ハイスクールD×D 呪われし鉄刃 (椎名洋介)
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第一巻/旧校舎のディアボロス
序章


 人は死ぬ。

 誰でも、必ず死ぬ。

 そこには何一つ例外はない。いつ死ぬかどこで死ぬかなぜ死ぬか、それが違うだけだ。

 だが勘違いしてはならないのは、問題はその限られた時間の中でどう生きてゆくか、ということなのだ。

 少なくとも彼はそう父親に教えられてきたし、他人にも教えてきた。だから『命』というものに関しては人一倍の思いを持っているのだ。

 そう。

 誰よりも、重く……。

 

「おーい、兵藤(ひょうどう)よう」

 

 昼休みである。校舎を出てグラウンドへとつながる坂に寝転がるようにして、『彼』はいた。

 

「あ、黒鉄(くろがね)先輩!」

 

 両腕を頭の後ろに回して枕にした格好で、一つ下の後輩である兵藤一誠(いっせい)がこちらを向いた。きっと暑過ぎない気温と芝生の感触に満足しているに違いない。

 それを確認してから、黒鉄斬輝(ざんき)も芝生の坂の上に腰を下ろした。

 そして小指を立てると、

 

「聞いたぜー。お前、カノジョ出来たんだって?」

 

 わざとらしく切り出した。

 彼がその話を聞いたのは、今朝だ。それも教室に向かう途中の廊下で小耳に挟んだていどである。

 だからか、変態三人組にオンナが出来た、みたいなことしか覚えていない。しかしあのメンツで比較的マシな一誠のことなのではないかと踏んだのである。

 

「ええっ!? ちょ、いきなりっすか!?」

 

 思ってもいなかった質問をされたのに驚いたのか、いきなり起き上がった一誠は顔の前でごまかすように両手を振った。

 どうやら図星のようだ。

 

「んで? やっぱいるわけか?」

 

 ぐい、と顔を近づけ、最後の一撃である。

 

「いや……まあ、はい。一応」

 

 うつむきながらも、ぼそり、と呟く一誠は、なんとも初な少年に見えた。

 兵藤一誠とは、斬輝が中学二年生のころからの付き合いだ。異様な性癖を除いて意気投合した二人は、こうして昼食を共にすることもままある。

 もしかしたら、だからなのかも知れない。

 

「で? 話ってのはつまり、そういうことなのか?」

 

 一誠に呼び出されたことが、だ。

 午前の授業が終わって、さてこれから飯でも食うかと思った矢先に一誠から電話が来たのである。

 ちょっと相談があるんですけど、今からでも良いですかね?

 斬輝は、おう、と返した。彼の声音からして、単純な問題ではないと思ったからだ。

 だから今日は、あるていど話が長引いても良いように来る途中で買ったいくつかのパンと牛乳も持って来ていた。

 

「まあ、そうなりますね」

 

 照れ臭そうに笑う彼がなんとも微笑ましく見えてしまうのは、もしや父性とかいうやつなのだろうか。

 一つしか違わないのに?

 実は、と一誠が切り出した。

 

「……今度の日曜日に、その子とデートすることになったんです」

「ほう」

「でも、俺……彼女とか初めてだし、デートも初めてなんですよ」

「変態だしな」

 

 思わず口に出してから、しまった、と思うのは、斬輝自身もよくない癖だと自覚している。だがそれが簡単に治るものであれば、もはやそれは『癖』とは呼ばないだろう。

 

「変態を悪く言わんでください! 俺はエロであることに誇りを持ってるんですから!!」

「そーゆー誇りは三〇歳超えてから持ちなさいな、兵藤くん」

 

 正直、斬輝自身は『エロ』にそれほどの執着を持っていない。それは異性に興味がないという意味ではないが、一誠を含んだ三人組のように度の過ぎた関心を持ち合わせていないのである。

 しかしなぜか、同級生の間で『駒王学園の野生児』などと呼ばれているのかがいまだに謎だった。

 

「ま、とりあえずよ」

 

 中にカスタードクリームが入った揚げパンを齧りつつ、斬輝は反対の手を一誠の肩に回した。

 

「デートする場所とかは決まってんのか?」

「いや、それがまだ……」

 

 ん? まだ、だって?

 だが続く一誠の言葉に、斬輝は力強く彼の背中を叩いてやった。

 

「だから先輩の意見も聴きたいな、て思って」

「なあんだよ! それなら、別に俺に尋ねる必要なかったんじゃねえのか? 直接カノジョに訊いてみるとかさ、色々あンだろうよ」

「それじゃ意味ないンすよ! なんて言うか、夕麻(ゆうま)ちゃんにもちょっとしたサプライズがしたいって思ってて」

「夕麻ちゃんか……だったらよ、もうシンプルに色んなところ回ってもいいんじゃねえか?」

 

 実際のところ『デートは考えるより楽しめ』というのが、個人的な意見だった。どこへ行ってもいい、当人達が楽しめたならばそれがデートなのではないかと思うのである。

 

「買い物するもよし、店に行って二人して同じパフェを喰うもよし。要はお前らにとって思い出に残る日に出来たなら、そいつが立派なデートだと俺は思うね」

 

 ひょっとしたら、いまだ恋愛経験皆無の彼だからこそ言える言葉なのかも知れない。もし過去に彼女がいたとしても一誠のように悩み込むようにならない自信がない。

 

「お前が二人で行きたい場所に行けばいいんだよ。大丈夫さ、お前なら」

「二人で行きたい場所かあ……」

 

 たしかに、兵藤一誠は変態だ。それも、超弩級の。

 だが、変態であるということと、悪人であるということは違うのだ。

 

「いいか兵藤。デートってのは結局のところ、楽しませた(モン)勝ちなんだよ」

 

 そう。

 彼は変態だが、決して悪人ではない。

 

「……まあ、あとはじっくり考えな。まだ日はあるんだしよ」

「はい! ありがとうございます!!」

 

 まだ残っているパンを頬張りながら、斬輝は校舎の方へと走って行った。

 だが彼は、まだ知らなかった。

 校舎から二人を見下ろす紅髪の存在に。

 そして、自身に眠る力にさえも……。




 リハビリ作品『ハイスクールD×D 呪われし鉄刃』始動である。


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第一章 抜け落ちた記憶

       

 

 

 私立駒王学園。

 それが、斬輝たちが通う高校である。今でこそ共学だが、数年前まで女子高だった名残なのか女子生徒の比率が圧倒的に多かった。

 斬輝たち三年生ともなれば、その男女比率は二対八となる。当然、女子が八割である。

 そしてここには、『二大お姉さま』と称される生徒がいた。

 

「おい、知ってるか?」

 

 授業中、周りに聞こえないような声で斬輝は隣の席へとささやいた。

 

「なにを?」

 

 応える声も、同じくささやきである。しかしその声は、同年代の女子にしてはやけに大人っぽく、そして艶やかだ。

 リアス・グレモリーである。

 西洋的な顔立ちもそうだが、何より学園中が彼女に魅せられてしまうのは長く鮮やかな紅の髪だろう。いや、大半の連中はその胸の二つの隆起に目が向くか。

 北欧からの留学生である。成績も優秀、スポーツも出来る。そして滑るように白い肌。そこらの男が一度でもその姿を見たとしたら、自然とスボンの前を突っ張らせてしまうに違いない。

 まさに、理想の女性といえるだろう。

 ただ一つ、オカルト研究部と呼ばれる奇妙な部活に所属、および部長を務めていることを除けば、だが。

 

「二年の兵藤一誠にカノジョが出来たって話だよ」

「兵藤、一誠……?」

「ほら、変態三人組の。赤のシャツ着てる奴さ」

 

 実際、あり得ない話ではなかったのかも知れない。後から聞いたことだが相手はどうやら他校の生徒らしく、とどのつまり一誠の性癖を把握している可能性が少ない。

 そんな、ある意味において無知な少女が一目惚れしたというのだ。話題性としては充分だろう。

 だが。

 

「……ああ、彼ね。へえ、おめでたいじゃない」

 

 彼女の声は、どこか冷やかにも聞こえた。言葉では祝福しているものの、その裏で何かを隠しているような、そんなふうに感じたのである。

 それが一瞬、不思議に思った。少なくとも、彼女は他人を下に見るような性格をしていないからだ。

 だから気がつくと、

 

「あん……? おめぇ、何か知ってんのか?」

 

 自然に訊ねてしまっていた。

 

「いいえ」

「そう、か……」

 

 それが、彼女の答えだった。

 しかしその言葉の意味を、斬輝は近いうちに知ることになる。

 

 

 結論からいえば、デートは大成功だったそうだ。どうやら斬輝のアドバイス通りにパフェを食べたり、あとはちょっとしたプレゼントでシュシュも買ってあげたらしい。

 本来なら、良かったじゃねえか、とでも言うべきだったのだろうが、しかし斬輝がそれを言わなかったことには理由があった。

 週が明けた今日、その昼休みに後輩の……兵藤一誠の口から放たれた、あるひと言だ。

 

「先輩は、夕麻ちゃんのこと憶えてますか?」

 

 ……は?

 今、なんてった?

 

「いや、悪ぃ。耳でも遠くなったか? すまんがもっかい言ってくれ」

 

 耳の垢をほじくり返しつつ、そう頼み込む。

 だが、返す一誠の言葉はさっきと変らなかった。

 夕麻ちゃんのこと、覚えてますか?

 

「なあ、兵藤」

「は、はい……?」

「お前、頭でも打ったのか?」

 

 なぜ今さらそんな質問をされなければならないのか、斬輝にはその真意がさっぱり判らなかった。すると一誠はなぜか俯いて、

 

「やっぱ、先輩もかあ……」

 

 ぼそり、と呟いたが、あまり聴こえなかった。

 

「おめぇこないだ、初デートするからアドバイスくれ、つってたじゃねえかよ」

「へ?」

 

 今度は向こうが上擦った声を上げた。おいおい、いきなりどうしたよ。

 

「じゃあ、先輩は憶えてるンっすね!?」

「憶えてるも何も、むしろ忘れる方がおかしいって。お前に彼女が出来るなんてよ」

「ですよね! ですよね!?」

 

 いよいよ心配になってきた。

 本当に大丈夫か、こいつは?

 いきなり表情を明るくした一誠は……ちょっとまて、なんで涙なんか溜めてんだよ!?

 

「ああ、良かった……夢じゃなかったんだ……。そうか、そうかあ……」

 

 だが、彼が形だけの涙を流すような男ではないことを、斬輝は知っていた。

 

「おい」

 

 ならば。

 

「何があった?」

 

 話を聞かねばならないだろう。

 それがたとえ、未知なる世界へ足を踏み込んでしまうものだとしても。

 しばらくして、購買のパンを喰い終えた一誠は、

 

「みんな……」

 

 しずかに、語りだした。

 

「憶えてないんです」

 

 斬輝は直接会ってこそいないものの、一誠が変態仲間に紹介したという一人の女子のことを、だ。

 天野夕麻である。

 つまり、こういうことだ。

 先週、初めて出来たカノジョを自慢げに変態仲間に紹介した一誠だったが、デート当日である日曜日の夕方あたり……ちょうど近くの公園に行ったあたりからの記憶がどうも曖昧で、しかも今朝携帯を開いてみると彼女の電話番号やメールアドレスのデータがすべて消えていたのだという。

 おまけに紹介したはずの変態仲間は、紹介された彼女のことを欠片も記憶していなかったらしいのである。

 

「で? 番号とかはどっか別の紙に控えとかなかったのか?」

「いや、ちゃんと生徒手帳の方にも書いときました。でも……」

 

 何度かけても繫がらなかったのだ。

 つまり憶えているはずの人間はその存在を認識しておらず、携帯での接触を試みようとも相手にはつながる気配ナシときた。

 だとしたら、考えられることは一つしかない。

 

「よし」

 

 兵藤、と言いながら、斬輝は芝生の坂から立ち上がる。

 

「明日の放課後だ」

「ちょっ、え!? 放課後って……どこに行くンすか?」

「決まってんだろ?」

 

 そう。

 

「行ってみるのさ」

 

 兵藤一誠の記憶が途絶えた『場所』へ。

 

 

 あの日から、やけに陽の光が苦手になったと一誠は思う。

 天野夕麻との初デートの日である。

 夕方、彼女と近所の公園まで行ったことは確実に覚えている。しかしそこからの記憶が、全くと言っていいほど残っていないのだ。

 強いて言えば、目の前で彼女に殺されるなどという気味の悪い夢を見たくらいだった。

 そのうえ朝起きてみれば彼女の連絡先は消えているし、以前紹介したはずの松田や元浜からはその記憶すら存在していない。

 はじめは何かの悪い夢か、イタズラかとも思った。だが彼らの反応からするに、イタズラにしては凝り過ぎている。

 そこで、一誠は尋ねたのだ。

 彼に助言してくれた先輩に。

 夕麻ちゃんのこと覚えてますか、と。

 言ってしまえばそれは、ただの確認だった。デートのことをしつこく聞いてくるから、まさか、と思い試してみたのである。

 そして、

 そのまさかだった。

 彼には、まだ『記憶』が残っていたのだ!

 だとしたら、と一誠は思う。

 あの日見た夢も、松田達から夕麻の記憶が消えたのも……、

 

「ここ、なのか?」

「はい……」

 

 全ての答えは、ここにある。

 夢で見た公園である。日はすでに沈みきっていて、だからか暗闇の中で光る少ない街灯が中央にある噴水を照らしているように見えてなんとも不気味である。それらの光が、一誠の眼には眩しすぎるくらいだ。

 間違いない。

 ここだ。

 

「……特にこれといって変なところはなさそうだよなあ」

 

 斬輝はゆっくりと首を回してあたりを確認する。

 ああ、そうだ。

 たしかに、ここは何の変哲もない普通の公園だ。

 だが彼は、夢の中でたしかに一度死んだのである。

 しかし、なぜだ?

 何かを見落としている気がしてならない。

 いったい、何を見落としてる!?

 

「黒い、羽……」

 

 ふと思い出したかのように、そう呟いた。

 そうだ。赤く染まってゆく空の中に、ひときわ目立つ黒があったのだ。

 

「ん? なんか言ったか?」

 

 たとえば、今みたいに。

 

「いや、なんでもな……」

 

 ……なんでもないです、と言おうとした。

 だが。

 

「……え?」

 

 彼の視界にはっきりと混じり込む『黒』が、それを途切れさせた。

 

「なんだよ、これ。カラスの羽じゃあ……ないな」

 

 斬輝が不思議そうに空を見上げる。

 ああ、そうだ。あの夢も、そうだった。

 

「夕麻ちゃん……?」

 

 突如消えてしまった少女の名を呟いた時、

 

「ほう、これは数奇なものだ」

 

 背後から聞き覚えのない男の声とともに、形容しがたい悪寒が腰骨の辺りから背中を這い上がってきた。

 意識的にそうなったのではない。

 彼の『本能』が、そうさせたのだ。

 

「こんな都市部でもない地方の市外で貴様のような存在に逢うのだからな」

 

 暗闇の中でも、そいつの姿ははっきり視認出来た。

 中年の男である。真っ黒なスーツに身を包み、背中には同じく黒い何かがゆっくりと揺らめいていた。

 羽だ。

 あの夢で見たのと同じ、漆黒の翼だ!

 

「おっさん、いったい誰だ?」

「むう、これはうかつだった。まさか『人間』もいっしょにいるとは。……仕方ない、『人間』に恨みはないがここで消えてもらうか」

 

 斬輝の質問に答えることなく、翼の男はゆっくりとこちらへと歩を進めてくる。

 その時だ。

 

「おいおい、もののついでみたいに言うなよ、おっさん」

 

 無意識に後退る一誠の前に斬輝が立ち塞がった。

 

「……どういうつもりだ、『人間』?」

「さっきから聴いてりゃ、何回『人間』って言うつもりだよ、あんた。俺も兵藤も、ハナッから『人間』だってぇの」

 

 左手を前にかざし、反対の掌をこちらに向けて、押しやるように。

 逃げろ、の合図だった。

 ……駄目だ。

 

「む、無理だぜ、斬輝さん! 死んじまうよ!!」

「死ぬかどうかなんて、そう簡単に判るもんじゃねえさ」

 

 それは駄目だ。

 

「判ります!」

 

 それだけは絶対に駄目だ!!

 

「何となくだけど……俺には判るんです!!」

 

 相手が常人でないことは、その翼を一目見れば判ることだろう。

 ましてや、もしもあの夢が『夢』でなく『現実』に起こっていたとしたら……。

 

「先輩は生きてく……」

「いいから早く行けってンだ、糞っタレが!!」

 

 必死に懇願するも、彼の怒気を含んだ声に圧倒されてしまう。

 そのまま振り向きざまに一誠は斬輝に突き飛ばされた。

 

「早く!!」

「ッ……先輩!」

 

 斬輝を説得するのは無理だ、そう思った一誠は、ついに二人に背を向けて走り出した。

 

 

 

       

 

 

 咄嗟の判断とはいえ、なんとか一誠をこの場から離れさせることには成功したようだ。

 しかし問題は、ここからだった。

 どうやってこの男をまくか、である。

 格闘技なんて幼少期からの真似事ていどで、だから斬輝は深いところを知らない。

 しかし、ここまできたらやるしかない。

 後輩を護るのは、先輩の務めだ。

 

「逃がすと思うか!」

 

 すかさず一誠の後を追おうと走り出す翼の男に、

 

「させっかよ!!」

 

 斬輝は大きく踏み込んだ左足を軸に後ろ回し蹴りを放った。それはそんじょそこらのヘナチョコな蹴りとは違って、的確に目標へと四肢を叩きつける攻撃だ。

 

「ぬおっ!」

 

 だが激突の瞬間に急停止をかけて、慣性の法則には従わず強引に上体を反らすことで翼の男はこれを回避した。しかし目的を邪魔されたのが癇に障ったのか、さっきまでのいくらか冷静な態度とは変わっていた。

 

「ちぃ、下等な『人間』の分際で生意気な……!」

 

 刹那、テレビ・ゲームの機動音をさらにいくらか低くしたような奇怪な音とともに、広げた男の手に奇妙な物体が出現した。

 

「なっ……なんだよ、そりゃ」

「光の槍だ。手っ取り早く片づけてやろう」

 

 汗が頬を伝ってゆくのが判る。

 こいつぁ、思ってたよりヤバそうだな。

 男が、ゆっくりとその槍を頭上へと掲げる。

 そして、

 

「安心しろ、楽に死なせてやる」

 

 男の手から眩い槍がその姿を消した。

 だが。

 衝撃は、襲ってはこなかった。

 来る、と思った時には、すでに軀は斬輝の意思とは無関係に前方への回避行動を終えていたのだ。弾丸の勢いで飛び出し、伸ばした右手を使って、肘、肩、背中と受け身を取ったのである。

『見』えなかった槍の動きを捉え、瞬時に判断したのだ!

 瞬間、自らを包むような光と左腕に鋭い痛みを感じたが、我慢出来ないほどではなかった。

 

「……莫迦(ばか)な!?」

 

 代わりに聞こえるのは、驚愕する翼の男の声である。

 それも、真上から。

 斬輝は今、男の足元へと移動していたのだ。

 

「だぁあらぁああぁあぁあああ!」

 

 膝のバネで伸び上がるのと同時に、握った拳を奴の顎へと打ちつける。

 

「ぐぉっ!!」

 

 渾身のアッパー・カットのつもりだったが、男は痛みに呻きながら数歩後退するだけだった。

 

「お、おのれ……! 今のは確実に貴様の軀を貫いていたはずだ!!」

「知るかよ。驚きたいのは、こっちだぜ」

 

 だが同時に、斬輝は自らの肉体に違和感を覚えていた。

 あの一瞬で、急に軀が重くなったような気がするのだ。さっきまで軽やかに感じられた自らの肉体が、今はどうも鉛でも埋め込まれたみたいに重い。

 肉体的に疲れたわけでもないのに、今にも膝からくずおれてしまいそうだ。

 苦痛に顔を歪める中で、しかし男の唇がわずかにつり上がったような気がした。

 その時である。

 

「ぐぁあぁあああぁぁあっ!!」

 

 後ろの方から聴き慣れた声が、しかし聴き慣れない叫びをあげた。

 それほど遠くはない。距離からして、数十メートルといったところだろうか。

 だとしたら。

 

「兵藤!?」

 

 弾かれたように振り返る斬輝の背後から、不敵な笑い声が聞こえてきた。

 

「くくく……」

 

 翼の男だ。

 

「まさか避けられるとは思わなかったが……逃がす方向を間違えたな『人間』よ」

「……なんだと!?」

「おかげで、槍の消費を少しばかり減らせそうだ」

 

 そこまで言われて、斬輝はようやく己の行動の浅はかさに気がついた。

 単純な理屈だった。

 斬輝は、一誠を自分の真後ろの方向に向かって逃がした。ここから公園入り口までは直線に延びる一本道だから、必然的にそうするしかなかったのだ。

 だが。

 問題は、その場にとどまった斬輝と走り出した一誠の位置関係が、延長線上に重なることにあった。つまり奴が『正面』から投擲した槍を彼がかわした場合、敵に背中を向けている状況の一誠は背後から迫る凶刃に気づかず貫かれることになる。仮に気づいたとしても、どのみち避けるには距離が短過ぎるだろう。

 斬輝は鋭く舌打ちする。

 糞ッタレが!

 もう一度正面を向いた時、眼の前をいくつもの黒い羽が舞った。上空を見上げると、そこにはさっきの男が滞空していた。

 もはや、何が何だか判らなくなってきた。

 だが、今の一誠を放っておくわけにはいかないのも事実だ。斬輝は相手から目を逸らさずにゆっくりと一誠がいるはずの方向へと歩いてゆく。

 刹那、ずざん、と後ろの地面に槍が突き刺さる。

 

「……おっと、悪いがそこからは行かせんよ。どうせ行ったところで無駄なこと。光は奴らにとって猛毒だからな」

 

 威嚇だ。同時に新たな槍が二本、男の手に現れた。

 まずいな、この『重さ』ではあの二本をやり過ごせそうにない。

 

「奴も貴様も、ここで死ぬのだ」

 

 万事休すかと思われた、その時だ。鋭い風切り音が聴こえたと思うと、男がたたずむ上空で急な爆発が起こる。

 

「むう!」

 

 男の両手からは煙が上がり、同時に手放された二つの槍は地面へ落ちる前に光の粒子となって『消滅』した。

 

「そこまでよ」

 

 騒ぎに気付いたのだろうか、いつの間にか女性の声が公園内に響いた。

 張りのある、凛、とした声である。

 

「紅い髪……グレモリー家の者か」

「リアス・グレモリーよ。ごきげんよう、堕ちた天使さん」

「なるほど、そういうことか……」

 

 なんだ?

 いったい何がどうなってるんだ!?

 情報の処理が追いつかない。ゆえに彼は、その場から動くことすら出来ずにいた。

 

「これ以上私の管轄で好き勝手するのなら、容赦しないわよ」

「今日のことは詫びよう。しかし、下僕は放し飼いにしないことだな、グレモリー家の次期頭首よ。我が名はドーナシーク……再び(まみ)えることがないことを願う」

 

 鮮血を滴らせる両手を押えながらゆっくりと降下してくる男は、斬輝の背後に立つ女性を再度睨みつけると、夜の闇に溶け込むかのように姿を消した。

 途端に、緊張が解けたように全身の力が抜けた。

 とりあえず、危機はさったかに思えたからだ。

 ……だが、

 いや、

 待て。

 さっき、あいつは何と言った?

 紅い髪だと?

 それに馴染みのある、この声。

 それだけではない。

 

「グレモリー……?」

 

 聴き覚えがあるなんてもんじゃない。

 それは昨日も、今日も、それこそ彼が駒王学園に入学したその日からほぼ毎日のように聴いてきた言葉だ!

 まさか。

 まさか!

 まさか!!

 ゆっくりと、振り返る。

 思った通りだった。

 

「……グレモリー!?」

 

 それは、紛れもなく彼の知っているリアス・グレモリーだった。

 

 

 

       

 

 

 リアス・グレモリーは、北欧から日本へ留学してきた駒王学園の生徒である。

 少なくとも、表面上はそうなっていた。

 留学生であることはたしかだが、彼女の場合は冥界から人間界へとやってきた、といった方が正しい。そして同時に、駒王町は彼女の管轄でもあった。

『こちら側』へ来る際に同行させた眷族達は、リアスが部長を務めるオカルト研究部の部員として彼女と行動を共にしている。

 無論、その存在は公にされてはいない。この事実を知り得るのは、おそらく学園内では生徒会のメンバーのみだろう。

 つまり。

 

「どうして、お前がここにいるんだよ……」

 

 黒鉄斬輝には、知られたくなかった『事実』を知られてしまったのだ。

 

「ごめんなさい……」

 

 リアスの呟きには、哀しげな響きがあった。

 あなたは知らないままで良かったのに……。

 

「なにが……」

 

 徐々に彼の声が力強くなってゆくように聞こえるのは、気のせいだろうか。

 ……いや。

 

「斬輝くん、実は……」

「さっきのあいつは何なんだ!?」

 

 気のせいなどではなかった。

 言いかけるリアスを遮って、さらに斬輝は声を張り上げたのである。

 

「黒い翼に堕ちた天使……それに下僕とかお前がどっかの頭首だとか。もうさっぱりだよ!!」

 

 そうだ。

 彼の反応は、決して間違ってはいない。むしろ、未知なる世界へと踏み込んでしまったものならば誰もが当然そうなるはずなのだ。

 

「斬輝くん……」

 

 取り乱さないほうが、むしろどうかしている。

 ひとしきり叫んでから、

 

「……悪ぃ」

 

 斬輝は静かにそう言った。

 だがよ、と彼は続ける。

 ゆっくりとこちらに歩み寄って、伸びた右手が彼女の左腕の中で眠る少年へと触れた。

 背後から光の槍に貫かれた彼の腹部は真っ赤に染まり、血まみれの腹からはおそらく槍に絡みついたと思われる内臓がいくらかはみ出していた。

 生々しくて、つい目をそむけたくなってしまうのを、リアスは我慢した。

 黒鉄斬輝でさえ、眉をしかめつつもじっと見つめているのだ。

 傷ついた後輩の姿を。

 

「どうして、こいつが狙われなきゃならねぇんだよ……」

 

 ならば、彼女も逃げるわけにはいかない。

 主として。

 だからまず、

 

「……それは明日話すわ。とにかく今は、この子の治療が最優先事項よ」

「治療って……てことは!」

「ええ。まだ生きている……今のところはね。でも早くしないと、本当に消えてしまうわ、彼」

「……お前なら、それが出来るってぇのか?」

 

 こちらを見つめる彼の瞳の、その焦点がわずかに外れているように見えた。

 

「ええ」

「信じて……良いんだな?」

 

 信じてもらえなくても構わなかった。仮にもしそうなったとしても、それはリアスと彼の間における信頼関係がその程度だったというのが露呈するだけだ。

 斬輝の双眸が、リアスの二つの瞳を見据える。

 

「……判った」

 

 その時だ。

 

「兵藤のことは任せ……」

 

 ……任せる、とでも言うつもりだったのだろう。

 だが、それは叶わなかった。

 

「……ぅおっ!」

 

 彼が突然、膝から崩れ落ちたのだ。

 

「……斬輝くん!?」

 

 突然の異変に驚愕したリアスは、そこで彼の左腕の変化に気がついた。

 

「あなた、その腕……ッ!!」

「腕……?」

 

 言われて、彼はリアスの視線の先にある左腕へと目をやる。

 そこにあるのは、制服の袖を切り裂いて露出した上腕である。

 ばっくりと縦に裂けて、こちらもとめどなく真っ赤な血が溢れ出してくる。

 そして、この状況から導き出される答えは一つ。

 

「……まさかドーナシークの槍が!?」

 

 それしかなかった。

 

「マジかよ、避けたつもりだったんだがな……」

 

 遅れてやってきたような痛みに顔をしかめながら答える彼に、彼女の思考回路は一瞬ではあるが停止した。

 え?

 避けた、て……まさか槍を!?

 

「ねえ、大丈夫?」

「ああ、まあ……立てないほどじゃ、ないな」

 

 それよりも、と彼は続ける。

 

「早く兵藤を連れてけ……、俺は一人で帰れるから」

 

 血塗られた片腕を押えながらやっとのことで立ち上がった斬輝は、それからもう一つ、リアスに付け加えた。

 

「絶対に、死なすんじゃねえぞ」

「……ええ」

 

 もとより、そのつもりよ。

 だけど。

 

「あなたも……決して浅くない傷よ。申し訳ないけど、私はこれから手が離せなくなる」

「ああ。そいつの方がヤバいのは、見りゃ判るよ」

 

 リアスの足元に、彼女の髪色と同じ円が現れた。それは中に複雑な線や文字が入り混じった、転移用の魔法陣である。

 

「一人で処置をするのなら、衛生面には気をつけてね」

 

 斬輝は、おう、と返した。

 

「あとで、連絡寄越せ」

「判ったわ」

 

 最後にそう言い残して、リアスはその場から姿を消した。

 

 

 実際のところ、今にいたっても何が起こっていたのか斬輝は判らないでいた。

 一つだけ把握出来たことは、あのドーナシークとかいう奴によって一誠が殺されかけたということだけだ。

 あとは、クラスメイトが人ならざる力を持ち合わせていたこと……だろうか。

 

「明日になれば、ぜんぶ判るってわけか……」

 

 裂かれた左腕を押えながら、誰に言うでもなくそうつぶやいた。

 

 

 腕の傷を誰かに見られないよう気をつけながら帰路についていると、ふと携帯のヴァイブレーションが鳴った。

 新着メールだ。そこには、こう書かれていた。

 

『明日の放課後、いっしょに旧校舎まで来てくれる?』

 

 送り主は、リアス・グレモリー。

 適当に、おう、とでも返したかったが、腕の痛みのせいでフリック操作が出来なかった。

 

 

 簡単な縫合処置をしてから出血がおさまり傷が塞がり始めたのは、それからわずか三時間後のことだった。



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第二章 残された記憶

       

 

 

 私は悪魔よ。

 リアス・グレモリーからそう告白された兵藤一誠は、その単語に違和感を覚えた。

 ……へ? あ、悪魔?

 駒王学園の『二大お姉さま』の一人であるリアス先輩が……あの『悪魔』!?

 正直なところ、あまり現実味がなかった。悪魔と呼ばれるものはもっとこう、何というか黒い外骨格みたいな皮膚をして三又(みつまた)の槍を携えているようなイメージだったからだ。

 それに、彼女は自分のご主人さまであるときた。

 しかし昨夜見た夢が夢でなかったとするならば、消え入る意識の中で再び紛れ込んだ紅の髪の説明が可能であることも事実だった。

 彼女だったのだ。

 天野夕麻によって腹を貫かれた夢の時も、昨日の夢も、必ず最後に一誠が目にしたのはリアス・グレモリーの紅髪だった。

 つまりは、そういうこと。

 ここ数日の間に、俺とリアス先輩は何かしらの関係性を持ち合わせていたんだ。

 なぜ本人でさえ気づかない間に学園のアイドル的人気を誇る彼女と主従の関係を結んでいるのかは知らないが。

 だが今までのことがすべて夢でないとしたら、おそらくは……。

 

「やあ、どうも」

 

 放課後である。黄色い歓声に包まれて、一人の生徒が教室へと入ってきた。

 同学年で学年一のイケメンくん、木場祐斗(きばゆうと)である。

 一誠達の……いや、モテない男たちの宿敵だ。

 まっすぐこちらへと歩いてくる木場に向かって、

 

「……何のご用ですかね」

 

 一誠は半眼で尋ねるが、木場は相変わらずのスマイル・フェイスで応えた。

 

「リアス・グレモリー先輩の使いで来たんだ」

「……ああ、そういうことね」

 

 彼女が今朝言っていた『使い』とは、彼のことだったのか。

 

「オーケー。判った」

「じゃ、行こうか」

 

 先に歩きだす木場に続いて、一誠も歩き始めた。

 変態仲間と木場ファンの悲鳴を背中に受けながら。

 

 

 どこにも、学園七不思議と呼ばれるものが存在する。

 そしてそれは、ここ駒王学園においても例外ではなかった。

 その一つとして囁かれているのが、現在の学び舎である新校舎の裏に位置する旧校舎である。現在使われていないにもかかわらず窓ガラスは一枚も破損していないことや手入れの行き届いた木造の校舎内の様子から、一部の人間から気味悪がられている場所だ。

 一目見ただけでは、いったいどこが壊れているのかすら判らない。

 ホコリやチリの見当たらない廊下を抜け、奥の階段を昇る。

 

「ねえ、斬輝くん」

 

 突然、リアスが声をかけてきた。二人は肩を並べる格好で、斬輝がその左側を歩いている。

 

「あん?」

「その……腕の傷はどう?」

「……ああ」

 

 そのことか。

 

「まあ、なんとか頑張って縫ったよ。チョー痛かったがな」

「ごめんなさいね、何もしてあげられなくて」

「謝るこたぁ、ねえだろうがよ。その辺もぜんぶひっくるめて、これから聞かせてもらうんだからな。それに腕はもう……」

 

 言いかけて、斬輝は途端に口をつぐんだ。

 駄目だ。

 ここで言うのは、駄目だ。

 

「もう……なに?」

 

 ああ、しまった。階段を昇りながらも、彼女が怪訝そうにこちらを見てくるではないか。それも身長的にわずかにこちらが勝っているため、それは自然と上目使いになる。

 

「どうしたの? 何かあるのなら言ってちょうだい?」

「……いや、良い」

 

 たしかに、止血こそ時間はかかった。断ち切られた血管から流れる血を抑えるだけでも一苦労だったのだ。

 しかし消毒を済ませて簡単な縫合処置をしてから、家の救急箱から取り出した包帯で何重にも巻いてからわずか一時間半ほど経ってから、わずかながらも腕の痛みが失せ始めたのである。

 そして今朝、包帯の上から患部に触れてみて驚愕した。

 傷の痕が、判らない。

 さらに七時間ほど経っていたとはいえ、驚くべき回復力だった。

 まるで、ヒトでなくなったような気分だった。

 

「正直、俺にも判らねえんだよ」

 

 何が起こっているのか。

 俺の軀で、どんな変異が生じているのか。

 

「……そう」

「おい……」

 

 瞬間、彼の瞳に映った彼女の顔からとれた感情は何だったのだろうか。

 罪悪感か、

 それとも後悔か。

 いずれにせよ、と斬輝は思う。

 その感情は、おそらく俺に対するものだ。

 

「ここよ」

 

 二階へ上がった二人は、いくつもある教室のうちの一つで足を停めた。

 彼女が指さすのは、扉にかけられたプレートである。

『オカルト研究部』。

 なるほど、ここが彼女達の部室だったのか。それにしても、まさかこんなところにあるとは斬輝も思わなかった。

 リアスが部室の扉を開けて入ってゆくのを見てから、斬輝も続いて入室した。

 だがその瞬間に、

 

「……ぅお」

 

 自然と声が漏れた。

 日は沈み始めているというのに、この部屋の光源は窓から入ってくる光といくつかのロウソクだけ。それだけでも充分薄暗く感じるのだが、さらに壁にかけられたいくつもの額縁やいたるところに奇妙な円……魔方陣が描かれており、むしろオカルトというよりは黒魔術か何かに近いようにも思えた。

 その他には中央に敷かれた絨毯の上にロウソクがたてられたテーブルが一つと、それを挟み込むようにして向かい合ったソファが二つ。さらにその奥には大きな木製の執務机のようなものも見えた。

 しかしこの部屋からは、なんというかちょっとした生活感が感じられた。

 

「ちょっとした家だな、おい」

「ふふっ、そんなことを言われたのは初めてね」

 

 嬉しそうにそうリアスは、ソファを見て少し意外そうな顔をした。

 

「……あら」

 

 彼女の視線を追って、ようやく気がついた。

 ソファの上に一人、銀髪の小柄な少女が座っていたのだ。華奢な軀つきで、その手は黙々と羊羹(ようかん)を口に運んでいた。

 

「紹介するわね。この子は一年生の塔城小猫(とうじょうこねこ)。……小猫、こちらが黒鉄斬輝くんよ」

「……どうも」

 

 言われて、羊羹の少女……小猫が軽く会釈してきた。

 こちらも、手を軽く挙げて応える。

 斬輝も、彼女の名前だけは聞いたことがあった。なんでも、年齢の割に小柄であるがゆえに学園のマスコット・キャラクターとして一部の男子生徒や女子生徒達から人気があるらしい。

 だが実際にこうして逢ってみると、どうしても眠たそうに見えてしまう。

 あるいは、本当に眠いのか。

 

「……うふふ、ようやく来ましたわね」

 

 すると、部屋の奥にあるカーテンの向こう側から別の女性の声が聴こえてきた。

 というより、この声は……まさか?

 

「あら、朱乃(あけの)

「姫島かあ!?」

 

 カーテンを開けて中から出てきたのは、リアス・グレモリーと同じく学園の『二大お姉さま』である姫島朱乃(ひめじまあけの)だった。長い黒髪を後ろで束ねており、その姿は自然と『和』を彷彿させる出で立ちである。

 リアスのようにクラスメイトであるわけではないが、それでも彼らが一年生のころからの顔見知りではある。

 そんな朱乃と、一瞬目があった。

 

「あらあら、斬輝くんじゃありませんか」

「おう。まさかお前もここの部員だったとは思わなかったぜ」

「そうでしたの? これでも一応、副部長を務めておりますのよ」

 

 むう。何から何まで初耳だ。

 

「あ、そうだ」

 

 そこで、思い出した。

 

「そういや、兵藤はどうした?」

「彼にもちゃんと来てもらうわ。別の使いを出してあるから、じきに到着するはずよ」

 

 なるほど、そういうことか。

 とりあえず、とリアスが手を鳴らす。

 

「イッセー達が来るまでの間、くつろいでいてもいいわよ? 私はこれからシャワーを浴びるから」

「おう、そうかい。そんじゃ待たせてもらお……」

 

 小猫とは反対側のソファへと言われたとおりに座ったところで、ふと今の会話の中に覚えた違和感に気がついた。

 ……ん?

 まて。

 今、なんてった?

 カーテンが閉まった音がする。

 

「おいグレモリー、シャワーって……」

 

 背もたれ越しに振り返った斬輝が見たのは、

 

「はあ!?」

 

 カーテンの向こうでいきなり服を脱ぎ始めたリアスだった。

 なんだあ!? あのカーテンの向こうはシャワー・ルームってことか!?

 しまいには、奥から水が流れる音まで聞こえ始めた。

 おいおい、マジかよ!

 

「……シャ、シャワーっていったいどういうつもりだよ、おい」

「昨夜一誠くんのお家にお泊まりしたから浴びれなかったのよ。軽く汗を流すていどだから、勘弁してくれない?」

 

 ああ、そうか。彼女も昨日は、一夜がかりで彼の治療をしてくれたのだ。

 

「……はあ」

 

 男の俺がいるところでアレだがなあ、と思いつつも、しかし仕方がなかった。

 

「わーったよ、好きにしろや」

「ごめんなさいね」

 

 しかし言ってしまってから、くつろごうにもくつろげないのが現実であることに気がつく。

 

「……はあ」

 

 ここにきて、二度目の溜め息である。

 すると目の前のテーブルに紅茶が置かれた。どうやら朱乃が淹れてくれたものらしい。

 

「熱いですから、気をつけてくださいね」

「おう、サンキュウ」

 

 ためしに一口だけすする。

 

「……うま」

 

 その予想外の味に、思わずそうつぶやいた。それは世辞のない、本心からのものだ。

 

「すげえな、これ。淹れ慣れてるっつぅか、今まで飲んできた中でイチバンかも知れんな」

「あらあら、そう言っていただけると嬉しいですわ」

 

 そう言ってから、朱乃はシャワー・カーテンの向こうへと入っていった。おおかた、バスタオルか何かを出しに行ったのだろう。

 

「……」

「……ん? どしたぃ?」

 

 ふと正面を見ると、ちょうど向かい合うように座った小猫がこちらを見ていた。さっきまで羊羹を黙々とくっていた手をとめてまで。

 

「……黒鉄斬輝(くろがねざんき)先輩、ですよね?」

 

 さっき彼女がそう紹介していたはずだが……それにあの距離だから聴き逃すわけもないだろう。

 

「おう。それがどうかしたか」

「いえ、以前部長から何回か話を聞いてたので」

「ほう? 例えば、どんな?」

「格闘技を嗜んでらっしゃることとか……」

 

 おい、いきなりそれかい。

 斬輝としてはリアスにそんなことを直接話した覚えはないのだが……いや、ひょっとしたらどこかで話していたのかも知れない。そうでなくとも、誰かの会話からたまたま聴こえたのか、あるいはちょっとしたトレーニングを偶然見られ……いや、それだけは絶対にないな。

 しかし、ここでそんなことをわざわざ言うということはつまり、

 

「お前も、そうなのか?」

「はい」

 

 そういうことなのだ。

 

「驚いたな。その体格だったら、相手の懐に潜り込むのもラクそうだ」

「……先輩は、私が小さいとおっしゃりたいんですか?」

莫迦(ばか)言うなよ。俺ぁただ、羨ましいと思っただけさ」

「う、羨ましい……?」

 

 それが彼女の考えていた答えと違ったからなのか、訝しんだ顔をしてきた。

 

「なんだよ、何か変なことでも言ったか?」

「……いいえ」

 

 おう、そうか。それなら良かった。

 ともあれ、流れるシャワー音をBGMにしながら斬輝はおよそ一五分ほど後輩の到着を待ち続けることになった。

 

 

 

       

 

 

『人類』が歩んできた歴史は、すべて光に向かって手を伸ばし続けた歴史であると言える。

 太陽に始まり、炎、電気、核、そして再び太陽……。夜を追い払い闇を照らす光を、彼らは求め続けてきた。

 だが夜は日毎(ひごと)に巡り、闇は消え去ることがない。それどころか、光に追われた闇は影となって凝縮し、より濃密になってゆくのだ。

 照らしつける光が強ければ強いほど、そこに生じる影は濃い。

 だが問題なのは、光があるから影が生まれるのではない、ということだ。

 影が生まれるのは、そこに光を遮るなにものかが存在するからである。

 そしてその存在が巨大であればあるほど、影も巨大に膨れ上がってゆく。

 その中に巣くうものがいるとすれば、

 それは表の世界に背を向けた『裏の住人』だ。

 

「……さて、これで全員そろったわね」

 

 もしかしたら、とリアス・グレモリーは思う。

 

「黒鉄斬輝くん、そして兵藤一誠くん。……いえ、イッセー」

「おうよ」

「は、はい」

「私達オカルト研究部は、あなた達を歓迎するわ」

「は、はいっ!」

 

 それは、私達にも充分当てはまるのかも知れない。

 

「悪魔としてね」

 

 瞬間、二人の顔が強張った。二つあるソファのうち、一つを斬輝と一誠が、もう一つに朱乃と小猫、そして一誠を連れてくるように連絡していた祐斗が座る格好で、リアスは自身の執務机に寄りかかっている。

 古来より、人間という種が悪魔に対して抱くイメージはあまり良いものではないと言われている。単なる幻想だと言われたこともないわけではなかった。

 しかしそれでも、

 

「……単刀直入に言うわ。私達は悪魔なの」

 

 彼女達は悪魔なのだ。

 

「悪魔、ねえ……」

 

 斬輝だ。腕を組んでやや前傾になって、その目はリアスへと向けられていた。

 そこにあるのは、明らかな疑心である。

 

「信じられないって顔ね」

「そりゃあな。別にお前を信用してねえわけじゃないがよ、さすがに話がぶっ飛び過ぎてるってぇか、なんつぅかよ……」

「まあ、仕方ないわよ。私だって隠したくて隠してたわけじゃないもの。でも、悪魔は現代(いま)においてもちゃんと存在しているの」

「んなこと言われてもよぉ……」

 

 そう言ってふてくされる斬輝だが、一誠にいたってはもっと酷い。目の焦点こそ定まっているが、その口は空いたまま塞がっていないのだ。

 ……そうね。

 

「ゆうべ、あなた達も黒い翼の男を見たでしょう? あれは堕天使よ」

「……ああ、そういや、そんなことも言ってたっけな」

 

 ドーナシークのことだ。

 彼らももとは神に仕える天使だったのだが、その心に邪な感情を抱いてしまったがゆえに地獄へと堕ちてしまった存在だ。

 悪魔であるリアス達の敵でもある。

 

「私達悪魔とは、冥界……人間界(ここ)で言うところの地獄の覇権を巡って長年の敵対関係にあるのよ。しかもそこに、神の命を受けて悪魔と堕天使を問答無用で倒しに来る天使も含めると三すくみの状態になってしまうわ……。でも、それを大昔から繰り広げているのよ」

「……ちょ、ちょっとリアス先輩、待ってください。悪魔だとか堕天使だとか、いきなりそんなこと言われても話についてけないって言うか……」

 

 ここでついに、当惑した一誠が声をあげた。

 

「普通の男子高校生である俺には難易度が高い話だと思うんですが……もしかしてこれって、もうオカルト研究部の議題か何かなんですか?」

「いいえ。オカルト研究部は仮の姿。私の趣味に近いわね」

「趣味、ですか……、だったらなおさら……」

天野夕麻(あまのゆうま)

 

 瞬間、一誠の顔が驚愕の色に染まった。

 まるで、知らないはずであることを知っていたように。

 

「イッセー。あなたはあの日、彼女とたしかにデートしていたわ。間違いなくね」

「冗談なら……」

 

 すると、兵藤一誠の声音がいくらか低くなった。

 だがリアスは、彼の感情をすぐに理解した。

 怒りだ。

 

「……冗談なら、ここまでにしてください。斬輝先輩以外誰も覚えてないってのに、こういう雰囲気で話されるのは胸糞悪いです」

 

 無理もない、とリアスは思う。

 斬輝から聞いた話では、『天野夕麻』と名乗る女子は一誠にとって初めての彼女だったのだ。

 そしてあの日のデートも、初めて彼の人生に刻まれた一日だったのだ。

 

「……彼女は『存在』していたわ。たしかにね」

「なに?」

 

 ふたたび紅茶を飲もうとしていた斬輝の手が、ふいに止まった。

 

「そいつは間違いねえのか、グレモリー」

「ええ」

 

 言いながらリアスが取り出したのは、一枚の写真である。

 

「この子よね? 天野夕麻ちゃんって」

 

 差し出された写真を斬輝達が覗き込んだ時、一誠の血相が変わる。

 そこには、一誠が探し求めていたであろう天野夕麻の姿が鮮明に映し出されていたのである。

 

「なんで……」

「だから言ったでしょう? 彼女はたしかに『存在』していたと」

 

 もっとも、とリアスは付け加える。

 

「念入りに自分であなたの周囲にいた証拠を消したようだけれど」

 

 だがそこに映る彼女は、いくらかヒトならざる者の証を持ち合わせていた。

 

「黒い、翼……」

 

 呻くように、斬輝がつぶやいた。

 そう。

 写真の彼女には、その背中に闇よりも深い漆黒の翼が生えていたのだ。

 

「この子……いえ、彼女は堕天使。昨夜(ゆうべ)あなた達を襲ったのと同種の者よ。この堕天使は、ある目的があってあなたと接触したの」

「目的、ですか……?」

「ええ」

 

 堕天使が、何の変哲もない一般の高校生に自ら接触した理由。

 それは……、

 

「……あなたを殺すためよ」

「殺すって……!?」

 

 動揺する一誠をよそに、しかし斬輝はリアスから視線を放さなかった。

 それは動じていない、というよりも、むしろ受け入れていることに近いかも知れない。

 

「なっ、なんで俺がそんな……」

「落ち着いてイッセー。仕方がなかった……いいえ、運がなかったのでしょうね。殺されない所持者もいるわけだし……」

「そんな……でも、俺生きてるっスよ! だいたい、なんで俺が狙われるんだよ!」

「彼女があなたに近づいたのは、あなたの身にとある物騒なモノが付いているかかどうかを調査するため。でも、きっと反応が曖昧だったんでしょうね」

 

 だから嘘の告白をし、仮初の恋人関係として彼との距離を縮めた。じっくり時間をかけて調べる必要があったからだ。

 デートも、結局のところ彼女にとっては単なる情報収集の機会でしかなかったのである。

 

「そして、確定した。あなたが神器(セイクリッド・ギア)を身に宿す存在だと」

 

 神器(セイクリッド・ギア)

 リアスの放ったその言葉に、一誠の肩がわずかにひくついたような気がした。

 やっぱり。

 心当たりがあるのね。

 

神器(セイクリッド・ギア)とは、特定の人物に宿る規格外の力。例えば、歴史上に残る人物の多くはその神器(セイクリッド・ギア)所持者と言われているんだ」

「現在でも軀に神器(セイクリッド・ギア)を宿す人は存在するのよ。世界的に活躍する方々がいらっしゃるでしょう? あの方々の多くもその身に神器(セイクリッド・ギア)を宿しているのです」

 

 祐斗と朱乃の説明に続くように、リアスは言った。

 

「大半は人間社会の中でしか機能しないものばかりだけど、中にはずば抜けた力を持つものも存在するの。あの堕天使はあなたの中に眠る神器(セイクリッド・ギア)が危険だと判断して、あなたを殺した」

 

 それが、『天野夕麻』と呼ばれていた堕天使の目的だったのだ。

 

「あなたの周りから彼女の記憶が消えたのは、目的を果たした彼女自身が自分の記憶と記録を消させたからよ」

 

 なるほどなあ、と得心したように斬輝がつぶやいた。

 

「じゃあ、何か? 俺は直接彼女に逢わなかったから、記憶を消されなかったと?」

「……いいえ」

 

 そう。

 兵藤一誠が堕天使に狙われたことは、たしかに問題ではあった。だが彼の身に神器(セイクリッド・ギア)が宿っていることは、張り込ませていた小猫の情報を含めてリアスもあらかじめ判っていたことだ。

 しかし、本題はここからでもあった。

 

「斬輝くん、それは違うわ」

「ああ?」

「彼女はね、この学園にいる者全員の記憶を消したのよ」

 

 万が一、自分のことを覚えているものが現れないように。

 しかしその効果は、あくまで何の力も持たない人間までしか及ばない。悪魔などは一切の影響を受けないのである。

 

「でも、あなたには彼女の記憶が残っている……これがどういうことか、判る?」

「……どういうこった?」

 

 だが例外がないわけではないのだ。

 

「あなたにも……」

 

 リアスの声が、少しだけ弱くなる。

 予兆がなかったわけではない。これまでにも、彼に対して普通とは違う『なにか』を感じたことはあったのだ。

 正直、とリアスは思う。

 あなただけには関わってほしくなかった。

 あなただけは、この青春時代を謳歌してもらいたかった。

 

「……あなたの軀にも神器(セイクリッド・ギア)が宿っているのよ」

 

 だけど、それは出来なかった。

 判ってしまった以上は、

 もう……。

 

 

 黒鉄斬輝はこれまで、あらゆる事柄はそのほとんどが科学的に解釈が出来るものだと思っていた。

 例えば一部の『幽霊』の可視は自己催眠と他者催眠による幻覚だし、金縛りだって、軀が動かないのは何者かに抑えつけられているわけではなく脳だけが覚醒しているためであることは知られている話だ。

 だが、これはなんだ?

 次元が違う、というのが率直な感想だった。

 悪魔?

 堕天使?

 そんな話をしているのがリアス・グレモリーでなければ、おそらく斬輝はしびれを切らしてここから出ていたかもしれない。

 正直、話の流れが飲み込めないわけではなかった。しかしそれでも頭の中で情報の処理が追いつかず、ただじっと彼女を見ていることしか出来なかったのだ。

 それは話をしている相手への、最低限の態度である。

 そして彼女は、彼に言った。

 

「……あなたの軀にもセイクリッド・ギアが宿っているのよ」

「あぁん?」

 

 セイクリッド・ギアってやつが、か?

 そいつが俺にもあるってのか!?

 じゃあ……、

 

「だから……なのか?」

 

 俺だけが唯一、ヒトとして『天野夕麻』という存在を覚えているということは。

 偶然などではない……、そういうことなのか!?

 

「ええ」

 

 リアスは、そう言った。

 

「あなたの中に眠るセイクリッド・ギアが、堕天使の記憶操作を無効にしたのよ」

「けどよぉ、特に何にも感じないぜ? 俺の中に何かがあるようには思えねえがな」

「そう……判ったわ」

 

 そして、リアスは一誠の方へと向き直る。

 

「イッセー、ちょっと手を上にかざしてちょうだい」

「え?」

「いいから、早く」

 

 リアスに急かされ、わけが判らないまま一誠は左腕を上にあげた。

 

「目を閉じて、あなたの中で一番強いと感じる何かを心の中で想像してみてちょうだい」

 

 この空気、この流れ……、

 間違いない。

 彼女は、出現させるつもりなのだ。

 兵藤一誠の中に眠るセイクリッド・ギアとやらを。

 

「い、一番強い存在……。『ドラグ・ソボール』の空孫悟(そらまごさとる)かなあ……」

 

 漫画のキャラクターか、と思ったが……なるほど、一誠にとっての最強は彼であってもなんらおかしくはないのかも知れない。

 二年ほど前に、彼の『ドラグ・ソボール』話に付き合わされた思い出がある。

 

「では、その人が一番強く見えるを思い浮かべるの」

「……」

 

 リアスの言葉で、一誠が静かになった。おおかた、彼がドラゴン波を撃つ時のポーズでも考えているのだろう。

 

「そして、その人物の一番強く見える姿を真似てみて。強くよ? 軽いと意味がないから」

 

 リアスがそういうものの、いっこうに一誠は『構え』を取ろうとしない。

 それどころか、閉じた瞼の下で、その唇はわずかにひくついているのである。

 ……まさか、ここにきて羞恥心か?

 そんなもんとうの昔に置き去りにしてきただろうに、と思いつつ、斬輝は立ち上がった一誠の尻をはたいた。

 

「ほれ、早くしろや」

「いってぇ! ……あーもう、判りましたよ!!」

 

 意を決した一誠はそのまま開いた両手を上下に構え、すばやく前に突き出した。

 

「ドラゴン波!」

 

 その恰好のまま、声を張り上げて。

 瞬間、わずかに上に重ねた彼の左腕の、その前腕が光ったように見えた。

 

「さあ、目を開けて。この空間だったら魔力が漂っているから、セイクリッド・ギアの発言も容易に出来るはず」

 

 その時だ。

 

「……ぅわっ!?」

 

 思ったとおりだった。鈍く光った一誠の左腕が輝きだし、瞬間彼らの視界を遮ったのだ。

 やがて光は弱まり、一誠の左腕を覆うようにして新たなカタチを形成させてゆく。

 

「な……なな、何じゃこりゃぁああぁあああっ!?」

「……マジかよ」

 

 光が晴れた時、そこにあるのは真っ赤な籠手だった。思っていた以上に凝った装飾で、凹凸の激しいそいつの手の甲の一には鈍く光る丸い緑色の宝石が嵌め込まれている。

 これが……、

 

「こいつが、セイクリッド・ギアなのか……」

 

 驚愕の中、絞り出すように斬輝は言った。

 

「ええ、そう。だけどイッセー、あなたはそのセイクリッド・ギアを危険視されて堕天使……天野夕麻に殺されたの。そして瀕死の中、あなたは私を呼んだのよ。この紙から私を召喚してね」

 

 彼女が渡してきたのは、一枚のチラシだった。そこにあるのは、『あなたの願いを叶えます!』という謳い文句と、裏面には奇妙な魔方陣の描かれたチラシである。

 

「ん?」

 

 それを見つめていると、ふと気がついた。

 このチラシに描かれている魔方陣が、ここオカルト研究部の部室の床に刻まれたものと同一のものだったのだ。

 ああ、そうか。

 そういうことか。

 

「じゃ、あのコスプレは単なるコスプレじゃなかったってわけか」

「あら。あなたもそれを貰ったことがあるの?」

「いいや。ただずいぶん前にこいつと同じような奴を配ってる連中がいてな。たしかそン時に渡されてたやつが俺ン()のどっかにあると思うんだが……そうか、お前ンとこの奴らだったのか」

「そうよ。実はこれ、私達が配っているチラシなの。裏の魔方陣は私達悪魔を召喚するためのもの。悪魔を召喚しそうな人間に、こうやってチラシとして配るのよ。あの日、たまたま私が使役している使い魔達が人間に化けて繁華街で配っていたところを、イッセーが手にした。そして堕天使に攻撃されたイッセーは、死の間際に私を呼んだのよ」

 

 きっと、願いが強かったのね、と彼女は言った。

 

「普通なら眷族の朱乃達が呼ばれているはずなんだけれど」

 

 そうか。

 そうだったのか。

 ようやく、判った。

 二日前、一誠があれほどうろたえていた理由が。

 そして昨日、彼が黒ずくめの堕天使に襲われた、その真意が。

 

「イッセー」

「は、はいっ!」

「あなたは、たしかに一度『死』んだわ」

「はあ……」

「けれど、あなたは私、リアス・グレモリーの眷族として生まれ変わったわ。私の下僕の悪魔として」

 

 すると次の瞬間、

 ばっ!

 とリアス・グレモリーの背中から黒い翼が生えた。

 ゆうべ見たような、薄汚い黒ではない。こちらはもっと潔いというか……本当の意味で黒い色合いをしていた。

 それだけではない。姫島朱乃も、木場祐斗も、塔城小猫も、みな彼女と同じ形の翼を展開させたのだ。

 そして、

 

「……うわっ! え!?」

 

 まるで共鳴するかのように、一誠の背中からも一対の翼が展開する。彼も例外でなく、リアスのそれと同じ形状だ。

 唯一翼が生えていないのは、斬輝ただ一人である。

 CGではない、そう直感した。

 

「改めて紹介するわね。……祐斗」

 

 促されて、金髪の少年が一歩前へ出る。そして浮かべるのは、こ学園の女子を虜にする笑みである。

 

「僕は木場祐斗。黒鉄先輩とは初めましてですが、兵藤くんとは同じ学年だってことは判ってるよね。えっと、僕も悪魔です。よろしく」

「……一年生の、塔城小猫です。よろしくお願いします。……悪魔です」

 

 木場に続いて、塔城小猫が小さく頭を下げた。緊張のせいなのか、それとももとからなのか、よく耳を澄まさないと彼女の声は聞き取れなかった。

 

「三年生、姫島朱乃ですわ。一応、研究部の副部長も兼任しております。今後もよろしくお願いします。これでも悪魔ですわ、うふふ」

 

 こちらは礼儀正しく、深く頭を下げる。

 どのメンツも、最後には必ず『悪魔』という単語が含まれていた。

 やはり、そうなのか。

 

「そして、私が彼らの主であり、悪魔でもあるグレモリー家のリアス・グレモリーよ。家の爵位は公爵。よろしくね、斬輝くん。そしてイッセー」

 

 

 

       

 

 

 それはリアスの提案だった。

 斬輝は即座に却下したが、リアスは譲ろうとはしなかった。

 兵藤一誠がリアスによって転生悪魔になったことが判明し、今日は事実上の解散となった後のことである。

 一誠達といっしょに部室を出ようとしたのだが、そこをなぜか彼女に呼び止められた。

 部活などへの興味はないのかと尋ねてきたのだ。

 実際、部活にはそこまでの興味はない。ただ楽しく過ごすことが出来るのなら、別に入ろうが入らまいが構わなかったのである。

 事実、今のところ彼は帰宅部の扱いになっている。

 だったら、と彼女が言いだしたのだ。

 

「あなたも、オカルト研究部に入りなさい」

「冗談よせよ。今さら入ったところで、たかだか半年ていどだろ? 意味あんのかよ」

「大アリよ」

 

 突然距離を詰めたリアスが、右の手を斬輝の胸へと当てる。もともと向かい合っていたために、二人の距離は最大限に縮まったと言えるだろう。

 こちらを見上げる彼女の髪が斬輝の鼻にあたって、少々くすぐったい。

 

「判ってるの? あなたの中にはセイクリッド・ギアが宿っている。このままだったら、間違いなくあなたは堕天使達に狙われてしまうわ」

 

 そして最悪の場合、殺される。

 巻き込まれるのではない。

 狙われるのである。

 だからお願い、とリアスは言った。

 

「私に……私達にあなたを護らせて」

 

 彼女達が悪魔であることは、理解した。それも一般の認識とは違って、人間に対してかなり友好的であることも。

 だが肝心な彼のセイクリッド・ギアについては、その正体がまだ判らずじまいなのだ。

 そんな不確定な要素を理由に『拘束』されるなんて堪らなかった。

 だいたい、狙われるタイミングだっていつになることやら……。

 ……断る、と言おうとしたが、

 

「それとも……」

 

 ふいに紡いだ彼女の声に、喉まで出かかっていた言葉をあわてて飲み込んだ。

 

「……悪魔として、私の下僕になる?」

 

 下僕。

 ようは、彼女の眷族悪魔になる、ということだ。

 かつて冥界で起こった大戦の影響によって、混じりけのない純粋な悪魔はその多数が命を落としたと言われている。

 だが彼女を見れば判るように、悪魔にも性別は存在する。ゆえに子孫を作ることは可能なものの、悪魔は人間よりはるかに強靭で長命だからか、自然出生だけで失った数を補うことには相当の時間を費やす必要がある。

 極端に出生確率が低いのだ。

 ゆえに爵位持ちの悪魔達は、素質のある人間を手下……つまり下僕として悪魔側に引き込むようになったらしい。

 だがそれでは数が増えただけで、力ある悪魔を増やす、という根本の解決にはならない。

 そこで悪魔達は新たな制度を設けたのだという。力の持つ新たな転生者……人間から悪魔になった者にもチャンスを与えるというものだ。

 つまり、純潔の悪魔でなくとも充分な力さえあれば爵位持ちになれる、ということである。

 そして彼女が懐から取り出した二つの駒は、そのために必要なものだ。

 血のように紅いそれらは、見るとチェスの駒のようにも見える。おそらくこれによって悪魔に転生した者達が、さっきの一誠や木場達なのだろう。

 

「まだ『戦車(ルーク)』と『僧侶(ビショップ)』の駒が残ってるわ……どうするの?」

 

 一年生のころから彼女とはクラスメイトだったが、しかしこんな彼女は初めて見たかも知れない。

 彼に出された選択肢は、二つ。

 オカルト研究部に入って保護されるか、

 今すぐ悪魔に転生するか……。

 だが、と斬輝は思う。

 どっちを選んでも、けっきょくはこいつの近くになるってことか。

 だとすれば、答えは一つしかない。

 

「……わーったよ、入りゃイイんだろ? 入りゃよ」

 

 頭を搔きながら、折れた斬輝はそう呟いた。

 

「だから、下僕は勘弁してくれ。俺はまだ人間やめたくねえからな」

「判ったわ」

 

 そう言って浮かべる、こんな子供のような無邪気な笑顔も、何度目にしたことか。

 少なくとも最近で言えば、三か月ほど前に彼女から食事に誘われた時だった気がする。新作のパフェを一口喰った時の彼女の顔は、割と鮮明に覚えている。

 心から楽しそうな、嬉しそうな笑みだった。

 

「……けど」

「ん? なに?」

 

 いつだったか、学園の中で聞いたことがあった。誰が言っていたのか覚えていないが、たしか同じ三年で、眼鏡をかけていたような気がする。

 そんな彼女とすれ違った時に、ふいに聴こえたのだ。

 まったく、リアスのワガママに付き合わされるのもこれで何度目なんでしょうか……。

 その言葉になかば諦観の色が感じられたことを、今でもなんとなく覚えていた。

 

「同じ部活になったからって、俺ぁあいつらみてえに『部長』とは呼ばねえからな」

「それは駄目よ。ちゃんと『部長』と呼びなさい。歳が同じだからと言っても、朱乃にだってそう呼ばせているのよ?」

 

 あのなあ、と、斬輝はふてくされるリアスの両肩に手を置いた。

 

「あいつはクラスが違うだろうが。それならまだしもよ、同じクラスで、しかも席だって隣同士なんだ。むしろそっちで呼んじまったら、違和感しか残らねえだろ。ん?」

 

 だから今まで通りにさせてくれ。

 斬輝が言いたかったのは、つまりそういうことなのだ。

 

「……やっぱり駄目よ」

「はあ?」

 

 だが。

 

「……『部長』がイヤなのであれば、せめて『リアス』って呼んで」

 

 なにぃ!?

 驚いたのは、今度はこっちの方だ。

 自分はただ、今まで通りの呼び方にさせてくれと言ったに過ぎない。だがそうしたら今度は、名前で呼ぶようにしろってか!?

 だが、『部長』というのはやはり彼の性に合わないというか……呼び辛いのは確かだ。

 しかし名前となるとさらにハードルは高くなるわけで……。

 

「……まあ、それはそれで考えとく」

 

 だがまあ、彼のその返事でひとまずの了承は得られたみたいで何よりだった。

 ……少々引っかかる点がないわけでもなかったが。

 

「んじゃ、帰るからな」

「ええ。またね、斬輝」

「……斬輝って、もうそっちはソノ気なのかよ?」

「いいえ、あなたが私のことを名前で呼んでくれるなら、こちらもちゃんと呼ぼうと思っただけ。あなたのことだし、『くん』だってきっといらないでしょう?」

「むう……」

 

 それはたしかに思っていたことではある。これまで斬輝が『グレモリーさん』と呼んでこなかったように、同い年の相手からは基本的に『くん』付けで呼んでほしくはなかったのだ。

 しかしリアス・グレモリーはことあるごとに『くん』付けだったこともあって、正直諦めかけていた部分でもあったのである。

 

「……好きにしやがれ。とにかく、俺はもう帰る」

 

 踵を返したその背後で彼女がわずかに微笑んだような気がしたが、ひとまず斬輝は部室の扉を開けて廊下へと出た。

 ……出ようとした。

 

「……ぐっ!?」

 

 突如言うことをきかなくなった軀が、そのまま垂直に廊下へと崩れ落ちた。膝が床板に激突した時、だん、と普通ならばあり得ない音を響かせてだ。

 脳震盪を起こしたわけではないが、しかし感覚はそれに似ていた。金属のバットで頭をぶん殴られたような衝撃だったのだ。

 

「斬輝っ!?」

 

 突然のことに驚いたリアスが、あわてて駆け寄ってくる。

 

「大丈夫!?」

「ああ、まあ……。大丈夫って言えるかは知らねえが……な……!」

 

 今にも床に突っ伏してしまいそうなのを両腕で必死に支えて、しかしその腕さえも謎の『重さ』に耐えようと筋肉が硬直している。

 この感覚を、斬輝は覚えている。

 昨日、ドーナシークの槍をかわそうとした後のことだ。

 あの時も、軀が重かった。

 信じられないくらいに。

 だが昨日は、まだかろうじて立つことは出来ていた。しかし今は、それすらもままならないのだ。

 四つん這いの格好を保っているだけで精一杯なのである。

 なんだ?

 なんなんだ、これは!?

 

「……セイクリッド・ギア……?」

 

 ふいに、その言葉が脳裏をよぎった。

 だが次の瞬間、

 

「ああっ!?」

 

 今まで経験したことのないような激痛が、全身に叩きつけてきた。

 

「斬輝!? しっかりして! 斬輝!!」

 

 声を張り上げる彼女には、明らかな焦燥が見て取れた。

 

「いったい、何がどうなっていると言うの!?」

「知るかよ……いきなり、こうなったんだ……糞っタレ……!!」

 

 ここで気を抜けば、間違いなく意識を持っていかれる。

 こン畜生が。

『痛み』は、とどまることを知らないのだ!

 

「……がぁああああぁあっ! ぐ……ぁあぁあぁぁぁあぁああ!!」

 

 それはまるで、全身を内側から鉄のナイフで斬りきざまれているかのように感じる。骨を断ち割り、皮膚を抉ろうとしているように思えるのだ。

 やがて自身を支えていた腕も限界を迎え、斬輝の上半身も床へと叩きつけられる。

 

「ぁぁああぁあぁぁあぁあぁああぁぁあぁあああああぁぁあぁあぁぁあああっ!!」

 

 斬輝は吠えた。

 それは絶叫だった。

 そして反動でうつ伏せだった状態から仰向けになった時、

 こちらを覗き込む紅が見えた。

 直後、黒鉄斬輝の意識は『痛み』とすりかわった。



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第三章 深まる謎

       

 

 暗闇の中に、たたずむ影があった。

 ヒトの形をしていることは一目で判ったが、しかしそれだといくらか不自然な個所があった。

 なぜ、その姿は炎のように揺らめいているのだ?

 なぜ、その拳から先が『地面』に届きそうなほどに長いのだ!?

 

「てめぇは、何なんだ?」

 

 やけに反響する自身の声を聴きながら、斬輝(ざんき)は『そいつ』に問いかけた。

 だがそれは、愚問である。

『そいつ』は、ヒトなのだ。

 それ以上でも、それ以外でもない。

 だが。

 

「その先に何があるってンだよ、なあ?」

 

 そう。

『そいつ』の後ろ……その向こう側には、炎があった。

 劫火である。

 だがその炎の明かりを背後に受けながらも、なおも『そいつ』は黒いのだ!

 

「てめぇ、いったい誰なんだ!」

 

 無数の人間のうめき声が聞こえてくる。

 助けを求める声が聞こえてくる。

 

「……なっ、何だよこりゃあ!?」

 

 絶望に満ちた呪詛とも取れるそれが、すべて斬輝の中へと入りこもうとする!!

 

「糞っタレ! 離せってんだ、こン畜生!!」

 

 腕に脚に、まるで意思を持ったように絡みつくそれは、まさに負の念が込められた触手である。

 

「がはぁっ!?」

 

 うねる触手が斬輝の首回りを周回し、さらに締め上げる。

 そして、気がついた。

 同時に、黒い『そいつ』が目の前に迫っていたことに驚愕した。

 いつのまに?

 すでに斬輝は、両手足を絡みとられ、呼吸も満足に出来ない状態だった。そんな恰好の前で、しかし『そいつ』はゆっくりと『掌』をこちらに向けてくる。

 ああ、判った。『地面』に届きそうだった拳の正体は、剣だ。どうやって握っているかさえ不明瞭な剣だったのだ。

 その時だ。

 

「か、は……ッ!?」

 

 黒鉄斬輝の肉体は、漆黒の刃に貫かれた。

 

 

 気がついた時、すでに斬輝は目を覚ましていた。

 同時に、自分の軀にべっとりとした感触を覚えた。

 汗だ。

 

「……ったく、何だったんだよありゃ……」

 

 額の汗をぬぐって、もう一度状況を整理する。

 夢だったのだ。

 すべて。

 だが、その夢には断片的なものしか記憶していなかった。

 少なくとも彼が今覚えているのは、『影』と『炎』である。

 そう。

 あの日、俺から大事なものを奪っていった炎……。

 途端に過去の記憶が甦って来て、咄嗟に両目を覆った。

 

「……駄目だ、余計なもんまで思い出しちまった」

 

 それは決して忘れたかったわけではないが、しかし頭の隅にとどめておくだけにしたかった『記憶』である。

 あの時の絶望と失意の渦がまた、彼の心の前に姿を現そうとしていたのだ。

 そいつを無理やりねじ伏せて、起き上がろうとしたが……、

 

「ここは……」

 

 妙な違和感を覚えたのである。

 少々狭苦しいが一人で暮らす分には充分な広さ……今彼の眼に映っているのは、間違いなく彼の自宅である。

 だが、どうにも記憶と嚙み合わない。

 自分の家で、それも自分の布団でちゃんと床に就いた記憶がないのである。

 ……いったい、いつ寝たんだよ俺は?

 しかし、まだセットした目覚ましが作動していないということは、もう少し時間の余裕があるということだ。

 仕方なくもう一度寝ようとした時だった。

 

「……あ?」

 

 布団をかけようと伸ばしていた左の手が、くぐもった音とともに何か別のものを(つか)んだのである。やけに大きなスポンジのような……まるで上質の抱き枕に触ったような感触だ。もっといえば、巨大な餅といったところか。

 しかし斬輝の家に、抱き枕など置いているわけがなかった。それこそまだ斬輝が小学生だった頃、母親が自身の腰痛を少しでも和らげるために一時的に使っていたことはあったが、それでもここまで抵抗のない触感ではなかった。餅ともなれば、それ以前に布団とシーツがベットベトになってしまう。

 斬輝が寝ているベッドは、部屋の角にぴったりとくっついている。そのため起き上がるには軀を右へとずらすか、前のクローゼットとの間にある床へと移動するしかないのである。

 今、この家には彼一人しかいない。

 そのはずなのだ。

 だが。

 彼が手を伸ばした布団が、変に膨れていることに気がついた。

 それは奇妙な隆起だった。初めに大きく盛り上がっているかと思うと、わずかなくびれのあとにさらに出っ張って、あとはゆるやかな線を描きつつ徐々に細くなっている。

 しかしよく見ると、それはどこかヒトの形にも似ていた。

 

「……ちょっと待て」

 

 そう。

 それはまさに、ヒトの形をしていたのだ。

 たしかにそうだ。もしこれを見たままに言ってみろと言われたら、おそらく誰もが口をそろえて言うだろう。

『布団にもぐった誰か!』

 極めつけは、先ほど彼の手が感じた、あの極限までに柔らかい感触である。

 抱き枕でもなければ、餅でもない。

 だとしたら、いったい何だという!?

 そして、摑んでしまった瞬間に中から聞こえたくぐもった音。

 その時だ。

 

「……んぁっ」

 

 嬌声ともとれる声がした途端に、腰のあたりから悪寒が這い上がってきて、一気に脳天まで駆け抜けた。

 わずかだったが、しかし今の声には確実に聞き覚えのある声だ。

 まさか。

 まさか!?

 あとはもう、頭に浮かんだ光景を否定しながら行動に移すだけだった。不自然に盛り上がる布団を、空いていた右手で勢いよく()いだのである。

 そして、

 

「マジかよ、おい……」

 

 認めたくはなかったが、いたのだ。

 そこに。

 彼のベッドの中で……しかも全裸で眠っている紅髪の少女が。

 斬輝の左手が鷲摑みにしていたのは、そこに眠る少女の胸だった。しかも思ったよりも力んでしまっていたのか、五指は己の目を疑うほどに埋没していた。

 

「ぁん……んっ!」

 

 ほぼ零距離で、わずかな痙攣とともに少女の顔が歪んだ。

 男ならば金的が弱点であるように、胸もまた、女の弱点の一つなのだ。

 だが、その反応は苦痛から来るものではなさそうだった。

 本当ならばすぐにでも手を離したい。だがあまりに衝撃が過ぎて、全身が硬直してしまっているのである。

 声も、思うように出なかった。

 たしかに恰好や今の状況こそ問題ではあったが、それ以上に問題だったのは布団に潜り込んでいた人物の正体の方だった。

 そう。

 紅髪なのだ!

 だがしかし、もうどうすることも出来なかった。ただ黙って固まっていることしか出来なかったのだ。

 そして、

 

「ぅん……。思っていたより、ずっと積極的なの……ね……」

「お、ま……え……!」

 

 彼女は微笑を浮かべて、ゆっくりと目を覚ました。そして斬輝の声も、徐々に大きさを増してゆく。

 

「……お前なんで俺ン()に居んだよ!? それに俺のベッドで、しかも裸で!?」

「そんなことッ、言われても……私は裸でないと眠れないのよ……」

 

 小刻みに震えながらも、紅の少女はそう応えた。

 すると、

 

「ふぁんっ!」

 

 やや強い喘ぎとともに、彼女の肢体がわずかにはねた。そこで斬輝は、自分の手を見る。

 ……それはまだ、力強く彼女の胸を摑んでいたのだ。

 

「だぁあーっと!!」

 

 さっきまで動かなかった手が嘘のように、今度はいとも簡単に彼女の乳房から離れた。

 

「ああ、いや……その、さっきのはすまん」

「……いいえ。それは別に……構わないわ」

 

 構わないのかよ! 俺としちゃあ結構なことやっちまった気がすんぞ!?

 だが次の瞬間、起き上がった少女はこちらを見つめて、

 

「軀、大丈夫?」

 

 彼女は、心配そうに訊いてきた。

 

「軀……あっ!?」

 

 リアス・グレモリーのその一言で、黒鉄斬輝は記憶の一端を思い出した。

 そして、現在自分も彼女と同じ恰好であることにも気がついた。

 

 

 起きたのがすでに登校時間を過ぎていたことに気付いたのは、彼がシャワーを浴びた直後である。

 

 

 

       

 

 

 リアスの話によると、つまりこういうことだった。

 彼女からオカルト研究部への入部を勧められて渋々承諾した斬輝が帰ろうとした時、彼の軀に突如異変が起こった。

 謎の激痛である。

 一度はそのまま気絶したらしいのだが、その後二分と経たず再び意識が覚醒して激痛に悶え始めたというのだ。

 さて。問題はここからだった。

 当時彼が倒れたのは、旧校舎とはいえ駒王学園の中だったのである。このまま斬輝を放っておけば、やがて咆哮のような声に誰かが気づくに違いない。

 だがそれ以前に、リアスのプライドが『放置』という選択肢を許さなかった。

 リアスは、どこか彼を休めさせることが出来る場所へと移動しようと考えたのである。

 しかしここで、第二の問題が発生した。

 何度目かの気絶の際に抱き起こして肩を貸そうとした時だ。

 それは、斬輝自身がもっとも実感していたことだった。

 そう。

 重過ぎたのである。

 だが、彼の体重は七一キロ。同級生の中でも割と重めなのは、人知れず行い続けて使い込まれた筋肉のためだ。

 それでも、悪魔である彼女であれば造作もないこと。それなのに、彼女でさえ抱えあげることが困難なほどの重量を、その時の彼は有していたらしい。

 そのため、徒歩での移動手段も断たれた。

 残されたのは、魔方陣による転移である。

 だが斬輝はリアスとは違い、悪魔ではない。

 人間なのだ。

 しかしそこに関してだけは、人間でも移動可能なていどの微小な魔力まで抑えることで意外とすんなり解決したらしい。

 

「んぐっ。あー……それで?」

 

 言いながら、黒のジャージのズボンに白のシャツを着た斬輝は正面に座るリアスへと目を向けた。

 

「その魔方陣を使って飛んだ先が、俺の家だったと」

 

 こうしてゆっくり食べられているのは、すでに彼女が学園への欠席連絡を済ませていたからだ。

 まさか斬輝のために彼女まで休むとは思わなかったが。

 

「はむ……ええ、そうよ。厳密に言えば、あなたが以前貰ったっていうチラシに向かった、と言う方が正しいわね」

 

 応えるリアスも、しかし放課後の部活へは向かうため駒王学園の制服に身を包んでいる。

 あれからまず、シャワーに入った。もちろん交代で。今二人が食べているのは、後にリアスが浴びている間に急ごしらえで作った簡易な朝食である。

 焼いたトーストにハチミツを塗っただけのものだが、むしろ簡易過ぎて相手に申し訳ない気持ちがないわけでもなかった。

 

「チラシがあなたの部屋の中に落ちていたみたいだから、ベッドに寝かせるのは時間がかからずに済んだのだけれど……それでもまだ苦しそうにしていたから、中々目を離せられなかったのよ」

 

 その時点でまだ、午後六時を回ったかどうかだったというのだから正直驚いた。

 それからずっと、彼女は彼の容体を見守り続けてくれていたのだ。

 

「でも、さすがに私も眠くなっちゃって……ね?」

「ね、じゃねえよ」

 

 ベッドの空いているスペースに潜り込む格好で寝た、というのである。

 結果的にそうなったとはいえ、しかしそれは添い寝と同じことだ。

 

「それも全裸って……」

「私、裸でないと寝れないの」

 

 予想の斜め上をいく回答に、思わず斬輝はため息をついた。

 だが、そこで斬輝はふと思い出す。

 ……俺も素っ裸だったじゃねぇかよ。

 

「あのな、別に一人でいる分にはそれでも構わねえよ。だが俺っていう第三者が居るんだから、その辺はちゃんと考えるべきだろ? んん?」

「そんなこと言われても、これだけは譲れないわ」

「譲る譲らないの問題じゃねえだろ。俺ぁよ、せめて一枚くらいは着てくれっつってンの。マッパは困るんだよ、こっちも。判るか?」

「あんなに強く揉んでおいて、よく言うわよ……」

 

 わずかに紅潮した頬をうつむかせて、ぽつり、と呟くリアスにさらに斬輝は付け加えた。

 

「いや、そいつに関しては俺が悪いがな、そもそもお前が脱がなきゃイイ話だろ?」

「それは……否定できないけれど…………」

「それにグレモ……、リアス」

 

 いつもの癖でつい、グレモリー、と言いかけるのを、あわてて言い直した。こりゃあ、無意識に名前で呼ぶまでは相当な時間がかかりそうだぞ。

 

「……なに?」

「好きでもない男の布団にすっぽんぽんで入るもんじゃねえぞ。いつか絶対に、お前が後悔することになるぜ?」

 

 斬輝がそこまで言った時、ふいに彼女の表情が曇った。

 

「後悔、ね……」

 

 ぼそり、とつぶやくその姿は、まるで思い当たる節があるかのようだ。

 そして。

 

「ねえ」

「ん?」

「親御さんは、いらっしゃらないの?」

 

 リビングに視線を巡らせて、リアスが訪ねて来た。

 二階建てではあるが、決して広いとはいえない家である。キッチンに面したテーブルには椅子が二つだけ。ちょうど、リアスと斬輝が座っている奴だ。

 窓際に置かれたソファーの前方には、センター・テーブルを挟んで小振りなテレビ台がある。

 トイレと風呂は廊下に出た左右のドアだし、二階に上がっても実質使っているのは寝室を兼ねた自分の部屋のみだ。

 自室のドアの反対側には、かつてこの家に住んでいた者の部屋がある。

 

「私があなたを連れて来た時も帰って来る様子はなかったし……泊まり込みか何か?」

「いないのさ」

「え……?」

「死んだんだよ」

 

 四年前。

 まだ彼が中学二年だったころ。

 夏休みに、斬輝は例年通り駒王町の祖母の家に帰省していた。

 ただし、その年は一人で。

 両親は仕事の都合で一緒に行けなかったため、夜に車で移動してくると言ったのだ。

 だが、

 

「親父達は、移動中に事故に遭った」

「事故?」

「おう。高速道路でな」

 

 斬輝が一足先に帰省した、その日の夜だ。

 大事故だった。

 関越道上り線での玉突き事故だ。

 ちょうど寄居を過ぎたあたりで、それは起こったのである。

 無謀運転の車が先行車両の前方に割り込んだことで、眼の前の車が咄嗟にブレーキを踏んだらしい。そしてその行動が、結果的に二〇台以上を巻き込む大事故になったのである。

 割り込んだ車と割り込まれた先行車両は無事だったが、両親の乗っていた車は突如停止した車と後方から遅れて来たブレーキによって停まろうとする車とに挟まれてひしゃげた。

 無惨にも、二人は前と後ろから鋼鉄の塊に挟まれて圧死した。

 

「叔父貴からの電話でやっと知ったんだ」

 

 そして翌日、関東圏だったこともありさまざまな局で報道された。

 そこで見たのだ。

 見慣れた、しかし無惨に潰れた黒鉄家の車を。

 だが最大の誤算は、巻き込まれたタンクローリーに積まれたガソリンが何らかで引火して、巨大な爆発を起こしたことだろうか。

 追突したタンクローリーは、両親が乗っていた車の数台後ろだった。

 爆発に巻き込まれていた。

 二人は車の中で挟まれていて、だから助け出すことは出来なかったそうだ。

 映像には、燃え盛る炎が一本の柱となって夜空を突いていた。

 埼玉の自宅には、あれから何度か戻った。葬儀に出席するのと、荷物を取りに行くためだ。

 そして、こちらに移り住んだ。

 祖母と二人で。

 

「そうだったの……ごめんなさい、変なことを聞いてしまって」

 

 いいさ。

 その祖母ちゃんも、去年に老衰で死んじまったけどな。

 だから実質、この家に過ごしているのは斬輝一人だ。叔父からは、ウチにこないか、と誘われたが、駒王学園の空気にも馴染んでいたから断った。

 だがそれでも、毎月叔父からの仕送りが届いてくることは本当にありがたかった。

 それなりの金額で、だから裕福ではないまでも、そこまで質素なわけではなかった。

 

 

 リアス・グレモリーが次に口を開いた時、彼女はすでに斬輝が用意した食事を食べ終えていた。 

 

「私も、少し尋ねていいかしら?」

 

 こちらも最後の一口を終えたところで、おう、と応えた。

 彼女が言いだしたのは、彼の左腕の傷についてのことだった。

 やはり心配してくれていたのだろう、治療をしようと彼の服を脱がせた時に、見つけたというのだ。

 嘘のようにきれいな上腕を。

 

「あれからまだ二日しか経っていないと言うのに……驚いたわ」

 

 悪魔である彼女が驚嘆するのも、無理はない。

 二日前、たしかに斬輝は深手を負った。傷は、骨が見えるほどにまで達していたのだ。

 だが、今彼の腕に刻まれていた傷は、すでに消え去っていた。

 苦戦しながらも何とか行った縫合に使った糸も、いつの間にか彼の軀からなくなっていたのだ。

 

「あなたの神器(セイクリッド・ギア)って、いったい何なのかしら……?」

 

 いよいよ、判らなくなってきた。

 自分の軀が今、どうなっているのか。

 あの謎の痛みと重量に、どんな意味が隠されているのか。

 だから斬輝の答えは、さあな、だった。

 ついでに胸に手を当て、タンクトップの布地を強く握る。

 

「そもそも、俺の中にあるこいつが神器(セイクリッド・ギア)なのかどうかさえ、よく判らねえ」

 

 つぶやく斬輝の言葉は、決して韜晦(とうかい)ではない。

 しかし一つだけ、確実なことがあった。

 彼の中に眠るものが神器(セイクリッド・ギア)であろうがなかろうが、そいつはヤバイものであることに変わりはない、ということだ。

 二日で裂傷を完治させるほどのものだ、それがマトモなわけがないだろう。

 ゆっくりと、右の拳を握って、開く。

 ぎ、ぎぎぎ……。

 応えるのは、内部から響く骨格の『軋み』である。

 今朝から、ずっとそうだ。彼の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)において、わずかながらの『軋み』が彼の軀で反響しているのである。

 たしかに、まだ軀が重い気がする。だが昨夜に比べるとなぜか、軽い、と感じるのである。

『慣れ』とは、また違った感覚だ。

 彼の軀がすでに『異変』に適応し始めているのではないかと考えると、我ながら総毛立つ思いだった。

 ぎしり、と椅子が軋んだ。

 

「とりあえずは、様子見ってとこか」

「そうするしかないでしょうね」

 

 もしかしたら、という考えを頭の片隅に置きながら……。

 

 

 

       

 

 

 日課と呼べるものが、斬輝には数えるていどのものしかない。毎日の食事や家事は当然だが、あとはこれといったことがないのである。

 しかしその数少ない日課の中に入るのが、走り込みや毎日の筋トレなどのトレーニングだった。

 少し前までは、それを毎日欠かさずに行ってきた。

 それが今では、どうだ?

