返しておいてくれないかい? さすがに僕が直接渡すわけにもいかないだろうし」
「それは構いませんが、珍しいですね」
「なにが?」
「いえ、普段の兄さんなら女性に関わるものはすべて拒絶するはずなのに、見かけたとはいえ女子高生の手帳をわざわざ拾うだなんて」
「僕だって最低限の良心くらい持っているよ。諸事情云々は抜きにしても、ね」
なんか心無い人間みたいな言われ様に少しだけ落ち込むが、彼女の疑問は最もだ。僕が女性に関するものに興味を示すなんて、おそらくはここ最近で初めてではないだろうか。多少なりとも仕方のない部分はあれど、無意識的に異性を避ける傾向にある僕が、である。
まぁ、なんというか、僕は俗にいう女性恐怖症な訳で。
恐怖症というか、女性不信というか。過去に色々あったので、肉親やそれに準ずる女性以外と接すると一種のパニック障害染みた症状が発症する。これでも数年かけてそれなりに治まってきた方なのだ。発症当初はことりちゃんや穂乃果ちゃんはおろか、妹である海未とさえもまともに会話ができない程だったから。今思い返すとつくづく酷い。
そんな僕の持病を知っている海未だからこそ、不思議に思ったのだろう。無理もない。当時僕のことを誰よりも心配してくれた彼女からすれば、驚きの一言だろうし。
そんな事情もあり怪訝に思ってくれたのだろう可愛い妹の鞄を持ってやると、そそくさと音ノ木坂から離れていく。
「それじゃあ手帳は頼むとして、帰ろうか海未」
「言う前から退散しているくせによく言いますね兄さん」
「これ以上は僕の精神衛生上よろしくないという判断に則っての行動さ。それに、今日は海未の為に色々集めてきたからね。それのお披露目とかも含めて、帰宅を推奨したい僕だよ」
「はぁ……。まぁ、真っ直ぐ帰るつもりでしたから構いませんが」
肩を竦めつつも小走りで僕の隣に並ぶ妹が可愛すぎる件について。
例の西木野さんとやらについては海未に任せるとして、さっさと頭の中から消し去ってしまうのが吉だろう。僕の体質的にこれ以上関わることがあるとは思えないし。
帰り道中ずっと僕に小言をぶつけてくる大人びた妹に苦笑を返しながらも、僕の一日はいつもとちょっとだけ違う感じで終わっていった。
読了ありがとうございます。
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第二節 START:DASH!!
しっかり者の妹がたまにポカをやらかすと、人間味が感じられて好感度が上がる。
「海未の奴、ダンスの朝練行くからって張り切るのはいいんだけど、弁当忘れるなんて可愛いミスやらかすなぁ」
風呂敷に包まれた弁当を片手に、音ノ木坂学院の中庭を歩きながらそんなことを呟く園田空良こと僕。今日は授業がない所謂全休日の為、家でのんびりしていた僕が弁当配達に駆り出されているというわけだ。首からは入校許可証が下がっているため、合法的に女子高に侵入している。……普通の男子大学生なら大喜び間違いなしの展開かもしれないが、僕にとっては命の危険一歩手前と言っても過言ではない状況である。今も通りかかった学院生達が遠目から僕を指さしてひそひそ話しているところ。正直言って既に胃が痛い。
このままアテもなく放浪するのは精神的に辛いので、昼休み時刻であることを確認すると海未に電話をかける。
数回のコール音の後、愛する妹は応答した。
『はい、園田ですけど』
「弁当、中庭、助けて」
『届けてくれるよう頼んだ私も悪いのですが、校内に入る前に門のところで言えばよかったではないですか……』
「その考えは正直失念していた」
『はぁ……とにかく、中庭ですね? すぐに向かうので、そこで待っていてください。無理に動いて持病が発病しては洒落になりません』
「イェスマイシスター」
通話が終わる。立ったまま待つのもあれなので、近くの石垣に腰かけて海未の到着を待つことにした。幸い近くで昼食をとっている女性達はいない。校舎の中から僕を観察している方々は見受けられるが、我慢できない程ではない。
彼女がどこにいるのかは分からないが、そう時間はかからないだろう。愛用の携帯電話を弄りながら、なんとなく頭から離れないフレーズを口ずさむ。
「I say~♪」
最近海未が家でずっと練習している曲だ。なんでも、今度新入生歓迎会後にライブをやるようで、その時に歌う曲らしい。歌詞は彼女が作ったというのだから驚きだ。確かに幼い頃から小説や詩を書くのが趣味な絶賛黒歴史製造マシーンだった海未だけど、今回はそれがプラスの方向に転んでいる。海未に歌詞を任せた穂乃果ちゃんは才能があるのか、それとも冗談半分だったのか……。たぶん穂乃果ちゃんのことだから、何も考えていなかった可能性が高いけれど。
にしても、あの幼馴染三人娘の中で曲を作れる人はいなかった気がするのだが。ことりちゃんは衣装担当らしいし、穂乃果ちゃんは作曲とかできないし。いったい誰に頼んだのだろうか。音楽が得意な子に伝手があるという話は聞いたことないけど……というか、そんじょそこらの楽器が弾ける子が作れるレベルではないぞ、この曲。上手すぎる。
タイトルは『START:DASH!!』なんだとか。スクールアイドルとしての初ライブで歌う曲名としては完璧だろう。変に捻らないストレートなネーミングに好感が持てる。ふむ、さすがは我が愛しの妹。非の打ちどころが見つからない。
特にサビの部分を何度も口ずさむ。聞いているだけでも勇気づけられるような歌詞と、思わず身体を揺らしてしまう乗りやすいリズム。冗談抜きでいい歌だ。割といい線行っているじゃないだろうか。
「これを海未達が歌うのか……僕も持病がなかったら見に行きたかったなぁ」
「持病があろうがなかろうが、女子高の行事に空良くんが参加できる訳ないんだけどねぇ」
「保護者扱いだったらギリギリいけそうじゃない?」
「っ……!?」
不意に女性の声で話しかけられ身体が強張る。鼓動が速まり、嫌な汗が吹き出し始めるが……声の主を視認したところで、身体の変調は治まりを見せた。
僕に話かけてきたのは、二人の少女。
一人は明るい茶色のセミロングに、これまた太陽のように明るい笑顔を浮かべた絵に描いたような朗らかな子。そしてもう一人は、ベージュ色の髪を特徴的なサイドテールにした、可愛らしい女の子。静と動に分けたような対照的な二人が、ニコニコ笑顔で僕を左右から見上げていた。
高坂穂乃果に南ことり。二人とも、幼い頃からよく知っている幼馴染。僕の女性恐怖症から除外されている、貴重な女性陣。まぁ、彼女達とまともに会話できるようになるまで結構な時間がかかったのだが、それはここでは置いておこう。
声をかけてきた子たちが穂乃果ちゃん達だと判明し、胸を撫で下ろす。これが知らない女の子だったら、心臓麻痺で病院送りになっていたかもしれない。
「急に話しかけられると驚くからよしてくれよ」
「もう、相変わらず女性が苦手なんだね空良くんは」
「仕方ないよ穂乃果ちゃん。空良さんだって色々あるんだから」
「駄目だよことりちゃん。空良くんがいつまでもこんなままだと、将来海未ちゃんが困るんだから!」
「リアルな話はやめてくれ」
滅茶苦茶真面目な顔で僕の精神を抉ってくる穂乃果ちゃんを慌てて止める。この子何も考えていないくせに、人が気にしていることを的確に突き刺してくるのはどういう了見なのか。長い付き合いで多少慣れているはずの僕が胸を押さえる毒舌ぶり。天然とはげに恐ろしきかな。彼女の隣で申し訳なさそうに僕に頭を下げることりちゃんの苦労が窺える。
僕は僕で、この持病で海未に迷惑をかけている自覚は大いに持っているのでとても頭が痛い。これを無自覚に言っているというのだから、この子は将来大物になること間違い無しだ。それまでにことりちゃんの胃が悲鳴を上げないことを祈ろう。
何度か深呼吸の末に落ち着きを取り戻すと、石垣に置いていた弁当を渡す。
「はいこれ。海未に渡しておいて」
「自分で渡さないの?」
「誰が渡しても一緒だろ。それに、僕的には一刻も早くこの敷地内から出ないと、持病で全身から血を吹き出して死ぬ」
「それはもう持病というより感染症じゃ……」
「とにかく、任せたよ二人とも」
呆れ顔で律儀に突っ込みを入れてくれる穂乃果ちゃんと、傍らで苦笑を浮かべることりちゃんに弁当を預けると、そそくさと中庭から離れる大学二年生。海未が来る前に退散してしまうことについては帰宅後こってり絞られるだろうが、今はできるだけ迅速に音ノ木坂を脱出する必要がある。許してほしい。
二人して微妙な視線を向けてくる妹分達に別れを告げると、僕は足早に中庭を去るのだった。
☆
中庭を立ち去り、正門へと向かう。門から校舎の間には音楽棟なるものが存在し、音ノ木坂を代表する音楽系部活がそこで日々練習に取り組んでいるらしい。最近はそこまで目覚ましい活躍はないものの、こうした昼休みでさえも楽器の音が鳴りやまないのは凄いことだ。練習熱心な学生達で、関係ない僕も鼻が高い。
様々な種類の音楽が耳を打つ。ギター、バイオリン、フルート……いったい何人の生徒が弾いているのか分からない程のバリエーション。多少乱雑ながらも透き通った響きに鼓膜が歓声をあげる。女性は苦手だが、女性的な音楽は良い。
耳を傾けつつ、正門へと足を進める。ずっと聞いていたいものもあるが、この場で立ち止まって聞いているわけにもいかない。後ろ髪を引かれる思いで立ち去ろうとした僕だったが――――
『I say~♪』
どこかで聞いたことがある曲と歌詞に、思わず足を止めた。惹かれるように音の方を向くと、それは音楽棟一階のとある教室から流れてきているようだ。
透き通った歌声と、流れる様に綴られるピアノの旋律。そして何よりも、この歌は。音楽棟から流れてくるこの歌は、海未が新入生歓迎会後のライブで歌うと言っていた、あの曲ではないだろうか。
穂乃果ちゃんとも、ことりちゃんとも、ましてや海未とも違う歌声。この三人しか知らないはずの曲を歌う少女の声に、僕はどうしてか聞き惚れていた。誰が歌っているのか、どうしても確かめたくなった。
間違いなく女性の声。それなのに、教室へと向かう足が止まらない。鼓動が速まる。だけどそれも、いつもの発作とは違う感覚。
校舎を回り込むようにして、件の教室が見える窓へと走る。さすがに校内に入るのは憚られた為、窓から覗くことにした。幸いその部屋は一階だ。外から眺めることはできる。
校舎周辺には誰もいない。皆、教室の中にいるのだろう。見咎められることもなく、僕は真っ直ぐ声を追った。
――――そして、出会った。
窓の向こう。ピアノに向かい合い、口ずさみながら鍵盤を叩く赤毛の少女と。
その子はいつか、あのUTX学園で見かけた女の子だった。巨大ディスプレイに映し出されたA‐RISEを不機嫌そうに見上げていた、切れ長の瞳が特徴的な音ノ木坂の生徒。西野木真姫という名前だけを知っている、逆に言えばその程度しか知らない赤の他人。言葉を交わしたことなんて一度もないのに、どうしてか僕は彼女の存在に見惚れていた。女性に対して拒否反応を示すはずの僕の身体が、さすがに接触することはできないにしても、発作を起こすことなく彼女に向いていた。
先程まではさっさと校内から脱出しようとまで考えていたのに、今この瞬間だけは、身体が動くことを拒否していた。もっと彼女を見ていたい、彼女の歌を聞いていたいと心が叫んでいた。
永遠とも思ってしまう程の時間が過ぎていく。彼女の視界に僕は入っていない。それでも、ここから見ているだけで幸福を感じていた。今の僕を知らない人が見れば、ストーカーの一人にでも見えただろう。それくらいの熱意をもって、僕は窓を通して西木野さんを見つめていた。熱に浮かされるとはこのことを言うのだろう。手に持っていた音楽プレイヤーが足元に落ちたことにも、この時の僕はまったく気が付いていなかったのだから。彼女以外はどうでもいい。そう思ってしまう程に、僕の心はすっかり彼女に奪われていた。
曲が終わる。歌声が聞こえなくなる。それなのに、脳内では彼女の歌声が延々と繰り返されていた。脳裏に焼き付くとは良く言ったもので、西木野さんの声が心に刻まれるような感覚に襲われる。
曲が終わった以上、早くこの場から立ち去らなければ。頭では分かっているのに、身体が余韻に浸っている。心が感動の二文字に包まれていた。気を抜くと、その場で手を叩いてしまいそうな程に。
呆けたように立ち尽くす僕。しかし、幸運の女神はここに来て僕に試練を与えるようだった。
『そうだ、窓閉めなきゃ……』
「っっっ!?」
一度もこちらを向かなかった西木野さんが、あろうことかこのタイミングでこちらへと振り向く。完全に油断していた僕はその場から一歩も動くことができず、不幸にも最悪のタイミングで彼女と目を合わせることになった。
窓を閉めるべく立ち上がった西木野さんが、僕を視界に捉えた瞬間ぴたりと静止。かくいう僕も、全身に冷や汗をかいたまま完璧に硬直してしまっていた。両者見つめ合ったまま立ち尽くすとかいう見ようによってはロマンチックな光景ができているものの、そのうち男性の方は歌っている少女を覗き見ている変態チックな女性不振野郎だ。今通行人がポリスをコールした時、果たして事情聴取されるのはどちらかいや僕に決まっているだろう!?
「……誰?」
「ぁ……ぅ……」
困ったようにこちらを見る西木野さんに対し、女性からの視線を真正面から意識してしまった僕はマトモに声を出すこともできない。喉が一気に干上がり、呼吸もままならなくなってきた。心臓が警報を鳴らす。これは、いつもの、発作だ。
無意識に一歩後ずさっていた。顔は完全に青褪めていただろう。もしかしたら見ても分る程に震えていたかもしれない。
「あの……大丈夫、ですか?」
「ひっ!?」
「あ、ちょっ!?」
僕の姿を心配したらしい西木野さんが再び声をかけてくるが、もう限界だった。
咄嗟に踵を返して走り出す。脇目も振らず、一心不乱に校内から走り去る。挙動不審にも程があったのは重々承知しているが、これ以上の接触は命に関わる恐れがあった。
呆気にとられたように僕の方を見る西木野さんが視界に入ったものの、何か気の利いた一言を与えられる訳でもなく、無様にその場から逃げ去っていく園田空良こと僕なのであった。
☆
数時間後、園田家にて。
「どうしたのですか兄さん。そんな部屋の隅で膝を抱えて」
「海未……兄ちゃんはもう、お天道様の下を歩けないよ……」
「はい?」
晩御飯の為に僕を部屋まで呼びに来た妹に対して、異様なまでに意味不明な言葉を残す僕の姿がそこにはあった。
今回も読了ありがとうございます。
スクフェスのイベント、なんとか真姫ちゃん三枚取りと海未ちゃん二枚取りできたので一安心。
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第三節 園田海未の憂鬱
最近兄さんの様子がおかしい。
「そうは思いませんか、穂乃果! ことり!」
「いやぁ、放課後急に呼び出されたかと思ったら、想定外の議題で穂乃果ちゃん頭の中が真っ白になってるよぉ」
「冗談言っている場合じゃありません! これは一大事です!」
「う、海未ちゃん落ち着いて……」
事の重大さを分かっていない穂乃果の反応に声を荒げてしまうが、ことりの制止に応じて一旦腰を下ろす。幸いにも周囲にお客さんはいないようで、私達の騒ぎに反応する群衆も存在しなかった。行きつけのファストフード店とはいえ、あまり問題を起こすのは得策とは言えない。
一度深呼吸で気持ちを落ち着けると、仕切り直す。
「兄さんの様子がおかしい件について」
「いや、そんなライトノベルのタイトルみたいなこと言われても」
「おかしいのですよ! 最近は何を言っても上の空ですし、話しかけても『僕はもう駄目だ』ってベッドのぬいぐるみ抱いて寝てばかりですし!」
「確かに、それは変だね……」
「あの日です……私がお弁当を忘れた日から、どうにも様子が変なのです!」
もうかれこれ一か月くらいあぁいった調子なのだ。一応大学の講義にも出ているしアルバイトも休まず行っているようではあるけれど、なんというか生気を抜かれた感じというか……、
「私が耳掃除をしてあげると言っても、『うん……』とかいう空返事しか返ってこないのですよ!」
『待って何その話聞いてない』
「? 急に身体を乗り出してどうしたのですか二人とも」
「なんでそこは普通に首を傾げるの!? 海未ちゃん結構とんでもないこと言っているんだよ!?」
「おかしなことを言いますねことり。兄妹ならば耳掃除の一つや二つ普通にするでしょう?」
「しないよ!」
普段のことりらしくない声の荒げように私としては戸惑うばかりなのだが、彼女の隣で盛んに頷く穂乃果がいるので反応が難しい。はて、私は何か変なことを言っただろうか。いや、もしかしたら異性の兄弟がいない二人だからいまいちピンと来なかっただけかもしれない。確かに姉妹と兄妹では接し方が異なるというのはその通りだ。彼女らもそのギャップに驚いているのだろう。
ならばこの話を掘り下げるのは無駄だ。今はとりあえず、本題に入らなければ。
「兄さんが私にお弁当を届けに来てくれた日、二人は兄さんに会っていましたね?」
「まぁ、偶然というか何というか、顔は合わせたけど」
「そうですか……」
「海未ちゃん?」
「穂乃果、怒りませんから、兄さんに何をしたのか正直に話してください」
「海未ちゃん!? え、なんで急にそういう話になるの!?」
穂乃果の肩を掴んで引き寄せる。目を白黒させながら一気に青褪めた穂乃果はじたばた暴れながら悲鳴を上げていた。……ふむ、この反応はシロですか。まぁ、穂乃果に限って兄さんにどうこうするとは思えない。彼女はこう見えて、他人を気遣える人間であるし。それに、とても兄さんを傷つけるような性格には思えない。
「ことりは絶対に違うでしょうし、穂乃果ではないとすればいったい誰の仕業なのでしょうか……」
「私は全力で疑われたのにことりちゃんが最初から全面無罪なのは納得いかない」
「え、えぇっとぉ……」
「日頃の行いに決まっています」
「海未ちゃぁん! せっかく私が誤魔化そうとしていたのに、言っちゃったら駄目だよぉ!」
「いや、言おうとしてたんかーい!」
突っ込みのつもりなのか見事に空を切る穂乃果の手刀。納得いかないとは言われたものの、それこそ彼女の自業自得だ。昔から兄さんの手を煩わせることが多かったのは圧倒的に穂乃果なのだから。ことりはそもそも他人に迷惑をかける性格ではないし、私は例外だし。……なんですか。妹が兄に迷惑をかけるのは例外ですよ、れーがい。
にしても、二人とも心当たりがないのは確からしい。もしかすると、女性恐怖症の兄さんが音ノ木坂に足を踏み入れたこと自体がまずかったのかもしれない。ちょっとしたトリガーで発症する恐れがあるのだから、迂闊に無茶をさせるべきではなかったのか。軽いリハビリと思って配達を頼んだのだが……少々無理をさせすぎたのではないだろうか。
「ねぇねぇ海未ちゃん。空良くんはさ、今具体的にどんな感じなんだっけ?」
「なんですか藪から棒に」
「いーからいーから。症状を説明してみてよ」
唐突にカウンセラーみたいなことを言い出した穂乃果。彼女に心理診療の心得があるという話は聞いたことないが……何か打開策を得るきっかけになるかもしれない。多少の不安は残るが、聞いてくれると言っているのだからここは素直に話してみるとしよう。何を察したのかわくわくした顔で待機していることりの様子も気にはなるけれど。
最近の兄さん……ここ一か月の空良兄さんの様子を思い浮かべながら、できるだけ事細かに説明を試みる。
「いきなり【女性との接し方】みたいな本を大量に買ってきたり、思い立ったようにジョギングに行ったり、急に叫び出したかと思うとベッドに飛び込んで唸ったり……あぁ、最近だと真姫のことをやけに聞かれますね。一度も会ったことはないはずなのに、いったいどうしたのでしょうか」
『原因分かってるじゃんこの天然ブラコン娘!』
「悪口がいきなりストレートすぎやしませんか!?」
もうオブラートとかそういう歪曲的なものを一切合切取り払った見事なまでに真っ直ぐな罵倒に称賛すら湧いてくる。今まで見たことがない程の剣幕で顔を寄せてくる二人がなんだか怖い。あの癒し系まったり少女南ことりでさえも目を血走らせて言い寄っているという事実に恐怖だ。現状が把握できない。何故穂乃果達はこんなにも怒っているのでしょう?
「落ち着いてください二人とも。そして、私にも分かるように懇切丁寧に教えてください」
「いやいやいや! なんで分からないの海未ちゃん! 空良くんの様子がおかしくなった原因は、確実に真姫ちゃんだよ!」
「は、真姫ですか? そもそも関わりがない相手なのに、そんなわけないでしょう。馬鹿を言いますね穂乃果は。お饅頭の食べすぎではありませんか?」
「返しが辛辣!」
「ねぇ海未ちゃん。何か心当たりはないの? ほら、空良さんが真姫ちゃんを知ることになったきっかけとか、そういうの……」
「きっかけ、ですか……」
そうは言われても、兄さんが真姫と話しているのは見たことがないし、そもそも彼は女性恐怖症だ。私や穂乃果、ことりといった幼馴染三人は例外だとしても、初対面の女性と関わり合える精神状況だとは到底思えない。そんな兄さんが、真姫のことを知るとしたら……。
と、そこまで考えたところで、一つだけ。ついひと月前ほどにあった出来事を思い出す。
「もしかしたら、ですが……」
「おぉ、なになに?」
「いえ、実際に会ったかどうかは分からないのですが、先月程にですね、兄さんが真姫の学生手帳を渡してきたことがありまして……。拾った、とは言っていたのですが、あの兄さんが女性に関わるものを拾うということ自体が珍しいな、と思った記憶はあります」
「海未ちゃんってホント空良くんが関わるとポンコツだよね」
「先程から毒吐くのやめませんか、穂乃果?」
「べぇーっ、さっきのお返しですぅー」
彼女の言い方に少々ムッとするものの、本気で言っているわけではないようで、悪戯っ子のような笑いを浮かべながらポテトをパクついていた。まぁ本気だろうが冗談だろうが、穂乃果にポンコツとか言われる筋合いはないのでナゲットを一個強奪しておく。これで両成敗です。
「私しか被害受けてないじゃーん!」
「私は精神面で傷ついたのです。ナゲットくらいで済んだのを感謝してください」
「じゃあ海未ちゃんのホットケーキ貰うもーん!」
「あぁっ! 楽しみに残しておいた最後の一切れをよくも!」
「あはは……ね、ねぇ海未ちゃん。もしかしたらなんだけど、空良さんは真姫ちゃんに恋しちゃっているんじゃないかな?」
「そんな馬鹿な……女性恐怖症の兄さんが恋をするなんて有り得ません。ことりも知っているでしょう? 兄さんが女性に好意を持つなんて考えられないことくらい」
「それはそうなんだけど……でもでもっ、真姫ちゃんのことを聞くときの空良さんって、恥ずかしそうだったり嬉しそうだったり、そんな複雑な表情していたりしない?」
「複雑な表情……?」
ことりの言葉に、最近の兄さんの様子を思い返してみる。
どこか照れたように、でも興味津々といった様子で練習中の真姫の様子を聞いて来たり。
たまにぼーっとしたように天井を見上げては、定期的に首を振ったり。
突然ランニングに出かけたかと思えば帰宅するや否やベッドに飛び込んでむーむー唸ったり。
……確かに言われてみれば、これらの意味不明な行動は一般的に恋をした時にとると言われる――――
「まままままっさか! ににににに兄さんに限ってそそそそんなばかかかな」
「大変だよことりちゃん! 海未ちゃんの頭がオーバーヒートして言語中枢が焼き切れちゃった!」
「う、海未ちゃーん! しっかりしてー!」
「兄さんが……あの兄さんが、恋愛……?」
「ま、まだ決まったわけじゃないから~! 言ってみただけだよ~!」
「そ、そうですよね! まだ確定したわけじゃありませんもんね!」
再び呼吸を整える。うん、早とちりはいけない。たまたまそう誤解されるような言動が目立っただけかもしれないではないか。女性恐怖症の兄さんが恋愛感情を持つなんて、通常考えられない。過去にあれだけのトラウマを負ったのだから、むしろ恋愛自体を毛嫌いしてもおかしくはないのだ。うんうん、そうに違いない。
「海未ちゃんって、自分では気が付いていないけど潜在的にブラコンだよね……」
「駄目だよ穂乃果ちゃん。それ聞こえちゃったらまたお説教されちゃうよ」
「どうかしましたか、二人とも?」
「う、うぅん! なんでもないよ!」
「そうですか? それなら良いのですが」
どうしてか顔に汗をかいて焦ったようにジュースを飲み始めた二人を怪訝には思うものの、なんでもないと言い張るのでそれ以上は追及しないようにする。何かすっごく失礼な話をされていたような気がするのですが……まぁ聞き間違いでしょう。兄さんのトラブルに気が動転していただけかもしれませんし。
彼女達も兄さんが恋愛をしていないということに安堵を覚えたのか、やけに深い溜息をついていた。
「う、海未ちゃんはさ! 空良くんにもしも好きな人ができちゃったら、どうするの?」
「はい? 私がどうするか、ですか? 兄さんが恋愛をすることなんて金輪際有り得ないというのに?」
「た、例えばの話だよ!」
「うーん、そうですねぇ」
何か奇妙な話題を提供してきた穂乃果に苦笑しながらも、私なりに考えてみる。仮に、もし仮に
兄さんの現状と過去。私なりの兄さんへの家族愛を鑑みて、しばらく首を捻った後に、とりあえずまとまった答えを返してみた。
「やはり兄さんに釣り合う女性だというのが最低条件ですからね。その為には少なくとも私が納得する必要があります。そうですね……例えば、剣道なり柔道なり弓道なり、武の道で私と張り合うかそれ以上の方ではないと交際を許すことはできませんかね……」
『……………………』
「穂乃果、ことり? 笑顔のまま固まってどうかしましたか?」
表情が笑顔で完全に固定されたまま微動だにしない二人。今日はなんだか変な言動が目立ちますね。二人とも日々の練習で疲れているのでしょうか。後輩も入ってきたことですし、気を抜いてはいられないのですが。
未だに固まっていることりの頬をつんつんと突いてみる。相変わらず餅のように柔らかな肌だ。触っているだけでこう、幸せな気持ちになってくる。
「つんつん」
「……」
「つんつんつん」
「…………」
「ふふ、柔らかい」
「何やってるんですか先輩方……」
「ひゃっ」
ことりのマシュマロほっぺたを堪能していた矢先に背後から声をかけられ、反射的に身構えてしまう。別にやましいことをしていたわけではないが、普段のクールな園田海未的イメージが崩れるのだけは少々避けたい。必要があらば目撃者の記憶を消し飛ばそう、と勢いよく振り向く。
背後に立っていたのは、赤毛の綺麗な美少女高校生。少し強気な印象を受ける吊り上がった目と、自信に満ち溢れた凛々しい表情。ファッション誌のモデルをしていると言われても納得してしまう程の外見を持った後輩が、何やら呆れたような視線でこちらを見ていた。
西木野真姫。先程話題にも出ていた、私達µ’sの作曲担当。そして、最近兄さんが妙に話を聞いてくる少女。
真姫はチーズバーガーセットが乗ったトレイを持ったまま、どこか馬鹿にしたような調子で告げる。
「イチャつくのは構いませんけど、こういう公衆の面前でやるのは私達が恥ずかしいんでほどほどにしてくださいね?」
「忘れなさい。今すぐに」
「いや、そんな人を殺しそうな目で言われても……別に言いふらしたりしませんから」
「当然です。このことを他の人に言ったが最後、音ノ木坂から西木野真姫の存在が抹消されることになります」
「怖いわよ!」
私の物騒な物言いに顔を真っ青にさせながら悲鳴を上げる真姫。どうにも反応が大きくていじり甲斐のある後輩だ。以前穂乃果も言っていたが、根は良い子なのだろう。ただ、素直になれないお年頃というだけで。ふふ、可愛らしいですね真姫は。
億パーセント有り得ないけれど、兄さんが彼女のことを気になっているというのも分からない話ではない。綺麗で上品で、ピアノも上手で頭もいい。スポーツは少々苦手ではあるが、そこがむしろギャップになっている。私が男性であれば、おそらく真姫のことを好きになっていても不思議ではないだろう。少々口が悪いのが玉に瑕だが。
「なにニヤニヤしているんですか」
「いえ、真姫は可愛いなぁと思いまして」
「うぇぇ!? ちょ、いきなり変な事言わないでよね!」
嫌がっているような物言いだが、顔を真っ赤にして言われても説得力がない。純粋な好意から褒められるということに慣れていないのか、視線をあちこちに泳がせる姿は可愛らしいの一言に尽きる。嗜虐心をくすぐられるというか……何かこう、猫を相手にしているような感覚に陥るのだ。癒される。
トレイをテーブルに置き、手持無沙汰に髪を指でくるくると弄る真姫に温かい視線を向けながら話しかける。
「今日はどうしたのですか? 真姫がこういうところに来るのは珍しいですね」
「別に、凛と花陽が誘ってきたから仕方なく、よ」
「素直じゃありませんね……」
「余計なお世話」
つん、とそっぽを向くものの、その顔がやや嬉しそうにはにかんでいることを私は見逃さない。愛情表現が致命的なまでにヘタクソな彼女だけれど、やはり友人に誘われるというのは嬉しいのだろう。もう少し素直に表現すればいいのに、というのは野暮か。
しばらく恥ずかしそうに視線を彷徨わせていた真姫だったが、ふと何かを思い出したように制服のポケットをごそごそと漁り出す。
「そうだ、先輩方に聞きたいことがありまして」
「聞きたい事、ですか?」
「はい。ちょっと前の事なんですけど、学校で知らない男の人と会って……その人が落としていったんですが、見覚えありませんか?」
そう言って取り出したのは、桃色の、桜があちこちにあしらわれたカバーが特徴的の音楽プレイヤー。長い間使われているのか、画面のあちらこちらにヒビが入っているのが痛々しい。赤いイヤホンのシリコン部分は色もまちまちで、よく無くすのだろうことが窺えた。
……そして、私はこの音楽プレイヤーの持ち主に心当たりがある。というか、これ自体昔に私がプレゼントしたものだ。先程、学校で男性が落としたと言っていたから、もしかしたら例のあの日、真姫は彼と会っていたのかもしれない。
なんか変な予感に苛まれながらも、真姫に答える。
「これは……この音楽プレイヤーは、私の兄のものです。具体的に言うならば、以前貴女の学生手帳を拾った男性、というところですか」
「あの人が、海未先輩のお兄さん?」
「えぇ、少々頼りない御仁でしたでしょう?」
信じられないとばかりに目を見開く真姫に対し、苦笑交じりに肩を竦める。世間は狭いというが、ここまで小さいともはや驚きすら湧いてこなくなるのか。なんだか、奇妙な感覚だ。何故彼女と兄さんが会うことになったのか、ちょっと今から問い質す必要性がありますね。おそらく、穂乃果達も気になっているでしょうし。
やっと硬直から解放された穂乃果とことりに事情を話すと、別のテーブルで待っているであろう凛と花陽の元に向かった。
今回も読了ありがとうございます。次週もお楽しみに。
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第四節 気に喰わない!
人生に理不尽は付き物とは、誰が言った台詞だっただろうか。
「兄さん。こちらの子が、以前からお話ししていた西木野真姫です。実際に面と向かって接するのは初めてですよね?」
「う、海未……? 待って、兄ちゃん状況がまったく掴めないんだけど……」
「それは今から説明しますから、とりあえず紹介を聞いてください」
海未先輩が私の名前を呼びながら、目の前の冴えない風体の大学生に紹介を始めていた。どうやら、この人は先輩のお兄さんであるらしく、以前音ノ木坂で遭遇した時も、先輩に弁当を届けていたのだとか。妹想いの良いお兄さんじゃない、と感心する。
――――と、ここまでは別にいいのだ。問題は、どうして私が園田道場まで連れてこられているのか。そして、少し離れた物陰から興味津々に覗きを敢行している野次馬四人組をどうやって始末するか、の二つに尽きる。お兄さんもなにやらテンパった様子であたふたと慌てふためいているけれど、かくいう私も正直どうすればいいのか分からないでいた。海未先輩は何を思って私をここに連れてきたのだろう。
もちろん、ここに至るまでの経緯というのは存在する。ニヤニヤしながら「ファイトだにゃ!」とか無責任かつ意味不明なエールを送ってくる凛の粛清方法を考えながら、つい数十分前のファストフード店の会話を思い返すとしよう。
☆
きっかけは、海未先輩の一言だった。
「真姫。その音楽プレイヤーは貴女が拾ったのですから、真姫が直接兄さんに渡してください」
「……は?」
ポテトを抓んでいた手が止まる。私の隙を見て食料の強奪を目論んでいた穂乃果先輩と凛を眼光で射貫いて行動不能にしつつ、なんか急によくわからないことを言い出した海未先輩に向き直る。
「いや、だってそれ先輩のお兄さんのものなんでしょう? だったら、先輩が直接渡せば全部解決するじゃないですか」
「そうはいきません。こういうのは張本人達が直接関わってこそ真の解決と言えるのです。私を介して終結させるのは道理が通りません」
「前にお兄さんが私の手帳拾った時には、先輩が渡したじゃない……」
「あれは例外です。兄さんから能動的に女性に関わるだなんて不可能に決まっているでしょう」
「なんかすっごい理不尽な言いがかりつけられている気がするわ……」
どうして前回は良くて今回は駄目なのか、正直理解に苦しむ。話を聞く限りだと、そのお兄さんとやらはとある事情から女性恐怖症で、女性と関わることが難しいとかいう事だけど……でも、それならむしろ私が関わらない方がいいんじゃないだろうか。
思った通りに告げると、先輩はやや申し訳なさそうに眉根を下げる。
「無理を言っているのは承知しています。ですが、これは良い機会だと思うのです。兄さんの女性恐怖症を治療するための第一歩。せっかく私や穂乃果、ことりといった身内ではなく、まったく関係のない他人の女性と関わる機会ができたのです。これを生かさない道理はありません」
「いや、でもそれ私にはまったく関係のない話だし……」
「お願いします、真姫。勿論ただでとは言いません。私にできることならば可能な限り行います。だから、兄さんの為にも……!」
「う、うぇぇ」
テーブルが焦げるんじゃないかってくらいの勢いで頭を擦りつけて頼み込んでくる海未先輩に混乱してしまう。そ、そんなに必死にお願いされちゃうと、なんか私が悪者みたいな感じになっちゃうじゃない。
まるで我が事のように全力で頭を下げる先輩。そのお兄さんとやらのことが相当好きなのだろう。妹からここまで愛されて、随分贅沢なお兄さんね。あの我が強い海未先輩ががノータイムでお願いしてくるなんて、今まで見たことがない。
あまり気は乗らないけれど、ここは私の根気負けかな……。
「か、顔を上げてください先輩。分かりました、分かりましたから」
「と、ということは聞いてくれるのですね!」
「え、えぇ……正直、私が行ってどうこうなるとは思えないけれど」
「ありがとうございます、真姫!」
「ひゃっ」
完全に根負けした私が承諾を伝えると、先輩は弾かれた様に顔を上げて私の両手を掴んでぶんぶん振り回してくる。クールで冷静な印象を受ける先輩だが、意外と感受性豊かで熱い性格なのかもしれない。肉親とはいえ、他人の為にここまで一生懸命になるのはそうそう簡単な事ではない。
そして、そこまで想ってもらえるお兄さんとやらがどんな人なのか、少し気になってきたというのも事実だ。実際に以前学生手帳を拾ってもらっているわけだし、お礼を言うついでに見てみるのもいいかもしれない。海未先輩がここまで親身になれるのだか、相当に良い人なのだろう。男性というものにあまり慣れてはいない私だけれど、まぁどうにかなるでしょう。
☆
そんなこんなで、現在に至る訳ではあるのだが。
「だ、駄目だって海未……話せるとか話せないとかじゃないんだ。そもそも向かい合えない……」
「気持ちは分かりますし怖いのも重々承知ですが、相手はお礼を言いに来ているのですからここは礼儀を重んじないと……それに、兄さんの落とし物も拾ってくれているのですよ? お礼の一つくらいちゃんと言ってください」
「うぅぅ」
壁の方に向いてしまったきり動こうとしないお兄さんを海未先輩がなんとか連れ出そうとしているものの、効果があるようには思えない。女性恐怖症だとは聞いていたものの、私が想像していたよりも遥かに重度の症状であるようだ。せいぜい女性が苦手くらいのものだと思っていたのだが、まさかコミュニケーションを取ることすら難しい程だったとは。
完全に置いてけぼりにされている私は正直どうすればいいのだろう。まだ会話の一つもできていない以上、勝手に帰るわけにもいかない。かといって、このまま待機して会話ができるとも思えない。
「これどうすればいいのよ私……」
「ほらほら真姫ちゃん! 自分からどんどん話しかけないと!」
「無理言いますね穂乃果先輩。ていうか、そこで野次馬している暇があるなら仲介の一つでもやってくださいよ」
「えー、なんでそんなめんどくさいこと」
「穂乃果先輩?」
「わ、わかったよー。クッションするからそんなに怒らないで真姫ちゃーん」
完全に野次馬根性丸出しだったµ’sのリーダーを力いっぱい睨み付け、舞台の上に引き摺り上げる。さっきから面白がってニヤニヤしているのが少々気に食わなかったのだ。先輩はお兄さんとは幼馴染であるらしいし、会話の手助けくらいにはなるだろう。
「ま、真姫ちゃん怖いにゃー」
「り、凛ちゃん! あんまり余計なこと言うとまた睨まれちゃうよ!」
相変わらず一言多い凛は後で一発殴っておくことにしよう。
溜息をつきつつ、改めて園田空良さんの方を見やる。未だに壁に貼り付いているが、観念したのか横向きではあるけれども視線はこちらを向いていた。顔を真っ青にして全身震えているのがとても痛々しい。本当に、女性が怖いのだろう。
……正直に言って、見た目は普通だ。やや中性的ではあるけれども、平凡という印象が強い。海未先輩がはきはきしていることもあって、相対的になよなよして見える。草食系男子、という表現が似合うだろうか。普段がどうなのかは不明だが、相当気が弱いように思えた。女性恐怖症とはいえ、海未先輩の尻に敷かれている感が凄い。
「ほらほら空良くぅーん! せっかく真姫ちゃんがわざわざ来てくれたんだから、勇気出して一歩踏み出そうよー!」
「お、女の子とどう接すればいいかなんて分かんないよ! そ、それに、僕なんかと話したい稀有な女性なんかいないって!」
「うーん、恐怖症以前に卑屈すぎるよー……」
穂乃果先輩が頑張って会話を始めようとはしてくれるものの、いまいち効果は見られない。本人的にはやむを得ないと言ったところなのだろうが、ここまでウジウジされると逆にイラッとしてきた。なんだろう、放っておけないというか、この人の根性を叩き直したいというか……とにかく、段々と腹が立ってきた。
いつまでも動かないお兄さんに苛立ちを覚えた私はいきなり立ち上がると、おそらくむすっとした表情のまま彼の元に歩いていく。
「えっ? あっ……えぇっ!?」
「ま、真姫? どうしたのですかそんな怖い顔で……」
「……園田空良さん、って言いましたよね?」
「ひゃ、ひゃい……」
「ま、真姫ちゃん?」
唐突に動き出した私を心配そうに見つめる先輩二人。物陰に隠れている残り三人も様子を見守るように口を噤んでいる。私に見下ろされている空良さんに至っては、ライオンを目の前にした草食獣のように涙目でぷるぷる震えている始末だ。その女々しい姿にまた一つ怒りのボルテージが溜まる。自分でもどうしてここまで苛立っているか分からないくらい腹を立てていた。なんというか、気に入らない。
「女性恐怖症っていうのがどういうものか私には分かりませんし、大変なんだろうな、とは思います。その様子だと、今までも相当苦労してきたっていうのもなんとなくだけど察せます」
「…………」
「何が原因だとか、そういうのも私は知りません。そして、こういうことを部外者の私が言うのもお門違いだってことも分かってはいます。でも、これだけは言わせてください」
空気が静まる。変な緊張感が場を包んでいた。自分でもなんでこんなことを言っているのか分からない。でも、言わなくてはいけないと思った。たとえこの人に嫌われようとも、初対面だとしても、私は彼に言わなければならないと思った。
心の中で海未先輩に頭を下げつつも、目の前で怯えたように私を見る空良さんを睨み付けると、内心の苛立ちを隠すこともせず、真っ直ぐ言い放つ。
「海未先輩がそこまで気遣ってくれているのに一歩も踏み出そうとしない空良さんは、相当格好悪いですよ」
「真姫!」
「……すみません、私帰りますね」
我ながら失礼なことを言っている自覚はあった。初対面の相手にこんなことを言われて怒らない方がどうかしている。海未先輩が顔を真っ赤にして怒鳴ったのも当然だ。実の兄を悪く言われて怒らない訳がない。
気まずいなんてものじゃなかった。自分でもどうしてあんなことを言ってしまったのか未だに分からない。話したこともない人を相手に何故あそこまで苛立ったのかさえも不明だった。
ただ、どうしてか、この男性の情けない姿だけは見たくないと思ったのだ。
鞄を取り、足早に部屋を出る。その際にことり先輩や凛、花陽が不安げな顔で私を見ていたが、苦笑交じりに微笑みかけるとそのまま部屋を後にした。海未先輩には明日謝ろう、と決心しつつ園田家を出る。取り返しのつかないことをした自覚はあったが、今更どうしようもなかった。願わくば、海未先輩に嫌われないことを祈るしかない。
物凄くもやもやした気持ちを胸に抱えながら家に帰る。何故だか分からないが、あのどこまでも情けない男性の姿が脳裏から離れることはなかった。
今回も読了ありがとうございます。
初期のナルシストギャル系真姫ちゃん可愛すぎひん?
