雪風と風の旅人 (サイ・ナミカタ)
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召喚事故、発生
~プロローグ~ 風の旅人、雪風と出会う事


 ――少女は、絶望していた。

 

 春の使い魔召喚の儀。それは、神聖にして絶対のもの。生涯のパートナーたりえる存在を呼び出し、それが持つ性質を見て進むべき専門課程を決定する――いわば今後の進路を左右する大切な場で真の名前を用いなかった、その報いがコレなのか。この世界の『始祖』は、どこまでわたしに試練を与えれば気が済むのだろう。

 

 

 ――彼は、困惑していた。目に映る……今の自分を取り巻く環境に。

 

 抜けるような青い空と、広く豊かな草原。それはいい。周囲にいるまだ子供といってもよい年齢の人間たちと、見たこともない(あやかし)ども。そして己の目の前に立つ、氷のような瞳の内に深く暗い絶望の色を宿す青い髪の少女についても、まあ後で考えればいいだろう。だが……。

 

「何故に、わしだけがここにおるのかのう……」

 

 ……しかし、その疑問に答えてくれる者はなく。

 

「おいおい、雪風のタバサが平民を呼び出したぞ!」

 

「まさか、召喚に失敗したのか?」

 

「彼女はトライアングルだよ? ありえないだろ。ゼロのルイズならともかく」

 

「ちょっと! わたしならってどういう意味よ!!」

 

 自身以上に困惑した声が響くのみであった。が、ほんの少しだけ状況を判断するに足る発言があったのは確かである。

 

 まずひとつ。彼らに『雪風のタバサ』と呼ばれている者が、自分をこの地へ連れてきたのであろうということ。

 

 ふたつ。その際に、何らかの手違いがあり――何故か、自分『だけ』がここへ引き寄せられてしまったのであろうということ。

 

 そして最後に。目の前にいる、小柄で痩せた少女こそが『雪風のタバサ』。つまり、自分をこのような状態にした本人であろうということ。

 

 だが、推測のみで判断すべきことではない。まずは、この異常事態を生み出した原因と思われる者に確認を取るべきだろう。そう判断し、彼は口を開いた。

 

 

 ――男性は、狼狽していた。

 

 毎年春……フェオの月に行われる〝使い魔召喚の儀〟。それは、このトリステイン国立魔法学院において、二年生へと進級するために必要な試験にして神聖な儀式である。男性――この儀式における監督責任者『炎蛇』のコルベールの記憶においても、また、過去の歴史を鑑みてもありえない事故を目の前に、彼は激しく混乱してしまった。

 

 この事故を起こしたのは非常に優秀な生徒である。取り扱いの簡単な汎用魔法(コモン・マジック)のひとつである〝サモン・サーヴァント〟でしくじることなどありえない。いや、実際失敗ではないのだろう。なにせ呼ばれた者が目の前にいるのだから。

 

 では、いったい何をして彼をここまで困惑させているのか。それは〝召喚〟された者が人間だということだ。〝サモン・サーヴァント〟は、使い魔となる生物をこの世界の何処かから呼び出す魔法。しかし、人間が呼び出された例など過去にない。

 

 それだけならばまだいい……いや、よくはないのだが。タバサの前にいる少年――歳の頃は十五~六、まだ幼さの残る顔立ちや小柄な体格から察するに、或いはもう少し若いのかもしれない彼の服装は、あきらかに自国トリステインの民が身に着けるようなものではなかった。

 

 純白の布を頭に巻き、橙色の――国内では見たこともない造形の胴衣を着ており、さらには濃紺のローブ、ともマントとも言えるような、これまた不可思議な造りの外套を身に纏っている。

 

 周囲にいる生徒達は呼び出された少年をひと目見ただけで『平民』と断じてしまったようだが、それは彼が杖を手に持っていない、ただそれだけの理由だろう。だが、コルベールの目から見るに、少なくともただの平民ではないように思えたのだ。とはいえ、もしもかの人物が異国の貴族であったなら、最悪国際問題に発展しかねない。

 

 それに。今のところ少年に敵意――周囲の者たちに対し、何らかの抵抗をしようといった雰囲気はない。しかし状況の推移によってはどうなるかわからない。だから、コルベールは事態に介入すべく動いた。

 

 

 ――少年は、少女に問うた。

 

「『雪風』のタバサ……と、申したか? わしをこの地へ呼び出したのは、おぬしで間違いないかの?」

 

 少女は少年の声を聞き、コクリ……と、小さく頭を縦に振った。

 

 頭痛がする。おそらくは、自分だけが強制的に引っ張り出されたせいだろう。頭を振りながら、少年はさらに質問を続けた。

 

「なるほど。で、いかなる理由でわしを……」

 

 ――が、その言葉は最後まで紡がれることなく、他の声に遮られた。

 

「お話中のところ申し訳ありません……私はジャン・コルベール。二つ名は『炎蛇』。このトリステイン魔法学院で教師を務めている者です。ミスタ、えー、大変失礼ですが、お名前を伺ってよろしいでしょうか?」

 

 真っ黒な長衣を身に纏い長い木の棒を持った――年齢の割に頭髪のやや寂しげな――男が声をかけてきた。おそらく、この場の責任者的存在なのであろう。少年はそう判断し――改めて観察を始めた。

 

 この人物は周りにいる子供たちと異なり、柔らかな空気を醸し出してはいるものの……それ以外の全て――たとえば移動のための動作ひとつとっても全く隙がない上に、周囲の者たちに一切それを悟らせていない。この者に武術の心得があるのは間違いなさそうだ。それも、ほぼ確実に実戦の経験がある。

 

 今のところ彼らに敵意はないようだが……『半身』から引き剥がされ、見知らぬ土地へ連れてこられた今、自分にどれほどのことが可能なのか判断がつかない。ならば、こちらから攻撃を仕掛けたりするのは愚の骨頂であろう。まずは、情報を集めることから始めなければならぬ――。

 

 瞬きするほどの間でそこまでの検討を行うに至った少年は、大人しく問いかけに答えることにした。

 

 名前……か。

 

 いくつかの名を持つ自分だが、今この状態で名乗るのならば、これが最も適切であろう。

 

 

「わしの名は『太公望(たいこうぼう)呂望(りょぼう)。太公望と呼ぶがよい」

 

 

 




はじめまして、またはお久しぶりです。
サイ・ナミカタと申します。


Arcadia様で掲載していた作品をこちらでマルチ投稿させていただくにあたり、ルビやカッコの記述方法などを修正致しております。

(本文もちょっとだけ手を入れていますが、物語の流れは同じです)

なお、タグに記載しました通り、全体の構成を考えて作成しているため、
感想欄などで展開予測や推理などをしないでいただけますと、
大変助かります。


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歴史の分岐点
第1話 雪風、使い魔を得るの事


 ――建国から数千年という長い歴史と伝統を誇る王国、トリステイン。

 

 保有する国土はさほど広いとはいえないものの、王都トリスタニアやその周囲は四季折々の花や噴水などによって美しく彩られ、国内にある世界最大の湖が観光名所となっているなど、風光明媚な『水の王国』として名高い国家である。

 

 そのトリステイン王国にある名門貴族の子女たちが数多く集う学舎。それが、ここトリステイン国立魔法学院だ。かの学院では、毎年春になると、必ずある儀式が執り行われる。それが〝春の使い魔召喚の儀〟である。この儀式によって学生たちは生涯のパートナーとなる使い魔を呼び出し、契約する。

 

 ここで召喚されるのは、一般的に犬や猫、鳥などといった動物が多く、召喚者によってはバグベアー、バジリスクといった魔獣を呼び、特に素質のある者が儀式を行った場合、グリフォンやドラゴン、サラマンダーなどといった幻獣が現れることもある。

 

 つまり。呼び出した使い魔の種類を見、召喚者の資質を計るという目的でもって、この儀式は長年継続されてきたのだが……この日。思わぬ事故が発生した。

 

 本来ならば、ありえない事態――なんと人間を召喚した者が出てしまったのだ。しかもその事故を起こしたのは……学院内でも特に優秀な生徒として、それなりに名の知られた少女だ。二重にありえない事態に周囲は騒然となった。事故を起こしてしまった本人も、呆然とその場に立ち尽くしている。

 

 と――その場を収拾すべく動いた者がいた。この儀式の現場監督責任者にして、魔法学院に勤める教師『炎蛇』のコルベールだ。彼は周囲の生徒たちに静かにするよう声をかけると、ごくごく丁寧な口調で〝呼び出されてしまった〟少年に声をかけた。問いかけられた相手も特に慌てた様子はなく、素直に自分の名前を告げた。そんな相手の態度を見て安心したのであろうコルベールは、言葉を続けた。

 

「ええと、ミスタ・ジェイコブでしたかな?」

 

「タ・イ・コ・ウ・ボ・ウ、だ」

 

「わかりました。では、ミスタ・タイコーボー。早速ですが、質問をさせてもらってもよろしいでしょうか?」

 

「別にかまわぬぞ。答えられるかどうかはわからぬがのう」

 

 まるで、今日の天気について答えるような気軽さでもって、コルベールの問いかけに頷いたのは『タイコーボー』という、このあたりでは聞き慣れない……というよりも、まず存在しないであろう名を持つ少年だ。周囲の喧噪など、どこふく風といった様子で悠然とその場に立っている。

 

 ここに至って、ようやく……瞳に絶望の色を浮かべていた少女タバサは現在の状況を把握し――改めて自分が呼び出した相手を観察する余裕ができた。

 

 ――まずは、相手をよく見なければいけない。タバサは即座にそう判断した。

 

 自分が召喚した――おそらく自分と同じ、あるいはひとつかふたつ程度年上であろう少年。彼はこのハルケギニアではとても珍しい黒髪で、異国のものとおぼしき衣服――一見してわかる程度に高級な布地で作られたものを身につけている。また、突然見知らぬ地へ呼ばれたにも関わらず、まったく動揺した様子がない。

 

 それどころか、ふてぶてしいとも言える態度で大人のコルベールに相対している。その様子から察するに、それなりに場数を踏んでいる可能性がある。もしも彼が状況を見抜けないただの馬鹿者だとしても、普通でないことだけは確かだろう。

 

 タバサは、よりにもよって人間を召喚してしまったという衝撃など既に忘れてしまったかのように観察を続けている。しかし現場監督者のコルベールはというと、そんな彼女の様子には全く気付かず、件の少年へ問いかけた。

 

「それではお伺いします。あなたはどちらの国の貴族でいらっしゃるのでしょうか?」

 

 コルベールの質問に周囲がざわつく。もっとも、それに対する答えは、彼らをしてやや斜め上を行くものであったが。

 

「う~む。今のわしには、その質問全てに答えることはできぬ」

 

「ええと、それは一体どうしてでしょうか?」

 

 その場でズッコけそうになるのを必死にこらえたコルベールは、さらに問うた。

 

「そうだのう……まず、わしは周という名の国からこの地へ呼び寄せられた」

 

「シュウ、ですか? 失礼ですが、聞いたことがありません」

 

 首をかしげるコルベールに、我が意を得たとばかりに答える太公望。

 

「まあ、そうであろうな。こう見えてもわしは、世界各地を旅をして回った経験がある。だが、ここは確かトリステイン……と、申したか? かような地名は初めて耳にするものなのだ」

 

 再び周囲が騒がしくなる。トリステインを知らないなんて、とか、どこの田舎者? とか、シュウ、なにそれ? などという心ないものがほとんどであったが、それらの反応もこの少年――太公望にとっては折り込み済みのものであるようだ。

 

「どうやら、まわりにいる者たちも周を知らぬようだ。つまりわしは、互いにその存在すら知らぬほどに遠い場所からやってきたことになる、と。ここまではよいかのう?」

 

「ええ、ですが……」

 

「国が違えば文化も異なるものだ。すなわち、わしの持つ常識がおぬしたちの持つそれと同じ可能性は非常に低い」

 

「ま、まあその通りですね」

 

「つまりだ、おぬしの言う『貴族』とやらの定義が、わしの国では全く別のものを指すのかもしれぬということだ。よって、今のままではおぬしの質問全てに正しく答えることができぬ、と……まあ、こういうわけなのだよ」

 

 このやりとりを聞いたタバサは、太公望という少年に対してさらなる興味を持った。

 

 彼はコルベールの「どこの国の貴族なのか」という、自分の所属する国とメイジであるのかどうかをいっぺんに聞き出そうとする質問を逆手に取り、必要な情報を集めるために己のペースに巻き込もうとしているのだと判断したからだ。そして、そんな彼女の推測を裏付けるかのように問答は続いてゆく。

 

「そこでだ。質問に質問を返す形になってしまうが、まずは答えてほしい。先程そこにおる娘にも問おうとしたことなのだが……さて。いかなる理由でわしはここへ呼び寄せられたのかのう?」

 

 ――まずいことになった。

 

 コルベールは、既に内心の焦りを表に出さないようにすることだけで精一杯であった。

 

 異国の装いをした少年を呼び出してしまったことで、すわ国際問題勃発か!? と慌てて場の調停を行おうとしたものの。生徒たちとほぼ同年代(と、思われる)若い太公望に対して、正直油断していたことは否めない。ゆえに深く考えずに発言してしまったが、その言葉の隙を突かれ、会話の主導権を握られてしまった。

 

 彼が本当に、お互いに存在も知らないほどの遠方から来たのか、また貴族……メイジであるのか。ハッキリ言って、それはもはやどうでもいい。問題は、現時点でこの少年が何者であるのか全く判断がつかないことである。もしも彼が異国における貴族だったとしよう。そんな相手に対し、

 

「使い魔にするために、あなたを呼び出しました」

 

 などと答えたらどうなるか。質問をしなおす? 問題外だ。

 

 こっそり〝魔法探知〟(ディテクト・マジック)を使う? 既に会話を始めてしまっているこの現状ではありえない選択だ。もしも相手の身分が高かった場合、大変な失礼にあたるからだ。コルベールは焦った。だが、焦りは思考を鈍くする。

 

 この失策を取り返すためには時間が欲しい。そう考えたコルベールは、問題を先送りすることを選んだ。目の前の生徒と上司には申し訳ないが、事は既に自分の手にあまる。

 

「そ、そうですね……と。実は、今ここに集まっている彼らはこの学院の生徒たちなのですが……今後の人生に関わる非常に大切な儀式を行っている最中でして、はい。私には、その監督をする義務があります。ですので……ミス・タバサ」

 

 と、側に立つタバサに声をかけた。それから懐から1枚の羊皮紙を取り出し、素早く何かを書き付け手渡す。

 

「彼を学院長室へ案内してください。そのメモを秘書のミス・ロングビルへ渡せば、優先的に通してもらえるでしょう。あっと、急ぎの用件ですので〝飛翔(フライ)〟を使うように」

 

「わかりました」

 

 タバサはじっと師の目を見て頷き返した。せめてもの抵抗に、どうやら自分の教え子は気付いてくれたようだと、コルベールは内心でほっとしていた。これで、もしも彼が魔法を使うことができなければ話はずいぶんと楽になる。

 

「ついてきて」

 

 タバサは太公望にそう告げると、ふわりと宙に浮いた。

 

 口をあんぐりと開けて、太公望はその様子を見つめた。

 

 ――と、飛んだ? 宙に浮いた?

 

 予想はしていたが、やはりここに集まる者たちはただの人間ではない。改めて周りを見ると、みな棒状の何かを持っている。今飛んでいった少女も、長い杖を持っていた。もしや、アレは宝貝(ぱおぺえ)の一種なのだろうか? ここは自分の知らない場所に存在する仙人の修行場なのであろうか?

 

 そんなことを考えているうちに、徐々にタバサの姿が小さくなってゆく。太公望は焦った。せっかく主導権を握りつつあるというのに、このままでは置いて行かれかねない。しかし今の姿で……かわいがっていた霊獣に乗ることなく飛ぶことができるのだろうか。

 

 太公望はふと不安を覚え、懐をさぐった。彼が愛用している宝貝『打神鞭(だしんべん)』は、そこにあった。念のため取り出してみるも、これといって問題はないように見える。何故か周囲の空気が変わったように感じるが、それはまた後で考えるとして。体内に巡る〝力〟も……自分本来の状態に比べて大幅に落ちてしまってはいるようだが、空を飛ぶ程度ならば問題なくできそうだ。そう判断した彼は、利き手に『打神鞭』を握りしめたまま、小さく呟いた。

 

「はてさて……鬼が出るか蛇が出るか。楽しみだのう」

 

 ニヤリと笑みを浮かべた彼は、すぐさまふわりと浮き上がり――既に豆粒ほどの大きさになってしまったタバサを追って空を征く。

 

 ――その場に残されたコルベールの、正直寂しいと言って差し支えない頭髪が数十本単位ではらはらと抜け落ちたのは……太公望と名乗った少年の飛翔によって巻き起こった〝風〟のせいだけではないということを、念のため付け足しておく。

 

 『雪風』のタバサは驚いていた。その対象は、自身の執り行った〝使い魔召喚の儀〟で人間を呼び出してしまったことではない。師と仰ぐ人物の、思わぬ失態について……でもない。彼女をして最も驚かせたもの、それは。先に飛び立ち、既にそれなりの距離を稼いでいた自分に追いついてきただけでなく、

 

「う~む、これはまた異国情緒あふれる風景だのう」

 

 などと軽口を叩きながら、田舎から出てきた観光客よろしくきょろきょろと周囲を観察している彼が見せた余裕。それこそが彼女を驚かせた最大のポイントだ。

 

 空を飛ぶ魔法〝飛翔(フライ)〟は、それを扱うメイジの力量によって飛翔速度を大きく変える。この魔法学院内で、タバサに空で追いつける者はほとんどいない。少なくとも彼は、それなりの腕を持った〝風〟の使い手であることは間違いなさそうだ。

 

 タバサは自分が呼び出した少年に対する評価を、もう一段階上げた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ちょうどそのころ。トリステイン魔法学院の学院長を務めるオスマン氏は、長く白い口髭と髪を揺らし、本塔の最上階にある学院長室で、背もたれつきの高価な椅子に腰掛けながら、ゆっくりと水ギセルの煙を燻らせていた。

 

 今、この部屋には「健康のために喫煙はおやめください」などと言う無粋な人物はいない。喫煙は身体に良くない。そんなことは、とうの昔に自覚している。だからこそ求めたくなるのか……などとぼんやり考えながら過ごすこの時間は、彼にとって至福の刻。

 

 オスマン氏の顔に刻まれた数多くの皺は、彼が過ごした歴史の証だ。齢百歳とも、三百を越えているとも言われているが、本当の年齢は誰も知らない。本人も、とうの昔に忘れてしまっている。

 

 そんな彼の元へ、すらりとした美女が訪れた。艶やかな若草色の髪をひとつにまとめ、アンダーリムの眼鏡をかけたこの女性は学院長付の秘書ミス・ロングビルだ。

 

「オールド・オスマン。これをご覧下さい」

 

 オスマン氏は彼女から手渡された羊皮紙を一瞥すると、眉を寄せてため息をついた。どうやらとんでもない厄介事が舞い込んできたらしい。

 

「ここへ案内しなさい、ミス・タバサとその……異国のメイジとやらを」

 

「承知致しました。と、その前に」

 

 ミス・ロングビルは懐から羽ペン状の杖を取り出すと、ついと一振りした。途端にオスマン氏の手元から水ギセルが離れ、彼女のところへ飛んでゆく。楽しみを奪われた学院長は、不満げな声を漏らした。

 

「老い先短い年寄りから娯楽を取り上げるのがそんなに楽しいかね? ミス・ロングビル」

 

「上司の健康を管理するのも、わたくしの仕事ですから。それと……」

 

 美しき秘書は、ドン! と音を立てて床を踏みならした。

 

「使い魔のネズミをわたくしの足下へ忍ばせるのはやめてください」

 

 大きな音に驚いたハツカネズミが主人の元へ駆け戻ってゆく。それを見届けたロングビルは片手で眼鏡の位置を直すと、両開きの扉を開けて学院長室の外へ消えた。

 

「モートソグニル」

 

 オスマン氏が声をかけると、小さなハツカネズミは彼の足を駆け上がり、肩の上にちょこんと乗っかった。それから主人の耳元へ向かってちゅうちゅうと鳴いた。

 

「ふむ、今日は白だったか。彼女は黒のほうが似合うと思うんじゃが。それはともかく、よくやったぞモートソグニル」

 

 褒美のナッツを貰ったハツカネズミは、満足げな声で鳴いた。

 

 

 ――学院長室の中へ案内された太公望とタバサのふたりは、まず椅子を勧められた。

 

 学院長のオスマン氏は腰を下ろした両者が落ち着くのを待ち、太公望がこの地へ呼び寄せられてしまった原因について、互いの認識の摺り合わせを行いつつ説明した。

 

「なるほどのう。つまりわしは、この娘御が起こした事故によって、この地へ呼び出されてしまった……と。そういうことかの?」

 

 それを受けた太公望はというと、これまでの情報を脳内で反芻していた。

 

 曰く、この国では〝魔法〟という技術を使う人間が『貴族』と呼ばれること。

 

 曰く、ここは貴族の子弟たちが魔法を学ぶための場所であること。

 

 曰く、そんな彼らに最も適した魔法を探すために行われる儀式があること。

 

 曰く、その儀式は「使い魔を喚び、その性質を見て決める」ものであるということ。

 

 そして。今自分がここにいるのは、その儀式とやらのせいであることを。

 

「わしも、それなりに長くこの職に就いておるが……〝サモン・サーヴァント〟によって人間が召喚されるなどという事故は初めてのことでの。一学生の起こした不手際ということで、事を大きくしないでくれると助かるのじゃが」

 

 心の底から申し訳なさそうな顔をしつつ語るオスマン氏と、固い表情を崩さないタバサの顔を交互に見やりつつ太公望は考えた。正直なところ、召喚されたことに関して言えばどうでもいい。むしろ、感謝さえしていると言っても過言ではない。何故なら、彼は心の底から休息を欲していたからだ。

 

 太公望と名乗ったこの少年――実は、本名を伏羲(ふっき)という。

 

 見た目はただの少年のようだが、実際には違う。現在の肉体を得てから、なんと百年近く生きている、人間を超えた存在たる〝仙人〟なのだ。

 

 伏羲は本当に疲れていた。何故なら、彼はこれまで生きてきた永き時の流れの中で『世界の命運』という、たったひとりで背負うにはあまりにも重過ぎる責任をその両肩に乗せ、見守り、待ち望み、仲間を集め……戦い続けてきたからだ。

 

 だから、彼は全てが終わり、見守ってきた世界に平和が訪れた後――あらゆる束縛を捨て去り、人々の前からその姿を消した。

 

 ……いちばん面倒な戦後処理を他人に押しつけたんだろう、とか、元来持っていた重度のサボリぐせが再発したんだろう、とかいう諸説はさておくとして。

 

 とにかく、ここに至るまでの数ヶ月間――己を慕う者や、さらに仕事をさせようと自分を追い掛け続ける大勢の部下たちの厳しい捜索の目を逃れつつ、野を渡る風のごとく気ままな旅を続けていたところなのだ。そんな時に、誰も知らない土地へ呼び寄せられたというのは、伏羲にとって、その場で飛び跳ねたいほどに喜ばしい出来事であった。

 

 自分の『心』を構成するうちの半分である『太公望』の部分のみがこの地へ引き寄せられるという事態が発生したのは何故か。その原因は未だ不明ではあるものの――伏羲は既に確信していた。ここが『空間』を越えた異界であることを。

 

 『空間』を、それも自分たちが居る場所とは異なる世界へ移動するには相当な手間がかかる。

 

 かつての仲間達、あるいは周の地へ残してきてしまった残りの『半身』がほぼ間違いなく自分を連れ戻しにこの地へやって来るだろうが、それまでの数ヶ月間……いや、もしかすると数年はのんびりぐうたらできるのではないか。伏羲は、そう考えた。

 

 伏羲――現在『半身』である太公望へ、姿だけではなく持っていた〝力〟までもが戻されてしまった彼は、改めて現在の状況を整理した。

 

 ここまでの情報から判断するに、このタバサという少女は本来使い魔――自分に隷属する存在を呼び出そうとしたものの、何の手違いか、伏羲から太公望の部分『だけ』を切り離し、この場所まで連れて来てしまったらしい。そして、使い魔を呼ぶことができなかった場合……今後の生活に不都合が生じるというのだ。

 

 つまり、彼女の命運は彼の手中にあるといっても過言ではないだろう。

 

 ならば、やるべきことは決まっている。

 

 そう……今ある手札を利用して、この地における己の立場を確立するべし!

 

 追っ手の気配に神経を尖らせることなく、悠々自適の毎日を送れるであろう土地へ招いてくれたことには感謝するが、それはそれ、これはこれである。別に誰かに頼らずとも、この世界でひとり生きていく自信はある。しかし、せっかく用意されたぐうたら生活のチャンスをふいにするほど、この男『太公望』は生真面目ではない。

 

 なにせこの男は、とある自給自足の村で、食料を盗んで捕らえられた際に――大勢の村人たちに囲まれ、彼らを纏める長から「労働か処刑か好きなほうを選べ」と迫られるという、ある意味極限の状況下においてもなお、

 

「働くぐらいなら食わぬ!」

 

 と、突っぱねた程に生粋の怠け者なのである(結局働くはめにはなったが)。

 

 とはいえ、まだ顔に幼さを残すような少女に対して意地の悪い駆け引きを行うほど彼の性根は腐っていない。よって、目の前にいる老人――師であり、かつての上司と似た雰囲気を持つ者に、その矛先が向くこととなる。

 

 ――かくして、トリステインを代表する偉大なメイジ・オスマン氏と、仙人界No.1の腹黒と謳われた軍師・太公望の仁義なき戦いは幕を開けた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ここは決戦場(コロセウム)だと、タバサは思った。

 

 魔法はもちろんのこと、剣同士がぶつかる音も聞こえないけれど……目の前で繰り広げられるこれは、間違いなく『戦い』と呼べるものだろう。風の刃ではなく、言葉をぶつけ合う戦場。

 

 競い合うはトリステインのみならず、他国にまでその名が知られた偉大なるメイジ、オールド・オスマン。その彼に一歩も引かず火花を散らしているのは――わたしが呼び出した使い魔候補。

 

 タバサは、その激戦を固唾を飲んで見守っていた。

 

 「話し合い」が始まる前に、太公望は彼女に向かってこう言った。

 

「事故の責任は、おぬしにはない」

 

 ……と。

 

 わざとやった訳ではない。とはいえ、彼を故郷から無理矢理見知らぬ場所へと誘拐同然に連れ去ったのはタバサである。にも関わらず太公望は、それを責めるどころかにっこりと笑ってこう続けたのだ。

 

「使い魔とやらに、なってやらんこともないぞ」

 

 タバサは耳を疑った。いくらなんでも人が良すぎるだろうと。

 

 そんな彼の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべたオスマン氏が、それでは早速契約の儀式を……と、言いかけたその時。 タバサは見た。太公望と名乗った少年の瞳の色が、瞬く間に黒く変わるのを。

 

「では……さっそく条件を詰めるとするかのう。そうだな、まずはここに足止めされることに対する補償その他について、学院側がどの程度支払う用意があるのか、そこから始めるとしようか」

 

 その言葉を起点に発生した『交渉劇』は、オスマン学院長・太公望のどちらも相当な食わせ者であることを実証した。太公望が『魔法学院に対して求める待遇』についての詳細を提示するやいなや、学院長は「あくまでこれは生徒が起こした事故であり、そのような条件を学院側が飲むいわれはない」と返した。

 

 すると太公望は、事故の責任の所在について「生徒は、教師の監督のもと召喚の儀式を執り行ったのであり、故にその場で起きたことに対する責任は監督者、ひいてはこの学院の長にある」と、追求した。責任問題に関して圧倒的な不利を悟った学院長は、それに対して一歩譲ると、学院にいる間の食事、及び寝床の提供を申し出た――補償金の大幅減額と引き替えに……。

 

 両者の戦いはそれから小一時間ほど続き、最終的に、双方がある一定の条件――

 

 ・書類上は使い魔とするが、お互いを尊重し貴族とほぼ同等の権限を与える

 ・タバサが卒業するまでの間、学院が太公望の衣・食・住の面倒を見る

 ・同期間、学院は太公望に対して、所定の給与を支払うこととする

 ・太公望は使い魔として常にタバサの側にあることとする

 ・太公望は、事故ならびにこの場での交渉について口外しない

 

 ……を、飲むところで決着した。

 

「ふむ。結局のところ、この交渉はだな……おぬしが生徒をどれほど大切に思っておるのか、それに尽きる。わしは、そのように考えておるのだがのう?」

 

「カァーッ! ミスタ・タイコーボー。君はまだこのわしから引きだそうとするか。まったくその若さで抜け目のない……将来が恐ろしいわい」

 

「かかかか、オスマン殿こそようやりおるわ! ここまで条件を剥ぎ取られたなぞ、わしの記憶の中でもそうはないぞ」

 

 微妙な盤外戦を繰り広げる両者を尻目に、いつのまにか席へ戻っていたミス・ロングビルが書面の作成を行っている。おそらく、ここまでに交わされた契約内容をまとめているのだろうが、心なしか少々顔色が悪いようだ。

 

 それにしても……と、タバサは考えた。人間を召喚したこともそうだけれど、使い魔が学院に対して待遇の交渉をするなんて、前代未聞の出来事なのではないだろうか。交渉のテーブルへついた手腕といい、あの高速飛行といい……まさしく彼は、規格外の使い魔だ。最初のうちこそ絶望しかけていたけれど、わたしは思わぬ当たりを引いたのかもしれない……。

 

 その後、書面を交わし〝コントラクト・サーヴァント〟の儀式を終えたタバサと太公望が部屋から退出した途端。オスマン氏は全身の力が抜けてしまったかのようにソファーへ沈み込んだ。

 

 ――オスマン氏は、全身に冷や汗をかいていた。

 

 先程の一戦は、彼の脳裏に宮廷に住まう魑魅魍魎どもとやりあっていた時代の出来事をまざまざと蘇らせていた。どう高く見積もっても二十歳には届かないであろう少年の交渉術が、老獪な政治家そのものであったからだ。

 

 と……彼の秘書、ミス・ロングビルが心配そうな顔をして彼の側へと近づいてきた。

 

「オールド・オスマン? その……大丈夫ですの?」

 

 オスマン氏は、くわっと目を見開いた。

 

(ミス・ロングビルがいつになく優しい!)

 

 彼はそっと手を伸ばした……彼女のお尻に。だが、僅かに触れるか否かといったあたりで見事阻止されたばかりか、おもいっきり手の甲をつねられてしまった。

 

「あいたたた……。まったく! ただのお茶目なやりとりだっつーのに」

 

 などとぶつくさ言い続けるオスマン氏を睨み付けながら、ロングビルは言った。

 

「まったく、ちょっと甘い顔をするとこれなんですから! ……それにしても、さきほどの件はいくらなんでも譲りすぎではありませんの?」

 

 彼女の言葉にオスマン氏は小さく笑った。

 

「本当にそう思うかね? ミス・ロングビル。わしとしては、なかなかうまくいったものだと自負しておるのだが」

 

 オスマン氏は学院長室で水ギセルを燻らせながら、さりげなく見ていたのだ――離れた場所の光景を映し出す効果を持つ魔法具『遠見の鏡』を使い、学院の中庭で執り行われていた〝使い魔召喚の儀〟を。

 

 そこに突如現れたイレギュラー。異常事態に全く動じぬ度胸。異国の技であろう系統魔法に近いようでいて、ごく一部が微妙に異なる未知の魔法の使い手。さらには今すぐ宮廷で通用するほどに洗練された交渉術の持ち主。

 

 それほどの人材を、たったあれだけの条件で手元に囲うことができたのだ。まさに僥倖といって差し支えない。

 

「それに……」

 

 契約の書面に、オスマン氏がどうしても紛れ込ませたかったのはたったの一文だけ。それ以外は、ただの目くらましに過ぎない。

 

『使い魔として、常にタバサの側にあること』

 

 ミス・タバサはただの学生ではない。あの若造、これから間違いなく苦労の連続になるじゃろうて……そう心の内で嗤う老爺の姿は、まさに狸そのものであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 太公望――地球に残る歴史においては、古代中国・周の軍師にして政治家。

 

 その実体は、人間たちの住む世界の遙か上空に存在する〝仙界・崑崙山(こんろんざん)〟教主・元始天尊(げんしてんそん)より、殷の王を影から操り国を乱す、邪悪な仙人たちを打倒せんと立てられた壮大な作戦――『封神計画(ほうしんけいかく)』の実行責任者として下界に遣わされた仙人である。

 

 周囲の期待に応え、周軍の軍師として(いん)を滅ぼし、仲間の仙人達を率いて『封神計画』の影に巧妙に隠された真の目的『歴史の道標(みちしるべ)』打倒を果たした最大の功労者は今――ひとりの少女の使い魔になっていた。

 

「ごめんなさい」

 

 トリステイン魔法学院は、本塔とその周囲を囲む壁、それらと一体化した五つの塔からなる。自室がある寮塔五階へと向かう道すがら、タバサは自分の使い魔となってしまった少年――太公望へ謝罪していた。

 

「む、何のことだ?」

 

 学院長とあれほどのやりとりができるのだから、そのくらいわかっているだろうに。わざわざ聞き返すなんて、実は結構意地悪なひとなのかもしれない……そんな思いを欠片も外へ出さず、タバサは再び言葉を紡ぐ。

 

「あなたを召喚してしまった」

 

「さっきも言ったが、おぬしに責任はない。これはあくまで事故なのだ。そもそも、自分の意志でわしを呼び寄せたわけではなかろう?」

 

「でも」

 

 それでも、変わらない事実がある。

 

「あなたを、故郷から無理矢理引き離してしまった」

 

「そのことなら気にすることはない。そもそも――」

 

 そこまで言った太公望は、先程までの饒舌ぶりが嘘のように、ほんの一瞬口ごもった後――タバサにとって、完全に予想外となる言葉を返してきた。

 

「呼んでもらえて、逆に喜んでいるくらいなのだ」

 

 思わず絶句してしまったタバサだが、なんとか思考を立て直す。

 

 励ましの言葉……ではないだろう。

 

 単なる強がり……でもなさそうだ。

 

 喜ぶ? 彼の言葉が本当なら、異国へ拉致されたことを歓迎するような何かがあるということだろうか。そこまで考えるに至って、まさか悪事を働いて追われるような事をしていたのではないか……という不安がよぎる。そんな彼女の胸の内を見透かしたかのように、太公望は続けた。

 

「ここ何年ものあいだ、ずっと働きづめでのう。いい加減疲れておったので、暇をもらってのんびり旅をしておったところなのだよ。そこへ、なんと! 見たことも、聞いたことすらない国から招待を受けたと、まあそういうわけなのだ。ハッキリ言って、こんなに嬉しいことはないわ」

 

 タバサは、それを聞いて呆然とした。

 

「学院長には」

 

「建前上、というやつだよ。それに」

 

 ニヤリと笑った太公望は、人差し指をピッ、と立ててのたまった。

 

「もらえるモノは、もらっといたほうが良いであろう?」

 

 ……と。

 

 タバサは思った。このひとはとんでもない曲者なのではないだろうか。使い魔として契約したのはいいが、果たしてわたしに使いこなせるのだろうかと。いや、この程度の人材を御せぬようなら秘めた目的を果たすことなど到底できないに違いない。もしや、これはわたしの信仰心の低さ故に与えられた『始祖』ブリミルによる試練なのでは……。

 

 俯き、押し黙ってしまったタバサを見て、太公望は珍しく焦りを覚えていた。学院長室でのやりとりを彼女に見せたのは失敗だったのではなかろうか、と。

 

 先程の言葉は本心だ。実際、彼女に対して含むところなど全くない。だが、あの応酬を側で聞かせてしまったせいで罪の意識を持たせてしまったのではないか。ならば、なんとかその重さを取り除かねばなるまい。何かよい方法はないものか――そう考えた。

 

 ――この男。腹黒そうに見えて、実は根の部分は非常にお人好しなのである。

 

「そうだのう……そんなに気になるのなら、頼みがあるのだが」

 

 その一言を聞いて顔を上げたタバサを見て、内心「食いついた!」と安心する太公望。釣り師の面目躍如である。もちろん、それを顔に出したりはしない。

 

「わしは、喚ばれてから説明を受けたこと以外、ここについて何もわからぬ。だが、これから生活をしていくにあたって、知らぬと不便なことが多いと思うのだ……ここまではよいか?」

 

 頷くタバサ。

 

「よって、おぬしにそういった細かいことを教えてもらいたいのだ。それを引き受けてくれるのなら、おぬしとわしとの間に貸し借りはナシ。それでどうだろうか?」

 

「わかった。貸し借り無し」

 

「では、契約成立だのう」

 

 そう言って太公望が差し出した片手を、タバサは両手でしっかりと握り返した。二度と手離さない、と言わんばかりに強く、しっかりと。

 

 

 



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第2話 軍師、新たなる伝説と邂逅す

 ――太公望がオスマン氏と壮絶なバトルを開始した頃。未だ続いていた〝使い魔召喚の儀〟において、再び現場監督兼責任者コルベールの頭皮を直撃するような事態が発生していた。

 

 桃色がかったブロンドの髪の少女が、自分の前へ現れた黒髪の少年に問いかける。

 

「あんた誰?」

 

「誰って……俺は、平賀才人」

 

 なんと、またしても人間が召喚されてしまったのである。

 

「おいおい、『ゼロ』のルイズまで人間を呼び出したぞ!」

 

「う、うるさいわね! ちょっと間違っただけよ!」

 

「間違いって、ルイズはいつもそうじゃん」

 

 さきほどの件もある、下手な対応はできない。そう考えたコルベールは、新たに召喚された人物を詳しく観察する。

 

「な、なんなんだよ、ここは! コスプレ会場? おい、まさか新手の新興宗教か何かの集まりじゃないだろうな!?」

 

 おそらく、突然行われた〝召喚〟に戸惑っているのだろう。意味不明なことを口走りながら周囲をきょろきょろと見回しているが……正直、これが普通の反応だとコルベールは思った。さっきの子供は、あくまでも例外だと。

 

「ひょっとして、映画かなにかの撮影か? カメラはどこだ! あっちか!?」

 

 ひたすらわめき続ける少年の服装を、コルベールは詳しく分析する。

 

 彼が羽織っているのは、青い……フードつきの胴衣だろうか。それにスラックスを履いている。タイコーボーと名乗った少年と比べるとだいぶ地味なものを身につけているが、これまたトリステインではまず無いであろう造りの服だ。使われている布地自体も艶やかな光沢を放っているし、何よりもこれほど鮮やかな色で染められた衣服は初めて見た。

 

 さらにコルベールは召喚されてきた者の顔形にも注目した。黒い髪と瞳、そして、やや黄色がかった肌の色といった特徴が、微妙に先の子供とかぶる。もしかすると彼も『シュウ』という国から来たメイジなのかもしれない。コルベールは少年に気取らぬよう、こっそりと〝探知〟を唱えた。魔法の反応は――なし。つまり、この少年は『平民』だ。

 

 コルベールは、心底ほっとした。これで脅威レベルは大幅に下がったといって差し支えないだろう。だが、念のためだ。この少年に対してあまり無体な扱いをしないよう、しっかりと注意をしておいたほうがいいかもしれない……そう判断した彼は、儀式を執り行った女子生徒に対し、必要と思われる指示を与えた。

 

 

 ――平賀才人(ひらが さいと)十七才。

 

 蒼き星『地球』の平和な国家・日本に生まれたかの少年は、首都・東京の私立高校の普通科に通う高校2年生。運動神経は、まあ並程度。身長は同年代の平均よりもやや高いくらいだろうか。人混みに紛れたら、すぐに埋没してしまうような……そんな存在。ちなみに、彼女イナイ歴=年齢と同じである。

 

 担任教師の彼に対する評価は、

 

「ああ、平賀くんですか。成績は学年内では中の中といったところです。負けず嫌いで好奇心が強いところは評価できるけれど、ちょっとヌケてるところがありますね」

 

 母親の口癖はというと、

 

「もっと勉強しなさい。あんた、どっかヌケてんだから」

 

 そんな少しばかりヌケているが、日本のどこにでもいるような少年の運命はこの日――秋葉原にあるパソコンショップで修理が済んだばかりのノートパソコンを受け取り、都内にある自宅へと帰る途中……奇妙な物体と遭遇してしまったことで一変した。

 

「なんだこりゃ? 電光掲示板……じゃ、ないよなあ」

 

 縦二メートル、横幅は一メートルぐらいのぴかぴか光る楕円形の物体が、彼のすぐ側に突然現れたのだ。おまけにどうなっているのか理屈は全くわからないが、それは宙に浮かんでいるようであった。

 

「鏡みたいにも見えるけど、厚みは全然ないな。蜃気楼ってわけでもなさそうだし、どうなってんだこれ? ただの自然現象にしちゃおかしいよな」

 

 才人の好奇心が激しく疼いた。彼は、この物体が一体何なのか知りたくなった。そして、その鏡のような物体をまじまじと見つめ――とりあえず実験を開始する。

 

 まずは足元に落ちていた小石を投げつけてみた。すると、驚くべきことに鏡の中へと消えてしまった。裏側にも落ちていない。何個放ってみても結果は同じである。

 

「ほほう。なかなか面白いじゃねえか」

 

 続いて、道ばたに落ちていた棒きれで突っついてみたのだが――何も起こらなかった。少なくとも棒の先が折れたり、傷ついたりといったようなことはなかった。石を投げたときと同じで、裏側に先端が突き出してもいない。

 

「うは、どうなってんだこれ」

 

 そこで分析をやめていればよかったのだが……よりにもよって、才人はこの物体に自分が触れたらどうなるのか。それを試してみたくなってしまった。

 

「棒はなんともなかったんだから、俺が触っても危険はないってことだよな!」

 

 最初はやめようかと思った。しかし、すぐにそれは「ちょっとだけなら」に変わった。さらに「触れてみよう」から「くぐってみよう」に変化した。非常に短絡的かつ、いけない性格である。そして、ついに彼は大胆にも『鏡』の中へ上半身を突っ込んだ。

 

 ――その結果。才人少年は鏡の中にあった『道』の中に引きずり込まれ、まるで全身に電気を流されたような激しいショックに襲われた。

 

「うう、俺、なんてアホなことを……」

 

 という後悔に苛まれつつも、そのまま気絶してしまう。

 

 気が付いた時には、見知らぬ異世界ハルケギニアに召喚されており。その混乱から立ち直れないうちに――問答無用で――地球では、お伽噺の中にしか存在しないはずの魔法使いにして大貴族の三女『ゼロのルイズ』ことルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔にされてしまった。

 

 某国に『好奇心は猫をも殺す』という(ことわざ)があるが、才人はその典型的な例といえるだろう。

 

 ――この物語本来の『道』を辿っていれば……才人少年はその最初の一ページ目からして相当な苦難に見舞われるはずであったのだが、しかし。偶然先に召喚されていた人物のおかげで、間接的なものであったにせよ、綴られるべきであった『歴史』より、ほんのちょっとだけ他者からの扱いが良くなったことを、念のためここに記す。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――同日。既に陽は落ち、夜の帳が静かに世界を包み込んでいる。

 

 タバサの部屋の内部には柔らかな絨毯が敷かれ、木の机とテーブル、ひとりで寝るには大き目のベッドが置かれていた。しかしそれ以上に目を引くのは、なんといっても壁際にずらりと並んだ本棚だろう。所狭しと詰め込まれている書物は、周で用いられている竹簡でも、崑崙山で流通している紙の巻物でもない。ちらりとそれらを視た太公望は、教師や学院長が用いていたのと同じ羊皮紙だろうとアタリをつけた。

 

 乾いた竹から作った札を紐でまとめた竹簡と、羊の皮にさまざまな処置を施した羊皮紙を束ねた書物。当然のことながら後者のほうが作成に高度な技術を必要とする。

 

 窓枠にはガラス板が填め込まれており、複雑なレースのカーテンが彩りとして添えられていた。床に敷かれている絨毯はふかふかな上に美麗な刺繍が施されている。

 

 崑崙山や金鰲島(きんごうとう)ならまだしも、周にこれほどの腕を持つ職人は存在しない。どうやら、この国の文明はかの国と比べるとかなり進んでいるようだ――。

 

 きょろきょろと自分の部屋を観察している少年に椅子を勧めつつ、タバサは何をどう説明すべきか悩んでいた。彼女は知識を集めたり、それを元に判断するのは得意だが、成果を披露するのは苦手なのだ。

 

 考えた末に出た結論は……。

 

「何が知りたい?」

 

 相手に委ねることだった。

 

「ふむ。ならば、まずはこの国の成り立ちから教えてもらおうかのう」

 

「わかった」

 

 こうして、ふたりは互いの知識の擦り合わせを開始した。

 

 ――それから数時間後。

 

 太公望はタバサから「この世界における一般的な常識について」説明を受けつつ窓の外を見た。そして断定した。やはり、ここは地球ではない。決定的な証拠がある。空に浮かんだあの巨大な月だ。

 

 百歩譲って、そう見える土地があったのだとしても。ふたつあるのはどう考えてもおかしい。ふと月の側に浮いていた宇宙船『スターシップ蓬莱島』の存在が頭をよぎったが、亜空間バリアに守られているアレがあんな風に見えるはずがないのだ……それに。

 

「メイジ、か」

 

 この世界における〝メイジ〟と呼ばれる存在。当初は自分たち〝道士〟や〝仙人〟と同じようなものだと考えていた太公望は、それが全くの思い違いであると気付かされた。

 

 ――仙人とは「生命としての道を究めんとする者」。

 

 『仙人骨』という百万人に一人の確率で生まれる特殊な骨格を持った者が、空間を隔てた異界である〝仙人界〟の者からのスカウトを受け、長い修行を積むことで『生命の道』を極め、不老不死となったのが〝道士〟だ。

 

 ……ちなみに。この〝道士〟が師に実力を認められて独立し、その後弟子をとることで初めて〝仙人〟と呼ばれるようになるのだが、本作においては以後この両者を〝仙人〟と表記するので予めご了承戴きたい。

 

 仙人になると歳をとるのが極端に遅くなる――よって、若いうちに秘法を極めることができた者ならば、たとえ百年経過しても若者の姿のまま生き続けることになる。太公望はその典型的な例だ。しかも彼らは寿命で死ぬことがない。

 

 逆に言えば病気や自殺・他殺その他の理由で命を失うことはある。仙人は不死身ではないのだ。

 

 とはいえ、病に斃れたり他者に害されて肉体を滅ぼされたとしても『魂魄(こんぱく)』さえ残れば、一定の期間であればある程度の活動をすることができる。熟達した者なら、その状態から新たな肉体を得ることすら可能なのだ。

 

 そんな彼ら〝仙人〟は『宝貝(ぱおぺえ)』と呼ばれる特殊な道具を用いて、周囲の気象を操る他、強力な事象を発生させる強大な〝力〟を持つ。また、これは現在の太公望を含むごく一部の者に限られるが〝仙術〟と呼ばれる特殊な技能によって空を飛んだり、他者の傷を癒したり、水を酒に変えるなどの摩訶不思議な現象を引き起こせる。

 

 ――メイジとは「魔法を使う者」。

 

 『魔法語(ルーン)』と呼ばれる特定のキーワードを口にすることで、それに対応した事象を発生させることができる。ただし、メイジの血を引かぬ者はどんなに努力しても魔法を使うことはできないらしい。このあたりは仙人に近いものがあるといえるだろう。

 

 しかし、魔法を使うためには特殊な契約を結んだ杖を用いる必要がある。つまり、杖を持たぬメイジは普通の人間となんら変わらぬ存在ということだ。

 

 ちなみに、寿命は平民もメイジも変わらないらしい――ごく一部に例外もあるようだが。

 

 タバサ曰く、先程会談したオスマン氏は少なくとも三百歳を越えているのだとか。もっとも、彼のような長命を保つ者は非常に珍しく、ここ数千年の間では彼ひとりしか現れていないらしい。オスマン氏はとびっきりのイレギュラーというわけだ。

 

(もしや、メイジは仙人骨を持ってはいるが『生命の秘法』を知らぬだけなのであろうか。それなら、あの狸ジジイが偶然『道』を極めてしまったのだとしても納得できるのだが。似た事例が無いわけでもないしのう)

 

 などと怖ろしいことを考えながら、太公望は情報を整理する。

 

 〝力〟を持たぬ者から見ると、まるで奇跡としか思えないような事象を引き起こすことができるという点において、仙人とメイジは一見似通っているようにも思えるが……その在りかたが大きく異なっていた。

 

 仙人は生物を超越した存在であり、その〝力〟ゆえに〝人間界〟に与える影響を畏れ、積極的に世界へ干渉することは――ごく一部の例外を除き、ほとんど無いといっても過言ではない。

 

 いっぽうメイジはその多くが王族、あるいは貴族として各国の支配階級となり『平民』と呼ばれる〝力持たぬ民〟たちの上に君臨しているらしい。

 

 なるほど、自分の持つ宝貝は彼らの持つ杖のように見えなくもない。懐から『打神鞭』を取り出したあのとき、周囲の空気が変わったのはそういった事情があったからなのかと太公望は納得した。空を飛んで見せたことも、彼らの誤解に拍車をかけていたのだろう。それにしても――。

 

「皮肉なことだのう」

 

「何?」

 

 太公望のつぶやきを耳に留めたタバサは問う。

 

「いやなに、こっちのことだ」

 

 思わずため息をつきながら、太公望はタバサに先を促す。

 

 この世界における価値観についてどうこう言えるほど太公望は自惚れてなどいない。しかし、よりにもよって強大な〝力〟をもって民衆を支配する邪悪な仙人を打倒すべく戦ってきた自分が、その敵とほぼ同じ立場の者であると認識されてしまったというのは――正直なところ複雑な気分だった。

 

 所変われば品変わる、と言うしのう……と、なんとか自分の気持ちに折り合いをつけようと太公望が苦戦していたところへ、コン、コンッと規則的に扉を叩く音が聞こえてきた。来訪者はミス・ロングビルと、大きな荷物を持った学院の使用人だった。

 

「お二人にはしばらくご不便をおかけしてしまいますが……」

 

「別にいい」

 

「部屋の主がこう言うのだ、わしもかまわぬぞ」

 

 ミス・ロングビルたちが持ち込んだのは、敷物と毛布であった。曰く、突然のことで部屋に空きがなく、寝具の用意もままならなかった。寝具については早急に手配するが、部屋については申し訳ないが、しばらくタバサの部屋で寝泊まりしてほしい、と。

 

 しきりに恐縮しながら部屋を去る彼女たちを見送った後、扉を閉めようとしたタバサは太公望によってそれを阻まれる。

 

「さて夜も更けた。今日はここまでにして、寝るとしようか」

 

「それなら何故」

 

 タバサは問うた。いったいどうして、扉を開けっ放しにしているのか?

 

「おぬし、そのまま眠るわけではなかろう? 着替えが終わるまで外におるから、済んだら声をかけてくれ」

 

 そう言って振り向きもせず廊下へ出た太公望は、後ろ手で扉を閉めた。

 

「……意外に紳士?」

 

 思わず漏れたタバサのつぶやきは、幸いにも彼の耳へは届かなかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽう女子寮二階のとある一室では、激しい言い争いが繰り広げられていた。

 

「あんた、一体なんなのよ!」

 

 桃色がかったブロンドの髪を振り乱しながら少女――ルイズが叫べば。

 

「それはこっちのセリフだ!」

 

 黒髪の少年――平賀才人が、負けじと言い返す。

 

「ファーストキスだったのに!!」

 

「俺だってそうだよ! いい加減真面目に説明しやがれ!!」

 

「わたしは大真面目よ! まったく……トリステインを知らないだなんて、我ながらとんでもない田舎者を呼び出しちゃったわ」

 

「東京は田舎なんかじゃねえよ」

 

「トウ・キョウ? そんな地名、聞いたこともないわ。やっぱり辺境じゃない」

 

「そりゃお前の基準だろ! 世界が自分中心に回ってると思うんじゃねえぞ」

 

 ルイズはむっとした。使い魔のくせに生意気な。ここは主人として相応しい教育をしてやらねばなるまい。そう考え、得意の蹴りをお見舞いしてやろうと構えたのだが……それからすぐに大切なことを思い出し、硬直した。

 

 ――いいですか? 彼は平民とはいえ人間です。それも、先程召喚された少年と何らかの関わりがある可能性があります。普通の使い魔ではないということを念頭に置いて、貴族として相応しい対応をするのですぞ。

 

 そうだ、先程コルベール先生からそう釘を刺されていたではないか。

 

 確かに生意気だし無礼ではあるが、暴れたりするわけでもないのに手をあげるだなんてとんでもない。行儀の悪い馬鹿犬を躾けるわけではないのだから。

 

 貴族(メイジ)と平民は狼と犬ほど違うとよく言われるが、それでも人間には違いない。頭に血が上っていたとはいえ、危うく公爵家令嬢として相応しくない真似をするところだった……。

 

 外の空気でも吸って、少し気分を落ち着けたほうがいい。そう考えたルイズはカーテンを引き、窓を開けた。いつのまにか夜になっている。

 

 と……先程まで興奮していた少年が、ぽかんとした表情で空を見上げている。

 

 彼の瞳には紅と蒼の双月が映っていた。ルイズにとってはなんてことのない、見慣れた光景だったのだが――。

 

「ねえ、なにあれ」

 

 目の前の少年にとっては、どうやらそうでもなかったらしい。

 

「月だけど。まさか、初めて見たなんてふざけたこと言わないわよね」

 

「やっぱ月……だよな。なんでふたつあんの?」

 

「月がふたつあるのは当たり前でしょ」

 

 やっぱりこいつ、どこかおかしいんじゃないかしら。などとブツブツと呟く少女の声は少年――才人には届いていなかった。

 

 彼は立ち上がって窓から手を伸ばしてみたが、スクリーンのようなものにぶつかる気配はなかった。辺りを見回してみても、仕掛けのようなものは欠片も見当たらない。

 

 人間が空を飛ぶのも、魔法も、見たこともない生き物がそこら辺を彷徨いているのも何かのトリックだと思っていた。カルトのエセ教祖が信者を騙すために行う、よくある手だと。

 

 しかしあの月を見てしまったら……もう認めるしかない。

 

「俺は夢を見てるんだな、うん」

 

 それから才人は、ルイズに向かって言った。

 

「頼みがある」

 

「あによ」

 

「殴ってくれ」

 

「は? な、何? あ、あんた、そそ、そういう趣味があったりするわけ?」

 

「ちげーよ! いいからさっさと殴ってくれ。思いっきりだぞ」

 

「ど、どうなっても知らないわよ?」

 

 スコーンという小気味よい音が室内に響き渡り、才人はその場で気絶した。

 

 ――それから一時間ほどして。

 

「夢じゃなかった」

 

 むっくりと起き上がりながら出た才人の声に、呆れたような呟きが重なった。

 

「何がしたかったのよ、あんた」

 

 夢じゃない。これは紛れもない現実なのだ。かなりファンタジー入ってるけど。

 

 才人は己の好奇心を激しく恨んだ。あんなもの、くぐらなければよかった。もう夜も遅い時間のはずだ。父さんも母さんも、俺が帰ってこないから心配してるだろうな……。

 

 それに――と、才人は内心唸った。大切なメールが届いているかもしれないのだ。

 

 ……実は半月ほど前、才人は出会い系サイトに登録して彼女募集の書き込みをした。それからすぐにパソコンが壊れてしまったせいで、まだメールをチェックできていない。もしもあの『鏡』に出くわさなかったら、今頃液晶ディスプレイを介して可愛い女の子とオハナシが出来ていたかも……いや、まだ諦めるのは早い!

 

 今にも泣きそうな声で、才人はすぐ側にいた少女――ルイズに哀願した。

 

「家に帰して」

 

「無理」

 

「なんで? 連れてこれたんだから、元の世界に戻せるだろ?」

 

「あんたは! わたしの使い魔として! 契約を済ませたの! 神聖な儀式だから! もう動かせないの!!」

 

「ふざけんな!」

 

「わたしだって、やり直せるならやり直したいわ! ほんと、なんであんたみたいなのが使い魔なのよ……だいたい元の世界って何? 意味がわからないわ」

 

 そこまで言われて、ようやく才人は気がついた。

 

(こいつ、俺を異世界から連れてきたっていう認識がないんだ……)

 

 彼は、早速その考えを改めてやることにした。

 

「俺は、この世界の人間じゃない。地球という星から連れて来られました」

 

「は?」

 

「俺がいた世界の月はひとつです。魔法使いなんてどこにもいません」

 

「どこにあるのよ、そんな場所!」

 

「俺がいたところがそうだって言ってるんだよ!」

 

「信じられないわ、そんなの」

 

 はぁ~っと溜め息をつく才人。これではいくら話しても平行線だ。ならば……と、持っていたノートパソコンを取り出し、電源を入れる。

 

「ほれ、これが証拠だ。こんなもん、この世界にゃないだろ」

 

 テロレロレーン。というお馴染みのOS起動音が室内に響き渡る。

 

「オルゴールでしょ? そんなのどこにでもあるわ」

 

「違うっつの。いいから黙って見てろ」

 

「平民のくせに、貴族に対する口の利き方が……」

 

 ルイズがそこまで言ったところで、ノートパソコンの液晶画面にデスクトップが浮かび上がる。普段は好きなアニメの壁紙が設定されているのだが、修理に出す前に夜の海と満月という、ごくごく普通の風景写真に差し替えていたのが功を奏した。

 

「何これ。どんな魔法で動いてるの?」

 

「そんなの使ってねえよ。これは機械だ」

 

「魔法もなしにこんなことやれるわけないでしょ! 馬鹿にしてんの!?」

 

「俺の世界ではできるんだよ。ほれ、この写真見てみろ。月がひとつだろうが」

 

「シャシン……? あ! もしかして絵画なのかしら? ものすごく腕のいい画家がいるのね。でも、だからどうだっていうの? たまたま月が重なっている日の光景を描いただけでしょ。何の証拠にもならないわ」

 

 だめだ、話が通じない。大昔に鉄砲持って種子島に来た外人さんもこんな気持ちだったんだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながら、才人は妥協案を出すことにした。

 

「俺が使い魔ってのを動かせないのはわかった。わかりたくもないけど我慢する。地球について知らないのも理解した。だから、家に帰して」

 

「無理よ」

 

「なんで? 一旦家に帰ってからなら使い魔やってやるって言ってんだよ、俺は!」

 

 すると、ルイズは困り果てたような顔で告げた。

 

「あんたの家と、ここを繋ぐ魔法なんてないもの」

 

「はああああ!? だったら、どうやって俺はこの世界に来たんだよ!」

 

「知らないわ! 〝召喚〟(サモン・サーヴァント)は、あくまで使い魔を自分のところへ呼び出すための魔法であって、元の場所へ送り返す機能なんて、最初からついてないもん」

 

「勝手に呼び出しておいて、そりゃねぇだろ!」

 

「そもそも〝召喚〟は、動物や幻獣を呼び出すための魔法なの。フクロウとか、グリフォンなんかをね。人間が召喚されるなんて話、聞いたことないわ!」

 

 もっとも、その常識はあんたが来る少し前に打ち砕かれたばかりなんだけど。と、ルイズは頭の中で続ける。

 

「もしかしてお前、魔法失敗したんか?」

 

 それを聞いたルイズは、頭から湯気を噴き出しそうな勢いで怒鳴った。

 

「ちち、違うわ! ちゃんと呪文は成功したし、げ、ゲートだって開いたんだから!」

 

 その興奮ぶりにやや気圧されながらも、才人は負けじと怒鳴り返した。

 

「なら、どうして俺はここにいるんだよ!」

 

「そ、そうよ! ゲートの近くに何か動物がいたでしょ? きっと、その子がわたしの本当の使い魔で……あんたがうっかり門をくぐっただけなんじゃない?」

 

「いいえ、俺の周りには何もいませんでした。つか、あんなのうっかりはくぐらねえよ。いろいろ調べて危なくなさそうだから触ってみたら、この有様だけどな!」

 

 それを聞いたルイズはう~ッと唸り声を上げた。こいつ、ほんと怒ってばっかりだな。笑えばもっと可愛いと思うのに、色々と残念なやつだ。などと失礼なことを考えていたそのときだ、才人の脳内に電撃の如き閃きが到来したのは。

 

「そうだ! もう一度その召喚の魔法をかけてみてくれ」

 

「なんで?」

 

「門を開く魔法なんだから、それをくぐれば元の場所に戻れるかもしれないだろ」

 

「無理」

 

「なんでもかんでも無理無理無理って! やってみなきゃわからねえだろうが!!」

 

「そんなこと言われても、今は唱えることすらできないわ」

 

「どうして?」

 

「〝召喚魔法〟はね、呼び出した使い魔が死ぬまで発動しなくなるの」

 

「マジすか」

 

「で、どうする? 試しに死んでみる?」

 

「いや、やめとく……」

 

 才人は項垂れた。その拍子に左手に刻まれたものが目に入る。文字、だろうか。

 

「そのルーンは『わたしの使い魔です』っていう印のようなものよ」

 

「さいですか……」

 

 ルイズは腰掛けていた椅子から立ち上がると、腕を組み、胸を反らした。

 

 やっぱり可愛いな。と、才人はこんな状況にも拘わらずそんな感想を抱いた。

 

 背はそれほど高くない。百五十四、五センチくらいだろうか。桃色がかったブロンドの髪は目を引くし、くりくりとした鳶色の瞳は、まるで猫のようによく動く。胸部のサイズが少々……いや、かなり寂しいというか平坦に近くはあるのだが、出会った場所や状況が違えば飛び上がって喜ぶレベルの美少女だ。

 

 だけど、ここは東京じゃない。それどころか地球ですらない。どうやって帰ればいいのかすらわからない――。

 

 改めて自分の現状を思い知らされた才人はぺたんと床に尻餅をつき、項垂れた。不本意だがしばらくは目の前にいる女の子の言うことを聞くしかなさそうだ。

 

「はあ、仕方ねえ。とりあえず、お前の使い魔とやらをやってやる」

 

「なあに、その態度! 『何なりとお申し付けくださいませ、ご主人さま』でしょ」

 

「くそ、調子こきやがって……」

 

「あんたの食事と寝床、誰が用意すると思ってんの?」

 

「へいへい、わかりましたよご主人さま。けどさー、俺、何すりゃいいの?」

 

 以前才人がテレビで見た魔法使いが出てくる海外ドラマに、カラスやフクロウなどの使い魔がいたのを思い出した。遠くへ手紙を運んだり、主人の手伝いをする――ありていに言えば、小間使いのような存在だった記憶がある。

 

「まずはそこから説明しなきゃいけないのね。いいこと、使い魔は……」

 

 ルイズの説明によると、主人と使い魔は視覚や感覚の共有ができるらしい……が。何も見えないし、感じなかった。

 

 また、魔法に使う秘薬の材料を探してくるという役目もあるようだが、異世界出身で右も左もわからない状態の才人にそんな真似ができるはずもなく。

 

「ええと、それから……」

 

「まだあんのかよ」

 

「黙って聞きなさい! 落ち着きがないわね」

 

「へいへい」

 

 コルベール先生にはああ言われたけど、やっぱりある程度の躾けは必要なんじゃないかしら……蹴りを入れる以外の方法で。そんな風に思いながら、ルイズは続けた。

 

「主人の盾になって、その身を守ることなんだけど……無理そうね、あんた弱そうだし。カラスにだって負けそうだわ」

 

「カラスなめんな。あいつら頭いいし、集団で来るから結構強いんだぞ」

 

「つまり勝てないのね?」

 

「う……」

 

「感覚共有はダメ、秘薬探しも無理、カラスより弱い。いいとこなんにもないじゃない」

 

「ほっとけ」

 

 はあっと大げさに溜め息をついたルイズは、結論を出した。

 

「仕方ないわね、あんたにもできそうな仕事をあげるわ」

 

「何させるつもりだよ」

 

「掃除、洗濯、それと雑用」

 

「ざけんな!」

 

「何? あんた、他にできることがあるの?」

 

 アクションゲームは得意だけど、それが異世界で何の役に立つというのか。武術の心得なんてあるわけないし、運動神経も並程度。才人はしぶしぶといった表情で答えた。

 

「……雑用でいい」

 

「わかればいいのよ。これからは使い魔として、わたしに誠心誠意尽くしなさい」

 

 言い終えたと同時に、ルイズは大きなあくびをした。

 

「今日はいろいろありすぎて、なんだか疲れちゃった」

 

「俺もだ」

 

「夜も更けてきたし、そろそろ寝るわ」

 

 ベッドのある方向へ歩き出したルイズに、才人は聞いた。

 

「なあ、俺はどこで寝ればいいんだ?」

 

「床。絨毯のところを使っていいわ。光栄に思いなさいよね」

 

 そう告げて、ルイズは才人に向かって毛布を放り投げる。

 

「おい、俺は犬や猫じゃねえんだぞ」

 

「だって、ベッドはひとつしかないし」

 

 それなら一緒に……なんて、才人は言い出せなかった。初対面の美少女相手にそんなことが言えるくらいなら、そもそも出会い系サイトなんて利用しない。なので、彼は精一杯の反抗――ふてくされたような声を上げた。

 

「用意くらいしとけよ!」

 

「だから! 人間が召喚されるなんてこと自体が想定外なんだってば!!」

 

 怒鳴りながら、ルイズはブラウスのボタンを外し始める。それを見た才人は慌てた。

 

「お、おま、なな、なにしてんだよ!」

 

「寝るから着替えるのよ……って、ああ!」

 

 ふふん、やっと男の前で服を脱ぐことの危険性に気付いたか。才人はそう考えたのだが……何故かルイズは両手を広げて突っ立っている。

 

「あの、何してんすか」

 

「着替えさせて」

 

 同じ年頃、それも超がつく美少女の生着替え。しかも、脱がせるのは俺。

 

 何このシチュエーション。思わず鼻血を吹きそうになった才人であったが、どうにかそれを押さえ込んだ。

 

「いや、でも、それって……あの、ええと、ま、まずくない?」

 

「何が?」

 

「何がって……お前、男に見られて平気なの?」

 

「使い魔に見られたって、別に何ともないわ。だいたい、屋敷にいたころはいつも使用人に着替えさせてたんだし。それと同じよ」

 

 ああ、なるほど。俺は男扱いされてないってことか。つか、使用人に服着せてもらうとかどんだけお嬢さまなんだコイツ。

 

「ああ、そうそう。明日は七時に起こして。それと……」

 

「まだ何かあるのかよ」

 

 床においてある下着を指さしながら、ルイズは告げた。

 

「これ、洗濯しといて」

 

「なななな、なんで俺がそんなこと……!」

 

「あんたのご飯。寝床」

 

「や、やればいいんだろ、やれば!」

 

「そうそう。最初から素直に言うこと聞けばいいのよ」

 

「この野郎……今に見てろよ」

 

「何か言った?」

 

「いいえ、別に」

 

 ――嬉しいけど腹の立つ初仕事を終え、ご主人さまが寝息を立て始めた後。才人は毛布を被りながら思考に耽っていた。

 

 どうにか地球へ戻る手がかりを得るその日まで、この世界で生きてゆくために……今は我慢するしかない。逃げ出そうかとも思ったが、そんな真似をしたところでどうなる。ルイズの反応から察するに、異世界云々の話をしたところで誰も信じないだろう。

 

 そもそも、生きていくことすらおぼつかない。俺はサバイバルに長けた傭兵じゃないし、謎を求める冒険家でもない。どこにでもいる、ごくごく普通の高校生なんだから。

 

「今の俺は、素直にあいつの使い魔やらなきゃ生き残れないっつうことか」

 

 やたらと威張るしクソ生意気だけど、可愛いのが唯一の救いかな。そうだ、出会い系サイトであいつと知り合った。そんで、あいつの家がある外国にホームステイしに来たと思えばいい。思う。思え。思い込むんだ、俺。

 

「あいつの手伝いをして、メシをもらう。できれば給料も。それを元手にあちこち調べる。そんで、地球へ帰るための方法を見つけるんだ」

 

 ――どこにでもいる、ごくごく平凡な高校生。

 

 才人自身はそう思い込んでいたが、とんでもない。異世界召喚などというありえない事態に巻き込まれたにも関わらず、この適応力。単に流されやすく、諦めが早いとも言えるだろうが……少なくとも普通の人間ならばこうはいかない。

 

 太公望とはまた違った意味で、彼も充分規格外の存在なのであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 

 ――明けて翌朝。

 

 太公望が目覚めて最初に見たものは、知らない部屋だった。わしはまだ夢の中にいるのだろうか?