 たしかにここ一週間ほど、いつもの日常から逸していた出来事が多過ぎた。それによる体力や精神の疲弊があったのは事実である。だがそれとは関係なしに、どうにもやる気が起きないのだ。

 今だ思い通りに軀が動かないというのも、もちろんある。

 ダラクしちまったな、と斬輝は思う。

 ともかく、また鍛え直さねえと。

 

「うーす」

 

 日が沈みきったあたりで、帰宅前に久しぶりに旧校舎の部室へと寄った。

 すると、

 

「二度と教会に近づいちゃ駄目よ」

 

 直立不動なままの一誠にリアスが強く念を押していた。彼でも滅多に利いたことのない、わずかに怒気を含ませた声音だった。

 近づいて、声をかける。

 

「おうおう、どうした? まぁた兵藤が契約関係でトチったのか?」

「せっ、先輩!?」

「……斬輝、違うのよ」

 

 こういうことらしい。

 夕方、帰路についていた一誠はある女子と出逢った。道に迷っていたところを助けたまでは良かったもが、彼女は近くの教会に新しく赴任したシスターだったというのだ。

 それだけでなく、どうやら彼女は治癒系の神器(セイクリッド・ギア)所持者でもあったらしい。

 彼ら悪魔にとって、教会は敵地であると同義。一度踏み込めば神側と悪魔側に新たな問題が発生しかねなかったのだという。

 特に懸念すべきだったのは、天使側にいる悪魔祓い(エクソシスト)の存在だった。神の祝福を受けた彼らの力は、たとえリアスのような上級悪魔でさえも滅せるほどの力を持ち合わせるというのである。

 つまり一誠の行動は、自らの命を投げ捨てるも同然だったというわけだ。

 

「なるほどなあ、そういうことか」

 

 ソファに腰をかけ、顎に手を当てながら斬輝は唸った。

 それが、彼がリアスから説教を受けていた理由である。

 

「……イッセー、今回は何事もなかったから良かったけど、今後は気をつけてちょうだい」

「は、はいっ……!」

「判ってくれたなら、それで良いわ。私も、少し熱くなってしまったみたいだし……それより斬輝、あなたどうしてこの時間に来たの?」

「んん? ああ……最近顔出せてなかったから、ちょっとだけ邪魔しに来ただけさ。だいたい、お前ら悪魔ってのは夜型だろ? だから来るならこれくらいの時間がベターだったわけ」

 

 まさか説教タイム中とは思わなかったが。

 だがそれにしても、と斬輝は思う。

 妙だな。

 神器(セイクリッド・ギア)所持者のシスターが、なぜ今更になって町の教会へ赴任したのかが、だ。町中では一つしかない教会だったが、しかし今ではすっかり廃れているはずだ。

 そんなところへ、しかも一誠と同じ年代の子がはるばる日本までやって来たのである。

 なにか、ウラがありそうだ。

 

「あらあら、お説教はもう済みました?」

 

 思慮している最中に部室の扉が開けられたと思うと、そこからいつもの穏やかな表情で朱乃が入って来た。

 だがその声は、いつものような静けさが感じられなかった。

 

「……朱乃、どうかしたの?」

 

 訝しげなリアスの問いに、わずかに彼女の顔が曇ったように見えた。

 

「先ほど大公より連絡が」

「大公から?」

 

 一気に、空気が重くなる。

 うなずき、朱乃は続けた。

 

「この町で、はぐれ悪魔が見つかったそうですわ」

 

 それは駒王学園の生徒同士ではなく、悪魔同士の会話だった。

 

 

 人間社会がそうであるように、悪魔にも『オモテ』と『ウラ』の顔がある。

 危害を加えず、対価を支払ってもらうことで人間と契約する連中を『オモテ』とするならば、かつて斬輝が思い描いていたように、ヒトへの害がある連中が『ウラ』だ。

 主を裏切り、あるいは殺すことで制約から逃れて野に解き放たれし存在……いわば野良犬だ。

 リアス達悪魔はそんな野良犬どもを、はぐれ悪魔、と呼んだ。

 奴らは他勢力からも危険視されていると言われている。そういった道を外れた悪魔達を、その土地を有する悪魔が対処に追われるのだ。

 すなわち、

 リアスの領土であるとも言える駒王町に、はぐれ悪魔が紛れ込んだのである。

 その討伐の依頼が今回、上級の悪魔から届いたらしい。

 彼女から渡された魔法陣による移動時で必要となる特殊な通行証をしまいながら、斬輝もリアス達の後を追うように歩き始める。

 メンバーは、緊急招集されたオカルト研究部全部員である。

 とはいえ、斬輝を除いて(みな)悪魔だが。

 時刻は、すでに零時を回っている。

 町外れの小高い丘に建てられた、しかし今は住人のいない廃れた屋敷である。周りをうっそうと茂る木々が覆い、さながらそれはどこかのホラー映画にでも出てきそうな雰囲気だ。

 

「よいしょっ……」

 

 先を行く木場が、分厚い木製の扉の把手を握り、ゆっくりと開く。全員が中に入って彼が扉を閉めるまで、錆びついた蝶番が悲鳴をあげ続けた。

 真っ暗で何も見えず、だから斬輝だけはホコリや蜘蛛の巣がついた壁を手探りしつつ歩いて行く。

 ゆっくりと、しかし確実にリアス達は歩いて行く。暗闇に強いのは、やはり悪魔だからだろうか。

 畜生、こういう時には向こうが有利じゃねぇかよ。

 屋敷に入った瞬間に、腐臭が鼻をついた。

 そして、生臭い鉄の臭い……、

 

「血、か……?」

「……はい」

 

 それもかなり濃い。鼻が利くのか、小猫は顔をしかめつつ制服の袖で鼻を覆った。

 実際、斬輝も今すぐ鼻を塞ぎたかった。そうしないのは、彼が暗闇の中でも歩けるようにするためだ。

 いまだずっしりと重い軀を引き摺りながら、なおも斬輝は歩を進める。

 

「ここにおびき寄せた人間を、そのはぐれ悪魔さんが食べているそうですわ」

 

 しかし、この閉鎖された空間でここまで臭うということは……、

 

「何人喰ったんだ……」

「判らないわ」

 

 それが、リアスの答えだった。

 

「いずれにせよ、いい機会ね。あなた達には悪魔としての闘い方というものを経験してもらうわ」

「闘い方、ですか? あの、俺……悪魔になってまだそんなに日が経ってないと思うんですけど……? それに、先輩から格闘技をちょろっと教えてもらったぐらいですし……」

 

 全身の震えを押し殺そうとしながら話す一誠に、しかしどうやらリアスは別のところが気になったらしい。

 

「そうなの?」

 

 稽古をつけていたことが初耳だったのか、リアスがこちらを『向いた』。目が慣れ始めたのか、リアスの鮮やかな紅の髪が彼女の動きに合わせて揺れるのが見える。

 

「ん?  ああ、まあな。ちょいと昔に」

 

 触りていどだよ、と付け加えて。

 もともと、我流に近いものだ。そんな、ある意味出鱈目に出来上がった動きを他人に教えようとしても、当然ながら無理がある。

 一年前に一誠に頼まれて渋々コーチとして稽古をつけたものの、実際たったの二週間でバテてしまった。

 

「……そうね。ちょうど頃合いだし、悪魔の歴史についても話しましょうか」

 

 大昔、悪魔や天使、そして堕天使は三つ巴の戦争を引き起こした。大軍を率いて、それはまさに総力戦のようだったという。

 永遠にも等しい永きに渡って繰り広げられた戦闘は互いの勢力を削り合い、疲弊させたままに戦争は数百年前に終結した。

 勝利した軍勢などいない、いわば痛み分けである。

 悪魔側も、当然ながら大きな打撃を受けたらしい。多数の軍勢を率いていた爵位持ちの悪魔や上級悪魔……言ってしまえば純粋な悪魔の多くが先の大戦で死亡したのである。かろうじて生き残った悪魔達も、もはや軍団を保てるほどではなくなった。

 種の存続が危ぶまれるほどに激減したのだ。

 だが問題は、他にあった。

 

「戦争が終わっても、三代勢力の睨み合いは今でも続いています。いくらお互いに部下のほとんどを失ったとはいえ、少しでも隙を見せれば危うくなるのです」

 

 朱乃の補足を聴いていると、ふいにリアスが斬輝達に尋ねてきた。

 

「ねえ二人とも、チェスは判る?」

「チェス、ですか?」

「ボード・ゲームの、あのチェスか?」

 

 そうよ、と彼女はうなずいた。

 

「主である私が『(キング)』で、『女王(クイーン)』、『騎士(ナイト)』、『戦車(ルーク)』、『僧侶(ビショップ)』、そして『兵士(ポーン)』……。爵位を持った悪魔は、この駒の特性を自分の下僕に与えているの」

「駒の特性?」

「私達はこれを、悪魔の駒(イーヴィル・ピース)と呼んでいるわ」

 

 他勢力に対抗する手段として用いられた、少数精鋭制度の過程で誕生したものだと言われている。先の大戦で軍団を持てなくなった代わりに、少数の下僕たちに強大な力を分け与えることにしたのだ。

 だが、この制度が思ったよりも爵位持ちの悪魔達に好評で、ちょっとした眷族自慢からついにはチェスのように実際のゲームを自身の下僕を使って競うようになったのだと言う。

 しかし斬輝達が何よりも驚いたのは、ゲームの結果が悪魔達の爵位や地位に影響を及ぼすということだった。ゆえに『駒集め』と呼ばれる、優秀な人間を自分の手駒にすることも流行しているらしい。

 ……そして、

 

「きた」

 

 ある時、ぼつりと小猫が呟いた。

 一気に辺りの空気が重くなり、対応するようにリアス達の視線が一点に集中する。

 彼女達の視線を追った先はいっそう暗くて、だからそこが広間なのか廊下なのかは判らない。

 

「……そこに『居る』のか?」

 

 斬輝の問いに、うなずくのはすぐ隣にいた木場だ。わずかに腰を落とし、左手で『鞘』を、右手で柄を握る。しかしそれは反り身の細い刀身ではなく、幅広の直刃である。

 西洋剣、とかいうやつだ。

 臨戦態勢である。

 やがて前方の深い『闇』の奥から、声が聞こえてきた。

 

「不味そうな臭いがするわ……でも美味しそうな匂いもするわぁ……」

 

 若い、女の声だ。

 同時に、何かの咀嚼(そしゃく)音もする。

 

「……ひぃっ!?」

 

 突然、前にいた一誠が消え入りそうな悲鳴をあげた。

 彼の足元に、得体の知れない何かが放り投げられたのである。

 一メートルほどの、細長い何かだ。

 蛇かナメクジにも見える。だが蛇にしては太すぎるし、ナメクジにしてはあまりにも巨大だ。だがそこには、ぬめぬめと光る体液が付着している。

『慣れた』目で見ると、その全体のシルエットにはどこか見慣れた雰囲気があった。上半分は太く、中程でくびれ、下へゆくほど細い。しかも単に長いだけでなく、中央のくびれた部分で微妙に屈曲しているのである。

 何となく、馴染みのあるカタチ。

 少し考えて、判った。

 

「腕、か……?」

「……なんてこと」

 

 ぬめりのある光は、体液ではない。

 かつて『腕を持っていた人間』自身の血だった。

 

「甘いのかしら? それとも苦いのかしらぁ?」

 

 立ち込める殺意が剝き出しになり、『そいつ』は姿を現した。

 白い肢体に、艶やかな黒い髪。細身で長身の、それは紛れもない『女性』である。

 そして、

 

「おお! おっぱい!!」

 

 鼻の下を伸ばした一誠の言うように、彼女はその身にいふくをまとってはいない。

 全裸なのである。

 ぺたぺたと、裸足で床を歩く音が残響する。そして咀嚼音が、止んだ。続く鈍い音は、『女性』が肉塊を呑み下す音だ。それも二つ。

 見ると、彼女の下腹部には左右に開く(あぎと)があった。そこから滴るは、真っ赤な雫だ。

 

「はぐれ悪魔バイサー。主のもとを逃げ、その欲求を満たすために暴れまわる不逞の輩……、その罪万死に値するわ。グレモリー公爵の名において、あなたを、吹き飛ばしてあげる!」

「小賢しい小娘だこと」

 

 応えて、しかし『女性』の顔に浮かぶのは焦りではない。

 嘲笑なのだ。

 その時だ。

 ゆっくりと、バイサーが上昇してゆく。

 それだけではない。

 めきめきと生木を裂くような音をたてて、バイサーが変わってゆく。

 まるで見せつけるかのように己の乳房を揉みしだきながら、その下半身が変化してゆくのである!

 

「な、なんだよこりゃあ……」

 

 やがてその軀が天井に当たりそうになったあたりで止まった時、すでに彼女の『変身』は完了していた。

 その体長、およそ五メートル。

 巨木の幹ほどの太さのある大腿に、その『胸部』に値する部分には肋骨が変異したバインダーのような『口』がある。腕を巨大化させたような前肢に、黒い外骨格に覆われた後肢は膝から下の長い獣脚である。

 その後ろで、蛇を模した尾がのたうった。

 

「バケモンかよ……」

 

 呻くように呟いたその言葉は、まさに正鵠(せいこく)を射ていた。

『変身』したバイサーの姿を形容するならば、それしかない。

 

「その紅い髪のように、あなたの軀を鮮血で染めてあげましょうかあ!」

 

 変異した肉塊の上で、バイサーが長い髪を振り乱して吠えた。

 これが、と斬輝は思う。

 悪魔の末路だ。

 制約にとらわれず、己が欲望のままに生きるこの姿こそが、悪魔の成れの果てなのだ。

 歪んだその『魂のカタチ』が、悪魔の肉体をも変化させているのだ!!

 

「……お、おい! こいつ結構やべぇんじゃねえのか!?」

「判ってるわ! ……祐斗!!」

「はい!」

 

 リアスの言葉に応えるなり、

 

「……消えたっ!?」

 

 さっきまで彼女のそばで構えていた木場祐斗の姿が消えた。

 ……いや、違う。

 

「せ、先輩! あれ見てくださいよ!」

 

 そういう一誠が指差す先には、すでにバイサーのどデカイ図体の、その懐へと潜り込んだ木場の姿があった。その手には、黒い鞘が握られている。

 斬輝達とバイサーの距離は、およそ一〇メートルほど。

 まさか、あの一瞬で距離を詰めたのか!?

 いくら彼が悪魔だとはいえ、その挙動にはどう考えても無理がある。たった一度の踏み込みであそこまで到達するには、相応の脚力が必要になるからだ。

 

「斬輝、イッセー。さっきのレクチャーの続きをするわ」

 

 レクチャー? 悪魔の駒(イーヴィル・ピース)の説明ってことか。

 

「祐斗の役割は『騎士(ナイト)』、特性はスピード。『騎士(ナイト)』となった者は速度が増すの」

 

 つまり木場の姿が消えたように見えたのは、実際には目視出来ないほどの超高速で前方への移動を終えていたからなのだ。

 

「そして、その最大の武器は剣」

 

 深く腰を落とし、左半身に身をひねるのは『抜刀』の構えだ。鞘から銀刃が抜き放たれた時、屋敷の窓から入ってくる月明かりを受けてわずかに煌めいた。

 そして、再び音も無く動き出す。

 次の瞬間、聴こえた音は三つ。

 肉を切って骨を断つ斬撃音と切断された両前肢が床へと叩きつけられる音、

 そして、

 

「ギャァアアァアァァアァアァァアァアアアァァアアアッ!!」

 

 異形となったバイサーの悲鳴である。溢れ出す鮮血が、血のシャワーとなって彼女の周囲にまき散らされる。

 並みの剣術では、こんな芸当は出来ないだろう。おそらく『騎士(ナイト)』の特性である加速と自身の剣術を組み合わせて相手へと叩きつけているはずだ。

 激痛に悶え苦しむバイサーの足元には……、

 

「……塔城のやつ、何やってんだ!?」

 

 なんと棒立ちで相手を見上げる銀髪の少女の姿があった。

 

「おい、早くそっから離れろ!!」

「大丈夫よ」

 

 焦る斬輝に、しかし応えるリアスはいつだって冷静だ。

 

「はあ!?」

 

 たしかに彼女も一人の悪魔であることに違いはない。そしてリアスの眷族であるということは、その身に悪魔の駒(イーヴィル・ピース)を宿しているということだ。

 ……ああ、思い出した。

 もしも悪魔の駒(イーヴィル・ピース)の個数まで本来のチェスの駒と同じだとするならば、彼女は決して『騎士(ナイト)』ではない。

 数日前、部室でリアスから余りの駒を見せられたからだ。

騎士(ナイト)』と『戦車(ルーク)』である。

 だが、速さに秀でた『騎士(ナイト)』は、すでに木場へと振り分けられている。

 つまり、

 ほぼ零距離に近いこの状況から目にも留らぬ速さで脱する方法など不可能なのだ!

 

「グォォアァアアァアアァアアァアアッ!」

 

 痛みと怒りに身を任せ、ついにバイサーの上半身までもが変異を始める。端正な顔立ちは歪な牙によって醜くなり、かろうじて穏やかに見えなくもなかった瞳は鋭く吊り上がった。

 同時に、胴で左右に裂けた肋骨のバインダーが一気に開かれる。

 

「ジャァアアァアアアアァアァア!!」

 

 激昂したはぐれ悪魔はそのまま足元にいた小猫をまるごとバインダーで包み込んだ。

 いくら身体的に普通の人間とは比べ物にならないほど向上しているとはいえ、生身の状態であんな攻撃を喰らってしまえばひとたまりもないだろう。

 脇にいた一誠が咄嗟にバイサーのもとへ走りだそうとするが、

 

「大丈夫」

 

 リアスのつぶやきに、足を停めた。

 大丈夫、だと?

 いったい何が……、

 

「……むう!?」

 

 突然、小猫を『喰らった』バイサーの表情が曇った。

 何が起こったのかと見てみると、さっき小猫を閉じ込めた骨のバインダーが、ぎしぎしと軋みを上げている。

 そしてそれは、ゆっくりと左右へと開かれてゆくのだ。

 

「……小猫は『戦車(ルーク)』よ。その特性はシンプル。莫迦げた力と防御力」

「……なっ!?」

 

 やがて完全にバインダーが開ききった時、そこには溶解液か何かで衣服を一部溶かされてはいるものの無傷なままの少女の姿があった。

 

「あの程度じゃ、びくともしないわ」

「……ぶっ飛べ」

 

 かすかに、そう呟いたのが聴こえた。すると小猫はわずかに上体を引き絞り、返す勢いで両腕を思い切り薙いだのである。

 たったそれだけで、彼女を閉じ込めていたバインダーがすべて叩き折られた。

 華奢な少女の、たった二つの拳で。

 反動で後方へとはね飛ばされたバイサーは、そのまま延長線上にあった屋敷の柱を粉砕する。二回ほどバウンドしてようやく止まったはぐれ悪魔のそばに立つのは、長い黒髪をポニーテールに結んだ朱乃だ。

 

「朱乃」

「はい、部長」

 

 応えて、朱乃はさらにバイザーとの距離を詰める。

 ゆっくりと、相手を焦らすかのように。

 

「あらあら、どうしようかしら。うふふ……」

「ぐぅううぅううぅう」

 

 もうそれほど力も残っていないのだろう、バイサーは自身の体液に顔をうずめながらも、その双眸は朱乃へと向けられている。

 威嚇のつもりなのだろう。だが当の本人は気にも留めずに、ただ笑みを浮かべるだけだ。

 それは彼が見たことのない、不敵な笑みだ。

 

「あらあら、まだ元気みたいですね?」

 

 何でもないように上げた両手から、時折『光』が発せられる。

 違う、と思ったのは、両手の間を駆ける『光』によって空気が、ばちん、と弾けた時だ。

 これは、まさか雷か!?

 

「彼女は『女王(クイーン)』。他の駒すべての力を兼ね備えた、無敵の副部長よ」

 

 魔力を使った攻撃が得意なの。

 そうリアスが言った時に、斬輝はふと理解した。

 なるほど、たしかにあれは雷だ。

 しかしそれは自然的に発生したものではなく、彼女自身の魔力に意志の力でベクトルを与えて掌から放出していることになる。

 

「……なら、これはどうでしょうか!」

 

 朱乃が両手を前方へかざし、そこから蓄えられたエネルギーが一気に放出する。それはまさに、横方向への落雷だ。

 瞬間、辺りが閃き、一気に雷がバイサーへと叩きつけられた。

 後に続くのは、熱せられた大気が瞬時に膨張して爆ぜる音だ。

 爆発である。

 

「グッ、ガァアアァアァアアァアアアッ!!」

 

 一億ボルトの電撃が全身に襲いかかり、バイサーは激しく痙攣した。

 一般的に、雷の発生における基本的な原理は静電気の放電とされている。大気中で、大量の正負の電荷分離が起きるのだ。

 やがて帯電した雲が雷雲となり、その中にあるマイナスの電気につられて地表にはプラスの電気が集まってくる。限界まで帯電された正と負の電気が中和しようとして発生する現象が、つまり落雷である。

 だが朱乃は自身を『マイナス』に、そして標的であるバイザーを『プラス』と思考の力で置き換えることで、『真横への落雷』という不自然なエネルギーの動きを可能としている。

 雷鳴に交じって、わずかにバイサーの断末魔が聴こえる。爆発音が派手過ぎて、もはやはぐれ悪魔の叫びさえも搔き消してしまっているのだ。

 流れ込む高圧電流と叩き込まれる熱によって、すでにバイサーの軀からは白い煙があがり始めている。

 だが、それで終わりではなかった。

 

「あらあら、まだ元気そうですわね?」

 

 彼女の赤い舌が、赤い唇を舐める。すると次の瞬間、さらに威力を増した雷撃がバイサーへと放たれたのだ!

 

「ギャヴッ!?」

「いったい、どこまで耐えられるでしょうか!!」

 

 喜悦の笑みに頬を歪めて、さらに二度、三度と雷をバイサーへと叩きつける。

 楽しんでいる。

 この状況で、なんと朱乃は相手をいたぶることを楽しんでいるのだ!

 そして、と思い出したかのようにリアスが続ける。

 

「彼女は究極のSよ」

「いや、究極ってぇか、あいつただのドSじゃねぇか!」

 

 おっかな過ぎるだろ、と喚く斬輝だが、リアスはただ、朱乃の雷撃を見守り続けていた。

 

「うふふふふ。まだ耐えますのね? でも、まだ死んでは駄目よ? とどめは私の主なのですから……」

 

 おほほほほ、と高笑いをかます朱乃の姿を見た斬輝と一誠は、彼女が醸し出すオーラに恐怖し、その軀を震わせていた。

 味方には優しいと付け加えるリアスだが、しかしその言葉はにわかには信じがたいものだった。

 

「朱乃。その辺にしておきなさい」

 

 あれから何分経っただろう、止まることない朱乃の猛攻に、ついにリアスが待ったをかける。

 

「あらあら、仕方ありませんね……」

 

 心から残念そうに呟くその目には、明らかな不満が込められている。まさか、あれだけやっておいてまだ物足りないのか!?

 朱乃の言うように、とどめをさすべくリアスが無惨な姿となったバイサーのもとへと歩み寄る。

 かつん。

 かつん。

 鳴り響く革靴は、まさに死刑へのカウント・ダウンである。

 あと一歩踏み込めば黒く炭化したバイサーに触れそうな距離まで来ると、

 

「最後に言い残すことはあるかしら?」

 

 見下ろすようにして尋ねた。

 だが、(いら)えは、ない。

 

「死んだふりをしたって無駄よ? どの道あなたは消し飛ばされるのだから」

 

 応えは、ない。

 その反応のなさに、見守る斬輝はどこか不可解に思った。

 今更、そんな猫騙しのような手を使っても無意味であることは、バイサーも承知のはず。

 ならば、なぜそんな姑息な手を使う必要がある?

 見たところ、まだ息の根は止まっていないらしい。

 だから余計に、疑問に思ってしまうのだ。

 訪れる死を、すでに受け入れたというのか? それにしたって、殺せ、の一言くらいは言うはずだ。

 

「なぜ……?」

 

 そう口にした途端、ゆっくりとはぐれ悪魔が起き上がる。

 その顔に浮かぶのは、不敵な笑みだ。

 にたり。

 瞬間、嫌な予感が頭を過ぎった。

 ……まさか!

 

「……そう簡単にやられるとでも思う?」

 

 バイザーの呟きに、弾かれたように斬輝は前方へ走り出していた。

 

 

 

       

 

 

 悪魔でありながら、しかし悪魔としての特徴を、この時リアス・グレモリーは失念していた。

 それも相手がはぐれ悪魔であれば、なおさらだ。

 制約が関係なくなった悪魔というものは、より凶暴になる。

 だが同時に、より狡猾になるのだ!

 

「……そう簡単にやられるとでも思う?」

 

 バイサーがそう呟いた時、

 

「あなたも道連れにしてあげるわぁああぁぁあぁぁあぁあっ!!」

 

 大きく開かれた口から細長い触手が勢いよくこちらへ飛び出してきた。

 

「あぐっ!?」

 

 それは狙ったようにリアスの首へと巻きついて、きつく締め上げてくる。

 

「ヒャハァアァアアァアアァア!!」

 

 喰らいついてこようとする(あぎと)を咄嗟に後方へと飛び退って回避したが、しかしそれは単に奴との距離を一時的に遠ざけたに過ぎない。

 

「……う、そ……!?」

 

 着地して顔を上げたリアスは、目の前の状況に戦慄した。

 今まさしくリアスの気道を塞ごうとしている一本は、かろうじて舌が変形したものだと理解出来た。だが今彼女の視界に広がるのは、どこから生えているのかさえ判らないほど大量に蠢く無数の肉の鞭なのである!

 誤算だった。

 バイサーの……いや、はぐれ悪魔の力を少しでも見くびっていたことが生んだ、致命的な油断だった。

 あの数を喰らえば、たとえリアスであっても無事では済まない。

 

「先輩! 何してるんですか!?」

「……斬輝くん! 戻って!」

 

 後方から一誠と朱乃の上擦った声が聞こえたのは、その時だ。

 ……え?

 今、誰の名を呼んだの?

 引き延ばされたような時間感覚の中で、弾かれるようにリアスは背後を振り向いた。

 一人の青年が、こちらに向かって必死に走ってくる。

 思い通りに動かない軀に鞭を打つようにして、その右手はまるでリアスに差し伸べる格好である。

 その後、リアスはこれから起こることのすべてを理解出来なかった。

 

「死ねぇええぇええええぇぇえ!」

 

 バイサーが叫ぶと同時に、世界が回った。

 抱き締められた勢いで、背後を向いていたリアスの位置が一八〇度回転したのである。

 咄嗟に目をつむった直後、ひと続きの轟音とともに衝撃がリアスの軀を襲ってきた。

 痛みはない。

 そう。叩きつけてきたのは、衝撃だけなのだ!

 

「そんな……」

 

 そう呟いたのが祐斗なのか一誠なのかは判らない。

 締め付けられてやや息苦しい中、ゆっくりとリアスは瞼を開ける。頭も強く押し付けられていて、だから余計に苦しかった。

 やがて視界に映ったのは、背中から生えるいくつもの棘だった。

 ……いや、違う。生えているのではなく、突き刺さっているのだ。

 捕らえた獲物は、リアス・グレモリーではなかった。

 その前……彼女を護るようにして抱き締める青年である。

 その姿勢のまま、彼は動かない。

 

 

「ざん、き……?」

「ふーっ! ふーっ! ふーっ!」

 

 リアスの呟きに応えたのは、荒い息で呼吸するバイサーだった。

 

「莫迦な人間ねぇっ! わざわざ悪魔なんかを庇って死ぬなんて!!」

 

 血反吐を吐き散らしながら、満身創痍のはぐれ悪魔が吠えた。

 死ぬ……?

 私を護るために、斬輝が……?

 

「そ、んな……」

 

 嘘よ。

 

「部長!」

 

 朱乃の声に、さらに追い打ちをかけるようにバイサーが肉の棘がリアスの頭上を越えて行った。続く破砕音は、床が抉れたのだろう。

 

「今度こそ……」

 

 喋るたびに血を吐き出しながら、徐々にその頭がバイサーの肉体から離れてゆく。

 首だけが、異様に長く伸びていた。

 

「あなたを食べてあげるわぁあぁああぁぁああ!!」

 

 あれがおそらく、バイサーの最後の一撃なのだろう。

 許せない、とリアスは思った。

 許せない。

 バイサーはもちろんだが、何よりも自分が許せなかった。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ゆっくりと、リアスの頭を包んでいた手が離される。

 

「……ぇんだよ」

「えっ?」

 

 突然の声に、密着していた胸がかすかに振動する。

 なに?

 なんなの?

 バイサーの歪な顔面が、さらに迫ってくる。

 

「死ねぇえぇえぇえええ!!」

 

 だが。

 

「……痛ぇっつぅんだよ、こンの糞莫迦がぁあっ!!」

 

 突如として斬輝が叫び、垂らした右腕を遠心力の勢いに任せて振り向きざまに振り抜いたのである。

 今まさに、リアスの頭を喰らわんとするバイサーへと。

 ぶん、と大気を切った拳は、

 

「……あ?」

 

 一瞬の呆けたようなはぐれ悪魔の声とともにバイサーの顔面へと叩きつけられる。瞬間、じゃりん、と金属が擦れ合うような音が聞こえた気がした。

 そして、拳がそのままバイサーを打ち抜いた時、

 

「えっ……?」

 

 その直後の光景に、己の目を疑った。

 大きく開かれた口を基準にして、ゆっくりと上部がずり落ちてゆくのだ。

 そして、大量の血飛沫(ちしぶき)

 返り血は、ちょうど斬輝の影になる位置にリアスが立っていたために彼女が浴びることはなかった。

 首を絞めていた触手が解かれ、リアスはたまらず咳き込んだ。

 何が起こったのか、はっきり言って彼女には判らなかった。おそらく、それは朱乃達にも同じことが言えるだろう。

 なぜ、たった一度の殴打でバイサーの頭部が両断されたのか。

 問おうにも、口から言葉が出てこなかった。

 ただ黙って、『バイサーだった』者が力なく倒れ伏すまで見届けているしかなかったのだ。

 肩で荒く呼吸をする斬輝はリアスの代わりに盛大に返り血を浴びていて、その姿を見た途端、彼女は恐れよりも畏怖を覚えた。

 何が起こったというの……?

 

「……終わった、のか?」

「え、あ、あの……」

 

 斬輝の呟きに、応えるリアスは咄嗟に顔を俯かせた。

 さっきの醜態を思い出して、途端に気恥しくなったのだ。

 

「……ありがとう」

「おう」

「その……痛く、ないの?」

「何がだ」

「背中」

 

 リアスが言う先には、無数に空いた穴からどくどくと鮮血があふれ出る背中があった。

 

「痛ぇに決まってんだろうが。今もズキズキしてて、堪んねえよ」

 

 頬を左手で搔きながらあっさりと返す斬輝に、しかしリアスは吃驚(きっきょう)した。

 それだけ?

 これだけの傷なのに、そんな程度にしか感じないの!?

 

「お前こそ」

「え?」

「首、大丈夫か。痕ついてんぞ、赤いの」

 

 言われて、首元をさする。

 絞められていたからだ。

 

「え……ええ、今は何ともないわ。痕もしばらくしたら消えるでしょう」

「そうか。とにかく、無事ならそれでいい」

 

 行くぞ、と言って、斬輝は踵を返してとっとと朱乃達のもとへと歩いて行った。

 血の跡を残して。

 

 

 その後、屍体(したい)となったバイサーの亡骸を滅びの魔力で跡形もなく消し飛ばしたリアスは、すぐさま朱乃とともに斬輝の治療を始めた。

 止血を終えて包帯を巻こうとした時、バイサーによって穿たれた背中の穴から、骨が見えた。ちょうど、背骨と肋骨が繋がっているあたりだ。

 銀色だった。

 

 

 右の拳の打面に一直線の傷があることに気づいたのは、それからだった。




 今回、朱乃の雷攻撃において独自に付け加えた設定がある。
 とはいえ、単に文字どおり上空からの落雷を横方向への『落雷』にした方が絵的に面白いかなあ、と思って足したものだ。特撮モノの敵キャラが稀に使う電撃攻撃……もっと言えば「スターウォーズ」シリーズでダース・シディアスが使ってるアレをご想像していただければ間違いないだろう。
 なんか、あっちの方が痛そうでしょ?(苦笑)


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第四章 蔑まれし聖女

 本日の「第四章~」と次週の「第五章~」はそれなりの分量なので、時間のある時にでも覗いてやってください。


       

 

 

 刀剣の善し悪しを語る時、必ず一点だけ共通する部分がある。

 刀剣に要求される硬さ、弾力、長さ、重さ、そして形状……。それらは全て、いかに用いるかによって大きく異なる。

 しかし、可能な限り刃が薄いこと、という条件は変わらないのである。

 刀身全体ではなく、まさに標的に触れる部分、厳密な意味での『刃』のことだ。標的に喰い込み、切り裂く刃の面……いや、線だけは、可能な限りの薄さを持っていなければならない。

 それは、単純な理屈である。

 対象にかかる加重が等しい時、その面積がより少ない方が大きな力となる。釘の先端が尖っているのと、同じ理屈だ。

 ならば。

 究極の刀剣とは、すなわち『厚みのない刃』を持った刀剣であると言えよう。

 それが可能であるか否かを問うことさえしなければ、まさにそれは理想の刀剣である。

 だが、

 そんな厚みのない……完璧な二次元平面の刃など、本当に存在し得るのだろうか?

 弱っていたとはいえ、はぐれ悪魔であるバイザーを一撃で沈めることの出来る刀剣など、あり得るのだろうか?

 

「はぁ……」

 

 何度目か知らない溜め息を漏らしつつ、リアスは二日前の出来事がどうにも解せないでいた。

 陽が沈み始めたころから降り始めた雨は、夜には本降りになった。

 もうすぐ零時を回りそうな今となっては、土砂降りである。

 そんな間断なく続く激しい雨音をBGMに、

 

「……もしかして、斬輝くんのことですか?」

 

 リアスの横に立つようにして、朱乃が囁いた。それはつまり、今ここにいる他の部員には極力聴こえさせないようにするためだ。

 そんなことをしても、悪魔の聴力ともなれば意味がないと判っていながら。

 うなずいて、リアスは執務机の上で組んだ手の上に顎を乗せた。

 バイザーが想定外の特攻を仕掛けてきたというのも、もちろんある。だがそれ以上に、彼の肉体に起きた変化の一端を垣間見てしまったことの方が、よっぽど大事だったのだ。

 まさに、朱乃の言う通りである。

 今リアスの頭の中には、二つの疑問点が生まれていた。

 一つは、なぜバイザーの頭部が……それも斬輝が振り向きざまに薙いだ拳の流れに沿って『上下』に分断されたのか。

 もう一つは、

 

「彼の『骨』……ですか?」

 

 吐息だけの声に、わずかに朱乃の方に瞳が向いた。

 ええ、そうよ。

 彼女も『見』ているんだもの、気づいていて当然だわ。

 

「……そうね」

 

 あの日……悪魔としての闘い方及び悪魔の駒(イーヴィル・ピース)の説明を二人に施そうとした二日前の夜だ。

 リアスを庇って背中にいくつもの穴を穿たれた斬輝を朱乃と二人がかりで治療をした時に、見えたのだ。

 肉を抉られた痛々しい傷の中に、血の赤に混じって鈍色(にびいろ)の光を放つ『それ』を。

 最初に見た時、リアスはそれが何なのか判らなかった。無論、朱乃もだ。

 しかし徐々に止血されてゆくにつれ、鈍色の正体が判ってきたのだ。

 そして、以前から気になっていた斬輝の肉体の『異変』の一部を理解した瞬間、リアスは戦慄した。

 同時に、あり得ない、とも思った。

 あれが……あの鈍色の輝きが黒鉄斬輝の中に眠っていた神器(セイクリッド・ギア)と関係があったとしても、

 

「あんなモノ……一度も見たことないわ」

 

 そこまで自分で言ってしまってから、ふとリアスは気づいてしまった。

 以前、部室で倒れた斬輝を家まで連れて行った、翌朝のことだ。

 あの時、彼は自分で言っていたではないか。

 自分の中にあるのが神器(セイクリッド・ギア)なのかさえ判らない、と。

 たしかにそうだ。

 あれは……神器(セイクリッド・ギア)と呼べるのだろうか?

 おそらく『彼』に訊いたところで、すぐに明確な答えが返ってくることはないだろう。

 

「どうぞ」

 

 朱乃が、つい、と紅茶を淹れたティー・カップを机の上に置く。

 

「ありがとう」

 

 頭を一度整理させるべく、一口だけ飲んだ。

 

「……そういえば、イッセーは?」

「あら、イッセーくんなら今夜も依頼人のもとに行っていますわよ」

 

 今日も?

 

「この雨で?」

「そのようですわね。放課後の部活時にも何やら張り切っていましたから」

「そう……」

 

 無理もない、とは思う。

 一誠の駒が『兵士(ポーン)』だと明かされた時の落ち込み方は、むしろ主であるリアスでさえ同情してしまいそうなほどのものだったのだ。

 期待していたがゆえに、谷底へと叩き落とされたような感覚だったのだろう。

 たしかに『兵士(ポーン)』は弱い。本来のチェスにおいても捨て駒扱いなのだ。

 だが今の朱乃の言葉を聴いて、少しだけ安心した。

 張り切っているということは、とどのつまり、落とされた谷底から這い上がろうともがいているということだ。

 もしもあのまま沈まれでもしたら、それこそどうすれば良いのか判らなくなる。

 カップを口に運ぶ。

 

「何事も起きなければ良いのだけど」

「そうですわね……」

 

 あの夜からこっち、斬輝は部活に顔を出していない。まるでリアスを避けているかのように、話しかけることさえ少なくなっているのだ。

 いや……あるいは、恐れているか。

 この二日で、彼はずいぶん変わった。なんとか傷を塞ぐところまで出来たころには、さんきゅ、とだけ言って一人で勝手に帰ったのである。

 でも、と思う。

 私には、あの時の彼を止めることは出来なかった。

 傍に居てあげたくても、今の私にはそれが出来ないのよ。

 二重の意味で。

 下僕には、心から慕われている。主としても、愛されている。

 またもちろん、リアスだって眷属悪魔達を家族のように愛していた。

 もともと、グレモリー家は情愛が深いことで知られる家系だ。もしかすれば、それが彼女と下僕達との関係を深められている理由の一つなのかも知れない。

 そして実際に、そうなのだろう。これまで何度も下僕達を助けてきたし、助けられてきたのだから。

 しかしそれは、あくまで『グレモリー家のリアス』としての関係性だ。

 悪魔としてではない『リアス』として助けられたのは、あれが初めてのことだった。

 情けない。少ないながらも眷属悪魔を持つ上級悪魔として、そして何より一人のオンナとして、リアスは自分が情けないと思った。

 

「それにしても」

 

 朱乃がふとそう呟いたのは、再びリアスがカップを口に運んだ時だった。

 しかもそれは、囁きではない。ソファに座って本を読んでいた木場が、同じく向かいのソファで黙々と饅頭を食べていた小猫が……その場にいた部員達がその視線を朱乃の方へと向けたのである。

 

「妙ですわね」

「どうしたの?」

「おかしいとは思いませんか?」

「な……」

 

 ……なにを、と言いかけて、

 

「あ」

 

 リアスはわずかに上擦った声をあげた。

 そうだ。たしかに、おかしい。

 兵藤一誠は、どういうわけか魔法陣を介しての移動ができないでいる。そのため、彼は自らの『足』を使って依頼主のもと赴く必要があるのだ。

 前代未聞である。

 ゆえに、依頼主のもとへ到着した際には一度こちらに連絡を寄越すように言っている。それは目的地へ無事到着出来たことの報告でもあり、また彼の安否の確認のためでもある。

 だが今夜は、それがないというのだ。

 それが意味することはただ一つ。

 

「部長」

 

 木場である。見るとすでに本は片づけられていて、だから彼がなにを言いたいのかはすぐに理解出来た。

 そして、小猫も。

 

「ええ」

 

 最後の一口を終えて、立ち上がる。

 

「行くわよ」

 

 

 

       

 

 

 磔にされた男なら、彼女も一人だけ見たことがあった。かつて、全人類のすべての『罪』を背負ったことによって、何の力も持たない普通の人間によって磔にされた男である。

 だが彼女が見たのは、四肢を釘で打ち抜かれ、十字架へと吊るされた男だったのだ。

 それも、本物の人間ではない。彼女が見たのは、精緻な彫刻だったのだ。

 決して民家の……それもリビングの壁に逆さまの格好で莫迦デカい釘に穿たれる生身の男ではない。

 本物の屍体ではない!

 

「……い、いやぁぁあぁぁああぁあああぁあっ!!」

 

 無残に壁に打ちつけられた『男だった者』の姿を見たアーシア・アルジェントは、辺りに響くような甲高い声をあげた。

 金切り声をである。

 酷い。

 酷過ぎる。

 いったい、誰がこんな残虐なことを……?

 その時だ。

 

「おんやあ? 助手のアーシアちゃんじゃあ、あぁりませんかあ! 結界は張り終わったのかなあ?」

 

 聞き慣れた声がした。

 弾かれたようにそちらを向くと、『彼』がいた。肩まで伸びた白髪に、白のインナー。その上には黒のロング・コートという恰好である。

 季節感など、ないに等しい。

 そしてその両手には、一丁の拳銃と一振りの剣が握られていた。

 そこには『刃』はない。悪魔にとって猛毒とされる『光』を『刀身』として扱えるようにしているのだ。言うなれば、光刃剣(こうじんけん)である。

 そして、首にかけられた十字架……。

 

「フリード神父さま!? こ、これは……」

 

 うろたえるアーシアに、しかしフリードはさらなる驚愕を彼女に与えた。

 

「そっかそっか、アーシアちゃんはまだビギナーでしたな。これが俺らの『仕事』。悪魔に魅入られた駄目人間は、こうして始末するンすよぉ」

 

 にたり。

 狂気の笑みを向けて、だ。

 

「そ、そんな……!」

 

 そして、ふいに視線がフリードの肩越しへと移った。

 

「……えっ!?」

 

 瞬間、アーシアは自分の目を疑った。

 リビングの真ん中である。

 屍体から滴る血が広がるフローリングの上で、片膝をつく男性がいた。

 少年である。

 アーシアと同い年くらいの。

 どこの学生かは知らないが、しかしその服装には見覚えがあったのだ。

 シャツを全開にして、その下に真っ赤なTシャツを着た少年である。

 もはや、間違えようがなかった。

 

「…………イッセー、さん……?」

 

 おそるおそる、その名を口にした。

 そして声に出してしまった瞬間、彼女の心の中で何かが崩れた。

 

「ア、アーシア……」

「なぁになに? キミ達もしかしてお知り合い?」

 

 フリードが、面白おかしくアーシアと一誠を交互に見やる。

 

「どうして、あなたが……?」

 

 兵藤一誠は、アーシアの方を向いていた目を逸らした。

 あとに続くのは、

 

「ごめん……」

 

 ただ、その一言だけだった。

 なぜ?

 なぜ彼が、こんなとこにいるの?

 

「フリード神父さま……その人は…………?」

「人ぉ!?」

 

 アーシアの声を遮るように、突然フリードが声を張り上げた。あからさまに両腕を広げて、まるで無知であることを嘲笑うかのようだ。

 

「ノンノン、こいつは『ヒト』なんかじゃありまっしぇえん! 下劣で糞な悪魔くんなんですぜえ!」

 

 悪魔?

 イッセーさんが、悪魔……?

 軽い足取りで近づいてきたフリードが、そのままアーシアの肩に腕を回す。

 

「残念だけどアーシアちゃん。悪魔と人間は、相容れません! ましてや僕達は、堕天使さまのご加護ナシでは生きてはいけぬハンパ者ですからなあ……」

 

 アーシアは、彼の言葉に応えることが出来なかった。

 その通りだからだ。

 悪魔と人間は相容れない。

 そして人間を惑わす下劣な悪魔は、神父によって裁かれるのが常なのだ。

 いや、

 だが、

 しかし、

 彼は、本当に人を惑わす悪い悪魔なのだろうか?

 初めて逢った時、彼はロクに日本語も判らないアーシアに手を差し伸べてくれた。道に迷っていた彼女を、目的地まで案内してくれたのだ。

 そんな彼が、悪い悪魔なのか!?

 

「まあともかく」

 

 フリードが、踵を返して一誠のもとへと歩き出す。

 

「とっととお仕事完了といきましょうかねえ」

 

 そのまま、光刃剣の切っ先を『悪魔』である一誠の首へと突きつける。

 

「覚悟はオーケー?」

 

 剣を振りかざす。その動作を見た瞬間、駄目だ、と思った。

 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!!

 このままでは、彼が殺されてしまう!

 フリードの手によって!!

 

「……待ってください!」

 

 気がついた時、アーシアの軀は勝手に動いていた。

 今まさに一誠を叩き斬ろうとするフリードと、なす術もなくその場に座り込む一誠との間に割り込んだのだ。

 一誠には背を向けて、

 フリードを向くように、

 両手を広げる格好で。

 

「……おいおい、マジですか」

 

 ふいに視界が無数の光芒に歪み始めた中で、彼女は自身の行動を思い返していた。

 ああ、そうだ。

 庇っているのだ。

 護っているのだ。

 泣きながら。

 

「フリード神父さま、お願いです! この方をお許しください!」

 

 兵藤一誠という、一人の少年を。

 ……悪魔を。

 正直、まだどちらが真実なのか判らない。

 悪魔は人間の敵で、討伐されし『獲物』なのか、有効的な関係を築ける『友』なのか。

 だが少なくとも、今のアーシアが信じていたのは、フリード・セルゼンではない。

 彼女の後ろにいる少年だ。

 

「どうか、どうかお見逃しを……!!」

 

 背後で、息を呑むのが聴こえた。

 

「キミ、自分がいったい何をしてるのか判ってるんスかあ?」

 

 詰め寄ってくるフリードをまっすぐに見据える彼女の瞳には、涙が溜まっていた。

 たくさんです。

 もう、たくさんです。

 悪魔に魅入られたからって人間を裁くのも、悪魔を殺すのも……そんなの絶対、間違ってます!

 

「たとえ悪魔だとしても、イッセーさんは良いヒトです! それにこんなこと、主がお許しになるはずがありません!!」

 

 心の叫びに、しかしフリードはさらに激昂した。

 そして、

 

「はあ!? なに莫迦こいてんだよ、この糞アマがあ!!」

 

 光刃剣を持っているのとは反対の手を……祓魔弾(ふつまだん)が装填された全長三〇センチばかりの拳銃を一気に横へと振り抜いたのである。

 アーシアへと!

 

「ア、アーシア!?」

 

 激突の寸前、一誠が上擦った声をあげた。

 痛みに声をあげることもなく、アーシアはそのままフローリングの床へと叩きつけられる。

 振り返ったアーシアが見たのは、怒りに顔面を歪めるフリードの姿だった。

 

「こんな糞野郎を庇おうとするなんて、キミには少し調教が必要かなあ!」

 

 標的をアーシアへと変更したフリードが、光刃剣をかざす。

 そして彼女へと斬りかかろうとした時、

 フリードとアーシアに挟まれた恰好の床が淡く光り出した。

 

「あん!? なんですかぁ、こいつはぁ!」

「部長……?」

 

 誰に問いかけるでもないフリードの言葉に、答えるように一誠がつぶやいた。

 次の瞬間、淡い光は深紅の円へと変じる。いくつもの直線や曲線がもつれ合うように組み合わさったそれは、俗に『魔方陣』と呼ばれるものであることをアーシアは知っている。

 突然、床に出現した魔方陣に重なるように、全く同じものがその上に現れた。

 音はない。ただ、魔方陣から悠然と光が放たれているだけだ。

 二つ目の魔方陣が、遠ざけ合う磁石のようにゆっくりと上昇してゆく。見慣れない魔方陣に挟まれて、徐々に数人の足元が見え始めてきた。

 

「やはりね……来てみて正解だったわ」

 

 突如として聞こえる、女性の声。大人びたそれは、どこか聴く者を安堵させる力があるように思えた。

 やがて魔方陣が消え入るように消滅すると、そこには数名の『悪魔』が立っていた。

 

 

 一誠からの連絡が来ない。それが判った瞬間に、リアスは考えうるすべての可能性を思慮した。

 移動中になんらかのトラブルに巻き込まれたか、到着はしたが肝心の依頼主がお留守だったか……いずれにせよ、それならば彼からの連絡は来ているはずだろう。

 ならば。

 残された選択肢は、ただ一つ。

 依頼主の間に何かが起こり、その場に居合わせた一誠までも巻き込まれている。

 眷属を連れて現場へ向かったリアス達が見たのは、惨状だった。

 薄暗い中でもはっきりと視認出来る『赤』に、ベッドが据え付けられた脇の壁に逆十字の格好でどデカい釘に貫かれた人間の遺体。床へと広がる血溜まりは、辿るとその人間へと繫がっている。

 そしてその傍で、片膝をついて苦痛に呻く一誠の姿……。

 思った通りだった。

 

「やはりね……来てみて正解だったわ」

 

 胸の奥底から湧き上がってくる『ナニカ』を無理やり押さえ込んで、けれど呟くリアスの声はわずかに震えている。

 彼女達の前にいるのは、今まさに光の刀身を持つ柄を握る白髪の青年である。その目は怒りに見開かれ、同時に『乱入者』であるリアス達を睨みつけている。

 

「なんですか、なんですかあ!? 悪魔御一行さまのご来店ですかあ! だったらさっさと俺っちに斬られてちょーだい!!」

 

 同時に踏み込んでリアスへと放たれる一撃に、応えるのは鋭い金属音である。持ち前の速度でリアスの前へと入り込んだ木場が、手にする魔剣で受け止めたのだ。十字に交差する恰好のまま、二本の剣は金属の軋みをあげながらお互いの『刃』を削り、その斬れ味を悪くさせてゆく。

 顔の正面で魔剣を横に倒した恰好で、

 

「下品な口だね、とても神父だとは思えないよ。……いや、だからこそ『はぐれ悪魔祓い(エクソシスト)』なのか」

 

 下卑た笑みを浮かべる悪魔祓い(エクソシスト)へと言う。

 

「あいあい! 下品でござーますよ! サーセンね! だって、はぐれちゃったんだもん! 追い出されちゃったもん!!」

 

『悪魔祓い』とは、神の名のもとに魔を滅する聖なる儀式のことである。

 だが悪魔祓い(エクソシスト)と呼ばれる者達には、大まかに分けて二通りの存在がある。

 一つは、神の祝福を受けた者達が行う正規の悪魔祓い。神や天使の力を借りることで、悪魔を滅するのだ。

 そしてもう一つは、悪魔を殺すこと自体に生き甲斐や悦楽を求めたがゆえに教会から追放された者達だ。

 命名の仕方としては、だからはぐれ悪魔に通ずるものがあるのかも知れない。

 だが厄介なのは、同じく悪魔が邪魔な堕天使達と利害が一致してしまった、ということだった。悪魔狩りにはまり込んだ危険なエクソシスト達が、神の名ではなく堕天使の加護を受けて、悪魔とその悪魔を召喚する人間へと牙を剝いたのである。

 目の前のこの少年が、その典型だ。

 無残に殺された男の屍体を横目に、

 

「イッセー、ごめんなさいね。まさかこの依頼主のもとにはぐれ悪魔祓いの者が訪れるなんて計算外だったの」

 

 一誠に向けてリアスがつぶやいた。そこでふと、一誠の脚を見た。

 

「……イッセー、怪我をしたの?」

「あ、その……はい。撃たれちゃって」

 

 弱々しく語る一誠は、それでもリアスに……仲間達に少しでも心配をかけないようにと苦し紛れの笑みを浮かべる。

 おそらく、あの少年神父の握る拳銃によるものだろう。

 エクソシストは、確実に悪魔を滅せられる手段を最優先にしてくることがある。それはすなわち、悪魔を確実に仕留めることの出来る武器を使用するということだ。

 そして悪魔は、光を嫌う。

 つまりは、そういうこと。

 自然と、怒気を孕んだ声が彼女の喉から漏れた。

 

「……ずいぶんと私の下僕を可愛がってくれたようね」

 

 鍔迫り合いからお互いに距離を取り……余裕なのか、しかし神父はいまだに下衆い笑みを浮かべたままだ。

 

「はいはい、可愛がってあげましたよぉ? 本当は全身くまなく斬り刻む予定でござんしたが、どうにも邪魔が入りまし……」

 

 ペチャクチャと喋り続けるエクソシストへ向けて、素早く右掌を突き出す。

 最後まで言わせなかった。

 ぼんっ、というくぐもった炸裂音とともに、神父をかすめるようにして放たれた『滅びの魔力』が、彼の背後に位置する家具の一部を消しとばしたのである。

 

「私ね、自分の下僕を傷つける輩を絶対に許さないことにしているの」

 

 次なる魔力の弾を生成させながら、特に、と付け加えた。

 

「あなたのような下品極まりない者に自分の所有物を傷つけられることは、本当に我慢出来ないわ」

 

 魔力の波動が辺り一帯を支配する中で、両目を細め、わずかに唇を笑みに歪める。

 おそらく彼の目には、それは不敵な笑みだと捉えるだろう。

 まさに、悪魔の笑みである。

 

「……堕天使、複数」

 

 小猫が、『臭い』に反応した。

 ああ。

 たしかに近い。すでにリビングの天井を這うようにして、楕円形の薄暗い空間が広がり始めていた。

 

「ひゃっはあ! 形勢逆転ですなあ!! 皆さんまとめて光の餌食、決定ぃ!!」

「このままでは、こちらが不利になりますわね」

「そうね……朱乃、イッセーを回収しだい本拠地へ帰還するわ。ジャンプの用意を。小猫、イッセーをお願い」

 

 魔法陣による転移である。仕える主の使用する魔方陣に刻印を読み込ませることによって空間の移動が可能になるのだ。

 あるていどの魔力量がある悪魔ならば、基本的な移動はすべてこれで済ませることが多い。

 

「判りました」

「部長! あの子もいっしょに!!」

 

 小猫に担がれるようにして起き上がった一誠が、先ほどリアス達が転移した位置の後ろを指差す。そこには、頬に痣をつけた金髪の少女が座り込んでした。

 おそらく、彼女が以前一誠が言っていたシスターだろう。

 だが、彼女は悪魔ではない。

 それも堕天使側の人間だ。

 

「無理よ。魔法陣を移動できるのは、悪魔と私が認めた一部の人間のみなの」

 

 それに今回の場合、グレモリー眷族しかジャンプが出来ないという、急ごしらえなものだった。

 少女が信用のおけるものであれば少しばかり事情は変わっていたかもしれないが、いずれにせよこの魔方陣の『組み方』では彼女もジャンプさせることは出来ない。

 

「……アーシア!」

 

 シスターに向かって必死に手を伸ばす一誠に、アーシアと呼ばれた彼女はわずかな涙を流しながら、しかしこの状況下で絶対に浮かべないような表情をした。

 笑みである。

 こんな時でも、彼女は笑みを浮かべるのだ。

 

「イッセーさん。また……また、逢いましょう」

 

 それで、終わりだった。

 次の瞬間、

 

「逃がすかって!」

 

 斬り込んでくる神父の剣がリアスに触れる寸前で、

 

「……え?」

 

 見覚えのある銀色が視界に入ると同時に、彼女達は転移を終えていた。

 

 

 激しい金属音がリビングに響いたのは、まさに紅の女悪魔が仲間どもを連れて転移魔方陣でどこかへ移動し終えた直後だった。ちょうどフリードが構えた光刃剣を受け止める格好で、彼の真横から別の銀色が伸びていたのだ。

 刃だ。

 しかも、それはすでに赤く(ぬめ)っている。

 血だと判った瞬間、フリードは首だけを動かした。

 

「ああん? 今度は何ですかあ!?」

「さあな」

 

 応えるのは、男の声である。いや、音の高さからすると……ひょっとしたらまだ若いのかも知れない。

 青年か?

 少年か?

 しかし、声の位置からして明らかにフリードよりは背丈のある者だろう。

 それ以上は判らない。なにしろ、銀色の根元を探ろうとしても、その先にあるのは深い闇なのである。

 ゆいいつの光源だったロウソクの火が消えていたことに気がついたのは、この時だ。おおかた、さっき華奢な白髪の少女が投げ飛ばした家具か何かが激突したのだろう。

 真の闇である。

 仕事柄暗闇に慣れてはいたが、それでも男の纏う衣服さえ黒いのかその姿はまったくといっていいほど視認出来ない。

 男が血塗られた銀色の剣を持っている……少なくとも、理解可能だったのはそれだけだった。

 

「こちとら、その辺散歩してただけだってのに」

 

 男の声には、嘆息が交じっている。

 だが、その声音はどこか軽いのだ。

 まるで、初めてのデートをすっぽかされたみたいな……。

 

「騒がしいと思って来てみたら、案の定か」

 

 だが、今のフリードにはそんなことはどうでもよかった。

 それよりも、『お楽しみ』を邪魔されたことの方が問題だったのだ。

 剣を引き戻し、

 

「案の定だあ!?」

 

 続く動きで振りかざす。

 

「勝手にヒトさまの楽しみを奪ってくれちゃって! そーゆーイケナイコは俺さまが直々に頭カチ割ってやんよぉおっ!!」

 

 狙うは、相手の『頭部』があると思われる位置である。

 男が悪魔だろうが人間だろうが、関係なかった。

 少なくとも、見られたことに変わりはないのだ。

 

「……フリード神父さま! お止めください!!」

 

 涙で鼻詰まった悲鳴のような叫びが聴こえたが、そんなものは聴こえていないも同然だ。

 邪魔する奴は斬る。

 誰だろうと、俺の邪魔をする輩は斬り飛ばしてやる!!

 

「さっさと死んじまってくだせぇえ!!」

 

 だが。

 

「うっせえ」

 

 聴こえたのは、どこか間の抜けた男の声と、

 じゃりん!

 という金属の擦れ合う音。そして、

 がぁん!

 再び金属が打ち合う音だった。

 

「……あれぇ~? なんで斬れないの? ねえ、なんで俺っちの剣で斬れないの?」

 

 思わず、眉を寄せた。

 おかしい。

 柄を握る掌に伝わるのは、肉を割いて骨を断つ際の手応えではない。それどころか、彼が振り下ろした斬撃は標的にすら到達していないのである。

 必死に押し切ろうと左手も使って力を込めるが、彼の刃はびくともしない。

 

「まだ慣れてねぇんだ」

 

 剣の軌道を妨げるもの。

 それは、一つしかなかった。

 

「そんなに数出させるなよ」

 

 常闇の中で、しかし確かに男の口許が歪んだように見えた。

 笑みに。

 にやり。

 すると突然、男の抵抗が終わった。力を入れ過ぎたのか前へつんのめりそうになるのを、

 

「……のわっと!!」

 

 何とか踏ん張った。

 

「あーぁあ、そういうことか。なるほどな。何となく状況は判ったわ」

 

 背後だ。

 いつの間にか背後から、さっきの声が飛んでくる。

 

「どうりで、血生臭いわけだな」

 

 そして聴こえてしまった瞬間、フリードはなぜか心臓を鷲摑みにされるような寒気を感じた。

 なんだ?

 なんなんだ、これは!?

 

「こン畜生がぁああ!」

 

 わずかに芽生えた『恐怖』という感情を振り払うように、フリードは光刃剣を振り向きざまに男へと振るった。

 がきぃん!

 ほら、まただ。

 さっきまで、男は左にしか剣を持っていなかった。だが直前のフリードの剣撃を、男は『右』の手で受け止めたのだ。

 いや、違う。右の剣で受け止めたのだ。

 つまり相手は二刀流。対してこちらは、一本の剣に対悪魔用の祓魔弾が装填された拳銃である。

 光刃剣が男の持つ剣によって弾かれ、柄を握っていた腕をふいに摑まれる。

 

「……ぐふっ!」

 

 直後、腹に強烈ながらも鈍い痛みを覚えた。

 蹴られたのだ、と思った時には、すでに体制を低くしてうずくまってしまっていた。おまけに腕を摑まれていた分、衝撃を分散させる術がなかったためモロに入っている。

 

「が、あ……!?」

 

 暗闇の中で、まさに虚を突かれたと言ってもいいだろう。姿が捉えづらい分、男の挙動に反応するのが比較的難しいのである。

 しかもあの糞悪魔と決定的に違うのは、こちらはあるていどの『経験者』であるということだ。

 あるいは、常に何らかのトレーニングを積んでいるか。

 いずれにせよ、彼の前蹴りは糞悪魔のヘナチョコ・パンチとは比べ物にならないほどの威力を秘めていたことに変わりはない。

 

「おい」

 

 視線を上げたフリードが見たのは、片足で立っている奇妙な姿の『ヒト』だった。

 そう。この時初めて、それがジャケットを着たヒトの形をしていることを目で『見た』のである。

 扉が開け放たれているのか、だから街灯によって照らされた外のわずかな光が、玄関を抜けて廊下へと射し込んでいる。

 もう片方の脚は、顔面に接触するのではないかと言うくらいまで引きつけられている。……いや、振り上げられているのだ。

 すさまじい柔軟力である。

 次の瞬間、フリードは眼前の男が何をしようとしているのかを察した。祓魔弾が装填された銃を使おうと思ったが、さっき両手で柄を握って押し斬ろうとした時に仕舞い忘れたのか、何度ホルスターのあたりを探ってもそれらしき手触りがなかった。

 落としたか!?

 

「あれっ!? ないの? マジですか!!」

 

 ヤバい。

 こいつぁヤバい!!

 反射的に、握っていた刀身を横に倒して剣を構え直す。

 

「ヒトさまの命勝手に奪っちまうようなイケナイコは、頭カチ割らねぇとな」

 

 遅かった。

 ぶん、と大気を切って振り下ろされた右脚は、フリードの脳天に直撃した。

 中に鉛でも流し込んでいるかのように重かった。

 堕天使の加護が効いているのか、頭蓋骨はいくらか陥没しただろうがカチ割られはしなかった。

 フローリングに叩きつけられる直前にフリードが見たのは、

 天井に開いた楕円形の穴から数人の堕天使が出てくるところだった。

 はっはー!

 残念でした、糞野郎! これで邪魔したてめぇもジ・エンドだぜぇえぇええっ!!

 

「ぅげぁあぁあああっ!!」

 

 激突の瞬間、フリード・セルゼンは脳震盪(のうしんとう)を起こして気絶した。

 

 

 部室に到着した時、すでに兵藤一誠は疲労と光に蝕まれる痛みに耐えきれず気を失っていた。

 起こしてしまわないように、リアス達は慎重に彼の治療を進めていた。朱乃は脚に残る銃創を、リアスは左肩から背骨を縦断して右のわき腹へと続く背中の裂傷を、魔力で修復させてゆく。

 だが、この前ドーナシークにやられた時よりも治りが遅いことに、リアスは少なからず動揺していた。

 それはつまり、以前よりも力のある堕天使の加護が、あの少年神父にはもたらされていたということを意味していた。

 

「今回は、少し時間がかかりそうね」

「そうですわね……」

「部長」

 

 包帯を持って来た祐斗が、一誠を寝かせたソファの前にしゃがみこむ。ちょうど、リアスの隣に来る恰好である。

 

「目覚めた時、兵藤くんはどうすると思いますか?」

「イッセーが?」

「はい」

 

 そんなの決まってるわ、とリアスは言った。

 

「あの子を探しに行こうとするでしょうね」

 

 まだ、兵藤一誠との付き合いはそれほど長くはない。つい最近、堕天使によって殺されたのを助け、悪魔に転生させたばかりなのだ。

 だがそれでも、この短い間で彼の性格は何となく把握出来ていた。

 そう。

 それは、愚直なまでに真っ直ぐ、である。彼が学園内において変態として悪名高いことはもはや周知の事実だが、しかしそれは女性経験が極端なまでに無かったがゆえに至ったものだと考えれば、なるほど、と思えなくもない。

 何せ聞くところによれば、堕天使とは知らず彼女と付き合っていたわずかな期間だけは、学園内での変態思考は少しだけ緩和されたというのである。

 たしかに、彼は莫迦だ。阿呆だ。

 しかし、それでも一誠は笑ってしまうほどに真っ直ぐな少年なのである。

 そんな彼が、こんな状況に満足するわけがない。

 認めるわけがない。

 

「でも……」

 

 わずかに口ごもる祐斗に、リアスはうなずいた。

 

「難しいでしょうね」

 

 一誠は、悪魔側の人間。リアス・グレモリーの『兵士(ポーン)』なのである。加えてアーシアは、堕天使側の下僕と言うことになる。

 二つの存在は、決して相容れない。彼女を救うということは、すなわち堕天使を完全に敵に回すことになるのだ。

 そうなったら、もはや真っ向から闘うしか選択肢はない。

 だが、無用な闘いは避ける必要があるのだ。

 それは、先の大戦の結果からすれば、当然のことだろう。たかだか、ちょっとしたいざこざだ。そんなことで純潔の者どうしがひとたび拳を交えれば。お互いの勢力を少なからず削ぎ落とすことに繫がりかねないのである。

 

「部、長……」

「イッセー!?」

「イッセーくん!?」

「兵藤くん!」

 

 突然の声に、リアス達はソファを振り返った。いつの間に気がついたのか、痛む軀でも必死に両腕を使って起き上がろうとしていた。

 

「無理しちゃ駄目! あなたを蝕んでいた光は、想像していたものよりも強かったのよ!? まだ傷は治ってないの! 下手をすれば、また傷口が開いてしまうわ!!」

 

 リアスの制止に、けれど一誠は応じなかった。

 ただ肩を摑んだリアスの手を握って、部長、ともう一度つぶやいただけだ。

 弱々しくも、しかし彼の声はちゃんと聴こえている。

 

「俺、情けないです」

 

 その声が、

 

「女の子一人すら救えなくて……」

 

 震えている。

 それだけではない。リアスの手を包む彼の手までも、彼の心の叫びのようにわなわなと震えているのだ。

 

「弱いです、俺……」

「イッセー……?」

 

 うつむいた彼の顔を覗き込んで……ああ、なんてこと、リアスは彼の瞳にあるものに気づいてしまった。

 後悔、

 憐憫、

 憤怒……。

 さまざまな感情が入り乱れ、絡み合ったような意志が、今の彼の瞳には表れていた。

 ぱたり、とソファの生地に滴が落ちる。

 涙だった。

 唐突に、リアスは理解した。

 ああ、そうか。

 そうだったのか。

 

「部長……」

 

 もう一度、今度は目線を上げて、リアスの双眸を見据えるように。

 

「……俺は、アーシアを……」

「無理よ」

 

 けれど。

 それは許されない。

 

「……そんな!」

「悪魔と堕天使は、決して相容れない存在なの。判ってちょうだい……」

 

 少なくとも、今のところは。

 

 

 

       

 

 

 結局、リアスからは最後までアーシア救出の許可が下りることはなかった。それどころか、翌朝には学校を休めとまで言われてしまったのだ。

 理由は、まだ脚に負った銃創が癒えきっていないため。このままでは悪魔稼業に支障をきたす恐れがあるからだ。

 しかしこれは、一誠にとっては好都合だった。

 学校へ行かずに済むということは、少なくとも今日この日だけは部室へ赴く必要もなくなる。つまり、その気になればアーシアの捜索をすることが可能になるのである。

 脚は、かろうじて歩くぶんには影響ない。

 しかし、いざ探し回ろうと家を出たまでは良かったが、問題はその後だった。

 どうやって彼女のことを訊き出すか、だ。

 アーシア・アルジェントは、ここ数日の間に来日した。シスターゆえに特徴的な衣装をまとっていたことを度外視しても、たかだか一人の少女に対してそれほど有効な情報が得られるとはさすがに考えられないのだ。

 だが、可能性がないわけではない。廃れた教会の近所の住民達から詳しく事情をうかがえば、少なからずの『情報』は手に入るはずだ。

 ……そう思って、早速教会近辺から聞き込みなどをしていたのだが。

 二時間ほど経っても、まったくと言って良いほどに『情報』が集まらない。

 時には、悪魔に転生したことによって高められた視力を使った『目』での探索も行った。

 だが、結果はこのざまだ。

 見つかりやしない。

 公園のベンチにどっかりと腰をおろして、

 

「だはあ……」

 

 肺に溜まった二酸化炭素が、溜息となって一誠の口から吐き出された。両ひざの上に肘を乗せて、両の掌は頬杖の恰好である。

 腕時計を確認すると、すでにお昼を回っていた。

 

「なぁんで、誰も見てないのかなあ」

 

 アーシアを、である。

 教会の近くにいる者ならば、少なくとも一人くらいはその姿を目撃していてもおかしくはないはずだ。修道服に身を包んで、頭にはヴェール。色合い的にはいくらか地味なものの、それが人目につかないような服装でないことは一誠にも判る。

 それなのに誰も、見ていない、の一点張りなのだ。

 あるいは、と一誠は思う。

 アーシア達を『見た』という事実すら、あの堕天使が記憶操作を行って『なかったこと』にしているのか。

 ……天野夕麻が。

 以前部室でリアスから聞いた話からして、彼女は相当用心深い性格のようだ。あれだけ派手に暴れておいて、後始末だけは割かし手を抜かない。

 タチが悪いな。

 いずれにせよ、と一誠は思う。

 あそこでアーシアを護れなかったのは、俺のせいだ。

 俺が弱いからだ。

 神器(セイクリッド・ギア)なんて大層なモノを授かっておきながら、しかしその実、宿主の俺がヘッポコ野郎だったからだ。

 だから俺は、あのイカれた糞神父に手も足も出なかった。ただ、その場で無様にやられ続けているしかなかったのだ。

 

「……ちくしょう」

 

 思わず喰いしばった歯の間から、震える声がこぼれる。

 頬杖をついていた両手が、そのまま滑るように彼の両目を覆った。

 

「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!」

 

 瞑った瞼の奥に、一人の少女の顔が浮かんだ。

 アーシアだった。

 笑っていた。

 泣きながら、それでも彼女は精一杯の笑みを浮かべていた。

 

「アーシア……!」

 

 それが、限界だった。

 閉じた瞼の間から、透明の滴が溢れて来た。それは目元に押し当てられた両手の指の間を縫うように、ゆっくりと流れてゆく。

 護れなかった。

 ああ、そうだよ。

 いつも誰かに助けられてばっかりで、けっきょく俺は誰も護れなかった。

 弱い。

 弱過ぎるよ。

 涙をぬぐいながら、俺は、と思う。

 強くなりたい。

兵士(ポーン)』だけど、少なくともオカルト部の仲間を……学園のみんなを護れるくらいの力量はつけなきゃ駄目だ。

 それに、あの糞神父もぶっ飛ばさなきゃ。そのためには、斬輝先輩だけじゃなくて小猫ちゃんの持つ戦闘教義(ドクトリン)を身につける必要もありそうだ。

 

「あれ?」

 

 そこまで思案しているうちに、一誠はあることに気がついた。

 斬輝先輩……?

 ゆうべ、リアスに何か言われていたような気がする。

 なんだっけ?

 あれって、なんの話だったっけ?

 思い出せな…………………………………………………………………………思い出した!

 

「そうだ、先輩の家……!」

 

 弾かれるように立ち上がる。瞬間、治っていない銃創が悲鳴を上げて体制を崩した。

 たしかに今日、リアスには学校を休むように言われている。だが、もし動けるのなら斬輝の家に行ってちょうだい、とも言われていたのである。

 彼の様子を確認してほしいというのだ。

 たしかに最近、斬輝は部活に顔を出していなかった。昼休みにはいっしょに昼飯を喰ったが、それでもいくらか口数が減ったように一誠には思えたのだ。

 何でも、今日にいたっては欠席の連絡まで入っているらしい。

 すっかり忘れていた。

 だが、向こうも向こうで心配であることに変わりはなかった。

 幸い、ここから一誠の自宅まではおよそ二〇分……そこから斬輝の家までは一〇分とかからないから、遅くても一時間半くらい経てばまたアーシアの捜索に戻れるだろう。

 ついでに、どこかで飯も済ませるか。

 そう思って、おもむろに立ち上がった時だ。

 

「……え?」

 

 視界に、見慣れた金色が写り込んだ。

 それだけではない。修道服と、白いヴェールもだ。

 誰だかは、すぐに判った。

 相手も、それは同じようだった。

 だが、

 なぜ?

 彼女はあの時、フリードとか言うイカれた神父のもとに連れて行かれたはずだ。

 

「……アーシア?」

「イッセーさん……!?」

 

 別の声は、

 

「おぅい、どうしたあ?」

 

 アーシアの背後から。

 男性の声音である。両手にペットボトルをぶら下げているあたり、ちょうど公園の入り口付近にある自販機で買ったのだろう。

 アーシアは、

 

「ザンキさん!」

 

 高らかにその名を呼んで振り返る。しかし一誠が見た彼女の唇の動きは、彼の耳に届いてくる日本語の発音とは異なるものだった。

 ……いや、もとからそうだったのかも知れない。悪魔の特性上、そこまで細かいことに気づいていないだけだったのだろう。

 もとより一誠は、読唇術を会得してはいない。だが『言葉』と『動き』の嚙み合わない音に関しては、嫌でもそこに『差異』が生じる。

 彼女は、こう言ったのだ。

 ミスター・ザンキ、と。

 ザンキ。

 間違いない、と思った。

『彼』しかいない。

 

「なんか知り合いでも見つけ……あぁん?」

 

 駆け足でアーシアの横にやってきた男は、その場で足を停めた。

 そして、

 

「お前、兵藤か?」

「斬輝先輩……どうして、アーシアといっしょに…………?」

 

 逢えてしまうと言うのはこういうことだ、と一誠は思った。

 

 

 兵藤一誠は、運命論者ではない。

 幼い頃から女子との関わりが少なかったのも、中学に入ったあたりから制欲に目覚め始めたのも、運命とは何の関係もないと思っている。

 ついこの間まで恋愛とは縁がなかったことも、告白された相手に殺されたことも、だから運命でも何でもない。

 一七年という短い人生の中で積み重ねた一つ一つの選択が、彼をそこへ導いただけのことだ。

 そう思っている。

 だがそれでも、もしも……という仮定の推論を重ねることも、一誠は否定しなかった。

 もしも本当に、運命と呼ぶべき何らかの『力』が存在するとしたら……。

 

「マジかよ、俺がちょっくら顔出さなかっただけで、そこまでか」

「部長も、かなり心配してましたよ? この前のことがあってから、若干自分のこと責めてるようなことも言ってましたし……」

 

 ハンバーガー・ショップである。

 注文したメニューが出来上がるまでの間に、一誠は今までの経緯をざっくりとだが斬輝へと説明を施した。あらかたの説明を聴き終えた彼が最初に発したのは、うわあ、だ。

 

「いやあ、別にそこまで追い詰める必要なんてねぇのになあ。あン時の傷だって、あいつらがちゃんとした処置してくれたんだしよ」

「それでも、連絡くらいはしてあげましょうよ。メールは?」

「きたな」

「電話は?」

「そいつもきた」

 

 つまり、向こうから接触を試みようとする動きはあったというわけだ。

 

「じゃあ、なんで出てあげないんですか」

「むう……そいつを言われるとちょっと…………」

「お待たせしました。どうぞ」

 

 特に明確な答えも貰えぬまま、ついに注文したものが出来あがってきた。

 

「ありがとうございます」

 

 レジで受け取ったメニューを持って空席へと歩いてゆく。

 一誠を先頭に、アーシアと斬輝が後ろを歩く格好だ。

 脚の痛みは、もうない。さっき公園で逢った時、アーシアが治療してくれたのである。

 彼女の神器(セイクリッド・ギア)によって。

 アーシアを向かいの席に座らせて、一誠は奥へと座る。後から来た斬輝は、一誠の隣に来るように通路側の席を取った。

 どうやらアーシアはジャンクフードの類を食べるのは初めてだったらしく、だから少しばかり食べ方を教える必要があった。

 そしてみんなが最初の一口を齧ったところで、

 

「じゃあ、先輩」

 

 一誠は首だけ斬輝の方へと向いた。

 

「ん?」

「質問を変えますね。どうしてさっき、この子といっしょに公園にいたんですか?」

「あー……」

 

 唸って、斬輝はまず手にするハンバーガーを睨んだ。三人とも、同じメニューだ。

 それから天井を眺め、その次にアーシアを見つめ、最後にテーブルに視線を落としてから、

 

「ゆうべな」

 

 瞳をこちらに向けた。

 

「近所をウロついてたのさ」

「ウロついてた?」

「あのバイザーって奴を斬った後くらいから、どうにも軀ン中がムズ痒くてな。気晴らしに散歩してた」

「あの雨で?」

 

 実際のところ、その雨の中で一誠は契約取りに向かおうとしていたわけだが。考えてみれば、それはしかし莫迦な考えだった。早くリアス達の役に立とうと先走った結果が、これなのだ。

 

「まあ、そこは言うな。そしたら、たまたま通りかかった辺りが妙に騒がしくてな?」

 

 まて。

 

「気になっちまって、ちょいと首突っ込んじまったわけよ」

 

 まて、まて。

 話が見えない。

 だが、まさか……。

 

「そこに、この嬢ちゃんが……アーシア・アルジェントだっけ? が居たってわけさ。で、雰囲気的にヤバそうだったんで、こうしていっしょに逃げて来たんだ」

 

 さらりと言ってのける斬輝に、一誠はしばし言葉が出なかった。目を見開いて、ぽかんと口を開いたまま。

 逃げて来た?

 逃げて来ただって!?