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第五節 お互いの勇気
女の子に怒鳴られたのは、いつ以来のことだろう。
「はぁ、嫌われたかなぁ」
「どうだろうねぇ。でも、真姫ちゃんあぁ見えて意外と他人想いなところあるから、嫌いだとかそういうのより、放っておけないって気持ちの方が強いんじゃないかなぁ」
「そうなの?」
「たぶん」
「はぁぁぁ」
「たはー」と申し訳なさそうに頭の後ろをがしがし掻く穂乃果ちゃんに溜息が止まらない。ちなみにここは僕の部屋で、現在目の前には穂乃果ちゃんが一人いるのみだ。海未は彼女の部屋でことりちゃんになだめられている。どうも、僕が怒鳴られたのが納得いかなくて激怒しているようだ。ちなみに西木野さん以外の一年生二人は既にご帰宅されている。まぁ、彼女達はそもそも僕に用事があるわけではなかったようだし、当然と言えば当然だろう。
しっかし、久しぶりに真正面から怒られた気がする。情けないとは、これまた結構キツイ言われようだ。自分でも理解していた分、そのショックは大きい。
「まぁでも、西木野さんの言う通りだよなぁ。海未に心配かけているのにいつまでもうじうじしている僕は、相当格好悪いだろうし」
「いや、女性恐怖症なんだから多少は仕方ないとは思うけど。それに、空良くんのは事情が事情だから、自力でどうにかできる話じゃないし」
「それはそうなんだけどね。だけど海未に迷惑かけているのは事実だし、いつまでもこのままっていう訳にもいかないからなぁ」
「でもでも、空良くんだって頑張って私やことりちゃんとは話せるくらいまでは回復したんだから、何もしていない訳じゃないって!」
「……穂乃果ちゃんは優しいね。気遣ってくれてありがとう」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
褒められ慣れていないのか、恥ずかしそうに視線を背ける穂乃果ちゃんに微笑ましいものを感じつつも再び頭を悩ませる。
西木野さんの言っていたことは正論だ。自分でも想像以上に落ち込んではいるが、言われたこととしては何も間違ってはいない。僕自身ずっと思っていたことではあるし、今回はそれをたまたま彼女に言われた。それだけのことである。海未に迷惑をかけている自覚も勿論あった。ただ、分かってはいてもどうにもならないのが持病というやつなのだ。
どうにかしないと、とはいつも思っている。だから暇さえあれば音ノ木坂に海未を迎えに行ったり、街に出たりしてリハビリをしている。効果が出ているとは言い難いものの、自分なりには頑張ってきたつもりだった。
……でも、今回僕は彼女に対し一言も話しかけることができていない。海未や穂乃果ちゃんが手助けしてくれたにも関わらず、一言も。それどころか、僕の卑屈っぷりに業を煮やした西木野さんにまで怒られる始末。控えめに言って惨憺たる結果と言っていいだろう。しかも彼女は僕の音楽プレイヤーを拾ってくれていたのに、お礼の一つも言えなかった。恐怖症がどうこうではない。礼儀を通せていない時点で、僕は最低だ。
はぁ、と再び溜息。やるせない気持ちでいっぱいになる。
「なんか、悔しいなぁ」
「初対面の人にあそこまで言われたら、そりゃあ悔しいだろうね……」
「いや、西木野さんに対して悔しいって思っているわけじゃなくて、情けない自分自身が悔しいんだよ。彼女は別に間違ったことは言っていないから、怒る道理もないしね。むしろ、よく言ってくれたって感謝したいくらいかな」
「えぇ……感謝するのはどうなの」
「うーん。なんていうか自分でも不思議なんだけど、西木野さんに色々言われるのはあんまり嫌な気持ちはしなかったんだよね」
「…………空良くんって、マゾ?」
「それは違う」
若干引いたような顔で恐る恐る言ってくる穂乃果ちゃんだが、そこは冷静に否定させてほしい。僕だって悪口を言われるのは嫌に決まっているし、理不尽な行いを受けるのは真っ平御免だ。そういう面に関しては人並みの感性を持っていると自負している。別に被虐趣味があるわけではない。
ただ、自分でもよく分からないけれど、西木野さんにあぁ言われたのだけは、どうしてか怒りや嫌悪感よりも先に納得が先に来ていたのだ。「あぁ、確かに言われている通りだなぁ」と自分の事ながら客観的に腑に落ちている自分が存在した。それに、
「でも、やっぱり言われっぱなしってのはちょっとカッコ悪いよな」
「そうは言うけど、具体的にはどうするの? 空良くんの女性恐怖症って、そんな一朝一夕で治るようなものでもないでしょ?」
「具体的な対策はこれから考えていくつもり。女性全体に耐性を付けるっていうのは無理だけど、せめて西木野さん……いや、µ’sのメンバーくらいはマトモに話せるようになっておかないと。そこまで頑張れば、西木野さんも多少は見返せるかもしれないし」
「おぉ、空良くんが珍しくやる気だ! 私、そういうスタンス好きだよ!」
「それでなんだけど、僕の女性恐怖症を治すのに協力してほしいというか……」
「やだなぁ水臭いよ空良くん! 私にできることがあれば何でも言って! 空良くんの為なら私、たとえ火の中水の中海未ちゃんの入浴シーンの中!」
「うん、最後のは海未の前では言わないようにね?」
相変わらずどこまでも能天気で自由奔放な穂乃果ちゃんだけれど、こういう時は素直に優しいからとても助かる。µ’sのリーダー的存在である穂乃果ちゃんが協力してくれるとなれば百人力だ。西木野さんを見返すためには、彼女の力が必要不可欠と言っていい。さすがに僕一人では取っ掛かりもないから、恥を忍んで穂乃果ちゃんの助けを借りよう。
昔から何かと僕を気にかけてくれる優しい幼馴染に感謝の意を表しつつ、とりあえずこれからの具体案を二人で考えていく。焦ることはない、少しずつ進んでいこう。最終的に西木野さんを見返すためには、自分のペースで最大限の効果を発揮できればそれでいい。
「よーっし、やるぞぉー!」
「おー! ていうか、やけに真姫ちゃんを意識しているみたいだけど、もしかして空良くん……真姫ちゃんのこと、好きだったり?」
「ぶほぉ。き、急に何を言い出すかと思えば……僕は女性恐怖症だよ? そんな僕が西木野さんの事を好きだなんて何を根拠にそんな」
「空良くん顔真っ赤ぁー。昔から嘘が下手なのは変わらないねー」
「っ――――!」
ニヤニヤと微笑ましい視線を向けてくる幼馴染から顔を逸らす。別に好きとかどうこうの気持ちはないはずなのに、指摘された途端に顔が火照って鼓動が速くなるのはどういう了見なのか。これじゃあまるで、僕が本当に西木野さんのことが気になっているみたいじゃないか! そ、そんなわけないだみょ!
「噛んでる噛んでる。動揺しているねぇ」
「うぅ、これは何かの間違いだよ……」
未だに冷める様子がない顔を見られるのがなんだか恥ずかしくて、部屋の隅に視線を固定したまま穂乃果ちゃんの追求から逃れる。なんか、何を言っても墓穴を掘りそうだった。今は大人しく黙々と対策を練った方がいい気がする。
「大丈夫大丈夫、分かっているよ空良くん。真姫ちゃんとの仲は私が取り持ってあげるから、頑張ってくれたまえ!」
「もしかしなくても楽しんでいるでしょ穂乃果ちゃん」
「モチのロン! 思春期女子にとって恋バナはスイーツみたいなものなんだから!」
「僕にとっては死活問題なんだけどね!」
もしかしたらこの子は、娯楽的な意味で僕を助けると言っているのではないだろうか。少し心配になってきた。
「うりうり」と密着したまま僕の頬を指で突っついてくる穂乃果ちゃんを必死に避けつつも、頭の中から西木野さんのことがどうしても離れない僕であった。
☆
あれから数日が経過したとある日曜日。僕は穂乃果ちゃんと二人で、秋葉原を散策していた。
「スクールアイドルの雑誌が欲しいんだけど、女の子一人じゃ入りづらくてさぁ。空良くんがいてくれて助かったよぉ」
「ことりちゃんも海未も用事があるらしいからね。リハビリを手伝ってもらっている身だし、これくらいはお安い御用さ」
「えへへー。空良くんは優しいねぇ」
いつも通りの太陽のように明るい笑顔でにぱーっと笑う穂乃果ちゃん。この子を見ていると悩んでいる自分が馬鹿みたいに思えてくるから不思議だ。他人を笑顔にする能力に昔から長けている彼女はいつも皆の中心だった。海未もことりちゃんも、この子のそういうところに惹かれたのだろう。かくいう僕も例外ではないけれど。
秋葉原は電気街でもあるが、最近ではサブカルの聖地という側面が強い。少し歩けば同人ショップの看板を見かけるし、あちらこちらでメイド喫茶の店員さんが客引きをしている。派手な衣装に身を包んだ彼女達の姿は、世間一般に想像される秋葉原を強くい印象付けていた。
「すみませーん! 良かったらどうですかー?」
「あ、あの……その……」
「あー、ごめんなさい! チラシだけ貰いますね!」
「ありがとうございますー!」
客引きのメイドさんが声をかけてくるものの、マトモに言葉を返すこともできない僕。一瞬で鼓動が速まり身体中の汗腺が活発化するが、僕とメイドさんとの間に入り込むようにして会話を続けてくれたのは他でもない穂乃果ちゃんだ。ニコニコ笑顔でチラシを受け取ると、僕の腕を引いてその場から足早に退散することに成功。
「……毎度ごめんね、穂乃果ちゃん」
「気にしない気にしないっ♪ それより、さっきのメイドさん可愛かったねー」
笑って話題を変えてくれる穂乃果ちゃんだけど、毎度毎度こうやって助けられている身からしてみると申し訳なさでいっぱいだった。彼女は「気にしないで」と言ってくれるものの、迷惑をかけている事実は否めない。海未に対してもだが、僕がもう少ししっかりしないと、いつまでも彼女達の助けを借り続けなければならなくなってしまう。
『海未先輩がそこまで気遣ってくれているのに一歩も踏み出そうとしない空良さんは、相当格好悪いですよ』
「……本当、西木野さんの言う通りだな」
「どうしたの?」
「うぅん、なんでも」
脳裏に浮かぶのは、先日受け取った西木野さんの言葉。言い方はキツイけれど、その内容には頷くしかない。海未やことりちゃん、穂乃果ちゃんは否定してくれるけれど、客観的に見た場合、今の僕は相当に格好悪い。妹や幼馴染の陰に隠れて生きているだけの、腰抜け野郎だ。
だから、僕は頑張らないといけない。僕の為に怒ってくれた海未や、こうして親身にサポートしてくれることりちゃんや穂乃果ちゃんに応える為に。そして、西木野さんを見返すために。一歩でも前に踏み出さなければならない。
僕の隣で怪訝そうに首を傾げる穂乃果ちゃんを心配させないよう笑顔を浮かべながら秋葉原を歩く。目的の店はもう少しのようで、見ても分かるくらいに彼女のテンションが上がっていた。穂乃果ちゃんも以前に比べるとスクールアイドルについて勉強したのか、僕が知らない情報を自信満々に話してくる。いつでも一生懸命な彼女の姿は、僕にとって憧れと同じように映った。
彼女の話を聞きながら歩く。そんな時、ふと背後から声をかけられた。
「あ、あの!」
「っ!?」
突然かけられた女性の声に身体が硬直する。だが、このまま無視するわけにもいかないそれでは今までと変わらない。
生唾を呑み込むと、意を決して後ろを向く。
最初に目に入ったのは、燃えるような赤毛。カールのかったセミロングの少女は、やや吊り上がった紫の瞳で僕の方を見ていた。だが、その表情はどこか申し訳なさげに暗さを帯びている。
その少女に、僕は見覚えがあった。
「に、西木野、さん……?」
「ま、真姫ちゃん!? こんなところでどうしたの!?」
「あ、えっと……」
まさかの人物に驚きを隠せない僕と穂乃果ちゃん。対する西木野さんも何故か慌てたようにわたわたと視線を泳がせている。先日目にした強気の彼女とは正反対の姿に、思わず目を丸くしてしまった。冷や汗と震えは止まらないながらも、ちょっとだけ可愛いと思ってしまう。
何かを躊躇している様子だというのは察した。だけど、僕から声をかけることはできない。言葉にしなきゃいけないという気持ちはあるが、まだ身体が付いてこないのだ。つくづく情けない人間だと自己嫌悪。
西木野さんはしばらくあちらこちらに視線を飛ばしていたが、やがてぎゅっと目を閉じると、意を決したように僕を真っ直ぐ見据えて、
「この前は、ごめんなさい!」
どこから取り出したのか、プレゼント包装された小さな箱を両手で差し出し、僕に向かって勢いよく頭を下げた。それはもう、綺麗な直角に。
「え……え……?」
「い、言い過ぎたって自覚はあったんですけど、その場で謝るのは恥ずかしくて……でも、このままずっと放っておくのは、私のプライドが許さないというか……と、とにかく! ごめんなさい!」
「え、えっと……真姫ちゃんは、このためにわざわざ秋葉原にいたの?」
「海未先輩の家まで行こうかと思っていたんです……でも空良さん達を見かけて、つい声を……」
以前の態度からは想像できない程に落ち込んだ様子で尻すぼみな声を漏らす西木野さん。
真摯に、そして真っ直ぐ謝罪の気持ちを伝えてくれた彼女は、いったいどれだけ思い悩んでくれたのだろう。あまり西木野さんのことをよく知らない僕でさえ、プライドの高い女性なんだろうなと思うくらいだ。一度あれだけのことを言ってしまったにも関わらず、こうして真正面から謝ることができたというのはそれはもう大変な事である。相当な決心と覚悟を以て来てくれたであろうことが窺えた。
穂乃果ちゃんの方を見る。彼女は驚きながらも、僕の方を見やると強い眼差しでこくんと頷いてくれた。そうだ、西木野さんがこれだけ勇気を振り絞ってくれたのだから、ここで応えないと男が廃る。恐怖症がどうだとか言い訳をして、西木野さんの勇気を踏み躙るのは一番してはいけない。
呼吸を整える。けたたましく鳴り続ける胸を叩くと、自分の頬を平手打ちして覚悟を決めた。よし、できる、いける。
「に……にしきの、ひゃん!」
「あ……」
「あ、う……」
「頑張って空良くん!」
「……西木野、さん!」
馬鹿みたいに言葉を噛んで一瞬覚悟が揺らぎかけるが、穂乃果ちゃんのエールを受けて踏み止まる。これくらいで弱音を吐いてどうする園田空良! 頑張れ、僕!
震える瞳でなんとか西木野さんを見据える。僕から声をかけたのが信じられなかったのか、驚いたように目を見開いていた。ちょっとだけ、やってやったという達成感が出てくる。
「ぼ、僕は……西木野さんに言われたように、弱虫で臆病、です……。海未や穂乃果ちゃん達に……迷惑をかけているっていう、自覚もあり、ます。西木野さんの言う通り、格好悪いお兄ちゃん、です」
「空良さん……」
恐怖症が抜けきらないたどたどしい言葉遣いではあるけれど、決して茶化すことなく聞いてくれている。薄々分かってはいたが、西木野さんは優しい。少し人より感情表現が不器用なだけで、誰よりも優しい人なんだ。ちゃんと話してみると、分かる。
だから僕は宣言する。誰よりも優しいこの少女の忠告を心に受け止め、いつかこの子に褒めてもらえる自分を目指して。
「これから、頑張ります。まだ一人では無理だけれど、周りの助けを借りながらでも、僕は一歩ずつ前に進みます。だから……良かったら、僕が頑張れるように、
「とも、だち……?」
「は、はい。あの、こんな女性とマトモに話せないような臆病者が言うのもおかしな話なんですけど……嫌じゃなければ……」
「……ふふっ」
「に、西木野さん?」
僕の宣言が何かおかしかっただろうか。西木野さんは一瞬呆けたような表情を浮かべると、次の瞬間には耐え切れないように口元を押さえて笑っていた。見れば、隣で穂乃果ちゃんも嬉しそうに微笑んでいる。ど、どうしたのだろう。僕だけ完全に置いてけぼりを食らっている感が否めない。
問い質すわけにもいかず視線を泳がせる僕。そんな僕を見て、先程とは違う穏やかな笑みを浮かべる西木野さん。彼女の美麗な笑顔に、恐怖症とは別の意味合いで心臓が高鳴る。目が、離せない。
僕の視線に気が付いているのかいないのか、わずかに頬を朱に染めた彼女は表情を和らげたまま僕に近づく。狼狽えて下がろうとするが、いつの間にか回り込んでいた穂乃果ちゃんによって退却は不可能に。なんで!?
どうすればいいのか分からない僕を差し置いて、彼女は先程持っていた箱を僕の胸にトンと置くと、
「嫌なわけないじゃないですか。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
まるで、女神のような慈愛と美しさに溢れた顔で、僕に笑いかけてくれた。
「――――――――」
言葉が出ない。完全に見惚れていた。西木野真姫という少女の姿に、園田空良は完璧に心を奪われていた。
今になって、ようやく気が付く。
どうやら僕は、この茜色の少女に恋をしているようだ。
「よろしくお願い、します……」
「敬語じゃなくていいですよ。呼び方は……まぁ、今はそれでいいです」
「は、はい……」
「空良くん? おーい空良くーん」
僕の異変を察したらしい穂乃果ちゃんが目の前でぱたぱた手を振っているが、それに反応できる程の余裕は今の僕には存在しなかった。人生で経験したことがない感覚に、五感のすべてが麻痺していたのだろう。何度も声をかけられるが、うまく返事ができない。
――――正直に言って、どうやって家に帰ったかすらもあまり覚えていなかった。唯一覚えているとすれば……、
僕は今、恋をしているということくらいだろう。
今回も読了ありがとうございます。
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第六節 小泉草太という青年
なんでも話せる友人というのは、何気に必要なものだ。
「信じられない話だけど、僕にも好きな人が出来ました」
「……は? 正気かお前」
「自分でもそう思うけどいたってマジ」
「嘘だろ……」
僕の告白に衝撃を受けた様子の丸刈りな友人が引き攣った表情を浮かべる。髪は一本も生えていないのにパーツだけでイケメンだと判断できる彼は、僕の高校時代からの同級生だ。がっしりとした体格に丸刈りとかいうスポーツマン体型ではあるが、彼はこう見えて運動があまり得意ではない。趣味はアイドルの追っかけとかいう外見と内面のギャップがフルスロットルな残念イケメンだ。それでもモテるんだからイケメンってすごい。
名前は
六月も折り返そうかという時期。大学の講義も終わり、大してやることもなかった僕は草太に連れられてここ秋葉原のファストフード店に降り立っていた。時刻はちょうどおやつ時。まだ高校は授業があっている時間の為、そこまで混み合ってはいない。女性の目が苦手な僕からすればありがたい限りではある。
「にしても、お前に好きな人ねぇ……あのメンタル状況からよくもまぁそこまで回復したもんだわ」
「回復したというか、恐怖症は治っていないんだけど。それでも惹かれちゃったみたいなんだ。まだ、全然まともに話せないんだけどね」
「だが空良にしては頑張っているじゃないか。お前がそこまで惹かれる女の子っていうのは気になるな。写真とかねぇの?」
「うっわすっごい野次馬根性丸出しな台詞が来た」
「いいじゃん減るもんでもねーし」
「一応、海未から送られてきた写真があるけどさ……」
「お、見せてくれよ是非是非」
ほれほれと手をひらひらさせながら催促してくる草太。昔から何かとお調子者属性だったからかこういう話題に対しての食いつき方が半端ない。女性恐怖症の僕が好きになった子っていうのもあるんだろうけど……ニヤニヤ具合がまたイラッとくる。
一瞬鼻っ柱を引っ叩いてやろうかと画策するものの、それくらいでこのアイドルオタクが退くとは思えないので大人しく写真を見せることにした。以前海未がメールで送ってくれた、西木野さんの練習中の写真があったはず。制服ではない、見慣れない練習着の可愛さに言葉を失った覚えがある。いや、可愛すぎるでしょ西木野さん。
チーズバーガー頬張りながら覗き込んでくるバカに辟易とはしながらも、画像を見せる。
「ほらこの子。見た目ちょっと強気っぽいけど、めちゃくちゃ良い子なんだよ」
「どれどれ……って、は? これµ’sじゃん。しかもその子、真姫ちゃんだろ?」
「え、なんで知って……あぁ、草太そういえばアイドルオタクだったね。それなら納得」
アイドル全般が大好きな彼ならスクールアイドルを網羅していても不思議ではない。しかし、もうそこまで有名になったのか……まぁ全員可愛いしね。
一人で勝手に納得する僕だったが、草太が漏らしたまさかの台詞に度肝を抜かれる事になる。
草太は驚いたように目を見開いたまま、最近9人にメンバーが増えたらしいµ’sの一員――――少し気弱そうな雰囲気の女の子を指差すと、あろうことかこんなことを言うのだった。
「いや、知っているも何も、この子俺の従妹だし」
「…………は?」
「だから、この真姫ちゃんの隣にいる奴。小泉花陽は俺の従妹なんだって。前に言ったろ? 最近スクールアイドル始めた従妹がいる話」
「……うそやん」
「なんで似非関西弁」
なんかさらっと衝撃的な事実が露見しているんだけど神様最近働きすぎてない? 大丈夫?
もう何度目になるか分からないけれど、ここ何か月か世界が狭くなってきている感が物凄い。もしかしたら今、僕の交友関係は秋葉原周辺のみに制限され始めているんじゃないだろうかってくらい知り合いが繋がっている。しかも従妹って……小泉さんが草太の親戚ってところでもうお腹いっぱいなのに、もしかすると西木野さんと草太が繋がる可能性があるっていう事実に胃が痛い。
「そういえば最近花ちゃんがすげぇ楽しそうに『真姫ちゃんにもようやく春が来るかもしれないんだよ~』とは言っていたけど、空良だったのか。いやー、これは今後の報告が非常に楽しみになってきましたなぁ」
「僕の気苦労も知らんとこのクソハゲは」
「ハゲじゃねぇファッション坊主だ。でもよぉ、女の子に話しかけることすらままならねぇお前がどうやって真姫ちゃんにアタックするつもりなんさ」
「そこなんだよね……」
正直、そこは最大の難関だったりする。秋葉原での一件でようやく会話に成功したとはいえ、その後は穂乃果ちゃん及び海未のサポートありきでなんとか会話を成立させている僕なのだ。目も合わせられなかった以前に比べればだいぶ成長はしたものの、二言三言話すと限界が来て幼馴染ーズの背後に隠れてしまう始末。西木野さんも気を遣って色々話しかけてはくれるが、未だに逃げ腰なのは否めない。
そもそも彼女に会う機会というのが曲作りのために園田家に足を運ぶときくらいなのでそんなに多いわけでもない。前々は穂乃果ちゃんの家を本拠地として使っていたらしいが、普通に考えてウチの家の方が広いという判断に達したらしかった。僕としては合法的に西木野さんに会えるので嬉しい限りだけども。毎回顔を合わせる度に恐怖症こじらせてマトモに言葉すら発せないのは如何なものかと自分でも思う。
「でもまぁ、向こうから話しかけてくれているのなら、少なくとも嫌われてはいないってことじゃんか。自信持てよ自信」
「気を遣われているだけだと思うけどね……僕が女の子に好かれる要素が見当たらないし」
「そんなこと言うなって……」
「だって、格好良くもないし背も高くない。大して秀でたものもない上に女性恐怖症。こんな平凡&ヘタレと話してくれるだけでも感謝しないと」
「なんでお前は恋愛事になるとそんなに卑屈になるんだよ……」
呆れたように草太が言ってくるが、過去のトラウマから僕自身が恋愛事に関してはスーパーネガティブな為に卑屈な考えはなかなか拭えない。自信を持てば自然と女性から振り向いてもらえるようになるとはよく言われるが、そもそも自信を持てるような根拠となり得るポテンシャルを持っていない僕が何を自信にすればよいというのだろうか。まずもって、女性からの評価は常に最底辺だと自負している僕に自信を持てというのが不可能に近い。
「相変わらず難儀な思考回路してんなぁ。仕方ねぇっちゃあ仕方ねぇけど、そういう考え方ばっかしてると人生疲れるぞ?」
「自分でも分かってはいるんだけどね。いかんせんネガティブ染みついちゃってるから、考え方治すのにどれだけかかることやら」
「お前も大変だな……」
色々言ってくるものの、なんだかんだ優しい草太は割と真面目に心配そうな表情で僕の肩をポンポン叩いてくれる。変に茶化してこないあたり本当に心配してくれているのだろう。気を遣わせて申し訳ないと思う反面、親友の存在に有難みを覚える。表立って言う事はないけど。恥ずかしいし。
「人の心配する前に自分こそ彼女作りなよ、そろそろさ」
「俺にはアイドルがいるからな。まだ大丈夫さ。それに俺モテるし」
「控えめに言って相当ウザい」
「わはは」
照れ隠しに話題を変える。草太も察してくれたのか、それ以上追及することはせず話題転換に応じてくれた。こういうところは本当に気が利く親友で助かる。
豪快に笑う草太に内心感謝を述べつつ、すっかり溶けてぬるくなってしまったジュースを煽る僕なのだった。
☆
草太と別れ、時刻を確認すると午後五時半。学校帰りの音ノ木坂生やUTX学園生もちらほらと見え始めてきた。
「帰るにはちょっと早いね」
別にこのまま帰宅してもいいのだが、今日はなんだか外を歩きたい気分だ。メイド喫茶の勧誘から目一杯距離を取りつつ、手持無沙汰に秋葉原を散策する。サブカルの聖地と言われる場所だからか、同人ショップや専門店が視界一杯に広がっていた。
そんな中に一つ、目に入る特徴的な店舗。『スクールアイドル専門店』と書かれた看板が出ているその店は、以前穂乃果ちゃんに連れられて入店した場所だ。店内には中高生くらいの男女が何人か物色している光景が見える。スクールアイドルは彼ら学生達の憧れの存在だという話はあながち嘘ではないのだろう。かくいう僕も、以前ライブ映像を見せてもらった時に完全に見入ってしまっていた。彼女達は今や、プロのアイドルにも引けを取らない程の魅力を放っている。
海未を通じてではあるが、僕も最近はスクールアイドルなるものに興味が湧いてきた。色々見てみたいとは思うものの、知らない女性もちらほらと散見される店内に乗り込むのは少しばかり敬遠させた。気にしすぎだと分かってはいるけれど、無意識のうちに足が遠ざかる。
一歩後ろに下がった瞬間、死角となっていた背中に何かがぶつかった。
「きゃっ」
「わっ」
女性の声。それも甲高い悲鳴のようなものに一瞬身構える。脳内がぐるぐると空回りする感覚に襲われ、とにかく謝ってこの場を乗り切ろうと勢いよく背後に視線を向けた。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ、こっちこそ……って、空良さん?」
「え? に、西木野さん!?」
まず目に入ったのは特徴的な赤毛。聞き覚えのある声に顔を上げると、吊り上がった目をぱちくりと丸くさせながら僕を見つめる西木野さん。驚いたように目を見開いている彼女に気が付き、思わず飛び上がる。
以前穂乃果ちゃんと二人でいるときにも鉢合わせたが、一人でいる時にこうして街中で対面するのは初めてだ。UTX学園の前で見かけたときは僕が一方的に見ていただけだから、カウントはしない。にしても、彼女が一人で秋葉原を歩いているのは珍しい気がする。いつもµ’sの皆と一緒にいる印象があった。
「珍しいですね、空良さんが一人でいるなんて」
「そっ、そうかな⁉ ま、まぁ確かにいつも海未や穂乃果ちゃんがいるもんね!」
「……やっぱりまだ私と話すのは慣れませんか」
「め、面目ない……」
「いえ、すぐには難しいでしょうし気にしないでください」
苦笑交じりにそう言ってくれる西木野さんではあるが、僕としては未だに罪悪感と情けなさで心が痛い。彼女と知り合ってからもう数週間が経過し、何度か顔を合わせてはいるものの、まだマトモに落ち着いて話すこともできない自分に辟易する。せっかく西木野さんが気を遣って話しかけてくれているというのに、情けないにも程がある。
ちら、と西木野さんを見ると、どこか手持無沙汰な感じで横髪を指で弄っていた。うわぁぁ何か、何か話さないと!