 

 寝起きでぼんやりした顔のまま、周囲を見回す。ああ、そうだ〝召喚〟されたのだったな……と、前日の出来事を思い出した。

 

「くぁ……」

 

 太公望は、床の中で伸びをしてから起き上がった。部屋の主であるタバサは、まだ寝台の上で寝息を立てている。改めて観察すると、ずいぶんと幼く感じた。昨日は終始緊張していたようだが、今こうして見る寝顔は年相応のそれに思える。

 

 夜明けまで、まだ余裕がある。だいぶ早起きをしてしまったようだが、周囲の様子を確認するには丁度いい。少女を起こさないよう、太公望はそっと窓を開け外へ飛び出した。

 

 ……ちなみに、タバサの部屋は高い塔の五階にある。

 

 タバサの部屋から出た太公望は、まずは付近の地形を確認するべく、魔法学院の遙か上空へと舞い上がった。

 

 出てきた塔から見て、右手に大きな石造りの塔が建っている。昨日案内された学院長室があるのがあそこだろうと当たりをつけた。その塔を中心に五角形の外壁と、その頂点を結ぶように中央の塔より背の低い塔が位置していた。子供たちの学舎と聞いていたが、城といっても差し支えない、立派な佇まいである。

 

「さて。まだ時間はあるようだし、街の位置も確認しておきたいところだが」

 

 ここがメイジたちの修行場であるのなら、街は別の場所にあるはずなのだが……学院の周囲にそれらしきものは見当たらない。おそらく一般の人間たちが住む場所から相当離れているのだろうと太公望は推測した。

 

 ならば、さらに高度を上げるか――そう思ったとき、眼下に通行人を見つけた。

 

 

 ――平賀才人は、道に迷っていた。

 

 朝。目が覚めて、昨日のアレ――突然、異世界の美少女魔法使いに〝召喚〟されたことが夢などではなく現実なのだと改めて思い知らされたばかりであったのだが、しかし。持ち前の好奇心が後悔に勝ってしまった。なんとも本当に懲りない男である。

 

 すぐ側にあるベッドの上で、今もぐーすか寝ているご主人さまを起こしたら、色々とうるさいことになる。そう判断した才人は、足音を忍ばせ、こっそりと外へ出た。

 

 そして、才人はさっそく学院の周囲を散策しはじめた。目の前に広がる未知の光景に、きらきらと瞳を輝かせながら。

 

「すっげえな! 中世ヨーロッパのお城みたいじゃないか!!」

 

 石で出来たアーチ型の大門に、同じく重厚な石造りの階段。間隔を開けて規則正しく植えられている立木たち。もはや完全に観光旅行気分で、才人は異世界の探検を続ける。

 

 だが、そんなふうに調子に乗って長時間あちらこらちと歩き回っているうちに、元いた部屋がどこにあるのか、さっぱりわからなくなってしまった。

 

 才人は焦った。朝七時になったら起こすよう、前の晩に厳命されている。寮塔を出た時点で五時を少し過ぎたくらいだったのだが……あれからかなり時間が経っている。

 

 使い魔の仕事をこなしながら、地球へ帰るための方法を探す。そう決めたはずなのに、決まった時間に主人を起こす程度のごく簡単なことすらできないと思われてしまったら……どうなるかわからない。最悪、ここから追い出されるんじゃなかろうか。

 

 ……そうなったが最後、ほぼ間違いなくのたれ死に一直線だ。

 

「使い魔が死んだら、次を呼べるとか言ってたし……ヤバいよなあ、これ」

 

 才人が本気で困り果てていたそのときだった。後方から救いの声が聞こえてきたのは。

 

「そこのおぬし。ちと尋ねたいことがあるのだが、かまわんかの?」

 

 ――身長は、ルイズよりも少し高いくらいかな。百七十二センチある俺から見ると、かなり小さく感じる。どう見ても年下か、せいぜい同い年くらいだろうに、妙にジジくさい喋り方をするヤツだなあ。

 

 平賀才人の、太公望に対する第一印象はそんなものであった。

 

 基本的にひとの良いサイトは、素直に少年の問いに答える。

 

「ん、何?」

 

「ここから一番近い街へはどう行けばよいのか、教えてはもらえぬかのう?」

 

 才人にそんなことがわかるはずもない。彼は昨日、いきなりこの世界に連れてこられたばかりだったし、そもそも現時点で自分が迷子になっているような状況なのだ。だから、才人は正直にそう答えることにした。

 

「悪い、俺もまだここに来たばっかでさ。それよか、寮塔ってどこにあるんだか知らないか? ここってすっげぇ広いだろ、迷っちまって」

 

「なぬ? それなら、ここから正反対にある……あの塔だ」

 

 先端に宝玉のついた教鞭のような棒の先で示された場所を見て――才人は驚愕した。

 

「うっ、めちゃくちゃ距離あるじゃねえか。こんなに遠くまで来てたのかよ!」

 

 才人はガックリと肩を落とした。

 

「ああくそ、またやっちまった! このままじゃ、俺……どうなるかわかんねえぞ」

 

 才人は落ち込んだ。ぺしゃんこになった。マリアナ海溝の底より深いところまで引きずり下ろされたクラゲもかくや、というレベルまで。

 

「こんなところで迷ってて……間に合わない……絶対やばいって……」

 

 顔を真っ青にして、ブツブツと呟いている。そんな才人を海溝の底からすくい上げ、もとい釣り上げたのは、質問に答えてくれた少年だった。

 

「まあ、今日のところはこのあたりにしておくか。おぬし、ずいぶんと急いでおるようだのう。どれ、わしが一緒に連れて行ってやろう」

 

「は? 連れて行く!?」

 

「おぬし、高いところは大丈夫か?」

 

 え? どゆこと!? 才人は、完全に混乱してしまった。

 

「ああ、大丈夫だけど」

 

 なに真面目に答えてんの? 俺。今、それどころじゃないだろ。混乱を続ける才人の内心を知ってか知らずか、太公望はその場でくるりと背を向けると――彼にこう告げた。

 

「そうか、ならば肩に掴まれ」

 

 ……そして才人は、再び奇跡を体感することとなる。

 

「ファンタジーすげえ!!」

 

 才人は思わず叫んでいた。

 

 魔法使いの背に乗って見た朝日は、彼がテレビで見たことのある環境番組のワンシーンよりも、ずっと綺麗だった。すげえよ、これでこそ魔法の世界だよ! これから、まだまだ見たことのないモノを見ることができるんだろうか。才人の胸は、見知らぬ異世界への期待と好奇心によって、激しく躍った。

 

 今、目の前に広がるこの景色をもっと楽しんでいたい。だが、そんな才人の気持ちとは裏腹に、ゆっくりと地面が近づいてくる。そうだ、忘れちゃいけない。急いで部屋へ戻らなきゃいけないんだ。才人はそれを残念に思いながらも、こんな凄い体験をさせてくれた親切な魔法使いに、心の中で感謝した。

 

「それ、着いたぞ。わしはここで失礼する。ではの」

 

 寮塔の前へ舞い降りた後、立ち尽くしている才人に声をかけた魔法使いは、再びふわりと浮き上がる。それを見て、才人は慌てた。いやいやいや、ボケッとしてる場合じゃない、コイツに言わなきゃいけないことがあるだろうと。

 

「あ、ありがとう、助かったよ! 俺、平賀才人っていうんだ。お前は?」

 

 満面の笑顔で礼を告げた才人に、恩人は何でもなさそうな顔で答えた。

 

「礼などいらぬ、これも何かの縁だ。わしの名は『太公望』呂望。この学院にいれば、そのうちまた会うこともあるだろう」

 

 そう言い残して、タイなんとかと名乗った少年は飛び去っていった。

 

 その背中を見送りながら、才人は思った。なんだよ、魔法使いって、ひとの話を全然聞かないようなヤツばっかりだと思ってたけど、中にはいいやつもいるじゃないか。しゃべり方は、なんだかうちのじいちゃんみたいだったけど――。

 

「って、感慨にふけってる場合じゃねえ!」

 

 慌てて塔の階段を駆け上がっていく才人。その後、思わぬ邂逅を果たした『伝説』たちが再会を果たすのは――本人たちが考えるよりも、ずっと早かった。

 

 

 

 




本日はここまで。
明日以降、ストックが切れるまで毎日1話ずつ投稿を予定しております。


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第3話 軍師、異界の修行を見るの事

 ――事ここに至って、太公望は己のうかつさを呪った。

 

 トリステイン魔法学院の食堂は、学院の中央に位置する本塔の内部にあった。食堂の中には百人はゆうに座れるであろう長いテーブルが三つ並んでいる。タバサたち二年生のテーブルは、その真ん中だった。

 

 貴族と同等の扱いをする、という契約を学院側と交わしていた太公望は、当然のことながらタバサとともにこの食堂で食事をとることを許されている。もちろん、その内容も貴族のそれとまったく同じだ。

 

 大きな鳥のローストが、鱒の包み焼きが、威圧するように太公望の前に並んでいる。

 

「このわしとしたことが……なんという……」

 

 ――あまりの事態に、太公望は息を飲んだ。

 

「偉大なる『始祖』ブリミルと女王陛下よ。今朝もささやかな糧を我に与えたもうたことを感謝致します」

 

 祈りの唱和を終え、料理を口にしようとしたタバサは隣にいる太公望が固まったように動かないことに気がついた。ほんの少しの間を置いて、太公望がボソリと呟く。

 

「のう、タバサ。わし、肝心なことを伝え忘れとった」

 

「それは何?」

 

「わしは……なまぐさが食えんのだ」

 

 タバサは驚いた。太公望曰く、彼はなまぐさ――つまり肉や魚の類は一切食べられないのだそうだ。これまで住んでいた地域では、たとえ初めて訪れる店であろうとも、彼の服装を見ればすぐにそれに相応しい食事を出してもらえたのだという。

 

「初めて聞く習慣」

 

「うぬぬ、やはりそうであったか……」

 

 そう言ってしょんぼりと頭を垂れる太公望の姿は、見た目の年齢相応なもので。昨日とはまるで別人のようだ。こんな顔もするのか……などという『雪風』の二つ名にそぐわぬ感想を胸に抱きつつタバサは質問する。

 

「あなたが食べられるものは?」

 

「野菜と果物、卵、牛や山羊の乳なら問題ない。それと、なまぐさを使わぬ菓子の類かのう」

 

「わかった。厨房へ伝えておく」

 

「すまぬ、感謝する」

 

 パン! と両手を叩くように合わせ、礼を述べる太公望。

 

 国が変われば習慣も変わる。この国へ呼ばれた時に太公望自身が言ったことだ。にも関わらず、食事のことを伝え忘れるとは……正直とんだ失態である。

 

「せっかく出してくれたものを残すというのは、実に忍びないことなのだが……」

 

 そう言って料理を脇へよけ、果物をつまむ太公望にタバサは申し出る。

 

「わたしが食べる」

 

「ぬな!? かなりの量だぞ」

 

「大丈夫、問題ない」

 

 その後タバサは唖然とする太公望を尻目に、果物と交換したふたり分の朝食をあっさりと完食した。

 

 ――そんなやりとりをしていたふたりから少し離れた席で、ルイズが誰にも聞き取れないほどの小声で、ぶつぶつと恨み言を呟き続けている。現在の彼女は、不機嫌の極みにあった。

 

「いったいどういうことよ。そりゃあドラゴンとか、グリフォンとか、そんな使い魔が来てくれれば嬉しかったけど。このさい、小鳥とかネズミでもいいって思ってたけど……」

 

 フォークを握る手に力が籠もる。

 

「そそ、それなのに、よりにもよってただの平民が来ちゃうって、いくらなんでもあんまりだわ。お、おまけに、あいつのせいで怨敵ツェルプストーから完全にバカにされるし! なな、なんでわたしが、ここ、こんな侮辱を受けなきゃいけないのよ!」

 

 ルイズは悔しかった。呼び出した使い魔は生意気で、貴族に対する礼のなんたるかすらわからぬ田舎者だった。それだけではない。他の世界から来ただのなんだのと訳のわからないことを言う。他の使い魔が備えているような〝力〟も持っていないようだ。

 

 さすがに雑用くらいならやれるだろうと思ったが、それすら満足にこなせない。

 

 今朝のことだ。なんと洗面器に水が張られていなかった。朝起きた主人が顔を洗うのに水が必要なことくらい、普通は教えられなくてもわかるだろうに。

 

 着替えも、髪を梳かすのも下手。結局鏡を見ながら自分で全部直すはめになり、危うく朝食に遅れるところだった。

 

 そこまではまだ我慢できる。できるのだが――ルイズの実家にとって、仇敵とも呼べる存在である隣国ゲルマニアの貴族ツェルプストーの娘に色目を使ったことだけはどうにも許し難い。

 

 ……才人は単に挨拶を交わしただけだったのだが、ルイズはそれすら気にくわない。

 

 何せ彼女の実家とツェルプストー家は代々争い続けてきた家柄で、ヴァリエール家側は相手に何度も愛するひとを奪われたという過去を持つ。たとえそれが使い魔、いや羽虫一匹といえどもおめおめと盗られるわけにはいかないのだ。

 

 さらに、とどめといわんばかりにあの女が呼び出したサラマンダーを自慢された。生育の具合からいって火竜山脈産だろうその使い魔は、ツェルプストーが優秀な火メイジであることの証明とも言える。なら、何の役にも立たない平民なんかを呼び出した自分は……。

 

「どうしてなのよ。同じ人間が来るなら、せめて……」

 

 自分の向かい斜め奥の席に座るふたりにチラリと視線を向けながら、ルイズは呟いた。

 

「あの子みたいに、異国のメイジだったなら――何かが掴めたかもしれないのに」

 

 ……いっぽうそのころ。

 

 そんなご主人さまの胸中など知る由もない使い魔――平賀才人はというと。

 

 〝使い魔召喚の儀〟を監督していた教師の計らいにより、本来の歴史とは異なる場所と物――アルヴィーズの食堂の床に置かれた貧相な食事ではなく厨房の片隅にある平民たちの休憩所で、まかないをもらっていた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――メイジは、人間・妖怪を問わず、多くの弟子を取るのか。

 

 もしも昨夜、召喚主からこの修行場についての説明を受けていなかったら……教室に入った直後、太公望はそのような感想を持ったかもしれない。それほど室内は多種多様な生き物たちであふれていた。タバサと太公望が中に入っていくと、燃えるような赤く豊かな髪をもった娘が中央付近の席から笑顔で手招きをしている。

 

「おはよう、タバサ。それと、ミスタ……?」

 

「『太公望』呂望と申す。太公望と呼んでくれ。失礼だが、おぬしの名を教えてはもらえぬだろうか? わしの記憶違いでなければ、初対面だと思うのだが?」

 

 にっこりと……いや、妖艶に、と言い直したほうがいいだろう。普通の男ならあっさりと魅了されてしまいそうな微笑みを浮かべながら、少女は口を開いた。

 

「まあ、遠国の出身らしい変わったお名前ですのね。あたしはキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。あなたを召喚したタバサの親友よ。二つ名は『微熱』。キュルケでよろしいわ」

 

 キュルケはちらりとタバサのほうを見て言った。

 

「タバサ、なかなか素敵な殿方を召喚したものね」

 

「駄目」

 

「もう、わかってるわよ。取ったりなんかしないから」

 

 なにやら不穏な台詞が飛び出したような気がしなくもないが、言葉を交わすふたりの姿はその身長差も手伝って、親友というよりもまるで仲のいい姉妹のようだ。そして誘われるように席へ掛けた太公望(ちなみに並び順は向かって左からキュルケ、タバサ、太公望である)は、改めて室内を観察する。

 

 巨大な目玉が浮いている。その他にも、不気味な模様のトカゲやフクロウ……あそこにいるのはコウモリだ。なるほど、これらが本来使い魔とされるべき者たちか。

 

 主人の目や耳となり、時には盾となってその身を守る『パートナー』。それが、この世界において使い魔と呼ばれるモノの定義だと聞いていた太公望は嘆息した。確かにあれらの存在と比べたら、自分はとんだ例外で、珍しいのだろう。その証拠に室内のあちこちから無遠慮な、それでいて好奇に満ちた視線を感じる。

 

 ……と、ふいに己への注目が後方へと逸れ、代わりにくすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。なんとなしに気になった太公望が後方を振り向くと、ちょうど桃色がかった金色の髪の娘と黒髪の少年が連れ立って入ってくるところであった。

 

 

 ――なんか、大学の講義室みたいだな。

 

 段差のある床に横長の机が並んでいる光景を見て才人は思った。教室の最奥に黒板と教壇があるのが、いかにもそれらしい。

 

 才人とルイズが中に入っていくと、先に教室へ来ていた生徒たちが一斉に振り向いた。単に注目を集めただけではない。何やら馬鹿にされているような空気を感じる。その証拠に、自分たちを指差してくすくすと笑っている者までいる始末だ。

 

(なんだかいやな感じだな)

 

 と、才人が実に居心地の悪い思いをしていると……教室の片隅に見覚えのある顔を発見した。あそこにいるのは今朝親切にしてくれた、あの魔法使いじゃないか? 才人は、思わず叫び声を上げてしまった。

 

「あっ! お前、このクラスだったのかよ!」

 

「平賀才人ではないか! また会うたの」

 

 魔法使いのほうもすぐに才人の姿に気がついたようで、笑顔で手招きをしている。才人はそれがなんだか嬉しくて、急いで彼の側へ駆け寄っていった。

 

「才人でいいよ。今朝はありがとな」

 

「困ったときはお互い様だ、まあ座るがよい」

 

 才人は横にあった椅子を引き寄せた太公望に、自分の隣に座るよう勧められる。もちろん、喜んでそこへ腰掛けた才人。そしてそのまま、ほとんどなし崩し的に異文化交流が始まるかと思いきや……それは、耳をつんざくような大声によって遮られた。

 

「つ、つ、使い魔が、ご、ご主人さま放っといて何やってんのよ――!!!!!」

 

 すわ物語が開始してから初の直接戦闘開始かと思われたが、しかし。紫色のローブに身を包み、とんがり帽子をかぶったやさしげな中年の女性――この授業を担当する教師が入ってきたおかげで悲劇は回避された。ひょっとすると喜劇の間違いかもしれないが。

 

 不幸な事故を未然に防いだ功労者である彼女は己の功績に気付くことなく教室を見回すと、実に満足そうに微笑んだ。

 

「皆さん。春の使い魔召喚の儀は大成功のようですね。このシュヴルーズ、毎年こうやって春の新学期に様々な使い魔たちを見るのがとても楽しみなのですよ」

 

 さらに、シュヴルーズと名乗った教師は続ける。

 

「ミス・タバサとミス・ヴァリエールは、実に変わった使い魔を召喚したものですね。特にミス・タバサは、遠く『ロバ・アル・カリイエ』のメイジを呼び出したとか。学院長から話は伺っていますよ」

 

 おおっ、という声が教室中から上がる。

 

 ――そう。太公望の立ち位置の調整に苦慮した学院長は、教職員たちに、

 

「彼は『聖地』を越えた、ハルケギニアの遙か東にあるといわれる諸国『ロバ・アル・カリイエ』のひとつからやってきたメイジである」

 

 ……という虚偽の説明を行うことで、太公望が貴族とほぼ同等の待遇を受けることを納得させていたのである。もちろんこれは、タバサと太公望にも前もって通達されている。当然のことだが、口裏を合わせる必要があるからだ。

 

 だが、そんな生徒たちの驚きようが日本出身の才人にわかるわけもなく。

 

「ロバ……なんとかって、何?」

 

 彼はルイズ――不承不承ながら彼らの隣席についていた主人に小声で訊ねた。

 

「あんた、本当に常識を知らないのね。ここからずーっと東の『聖地』や砂漠地帯……サハラを超えた先にある国々のことよ」

 

 ルイズは呆れ声で呟き返した。これも当然のことながら、己の使い魔が自分たちの常識の埒外にある異世界から現れたことなど全く知らない――正確に言うと信じていなかった彼女は、その後うんざりしたように教壇へと視線を戻した。

 

 そんな彼女の態度を見て、せっかく可愛い顔してんのに一言余計なんだよなあ。色々ともったいねえなあと才人は思った。だが、彼の思考はすぐさま別の対象に向けられた。

 

(そうだったのか。場所は全然違ってるけど、えっと、タイ……なんだっけ? あいつも俺と同じで、めちゃくちゃ遠い場所から召喚されてここに来てたんだ! だから他の連中と違って、俺のことを普通に扱ってくれるのかもしれないな)

 

 才人はそのように受け取った。彼は知らないことだが、その考えはほぼ正しい。

 

(そうだ、そうだよ。向こうは確かに魔法使いかもしれないけど、俺とおんなじ使い魔なんだ。それなら、この世界で初めての友達になれるかも! 結構いいヤツみたいだし。もしかすると、魔法の使い方を教えてもらえたりなんかしちゃったりして!!)

 

 ……だがしかし。そんな才人の大幅期待込みな前向き思考は、突如沸きあがった笑い声によって虚しく掻き消されてしまった。

 

「ハハッ、やっぱりそうだったんだな『ゼロ』のルイズ! まともに魔法ができないからって、その辺歩いてた平民連れてきたんだろ!」

 

「違うわ! わたし、きちんと召喚できたもの。こいつが来ちゃっただけよ!!」

 

 オイ、こいつが来ちゃったってどういうことよ。才人が文句を言おうとした直後、別の生徒が嘲り声でそれを遮った。

 

「嘘だ! 『雪風』のタバサが異国のメイジを呼び出したのが、その証拠だぜ!!」

 

 めちゃくちゃな理屈である。当然のことながらルイズは反論した。

 

「そんなの、証拠になんかならないわ!」

 

 立ち上がって訴えるルイズを、ひとりの男子生徒が指さして笑った。

 

「嘘つくな! どうせ〝サモン・サーヴァント〟も失敗したんだろう!? 『ゼロ』のお前に、まともに召喚できるわけないもんな」

 

 周りの笑い声が大きくなる。

 

「ミセス・シュヴルーズ! 侮辱されました! あの『かぜっぴき』が、わたしを侮辱しましたわ!!」

 

「かぜっぴきだと!? 俺の二つ名は『風上』だ!」

 

 『かぜっぴき』と呼ばれた小太りの生徒が立ち上がり、ルイズを睨み付ける。ため息をついたシュヴルーズが、手に持った小振りな杖を振ると、立っていたふたりは、まるで糸の切れた操り人形のように、ストンと席に腰を落とした。

 

「ふたりとも、みっともない口論はおやめなさい。いいですか、級友を『ゼロ』だの『かぜっぴき』だの言ってはいけません。わかりましたか?」

 

 ルイズはしょんぼりとうなだれていたが、一緒に叱られた生徒はさらに抵抗を示す。

 

「ミセス・シュヴルーズ。僕の『かぜっぴき』はただの中傷ですが、彼女……ルイズの『ゼロ』は事実です」

 

 シュヴルーズは厳しい顔をして、杖を一振りする。と……どこから現れたものか、小うるさい生徒の口に、ぴたっと赤土の粘土が押しつけられる。

 

「あなたは、その格好で授業を受けなさい」

 

 教室内は先程までの喧噪が嘘であるかのように、しんと静まり返った。

 

 シュヴルーズは重々しくこほんと咳をすると、再び杖を振った。すると、教壇の上に石ころがいくつか現れる。

 

「それでは、授業をはじめますよ。私の二つ名は『赤土』。赤土のシュヴルーズです。土系統の魔法を、これから一年間皆さんに講義します。魔法の四大系統はご存じですね? ミス・ヴァリエール」

 

「は、はい。〝土〟〝水〟〝火〟〝風〟の四つです」

 

 ルイズの答えに、シュヴルーズは満足げに頷いた。

 

「現在は失われた系統である〝虚無〟を合わせると全部で五つの系統があることは、皆さんも知っての通りです。その中でも〝土〟は、特に重要な位置を占めていると、私は考えます。何故なら土系統の魔法は万物の組成を司る魔法であるからです。土系統の魔法がなければ建造物の作製に手間取り、必要な金属も手に入らず、農作物の収穫量も今よりずっと減ることになるでしょう。このように、土系統の魔法は皆さんの生活と密接に関係しているのです」

 

 太公望は、ふむと唸った。なるほど、この世界では地球とは異なり〝奇跡の技〟が一般の民の間で生活の一部として完全に定着しているのか。で、あればメイジたちが支配階級として君臨している理由もある程度はわかろうというものだ。

 

 いっぽう才人は昨日ルイズと交わした会話のズレについて、なんとなくだが理解した。ここは科学の代わりに魔法が発展している世界なのか、と。

 

 そういえば、夕べ寝る前にルイズが部屋のランプを指を鳴らすことで消していた。たぶん、あれも魔法のアイテムなんだろう。ちなみに才人が同じことをしてもランプは反応しなかった。

 

「あんなのがたくさんあるなら、そりゃあパソコンなんて理解されないよなあ……」

 

「なんか言った?」

 

「いいえ、別に」

 

「授業中なんだから静かにしてなさい」

 

「へいへい」

 

 やりとりの間も、教壇に立った『赤土』先生の説明は続いている。

 

「今日は、みなさんに土系統魔法の基礎である〝錬金〟の呪文を学んでもらいます。一年生のときにできるようになったひともいるでしょうが、基本は魔法を学ぶ上で大切なことですので、もう一度おさらいすることにします」

 

 シュヴルーズはそう言うと、手にしていた杖の先を石ころへ向け、詠唱を開始した。

 

「イル・アース・デル」

 

 ルーンの完成と共に、石ころは光り出し――金色の輝きを放つ金属に変わった。

 

 キュルケが、身を乗り出して叫んだ。

 

「ゴゴ、ゴールドですか? ミセス・シュヴルーズ!」

 

「いいえ、これは真鍮ですよ。金を錬成できるのは『スクウェア』クラスのメイジだけです。私はただの『トライアングル』ですから」

 

 シュヴルーズの言葉の中に疑問を感じた才人は、隣の席で熱心にメモを取っていたルイズの肩を指でつついた。

 

「なあ、ルイズ」

 

「静かにして。さっきも言ったけど、今は授業中よ」

 

 そっけない返事をよこしたルイズだが、しかし。持ち前の好奇心に支配された才人はその程度の制止では抑えきれない。そもそも彼がここで遠慮するような性格ならば、この場に居ることはなかっただろう。

 

「あの赤土先生が言った『スクウェア』とか『トライアングル』って、なに?」

 

 ルイズはため息をつくと、小声で使い魔の質問に答えた。

 

「系統を足せる数のことよ。それでメイジのランクが決まるの」

 

「足してどうすんだよ」

 

 これは昨日の説明でタバサから聞いていない内容だ。基本過ぎて、説明するまでもないと思ったのだろう。それに気付いた太公望の耳が、ふたりの会話に向けられた。

 

「たとえばね、水の魔法に風を重ねると氷になるわ。他には土で油を錬成して、そこに火を合わせると、大きな炎を起こせるとか。土に土を足して、一枚のときよりもずっと頑丈な壁を作るとか」

 

「ふむふむ」

 

「ふたつの系統を足せるのが『ライン』メイジ。シュヴルーズ先生みたいに三つ足せるのが『トライアングル』メイジ。ひとつしか足せないメイジは『ドット』っていうの」

 

 やはり、メイジの魔法と仙人の奇跡とは似て異なるもののようだ。ふたりのやりとりからそのことを理解した太公望は、この魔法の授業とやらに可能な限り顔を出すことに決めた。新しい住処にまつわる情報を得ることは、のんびり快適な生活を送る上で、とても大切なことだからだ。

 

 ……そんな太公望の決心などつゆ知らず、才人たち主従の問答は続いていた。

 

「なるほどな、てことは四つ足せるのが『スクウェア』ってことか」

 

「そういうこと」

 

 ここまで聞いたところで、さらなる疑問が才人の頭に浮かび上がってきた。

 

「ん? 『ドット』はひとつしか足せない、ってことはさ。もしかして、足さなくてもいい魔法もあるのか?」

 

「あら、あんた常識は知らないけど馬鹿ってわけじゃないのね。そうよ、汎用魔法(コモン・マジック)は系統を足さずに使えるわ。あんたを呼び出した〝サモン・サーヴァント〟もそのひとつ」

 

 マジで一言多いよなあこいつ。などと内心で辟易しながら才人は続けた。

 

「ところで、ルイズはいくつ足せるんだ?」

 

 それまで饒舌だったルイズが、いきなり黙り込んでしまった。ところが、そんなふうに喋り続けていたのがまずかったのだろう。教壇に立っていたシュヴルーズに見咎められてしまった。

 

「ミス・ヴァリエール! 授業中の私語は慎みなさい」

 

「申し訳ありません……」

 

 シュヴルーズは教壇の上にある石ころと、ルイズを交互に見遣って言った。

 

「そうね。おしゃべりをする暇があるのだから、あなたにやってもらいましょうか」

 

「え? わたしがですか?」

 

「そうです。ここにある石ころを使って〝錬金〟してごらんなさい」

 

 だが、ルイズは立ち上がらない。困惑したかのように俯いたままだ。

 

「どうしたんだ? 先生のご指名だろ。行ってこいよ」

 

 才人が促すも、ルイズはその場から動こうとはしなかった。

 

 キュルケが困ったような声で言った。

 

「あの、先生。ヴァリエールを教えるのは今日が初めてでしたわよね?」

 

「そうですが……それが、どうかしましたか?」

 

「危険です」

 

 キュルケは断言した。教室内のほとんど全員が、彼女に同意して頷いた。

 

「は? 危険? 〝錬金〟の魔法の、いったいどこが危険だというのですか」

 

 そう言うと、シュヴルーズはルイズに微笑みかけた。

 

「さあ、ミス・ヴァリエール。怖がらずにやってごらんなさい。私は他の先生方から、あなたが大変な努力家だと伺っています。だから、きっと大丈夫。失敗を畏れていたら何もできませんよ」

 

「ヴァリエール。お願いだからやめて」

 

 キュルケや周辺にいた生徒たちが真っ青になってルイズを止めたのだが、当の本人はキッと顔を引き締めると、立ち上がって教壇の前までつかつかと歩いていった。

 

「わたし、やります」

 

 シュヴルーズはにっこりと笑いながらルイズへ助言を与えた。

 

「ミス・ヴァリエール。いいですか? 〝錬金〟したいと願う金属を、強く心に思い浮かべながら呪文を唱えるのです」

 

 こくりと可愛らしく頷いたルイズは、手に持った杖を構える。と……それを見たタバサが席を立ち、すたすたと出口のほうへ歩き出した。

 

「どこへ行くのだ?」

 

「危険。あなたもここから離れたほうがいい」

 

 太公望が周囲を伺うと、自分と才人を除く全員が机の下に潜り込むなどして何らかの防御態勢を取っている。どうやら、あのルイズという少女が魔法を使うことによって教室全体に被害を及ぼすような問題が発生するらしい。

 

 策を弄してやめさせることも可能だろうが、百聞は一見にしかず。ここはあえて様子を伺うほうが得策であろう。

 

 そう考えた太公望は才人に注意を促すと、他の生徒たちと同じように机を盾にしてしゃがみ込んで教壇に注目した。才人も素直に忠告に従い、机の下から頭を半分だけ出してルイズの挙動を見守っている。

 

 彼らの視線の先で、ルイズは短くルーンを唱えると……杖を振り下ろした。

 

「イル・アース……デル!」

 

 ――その瞬間。机ごと、石ころは大爆発を起こした。

 

 直近で爆風をまともに受けてしまったルイズとシュブルーズは黒板に叩き付けられ、大きな音に驚いた使い魔たちが暴れ出した。教室内が阿鼻叫喚の大騒ぎとなる。キュルケが机の下から飛び出し、ルイズを指差しながら批難した。

 

「だからあたしは言ったのよ! ヴァリエールにはやらせるなって!!」

 

 シュヴルーズは床に倒れたまま動かない。時折痙攣しているところから判断するに、単に気絶しているだけらしい。

 

 それから少しの間を置いて、哀れな女性教師のすぐ隣に転がっていたルイズがむくりと立ち上がったのだが……その姿は見るも無惨な状態だった。全身が煤で汚れ、服に至ってはあちこち破けて下着まで見えている。

 

 ところが彼女は、そんな自分の惨状など何処吹く風と言った調子でこうのたまった。

 

「ちょ、ちょっと失敗したみたいね」

 

 これだけの騒ぎを引き起こしておいて、この態度。なかなか胆の座った娘だ。太公望は、ルイズのことを内心でそう評した。だが、教室内にいたほとんどの生徒たちは違った。立ち上がった少女に向けて、嵐のような批難を浴びせかける。

 

「ちょっとじゃないだろ! 『ゼロ』のルイズ!」

 

「魔法の成功確率、いつだってほとんど『ゼロ』じゃないの!」

 

「なあ。もう頼むから、あいつだけ別の場所で授業してくれよ……」

 

「まったくだ。どんな呪文も爆発しちまうんだから、危ないったらないよ!」

 

 こうして、太公望と才人にとって初めての魔法授業は大波乱の中で幕を閉じた。

 

 

 ――それとほぼ時を同じくして、本塔最上階にある学院長室では。

 

「ここ、これを見てください! オールド・オスマン!!」

 

 『炎蛇』のコルベールが、唾を飛ばしながら上司に向かって直談判を行っていた。

 

 彼は後に呼び出された少年――才人のことがずっと気にかかっていた。あのときは安易に契約の儀式をさせてしまったが、果たして彼は本当にただの平民なのだろうかと。長いこと教師を務めているが、人間を使い魔にするなど聞いたことがない。それに、契約のときに念のためメモしておいた少年の左手甲に刻まれた使い魔のルーンは、彼の記憶にないものだった。

 

 太公望とのやりとりで思わぬ失敗をした結果、普段よりも慎重になっていたという経緯もある。だが、最終的には魔法学院に奉職して二十年という教師としての経験と勘がコルベールに行動を起こさせた。

 

 学院本塔の中にある図書館で、まずは基本的なルーンに関する書物を調べてみたのだが、どこにもあてはまるものがなかった。そこで、コルベールは教師のみが閲覧を許される『フェニアのライブラリー』で、古い文献をあさりはじめた。

 

 ――結果。才人の左手に刻み込まれたルーンが、かつて『始祖』ブリミル――この世界ハルケギニアに魔法をもたらしたとされる人物が使役していたという、伝説の使い魔のものと完全に同一であることが判明したのだ。

 

 コルベールは大慌てで問題の書物を抱えると、司書に「どうしても学院長にお見せする必要があるから」と特別に持ち出しの許可を得て、その足で学院長室に駆け込んだ。

 

 で、今に至る……というわけである。

 

 当初は、コルベールの剣幕に目を白黒させていたオスマン学院長だったが、彼が提示したスケッチと資料を見るやいなや秘書であるミス・ロングビルに部屋から出るよう促した。そして、彼女の退出を確認したオスマン氏は、重々しく口を開いた。

 

「なるほど。その少年に刻まれたのは〝ガンダールヴ〟のルーンだと」

 

「はい! 『始祖』ブリミルが用いた伝説の使い魔です。その姿や形についての詳しい記述は残されておりませんでしたが、呪文の詠唱中は無力になる主人を守ることに特化した存在だと、その本には書かれていました。なんでも千を越える軍勢を寄せ付けぬほどの強さを誇り、並のメイジ程度では全く歯が立たなかったとか!」

 

 両手を振り上げ、興奮しながら語るコルベールに、オスマン氏からまるで冷や水のような声が浴びせかけられた。

 

「で、ミスタ・コルベール。その少年を〝ガンダールヴ〟にしたのは誰なんじゃ?」

 

「ミス・ヴァリエールです。しかし……」

 

「ああ、例のラ・ヴァリエール公爵家の娘か。彼女は確か……」

 

「ええ。正直なところ、優秀という言葉とはほど遠いメイジです。なにせ、どんな呪文を唱えても爆発させてしまうのですから。私から言わせてもらえば、どうしたらあのような失敗が起こせるのか逆に教えてもらいたいくらいです。それらしい事例がないかどうか、色々と調べてはみたのですが……」

 

「発見できなかったと?」

 

「はい。残念ながら『フェニアのライブラリー』にも見当たりませんでした」

 

 オスマン氏は、しばし無言で長い顎髭をいじっていたが……やおら口を開くと、コルベールに向かってこう言った。

 

「ミスタ・コルベール、この件はわしが預かる。他言は無用じゃ」

 

 反論しようとしたコルベールであったが、できなかった。何故なら、普段は昼行灯などと称されるオスマン氏の瞳に、これまで見たこともない光が宿っていたからだ。

 

 

 




ブリミル教には肉を食べちゃダメみたいな教義はないようですね。
(あったら朝食の風景そのものがおかしなことになりますし!)

なまぐさ=肉や魚、でも乳製品や卵はOKというのは
中国の精進料理に関する資料で調べたものです。
原作では特に言及されておりませんので念のため……。


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第4話 動き出す歴史

 ――波乱に満ちあふれた授業の後。タバサとキュルケのふたりと共に食堂へと向かう道すがら、太公望は思わずぼやいた。

 

「まったく……びっくりしたわ」

 

「わたしは危険だと言った」

 

「いや……」

 

 驚いたのはそこではない……と、言いかけた太公望はなんとかそれを飲み込むことに成功した。実際、彼を驚かせたのはタバサに指摘された件についてではない。

 

 この世界の魔法という()()に驚愕した。なにもない空中から粘土を――どこかから転送したのではなく創り出したこと。そして、それを正確に目標へ命中させたという事実に心底驚いたのだ。

 

 その後目にした、石ころを他の金属に物質変換する〝錬金〟や、ルイズという名の少女が起こした爆発事故について、全く動じなかったといえば嘘になる。だが、錬金のほうはともかく爆発については、身近に似たような事象を起こせる仲間が周囲に複数いたため、特に目新しいものではなかったというだけで。

 

 しかし、あれらも使いようによっては――。

 

 そこまで考えたところで太公望はふと我に返った。肩を落とし、大きなため息をつく。最初に反応したのはタバサだった。

 

「どうしたの?」

 

 首を小さく傾げている彼女に、太公望は苦笑しつつ答える。

 

「いや、今のわしにはやはり休息が必要だとつくづく実感してのう」

 

 長い間、その小さな身体には重すぎて、潰れてしまいかねないような責任を背負って戦い続けてきた後遺症だろうか。太公望の思考は、ついつい『そちらの方向』へ行ってしまう。もう、戦は終わったのだ。魔法の観察をするのはあくまでこの世界を()()するためであって、()()するわけではないのだから――。

 

 思わず黄昏れてしまった太公望の肩を、キュルケがポンと叩いた。

 

「そりゃあ、昨日の今日でこれじゃ、疲れて当然よね。昼食にはデザートが出るわ。甘いものを食べれば、少しは落ち着けるんじゃない?」

 

「なぬ、甘いモノとな!? わしは甘味が大好物なのだ!」

 

 さらにタバサが、聞き逃すには重大すぎる忠告をする。

 

「早い者勝ち」

 

「なんと! 何故それを黙っておったのだ!!」

 

 あわてて駆け出そうとした太公望だったが、何かの圧力を受けたかのように押し戻される。タバサの〝風〟の魔法が、彼を引き留めたのだ。

 

「廊下を走るのは禁止」

 

「おっほっほ! 大丈夫よ、デザートは逃げたりしないから。あなたって、意外とお子ちゃまなのね」

 

「ふふん、わしは自分に正直なだけだ」

 

 そう言いつつも、改めて魔法の〝力〟を体験した太公望はその後は無理な暴走をすることなく、まだ見ぬ甘味を目指して歩き出したのであった。

 

 

○●○●○●○●

 

「笑いなさいよ」

 

 命じられたまま、黙々と汚れた教室内を掃除を続ける才人へ、ルイズは言った。

 

 ――魔法の成功確率ゼロ。だから『ゼロ』のルイズ。クラスメートには、いつもその不名誉な二つ名で呼ばれ、笑われてきた。

 

 土系統の初歩〝錬金〟。石ころを望む金属へ変える呪文。一年生でもできる簡単な魔法。でも、やっぱりうまくいかなかった。石は派手に爆発し、教室はめちゃくちゃになってしまった。罰として魔法を使わずに片付けること――先生が口に出したその言葉がルイズの胸をチクリと刺した。

 

「わかったでしょ、これがわたしの二つ名『ゼロ』の由来。どんな魔法を使っても、あんなふうに爆発するの」

 

 才人は答えない。ルイズは机を拭く手を止めて続けた。

 

「笑っちゃうわよね、魔法を使わず片付けなさい、ですって。そりゃそうよ、今よりもっと酷くなるの、わかりきってるもの」

 

 才人は作業を続けている。

 

「ちゃんと勉強してるし、たくさん練習したわ。でも、爆発しちゃうの!」

 

 ルイズは未だ沈黙を守っている才人の前までやって来ると、彼の使っていた箒を奪って、叫ぶように言い放った。

 

「どうせあんたもバカにしてるんでしょ。貴族のくせに、できそこないだって。魔法の使えない、落ちこぼれだって!」

 

 だが。そんなルイズに対して、才人の返した言葉はこうだった。

 

「本当にお前が魔法の才能ゼロだったら、俺は今ここにいねえだろ」

 

「……は?」

 

「サモン……なんだっけ? お前がその魔法を成功させちまったから、俺はこうして使い魔やってるんだって言ってるんですけど。これで理解できたか? あーあ、昨日の夕飯はな、ほんとならハンバーグだったんだぞ。ちくしょう……」

 

「あんた、何言って……」

 

 あっけに取られたルイズの眼を見て、才人は続けた。

 

「少なくとも一回は成功してんだろ。だから『ゼロ』じゃなくて『イチ』のルイズだ。結果はお気に召さなかったようですけどねえ、お嬢さま」

 

 そういって、手を出す。

 

「箒、返せよ。早く終わらせないと、昼飯に間に合わないだろ」

 

 ――もしも。もしも、ルイズがコルベールの忠告を守らず、才人に対し使い魔の躾と称して人間以下の扱いをしていたとしたら。きっと、こんな問答にはならなかったはずだ。

 

 負けん気の強い才人は、ようやく生意気なご主人さまの弱点を見つけたとばかりに攻撃しまくっていただろう……本来の『歴史』の如く。

 

 そうならなかったのは、この主従にとって本当に幸運だったのは言うまでもない――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから一時間ほど後、アルヴィーズの食堂内では。

 

「……確かに、なまぐさが使われていない料理ばかりではあるが」

 

 出された『昼食』を見て、太公望はまたしても言うべきことをしっかりと告げていなかったことに気付かされた。やはり自分は疲れているのだろうと、本日数回目のため息を漏らす。

 

「どうしたの?」

 

 様子を見ていたタバサが、不思議そうな声で聞いた。

 

「いや、食事の内容については文句なしなのだが。さすがに、これだけの量は食べきれぬよ」

 

 籠いっぱいに入れられた、焼きたてほかほかの白パン。きのこと根菜がたっぷりのシチューに、春野菜のソテーと香草のサラダ。さらに色とりどりの果物類が処狭しと並べられている。太公望はこぶし大の白パンをひとつとシチュー、りんご一個を手元に引き寄せた。

 

「わしは燃費がいいのでな、これだけで充分だ。何度も手間を取らせて済まぬが、次からは全体の量を減らすよう、厨房に頼んでもらえるだろうか」

 

 タバサはコクリと頷くと、残された食品群に視線を這わせる。

 

「……食べるか?」

 

 再び頷いたタバサの前へ料理を押しやる太公望。それらが小柄な少女の腹の中へぽんぽんとおさまってゆくのを見ていた太公望は、

 

(メイジは仙人と比べて、燃費が悪いのだろうか)

 

 などと益体もないことを考えていた。

 

 と、そこへ学院の使用人たちが連れ立ってデザートを配りに現れた。ひとりは、肩まで届く黒い髪を布製の髪飾りでまとめた純朴な印象の少女。もうひとりは、何故か才人少年だった。

 

「どこにもいないと思ったら、お前、こっちでメシ食ってたのかよ」

 

「才人ではないか。何故おぬしがデザートの配膳をしておるのだ?」

 

「ああ。厨房のひとに良くしてもらったからさ、そのお礼だ」

 

「そうか、それは感心なことだのう。ところで、その端にある菓子はなんだ?」

 

 太公望の質問に答えたのは隣にいた少女だった。

 

「桃のタルトですわ。焼いた生地にクリームと桃を載せたものです。こちらになさいますか?」

 

 太公望はぶんぶんと首を縦に振った。彼は果物や甘いモノに目がないのだ。特に桃は大好物なのである。

 

 デザートを置いてふたりが立ち去った後。太公望は早速それを口に運んだ。

 

「ふむ、桃の下に使われている、この……モグ、さらさらと口の中で溶けてゆく甘い餡がクリームというものか。生地の部分はさくさくしておって、ムグ……丼村屋のあんまんとは、また違った味わいで、これはなかなか……」

 

 太公望は至極ご満悦であった。周の地にも菓子はあったが、このようなものは食べたことがない。これを口にすることができただけでも、わざわざ異世界へ来た価値があった。彼は、そこまで思った。

 

「行儀が悪い」

 

 ポロポロと生地をこぼしながら食べ続ける太公望を注意しつつ、タバサはせっせと彼の世話を焼いていた。

 

 朝食の時といい、今の姿といい、自分の隣にいる彼は、まるで子供のように無邪気で。とてもではないが、昨日、コルベール先生や学院長を相手に心理戦を繰り広げていた人物と同一だとは思えない。ひょっとしてわたしは、人間を召喚してしまったという負い目から、目に映った全てを過剰評価してしまっていたのではないだろうか……?

 

 タバサがそんな疑いを持ちかけた瞬間、横からにゅっと手が伸びてくる。

 

「タバサ。食べないならわしがもらってやるぞ」

 

「あまり量は食べられないはずでは?」

 

「デザートは別腹なのだ!」

 

 まるで兄妹みたいだわ……必死に自分の皿を守るタバサと、それを食い入るように見つめる太公望の様子を、キュルケは苦笑しつつ眺めていた。

 

 ……そんな平和? な情景が破られたのは、それからわずか数分後。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――メイドの少女は、心の底から恐怖していた。

 

 彼女の眼前で、信じられない光景が繰り広げられていた。なんと自分と同じ平民の男の子が、貴族を相手に喧嘩をふっかけたのだ。その原因を作ったのは彼女だった。ただの同僚、それどころか今日初めて会ったばかりの少女を救うため、彼は自分の身を犠牲にしようとしている。

 

「サイトさん、なんで……ど、どうしてこんなことに……!」

 

 何故こんな事態が発生したのか。時は、少し前まで遡る。

 

 召喚の魔法で突然呼び出され、貴族の使い魔にされてしまったのだという少年に対し、学院側から食事の用意をするよう厨房へ指示が来たのが今朝のことだった。

 

「その食事ってぇのは、普通の使い魔とはまた違うんですよね?」

 

 がっしりとした体格の料理長が、連絡しに来たミス・ロングビルに確認する。

 

「ええ。今回召喚されたのは人間ですから、生肉やら野菜の残り物を与える訳にはいかないでしょう。とはいえ、さすがに生徒たちと同じものを出すのは色々と問題がありますから、こちらの賄いを食べさせてあげてください」

 

「わかりやした。なら、食わせる場所も俺らの休憩室でいいですかい?」

 

「もちろん。よろしくお願いしますね」

 

 用事を済ませたミス・ロングビルを見送った後、料理長は近くで立ち働いていたメイドの少女に声をかけた。

 

「おい、シエスタ! 今の話、聞いてたな」

 

「はい。昨日の儀式で召喚されたっていう、平民の男の子のことですよね」

 

「おう、それだそれ。しっかしよう、いくら平民だからっていきなり呼び出された挙げ句使い魔にされるたぁ気の毒に。ったく、これだから貴族ってヤツは……」

 

「ま、マルトーさん! あ、あんまり大きな声を出すと貴族さま達に聞こえちゃいますよ」

 

 料理長マルトーが大の貴族嫌いなのは、魔法学院で働く平民の従業員たちの間では常識だった。もっとも、彼らの感情も似たり寄ったりなのだが。

 

「ロバ・アル・カリイエだったか? 砂漠の向こうの遠い国だったよな。それじゃ、帰るにも帰れねえだろうし、周りは知らない人間だらけな上に威張りくさった貴族に囲まれてるときちゃあ、不安になるだろうよ」

 

「そう、ですね。もしも私が同じ目に遭ったら、きっと怖くて泣いてばかりいると思います」

 

「だからな、シエスタ。甘やかせとは言わねぇが、気に掛けてやってくれ。もちろん、何か困ったことがあったら俺に相談してくれれば力になるからよ」

 

 ニッと白い歯を見せて笑う料理長に、シエスタは微笑み返した。

 

「はい! 平民同士、助け合わないと……ですね」

 

「おう、その通りだ」

 

 ……そんなやりとりがあったとは露知らず、朝食時に従業員専用の食堂に呼び出された平賀才人少年は、一日ぶりに口にした食事に舌鼓を打った。

 

「うまい、うまいよこのシチュー。こんなにうまいの、初めて食べた」

 

「そうですか? 料理長が聞いたら喜びますよ」

 

 ぽろぽろと涙をこぼしながらシチューを掻き込む才人。

 

 才人は突然のアクシデントに動じることが少なく、割となんでも受け入れられるタイプだ。いきなり魔法の世界に放り込まれた彼が、翌朝にはもう好奇心剥き出しで朝の散歩を開始してしまうあたりにも、その性格の一端が伺えよう。

 

 とはいえ、さすがの彼も見知らぬ異世界での生活には不安があった。綺麗な景色を見せてくれた親切な魔法使いと、どこか日本人を思い出させる黒い髪のメイドさんの優しさ、空腹に染み渡る温かいシチュー。それらが才人の心を安心感で満たした結果、嬉し涙が溢れ出したのだった。

 

「おかわり、まだありますから遠慮しないでくださいね」

 

「え、いいの? それじゃあ、もう一杯もらえるかな」

 

 笑顔で器を受け取ったシエスタは、シチューをよそいながら思った。

 

(男の子があんな風に泣くなんて、やっぱり不安だったのね。遠いところから攫われてきた上に、昨日から何も食べてなかったみたいだから無理もないわ。マルトーさんの話じゃないけど、少しでも安心できるように、私にできることをしてあげよう)

 

 食事を終えてからも何かと世話を焼いてくれるシエスタの優しさに、才人は感激した。威張り散らすご主人さまの命令を聞くのは癪だが、シエスタの手伝いなら喜んでやろうと思うくらいに。

 

「ありがとう、シエスタ。あのさ、何か俺にできることはないかな?」

 

「いえ、そんな。私は、ただ給仕をしただけですから」

 

 たまたまふたりのやりとりを聞いていた料理長が、豪快な笑い声を上げた。

 

「飯の恩を労働で返そうだなんて、若いのになかなかしっかりした小僧じゃないか! 気に入ったぜ。おいシエスタ、せっかくの申し出だ。手伝ってもらいな」

 

「はいッ。では、お昼のデザートを配るのを手伝ってくださいな」

 

 にっこりと微笑んだシエスタに、才人は大きく頷き返した。

 

 ――そして、午前の授業を挟んだ昼食後。

 

 大きな銀のトレイに色とりどりのデザートが並んでいる。それを持ってシエスタの後をついていくというのが才人に与えられた役割だった。シエスタは貴族たちがそれぞれ指定したデザートをトングで丁寧に掴み、配ってゆく。

 

 ところが。配膳中に、シエスタが他の生徒よりも少し派手目なシャツを着た貴族のポケットから小さなガラス(びん)が落ちるところを目撃した。これが大騒動の始まりだった。

 

「貴族さま。失礼ですが、こちらを落とされましたよ」

 

 落ちた壜を手に取り、貴族へ差し出したシエスタ。ところが「それは自分の物ではない」と突っぱねられてしまった。

 

 シエスタは確かに目の前の貴族がガラス壜を落とした瞬間を見た。しかし、本人が否定している以上、ただの平民である自分が出過ぎた真似をするわけにはいかない。そこで、彼女は折衷案を出すことにした。

 

「左様でございますか、大変失礼致しました。では、こちらは落とし物ということで職員室へお届けして参ります」

 

 そう言って場を立ち去ろうとしたシエスタだったのだが。

 

「その香水壜! もしや、モンモランシーの香水じゃないのか?」

 

「確かに! その鮮やかな紫色は、彼女にしか出せない色だしな」

 

「なるほど、ギーシュ。お前、いまモンモランシーとつきあってるんだな!」

 

 周囲にいた貴族の少年たちが大声で騒ぎはじめてしまった。

 

 ギーシュと呼ばれた少年が焦ったような声で何かを言いかけた、そのとき。彼らの後ろの席についていた茶色のマントを羽織った生徒が立ち上がり、ギーシュの席に向かってしずしずと近付いてきた。栗色の髪を肩まで伸ばし、くりくりとした瞳が特徴的な可愛らしい少女だった。

 

 少女は、ぽろぽろと涙を零しながらギーシュに詰め寄った。

 

「ギーシュさま。やはり、ミス・モンモランシーと!」

 

「いや、彼らの誤解だよ! ケティ。ぼくの気持ちは……」

 

 ケティと呼ばれた少女はギーシュの言葉が終わらないうちに大きく腕を振りかぶると、思いっきり彼の頬を叩いた。パーンという小気味良い音が、食堂内に響き渡る。

 

「なら、どうしてその香水があなたのポケットから出てきたのですか? それこそが何よりの証拠ですわ! さようなら!!」

 

 ギーシュの災難(?)は、そこで終わらなかった。金色の見事な巻き髪の少女が、つかつかと彼の元へ歩み寄ってきた。その貌に、激しい怒りの色を貼り付けて。

 

「ギーシュ。あなた……やっぱり、あの一年生に手を出していたのね?」

 

 ギーシュは首を振り、冷や汗を流しながら言った。

 

「そ、それは誤解だよ、モンモランシー。彼女とはラ・ロシェールの森まで遠乗りをしただけのことで……」

 

 モンモランシーはテーブルの上に置かれていたワイングラスを手に取り、中身をギーシュの顔面にぶちまけると「嘘つき!」と大声で怒鳴りつけ、去っていった。

 

 とんでもないところに居合わせてしまった。そう察したシエスタは小声で才人に声をかけると、そろりそろりとその場から立ち去ろうとした。だが、そんな彼女をギーシュが呼び止めた。

 

「待ちたまえ」

 

 ビクリとシエスタの全身が震える。

 

「はは、はい。何でしょうか」

 

 ギーシュは椅子の上で身体をくるりと回転させると、さっと足を組んだ。妙に気取った仕草である。それからシエスタを指差し、詰問した。

 

「きみが軽率に香水壜を拾い上げたおかげで、ふたりのレディが傷ついた。この罪をどう贖うつもりかね」

 

 シエスタは震え上がった。貴族を本気で怒らせてしまったら、大変なことになる。

 

「も、申し訳ございませんでしたッ! 私のせいで、とんだことに……」

 

 ひたすら頭を下げ、謝罪の言葉を紡ぎ出すシエスタを見てギーシュは少し溜飲が下がったのだろう。しっしっと手を振り、追い払うような仕草をしてみせた。

 

「わかればいいんだ。もういい、行きたまえ」

 

 どうにか無事に済んだ……シエスタが内心でほっとひと息ついた、その時だ。

 

「何ふざけたこと言ってんだ。シエスタは悪いことなんかしてない!」

 

 横あいから才人が割り込んできたのだ。

 

 ――平賀才人は、イラついていた。

 

 半ば自業自得とはいえ、なんの説明もなくいきなり使い魔にされたことにも。

 

 高慢ちきで生意気なご主人さまとやらが、一切自分の話を聞かないことに対しても。

 

 だが。それ以上に今朝、教室で見せつけられた、彼の感覚をして「やな感じ」とされたあのやりとりに憤っていたのである。

 

 大勢で、たったひとりの少女を笑いものにしていた。あれは才人のいた世界でもよく問題になる〝いじめ〟だ。

 

 確かにイライラさせられたが、ルイズは「衣食住の面倒は見る」という約束通り、ちゃんと朝食の手配をしてくれていた。昨日の昼から何も口にしていないのを抜きにしても、食べさせて貰ったパンとシチューは本当においしかった。

 

 だからだろう。魔法が一切使えないという、ようやく見つけた彼女の弱点を突いて仕返しするどころか、励ますような真似をしてしまったのは。

 

 ……食に(他国から見ると)異常なまでにこだわる日本人らしい反応である。

 

 それに、食事の世話をしてくれた心優しいシエスタや気のいい料理長のお陰でだいぶ気分が晴れた。仲良くしてくれそうな魔法使いもいるし、何とかこの世界でやっていけそうだ――。

 

 そんな風に考えていた矢先。親切にしてくれたシエスタが貴族から理不尽な責めを受けた。

 

「なんなんだよ、この世界は。魔法が使えるってだけで、そんなに偉いのか!?」

 

 ……気がついたら、口が出ていた。

 

 ギーシュが睨みつけてきた。才人は負けじと睨み返す。

 

「ふん、これだから平民は。いいかい給仕君、このメイドが香水壜を拾ったとき、ぼくは知らないフリをしたんだ。それを察して話を合わせる機転を持ち合わせなかった彼女に罪がないとでも?」

 

「アホか。そもそもお前が二股なんぞするからこうなったんだろうが」

 

 周囲にいた貴族たちがどっと笑う。

 

「そいつの言う通りだギーシュ! お前が悪い!!」

 

 ギーシュの顔に、さっと赤みが差す。

 

「ああ、そうか。思い出したぞ! きみは確か、あの『ゼロ』が呼び出した平民だったな」

 

 心底バカにしたような口調で、ギーシュは続ける。

 

「『ゼロ』のルイズに呼ばれたようなきみに、貴族の高尚なやりとりを理解しろというのは無理なんだろうね」

 

「ふざけんな、なんでそこでルイズの名前が出てくんだよ」

 

「使い魔を見れば主人の程度がわかる――メイジにとっては常識だよ。『ゼロの使い魔』くん」

 

 才人は激しい怒りを覚えた。この世界に連れてこられてから一番ムカついた。そうまで言われて黙っていられるほど、彼は大人しくなかった。

 

「なんだとこのキザ野郎」

 

 ギーシュの目がすっと細められた。

 

「ぼくの聞き間違いかな? キザ野郎と聞こえたような気がしたのだが」

 

「へっ、耳が悪いのか? だったら何度でも言ってやるよ、この勘違いキザ野郎。そのピラピラしたダサいシャツだけでも周りから浮いてるっつうのにわざわざ薔薇まで咥えやがって、アホかっつの。棘で怪我しないといいな。あ、言うだけ無駄か。馬鹿みたいだし」

 

「どうやら、きみは貴族に対する接し方を知らないようだな……ふッ、よかろう。このぼくがみずから礼儀というものを教えてやろうじゃないか」

 

 ギーシュは立ち上がり、才人を睨め付けた。才人も腕まくりしてこれに応える。

 

「おう、やんのか? おもしれえ」

 

 ――そんな一触即発だった場面に飛び込んできたのは、桃色の髪をした少女だった。

 

 

○●○●○●○●

 

「あいつ、笑わなかった」

 

 ルイズはぽつりと呟いた。雑用もろくにできないし口の利き方もなってない。でも、少なくともわたしを馬鹿にしたりはしなかった。魔法が使えない、このわたしを。実家の召使いたちですら、こそこそ陰口を叩いたり、哀れみの目を向けてきたというのに――。

 

(ロクに言うことを聞かない使い魔だけど、少し……そう、ちょっとだけ待遇面について考えてあげてもいいかしら。でも、それでつけあがらせちゃいけないから、ほんのちょっぴりだけ……)

 

 などと考えていたところへ突然その声が飛び込んできた。

 

「ふッ、よかろう。このぼくがみずから、礼儀というものを教えてやろうじゃないか」

 

 見れば、自分の使い魔――ついさっきまで、今後の処遇について考えていたあいつとグラモン家のギーシュが睨み合っている。

 

「なんでこう面倒ばっかり起こすのよ!」

 

 席を立ち既に出来上がっていた人垣を掻き分けて、ルイズは急いで彼らの元へと向かった。

 

「ちょっと待ちなさいよギーシュ! あんた、わたしの使い魔をどうするつもり!?」

 

「なに、簡単なことだよ。きみの躾がなっていないようだから、ぼくがちょっと教育してやろうと思ってね」

 

「どういうことよ!?」

 

 改めて状況の説明を受けたルイズの顔は蒼白になった。この使い魔……非常識にも程がある。

 

「謝りなさい」

 

「なんで?」

 

「怪我したくないでしょ? 今すぐギーシュに頭を下げなさい」

 

「ふざけんな! なんで俺が謝らなきゃならないんだよ! どう考えても悪いのはあいつのほうじゃねえか!!」

 

 言い争いを続ける主従を遮ったのは、他でもないギーシュであった。

 

「おや、なんだね? ルイズ。そんなにその平民のことが心配なのかい? まあそうだろうね。『ゼロ』のきみが、たった一度だけ起こせた奇跡の象徴なんだから」

 

 ルイズの顔が強張る。

 

「なあ、ご主人さまよ。これでも俺に謝れって言うのか?」

 

 低い声で確認してきた才人を押し退け、彼女はまっすぐと杖を――ギーシュに向けた。

 

「ギーシュ・ド・グラモン。ヴァリエール家の名において、あなたに決闘を申し込むわ」

 

 アルヴィーズの食堂は一瞬静寂に包まれ――その後、一気に沸き立った。騒然とした空気の中、当事者の中で最も早く立ち直ったのはギーシュである。

 

「な、何を言っているんだい? ぼくは、その使い魔くんに用が……」

 

「使い魔の不始末は、主人が責任を負うべきよ」

 

 にべもなく切り捨てるルイズ。

 

「決闘は、校則で禁止されていて……」

 

「なら、試合ってことにしてあげてもいいわ。それとも……怖いの?」

 

 そこまで言われては、もう引き下がれない。

 

「……ッ。いいだろう『ゼロ』のルイズ! ついでだ、その生意気な使い魔も連れてくるがいい。場所はヴェストリの広場だ。まとめて相手になってやる!」

 

 くるりと身を翻し、その場から立ち去るギーシュ。

 

 ――こうして。世界の『歴史』は、本来のそれから少し逸れた形で――動き出した。

 

 

 



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第5話 軍師、零と伝説に策を授けるの事

「『ゼロ』のあの子が勝てるわけないじゃない。まったく、これだから……」

 

 ――ヴァリエール家はうちに色々()()()()のよね。

 

 赤毛の少女は後半部分を胸中で呟き、代わりに大きなため息をついた。

 

 キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。

 

 彼女はトリステインの隣国・帝政ゲルマニアからの留学生だ。

 

 実家であるツェルプストー家は、ルイズの実家・ヴァリエール公爵領と国境を挟んだ隣にあり、トリステイン・ゲルマニア両国の戦争でたびたび杖を交えた間柄である。また、その他諸々絡み合う事情によりお世辞にも仲が良いとは言い難い。

 

 本来ならば仇敵・ライバルとなるべき存在。ところが、優れた『トライアングル』メイジである彼女と『ゼロ』のルイズではあまりにも差がありすぎた。それがキュルケには面白くない。そのせいで今朝方挨拶したときのように、普段からルイズを苛つかせるような行動をしてしまう。

 

 これは、ヴァリエールには競い合える実力者であって欲しいという願望から出た、彼女なりの発破のかけかたなのであった。

 

 しかし。今回のこれにはさすがのキュルケも呆れざるを得なかった。まともに魔法を使うことのできないルイズが『ドット』の中では比較的優秀と評価されているギーシュに喧嘩を売った。無謀にも程がある――。

 

 ごくごく小さなそのキュルケの呟きを、本来であれば誰にも聞かれるはずのなかったその言葉をしっかりと耳にしていた者がいた。それは、彼女のすぐ側にいた太公望である。

 

 ちなみにタバサにも聞こえていたのだが、彼女はデザート皿の防衛を現在の最優先事項としていたため、華麗にスルーしていた……それはともかく。

 

「あのやたら派手な服を着ておる小僧……たしかギーシュ、といったか? それほどの使い手なのかのう?」

 

「『ドット』にしてはそれなり、といったところかしら。でも、ルイズには荷が重すぎる相手ね」

 

 一緒に才人も指名されているのだが、彼は戦力として数えられていなかった。

 

「ほほう……あの娘を相手にしてもか。それはなかなかの実力者だな。で、具体的にはどんな魔法の使い手なのだ?」

 

(え? 今、この男なんて言ったの? あたしの聞き間違い!?)