 

「ま、マジですか!?」

「おう、マジだ」

 

 それから、一誠はアーシアの方を向いた。

 

「なあ、アーシア。今の話は、本当なのか?」

「え? 今の話……ですか?」

 

 だが当のアーシアは、会話の流れについてこれていないようだった。

 ああ、そうか。

 黒鉄斬輝は、悪魔ではない。厳然たる人間なのだ。

 つまり彼の話す言葉が日本語である限り、それはアーシアにとっても『日本語』として聴こえてくる。悪魔の特性の一つである『言語』の聴覚野における変換が機能しないのだ。

 直後、おう、と斬輝が唸った。

 

「凄えな、お前さんの言ってることが伝わってんのか」

「いや、これは悪魔になった時に着いた特性っていうか……俺らが何か喋ると、相手にいちばん馴染みのある言語で聞こえるらしいんです」

 

 逆もまた然り、である。

 対する反応は、ひゃあ、というやや間抜けな声だった。

 

「そんなもんまで出来んのかあ。俺なんて喋りがからっきしだったからよ、筆談でやっとこさって感じだったのに……」

 

 その際に、お互いの名前を知り合ったらしい。

 いや、正確には、思い出した、と言うべきか。斬輝の場合、以前はぐれ悪魔を討伐しに行く手前で一誠が金髪のシスターと出逢っていたことを聴かされていたのだ。

 名前こそ覚えていなかったものの、治癒系の神器持ちと言うことで、彼の記憶の底に合ったものが掘り返されたらしいのだ。

 

「……ともかく」

 

 それから水の入ったコップを口に運んで、

 

「昨日の夜、斬輝先輩に助けられたっていうのは、本当なのか?」

 

 そう尋ねた。

 彼の言葉の意味を、彼女はすぐには理解出来なかったようだ。

 たっぷり、二秒。

 そして、頷いた。

 

「はい。イッセーさん達が転移した直後に、ザンキさんが現れたんです」

 

 ロウソクの火が消えていたのでよく見えませんでしたけど、とうつむきながら。

 

「そこからは……あまり、覚えてません」

 

 色々な出来事がいっぺんに重なって気が遠くなったのだと、アーシアは言った。

 

「気がついたら、ザンキさんのお家でした」

 

 私は、と震える声音でアーシアは続ける。

 

「戻りたくないんです。これ以上、罪のない人々までも殺められてゆくような場所には、もう……!」

 

 ぱたり、と滴が包み紙の上に落ちた。

 

「おい」

 

 その意味を、斬輝が『日本語』として正確に理解出来たとは思えない。だが続く彼の言葉は、恐ろしいほどにタイミングを押さえていた。

 

「何があった?」

 

 それは一誠自身、気になっていたところだ。こんな純情そのもののような少女が、よりにもよって堕天使達のそばに居るのか。

 裏がないわけがなかった。

 

「……実はさ、アーシア」

「はい?」

「俺も、神器を持ってるんだ」

「イッセーさんも、ですか?」

 

 突然の告白に、アーシアは少しばかり目を丸くしていた。

 ただでさえ、まだ能力の詳細も把握出来ていないのだ、むしろその気配を察知することの方が困難だろう。

 

「なあ……良かったら、教えてくれないか? キミのことについて」

 

 それを聞いた途端、アーシアの様子が変わった。

 表情がだ。

 ぱたりぽたりと滴っていた涙が、頰を伝って徐々に流れ出してくる。

 続くのは、小さな嗚咽である。

 だが一誠は、それ以上何も言わなかった。

 ただ黙って、待つだけだ。

 彼女の口から紡がれるのを。

 待ち続けるだけだ。

 いつの間にか立ち上がっていた斬輝は、するりとアーシアの隣に座ると、号泣を飲み込んでも隠しきれずに震えている肩を抱いてやった。

 そのままシスターの震えが収まるまで、ずっと待っていた。

 そして、ひとしきりむせび泣いた少女が口にしたのは、『聖女』と祀られた一人の少女の物語だった。

 

「判りました、お話しします」

 

 ぴっ、と斬輝の端末から短い電子音がなった。

 それは、壮絶な物語だった。

 アーシア・アルジェントは、産まれてすぐのころに教会の前で捨てられた。

 産みの親にだ。

 彼女は、孤児院も兼ねたそこで長年に渡りシスターや親をなくした孤児達とともに育てられてきた。

 信仰深く育てられたアーシアの軀に奇妙な『チカラ』が宿ったのは、彼女が八つのころだ。まだ九つではない、という意味ではない。もう七つではないという意味である。

 たまたま怪我をして教会に逃げてきた子犬の傷を未知のチカラで癒すところを、カトリックの関係者に目撃されたのだ。

 なぜ自分にあんなことが出来たのか、アーシア自身も詳しいところはよく判らない。助けたいという一心で神に祈り続けた結果に過ぎなかったからだ。

 しかしそれは、僥倖(ぎょうこう)と呼ぶに相応しい出来事だった。

 問題は、それからだ。

 彼女の意思など関係なしにカトリック教会の本部に連れて行かれ、治癒のチカラを備えた『聖女』として勝手に崇められ、あろうことか訪れる信者達に『加護』として肉体の異常に対して処置を施されるのだ。

 別に、そのことについて不満はなかった。もとより誰かの助けに……誰かの役に立つことは、昔から彼女が望んでいたことだからだ。

 神が授けてくれた『チカラ』。

 それには感謝の念を抱くと同時に、彼女にある種の疎外感を与えていた。

 アーシアの周りには、己をヒトとして……心の許せる友として見てくれる者が一人もいなかったのである。

 たしかに、治癒のチカラは絶大だ。誰かの役に立てるのだと、少しばかり誇ってもいた。

 しかしそれは、本来ならば人間が持たざるチカラなのだ。

 つまりは、そういうこと。

 転機は、そう遠くなかった。

 ある日、教会の前で一人の男が倒れていたのだ。

 思わず目を背けたくなるような重症である。

 何があったのかは知らないが、命からがらここまで逃げてきたのだろう。そう直感した。

 そして彼女は、迷わずにその男を治療したのである。

 神にもらった、奇蹟のチカラで。

 

「私は、あの時の自分の行動を後悔していません」

 

 そこまでは良かった。

 

「ですが……」

 

 最大の誤算は、その男の正体にあった。

 アーシアはカトリック……つまり天界側の人間である。

 だが、相手は悪魔だったのだ。

 その場にいたのがアーシアとその男だけであれば、あるいは平気だったかも知れない。だが彼女が悪魔を治療しているところを、居合わせた教会関係者に目撃されたのである。

 それはすぐさま内部へと報告され、瞬く間に教会中に広まった。

 治癒のチカラを持つものは、実際のところそう少なくはない。

 だが、悪魔までも癒してしまうチカラは、いまだかつて存在しなかったのだ。

 ……いや、事例だけなら過去にもあった。

 神の加護を受けない悪魔、そして堕天使すら治療してしまうチカラ……。いずれにせよ、それは『聖女』が持つべきチカラではない。

 勝手に崇拝されてきた少女は、今度は悪魔を癒す『魔女』として勝手に畏怖され、誰も自分を信じてくれる者がいないまま勝手にカトリックから捨てられた。

 またしても、捨てられたのだ。

 アーシアは、一度たりとも神への信仰を忘れることはなかった。

 だがそれすらも、神に届くことはなかったのだ。

 誰も助けてはくれなかった。

 神にさえも。

 少女の味方と呼べる存在は、どこにも居なかったのだ。

 そして、極東にある『はぐれ悪魔祓い(エクソシスト)』の組織に拾われた……。

 

「きっと、私の祈りが足りなかったんです。ハンバーガーもロクに注文出来ない莫迦(ばか)子ですから」

 

 とアーシアは自嘲して涙を拭う。

 正直、一誠は彼女にどんな言葉を投げかけてやればいいのか判らなかった。

 想像を超える、常軌を逸した体験談だったからだ。

 

「……それでも、私には夢があるんです。お友達と一緒にお花を買ったり、本を買ったり……お喋りして…………」

 

 その声が、徐々にかすれてゆく。

 彼女がまた涙を溜めていることには、すぐに気づいた。

 

「……きっとこれも、主の試練なんです。私が全然駄目なシスターなので、こうやって……修業を与えてくれているんです…………。今は、我慢の時なんです……」

「俺にゃよ、もう充分我慢してきたと思うがな」

 

 突然、斬輝が割り込むようにしてそう言った。その手には、携帯端末が握られている。

 しかしそれは、マイク部分を彼の口に近付けるような位置で持たれていた。

 まるで、端末に何かを吹き込んでいるかのような恰好である。

 そして実際に、そうだった。

 ぴっ、と短い電子音が鳴る。

 

《I think that you endured it enough》

 

 数瞬遅れて、流暢に話す無機質な女声が聴こえて来たのである。

 これには一誠も、そしてアーシアも驚いた。

 だが、ようやく判った。

 さっきの電子音の正体は、これだ。

 音声通訳アプリを使って、アーシアの言葉を理解しようとしていたのだ。

 そして今は、彼の思いを彼女に伝えるために。

 

「ザンキ、さん……?」

「神様へのお祈りがどうとか、正直俺はよく判んねえさ。でもな、何でもかんでも神様からの試練、だなんて考えてたらキリがねぇよ」

 

 ぴっ、ぴっ。

 今度は二回。

 そして、翻訳して紡がれる金属質の混じった声。

 

「なあ、アルジェントよぉ」

 

 携帯を持つ左腕を机について、軀をアーシアの方へ向けた。

 

「おめぇ、本当に祈りが足りないだけでこうなったと思ってるか?」

 

 続く電子音声を聞いた途端に、アーシアの表情が曇った。

 涙に濡れたまま、質問の意図が理解出来ずに目と口を開いたままである。

 

「斬輝先輩、それって……?」

「てめぇはちょっと黙ってろ」

 

 瞳だけをこちらに向けた、その有無を言わせないような声音に、腰骨の付け根から一気に何かが背筋を駆け上がってきた。

 

「もう一度言う。アルジェント、お前さんに『生きたい』って意志は、あったか?」

「『意志』……ですか?」

「おう。教会関係者だか他のシスター連中だかの圧に押されるままこうしてきたンなら、それは生きてるとは言わん。ただ『死んでない』だけだ。今を必死に生きようとしてるのか、流れに任せるまま無駄に生きてるだけなのか……おめぇは、どっちなんだい?」

「それは……」

 

 アーシアは、そこから先を言おうとして、口をつぐんだ。

 それは、当然の反応だ。

 彼女には、頼れる者がいなかったのだ。

 教会の中にも、孤児院の中にも。

 頼みの綱だった神でさえも、彼女に何の加護を与えなかったのだから……。

 泣いて詰まった鼻から、ひゅう、と小さな音が鳴った。

 それっきり、彼女は応えなかった。

 ……応えられなかった。

 図星だからだ。

 すると斬輝は、申し訳なさそうに軽く肩を落としてから、

 

「……悪ぃ、ちょいとイジワルな質問しちまったな」

 

 そう言った。それはもう、いつも一誠が見てきた斬輝そのものだ。

 

「え?」

「仮にも、身寄りのなくなったお前さんを育ててくれた場所だ。言いたくても、言えなかったんだろ? ずっと、心の中で思い続けてきたんだろ?」

 

 そして、斬輝は右手を彼女の頭の上に乗せた。

 

「今はもう我慢する時じゃねえ。おめぇは、もう我慢し続けてきた。充分過ぎるくらいにだ。……だろ? 兵藤」

「……へ? あ、はいっ!」

 

 突然話を振られて一瞬慌てそうになったが、なんとか取り戻す。

 

「そうだよアーシア! もう一人で背負い込む必要なんかないんだ! これからは俺らを好きなだけ頼ってくれよ!!」

 

 たたみかけるように、次々と言葉があふれ出てくる。

 伝えたいことが多過ぎて、脳の処理が追いついてこないのだ。

 そのまま熱くなり過ぎて前のめりになるのを、

 

「莫迦。まだ店ン中だ、ちょっとは抑えろ」

 

 いつの間にかメニュー表を持った斬輝に叩かれた。

 ぺちん、と。

 

「あはは……いやあ、すんません」

 

 はたかれた頭を搔きながら、ともかく、と一誠は取り出したハンカチをアーシアに差し出した。

 

「アーシア。俺らはもう、友達なんだぜ。こうしていっしょに話せて、こんなに涙まで流して……俺らの前で泣けるってことは、もう友達なんだ」

「友達……ですか?」

「そうだよ、友達だ。俺、悪魔だけど……でもこれは契約じゃないから、別に代価なんていらない。俺は素直に、キミの友達になりたいんだよ」

 

 だからさ、と一誠は続ける。

 一度、斬輝と目を合わせてから。どうやら向こうも、考えていることはほとんど同じようだった。

 それから、アーシアのグリーンの瞳を見据えて、彼は言った。

 

「今から、遊びに行こうぜ。俺ら三人で」

「え?」

「良いじゃねえか。んじゃよ、さっさと喰っちまって、早いとこ出かけようや。陽が沈むまで、まだ時間はいっぱいあるわけだし」

「よし! そうと決まれば、とっとと喰っちゃうぞう!!」

「え? ええ!?」

 

 かくして、ここに奇妙な三人組が誕生した。

 

 

 けっきょくその日は、午後からとはいえほぼフルに活動した日だった。脚に受けた銃創を癒してもらったおかげもあるのだろう、どれだけはしゃいでいても、疲れている、という実感がなかったのだ。

 繰り出したのは、ハンバーガー・ショップからさほど遠くない位置にあるゲーム・センターだ。メダル・ゲームから、そのメダルを使ったパチンコまで何でもござれの大規模なものである。

 レーシング・ゲームではお手本がてらに『峠最強伝説イッセー!』と我ながらなネーミングセンスをつけつつもCPUに圧勝したが、隣接する機種と通信対戦した際にはボロ負けという醜態を晒す羽目になった。

 対戦相手は、黒鉄斬輝である。

 これでも昔は松田や元浜と派手に競い合っていたというのにもかかわらず、惨敗だった。

 それでもアーシアは、イッセーさん速いです、て大はしゃぎしてくれたっけ。

 その後は世界的に人気のマスコット・キャラクターである『ラッチューくん』人形をクレーン・ゲームで見事手に入れて彼女にプレゼントしたりもした。

 店の奥の方にあるエアホッケーをアーシアとプレイした時は、おどおどしながらも意外と的確にこちら側の『穴』を狙ってきたものだから、かなり苦戦したな。

 けれど何より驚いたのは、そのエアホッケーだけでも二時間近く遊べてしまったことだった。平日で客足がそれほど多くなかったことも重なってか、並ぶ人がいなかったのである。

 ……それ以上に、そのたった二時間の間で『CR/金剛騎士・冴狼<GORO>』で大当たりしまくった斬輝が大量のメダル・ボックスを抱えてきたことも充分驚きに値したが。

 ともあれ、陽があるうちはほとんどゲーセンで過ごしてしまっていた。あとは近所のお店をちらほらと見て回り、その度に新鮮な反応を示す彼女の姿が初々しくて堪らなかった。

 巡回中の警察官に見つからない手段としても、だからこの選択は間違っていなかったのかも知れない。

 だって、判るかい?

 笑ってたんだぜ。

 アーシアが。

 それは、彼女の本音のように思えた。

 嬉しそうだった。

 心の底から楽しんでいるように見えたんだ。

 もしも、彼女が人並みの家庭で、人並みに育てられたのならば、あるいはこんな光景が日常的に見れたのかも知れない。

 しかしそうさせなかったのは、教会側の連中だ。

 神だ。

 ずいぶん勝手じゃねえか、と一誠は思う。

 判ったよ。だったら俺が、アーシアがこれまで遊べなかった分いっしょに遊んでやる。

 とことん、最後まで!

 ……とはいえ、

 

「あー、遊び過ぎたな」

「は、はい……少し疲れました……」

 

 一誠の隣を歩くアーシアも、息は上がっているがその表情は笑みを浮かべていた。

 

「なあ」

 

 雲が茜色に染まり始めたころ、広場を通りかかっているところでふいに斬輝がつぶやいた。だがその手には、音声翻訳を用いた携帯はない。

 

「どうだったよ? 楽しめたか?」

「……アーシア、楽しめたか、って」

 

 すかさず、一誠が『翻訳』して彼女へと伝える。

 

「はい! お二人のおかげで、決して忘れることの出来ない一日になりました!! イッセーさん、ザンキさん、ありがとうございます!!」

 

 その場で立ち止まったシスターは、くるりと斬輝にも顔が見えるように向き直したうえで、深々と頭を下げた。

 そして、何かを得心したように、彼女は言葉を続けた。

 心なしか、その表情は柔和な笑みにも見える。

 

「これが……これが、お友達、なんですね。いっしょに遊んで、いっしょに楽しんで、いっしょに笑い合って…………私、嬉しいです。こんなにたくさんの思い出を一度にいただけて」

 

 そう言って彼女が取り出すのは、一つの人形である。デフォルメの効いた、ネズミを模したキャラクターである。

 ラッチューくんだ。

 

「イッセーさんにいただいたこの人形、だいじにしますね」

「お、おう! それくらいだったら、また取ってあげるよ」

「いえ、これは今日の出逢いが生んだ素敵なものです。ですから、私はこのラッチューくんをだいじにしたいんです」

 

 両手に包んで胸に抱き寄せながら、アーシアはそう言った。

 

「ところで、だ」

 

 会話の合間を縫って、斬輝がつぶやいた。

 だが言ってから、彼は少し考えているようだった。

 一誠には、判った。

 迷っているのだ。

 言うべきか、黙っているべきか。

 けれど、迷いはそう長くはなかった。

 

「これからどうする? 教会から逃げてきちまった以上、もう『あっち』には戻れねぇぞ」

「……あ」

 

 思わず、声が漏れた。日本語が判らずじまいなアーシアは、例によって、ぽかーん、だ。

 たしかに、彼の言う通りだ。今の彼女は、文字通り宿無しの少女なのである。ゆうべは斬輝が泊めてくれたらしいが、こちらの問題にいつまでも彼に迷惑をかけるわけにはいかないだろう。

 リアスに頼んで、かくまってもらうか?

 ……駄目だ、独断行動で堕天使側の人間を連れてきたと判断されれば、それこそ二大勢力のぶつかり合いは免れない。

 

「アーシア」

 

 だとすれば。

 

「はい? なんですか、イッセーさん?」

「俺のウチに来ないか? 父さんも母さんも、あるていど事情を話せば判ってくれるだろうしさ」

 

 それしかあるまい。

 無論のこと、リスクは嫌でもついてくる。堕天使達から狙われることはもちろんだが、それよりもリアスにバレた時だ。

 きっと、跡形も残らないように消し飛ばされかねないかも知れない。

 無論、一誠がだ。

 だがそんなことは、もはやどうでも良かった。主の意思に反することは、もしかすればはぐれ悪魔になってしまう一因になるかも知れない。けれど、それを恐れるくらいで一人の少女を見捨てられるほど、兵藤一誠は冷徹な人間……悪魔ではないのだ。

 

「……良いのですか? 私なんかが居ても……イッセーさんや、イッセーさんのご両親さまにご迷惑じゃありませんか?」

「迷惑なわけあるか! むしろ大歓迎だよ!! 友達なんだから、これくらいはやってやるさ!!」

 

 友達。

 その言葉に、ひくり、とアーシアの肩が動いた。

 

「アーシア?」

「……そうですよね。私達、もう、お友達なんですよね!」

 

 なんだよ、そんなことか!

 

「ああ、そうさ! 俺達は友達だ!」

 

 一誠の言葉に、アーシアは視線を斬輝の方へと向けた。

 その行動は、アーシアが何も尋ねることなく彼にその意図を理解させたようだった。

 

「ん? 俺か? ……まあ、おめぇがそう思ってくれるんなら、そういうことだろ」

 

 頭を搔きながら、けれどその目はアーシアを向かず明後日の方向だ。

 まったく、こういうところは素直じゃないなあ。

 よし。

 先輩には悪いけど、ちょっとイジっちゃおうっかな。

 

「アーシア。先輩も、おうその通りだ、って言ってるぜ」

「本当ですか!?」

「はあ!? ちょっ、おまっ、言葉が通じないことをイイことに何勝手に捏造してんだ糞ッタレ!」

「良いじゃないですか! ニュアンスは間違ってないですし!!」

「良いわけあるかあ!!」

 

 まるでギャグ漫画のようにキレて襲いかかろうとする斬輝を何とか喰い止めつつ、しかし一誠の顔は笑みに歪む。

 それを見られたのかどうかは判らない。だが、突如として背後のアーシアが珍妙な声をあげた。

 

「ぷっ、ぷぷぷ……!」

「……ん? アーシア?」

 

 怪訝そうに振り向いた一誠が見たのは、ラッチューくんを抱えながら、小刻みに肩を震わせる少女だった。

 

「大丈夫か? うちの先輩の圧が怖かったか?」

「おいエロ莫迦野郎」

 

 だがアーシアは、かぶりを振った。

 いいえ、だ。

 

「嬉しいんです。こんな私にでもお友達になってくださる方が居ることが。それに、今のお二人がおかしくて、つい……ふふっ!」

 

 おしとやか、という言葉が常に似合いそうな、可愛らしい笑い方だった。軽く握った拳で口許を覆うような、そんな笑い方である。

 ……え? 俺らが、おかしかった?

 さっきの、一方的に近いいがみ合いである。もともと一誠が仕掛けたイタズラだが、まさかこんな形で効果が現れるとは思わなかった。

 そう考えると、今の自分の考えがどれだけ莫迦莫迦しかったかが目に見えてくるようだ。

 

「……ぶっ!!」

 

 思わず、噴いた。

 それから、

 

「ぶはっ、はは……はははははは!!」

 

 笑った。

 声をあげて。

 気がつくと、斬輝も唇をヒクつかせて、けれどそれは怒りの最高潮ではなく今にも笑みをこぼしてしまいそうなものだ。

 

「はは……。まあ、友達なんてこんなもんだよ。くだらないことでも、こうやって笑えるもんさ」

「ぷぷ……はい。そうですね」

 

 笑い過ぎたせいで溜まった涙をぬぐいながら、アーシアもうなずいた。

 

「私達、お友達です。ですからこれからも、よろしくお願いします」

「ああ、よろしくな、アーシア!」

「……おう、よろしゅう」

 

 ワン・テンポ遅れて、斬輝も片手を挙げた。

 そんな光景を見ながら、今度こそ、と一誠は思う。

 今度こそ、俺はアーシアを護って見せる。

 護り抜いてやる!!

 

「無理ね」

 

 突如として声が響いたのは、その時だった。

 同時に、一誠達の足元に五本ばかしの槍が突き刺さった。

 赤みがかった燐光をまとう槍である。

 それには、見覚えがあった。

 うぞり、と彼の胸の奥底に沈められた『記憶』が動かされた。

 嫌な記憶だ。

 思い出したくもない記憶だ。

 兵藤一誠が『ヒト』としての生を断たれる原因になった槍である。

『悪魔』として、光の脅威を思い知らされる原因になった槍である。

 そう。

 それは、堕天使が持ち得る槍だ。

 投擲された方向へと目を向けた瞬間、一誠は全身の体毛が一気に逆立つような感覚を覚えた。

 いや、もしかしたら頬の産毛さえも本当に立ち上がっていたかも知れない。

 大広場のど真ん中である。振り向いた正面……直径五メートルはあるだろう巨大な噴水の中央でこれ見よがしに漆黒の翼をゆっくりとはためかせながら、片手にさっきのと同じような槍を顕現させる一人の女がいた。沈みかける夕陽に重なる彼女は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。

 見覚えのある、艶やかな長い黒髪を風になびかせて。

 ……天野夕麻(あまのゆうま)が。

 

「ゆ、夕麻ちゃん……?」

「へぇ、あなた生きてたの? いや、でもこの感じ……。うそ、悪魔?」

 

 最悪じゃない、とあくたれる彼女は、しかし『天野夕麻』として一誠に接してきた制服姿ではない。ましてや、初デートの時に着てた私服でもなかった。

 彼女の肢体を包むのは、いくつもの革のベルトのようなものだった。それらが何本も巻きつき、絡まるようにして、かろうじて秘部を隠している程度である。

 上腕まである黒いロング・グローブの上にも、革のベルトが何本か巻かれていた。

 おそらく、その姿が『天野夕麻』でなく『堕天使』としての正装なのだろう。

 

「夕麻? あいつが、か?」

「レイナーレさま……」

 

 絞り出すようにして呟くアーシアに、一誠は瞳だけ彼女の方へと向けた。

 レイナーレ?

 ……そうか、堕天使レイナーレ。それが彼女の本当の名前なのだ。

 

「兵藤の元カノが、今さら何しに来たってんだい?」

 

 斬輝が一歩、二人よりも前へ出る。

 それに応えるのは、侮蔑の眼差しである。

 

「下等種族の分際で、気軽に話しかけないでちょうだいな」

 

 それからアーシアへと視線を移して、

 

「その子はね、私達のだいじな所有物なの。返してくれるかしら?」

 

 レイナーレもまた、水面を『一歩』だけ歩いた。

 

「逃げても無駄なのは、あなたが一番判ってるでしょ? 聞いたわよ、私の部下があの家に着いた時、そこにはあなたの姿はなかったって。私達が雇った神父がノびてたらしいわね。教えなさいよ、どうやって逃げたのかしら?」

 

 そう言うレイナーレの言葉に、一誠は聞き捨てならない単語を耳にした。

 神父がノびてた?

 その時、『家』にいた神父と言われて思い浮かぶ奴と言えば、一人しかいなかった。

 すなわち、イカレたはぐれ悪魔祓い(エクソシスト)である。

 フリード。

 その彼が、ノびてた!?

 

「それは……」

 

 言い淀むアーシアに、まあいいわ、とレイナーレは続ける。

 一歩。

 

「あなたを連れ戻せば済む話だし。判るわよね? あなたの神器(セイクリッド・ギア)は私達の計画に必要なのよ。あまり迷惑をかけないでちょうだい」

 

 こちらへと腕を伸ばして、また一歩。

 ゆっくりと、しかし確実に一誠達と目の前の堕天使との距離は縮まってゆく。

 アーシアは、怯えるように一誠の背後へと隠れた。

 それが何を意味するのか、一誠には理解出来た。

 つまり、

 

「待てよ。嫌がってるじゃんか。ゆう……いや、レイナーレさんよ。あんた、この子を連れ帰って何する気だ?」

「下級悪魔が、気易く私の名前を呼ぶんじゃないわよ。汚れるじゃない」

 

 汚れてんのはどっちだこン畜生、である。

 

「あなたに私達の間のことは関係ない。とっとと主のもとに戻らないと、死ぬわよ?」

 

 それが、合図だった。

 咄嗟に、背後のアーシアを斬輝の方へと送りだす。

 レイナーレは槍を構える腕を素早く後方へと持ってゆき、瞬間的に引き絞られた上体から繰り出される遠心力を使って一気にこちらへと投げ飛ばしてきたのである。

 

「なっ!?」

 

 驚愕した一誠の脳裏に浮かぶのは、前に彼女に|殺られた時のことだ。

 あれで一度、彼の軀は無残に貫かれてしまっている。

 もう同じ轍を踏むことだけは避けねばならない。

 アーシアを護るためにも!

 

「……こい! セイクリッド・ギア!!」

 

 引き延ばされたような時間感覚の中で、突発的に天へとかざした左腕が眩く光り出す。コンマ数秒でおさまった光の中から、歪な凹凸のある真っ赤な籠手が現れた。

 彼の神器である。少し前までは『ドラゴン波』のポージングを踏まないと出現が困難だったが、初めて召喚されて『ドラグ・ソボール』を熱く語り合った夜から密かに練習を重ねた甲斐があった。

 もう、自分の意志で自由に発動出来るくらいにまでは成長したのである。

 

「たぁあっ!!」

 

 そのまま無造作に左腕を振り下ろす。

 一誠を貫かんと迫っていた凶刃は、真上から叩き落とされた拳によってほんのわずかに軌道を反らして股下をかすめるように過ぎて行った。

 おっしゃ! なんとか一撃めは凌いだ!!

 だが。

 

「あっづ!?」

 

 接触の瞬間、激しい熱が腕を襲ったのだ。わずかな間だけとはいえ、まだ光の痛みに軀がついてこれていない一誠にしてみれば激痛である。

 思わず、腕を抑えてうずくまった。

 レイナーレは一瞬虚を衝かれるが、すぐさま哄笑をあげた。

 

「莫迦じゃないの!? 自分から『光』に当たりに行くなんて! それにその神器(セイクリッド・ギア)、危険な存在だって上から連絡を受けてたけど、とんだ勘違いみたいね!!」

 

 なに?

 そりゃ……、

 

「どういう意味だ!」

「あなたのギアは、ありふれたモノの一つなのよ」

 

『トゥワイス・クリティカル』。

 またの名を『竜の籠手』。

 それが、兵藤一誠が持つ神器(セイクリッド・ギア)なのだという。特性は単純。その名の通り、一定時間所有者のパワーを二倍にすることが出来るのだ。

 しかし、いくら斬輝に格闘戦を教えてもらっていたとはいえ、町のゴロツキと渡り合えるかどうかさえ怪しいていどの力量だ。そんな力が倍になったところで、おそらくレイナーレには遠く及ばないだろう。

 

「兵藤……おめぇ、とことん恵まれてねえな」

 

 腰を低く落とし、その視線はレイナーレに向けられたままだが、しかし斬輝の言葉は一誠の心を抉るには充分なものだった。

 

「るせぇ! もう、どうなってもいい!! 神器(セイクリッド・ギア)! 俺の力を倍にしてくれるんだろ!? 動いて見せろ!!」

 

 その時だ。

 手の甲に位置する緑の宝玉が光り出す。

 続くのは、

 

『Boost!!』

 

 低く重い、金属質の声だ。

 そして次の瞬間、腕を蝕んでいた光のダメージが、内側から溢れ出す力によってかき消された。

 軀の芯に、熱があるような感覚だ。

 ぶん、と大気を切り裂く音に気がついたのは、その直後である。

 

「イッセーさん!?」

 

 アーシアの叫びで我に返った一誠が見たのは、前方から迫る真っ赤な真円だった。

 

「なっ……!?」

 

 奇妙なくらいに引き延ばされたような時間の中で、それが正面から迫る光の槍だと気づくのに少しばかりかかった。

 槍の動きが妙にのろのろと見えることに、時間が引き延ばされているのが錯覚ではないことを理解した。

 物凄い勢いで脳が回転しているのだ。その回転のせいで、周りの空間が本来の速度よりも遅れて見えているのである。

 そう言えば……、

 人間が死の間際に見る、いわゆる『走馬灯』は、これと同じ理屈だと聞いたことがある。身の危険に瀕した時、人間の脳は、過去のすべての記憶の中から生き延びる方法を探し出そうとするのだそうだ。

 そして今、彼の頭の中ではめまぐるしく変わってゆく『記憶の流れ』がある。

 幼少時代に一緒に遊んだ友人。

 初めて性欲に目覚めた日。

 変態三人組として、学園の女子たちから必死こいて逃げ回っていた時間。

 ……『天野夕麻』との、仮初の思い出。

 まさに『走馬灯』だ。

 だが違うのは、その中に生き延びる術が含まれていないということだった。

 無理だからだ。

 近過ぎることも、もちろんある。今から横っ跳びをしようにも、その前の予備動作の時点で頭部に、ぐさり、である。

 そうなれば、結果は明白だ。

 悪魔にとって光とは猛毒。それを直に、それも全身の挙動を統括する脳に喰らえば、単なる脳死では済まない。

 膨大な量の『毒』が流し込まれ、しまいには光の力で浄化される。

 消滅である。

 

「うわ!」

 

 咄嗟に左腕を前に突き出した。

 それはいわば、無駄なあがきである。こんなことをしたところで何も変わらない、そんなことは端ッから判っていることだった。

 だが、衝撃はこなかった。

 痛みも無い。

 内側から身を焦がすような熱も襲ってこない。

 

「ザ、ザンキさん!?」

 

 アーシアに続いて、二つの音が響いた。

 じゃりん、と金属の擦れ合う音と、

 

「しっ!!」

 

 素早い動きで一誠の前に移動した斬輝が、鋭い呼気とともに大気を切って右腕を振りあげる音だ。

 下から上へ。それはまさに、ピッチャーが投球する際にボールが持ち手から離れる瞬間の恰好に似ている。つまり、片足を大きく踏み込ませて上体を前傾させながら、片方の腕は天を突いているのだ。

 だがその腕の先に、跳ね上げられたと思われる槍の姿は、ない。

 

「なに!?」

 

 愕然とするのは、レイナーレだ。

 彼女の視線は、大きく踏み込んだ斬輝の左脚へと向けられている。いや、正確にはその足元か。

 それを追った一誠が見たのは、

 

「え……?」

 

 不自然なくらいにばっくりと両断され、二本となった赤い槍だった。

 

 

 

       

 

 

 力を持つ者には、相応の決意と覚悟が必要である。

 そんな話をどこかで見たような……あるいは聞いたような気がするが、正直に言うとそんなことは忘れた。

 ただ言えるのは、斬輝には『世界の平和を護る』決意も『そのためにすべてを捨て去る』覚悟も持ち合わせてはいないということだ。

 勘弁してくれ。

 ヒーローじゃあるまいし。

 それに、と斬輝は思う。

 そんな理想を掲げたところで、結局は誰も護りきることなんて出来やしないんだ。

 親父も、お袋も。

 ああ、そうだ。

 だから俺には、護ってやる、だなんて満足に言えやしない。

 手が届く範囲でしか、動けねえのさ。

 

「しっ!!」

 

 今まさに一誠の眼前にまで加速度的に迫る槍を、踏み込みと同時に素早く斬り上げる。『接触』の瞬間、それはまるでバターを熱したナイフで切る時のような、実にあっさりとしたものだった。

 がらん、と地面に落下する槍の残骸を見て、斬輝はほくそ笑む。

 賭けに近かったからだ。『こいつ』はまだ、斬輝の制御下にない。つまり彼の意志に忠実に従うこともあれば、逆のパターンも起こり得るのである。

 昨夜はなんとか二本ほど出すことが出来たが、どうやらこのタイミングだと一本が限界らしい。

 それも、

 

「……づっ!」

 

 もう消えやがった。

 生温い感触が、右の拳を伝う。それが何なのかは、もうとっくに判っている。

 

「なに!?」

 

 レイナーレが、突然の出来事に驚愕の声をあげた。

 

「光の槍が折れた……? いったい、何をどうやって……!」

 

 なるほど、折れた、と言うことは、つまり彼女には今の動きが『下から叩き割った』ように見えたというわけか。

 判ってねえなあマヌケめ、と斬輝は思う。

『瓦割り』でさえ『上』から『下』への突きだというのに、わざわざ『下』から『上』へ殴るわけねぇだろうが。

 しかし、そんなことにいちいち付き合うわけにもいかない。

 

「アルジェント!」

 

 斬輝は叫んだ。

 無論、日本語が通じないことは織り込み済みだ。

 

「カモン!!」

 

 その一言で、彼女は理解したようだ。そそくさと、こちらへ駆け寄ってくる。

 振り返って、二人と向き合った。

 

「こいつの腕を診てやってくれ」

 

 いまだに煙をあげる彼の左腕を指差しながら、そう言う。

 

「俺の言ってることが判るか!?」

 

 答えは、頷きだ。

 良かった、どうやら意味は伝わってくれたらしい。

 

「よっしゃ、頼むぜ!」

 

 レイナーレの方に向き直る。

 文字通り水面に立つ漆黒の女堕天使は、その手に新たに二本の槍を形成していた。

 おいおい、ストックは永久かよ、こン畜生。

 

「おうおう、おっかねぇなあ」

「ただの人間かと思ってたけど、存外そうでもないみたいね。……良いわ。あなたに恨みはないけど、これからの計画にちょっと影響しそうだから、ここで始末してあげる」

「へえ」

 

 それが、斬輝の応えだった。

 白状しよう。

 これが相手と自分だけのサシの闘いであれば、まだ勝率はないわけではない。だが背後に手負いの者がいるとなれば、いささか事情は変わってくるのだ。

 つまり、下手に動けば後ろの二人に危険が及ぶということである。

 

「堕天使さまは慈悲の『じ』の字もないのか」

「ええ。それで死んでも、私、知らないわよ?」

「そう簡単にゃ死ねんさ」

 

 だったら、こいつも賭けだな。

 にやり。

 

「試してみるか?」

「これが本番よ!!」

 

 言い放ち、今度は左右の腕を同時に振り抜く。持ち主の手から放たれた槍は加速度的にこちらへと接近してくる。

 ……狙いは腹部と頭部。

 考えたな、と思った。頭部に迫る槍を防ごうとすればお腹に『どすん!』だし、かといって避けてしまえば背後でアーシアによる治療を受けている一誠の頭に『どすん!』である。

 どちらにせよ、正面から受けるしかない。

 

「だらあ!」

 

 先に来たのは、頭部を狙った一本だ。斬輝は持ち前の動体視力で、槍の側面を左の拳で正確に叩くことで軌道をずらした。

 残るは、小数点以下で遅れてきた腹部の槍である。

 だが今度は、さばこうにもさばけない位置である。

 続く動きを、はたしてレイナーレは予想し得ただろうか。

 

「おっしゃあ!!」

「え!?」

 

 むんず、とばかりに斬輝は残りの槍を両手で摑んだのだ。

 素手で!!

 

「ぐぬぬぬぬ……!!」

 

 その行為は、しかし悪魔にしてみれば自殺行為も同然だ。接触面から流れ込んでくる光のエネルギーが悪魔の『闇』を滅し、浄化してゆくからだ。

 だが、それが人間となれば話は別だ。

 人間は『光』にもなれば、時として『闇』の双方にも成り得るからである。

 つまり、

 光の槍を人間が手にしたとしても、それは単なる槍以外のどれでもないのである!!

 右の拳から滴っていた生温い感触は、もうない。『あいつ』らによって血小板などが活発になっているのだ。

 だがそれでも、若干右手が滑る。

 

「甘いわね」

 

 突如、レイナーレが哄笑をあげた。

『異変』に気づいたのは、まさにその直後だ。

 斬輝が両手でがっしりと摑んでいた光の槍が、消えたのだ。

 光の粒子となって!

 

「なにっ!?」

 

 今度は、斬輝が驚きの声をあげる番だった。

 そして、

 

「……うぐぅっ!!」

 

 右の肩に、激烈な熱が襲った。

 そしてその熱は、一気に肩口から噴き出した。

 

「せっ、先輩!!」

「ザンキサン!?」

「が……!?」

 

 たまらず、膝をついた。

 激痛である。

 

「三本めがあることくらい、あなたになら予想出来たと思うけど……ちょっと買いかぶり過ぎたかしら?」

「三本め、だあ……?」

 

 ようやく判った。

 さっきのあれは、二本ともフェイク……囮に過ぎなかったのだ。

 つまり、現在においては斬輝よりもレイナーレの方が一枚上手だったということだ。

 右目の視界にかろうじて割り込んでくる赤い槍を、左腕で摑んだ。

 

「ぎっ!!」

 

 駄目だ。思ったよりも深く刺し込まれているのか、下手に動かそうとすれば余計に肉を抉るだけだ。

 

「無理に抜かない方がいいわよ? 貫通しなかったのは計算外だったけど、人間と言えどそこまでの傷ならいずれ失血で死ぬわね」

 

 彼女の言う通りだった。現に、次から次へと押し出すようにして鮮血が噴き出してくるのだ。

 こン畜生が。肉の方は、大したことないってことかよ。

 糞ッタレ。

 まったくもって、

 

「……糞ッタレめ」

 

 呻いた直後、彼の全身を、柔らかな緑色の光が包んだ。

 顔を向けた斬輝が見たのは、彼の肩に両の掌を乗せ、血生臭いにおいと格闘しながら必死に神器(セイクリッド・ギア)を発動させるアーシア・アルジェントの姿だった。

 見ると、どちらの中指にもエンゲージ・リングのような指輪が嵌められていた。

 光が放たれているのは、そこからだ。

 

「……ん?」

 

 さらに肩越しに振り返ると、すでに治癒が終わったのか、一誠の左腕からはもう煙があがることはなかった。

 優しい光だ。

 温かい光だ。

 その光が最も強いのは、ついさっきレイナーレにやられた右の肩である。

 最初に変化が生じたのは、右の拳だった。打面を一直線に繫ぐカサブタが出来ていたが、それすらも新しく出来上がった皮膚によって追いやられ、ぽろり、と取れたのである。

 そして、肩に深々と突き刺さった光の槍だ。肉を裂き、骨を砕く寸前で止められたそいつが、徐々にその大きさを失ってゆく。

 縮んでゆくのだ。

 そして槍が完全に消滅した瞬間、

 

「……トワイライト・ヒーリング…………!」

 

 レイナーレの唸りとともに、それは始まった。

 

「うお」

 

 思わず漏れるのは、感嘆である。

 傷が塞がってゆく。

 外見だけを接合したのではない。しっかりと患部の内側から破られた血管が再生し、筋肉が再生し、新たな皮膚が形成されたのだ。

 それっきり、肩の痛みは治まった。

 つまり、これが彼女の神器(セイクリッド・ギア)というわけだ。

 爆発的に向上された自然治癒力による肉体の修復。

 後に残るのは、彼女の温もりである。

 

「Are you OK?」

「おう、さんきゅう」

 

 何とか笑みを浮かべることには成功したようだ。

 適切な発音ではなかったが、少女もつられて微笑んでくれた。

 しかし彼女の笑みも、

 

「アーシア」

 

 レイナーレの一言で、すぐに崩れ去った。

 その目に映るのは、恐れだ。

 

「おとなしく私とともに戻りなさい。あなたのトワイライト・ヒーリングは、そこの下級悪魔のそれとは比べ物にならないくらい希少なの。素直に来てくれたら、その二人は見逃してあげてもいいわよ」

「レイナーレ……てめぇ、ずいぶん好き勝手に話進めてくれてんじゃねぇか。なんだ? そんなにアルジェントが欲しいのか?」

 

 やっとのことで立ち上がった斬輝が吐いた言葉は、

 

「まさか」

 

 嘲笑された。

 

「私が欲しいのは、アーシアが持つ神器だけ。それさえ手に入ればいいのよ。アーシアがどうなろうが、他の連中がどうなろうが、知ったことじゃないわ」

「ふざっけんじゃねえ!!」

 

 一誠だ。拳を握りながら、いまだ発動させた神器をまとう左腕を突き出して、それは人差し指を伸ばした指差しだ。

 

「そんなことでアーシアを渡せる……」

「……I'll do as you say」

 

 一誠を遮るようにして、アーシアが一歩、前に出た。

 斬輝よりも。

 

「アルジェント?」

 

 斬輝に応えることも無く、シスターはこちらに背を向けて、徐々にレイナーレの方へと歩み寄ってゆくのだ。

 それが意味することは、一つ。

 

「おい、待て!!」

 

 無駄だった。

 彼の言葉に振り返ることも無く、ただアーシアはレイナーレの近くへと歩いてゆく。

 だが、いいのか?

 これでいいのか!?

 

「アーシア! 待てよ!?」

 

 叫ぶ一誠も、考えていることは同じようだ。いや、斬輝の考えが、一誠が耳にした言葉から導き出される予想と一致したのだろう。

 いずれにせよ、同じことだ。

 アーシアはこちらに居ることではなく、向こうへ戻ることを選び取ったのである。

 兵藤一誠と、黒鉄斬輝のために。

 認めたくなかった。

 認めてしまえば、それは敗北も同然だからだ。

 畜生。

 まただ。

 

「くそっ! 行かせるか!!」

 

 斬輝を追い越して前に出ようとする一誠の肩を、

 

「先輩! 何すんですか!? 離してくれよ!!」

 

 無意識のうちに斬輝は摑んでいた。摑んだ手が、ぎし、と軋んだ。

 こちらに向けられた一誠の目には、明らかな苛立ちが込められていた。

 

「先輩!」

「よせ」

 

 食いしばった歯の隙間からやっとのことで紡いだその言葉に、じたばたと暴れていた一誠の動きが、止まる。

 アーシアはすでに、レイナーレの側へと移動を終えていた。

 

「これは、あいつの意志なんだ……」

 

 そう。

『意志』だ。

 たしかに、それは極限までの二択問題だった。己の命を取るか、知り合ったばかりの男どもの命を取るか。

 アーシアが選択したのは、後者だった。

 ふがいない男どもなんぞのために、彼女は『自分』と言う存在を犠牲にすることを選び取ったのだ!

 

「イイ子ね、アーシア。それでいいのよ。今夜の儀式で、あなたの苦悩は消え去るのだから……」

 

 それから、広く大きな黒い翼でアーシアを抱いたレイナーレがこちらを一瞥した。目的のものを手に入れられたからか、その声はどこか弾んでいる。

 

「この子に免じて、命だけは見逃してあげるわ。でも、次また邪魔をしようものなら、その時は今日以上の恐怖と痛みを味わわせてあげるから。……じゃあね、イッセーくん、それとそこの人間も」

 

 今まで聞いたこともないような明るい声音で言われた直後、その頭上が空間ごと歪んだ。捻じくれたようなその楕円形は、昨夜あの家で見たものに似ている。

 そして、レイナーレを頭から飲み込んでいった。

 畜生。

 ああ、畜生。

 まただ。

 また、護れなかった。

 今度ばかりは、なくさずに済むと思っていたのに。

 

「アーシアァアァアアアァア!」

 

 隣で、一誠が叫んだ。

 斬輝も、叫びたくてたまらなかった。

 あいつが……レイナーレが後輩の命を奪った張本人だというのも、もちろんある。だがそれと同じくらいに、ロクに護れなかった自分が情けなくて、たまらなかったのだ。

 だが、それはしなかった。叫んでしまえば、アーシア・アルジェントの選択を無下にしてしまうからだ。

 青紫の光がアーシアを飲み込もうとする寸前、彼女の唇が震えた。

 いや、動いたのだ。

 声は聴こえなかった。

 だが、すぐに理解した。

 彼女は告げたのだ。

 別れを。

 グッバイ。

 さようなら。

 まるで聖母の微笑みのような表情で消えて行くアーシアの言葉は、そう『聴こえた』。



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第五章 覚醒

       

 

 

 駒王学園の旧校舎・オカルト研究部の部室へと着いたのは、それからわずか九〇分後だった。すでに空は藍色に染まっていたが、それでも閉ざされたカーテンの隙間から洩れる光は、まだ部室に誰かしら残っていることの証拠でもあった。

 二人は、ほぼ同時に部室へと入室した。

 そこにいたのは、全てのオカルト研究部員だった。すなわち、リアスも朱乃も、小猫も木場もだ。そういえば以前、もう一人部員が居ると聞いていたが、たしかそいつは別件で席を外しているんだっけか。

 ともかくそれが、五分前だ。

 突然の来訪に、部員達は驚いていた。悪魔としての一誠の気配はきっと感じ取られていたはずだから、その驚きは斬輝に対するものと見て間違いあるまい。

 それからまず、二人はテーブルを挟んだソファへと座らされた。

 満身創痍の二人を交互に見やってから、リアスは一誠に訊いた。

 何があったの。

 それからは、さっきまで起きたことを全て彼女へと説明していた。学校を休んでもいいことを利用してアーシア・アルジェントの捜索をしていたこと、その矢先、くだんのアーシアを連れた斬輝と会ったこと、ひとしきり喋った帰りに堕天使レイナーレが現れて、アーシアが連れ去られてしまったこと……。

 だが午後からゲーム・センターで遊び呆けたことは言わないでおいた。そこに関しては、今話す必要性がないと判断したからだ。

 いずれにせよ彼は、『兵藤一誠』としてこれからどうしたいかをも、何もかも全て話した。

 あのシスターを……アーシア・アルジェントを助け出したいということも……。

 そして一通り聞き終えたリアスはゆっくりと一誠の近くまで来ると、

 

「……部長?」

 

 彼女に立たされた。

 そして次の瞬間、左の頬から乾いた音が鳴った。

 拍手ではない。

 張り手だった。

 音は、リアスの右手から。

 直感した。

 ぶたれたのだ。

 彼女に。

 

「ねえ、何度言ったら判るの?」

 

 彼女の声は、いまだかつて聞いたことのないほどに低く、そして静かだった。

 

「駄目なものは駄目よ。あのシスターの救出は認められないわ」

「なら、俺一人でも行きます」

「イッセー……!」

 

 もちろん、彼女の言い分は判る。悪魔が堕天使間の問題に首を突っ込むことがどれだけの愚行であるか、彼女は充分理解しているはずだからだ。しかしそれすらも、今の一誠の発言は覆し、捩じ曲げようとしているのである。

 判ってる。

 俺の言葉が、俺の行動の一つ一つが、あんなに俺を期待してくれている部長を裏切るような結果に繫がってしまっていることなんて、とっくに判ってるんだ。

 でも、これだけは譲れない。

 譲るわけにはいかないんだ。

 たとえ相手が部長だったとしても。

 アーシアの、あの目を見てしまった以上は。

 たしかに、彼女は自らの意思でレイナーレのもとへと(くだ)った。だが彼女が最後に振り向いた時、最後の言葉を交わした時、その目に映るのは明らかな諦観ではなかった。

 笑みだったのだ。

 心の底からの、しかし満面の笑みではなく、わずかに口元を綻ばせた、それは微笑みだったのである。

 その笑みの意味は、正直なところさっきまで判らなかった。

 そう、過去形である。

 今なら、判る。

 あの笑みは、闘う者にのみ許された笑みだ。

 ああ、そうだ。

 アーシアもまた、闘い続けてきたんだ。

 己が背負いし運命と!

 

「やっぱり、儀式ってのが気になるんです。堕天使達が裏で何かするに決まってます。アーシアの身に危険が及ばない保証なんてどこにもありませんから」

「駄目よ。主として、下僕をわざわざ殺させるような場所に一人で行かせるわけにはいかないわ」

「だったら、俺を眷族から外してください! それでもというなら、俺を消し飛ばすなりしてください!!」

 

 そうでもしなきゃ、もう止まることなんて出来ない。

 今だって、本当は目の前の彼女を振り切ってでもアーシアの居る教会へと走り出してしまいそうなのだ。

 

「あのねえ……」

 

 リアスの言葉を継いだのは、

 

「勝手にさせとけ」

 

 斬輝だった。

 

「せ、先輩……?」

「だってそうだろ? アルジェントが勝手に、行く、つったんだ。行かせりゃいいじゃねえか」

 

 ソファにどっかりと腰を下ろし、だらしなく両脚を前へ投げ出して、右手は背もたれへとかけられている。そんな恰好で、彼はいかにも面倒くさそうにぼやいたのである。

 膝に乗せられた左の拳が、小刻みに震えていた。

 だが、一誠が言葉を失ったのは、先輩のそのだらしない恰好のせいではなかった。

 彼の言葉だ。

 それは面倒くさそうに……そう、まるで自分は関係がないかのように言ってのけたのだ。

 

「それで死んじまったら、そいつぁあいつの選んだ道がそこに繫がってただけだ。おめぇがこれ以上首を突っ込んでイイ問題じゃねえんだよ」

「そんな……なんでそんなこと言うんですか! 先輩は、アーシアを助けたくないんですか!?」

「知るか」

 

 あっさりと言い切られた。

 そして、彼は立ち上がる。ゆっくりと、もったりと。アーシアに治療してもらったとはいえ、それでもわずかな鈍痛が残るのか右の肩口を抑えながら。

 

「判らねえのか? あれはアルジェントが自分の意思でやったことなんだ。それを今からカチコミしに行くことがどういうことなのかを……」

「それは……」

 

 言いかけて、しかし喉の上までこみあげてきたものを、再び奥へと押し込んだ。

 応えられない。

 答えが、見つからない。

 そのとおりだからだ。

 今から一誠がやろうとしていることは、たしかに彼女の意思に反する行為になる。

 

「部長」

 

 ソファの方を向いた一誠の背後で、朱乃がリアスと何か話しているのが聴こえた。

 

「イッセー」

「……はい」

 

 振り返る。

 さっきの話の内容までは判らなかったが。

 しかし、

 

「大事な用事が出来たから、私は朱乃と斬輝を連れて外へ出るわね」

 

 リアス・グレモリーがついに一誠の提案を認めてくれることはなかったことは、確実だった。

 

「おい、俺もか!?」

 

 だが一誠よりも先に異論を唱えたのは、他ならぬ斬輝だった。

 

「ええ、そうよ」

 

 するとリアスはするすると二人の間に入り込むと、

 

「ほら、行くわよ」

 

 がっしりと斬輝の腕を摑んで、そそくさとドアの方へと歩いてゆく。

 その背中を見送るように、けれど一誠は一歩前へと踏み込んだ。

 

「部長!? 話はまだ終わっちゃ……」

「ねえ」

 

 ドア・ノブに手をかけたところで、リアスの動きが止まった。

 そして、こちらを見やる。

 

「プロモーションって、知ってる?」

「プロモーション?」

 

 言葉だけならば、聞いたことがある。たしか、チェスにおいて『兵士(ポーン)』だけが持ち得る何か特殊な力のことだ。

 だがいまだかつてチェスをマトモにプレイしてこなかった一誠のオツムには、その力の効果まではインプットされていない。

 

「イッセー、あなた、『兵士(ポーン)』が最弱の駒だと思ってない?」

 

 頷いた。

 けれど、それは違うとでも言うつもりなのか? 『兵士(ポーン)』は、捨て駒じゃないのか?

 実際のチェス同様にね、とリアスは続ける。

 

「敵陣地の最深部まで辿り着ければ、『兵士(ポーン)』は『(キング)』以外の全ての駒に昇格出来るの。それがプロモーションよ」

 

 それはつまり、『(キング)』であるリアスが敵陣地であると認めた時にのみ、木場の『騎士(ナイト)』や小猫の『戦車(ルーク)』、ひいては朱乃の『女王(クイーン)』への昇格が可能になるということだ。

 言いかえれば、『(キング)』以外の力を好きなように使えるのである。

 悪魔の駒(イーヴィル・ピース)にそんな能力があるとは思わなかった。しかしこれは、大きな収穫だ。これを神器(セイクリッド・ギア)と一緒に巧く使いこなせば、ひょっとしたらあの糞神父やレイナーレへ一発かませるかも知れない。

 

「でも、今のあなたじゃ体力的に『女王(クイーン)』は難しいかもね。でも、強く願えば変化が訪れるはずよ」

「お前、何を……」

 

 斬輝の疑問を無視して、それと、とリアスは付け加えた。そして一誠に向かって彼女は……ああ、なんてことだ、そこにはいつもの笑みが浮かんでいるではないか!

 

「あなたの神器(セイクリッド・ギア)についてだけど。イッセー、神器(セイクリッド・ギア)を使う時、これだけは覚えておいて」

 

 ……想いなさい。神器(セイクリッド・ギア)は、想いのチカラで動き出すのよ……。

 それが、最後だった。踵を返したリアス・グレモリーは、斬輝の手を摑んだまま朱乃とドアの向こうへと行ってしまった。

 残ったのは、一誠を含めて、たった三人。あとの二人は、木場祐斗と、塔城小猫である。

 わずかな静寂の中で、一誠は己の左腕に目をやる。

 選ばれし者が神よりもたらされたチカラ。

 けれど、ごくありふれたタイプのチカラ。

 そんなものでも、と一誠は思う。

 応えてくれるのかな。

 俺の想いに。

 アーシアを助けたいっていう、この想いに。

 使命感などという言葉が気恥しく思えてしまうほどに、それは純粋な気持ちだった。

 左の拳を垂らした時、

 

「兵藤くん」

 

 ふと、背後から祐斗が声をかけてきた。

 

「行くのかい?」

「ああ」

「一人で?」

「そうするしかねえよ。アーシアは友達だ。俺が助けに行かなきゃならないんだ」

「殺されるよ? たとえプロモーションを使っても、エクソシストの集団と堕天使を一人で相手取るにはリスクが大き過ぎる」

「構わないさ。俺が死んでも、アーシアが逃げてくれればそれでいい」

「莫迦みたいだ」

「違わないな」

 

 でも、

 

「俺みたいな莫迦には、これくらいしか出来ないんだよ」

 

 そういえば少しばかり前に、斬輝に言われた言葉があった。

 ……お前さん、そーゆーとこは俺並みの脳キンだからなあ……。

 その時は、誰が脳ミソ筋肉野郎ですか、と抗議したが、しかしなるほど、たしかに彼の言葉は間違ってなかったのかも知れない。

 そうか。

 そういうことか。

 だとしたら、たしかに俺は脳キンなのかもな。

 斬輝先輩並みに。

 

「判ったよ」

 

 木場は一誠の隣に立つと、そう言った。

 

「僕も一緒に行こう」

「はあっ!?」

 

 一緒に行く、って……どういうことだよ!?

 

「気づかなかったのかい? 部長は、遠回しに教会を敵陣地と認められたんだよ」

「……あ」

 

 そうだ。

 たしかに、彼女は言ったではないか。

兵士(ポーン)』に備わる力の一端を。

 そして何ともご丁寧に、『(キング)』が認めた陣地でのみ発動するという条件まで!

 そうか。

 そうだったのか。

 だからあの時、部長は『言った』んだ。

 行け、と。

 遠回しに。

 リアスも、怒っていたのだ。それが一誠と同じ理由なのかはともかく、少なくとも彼女が『敵地』であると認める分には充分な材料だったのだろう。

 

「もちろんそれは、僕に君をフォローしろ、って意味合いも含めてだと思うけど。そうでなければ、君を閉じ込めてでも止めてると思うよ」

 

 木場の苦笑に、一誠は自分の唇が歪むのを感じた。

 同じく苦笑だった。

 返事は、

 

「私も行きます」

 

 木場の背後からだった。そして二人の間に入り込むようにして、小柄な白髪の少女が躍り出る。

 

「こっ、小猫ちゃん?」

「……二人だけでは不安です」

 

 相変わらず無表情で何を考えているのか皆目検討もつかなかいが、しかしこの時、一誠は彼女が持つ優しさの一端を垣間見たような気がした。

 おもわず笑みがこぼれそうになるのを抑え込んで、

 

「ありがとう」

 

 それだけ、応えた。

 それだけで充分なのだ。

 信頼だとか仲間だとか、そんなものは関係ない。

 

「それじゃ、いっちょ救出作戦といきますか!」

 

 待ってろよ、アーシア!

 

 

 朱乃からの報告よ、とリアス・グレモリーは言った。

 斬輝の質問への、それが答えだ。ここ数日、堕天使が不穏な動きをしているというのである。

 悪魔のお偉いさん側から統治を任せられている、この駒王町で。

 ……彼女の領土で。

 

「おめぇ、関わらねえって言ってたじゃねえかよ」

 

 湿った土壌の上を踏みしめながら、終わりのない樹木の間を縫うように歩いて行く。

 月明かりさえも遮るほどに密生した森である。おかけで、二人の前を歩く朱乃が人為的に発生させた『炎』がなければ、満足にすぐ隣にいるはずのリアスの顔すら見えやしない。

 けれど次々と刻まれてゆく足跡だけは、斬輝のは誰よりも深いことが判る。つまるところ、それだけの重量を持ち合わせているということだ。

 転移だ。悪魔でない斬輝は、リアスが自身の魔力で構築した特殊なチケットを持って。

 勝手に連れ出されたも同然なこの状況で、溜め息まじりに斬輝は尋ねた。

 

「確証が持てなかったのよ。一連の事件が堕天使の総意によるものなのか、それとも一部の輩が勝手に起こしているのか」

 

 今もそれは判らないけれど、と付け加えて。

 だから、とリアスは言った。

 

「確かめるの」

「確かめる? そんなことなら、わざわざ俺を連れて来る必要なんざなかったろう」

 

 あいつのダチ一人護れや出来ん俺なんざ、よ。

 ただのお荷物になるだけさ。

 だが、

 

()るわ」

「なに?」

 

 即答だった。

 

「どういう意味だよ」

「……朱乃、もう少し前の方を歩いてくれる?」

「判りました」

 

 短く息を吐き、朱乃が二人から少しばかり距離をとるのを確認すると、

 

「ねえ、斬輝」

 

 ぼそり、と肩を並べているこの間でしか聞き取れないくらいな声でささやいた。

 

「……あなた、後悔しているんでしょう?」

「なっ……!?」

 

 いきなりの言葉に、斬輝は言葉を失った。

 リアスの言う『後悔』がいったい何に対するものなのかを、斬輝は他の誰よりも理解している。

 それはまさに、彼自身が頭の片隅で常に思っていたことだったからだ。

 ああ、そうさ。

 一誠と同じだ。俺も、自分のことが情けなくてどうしようもないんだ。

 それでも心のどこかでアーシア・アルジェントの『選択』を正当化させることでこれ以上首を突っ込まないで済むようにする自分がいて、余計に腹が立った。

 それじゃ駄目なのに。

 首を突っ込むな、などと言っておいて、実際のところ俺もあいつと同じく彼女を助けようとするべきだった。

 だがそうしなかった。

 言い出すのが怖かったからだ。

 言うだけ言って、また救えなかった……そんな結果に終わってしまうのが、純粋に怖かったんだ。

 だからこうして、大した抵抗も出来ず、二人に付いて行くような状態になっている。

 

「私、『見た』のよ」

「なにを」

「あなたよ、斬輝」

 

 俺を?

 

「いつだ?」

「ゆうべ」

 

 これも即答だ。そして顔をわずかにこちらに向けると、彼女はさらに続けた。

 

「昨夜ね、イッセーの契約者候補の自宅にはぐれ悪魔祓い(エクソシスト)が現れたの」

 

 エクソシストは一誠が到着するよりも前に男を殺害しており、結果的に彼はその惨状の中へと入り込んだのだという。

 そしてエクソシストの容赦ない攻撃の中で一誠を庇ったのが、つまりあのシスターだったのである。

 

「アルジェントが、か?」

「そうよ」

 

 ぞわり。

 まて。

 まてまて。

 これは、そうなのか?

 要するに、そういうことなのか!?

 

「怪我をしたイッセーを回収して転移魔方陣を展開した時、そのエクソシストが正面にいた私に向かって剣を振り下ろしてきたわ」

 

 リアス・グレモリーの口から零れる言葉は、あくまで淡々としている。だがその中に、斬輝は一つの確信を得ていた。

 

「その時に、『見た』の。あなたの剣を」

 

 もはや、疑いようがなかった。

 間違いない。こいつは、ゆうべ俺が入り込んだ民家にいたのだ。

 イカレた口調をした男の攻撃を防いだ、まさにその瞬間まで。

 

「あなたが入ってきたことは、偶然だと思っているわ。でもあの時、ひょっとしたらあの剣が届いていたらと思うと……私、きっとここにはいないと思うの」

 

 イッセーの怪我からして相当な堕天使の加護が付いていたみたいだから、と自嘲気味に笑みが漏れた。

 だがそれも、長くは続かなかった。

 

「あなたが……」

 

 リアスは、もう真顔に戻っていた。

 

「あなたが自分を責めることなんてないわ。むしろ責められなければならないのは、私の方よ。結果として巻き込んでしまったのは、私なのだから」

 

 それに、と彼女は言った。

 

「あなたは、ちゃんと護ろうとしてるじゃない。護ろうとしてくれてるじゃない。違う?」

 

 そうだ。そこがポイントなのだ。

 

「護れなかったのは、たしかにあなたが弱かったからなのかも知れない。でも、だからってそこで諦めちゃ駄目なのよ。諦めずに、今度こそ護ろうと立ち上がらなきゃ駄目なのよ」

 

 応えられなかった。

 

「イッセーにあんなことを言ったのだって、本当は彼が闘わずに済むようにしたかったんでしょう? ……斬輝」

 

 応えられなかった。

 だが無造作に垂れた自身の両の拳が、わなわなと震えていたのが判った。

 

「あなただけが傷つくことはないのよ。あの時部室で言ったこと、覚えてる?」

「……ああ」

 

 喉の奥から絞り出すような声で、頷いた。

 ……お願い。私に、私達にあなたを護らせて……。

 忘れるもんか。

 あの言葉は、悪魔の言葉ではなかった。

 リアス・グレモリーという一人の女の、それは本音だったのだ。

 

「だったら、頼って」

 

 彼女の声が、震えている。

 それが怒りからくるものではないことが、ふと摑まれた左手の感触で判った。

 

「あの夜から、ずっと心配だったのよ……。護らせて、って自分で言っておきながら結局はあなたに助けられちゃうし、メールにも電話にも出てくれなくて、私……」

 

 ……ああ、なんてこった。

 こいつも、同じだったのか。

 護るべき者に助けられてしまうということは、実際のところそこまで問題ではない。

 重要なのは、それからだ。

 そして、今の斬輝とリアスとを明確に区別し得るものが、つまりそこなのである。

『過去』に囚われてその場に立ち止まるか、

『過去』と向き合い前へと進み続けるのか。

 

「だからもう、護らせて、とは言わないし、言えないわ。でも頼って。一人で抱え込もうとしないで……」

 

 リアスは、間違いなく後者だった。

 

「孤独になろうとしないで……」

 

 握ってくる力が、強くなる。無意識のうちに、斬輝はその手を握り返していた。

 そうか。

 そういうことか。

 彼女が言いたいのは、このことなのだ。

 ああ、そうさ。

 俺は孤独だ。

 事故で家族を失ったあの日から、ずっと。

 友達がいなかったわけではない。現にこうして女の知り合いもいれば、性癖に難はあれども後輩にだって恵まれている方だ。

 だがそれでも、俺が孤独であることに変わりはなかった。知り合いにしたって後輩にしたって、その間には厳然たる壁があったからだ。

 そう。あった、だ。

 その壁が、今、壊されようとしている。

 傍らを歩く、一人の紅髪の少女によって。

 ふいに浮かぶのは、自嘲の笑みだ。

 俺という奴は、全く、くだらんプライドなんざ持ちやがって。

 そんなものは、とうの昔に捨て去るべきだったのだ。

 こうして斬輝へ手を伸ばし、触れてくれる者が現れてくれた時点で。

 少なくとも、彼女と出逢った二年前には……。

 

「リアス……」

 

 ふとした呟きに、ふいにリアスがこちらを見つめてくる。青い双眸がわずかに煌めき揺らめいて見えるのは、気のせいではないだろう。

 思えば彼女の名を何の抵抗もなしに呼んだのは、これが初めてだ。

 そして、気づいた。

 彼が取るべき行動が何なのか。

 彼女が示してくれたのだ。

 ならば。

 

「……ああ、判ったよ」

 

 斬輝はリアスの手を離し、彼女の肩に軽く乗せる。

 

「ありがとう。おかげで、ちと吹っ切れたぜ」

「……いいえ」

 

 腹は決まっていた。

 正義感と呼べるものではなかったにせよ。

 とりあえず、今のところは。

 

 

 

       

 

 

 なまぬるい風が、なまぬるい大気をかきまわしてゆく。

 この時期は夜になるとまだ肌寒い。しかしこれくらいの風は、まだちょうど良いくらいに思えた。

 だが、と一誠は思う。

 俺の怒りの熱の方が上だな。

 それはアーシアを攫った堕天使レイナーレへのものでもあるが、同時に自分自身への怒りでもある。

 目的地である教会へと到着した時、そこから放たれたのは異様なまでの殺気だった。三人はすぐには中へと入らず、分厚い木製の扉が見える位置に茂る木々の中に隠れて様子をうかがうことにした。

 本当ならば先頭切って突っ走りたいところだが、これだけの『圧』が中から噴き出されているとなるとさすがにそいつもためらってしまう。

 幹に背中を預け、一誠はわずかな溜め息をもらした。

 

「これは、相当な数の神父が集まっているみたいだね」

 

 同じく反対側の樹に寄りかかる木場の呟きに、

 

「判るのか?」

 

 聞き返した。

 

「うん。これでも神父や堕天使とはそれなりの場数を踏んでるからね。なんとなく、雰囲気で伝わってくるんだよ」

「そうなのか……」

「……それに、個人的にも彼らは好きじゃないんだ」

 

 憎いほどにね、と言う木場の声音がわずかに低くなったのを、一誠は聞き逃さなかった。だがそれを問いかけるよりも早く、茂みに身を潜めていたはずの小猫がいつの間にか正面の扉の前に立っていたことに気づいた。

 

「……小猫ちゃん?」

 

 慌てて、二人も彼女のもとへと駆け寄った。

 

「向こうも私達に気づいているでしょうから……」

 

 言いながら右脚を胸まで引きつけると、一気に扉を蹴破った。

 足刀蹴りである。

 扉は呆気なく奥へと開き、瞬間的に叩きつけられた風圧によって舞い上がったホコリの中を、三人は進んでゆく。

 気味が悪くなるくらいにきちんと並べられた長椅子に、奥には祭壇。左右に据えられた彫刻はところどころ破壊されていて、床にはそのカケラが散らばっている。

 祭壇の中央に磔にされた聖人の彫刻は、その頭部が粉砕されていた。

 文字通り、廃れた教会の聖堂。

 腰骨から頸椎のあたりまで駆け上がってくる悪寒。

 向けられる殺気は、この聖堂からも吐き気がするくらい感じ取れる。

 けど、ここじゃない。

 教会の中からだというのは確実だ。だが、連中が潜んでいるのはもっと別の場所のように感じるのだ。

 どこだ?

 どこにいやがる?

 首を回してあたりを見渡した時だ。

 ぱちぱちぱち、と間の抜けた拍手を聖堂の中で反響させながら、

 

「やあやあやあ」

 

 聞き慣れた、しかし耳ざわりな声が響き渡った。

 祭壇の左側に面した壁に穿たれた穴からだ。ちょうど、人が通れるくらいの大きさである。

 光源は、ロウソクとわずかに生きている電気の灯りのみ。

 だがそれでも、『奴』の透き通った白髪は、闇の中でもうるさいくらいの自己主張をしていた。

 

「再会だねえ、感動的ですねえ!」

「フリード……!」

 

 それは堕天使達が用意していた刺客だった。

 しかし、その頭部は包帯に覆われていたが。

 

 

 初めて彼女の『計画』を聞いた時、最初は信念よりも疑念の方が上回っていた。

 本当に?

 それだけのことで、本当にそんなことが出来るの?

 無論、その『計画』には念入りな準備が必要だった。『一つの種』として動くのではなく『個人の集まり』で行動する以上、それには慎重に事を運ぶことが求められるためだ。

 これから儀式が始まる。

 予定より大幅に遅れたものの、それが終われば彼女達は本当の意味で『至高の存在』へと距離を縮めることになる。

 絶対に失敗は許されない。

 それも全て、あの方の近くでお仕えするためだ。

 誤りはない。

 あるはずがない。

 そう言い聞かせてきた。

 そう、自分に言い聞かせ続けてきた。

 もちろん、

 

「は~ぁあ、退屈ぅ」

 

 今も。

 大木から枝分かれしたうちの一つに腰をかけ、ミッテルトは教会を見つめていた。

 いや、見張っていた。

 かれこれ三時間ほどこのままだった。たしかに脆弱な人間よりかは体力も持久力もあるが、それでも長時間同じ姿勢をとり続ければいかな堕天使と言えど負荷がかかる関節は軋みをあげるのである。

 首を回すと、頸椎のあたりが、ごきり、と嫌な音をたてた。

 腰なんて、もうカチコチだ。

 あー、もう。

 暇過ぎ。退屈。ヤになっちゃう。

 

「どうしてウチが見張りなんかやらないといけないのよ」

 

 思わず漏らした言葉に、

 

「それはあなたが下っ端だからじゃないかしら?」

 

 応える声があった。

 肩越しに振り返ったミッテルトが目にしたのは、三人の人影だ。

 わずかな月明かりで、それは二人の女と一人の男だと判る。それだけではない、うち二人……前の女はどこかの制服を着ているようだが間違いない、悪魔だ。だが背後の男が顔以外まともに判別がつかないということは、つまり相手が黒ずくめであることの証拠だ。

 しかしそれ以上に、その男が『ヒト』であることの方が、最も彼女を驚かせた。

 立ち上がり、

 

「あらぁ?」

 

 わざとらしく言いながら、五メートルほどの高さを迷いもせずに飛び降りた。引力が彼女の軀を摑み、加速度的に地面へと引きつけてゆく。

 着地の瞬間、どすん、と腹の底に響く音がしたが、それだけだ。

 骨は砕けない。

 ヒトではないからだ。

 

「これはこれは。わたくし、人呼んで堕天使のミッテルトと申しますぅ」

「あらあら、これはご丁寧に」

 

 ポニー・テールの女に続いて口を開いた長身の男は、

 

「ゴスロリって……てめぇらは変な趣味しかしてねえのか?」

 

 頭を搔いて、何とも緊張のなさそうに言った。

 

「はあ!? へ、変な趣味って何よ!」

「そのまんまの意味だ。……どう考えても変だろ」

「変とか言うな! れっきとしたコスプレよ!」

 

 言ってしまってから、しまった、と思った。だがもう遅い。

 紅髪の女悪魔は小さく咳払いした後、下僕があなたを察知したの、と言った。たしか、グレモリー家の者だっただろうか。

 どちらにせよ、なるほど。やはり感づかれてはいたようだ。まあ、雇った神父も含めてあれだけ派手にやっていれば、当然の結果だと言える。

 だがミッテルトの見張りを、グレモリーは悪魔への『警戒』として捉えていた。

 

「私達に動かれるのは、一応は怖いみたいね」

「まさか」

 

 ミッテルトは鼻で笑った。

 

「だいじな儀式を悪魔さんに邪魔されたらちょっと困る、ってだけ」

 

 そりゃ残念だったなあ、と呟くのは人間の男である。

 続く言葉に、ミッテルトは背筋が冷たくなるのを感じた。

 なんか、嫌な感じ。

 まさか……、

 

「さっき俺らの後輩がそっち向かったぜ。どっから入ったのかは知らんがな」

 

 うそでしょ!?

 え?

 えええええ!?

 

「マジ!?」

「マジですわ。それも表から堂々と」

「ああ、表か。だそうだ、ゴスロリ」

 

 ポニー・テールが答える。

 それはつまり、ミッテルトの自由時間……及び睡眠時間を削ってまで行った『監視』が、呆気なく無駄に終わったことを意味していた。

 だが、と思う。

 所詮は三下の悪魔。そんな連中が集まったところで、レイナーレの計画を阻止することなど出来るわけがあるまい。

 

「まあ、実際儀式の邪魔になりそうなのは、そこの悪魔お二人さんの方みたいだし……」

 

 噂が確かであれば、紅髪は『紅髪の滅殺姫(ルイン・プリンセス)』、隣のポニー・テールは『雷の巫女』の異名を持っている。

 つまりここで彼女達を足止め、あるいは降すことが出来れば、ミッテルトの評価は上がるかも知れない。いや、確実に上がることだろう。

 

「……なにが可笑しいの?」

 

 おっと、どうやら顔に出ていたようだ。

 しかし、だとすれば行動は早い方がいいだろう。

 

「まあ、とにかくあれよ。主のあんたををぶっ潰しちゃえば、他の下僕ッチはオシマイになるわけだしぃ? これなら数は同じよね!」

 

 言葉とともに、ミッテルトは漆黒の翼を拡げた。途端に、三人の背後に『ある』空間が楕円形に歪む。

 それは例えるなら、池に小石を落とした時に拡がる水の波紋に似ている。そいつが今、四次元的に発生することで『あちら側』にいる仲間を『こちら側』へと召喚するのだ。

 禍々しい光が止んだ時、そこには二人の堕天使が立っていた。

 左のハットを被った男は革のコートに革のグローブ、隣の女はタイトなスーツである。しかし彼女が上に着ているのはジャケットのみで、その下にはうるさいくらいの二つの隆起があった。

 ドーナシークと、カラワーナである。

 

「お前……」

 

 長身の男が、唸るように呟いた。

 

「生憎、また(まみ)えてしまったようだな、グレモリー嬢。それに小僧もか」

「貴様らに計画の邪魔をさせるわけには行かないんでな」

 

 そう。

 計画を邪魔されるわけにはいかない。阻止なんかされたら、それこそ打つ手なしだ。

 だから今、ここで確実に仕留める必要がある。

 

「たった三人で、どうする気?」

 

 ミッテルトは、挑発的に話しかけた。

 ドーナシークもカラワーナも、それに続く。

 

「我らの計画を妨害する意図が貴様らにあるのは、すでに明白」

「死を持って抗うが良い」

 

 三人の堕天使が、三人の乱入者を取り囲むように飛翔する。

 奇妙な三角形である。

 

「まあ、大人しく逃げるって言うなら、許してあげなくもないけど」

 

 その三角形の中で、

 

「一つ、訊かせろ」

 

 男が、こちらを見上げて口を開いた。

 

「アルジェントの神器を抜いて、どうする気だぃ」

「簡単なことだよ」

 

 ドーナシークだ。

 

「我らが同志レイナーレはアーシア・アルジェントが持つ聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)と融合し、至高の治癒能力を手にする。さすれば、アザゼルさまの目に留まることは間違いあるまい」

 

 そしてそれに半ば便乗する形で、ミッテルト達にも相応の地位が与えられる。

 そう。これは全て、堕天使勢力における四人の地位を大幅に向上することを目的としているのだ。そして最終的な目標は、総督であるアザゼルの側近、である。

 

「ギアを抜くってことか?」

「そうだ」

 

 簡潔にして単純な答えだった。ひくり、と悪魔達の眉が動いたあたり、あるていどのショックを与えることは出来たようだ。顔に出していないだけで、きっと彼女達は初耳であるはずだ。

 そもそも神器所有者から神器だけを抜き取ること自体が、今まで行われてこなかったのだから。

 神器の移植には、装置の設営や被験者を含め、長い時間と綿密な計画が求められる。だがそれ以上に問題視されているのは、提供元の人間が神器を抜き取られた後数分とし死亡することだった。

 それが今、まさに行われているのである。

 

「抜かれちまったら、彼女はどうなる」

「死ぬ」

「……そうか」

 

 男は短くそう言うと、

 

「リアス」

 

 紅髪の女に、ちらり、と視線だけを投げた。

 

「なに?」

「あのおっさん、俺に寄越せ」

「出来るの?」

「借りがあるからな。きっちり返してやらんと俺の気が済まん」

「あなたは人間なのよ? ……勝算は、あるの?」

「ああ」

 

 即答だった。

 うすら笑いを浮かべるドーナシークの表情が、ふいに曇ったのが判る。

 紅髪の悪魔はどこか考えるような素振りを見せた後、

 

「いいわ」

 

 そう言った。

 

「死なないでね、斬輝」

「判ってらあ」

 

 一通りの話が終わった後、

 

「ドーナシーク」

 

 ミッテルトはつぶやいた。

 

「あの人間、別に殺しちゃってもいいわよ」

「もとより、そのつもりだ」

 

 それも、とドーナシークはゆっくりと降下を始める。

 革靴のつま先が地面に触れる瞬間、

 

「徹底的に叩き潰してやろう!!」

 

 ぎゅん、と一気に加速し、二人の悪魔の間を器用に縫って男の上着を引っ摑んで、

 

「がっ!」

「斬輝!?」

 

 教会の方へと飛び去って行った。

 

 

 

       

 

 

 激痛は、下敷きになった右腕から肩、背骨へと駆け上がり、斬輝の脳髄の内側で炸裂した。

 ドーナシークによって上着の襟を摑まれた勢いで宙へと持ち上げられ、そのまま落とされたのだ。

 衝撃で、屋根の一部が彼を中心にして放射状に砕け、陥没した。

 足元は、傾斜のある地面だった。

 いや、違う。

 

「屋根か?」

 

 教会の上だった。

 

「貴様とも、これで二度目だな」

 

 分厚い恰好をした堕天使が、中央の十字架の上に降り立つ。その手にはまだ、何も握られてはいない。

 のそりと立ち上がると、無造作に垂らした両手に拳を握る。背後の森から、くぐもった炸裂音がした。

 斬輝は、それを背中で聞いた。

 目は、真っ直ぐに『標的』に向いている。

 貴様も、と目の前の人外は言った。

 

「懲りない奴だな。私に恨みでもあるのかね」

「まあな」

 

 唇の端を笑みに歪めて、斬輝も応える。

 

「せっかくまた会ったんだ、ツケぐらい払っていけよ」

 

 兵藤一誠の一件と、その時に負った斬輝自身の腕の傷だ。

 

「ああ、なるほどな。そのことか」

 

 向こうも、気づいたようだ。

 

「おうよ」

「だがどうする? 貴様は悪魔でもなければ、その身に魔力を宿しているわけでもあるまい。勝算と言ったか? そんなもの、どこにあると言うのだ」

「あるさ」

「なに?」

 

 人外が、眉をひそめた。

 斬輝は、一歩、前へ出る。

 一歩下がったのは、十字架から降りたドーナシークの方だった。

 向かい合う二人の間におとずれるのは、わずかな静寂である。

 

「てめぇよりも早く殴りゃあいい」

「出来るものか」

「出来る」

「ほう」

「試してみるか?」

 

 言いながら、斬輝は深く腰を落とす。

 ハットの堕天使は言った。

 

「やってみろ」

「そうかい!」

 

 そして次の瞬間、斬輝はヒビ割れた屋根を蹴った。不安定な足場にもかかわらず、斬輝の絶妙なバランス感覚は彼の軀を宙へと持ち上げる。

 爆裂の勢いで前方へと飛び出した斬輝は、一〇メートルもの距離を一気に詰める。ドーナシークに激突する寸前で着地し、続く動きで真上に跳躍した。

 勢いに乗せて空中で身をひねる姿は、向こうからはこちらが背中を向けたように見えるはずだ。

 回転運動のさなかに素早く伸ばした右脚は、飛び後ろ回し蹴りとなって相手の側頭部を狙った。

 しかし厚底の靴が、堕天使の頭に炸裂することはなかった。

 

「むん!」

 

 喉の奥で唸りつつ、ドーナシークはこれを斬輝と同じ方向に回転することでさばいたのだ。

 一撃めが駄目なら、二撃めだ。

 今度の着地は、だから両足によるものではない。トカゲのように、地面に這いつくばった恰好である。同じく伸ばした右脚が、屋根の上で円を描いた。

 後掃腿……脚払いだ。

 

「ちぃっ!」

 

 舌打ちをしつつ、ドーナシークは後方へ跳び退った。

 しかしこれこそが、斬輝の狙いでもあったのだ。

 奴はさっき、十字架の上から降りてきた。それは斬輝が落とされた屋根よりも、やや高所にある。そしてその十字架は、彼のいた屋根よりも人一人分ほど出っ張ったもう一つの『屋根』の上にあるのだ。

 幸い、向こうは咄嗟の行動で翼を展開していない。言ってしまえば、常人よりも跳躍力の高い後退に過ぎないのだ。

 そして奴が逃げた先にあるのは、薄汚れてはいるもののまだ白い壁である!

 逃げ場はない!!