「にっ、西木野さんはどうして秋葉原に!? 今日はµ’sの皆と一緒じゃないの!?」
「あ、えっと、今日は曲作りの為に他のスクールアイドルの曲でも聞こうかなと思って。そこに専門店があるじゃないですか。CDを買いに来たんです」
「そ、そうなんだ……真面目なんだね、西木野さん」
「べ、別に……ただ、どうせ曲を作るのなら、私が納得できる出来にしたいと思っているだけです」
ぷいっとそっぽを向くが、その顔がほんのり朱く染まっているのに気づいてしまい思わず笑みが零れる。やはりこの子は素直じゃない。けれど、誰よりも一生懸命で優しい。本当に魅力的で、僕が好きになること自体が烏滸がましいような可憐な女の子。
曲作りの参考に専門店に向かうと西木野さんは言っていた。だったら、ここで僕が時間を取らせるわけにはいかないだろう。話を切り上げて早々にこの場から立ち去るのがいい。
「じゃあ、僕はこれで……曲作り、頑張ってね」
「え……あ、あの! 空良さん!」
「は、はい?」
完全に立ち去る気でいた僕は予想外に呼び止められたことで素っ頓狂な声をあげてしまう。混乱する頭のまま振り返ると、先程よりも真っ赤になった西木野さんがちらちらと僕の方を含みがある感じで見ていた。僕を呼んだ彼女の意思が察せられず、首を傾げる。
どうすればいいか分からず視線を泳がせる僕だったが、西木野さんの一言に再び気の抜けた返事を漏らすのだった。
「この後時間があるのなら……行きたいところがあるので、よかったらご一緒しませんか?」
「……Pardon?」
「えっ」
「ごめんなんでもない。その、聞き間違いでなければ、僕と一緒に……ってこと?」
「は、はい」
気まずそうに視線を逸らしながら、それでも首を縦に振る西木野さんに思考が停止する。一瞬意味が分からなくて、本当に頭の中が真っ白になっていた。言葉を噛んで理解した今でも、意図を把握できず頭上に浮かぶクエスチョン。
これ以上彼女に迷惑をかけられないと思う反面、誘われて嬉しいという感情が湧いてくる。「曲作りをすると言っていたのだから一人の方が集中できるのでは?」という疑問も浮かぶが、心中の戦いの末に僕は生唾を呑み込むと、
「ぼ、僕でよければ……」
恐怖症で引き攣った顔をなんとか笑顔に変えて、彼女の提案に乗るのだった。
今回も読了ありがとうございます。
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第七節 夕陽に照らされて
秋葉原から少し歩いたところの、丘の上にある病院。西木野病院と名前がついているそこの近くには、ブランコと滑り台だけが置かれた小さな公園が存在した。現在僕達は、二つあるブランコにそれぞれ腰かけて、秋葉原の街並みに沈む夕陽を眺めている。
「すみません。わざわざこんなところまで来てもらっちゃって」
「い、いや、それについてはまったく構わないんだけど……」
そう言って頭を下げてくる西木野さんから視線を逸らす。二人きりという事実を妙に意識してしまって、まともに彼女の方を向くことができない。できるだけ平常心でいようとすればするほど、身体がうまく動かなくなる。
このまま黙っているわけにもいかない。視線は空中に固定したまま、とにかく話題を探す。
「あ、あそこの病院って、もしかして西木野さんの親御さんがやってるの?」
「はい。パパ……お父さんが院長で、お母さんが看護師で。私も将来は後を継ぐように言われてはいるんですけど……ちょっとまだ、悩んでて」
「お医者さんになるのって大変だもんね。勉強ばかりやるのも辛いでしょう?」
「いえ、勉強自体はそこまで辛くもないんですけど……なんか、まだ自分の中で決心できていないというか、なんというか」
「…………」
「ご、ごめんなさい。急にこんなこと言っても困りますよね」
「うぅん。こっちこそ、何か気の利いたことを言って上げられればいいんだけど……」
正直に言うと、どう返事をすればいいのか悩んだというのが沈黙の答えだ。彼女の将来に関わる話題なのだから、僕のような部外者がおいそれと口出しするわけにもいかない。それに、西木野病院の跡継ぎともなれば人生を左右する選択だろう。迂闊な事は言えなかった。
それにしても、どうして彼女は僕をここに連れてきたかったのだろう。縁もゆかりもない場所なのに、何故。
「あの、空良さん」
疑問に首を傾げていると、再び名前を呼ばれた。今度は自然に西木野さんの顔を見る。特に意識しない中での行動だったから、あまり緊張もしなかった。
西木野さんは夕陽を真っ直ぐ見つめたまま、誰にともなく呟く。
「今から私は独り言を言います。誰に向けたわけでもない、私の勝手な愚痴を。だから空良さんは、それをあくまで独り言として聞き流してください。その後の対応は、任せます」
「……独り言、ね。素直じゃないなぁ」
「う、うるさいですよっ」
「はいはい。ほら、好きに愚痴りなよ」
「もう……」
僕に茶化されたのが気に食わなかったのか、ハムスターのように頬を膨らませて拗ねた表情を浮かべる西木野さん。普通に相談に乗ってくれとか、愚痴を聞いてくれと言えばいいのに、あえて独り言として聞き流してほしいと言うあたり本当に素直じゃない。そして、そういう不器用なところがどこか海未を連想させて、親近感が湧いた。海未も落ち込んだ時はこうして隣で勝手に愚痴を言っていたっけ。
そんな彼女の姿に、なんとなくではあるけれど僕がここに呼ばれた理由が分かった気がする。音ノ木坂から離れたこの公園ならばµ’sのメンバーと鉢合わせることもないし、変な噂を流される心配もない。僕が呼ばれたのは、あまり親しくはないけれどかといって他人というわけでもない絶妙な距離感の存在だからだろう。変に仲のいいメンバー達には相談しづらかったのかもしれない。後は、僕が大学生だからというのもあるだろうが。
僕の勝手な考察はさておいて、西木野さんは咳払いを一つ。気を取り直すと、憂いを帯びた表情で言葉を紡ぐ。
「私、本当はピアニストになりたかったの」
「ピアニスト……?」
「昔からピアノが好きで、暇さえあれば鍵盤を叩いているような、そんな子だったんです。勿論勉強も好きだったけど、それ以上にピアノを弾いている時間がどうしようもなく幸せだった。将来は絶対にピアニストになるんだって、そう思ってたんです。でも……」
「……親に、反対された?」
「反対されたというか、パパやママは最初から私はお医者さんになるんだって思っていて、ピアノはせいぜい習い事にしか過ぎない程度の認識しかなかったんです。ピアノのコンクールを見に来てくれたこともなかったし、いっつも勉強のことばっかりで。だから、私のそんな夢は、いつかの昔に置いてきちゃった」
「西木野さん……」
「それでも、ピアノは嫌いになれなくて。今でも暇を見つけては鍵盤を叩いちゃう。自分の気持ちすら親に言い切れなかった私の、たった一つの抵抗なのかしら。もしかしたら心の中で、私は今でもピアニストの夢を諦め切れないのかもしれません」
遠い目をしながら宙を見上げる西木野さん。視線を辿ると、天に向かって羽ばたいていく一羽の鳥が。大空を自由に飛び回るその姿に、彼女は何を思うのだろう。親からの期待に羽を奪われて、籠の中でしか生きていけなかった彼女は、何を。
西木野さんの話を聞きながら、僕は一人の知り合いの姿を思い浮かべていた。おそらくは、境遇が似ているであろう女の子の事を。
「……僕の知り合いにさ、将来は日本舞踊の後を継ぐことが決まっている子がいるんだ」
「日本舞踊……それって……?」
「まぁ聞いてよ。その子の家は昔から代々続く日本舞踊の家元で、全部で三人の兄妹がいた。一人はいっつも遊び呆けてマトモに帰っても来ない長女。もう一人は大して秀でたものもない平凡な長男。そして、品行方正で学業優秀、運動神経も抜群の次女。彼女らのうちで一人が後を継がないといけないという話になったんだ」
「後を、継ぐ……」
「常識的に言うと、長女が家を継がないといけない。でも、誰の目から見てもそれは正しい選択とは言えなかった。だって、遊び人の長女が後を継ぐなんて、聞いたことがない話だったからね。かといって長男が継ぐわけにもいかない。日本舞踊は代々、女性の当主が継いできたのだから。ということは、自然と誰が継ぐか決まってくる」
「まさか……」
「必然的に、次女が次期当主として育てられるようになったよ。毎日毎日厳しい練習をやらされて、自分の意思とは無関係に将来を決められた。でもね、次女は誰よりも家族想いだったんだ。『姉さんや兄さんの分まで、私が頑張ります』って、目を真っ赤に腫らしているくせに、堂々と言い切ったんだよ。その姿に長男は言葉を失った。自分が女に生まれていれば、妹をこんな目に遭わせることはなかったのにって」
今思い返しても、胸が痛む。幼いながらに僕達を案じて、自分が犠牲になることを選んだ妹の姿に、何度後悔を覚えたことだろう。彼女の優しさに、何度罪悪感を抱えたことだろう。「大丈夫ですよ」と微笑む海未を、何度抱き締めたことだろう。
幸い海未は舞踊も稽古も好きだったらしく、辛いながらに日々を過ごしていた。それでも、稽古を優先して友達と遊べないことは悲しかったに違いない。何度誘われても断らなければいけなかった彼女が次第に孤立していくのも無理はなかった。どれだけ辛い思いをしてきたか、想像できる訳がない。
「家を継ぐために自分を殺す。これについては西木野さんも同じかな。家の都合を優先して、自分を犠牲にする。決して良い事とは言えないけれど、一概に悪いとも言えない。家業を継ぐっていうのは、昔からやってきたことだからね。たぶんだけど、穂乃果ちゃんも同じなんじゃないかな。和菓子屋の跡継ぎについて、いろいろ言われてはいると思う」
「でも……そんなの、親の言うがままに生きていく人生なんて、意味がないじゃないですか」
「うん。それは言う通り。だから、言われて従うだけじゃ駄目なんだよ。何か行動しないと、絶対に状況は変わらない」
「そんな気軽に言われても、簡単なことじゃ――――!」
「海未は、言ったよ」
「っ!?」
「言ったんだよ、海未はさ。親父達に向かって、泣きながら。『友達と……穂乃果達と、遊びたい』って」
気持ちが入りすぎたのだろう、目の端に涙を浮かべて異を唱える西木野さんだったが、僕の言葉に虚を突かれたように目を見開いていた。あまりにも純粋なその反応に、思わず笑みが零れる。
あの日のことは、今でも忘れない。
妹が中学生になった頃だったろうか。いつも通り稽古に励む海未の元に、どこから忍び込んだのか穂乃果ちゃんとことりちゃんが飛び出してきたんだ。激怒する親父達に向かい合い、二人は涙混じりながらも、一歩も引かなかった。背中に海未を庇ったまま、真っ直ぐな表情で彼女達は言ってくれた。
『海未ちゃんを、縛り付けないで! 海未ちゃんは、お人形なんかじゃない……私達の大切な、お友達なの!』
心臓が破裂するかと思った。妹の為に身体を張って行動してくれた彼女達に、どう感謝すればいいのか分からなかった。僕も姉さんも、そして海未も、どうしようもない程に泣きじゃくっていた。
二人の親友に後押しされて、海未は顔を真っ赤に腫らしながら親父達と対峙した。狼狽える彼らを真正面から見据え、両手を穂乃果ちゃん達に握られながら。彼女は今まで言えなかった気持ちを、初めての自分の想いをぶつけたのだ。
それから、海未は稽古の毎日から解放された。将来後を継ぐことは変わらなかったけれど、学生でいる間は、海未のプライベートを優先して生活していいことになったのである。無論、最低限の稽古はやらなければならない。それでも、自分を殺して生活する日々は終わりを告げた。あの日の行動が、海未の人生を変えたんだ。
「だからさ、何かを変えたいのなら、自分で行動しないと始まらないんだよ。一人で無理なら、友達に頼ってもいい。それこそ、µ’sのメンバーに協力してもらってでも、自分の気持ちを伝えなきゃ。ピアニストになりたいならその気持ちを。医者として後を継ぐけれど、今は好きにやらせてほしいと言うのなら、そのままの想いを。仮にも親なんだ、子供の真っ直ぐな主張くらい聞いてくれるさ」
「……医者になる決心がつかないって話から、どうしてこんな話題になったんでしょうね」
「あ、え、えっと……うわ、そうだ僕何の話してるんだ。まったく答えになってないじゃないか……ご、ごめんっ。つまり何が言いたいかというと、周囲の反応とか親からのプレッシャーとかを気にしないで、自分のやりたいように――――って、これだとすっごくふわふわしたアドバイスだーっ!」
呆れたような彼女の言葉に、ようやく自分がどれだけ的外れな話をしていたかに気が付いた。うわうわ恥ずかしい。なんか得意げに語っていたけれど、これ自覚すると相当に恥ずかしい! 西木野さんに変な奴って思われる……!
「ご、ごめんね! なんか変な事言っちゃって……」
「うぅん、いいんです。でも、ちょっと思い出しちゃったな。昔の事」
「へ?」
「この公園で会った男の子の話。もう顔も覚えてないけれど、前にもそうやって的外れな話をして慰めてくれた男の人がいたんです。あの時はピアノをやめて落ち込んでいた時で……それなのにその子ったら、『お医者さんって凄いじゃん! 格好いいよ!』だなんて……もしかしたら、医者になるって将来を毛嫌いできなかったのは、あの男性のせいなのかもしれません」
「その人、相当馬鹿みたいな返事しているね。きっと何も考えていなかったんだよ」
「そうかもしれないです。でも、その言葉できっと私は救われた。少なくとも、あの時は少しだけでも胸が軽くなったんですよ。その時から、ここは私の思い出の場所。悩みがあるとここに来て、夕陽を見つめるんです。そうすれば、またあの男性が馬鹿みたいな事を言ってくれるんじゃないかって」
「西木野さん……」
「空良さんの話を聞いていたら、うじうじ悩んでいるのが馬鹿らしくなりました。だから私、やりたいことを好き勝手にやってみます。勿論勉強して、将来はお医者さんになるかもだけど……でも今は、スクールアイドルをやりたい。µ’sの皆の為にピアノを弾きたい。そう、思うんです」
「……キミがそう思うのなら、きっとそれが正解だよ。僕なんかに言われるまでもなく、さ」
「でも、もしパパに怒られてしまったら、その時は……その時は、空良さんが一緒になって言ってくださいね。責任を取って」
「うえぇ……ぜ、善処します」
「ふふっ」
悪戯っぽく笑う彼女に肩を落とす。もしかすると、とんでもない重荷を背負ってしまったのではないだろうか。相手が西木野さんだから必要以上に感情移入して色々言ってしまったけれど、最近知り合ったばかりの部外者が介入していい範囲だったのか微妙なところだ。僕の言葉で将来が左右されるわけではないだろうけど……うぅ。
「空良さん」
「はい……なんでしょう……」
勝手に落胆している僕ではあったが、名前を呼ばれた以上反応を返さなければならない。内心後悔に苛まれつつ、彼女の方を見る。夕陽に照らされているせいか頬は茜色に染まっており、その艶っぽい表情に思わず胸が高鳴った。変態か、僕は。
西木野さんはブランコを下りて僕の前に立つと、
「私の事、名前で呼んでくれませんか?」
「え、えぇっ!? そ、そんな急に言われても……」
「いいから。女性恐怖症を治す一歩と思って頑張って。その代わり、私も貴方のことは『空良』って呼ぶから」
「と、年上にタメ口はどうなのさ……」
「だって空良は年上っぽくないんだもの。それより、ほら早く」
「そ、そんなぁ」
普段通りの強気な態度で言われてしまい反抗もできない。なんか結構無理矢理なお願いをされている気がするんだけど……ぐ、これが恋に落ちた男の末路というやつか。ま、まぁ、距離が近づくと思えばいいことかもしれない。年上っぽくないという発言には少々傷つくものの、名前呼びというのは凄い進歩だと言えないだろうか。
生唾を呑み込む。名前を呼ぶだけなのに、変に緊張してしまい喉が渇き始めていた。
数分間からかわれながらも覚悟を決める。
そして、
「ま……真姫……ちゃん」
「むぅ、ちゃんづけかぁ。まぁ、及第点ってところね」
「呼び捨ては無理だよ……これが精一杯」
「女性が苦手って大変ねぇ。でも、私に任せなさい。将来日本一の名医になる予定の真姫ちゃんが、空良の恐怖症を完璧に治してやるんだから!」
「ふぁ、ふぁい……」
いつの間にか立ち直っていたらしく、天に拳を突き上げて宣言する西木野……真姫ちゃんに完全に気圧されている僕。四歳年下の女の子に圧倒されている現実を直視したくなくて、苦笑いの末に溜息をつく。だけど、ちょっとだけ真姫ちゃんと仲良くなれた気がするから、多少のマイナスはよしとしよう。
自信満々の笑顔を僕に向けてくれる素直になれないちょっぴりナルシストな美少女高校生を前に、嬉しさと残念さが入り混じった苦笑を浮かべる僕であった。
今回も読了ありがとうございます。
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第八節 勉強会
たとえスクールアイドルをやっていようが、学生である以上勉学というものは嫌でも付いてくるわけで。
「空良くんお願い! 穂乃果に勉強を教えてください!」
「何の躊躇いもなく土下座するあたりに穂乃果ちゃんの本気が垣間見られるね……」
六月も終わろうとしているとある平日の夕方。我が家の居間で畳に額を擦り付けながら恥も外聞も投げ捨ててお願いしてくる穂乃果ちゃんに軽く口元が引き攣る。ちなみに彼女の後ろでは呆れの表情を隠そうともしないことりちゃん、海未、そして真姫ちゃんの三人がいたりする。いつもの幼馴染三人はともかくとして、この場に真姫ちゃんがいるのが少々違和感がある気がするけれども、僕的にはまったく問題はない。普段通りの言動ができるかはさておいて。
もはやプライドもへったくれも投げ捨てることを決心したらしい穂乃果ちゃんは勢いよく顔を上げると、タックルの要領でそのまま僕に向かって思いっきり抱き着いて――――って近い近い近い近い!
「お願いだよ空良くぅううううん! このままじゃ私、補習で練習ができなくなっちゃうよぉおおお!!」
「ほ、穂乃果ちゃん!? 気持ちと意気込みは分かるけどそんなに抱き締められちゃうと色々とまずいというかぁああああ! 柔らかさと恥と恐怖症で僕の色々が吹き飛ぶというかぁあああああ!」
「こ、こら穂乃果! 兄さんが困っているでしょう早く離れなさい!」
「やっだぁあああ! 空良くんが承諾してくれるまで離れないぃいいいい!」
「穂乃果! アンタ顔真っ赤にしてわざとやってるでしょ! 色仕掛けで空良の動揺を誘わないの!」
「真姫ちゃんには……真姫ちゃんには私の気持ちなんて分からないよぉおおおお!!」
「いいから離れてくれー!」
僕から触れることはできない為、男の矜持や症状と戦いながら耐えるしかない。その間に真姫ちゃんと海未が全力で僕から穂乃果ちゃんを引き剥がそうと奮闘してくれているものの、どこにそんな腕力があったのかまったく離れる様子がない。ことりちゃんはことりちゃんでどちらに味方すればいいのか決めあぐねているらしく、困ったような表情で状況を見守る方針を選んだようだ。その判断がどう転がるかは誰にも分からないが、少なくとも穂乃果ちゃんの小振りな胸が僕のお腹に押し付けられている現状を打破する展開には繋がらないだろう。役得と思うことなかれ、僕は女性恐怖症である。
その後数分間の奮闘を経て、ようやく穂乃果ちゃんは僕から身体を離してくれた。最終的に僕が折れたわけである。まぁ勉強くらい教えるのはやぶさかではないし、いつも迷惑をかけている身だから、多少の恩返しをしておこうという腹積もりだ。どこまで役に立てるかは分からないけれど。
「良かったね穂乃果ちゃん。これで期末試験も安心だよ~」
「ぶー。海未ちゃんと真姫ちゃんが邪魔しなかったらもう少し空良くんとスキンシップが取れたのにー」
「肉体的なスキンシップは僕に被害が出るから遠慮してくれないかな」
「いーじゃん幼馴染なんだし恥ずかしがることないよー!」
「君は女子高生。僕は男子大学生。アンダスタン?」
「そこまで言うなら空良だってもっと嫌がればいいのに。変に甘やかすからそうなるのよ」
「いや、なんというか、穂乃果ちゃんに対しては昔からこんな感じだったから今更厳しくするのもなぁ」
「呆れた。自業自得じゃない」
肩を竦めつつなかなかに辛辣な発言をぶつけてくる真姫ちゃんに返す言葉が見つからない。オブラートに包むことをしないから、油断すると結構な角度で正論攻撃が飛んでくる真姫ちゃんである。最近は多少慣れてきたとはいえ、未だに気を抜くと立ち直れなくレベルでショックを受ける。それなりに仲良くなったからというもの、遠慮というものをどこかへ放り投げてきたのかもしれない。距離が縮まったと考えればいいのだろうが。
どうしてかちょこっと拗ねたように口を尖らせている穂乃果ちゃん。理由は不明だが、不貞腐れた穂乃果ちゃんは何かと尾を引くので、ここいらでご機嫌を取っておかなければ今後に響く可能性がある。ちょっと気は引けるものの、アフターケアをしておこう。
深く息を整えると、軽く両手を開いて受け入れ態勢を取る。
「ほら、仲直りしようよ穂乃果ちゃん」
「……頭」
「頭?」
「頭、撫でて。昔やってくれたみたいに」
「うぅ……分かったよ」
ぶすーっと頬を膨らませながら近づいてくる穂乃果ちゃん軽く抱き寄せると、犬を撫でる様に髪に手櫛を入れていく。頭、頬、顎と順番に撫でていけば、気持ちよさそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす穂乃果ちゃん。
「はぁっ……気持ち、いい……!」
「満足しましたかお姫様」
「もぉ、ちょっ……とぉ。はぁぁぁ」
「ほんと犬みたいだねキミ……」
ちょっとだけ顔を上気させて息を漏らす姿に何か思わない訳でもないが、もう十年以上の付き合いになる彼女に今更下心なんて……うん、ない。ないよ? ないってば!
まぁこの状況を知らない人達が見れば圧倒的に危険な光景だろうことは否定しない。現に見慣れているはずの海未とことりちゃんでさえ居心地悪そうに視線を泳がせている。せめてキミ達は平常心でいてくれないと、僕がまるで変態さんみたいじゃないか。
いっこうに満足した様子がない穂乃果ちゃんをひたすら撫でていく。うぅ、そろそろ僕のキャパシティに限界が――――
「さ、さっさと離れなさいよこの変態共! 不潔よ不潔!」
「うわっ」
「あう」
恐怖症が発症する寸前までゲージが溜まり始めていた時、非常に素晴らしいタイミングで真姫ちゃんが僕と穂乃果ちゃんを引き離すように間に飛び込んでくれた。そのまま彼女を引っ掴むと、部屋の隅まで連れていく。途中彼女の髪が僕の鼻をくすぐり、シャンプーの匂いだろう薔薇の香りに包まれた瞬間に鼓動が止まらなくなる。ちょっとだけ身体も触れてしまって、あまりの柔らかさに意識が吹っ飛ぶかと思った。穂乃果ちゃんに抱き着かれた時以上の動悸が僕を襲う。
「なにするの真姫ちゃん……って、なんでそんなに顔赤いの?」
「な、なんでもないわよ! それより、何してんのホント! 人前でやっていいことじゃないわよ、アレ!」
「えー。でも気持ちいいよ? やってもらえば真姫ちゃんもクセになるって!」
「だ、誰がやるかあんなこと! いいから、まずは勉強でしょう!? さっさとノート出して教えてもらいなさいって!」
「あ、そうだったそうだった。空良くん教えてー!」
「はいはい……」
さっきまでのワンコ状態はどこへやら、すっかりいつもの穂乃果ちゃんに戻った様子の彼女に教えを垂れるべく僕も筆記用具を用意する。僕も課題をしていたところなので、ちょうどいいと言えばちょうどよかった。
「た、助けてくれてありがとね真姫ちゃん……」
「そ、そんなんじゃなくて……このままだと話が進まないと思ったから、それだけよ! いいから、さっさと勉強教えちゃいなさい。私も分からないところがあったら聞くつもりでいるし、頼りにしているわよ?」
「真姫ちゃんの分からないところって僕も分からない気が……」
「大学生のくせにごちゃごちゃ言わないの」
「はい……」
位置的に近くにいた真姫ちゃんに先程のお礼を伝えるが、何故か説教されてしまう僕。既に上下関係が逆転している事実について心の中で涙を流す僕を誰が責められよう。真姫ちゃんは真姫ちゃんでそんなことを言いつつもどこか楽しそうに勉強を始めたから、強く反論もできない。ちょっとだけ距離が近い気もするが、反対側では穂乃果ちゃんも同じくらいの近さで教科書読み始めているからおそらく僕の気にしすぎだろう。うん、そうに違いない。真姫ちゃんと話しているときにやや不機嫌そうな顔を向けてきていたが、目が合った瞬間に教科書に視線を戻していた。気になりはするけれど、あんまり追及するのも悪い。流しておいた方が良さそうだ。
「なんか、とても奇妙な三角関係ですよねあの人達は……」
「犬と猫と飼い主って感じだよね……空良さんも大変だ~」
「どうしたのさ二人とも。そんな苦笑と呆れが入り混じったような顔で僕を見て」
『なんでもない(です)よ』
完全に傍観者と化していた幼馴染二名の視線が気になりはしたものの、とりあえずは家庭教師に専念することにしよう。
☆
時刻は午後七時。真姫ちゃんは途中で帰宅してしまったが、時間も時間なので穂乃果ちゃんとことりちゃんは我が家に泊まることにしたらしい。現在は穂乃果ちゃんが居間で勉強中。海未は真姫ちゃんを途中まで送り、僕とことりちゃんは晩御飯の準備に取り掛かっている。今日は両親が家を空けているため、自炊を余儀なくされた。僕自身あんまり家事が得意でないから、ことりちゃんメインで料理を行っていくことになる。まぁ、いつものことだ。
「なんか苦労してるね、空良さん」
「そう見えるなら助けてくれてもいいんじゃないかなことりちゃん」
「私は見守る立場が楽しいから」
キャベツを華麗に千切りしながらからかうように笑うことりちゃん。結局あれから何度も穂乃果ちゃんにちょっかいを出され、真姫ちゃんに止められるというサイクルを繰り返していた。既に諦めているとはいえ、悪戯っ子の穂乃果ちゃんと優等生な真姫ちゃんの間を取り持つのはそれなりに苦労する。仲が悪いというよりは、対抗しているというか……よく分からないけど。
包丁を自在に操ることりちゃんの横でひたすらに米を研ぐ。専ら米焚きと洗い物をしている僕である。手伝うべきかもしれないが、かえって邪魔してしまう恐れもある為変に手を出すことはしない。ここは大人しくことりちゃんに任せるのが得策だ。
「穂乃果ちゃんは空良さんの事が大好きだもんね~。真姫ちゃんに空良さんを取られたみたいで、ちょっと嫉妬しているんじゃないかな?」
「そんな大袈裟な……嫉妬も何も、普通に友達関係じゃないか……」
「でも空良さんは真姫ちゃんのことが好きなんでしょ?」
「ゲホォ」
「ふふっ、顔真っ赤♪」
「あんまりからかわないでくれ……」
穂乃果ちゃんといいことりちゃんといい、どうしてこんなにも恋愛関係で僕を弄ってくるのだろう。やはり女子高だとこういう話題が少ないから、新鮮なのだろうか。慣れないことをされているからかうまく対処ができない。変に僕の扱いに慣れているせいか、適度に急所をついてくるから始末に負えなかったりする。その中でもことりちゃんは特に爆弾だ。天然というか、ふわふわしているから対応しづらいのだ。
「穂乃果ちゃん昔からずっと『大きくなったら空良くんのお嫁さんになる!』って言ってたもんね~。真姫ちゃんに対抗心燃やして、必要以上にスキンシップ過多になっているのかも」
「まぁ気持ちは分からないでもないけどさ。仲良い友人が別の人と仲良くしているのはなんかもやっとするし。そう考えると、ちょっと嬉しいね」
「うーん、たぶん意味合いが少し違うと思うけど……まぁいっか」
「意味合い? なんのこと?」
「分からないなら仕方ないけど、あんまり的外れなことばっかり考えているといつか痛い目見るよ空良さん」
「よく分からないけど、肝に銘じておきます……」
「月夜に背後から刺されないように気を付けてね~」
「ことりちゃんが言うと洒落に聞こえなくて怖いな……」
この子たまに笑顔でとんでもないこと言うから僕の中で危険度トップクラスだったりするのはここだけの話だ。裏がありそうというか何というか……女性関係の中で最長級の付き合いだけれど、未だにことりちゃんの本心が読めない。穂乃果ちゃんと海未があんなに分かりやすい分、行動の読めなさが相対的に際立っている。害を為すわけじゃないから大人しく助言を受け止めるべきだろうが……ヒヤッとするなぁ。
『ことりちゃーん! 晩御飯まだー? 海未ちゃん帰ってきたよぉー!』
「もうすぐできるよ~! ほら、急ぎましょう空良さん」
「お腹空かせた穂乃果ちゃん程厄介な生き物はいないからね。合点承知だよことりちゃん」
居間の方から飛んできた穂乃果ちゃんの催促に顔を見合わせて笑うと、料理の手を早める。分からないことをあれこれ考えても仕方がない。とりあえず今は、空腹状態の幼馴染問題を解決しよう。
ことりちゃんの言葉が少し頭に引っかかるけれど、その時の僕はあんまり気にしないようにしていた。この選択が後にどうなっていくのか、知る由もなく。
今回も読了ありがとうございます。
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第九節 それぞれの夜
幼馴染集団が我が家に泊まるのは、これでもう何度目だろうか。
「海未ちゃーん! ことりちゃーん! お風呂入ろー!」
晩御飯の片付けで皿洗いをしていると、居間の方から聞こえてくるそんな声。呼ばれた両名は現在後始末の最中だったが、ほぼ同時に僕の方を向く。
「後はそんなに量もないし、大丈夫だよ。行ってらっしゃい」
「すみません兄さん……」
「いいからいいから。穂乃果ちゃん待ってるよ」
「ありがとうございます、空良さん。穂乃果ちゃーん! 今行くよ~!」
申し訳なさそうにこちらを見てくる二人だったが、せっかくのお泊り会だ。ここは兄らしく妹達の為に一肌脱ぐべきだろう。幸い残りは数枚食器を洗うだけだし、一人でも余裕でこなせる量である。了承代わりに笑顔を浮かべると、並んで頭を下げて去っていく二人。ちなみに穂乃果ちゃんが何故片付けに参加していないかというと、彼女は見かけ通り不器用でおっちょこちょいの為、以前に我が家の食器を半滅させた前科を持っているからだ。実家の手伝いでも細かい作業は主に雪穂ちゃんがやっているという理由と、またいつものように張り切ってキャパ以上の皿を運ぼうとしたことが主な原因の一つであるけれど。いつか
怪我をしそうで見ているこっちがひやひやするので、こういう時は居間で待機を命じている。良采配と言えるだろう。
それから数分かけて片付けを終えると、誰もいなくなった居間の座布団に腰を下ろして一休み。なんだか久しぶりに落ち着いた空気を吸っている気がする。ここ最近はどうしてかやけに騒がしくも賑やかな日々を送っていたから、静かに一人でいるという状況自体が久方ぶりだった。
手持無沙汰だったので何の気なしに携帯電話を開くと、メールが一通届いていることに気が付く。送信元には『西木野真姫』の文字。一瞬ドキッとはするものの、周囲に誰もいないことを確認すると満を持してメールを開いた。周囲を警戒したのは、おそらくニヤついているであろう自分の顔を見られたくなかったからだ。
《無事に帰り付いたから、一応連絡だけでもしておこうと思って。空良は結構無駄に心配とかするタイプでしょ? 余計な気を回さなくて済むようにメールしておくわ。感謝しなさい》
「なんで変に高圧的なんだろうこの子は……」
メールでさえも回りくどい言い方をする真姫ちゃんに思わず苦笑する。この文面を考えている時の彼女の得意げな表情が目に浮かぶようだ。メールに慣れていないのか絵文字のない無愛想な文章だが、真姫ちゃんなりに気を遣ってくれているのだろう。以前「まずはメールから女性に慣れなさい」とのお達しを受けて以来、こうして何かあれば連絡をくれるようになった。僕としては嬉しいやら恥ずかしいやら……真姫ちゃんのこと好きだしもっと話したいけれど、今のままでは自分から踏み込むなど夢のまた夢。遠回りかもしれないが、真姫ちゃんの厚意に頼って改善していくしかない。
女の子とメールなんてあんまりしたことがないから正しい返し方なんてものは知らないが、一応失礼のないように考えて返信。
《今日はお疲れさま。次回は他のメンバーも連れて、みんなでお泊りとかしてみたら? 勉強とかじゃなくて遊びで。海未も喜ぶだろうし》
「送信……っと」
画面の中で手紙が飛び回るアニメーションを眺めながら一息。まぁ無難な返しだと思う。あまり余計な事は言わず、次回も機会があれば来てほしいという気持ちをそれとなく伝える文章だ。妹の名前を使っているところがちょっと卑怯かもしれないけれど、これくらいは許してほしい。後、さすがに真姫ちゃん単身で呼ぶのはあまりにもあざといと思ったのでメンバー全員と書いておいた。というか真姫ちゃんが一人で泊まりに来た場合、僕が色々な意味で死ぬ。間違いない。
メールを送ると5分ほどで返信が来た。
《考えとくわ》
「短っ!?」
わずか一言である。何か機嫌を損ねるような文章を送ってしまったかと一瞬不安になるような返信だが、さすがに嫌われたということはないだろう。たぶん、おそらく……。
なんか意識すると心配になってきた。かといって何度もメールを送るのも迷惑だろうし、直接聞くなんて以ての外だ。この疑惑だって僕の勝手な邪推かもしれないし……うわぁぁ胃が痛いー!
携帯片手に悶絶しながら畳の上をゴロゴロ転がっていると、再び鳴るバイブレーション。
「そぉい!」
瞬時にボタンを操作してメールを開く。この間実に1秒弱。様々な葛藤と不器用すぎる卑屈精神が可能にした反応速度に我ながら恐怖を覚える。というか控えめに言ってキモイ。自分で引くレベル。
勝手に自己嫌悪に陥りつつも、気を取り直して液晶を見やる。送り主はやはりというか期待通りというか真姫ちゃんだ。わざわざ二通に分けるとかいう面倒くさいことをするような子だろうかとの疑問も残るが、おそるおそる読んでいく。
《ウチにも別荘とかあるから、気が向いたら皆で遊びに来なさいよ。ま、女性恐怖症のアンタじゃ厳しいでしょうけどね》
「またこれは手厳しいな……って、うん? 添付フォルダ?」
いつものごとく毒を吐く内容に溜息をつきかけた僕であったけれど、何やら画像が添付されているという想定外もいいところの状況に目を丸くする。真姫ちゃんが画像を送ってくるなんて初めての事だ。まさか不幸の画像か何かを添付しているんじゃなかろうかとか変なことを考えてしまうくらい珍しい。不安と興味が混じった感情の赴くままに画像フォルダを恐る恐る開く。
そこには――――
「ね、猫を抱えて口元を隠しながらも羞恥心で顔を赤らめてジト目で自撮りしている真姫ちゃん……!?」
稲妻が落ちた。脳味噌がショートするんじゃないかってくらいの衝撃に反射的に実況してしまったが、それほどまでの事態である。というか可愛い! たぶん「さっきの返信ちょっと無愛想だったから画像つけて怒っていないことを表現しよう」とか考えてのことだろうが、その変に気にしている感じを想像するとものすごく、クる。なるほど草太、これが萌えか。この気持ちが萌えなのか、親友よ。
なんかもう一切の躊躇もなく画像を保存しつつも、文面には一切の下心を見せることなく(というか余計な事言ったらたぶん次回殺される)紳士的に返す。
《別荘とか持ってるんださすが真姫ちゃん……ていうか猫可愛いね! 僕猫大好きだよ!》
「まぁ、こんなもんか」
送信ボタンを押すと携帯電話をテーブルの上に置く。そろそろ彼女達も風呂から上がる頃だろう。ウチは変に和風屋敷だから風呂も軽い温泉くらいの大きさがあり、女の子が三人姦しく入浴してもなんら支障がない。それだけの巨大な風呂を僕は独占できるというのだから、こういう時は園田家に生まれて良かったと心から感謝する。風呂は人類が生んだ文化の極みだ。
着替えを取りに一度部屋に戻ろう。どうせ夜も寝るまでは居間で過ごすだろうから、ケータイやら何やらはここに置いておいて大丈夫だろう。充電もまだあるし。
「あ、空良くんお風呂空いたよー! 相変わらず気持ちいいね最高だよー!」
「お帰り穂乃果ちゃん。そろそろ上がると思っていたから、今から行くよ。わざわざありがとね」
「えへへー。穂乃果の優しさに感謝したまえー」
「はいはい、感謝してる感謝してる」
首にタオルをかけたままわずかに濡れた髪と上気した様子の顔で現れるパジャマ穂乃果ちゃん。風呂上がりの女の子とか普通に考えればマトモに直視できる訳もないが、昔から一緒に入ったりしていたこの子に関しては今更感がある。言ってしまうと海未より妹っぽい。妙に庇護欲をくすぐるのだ、この子は。
頭をこちらに突き出しながら得意げになっている穂乃果ちゃんの頭を撫でる。こういうところは昔から変わらない。犬を飼ったらこういう気分なんだろうな。彼女の腰あたりにガンガン振り回される尻尾が見えても不思議ではなかった。
「じゃあ僕はお風呂に行ってくるから、適度に遊んで適度に勉強しなよ」
「ぶー。もう今日は勉強しなくてもいいじゃーん」
「勉強会がメインじゃなかった? あんまり遊んでるとまた海未に怒られるよ」
「そ、それは嫌だね……うん、適度に頑張るよ……」
「その意気だ。応援してるよ」
「ありがとー!」
安心と安定の満面笑顔に心が落ち着く。裏表がない穂乃果ちゃんは接しているととても癒される。ホノカセラピーとかいうサービスを始めれば大盛況間違いなし……いや、これはちょっとまずいな。色々と、水商売的な匂いがプンプンする。考えるのはやめておこう。
穂乃果ちゃんに手を振り返し居間を後にする。ちらとケータイを見ればメールを受信したのか画面が光っていたが、そんなに急ぐこともないだろう。後からの楽しみに取っておくとしよう。今は僕の楽しみの一つである入浴が先決だ。
どの入浴剤を使おうかな、とか何気にルンルン気分で風呂場へと向かう僕なのである。
☆
慣れない手つきで返事のメールを送信し終えると、そのままポスッとベッドに身体を預ける。先程自撮りに協力してくれた我が家のキジ虎が枕元で満足そうに寝息を立てていて、ちょっとだけ緊張が解れてきた。
「真姫ちゃん、早めにお風呂に入っちゃってね」
「ありがとう、ママ」
わざわざ呼びに来てくれたママに礼を言いつつ、下着とパジャマの準備を始める。時折ベッドの上に置いたままの携帯電話に視線が飛ぶが、改めてそのことを意識するとなんだか恥ずかしくなった。なんで私がメールごときでいちいち動揺しないといけないのよ。
妙にイラッとしてきた為、その後はケータイには目もくれず脱衣場へ向かう。胸のモヤモヤが晴れない。何かにつけて、あの優柔不断な女性恐怖症が脳裏に浮かぶ。
「意味わかんない……」
思わず呟くが、まさにその通りの心境だった。ただの友人、それも出会ってそんなに経過していない程度の知人がどうしてこうも気になるのだろう。
初めて会った時、どうしてか彼の事を他人だとは思えなかった。親近感というか、既視感というか……以前どこかで会った事があるような、そんな感覚。だが、小中と一貫して女子高に通っていた私に男の友人なんていない。例外があるとすれば、中学一年生の時に病院近くの公園で出会った青年くらいだけど……、
「まさか、ね」
可能性として思い当たるが、一蹴。そんな安っぽい恋愛漫画みたいな展開有り得ない。しかも、あの時の少年はもっと快活で、自信に溢れていた。対して空良は優柔不断でヘタレ。あの子とは似ても似つかない。まぁ、夕暮れ時で会話もそんなに長い間したわけではなかったから、顔もよく覚えていないけれど。
制服と下着を脱いで風呂場に行こうとするが、ふと脱衣場の鏡が目についた。鏡に映る私の全身、一糸纏わぬ裸体。引き締まったウエストに長い手足と、我ながら素晴らしいスタイルだと思う。アイドル活動を始めてから運動量も増えて、さらに健康的な筋肉もついたことで魅力が増したのではないだろうか。自分で言うのもなんだけど顔は美人だし、あの人の隣に立つには十分すぎるプロポーション――――
「って、バッカじゃないの!? だ、誰の隣に立つっていうのよ私!」
ぶんぶんと頭を振ってよからぬ想像を吹き飛ばす。なんで今私は隣に誰かいる前提で思考を進めていたのだろうか。ば、馬鹿馬鹿しい。おそらく疲れているのだ。さっさとお風呂に浸かってリラックスしよう。
咳ばらいを一つ、風呂場への扉を開けるが、横向きで鏡に身体が映ったせいか、とある一部分の膨らみがやけに気になった。唯一私が気にしている部位。少し身体を揺らすと、少しだけわずかに揺れる小振りな丘。
「希は発展途上だけど将来が楽しみって言っていたわね……」
あのセクハラ上級生の言う事を鵜呑みにする気は毛頭ないが、気にならないといえば嘘になる。大きい方が良いなんて俗物染みた考えもないけれど、もうちょっと成長してくれないかな、とは思ったり思わなかったり。最近はエリーと花陽お勧めの牛乳も買い始めたし、このまま成長してくれるとありがたいのだが。将来見せる時になって、にこちゃんみたいな子供体型なんて弄られるのも嫌だし――――って!