 

 目を白黒させながら太公望の言葉を反芻するキュルケに代わり、自陣のデザートを消費し尽くしたタバサが答える。

 

「人間大のゴーレムを〝錬金〟で創り、自在に操ることができる」

 

「ゴーレム?」

 

 復活したキュルケが口を挟んできた。

 

「あら、もしかして東方では別の呼び方をするの? そうね、岩や金属でできた魔法人形って言えばわかるかしら」

 

「うむ、理解した。そのゴーレムとやらの強さと大きさ、錬成の速度は?」

 

「並の人間より少し大きい程度かしらね。動きはそんなに素早くはないけれど、青銅製だから殴られればただでは済まないわよ」

 

「一体作成するのに数秒程度。同時に七体まで使役可能」

 

 解説してくれた二人に向けて、なるほどと頷く太公望。

 

「一般的に、決闘で勝利とされる条件は?」

 

「相手を気絶させるか、降参させる。あるいは持っている杖を落とせば勝ち」

 

 それを聞いた途端、両腕を組んでうんうんと唸り始めた太公望を見てキュルケは思った。やっぱりさっきのは聞き間違いよね――と。だがしかし。

 

「すまん。正直、わしにはあの娘が負けるとは考えられんのだが……しかも、ひとりではなく才人もついておるのだぞ? ひょっとして、相手に怪我を負わせたら失格、などという決まりでもあるのか?」

 

(何を言っているのかしら、この男。『ゼロ』のルイズと平民の使い魔が、ギーシュに怪我を負わせる? そんな馬鹿なこと、あるわけないじゃない……)

 

 キュルケは思わずタバサと視線を交わした。

 

 しかし、そんな彼女の思いとは裏腹に、太公望はまるで不思議なものを見るような目でキュルケとルイズたちの双方を交互に見遣った後、ニヤリと……まるでとびっきりの悪戯を考えついた幼子のように嗤った。

 

 立ち上がった太公望は懐から打神鞭を取り出すと、つい、と一振りする。

 

 ――食堂を、一陣の〝風〟が吹き抜けた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ギーシュとの試合(という名の決闘)が決まった直後から行われているルイズと才人の話し合いは、ひたすら平行線を辿っていた。事件の当事者であるメイドのシエスタが怯えきって厨房へと逃げ帰り、大半の生徒が広場へと移動した、その後も――。

 

「あのね、平民は絶対に貴族には勝てないの。何度言えばわかるの!?」

 

 そう、ルイズが窘めれば。

 

「へっ、何が貴族だっての。あんなヒョロいヤツに負けるかっての!」

 

 と、才人が勇ましくやり返す。

 

「いいから、あんたは大人しく部屋に戻ってなさい!」

 

 主人が命令しても。

 

「冗談じゃねえ! 女の子だけに任せて逃げられるか!!」

 

 使い魔は従わない。

 

 そんな彼らを突如襲ったものがあった。それは、糸のように絡みつく〝風〟。

 

 局地的に起きた突風がルイズと才人を包み込むと、天井付近へと舞い上げる。突然のことに悲鳴を上げる間もなかった彼らは次の瞬間、椅子に座らされていた――既に空席となっていた、太公望の向かい側に。

 

「ふたりとも、頭は冷えたか?」

 

「んなっ、あああ、あんた、なななにを」

 

 太公望の一言で、ようやく自分の身に何が起きたか理解したルイズは必死に抗議しようとしたのだが……あらゆる感情がごちゃまぜになっている今、うまく言葉が出てこない。いっぽう、同様の目に遭わされた才人のほうはというと、こちらは状況がわからず、ただポカンとしているのみ。

 

「才人、おぬしは果報者よのう」

 

「へ?」

 

「その娘は、死地へ向かおうとしているおぬしを身体を張って守ろうとしておるのだ」

 

 いきなり何を言い出すんだこいつは! 真っ赤になって立ち上がったルイズよりも、彼女の使い魔である才人のほうがより早く反応した。

 

「どういう意味だよ!」

 

 机にバン! と勢いよく両手を叩きつけて立ち上がった才人だったが、太公望はまったく動じていない。それどころか、そのまま淡々と言葉を紡ぎ続ける。

 

「今朝の授業であのシュヴルーズという名の教師が、何もない空間から粘土を取り出して、小五月蠅い小僧の口に詰め込んでおったのを覚えておるか?」

 

「おう。それが?」

 

「もしも、だ。あれが目に張り付いたとしたら、どうなる?」

 

 才人はハッとした。

 

「……目が、見えなくなるな」

 

 そうだ、ここは地球じゃない。ファンタジーの世界だったんだ。

 

「念のために確認するが、おぬしは目が見えなくとも戦えるほどの達人だったりするのかのう?」

 

「…………武術の経験は皆無です、はい」

 

 ここに至って、才人はようやく気がついた。あのギーシュとかいうキザな貴族がメイジ――つまり、昨日から立て続けに見せつけられていた一連の奇跡を起こしうる存在だということに。

 

 そんな相手に何も考えず、闇雲に喧嘩を売ってしまった結果……ルイズを巻き込んでしまった。俺はなんて馬鹿な真似しちまったんだろう。このザマじゃ、あのキザ男のこと笑えねえ。

 

 才人は完全に黙り込んでしまった。

 

(こいつ、いったい何なの?)

 

 ルイズは目を白黒させた。

 

(わたしが何を言っても聞く耳持たなかったのに、たったこれだけで黙らせちゃうなんて。そういえば、教室でも何か仲良さそうに喋っていたわよね……もしかして、昔からの知り合い同士だったりするのかしら……?)

 

 朝の探検中に偶然出会っただけだという事実をルイズは知らない。当然そんな彼女の内部の葛藤を知るよしもない太公望は、今度はルイズのほうを向いて、こう聞いた。

 

「さて、ルイズといったな。おぬしは、勝ちたいか?」

 

「当たり前じゃない!」

 

 ムキになって言い返すルイズであったが、しかし。

 

「聞くところによると、おぬしはまともに魔法を使うことができないというではないか。それでいったい、どうやって戦うつもりだったのだ?」

 

「そ、それは……」

 

 思わず下を向き、言葉に詰まるルイズ。太公望はそんな彼女の様子を確認した後、今度は黙りこくっている才人に言を向けた。

 

「才人よ、悔しいか」

 

「当然だ」

 

 俯いたまま、だが、ぎりぎりと拳を握りしめている才人。そんな彼らを満足げな笑みを浮かべて見つめていた太公望は、ゆっくりと口を開いた。

 

 ――後に、キュルケは語る。あれは、世に云う悪魔の微笑みそのものであった、と。

 

「ならば――おぬしらふたりが奴に勝つための策を授けてやってもよい」

 

 ガバッと身を起こすルイズと才人。見事なまでに同時に、だ。

 

「どんな策よ!?」

 

「どんな策だ!?」

 

 台詞までほぼ一緒だ。この主従、息ぴったりである。

 

「その前に、取引といこう」

 

「え?」

 

「ルイズよ……明日の昼食後に出されるであろうおぬしのデザートを、わしに寄越すと約束するのだ! さすれば! このわし自ら考えた華麗なる作戦を授けてやろう!!」

 

 今度はふたり一緒にテーブルへ突っ伏して頭を打ち付けた。実にいいコンビだ。先にそのダメージから立ち直った才人が、思わずツッコミを入れる。

 

「条件付きかよ!」

 

 叫ぶ才人に、当然だろう? といった風情でぬけぬけと返す太公望。

 

「勝てる見込みのないおぬしらに、勝利を授けようというのだぞ? それを、たった一個のデザートと引き替えに提供してしまう、わし。逆にサービスしすぎだと思わぬか?」

 

「でも、その作戦で勝てなかったら」

 

 そんな太公望の発言に、今度はルイズが噛みつこうとするが。

 

「もともと負けて当然の勝負だったのだぞ。わしの策が当たれば儲けもの、外したところで敗北する事実は変わりあるまい?」

 

 ――ばっさりと斬り捨てられる。

 

「うぐっ」

 

「まあ、聞くか否かはおぬしらの自由だし、わしは別にどっちでもかまわんのだがの~。ほれほれ、早く決めぬとギーシュとやらに逃げたと勘違いされてしまうぞ」

 

 ニョホホホ、と神経に障る笑い声を上げる太公望をジロリと睨んだルイズ。

 

(もの凄くうさんくさいけど……でも、コイツはあの『雪風』が呼び出したロバ・アル・カリイエのメイジ。そうよ、エルフともやりあってるって噂のある『東』のメイジの言うことだもの、本当にいいアイディアがあるのかもしれないし……けど、でも……)

 

 彼女は、内心の葛藤をそれはもう必死の思いで心の片隅へと追い遣ると、喉の奥から、かろうじて声を絞り出すことに成功した。

 

「いい、いいわ。ああ、明日お昼のでで、デザートくらい、あげるわよ。ききき、聞かせてもらおうじゃない、そそその、ささ作戦とやらを」

 

 ルイズ。葛藤に負けず、本当によく頑張りました。

 

「ニョホホホ……取引成立だのう。まいどあり~」

 

 ――あたしの親友が呼び出したのは、間違いなく悪魔だ。

 

 キュルケは大いに後悔した。勝てるわけがない――なんてこと、口に出して言うべきではなかった、と。いいようにコントロールされてしまった仇敵に、いくばくかの哀惜の念を感じながら。

 

 

○●○●○●○●

 

「『青銅』のギーシュが決闘するぞ! 相手は『ゼロ』のルイズと、その使い魔だ!!」

 

 ――ギーシュ・ド・グラモンは今、困惑していた。

 

 魔法学院の西にある中庭「ヴェストリの広場」。日中でもあまり陽が差さず薄暗いそこは今、娯楽に飢えた貴族たちの群れで溢れかえっている。

 

 つい、その場の勢いで決闘を受けてしまったが……対戦相手は『ゼロ』のルイズである。もしもこれが使い魔相手の戦いならば、自慢の『ワルキューレ』を差し向けることに躊躇いはない。だがしかし、相手は無力――魔法を失敗ばかりしている、落ちこぼれの女の子なのである。

 

 自分は女性を楽しませる薔薇――普段からそう公言して憚らない彼にとって、レディに対して直接的な暴力をふるうなどという選択肢はない。だいたい、発端になったメイドの件にしても、ちょっと怖がらせてやれ、程度の認識しかなかったのだ。それが、あれよあれよの間に事態が跳ねて転がって絡まってしまった結果――彼はここに立っていた。

 

 突如、広場にドッと歓声が沸き上がる。ルイズと例の使い魔だ。どうやら逃げずにやって来たらしい。緊張しているのだろう、やや俯き加減に歩いてくるルイズ。そして、そんな彼女を守るように歩み寄ってくるのは、あの生意気な平民。その手には何も持たされてはいない。素手だ。ふむ、使い魔は主人の盾となる――か。

 

(そうだ、なにもルイズを相手にする必要はないじゃないか。あいつだ、あの礼儀を知らない使い魔の平民を、ルイズの前で少々いたぶってやろう。そうすれば、彼女は怖がって降参してくるに違いない。我ながら素晴らしい名案だ)

 

 ギーシュはひとりほくそ笑んでいた。

 

 両者は広場の中央へと歩み寄り、互いの間を二十歩ほど――距離にして約十五メイル程の位置で向かい合った。

 

「諸君! 決闘だ!!」

 

 ギーシュが薔薇の杖を天に掲げると、周囲からワッと歓声が沸き上がる。そしてそのままピッとルイズたちに突きつけた。と、その動きを見て警戒をあらわにした才人が、庇うようにルイズの前に立つ。

 

「ルイズ、なかなか忠誠心あふれる使い魔じゃないか。躾はなっていないようだったがね」

 

 周囲から嘲り笑いが巻き起こる。だが、ルイズは俯き、無言のまま。しかしよく見ると、彼女の身体は小刻みに震えていた。

 

「おやおや、怖くなったのかい? でも、ここまで盛り上がってしまった以上、今更中止することなんてできないよ」

 

 うんうん、と同意する観衆たち。それでもルイズは黙り込んでいる。

 

「さて……それでは、始めるとしようか!」

 

 ――ギーシュが開始を告げた、その直後。

 

 大きな爆音が連続で鳴り響き、広場の中心から土埃が大量に舞い上がった。

 

「うわっ……なんだこりゃ」

 

「やっぱり『ゼロ』だ。決闘でも失敗するなんて!」

 

「なんだよ……土煙のせいで、何も見えないじゃないか!」

 

 口々に文句を言う観客たち。しかし、彼らは間もなく――その目で信じられないものを見ることとなる。

 

 土煙が晴れた広場の中央。そこにはうつ伏せに倒れたギーシュと、その彼の上に馬乗りになっている平民……ルイズの使い魔がいた。その手には、なんとギーシュの薔薇の杖が握られている。

 

 才人は大声で勝ち鬨を上げた。

 

「やったな、ルイズ! これで、俺たちの勝ちだ!!」

 

 一瞬の間。その後、大歓声が上がった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――時は、ほんの少しだけ遡る。

 

「あんた、ふざけてんの!?」

 

「わしは、いたって真面目な提案をしておるつもりだが?」

 

 ――策を授ける。

 

 タバサは面食らっていた。太公望が食後のデザートと引き替えにルイズへと差し出した『策』に。ちなみに彼女は作戦の漏洩防止のため〝消音〟(サイレント)で周囲の音を遮断するという申し入れをしたことによって、この場への同席を許されていた。側にいたキュルケはルイズによって追い出されてしまっていたが……それはさておき。

 

「地面を〝錬金〟しろって、どういうことよ!」

 

「地面()ではない。地面()〝錬金〟の魔法をかける、の間違いだ」

 

「同じじゃないの!」

 

「いや、全然違うだろ……」

 

 納得のいかないルイズとは異なり、才人は太公望の意図に気がついたようだ。魔法に対する先入観がないがゆえに理解が早かったのだろう。

 

「あの威力だもんなあ。でもさ、そうすっとあのキザ男ただじゃすまないんじゃないか? 大丈夫かなあ……」

 

 余裕が出てきたのか、本気でギーシュの心配をし始める才人。どうやらこの少年は単に血の気が多いだけで、元から相手に大きな怪我を負わせるつもりはなかったらしい。この決闘を単なる喧嘩、男の意地のぶつかり合いだと捉えていたようだ。

 

 そんな才人に好ましげな視線を向けた太公望は、新たに生まれた不安の種を消す仕事に取りかかる。

 

「その点については大丈夫、心配しなくともよい。せいぜいかすり傷程度で済むように仕向ける。そのためには才人、おぬしの協力が必要不可欠なのだ」

 

「任せとけ、もともと俺たちの喧嘩だしな」

 

 力強く頷く才人。

 

 そして太公望が彼らに提示した作戦とは。

 

  1.ルイズが地面に〝錬金〟の魔法をかけ、土煙を撒き上げ目くらましとする

  2.その隙に才人がギーシュの後方へ回り込んで、杖を奪う

 

 と、いう至ってシンプルなものであった。

 

「それって、わたしの魔法が失敗することを前提にしてるじゃないの!」

 

 才人はその作戦にあっさりと同意したのだが……ルイズは誇り高き貴族、それも公爵家のご令嬢である。そう簡単に割り切れるものではない。可愛らしい頬をプーッと膨らませて抗議するが、太公望にそのような愛らしさによる攻撃は全く通用しない。真顔のままあっさりと切り返された。

 

「ならば言い方を変えよう。土煙を作り出すのだから、立派な〝錬金〟では?」

 

 ルイズの動きがピタリと止まった。

 

「それってただのへりく……うっ」

 

 思わず才人が漏らしそうになった余計な一言は、太公望のひと睨みによって阻止される。幸いにも当のルイズはそんな彼らのやりとりに気付くことなく、下を向いて、

 

「土煙を作る〝錬金〟……そうよ。失敗じゃない、新たな可能性なのよ……」

 

 などと呟き続けていたので支障はなかったが。

 

「では、詳細を詰めていくとしようかのう。ルイズ」

 

「えっ、な、何よ」

 

「必勝を期すために、おぬしの口から、できる限りギーシュについて教えてもらいたいのだ。敵の〝魔法〟だけではなく性格についても頼む」

 

 ルイズは太公望の目をしっかりと見据え――頷いた。

 

「そうね。これはわたしたちの決闘なんだから、当然だわ!」

 

 こうして、彼らは次々と作戦の詳細を詰めていった。

 

 相対するまでの立ち振る舞い――才人が彼女の斜め前に立つように歩き、その姿をわざとギーシュに見せつけることで、相手の思考を才人を攻撃する方向に誘導する。そう、ギーシュの性格上、ルイズを先に狙ってくることはまずありえない。それを逆手に取ろうというのだ。

 

 『ワルキューレ』の有効範囲のことはもちろんのこと、決闘の場の地形の利用法から、立ち位置の詳細確認、ギーシュの目をくらますために効果的で、かつ才人の進路妨害にならない〝錬金〟の発動場所、などなど……わずか数分の間に次々と出てくる太公望の提案に、当事者たちはおろかタバサも感心していた。正直、これに対する報酬がデザート一個というのは、本人のいう通り安すぎたのではなかろうか……と。

 

 しかし、タバサには不安があった。瞳の奥がわずかに陰る……すると、そんなごくわずかに生じた彼女の変化――纏う空気に気付いた太公望が話を振る。

 

「どうしたタバサ。何か言いたいことがあるのか?」

 

 小さく頷いたタバサを見て、ルイズは驚いた。いつも読書に没頭していて、積極的に他者と交わろうとしない、静かで無口な子……それが彼女が抱いていたタバサの印象だった。そんな同級生が、自分には全く関係のない決闘について何を言おうというのか。

 

「効果的な作戦だというのは認める。問題はそれで倒されたギーシュと、周囲の反応。負けを納得しない可能性がある」

 

 ルイズはハッとした。その指摘はもっともだ。もし自分がギーシュの立場だったら絶対に納得しないだろう。やりなおしを要求するかもしれない。

 

 だが、今ルイズの目の前にいる東方の男は……これまでにない大きな笑みを浮かべ、タバサの頭へぽんと手を乗せた。タバサの目が驚きで見開いている。

 

「よい指摘だ。さすがはこのわしを呼び出せただけのことはあるのう、タバサ」

 

 そう告げると、自信満々といった態度で先を続ける。

 

「もちろん、それについても検討済みだ」

 

「それはどんな?」

 

「いったいどうやって!?」

 

 思わず同時に身を乗り出すタバサとルイズ。太公望、爆釣り状態である。

 

「ふっふっふっ……それはな……」

 

 

○●○●○●○●

 

「やったな、ルイズ! これで俺たちの勝ちだ!!」

 

「あんたもよくやったわ、サイト!」

 

 埃まみれでご主人さまの元へ駆け寄った才人に、ルイズは満面の笑顔で労いの言葉をかけた。

 

(なんだこいつ、こんな顔もできるんじゃねえかよ。普段もこうならいいのに)

 

 思わず見とれてしまった才人に、ルイズは一転して不審げな眼差しを向ける。

 

「……なによ?」

 

 そんな彼女に、頭を掻きながら才人は答える。

 

「あっ、いや、お前、初めて名前で呼んでくれたから」

 

「え、そ、そうだったかしら?」

 

 初めて成功した魔法。わたしが召喚した、使い魔の少年。

 

 思えば昨日からろくに話を聞こうともせず、一方的な命令しかしていなかった。それなのに、こいつはわたしを「ゼロじゃない」と言ってくれた。

 

 わたしへの侮辱に、本気で怒ってくれた。わたしを勝たせるために、こんなに頑張ってくれた。名前すら、まともに呼んでいなかったというのに。

 

(で、でも、ま、まあこいつはわたしの使い魔なんだから当然よね。けど、そうね、もうちょっと、そう、少しだけ、話を聞いてあげるのは、しゅ、主人として当たり前のことだわ。忠誠には、報いるところがなきゃ、いけないもの!)

 

 などと、主従の距離が微妙に縮まろうとしていた時。

 

「ふ……ふざけるなあああああ!!!!!!」

 

 彼らの背後から声がした。さっきまで地面を舐めていたギーシュである。

 

「こんなものが決闘だと? 勝利だと!? 認められるわけがないだろう!!」

 

 開始の合図と共に起きた轟音の正体は、ルイズの失敗魔法。ギーシュは爆発で舞い上がった土埃を思いっきり吸い込んでむせてしまい、まともにルーンを唱えることができなかった。

 

 おまけに視界まで遮られていてどうしようもなかったところへ、後方から突然の衝撃。気がついたら自分は地面とキスをしていて……さらに貴族の象徴たる杖を奪われていた。これで納得しろというのは彼のプライドが許さなかった。

 

 すると、それまで騒いでいた観衆達が徐々にギーシュの味方につきはじめる。それはそうだろう、せっかくの暇つぶしが、ほんの一瞬で終わってしまったのだから。

 

「ギーシュの言う通りだ、これは決闘じゃない!」

 

 そして、当然ともいうべき流れが場を支配し――彼らは叫んだ。

 

「再戦だ!!!!!」

 

 しかし、自分たち以外の周り全てを敵にしてしまったルイズと才人は全く動じていなかった。興奮し、顔をどす黒く染めているギーシュとはまるで対照的な表情をしていたルイズは、彼に対してこう返したのである。

 

 ――それは、太公望が『切り札』として授けた……文字通り魔法の言葉。

 

「再戦? 別にいいけど……次はあんたの足元を〝錬金〟するわよ」

 

 広場の空気は――ギーシュが創り出す青銅の戦乙女のように、冷えて固まった。

 

『爆発で教室がめちゃくちゃだ! もうあいつに魔法を使わせるな』

 

 場に集っていた観客達は、いつもそんな風にルイズのことを非難していた自分たちの言動を思い返す。そう……彼女の『失敗』は周囲に甚大な被害を及ぼすのだ。それが、もしも己の足元――ゼロ距離で発動したら。

 

『どんな魔法でも爆発するんだな、さすがはゼロのルイズ』

 

 どんな魔法でも――簡単で、詠唱の短い呪文すら、彼女の手にかかれば凶器に変わる。今更ながら思い知ったのだ、彼女の持つ『危うさ』を。そして、思考は巡り出す。

 

「次は……ってことはさ。さっきのルイズは、ギーシュが巻き込まれて怪我しないように、離れた位置で〝爆発〟させたってことだよな」

 

「そういや、使い魔にも武器を持たせてなかったもんな」

 

 それを耳にしたギーシュは激しいショックを受けていた。ルイズの持つ〝力〟についてではない。才人による攻撃――才人は、ご丁寧にも背後からケンカキックをお見舞いしていた――によって受けた、軽いダメージに対してでもない。

 

 彼に最も衝撃を与えたもの、それは……ルイズの心の在り方。傷つけることしか考えていなかった自分に対して、なんと彼女は寛大なことか。

 

 全てを悟ったギーシュは、つかつかとルイズと才人の元へと歩み寄る。それから周囲を見回し、広場中に届くような大音声で、こう宣言した。

 

「この勝負――ルイズと、その使い魔の勝ちだ!」

 

 そして、改めてルイズ達に向き直る。

 

「先程の言葉を撤回しよう。きみは『ゼロ』なんかじゃない、貴族として相応しい人物だ。心からお詫びする。本当に済まなかった、ルイズ」

 

 そう言って、深々と頭を下げた。

 

「ま、まあいいわ。こっちにも不手際があったことだし」

 

 少し照れながらも謝罪を受け入れたルイズ。そして次に、ギーシュは先程まで馬鹿にしていた少年――才人へと視線を移した。

 

「使い魔くん、きみにも詫びよう。済まないことをした」

 

「使い魔って言うな。俺には平賀才人って名前があるんだ。それと、詫びならシエスタに言ってくれ……っと、これ返さないとな」

 

 才人は、握っていた薔薇の杖をギーシュに返す。

 

 こうしてこの決闘は、ギーシュの謝罪によって幕を閉じた。その脚本が太公望によって書かれたものだと知る者は、ほんの少数である。

 

 ――いっぽうそのころ、学院長室では。

 

「確かめられなかったのう……」

 

「確かめられませんでしたね……」

 

 才人の左手に刻まれたルーンの詳細を確かめるために、あえて決闘騒ぎを止めることなく広場での戦いの様子を見守っていたオスマン氏とコルベールが、ふたり揃って『遠見の鏡』の前で頭を抱えていた。

 

 

○●○●○●○●

 

「ホントに勝っちゃうなんて……」

 

 ヴェストリの広場で他の観客達に混じってこの決闘を見守っていたキュルケは、目の前で見た光景が信じられなかった。夢ではないかとさえ思った。だが、耳に届く歓声も、熱気によって肌を打つ風も、間違いなく現実のものであった。

 

 『ゼロ』だと思い込んでいた仇敵の思わぬ実力を目にした彼女の心に火が灯る。

 

(そうよ。それでこそヴァリエール、我がツェルプストー家のライバルに相応しい姿――!)

 

 キュルケの内で燻り続けていた火が今まさに炎となり、熱く燃えさかろうとしていた。

 

 ――さて。そんな広場の様子を、魔法学院の上空から見ていた者たちがいた。太公望とタバサのふたりである。

 

「おおむね予想通りの結果だのう。まあ、才人の奴が跳び蹴りをかましてくれた時は少々焦ったが」

 

「グラモン家は軍人を多く輩出している名門。最低限の受け身はできて当然」

 

 そうなのか、おかげで助かった。と、悪びれもせず言ってのける太公望。

 

「これが、あなたの策」

 

 ルイズの失敗魔法を効果的に利用することで、決闘での勝利を得る。

 

 さらに、絶妙なタイミングで例の一言を放たせることにより『負傷者を出さないよう工夫していた』と周囲が想像するように仕向け、これまでとは一転、ルイズへの評価を大幅に上昇させる。

 

 また、相対的に敗北したギーシュの評判もできるだけ下げないよう工夫されている。誰も傷つくことなく、決闘後に禍根を残さないという意味でも絶妙な一手であった。

 

「でも、どうして」

 

 もっと近くで観戦しなかったのか。タバサは、そう口に出そうとして止めた。よく考えれば当然の帰結であった。

 

 太公望が策を授けようとした時、まだ数人の生徒が食堂内に残っていた。作戦会議中は〝消音〟によって話し声は遮られていたが、それでも彼が何か助言をしたという事実を知る人間がいたことは確かだ。もし自分たちがあの広場にいたら、それを口実にされ――せっかく作り出した〝風〟が不穏な空気へと変わってしまう可能性がある。

 

 そんなタバサの考えを読んだ上で肯定し、さらに補足するが如く太公望は語る。

 

「あいつら、大声でわしらふたりの名前を連呼しながら近寄ってきて、おかげで勝った、ありがとう! なんて騒ぎ出しかねんからのう」

 

 そんなことになったら、間違いなく面倒がこっちにまで及ぶ――脳内にその光景がありありと浮かんでいるのであろう、心底嫌そうに顔を歪めている太公望を見てタバサは思った。朝の授業風景と食堂でのわずかなやりとりを見ただけで、よくここまで見通せたものだ……と。

 

 タバサのそんな思いをよそに、太公望はさらに先を続ける。

 

「と、いうわけでだ。午後の授業とやらにわしが出るのはまずいであろう」

 

 頷くタバサ。

 

「わたしが出席するのも危険」

 

 だが、正直なところ彼女のそれはただの言い訳に過ぎない。次の授業は元々タバサが受ける必要のないものであったから。なにより、今は他にやるべきことがある。それは、タバサにとっての『最大の目的』を達成するために、どうしても必要なこと。

 

「ならば、することは決まったな」

 

「昨日の続き。図書館なら、より詳細な資料が揃っている」

 

 本塔の方向を指で指し示すタバサに、満足げに頷く太公望。

 

「よろしく頼む」

 

 使い魔と主人は視覚の共有ができる。

 

 彼の『先を見通す目』。おそらく、まだその片鱗しか示していない。でも、いつか彼の目に映る全てが視えるようになったら、きっとわたしの世界は広がるだろう。

 

 図書館のある学院本塔へ向けて飛び去った彼らの後には、生まれたばかりの〝風〟が舞い踊っていた――。

 

 

 




驚愕のあまり手が滑って投稿ボタン押してしまいました。
ありがとうございます。


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つかの間の平和
第6話 軍師の平和な学院生活


 広場での決闘騒ぎに一応の決着が着いたあと、タバサと太公望のふたりは揃って本塔にある図書館を訪れていた。ハルケギニアで生活するにあたり、必要な知識を身につける。そのためには、まず文字を覚えなければならない――。

 

 太公望がこの国の文字が読めない事に気がついたのは、昨夜、タバサの部屋でハルケギニアの書物を見せてもらった時だった。なんと本のページ上で、彼がこれまで見たこともない線状の何かが列をなしていたのだ。そこで、今日からタバサに文字を教えてもらうことになっていたのだが――その課程で、タバサと太公望はおかしなことに気がついた。

 

 最初に違和感を覚えたのはタバサだった。太公望の習得力が異様なまでに速いのだ。教材に使用したのが子供向けの本とはいえ、一時間もたたぬうちに一冊全ての意味を読み取れるようになるなど、もはや異常といっても過言ではない。彼の頭の良さを差し引いても、だ。

 

 いっぽうの太公望も、現状に戸惑いを感じていた。一文字ずつ読み方を教わっている時は音だけ――それも「アー」「ベー」「セー」といった、これまでに全く聞いたことのないようなものが聞こえていたのにも関わらず、それが単語という形になった途端『序章』『勇者』『姫』といったように、自分に理解できる言葉となって頭に染み込んでくるのだ。

 

 それを伝えると、タバサはしばし考え――口を開いた。

 

「使い魔にした猫が、人間の言葉を喋れるようになったという事例がある」

 

「それと似たような現象が、わしに起きていると?」

 

「あくまで仮説。そもそも、あなたとわたしは同じ言葉を話しているのに、使われている文字が全く異なるという事実が不可解」

 

 タバサの発言を受けた太公望の脳裏に、ふいに閃くものがあった。同じ言葉を話しているのに、使う文字が違う――?

 

「ひょっとすると、だが。わしらは同じ言語を用いて会話をしているわけではないのかもしれぬ」

 

「どういうこと?」

 

 太公望は、口にした仮説を証明すべく行動を開始した。

 

「確かめてみよう。そうだのう……『覆水(ふくすい)盆に返らず』と書いてみてはくれぬか」

 

 言われるまま、ペンを取って手元の羊皮紙にサラサラと記すタバサ。書き終わったメモを受け取った太公望はそれを一瞥して言った。

 

「『一度行ってしまったことは、二度と取り返しがつかない』と、書いてある。これは、わしが言ったことと一字一句同じものか?」

 

 タバサは首を左右に振った。表情の乏しいその顔に、僅かながら驚きの色が混じっている。

 

「違う。私は『皿の上のミルクをこぼしてしまった』と書いた。でも、これは取り返しのつかないことをしてしまった、という慣用表現。だから、その意味自体は同じこと」

 

 羊皮紙に記された文章を睨みながら、太公望は言う。

 

「わしがタバサに書いてくれと頼んだ言葉も『器に入った水をこぼしたら元通りにはできない』すなわち、取り返しがつかないことの例えだ。意味は同じ……だが」

 

 理解を示すタバサ。

 

「お互いに口から出した言葉が異なっている、つまり」

 

 彼女の言葉に頷き、太公望は断言する。

 

「わしらは互いに異なる言語を使っているが、なんらかの方法で会話が成立している。召喚された時点で既に言葉が通じておったことから考えるに〝召喚〟(サモン・サーヴァント)にそういった機能がついておるのだろう。文字の習得速度や、書かれた内容によって受け取る側の認識に何らかの齟齬が生じることについては、また別の検証が必要になるが」

 

 タバサは驚愕した。このハルケギニアにおいて、それぞれの国や地方ごとに訛りのようなものはあっても、言語そのものが異なることはないのだ。何故なら『ガリア語』と呼ばれる共通語(コモン・ワード)が存在するからである。

 

 トリステインでも、タバサの出身国ガリアでも、人類の宿敵とされるエルフでさえも共通語を使って会話を行う。もっとも、エルフには種族固有の言語も存在しているらしいのだが、あくまでそれは噂でしかない。

 

 にも関わらず、自分が呼び出した存在はサハラも含めたハルケギニア大陸で使われているものとは全く異なる言語で会話しているのだという。そして、それが事実だということは今の実験結果が証明していた。

 

(召喚された当日、彼は「お互いに存在すら知らないほど遠い国から喚ばれてきた」と言っていた。いったいどれほど遠くの地からやって来たのだろう――?)

 

 見知らぬ異国へと想像の翼をはためかせ、飛び立ちそうになっているタバサをよそに、太公望はとある懸念――しかも割と深刻なもの――を抱いていた。魔法の影響を受けて、会話が成立している。逆に言うなればその効果が消えてしまった場合、この世界での意思疎通が非常に難しくなるのではないだろうか。

 

 〝召喚〟および〝使い魔契約〟(コントラクト・サーヴァント)は、召喚者あるいは被召喚者の死によって無効化――契約が切れる仕組みになっていると学院長から説明を受けている。が、太公望はそれ以外の方法で魔法の効果を打ち消してしまう可能性があるものを持っていた。

 

 ――それは、彼の最大の切り札。スーパー宝貝『太極図(たいきょくず)』。

 

 これは、展開した領域内において宝貝の使用を完全に封じ、さらには宝貝によって引き起こされた全ての事象を鎮め、無効化し、癒やしの〝力〟へと転換。敵味方、生物・物質を問わず全てを回復させるという究極のアンチ宝貝なのである。

 

 かつて敵対する仙人が宝貝を使って発生させた一万貫の土石流を瞬時に鎮め、その全て……砂粒1つに至るまで元通りの位置に回復(・・・・・・・・・)してしまったことを例に取っても効果の程は伺えよう。

 

 ハルケギニアの魔法に対して『太極図』が有効か否か、近いうちに色々と試そうと考えていた太公望だったが、これではうかつに使用するわけにはいかない――少なくとも、この世界の言語を自分のものとするまでは。比較的早い段階でそれに気がつけただけでもよしとするべきか。

 

(ぐうたら生きるのも、楽じゃないのう)

 

 もうひとりの使い魔が聞いたらマジ泣きしそうなことを考えながら、太公望は生活基盤をしっかりと固めるべく、タバサに講義の続きを促すのであった。

 

 

 ――その夜。

 

 時間を忘れて書をめくっていたタバサと太公望は、閉館時間を過ぎてもそこから動かないふたりに業を煮やした司書の女性によって外へつまみ出されていた。

 

 事ここに至って、彼らは初めて夜になっていることに気付いたというのだから、その熱中度がいかほどのものであったのかは推して知るべし、である。

 

 既に食堂は閉まっていたので、軽めの食事を厨房に頼んだふたりは部屋へ――塔外壁の窓から――戻ろうとした……のだが。無人のはずの部屋の奥から、なにやら声が聞こえてくる。

 

「まさか、泥棒か?」

 

「わからない、でも用心に越したことはない」

 

 外壁を背にして張り付くような体勢をとった彼らは、気取られぬようこっそりと中の様子を伺う。そこにいたのは……興奮気味に何事かをまくし立てる桃色の髪の少女と、それをあしらうように笑う赤髪の娘と、その間に挟まれ、天国と地獄を同時に味わっている黒髪の少年であった。

 

 ――キュルケ曰く。

 

 昼に聞けなかった『策』の内容を確認しに来たが、扉に鍵がかかっていた。ノックをしても無反応。タバサは〝消音〟をかけた状態で本を読んでいることが多いので、それを確かめるために解錠の呪文を唱えて部屋の中へ入ったところで、通りがかったルイズ――タバサ達に何かを言いに来たらしい――に、見咎められたのだという。

 

「勝手に他人の部屋の鍵を開けるなんて!」

 

 と、説明中にも関わらずいきり立つルイズを

 

「あら、こんなのいつものことだし、タバサは気にしてないわ」

 

 暖簾に腕押し、柳に風で受け流すキュルケ。

 

〝解錠〟(アン・ロック)は重大な校則違反なのよ? わかってんの!?」

 

「あなたの〝アン・ロック〟が『あン、爆発!』だから禁止なのはわかるんだけど」

 

「けけ、ケンカを売ってるのかしら、つつ、ツェルプストー?」

 

 こんな調子で、部屋主が戻ってきても収まらない少女たちだったが、とうとう付き合いきれなくなった太公望とタバサのダブル〝風〟攻撃――太公望が天井付近まで舞い上げ、タバサが空気の縄で縛り付けるというものによって押さえ込まれ、静かになった。

 

 そして、どうにか事の顛末――発端から決闘の推移に至るまでを語り、ついでに策の内容について念入りに口止めをし終えた頃には、夜もだいぶ遅い時間になってしまっていた。

 

 部屋へ戻るという彼らを見送り、寝支度を始めようとしたタバサは小さくため息をついた。召喚の儀式からまだ2日しか経っていないのに、なんだかもう1ヶ月ほど過ごした気分だ。これからも、こんな嵐のような日々が続くのだろうか――。

 

 それが果たして良いことなのかどうか、彼女にはまだわからなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――太公望がハルケギニアへと召喚されてから数日が経った。

 

 最初の二日間こそ怒濤のような騒動の渦中にあったものの、その後はおおむね平穏であった。そんな彼の使い魔? 生活を紹介しよう。

 

 朝、日が昇る前に目を覚ます。同居人を起こさぬようにそっと外へ出て、本塔の屋上へ移動し、そこで一時間ほど『瞑想』を行う。

 

 その後、部屋へ戻ってタバサを起こす。彼女が身支度を整えている間は外――もちろん窓ではなく廊下で大人しく待機。出てきた彼女と共に、朝食を摂りにアルヴィーズの食堂へ向かう。

 

 テーブルマナーのなんたるかすらわかっていない太公望の食事姿は、控えめに見ても良いとはいえないものだが、すぐ隣の席につき、まるで手のかかる子供に指導をするように世話を焼くタバサの姿と相まって、ほのぼのとした空気を醸し出す。

 

 朝食の後はタバサと共に授業を受ける。夢のぐうたら生活を実現するためには、この世界の魔法、そして言語について詳しく知っておく必要があり、その手段として魔法の授業は最適なのだ。ある意味この場にいる生徒たちの誰よりも真剣に教師の言葉と黒板に書かれる文字に集中し、タバサから譲り受けたメモ帳へ、それらの内容を書き付けている。

 

 将来の怠惰のためには今の努力を惜しまない――太公望とは、そういう男であった。

 

 昼食後の一時間はひとりで学院の敷地内をうろつく。そして、時折出会う学院の使用人たちや、使い魔の仕事――ルイズの部屋や廊下を掃除したり、彼女の衣類の洗濯をさせられている才人に出くわしては交流を深めている。

 

 ある時、こんな事があった。

 

 学院に雇われているメイドの少女シエスタが、貴族から丁寧に洗濯するよう命じられていた絹のハンカチを無くしてしまった。わざとではなく、偶然吹いてきた強い風に飛ばされてしまったからなのだが、持ち主にそんな理屈は通用しない。最悪手打ちにされるのではないだろうか――?

 

 たまたまその場に居合わせた才人が、わんわん泣く彼女を慰めつつ、一緒に探して回ったが見つからない。揃って途方に暮れていたところへ太公望が現れた。

 

 ふたりが事情を話すと、太公望は一言、

 

(まき)を一本もって来たら、なんとかしてやろう」

 

 と、告げる。

 

 なんで薪!? という疑問はあったものの、以前の経験から「コイツの言うことなのだから、何か意味があるのだろう」と考えた才人は大急ぎで裏庭の薪置き場へ向かうと、そこから一本の薪を頂戴し、太公望に手渡した……のだが。

 

 ――太公望の起こしたアクションは、才人の想像の斜め上を行った。

 

「見ておれ才人よ! この薪を使った『炎占い』で失せ物の行方を占ってやろう!」

 

 懐から金属製の杖を取り出して薪の先をがんがん叩き始めた……しかも、まき~まき~教え給え~などと軽くイった目をしながら呟いている太公望を見た才人は、そのまま回れ右してハンカチ探索に戻ろうとしたのだが、占いという言葉の響きにすっかり魅せられてしまったシエスタによって引き留められる。

 

 ……と、それまで変化のなかった薪の先端が、勢いよく燃え始める。揺らめく炎を見つめながらムゥ、と唸った太公望は、才人とシエスタに占いの結果を告げた。

 

「よいか。これから急いで厨房へ行き、コップに一杯の飲み水を手に入れよ。そして、それを持って炎の名を持つ塔の側にある建物の前へ行け! そこにひとりの男が立っておる。そやつにコップの水を渡せば、失せ物が見つかるであろう」

 

「そんなバカな……」

 

 と、思いっきり疑いの目を向ける才人だったが、藁にもすがる思いで『託宣』に聞き入っていたシエスタの手前、それを無碍にするわけにもいかず。言われた通りに厨房で水を手に入れ、炎の塔の側にあるという建物へと向かった。

 

 ――そこにいたのは使い魔召喚の儀を監督していた教師・コルベールであった。

 

 何かを探しているかのように、周囲をきょろきょろと見回している。と、彼は才人とシエスタの姿を見た途端、ふたりの方へ近づいてきた。

 

「おお、きみたち。ちょうど誰かに飲み物を持ってきてもらおうとしていたところなんだよ。良かったら、その水を譲ってもらっても構わないかね?」

 

 才人が言われるままにコップを差し出すと、コルベールはひと息で中身を飲み干した。そして懐から一枚の布を取り出し、額の汗を拭う。

 

「いやあ、おかげで人心地ついたよ。ありがとう」

 

 笑顔で礼を言い、コップを返そうとしたコルベールは、ふたりの視線が手元の布きれに集まっていることに気がついた。

 

「……どうかしたのかね?」

 

「き、貴族さま、そ、そ、そのハンカチは」

 

 シエスタが震える声でコルベールに問う。

 

「おっと、いけない! さっき偶然拾ったものなのに、ついうっかりと……もしかして、これはきみの物だったのかね?」

 

 ――それからが大変だった。

 

 占いが当たった! と、おおはしゃぎのシエスタと、なんでもありかよファンタジー! と、頭を抱える才人。

 

 そんな彼らから事情を聞いて『炎を使った占い』にいたく興味をそそられたコルベールに、根掘り葉掘り聞かれそうになったり。

 

 困っていたシエスタを助けてくれた! などと、厨房で働く料理人たちに才人共々大歓迎されたり。

 

 噂を聞きつけた多くの女性達――平民、貴族を問わず――に、自分のことも是非占って欲しいと押し掛けられたり。

 

 『イワシ』なる魚があれば、より精度の高い占いが可能だなどと太公望が言い出したせいで、厨房に大勢の人間が殺到したり。

 

 ――最終的に、学院長から「学院内での占いは禁止」という触れが出されるまで続いたこの一連の騒動によって、太公望はちょっとした有名人になってしまったが、その対価として、

 

『身分を問わず人当たりのよいメイジ』

 

『東方の秘術を知る異国人』

 

 などというそれなりの評価を得られたのは、今後の学院生活を送る上でプラスになること間違いなしだろう。と、まあこんなふうに着々と自分の居場所作りに精を出すのがこの時間帯だ。

 

 その後は再びタバサと合流して午後の授業に出たり、本塔にある図書館に籠もってハルケギニアの歴史や地理などを学ぶ。本の虫であるタバサの解説は、当初こそたどたどしいものであったが、簡潔にして要を得たわかりやすいものへと徐々に変化してゆく。

 

 タバサとしても、理解の早い生徒である太公望にモノを教えるのは思いのほか楽しくやり甲斐があるし、自分自身の復習にも繋がるので勢い熱心になる。その結果、大幅に閉館時間をオーバーしてふたり揃って司書の手で外へつまみ出される……というのが日課となりつつあった。

 

 ……と、こんな調子で日々を過ごす太公望。今のところは、まだ平和を満喫していた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして、召喚から数日後。フェオの月、ティワズの週、虚無の曜日。

 

 その日、タバサと太公望のふたりは友人たちと共に乗合馬車に揺られながら、トリステインの王都トリスタニアへ向かっていた。

 

 タバサは独りで居ることを好む少女だ。彼女にとっての他人とは、自分の世界に対する無粋な闖入者であり、騒音でしかない。数少ない例外に属する人間であっても、余程の場合でない限り鬱陶しく感じる存在に過ぎなかった……はずなのだが。

 

 そんな彼女が虚無の曜日にクラスメイトやその使い魔達に囲まれて、共に乗合馬車で街へ向かっているのには――ちょっとした事情があった。

 

「街へ服を仕立てに行きたい」

 

 ことの発端は、前日の昼に太公望が発した言葉であった。

 

 太公望は替えの服を1枚も持っていない。これまで、胴衣については男性教諭から着古したローブを借りて凌いできたが、上に羽織っている着衣の汚れが目立ってきた。

 

 『道士服』と呼ばれるらしいそれは、太公望曰く

 

「ハルケギニアのメイジが羽織るマントのようなもの」

 

 ……だ、そうだ。

 

 タバサは思い出した。そういえば、彼の国では服装によって出される食事が変わると言っていた。つまり、身分を証明するために必要な衣服なのだろう。ハルケギニアにいるうちは要らないだろうが、それは貴族にマントを羽織るなと言うようなもの。本人はきっと落ち着かない。

 

 太公望の生活に必要なものは魔法学院の経費で落とせるし、タバサとしても彼に不自由な思いをさせるつもりはなかったので、翌日――全ての授業が休みになる虚無の曜日にトリスタニアの街を案内すると約束し、ひとまず話は済んだ。

 

 ……と、思っていたら。太公望はいつの間にか彼と仲良くなっていたらしい才人――ルイズが使い魔にした少年にそのことを伝えたらしく。そこから、どういう経緯を経てなのか各所へと話が飛んだ結果、

 

 曰く「使い魔に身を守るための武器と服を買い与える慈悲深い主人」ルイズと。

 

 曰く「優しい主人を持って幸せだとうそぶく従者」才人に。

 

 曰く「春の新作が気になるから一緒に行きたい」キュルケがついてきて。

 

 現在の――控えめに言っても騒々しい状況が成立した。

 

 トリスタニアの街まで、まだ一時間以上かかる――ふっとため息をついたタバサは、同行者たちと益体もない話を続けている己の使い魔を少し恨めしげな目で見遣った後……持ってきた本に視線を落とし、再びページをめくり始めた。

 

 

○●○●○●○●

 

「さて、残るは才人の武器……か」

 

 仕立て屋での採寸を終えた太公望たちの一行は、それ以外の買い物の成果を両手に抱え――荷物を持たされているのは太公望と才人のふたりだけだが――トリスタニアの街中を歩いていた。

 

 太公望は物珍しそうに辺りを見回していた。白い石造りの街はこれまで見たことのない風情であったし、道端には様々な露天商が店を開いていたからだ。と、そんな彼と同じく好奇心を剥き出しにしていた才人がルイズに耳を引っ張られる。

 

「ほら、よそ見しない! このチクトンネ街はスリが多いんだから」

 

 ルイズ曰く、このあたりは割と物騒な地域らしい。こういう所は、どこの国でも同じなんだのう……などと感慨に耽っていた太公望に、ひとりの男の肩がぶつかった――その瞬間。男はその場へ崩れ落ちるように、どう、と倒れた。

 

 突然のことに、通行人たちから悲鳴が巻き起こる。

 

「人が倒れた! 急病人だ!!」

 

「誰か衛兵……いや、水メイジを呼べ!!」

 

 広がる喧噪の中、真っ先に動いたのはタバサだ。小声で仲間たちに指示を出す。

 

「ここから離れる。慌てず普通の速度で歩いて」

 

「病人を見捨てるの!?」

 

 そう問うたルイズを、

 

「今のわたしたちにできることは何もない」

 

 と、ただの一言で黙らせて。

 

 そのままタバサを先頭にして路地を抜けて大通りに出た一行は、平民向けだがなかなかに小洒落た感じの料理店へと入る。

 

「平民用の店なんて……」

 

 と、ぶつぶつ文句を言うルイズを無視し、奥にある衝立で仕切られたテーブル席を確保したタバサは手慣れた調子でウェイターに全員分の飲み物を注文した後、まっすぐに自分の使い魔――太公望を見据え、問い詰めた。

 

「あなた、何をしたの」

 

 全員の視線が太公望に集中する。

 

「何もしてはおらぬよ、わしは……な」

 

「嘘。あのスリが倒れる直前、あなたの懐に手を入れたのを見た」

 

 タバサの言葉に、あの男スリだったの!? とか、どういうこと!? だの騒ぎ出したルイズ・才人・キュルケの三人に黙るよう、口の前で指を1本立てるジェスチャーをして見せた太公望は、ふぅとため息をつくと、やれやれと左右に首を振る。

 

「わしの『ご主人さま』は思いのほか目敏いのう。少々見くびっていたようだ」

 

「ごまかさないで」

 

 彼女の二つ名『雪風』に相応しい、冷たい空気が場を支配する。降参だというように太公望は軽く両手を挙げた。

 

「わしは本当に何もしてはおらぬよ。やったのは……これだ」

 

 太公望は懐から『打神鞭』を取り出してタバサ達に見せる。

 

「金属製の杖? 珍しいわね」

 

「教鞭みたい」

 

「先端についているのは宝玉かしら?」

 

 口々に感想を述べる少女たちに向け、太公望は説明を開始した。

 

「この杖には盗難防止用にわし以外の者が持つと〝生命力〟を吸い取る呪いがかけられておってのう。あやつはわしの懐を探ろうとして、うっかりこの杖に触れてしまっただけなのだ」

 

 今度は別の意味で場が凍り付いた。

 

「なにそのヤバい杖」

 

 さすがの才人も真っ青だ。出していた手をおそるおそる引っ込める。

 

「神聖な杖に、そんな処置を施すなんて……」

 

 と、逆に憤りを覚えるルイズ。

 

「……その呪いとやらがどれほどのものなのか、教えて頂けて?」

 

 キュルケが震える声で問えば。

 

「触れたくらいならばその場で気絶。持ち続ければ干涸らびて死ぬ程度、かのう」

 

 悪びれもせず、からからと笑いながら太公望が答える。一同、声も出ない。

 

 そんな硬直した空気を打ち破ったのはタバサだった。文字通り、持っていた己の杖を太公望の脳天めがけて叩き付ける。

 

 ごぃん。と、実にいい音が辺りに響き渡り……太公望はその場に崩れ落ちた。

 

「そんな大切なこと、どうして今まで黙ってたの……」

 

 真冬に吹き荒ぶ寒風もかくやといった冷たい声で、ぽつりとタバサは呟いた。

 

 無口な子。本の虫。他人を寄せ付けようとしない。完全に伸びてしまった太公望を尻目に、同行者の3名がそれぞれ己の『タバサ個人評価ノート』の片隅に「怒らせると怖い」と書き加えたのは、ある意味必然といえよう。

 

 

 ――太公望が目を覚ましたのは、帰りの馬車の中であった。

 

 道中、打撃を受けた箇所をさすりつつ、状況を確認する太公望へ

 

〝浮遊〟(レビテーション)で馬車まで運ぶのは、結構大変だったのよ」

 

 と、ちょっと怖い笑みを浮かべながら話すキュルケや、

 

「結局こんなさびた剣しか手に入らないなんて……」

 

 と、悔しがるルイズに

 

「あーるぴーじーだと、こういう剣が最強っていうお約束があるんだよ」

 

 などと意味のわからない話をして慰めて(?)いる才人。そんな彼らの騒ぎをよそに、タバサは手持ちの本を開いていた。しかし、行きの時のそれとは異なり、彼女は自分だけの世界に没頭してはいなかった。

 

 あの瞬間――杖を振り上げた直後。ほんのわずかだが、太公望の身体が反応したように思えた。だからこそタバサは躊躇わずに杖を振り下ろしたのだが――結果、彼はそのまま攻撃を受け、倒れてしまった。

 

 ふと、店で彼が呟いた言葉を思い出す。

 

 ――わしの『ご主人さま』は思いのほか目敏いのう。少々見くびっていたようだ

 

(まさか――避けもせずに攻撃を受けたのは、彼の演技? だとしても、わざわざそんなことをする理由がさっぱりわからない)

 

 タバサは心底混乱していた。自分の〝使い魔〟の実像が、全く掴めないことに。

 

 もっとも、それはある意味当然である。彼女は太公望が身体を張ってまで『究極のサボり』を開発すべく日々努力を続けていることなど、知る由もないのだから――。

 

 

 




いわし~!!!

元々は太公望に「覆水盆に返らず」と言わせたかっただけのお話。
その理由は……ググっていただければと。




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第7話 伝説、嵐を巻き起こすの事

 ――平賀才人は今、得意の絶頂にあった。

 

 彼は宿命という名の導き手により、最高の相棒との邂逅を果たしていた。伝説の左手を担う者。その名もデルフリンガー。

 

 先日の虚無の曜日。主人のルイズに手(と耳)を引かれて立ち入った、小さな武器屋。昼もなお薄暗いその店の奥、乱雑に積み上げられた棚の横に、それはひっそりと()()()()()()()()()

 

 〝インテリジェンス・ソード〟。意思を持つ魔剣にして、喋る能力を持った薄手の長剣。表面にはうっすらと錆が浮いていたが、才人は一切気にしなかった。吸い付けられるようにその剣へと手が伸び、両手で柄を握ったその瞬間……左手のルーンが輝き、身体がまるで羽根のように軽くなるのを感じたのだ。

 

「おでれーた。てめ、『使い手』か。見損なってた。よしお前……俺を買え」

 

 ……まるで、テレビゲームのイベントシーンみたいじゃないか。

 

 才人は、すっかりその剣に魅入られてしまった。眉をひそめて「もっといい剣を買ってあげるわよ」というルイズに是非これをと拝み倒し、遂に自分のものにすることが出来た。

 

 最初のうちこそ、

 

「こんなさびた剣なんて……」

 

 と、不満を露わにしていたルイズだったが、

 

「ありがとう、本当にありがとう」

 

 などとまるでボールをもらった子犬のようにキラキラと目を輝かせ、何度も何度も礼を言う使い魔の態度が迂闊にもちょっと可愛く思えてしまい。ついには、持ち歩くときは鞘に収めておくことを条件に、その剣を使うことを許した。

 

 

○●○●○●○●

 

 以下、才人が相棒と出逢ってから地球時間に換算して1週間の軌跡である。

 

 

 ――1日目。

 

 せっかくだから剣の使い方を覚えたい。そうデルフリンガーに告げると、新たな相棒はいたく喜んだ。そして、とりあえず振ってみろと言われたので、近くの空き地へと向かい、鞘から抜いた。これまで剣など手にしたこともなかったのに、まるで身体の延長みたいにしっくりと馴染んでいる。不思議だ。

 

「これがお前の〝力〟なのか? デルフリンガー」

 

「いいや違う。それが『使い手』たる証なんだよ、相棒」

 

 俺の左手に刻まれたルーンとやらが特別な〝力〟を持っているらしい。おでれーた。

 

 

 ――2日目。

 

 筋肉痛で動けなかった。昨日は調子に乗って振り回しすぎた。いやマジ痛いんですけど。デルフ――名前が長いので、こう呼ぶことにした――は、いっしょに身体も鍛えないとな。と言って笑っていた。ピンク髪の小悪魔が、面白がって何度も足をつっついてきた。やめて。

 

 

 ――3日目。

 

 筋肉痛はもう治ったみたいだ。

 

「数日遅れで来るようになったら年だ」

 

 って前に父さんが言っていたような気がする。使い魔の仕事が終わった後、外でデルフを振っていたらギーシュ――このあいだ決闘をしたキザ野郎が声をかけてきた。

 

「きみは剣士だったのか……もしやメイジ殺しだったのかい? やはり、あの時は本気ではなかったのだね」

 

 次の瞬間、気取った仕草で例の薔薇の杖を振ったギーシュの真横に金属製の像が出現した。

 

「どうだい、対戦相手がいたほうが稽古にも身が入るだろう? 良かったら、ぼくが『ワルキューレ』でお相手しよう。もちろん、お互いに怪我をさせないという条件でね」

 

 あれ? ひょっとして、こいつ意外といい奴だったのか? そんな風に思いながら像を見た。

 

「これが噂の『ワルキューレ』か! 結構かっこいいじゃん」

 

 素直な感想を口にしただけなんだけど、

 

「そうだろう、そうだろう! まさに戦乙女の名に相応しい姿だと思わんかね」

 

 得意げに胸を反らしてた。兜とかすげえ造形凝ってるし、自慢の魔法なんだろうな。

 

 それにしても、青銅で出来た甲冑姿の乙女像かよ……。

 

 うわあ。ルイズが止めてくれなかったら、これと真正面からやりあう羽目になってたんかい……殴られたらすげえ痛そうじゃん。最悪骨が砕けてもおかしくないわ。

 

 そこまで考えたところで、才人はデルフリンガーを見遣る。

 

「凄いのは認める。けど、こんなのに斬りかかったらデルフが折れちゃうんじゃないか?」

 

「問題ねぇよ。いいから相手してもらえ」

 

「ほんとかよ。ポキッといっても知らねえぞ」

 

 ……デルフの言うとおり、なんの問題もなかった。まるで溶けたバターにナイフを入れたみたいに青銅の戦乙女は真っ二つになった。

 

 本気のきみと戦わなくて良かったと言うギーシュに、それはお互い様だと返してあの時のことを謝ったら、握手を求められた。

 

 異世界で、また友達ができた。

 

 

 ――4日目。

 

「きみは本当に強いなあ」

 

 俺が7体の『ワルキューレ』を文字通り瞬殺してみせた後、ギーシュは言った。

 

「いや、確かに速攻で倒せたけどさ。お前、俺が怪我しないように手加減してくれてるじゃん」

 

 そう言ったら、

 

「謙遜は美徳だが、過ぎた謙虚は嫌味にしかならないよ」

 

 なんて諭された。

 

「ひょっとして、俺ってすごいの?」

 

「うん、実際たいしたものだよ」

 

 部屋に戻ってからルイズに聞いてびっくりした。なんでもギーシュは軍人の家の出で、しかも『ドット』ランクのメイジとしてはかなり強い部類に入るんだそうだ。実は俺ってすごい? ちょっと自信持っちゃっていいのかな? かな!?

 

 

 ――5日目。

 

 ルイズに俺とギーシュの模擬戦を見せた。デルフとふたりがかりで説明しても、ちっとも信じてくれなかったからだ。バラバラになった『ワルキューレ』を見て、ようやく納得してくれた。

 

「なんで剣士だってこと黙ってたのよ!」

 

「いや、デルフに教えてもらうまで俺も知らなかったんだよ!」

 

 左手に刻まれたコレのせいらしい。そう言ってルーンを見せると、ルイズは

 

「ルーンにそんな効果があるなんて話、今まで聞いたことないわ」

 

 と言う。

 

「なら、これはルイズがくれた〝力〟なんだな」

 

 そう言って笑ったら、突然ご主人さまが動かなくなった……なんでだ。

 

 

 ――6日目。

 

「まことにもって悔しいけれど『ドット』のぼくじゃもう相手にならないなあ」

 

 ギーシュが頭を掻きむしりながら言う。うーん、ここまで付き合ってくれたギーシュには悪いけど、確かにちょっと物足りなくなってきたのは事実なんだよなあ。いや、ギーシュ君も結構頑張っているんデスヨ? 『ワルキューレ』の動きとか錬成とか、最初の頃よりだいぶ速くなってきてるしネ。まあ、俺がさらに強くなってしまっただけなんですけどネ。

 

「とはいえ、ぼく以外の貴族と戦うのはまずいだろう」

 

「え、なんで?」

 

「下手に勝ったりしたら、おかしな逆恨みをされるかもしれないからさ。実際に、そういう例が過去に何度もあったらしいしね」

 

 ギーシュが真顔で忠告してくれた。なるほどな、そういやこの学院にいる連中って『魔法が使えぬ者は人にあらず』ってな態度取ってるしな。ルイズもそのせいで周りからバカにされてたみたいだし。ひとりくらいなら何とかなるかもしれないけど、さすがに集団でかかってこられたら……いくら俺でもきついよな。

 

 と、いうわけで。タバサと部屋で本を読んでいたタイコーボーに声をかけてみた。

 

「模擬戦やらないか」

 

「なんでわしが、そんな面倒なことに付き合わねばならんのだ」

 

 消去法です、とはさすがの俺でも言えなかった。

 

 ルイズに剣を向けるなんて、いろんな意味で論外。他に知り合いのメイジの心当たりはというと、タイコーボーとタバサ、おっぱい星人のキュルケだけ。

 

 ギーシュが言うにはタバサとキュルケは『トライアングル』メイジで、学院内でも上位の使い手なんだとか。そういや、あの赤土先生も同じランクだって言ってたよな。教師と同じってことは、相当すごいってことだろう。

 

 それを抜きにしても、女の子とチャンバラなんてやりたくない。タイコーボーの強さはよくわかんねえけど、使うのはたぶん〝風〟の魔法で、ギーシュとは正反対の系統?(属性と系統って何がどう違うんだかよくわからん)らしいから結構興味あるし。

 

 まあ、あの小さなタバサの一撃で気絶しちゃったくらいだから、あんまり期待できないけどな。ガリ勉タイプっぽいし。それにほら、俺とデルフのコンビってスゴイし!

 

 しっかし、マジで嫌そうな顔してるなあコイツ。授業中もクソ真面目に勉強してるしなあ……って、読書に戻りやがった! こりゃダメかな……出直すか。と思ったら。別の方向から援護射撃がキタ――!

 

「タイコーボー、彼と勝負してあげて」

 

 タバサナイス支援! もっとやれ!!

 

「嫌だ。わしにとって、この本を読み終えるほうが遙かに大切なのだ」

 

 うわ、即お断りかよ。本から顔を上げすらしなかったぞコイツ。

 

「明日のお昼に桃のタルトを追加で注文してもいい。費用はわたしが負担する」

 

 この野郎、ページめくる手ェ止めやがった。

 

「もうひと声」

 

 えっ、デザートがトリガー!?

 

「2個プラス」

 

「さて、それじゃルールを決めようか才人」

 

 安ッ! 俺との勝負の値段、激安ッ!!

 

 こうして俺とタイコーボーは戦うことになったわけだ。んで、これから試合のルール決めるんだけど……うん、わかってますヨ。油断は禁物ですよネ。このあいだの件もあるし、おかしな条件つけられないようにしないとな!

 

 ――と、まあこのように才人は〝力〟を手にしてからわずか数日で、完全に舞い上がってしまっていた。どうやら彼は、相当調子に乗りやすい性格だったらしい……。

 

○●○●○●○●

 

 

 ――メイジの怖さは、既にわかっていると思っていたのだけれど。

 

「模擬戦やらないか」

 

 その日の夜。突然ルイズの使い魔サイトがギーシュと共に部屋へ押し掛けて来て、太公望にそう持ちかけた時。タバサは彼の正気を疑った。突然何を言い出すのか……と。

 

 言われた本人も顔をしかめている。それも当然だろう。口では面倒だ、などと言ってはいるが、そもそも太公望は己のメイジとしての〝力〟を誇示するような人間ではない。既に10日程一緒に暮らしているにも関わらず、未だ太公望の実像を掴みきれていないタバサだったが、そのくらいのことは理解していた。

 

 タバサは不快げに眉をひそめた。しかし、才人はそれに気付いてすらいない。とはいえ、それはごくごくわずかな形の変化であり、かつタバサと相当に親しい者にしかわからない程度の感情の揺らぎであったので、ある意味仕方のないことではあるのだが。

 

 と、そんなタバサの耳元へギーシュが囁きかけてきた。

 

「なあミス・タバサ。きみからも彼に頼んでみてはくれんかね」

 

「結果のわかりきった勝負をさせるほど、わたしは愚かではない」

 

 呟き返す。しかし、ギーシュが放った次の言葉がタバサの心を微かに動かした。

 

「ぼくではもう太刀打ちできないんだよ」

 

 なんでも、ここ数日のあいだにギーシュと才人のふたりは仲良くなり、互いに遺恨の発生しないレベルでの模擬戦を繰り返しているのだという。だが、それ以上にタバサが驚かされたのは、全力で繰り出した『ワルキューレ』を剣1本でなんなく切り裂いてしまうという荒唐無稽な話が、あの頑固なルイズにすら公認された事実であるということだった。

 

 確かあの時――例の決闘騒ぎの中で太公望がルイズ達に策を授けた時、彼は「武術の心得が一切ない」と言っていたはずだ。あの状況で嘘をつく理由はない。だとすると、あれから彼に何らかの変化が起きたということになる。

 

 そういえば。先日トリスタニアの街へ赴いた際に、さびた剣を手に入れていた。もしかすると、あれは特別な魔法がかけられた〝魔力付与武器(エンチャント・ウェポン)〟なのかもしれない。たとえばそう、持ち主の動きを補佐するような……。

 

 これは降って沸いた好機だとタバサは思った。もちろん、太公望という人物の実力を見極めるための。

 

「タイコーボー、彼と勝負してあげて」

 

 その後の返答は、タバサが予想した通りのものだった。

 

「嫌だ。わしにとって、この本を読み終えるほうが遙かに大切なのだ」

 

 即座に断られたが、タバサは知っていた。彼に頼み事をするための魔法の言葉を。

 

「明日の昼に桃のタルトを追加で注文してもいい。費用はわたしが負担する」

 

 タバサの予想通り、太公望は食いついてきた。少し痛い出費だが、彼の実力を測るために必要なのだから、ここで惜しんではいけない。けれど、できれば1個プラスで抑えて欲しかったというのが彼女の本音だった。何故ならタバサが自由にできるお金には限りがある。料理を追加注文した場合、相応の料金を支払う必要があるのだ。

 

 今月購入する予定だった本を何冊か諦める必要がありそうだ。タバサは現在の財布の中身を思い出し、肩を落とした。

 

 

 ――それからすぐに、太公望から試合に関する条件が提示された。

 

「制限時間10分。先にまいったと言わせたほうが勝ち。これでどうだ?」

 

 そう提案された才人は困ってしまった。彼はあくまでギーシュ以外の魔法使いと戦ってみたかっただけであって、相手に怪我をさせるつもりなどなかったからだ。

 

「なあ、本当にそんなんでいいのか? あー、なんだ、その……相手に怪我をさせちゃいけない、とか、そういう条件はつけなくても?」

 

 そんな才人の心遣いに対して、太公望はこう答えた。

 

「なんだ才人。自分から勝負を申し込んでおいて、いまさら臆病風に吹かれたのか」

 

 ……と。

 

 それを聞いたギーシュは真っ青になった。

 

(知らないこととはいえ、彼はなんて無謀な真似をするんだ……!)