 

「おっしゃあ!!」

 

 瞬間的に伸び上がった斬輝は、左の正拳突きを打った。

 狙うは胸の中心……背骨から回り込んだ肋骨が集まった胸骨である。

 

「なにッ!?」

 

 うろたえるドーナシークは、しかし跳び上がってしまっているために手の打ちようがない。冷静な状況判断で翼を展開されたら厄介だが、しかし奴は打拳の寸前で両の掌をかざすことでかろうじて防いだ。

 だがその衝撃までは相殺しきれなかったようだ。ずん、と鈍い音をたてて、堕天使は三メートルほど後方へ吹き飛ばされる。

 壁に背中から叩きつけられ、痛みに悶える口から涎が飛んだ。

 引力が奴の軀を摑んで、屋根へとずり落ちる。

 

「言ったろ? 出来るって」

 

 斬輝は『標的』から目を離さず、そう言った。

 

「貴様……」

 

 ゆっくりと立ち上がるドーナシークの掌は、黒いグローブにわずかに赤い染みがついていた。見ると、あれは自分の血だった。指の付け根が四つとも擦り剝けて、すでに血を滲ませている。

 だが斬輝は、それを痛いとは毛先ほどにも思わなかった。

 

「いったい、何をした」

「判らねえかよ。ただ殴っただけだ」

「殴っただけだと?」

 

 ふざけるな、と堕天使は吐き捨てた。

 

「だから言ったじゃねえか。試してみるか、って」

「……なるほど神器(セイクリッド・ギア)か」

「ま、そんなとこだな」

 

 もっとも、これはあくまでそれによる副作用みたいなものなのだが。だがそれにしても、まさか己の身体能力がここまで向上しているとは思わなかった。

 正確さと俊敏さ、これこそ彼の中に眠る『なにか』が目覚めたことによって手に入れた最強の武器だ。

 黒鉄斬輝は、そう考えていた。

 それに比べれば、人並み外れた跳躍力も莫迦げた重量も、大したものではない。敵を上回る速度で的確な攻撃を加えることこそ、必勝のための唯一の手段なのだ。

 おかげで傾斜のある不安定な足場でも、強風に煽られてよろめくことはなかった。ただ、上に羽織った薄手の黒いシャツの裾が風を孕んで膨らんだだけだ。

 軀は重い。

 それが今、不思議なくらいに気にならなかった。まるで最初からそうであったかのようにさえ感じるのだ。

 

「だがタイム・リミットが近いことに変わりはない。儀式さえ終えれば、我らの必勝は約束される!」

「おっさんよお」

 

 なんだ、と応えるドーナシークの両手には、すでに二本の槍が形成されている。

 

「どっちに転がっても自分達の勝ちは変わらないからおとなしく()られちまえ、って言いてえのか?」

「それが何だと言うのだ?」

 

 眉をしかめて、ドーナシークの顔は、迷惑そうだった。

 斬輝はそれに、苦笑で応える。

 

「いや、やっぱりあんたみたいな奴は好きになれんと思っただけさ」

 

 勝負なんて、どっちに軍配が上がるかは最後までやり合わねえことには判らねからな。

 バトルってぇのは、そういうもんだ。

 

「そうか。私も貴様のような執念深い奴は嫌いだ」

「仕留めるまで逃がさねえ奴がよく言うぜ」

「違いない」

 

 槍を持つ手を左右に開き、ドーナシークは腰を落とした。

 つまり向こうも、本当の意味で闘う気が出来たということだ。

 

「では、どうしようか」

「そりゃま、徹底的に()り合うしかねえだろ」

「良いな」

 

 言うなり、ドーナシークがこちらに向かって飛び出してくる。

 真っ直ぐ、水平に。

 相手からの攻撃は、長いリーチで繰り出される左右の槍だった。斬輝は一歩前へ踏み込んで、こちらも左右に開いた両手の(けん)でブロックする。

 

「へっ! 俺は悪魔じゃねえからな、ンなもん効かねえぞ!!」

「ならば!!」

 

 しっ、と食いしばった歯の隙間から呼気を吐きつつ、ドーナシークは引き戻した右手の槍を素早く前方へと突き出してくる。

 

「のわっ!?」

 

 慌てて左半身に腰をひねって避ける。と同時に左手で空を突いた槍を鷲摑みにし、間隔をあけて槍の下に右手を添えてから、

 

「だぁあぁぁあああらぁああぁあぁあああッ!!」

 

 己の右肩を軸に渾身の力で投げ飛ばした。

 ブレーキをかけ損ねたドーナシークの反動を利用した巴投げである。驚く間もなく宙を舞った堕天使は、しかし屋根に激突する寸前に両翼を展開し頭を下に向けた恰好で制止した。

 ゆっくりと体勢を立て直し、着地する。

 

「……なるほどな。貴様を降すには、槍では無理か」

「リーチが長いのは良いがよ、その分攻撃の直後に隙が出来やすいんだ。俺にゃ不向きな武器だわな」

 

 格闘戦においてもっとも重要なのは、単純にどんな攻撃を繰り出すか、ではない。どんな攻撃が繰り出されるのかを瞬時に予想・判断し、その有効範囲から自身を逃がしつつ、その上で相手を上回る速度で的確な攻撃を加えることなのだ。

 あの日から斬輝は、それだけの思考力と行動力を培うために軀を苛め続けてきた。あちこちの格闘技から使えそうな動きを引っ張ってきては組み合わせる、良く言えば万能な、悪く言えばでたらめな戦術を独学で構築し得たのだ。

 かつて兵藤一誠が彼に教えを乞うたのも、だからその人並み外れた技術を少しでも盗むことが出来れば女子達から無傷で逃げ切れるかも知れないというものだったのだ。

 くだらない理由だったが、しかし斬輝は彼に一通りの『動き』を教えた。最初にその動きを観た時、一誠は目を丸くし、口を開けたまま言った。

 無茶苦茶だ。

 だが、その無茶苦茶な『動き』が、今まさに堕天使には有効な手段であることが判った。

 直線から円弧へと繫がり、それは次には並行となる。

 

「貴様の存在は、やはり危険だな……。ここで倒さねば、後に我ら堕天使の脅威になり得るかも知れん」

 

 だから、と人外は一対の槍を前へと構える。

 変化が起きたのは、歪んだ槍の方だった。短く凹凸の激しい刀身は薄く平らになり、扁平に伸びる。逆に長い柄は徐々にその長さを縮ませ、かろうじて両手で握ることが出来る程度まで縮小した。柄と刀身の間には、同じく赤紫の『(つば)』が形成された。

 刀身が奴の身長の半分ほどにまである、剣だ。

 一対の槍は、その形状を劇的に変貌させて双剣へと変身したのである。

 そうきたか。

 

「ドーナシーク、つったっけ?」

 

 同じく低く構えた斬輝は、顔の前に両腕を交差させた。

 軀の芯に熱がある。

 それは四肢へと拡がって、斬輝に次の行動へ移らせるための『準備』になった。

 待たせたな。

 もう、暴れていいぜ。

 

「わりぃが、こっちもカッチョイイ武器ならあるんだ」

「……なんだと?」

 

 かさねた両腕を振り下ろすと、激痛を伴って『そいつ』は現れた。

 

「そっ、それは……!?」

 

 血相を変えたドーナシークの問いに、応えるのは金属の擦れ合う音だ。

 じゃりん!

 

 

 五分後、二つの影は屋根を砕き、分厚い床を突き抜けて二〇メートル以上下の地下へと落下した。

 

 

 

        

 

 

 今までも、敵対組織とは何度も闘ってきた。その中でも、神父との戦闘は一番多い。それなりに、連中の攻撃パターンは摑んでいる。

 ついさっきも、狂ったはぐれエクソシストと一戦交えてきたところだ。

 あと一歩とまで追い込んだものの、頭の傷に響く、とか言って逃げられたが。たしか、あの野郎だけは絶対に許さねえ、とも言っていたな。

 それが誰なのかは、別にどうでもいいが。

 だが、と木場祐斗は思う。

 さすがに、数が多過ぎるかな。

 地下への隠し扉が通ずる、祭儀場である。中は広く、中央に据えられた無駄に段数の多い階段の上には、巨大な十字架があった。あそこでシスターの神器が抜かれ、堕天使はそいつを自らの肉体に移植したのだ。

 だが、今はそこには誰もいない。シスターを救出した兵藤一誠の『道』を作るべく、彼と後輩部員の塔城小猫とで堕天使達に賛同する神父達と交戦中なのである。

 途中、目の前を横切った堕天使に一撃浴びせたが、それだけだった。

 そして一誠がここを離れた後は、単純に神父との戦闘だ。

 

「うぉぁああぁああぁあっ!」

 

 雄叫びとともに背後から振り下ろされた光刃剣を、右手で握る剣で後ろ手に受ける。続く感触は、接触した刃を介して向こうの光を喰らうそれである。

 奴らと同じように、木場が握るものもただの剣ではない。

 光喰剣(ホーリー・イレイザー)

 神器(セイクリッド・ギア)魔剣創造(ソード・バース)』によって造られし魔剣。

 

「せいっ!」

 

 返す刃で、今度は正面の神父を逆袈裟に斬り上げた。

 途切れない攻撃は、今も続いている。そしてそれは、『戦車(ルーク)』の特性を生かした上で素手で応戦する小猫にも襲いかかっているのである。

 波状攻撃、という言葉がある。

 寄せては返す波のように、間断なく次々と攻撃を加えることだ。

 今、木場達の受けているのが、まさにそれだった。

 切れ目がないのである。

 絶え間ない攻防を交わすのは、正直言って小猫よりは劣るところでもあった。だから敵に充分な余裕を与えてしまって間合いもタイミングも自由にならない状態では、敵の攻撃を受け流し、その隙に何とか攻撃を加えるだけで精一杯なのだ。

 おかげで、悪魔に転生して得たスピードやスタミナも、そろそろ限界に近づいてきている。

 いくら払っても、きりがなかった。

 何人の攻撃をいなし、何人の胴を斬り、何人の腕を切断し、何人の脚を斬り飛ばしても、それを乗り越え、踏みつけて、次の攻撃が来る。

 おかげで、こちらも腕や脚にいくつかの傷が刻まれていた。さばききれなかった刀身が、そのまま彼の皮膚を裂いて、肉を断ち割ったのである。

 剣を『喰われ』、あるいは叩き折られた者は、すかさず祓魔弾装填済みの銃を取り出してくる。祐斗はそれを左手へと逆手に持ち替えた剣で銃身を斬り落とす。力任せに振ったせいか、その隣に居る神父の首が宙に舞った。

 同志であるはずなのに、仲間の死を見て、彼らは眉一つ動かさなかった。

 向こうには、仲間意識など全くと言っていいほどなかった。

 ただ、殺意だけがある。

 自らが慕う者に抗おうと邪魔する標的へ対する、それは憎悪だ。

 たしかに、少しずつではあるがその数は減りつつある。だがその絶対数がもとから多過ぎたために、一向に減っていないようにさえ感じるのだ。

 その最大の要因は、彼らの姿だった。

 全員が、同じ黒いコートをまとっている。

 全員が、同じ光刃剣を手に襲いかかってくる。

 全員が、同じハット、同じマスクで顔を隠している。

 全員が、同じ黒ずくめなのだ。唯一明色なのは、彼らが握る剣のみである。

 視線を移動させた時、だからそこに映るのはさっきと同じ『顔』なのだ。それだけで、瞬間的にではあるが方向感覚と距離感が狂わされてしまうのである。

 そして繰り返される攻撃は、その一瞬の隙さえ突いてくる。

 フリードとの戦闘は、一対多ということもあって、比較的動きやすかった。

 だが今は違う。

 相手の方が、数が上なのだ。

 向こうはいったい、何人だ?

 五〇?

 一〇〇?

 それとも、もっと?

 だが少なくとも、この地下室が彼らで溢れ返るということはそれなりの大所帯であるということだった。

 対して、こちらはたった二人である。

 状況は、不利だった。

 圧倒的に不利だった。

 そしてその不利な状況下においても、木場祐斗はなおも剣をふるうのである。

 それは、誓いだった。

 悪魔としてリアス・グレモリーの眷属になるよりも前からの。

 彼だけを残して逝ってしまった、かつての仲間たちへの。

 しかし、死にたくないと思っていても、死ぬ時は死ぬ。

 だが、ここで倒れるわけにはいかないんだ!

 それが聴こえたのは、しかし軌道を逸らした切っ先が彼の膝裏を斬り裂き、たまらず膝をついた時だった。

 何かが、割れている。

 いや、砕かれているのだ。

 それははぐれ神父達にも聴こえたようだ。わずかに攻撃の手を停める者もいれば、呆然と何かを探しているような者もいる。

 そしてそれは、小猫に寄ってかかる連中も同じだった。突然の『音』に怯んだ最前列の連中を横ざまに殴り、あるいは蹴り飛ばしながら一回転した彼女の周りには、無事だった者が後退ったことによって彼女を中心に半径一メートルほどの縁が出来ていた。

 攻撃の手は、どちらも止んでいた。ただ黙って、『音』のする方向を見ていた。

 天井を。

 そして、分厚いそれがほぼ円形に砕け散って、こちら側へと吹き飛んでくる。

 落ちたのは祭儀場の中央、しかも階段のすぐ手前だ。振動とともにホコリが舞いあがり、瞬間的にお互いの視界が奪われる。

 神父達が、次々に口を開いた。

 なんだ、あれは。

 何が落ちてきたんだ。

 それは、木場も同じ気持ちだった。

 瓦礫の山だ。

 砕かれた天井の瓦礫が、一塊りになって降ってきたのだ。

 見ると、青く塗装されたものもいくつか混じっている。……ということは、地上の床よりもはるかに高い屋根から落ちて来たとでも言うのか。

 

「なんだ、あれは……?」

 

 吸い込んだホコリに咳き込みながら、木場は呻く。

 だがその問いに、応えるものがあった。

 声だ。

 

「だぁあ! 糞!!」

 

 聞き覚えのある声である。

 影は、二つ。

 横になって、重なっている。

 ホコリの幕の向こうで、上の一つが蠢いた。下の一つは、依然として倒れたままだ。

 幕を突き抜けて、一人の男が積み上げられた瓦礫の上から横向きにごろごろと転がってくる。

 見覚えのある姿。

 間違いない。

 

「く、黒鉄先輩!?」

 

 男の名を呼ぶが、しかし彼のその軀は傷だらけだった。

 一つ一つの傷は大したものではない。だがその数が尋常ではないのである。シャツを裂いて血を滲ませた腕を力なくこちらに投げ出し、頬にもいくつか擦り傷がある。

 そして、もし屋外の……それも屋根から落下してきたのだとすると、彼はゆうに二〇メートル以上もの高さを一気に落ちてきたことになる。とすれば、瞬間的に叩きつけてくる衝撃は半端なものではないはずだ。

 打ち身どころでは済まない。

 全身の骨が砕け散っていてもおかしくない状況なのだ。

 やがてホコリが晴れると、瓦礫の上で仰向けに倒れているのは黒い翼が無残にも斬り裂かれた男だった。

 堕天使だ。

 悪魔によって向上された視力でそいつを見ると、首に白いアスコット・タイを巻いている。上に羽織ったコートはところどころ斬り裂かれていて、胸には『X』字に斬り刻まれた傷跡があった。

 左腕にいたっては手首から先がなくなっている。

 放射状に砕け散った屋根の残骸に、またしても軀から噴き出した体液が放射状に拡がっていた。

 息はしていない。

 そうだ。

 加えられた攻撃の重さを度外視しても、意識さえ保っていられないほどの激痛であるはずなのだ。

 それが人間であれば、即死する高さと衝撃である。

 それなのに、

 

「巧く行ったのは良いが……効いたぜ、こン畜生!」

 

 目の前の男は、喚き散らしながらも立ち上がったのだ。

 生身の、二本の脚で。

 

「……甘ぇんだよ、おっさん。この前とは勝手が違うんだ」

 

 肩で息をする満身創痍の先輩は、祐斗達の知らないところで繰り広げられていた闘いに勝利していた。

 

「お前は、誰だ」

 

 神父の一人である。見ると立っていた連中の全てが、『乱入者』に向けて光の刀身を、あるいは対悪魔用の拳銃を向けていた。

 

「俺か?」

 

 血だらけの男は首を回すと、周囲を取り囲む神父達の顔を舐めた。

 それから、斬輝は姿勢を低くした。腰の両側に落とした両手は、どちらも拳だ。

 そして、

 

「ちぃっとばかし頑丈な……」

 

 にやり。

 

「人間だよ」

「なんだと……!?」

 

 一気に間合いを詰めたのは、斬輝の方だった。たった一足で木場の眼前まで迫ると、彼の頭上をかすめるように回し蹴りが放たれた。ごっ、と短い呻き声をあげて、背後で倒れるのは光刃を上段に構えた神父だった。

 

「立てるか?」

 

 それは質問でもなければ、確認ですらない。二人の周囲には……いや、小猫の周りにも、数十人のはぐれ神父達がうようよ居るのだ。どいつも様子をうかがって、隙あらば攻撃を繰り出そうとしている。このまま呑気に座っていたら、あっという間に斬られてしまうだろう。『騎士(ナイト)』の力を使ったとしても、だ。

 頷いて、木場祐斗は立ち上がる。

 

「脚はどうだ」

 

 彼の問いはつまり、まだ闘えるか、というように聴こえた。

 そして実際、そのようだ。頷くと、おっしゃ、と斬輝は神父達に視線を戻す。

 

「おめぇは塔城の奴を手伝って、先に兵藤のところに行け」

「先輩は?」

「心配すんなって。グレモリーもじきにこっちへ来ンだろ。そしたら後で付いてってやるから」

 

 応えて、斬輝は腰を落とす。

 直後、彼が苦痛に顔を歪めるのが判った。

 

「うぉおぉおおぉおぁあぁああぁぁぁあぁあぁああ!!」

 

 吠えた。

 それはまさに、獣の咆哮だ。

 そして、

 ああ、

 なんということだ!!

 じゃりん!

 と音をたてて、彼の両手に双剣が現れた。

 そう。取り出したのではない。

 それはまさに、彼の拳から生えたのである!

 拳の打面が一直線に裂け、そこから分厚い刃が飛び出している。

 艶やかな銀色で、渦巻く血煙のような文様を刻み、その切っ先からはすでに血が滴り落ちている。

 これだ。

 これこそがあの日、はぐれ悪魔バイザーを一撃で仕留め得た謎の答えだったのだ!

 あれは、横一直線の殴打ではない。

 斬撃だったのだ!!

 

「よし、行け!!」

 

 不敵に笑いながら地を蹴る黒鉄斬輝を、木場は尻目に見た。

 

「てめぇら覚悟は出来てンのか、え、おい!!」

 

 猛々しく吠えるその姿は、漆黒の衣服と相まって黒き魔人のように見えた。

 

 

 

       

 

 

 堕天使達の計画は、想像以上のものだった。

 あまりにも身勝手な計画だった。

 レイナーレの目的は、アーシア・アルジェントと呼ばれるシスターに宿りし神器(セイクリッド・ギア)聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)』を抜き取り自分のものにすることで己を蔑んできた者達を見返すことだった。

 そのために自分の上司まで欺いて。

 それだけではない。彼女は、自身が崇拝する神の子を見張る者(グリゴリ)の総督・アザゼルに気に入られようともしていたのだ。

 くだらない、と一誠は思った。

 そんなことのために、アーシアは巻き込まれなきゃならなかったのか?

 そんな糞の役にも立たないようなことで、アーシアは死ななきゃならなかったのか!?

 レイナーレへと向けていた視線を落とす。力なく抱きしめた腕の中には、一人の『少女だった者』が眠っていた。

 静かに、

 安らかに。

 彼女は、ついさっきまで生きていた。

 今は死んでいる。

 その肺は呼吸によって膨張することもなければ、心臓から血液が送り出されることもない。

 彼の手に触れる彼女の肌が、ほんの少しだけ冷たくなったのが判る。

 ふと、一誠は理解した。

 これが、死だ。

 ヒトという種が……この世に存在する全てに訪れるこれが、死なのだ。

 一〇年前に祖父が癌になった時も、はじめは「このところ元気がない」といった程度でしか認識していなかった。

 だからその先は、本当に突然だったのだ。最初にその(しら)せを聞いた時、まだ六歳になっていたかどうかだった一誠にはその言葉が示す本当の意味を理解していなかった。でも、お祖父ちゃんは動かないし喋らないし高い高いもしてくれないしいっしょにトランプも遊んでくれない。それだけは、判っていた。

 それだけで、死を理解したつもりだった。

 だが、違う。

 死ぬということは、二度と『触れ合う』ことが出来ないということなのだ。

 死ぬということは、二度と『笑い合う』ことが出来ないということなのだ。

 ああ、そうか。

 そういうことだったのか。

 ようやく、判った。

 命って、そういうことなんだ。

 生きるって、そういうことなんだ。

 友達って、そういうことなんだ。

 ならば……。

 

「本当、あなたって無力よね。何も護れなかったんだもの」

 

 一誠の前では、堕ちた天使がくだらないことをピーチクパーチク言っている。

 

「あの時も、今も……」

 

 それを、

 

「うるせえよ!」

 

 遮った。涙で詰まった鼻声と声量とで声が上擦ったが、相手には伝わったようだ。

 手を離し、そっと抱きあげて、アーシアを近くの長椅子に寝かせてやる。

 

「……なによ? 今さら嘆いたって、もうアーシアは戻って来ないのよ?」

「ああ、そうだよ。俺は何も護れなかった。ヒトの手に余るモンを持ってるくせに、友達一人護れやしなかった。でもな」

 

 そう。でもだ。

 

「護れなかったなら、せめて抗ってやる」

 

 アーシア・アルジェントは、兵藤一誠の腕に抱かれて死んだ。まるで張り詰めた糸が切れたみたいに、呆気なく。

 だが、一誠はそれを認めたわけではなかった。たしかに彼女は『死んだ』が、間違いなく今、一誠の心の中では強く『生き』続けている。

 何となくだが、そう感じる。

 腹の底に、ふつふつとした感情がある。それはこのたった数分で芽生え、育った感情だ。

 アーシアが死ぬまで、それが何なのか判らなかった。

 今なら判る。

 だから、拳を握った。

 

「返せよ」

 

 喉の奥から吐き出した声は、すすった鼻水が喉に溜まって、ごぼごぼと濁った。

 低く構えた。

 格闘技など、一誠は知らない。かろうじて、斬輝から『動き』を教わったていどだ。ただ跳びかかり、ぶん殴り、ぶっ飛ばしたかった。鼻血を垂らして、私が悪うございましたと泣いて謝らせたかった。

 だがたとえ彼女が謝罪をしたとして、許すつもりは毛頭ない。

 勝てるかどうかは判らない。

 だが負ける気はしなかった。

 容赦など、するつもりもなかった。

 腹の底をじわじわと炎で炙られるような、この感情。

 これは……、

 

「アーシアを返せよぉおおぉおぉぉおぉおぉおおっ!!」

 

 怒りだ。

 目の前の堕天使への。

 神への。

 そして、自分自身への。

 

「ぅぉおぉぉおおぉおぉおぁあぁああぁああぁぁあ!!」

Dragon booster(ドラゴン・ブースター)!!』

 

 雄叫びの応えるように、左腕に出現した神器に嵌め込まれた甲の宝玉が眩い閃光を放った。

 

Boost(ブースト)!!』

 

 籠手から発せられる音声とともに、一誠は跳んだ。

 地を蹴って、鋭角に。

 レイナーレに向かって。

 真上から叩き込んだ左腕は、わずかに右半身にひねることでかわされ、標的を失った拳はさっきまで彼女が立っていた地面を抉り、粉砕する。

 

「逃げんな!」

 

 腰のバネを使って限界までしゃがみこんだ体勢から一気に伸び上がり、大きく踏み込んだ足を軸に反回転する。レイナーレの頭部を横ざまに殴ろうとした裏拳は、またしても跳躍で回避された。

 畜生。

 当たれ!

 俺にあいつを殴らせろ!!

 彼女の動きは、俊敏だった。

 だが光の槍を展開させるそれは、目で追えないほどの速度ではない。

 

「ぎ……!?」

 

 脳裏にリアス・グレモリーの言葉がよみがえったのは、レイナーレが放った槍が二本とも一誠の太腿へと突き刺さった時だった。

 接触面を介して悪魔である彼の軀を光が内側から焼いてゆく中、声にならない悲鳴の中でリアスが『現れた』のである。

 想いなさい。

 神器(セイクリッド・ギア)は、想いのチカラで動き出すのよ……。

 ああ、そうか。

 なら、動いてくれ。

 アーシアが受けた痛みは、こんなもんじゃない。

 アーシアが負った傷は、こんなもんじゃない。

 貫かれた槍の柄を、両方とも摑む。同時に両腕から肩、背骨を突き抜けて脳髄で炸裂するのは激痛である。

 

「無駄よ! 光は悪魔にとって猛毒! 触れただけで激痛を伴うわ、だからあなたのような下級悪魔じゃ耐えられるわけがないのよ!!」

 

 だから、動け。

 神様が駄目なら、魔王でも何でもいい!

 応えろ!

 応えてくれ!

 俺の想いに!!

 

「がぁああぁああぁぁああぁあぁあぁあぁぁあぁあぁああッ!!」

 

 文字通り身を焦がされる異臭の中で、吠えた。

 一誠は、()(たけ)っていた。

 突き抜ける痛みが、両脚から炸裂する。

 両の膝を突いた時、そこにはさっきまでの槍はなかった。

 二つとも、彼の両手に握られている。

 生身の右手と、

 灼熱の左手に。

 その肉を『光』に焼かれながら。

 それはもはや、籠手と呼べるようなものではなかった。剝き出しの掌までが装甲に覆われ、五本の指にはそれぞれ鋭く尖った鉤爪が発生した。

 籠手というより、もはや腕そのものと言っていいだろう。

 

「兵藤くん!!」

「……兵藤先輩」

 

 突然の声は、背後からだ。分厚い聖堂の扉が勢いよく開け放たれ、そこからいくつかの足音が連続して聴こえてくる。

 刻々と近づいてくるそれを、

 

「来るな!」

 

 咄嗟に右腕を後方へ降りだし、一誠は怒鳴った。ずん、という鈍い音は、無造作に投げ飛ばした光の槍が彼らの道を塞ぐように床に突き刺さったからだろう。

 誰が来たのかは、判っている。なぜ追って来たのかも、だから訊かない。

 だが、

 

「助けに来てくれたのはありがたいけど……」

 

 脚に力を込める。

 

Boost(ブースト)!!』

 

 音声とともに、軀が軽くなった。

 

「今は来るな!」

「だけど!」

「これは、こいつと俺との闘いだ! ……いや、こいつと俺と」

 

 そして、

 

「アーシアの闘いだ!!」

 

 言い放つや、一誠は地を蹴った。

 膝は抜けなかった。

 背中から、歪な羽が生えた。

 

「莫迦な……立ち上がれるわけがない! 内側から光で焦がされているのよ!?」

 

 真っ直ぐ、標的だけを見据えて。

 

Explosion(エクスプロージョン)!!』

 

 低い金属質の声とともに、軀の芯にあった熱が一気に爆裂した。それは手の甲に嵌め込まれた緑の宝玉からの閃光となって聖堂を照らす。

 レイナーレの顔に浮かぶのは、驚愕だ。

 

「この魔力の波動は中級……いや、それ以上……!? あり得ないわ!! そのセイクリッド・ギア……ただの『龍の手(トゥワイス・クリティカル)』がどうして!!」

「知るかあ!!」

 

 踏み込みつつ、頭の中で『戦車(ルーク)』へとプロモーションする。

 レイナーレは、咄嗟に発現させた光の槍をこちらに向かって投擲する。だが、それは一誠の胸を貫くよりも前に横薙ぎに払った左の腕によって木っ端みじんに砕かれた。

 彼女の目が瞬間、見開かれるのは驚きではない。

 恐怖だ。

 

「い、嫌っ……!」

 

 叫びとともにこちらに背を向け、堕天使は薄汚れた羽を展開してその場から逃げようとする。

 だが、

 

「逃がすか、阿呆!」

 

 追いすがるように跳躍した一誠は、その腕を生身の右腕で鷲摑みにする。

 これで、最後だ。

 これが最初で最後の一撃だ。

 

「私は、私は至高の……!」

 

 強引に引き寄せ、

 

「吹っ飛べ、糞天使!!」

 

 倍加(ブースト)された拳が、全てを奪った『敵』の顔面に炸裂した。

 絶叫を轟かせて後方へと吹き飛ばされたレイナーレは、まっすぐにステンドグラスへと激突した。

 瞬間的な加重に抗しきれずに破砕音とともにステンドグラスが外側へと砕け散った。

 ざまぁみろ。

 急激な脱力感によって閉じられた瞼の裏には、二人の笑顔が映った。

 左目には、夕映えの公園で朗らかに笑ってみせる『天野夕麻』の姿が。

 右目には、駒王学園の制服に身を包みこちらを微笑むアーシアの姿が。

 ごめんよ、アーシア。

 俺、友達なのに……お前のこと護れなくて。

 ごめん。

 ごめんよ。

 だからお願いします。

 アーシアに、もっと笑い合えるような日々を、友達に囲まれる幸せをあげてください。

 もしも本当に『居る』のなら。

 

 

 堕天使達の『掃除』を済ませて教会の地下へと転移したリアス・グレモリーが最初に目にしたのは『戦場』だった。

 祭儀場だろうか、中央に莫迦デカい階段と、その上には巨大な十字架が設置されている。

 リアスが移動してきたのは、それらが正面から見える位置、つまり祭儀場へ入る扉の前である。

 血の海だった。

 床一面に赤黒い血が溢れ、壁にもおびただしい量の血液が飛び散っていた。

 そしてその海の上に倒れるのは、全て黒ずくめの男達である。

 一目で彼らがはぐれ神父(エクソシスト)であると判った。

 すべて、屍体である。ある者は脚を斬られ、腹を裂かれ、腕を断ち割られている。すぐ目の前の屍体は、裂かれた腹から内臓をはみ出させている。

 惨状だった。

 そしてその中で、一人だけ立つ者がいたのだ。

 黒ずくめの男である。だがその腕や脚には決して浅いとは言えない斬り傷が無数に刻まれ、服の色でこそ見え辛いがシャツやパンツは血で濡れているはずだ。

 彼が斬りっぱなしの髪を無造作に搔きあげた時、ふいに目が合った。

 

「斬輝……」

 

 思わず、その名が口をついて出る。

 

「これって……」

 

 応えるのは、溜め息だった。

 同時に胸の前まで持ち上げた右腕には、拳から分厚い剣が生えている。

 五メートルほど離れていたが、思った通りだった。

 刃は、血で染まっている。

 

「ああ、俺だ」

 

 ゆっくりと頷くのは、つまりそういうことである。

 これは、

 彼がやったのだ。

 彼が片づけたのだ。

 ……殺したのだ。

 もとより、自分の領地で勝手なことをしでかした堕天使達のことを許す気はなかった。現にさっきは、彼女が持つ『滅びの魔力』で斬輝が担当するドーナシーク以外の二人をもろともに消し飛ばしたのである。

 だがこれは、消し飛ばしたのではない。

 斬り殺したのだ。

『滅びの魔力』をもってすれば、証拠など残る危険性はない。放たれた魔力弾が触れたものを完全に『滅ぼす』からだ。だからリアスが相手を『倒す』時、その標的となる者は全て『消し飛ばされ』てきた。

 こんな倒し方は……殺し方は、見たことがない。

 思い出したのは、一誠が契約先ではぐれ神父(エクソシスト)と鉢合わせした時のことだ。契約者になるはずだった男は太い釘に打ち抜かれ、そこから大量の血液を垂れ流していた。現場でこそ平静を装っていたものの、実のところリアスにとってあそこまで醜い殺され方は見たことがなかったのだ。

 これはあの時よりも、酷過ぎる。

 だから余計に、背筋が凍ったように感じた。

 小さく息を吐いて、

 

退()いて」

 

 リアスはそう言った。

 

「こっちに来てちょうだい」

「あいよ」

 

 返事はそれだけだ。じゃりん、と金属の擦れ合う音を響かせて、剣が彼の拳の中へと戻る。

 前へかざした掌から、拳大ほどの魔力の弾が形成される。

 黒鉄斬輝が、彼女のすぐ傍へとやって来る。走って来なかったのは、リアスに血が飛び散らないようにするための配慮だろう。

 そのまま無言で撃ち放った時、瞬時に膨張した『滅びの魔力』は、血にまみれた屍体を全て消し飛ばした。

 その中に堕天使の一人がいたことを、リアス・グレモリーは一誠の魔力を感じるもとへと転移する直前に聞いた。

 

 

 

       

 

 

 力尽きて倒れかける一誠を、すばやくその肩に腕を回して支えたのは木場だった。

 大丈夫かい、と訊かれた。

 頷いて、しかし実のところ、立っているだけで精一杯だった。今だって、どこかへ飛んでゆきそうな意識を消耗しきった精神力でかろうじて繫ぎ止めているようなのだ。

 むしろ気になったのは、こちらの方だ。

 教会との関係性である。

 天使サイドに属する建物内で騒ぎを起こせば、ただで済むことではないとリアスから聞いている。

 だが、その心配はない、と言ったのは木場ではない。

 紅髪の少女だ。

 リアス・グレモリーである。魔法陣を介してジャンプして来たらしく、そのすぐ傍には傷だらけの斬輝も立っていた。

 すでに神の加護を離れ、打ち捨てられた教会だというのが決め手だった。その上ここを拠点としてたのは個人的に行動を起こした一部の堕天使達のみ。色々と報告せねばならないことはあるだろうが、全面戦争はどう転がってもあり得ないのだと言う。

 それにこのような小競り合いはしょっちゅうだ、とも。そんなことをいちいち問題にしようとすれば、それこそ気が遠くなるような話である。

 地下の神父達も、大半は斬輝が倒したと言っていた。

 やがて朱乃が合流すると、リアスに支持された小猫は外へ出てゆく。

 

「兵藤」

 

 斬輝に声をかけられたのは、その直後だった。

 

「な、なんですか……?」

「いや、悪かったな」

 

 え?

 

「それって……」

「部室でのことだよ。あんなこと言っちまって、すまん」

 

 ああ、そのことか。

 

「イイっすよ」

 

 抑揚のない声で、一誠は頷いた。

 判ってる。

 彼がそんな薄情な人間でないことは、判ってる。

 だから、

 

「先輩が謝る必要なんか、ないッす」

 

 そう言った。

 

「そうか」

「はい」

「アルジェントは?」

「あそこです」

 

 言いながら、一誠は長椅子の一つを指差した。他の長椅子は砕かれたり立ち割られたりしているが、なぜか最前列にあるはずのそれだけには目立った傷は刻まれていない。

 そこに、今は亡き少女が横たわっている。

 彼が、寝かせたのだ。

 最後の闘いの前に。

 

「……そうか」

 

 斬輝は、そう呟いただけだった。

 彼も判っているんだ。

 アーシアが、どんなに苦しんできたか。

 そしてその中で、どんな『幸せ』を望んでいたのか。

 

「部長。持って来ました」

 

 相変わらず感情を感じさせない声で、小猫が何かを引きずるように戻ってきた。ずるずると、彼女は片手で摑んだまま歩いてくる。

 見ると、彼女も木場と同様、剣による斬り傷がいくつか点在していた。

 そうだ。彼女もまた、一誠の『道』を作るべく闘った『戦士』なのだ。

 そして華奢な肉体からは想像も出来ないような腕力で投げ飛ばされた『それ』は、真っ赤な絨毯の上に落下する。

 ずどん、という落下音とともに、それがさっき殴り飛ばした堕天使だと理解した。

 うつ伏せに床と激突したレイナーレは、衝撃でむせ返る。

 その前に立つのは、主であるリアス・グレモリーである。ミニ・スカートからすらりと伸びた脚を大股に開くそれは、彼女の仁王立ちだ。

 

「初めまして、堕天使レイナーレ」

 

 ゆっくりと、腕を突いて顔を上げた。その頬には、一誠が初めて攻撃し得た時に出来たと思われる生々しい痣があった。

 

「お前は……?」

「私はリアス・グレモリー。グレモリー家の次期頭首よ」

「グレモリー一族の娘か……」

 

 唸るレイナーレのそれは、怨嗟だ。

 

「ええ。短い間でしょうけど、お見知りおきを。ああ、最初に言っておくけれど……」

 

 言いながら彼女が取り出したのは、何か黒いものだった。背中越しではあるものの、悪魔の視力でそれが二枚の羽根だと判る。どちらも薄汚れた、堕天使の羽だ。

 

「尋ねて来たあなたのお友達は、すでに私が消し飛ばしておいたから」

「なんだと……!? いや、私に賛同してくれた堕天使は三人よ! 今にもう一人が……」

「それもさっき、消し飛ばしてきたところよ」

「そんな……グレモリーの娘が、よくも!」

 

 腕に力を込めて立ち上がろうとするが、その動きはままならない。おおかた、頭部を殴られたことで脳震盪が起こっているのだろう。

 

「以前ドーナシークにイッセーが襲われた時から、この町で複数の堕天使が何か企んでるってことは察してたわ。私達に(るい)を及ぼさなければ無視していたのだけれど」

 

 しかし堕天使達は、何度も悪魔陣営に接触して来た。

 契約者の殺害にとどまらず、教会から逃げ出したアーシアを取り戻すために一誠や斬輝への容赦ない攻撃。

 だから、今度はリアスから接触しに行ったのだ。

 つまり、と一誠は思う。

 部長は、俺のためにここまで動いててくれたのか……。

 

「……ん? 兵藤、その腕どうした?」

 

 異変に気づいた斬輝が、こつん、と左腕の籠手を小突いた。

 その言葉にいち早く反応したのは、前方のリアスである。肩越しに振り返って、まじまじとこちらを見つめてくる。

 左の前腕を全て覆った、灼熱のような真っ赤な籠手を。

 

「赤い龍……?」

 

 そして全てを理解したのだろう、リアスはわずかに目を見開き、軽くうなずいてから、

 

「……そう、そういうことなのね」

 

 足元の堕天使に向き直った。

 

「レイナーレ、あなたが彼に負けた最大の原因は、彼の神器(セイクリッド・ギア)を見誤ったことね」

「見誤った……? あれはただの『龍の手(トゥワイス・クリティカル)』じゃ……!?」

「違うわ」

 

 即答だった。

 

「一〇秒ごとに所有者の力を倍加させ、一時的とはいえ神や魔王をも凌駕出来る力があると言われている一三種のロンギヌスの一つ……」

 

 そこまで言って、レイナーレは言葉の意味を理解したらしい。徐々にその顔が驚愕の色に塗り替わってゆくのが判る。

 その名も、

 

赤龍帝(せきりゅうてい)の籠手」

 

 ……ブーステッド・ギア!

 一〇秒ごとに倍加されることがどれだけ素晴らしく、また恐ろしいことか、それは一誠にも瞬時に判った。

 単純な掛け算の問題だ。一〇秒後には『1』の力が『2』に倍加され、次の一〇秒で『4』になる。三〇秒では『8』、四〇秒で『16』……と、つまり一分間倍加させ続ければ、そのパワーは『64』にまで跳ね上がるのだ。

 ついさっきまで『所有者の力を倍にする』神器かと思っていたら、その前提条件に『一〇秒』という一定時間が設定されていたというのである。

 ケタ外れにもほどがある、と思った。

 レイナーレが、力なく頭を垂れた。そこには一種の諦観さえ感じられる。

 

「どんなに強力でもパワー・アップに時間を要するから、万能だとは言えないわ。だから今回は、あなた自身の勘違いで油断していたから、というのもあるわね」

 

 そしてゆっくりと、リアスは掌を彼女へと向けた。

 

「消えてもらうわ」

 

 容赦のないリアスの声音に、案外呆気なかったな、と一誠は思う。

 リアスの足元で伏す堕天使に一度は殺され、二度目には死ぬ寸前まで追い込まれたのだ。

 そんな彼女を、彼は一撃で沈めたのである。

 偶然とはいえ、覚醒した真の神器(セイクリッド・ギア)のチカラで。

 突き出された掌に、禍々しい魔力の弾が凝縮されてゆく。あれが、つまりドーナシーク達を消し飛ばしたのだろう。見ているだけで背筋が、ぞっ、とした。頬の産毛やら脛毛(すねげ)やらが、一気に逆立ったような気がした。

 これで終わると、誰もがそう思っただろう。

 だが、

 

「イッセーくん!」

 

 その声は、かつて彼女が『天野夕麻』として兵藤一誠に接触して来たときのものだった。

 それだけではない。

 その姿が、変わっている。たった今瞼を(しばたた)いた時には、すでに『堕天使レイナーレ』ではなくなっていたのだ。

 ……ああ、なんということだ。

 声だけではない、その姿は間違いなく『天野夕麻』なのだ!

 

「お願い、助けて! あんなこと言ったけど、堕天使の役目を果たすために仕方がなかったの!!」

「……夕麻ちゃん」

 

 無意識にその名を呼ぶ、その一誠の脳裏によぎるのは、かつて彼が『ヒトだったころ』の記憶だ。

 

「私、あなたのことが大好きよ! 愛してる!!」

 

 茜色に染まる雲の下、『天野夕麻』は初対面であるはずの一誠に歩道橋の上で告白してくれた。もじもじとして照れながら言ったその言葉は、しかし演技だと見抜くことが出来ないほどにウブに聞えた。

 初デートの時、いっしょに色々なところを見て回ったりパフェを食べていた時、『天野夕麻』は嬉しそうに笑っていた。

 初めてのカノジョだった。

 初めてのデートだった。

 全てが初めてだった。

 

「この悪魔が私を殺そうとしているの! だからいっしょに悪魔を倒しましょう!?」

「お前、どこまで……!」

 

 だがその『初めて』を覆すように、夕暮れの公園で一誠は殺されたのだ。

『初めて』をくれた、他でもない彼女に。

 ああ、そうだ。

 あの時も笑っていた。

 俺とデートしてた時だけじゃない、夕麻ちゃんは俺を殺す時だって笑っていた。

 笑ってたんだ。

 

「だからお願い! 助け……」

「その言葉を……」

 

『夕麻』を遮ったのは、男の声だ。

 

「……口にする権利は、てめぇにはねえよ」

 

 すっ、と目の前を漆黒が遮った。

 切りっ放しに伸びた髪。

 なんということだ。

 

「斬輝先輩……」

「追い込まれてたってのは、まあ見てりゃ判らんでもねえわ。だがな……」

 

 彼は、そう言った。

 

「力ずくで生きようとするなら、助けを求めるのはやめろ」

 

 一誠を背後に隠し、リアスを挟んで別の人外と対峙しているのだ。

 

「地位が欲しいなら、他人から奪おうとするのはやめろ。自ら選んだ生き方を、他人に押しつけられたかのように言うのはやめろ」

 

 がつん、がつん、と分厚いソールが、絨毯の敷かれた床を叩く。

 

「お前さんがいつまでも『そんな』なのはな、てめぇの目的のためなら他人を踏みにじってもいいと思ってるからだ。てめぇの安泰のためなら誰を殺してもいいと思ってるからだ」

 

 リアスがこちらを向いたように見えたが、それがどんな表情をしていたのかまでは判らなかった。

 

「そんなくだらねえことのためなら、誰を巻き込んでもいいと思ってるからだ」

 

 斬輝は、リアスよりも近く、レイナーレに迫っていた。

 血を垂らしながら、その膝を折ってしゃがみ込む。怪訝そうに彼の名を呼ぶのは、リアスだった。

 無視して、斬輝は彼女の頬を包み込むように両掌を添えた。

 

「辛かったんだろうさ。大変だったんだろうさ」

 

 その右手が、ゆっくりと彼を見上げる『夕麻』のコメカミへと滑った。

 

「だからよ」

 

 人差し指が、コメカミに触れる。

 

「最期ぐらいは、苦しまねぇで逝きな」

 

 次の瞬間に聞えたのは、ずん、という鈍い音だった。瞬間『夕麻』の目が見開かれ、わずかにその肢体を痙攣させる。

 それで終わりだった。

 しゃがみ込んだ斬輝の肩にもたれるように顔をうずめたレイナーレは、もう二度と動くことはなかった。

 それを静かに寝かせると、斬輝は立ち上がって、

 

「すまんな。ちと見てらんなかったわ」

 

 目にかかった髪を搔きあげてから、苦笑した。

 けれどその目は、笑ってはいなかった。

 一誠よりも哀しい目だった。

 だがすぐにリアスの方に向き直ると、

 

「リアス、頼む」

「ええ」

「丁重にな」

「判ったわ」

 

 指示を受けたリアスが、右手に凝縮させた魔力弾を解放した。

 彼女には、紅髪の滅殺姫(ルイン・プリンセス)の異名があるのだという。この魔力は、つまりその名を冠する所以ということだ。

 我ながら、とんでもない悪魔の眷属になったなと思う。無論、良い意味で。

 それは横たわったレイナーレの上空へ停止すると、しかしその形状を変化させてゆく。

 バスケットボールほどの『球』から彼女の軀を包み込むほどの『楕円』になるまで、わずか一秒。

 あとは、楕円に変形した『滅びの魔力』が降下を始めるだけだった。

 

「……グッバイ、俺の初恋」

 

『それ』が床に触れてリアスの意志で霧散した時、『天野夕麻』の姿をした堕天使の姿は跡形もなく消え去っていた。

 一枚の羽根も残さずに。

 

 

 

       

 

 

 人生という奴は、と斬輝は思う。

 結局のところ、生と死を延々と繰り返してるんだろう。

 自分が生まれてから、いったいこの世界で何人が死んだのだろう。

 自分が生まれたから、いったいこの世界で何人が誕生したのだろう。

 争いは決してなくならない。世界中の人間が平和を望んだとしても、それぞれが思い描く『平和』は一つに収束することなく錯綜するのである。

 それが世界だ。

 そして、と思う。

 ……いったい何人、俺の手の届くところでそれを繰り返してきただろう。

 少なくとも、あの堕天使を殺したのは俺だ。

 消し飛ばしたのはリアスだが、その前に彼女の『堕天使として』の生を最初に奪ったのは、他でもない俺自身だ。

 軀の中を動き回る奴らを意志の力で制御し、右の人差し指の骨格を変形させた。細く尖ったそれは、指先の皮膚を突き破りレイナーレのコメカミを抉り込みつつ頭蓋骨を一気に突き破る。相手の骨が負けたのは、単にこちらの『骨』が強かっただけのことだ。

 いや……正確には、黒鉄斬輝の骨格はカルシウムで出来た白色の骨ではない。

 彼の骨格を形成するのは、神器(セイクリッド・ギア)だ。

 それも単一の個体として宿るものではなく、目に見えないほど微細な群体生物である。

 そいつの名前は、自分でも気づかないうちに記憶していた。

鋼鉄虫(こうてっちゅう)』……メタル・セクト。

 どういった経緯で彼の身に刻まれたのかは判らないが、しかし彼の肉体に起こった異変の正体が、つまりそれだった。

 体中の骨が……骨格だけが、鈍色(にびいろ)の金属へと置換されたのである。

 彼の拳から生えた剣も、四本の指の付け根の骨が意志によって融合し、扁平につぶれて拳の打面の皮膚を突き破って伸長したのだ。

 レイナーレに突き刺したのは、いわば金属製のナイフのようなものだった。

 最初こそ斬輝の肉体に完全に同期していなかったが、しかし今は彼の意志に忠実に従う。

 ドーナシークにやられた傷が異常なまでの回復力を見せたのも、こいつのせいだ。

 虫が、斬輝の意志に関係なく傷の修復を始めたのである。

 骨から血液に流れ出した極小の神器(セイクリッド・ギア)が。

 兵藤一誠の『赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)』も充分反則級だが、斬輝のそれも負けていないように思えた。

 己の意志で自由に武装を施すことが出来、かつ無意識に傷の修復を行って再生させる。

 力は倍にならないもの、しかし事実上それは一誠とアーシアの神器を一緒くたにしたようなものだ。

 イカレてやがるぜ。

 だがそのイカレた能力で、斬輝は堕天使達を殺した。

 外道に進んだ神父どもは斬り殺し、

 欲におぼれた堕天使は脳を指先のナイフでずたずたに破壊して。

 リアス・グレモリーは、あくまでその後始末をしたに過ぎなかった。

 

「……あん?」

 

 上空からの淡い光に気がついて、斬輝はふと顔を上げた。

 拳ほどの大きさの緑色の光球に包まれた、それは二つの指輪だった。

 レイナーレが消滅したことにより、移植された神器が解放されたのだ。

 ゆっくりと舞い降りてくるそれをリアスが手に取ると、

 

「さて、これを彼女に帰してあげましょう」

 

 長椅子に横たわる金髪のシスターのもとへと歩み寄って行った。

 そしてその前に居る一誠のところまで行くと、

 

「あなたが嵌めてあげなさい」

 

 二つの指輪を、一誠に差し出した。

 はい、と頷いて、一誠はアーシアに向き直って指輪を嵌めてやる。

 左右の中指に。

 だがそれは、気休め程度のものだった。奪われた神器を取り返し本来の持ち主に返してやることで、気持ちだけでも楽にしてやりたかったのだろう。

 

「部長」

 

 独り言のように呟く一誠は、見ているこちらとしても心配になるほどだった。

 

「すみません。あんなことまで言った俺を……部長やみんなが助けてくれたのに、俺……アーシアを護ってやれませんでした……!」

 

 号泣を呑み込みながら、それでも肩の震えを隠しきれずにむせび泣く姿を見ていた時、ふと視界が無数の光芒とともに歪んだのが判る。いくつもの光の線が走り、やがて一筋の線を頬に刻んだ。

 涙だ。

 あいつだけじゃない。俺も、泣いてるんだ。

 それがなぜか、判らないわけがなかった。たった数時間だけの付き合いとはいえ、彼女は斬輝達の前で話し、笑い、そして泣いたのだ。

 そんな彼女が今、音もなく眠っている。

 心臓の鼓動もない。

 呼吸もしない。

 それはかつて、黒鉄斬輝が家族を失った時と同じだった。

 親父。

 お袋。

 ごめんな。

 あの時だけじゃねえ、今回もまた、助けられなかった。

 助けられたかも知らねえのに。

 可能性があったかも知らねえのに。

 リアスが一歩、前へ出た。

 一誠に向かって。

 彼の背後に回った彼女は、ゆっくりと腰を下ろすと、目覚めたばかりの赤龍帝の肩へとその手を乗せた。

 

「良いのよ。あなたはまだ、悪魔としての経験が足りなかっただけ。誰もあなたを咎めはしないわ」

 

 言いながら一誠を立たせて、リアスは懐で何かを探っているようだった。

 斬輝が奇妙な事実に気づき始めたのは、まさにその時だ。

 おい、待てよ。

 リアス・グレモリーは、眷属悪魔を持つ上級悪魔だ。現にここには、彼女の眷属がずらりといる。

 待て。

 考えるんだ。

 問題はそれよりも前のことだ。

 たしか数日前に初めてオカルト研究部へ招かれた時にリアスは、護らせて、という以外に何と言った?

 悪魔にならないかと誘わなかったか!?

 ということは……、

 

「これ、何だと思う?」

 

 なんてこった。

 彼女がつまんで見せるのは、『チェス』にあてはめた紅のように真っ赤な駒だ。

 

悪魔の駒(イーヴィル・ピース)……」

 

 導き出された答えと提示された回答が完璧に合致した斬輝は、思わずそう呟いていた。

 リアスは一瞬面喰ったような顔をしたが、それもすぐにいつもの彼女に戻った。

 

「……ええ、そうよ」

「てことは、そういうことか?」

「……? 部長、どういうことですか?」

 

 肝心の一誠本人は、何がどうなっているのかさっぱり判らんようだった。

 ……だが、こいつはそこまで莫迦じゃない。

 

「悪魔をも回復するこのコの能力は、『僧侶(ビショップ)』として使えるわ」

 

 その一言だけで、全てを察した。

 

「ぶ、部長……」

 

 今度は、斬輝は口出ししなかった。

 かわりに浮かべるのは、唇の端を歪めた笑みである。

 ふう、と溜め息をついて。

 

「まさか……」

「ええ」

 

 リアスは頷いた。

 

「前代未聞だけど、このシスターを悪魔に転生させてみる」

 

 こちらも笑みで。

 

 

『儀式』そのものは、呆気ないほどに簡単だ。

 必要なのは転生に必要な肉体と、消費する『悪魔の駒(イーヴィル・ピース)』だけなのである。

 転生用の魔方陣を展開し、その上にアーシアを寝かせてやる。

 斬輝が手伝ったのは、それだけだった。アーシアの傍には一誠がことの経過を見守り、その脇ではリアスが両手を拡げ、静かに目をつむっている。

 いわば、転生の儀、と言ったところか。

 

「我、リアス・グレモリーの名に於いて命ず。汝、アーシア・アルジェントよ。今再びこの地に魂を帰還せしめ、我が下僕悪魔となれ」

 

 それは宣言だった。

 

「汝、我が『僧侶』として、新たな生に歓喜せよ」

 

 リアスが全てを言い終えた時、変化は起こった。

 劇的に。

 胸の上に置いた『僧侶』の駒が彼女の体に取り込まれると、彼女の両手に嵌められた『聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)』が反応し、淡い光を放つ。

 白い肌に血の気が戻り、その瞼が、ひくり、と動いた。

 

「……あれ? イッセーさん? ザンキさんも、どうしたのですか?」

 

 状況を把握しきれていないアーシア・アルジェントが、素っ頓狂な声を上げた。首を回し、次に一誠と斬輝を交互に見てくる。

 だが今度は、しっかりと斬輝にも言葉の意味が伝わった。

 日本語として聞えるのだ。

 悪魔になったことの、それは人間である斬輝が唯一実感することの出来ることだった。

 一誠は喉を鳴らして、何よりもまず、アーシアを抱きしめた。

 彼女の名を呼ぶ前に。

 

「イッセーさん!? あっ、あの、私……」

 

 はだけた衣服を直す余裕すらなく、彼女は抱きとめられていた。

 生き返ったアーシアに呼びかけられても、一誠はその腕を離さなかった。

 だが涙にぬれたその顔が、リアスの方へと向く。

 彼女は、

 

「私は悪魔をも回復させるその力が欲しかったから転生させただけ」

 

 それだけ応えた。

 だが、

 ああ……そうか。

 ようやく判った。

 三年間も同じクラスでいるのに、まったくと言っていいほど彼女に嫌悪感を抱いたことのなかった、その理由が。

 そういうことか。

 お前さんのそういうところが、自然と人を惹きつけてるのかもな。

 

「あとはあなたが護ってあげなさい」

「……っ! はいっ!!」

 

 帰ろうアーシア、ともう一度抱き寄せる一誠を見ながら、ぽつり、とリアスが何か言ったのを、斬輝は聞き逃さなかった。

 そしてそれを聞いた時、もう一度、斬輝は笑みを浮かべた。

 ほら、やっぱり。

 彼女の声は、

 

「……先輩悪魔なんだから」

 

 本当に優しい。



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終章

 掃除の行き届いた誰もいない玄関を抜け、

 ホコリのない階段をたった一人で昇り、

 クモの巣一つ見当たらない廊下を誰に見られることなく抜けて、扉の前に立つ。

 ここへ来るのも、と斬輝は思う。

 慣れたもんだな。今じゃ誰に変な視線を向けられようが、平気でいられるようになった。

 分厚い木製扉についた金属のノブを押して、斬輝はオカルト研究部の部室へと入った。

 まっさきに、紅が映る。

 

「うーっす」

「あら、来たのね」

「おう。てか、あいつらはまだ来てねえのか」

 

 迎えたのは、リアス・グレモリーただ一人だった。それもソファーに腰掛け、脚を組みながら優雅に紅茶を飲んで。

 

「半分正解よ」

 

 応えて、また一口。

 

「裏では朱乃が色々と準備してくれているから」

「準備?」

 

 いつも閉めきっているカーテンが開け放たれていることに気づいたのは、その時だ。窓の向こうには風に揺らめく緑の枝が見えていて、その向こうから射し込んで来るのは柔らかな日射しである。

 月曜日の朝。

 出欠確認のホーム・ルームが始まるには、まだ一時間以上余裕がある。

 

「準備って、いったい何の?」

「それは後のオタノシミよ」

 

 それよりも、とリアスは尋ねてきた。

 

「あなた、軀の方は大丈夫?」

 

 向かいのソファーに腰を下ろした時に、ちらり、とこちらに視線を投げて。

 

「まあな。軀ン中の虫が、せっせと働いてくれたよ」

「もう、女の子の前でそういうことは言わないの」

 

 ティー・カップを置いて、リアスはジト目でそう言ってきた。

 

「へいへい」

 

 苦笑して、こちらも脚を組む。

 堕天使達の一件が終結したのは、まだ先週のことだ。この間の土日は一誠達も悪魔としての仕事は休んで、二日を休暇にあてた。特に傷を癒す意味でも、一誠と斬輝にはその必要があったのだ。

 だが実際のところ、斬輝が安静にしていたのは土曜だけで、日曜には比較的自由に動けていたが。

 斬輝の場合は『鋼鉄虫(メタル・セクト)』によるものだが、一誠の傷が癒えた最大の原因は、リアス・グレモリーの眷属に新しく加わった『僧侶(ビショップ)』の力だった。

 アーシア・アルジェントの持つ、『聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)』である。

 彼女の神器によって、一誠の両太腿に穿たれた傷は一分とかからずに完治したのだ。自身も体験したから言えることだが、あの力はかなりヤバい。種族の隔たりなく治療を行えるというのは、まさに驚異的だ。

『魔女』として教会から追い出されたのも、悔しいが納得出来るところがある。

 そんな規格はずれのチカラなんぞを内輪の者が使っているとなれば、気味が悪いを通り越しているだろう。

 だから初めて逢った時こそアーシアはそのことに関して諦念していたが、けれど彼女は今与えられた新たな『生』を充分に楽しんでいるようだった。

 それが如実に判るのは、やはり彼女が一誠と話している時だろう。その時の彼女は、いつにも増して笑顔になるのである。

 そういえば、

 

「なあリアス。たしか、アルジェントの奴もここに入るんだよな?」

「そうよ? それがどうかしたの?」

 

 そんな話を、ゆうべ彼女から聞かされたんだっけか。

 

「兵藤には言ったのか?」

「まさか」

 

 即答だった。

 

「あの子への、ちょっとしたサプライズだもの。言ってしまっては意味がないわ」

 

 ふ~ん、と呟いて、背もたれに寄りかかる。

 サプライズね。

 

「おめぇもずいぶん人間臭いんだな」

「どうして?」

「いや、そういう趣向を凝らすあたりが何となくな。あーお前もオンナなのか、って考えるとよ」

「なによ、それ」

 

 苦笑だった。

 つられて、斬輝も微笑む。

 

「でもよ」

「なに」

「アルジェントを悪魔に転生させたのだって、結局はそういうことなんだろ?」

「え?」

 

 ティー・カップを持ち直して訊き返すリアスは、いったい何を言ってるのあなたは、とでも言いたげだ。

 残念だったな。

 俺は『聞いて』るんだよ。

 

「教会でおめぇが最後に言ったことだよ」

 

 斬輝の言葉をリアス・グレモリーが完全に理解するまで、時間がかかった。

 たっぷり、五秒。

 ちょうど最後の一口を口に含んでいた彼女は一気に顔を紅潮させていた。

 それだけではない。

 

「ぶふぅうぅううッ!?」

 

 口の中の紅茶を、思いきり噴き出したのだ!

 こちらに向かって!!

 

「わっ! たっ、なー!?」

 

 顔の前で両手を突き出して、けれどその穴だらけのバリアーを突き抜けて紅茶が顔面に襲いかかって来る。

 あまりに咄嗟の行動だったので、少しでも自分の身を逃がそうと後方へ床を蹴ったのが間違いだった。ソファーに座ったままの斬輝はその勢いで、ソファーごと引っ繰り返ったのである。

 ソファーの質量が、斬輝の体重よりも軽かったのだ。

 ごつん!

 背もたれが床に激突し、後頭部をしたたかに打ちつけた。

 

「あだぁっ!?」

 

 がん!

 と派手に音をたててから炸裂するのは、激痛である。畜生、ドーナシークの奴に落とされた時よりも痛いと感じるぞ!

 

「ざ、ざざざ、ざざ……」

 

 視界の外で、リアスは狂ったノイズのような声を出している。

 しかしそんな彼女が正気に戻った時、

 

「……はっ! 斬輝!?」

 

 急いで駆け寄ってきた。

 

「ごめんなさい、大丈夫!?」

 

 対する斬輝の応えは、後頭部を手でさすりながらの呻きである。

 う~ぅう。

 あーらら、触ったらちょっとタンコブ出来てるや。猛烈に痛いぞ、こいつは。

 脇の下に腕を割り込まれ、なんとか起こしてもらう。床の上で腫れた頭を覆いながら、尻目にリアスが頑張ってソファーを直そうとするのが見えた。

 こういうところを見ていると、斬輝はふと思うのだ。

 俺の前だと、なんだか『お姉さま』という肩書もかすんでくるな。

 まあもっとも、同い年である時点で『姉』というイメージはないがな。

 立ち上がって、頭を抑えながらリアスとは反対側に立ってソファーの淵を摑む。

 

「ぃよいしょっと」

 

 直した。

 空いている方の手でバッグから汗拭きようのタオルを取り出して、顔面についた紅茶のしぶきを拭った。

 

「だ、大丈夫?」

「まあ、何とかな」

 

 けっこう痛いが。

 

「で、でも、あなたが悪いのよ! いきなりあんなこと言い出して!!」

「はあ!? 俺のせいかよ!!」

「そうよ! 酷いじゃない、私の独り言を盗み聞きするなんて!!」

「盗むって何だよ! おめぇが聞えるような距離で言うのが(わり)ぃんだろうが!!」

 

 お互いに言い合って、けれどそれで決着がつくわけではない。いつもならこのままヘンテコな勝負に出るのが常なのだ。

 それは一年生のころからの、リアスとの付き合い方だった。いちばん最近なのは、どっちが早く『寿限無(じゅげむ)』を速く言いきることが出来るか、だったっけか?

 その時は、テスト勉強の時に日本史の問題で彼女が質問してきた時だ。あまりにも呑み込みが悪かったリアスに対して、ついに斬輝がキレたのだ。

 サムライは居るわ!

 サムライは居ないっつってんだろが!!

 いいえ居るわよ! そう聞いたもの!!

 誰だお前にそんなこと吹き込んだ奴ぁ!?

 けっきょく『寿限無』では彼女に滑舌で負けたわけだけど。まさか、あんなに舌が回るとは思わなかったぞ。

 だが今回は、それがない。

 先に折れたのは、斬輝の方だった。怒鳴り返したことで頭に響いたのだ。

 よっこらせ、と腰を下ろした斬輝は、しかしリアスの顔を見るなり笑みがこぼれた。

 その笑みに気づいたのか、

 

「な、なによ……」

 

 座りなおしたリアスが、こちらを見つめてくる。

 頬が赤い。耳まで真赤に見えた。

 だが、そのことについて斬輝は何も言わなかった。

 

「やっぱし、楽しいわ。こういう何もない時が一番……な」

 

 視線をずらして、その窓の向こうの風景を見つめる。

 それを追うように、リアスも肩越しに外を見た。

 窓は閉め切っているが、しかしその向こうでたしかに流れるのは風である。

 その流れに揺られ、木々がさざめくのだ。

 そして今、こうやって他愛のない話をし、ちょっとした言い合いになる。

 でもこれが、と斬輝は思った。

 日常だ。

 悪魔と堕天使との闘い、などという非現実的な世界に投げ込まれながらも、その間に訪れる静かな平和は、紛れもなく『日常』そのものなのだ。

 リアスはこちらに向き直ると、

 

「そうね」

 

 笑顔でそう言った。

 今回みたいな闘いは次から次へと来るに違いない。人外達との戦闘など、これから先ずっと付きまとって来るだろう。

 そんなことはどうでもいい。

 大切なのは、その場面に放り込まれてどうするかだ。

 その行動を決めるのは、覚悟だ。

 覚悟はしているつもりだった。

 力を持つことの覚悟も。

 人間を襲うような連中と闘う覚悟も。

 人間は、誰でも死ぬ。

 いつ死ぬか、どこで死ぬか、なぜ死ぬか、それが違うだけだ。

 そしてそれは、運命によって決定されるものではない。

 それを決めるのは、自分自身だ。

 積み重ねてゆく行為、積み重ねて行く言葉、積み重ねてゆく思い、積み重ねてゆく時間そのものが、少しずつ少しずつ、その日その場所へと導いてゆくのだ。

 だったら。

 俺が生きてるうちは、全力で闘おうじゃねえか。

 このチカラで。

 望まずして得た、鋼の軀で。

 

「さて、と」

 

 でもその前に、

 

「どこか行くの?」

「保健室。滝浦(たきうら)先生呼んで、氷もらってくる」

「ああ、判ったわ」

 

 頭を冷やさねば。

 

「行ってらっしゃい」

 

 早く戻ってらっしゃいね、と彼女は言った。

 

 

 黒鉄斬輝がアイシング用の氷のうをもらうまでに、一〇分ほどかかった。二階の端にある職員室から一階の反対側の端にある保健室に行くまでに時間がかかったからだ。

 適当に、足を滑らせたのだ、と言っておいた。

 そして斬輝が部室に戻った時には、すでに一誠をはじめとするオカルト研究部のメンバーが勢ぞろいしていた。その中には、アーシアも含まれていた。

 駒王学園の制服に身を包んだ彼女は斬輝に、ありがとうございます、と言ってきた。

 イッセーさんからお話は聞きました、と。

 それからホーム・ルームの直前まで、ささやかながらアーシアの歓迎会が行われることになった。

 朱乃がワゴンに乗せて持って来たのは、イチゴのホール・ケーキだった。

 リアスの手作りなのだと言っていた。

 イチゴの酸っぱさと生クリームの甘さのバランスが絶妙で、べらぼうに旨かった。

 

 

 感想を聞いたリアスは少し顔をうつむかせて恥ずかしそうに、ありがとう、と言った。




 思うに「原作と変わらないイッセー」の状態で二次創作を始める時、それがオリ主ものかクロスオーバーものかに拘らずこの『旧校舎のディアボロス』においては彼が主役を張るべきだと思う。もしも既に力を覚醒させているならば話は別だが、この巻は彼にとって初めての闘いであり、同時に彼にとって初めての「力の目覚め」になるからだ。
 だから、これはあくまで「オリ主ものだけどメインはイッセー」なオハナシになっている。
 いえ、もちろんオリ主にもスポットは当たってますけどね(汗)。


 さて。
 次回は、いよいよこのシリーズのメインとなり得る『戦闘校舎のフェニックス』である。構想どおりに事が進めば、この話で斬輝はさらなる力の「覚醒」を見せてくれるはずだ。
 ここ最近で思いついた展開なんだけどね。
 しかし現在ちょっと準備が手間取って、何ヶ月か開いてしまうことになるだろう。お気に入り登録してくださった方には申し訳ないが、今しばらくお待ちいただきたい。


 あ、そうそう。
 お気に入りで思い出したのだが、このリハビリ作品に早くもお気に入り登録してくださった方が、この「あとがき」を書いている時点でおよそ三〇名いらっしゃる。そしてその中には、評価をつけてくださった方もおられるのである。
 ありがとうございます。
 リハビリ作品ゆえにアレな出来ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。


 では、また。


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第二巻/戦闘校舎のフェニックス
序章


 最初に『集合』したのがいつだったか、今でも鮮明に憶えている。そして今夜が『特別な夜』であることも充分に理解していた。

 すべてのメンバーが揃う夜なのだ。

 最初は、気づかれるんじゃなかろうか、とも思った。仕えるべき主を亡くし、あるいは裏切られた『はぐれ』どもが集えば、それだけで向こうの連中から目をつけられやすくなる。

 だが、それでも半年が経過したのだ。

 何事もなく、平凡に。

 寝床も、ちょうど人気のない雑居ビルがあったので、そこにした。

『彼ら』が心配せねばならなかったのは食料の調達、ただそれだけだ。

 そして今、目の前にあるどこからか運び込んだいくつもの円卓には、その『成果』が乗っていた。形も大きさもそれぞれだが、どれも鮮度が高いから、きっと美味に違いない。

 並べる際に円卓にかけてあったボロ衣のようなテーブル・クロスが汚れてしまったが、許容範囲だ。

 

「みんな、ごくろう」

 

 そう言って彼が掲げるグラスには、飲み慣れた赤い液体が注がれている。乾杯の音頭はまだだが、それでも一口含めばかすかな鉄の味とともに彼の喉を潤した。

 

「こうして集まるのは、三ヶ月ぶりだな」

 

 かすかな頷きとともに部屋を見渡すと、ざっと三〇人。女も子供もいるが、どいつも揃って赤が注がれたグラスを弄んでいる。

 

「あれから半年……本当に色々あった。だがその中で我々が育んできた絆はそう簡単に壊れるものではないと、私は自負しているよ」

 

 使える主を亡くした者、

 主に裏切られ、捨てられた者。

 

「さまざまな境遇にあった、しかし同一の種が、こうして一つ屋根の下に集まれたことを私は嬉しく思うよ」

 

 打ちっ放しのコンクリートに、彼の言葉がわずかに反響する。

 

「とにかくこれで、また明日も生きていくことが出来る」

 

 過激派みたいに、わざわざこちらから尻尾を出すようなことはしたくなかった。

 誰にも知られず、ひっそりと暮らしてゆければ、それだけでいいのだ。

『彼ら』に故郷と呼べるような場所は、もう残ってはいないのだから。

 では、と言って、彼は一歩、前へ出る。集まった『仲間』も、そろってグラスを掲げる。

 

「乾ぱ……」

 

 ……乾杯、と言い終える前に、突然の破砕音が辺りに響き渡った。

 奥の方で、窓ガラスが粉砕されたのである。

 同時に吹き込んでくる風で堆積したホコリが舞い上がり、射し込む月明かりのせいで『侵入者』の姿はシルエットになって見えなくなった。

 

「なんだ!?」

「貴様、いったい誰だ!!」

「おい、待て!」

 

 もうもうとするホコリの幕の中へと『仲間』が次々に突っ込んでゆくのを制止しようとするが、それすらも振り切って彼らは走ってゆく。

 だが、

 

「があ!?」

「ぐっ!」

「ぎぃ!!」

 

『侵入者』を排除しようとした『仲間』が次々とこちら側へと蹴り返されてくるのだ。

『仲間』達へ駆け寄ると、その腕や足や胴に、それぞれ鋭い斬り傷があることに気づいた。

 

「な、なんだ……これは……?」

 

 急な事態に彼の脳がフル回転して対応しようとしているさなか、彼の呟きに応えたのは、舞い上がるホコリの幕の向こうからだった。

 よお、とそいつは言った。

 

「探したぜ」

 

 男の声だ。それを聞いた直後、『侵入者』が武器を持っていることに初めて気がついた。

 

「貴様……」

 

 憤怒の形相で唸るような声は、ぎざば、と濁っている。口が耳元まで裂けたからだ。

 彼を含め、全員が似たような『変異』を遂げていた。

 ある者は右半身が漆黒の羽毛に覆われ、ある者は全身の肌が薄紫へと変色し、ある者は両腕が大腿ほども太くなったかと思うとその先にある両手が鋭い鉤爪へと変わった。

 そして、きゅう、と目が細くなる。瞼を細めたのではない。文字どおり瞳が縦に狭まったのだ。

 

「何をしに来た? 私達に一体何の用がある?」

「決まってんだろ」

 

 獣の唸りを上げて、それは威嚇のつもりだったが、目の前の『侵入者』は一切動じなかった。それどころか、どこか余裕があるようにさえ感じる。

 

「狩りだよ。てめぇらみてえな外道連中のな」

「どういうことだ?」

「そのまンまの意味さ。だが、まさかここまで大規模な軍団連れてやがるとは思わなかったぜ。いったいいつからだい、え?」

「何が悪い!」

 

 気がつけば、彼は声を荒げていた。

 折角の食事を邪魔されたからというのも当然、ある。

 だがそれ以上に、彼らの最大の目的だった、ひっそりと暮らす、ということじたいを踏みにじられたことが、何よりも頭にきた。

 

「私達はただ、主に裏切られ、捨てられただけだ! 居場所を失った私達に、どうしろと言うのだ!! 現にこうして、ひっそりと暮らしてるじゃないか!!」

「なぁにが、ひっそりだ、この糞ッタレが! だったらこれはどう説明すんだよ!!」

 

 言いながらこちらへと歩み寄って来る男が近くにあった円卓を思い切り蹴り倒す。ごろり、と転がるのは一抱えほどもある肉塊だ。

 ほとんど皮が剝がされたその肉塊には、人間の腕が一本、くっついていた。

 似たような『食材』が、全ての円卓に乗っかっている。

 

「こりゃなんだ? え? しゃぶしゃぶ用ホームレスか? ステーキ用サラリーマンか? なあ、はぐれ悪魔さんよ、どっから持って来たのか訊きてえな!」

「おのれ……!」

 

 彼の意思を読み取ったのか、集まった『仲間』達が一斉に男を取り囲む。一瞬にして、『侵入者』の逃げ場を封じる格好になった。

 しかし皆が一様に息を呑んだのは、おそらく『侵入者』の風体が予想していた姿と微妙に異なっていたからだろう。

 シルエットになった時点で奴が長身だということは判っていたが、その姿は漆黒のライディング・スーツなのだ。

 そして何より、それは男と言うよりも、まだ少年の域を出ていないような若造だった。

 

「てめぇらがどういう経緯で『はぐれ』になったのかは知らねえよ。だがな、だからって人間を喰って生き延びるってぇのは、了見が違うぜ」

「言いたいことはそれだけか、このガキ」

 

 誰ともなしにつぶやくその言葉に、続くのは『彼』だった。

 

「貴様に何が判る……私達の苦労も知らないで、ただのうのうと生きているだけの貴様らに」

「判るもんかい。むしろ、てめぇらを追っかけまわすこっちの苦労を知れってンだ」

 

 仁王立ちになった若造の背後に回っている『仲間』が、隙を狙って今にも両手のカマを振りかざしそうだ。

 

「ともかく、だ」

 

 人類をはるかに超越する力を持つ悪魔の包囲をものともせず、若造はさらに一歩、踏み出した。

 

「確認させてくれ。あんたがカザックか?」

 

 それが、『彼』の名だった。

 

「そうだ、と言ったら……どうする?」

「いや、本人確認が取れればそれでいい。あとはこっちの仕事だからな」

 

 若造は垂らしていた右手を顔の横まで掲げると、今一度拳を握る。

 額から噴き出した汗が、頬を伝って顎から滴った。

 ぞくり、と背筋が凍るのが判った。

 やる気だ。

 それは、誰が叫んだのか判らない。

 

「そんな……俺らは静かに暮らしてきただけじゃないか! なのに……」

「だぁから、おめぇらの『ひっそり』が全然『ひっそり』じゃなかったんだってぇの」

 

 遮るように、若造は冷ややかにそう言い放った。そして肩越しに背後を振り返って、

 

「喰い過ぎだ、こら」

 

 それが、戦闘の合図だった。

 

 

 つぶやくなり、黒鉄斬輝(くろがねざんき)は蹴りを放った。

 軸足を大きく後方に踏み込む、後ろ回し蹴りである。

 狙うのは、背後でカマを振りかざしていたのと魔力で構築した光弾を放とうとしていた奴を含んだ四人だった。

 自身の鋼鉄の骨格に加えて分厚いソールを備えた厚底靴の破壊力は、分厚い鋼鉄の板をも打ち抜く。

 四人のはぐれ悪魔は攻撃の余地を与えられることなく、一つの塊になって横ざまに宙を飛び、肉塊が乗っている円卓を二つほど巻き込んだ。

 瞬間的な衝撃によって腹は裂け、中から臓物をはみ出させながら、砕けた骨を露出させていた。

 四人分の頭部は扁平に押しつぶされて、まるで融合しているようにも見えた。

 

「しっ!」

 

 血みどろの右脚を、そのまま回転の勢いにのせて真横へと流し、さらに軸足を蹴ると、同時に彼の意識に従って、左右の拳から一対の武器が飛び出した。

 次の標的となった二人は、今度は襲ってきた斬輝に声を上げる暇すらなく、一瞬で上下に分断された。

 

「……でぇえぇぇえええぃっ!!」

 

 背後から叫んできた革ジャン野郎はドッジ・ボールほどもある魔力の光弾を放とうとするが、発射寸前に突き出された腕を巻き込むようにして抑えつけ、ひねりつつその照準をさっきこいつが走ってきた方向に居る三人に合わせる。

 悪魔としてそれなりに力のある者だったのだろう、放たれた魔弾はあっという間にターゲットとなった連中を呑み込む業火になり、その身を焼いてゆく。

 

「ひぃっ!?」

 

 上擦った悲鳴をあげた奴のほうに振り返って、斬輝はすかさず拳を叩きこむ。腹にぶち込まれた鋼鉄のごとき拳は内臓をからみつかせたまま背中側へと突き破って、そいつを引き抜くように斬輝は背後の炎の中へと放り投げた。

 それで終わりだった。

 

「そんな、ば……莫迦な……!?」

 

 一〇秒にも満たないわずかな時間の中で、あっという間に残るはカザックのみとなった。

 斬輝はたった一足で、五メートルほどの距離を一気に詰めた。

 カザックの顔が、目の前になる。

 

「おま……」

 

 カザックが何か言いかけるよりも早く、斬輝の拳から生えた銀刃が閃いた。

 奴の瞳には、返り血に濡れた斬輝の姿が映っていた。

 

 

「終わったぜ」

 

 血生臭い腐臭の中で斬輝がささやくのは、手持ちの携帯端末である。

 了解、と応えるのは、艶のある、しかし凛とした心地良い緊張感を伴う女性の声だ。

 

「リアス、そっちはどうだ? 兵藤の奴はうまく立ち回れてるか?」

「ええ、何とかね。こっちも今しがた終わったところだわ」

 

 言い終えて、かすかにリアス・グレモリーが、向こうも終わったみたいよ、と仲間に呟くのが聞こえた。

 

「そうか」

 

 それにしても、と斬輝は周囲を見回した。

 今夜の『現場』である。

 

「やっぱし多いな」

「そうね……ここのところ、はぐれ悪魔の依頼が届く頻度も上がってきているし……」

 

 はぐれ悪魔の討伐には、基本的に大公などの身分の高い悪魔達からそれぞれの土地を管轄している悪魔へと依頼が下される。当然その依頼に拒否権はないので、必然的に依頼を受けた悪魔は自ら……あるいは眷族悪魔を連れて現場へと向かうのが常だった。

 そう、だったのだ。

 それがここ最近、わずかにでは変わりつつあるのである。

 まず最初の変化として、ここ駒王町に流れ込んでくるはぐれ悪魔の依頼件数が増大したのだ。

 少なくとも五日に二、三件、多くて一日に三件以上など……少なくともこの約三週間ほどで斬輝達が倒したはぐれ悪魔は、今夜の大所帯を度外視してもゆうに一五体を越える計算だろう。

 だが、

 

「ま、そいつもあるが……それよりも連中が少人数とはいえ『群れ』を形成してるっつうことも少なからず影響してるだろうな」

 

 そうなのだ。

 身寄りを亡くした者どうしで型を寄せ集めているのか計画的に作られたものなのかは判らないが、それが一番、彼らの負担を重くしているのである。

 特に問題視されたのは、対処する人員の確保だ。

 これまで、それこそ絶対的な数こそ少ないといえる数字ではなかったが、それでもはぐれ悪魔の討伐の依頼が来る頻度は、ある程度一定だった。だからリアスも、それからもう一つ……駒王町に滞在する悪魔達も、対症療法的にはぐれ悪魔を討伐することが出来たのだ。

 次々と町を担当する悪魔達がはぐれ悪魔討伐に駆り出され、それでも多い時では足りないのである。

 そこで、斬輝の出番となったわけだ。

 無論、一介の人間が一連の事件に関与することは悪魔の間でも好ましくないとされている。しかしそこは上級悪魔であるリアスの懇願もあり、限られた条件下のもとでのみ出動を許可されたのだ。

 その条件がすなわち、黒鉄斬輝が身を置いているオカルト研究部……もといリアス・グレモリーとその眷族全員が総出で事に対処している場合、である。

 最終的な決定が下されたのは、二週間ほど前だ。

 だが、事態は想像していたよりも深刻だった。

 決定から今日まで、黒鉄斬輝の出動回数はすでに五回以上なのだ。つまり、それほどまでにはぐれ悪魔の出現が加速していることになる。

 

「まったく、なんだってこの町に限ってこんなに数が莫迦みたいに多いのかねえ?」

「ごめんなさい。あなたにも負担をかけてしまって」

「心配すんな。殴りあうのは慣れてるさ」

 

 それじゃあ、と斬輝は懐から一枚の紙を取り出した。

 魔方陣である。これでリアスがこちらへ転移可能になり、殺されたはぐれ悪魔達を持ち前の魔力で『消滅』させるのだ。証拠を残さないためだ。

 

「置いとくから、後始末は任せるぜ?」

「ええ、判ったわ。あとは私に任せて、先に部室のほうに行っててくれる?」

「んあ? なんでまた……」

「あなたのことだからね、どうせまた臭ってるんでしょ? シャワーでも使いなさい」

 

 通話を切った。

 余計なお世話だ。

 

 

 移動用のアシが必要ね、と言ったのはリアスの方だ。

 人間である斬輝は魔方陣を介しての転移は基本的に無理だし、仮にそれを可能にするにはリアスが付き添う必要がある。

 だがそれだと現場へ急行するにはあまりにも効率が悪い。一度リアスが現場まで送ってやり、それから彼女は一度眷族悪魔がいる部室へと戻ってから朱乃が準備してくれた魔方陣で改めてもう一つの現場に向かわねばならないからだ。

 そこで彼女が提案したのが、普通二輪の免許取得だ。資金はリアスが用意してやり、そして一発合格だ。即座にマシンを購入し、今や斬輝の移動手段としては欠かせないものとなっている。

 彼が小さいころモトクロスをやっていたと知った時は、どうりで一発で合格するわけだ、と妙に納得してしまったが。

『後始末』を終えたリアスがジャンプしてくるのと、ばさばさとタオルで濡れた頭を乾かしながらスウェットのパンツ姿の斬輝が出てくるのはほとんど同時だった。斬輝がこちらの姿を認めると、タオルを摑んだままの手を挙げる。

 

「よっ、お疲れ」

「あなたもね、斬輝」

 

 はぐれ悪魔討伐の日は、基本的に斬輝はこの旧校舎に泊まっている。その方が都合がいいからだ。

 そして互いにねぎらいの言葉をかけあうという、最近ではすっかり見慣れたその光景に、リアスは思わず苦笑する。

 おおかた、朱乃達はとっくに解散した後なのだろう。きっと一誠も帰宅したはずだ。

 いつもならとっくにリアスも戻って部員達と軽く談笑するくらいの時間はあるのだが、なにぶん今夜は斬輝が始末した数が多かった。

 都合、三〇体ほど。

 ソファにどっかりと腰を下ろして、置いておいたバッグから斬輝が取り出すのはスポーツ・ドリンクである。

 一気に半分ほども飲んでから、

 

「ところでよ」

 

 斬輝はこちらに視線を向けた。

 

「兵藤の奴、ちと鍛えてやらねえとマズくないか?」

「え?」

「まだうまく神器(セイクリッド・ギア)も使いこなせてないんだろ? 力に振り回されてるっつうことは、あいつの基礎体力がなってないってことだ。だからだよ」

「ああ……」

 

 言われてみれば、たしかにそうだ。

 今夜の闘いでも一誠はそれなりに善戦したとは思うが、それでも決め手となる攻撃をしかけたのは彼ではなく、他の部員達だったのだ。

 ……そして一誠だけが他の誰よりも息が上がるのが早かった。

 

「……そうね」

 

 頭を抱えて、リアスは頷いた。

 このままだと、いろいろと厄介だ。

 いずれリアスが成熟し、公式のレーティング・ゲームに参加するにあたって、一誠が何の力も発揮出来ないままやられてしまうのは、主としては何としても避けたい事態だ。

 だとしたら。

 やることは一つしかない。

 リアスは斬輝を見据え、笑みを浮かべる。

 

「私の下僕が弱いなんてこと、あったら困るもの。悪魔だって日々の鍛錬がモノを言うんだから!」

「だろ? 鍛えて損することはねえさ」

「ええ、やりましょう斬輝!」

「おう。いっそのこと、ハードにな」

 

 斬輝も、にやり。

 

 

 少し話して、明後日の早朝からでも一誠の特訓をやろうかという話になった。本人には明日のうちに伝えておくと斬輝が言ってくれた。

 話している間ずっと斬輝が笑みを浮かべていたので、自然とリアスの口許も笑みになっていた。

 やっぱり、とリアスは思う。

 ちょっと口は悪いし、行動も荒っぽいけど……でも、あなたといるとつい笑顔になってしまう。

 特にここ最近は、自分でもそれが顕著になっているような気がする。

 それが一年からずっと同じクラスだからというだけでも、二年の修学旅行の際に一緒の班になったからというだけでも……ましてやいつからかリアスの要望ではなく彼自身の意思で『リアス』と呼ぶようになってくれたからというだけでないことにも、彼女は気づいていた。

 彼は強くて、そして優しいのだ。

 決して口には出さないけれど、でもその分、彼はちゃんと行動で『気持ち』を表している。

 斬輝が余分な言葉を紡がないのは、彼が聡明であることの表れだとリアスは考えていた。

 でも。

 だったらあなたは、とリアスは思う。

 気づいてしまっているのかしら?