「だから誰に見せるつもりなのよ私はぁ――――!」
「ま、真姫ちゃん? さっきから何を騒いでいるんですか?」
「だ、大丈夫。なんでもないから、気にしないで和木さん」
再び浮かぶ馬鹿みたいな想像に頭を押さえて絶叫。心配して駆けつけたお手伝いの和木さん相手になんとか取り繕うものの、鏡に映る私の顔はトマトみたいに真っ赤っ赤。ちゃんと誤魔化せたのかは分からないけど、和木さんはそれ以上突っ込むことはせずにパパ達のところに戻ってくれた。安堵の溜息と同時に、言い知れない羞恥心と怒りが湧き上がってくる。あれもこれも、変に私を惑わすあのヘタレのせいだ!
「後でメール……いや、これは今度会ったら一発蹴ってやらないと」
冷静に考えれば八つ当たり以外の何物でもない。だけど、空良にも責任はある。そう、あるの! 乙女を惑わす悪人には鉄槌を下さないと!
湯船に浸かって空良への制裁方法を考えていると、なんだか楽しくなってきてちょっとだけ長風呂しちゃったのは、ここだけの秘密。
今回も読了ありがとうございます。
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第十節 学校へ行こう!
予想外の出来事というのは、本当に想定外の方向からやってくるらしい。
「あ、あの……良かったら、お茶を……」
「え、えっと……あ、ありがとう……」
「ぴゃいっ!? いいい、いえこちらこそぉ――――!」
僕に湯呑を渡すや否や、すぐに近くに座っていた我が悪友小泉草太の背後に隠れてしまう気弱そうな見た目の小泉花陽ちゃん。少し離れたところでは何故か「シャーッ!」と草太を威嚇しているボーイッシュ少女星空凛さんの姿もある。しかも今僕と草太がいる場所は音ノ木坂のアイドル研究部、その部室だ。この場にいる部員は花陽ちゃんと星空さんの二人だけだが、後から残り七人も集まる予定らしい。とりあえず海未が早く来てくれるのを祈る僕こと園田空良十九歳。
「花ちゃんホント人見知りだなぁ。空良は良い奴で優しいヘタレだから大丈夫だって」
「おいそこのハゲ。余計な修飾付けているんじゃないよ懐中電灯当てるぞ」
「ハゲじゃねぇファッション坊主だ」
「うぅ、草ちゃんのお友達っていうのは分かってるんだけど、でもまだ上手く話せないよぅ……」
「こらー! あんまりかよちんにくっつくな泥棒猫ー!」
「猫はお前だよ凛!」
「………へるぴみー海未」
目の前で繰り広げられる小泉家幼馴染乱闘に異様なまでの場違い感を覚える僕は席を外してる最愛の妹へ助けを求める。そも、なんで僕と草太が女子高に侵入しているのかとか、アイドル研究部にお邪魔しているのかとか不思議と疑問が溢れることだろう。僕自身、未だに気持ちの準備が整っていない。
目の前のドタバタ劇から目を逸らしつつ、気持ちを誤魔化すために回想へと耽るとしよう。
☆
きっかけは、海未が持って帰ってきた一枚のプリントだった。
「授業参観?」
「はい。なんでも、明後日にあるようで……私が学校を欠席した時にプリントを配布したらしいのですが、穂乃果が渡すのを忘れていたらしく、こんな遅く……」
「うーん、さすがに親父もお袋も予定入っているだろうしねぇ」
申し訳なさそうに眉根を下げる海未。穂乃果ちゃんのドジは今に始まったことではないが、さすがに時期が時期だ。親父は仕事だし、母さんは道場の指導がある。もう少し早めに言っていれば都合も合わせられたかもしれないけれど、二日後ともなると難しいだろう。海未もそれを分かっているから、あえて僕に言ってきたのかもしれない。
「父さん達が来れないのは百も承知です。ですが、穂乃果もことりも親を連れてくるらしく……というか、音ノ木坂は妙に授業参観の出席率も高い上に、その後には三者面談もありまして……誰も来れないというのは避けたいのです」
「だから、親父達の代わりに僕に来てほしい、と?」
「無理を言っている自覚はあります。兄さんの恐怖症やら講義の予定やらを鑑みれば、頼むべきではないということも……ですが、もう兄さんしか頼れないのです」
「うーん……」
「お願いします!」
僕の反応が芳しくないことを悟ったのか、海未は目一杯頭を下げて懇願する。妹に気を遣わせている現状はあまりよろしくないし、僕的にも行ってやってもいいんだけど、先程海未が言った通り女子高に行くというのは相当にハードルが高い。最近多少治まってきたとはいえ、知らない女性が大量にいるであろう場所に飛び込めば再発の恐れもある。そこは彼女も分かっているのか、今一つ言い切れないようだった。
目の前の妹を見る。ここまで必死に頼んでいる彼女のお願いを聞いてやらないのは、兄として失格だ。多少無理をしてでも行ってやるべきだろう。だけど、さすがに男一人で行くっていうのは……あっ。
一つ、思い当たる節がある。海未に断りを入れてメールを送らせてもらうと、すぐに返事は来た。
《授業参観? あー、花ちゃんの両親が行けないらしいから代わりに俺行くべ? 女性恐怖症が心配なら一緒に行こうぜー》
「……とまぁ、こういう返事が来て対策もできたから、行くよ」
「い、いいのですか兄さん!」
「いざとなれば草太を生贄に女子を撒けばいいさ。あいつ無駄にイケメンだから肉盾くらいにはなるでしょ。なんか渋っちゃってごめんね、海未」
「いえ……ありがとうございます、空良兄さん!」
僕の返事に感極まったのか勢いよく抱き着いてくる可愛い妹。人前では見せることのない甘えん坊な一面を知るのは僕を含めた一部の人間だけだが、素を見せた時の海未の破壊力は相当なものがある。やっぱりウチの妹が一番可愛い!
☆
――――というわけで、授業参観を終えた僕と草太だったのだけれど、何故かこの部室に拉致されている現状である。ちなみに僕を拉致した東條さんとやらは部室にいない。案内されてすぐに「ウチはちょっと席を外すね!」とどこかへ行ってしまったのだ。幸い草太の幼馴染二人がいてくれたから事なきを得ているけれど、僕は事なきを得ていない。誰か来て。
「凛ちゃんはなんでそんなに俺を敵視してんのさ」
「凛からかよちんを奪うやつは敵にゃー! 昔っから何かとかよちんを甘やかして手籠めにして……そーた兄ちゃんの一休さん!」
「おい誰のどこ見て言ったそこの猫アレルギー。それ以上言うと猫カフェで放置プレイ食らわせるぞコラ」
「そ、草ちゃんも凛ちゃんも喧嘩しないでよぉ~! ほ、ほら、空良さんも呆れてるからー!」
「いえ、お構いなく」
「意外にも淡泊! だ、誰か助けてー!」
『花ちゃん(かよちん)を泣かせるな!』
「ホントなんなのキミ達」
さっきまで額に青筋浮かべてメンチ切り合っていたくせに、花陽ちゃんが悲鳴を上げた瞬間仲良く顔突き合わせて突っかかってくるのはどういう了見なのか。喧嘩するほど仲がいいとはよく言われるものの、この猫娘とハゲは似た者同士以上の何かを感じる。おそらくいがみ合っているのも同族嫌悪染みた何かだろう。夫婦喧嘩は犬も食わないとは言うが、この二人の喧嘩に関しては裏庭のアルパカすら食べない。なんというか、お幸せにって感じだ。
「かよちんは絶対渡さないにゃー!」
「お前こそ、いい加減花ちゃん離れしろっての!」
「あうあう。仲良くしてよ~!」
「……平和だなぁ」
「滅茶苦茶現実逃避しているけれど、そろそろ止めてあげた方がいいんじゃないですか? 外まで聞こえてますよ、そこの喧嘩」
「ど、どうも生徒会長さん。お、お邪魔しています」
「こんにちは空良さん。それと、毎回言ってますけど、年上なんですから敬語なんていりませんって」
小泉一家の喧騒から精神的に解き放たれていた僕であったが、いつの間にやら部室内にいたらしい金髪巨乳美少女高校生に話しかけられたことで動揺を隠せず現実に引き戻される。日本人離れしたプロポーションと整い過ぎている顔は、美少女揃いの音ノ木坂でも群を抜いていた。そして当然僕は狼狽しつつの反応を返す。
絢瀬絵里、というのは彼女の名前。たまにエリーチカとか呼ばれているが、本人曰く「愛称のようなものだけど、恥ずかしいのであんまり呼ばないでほしい」とのこと。少なくとも僕がそんな馴れ馴れしい呼び方をすることは金輪際有り得ないので安心はしてほしい。絢瀬さんに対してニックネーム呼びとかハードル高すぎる。ただでさえ大人っぽく綺麗な彼女に対しては敬語が抜けないというのに。
「今はちょっと難しいんで、おいおい慣れていける様に頑張ります……」
「期待してます♪ 後、凛と草太さん? イチャイチャするのは構わないけれど、できれば人目につかない静かな場所でやってくれませんか?」
「だ、誰がこんな頭部の守りを忘れたうっかり者なんかとイチャついてるにゃー! 凛はただ、力関係をはっきりさせようとしているだけ!」
「それはこっちの台詞だにゃーにゃー娘。今時そんなあざとい語尾使うアイドルなんか古いんだよ! 昭和に帰れ!」
「おのれぇー! 草太兄ちゃんは凛の百個しかない地雷の一つを踏み抜いたにゃ! 許さないよ!」
「少しは地雷撤去してから絡んで来いこの歩く地雷原!」
「絵里ちゃんごめんね……ちょっと私には止められそうにないよぉ」
「まぁ、もう少ししたら皆揃うだろうし、集まったら落ち着くでしょ」
「絢瀬さん、止めないんですね」
「だってあんなに仲良さそうなのに、止めるのも勿体ないじゃないですか。それに、凛も満更じゃあなさそうですしね」
ウインクしつつ星空さんに視線を向ける絢瀬さん。確かに、草太と絶賛口論中の星空さんは口では嫌がっているけれど、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。隣で様子を見守っている花陽ちゃんが本気で止めないのも、星空さんの気持ちを察しているからなのだろう。草太はニブチンだからまったく気が付いていないようだけど、まぁ、お幸せにって感じだ。
親友の行く末はさておくとして、未だに過半数が揃わない状況だ。海未達仲良し三人組は購買に行ってしまったし、部長と東條さんは行方不明。真姫ちゃんは何やら先生に雑用を言いつけられてしまったらしく、どこにいるのやら。一人でできるくらいの雑務だから、心配するだけ無駄というものかもしれないが。
そんなことを考えていると、ふと何やらニヤニヤと嫌らしい顔でこちらを見る絢瀬さんに気が付いてしまった。
「……なんですか、その顔は」
「いや~、さっきから扉の方をちょくちょく見てますけど、そんなに真姫の事が気になるのかなーって」
「うぐ。そ、そんなわけないじゃないですかやだなぁ絢瀬さんったら。ただ手持無沙汰で視線を飛ばしていただけですよ」
「本当かなぁ? それにしては顔が真っ赤ですよぉ?」
「ちょっ……ち、近いですって……!」
両目を細めてずずいと近寄ってくる絢瀬さんに一歩後ずさる。長い睫毛がやけにはっきりと視認できて、鼓動の速まりがとんでもないことになっていた。発汗量も普段の比ではない。絢瀬さんが日本人離れした美貌の持ち主であるからか、症状の具合もわりかし酷い有様だ。女子高所属の絢瀬さんは他人へのスキンシップに抵抗がないようで、男である僕にもお構いなしに急接近していた。少しでも前のめりになれば身体のどこかが当たってしまいそうな程の距離。
「ここには真姫はいないんですから、素直に言っちゃいましょうよ、ね?」
「そ、そういう問題じゃ……というか、少し離れて……」
「もうっ。そんなことばっかり言ってると絵里ちゃん怒っちゃうぞ~?(ぴとっ)」
「――――――――っ!?」
「へ……うわっ」
もう限界だった。悪戯っ子の笑みと共に僕の頬を突いた瞬間、今までなんとか維持していた壁が崩れ去る。ただでさえ霞みかけていた視界が完全にブラックアウトし、身体が前方へと倒れていくのを感じた。その際に油断していた彼女を巻き込んでしまったのか、むにゅりというやけに柔らかい感覚が顔の辺りを包み込む。
「そ、空良さん!? いくらなんでもそれは大胆……」
「馬鹿言ってる場合かー! 完全に気絶してんじゃねぇかそいつ! 空良は女性恐怖症なんだから、絵里ちゃんやりすぎだぜ!」
「絵里ちゃんのおっぱいで空良さんが窒息死しちゃうにゃー!」
「ふ、不可抗力でしょう!? 後そういう直接的な言葉遣いしないの凛!」
「で、でもまずいよ……急いでなんとかしないと、海未ちゃんか真姫ちゃんにこの光景を見られたら――――」
『私達がなんですって、花陽?』
「ぴぃっ!?」
部室に響き渡る花陽ちゃんの悲鳴。新たに聞こえた二つの声に部室の空気が一瞬で凍り付いていた。それよりも、僕に触れている絢瀬さんの動きが完全に止まったのを感じて、彼女の終焉を悟る。意識を失う寸前なので顔は見えないけれど、おそらく死刑を言い渡された罪人のような表情をしていることは分かった。
僕を抱えたまま硬直している絢瀬さん。室温が体感で三度ほど下がっているが、彼女の体温も同じくらい低下している。
「絵里……貴女は兄さんを抱きすくめて、いったい何をやっているのですか……?」
「ち、違うの海未! これは事故というかなんというか……け、決して下心があったとかそういうんじゃ――――!」
「まぁ落ち着いて海未。エリーも悪気はないみたいだし、制裁は一旦保留して……」
「ま、真姫……! 貴女ならきっと分かってくれると――――」
「代わりに、私の外科手術練習用のドールになってもらいましょう? もちろん、メスも入れるし針も通すけど」
「ごめんなさいぃいいいいいいいい!!」
いつもクールで賢く可愛いエリーチカさんの断末魔めいた絶叫を最後に、今度こそ僕は意識を闇の底に沈めていくのだった。
今回も読了ありがとうございます。
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第十一節 暗闇
夢を見ていた。
高校二年生の時、僕の人生を左右する大事件が起こり、女性恐怖症を発症する少し前のこと。まだ僕が女性と普通に接することができていた最後の期間、僕はたまたま、怪我で入院していた友達のお見舞いの為に丘の上の病院まで足を運んでいた。
思わず話し込んでしまい、気が付けば日も暮れ始めている。遅くなる前に帰ろうと病院近くの公園を通った時、僕の視界に一人の少女の姿が飛び込んできた。夕暮れで色彩まではよく覚えていないけれど、たぶん赤っぽい髪の女の子だったと思う。小学生か中学生か、どちらとも言えない幼さを残したその子は、夕陽をぼぉっと見つめたまま寂しくブランコを漕いでいたのだ。
会った事もない女の子。だけど、どうしてもその子を放っておくことができなかった。年の近い妹がいたのも理由の一つだろうが、何かに悩んでいる様子の彼女を無視することはどうしても心が許さなかった。
それから先のことは、いまいち覚えていない。その数日後に女性恐怖症を発症するきっかけとなった事件が起こったせいで、期間周辺の記憶が曖昧になっているから。女の子との会話もまともに覚えていない。記憶に残っているのは、驚いたような少女の顔と、呆れた様子で吹き出す姿。
そして、その後に見せた満面の笑顔。
『的外れな事ばっかり言って、馬鹿みたい。……でも、おかげで気が晴れました。お兄ちゃん、ありがとう!』
ぼんやりと浮かぶ彼女の表情。吊り上がった瞳と、幼いながらに整った顔立ち。
……そうだ、確か最後に名前を教えてもらったはずだ。何だったろう、彼女の名前は。あまり珍しい名前ではなかったからピンと来ない。でも、思い出さないといけない気がする。
不器用で、強がりで、毒舌な……そんな可愛らしい彼女の名前は――――
☆
「ぁ――――!」
「目が覚めた? 随分うなされていたけれど」
「え、え……?」
「なによ、そんな鳩が撃ち殺されたような顔して」
「いや、それは死んでる……」
どこか調子の違うツッコミを返しつつも、僕には今の状況を把握する必要があった。夢から覚めたと思ったら急に視界いっぱいに女の子の顔が広がっているとか混乱するに決まっている。しかも、その女性がよりにもよって……、
「ま、真姫ちゃん? ど、どうしてそんな近くに……ていうか、え、なんか頭の下に柔らかい感触が……」
「驚く前に、お礼を言ってほしいわね。貴女が快適に目を覚ませるように、真姫ちゃん特製膝枕で奉仕してあげていたんだから。本当なら、お金払ってもあり得ない待遇よ?」
「あ、ありがとう……ございます……?」
「ん、よろしい♪」
僕の返事にご満悦な様子の真姫ちゃんは、満面の笑みを浮かべると母親が子供にするように僕の頭を撫で始めていた。大学二年生にもなって年下、それも高校一年生に辱めを受けている事実に羞恥心が爆発しかけるものの、疲れ切っているのか身体がうまく動かない。結果的にされるがままに髪を梳かれている僕である。は、恥ずかしい……でも、想いを寄せている少女にされているって考えると、素直に嫌がれない! むしろ嬉しい気持ちが湧いてくる!
「あぅ……ど、どうすればいいんだ僕は……」
「あー! 空良くん起きてるじゃーん! 膝枕は目を覚ますまでって約束だったのに、頭まで撫でてるなんて約束が違うよ真姫ちゃん!」
「なによ、細かいわね穂乃果は。恨むならじゃんけんで負けた自分を恨みなさい?」
「うぐぐぐ……! おにょれ真姫ちゃん……!」
「くっ……どうして、どうしてこうも運が絡む勝負事に勝てないのですか私は!」
「う、海未ちゃん……どうどう」
「いや、冷静にどういう状況なのこれ」
「いやぁ、空良さんほんとハーレムやねぇ。これだけ愛されていれば、男冥利に尽きるやん?」
「と、東條さん……」
「はろはろ~♪ のぞみんだよ~」
何故か変な闘争心を燃やしまくって争っている海未、真姫ちゃん、穂乃果ちゃんの三人に本気で首を傾げている僕へと声をかけてきた、不思議な雰囲気を身にまとった女性。包容力というか、全体的に大人っぽい印象を抱かせる彼女――――東條希さんは、ひらひらと手を振ると行儀悪く部室の机に腰を下ろした。真姫ちゃんの膝に寝ている僕からはスカートの中身が絶妙に見えそうで見えない。顔を見ると口元が綻んでいたからたぶんわざとやっているのだろう。
「兄さん? まさかとは思いますが、希のスカートを覗いてはいませんよね?」
「するわけないでしょ。どこぞのアイドルオタクなハゲじゃあるまいし」
「おいコラそこの草食系男子」
「うるさいよ電球。……そ、そろそろ大丈夫だから、放してくれないかな真姫ちゃん」
「そう? 意外とこの体勢楽だったんだけど。まぁ、空良が大丈夫って言うなら仕方ないわね」
「はいはいはーい! じゃあ次は私が空良くんを膝枕しまーす!」
「穂乃果ちゃんステイ、アンドハウス」
「空良くんひどい! 私犬じゃないよ!」
犬みたいなものでしょ、とは口が裂けても言わない。
後頭部に残る真姫ちゃんの膝の感覚は名残惜しいが、いつまでも甘えておくわけにもいかない。というか、これ以上は僕の恐怖症と羞恥心的に限界だ。また気絶するのは御免被りたい。
立ち上がり、周囲を見渡す。場所は変わらずアイドル研究部の部室だが、どうやらメンバーは全員揃っているらしい。相変わらず傍観者なことりちゃんと花陽ちゃん、東條さんに、何故か未だに小競り合いしている草太と星空さん。ぶすっとした顔で奥の方に座っているツインテールの小さい女性は、ここの部長である矢澤さんだ。そんでもって、理由は不明だがバチバチと視線で火花を飛び散らせている海未、真姫ちゃん、穂乃果ちゃんの三人。この子達に関しては何を争っているのか本当に謎だ。得意げに余裕な表情の真姫ちゃんへと突っかかる穂乃果ちゃん、その間で一人取り乱している海未という構図が出来上がっている。あまり触れても碌なことにならない気がするので、放っておくとしよう。
最後に、この学校の生徒会長であり、先程僕の意識を闇に葬った張本人である絢瀬絵里さんであるが……、
「暗いの怖い……暗いの怖いよ……エリチカお家に帰りたい……」
部室の隅で膝を抱え、完全に目の輝きを失った絶望の表情で何やら聞いてはならないであろう呟きを漏らしていた。僕が目を覚ますまでに彼女に何があったのか非常に気になるところではあるけれど、ふと海未、真姫ちゃんの方に視線をやった時に含みのある笑みを浮かべられたのでスルーしておくことにした。笑顔の裏に恐ろしいまでの迫力を感じた僕にそれ以上何か行動できると思ったら大間違いである。特に海未の裏笑顔の恐怖なんてこの十九年間で痛い程思い知っているのだから。
というか改めて、僕と草太はどうしてアイドル研究部の部室に呼ばれたのだろう。色々ドタバタしていた聞きそびれていたが、未だに主旨を聞かされていない。草太も同じことを思っていたようで、僕達を連れてきた東條さんにその旨を質問していた。
だが、答えは予想外にもあっけらかんとしていて、
「二人をここに招待した理由? 凛ちゃんと真姫ちゃんの面白い反応が見られるかなって思っただけで、特別な理由とかはないよ? それに、えりちの取り乱した姿も見られて、ウチは大満足やん」
「希……アンタまた突拍子もない理由で人様に迷惑をかけて……」
「そんなん言って真姫ちゃんだって空良さんが来るって話をしたら嬉しそうにしてたやんか。凛ちゃんも凛ちゃんで朝からワクワクしてたし――――」
「希ちゃぁ――――ん! ちょっとお口チャックするにゃぁ――――っ!」
「むぐ」
「え、えっと……? つまりどういうこと……」
「なんでもないから忘れて! 今すぐに!」
「は、はい」
勝手に騒ぎ始めた三人に話を聞こうとするものの、真姫ちゃんに凄い剣幕で迫られた僕はそれ以上追及することはできなかった。隣にいた草太も星空さんに目一杯睨まれて茶化すことすらできないでいる。拘束から解放された東條さんは傍目からでも分かる程に悪戯っ子めいた顔で僕達を眺めていた。彼女はあれだ、このメンバー随一のトラブルメイカーだ。
しかしながら、何も用事がないのなら少しでも早く音ノ木坂から脱出したいというのが僕の本音だったりする。今は草太がいるからなんとかなっているけれど、基本的に女子しかいない空間に長居するのは精神衛生上よろしくない。彼女達にも練習があるだろうし、なんとか隙を見つけて退散したいところではある。
ちら、と草太の方を見やると、僕の考えを察してくれたらしく代表して彼女達に話を切り出してくれた。
「俺達も皆と話せて楽しかったが、そろそろお暇させてもらうわ。花ちゃん達は今から練習するんだろう? 俺達が残っていたら邪魔になるだろうしさ」
「えー! 空良くん達帰っちゃうのー? せっかくだし練習見て行きなよー!」
「俺的にはそうしてもいいし、µ’sの練習風景見られるなんてまたとない機会だからありがたいんだが、空良的にはそうもいかないだろうさ。さっきの絵里ちゃん事件で心身共に参っているっぽいし、帰らせてやってくれよ」
「確かに、兄さんの体調を考えるとそれが一番かもしれませんね……絵里は後でみっちりお説教しますから、任せてください」
「ひぃ~! た、助けてよにこー!」
「私を巻き添えにするな自業自得でしょアンタの!」
完全にクールな印象が崩れ去っている絢瀬さん。今までずっと我関せずと黙っていた矢澤さんに泣きついているが、まったく相手にされていない。見た目と保護者関係とがすっかり真逆になっているようだ。
草太の言葉に何かを考え始める東條さん。怪訝な視線を向けるが、何やら嫌な予感が止まらない。この少女、ぽわぽわした見た目とは裏腹に結構な曲者だと思われるのだ。厄介というか、読めないというか……ことりちゃんとは違った意味での規格外っぷりを感じてしまう。
しばらくうんうん唸っていた東條さんはふと顔を上げると、僕と草太に向き直ってこんな事を言い出した。
「だったら、最後に一つだけお願い聞いてもらってもえぇかな? 我儘言って申し訳ないんやけど、これ聞いてくれたらもう引き止めへんから」
「お願い……? あんまり無茶なやつは無理だよ?」
「そんなこと言わへんよ。ただ、ちょっとお遣いを頼まれてほしいの」
「お遣いか。うん、それくらいなら全然オーケーだぜ」
「ホンマ? じゃあ……空良っちは真姫ちゃんと、草太っちは凛ちゃんとそれぞれ買い物に行ってきてなー!」
『……うん?』
さらっと言われた内容に僕達四人が思わず首を傾げてしまったのは、致し方ない事だろう。
☆
どうしてか、最近ずっともやもやした気持ちが晴れないでいた。
「なんで真姫ちゃんと空良くんとが二人きりじゃないといけないの? お遣いくらい、私が一緒でも大丈夫じゃん」
「そうは言いましても、希が勝手に言った事ですから……」
「納得いかないなぁ」
「あんまり騒ぐと二人に見つかるよ穂乃果ちゃん……」
ことりちゃんに指摘されて思わず黙り込む。私達三人は今、買い物に出かけた空良くんと真姫ちゃんを物陰に隠れて尾行していた。探偵のような活動に普段の私だったら胸躍って楽しんでいたのかもしれないけれど、どうしてか妙な苛立ちを覚えている。
多少の距離感ながらもそれなりに会話が弾んでいる様子の二人。空良くんと真姫ちゃんが仲良くなるのは良い事だし、私も以前に「仲を取り持ってあげる」とは宣言した。空良くんはたぶん真姫ちゃんのことが好きみたいだから、何も悪い事はない。
……だけど、どうしてだろう。仲良さげに話す二人を見ていると、胸の奥が締め付けられたようにズキズキと痛むのは。
「凛ちゃん達の方はどうなっているのかな?」
「あっちは花陽や希、にこに絵里が尾行していますから見つかると言う事はないでしょう。花陽がよっぽどポカをやらかさなければですけど」
「さ、さすがにそこまでドジじゃない……よね?」
「私に聞かないでくださいことり……」
草太さんと凛ちゃんも、二人と同じように別ルートでお遣いを頼まれていた。私から見ても二人は仲睦まじく、すぐにでも付き合ってしまうのではと思ってしまう程。希ちゃんがちょっかいを出すのも頷けるような関係性。凛ちゃん達には悪いけれど、余計な世話を焼かせてもらった。一応花陽ちゃんの許可は取っているので、まぁそこまで問題はない……はずだ。
同じ感覚で世話を焼かれた空良くん達ではあるけれど、どうしても思考が翳ってしまう。幼馴染の恋路を応援するのは当然のことだし、否定するつもりもない。二人が結ばれれば当然お祝いもする。今までお世話になってきた空良くんの為なら、どんなことでもできるつもりだから。
でも、心のどこかで、こんな考えがずっと離れないでいる。
――――私の方がずっと一緒にいるし、仲も良いのに。
――――私の方が、ずっと空良くんのことを大好きなのに。
「どうしました穂乃果? 何か怖い顔をしていましたが」
「へっ? な、なんでもないよっ。あはは……」
「そうですか? それより、二人がスーパーに入っていきます。近づきましょう」
「う、うん」
海未ちゃんの指示でさらに距離を詰めていく。そんな怖い顔をしていたのかと考えるとちょっと反省だ。いくらなんでも子供っぽすぎる思考回路に自己嫌悪。本当にどうしたのだろう。今までは、こんなことでいちいちイライラなんかしなかったのに。
真姫ちゃんが空良くんと仲良くなればなるほど、空良くんと私との距離がどんどん離れていくような気がして。大好きな空良くんが、手の届かない遠いところに行ってしまうような気がして。彼の隣にいたのはいつも私だったのに、その場所を真姫ちゃんに取られてしまう。そんな独占欲がふつふつと湧いてくる。別に恋人でも何でもないのに、身勝手な気持ちが止まらない。
私は空良くんのことが大好きだ。でもそれはあくまでも友達として、幼馴染としての好意である。……その、はずだ。
そんな気持ちが湧いてきたのはいつの頃からだろうか。いつから私は、真姫ちゃんに対して嫉妬のような感情を抱き始めていたのだろうか。
こんな、分不相応な気持ちを、いつから――――
『きゃっ』
『わわっ、大丈夫?』
『あ……えぇ、だ、大丈夫……』
「ななな……破廉恥ですよ兄さん!」
「う、海未ちゃん落ち着いて~!」
「何……?」
急に聞こえた悲鳴と、慌てだした海未ちゃんの様子に反応して空良くん達の方へと視線を飛ばす。ちょうどお遣いを終えたらしい二人がスーパーから出てくるところだった。
だが、二人の姿を見た私は一瞬思考が停止してしまう。
「なん、で……?」
疑問が口を突いて出る。二人の光景に、頭が考えることを放棄していた。目の前のものが信じられないと、脳が理解を拒否していた。
何故、空良くんが真姫ちゃんを抱きかかえているのだろう。
原因はなんとなく分かる。スーパーから出る際につまずいた真姫ちゃんを空良くんが掴んで止めた。ただそれだけのことだろう。なんら不思議なことではなく、顔の距離が若干近いのもそういう体勢ならば仕方ない。別段、驚くことでもない。
だけど、私には耐えられない光景だった。空良くんと真姫ちゃんが密着している姿に、何かが壊れるような音が聞こえた気がした。今まで気づかないでおこうとしていたものに、嫌が応にも気づかされた。そんな感覚に襲われる。
「ごめん二人とも……ちょっと気分が悪いから、先に家に帰るね……」
「ほ、穂乃果? 大丈夫ですか?」
「うん……ごめんね」
「穂乃果ちゃん、一人で帰れる? 着いていこうか?」
「大丈夫……ありがとう、ことりちゃん」
それだけを言い残し、その場を離れる。胸が張り裂けそうな程に痛い。あれ以上空良くん達を見ていたら、頭がおかしくなっていたかもしれない。それくらい、今の私は身体に異常をきたしていた。大好きな空良くんが、今だけは憎たらしい程に愛しくて……大好きな真姫ちゃんが、今だけは純粋に憎かった。この十数年間で経験したことのない未知の感情。熱に浮かされたようにふらふらと歩く私は、相当変に見えたことだろう。
でも、この瞬間理解したことがある。
「私……いつの間にか、空良くんに恋していたんだね……」
「大好き」を通り越して、「愛して」いた。だから、愛する空良くんと仲を深めていく真姫ちゃんに嫉妬していたらしい。恋とは無縁だと思っていたこの私が、だ。
気持ちが整理できない。とりあえず、帰って頭を冷やそう。どんな理由があるにせよ、大好きな後輩、メンバーにマイナスの感情を抱くなんてあってはいけない。たとえ、最愛の幼馴染を奪われる可能性がある相手だとしても。
――――その夜は、黒い何かに呑み込まれるような夢を見た。
今回も読了ありがとうございます。
ジメ2より穂乃果ちゃんの方がズブズブ嵌っていきそうなイメージ。
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第十二節 作戦会議
勇気というものは、出そうと思ってもなかなか出せるものではない。
「今日二人に集まってもらったのは他でもない。相談したいことがある」
「急にどうしたのですか兄さん。そんな顔に合わない真面目な雰囲気を纏って」
「え、今のどういう意味海未」
「空良さん……ぷひゅっ。ごめんなさい、それで、相談って?」
「今笑ったよね? 結構真正面から隠すこともなく笑ったよねことりちゃん?」
明らかに納得のいかない反応に少々イラッとするけども、可愛い妹達のちょっとした悪戯ということで今回は不問とする。ことりちゃんに至っては何がツボに入ったのか俯いたまま肩を震わせているが、それも見なかったことにした。余計な追及を入れると話が進まない。多少の侮辱は受け入れて、さっさと相談を始めてしまおう。
……と、ここでとある違和感を覚える。普段なら真っ先に明るく騒がしい反応を返してくれるはずの少女がいない。
「そういえば、穂乃果ちゃんは? 電話をかけても出なかったんだけど」
「なんか体調が悪いんだって。この間の授業参観の日からずっと調子悪そうだから、ちょっと心配だよ~」
「穂乃果は頑張りすぎるきらいがありますし、休める時には休ませてあげた方がいいでしょうね。せっかくの週末ですし、無理をさせてもいけません。それに、明日は我が家で勉強会の予定もあります。試験に向けて英気を養ってもらわないと」
「期末試験が終わったら夏休みかぁ。楽しみだね~」
「いつも親身になってくれるし、穂乃果ちゃんにも相談したかったんだけど……身体壊しているのなら心配かけるわけにもいかないか。うん、今回くらいは穂乃果ちゃんの手を煩わせないで頑張ろう」
穂乃果ちゃんが体調を崩しているという事実に驚きだが、彼女は昔から何かと張り切りすぎて大事なところでエンジンが切れるタイプだった。以前にも第一回ラブライブに向ける想いが先走った末に高熱に倒れたことがあるみたいだし、彼女の為にも休ませてあげるべきだろう。あまりお世話になりすぎるのも良くない。
というわけで、今回我が家に集まってくれた海未とことりちゃんである。現在は僕の部屋でお茶とお菓子と共にくつろいでいるところだ。穂乃果ちゃんの無事も確認できたことであるし、早速話を切り出す。
「それでは……今日二人に集まってもらったのは他でも」
「もうそれはいいですから、早く本題に入ってください」
「はい……」
「気に入ってたんだね……」
ちょっとやってみたかったんだよ、こういうの。ロマンじゃん。
「なんというか、まぁ相談なんだけどさ」
「うん」
「……真姫ちゃんをデートに誘いたいんだけど、どうすればいいかな」
「帰りましょう、ことり。このヘタレに付き合う暇はありません」
「落ち着いて海未ちゃん。ここは園田家だよ」
「待って待って海未! 情けないのは分かっているけど、女の子をデートに誘うなんて僕だけじゃ到底無理なんだ! 恥を忍んで……お願いします!」
「実の妹に土下座って……あぁ分かりました。分かりましたから顔をあげてください。ことりもいるんですよ兄さん」
「や、やったー! 海未大好き!」
「はぅっ。な、なんたる不意打ち……さすがは無自覚系……」
「ことり、帰ってもいいかな?」
何やら暗い瞳で呟くことりちゃんはさておき、僕の頼みを聞いた瞬間踵を返して部屋から退却しかけていた海未を引き止められたのは大きな戦果だ。お礼を言った途端にちょっと顔を赤くしてもじもじしていたのが気になるが、もしかしたらトイレでも我慢していたのかもしれない。そういったデリケートな点に触れるのはデリカシーに欠ける、と前に真姫ちゃんに怒られたこともあるので、余計な詮索はやめておこう。
気を取り直して、再び質問。
「デートプランがどうこうとか言う前に、そもそも真姫ちゃんを誘うことすらできない気がする」
「普通にメールなり電話なりで言えばいいのでは……」
「き、急にそんなの送ったら迷惑じゃない?」
「遊びに行こうって誘うくらい、なんでもないんじゃないかな~」
「ガツガツしてるって思われるのも嫌だし……」
「……兄さんは真姫をデートに誘いたいんですよね? でしたら、些細な恥は捨て去るのが吉ではありませんか?」
「う。で、でも、そもそも僕なんかがそんなこと言い出して、嫌われでもしたら……」
「黙りなさいこの卑屈系ヘタレが! それでも園田家の長男ですか!」
「ひぃっ」
だん! と割とマジな勢いでテーブルを叩く海未の迫力に身も心も凍り付く。彼女から放たれるプレッシャーで指一本マトモに動かせない。肉食獣に睨まれた草食獣……いや、もはやモルモット。無意識に全身が震え、恐怖に身体中の血の気が引いていく。
海未はぐいと僕の胸倉を掴み上げると、普段の清楚な彼女らしからぬメンチを切る。
「さっきから聞いていればぐだぐだぐだぐだネガティブなことを……。いいですか兄さん、女性恐怖症を治し、真姫をデートに誘うと決めた以上、その卑屈さはすぐに捨てなさい! 余裕のない男が好かれる道理はありません!」
「ぐふぅ」
「う、海未ちゃん! 空良さんの顔色が一気に悪くなってるよ!?」
「自分に自信が持てないのなら、それこそくだらないプライドなんていりません! 元から失うものなどないのでしょう? しょうもない自己防衛中の、やっすいプライドにしがみついた男なんて情けないだけです! 好きな相手にくらいプライド捨てて我武者羅に形振り構わず行動しなくてどうしますか! 兄さんの腰抜け!」
「きゅぅ」
「そ、空良さぁ――――ん! ほ、保健委員……って、私だ! 保健委員私だ~!」
完膚無き迄に叩きのめされた僕は為す術もなく仰向けにベッドに倒れ込む。戦闘不能に陥った僕を看護兵よろしく復活させようと心臓マッサージを試みているが、女子の平均以下程の力しかない彼女の行為は適度な癒しにしかならない。
僕を上段から思いっきり袈裟切りにした愛する妹はというと、どこか満足そうにふんぞり返りながら悦に浸っていた。
「ふ。またつまらぬ者を切ってしまいましたね……」
「海未ちゃん、たまにすっごく辛辣だね……」
「いつまでも前に進もうとしない臆病な兄さんが悪いのです。女性恐怖症のせいで自信が持てないのは百も承知ですが、だからといってここで甘やかしても進歩はありません。ここは心を鬼にして、子を谷に突き落とす獅子の気持ちでぶつからなければ」
「気持ちはありがたいけど、具体的にはどうすれば……」
「その点に関しては、ぬかりはありません。そろそろそんなことを言ってくるだろうと思ってはいましたので、既に手は打ってあります」
「はい?」
「これを」
いつから用意していたのか、部屋着のポケットから二枚の紙切れ……何かのチケットらしきものを取り出すと、妙に演技がかった身振りで僕に差し出す海未。やけにテンションが高い彼女に一抹の不安を覚えながらも、差し出されたそれらをおずおず受け取る。
そこには日付と共に、こう書かれていた。
「新規オープン、ドリーム遊園地チケットペア招待券……?」
「デートと言えば遊園地! これはもう昔から決まっている、いわば様式美! 普段はツンツンしたあの子も絶叫マシーンを前にすればちょっと弱いところを見せる……吊り橋効果とはまさにこの事ッッッ!」
「この十割増しで頭が悪い我が妹は何か悪い薬でも飲んだの?」
「なんか最近、花陽ちゃんから借りた恋愛ゲームにハマったらしくて……しかも、少し古いシリーズに。それで、私がたまたまお母さんからチケットを貰ったら、これは利用するしかないって……」
「相変わらず変なロマンチックに惹かれる妹だなこの子は……」
「安心してください兄さん。【ドキドキメモリアル】シリーズ最難関の攻略難度を誇る究極ツン娘さえも、数々のバリエーションを誇る遊園地責めに陥落したのです。あんなちょっと思春期拗らせた程度の真姫が堕ちない訳がありません!」
「うん、そうだね。ちょっと黙ろうか海未」
いつになく興奮した様子で声を荒げる海未を制する。そもそも男女の恋愛とか「破廉恥です!」とか言って超が付くほど苦手なくせに、どうしてよりにもよって恋愛シミュレーションなぞにドハマりしているのか。もしかしたら、日頃溜め込んだ妄想欲がうまい具合に合致してしまったのかもしれない。確かに昔からポエム書いたり、僕の持ってるちょっとエッチな少年漫画をこっそり読んだりとムッツリ少女な前兆はあったが……なんというか、嫌な意味で期待通りに育ってしまったらしい。うん、お兄ちゃん涙で前が見えないや。
とはいえ、海未が僕の為にこのチケットを用意してくれたのは紛れもない事実である。過程がどうあれ、彼女の優しさを無駄にするわけにはいかない。どうせ僕だけの力ではびびってプランすら立てられないのだから、今はこの可愛い妹の策に乗っかるべきだろう。
やっと我に返ったのか、少し恥ずかしそうに頬を染めて上目遣いでこちらを見る海未に笑顔を浮かべると、
「ありがとう。せっかくだから、これを使って誘ってみるよ。このお礼は近いうちに返すから、楽しみにしてて」
「い、いえ、お礼なんて……私はただ、兄さんを応援したかっただけなのですから……」
「海未……本当に優しいね、キミは」
「うぅ、素直に褒められるとそれはそれで恥ずかしいのですが……」
「海未ちゃん顔真っ赤だ~」
「こ、ことり! からかわないでください!」
恥ずかしがる様子を面白がったことりちゃんに弄られる海未ではあったが、それでもどこか嬉しそうな、楽しそうな表情を浮かべていることにほっと安堵する。かつて稽古に縛られて満足に遊ぶことすらままならなかった彼女がここまで笑うようになったのも、穂乃果ちゃんやことりちゃんのおかげだ。二人のおかげで、こんなに優しく、可愛らしい子に育ってくれた。そのことは感謝してもし足りない。
ひとしきりからかわれた後、失態を誤魔化すように咳払いをした海未は未だに赤みが残る顔を引き締めて改める。
「それじゃあ早速、明日の勉強会の時に真姫を誘ってくださいね。できるだけ二人きりになれるよう私達も協力しますので。くれぐれも、穂乃果がいる場所で渡すことなんてないようにお願いします」
「ふ、二人きりかぁ……緊張するなぁ。でも確かに、穂乃果ちゃんに見られながら渡すのは滅茶苦茶恥ずかしいし、なんか締まらないもんね。了解だよ」
「締まらないというか、他にも懸念要素があるのですが……まぁいいです。こんなことくらいしか私にはできませんが、兄さんが上手くいくように祈っています。頑張ってくださいね」
「私も応援してるよ~。空良さん、ふぁいとっ」
「二人とも……本当にありがとう」
なんだかんだ言いつつ色々とフォローしてくれる妹達に涙が出そうになる。優しい子達を幼馴染に持って、僕は本当に幸せだ。彼女達の期待に応えられるように、僕も全力で頑張らないと。
作戦実行は明日の勉強会。絶対に成功させてみせる。
脳内で何通りかのプランを立てながらも、心の中では何故か上手くいくという根拠のない確信があった。海未達の後押しのおかげだろう。
奇怪な自信に包まれながら、ぎゅっと拳を握り込む僕であった。
今回も読了ありがとうございます。
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第十三節 Music S.T.A.R.T!!