 

 才人の素早さは尋常ではない。トリステイン陸軍元帥の地位にある父親から手放しで褒められた『ワルキューレ』の7体同時攻撃でも捉えることすら叶わないのだから。

 

 言われた才人のほうはというと、笑顔のまま顔を引きつらせている。それはそうだろう、せっかくの気配りを無にするような真似をされたら、彼でなくとも良い気持ちはしないはずだ。

 

 ギーシュは心の中で『始祖』ブリミルに祈った。勝負の仲介を頼んだぼくがこんなことを願うのもなんなのですが、どうか彼が大怪我をしませんように――と。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――巨大な紅い月と、それに寄り添うように浮かぶ小さな蒼い月が、本塔脇の中庭を薄く照らしている。そこへやって来たのは、これから『模擬戦』を行う太公望と才人、彼らの主人であるタバサとルイズ、そして面白そうだからとついてきた、ギーシュとキュルケの計6名であった。

 

 模擬戦なんかやめなさい。そう必死に止めるルイズの言葉を才人は聞こうとしなかった。いや、聞いてはいたのだが、言い返したのだ。

 

「雑用以外にも、使い魔としてできることがあった。その〝力〟を磨きたいんだ」

 

 そんなことを言われてしまっては、主人として止めることはできない。

 

 確かに自分の使い魔は強かった。メイジには絶対敵わないはずの平民が、全力を出したギーシュ相手に圧勝してみせたのだから。

 

 しかし、今度の相手は全く実力のわからない――あの東方から来たという正体不明のメイジ・タイコーボー。

 

 彼はルイズにとって一種の恩人だった。何故ならあの決闘騒ぎ以降、周囲から自分を馬鹿にする声が消えたから。翌日、大好物のクックベリーパイを渡さなければならなかった時は、正直殺意が芽生えかけたのだが――それでも彼に感謝していることだけは間違いない。

 

 お互いに大怪我をするような事態にだけはなって欲しくない……それがルイズの偽らざる気持ちであった。もうクックベリーパイについての恨みはない。たぶん。

 

「それじゃ、ルールを確認するわよ」

 

 10メイルほどの距離を開け対峙した太公望と才人の中央で、キュルケが声を上げる。中立の立場にいるということで、彼女がこの模擬戦の審判を買って出たのだ。それ以外の3名は、遠巻きに彼らを見守っている。

 

「まず3カウントして、そのあとはじめの合図をするわ。それと同時に試合開始。ふたりとも、これでいいかしら?」

 

「うむ」

 

「ああ」

 

「10分以内に相手を降参させたほうが勝ち。他には特に条件はないわ」

 

 頷く両者。ふたりから了解を得たと判断したキュルケは試合に巻き込まれないよう、他の者たちのいる場所まで後退する。

 

「それじゃ、3……2……1…… はじめっ!」

 

 キュルケが言うや否や、才人は背にしたデルフリンガーを抜いて駆け出した。左手に刻まれたルーン文字が光り輝く。先手必勝! あっという間に太公望まで数歩という距離まで間合いを詰める――だが、その瞬間。彼の前に土煙が巻き起こった。

 

「あの時と同じかよ!」

 

 才人は憤った。太公望は土煙で目隠しをして、自分の死角から攻撃してくる……瞬時にそう判断した。今の才人には頼もしい味方『デルフリンガー』がいる。そんな手を食うものか! とばかりに剣風で周囲の土埃を吹き飛ばした彼は、油断なく身構えた……が、攻撃が来る気配はない。いや、それどころか太公望の姿そのものを見失ってしまった。

 

「どこだ、どこにいる!?」

 

 必死に周囲を探る才人。その後、すぐに視界全てが晴れた。にもかかわらず、太公望はどこにもいない。

 

「ふっふっふ……」

 

 その時だ。何処かから、太公望の声が聞こえてきたのは。

 

「あ、相棒……上だッ!!」

 

 デルフリンガーの声で天を振り仰ぐと、そこには――ふたつの月を背に外套をバサバサとはためかせ、10メイルほどの高さに浮かんでいる対戦相手の姿があった。

 

「た、タイコーボー!」

 

 すぐさまデルフを構え、彼の遙か上方にいる太公望の攻撃に備える……が、一向にそれらしき動きはない。空の上の太公望は腕を組み――月の光を背に受けているせいでその表情は読み取れないが、間違いなく――嗤っていた。

 

「おい、どういうつもりだよッ!」

 

 声を荒らげる才人に、太公望は高らかに笑いながら返す。

 

「ふはははははッ、どうだ才人よ! この高さまでは攻撃できまい!!」

 

 観客が一斉に……それは見事なまでにズッコけた。つられてコケなかった才人は、ハッキリ言って相当努力したといえよう。

 

「キュルケよ! あと何分だ?」

 

 いきなり太公望から声をかけられたキュルケが、戸惑いながらも答える。

 

「えっと、残り……8分ね」

 

「なんだ、まだ結構あるのう……それならば」

 

 すると、試合中であるはずの太公望は「よっこらしょ」というかけ声と共にその場で肘をついて――空中なので、正確にはつけてはいないのだが――横に寝そべってしまった。見るからにだらだらしている……。

 

「ある意味ものすごく器用」

 

「いや……感心している場合なのかね? これは」

 

 素直に感想を述べるタバサにツッコむギーシュ。他の者達は呆れて声も出ない。この状況から最も素早く立ち直ったのは才人だった。

 

「おい! 何やってんだよッ!!」

 

「見てわからぬか?」

 

「わかんねえから聞いてんだよッ!」

 

「ふむ。しょうがないから教えてやろう……だらだらしておるのだ」

 

「ふざけんなッ!!」

 

 剣を振り回し、いきり立つ才人。だが空を舞う太公望は全く動じない。それどころか、暢気に大あくびをしている始末。

 

「試合なんだぞっ! 攻撃しなきゃダメだろッ!!」

 

「なんでそんな面倒な真似をする必要があるのだ」

 

「攻めなきゃ勝てないからに決まってるじゃないか!」

 

 当たり前じゃないか、お前は何を言っているんだ。そう責める才人と、ようやく立ち直ってそれに同意する観客たち。ところが、そんな彼らに太公望はこともなげに言い放つ。

 

「別に、勝つ必要なんてないであろう?」

 

 才人の目が点になった。は? ナンデスト!?

 

「な、何言ってんだお前……」

 

「だから、わしがおぬしを倒す必要などないと言っておる」

 

「いや、そういう意味じゃなくてだな! ほら、お前タバサが出した条件飲んでこの試合受けたわけだろ!? いいのか、おい? ちゃんとやらないと、デザートもらえなくなっちゃうぞ!?」

 

 可哀想なくらいにわたわたしながら言う才人へ、

 

「わしが引き受けたのは、あくまで『おぬしの相手をする』ことであって、勝敗の結果や試合内容については何ら条件に含まれておらぬ。だから、こうして攻撃の届かない場所で時間がくるまでだらだらしておれば! それだけで!! 桃のタルトはいただきなのだ!!!」

 

 太公望からの、妙に力が籠もりつつ……それでいて無情な宣告が発せられる。

 

「……やられた」

 

 凄まじいまでの脱力感に襲われながら、タバサは思った。最初から太公望は才人と戦うつもりなどなかったのだ。

 

 単純過ぎるがゆえに厳しいように見えたルールが実は隠れ蓑で、10分という時間制限を設けたことに意味があったのだと悟った。そう、試合というには長すぎず、短くもない制約をつけることによって最小限の労力で引き分けに持ち込むための策――。

 

「そういうわけで、わしのほうからはこれ以上何もしない。才人よ、おぬしは別に遠慮する必要はないぞ。まあ、できるならとっくにやっておるだろうが」

 

 からからと笑い声を上げる太公望へ向けて思わずデルフを投げつけそうになった才人だったが、かろうじて踏みとどまった。太公望はああ言ったものの、剣を手放した瞬間、自分はただの高校生に戻ってしまうのだ。それに、本当に攻撃してこないという保証もない。

 

「なあデルフ。お前、天にかざしたら稲妻が落とせるとかそういう機能はないのか?」

 

 相棒に一縷の望みを託すも。

 

「6000年生きてきて、長いこと剣をやっているが、たぶんない、と、思う」

 

 返ってきた結果は無惨だった。

 

「なんだよ! ひょっとして喋るだけかよ!?」

 

「何言ってやがるんだ相棒! そ、それだけのはずがねえじゃねえか!!」

 

「お、なんだ? もしかして、すごい隠し機能でもあるのか?」

 

「あ……え……うん、あったと思うんだが……忘れた」

 

「使えねええええええええええ!!!!!!」

 

「ひでえええええええええええ!!!!!!」

 

 ――こうして、時は無情にも過ぎていき……結局、両者引き分けで試合は終了した。

 

 

「う~む、なんと言ったらいいのか……」

 

 正直コメントに困る試合だった……と、ギーシュは振り返る。うんうんと頷くキュルケに、頭を抱えるタバサ。あれが使い魔だなんて、タバサも大変ね……と、人ごとのように呟くルイズ。と、そこへ剣を鞘へ収めた後も未だ納得のいかない表情の才人と、してやったりという顔をした太公望が戻ってきた。

 

「張り切ってた割に、随分とみっともない戦いだったわね」

 

 ルイズの口撃に才人は何ら反論できなかった。ここ数日でつけたはずの自信に大きな(ひび)を入れられた。

 

「でも……ふたりとも無事でよかったわ」

 

 その言葉に才人がビクリとした。

 

「べべ、べつに、ああ、あんたの心配してたわけじゃ、なな、ないんだからね!」

 

 などという色々な意味で貴重な台詞は、しかし彼の耳には届かなかった。

 

 ――ふたりとも無事でよかった。

 

 才人は震えた。そうだ、俺が背負っているのは他人を傷つけるための武器なんだ。昨日までは、相手が『ワルキューレ』……生命を持たない人形だったから、そんなあたりまえで、大切なことに気付けなかった。それを、いくら挑発されて苛立っていたとはいえ、一瞬でも投げつけようと考えた自分が怖くなった。

 

 もしも、アイツが空を飛ばずに、あの場に残っていたら――?

 

 そのまま、デルフを振り抜いていたら――?

 

 異世界に来て心細かった俺の、初めて出来た友達を――この手で斬ってしまったかもしれない。

 

 全身の力が抜けた。そのままがっくりと崩れ落ち、膝をつく才人。いったいどうしたのよ、と、慌てて近寄ってきたルイズに何も答えることができない。と、そんな彼の肩に誰かがぽん、と手を乗せた――太公望だった。その顔は笑っていたが、さっきまでのそれとは違って見えた。

 

「その様子ならば大丈夫そうだのう。ま、振り回されんように気をつけろ」

 

 ――引き分けなんかじゃなかった。

 

 それまで得意の絶頂にあった平賀才人は、こうして地上へと戻ってきた。

 

 

○●○●○●○●

 

「終わった後だから言うがな、才人にもちゃんと逆転の目はあったのだぞ」

 

 模擬戦を終え寮塔へと向かう道すがら――太公望は突然そんなことを言い出した。

 

 そんなことはありえない。それは才人を含め、そこにいた全員の意見が一致するところだ。才人は魔法が使えない。持っている武器も〝インテリジェンス・ソード〟とはいえ、あくまで剣に過ぎない。空高く舞う太公望に対しては無力だ。

 

「まさか、剣を投げつければよかった……なんて言わないわよね?」

 

 ルイズが問うた声に、ビクンと才人が身を震わせる。

 

「いや、それはない」

 

「なら、いったいどうやって!?」

 

 解答を求める5人に太公望はフフンと鼻で笑って見せ、

 

「よ~く考えてみるのだ」

 

 と言うと、さらに言葉を続ける。

 

「そもそもだな。才人がそのような真似をする人物であったなら、わしはあんなルール設定をしたりはせぬよ」

 

「ふうん……あんた、ずいぶんサイトのこと信用してるのね」

 

 どこか悔しそうな、それでいて僅かに自分の使い魔に対する誇らしさが込められたルイズの一言に、太公望はこともなげに返答した。

 

「それはおぬしのほうが良くわかっておるのではないか? 今回の件にしても、才人はあくまで自分の力を試してみたかっただけで、誰彼構わず暴力を振るおうとしたわけではあるまい」

 

「え? うん、まあ、そう。そうね……」

 

 例の決闘のときはギーシュがルイズの〝爆発〟で怪我をしないか気遣っていたくらいだし、今回もあくまで模擬戦の申し込みをしただけだった。つまり、最初から命のやりとりをするつもりはなかったということになる。

 

 それに、この中でいちばん小柄で物静かなタバサに挑もうとしなかったことからして、少なくとも弱い者いじめをしたり、武力を背景に相手を脅すような性格ではないのだろう。タバサが『トライアングル』だと知っているかどうかはさておくとして。

 

 そんな風に考え込むうち、ルイズはあることを思い出した。これまで色々なことがあって確認するのをすっかり忘れていたのだ。

 

「あんたたち、やっぱり召喚前からの知り合いだったんでしょ」

 

「は?」

 

「なぬ?」

 

 思ってもみなかったその問いかけに、目を白黒させる才人と太公望。

 

「いまさらとぼける必要なんてないわ。だいたいその髪の色! 黒い髪なんて、このあたりじゃすっごく珍しいんだから。おまけに肌の色とか、顔の造りだって似てるじゃないのよ」

 

 タバサははっとした。ルイズの言う通りだ、どうして今まで気がつかなかったのだろう。メイジと平民。瞳の色や着ているものこそ異なっているが、同じ服を着せて横に並ばせたら兄弟――サイトが兄で、彼より頭半分ほど小さいタイコーボーが弟だと言っても通用するのではなかろうか。

 

「いや、召喚された次の日の朝に、たまたま声かけられただけなんだけど」

 

「嘘よ! それだけで、あんなに仲良さそうに話しかけるわけないじゃない!!」

 

「ああ、それは……」

 

 才人は説明した――学院内を歩いているうちに、道に迷って困っていたところを偶然通りかかった太公望に助けてもらったのだ、と。

 

「背中に乗せてもらったら、コイツものすげえ速さでビューンって飛んで、あっという間に目的地まで運んでくれてさ、そんで、お礼言わなきゃって思って慌てて名乗って……」

 

 ひたすらあの日の感動を語る才人の言葉は、残念ながら最後まで綴られることはなかった。

 

「なあサイト。ミスタ・タイコーボーの背中に乗って飛んだというのは本当かね?」

 

 そう問うたギーシュの声は、いつものそれと違い若干固くなっていたのだが……それに気がつくほど才人は鋭敏な感覚の持ち主ではなかった。

 

「え、こんなことで嘘ついたって仕方がないだろ」

 

 あはは……と笑った才人だったが、ここに至ってようやく周囲の空気がなんだかおかしいことに気がついた。そんな彼を見て、ルイズがはあっとため息をつく。

 

「あんたは魔法をよく知らないから、仕方ないんだけど……」

 

 呆然としたルイズの後を継いだのはギーシュ。

 

「自分以外の『荷物』を抱えたまま〝飛翔(フライ)〟の魔法を維持するのは、ランクの低いメイジにとってはかなり難しいことなんだ。その上、高速飛行まで可能とは……」

 

 ギーシュの説明をタバサが補足する。

 

「超高等技術。一緒に浮かび上がるだけならともかく、高速飛行なんてわたしにはできない」

 

 その場にいるメイジ達の視線が一斉に太公望へと向けられる。そして最後に、キュルケがとどめの一撃を繰り出した。

 

「つまり、ミスタ・タイコーボーは最低でも『トライアングル』。いいえ、最高位の『スクウェア』メイジと判断したほうが妥当ってところかしらね」

 

 場が静寂に包まれる。誰かがごくりと唾を飲み込む音がした。

 

「ええっと、この無知なわたくしめに教えていただけませんでしょうか、お嬢さま」

 

 突然、使い魔モードに入る才人。

 

「なにを聞きたいのかしら」

 

 寛大なご主人さまが教えてあげるわ! と、言わんばかりにぺったらな胸を思い切り反らしたルイズを見つつ頭の片隅で、

 

(せめてもう少し胸部装甲のボリュームがあれば、見た目とあわせて俺の好みど真ん中ストライクだったのにナ……)

 

 などと大変失礼なことを考えていた才人だったが、さすがにこの状況でそれを口に出すほど空気読めない子ではなかった。その代わりに先程挙げた質問を続ける。

 

「その『スクウェア』って、具体的にどのくらいスゴイんでしょうか」

 

「わたしのお母さまが、同じ風の『スクウェア』だけど……そうね、おもいっきり手加減して起こした竜巻で、このあいだ乗ったような馬車を空まで吹き飛ばす程度かしら?」

 

 ルイズの母親はトリステインのみならず、このハルケギニア世界ですら『伝説』と称される域に達したメイジである。ハッキリ言って一般的なスクウェアメイジへの比較対象としては(能力的な意味で)全く相応しくないのだが、そんなことは才人にはわからない。

 

「待って! 俺、安全牌のつもりがまさかの大型地雷踏んでたんですカ!?」

 

 先刻の精神的敗北ですっかり参っていた才人はさらなる事実を突きつけられ、あぐあぐと声にならない呻きを漏らした後……その場へ崩れ落ちた。

 

 ――この状況は、太公望にとって完全に想定外だった。

 

 まさか自分の飛行能力がそこまで高く評価されるとは。初日にタバサの〝飛翔〟を見ていたせいで、ここではごく当たり前のことだと思い込んでいたのが太公望最大の敗因であった。こうなっては仕方がない、なんとか事態を沈静化せねばならぬ……彼は、己の脳細胞をフル回転させ、善後策を講じる。それから1秒にも満たないわずかな時間で、今後の立ち位置を決定した。

 

「ばれてしまっては仕方がないのう。いかにも、わしは高位の〝風使い〟だ」

 

 スクウェアメイジ、とは言わない。あくまで自分は仙人なのだ。

 

「タバサはうすうす感づいておったのではないかの?」

 

 小さく頷くタバサ。

 

「あなたの纏う〝風〟は異質。『ドット』や『ライン』ではありえない程に」

 

「ならば、何故わしがそれを黙っていたのかは……言わずとも理解できるであろう? ただでさえわしはここでは異邦人、目立つ存在だ。そんな者が強い〝力〟を持っているとわかったら、どうなる? 結果は容易に想像がつくであろう?」

 

 言葉を止め、そこにいる全員に思考を促す。太公望は――多少の騒ぎを起こすことはあったが、基本的に穏やかな存在だった。いつも真面目に授業を受け、図書館へ籠もり、部屋へ戻っても書をめくっていた。今日の模擬戦にしても、嫌々ながら受けたにすぎない。結局のところ、彼はこの地で静かに暮らすことを願っているのだ……と。

 

「そういうわけで、わしの〝力〟については他言無用に願いたい」

 

 頭を下げる。まあ、そういうことなら……と、素直に受け入れるギーシュ。だが。

 

「条件がある」

 

「同じく」

 

「タダで、っていうのは虫が良すぎるわよね」

 

 タバサ、ルイズ、キュルケの3人は納得しなかった。目を輝かせながら太公望へとにじり寄ってゆく。ようやくこの曲者をイジるチャンスが来たのだ、逃す手はないということだろう。

 

「ま、まあそう簡単にはいかぬと思っておったが……わしにどうしろと?」

 

 額に汗を流しながら後ずさる太公望に、

 

「わたしとも模擬戦して」と迫るタバサ。

 

「東方のメイジとしての視点から、自分の魔法を見て欲しい」と願うルイズ。

 

 それを聞いて「東方の魔法について、色々と教えてもらいたいわ」と頼むキュルケ。

 

 彼女たちから一斉攻撃を受けた太公望は、必死の抵抗を見せるも遂には折れ――試合はお互いに怪我をさせない程度のものに留める、ルイズの魔法を見たり、自国の魔法について話をするのは、ここにいるメンバー以外の誰にも見られない場所で行う――という条件を付けることで、それを飲んだ。

 

 ちなみに「ついで」ということでギーシュと、ようやく立ち直った才人も仲間として迎えることを併せて承諾した。

 

「ところで、例の答えを教えてもらえるかしら?」

 

 ルイズが最初の質問――どうすれば才人に逆転の目があったのかに言及すると。太公望は、まるでなんでもないことのように解答した。

 

「なに、簡単なことだ。さっきのおぬしたちのように集団で挑んでくればよかったのだよ」

 

『制限時間10分。先にまいったと言わせたほうが勝ち』

 

 そう、このルールには『ひとりで戦わなければいけない』などという縛りはなかったのだから、あの場で観戦している者達に手助けを乞えば良かったのだ、と。

 

「もっとも、そんなことになったらわしは時間まで逃げることに全力を尽くしていたがのう」

 

 と、笑う太公望に一同はなんともいえない視線を投げることしかできなかった。

 

 

(まあ、このへんが落としどころかのう)

 

 それぞれの部屋に戻った後。寝床の中で、太公望は独りごちた。思わぬところから自身の持つ『能力』に興味を持たれてしまったが、そろそろ授業以外の場で実践的な魔法を見たいと思っていたところだし、ちょっとした試合をする程度なら問題ない。それに、彼女たちの出す要求を最後まで渋ったことで、面倒ごとを嫌うという印象を強化できた。おまけに望んでいた条件を付けられたのだから、これでよしとしよう……。

 

 ひとり納得し、眠りについた太公望の遙か頭上では、まだふたつの月が輝いていた――。

 

 

 





誤字報告ありがとうございました!
報告機能、指摘箇所がわかりやすくてすごく便利ですね。



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始まりの終わり
第8話 土くれ、学舎にて強襲す


 ――明けて翌朝。

 

 太公望が目を覚ますと、真上から己の顔をのぞき込んでいたタバサと目が合った。

 

「やっと起きた」

 

「……? いつもと変わらぬ時間のはずだが」

 

 太公望はよっこらせというかけ声と共に身体を起こし、上半身を伸ばした。そしてようやくタバサのほうに視線を向けると、既に着替えを終えていたらしい彼女は膝を揃えて畳み、彼の枕元に座っていた――節くれ立った長い木の杖を持って。

 

 そういえば。昨日の夜、彼女と試合することを承諾していた。まさか、これから一戦やりたいなどと言い出すのではあるまいな。太公望は内心冷や汗をかいた。

 

 彼はふと、崑崙にいた仲間のひとりである宝貝人間を思い出す。自分より強い者を見ると見境なく挑みかかるバトルマニア。

 

 タバサは彼のようなタイプではないと思うのだが……いや、そういえばめったに感情を表さないことといい、言葉少なであることといい、微妙に特徴がかぶるというか……。

 

(高位の〝風使い〟などと言ってしまったのは失敗だったかのう……)

 

 と、思わず頭を抱えそうになった太公望を思考の谷間から引き戻したのは、彼の寝間着の袖を掴み、くいくいっと引くタバサ。

 

「早く着替えて」

 

「いったい、何をそんなに急いでおるのだ?」

 

 内心、頼むから早く戦いたいとか言わないでくれ……と願っていた太公望だったが、その祈りはどうやらこの世界の『始祖』に届いていたようだ。

 

「もうすぐ日が昇る」

 

 すっ、と窓を指差したタバサがぽつりと言い、太公望の目をじっと見つめる。

 

「空」

 

 ああ、そういうことか。太公望は理解した。

 

「わしの背中に乗って、日の出が見たいと?」

 

 こくこくと首を小さく前後に揺らすタバサ。こんな玩具箱を目の前にした幼子のような態度で頼まれてしまっては、さすがの彼も断れない。苦笑いをして頷く。

 

「すぐ支度する。待っておれ」

 

 ――それから数分後。ふたりは窓の外へ飛び出した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それは、まさに幻想的な光景だった。高度3000メイル。地平線の向こうから顔を出す太陽は神々しいまでの輝きを放っており、遙か下界に望む魔法学院はまるで玩具の城のようだ。

 

 頬に当たる風が心地よい。風竜もかくやという速度で飛び続けているにも関わらず、向かい風の影響がその程度にしか感じられないのは、彼が周囲に張っている〝風の盾〟(ウィンド・シールド)のおかげだろう。

 

 タバサは本気で驚いていた。まさか〝飛翔〟の魔法でこれほどの速度が出せるとは思ってもみなかったのだ。その上で考えた。自分という『荷物』を乗せてなお、この速さを維持できるということは、ひとりで飛んだら……たとえ風竜の全力をもってしても、彼に追いつくことは敵わないのではないだろうかと。

 

 この〝力〟を借りることができたら――そこまで考えて、彼女は思い直した。確かに彼はわたしの使い魔だ。しかし『事故』で無理矢理言葉すら違う異郷へと連れてこられた無関係の人間でもある。こうして側にいてもらえるだけでもよしとしなければいけないのだ。

 

 それに……彼は争いを好まない。だからこそ、これまで自分の力量をひた隠しにしてきたのだろう。にも関わらず、手合わせを了承してくれた。スクウェアクラス、しかも異国のメイジと杖を交えることができるなど、得難い機会。そして、彼はほぼ間違いなく実戦を経験している。そんな相手と戦い、語り合うだけで、いったいどれほどのものが得られるか――それ以上を求めるのは、いくらなんでも贅沢というものだ。

 

 思わず、太公望の肩を掴んでいた手に力が込もる。

 

「どうした、もしや寒くなってきたかのう?」

 

 返ってきた反応は、暖かかった。

 

「大丈夫、なんでもない」

 

 タバサは思った。これで充分。こんな風に空を飛べただけで――。

 

 その後10分ほど空中遊覧を楽しんだふたりは、ゆっくりと寮塔5階にある自室へと舞い戻った……のだが。

 

 またもや〝解錠〟の魔法で部屋に突入していたキュルケ・ルイズ・才人の3人――キュルケと才人はタバサ同様、空への誘惑に抗えず待ちかまえていたらしい。ルイズは別の用件があったようだが――に見咎められてしまい。太公望はさんざん理屈を突きつけられた挙げ句、何度も空と地上を往復させられる羽目になり。

 

(スープーは、いつもこんな感じだったのかのう……)

 

 全員が満足するまで飛ばされ続けた太公望は、その後夜まで起き上がれなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――太公望が召喚されてから2回目の虚無の曜日、その夜。

 

 トリステイン魔法学院の本塔外壁に、漆黒のローブを纏った不審人物が()()()立っていた。壁に靴底をつけ、悠然と佇むその姿には、ある種の風格すら漂っている。

 

「情報じゃ、物理攻撃が弱点らしいけど……こんなにぶ厚かったら、ちょっとやそっとの魔法じゃどうしようもないねえ」

 

 この不審者は足の裏から伝わってくる感触で、塔外壁の状態を調べていたのだった。

 

「確かに〝固定化〟の魔法以外はかけられていないようだけど……」

 

 新たに〝錬金〟を重ね掛けすることによって無効化しようとしたのだが、効果がない。

 

 おそらく『スクウェア』クラス、それも相当の使い手がこの壁に〝固定化〟を施したのであろう。腕には自信を持っていたが『トライアングル』の自分には到底手が出せない。壁の上に立つ人物は、そう判断した。

 

「とてつもない試練を乗り越えて、やっとここまで来たってのに……ッ!」

 

 小声でそう呟きながら、ぎりっと歯噛みする。

 

「だからといって『破壊の杖』を諦めるわけにゃあいかないね……」

 

 その場で腕を組み、深く悩み始めたこの人物こそ今宵の主賓である。ただし、頭に『招かれざる』という注釈がつくのだが。

 

 

 ――いっぽうそのころ。

 

 タバサの部屋では新たな騒動が持ち上がっていた。

 

「この状態のわしにモノを頼もうなどとは……おぬしは鬼か」

 

 寝床の中から上半身だけを起こした太公望がぼやく。部屋の主であるタバサも、珍しくその瞳にはっきりとした怒りの色をたたえている。

 

「そ、それは、や、やりすぎちゃったとは思ってるんだけど」

 

「思ってるだけかい!」

 

 ガーッ! と、大口開けて威嚇する太公望の姿にさすがに焦ったのであろう、才人は主人のマントの裾を掴んで軽く引っ張った。

 

「ごめん、やっぱ無理だよな。ほら、帰るぞルイズ」

 

 今回騒ぎを持ち込んだのは、ルイズと才人の主従であった。せっかくの虚無の曜日、太公望の気が変わらないうちに、東方の技(?)で自分の魔法について調査してもらいたい……。

 

 そう考えたルイズは彼と仲の良い才人を連れて、朝早くにタバサの部屋を訪れたのだが。キュルケと才人たちの悪ふざけに乗っかってしまった上に、空を舞う楽しさにうっかり我を忘れた結果……肝心な用件を伝える前に太公望は倒れてしまったのである。

 

「まあ、おぬしの事情はわかった。約束だからのう、わしなりに調べてやってもよい」

 

「ホント!?」

 

 ぱっとルイズの顔が輝く。

 

「だが、さすがに今日のところは無理だ。回復し次第見てやるから、しばし待て」

 

「そ、そうよね。あ、えっと……ごめんなさい」

 

 素直に詫びるルイズの姿に驚いた才人とタバサが目を丸くする。そんな彼らを見て、さすがの太公望も怒る気が失せたらしい。やれやれ、と疲れたように口を開く。

 

「だが、過度な期待は禁物だぞ。これまで誰にも失敗の原因がわからなかったおぬしの魔法について、教師でも研究者でもないわしが正しく見極められるとは限らん。むしろ、解明出来なくて当たり前。そのくらいの覚悟はしておいて欲しい」

 

 その言葉にビクリと身体を震わせたルイズだったが、気丈にも声を絞り出した。

 

「……ええ。王立アカデミーにいる姉さまにもわからなかったんですもの。覚悟はできてるわ」

 

 その答えに満足したのか、太公望はしっかりと頷いた。

 

「ならば……」

 

 ドゴォォォオオ……ン。

 

 だがしかし、その言葉は外から聞こえてきた突然の轟音によってかき消される。いち早く異変に反応し、窓の側へと駆け寄ったタバサは見た。

 

 ――本塔のすぐ側。月明かりの下に、巨人が顕現しているのを。

 

 

○●○●○●○●

 

 タバサは急いで〝遠見〟の呪文を唱え、外を確認した。本塔脇の中庭に土で造られたとおぼしき巨大なゴーレムが立っている。あれは、まさか……。

 

「土くれ」

 

「何だ、それは」

 

「最近、この国を中心に暴れ回っている盗賊。あなたはそこにいて」

 

 未だ起き上がれない太公望へそう告げると、タバサは杖を持って窓から勢いよく空へ飛び出した。だが、そのとき部屋から飛び出したのは――窓ではなく廊下の扉からだったが――タバサだけではない。ルイズが『土くれ』という名前にいち早く反応していた。

 

 彼女はその名を聞いたことがあった。強力な土魔法を用いて頑丈な建造物や金庫の壁をただの土くれに変え、奥に納められた魔法の宝物を盗み出すという神出鬼没の大怪盗――それが『土くれ』のフーケだ。とある貴族の家に代々伝わる魔法のティアラが奪われたとか、王立銀行を白昼堂々襲撃したといった噂話がまことしやかに流されている。

 

 ただし、どんなに金を持っていても平民の元へは決して押し入ることがなく、あえて貴族の財宝だけを狙うことから、一部の平民たちからは義賊などと持て囃されていた。それがまた貴族たちにとって癪の種となっているのだ。

 

「『土くれ』がここに来たってことは、本塔にある宝物庫狙いに決まってるわ!」

 

 なら、自分がするべきことはひとつだ。ルイズは中庭へ向かって駆け出した。そんな彼女を才人は慌てて呼び止める。

 

「おい、どこ行くんだよ。まさか……」

 

「そのまさかよ」

 

「あんなデカいの、お前ひとりでどうするっていうんだ! 下手すりゃ死ぬぞ!!」

 

 慌てて制止しようとする才人を振り払う。

 

「こういうときに何とかするのが貴族の役目よ!」

 

 彼女のどこまでもまっすぐなその姿勢が、才人にはとても眩しく見えた。ルイズの手助けがしたい――彼はこのとき初めて、心の底からそう思った。

 

「使い魔は主人の盾になるんだろ。デルフ取ってくるから、出口で合流しようぜ」

 

「なによ、無理しちゃって」

 

「お前にだけは言われたくねえな」

 

 そして、すぐさま相棒を背負って玄関へ駆けつけた才人と、同じく外の轟音に気がついて駆けつけてきたキュルケを加えた3人組は、互いに憎まれ口を叩きつつも、ばたばたと事件現場へ向かって急行した。

 

 ――結論から言えば、彼らの行為は無駄にはならなかった。ただ残念なことに、怪盗捕縛という結果ではなく、より事態を複雑にしてしまったという意味において……だが。

 

 

○●○●○●○●

 

「くそッ、ここで諦めてたまるもんかい!」」

 

 『土くれ』の2つ名で呼ばれ、トリステイン国内はおろか、隣国までその名を轟かせる大怪盗フーケは、珍しく焦っていた。

 

 ウルの月――フレイヤの週、虚無の曜日。

 

 この日、学院長のオスマン氏が所用でトリスタニアの街へ出向く。学院最高責任者にして、いちばんの使い手である彼が1日中不在となる――その情報を元に決行の日を定めたはずだったのだが……想定以上に目標の守りが堅かった。

 

 得意の〝錬金〟は、やはりこの宝物庫を護る壁には通用しない。しかし、この場でぐずぐずしていたら人目に付く危険性がある。こうなれば最後の手段とばかりに、フーケは人型のゴーレムを生成した。全長30メイル、単体で城攻めすら可能な『土くれ』自慢の巨大ゴーレムだ。

 

 そのゴーレムの拳で目的の場所――宝物庫の外壁を殴る。殴る。殴る。ビクともしない。拳の部分を鉄に変えて、さらに衝撃を与え続けてみた。が、ヒビひとつ入れることができない。

 

「ちッ。逃走後のことを考えるとこれ以上〝精神力〟を使うのは危険だ。悔しいけど、引くしかないのか……?」

 

 その時、思わぬ事態が発生した。突如ゴーレムの脇――1メイルほどの位置で爆発が起こり、そこに亀裂が入ったのだ。しかも、ご丁寧に周囲の〝固定化〟まで解除されている。即座にそれに気付いたフーケは、ニヤリと嗤った。

 

「誰だか知らないが、ご協力感謝するよ」

 

 このチャンスを見逃す手はない。生じた亀裂めがけてゴーレムの拳を振り下ろす。バカッという音と共に、人ひとりが通り抜けられるほどの穴が開いた。フーケはゴーレムの腕を伝い、宝物庫内部へと進入した。中にはたくさんのお宝――〝魔法具〟(マジック・アイテム)が納められていたが、今回の目標はただひとつ。さまざまな杖が立て掛けられた一角。その中に、どうやっても杖には見えない品がある。フーケはそれを手に取ると、急いでゴーレムの肩に飛び乗った。

 

 去り際に、杖――今回持ち出したブツではなく、愛用のものをさっと一振りすると、宝物庫の内壁に文字が刻まれた。

 

『破壊の杖、確かに領収いたしました。土くれのフーケ』

 

 そして、フーケは闇夜の中へと消えていった――。

 

「あれは、どういうこと?」

 

 窓から飛び出した後、ゴーレムからの死角となる建物脇の植え込みに身を隠しつつ密やかに件の巨大ゴーレムへ接近しつつあったタバサは、突然の事態に眉をひそめた。

 

 それまで、巨大ゴーレムの攻撃にびくともしなかった本塔外壁。そこにルイズの〝爆発〟が――ゴーレムの肩に乗っていた人物に当てようとして外したのだと思われる魔法が直撃した瞬間、あれだけの強度を誇っていた壁に大きな亀裂が走ったのだ。ついに攻撃に耐えられなくなったのか? それにしては――。

 

(検証している場合ではない。今行うべきは、早急にゴーレムを使役しているメイジ――おそらくは、あの肩に乗っている黒いローブを纏った人物。それを確保すること)

 

 タバサは即座に思考を切り替え、行動に移った。

 

 だがしかし、その作戦は失敗に終わってしまった。何故なら、それから間もなくして目標物――巨大ゴーレムが突如音を立てて崩れ落ち、それと共に舞い散った大量の砂煙が彼女の視覚を完全に遮ってしまったからだ。

 

 視界が晴れると、そこには堆く積み上がった土――元はゴーレムであっただろうモノが小さな山を形成しており、黒いローブを着たメイジの姿は跡形もなく消え去っていた――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌朝。トリステイン魔法学院は喧噪に包まれていた。

 

 魔法学院内で厳重に保管されていた秘宝『破壊の杖』が、昨今噂でもちきりの怪盗『土くれ』のフーケによって盗まれてしまったからである。しかも巨大なゴーレムを用い、その腕力でもって保管場所の壁を破壊するという大胆不敵な方法によって。

 

 事件現場となった宝物庫には学院中の教員たちが集まっていたが、事態は昨夜から何ひとつとして動いていなかった。何故なら……。

 

「衛兵は何をしておったのだ! やはり平民など当てにならん」

 

「それより、当直の貴族は誰だったのだね!?」

 

 と、まあ彼らはこんな風にずっと責任のなすりつけあいを続けていたからだ。

 

 ――わたしたちは、何のためにこの場へ駆り出されたのだろう。

 

 タバサは冷めきった目で周囲を観察していた。無理もない、昨夜の事件を目撃した者のひとりとして招集を受けたにもかかわらず、未だに事情聴取すら行われていないのだから。

 

 同じく呼び出された面々はと見ると、キュルケは欠伸をかみ殺した表情で側の壁に寄りかかっていて。才人は物珍しそうに辺りを見回しており。ルイズは俯いて、小さく肩を震わせていた。こんなことなら彼を部屋に残してきたほうが良かったかもしれない。自分の横に腕を後ろ手に組んで立つ、未だ顔色の優れぬ太公望に、タバサは心の中で詫びた。

 

 それから約10分ほどして――その日の当直であったにも関わらず、部屋で眠ってしまっていたミセス・シュヴルーズが槍玉に挙げられたちょうどその時、押っ取り刀でトリスタニアの街から戻ってきたオスマン氏が姿を現した。唾を飛ばしながらシュヴルーズを責める貴族たちを一瞥した後、彼はこう述べた。

 

「この中でまともに当直をしたことのある教師は、いったい何人おるのかな?」

 

 オスマン氏の問いかけに誰も反応しない。それどころか、顔を伏せて目立たぬようにする者までいる始末。

 

「さて、これが現実じゃ。責任を追及するというのなら、ここにいる全教員……もちろんわしも含めて、ということになる」

 

 宝物庫の中に重い沈黙がのし掛かる。

 

「皆、この魔法学院が賊に襲われるなどとは思ってもおらなんだ。なにせ、国内で王宮の次に多くのメイジが集っておる施設じゃからのう。そんな場所へ忍び込むなぞ、ブレスを吐こうとしているドラゴンの眼前に飛び込むようなもんじゃ。そんな真似をする馬鹿がいる訳がない、そう考えとった。しかし、その認識が間違いだったということは……これが証明しておる」

 

 オスマン氏は宝物庫の壁に開けられた大穴に目をやった後、再び視線を室内に戻す。

 

「つまり、これはわしを含む教員全員の認識の甘さが招いた事態だということじゃ」

 

 苦々しげに告げると、オスマン氏は教師たちに尋ねた。

 

「で、犯行の現場を見ていた者達がいると聞いてきたのだが?」

 

「この3人です」

 

 オスマン氏の質問にコルベールが前へ進み出て、自分の後ろに控えていたタバサ・ルイズ・キュルケの3人を指差した。才人と太公望も側にいたが、才人は使い魔なので数に入っておらず、そもそも太公望はただの付き添いなので目撃者ではない。

 

「ほほう……君たちかね」

 

 オスマン氏は、興味深そうに才人と太公望を見つめた。才人はどうして自分がじろじろ見られているのかわからず、しかしどうやら相手が偉い人物だということは理解していたので、姿勢を正して畏まった。太公望はというと、一瞬ピクリと眉を動かしただけで、特に何もしなかった。

 

「では、当時の状況を詳しく説明してもらおう」

 

 代表として前へ出たルイズが襲撃時に見たこと、聞いたものを伝える。

 

「夕べ、いきなり外で大きな音がしたんです。驚いて窓を開けたら、本塔の側に大きなゴーレムが立っていて、何度も壁を殴っていました。急いで駆け付けたんですけど、その、塔に穴を開けられてしまって……」

 

「この穴じゃな?」

 

「はい。それからすぐに、ゴーレムの肩に乗っていた黒ずくめのメイジが中へ飛び込んで、中から何か……たぶん『破壊の杖』だと思いますが、それを盗んだあと、すぐにゴーレムの肩に戻って学院の外壁を超えたんです。わたしたち、もちろん追いかけようとしました。でも、ゴーレムがいきなり崩れ出して……酷い土埃のせいで見失っちゃったんです」

 

「他に覚えていることはないかね?」

 

「申し訳ありません、これ以上は何も……」

 

 説明を聞き終えたオスマン氏は、深々とため息をついた。

 

「後を追おうにも、手がかりなしという訳か」

 

 立派な白髭を撫でつけながら何事かを考えていた彼は、ふとこの場にいるべき人物の姿が見えないことに気がついた。

 

「ときに、ミス・ロングビルはどうしたね?」

 

 学院長の補佐をしてしかるべき彼の秘書、ミス・ロングビルがいないのだ。その場にいた教師たちに行方を尋ねたが要領を得ない答えが返ってくるのみ。一体彼女は何をしているのか……。

 

 と、まさに『噂をすれば影が差す』という諺を実証するようなタイミングで問題の秘書ミス・ロングビルが姿を現した。

 

「いったいどこへ行っていたのかね? こんな大事件が起きていたというのに」

 

 オスマン氏の問いかけに、ロングビルは落ち着き払った態度で答えた。

 

「申し訳ありません、朝から調査に出ておりましたの」

 

「調査?」

 

 彼女曰く、朝起きたら学院中が針でつついたような騒ぎになっていた。何事かと駆けつけてみれば、本塔の側壁に大きな穴がぽっかりと開いているではないか。

 

 まさかと思い宝物庫へ急ぐと、壁に書かれたフーケのサインを見つけた。これは国中の貴族を震え上がらせている大盗賊の仕業かと畏れおののきながらも、自分にできる仕事――事件の調査を開始したのだという。

 

「仕事が早いのう、ミス。で……結果は?」

 

「はい。フーケの居所がわかりました」

 

 室内中から、おおっという感嘆の声が漏れる。

 

「どうやってそれを調べ上げたんじゃね? ミス・ロングビル」

 

「はい。近隣の農民たちから話を聞いて回りました。そのうちのひとりが、近くの森の廃屋に入っていった黒づくめのローブの男を見たそうです。おそらくですが、その男がフーケで、廃屋は彼の隠れ家なのではないかと判断しました。ですので、こうして急ぎお知らせをと」

 

 それまで後ろに控えていたルイズが叫んだ。

 

「黒ずくめのローブ!? それはフーケです、間違いありません!!」

 

 オスマン氏は目に鋭い光を宿し、ロングビルに確認した。

 

「そこは、近いのかね?」

 

「はい、徒歩で半日。馬で4時間といったところでしょうか」

 

 宝物庫の内部は再びざわめいた。

 

「すぐに王室へ報告しましょう!」

 

「左様、王国衛士隊の中から選りすぐりの兵たちを差し向けてもらわねば!」

 

 学院長は大げさにため息をつくと、教員たちを一喝した。

 

「このたわけものどもが!!」

 

 年齢にそぐわぬ大音声に、教員たちが竦み上がる。

 

「王室へ報せる? 馬鹿を言うでない! そんなちんたらした真似しとる間にフーケが逃げてしまうじゃろうが! それに、己の身に降りかかった火の粉を払えずして何が貴族、何がメイジか! 魔法学院の宝が盗まれたのは学院の問題である。当然我ら自身の手で解決すべきじゃ!!」

 

 ミス・ロングビルは微笑んだ。まるで、この答えを待っていたかのように……。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ルイズには、現在の状況が理解できなかった。

 

 ここに勢揃いしている教員たちは、全員が『トライアングル』以上の優秀なメイジだ。入学式で説明を受けたのだから間違いない。つまり、落ちこぼれで、いつも魔法を失敗してばかりいる自分などよりも、ずっと優れた貴族であるはずなのだ。

 

 にも関わらず、学院長がフーケ討伐隊の有志を募っているというのに誰も杖を掲げ、我こそはと名乗り出ようとしない。そもそも、夕べはあんなに大きな音が学院内に響いていたのに、駆け付けてきたのは外国からの留学生であるキュルケとタバサだけ。

 

 入学したての1年生はまだしも、普段から威張り散らしている上級生も、ルイズを『ゼロ』と馬鹿にして笑っていた同級生たちも現場に姿を現さなかった。それがルイズには不思議でたまらなかった。

 

 何故なら彼女は、幼い頃からずっと、

 

「貴族は民の模範たるべき存在であり、決して敵に後ろを見せてはならない」

 

 そのように親から教わり、育てられてきた。

 

 だから至極当然のように――ルイズは自分の顔前に杖を掲げた。

 

「ミス・ヴァリエール! あなたは生徒じゃないですか。ここは教師に任せて……」

 

 ミセス・シュヴルーズが驚いて彼女を思いとどまらせようとしたものの。

 

「誰も掲げないじゃないですか」

 

 ルイズの反論を受け、黙り込んでしまった。そんなやり取りがあってもなお、誰も杖どころか声ひとつ上げない。

 

(どうして? わたしにはわからない……)

 

 昏い感情が渦のようになって、ルイズの心の中でぐるぐると廻っていた。

 

(いいわ、それなら……わたしひとりでも!)

 

 そう言葉を紡ごうとした途端、1本の杖が掲げられた。

 

「ふん、ヴァリエールには負けられませんわ」

 

 キュルケだった。

 

 ツェルプストー家の女。数百年以上前から国境を挟んで睨み合いを続けてきた、ヴァリエール家の仇敵……そのはずだ。

 

 そんな彼女につられたように、もう1本杖が掲げられた。今度はタバサだ。

 

「心配」

 

 そういえば、最近はよく彼女たちと行動を共にしてきた気がする。ついさっきまでどす黒い感情が渦巻いていたルイズの心の内に、ほんのりと暖かい何かが灯った。

 

「ありがとう……」

 

 ルイズの口から、自然と礼の言葉が紡ぎ出された。

 

 そんな彼女たちの様子を見ていたオスマン氏の表情が緩んだ。

 

「そうか。それでは君たちに頼むとしよう」

 

 ――わたしは、この期待に応えたい。そのためには、なんだってしてみせる。ルイズは心の中でひとり静かに誓いを立てた。

 

「そんな! わたくしは反対ですわ!」

 

「そうです! 生徒たちを、そんな危険に晒すだなんて」

 

 生徒たちだけで盗賊討伐へ赴くという異常事態に対し、ようやく声を上げたのはシュヴルーズとコルベール。ところが『炎蛇』などという仰々しい二つ名を持つコルベールは、オスマン氏の視線を受けただけで後ろへ下がってしまった。

 

「ではミセス・シュヴルーズ。彼女たちに同行を……」

 

「あ、いえ、わたしは体調が優れませんので……その、申し訳ございません」

 

「そうか、ならば仕方ないのう」

 

 肩を落としたオスマン氏は、ちらりとタバサに視線を向けた。

 

「ミス・タバサは若くして騎士(シュバリエ)の称号を持つ実力者だと聞いておる」

 

 タバサは返事もせずにその場に突っ立っている。教師たちは驚いたように小柄な少女を見つめた。彼女の親友であるキュルケも、初めて知ったというような顔をしている。

 

「シュバなんとかって、何?」

 

 小声で聞いてきた才人の問いに、これまた小さくルイズが答える。

 

「王室から与えられる爵位のことよ。爵位としては最下級の称号だけど、国から認められるような業績を挙げないと手に入らない……正真正銘、実力の証」

 

「そしてその使い魔は……東の彼方、ロバ・アル・カリイエから召喚されたメイジにして〝風〟と〝火〟の使い手だという報告を受けておる」

 

 場がどよめく。

 

「……火?」

 

 ポツリと咎めるような口調で呟いたタバサに、

 

「薪占いの件、まだ根に持っとるんかいあの狸ジジイ! ああ、ちなみに触媒使ってやっと火花を起こすのがせいぜいであるので、そっちには期待しないで欲しい」

 

 表情を全く動かさず、囁くように答える太公望。

 

 ちなみに、これは彼がハルケギニアに来てから自分の能力について述べたものの中において、珍しく本当のことだ。かつて火属性の宝貝を手に入れた際もうまく使いこなすことができず、武器の扱いに長ける仲間に譲ってしまったほどである――閑話休題。

 

 次に、オスマン氏はキュルケを紹介した。

 

「ミス・ツェルプストーは、ゲルマニアの優秀な軍人を多く輩出した家の出で、彼女自身も火の『トライアングル』と聞いておる」

 

 キュルケは得意げに、髪を掻き上げた。

 

「そして、ミス・ヴァリエールは、その……数々の優秀なメイジを輩出した公爵家の息女で、あー、なんだ。将来有望なメイジと期待しておる」

 

 すると、オスマン氏の言にかぶせるようにコルベールが口を挟む。

 

「しかも、その使い魔は伝説のガンダー……うぐ」

 

 オスマン氏は、なにやら慌てた様子でコルベールの口を塞いだ後、集まった教師たちを見回して尋ねた。

 

「彼らに勝てる者がいるというのなら、前に出たまえ」

 

 出て行った者は、誰ひとりとして居なかった。

 

「まあ、そうですよネ。メイジ優遇社会ですもんネ……」

 

 ついに自分が紹介される! と、胸を張っていた才人はあっさりと流されてしまったことに肩を落とす。オスマン氏は5人に向き直ると、朗々と告げた。

 

「魔法学院は、諸君の努力と貴族の義務に期待する」

 

 ルイズとタバサとキュルケの3人は、真顔になって直立し、唱和した。

 

「杖にかけて!」

 

 

 




原作で、伏羲が惑星上で空間移動を使わずに飛んで移動していたことが
ありましたが、描写からしてスープーよりも速いと感じたため
太公望はこんなに速くなりました。伏羲よりはだいぶ遅いですが。
とはいえ、これはあくまで私独自の解釈ですのであしからず……。


なお、前言撤回で恐縮ですが、ストックが半分を切るまでの間は
1日2話投稿になります。あらかじめご了承ください。


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第9話 軍師、座して機を待つの事

「では、改めて情報を整理するぞ」

 

 学生(+α)によるフーケ討伐隊が結成されてから間もなくして。宝物庫内に集められていた教員たちはそれぞれの職務へと戻り……関係者のみがその場に残って作戦会議を開いていた。

 

 会議参加者はタバサ、ルイズ、才人、キュルケの四人と、議長役の太公望。彼らに協力を申し出たミス・ロングビルの計六名である。

 

「ねえ。なんでミスタ・タイコーボーが仕切ってる訳?」

 

 形の良い眉をへの字に曲げて不満を口にするルイズに、タバサが応えた。

 

「わたしが頼んだ。彼が最適」

 

「そ、そうかもしれないけど……」

 

 〝使い魔召喚の儀〟から既に二週間。これまでの経緯もあり、ルイズは太公望――タバサの使い魔の作戦立案能力に疑いを持っているわけではない。

 

 だが、これは魔法学院の……ひいてはトリステイン王国の問題だ。つまり、トリステイン貴族である自分が責任をもって取り仕切るべき。そう主張したのだが。

 

「俺はタイコーボーがいいと思う」

 

「あたしも」

 

「わたくしは協力者ですので」

 

「うぐぐ……」

 

 言葉に詰まるルイズ。

 

(他の全員が納得しているのに、これじゃわたしだけが聞き分けのない子供みたいじゃない!)

 

「わ、わかったわ。勘違いしないで、べ、べつにあんたが気に入らないって訳じゃないのよ」

 

 渋々了解したルイズに頷いて見せる太公望。

 

「任されたからには、きっちりと仕切ってやるわ。さて……ミス・ロングビル、でよかったかのう? もういちど、おぬしが得てきた情報について確認させてもらいたいのだが」

 

「はい。何でもお聞きください」

 

「情報提供者は、近隣に住む農民。黒いローブをまとった賊とおぼしき男が近くの森の奥に建っている廃屋に入っていくところを見た。場所はここから徒歩で半日、馬で四時間ほどの位置にある深い森の中。どこかに抜けはあるかのう?」

 

「いいえ、それで間違いありません」

 

 ロングビルの返答を聞き「なるほど……」と、目を閉じてしばし考え込む太公望。

 

「で、その場所は学院側から見てどの方向にあるのだ? それと、廃屋近辺の地形――たとえば足元が岩場であるとか、廃屋は全部で何軒あるのか、どれほどの規模なのか、その廃屋が何で、どんな目的で造られた建物であるのか、周囲の場は開けておるのか……そういった類の情報について、何か聞いてはおらぬかのう?」

 

 この太公望の発言に、慌てたように答えるロングビル。

 

「えっ!? あ、そ、そ、それでしたら学院から西の方角にあるようです。廃屋は木造、木こりが使っていたという炭焼き小屋で、一軒。それなりに深い森の中の、少し開けた場所に建てられていて……地面は、ええと、ごくありきたりな土だったはずです。申し訳ありません、さすがにこれ以上のことはわかりませんでした」

 

 彼女の答えに、ほうっと声を上げた太公望。その顔には笑みが溢れていた。

 

「謙遜する必要はない! こんな短時間でそこまで聞き出してくるとは……おぬし、随分と仕事ができるのう。あの狸ジジイの秘書なんぞにしておくには惜しい人材だ」

 

 そんな太公望の言葉に、うんうんと頷いて賛同する一同。全員に褒められて悪い気はしないのであろう、ロングビルは恥ずかしそうに微笑んでいる。

 

「おぬしのおかげで、いくつかのことがわかった。まず、敵は複数犯。また、現在その廃屋にいる可能性はほぼゼロ。さらに、盗まれた品は既に他の場所へ運ばれているであろう」

 

「えーっ!!!」

 

 驚く一同。ミス・ロングビルの笑顔は引きつっていた。

 

「あ、あの、どうしてそう思われたのか、教えていただけますか?」

 

「人目を忍ぶ盗賊が、わざわざ黒いローブを着て移動していた……これがひとつ。本気で逃げるつもりなら、そんなあからさまに怪しい服なぞ脱いでおる。見つけてもらいたいからそんな真似をしておるのだと判断した」

 

「その男が囮」

 

 タバサがポツリと補足する。

 

「そういうことだ。おまけに深い森の中の一軒家だと? そんな不便な立地、しかも近隣の住民に出入りする姿を見られるような場所を隠れ家なんぞにするわけがないわ! これがふたつ目の理由といったところか。目立つ囮を立てて、本命は今頃ゆうゆうと別の場所へ向かっておるのだ。さすがは諸国に名を轟かす大盗賊だのう」

 

 一挙に畳み掛けた太公望の説明に言葉を失う討伐隊メンバー。せっかくフーケの足取りが掴めたと思ったら、それが目くらましだと断言されてしまったのだ。その反応は当然だろう。

 

「あっ、あの、すみません、実はその付近でゴーレムを見たという情報も」

 

 突然思い出したように情報を追加したロングビルであったが、太公望はあっさりとその言を斬り捨てる。

 

「なるほど、ますます囮確定だ。というわけで、その廃屋には行くだけ無駄であろう。残念な結果になってしまったが、この上は速やかにトリステインの王室なり役人なりに被害を報告すべきだとわしは考える」

 

「む、無駄とは思えません! 囮だとしても何か手がかりが残っているかも……」

 

「そうよ! そんなの行ってみなきゃわからないじゃない!!」

 

 会議参加者を見回しながら意見を述べた太公望に強く反論したのは、ミス・ロングビルと、ルイズのふたりだった。

 

「わしは無駄足になるだけだと思うのだが……」

 

 腕を身体の前で組み、渋い顔をする太公望に声をかけたのはタバサ。

 

「なら、あなたはここに残って」

 

「た、タバサ!?」

 

「どちらにせよ、いまだに体調が万全ではないあなたを連れて行く気はなかった。学院長へはわたしから謝罪する」

 

「うぬぬぬ……そこまで言うなら止めはせぬが……」

 

 ううむと唸りながら答える太公望。と、何かを思い出したかのようにぽんと手を打った。

 

「そういえば、破壊の杖を実際に見たことがある者はおるか?」

 

 才人を除く女性四人が手を挙げる。

 

「ふむ……この四名が知っておれば大丈夫だろうが、才人にも覚えておいてもらおう。まさか例の廃屋に隠されていたりはしないと思うが、念のためだ。誰か、簡単なものでかまわぬから絵図を描いてはくれぬかのう?」

 

 その言葉に応えたロングビルによって描かれたものは、どう見ても杖とは思えなかった。長い円筒形の物体に複数のパーツがついている。才人はこれと非常によく似たものに覚えがあった。しかし、まさか()()がこの魔法世界にあるとは思えない。

 

「ほう、上手いものだのう……で、これの大きさは?」

 

「確か長さは七~八十サント、太さは七~八サントくらいだったと思います」

 

「なるほど。特徴的な見た目であるし、これなら間違えることもないであろう。しかし……これは本当に杖なのかのう?」

 

 首をひねる太公望に、

 

「杖……なのではないでしょうか? わたくしも詳しくはわかりませんが」

 

(うん、きっと気のせいだ)

 

 そう結論付けた才人は、さらに続く説明を、ぼんやりと聞いていた。

 

 

 ――それから十分後。

 

「わたしたちは学院長に報告してくる。あなたたちは門で待っていて」

 

「では、わたくしは馬車を用意して参ります」

 

 学院長室へ向かうタバサと太公望、厩舎へと急ぐロングビルを見送ったルイズ・才人・キュルケの三人組は、揃って学院の大門へと歩を進めていた。

 

「あ~あ。こんなことになるんなら、昨日あんな悪ノリしなきゃよかったわ」

 

「だよなあ。タイコーボーが来られないって、戦力的にも痛いよな」

 

 結局、件の廃屋へ向かうメンバーに太公望は同行しないことになった。

 

 当初は不満を持っていた一部のメンバーも、会議を終えた途端その場にへたり込むように膝をついてしまった彼の姿を見ている。それほど疲弊した相手に文句など言えるはずがなかった。それが自分たちの悪ふざけが原因であれば、なおさらだ。

 

「なに言ってんのよ! そもそも、あいつに頼っちゃいけないのよ。これはわたしたちの問題なんだから!」

 

「話を逸らすんじゃないわよ。あなただって楽しんでいたくせに」

 

「うぐ……あ、あんたこそ、文句言うなら来なきゃよかったじゃないのよ!」

 

 その後、校門へ到着してもなお続けられた彼女たちの口論は、才人が仲裁に入っても終わらず、タバサとミス・ロングビルが合流するまで繰り広げられたのであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――魔法学院から出立してから四時間後。

 

 才人たちを乗せた馬車は、深い森の中を進んでいた。鬱蒼と生い茂る木々に阻まれて太陽の光が届かず、昼間だというのに周囲は薄暗い。

 

「なんか気味わりいな」

 

 使い魔が漏らした呟きに、主人が噛み付く。

 

「ふん、意気地がないわね」

 

「あら? 手が震えてるわよ、ヴァリエール」

 

「馬鹿言わないでツェルプストー! 震えてなんか……」

 

 ルイズが言い返した直後、大きな羽音とカラスの鳴き声が響き渡った。

 

「……ッ!!」

 

 突然のことに驚いたのだろう、ルイズは思わず才人の背中にしがみつく。

 

「お、なんだ。ルイズも怖いんじゃん」

 

「こ、怖くなんかないんだから!」

 

「痛え! 背中叩くんじゃねえよ!!」

 

「皆さんお静かに。そろそろ目的地に着きますよ」

 

 御者を務めていたミス・ロングビルの制止に黙り込む主従。

 

 それからしばらく進むと道幅が狭くなり、馬車での移動が困難になった。

 

「この先?」

 

「はい。馬車はここに止めて歩いて行きましょう」

 

 タバサの確認に頷くロングビル。全員が馬車を降り、側の木に馬を繋いで山道を歩き始める。

 

 十五分ほど歩き、一行は目指していた場所に到着した。

 

「あの小屋ね」

 

 生い茂る木々の中に、ぽつんと開けた空き地。その中央に一軒の小屋が建っていた。ロングビルが集めてきた情報通りである。五人は小屋の中から見えない位置に身を潜めたまま、タバサの指揮に従って互いの役割を確認する。

 

 現地に着いたら何をするかについて、彼らは馬車での道中に相談済みだった。まずは偵察兼囮を放つ。フーケがいた場合は外へおびき出し、姿を見せたところへ魔法で一斉攻撃をかける。

 

 名誉ある斥候として指名されたのは才人だった。彼は当然のごとく不満を表明したが、タバサから全員の中で最も素早く、接近戦になった場合の剣の腕を買っているからだと説明されると、表情を引き締めて頷いた。だが、その口端はほんの少しだけ上がっていた。

 

 中に誰もいなかった場合は実戦経験を持つタバサと、フーケと同じ〝土〟のメイジであるロングビルが外で周囲を警戒。残りは屋内に手がかりが残されていないかどうか調査を行う。何か発見したら、すぐさま知らせる――以上がタバサが中心となって立案し、決定した作戦内容である。

 

「あの、わたくしは周囲の様子を偵察してこようと思うんですが」

 

「却下」

 

 ミス・ロングビルの提案をタバサは即座に切り捨てた。

 

「な、何故ですの?」

 

「小屋の中ではゴーレムを出せない。あそこには錬成に必要な土が無いから」

 

「ですが、もしもフーケが遠くからあのゴーレムで襲いかかってきたら……!」

 

「これはそのための配置。あれだけの質量を生成するには時間がかかる。サイトのスピードなら単独でゴーレムの攻撃範囲から離脱可能。他のメンバーも、指揮官の側にいれば即座に対応できる。複数犯の可能性がある以上、戦力を分散させるほうが危険」

 

「ゴチャゴチャ言ってても始まらないぜ」

 

 痺れを切らした才人が鞘からデルフリンガーを抜いた。左手のルーンが光り出す。

 

「んじゃ、行ってくる」

 

「おおっ、ついに実戦か!」

 

 才人は歓喜の声を上げたデルフを黙らせると、すっと一足飛びに小屋の側へ近づき、おそるおそる窓の中をのぞき込んだ。ひと部屋しかないその中に、埃のかぶったテーブルと椅子が見えたが、人の気配はないし、隠れられるような場所や物も見あたらない。

 

 才人は頭の上で腕を交差させた。これまた馬車の中で決めていた「誰もいない」のサインだ。

 

 手はず通り全員が小屋へ近づいてゆく。タバサが杖を振ると、小屋の扉が音もなく開いた。それから彼女は念入りに〝魔法探知〟(ディテクト・マジック)で周囲を確認する。

 

「罠はない」

 

 しかし、相手は名の通った怪盗である。特殊な方法で姿を隠していないとも限らない。

 

「中の調査を。ミス・ロングビルとわたしはここで周囲を警戒」

 

 頷いたルイズとキュルケ、才人の三人が小屋の中へ姿を消す。ロングビルは、そんな彼らの姿を落ち着かない様子で見守っていた。

 

 ――それから数十分ほど経過して。

 

「……何もないわね」

 

「やっぱり無駄足だったじゃないのよ。んもう、服が埃っぽくなっちゃったわ」

 

 勇んで中へ突入し、積もった埃と格闘しながら部屋の隅々まで調査した結果突き付けられたのは――手がかりと呼べそうなものが何ひとつ見つからないという事実だけだった。

 

「タイコーボーの言うとおり、囮だったんだな」

 

「うう~ッ……」

 

 悔しげに唸るルイズに才人は励ましの言葉をかける。

 

「ま、それがわかっただけでも良かったんじゃないか? さっさと外に出て、待ってるふたりに教えてやろうぜ」

 

 中には何もなかった。それを聞いたミス・ロングビルの反応は劇的であった。彼女の顔面からざあっと血の気が引いてゆく。直後、慌てて室内へ飛び込んでいった。

 

 小屋の中を見渡した彼女はばたばたと部屋を駆け回り、何かを探している。そんな姿を見た討伐隊のメンバーは唖然とした。

 

「あ、あの、ミス? フーケに騙されたのが悔しいのは理解できるんですけど……ご覧の通り、ここには何も残されていませんわよ」

 

「キュルケの言うとおり。速やかに撤収して学院長に報告すべき」

 

 ――その後なんとか錯乱気味のロングビルを落ち着かせた彼らは、魔法学院への帰路についた。馬車の中で下を向き、ぶつぶつと何事かを呟いている彼女に対し、ルイズ達は、

 

(せっかくの調査が徒労に終わったのが悔しいのね……)

 

 と、心から同情する視線を送っていた。

 

 

○●○●○●○●

 

「ううむ、やはり空振りであったか。残念じゃ」

 

 事の次第を報告するため討伐隊のメンバーが学院長室へ赴くと、そこにいたのはオスマン氏と太公望のふたりであった。気難しげな表情で髭をなでつける氏とは対照的に、太公望は椅子にゆったりと腰を下ろし、ゆうゆうと茶を飲んでいる。

 

「まことにもって無念ではあるが、事ここに至った以上、本日執り行われる予定だったフリッグの舞踏会は中止。その上で王室に被害の報告をするしかあるまい」

 

 深いため息と共に声を絞り出したオスマンは、ちらりとミス・ロングビルへと視線を向けると、気遣わしげに声をかけた。

 

「ミス・ロングビル。朝早くからの捜索、本当にご苦労じゃった。あとはわしが引き受ける。君は部屋へ戻って休むがいい」

 

 事実相当参っていたのだろう、ロングビルは返事もそこそこに部屋を後にする。彼女が退室し、遠ざかっていく足音を確認すると、オールド・オスマンは重々しく口を開く。

 

「さてと。戻ってきたばかりで疲れているところを悪いが、諸君にはもう一働きしてもらいたい。実のところ……ここからが本番なのじゃ」

 

 驚きをあらわにした面々へそう告げた彼の瞳には、愉快げな光が宿っていた――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――部屋に戻ったミス・ロングビルは、未だ混乱の極みにあった。

 

「なんで!? どうして……わからない。あそこに()()があったのは間違いないはずなのに」

 

 疲れて思考が鈍っているんだ。そう判断した彼女は、上着を脱いでベッドへと身を投げ出した。目を閉じて、再びあの時の状況を思い出す。あれだけの大きさなのだ、小屋の内部にはもちろん、先に入っていった彼らが持って隠せるような場所も道具もなかったはず。

 

 内部……先に……。

 

 意識がブラックアウトしそうになるのを必死にこらえながら思考を巡らせる。

 

(確認しに行かなきゃ)

 

 彼女はベッドから起き上がると、重い身体を引きずるようにして部屋を後にした。

 

「どこ行くんですか? ロングビルさん」

 

 厩舎へ向かう近道――人通りのない裏庭を突っ切るように早足で歩いていたミス・ロングビルは、ふいに前へ出て来て道を遮った少年に声をかけられた。

 

「あなたは、さっきご一緒したミス・ヴァリエールの……」

 

「はい、使い魔やってる平賀才人です。顔色悪いですよ、部屋に戻って休んでたほうがいいんじゃないっすか?」

 

「大丈夫です。わたくしには、確認しなければいけないことが……」

 

「それって、ひょっとするとアレのことっすかね?」

 

 片手の親指でくいっと後方を指し示す才人。そこには見覚えのあるモノ――『破壊の杖』が納められていた頑丈なケースを抱えた彼の主人・ルイズの姿があった。

 

「な、な、なんで、それが、こ、こ、ここに」

 

「ああ。なんでも、ゴーレムが崩した瓦礫の下に埋まってたらしいっすよ」

 

「へっ?」

 

 才人の答えに、気の抜けたような声を出したロングビル。

 

「さっき庭師のひとが見つけて、俺のところへ持ってきてくれたんです。で、これからご主人さまと一緒に学院長のところへ届けに行こうかと」

 

「そんな馬鹿な! あのとき私は確かに持ち出して……ッ!?」

 

 ミス・ロングビルはそこまで口に出してから、ようやく自分がとんでもない失態を犯したことに気がついた。

 

「あ、あ、あなたが、ふ、ふ、フーケ……」

 

 ケースをぎゅっと抱き締めたルイズの身体は、ぷるぷると小刻みに震えている。

 

「ちッ。このわたしとしたことが、とんだドジ踏んじまったよ!」

 

 ミス・ロングビル、もとい『土くれ』のフーケは何とかこの場から逃れる方法を模索し始める。

 

 相手は平民と、ケースで両手が塞がれているメイジ。正体は割れてしまったが、まだなんとかなる――そう判断したフーケは素早く懐から杖を抜いた。しかし、ルーンが紡がれようとしたその瞬間。彼女の口に、ぴたっと粘土が収まった。

 

 そんなフーケの姿を見届けたルイズは足元へそっとケースを置くと、杖を取り出し天に掲げる。すると。

 

「見ました」

 

「聞きましたぞ」

 

「これは確定だの」

 

「まさか彼女が……」

 

 複数の声と共に、突如メイジたちの群れが裏庭に出現する。オスマン氏を筆頭とした魔法学院の教師たちであった。タバサにキュルケ、太公望もいる。どうやら合図があるまで姿を隠していたらしい。その全員がフーケに杖を向けていた。

 

「やりましたわ! 生徒を相手に磨き続けた技が、ここへ来て生きるなんて」

 

 見事フーケを封じた『赤土』シュヴルーズが、歓喜のあまり涙を浮かべている。

 

「華麗なダンスを披露してくれたの、ミス・ロングビル。いや『土くれ』のフーケよ。どうじゃ、まだ踊り足りないかね?」

 

 オスマン氏の痛烈な皮肉に、がっくりと崩れ落ちるフーケ。その姿を見た教師たちの間から、大歓声が上がった。

 

 

○●○●○●○●

 

「実はここからが本番なのじゃ」

 

 そう言って笑ったオスマンが椅子の影から『破壊の杖』が納められたケースを取り出したとき、討伐隊のメンバーは驚きのあまり声を上げることもできなかった。

 

 ――何故これがここにあるのか。

 

 話は、タバサと太公望が学院長室へ向かった時まで遡る。

 

「よく話を合わせてくれたのう。おかげで怪しまれずに別行動ができる」

 

 討伐隊が結成された直後。タバサは太公望からふたつの依頼を受けていた。それは、この場で作戦会議を開いて太公望をその司会役に指名することと、太公望が腕を組んだらそれを合図に彼をチームから外すよう提言すること。