 私が、こんなふうにあなたと笑い合える時間が、そう残されていないことを。

 望まぬ未来が、すぐそこまで迫ってきていることを。




 お待たせしました。
「数ヶ月」でカタをつける予定が思った以上に私生活がバタバタしていたせいで、けっきょく約一年半越しの更新になってしまった。本当に申し訳ない。
 ボチボチと、更新再開出来たらと思っとります。


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第一章 不安の兆候

       

 

 

 茜色に染まり始める雲。

 東から登る太陽が夜という名の闇を追い払い、自然の光を大地へと恵んでゆく。

 こんな柔らかな日差しの中でなら、あるていど動けまわるかも知れないという自信が、今の彼にはあった。

 だが、

 

「ぜーはーぜーはー」

 

 どうしてこうなったんだ、と兵藤一誠(ひょうどういっせい)は思う。

 いや、数日前に斬輝(ざんき)から特訓の知らせを聞いた時から予兆はあった。

 そもそも彼の実力不足は自他ともに認めている。もっとも神器(セイクリッド・ギア)が本当の意味で『目覚め』てから日が浅いというのもあるだろうが、いかんせん基礎体力がなっていないのだ。

 たしかに悪魔に転生したことで基礎体力はわずかながらに向上したが、それだって元の体力に毛が生えた程度でしかない。そこのところをどうするかが一誠自身にとっても今後の命題とされていたわけなのだが。

 早朝五時のランニングである。

 だが、ただ近所の住宅街を走り込むのではない。それは実に二〇キロのマラソンなのだ。

 おまけに、メニューにはこれからさらに一〇〇本以上のダッシュが待ち受けている。そしてそれは、一誠が走り込んでいる最中に失速したり転びかけたりするたびに一〇本ずつ加算されてゆくのである。

 今の記憶が正しければ、すでに一五〇本のダッシュが確定している。つまり、五回はやらかしてしまったわけだ。

 うへえ、である。

 おまけに、

 

「ほら、だらしなく走らないの。あとでダッシュ一〇本追加するわよ」

「二回吸って二回吐く、この繰り返しで呼吸を整えながら走れ。ペース配分だって実戦じゃ大事なんだからな」

 

 後ろから遠慮なく気合を入れてくる二人の先輩は、想定していた以上のスパルタときた。

 力を使いこなせるだけの基礎を身に着けさせる、というのは信頼する先輩・黒鉄斬輝(くろがねざんき)の言葉だ。

 私の下僕が弱いなんてことは許されないわ、というのは尊敬する部長であり悪魔としての主・リアス・グレモリーの言葉である。

 そう。

 この二人こそが、一誠のトレーナーなのだ。

 そもそもの発案者が彼らなのだから、まあ当然と言えば当然なのだが。

 

「ようし、もう少しでゴールだからな、リズム崩さずに行けよ」

「ラスト・スパートなのだから、頑張りなさい」

「ぜーはーぜー……は、はいぃ……」

 

 そして満身創痍の一誠が何よりも悔しいと思っているのは、今まさに一誠の隣にやってきた斬輝のことだった。

 たしかに彼は走ってこそいるものの、しかし『足』で走っているわけではない。

 自転車なのである。しかもその後ろにはリアス部長が横向きに座っていて、万が一の落下に備えてか、その腕は斬輝の腰に巻かれている。

 そんな光景を、一誠はここ毎日の朝練時にずっと見せつけられている状況なのだ。付き合っているわけでもないのにそういうのが自然と出来るなんて、羨ましくないわけがない。

 そういえばここ最近、斬輝のリアスに対する接し方がいくらか柔らかくなったような気がする。いつの間にか斬輝も彼女を名前で呼ぶようになってから……正確には、堕天使の一件があったあたりからだ。

 そう思ったところで、ふと気がついた。

 もうすぐゴール?

 てことは、もう二〇キロ走り終えるってことか!?

 朝練を取り入れたのは、つい一週間ほど前だ。初日はそのスパルタ過ぎるメニューにランニングの時点で文字通り死にかけたわけだが、二日、三日と続けることによって、少しずつではあるが筋肉痛がなくなり、またタイムも早くなってきているのである。

 これが慣れか、と一誠は我ながらに感心してしまった。

 これならきっと、近日中にさらに二〇キロマラソンのタイムが縮むかも知れないと思うと、一誠は自分の成長が感じられてほんの少し安心した。

 だからなのか、ゴールまでの少しの間ではあったが、一誠は言われた通り呼吸リズムを整えつつ、ペースを保って走り続けることが出来た。

 ようし。

 やってやるぞう!

 

「ハーレム王に、俺はなるんだぁぁあぁっ!!」

 

 ゴールの手前で道端の石に蹴っつまづいて転んだのは、このわずか二秒後のことである。

 

 

 走り込みが終わったからと言って、もちろんそれですべてが終わるわけではない。

 最終的に一六〇本の連続ダッシュをこなし、わずかなインターバルの後に待ち受けるのは、苦手とする朝日に照らされながらの地獄の筋トレである。

 ジャージ姿のリアスはベンチに腰を掛けて足を組み、同じく色違いのジャージを着た斬輝は、肩幅に両腕を広げた格好の一誠の背中にどっかりと腰掛けている。

 斬輝という名の重しを乗せた腕立て伏せである。最初の数日こそリアスが一誠の上に乗っかっていたのだが、やはり彼自身が彼女の重量に慣れてしまったのか、三日ほど前からは斬輝が上に乗る格好でのトレーニングとなったのである。

 

「ぬぐぐぐ……」

 

 喉の奥から獣のような唸りをあげながら、すでに何回同じ動きを繰り返したのか判らないまま、一誠は悲鳴を上げる両腕を懸命に伸ばす。

 

「いい? 悪魔の世界は圧倒的に腕力がモノを言うの。イッセー、あなたの場合は特にね」

「は、はい……ぎぎぎぎ!」

 

 腕を曲げる。

 

「何度も言うが、お前さんのブーステッド・ギアってのは使用者のキャパシティがデカくなきゃ倍化出来る力に軀が追っつかねえみてえだからな。お前の性格なら、無茶して倍加したはいいがキャパオーバーでぶっ倒れるのが目に見えてるからな。今のうちに体力と筋力つけとけよ」

「そうよ」

 

 リアスが引き継いだ。

 

「あなたの能力は、基礎体力が高いほど意味があるの。お判り?」

「はい、そりゃ、もう……ふぐぐぐぐ!!」

 

 腕を伸ばす。一三〇キロを超える斬輝の重量に耐えながらの腕立て伏せは、一つ一つの動作だけでかなりの体力と集中力を削られる。きっと一誠がヒトのままであれば、確実に押しつぶされていることだろう。

 というか、現に初めて上に座られた時は見事につぶれた。そりゃもう、骨盤がイカれちまうんじゃないかと思うくらいの衝撃で。

 だがそれも、悪魔の超人的な肉体のおかげなのだろう。何とか、形だけでも『腕立て伏せ』と呼べるようなトレーニングはしているつもりだった。

 もっとも、そのあたりのジャッジをするのも斬輝やリアスなのだが。

 そして、

 

「……うし、とりあえずこんなもんか。な、リアス?」

 

 そう言って、斬輝がベンチに座るリアスへと目を向ける。

 だが当の彼女は一誠達の方を向いてこそいるものの、その目は何か別のものを『見て』いるようで斬輝の問いかけには気づいていないようだった。

 

「おい、どうした? リアス?」

 

 怪訝そうに斬輝が訪ねるものだから、思わず一誠もベンチのリアスを見ようとする。だがそれがまずかったのかバランスをくずした一誠はそのままドスンと地面に這いつくばったような格好になり、

 

「ぅおっと」

 

 その上にコンマ数秒遅れて斬輝の尻が一誠の骨盤を襲った。

 

「ぎゃあ」

 

 そんな一誠の珍妙な悲鳴に気がついたのか、ようやくリアスも斬輝の方を見て、

 

「……ええ、そうね。そろそろ来る頃だし、ここで休憩しましょうか」

「おお、もうそんな時間か?」

「ぶ、部長……。そろそろ来るって、いったい誰が……」

 

 その時だ。

 

「イッセーさーん! ザンキさーん! 部長さーん!」

 

 公園の入り口の方から、朗らかなソプラニーノの声がやってくる。

 

「お、来た来た」

 

 見ると、長い金髪を風になびかせながら、小ぶりなバスケットを抱えてアーシア・アルジェントがこちらへと走ってくるところだった。

 だが、忘れてはいけない。

 彼女は何ともベタな不幸体質……いや、むしろ天然と言った方が正しいだろう、ともかくそんな体質の持ち主なのである。

 このまま何も起こらないわけがない、というのが一誠を含めた三人の……言い換えればオカルト研究部員達の共通意見だった。

 

「遅くなってごめんなさ……はぅっ!」

 

 案の定、気がついたらアーシアは何もないところで蹴っつまづき、そのまま前へつんのめってコケていた。

 

 

 水筒のお茶を紙コップへ注いでから、アーシアは一誠に手渡した。

 

「はい、どうぞ」

「ああ、ありがとうアーシア」

「ザンキさんと、それから部長さんにも、はい」

「ありがとね」

「さんきう」

 

 一誠とアーシアがベンチに座り、斬輝とリアスはブランコの柵に腰掛けた格好での休憩タイムである。

 さきほどは転んだアーシアだったが、特にどこかを擦り剝いたといったような様子はなく、一誠はちょっと安心した。

 でも、どうして今日、彼女がここにいるのだろう?

 渇いた喉を潤わせつつ、アーシアに尋ねた。

 

「そういやアーシア」

「なんですか?」

「どうしてここに? ……あ、ごめん、おかわりもらえるかな」

 

 我ながら直球な質問だよな、とは思いつつ、一誠は空になったコップを差し出した。

 すぐさま、アーシアが注いでくれる。

 

「ザンキさんと部長さんに呼ばれたんです」

「二人に?」

 

 ブランコの方へ視線を向けると、おう、と斬輝が応えた。

 

「先輩、どうしてアーシアを?」

「まあ、ちょっとあってな」

「ちょっとって……」

 

 皮肉な笑みを浮かべた、実に彼らしい応え方ではあるけれども。

 しかし彼がこういう風にはぐらかす場合はたいてい何かしらの意図があると判っている一誠は、斬輝の隣に座るリアスに尋ねた。

 

「部長、何か理由でもある……」

 

 ……あるんですか、と言おうとしたが、出来なかった。

 気づいていないのである。

 さっきのように聞こえていないようで、その視線は手元の紙コップに落とされているのだ。おそらく、直前の斬輝との会話すら耳に入っていないに違いない。

 

「……部長?」

 

 それはまるで、水面に映る自分の顔を見つめて何かを追憶するようで……、

 

「おい、どうした?」

 

 そんなことを考えていると、斬輝も異変に気付いたのか空いている右手で彼女の肩を軽く叩いていた。

 リアスは一瞬はっとしたような表情になり、なんでもないわ、と言った。

 

「ちょっとボーっとしちゃってただけ」

「おいおい、大丈夫か?」

「そうですよ部長。どこか具合が悪いんでしたら、ちょっと休んだ方がいいんじゃ……」

「だーいじょうぶよ! 私だって健康には気をつけてるもの。そう簡単に風邪なんかひかないわ」

 

 心配しないで、とでも言いたげに軽く手を振って立ち上がったリアスは、さて、と一誠に向き直る。

 

「イッセー、少しは落ち着いた?」

「はい? ……ええまあ、なんとか」

「それじゃあ、みんなで行きましょうか」

「え? 行くって、どこへ?」

 

 その質問に、待ってましたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべる主の姿は、しかしいつもの彼女に戻っていた。

 

「イッセーのおうちよ」

 

 

 アーシアの駒王学園への編入が決まり、入学までに解決すべき問題として掲げられたのが、当の彼女の下宿先だった。

 海外から来日してきた彼女は、しかし当然ながらホテルなどを予約するだけの日本語力も、ましてやお金も持ち合わせてはいなかった。そのため当時は彼女達が『拠点』としていた廃れた教会での寝泊まりを余儀なくされていたのである。

 例外は、わずかに一回。

 すなわち、はぐれ悪魔祓いに一誠が襲われたあの夜だ。その日、偶然にも通りかかった斬輝によってアーシアは救出され、彼の家で一晩を明かしたのである。

 そして悪魔として転生し、週明けに入学を控えた彼女に、リアスは尋ねたのだ。

 あなたの下宿先の件だけど、どこがいいか希望はある?

 選択肢は二つ。

 一つは、リアスも使用している駒王学園旧校舎の空き教室。『改造』の仕方によっては、そこそこ快適な空間になるからだ。

 二つ目は、一誠の自宅である。

 もっともこれは先輩悪魔としての立ち位置も考えてのことだったのだが、けれどアーシアは少し恥ずかしそうに、しかし考えることなく即答した。

 私……、イッセーさんのおうちがいいです!

 そういうわけで、

 

「とりあえず、目先のところは片付いたな」

「そうね」

 

 アーシア・アルジェントは兵藤一誠の自宅でお世話になることになった。

 当然彼の両親は学園においても悪名高い息子の性癖のために難色を示していたのだが、アーシアのどこまでも真っ直ぐな気持ちとリアスが口にした言葉が決め手となり、むしろ預からせてください、という返事を獲得することに成功したのだ。

 そして今、斬輝とリアスは一誠の家を後にし、帰路に着いていた。

 今日はもう、特にこれといった予定はない。

 はぐれ悪魔討伐の依頼もまた然りである。

 そこまで考えて、

 

「あ、ところでよ」 

 

 思い出した。

 

「はぐれ悪魔討伐の件なんだがな、もうちっと俺も動き回れるように頼み込むとか出来ねえのか? お前さんの兄貴とかにさ」

 

 リアスの兄であるサーゼクス・ルシファーが冥界における魔王の一人であることは、はぐれ悪魔討伐における諸々の手続きの際に彼女自身から聞いている。

 身内が魔王なのだ、多少の融通はきくだろう。

 このまま状況が後手に回れば、いったいどれだけの人々が犠牲になるか判らない。そうならないためにも、斬輝の出動条件の緩和が必要なのだ。

 少なくとも彼自身は、そう考えている。そしてリアスもまた、生身の斬輝の身を案じた上で同意見なのだ。

 だが、

 

「……ん?」

 

 すぐ傍にいるはずのリアスから何の反応がない。目を向けると、当のリアスはこちらには目もくれず、ただ下を向いて黙り込んでいた。

 

「おい、リアス。どうかしたか?」

 

 斬輝が改めて声をかけると、リアスは驚いたのか肩をひくつかせ、それからこちらを向いた。

 

「え、あ、斬輝……?」

「斬輝? じゃねえよ。さっきの話聞いてなかったのか?」

「ああ、ごめんなさい。少しボンヤリしていたわ」

 

 申し訳なさそうにつぶやくリアスを見て、斬輝は思い出した。

 思えばここ一週間ほど、彼女はずっとこんな感じだった。

 授業の時だけではない。部活の時だって、珍しく窓際に立っているかと思えば物憂げな溜め息をついているのだ。

 

「らしくねえな。なんだ、疲れてんのか?」

「いや、そういうわけじゃないの。ごめんなさいね、心配させてしまって」

 

 そう言ってリアスは笑みを浮かべるが……なぜだろう、その瞳にはかすかに寂しげな色が浮かんでいるように見えた。

 

「……ま、ともかくだ」

 

 斬輝は再び自転車を押し出した。

 リアスも歩き出す。

 

「楽しみだな」

「なにが?」

「花嫁修業」

 

 皮肉な笑みで斬輝が言うのは、さっき一誠の家でリアスが言ったことである。

 花嫁修業。

 その言葉が決め手となり、アーシアのホーム・ステイが確定したのだ。

 まあ、あんな性欲の権化のような一誠でも男だ。そう簡単に一線を越えるようなことはしないだろうとは思う。

 

「アルジェントの奴、きっといい嫁になるぜ」

「そうよね」

 

 そして、

 

「私もいつか、花嫁になる時が来るのよね」

「ま、そうなるな」

 

 そう応えてから、

 

「……なに?」

 

 気がついた。

 ちょっとまて。

 今、なんつった?

 こいつ、今、なんつった!?

 リアスの顔を覗こうとするが、けれど長い紅髪に遮られてよく見えなかった。

 だが次にリアスが顔を上げた時、そこにはもう『いつものリアス』が笑っていた。

 

「行きましょ?」

「……おう」

 

 そのまま二人は、朝の住宅街を並んで歩いて行った。

 一言も喋らずに。




 とりあえず昨日今日と立て続けに投稿。今日の話も含めて七本ほどストックが出来てはいるのだけど、明日投稿するかは未定。
 フェニックス編、書いてはいるけどまだ決着してないのよね(^^;;


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第二章 這う女

       

 

 

 黒鉄斬輝には、オカルト研究部におけるチラシ配りの担当がない。これはリアスいわく一応の理由があるとのことだが、現在に至るまで斬輝は彼女からその説明を受けたことはなかった。

 だから兵藤一誠がアーシア・アルジェントを連れてチラシ配りにいそしんでいる日も、のんびりと部室のソファで横になるというのが多かった。無論、彼の身長だとソファの横幅から充分はみ出てしまうために両脚は肘掛の上に載せてはいるが。

 特にすることがないからだ。

 これじゃまるで幽霊部員だな。

 だが例外がないわけでもない。

 部室の隅に置かれたトレーニング・マシンは、だから堕天使達の一件があってからリアスに頼んでおいたものだ。ベンチ・タイプで、ベンチ・プレスは当然として、レッグ・プレスやバタフライも装備、必要に応じてベンチはバーチカル・チェストにも変形させられる。

 オカルト研究部に入部することになった以前から、斬輝は日々のトレーニングを日課にしていた。おかげで不健康な食生活にも拘らず、彼の肉体は限界まで贅肉を削ぎ落とされた完璧なものだった。

 文字通り骨までもが、闘うために特化した肉体となっているのだ。

 細身ではないが、しかし余計な脂肪が一切なく、全ての筋肉が自らの役割を心得た、そんな軀なのだ。

 その腕が、今、皮膚の直下に筋肉の束を浮き立たせて、金属製のパイプを押し上げている。

 ベンチ・プレスだ。

 仰向けに横たわった彼の腕を、油圧シリンダーが加える五〇キロの重さが、パイプを通じて押し戻そうとするのである。

 彼はその加重に抗して、バーベル代わりのパイプをゆっくりと押し上げる。戻す時も、単純に力を抜くのではない。放っておけば勢いよく顔の手前まで落ちてくるパイプを、これもまたゆっくりと下ろしてやるのである。

 回数は、数えていない。

 ただ黙々と、押し上げ、戻す。

 ランニング・シャツのままの上半身に無数の汗が玉を結び、腕を動かすたびにゆっくりと胸が開き、ゆっくりと萎む。

 もうじき、午後六時になろうとしている。一誠達がチラシ配りに出かけたのが一時間半ほど前で、最初の三〇分ほどは仮眠に充てていても、それでも残りの一時間はずっとこうやっていた計算になる。

 窓を見ると雲が茜色に染まっていて、東の空はすでに群青色になってきていた。

 

「あらあら、斬輝くん。お疲れですか?」

 

 柔らかな笑みで近づいてくるのは、姫島朱乃である。立ち止まったのは、ベンチからはみ出た斬輝の脚の、ちょうど膝のあたりだ。

 言われて、気がついた。パイプを戻してくる腕が、かすかに震え始めた。

 ゆっくりとパイプを押し上げながら、

 

「そうみたいだな」

 

 ゆっくりと押し戻し、応える。もう少し余力があったが、今日のところはこれで切り上げることにした。

 

「黒鉄先輩って、そうやってトレーニングしてる時って、いつも無口ですよね」

 

 ちょうど斬輝が身を起こしたところで、奥のソファに座る木場裕斗がティー・カップを持ってこちらを向く。

 

「そうか?」

「そうです」

 

 即答したのは、しかし木場ではなく向かい側のソファに座って相変わらず洋菓子を食べている塔城小猫である。

 

「特に、ここ最近」

 

 おやまあ、マジですか。

 いつも寡黙な彼女にまで言われてしまうとは、相当なのだろう。おおかた、筋肉を苛めるのに気を取られて周りが見えなくなっていたか。

 

「でしたら斬輝くん、今日のところは帰ってもらっても構いませんわよ? 今夜は特に討伐の依頼もないですから」

「心配すんな。そこまで酷かねぇよ。兵藤達が戻ってくるまで、シャワーでも借りてらあ」

 

 そのままシャワー・ルームの方へと歩きながら、あるいは、と視線だけを執務机の方に向ける。そこに座るは、ここオカルト研究部部長ことリアス・グレモリーである。

 こちらも相変わらず、と言ったところか。手を小さな拍手の形にしたまま机に肘をつくのは、彼女が考え込んでいる時の癖だ。

 何かを抱えていることは間違いなさそうだが、しかし肝心な『何か』が判らない以上、斬輝にはこれ以上先へ踏み込みようがない。

 なあ、リアス。

 お前は今、その目に何を見てる?

 お前は今、その胸で何を思ってる?

 かつて、孤独であろうとするな、と言ってくれたお前がたった一人で背負わなきゃならねぇそいつは、いったい何なんだ?

 俺はお前に、何もしてやれねえのか?

 

「なに、斬輝?」

 

 しまった、目が合っちまった。

 

「いや……あんまし、無理すんなよ」

 

 その言葉にこちらを向いたリアスはぽかんと口を開けて、けれどそれから、

 

「……ええ、ありがとう」

 

 いつもの笑みを浮かべた。

 けっきょく、答えは出なかった。

 

 

 コンビニで買った焼肉弁当をたいらげて、それから学校の面倒な課題と格闘していたらいつのまにか午前零時を回ってしまっていた。

 勉強机のライトを消して、背もたれに寄り掛かって大きく伸びをする。ぱきぽきと背骨が鳴って、つまりかなりの時間同じ姿勢でいたわけだ。

 やっぱり数学は苦手だ。

 洗面所の洗濯籠にランニング・シャツを放り込んでから、セミダブルのベッドに倒れこむ。同時に、どっ、と疲れが軀から溢れ出した。

 なんとか、仰向けになる。

 頭の後ろで両手を組んだ格好で電気の消された天井を見上げ、斬輝は誰に言うでもなくつぶやいた。

 

「やれやれ、だな」

 

 たった一人の少女の悩み事一つでここまで考え込んでしまうというのは、ちょっと前までの自分では想像も出来なかったことだ。

 

「可愛くなっちまったもんだぜ、俺もよ」

 

 ベッド・サイドにあるオレンジ色のライトとは別の淡い光が彼の部屋を照らしたのは、その時だ。

 赤い光だ。

 

「あん?」

 

 ベッドの上に身を起こした斬輝は、その時になって初めて、フローリングの床にグレモリーの紋章が施された魔方陣が展開されていることに気がついた。

 こんな時間に……というより、いったいなぜこの部屋で魔方陣が展開されているのだ?

 答えは、すぐに出た。

 床の魔方陣にもう一つ同じ形状の魔方陣が重なり、それが遠ざけ合う磁石のように徐々に上昇してゆくのである。

 すらりと伸びた白い足が、見覚えのある紅の髪が、次々と二つの魔方陣の間から(あらわ)れる。

 そして、

 

「……リアス?」

 

 霧散するように消え去った魔方陣のあった場所に立っているのは、他でもないリアス・グレモリーだった。

 だが、

 その目が、いつもと違うことに気がついた。

 酷く追い詰められているような目だ。

 端的に、切羽詰まった時のような目と言ってもいいだろう。

 

「斬輝……」

 

 彼の名を呼んで、しかしそれから先の言葉を言おうとしない。

 迷っているのだ。

 言うべきか、

 言わざるべきか。

 

「お前、どうし……」

 

 ……どうしたんだよ、と立ち上がりかけて、けれど意を決した様子のリアスに遮られた。

 言葉を挟み込まれたのではない。

 ベッドへ押し返されたのだ。

 

「おい、ちょ……」

 

 突然のことで抗議の声を上げようとする斬輝を、

 

「斬輝」

 

 艶やかなリアスの声が遮った。

 いつの間にか純白の下着姿に変わっていたことに、斬輝は初めて気がついた。

 仰向けになった斬輝の、その頭の両脇に手を突いて、彼の顔を上から覗き込む格好である。

 美しい紅の長い髪が垂れて、斬輝の頬を撫でる。

 薄闇の中で、ベッド・サイドのオレンジ色の照明だけが、仰向けに押し倒された斬輝の腰を跨ったリアスの肌を淡く照らす。

 彼女の透き通るような白い肌がいくらか赤らんで見えるのは、気のせいだろうか。

 

「な、なんだよ?」

 

 斬輝の問いに、

 

「お願い、抱いて」

 

 それがリアスの答えである。

 

「は?」

「だから……」

 

 ブラのホックを外し、やがてブラが取れて豊満な乳房が露わになった時、リアスと目が合った。

 彼女の瞳には、悲愴なまでの決意が見える。

 その唇が、かすかに震えていた。

 

「私の処女をもらってちょうだい」

「おい、お前……」

「ねえ」

 

 言いかけた斬輝の右手を取って、リアスは自分の左の胸を摑ませた。

 たしかな弾力とともに、いくらか早いリズムを刻むのは……これは心臓か。

 だが、なぜだ?

 たしかに、リアスにはこれまで助けてもらってきた。そのことに関しては恩も感じてるし、何らかの形で返してやりたいとも思っている。

 なのに、

 なぜ……なぜ今のリアスを見ていると、無性に哀しくなる!?

 

「判る? 私だって緊張してるのよ」

 

 斬輝の掌の中で、そう言うリアスの乳首はたしかに固くなり始めていた。

 

「だからお願い。あなたしかいないの」

「リアス」

「裕斗は根っからのナイトだし、イッセーにはアーシアがいるし……」

「リアス」

「……それに、既成事実が出来てしまえば向こうだって文句は言えないはずよ」

「リアス!」

 

 声を荒げた斬輝は、しかしリアスの首の後ろに手を回すと強引に引き寄せた。

 お互いの顔が一気に近くなる。鼻だって、あと数センチ動いただけで触れてしまいそうなくらいに、近い。

 かすかに、トリートメントの香りがした。

 石鹸の匂いも。

 まさか。

 こいつ、本気で……?

 

「よせ」

「……なに、私に恥をかかせるつもりなの?」

「違えよ。お前は、それで満足なのか?」

「え?」

「このまま流れでお互い『初めて』を卒業して、それがお前のためになるのか?」

 

 リアスは、答えなかった。

 ……いや、答えられないのだ。

 あるいは、どう答えるべきか判らない、っと言うべきか。

 そのまま、斬輝は腰に跨った状態のリアスを半ば無理やり自分の隣へと寝かせてやる。腕が彼女の軀とベッドとに挟まれたが、気にも留めなかった。

 

「お前が本気で俺に抱かれたいって思ってるなら、いくらでもシてやる」

「っ! だったら……」

「だがな」

 

 何か言おうとするリアスを遮って斬輝が言葉を紡ぐ時、ふいに二人の視線が絡み合った。

 リアスの双眸が揺らめいて見えたのは、気のせいではないはずだ。

 だから無意識にリアスの顔へ伸ばした指が溜まった涙を拭う感触があっても、驚きはしなかった。

 

「そんな顔してる奴を抱いて悦ぶ男なんて、マトモじゃねえよ。違うか?」

 

 それに、と空いている左手でリアスの頭を撫でてやる。

 それから浮かべたのは、苦笑だ。

 

「こんなんで処女捧げられても、嬉しかねえよ。ヤるならちゃんと、女として扱いてえ」

 

 瞬間、大きなリアスの碧眼がさらに見開かれ、それから瞳が、そして唇がわなわなと震え始めた。

 やがて鼻をすする音がして、それからリアスは、向き合った格好の斬輝の胸に顔をうずめた。

 聞えてくるのは、かすかな嗚咽である。

 そして、

 

「……ごめんなさい」

 

 うずめられた胸から漏れ聞こえるくぐもった声は、恐ろしいほどに斬輝の胸を打った。

 ここまでか弱い彼女を見たのは、初めてだった。

 こんなにか細くて華奢な女だったのかと、初めて思い知らされた。

 斬輝に出来るのは、まるで子供のようにひたすら謝り続けるリアスの頭を抱き寄せることくらいだった。

 

「ねえ、斬輝」

 

 ふと、リアスがこちらを見上げてくる。

 

「なんだ?」

「……お願いが、あるの」

「言ってみろよ」

「今だけ……」

 

 いつの間にか、リアスの腕が斬輝の背中に回されていた。

 

「……今だけ、一緒にこうしてくれる?」

「いいぜ」

 

 即答だった。

 

「それくらいなら、いくらでもな」

「ありがとう」

 

 言った途端に、生暖かい雫がタンクトップの生地に染みた。

 そのままリアスが剝き出しの脚を太ももごと斬輝の脚に絡ませてきて、豊かな胸を押し付けるようにして抱き着いてきた。

 リアスは分厚い胸の中で泣き笑いになって、もう一度、言った。

 

「ありがとう、斬輝……」

 

 いつだったか。

 思い出すのは幼いころ……両親に挟まれる格好で眠っていたころの記憶だ。

 だが、かつて一緒に眠っていた両親は、もういない。

 誰かと一緒に寝るというのは、だから斬輝にとって実に久しぶりの感覚だった。

 相手がリアス・グレモリーだったというのも、あるいは関係したのかも知れない。

 無意識のうちに、黒鉄斬輝は腕の中の少女を離さまいとさらに強く抱きしめた。

 二度と、腕の中から零れ落ちてしまわないように。

 この感覚……、

 それは彼が久しく忘れていた、たしかなヒトのぬくもりだった。

 

 

 助けて欲しい、と無意識にリアスが思った時、真っ先に脳裏に浮かんだのは斬輝の顔だった。

 累々たる屍の中心で、傷だらけでありながらそれでも不敵な笑みを浮かべては立ち上がる、一人の男の姿だった。

 だから、来たのだ。

 斬輝のもとへ。

 一刻も早く、くだらない縁談をぶち壊すために。

 ……それなのに、

 

「私、莫迦みたい」

 

 たくましい腕に抱かれて、リアスは自嘲の笑みを浮かべた。

 斬輝が規則正しい寝息を立て始めたことに気がついて、リアスはわずかに目を開ける。

 それから彼の寝顔を見上げて、思い出すのはついさっき、彼が言ってくれたことだ。

 お前が本気で抱かれたいって思ってるなら、いくらでもシてやるさ。だがな……、そんな顔してる奴を抱いて悦ぶ男なんて、マトモじゃねえよ。違うか?

 その一言で、目が覚めたのだ。

 それに、こんなので処女を捧げられても嬉しくない、と。

 なんてこと。

 私、なんて酷いことをやろうとしていたの!?

 彼女が許せないのは、いくら冷静さを欠いていたからと言って斬輝の不器用な優しさを利用しようとしていた自分自身だった。

 実際のところ、斬輝になら本当に処女を捧げてもいいとさえ思った。だがその事実が、リアスを恐ろしいまでの孤独に打ち据えるのである。

 情けない。

 女として、情けない。

 個人的な感情に身を任せてしまうなんて、私らしくもない。

 でも、とリアスは思う。

 それでも、あなたは断ってくれた。

 私のために。

 それと同時に、こんなワガママな私を受け入れてもくれた。

 女としての……『リアス』としての私を、彼は求めてくれた。

 それがとっても嬉しくって。

 思えば、こうして誰かと一緒に眠るなんて、いつぶりだろう。

 下僕のためではない、お互いがお互いの温もりを求めるように眠るなんて、何年振りだろう。

 心の底から、さっきまでの沈んだ気持ちが嘘のように吹き飛んでゆくような、そんな感覚がするのだ。

 とても、とても安心する。

 だけど……ああ、なんてこと。

 あなたと眠ることが、こんなにも愛おしいと思えるなんて。

 あなたと眠ることが、こんなにも尊いと思えるなんて。

 そして。

 あなたのことだから、とリアスの口許が笑みに歪む。

 

「きっと、気づいていたんでしょうね」

 

 眠っている斬輝を起こしてしまわないように、吐息だけの声で。

 でも、それでも私のために訊かないでいてくれたのよね。

 あなたのそういうところって、本当に、本当に…………、

 その時だ。

 

「ひゃ……」

 

 斬輝がリアスを抱きしめる力が、わずかに強くなった。

 鍛えこまれた分厚い胸板にリアスの胸も押し付けられて、ほんの少し息苦しくなる。だけど、そんなことが気にならないくらいに、彼の太い腕は強く、けれど優しく抱きしめてくれていることが嬉しかった。

 あわてて斬輝の顔を見上げるが、目が覚めた様子はない。

 だがその唇が、かすかな音とともに動いた。

 

「逝くな……」

「え?」

 

 耳元で囁かれるくらいの、小さな声である。

 だからそれが彼の寝言であるということに気づくまで、少しかかった。

 

「一人に……しないでくれ……」

「斬輝……?」

 

 ぴん、ときた。

 彼の両親は数年前に事故で他界している。それは以前、彼がリアスに話してくれたことだ。

 身柄を引き取ってくれる親戚はいたが、それでも彼はその誘いを蹴ってこの町に残ったのである。

 たった一人で。

 独りきりで。

 そんな生活が精神面に及ぼす影響は、きっと少なくないはずだ。いくら達観しているように見えていても、彼はまだ一八の子供なのだ。

 それなのに、表向きには強がっちゃって。でも彼のそんな意地っ張りなところが、リアスが彼を気にかけてしまう理由でもあって。

 私には愛してくれる家族がいる。

 でも、彼には愛してくれた家族はもういない。

 だとすれば、

 きっと……私に出来ることも一つだけ。

 リアスもまた、応えるように斬輝を抱きしめた。足もさらに絡ませて、彼を離さまいとホールドする。

 軀が熱い。

 すぐそばに斬輝がいると思うと、なぜだかドキドキする。

 こんな風に彼に甘えられるのも、今だけ。

 明日になったら、ちゃんと『いつものリアス』に戻らなきゃ。

 いや、でも。

 だからこそ。

 今夜は……今夜だけは、あなたの腕の中で眠らせて。

 この胸の高鳴りが……この熱がニセモノでないというのなら。

 心が安らかな気持ちになってゆくのを感じる。

 目を閉じると、睡魔はあっという間にやってきた。

 それきり、二人が動く気配は、二度としなかった。

 夜が明けるまで。




 個人的にちょっと区切りがいいのでここまで出しました。

 さて、グレイフィアが乱入してこなかった理由をどうしようか(おい)。


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第三章 招かれざる婿

       

 

 

 黒鉄斬輝は、決して寝起きのいい方ではない。

 いや、悪い、と言い切った方が正確だろう。

 低血圧なのだ。

 

「むぅううぅう」

 

 喉の奥で唸りつつ、まだ半ば眠ったような状態で、のっそりと一人だけのベッドから起きて、部屋を出る。

 ぽっかりと欠伸をしながら、斬輝が朝イチで向かうのはキッチンである。

 ゆうべ、いつ眠ってしまったのか覚えていない。

 懐かしい感覚がしたが、その正体が何だったのかも、忘れてしまっている。

 まあいいか。どうせ適当にトーストでも焼いていれば、そのうち思いだすだろう。

 

「あら、おはよう」

 

 だからキッチンの方から艶のある柔らかな女の声が彼を迎え入れた時、寝惚けた脳天を蹴り飛ばすほどの衝撃があった。

 深紅の髪を揺らして、リアス・グレモリーが振り返る。駒王学園の制服の上からは、どこから引っ張り出してきたのか裾にフリルのついた黄色いエプロンまでつけていた。

 

「あれ……お前、なんでウチにいるんだよ」

「なんでって、忘れたの?」

「忘れたの、って言われても……」

 

 ……何かあったか、と言いかけて、

 

「あ」

 

 思い出した。

 

「思い出した?」

「あ、ああ。まあな」

 

 懐かしい感覚だと思ったのは、彼女のぬくもりだったのだ。

 ……いや、突き詰めて言えば、自分以外の者のぬくもりだろうか。

 一気に目が覚めた黒鉄斬輝は、だから苦笑めいた笑みしか浮かべられなかった。

 

「ゆうべはよく眠れたか?」

「ええ、おかげさまでずいぶん気分が良くなったわ。本当にありがとう、斬輝」

 

 そう言って屈託のない笑顔を浮かべるリアスに、よせやい、と斬輝もつられて微笑んだ。

 キッチンのテーブルに並べられたサラダやら目玉焼きやらに気がついたのは、その時だ。

 

「なんだ? これ」

「なんだって、見て判らないの? 朝食よ」

「作ったのか?」

「もちろんよ。冷蔵庫に残ってるもので作ったから、それくらいしか出来なかったけど……もしかして足りなかった?」

 

 こちらを見上げつつ不安げに尋ねながら、リアスが席に着く。

 

「いや」

 

 斬輝も向かい側に座った。

 この前はお互い立場が逆だったよな、なんて思いながら。

 そして、唇を笑みに歪める。

 

「大丈夫だ。ありがとな」

「良かった。それじゃ、食べましょう?」

「おう」

 

 いただきます、と誰かと一緒に言える日が来るなんて、本当に何年ぶりだろうか。

 

「ねえ、斬輝」

 

 リアスがそう呼んだのは、彼女が作ってくれた朝食をあらかた食べ終えた頃だった。

 

「なんだ?」

「今日ね、部室でみんなに話しておかなければならないことがあるの」

 

 すぐに、ぴん、ときた。

 

「最近、ずっと悩んでたことか」

 

 斬輝の問いに、ふとリアスの目が見開かれ、それから、微笑むように細められた。

 まるで、こちらの台詞があらかじめ判っていたかのように。

 あるいは、待っていたのか。

 

「ええ」

 

 彼女はうなずいた。

 

「そうよ。仲介人にグレイフィアを呼んでいるから、詳しい話は放課後になってしまうと思うけど……」

「グレイフィア? ……ああ、あのメイドの人か」

 

 聞いた覚えのある名だ。

 だから斬輝も、

 

「ま、俺はお前が話してくれるまで、訊きゃしねえよ」

「ふふっ、あ~りがと」

 

 そういえば、

 

「ああ、そうだ」

「なに?」

「旨かったわ」

 

 言ってから、にやり。

 リアスは一瞬呆けたような顔をしてから、すぐに頬を赤らめた。

 

「なによ、もう」

「なんだよ、素直な感想は嫌いか?」

「そ、そうじゃないけど……いきなりというか、何というか……」

「なんだよそりゃ」

 

 苦笑しながら立ち上がる。時間的に、そろそろ登校する準備をせにゃならんころだからな。

 だが、そのままリアスの脇を通り過ぎて廊下へ出ようとする斬輝の腕を、ふいにリアスが摑んだ。

 

「ん?」

 

 肩越しに振り返って、彼女を見やる。俯いているのか、ボリュウムたっぷりな紅髪の、そのてっぺんしか見えない。

 

「どうした?」

「あ……いや、あの……」

 

 何か言いたげだが、いかんせんうつむいてるのと彼女らしくもないボソボソとした喋りのせいでよく聞えない。

 

「リアス?」

「い、一緒に……行かない?」

「へ?」

「だ……だから! 一緒に学校行きましょうって言ってるのよ!」

 

 ぶん、と勢いよくこちらを見上げるリアスは……おいおい、なんで耳まで真っ赤になってるんだよ!

 

「あ、お……おう」

 

 斬輝としてはそれぐらいどうってことないのだが、リアスのあまりの気迫に押されて少々返答に詰まってしまったが、そういうことになった。

 結局、そのままリアスと一緒に駒王学園に登校した斬輝は周りから色々な感情を含ませた視線で見つめられたわけだが、気にするのはもうやめた。

 

 

 授業を終えてリアスと部室に到着した斬輝は、そのまま他のメンバーが来るまで待つことになった。

 先客とともに。

 ソファーに仰向けで寝そべった斬輝が顔を仰のかせるとリアスと彼女の執務机が逆さになって見える。

 無論、彼女の隣に屹立する美しい銀髪の姿も。

 メイド服を着込んだその出で立ちに、斬輝は見覚えがあった。たしか、斬輝がはぐれ悪魔討伐への協力に関しての具体的な話し合いを進める際に、リアスの兄貴と一緒にいた奴だ。

 冥界とやらに直接出向いたことはないが、空間投影型の連絡時に一度顔を合わせた覚えがある。

 だから今日が本当の意味での初顔合わせなのだ。さっきも、お互い軽く挨拶を済ませた。

 名を、グレイフィア・ルキフグスという。

 

「あとどれくらいだ?」

 

 残りの部員が来るまで、だ。

 

「もう少しよ」

 

 応えるリアスの声音にも、若干の緊張が伴っている。

 黒鉄斬輝は、宣言を忠実に守った。

 彼女から切り出してくれるまでは、こちらからの詮索は一切しない。

 その気になれば、今まで何度も問い質すチャンスはあったはずだ。

 何があったのか、と。

 だがそれをしないのは、彼女のプライベートにかかわるというよりもむしろ、彼自身のプライドが許さなかったのだろう。

 興味がないわけではない。可能ならば、事情が把握出来るのであればすぐにでも喰ってかかる。

 だが、それは駄目だ。

 彼女が自分の口で話すまでは。

 重苦しい空気をこじ開けるようにして部室のドアが開かれたのは、それから五分ばかり経ってからだった。

 最初に入ってきたのは、姫島朱乃だ。彼女はどうやら一連の事態をあるていど把握しているようで、いつも通りの笑みを浮かべるも、その表情はどこか硬く感ぜられる。

 それから塔城小猫が来て、斬輝の向いのソファに腰を下ろすと軽い会釈を投げてきた。

 彼女も似たようなものだった。もっとも、可能な限り関わりたくなさそうに黙りこくっているのだが。 

 リアスのようすが変わり始めたのに気づいたのは、まさにその時だ。メンバーがそろってゆくにつれて、彼女のまとうオーラが少しずつ……ほんの少しずつだが冷たいものへと移り変わってゆくのである。

 その瞳には、すでに『少女としてのリアス』の面影は微塵もない。

『グレモリー侯爵家としてのリアス』、ただそれだけだ。

 たまらず、斬輝も起き上がって、ちゃんと座りなおした。

 会話のない張り詰めた空気が、部室を支配していた。

 やがて、残りの三人も入ってきた。木場祐斗にアーシア・アルジェント、そして兵藤一誠である。もっとも木場もこの異様さから何かを感じたのか、その瞳は真剣だ。

 見ると、アーシアも文字通りの無言の圧力に耐えかねてか、一誠の裾を摑んでいた。その頭を、一誠の手が優しく包み込み、撫でてやる。

 それを見てから、

 

「揃ったな」

 

 アンティークのテーブルへとため息交じりに呟いた。

 

「ええ」

 

 応えて、リアスも立ち上がった。

 思い出すのは、昨夜の一件である。

 これでようやく、判る。

 判ってやれる。

 リアスが今、何に悩んでいるのか。

 何が彼女をあそこまで追い詰めたのか。

 

「お嬢さま、私がお話ししましょうか?」

「いえ、いいわ。自分で話す」

 

 グレイフィアを制して、リアスは部員達の顔を目で舐めた。

 それから、実はね、と切り出した、まさにその瞬間、

 部室を煉獄の炎が引き裂いた。

 

「なに!?」

 

 部室の中央から立ちのぼる炎に、思わず斬輝は立ち上がる。

 そのまま、すぐにリアスの近くへと駆け寄った。いつでも彼女を護れるようにだ。

 その時になって初めて、『炎』が部室の中央に描かれたグレモリーの紋章の魔方陣から噴き上げていることに気がついた。

 熱気が瞬時に部室にたち込め、炎がひりひりと頬を焼く。

 

「……フェニックス」

 

 そして紋章が見たことのないものへと組み替えられてゆく時、ぼそり、とそばの木場がつぶやいたのが聞えた。

 フェニックス?

 火の鳥……か?

 やがて、灼熱のエネルギーとして噴出する『炎』の中に、何かのシルエットが浮かび上がる。入れ替わるように炎は弱まってゆき、そして完全に消え去った時、転移魔方陣の上には一人の男が立っていた。

 結構な長身だ。並んで立てば、斬輝よりも少しばかり大きいかも知れない。

 

「ふう。人間界は久しぶりだ。あいかわらず『こっち』の風はむず痒くて敵わん」

 

 金髪にワイン・レッドのスーツを着崩して……その鋭い双眸が一人の女に向けられると、途端に笑みに変わる。

 

「よう」

 

 にやり。

 

「逢いに来たぜ。愛しのリアス」

 

 愛しのリアスだあ!?

 見ると、リアスの方は半眼で男の方を睨んでいた。どうやらこちらとしては、歓迎する気はないらしい。

 もっとも、斬輝もこの男の印象からして快くは思っていないが。

 少なくとも、リアスにソノ気はないらしい。

 だがそんなことはお構いなしにと、金髪の男は堂々とリアスへと近づいてゆく。

 その挙動を視線で追っているうちに、ふいに目が合った。思った通り、斬輝よりもいくらか高身長だ。

 男の瞳が、きゅう、と細くなる。

 瞼を細めたのではない。文字通り瞳が縦に狭まったのである。

 

「おい」

 

 頭のてっぺんからつま先まで、まるで値踏みするかのように視線で舐めてから、男が口を開いた。

 だがそれは、斬輝に向けてのものではなかった。

 

「なんでこんなとこに人間がいるんだよ、リアス」

「人間だから……、なんだというの? 彼はれっきとしたウチの部員よ。この場にいて然るべき存在だわ」

 

 それとも、とリアスは付け加えた。

 

「黒き血濡れの魔人、とでも言わないとあなたには判らないのかしら」

 

 なんじゃそら。

 聞いたことないぞ、と言いかけたが、

 

「なに?」

 

 男の方は、どうやらそれで通じたらしい。

 もう一度、こちらを向いた。

 再び、お互いの視線が交わる。

 底知れぬ瞳だ、と斬輝は思った。

 それはまさに、あまたの闘いを切り抜けてきた戦士の瞳なのだ。

 

「こいつが、噂の……」

「おい、リアス」

 

 男と視線を合わせたまま、ついに斬輝は尋ねた。

 

「その、黒き血濡れの魔人、ってのは、なんだ?」

「冥界でのあなたの二つ名よ」

「はあ!?」

 

 無理やり視線を引っぺがし、弾かれる勢いで思わずリアスを見た。

 

「なんだよそりゃ!」

「あなたのご活躍は」

 

 グレイフィアが引き継いだ。

 

「すでに魔王サーゼクスさまのお耳にも届いています。リアスお嬢さまの協力者という形といえど、すでに依頼されたはぐれ悪魔討伐を次々と遂行されている事実に変わりはありません。そういった功績もあり、すでに冥界においてその名は上級悪魔の家を通じて徐々に広まりつつあるのです。そして……」

「その中でついた名が、黒き血濡れの魔人である、てか?」

「そうです」

「ふうん」

 

 まあでも、相手がこちらを知っているのならば、むしろやりやすいか。

 

「ていうか! あんた誰だよ!? ロクに名乗りもしないで俺達の部室にズカズカ入り込んできやがって!」

 

 突如、割り込んでくるのは一誠だ。話の流れについていけてないのか、単にこの男が不愉快なだけなのか、挑むように前へ出た。

 あん、とそんな一誠へと睨みを利かせる男を横目に、(はや)る一誠をなだめつつ、

 

「まあ、そういうことでな」

 

 黒鉄斬輝は金髪の軽薄な男へと向き直る。

 

「そっちは俺達のことを知ってるんだ。あんたの名前も聞かせてもらいてえな」

「なんだよ。キミの協力者なのに、俺のこと話してなかったのか?」

「話す必要がないもの。するわけないじゃない」

「手厳しいのは相変わらずか、はは……」

 

 男は目元を引きつらせながら、心から残念そうにつぶやいた。浮かべるのは、自嘲の笑みである。

 それから、

 

「ご紹介します」

 

 グレイフィアが、ぽつりと言った。

 

「こちらの方は、ライザー・フェニックスさま。純血の上級悪魔である、フェニックス家のご三男です」

 

 上級悪魔……ということは、リアスと同じ爵位持ちの家柄ということか。

 だが、眷属悪魔でもなければグレモリー家と密接に関係しているわけでもない、一部の上級悪魔の……それも長男ならともかく三男坊が出張ってくる理由とは、なんだ?

 炎とともに現れるなんて言う、派手なアプローチをしてまで。

 そこまで考えて、一つ引っ掛かりを覚えた。

 アプローチ?

 そうだ、さっきのは紛れもない、派手なアプローチだ。

 ではそれは、いったい誰に対してだ?

 ライザーと呼ばれたこの男は、ここに現れてからずっとリアスに熱烈な視線を送っている。まるでそれ以外の者には興味がないようで、かろうじて斬輝の二つ名にかすかな反応を示しただけだ。

 リアスが軽くあからさまに目を背けても、構いもせずに。

 

「そして、グレモリー家次期当主の婿殿でごさいます」

 

 思わず、背後のグレイフィアを振り返った。

 今、こいつは何と言った?

 

「む、婿殿って……それにグレモリー家の次期当主って……ええ!?」

 

 一誠も、当惑した声をあげるしかない。

 白状しよう。

 正直俺も、今のお前と同じ思考だよ。

 だが、これでつながった。

 ライザーがド派手に表れたのは、

 執拗にリアスにからもうとするのは、

 そしてリアスが逃げるように俺の家へ裸になって押しかけて来たのは、

 

「まさか」

「そうです」

 

 グレイフィアは静かに頷いた。

 

「すなわち、リアスお嬢さまのご婚約者であらせられます」

「こっ、婚約ぅうぅうう!?」

 

 直後、一誠の絶叫がこだました。



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第四章 避けられぬ衝突

       

 

 

 ソファにどっかりと腰を下ろしたライザー・フェニックスは、ティー・カップに注がれたお茶の香りを嗅いでから、一口飲んだ。

 

「いやあ、リアスの『女王(クイーン)』が淹れてくれたお茶は美味しいものだな」

「痛み入りますわ」

 

 そう言って頭を下げる朱乃だが、その淡々とした言葉や態度から彼の訪問を歓迎していないのは明らかだ。

 実際、彼女の代名詞ともいえよう柔らかな微笑みすら浮かべていない。

 よく笑う者ほどキレた時が怖い、という話は、どうやら本当のようだ。

 ライザーは、斬輝の正面のソファに座る格好である。その隣に座らせたリアスの肩を抱く右手はしきりに彼女の髪を触り、空いた左手で彼女の白い太ももをさすり始める。

 当のリアスとしてはそのたびに彼の手を払うのだが、懲りていないのかあるいは反応そのものを楽しんでいるのか、ライザーはいっこうにやめる気配がない。

 その様子を、部員達は壁際で、斬輝もその中で腕組みの状態で眺めていた。

 ご婦人には親切に、なんて言うほど紳士じゃないが、それでも一般の常識は持ち合わせているつもりだ。

 そんな斬輝から見ても、とにかく目の前のライザーという男はいけ好かなかった。

 この男、やることがいちいち癇に障る。

 だが、抑えなければ。

 そして不死鳥の名を持つ男の手がリアスの胸へと伸びそうになったところで、

 

「いい加減にして!」

 

 耐えかねたリアスがついに立ち上がり、激昂した。

 だが当のライザーはニヤけた笑みを浮かべたままだった。

 まるで、嫌がらせを咎めても反省しない子供のように、悪びれることもなく。

 

「おいおい、落ち着けってリアス」

「何が落ち着けよ。いい、ライザー。以前にも言ったはずよ。私はあなたと結婚なんてしないわ」

「だがリアス、考えてもみろ。キミの御家事情は、そんなワガママが通用しないほど切羽詰まっているはずだが?」

 

 悪魔と堕天使、そして天使を含めた三すくみの戦争がいつから始まったのか、それは定かではない。

 せいぜい数万年前とする説がある一方で、それよりも昔から争ってきたとする説もあるのだそうだ。

 いずれにせよ、数百年前に戦争が終結するまで、かつて『七十二柱』と呼ばれる爵位持ちの純血悪魔一族のほとんどが根絶したという事実は変わらない。

 だが問題は、それだけではなかった。

 悪魔はその寿命を一万年以上有するために、その子たる悪魔の出生率が極端なまでに低いのである。純血悪魔の上級悪魔、その新生児が貴重とされるのは、そのためだ。

 ゆえに激減した純血悪魔の血を次の世代へと繫いでゆくことは、悪魔情勢が抱える大きな課題の一つであるといえる。

 そして、

 

「家を潰す気はないわ。当主も継ぐし、婿養子だって迎え入れるつもりよ」

「そうか! だったら……」

「でも!」

 

 リアスの実家……グレモリー一族は、まさにその戦争を生き残った純血の上級悪魔の旧い血筋なのである。

 

「……でも、私は私がイイと思ったヒトと結婚するわ。ライザー、少なくともそれはあなたじゃない」

 

 ライザーに背を向け、絞り出すように告げる彼女の言葉は、斬輝の考えを証明するのに充分だった。

 つまりはそういうこと。

 政略結婚、とかいうやつだ。

 裏付けは、グレイフィアがしてくれた。

 上級悪魔フェニックス家の三男坊・ライザー・フェニックスは、グレモリー侯爵家の次期当主・リアス・グレモリーの婚約者である、と。

 

「キミのお父さまもサーゼクスさまも、未来を考えてこの縁談を決めたんだ。転生悪魔達の新鮮な血もこれからの時代には必要だが、だからと言って純血の悪魔を途絶えさせるわけにもいかないだろう?」

「父も兄も一族の者も、みんな急ぎ過ぎるのよ。だいたい、当初の話では私が『こちら側』の大学を出るまでは自由にしてくれる約束だったじゃない。……よりによって、相手があなただなんて……!」

 

 リアスの言葉に、斬輝は思わず喉の奥で唸った。

 このハナシがいつからリアスに持ち掛けられていたのかは知らないが、確実なのは彼女が昔から古いしきたりに囚われていた、ということだ。

 

「もう二度と言わないわ、ライザー。私はあなたと結婚なんてしない!」

「俺もな、リアス」

 

 突然立ち上がったライザーは、その手でリアスの顎を持ち上げ、ぐい、と引き寄せる。

 リアスはそれぐらいのことには動じないが、お互いの瞳がお互いの瞳を見つめる……いや、睨み合う格好になった。

 直後、二人から凄まじいプレッシャーが解き放たれた。

 そして噴き出されるのは、おびただしい魔力のオーラである。

 ライザーは、灼熱の。

 リアスは、深紅の。

 魔力量なんてものはよく判らないが、しかしライザーから発せられる殺気は、リアスに引けを取らない。おそらくこの二人が正面切って激突すれば、斬輝達がいる旧校舎など跡形もなく吹き飛ぶだろう。

 同じく背後からも、対抗する殺気と敵意を感じ取った。朱乃達だ。張り詰めた緊張感の中、いつでも闘えるよう備えている。

 

「フェニックス家の看板背負ってるんだ。このまま、はいそうですか、なんて引き下がれるか。名前に泥を塗られるわけにはいかないんだよ」

 

 だがリアスはすでに覚悟が出来ているのか、それくらいでは眉一つ動かしはしなかった。

 斬輝も、これがこいつの性格なのだ、と自分に言い聞かせることで、今にも目の前の男をぶん殴りたい気持ちを抑えつける。

 だが。

 

「悪魔の未来を護るためだ、俺は何としてもキミも冥界へ連れ帰るぞ」

 

 なんなら、とライザーは壁際のグレモリー眷属たちを視線で舐めた。

 

「キミの下僕をぜんぶ焼き尽くしたっていい」

 

 ついでに、と最後に斬輝を見据える。

 向けられたのは、明らかな殺意だった。

 なるほど、

 判ったよ。そっちがその気なら、こっちにも考えがある。

 

「そこの魔人とやらも消し炭にしようか」

「そいつぁつまり、売り喧嘩、てぇことでいいんだな?」

 

 反射的に、斬輝はそう応えていた。

 喰いしばった歯の奥から絞り出さらたその言葉は、低い響きとともにかすかにドスのきいた声になる。

 全員の視線が、一転に集まるのが判る。

 無論斬輝も、ライザーへと挑むような視線を投げながら。

 

「……なに?」

 

 そのライザーも、明らかに不機嫌そうな顔でこちらを見つめた。

 応えるのは、笑みである。

 

「貴様、たかが人間の分際で……!」

「あんたらンとこじゃ、俺は魔人て呼ばれてんだろ? だったら少しくらい話に割り込ませろよ。それともなんだ、魔人に突っ込まれたらマズいことでもあるのか?」

 

 それは、明らかな挑発だった。

 最悪の状況を脱するには、少なくとも奴のターゲットをリアスから移す必要がある。そして、その受け皿は俺で充分だ。

 

「そもそも家の約束をぶち破ってまで婚約させようなんて、妙な話だもんな。『そっち』にはまだ純血のオンナなんざゴロゴロいるだろうに」

 

 一歩踏み出して、一誠達よりも前に出ると、その分ライザーからのプレッシャーの圧力が増す。

 また一歩踏み出すと、さらに一歩踏み出すと、徐々にライザーのまとう炎のオーラがちりちりと皮膚を焼く。

 リアスを庇うような位置まで来て、斬輝はライザーに向き直る。

 

「純血の子孫が貴重だって話はよおく判ったけどよ、その相手がリアスだってのが納得いかねえな。ハタチ超えてりゃまだしも、こいつぁ俺と同いなんだぜ?」

 

 生き残った純血の女性悪魔がリアスだけであれば判らなくはないが、事態はそこまで末期ではないはずだ。事実、生徒会にも悪魔の者がいるとさえ言われているのだから。

 だとすれば、これほどまでリアスに執着する理由としては、悪魔の未来のため、というのは弱過ぎる。

 それが何かしらの陰謀にせよ下心にせよ、悪魔の未来というのはあくまでも二の次で、本当の目的は別にあるはずだ。

 

「小僧……さっきから聞いていれば!」

 

 直後、じゃっ、という鋭い音とともにライザーの周囲の空間がゆらめく。

 瞬間的な加熱で大気が膨張し、一種の蜃気楼を形成したのだ。しかし空気のゆらめきは瞬時に解け、代わりに灼熱の炎がライザーの軀にまとわれる。

 どういう原理か、その炎が触れているであろうテーブルやソファには燃え移る気配がない。

 どうやら任意の対象を燃焼させることが出来るようだ。斬輝もこぶしを握り、体内に蠢く無数の『虫』達にいつでも暴れられるよう命令を下す。

 だが、

 

「お収めください、斬輝さま、ライザーさま」

 

 剣呑な雰囲気を打ち破ったのは、しかし事の成り行きを見守っていた銀髪のメイドだった。目の前の二人よりもさらに上回るプレッシャーをぶつけてきたのだ。

 表情を崩すことなく、グレイフィア・ルキフグスは淡々と言い放つ。

 

「わたくしはサーゼクスさまの命を受けてこの場におりますゆえ、これ以上ことを荒げるならば、一切の遠慮は致しませんよ」

 

 思わず彼女の方を向いた斬輝は、それから目を見開いた。

 ただ『そこ』に立っているだけだというのに、彼女にはまるで隙が無いのである。

 微動だにせず、動く気配がない。

 だが言い換えれば、その気になればいつでもあらゆる攻撃手段を行うことが可能なのだ。

 まったく、やっぱり悪魔ってだけあって、どいつもこいつもバケモノじみた強さしてやがる。

 リアスの兄貴の眷属、というのもその理由に含まれるのだろうか。

 苦笑して溜め息をついたのは、ライザーだった。

 

「……最強の『女王(クイーン)』と称されるあなたにそんなことを言われたら、さすがに俺も怖いな。バケモノ揃いと評判のサーゼクスさまの眷属とは、どう足搔いたって勝てる気がしないよ」

「旦那さま方も、おおかたこうなることは予想しておられました。正直申し上げますと、今回が最後の話し合いの場だったのです。よって、決裂した場合の最終手段を仰せつかっております」

「最終手段?」

「どういうこった……?」

 

 怪訝そうな表情を浮かべるリアスに続く格好で、思わず斬輝も呟いた。

 だがライザーは何かを察したのか、唇の端に浮かべるのは笑みだ。

 そして、最強のメイドは進言した。

 

「お嬢さまがそれほどまでにご意志を貫き通したいということであれば、ライザーさまとレーティング・ゲームにて決着を、と」

「レーティング・ゲーム?」

 

 聞いた覚えのある単語だ。

 なんだっけ?

 

「それって、どこかで……」

 

 壁際の一誠が、そう言ってハテナを浮かべる。

 助け舟を寄越したのは、木場裕斗だった。

 

「爵位持ちの悪魔が行う、下僕を闘わせて競うゲームだよ」

 

 ああ。

 思い出した。

悪魔の駒(イーヴィル・ピース)』を宿した下僕悪魔を闘わせる、いうなれば悪魔界のエンターテイメントのようなものだ。それぞれ主であるリアスが『(キング)』、朱乃が『女王(クイーン)』、木場が『騎士(ナイト)』、小猫が『戦車(ルーク)』、アーシアが『僧侶(ヴィショップ)』……そして一誠が『兵士(ポーン)』である。

 それは人間界のボード・ゲームであるチェスの駒の配置に他ならない。

 もとは他勢力への対抗手段とする少数精鋭制度の過程で誕生したといわれているが、駒それぞれが持つ特性の違いなどが爵位持ちの悪魔に受けたのか、今となっては眷属自慢のようにゲーム感覚でお互いの下僕悪魔を競わせるようになったらしい。

 戦闘経験を積ませるため、といえば聞こえはいいが。

 だが名前の通り『ゲーム』である以上、そこには厳然たる規則が存在する。

 

「お嬢さまもご存知の通り、公式のレーティング・ゲームには成熟した悪魔しか参加出来ません。しかしそれが非公式……それも純血悪魔どうしのゲームであれば、半人前の悪魔でも参加が可能です。この場合は多くが……」

「身内どうし、または御家どうしのいがみ合いよね。まったく、どこまで私の生き方を弄れば気が済むのかしら……っ!」

 

 引き継いだリアスが、ため息交じりにそう言った。その声には、明らかな苛立ちの響きがある。

 つまり、最初から手は打たれていた、ということだ。

 

「こりゃあ、見事にハメられたな。ハナッから仕組まれてたわけか」

 

 苦虫を噛み潰したように呟く斬輝に、リアスも唇を嚙んだ。

 

「なあリアス」

 

 ライザーだった。

 

「念のため訊いときたいんだが……、キミの眷属は、その魔人を除いたこの面子で全てなのか?」

 

 そう言って壁際に視線を移したライザーは、一人一人の顔を見た。

 兵藤一誠。

 アーシア・アルジェント。

 姫島朱乃。

 木場裕斗。

 塔城小猫。

 ……その数、実に五人。

 

「だとしたらどうなの?」

 

 リアスの問いに、応えるのは嘲笑だった。

 

「おいおい、本気なのか? 俺はゲームを何度も経験してるし、勝ち星も多い。キミは経験どころか、まだ公式なゲームの資格すらないんだぜ。そんなキミが、眷属もロクに揃ってない状態で俺とやり合おうってのか?」

「どっ、どういう意味だよ!」

 

 一誠だ。

 

「ここまでの出来レースは初めてだって言いたいのさ」

 

 なぜなら、とライザーが指を鳴らすと、それに反応するかのように再び部室に魔法陣が展開される。

 オレンジに彩られたその紋章は、さっきも見た、フェニックス家のそれだ。

 そして、噴き上がる炎。

 炎のカーテンの向こう側で、今度顕れるのは十数人を数える影だ。

 炎が霧散し、魔方陣も消滅する。

 そこに立っていたのは、女戦士達だった。

 そう。

 女だ。

 全員が女なのだ!

 体操着姿の小柄な双子の娘がいる。

 太ももまで剝き出しの丈の短い白装束に赤いハッピを着込んだ棍を携えた少女もいる。

 胸元が大きく開いた派手な衣装に身を包んだ魔術師のような出で立ちの女、髪色を除けば瓜二つの獣耳娘や西洋の甲冑を纏う女剣士、そして縦に巻きが掛かったライザーによく似た金髪を持つ少女……。

 総勢一五名。

 

「ウチの可愛い下僕は駒が全て揃っているんだからな」

 

 フルメンバー!

 挑戦的な笑みを投げてくる彼女達は、斬輝の基準でも充分、美女や美少女だと言える。

 そしてその全員が、ライザー・フェニックスの眷属悪魔なのだ。

 それを端的に表せるのは、ひとつだけだ。

 すなわち、

 ハーレム、である。

 真っ先に鼻声を上げたのは、やはりというかなんというか、一誠だった。

 

「美女美少女揃いが一五人も!? ライザー・フェニックス……なんて恐ろしい……羨ましい奴なんだあ!」

「ったく、あの莫迦……こういう時くらい我慢しろっての!」

「お、おいリアス。キミの下僕くん、俺を見て号泣してるんだが?」

「……その子の夢がハーレムなのよ」

 

 もはや、斬輝もリアスもただ呆れるしかなかった。そりゃそうだ、ライザーの下僕からですら、キモいですわ、なんて聞えてくる始末なのだから。

 だが。

 

「……ほう、そういうことか。ユーベルーナ」

 

 何かを得心したらしいライザーは、手近な下僕を呼び寄せた。

 ユーベルーナと呼ばれた女魔術師は、言われた通りライザーの傍まで来ると、その潤んだ瞳をライザーへと向ける。

 そして、

 

「なっ……!?」

 

 次の瞬間、斬輝は全身に虫唾が走るのを感じた。

 何してやがるんだ、こいつは!

 突然ライザーがユーベルーナの顎に手を当てがったかと思うと、その唇を奪ったのだ。

 ただのキスではなかった。

 触れた唇の間から器用に舌を滑り込ませ、相手もそれを受け入れたうえで舌どうしを絡ませ貪り合う……それはディープ・キスなのだ!

 それも、婚約の縁談を持ちかけている相手の女の前で!!

 

「何してやがる……」

「スキンシップさ」

 

 透明な糸を曳いてユーベルーナから唇を離したライザー・フェニックスは、そう言って笑みを浮かべる。

 それから一誠へと視線を投げると、それは嘲笑になった。

 

「お前じゃ一生こんなことは出来まい、下級悪魔くん」

「ぐっ! う、うるせえ! その調子じゃ、部長と結婚した後もそうやってイチャイチャするんだろ! この種まき焼き鳥野郎!」

「なっ! 焼き鳥だと!?」

「よせ、兵藤」

 

 声を荒げるライザーとは対照的に、低い声で斬輝はブーステッド・ギアを展開している一誠をなだめた。

 

「け、けどよ先輩! こんな奴と部長は不釣り合いっすよ!!」

「んなこたとっくに判ってんだ。だがおめぇがしゃしゃり出てきたところで何が出来るよ?」

「そっ、それは……」

 

 自分でも、不愉快かつ不機嫌な感情が声になっていることに気づいていた。

 だがそれでも、訊かずにはいられなかった。

 自分で自分を、抑えられなかった。

 

「ライザーてめぇもよお、リアスと結婚したいんじゃねえのかよ」

「ああ、したいね。今すぐにでも」

「そのてめぇが、なぜ、そんなことしてやがる」

「愛してるからさ」

「なに?」

「英雄色を好む……、たしか人間界のことわざにあったな。いい言葉じゃないか。俺は眷属一人ひとりを愛してるんだ」

 

 なんだ?

 なんだ、これは!?

 

「無論、リアスのことだって愛すつもりさ。俺の女の一人としてな」

 

 下卑た笑みを浮かべての言葉にリアスはライザーを強く睨み、軽蔑の視線を向けた。

 斬輝も、似たようなものだった。

 

「こいつ、どこまで……!」

 

 腹の底で、得体の知れないナニカがふつふつと煮えたぎっている。行くアテのない『ナニカ』が、彼の中でくすぶり、今か今かと爆発を心待ちにしていやがるのだ。

 そして、

 

「……そうか」

 

 そういうことか。

 そういうことだったのか。

 途端に理解した。

 目の前の男が、何を目的にこの婚約を成したいのか。

 リアスがなぜ、ここまでこの男との婚約を嫌悪し、破談に持ち込みたいのか。

 

「……よぉく、判ったぜ」

「何がだ、小僧」

「兵藤の言うとおりだな。世間知らずの焼き鳥三男坊は、とんだ女ったらしだってことだよ」

「な……なんだ、と?」

「あんたのことだ、ライザー。そんだけ周りに女侍らせといて、それでいてまだリアスと結婚したいだあ? そいつは虫が良すぎるぜ。結局のところ、ハーレム要因が一人増えるだけじゃねえか。そりゃあこいつに嫌われて当然だろうよ」

「貴様!」

 

 過剰に反応したのは、今度はライザーの眷属悪魔達だった。

 

「ライザーさまに対して、何たる無礼な!」

「謝れ!」

「取り消しなさい! 今すぐに!!」

「さもないと!」

「バラバラにしちゃうんだから!」

 

 口々に喚きたてるそいつらも、

 

「黙れ!」

 

 ひとたび腹の底から声を張り上げてやれば、一瞬で押し黙る。

 

「言っとくが俺ぁ、女を殴るのは趣味じゃねえんだ。相手が人間だろうが悪魔だろうがな。だがお前らが俺達の敵になるってンなら話は別だ」

 

 それから斬輝は、真っ直ぐにライザーを睨みつけた。

 

「容赦しねえぞ」

 

 応えるのはかなりの威圧を伴う怒気をはらんだ声音だった。

 

「小僧、自分の立場をわきまえてモノを言ってるんだろうな」

 

 貴族としてのプライド、というものだろうか。

 だが、それでも斬輝は容赦しなかった。

 人間として。

 

「さあな。わきまえるも何も、人間と悪魔のどっちが偉いかなんてのには興味がないもんで」

 

 ちらり、と美しい紅の髪の少女に目をやる。

 ともかく、と次にライザーに向き直った時、ライザーの背後で、ふと赤いハッピが動いたのが見えた。

 間違いない、不意打ちを狙うつもりだ。

 

「てめぇがリアスを力ずくで連れてくってぇなら、ぶん殴ってでも止めてやる」

「なんだと?」

「聞えなかったのか?」

 

 だがな、嬢ちゃん。

 不意打ちってのは、相手に気づかれちゃ意味がねえのよ。

 

「斬輝くん!」

「先輩!!」

「斬輝!?」

 

 棍棒を手に驚くべき速さで肉薄する少女の存在に気づいて声を上げた一誠達は、しかし続く斬輝の動きを把握できなかったに違いない。

 しかし、斬輝は避けなかった。

 受け止めもしなかった。

 ただ、左腕を無造作に振り抜いた。

『武器』は出さず、素手で。

 たったそれだけのことだった。ごりん、というわずかな手応えとともに、少女は直角に吹き飛ぶ。

 

「ぎゃん!」

 

 奇妙な悲鳴とともに壁へと叩きつけられたハッピの少女は、壁に放射状の亀裂を残しながら床へと落ちると、それきり動かなくなった。

 斬輝は拳を見つめて、

 

「女ぁ殴るのは嫌いだ、つったじゃねえかよ」

 

 ぼそり、と不機嫌そうにつぶやいた。

 加減はしたが、おそらく失神くらいはしているだろう。

 ざわり、とライザーの眷属がざわついた。

 それは無論、主であるライザーを驚愕に染めるにも充分なものだった。

 

「ミラ!?」

 

 ライザーは急いで他の眷属にミラと呼ばれた眷属を介抱させると、そのまま憤怒の視線をこちらにぶつけてきた。

 

「貴様、よくも俺の眷属を……!」

「先に吹っ掛けてきたのはそっちだろうが。それにさっきも言ったろ? 容赦しねえって」

 

 自分から喧嘩を挑むことは無かったが、何かしらの因縁をつけて絡んでくる連中は少なくなかった。そしてそのことごとくを、彼は切り抜けてきたのである。

 無論、返り討ちにしてだ。

 売られた喧嘩は必ず買う。

 どんな相手であろうと。

 それが黒鉄斬輝という男だった。

 そこには何一つ例外はない。ひとたび挑まれれば、彼は躊躇することなく『闘う』ことを選ぶのである。

 そうやって生きてきた以上、それ以外の選択肢など存在しないのだから。

 今回も、そのつもりだった。

 買おうとしているのだ。

 売られた喧嘩を。

 ……そして、

 

「……判った」

 

 それが、不死鳥の答えだった。

 

「ならば魔人とやら、そこまで言うのなら貴様もこのゲームに参加しろ! この借りは、そこで返してやる!!」

「いいね」

 

 即答だった。

 

「言っとくが、俺の拳は効くぜえ」

 

 そういうわけだからよ、と背を向け、視線を相手に据えたままで、斬輝はリアスに声をかけた。

 

「この勝負、受けろ」

「え? で……でも、それじゃあなたが……」

「構わねえよ」

 

 言いながら、肩越しにリアスを振り返る。

 彼女の瞳が、かすかにきらめいていた。

 

「俺はこいつをぶん殴れるし、上手くいけばお前さんも自由になれる。ウマい話じゃねえか。どこに断る理由があるよ?」

 

 だけど、と逡巡し続けるリアスに向かって、斬輝はさらに追い打ちをかけた。

 

「言っとくがな、俺は別に、お前に巻き込まれただなんてこれっぽっちも思っちゃいねえからな。個人的にこいつが気に入らねえから、俺から首ぃ突っ込んでんだ。……伊達に三年も同じクラスにいるわけじゃねえんだ、こうなった俺がどうなるか、お前なら判るよな?」

 

 だから。

 頼む。

 受けてくれ。

 俺にこいつをぶん殴らせてくれ。

 かつて、お前が俺に言ってくれたように……。

 

「お嬢さま、いかがいたしましょうか?」

 

 再度グレイフィアの問いに、しかしリアスは応えることなく、真っ直ぐに斬輝の瞳を見据えていた。

 そこにあるのは、一抹の不安だ。

 だから斬輝に出来るのは、そんなリアスに向かっていつも通りの笑みを浮かべることだった。

 唇の端を釣り上げた、不敵な笑みをだ。

 それから、やがて観念したかのように肩を落とすと、次に顔を上げたリアスは冷徹なまでの視線をライザーにぶつけた。

 

「判ったわ。レーティング・ゲームで決着をつけましょう」

 

 リアスは一歩、前へ出る。

 斬輝と仲良く肩を並べる格好になった。

 

「覚悟なさい、ライザー。必ずあなたを消し飛ばしてあげる!」

 

 その言葉を聞いたライザーは、にたり、と笑みを浮かべ、

 

「決まりだな」

 

 そう言った。

 

「ああ、決まりだ」

 

 斬輝も相手を睨み据えながら、そう応える。

 では、と間に立つのは、グレイフィアである。

 

「両者のご意向は、わたくしグレイフィアが確認させていただきました。今回は特別な措置として、リアス・グレモリーさまのチームに黒鉄斬輝さまを加えた変則ルールにて執り行うこととします」

 

 また、とグレイフィアは付け加える。

 

「ライザーさまとリアスさまの経験、戦力を鑑みて、期日は一〇日後とします」

「一〇日後……」

 

 反芻するリアスに、充分だ、と応えるのは金髪の女ったらしである。

 

「リアス、キミなら一〇日もあれば下僕を何とか出来るだろう?」

 

 その言葉にリアスが否定の色を出さなかったのは、つまるところ思い当たる節があるからだろう。

 相手はフルメンバーであるのに対し、こちらは斬輝を入れても立ったの七人なのだ。これは単純な戦力差にとどまらず、戦略を練るうえでも、また相手との闘いにおいても重要な意味を持つ。

 すなわち、都合一人で二人を相手取れるほどの実力を身に着けなければ、このゲームに勝つことはほぼ不可能と言っていい。

 あくまで理論上の話だが、それが事実であることに変わりはない。

 リアス・グレモリーおよびその眷属悪魔達は、経験がまったくと言っていいほどない。

 つまりこのハンデは、少しでもマシに闘えるための準備期間として与えられたも同然なのである。

 

「一〇日後を楽しみにしているぞ、リアス」

 

 それと、と怒りの炎を宿らせた瞳が斬輝をとらえた。

 ご丁寧に、指まで差して。

 

「貴様もだ。必ず殺してやるから、首を洗って待っておけよ」

「大きく出たな」

「身の程をわきまえない人間にはちょうどいい報いさ」

 

 次はゲームで逢おう。

 そう言い残して、ライザー・フェニックスとその眷属悪魔達は旧校舎から姿を消した。

 

 

 オカルト研究部に属する生徒達の一〇日分の休学届が提出されたのは、翌朝のことだった。

 

 

「……やはりそうなったか」

「はい。最後の機会を無駄にしてしまい、申し訳ありません」

「気にすることはないよ、これは私達も読んでいたことだからね。それに、リアスらしい」

「ですが、お嬢さまに勝ち目があるとは……」

「ああ。ないだろうね」

「それを判っていながらあなたは……!」

「私は選択権を与えたに過ぎない。それに、これはリアスの判断だ。グレモリー次期当主としての、ね」

「……はい」

「ただ……」

「はい?」

「ただ、斬輝くんが参加するのだとすれば、あるいは……」

「それは、もしかしてあの時の?」

「ああ。数百年前の、あの時だ。もし彼に宿る力の源があの男のものと同質の物ならば、おそらくライザーくんは初陣のリアス達にかなり苦戦させられることになると思うよ」

「しかし、それでも……」

「そのために、リアスに一〇日の猶予を与えたんだろう?」

「ええ」

「なら、信じよう。もしかしたら、大番狂わせを起こすかも知れない。ともかく今の我々に出来るのは、リアス達の闘いを見守ることだけだ。いいね?」

「承知しました」



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第五章 修行

       

 

 

「ここよ」

「うへえ、こいつぁすげえな……」

 

 この場にいる者の心を代弁するかのように、リアスの隣に並んだ私服の斬輝が感嘆の声を漏らす。その背中には様々な荷物が詰め込まれたリュックが背負われ、右手にはタテに長いボストン・バッグを下げている。

 他の部員も皆私服で、当然荷物を持っているのだが、一誠はここに到着するまで息切れの連続・転倒の連続ですでに疲れているし、小猫に至っては相変わらずの怪力でもって一誠達の四倍近くの重量はあるであろう巨大なリュックを軽々と背負っているのだ。

 駒王町から遠く離れた山奥である。多くの緑に覆われ自然にあふれているそこに、目的地はあった。

 巨大な門扉を抜けた先に広がる広大な前庭は綺麗に剪定され、舗装された小道がゆったりと弧を描いてその先の建物へと続いている。手前には、ちょっとした湖まであった。

 グレモリー家が所有する、それは人間界における別荘である。普段は魔力によってその姿を隠しているが、今回は要り様でそれも解除してある。

 そのため、彼女達の目の前には豊かな自然はもちろんのこと、異様な面積を誇る木造洋館がそびえているのである。

 一見すると、もはや山奥に潜む屋敷にしか見えない。

 実際のところ、リアスも初めてこの場所を案内された時は少しばかり驚いた記憶がある。実家ほどの広さではないが、それでも人間界の基準で言えば充分過ぎるほどの土地であることは当時一六歳のリアスにも理解出来た。

 そしてこの場所こそが、今回の『合宿先』である。

 来るライザー戦に備えて、グレイフィアから与えられた一〇日間の猶予を有効的に活用するなら、やれることと言えばこれしかない。

 休学届はすでに出してある。

 異論を唱える者もいない。

 だったら。

 やるしかないわよね!

 

「さあ、中へ入って着替えたら、すぐに修業を始めるわよ!」

「おうおう、マジか。若干一名、すでに倒れてるんだが?」

「ほぉらイッセー起きなさい。休んでる暇なんてないわよ」

「そ、そんなこと言われたって……あの坂道は地獄ですって……ぜぇ、ぜぇ……」

「あはは……イッセーくんには、まだ無理があったかな?」

「……無様です」

 

 みんなからもそんなこと言われちゃって……もう、だらしがないんだから。

 仕方ないわね。

 

「斬輝」

「ったく……わーったよ。ほれ、立ちな」

 

 言いながら、斬輝はうつぶせに倒れこんだ一誠の襟首を引っ摑んで、ひょいと持ち上げる。

 あっという間に一誠の両脚は地面から離れ、その目線が斬輝と同じ高さになった。

 

「……え、ええ!? ちょ、先輩!? これ、立つっていうか、吊り上げられてるっていうか!」

「ほれほれ、良いから黙ってそのままにしときな。下手に喋ると舌嚙むぞお」

「うぎゃー!!」

 

 そんな二人のやり取りを背後に聞きながら、リアスは別荘の中へと歩いてゆく。その真後ろを斬輝と吊り上げられた一誠が続き、最後尾には朱乃達だ。

 

「ぶっ、部長ぉ、助けてくださいよお!」

「それも一つの試練よ。頑張りなさいイッセー」

「うわーん! やっぱり部長は鬼です!!」

「なぁに言ってんだ兵藤」

「なに言ってるのよイッセー」

 

 斬輝とリアスの声が、言葉こそ違えどシンクロした。

 

「こいつぁ……」

「私は……」

 

 そして続く言葉も。

 

「悪魔だ」

「悪魔よ」

 

 背後のイッセーを振り返るリアスは、妖美な微笑みを浮かべていた。

 

 

 リアス・グレモリーが黒鉄斬輝と出逢ったのは、二年前の春、駒王学園入学式の日の教室だった。

 まだ二年。

 だがリアスには、もう二年、だと思える。

 そんなもの?

 もっと昔のことだったんじゃない?