もう何度目かになる勉強会は、いつになく緊張感のある雰囲気の中で行われていた。
「ねぇ空良、ここの問題なんだけど、解法がちょっと思いつかなくて……」
「あ、うん。それは因数分解した後に……」
「空良くん。この質問の意味が分からないから、教えて教えてー!」
「えっと、そこは筆者が用いている比喩を……」
「ちょっと穂乃果。今空良は私に教えている最中なんだから、少し待ちなさいよ」
「真姫ちゃんは頭良いんだから後でも大丈夫でしょ? それより私の方が切羽詰まっているんだから、譲ってよ」
「先輩なら後輩に気を遣ってくれてもいいんじゃない?」
「後輩は先輩を立てるのが常識だよね?」
「…………」
「…………」
「ふ、二人とも喧嘩しないでさ、仲良く勉強しようよ。ね? 今回は真姫ちゃんが先に聞いてきたから、穂乃果ちゃんは少しだけ待っててね?」
「……わかったよ」
あからさまに不機嫌な様子で別のページを開き問題を解いていく穂乃果ちゃんと、何を考えているのか心なしか距離が近い気がする真姫ちゃんに挟まれて胃が痛い。今日は開始早々からやけに殺伐とした空気が僕達を包み込んでいる。真姫ちゃんと穂乃果ちゃんが事ある度に小競り合いを始めることが多々ある為、間を取り持つ僕のプレッシャーとストレスは半端ではなかった。なんで険悪なムードになっているのか理由を聞けるような感じでもないのでさらに手詰まりとなっている。助けを求めて海未とことりちゃんに視線を飛ばすが、二人とも困ったように僕から目を逸らしていた。あれはなんとなくだけど理由を知っている顔だ。でも、聞かない方が良いという意思が伝わってくる。知らぬが仏か……。
それにしても、様子を見ていると穂乃果ちゃんが一方的に真姫ちゃんに難癖を付けている傾向にある。それも結構な言いがかりだ。まるで我儘を通そうとする子供のように真姫ちゃんに絡んでいる。本当に、いったいどうしたのだろうか。
真姫ちゃんの悩んでいた問題を教え終えたため、手持無沙汰にシャープペンシルを回しながら僕を見ていた穂乃果ちゃんへと向き直る。
「お待たせ穂乃果ちゃん。それで、どこの問題だっけ?」
「わーい! えっとねえっとね、ここなんだけど……」
「ふむむ、ここはちょっと難しいところだから、一回文章を読み直して……」
「……えへへ」
「な、なんか嬉しそうだね穂乃果ちゃん。それと、ちょっと距離が近くないかい?」
「そんなことないよー? 見やすいような位置にいるだけだもん」
「そ、そう……」
先程の不機嫌っぷりはどこにいったのか、すっかり上機嫌な様子で僕に密着しながら問題を覗き込む穂乃果ちゃん。そんなに近づかれると僕の精神衛生的によろしくないのだが、昔から何かとスキンシップの激しい彼女的にはいたって普通の距離感なのだろうから強くは言えない。お世話になっている引け目もあるから、ある程度のことは許容しないと申し訳が立たないというのもある。
「……むー」
「ど、どうしたの真姫ちゃん。そんなジト目で睨まれるようなことした……?」
「別に。仲がよろしいことで」
「台詞と語感が釣り合ってないんだけど……なんか怒ってる?」
「……変態」
「えぇっ!?」
だが、お次は反対側に座っている真姫ちゃんから不機嫌オーラが放たれているのは本当に何故なのか。なんなのだろうこのベリーハードにも程があるバランス調整は。女心は秋の空とはよく言われるものの、こんなスナック感覚で期限を損なわれてはたまったものではない。
変態呼ばわりとか心外にも程があるのだけれど、真姫ちゃんはそれ以上何を言うでもなく黙々と勉強を始めてしまったので文句の一つも言えやしない。反対に、見るからに機嫌が良くなっている穂乃果ちゃんは一見過剰にも見えるスキンシップをしつつ僕に教えを請うているというこの状況。昨日真姫ちゃんに遊園地のチケットを渡すために頑張ろうと誓ったばかりではあるが、その前段階で僕のメンタルは既に限界を迎えつつあった。二人がなんで喧嘩しているのかも分からない以上、対処もできない。まさに詰みである。
「空良くーん! ここの問題も教えてー!」
「はいはい。そこは逆接の接続詞を探して……」
「空良。応用問題の解法を聞きたいんだけど」
「あ、うん。穂乃果ちゃんの問題が終わったらでいいかな?」
「……ふん」
どうすればいいんだよ僕は!
よく見れば僕の目を盗んで隙あらば睨み合っている二人に溜息すら出ない。なんだ、いつの間にこんなに仲が悪くなったんだ君たちは。穂乃果ちゃんと真姫ちゃんが争う共通点なんて思いつかないんだけど。
おそらく勉強会中にチケットを渡すのは不可能だろう。穂乃果ちゃんがいっこうに僕から離れる様子もないし、海未とことりちゃんの協力があったとしても、僕と真姫ちゃんが二人きりになれるヴィジョンが浮かばない。これは真姫ちゃんを送る帰り道に渡すしかないかな……。
「ねぇ空良くん!」
「空良!」
「お願いだから喧嘩しないで二人とも……」
僕を挟んで険悪なムードを放出する穂乃果ちゃんと真姫ちゃんに涙目を浮かべながらも、その日の勉強会をなんとか乗り越える僕なのであった。
☆
ここ最近、空良と一緒にいるとどうにも調子が狂う。
「別にわざわざ送らなくても良かったのに……」
「いや、さすがに夜道を女の子一人で歩かせるわけにはいかないでしょ。さ、最近はなにかと物騒だしね。これくらいは任せてほしいかなって」
「見るからに弱そうな空良がいたところで怖気づく暴漢なんかいるのかしら」
「うぐ。評価が胸に刺さる……。確かに背も低いし威圧感もないけどさ……」
割と気にしていたのか、私の言葉にあからさまに落ち込むような仕草を見せる空良。女性恐怖症以前にそもそもメンタルが弱いらしい彼は、ちょっとした毒舌ですぐに落胆してしまうきらいがあった。自分に自信がないのか、言葉の端々に自虐的な発言が散見される。確かに秀でてはいないと思うが、そこまでネガティブになる程ではないだろうに。
夜道を歩きながら、隣を歩く空良の顔をちらりと横目で流し見る。
そこまで背も高くない、童顔の男性。中性的な顔のせいで年より若く見えるのだろうが、本人が気弱な性格だと言う事も相まって冴えない雰囲気さえ醸している。お世辞にもイケメンだとは言えないけれど、心優しい不器用な大学生。
正直な話、第一印象はそこまで良くはなかった。海未が無駄にハイスペックなせいで、空良の卑屈っぷりと情けなさが妙に癇に障ったから。なんだこのナヨナヨした男は、と変な苛立ちを覚えていた。女性恐怖症とは聞いていたけれど、それにしても格好悪すぎるだろう、と幻滅する一歩手前まできていた気もする。それくらい、初対面は最悪だった。
でも、それからよく会うようになって。穂乃果や海未を通じて遊ぶようにもなって、その印象は変わった。赤面症で上がり症で、女性相手だと会話すら覚束ないのに、誰よりも優しくて、妹想いで……たまにやりすぎなくらい他人を気遣う紳士な一面もあって。穂乃果が彼の事を好くのも分かるくらい、魅力的な男性だった。海未が胸を張るくらい、立派なお兄さんだった。
最近は勉強会に参加しているのもあって、ほぼ毎週顔を合わせている状況だ。その度に独占欲丸出しな穂乃果といちいち衝突するけれど、彼と一緒にいるとなんだか心地よい感覚に包まれる。少し距離が近づいただけで、決して表情には出さないが口元がにやけそうになる。もっと話したい、もっと仲良くなりたい、との思いが次第に強まってくる。
もしかしたら。もしかすると私は、この男性のことが――――
「ま、真姫ちゃん? ずっとこっち見てるけど、僕の顔に何かついてる?」
「みゃっ!? ちちち、違うの! た、ただ少しだけ、少しだけぼーっとしていただけで深い理由は……!」
「あー、まぁ確かに疲れたよね。ずっと勉強していた訳だし……穂乃果ちゃんともずっと小競り合いしていたし、ぼーっとするのも分かるなぁ」
「ふ、ふみゅぅ」
「凄い声出てるけど本当に大丈夫?」
「き、気にしにゃいで……こほん。平気、大丈夫、いたって通常通りの真姫ちゃんよ」
「そ、そう」
少々怪訝な視線を向けられたものの、なんとか誤魔化し切ったようで一安心だ。顔の火照りと鼓動の速まりが治まる様子がないけれど、おそらく動揺したせいであろう。……何に動揺したのかは、ちょっと自覚したくない。
呼吸を整えつつ髪を弄っていると、不意に空良が話しかけてきた。
「そういえば真姫ちゃん、穂乃果ちゃんと喧嘩でもしたの? 最近よく言い争ってるけど、何かあった?」
「喧嘩というかなんというか……別にそういうのじゃないんだけど」
「えぇ……じゃれ合いにしては雰囲気が本気じゃない?」
「私が空良と仲良くしているのが気に食わないだけじゃないかしら。ほら、穂乃果って子供っぽいし、空良を取られるーってムキになっているのかも」
「そんな大袈裟な……さすがにそれくらいで怒る程幼くはないと思うんだけどなぁ」
幼いというか、穂乃果の場合は親愛感情から来る独占欲が強すぎるって感じだと思う。
でも確かに、園田家での私と穂乃果はことある度に争っている気がしないでもない。学校では仲も良いし、喧嘩なんて絶対にしないんだけど……空良が関わるとお互いに一歩も譲らないから、自然と衝突してしまうのだ。穂乃果は自己主張が強いし、私も気が強いからなおの事。
まったく。空良の取り合いで喧嘩するなんて、まるで私まで彼に好意を抱いているみたいじゃな――――
「~~~っ!」
「なんか顔真っ赤だけど絶対大丈夫じゃないでしょ! 風邪!? 風邪でも引いた!?」
「な、なんでもないっての! いいから、ちょっとこっち見ないで!」
「ひゃ、ひゃい」
反射的に怒鳴ってしまい少しだけ後悔するものの、夜道で暗いとはいえ街灯に照らされている現状では真っ赤な顔を見られてしまう恐れがある為致し方ないことなのだ。ちょっと、駄目だ。今の私を見られるのは、精神衛生上問題がある。
それからもチラチラと盗むように空良の顔を見るが、その度にトクンと心臓が跳ねる。十六年間の人生で感じたことがない、苦しくも甘酸っぱい感覚に戸惑いを覚えてしまう。なんなのだろう、この気持ちは。空良を見ているだけで、隣にいるだけで、胸がいっぱいになってしまうこの感覚は……。
「着いたよ真姫ちゃん。いつ見ても凄く広い家だね」
「あ……」
気が付くと、見慣れた家の前に辿り着いていた。白塗りの豪勢な屋敷が月明りに照らされている。
着いた。着いてしまった。決して短い道程ではなかったが、彼と別れなければならない事実に落胆を覚える。勝手に思考に耽っていたからあまり話せてもいない。もっと距離を縮めたかったのに、現実は非情だ。どうせなら、園田家にお泊りしてしまえばこんな気持ちにもならなかったのだろうか。
――――そこまで考えて、ハッと我に返る。同時に、もう誤魔化せないところまで来ているということにも気が付いてしまった。
不安定な心のまま、頭を下げる。
「あ、ありが、とう……」
「いえいえ。これくらいはお安い御用だって」
不自然な私の言葉に気が付かなかったのか、相変わらずへらへらと本心の読めない表情で手を振る空良。何か言わないと、このまま今日が終わってしまう。何も進展しないまま、彼との会話が終わっちゃう。
せっかく気が付いたのに。
せっかく自覚したのに。
せめて後少し、彼と接していたい――――!
「そ、空良!」
「は、はいっ!? なんでしょうか!?」
油断していたのか、私の呼びかけに肩を跳ね上げながら反応する。とても大学生とは思えない切羽詰まった様子に少しだけ笑いが零れた。カチコチに固まった表情で私を見やるその姿は、相も変わらず女性恐怖症な彼そのものだ。
空良の反応に少々気が楽になった。羞恥心を誤魔化すために視線を逸らしてはいるけれど、気持ちだけは真っ直ぐ彼を見つめて。好意を素直に吐き出せない私だから、言葉も少し回りくどい感じで。他人が見たら上から目線だと突っ込まれそうな台詞と共に、彼への想いを口にする。
「試験が終わったら……私へのご褒美として、どこか遊びに連れていってくれない? ほら、教え子を労うのも、家庭教師の仕事でしょ? 海でも山でも街でも村でもどこへでも。この真姫ちゃんをエスコートする権利をあげるわ」
「…………真姫ちゃん、女王様みたいだね」
「空良は家臣みたいだけれど」
どことなく呆れた様子で皮肉を言ってくる空良に、こちらも同じように返してやる。こんな言い方でも怒らないあたり、空良は本当に優しい。捻くれ者で口が悪い私が素で接することができる貴重な男性。この人なら、どんな私でも嫌わないでいてくれる。
ドキドキと騒がしい心臓をなんとか抑えつけつつ返事を待つ。一秒一秒がとても長く感じられた。彼の一挙手一投足が普段以上に気になってしまう。
空良は少し肩を竦めると、ズボンのポケットから何やら紙のようなものを一枚取り出した。長方形のそれに書かれた【ドリーム遊園地】の文字がやけに目を惹く。
どこか照れ臭そうにおずおずと差し出して、口を開いた。
「海未から貰ったんだけどさ。日程も試験が終わった後だし、よかったら……。ほ、本当はもっと早く渡すつもりだったんだけど、勉強中は迷惑かなって思って……い、嫌なら全然断ってもらって大丈夫なんだけど!」
「そんな後ろ向きな誘い方ってどうなのよ……」
「だ、だって……僕なんかが誘って断られたらって思うと……」
「はぁぁ。ほーんと、空良ってダメダメよね」
「はぅっ」
痛いところを突かれたらしく目に見えてダメージを受ける空良。彼的には女性を遊びに誘うという行為自体相当なハードルなのだろう。何がきっかけで女性恐怖症になったのかは知らないが、女性に対して少々卑屈な面があるし。変に距離を置くのも、もしかしたら無意識のうちに女性に嫌われることを恐れているからなのかもしれない。
なんか涙目一歩手前な空良に溜息が漏れる。なんでこんな男性の事を……と我ながら趣味の悪さに呆れるが、なってしまったものは仕方がない。穂乃果には悪いが、私は私なりに頑張らせてもらうだけだ。
彼が差し出したチケットを抜き取ると、そのままの勢いで家の門を潜る。
「ま、真姫ちゃん!?」
「……約束」
「はい?」
私の行動に目を丸くする空良へ、そんな言葉を投げかける。単語では意味不明だったのか、慌てながらも首を傾げていた。
兎みたいな、どうしようもなく弱っちい彼に微笑ましいものを感じながら、おそらく朱に染まっているだろう頬が見えないように門で隠しつつも、心の中ではこれ以上ないくらい満面の笑顔を浮かべて。
言葉を、紡いだ。
「この私を誘ったんだから、絶対に楽しませなさいよね。最高のもてなし以外は認めないんだから!」
「ぷ、プレッシャー与えてくるのやめてくれない!? 辛いよ!」
「ふふっ。それじゃあ、楽しみにさせてもらうわ。おやすみ、空良」
「あっ、そんな身勝手な……ま、真姫ちゃーん!」
元来自信が欠けている彼にとっては相当なハードパンチだっただろう。泣き言を漏らす空良を置いて、さっさと家の中に入っていく。あれ以上顔を合わせていれば、たぶん心臓がもたなかった。鼓動が聞こえるんじゃないかって心配になるくらい、勢いよく鳴っている。
「あら、やっと帰ってきたんですね真姫ちゃん。晩御飯の準備はできていますから、着替えてきてくださいな」
「……ねぇ、和木さん」
「どうしましたか?」
帰るなり早々顔を見せたお手伝いの和木さんに声をかける。胸に溢れるこの気持ちを、一刻も早く誰かに伝えたかった。人生で初めて感じる胸の高鳴りを、伝えることで形にしたかった。
きょとんとした顔でこちらを見る和木さんに微笑みを浮かべると、一人の情けない男性の姿を思い浮かべつつ――――
「私ね、もしかしたら好きな人ができちゃったかもしれない」
生まれて初めて抱いた恋心を、ぎゅっと胸に抱き締めた。
今回も読了ありがとうございます。
やっと互いにスタートライン。
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第十四節 変化
楽しみな事が控えていると、時間の流れというものは得てして早く感じるものだ。
「ついに、ついにこの時が来てしまった……!」
最後の勉強会から二週間が経過した、八月最初の日曜日。周囲はすっかり夏休みムード一色で、数多くの学生達が各々の休日を満喫する姿がちらほらと。かくいう僕もしっかり期末考査を乗り切っているため、安心して夏季休暇を謳歌させてもらっている身だ。大学生は休みが多くて嬉しいね!
さてさて、現在僕は秋葉原駅の電気街口でとある少女と待ち合わせをしているところだ。女性恐怖症の僕らしからぬ状況ではあるが驚くことなかれ、今日は待ちに待った真姫ちゃんとの遊園地デートである。朝から緊張でご飯もマトモに喉を通らなかったのはここだけの話だ。見かねた海未が携帯食料を持たせてくれたけれど、果たして食べるかどうかは分からない。空腹よりも、プレッシャーに押し潰されそうだった。
時刻は朝の八時半。待ち合わせは40分だから少し早めに到着している。まさかこの僕が
そういえば今日も穂乃果ちゃんは用事があるとかで会えなかったなぁ。一番お世話になっているから、色々助言を貰いたかったのだけれど。せっかくオシャレしたのだし、彼女にも見てもらいたかった。言いたいお礼もたくさんあるし、今度折を見て高坂家に顔を出してみよう。体調を崩している可能性もある。お見舞いくらい行っても迷惑がられはしないはずだ。
思考をあっちこっちに飛ばしながら真姫ちゃんを待つ。傍から見れば視線を泳がせる不審者に見えたことだろう。現に先程から通りかかる人が怪訝な表情で僕の方をちらちら見ている。一人でさえこれなのだから、真姫ちゃんと合流してしまったら僕死んでしまうんじゃないだろうか。
「はぁ……幸せすぎて死ねる……」
「なに勝手に天に召されようとしてんのよ。今からでしょ」
「いや、そうなんだけど……ってうわぁ! 真姫ちゃん!」
「どうも。可愛い賢い真姫ちゃんよ」
いつの間にか背後に忍び寄っていたらしい真姫ちゃんが「してやったり」と言わんばかりの得意げな顔でニヤリと笑っていた件について。
相変わらずツリ目でジト目な真姫ちゃんに向き直ると、否応なしに視界に飛び込んでくるのは彼女の服装だ。
「…………」
「どうしたのジロジロ見て。この真姫ちゃんの可愛さに見惚れでもした?」
「……うん、めっちゃ可愛い」
「うぇぇ!? ちょっ、ななな、なに馬鹿なこと言ってんのよ急にびっくりするじゃない!」
「ご、ごめん……」
既に内心が口から零れ落ちている僕に顔を真っ赤にした真姫ちゃんが怒鳴っていたが、正直そんな余裕はなかった。目の前に現れた女神の美しさに目が焼け死ぬのではないかと本気で考える。ちょっと狼狽した態度のせいで無駄に魅力がアップしているのも相乗効果。
ファッション自体はありふれた、無難なものと言っていいだろう。黒のTシャツにショートデニム。腰には赤いチェックシャツを巻いた、そつない着こなしだ。だが、スタイルも顔もずば抜けている真姫ちゃんがそのコーディネートを行うと通常の十倍、いやそれ以上の魅力を放つ兵器になる。現に、少しでも油断すれば膝から崩れ落ちそうな程に、僕の身体は歓喜に震えていた。
無意識に放った賛辞に顔を赤らめて視線を逸らしている彼女の姿がどうしようもなく可愛らしくて、なかなか目を話すことができない。女性恐怖症のこの僕が、である。
「ちょ、ちょっと! いつまでも凝視しないでよ恥ずかしいじゃない」
「あ、ご、ごめん……」
「見ないで、とは言わないけど、場を弁えなさいね? そりゃあ私に見惚れるのは仕方ないとしても、人目もあるんだから」
「う、うん……」
「……聞いてるの?」
「き、聞いてます! はい! だからあんまり至近距離から顔を覗き込むのは勘弁してください! はい!」
どうしても視線が真姫ちゃんに向かってしまって空返事になっていたのを指摘されるが、鼻先にまで顔を近づけられると僕の心臓と汗腺がこの世の終わりを迎えてしまうのでご遠慮願いたい。しかも身長の関係でシャツの襟元から、その……中までは見えないけれど、下着というか胸元というか……とにかく、あまり直視してはまずいものが不可抗力で視界に飛び込んでくるため、本当に色々とヤバいのだ。うぅ、この無防備さは心臓に悪いよぉ。
「まったく。最初からこんな体たらくだなんて、先が思いやられるわ」
「僕も今日一日乗り越えられるか心配だよ……」
「何情けないこと言ってんの。この真姫ちゃんをエスコートするんだから、途中でグロッキーなんて許さないわよ」
「は、はいぃぃ」
真姫ちゃんと合流して数分で既に体力と羞恥心が限界な件について。大丈夫か僕。
思わず溜息をつく。せっかく真姫ちゃんとデートだというのに、今のところ情けない姿しか見せられていない。これで僕の事を好きになってもらうとか到底無理ではなかろうか。やっと最近会話できるようになり、多少は顔を見ても大丈夫になってきたというのに……世知辛いなぁ。
「……んっ」
「……はい?」
「んっ! んっ!」
自らの不甲斐なさに早くも心が折れそうになっていると、真姫ちゃんが唐突に右手を差し出してきて困惑してしまう。なんか頬は赤いし、いったいどうしたのだろう。目を合わせる訳でもなく、何度も手を向けてきているが――――
あ。も、もしかして……。
まさかな、そんなわけないよな、と半信半疑ながらも、おずおずと聞いてみる。
「えっと、それはもしや、いわゆる手を繋ぐとやらをご所望で……」
「いいい、いちいち言葉にする必要ないでしょこの朴念仁! 今日のアンタは私をエスコートする執事みたいなものなの! だ、だから、はぐれたりしないように手を繋ぐのは、紳士として当然でしょう!? それも分からないなんて、やっぱり空良はダメダメね!」
「あぅ……ご、ごめんなさい……」
「あ、謝らなくても……あぁもう! 調子狂うわねホント! いいからさっさと手を繋ぐ! レディの口から言わせてんじゃないわよ!」
「は、はいぃ!」
凄い剣幕で怒鳴られて否応なく咄嗟に真姫ちゃんの手を掴む。一瞬、「直接触れてしまうと僕の心臓と身体が耐え切れないのでは?」と不安になったが……実際に握ってみると、緊張で多少の発汗は見られたものの、過呼吸も眩暈もあまり起こりはしなかった。想像よりも冷静に、彼女の手の柔らかさを感じることができている。恐怖症の症状が、出ていない。
僕が異変なく手を握れたことに彼女も驚いているらしく、ポカンとした表情で目を丸くしていた。が、すぐにまたトマトのように顔を赤らめると、再びそっぽを向いてしまう。
「ふ、ふんっ。まずは上々の滑り出しね。恐怖症も緩和されているみたいだし? やっぱり、この私にかかればその程度の症状なんでもなかったということよ! 感謝しなさい、空良!」
「……ありがとう、真姫ちゃん」
「う……。な、なによ、やけに素直じゃない……」
いつも素直じゃないみたいな言い方はやめてほしいかな、というのは口に出さない。それよりも、僕の中で彼女が『例外』になりつつある事実に驚きと共に幸福感を覚えていた。なるほど、西木野真姫という存在は、ついにそこまで昇華してきたらしい。
握った手に思わず力を込めると、そのまま改札へと向かう。
「……よっし! それじゃあ今日はうんと楽しもうよ、真姫ちゃん!」
「わっ、急に走ると危ないわよ空良!」
「あははっ! 大丈夫大丈夫!」
もういつ以来に感じるか分からない高揚感に心が跳ねる。今ならば、空だって飛べる気がした。
慌てる真姫ちゃんの手を握った僕は言い知れない胸の高鳴りに酔い痴れながらも、彼女と共に目的の電車へと飛び乗っていく。
今回も読了ありがとうございました。
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第十五節 遊園地
新規オープンの上に週末だということもあり、遊園地は結構な大勢で賑わっていた。
「こ、これが遊園地……!」
「もしかして、遊園地って初めて来るの?」
「なっ!? ば、馬鹿言わないで! こ、この私が遊園地に行ったことないなんて、あるわけないないないじゃない!」
「初めてなんだね……」
「ぐ……。し、仕方ないでしょ。子供のころは勉強とピアノばっかりで、こういうところに連れていってもらう機会なんてなかったんだから。悪かったわね、浮世離れしていて」
羞恥心のせいか少し頬を赤く染めると、不貞腐れたようにそっぽを向く真姫ちゃん。しかしながら、アトラクションの数々が気になるのか、ちらちらと視線をあちらこちらに飛ばしている様子が本当に可愛らしい。人一倍プライドが高い彼女らしい反応ではあるが、ここは年長者である僕が気を回してスムーズに事を運ぶべきだろう。
すっかりスネてしまった真姫ちゃんに頭を下げると、
「ごめんごめん。でもさ、せっかくの初遊園地なんだから、目一杯楽しもうよ! ほら、僕あの海賊船に乗りたいな!」
「ふ、ふんっ。そ、空良はほんと子供ねっ! し、仕方ないから一緒に乗ってあげるわよ! 感謝しなさいっ」
「あはは……ありがとうございます真姫お嬢様」
「よろしい。じ、じゃあ早速行くわよ……!」
僕のお膳立てに見事に乗っかった真姫ちゃんは嫌味めいた台詞とは裏腹に目を輝かせている。待ちきれないとばかりに僕の腕をぐいぐいと引っ張ってくる姿に胸のときめきが止まらない。今日の彼女は普段の数十倍魅力的だ。当社比。
真姫ちゃんに連れられるがまま、海賊船の受付に到着。見上げると、大学生の僕でさえも若干焦る程の勢いで前後に揺れるアトラクションが。うわぁ、これがまた滅茶苦茶酔いそうな感じの揺れ方だ……。
こういう絶叫系は苦手な女性もいるというし、マズいようなら先に手を打っておかないと。不安に思った僕は腕を掴んだまま離さないトリップ真姫ちゃんに視線をやるが、
「す、すごいすごいすごいっ。ねぇ空良! このアトラクションすっごく楽しそうね! 今からわくわくが止まらないわ!」
「……大丈夫そうだね」
「どうしたの? 早く乗りましょうよ!」
「うん、乗ろうか」
もうすっかりエンジョイモードに移行している彼女に頷きを返す。どうやらまったく心配はいらないようだ。現在の真姫ちゃんはすべてが初めてな幼子状態。恐怖よりも好奇心が勝っているようで、少しでも早くアトラクションを体験したいという思いが全身から伝わってくる。いつもとは違う彼女の無邪気な一面に、とてつもない魅力と安心感を覚える僕だった。おそらく、この真姫ちゃんを知っているのは僕を含め極々少数。彼女に気を許されているのだと思うと、どうしようもなく心臓が跳ねる。嬉しい、なんてものじゃ表現できない程の高揚感。
一刻も待ちきれない様子の真姫ちゃんと共に海賊船へと乗り込む。幸か不幸か、座席はなんと一番前。真姫ちゃんのテンションも最高潮だ。
「ど、どんな感じなのかしら……この大きさのものが揺れるんだから、遠心力は結構なものよね。今まで感じたことがない爽快感が味わえるって凛は言っていたけれど……」
「普通は怖がる人が多いんだけど、真姫ちゃんはまったく怖くなさそうだね」
「当然でしょ? お化けや幽霊ならともかくとして、これはただのアトラクションなのよ? 事故の可能性なんてほとんどないんだから、純粋に楽しいって感情しか湧かないわ」
「それもそうだね。……って、真姫ちゃんお化け苦手なの?」
「あっ、いや……ち、違うわよっ! れ、例として出しただけであって、このプリティパーフェクト真姫ちゃんがそんな非科学的なものを怖がるなんてことあるわけが……」
「そういえばこれは前に草太から聞いた怪談なんだけど」
「や、やめなさい! せっかくの遊園地デートなのに、気分下げるような話はNGよ!」
「それもそうだね」
「空良ってたまに意地悪よね……」
ぷくーっと頬を膨らませてジト目で睨んでくる真姫ちゃんからそっと視線を逸らす僕。真姫ちゃんの反応があまりに面白いから思わずからかってしまった。幸い気分を害した様子はないものの、あまりやりすぎると嫌われてしまうかもしれないのでこれくらいでやめておく。涙目で拗ねる真姫ちゃんとかいうレアな姿が見られたので良しとしよう。
安全バーをしっかりセットすると、準備は万全。係員のお姉さんがアナウンスと共に注意事項を説明していた。
「だ、大丈夫よね……飛び出したりしないわよね……」
「なんで直前になって急に怖がっているのさ真姫ちゃん……」
「み、未知の体験なんだから仕方ないでしょ。なんか安全バーとか付けちゃうと、万が一の可能性に思い当たって突然身震いが……」
「あー……気持ちは分かるかも」
先程までの威勢はどこへやら、開始寸前になって怖気づいたっぽい真姫ちゃんが不安げに僕を見つめる。科学的にどうこう言っていたが、やはり内心では少し怖かったらしい。目の端に涙を浮かべて怯える彼女の姿が、幼い頃の海未に重なって見えてしまう。海未も昔は絶叫マシーンが怖くて乗れなかったっけか……。
こういう時にどうすればいいか、なんて分かってはいるが、それを女性、しかも真姫ちゃんに行うのは少々勇気がいる。妹や幼馴染集団ならともかくとして……治まっているとはいえ、女性恐怖症の僕が自ら行動するのは――――
「うぅ、怖い……」
「――真姫ちゃん、手出して」
「な、なによ……? って、うぇぇ!?」
おずおずと差し出された彼女の手をぎゅっと優しく握る。繋ぐのではなく、重ねる様にして。突然手を握られたことに真姫ちゃんは顔を真っ赤にして驚いているが、僕はそれ以上に恥ずかしいのだからそこまで反応しないでほしい。
絶対に目は合わせない(というか合わせられない)けれど、手は重ねたまま声をかける。
「昔海未がジェットコースターを怖がった時も、こうしたら安心していたんだ。真姫ちゃんを子供扱いするわけじゃないけど……少しは、気が紛れたらいいなって」
「空良……」
「い、嫌だったら全然離していいからね!? ほら、僕なんかに握られるのもアレだろうし……」
「……うぅん。全然嫌じゃない。むしろ嬉しいわ。ありがとう、空良」
「うっ……こ、こちらこそ……」
優しく微笑まれ、思わず言葉に詰まってしまう。結果オーライではあるけれど、今の笑顔は反則だ。僕の精神力を破壊するのに十分すぎる威力。クリティカルといってもいい。それほどまでに、魅力的な笑顔。
僕の無謀な行いにも安心してくれたのか、今度は向こうから握り返してくれる。彼女の温もりが手を通して伝わってきて、鼓動の早鐘が止まらない。お互いにそれ以上目を合わせることはしないが、隣に彼女がいるというだけで何よりも落ち着けた。
『それじゃあ皆さん、気を付けてスタートで~す!』
「ちゃんと最後まで握ってなさいよ、空良」
「お、お任せくださいお姫様」
そんな軽口を叩き合いつつも、襲い掛かる重力と疾走感に身を委ねていく。
☆
閉園間際になり、僕達は観覧車の中で夕暮れに染まる風景を眺めていた。
「ふわぁあ! すごい、すごい綺麗よ空良! 建物があんなに小さく!」
「そうだね……にしても、観覧車なんて久しぶりに乗ったよ」
「私は初めてだけど、こんなに感動的だなんて……ありがとう空良!」
「う、うん……」
観覧車の衝撃で普段の高飛車な真姫ちゃんがどこかに吹っ飛んでしまったような純朴さに狼狽してしまう。何かにつけて斜に構え、いつも捻くれたことを言う彼女が、子供のようにキラキラと目を輝かせている姿はとても貴重で、尊い。昔から厳しく育てられ、こういう娯楽施設にはあまり来たことがないらしい彼女にとって、今回の遊園地は驚きの連続だったようだ。なんだかんだ園内を回っている時も手を繋ぎっぱなしだったことに彼女が気づいていたのかは知らないけれど。
僕の向かい側に座って興奮気味に外を見る真姫ちゃん。最初は不安ではあったものの、結果的には楽しんでくれたようで何よりだ。痛めまくった僕の胃腸も報われる。帰ったら海未とことりちゃんに感謝しておかないと。
ひとしきり風景を楽しんで満足したらしい彼女は、満面の笑みを浮かべて座り直す。視線を上げた真姫ちゃんと目が合ってしまい、思わず逸らしてしまった僕は本当に腰抜けだ。
「今更目が合ったくらいで照れることないでしょ? 恐怖症も世知辛いわね」
「こ、これは恐怖症というか何というか……」
「なによ? もしかして、私と目を合わせるのがそんなに嫌なワケ?」
「そ、そういうんじゃなくて……」
「じれったいわねぇ。さっさと言いなさいよ」
「そ、その……恥ずかしいと言いますか……」
「恥ずかしい?」
「う、うん……真姫ちゃんと目が合うと、えっと……可愛いから、うまく目が見られなくて……」
「なっ……!? き、急に何言い出すのよ! そんな今更……ていうか、そんなこと言われるとこっちだって変に意識しちゃうでしょ! バカ!」
「ご、ごめんなさいぃぃ」
顔を真っ赤にした真姫ちゃんに怒鳴られてしまい、すっかり委縮してしまう。そりゃああんなに意味の分からないことを言われれば怒られるのも当然だ。聞きようによっては相当気持ち悪いことを言っている。一歩間違えたら通報されてもおかしくはない程の気色悪い発言。しかも視線を泳がせた挙動不審野郎に言われれば、怒りも一際大きくなるだろう。あぁぁ、余計なことを言ってしまった……。
頭を抱えて俯く。なおのこと目を合わせられない。今僕がどう思われているのか、想像するだけで胃がよじれそうになる。最後の最後でやらかしたぁああ。
そんな中、真姫ちゃんの溜息がゴンドラの中に響く。
「ねぇ空良」
「な、なんでしょうか……」
「……隣、座ってもいい?」
「はぇっ!?」
何を言われたのか一瞬理解できなかったが、気が付いた時にはストンと隣に座られていた。顔は見えないものの、並んで座っているという状況に冷や汗と鼓動が止まらない。ショートデニムで脚を組んでいるせいで、嫌でも太腿に視線が行ってしまう。真姫ちゃんの目的と真意がまったく掴めなくて、迂闊に発言もできやしない。
これだけで結構いっぱいいっぱいな僕に、女神様はさらなる試練を与えてきた。
「ん……」
「っっっ!?」
ぽすっ、と。
右肩に突如として発生した柔らかな感触。心なしか距離が縮まっているようにも見える。思春期少女特有のフレグランスがより濃くなっており、僕の頬を赤い髪のようなものが何度か擽った。
真姫ちゃんは今、僕にもたれ掛かっている。それも、肩に顔を乗せた超密着状態で。
なんだ、本当に何が起こっているんだ!?