 

 昨夜のうちにタバサから聞いていた内容と、現在までに掴んだ情報を密かに検討していた太公望は、内部の者の犯行、あるいは手引きをした者がいると判断していた。

 

 そこへ飛び込んできたミス・ロングビルの『調査報告』。

 

 その発言に疑念を覚えた太公望は、討伐隊への協力を持ちかけてきた彼女に疑いを持たれぬよう――議長による情報整理という形で証言集めを開始する。そして、ほとんど時間がなかったにも関わらず(馬で四時間かかる場所に、朝出立して昼前に戻ってきている時点で既におかしいのだ)、まるで自分で見てきたかのように現場のことを語るロングビルを、フーケ本人もしくは仲間であると断定した。

 

 しかし。ただの囮やかく乱にしてはその場所に拘りすぎる。もしや、本当にその廃屋に『破壊の杖』が隠されているのだろうか? だとすると、何故わざわざ学院の者をおびき寄せるような真似をする? 太公望は思わず首を捻る。

 

「杖……なのではないでしょうか? わたくしも詳しくはわかりませんが」

 

 この言葉、声色には嘘が感じられない。ここへ至って、太公望はようやく理解した。おそらくフーケたちは『破壊の杖』に関する詳細な情報を欲しているのだ。盗品を高値で売り払うために、それは絶対に必要なことであるから。

 

 絵を描かせて『破壊の杖』の見た目がどんなものであるのかもわかった。そして、許可を得た上で、試してみようと考えた。彼にとって、まったく面倒なことではあったのだが。

 

 学院長室へ到着した後、太公望はすぐさまオスマン氏とタバサにこれらの見解を伝えた。驚きに目を見開いたふたりに、自分の策を披露し――それは実行に移された。

 

「で、その結果がソレってわけですか」

 

 なんのことはない。太公望が先回りして現場へ赴き、そこにあった『破壊の杖』を回収してきただけのことだ。現時点で最有力容疑者であるロングビルに、監視役としてタバサを張り付かせて。そのために、彼はわざわざ体力が尽きているような真似をしたのだ。

 

「あたしたち、囮の囮をさせられてたってわけね」

 

「ぼやくでない、おかげで貴重な時間をかせぐことができたんだからのう」

 

 太公望が『破壊の杖』を持って帰還した後――タバサたち一行が戻ってくるまでの間に、学院長は教師たちに事情を説明し、全員でフーケ、あるいはその仲間と思われるロングビルを取り囲むべく指示を出していた。

 

 どんな手練れのメイジでも、この人数に囲まれては何もできないだろう。そして、もしもこれが国中の貴族たちに煮え湯を飲ませ続けてきたフーケ捕縛に繋がれば、とてつもない名誉となるに違いない――オスマン氏の言葉に、教師たちは奮い立った。

 

「そこでじゃ、捕縛の総仕上げという名誉に与るのは――」

 

 ちらりと太公望と視線を合わせるオスマン。頷いた彼を見て、言葉を続ける。

 

「ミス・ヴァリエール。もっとも早く杖を掲げた君にこそ相応しいと思うのじゃが……どうじゃ、この老いぼれの願い、聞き届けてくれるかの?」

 

 ――勇んでその役割を引き受けたルイズは、それが『破壊の杖のケースを持って、才人の後ろに立っていること』だと聞いたときはさすがに耳を疑ったし、断ろうかとまで考えた。しかし、それが相手の油断を誘う策だと聞いたことと。

 

「ど、ど、どこに行くのかしら? ふ、ふ、フーケさん」

 

「噛んだ」

 

「見事に顔がひきつっておるな」

 

「フーケとか言っちゃダメだろ」

 

「やっぱり、ヴァリエールにこういう演技は無理よね」

 

「う、うるさいわねっ!」

 

 今から演技指導をするにはあまりにも時間がないということで、それは使い魔――最初に指名されていた才人の役目にするということで、ようやく納得した。ちなみに、才人の演技は一発目からして太公望から太鼓判を押されるほど、自然な出来ばえであった。

 

 

○●○●○●○●

 

「諸君の尽力により、見事『土くれ』のフーケを捕縛し『破壊の杖』を取り戻すことに成功した。トリステイン魔法学院の名誉は守られ、盗賊は牢獄へと送られる。一件落着じゃ」

 

 フーケが縄を打たれて魔法学院の衛兵たちに引っ立てられていった後。裏庭では、オスマン氏による演説が行われていた。誇らしげに胸を反らす教師たち。

 

 中でも当直をサボってフーケに盗難を許したという大失態を見せたにも関わらず、名誉挽回の機会を与えられたミセス・シュヴルーズは、感激のあまり失神してしまうという有様であった。

 

「ここにいる教員皆の手柄について、王室へ報告することを約束しよう。また、ささやかではあるが、わしの財布からボーナスを支給する」

 

 裏庭に、再び歓喜の声が沸き上がる。

 

「そして、フーケ討伐に最も貢献した者たちを紹介する」

 

 オスマン氏に手招きされ、タバサ、ルイズ、キュルケ、才人、太公望の五人が前へと進み出る。彼らは拍手によって迎えられた。

 

「中でも、特に危険な役目を買って出てくれたミス・ヴァリエールについては、王室へ騎士(シュヴァリエ)の爵位を、既に持っておるミス・タバサと彼女たちに協力したミス・ツェルプストーについては精霊勲章の授与を申請することによって、この功に報いたいと思う」

 

 3人の顔がぱっと輝いた。

 

「なおミスタ・タイコーボーはロバ・アル・カリイエのメイジ、サイト君については貴族ではないため勲章の授与はできないが、わしから金一封を与えるということで労わせてもらう」

 

 再び彼らを拍手が包み込む。五人は、礼――ルイズ、タバサ、キュルケの三名は、貴族の名に恥じぬ優雅なお辞儀で、才人は学校で習った四十五度ほど腰を曲げる最敬礼で、太公望は包拳の礼でそれに応えた。

 

 そんな彼らを笑顔で見つめていたオスマン氏は、ぽんぽんと手を打つ。

 

「さてと、今夜はフリッグの舞踏会じゃ。見事『破壊の杖』も取り戻せたことだし、予定通り執り行う。以上、解散じゃ!」

 

 再び大きな歓声が上がり、その場に集まった者達は散り散りになってゆく。最後まで残ったのはオスマン氏と『破壊の杖』を抱えたコルベール、そして討伐隊に加わった者達だけであった。

 

 静かになった裏庭に、切実な声が響く。

 

「あ、あの、金一封とかいりません。かわりに、聞きたいことがあるんです……その、破壊の杖がどこから来たのか、それと……これについて」

 

 左手のルーンを見せながらオスマン氏に願い出たのは才人。ルイズが驚いたような表情で彼を見つめている。

 

「わしは金一封の中身がどれほどのものなのか、具体的に話し合いたいのだが」

 

 続いたのは太公望。タバサの瞳が好奇心で溢れている。オスマン氏は思わず大きなため息をついた。両方とも、相当な難題であると。

 

「ここではなんじゃし、ふたりとも学院長室へ来たまえ。コルベール君も、すまんが『破壊の杖』を持ってついて来て欲しい。ミス・ヴァリエールとミス・タバサにも関わりのあることじゃが、君たちはどうするね?」

 

「行きます」

 

「聞きたい」

 

 即答したふたりへ、頷き返すオスマン。

 

「あたしは舞踏会の準備がありますので、お先に失礼しますわ」

 

 そう言ってキュルケは、踵を返した。こっそりタバサに向けてウィンクをして。あとで話せ、ということだろう。

 

 ――オスマン氏の長い長い一日は、まだまだ終わりそうもない。

 

 

 



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第10話 伝説と零、己の一端を知るの事

「それでは話を聞こうか」

 

 学院長室へ案内された太公望・タバサ・ルイズ・才人の4人は来客用のソファーに腰掛け、オスマン氏と向き合っていた。彼の後方にはコルベールが控えている。

 

「才人。すまんが、まずはわしに話をさせてはくれぬかのう」

 

 俺のほうが最初に申し込んだのに。と、一瞬躊躇った才人だったが、コイツがわざわざ確認を取ってきたってことは何か理由があるんだろう――そう思い直し、頷く。

 

「感謝する」

 

 太公望は、才人へ頷き返すと、まっすぐと学院長を見据えて会話を始めた。

 

「さて、それでは金一封とやらについて具体的に聞かせてもらおう。今回わしがした仕事は、情報収集に犯人の割り出し、破壊の杖の回収……他にもまだまだあるわけだが。中途半端な金額で納得するとは思うなよ?」

 

 

 ――才人は思った。

 

(なんか、映画の名場面集を見てるみたいだ。それも、極道モノとかマフィアの交渉シーンをダイジェストで並べたやつ。あーあ、ルイズは横で固まってるし。あのなんだっけ、コルベールとかいう先生は顔が真っ青だし。タバサは……あれ、目がキラキラしてるな。もしかして好きなのか、こういうイベント)

 

 才人はすぐ側で繰り広げられるやりとりを、まるで劇場へ赴いた観客になったような気分でぼんやりと眺めていた――。

 

 太公望の先制攻撃で始まった『交渉』は、時折学院長が攻勢に出るものの、そのほとんどが太公望側の優勢で進んだ。この話し合いの過程で、太公望がフーケ捕縛作戦全体の立案――なんと学院の教師たちを説得するための演説草案作成までこなしていた事実が判明し、この場に立ち会った者たちは驚愕した。

 

 ついには1ドニエ(銅貨1枚)単位での攻防が始まるに至って、太公望はこれ以上攻めるのは無駄と判断したのか、折衷案を提示してきた。

 

「まあ、わしも鬼ではない。金銭以外での交渉もやぶさかではないぞ」

 

 その白々しい物言いに、学院長を含む全員が「鬼以外のなんなんだ!」と心の中でツッコんでいたのだが、当の本人は涼しい顔だ。

 

「ふむ……君はわしにいったい何を望んでいるのだね?」

 

「『フェニアのライブラリー』の閲覧許可証を。なお、これはわしとタバサの両方へ出してもらいたい」

 

 この提案に驚いたのはコルベールだ。

 

「なっ……! あそこは、教員以外立ち入り禁止、魔法学院秘蔵の書物庫ですぞ」

 

 しかし、そんなコルベールを抑えて学院長は鷹揚に頷いた。

 

「んむ……まあ、ええじゃろ。ただし、その許可と引き替えに金一封は無しじゃぞ」

 

「よっぽど教員へのボーナスで懐が寂しくなったようだのう。わしとしては、もうひと声欲しいところなのだが……まあ、無い袖は振れぬというからな。仕方あるまい」

 

 不承不承といった風情で納得した太公望を見た全員が、コイツやっぱり鬼、いや悪魔なんじゃないだろうか……と、内心評価を修正していた。

 

 机の引き出しから2枚の羊皮紙を取り出したオスマン氏は、ペンでさらさらと何事かを書いて、太公望とタバサに手渡す。

 

「それを図書館の入り口にいる司書に見せるがええ。そうすれば『フェニアのライブラリー』に立ち入って、収められている資料の閲覧ができるようになる。ただし、あそこの書物は持ち出し禁止じゃからな」

 

 許可証を受け取り頷くふたり。タバサの目が歓喜できらきらと輝いている。勲章申請の時よりも遙かに嬉しそうだ。それだけこの許可証が欲しかったのだろう、太公望の手を両手でガッチリと握り締めている。一方の太公望も、そんな彼女の様子を見て満足げだ。

 

「と、いうわけでだ。このあとサイト君たちとの話があるのでな、君らふたりは部屋へ戻って舞踏会の支度をしたまえ」

 

 そう促す学院長に応え、席を立つタバサ。だが、太公望はその場から動こうとしない。彼は相変わらず笑っていたが……その笑みの質が先程までとは変わっていることにタバサは気がついた。

 

「その話には興味があるのでな。同席させてもらいたい」

 

「さすがにそれは許可できん。これは……」

 

 と、そこまで口にしてようやく気付いた学院長は、苦虫を10匹くらいまとめて噛み潰したような顔をして太公望を睨み付ける。

 

「ふふん、才人の左手に刻まれたのは相当特殊な(ルーン)らしいのう。だが、それも『フェニアのライブラリー』に行けばわかってしまう……どうだ? わしの推測は間違っておるか?」

 

 ――ここで聞けずとも、自力で調べる。太公望はそう主張しているのだ。

 

 なるほど……この流れに持って行きたかったからこそ、最初に話をさせろと主張したわけか。つまり金銭交渉は囮。本命はライブラリーの閲覧許可証と印に関する情報だったって訳だ……うん、こいつ悪魔だ。決定。太公望に対する全員の評価が確定した瞬間であった。

 

「わかった、ミス・タバサも同席したまえ。まったく……君がトリステイン貴族の子弟なら、卒業後に次代の宰相候補として王宮で修行を積ませるよう、マザリーニ枢機卿宛てに推薦状を書いとるところなんじゃが」

 

 そう言って深いため息をついた学院長は、普段よりもさらに老けて見えた。

 

 

○●○●○●○●

 

「ガンダールヴ?」

 

 その名前に覚えがあったルイズは、思わず首をかしげた。以前、自分の魔法について調べていたとき、何かの本で見た覚えがある名前だったのだが……思い出せない。

 

「そう、あらゆる武器を使いこなす能力を持つ〝伝説の使い魔〟の証じゃ」

 

「伝説……これが?」

 

 才人は改めて自分の左手に刻まれたルーンを見た。伝説の勇者とかならまだしも使い魔ってなんだよ! という台詞が喉元までせり上がってきていたが、賢明にも口には出さなかった。

 

「これまでに、何かそのルーンがらみで変わったことはなかったかね?」

 

「ええと、武器を持つと身体が軽くなったり、使い方が頭の中に流れ込んでくるような不思議な感じがしました……そういえば、デルフも『使い手』だからとかなんとか言ってたような」

 

「デルフ、とは?」

 

 問う学院長に、才人は後ろに立て掛けていた剣を見せ、鞘から少しだけ引き抜いた。

 

「話は聞かせてもらったぜ! 俺っちがご紹介に与ったデルフリンガーさまだ。〝ガンダールヴ〟ね。そうそう、確かそんな名前だったな」

 

「なんと! 〝インテリジェンス・ソード〟ですか」

 

 身を乗り出して興奮するコルベールを制して、オスマン氏は話を続ける。

 

「武器の情報に、身体の強化……やはり間違いないか。デルフリンガー君といったな。他に、君が知っていることはあるかね?」

 

「う~ん。あるはずなんだが6000年以上生きてるもんでな、記憶がどうにもあいまいなんだよ。すまねえな」

 

「そうか、それは残念じゃ」

 

「でも、何で俺がそんな〝伝説の使い魔〟に?」

 

 そう尋ねた才人に対し、学院長は肩を落として「さっぱりわからん」と答える。すると、それを聞いた太公望が何かに気付いたのか、腕を組んで考え込んでいる。

 

「タイコーボー、何か知ってるのか!?」

 

「いや、いくらなんでもそこまではわからぬ。少々気になることはあったが、こっちの話での。でだ、ルーンについてはだいたいわかったことだし『破壊の杖』についても聞いておいたほうがよいのではないか?」

 

 そう促されたことで、今度は『破壊の杖』の由来に関して学院長が滔々と語り出す。

 

 曰く、今から30年ほど前。他国をひとりで旅行していた際に、突如飛来したワイバーンに襲われ危機に陥ったこと。

 

 そこに現れた若い男が、持っていた2本の『破壊の杖』のうち1本でワイバーンを吹き飛ばした後にばったりと倒れ、気を失ったこと。

 

 彼は深手を負っており、看病の甲斐なく息を引き取ってしまったこと。そして、彼が使った1本を彼の墓に埋め、残されたもう1本を彼の形見として持ち帰り、学院の宝物庫へ厳重に保管していたこと――。

 

「彼は、死の間際までうわごとのように呟いておったよ。『ここはどこだ。元の世界に帰りたい』とな。命の恩人だ、何としても助けたかったのじゃが〝治癒(ヒーリング)〟の魔法や秘薬を用いてもどうにもならん程の深手を負っていてのう、如何ともし難い状態だった……」

 

 当時を思い出しているのだろう、オスマン氏は遠くを見るような目で語る。そんな彼の感慨を打ち壊したのは才人の言葉だった。

 

「そのひと……きっと、俺のいた世界から来たんです」

 

 老メイジの目が光った。

 

「君は彼の故郷を知っているのかね?」

 

「そこまではわかりませんけど……あの『破壊の杖』はマジックアイテムなんかじゃなくて、俺がいた世界の武器なんです。さっきケースを貸してもらったとき確かめたから、間違いありません。あれの本当の名前は『M72対戦車用ロケットランチャー(M72 Light Anti-Tank Weapon)』。フーケのゴーレムを一撃で吹き飛ばす程の威力があります」

 

 その場にいた者達が驚きに目を見張る。そんな彼らの反応を見てから才人は語り始めた――自分が、ここではない別の世界から〝召喚〟されてきたこと。そこには月が1つしかなく、魔法が存在していないこと。家族が待つその場所へ帰るための方法を探していること――。

 

 異なる世界――本当にそんなものがあるのか?

 

 目の前にいる老人は、そう言いたげな表情をしている。才人内心で苦笑した。

 

(まあ、ルイズだって未だに信じてくれないし、この世界の人間にとってはそれが普通の反応だよな。もしも俺が日本にいた頃に『自分は異世界から来た魔法使いだ』って名乗る奴が出てきたら……やっぱりそう感じただろうし)

 

 と、才人が半分諦めたように周囲を伺うと……ひとりだけ、あきらかにおかしな反応をしている人物がいた。太公望だ。腕を組み、目を閉じてなにやらぶつぶつと呟いている。

 

「なあ、タイコーボー……もしかして、お前は信じてくれるのか!?」

 

「ああ、信じる。というか、まさか異界人だったとはのう……おぬしと初めて会ったときから、どうも他の人間と毛色が違うと感じておったのだが、なるほど。そういうことであれば……」

 

 信じてくれた! おれの、この世界に来て初めての友達が!! 才人は本気で感激した。

 

「何か知っているの?」

 

 この部屋に入ってきてから初めて口を開いたタバサへ、太公望はぼりぼりと頭を掻き毟りながら答えた。

 

「異世界云々についてはこれから検証せねばならぬだろうが、ひとつ確実に言えるのは――ルイズが、とてつもない可能性を秘めたメイジだということだ」

 

 

○●○●○●○●

 

 このわたしが、とてつもない可能性を秘めたメイジ――?

 

 ありえない。でも、ロバ・アル・カリイエから来たメイジが。調査をお願いしたひとが。学院長が、トリステイン貴族だったら王宮に推薦するとまで言った人物がそう言っている。ルイズはその一言に縋った。

 

「おねがい、教えて。わたしの魔法がどうして失敗するのか。先生たちも、父さまや母さまにも、王立アカデミーで研究している姉さまにすらわからなかったの。どんなに勉強しても、毎日ぼろぼろになるまで練習してもできなかったのよ。おねがい……!」

 

 最後はもう言葉にならない。気がついた時、ルイズはほろほろと涙を零していた。

 

「こっ、これ、泣くでない!」

 

 一方、ルイズの様子を見た太公望は、いつもの人を喰ったようなそれから一転、まるで別人のように慌てふためいた。ぐずり続けるルイズをあやし、困ったように空中へ視線を這わせる。ついには助けを求めるように学院長に目を向ける。

 

 オスマン氏はしばし逡巡したが――頷いた。

 

 そしてオスマン氏が口を開こうとしたそのとき。彼の代わりに、別の人物が声をかけてきた。それは、この場に同席していた教師『炎蛇』のコルベールであった。

 

「私も、是非きみの見解が聞きたい。己の無力を告白することになりますが、私たちがどんなに調べてもミス・ヴァリエールが失敗する理由がわからなかったのです。彼女はこんなにも追い詰められていたというのに」

 

 そう言って、頭を垂れる。しん……と静まりかえった室内に、唯一ルイズのぐずる声だけが響いていた。

 

 ――数分後。ルイズがようやく落ち着いたのを見計らって、太公望は説明を始めるべく動き出した。その手始めとして、椅子から立ち上がって頭に巻いていた布を取ると捻って縄状にし、テーブルの上に乗せた。

 

「さて、ここに1本の縄がある。これを使って簡単に説明する」

 

 一同を見回すと、皆真剣にテーブルに注目していた。

 

「その前に〝召喚〟(サモン・サーヴァント)について確認したい。オスマン殿、この魔法は、ハルケギニアのどこかにいる生物の前に『入口』を作り、自分の前へと呼び出す『出口』を開く魔法……この認識で間違っておらんかのう?」

 

「うむ。開かれる場所や選ばれる対象がどうやって決まるのかについては不明だが、己に最も相応しい使い魔との間に一方通行の『門』を創り出す」

 

 うむ、と頷いた太公望はテーブルに置いた縄を指差す。

 

「この縄の両端、これを『門』。そして縄の長さを『距離』と考えて欲しい」

 

 そう言うと、彼は縄を持ち上げてその両端を掴んでぴたりと繋ぎ合わせた。

 

「『門の接続』とは、こういうことなのだ。中間の距離をねじ曲げ、空間同士を繋ぎ合わせる……タバサよ」

 

 自分の主人に声をかけた太公望は、持っていた縄をテーブルへ戻した。

 

「今わしがやってみせたように、この縄の端と端をくっつけてみてくれ。ただし、手ではなく魔法を使って、だぞ。よいか、ぴったりと合わせるのだ」

 

 頷いたタバサは得意の〝風〟(ウィンド)を使って接続を試みたが、なかなかうまくいかない。ようやく太公望から合格の声がかかった時、彼女は肩で息をしていた。

 

「このように『接続』にはたいへんな〝力〟と、先端同士……つまり、向こう側とこちら側の空間をしっかりと認識する感覚を必要とする。汎用魔法(コモン)扱いされておる〝召喚〟だが、実は無意識にこのようなとんでもないことをしておるのだ。ここまでは理解してもらえたであろうか?」

 

「これは……まるで考えてもみなかった理屈じゃが、納得できる」

 

「ええ、ええ! アカデミーで研究していてもおかしくない内容ですぞ!!」

 

 研究者としての血が騒いできたのだろう、オスマンとコルベールが興奮したようにまくしたてる。しかし、ひとり納得していない人物がいた。ルイズである。

 

「でも、これとわたしが魔法を失敗することに何の関係があるの?」

 

「そう急くでない。これからちゃんと説明する」

 

 そう告げた後、どっかと椅子に腰掛けひと息ついた太公望は再び持論の展開を開始した。

 

「さて。『空間』をねじ曲げるのが大変な作業であると理解してもらえた、そう判断して話を進める。普通のメイジはあくまでハルケギニアの中でしか両端を『接続』することができない。ところがルイズは……」

 

 一端言葉を句切り、ルイズにまっすぐ視線を向けた太公望は、結論する。

 

「空に浮かぶ月よりも遠い異世界――ハルケギニアの外にある国と自分を結ぶ縄の両端を、寸分の狂いなく繋いでみせた。そんな娘が無能だと? 絶対にありえん。もしもルイズがわしの故郷に生まれておったら、間違いなく幹部候補生にすべくスカウトが飛んで来るわ。『空間ゲート接続』というのはそれだけ難しく、強い〝力〟を必要とする高度な技術なのだよ」

 

 静まりかえる室内。と、コルベールが手を挙げた。

 

「ミス・ヴァリエールが素晴らしい可能性を秘めている、ということは理解しました。しかし、何故魔法を失敗するのか、それについてわからないことには……」

 

 コルベールの疑問はもっともだ。ルイズとしても、自分がどんなに優れた力を持っていると言われても、失敗の原因が判明しなければ意味がないのだ。

 

「ここからは、あくまでわしの推測に過ぎないのだが……今度はコルベール殿にお訊ねしたい。魔法を失敗したときに〝爆発〟が起きるのはルイズだけなのであろう? 魔法学院の歴史を遡ってみても、同じ現象が起きた例は皆無。違うか?」

 

 それを聞いた才人が「えっ」と驚きの声を漏らす。

 

「魔法って、失敗したら爆発するもんじゃないの?」

 

「もしもそうなら、教室の中で実習したりするものか」

 

「ああ、そっか。そりゃそうだ」

 

 才人は〝錬金〟に失敗したルイズが罰として教室の片付けを命じられたことを思い出す。机や黒板にはヒビが入っており、わざわざ倉庫まで取りに行って交換する羽目になった。あれが魔法使いの日常茶飯事だとしたら、備品がいくらあっても足りない。

 

 それに、怪我人だって出るだろう。実際、あの赤土先生は気絶して医務室に運び込まれたし、他の生徒は明らかに怯えていた。だったら狭い教室の中ではなく外で練習させたほうがいいに決まっている。そうしないのは、きっとルイズが特殊なのだろう。

 

 納得した才人をものすごい表情で睨み付けるルイズ。「失敗して爆発」というキーワードを発するのは、彼女の逆鱗に触れる行為なのだ。

 

 ……険悪になりそうな雰囲気を破ったのはコルベールだった。

 

「はい、その通りです。私や他の教師が見たところ、ルーンの詠唱が間違っているわけでも、杖との契約が失敗しているわけでもありません。なのに、何故か爆発してしまうのです。ミス・ヴァリエールの魔法や呪文に関する知識が足りないということでもありません。何せ、彼女は実技はともかく座学では常に学年でトップクラスの成績を残しているのですから」

 

「伝統ある魔法学院の教師が指摘できるようなミスがない。本人にも充分な知識がある。にも関わらず魔法が爆発する。つまり、原因は他にあるということだ」

 

 ルイズの瞳が揺れる。

 

「それって、わたしが『出来損ない』ってことじゃ……」

 

「だから、何故おぬしはそう自分を卑下する方向に考えるのだ!」

 

「だ、だって……」

 

「あのな。わしがおぬしに可能性を見出した理由は、遠い世界に『門』を開いたことだけではない。『失敗で爆発という現象を起こした』からだ」

 

「どういうことかね?」

 

 オスマン氏の問いに、太公望は説明を続ける。

 

「まず、何の力も持たぬ平民が杖を持ち、ルーンを詠唱したとしてだ。いかにそれが正しくとも、魔法は発動しない。そもそも何も起こらんだろう?」

 

「そ、そんなの当たり前でしょ!」

 

「今は、その()()()()を突き詰めていくことが大切なのだ」

 

 そう告げて周囲を見回した後、彼はさらに語る。

 

「ところが、ルイズが同じことをすると爆発が起きる。ここまではよいか?」

 

「なるほど。原因はわかりませんが、少なくともミス・ヴァリエールには魔法を使うための〝力〟があるから爆発が起きると言いたいんだね?」

 

「その通りだコルベール殿。ルイズは魔法が使えないのではなく、正しく発動させられないだけだ。それに、どんな魔法でも爆発という結果に繋がるということは……全ての系統に反応があるということではないか?」

 

「そ、そういえば! 本来なら一切使えない系統の呪文を唱えた場合、何も起きないはずですぞ! なのに〝爆発〟が起きているのは……」

 

「その通り。ルイズは決して〝出来損ない〟などではない!」

 

 オスマン氏が顎髭をしごきながら確認する。

 

「なるほど。その言い方からして、君はその()()()()()()()()()()()原因に心当たりがあるようじゃな」

 

「うむ、ほぼ間違いないと考えておる」

 

 ルイズの両肩がビクリと揺れた。

 

「どうやらこの国では過去に例のないことのようだが、幸いと言ってよいものかどうか、わしの出身地にルイズのアレと似た事例がいくつかあってのう」

 

「そ、それって……」

 

 震える声を抑えきれず、ルイズは尋ねる。そんな彼女を見た太公望は、真剣な表情で続きを語り始めた。

 

「〝力〟をうまく制御できずに暴走させてしまったとき、行き場を失った〝力〟が暴れ回り、結果〝爆発〟することがある」

 

「『トライアングル』以上の火メイジが起こせる〝爆発〟とは違うのですね?」

 

「うむ。炎を伴う場合もあるが、その場合は火の術の制御に失敗していることがほとんどだ。ところがこの〝暴発〟はな、袋の中に限界を越えるまで物を入れ続けた結果、あちこち破れて中身が飛び出してしまうように、こう……パンッと破裂するのだ」

 

 ――と、そこまで太公望が述べたところで、いきなり才人が大声を上げる。

 

「そうだよ! ルイズの〝爆発〟ってさ、燃えてないじゃん!!」

 

「えっ?」

 

 一斉に才人に振り返る一同。

 

「なんかおかしいって思ってたんだ。やっとわかった。教室で爆発させたとき、色々吹っ飛ばされたり、煤で真っ黒になってただろ? けど、ルイズもあの赤土先生も火傷してなかったし、火事だって起きなかった!」

 

 ルイズをはじめとしたメイジたちが、あっと声を上げた。言われてみればその通り、これまで何度も彼女は失敗してきたが、せいぜい爆風で机が吹き飛んだり、周囲が煤けたりする程度だった。

 

 過去の記憶を思い返しながらコルベールが補足する。

 

「一度だけ机が焦げたことがありますが、あれは確か1年時のオイルランプに火を灯すという授業の最中でしたな。煤が出ていることから考えるに、ごくごく小さな火花が散っているのではないでしょうか。それが油に引火したのかもしれませんぞ」

 

「けど、ギーシュと決闘したときだって、ルイズはあんなに土煙があがるほど爆発させてたのに……俺、ちっとも熱くなかった。なあ、これってルイズの〝爆発〟が普通じゃなくて、特別なんだっていう証明にならないか?」

 

 全員が息を飲む。思わぬ場所から援護をもらった太公望が破顔する。

 

「確かにそれは証明のひとつになる。ルイズよ、おぬしが魔法を失敗していた理由。それは……巨大すぎる〝力〟が、魔法という器に収まりきれずに溢れ出し、破裂してしまっていたからだという可能性が高い。つまり〝力〟のコントロールを覚えれば……」

 

 その言葉を引き継いだのは、コルベールだった。

 

「彼女は『スクウェア』……いや、それを凌駕する可能性を秘めている、と?」

 

 室内は一瞬の静寂の後……大きな歓声に包まれた。

 

 ――ルイズは、泣いていた。だが、今流している涙は、これまで幾度となく溢れさせていたものとは異なり、暖かいものだった。

 

 自分の肩を無遠慮にバンバンと叩きながら「だから言ったろ! お前はゼロなんかじゃないって」と、笑いかけてくる使い魔。無礼だなんて思わない。不思議なことに、この痛みすら心地よく感じていた。

 

 最初は初めて成功した魔法でただの平民を呼び出してしまったと、やり場のない怒りに囚われていた。でも、そんな彼が、実は伝説と呼ばれる使い魔で。しかもその存在そのものが、誰にもわからなかった失敗の、原因判明の為に役立ってくれたのだ。

 

『メイジの実力を測るには、その使い魔を見よ』

 

 この言葉は真実だったのだ。

 

 太公望の言うとおり、本当にそれが失敗の理由なのかはわからない。だが、ルイズにとって一筋の光明となったのは間違いない。

 

 ――タバサは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 そう、ルイズと同様……彼女もまたハルケギニアの外にゲートを開き、太公望を召喚しているのだ。つまり、研鑽次第では今よりもずっと強くなれるということを己の使い魔が証明してくれた。そんな彼は。

 

「まあ、乗りかかった船だ。〝力〟のコントロール方法についてはわしがある程度見てやろう。そのためにはルイズ、あとでおぬしの魔法をよく見せてもらう必要がある。かまわぬか?」

 

「も、もちろんよ! こっちからお願いするわ」

 

 自分と同様、厳しい顔をして誰も寄せ付けなかった少女を、笑わせていた。

 

 

○●○●○●○●

 

「さて、だいぶ時間がかかってしまったが、今からでもまだ遅くない。舞踏会の支度に戻るがええ。君たちは主役なのじゃから……と、すまんがミスタ・タイコーボーは少し残ってくれ。フーケの件について尋ねたいことがある」

 

「まだ何かあるんかい。まあよい、手早く頼むぞ」

 

 タバサ、ルイズ、才人、そして先程の講義によって研究熱に文字通り火が付いてしまったコルベールの4人が学院長室を後にすると、オスマン氏と太公望のふたりは椅子に座り向かい合った。

 

「……で、人払いをしてまで話したいこととはなんだ? まあ、だいたいの想像はついておるが」

 

 対面に座る太公望の言葉にオスマンは舌を巻いた。これは下手に騙して不信を買うより、正確な情報を与えたほうが今後のためだろう。そう判断し、話し始める。

 

「君のことだ、おそらくわしが黙っていても結論にたどり着いてしまうじゃろう。まったく……〝ミョズニトニルン〟にならなかったのが不思議なくらいじゃわい」

 

「なんのことだ?」

 

「〝ガンダールヴ〟と同じ、伝説の使い魔の1柱じゃよ。『神の頭脳』『神の本』とも呼ばれ、〝ガンダールヴ〟を含むその他3体の使い魔と共に『始祖』ブリミルによって使役されていた存在じゃ」

 

「ルイズは『始祖』が使役した使い魔を呼び出した。つまり、始祖と同様の〝力〟を持ちうる可能性を秘めている……と?」

 

「その通りじゃ。君の話を聞いて確信した。ほぼ間違いなく、彼女の系統は失われしペンタゴンの一角〝虚無〟じゃろう」

 

「ふむ、やはりそうか……」

 

 土・水・火・風の4大系統に属さぬ、既に失われて久しい伝説の系統。魔法の授業で名前だけは耳にしたものの、その詳細は未だ謎の存在――。

 

「失敗の理由もそれで説明がつく。合わない系統に、大きすぎる〝力〟……当然の帰結じゃな。もしも君に刻まれた印が伝説の使い魔のものであったなら、この仮説は崩れておったのだが」

 

「わしの左足の裏に刻まれとるアレは、それらに該当しないということかのう?」

 

「うむ。君の〝アンサズ〟は『知恵』を象徴する古代ルーン文字だ。それに、そもそも始祖の使い魔のルーンは現れる場所が決まっておるようだからの。左手、右手、頭……最後のひとつは不明じゃが、さすがに足の裏ということはあるまいて」

 

「ふむ……」

 

 太公望はテーブルに両肘を突いてぼやく。

 

「これは、絶対に他言無用の案件だのう。タバサは勿論、本人たちにも言えぬわ」

 

「話が早くて助かる。もしこんな話が王宮にでも漏れたら大変じゃ。暇を持て余した宮廷雀どもが、戦がしたいと鳴き出しかねんわ」

 

「わしとて戦乱なんぞご免被りたいわ。しかし、異世界に、そこからやってきた使い魔、そして武器か……そのあたりも含めて、例の件を詰めておいたほうがよさそうだのう」

 

「うむ。かかるであろう予算は組んである。だが、ほどほどに頼むぞ?」

 

「やはりおぬしは狸ジジイよのう」

 

「君にそう評価してもらえるのは光栄だ、と返しておこうかの。ホッホッホ」

 

 ――お互いを認め合った曲者達は、その後舞踏会が始まる直前になるまで、夜空に浮かぶ赤い月も真っ青になるような談話を続けた――。

 

 

 




当方のオスマン氏は原作よりも50%増し(当社比)で黒いです。




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第11話 黒幕達、地下と地上にて暗躍す

 トリステイン魔法学院のホールで、フリッグの舞踏会が例年よりも盛大に執り行われていた頃。学院地下にある倉庫の中で、両手を後ろ手に縛られ……さらには〝錬金〟で作成した頑丈な拘束具によって壁に繋がれていた怪盗『土くれ』のフーケは、虚ろな瞳で床を眺めていた。

 

(明日にも王国の衛士隊に引き渡される……か。これまで散々貴族どもの感情を逆撫でするような真似をしてきたんだ、ほぼ間違いなく縛り首。良くてチェルノボーグの監獄で一生を終える羽目になるだろうね)

 

 部屋からの脱出も考えたが、すぐに諦めた。彼女を拘束しているのは『最高』のメイジとしてその名を知られるオールド・オスマンが自ら作成した特別製。そもそも魔法で脱出しようにも、杖を取り上げられていてはどうにもならない。

 

「わたしも、いよいよ年貢の納め時ってやつか……」

 

 故郷に残してきた家族の顔が脳裏に浮かぶ。

 

(不甲斐ない姉でごめんね……)

 

 と、フーケが閉じ込められている地下室と地上を結ぶ階段から、コツ、コツ……という小さな足音が聞こえてくる。見張りのはずはない。この部屋に続く道は1本しかなく、地上で番をしていれば事足りる。王国の衛士連中が予定よりも早く到着した……というわけでもないだろう。彼らがやってきたのなら、もっと物々しい音がするはずだ。

 

(こんな夜に、一体何者だい?)

 

 フーケは訝しんだ。やがて、足音は倉庫唯一の出口である木戸の前で止まる。格子がついているわけではないので、相手の姿はわからない。

 

「起きているか? 『土くれ』」

 

 フーケは鼻を鳴らした。

 

「あら、まさかダンスのお誘いかしら?」

 

「ま、似たようなものだ」

 

 ガチャリという鍵を外す音がして間もなく、静かに扉が開いた。が、それはすぐに閉じられる。再び闇に閉ざされた倉庫の中に何者かが立っていた。刺客――ではないだろう。殺る気があるのなら、既に自分は息をしていないはずだ。

 

「話がある」

 

「話? だったらせめて明かりくらいつけてくださいな。何も見えない闇の中で見知らぬ殿方に口説かれるだなんて、ぞっとしませんわ」

 

 憎まれ口を叩いたフーケだったが、相手はそれを了承と取ったらしい。闇に包まれていた室内に申し訳程度に小さな光源が現れた。わずかな灯火に照らされたその顔には見覚えがある。

 

「あまり機嫌が良くないようだのう……ま、この有様では当然だが」

 

 ――そこに立っていたのは、タバサの使い魔・太公望であった。

 

「ハハッ、物好きな子ね。惨めな盗賊と最後の会話を楽しみたいってところかしら? おあいにくさま、そんなものに付き合うつもりはありませんことよ。大人しく舞踏会の会場に戻りなさいな。見張りが戻ってきたら面倒なことになるわ」

 

 フーケのそんな減らず口を軽く受け止めた太公望は、お返しと言うにはあまりにも大き過ぎる爆弾発言を投じた。

 

「見張りの連中なら眠り薬入りの酒をしこたま飲んでいびきをかいておる。それに、二十歳をいくつも超えぬような小娘に子供呼ばわりされる筋合いはないわ」

 

 その言葉に、フーケはわずかに反応した。

 

「なるほど……見かけ通りの年齢じゃないってわけね」

 

 そう言って、完全に騙されていたわと自嘲気味に笑う。

 

「面倒もあるが、便利な側面もある。今置かれているような状況では特にな」

 

 ニヤッと口の両端を上げた太公望を見て、フーケはいたく好奇心を刺激された。今回の事件であれほどの冴えを見せた男が見張りを眠らせてまで、ただの身の上話をしにきた訳がない。

 

「取引しよう。おぬし、ここから逃げ出したいであろう?」

 

「あら! 思ったより魅力的なお誘いじゃないの。でも、タダじゃあないわよね?」

 

 以前、学院長の秘書ミス・ロングビルの立場から太公望がオスマン氏相手に繰り広げた『取引』場面を見ている彼女は、いきなりそんな申し出に飛びつくほど愚かではない。だが、そんなフーケの態度を見て太公望は陰のある笑みを浮かべた。満足げに頷くと、要求を口にする。

 

「逃亡を手助けする見返りに、おぬしの〝力〟を借りたい」

 

「わたしの〝力〟ねえ……メイジとして、という意味以上のものかい?」

 

 相手の出方を伺うように、フーケは言った。

 

「そういうことだ。もっとも、盗賊稼業については廃業してもらうことになるが。もちろん、それ相応の保障はさせてもらう。さて、これ以上は取引が成立するまで話すことはできぬが……どうする? この申し出を受ける気はあるか? まあ、悪事を反省して大人しく縛り首になりたい、というのであれば無理強いはせぬがのう」

 

 その言葉を最後に口を閉ざした太公望を見つめながら、フーケは考えた。目の前の男が出してきた提案は悪くない。この場で応じるだけなら問題はないだろう。保障とやらがどの程度か確認し、気に入らなければそのままオサラバすればいいだけのことだ。

 

「いいわ。受けてやろうじゃないの、その申し出。それで、わたしは具体的に何をすればいいのかしら?」

 

「その前に、盗みを止める見返りについて話しておこう。おぬしがこの魔法学院で秘書を務めていた際に受け取っていた給料の2倍を、毎月だ。たとえ頼む仕事がなくとも、1年間支払う用意がある。また、今回の逃走が成功した暁には前金として1ヶ月分渡すことを約束しよう」

 

 フーケは思わず目を見張った。破格の条件である。

 

(けど、うまい話には必ず裏がある。ここは慎重に対応しなきゃいけないね)

 

 少し考えてからフーケは口を開いた。

 

「ずいぶんと太っ腹じゃないの。でも、それだけ出すってことは相応に厳しい仕事ってことよね。内容を教えてもらえないことには動けないわ」

 

「それは今の段階では話せぬ。おぬしを逃がすのに失敗した場合のリスクが高すぎるからのう。ま、安心せい。命がけでやれなどという無体なことは言わぬ」

 

 彼の言うことは尤もだ。この場で明かすには色々と不都合があるのだろう。だが、そのおかげでまだ交渉の余地がある。フーケはふっと笑みを浮かべた。

 

「ふうん。でもさ……あんたがこんな交渉を持ちかけてフーケを逃がそうとしました、って話がうっかり外へ漏れ出さないっていう保障はないと思わない?」

 

 わずかな隙に噛みついたフーケを、太公望はあっさりといなした。

 

「ふふん、おぬしがそれをバラしたところでどうということはない。いたいけな少年と、国を騒がせた盗賊。果たして世間はどちらの話を信用するかのう? フーケ。いや、マチルダ・オブ・サウスゴータ」

 

 フーケの顔面は蒼白になった。斬り返されただけではなく、まさに急所に突き入れられた一撃だった。

 

「あ、あんた、それをどこで……」

 

 マチルダ・オブ・サウスゴータ。それは、捨てることを余儀なくされた――彼女の本当の名前。

 

(この男、一体どこまで手が長いんだ? これじゃあ迂闊な真似なんてできやしない!)

 

 血の気が失せた盗賊に、太公望は実に嫌らしい笑みを見せた。

 

「さて、改めて自分の立場を理解してもらえたと思う。逃亡成功後に、わし宛に連絡先を明記した伝書フクロウを飛ばすのだ。以後、それでやり取りをする。ああ、支払いは宝石でも構わぬか? フクロウに持たせるには、金貨ではかさばりすぎるのでな」

 

「よおっくわかったわよ! でも、換金に手間がかかるから少し割り増ししてちょうだい。それと、天然物以外を送りつけてきたら即契約破棄と見なすわよ」

 

「まあよかろう、そのくらいなら許容範囲だ。では、これで契約完了ということでよいか?」

 

「ええ、いいわ。選択の余地はなさそうだし」

 

「そう構えるでない。早速だが逃走方法について打ち合わせをしようか」

 

 ――太公望が話す『逃走計画』を聞いていたフーケは、笑いを堪えるのが大変だった。なるほど、この方法は悪くない。何より自分好みだ。失敗する可能性がないわけではないが、成功すれば気に入らない貴族どもに一泡ふかせることができる。

 

 それに、1年間という制限つきとはいえ安定した収入が見込めるというのは何より魅力的だ。学院で秘書をしながら盗賊稼業を続けていた頃よりも、この男の下にいたほうが充実した生活が送れるだろう。ならば……。

 

「この国では顔が割れてるし、あんたの勧め通りしばらく外で大人しくしておくよ。しかし、なんだね……ぷぷっ……本当に、ワルだねえ」

 

 場所と現状のせいで大きな声は間違っても出せない。必死に笑いを堪えるフーケに。

 

「ニョホホホ……褒め言葉と受け取っておこう」

 

 同じく小声で笑い返す太公望。

 

「ああ、そうそう。忠誠の証として、いいことを教えてあげるわ。あのセクハラジジイ、ミス・タバサとあなたとの契約料が安くあがった、って浮かれてたわよ」

 

「ほう、それはいい話を聞いた。初回の手付けに情報料を上乗せしよう。ククク、あの狸め……このわしを甘く見た報いを受けてもらわねばのう。ところで、仕事の頑張り次第では1年といわず契約延長もありえるので考えておいてはくれぬか?」

 

「新しい上司は気前が良くて、本当に嬉しいわ。こうなったら、なんとしてもうまく逃げ出さないといけないね」

 

 ――地下倉庫で主従を誓ったふたりは、声を上げずに嗤った。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――さて。地下倉庫で、まっとうとは到底言い難い『取引』が行われてから約10分後。太公望は再び学院長室を訪れていた。

 

「とりあえず、あんなもんでよかろう? 念のため確認しておくが、救出作戦にわしは手を貸さんからな?」

 

「わかっとるわい、もともと自分の撒いた種じゃ。今護送を担当しておる衛士ども相手なら、わしひとりでも充分お釣りが来るからの」

 

「本当かのう。確かワイバーン相手に手こずったのではなかったか?」

 

「あ、あのときは、その、た、たまたま両手が塞がっとって杖を取り出せなくてだな……」

 

「ふふん。ま、そういうことにしておいてやろう」

 

「君というやつは……」

 

 水キセルを燻らせながらオスマン氏はぼやいた。そう……今回の真の黒幕にして依頼人。それは、この部屋の主であるオールド・オスマンその人であった。

 

 彼は学院長室から自身の使い魔モートソグニル――ハツカネズミの『目』と『耳』を通して、地下倉庫で行われたフーケと太公望のやりとりを最初から確認していた。ちなみに、眠り薬を混入したワインを見張りの衛兵たちに差し入れたのもオスマン氏である。

 

「彼女へ渡す報酬についても、想定内に抑えてくれて感謝する。もちろんこちらで全額負担するから、情報は共有ということで頼むぞい」

 

「ああ、もともとそういう約束であったからのう。自分の懐を痛めずに欲しい情報が集められるというのは、こちらとしても願ったり叶ったりだからな」

 

 ふっふっふ……と、互いに目を合わせ、嗤い合うオスマンと太公望。

 

「それにしても、まるでラスボスのような風格じゃったの」

 

「こんないたいけな少年をつかまえてそれはなかろう?」

 

「本当にいたいけな子供は、自分をいたいけなどとは言わんわい。ところでその姿……ひょっとして〝変相〟(フェイス・チェンジ)か?」

 

「素だよ。『始祖』ブリミルに誓ってもかまわぬ。童顔なのは認めるがのう」

 

「その見た目でマチルダより年上とか、反則にも程があるじゃろ……」

 

「他の連中にバラすでないぞ。しかし、この話を持ちかけられたときはさすがのわしも呆れたわ」

 

 ――オスマンが太公望へ持ちかけた話とは。

 

 曰く、街の居酒屋で尻を触った給仕の娘に、なんとなくだが見覚えがあった。

 

 それが気にかかったオスマン氏はしばらくその店へ通いつつ彼女を観察し、やがて昔付き合いのあったアルビオン貴族の――既に断絶していた家の娘だと確信した。

 

 その後、ロングビルという偽名を使っていた彼女――マチルダの事情を知っており、その身の上に深く同情したオスマン氏は自分の秘書として採用し、これまで身近に置いていたのだが……結果として魔法学院に大変な危難を呼び込んでしまった。

 

 とはいえ、このまま縛り首にされるのを黙って見ているというのも寝覚めが悪い。なんとか彼女を救い出し、かつ更正させる良い方法はないだろうかと考えた。そこで、最悪の場合は自分だけが泥を被る覚悟で太公望へ話を持ちかけたところ。腕の良い斥候役を欲していた太公望から、情報収集役として裏から雇うという折衷案を提示され――魔法学院に迷惑がかからない形でそれを実行するための案をふたりで出し合った結果――現在に至る。

 

「知り合いの娘だからといって、秘書の身辺確認を怠るとかありえんわ。人を害するような真似をしておらんかったから、今回は特別に乗ってやったが……」

 

 心底疲れたといった風情で肩を落とす太公望。

 

「いや~、まさかあんなお転婆しとるとは、思いもよらなんだわ。ねえ? 男なら誰だってあんなあちこちプリンちゃんに育っておったら、そりゃ惑わされるよ。なあ?」

 

 至極真面目な顔で同意を求めてきた老学院長に。

 

「おぬし、いっぺん死んだほうがよいのではないか?」

 

 太公望は、ボソッと呆れ声で呟き返した。

 

 若いくせに枯れたジジイみたいな反応しおって……と、オスマン氏は軽く咳払いする。

 

「舞踏会は既に始まってしまったが、今からでも遅くはない」

 

 オスマンの念押しに頷く太公望。

 

「ちゃんと出席するから安心せい。わしとて、いらぬ憶測を生みたくはないからのう」

 

 

○●○●○●○●

 

 アルヴィーズの食堂の上にある大ホール――フリッグの舞踏会場は学院関係者による怪盗フーケ捕縛の報に沸き、例年になく大きな盛り上がりを見せていた。

 

 才人はルイズから買い与えられていた礼服を着て会場脇のバルコニーの枠にもたれかかり、歓談や食事に夢中になる貴族たちを、外からぼんやりと眺めていた。

 

「ふふん、馬子にも衣装ってやつじゃねえか」

 

「うるせえな。こんな服着るの、初めてなんだよ」

 

 従兄弟の結婚式には、制服で出たし――と、バルコニーの枠に立て掛けたデルフリンガーの憎まれ口にそっくり同じような口調で答えた才人は、先程メイドのシエスタが運んできてくれた肉料理を口に運び、それをワインで流し込む。

 

 ホールの中ではキュルケが男達に囲まれて笑っている。彼女の纏う深紅のドレスと赤い髪が相まって、場の中心で燃える篝火(かがりび)のようだ。

 

 黒いパーティドレスに身を包んだタバサは、一生懸命にテーブルの上の料理と格闘している。その隣にある席の前は山ほど積まれたパイにタルト、色とりどりの果物も処狭しと並んでいるが、そこに着くべき主はまだ到着していないようだ。

 

「どうした才人、中に入らぬのか?」

 

 と、その主――太公望が現れた。彼はいつものそれとは違い、才人同様礼服に身を包んでいたのだが――傍目で見ても着慣れていないのがわかるくらい、着崩れしていた。

 

「うわっ、似合わねえ!」

 

 自分のことを差し置いて、思わず笑ってしまった才人に、

 

「仕方なかろう。このような服を着るのは初めてなのだ」

 

 と、窮屈そうに答える太公望。横にいるデルフリンガーもカタカタと笑っている。

 

「なんか場違いな気がしてさ。お前こそ、タバサほっといていいのか? あのテーブル見てみろよ。デザートしこたまキープして待ってるみたいだぜ」

 

「なんと!? さすがはタバサ、気が利くのう。だがしかし、わしにはこれからやらねばならぬことがあるので、菓子を楽しむのはその後だ」

 

「やらねばならぬこと? 何だ、それ」

 

 そんな才人の問いを遮るように、呼び出しの衛士がルイズの到着を告げる。

 

「ラ・ヴァリエール公爵が息女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢のおな~り~!」

 

 あいつずいぶんと遅かったな、女って身支度に時間かかるから大変だよな――などと考えつつ声のしたほうを振り向いた才人は、思わず息を飲んだ。

 

 あれがルイズか。白く淡い光沢を放つパーティドレスに身を包み、髪を上品な造りの髪留めで上にまとめた彼女の姿は、いつも以上に輝いていて――眩しかった。

 

 ルイズは、さかんにダンスを申し込んでくる男子生徒たちに断りを入れながら、ゆっくりとバルコニーに佇むふたりと1本の側へ近寄ってくる。

 

「あんたたち、こんなところで何やってるのよ」

 

「いや、別に」

 

 才人は、ぷいと顔を横に逸らした。酒が入っていてよかった。これなら、顔の赤さを彼女に気取られずに済むだろう。そこへ、太公望から声がかかる。

 

「せっかくの雰囲気を壊してしまって悪いのだが、3人に大切な話がある。そう長くは時間をとらせぬから、少しかまわぬか?」

 

「3人ねぇ……ケケケ、それは俺っちも含んでるってことだよな?」

 

 機嫌が良さそうにカタカタと鍔を鳴らすデルフリンガーに、太公望は頷く。

 

「ええ、かまわないわ」

 

「俺も。ここでメシ食ってただけだし」

 

 残るふたりの了承を得た太公望は、周囲を伺い他に誰もいないことを確認すると、早速話を始める。

 

「さっきの件だ。才人が〝伝説の使い魔〟だという話、誰にもしてはおらぬだろうな」

 

「もちろんしてないわよ――だいたい、今まで身支度してたんだから」

 

 そう答えるルイズと「同じくずっとここで飲み食いしてたし、そんな話は出しようがなかった」と言う才人の返事に、大きく息を吐く太公望。その表情は心底ほっとしているようだった。

 

「それは良かった。ならば、これから何があっても絶対に他言無用だぞ。当然、誰に対しても、だからな? 才人よ、今後は普段からそのルーンを隠しておくのだ。そうだのう――片手だけでは目立つ。両手の邪魔にならない、手袋のようなものが望ましいのだが」

 

「え、なんで?」

 

 今まで普通に出していたのに。そう問い返す才人の疑問に答えたのはルイズだ。

 

「あ、そっか……伝説っていうくらいだもん、すっごく珍しいってことよね」

 

「何か悪いの?」

 

 それに答えたルイズの顔は傍目から見ても明らかな程、血の気が引いていた。

 

「えっとね、この国にはアカデミーっていう研究機関があるんだけど……そこではしょっちゅう色々な実験をしてるの。もしも伝説なんていわれる使い魔だってわかったら、あんた連れて行かれて解剖されちゃうかもしれないわ」

 

「なにそのヤバイ機関。人体実験までやってるのかよ」

 

 思わず左手を隠し、周囲を用心深そうに伺う才人に苦笑する太公望。

 

「ん、まあ解剖云々はともかく、目立つとまずいというのは理解できたかのう?」

 

 素直に頷くふたりと、カチンと鍔を鳴らすデルフ。理解したという表明だろう。ルイズは内心、もうちょっとで自慢するところだったわ――などと冷や汗をかいていた。

 

 いっぽうの太公望はというと、ルイズの話を聞いて肝を冷やしていた。この国に人体実験を行うような機関があるとは初耳だ。これは、絶対に自分が仙人であることを悟られてはならない。何故なら、もしも人類の夢である『不老不死』を実現していることが知られてしまったらどうなるか。ほぼ間違いなく逃亡生活に逆戻りだ。その上で、万が一にも捕らえられてしまったら……考えたくもない。

 

 そんな内心をおくびにも出さず、太公望は言葉を続ける。

 

「タバサにも、こちらから堅く口止めをしておく。あとは……そうそう、ルイズの魔法を見る件についてだが」

 

 この言葉に、ピクリと反応するルイズ。

 

「正確におぬしの〝力〟を測るため、次の虚無の曜日まで、体調をしっかりと整えておいてもらいたいのだ。魔法も授業以外では絶対に使わぬこと。練習も禁止だからな」

 

「……わかったわ」

 

「それと才人、おぬしギーシュと仲が良かったな。できれば『ドット』メイジとの比較を行いたいので、彼に協力を依頼してもらいたいのだが?」

 

「ああ、そのくらいならお安いご用だ。明日聞いてみるよ」

 

「なら一緒に頼みに行くわ。だって、わたしが協力してもらうんだから」

 

 ふたりの解答に満足した太公望が、にっこりと笑って言った。

 

「そうだな、それがよかろう。ああ、これで最後なのだが、才人よ。できれば、手のひらに収まるような、それでいて、メイジから見て武器に見えないものを手に入れ、携帯しておくがよい」

 

 その台詞に、デルフリンガーが激しく騒ぎ出す。

 

「なんだよ! 俺っちじゃ不満だってのか!?」

 

「騒ぐでない、おぬしがいけないという話ではないのだ。屋外なら問題ないが、狭い場所で長い剣を振り回すわけにはいくまい? それにルーンの力を使うたびにいちいち剣を抜いていたら、いらぬ警戒をされてしまうからのう」

 

「ああ、言われてみればそうかもしれねえな。メイジから見て、そうは見えない隠し武器ねえ……うん、それなら相棒は自然に〝力〟を使えて、しかも慣れることができるってことだな。お前さんよく考えるねえ」

 

 感心したように呟くデルフリンガーに、才人も同意する。

 

「話はこれで終わりだ。ではの」

 

「あ……ちょっと待って」

 

 軽く手を振ってその場を去ろうとした太公望を、ルイズが引き留める。

 

「何だ? どこかわからないところがあったかのう?」

 

「ううん、そうじゃなくって……その……今日はありがとう」

 

 コクリと首を前に傾けた太公望は、その言葉を背に離れていった。もっとも、

 

「行くぞ! 待っておれ、わしの甘味!!」

 

 などと叫んで自席へ駆け出したせいで、せっかくの雰囲気その他諸々が台無しになっていたのだが――。

 

「ったく……アイツって……」

 

「本当、子供なんだか大人なのか、よくわからなくなるわ」

 

「まあ、天才となんとかは紙一重っていうからな」

 

 ――違いねぇ。最後を締めたデルフリンガーの言葉に、一同は笑い声を上げる。と……ふいに、ルイズの顔に影が差した。

 

「サイト……その、ごめんね」

 

 突然の言葉に、才人は慌てた。こんなしおらしい態度のご主人さまもいいなあ、などとちょっとは考えたが、口には出さなかった。

 

「な、なにがだよ。俺をこんなとこまで召喚したことか? それとも平民平民って散々見下してきたことか? 他には……心当たりがありすぎて、すぐには思い出し切れないんですが?」

 

 照れ隠しに、才人は思わず憎まれ口を叩いてしまう。

 

「ちょ……あの、そりゃね、主人としての威厳ってものが……ああもう、ちがーう! あんた……帰りたいのよね?」

 

「まあ、そりゃな。いきなり連れてこられて使い魔になれとか、滅茶苦茶だろう。家に戻りたいし、父さんや母さんに会いたい」

 

(当然よね……)

 

 才人の言葉に、ルイズは俯いた。今まで考えてもみなかったことだが、彼にだって故郷があり――家族がいるはずなのだ。それなのに魔法で一方的に彼らを引き裂いてしまった挙げ句、今もこうして自分に付き合わせている。

 

「でもさ。帰る方法が見えてきたから、今はそんなに焦ってない」

 

 笑顔でそう言った才人に、マイナス思考に陥りかけていたルイズは思わず顔を上げた。

 

「タイコーボーが言ってただろ。お前は、異世界にいた俺とお前の間に『門』を作れたんだ、って」

 

「待って! 前にも言ったかもしれないけど、ハルケギニアには、召喚したものを送り返す魔法はないのよ!?」

 

「あいつのところにはあるんじゃないのか?」

 

 その言葉にはっとするルイズ。そうだ、彼は言っていたではないか。『空間ゲート接続』というのは非常に難しい技術なのだ――と。それはつまり、シュウという国にはそういう魔法が存在しているということになる。

 

「わたし、ロバ・アル・カリイエなら即幹部候補になれるって言われたわよね」

 

 笑みを隠しきれない顔で呟くルイズに、才人は頷き返した。

 

「すげえよな。あいつがあそこまで言うんだから、お前、本当にそっちの才能あるんだよ。だから、いつかお前がそれを覚えたら」

 

「帰っちゃう……のよね」

 

「ああ。んで、お前に日本の凄さを見せつけてやる」

 

「は?」

 

「いや、だからさ。お前と一緒なら、行ったり来たりできるようになるだろ? そりゃ最初呼ばれたときはムカついたけどさ。まだまだこの世界を見てみたいっていうのは、俺のホントの気持ちだ」

 

「あんた……」

 

「それなら使い魔やめずにいつでも帰れるし、こっちにも来られるじゃないか。だから、お前のこと……手伝うよ。俺は魔法なんて使えないけどさ。部屋の片付けくらいならやれるしな」

 

「使い魔をやめずに? いっしょになら、行ったり来たりできる?」

 

 その言葉を反芻し続けているルイズをよそに、才人の独演会は続く。

 

「なあなあ、ロバ……なんとかにも行ってみたくないか? きっと、こことは違う魔法がいっぱいあるぜ。よし決まり! みんなで一緒に旅行しようぜ。案内はタイコーボーにしてもらってさ。俺と、ルイズと、タバサに、ギーシュ、キュルケも誘って。きっと楽しいだろうなあ」

 

 ――みんなと一緒に旅をする。

 

 今まで、そんなこと考えてもみなかった。この使い魔を召喚してから、自分の周りが劇的に変わった気がする。本当に、そんな魔法が出来るようになるのか、わたしにはわからない。でも、少なくとも目の前にひとり――それを信じてくれているひとがいる。

 

 ルイズはドレスの裾を両手で恭しく摘み上げると、膝を曲げて才人に一礼した。

 

「わたくしと一曲踊ってくれませんこと? ジェントルマン」

 

「俺、ダンスなんかしたことねえよ」

 

「わたしに合わせるだけでいいのよ」

 

 そう言って自分を見上げるルイズの顔は、激しく可愛くて、綺麗で、清楚であった。才人はふらふらとルイズの手を取り……ふたりは並んでホールへと向かった――。

 

 そんな彼らの様子をバルコニーで見守っていたデルフリンガーは、こそっと呟いた。

 

「おでれーた。主人にダンスを申し込まれる使い魔なんて、初めて見たぜ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その翌日。

 

 学院から引き渡されたフーケを引っ立てていった衛士隊の一行は、トリスタニアの街でフーケに対し〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟を含む簡単な取り調べを行った後、護送用の馬車で一路チェルノボーグの監獄へと向かった。

 

 ところが、道中で突如天から落ちてきた大量の〝水〟によって護送の一団はまるごと押し流されてしまう。

 

 ようやく馬車の元へ辿り着いた時には既に遅く。黒ずくめのローブを身に纏い、フードで顔を隠した謎の人物によってフーケは拘束から逃れており。必死の追走も空しく、彼らはまるで煙のように姿を消した――。

 

 その後、この前代未聞の不祥事はというと……。

 

 魔法学院側から「怪盗フーケが複数犯である」という報告を受けていたにも関わらず、奪還に対して警戒を怠っていたこと、今回の持ち回りを担当していた衛士長が、本来出すべき警護の兵数を小銭惜しさにケチっていたこと。ついでに収賄疑惑まで発覚し、最後には自らがチェルノボーグへ送られるという事態に至る。

 

 その上で、フーケが逃亡したという事実と共に関係者一同に厳しく箝口令が敷かれ――いつしか闇へと消えた。

 

 

 



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風の分岐
第12話 雪風は霧中を征き、軍師は炎を視る


 ――物語は『土くれ』のフーケ捕縛当日の夜、20時頃まで遡る。

 

 この夜。トリステイン魔法学院本塔2階ホールでは、貴族の学舎に相応しい優雅な宴が開かれていた。女神の名を冠したその催しは『フリッグの舞踏会』と呼ばれている。

 

 この舞踏会は毎年春、ウルの月のフレイヤの週・ユルの曜日――地球の暦に準えるならば5月第1週目の火曜日に執り行われる、伝統ある祭典だ。教師と生徒・家格の枠を越え、お互いに親睦を深めることを目的としている。特に入学したばかりの1年生にとっては大切な社交界デビューの場という側面もあるため、毎回派手に執り行われる。

 

 女神フリッグは大地と愛を司る。そのためか、この舞踏会でダンスを踊ったカップルは将来結ばれるという伝説がある。男たちは戦場へ赴く兵士のような面持ちで目当ての人物に声をかけ、女子生徒や未婚の女性教師たちは意中の男子生徒、あるいは男性教員の挙動をこっそりと伺っていた。

 

 男子生徒と女子生徒、それぞれの若さ溢れる甘酸っぱい駆け引きや、教員同士の歓談の輪が舞踏会会場のいたるところで花開く。ところが、各所で行われているそんなやりとりとは一切無縁の者たちがいた。

 

「この苺はよう熟れておるのう。ほれタバサ、おぬしもひとつどうだ?」

 

「食べる。すごく甘い」

 

 タバサと太公望のふたりである。

 

 彼らは舞踏会場の片隅で、ひたすらテーブルに乗せられた料理と格闘していた。かたやサラダと肉料理、もう片方は果物と菓子のみと、内容と消費量が非常に偏ってはいたが。

 

「ねえ、あなたたちは踊らないの?」

 

 燃える炎のように赤い髪、魅惑的な褐色の肢体を深紅のドレスで包んだキュルケが彼らの側へ歩み寄ってきた――彼女に魅了された複数の男子生徒を引き連れて。

 

 ふたりはキュルケに対してぐるっと首だけを向けると、自分たちのテーブルの上を指差し……すぐさま料理に向き直った。

 

「んもう、ふたりとも! 今日の主役はフーケ捕縛に大活躍したあたしたちなのよ? 楽しまないでどうするの!!」

 

 呆れた様子のキュルケに、ふたりは食器を手にしたまま答える。

 

「存分に楽しんでおるが?」

 

「同じく……あ」

 

「どうした?」

 

「奥のテーブルに焼き菓子が届いた」

 

「なぬ、それは見逃せん! 謝礼としておぬしのぶんも確保してくる」

 

「期待している」

 

 空いた皿を手に「よっしゃー!」と気合いを入れた太公望が、件のテーブルへ向かって駆けてゆく。

 

「まったく、揃ってこれなんだから! ほら、向こうを見てごらんなさいな」

 

 そう言って、キュルケは会場の一角を指し示す。その細い指先の向こうには、桃色の髪の少女と黒髪の少年が、互いに頬を染めて踊っている。踊り慣れていないのであろう、黒髪の少年は傍目にもわかるほど不器用で下手くそなステップを踏んでいたが、桃色の髪の少女は文句ひとつ言うことなく、少年の動きに合わせて器用に身体を動かしていた。

 

「ほら、あの堅物のヴァリエールまで踊っているのよ?」

 

 促してから、キュルケはまじまじと親友の顔を見つめた。

 

 入学して以後開かれた数々の舞踏会。タバサはいつもひとりで会場の片隅にあるテーブルにつき、黙々と料理を口に運んでいるだけだった。それもそのはず、彼女は男子生徒たちの眼中に無かったからだ。

 

 短く切り揃えられた蒼い髪と透き通るように白く滑らかな肌、宝石のように輝く碧眼によって彩られた顔は、よくよく見ればかなりの美少女であったのだが、しかし。142サントしかない身長は15歳という年齢にしては小さすぎたし、すとんとした幼子のような肢体には、恋やダンスのパートナーとしての面白みが感じられないのだろう。

 

 しかも、彼女はほとんど喋らない。おまけに話しかけても無反応であることのほうが多い。これではダンスの誘いをかけようにも二の足を踏むであろう。そこで無視されたりしたら、貴族として大恥をかくことになるからだ。そんなわけで、進んでタバサに声をかけるような酔狂な男子生徒はこれまでひとりもいなかった。

 

 でも、今日はそうではない。少なくとも側に誰かが――ヴァリエールと同じ使い魔ではあるけれど、男の子がいるのは間違いない。

 

(一歩前進できたと考えたほうがいいのかしら……)

 

 そんなことを考えながら、キュルケはタバサの肩に腕を回す。

 

「しょうがないわね。それじゃ、連れがいるから……またね」

 

 キュルケはタバサの頬に軽くキスをすると、大勢の取り巻き達と共に人混みの中へと消えていった。そこへ、入れ替わるように太公望が戻って来た。両の手に菓子で山盛りになった皿を抱えて。

 

「ありがとう」

 

「何を言う、これは情報への正当な対価なのだ。わしも食べたかったしのう」

 

 からからと笑いながら皿に『戦利品』を振り分ける太公望へ、タバサがポツリと言葉を返す。

 

「それだけじゃない。許可証」

 

「ああ、そのことか」

 

 ――と、今更気がついたような太公望にタバサは目を向ける。ちなみに、このような時ですら彼らの手は止まることなくテーブル上に山と積まれた料理へと攻撃を続けていたりする。

 

「図書館で書物を探しておるときに、ごく稀にだが、おぬしの視線がとある場所を捉えていた」

 

 タバサの手が止まった。

 

「そこに何があるのか気になってのう。司書に聞いたら、教員以外立ち入り禁止とされている書庫があるというではないか。しかも、数千年前の貴重な本まで当時のまま残っておるとか」

 

「それだけで」

 

「きっかけはそれだが、わし自身も古い書物に興味があったのでな。せっかくだから、一緒に申請したというわけなのだ。ふたりとも入れれば面倒もなかろう?」

 

 『フェニアのライブラリー』。タバサはとある目的のために、ずっとそこへ立ち入りたいと願っていた。だが、それを告げたことはないし、思わせぶりなことをしたつもりもない。しかし、自覚のないまま視線を彷徨わせていたようだ。

 

(彼の目は、いったいどこまでを見据えているのだろう)

 

 ふと、タバサの頭の中でばらばらになっていたパズルのピースが組み合わさる。

 

 そうだ、これこそが彼の持つ真価ではないか。国中を混乱させた怪盗の正体をあっさりと暴き、捕縛した眼力。それは魔法学院はもちろんのこと、王立アカデミーの研究員ですら突き止められなかったルイズの失敗魔法をも見出そうとしている。風竜よりも早く飛べる? そんなものは、この〝力〟に比べたらなんでもない。

 

 食事の手を止め俯いてしまったタバサを見て、

 

「どうしたのだ? 食べ過ぎで腹でも痛めたのか?」

 

 などとまるで見当違いの心配をする太公望。そんな彼の声を聞いて、タバサは思った。もしかすると、このひとなら――。

 

「聞きたいことがある」

 

 顔を上げ、真っ直ぐに太公望を見つめるタバサ。太公望は突如向けられた真剣な眼差しに、彼女と同様手を止め、見返すことで応える。

 

「わしに答えられるものであればかまわぬが」

 

「身内に病人がいる。わたしは、その病を治す方法を探している。あなたには医学の知識はある? 知っていたら教えてほしい。特に、心の病に関することを」

 

 それは、彼女の心からの願い。

 

 だが――運命はこのときタバサに味方しなかった。寂しげな……それでいて悲しそうな色を湛えている太公望の目を見て、彼が次に何を言うのかタバサにはわかってしまった。

 

「すまぬ、わしに医術の心得はない。それに心の病は……治すことができないものなのだ」

 

「……そう」

 

 掴みどころのない性格の彼だが、こういうときに嘘を言う人物には見えない。その彼ができないと断言するのなら、本当に不可能なんだろう。落胆していないといったら嘘になる。けれど、自分だけではどうしても立ち入ることが叶わなかった『フェニアのライブラリー』へと導いてくれた。それで充分だ。その『道』を進み、探せばいい――。

 

 タバサが決意を新たにした、そのとき。バサバサッという羽音と共に、ホールの窓から1羽のフクロウが飛び込んできた。灰色のフクロウは舞踏会の喧噪の中、迷うことなくまっすぐとタバサの元へと向かい――その肩へと留まった。

 

 タバサの表情が硬くなる。フクロウの足に括り付けられた書簡を手にすると、さっと目を通す。そこには短くこう書かれていた。

 

『出頭せよ』

 

 ――と。

 

 タバサの目に強い光が宿る。先程までのそれと違う、様々な感情がないまぜになった複雑な――それでいて暗い輝きが。タバサはすっと立ち上がると、まっすぐに誰もいないバルコニーのほうへと歩き出す。

 

(このまま闇にまぎれ、外の厩舎へ。トリスタニアから竜便に乗り換える)

 

 そう考えた彼女の腕を後ろから掴んだ者がいた。それは、彼女の隣に座っていた太公望であった。華奢なタバサの腕をぐいっと掴み、その身体ごと自分のそばへと引き寄せた彼は、周囲を伺いながら口元を手で隠し、小さな声で彼女の耳元へと囁く。

 

「祖国から仕事に関する呼び出しを受けた――そうだな?」

 

 何故――!? タバサは言葉もない。

 

(任務のことなんて、一言たりとも彼に話していないのに!)