 そう思うのは、彼と出逢ってからの毎日が、それ以前の日々とは違っていたからだろう。ある意味、人間らしい生活になった、と言ってもいい。

 最初は一匹狼のような印象で口数の少なかった彼も、月日が経つにつれ、だんだんと心を開いてくれるようになった。一年生の秋のころには、むしろ彼の方から話しかけてくれるほどにだ。

 学園の二大お姉さまとして全生徒の尊敬の的になろうとも、彼女の正体が悪魔であろうとも、彼は常に対等な立場で、同じ目線に立って『リアス』を見てくれる。彼といっしょにいる時だけは、自分が悪魔であることを忘れて一人の少女として振舞うことが出来たのだ。

 無論、巻き込まなくてもいい彼を裏の世界へと引きずり込んでしまったという自覚はある。斬輝にとってそれが過酷な闘いの連続だったことも、理解しているつもりだ。

 しかしそれでも、全ての始まりは彼と出逢ったことだった。

 

「ふうぅうぅううぅううう」

 

 乱れた呼吸を整えるように、木場裕斗がゆっくりと息を吐き出す。口を開けてハアハアやるのではなく、鼻から胸いっぱいに空気を吸い込み、それを閉じた唇の隙間から口笛を吹くように吐き出すのである。

 顔に次から次へと噴き出す汗を見て、リアスは長袖のジャージの中はもっと凄いことになっているのだろうと直感した。

 いや、凄いのだろう。

 なぜなら、

 

「ようし、いい感じだ」

 

 そう言う斬輝の方は、ジャージのズボンに、その上は長袖の上着ではなく黒いタンクトップなのだ。

 剝き出しの肩や腕はもちろん、その顔面にまで無数の汗が玉を結んでいる。その異常なまでの量が、二人のトレーニングの過酷さを如実に表していた。

 朝の一誠と裕斗のトレーニングを終え、彼とアーシアを朱乃へと預けてから、昼まで斬輝による裕斗のトレーニングが始まった。

 斬輝を近接戦闘のトレーナーとしてあてがったのは、リアスの判断だ。魔力を用いた修業は朱乃のような魔力の扱いに長けたものでなければならないが、こと接近戦において、黒鉄斬輝は少なくともこの場の誰よりも才能に恵まれているのだ。

 それが彼の中にある神器(セイクリッド・ギア)によるものだとしても、何ら問題はなかった。

 重要なのは、オカルト研究部において実力に関しては随一であるという、その事実なのだから。

 そしてリアス・グレモリーは、その事実を正確に理解していた。

 彼は格闘の天才だ。

『闘う』ことにおいて、おそらく彼の右に出る者はいないだろう。

 少なくとも、

 私たちの中では。

 

「だいぶ良くなってきたぜ」

 

 言いながら、斬輝は右手に握った持参の獲物をひらひらと振って見せる。

 金属製の芯に分厚くウレタンを巻いた、模擬戦闘用のブレードだ。打たれればそれなりに痛いが、泣きたくなるほどではない。重さは本物よりも軽いが、ウレタンの分だけ太くて空気抵抗があるので、斬輝に言わせれば木刀よりも練習用には向いているのだそうだ。

 

「どうする? 今日のところはもうやめとくか?」

 

 無数の汗をにじませて、しかし斬輝は呼吸を乱してすらいない。おまけにその声音は、どこか楽しそうですらある。

 両足で踏ん張って何とか息を整えようとする裕斗は、その問いにすぐには答えられなかった。

 

「ま……」

 

 言いかけて、渇いた喉でも張り付いたのか、言葉が詰まる。

 唾を飲み込んで、

 

「まだ大丈夫です。やれます」

「そうか。ま、俺はいいけどよ」

 

 そう言って斬輝は肩をすくめる。それでも、なんだか嬉しそうに。

 

「鍛えるってことと、軀をいじめるってことは違うからな?」

「はい」

「判ってんならいいんだ」

 

 じゃあもう一本だけな、とつぶやいて、斬輝は構えを取った。

 それだけで二人の闘いを見守っていたリアスまでも、ぞっ、と鳥肌が立つのを感じた。

 斬輝が本気で構えたとは思えない。現に、両足を肩幅に開いて右足を半歩だけ後ろへ引いて、右半身に構えた上半身は右の脇をわずかに開き、同じく開いた左腕を胸の前まで伸ばした格好なのだ。

 腰を落としてすらいない。

 なのに、

 もう恐いのだ。

 もしその切っ先がリアスに向いていたら、背筋を這い上がる悪寒は今の比ではないだろう。

 裕斗はさっきから三〇分ばかり、撃ち合いを続けている。突きでも打ち込みでもいい、何とか斬輝の軀に一撃を当てるために、彼が持つ技術の全てを駆使して挑んでいるのだ。

 だがその全てが遮られ、流され、避けられてしまう。駒の特性をフルで活用しても、一発も当てられないのだ。

 格が違うというのは、こういうことだ。

 だから、恐いのだ。

 リアスですら。

 対する裕斗は、正眼の構えだ。

 きっと、裕斗はこの何倍もの恐怖と必死に闘っているに違いない。

 だが彼に勝てなければ、ライザーに勝つことなど到底不可能だ。

 そしてその斬輝でさえも、ライザー相手に勝てるかどうか……、

 

「来な」

 

 斬輝のその言葉が、合図になった。

 

「ぃああぁあっ!!」

 

 気合とともに、裕斗が一気に間合いを詰める。

 左足で大きく踏み込みながら真っ向上段で打ちに行くのは、やはり疲労ゆえの判断力の鈍りのせいだろうか。

 当然、当たるわけなどなかった。

 斬輝は、振り下ろされたブレードを腰をひねるだけで回避する。

 あっさりと上体が開いて、その真正面を裕斗の振り下ろしたブレードが空振りする。

 瞬時の判断で、切っ先が床に落ちきる寸前に、手首を反転させる。

 右の体側でブレードを一回転させながら、裕斗は相手に背を向けて、左足を軸に身をひねった。胴よりも先に首を返しておくのは、斬輝が教えたものだ。

 そのまま、右足を踏み込んで斬輝の腰のあたりを、両手で握ったブレードで一気に薙ぎに行く。

 

「ほっ」

 

 遮られた。

 斬輝としては、ブレードの切っ先をわずかに上げただけだ。たったそれだけの動きで、裕斗の全体重を乗せた一撃はあっさりと撥ね上げられたのである。

 見事な見切りだった。

 マズい、とリアスは直感した。

 裕斗は両手で握りしめてしまったために、撥ね上げられたブレードもろとも両腕が持ち上がってしまった。

 上体が、完全にガラ空きになったのだ。

 そして、

 

「せいっ!」

 

 勝負は決まった。

 ひらりと円を描いた斬輝のブレードが、そのまま手前へと引き絞られ、一気に裕斗の腹部へと打ち込まれたのだ。

騎士(ナイト)』の動体視力をもってしても、その一撃は回避出来なかった。

 当然だ。『(キング)』のリアスですら、最後の突きは見えなかったのだから。

 それでも、瞬時に腹筋を緊張させて衝撃を緩和させようとするあたり、裕斗自身も鍛錬を怠っているわけではなさそうだ。

 だが、威力そのものは耐えきれなかったらしい。裕斗はお腹を押さえて、たまらず膝をつく。

 

「おいおい、大丈夫か!?」

 

 さすがに力加減を間違えたか、と斬輝が駆け寄る。

 リアスも、二人分のタオルを用意しておく。

 

「すいません、黒鉄先輩」

「無理に喋るなって。ミゾオチにでも入ったか?」

「いや……、そこまでじゃないですけど……」

 

 斬輝に肩を貸してもらって立ち上がった裕斗は、でも、と続ける。

 

「参りました。完全に僕の負けです。あれだけ打ち合って、まさか一発も当てられないなんて」

「いやまあ、そうは言うがな、お前さんだって、そうそう筋は悪くねえよ。最後のあれは疲れからの油断だろうが、基本的なことは出来てんのさ。午前中にお前さんが兵藤の奴に言ったみてぇに、お前さんはちゃんと周りが見えてる。だが、一つだけ、決定的に足りないものがあるんだ。判るか?」

「足りないもの……?」

「理由だよ」

 

 斬輝は、そう言った。

 

「理由?」

「お前、俺に当てることしか考えてなかったろ?」

「あ、はい……まあ」

 

 それさ、と斬輝はこちらに歩いてきて、リアスの手から二人分のタオルを取った。

 一枚は裕斗にやって、もう片方で顔の汗を拭く。

 

「要はな、考えてることが違うんだよ。お前、今の打ち合いで何回死んだか、判るか?」

 

 つまり、さっきの一手を含め、本当なら斬輝に反撃を喰らっていたはずの回数、だ。

 

「あ、ええと……すみません、よく覚えてないです」

「じゃ、リアスは?」

「え? 私?」

 

 おう、と言いながら、斬輝はタオルを首にかける。

 

「最初から俺達の打ち合いを見てたんだ。多少は判るだろ?」

「そ、そうね。えと……三回、くらい?」

 

 正直言うと、私もよく覚えてないのだけど。

 

「とんでもねえ。六回だ」

「うそ!?」

「本当ですか!?」

「ああ、マジだ」

 

 そして六回のうち二回は、それが絶体絶命のピンチだったことにさえ、裕斗とリアスは気づいていなかったということなのだ。

 

「何でだと思う?」

 

 六回も死んだ理由、だ。

 

「僕の鍛錬が足りないから、ですかね?」

「違うな。鍛錬が足りなくてヘタってだけなら、勝てやしねえが負けもしねえさ。さっきも言ったろ? 考えてることが違うんだよ。俺も含め、お前さん達が欲しいのは実戦での実力だ。そうだろ?」

 

 ああ、そうだ。

 だからグレイフィアから与えられた一〇日間の猶予を、修業という形でありがたく受け取ることにしたのだから。

 

「お前、もし俺に一発でも打ち込めたら、どう感じてた?」

 

 斬輝の問いに、裕斗は少し考えるそぶりをしてから、

 

「……嬉しいって感じたと思います」

 

 そう答えた。

 

「そこだ」

「え?」

「お前さん、勝つために闘ってんのさ」

「勝つために……」

「ああ。当てて嬉しいって思うってことは、勝つために闘ってるってことだ」

「あ……はい」

「いいか、勝つことじゃなくて、生きることを考えろ。それが血みどろの殺し合いだろうがゲームだろうが変わらねえ。実戦で大事なのは、勝つことじゃねえ。生きて戻ることだ。そうでないなら、自分の魔力を爆発寸前まで上げて、捨て身で相手にぶつかりゃいい。そうすりゃ勝てる」

「どうして? それだと自分も死んでしまうじゃない」

 

 口をはさんでから、リアスは気がついた。

 

「ああ、そう……だから、生きること、なのね?」

 

 特攻をかければたしかに勝てるが、それは同時に負けでもある。

 勝利とは、敵を倒すことではない。

 敵を倒して、自分も生きて戻ることこそが、真の勝利なのだ。

 

「そういうこったな」

 

 そう言って、斬輝は笑う。

 白い歯をのぞかせた、にんまりとした笑みになった。

 すると彼の右手が、そのまま裕斗の頭に伸びる。

 

「でもお前、マジで筋はいいぜ。リアスの『騎士(ナイト)』なだけはあるな」

「本当ですか?」

「おう。お前さんの最大の武器は、その速さだ。だったら、それを伸ばせ。一つずつ確実に身につけろ。いいな?」

「はい」

 

 よし、と軀の汗をあらかた拭き取ってから、斬輝はこちらを向いた。

 

「そんじゃ、そろそろ昼飯にするか」

「ええ。そうしましょう」

 

 でも、とリアスは続けた。

 

「その前に二人とも、一回シャワーに入って来なさい。そんな汗でびっしょりの状態じゃ、あなた達も気持ち悪いでしょ? その間に作っておくから」

「判りました」

「お。そんじゃ、お言葉に甘えて一汗流してきますかね。午後には塔城の奴も見なきゃならねえしなあ」

 

 そう言って斬輝は、裕斗を連れて別荘の方へと戻ってゆく。

 その時だ。

 

「……え?」

 

 リアスの頭に突然、映像が流れてきた。

 燃え盛る炎。

 紅蓮の中に立ち上がる二人の影。

 一人はその軀をずたずたに引き裂かれているのに対して、もう一人は完全無欠なまでの肉体を維持している。

 逆巻く炎の壁に阻まれてそのシルエットまでは見えないが、この二人が何をしているのかは想像がつく。

 死闘だ。

 どちらかが倒れるまで……死ぬまで終わることのない、それは殺し合いなのだ。

 真っ先に直感した。

 あれは斬輝だ。

 斬り刻まれ、引き裂かれ、それでも倒れ伏すことなく歯を食いしばって立ち上がっては不敵な笑みを浮かべて挑み続ける、その姿はリアス・グレモリーの知る黒鉄斬輝そのものだ。

 ならば、おそらく彼が闘っている相手は……。

 そこまで考えて、リアスは戦慄した。

 うそ。

 そんな。

 まさか。

 これが……これがこの先待ち受けている現実だとでもいうの!?

 自分に未来予知の力があるとは、到底思えない。

 だが。

 だとしたら。

 今、彼女の胸の奥深くに広がってゆくこの感覚は、何なのだろう。

 底なしの沼のように広がってゆく暗いこの感情は、何だというのだろう。

 

「斬輝……」

 

 その名を呟くたびに、ひどく胸が痛む。

 なに?

 この胸騒ぎは、いったい何だというの?

 さっきから、まるで彼が目の前からいなくなってしまうような、そんな絶望への不安が押し寄せてくるのだ。

 だが。

 それでもリアスは、斬輝の背中をただ見つめることしか出来なかった。

 

 

「ふっ!」

 

 鋭い呼気とともに胸の中心へと突き込まれる拳を、

 

「ほっ」

 

 斬輝は後方へ飛び退りつつ左の内受けで流した。

 着地後、素早く地面を蹴って白髪の少女へと弾丸のごとく飛び込む。そのまま相手の側頭部を打つのは、踏み込みつつ放つ右後ろ回しである。

 少女はこれを両方の前腕で防ぎ、その反動を使って真横へと跳躍する。

 

「やるな、嬢ちゃん」

 

 腰を深く落として、斬輝は唇の端を器用に吊り上げた。

 先輩だって、と着地と同時に囁きで応えるのは、莫迦力が取り柄の塔城小猫である。

 

「『戦車(ルーク)』の突きを流すなんて、動体視力が良いにもほどがあります」

「お前さんだって、小さい分すばしっこくて厄介だぜ」

「……小さいって言いましたね!」

 

 突如、爆裂の勢いで小猫が水平への跳躍でこちらに向かってくる。その声音には、明らかな怒気が込められている。

 

「ああ、言ったぞお!」

 

 何を勘違いしてるのかは知らんが。

 ぶん、と大気を切り裂いて襲い来る右のストレートを、斬輝は両腕を十字にクロスさせてブロックする。

 

「ぬう!?」

 

 ずしん、と肩まで衝撃が伝わり、両腕の骨が軋みをあげる。

 体格を考えると、異様なまでの重さだった。常人ならば両腕が砕け、次の瞬間には頭を正面から叩き潰されていただろう。

 

「いてぇな、こんちくしょう!」

 

 喚くなり、斬輝は相手の腕を強引に払いつつ、腰のバネを最大限に生かして左の裏拳を放つ。相手の頭を打ち抜くか、と思われた拳は、しかし空を切った。塔城小猫が、信じられないほどの瞬発力で上体を反らし、そのまま地面に手を突いて反転したのである。

 着地したリアスの『戦車(ルーク)』は、互いの間合いをわずかに外していた。

 

「先輩……?」

 

 顔を上げた小猫は、しかし斬輝の両腕を見てその表情をわずかに曇らせた。

 

「あ?」

 

 見ると、斬輝の前腕は早くも鬱血し、赤黒く染まり始めている。『戦車(ルーク)』の驚異的な馬力と、自らの骨格とに挟まれて、何十本もの血管が破れて内出血しているのだ。

 鋼鉄虫(メタルセクト)の群体たる金属製の骨格は、斬輝の肉体を内側から強靭に支えている。それはまさに、身の内の武装だ。しかし同時に、それは彼自身の肉体を内側から苛む鋼鉄の責め具でもあるのだ。

 

「それ、大丈夫ですか?」

「あー……、ちょっと待て」

 

 言ってから、斬輝は両腕を交差する。

 大丈夫、動く。血管が破れても、肉が潰されたわけじゃない。

 

「平気だ。これくらいなら、明日の昼ぐらいには治るだろう」

「ごめんなさい、つい……」

「謝る必要はねえさ。闘いってのは、いつ何が起こるか判らねえから面白えンだからな」

 

 それに、と斬輝は再び構えを取る。足を前後に大きく開いて右半身に構え、右手は腰に、開いた左手を前に突き出した格好だ。

 

「それに敵を倒すなら、必要なのは相手よりも速く動いて一撃でも多く叩き込むことだ」

「一撃でも、多く……」

 

 小猫は自身の拳を見つめ、それから斬輝の瞳を見据えた。

 

「判りました」

 

 そう言って、小猫も腰を落とす。

 

「続き、お願いします」

「よおし、そう来なくっちゃあな」

 

 応える斬輝は、笑みだ。

 地を蹴ったのは、同時だった。

 そして二人の拳が激突した時、

 二人の拳を中心にして戦場となった森林に爆発的な衝撃が起こった。

 

 

「もう、無茶しないの。まだ初日なのよ?」

「悪かったって。やりあってるうちに、楽しくなっちまってな」

 

 応えて、窓際のベッドに上半身裸で腰を下ろして背中を向けた斬輝は、肩越しに振り返って笑みを浮かべる。その額には、包帯が巻かれていた。

 リアスが巻いたものだ。

 そして彼女はそのまま、キング・サイズのベッドに膝立ちになりながら、いまだに彼の手当てを続けている。ジャージのままだが、袖は両方とも肘まで捲り上げて。

 

「まったくもう、あなたって人は……」

 

 別荘における、斬輝の寝室である。

 ここは基本一部屋に二人が寝泊まり出来る構造になっているが、男子の人数の都合上、斬輝が一人部屋となっているのだ。

 木の枝か何かで強く擦ったのだろう、背骨の上に斜めに走る中指ほどの長さの切り傷に向けてピンセットでつまんだ消毒液を押し当てると、

 

「いで! おい、いてぇってば」

「泣きごと言わない!」

 

 抗議の声を制しつつも、リアスはさらに手当を続ける。

 もうすでに、両腕や顔、頭の手当てを済ませた状態だ。

 そしてそれでも、まだ処置出来ていない傷がある。あとはこの背中に散乱する傷口を処置すれば、大丈夫だろう。

 午後は一誠と小猫の組手の後、斬輝と小猫が組み手を行っていた。

 場所は、すぐ近くの森の中である。

 午前中の裕斗のトレーニングと同様、斬輝がトレーナーとして小猫と組んだのだ。

 そして、かれこれ二時間ばかり。

 

「あなた達の帰りが遅いから気になって行ってみたら、二人とも生傷だらけで倒れたまま動かないんですもの。さすがにびっくりしちゃったわよ」

 

 だが、二人が気絶したわけではなかった。

 単に疲れ切って、立ち上がる力すら残っていなかったのだ。

 すぐに朱乃を呼んで、二人を別荘へと運び込んだ。

 まさかあの重さをもう一度味わうことになるとは思わなかったが。

 一誠とアーシアにはすでに魔力を応用した夕食作りに励んでもらっているため、小猫の方は朱乃に任せている。リアスはそのまま斬輝の寝室へと連れてゆき、そして持ち寄った救急箱で治療を始めたというわけだ。

 

「……ほら、これでおしまい!」

 

 言い置いて、リアスは大きな絆創膏を貼った斬輝の背中を、ぱん、と力強く叩く。

 

「だーっ! だからいてぇってば! もう少し優しくしてくれよ」

「心配させた罰よ」

「この悪魔」

「何をいまさら」

「ぶう」

「ぶうじゃない」

「……はいはい、俺が悪うございました。どうもすいませんね」

 

 わざとらしくそう言って、それはイタズラがバレた時の子供が開き直った時のようだ。ベッドの上に投げ捨てられた黒いタンクトップを手に取ると、早くも傷が治癒し始めているのか滑らかな動きで着込み、そのままベッドに横になる。

 仰向けから、左腕を枕にする恰好でリアスに背を向ける。

 拗ねちゃった。

 頑固な彼のことだ、ちょっとやそっとじゃ機嫌を直してはくれないだろう。

 はてさてどうしたものかと思案していると、部屋のドアがノックされた。

 

「部長さ~ん、斬輝さ~ん、いらっしゃいますか~?」

 

 ドアの向こうから聞こえてくるのは、アーシアの声だ。

 

「お夕飯が出来ましたよ~!」

「そう、判ったわ。すぐに行くから、他のみんなも呼んじゃってもられるかしら?」

 

 はあい、と陽気な返事を残し、シューズの足音が去ってゆく。

 

「ほら、いい加減あなたも……」

 

 扉の方へ向けていた視線をベッドへ戻すと、

 

「……あら?」

 

 そこに横になっているはずの斬輝の姿がない。

 

「なにやってんだ?」

 

 続く声は、リアスの真横からである。

 

「え? ……きゃあっ!」

 

 咄嗟に振り向くと、目と鼻の先の距離に斬輝の顔があった。突然のことで体勢を崩し、ベッドに背中からダイブしてしまった。すぐに体勢を立て直し、斬輝を睨む。

 

「ちょっと、おどかさないでよ!」

「トレーニング後の飯と言ったら肉に決まってるからな。俺達も行くぞ! 肉が待ってる!!」

 

 そう言うと、彼は軽やかな足取りで歩き出してしまう。

 一人取り残されるような格好になってしまったリアス。

 

「心配して損したかも……」

 

 斬輝の機嫌の変わりっぷりを見て、やっぱり彼もご飯に弱いのね、なんて思ってしまうリアスだった。

 

 

 その数分後、リアスは幾つもの皿に取り分けられた大量のジャガイモ料理の前にナイフとフォークを構えたまま机に突っ伏している斬輝を目撃することになる。




 先日、今更ながらスマホアプリの「ハイスクールD×D BorN リアスアラーム」を買ってみた。七〇種類ほどの撮り下ろし音声をセットアップすると、日笠陽子さん演じるリアスが指定した時間に起こしてくれるという、例のあれである。
 いやあ、本当に色々なボイスが収録されているもんだから、妄想が止まらないこと┓( ̄∇ ̄;)┏

 ちなみに次回、かなりの難産で、まだ手間取っております。二週間後を目処に書き上げたいところ……。音沙汰なかったら、察してくだせえ(^^;;


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第六章 闘いと強さと勝利と

       

 

 

「ったく、何が悲しくてお前らの面倒見た後の飯がジャガイモなんだよ……」

「いや、あの……すんません、魔力を使った料理の練習をしてたんですけど、意外と楽しくってつい……」

 

 部員全員が座ってもまだ余裕のある広いテーブルに載せられたジャガイモ祭りを味わうことになった一行。みんなが黙々と食事を勧める中、料理を担当した一誠は斬輝の愚痴の捌け口と化していた。 

 

「とは言ってもなあ、お前、サラダはまだ判るが、残りの半分塩茹でしただけって……」

「返す言葉もないっす」

「あらあら、イッセーくん。そう落ち込むことはありませんわ。このオニオン・スープだって美味しいですもの」

「あ、それ私が作ったんですよ~! 自信作なんです!!」

 

 そう言って嬉しそうに手を挙げるアーシアを横目に、斬輝はジト目で一誠を睨んだ。

 

「ひょ~どぉ?」

 

 斬輝も落ち着いて、とその場を取り仕切るのはリアスだ。お茶を飲んで一息ついてから、彼女は言った。

 

「さて、今日一日修行してみた感想でも聞いてみましょう。斬輝、あなたはどう思ったかしら?」

「ん? いきなり俺かよ」

「この中で公平に判断出来るのはイッセー達と直接闘ったあなたぐらいだもの。トレーナーの意見を取り入れるのは当然でしょう?」

 

 まあ、彼女の言葉にも一理あるか。

 斬輝はメンバー一人一人の顔を見て、最後に一誠にその視線を止めて、

 

「兵藤が一番弱いな」

 

 そう言った。

 闘うことにおいていっさい甘やかすことのない斬輝のその言葉は、間違いなく一誠の心に突き刺さるだろう。

 だがそれは、これからにおいて必要なことだ。

 

「そうね、それは確実ね」

「実戦経験が少ないからな。その辺が木場や塔城との根本的な差だ。そもそもの『闘い方』を知らない以上、仕方ないっちゃ仕方ないんだが」

「それでも、イッセーのブーステッド・ギアとアーシアの回復は無視出来ない。それは向こうも理解しているはず。あれでも相当の手練れであることには変わらないから、最低でも相手から逃げられるぐらいの力は欲しいところね」

「逃げるって……、そんなに難しいんですか?」

「逃げるのも戦術の一つよ。いったん退いて体勢を立て直すのは立派な闘い方。そうやって勝つ方法もあるの」

 

 だが、相手に背を向けて逃げるという行為には相応のリスクが伴う。斬輝としては『逃げる』という戦法は極力彼らに取らせたくはないのだが、最悪の場合はそうせざるを得ないのだろう。

 少なくとも、現状を見る限りでは。

 

「でもま、朝練の甲斐もあってかスタミナは間違いなくつき始めてる。あとはそいつを、残された時間でどれだけ伸ばせるかってとこか。闘うにしても逃げるにしても、体力が重要になってくる。『闘い方』はとことん叩き込んでやるから、この修業期間でモノにしろ。泣きごと言ったってやめねぇからな」

「了解っス!」

 

 一誠の気合の入った返事に、斬輝は口許を笑みに歪めた。

 お前のそういう真っ直ぐなところは、嫌いじゃないぜ。

 だが、斬輝の生徒は兵藤一誠だけではない。

 

「木場、塔城、お前達もだぞ?」

「はい」

「……判りました」

 

 その後リアスから一緒に温泉に入らないかと誘われたが、丁重にお断りした。

 

 

 何かに集中すると、時間的な感覚が消失することがある。何日も同じようなことを繰り返しているうちに、時の流れから弾き出されたように思うのだ。

 すなわち、起きて、トレーニングして、飯食って、寝る。

 ここ一週間ほど、その繰り返しだ。

 修業期間は、あとどのくらいだ?

 二日か?

 それとも明日で終わりか?

 さっぱり判らない。

 だがこの数日で得られた収穫は、かなり大きいものだった。

 木場の剣はその精度を上げより速く、より正確な斬撃を可能とした。当然、得物を失った時のための徒手空拳も、一応の手ほどきだけはしておいた。

 小猫の方もかなり呑み込みは良い方で、何日かの打ち合いですでに斬輝の教えた闘い方を充分自分のものにしたのだ。

 そして、一誠も。

 彼がこのメンバーの中で自他ともに認める実力不足なことには変わらない。だが彼は彼なりに必死に斬輝のトレーニングに喰いつき、追いつこうとしている。その姿勢は充分評価出来るものだ。彼の神器の特性から考えても、スタミナの底上げはやはり間違っていなかったのだろう。

 

「今のあいつの軀でどれだけ倍化に耐えられるか……」

 

 リビングからバルコニーに出て、手すりに両肘を乗せながら夜空を見上げる。

 都会と違って人工の光が少ないこの周辺は、太陽系の惑星や名も知らぬあまたの星の光が視界いっぱいに広がる。

 おそらく、メンバーはみんな寝たころだろう。

 よし。

 そろそろ始めるか。

 黒鉄斬輝は、現在オカルト研究部の近接格闘においてのトレーナーの枠にいる。来るレーティング・ゲームに備えて、メンバーの実力を向上させるためだ。

 だが、彼もまたゲームの参加者であることに変わりはない。

 昼間にトレーナーとして一誠達の相手をする一方で、夜中は一人で鍛錬を積んでいるのだ。

 自らの神器の特性を完璧に把握するためにも。

 上が黒のタンクトップだけなのは、不用意に袖の長いものを着てしまうと武装の展開時にお釈迦にしかねないからだ。

 拳を握り、念じる。それだけで拳の打面は一直線に裂け、手の甲の骨が扁平に潰れて伸長する。

 あっという間に、鉄の剣の完成だ。

 ただし、闘う前から血塗られた。

 現状、彼の軀に宿る鋼鉄虫(メタル・セクト)において斬輝が理解しているのは、こいつは自らの意志で例外的に変形させることが出来るのと、どんな傷も時間こそかかるが治してしまうということだけだ。

 それ以外は、さっぱり判らない。

 

「どうしたもんかねえ」

 

 リビングの方から物音が聞えたのは、その時だ。斬輝のつぶやきに混じって、わずかに水の流れる音が耳に届いたのだ。

 剣を『戻し』、肩越しに暗闇のリビングを振り返る。目を凝らすと、奥のキッチンの方に見慣れた髪型の茶髪の青年が見えた。

 

「兵藤か?」

「せ、先輩!?」

 

 斬輝がいたことに気づかなかったのか上擦った声を上げつつ、暗闇の奥から一誠がやってきた。その手には、水の注がれたコップが握られている。

 一誠は裸足で斬輝の隣まで来ると、手すりの上にコップを置いた。

 

「眠れないか?」

「ええ、まあ」

 

 一誠の、その返答にはいつもの元気がない。

 

「先輩は、どうしてここに?」

「……まあ、ちょっとな。それよりどうしたよ? 元気が取り柄のお前がそんなに沈んじまって」

 

 自分でも、意地の悪い質問だなとは思う。

 彼がこうなってしまっていることの原因が自分にあることに気づいているからだ。

 

「……俺、この一週間の修行で判ったんです」

 

 やがて振り絞るように声を出した一誠は、それからぽつぽつと語り始めた。

 

「俺には、木場みたいな剣の才能がありません。小猫ちゃんみたいな格闘技の才能も、朱乃さんやアーシアみたいな魔力の才能だってないです。それに斬輝先輩みたいな全部ごちゃ混ぜの闘い方なんて、絶対に無理だって……」

「ほう」

「みんなと修行して、斬輝先輩にしごかれて、少しは強くなれた気もしますけど、でもそれ以上にみんなとの差がデカ過ぎて……」

 

 やっぱりな。

 

「いくら俺に凄い神器があるからって、その持ち主がこんなんじゃ、意味がないんだって……。気づいちゃったんです、俺が一番役立たずなんだって。みんなの足を引っ張っちゃうんだって」

 

 でも、と一誠はこちらを見る。

 

「それでも俺、護りたいんです! 弱くたっていい、アーシアや部長……みんなが笑顔で居られる日常を、護りたいんです……!」

 

 自分のためではない、

 自分が慕うもののために闘う。

 それが……、

 

「それが、お前の闘う理由、か」

「はい」

「だったら、お前さんにいくつか教えといてやる」

「え?」

「闘うことの意味だよ」

 

 黒き魔人が、赤き龍を宿す少年の瞳を見据える。

 真っ直ぐな瞳だ、と斬輝は思った。

 俺と違って、な……。

 

「闘いってのは、拳を叩きつけることじゃねぇ。強さってのは、負けないことじゃねぇ。勝利ってのは、敵を倒すことじゃねぇ。お前さんには判るか? この意味が」

「いや、まったく……」

「自信を持てってことだよ」

 

 黒鉄斬輝は、そう言った。

 

「お前は俺よりも凄えモン持ってんだ。伝説のドラゴンを宿してんだろ? 心配しなくても、お前は強くなれるさ」

 

 だから、とニヒルな笑みを浮かべて、かすかに震える一誠の肩を叩いてやる。さっき剣を出した時に出来た一直線の裂け目は、塞がっていた。

 

「自分を見失うな、一誠。今の俺に言えるのは、それだけだ」

「先輩、今、名前で……」

「俺は俺なりにお前を評価してるってことさ。ほら、もう寝な。みんなのために強くなるんだろ?」

 

 その言葉で、一誠も理解したのだろう。力強くうなずいて、彼は拳を握った。

 

「はい。俺、神器の力を使いこなせるように頑張ります!」

「わーったから、早く寝ろって」

 

 そして一誠を戻してからしばらく、斬輝は再びバルコニーから雲一つない星空を見上げていた。 

 そこには、さっきまで浮かべていた笑みは、ない。

 

「誰かのため、か」

 

 久遠(くおん)の彼方へとこぼすその言葉にも、どこか寂しげな響きがこもっているように思える。

 斬輝は手すりを飛び越え、庭へ出る。

 そのまま別荘から距離を取るようにまっすぐ歩いてゆき……小さな湖の近くまで行くとその足を止めた。

 足を肩幅に開き、左半身に構える。伸ばした左腕は前へ、右腕は後ろへ……。拳を固く握った、それは構えになった。

 

「こい!」

 

 掛け声とともに、鋭い痛みが両腕に走る。手の甲の骨が変形して皮膚を突き破り、血飛沫をまき散らしつつ両手から双剣が生えた。

 艶やかな銀色で、渦巻く血煙のごとき紋様を刻んでいる。

 通常、はぐれ悪魔などを討伐する際おもにこの武装で闘っている。リーチが長くなるというのもそうだが、それ以前にこれ以外の形態となると途端に武装の維持が難しくなるのだ。

 これはおそらく、宿主たる斬輝の心象が影響しているのだろう。『武器』と聞いて最初に思いつくものと言えば、剣や槍といった『リーチの長い得物』となりがちだからだ。そしてそれらを『武装として具現化が可能なもの』というふるいにかけた結果、最終的に残るのが剣となるのである。

 これが、と斬輝は思った。

 俺の課題だ。

鋼鉄虫(メタル・セクト)』を駆使し『剣』以外の武装の展開を可能にすること。

 以前、リアスが一誠に言っていたことを思い出す。

 神器は、想いの力で動き出すのよ。

 兵藤一誠は、アーシアへの想いの力で『赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)』を発動させた。

 ならば、

 

「……ぐっ!」

 

 俺だって例外じゃないはずだ!

 斬輝は歯を食いしばった。深く腰を落とし、両足に力を入れて踏ん張る。

 喉の奥からせり上がるのは、獣の唸りだった。

 それはやがて、咆哮に変わる。

 

「ぉおぉおおぉおお……!」

 

 雄叫びに交じって、ばす、ばす、と鋭い痛みが軀中に走る。『鋼鉄虫』が意思の力で形態を変え、宿主の望むカタチとして顕れようとしているのだ。

 それには当然、とてつもない体力と精神力を消費する。自らの内に秘める鉄の責め具が自らの意思に従って肉体を突き破るのである。

 そのたびに鉄杭で穿たれたような痛みが全身を襲い、軀のあちこちに血塗れた武装が展開される。

 手首を周回するようにいくつもの銀色が突出する。だがレイナーレの脳髄を引き裂いた時のような単純な変形ではないからか、虫が反応しきれずにすぐ体内に引っ込んでしまう。そしてそのたびに、想像を絶する痛みと体力の消耗が付きまとうのだ。

 たまらず、膝をついた。そのまま前のめりに倒れそうになるのを、咄嗟に地面に両手を突くことで支える。

 腹の底から何かが込み上がってきて、たまらず吐いた。

 拳ほどの大きさの、赤黒い血だった。

 

「糞っタレ」

 

 小さく吐き捨てて、軀をひねって仰向けに寝転がる。

 たった数十秒やそこらだってのに、もう息が上がってやがる。

 左腕で顔を覆い、ついでに顔面の汗をぬぐう。

 駄目だ。

 初日の夜からこっち、まったく進歩しちゃいねえ。

 何かが欠けているのだ。

 神器を次なるステージへと上げるための、何かが。

 なんだ?

 いったい、何が欠けてやがる!?

 その時、ざわり、と風が流れた。

 周囲の林がさざめき、歯の擦れ合う音が静かな別荘に響いた。

 

「斬輝!?」

 

 だからその風に交じって聞きなれた少女の焦ったような声が耳に届いた時、斬輝は思わず身を起こした。

 別荘の方からだ。

 反射的に声のする方を向いた途端、斬輝は目を剝いた。

 一階のバルコニーから、見慣れた紅い色がやって来る。

 彼女だ。

 見間違えるものか。

 

「リアス……」

 

 見つかっちまった。




 二週間でどうにかする予定が、いつのまにか新年度を迎えてしまった……、申し訳ない。

 まあ、それはおいといて()。
 次回は、相変わらず人知れずに無茶をしようとする斬輝と、それを見てしまったリアスの二人の話になる。これは本作において私が書きたかった話の一つであり、かなりテンションがアゲアゲだ。
 近日中の投稿を目処に、頑張ります(^^;;


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第七章 囁く想い

※4/18 加筆修正。
※5/14 加筆修正。


 それは些細な偶然だった。

 

 

 寝る前にレーティング・ゲームの対策を練ろうとネグリジェのまま寝室を出たリアスは、リビングへと続く階段で一誠とすれ違ったのだ。

 あら、どうしたの?

 あ、部長。何か色々悩んでたら眠れなくなっちゃって……、だから水を飲みに。

 悩み?

 あ、でももう大丈夫っス。斬輝先輩が話を聞いてくれて、おかげで吹っ切れました。

 斬輝が?

 はい。俺、頑張ります! ライザー達との闘いに勝って、部長やみんながまたいつもみたいに笑えるように!!

 イッセー……、ありがとう。

 じゃあお休みなさい、と言って部屋へと戻ってゆく一誠を見送ってから、ふう、と息をついた。

 彼もまだ起きているのね。

 バルコニーへと続く扉が開け放たれていたことに気がついたのは、だから伊達眼鏡をかけたリアスがリビングに入った直後だ。

 吹き込む風を、感じた。

 

「斬輝?」

 

 思わずそう呟いて、バルコニーに出る。

 そして、

 

「……そんな」

 

 見た。

 見てしまった。

 芝の溢れる庭の奥……湖にほど近いところにいる影を。

 見慣れたその背中を。

 

「ぉおぉおおぉおお……!」

 

 呻いて、黒鉄斬輝は腰を落とす。ばすばすという不気味な音が彼の軀から発せられると、幾つもの血飛沫が舞う。

 手首から何かが腕輪のように突き出したと思えばすぐに引っ込んだ。

 背中から一瞬だけ、肩甲骨が変形したような刃が突出するのが見えた。

 だがそれも、一瞬で彼の軀へと引っ込んでしまう。

 彼がついにくずおれた時には、思わずバルコニーから躍り出ていた。そのまま仰向けに寝転がる斬輝に、リアスはたまらず、彼の名を呼んでいた。

 

「斬輝!?」

 

 その声に応えてか、斬輝が身を起こす。

 

「リアス……」

 

 驚きで開かれる口許が、赤黒く汚れていた。

 血に。

 そしてちょっと悔しそうに、見つかっちまったな、と呟いた。

 

 

 近くのテラスまで彼を連れて行って、適当なベンチに座らせた。

 リアスもその向かい側に座る。

 一抱えほどもあるレーティング・ゲーム用のマニュアル本と重要なところをまとめたノートを抱きしめたまま、リアスは覗き込むように身を乗り出した。

 

「大丈夫?」

「ああ、まあな」

「こんな時間まで修行してたの?」

「見てりゃ判ンだろ? でなきゃ、夜更かししてねえさ」

 

 そう言って立ち上がると、斬輝はそのまま外の方を向いた。テラスの塀に両腕を乗せて、寄っかかる。

 

「兵藤の奴も木場も塔城も、必死こいて強くなろうとしてる。その相手をしてる俺が、いつまでもウカウカしてられねぇだろ? 俺だって、まだ『こいつら』のことを把握しきれてねぇんだ。そんな状態で、満足に闘えるかよ」

 

 リアスも追いすがるように立ち上がり、斬輝の横に立つ。見上げた先にある斬輝の横顔は、はるか彼方を眺めているようだった。

 思えば、リアスが初めて黒鉄斬輝と出逢った時も、そうだった。

 孤独を抱えた、その哀しそうな瞳だ。

 そして、ぽつりと言った。

 

「お前の方こそ、こんな時間まで起きて勉強か?」

「え?」

「眼鏡」

 

 言われて、目元を触ってみる。

 

「あ……」

 

 あった。

 斬輝のことを気に掛け過ぎて、かけていることすら失念していたのだ。

 

「テスト勉強の時、集中出来るからっていっつもかけてたろ? 度も入ってないのに」

「……ええ、そうね」

 

 だが、おかげでいくらか冷静になれた。小さく息を吐いて、呼吸を整える。

 

「どうだ、集中出来たのか?」

「いつもはそうなのだけど……駄目ね、何日もこうしているけれど、気休め程度にしかならないわ」

「そりゃあ、相手がフェニックスだからか?」

「……あなたって時々、私の心でも読んでるんじゃない?」

 

 斬輝の的を射た発言に軽口を叩きつつ、リアスは手元のノートを開いた。

 探すのはカラフルな付箋が張られた本の中の、黒いところだ。

 見開きいっぱいに書き込まれた単語や文章は、すべてある一つの項目によるものだった。あとから開いたマニュアル本にも、雄々しく炎の翼を広げる火の鳥が描かれたページがあった。

 すなわち、不死鳥(フェニックス)

 

「これよ」

「ん、さんきゅ」

 

 その昔、フェニックスは命を司りし聖獣として人々に崇められていた。語り継がれる伝説は数知れないが、流す涙はいかなる傷も癒し、その身に流れる血を飲めば不老不死を手に入れられるとさえ言われたそうだ。

 

「あなたも知っているように、伝承にあるフェニックスには悪魔側の……『七十二柱』にも数えられた侯爵家のフェニックス家が存在する」

 

 悪魔でありながら聖獣と同じ名前を持つライザーの一族は、有する能力も聖獣と同じだ。

 それが意味するところは、一つしかない。

 

「不死身なのよ。どんな攻撃をしてもすぐに再生して、たちまち傷を治してしまうわ」

「不死鳥の名は伊達じゃないってことか……、んん?」

 

 リアスの言葉に呟きで返しながら、斬輝は渡されたノートのあるところに注目する。

 そしてリアスの方を向くと、その一点を指して訊いてきた。

 

「この数字って……」

 

 八勝二敗。

 リアスはうなずいた。

 

「ええ。レーティング・ゲーム公式戦におけるライザーの戦績よ。ただし、この二敗は懇意にしている家系への配慮だから、実質的には全勝と変わらない」

 

 つまり、それだけライザーの実力は本物だというわけだ。悔しいが、この事実だけは変わらない。

 レーティング・ゲームが悪魔の中で流行るようになって、急激に台頭してきたのがフェニックス家だった。下僕悪魔だけでなく『(キング)』も参加するこのゲームで、フェニックスの強さが浮き彫りになったのだ。

 フェニックスが持つ不死身の特性が、相手となる全ての悪魔にとって相性が悪いことの証明になったのである。

 それもそのはずよね、とリアスは自嘲の笑みを浮かべる。

 リアス・グレモリーは、誰よりも正確に、そして冷静に、自身が置かれている状況を完璧に理解していた。

 

「不死身である以上、絶対に負けることなんてないんだから。最初から私が負けることを見越してこのゲームを仕組んだのよ」

「ずいぶんと無茶な試合を組むもんだな、冥界の連中も」

「ええ。チェスで言うところのハメ手……スウィンドルね。そこに私の意思なんてない、お父さま達は何としても私とライザーを婚約させたいのよ」

「あさましいよなあ。それが約束を破る理由にはなりゃしねぇのによ」

 

 そう言って、斬輝は視線を戻した。

 かすかに、庭の茂みから虫の羽音が聞えてくる。

 訪れる静寂の中、リアスはしきりに斬輝の横顔をのぞいていた。

 ……やっぱり。

 こうして二人きりでいる時、彼は時々、誰にも見せないような哀しい表情を浮かべることがある。それが何に対してなのか、どうしてそうなるのかは判らないが、決まってリアスと二人でいる時でしかないことは確かだった。

 そして同時にリアスが思い出すのは、初日の昼間に見たあの奇妙なヴィジョンだ。

 炎に焼かれながらもライザーに立ち向かおうとする、目の前の彼の姿が……。

 幻覚であって欲しいと思う。

 一瞬の夢であって欲しいと思う。

 ……けれど、

 

「ねえ……」

 

 言葉では言い表せない不安に押しつぶされそうになったリアスは、思わず声をかけていた。

 

「んん?」

「一つだけ……一つだけ、訊かせてほしいの」

「なんだ」

「どうして、そこまでしてくれるの?」

 

 開きっぱなしのゲームの資料を閉じて、リアス・グレモリーはとうとう口にした。

 それはずっと、胸の奥につかえていたことだ。

 だから、どうしても聞きたかった。

 なぜ、あなたが私なんかのために闘おうとしているのか。

 

「こう言ってしまうと悪いけど、これは私の家の問題なのよ? ライザーに向かってあんなふうに言う必要だって……、あなたが首を突っ込む理由なんて、どこにもないはずでしょう?」

 

 応えはない。

 知らず知らずのうちに、言葉がつっかえる。

 リアスは胸に両手を当てて落ち着こうとするが、それでも心臓の鼓動は速くなる。

 熱い。

 軀が熱い。

 黒鉄斬輝は虚空を見つめたまま、しかし応えなかった。

 

「……ねえ、教えてちょうだい。どうして、私なんかのためにそこまでしてくれるの? あなたは私の眷族じゃない。もしかしたら死んでしまうかも知れないのよ? それなのに……」

「俺ぁよ」

 

 遮られた。

 

「前にも話したが、何年も前に全てを失った。家族も、俺の感情も……何もかもだ。叔父貴の誘いを蹴ったのは俺だがよ、そいつぁ、こっちでの生活も悪くないって思えるようになったからなんだ。なぜだか判るか?」

 

 ……………………え?

 どういうこと?

 きょとん、となったリアスに、斬輝は微笑んだ。

 唇の端を釣り上げた、器用な笑みだ。

 だが同時に、眉をわずかに寄せた、それは哀しい笑みになった。

 まるでいつくしむように……けれど壮大な絶望を乗り越えた者だけに許される微笑みなのだ。

 そして、

 

「お前がいたからさ」

 

 ああ、

 なんてこと。

 

「二年前に学園に入学した時によ、最初に俺に話しかけてきたのがお前だったよな。覚えてるか? お前が何て言ったか」

 

 忘れるわけがない、とリアスは思った。

 あの日こそ、リアスの何かが変わった瞬間なのだから。

 そしてそれは、斬輝にとっても同じだったのだ。

 あの瞬間こそが、彼を絶望の闇から救い出す一歩だったのだから。

 

「一緒にお昼いかがかしら?」

 

 嚙みしめるようなリアスの呟きと斬輝の声が見事にユニゾンして、二人して笑ってしまった。

 

「やっぱり覚えてたか」

 

 その笑みのまま、斬輝は湖の方を眺めた。月明かりが水面に反射してきらきらしている。

 

「まあともかく、それからだよな、お前がよく俺に声かけるようになって」

 

 そして、だんだんと斬輝の方からもリアスに声をかけるようになった。

 それから、あっという間に二年の時が経っていた。

 

「そしたらな、気がついたら失ったはずの日々が戻ってきてた。いつの間にか、昔みたいに笑えるようになってたのさ。たしかにそれは、今までとまったく同じってわけじゃない。それでも俺は今の生活にすげえ満足してるぜ。そいつぁ全部、お前さんのおかげなんだ」

 

 そう言ってこちらを振り向いた斬輝は、リアスの肩に手を乗せた。

 

「ありがとな、リアス。お前がいてくれたから、俺は今、ここにいる」

 

 やめて。

 やめて。

 そんなふうに言わないで。

 だが、それで終わりではなかった。

 

「感謝してんだよ、いや、マジで」

 

 そう言われた途端、胸の奥に熱いものが拡がってゆくのが判った。

 彼の瞳越しに、不安そうなリアス自身の顔が写っている。それはつまり、彼の目はリアスしか見ていないということでもある。

 私の瞳には、とリアスは思った。

 彼はどんなふうに映っているのだろう……。

 だがその目が、ふいに逸らされた。

 どうやらリアスの表情に気づいて、単に気恥ずかしくなっただけのようだ。苦笑して鼻を搔いてから、

 

「……こんなこと言うガラじゃねぇんだがな。つか、そんな辛気臭い顔すんなよ。こっちまで不安になっちまうじゃねえか」

「あっ、ご、ごめんなさい……でも、だけど……」

「でももだけどもねぇよ。……実はさっきな、兵藤の奴と話してたんだ」

「イッセーと?」

 

 それはさっき、階段で一誠本人から聞いたばかりだ。

 うなずく斬輝は、真顔に戻っていた。

 

「それであいつ、言ってたんだよ。弱くてもいい、みんなが笑える日常を護りたいんだって。それがあいつの闘う理由なんだ」

「そう、あの子が……」

「誰かのために闘える奴なんて、そうそう居るもんじゃねえ。……すげぇよ、あいつ。そんな大層なこと、俺には逆立ちしたって出来やしねえだろうさ」

「……あなたは、違うの?」

「ああ、違う」

 

 即答だった。

 だがそれには、続きがあった。

 

「……そうか、そうだったのか」

 

 一人でどこか納得した様子の斬輝に怪訝そうな視線を向けると、

 

「いや、何でもない。正確に言えば、違った、だな」

 

 そう言った。

 

「俺が今まで闘ってきたのは、ただの罪悪感だった。俺が闘わなかったら何人の人間が傷つくのか……あるいは死ぬのか……、そう思ったら、それ以外の道を選ぶことが出来なかったんだ。あいつみたいな正義感でも何でもない。罪悪感を抱えて生きることが……これ以上、俺の目の前で誰かを失うのが怖かったんだ……」

 

 五年前の悲劇を繰り返したくないから。

 家族を失う痛みを……大切なものを失う痛みを、これ以上味わいたくないから。

 ただそれだけのために、彼は闘っていたのだ。

 ずっと。

 

「俺には兵藤みたいに誰かを護るなんてことは言えねえ。自分の手が届く範囲で手一杯なんでな。……だがな、だからこそ、これだけは言っとかなきゃならねえ」

 

 そう言って、斬輝はもう一度、リアスを真正面から見つめた。

 その頬を、両側から優しく包み込まれた。

 彼の温かい両手で。

 

「いいか、よく聞けよ」

 

 頷いて、けれど彼の紡ぐ言葉はリアスに向けられたものであると同時に、彼自身にも向けられているように聞こえる。

 だが続く彼の言葉を聞いたリアスは、膝から崩れ落ちてしまいそうになった。

 

「今度は俺の番だ」

「今度は……」

 

 斬輝の番……。

 リアスはみなまで言われなくとも、その言葉の意味することを正確に理解していた。

 だが、

 しかし、

 それは……まさか。

 彼のその言葉は……、

 

「……いいの?」

 

 徐々に俯いてしまったリアスは、そのままの姿勢で、ぽつり、とこぼした。

 それは情けないくらいに頼りなく、消え入ってしまいそうなほど弱々しい声量だった。

 答えは、熱い抱擁だった。

 背中を、急に抱き寄せられた。

 斬輝だ。

 片方の腕でリアスを抱きしめ、空いた方の掌を分厚い胸板に押し付けられた格好の彼女の頭に載せた。

 

「私は、あなたを『こちら側』の世界に巻き込んでしまったのよ?」

 

 ……それでも、いいの?

 

「信じて、いいの?」

「信じなくても助けてやる」

 

 そして、くしゃり。

 

「それが今の俺に出来ることだ。お前が教えてくれたんだぜ、リアス」

 

 ああ、そうか。

 そうだったのか。

 唐突に、リアスは気がついた。

 気がついてしまった。

 きっと、私は……、

 

「……だからリアス、頼む」

 

 斬輝の声のトーンが下がり、抱きしめる力が強くなる。

 そして続く言葉で、リアスは目頭が熱くなった。

 

「一人であろうとするな、俺を頼れ。俺に……俺にお前を護らせてくれ」

「……! ……うん」

 

 絞り出すように囁く彼の言葉に、リアスはそれしか言えなかった。

 そう応えるのだけで精いっぱいだった。

 それはこの前の堕天使達との闘いの際に、まさにリアスが斬輝に向けて言ったことだからだ。

 こんな形で言い返されてしまうなんて、思ってもいなかった。

 でも、

 ああ……。

 彼は、ずっとそれを胸の内に秘めていたんだ。

 言い出したくてもなかなか言えなくて、ずっと彼の中でくすぶっていた彼の『想い』だったんだ。

 彼の服の裾をつまむ力が強くなる。

 腹の底から、何かが湧き上がってくる。

 なに?

 何なの、これ?

 目元から温かい何かが伝う。

 涙だ。

 泣いてる。

 私、泣いてる?

 なぜ?

 どうしてなの?

 

「うっ、うぅぅっ……」

 

 駄目なのに。

 私はリアス・グレモリーなのに。

 グレモリー公爵家の次期当主で、オカルト研究部の部長で、イッセー達の『(キング)』なのに。

 なのに……、

 

「な、んで……私……こんな……ッ!」

「ったく、こんなところまで学園のお姉さまを演じなくてもいいんだよ」

 

 そんな苦笑とともに、斬輝が微笑んだ。

 そして、

 

「いいぜ、泣いちまいな。大声で泣きわめいちまえ。別荘までは届かねえから」

 

 その言葉で、ついに限界が切れた。

 

「ああーっ!」

 

 リアスは、斬輝にしがみついた。

 

「あー。あっ、ああっ! ああーあーああーっ!」

 

 暖かい彼の胸にすがって、泣きじゃくった。

 

「嫌っ! 嫌よ! ライザーと結婚なんてしたくない! 私はリアスとして……私を私として愛してくれるヒトと一緒になりたいの!! それが……それだけが私の夢なのよ!!」

 

 絶叫だった。

 

「子供のころからずっとそうだった! 誰も私を『リアス』として見てくれない! それがずっと嫌だったの!!」

 

 泣き叫んだ。

 

「なのに……それなのに、どうして……どうして…………!」

 

 斬輝の胸板に顔を押し付けて子供のように泣きじゃくるリアスを、斬輝は抱き留めて、ずっと背中を撫でてくれた。

 

「心配すんな、俺が傍にいる。お前の夢も護ってやる。お前を一人になんてさせねえよ」

 

 その時、リアスはついに自身の心臓が激しく高鳴るのを敏感に感じ取った。

 そして、理解した。

 ずっと感じていたこのどうしようもない胸のときめきは、

 

「絶対だ。約束する」

「ぐすっ……うん、ありがと……ありがとう、斬輝……!」

 

 愛だ。




 かなりの突貫作業だが、私事ながら本日が誕生日なこともあったので意地でも投稿してやろうと本気出しました(^^;

 おそらく次回か次々回ぐらいにはレーティング・ゲームに入れるかな。

 そんじゃ、次回までゆったりとまったりと、お待ちください。
 ……本編は真面目に行くんで、ゆったりもまったりもしちゃいられないけど(苦笑)。


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第八章 闘いの狼煙

       

 

 

 時刻は午後一一時四〇分。

 集合場所は駒王学園旧校舎にあるオカルト研究部・部室。

 決戦開始の午前零時まであと二〇分ほど。メンバーはすでに部室に集まっていて、各自待機していた。

 リアスと朱乃は紅茶を嗜み、

 木場と小猫はそれぞれの武器や武装の確認、

 一誠とアーシアは緊張の面持ちでソファに腰を掛ける。

 もちろん、斬輝も。

 薄暗い旧校舎の部室の中で、一誠達の向かいのソファで仰向けに寝っ転がっている。

 両腕を頭の後ろに組んで枕代わりにしながら、彼は対面の後輩に顔だけ向けて声をかけた。

 

「おい兵藤よう、お前さん緊張し過ぎじゃねえのか? もう少しリラックスしたらどうだよ」

 

 一誠が緊張と不安でガチガチに固まっていたからだ。

 

「あっ、当たり前じゃないですか。部長の初めてのレーティング・ゲームなんですよ? それも部長の婚約を賭けた。ていうか先輩がラフ過ぎるんです!」

「そうか?」

 

 上半身だけを起こす。

 

「むしろ今のお前を見てる方が暑苦しいんだよ、もっとリラックスしろって」

「ザンキさん……」

 

 今にも消え入りそうな声でこちらを見つめてくるのは、一誠の隣に座るアーシアだ。シスター服の裾を強く摘まんで、つまり彼女も同じくらい不安なのだろう。

 この闘いが。

 だから斬輝はそんな後輩二人に笑みを作った。

 

「一つだけ、言っといてやるわ」

「な、なんですか?」

「兵藤、お前さんはこの一〇日間で間違いなく成長した。そいつはお前さん自身もよく判ってるはずだ」

 

 なにしろ、修行終盤の模擬戦では二分半……一五回倍化されたパワーによって放たれた魔力の一撃で山を一つ消し飛ばして見せたのだから。

 

「こないだも言ったろ。自信を持て」

 

 そして、言った。

 

「頼りにしてんだぜ」

「……そうですよね」

 

 一誠は俯きながら、自分の左腕を見つめた。

 

「せっかく先輩に相談に乗ってもらって吹っ切れたはずなのに、こんなんじゃ駄目ッスよね。それに、俺のところに来てくれたこいつにも示しがつかない……」

 

 最後のところに妙な引っ掛かりを憶えたが、その時は特に気にすることもなく斬輝はスルーした。

 

「ま、なんかあったら俺が蹴散らしてやるよ」

 

 脚を組んで、挑発的に。

 

「ところで」

 

 会話に入って来たのはリアスだ。

 

「斬輝、あなたは本当にそれでいいの?」

 

 カップをソーサーに置いて彼女がそう訊くのは、斬輝の体勢のことではない。

 服装のことだ。

 シスター服のアーシアを除く部員達は学園の制服を着用しているのに対し、斬輝は黒い革のパンツに厚底の黒いブーツ、上半身は黒のタンクトップという、これから始まるであろう過酷な闘いに向けてはあまりにも軽装過ぎる格好なのだ。

 

「大丈夫だ」

 

 そう言って、斬輝は脇のテーブルの上に置かれた何かを、ぽんと叩く。

 分厚く折り畳まれた、黒い布のようだ。

 片手に布を摑んで立ち上がると、無造作に一振りした。

 黒い布が大きく広がって、その正体が判った。

 マントだ。

 見ると、ところどころ赤い炎のような刺繍がある。

 ばざんと音をたてて首に巻くと、彼の軀はマントの中にすっぽり収まってしまった。両手はもちろんのこと、ブーツの爪先すら見えないのだ。

 それは、斬輝が修行の最終日にリアスに頼んで作ってもらったものだ。

 魔力を凝縮して、物質化させたのだ。原理としては損傷した衣服を魔力で修復するのと同じである。

 ただ、今回はちょっとした『仕掛け』を潜り込ませているが。

 留め金にグレモリー家の紋章を彫り込ませておいたのは、単に彼が『こちら側』の仲間であることの意思表示だ。

 威圧的な双眸さえ度外視すれば、その容姿はさながら騎士にも見えるだろう。

 

「制服だと肌に密着してる分、思うように武装の展開が出来ないからな。こいつなら相手の動きも牽制出来るし、思わぬところからの攻撃、ってのにも使えるだろ?」

「そういうもの?」

「そういうもんだ」

「そう」

 

 部室の床が光り出したのは、リアスがそう呟いた時だった。

 雪のように白い二つの魔方陣が出現し、磁石の反発のように遠ざけ合う魔方陣の間に見慣れたメイド服が顕れる。

 その足元に、展開された魔方陣を残して。

 

「開始一〇分前になりました。皆さま、準備はよろしいですか?」

「ええ、いつでもいいわ」

 

 問いかけるグレイフィアに、自信満々で応えるリアス。

 

「開始時間になりましたら、この魔方陣から異空間上に作られた戦闘用フィールドへと転送されます」

「異空間ってことは、好きに暴れてイイってことだな?」

「はい、使い捨ての空間ですので、どんなに派手なことをしても構いません。思う存分にどうぞ」

 

 また、と銀髪のメイドは続ける。

 

「今回のレーティング・ゲームは、両家の皆さまも冥界にて戦闘中の模様を中継でご覧になります」

 

 そしてその中継は、支取蒼那ことソーナ・シトリー達駒王学園生徒会が生徒会室から行うのだという。

 

「ちなみにこの闘いは、魔王ルシファーさまもご覧になられますので」

「そう、お兄さまが……」

 

 サーゼクス・ルシファー。

 またの名を、紅髪の魔王(クリムゾン・サタン)

 リアス・グレモリーの実の兄にして、現・四大魔王の中で最強とうたわれる男。

 かつての大戦で先代の四大魔王を亡くして著しく戦力を低下させた悪魔陣営はそれぞれの魔王の名を残し、力ある最上級悪魔にその名を受け継がせることにした。

 そこで白羽の矢が立ったのが、当時のサーゼクス・グレモリーをはじめとする現・四大魔王だったのだ。

 本来なら家を継ぐはずのサーゼクスがルシファーの名を継いだことで自動的にグレモリー家から抜ける形となり、その実妹だったリアスが、これも自動的にグレモリー家の長女として家を継ぐことになったのである。

 そして、その結果が、これだ。

 無責任にもほどがあるぜ、とは言わなかった。

 いまさらそんなことで喚いたって、もうどうにもならないからだ。

 苦しんできたのはリアスだけじゃない。きっと、彼だってずっと葛藤し続けているはずなのだ。

 そしてこの状況を中継で見ているサーゼクスは、おそらく『魔王ルシファー』としてではなく『リアスの兄』としての視点で捉えているに違いない。

 数えるほどしか顔を合わせたことはないが、彼はそういう男だということだけは斬輝も充分に理解していた。

 

「そろそろお時間です」

 

 時計を確認していたグレイフィアが、その顔をこちらに向ける。

 

「なお、一度移動しますと試合終了まで魔方陣での転移は不可能になりますのでご注意ください」

 

 その言葉に全員が頷いて、ぞろぞろと魔方陣の上に集結する。

 リアスが斬輝の隣に立つと、その手を優しく握ってきた。振り返ると、彼にしか聞こえないくらい小さな声でぽつりと言った。

 

「こうして繋がっていないと、眷属じゃないあなたもいっしょに転移出来ないから」

 

 そして次々とみんなが光に包まれフィールドに転移していき、斬輝とリアスの軀が光に包まれたのは一番最後となった。

 

 

 グレモリー陣営が転移した先は、オカルト研究部部室だった。要するに、ぱっと見は変化なし、ということだ。

 部員の反応を見るに、別に転移失敗というわけでもないらしい。

 状況が呑み込めない様子だった一誠やアーシアを助けるように、スピーカーからグレイフィアのアナウンスが聞えてくる。

 

『皆さま。このたびグレモリー家、フェニックス家のレーティング・ゲームの審判役を仰せつかった、グレモリー家の使用人・グレイフィアです。今回のバトル・フィールドは、リアスさまとライザーさまのご意見を参考にし、リアスさまが通う人間界の学び舎・駒王学園のレプリカを用意しました』

「レ、レプリカ!?」

 

 驚愕する一誠をよそに、斬輝は窓を開けてみる。

 なるほど、旧校舎の前にあるちょっとした樹木までたしかによく再現出来ている。

 決定的に違うのは、学園の上空に広がる『空』そのものだ。淡い緑色のオーロラが周囲を覆っているのだ。

 つまり、斬輝達が立っているこの場所は『異空間上に精巧に作られた駒王学園の旧校舎、そのオカルト研究部部室』であるということだ。

 部屋の中を見渡してみると、もとからあった傷はおろか、少し前にライザーの眷族を叩きつけた跡まで丁寧に作り込まれていた。大した技術力である。

 

『両陣営、転移された先が本陣でございます。リアスさまの本陣が旧校舎・オカルト研究部部室。ライザーさまの本陣は、新校舎・学長室。よって『兵士(ポーン)』のプロモーションは、互いの校舎内に侵入を果たすことで可能となります』

「かなり厄介なルールだな」

「ええ。ですから本来は、お互いの『兵士』が最初に動いて潰し合うのが定石なんです」

 

 斬輝のつぶやきに頷いた朱乃が、何かを部員に配っている。受け取ると、それはかなり小さい光の球だ。

 

「これは?」

「通信機よ。戦場ではこれでやり取りするわ」

 

 答えるリアスは、ちょうどその通信機を耳に入れたところだった。なるほどなと返し、斬輝も同じく耳孔に突っ込んで、アナウンスが鳴るまで待機することにした。

 

 

 リアスとの縁談をレーティング・ゲームで決着させようという話がグレイフィアから申し出された際、ライザー・フェニックスは拍子抜けしたことを覚えている。

 茶番にもほどがある。

 公式戦のキャリアが充分にある自分とデビューすらしてない魔王の妹が相手では、とうてい勝負になるわけがないからだ。

 彼女は完膚なきまでに叩きのめされ、自分が圧勝する。

 だが、だからといって手を抜く気は毛頭ない。

 

「お前らには軽過ぎる仕事だが……遠慮はいらん。徹底的に潰せ」

 

『学長室』のイスに深々と座り、下僕達を見渡しながらライザーは宣言する。

 

「紅髪のお嬢さまのプライドをへし折ってやらねば、こんな茶番に何の意味もないからな」

 

 情けなどかけてやるものか。

 特に、あの男には……。

 

「時にミラ……お前もあの魔人に借りがあったな」

「はい……」

 

 伏し目がちにうなずく『兵士(ポーン)』の少女は、一〇日前にあの男への不意打ちを逆手に取られ、返り討ちにあっている。

 その時の傷は悪魔としての治癒能力でもはや見る影もないが、あの日受けた屈辱は肉体的にも精神的にも彼女を追い詰めていることに変わりはなかった。

 その証拠に、棍を握りしめる手にめりめりと力が入っているのが判った。

 

「奴は目障りだ、もし遭遇したなら優先的に狙え。場合によっては殺しても構わん。お前達がうまく立ち回れば事故として処理されるだろうさ」

「判りました」

「だが侮るなよ。同じ轍を踏まないようにな。……まあ、万が一取り逃がしたとしても気にするな。その時はこの俺が直接手を下してやる……リアスの目の前でな。見せしめにすれば、リアスは必ず投了(リザイン)するはずだ」

 

 どうやら、リアスにとってあの魔人は相当『お気に入り』のようだからな……。

 脚を机の上に投げ出して、ライザーは歪な笑みを浮かべた。

 フルメンバーであるこちらに対して、相手は圧倒的な人数不足。

 伝説の二天竜とまで言わしめたうちの一匹を宿す悪魔はとんだ肩透かし。

 そんな奴らに、いったい何が出来ようか?

 もう勝利は約束されたようなものだ。

 

「覚悟するんだなリアス。キミが相手にする『不死鳥』の恐ろしさを、その身をもって知るといいさ」

 

 紅髪の滅殺姫(ルイン・プリンセス)と、赤龍帝をはじめとする下僕悪魔達。

 そして……黒き魔人。

 貴様らの一〇日間、とくと見せてもらおうか。

 

『それでは、ゲーム・スタートです。制限時間は人間界での夜明けまでとします』

 

 開始の合図は、荘厳に鳴り響く学園のチャイムだった。




 へ、平成終わる手前に滑り込みや……。しかもまだ闘いに入らないし(タイトル詐欺疑惑)
 どうか気長にお待ち下さいまし。


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第九章 それぞれの気持ち

 ストックなさ過ぎて、一つの話を2つに分けるという暴挙に出ることをお許しください。


       

 

 

 ゲームは始まったものの、なにもすぐに行動を開始するというわけではない。

 リアス達はまず駒王学園のマップを拾げ、こちらの陣地と敵の陣地の位置関係を確認することにした。

 木場の提言と相手への牽制もあって、こちらはまず新旧どちらの校舎にも隣接する体育館を取ろうという意見で固まった。

 屋内であるために、機動力に優れた『騎士(ナイト)』よりも破壊力に長けた『戦車(ルーク)』の方がうまく特性を活かせるだろうということで、体育館に向かうメンバーの一人に小猫が選ばれる。

 

「それじゃあ、まずは防衛ラインの確保と行きましょうか。裕斗と小猫は森にトラップを仕掛けてきてちょうだい。朱乃は二人が戻り次第、森周辺……空も含めて幻術をかけてくれるかしら」

 

(キング)』の指示に三人は返事を返して、部室を出てゆく。

 それから一誠はリアスによって駒の封印の一部を解かれ、現時点で彼が持っている本来の力を開放してもらった。

 まとうオーラの量が先ほどまでとは比べ物にならないものになっているということは、赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)は一〇日間の修行でかなりの力をつけたらしい。

 

「アーシアは回復要因だから、私とここで待機ね」

「わっ、判りました!」

「なあリアス、俺はどうすればいいんだ?」

「そうね……ッ、ちょっと待ってて」

 

 その時だ。

 

「……ええ、聞えるわ」

 

 リアスである。耳に手を当て、それは誰かからの通信のようだ。話を終えると、今度は不敵な笑みに変わる。

 

「誰からだ?」

「朱乃よ、準備が整ったみたい。みんな聞いてちょうだい」

 

 その一言で、空気が変わる。

 

「これから作戦を伝えるわ」

 

 リアスの宣言は、この場に留まらず罠を仕掛けに出かけた部員達へ通信機を通じてオカルト研究部全メンバーに届いている。

 彼女が紡いだ一言一句を聞き漏らすことなく頭に叩き込んだ斬輝は、ふう、と一息ついてからリアスに告げた。

 

「なかなか思い切ったな」

「ええ。人数が少ない分、作戦の意外性を突くのはアリだと思ったの。だから斬輝にはイッセー達のサポートをお願いするわ」

「いいぜ、最初は様子見と行こうか。こいつらの修行の成果も見てみたいしな」

 

 ま、ヤバくなったら助けてやるさ。

 そう言いながら一誠の肩に手を乗せ、ぐっと力を入れる。

 

「頑張れよ。お前の力、しっかりこの目で見させてもらうぜ」

「期待してるわよ、イッセー」

「は、はいッ!」

 

 拳を作り決意の炎を灯した後輩の姿を見て、自然と口許が緩む。視線を向けるとアーシアは安心したような、そしてリアスは慈しむような微笑みをたたえている。

 それから一誠は部室を後にし、罠を張り終えた小猫と合流しに行った。

 

「それと……」

 

 一誠を見送ってからその笑みがこちらに向いて、すっとリアスは斬輝のそばまで寄ってくる。

 腕を伸ばせばお互いに抱き合うことも出来てしまいそうなくらいの距離まで近づいたと思うと、彼女は少し頰赤らめながらこちらを見つめてつぶやいた。

 

「斬輝も、この一〇日間みんなの修行を見てくれてありがとう」

「んん? ああ、そのことか。気にしなくていいさ。おかげで俺もだいじなことを思い出せた」

 

 そう言い返して、思い出すのはあの夜のことだ。

 リアスが斬輝の腕の中で声を上げて泣いていた。

 胸に沁みた彼女の涙は、今でも鮮明に憶えている。

 あの日、彼に出来たのはただ彼女の全てを受け止めてやることだけだった。

 お前は一人じゃないと、俺がそばにいるぞと伝えてやることだけだった。

 今、彼が出来るのはそれだけじゃない。

 拳を握ること。

 闘うこと。

 それこそ今、彼がやるべきことでもあるのだ。

 

「勝つぞ、リアス。あの焼き鳥をぶん殴って、ハッピーエンドにしてやろうじゃねえか」

「ふふっ、そうね」

 

 なら、とリアスは笑みで斬輝の横に移動すると、ひょいと身を乗り出した。

 両腕は首っ玉に優しく巻きついて、顔はわずかに上向いている。踵が浮き上がって爪先立ちになると、お互いの顔の位置がほとんど同じになった。

 リアスの行動に気づいたアーシアは声をあげ、顔を赤くしながらあわあわと口許を手で覆う。

 気づいた時には、左頬に柔らかな感触があった。

 その正体がリアスの唇だと頭では理解出来ても、突然のことにしばらく呆気にとられていた斬輝はしぱしぱと目を瞬かせた。

 

「……これはおまじないよ。みんなが……あなたが無事にこの闘いを切り抜けられるようにって」

「あ、ああ……」

 

 呆然とする斬輝は、キスされた頰を確かめるように片手でさすりながら生返事を返すだけだ。

 だが、意を決した少女の言葉はまだ終わってはいなかった。

 

「死なないでね」

 

 その言葉で目が醒めた。焦点をリアスに合わせると、赤らんだ顔をうつむかせて、縋るように斬輝のマントを摘んでいる。

 レーティング・ゲーム中の死亡は「事故」として処理されるらしい。人間に比べてはるかに長命で頑丈な悪魔が命まで落とすことは滅多にないだろうが、悪魔に比べてはるかに短命で脆弱な人間の軀だとそうはいかないだろう。

 彼女はそれを恐れているのだろうか。

 

「リアス……」

「約束してちょうだい。……私、この闘いが終わったらあなたに伝えたいことがあるから……だからお願い。絶対に死なないで」

 

 ……いや、違う。

 ああ、そうか。

 途端、何かがすとん、と胸に落ちた気がする。それは欠けていたパズルのピースのようで、けれどはまった途端にすべての謎が解き明かされたかのような感覚に陥った。

 そういうことか。

 

「死なねえよ」

 

 全てを理解した時、反射的に斬輝はそう応えていた。

 

「心配すんな。俺は死なねえよ。なんてったって、俺は魔人だからな」

 

 自信たっぷりにそう言うと、安心させるようにリアスを抱き寄せてやった。

 これでもかと言うくらい抱きしめた。

 

「だからお前は、安心してやるべきことをやれ。『(キング)』なんだろ? シャキッとしろシャキッと」

 

 それに、と言葉を続ける時、抱いたリアスの肩がぶるり、と震えたのが判った。

 だから最後の言葉は、リアスにしか聞こえないくらいのボリュウムに抑えて言った。

 

「俺も、お前さんに言っとかなきゃならねえことがあるからな」

「え……?」

 

 碧い瞳をこちらに寄越すリアスに、斬輝はそれ以上語らなかった。

 後は、すべてが終わってからだ。

 胸の奥に生まれた感情と、

 リアス・グレモリーの気持ちに答えるのは。

 抱擁を解いてマントを翻すと、悠然と扉の方へと歩いて行く。

 

「斬輝……ザンキ!?」

 

 行ってくらぁ、と言い残して、斬輝は部室を後にした。

 扉を閉めた時、胸が引き裂かれるような気持ちがした。

 

 

 体育館に乗り込んだ『敵』は二人。

 裏口からの侵入、と可能な限り気配を殺していたようだが、『侵入した』という事実にこちらが気づいてしまえば意味などない。

 だが、どうやら相手もセオリーは判っているらしい。彼女達にも別動隊はいるだろうが、少なくともセンターにあるこの施設を手放すつもりではなさそうだ。

 ライザーの予想したとおりである。

 

「さて、それじゃ行きましょうか」

 

 正面口に集合して四人の先頭に立つ長身の女性は、胸元などが大胆に開いた青いチャイナ・ドレスを纏う女格闘家だ。

 そんな彼女の隣に立って、ミラはぽつりと提言した。

 

「ねえ雪蘭(シュエラン)。もしあの中に『あいつ』がいたら、私にちょうだい」

 

 雪蘭と呼ばれた女格闘家は、少し驚いたようにミラへと視線を向ける。小柄なイル・ネル姉妹も、不思議そうに彼女を見上げた。

 

「ミラ……?」

「私は、たしかにみんなの中じゃ一番弱いわ。……けど、それでもライザーさまの『兵士(ポーン)』なのよ。それなりの自負だってある」

 

 なのに、と棍を握りしめるミラの力が強くなり、怒気がこもった言葉は喰いしばった歯の隙間からこぼれる。

 

「気がついたらみんなに手当されてた。下僕悪魔ですらないただの『人間』に、手も足も出なかった……」

 

 それがたとえ、こちらから仕掛けた不意打ちを見破られていたからだとしても、だ。

 

「彼が許せないの?」

「違う……」

「なら、今あなたが思ってることは何?」

 

 応えなかった。

 いや、応えられなかったのだ。

 この気持ちは、いったい何だ?

 悪魔と比べればはるかに脆弱な人間ていどの存在にあしらわれた恥? それもある。

 ライザー・フェニックスの下僕としてのプライドをへし折られた屈辱? 嘘ではない。

 だがどれも、ミラの中にある『一番の気持ち』ではないのだ。

 ならば……。

 一つの結論に至ったミラは、目を俯かせて呟いた。

 自分の気持ちを理解した途端、あの男へと向けられていた怒りは自分への哀しみへと変わった。

 声はわずかに震え、目に映る鉄製のドアが揺れる。

 

「……悔しい」

 

 彼我の実力差を知らしめてやるつもりが一撃で沈められたことが。

 何よりも、それで気を失ってしまった自分自身の実力が。

 ……そうか。

 悔しかったんだ、私……。

 

「お姐ちゃん……」

 

 心配そうにつぶやく双子の声が聞こえる。

 だがこのメンバーで最年長である雪蘭の声音は、優しくて、それでいてどこか楽しそうだった。

 

「いいじゃない」

「え?」

「悔しいって思えるのはいいことよ。その悔しさをバネにして、立ち上がって、前よりも強くなればいいんだから」

「前よりも、強く……?」

 

 見上げたミラに目線を合わせるように片膝をついて、そうよ、と雪蘭はうなづく。

 

「今の自分に甘んじてたら、そのうち足もとをすくわれちゃうもの。……もっとも、だからといってあの子達に負けるつもりはないけどね」

 

 それに、と言いながら雪蘭は立ち上がり、ドアノブに手をかけた。

 

「人間だから、って相手の実力を見誤らないこと。彼の目、よく見た?」

「目?」

「相手の動きをよく『見て』、それでいて最低限の動作で対処出来るだけの思考力と判断力、それに瞬発力もある。あの子、闘うことに関して言えば一流よ」

 

 前を向きなさい、と雪蘭は言った。

 

「彼をギャフンと言わせたいなら、昨日までの自分を超えること。いいわね?」

「うん……判った……!」

 

 目尻に溜まった涙をぬぐって、ミラは力強くうなづいた。

 得物をしっかり握りしめて。



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第一〇章 覚悟の一手

 お久しぶりです。
 なんだかんだで結構時間が空きました。


       

 

 

 同行する小猫の足が止まったのは、演壇の裏側に来た時だ。完全に再現された体育館の内装に内心驚きながら、一誠も歩みを止め物陰に隠れる。

 

「小猫ちゃん、どうかした?」

「……気配、敵」

 

 応える後輩の言葉は、わずかな囁きだ。

 

「数は?」

「四人です」

「つまり『情報』通り、てことでいいんだよね」

「はい」

 

 短い会話を交わしていると、女性の大音声(だいおんじょう)が反響して聞えてくる。

 

「そこにいるのは判っているわよ、グレモリーの下僕さん達! あなた達がここへ入り込むのを監視していたんだから」

 

 バレちゃってるんなら仕方がないか。

 一誠達はお互い見合ってうなづくと、堂々と壇上に姿を現すことにした。同時に、体育館のコートに立つ人物を見やる。

 長身で黒髪の女性は露出の多いチャイナ・ドレスで、その斜め後ろに立つスパッツ少女達は双子らしい。身長の半分以上もあるバッグを軽そうに肩にかけているあたり、悪魔の膂力というのは見かけによらないようだ。

 そして、双子と逆サイドの位置に立つ少女は一〇日前に斬輝に返り討ちにあった棍棒の少女である。何かを探しているようで、チラチラと視線をさまよわせている。

 相手戦力は四人。

 単純にこちらの二倍だ。

 チャイナ・ドレスの女性が前に出る。

 

「『戦車(ルーク)』さんと、やたらと元気な『兵士(ポーン)』さんね。私は『戦車(ルーク)』の雪蘭(シュエラン)よ」

「『兵士(ポーン)』のイルで~す!」

「同じく『兵士(ポーン)』のネルで~す!」

「……『兵士(ポーン)』のミラよ」

 

 彼女たちの名前を聞き終わると同時に、傍らの小猫が呟いた。

 

「あの『戦車(ルーク)』、かなりレベルが高いです」

 

 雪蘭のことだ。

 

「戦闘力だけなら、『女王(クイーン)』と同等……」

「マジかよ……」

 

 そんなのと今から闘わなきゃならないのか……。

 けど、

 

「こっちの不利は端から判ってたんだ。そのために修行してきたんだし!」

「イッセー先輩……」

「行こう、小猫ちゃん! 一〇日間の修行の成果、見せつけてやろうぜ!!」

「……はい。では私は『戦車(ルーク)』を。イッセー先輩は『兵士(ポーン)』達をお願いします」

「任せとけ!」

 

 言い放つ一誠の左腕に、『赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)』が現れる。手の甲にはめ込まれた緑の宝玉はすでに淡い光を湛えているようで、いつでも準備万端といったところだ。

 

「ブースト!」

Boost(ブースト)!!』

 

 一誠の叫びに呼応するように、力の倍加が始まった。

 演壇から飛び降り、それぞれの敵と対峙する。

 格闘家は腰を低く落として腕を前後に大きく広げる。それに応えるように小猫は右足を半歩引き、握った拳を構えた。

 そいつを視界の端で捉えながら、一誠も見様見真似で戦闘態勢に入った。いつでも応戦出来るよう低く構え、右の手は拳を、龍の籠手につつまれた左手は指先をカギヅメのように曲げる。

 赤いハッピの少女も長物を構え、双子の少女は肩に提げたバッグからチェーンソーを取り出し、早速エンジンをかける。ぶるん、と一つ胴震いすると、けたたましい騒音が耳に刺さってくる。

 ……ん?

 

「ってチェーンソー!?」

 

 取り出されたまさかの武器に驚愕した一誠に、ライザーの『兵士(ポーン)』達は容赦なく突っ込んできた。

 最初にしかけたのはミラだった。間合いを一気に詰めて腹部めがけて棍棒を叩き込んできたのである。

 だが幸いだったのは、それが牽制などではなかったことだ。今の彼は、真正面からの直線攻撃を喰らうほどのシロウトではない。

 飛び退(すさ)りながら、左の籠手で棍の先端を力強く叩き落とした。

 しかし、相手は一人ではない。

 初撃をいなされたミラの背後から二つの影が跳びあがる。

 どちらも華奢な子供が持ち上げるには重いであろう殺人兵器を頭上に掲げて。

 

「こんにちは~!」

「お兄ちゃん避けないでね~!」

「ぅお、こっわ!!」

 

 空中から振り下ろされる格好になったチェーンソーを横っ飛びに飛ぶことでかろうじて回避する。受け身をとって起き上がる時には、すでに着地した姉妹が満面の笑みでこちらに向かってくるではないか!

 

「もう、避けないでって言ったじゃ~ん!!」

「避けなきゃ間違いなく死ぬでしょーが!?」

 

 そう毒づくも、解体シスターズの猛攻は止まることがない。時に頭部、時に背中、時に腕とさまざまなところを狙いながら、徐々に肉薄してくる。一発でも当たったらお陀仏してしまう自信があった一誠は、ひたすら逃げ回るしかなかった。

 だが合宿の成果か、どんなに走り回っても息切れすることがない。おかげであちら側も、あと一歩というところで斬撃を掠めているのだ。

 肩越しに振り返ると、二人の後方からミラも駆けてくる。

 

Boost(ブースト)!!』

 

 ……よし。

 ひらめいた一誠は、そのまま走り続ける。

 その先にあるのは……壁だ!

 

「行き止まりですよ~!」

「これで解体しま~す!」

 

 きっと彼女達は、こちらの判断ミスで追い込まれたと思っているに違いない。

 だが。

 

「あらよっ、と!」

 

 一誠は走った勢いと倍加の勢いを殺さずに片足を壁にたたきつけ、もう片方の足を振り上げる。同時に両腕もあげて、軀を宙へと浮き上がらせた。

 咄嗟に悪魔の羽を展開したのは、もしもの保険だろうか。

 いずれにせよ、シスターズのチェーンソーは標的を捉えることなく空を切った。

 

「え?」

 

 驚愕の声は、誰が発したのかよく判らない。

 次の瞬間、一誠は勢い余って壁に激突するイル・ネル姉妹とその手前で急制動をかけるミラを空中で目撃する。

 壁を利用したバク宙である。羽を利用して高さを稼ぎ、一気に急降下する。

 こちらを見上げてきたミラと、目が合った。

 慌てて棍を構え直すが、もう遅い。

 一誠の狙いは、初めから彼女の正面に着地することだったからだ。

 その距離、たったの一メートル!