夢なら覚めないでくれ、と思う反面、これ以上は僕の精神衛生上限界だという理性の主張も無視できない。目的さえ言ってくれれば僕も気持ちの整理がつくのだけれど、今のままだと混乱と困惑で頭がショートしてしまいそうだ。
謎の緊張感がゴンドラ内に走る。高鳴る心音と彼女の息遣いがやけに鼓膜に響いて、とても平常心ではいられない。少しでも気を抜くと意識が吹き飛んでしまいそうだ。
「空良、あのね」
「ひゃ、ひゃいっ!」
「そんなに驚かないでよ……」
「ご、ごめん」
「はぁ、まぁいいわ。お礼が言いたかっただけだし」
「お、お礼?」
「そ。今日はここに連れてきてくれてありがとね。本当に、今まで一番楽しくて、幸せな時間だったわ」
「ど、どうも……?」
「ふふっ、そこは素直に『どう致しまして』でしょ? ほーんと不器用ね」
「うぐっ……」
「……まぁ、そこも空良らしくて素敵なんだけど」
「は、はい?」
「なんでもないわよ」
最後に何か言われた気がするが、意味深に微笑まれてそれ以上何も言えなくなる。今日の真姫ちゃんはなんかとても魔性な感じが凄い。ちら、と横目で覗き込むと、いつも通りのジト目ながらもどこか嬉しそうに表情を綻ばせている真姫ちゃん。行為の真意を問うべきか悩んだが、そんな満足げな顔をされていては何も言えない。
……ただ、何も返せはしないけれど、真姫ちゃんに身体を許されているというこの状況はとても幸せで、このままゴンドラが下まで降りなければいいのに、なんて少女漫画みたいなことを考えてしまった。
……しかし、そんな想いとは裏腹に時間は過ぎていく。気が付けば、係員がゴンドラの扉を開けているところだった。
『お疲れさまです~。足元に気を付けて降りてくださいね~』
「気を付けてね真姫ちゃん」
「空良こそ、ドジ踏んでこけたりしないでよ」
結局それ以上何がある訳でもなく、普段通りに接する僕達。数分前のアレはどういう気持ちから来る行動だったのか、僕にはまったく分からない。女性の気持ちに対する理解なんてものは、数年前に置き去りにしてきたのだから。ここで余計な勘違いをすると後から痛い目を見るということだけは分かっていた。それが、僕がここ数年で学んだ防衛術。
観覧車から降りて、出口へと向かう。時刻はすっかり夕暮れ時で、風景全体が茜色に染まっていた。楽しかったと彼女は言ってくれたが、僕が心のどこかで期待しているような感情から来る感想ではないだろう。彼女はあくまでも、僕の恐怖症治療に協力してくれているだけなのだから。それに、こんな僕が女性から好かれるなんて、そんなことあるはずがないのだし。
「終わってみると早いわね。もう少し長く遊びたかったわ」
「でも時間も遅くなりそうだし、もう帰ろうか。家まで送るよ」
「そうね、ありがとう」
二人して駅へと歩いていく。その道中、ふと彼女が漏らした呟きが、嫌が応にも僕の脳内に焼き付くことになる。
少し頬を赤らめて、決して誰かに聞かそうというわけではないだろう声量で、真姫ちゃんはぽつりと呟いた。
「……大好きよ、空良」
「ま、真姫……ちゃん……?」
「どうしたの? 海未がラブアローシュートの練習しているところを誰かに見られた時みたいな顔しているわよ?」
「それ以上は勘弁してあげて! いや、その、今、何か……」
「何言っているの? 私は何も喋っていないけど。空耳じゃなくて?」
「そ、そうなのかな……」
「今日一日エスコートしてくれた疲れが溜まっているのよ。帰ってゆっくり休んだ方が良いわ」
そう言って微笑みかけてくれる真姫ちゃん。有無を言わせない勢いに、僕は食い下がることもできず素直に頷くしかなかった。もしかしたら本当に僕の聞き間違いの可能性も否定はできない。だって、あの真姫ちゃんがあんなことを言うなんて考えられない。
でも、もしかしたら……あの呟きが事実であったなら、僕は……。
――――勝手に勘違いしちゃってさ。自意識過剰で気持ち悪いんだよ、園田は。
「っ……!」
「そ、空良? 急に胸押さえて立ち止まって、大丈夫? 気分が悪いなら、今すぐ迎えを呼んで……」
「ご、ごめんね。ちょっとしゃっくりが出そうになっただけだから、大丈夫。心配しないで……」
「そ、それならいいんだけど……無理はしないでね?」
「うん、ありがとう……」
不安げにおろおろと狼狽した様子で声をかけてくれる真姫ちゃんを宥めると、再び並んで歩き出す。……嫌な事を思い出してしまった。記憶の底に沈めたはずの光景が、今になって僕の心を縛り付ける。そうだ、勘違いも甚だしい。真姫ちゃんが僕のことをなんて、ある訳がない。調子に乗るのも大概にしろ、園田空良。
真姫ちゃんとの会話に専念して嫌な気持ちを吹き飛ばす。それでも、帰って寝るまでの間、僕の脳内から忌々しい過去の光景が消え去ることはなかった。
今回も読了ありがとうございます。
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第十六節 少女の覚悟
友達が落ち込んでいたら、何を優先してでも元気づけてあげるのが親友というものだと私は思う。
夏休みに入って最初の日曜日。今日はμ’sの練習もお休みで、今頃空良さんと真姫ちゃんは遊園地を楽しんでいるんだろうなぁとか考えながらも、私こと南ことりは手にはお土産用の洋菓子を持って和菓子屋「穂むら」へと足を運んでいた。最近元気がなかった穂乃果ちゃんから久しぶりに遊びのお誘いを受けた為である。海未ちゃんは声をかけられていないらしく、本人に理由を聞こうかと思ったものの、なんとなくやめた方がいいかな、と珍しく私の危機感が働いた。空良くんのことで精神が不安定になっている穂乃果ちゃんだから、海未ちゃんと会って空良くんの話が出るのは避けたかったのかもしれない。もしくは、それとは違った理由があって、私にしか相談できないことがあるとか……。
なんにせよ、お呼ばれしたからには穂乃果ちゃんとの時間を楽しもう。試験期間が終わり、夏休みに入ってからの練習にはちゃんと参加していて、見ている分にはすっかりいつもの元気な穂乃果ちゃんだけれども、幼馴染という立場から言わせてもらえばやはりどこか表情に翳りが見えるのは確かだ。おそらくは海未ちゃんもそのことには気が付いているはず。唯一気が付いていないのは張本人の空良さんくらいではないだろうか。あの人は鋭いようで鈍いし、私たちのことを気にかけているようで距離を置いている。親しき仲にも礼儀ありとはよく言われるが、空良さんに関していえば明らかに遠慮をしているように思える。そこが美徳でもあり、欠点でもあるのだから不思議だ。
穂むらに到着すると、店内に入るまでもなく二階の窓からこちらに向かって手を振ってくる人影が見えた。
「ことりちゃーん! いらっしゃーい!」
言うまでもなく、穂乃果ちゃんだ。チャームポイントのサイドテールを揺らしながら大声で私の名前を呼ぶ姿にほっと安堵する。よかった、すっかり元気になっているみたいだ。
笑顔で手を振り返しながら店内へ。店番中の雪穂ちゃんと少し話してから、二階の穂乃果ちゃんの部屋へと向かった。階段を昇って一番奥の部屋。昔から幾度となく通ってきた親友の居場所。少し躊躇いはするけれど、ノックしてから入室。
「こんにちは穂乃果ちゃん。昨日ぶりだね~」
「わざわざごめんね。せっかくのお休みなのに……」
「全然気にしなくていいよぉ。幼馴染だもん」
「ことりちゃん……」
まだ寝巻のまま、感極まった表情でぎゅっとぬいぐるみを抱き締める穂乃果ちゃん。少し弱った様子の姿がとても可愛らしいものに思えて胸がキュンキュンときめいてしまう。こんなにキュートな穂乃果ちゃんを悲しませるなんて、空良さんはやっぱり酷いよね!
ベッドにちょこんと座った穂乃果ちゃんに癒しを覚えつつ、向かい側の大きなクッションに身体を預ける。持ってきたシュークリームをテーブルの上に広げると、穂乃果ちゃんは子供のように目を輝かせて喜んでくれた。はぁぁ、本当に穂乃果ちゃんは可愛らしいなぁ。
口の端にクリームを付けながらも、穂乃果ちゃんは眉を顰めると、
「本当は海未ちゃんも呼ぼうかと思ったんだけど、空良くんについての相談だったからさ……。一切の贔屓無しで聞いてほしくて、ことりちゃんだけ呼んだんだ。他のメンバーに相談するのもなんか違うし、ことりちゃんは幼馴染で、いつも私と一緒にいてくれた親友だから……」
「あ、やっぱり空良さんについてなんだね。しばらく学校をお休みしていたのも、もしかして?」
「うん……。変だよね。少し前までは空良くんと真姫ちゃんの仲を取り持って応援するって言っていたのに、二人の距離が縮まっていくにつれて胸が痛くなっていくんだ。真姫ちゃんは大切な仲間で、空良くんもかけがえのない幼馴染なのに……あはは、参ったなー。これじゃあ私、嘘つき穂乃果になっちゃうぞー?」
「穂乃果ちゃん……」
困ったように笑う穂乃果ちゃんだが、私は知っている。彼女が努めてひょうきんに振る舞おうとするときは、決まって追いつめられている時だ。他人に心配されまいと、空元気を出して誤魔化そうとする彼女の悪い癖。そんなのは、今更ことりには通用しない。
だけど、穂乃果ちゃんは別に誤魔化そうとかそういう気持ちで言った訳ではないらしく、さっき雪穂ちゃんが持ってきてくれたお茶を啜ると、改めて言葉を続けた。
「授業参観の日にさ、空良くん達を追いかけたことがあったじゃん? 希ちゃんの発案で、面白半分にさ。あの時かな、空良くんへの気持ちを自覚したのは」
「もしかして、穂乃果ちゃんが先に帰ったのって……」
「うん。あれ以上見ていられなかったんだよ。仲良くなるのは良い事なのに、私の大好きな空良くんが真姫ちゃんに取られちゃうって考えるだけで、胸が張り裂けそうになってさ。それからずぅっとモヤモヤしてて……夜も眠れないって本当なんだね。おかげで寝不足だよ」
そう言って欠伸を一つ。見れば、目の下にうっすらと隈ができていることに気が付く。それだけ寝ていなければ体調も崩すはずだ。そんな状態でも最近になって練習に参加できていることに驚きを覚えるものの、穂乃果ちゃんは割と無理を通す性格なので妙に納得してしまった。あまり褒められたことではないが、彼女を叱るのは海未ちゃんの役目であって私の仕事ではない。今は話を聞こう。
穂乃果ちゃんがちらと視線を本棚の方に向ける。釣られて見ると、そこにあったのは幼い私達が写った写真。空良さんを中心に、私達幼馴染三人が彼に飛びついている場面。小学生も後半の頃だろうか。まだ女性恐怖症ではない空良さんは、少し戸惑った様子ながらも弾けるような笑顔で写っている。
それを見る穂乃果ちゃんの顔は、懐かしさと……愛おしさに溢れていた。
遠い昔……それこそ、空良さんの一番近くに穂乃果ちゃんがいた時の事を思い出しているのだろうか。じっと視線を固めたまま、そっと呟く。
「……諦められる訳、ないんだよね」
「…………」
「ずっと隣にいたんだよ? 昔から、形は違えど、ずっと大好きだったんだ。ことりちゃんよりも、海未ちゃんよりも、ずっとずっと空良くんのことが大好きだった。それなのに、今になって真姫ちゃんに取られちゃうなんて、そんなの嫌だよ。空良くんと真姫ちゃんが両思いなのは知ってる。でもさ、そんなすっぱり諦め切れるわけないじゃん! だって……だって! 私だって! 空良くんのことが好きなんだから!」
ポツ、と。
穂乃果ちゃんが抱き締めている枕に水滴が落ちる。それは次第に量を増し、滝となって溢れ出す。堰を切ったように流れる心の叫びが、本音が、とめどなく溢れていく。
それは、日頃出すことがない彼女の負の本音。常に明るく元気に振る舞う穂乃果ちゃんが秘めた、誰にも言い出せなかった想い。幼い頃から抱えていた、園田空良への深い愛情。
――――気が付くと、私は穂乃果ちゃんを抱き締めていた。
強く、強く。どこまでも真っ直ぐでどこまでも不器用な彼女を、ただ強く。彼女の涙で服が濡れることなんて気にしない。そんなのは二の次だ。穂乃果ちゃんの悲しみを少しでも共有するために、固く抱き締める。
「……ことりちゃんは、優しいね」
「穂乃果ちゃんの方が、もっと優しいよ。だって、私ならたぶん、真姫ちゃんと喧嘩しちゃうもの。じゃれ合いとかじゃなくて、本当に嫌いになっちゃうと思う。だから、それでも二人の事を大好きでいられる穂乃果ちゃんは、本当に優しいんだよ」
「えへへ、そうかな。ことりちゃんが言うと、本当にそう思えるから不思議だね」
泣き腫らした目を細めて弱々しく笑う穂乃果ちゃんに胸がぐっと詰まる。本当は自分が一番辛いくせに、すぐに虚勢を張るんだ。それを自分でも分かっているのに、あえて笑顔を浮かべようとする。そんな顔をされちゃうと、私からはもう何も言えない。
私に身体を預けたまま、彼女は涙を拭うと、
「この数日間、私なりにずっと考えたんだ。空良くんと真姫ちゃんは好き合っていて、今の私はそれを阻む邪魔者でしかなくて……それでも、彼のことは諦めきれない私が、どうするべきかって。どうすれば正解かって。馬鹿な私が精一杯考えて出した答えを、聞いてもらえないかな?」
「……うん、聞くよ。穂乃果ちゃんが出した答え、ちゃんと私が聞いてあげる」
「ありがとう」
一度身体を離す。ちゃんと向き合って、一人の親友として聞いてあげないといけないと思ったから。
姿勢を正して、穂乃果ちゃんを真っ直ぐ見据える。寝巻で改まる穂乃果ちゃんがおかしくて、少しだけ顔を合わせて笑っちゃったけど、すぐに表情を引き締めると、決意に満ちたハリのある声で彼女は確かにこう宣言した。
「私ね、空良くんに告白するよ」
「……本当?」
「うん。ちゃんと告白して、私の想いを知ってもらったうえで、もう一回アタックしてみる。たぶん今の私は、空良くんにとってはただの妹分だから。一度関係をリセットして、一人の女性として見てもらわないといけないと思うんだ。そうしてやっと、スタートラインに立てるはずだから」
「その場でフラれちゃうかもしれないよ?」
「だったら頷いてもらえるまでアタックするだけだよ。真姫ちゃんと付き合い始めるまでは、空良くんは誰のものでもないんだから。それに、ウジウジ悩むよりも当たって砕ける方が私らしいじゃん! 昔からいつだって、『ファイトだよ!』なんて言ってきた私なんだからさ!」
先程までとは違う、太陽のような……それこそ、高坂穂乃果という人間を体現するような満面の笑顔で拳を突き上げ高らかに言ってのける。その姿はどこまでも尊くて、格好良くて……それでも、その先にある未来はきっと理想的なものではないのだろうという確信もあった。たぶん彼女自身も分かってはいるはずだ。今自分が言ったことは到底現実的ではなくて、負け戦に挑むようなものだと。勝率なんてゼロに等しいことを理解しているのに、それでもなお無謀な戦いを行おうとしているのだ。
すべては、穂乃果ちゃん自身の気持ちに決着をつける為に。
なんて馬鹿な友達だろう、と呆れる自分がいた。
なんて強い親友だろう、と感動する自分がいた。
穂乃果ちゃんの覚悟がどれだけ醜いもので、哀れなのかなんて分かっている。一般的に考えて勝ち目なんてない。この選択は彼女の絶望を深くするだけじゃないか、と静止する私もいた。……だけど、穂乃果ちゃんが負けを承知で、それでも前に進もうとしているのに、それを止める権利なんて私にはない。今できることを少しでもやろうとしている彼女の姿は、紛れもなく輝かしくて、美しいのだから。
私にできること、私がやるべきことはたった一つ。それは今まで「南ことり」がやってきたことで……今の私が、穂乃果ちゃんに対して絶対にやりたいことでもある。
このどうしようもなく不器用で、純粋で……誰よりも格好いい幼馴染に向けて微笑みかけながら、私はいつものようにこう言うんだ。
「大丈夫。穂乃果ちゃんなら、きっとできるよ」
――――だって、私は穂乃果ちゃんのことが大好きだから。
今回も読了ありがとうございます。
感想もお待ちしております。
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第十七節 夏といえば
スクールアイドルグループとして活動しているμ’sではあるが、分類としてはアイドル研究部という「部活」に属しているため、長期休みになれば行われるイベントが存在する。
「せっかくの夏休みだし、合宿に行こうよ!」
彼女たちが夏休みに入り三週間ほど経過した頃、つまりは8月の上旬ではあるけれども、練習後の昼休みに部室へと集まっていたメンバー達と僕及び草太に向かって、爛々と目を輝かせながら興奮気味にそんなことを言い出した女子が一名。言わずもがな、穂乃果ちゃんである。最近すっかり元気を取り戻して通常運行な彼女は、ホワイトボードにでかでかと「合宿!」とだけ書き殴ると僕達の反応を窺っていた。ちなみに何故僕と草太が部室にいるかと言われると、メンバーが練習に集中できるようにサポートを行う、いわゆるマネージャー業務を仰せつかった為だ。発案者はこれまた穂乃果ちゃんらしい。僕の持病を知っている海未は難色を示していたらしいが、女性恐怖症の克服という最優先目標を提示されて止むを得ず承諾したのだとか。そこで折衷案として花陽ちゃんの従兄である草太も呼ばれたというわけだ。練習後のリラックスとして花陽ちゃんにマッサージを施しているイケメンハゲに殺意の視線を向ける猫系少女が一人見受けられるものの、誰も触れようとはしなかった。皆、騒動事に巻き込まれるのだけは御免なのである。
低い唸り声をあげながら草太を睨み付ける星空さんと、その視線を華麗にスルーしながら花陽ちゃんの肩を揉む草太から全員が視線をそらすと、部長である矢澤さんが代表して手を挙げた。
「はい、にこちゃん!」
「合宿するのはいいんだけど、場所とか決まってんの? まさかとは思うけど、『学校に泊まり込み!』とか言わないわよね」
「ふっふっふ。さすがにこちゃん指摘が鋭いね。でもご安心を。そこはまったく抜かりがないよ! えっへん!」
「へぇ。穂乃果のことだから『今から決めるよ!』とか言い出すかと思ったけど、ちゃんと計画立てていたのね。少し見直したわ」
「穂乃果は元々計画性のある賢い子だよー!」
『いやそれはない』
「皆して酷いや! 空良くんまで即答するし!」
露呈した自分へのイメージの悪さに異議を申し立てる穂乃果ちゃんではあるけれど、そこら辺はもう様式美というかお約束というか、とにかく諦めてほしいと言わざるを得ない。日頃行き当たりばったりで行動することが多いのだから、こういう風に思われても致し方ないとは思うのだけれど、ここで余計なひと言を漏らそうものならまた彼女の機嫌が悪くなること請け合いなので黙秘を決行。
すっかりふくれっ面な穂乃果ちゃんで話が進まないため、生徒会長の絢瀬さんが司会を引き継ぐことに。
「それで、合宿の場所っていうのはどこに決まったの?」
「……真姫ちゃんの別荘」
「別荘って……さすがお金持ちね真姫」
「まぁ、そこら辺しかないよねぇ。真姫ちゃんからの許可は貰ったん?」
「一応パパには許可貰ったわよ。どうせ誰も使ってないし、合宿ついでに別荘の掃除しておいてくれれば好きに使ってくれていいんだって」
「なるほどなぁ。ということは、掃除要員は空良さんと草太さんということやんな?」
『待って』
さらりと聞き逃せない内容を滑り込ませ始めた東條さんに草太と二人して口を挟む。東條さん本人は何故止められたか分からないと言わんばかりにキョトンとした表情を浮かべていたが、なんでそんな顔ができるのか僕の方が不思議だ。
「どうしたんお二人さん。何か引っかかることでもあった?」
「引っかかるも何も、なんでメンバーでもない僕と草太が合宿についていくことになっているのかというところを問い詰めたいんだけれど」
「そんなん、二人がマネージャーだからに決まってるやん。ほら何も不思議なことはないやろ?」
「というか、俺と空良がついていくことに関して許可していないメンバーもいるんじゃないのか? こんなだけど、俺もこいつも一応は年頃の男子だぜ? 一つ屋根の下で生活するってことに抵抗くらいは……」
そう言って草太が部室を見回すものの、
「誰一人拒否してなさそうなのは何故なんだ……」
「だって、同じ部屋になるわけでもないんだし、そこまで危惧することもないでしょう? ……そ、れ、と、もぉ? 草太さんと空良さんは、私みたいなセクシーな女子高生に手を出すような悪い大人なんですか~?」
ニィ、と妖しく口の端を吊り上げながら練習着の襟首を指で引っ張ると、少し屈んで胸元を見せつけてくる生徒会長エリチカさん。グラビアアイドルも顔負けなスタイルの持ち主である絢瀬さんの豊満な胸部……谷間が否応なく視界に飛び込んできて、僕は全力で顔を背けた。一方草太は眼福とばかりに高身長を生かしてそれとなく中身を覗き込もうとしている。まぁ、一般男子大学生としてはあれが正しい反応だよね……。
「……草ちゃん?」
「はっ! み、見てないぞ!? 俺はただ自分の視力が低下していないかアクロバティックに確かめていただけだ! だからそんな負のオーラに溢れたブラックな笑顔で俺を見ないでくれ花ちゃん!」
「まったく、仕方ないね草ちゃんは……これは後で草ちゃんの部屋にあるいかがわしい本やDVDを全部廃棄処分しないといけないなぁ」
「ぐっ!? そ、それだけは勘弁を……」
「…………」
「ど、どうしたんだよ凛。珍しく静かに睨んできて……」
「……そーた兄ちゃんのえっち」
「がふぅ」
星空さんの容赦ない一言に胸を押さえて崩れ落ちるエロハゲ。日頃あれだけ言い合いしているくせに、星空さんからそういうことを言われるのは傷つくらしい。結構真面目にドン引きしている様子の彼女へ許しを求めて顔をあげる草太だったが、ぷいと視線を逸らされると絶望の表情を浮かべていた。なんか泣きそうになっているあたりガチだ。もうそこまで気になっているならさっさと付き合いなよ……。
「草太さんも空良さんだけには言われたくないと思うな~」
「いやいや、何言ってんのことりちゃん。僕はこんなマッチ棒頭とは違ってニブチンなんかじゃないから」
『はぁ……』
「そこの犬系女子高生と猫系女子高生、なんで揃って溜息をついているのさ」
「なんでもないですよ園田さん」
「穂乃果ちゃん!? 距離! 心の距離を近づけて!」
「精神科への紹介状書いてあげるからさっさと行って来たらどうかしら」
「無駄に優しいのが逆にきつい! え、ちょ、何がどうなってんの!?」
「兄さん。これ以上は墓穴を掘るだけなので一旦口を噤んでください」
「むぐ」
見るからに僕から距離を置き始めた幼馴染と想い人に説明を求めるが芳しい反応は得られない。それどころか愛しの妹によって発言権さえ奪われてしまった。口にガムテープを貼られ、強制的に椅子へと縛り付けられる。ニヤニヤと心底楽しそうに東條さんがこちらを眺めているのが腹立たしい。彼女の顔にゆっくりと笑みが広がっていくと、ポケットからタロットを取り出し僕に突き付けながら、
「いやぁ。スピリチュアルやねぇ」
「むぐーっ!」
「兄さん五月蠅いです。今は合宿についての話し合いをしているのですから、これ以上身体の自由を奪われたくなければ……分かりますね?」
「…………」
頷くしかなかった。拒否すればどうなるか、なんて考えたくもない。彼女の恐ろしさを誰よりも知っている僕が、海未の逆鱗に触れるような行動をするわけがない。口にはガムテープ、身体は椅子に縛られたまま、大人しく話の成り行きを見守ることにした。傍らでは未だに落ち込んでいるハゲが這っているが、そんなものに構う余裕はない。
大学生二人を行動不能にした恐怖のスクールアイドル達は改めて話を進めていく。
「日程はどうするのですか?」
「すぐにでも行きたいかなっ。µ’s初の合宿、早く行きたいもんね!」
「ふむ、それでは準備もありますし、今週末というのはどうでしょう。他の皆が問題なければ、ですが」
「いいんじゃないかしら。真姫、別荘の準備は大丈夫なの?」
「今週末くらいだったら必要な食材とかは運んでおくわ。だから、各々着替えとアメニティを用意してもらえる? さすがに人数分の服を準備するのは難しいし」
「一応聞くけど、そこって海とかある?」
「プライベートビーチがあるけど……まさかにこちゃん、合宿だっていうのに海水浴しようとか言わないわよね?」
「言うに決まっているでしょうが! 夏といえば海! アイドルといえば水着! 砂浜で戯れる可愛いにこを密着取材……いけるわ!」
「何がいけるのよ……」
予想通りというかなんというか、拳を振り上げて熱く語る矢澤さん。気持ちは分からない。確かに夏の合宿といえば海というのは相場が決まっている。むしろこれで「山に行きます」とか言われてもモチベーションがもたないだろう。アイドルといえば水着だというのも理解はできる。だけど忘れてやしないかい? 今回は僕と草太もいるんだけど。
妙にハイテンションな矢澤さんにいつものように冷めた視線を向ける真姫ちゃんだけれど、そんな彼女に近づく影が一つ。金色の髪を靡かせるその少女の名は絢瀬絵里。先程草太を戦闘不能に至らしめた魔性の生徒会長は至極真面目な顔で真姫ちゃんの肩を叩くと、近くにいた穂乃果ちゃんも巻き込んで何やら小声で吹き込み始める。
「水着……そして空良さんも参加。これはつまり、貴女達の水着姿を見せつけて、好感度をアップさせる絶好の機会じゃない?」
『っっっ!』
「……?」
「な、なるほど……さすがは絵里ちゃん。ずる賢いことを考えさせたら右に出る者はいないね!」
「え、なんで私ディスられたの?」
「エリー、見直したわ。姑息で奇天烈エリーチカと言われるだけのことはあるわね」
「賢い可愛いエリーチカよ! そんなネガティブなKKEはいらない!」
絢瀬さんが目を三角にして怒鳴っているが、果たして何を話しているのだろう。毎回恒例の絢瀬さん弄りであれば問題はないけれど、願わくば僕に被害が及ばない案件であってほしい。
身動き一つ取れないので成り行きを見守るしかない僕を他所にようやく復活を果たした草太がよろよろと立ち上がりながら会話に入っていく。
「だったらよぉ、せっかくだしこの後皆で水着でも買いに行ったらどうだ? ほら、女子だけで選ぶより、男性視点もあった方がいいかもしれないだろ? 空良はこの後予定もないし、連れていってもらって構わねぇぜ!」
「むぐぐー!」
「ふはは。何を言っているのかまったく聞こえないぜ空良。いいじゃないか。可愛い女の子達に囲まれて買い物だなんて、大学の男共が聞いたら発狂もんだぞ」
何をとんでもないことを言い出しているんだこの電球野郎は! 僕が女子高生集団と一緒に水着を買いに行くだなんて、そんなの自ら死にに行くみたいなものじゃないか! おのれ草太、生きて帰ったら全身に脱毛剤塗ってやる……!
怨敵への殺害方法をじっくり練っている僕であったが、ここでふと花陽ちゃんが告げた一言によってそれがいらないものであったことが発覚する。
勝ち誇った笑みを浮かべる草太に近づく花陽ちゃん。彼女は草太ににっこりと微笑みかけると――――
「草ちゃんも一緒に行くんだよ、勿論♪」
「……ひっ」
ドスの利いた、聞く者すべてを戦慄させかねない声で死刑宣告を行った。
「な、なんで俺まで……」
「だって、穂乃果ちゃん達の水着は空良さんが選べばいいけど、私や凛ちゃんの水着は草ちゃんが選んだ方がいいでしょ? ね?」
「花ちゃんはともかく、なんで俺が凛の水着まで……」
「り、凛だって別に、そーた兄ちゃんにわざわざ選んでほしくは」
「二人ともグチグチうるさい! 黙って一緒に水着買いに行くの! 分かった!?」
『は、はいぃ』
……恐ろしいものを目の前にした気がする。
いつも大人しく引っ込み思案な花陽ちゃんが体育会系二人を完全に黙殺していた。それどころか、他のメンバーでさえも青褪めた顔で口籠る始末だ。部室の空気が凍る。その中で妙に暗い輝きを放つ花陽ちゃんの笑顔だけが妙に爛々と光っていた。
「……今度からあの子は怒らせないようにしましょ」
メンバーを代表した矢澤さんの一言に、その場にいた全員が頷いたのは言うまでもない。
今回も読了ありがとうございます。
今年の冬コミは一日目東メ―30bで小説サークルとして出店していますので、興味のある方は是非是非お立ち寄りください。
それはそれとして、感想もお待ちしております。
更新ストック切れた……
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第十八節 勘違い
そんなわけでやってきたのは、東京が誇る無敵の都会SHIBUYAにある某大型ショッピングセンターである。夏休みであることもあってか、店舗内外問わず多くの学生達が買い物を楽しんでいた。もちろんその中の七割程度は女性が占めているため、現在僕は愛する妹に密着してどうにか気持ちを凌いでいるところだ。羞恥心? そんなこと言ってられないよ!