 

 タバサの困惑を察したのだろう、何でもないことのように太公望は言葉を続ける。

 

「〝騎士(シュヴァリエ)〟とやらは実績の証だそうだのう。タバサよ、おぬしはあきらかに多くの実戦経験を積んでおるな? 周りには隠しておったようだが、わしは普段の何気ない身のこなしや言動からそれがわかっておった。そうでなければ、間違ってもこんな小さな娘を盗賊の監視役につけるような真似などせんわ」

 

 タバサは以前、彼に「少々見くびっていたようだ」と言われたことを思い出した。そうだ、彼はとっくの昔に見破っていたのだ。わたしが『騎士』であることなど。

 

「そこまでわかっているなら、放して。すぐに行かなければならない」

 

 強引に腕を振り払おうとしたタバサだったが思いのほか強く握られていて、それもできない。睨み付けても、いつもの飄々とした態度でかわされてしまう。

 

「別に、そこまで急いで来いとは書かれとらんかっただろう?」

 

「でも」

 

 確かに、受け取った書簡には『出頭せよ』と記されているだけだ。しかし、できる限り早く行かなければならない。もしも彼らの機嫌を損ねてしまったら大変なことになる。タバサはもがいた。

 

「ずいぶんと焦っているようだが、焦りはろくな結果を生まぬ。まさかとは思うが、この学院におぬしを監視している間諜がおるのか? 少なくともわしがここへ呼ばれた日から、それらしき者を見た覚えはないのだが?」

 

「いない。わたしも当然調べている。学院側も、身分の不確かな者を雇ったりはしない」

 

「……不確かなのが、今おぬしの腕を掴んでいるわけだが。まあそれはよいとして」

 

 ふいに太公望の目つきが変わる。タバサは彼のそんな表情に見覚えがあった。これは……交渉のときや、何か悪戯を思いついたときの――!

 

 ――まずい。タバサがそれに気付いた時は、既に手遅れだった。

 

「これ! タバサ、タバサよ! いくらなんでも飲み過ぎだ! すまぬ、誰かちと手を貸してくれ!!」

 

 大音声と言うに相応しい声がホール全体に響き渡る。その声に、なんだなんだと太公望とタバサの周りに人だかりができる。そんな中、彼らのすぐ側まで寄ってきた者達がいた。キュルケとその取り巻き達だ。

 

「あら、ミスタ。こんなところで痴話喧嘩かしら?」

 

「違うわ! タバサのやつが悪酔いしてな、バルコニーから飛び降りると言って暴れるのだ! 頼むから、止めるのを手伝ってくれ」

 

「嘘、わたしは酔ってない」

 

 そう言ってもがくタバサを、キュルケが抱き締める。

 

「ふふッ。酔っぱらいはね、自分が酔ってるって気がつかないの。ほら、今日はもうお部屋に戻って休みなさいな……スティックス、お願い」

 

 キュルケの側にいた男子生徒のひとりが、さっと杖を取り出してルーンを唱える。あの詠唱は〝眠りの雲〟(スリープ・クラウド)――そう悟った瞬間、タバサは抵抗(レジスト)する間もなく夢の世界へ落ちていった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサは薄く(もや)がかかった視界の中を杖も持たず、たったひとりで歩いていた。

 

 彼女の周囲には深い霧と、遠くまで続く1本の道以外には何もない。昔読んだ本に書いてあった死後の世界(ヴァルハラ)へと続く道のよう――そんな感想を抱きながら、タバサは足元だけを頼りにまっすぐ先へと進んでゆく。

 

 彼女の前を、誰かが歩いている。しかし、視界が悪くその後姿をはっきりと見ることはできない。もっともタバサは、先を行く者に声をかけるつもりなどなかったのだが。

 

 ……と、歩み続けるタバサの耳に、小さな声が飛び込んできた。それはどこかで聞き覚えがあるような、それでいて懐かしいような……。

 

「…………ロット……シャルロット」

 

 前を向いていたタバサの足が、止まった。

 

「……誰?」

 

 わたしの――小さな人形と引き替えに置いてきた、その名を呼ぶのは。

 

 タバサはその場に立ち止まって周囲を見回す。と、道の外側――先程まで深い霧に包まれていた一部が晴れた。その先にあった大岩の上に、ひとりの老人が座っている。

 

「おじい……さま!?」

 

 そんなはずはない。御祖父様はとうの昔に亡くなったはず――。

 

 思わぬ人物の姿に狼狽した彼女のもとへ、再び懐かしい声が響く。

 

「シャルロット……」

 

 特徴的な青い髪に40歳を過ぎてなお青年のような瑞々しさを面影に残す男が、先程タバサが祖父と呼んだ老人の側で静かに佇んでいた。

 

「父さま!!」

 

 大声で叫んだタバサは、彼らのもとへ駆け出そうとした。だが、道を外れたその途端、足を踏み外す。彼女がこれまで歩いていた道は細い崖道だったのだ。咄嗟に〝飛翔(フライ)〟のルーンを詠唱しようとしたが、杖を持っていないことを思い出し、歯噛みした。

 

(あれは、わたしを惑わすための罠――)

 

 崖下に広がる闇へとタバサが飲み込まれていこうとした、その時。誰かが彼女の腕を崖の上からがっしりと掴み取った。

 

「どうやら、間に合ったようだのう」

 

 ――タバサの手を取ったのは、彼女の使い魔・太公望だった。

 

 

○●○●○●○●

 

「……夢?」

 

 気がつくと、そこは自室のベッドの上だった。身につけているのは、いつもの寝間着だ。タバサはゆっくりと身体を起こし、頭を左右に軽く振ると、ここに至るまでの経緯を思い起こす。

 

(そう、確か舞踏会の最中に伝書フクロウが出頭命令を運んできて……それで、厩舎へ向かおうとしたところを太公望に捕まって、それから――!)

 

 慌ててベッドから飛び起きたタバサは、窓の外に目を向けた。もう日が昇っている。おそらく一晩中眠ってしまっていたのだろう。

 

 ……と、扉をノックする音が室内に響いた。

 

「タバサ、もう起きとるか?」

 

 太公望の声だ。タバサは一瞬、急いで着替えを済ませて外へ逃げ出そうかと思ったが、やめた。

 

(彼のことだから、すぐに状況を理解して追いついてくる。無駄に体力を消耗するだけ)

 

 そう判断し、扉の向こうへ返事をする。

 

「今起きた。着替えるから、少し待って」

 

「わかった。なるたけ早く頼む……と、できれば厚めの上着を用意しておくがよい」

 

 厚めの上着? もしや、今日は冷え込むのだろうか――状況の割には自分でも驚くほどに落ち着いていたタバサは、急いでベッドから飛び出して服を身につけると、言われた通りのものを用意し、扉を開けた。

 

「終わった」

 

「そうか。では、部屋の中で話をするとしようかのう」

 

 そう言って中に入ってきた太公望は、少し大きめの背負い袋を手にしていた。

 

「厨房で弁当を作ってもらってきた。おぬしの準備ができたなら、出かけるぞ」

 

 タバサにはちと物足りない量かもしれんがのう。と、からから笑って袋を持ち上げて見せた太公望に、少女は唖然として聞いた。

 

「出かける?」

 

「急ぎの仕事があるのだろう? 馬で行くより早い移動手段があるではないか」

 

 タバサは驚愕した。まさか彼はわたしを自分の背中に乗せて、一緒に行くつもりなのだろうか。

 

(だめ。わたしは、あなたをこの『道』へ巻き込むつもりなんかない!)

 

 強い口調で彼女は拒否する。

 

「これはわたしに課せられた任務。あなたには関係ない」

 

「その任務の邪魔をして、一晩休ませるという判断をしたのはこのわしなのだ。その責任を取る必要がある。それに……」

 

 太公望は懐からくるくると丸められた1枚の羊皮紙を取り出すと、ぴらっと広げる。タバサはその書面に見覚えがあった。

 

「初日に交わした契約書類だ。ほれ、ここにこうある」

 

 ――太公望は、使い魔として常にタバサの側にあることとする

 

「……とな」

 

「でも」

 

「デモもストもないわ! 一度結んだ、しかも双方充分納得の上で取り決めた契約を理由もなく一方的に破棄しては、他人から信用を得られるわけがない。学院側も、おぬしも、これまできちんと約束を守っている。わしのほうから破るわけにはいかぬ」

 

(まったく。これを見越してこの一文を紛れ込ませおったな、あの狸ジジイめ……!)

 

 内心でブツブツとオスマン氏へ呪詛を吐く太公望だったが、もちろんタバサの耳には届かない。

 

「これ以上の話は空の上でするとしよう。ああ、この袋はおぬしが背負ってくれ。では行くぞ、タバサ」

 

 弁当袋をタバサへ手渡した太公望は、彼女の返事を待たずに窓の外へ飛び出した。そんな彼の後ろ姿を見たタバサは……わずかな逡巡の後、彼を追って窓から飛び降りた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――なるほど、厚手の上着を用意しろと言っていたのはこのためか。

 

 タバサを背に乗せて空を飛ぶ太公望は、

 

「人を乗せて高速飛行する姿をあまり他人に見せたくない」

 

 という理由から、高度5000メイルを維持しつつ一路ガリアの王都・リュティスへと向かっている。この高さを飛ぶ生き物はハルケギニアには存在しない。ましてや普通の人間が〝飛翔〟でこの高みへ到達すること自体、ほぼ不可能だろう。

 

 前回背中に乗せてもらった時よりも遙かに強い向かい風が、タバサの頬と髪を嬲る。上着なしではこの風と突き刺すような寒さには耐えられなかっただろう。太公望曰く、シールドの強さを調節することで消耗を抑え、そのぶん飛行できる距離を稼いでいるのだそうだが……それはつまり。やり方を変えれば、さらに上の世界を見ることが可能だということだ。

 

 それにしても、本当に速い。途中で休憩を挟んでも、成体の風竜にすら劣らぬ速さでリュティスまで到着できそうだ。彼の背中に強くしがみつくようにしていたタバサが太公望にそう告げると、意外な返事が戻ってきた。

 

「いや。今回は馬で街へ出て風竜に乗り継ぐよりも、ちと速い程度に抑えよう」

 

「何故」

 

「例の間諜の件だ。本当に学院近辺にいないのかどうか確認しておきたい」

 

 タバサは、その一言だけで理解した。

 

(昨日のわたしの言動を見た彼は、どこかで見張られている可能性がある――そういう立ち位置にいるのだと推測した上で、不安要素をできるだけ摘み取ってくれようとしている)

 

 もしも魔法学院だけでなく、タバサはおろか太公望にすら正体を見破れないほどに優秀な間諜がついていたのなら……とっくに太公望の〝力〟は露見し、最悪自分と彼の身柄を確保すべく関係者が動いているだろう。しかし、絶対にいないという保障もないので警戒は必要だ。

 

 現時点で()の手の者がいないと確認できたとしても、出頭命令が出てからあまりにも速く到着した場合、タバサが支援者を得たのではないかと怪しまれてしまう可能性もある。

 

 ……と、そこまで考えたタバサは覚悟を決めた。

 

 これまでは、太公望を巻き込まないよう一切の事情を話さずにいた。だが、事ここに至ってしまった以上、情報の秘匿は逆に彼の行動を阻害しかねない、せめて状況の説明をする必要があると判断する。もちろん、全てを打ち明けるわけにはいかないが……。

 

「話しておきたいことがある」

 

 ――そして、タバサは語り始めた。

 

「わたしはガリアからの留学生」

 

「トリステインの南にある大国だったな」

 

「そう。留学というのは建前。実際にはガリアの国王とその一族に疎まれ、遠ざけられただけ」

 

「では、今回の呼び出しは?」

 

「王家が表に出せない荒事が持ち上がったとき、任務と称して解決を求められる」

 

「ふむ。もしや、おぬしの死を期待しているかのような、危険なものではないか?」

 

 タバサは答えない。激しい風音が両者の間を流れてゆく。

 

「なるほどのう……逃げることは考えておらんのか?」

 

「母さまを人質に取られている」

 

「おぬしが逃げたらどうなるかは自明の理、か……」

 

 国王が部下に忠誠を誓わせるために人質を取る。よくある話だ。己の忠義を証明するために、自ら進んで身内を差し出す者がいるほどである。

 

 太公望は、出会った時から現在に至るまでのタバサの言動を思い返した。魔法学院にいる他の子供たちのそれとは一線を画す立ち振る舞いに、勘の良さ。あれらは全て、任務とやらで培われたものだったのだ。

 

 その上で思い起こした。初めて出会った時に見た、年齢にそぐわぬ絶望の色を宿す瞳。

 

 昨夜彼女の目に浮かんでいた、周囲を焼き尽くすかのような……それでいて(くら)い炎の存在を。

 

 太公望はその〝炎〟がどういうものか、よく知っていた。

 

(あれは憎悪に胸を焦がし、やりきれない怒りに焼かれ、復讐に燃える者が抱える炎だ……)

 

 かつて、理不尽な理由で故郷と家族を友人をいっぺんに失った自分が宿していたのと同じもの。

 

(タバサは他者を寄せ付けぬ氷の仮面をつけてこそいるが、心根の優しい娘だ。おそらく、わしを巻き込まぬよう気を遣って、余計なことを言わないのだろう……)

 

〝召喚〟(サモン・サーヴァント)は、己に最も相応しいパートナーを選び出す』

 

 学院長の説明中に聞いた言葉を思い出しながら考える。

 

(なるほど。相応しいかどうかはさておいて、わしと似通った運命を辿ろうとしている娘に呼び寄せられたわけか。この世界の『始祖』は、どうやらわしにやらせたい仕事があるらしい)

 

 ――夢のぐうたら生活は、結局実現せずに終わるのかのう……。

 

 心の内で盛大なため息をつきつつ、太公望は自分が今後どう動くべきなのかについて、タバサの話に耳を傾けながら、思考を巡らせるのであった――。

 

 

 




少なくともトリステイン魔法学院にロリコンは居ない模様。


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第13話 軍師、北花壇の主と相対す

 ――ハルケギニア最大の国家ガリアの王都リュティスは、隣国トリステインの国境から1000リーグほど離れた内陸部にある、人口30万人を越える大都市だ。

 

 街のそこかしこに魔法で動く鉄人形・ガーゴイルが配置されている。このような都市は他に例がない。警邏任務や清掃を可能とするほど高い知能を持つガーゴイルを造る技術は他の国には無いものだ。つまりガリア王国は、このハルケギニア世界において最も魔法文明が発達した国ということになる。

 

 王都の東端に位置する巨大で壮麗な宮殿ヴェルサルテイルは、ガリア王家の人々が住まう城だ。中央にそびえ立つ蒼い大理石で組まれたグラン・トロワと呼ばれる建物では、当代の国王ジョゼフ一世が政治の杖を振るっている。

 

 そして、その政治的中枢から少し離れた場所に建つ薄桃色の大理石で組まれた小宮殿プチ・トロワの謁見室で、ひとりの少女がふて腐れたような顔をして上座の椅子に腰掛けていた。少女は苛立ちを露わにした口調で、ぽつりと呟く。

 

「あの人形娘はまだ来ないのかしら」

 

 歳のころは17~8歳といったところだろうか。細い目の内側で瑠璃色の瞳が鋭く光っている。陶磁器のように白く滑らかな肌と、艶めかしいふっくらとした唇が印象的な娘であった。

 

 しかし、彼女を最も引き立たせているのはその蒼く輝く髪であろう。丁寧に梳かれ、まるで最高級の絹糸のようだ。その一部である前髪が、ミスリル銀をふんだんに使用した豪奢な冠によって持ち上げられ、小さな額が覗いている。

 

 ――娘の名は、イザベラ・ド・ガリア。この王国の王女であった。

 

 イザベラは豪華絢爛な装飾が施された椅子にだらしなく腰掛け、なんとも気怠げな様子で近くの小机に置かれていたベルを鳴らす。すると、三人組の侍女が早足で謁見室に駆け込んできた。

 

「お呼びでございますか、姫殿下」

 

「退屈よ。何か面白いことをしなさい」

 

 侍女たちは震え上がった。周囲にいた侍従たちが首をすぼめる。この王女が『退屈』と口にした時は、大抵ロクなことにならないからだ。

 

「で、では、将棋(チェス)のお相手でもいたしましょうか?」

 

「将棋なんて、もう飽き飽きしたよ」

 

「ならばサイコロ遊びなどは……」

 

「そんなもの、王女がやる遊びじゃないだろ!」

 

「それでしたら、外で狩りなどはいかがでございましょう? 昨日、ピエルフォンの森に鹿を放ったと、犬狩頭のサン・シモンさまよりご報告がありまして……」

 

 それを聞いたイザベラは、バンッと派手に椅子の肘掛けを叩いて立ち上がると、外での狩りを提案した侍女の顔を睨め付けた。

 

「馬鹿かお前は! どうしてわたしがこの部屋で退屈な思いをしているのか、全くわかっていないんだね!!」

 

 ひいっ、と小さく悲鳴を上げて、侍女たちは後ずさる。

 

「まったく、父上は自分の娘が可愛くないのかしら。わたしだって、父上のお役に立ちたいのに。わたしはね、あの人形娘なんかと違って本当に有能なんだよ! だから官職に就きたいと願ったのに――こんな地味な仕事を寄越すだなんて、あんまりだわ!!」

 

 謁見室に居合わせた者たちは、びくびくとしながら互いに顔を見合わせる。イザベラはそんな侍従たちの様子を見て、さらなる苛立ちを募らせた。

 

 ヴェルサルテイル宮殿には、季節の花が咲き乱れる無数の花壇が存在する。由緒あるガリア王国の近衛騎士団は『東薔薇花壇警護騎士団』『西百合花壇警護騎士団』といったように、それらの花壇にちなんで命名されている。

 

 しかし、陽が差さない宮殿の北側には花壇がないため、その名に『北』が入る騎士団は存在していない……表向きは。

 

 ――北花壇警護騎士団。

 

 それは、ガリア国内や国外で起こる様々な面倒ごとを『裏』で処理するための組織。一応は騎士団であるため、多くの騎士(シュヴァリエ)を抱えている。しかし、その組織としての在りようがゆえに、所属している者たちは互いに顔も名も知らない。

 

 もし仮に仕事を共にすることがあっても、互いを番号名で呼び合う――立身出世や名誉とは全く無縁の裏組織、闇の騎士団。イザベラは、その団長任務を父王ジョゼフから任されている。王女はそれが気に入らないのだ。

 

「で? あの娘はまだ来ないのかい!?」

 

「その、も、もう間もなくかと思われますが……」

 

「そうかい。じゃあ、退屈しのぎに賭けでもしようか」

 

 いいことを思いついたと言わんばかりに笑みを浮かべたイザベラは、先程鹿狩りの提案をした侍女の元へ歩み寄ると、手にした杖で彼女の頬をすうっと撫でた。件の侍女はその瞬間、まるで雪像にでもされたかのように蒼白となり、固まった。

 

「あと10分以内に人形娘が来たら、お前の勝ち。来なかったら、わたしの勝ち。どうだい、わかりやすくていいルールだろう?」

 

 吹雪のように冷たい声を浴びた侍女は、恐怖のあまりガタガタと震え出した。イザベラはそんなふうに怯える姿を見ることこそが最高のご馳走だと言わんばかりの表情で、杖の側面でぴたぴたと侍女の頬を嬲りながら言葉を続ける。

 

「もしもわたしが負けたら、そうだね、お前を貴族にしてやろうじゃないか。なぁに、爵位のひとつやふたつ、どうとでもなるさ。ただし、お前が負けたときには……」

 

 侍女の震えが激しくなる。それを見たイザベラは、にたりと嗤って言った。

 

「その首をもらうよ」

 

 侍女が白目を剥いて卒倒した直後。呼び出しの衛士がイザベラの元へ駆け寄り、件の人形娘到着を告げた。報せを受けたイザベラが、つまらなさそうにふんと鼻を鳴らす。

 

 ところが、その報告には彼女にとって気になる情報が混じっていた。なんでも使い魔が一緒についてきており、どうあっても主人の側から離れようとしないのだという。

 

「ふふん。なんだい、あのガーゴイル娘。自分の使い魔を大人しくさせておくこともできないっていうのかい……」

 

「も、申し訳ございません、なんとか引き離して参ります」

 

 怯えた声でそう告げた衛士の姿を見て、イザベラは興味をそそられた。

 

「まあ、いいわ。その使い魔とやらも一緒に連れてきな」

 

「で、ですが……」

 

「このわたしが、いいと言っているんだ。わたしの命令が聞けないのかい?」

 

 震えながら外へ出て行った侍従の後ろ姿を見て、イザベラは満足げな笑みを浮かべた。普段『人形』と呼んで差し支えない程感情を顕わにしない従姉妹が使い魔に振り回される姿を見るのは、さぞ面白いに違いない……と。

 

 

○●○●○●○●

 

「おほ! おほ! おっほっほ!」

 

 イザベラは気の触れたような笑い声を上げた。周囲にはべる侍従たちは、みな戸惑いを隠そうともしていない。なんとなく面白そうだと感じてはいたが、まさかここまでの傑作とは予想だにしていなかった。

 

「あんたが! 溢れる才能を鼻にかけて、余裕気取ってた北花壇騎士7号さまが! 〝召喚〟に失敗しただって!?」

 

 しかも。従姉妹が語ることを信じるならば、そのせいで事故を起こし、よりにもよって異国――東方のメイジを誘拐同然に連れて来てしまったのだとか。

 

「で、そんなあんたの尻ぬぐいをするために、トリステインの魔法学院が責任を取って、その子を対外的に使い魔として雇った、と。あーっはっはっは、まったく、みっともないったら! ほら、お前たちも笑ってやりなさい!!」

 

 イザベラの命令で、侍従たちは仕方なしに笑みを浮かべた。それからしばらくの間、イザベラたちは王女の従姉妹姫――タバサをだしに笑い続ける。

 

 しばし笑ったイザベラは、ふいに問題の〝使い魔〟に言を向ける。

 

「おっほっほ、この娘が本当に迷惑をかけたわね。それにしても、どうしてここまでついてきたんだい? まさかとは思うけど、登城することを聞かされていなかったの?」

 

 王女から言葉をかけられた使い魔――太公望は満面の笑みで答えた。

 

「一応、外で待っていろとは言われたんですがのう。街の中はいつでも見られる。しかし、わたくしのような者がこんな立派な城の中へ入る機会など、これを逃したら二度とないと思いましてな! 逃げるご主人さまを追いかけて、無理矢理くっついて来たと。まあ、そういうわけでして」

 

 そう言った太公望は、物珍しげに周囲をきょろきょろと見回している。

 

「いやあ、実際長らく旅をしておりましたが、こんなに立派な建物は初めて見ました。しかもまさか、こんな大国の王女さまにお目通りが叶うとは! 初めからそう聞いておれば、さすがに遠慮しましたものを」

 

 頭を掻きながら恐縮する異国風の装束を身につけた少年へ、イザベラは鷹揚に頷いた。

 

「おほほほほ! 東方ロバ・アル・カリイエにも、この宮殿に並び立てるような城はないというのかい。それにしてもシャルロット。あんた、この子にわたしと会うことを伏せていたの? まったく使えない娘だね。事故を起こすのも道理だよ」

 

「シャルロット……とは?」

 

 首をかしげ、心底不思議そうな顔をしている太公望を見てイザベラはまた嗤った。

 

「あはははっ、お前、本当に何も聞かされていないのね。光栄に思いなさい、このわたし自ら教えてあげるから。いいこと? お前を攫ったそこの小娘の名前はね、シャルロット・エレーヌ・オルレアン。この国の、王族だよ」

 

「んな!? なっ……なっ……わ、わたくしはそのようなおかたに」

 

「ああ、そんなにあわてなくていいんだよ? だって、それはもう過去の話。その娘はもう王族なんかじゃないんだから。家を取り潰された、ただの没落貴族に過ぎないわ。ねえシャルロット? なんとか言ったらどう?」

 

 ニヤニヤと笑って問いかけるイザベラに、タバサは答えない。

 

 だが……いつもなら真っ直ぐ見返してくるはずの視線が、今日は下を向いたままだ。イザベラにはそれがこのうえもなく愉快だった。

 

「ねえ、シャルロット。本当なら、すぐにでもこのわたしに事故の件を報告すべきだったと思わない? けど、寛大なわたしは許してあげるわ。だって……言えないだろ、こんなこと。あの天才、王弟シャルルの娘が――まさか汎用魔法(コモン・マジック)を失敗しただなんて……ねえ?」

 

 静まりかえったプチ・トロワの謁見室に、イザベラの高笑いだけが響き渡る。

 

 彼女は思った。こんなに楽しい気分になれたのはいつ以来だろうか。もっとこの愉悦を味わい続けたい。どうすればそれが叶うのかと知恵を絞った。

 

 そしてイザベラは名案を思いついた。この奇妙な異国のメイジ――王侯貴族に対する礼どころか王宮を訪れる際の常識すら知らない無知な子供の扱いを、人形娘よりも高くしてやればいいではないか――と。

 

 

○●○●○●○●

 

「あの反応、見たであろう? 魔法学院近辺に、あの姫の間諜がいない事は確定したな」

 

 風竜の背に乗って命じられた任務へと向かう道すがら、太公望とタバサは先程までのやりとりについて確認を取り合っていた。

 

 上機嫌のイザベラは、現地まで着いていくといって再びタバサを困らせた(ように見せかけていた)太公望のために、なんとわざわざ自分の名を使ってまで風竜を用意したのだ。

 

「わたしは、お前を誘拐した娘と違って寛大な王族だからね。このくらいは当然さ」

 

 などと言いながら。

 

 もちろん、その風竜に〝盗聴〟や〝遠見〟の類の魔法が仕掛けられていないかどうかについてはタバサの〝魔法探知〟によって確認済みだ。

 

「本当に大胆なことをする」

 

 正直心臓に悪かった。そう話すタバサに、太公望は人の悪い笑みを浮かべる。

 

「現時点で見せてもよい手札を切った、それだけのことだ」

 

 共に宮殿へ行き、イザベラ王女に謁見する。王都リュティスへの空路でそう言った太公望を、当然ながらタバサは止めた。しかし、いくつかの理由を聞かされたタバサは結局――渋々ながらも同行を許可したのだ。

 

 太公望はまず、タバサから普段の謁見の様子――特に王女イザベラとその周辺にいる侍従たちの言動を、出来る限り詳しく聞き出した。

 

 そしてイザベラの能力と性格――少なくとも、王から国の裏仕事を任されるだけの器量があること。にも関わらず子供のように周囲を振り回し、タバサに対して血の繋がった従姉妹とは思えないほど辛く当たること、その他諸々の情報から、周囲の者達の忠誠心がおしなべて低いであろうことを推測した。

 

 それらをふまえた上で、疎ましい従姉妹が本来隷属すべき使い魔を御することができないと知ったら……イザベラはどういった行動を取るか。ほぼ間違いなく、謁見の間へ連れてこいと命令するだろう――そう、タバサに語り。

 

 さらに。タバサが事故で〝召喚〟に失敗したこと。その責任を取るという形で学院側が異国のメイジである太公望に頭を下げ、相応の対価を支払っていることを話すよう指示をした。

 

「取引について口外しないという契約があったはず」

 

 最後はそう言って反対したタバサに対して、

 

「それはあくまでわしが、だ。おぬしがバラす分には問題ない」

 

 ケケケ……と、意地の悪い笑みで反論した太公望は――実際嘘ではないので――そのまま堂々と彼女にくっついて行ったわけだが……結果はご覧の通りである。

 

「召喚に失敗したなどという珍しい話は、黙っていてもいずれ噂となって伝わる可能性がある。ならば、その前にこちらから開示してしまったほうがよい」

 

「下手に隠すと、余計な探りを入れられるから?」

 

「その通りだ。いらぬ憶測を生む前に、ある程度手札を晒したほうが後々の為になる。最初につけられた強い印象は、なかなか変えられぬものだからのう。ただ、そのせいでおぬしには不愉快な思いをさせると思うが……」

 

「問題ない。わたしのほうこそ、あなたを巻き込んでしまった」

 

 頭を下げるタバサに太公望は笑いかけた。

 

「命に関わるような危険はない。失敗してもせいぜい謁見室に入れない、その程度だ。そもそも()を取り仕切れるほどの娘が、他国の国営施設が雇った者に対して危害を加えたらどうなるかぐらい判断できぬはずがないのだ」

 

 しかも雇用契約書まで交わしてあるのだ、下手に太公望へ手出しをしようものなら国際問題に発展するのは間違いない。タバサ自身も、そういう意味においてはイザベラを信頼していた。もしも『北花壇警護騎士団』の団長である彼女が、本当に『無能』で『愚か者』であってくれたなら、タバサはここまで苦労していなかっただろうから。

 

「だが、この件をきっかけに、おぬしを支援しようとする者が減るかもしれぬ」

 

「かまわない。逆にこれがいい踏み絵になる」

 

 確かに大きな失敗ではあるが、たった一度の間違いで、それまで担ぎ上げようとしていた御輿を簡単に下ろすような者たちを信頼することなどできない。そもそも、わたしはこれ以上誰も巻き込みたくはない。

 

 タバサはそう答えてから、真摯な表情で訴えた。

 

「でも、勘違いしないで欲しい」

 

「む、何をだ?」

 

「わたしは、あなたの存在を失敗だとは思っていない」

 

「当たり前だ。もしおぬしがそんな輩なら、とっくの昔に逃げ出しておるわ」

 

 かかかと笑いながら答える太公望を見ながら、タバサはふとプチ・トロワ宮殿でのやりとりを思い出した。

 

(イザベラが自分の父親と敵対する――つまり、反ジョゼフ派貴族の旗頭となりえるわたしを疎ましく思うのは理解できる。でも、何故あんなに挑発するの? 最初はわたしが反乱を起こすのを期待しているのだと思っていた。けど、それでは説明がつかない気がする)

 

 そんな疑問を太公望に向けると、彼はイザベラをしてこう評した。

 

「あの娘は、他人に自分の存在価値を認めてもらいたくてたまらない……孤独な子供といったところかのう」

 

(ある意味ルイズに似ておったな……)

 

 内心でそう呟く太公望。

 

 それを聞いたタバサの顔が強張った。

 

(孤独な子供? 豪奢な王宮で大勢の家臣に傅かれ、それでもなお孤独だというの? そんなの、あまりにも理不尽。わたしに比べたら、彼女はずっと恵まれている)

 

「理解できない」

 

 そう答えたタバサに、

 

「あくまでわしの印象だからな? そもそも、ひとの心とは複雑なものだ。簡単に理解しあうことができるなら、争いなどそうそう起こらぬはずだしのう」

 

 そう言って小さく笑う太公望の声は、どこか寂しげだった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから数時間後。

 

 風竜の背に跨ったタバサと太公望のふたりは、ガリアの王都リュティスから300リーグほど南の空を飛んでいた。

 

 現在彼らが向かっているのは、ガリア南部の山中にあるアンブランという名の村である。今回イザベラ王女から命じられた任務は、その村を襲うコボルドの群れを殲滅することであった。

 

「で、コボルドとは何者なのだ?」

 

 そう問うてきた太公望に、タバサは所持していた生物辞典を開きながら答える。

 

「犬のような頭を持つ亜人の一種。腕力と知能はそれほど高くない。単体なら平民の戦士でも何とかなる相手。ただし、基本的に30匹以上の群れで行動することが多く、注意が必要」

 

 ふむふむ……と、相づちをうつ太公望。

 

「戦場であればともかく、それ以外の場所で無益な殺生を行うのは、人外問わず我らの間では御法度なのだが……そのコボルドとやらは、話し合いの通じる相手ではないのかのう?」

 

 眉根を寄せて唸る太公望に、タバサは説明を続ける。

 

「コボルドの戦士は凶暴で、人語は解さない。稀にいる神官(シャーマン)が言葉を操る場合もあるけれど、彼らには人間を生け贄にして、その肝を自分たちの神に捧げるという習慣がある。コボルドが人里に降りてきて街や村を襲うのはそのため」

 

「うげッ! もしや人を攫って生け贄にするだけではなく、食う習慣もあるのか?」

 

 思わず表情を歪めた太公望に、コクリと小さく頷くタバサ。

 

「彼らはなんでも食べる。中でも特に人間を好む。だから討伐しなければならない。これまでいくつもの街や村が、放置していたコボルドによって滅ぼされている」

 

「どうにかしてその神官とやらに交渉を持ちかけることはできぬのかのう?」

 

「無理、脅しも効かない。そもそも彼らには理解不能」

 

「何故断言できる?」

 

 タバサは手にした生物辞典のページを指し示した。

 

「これを見て」

 

「ふむふむ、定期的に家畜を捧げることで村の安全を保証するよう交渉した例か」

 

 読み進めるうちに太公望の顔が渋いものに変化していく。そこには、話をする間もなく槍で貫かれた交渉人たちと、彼らを信じて送り出した村が滅ぼされるまでの経緯が記されていた。

 

「確かに、亜人や妖魔の中には人間と友好な関係を築こうとする者たちもいる。その場合、最低でも人間と同程度かそれ以上の知能がある」

 

「なるほど、コボルドには他種族と話し合うという概念そのものが存在しないというわけか」

 

「そう。理解するだけの知能がないから」

 

「ううむ……しかしのう……」

 

 渋い表情のまま唸る太公望。未だに納得がいかないようだ。

 

「見えてきた。あの村」

 

 タバサの言葉を受け、太公望は風竜の飛び行く先に目を向けた。

 

 そこは四方を山で囲まれた、陸の孤島と呼んで差し支えない場所であった。高い岩山を越える必要があるため、最寄りの街まで徒歩で最低数日はかかるであろう。風竜の背から眼下に映る光景を眺めた太公望はそう判断した。

 

 アンブランの村はそんな人里離れた場所にあったが、それを感じさせない程に栄えていた。タバサは風竜を巧みに操作すると、村の中央にある大きな広場に降り立った。

 

「おや、竜だよ。風竜だ!」

 

 タバサと太公望が竜から降りると、大勢の村人たちが人なつっこい笑顔を浮かべながら彼らの周りに集まってきて、興味深そうにふたりに視線を投げかけてくる。

 

「この村にお客が来るなんて、珍しい!」

 

「マントを着けておられるよ。貴族さまだ」

 

 朗らかに笑いかけてくる村人たちを見て、太公望は戸惑いも露わに呟いた。

 

「妖魔に襲われているという割には、なんとものんびりした雰囲気だのう」

 

 太公望の所見通り、コボルドの脅威に晒されているという割には村に悲壮感や殺伐とした雰囲気はない。それどころか、ごくごく普通の日常を送っているようにすら見える。そんな村人たちに、タバサも、そして太公望も奇妙な違和感を覚えた。

 

 どこがどうおかしいという訳ではない。集まった村人たちは、老いも若きも、男も女も、ガリアのどこの村にでもいるような素朴なひとたちである。だが、何かが()()の隅に引っかかるのだ。

 

(ここ数日の強行軍で疲れているのだろうか)

 

 タバサはそう自問した。太公望も、頭を掻きながら周囲を見回している。

 

 ……と、人の輪の中から幼い少女がちょこちょこと出てきて、太公望を見上げた。

 

「お兄ちゃん、面白い格好! 頭にある白いのは、お耳?」

 

 太公望は、いつも通り頭に白い長布をぐるぐる巻きにしている。細長い結び目を、ぴん! と、まるで兎の耳のように立てているので、少女の目にはそう見えたのであろう。小さな両手がうずうずと動いている。

 

「む? 触ってみたいのか?」

 

「うん」

 

「仕方がないのう、ほれ」

 

「いいの? やったあ!」

 

 しゃがみ込んで少女に目線を会わせた太公望がそう言うと、少女は喜んで駆け寄ってきて、長布の結び目を掴んだ。

 

「こ、これ引っ張るでない! タバサ、何でおぬしまで掴んでおるのだ!!」

 

「一度触ってみたかった」

 

 そんな彼らの様子を見て、集った村人たちは一斉に笑い声をあげる。だが、唐突に響き渡った怒声が平和な雰囲気に水を差した。

 

「こりゃああああ~あッ! 貴様らああああ、なぁにをしとるかああぁ~ッ!!」

 

 声の主は長槍をかつぎ、時代がかった甲冑に身を包んだひとりの老爺であった。深雪のように白い髪と長い髭、そして顔中に刻まれた皺が、相当な高齢であることを伺わせる。古びた甲冑がいかにも重たそうだが、それでも老爺はしっかりとした足取りでタバサたちふたりに近寄ると、長槍の先を突き付けた。

 

「怪しいやつめ! 名を名乗れい!!」

 

 村人のひとりが、呆れたような声で老爺を窘めた。

 

「ユルバンさん。この方々は、おそらくお城からいらした騎士さまですよ」

 

 ユルバンと呼ばれた老戦士は、くわっと目を見開いてタバサと太公望を眺めた。

 

「ふむ、なるほど。よくよく見れば、おふたかたともマントを身に着けておられるな。だが、たとえ貴族さまといえども、このわしの許可なくしてアンブランへ立ち入ることは許されませぬ!」

 

 側にいた少女に大人たちのところへ戻るように言い聞かせた太公望は、その足で油断なく槍を構える老戦士に近寄り、名乗りを上げた。

 

「突然の空からの来訪、大変失礼した。こちらはガリアの花壇騎士タバサさま。わたくしは、その従者を務める太公望と申す者」

 

 紹介されたタバサは、老爺の目を見て小さく頷く。ちなみに太公望が従者を名乗っているのは、任務の際にはそのように振る舞うことを前もってタバサと打ち合わせていたからである。思いのほか丁寧な名乗りに少し警戒を解いたのか、老戦士の表情が緩んだ。しかし、長槍はそのまま油断なく構え続けている。

 

「これはこれは貴族のお嬢さまに従者殿、無礼を許されよ。わしはユルバンと申す者。畏れ多くもこの地の領主、ロドバルド男爵夫人よりこの長槍を賜り、アンブランの治安を預かっておる」

 

 そう言うと、ユルバン老人は改めて長槍を構え直す。

 

「であるからして、わしの言葉は男爵夫人の言葉であると心得られよ。さて、それではおふたかたが当村へおいでになった理由を述べていただきたい」

 

 その口上に、特に慌てることなく太公望は応じた。

 

「我らは王政府から依頼を受けてコボルド退治に参ったのだが……ユルバン殿は、男爵夫人よりその件について、何か聞き及んではおられぬのだろうか?」

 

 それを聞いたユルバンの顔が真っ赤に染まり、激しく歪んだ。

 

「うぬぬぬぬ、なんたることか! あれほど、わしひとりで充分だと申し上げたのに……ええい! 男爵夫人は、まだこのわしが信用ならぬとおっしゃるのか!!」

 

 ユルバンは長槍をひょいと担ぐと肩をいからせ、のっしのっしと早足で歩き出した。彼の行く先に男爵夫人の屋敷があるのだろうと判断したタバサは、無言で彼の後ろを追った。それを目にした太公望は、まずは近くにいた村人たちに、事情の説明を頼んだ。

 

「あの御仁は、いったいどういうおかたなのだ?」

 

 ユルバンに聞こえぬよう、小声でそっと尋ねる太公望に、

 

「あの爺さんは、この村を守っている兵士でね……昔は相当な使い手だったらしいんだが、今はご覧の通りってわけでさ」

 

 これまた小さく返事をする村人。

 

「ふむ。年齢に似合わず、足取りはしっかりとしておるようだが?」

 

「いやあ、それでもあの歳だからねえ。ひとりでコボルド退治に行くって息巻いていたんだが、年寄りの冷や水もいいところさね」

 

「その通りだ。あなたがたが来てくれて、本当によかった。あと3日も遅かったら、あの爺さん、痺れをきらして飛び出していっただろうからね」

 

 笑いながらそう答えた村人たちの声音には、ユルバンを馬鹿にしたような色はない。

 

(頑固な老人だが、住人たちに愛される存在なのであろうな……)

 

 そう判断した太公望は村人たちに礼を言うと、先行したふたりの後を追って駆け出した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ロドバルド男爵夫人の屋敷は、立派な門構えの貴族屋敷だった。季節の花が咲く生垣でぐるりと周りを囲まれ、小さいながらも隅々まで手入れが行き届いている。ユルバンのあとに続いてタバサと太公望が外門をくぐると、この家の執事とおぼしき小太りの中年男性が駆けつけてきた。

 

「ユルバンさん、どうしたね?」

 

 ユルバンは興奮して叩き付けるような声で言った。

 

「奥様はおられるか!?」

 

 その剣幕に、執事はたじたじとなる。後ずさりしながらユルバンの問いに答えた。

 

「い、今は、書斎のほうにおられるかと……」

 

 ユルバンは執事のほうを見向きもせずに、ずんずんとひとり奥へと進んでいく。その後、彼についてきていたタバサと太公望のふたりに気付いた執事は、突然の来訪者たちに困惑している。

 

「我らは王政府の依頼でコボルドを討伐にしに来た者。門番のユルバン殿にそう告げたら、たいそうな剣幕でこちらへ向かっていったのでな、急ぎ追いかけてきたのだ」

 

 太公望が用件を告げると、執事は一瞬驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑みを浮かべた。

 

「これはこれは、お城からいらした騎士さまでしたか。遠いところを、わざわざありがとうございます。奥様がお待ちでございますので、こちらへどうぞ」

 

 タバサと太公望が執事に案内されて書斎へ到着すると、部屋の奥からユルバンの怒鳴り声が聞こえてきた。

 

「奥様、あれは一体どういうことですか! お言いつけ通りコボルド退治を延期してみれば! 王都からあのような年端もいかぬ子供たちを呼びつけるとは……」

 

「だ、だって、ユルバン。いくらなんでも、あなたひとりだけでは……」

 

 書斎の奥に、困り果てたような顔をした銀髪の老婦人がいる。おそらく、あれがこの村を治めるロドバルド男爵夫人だろう。

 

「わたくしめは50年以上、たったひとりでロドバルド男爵家、ひいてはこのアンブランを守り続けてきた戦士ですぞ! コボルドごときに後れをとるなど、あろうはずがございませぬ!!」

 

「そういうことではないのです。わたしは、ただ……」

 

「では、いったいどういうおつもりなのか、このわたくしに納得のゆく説明を……」

 

 そんなところへ執事に案内されたタバサと太公望が入っていったものだから、ユルバンはさらに興奮し、大声を上げた。

 

「おお、これはこれは騎士さまがた! 今お聞きになられた通りです。おふたかたの手を煩わせるほどのことではありませぬ。早速、王都へお戻り願いたい」

 

「これ、ユルバン。失礼ですよ。せっかく遠方からいらして下さったというのに」

 

「いくら貴族とはいえ、ふたりともまだ小さな子供ではありませぬか! 見たところ、実戦経験もなさそうだ」

 

 不快げに「ふん!」と鼻を鳴らしたユルバンを窘めると、ロドバルド男爵夫人は笑顔でふたりの元へ近付いてきた。

 

「まあまあ、ようこそアンブランへ。あなたがたが王都からいらしてくださった花壇騎士殿ね?」

 

 タバサは小さく頷くと、短く名乗った。

 

「ガリア王国花壇騎士(シュヴァリエ・ド・パルテル)、タバサ」

 

「わたくしは、従者の太公望と申します」

 

 子供になど構っていられない、とばかりに部屋を出て行こうとしたユルバン老人の背に向けて、ロドバルド男爵夫人が声をかけた。

 

「ユルバン。わかっているとは思いますが、この騎士殿たちがいらしている間は村の外へ出ることはまかりなりません。あなたには、この村を守るという大切な役目があるのですから」

 

 ユルバンの顔色が変わった。

 

「つ、つまり、それは……このわたくしめを、討伐隊から外すということですかな?」

 

 ロドバルド男爵夫人は、老戦士の言葉に重々しく頷いた。

 

「承服致しかねます! そのようなこと、認めるわけには参りませぬ!!」

 

 激しく頭を振る老爺に、ロドバルド男爵夫人は苦しそうな声で告げた。

 

「これは命令です」

 

「なんと……!」

 

 ユルバンは絶句し、それから悔しそうに何度も何度も首を横に振ると、ぶるぶると全身を震わせながら男爵夫人の部屋から出て行った。

 

「いやはや……ずいぶんと元気な御仁ですのう」

 

 呆気にとられた顔で太公望が呟くと、ロドバルド男爵夫人はふたりのほうへ向き直り、深々と頭を下げた。

 

「彼の無礼を、どうか許してくださいね。決して悪いひとではないの。ただ、責任感が強すぎるといいますか……」

 

 タバサと太公望は、了承の印に頷いた。

 

 ――それからロドバルド男爵夫人は、タバサたちに討伐依頼の説明をした。

 

 コボルドの群れが村から徒歩で1時間ほど離れた所にある廃坑に住み着いたのは、今から1ヶ月ほど前のこと。幸い村はまだ襲われてはいないが、偵察隊とおぼしき者たちが様子を探りに来るようになった。

 

「コボルドは、知性が低い割に用心深いのです。こちらの防御態勢の隙を見極めた上で、襲いかかってくるつもりなのでしょう」

 

「群れの規模は?」

 

「廃坑の大きさからして、おそらく30……多くて40匹程度でしょう。おふたりだけで大丈夫でしょうか?」

 

 タバサは頷いた。と、太公望がふいに口を開く。

 

「男爵夫人はコボルドの生態にお詳しいようですな。調査不足で申し訳ありませぬが、もしやこちらの村は過去に襲撃を受けたことがあるのではありませぬか?」

 

 怯えきった様子で男爵夫人は頷いた。

 

「ええ、仰る通りです。アンブランの山々に〝土石(どせき)〟の鉱脈があるからかもしれません。先代も、そのまた前の領主たちもコボルドの襲撃に頭を悩ませておりました」

 

「〝土石〟?」

 

「魔道具、特にガーゴイルの核を造るために欠かせない秘石です。このあたりの街や村の多くがそれを山から掘り出し、中央へ売りに出すことで生計を立てているのですが……どうやら、コボルドは〝土石〟を好む性質があるようでして」

 

 男爵夫人の発言に、タバサは目を丸くした。

 

「本には書かれていなかった」

 

「そうでしょうね。わたしとて、コボルド・シャーマンと杖を交えた経験がなければ到底知り得ない情報でしたから」

 

「詳しく伺っても?」

 

「それは構いませんが……失礼ですが〝消音(サイレント)〟をお願いできますか?」

 

 屋敷の者に聞かれてはまずい話でもあるのだろうか。疑問に思いつつもタバサはルーンを唱え、部屋の外へ声が漏れないように処理を施した。

 

「見事ですわ、感謝致します。実は今から20年ほど前のことです。先ほどお話しした廃坑に棲み着いたコボルドたちがこの村に襲撃を仕掛けてきました。ユルバンとわたしでぎりぎりどうにかできる程度の数だったのですが……そのとき、敵の中にいたコボルド・シャーマンが奇妙なことを口走ったのです」

 

『森で生きる術を持たぬ毛無し猿ども。お前たちが持つ〝土精魂(どせいこん)〟と心臓を我が神に捧げよ!』

 

「〝土精魂〟とは〝土石〟のこと?」

 

「おそらくは。当時、この屋敷には鞠ほどの大きさの〝土石〟がありましたから」

 

 普通の〝土石〟は道ばたに転がっている小石程度がせいぜいで、そこまで大きな結晶が見つかるのは稀なことなのだとロドバルド男爵夫人は補足する。

 

「もしや、その襲撃の折に相手と交渉を?」

 

 悲しげに顔を伏せ、男爵夫人は肯定した。

 

「ええ。稀少なものとはいえ、例の結晶と引き替えに村を守れるならばと話を持ちかけてみたのですが……返ってきたのは『猿と交わす約定などない』という言葉と、棍棒の一撃でした」

 

「嫌なことを思い出させてしまい、誠に申し訳ございませんでした」

 

「ごめんなさい」

 

「いいえ、大丈夫です。お気になさらないで」

 

 素直に頭を下げた太公望とタバサ。気丈に振る舞っているが、当時相当怖ろしい思いをしたのだろう、男爵夫人は無意識に両の手で己が身体を抱き締めている。

 

「しかし、これでよくわかりました。お嬢さま、此度の討伐任務はより一層気を引き締めてかかることに致しましょう」

 

 太公望の進言に異論はない。タバサはしっかりと男爵夫人の目を見据え、頷いた。

 

「ところで騎士殿」

 

「何か?」

 

「ユルバンの件でお願いがあるのです。彼のことですから、おそらく自分も連れて行け、と、あなたがたに申し入れるはずです。そのときは、どうかきっぱりと断っていただけないでしょうか」

 

 タバサと太公望の瞳を交互に見遣りながら、ロドバルド男爵夫人は続ける。

 

「あの通り、ユルバンはもうかなりの歳です。昔ならばいざしらず、亜人相手の実戦には、とても耐えられないでしょう。彼は何十年もわたしたち一族のために尽くしてくれました。今や、夫も子供もいないわたしにとって家族も同然なのです」

 

 ロドバルド男爵夫人の言葉は、慈愛に満ちていた。あの老戦士を危険な目にあわせたくないと願っているからこそ、わざわざ王政府に騎士の派遣を依頼したのだろう。そう考え、頷こうとしたタバサを押しとどめたのは、太公望だった。

 

「いや、一緒に連れて行ったほうがよいでしょう」

 

 驚いて自分を見つめるタバサと男爵夫人の顔を交互に見た後、太公望は続ける。

 

「ああいった御仁は、下手に押さえつけようとすると反発する。男爵夫人、失礼ですが長年彼を側に置いていたあなたさまにお伺いしたい。もしも我らが断ったとしたら……彼はどういった行動に出ると思われますかな?」

 

「そ、それは……いえ、まさか!」

 

 自分が導き出した答えに畏れおののくように、男爵夫人は身体を震わせる。

 

「左様。ほぼ間違いなくひとりでコボルドの巣へ突入を敢行し……その先は、言わずともおわかりのようですな」

 

「でも」

 

 それでも反対しようとするタバサに、太公望は小さく笑って答える。

 

「わしらは風竜に乗って来ているのだ。耐えられないと思ったら、最悪竜の背にでも縛り付けておけばよい。男爵婦人も、どうかご安心めされよ。彼には傷ひとつ負わせは致しませぬ」

 

 太公望の言葉を聞いても、未だ躊躇っていたロドバルド男爵夫人であったが……最後にはゆっくりと頷き頭を下げた。

 

「わかりました。ユルバンのこと、くれぐれもよろしくお願い致します。食事と寝室の用意をさせますので、今日はこちらにお泊まりになられてください」

 

 会見後、タバサと太公望は食堂に案内された。そこには、ほかほかと湯気を立てる料理が処狭しと並べられていた。山盛りのきのこをバターで炒めたものと、山菜のサラダに、鹿肉のステーキ。タバサと太公望はさっそくステーキときのこのバターソテーをトレードすると、ナイフとフォークを手に取り、目の前の料理と格闘し始めた。

 

 だが、肉を一切れ口に含んだ直後、タバサは思わず眉をひそめた。味つけが薄いのである。特に塩気が足りない。おそらく、老齢で独り身のロドバルド男爵夫人にあわせた薄味なのであろうとタバサは判断した。

 

 ふと、隣の太公望はと見れば――なんの問題もないように、ぱくぱくときのこのソテーをたいらげている。

 

(単にわたしの好みの問題?)

 

 出された料理の味に文句をつけるのは失礼なので、タバサは首をかしげながらも、ひとり黙々と食べやすい大きさに切った鹿肉のステーキを口へ運んだ。

 

 

 




イザベラさま超ドS。
太公望はおじいちゃんだから薄味でも気にならない。

2016/09/22:加筆修正
たいへん参考になるご意見ありがとうございました!


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第14話 老戦士に幕は降り

 ――妙に味つけの薄い料理が並べられた晩餐会が済んだ後。

 

 太公望は従者用としてあてがわれた部屋には向かわず、まっすぐにタバサの部屋――彼女は花壇騎士だということで立派な客間兼寝室に通されていた――へ出向いていた。当然、明日の作戦会議を開くためである。

 

 タバサとふたり、コボルドの習性その他について改めて復習をしていたその時、ふいにコツコツと扉をノックする音が聞こえてきた。

 

「誰?」

 

 タバサが問うと、しわがれた声が響いた。

 

「わしです」

 

 ユルバンの声だった。タバサが頷いたのを見た太公望が扉を開けると――そこには平服に着替えた老戦士が立っていた。

 

 自分を部屋へ招き入れた者が、訪問相手であった騎士の少女ではなく従者の少年だったことに驚いたような顔をしたユルバンだったが、奥にタバサの姿を確認すると、神妙な顔をして彼女の側へと歩み寄ってゆく。それから、無言のまま自分を見つめているタバサの前に片膝をついた。

 

「お頼み申す! どうか! どうかわしも明日の討伐に連れて行ってくだされ!!」

 

「そのつもり」

 

「そこを曲げてお願い申し上げ……………え?」

 

「あなたを連れて行くと言っている」

 

 一瞬自分の耳を疑ったユルバンだったが、タバサが再度放った言葉を受け、聞き間違いではなかったのだと喜色を露わにした。

 

「ま、まことでございますか! ありがたい、深くお礼申し上げる!!」

 

 時代がかった仕草でぺこぺことお辞儀をするユルバン老人に、タバサはポツリと事実を告げた。

 

「感謝する相手が違う」

 

「む……? それはどういう意味ですかな?」

 

「わたしは反対だった。あなたを連れて行くと決めたのは、彼の進言によるもの」

 

 そう言って、騎士の少女は従者に視線を向ける。

 

「お嬢さま! 年長者に対する礼を欠くなど、貴族にあるまじき振る舞いですぞ」

 

 扉の側から近寄ってきた年若い従者をまじまじと見つめながら、ユルバンは考えた。

 

(この少年がわしを連れて行ったほうがよいと進言してくれたとは、一体どういうことであろう? 主人とはさほど年齢も離れていないように思えるが……)

 

 老戦士の思いとは裏腹に、主従の会話は続いていく。

 

「何度も申しておりますでしょうが! ロドバルド男爵夫人より詳しく伺っております。ユルバン殿は長きにわたってこの村を守り続けてきた、歴戦の勇士だと」

 

「だから?」

 

「なればこそ、村周辺の地形にも詳しいはず。間違いなく討伐の助けになってくださるでしょう。それに、どうぞよくご覧くだされ! ご老体とは思えぬ引き締まった肉体! これぞ日々の鍛錬を欠かしておらぬ証拠ですぞ」

 

「……」

 

「お嬢さま?」

 

「わたしは、あなたを討伐任務の大先輩として信頼している。そのあなたが勧めるからユルバンを連れて行くと決めただけ」

 

「ですからその態度は無礼だと……おお、これは失礼したユルバン殿。そういうわけで、是非とも貴殿の力をお借りしたい。実はこちらから出向いて依頼する心づもりでおりましたが、わざわざお越しいただけるとは、感謝いたす」

 

 呆然としていたユルバンを尻目に寸劇を繰り広げていた主従の片割れ――太公望がぺこりと頭を下げる。ユルバンも、つられて礼を返す。

 

「ユルバン殿。ご覧の通り、お嬢さまはまだお若い。当然のことながら、妖魔討伐の経験も少のうございます。そのため、今回は普段討伐任務を請け負う家臣団の中から、比較的年の近いわたくしが守役として供につけられましてのう」

 

「過保護」

 

「お嬢さまは少し黙っていてください! と、まあそういう事情でしてな。村の大事にこのような編成でもって挑むなど、失礼なこととは承知の上ですが……」

 

 と、心底申し訳なさそうな表情でユルバンに語る太公望。

 

「なに。わたくしはこう見えても領内ではそれなりに知られた〝風〟の使い手。盗賊退治や妖魔討伐で小隊指揮の経験も積んでおります。若輩者ゆえにご不安かと思われますが、そのへんのちゃらちゃらしたボンクラ貴族共には決して後れをとったりはしませぬぞ」

 

 ユルバンは仰天した。まさかこの若さで小隊指揮(小隊=30~50人程度の兵員を有する部隊)の経験者とは。たとえそれが話半分だとしても、自分の身体を観察し、毎日鍛錬を積んでいると見て取った眼力から察するに、それなりの実力を持ったメイジであるのは間違いない。

 

「ロドバルド男爵夫人には、既に随伴の許可をいただいております。アンブランの守りの要であるユルバン殿が村を離れることを、いたく心配しておられましたが……なに、我ら全員でかかれば、コボルド討伐などあっという間に終わります。さすれば、すぐにでも奥様の不安を取り除いてさしあげることができましょうぞ!」

 

 それを聞いたユルバンは目を見開いた。

 

(なんと、男爵夫人の了解まで取り付けておるとは!)

 

 ユルバンは驚きを隠せなかった。なんと手回しのよい従者であろう。そして、これまでいくら男爵夫人に申し出てもコボルド退治の許可をもらえなかった理由についても納得した。

 

「左様ですか。奥様がそのようなことを……」

 

 目頭が熱くなる。

 

(奥様は、村の守人たるわしが持ち場を離れてしまうことに不安を覚えておられたのか。わしの腕について疑われていたわけではない。戦士としてのわしを信頼してくださっていたからこそ、村にいてもらいたかったのか!)