 

「よし!」

 

 床に向かって頭から突っ込んだ一誠は、両手で着地し、すかさず右足で弧を描く。

 そいつは見事にミラの足首を捉え、宙へと刈り取る。

 

「きゃっ!」

 

 短い悲鳴を上げ、ミラの軀がバランスを失い、引力に従って背中から床に叩きつけられる。肺の中の空気が一気に吐き出され、瞬間ではあるが呼吸が出来なくなった。

 間髪(かんはつ)入れずに次の攻撃態勢に入り、衝撃で身動きが取れないミラへと拳を突き込む。

 インパクトの瞬間、どがぁん、という破砕音とともにフローリングの床が砕け散る。

 ……しかし。

 

「……手加減のつもり?」

 

 歯を喰いしばったミラのそれは、明らかな怒りを込めている。

 その拳が、彼女へ叩き込まれることはなかった。

 ミラの顔面を避け、そのすぐ隣の床に激突したのだ。

 

「やっぱり、俺には出来ないよ」

 

 拳を床に突き刺したまま、ぽつりとつぶやいた。

 

「……敵だからって、女の子を殴るなんて……」

 

 甘いな、とは自分でも思う。これは遊びではない。この勝負にはリアスの将来がかかっているのだから。

 だが、目の前の彼女は、レイナーレとは違う。

 個人的に嫌悪感を抱いているのはライザーであって、彼女には何の恨みもない。

 だから……、

 

「ふざけないでよ!!」

 

 そのミラは仰向けのまま、握った拳をガラ空きだった一誠の胴へと叩き込む。

 

「がはっ!?」

 

 思いもよらぬ反撃に何の備えも出来なかった一誠は、衝撃が背中へ抜ける感覚と同時に己の軀が宙へと浮かび上がってしまう。さっきの意趣返しのように背中から叩きつけられ、たまらず咳き込んだ。痛む軀を起こすと、すでにミラは態勢を整えていた。

 駆け付けたイルとネルも、得物を掲げる。

 ミラの軀が、わなわなと震えている。顔もうつむいて、だからその表情がどうなっているのか、こちらからは判らない。

 そして吐き出されたのは、絶叫だった。

 

「女だから殴れない? 莫迦にするのもいい加減にして! 私だって本気でやってんのよ!! 覚悟をもって、あいつにリベンジするために! こんなとこで負けるわけにはいかないの!」

 

 だから、と言葉を続けようとする時、小さく洟をすする音が聞えたような気がした。

 そしてそれは、幻聴ではなかった。

 

「あんたも本気でやりなさい!!」

 

 そう叫んで顔を上げた彼女は……泣いていた。

 

「キミ……」

 

 呆然と見つめてしまうも、すぐさま思考を切り替える。

 そうだよな。相手も本気でかかって来てるんだ。俺も覚悟を決めなきゃだめだよな。

 

「ごめん、俺が悪かった。女の子だから殴れないだなんて、ただの言い訳だったよ」

「……ふん、やる気になった?」

 

 涙をぬぐったミラに、得意げに問いかけられる。

 

「ああ。もう言い訳なんてしない、俺は俺のやり方で、部長達の日常を護る!」

Boost(ブースト)!!』

 

 その言葉が合図となった。

 お互いに地を蹴り、急接近する。

 顔面へと突き込まれるミラの棍をブーステッド・ギアの装着された腕を叩きつけることで軌道を逸らし、己の右側へ通過するように誘導する。

 

「こんな奴に手こずってたらライザーさまに怒られちゃうわ!」

「だから絶対にバラバラにする!」

 

 攻撃をいなされたミラの頭上を跳び越えて襲い掛かる姉妹の振り下ろすチェーンソーを紙一重で交わした瞬間、左手の籠手から四度目の倍加の音声が流れた。

 

Boost(ブースト)!!』

「よっしゃ。行くぜ!」

Explosion(エクスプロージョン)!!』

 

 爆発を意味する単語が轟いた瞬間、軀の内側から力が漲ってくる感覚を憶える。

 赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)による一定時間のパワーアップ状態である。これによって彼の瞬発力や動体視力といった身体能力のすべてが飛躍的に向上するのだ。

 

「ミラちゃん、だったっけ」

 

 刹那、一〇日間の合宿で会得した『技』を使おうかという考えが頭をよぎるが、却下。

 今はまだ駄目だ。

 

「俺達だって同じだよ。この闘いは負けられない。負けるわけにいかないんだ」

 

 リアス部長の『これから』が懸かった、大事な闘いなんだ。

 

「だからこそ!」

 

 大きく踏み込んで、双子との距離を詰める。ぶおん、と大気を切って移動する姿に呆気にとられた二人の軀に、叩きつけたのは拳ではなく掌底だ。

 だが威力は申し分ないようで、二人の少女は声も出せずにミラの両脇を勢いよく通過、彼女達が入ってきた入り口側の壁へと叩きつけられる。

 すさまじい衝撃が小柄な体軀を襲い掛かり、二人は獲物を落として床へ倒れ込んだ。

 その軀が、光の粒子に包まれる。

 程なくして、二人の姿は体育館から消失した。

 

『ライザーさまの〝兵士(ポーン)〟二名、戦闘不能!』

「イル! ネル!?」

 

 反射的に二人が飛ばされた方へとミラが首を返した時、兵藤一誠はすでに次の動きへと移っていた。

 

「キミの相手は、俺がするべきじゃない」

 

 頼みますよ、先輩。

 

 

 目の前で、リアス・グレモリーの『兵士(ポーン)』が跳びあがる。

 彼女の頭上を越え、その向こうへと。

 振り返ったミラの視線が、そのまま彼の挙動を追って顔を仰のかせる。

 そうして彼の姿がミラの視界から外れた時、体育館の天井が見えた。

 いくつもの照明。

 屋根を支えるべく規則的に組み上げられた鉄骨。

 ちょうどそこに、いた。

 レーティング・ゲームが始まってからまだ一度も姿を見かけていない『男』の姿が。

 探していた『あいつ』の姿が。

 まさか。

 ずっといたの?

 思考がぐるぐると渦巻く中、ミラはただ、呆然と『彼』の異名を呟くしかなかった。

 

「黒き魔人……」

 

 そこから大の字で飛び降りてくる黒ずくめの男の口許には、薄く笑みが浮かんでいた。

 着地したのは、ミラの真正面、その距離は二メートルほどである。

 どん、という地震のような地響きをたてて、その振動は床を、壁面を、そしてその場にいた全員を揺らした。

 両足を限界まで曲げて、膝の間に頭を納めた格好だ。同時に彼の周囲で炸裂するのは、体育館の板張りの床である。魔人の踏みしだいた箇所で床そのものがクレーターのごとく陥没し、周辺のフローリングが放射状に砕けて飛び散ったのだ。

 

「あれは……リアス・グレモリーの協力者!?」

 

 小猫の後ろ回し蹴りをかわしつつ、雪蘭が声をあげる。

 だが警戒していたはずの男の予想外の登場に気を取られたのか、続く正拳突きをモロに受け、後退る。

 

「ぐっ……! どうして!? 私達が確認したのは二人だけだったはず!」

「おめぇらが来る前に忍び込んだに決まってんだろ」

 

 雪蘭の疑問に即答し、男は上体を起こして向かい合うミラに笑いかけてきた。

 

「よう、また会ったな。お望み通り来てやったぜ」

「あ、あ……」

 

 言葉が出てこない。

 思考がまとまらず、金魚のように口をぱくぱくさせるだけだ。

 

「俺を探してたんだろ? ほら、ちゃっちゃとやろうぜ」

 

 ぱんぱんと手を叩き、マントの隙間から片手を出して、それはかかってこいという合図だろうか。

 その音にようやく気づいたのか、ミラは落ち着きを取り戻し、視線を鋭くする。

 

「そうよ」

 

 応える、その声には落ち着きが戻っていた。

 腰を落として、得物の先端を奴の喉元へ向ける。

 

「もう(おご)りも油断もしない、今の私が持てる全力で、あんたにぶつかってやるわ」

「そいつは、あいつの眷属悪魔としてか?」

「違うわ」

 

 即答だった。

 そう。

 これは、

 

「今この時だけは、ライザーさまの『兵士(ポーン)』じゃない。下級悪魔のミラとして闘うわ」

 

 だから、と棍を握る手に込める力が強くなる。

 彼女の瞳は、まっすぐに斬輝を捉えていた。

 

「あんたも本気で来なさい」

「心配すんな」

 

 彼も両腕を広げ、拳を握る。

 じゃりん、と金属の擦れ合う音と同時に、奴の顔が一瞬しかめられたのが見えた。

 

「おめぇらが敵である以上、俺は手を抜かねえからよ」

 

 直後、三つのことが同時に起こった。

 最短距離で跳び込んできたミラが得物を魔人に突っ込んだ。

 ばざん、とマントをはためかせたかと思うと、彼女の視界が塞がれた。

 標的を失った棍棒が、銀色の閃きとともに一瞬にして真っ二つに両断された。

 

「悪ぃな」

 

 自分の武器を呆気なく破壊されたミラに、黒鉄斬輝は眉を寄せて申し訳なさそうにつぶやいた。

『武器』を引っ込めた拳が、ミラを打ち据えた。

 腹を。

 ほとんど真下から。

 信じがたい衝撃が、腹から背中へ抜けつつ、全身に拡散した。

 なに?

 なに、これ?

 こんなに呆気ないものなの?

 やっぱり、手も足も出ない……。

 それなのに、どこか気分が晴れたような感じがするのはなぜなのだろう。

 

「言った通り、手は抜かなかったぜ」

 

 意識が消える寸前、ミラが最後に聞いた言葉がそれだった。

 

 

『ライザーさまの〝兵士(ポーン)〟一名、戦闘不能!』

 

 グレイフィアのアナウンスを聞き流しながら、斬輝は無言で足元を見つめていた。

 正確には、さっきまでそこにいた者を、だ。

 一定以上のダメージを受け、審判により戦闘続行が不可能と判断された場合、対象となる者はリタイヤとなってフィールドから強制転送させられる。医療設備の整った冥界の施設へと移し、速やかな治療を行うのだ。

 さきほど斬輝が撃破した『兵士(ポーン)』も、おそらくそこへ飛ばされたのだろう。

 顔を上げて周囲を見回すと、小猫が残った『戦車(ルーク)』を押さえつけているところだった。

 

「そっちも終わったか」

「はい……」

 

 首をひねって、廊下側の入口際にいる一誠に目をやる。

 

「兵藤も、とりあえずお疲れさん。ずいぶん闘えるようになってんじゃねえか」

「へへっ、うッス!」

 

 鼻を掻いて、嬉しそうにピースサインを寄こしてきた。

 ちょうどその時、耳に突っ込んでいた通信機に連絡が入ってくる。

 

『私よ。三人とも、状況は?』

「とりあえずこっちはあらかた片付いた。いつでも行けるぜ」

『ちょうどよかったわ。朱乃の準備が整ったの、例の作戦通りにお願いね』

「あいよ」

 

 通信を切って、斬輝は一誠と小猫に目配せする。二人はうなずくと、体育館への中央口へと走り出した。

 斬輝も踵を返して外へと向かおうとすると、背後から困惑した声が飛んでくる。

 

「逃げるつもり!?」

 

 ライザーの『戦車(ルーク)』だ。

 

「まだ勝負はついていないわ! まさか重要拠点を捨てるつもりなの!?」

 

 彼女の指摘は、的を射ていた。

 リアスの陣地である旧校舎とライザーの陣地である新校舎とを繫ぐ唯一の場所である体育館は、チェスに当て嵌めれば『センター』と呼ばれる、まさしく重要拠点なのだ。

 だが。

 

「ああ」

 

 斬輝は、肩越しに振り返りながら片手をひらひらと振って見せた。

 そして、

 

「そのまさかさ」

「……何ですって……?」

 

 雪蘭の当惑に、斬輝は笑みで応える。

 

「別にここを占拠するのが目的じゃないんだわ」

 

 じゃあな、と残して、外に出る。同時に膝を折り、すでに脱出していた一誠達のもとへと跳躍した。

 二人の近くで着地した次の瞬間、

 轟音とともに巨大な雷の柱が体育館へ叩きつけられた。

 

 

 

       

 

 

 リアス・グレモリーが提示した最初の作戦は、いたってシンプルなものだった。

 囮作戦である。

 両陣営にとって無視出来ない位置にある体育館をあえて消し去り、攻撃手段として利用することによって相手側の戦力を削ごうというわけだ。

 思い切ったな、と斬輝が彼女に向けて言ったのは、つまりこのことだった。

 絶対的な人数差を補うために、自ら重要拠点を放棄したのだから。

 一誠達がわざわざ裏口から侵入したのも、あらかじめ監視されていたことを見越しての演技である。相手の下僕も体育館に入り込ませて、戦闘に発展するよう仕向けたのだ。

 ある程度戦闘すれば、あとは逃げるだけ。

 そしてリアスが話していた意外性は、果たして功を奏した。

 

「あーぁあ、ド派手にかましてらあ」

「す、すっげ……」

 

 立ち昇る黒煙を遠目に眺めながら、感嘆の声をあげる。

 さっきまで体育館だったものは、そこにはない。跡形もなく消え去ったのだ。

 そこへ。

 

撃破(テイク)、うふふ……」

 

 静かな声が。

 見上げると、そこには見慣れた女が、見慣れない姿で右手を天にかざしていた。

 姫島朱乃だ。どういうわけか、白衣に緋袴という巫女装束という出で立ちで浮遊している。

 黒い翼を広げ、

 恍惚の表情を浮かべて。

(いかずち)巫女(みこ)』。

 それが彼女の通り名だ。まだリアスが正規のゲームに参加出来る年齢に達していないにもかかわらず、その名と力は一部の悪魔の間では有名になっているらしい。

 

『ライザーさまの〝戦車(ルーク)〟一名、戦闘不能!』

 

 どこからか響いてくる、リタイヤを告げるアナウンス。

 ともあれ、これで都合四人を倒したことになる。

 順調な滑り出しといったところだろうか。残るはライザーを含めて一二名。そのうちの何人かは木場達が仕掛けた罠にかかっているだろうから、実際に相手取るのはもっと少なく見積もってもいいだろう。

 リアスから通信が入る。

 

『イッセー、斬輝、小猫。上手く脱出出来たかしら?』

「部長! はい、みんなピンピンしてます!」

「……作戦成功です」

『それは結構』

 

 彼女の声は、どこか嬉しそうだ。

 

『でも油断は出来ないわ、まだ相手の方が数は上よ。あの雷は一度放ったら二撃めを放てるようになるまで時間を要するわ。朱乃の魔力が回復ししだい私達も前へ出るから、それまで各自、次の作戦に向けて行動を開始して!』

 

 通信を切ると、一誠が大きく伸びをした。

 

「あー……何とかなった!」

「お疲れさん。結構スタミナついたんじゃねえか?」

「そうなんスよ! おかげで息切れも全然なくて! 改めて、一〇日間特訓してくれてありがとうございましたッ!」

 

 そう言って一誠は、びっくりするほど正確に四五度の角度で斬輝に対してお辞儀した。

 だが当の斬輝としては、

 

「おいおい、よせよ。勘弁してくれ。そういうの好きじゃねえんだよ、俺」

 

 早く顔上げろって、と無理やり一誠の軀を起こす。次いで声をかけるのは、小猫である。

 

「お前さんのこともちゃんと『上』から見てたぜ」

 

 体育館のことだ。彼は体育館での戦闘が始まる前から屋根を支える鉄骨に起用に手足をひっかけ、ずっと彼らの闘いを見下ろしていたのである。

 乗り込んできた敵の人数を二人へ教えたのも、彼だ。

 

「よくやったな」

 

 全身を覆うマントの隙間から手を伸ばして、透き通るような彼女の銀色の頭に手をのせる。

 

「にゃっ!?」

 

 何か珍妙な声が聞こえたが、斬輝は気にせずにわしゃわしゃと彼女の頭を撫で、それからぽん、と置いた。

 

「おめぇは強ぇよ。間違いなくな」

「……はいッ」

 

 伏し目がちにうなずいた小猫は、恥ずかしいのか顔を赤くしてうなずいた。

 そこで、斬輝は自分の手を見る。

 

「ん? ああ、悪ぃ悪ぃ。嫌だったか?」

 

 手をどけると、少女は急いで髪の毛を整えなおす。特にいじってもいないのにわざわざ制服の皴を伸ばしてから、一つ大きな息を吐いた。

 

「いえ、別に……」

「そんで、この後は? お前らはどうすんだ?」

「陸上競技のグラウンド付近で裕斗先輩と合流。その場の敵を殲滅……です」

 

 急ぎましょう、と少女はつぶやいて、一足先に歩いて行ってしまった。

 

「……にしても木場の奴、大丈夫かな」

 

 一誠である。ともに、小猫の後ろをついて歩く格好だ。

 

「そう簡単に後れを取る奴じゃねえだろ? 合宿でやり合ってみて判ったが、あの剣の腕前なら大抵の敵はどうにでもなる」

 

 塔城の莫迦力(ばかぢから)にしてもな、と前方の小猫に目をやったのは、だから偶然ではあった。

 だがその偶然が、彼に気づかせたのだ。

 考えるよりもまず、軀が動いていた。

 腰を落とし、地を蹴る。尻を蹴飛ばされたような勢いで向かうのは、銀髪の少女だ。

 マントを広げて塔城小猫を抱き込むと、彼女の身体はすっぽりと彼の纏うマントの中へと隠れる。

 

「ちょっ、斬輝先輩! どうしたんですか!?」

 

 訳が判らない一誠が声をあげ、

 

「ふにゃっ!? 何を……」

 

 突然太い腕に抱きしめられる状態になった小猫は彼の腕の中で身じろぎする。

 それらをすべて無視して、斬輝は叫んだ。

 

「歯ぁ喰いしばってろ!!」

 

 直後、爆砕音が耳をつんざく。

 真下から叩きつけてくるのは、爆風だ。

 地面が爆発したのだ、と気づいた時には、すでにどうすることも出来なかった。

 

「小猫ちゃん! 斬輝先輩!!」

 

 圧倒的な大気の圧力が斬輝の軀を吹き飛ばし、

 黒ずくめの男は宙を舞った。



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第一一章

       

 

 

 斬輝が弾丸のごとく飛び出して小猫を抱き込んだ時、二人の足元に見慣れない魔方陣があることにようやく一誠は気がついた。

 続くのは、巨大な爆発である。

 

『イッセー!?』

 

 突然、耳元で怒鳴られた。

 リアスだ。

 

『二人がどうしたの!? 答えなさいイッセー!』

「先輩が小猫ちゃんを庇って、爆発に……」

 

 煙を上げて、斬輝が地面の上を転がってゆく。マントが螺旋を描いて、彼の後を追う。

 五メートルほど飛ばされてようやく止まった時、斬輝はぴくりとも動かなくなってしまった。

 そんな、

 先輩が……?

 謎の声は、

 

撃破(テイク)

 

 頭上から。

 見上げると、ボリュウムのある長髪の女が、自身の背丈ほどもありそうな杖を構えて空中に浮かんでいる。

 覚えている。

 一〇日前、部室で見た。

 ユーベルーナと呼ばれていた、ライザー・フェニックスの下僕悪魔だ。

 奴の『女王(クイーン)』だ!

 

「何かをやり遂げた瞬間の獲物は、一番隙だらけで狩りやすいもの。こちらは多少の駒を『犠牲(サクリファイス)』にしてもあなた達を一つ狩れば充分。『キャスリング』で『(キング)』と入れ替われると厄介なので『戦車(ルーク)』を狙ったのですが、まさか魔人が自ら餌食になってくれるとは」

「黙れ! ……よくも二人をやってくれたな! 俺が相手になってやるから降りて来やがれ!!」

『落ち着きなさいイッセー』

 

 ふいに、通信機ごしに一誠の怒りを鎮めるように声をかけてきたのは、リアスだった。

 

「で、でも部長!」

『斬輝が小猫を庇ったのよね?』

 

 何をいまさら。だから彼がもろともに吹き飛ばされたのに。

 

『マントはつけていた?』

「は、はい。つけてました……でもそれがどうしたんですか!?」

 

 早く上空にいるあいつをぶん殴りたいのに!

 おかしい、とつぶやいたのは、女魔導師だった。

 

戦闘不能(リタイア)の宣告がない……?」

「えっ?」

 

 開いた口から声が漏れる。

 そこで、一誠も違和感に気がついた。

 そうだ。

 おかしい。

 斬輝が小猫を庇って爆発に巻き込まれたのなら、なぜ一誠のはるか後ろで倒れ伏している斬輝の軀が転送されない?

 彼が悪魔ではないからか? 違う。魔方陣の構築をうまく調整さえすれば、魔力のない人間でも転移させることは可能だ。それにリアスと長い間いっしょにいる斬輝の場合、彼女の魔力がいわば『魔力の香水』として彼の肉体や衣服に付着している可能性があるため、いずれにせよ転移じたいは難しいことではない。

 では、なぜ?

 

『ライザーさまの〝兵士(ポーン)〟三名、戦闘不能!』

 

 代わりに流れるのは、ライザー陣営のリタイアを告げるアナウンスである。おそらく木場が倒したのだろう。

 

「まさか……」

 

 信じられないといった形相で、ユーベルーナは自身が手を下したはずの『獲物』を凝視した。確実に戦闘不能に追い込める自信のある威力をぶつけたからだろう。

 なぞるように、一誠も背後を見る。

 

『心配は無用よイッセー。斬輝はやられていないわ』

「それって……」

 

 ……どういうことですか、と聞き返そうとして、

 

「……げほっ! ごほっ!」

 

 粉っぽい咳が聞えてきた。

 音の主は、こちらに背を向け横たわった格好の黒いマントから。さっきまで微動だにしなかったそれが、もぞり、と動いて仰向けになる。

 

「さすがに衝撃まではどうにもなんねえか……」

 

 糞っタレ、と毒づいて、黒鉄斬輝が緩慢な動きで起き上がった。

 

「斬輝先輩!」

 

 一誠は急いで駆け寄ると片膝をついて、立てた膝を斬輝の背中に添えてやる。倒れないよう支えるためだ。

 

「大丈夫ですか!?」

「おう。とりあえず生きてるぜ。軀の節々は痛ぇけどよ」

 

 マントに覆われていない彼の顔は煤だらけで、まるで実験に失敗した科学者みたいに見える。その顔が苦笑に歪められる

 斬輝、と呼びかけるリアスの無線は一誠にも届いている。

 

『小猫は無事?』

「ああ、何とかな」

 

 答えて、マントの中から抱きかかえた塔城小猫を外に出す。特に目立った怪我はしていないようだった。

 

「爆発のショックで気絶してるだけだ。じきに目を覚ます」

「小猫ちゃん、よかった……」

『斬輝のマントには耐火と防火の魔法をかけてあるの。その中に入っていれば、ライザーの炎に焼かれることだってないわ』

 

 まさかこのマントにそんな仕掛けが施されていたとは。

 感心してる一誠をよそに、斬輝は小猫を横抱きのまま立ち上がる。

 

「リアス、俺は一旦そっちへ戻るぞ。塔城を寝かせる」

『判ったわ。気をつけて』

「兵藤、お前はこのまま一人で木場と合流してろ」

「うっす! でも、あいつはどうするんですか?」

 

 一誠が首を返すのは、ユーベルーナのことだ。奇襲が失敗したからか彼女の性格なのか、追撃してくることはなくご丁寧にこちらの話を待ってくれているようだった。

 斬輝は女魔導師を見上げると、

 

「……ユーベルーナ、だったよな」

 

 ぽつり、とつぶやいた。

 

「ええ」

 

 応える彼女は、嘲笑だ。

 

「どうやらあなたのマント、『炎』と定義されるものが弾かれてしまうようね。せっかくの狙い撃ちがパアになってしまったわ」

「話は聞えてたぜ。仲間の犠牲を前提に事を運ぼうなんて、ずいぶんお仲間に冷たいじゃねえの。奴のやり方か?」

「勝利に犠牲は付き物……これはいわばチェスの定石よ。ご存じない?」

「知るか」

 

 斬輝の、それは呆れだ。

 

「盤上の駒と眷属を一緒にすんじゃねえや。あいつらには意思があるんだぞ」

 

 背中を預けるべき仲間を何とも思わない相手への。

 

「少なくともあいつの目は本物だった。本気で勝とうと、全力で俺にぶつかってきた」

 

 そして斬輝に負けて、散った。

 

「てめぇはそんなあいつらの意思を踏みにじったんだ」

「だから何だというの?」

 

 ユーベルーナは、それを遮った。構えた杖をこちらへ向けて、それは攻撃の準備だ。

 

「よくしゃべるボウヤだこと。さっきみたいに爆発してみる? 今度は手加減なしで」

「上等だ。やれるもんなら……」

 

 応えかけて、

 

「あなたのお相手は私がしますわ」

 

 突如、こちらを庇うようにユーベルーナとの間に朱乃が割って入ってきた。

 そんな彼女が、肩越しに斬輝を振り返った。

 少しばかり責めるような視線で。

 

「斬輝くん、熱くなるのもいいですが小猫ちゃんのことを忘れないでください」

「……悪ぃ、そうだった」

 

 斬輝は肩をすくめる。

 

「『雷の巫女』ですか……ちょうどよかった。一度あなたとは闘ってみたかったのよ」

「あら、それは光栄に存じますわ。『爆弾王妃(ボム・クイーン)』さん」

 

 魔力の奔流が朱乃から溢れ出し、金色のオーラとなって彼女の軀を包んでゆく。

 姫島朱乃。

 駒王学園三年生。

 リアス・グレモリー最強の下僕!

 

「彼女は私の全身全霊をもって消し飛ばします。イッセーくんは先をお急ぎなさい」

「朱乃さん! 頼みます!」

「斬輝くんも。小猫ちゃんのこと、頼みますね」

「任せろ。無茶だけはすんじゃねえぞ!」

 

 そう告げて、二手に分かれて走り出す。

 それぞれが、それぞれの役目を果たすために。



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第一二章 業火:1

       

 

 

 こんなにも早く動いてくるとは思わなかった、というのが、通信を切ったリアスが最初に抱いた感想だった。

 ライザー・フェニックスの『女王(クイーン)』のことだ。

 序盤(オープニング)から最強の駒である『女王』を迂闊(うかつ)に動かすというのは、チェスにおいてあまり好ましい手であるとは言えない。盤上で味方が密集しているタイミングで動かそうとしてもあまり意味がないのと、早い段階で矢面に立たせるとかえって狙われやすくなるからだ。

 それだけのリスクを孕んでいるにもかかわらず、ライザーは『女王』を直接ぶつけてきた。

 つまり、冒したリスクよりも得られるリターンの方が大きいと奴は判断したのだ。

 ()められている。

 どこまでも、どこまでも、リアス・グレモリーはライザー・フェニックスという悪魔に嘗められている。

 ソファに背を預け、ふう、と息をつく。

 ちらり、と正面を見やる。

 リアスが座るソファとテーブルを挟むように置かれた向かいのソファには、塔城小猫(とうじょうこねこ)が横たえられていた。腹の上で組まれた手を包み込むようにして両手を重ねて、彼女の(かたわ)らで見守るのはアーシアだ。

 かけられた毛布が規則正しく上下しているのを見る限り、その呼吸は穏やかなようだ。

 大丈夫。

『彼』のおかげで、最悪の事態だけは避けられた。

 

「どうだ?」

 

 その『彼』が、タオルで顔を拭きながらシャワー室から出て来る。小猫を部室まで運んだ後、煤だらけの顔を洗っていたのだ。

 どうだ、とは、つまり眠っている小猫が目を覚ますか否か、ということだ。

 アーシアは、首を横に振った。

 

「まだです」

「お前さんの神器(セイクリッド・ギア)でも無理か」

「私の『聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)』は、消耗した体力などは回復出来ないんです。怪我の方はほとんど治療したので、あとは小猫ちゃんが自然に目覚めるのを待つしか……」

「そうか……」

 

 タオルをテーブルに置くと、黒鉄斬輝(くろがねざんき)はリアスの隣に腰を下ろす。前屈みになって膝の上に肘をつき、組んだ手の親指に顎を引っ掛けて、だ。

 とはいえ、ライザー陣営は残り九名。対するこちらは、まだ一人も戦闘不能(リタイア)していないとはいえ、七名。眠っている小猫を除けば六名だ。

 もともとは朱乃の回復を待ってから各個撃破するという算段だったが、向こうの『女王』の相手をしている以上、そうもいかない。

 いつ小猫が目覚めるか判らないこの状況で、レーティング・ゲームの勝利をより確実なものへとするにはどうすればいい?

 ライザー・フェニックス。

 不死身の力を持つ男。

 不死身であることは、それだけで脅威だ。現にフェニックス家は、その不死身の特性を活かしてこれまでのレーティング・ゲームで白星を挙げてきたのだから。

 だが。

 不死身であるのは、あくまでその肉体だけだ。

 ならば、不死身の殻に守られた精神はどうだ?

 刺されようが、撃たれようが、穿たれようが、首を()ねられようが、決して死ぬことのない(からだ)に際限のない『死』を与え続ければ、あるいは戦意を失わせ、心をへし折ることは出来るのではないか?

 そして、とリアスは思う。

 私には、それを可能にする『滅びの魔力』がある。

 だとしたら……、

 

「直接叩くしかねえか」

 

 ふいに、斬輝がそう言った。

 

「叩くって……なにを?」

「フェニックスの野郎に決まってんだろ。どちらにしろ、このゲーム中に俺は奴と闘うことになる。ありがたいことに、向こうのご指名でな」

「それって、あの時部室でライザーが言っていた?」

 

 必ず殺してやるから、首を洗って待っておけよ。

 ああ、と斬輝はうなずいた。

 

「奴が相当な自信家なのは、見りゃ判る。だがそうなるだけの実力があるのも事実だ」

 

 これまでライザーは、公式のレーティング・ゲームに一〇回参加している。そしてその戦績は、接待試合でわざと負けたことを除けば、実に全勝という結果を出しているのだ。

 それは事実上、彼の無敗を意味していた。

 実力は申し分ない。

 

「そんな男がわざわざ、殺してやる、なんて言ってきたんだ。悪魔ですらない、たかが変な二つ名がついただけの人間に、だぞ?」

 

 黒き血濡れの魔人。

 冥界の悪魔にいつの間にか名付けられ、広まった彼の異名。

 それは警戒か、はたまた純粋な興味かは判らないが、ライザーが少なからず斬輝を意識していることは、リアスも理解していた。

 

「奴の狙いは俺だ。俺が動けば、奴も動く。動かざるを得なくなる」

「そう思う根拠は?」

 

 リアスの問いに、

 

「勘だよ」

 

 対する斬輝の答えは、あまりにあっさりとしていた。

 そういうわけだからよ、と彼はそのまま立ち上がって、リアスの執務机に放り投げたままのマントを手に取り、巻き付ける。金色の留め金で留めると、全身を覆い隠してしまった。

 

「俺は行くぜ」

 

 どこへ、とは訊かなかった。

 訊かなくても判るからだ。

 闘いへ行くのだ。

 ライザー・フェニックスのもとへ。

 戦場へ。

 ……彼は一人で行ってしまう。

 私は、とリアスは思う。

 どうするべきなの?

 レーティング・ゲームも中盤戦に差し掛かった今、たしかに『(キング)』であるリアスが本陣を離れることは、望ましくない上にリスクが大き過ぎる。

 でも。

 それでも、私は待つだけなの?

 今この瞬間にも、イッセーが、朱乃が、祐斗が……みんなが必死に闘っているのに、私はただ待っているだけなの?

 みんなが傷ついてゆくのを、黙って見ていることしか出来ないの!?

 違う。

 違うでしょう、リアス・グレモリー!

 そのまま扉へと向かおうとする斬輝の、

 

「待って!」

 

 その手をマント越しに摑んで、呼び止める。

 こちらを振り返る斬輝は、言われた通り待っていた。

 続く言葉を口にするのを。

 リアスを見つめて。

 その瞳を見つめて。

 そして、リアス・グレモリーは宣言した。

 

「考えがあるの」

 

 それは、決意だった。

 

 

 それからすぐ、グラウンド脇に設置された体育倉庫で合流した一誠と木場に、リアスから新たな作戦が告げられた。

 

 

 

       

 

 

 彼の眷属になってからどれだけの年月が経ったのか、細かいことは覚えていない。

 強い相手と剣を交えることが出来れば何でもよかったからだ。

 正面から。

 正々堂々と。

 剣莫迦と言われようとも。

 ゆえに、戦術とはいえ『兵士(ポーン)』を『犠牲(サクリファイス)』にすることには気が引けた。

 だからこそ、ライザー・フェニックスの『騎士(ナイト)』であるカーラマインは歓喜した。

 文字通り莫迦正直に敵の前に姿を現して、正々堂々勝負しろ、と申し込まれたのだ。

 リアス・グレモリーの『兵士(ポーン)』、兵藤一誠(ひょうどういっせい)

 リアス・グレモリーの『騎士(ナイト)』、木場祐斗(きばゆうと)

 そんなことを言われてしまっては、こちらも出て行くしかあるまい。

 一人の騎士として。

 

「ぃやぁああぁああぁああっ!」

 

 人間のそれを超えた強靭(きょうじん)な脚力で、カーラマインは数メートルの間合いを一気に詰めた。

 右足を踏み込み、裂帛(れっぱく)の気合とともに振りかざす彼女の剣には、刀身がない。炎の渦が『刃』を形作っているのだ。

 そのまま、上段で斬りかかる。

 超高速で迫る炎の剣を、リアス・グレモリーの『騎士(ナイト)』は闇のような刀身を持つ魔剣で迎撃に入る。

 だが、

 

「なっ!?」

 

 打ち合いの衝撃を利用して後方へと跳んだ木場祐斗が驚愕の声をあげる。

 彼が握る魔剣の刀身が砕かれ、霧散したのだ。

 

「残念だが、私に貴様の神器(セイクリッド・ギア)は通用しない」

 

 獲物を失った今、彼は身を守る術もなければ攻撃する手段もない。

 兵藤一誠は、残りのライザーの眷属達が相手をしているから、木場祐斗への助っ人は期待出来ない。

 カーラマインの口元に、笑みが浮かぶ。

 剣を持たぬ『騎士(ナイト)』など、恐れるに足りない。

 

「もらったぞ!」

 

 どん、とカーラマインが地面を蹴る。それはまさに、水平方向への跳躍である。

 左の二の腕に刀身を沿わせながら、それはこのまま突っ込んで、横ざまに薙ぐ進路だ。

 

「でぇええぇええぇええいっ!!」

 

 腹の底から張り上げる叫びは、勝利の勝鬨だ。

 カーラマインの剣が相手の胸を斬り裂く、まさにその瞬間、カーラマインは見た。

 木場祐斗の顔を。

 そこにあるのは、来る衝撃と痛みに備えた表情ではなかった。

 笑みだ!

 

「……なにっ!?」

 

 がくん、と標的が崩れ落ちた。

 いや、自ら仰向けに倒れ込んだのだ。おかげでカーラマインの炎の剣は空を斬り、彼女の上体が完全に開いてしまう。

 そして倒れ込んだ木場は、何とも器用なことに両手を地面に突いて軀を支え、限界まで膝を曲げた両足を真上へと向けていた。

 その先にあるのは、剣を振り抜いたことでガラ空きになったカーラマインの上半身だった。

 ずどん、と衝撃が叩きつけてくる。

 五メートルほど上空へと蹴り上げられたカーラマインは、痛みに顔をしかめながら、自分が打ち上げられた地点へと視線を送る。

 すさまじい勢いで、木場祐斗が追いすがってきていた。ぶおん、と鳴るのは、相手が大気を切る音だ。

 体勢を立て直し、迎え撃つこちらは滑空である。

 だが構えた剣を垂直に振り下ろした時、カーラマインは己の耳を疑った。

 がきん、と響くのは、金属どうしの打ち合う音だ。

 そう。

 彼の手には、先ほど叩き折ってやったはずのグリップが握られていたのだ。

 そしてそこには、刀身がある!

 最初と違うのは、色だ。さっきの奴はすべてを飲み込んでしまいそうな漆黒だったのに対して、今度は冷気を伴う薄い水色だ。

 そして、

 

「莫迦な……」

 

 カーラマインは愕然とした。

 炎の剣が、凍ってゆく。奴の剣と打ち合ったところから冷気が刀身を覆い、炎の剣が文字通り氷の剣と化した時、カーラマインの得物は音をたてて崩れ去った。

 お互いに着地し、にらみ合う。互いに間合いの外だ。

 グリップだけになった剣を捨て、腰に携えていた短剣を抜き放つ。一瞬で炎が刀身を包み、それは炎の短剣と変わった。

 胸の前で構えて、

 

「複数の神器(セイクリッド・ギア)を操る剣士か……驚いたな」

 

 それはカーラマインの素直な賞賛だ。

 

「剣を砕いてやった時も、まさかあのタイミングで切り返されるとは思わなかった」

「それは光栄だね。ウチにはその手に厳しい先輩がいるから……実際、かなりしごかれたんだ」

「あの魔人とやらか?」

「そういうこと」

 

 それと、と構える木場祐斗は青眼(せいがん)だ。

 

「キミは一つ大きな勘違いをしている」

「なに?」

「僕は複数の神器(セイクリッド・ギア)を持っているわけじゃない。(つく)ったのさ」

「……どういう意味だ?」

「そのままの意味だよ」

 

 言うなり、奴の氷の刀身が砕け散った。瞬時に、また新たな剣が形成される。

 今度のは、切っ先に奇妙な円状の刃があった。中心には黒い渦が漂っている。

 

「『魔剣創造(ソード・バース)』。すなわち、意思通りに魔剣を創り出すことが出来る!」

 

 言いながら木場祐斗が左の掌を地面に突くと同時に、カーラマインは後方へと飛び退(すさ)った。それはほとんど本能によるものだ。

 次の瞬間、さっきまで女剣士が立っていたグラウンドを、いくつもの魔剣が剣山のごとく突き破ってくる。統一性はなく、どの刀身も独特な形状だ。

 

「魔剣の創造、か……面白い神器(セイクリッド・ギア)を持つ者もいるものだ。斬り甲斐がある」

「言っておくけど、僕達の(あるじ)のためにも負けるつもりはないよ」

「もとより、こちらもそのつもりだ」

 

 向き合うは、お互いの『騎士(ナイト)』。

 柄を、しっかりと握る。

 いざ、と音頭を取るのは女剣士だ。

 

「尋常に!」

 

 カーラマインに、

 

「勝負!」

 

 木場祐斗も応える。

 地を蹴ったのは、同時だった。




 そういえば、今月に入ってから非ログイン・ユーザーでも感想を書き込めるように設定を弄りました。

 ああそれと。
 もうしばらく話が進んだら、おそらくいくつかタグ増えます。


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第一三章 業火:2

Q.昨日の今日というペースで投稿してストックは大丈夫なの?
A.大丈夫じゃねっす。でも、書いた奴出しとかないと、また次の投稿まで時間開いちゃう気がするんだもの。


       

 

 

(キング)』自ら敵本陣へと奇襲をかける。

 それが、リアスが取った選択だった。

 いくらライザーが不死身であるとは言え、ダメージを受けないわけではない。腕を吹き飛ばされれば当然痛むし、たとえ再生されても精神的な疲労は蓄積されるはずだ。そして心までが不死身でないならば、勝ち目はある。

 斬輝の格闘センスと、私の『滅びの魔力』なら、いける。

 一誠と祐斗には、そのための時間稼ぎとして行動してもらっているのだ。

 驚くべきことに、斬輝はその作戦に難色を示さなかった。判った、と応えた後、一つだけ彼女に言ったのだ。

 ヤバくなったら、退()けよ、と。

 旧校舎から出て、新校舎へと続く通路を抜ける。その時、右側のグラウンドで繰り広げられる攻防が尻目に見えた。

 ライザーの『騎士』と剣を交える祐斗……、『戦車』の突きをいなし、『赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)』による倍加が済むまでひたすら攻撃をかわし続ける一誠……。

 頑張って。

 二人とも頑張って!

 すぐに終わるから。

 終わらせるから!

 しばらく走ると、目の前に見慣れた建物が見えてきた。新校舎だ。先頭を走る斬輝が、そのまま両開きの扉まで向かう。

 少しして、顔だけをこちらに向けて、かすかに頷く。鍵はかかっていないようだ。

 リアス達も追って扉の前まで来るのを確認してから、

 

「開けるぞ」

 

 言って、斬輝が扉を開く。続くように、リアスとアーシアも中へと入った。

 ガラス張りの扉を抜けると、そこは四階までの巨大な吹き抜けを持つ昇降口だ。いつもなら、ここで上履きと履き替えているだろう。

 

「静か、ですね」

 

 アーシアだ。

 斬輝も、辺りを見回してから頷いた。

 

「ああ。むしろ静か過ぎるくらいだ」

 

 人の気配はない。あとはこのまま敵本陣の学長室へと殴り込めれば、後は実力勝負だ。

 だが、とリアスは思う。

 ライザーはレーティング・ゲーム公式戦の経験者だ。いや、そうでなくても、そう易々と敵に陣地への侵入を許すものだろうか。

 

「でも油断は出来ないわ。場合によっては何か(トラップ)が仕掛けられている可能性もあるもの」

 

 (いぶか)しむようなリアスの言葉に、

 

「心配しなくても」

 

 応えたのは、斬輝でもなければアーシアでもなかった。

 

「ここにいるのは正真正銘、俺だけさ」

 

 むん、とする熱気が、背後からやってくる。

 弾かれたように、振り返った。

 ワイン・レッドのスーツが、三人を見据えていた。

 

「待っていたぜ、愛しのリ・ア・ス」

「いつの間に……」

 

 思わず口にしてしまってから、それが愚問であることにリアスはすぐさま理解した。

 転移だ……!

 斬輝の勘は、当たっていたのだ。

 

「やっぱり、私達が来るのはお見通しだった、ってわけね……」

 

 苦虫を嚙み潰したように呟くリアスに、そのとおり、とライザーは笑みで応える。

 

処女(ヴァージン)が経験者を嘗めちゃいけないよ」

「……相変わらず品のない人」

「でもな」

 

 斬輝が、両方の拳を構える。その全身はマントに隠れているため、傍目には右半身(はんみ)に構えたようにしか見えなかった。

 

「こっちはこっちで、てめぇが来るのを待ってたってわけよ」

 

 挑むように前へ出ようとする彼を、ライザーが手で制する。右の掌をこちらに向け、左手はパンツのポケットに突っこんだままで、だ。

 

「まあまてよ、魔人くん」

「なに?」

「俺の炎にしろ、リアス……キミの『滅びの魔力』にしろ、ここで()り合うにはいささか手狭(てぜま)だろ? 俺としても、攻撃の余波でキミの通っている校舎を倒壊させてしまうのは、いくらレプリカとは言えどいささか気が引ける」

「お気遣いどうも。で、何が言いたいのかしら?」

 

 斬輝の隣で、ライザーを睨み据えたまま、リアスが問う。ちょうどその時、グレイフィアの声でライザーの『戦車(ルーク)』のリタイヤが告げられた。

 

「単純なことだよ」

 

 そして、不死鳥の名を持つ男は、言った。

 

「場所を変えよう」

 

 それは宣戦布告だった。

 

 

 

       

 

 

(キング)』からの通信は、わずかに二言。

 リアス達の相手をする、そっちは任せた。

 判りましたわ、とだけ返して、これは認識を改める必要がありますわね、と『僧侶(ビショップ)』の少女は思う。

 兵藤一誠の実力が、当初想定していたものよりもいくらか高かったためだ。一五回もの倍加に耐えられるだけのスタミナを身に着け、なおかつそのパワーが凝縮された魔力の砲弾はイザベラを巻き込み、グラウンドを削りながら推進し続けて、一〇〇メートルほど先で巨大な爆発を起こしたのである。

 

『ライザーさまの〝戦車(ルーク)〟一名、リタイヤ』

 

 ……直前に『洋服崩壊(ドレス・ブレイク)』とやらでイザベラの衣類が吹き飛ばされた時は、さすがに呆けてしまったが。

 ふむ、と思案する。

『紅髪の滅殺姫(ルイン・プリンセス)』、

『雷の巫女』、

聖母の微笑み(トワイライト・ヒーリング)』、

魔剣創造(ソード・バース)』、

赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)』、

 ……そして『黒き血濡れの魔人』。

 大仰な名前の割には大したことのない連中だと、そう思っていた。

 下僕の中で警戒すべきはせいぜい相手の『女王(クイーン)』と、あとは協力者の魔人程度で良いと考えていたのだ。

 レイヴェル・フェニックスも、その中の一人だった。

 

「正直、あなどっておりましたわ、あなたのこと」

 

 ドレスの裾についた砂埃を払いながら、それはリアスの『兵士(ポーン)』へ向けて、だ。当の本人は倍加がリセットされた途端、膝に手をついて息を整え始めた。どうやら二分半かけて行われた倍加中に受けたイザベラの打撃が、彼の軀を内側から苛んでいるようだ。

 

「はっきり言って、あなたにイザベラが倒せるとは思いませんでしたの」

「へへっ、そりゃどうも」

「でも、その勢いもここまでですわね」

 

 右腕を横へ振ると、レイヴェルの側にいた残りの下僕悪魔が赤龍帝を取り囲むように展開した。獣人の女戦士の双子である『兵士(ポーン)』が二人と背中に幅広の大剣を背負う『騎士(ナイト)』が一人、そして十二単を着た『僧侶(ビショップ)』が一人である。

 ふいに、視界の端に見慣れた炎の翼が映った。

 ちょうどいい。

 

「ねえ『兵士』さん、あれが何か判るかしら?」

 

 言いながらレイヴェルが指す先は、新校舎の屋上だ。そこにいる者を見た時、一誠の顔が驚愕の色に変わる。

 

「ぶ、部長!?」

 

 黒い翼を広げたリアス・グレモリーが、『聖母の微笑み(トワイライト・ヒーリング)』を連れて屋上へ降り立つところだったのだ。十数メートル離れたところにはすでにライザーがいて、お互い向き合う格好になった。

 少し遅れて校舎の四階の窓が開かれると、何か黒い影が勢いよく跳び上がる。黒き魔人だ。

 

「何でだ? 直接仕掛けるっつっても、早過ぎんだろ……」

「先ほどお兄さまから、リアスさま達と勝負をすると連絡がありましたの。おおかた、こちらの本陣に奇襲をかけるつもりだったのでしょうけれど……。残念でしたわね、経験者を嘗めてもらっては困りますわ」

 

 どうやら図星だったらしい。ぎり、と赤龍帝の少年が歯嚙みするのが判った。

 

「お判りになります? これがあなた方にとってどれだけ絶望的であるか。いくらあなた方が善戦しようとも、こちらは不死鳥(フェニックス)。不死を相手に、どうやって勝つつもりですの?」

「勝つさ!」

 

 即答だ。口から垂れる血を拭って、一誠の瞳は真っ直ぐにレイヴェルを捉えていた。

 

「俺、莫迦だからさ。チェスのことなんて全っ然判ってないけど、でもこれだけは知ってる」

 

 赤い籠手に覆われた拳を握り、顔の前に構える。手の甲に嵌め込まれた緑色の宝玉が、光を反射して、きらり、と煌いた。

 

「たとえ倒れても、立ち上がれる限り俺は拳を握る。拳を握れる限り、俺は闘える。闘える限り、俺は……俺達は絶対に諦めない!」

 

 消耗した状態で、なおも彼が笑みを浮かべる理由は、なぜだろうか。

 

「知ってるか?」

 

 まさに多勢に無勢という状況で、なおも彼の目に闘志が宿っている理由は、なぜだろうか。

 

「俺達グレモリー眷属はな、みんなタフなんだよ!」

 

 声が割って入ったのは、

 

「……吹っ飛べ」

 

 その時だった。




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第一四章 業火:3

 黒いマントが、屋上を駆ける。

 右足で踏み込み、右の縦拳(たてけん)を打つ順突きである。

 狙いは胸の中央、背骨の左右から回り込んだ肋骨(ろっこつ)が接合する、胸骨と呼ばれる部位だ。

 

「おうら!」

 

 常人では絶対に回避不可能なその速攻を、

 

「せいッ!」

 

 しかしライザーは摺り足で瞬時に後退しつつ、左の内受けで流す。

 体勢の開いてしまった斬輝の背中を、今度はワインレッドのスーツの左脚が打ちにかかった。

 炎をまとった、それは回し蹴りだ。

 突きを流された斬輝は、その勢いを殺さず右足を軸に左脚を引きながら、反時計回りに回転する。同時に、打ち込まれた蹴りを、マントから伸びた左の二の腕で上方へと()()げた。

 熱い。

 だがライザーの体勢が、わずかに崩れた。

 

「効くかよ!」

 

 蹴りを受け止めた反動で今度は右へと回転しつつ、斬輝は左脚を折って両手を地に突く。

 回転に乗って身をひねり、伸ばした右足で円を描いて、重心の定まらないライザーの脚を薙ぐように払った。

 いや、払おうとした。

 その寸前、ライザーが炎の翼を広げて後方に跳躍する。

 斬輝の脚は空を切り、敵は上空から炎の魔力をこちらに向けて放とうとしていた。

 

「させないわ!」

 

 言って、斬輝の背後から飛び上がるのはリアスだ。ライザーからの砲弾は、斬輝に当たる寸前で、彼女の紅い魔力によって相殺(そうさい)された。

 爆炎が、お互いの視界を塞ぐ。

 斬輝の隣に着地した彼女の制服は、すでにところどころが破れ、焼け焦げていた。修復しないのは面倒だからではなく、余分な魔力の消費を抑えるためだろう。

 斬輝も似たような格好だった。分厚いマントは度重なるライザーの猛攻で裾はほつれ、カギ裂きで破れ始めているのだ。相変わらず炎の熱は遮断してくれているが、正直言ってそれもいつまで保っていられるか判らない。

 だがひとたびマントから腕や足を出そうものなら、話は別だ。現に、ライザーの回し蹴りを受けた左腕がひりひりする。賭けてもいい、きっと火傷してる。

 

「平気?」

 

 問いかけるリアスの、その息も荒い。斬輝は引き結んだ唇の隙間から、ふう、と大きな息を一つして、サムズ・アップして応えた。

 

「お前こそ、まだいけるか?」

「当然よ」

「よし」

 

 にやり。

 

「行くぞ!」

「ええ!」

 

 応えて、降り立ったライザーへと再び間合いを詰めにかかる。

 今度は、二人同時に。

 斬輝は地を蹴った。

 相手に向かって右脚を伸ばし、上体を引き絞る。()足刀蹴(そくとうげ)りだ。

 空中を一直線に迫るその蹴りに、ライザーは炎をまとわせた右腕で顔をブロックしにかかる。

 だが、

 

「甘い!」

 

 足刀は、牽制(けんせい)なのだ。

 命中の寸前に脚を引き、敵の目前に着地した斬輝は、相手の腹に左の回し蹴りを叩き込んだ。

 呻きとともに、ライザーが上体を折る。

 反撃は、下からだ。折った軀を伸ばしつつ、真下から拳が突き上げてくる。

 斬輝は身を反らせて、それを避けた。

 さらに腰のバネを効かせ、後方へ倒れんばかりの勢いで右足を振り上げる。鋼鉄を仕込んだ黒いブーツの爪先は、ライザーの顎をまともに捕らえた。

 

「がッ!」

 

 敵の呻きを聞きながら、蹴りの勢いのまま軸足を蹴って、後方に一回転した。

 ライザーは、よろめきつつも両足を踏ん張る。

 

「喰らいなさい!」

 

 さらなる追い打ちをかけるのはリアスだ。両手に滅びの魔力を宿し、走りながら一気に振り抜く。紅い魔力弾は矢のように鋭く空間を駆けて、こちらに視線を戻したライザーの顔面に命中した。

 一発。

 二発。

 三発。

 四発。

 立て続けに魔力弾を喰らったライザーは、両手で顔を覆いくぐもった声をあげる。

 今度はリアスが先行する形で走り出した。

 斬輝も、その後を追う。

 不死身の力が、損傷を治すのにどのくらいの時間がかかるのかは判らない。それがたとえ一秒にも満たない瞬間であったとしても、奴の視界を奪えれば次の攻撃を畳みかけるチャンスになるはずだ。

 だが、ライザーの反撃は思ったよりも早かった。

 

「なぁあめるなぁああ!!」

 

 こちらへ突き出された両掌から、螺旋状に捩じれた炎が噴き出したのだ。

 彼の魔力を媒介に、大気中の酸素が爆発的な勢いで酸化する。

 爆燃である。

 大気を震わせ、数メートルの距離を一気に縮めた不死鳥の炎は、先頭を走るリアスへと襲いかかろうとしていた。

 咄嗟に、彼女の腕を摑む。

 

「あぶねえ!」

 

 手元へ強引に引っ張りながら、こちらも一八〇度回転する。一瞬で、二人の位置が入れ替わった。

 

「きゃっ!?」

 

 そのままリアスを後方へ投げ飛ばしてから、斬輝は顔の前でマントに覆われた両腕を交差させた。

 炎が、彼の軀に叩きつけられる。

 

「むう!」

 

 ずしん、という衝撃が、腕から肩、そして背中へと突き抜けて斬輝の鋼の骨格にまで響いた。

 同時に、それまで感じなかった熱が、マントごしに襲いかかってくる。

 瓦の屋根を踏み砕かん勢いで踏ん張って、何とか耐えた。

 剥き出しの顔が、ひりひりと焼ける。

 

「だぁあらあぁああッ!」

 

 叫んで、その腕を一気に振り抜いた。

 金属の擦れる音とともに、火球が『X』字に斬り裂かれる。

 炎のカーテンが晴れると、目の前までライザーが迫っていた。

 

「なにッ!?」

 

 身を沈めたライザーの、その顔の真ん前に斬輝の腹があった。

 この野郎、不死身なのをいいことに、自分が撃った炎に突っこんで来やがった!

 それでも後ろへ跳び退ろうとしたのは、彼が格闘の天才だったからだ。

 だが、反応がわずかに遅かった。

 突き込まれる拳は、彼の鳩尾(みぞおち)を寸分違わず狙い打つ。

 

「がふ!」

 

 人間をはるかに超越したそれを肘まで叩き込まれた斬輝は、たまらず血を吐いた。

 瞬間、横隔膜の動きが止まって呼吸が出来なくなる。

 目の前をちかちかと光る白い点が散り、同時に襲うのは気が遠くなるような痛みだった。

 激痛だ。

 今度は、たまらず(うずくま)った斬輝の顎が蹴り上げられる番だった。

 あっという間に、宙へと舞い上がった。

 口から噴き出した血が放物線を描いて、斬輝の後を追う。

 そのまま屋上に叩きつけられる寸前で、

 

「斬輝!」

 

 リアスが落下地点に駆けつけた。

 一〇〇キロを超える鋼の肉体を何とか受け止めたリアスもろとも、倒れ込む。

 

「斬輝! 大丈夫!?」

「ま、あな……」

 

 応えて、しかし斬輝は立ち上がれなかった。

 喉の奥から熱いものが込み上げてきて、助け起こしてくれたリアスの腕の中でたまらず吐いた。血やら胃液やらよく判らない体液が入り混じった奴を、だ。彼女のブラウスで赤黒いシミを広げても、リアスは嫌な顔一つしなかった。

 

「しっかりして! 斬輝!!」

 

 ただ、今にも泣き出しそうな声をあげて、心から斬輝の身を案じてくれた。

 安心させようと、おう、と応えたつもりだった。

 だが、声の代わりに、どぼどぼと赤黒い血が噴き出した。口からあふれた血が彼の顎を塗らし、そのままマントに垂れる。

 それからまた、リアスの悲鳴だ。

 ああ、畜生。

 軀を起こそうにも、全身に力が入らない。

 人体の急所の一つを突かれたのだ。

 糞っタレ、内臓がやられたか。

 治療します、と駆け寄ってくるのは、アーシアである。

 両手の中指に嵌められた銀色のリングが、患部にかざされると同時に、淡い光を放つ。

聖母の微笑み(トワイライト・ヒーリング)』である。

 もう何度、繰り返しただろうか。

 すなわち、闘い、傷ついて、治療される。

 特に即効性に優れた彼女の神器(セイクリッド・ギア)は、間違いなくこの闘いの生命線となっていた。

 だが、

 

「ちぃっ」

 

 舌打ちする、それは自身の肉体に対してだ。

 治りが、遅い。

 本来であればとっくに損傷した皮膚の修復も済んでいるはずなのに、いまだに焼けた肌はひりひりと痛むのだ。

 腹の痛みも同様に、である。

 直感した。

 彼自身の神器(セイクリッド・ギア)のせいだ。

鋼鉄虫(メタル・セクト)』を武装へ転じる際に生じた傷は、瞬時に治癒する。それは、傷を修復するのと同じ『鋼鉄虫』によるものだからだ。

 だが外部からの力で生じた傷は、そうはいかない。その治癒には、相応の時間と体力を必要とするのである。

 それがどうやら、アーシアの持つ神器(セイクリッド・ギア)と相性が悪いらしいのだ。かろうじて、『鋼鉄虫』の動きを助ける程度にしかならないのである。

 特に、堕天使との一件の後から。

 強化合宿の際にアーシアではなくリアスに傷の手当てをしてもらっていたのも、実はそれが関係していたのだ。

 

「隙だらけだぞ!」

 

 痛みに呻いていると、前方からライザーの声が飛んで来た。

 同時に放たれるのは、直径一メートルはあろう大きなサイズの魔力弾である。

 吸い込まれるように斬輝に向かって飛んでくるそれを、

 

「やらせるもんですか!」

 

 すかさずリアスが斬輝達の前に立って魔力の障壁でブロックする。

 

「うぐ!」

 

 直後、障壁を展開したリアスが呻いた。

 相手の炎が途切れないのだ。

 無論、防御に割ける魔力も有限である以上ずっとこのままではいられない。しかしここで障壁を解けば、彼女の後ろにいる斬輝とアーシアもろとも炎の餌食になってしまう。さっきの感覚からして、マントに付与していた魔法が壊れたのだろうか、もうマントの耐熱性もアテに出来なくなってしまった。

 ゆえに、リアスは退けなかったのだろう。

 連続して叩きつけられる炎の弾幕に、制服のブラウスは左の肘から先が千切れ、ビスチェとブラウスを裂かれた胴は左の脇腹からヘソまで丸見えだ。右側に至っては前腕の一部を除いて彼女の柔肌が乳房ごと露わになっていた。

 それでも、彼女は防御を解かない。

 ふいに攻撃が止んだ時、ついにリアスは立っていることすら出来なくなった。

 膝から崩れ落ちるリアスを、寸前で抱きとめる。動いても、今度は血は吐かなかった。

 軀に力が入らないのか、彼女の全体重が斬輝にのしかかった。

 こんなもの、己の重量に比べりゃ百倍もマシだ。

 すぐにアーシアがリアスの治療を開始した。

 糞っタレ。

 これが不死身か。

 これがフェニックスなのか!

 

「もう終わりか?」

 

 訊ねるライザーは、顎を蹴られた時に口の中を切ったのか、一筋の血が口から垂れている。親指で拭うと、それきり新しい血が流れることはなかった。細胞が再生したのだ。

 まさか、と斬輝は鼻で笑って見せる。

 

「そうじゃねえってことぐらい、てめえが一番よく判ってンだろ」

「やっぱりな」

 

 だが、とスーツの男はじっと自身の血を拭った指先を見つめている。

 

「なんだよ?」

「いや、貴様が思った以上にやるもんでな。どうしたものかと考えてるんだ」

 

 読めない。

 何が言いたいんだ、こいつ?

 そうだ、とライザーは顔を上げ、こちらを見据えた。

 笑みの張り付いた顔だ。

 続く言葉に、斬輝は己の耳を疑った。

 

「賭けをしないか」

「なに?」

「賭けだよ、賭け」

「うるせえ、そんなん判ってるよ。どういうつもりだって訊いてんだ」

「どうもこうも、今さっき言ったじゃないか。リアスとの婚約はそうだが、俺はお前との勝負も楽しみたいと思った。それだけさ」

「話が見えねえな、それでどう賭けと繫がるんだよ」

 

 突然、思い出すようにライザーは目を瞑った。

 

「一〇日前、貴様は人間でありながらこの俺に盾突いたよな」

「俺ぁただ、そっちから売られた喧嘩を買っただけだぜ」

「それでもだ。はじめは、人間だから、と見くびっていたが、蓋を開けて見れば……なかなかどうして、面白い動きをする」

「そいつぁ、誉め言葉として受け取っていいんだな」

「勿論だ」

 

 だから、とその瞼を開いた時、すさまじいプレッシャーが斬輝に襲いかかってきた。

 

「俺は、俺の全力をもって貴様を殺すことにした」

「何ですって……」

 

 リアスだ。アーシアによる治癒を施されているその声はひどく弱々しい。相当魔力を消耗してしまったようだ。

 

「ライ、ザー……」

「なんだい、リアス」

「ゲームで相手を殺す攻撃が禁じられていることくらい、知らないあなたじゃでしょう……!」

「ああ、知ってる。だが、不慮の事故で死亡、なんてのはよくあることだろう?」

「そんな……」

 

 俺はな、とライザーは腕を組んだ。

 

「久々に骨のある奴に出会えて嬉しいんだよ。これまでレーティング・ゲームで闘ってきた連中も、結局はこの不死の力に恐れおののいて投了(リザイン)する奴がほとんどだった。こいつみたいに真正面からぶつかってくる奴なんて、本当に久しぶりなのさ」

 

 嘘を言っているようには見えない。

 

「なぁに、貴様が勝つ条件は一つ……この俺を倒せばいい。簡単だろ?」

 

 それが出来りゃ苦労しねえんだけどな、とは言わなかった。その前に、腹の痛みで顔をしかめた。

 

「どうする、魔人」

 

 不敵に笑うスーツの男は、無傷だ。

 対して、黒い炎をまとったこちらは満身創痍である。

 畜生。

 どうするか、だと?

 

「やめて!」

 

 割り込むのは、リアスである。

 

「耳を貸しては駄目よ! こんなの、賭けになってすらいないわ!!」

 

 彼女の言うとおりだった。

 相手はただの悪魔ではない。

 不死身なのだ。

 

「このまま黙って殺されるか?」

 

 ライザーの言葉に、

 

「やなこった」

 

 斬輝は、あくまで退かなかった。

 マントを摑むリアスの腕に、手をかける。

 やんわりと、押した。

 すがるような視線の、リアスの顔は鼻が触れ合うほどに近い。

 

「斬輝?」

 

 不安げに見上げる少女に、斬輝が返すのは、笑みだ。

 ああ、そうだ。

 俺は、俺に出来ることをやるだけだ。

 

「大丈夫だ」

 

 だから、心配すんな。

 

「ちょっくら、殴り合ってくるだけさ」

 

 彼女を見て。

 

「ちゃんと約束は守る」

 

 しばらくして、溜め息とともに苦笑を浮かべるのは、リアスだ。

 

「……判ったわ。あなたのことだもの、何か考えがあるのでしょう?」

「いんや、ないな」

「ないの?」

「ああ。考えるよりも殴った方が早い。とりあえずぶん殴る。後のことはそれからだ」

「なによ、それ」

 

 でも、とリアスは笑みを浮かべて見せた。

 ああ、そうだ。

 その笑みに、どれだけ支えられたことか。

 その笑みに、どれだけ助けられたことか。

 

「どこまでも真っ直ぐで、決して折れようとしない……私、知ってるもの。あなたって、そういう人だものね」

 

 そして、

 

「斬輝」

「ああ」

「お願い」

 

 リアスは、勝って、とは言わなかった。

 生きて戻って来て、と言った。

 それを聞いて、不覚にも斬輝は笑ってしまう。その言葉は、まさに合宿の時に彼自身が口にした言葉だったからだ。

 だから、

 

「任せろ」

 

 そう応えた。

 

「だから何があっても、絶対に投了(リザイン)なんてすんなよ? 『王』が取られなきゃ、いくらでもやりようはあるんだ」

「……判ったわ」

 

 よし。

 

「アーシア」

 

 リアスの側で神器を発動している彼女に、名前で呼びかけたのは初めてだった。

 

「はい!」

「リアスのこと、頼むぜ」

「……判りました! ザンキさんも、お気をつけて!!」

「おう」

 

 応えて、それからもう一度リアスと目が合った。

 納得はしているが、それでもやはりどこか不安が抜けないような表情だった。

 斬輝は無意識に動いていた。

 思えばそれは、彼なりの決意の表れだったのかも知れない。

 ふいにリアスを引き寄せ、前髪を掬い上げて彼女の額にキスしたのだ。

 乾いた血のこびりついた唇で。

 いきなりのことに口をぱくぱくさせて金魚みたいになった彼女の支えをほどいて、斬輝は前に出る。

 足元が少しだけふらついた。こン畜生め、少しだけだ。

 お互い正面に向き合って、それから最初に口を開いたのは斬輝の方だった。

 

「意外だな。文句の一つや二つ言われるかと思ってたぜ」

 

 リアスの額にキスしたことについてだ。

 

「ふん、どうせ貴様を殺せばリアスも俺の(きさき)になるんだ。最期ぐらいは好きにさせてやろうと思っただけさ」

「どうだかな」

 

 そして、

 

「受けてやるよ、その賭け」

 

 ライザーの笑みが、(よろこ)びに変わる。

 

「どっちにしろやることは変わらねぇんだ。てめぇをぶっ飛ばしちまえば、それでいいんだろ?」

「そうだが、一人でやるつもりか?」

 

 その言葉は、俺は二人がかりでも構わないぞ、とは聞こえなかった。

 一人で俺に勝てるのか、と聞こえた。

 

「うっせ。こいつぁ俺のワガママだ」

 

 断っとくが、と黒鉄斬輝は腰を落す。

 両腕は、マントから出て左右に開いていた。

 腹の痛みは、まだある。だが無理をすれば動ける程度には回復しているようだった。

 無理しなきゃ、勝てっこない。

 だから、言った。

 

「俺はハードだぜ」

 

 途端に、両手に激痛が走った。

 次の瞬間、

 じゃりん、

 と金属音をたてて、斬輝の拳から剣が生えた。皮膚を突き破り鮮血を滴らせたそれは、幅広の双剣である。

 ほう、とライザーが感嘆する。奴からすれば、直接この光景を見るのは初めてなのかも知れない。

 

「それが、魔人たる所以というわけか」

「そういうこったな」

「さあて」

 

 ごりん、と肩を回して不死鳥が笑う。

 

「手加減はしないぞ」

「上等だ。こうなったら、どっちかが死ぬまで殴り合わなきゃ、決着つかねぇだろ?」

「たしかにな」

 

 片や、完全無欠の不死鳥の名を持つ悪魔。

 対峙するのは、己の血にまみれた剣を『携える』人間だ。

 まるでアニメかゲームか特撮番組みたいだな、と思った。強大な敵にたった一人で立ち向かう主人公の図、だ。そして彼らはその最後に、必ず勝利を勝ち取るのだ。

 自身の血反吐に汚れた唇を歪めて、斬輝は笑う。

 果たして、俺は主人公になれるのかね。

 そして、

 

「賭け、成立だ」

 

 赤が言った。

 

「ああ、成立だ」

 

 黒が応えた。

 

「俺が買ったら、リアスとの婚約はナシだぜ」

「いいだろう」

 

 じゃあ、とスーツの男が炎の翼を展開する。

 

「第二ラウンドと行こうか」

「おう!」

 

 跳んだ。

 

 

 

       

 

 

 びゅん、と大気を切って、白い影が兵藤一誠と彼を取り囲むライザー眷属達の間に乱入してきた。

 次の瞬間、レイヴェルの右側にいたはずの『騎士』が後方に吹っ飛んだ。

 

「シーリス!?」

 

 シーリスと呼ばれた『騎士』は体育倉庫へと叩きつけると、瞬間的な加重に抗しきれずに壁を粉砕して中へと突っ込んだ。

 突然の乱入者に狼狽する中、レイヴェルがすぐに思考を切り換えることが出来たのは、これまでに培った公式戦の経験があってこそのものだった。

 まさか!

 リアス・グレモリーの『戦車(ルーク)』!?

 小柄な体軀(たいく)から繰り出されるしなやかな右回し蹴りが、今まさに赤龍帝の少年へと殴りかかろうとしていた水色の髪の『兵士』をなぎ倒す。その回転運動を殺さずに螺旋を描いたと思ったら、今度は左の裏拳がその隣にいた和装の『僧侶』を打ち据えた。

 ようやく状況を把握した桃色の髪をした『兵士』がその乱入者へと標的を移すも、対する相手は冷静だった。

 頭部を狙った足刀蹴りを、銀髪の少女は跳び箱を跳び越えるようにしてかわした。瞬間、お互いの位置が入れ替わって背中合わせの格好になった。

 その背中を、見ることなく後ろ蹴りで蹴り飛ばす。バランスを崩した『兵士』は、勢い余って顔面からグラウンドに倒れ込み、痛そうに両手で顔をさすっている。

 リタイヤこそしなかったが、しかしそれはたった一人の下僕悪魔にしてやられた格好になったのだ。

 突如として現れた、リアス・グレモリーの『戦車(ルーク)』に!

 

「お待たせしました……!」

 

 一誠の前に立って、ぽつり、と銀髪の少女が呟く。

 

「ううん、大丈夫だよ。もう平気なの?」

「……はい、ご心配をおかけしました」

 

 応えて腰を落す。戦闘態勢だ。

 

「な、なぜですの……?」

 

 自分でも、声がわずかに震えているのが判る。

 

「……リアスさまに、目が覚めたならイッセー先輩の応援に駆けつけるように言われました」

 

 ふん、と鼻を鳴らすレイヴェルは、明らかに焦っていた。

 

「だ、だから何だと言いますの!? たかが一人増えた程度で、フェニックスに勝てるわけがありませんわ!」

 

 シーリス、と言う彼女の呼びかけに応えるように、体育倉庫が爆裂する。無数の破片を撒き散らして、大振りの剣を抜き放った『騎士』が、垂直に銀髪の少女へと振り下ろされる。刀身がひらめくと、がきん、という鈍い音が聞こえた。

 

「なに!?」

 

 驚愕の声をあげるのは、たった今攻撃を繰り出したシーリスだ。

 銀髪の少女の軀を斬り裂くかに見えた大剣は、しかしその進路を塞がれていた。

赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)』に覆われた左腕によって。

 

「シーリスの剣を、腕で……?」

「俺は決めたんだ!」

 

 シーリスの剣を防いだ左手が、その刀身をなぞる。

 

「部長のために最強の『兵士』になるって!」

 

 思わずシーリスは距離を取ろうとするが、寸前に籠手で刃を摑まれ逃げ道をなくした。

 

「アーシアやみんなを護れるようになるって!」

 

 次の瞬間、

 

「だからぁあ!!」

 

 真っ赤な籠手に、幅広の大剣が握り砕かれた。

『騎士』の土手っ腹に、ケリを叩き込む。

 

「俺に力を貸しやがれ! ブーステッド・ギア!!」

Dragon(ドラゴン) booster(ブースター)!!』

 

 大声をあげて、赤龍帝の少年が左腕を天高く掲げる。

 

「聞こえてんだろ赤い龍帝さんよお! 今度は部長だ! 斬輝先輩だ!! もっと、もっと俺に……みんなを護れるだけの力を寄越しやがれぇぇええぇえええぇえ!!」

 

 金属質を帯びた男性の声は、

 

Dragon(ドラゴン) booster(ブースター) second(セカンド) Liberation(リベレーション)!!』

 

 彼が身に着ける籠手の、手の甲に嵌め込まれた宝玉からだ。

 次の瞬間、赤龍帝・兵藤一誠の全身が、光に包まれた。宝玉から放たれた緑色の閃光が、光の柱となってグラウンドに佇立(ちょりつ)したのである。

 眩い光に、たまらずレイヴェルも目を(つむ)る。見ると、銀髪の少女も同様に目を細めていた。

 時間にして、約一〇秒。

 閃光が消えてレイヴェルが(まぶた)を開いた時、彼の籠手は変形を終了していた。

 全体的に、鋭利な印象を持たせるデザインだ。手首の両側に小さな突起が二つ増え、前腕にも四つ、似たようなものがある。大きく違うのは、それまで手の甲にしかなかった宝玉が、新たに腕の方にも一つ表れていることだ。

 なんですの。

 何なんですの、あれは!?

 立ち上がったこちらの駒達も、彼の籠手から発せられる異様なプレッシャーに攻めあぐねていた。

 彼はしばらく宝玉を見つめていると、

 

「……そうか」

 

 ぽつり、と零した。

 

「小猫ちゃん、俺から離れないで」

 

 言いながら銀髪の少女を背後に回し、それから息を大きく吸い込んで、

 

「木場ぁあぁあああ!」

 

 離れたところでカーラマインと剣を打ち合うリアスの『騎士』へと声を張り上げた。

 

「お前の神器(セイクリッド・ギア)を解放しろぉおおぉおおぉお!!」

「解放……?」

 

 木場の問いに、一誠は頷いた。それに何かを感付いた木場は持っていた剣を逆手に握り直す。

 

魔剣創造(ソード・バース)!!」

 

 気合とともに、木場は剣を突き刺した。

 左手で柄尻(つかじり)を、一方でその下の右手で柄を握って、渾身の力で地面へと叩きつけたのである。

 剣から放たれたエネルギーが地面をのたうつように這い回って、兵藤一誠へと向かってゆく。

 迎え撃つは、『赤龍帝の籠手』だ。

 

「いくぜ!」

 

 握った拳を地面に叩きつけると、手の甲にある宝玉にエネルギーが吸い込まれた。

 

「『赤龍帝からの贈り物(ブーステッド・ギア・ギフト)』!」

Transfer(トランスファー)!!』

 

 音声とともに宝玉から龍の頭を模した紋章が浮かび上がると、さっきまで吸い込まれていたエネルギーが地面へと逆流してゆく。

 最初に異変に気がついたのは、もう一人の『僧侶』である美南風(みはえ)だった。

 

「地面が、揺れている……?」

 

 そのとおりだった。

 大地が震動し、満足に立っていられない。たまらず膝を突くと、レイヴェルの真下にある地面が薄い水色の光を放っていた。

 いや、彼女の周囲だけではない。赤龍帝の少年を中心にして、その場にいるライザーの駒達を全て飲み込むように光の円が広がっているのだ。

 咄嗟に炎の翼を広げて飛んだのは、だから意識しての行動ではなかった。

 生存本能だ。

 刹那、広がった円から一斉に、無数の刀剣が地面を突き破って生えてきた。

 何本あるのかわからない……数えるのすら億劫になってしまうほどの数の剣の海が、グレモリー眷属のみを避けるようにしてフェニックス眷属に襲いかかる。

 ニィを……リィを……美南風を……シーリスを……カーラマインを……、その場にいたレイヴェル以外のフェニックス眷属が、その腹を、腕を、脚を貫かれて鮮血を撒き散らした。

 瞬時に彼女達の軀が光り始め、このフィールドから強制的に消え失せる。

 

『ライザーさまの〝兵士(ポーン)〟二名、〝騎士(ナイト)〟二名、〝僧侶(ビショップ)〟一名、リタイヤ』

 

 認識を改める、ですって?

 とんでもない!

 レイヴェルは、ついに認めざるを得なかった。

 赤龍帝は……兵藤一誠は、強い。

 それは実力云々の話ではない。この闘いの中で、確実に成長しているのだ。

 このままライザーのもとへ行かせてしまったら、何が起こるか判らない。

 ここで、確実に彼をリタイヤに追い込まなければ……、

 

『リアスさまの〝女王(クイーン)〟一名、リタイヤ』

 

 審判の宣言に、レイヴェルは弾かれたように振り返る。

 衣服のあちこちを焼け焦げさせ、『雷の巫女』がその身を光に包まれながら落下してゆくところだった。

 

「なっ!? 朱乃さんがやられるなんて……!」

 

 驚愕の声は、兵藤一誠だ。

 畳みかけるように、今度はグラウンドの方から爆発音が聞こえる。

 見ると、リアスの『騎士』が爆発の餌食となって倒れ伏していた。すぐさま光に包まれ、フィールドから蹴り出される。

 

『リアスさまの〝騎士(ナイト)〟一名、リタイヤ』

撃破(テイク)

 

 背後に感じる気配に、レイヴェルは笑みを浮かべる。

 まだだ。

 まだ、彼女がいる。

 

「遅かったですわね、ユーベルーナ」

 

 振り返った先にいたライザーの『女王』は、無傷だ。とてもさっきまで『雷の巫女』と闘っていたとは思えない。

 

「あの『女王』、噂どおりの強さでした。やはり、これの力を借りることに」

 

 そう言ってユーベルーナが取り出すのは、小瓶である。中身は空になっていて、だから彼女はすでにその小瓶の内容物を使ったということだ。

 

「な、何だよそれ!?」

 

 小猫を庇うように、一誠が訊ねる。

 

「フェニックスの涙。聞いたことありません? いかなる傷も一瞬で完治する、我が一族の秘宝ですわ」

 

 純血のフェニックス家の悪魔が、特殊な儀礼を済ませた魔方陣の中で心を無にして流した涙を落とすことによってのみ生成されるアイテムである。

 無論、純血のフェニックスじたいが限られた人数しかいない上に大量生産が出来ない以上、市場に出回る絶対数は少ない。そのため悪魔の間では高値で取引され、滅多に入手出来ない希少かつ高価な代物であると言える。

 

「な……そんなのアリかよ!?」

「あら、ゲームでの使用もちゃんと二つまでは許されてますのよ」

 

 いや、正確に言えば、強力過ぎるゆえに規制されたと言った方がいいだろう。

 だがレーティング・ゲームへの使用が条件付きで認められた今、フェニックスの涙を求める悪魔は多く、おかげでフェニックス家の財政は潤っていた。

 しかし、

 

「そちらだって、『聖母の微笑み(トワイライト・ヒーリング)』を持つ『僧侶』さんがいらっしゃるでしょう? 卑怯とは言わせませんわよ」

 

 当然ながら、レイヴェルは一つ、すでにそれを持っている。もう一つはユーベルーナが……つまりこれこそが、彼女が『雷の巫女』を撃破する一助になっていたのだ。

 相手を消耗させ、こちらはフェニックスの涙で復活してから叩く。

 頭脳派のユーベルーナらしいわね、とレイヴェルは目を瞑り、一人ほくそ笑んだ。

 

「レイヴェルさま」

 

 呼びかけてくるのは最も信頼のおける『女王』である。

 振り返った。

 

「なにかしら?」

「一つお伝えしたいことが」

「言ってごらんなさい」

「もういません」

「え?」

 

 何ですって?

 

「ですから、リアス・グレモリーの『兵士』と『戦車』は、すでにライザーさまのいる新校舎へと向かいました」

 

 ユーベルーナの言葉に、弾かれたようにレイヴェルはグラウンドへと視線を戻した。

 魔剣の海、その中で不自然なくらいにぽっかりと空いた、地面が露出している場所。

 さっきまで、赤龍帝の少年と銀髪の少女が立っていた場所だ。

 いなくなっていた。

 無視されたという怒りと、いつからこの場を離れていたのかという疑問と、誰に向けてぺらぺらとお家事情を喋っていたのかという羞恥がない交ぜになって、レイヴェルの顔は、ぼん、と音をたてて赤くなる。

 そんな(あるじ)の妹の姿にどう対処すればいいか判らずあたふたするユーベルーナに、あなたも早くお兄さまのところへ行きなさい、と返すのがやっとだった。



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第一五章 業火:4

       

 

 

 その変化に最初に気がついたのは、リアスだった。

 

 

 朱乃と祐斗のリタイヤを告げるアナウンスが流れても、目の前の二人は闘うことをやめなかった。

 左右から迫るライザーの太い腕を、斬輝は両腕でブロックした。

 顔をしかめながら、斬輝は相手の腕を強引に払いつつ、左右の剣を振り下ろす。敵の腕が肘から先を斬り飛ばされるが、けれどその切断面は炎が新たな腕を形作って、そのままもとの『腕』に再生した。

 そして、

 その時だ。

 炎をまとったライザーの右の回し蹴りを脇腹に受けた斬輝が、呻きながらも左の刃を真正面から相手の胸に突き刺す、まさにその一瞬だけ、彼の肉体が淡く光ったように見えたのだ。

 

「え……?」

 

 アーシアに支えられ膝立ちになりながら、思わず声を漏らす。

 なに?

 なに、今の……?

 刃を引き抜きライザーと距離を取った斬輝は、舌打ちしながらをマントを引きちぎるようにして脱ぎ捨てた。さっき受けた蹴りで、ライザーの炎が燃え移ったのだ。黒いタンクトップまで破いてしまったのは、単に力が強かったせいだろうか。

 筋肉の束を包んだ軀には、いくつもの痣が出来ていた。

 そして、火傷も。

 とくにお腹が酷い。鳩尾のあたりが、青痣を通り越して紫色に変色しているのである。

 痛々しい姿だった。

 しかしそれでも、黒鉄斬輝は拳を握るのだ。

 ライザーが魔力弾を放つと、斬輝は信じられないほど軽やかな跳躍で回避した。

 そのまま空中で一回転しながらライザーの頭上を跳び越え、彼の背後に着地する。振り返りざまに左の刃を薙ぐ時、

 

「あ」

 

 また、光った。

 しかも、さっきよりも明るい。

 気のせいかと思った。

 気のせいではなかった。

 

「部長さん、今のって……」

 

 アーシアの問いに、リアスはかぶりを振った。

 

「……私にも、判らないわ」

「部長ぉおぉおおお!」

 

 その呟きは、聞き覚えのある叫びにかき消された。

 

 

 屋上に辿り着いた一誠と小猫が見たのは、リアスとその側にいるアーシア、そしてその先で闘い続ける二人の男だった。

 黒鉄斬輝とライザー・フェニックスだ。

 それは血みどろの戦いだった。

 斬輝が剣をふるうたびにライザーの肉体から鮮血が舞う。

 ライザーが炎をまとうたびに、斬輝の軀には新たな痣が、火傷が増える。

 口から血反吐を撒き散らしながら、それでも、二人は倒れなかった。

 斬輝の軀が断続的に発光していることに気づいたのは、その時だった。

 赤い……いや、紅い光だ。

 

「ぅおぉおおらぁあぁあああぁああぁああぁああ!!」

 

 斬輝の雄叫びに、

 

「だぁああぁぁぁあぁあぁあああぁああぁああああぁあぁああぁあ!!」

 

 ライザーも雄叫びで応える。

 小猫がリアスのもとへ駆け寄る中、一誠は目の前で繰り広げられる闘いを呆然と見ていた。

 見ることしか出来なかった。

 

「す、すげえ」

 

 それ以外に、言葉が見つからなかった。

 なにか。

 なにかやれることはないか!

 斬輝先輩を助けることは出来ないのか!!

 己の無力感に苛まれて拳を握った時、ぎしり、と左手が軋んだ。

 

Boost(ブースト)!!』

 

 鳴り響く音声に、一誠は自分の左腕を見た。

 赤い手だ。

赤龍帝の籠手(ブーステッド・ギア)』に覆われた左腕だ。

 ここへ来るまでに……新校舎に入って『女王(クイーン)』へ『昇格(プロモーション)』してから倍加を続けていたのだ。

 今のは、四回めの倍加を知らせる音声だった。

 

「もしかして……」

 

 閃いた。

 閃いてしまったら、試さずにはいられなかった。

 

「斬輝せんぱぁあぁああいッ!」

 

 叫んだ。

 全員の視線が、こちらを向いた。

 

「赤龍帝のガキ!?」

 

 ライザーも、

 

「兵藤!?」

 

 斬輝も。

 上手くいくかは判らない。

 それはまさにバクチだった。

 だけど!

 

「俺の新しい力です! 受け取ってください!!」

 

 左腕を構える。

 狙いは……斬輝だ!

 

「『赤龍帝からの贈り物(ブーステッド・ギア・ギフト)』!!」

 

 直後、籠手に嵌め込まれた宝玉から緑色の閃光が発せられる。一条の光は真っ直ぐに斬輝へと向かって推進し、

 

「ぐお!?」

 

 斬輝の肉体に命中した。

 

Burst(バースト)

 

 途端に宝玉から音声が鳴り、一誠はどっと押し寄せてきた疲労とダメージで崩れ落ちた。あの倍加が、本当の本当に限界だったのだ。

 籠手の宝玉は光を失い、そして具現化しておくエネルギーもなくなったのか籠手じたいも消滅してしまう。

 

「イッセー!!」

 

 叫ぶようなリアスの声に、気づくと自分の足元に紫色の魔方陣が展開していることに気づいた。

 ライザーの『女王』の魔方陣だった。

 だが、こちらは文字通りのカラっカラだ。続く衝撃と熱波に、一誠は為す術もなく喰らってしまう。

 それでも、やることはやった。

 薄れゆく意識の中で、一誠は自身の行動の結果を目にする。

 黒鉄斬輝が緑色の閃光に包まれた。

 

 

 その姿に、ライザー・フェニックスは思わず動くことをやめてしまった。

 黒き血濡れの魔人が止まったからではない。

 ユーベルーナの爆撃で赤龍帝がリタイヤしたからでもない。

 魔人の……その肉体から発せられる光に、輝きに、目を奪われたのだ。

 そこにあるのは、緑色の人型の光である。

 顔も見えない、

 拳から生えていたはずの武器もない、

 ただ、ヒトのカタチをした光だけが、そこにはあった。

 赤龍帝の小僧は、ブーステッド・ギア・ギフト、と言っていた。つまり、籠手で倍加した力を相手に譲渡する技なのだろう。

 息を呑んだ。

 声すら出ない。

 悠然とそこに佇む神々しいまでの光に、ライザーは身動きが取れなかった。

 だが、なぜだ?

 この得体の知れない『光』を見ていると、なぜこうも笑みが浮かぶ!?

 拳を握る手に、ぼう、と炎が宿る。高密度に圧縮されたそれは、さながら炎のグローブだ。

 久しく忘れていたライザーの闘争心に、火が点いた。

 負けたくない、と思った。

 勝ちたい、と思った。

 家族以外にこんな感情を抱く日が来ようとは。

 面白い。

 面白いぞ、黒鉄斬輝!!