「いいですか兄さん。ここは戦場です。死にたくなければ私から手を離さないでください」
「うぅ……まさか妹に手を引かれて買い物をする日が来ることになろうとは……」
「女性用水着店に一人で置き去りにされるよりは百倍マシだと思うのですが……それとも兄さんは私の厚意を無碍にしてまでこの場で生命的な死を遂げるつもりなのですか?」
「僕の命は預けたよ、海未」
「お任せください、兄さん♪」
彼女にしては珍しい弾けるような笑顔でキュッと手を握ってくれる海未。大学生にもなって妹と手を繋ぐのは少々気恥ずかしくもあるが、女子高生で思春期真っ盛りな海未の方が僕より何倍も恥ずかしいはずだ。もしかしたら学友に見られてからかわれるかもしれないし、そういう羞恥面に滅法弱い海未はなおのこと嫌だろう。それでも僕の身を案じて恥を忍んでまでやってくれているのだから、感謝してもし足りない。
ほら、今だって顔を真っ赤にして俯きながらも頑張ってくれている。
「ふふふ……妹という最大限の立場を利用してあの二人にはできない距離感で兄さんとスキンシップを取っている……。恋愛面ではあの二人に譲っていますが、兄妹愛ならば私の右に出る者はいません……」
「海未? なんかぼそぼそ言って、どうしたの?」
「なんでもありませんよ兄さん。さぁ、早く私や残り二人の水着を選びましょう」
「う、うん……な、なんかちょっと距離近くなってない?」
「そうですか? 兄妹ならこれくらい普通だと思いますが」
「そ、そうなのかな……」
手を繋ぐどころか僕の腕に抱き付いている妹に少々躊躇うものの、本人が至極真面目に首を傾げていたのでそれ以上いちゃもんをつけるわけにもいかず。いくら妹とはいえここまで密着されると少しばかり恥ずかしいのだけれど、あまり普段甘えることがない海未がこんな姿を見せていることに喜びを覚えている自分もいた。これくらいの我儘は許してやっていいかもしれない。
「むぐぐ……おにょれ海未ちゃん。ライバルは真姫ちゃんだけだと思っていたのに、ここに来て妹枠での参戦だなんて……!」
「くっ……穂乃果だけでも手強いのに、海未まで相手取らないといけないの!? 競争率高すぎない!?」
「甘いですよ二人とも……私は恋人枠なんて狙っていません。彼女ができようができまいが、兄さんの隣は私のものです……」
『ぐぅっ……!』
「さっきから何を睨み合っているの三人とも……」
「今から買う水着を話し合っていたのですよ、兄さん。御心配には及びません。ですよね、穂乃果、真姫?」
「そうだよ空良くん。ほら、あそこのオレンジ色の水着! 可愛いよね! ちょっと見に行こうよ!」
「ず、ずるいわよ穂乃果! 空良、ちょっと感想を聞きたいから、試着室までついてきて!」
「は、破廉恥ですよ、真姫!」
「お、落ち着いて! ほら、試着室まで行くから、穂乃果ちゃんも海未も、真姫ちゃんと一緒に水着持ってきてよ。大した感想は言えないだろうけど、僕なりに頑張って三人の水着選ぶから……」
なんか目の奥に恐ろしい炎を点らせて争う三人をなんとか諌める。この間から何かといざこざを起こす傾向がある三人であるが、本当にどうしたのだろう。喧嘩をしているというよりは、何か譲れないもののぶつかり合いという感じがするけれど……感情の機微にあまり敏い方ではない僕にはイマイチわからない。
僕の提案にようやく矛先を収めてくれたらしい三人は一瞬顔を見合わせると、散開して各々の水着を選びに行った。目のギラつき感が尋常ではないものの、女の子にとってオシャレとは戦争であるらしい(姉上談)から、僕には理解できない情熱染みたものがあるのだろう。
久方ぶりに落ち着きを取り戻した僕自身に安堵の溜息をつきつつ、試着室前に設置されているベンチに腰を下ろす。
「オシャレとかとんと疎いし、感想ちゃんと言えるかなぁ……」
「気苦労しているところ悪いけど、テキトーな感想言ったら女の子にはすぐ分かるわよ」
「いぃっ!? い、いつから隣に座っていたんですか矢澤さん……」
「失礼ね。むしろアンタの方が後から座ってきたくせに」
そう言うと不機嫌そうにそっぽを向いてしまう矢澤さん。試着室の方をぼんやり見ているから、おそらく今頃絢瀬さんと東條さん、そしてことりちゃんが水着を着ている最中なのだろう。矢澤さんはオシャレにも詳しいらしいから、審査員として残っているのかもしれない。
それにしても、三年生二人とことりちゃんの水着かぁ。絢瀬さんはモデル並みにスタイル良いし、東條さんも素晴らしいプロポーションだから、水着姿も見栄えすること請け合いだろう。ことりちゃんも高校生並ではあるけど綺麗だし、そこいらのアイドルには負けないくらい可愛い仕上がりになるはずだ。
「三人組の水着姿想像してるんじゃないわよ大学生」
「別に客観的に想像するくらいは良いんじゃないですかね……」
「どーせ『胸デッケェ』とか思っていたんでしょ? あーやだやだ。男ってやらしーわね」
「生憎と、当方女性恐怖症なものでして」
「なによそれ。アンタ自身が腑抜けているだけじゃないの?」
「返す言葉もございません……」
決して目は合わせないままそれなりにキッツイ言葉を投げつけてくる。正直な話、少しばかり自覚があるから精神的ダメージが半端じゃない。
女性恐怖症だなんだと言っているが、僕がメンタルが弱すぎるだけなんじゃないか、というのは昔から思っていることだ。僕がもっとちゃんとしていれば、こんな症状なんてでなかったんじゃないかと。実際、周囲の人から同じことを言われることはままある。その度に海未や穂乃果ちゃんが反論してくれてはいたものの、否定しきれない自分がいるのも事実だ。
……だけど、家族や友人に迷惑をかけてばかりいる僕だけれど、これだけは確かに言えることがある。
「でも、女性恐怖症だったからµ’sの皆さんに出会えた訳ですし、その……真姫ちゃんとも仲良くなれたから、一概に悪いとは言えないと思うんですよね」
「はぁ? そんなの結果論でしょ。というか、アンタ海未の兄貴なんだから、どっちみち私達とは関わっていたと思うけど」
「手厳しいなぁ」
「周囲に甘えて努力を怠る人種ってのが一番嫌いなのよ私は。……ま、話を聞く限り苦労はしているみたいだし、これ以上いじめるのはやめてあげるわ」
「ありがとうございます……」
「ウチの可愛い後輩達を手籠めにしている噂だったから、少し厳しくしておこうと思ったの。悪いわね」
「それガセですからね? 別に、手籠めにとかしてませんからね?」
目を細め、悪戯っぽくニシシと笑う矢澤さんではあるけれども、そういう噂は本当に誰から広まっているのか問い詰めたいところではある。そもそも女性恐怖症の僕があの三人を手籠めにとかどう考えてもできる訳がない。逆に手玉に取られるのが関の山だ。真姫ちゃんと海未は高校生とは思えない程強かだし、穂乃果ちゃんに関しては僕がハンドリングできる境地をとっくの昔に逸脱している。何を間違えば僕みたいなローポテンシャル野郎が彼女達の手綱を握られるのか教えてほしい。
「まぁいいけど。女の嫉妬ってやつは怖いから、適度にやりなさいな」
「ご忠告痛み入ります……」
ずっと勘違いしたまま助言をしてくれる彼女に苦笑いを返しながらも、わいわい姦しい様子で戻ってきた三人の水着への感想を考えるべく、再び気合を入れ直す僕であった。
☆
「いやー、家まで送ってもらって申し訳ないね空良くん。これくらいの道なら一人で帰れたのに」
「時間も遅くなっちゃったし、夜道を女の子一人で帰らせるわけにはいかないでしょ」
「えへへ、嬉しいなぁ」
照れ臭そうにガシガシと後頭部を掻く穂乃果ちゃん。手には今日買ったおニューの水着が入っているブランドロゴが記された紙袋がゆらゆらと揺れている。ちなみに彼女が購入したのはオレンジ色のボーダービキニ。なんというか、穂乃果ちゃんらしいチョイスだと思う。
µ’sとの買い物も終え、晩御飯を外食で済ませると時刻はそれなりに遅くなり。先に真姫ちゃんを三人で送った後に海未を帰らせ、現在は僕が一人で穂乃果ちゃんを家まで送っていた。海未も一緒に着いていくとは言っていたものの、あまり夜更かしが得意ではない妹にこの時間帯外を出歩かせるのは少々気が退けたため、先に就寝してもらうことにしたのだ。正直、我が家と穂むらまでの距離はそんなにないし、穂乃果ちゃんを送るのにそこまで人数もいらないだろうという判断である。
「にしても、結構時間も遅くなっちゃって」
「まさか水着選びがあそこまで白熱するとは……途中ことりちゃんとにこちゃんも参戦してきてファッションショーみたいになってたもんね。いやぁ、オシャレって怖いなぁ」
今思い出しても震えが止まらない。単純な水着選びだったはずなのに、気が付くと僕と草太を審査員にµ’sの九人がそれぞれ水着姿を披露する形式に変化していた。あの恥ずかしがり屋な花陽ちゃんや海未でさえも半分ノリノリで参加していたことがまた違和感バリバリである。何が彼女達をそこまで駆り立てたのかはよく分からない。
その後もなんだかんだゲーセンでプリクラ撮ったりだとか、食レポしたりだとかで最終的に夜中の十時である。一応彼女達も家には連絡しているから大丈夫だとは思うが、門限が厳しそうな真姫ちゃんやことりちゃんが少々心配だ。怒られてなければいいけど。
「でも、久しぶりに空良くんと遊べて楽しかったよ。ここ最近、あまり会えてなかったし」
「それもそうだね。穂乃果ちゃん体調崩していたから、ちゃんと遊ぶのは久しぶりかも。大丈夫だった?」
「……うん。とりあえず落ち着いたかな」
「よかった。急に学校休んだって海未から聞いて心配していたんだ。穂乃果ちゃん結構無理を押しちゃうタイプだし、今回ももしかしたら過労が原因なのかもって。大丈夫だったなら何よりだよ」
以前疲労が溜まっているにもかかわらず、気が流行るばかりに雨の中ランニングを決行してしまい倒れたことがある穂乃果ちゃんだから、割と心配していたのだ。寝込んでいたからか電話しても出てもらえなかったし、結構重病なのではと思っていたけれど……結果的に元気になったようだから本当に良かった。
ちょうどいい具合に会話も途切れてしまったので、ここいらが潮時だろう。リュックを背負い直し、穂乃果ちゃんへと声をかける。
「それじゃあ僕はもう帰ろうかな。穂乃果ちゃんもあんまり夜更かししないようにね。明日も練習あるんだし」
「……ありがとう、空良くん」
「いえいえ。おやすみ穂乃果ちゃん」
そのまま背を向け歩き出す。今から帰って色々していたら寝るのは十二時頃かな。せっかく夏休みだし、ゲームしまくるのもアリだけれど――――
「ま、待って! 空良くん!」
「ん……?」
不意に呼び止められ、反射的に振り返る。何か忘れものでもしただろうか、と怪訝に思いながらも彼女の元まで小走りで戻った。見ると、何やら言いたげな表情で僕を見上げる穂乃果ちゃんの姿。
「どうしたの? なんかまだあったっけ?」
「……うん、あるよ。空良くんに伝えないといけないことが、まだあるんだ」
「伝えないといけないこと? そ、そんな改まるようなことなんかあったかな……」
記憶を整理してはみるが、いまいち心当たりがない。確かにここ最近あんまりマトモに話せてはいなかったから積もる話はそれなりに溜まっているかもしれないけれど、それを今ここでわざわざ言わないといけないのかと言われると反応に困る。正直会おうと思えばいつでも会えるわけで、それこそ電話で呼び出しでもしてくれればものの十分で家から向かえるくらいの距離であるから、大声で呼び止めてまで言うような内容は別に――――
「――――好きです」
「……え?」
「高坂穂乃果は、園田空良のことが大好きです。妹分としてしか見られていないかもしれないけど、私は空良くんのことが一人の男性として大好きです。愛しています」
「ちょ……っと、穂乃果、ちゃん……?」
「大好きなの。昔から、ずっとずっと、空良くんのことが好きです」
「ま……待ってよ……。き、急に何を言っているのさ……」
「……ごめんね、いきなりこんなこと。でも、ちゃんと言わないと、空良くんはいつまでも私を女性としては見てくれないから。幼馴染じゃなくて。一人の女性として見てほしかったから」
「あ……え……?」
「言いたかったことはそれだけ! じゃあおやすみ!」
「ほ、穂乃果ちゃん!?」
僕の声も聞かず、言うだけ言ってしまうと穂むらの中に入ってしまう穂乃果ちゃん。店内まで追いかけるのも憚られて、一人その場に取り残される僕。理解が追いつかない。頭の中が、ぐるぐる回っている。
聞き間違いだと思った。何かの気のせいだと思いたかった。だって、そうでもなければ、僕はもしかするととんでもなく最低な仕打ちを彼女にしていたことになるのだから。信じたく……なかった。
好意を寄せてくれている子に対して恋愛相談をしてもらっていたなんて、そんな、最悪なこと。
心当たりがなかったといえば嘘になる。最近距離が近いな、とか、やけに絡んでくるな、とか。思い出してみれば明らかに違和感の伴う行動が多かった。でも、僕にとって彼女は幼馴染で、妹みたいなもので……だから、その行為も幼馴染の愛情表現の延長かな、と軽く流していたのだ。
だけど、だけどだけどだけどだけど。
――――僕は知らないうちに、穂乃果ちゃんを傷つけていた……?
「あ……あぁぁ……」
信じたくない。信じられない。
誰よりも頼りになって、昔から憧れていた彼女を僕が、僕自身が傷つけていたなんてことを。そんなこと、許される訳がないのに。
目の前が真っ暗になる。動悸が治まらない。呼吸も切れ切れになり、鳥肌と震えが止まらない――――
「そ、空良さん!? 様子がおかしいけど、大丈夫!?」
倒れそうになる最中、そっと添えられたか細い手。耳を擽るような高い声と特徴的な髪形で、その人物が誰なのかすぐに分かった。
薄らぐ意識の中で、なんとか名前を絞り出す。
「ことり……ちゃん……?」
「……穂乃果ちゃんに渡すものがあって通りかかったんだ。状況は把握しているよ。穂乃果ちゃんが告白しているところ、ちょうど見ちゃったし」
「僕は……僕は……」
「大丈夫。一旦落ち着いて話をしよう? その様子だと帰れないだろうし、とりあえず私の家に向かおうよ。海未ちゃんには私が連絡しておくから」
すべてを任せっきりにして、そのまま彼女に身体を預ける。今はとりあえず、僕を取り巻くこの状況について誰かと一緒に整理をしたかった。
今回も読了ありがとうございます。
明日は東メー30b【がと~しょこら】にて小説と漫画頒布しておりますので是非お立ち寄りください。
感想もお待ちしております。
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第十九節 真実
「落ち着いた?」
「うん……ありがとう、ことりちゃん」
「いいんだよ~。はい、もう一杯お水飲んで?」
手渡された水を煽り、息をつく。ことりちゃんはベッドに腰かける僕を安心したように見やると、テーブルを挟んで向かい側にストンと座った。丸っこい鳥のぬいぐるみを抱きかかえたまま、話を切り出す。
「穂乃果ちゃんに、告白されたんだよね?」
「……そう、みたい。未だに信じられないけれど」
「穂乃果ちゃんが空良さんのことを好きだってことには、まったく気が付いていなかったの?」
「心当たりは、あったよ。最近スキンシップが激しいな、とか、僕が真姫ちゃんと仲良くしていると不機嫌になったり、とか。……でも、穂乃果ちゃんが僕の事をそういう風に想っているだなんて思いもしなかった。僕にとって穂乃果ちゃんはそういうのじゃなくて……妹みたいな存在だったから」
「……それは、今でも? 穂乃果ちゃんの本当の気持ちを知った今でも、変わらない?」
「それは……」
ことりちゃんの問いにうまく返答ができない。今までずっと、それこそ彼女と知り合ってからずっと、穂乃果ちゃんは僕にとって妹だった。ことりちゃんや海未と同じく、肉親のように接してきたつもりだ。だから、穂乃果ちゃんからのスキンシップが激しくなっても、それは妹が兄に甘えるようなものだと思っていた。……それがまさか、恋愛感情によるものだったなんて、少しも知らなかった。
でも、だからといって彼女の事を女性として見られるかと言われると、確固たる返答はできない。もう十年以上妹として接してきた相手を急に異性として意識しろというのが土台難しい話ではあった。これからも兄妹としての関係でいてくれ、と穂乃果ちゃんに伝えた方がいいのは分かっている。
……それでも、それでも僕には、彼女の気持ちをこれ以上踏み躙る決心ができない。
「穂乃果ちゃんはね、ずっと空良さんのことが好きだったんだよ。小学生の時からずっと、空良さんのことを愛していたの。でも穂乃果ちゃんは恋愛なんて知らなくて、空良さんへの気持ちを正しい形として理解していなかった。真姫ちゃんとの距離を縮めていく空良さんを見て、ようやくちゃんと自分の想いに気が付いたの」
「自分の、気持ちに……」
「空良さんが真姫ちゃんのことを好きなのは知っているよ。勿論穂乃果ちゃんも知っている。だけど、だからといって穂乃果ちゃんが空良さんのことを諦められるわけじゃない。だって、恋愛ってそんな簡単に切り捨てられるものじゃないもん。それは空良さんも知っているはずだよ?」
「……分かるよ。それくらい僕にも分かる。だから、もしこのまま穂乃果ちゃんを傷つけ続けるくらいなら、真姫ちゃんを諦めて彼女の気持ちに応えた方がいいってことも――――」
「違うっ! そんな、そんなことをしても穂乃果ちゃんは喜ばない! 空良さんは、何も分かっていないよ!」
「っ……」
普段物静かな彼女からは想像できない程の怒声。目の端に涙を浮かべ、白くか細い手をぎゅっと握ったまま僕を真っ直ぐ見据えている。今にも折れてしまいそうなくらいほっそりとした両足を踏みしめ、ことりちゃんは許せないものを目の前にしたように血相を変えていた。そのあまりにも怒気のこもった表情に、僕は思わず二の句を告げなくなってしまう。ぐ、と息を呑み、そのまま彼女の言葉を待つ。
「空良さんが真姫ちゃんを諦めて穂乃果ちゃんを選べば良いだなんて、そんな簡単な話じゃないの! そんなのは穂乃果ちゃんを……いや、真姫ちゃんのことも馬鹿にしているよ! そういうことだけは、絶対に言ってほしくない!」
「でも……でも、穂乃果ちゃんを傷つけたまま真姫ちゃんに告白するだなんて、それこそ僕には絶対にできないよ! 僕にとっては穂乃果ちゃんも真姫ちゃんくらい、下手すればそれ以上に大切なんだ! そんな……そんな穂乃果ちゃんを蔑ろにして自分だけ幸せになろうとするとか、絶対に……!」
「どっちを選べとか、そういう話じゃないの! 空良さん。貴方が第一にやるべきことは答えを出すことじゃない。悩む前に、逃げる前に、穂乃果ちゃんや真姫ちゃんに真正面から向き合う事なんだよ! 妹分だからとか、罪悪感がどうとか……そんなことを言っている暇があるのなら、ちゃんと穂乃果ちゃんと話して! どうするかなんて、その後決めればいいじゃない!」
「ちゃんと、向き合う……?」
「そうだよ……。何かあるとすぐにのらりくらりと躱すのは、空良さんの悪い癖。今までもそうして何度か誤魔化してきたでしょう? でも、それはもうやめて。今の空良さんがやらないといけないことはたった一つ。穂乃果ちゃんから逃げずに、ちゃんとお互いの気持ちをぶつけるの」
そう言うと僕の隣に腰を下ろし、ポンと背中を叩いてくれることりちゃん。優しく包み込んでくれるような雰囲気がどことなく母親のように思えて……気が付くと僕は、彼女に促されるままことりちゃんの胸に顔を埋めていた。それは決してやらしい意味ではなく、彼女の胸を借りて、気持ちを落ち着かせようとしていた。
「ごめん……こういう時、どうすればいいかよく分からないんだけど……。……少し、このままでいさせてくれないかな」
「うん。今だけはことりの胸を借りて、うんと泣いちゃおう? モヤモヤした気持ちを全部吐き出して、そうしたらまた一歩踏み出そうよ。穂乃果ちゃんに対する罪悪感とか、真姫ちゃんへの複雑な愛情とか。そういうのを全部全部涙に変えてさ。大丈夫。空良さんは強いから。きっと最後には皆を幸せにする方法を見つけられるよ」
「……ありがとう。こんな駄目な僕を慰めてくれて。叱ってくれて、ありがとう」
そっと目を閉じる。ことりちゃんの柔らかな感覚に包まれていると、徐々に全身の力が抜けていくのを感じた。今まで溜まっていたものを吐き出すかのように、ゆっくりと涙が流れ始める。彼女の背中に手を回したまま、肩を震わせ嗚咽を漏らす。三歳も下の妹分に甘えるなんて、草太が見たら馬鹿にされること請け合いだ。
僕に何ができるかなんて、まだ分からない。遊園地の帰りに真姫ちゃんが残した呟きの真意を確認してもいない。穂乃果ちゃんの問題は手付かずで、どんな結末を辿るかなんて想像すらできなかった。
でも、言い訳をするのはもうやめよう。穂乃果ちゃんを妹分だからと彼女の気持ちから逃げるのはここで終わりにしよう。これからは、一人の女性として向き合っていかなければならない。そうしないと、彼女の勇気に応えることができないのだから。
ことりちゃんに抱き締められたまま、僕はその後泣き疲れて朝を迎えるのだった。
☆
仲のいい女の子がいた。
その子とは高校の入学式の時に知り合い、初めての友達になった。席が近かったこともあり、自然と彼女との距離は縮まっていった。昼休みにご飯を食べる時も、ホームルームでグループワークをする時も、いつしか彼女と二人でいるようになっていた。
半年が経ち、一年が経ち……二年生に上がるころには、自然と二人は付き合い始めた。それは周囲から見れば当然で、逆に今の今までどうして交際していなかったのかと首を傾げる程だった。彼らは誰が見ても睦まじく、学校内でも有名なおしどりカップルとなっていた。
そんな中、悲劇は起こった。
それはクリスマスが近づいてきた高校二年生の冬。親友のハゲと最愛の妹と一緒に三人で彼女へのプレゼントを選びに街へと出かけていた時の事。彼女の喜ぶ顔を浮かべつつ、来るクリスマスを楽しみにしながらショッピングを続ける。親友に冷やかされ、妹には少々不機嫌な対応をされながらも、彼は精一杯のセンスと気持ちを総動員して候補を見繕っていた。
だが、運命の女神は時として最悪な選択を迫る。
三人で歩いていると、不意にとある男女ペアの姿が目に留まった。それは一見するとどこにでもいるようなカップルで、それだけなら別段注視することもない。クリスマスも近いのだし、二人でプレゼントを買いに来ていてもなんら不思議ではないからだ。
……だけれども、そのカップルの片割れに、あまりにも見覚えがありすぎた。
『え……?』
思わず声が漏れる。親友と妹の声が聞こえなくなる程に、彼の頭は一瞬で真っ白になっていた。目は見開かれ、全身が恐怖で震える。下手すれば意識を失うのではないかという程に、心臓がけたたましく鳴り響いていた。
彼の異変に気が付いた二人が同時に件のカップルへと視線を向ける。そして次の瞬間には、信じられないとばかりに表情を一変させていた。妹に至っては、今にも走り出して怒鳴りつけそうな程に。
そのカップルの片割れは、どこからどう見ても恋人だった。入学式から隣を歩いてきた、愛する彼女だった。その少女が、今視線の先で知らない男性の腕に抱き着き、仲良く街を練り歩いている。
何が起こっているのか理解ができない。脳が状況の把握を完全に放棄していた。
後日、彼は恋人を問い詰めた。あの時の状況と、あの男性の真意を。頭では最悪の可能性を確信していながらも、心が一縷の望みを信じていたから。ずっと一緒にいた彼女を、最後まで信じていたかったから。
だけど、それなのに。
『見られちゃったか。正直な話、あっちが本命。アンタはただの遊びで、私にとっては財布と暇潰しの道具よ。当然でしょう? だって彼の方がイケメンだし、一緒にいて面白いもの。まさか、本気でアンタのことが好きで付き合っていると思っていたの? おめでたいわね』
――――震える身体に鞭を入れつつ待った言葉は、あまりにも無情で。
衝撃を受けた、なんてものではない。何かが崩れるような感覚。価値観や人間性……園田空良としての核が完全にへし折れるような音を、確かに聞いた。
そして、最後の台詞はこう。
『勝手に勘違いしちゃってさ。自意識過剰で気持ち悪いんだよ、園田は』
それが、園田空良が記憶している最後の言葉。そこから先は何があったのか覚えていない。ただ、数か月の休学から復帰すると、例の彼女が転校していたことから、草太や海未が何かしら制裁を行ったのだろうことは察せられた。クラスメイト達も僕のことを案じてか、今まで以上に優しく接してくれるようにもなっていた。
……ただ、それからというもの、僕は女性という生き物が怖くなり、目を合わせることさえもできなくなっていて。少しでも近づかれると発作を起こすほどに、精神が不安定化していた。それは高校を卒業するまで、まったく軟化することなく僕の生活を脅かし続けたのだ。
今回も読了ありがとうございます。
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第二十節 合宿開始!
別荘なんてものが存在するのは、漫画やアニメだけの話だと思っていた。
「青い空! 白い雲! そして~? にこちゃんの胸みたいに遠くまで広がる、ブルーオーシャァーン!」
「ぶん殴るわよ穂乃果ァ!」
「にこちゃんやめるにゃー! 穂乃果ちゃんの言っていることに嘘偽りはないにゃー!」
「りーんー!」
駅を出てから数分歩いた先、周囲の木々を切り裂いて眼前に現れたのは蒼く輝く水平線。太陽の光を受けて煌めく砂浜と植物が織り成す大自然はあまりにも非日常な光景で、µ’sのお調子者三人組は予想通りにハイテンションな様子だ。他の六人も彼女達ほどではないにせよ、海を目の前にして興奮気味に目を輝かせている。真姫ちゃんまで似たような反応をしているのは少々驚いたけれど。
「いやぁ、マネージャー業務とはいえ、こうやって美少女達と海に来られるってのはいいねぇ。役得だぜ」
「呑気なもんだね草太」
「そりゃあ俺はお前と違って目の保養になるだけだからなぁ。女性恐怖症の空良クンにはしんどい環境かもしれんが、そんなの関係ねぇ!」
「花陽ちゃーん! 星空さーん! どこぞのハゲが絢瀬さんの胸ガン見して鼻の下伸ばしてるよー!」
『キルユー!』
「ちょっ!? 空良テメェ!」
殺意の波動に目覚めた二人に折檻される親友の断末魔が響くけれども、決して振り返ることはしない。僕は正義の心に準じて悪人を断罪しただけだ。仮にここで労働者が一人脱落してしまったとしてもまったくなんら問題はない。
星空さんがハゲの頭に足元の雑草を植え付けている光景をのんびり眺めていると、不意にトンと誰かが僕の肩に寄り添ってきた。鼻を擽る女性特有の甘い香りに一瞬ビクつくものの、トサカのような特徴的な髪形が視界に入るとすぐに発作は落ち着きを見せる。
ことりちゃんだ。
「もぅ、駄目だよ空良さん。出発前に絵里ちゃんに言われたでしょう? 空良さんは妙に皆と距離を置くきらいがあるから、ちゃんとメンバー全員を名前で呼ぶようにって」
「う……いや、そうなんだけどさ。すぐには難しいと言うか……」
「わがままはだーめっ。ほら、さっそくそこで待ち構えているよ~?」
ことりちゃんが手で示した先に目をやると、予想通りというかなんというか、ニヤニヤ面倒くさそうな笑顔を浮かべてこちらを見ている少女が一人。豊満な胸を支える様に腕を組んでいるその子は一歩こちらに近づくと、僕を下から覗き込むように上体を屈める。
「と、東條さん……」
「んっんっん~? の、ぞ、み。やんな?」
「うぐ……」
「空良さんふぁいとっ」
「うぅぅぅ。う、海未ぃ」
「私は今暴れそうになっている真姫と穂乃果を止める作業で忙しいので手助けはできません」
「ことりちゃんなんか空良くんと仲良くなってない!? ねぇ!?」
「希! そんな胸を強調するようなポーズは駄目! 空良の目に毒よ!」
「おぉう。空良さんモテモテやん☆」
「前後を地獄に塞がれている……」
話に入ってこない絢瀬さんと矢澤さんは呆れたような楽しんでいるような微妙な顔で傍観者を決め込んでいるし、唯一頼れるべき親友は先程人身御供に送ったばかりだ。援軍の見込みはない。そしてここをなんとか逃れたとしても、おそらくこの合宿が終わるまで何度も同じ目に遭うだろう。……それならば、もうここで覚悟を決めた方が良い気がしてきた。
息をつく。大丈夫だ園田空良。今の僕ならできる。
ぐっと東條さんを見据える。顔を背けそうになるのをなんとか抑えつつ、声を絞り出す。
「の、希……さん」
「うんっ。まぁ及第点やね」
「あら、希だけずるいわ。ほら空良さん。私とにこのことも呼んでよ」
「え、絵里さん……にこさん……」
「ふふん。ちゃんとにこにーにまで『さん』を付けたところは評価してあげるわ」
「えー。にこのことは『にこちゃん』って子供を相手にする感じで呼ぶことを期待していたのになぁ」
「……今日の夕飯は海苔マシマシのおにぎりにしましょうか」
「申し訳ございませんにこ様」
「よろしい」
絢……絵里さんのからかいにも動じることなく仕返しを執行するにこさん。µ’sとして活動するまではまったく関係はなかったというが、結構お似合いな二人だと思う。何気に抜けている絵里さんとしっかり者のにこさん、そして二人の手綱を握る希さん、と三年生は絶妙なバランスだ。傍から見ていると面白い。
そんなことを考えつつも、ちらと海未達三人組に視線を飛ばす。何やら牽制と火花を飛ばし合う彼女達の中で一人、現在僕の心をかき乱しまくっている穂乃果ちゃんをこっそり盗み見る。
『――――空良くんはいつまでも私を女性としては見てくれないから。幼馴染じゃなくて。一人の女性として見てほしかったから』
「……そんなことを思っていただなんて、ずっと近くにいたのにまったく気づかなかったよ」
どれだけの勇気を振り絞ったのだろう。彼女の告白を受け、幼馴染ではなく『高坂穂乃果』としての彼女を見る。身体は女性らしく魅力的に成長し、控えめに言っても美少女と呼べる程になっていた。あんなにお転婆で男子と一緒に公園を駆け回っていた穂乃果ちゃんが、あんなにも一人の女性として成長している。それは兄貴分としても、彼女の近くにいるものとしても喜ぶべきことだ。
――この合宿の目的は二つ。一つはµ’sを支えるマネージャー業務。そしてもう一つは、穂乃果ちゃんの告白に真正面から答える。どちらかと言えば、後者がメインなのは言うまでもない。
僕はまだ、彼女のことを妹として思っている。だから、この二泊三日を使って本気で考えるんだ。まっさらな状態で、僕は『高坂穂乃果』に対してどう思っているのか、その答えを。
この事はすでに海未とことりちゃんには話してある。真姫ちゃんにも話しておこうか悩んだが、それはなんだか卑怯な気がしてやめた。今の僕は穂乃果ちゃんと向き合うべきであって、真姫ちゃんがどうこうという状況ではないのだから。
「そーらくぅーん! 早く別荘の中に入ろうよー!」
「……うんっ。荷物は僕と草太が持っていくから、先に探検してきていいよ」
「本当? ありがとー!」
目が合うと、相変わらずの爛漫な笑顔で手をぶんぶん振ってくる。ただ、その頬がわずかに紅潮していることに気付くと、少しばかり胸が痛んだ。今まで彼女の異変をまったく悟れなかった僕の鈍感さに嫌気が差す。そして、彼女の気持ちに気付かず、僕の身勝手な思い込みでずっと傷つけていたことにも。彼女の想いにもっと早く気が付いていたなら、今の関係性も違っていたのだろうか。
「空良」
「真姫ちゃん……?」
少々自己嫌悪に陥っていると、いつの間に傍にいたのか髪先を弄りながら並び立つ真姫ちゃん。こちらに目を合わせる様子はないが、何か言いたげに口を尖らせている。不意に脳裏に浮かぶのは遊園地の帰りに彼女が漏らした呟き。僕の勘違いなのか、それとも……穂乃果ちゃんと同様に、気が付かなければならない言葉だったのか。どちらにせよ、彼女の言葉を待つ。
周囲に悟られたくないのだろうか、控えめにトンと僕の腕に肩をぶつけると、
「何を考え込んでいるのか知らないけれど、慣れない背伸びはやめなさいね。自分だったら、空良だったらどうするのか。それだけを考えて行動しなさい」
「真姫ちゃん……」
「どーせウジウジ悩んだところでドツボるだけなんだから。優柔不断のアンタは直感で行動するくらいがちょうどいいのよ」
「……手厳しいなぁ」
「これでも褒めているつもりなんだけど。ま、とりあえずそういうことだから」
それだけ言って花陽ちゃん達の元へ駆けていく真姫ちゃん。まったく話していなかったのに、察してくれていたらしい。そんなに分かりやすい反応をしていただろうか……。とはいえ、彼女の激励を無駄にするわけにはいかない。だって、決めたじゃないか。ことりちゃんに慰められながら、覚悟をしたじゃないか。
よし、と一つ気合を入れて、早速荷物を抱える。個別で目的があるとはいっても今回はµ’sの合宿だ。彼女達のサポートが最優先。足元で野垂れ死んでいるハゲを蹴り起こしつつ、彼女達が既に向かっている別荘内へと足を進める。
「なんだ空良。妙に落ち込んでいた割には、結構元気じゃねぇか」
「僕ってそんなに分かりやすい性格してるかな」
「すぐ顔に出るからなー。ウチの凛や花ちゃんでさえも普通に気づくレベルだから、相当だと思うぜ」
「……マスクでもつけた方が良さそうだね」
「やめとけ。そんな小細工してもどうせバレるだけだ」
長い付き合いの草太や三人娘ならばいざ知らず、µ’sの皆にまで気づかれるレベルだというのはショックだ。そんなにちょろいつもりはなかったのだけれど、ここまで言われてしまうと今後気を付けなければならない。……なんか悔しいし。
そういえば、と何気に気にかかっていたことを草太に聞いてみる。
「草太はさ、凛ちゃんと花陽ちゃん、どっちのことが好きなの?」
「急に爆弾ぶっこんで来るのはお前の悪い癖だぞ」
「いや、だって気になるじゃん。花陽ちゃんは従妹で凛ちゃんは幼馴染って、恋愛シミュレーションゲームの主人公みたいな状況なんだし」
「お前が言うなの手本を見せられている気分だが、まぁいい。結論から言えば、俺はあの二人にそういう感情は持ってねぇよ。どっちも妹分ってだけだ」
「…………」
「なんだよ」
「いや、僕も周囲からこういう風に見えていたのかと思うと、滅茶苦茶痛い奴だったなって……」
「女子風呂に投げ捨てるぞ三股野郎」
「誤解を孕む上に謂れのない誹謗中傷はやめろ!」
「シスコン! 妹より立場の弱い軟弱兄貴!」
「泣くぞ!」
「シスコン否定しねぇのかよ! しろよ!」
「いや、だってそれは認めてるから……ていうか! あんなに可愛い妹がいてシスコンにならない方がおかしいでしょ! 僕は悪くない!」
「じゃあ海未ちゃんより立場が弱いことに関しては?」
「…………ぐすん」
「しっかりしろよ園田家長男」
仕方ないんだ。ウチは女系家族だから、男の立場は弱いんだ。
何かを察して背中を叩いてくるハゲの後頭部に引っ叩く。そこからヒートアップした喧嘩は、見かねた絵里さんが止めるまで続いた。
今回も読了ありがとうございます。
就活が始まる為、定期更新が難しくなりそうです。
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第二十一節 放射熱
華々しいイメージが先行するスクールアイドルと言えど、鍛錬を欠かしてはいけない。
「というわけで、これが本日の練習メニューです!」
『…………』
いつになく目を爛々と輝かせながら興奮気味に言い渡す海未。手で指し示しているのは、彼女が今回の為に作成したらしいスケジュール。円グラフのような形で書かれたソレには、『遠泳』や『ランニング』といった特訓内容が書き込まれている。ただ少し気になるのは、それぞれの練習内容に『10km』だの『20セット』だの書かれてあるのは何なのだろうか。冷静に考えて、高校生女子のメニューではない。
ドヤ顔キメている我が妹とは反対に、絶望の表情を隠そうともしないメンバー達。それもそうだろう。無類の特訓ジャンキーであるウチの妹が自信満々に作ったメニューは、どう考えてもクリアできる難易度ではないのだから。これこなせる女子高生はそれこそスクールアイドルよりも運動部で大いに活躍してほしいところではある。
「ちょっ……待って待って海未ちゃん! 海は? 海の予定はどこにあるの!?」
「はい? 海未は私ですが……」
「そういう古典的なボケはいらないよ! ちがっ……海水浴の予定は、Where!?」
「あぁっ、なるほどですね。そういうことでしたらちゃんと組み込んでありますよ」
代表して穂乃果ちゃんが食って掛かると、ようやく言いたいことを理解したらしい海未はニッコリ笑顔を浮かべる。いくら海未とは言えど花の女子高生。さすがに息抜きの一つくらいは用意するくらいの余裕はあったらしい。余計な諍いを回避することができて一安心……。
「ほらっ! 遠泳10kmで泳げますから!」
『ひぃっ!』
「ちょっと落ち着こうかこの脳内マッスル思考妹」
さすがに見かねた為に海未を止めに入る。スクールアイドルには決して有り得ない絶望の表情を浮かべた八人を目にしてしまっては、傍観者気取りの僕も気が退ける。現在草太は別荘内で昼ご飯の準備をしてもらっているため、彼女を止められるのは必然的に僕しかいなかった。まぁ、立場的には僕の役目になったのだろうけど。
僕に肩を引かれ、心底不思議そうに首を傾げる海未。所作だけは本当に可愛い。
「なに妹の仕草に萌えてるのよバカ空良」
「ご、誤解を招く発言は控えてほしいな!」
呆れた顔で睨んでくる真姫ちゃんから目を逸らす。兄としての威厳が崩れてしまうので、そういうことはあまり言わないでほしい僕である。
「……コホン。海未、さすがにその練習メニューはやりすぎだと思うんだけど」
「む。私が三日三晩練りに練ったメニューにケチをつけるのですか、兄さん」
「そういう訳じゃないんだけどさ。今回の合宿を楽しみにするあまり夜も眠れず、遠足前の子供みたいにわくわくしながらメニュー作ったりダンスの練習していたのは僕も知っているけれど……」
「うわっ、うわぁあああああ!! 口をっ、口を噤んでください兄さん! そんな恥ずかしい……いえ、そんな出まかせは許しませんよ!」
「え? でも滅茶苦茶笑顔でぬいぐるみ抱き締めながら合宿について独り言漏らしてた海未の動画がここに……」
「盗撮じゃないですか! えぇい、こんなものぉーっ!」
「僕のケータイ――――――――ッ!」
羞恥心か見栄か、正体不明の癇癪によって宝物である『海未フォルダ』が詰まった携帯電話を真っ二つにへし折るµ’s運動部担当園田海未。別に折り畳み式だとかそういうことは一切ないのだが、ものの見事に真ん中からポッキリいかれてしまっている。真姫ちゃんのツンデレ可愛いメールも保護してあったのに、なんてことするんだこの妹はッッッ!
「うぅ、酷い……」
「妹の痴態盗撮して悦んでた変態が何を今更……」
「違いますにこさん。これは盗撮ではありません」
「はぁ?」
「観察です」
「逮捕」
『ラジャー』
どこから取り出したのか、三年生トリオによって僕の腕にかけられる銀色の手錠。ガチャリという重苦しい効果音と鈍い輝きを放つボディがなんともマジモンな感じを醸している。
「……って、え? マジモン?」
「さぁ? ウチはことりちゃんから借りただけだから」
「ことりちゃん……まさか前科が……?」
「ち、違うよっ! それは前にお店に来てくれた警察官の人が、お近づきの印にって……」
『何やってんだ警察官!』
明かされる衝撃の事実にその場にいる全員に衝撃が走る。ていうか! そういうのって勝手に譲渡しちゃダメでしょ! 色々と問題がある気がする! いくらことりちゃんが可愛い上にメイド姿が超絶女神だからって、もう少し頑張れ公務員!