 

「期待を裏切ってしまったこのわしを……奥様は、それでもなお信じてくだすっていたのか」

 

 思わず漏らした言葉は、従者の少年に拾われた。

 

「ユルバン殿、どうされましたかな?」

 

「あ、いや! なんでもござらん! 喜んでお供させていただきましょう」

 

 ユルバンは感激したと同時に、この若者がいたく気に入った。いち貴族の従者とはいえ、メイジであるにも関わらず、平民の自分を全く卑下していない。それどころか年配の戦士としての経験に期待してくれている。だから――太公望が差し出した手を迷わず握った。

 

「して、これから作戦会議というところですかな?」

 

「その通り。この周辺の地図と……可能であれば、コボルド共の巣になった廃坑の絵図面などがあるとありがたいのですが」

 

 それを聞いたユルバンは、我が意を得たといわんばかりに胸を叩いた。

 

「お任せくだされ。このあたりの山、そしてあの廃坑については何度も調査しておりますれば」

 

「助かります。ところで、念のために確認しておきたいのですが」

 

「なんでござろう?」

 

「もしや、例の廃坑には以前にも魔物が棲み着いたことがあるのでは?」

 

 顔を強張らせたユルバンは、しばし逡巡した後に堅い声で答えた。

 

「かなり昔の話でござるが、今回と同じようにコボルドがあの廃坑を拠点に村へ攻め込んできたことがあり申した。そのときは奥様のお力添えにてどうにか乗り切れたのですが……」

 

「ふむ」

 

「わしはこのアンブランを守る戦士でござる。二度とあのときのような……! と、これは申し訳ござらん、すぐに地図を持って参ります」

 

 逃げるように部屋を出て行ったユルバンの後ろ姿を見送ったタバサは、ポツリと零す。

 

「……本当に口が上手い」

 

「ふふん、あれだけ言っておけば単独討伐に出たりなどしないであろう」

 

 同じく小声で返した太公望。

 

「それに――」

 

「それに?」

 

 彼はしたり顔で続ける。

 

「かの御仁が任務の助けになるのも間違いのない事実だ。しかし、タバサの演技もなかなかのものであったのう」

 

「あなたの影響」

 

「存分に誇ってよいぞ」

 

「遠慮したい」

 

「しかし、このぶんではコボルドとの交渉は無理だのう」

 

 唐突に飛び出した発言にタバサは呆れた。妖魔相手に本気で情けをかけるつもりなのか。

 

「昔な、人食いの妖魔と何度か交渉して人間を襲うのを止めさせたことがあるのだ」

 

 タバサの表情がピシリと固まる。

 

「全部が成功したわけではないが、人間しか喰えないという一部の例外を除いてどうにかなった。たとえばとある肉食の妖魔と交渉し、毎日肉か魚を提供する代わりに、人間の〝力〟ではできないような仕事……崖崩れでふさがった道を直してもらうとか、長命ゆえに蓄積されてきた知恵を借りるといった交換条件を持ちかけたのだ」

 

「どうなったの?」

 

「ここへ来る少し前に様子を見に行ったが、妖魔と人間の子供が一緒になって遊んでおった。親世代はともかく、少なくともあの子供たちは人間を食うことはなかろう」

 

「そうできれば素敵。でも」

 

「わかっておる。わしは妖魔とはいえ言葉を交わすことができる相手にいきなり攻撃を仕掛けるなどという真似はしたくない。単独先行して話を済ませてこようかとも考えていたのだが……ここでは無理だと痛感しておる」

 

 小さく首を傾げるタバサ。彼女としては、太公望がコボルド討伐に納得してくれるのならばそれでいいのだが、どうして無理だと断言したのかが気にかかったのだ。

 

「先ほど伺った男爵夫人の話や、廃坑についてユルバン殿に尋ねたときの反応を見る限り、この村では交渉の余地はなかろう。後から棲み着いたということは別の群れなのだろうが、それでも既に一度決裂しておる。それに――ふたりとも、どうやらコボルドという種族に対して強いこだわりがあるように感じられる」

 

 さらに、太公望は言葉には出さず内心で続けた。ここは崑崙山や蓬莱島のバックアップが望める自陣(ホーム)ではない。口先三寸でどうにかするのは簡単だろう。しかし、交渉を受け入れてこの地から離れた妖魔に、安住の地を提供することなどできないのだ。

 

 ここでそれをやろうとした場合、単純に住処の移動を求めることになる。だが、コボルドが再びこの地へ舞い戻り、アンブランを襲撃しないという保証はないし、防ぐ手立てもない。助けてくれる人手も足りない。何より、太公望はハルケギニアのことを全くといっていいほど知らない。

 

 ――理想に燃えていた若い頃ならばいざ知らず、さまざまな挫折と経験を積んできた太公望には厳しい現実との折り合いをつけるだけの分別が備わっていた。伏羲としての残滓の影響もある。本人としては不本意だったが、最善ではなく次善を選ぶことにしたのだ。

 

 腕組みしながら何やら考え込んでいる太公望にタバサは声をかけた。妖魔相手に交渉のテーブルについたという話以上に聞いておかなければならないことがあったからだ。

 

「小隊指揮の経験があるというのは真実?」

 

 こんな甘い人物が部隊を率いたなんて絶対に嘘だ。そう考えたのだが。

 

「軍を率いたこともあるぞ」

 

「……本当に?」

 

「さあどうかのう……ニョホホホホホ」

 

 ――その後、一抱えほどもある絵図面と地図を持って客間へ戻ってきたユルバン老人が真っ先に見たものは。

 

 椅子に腰掛け、茶請けにと出された菓子をポリポリと無心に囓り続けている少女と、その横に立て掛けられた長い杖。そのすぐ隣で、何故か頭を押さえてうずくまっている少年の姿であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから少しの間を置いて。

 

「なるほど、山の中腹にある木枠で囲まれた穴が出入り口。換気口兼避難用の細い洞穴がやや斜め上方向に向かって1箇所伸びており、廃坑内部は人工の坑道と、一部鍾乳洞。先の2箇所以外には外に出るための道はない、か」

 

 ロドバルド男爵夫人宅の客間では、ユルバンが持ち込んだ絵図面を元にコボルド討伐のための作戦会議が開かれていた。

 

「入口はそれなりに広いですが、洞穴のほうは大人ひとりが通るのがせいぜいといったところでござる。見張りは入り口のほうには常に置かれておりますが、洞穴のほうは出入りに使われること自体が滅多にありませぬから、まず何もおりませぬ」

 

 老戦士の言葉に頷く太公望。身分はタバサのほうが上だが、今回は小隊指揮経験者の彼が取り纏めと実際の指揮を行うということで全員の意見が一致している。

 

「念のため、見張りがいることを前提に考えておいたほうがよいでしょうな。さて、この地形を見てどう思われますかな? お嬢さま」

 

「火で燻す」

 

「と、申しますと?」

 

 一言で黙ってしまったタバサをユルバンが促す。少女はそれに応え、再び口を開いた。

 

「まず風竜で上空から〝遠見〟。洞穴近辺に見張りがいないかどうか確かめた後、いなければ入り口に戻ってそこの見張りを倒す。それから入り口の前で火を焚いて煙で燻せば、残りのコボルドは洞穴側に逃げる」

 

「ふむ、なるほど」

 

 納得したユルバンの横で、絵図面を睨んでいた太公望が付け加える。

 

「火で燻すという案は悪くない……が、敵が両方に分散する可能性がありますのう。ユルバン殿、入り口付近は、確か森になっていましたな?」

 

「ええ」

 

「では、そこの木を20本ほど切り倒して、その一部で入り口を塞いだ上で燃やしてもよろしいですか? 延焼はしっかり防ぎますゆえ」

 

 さらっととんでもないことを口走った太公望に、ふたりの視線が集中する。

 

「何か問題が?」

 

「廃坑だから塞ぐのも、山火事さえ起こらなければ燃やすのも構いませぬが」

 

「そこまでやったら〝精神力〟がもたない」

 

「ああ、言われてみればその通りですのう」

 

 気の抜けたようなその答えに、思わずズッコケたタバサとユルバン。だが、真の衝撃はこれからだった。

 

「タバサ……お嬢さま、わたくしが木を切り倒して入り口を塞ぎますゆえ、そのあと上に積もった木の葉を〝錬金〟で油に変えてもらえますかのう? それなら、あとの仕事はわたくしひとりでもやれますので」

 

 いや、問題はそこじゃない。タバサとユルバンは突っ込んだ。

 

「あなたは〝火〟の魔法を扱えないはず」

 

「単に火をつけるだけなら、油の上に松明でも投げればよかろう?」

 

 まずはタバサが固まった。

 

「枯れ木ではなく、生木ではまともに燃えませぬぞ? よしんば火がうまくついても、山風に煽られて火事になる恐れがあるのではないかと」

 

「生木のほうが煙が出やすいし、風を操ってうまく燃えるよう調節すれば問題ない。風向きもだ」

 

 続いてユルバンも硬直した。

 

「あなたには、それができるの?」

 

 確認するタバサに。

 

「できぬなら、間違ってもそんな提案せんわ!」

 

 叩き付けるように断言した太公望。会議の場は静寂に包まれた。

 

 ――約1分後。

 

 ふたりが再起動したのを見計らって、太公望が言葉を出す。

 

「とはいえ、さすがのわたくしでもそこまでが限界。つまり、洞穴側から脱出してくるコボルドを成敗するのはおふたりに担当してもらうことになります」

 

 その話を聞いて、タバサとユルバンのふたりはようやく立ち直った。そして、穴から出てくるコボルドをタバサが物陰から〝風の氷矢〟(ウィンディ・アイシクル)で攻撃。ユルバンは基本タバサの身辺警護。討ち漏らした敵を槍で倒す……という役割分担を決めたところで作戦は纏まった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌日、昼過ぎ。

 

 風竜に跨って村を出発した3人は、当初の予定通り上空から洞穴側の偵察を行い、その出口近辺にコボルドがいないことを確認すると、中腹の入り口に注目した。

 

「では打ち合わせ通り、わたくしが木を切り倒して入り口を塞いだら、お嬢さまは〝飛翔〟で降りてきて木の葉を油に〝錬金〟。その後風竜に戻る。ユルバンどのは上空で待機。お嬢さまが合流したら、ふたりは洞穴の前へ移動……以上よろしいか?」

 

「了解」

 

「承知した」

 

 ふたりの返事を確認した太公望は、視線を廃坑入り口へ向ける。

 

「見張りは2体……か。ではひとつ、わしの実力をお見せしよう」

 

 ニヤリと笑った太公望は懐に手を入れた。

 

「この『打神鞭』も活躍を望んでおる!!」

 

 そして左手に『打神鞭』を、右手にまだ火のついていない松明を持った太公望は、くわわっ! と目を見開き、高らかに名乗りを上げる。

 

「わき上がれ天! 轟けマグマ!! 炎の男爵太公望まいる!!!」

 

 風竜から地上へ飛び降りた太公望を見送るタバサとユルバン。すると、次の瞬間。眼下に巨大な竜巻が出現した。

 

()――――――ッ!!!」

 

 『打神鞭』を繰り、入口前の木立を吹き飛ばす規模の竜巻を作り出した太公望は、そのまま空中で風を操作しつつ、舞い上げた木を廃坑前に積み上げてゆく。

 

 ……ちなみに、見張りのコボルド2体は最初の竜巻で空の星となった。

 

 そして風が止んだ後――廃坑前の森は広場になっており。入り口の前には、綺麗に倒木が積み上がっていた。

 

「やりすぎ」

 

 風が収まった直後〝飛翔〟で広場へと舞い降りてきたタバサは、同じく広場に立っていた太公望へ一言物申すと、手早く〝錬金〟で油を作り出してゆく。それを見ていた太公望は、急いで松明に火を灯す。

 

「よし、あとはわしに任せておぬしは反対側を頼む」

 

「本当に大丈夫?」

 

 あなたは〝火〟を扱うのが苦手だと言っていたのに。そう尋ねるタバサに、太公望は顔中に自信ありげな笑みを浮かべて答える。

 

「確かに、わしには〝火〟メイジのような真似はできぬ。だがのう、できないのなら無理をせず、他のやりかたで補えばよいのだ!」

 

 危ないから離れろ。そうタバサへ警告した太公望は、自らも空中へ舞い上がり、積木の山から距離を置く。

 

「行けっ、ファイヤ――――!!!!!!」

 

 かけ声と共に、松明を放り投げた太公望が『打神鞭』を振るう。すると、放物線を描いて飛んでいった松明の火が突如大きくなり――先端から巻き起こった風が炎を纏う。まさしく炎の竜巻と呼んで差し支えないそれは積木に向けてまっすぐに向かっていき……そこへ燃え移った途端、爆炎となって激しく燃え盛った。

 

「あれだけの炎が上がっておるのに、火も、煙もまるで生きておるように廃坑へ吸い込まれて……こちらへも、外側へも全く流れて来ない。いやはや『炎の男爵』を名乗られるだけのことはありますのう。騎士殿が信頼するのも道理ですわい」

 

 戻ってきたタバサへ向けて、ユルバンは呆然と呟いた。

 

「あれでは、廃坑の中のコボルドどもは全て蒸し焼きになっているのでは?」

 

 そんな老戦士ユルバンの呟きを背に、洞穴へ向けて風竜を駆るタバサは杖をギリギリと固く握り締め……決意を新たにしていた。

 

(この任務が無事終わったら、彼から聞くべきことが山ほどある――)

 

 ……と。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――洞穴側での仕事は、驚くほど簡単な作業だった。

 

 煙で燻され、熱にやられ、ただひたすらに新鮮な空気を求めて外へ出てくるコボルドたちを、タバサは〝氷の矢〟で淡々と屠っていく。ごくごく稀に一撃で仕留めきれなかったこともあったが、それらは全て、ユルバンの槍の錆となった。

 

 そんな単純作業が30分ほど続いた頃――洞穴の奥から、くぐもった……それでいて恨みがましい声が聞こえてきた。

 

「ゴフ……おの……れ……ゴホッ……おのれ……」

 

「まさか」

 

「中に人がおったじゃと!?」

 

 そんなはずはない。ここへ来る前に村人たちに欠員がないかどうか、旅人などの往来があったかどうかをしっかりと確認してきている。タバサとユルバンは思わず顔を見合わせ、洞穴の奥から出てくる者に注目した。

 

 それは、奇妙ななりをしたコボルドだった。獣の骨でできた仮面を被り、鳥の羽を束ねて造られた髪飾りをつけ、どす黒い――おそらく獣か何かの血で染めたのであろう、不気味なローブを身に纏っていた。

 

「コボルド・シャーマン!?」

 

 タバサは思わず息を飲んだ。

 

 コボルド・シャーマンとは、人間やエルフとは異なる独自の神を崇める、コボルド族の神官だ。人語を解し、強力な先住の魔法――人間が使う系統魔法とは異なり、場の精霊と契約することで行使可能となる奇跡を操る存在。彼らは高い知能を持ち、コボルド族の頂点に立つ者でもある。おそらくは、この廃坑に住み着いた群れを率いる長であろう。

 

「メイジめ……ゴホッ、けちな魔法を操る毛無しザルめ……よくも我が悲願を……20年かけて、再びこの地を訪れた……それを……!」

 

 その一言にユルバンが劇的な反応を示す。

 

「20年前じゃと!? まさか……!!」

 

「あの時も……ゲホッ! 忌々しい〝土〟メイジに……宝を奪おうとした我らの試みを阻まれた。許さぬぞ、許さぬぞ、人間め……!!」

 

 コボルド・シャーマンが杖を振り上げた、次の瞬間。裂帛の如き気迫を込めた叫びと共に突き出されたユルバン老人の槍が――一撃で神官の急所を貫いた。

 

 それが、この地を混沌に陥れようとしていたコボルドの群れの最期であった。

 

 

 ――目的を果たした一行は、竜に跨がりアンブランへと帰還する。

 

「20年前――わしは、大変な失態を犯したのです」

 

 村へ戻る道すがら、ユルバンは過去の罪を告白した。

 

 かつて、コボルドの群れがアンブランの村を襲ったときのことだ。ユルバンは、門の守護者として、ロドバルド男爵夫人の盾として犬顔の亜人たちの前に立ちはだかったのだが――。

 

「わしは村の門番を任されておったにもかかわらず、止めることができませなんだ」

 

 敵の数は約30。守る側は男爵夫人とユルバンのみ。奮闘したが、多勢に無勢で押し切られ、最後は脳天に棍棒の一撃を受け気絶してしまった。

 

「強力な〝土〟の使い手であるロドバルド男爵夫人の活躍により、幸いにして人的被害はありませなんだが――村の警護を預かる番人として、それがずっと心の傷となっていたのでござるよ……」

 

 苦痛に耐えるような表情で語り終えたユルバンは、晴れ晴れとした笑みを浮かべる。

 

「しかし、おふたかたのおかげでわしは名誉を挽回できました。あの一件で魔法を使えなくなってしまったロドバルド男爵夫人に、これでようやく恩を返すことができ申した」

 

 満足げな、それでいて物寂しげなユルバンの言葉にタバサは疑問を持った。

 

「魔法が使えなくなった?」

 

「いかにも。熾烈を極めたコボルドとの戦いの最中、男爵夫人は手傷を負われ……結果、神の御技である魔法を失われたのです」

 

 タバサは首を捻った。怪我を負ったことが原因で魔法が使えなくなったなどという話は、これまで聞いたことがない。太公望のほうを見遣ると、彼も眉根を寄せ、何かを考え込んでいるようだった。しかしそんな彼女の疑問が氷解する間もなく風竜はアンブランへと到着し――彼らは首を長くして帰還を待っていたロドバルド男爵夫人の歓待を受けることとなった。

 

「ああ、ユルバン。よくぞ無事戻ってきてくれました」

 

「男爵夫人、ご心配をおかけ申した。コボルドどもの群れは、長も含め殲滅致しました。これからは再びアンブランの警護を務めさせて頂きたく存じまする」

 

 膝をつき臣下の礼をとるユルバンに、ロドバルド男爵夫人は優しく微笑んだ。

 

「ええ。あなたの忠義、本当に嬉しく思います。あなたは、この村の……いいえ、わたしにとっていちばんの宝なのです。これからも、アンブラン……そしてわたしたちと共に在ってくださいね」

 

 ロドバルド男爵夫人の目は慈愛に溢れていた。彼女は心からユルバン老人を大切に思っているのだろう。だが……タバサは、そんな男爵夫人に対して、どこか違和感を覚えた。この村へ到着した際にも感じた、わずかなそれと同じものを。

 

「ささやかではありますが、宴の用意を致しております。騎士殿、そして従者殿。どうぞ討伐の疲れを癒やしていってくださいませ」

 

 そう言って深々と頭を下げるロドバルド男爵婦人。

 

(なんだろう……わたしは、彼女のどこに疑問を感じている?)

 

 タバサは答えを出すことができぬまま、宴の場へと案内されていった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――宴は、村の居酒屋一軒をまるごと貸し切って行われた。

 

 あちこちで村人たちが輪を作り、笑い声をあげている。その中にはユルバン老人の姿もあった。

 

「そしてわしの槍の一撃が、にっくきコボルド族の長を貫いたのだ!」

 

「やったじゃないか、ユルバンさん」

 

「やっぱり、あんたは村いちばんの戦士だ。これからもアンブランを頼むよ」

 

 善良そうな人々に囲まれた老戦士は、本当に幸せそうであった。どのようにしてコボルドに立ち向かったのか、その一挙一動を身振り手振りを交えつつ、顔いっぱいに満面の笑みを浮かべて語り続けている。そんなユルバンの元へ、酒杯を持った太公望が近付いていった。

 

「実際ユルバン殿の活躍は、誠に見事なものでしたぞ。槍もそうですが、村や周辺の山全体を知り尽くした貴殿がおられたからこそ、この討伐作戦はうまくいったのです」

 

「いやいや、従者殿の魔法も素晴らしかったですぞ。その若さで部隊を率いているというのも納得の妙技でござった。わしは……従者殿にも、騎士のお嬢さまにも、感謝してもしきれない恩を受け申した!」

 

 そう言って立ち上がり、頭を下げようとしたユルバンを太公望は押し止めた。

 

「お気になさることはない、これが我らの務め。ユルバン殿が村を守ることと、何ら変わらぬことをしたまでのこと」

 

 笑顔でユルバンに酒杯を勧める太公望。しかし――タバサには、その笑みがほんの少しだけ強張っているように感じた。

 

 タバサは改めて周囲を見回してみる。

 

(何? この胸のざわつきは……)

 

 店の中にはどこもおかしな点はない。ガリアのどこにでもある村の、なんでもない居酒屋。その中で酒を飲み、料理をつまんで笑い合う人々……。

 

 男爵夫人宅の晩餐と同様、味付けの薄いつまみを食べる手を止め、タバサは考え込んでいた。すると、そこへ件のユルバンが近づいてくる。太公望は先程の輪の中で談笑を続けているようだ。

 

「騎士さま、このたびは誠にありがとうございました。改めてお礼申し上げる」

 

「いい。これは任務」

 

「ふふ、従者殿と同じことを仰るのですな。それにしても……」

 

 ふと、ユルバンは太公望のほうへと視線を向ける。

 

「あのような従者を持たれて、お嬢さまは幸せですな」

 

「それは――」

 

 続けようとしてタバサは口を噤んだ。

 

(確かにわたしは幸運なのかもしれない。彼――太公望は、どうにも掴み所のない性格をしてはいるけれど、根は優しいし……何より有能)

 

「お気づきになられましたかな? あの従者殿は作戦の最中、ずっと騎士様を……主人というよりは、まるで……そう、血の繋がった実の妹を気遣うが如く振る舞っておられたのを。いや、わしが言うまでもなくおわかりでしょうな」

 

 

 そういって笑うユルバンの言葉にタバサは彼女には珍しく動揺した。ふと、日頃の太公望を思い出す。何かしようとするときに、さりげなく差し出される手。新しい本を手渡したとき、優しく笑いかけてくれる、その表情。

 

 今回の任務にしても、本来であれば太公望が着いてくる必要などなかったのだ。にも関わらず、危険を顧みず自ら王宮へ乗り込み、周囲を観察し、タバサを補佐してくれている。

 

(もしもわたしに兄がいたら、彼のように助けてくれたのだろうか――)

 

 黙り込んでしまったタバサの側に村人たちが寄ってくる。どうやらユルバンを迎えにやって来たようだ。

 

 新たな輪の中に加わったユルバンは終始笑顔であった。その人の輪の内には、男爵夫人も混じっていた。貴族であるにも関わらず、身分にこだわらない性格なのだろう。ユルバンを見て優しい笑みを浮かべていた。

 

 そんな男爵夫人に、ユルバンは晴れ渡った秋の空の如き笑顔で語りかける。

 

「人生の最後に、ようやく罪滅ぼしができ申した。はて困りましたな、これでもう本当に何もすることがありませぬぞ」

 

「何を言うのです。あなたには、この村を守るという大切な使命があるではありませんか」

 

「そうでしたな。私は幸せ者にございます」

 

 ――その言葉を最後に、酔ったのであろうユルバン老人は、椅子に深く腰掛けたまま、こっくりこっくりと舟をこぎ始めると、ゆっくりと瞼を閉じ……だがその眼は、二度と開くことはなく。彼が愛した多くの村人たちに囲まれた中で、まるで眠るようにその人生に幕を降ろした。

 

 

○●○●○●○●

 

「彼は幸せでした。ご覧になられたでしょう? あの最後の笑顔を」

 

 ――わしが、討伐任務などに連れ出さなければ。翌朝、しめやかに執り行われた葬儀の列中。その顔を苦悩に歪め、深く詫びた太公望へ、ロドバルド男爵夫人は慈愛に満ちた笑顔で答えた。

 

「この20年間……ユルバンのあのような顔を、私はついぞ見たことがありませんでした。わたしではどうしても為し得なかったことを、あなたが果たしてくれたのです」

 

 すると、その言葉がまるで合図であったかのように……村人たちが静かに男爵夫人の周りへと集まってくる。そして、彼らの瞳が一斉に太公望とタバサを見つめた。そんな彼らを見て、タバサは背筋に冷たいものが流れるのを感じた。

 

 村人たちの顔には、男爵婦人と全く同じ――写し絵のような笑顔が浮かんでいたのだ。

 

「20年前のことです。このアンブランの村は、コボルドの群れに襲われました。そして……全滅したのです。ロドバルド男爵夫人と、ユルバンのふたりを除いて」

 

 ロドバルド男爵夫人は語り始めた。この村に隠されていた真実を。

 

「門番を務めていたユルバンと、交渉に赴いたロドバルド男爵夫人が棍棒による一撃を受けて昏倒してしまったその隙に、村はコボルドの群れによって蹂躙され、村人たちはひとり残らず皆殺しにされてしまったのです……」

 

 出掛けに〝硬化〟で身を固めていたお陰で、比較的早く気絶状態から復活できたロドバルド夫人の奮闘により、なんとか群れを追い払うことに成功したものの――彼女もまた、そのときの戦いが元で深く傷ついてしまった。

 

「気絶していたことが幸いし、ユルバンは一命を取り留めました。ですが男爵夫人は大変なことに気がついたのです。目覚めた後に、ユルバンが村の惨状を知ったら。そして、唯一の生き残りである男爵夫人までもが死んでしまったら、彼はいったいどうするでしょう。責任感の強い彼のこと、おそらく自ら死を選ぶのではないか……と」

 

 ロドバルド男爵夫人は俯いた。

 

「そう考えた男爵夫人は、傷をおして魔法をかけたのです。〝アンブランの星〟と呼ばれたこの村に伝わる秘宝を用いて。身内のいない彼女にとって、ユルバンはただの家臣などではなく、家族も同然でしたから」

 

 タバサはごくりと唾を飲み込んだ。背に冷たいものが流れる。

 

「ロドバルド男爵夫人はとても優秀な〝土〟メイジでした。彼女はその命が尽きるまで、ただひたすらに人形を作り続けたのです。ある程度の自由意志を持ち、半永久的に動き続ける魔法人形……ガーゴイルを――」

 

 そこまで言い終えると、男爵夫人は村人たちに視線を向けた。

 

「そうです。わたしも含め、この村の者は――すべてガーゴイルなのです」

 

 タバサと太公望は改めて周囲を見渡した。そこは、どこにでもある、ありふれたガリアの山村。だが、それは見た目だけだったのだ。タバサはようやく今まで感じていた違和感の正体が何であるのかを理解した。

 

 脅威に晒されているにも関わらず、日常と変わらぬほがらかな様子の村人たち。他に例のない、怪我で魔法を使えなくなった男爵夫人。そして奇妙に薄い味付けの料理。そう、全ての食事はユルバンを基準に作られていたのだ。人形に食料は必要ないから――。

 

 風竜の背に乗り、タバサと太公望は空へと舞い上がった。眼下に広がるのは、自分たちがコボルドの脅威から救った村。そこには、思い思いに闊歩する村人たちの姿が見えた。

 

 別れ際、男爵夫人の姿を模した魔法人形は感謝の言葉と共に、

 

「これをお持ち下さい。きっとあなたがたの助けになるはずです」

 

 と、2体の魔法人形をタバサたち主従に手渡した。

 

「血を吸わせることで、その者の姿を完璧に写し取ることができます。売れば金貨千枚を超えるでしょうし、いざというとき身代わりにすることも可能かと」

 

「どうして?」

 

「わたしたちにはもう必要ありませんから、遠慮なく受け取ってください。あなたがたのような年若い人が危険な討伐任務に送り出されるだなんて、よほどの事情がおありでしょうから」

 

 この、魔法人形とは到底考えられない程の思慮深さにタバサは驚愕した。男爵夫人や村人たちと長い年月を過ごしてきたユルバンが、全く気づけなかったのも道理だ。〝土石〟に込められた魔力を利用したとはいえ、ロドバルド男爵夫人は紛れもない天才だった。

 

「わたしたちは見た目は少しずつ老いてゆき、やがて土に還ります。それまで、ユルバンの墓であるこの村を守り、共に在り続けます。ですから、このことは決して口外しないでください」

 

 深々と頭を下げた男爵夫人の人形に、タバサと太公望は秘密を守ることを固く約束した。

 

 ――別れの挨拶を済ませたふたりは、風竜に乗り込むと、村を後にした。

 

 遠ざかる村を見つめながら、タバサはぽつりと漏らす。

 

「わたしには、わからない。ユルバンが、本当に幸せだったのかどうか」

 

 ユルバンのためにだけに存在した村。その全てが見せかけだけの偽物。

 

 そう独白した声に、太公望が小さく答えた。

 

「わしにもわからぬ。だが、あの男爵夫人と村人たちの魂魄(こんぱく)は、確かにあの場所に存在していた。それだけは……間違いない」

 

「魂魄……?」

 

「生きとし生ける者全てに魂が宿っておる。あそこにあったのは、確かに人形だった。だが、そこに宿る魂だけは……紛れもない本物であったよ」

 

(ガーゴイルにも、魂が宿るというの? 物言わぬ、ただの人形にも――?)

 

 タバサと太公望の頬を、強い風が嬲る。その風のぶんだけアンブランの村が遠ざかる。ひとりの老戦士を守るためだけに造られた箱庭。ユルバンと、彼が愛した人々が眠る墓が遠ざかってゆく。ふたりは押し黙ったまま……王都リュティスへ向け風竜を駆った。

 

 

 




過去に失われた技術、スキルニルの再現に成功した男爵夫人すごい。
しかも年月と共に老いていくとか完全に上位互換。

2016/09/22:一部内容を修正しました


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導なき道より来たる者
第15話 閉じられた輪、その中で


 ――ユルの月、フレイヤの週、オセルの曜日。

 

 その日の夜。プチ・トロワの謁見室で従姉妹から任務完了の報告を受けたイザベラは、まっすぐに自分の部屋へと戻っていた。

 

 彼女の頭の中には、とある思いが渦巻いていた。従姉妹のシャルロットが〝召喚〟(サモン・サーヴァント)に失敗した。それについては調査の上改めて父上に報告しよう。だが、その前にすべきことがある。

 

(あの娘ができなかった〝召喚〟でわたしが素晴らしい使い魔を呼ぶことができれば、召使いや宮廷貴族たちも……それに父上だって、わたしのことを認めてくださるに違いないわ。別に、ネズミやフクロウのような普通の使い魔で構わないんだ。少なくとも失敗にはならないんだから)

 

 イザベラには、王族として致命的なまでに魔法の才能がない。おそらく『無能王』と称されるジョゼフ一世――魔法を一切使うことができないために、侮蔑を込めてそう呼ばれる父親の血を色濃く受け継いでいるのであろう。どんなに努力を重ねても『ドット』レベルの魔法を日に数回唱えるのがせいぜいであった。

 

 にも関わらず、イザベラと血を分けた従姉妹シャルロットは溢れんばかりの魔法の才能を持ち、幼くして騎士(シュヴァリエ)の爵位を得るほどの存在であった。このハルケギニア社会において、魔法の才能は人望と比例する。それはこのガリア王国も例外ではない。

 

 イザベラは本来、謁見室で垣間見せたような粗野な娘などではなく、知性溢れる少女だ。その証拠にこの広い宮殿の中にいる貴族たちだけでなく、側に仕える侍女や衛士に至るまで、自分よりも魔法の才能に優れる従姉妹こそがガリアの王女に相応しい、そう考えていることを熟知していた。

 

 彼女にはそれが悔しくてたまらない。その鬱憤が、あのような――侍女をからかったり、従姉妹相手にきつく当たるなどの形で外に噴出する。

 

(それがわたしの評価をさらに下げてることくらい、わかってるさ。けど、今更やめたって同じことさ。もうどうにもならない)

 

 それだけにイザベラは〝使い魔〟を欲した。唯一、自分が憎い従姉妹に勝てるかもしれない存在を。だが、イザベラはそれを人前でやるほど無謀ではなかった。万が一、自分が失敗するところを誰かに見られたら――それが己の立場に致命傷を与えかねないと、充分理解していたから。

 

 だから、たったひとりで自分の部屋に籠もり、周囲を入念に探って誰もいないことを確かめると……愛用の杖を取り出した。

 

(ここでやっても問題ないわよね。わたしのところにドラゴンみたいな大物が来るわけないし)

 

 有能を自称しているイザベラも、魔法に関しては謙虚――いっそ自虐的だった。

 

 ガリア王女は、ゆっくりと力在る言葉を紡ぎ出す。

 

「我が名はイザベラ・ド・ガリア。5つの〝力〟を司るペンタゴン。我の運命(さだめ)に従いし〝使い魔〟を召喚せよ」

 

 呪文は完成した。魔法が成功したのならば、そこには白く光る円鏡のような召喚ゲートが開くはずであったが、しかし――彼女の前に現れたのは、まるで空間を切り取ったような()()()()

 

「……よぉやく、繋がった」

 

 窓の奥から声がした。と、同時に細長く……青い手がイザベラに向かって伸びてくる。悲鳴を上げる間もなくその腕に掴まれるイザベラ。

 

 ――そして。イザベラ・ド・ガリアは、ハルケギニアから消えた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――時は、1ヶ月ほど前まで遡る。

 

 ハルケギニアの暦で語るならば、フェオの月、フレイヤの週、ユルの曜日。そう、トリステイン魔法学院において〝使い魔召喚の儀式〟が執り行われた、あの日。

 

 舞台はハルケギニアとは異なる世界、蒼き星・地球――そこに在るひとつ国・周。大陸全土を巻き込んだ大戦が集結し、徐々に平和を取り戻しつつあったその国の荒野を、ひとりの若者が大陸を渡る風のように、ただ……歩いていた。

 

 若者の名は、伏羲(ふっき)。かつて、彼には強大な敵がいた。

 

 滅びた己の世界を再現するという目的のために地球の歴史を影から操り、思い通りに進化、あるいは故郷と同じ歴史を辿らなければ全てを破壊する。そうしてから再び最初からやり直すという気の遠くなるような作業を数十億年間――まるで子供の砂山遊びの如く繰り返してきた存在。

 

 それが彼の敵『歴史の道標(みちしるべ)』だった。

 

 その圧倒的存在である『歴史の道標』を星の始まりから監視し――やがては打倒せんと練り上げられた壮大なプロジェクト『封神計画』の立案者にして実行指揮者であった伏羲は、戦いに勝利した後……人々の前から姿を消した。

 

 ……いちばん面倒な戦後処理を全部押しつけて逃げたとか言ってはいけない。

 

 と、まあそんなわけで彼はあちこち気ままにブラブラしていたわけだが。

 

「御主人んーッ! どこッスかー!!」

 

「お師匠さまーっ!」

 

 当然のことながら、そんな彼を捜し出そうとする者達がいるわけで。

 

 本人からすれば、ちゃんと自分がいなくても世界が廻るように後進を育ててきたのだから、もう一線から退いてぐうたらしていてもいいはず。そう言いたいところだろう。しかし、伏羲はそうホイホイと取り替えがきくような人材などではないのだ。

 

 ――何故なら彼は地球の『始祖』。星の生命を誕生の時から見守ってきた『最初の人』のひとりなのだから。

 

 追われるから、逃げる。そんな日々を過ごしていた時に事故が起きた。

 

 トコトコと草原を歩いていた時にふと気がついた、追っ手の存在。追跡をかわすため、いつものように『空間ゲート』を開いて『自分の空間』に入り込もうとしたその時……空間同士の接続ポイントに、ごくごくわずかな――ヨクト単位レベルのズレが生じた。

 

 それは本当にわずかな……優れた『空間使い』であった伏羲ですら認識できないような揺らぎ。だからゲートをくぐった時点では、彼は異常に気付けなかった。

 

 ――最初に違和感を覚えたのは、彼の内にある魂魄を構成するうちの半分。

 

 伏羲の魂魄は、複数に分裂するという特異性を持つ。これは、彼と『歴史の道標』と呼ばれた存在にしかなかった〝能力〟であり、最大の特性だ。分裂させた魂魄のどれかがわずかにでも残っていれば、たとえ他の魂魄が消滅したとしても復活できるという、味方にすれば心強く、敵に回すと非常にやっかいな〝力〟である。

 

 伏羲はこの『封神計画』を実行するにあたり、自分の『始祖』としての〝肉体〟と〝力〟と〝記憶〟を失うという多大なリスクを承知していながらも、あえて己の魂魄を2つに割り、全く異なるふたりの人間――後に仙人となる者として生まれ変わることで、地上世界に降り立った。

 

 ――そのひとりは太公望。

 

 伏羲の心の『光』を司り、何も知らず『封神計画』の『表』の実行者となる。

 

 ――もうひとりは王天君(おうてんくん)

 

 こちらは伏羲の心の『闇』を司る存在だ。

 

 太公望と同様、当初は何も知らされぬまま――後に事情の一端を理解し、世界の『裏』から『封神計画』の遂行を手伝うこととなる。

 

 後に彼らの魂魄は再びひとつに戻り、それと同時に伏羲としての〝記憶〟と〝力〟を取り戻すのであるが……今回の異変に気がついたのは、その『闇』の部分。優れた『空間使い』として成長していた、王天君の記憶であった。

 

 ――オレが創った『部屋』に、妙なノイズが発生していやがる。

 

 おそらくは王天君に伏羲としての〝力〟が戻った状態でなければ気付かなかったであろう、ほんのわずかな歪み。それを修正しようとした――その時だった。

 

(……は……タバサ)

 

 何処からから聞こえてきたその声と共に、突如歪みが大きくなった。

 

(……召喚せよ)

 

 そして『部屋』の中に、光り輝く円鏡型の『ゲート』が現れた。なんと亜空間の中に、全く別種の『道』が突然割り込んできたのだ。空間をねじ曲げるほどの強大な力同士が強引に交差したのだから、ただですむわけがない。

 

 その影響で大きく揺らぐ『部屋』。空間震と呼んで差し支えないであろう激しい振動のせいで、伏羲の身体がぐらついた。なんとか体勢を立て直そうとしたものの、そのせいで『円鏡のゲート』に左手が触れてしまった結果――猛烈な勢いで全身を引きずり込まれそうになった。

 

「いかん! このままでは飲み込まれる!」

 

 瞬時にそう判断した伏羲は、謎の『ゲート』を解除するため『太極図』を展開しようとした――だが。もがけばもがくほど引き寄せる〝力〟は強まっていき――そして、引く〝力〟と戻そうとする〝力〟が強大だったがゆえに――彼の身体は、文字通り引き裂かれた。その魂魄と共に。

 

 円鏡状のゲートが消えた後。空間震の影響で発生した、どこでもあり、どこでもない場所。ひとつの輪のように閉じられた球体状の亜空間の中に元は伏羲であった者のひとり、王天君は取り残され……その『半身』である太公望は、いずこかへ消えていた。

 

 ――連れ去られた太公望がどうなったのかについては、この物語の冒頭より語られているので、そちらを改めてご覧いただくとして……ここから先はひとり取り残された王天君が、これまで何をしていたのかについて語らせてもらうこととする。

 

 

○●○●○●○●

 

「ったく……なんだってんだよ、今のはよぉ」

 

 そう言って立ち上がった王天君は、己の身体に起きた異変を察知する。

 

「オイ、フザケんじゃねぇぞ。なんでオレだけがココにいんだよ。あいつぁ……太公望はドコ行った!?」

 

 急いで座標確認用のモニター宝貝を展開する。だが、表示された情報がおかしい。太公望の行き先はもちろんのこと、自分の現在位置すら把握することができない。最初に開いた『ゲート』への接続ポイントすら見失っている。

 

 ギリッと唇を噛み、王天君は吐き捨てた。

 

「故障……ってワケじゃあねぇよな、こいつは」

 

 おそらくさっきの「割り込み」が原因だろう。王天君は、周囲の空間を『感覚』で捉える。すると……まるで複雑に絡み合った糸のように亜空間同士が混在し、彼自身はその糸と糸の間――閉ざされた輪の中にいることを知覚した。

 

「閉じこめられた……だとぉ!?」

 

 ふと、かつて自分が人質として敵地へと送られた挙げ句、凶暴な妖怪たちから保護するという名目で封印籠の中に監禁されていた時のことを思い出す。忌々しい記憶だ。あそこでの経験が自分の心を壊し――今に繋がっている。

 

「いや、待て……」

 

 王天君は冷静に考え直す。

 

「あの時とは状況が違う。今のオレには……時間はかかるだろうが、この空間を紐解いて外へ出るだけの〝力〟がある」

 

 助けなど期待できない。何せ王天君は〝仙人界〟の中でも最高の『空間使い』なのだ。

 

 唯一、彼の能力をコピーすることができる天才がいるにはいるのだが、その彼をもってしてもオリジナルの王天君を捉えることは叶わなかった。その王天君を閉じこめるほどの『空間』に、救助が来ようはずもない。

 

 『半身』である太公望のほうはというと、空間を把握する能力はあっても、開け閉めするような〝力〟は持っていない――それに。

 

「太公望にゃ間違っても期待できねぇ。あいつはとりあえずぐうたらできる環境作って、調べるにしてもそれからだ。いや、オレのほうから勝手に迎えにくるだろう……なぁんて考えて、放置しやがる可能性のほうが高いんじゃねぇか?」

 

 ――『半身』だけあって、相方の性格をよく掴んでいる王天君であった。

 

「ったくよぉ……面倒なコトになりやがったぜ」

 

 イライラと爪を噛みつつモニターで周囲の空間座標を計算。そして、そもそもの原因となった、割り込みの追跡(トレース)を開始する。解明のヒントとなるのは、あの時聞こえてきた声だろう。

 

 それからわずか数日後。王天君は問題の『道』を発見したのだが、しかし。

 

「一方通行のゲートだとぉ!?」

 

 そう。ようやく見つけた手がかりは、片側の閉じられた特殊空間ゲートだったのだ。苛立ちのあまり、王天君は被っていた帽子を乱暴に手に取ると、激しく床――亜空間とはいえ一応〝底〟は存在するのだ――へと叩き付ける。しかし、文句は言えない。何せ、彼自身もそういった『一方通行の空間』を武器のひとつとして扱う者であったから。

 

「クソッ。こうなったら、この空間座標の近辺だけ集中的に監視して……『窓』が開いたら、こっちで無理矢理繋げるしかねぇか」

 

 彼は辛抱強くその時を待った。そして――それから数週間後。ようやく例の『声が作り出す道』に近しいものを捕捉したのである。

 

『我が名はイザベラ・ド・ガリア。5つの〝力〟を司るペンタゴン。我の運命(さだめ)に従いし〝使い魔〟を召喚せよ』

 

 王天君は、いずこかへ繋がろうとしていたその『道』に干渉し、ねじ曲げ……その上で自分のいる亜空間へと、綿密な操作でもって接続した――再びあのような事故が発生しないように。

 

 道同士を繋いだ際に、何やら身体に入り込んでくるような違和感を覚えたが、今すぐどうこうなるような問題ではなさそうなので、とりあえずは後回しにする。

 

「……よぉやく、繋がった」

 

 彼が繋いだ『窓』の外。そこは豪奢といって差し支えない部屋だった。そして、目の前には蒼い髪の――いいトコのお嬢さん風な娘が立っている。

 

 この女は太公望を連れ去った犯人ではないだろう。だが、この『道』について詳しく聞き出す必要がある。それに……調査なしで見知らぬ場所へと自ら出向くのは彼の性格に合わない。騒がれるのも面倒だ。ならば――!

 

 繋げた『道』を起点に、新たな『自分の部屋』を瞬時に作り出した王天君は、これまで閉じこめられていた亜空間の位置だけ記録した後『部屋』へ移動する。そして『窓』から腕を伸ばし、少女の腕を掴み取ると――強引に、部屋の中へと招待した。

 

 ……そして、時は現在へと繋がる。

 

○●○●○●○●

 

 

 ――イザベラは、暗がりの中で目を覚ました。

 

 カッチ……コッチ……。

 

 何処かから不思議な音が聞こえてくる。

 

 カッチ……コッチ……。

 

 規則的に刻まれた音が、イザベラの耳に染み渡る。

 

(いったいなんの音だろう?)

 

 そう思って身体を起こそうとしたその瞬間。イザベラは全く見覚えのない長椅子に身を横たえていることに気付いた。

 

(ここはわたしの部屋じゃない。なら、いったいどこ!?)

 

 状況を把握する間もなく、長椅子の正面方向から声がした。

 

「お目覚めかい? 眠り姫さんよぉ」

 

(このわたしにそんな口を利くだなんて、無礼な! いったい何者だい!)

 

 急いで起き上がり、そう叫ぼうとしたイザベラだったが――視界に飛び込んできた相手を捉え、絶句した。

 

 古いテーブルが置かれている。脚部や側面に施された彫刻は上品なもので、天板に使われている素材も最高級のマホガニー。その向かい側に彼女が座っている長椅子と同じものが置かれていた。声の主は、そこに腰掛けていた。

 

 不気味なまでに青白い肌。全身をぴったりと張り付くように覆う黒い服。身体のあちこちに銀製と思われる装飾品を身につけた小柄な少年だった。しかし、イザベラが真っ先に注目したのはそれらではない。

 

 彼女の瞳に映っていたのは少年の――細く、長い耳。

 

「え……エル……フ……」

 

 ――エルフ。

 

 それは、長きに渡り人間の宿敵とされてきた種族。ハルケギニアに住まう人間たちにとって、恐怖の象徴と呼んで差し支えない程の存在だ。過去の記録によると、エルフの戦士を1人倒すために10人を超えるメイジを必要としたらしい。それくらい、両者には大きな力量差がある。

 

 イザベラは、そこでようやく思い出した。自分の身に何が起きたのかを。

 

 従姉妹に対抗し、人知れずこっそりと〝召喚〟(サモン・サーヴァント)を唱えた。

 

 ところが、王女の前に現れたのは召喚のゲートではなく、鏡のような四角い窓だった。そこから青白い手が伸びてきたと思ったら、腕を捕まれてしまい――窓の中に引きずり込まれてしまった。

 

(あの手だ)

 

 おそらく自分は〝召喚〟に失敗し――いや、使い魔候補の前にゲートを開くこと自体はできたのだろう。ただしその接続先が悪かった。よりにもよってエルフのところへ繋いでしまったのだ!

 

 そして、エルフを使い魔にするどころか逆に囚われてしまい――今に至る。イザベラはそのように判断した。

 

「オメーに聞きてぇことがあんだけどよぉ?」

 

 そう問うた『エルフ』の声は、イザベラの耳には届いていなかった。

 

「な……なんで……どうして……」

 

 両腕で身体を抱え込むようにしてガタガタと震えるイザベラ。その瞳からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。わたしは〝召喚〟で()()ことすらできないのか。それどころか、逆にエルフに捕らえられるなど……王族として、いや、メイジとしてあってはならないことであろう。

 

「泣くんじゃねぇよ! 話があるって言ってんだろ!?」

 

 忌々しげにそう告げる少年にイザベラは答えることができない。ただただ震え、涙を零すばかりであった。

 

「どうしたもんかねぇ……これは」

 

 王天君は、ぎっと親指の爪を噛んだ。

 

「畜生め! 太公望……あのイイコちゃんなら、こんな小娘のひとりくらい簡単に落ち着かせられるんだがなぁ。ったくイライラさせられるぜ」

 

 舌打ちした王天君の耳に目の前の少女の叫び……いや、小さな声ではあったのだが、魂の声とも呼べるものが飛び込んできたのは、歴史の必然だったのだろうか。

 

「わたしばっかり……どうして……こんな目にあうの。なんで、あの子だけが……いつも、わたしが代わりに……あの子ばっかり……こんなの、酷すぎるわよォ……」

 

 王天君にも覚えがあった、その声は。

 

 『闇』に棲む者にとって眩しすぎる者。『光』という輝かしい存在に対する羨望であり……強い嫉妬の念が込められたもの。

 

(なるほどねぇ。オレがこの小娘のところへ比較的簡単に『接続』できたのは、それなりの理由があったってことかよ)

 

 引っ張り込まれたあのアホについては後でいいか。この世界にいるのは間違いねぇ。何故なら、オレの魂がそう言っているからだ。とりあえずは……今、目の前にいるコイツで遊んでみよう。結構楽しめるかもしれねぇ。

 

 ――こうして。裏を司る蒼き姫と異界の『始祖』の闇を写した鏡は運命の出会いを果たした。

 

 




ハルケギニア版プリンセス・メーカー開幕。


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第16話 軍師、異界の始祖に誓う事

「わしは夕飯食って風呂入ったらすぐに寝るぞ」

 

「同じく」

 

 ハルケギニアの常識では考えられないほどの強行軍で、トリステイン魔法学院へと戻ってきたタバサと太公望のふたりは、一旦部屋に戻って上着だけを替えると、その足でアルヴィーズの食堂へと向かった。

 

 約束を守るためとはいえ、さすがに無理をしすぎた。今日のところはもう何も考えず、ゆっくりしたい……そんな思いでいっぱいだった太公望の期待を最初に裏切ったのは、食堂の入り口に立った瞬間に飛んできた、少女の金切り声だった。

 

「あ、あ、あんた、い、い、今までどこ行ってたのよーっ!!」

 

 ――それは約束の相手。ルイズによる魂の叫び声。

 

「まあ落ち着け、ルイズ」

 

「お、お、落ち着けるわけ、な、な、ないでしょう!?」

 

 わたしがどれだけ気をもんでいたか――そう口にしようとしたルイズを制し、太公望は喉の奥から心底疲れ切った声を絞り出す。

 

「例の件であろう? ちゃんと覚えておったから、こうして急いで帰ってきたのだ。約束は守る、だから今日のところは静かに休ませてはくれんかのう」

 

 そう言われたルイズがよくよく太公望を観察すると、彼が羽織っているローブと一体化したようなマントが薄汚れており、髪の毛の一部にはなんと霜が降りていた。顔には深い疲れの色が刻まれている。そして、それは傍らに立つタバサにも当てはまっていた。

 

(タバサに関係することで、何か急な用事でもあったのかしら)

 

 にも関わらず、ちゃんと約束を覚えていてくれた。そんな相手にこれ以上何かを言うのは、貴族の子女としてあるまじき態度だろう。

 

「そ、その……ごめんなさい」

 

 一言謝罪の言葉を述べたルイズは、その直後――周囲から注目されていることにようやく気がつき、顔を真っ赤にしたまま着席する。実のところ、大声そのものよりもプライドが高いことで有名な公爵家の三女が頭を下げるという、世にも珍しい光景のほうが耳目を集めていたのだが。

 

 その後、早々に席についたタバサの元にキュルケが近寄ってきた。

 

「あなた、その格好はどうしたのよ? ずいぶん疲れてるみたいだから、今日のところは何も聞かないけど……たくさん食べて、早くお休みなさいな」

 

 そう言って、自分の料理の一部――タバサの大好物であるハシバミ草のサラダと鳥のあぶり焼きを青髪の少女の前へと押しやる。

 

「ありがとう」

 

「いいのよ。そのかわり、落ち着いたらいろいろ教えてね」

 

 そう言ってウィンクしたキュルケの心遣いに、タバサは心から感謝した。

 

 ――そして夕食が済み、食堂から出ようとした三人に……より正確には太公望に声をかけてきた者がいた。教師のコルベールだ。

 

「ミスタ・タイコーボー。お疲れのところ大変に申し訳ない! ですが、取り急ぎお話をしなければならないことがありまして……その、学院長を交えて」

 

「それは何名で、かのう?」

 

 太公望はまずコルベールを見、次いでタバサに目をやった後、再び視線を正面に立つ男に戻す。

 

「ミス・タバサには申し訳ないのですが、3人で」

 

「……わかった。タバサ、先に戻っていてくれ。遅くなるかもしれんから、そのときは窓の鍵だけ開けておいてくれればよい」

 

 コクリと頷いたタバサは、側にいたキュルケと共に寮塔へ続く廊下へと歩き出す。その後ろ姿を見送った太公望は、ふっとため息をつくとコルベールに向き直った。

 

「では参りますかのう。学院長室へ」

 

 くだらない用事だったらただじゃおかんぞあの狸ジジイ。という内心の声を必死で抑えながら。

 

 ――その後、学院長室で聞いた話は……確かに急いで耳にいれておくべき内容だった。ただし、善悪に関係するようなものではなく、明日の約束に関連した非常に有益な情報だったからだ。

 

 一時間ほど学院長たちと話し合った太公望は、ようやく念願の入浴を果たすべく、まずはタバサの部屋に戻ろうとした。だが、今度は扉の前で才人が待ちかまえていた。

 

「さっき帰ってきたって聞いてさ! なあなあ、例の武器の件だけど……」

 

 興奮してまくし立てる才人をとりあえず落ち着かせると、さっき食堂でルイズにしたのとほぼ同様の説明を行い、休み明けの昼に改めて聞かせてもらうから今日はもう……と、自室へ帰らせた。

 

 それから三十分後。

 

 これでようやく休める――そう呟きながら、軽い入浴を済ませて部屋に戻ってきた途端、窓から飛び込んできた茶色い羽根の伝書フクロウ――おそらくフーケが寄越したものであろう――を見た太公望は、この世界に来て初めて、本気でハルケギニアの『始祖』とやらを呪い、誓った。

 

 もしも顔を合わせることがあったなら……『打神鞭』の最大出力でもって、次元の彼方へ吹き飛ばしてくれるわ!

 

 ……と。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――明けた翌日、虚無の曜日。

 

 魔法学院から馬で十五分ほどの距離に、周囲を背の高い木立に囲まれた平原がある。その中央に集う者たちがいた。

 

 この場にいるのは、太公望をはじめとしたタバサ、ルイズ、才人、ギーシュ、キュルケという、例の模擬戦騒ぎの一件でルイズの『約束』を知る者たち。学院長のオスマン氏と、コルベール。

 

 オスマン氏が〝錬金〟で作った簡素な教壇風の台座を前に、太公望とオスマン学院長、そしてコルベールが立ち――その向かい側1メイルほど距離をあけた位置に、これまた魔法によって作られたベンチが並んでいる。そこに生徒たちが座る姿は、端から見ると特別な課外授業のようだ。

 

 教壇上から生徒たちを見渡した太公望は、手にした『打神鞭』を教鞭のように振るいながら説明を開始した。

 

「さて。ここに集まった者たちは、わしがこれからルイズが魔法を〝爆発〟させてしまう件について、独自の技術的観点から調査を行うことを知っておる。それを前提として話を進めていくわけだが、その前に……」

 

 太公望は横に立つコルベールに弁を向ける。

 

「昨夜、こちらのコルベール殿から大変に興味深い話を伺ったのだ。これはルイズの魔法だけでなく、それ以外の者たちにとっても非常に有益、かつ画期的なものであったため、学院長殿の立ち会いの下、特別に公開してもらいたいと思い、同席を依頼した」

 

 そう言って演壇を降りた太公望。学院長がわざわざ立ち会うようなレベルの話を、他の生徒を差し置いて優先的に聞ける。期待に胸を膨らませるメイジ達の前に、コルベールが立った。

 

「ミス・ヴァリエールとミス・タバサ、そしてサイト君については既に聞いている内容となってしまいますが、まずはそこから話をしないと、何故この発見に繋がったのかがわかりませんので、簡単にですが説明させてもらいますぞ」

 

 そう前置きしたコルベールは、以前太公望が行ったように〝召喚〟(サモン・サーヴァント)がいかにとんでもない魔法であるのかを解説した――もちろん異世界云々の話は除いて、だが。

 

 〝召喚〟魔法が、実は『空間同士を接続する』というとてつもない〝精神力容量〟と、広大な空間を把握するための『感覚』を必要とするものであったこと。その話を聞いたコルベールが、日頃簡単に扱っている汎用魔法(コモン・マジック)というものについて改めて着目したこと。そして――。

 

「私は、ついにその記述を見つけたのです。3000年前の魔法書から。そして知ったのです。なんと当時、コモン・マジックは……〝念力〟(サイコキネシス)〝召喚〟(サモン・サーヴァント)〝使い魔契約〟(コントラクト・サーヴァント)の3つしか存在しなかったことを!!」

 

 ――一瞬の間を置いた後。

 

「ええええええぇぇぇぇええええええ―――っ!!!」

 

 平原に驚愕の大合唱が響き渡った。

 

「ど、どういうことなんですかっ」

 

「〝光源(ライト)〟とか、後からできた魔法なんですか!?」

 

「昔は手で〝施錠(ロック)〟していたんですの!? ヴァリエールみたいに」

 

「一言余計なのよあんたはっ!」

 

 はいはいはい! と、手を挙げながら指される前に我先にと質問する生徒達を前に、してやったりといわんばかりの笑みを浮かべたコルベール。太公望とオスマンも実に満足げである。

 

「皆さんの疑問は当然だと思いますぞ。私も同じように考えました。そこで、次は今現在汎用とされている魔法がかつて存在したのかどうかを確認するために、改めてその魔法書を紐解いてみたのです」

 

 ゴホン。と咳払いをしてコルベールは先を続ける。

 

「結論から言うと、今ある汎用魔法は、全て〝系統魔法〟の初歩の初歩の初歩として扱われていました。たとえば〝光源〟。これは〝火〟の系統魔法のページに記されており……〝施錠〟〝解錠〟は〝土〟に属する魔法というように」

 

 驚きのあまり声も出ない生徒を尻目に、コルベールの演説は続く。

 

 曰く魔力の流れを探知・分析する〝魔法探知《ディテクト・マジック》〟は〝水〟に属すること。

 

 曰く〝固定化〟の魔法と同様、土系統のメイジが強固に施した〝施錠〟を〝解錠〟で外すのが、別系統のメイジにとっては非常に難しいことを例に挙げ、また、さらに古い魔法書でも同様の扱いがなされていたことからこれはほぼ間違いのない事実。歴史的な大発見である……と。

 

 なお、

 

「〝風〟の初歩の初歩の初歩とされる魔法は存在しないのですか?」

 

 と、いうタバサの質問には、

 

〝風〟(ウィンド)がそれに相当するらしい……のですが、書物によってはそれが〝浮遊〟(レビテーション)だったり〝魔法の矢〟(マジック・アロー)であったりと実に曖昧でして。残念ながら、確定までには至りませんでした」

 

 と、答えた。

 

「そういう訳でしてな。昨日これをミスタ・タイコーボーにお話ししたところ、ミス・ヴァリエールが練習する魔法を、まずは汎用の基礎である〝念力〟に絞るべき、という意見で一致しました。また、この発表は学院長立ち会いのもとで行うべきとのことで、今日このような機会を持たせていただいたわけです」

 

 発表内容を締め演壇から降りたコルベールに、集まった生徒達は惜しみない拍手を送る。照れたように頭を掻くコルベールに、オスマン氏が笑みを浮かべながら右手を差し出した。その意味に気がついたコルベールは嬉しさを隠しきれないように、その手を強く握り返した。

 

 場が落ち着いたところで、再び太公望が教壇の前に立つ。

 

「では、基本的な方針が決まったところで、いよいよ実験に入りたいと思う。一旦全員こちらへ来てくれぬか? ……オスマン殿」

 

 全員が立ち上がって教壇の側へ近づいてきたのを確認すると、太公望はオスマン氏へ向き直って頷く。すると、先程まであったベンチが全て消え去った。

 

「オスマン殿に立ち会いを依頼したのには、実はもうひとつ理由があるのだ。これからわしがしようとしていることは、ハルケギニアでは()()すれすれである可能性があると聞いてしまってのう」

 

 異端という言葉を聞いて、タバサと才人を除く全員がビクリと身体を震わせた。

 

「え、なに? なんか問題あんの?」

 

 才人の疑問に顔を真っ赤にして答えたのはルイズ。

 

「問題だらけよ! 『始祖』ブリミルの教えに楯突くようなことなの!!」

 

「んなこと言われても、俺ブリミルとか知らんし」

 

「あんた、それ絶対他人の前で口にするんじゃないわよ」

 

 使い魔の非常識ぶりに呆れつつ、ルイズは説明を開始する。

 

 ハルケギニアに住む人間たちの間では、かつてこの世界に魔法をもたらしたとされる『始祖』ブリミルが広く崇められ、人々の信仰を集めている。女神や巨神などの伝承も存在するが、それらはあくまでお伽噺として語り継がれているに過ぎない。

 

 実質無宗教に近い日本で育った才人にはいまいち理解できないことなのであるが、このブリミル教と呼ばれる一神教の世界ハルケギニアにおいて、その教えから外れる行為――つまり異端認定されるのは、重大な罪であると考えられているのだ。

 

 それに関しては、一神教の概念どころか神話そのものからやって来た太公望にとっても同様なのであるが、ハルケギニアの歴史を学ぶ過程で、

 

「そういう考え方があるのか」

 

 というレベルで理解していた彼は、魔法とは必ず杖と魔法語(ルーン)を組み合わせて用いるものであり、それ以外は異端とされ、最悪の場合迫害されることを知り得た結果、何らかの〝力〟を行使する際には必ず『打神鞭』を取り出していたし、また、魔法らしく見せかけるためわざわざルーンを覚えることまでしてのけている。

 

 タバサについては幼い頃から過酷な運命を強いられ続けてきたせいで、ブリミル教に対する信仰心が非常に薄く、神の存在自体についても否定的だ。もっとも、聡い彼女はそれを表立って表明するようなことはないが。

 

「そういうわけで、学院長の『異端ではない』という承認があれば、理屈をつけて通せる。うっかり口を滑らせた者については……」

 

 ――どうなるかわかるよな? そう言いたげな顔で全員を見る太公望。

 

「有用性については、学院長としてこのわしが保障する。わしらは昨日のうちに実際に見せてもらっているのじゃが、これを利用すれば、君たちのメイジとしてのランクアップがほぼ間違いなく望める。それだけの価値があるものと判断した」

 

 最初の言葉で及び腰になりかけていた者も、そうでない者も――オスマンの言葉を聞いて表情を変えた。メイジとしてランクアップできる……つまり『ドット』なら『ライン』に、『トライアングル』なら『スクウェア』への近道が示されるということだ。

 

「才人よ。さっきから自分には関係ないといったような顔をしておるが、これはおぬしにとっても役に立つことだからな。しっかり見て、覚えておくのだ」

 

「え、俺は魔法使えないのに……って、もしかして!」

 

 期待に顔を輝かせた才人であったが、

 

「残念ながらおぬしが魔法を使えるようになるわけではない。その逆で、使えないからこそ見て知っておく必要があるのだよ」

 

 その言葉で奈落へ叩き落とされかけた。だが、それでも見て知っておけとは、いったいどういうことだろう? 持ち前の好奇心のおかげで、才人はすぐに復活を果たす。

 

「それでは、始めるとしようかのう」

 

 そう言って太公望は、懐からコインが詰まった革袋を取り出す。その中から一枚の銅貨をつまみ取ると、台座の中央に置いた。そこへオスマン氏がおずおずと口を出す。

 

「なあ、銅貨じゃなくてそのへんに落ちとる小石でもええじゃろ?」

 

「昨日説明したであろう? できるだけ材質や重さが均一のものを使わねば、結果にブレが出る。〝錬金〟でそこまでの精度は見込めないのであろう? ならば、そういう意味である程度信用できる硬貨を用いるのが手っ取り早い」

 

「それ、わしの銅貨なんじゃからな。あんまり消費せんでくれよ」

 

 哀願するオスマン氏に。

 

「ダァホ。学院長ともあろうものがケチくさいこと抜かすでないわ! それに、その言葉はわしではなくルイズに言ってくれ」

 

「やっぱり失敗前提にされてるー! ウガー!!」

 

 と興奮するルイズを宥めつつ太公望は全員に台座から数メイル横へ移動するように指示すると、自分はそこから見て九十度――台座を時計の中心と見立て、その針の位置でいう六時の位置にルイズたち、3時の場所に太公望が行ったと考えていただきたい――の場所へ移動すると、半跏趺坐(はんかふざ)の形で地面に座り込む。

 

 そして『打神鞭』を構えたまま声を出す。

 

「ギーシュ。まずはおぬしから始めるぞ。実験については聞いておるな?」

 

「ああ、聞いているよ。だから今週はできるだけ〝精神力〟を温存しておいたのさ」

 

「気が利くのう! 実に助かる。よいか、これは必ずおぬしの役に立つものとなる。よって、しっかりと『感覚』を掴むのだぞ」

 

 ギーシュの細やかな気遣いに、

 

(こやつは思わぬ拾いものだったかのう?)

 

 と、内心の評価を上げた太公望は全員に聞こえるように注意点を述べる。

 

「さて……今からわしが行う『あること』によって、おぬしたち全員が一時的に、これまで『見えなかった』ものが『視える』ようになる。だが、これはわし自身も相当な集中力を必要とする〝技術〟なので、静かに見守ってもらいたい。うっかり声を出しそうな者は、前もって手なりなんなりで口を塞いでおいてほしい。特に、才人に背負われた剣」

 

「へへ……わかったぜ」

 

 カチカチと鍔を鳴らすデルフリンガー。そして全員がそれぞれ納得したと見て取ると、太公望は精神を集中する。

 

 と……太公望を中心に、ぴん――と、空気が張り詰める。そして『それ』は、輪のように広がっていった。

 

「ではギーシュよ……一歩前へ出るのだ」

 

 言われた通り、ギーシュは黙って台座の方向へ一歩進んだ。

 

「わしが『始め』と言ったら〝念力〟で台座の上の銅貨を一メイルほど上まで持ち上げるのだ。発動のキーワードは自由。ただし、できるだけゆっくりと唱えてもらいたい」

 

 黙ったまま頷くギーシュを見て、同じように頷き返した太公望。そして。

 

「始め!」

 

 その言葉と共に、ギーシュは〝念力〟をできるだけゆっくりと紡ぎ始める。すると……彼の周囲にうっすらと光の(もや)のようなものが立ち上がる。それを驚きの目で見守る観客たち。

 

 その靄は薔薇の杖の先に集まり、まるで一本の糸のように銅貨目指して伸びてゆく。そしてそれは魔法の完成と同時に銅貨に到達すると、その周囲を(まゆ)のように包み込んだ。

 

 ふわりと宙に浮かぶ銅貨。だが――傍目には、それはまるで杖の先から出た一本の糸によって、支えられているようであった。

 

「よし。そのまま、今度は五十サントほどゆっくりと下へ降ろしてみてくれぬか」

 

 言われた通りにギーシュは〝念力〟を続ける。と、〝糸〟が繋がったそのままに、銅貨がゆるゆると降りてゆく。上下の動きを何度か繰り返した後、太公望はギーシュに銅貨を台座へ戻し、魔法を止めるように伝える。

 

 ギーシュが〝念力〟を使い終えると同時に〝糸〟は霧散するように消えた。

 

「うむ。では次に……」

 

 太公望がさらなる指示を出そうとした、その前に。

 

「ちょっと、何なの今の!」

 

「なにかがぼくの身体から伸びて」

 

「おおー、魔法ってあんなふうに〝力〟が出てるんだ」

 

「おでれーた!」

 

「あたしも! あたしにもやらせて!!」

 

「わたしも興味ある」

 

「だーっ! だから黙ってろと言うとっただろうがっ!!」

 

 ――大声を上げながら駆け寄ってきた彼らの為に、作業は中断を余儀なくされた。

 

「ようは、おぬしらの〝力〟を感覚で捉えることができるような〝陣〟(フィールド)を周囲に作り出していたのだ。目に見えるように思えたであろうが、実際にはそうではなく、感覚がそのように受け止めておっただけのこと」

 

 また張り直さなければならん、まったく面倒な……と、グチグチと文句を垂れながら太公望は説明する。どういう理屈でああなるんだ、との問いには、これは自分たちの国の特殊技術の結晶で、それらを基礎から全て学ばねば実現できない。そもそもすぐに教えて理解できるような内容では絶対にない! と答えていた。

 

「まあよい。タバサとキュルケについても、ルイズと比較するために同じことを試してみよう。ただし、今度同じことをやらかしおったらわしは帰るからな」

 

「お願いだから、それだけはやめて!」

 

 珍しく半泣きで懇願するルイズに、タバサと才人、そしてイジリ大好きなキュルケも、名指しで注意されていたにも関わらずうっかり声を出してしまったデルフリンガーもさすがに悪いと思ったのだろう、きちんと謝罪する。

 

 ……そして、実験は再開された。

 

 キュルケ、タバサの順に行われたその結果。キュルケについては、ギーシュの三倍ほど厚い靄が身体の周囲に立ちのぼり、杖の先から出たのは糸ではなく荒縄と形容すべきものであった。

 

 タバサについては、キュルケよりもさらに大きい――ギーシュの五倍程度の量の靄と、糸ではなく紐……ちょうどギーシュとキュルケの中間程度の太さのそれが確認された。

 

 今度は自らフィールドを解いた太公望が、全員に向けて解説を始める。

 

「この結果わかったのは」

 

「あたしの実力がスゴイってことよね」

 

 得意げに髪を掻き上げたキュルケであったが。

 

「この中で、ギーシュが最も巧みに〝力〟を扱えているということだ」

 

「ええーッ!!」

 

 太公望の言葉に、キュルケは不満の声を上げた。

 

「どうしてなの? どう見てもあたしがいちばん力強かったじゃないの!」

 

 キュルケの意見に異を唱えたのは、オスマン氏であった。

 

「皆全く同じことをしているのに、君の〝力〟がいちばん強かった。つまり、それだけ〝精神力〟の使い方に無駄があるということじゃ。これで間違いないかの?」

 

 オスマン氏の言葉に、太公望が頷く。

 

「そういうことだ。キュルケよ、おぬしより上の〝精神力量〟があると思われるタバサの〝糸〟が細かったことから考えても、それは一目瞭然。つまりだ、〝力〟のコントロールという意味において三人のうち最もセンスがあるのは、現時点ではギーシュということになる」

 

 自分よりも圧倒的に〝力〟が上であると思っていたふたりよりセンスがある。そう言われたギーシュは、まさに天にも昇る心地であった。逆にキュルケはがっくりと肩を落とす。そんな彼らに、太公望は苦笑しつつ声をかける。

 

「もともとギーシュは、ゴーレムの複数操作などというとんでもない技能を持っておるからのう。これについては別の機会に説明するが……キュルケ、それにタバサ。逆に考えるのだ。コントロールさえ身につければ今よりもさらに手数が増やせるということなのだから、落ち込む必要などないのだと」

 

 言われてみればその通り。異端すれすれと言われた()()は、確かにランクアップへの近道だ。それを悟ったキュルケとタバサは、思わずぎゅっと拳を握り締めた。

 

「さて、それではいよいよ本番……ルイズ、おぬしの〝力〟を見せてみるのだ」

 

 頷くルイズ。だが、その手が僅かに震えているのを見て取った太公望は、彼女にまず深呼吸をさせて落ち着かせる。

 

「緊張するなと言われても、正直まあ難しいであろう。よいか、ルイズ。いつも通りにやればよいのだ。失敗してはいけない、などと余計なことは考えるな。ただ、思ったままに魔法を使うのだ。いつもと同じようにやる、それだけを心がけるのだぞ」

 

 やりとりの後、ふたりはそれぞれの位置についた。

 

「では……始め!」

 

 そしてルイズは〝精神力〟を集中しはじめた……のだが。

 

 ――でかい。太公望の顔が引きつった。正直、内心の動揺を隠すだけで精一杯であった。これは……崑崙の幹部クラス――いや、最高幹部『崑崙十二仙(こんろんじゅうにせん)』並だと……!?