 認めてやる。

 貴様は強い。

 俺の知るヒトという種の中で、貴様は間違いなく強い!

 だから、

 

「かかってこい黒鉄斬輝! 貴様の本気を見せてみろ!!」

 

 轟音が響いたのは、その時だった。

 

「なに!?」

 

 弾かれたように、音の発生源へと目を向ける。

 リアスの『戦車(ルーク)』が、リアスと『聖母の微笑み(トワイライト・ヒーリング)』を抱えて爆発の中から飛び出すところだった。しかし避けきれなかったのか、銀髪の少女の左脚に無視出来ない火傷が出来ていた。

 そんなことが可能なのは、一人しかいない。

 

「何をしている、ユーベルーナ!!」

 

 ライザーは声を張り上げて、頭上にいた自身の『女王(クイーン)』を叱責した。

 

「ライザーさまこそ、今のうちに早くその魔人を片づけてください!」

「待て! 俺はまだこいつとの闘いを……」

 

 言いかけて、

 

「その間に私が『(キング)』を討ち取ります!!」

 

 遮られた。

 

「よせ! ユーベルーナ!!」

 

 遅かった。

 ユーべルーナの杖から展開した紫色の魔方陣から、巨大な火球が放たれたのだ。あんなものが撃ち込まれたら、間違いなくリアスはリタイヤする。

 勝負としては間違った戦法ではない。むしろこのタイミングで右腕の『女王』が駆けつけてくれたのは幸運であったと言える。

 だが、

 しかし。

 ライザーはまだ、この闘いを終わらせたくはなかった。

 目の前にいる対等な『敵』と、最後まで闘いたかった。

 

「やめろぉおぉおおぉおおぉおおおぉお!!」

 

 ライザーが叫びながら魔力を解き放ったのは、だから何か考えがあってのことではない。

 ただ、反射的な行動だったのだ。

 全身から噴き出した魔力は炎へとなり、次第にその姿を変えてゆく。

 一瞬で、火の鳥と化した。

 鳳凰(ほうおう)

 不死鳥。

 フェニックスだ。

 上空を滑空してリアス達へと迫るユーベルーナの火球に、ライザーの火炎がその下から水平に追いすがるコースである。

 全てを焼き尽くす業火がリアスへ肉薄する火球を呑み込んだ時、

 

「しまった!」

 

 ライザーはようやく己の失策に気がついた。

 出力が強かったのだ。

 本来であればユーベルーナの火球と相打ちになるはずのそれが、今度は標的をその真正面にいるリアス達へと変えなおも推進していくのである!

 それは紛れもない、ライザーのミスだった。久しく忘れていた感情の昂ぶりが、火球のみを狙うだけの精妙さを、彼から奪ったのだ。

 

「リアス! 避けろ!!」

 

 無意識に、ライザーは叫んだ。

 火の鳥とリアス達までの距離は、一〇メートルを切っていた。

 

「早く避けろ!!」

「無理よ! アーシアと小猫を置いてなんて……」

 

 残り八メートル。

 まさにその時である。

 すばん!! という衝撃とともに、大気が震えた。

 

「あ?」

 

 間抜けな声で、ライザーが振り返る。

 黒鉄斬輝が消えていた。

 いや、

 違う!

 

「斬輝!?」

 

 リアスが叫んだ。

 そして視線を再びリアスに戻した時、ライザーは信じられないものを見た。

 残り五メートルまで迫った鳥を模した火炎とリアスとの間に、緑色の『光』が割り込んでいたのである。

 

「まさか」

 

 移動したのか?

 十数メートルも離れた距離を、一瞬で!?

 いや、それどころか!

 ライザーは、次に彼が何をするのか気づいた。

 気づいてしまった。

 

「死ぬ気か……」

 

 思わず呟いてしまった自分自身の言葉に、ライザーは背筋を凍らせた。

 違う。

 そんなもんじゃない。

 自分の命と引き換えに、なんて安っぽいもんじゃない。

 考えていないんだ。

 黒鉄斬輝は今、リアスを救うことしか考えていない。

 その結果、自分がどうなるかさえ考えていない!

 死を恐れていないのではない。

 今、彼は、自分の命のことなど髪の毛の先ほども考えちゃいないんだ!!

 そして、

 

「うぉおおぉおぉおぉおぉおあぁああぁああぁあああ!!」

 

 叩きつける炎に向かって、光に包まれた『黒鉄斬輝』は雄叫びをあげながら地を蹴った。

 

 

 すでに満身創痍だったリアス達は、だから上空からの不意打ちに気づくことが出来なかった。

 一誠が、追いついたユーベルーナの爆撃の犠牲になった。

 続く二撃めは、側にいた小猫がリアスとアーシアを抱えて跳び上がることで何とか躱すことが出来た。だがその際に脚をやられたようで、小猫による爆撃からの離脱はもう望めそうもなかった。

 アーシアも、爆風のショックで気を失ってしまった。

 万事休すだ。

 

「よせ! ユーベルーナ!!」

 

 ライザーが叫ぶ。

 ユーベルーナの三発めは、巨大な火球だった。

 追いすがるようにライザーの炎が美しい鳥の姿となって飛んでくる。

 ユーベルーナの火球を打ち消した火炎の鳥は、しかし魔力の調整を間違えたのか知らないが、止まる気配がない。

 今度こそ、終わりだ。

 リアスは直感した。

 そして彼女が心の中で詫びるのは、ライザーの前で『光』に包まれる斬輝に対してだ。

 一誠が繫いでくれた『光』の中で、何が起こっているのかは判らない。けれどそれが、ライザー・フェニックスを倒せる唯一の可能性であったかも知れないことに、リアスは気づいていた。

『光』というものを嫌う悪魔でさえも『心地よい』と思わせてくれる、不思議な光だったのだ。

 優しい光だった。

 暖かい光だった。

 そして、

 力強い光だった。 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 それでも最後は『王』らしくあろうと、リアスは側にいる愛しい眷属達を庇うように前へ出た。

 

「リアス! 避けろ!!」

 

 ライザーが叫んだ。

 

「早く避けろ!!」

「無理よ! アーシアと小猫を置いてなんて……」

 

 そこまで言った時だ。

 ずばん!! という大気を切る音に、リアスは思わず肩を震わせる。

 次の瞬間、

 

「斬輝!?」

 

 目の前に、柔らかな『光』があった。

 

「ざん、き……?」

 

 零したその名に、『光』が『振り返る』。

 顔は見えないが、なぜかその『顔』が、笑っているように見えた。

 なにを……なにをするつもりなの?

 

「いや……」

 

 突然、叩き返されるみたいにして、記憶が戻ってきた。

 燃え盛る炎。

 紅蓮の中に立ち上がる二人の影。

 逆巻く炎の壁に阻まれた傷だらけの男と完全無欠の男が死闘を繰り広げている。

 あの時の『映像』だ。

 合宿の時、突然リアスに『見』えた、あの光景だ。

 知ってる。

 私、知ってる。

 いや、

 だが、

 だとしたら……、

 

「……やめて」

 

 まさか。

 まさか!

 

「止まりなさい斬輝……行っては駄目……!」

 

 そんなことをしてしまったら!!

 

「斬輝、お願いだから退()がって……」

 

 すがるように、リアスは腕を伸ばした。

 斬輝を止めるためにだ。

 届かなかった。

 

「うぉおおぉおぉおぉおぉおあぁああぁああぁあああ!!」

 

 そのまま雄叫びをあげて、『光』に覆われた斬輝は炎の中に突っ込んでいった。

 

 

 リアス・グレモリーとライザー・フェニックスの婚約をかけたレーティング・ゲームは、リアスの投了(リザイン)で幕を閉じた。

 大粒の涙を零し、

 半身を焼けただれさせて動かなくなった斬輝の軀を抱きしめながら。




 ちょっとした裏話。
 この話を書いている途中、実はこのまま斬輝がライザーに勝つ展開へと進もうとも考えていた。キーボードを叩いているうちに、自然とキャラクター達がそれっぽい動きを取り始めたからだ。
 だけど。
「オラのプロットじゃねえ!」と内なる自分に尻を蹴飛ばされてしまったので、当初の予定通り斬輝にはとんでもないことになってもらいました。
 いや、本当、とんでもないことになったなあ(他人事)。


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第一六章 鉄刃:1

       

 

 

 熱い。

 (からだ)が熱い。

 

 

 なんだ?

 何が起こった?

 憶えていない。

 何も憶えていない。

 ただ、焼けるような熱が肉体を蝕んでいる。

 

 

 記憶が一本に(つな)がらない。

 また、途切れた。

 

 

 

 

       

 

 

 口数が少なくなった、と言われる。

 何を考えているの、と訊かれることも少なくない。

 眷属達には、労いと心配の言葉を投げかけられた。

 そしてそのたびに、リアス・グレモリーはまた崩れ落ちそうになってしまうのだ。

 レーティング・ゲームが終わってから数時間後、治療を終えたリアスはグレモリー家が用意した婚約パーティの会場の下見に連れて行かれた。

 町のはずれにある高台に城下町を見下ろすように建っていて、広大な庭園を抜けると、前方にそびえる建物は赤い石造りの瀟洒(しょうしゃ)な建造物である。

 ずらりと並んだ縦長の窓を見る限り、どうやら三階建てらしい。だが全ての窓が、大人の身長の五倍以上もの高さがあるのだ。

 広大なホールに通され、

 駒王(くおう)学園のそれに比べれば信じられないくらい天井の高い廊下を歩き、

 メインの大宴会場に辿り着いた。

 天井のアーチ構造を支える柱や床は、どれも磨き上げられた大理石だった。

 まるでダンス・ホールみたいな部屋だ、と思った。

 人間界の基準で考えれば充分過ぎるほどの敷地を持つグレモリー領の建物である。

 もっとも、リアスにしてみれば、こちらの方が『見慣れて』いる方ではあるが。

 あれから二日。

 リアスがいるのは、大宴会場に隣接する控室である。それも、彼女専用のだ。

 控室には、今日のリアスの身の回りの世話を担当する付き人達が待っていた。

 会話などほとんどなかった。部屋に入った際に受けた挨拶やたまに話しかけられた時に、ええ、とか、ありがとう、といった単純な返事をしたくらいだ。

 金で縁取られたスタンド・ミラーの前に立って、自分の姿を見る。

 メイクで目元の隈は隠せたが、泣き腫れた瞼まではごまかせなかったようだ。

 我ながら酷い顔ね、と自嘲の笑みが浮かぶ。そして『笑った』という事実に、リアスは驚いた。

 この二日間、嘘でも笑えたことなどなかったからだ。

 それに、

 このドレス。

 付き人達にされるがままに、リアスはドレスを着せられていた。

 胸元が強調された、シルクのビスチェ・タイプだ。

 グローブも花柄が金糸で刺繍(ししゅう)されたアーム・スリーブもドレスと同じ純白で、だから婚約パーティにしてはやけに洒落ている、と思った。

 ふう、とリアスは溜め息をつく。

 

「これじゃあ、まるでウェディング・ドレスね」

 

 応えたのは、

 

「その通りさ」

 

 男の声だった。

 同時に、鏡ごしにリアスの背後で炎が噴き上がる。

 荒れ狂う炎の魔方陣から現れたのは、相変わらず趣味の悪いワイン・レッドのスーツの男だった。

 ライザー・フェニックス……!

 

「ライザーさま、いけません!」

「ここは男子禁制です!」

「そう固いこと言うなよ、俺は今日の主役だぞ?」

 

 退出を促す付き人達をものともせずに飄々(ひょうひょう)と近づいてくるライザーに、振り返ったリアスは自分がどんな表情を浮かべているのか判らなかった。

 嫌悪(けんお)か?

 絶望か?

 (にく)しみか?

 (うら)みか?

 判らない。

 けれど、ありとあらゆる心の暗部が……とめどない『負』の感情が奴に向けられていることだけは、判った。

 

「いや、主役は花嫁だったな。失敬失敬」

「ライ、ザー……!!」

 

 忌々しい名を呟いて、思わず右手を振り上げた。

 顔を張り飛ばそうとして、

 

「おっと」

 

 その手首を(つか)まれた。

 

「いきなりどうした? 危ないじゃないか」

 

 呟く、その声はわざとらしいくらいに明るい。

 それこそ、悪戯(いたずら)をした子供を(たしな)めるように。

 その(しゃべ)り方が、余計にリアスの神経を逆撫でする。

 

「黙りなさい! 自分が何をしたのか判ってるの!?」

「何のことだ」

「とぼけないで!!」

 

 リアスの、それは半ば悲鳴だ。

 空いている左手で、ライザーの胸ぐらを摑んだ。

 

「あなたのせいで……あなたのせいで……、斬輝(ざんき)は今も眠ったままなのよ……!」

 

 

 あの時……。

 ライザーの放った魔力の炎は、リアスに叩きつけられる寸前で、『光』に包まれた黒鉄(くろがね)斬輝によってその進路を塞がれた。

 迫りくる炎の鳥に、自ら突っ込んだのである。

 彼を包んでいた『光』の膜は、呆気ないほど簡単に霧散した。まるで、シャボン玉が弾けて割れる時のように。

 突進した斬輝の軀は、たちまち炎に包まれた。しかも炎は、彼の腕に、脚に、顔に(から)みついてゆく。

 ただの炎ではない。魔力によって発生し、魔力によって(くく)られた炎なのだ。

 業火は、斬輝の半身を文字どおり焼き焦がした。彼の身に着けたものが発火したのではなく、炎そのものが彼に絡みつき、身を焼き続けたのだ。

 分厚い革のパンツと革のブーツが、炎を(はば)んだ。

 だが彼の上半身は、剝き出しだった。

 そして、焼かれた。

 火炎から解放された時、斬輝は変わり果てた姿に成り果てていた。

 まるで焼死体だ。

 比喩ではない。腕も胸も背中も顔面も、文字どおり彼の皮膚(ひふ)は焼け焦げ、剝けていたのだ。およそ目に映る限りの全ての皮膚が、赤と白と黒のマダラになっていたのである。

 その姿を見た時、リアスの中で何かが壊れた。

 感情の波が、一気に押し寄せた。

 その後のことはよく憶えていない。

 自分が投了(リザイン)したと気づいたのは、医療施設で目を()ましてからだった。

 

 

 それから、二日である。

 

「斬輝は、斬輝は……!」

 

 冥界の医療チームの迅速な治療と斬輝自身の驚異的な生命力で、一命は取り留めた。

 だが予断を許さない状況であることに変わりはない。

 一度だけ斬輝の病室へ行くことを許されたリアスは、ゲーム以降初めて彼の姿を見た。

 上半身が、くまなく包帯に(おお)われていた。

 白い人型である。

 まるで幽霊だった。

 しかもその包帯には、その時点ですでにそこかしこで血が(にじ)み出していたのだ。

 火傷(かしょう)の深度としては、三度あるいはそれ以上、というのが担当医の見立てであると、彼の側に付いていたグレイフィアから聞いた。

 普通なら死んでいる、そう言われた、とも。

 悪魔の駒(イーヴィル・ピース)を使おうとも考えた。

 現に手持ちの『騎士(ナイト)』と『戦車(ルーク)』の駒で転生を試みたのである。

 一縷(いちる)の望みにかけて。

 人間であることにこだわった彼に、後で怒られるかもしれないけれど。

 でも、何もしないよりは百倍もマシだった。

 だが。

 どちらも駄目だった。

 斬輝の持つ潜在能力が、それぞれの駒一つだけでは転生するに足りなかったのだ。

 自分では彼を助けられないという事実に押し潰されそうになって、また泣いた。

 

「ざんき、は……」

 

 腹の奥底から湧き上がる衝動に押されて、言葉を紡ごうにも声が出ない。俯いた顔は、叩きつけるようにライザーの胸元に押しつけられた。

 とっくに()れたと思っていた涙が、また溢れてくる。

 

「……私の、せいで……!」

 

 判っていた。

 悪いのはライザーじゃない。

 私だ。

 彼を巻き込んでしまった、私のせいだ。

 何も出来なかった、私のせいだ。

 震える肩に、ライザーの手が乗せられた。

 

「リアス」

 

 彼の声は、

 

(ゆる)せ、とは言わない」

 

 淡々としていながらも、真剣だった。

 

「たしかにあれは俺のミスで起きた事故だ。それについて弁解する気はないし、何より俺としてもあんな終わり方は望んじゃいなかった」

 

 だが、とライザーは続ける。

 

「勝ちは勝ちだ。キミが負けを認めた以上、俺達の婚約は正式に成立する」

 

 それだけ言うと、ライザーは魔方陣へどこかへ消えてしまった。

 残されたリアスは、行き場のない感情に任せて、崩れ落ちるように泣き続けた。

 何度も何度も、同じ言葉を繰り返しながら。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

 

 

       

 

 

 奇妙な既視感があった。

 この感じは、初めてではない。

 ゆっくりと、深い意識の底から浮上してくる感覚。

 精神の内と外とを隔てる何かが、薄膜(はくまく)を一枚ずつ剝いでゆくように、少しずつ透明度を増してゆく感覚。

 誰かの声が聞こえる。

 少女の声だ。

 誰かの名前を呼んでいる。

 泣き叫びながら呼んでいる。

 聞いたことのある声。

 聞いたことのある名前。

 ゆったりとした時間感覚の中で、世界がこちらに引き戻されてくる。

 いや。

 違う。

 こちらが世界に近づいてゆくのだ。

 何もない世界から、

 全てがある世界へ。

 ああ。

 思い出した。

 あの時といっしょだ。

 初めて、自分の軀に異変を憶えた時と。

 だが、一つだけ違うことがあった。

 その先にいるのは、底なしの闇でも、荒れ狂う炎に包まれた『影』でもない。

 光に照らされた、美しい(くれない)の髪だ。

 温かさをくれた、優しい人の髪だ。

 世界へは、近づいてゆくのではなかった。

 それは帰ってゆく場所なのだ。

 リアス。

 

 

 聞こえるのは時計の音と、それから静かな息づかいである。

 銀髪のメイドは窓に一番近いベッドの脇に立って、そこに眠る人物を静かに見つめていた。

 無残な姿だった。

 半身を包帯で覆われ、『彼』は白いベッドに横たわっている。

 腕の包帯の隙間を縫うように点滴静注(てんてきじょうちゅう)のチューブが繫がり、口元は透明のカップで覆われている。送られてくる酸素を呼吸するたびに、カップの内側が白く(くも)った。

 集中治療室である。照明の落された広い病室に、同じようなベッドが六つほど並んでいる。

 他のベッドは全て(から)で、だから他に人影はない。

 レーティング・ゲームが終わってから、グレイフィアは魔王サーゼクスの命で『彼』の側に付くように言われた。

 バトル・フィールドから『彼』を医療施設へと転移させてから、つまりこの二日間である。

 すぐに緊急処置室へ運ばれた。

 冥界の中でも特に医療に精通している者達を集めたチームが、中でどんな処置を行ったのかは判らない。ただ、キャスターに乗せられて『彼』が廊下へ出て来た時には、こうなっていたのだ。

 酸素マスクと、点滴、そして包帯である。

 中継映像で見るのと、実際に自分の目で見るのとでは、その凄惨さはケタ違いだった。

 鼻孔(びこう)の周辺と、口元も包帯の隙間から見えている。どちらも、肉の部分は焼け焦げていた。焼死体を包帯で包んだようにしか見えない。

 損傷が皮下組織にまで及んでいるのは、一目瞭然(いちもくりょうぜん)だった。部分的には、血管や神経の損傷も起きているはずだ。実際に眼球は、煮立ったタマゴのように白濁(はくだく)していたのである。

『彼』自身の神器(セイクリッド・ギア)に阻まれてしまい、治療用の魔方陣が機能しなかったのだと言う。そのせいで、消毒した軀に包帯を巻きつけるという一般的な治療をするしかなかったのである。

 生きているのが不思議なくらいの、大火傷(おおやけど)だ。

 

「リアス……」

 

 呟くグレイフィアの、その手に持つ紙は彼女がサーゼクスから託された物だった。

 もしも『彼』が目覚めたら、それを渡してくれたまえ。

 ちらり、と窓の外に目を向ける。

 遥か向こうの高台に、今回のパーティ会場が見えた。

 予定では、そろそろ婚約パーティが執り行われる時間だ。そうなれば、グレイフィアもサーゼクスのもとへ戻らなければならない。

『彼』が起きる気配は、ない。

 改めて『彼』へと視線を戻した時、グレイフィアは息を呑んだ。

 目が合った。

『彼』の右目に、瞳が戻っていた。

 

 

 

       

 

 

 連れて来られたのはダンス・ホールみたいな部屋だった。

 やたらに広くて、やたらに天井が高い。

 磨き上げられた大理石のフロアを、見たことのない連中がグラスを片手に歩き回り、談笑していた。

 どれも着込んでいるのは、スーツやタキシード、それにパーティ・ドレスだ。

 ざっと一〇〇人以上はいるだろうか。

 皆、人間ではない。

 悪魔だ。

 溜め息をついて、一誠(いっせい)はグラスの中身を口に運んだ。入口で渡された、ノン・アルコールの琥珀(こはく)色だ。

 彼をはじめ、残りのオカルト研究部メンバーも正装に身を包んでいた。唯一違うのは、朱乃(あけの)が赤と黒の和服に白い帯を巻いていることくらいだ。

 リアス・グレモリーとライザー・フェニックスの婚約を記念するパーティの、大宴会場である。

 それはちょっとした立食パーティみたいなもので、まばらに置かれたテーブルの上に並べられた料理はどれも旨そうな香りと湯気を立てている。

 だが、とても祝う気になどなれなかった。

 それどころか、彼らの心を支配するのは暗澹(あんたん)たる思いだ。

 弾けんばかりの笑顔が似合っていたアーシアは、両手で持つグラスに視線を落している。

 朱乃の浮かべる笑みも、どこか作ったように見える。

 木場(きば)は気丈に振舞って見せていたが、それでも言葉の節々に隠し切れない悲哀が感じられた。

 ただでさえ口数の少ない小猫(こねこ)は、さらに輪をかけて無口だった。

 遠くに、ライザーの妹が意気揚々と招待客からのインタビューに答えているのが見える。

 ……お兄さまったらレーティング・ゲームでお嫁さんを手に入れましたのよオホホホホ……。

 

「好き勝手言いやがって」

 

 思わず漏らした言葉に、

 

「中継されていたのを忘れているのでしょう」

 

 涼やかな声が応えた。

 

「ソーナ会長」

 

 声をあげた木場を含めたオカルト研究部員達に、するり、と滑るように近づいてくる、彼女は一誠達の先輩で、リアスと朱乃(あけの)の同級生である。

 ソーナ・シトリー。シトリー家の次期当主で、人間界では支取蒼那(しとりそうな)の名で駒王学園の生徒会長を務めている。

 オリエンタル・ブルーのドレスは肩が見えるオフショルダーで、その手には一誠達が持つのと同じ色の液体が入ったグラスを(もてあそ)んでいた。

 彼女が言っているのは、いろいろと話を誇張している節のあるレイヴェル・フェニックスのことだろう。

 

「結果はともかく、勝負は拮抗……いえ、それ以上であったのは誰の目にも明らかでした」

 

 二日前のゲームの中継を、生徒会の彼女達が担当していたのだ。

『彼』の、と続けるソーナの紫色の瞳が、眼鏡の奥で一瞬、陰りを見せた。

 

「……黒鉄くんの怪我のことは、とても残念です。私も何度か、彼には生徒会の仕事を手伝ってもらったことがありましたから」

 

 そう言ってわずかに伏せた目には、たしかな憂いが浮かんでいた。

 

「俺のせいです……」

「……え?」

「俺が弱かったから……俺が先輩の代わりに部長の犠牲になっていたら……」

「それは違うよイッセーくん」

 

 割り込んだのは、木場である。

 澄んだ夜のような瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

 

「そんなこと、リアス部長は望んでない」

「で、でも木場!」

「今の僕らに出来るのは、ただ待つことだけだよ」

「待つ……?」

「斬輝先輩を、です」

 

 小猫だ。グラスの中身を飲み干して、その目はじっと会場の奥の方を見据えていた。

 

「……私はまだ、諦めたくありません」

「そうですわね」

 

 そう言う朱乃のグラスに、次の琥珀色が注がれてゆく。

 

「こんな終わり方、きっと斬輝くん本人が納得しませんわ」

 

 私も、と呟くアーシアの左手は、一誠のタキシードの裾をつまんでいた。

 

「ザンキさんを信じたいです……!」

「アーシア……」

 

 その光景を見つめていたソーナは相好(そうごう)を崩し、

 くすくすと肩を震わせて、

 それから左手の中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

「……会長? どうかなさいました?」

 

 朱乃の問いに、いいえ、と返してから、

 

「ただ、思っていたよりも黒鉄くんが後輩に慕われているようだったので」

 

 そう応えた、その時だ。

 ただでさえ賑やかだった会場が、さらに騒がしくなった。

 見ると、はるか向こうの突き当たりにある舞台に、白いジャケットを着込んだ一人の男性が現れたところだった。

 ライザー・フェニックスだ。

 

「冥界に名だたる貴族の皆様! ご参集くださり、フェニックス家を代表して、御礼申し上げます!」

 

 その声に、それぞれ話に花を咲かせていた一〇〇人以上の悪魔が、ぞろぞろと舞台の方に集まって人垣を形成してゆく。

 一誠達も不自然にならないように、人垣の最後列の方へと移動した。

 ……ああ、始まっちまう。

 

「本日皆様においで願ったのは、この(わたくし)、ライザー・フェニックスと、名門グレモリー家の次期当主、リアス・グレモリーの婚約という、歴史的な瞬間を共有していただきたく願ったからであります!」

 

 ライザーの口上に、会場に集まった招待客達が、どっ、と()いた。

 

「それではご紹介しましょう! 我が(きさき)、リアス・グレモリー!!」

 

 応えるように、ライザーの隣に二つの紅い魔方陣が展開した。

 グレモリー家の紋章……リアスの転移魔方陣だ。

 真帆仁はそれぞれ遠ざけ合う磁石のように反発し、その間から純白のドレスを身にまとったリアス・グレモリーが姿を現した。

 その美しさに魅せられたのか、会場の悪魔がまた沸いた。

 一誠も、彼女の姿に目を奪われた。

 綺麗(きれい)だ。

 

「すでにご存じの方々もいらっしゃるとは思いますが、今回の婚約はレーティング・ゲームによって決着をつけることになりました!」

 

 だが、同時に一誠は気づいていた。

 招待客に振りまく笑顔の……その目は笑ってなどいない!

 

「ちょっとしたハプニングこそありましたが、しかし! 結果は私の勝利という形に終わったのです!!」

 

 それは彼が憧れた彼女ではなかった。

 あの人は……、

 あの人は紅の髪を揺らしながら、威風堂々(いふうどうどう)としていなきゃいけない。

 泣き腫らした目で、(かな)しい笑みなど浮かべていいはずがない!

 

「若輩者ではありますが、このライザー、妃とともに純血悪魔の存続と繁栄、そして安定に全力を捧げるとお約束します!」

 

 ライザーの声に、一誠は目を伏せる。

 

「我々悪魔の未来は! 今日! ここから! 新たに始まるのです!!」

 

 握りしめた拳に、血が(にじ)んだ。

 

「そいつぁ違うなあ!」

 

 ずしり、と胸に響く叫びは、背後からだった。




 活動報告にも書いたように、何とかライザー編の『終章』まで書き終えました。
 安心してください、ようやく完結出来ますよ。

 とりあえず、次回は水曜日辺りに更新出来たらいいかなあ。更新してなかったらごめん。


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第一七章 鉄刃:2

       

 

 

 悪魔の未来、

 純血悪魔の存続、

 繁栄、

 安定。

 ライザーの歯に浮くような台詞を聞き流しながら、リアスは自分に向けられる視線を敏感に感じ取っていた。

 やっぱり、と思う。

 誰も私を『リアス』として見ていない。

 そこにいるのは、ひたすら『グレモリー家のリアス』として見てくる連中だらけだったのだ。

 例外は、わずかに三つ。

 自分の家族と、

 だいじな眷属、

 それから親友。

 ……ああ、あと従兄弟もいたっけ。

 どうでもよかった。

 

「我々悪魔の未来は!」

 

 結局、とリアスは思う。

 自分の夢一つすら叶えられずに結婚させられてしまうのね。

 

「今日! ここから! 新たに始まるのです!!」

 

 だが、

 

「そいつぁ違うなあ!」

 

 群衆の中から、突然、応じる声があった。

 鋭い、しかしどこか緊張感に欠ける男の声だ。

 聞き覚えのある声だ。

 

「悪魔の未来云々(うんぬん)を語る前に、ケリつけなきゃならねぇことがあるだろ!」

 

 正面の人垣が、左右に割れた。

 驚愕と疑問の声が()き上がり、どよめくのは招待された悪魔達だ。

 

「てめぇ、なに人が気ぃ失ってる時に勝手に話進めてんだ、こら。賭けはどうしたよ、ああ?」

 

 フロアの中央に浮かび上がった魔方陣の上で仁王立ちするその姿を見た途端、リアスは己の目を疑わずにはいられなかった。

 背が高く、細身だが、肩幅がある。

 しかしその風体(ふうてい)は、あまりにも場にそぐわないものだと言えよう。

『彼』が身に着けるのはスラックスと革靴ではなく、革のパンツに、革のブーツだ。

 心持ち左右に開いた両腕や逆三角形に鍛え込まれた上半身にいたっては、血のにじんだ包帯に覆われていて、その上には何も着込んでなどいない。

 顔面も、くまなく包帯に覆われていた。

 そんな男が、冥界の、しかも婚約パーティの会場のど真ん中に立っているのである。

 

「ど、どういうことだ?」

「リアス殿、これはいったい……?」

 

 それぞれの身内や関係者達のどよめきの中で、ブーツの底が大理石の床を打つ音だけが、やけに響く。

 がつん。

 がつん。

 がつん。

 生きた焼死体が、人垣の間を歩いて来る。

 信じられない。

 だって、だって彼は…………、

 

「ざん、き……?」

 

 本来その場にいるはずがないからだ。

 だが、

 

「んー?」

 

 彼女の声に反応するように、男が顔を上げる。

 包帯の隙間から覗く双眸と、目が合った。

 信じられない。

 リアスを見返すその目は、白濁(はくだく)してなどいなかった。

 両方ともだ!

 

「よう、リアス!」

 

 それも……ああ、なんてこと。

 

「ドレス似合ってんじゃねえか。見違えたぜ」

 

『彼』の声には艶が戻っているどころか、それはまるでデートで待ち合わせしていた彼女を見つけた時のような気軽さなのである!

 

「でもま、ちょーっとそいつを着るタイミングは早いかもなあ」

「どうして……」

 

 自分でも、声が震えているのが判る。

 涙腺から零れる液体にも、気づいていた。

 

「あなた、どうして……」

 

 舞台の下から見上げる恰好で、男は白い歯を覗かせた。

 

「戻ってきたぜ」

 

 包帯に覆われた顔を、獰猛(どうもう)な笑みに歪めて。

 

「『斬輝(ざんき)ちゃん、地獄から帰還の巻』、ってな」

「おい!」

 

 突然、人垣の外から声があがった。

 黒衣に金の肩当てやら(すね)当てやらを着けた、常駐の衛兵である。入口に立っていた二人と、騒ぎを聞きつけたのか廊下側の警備を担当していた二人も、いっしょになってやって来る。

 舞台袖に控えていた六人も、リアスやライザーの脇を縫うようにしてフロアに降り立ち、騒ぎの元になった人物を取り囲んだ。

 あっという間に斬輝を中心にした一〇人の包囲網が展開された。

 携えた槍の穂先を、一斉に闖入者(ちんにゅうしゃ)へと構える。

 

「あ。ああ。あー、そういうことか。やれやれ、参ったなあ」

 

 だが斬輝は、武器を向けられているのにも(かかわ)らず、包帯に覆われた指先で包帯に覆われた頬を()くばかりだ。

 

「貴様、ここがどこか判っているのか!」

「すぐに立ち去れ!」

「さもなければ、力ずくでも追い出すぞ!!」

「立ち去れ、つってもなあ」

 

 相変わらず間延びした喋り方にしびれを切らしたのか、斬輝の背後に回り込んでいた三人が動いた。

 半身(はんみ)に槍を構えた刺突(しとつ)である。

 だが。

 

「っしょお!!」

 

 肉を貫く音の代わりに、聞こえた音は四つ。

 一つは、じゃりん、と金属の擦れる音。

 そして残りの三つは、金属の断ち折れる鋭い音だ。

 

「……へ?」

「そんな……」

「何が……」

 

 曲芸師の軽やかさで身をひねった斬輝の、その背後で愕然(がくぜん)と立ち尽くす三人の兵の手には、折れた槍が握りしめられていた。

 真ん中から折られた槍が三つ、がらんがらんと大理石の床に落ちる。

 

「見事……」

 

 誰かの感嘆が、人垣の中から聞こえた。

 

「おいおい」

 

 抗議の声をあげる、その斬輝の両腕が、左右に開いている。

 巻き付いた包帯に筋肉の浮き出した、(たくま)しい腕だ。

 握った拳に、銀色がきらめいている。

 四本の指の付け根を横一直線に切り()いて、拳の中から刃が突出しているのだ。それはまさに、幅広(はばひろ)双剣(そうけん)である。

 

「随分と手荒じゃねーか。もっと穏便に行こうぜ」

 

 それによ、と武器をしまった斬輝は、革のパンツのポケットから一枚の紙を取り出して見せた。

 

「俺も一応、ここの招待客なんだぜ?」

「あ、あれは!?」

 

 その紙に描かれたものを見た時、思わずリアスは声をあげた。

 王冠を被って四枚の翼を広げた悪魔が描かれ、そこから魔方陣が組み込まれている。

 その紋章に、リアスは見覚えがあった。

 あれは……、

 

「お兄さまの魔方陣!? でも、どうして……」

 

 リアスの疑問に、

 

「武器を下ろしたまえ」

 

 応えたのは寛闊(かんかつ)なバリトンである。

 

「彼は私が招いた客人だ」

 

 言いながら、一人の男が歩いてくる。

 胸のあたりまで伸ばした髪は、リアスと同じ(くれない)の色だ。

 だが彼の身にまとう派手なマントは、その場にいる誰よりも圧倒的な存在感を示している。

 

「……お兄さま」

 

 現・四大魔王の一人。

 サーゼクス・ルシファー。

 旧名はグレモリー。

 リアスの、実の兄である。

 傍らには、グレイフィアもいた。

 

「サ、サーゼクスさま!?」

 

 上擦った声をあげた衛兵達が直ちに構えを解き、サーゼクスに向き直る。

 全員、キヲツケである。

 

「よろしい。退()がっていいよ」

「は!」

 

 返事が、綺麗にハモっている。

 満足げに頷いたサーゼクスは、

 

「さて」

 

 斬輝を向いた。

 

「こうして直接顔を合わせるのは初めてだね、黒鉄(くろがね)斬輝くん。妹が学園では世話になっているよ」

「どうも」

「はぐれ悪魔の討伐にしても、キミには大いに助けられているね」

「そんなことないですよ。半分は、俺からやらせてくれ、ってとこもありましたし」

謙遜(けんそん)しなくていい。『黒き血濡れの魔人』という名は、それなりに知名度を上げて来ているんだ」

 

 その名に反応したのは、何割かの悪魔達だった。

 

「魔人だと!?」

「血塗られた剣を持った黒ずくめの男が、はぐれ悪魔を次々と討伐しているという、あの……!」

「だが、あの気配は間違いなく人間じゃないか!」

 

 ざわざわと、またどよめき始めた。

 

「ははぁん」

 

 斬輝だ。悪魔達から向けられる興味と奇異の視線から、何かを感じ取ったようだ。

 

「ひょっとして、こんなけったいな名前を考えたのって、あんたか?」

「はははっ、何のことだろうねえ」

 

 そう言って朗らかに笑うサーゼクスの姿を見て、リアスは確信した。

 ……絶対にお兄さまね……。

 彼は魔王という立場でありながら、その性格はどことなく子供っぽいところがある。好奇心旺盛と言えば聞こえはいいが、娯楽の少ない冥界において常に新しいものを取り入れようとするのである。面白そうなものがあれば、片っ端から手を出してしまうのだ。

 たまにそれが空回りして、グレイフィアにこってり絞られることもしばしば、だ。

 

「サーゼクスさま、これはいったいどういうことでしょうか?」

 

 ライザーが、サーゼクスに詰め寄る。その声には、たしかな緊張があった。

 

「なに、彼にはちょっと、私が用意した余興(よきょう)に付き合ってもらうことになっているんだ」

「余興、ですか?」

 

 余興……?

 

「ライザーくん、この間のレーティング・ゲームは実に楽しく拝見させてもらったよ。しかしながら、ゲーム経験もなく、戦力も半分に満たない妹相手ではいささか……」

「……サーゼクスさまは、あの闘いにご不満でも?」

「いやいや」

 

 サーゼクスはかぶりを振った。

 

「魔王の私が言葉を差し挟んでしまえば、レーティング・ゲームそのものが存在意義を失ってしまう。ましてや、今回は事情が事情だ」

 

 リアスとライザーの婚約をかけた勝負、である。

 

「旧家の顔が立たないだろう?」

 

 では、と口を挟むのは、中年の男性だ。

 

「サーゼクス、お主はどうしたいのかな?」

 

 リアスやサーゼクスと同じ紅髪である。

 ジオティクス・グレモリー。

 二人の父親だ。

 

「父上。私は可愛い妹の婚約パーティは派手にやりたいと思うのですよ。グレイフィアに少々段取ってもらったのも、そのためですし。それに、伝説のフェニックスと話題沸騰中の『黒き血濡れの魔人』の闘い……面白い催しだとは思いませんか? 形式的なつまらないパーティよりも、こちらの方が百倍も会場は盛り上がるでしょう」

 

 何より、と『紅髪の魔王(クリムゾン・サタン)』の視線はライザーを射抜いていた。

 

「ゲームでは、予期せぬトラブルでキミ達は決着を付けられていなかったようだしね」

 

 その言葉が、決め手になった。

 

「いいでしょう」

 

 ライザーが、前へ出る。

 

「このライザー、身を固める前の最後の炎をお見せしましょう!」

 

 拳を握るライザーの、その声音に喜悦の色を感じたのは気のせいだろうか。

 

「さあ、斬輝くん。キミはどうする? この勝負、受けるかい?」

「当然だ」

 

 即答だった。

 

「そのために来たんだからな」

 

 不敵な笑みを浮かべて。

 

「リーア」

 

 囁きは、兄である。

 

「キミもそれでいいね?」

「わ、私は……」

 

 応えられなかった。

 どうしたいの?

 私は、どうしたいの?

 視線を彷徨わせる彼女に、

 

「リアス」

 

 正面から声をかけるのは斬輝だ。

 顔を上げると、目が合った。

 包帯に覆われた顔が、ゆっくりと頷く。

 途端に、理解した。

 だったら私は、

 

「……判ったわ」

 

 あなたを信じる。

 

「お兄さま」

 

 目線を切って、サーゼクスに向き直る。

 心は決まっていた。

 実のところ、彼がこの会場に姿を現した時から。

 

「お願いします」

 

 兄の笑みは、いつにもまして柔らかかった。

 

 

 

       

 

 

 大宴会場の中央に急遽作られた異空間のバトル・フィールドの中で、興味深そうな視線を送るのは、周囲の関係者席に座る招待客達だ。

 レイヴェルやフェニックス眷属も、それから部員のみんなも、それぞれの席に着いて事の成り行きを見守っている。

 リアスも。

 全員の視線が集まる中、包帯に覆われた男と伝説の力を宿す男は、わずかに数メートルを隔てて対峙していた。

 

《お前もしつこい奴だな》

 

 眉をしかめて、ライザーの言葉は迷惑そうだ。フィールドの上空……観客席の正面の空間にウィンドウが開き、彼らの声はそこから映像とともに聞こえてくる。

 

《そんなに俺がリアスと婚約するのが嫌か》

《いやあ、それもあるんだがな》

 

 応える斬輝は、苦笑である。

 

《さっきも言ったろ? ケリつけに来たんだよ》

 

 賭けの、だ。

 

《俺が死んだらあんたの勝ち、って話だったろ? まだ死んじゃいねえぜ。賭けは続行だ》

《……いいだろう、そもそもの言い出しっぺは俺だ。あの試合が不完全燃焼だったことも否めないしな》

 

 言いながら、ライザーは羽織っていたジャケットを脱ぎ捨てる。

 

《だが判っているのか? この婚約は悪魔の未来のために必要でだいじなことなんだ。お前のような何も知らないガキが、どうこうするようなものじゃないんだよ》

《そういうのがな、気に喰わねぇんだよ》

 

 手足のストレッチなんかし始めて、彼は吐き捨てるように言った。

 

《そもそもよ、あいつが『こっち側』の大学を出るまではそういうのはナシ、って話だったんだろ? そいつがどうして、こんなことになってんだよ》

 

 屈伸し、伸脚して、アキレス腱を伸ばす。同時に肩の筋肉や肩甲骨をほぐす運動を混ぜているのは、時間の節約だろう。

 

《契約を重んじるはずの悪魔さまが約束を破ってまで強引に婚約を進めようとして、それが悪魔の未来のためだあ? あいつの未来はどうだって良いのか、え? どうなんだい?》

 

 切りっ放しの髪から覗くのは、ネコ科の肉食獣を思わせる鋭い瞳である。

 

《そんなことのために、あいつの夢を潰されて(たま)るかよ》

「二人とも、準備は良いかな?」

 

 サーゼクスだ。リアスの隣に座る彼の声は拡声され、フィールドに反響する。

 

「では、始めてくれたまえ」

 

 その合図に、ライザーは炎の翼を広げる。

 対する斬輝は、

 

《覚悟しやがれ!》

 

 そう言って、身構えるところだった。

 半身を包帯に覆われたままで。

 全ての指を開き、両腕も大きく前後に開いて、低く腰を落す。武器も持たない素手のままで、それはあまりにも大胆な構えだった。

 だが、

 

《おうらあ!》

 

 次の瞬間、起きたことに比べれば、そんなものは驚嘆に値しなかった。

 金属を擦り合わせるような、じゃりん、という鋭い音とともに、銀色の光が包帯に覆われた斬輝の軀を駆け巡ったのだ。

 何が起きたのか、リアスには判らなかった。

 銀色の刃物が、斬輝の全身を撫でまわしたようにも見えた。

 そして、

 白い花びらが散った。

 包帯だった。

 目や鼻、口以外を隙間なく覆っていたはずの包帯が、ずたずたに引き裂かれて、無数の布の断片となって散り落ちたのである。

 

「……うそ」

 

 そしてその中から現れた斬輝の姿に、リアスは思わず声をあげた。

 側にいた一誠達も、ウィンドウに映るライザーも、そしてその眷属達も皆、一様に(ほう)けた顔をしていた。すなわち、目を見開き、口をぽかんと開けて、けれどそれをどうすることも出来ないといった様子だ。

 信じられなかった。

 彼の半身は、ライザーの炎に呑まれて黒く焼けただれた肉と化していたはずだ。

 昨日、リアスが彼の病室に行った時までは。

 それが、ない。

 綺麗さっぱり消え失せている。

 いや、治っているのだ。

 黒い革のパンツとブーツ以外は、裸体である。剝き出しの上半身には、生きた焼死体だったころの名残りなど、微塵もなかった。

 正真正銘、リアスの知る黒鉄斬輝が、そこにいた。

 思わず、口元を手で覆ってしまう。

 その時、リアスは自分がどれだけ情けない顔をしていたのか、ちゃんと判っていた。ウィンドウごしに見える無傷の斬輝に、うれし涙が零れそうになっているのだ。

 

「奇跡、なの……?」

 

 かろうじて漏らしたその言葉に、

 

「いや」

 

 サーゼクスが、やんわりと否定した。

 その口元には、(こら)えきれんばかりの笑みが浮かんでいる。

 

「こういうのはね、お約束って言うんだよ」

 

 呆気にとられたリアスは、だから兄の言葉がジョークであることを理解するのに、たっぷり三秒もかかった。

 そして、

 

「よく見ておくんだ、リーア」

 

 見た。

 

「彼の神器(セイクリッド・ギア)の真価を」

「え……?」

 

 言われてみて、気がついたのだ。

 腰を落して構える斬輝の軀が、規則的に光を放ち始めていることに。

 それはレーティング・ゲームで見たのと同じ光だ。

 リアスの髪と同じ、(くれない)の。

 似ている、と思った。

 脈拍のリズムに。

 もっと言えば、彼の心臓が血液を全身に送るたびに、彼の肉体がそれに呼応するように明滅するのである。

 全身を包むような紅い光は、やがてその範囲を縮める。風船が萎んでゆくように、彼の胸の中心へと収まってゆくのだ。

 

《おっしゃあ! 行くぜ!》

 

 そして、

 

禁手化(バランス・ブレイク)!!》

 

 真紅の閃光が炸裂した。

 

 

 光の線が、黒鉄斬輝の軀を駆け巡ってゆく。

 それは例えるなら、直線で模式化された血管だ。胸の中心から広がった細やかな(あか)い線が、胸を、腹を、肩を、腕を、拳を……イレズミのように彼の全身へと彫り込まれてゆくのである。

 幾何学的なイレズミは、さながら人体に魔方陣を描き込んだようにも見える。

 そしてそれこそが、『鋼鉄虫(メタル・セクト)』の持つ本来の力だった。

 

 

 黒鉄斬輝がリアス・グレモリーと出逢ったのは、二年前の春、駒王学園入学式の日の教室だった。

 まだ二年。

 だが斬輝には、もう二年、だと思える。

 そんなもんか?

 もっと最近のことだったんじゃないか?

 そう思うのは、彼女と出逢ってから彼の人生に『色』が戻り始めていたからだろう。

 なぜ彼女が自分に話しかけてきたのか、理由なんて判らなかった。持ち前の美貌で入学式の時から視線を集めていた彼女と違って、彼女がこちらに興味を抱くきっかけなどなかったはずだからだ。

 出席番号順で決められた最初の席が隣同士になっていなければ、あるいはこうはなっていなかったかも知れない。

 だが、

 ……一緒にお昼いかがかしら……。

 リアスは斬輝に声をかけた。

 それから色々なことがあった。

 体育祭で二人三脚を走ったりもした。

 修学旅行では一緒の班になって、自由時間の時にはペアで観光したりもした。

 気がつけば、彼の生活に彼女の存在は欠かせないものとなっていた。彼女との思い出が、心にぽっかりと空いた穴を優しく包んでゆくのが判ったのだ。

 無論、彼女を家族の『代わり』だなどと考えたことは、一度もなかった。

 しかしそれでも、全ての始まりは彼女と出逢ったことだった。

 

「おっしゃあ!」

 

 今なら判る。

 俺もきっと、お前に()かれてたんだ。

 今なら判る。

 自分のためではなく、他人のために拳を握るということの、その意味が。

 そうか。

 こんな感じなのか。

 やれやれ。

 気持ちいいじゃねぇかよ。

 

「行くぜ!」

 

 続く言葉は、短く、鋭い。

 

禁手化(バランス・ブレイク)!!」

 

 次の瞬間、

 

「うぉおぉおおぉおおぉおぉおおぉぉおおぉおおぉおおおおぉおぉおおぉおおぉおっ!!」

 

 全身に激痛が走る。

 ばすばすと音をたてて、変形した骨格が筋肉を貫通し、皮膚を破り、血飛沫(しぶき)を上げて突出する。

 いつもの刃ではない。薄く角張った、それは太く鋭利なトゲだ。

 銀色のスパイクが、彼の全身から突出してゆくのである。

 額の左右、ちょうど眉の真上から、上に向かって湾曲した二本のスパイクが飛び出した。

 耳の上から髪を分けて現れた二本は斜め後方へ、さらに後頭部からも二本のスパイクが並行に真後ろへと伸びる。

 両肩から上腕には一列、前腕には二列のスパイクが何本も並ぶ。

 肘から伸びた一本は肩に届くほど長く、さらに肩からも太いスパイクが真横へ伸びた。

 背中から突き出すのは、肩甲骨(けんこうこつ)が変形した平たい二枚の刃である。その間に背ビレのように並ぶのは脊椎骨(せきついこつ)の変形だ。

 革のズボンを破って両方の膝からも一本ずつ、短くて太いスパイクが飛び出した。

 拳から剣だけの闘いに、いつしか限界を感じていた。それだけでライザーに勝てるとは思わなかったからだ。

 合宿でも夜な夜な特訓はしていたが、それでも思ったような成果は得られなかった。

 だが。

 もしも、全身の骨が艶やかな銀色に置換されているなら?

 もしも、彼がいつもやっていることを『全身』に施すことが出来たなら?

 その『答え』が、これだ。

 あの時、一誠から譲渡された力の奔流が、きっかけを与えてくれた。

 禁手(バランス・ブレイカー)武装変(ぶそうへん)

『武器を用いる』のではなく『己自身を武器の補助とする』、究極の武装だ。彼の全身を駆け巡るイレズミは、斬輝の命令を余すことなく『鋼鉄虫(メタル・セクト)』へ伝達するための回路である。

 

「よっしゃあ!!」

 

 スパイクの()れ合う、じゃりん、という音とともに構えた斬輝の姿に、ライザーの顔から薄ら笑いが消えた。

 

「容赦しねえぞ、ライザー!!」

「ははっ、いいぞぉお! そう来なくてはなあ!!」

 

 迎えるライザーに、今度は野獣のような笑みが浮かぶ。

 

「来い、黒鉄斬輝!」

「おうよ!!」

 

 向かい合う二人は、同時に地を蹴った。

 

 

 最初に仕掛けたのは、黒鉄斬輝の方だった。

 左足で踏み切った、右の飛び足刀蹴りである。

 真っ直ぐ、こちらに向かってだ。

 

「ふっ!」

 

 咄嗟に右手を突き出すライザーの、その正面の空間に魔力の障壁が展開した。直径一メートルばかりの、炎の壁だ。触れたら当然、ヤケドする。

 

「のわっと!」

 

 それが判っているのか、奴も寸前で足を引き戻す。

 そこが狙い目だった。

 攻撃をやめたのを確認したライザーは、障壁を一瞬で解除して一歩踏み込む。

 着地しようとしていた相手を、ほとんど真下から蹴り上げた。

 

「ぐおっ!?」

 

 上空へ打ち上げられた黒鉄斬輝に追いすがろうと炎の翼を広げて飛び立とうとしたが、

 

「しゃあんなろぉおっ!!」

 

 空中で器用に体勢を立て直した相手が、物凄い勢いで急降下してくる。イレズミの紅とスパイクの銀色が光の跡を残して、さながら光のミサイルのようだ。

 後方に跳びすさって回避した。

 真正面の地面が轟音とともに炸裂し、無数の土塊(つちくれ)が飛び散って土埃(つちぼこり)が舞い上がる。

 

「なに?」

 

 相手の姿を見失った。

 

「しまった……」

「おう、しまったな」

 

 声が背後から聞こえた次の瞬間、ライザーは後頭部をどデカいハンマーでぶん殴られたような衝撃を受けて、前方へ吹っ飛んだ。

 背後に回った黒鉄斬輝が、至近距離からぶん殴ったのだろう。

 顔面から落下する寸前、ライザーは片手で地べたを叩くと、その腕を軸に軀を反転させて、何とか着地することに成功した。

 もっとも、地面に片膝を突いた状態ではあるが。

 

「ぐ、くそっ……」

 

 片膝を突いた姿勢のまま、さっきから立ち上がろうとしているのだが、出来ない。

 おまけに、ぐわんぐわんと眩暈(めまい)がする。

 あの一撃で、かなりのダメージを喰らったようだ。頭を抱えて左右に振ってみるも、一向に焦点が定まらない。

 

「効いたか?」

 

 ぐらつく視界で顔を上げると、こちらを向き、腰をひねりつつ低く落とし、組んだ両手を振り抜いた恰好の黒鉄斬輝がこちらを見据えていた。

 いくらか柔らかい笑みは、悪戯(いたずら)が成功した子供のようだ。

 

「まさか」

 

 まだ、立てない。

 

「そうか? 残念だな。並みの悪魔なら立てなくなっちまうようなのをお見舞いしたつもりなんだが」

 

 ああ、そのとおりだ。

 だから翼を再び展開して、強引に浮遊させる。

 それを見て、やぁっぱり、と相手は組んでいた手をほどく。

 

「……やっぱ効いてんな」

「バレたか」

 

 苦笑して、ゆっくりと降り立つ。翼をしまっても、フラつきはしなかった。

 

「ハンデのつもりか?」

「まさか。俺のワガママだ。こっちの方が、貴様と思う存分闘えると思ったまでのことさ」

「ふうん。ま、そういうことにしといてやるよ」

 

 忘れたわけじゃねえだろうが、と黒鉄斬輝は付け加えた。

 

「俺はハードだぜ」

「知ってるさ」

 

 先に地を蹴ったのは、相手の方だ。

 一気に間合いを詰め、拳を振り上げる。

 

「だぁら!!」

 

 銀色のスパイクを突出させた拳を、ライザーの腕がブロックする。

 

「むぅ!」

 

 反撃は、ブロックしたのとは逆の拳だ。身長差を利用してほとんど真上から頭部を狙うその拳を、しかし相手は予見していた。

 

「おらよっ!」

 

 右へと体勢をひねりながら、受けに出た左手でライザーの拳の側面を叩き、軌道を逸らす。さらに勢いに乗って振り切られる腕を、受け流す左腕のスパイクが削り、ライザーの腕から鮮血が噴き出す。

 瞬間、ライザーの振り抜いた右腕とそれを受け流した黒鉄斬輝の左腕が、仲良く並ぶ格好になった。イレズミの男の肘から伸びたスパイクは、真っ直ぐに不死鳥の悪魔の胸元に先端を向けていた。

 

「せっ!」

 

 肘のスパイクを、顔面に向かって突き出してくる。

 間一髪で避けたが、それがフェイントであると気づいた時には、左脇腹に衝撃が走った。

 

「ぐむっ!」

 

 喉の奥で詰まった音をたて、ライザーは跳びすさる。脇腹は文字どおり拳大に抉られて、何本もの太い血の線を曳いた。

 すぐに再生しようとするが、相手も猛攻を止めなかった。一瞬の隙に乗じて、さらに攻め込んできたのだ。

 後退るライザーに、追いすがる勢いで拳の連打が襲いかかる。

 ほとんど防戦一方となったライザーの、その軀から次々と血が噴き出しては傷が消え、再生されてゆく。

 だが再生されたそばからスパイクによって新たな傷が生まれるのだ。損傷と再生の無限ループの中では、反撃の炎を撃とうにも撃てない。

 これは、とライザーは思った。

 マズいぞ。

 そのすきを、見事に突かれた。

 拳による突きの連打から、突然、右の前蹴りが放たれたのだ。

 反射的に両手で叩き落したライザーの、その顔面はがら空きだった。

 そこへ叩きつけられたのは、踏み込んできた黒鉄斬輝の額だ。

 

「ぐ!」

 

 額の二本のスパイクが湾曲していたからか、大した衝撃ではなかった。

 だが生じた隙は大きかった。反射的に、もう遅いと判っていながら、ライザーの両手が顔をかばおうとして跳ね上がったのである。

 右の体側に打ち込まれたのがどんな技なのか、ライザーには判らなかった。

 鋼の骨格から繰り出される衝撃がライザーの脇腹を、さらに肉を通して内臓を直撃した。

 

「げふ!」

 

 それが渾身の後ろ回し蹴りだったことに彼が気づいたのは、物凄い勢いで宙を飛び、フィールドの壁に激突した時だ。

 石積みが揺らぎ、轟音をたててライザーの上に崩れ落ちる。もうもうと砂埃が舞い上がり、雨のように降り注ぐ石がライザーの視界を奪う。向こうからすれば、瓦礫に埋もれたように見えるはずだ。

 不死の力で、束の間の激痛が癒えてゆく。

 しかしその一方で、ライザーはの心は、いまだかつてないほどに激しく(たかぶ)っていた。

 これまで、ここまで自分を圧倒する相手と闘うことなどなかった。

 当然だ。不死の力の前では、相手の方が先に力尽き、折れたからだ。

 公式戦の記録にしても、彼にしてみれば単純に相性が良かったに過ぎないのだ。

 だが。

 あの男だけは違う。

 何度打ちのめしても立ち上がり、ついには半身を焼き焦がしたにも拘わらず復活して見せた。

 そこまで考えて、

 

「あ?」

 

 思い出した。

 三度の火傷を軀の半分に負ってもなお、それを治して見せた奴の肉体。

 ……ああ、

 そうか。

 そういうことか。

 ようやく判った。

 黒鉄斬輝。

 やっぱりお前は面白い奴だよ。

 

「……ふっ」

 

 乾いた血のこびりついた唇に、笑みが浮かぶ。次の瞬間には、唇の違和感はなくなっていた。

 魔力で瓦礫を吹き飛ばし、フィールドへと戻る。

 奴はまだ、構えを解いてはいなかった。

 

「黒鉄斬輝!」

 

 歩きながら、ライザーの拳に火炎がまとわりつく。

 

「どうやらこの賭け、そう簡単には決着がつかないものになってしまったようだな」

 

 奴は、応えない。けれど低く落としていた腰をもどして、それはほとんど素立ちである。

 

「だから、次の一撃で決めよう」

「いいぜ」

 

 応える相手も、左半身(はんみ)に上体をひねりながら右の拳を胸の前で構える。

 奴の軀から発せられる真紅の光が、その拳に収束した。

 

「お互いにぶん殴って、最後まで立ってた奴が勝ち、ってか?」

「そういうことだ」

 

 お互いの間合いをわずかに外した位置で、ライザーは立ち止まる。

 作り物の空間に、作り物の風が吹き抜けてゆく。

 まるで、とライザーは思う。

 荒野の決闘、というやつだな。

 

「うぉおおぉおぉあぁああぁああぁあぁあああ!!」

 

 黒鉄斬輝が叫び、

 

「でぇえぇええぇえぇえぇええぇえぇええぇえぃいいぃいっ!!」

 

 ライザーも叫ぶ。

 お互いに駆け出し、その距離を詰めてゆく。

 ライザーが左の拳を突き出し、黒鉄斬輝も右の拳を突き出した。

 お互いの腕が交差する。

 衝撃は一瞬だった。

 ライザーの拳が相手の顔面に寸分違わずに叩き込まれる衝撃、

 そして、

 

「ぐ……!」

 

 奴の拳が、ライザーの顔面に叩き込まれる衝撃。

 

「……がふっ」

 

 炎の拳を受けて、黒鉄斬輝は喰いしばった歯の隙間から血を噴き出した。

 

「う、が……!」

 

 ライザーも、たまらず血を吐き出す。

 それだけではなかった。

 がくん、と奴の膝の力が抜ける。

 脳震盪でも起こしたのか、立っていられなくなったのだろう。

 唇に、笑みが浮かぶ。

 だが。

 途端に、理解した。

 視界がぼやける。

 お互いの荒い息づかいも、遠くに聞こえてゆく。

 膝を突いた奴の姿が視界から外れ、両目に広がるのは作り物の空だった。

 ああ。

 そうか。

 俺は、負けるのか。

 人間に。

 黒鉄斬輝に。

 リアスを想う、その拳に。

 不思議と、気持ちは晴れていた。

 背中から地面に叩きつけられたのだと気づいた時には、もうライザー・フェニックスは立ち上がることが出来なかった。




 細かい修正とかいろいろしてたら時間がかかりました。


 二人の一騎打ち、なんか物足りないなあ、と思った、そこのあなた。
 言い訳がましいことを言わせていただくと、実は斬輝とライザーの一騎打ち、(戦闘シーンが)もうちょっとだけ長引く予定だったんだけど、それまでの修行シーンやらレーティング・ゲームのパートやらで想定以上に書き込んじゃってたんで、そのシワ寄せがきた感じです(汗)。


 あ、そうそう。
 次回更新時に新たなタグを追加するのだが、察しのいい方なら現時点で「ははぁん、ひょっとして」と思われるかも知れない。
 露骨なヒント出してるしね。


 ともあれ。
 黒鉄斬輝とライザー・フェニックス、二人の男の闘いの決着はついた。
 残っているのは当然、あの二人の決着だろう。
 無論、斬輝とリアスの。


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第一八章 鉄刃:3

       

 

 

 ふらつく頭を押さえて、何とか立ち上がる。

 立ち眩みがしたが、それも一瞬のことだ。

 

「ふう」

 

 斬輝は溜め息をついて、ぐい、と口元を(ぬぐ)う。垂れた血を拭こうとして、ライザーの火炎でずる剝けた頬もいっしょに触ってしまった。

 

「いでで……」

 

 呻いて、斬輝は対戦相手を見た。

 ライザー・フェニックス。

 不死鳥の力をその身に宿す上級悪魔。

 仰向けに倒れたまま、奴は起き上がることはなかった。

 

「なあ」

 

 だが意識はあるのか、しっかりした口調で話しかけてきた。

 

「なんだよ」

「一つ、教えろ」

 

 上空に展開されていた大きなウィンドウは、もうない。二人の勝負が決したのを確認したのか、すぐに消えてしまった。だから二人の会話は、第三者に聞かれることはない。

 

「ずっと不思議に思ってたことがある」

「……は?」

「何がお前を、そうまでして闘わせるんだ。お前の力の源は、何なんだ……?」

 

 その問いに、斬輝は苦笑して、よっこらせ、と地面に腰を下ろした。あぐらだ。

 

「何なんだろうな」

 

 斬輝は、そう答えた。

 

「なに?」

 

 ライザーが、目線だけをこちらに寄越す。

 

「まあでも」

 

 斬輝の言葉は、しかしまだ続いていた。

 

「一つだけ言えるとすりゃあ」

 

 言いながら、斬輝は肩ごしに背後の観客席を振り返る。

 その先に見つめるのは、紅の髪を持つ少女だ。

 

「あいつに笑ってて欲しいから、かもな」

「あいつ?」

「リアス」

「ああ……」

「けっこう気持ちいいもんだぞ、誰かのために闘うってのは」

 

 それから、

 

「知ってるか?」

 

 ライザーに向き直って。

 

「あいつの笑った顔、けっこう可愛いぜ」

「俺は見たことないぞ……」

 

 そりゃそうだ、と斬輝は笑った。

 

「あんたフラれてんだぜ? 無理に決まってんだろ」

「……そうだな」

 

 その時だ。

 斬輝とライザーの間に、炎が割り込んだ。

 ライザーと同じ炎の翼を広げた金髪の少女が、その両腕をいっぱいに広げて、彼をかばうようにこちらを睨み据えている。

 

「お兄さまはやらせませんわ!」

「レイヴェル、やめろ……」

 

 レイヴェルと呼ばれた少女に、斬輝も掌を向けた。

 

「よせよ。見りゃ判んだろ? もう終わってる」

 

 これ以上闘うつもりはないぞという意思表示で、全身のスパイクをひっこめた。イレズミはそのままで、気がつけばライザーに殴られた頬の痛みもいくらか和らいでいる。

 それを認めた彼女は、すぐさま背後のライザーを振り向いて抱き起こす。

 

「ずいぶん兄想いの妹じゃねえか」

 

 斬輝の皮肉に、

 

「うるさい」

 

 ライザーは苦笑で返した。

 そして、

 

「黒鉄斬輝」

 

 妹に支えられ、上体だけ起こしたライザーが顔を上げた。その表情には、初めて会った時のような刺々しさが、いくらか消えているように思える。

 

「認めてやる。今回の賭け、勝ったのはお前だ」

「おう」

「だが、次あいつを泣かしてみろ。その時はこの俺が容赦なく焼き殺してやる」

「その原因を作ったのはあんただろうが」

「黙って聞け」

 

 それは、ライザーなりの餞別(せんべつ)なのかも知れない。

 

「元婚約者からの、最後の警告だよ」

 

 お前が、と言うライザーの、その声にはかすかな哀愁の響きがあった。

 

「これから歩いてく人生は、きっとロクな道じゃない。なにしろ、俺と同じ……」

「おおっと、そこまでだ」

 

 斬輝は、イレズミを歪めて、にいっ、と笑って見せた。

 

「心配しなくても、そんなこたぁ俺がいちばんよく判ってらあ」

「そうか。まあともかく、あいつをこれ以上悲しませるな。いいな?」

「言われなくても、そのつもりだよ。あいつに泣かれるのは、もう勘弁だからな」

 

 その返事に、ライザーも笑みで返した。

 この時、二人の間で、言葉では言い表せないような何かが繫がったような気がした。

 

 

 バトル・フィールドが解除されてパーティ会場のフロアに降り立った時、

 

「おっとっと」

 

 両足の力が抜けて、たまらず前へ倒れ込みそうになった。

 それを寸前で受け止めたのは、

 

「大丈夫ですか」

 

 小猫だった。片腕を斬輝の胴に回して、たったそれだけで一三〇キロの重量を支えてしまったのである。

 彼女が悪魔だから出来ることだ。

 

「みんな、心配してました」

「ああ、知ってる」

「……早く行ってあげてください」

 

 少女の肩を軽く叩いて、大丈夫、という意思を伝えた。

 両足で踏ん張って、今度こそ斬輝は一人の少女のもとへ歩いてゆく。

 がつん。

 がつん。

 革のブーツの足音を、大宴会場に響かせて。

 ちらり、と目を向けると、オカルト研究部のメンバーが笑みを浮かべている。

 そのまま、斬輝は歩いた。

 紅髪の少女は、兄の側で、じっとこちらを見つめていた。

 強い意志の宿った瞳で。

 その正面に立って、斬輝は言った。

 

「待たせたな」

 

 次の瞬間、斬輝の左頬から、ぱあん、と鋭く乾いた音が鳴った。

 ぶたれたのだ。

 目の前の少女に。

 

莫迦(ばか)

 

 それが、リアスの応えだった。

 そして近づいて来たかと思うと、そのまま細い腕で抱きしめられる。

 

「あなたって人は……、どれだけ心配したと思ってるの……!」

 

 彼女の声は、震えていた。

 斬輝を抱きしめる、両腕も。

 

「……すまん」

 

 そう応えることしか出来なかった。

 だけど、とリアスは涙を流しながら、斬輝の胸板に頬を押しつけた。ドレスに包まれたバストも、押し潰さん勢いでだ。

 

「あなたが無事で……本当に、本当によかった……」

 

 一瞬、自分がどうするべきか迷った。

 けれどほんのわずかのことで、だから次の瞬間には、斬輝も両腕を彼女の背中に回して、抱き寄せていた。

 視界に自分の腕が入って、その時初めて、全身のイレズミも消えていたことに気がついた。足の力が抜けたのは、このせいだろうか。

 

「斬輝くん」

 

 声をかけてくるのは、サーゼクスである。

 

「おめでとう。勝負はキミの勝ちだ」

「どうも」

 

 リアスと抱き合ったまま、顔を上げて応える。

 

「ライザーくんとの賭けの内容は、リアスとの婚約について、だったね」

 

 ライザーが勝てばリアスとライザーの婚約は成立、逆ならナシ、だ。

 

「約束どおり、今回の縁談は白紙に戻させてもらうよ」

「ずいぶんあっさりしてるんだな。魔王の職権乱用、とか言われたりしないか?」

「心配はいらない」

 

 応えたのは、サーゼクスではない。会場の奥にいた、紅髪の中年男性だ。

 

「私とフェニックス(きょう)とで話し合って決めたことだ」

 

 斬輝の腕の中で振り返ったリアスが、お父さま、とこぼす。揺れた彼女の髪が、斬輝の鼻をくすぐった。

 

「すまなかったね」

 

 父は娘を真っ直ぐに見つめて、それから申し訳なさそうに呟いた。

 

「お前の気持ちを知っていながら、それでもお互いの欲を優先してしまった。すでに純血種の孫がいるにも拘わらずに」

「お父さま……」

「約束を破ってしまったのはこちらだ。縁談もなくなった今、どうしたいのかは、お前自身が決めなさい」

 

 父の言葉に、娘は斬輝との抱擁を解いて、父と向き直る。左手は斬輝の右手と繫いだままで、彼女は斬輝の隣に立った。

 私は、とリアスは言った。

 

「……私は、ここにいる黒鉄斬輝くんといっしょに行きたいです」

 

 そうか、とリアスの父親は頷いた。

 

「それが、お前の『答え』なんだね」

「はい」

 

 しっかりと、父を見据えて。

 

「判った」

 

 それから彼が向く相手は、斬輝だ。

 

「黒鉄斬輝くん、だったかな」

「ええ、まあ」

「……娘のこと、よろしく頼む」

 

 彼の言葉の意味を汲み取るのに、少し時間がかかった。

 二秒ほど。

 

「判りました」

 

 ただ、と斬輝は付け加えた。

 

「今度またこんなことがあったら、そん時ゃこっちも容赦しないんで」

 

 相手が魔王だろうが、

 リアスの家族だろうが。

 

「ああ、判った」

 

 リアスの父の、それが答えである。

 それから斬輝は、心配させたことに対する軽い謝罪を部員の連中に済ませて、会場を後にした。

 リアスを連れて。

 外に出た二人は、斬輝が持っていた紙の裏面に書き込まれていた魔方陣を発動させ、そこから出て来た『グリフォン』という魔獣に乗って冥界の空へと飛び立った。

 

 

「行ってしまったな」

 

 空を飛ぶグリフォンを見送りながら、ぽつり、とサーゼクスが呟く。

 パーティ会場の屋上である。

 

「あのグリフォン、最悪の場合の逃げ道として用意したんだがな」

「もしそうなっていたら」

 

 応えるのは、銀髪のメイドである。

 

「後が大変だったでしょう」

「そうだな」

 

 目を伏せて、それからサーゼクスの口元に浮かぶのは、笑みだ。

 

「とりあえず、彼が間に合ってよかった」

「本当です。あのまま目覚めなかったら、どうするつもり……」

「キミの目には、彼はどう見えた?」

「……正直、驚きました。あれほどの火傷を自力で治してしまうなんて」

「ああ、あれは私も驚いた」

 

 回復魔法もなしに、である。

 しかし、二人はその力に見覚えがあった。

 

「懐かしいな。あの頃を思い出す」

 

 まだ魔王になる前。

 それどころか、グレイフィアと結婚する前。

 魔王軍と反政府軍の内戦が勃発していたころ。

 

「『彼』ですね?」

「ああ」

 

『彼』と会ったのは、後にも先にも、その時限りだった。

 今、どこで、何をしているのかは判らない。

 けれど、確信した。

 

「よく似ているよ、彼の力は」

 

 似ている、なんてもんじゃない。

 

「サザンにかけられた、不死の呪いに……」

 

 それとは別で、妹の眷属に赤い龍(ウェルシュ・ドラゴン)がいることにも驚いた。

 おそらく、白い龍(バニシング・ドラゴン)が目覚めるのも、時間の問題かも知れない。

 

 

 

       

 

 

『冥界』と呼ばれるこの世界には、()の光が()さない。

 そのため『人間界』と違い、空は澄んだ青ではなく紫色である。だが(よど)んでいるというわけではなく、視界いっぱいに広がるのは無数の星々の光なのだ。

 この世界に『惑星』という概念があるかどうかは知らないが、しかし空に浮かぶ光達は斬輝の基準で考えれば充分に『星々』たり得るもののように思える。

 そんな世界を、二人は一匹の魔獣の上に乗って飛んでいるのだ。

 空気は独特だが、しかし見える景色は申し分ない。

 それが、斬輝が抱いた感想だった。

 グリフォンを召喚してパーティ会場を飛び出してから、緊張の糸が切れたのか疲れが一気に襲いかかってきたのか、斬輝はたまらずグリフォンの背の上で仰向けに横になった。

 その頭を、リアスが優しく持ち上げて、自分の膝に乗せる。

 膝枕だ。シルクの生地と彼女の太腿(ふともも)の感触が、妙に心地いい。

 頭に添えていた両手を頬へと滑らせて、リアスがこちらを覗き込だ。垂れた紅髪が、斬輝の首筋を()でる。

 

「莫迦ね」

 

 最初の一言が、それだった。

 

「なんだよ、いきなり」

「本当に、もう駄目かと思ったんだから」

「ああ、わりぃ」

「無茶するからよ」

「そうだな、無茶したからだな」

 

 リアスの片方の手が、斬輝の手を握る。

 その指が柔らかく華奢(きゃしゃ)だったことに、斬輝は初めて気がついた。

 

「言ったじゃない。死なないで、って」

「ああ」

「それなのに、死にかけて」

「死ななかっただろ」

「私なんかのために、命を張る必要なんて、なかったのに」

「そうはいかん」

「どうして?」

 

 約束だから、とは言わなかった。

 気恥ずかしくて、言えなかった。

 だからゆっくりと身を起こした斬輝は、腰をひねって、リアスの方を振り向いて。

 

「ヒーローってのは、そういうもんだ」

「なによ、それ」

 

 リアスが笑った。

 だから斬輝も、笑みを返す。

 

「ねえ」

「おう」

「遅くなっちゃったけど、あの時の続き、話してもいい?」

「あの時?」

「レーティング・ゲームの前にした話」

「ああ」

 

 あの時か。

 

「いいぜ。俺も、ちょうどそうしようと思ってた」

「じゃあ、お先にどうぞ」

「やだよ。言い出したのはお前だろ?」

「こういうものは男性からするものでしょう?」

「レディ・ファーストって言うだろ」

「使いどころが違うわ」

 

 じゃあ、とリアスが目を伏せる。

 

「いっしょに言う?」

「そうするか」

 

 斬輝の左手は、リアスの左手が握ったままである。

 そんな体勢で、二人は見つめ合うことになった。

 一〇秒ほどそうしていただろうか、ついにリアスは深呼吸して、斬輝も、ふう、と息を()らした。

 そして、

 

「俺はお前さんのことが好きだ」

「私、あなたのことが好きなの」

 

 二人、同時に。

 言ってしまってから、お互いに目を見開いた。

 それから、自然とにやけてしまう。

 

「なんだよ、いっしょだったのか」

「でも、嬉しい……あなたも、好きでいてくれたのね」

 

 リアスの空いている右手が、向かい合う斬輝の頬に触れる。斬輝も尻を動かして、リアスの方へと寄った。同じように右手を彼女の頬に当てて、しかしその親指はリアスの頬に光るものを拭って。

 

「ねえ」

 

 笑みを浮かべて。

 繫がれた左手が、指を絡ませてくる。

 

「せっかく両想いの二人なのだし……キス、しない?」

「ああ」

「……ファースト・キスなの」

「そうなのか?」

「ええ。でもね」

 

 ふいに、少女は目を伏せる。

 

「本音を言うと……キスだけじゃ、いや」

「それって、そういうことか?」

「うん」

 

 判った、と斬輝は言った。

 

「正直、俺も、したい」

 

 こちらは、苦笑で。

 リアスの(あお)い瞳が、こちらを見上げる。

 

「『向こう』に戻ってから?」

「そうだな」

「じゃ、そうしましょうか」

 

 でも、とリアスは言った。

 

「キスは今がいいの」

 

 目を閉じて、顔を重ねてくる。

 

「大好きよ、斬輝。愛してる」

 

 しがみついてくる腕も、柔らかな唇も、斬輝はそのまま受け止めた。




 そんなわけで、新しいタグ「クロスオーバー」と「鉄刃サザン」が追加になります。


「鉄刃サザン」は、HJ文庫から刊行されている故・大迫純一氏のライトノベル作品。
 斬輝の神器も、サザンの持つ「輝精虫(きせいちゅう)」がモデルになっていたりするわけですな。武装変も、サザンの持つ能力の一つです。


 さて、次回はおまけ程度の「終章」の予定。ようやくこの作品も、一区切りです。


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終章

       

 

 

 眩しさで目が醒めた。

 閉じたカーテンの隙間から差し込んだ()の光が、ちょうど斬輝(ざんき)の顔に当たったのだ。起き上がって、その時初めて、自分が全裸のまま眠ってしまっていたことに気がついた。

 朝陽に照らされたベッドには、リアスの姿はなかった。

 夢は見なかった。

 眠ったという自覚さえない。気がついたら、朝だったのだ。一瞬、昨夜のことこそ夢であったか、と斬輝は思った。

 かすかな残り香がなければ、そう信じたかも知れない。

 部室で部員達と解散した後、二人は斬輝の家へ向かった。冥界の空で交わした約束のためだ。

 斬輝の寝室に辿り着いた途端、二人はタガが外れたようにお互いを求め合った。

 口づけを交わし、肌を重ねた。

 リアスも自ら求め、肉体を開き、受け入れてくれた。その行為が嘘でないことを、とめどなく柔らかくなり続ける肌が教えてくれた。

 閉じた(まぶた)の裏で、婀娜(あだ)っぽくよがるリアスの姿が(よみがえ)る。

 (まゆ)を寄せ、(くちびる)を半開きにして狂ったようにのたうち回っていてさえ、彼女の顔立ちは美しかった。(こし)を送り込むたびに煽情的(せんじょうてき)肢体(したい)がうねり、(のど)の奥から甲高い嬌声(きょうせい)を噴き上げる。出逢ってからの二年で一度も聞いたことのなかった彼女の(あえ)ぎは、今でも耳に残っていた。

 ああ、この莫迦(ばか)

 (なま)めかしい記憶に反応して再び()とうとする己を押さえ込んで、斬輝はベッドを抜け出した。

 彼女が出しておいてくれたのか、布団の上にはスウェットの上下が畳んで置いてあった。

 下だけを穿()いて、部屋を出る。

 階段を降りてリビングへ行くと、すぐ左手に対面式のキッチンがある。最新の、システム・キッチンだ。

 

「お~」

 

 喉の奥で唸った斬輝に、

 

「あら、おはよう」

 

 リアス・グレモリーが声をあげる。Tシャツと短パンの部屋着の上に赤と白のギンガムチェックのエプロンを着て、その手にはフライパンとスポンジが握られていた。どうやら使い終わったのを洗っているらしい。

 焼けたベーコンの匂いが、食欲をそそる。

 

「朝ご飯出来てるわよ」

「ん~」

 

 見ると、テーブルにはすでに野菜サラダが、透明のボウルに盛られている。そこに添えられた木製のサラダ・サーバーも、斬輝が使ったことのない奴だ。

 向かい合う格好で、ベーコン・エッグの乗った皿が並べられている。

 テーブルに着くと、オーブン・レンジが絶妙のタイミングで電子音をたてた。

 

「死ぬかと思ったわ」

 

 トーストを皿に乗せながら、リアスが呟いた。

 

「なにが?」

()かないでよ、もう」

 

 ぷうっ、と唇を尖らせてそう言う彼女に、ようやく斬輝も理解した。

 ああ、そういうことか。

 思わず、頬が緩む。照れ笑いだ。

 婚約パーティの一件があってから、どうやらライザーはトレーニングに目覚めたらしい。一族の力だけでなく、己自信を高めることに励むというのである。ゆうべ、家のポストにそんなことが綴られた彼の手紙が入っていた。

 あのわずかな時間……しかも満身創痍だった状態で、まさか筆を取る余裕があったのか? 相変わらずフェニックスというのはしぶといらしい。

 そんなこんなでライザーとの婚約騒動がひとまずの終わりを告げた夜、リアスは斬輝の家に住むことを決めた。グリフォンの上で、斬輝に宣言したのである。

 思いを伝え合ったのだからいいじゃない、と彼女は言った。

 好きな人といっしょに暮らすのも夢だったのよ。

 そんなことを言われてしまっては、斬輝も断れなかった。

 断る気がなかった、とも言えるが。

 いずれにせよ、黒鉄斬輝とリアス・グレモリーは、こうして同棲生活をスタートしたわけである。

 

「トーストはバターでいいかしら?」

「いや。まんま喰う」

「飲み物は?」

「牛乳で」

「はぁい」

 

 それじゃあ、とリアスも向かい側に腰を下ろして、手を合わせる。リアスのコップには、麦茶が注がれていた。

 

「いただきましょう」

「おう」

 

 いただきます、と言ってから、二人は朝食に手をつけた。

 他愛のない会話を交わしながら。

 笑顔で。

 

 

 日曜日ということもあって、午前中はリアスの荷物を運び入れて、午後は駅の方まで出向いて彼女用の調度品の買い出しに出かけた。布団や枕のカバーを含めて気に入ったものが見つかるまでけっこうかかったが、それでも一日のうちにたいていのものは買えたので、良しとしよう。

 夕食はリアスが好きなものを作ってくれると言うので、ハンバーグをリクエストした。斬輝の好物なのだ。

 その後はリアスが点けたテレビでやっていた動物系のバラエティー番組をソファに座って観ていたが、ラクダの映像に切り換わった途端に彼女が悲鳴をあげてこちらに抱きついてきた。聞くと、幼少期のトラウマのせいでラクダそのものが苦手らしい。

 なぜそうなったのか、という斬輝の疑問には、ついぞ答えてくれることはなかったが。

 それでも、夢にラクダが出てきたら怖いわ、なんて言いながら斬輝のベッドに潜り込んでくるものだから、どうしたものかと思案する。

 細い眉を寄せて、不安げな表情を浮かべるリアスは、つまり学園では見ることの出来ない素直な彼女のものだ。そんなものを見せられては、断るわけにもいかないだろう。

 いいぜ、と応えた。

 その言葉を後悔することになるのは、二分後である。

 

 

 その夜、斬輝はリアスの安眠のための抱き枕と化した。

 

 

 

       

 

 

 週明けの月曜日、朝の通学路をリアスと歩いていた斬輝は、道すがら同じ駒王学園の生徒達から驚愕と疑問と羨望の眼差しを受けることになる。

 

「リアスお姉さまと……あれって三年の黒鉄先輩!?」

「あの二人がいっしょにいるのはよく見かけるけど、もしかして……」

「でも、こないだも二人で登校してたし……」

「リアスお姉さまとワイルドな黒鉄先輩……これはこれでアリかも!」

 

 同級生や後輩の言葉を肯定するように、リアスが腕を絡ましてくる。

 ぎゃあ、と悲鳴があがるのは、リアス・ファンの男子達からだ。

 

「今さら恥ずかしがることなんてないわ」

 

 傍らを歩くリアスは、そう言った。

 

「堂々としていればいいのよ。もう、()(つくろ)う必要もないのだし」

「そういうもんか」

「そういうものよ」

「判った」

 

 だから斬輝は、絡んでいる腕を一度ほどくと、彼女の手を握り、さらに指を絡ませる。弾かれるようにこちらを振り向く彼女の頬は、心なしか紅くなっていた。

 

「堂々としてりゃいいんだろ?」

 

 斬輝はそんなリアスを、笑みで迎えた。

 

「いっしょに行こうぜ」

「……ええ!」

 

 どこまでもいっしょに。

 

「これからは、いっしょに歩きましょう」

「ああ」

 

 親父。

 お袋。

 俺、今、こんなだぜ。

 もう、独りじゃないんだ。

 俺を愛してくれるリアスと……信じてくれるあいつらといっしょに、これからもずっと歩いて行くぞ!

 

 

 見慣れた赤いシャツと金髪が見えたのは、二人が学園の校門までたどり着いた時だった。

 

 

 リアスと斬輝のカップル成立のニュースは、その日の新聞部の一面をかっさらった。




 語ることはそう多くない。


 ともあれ、ようやくここまでたどり着いた。私が書きたい物語は、これで区切りを迎える。


 続きは今のところ考えていないが、二人の関係をさらに深めるという意味では、もしかしたら三巻以降のストーリーも書くことになるかも知れない。
 未定ですがね。


 だから、ひとまず『完結』とさせてください。もしも再開することになったら、その時はまた温かい目で見守っていただけると幸いです。


 では、また。


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