「か、可愛いだなんて、照れるな~」
「海未」
「海未ちゃん」
「ウミアッパー!」
「顎ぉっ!?」
僕の言葉に顔を赤らめながら照れることりちゃんに癒されていると、唐突に襲い掛かる三人娘の魔の手。僕の顎を真下から突き上げる様に拳を振り抜いた海未の目はまさに鬼神のソレ。けしかけた穂乃果ちゃんと真姫ちゃんも相当にアレな目をしていらっしゃる。
「なに? なんなの? 空良くんはそんなに夜空に輝くお星様になりたいの?」
「待つんだ穂乃果ちゃん。今のは世間一般に見ての評価だし、客観的に見てもことりちゃんは可愛いってことは否定できない事実なんだよ」
「女性恐怖症のくせにどうしてこう口から湯水のように口説き文句が湧き出てくるのかしらねぇ……」
「こ、ことりちゃんは幼馴染だし、これは口説き文句と言うよりも『すごーい!』とか『素晴らしい!』とかと似た感じのニュアンスと言うか……」
「もうゴチャゴチャ考えるの面倒くさいんで、とりあえずもう一発殴ってもいいですか?」
「DVだ! 妹から直々にDV宣言されてる! だ、誰か助けてー!」
「凄い……こんな修羅場は漫画くらいでしか読んだことないにゃ……」
「ある意味創作より命の危機に瀕しているけどね……」
「冷静に状況解説していないで助けてくれないかなぁ!」
完全に観客決め込んでいる花陽ちゃんと凛ちゃんに助けを求めるも、ヘタクソな口笛と共に目を逸らされてしまい死亡確定。両手を手錠で拘束されているために逃げ出すことも敵わない僕は、ここでようやく自らの死期を悟った。田舎の海に沈められる……。
「さぁ~て、練習の前に軽く汗を流そうかなぁ~?」
「箒を振り回しながら言う台詞じゃないよね」
「兄さんと組手ですか。中学生以来なので楽しみです」
「両手が使えない相手をサンドバックにするのはよくないと思うよ」
「べ、別にアンタの為を思ってやるわけじゃないんだからね!」
「典型的なツンデレ台詞に乗じてペットボトルに小石詰め込むのやめようね真姫ちゃん」
「ハラショー……これが日本の『アダウチ』ってやつなのね」
「違うわよ」
何やら間違った知識を溜め込み始めた絵里さんにツッコミ入れるにこさんだが、その前にこちらの三人娘を止めてほしいところだ。両手が使えず上手く立ち上がれないので、ずりずりと尻もちをついたまま後ずさりしていく。
……が、無情にも肩を掴む三人の柔らかな手。華奢な身体つきのどこにそんな筋力が眠っているのか、身動き一つ取れない程に拘束される。
あ、これ死んだわ。
「はーい、じゃあ私達はとりあえず軽くランニングから始めるわよー」
「最初からいなかったかのように! に、にこさん助けて! 何でもしますから!」
「じゃあそのまま引きずられて行きなさい」
「鬼! 悪魔! 関東平野!」
「ぬぁんですってぇ! 誰の胸が標高低いだゴルァ!」
「にこちゃんの胸は平野と言うより盆地だにゃ」
「よぉーっし星空今すぐ私とタイマンな」
「お、落ち着いてよ二人とも~!」
「あ、あはは……」
完全に僕の存在を無視することにしたらしい部長が凛ちゃんと闘争を開始していたけれど、僕の現状に変わりはない。各々の凶器を握った三人がじりじりと距離を詰めてくる。
照り付ける夏の日差し。身体中に浮かぶ汗。しかしながら、この汗は決して暑さから来るものではないのだろう。むしろ、心身共に冷え切っているのだから。
「短い人生だった……」
天高く広がる青空に、大学生の悲鳴が吸い込まれていった。
☆
それなりに身体を動かして満足したらしい彼女達は練習に戻っていった。
「……で、穂乃果ちゃんは練習しなくていいの?」
「少し休憩。無理して動くのもあまりよくないしね」
「それは分かるけど、僕と背中合わせに座っているこの状況はいったいどういう意味合いが……」
「好きな人と密着して座りたいっていうのは、思春期女子として当然の欲求じゃない?」
「……逞しくなったね、穂乃果ちゃん」
「空良くん鈍いから、どんどんアピールしていかないとね」
「にひひっ」と悪戯っぽく笑う穂乃果ちゃん。背中をくっつけて座っているために彼女の表情を窺うことはできないが、「してやったり」顔をしているだろうことは想像できた。とはいえ、実際にはっきり言われるとなかなかにクるものがある。元々は僕が悪いのだけれど、彼女への罪悪感や自分の最低っぷりを再確認してしまう。
日陰で休んでいる僕達だけど、真夏の空気に包まれている為さすがに暑い。いくら拭っても止まらない汗がどんどん滲み出てくる。それは穂乃果ちゃんも変わらないようで、時折うなじや胸元をタオルで拭きながら深い息を漏らしていた。何故拭いた部位まで分かるのかと言うと、いちいち彼女が拭く場所を口に出しているからだ。変に色っぽい声色で言うのは本当にやめてほしい。
「はぁぁ……汗が溜まって蒸れるなぁ……」
「……」
「そういえばまだ下着外してなかったや。練習中に汗疹ができるのも嫌だし、今の内に取っておこうかな?」
「…………」
「空良くんはどう思う? つけてた方が……好き?」
「……穂乃果ちゃん、わざとやってるでしょ」
「あ、分かっちゃった? いや~、やっぱりこういうあざといのは慣れないね。ことりちゃんとか花陽ちゃんの専門分野だよ」
「と、年頃の女の子がそういうこと軽々しくやるのはあまり褒められたものじゃないけど」
「ふぅ~ん……」
「……なにさ」
僕の指摘に含みのある声を漏らす穂乃果ちゃん。あまりに彼女らしくない反応に少々戸惑ってしまう。常に反射的に大袈裟なリアクションを取りがちだった彼女が見せた落ち着いた様子。これが何を意味するのか、まったく見当がつかないために不安が募る。
それ以上返答もできずに固まっていると、不意に穂乃果ちゃんが僕から背中を離す。練習に戻るのかな、と思ったのも束の間。再び距離を埋める気配がしたかと思うと――
背後から抱き締めるかのように、僕の首に両腕が回された。
「ほ、穂乃果、ちゃん……!?」
「……」
穂乃果ちゃんは無言のまま、僕の肩に顎を置く。上半身を密着させるような体勢。背中に当たる柔らかな感触の正体は何なのか、なんてわざわざ予想するまでもない。首元に彼女の吐息がかかり、心臓がけたたましく動き始める。遠くから聞こえるµ’sメンバーの掛け声と蝉の鳴き声。陽炎に揺らぐ風景とじれったい放射熱のせいで、今この瞬間、この空間だけがまったくの別世界になってしまったような錯覚を覚えた。はっきりと知覚できるのは、二人分の鼓動と、穂乃果ちゃんの呼吸。
完全に思考が停止した僕の耳に口を寄せて、まるで内緒話をするような距離で彼女は言う。
「もしかして私の事……意識、しちゃった?」
ねっとりと、妖艶と、官能的に。
いつまでも子供だと、妹だと思っていた彼女から放たれた大人の言葉。密着した肉体から彼女の火照りが伝わる。ほぼゼロ距離にまで近づいている幼馴染の顔。背中に擦りつけられる彼女の胸部は、僕が知っている彼女の身体ではなく、すでに立派な大人の女性としての肉感的な魅力を放っていて。何故今の今まで彼女の成長に気が付くことができなかったのか、自分自身で驚きを覚える程で。
時間にして数分。それでも僕には数時間が過ぎたようにも思われた。汗を拭うこともできず、顎から垂れた水滴が回された腕に落ちていく。今すぐに穂乃果ちゃんを振り払うこともできただろうけど、この場においてその行動が最適とは思えなかった。
『穂乃果ちゃーん! そろそろ練習戻れそう~?』
「……うんっ、もう大丈夫だから、すぐに行くよ!」
空気を引き裂くように飛んできた、ことりちゃんの甲高い声。先程まで僕達を包み込んでいた官能的な雰囲気が雲散霧消し、いつも通りの柔らかな彼女が戻ってくる。彼女と向き合うとは言ったものの、予想の斜め上すぎる展開に何もできなかった。このままじゃいけない。次はなんとか、ちゃんと反応できるようにしないと……。
「じゃあ行こっか、空良くん」
「う、うん……」
回されていた腕が外され、穂乃果ちゃんが僕から離れる。やっと真っ直ぐ見れた顔は、わずかに紅潮していた。羞恥心からか、それとも……。それ以上を口に出すのは憚られて、そのまま黙りこくってしまう。
改めて全身を見やると、僕の記憶にある高坂穂乃果とは違う人物がそこには立っていた。すっかり魅力的な大人の女性として成長している事実が、僕にとってはとんでもなく衝撃的なものに思えてしまう。
「穂乃果ちゃん、その……」
「空良くん」
「……?」
なにか一声かけないと、と口を開くも、彼女の呼びかけに遮られる。首を傾げるや否や、彼女は両の手を真っ直ぐ伸ばして僕の頬を掴み――
「好きだよ、空良くん」
完全に無抵抗だった僕を弄ぶかのように、唇を重ねた。
柔らかい、なんて馬鹿みたいな感想を浮かべていた僕ではあったけど、唇をこじ開けて舌を侵入させようとする彼女の意図に気が付くと慌てて身体から引き離す。もう何が起こっているのか理解できない。なんだ、目の前に立っているのは、本当に誰なんだ!?
茫然自失、まさにそう形容するに相応しい状態の僕を見上げる彼女の顔は、あまりにも妖艶な……淫魔なんてものがいたらこんな顔をするんだろうなと考えてしまう程に、艶やかな魅力を放っていて。
僕の唾液を舐めとるかのように舌なめずりをすると、そのまま何も言わずメンバーの元へと戻っていく穂乃果ちゃん。一人取り残された僕は誰にも声をかけられぬまま、間抜けな蝉の鳴き声に打たれ続けていた。
今回も読了ありがとうございます。
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第二十二節 温泉
西木野家が所有する別荘には、観光地顔負けの温泉が備え付けてあるらしい。
「練習も終わったし、ご飯の前にお風呂に入りましょうか。いえ、決して温泉に入りたいわけじゃないわよ? 物珍しいとか、そういう訳では絶対にないんだから」
「絵里ちゃん……それはいくら何でも苦しいにゃ……」
「んなっ……!? 何よその目は! あーもー! いいからさっさと入りなさーい!」
最近外国人キャラが著しい絵里さんだが、それよりもポンコツ扱いが酷くなっている気がする。超有能生徒会長キャラはどこへ行ってしまったのか、と先程希さんに聞いてはみたのだが、「あれはあれでえりちらしいやん」とのこと。第一印象なんてまったく役に立たないらしい。
それはそれとして、僕も何気に温泉は楽しみだ。周囲を山と海に囲まれたリゾートならではの大自然溢れる景色も見てみたいし。……それに、色々と頭の中を整理したくもある。
「温泉かー。いやぁ、去年の野郎旅行以来だな空良。あの時はなんとか女子風呂を覗けないか悪戦苦闘したワケだが……」
『なんて?』
「冗談だ。冗談だからメンバーの過半数が殺意丸出しで俺達を睨み付けるのはやめてくれ」
「なんでそんなに自分から命を捨てるようなジョーク言うのか理解に苦しむんだけど……」
「場の空気を和ませるのはイケメンの仕事ってな」
「冗談の質を考えろって言ってるんだよ水晶玉が」
男子超少数のグループでぶっこむ冗談としては今世紀最大に笑えない。
「まぁまさかウチらの入浴を覗くとも思えんし、気にすることないやろ」
「えー? でもぉ、超銀河級アイドルであるにこにーの裸体は究極に男の子を惹きつけちゃうしー?」
『身体に凹凸ができてから言ってくれ』
「そこの野郎共。ドルオタ舐めてると大怪我するぞアァン?」
「にこちゃん……とてもファンの皆には見せられない顔に……」
いつも通り弄られまくっているにこさんは一旦放っておくとして、このまま駄弁りまくっているのもなんとなく勿体ない。花陽ちゃんと凛ちゃんに詰め寄られているハゲを置き去りにして、一足先に暖簾を潜ろうとする。というか、どうしてここは別荘なのに温泉が二か所あるのだろう。いや、性別で区分けできるから問題はないのだけれど。西木野家の不思議がまた一段と深まってしまう。
溜息つきつつ中に入ろうとするが、そんな僕にしれっと声をかける少女がいた。
穂乃果ちゃんだ。
「別に私は、空良くんになら覗かれてもいいんだけどナァ……」
「……年頃の女の子がそんなこと言うもんじゃありません」
「空良くんも、顔を真っ赤にしながら言う台詞じゃないけどね」
「僕をからかうのもいい加減に――」
「本気だとしたら、どうする?」
「っ……」
皆と話す時とは明らかに違う声色。困惑する僕に近づくと、あからさまに身体を密着させてくる。彼女の好意に気付いているとはいえ……いや、気付いているからこそ、彼女の言動をうまくたしなめることができない。必要な事だとは分かっているのだけれど、彼女の気持ちを思うと言葉が出てこない。
幼馴染としての穂乃果ちゃんと女性としての穂乃果ちゃんが内心入り混じり、完全に行動不能となりかける僕。だが、そんな僕にも救いの手が差し伸べられる。
「やめなさい穂乃果。兄さんが困っているでしょう」
「海未……!」
「……ちぇー、海未ちゃんに止められちゃったら仕方ないや。私もお風呂入ろーっと」
僕から穂乃果ちゃんを引き剥がすように現れたのは、我が最愛の妹。海未は穂乃果ちゃんの首根っこを掴むと、そのまま女湯の方へ誘導する。それにしても、穂乃果ちゃんにしては珍しく素直に言う事を聞いていたが、何かあったのだろうか。
「大丈夫ですか兄さん」
「う、うん。助かったよ海未……」
「ここに来て穂乃果の様子がおかしいとは思っていましたが、やはり
「穂乃果ちゃんに限ってそんなこと……」
「その自分勝手な思い込みが穂乃果を追い込んだのだと、まだ気づきませんか?」
斬、と。
あまりにも無慈悲な言葉が真正面から僕を斬り付ける。頭では既に理解はしていたはずなのに、実際に他人から指摘されると重りとなって圧し掛かる。分かっている。分かってはいる。ただ、心が追いつかない。
僕の様子を見てか、少し申し訳なさそうに頭を下げる海未。
「すみません、兄さん。言い過ぎたかもしれませんが、分かってほしいのです。私は兄さんにも、穂乃果にも傷ついてほしくない。我儘なのは重々承知ではありますけれど、貴方の妹として、そして穂乃果の幼馴染として、被害を最小限に抑えたいのです」
「……うぅん、海未が謝ることはないよ。だって、海未は僕や穂乃果ちゃんのことを考えて行動してくれているんでしょ? だったら、何も悪くない。むしろ、僕が感謝しないといけないよね。ありがとう、海未」
顔を伏せる海未を慰める様に、ポンと頭を撫でてやる。昔から、彼女はこうすると喜んでくれた。本人は恥ずかしがって否定はするが、甘えん坊の海未らしいとは思う。現に、今も顔を真っ赤に染めてはいるものの、にへらとだらしなく緩み切った表情を浮かべている。
「……そういうところがずるいのですよ、兄さんは」
「どこがどうずるいのさ……」
「なっ、なんでもありませんっ。私もお風呂に入ってきますから、兄さんも早く済ませてくださいっ」
「あ、うん。それもそうだね」
ぶんぶんと首を振って女湯へと走り去っていく海未を見送り、僕も脱衣場へと向かう。草太はいつの間にか先に入っていたようで、銭湯染みた籠の中に服が入れられていた。どこからどこまでも別荘っぽくないレイアウトに頭が痛くなるものの、細かい個所を気にしていてはキリがないので僕も草太の元へと向かう。
露天になっているらしく、扉を開けた先には開放感あふれる大自然の景色。湯船もいち家庭のものとは到底思えない程に立派で、おそらくはµ’sメンバー全員で浸かっても問題ない程の広さだ。西木野家はこの別荘をパーティ会場にでも使う気なのだろうか。
「おー、やっと来たかラノベ主人公くん」
「どつくぞハゲ」
「そんだけ悪口言えるなら少しは気分も戻ったみたいだな」
「お陰様でね……」
ニシシと腹立たしい笑みを浮かべる悪友に罵倒を返しながら湯船にイン。少し熱めの温泉が全身に染み渡る。今日一日で溜まりに溜まった疲労が一気に解消されるようだ。
「あぁぁぁぁ……生き返るぅぅぅ……」
「呑気かよ」
「ようやく一息つけた人間の前でよりにもよってそれか」
「他人事だからな。正直な話、お前さんの悩みなんて最初っからどうでもいい」
「高校時代からの同級生に向ける言葉だとはとても思えないね……」
いっそ清々しいくらいに突き放されているが、不思議と嫌な気持ちはしない。僕と草太は昔からこんな感じに雑な付き合いをしてきたからだ。馬鹿みたいな事で喧嘩して、馬鹿みたいな事でいがみ合って。海未からは「なんで二人が親友なのかまるで分かりません」と真顔で言われたこともあるけれど、僕からしてみれば、いつもべったりくっついているのが親友の定義という訳ではないと思う。
ちら、と隣で髪の毛の代わりにタオルを頭に乗せたイケメンに視線を向ける。
「なんだよチラチラ見て。俺は男に言い寄られる趣味はないぞ」
「僕だって別に草太の裸には興味ないよ」
「へぇそうかい。そんなノンケの空良にひとつ、俺からのありがたいお言葉だ」
「なにさ」
「お前がどんだけ馬鹿しでかそうが、俺はどんな時だってお前に悪口ぶつけてやるよ」
「……なんだよそれ。バッカみたい」
お互いに目を合わせることはせず、同時に大きく息を吐く。そして、次の瞬間には顔を見合わせて笑っていた。温泉の効果もあってか、想像以上に心が落ち着いた。
……僕と草太がいつまでも親友やっていられるのは、「こいつだけは離れない」という絶対的な確信があるからだと思う。
どれだけ最低なことをしても、どれだけ友人達から軽蔑されても、草太だけはいつまでも変わらずにいつも通りの悪口を言ってくれる。まったく変わらない関係性でいてくれる。それがどれだけ希少で、どれだけ有り難いものであるか。過去に裏切りという形で大切な人を失った僕にとって、彼のスタンスは相当に貴重だ。そして同時に、こいつが親友でよかったと切に思う。
本人に言ったら調子乗るから絶対言わないけど。
「まぁしかし、なんだ。女難の相が出ているとはいえ、お前も大概苦労するよな」
「半分以上自分のせいだから何とも言えないんだけど、そろそろ決着付けなきゃとは思うよね……」
「変に相手に気ぃ遣うのはお前の悪いところだから、決める時はちゃんとバッサリ決めた方がお互いに被害少ないことは分かっとけよ。お人好しも行き過ぎればただの嫌な奴だからな」
「……分かってるよ。さすがに、今回ばかりは周囲に甘えてばかりもいられない。僕は僕なりに、頑張ってケリをつけるつもりだから」
「そーかい。にしても、ハイポテンシャルブラコン妹にツンデレお嬢様、そんでもってヤンデレ入った後輩幼馴染ときた。そんじょそこらのギャルゲー顔負けのラインナップだなこりゃ」
「滅茶苦茶楽しんでいる気がするのは、もしかしたら僕の気のせいじゃないね?」
「当然。さっきも言っただろ? 俺はお前の悩みなんてどうでもいいってな」
「凛ちゃんに蹴られて死ねばいいのに」
「そっちこそ真姫ちゃんにメンタル殺されても知らねぇぞ」
それは結構日常的に起こっているから罵倒にもなっていないよ、草太。
あまりにもいつも通り過ぎて馬鹿らしくなってきた僕らはそのまま景色を楽しみながら温泉を堪能する。人気が全くない大自然の息吹を全身に浴びていると、ふと柵の向こうから聞き覚えのある声が届いてきた。誰のものか、なんてわざわざ予想するまでもない。そもそも、この近くに僕達以外の人間はあの9人しか存在しないのだから。
「それにしても、やっぱり花陽ちゃんのおっぱいは大きいやんなぁ」
「も、もー! やめてよ希ちゃぁ~ん!」
一瞬草太の身体が強張る。やけにはっきりと聞こえた声に視線を向けると、柵で隔たれた向こう側から聞こえてくるらしい。そういえば脱衣所の入口も隣り合っていたっけか。さっきまで二人して黙っていたから、女湯の声が妙に響いているらしい。
変な空気に包まれた僕達は、何故か一言も発さずに女子勢の声に耳をそば立ててしまう。
「そう言ってる希も相変わらず凄いわね……服の上からでも相当だったけれど、生で見ると迫力が……」
「う、ウチのはえぇやん。それよりも……ほらっ、真姫ちゃんも! 発展途上とは思っていたけど、結構よさげちゃう?」
「ちょっ、希!? やめっ……やめなさいよー!」
「!?!?!?!?!?!?」
「落ち着け空良。せめて日本語を話せ」
唐突に聞こえてきた真姫ちゃんの成長期実況に全僕が阿鼻叫喚。なんだ、柵の向こうでいったい何が起こっているんだ!?
混乱する僕と焦燥する草太を他所に、µ’sの会話は一際盛り上がりを増していく。
「穂乃果もまだまだこれからって感じだけど、実際どうなの?」
「えへへー。実は空良くんに見せる時の為に、食生活と運動、体操は欠かしてないのさっ」
「は、破廉恥ですよ穂乃果ッッッ」
「わ、私だって、穂乃果に負けないくらい……ゴニョゴニョ」
「あっれ~? 真姫ちゃん顔真っ赤にしてどうしたのぉ~?」
「に、にこちゃんうるさいっ! な、なんでもないわよっ!」
「あばばばばばば」
「そ、空良ぁーっ! しっかりしろ、傷は浅いぞ空良ぁーっ!」
あまりにも心臓に悪い会話と長風呂によるのぼせで意識が遠のいていく。草太が慌てて僕を抱えて脱衣所へと運ぼうとしているが、なんかもう色々と限界だった。女性恐怖症とはまったく関係のない事情で意識を失うのはいつぶりだろう、とか割かしどうでもいいことを考えつつ、闇の底へと沈んでいく。
こちらの騒ぎに気が付いたらしい真姫ちゃん達から心配と不安の声が聞こえるものの、詳細まで聞き取ることはできない。格好的に助けに来てもらうわけにもいかないし、むしろ来られても困る。ただでさえ弱い僕の心臓が破裂しかねない。
晩御飯までに目が覚めればいいなぁなど脳裏に浮かべながら、大自然をバックに僕は意識を手放した。
今回も読了ありがとうございます。
感想もお待ちしています。
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第二十三節 星空
意識が浮上する頃には、時刻は七時を回ろうとしていた。
広間のソファーに寝かされていたらしく、がやがやとした喧騒が耳を打つ。鼻腔をくすぐるのはカレーの匂いだろうか。林間学校めいた懐かしい香りを受けて、お腹の虫がけたたましく叫び声をあげている。
「目が覚めましたか兄さん。少しはその気絶癖をどうにかしないと、この先大変ですよ?」
「……おはよう、海未。自分ではそんなつもりまったくないんだけどね」
ソファーの端に腰かけ、子供を寝かしつける様に僕のお腹をポンポンと擦っていた愛する妹に溜息混じりの言葉を返す。三歳下の妹にお世話してもらうとか年頃の男性としては少々情けない感じではあるけれど、僕らは昔から何かとこんな具合だったのでそこまで拒否感はない。日頃僕に甘えてくる海未だが、こうして僕が弱っていると日頃のお返しとばかりに甘やかしてくるのだった。仲良きことは美しきかな。
どうやら晩御飯の準備ができているらしく、広間のテーブルには人数分のカレーとサラダが所狭しと並べられていた。……なんか一人分だけご飯が別盛りになっている気がするけど、どういうことなんだろう。
「あのご飯はいったい……」
「お気になさらず! えぇ、まったく問題ないですよ!」
「……とまぁ、花陽があんな感じなので、気にしない方がいいみたいですね」
「はぁ……」
普段引っ込み思案で自分から僕に話しかけてくることなんかしない花陽ちゃんが、爛々と目を輝かせながらぴしゃりと言い放っている。あまり想像できないハキハキとしたキャラクターに一瞬虚を突かれるものの、海未と凛ちゃん、そして草太の様子を見る限りスルーした方がよさげな雰囲気だ。誰しも触れてはいけないナイーヴな面というものがある。今回もその一つなのだろう。
「とにかく、ちょうどご飯時です。にこが腕を振るったそうですから、存分に召し上がってくださいな」
「うん、そうしようかな。お腹も空いてきたし」
「えぇ。……それと、あそこのサラダなんかは……わ、私が、その……」
「海未も料理手伝ったの? 偉いじゃないか。じゃあ、そっちも美味しく食べさせてもらおうかな」
「あぅ……兄さんにそう言ってもらえるのなら、手伝った甲斐がありました。えへへ」
僕の言葉に恥ずかしそうに目を泳がせながらも、どこか嬉しそうに口元を綻ばせる海未。彼女、どうしてか自分が褒められることに関して耐性がないようで、少しでも称賛されると照れてしまうという可愛らしい特徴があるのだ。普段気丈に振る舞っている凛々しい彼女が見せるこういった一面は、まさにギャップ萌えとして僕ら幼馴染の中で有名である。いやぁ、本当に可愛らしいな海未は。
いつまでも色褪せることがない妹の魅力に癒されながらも、着席を始めている皆に倣って準備を進める。若干二名ほど僕の様子を窺っているメンバーが見受けられたが、僕は長テーブルの端――――誕生日席のにこさんと端を空けていることりちゃんの間に腰を下ろした。もちろん、某幼馴染から身を守る為である。
「あー! 穂乃果も空良くんの隣に座りたかったのにー!」
「ご飯時くらいは落ち着いて食べさせてくれ……」
「ま、まぁ仕方ないわね。私は我儘なんて言わないから、大人しく希の隣に座るわよ」
「その割には悔しそうやんなぁ」
「希うるさい」
見るからに不満そうな穂乃果ちゃんからなるたけ距離を取りつつ席に着く。向かい側では何やら納得いかなさそうな表情を浮かべている真姫ちゃんがいたが、余計な詮索をすると墓穴を掘りそうな予感がしたのであえて触れないことにした。今、全体的にとてもナイーヴな時期である為、いらぬ火種は起こしたくない。
ぐぬぬと言わんばかりにこちらに睨みを聞かせてくる穂乃果ちゃんから全力で目を逸らし、とりあえず一息。全員が着席したのを確認すると、部長であるにこさんが代表して音頭を取った。
「はい、じゃあ合宿一日目お疲れさま。明日はパート毎の練習になるから、気を引き締めてやるよーにっ!」
「はいはいはーい! にこちゃんにこちゃん質問にゃー!」
「なによ凛」
「明日は海水浴あるんだよね!?」
「勿論。練習してから海水浴。夜は歌のレッスンやって、肝試しでフィニッシュよ!」
「にゃー! やっぱり合宿の締めは肝試しだよねー!」
「えぇっ!? ちょ、そんなの聞いてないわよにこ!」
「言ってないもの。ねぇ希?」
「心配せんでも、えりちは私とにこっちと一緒に仕掛ける側だから大丈夫やん」
「よ、良かった……って、でも暗いところに行くのよね!? やだー! おうち帰るー!」
「はい皆さん手を合わせてください。いただきます」
『いただきます』
「ちょっとみんな無視しないでよー!」
最近弄られキャラ著しい三年生の一角、賢い可愛いエリーチカ先輩の心からの絶叫も空しく、他の面々はにこさん特製のカレーを胃の中へとかきこんでいくのだった。
☆
夜。
µ’sのメンバーが大広間に布団を並べて就寝する中、僕と草太は二階の小部屋に布団を敷き、各々寝る準備を進めている。何気にハードな練習に彼女達は疲れ切っていたらしく、電気を消すや否や寝息を立て始めていた。思春期真っ盛りな彼女達の事だから、寝たふりをして笑ったりだとか、枕投げをしたりだとか、果ては恋バナに花を咲かせたりするのかと思っていたのだが、さすがにそこまでの体力は残っていなかったらしい。まぁ明日もあるし、早めに寝て英気を養うのは大切な事だ。
「うぅん……凛、それは俺のチュパカブラだ……」
「どんな夢見てんのさ……」
リアリティの欠片もない寝言を漏らす草太に苦笑を浮かべる。あまり疲れているとは思えないこいつが爆睡しているのは甚だ疑問ではあるけれど、もしかしたら僕の知らないところで何か大活劇を繰り広げていたのかもしれない。草太は草太で色々と複雑な事情を抱えているようであるから、可能性がないとは言えなかった。だけど、わざわざ詮索するような野暮な真似はしない。僕達はただ、互いに馬鹿をやっていつも通りに軽口を叩き合うだけだ。
ルームメイトが寝てしまったため、手持無沙汰になってしまった。昼に海未によって携帯電話を粉砕されている以上、誰かと無駄話をすることもできやしない。文明人にとって通信機器がないというのは非常に忌避すべき状況ではあるのだけれど、今の僕は無力な存在なので大人しく寝る選択肢を取るのがベターと言えるだろう。
部屋の電気を消し、布団に腰を下ろす。と、周囲が暗くなったせいか、窓の向こう側で無数に輝く星々がやけに目立って見えた。山奥なので街灯の類もまったく存在せず、夜空の煌めきがより一層幻想的に映る。普段気にすることもない自然の美しさ。見るだけで夜の帳に吸い込まれて行きそうな感覚。星座の一つもまともに分かりやしないけど、星々が放つまばゆい光から目を離すことができなくなる。
……そういえば、この別荘には天体観測用に屋根の上へと登れる設計になっているって昼間に真姫ちゃんが言っていたような。天体観測が趣味である彼女の希望によって、親御さん達が用意したとかなんとか。その時はお金持ちだなぁって感想しか浮かばなかったけれど、少し興味が湧いてきた。どうせ寝付ける気もしないし、行ってみてもいいかもしれない。
思い立ったがなんとやら。僕は念の為にタオルケットを一枚羽織ると、部屋を出て屋上へと続く階段へと向かう。廊下の突き当り、階段と言うよりは梯子と言った方が良さげなソレは、真っ直ぐ屋根の上へと続いていた。
だけど、ここで一つの違和感に気が付く。
「屋根への入口が、開いている……?」
全員が寝静まっているはずの時間帯。にも関わらず、梯子の先には満天の星空が広がっていた。通常は木板によって塞がれているはずのそこは、既に誰かがこの先にいることを明示している。まさか屋根裏からの侵入者がいるはずもないし、µ’sの内の誰かが星を見ているのだろう。そして、こんな時間にわざわざ天体観測をするようなメンバーに、心当たりは一人しかいない。
妙な緊張感に包まれ、生唾を呑み込んでしまう。別に慄く必要なんてまったく無いのに、少し気が退けてしまうのはどうしてだろうか。生来の気の弱さとはまた違った原因を感じざるを得ない。
しかしながら、いつまでもここでじっとしているのは時間の無駄だ。意を決して梯子に手をかけると、そのまま一気に屋根の上まで登っていく。キラキラと輝く星空の下に顔を覗かせた瞬間、僕は再び息を呑むことになった。
入口から少し離れた屋根の斜面。通常よりなだらかになっているそこに座り、天を見上げる一人の少女。夜風に赤毛を揺らされながら、時折静かに溜息をつくその姿はまさに深窓の令嬢。
優雅、という表現が最も似合うだろう光景が、そこには広がっていた。
薄紫の寝巻に身を包んだ彼女はしばらくの間星空を見上げていたが、ようやく僕の存在に気が付くと、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「あら、いらっしゃい空良。貴方も眠れなかったの?」
「あ、うん……ちょっとね」
「ふふっ。もしかして、空良も遠足前に緊張して眠れなかったクチ? ほんと子供なのね」
「そう言う真姫ちゃんこそ、意外とそういうタイプなんだ」
「……私は元々、こういう娘よ。ただ、みんなの前では強がって一歩引いているだけ」
少し目を伏せて悲しそうに言葉を漏らす真姫ちゃんだったが、すぐに顔を上げると手招きする様に僕に手を振った。促されるままに隣に腰を下ろすけれど、緊張して鼓動が倍速になった僕を誰が責められよう。タオルケットを羽織ったまま、真姫ちゃんの横に位置を定める。
うぅ、落ち着かない……。
「もう、そんなあからさまに緊張しないでよ。私まで調子が狂うじゃない」
「ご、ごめん……で、でも、これは仕方ないというか……」
「そんな感じで気が弱くて、優柔不断だから苦労するのよ。貴方も、穂乃果も」
「……どこまで知ってるの?」
「まったく知らないわよ。空良と穂乃果の間に何があって、何が起こるのかなんて。だってそれは貴方達の問題で、私達が口を出すようなことじゃないもの。海未やことり、草太さんならさておき、私達はあくまで外野。それを解決するのは、当事者達の役目なんだから」
あくまでも傍観者。きっぱりとそう言い切る真姫ちゃんに、厳しさと優しさの両方を感じる。いつだって海未や草太に頼り切りの僕が、これ以上誰かに選択を委ねないように。僕自身の決断で、彼女との決着を付けなければならないということを分からせるように。
それでも、そうだとしても少しだけ自信が足りない僕は、いつか彼女がやったように空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「……ちょっとだけ、独り言を言わせてほしいんだ」
「……好きにしなさいよ」
「ありがとう。……穂乃果ちゃんはさ、昔から僕の後をずっとついてきてて、妹分みたいな感じだったんだ。異性と言うより、家族っていう方が近いかもしれない。だから、彼女が成長して、一人の女性になっても、そういう風に見ることができなかった。もしかすると、僕が女性恐怖症にならなかったら異性として意識できたかもしれない。でも、僕にとって穂乃果ちゃんは、海未と同じくらい大切な幼馴染であり、妹だったんだ」
小学生の時から、何かあれば僕のところに走ってきて騒いでいた穂乃果ちゃん。僕が女性恐怖症を発症し、入院することになっても何度もお見舞いに来てくれた穂乃果ちゃん。僕から拒絶され、心無い言葉を浴びせられ続けても、諦めずに僕のリハビリに付き合ってくれた穂乃果ちゃん。ここまでしてもらっておきながら妹しか思っていなかったなんて最低以外の何物でもないのだけれど、一度認識した関係性はそうそう変えられない。そして、誰かに好意を向けるということ自体を忌避していた僕にとって、彼女を異性として認識することは不可能にも近かったのだ。
だけど、今になってその事実を知らされ、本人からも気持ちを伝えられ。僕は、自分が分からなくなっていた。僕が今まで穂乃果ちゃんに向けていた感情は、果たして本当に純粋な家族愛だったのだろうか。それとも、自分では気が付いていないだけで、もしかすると彼女に恋をしていたのだろうか。
そして、仮にそれが真実だろうと虚構であろうと、僕に彼女を貶める資格があるのだろうか。
「今まで色んなことから逃げていた僕が、これ以上穂乃果ちゃんの想いを踏み躙ることなんて、許されるのかな……」
「…………」
ふと漏れた言葉。それは僕の中にある本音で、決心を鈍らせる最大の想いだ。今まで僕の為に一心に尽くしてくれていた彼女を拒絶する権利が、果たして僕にあるのだろうか。いや、それだけでなく、そもそも僕に何かの選択を決定する権利が、本当に……。
僕の独白を黙って聞いていた真姫ちゃんはしばらくの間「うーん」と首を傾げていたが、ふと思い立ったように僕を見据えると、心底呆れたような表情を浮かべて、溜息と共にこう言い放った。
「アンタ、バカじゃないの?」
「へっ?」
「前々からどうしようもない馬鹿だとは思っていたけど、まさかここまで拗らせているとは思いもしなかったわ。海未とか穂乃果とか比じゃないくらい馬鹿ね、アンタ」
「え、えぇ……?」
予想だにしない解答に一瞬反応が遅れる。まさかこんなに真っ直ぐ罵倒されるとは思わなくて、なんて返せばいいか分からない。え、えぇ!? な、なんで僕貶されているの!?
てんやわんやと目を泳がせる僕に「いい?」と詰め寄ると、胸元にぐりぐりと指先を押し付けながら彼女は言葉を続ける。
「穂乃果への罪悪感がどうとか、今までの気持ちがどうとか、そんなのどうだっていいじゃない。大切なのは、今、空良がどう思っているか、でしょ? なんでアンタの決断に、他の奴の気持ちが考慮されてるのよ」
「いや、だって、穂乃果ちゃんをこれ以上傷つけるのは……」
「甘えてんじゃないわよ! 穂乃果を傷つける云々は、アンタが自分を守りたいだけじゃない! そんな狡賢い考えで選んでもらって、あの子が本当に喜ぶとでも思ってんの!?」
「っ……!」
「それに、穂乃果に遠慮して告白を受けて、アンタは本当に幸せなの? 自分より他人を優先した結果、むしろ自分自身を押し殺す結果になっちゃったら、それは本当に正しい選択なの? 私はそうは思わない。アンタが招いた問題なんだから、最後の答えまで責任もって、アンタ自身の想いを貫き通しなさいよ! それが筋ってもんでしょ!」
「僕が通す、筋……」
「アンタが馬鹿なのは今に始まったことじゃないけど、自分に嘘をつくことだけはやめて。私が好きになったのは、どれだけ回り道をしても、最後には絶対自分の後悔しない道を選ぶ、そんな空良なんだから」
「え……真姫ちゃん、今……」
台詞の中で信じられないフレーズを聞いた気がして、思わず聞き返してしまう。今はそんな時じゃないことは分かっているけれど、ここで今の言葉をスルーするのは間違っている気がした。
僕に指摘されて、一気に顔を赤らめる真姫ちゃん。だけど彼女は決して黙り込むことはせず、僕の服の裾をぎゅっと握ると顔を見上げて想いを紡ぐ。
「えぇそうよ。私はアンタのことが好き。優柔不断で弱虫でシスコンで、女性恐怖症とか言って情けない上に頼りがいなんて1ミリもない。でも、誰にだって優しくて、自分を犠牲にしてでも誰かを喜ばせようとして、どこまでも真っ直ぐで不器用な空良のことが大好き。穂乃果に負けないくらい……いえ、穂乃果なんかよりもずっと、私は空良のことを愛してる!」
「真姫ちゃん……」
「だけど、穂乃果との決着がつかないまま、私の告白に返事することは許さない。穂乃果に遠慮して私に返事することも許さない。私のことは何も考えないで、ちゃんと穂乃果との問題を解決して。そうじゃないと、私は本当の意味で貴方の隣に並べないから」
声を震わせ、目の端に涙を浮かべ。誰よりもプライドの高い彼女がいったいどれだけの勇気を振り絞って今の言葉を口にしたのか。誰よりも本心を表に出すことを苦手とする真姫ちゃんだが、いったいどれだけの覚悟をもって僕への想いをぶつけたのか。僕なんかが到底敵わないくらいの強さを、目の前の少女は放っていた。
そして、ようやく決意する。僕が本当に取るべき行動、その指針を。
恥ずかしそうに視線を右往左往させる真姫ちゃんから少し離れると、不器用ながら笑みを浮かべる。虚を突かれた様に目を見開く彼女を他所に、僕は軽く頭を下げると、誰よりも僕の事を想ってくれている少女に向けて、覚悟を示す。
「ありがとう、真姫ちゃん。僕、頑張るから。僕自身が後悔しない選択をするから、後ちょっとだけ待っててほしい。その時に、僕の答えを伝えるよ」
そう、もう決めた。どんな結果になろうとも、僕は僕自身が後悔しない選択をする。真姫ちゃんがどうとか、穂乃果ちゃんがどうとか関係ない。僕が正しいと思う答えを導き出すんだ。
僕の覚悟を静かに聞いてくれていた真姫ちゃんは軽く目を細めると、朱に染まった頬をさらに紅潮させ、星空に照らされながら麗しい微笑みを零し、
「うん。待ってる」
そう、言った。
今回も読了ありがとうございます。
感想もお待ちしております。
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