 

 ルイズから立ち上った〝魔力〟は……例えるならば一本の大樹。先程試した三人のそれとは比べようもないほどに強大なものだった。昨日見たコルベール、そしてオスマン氏ですら比較にならないレベルの〝力〟。

 

 太公望は内心頭を抱えてしまった。前に見たときは、そこまで注意を払っていなかったとはいえ……これほどの〝力〟を感知しきれなかったとは、我ながら寝ぼけていたのではあるまいかと。

 

 あえて言い訳をするならば、そもそもの〝力〟の根幹が〝精神力〟と〝生命力〟で異なっていたためだという理由がつけられるかもしれないが、それにしても――。

 

 太公望以外の面々はというと、こちらは驚愕のあまり声が出ない有様だった。そんな中、オスマン氏とコルベール、そしてタバサの三人はとあることに気がついた。もちろん太公望も。

 

 ――ルイズの杖から〝糸〟が出ていない。その代わり、銅貨のある位置に〝光の玉〟と形容すべきモノが出現している。

 

 その光は、魔法が紡がれるたびに大きくなってゆき――終了間際、一気に収縮を始めた。太公望の顔色が変わる。

 

「そ、総員退避―――ッ!!!!!!!」

 

 一斉に逃げ出す関係者。そして。

 

 ドッゴオォォォォォォォォォオ……ン。

 

 轟音とともに、銅貨であったものは砕け散った――。

 

 

 




ブリミルさん、順調にヘイトを溜める。


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第17話 巡る糸と、廻る光

「なあおい、ご主人さまよ。なんだよあれ。デカすぎとかってレベルじゃねェぞ!? あれじゃ爆発すんの当たり前だろ!!」

 

「う、うるさいわねっ! わたしだって知らなかったのよっ!!」

 

 爆発の余波が収まった後。例の〝力〟を見てぎゃんぎゃん騒ぐ主従をよそに、教師陣は素直な感想と結論をまとめていた。

 

「ミスタ・タイコーボーの仰る通り、ミス・ヴァリエールは〝力〟が強すぎたがためにあのような失敗を起こしていたのですな」

 

「う~む……正直あそこまでの大きさとは」

 

 タバサやキュルケ、そしてギーシュも、あまりのことに呆然としていた。だが……そんな中、太公望だけが、ひとりで頭……もとい膝を抱えて座り込んでいた。左手の人差し指で地面になにやら文字を書き、小声でブツブツと呟きながら。

 

「素の状態で十二仙クラス……正直ありえんわ。しかも空間ピンポイント……あれで無能扱い? ならわしの立場って……」

 

 どんよりと黒い空気を纏っている彼の姿は、傍目に見ているだけでも正直怖い。だが、そんな太公望の様子に気がつかない……と、いうよりも。場の空気が読めない者が側に寄ってきた。

 

 ――この〝場〟(フィールド)を作り出した張本人、ルイズである。

 

「ね、ねえミスタ・タイコーボー。それで、コントロールについてなんだけど」

 

 ピタリと太公望の手が止まる。それからギギギ……と、錆び付いた機械人形のようにぎこちない動作でルイズに向き直ると、眉根を寄せ、口の端を歪ませながら、ケッ! と吐き捨てた。

 

「知らぬ。おぬしはもういっそ〝爆発〟だけ極めとけばいいのと違うか?」

 

 そして。フンと鼻を鳴らすと、その場でごろりと横になってしまった。

 

「え、ちょ、ど、どうしたのよっ」

 

「わしは知らぬ。知らーぬ」

 

 ――それから。理由はよくわからないが、完全にへそを曲げてしまった太公望の機嫌を直す()()に全員でもって取りかかり、それが終了するまで約三十分ほどの時間を要した――。

 

 

「わしとしては正直不本意極まりないのだが、結論を言わせてもらう」

 

 太公望は顔を激しく歪めながら、先程の現象について語り始めた。

 

「ルイズが魔法に失敗していた理由は、やはり〝力〟そのものが大きすぎたせいだ。例えて言うならば、コップへ水を入れるために、バケツの中身をそのままひっくり返しておったのだよ。そんなことをすればどうなるか……わかるであろう?」

 

 オスマンの手によって再生された台座の上に再び銅貨を一枚乗せながら、不承不承といった風情で太公望は語る。

 

「あふれて、こぼれ出しちゃう。そういうことよね」

 

 キュルケの答えに頷く太公望。

 

 ……ちなみに、現在ルイズの口には太公望の頭に巻かれていた布――何故か最近やたらと出番が多い――で、封印が施されている。これ以上空気読めない発言されたら面倒だ。そう考えたキュルケの発案によるものだ。

 

 当初、本人は猛烈に抗議しようとした……のだが。いつものそれとは違う、とてつもない迫力を伴った太公望のひと睨みによって、大人しく受け入れていた。

 

「おまけに本人が自覚していない、とんでもない特性を秘めておる」

 

「それは〝糸〟のこと?」

 

「ほう、よく見ていたのう」

 

 そのタバサの質問にそう答えた太公望は、スタスタとルイズの前へと歩み寄る。

 

「よいか? わしがいいと言うまで絶対に口を開くな。わかったか? それが守れなかった場合、わしはすぐさま部屋に戻って寝るからな。本気だぞ」

 

 ドスの利いた声に、コクコクコクコクと激しく頷くルイズ。

 

「では一旦、その封印を解く。その布を持ったまま先程の位置へ立つのだ」

 

 言われた通り、ルイズは布を持ったまま位置につく。

 

「この銅貨がちゃんと見えているか? 見えるなら首を縦に振れ」

 

 ルイズが頷くのを確認した太公望は、台座から離れて他の全員が集まっている場所まで移動すると、新たな指示を出す。

 

「よし。ではその布を縛って、自分の目を隠せ。そののち、わしの『始め』の合図が聞こえたら銅貨に向けて〝念力〟を唱えるのだ」

 

 ――何故そんなことを。

 

 うっかり口に出しそうになったルイズであったが、太公望から立ち上っている――彼女にもようやく見えた――どす黒い何かに気圧され、大人しく目隠しをする。

 

 ……と、ここで。太公望が全員のほうに向き直ると、自分の口の前へ指を一本立てて見せた。黙っていろということだろう。全員が首を縦に振るのを確認した太公望は『打神鞭』を一振りする。すると、台座からふわりと浮かび上がった銅貨が、ルイズの後方約二十メイルほど先まで飛んでゆき、静かに地面に置かれた。

 

「始め!」

 

 太公望の合図と共に、ルイズが〝念力〟の魔法を紡ぎ出す。呪文が完成した――その瞬間。彼女の後方、二十メイルほどに配置されていた銅貨が爆発した。

 

 思わぬ方向からの爆音に声を上げそうになったルイズだったが、必死にそれを抑える。見ていた観客たちも同様であった。そして。

 

「全員、口を開いていいぞ。ルイズもな」

 

 そう太公望が告げた直後。

 

「ええええええぇぇぇぇええええええ―――っ!!!」

 

 平原に、再び驚愕の大合唱が響き渡った。

 

 

○●○●○●○●

 

「あの〝糸〟は、いわば〝力〟を対象に流し込むための水路のようなものなのだ」

 

 なんとか少し落ち着いたのだろう。ようやく通常運転を再開した太公望は、再び持論を披露し始める。

 

「普通のメイジは、あの〝糸〟によって対象の位置まで〝力〟を運び、そして効果を発動させる。ところがルイズの場合はその〝水路〟を必要としていない。直接魔法を発動させたい場所に〝力〟を展開することができるのだよ」

 

「それのどこがすごいの?」

 

 ルイズの言葉に――本人はあくまで無邪気に、そして素直な感想を口に出したに過ぎないのであるが――太公望の口端がピクッと動いた。こめかみがひくついている。

 

「いやいやいや、これとんでもないことじゃぞ」

 

 そう答えたオスマン氏、の取りなしで、なんとか微妙になりかかった空気が元に戻った。

 

「まったく、これだから天才というやつは……!」

 

 ギリギリと『打神鞭』を握り締めた太公望は、今度は才人に言を向ける。

 

「のう才人よ。おぬしはご主人サマと違ってちゃんと気がついたようだが……仮にだぞ、もしもおぬしがルイズと戦うことになったとする。もちろんデルフリンガーは持っている状態でだ」

 

 ――その時、おぬしはどうやって挑む? その太公望の問いに。

 

「物陰からこっそり近づいて、後ろから斬りかかる」

 

 と、答えた。

 

「それは、何故だ?」

 

「見られたら死ぬ」

 

「どどどどういう意味よ、この、馬鹿犬―――ッ!!!」

 

 主人を視線で殺すバケモノ(バジリスク)扱いするなんて! ルイズが叫んだと同時に、見事なまでに美しい軌跡を描いた回転蹴りが、才人の顔面を捉える。なおその際に、当然発生する事象によってめくれあがった物体の奥がチラリと見えた。

 

 それに対して。

 

「昨日おろしたばっかりのアレだネ」という感慨を持った直後、意識が暗闇の淵へと引きずり込まれていった者が一名。

 

 快哉を叫ぶのを必死に堪え、心の中だけで「白かった! 白かったであります!!」と打ち震えた者が1名。

 

「お子ちゃまね」と、鼻で笑った者が一名。

 

 思わぬ役得に目尻が下がった者が一名に、俯きつつゴホンと咳払いをした者が一名、何の感慨も持たなかった者が三名。

 

 ――どれが誰であるのかは、あえて記さずにおいておくこととする。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――才人再起動後。

 

「どうやら、本当にわかっておらぬようだのう」

 

 左手に『打神鞭』を持ち、それで右手のひらをポンポンと叩きながら、太公望はルイズに視線を向ける。そして空き地の中央付近を指すと、そこへ移動するように促す。

 

 指定された位置にルイズが立ったのを確認した太公望は、彼女に対して杖を向ける。どよめく観客たちを静かにさせると、言葉を紡いだ。

 

「それならば仕方がない。身体でもってわからせてやる。なに、痛い目にあわせたりはせぬから、その点については安心するがよい」

 

「あら、ミスタ。その発言はちょっとどうかと」

 

「よしキュルケおぬしもルイズの隣へ行け」

 

「ええーっ!」

 

 余計なことを言うから――そういいたげな他メンバーの視線を背に受けながら、キュルケはがっくりと肩を落とし、ルイズの隣へと向かう。

 

「さて。これからわしが、あのふたりへ向けて〝風の槌(エア・ハンマー)〟を唱える」

 

「ちょ」

 

「待って」

 

「怪我などさせぬと言っておるだろうが! 今度は〝力〟の流れが見えるように、わしの周囲を調整する。全員黙って見ているのだぞ。そうそう、ルイズとキュルケは、もちろん安全のために身構えておいてよいからな」

 

 その言葉に、即刻防御態勢をとるふたり。

 

「まずは一般的なメイジと同様〝糸〟による誘導形式で放つ」

 

 そう言って太公望は、まっすぐルイズたちに『打神鞭』を構えると〝風の槌〟のルーンを紡ぎはじめる――当然これは「ふり」である――と、彼の周囲に例の薄い靄――抑えに抑えてタバサとほぼ同等のオーラがゆらりと立ちのぼる。

 

 ……と、〝糸〟がぴーっと彼女たちの数メイル手前までまっすぐに伸びてゆく。そして一定距離まで伸びた糸が拡散し、雪崩のように周囲の空気を押し出すと、風の槌となってふたりに襲いかかる。当然太公望は手加減をしているので、少し後ろへ押しやられた程度で済んだが。

 

「今度は、ルイズのように『空間座標指定』で〝力〟を解放する」

 

 今度も、先程同様まっすぐルイズたちに杖を向け〝風の槌〟の詠唱を開始した太公望の姿を見ていた観客たちは、すぐに大きな違いに気がついた。

 

 薄い靄が現れたところまでは一緒……だが〝糸〟が出ていない。代わりに、ルイズとキュルケの()()数メイルの位置に光点が発生し……詠唱終了と同時に拡散。突如発生した〝風〟が、前方以外は完全に無防備となっていた彼女たちふたりを吹き飛ばした。

 

「こういうことだ、わかったか」

 

 宙をくるくると廻ったルイズとキュルケを浮かせたまま手前まで引き寄せ、ゆっくりと着地させた後――太公望は訊ねた。

 

「普通のメイジは杖の向いている方向にしか魔法を放てない」

 

「それは〝糸〟で〝力〟を流してあげる必要があるから、よね」

 

「けれど、ルイズにとっては杖の向きなんか関係ないんだ」

 

「さらに一度〝力〟を送りたいと認識したモノの中心に、自動で〝力〟を発生させることが可能」

 

「しかも! その対象物が途中でどこか別の場所へ行ってしまったとしても……ですぞ」

 

 口々にルイズの〝力〟について語るメイジたちへ、才人が補足する。

 

「オールレンジ対応、どこから来るかぜんぜん予測できない。しかも、使った本人がその気になったら自動追尾が付いてくる〝爆発〟だぞ? シャレにならんだろこれ! だから俺は言ったんだよ『見られたら死ぬ』って」

 

 その才人の締めの言葉に「うわあ……」と改めてその脅威に気がついた面々と、ようやく自分がどれほど普通ではない〝力〟を持っているのかを認識しはじめたルイズ。

 

「修行なしで『空間把握』だけでなく『座標指定』に『自動誘導』までやってのけるだと!? わしが、この太公望が……それができるようになるまでどれだけ苦労したか。ルイズ、おぬしには理解できぬであろう?」

 

 肩をわななかせ、きつく握り締めた両手の拳をぷるぷると震わせながら、太公望のある意味魂の叫びといってもいいそれがルイズに向けて炸裂している。彼の黒い情念を真正面から受けたルイズは、訳もわからず後じさる。

 

「冗談でも誇張でもなく血を吐き、何度も何度も死にかけて、ようやく手に入れた〝力〟が持って生まれたものとか! これだからわしは天才が嫌いなのだ! わかったかルイズ、だからわしはああ言ったのだ。他の魔法なんぞ知らぬ、もういっそ〝爆発〟を極めろ、と!!」

 

「そんなの嫌ああぁぁぁあッ!! わたしは、わたしは普通のメイジになりたいのよおおおおおッ!!!!」

 

 魂の奥底から生まれたふたりの絶叫が、平原に響き渡った――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それからいったん食事休憩を挟んで、一時間後。

 

「う~む、当初は例の〝場〟を展開しながら見て教えるつもりだったのだが、あれほどの感覚持ちならば……そうだ! もっといい方法があった」

 

 ぽんと手を叩いた太公望は、再度台座の上へ銅貨を一枚置くと、ルイズに杖を持ったままベンチへ腰掛けるよう促す。

 

 ……ちなみに彼のご機嫌が直ったのは、ルイズが自身のデザートにと用意させていたクッキーを全てお供えしたからである。

 

 そして太公望はルイズの後ろ側に立つと、両手を彼女の肩へと乗せる。思わずビクッと身体を震わせてしまったルイズに、落ち着くように指示をすると、周囲、そして目の前に座る少女に対して、これから行うことについての説明を開始する。

 

「これは、本来わしらが行う修行のひとつなのだ。体内を循環する〝力〟の流れを教えるために、これからわしがルイズに対してそれを試してみようと思う」

 

 観客たちは感心の声を上げ、皆一様に興味を示す。

 

「ただし、これは通常のメイジには合わない可能性が高い。あくまでルイズが特殊であることを前提に行うものであるため、申し訳ないが同じことを試したいという者がおってもあまり期待しないでもらいたい」

 

 それから太公望は全員へ静かにするよう告げ、今度はルイズに対してこう言った。

 

「これから、わしは()()()()をする。内容を言ってしまったら効果が薄れてしまうため、あえて伏せさせてもらうぞ。よいか、まずは目を閉じて……そしてゆっくりと肺の中いっぱいに息を吸い込み、その倍の時間をかけて吐き出す。これを三回繰り返すのだ」

 

 言われた通り大きく深呼吸を行うルイズ。

 

「では、いつも通りの呼吸に戻し……自分の内側に意識を集中するのだ。わかっていると思うが、わしが良いと言うまで声を出してはいかんぞ」

 

 その直後――傍目から見ているものには、何をしているのかさっぱりわからなかったが――ルイズには自分の肩……太公望が手を置いているあたりから何かが……例えるならば、極細の〝糸〟のようなものが流れ込んでくるのがわかった。

 

 それは、まるで血液のようにルイズの体内を循環し、やがて下腹部のほうへと集まると、一個の珠となり――ちょうど背骨に沿うような形で、螺旋を描くようにぐるぐると移動し始めた。

 

「ルイズよ、何か感じぬかのう?」

 

「えっと……何か細い糸みたいなものが肩から流れ込んできて、そのあと……ひとつになって、背中でぐるぐる廻っているみたい」

 

「よし、やはり掴めたな! では次の段階にゆくぞ。まだ目は閉じたままでおれよ」

 

 これは、なんだろう。ルイズは、不思議な感覚に囚われていた。さっきまで背中を廻っていた珠が再び複数本の糸になり――全身を満たしてゆく。

 

 そして身体がふうっと温かくなったと思うと、糸は再び一箇所へと集い、また珠となる。やがてその珠は右手に持った杖に向けて移動してゆくと……その先で、ふいに消えた。

 

「今度はどうかのう?」

 

「何か珠みたいなものが杖のところまで来たけど、消えちゃったわ」

 

 その答えを聞いた太公望は満面の笑みを浮かべると、ルイズに告げた。

 

「今の『感覚』を覚えておるな?」

 

「ええ」

 

「では、それを忘れないうちに〝念力〟を使う。よいか、おぬしの内に流れる〝力〟を、あの糸と珠のように巡らせることを想像するのだ。そして呪文を紡ぎながら同じように身体の内で廻し、巡らせ、集め……珠を杖の先に移動させ終えたと同時に、唱え終えるのだ。くどいようだが、イメージが大切だからな」

 

「わ、わかったわ」

 

「さあ、やってみるがよい」

 

 そう促されたルイズは立ち上がって杖を構え、銅貨へと向ける。

 

(イメージ……そう、イメージするのよ……)

 

 ――周囲の者たちが見守る中。ルイズは〝念力〟を唱え始める。

 

 ルイズの中を、不思議なリズムが巡っていた。いつしか神経は研ぎ澄まされ、周囲の音は一切耳に入ってこなくなっていた。自分の身体の中で何かが生まれ、廻っていく感じ。そしてそれを杖へと送り込み――魔法を完成させる。

 

 その瞬間――銅貨は凄まじい勢いで空を目指して飛んでゆき……何処かへ消えた。

 

「うーむ、ま~だ〝力〟が入りすぎだのう」

 

 という暢気な太公望の声をきっかけに、静まりかえっていた観衆が沸き立った。

 

「ちょっと、何よ今の!!」

 

「すごい威力」

 

「飛んだ! 飛んだよ!!」

 

「銅貨の急上昇を確認したであります!!」

 

「わしの銅貨は星になったのじゃ……」

 

「おでれーた!」

 

 そんな中、固まっていたルイズの側に駆け寄ってきたのはコルベールであった。

 

「ミス・ヴァリエール! 見ましたか!? 爆発しませんでしたぞ!!」

 

 その言葉に。自分が何をやったのか、やりとげたのか。それをようやく理解したルイズは――ぽつりと一言呟いた。

 

「成……功……!?」

 

「その通りです! 確かに〝力〟加減は強すぎましたが、きみは間違いなく〝念力〟で銅貨を浮かせることに成功したのだよ!!」

 

「わ、わ、わた、わたし……」

 

 全員がわっとルイズの周りへ集まってくる。ルイズは台座の上を見た。銅貨はない。でも、台座はどこも壊れていない。ふと太公望を見ると……彼はにっこりと笑って頷いた。

 

「やったぁああああ――っ!!」

 

 ルイズの喜びに溢れた声と大きな拍手が、平原に響き渡った。

 

 

○●○●○●○●

 

「ふむ、ほぼ掴みかけてきたようだの」

 

 その後、三十枚ほどオスマン氏の銅貨が行方不明となったのちに――ルイズは台座の上の銅貨をある程度自由に上げ下げできる程度には〝念力〟を扱えるようになっていた。

 

「ね、ね、次はいよいよ系統魔法よね!?」

 

 期待に胸を膨らませたルイズであったが、太公望の言葉はそれを裏切った。

 

「いや。おぬしには、まず徹底的にこの〝念力〟を極めてもらう」

 

「どうしてよ!?」

 

 そう詰め寄る彼女を制したのは、オスマン氏であった。

 

「ミス・ヴァリエール。彼の言うとおりじゃ。嬉しい気持ちはよくわかる。だが、君はあくまでスタートラインに立てたに過ぎない。よって、基礎から学びなおす必要がある」

 

 その言葉に頷いた太公望は、さらに補足を行う。

 

「この〝念力〟という魔法は、純粋な〝魔力〟のみで行われるものだ。他の者たちよりも圧倒的に〝力〟で勝るおぬしがこれを極めることによって、新たな『道』が切り開かれるであろう」

 

「新たな『道』?」

 

「そうだ。ルイズを含むメイジの皆に確認したい。この〝念力〟は、普段どのように使う魔法であるのか」

 

 その太公望の問いに、次々と解答が寄せられた。「窓やカーテンの開け閉め」「箪笥の引き出しを開く」「棚を横にズラす」等々……日常に即した答えが全てであった。

 

「という身近な使い方をされている魔法だが、さて……他に、これを使ってできることはないのかのう?」

 

 その問いに、首をかしげるメイジたち。

 

「おぬしら頭固いの~、さっき見たばかりであろう?」

 

 と、やや呆れ声で言う太公望の言葉で気付いた者がひとり。コルベールである。

 

〝浮遊〟(レビテーション)と同様の効果が見込める。そうですな!?」

 

 あ……と声をあげる彼らに、追撃をかける太公望。

 

「そう。銅貨を浮かせることができるのだから、そのまま動かせば……ほれ〝浮遊〟(レビテーション)の完成だ! 〝力〟の使い方が違うだけで同じことができる。だが……まだだぞ? もう一歩踏み込んでみるのだ。()()に拘る必要はないのだよ」

 

 才人はふと思いついた。〝サイコキネシス〟かあ。そういや、マンガとかでよく……。

 

「あーっ、わかった!!!」

 

 そして、才人は声を上げた。答えてみよ。そう言った太公望へ、才人は、ある意味ハルケギニアの常識では考えられない解答を出した。

 

「自分に〝念力〟かけて、空を飛べる!!」

 

 いやいやそれは無理だから……そう言おうとした彼らが見たモノは。

 

「その通り……正解だ」

 

 満面の笑みでもって答えると、自ら杖を振り〝念力〟用のキーワードを唱えた太公望が、ふわりと宙へ浮いた。

 

「わしがこれまで空を飛ぶために使ってきたものが、実は〝念力〟なのだ。〝飛翔(フライ)〟ではあそこまでの速度を出すことなどできぬからのう」

 

 ――実際には〝仙気〟なのだが、そこは黙っておく太公望。

 

「確かに、普通のメイジにとってこれは難しい、いや、できないことなのであろう。だが、ある意味〝力〟と『空間把握』そして『座標指定』能力に特化しているルイズにとってはどうかな?」

 

 そう言ってさらに高く浮き上がった彼は、お得意の〝高速飛行〟を全員に見せつける。

 

 〝飛翔〟の魔法は、使い手によってその速度を大きく変える。しかし、どんな達人でもせいぜい馬より速く飛ぶのがせいぜいだ。

 

 常識の遙かナナメ上を飛び回る太公望を、唖然として見守る観客たち。

 

 しばらく飛び回った後、ルイズの前へ舞い降りた太公望は『打神鞭』を彼女の前に突き出した。

 

「どうだルイズ。おぬしには、わしと同じことができる可能性がある。前にわしの背に乗ったときどう思った?」

 

「風竜より……はや……い……」

 

「どうだ? 〝念力〟はつまらない魔法だと思うか?」

 

 一瞬だけぽけっとした顔を見せたルイズであったが……すぐさま、ぶんぶんと首を横に振る。

 

「〝念力〟は、全ての基本……いわばコモンの初歩の初歩の初歩だ。まずは、銅貨を自在に宙で操れるようになるまで練習するのだ。よいか、わしの見ていないところで、間違っても空を飛ぼうなどとは考えるなよ? まだ爆発の可能性がゼロではないおぬしが、うっかりコントロールに失敗したらどうなるか……わかるであろう?」

 

 コクコクと、今度は首を縦に振るルイズ。その顔には抑えようにも抑えきれない歓喜に満ちあふれている。

 

「これが、わしがおぬしに示す最初の『道』だ。そして――その行き着いた先に『空間制御』が存在する。例えて言うならば〝サモン・サーヴァント〟の上位だ。自分の前に『入り口』を作り、自分の行きたいと考えた場所に『出口』を作る。その間に存在する『空間』を曲げ『扉』同士を繋げられるようになる。どうだ、考えただけでわくわくしてこんか?」

 

 おぬしの持つ、その強大な〝力〟と『空間把握』『座標指定』『感覚』をもってすれば、必ずやそれは実現できるであろう。そう断言した太公望の言葉に、ルイズは強く頷いた。

 

「それとだ。才人とよく話し『念力でやれそうなこと』の案を出し合うのだ。才人は、さっきのようにハルケギニアの常識からかけ離れた考えかたができる。そういう意味では、案外わしよりも面白い〝念力〟の使い方が浮かんでくるやもしれぬ」

 

 おぬしもそれで構わぬか? そう問うた太公望に対し、才人はというと。

 

「ああ、もちろん。見て知っておけっていう意味がやっとわかったよ。俺はメイジのことを知らない。魔法がどんな仕組みで動いているのかを知るってことは、つまり」

 

 例の仮定――たとえばメイジと敵対しなければいけないような事態が起きた時に非常に役立つ。そして、協力を誓っていたルイズの『練習』。その役に立てる。

 

「そういうことだろ?」

 

 そう確認した才人に、太公望は笑みでもって応えた。

 

「そういうわけだ、頑張ろうぜご主人さま!」

 

 手を差し出した才人。その手を見つめながらルイズは思った。

 

 ――〝念力〟……これが、わたしにとっての入り口なんだ。

 

 ……そして、彼女は才人の手を取り……歩きはじめるべき『道』を決めた。

 

 

 




サラマンダーより(ry


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第18話 偶然と事故、その先で生まれし風

「さて」

 

 場の雰囲気が落ち着いたところで、太公望は再び演壇へと戻る。

 

「ルイズの今後についてある程度の見通しが立ったということで、今日はこのあたりで場を締めたいと思うのだが……」

 

 そう告げた太公望に待ったをかけた者がいた。

 

「ねえミスタ。まだ日も高いことですし、せっかくですから例の約束をここで果たしてはもらえませんこと?」

 

 妖艶な笑みを浮かべながらそう言い放ったのはキュルケであった。片眉をつり上げ、口を開こうとした太公望を手で制止しながら、彼女は続けた。

 

「本当なら、あの時のメンバー限定という約束だったんだけど。あたし、ロバ・アル・カリイエはハルケギニアよりもずっと魔法文明が発達してるんだって、実家に出入りしている商人から聞いたことがあってね。どうしても東方のメイジから直接話を聞いてみたかったのよ。それに、こういうお話は学院長先生やコルベール先生も興味がおありになるでしょうし」

 

「そ、それは是非とも聞かせていただきたい!」

 

 鼻息荒く立ち上がったコルベール。

 

「エルフの住まうサハラに遮られておるせいで、ロバ・アル・カリイエの情報がほとんど入ってこないのは確かじゃ。それに、わしも君の故郷に伝わる魔法には興味がある」

 

 太公望が東方出身でないことを知っているオスマン氏までもが賛意を示す。

 

「もちろん、本来の約束を違えることになった罰はきちんと受けるわよ。そうね……明日から1週間分のデザートをあなたに譲るわ。これでどうかしら?」

 

 それまで苦い顔をしていた太公望の表情が、微妙に緩んだ。それを見た全員が思った。彼に何か頼み事をするときには甘味を与えるのがいちばんなのだ――と。

 

「うぬぬぬぬ、そこまで言うなら仕方がない。その代わり、皆の者。ここでの話は外へは絶対に漏らさぬことを誓えるか? それと、今のような条件の後付けは二度と受け付けぬからな!」

 

「誓う! 誓いますぞ!!」

 

 真っ先に声を上げたのは、またしてもコルベールであった。どうやら彼は、異国の魔法技術に大いなる関心があるらしい。さらに、その場にいた全員が顔を輝かせながら頷くのを見るに至って、太公望は完全に折れた。キュルケの作戦勝ちである。ちなみに、後日オスマン氏とコルベールから彼女へ特別に単位が授けられたのだが……それはまた、別のお話。

 

「まあよかろう。ただし、門外不出の技術については当然のことながら答えられぬので、それだけは前もって言っておく。では、()()()()のか、それとも()()()()()のかで一旦優先順位をつけさせてもらうぞ。わしに聞きたい者は手を挙げよ」

 

 ここで手を挙げたのはルイズと才人であった。

 

「よしルイズ。わしに聞きたいこととはなんだ?」

 

 指名されたルイズは、どうしてもこれを確認しておきたかったらしい。まっすぐ太公望の目を見て質問した。

 

「えっとね、よくミスタが話している『空間ゲート移動』についてなんだけど……あそこまで詳しいってことは、ひょっとして……あなたもできるんじゃない?」

 

「そうそう、それだよ!」

 

 才人も全く同じことを質問したかったようで、しきりにルイズに同意している。

 

 これを聞いた太公望は、少し渋い顔をした。

 

「それなのだがな……今はできないのだ」

 

「今は、ってことはさ。前はできたってことだよな?」

 

 才人の言葉に頷いた太公望はちらりとタバサのほうへ視線を向けると、頭を掻きながら少し考え……その後、おもむろに口を開いた。

 

「タバサよ。あれはあくまで偶然の事故だったのだし、わし自身はなんとも思っておらぬ。いやむしろ悪かったとすら考えておるので、おぬしには決して気に病まないでもらいたいのだが……」

 

 そのように前置きされたことで、才人以外のメンバー全員が、太公望が何を言おうとしているのかに気がついた。そう……あの日、彼が召喚されたときのことだ。

 

「あ、それは私も興味がありますぞ」

 

「わしもじゃ。〝召喚〟(サモン・サーヴァント)で呼ばれる側、しかもメイジとしての見識が聞けるなど、まず起こりえない事態じゃからの」

 

 そう言って盛り上がる教師陣。だがしかし。続く太公望の言葉は、彼らにとって完全に予想外のものであった。

 

「それなのだがな。おそらくわしは才人のように()()()()わけではない。あくまで()()()()()()だけなのだ」

 

「どういうこと?」

 

 普段めったに変わらないタバサの表情が変化した。それを見た太公望は、

 

「だからおぬしが気に病む内容ではないのだ!」

 

 ……と、慌てて言葉を続ける。

 

「前に、わしが休暇をもらって旅をしていたという話をしたと思うのだが」

 

「召喚初日。覚えている」

 

 タバサ以外は、うわそれ初耳! という顔で話に聞き入っている。

 

「あの日な。たまたま旅先でゲートを開き『自分の部屋』を作って、その中へ移動したのだ」

 

「……部屋を作る?」

 

「ああ、これは空間制御の中級でな。どこでもない空間……別の次元。専門的な言い方をすると亜空間と呼ばれる場所だ。便宜上『自分の部屋』などと例えることが多いのだが」

 

 何と説明すればよいか。そうだのう……と、右手人差し指でポリポリと頬をかきながら、太公望は答える。

 

「〝召喚〟で『入り口』だけ作る。その後、出口側を作る代わりに『扉』の奥にある空間を歪めて好きな形にするのだ。だいたいは球形であったり、立方体だったりするわけだが……そうして造られた空間は、外からは決して見えない。その中はまさに『自分専用に作り出した小さな異世界』となるわけだ」

 

 そんなことができるのか! と、驚愕するメイジたちと、いきなり話が魔法よりもSFっぽくなってきたせいで、持ち前の好奇心がむくむくとふくれあがってきた才人。

 

「これは門の接続に比べて少ない〝力〟で行うことのできる技術であるから、将来的にはルイズもやれるようになる可能性はあると思うぞ。『部屋』を自分の側に作り出してどこにいても物を出し入れ可能な倉庫にするなど、いろいろと使いようがあってすごく便利なのだ」

 

 ほえ~っとした顔で聞いているルイズに、さらに太公望は告げる。

 

「ちなみに『自分の部屋』は、余程大きな〝力〟を持った者でない限り作った本人にしか干渉できないものなので、泥棒対策、または〝消音(サイレント)〟以上に機密性の高い空間を確保できるという意味では最高の環境なのだよ」

 

「面白そうね!」

 

 顔を輝かせるルイズを微笑ましく思いながら、太公望はやや脇に逸れてしまった話を元に戻すべく先を続けた。

 

「……でだ。その部屋にはいった途端、いきなり『光の道』が割り込んできた」

 

 本来、とてつもない〝力〟でもって曲げている空間に、そんな割り込みが生じたら大変なことになる。そのせいで激しい衝撃を受けた太公望は、自分の身体を支えきれずに倒れ込みそうになった。その時に『光の道』に触れてしまい……気がついたら、ここハルケギニアに召喚されていた、というのである。

 

「本来であればあの『道』は、別の場所へ繋がるはずだったのであろう。あのような割り込みは、普通はまずありえぬ。何が原因で発生したのかは不明だが、本当に偶然、それこそ涅槃寂静――0.000000000000000000000001%程の確率なのだ」

 

 まさしく天文学的数値である。彼らの感覚から言えば、ゼロだといっても過言ではない。

 

「どうもその衝撃の影響で、亜空間を『掴む』ことができなくなってしまったようでのう。まあ、この症状自体は前にも経験しとるから早くて数ヶ月……遅くとも数年以内には治ると思うのだが」

 

 頭を掻きながら言う太公望。王天君のことについては、話がややこしくなるのでここではあえて口に出さない。実は今まで忘れていたとは別の意味で言えない。

 

「つまり、わしが逆にタバサの〝召喚〟の邪魔をしてしまった可能性も否定できぬのだ。今まで黙っていてすまなかった」

 

 そう言って頭を下げた太公望に。

 

「謝らないで。むしろ歓迎する」

 

「ミスタほどのメイジを呼べたなんて、邪魔どころか奇跡ではないかとぼくは思うよ」

 

「そんな確率で起きた事故のおかげで、わたしは魔法が使えるようになったのね。まさしく『始祖』ブリミルのお導きだわ!」

 

「いやまったくですぞ」

 

「呼ぶ側としては、ある意味羨ましい事故だわ」

 

「畏るべき話じゃの」

 

 そう答えて大騒ぎするメイジたち。ちなみに、上記はそれぞれタバサ・ギーシュ・ルイズ・コルベール・キュルケ・オスマンの言葉である。

 

 そんな中、ぽつりと発言したのは才人だった。

 

「俺の時とはだいぶ違うな……」

 

「ほう、おぬしの場合はどうだったのだ?」

 

「ああ。道を歩いてたら、目の前にいきなりキラキラ光る鏡みたいなのが出てきて……」

 

 才人は、召喚ゲートが現れたときのことを語る。

 

「ほほう。つまりゲートの向こうが見えたり、声が聞こえたりはしなかったんじゃな?」

 

 オスマン氏の問いに才人は頷く。

 

「これで、召喚者が使い魔にゲートを通して契約を呼びかけているという説は否定されましたな」

 

「というかだな、才人よ……どうしてそんな怪しすぎるモノをくぐろうなどと思ったのだ!」

 

「だ、だって危険はなさそうだったし!」

 

 彼らのやりとりを聞いていたキュルケが疑問を呈す。

 

「それにしても、平民のサイトならともかくミスタ・タイコーボーはどうして魔法で避けようとしなかったの? あなたなら、そのくらい簡単だと思うんだけど」

 

「いや、無理だろ」

 

 それに答えたのは、意外にも才人だった。

 

「家の中で、いきなりものすごくでかい地震が起こったようなもんだぜ? 魔法唱えて逃げる余裕なんてあるわけねえよ」

 

 太公望の片眉がピクリと跳ね上がる。

 

「地震? どういう意味だ?」

 

「えっとさ。『道』同士がぶつかって、歪んで……それが元通りになろうとして跳ね返る。んで、当然反動があるわけだから、その衝撃で部屋の中とか床がめちゃくちゃ大きく揺れたんじゃねえの? それって地震みたいなもんだろ」

 

 この発言に太公望は本気で驚いた。眉をひそめ、まじまじと才人の顔を見つめている。一方、その他のメンバーにとっては何のことだかわからないので、一様にぽかんとした顔を並べている。

 

「その通りだが……才人よ。おぬし、いったい何者だ?」

 

「何者って……ただの高校生」

 

「高校生とは?」

 

「えっと……ここの学院みたいに、俺たちと同じ年頃のやつが通う学校があるんだ。俺の国ではほとんどの人間がそこに行ってる」

 

「まさか、さきほどの地震発生に関する知識は……」

 

「あ、うん。学校で習ったし本で読んだこともある」

 

 ――ある意味これは地震大国・日本ならではとも言える。

 

 その答えに、口をあんぐりと開ける太公望。しばしフリーズしていたようだが、ややあって再起動を果たす。それも当然だ、さきほど才人が語った内容――自然科学の知識は〝仙人界〟では幹部候補生以上の者にしか開示されない機密情報であるからだ。

 

「なんでもないことのように言うがな、今おぬしが話したことは、わしらの間でもごく一部の者しか修得できない高度な学問だ。それが国民のほとんどに知られているとは……もしや、相当に国力のある国なのではないか?」

 

「うーん。確かに科学技術は全世界でもトップレベルっていうけど……俺はただの学生だから、詳しくはわかんねえぞ」

 

「おぬしの国には魔法が存在しないのだと言っていたな? ちなみに、人口はどのくらいで、現在はどの程度の科学レベルに到達しておるのだ? たとえば……まさかとは思うが宇宙へ出られる、などというような?」

 

「え、ああ。人口は確か1億ちょっと……くらい? 宇宙だったら、同盟国が月までなら有人飛行で行けるようになってるけど」

 

「なん……だと……!?」

 

 人口1億越えだと? おまけに宇宙まで進出! 魔法や宝貝なしで!?

 

 太公望は驚愕した。人口の多さも大変なものだが、なんという技術力と叡智を備えた国なのであろう。しかも、それらの知識を惜しげもなく民に与えているという。そうか、だからあの『破壊の杖』のような破壊兵器が生まれるのか。

 

 愕然としていた太公望を尻目に、ルイズたち学生組は呆れ声で呟いた。

 

「嘘つくにしたって、もう少し現実味のあること言いなさいよ! 馬鹿にしないでよね!!」

 

「そうよね、それに月まで行けるですって? 優秀なメイジだって、飛んでいる途中で落ちちゃうのよ? お伽噺じゃあるまいし、そんなの信じられないわ」

 

「人口が1億超え? 大国ガリアですら2千万に届かないんだよ?」

 

「信じられない」

 

「嘘じゃねえよ! そもそも、日本の何倍もでかい国がいくつもあるんだぞ」

 

 ぎゃんぎゃん言い合う学生たちを放置したまま、太公望は至極真面目な顔で告げた。

 

「のう学院長。ちと提案……というか進言したいことがあるのだが。無料で」

 

「なんとなく言いたいことはわかったが、念のため頼む」

 

 これまでになく真剣な表情を浮かべた太公望を見て、学院長以外の者は何のことやらさっぱりわからず、ぽけっと彼らの様子を伺っている。

 

「その前に確認だ。トリステインの人口はどのくらいだ?」

 

「正確なところは王政府に問い合わせねばわからんが、おおよそ400万といったところじゃ」

 

「なんだ、トリステインって小さいんだな」

 

「な、な、な、なんですってえ!?」

 

 才人がぽろりと漏らした感想に、ルイズが噴火したが――。

 

「へへん、俺が住んでた街の人口は1300万だぞ。まあ、首都だから人が多いんだけどな」

 

「うぐ」

 

 強引に鎮火させられた。

 

 そして、そこへ太公望が被せるように言った。

 

「首都の人口が1300万、総人口は1億越え。しかも、30メイル強のゴーレムを一撃で吹き飛ばす武器を生産できるほどの技術を持つ国家か。おまけに、魔法なしで空の月まで行ける船を造り出す天才が集まる同盟国がついておる、と。おぬしらメイジは魔法が使えないからと才人を馬鹿にしておるようだが、それほどの国の民が突然誘拐されたとしたら……王は、どうすると思う?」

 

「だから、それは出鱈目で……」

 

「わしは才人の言葉に嘘はないと思う。それをふまえた上でよく考えてみるがよい」

 

 ――静かに告げた太公望の声に、小さく震え始めた者たちがいた。だが、まだ理解していない者もいたため彼はさらに続ける。

 

「最悪の場合だが。ニホンとやらの王は、自分の国に対する侮辱と受け取るだろう。そして、全力で探し始めるだろう……才人の行方を。まだ『空間ゲート』の技術は無いようだが、案外すぐに開発されるかもしれぬ」

 

 もしもそうなれば……全軍をもってこのハルケギニアに侵攻を開始するかもしれない。その圧倒的な破壊力を持つ武器を手にして。太公望はそう締めた。

 

「へ、平民がひとりいなくなったくらいで、そんな大げさな真似するかしら?」

 

「では尋ねるが、たとえばヴァリエール公爵家の領民がゲルマニアの貴族に連れ去られたとしよう。もちろん、その証拠も掴んでいる状況だとして、だ。さて、公爵閣下はどう動く?」

 

「と、父さまなら、ま、まずは交渉するでしょうけど……場合によっては兵を出すわね……」

 

「うちなら即座に攻め込むわね。だって、土地を奪ういい口実になるもの」

 

「ふ、ふん! これだから野蛮なゲルマニア人は!」

 

「トリステインだって似たようなものでしょう? うちと反対側の国境沿いで、しょっちゅう小競り合いしてるじゃない」

 

「さりげなくグラモン家に流れ弾寄越すのはやめてくれないかね?」

 

 貴族たちが物騒な想定をしている側で、才人は、

 

(いや……日本だし、いくらなんでもそんなことはしないと思うんだけどなあ。せいぜい遺憾の意が発射されるだけで)

 

 なんて暢気に構えていたわけだが。

 

「サイト。念のため聞くが、きみの国にはどのくらいの兵力があるんだね?」

 

「バッカじゃないの、平民にそんなことわかるわけが……」

 

 震える声で訊ねたギーシュに対し、ハルケギニアの常識で水を差したルイズであったが。

 

「んー、陸が15万で空と海が5万ずつ、だったかな?」

 

 ぐはっと息を吐くオスマン氏、コルベール、ギーシュの男三名。

 

「なな、なんであんたそんなこと知ってるのよ!?」

 

「や、だって普通に国が数字公表してるし」

 

 ネットで調べればすぐにわかることだしな――と、頭の中で続ける才人。

 

「あの『破壊の杖』は、君の国の軍にも配備されているのかね?」

 

「似たような武器はたくさんあると思います。あと、魔法はないけど、その代わりに銃ならほぼ全員持ってるかも」

 

「銃? 短銃やマスケットかね? あの程度、メイジにとってはそんなに怖くは……」

 

「ミスタ・グラモン、戦いは数です。銃兵が一万人いたら脅威どころの話ではありませんぞ」

 

「はうッ!」

 

 いくらメイジが強く平民など取るに足らぬ存在であろうとも、そんな装備を潤沢に用意できるような大国の軍と衝突して勝てると思うほど、ここにいる者たちはヌけてはいなかった。『破壊の杖』の威力や才人の剣技を知っていればなおさらだ。彼の言葉が全て真実だとすれば……だが。

 

「そんなわけでだ。早急に才人の待遇改善を行うことを進言する」

 

「う、うむ。ようわかったぞい」

 

「とはいえ、他の貴族に知られたら色々と面倒なのは理解できるので……」

 

 腕を組んで考え込む太公望。と、何やら思いついたようにパン、と両手を叩く。

 

「そうだ、たとえばだな……ルイズの役に立ったから、これからは貴族と同じ食事をとる栄誉を与える。とかなんとか言って、そういうところから周辺を慣らしてゆくというのはどうであろう?」

 

 パチン、と指を鳴らしてオスマン氏がそれに応える。

 

「それいただきじゃ。明日からサイト君はアルヴィーズの食堂で食事をとってよい。もちろん、その食費は今後学院側で出そう。入場については、許可証を作成する。ミス・ヴァリエール。そしてサイト君。すまんが、まずはそれでかまわんかね?」

 

「い、い、い、異存、あ、あ、ありませんわ」

 

「本当ですか、やったあ! まかないも美味いけど、やっぱみんなと一緒に食事したかったんだよなあ」

 

 カタカタと震えながら答えるルイズ。

 

 これまで、才人が異世界出身だという話を頭から否定していた彼女は、トーキョーとかいう彼の故郷を「トリステインのことも知らない場所にあるド田舎」だと侮っていたのだ。

 

 そんな少女にとって、太公望の進言はまさに青天の霹靂だった。使い魔の言が全て真実なのだとしたら、下手を打てば国中を巻き込む大戦になるだろう。信じたくはないし、信じられないが……万が一ということもありえる。もう、間違っても才人にパンツ洗わせたりなんかできない。

 

 ただし、彼女はちゃんと才人を故郷から連れ去ってしまったことを自覚しており、帰すために努力しようとしていたことは間違いないので、あまり責めてはいけない。だいたい、わざと彼の前に召喚ゲートを出現させたわけではないのだから。

 

 ……まあ、わざとじゃないなら何をしてもいいというわけではないので、そこをはき違えてはいけないわけだが。

 

 いっぽうの才人はただ無邪気に待遇改善を嬉しがっていた。良くも悪くも現代っ子、平和な国・日本出身の高校生である。

 

「とはいうものの、それだけではちと教員たちを説得する材料としては弱いのう。今すぐでなくとも構わんので、何か良い知恵があったら助けてもらえんじゃろうか。もちろん相応の礼はする」

 

 そのオスマン氏の申し出に、太公望は苦い顔をして答えた。

 

「いや、これに関しては無料でよい。国家の安全は、何物にも代え難い重要事項だからのう。わしが欲しいのは平穏であって、戦争など万が一にも起きて欲しくないのだ」

 

「そうか。そう言ってもらえるとこちらとしても有り難い」

 

 ふたりのやりとりを聞いていた才人は、ずいぶんと大げさだなあ……などと思いつつ、自分の待遇改善に繋がることらしいので黙っていたのだが、ふと大変なことに気付いて太公望に尋ねる。

 

「……って、ちょっと待て。俺もお前に聞きたいことがあるんだが?」

 

「何だ? 話せる内容ならば構わぬが」

 

「お前の国には魔法があるんだよな? で、それが技術って扱いになってる。なのに自然科学とか宇宙って単語が出てくるってのはどういうことだ? ま、まさか」

 

 自分の閃きに驚愕しながら、才人は訊ねる。

 

「わしらの間では、ありとあらゆる事象を科学的に分析し、理解することで、より効率的に、少ない〝力〟で術の効果を発揮できるよう研究を行っているのだ」

 

 『打神鞭』を振るいながら、太公望は熱弁した。

 

「風は何故吹くのか。雷によって空が光った後、遅れて雷鳴が聞こえてくるのはどうしてなのか。河原にある石のほとんどが丸い理由とは。火が温度と共に色が変わる意味とは。雨が降るメカニズムはどうなっているのか。答えられる者はおるか?」

 

 手を上げたのは才人だけだった。メイジたちは目を丸くして彼を見つめた。

 

(ふむ。やはり才人の国は、自然科学の研究が相当進んでおるようだ)

 

 そんなことを考えつつ、太公望は告げる。

 

「とまあ、こういった自然の法則を研究し、学び、理解した上で〝力〟を行使する。これが、ハルケギニアのメイジと大きく異なる点であろう」

 

 ――ロバ・アル・カリイエは、ハルケギニア諸国に比べて技術や魔法が発展している。

 

 そう話には聞いていたが、予想以上に進んでいるらしいと驚愕する生徒たちと学院長。コルベールに至っては、興奮のあまり身体中が小刻みに震えている。彼は学問が大好きで、中でも新しい技術開発の話に目がないのだ。

 

 だが、才人が知りたかったポイントはそこではなかった。

 

「もしかして、だぞ? もしかしちゃったりして、さ。その魔法と科学が合わさって、ひょっとして宇宙船があったりとか、しちゃうのかな? かな?」

 

 いやまさか、でも……と、期待に胸を膨らませた才人に。太公望は満面の笑みでもって答えた。天空を指し示しながら。

 

「あるぞ。そもそも、わしらの現在の本拠地は、地上より遙か空の上にある宇宙空間――星の海を征く船。人工的に作られた、生物が住むに足る環境。月の後ろ側、惑星と次元の狭間を隔てて浮かぶモノ。『スターシップ蓬莱』だ」

 

「行きてェ――! ロバ・アル・カリイエ超行ってみてェ――!!」

 

 大騒ぎする才人と、私もですぞ! と激しく同意するコルベール。ふたりは手を取り合い、興奮しながらぶんぶんと振っている。

 

「わしは、むしろ才人の国に興味があるのだが……」

 

 大気圏突入を『亜空間ゲート』なしで実現しているとするならば、もしやわしが知らない、突入方法に関する独自の技術があるのかもしれない。それならば是非とも見てみたいのだが……と、太公望が話の輪に加わる。

 

 だが、そんなふうに盛り上がる3人をよそに、ポツリと呟いたのはキュルケであった。

 

「そういうわけだったのね……どう見てもあたしより年下のミスタ・タイコーボーが、先生たち並かそれ以上にすごいメイジになれるはずだわ。そんな環境で勉強していれば、当然よね」

 

 でも、やっぱり悔しいわ……そう零したキュルケの言葉にオスマンが反応する。

 

「あー、ミス・ツェルプストー。騙されちゃいかん。彼はあんな見た目だがの、少なくとも君より10歳は年上じゃからな?」

 

「何さらっとバラしとんじゃこの狸ジジイ!!」

 

 ――いっときの間を置いて。

 

「ええええええぇぇぇぇええええええ―――っ!!!」

 

 平原に、本日最大級の叫声が響き渡った。

 

 

○●○●○●○●

 

 衝撃の――太公望の年齢がキュルケより10歳ほど年上という事実(?)発覚直後。

 

「あたしより10歳は上ってことは……最低でも27? あれで?」

 

「え、え、エレオノール姉さまと、お、お、同い年……」

 

「さすがに倍近く離れているとは予想の範囲外だった」

 

「ロリババアは有りだけどショタジジイとか誰得だよ!!」

 

「きみが何を言っているのか理解できないが、とにかく驚いているのはわかった」

 

 大騒ぎする生徒達と固まっているコルベールの隣で、口元を隠して笑いをこらえているオスマン氏を睨み付けた太公望は、あとで覚えておれよ……と、心の内で思いながらも場を鎮めるべく発言を再開する。

 

「放っといてくれ、わしの年齢のことは! 悪かったのうこんな見た目で! さんざん言われてもう慣れておるわ、将としての威厳がないと!!」

 

 本当の年齢はそんなもんではないのだが、さすがにそれを言うと色々とまずい事態に陥りそうなので、太公望は現在27歳という設定で通すことにした。

 

(もしかすると、彼のあの口調は無理矢理威厳を出そうとしてやっていることなのだろうか。そういえば男爵だと名乗りを上げていたし、彼なりに苦労していたのかもしれない……)

 

 ふとそんなことを考えたタバサであったが、実際は正真正銘ジジイな年齢なのでこんな喋り方になっている、ただそれだけのことである。あと、彼女は身分について変な誤解をしている。まあ、これはノリだけで名乗りを上げた太公望の自業自得なのであるが。

 

 そんな中、ギーシュがすっと手を挙げた。

 

「ミスタ・タイコーボー。ひとついいだろうか。ぼくは今……さりげなく問題発言があったと思うのだよ」

 

「なんだギーシュ、言ってみろ」

 

 太公望からそう促されたギーシュであったが、彼の表情は見事なまでに強張っていた。

 

「将としての威厳がないと言っていたようだけれど、ひょっとして……ミスタはそれなりに位の高い軍人なのですか?」

 

 あ、しまった。太公望が気がついたときは、もう手遅れであった。

 

「そう。しかも彼は、軍を率いるほどの指揮官」

 

「あ、いや、それはだな……!」

 

 おのれタバサ、ここであのときの仕返しをするか! なんという効果的な……と、頭を抱えた太公望。そして、そんなタバサの言葉に固まったのは、ギーシュ、才人、コルベール、オスマン氏。ルイズとキュルケにはわかっていなかった。

 

「え? 貴族なら軍を率いて妖魔討伐とか当たり前でしょ? なんでみんなそんなに驚いてるわけ?」

 

「前線に出ない法衣貴族とかもいるけど、まあヴァリエールの言うとおりではあるかしら」

 

 ちらりとコルベールに目を向けるキュルケ。彼女はフーケ討伐隊を編成するときのゴタゴタを忘れてはいなかった。

 

「いや、ルイズとキュルケは〝軍〟の意味を誤解しているよ!」

 

「あら、どういう意味かしら? ギーシュ」

 

「うちも常備軍連れて領内の妖魔狩りとか普通だけど、ミスタとタバサの発言から察するに、そういう方面の〝軍〟じゃないんだ!」

 

「わかりやすく説明してくれない?」

 

 ギーシュの言をコルベールが引き継ぐ。

 

「彼は『将としての威厳がない』と言ったね。前線に出て妖魔退治をするような部隊の指揮官は尉官や佐官がせいぜいだ。威厳を求められる将ということは、将官。最低でも准将の位にあるということになりますぞ」

 

「あ、ああ、そういうことでしたのね。なるほど……ようやく理解できましたわ」

 

 実家でそういう方面の教育を受けているキュルケはその言葉で理解した。しかし、ルイズの顔には依然?マークが刻まれている。

 

「ルイズ、きみ……部隊と軍の区別がついていないだろう?」

 

「え? 何か違うの? もったいぶらないで早く教えなさいよ!」

 

 呆れ声で才人が注意する。

 

「だから、それは他人にモノを聞く態度じゃないだろ……ええと、つまりギーシュたちが言いたいのは、タイコーボーが2~30人くらいの部隊じゃなくて、国の軍隊を指揮するようなえらい将軍さまだった、ってことだろ?」

 

 コクコクと首を縦に振るギーシュ。目をまん丸にして驚くルイズ。

 

「ちなみにタイコーボー、どんくらい指揮してたんだ?」

 

 ここで嘘をつくのは簡単だが、図書館で仕入れた知識によると、この世界には嘘を簡単に見破る方法があるらしい。悩んだ末に、太公望はかつて自分が率いた人数を答えることにした。

 

「三万だ」

 

「は?」

 

 仏頂面で繰り返す太公望。

 

「だから、三万だと言うておるだろうが」

 

 ――これは革命開始時点の話だ。その後、軍備を整え周の軍師として率いた人数は五~七万。最終的に同盟軍を併せて二十五万まで膨れあがるのだが、三万というのも実際に率いたことのある数なので嘘はついていない。

 

「さささささ、三万って……最低でも中将、大将クラスじゃないか!」

 

 叫んだギーシュの説明に、補足するように被せてきたのがコルベール。

 

「軍隊の階級は、厳密には国によって異なるのですが……おおまかにいうと上から元帥、大将、中将、少将、准将、大佐、中佐……というように続いていくのです。つまり彼は、国元において最低でも軍で上から3番目に高い地位に就いていたと。こういうことになりますぞ」

 

「あの観察眼、作戦立案能力、そして指揮の腕に交渉術。むしろ納得したわい……その若さで将官か。やはり君にはトリステイン貴族として生まれて欲しかった」

 

 そう言ってため息をついたオスマン氏。その隣にいたコルベールは自分の発言に固まっていた。

 

 ――まさか彼が軍人……しかも高級将校とは。使い魔召喚の儀で、突然遠方から呼び出された上に、周囲を見知らぬ者たちに囲まれていたにも関わらず、落ち着き払っていたのも……あの会話交渉の巧みさも当然だ。

 

 あれほど進んだ知識と技術を持つロバ・アル・カリイエ内の一国、その軍の将官を、もしも――ろくに話しもせず、使い魔にしてしまっていたら……国際問題どころか、最悪トリステインは大軍をもって攻め滅ぼされていたかもしれない。

 

 コルベールは背筋に冷たいものが流れるのを自覚した。

 

 いっぽうのタバサはというと、内心の驚きを隠せないでいた。軍を率いた云々については太公望なりの冗談だと思っていた。軽い仕返しのつもりで放った言葉がまさか真実を言い当てていたとは、それこそ考えてもみなかったことなのだ。

 

 ちなみにガリアの花壇騎士は、王軍に配属された際に少佐と同等の権限を持つ。つまり大隊(200~600人程度の部隊)を率いる権限を持つ中級将校として扱われるのだ。それでも彼には到底及ばない。タバサはなんだか心臓のあたりがちくちく痛くなってきた。

 

 ……実のところ太公望は中将・大将どころかそのさらに上、元帥である。彼自身が指揮した最大兵数は7万。かつ身分的には周のナンバー2。さらには本来次代の〝教主〟あるいは人類が知る歴史通りの道を歩んでいたのであれば(せい)の大公となるべき存在だったわけだが、そこまではわからないふたりであった。むしろそれは、幸せなことだったのかもしれない。

 

 そんな硬直した場の中、がっくりとうなだれながら太公望は告げる。

 

「うぬぬぬぬ……身から出た錆というか、色々面倒だから黙っておったのだが、そこまでばれてしまった以上は仕方がない。だが、これからも今まで通りに扱ってもらいたい。口外するのもやめて欲しい。まあ、誰も信じないとは思うが念のため、な。だいたいわしは堅苦しいのが嫌いなのだ。よって、変に敬語なんぞ使わないでくれ、頼む」

 

 パンッと両手を合わせ、頭を下げる太公望。才人とギーシュから飛んだ「よりにもよって国の軍隊をあずかってる将軍さまが、祖国ほったらかしてハルケギニアに滞在していて大丈夫なのか?」という質問に対しては。

 

「ちょうど一段落ついたところでのう、休みついでに軍を退役しておるのだ。戦はもうこりごりなのでな……将来的に招集がかかる可能性はなくもないであろうが、しばらくの間は問題ない」

 

 と、答えた。物は言い様である。

 

「さて、なんだかぐだぐだになってしまったが、いい加減話を戻すぞ。とりあえず、ルイズと才人の質問は終わりかの? あとの3人は……そうだのう、申し訳ないがご主人様からということで、タバサ。わしに何を聞きたいのだ?」

 

「魔法の『複数同時詠唱』について知りたい」

 

「なぬ? 『複数同時詠唱』……とは? いったいなんのことだ!?」

 

 何を言っているのかわからない。ぽかんとした顔をしている太公望に、タバサは苛立ちを覚えた。あれだけ見せておいて、とぼけるつもりなのか、と。ならば情報公開をするまでだ……言える範囲で。

 

「昨日まで、わたしたちは知人に頼まれて妖魔討伐に出かけていた」

 

 その発言に、ほうっと感心の声を上げる面々と、片眉をつり上げる太公望。

 

「敵は先住魔法の使い手を含む妖魔、総勢45。手勢はわたし、タイコーボーのメイジふたりに、平民の()()がひとり。彼我戦力差は数だけで言えば15倍。それを彼の指揮のもと一切の消耗なく完封、殲滅した」

 

 彼女は敵が下級妖魔のコボルドとは言っていない。逆に先住魔法の使い手がいたという情報を出すことで、相手の戦力を、知らない者に対して意識的に高く感じさせているわけだ。思いっきり太公望の影響を受け始めている。

 

 ただし、そこに嘘はない。もっとも、先住魔法の使い手たるコボルド・シャーマンは煙で燻された影響でほぼ無力化されていたわけだが。そして当然、この話を聞いた太公望を除く全員が驚きの声を上げた。

 

「その際に」

 

 と、タバサは続ける。

 

「タイコーボーは、圧倒的な〝力〟を発揮した。そこでわたしが目にしたのは――彼が〝飛翔(フライ)〟を維持したまま〝風の盾〟(ウインド・シールド)を周囲に展開し、さらに〝刃の竜巻〟(カッター・トルネード)で森をなぎ払い、加えて〝風〟(ウインド)で倒した木を積み上げていく姿。しかも〝遍在〟を使うことなくこれらを全て同時に行っている。つまり彼は……一度に複数の魔法をコントロール可能な、常識では考えられない超技巧者」

 

 ――メイジたちは思った。それが本当ならば、彼はまるでハルケギニアの歴史上最強と謳われた伝説の風メイジ『烈風』カリンそのものではないか、と。

 

 『烈風』カリンとは、30年ほど前にトリステインを中心に活躍した伝説的な騎士のことだ。カリンの活躍については、噂話のみならず書物にも記され、歌劇にさえなったほどの人気を博し、メイジであれば知らぬ者がない程の有名人だ。ある時期を境に、文字通り風のように消えてしまったが……その名声は未だ衰えていない。

 

 そんな『烈風』カリンの逸話の中に、こうある。

 

「風に乗り、宙を舞いながら真空の刃を放ち、敵対する者全てを翻弄した」

 

 ……と。

 

 普通のメイジは、一度にひとつしか魔法を使うことができない。才能があり、かつ血を吐くような訓練を経てもなお、ふたつの魔法を発動させるのが限界とされている。だからこそ、複数の風魔法を同時に操るカリンは『史上最強』になれたのだ。

 

 タバサは普段物静かな少女だが、平気で嘘を言うようなタイプの人間ではない。

 

 と、いうことは……全員が太公望を畏怖の目で見つめた。

 

「ちょっと待て。常識では考えられないと言うが、おぬしらも普通にやっておることではないか。何かおかしいことなのか!?」

 

 珍しく慌てた風情でそう訊ねてきた太公望へ。

 

「そんなことやれるわけないわ! いったいどこのバケモノよ!!」

 

 そうツッコんだキュルケ。しかし太公望は、ある人物を指差してこう言った。

 

「たとえば、そこにおるギーシュだが。7体ものゴーレムを使役し、同時に扱っておる。わしの〝力〟とギーシュのあれは、全く同じ理屈で動いておるものなのだぞ?」

 

 それに……と、太公望は続ける。

 

「タバサは〝風の氷矢〟(ウィンディ・アイシクル)を得意としておったな?」

 

 確認されたタバサが、頷いた。

 

「何本同時に飛ばせる?」

 

「3本。杖の側に待機しておき、任意のタイミングで放つことも可能」

 

 はあ~っ、と、太公望はため息をついた。

 

「そうか、そのあたりも無意識にやっとるのか……」

 

 そして彼は、がっくりと肩を落として話を始めた。

 

「あのな、その〝風の氷矢〟は、そもそも『空中の水蒸気を集める』『それを風で冷やし凍結させる』『任意の位置に浮かせる』『発射まで任意の場所で待機』『自由意志で発射をコントロール』という、同時に5つの事象を発生させている魔法なのだ。つまり、それをちゃんと認識することによって……さらに複雑な動き、およびコントロールが可能となるであろう」

 

「それとあなたの『同時展開』は」

 

 タバサの言葉を遮って、太公望は続けた。

 

「実はまったく同じことなのだよ。わしは基本〝念力〟で飛んでいると話したが、本当のところ、さっきタバサが言った行為は……全て〝風〟を利用して、おぬしの魔法と同じように同時に発生させていただけに過ぎぬのだ」

 

「なん……だと……!?」

 

 〝風〟単体でそれだけの威力を出していたこともそうだが、まさか『空中での待機』『盾の展開』『真空の混じった竜巻の発生』『木の積み上げ』これが、ひとつの魔法で、しかも同時に実現できるというのか。この発言に、才人以外の全員が驚いた。

 

「これが、事象を科学的に理解し、利用する最大の利点だのう。どのように〝力〟を作用させれば求める効果を得られるのかを、完全に計算して実現できるのだ。つまり……」

 

 と、太公望は結論する。

 

「ある意味において、ギーシュもまた『天才』なのだ。同時に7つの〝錬金〟を、個別に操作しておるのだから」

 

 そう言って、ギーシュの前に立つと。彼に『打神鞭』を突き付ける。

 

「つまり、訓練を積むことによって、たとえば〝錬金〟で『盾を持つワルキューレで自分を守り』『地面の一部を油に変え、相手の足をすくい』『武器を持ったワルキューレで、倒れた敵を攻撃する』と、いったようなことが可能となる。どうだ、自分の持つ潜在能力の素晴らしさに気がついたか? ギーシュよ」

 

 ――それは、まさに『ひとり軍隊』。自分はその司令官だ。言われてみて、ギーシュは初めて気がついた。己の持つ可能性に。そしてそれは訓練によってできるようになるということを教えられた。さらに軍学を身につけることで、彼が例に挙げたこと以外にも色々とやれるようになるのではないか、と。

 

「ただし、この『同時展開』は意識的に複数の思考を行う技術を必要とする。これは、いちおう訓練によって身につけることができるものではあるが、基本的には生まれつき備わった機能なのだ」

 

 そう言うと、太公望はコンコン、と、自分の頭を叩く。

 

「ここ……脳みその構造に関係することなのだ。ちなみにこれは男よりも、女にその才能が備わっていることが多い。ふむ、そうだな……タバサよ」

 

「わたしに何か?」

 

「うむ。たとえばだ、おぬしはワインを飲み銘柄について思いを馳せつつ、本を読みその内容をしっかりと頭に叩き込みながら、わしと言葉を交わし、話している内容をきちんと理解して返事ができるであろう?」

 

「もちろん」

 

 ……と。ここで複数名から驚きと賛同の声が上がった。

 

「いや、そんなの無理だろ普通」

 

「ぼくは、複数の女性の声を全て聞き分けて理解できるよ。もちろん薔薇の香りを楽しみながら、ね」

 

「わたしも、本を読みながら話くらい簡単にできるわ」

 

「彼氏たちみんなと話をしながら、次の日の予定を考えたりできるのと同じことよね」

 

 この反応に、太公望はニヤリとした笑みで応える。

 

「そう……実はこれこそが『同時展開』に必要な能力『複数思考(マルチタスク)』なのだ。よって、向いていないものがこれを習得しようとした場合、集中力が乱され、逆にメイジとしてのランクが落ちてしまうことになるから、取り扱いにはくれぐれも注意が必要だ」

 

 太公望はそう言うと、周囲の子供達を見回しながら言葉を続ける。

 

「今の反応と、これまでわしの見たところでは……ギーシュとタバサにこの才能が備わっておる。ルイズにもあるようだが、今はまだせっかくの〝力〟を拡散させる結果となるので、わしがやっていいと認めるまで絶対に試してはならぬぞ」

 

 そして、今度はキュルケの前に立つ。

 

「キュルケにもできなくはないことだが、おぬしの場合はむしろ1本に絞り、一発の威力を増大させる方向の才能が高そうだ。これはこれで希有な能力なので、あえて『複数展開』はきっぱりと諦め、そちらを伸ばすことを勧める」

 

 ――そう語る太公望は、まさに『新たな道へ導く者』そのものであった。

 

「のう、ミスタ・タイコーボー」

 

「魔法学院で教鞭をとれというのは却下だ」

 

 オスマン氏が言おうとしたことを即座に斬り捨てた太公望に、コルベールが疑問を呈した。ある意味、それは彼にとって必然とも言える問いかけだった。

 

「どうしてだね? きみの言動を見る限り、教師としての『道』が最も適していると、私は思うのだよ。その――軍人よりも」

 

 そんな彼の問いに。

 

「面倒だからに決まっておろうが!」

 

 ある意味、最も彼らしい解答を出す太公望。

 

「ええええええ」

 

「面倒とかひでえ」

 

「ないわ、その答えはないわ」

 

 非難囂々の生徒たち。そんな彼らを見て、太公望は頭を押さえながら言う。

 

「よいか、ひとに何かを教えるという行為は……ある意味、その者の人生に『道』を指し示すことなのだ。そして、それが本当に正しいものであるのか、それは本人の歩む、その先に至るまでわからない」

 

 だから……と、彼は先を続ける。

 

「よって、わしはこれまで志願者がいても、誰ひとりとして弟子を取ることはなかった。わしの国では、弟子を取らない者は真の意味での一人前、大人として認められない。にも関わらず……だ。弟子を取るということ、それはすなわち、その者の人生に責任を持つことに繋がるからだ。どうだ、実に面倒極まりないであろう?」

 

 ――お師匠さま! と自分を呼ぶ者がいたが、太公望は彼を正式に弟子にはしていない。認めていないわけではなく、あくまで側付きの者……というより、年の離れた弟のような存在として可愛がっていたのだ。

 

「今回ここで色々と教えたのは、あくまで例外中の例外。ハッキリ言うが、全員見ているだけでこっちの心臓に悪いからだ! 特に、相手の実力を一切測ることなく正面から突撃をかますような奴! 当然自覚はあると信じたいがな!!」

 

 ガーッ! と、大口開けて威嚇する太公望の声に、才人が俯いた。思いっきり覚えがあるからだ――そう、以前仕掛けた太公望との模擬戦についてだ。

 

 才人はさっきのタバサの話を聞いて内心冷や汗をかいていた。まさか太公望が、そこまでとんでもない〝魔法使い〟だとは思ってもみなかったのだ。

 

 それに、ここまでのやりとりが真実だとするならば――既に退役済みとはいえ、軍を指揮していた将軍閣下。この世界の軍人がどの程度の実力を持っているのか才人にはわからないが、どちらにせよ普通の高校生が挑みかかるなど、ハッキリ言って話にならない。

 

「と……いうわけだ。よって、わしが教えるのはあくまでここにいるメンバーのみ。そういう約束であったし、そもそも例の〝場〟は異端すれすれなのだから、そう簡単に表へ出せるものではないことくらい理解できるであろう?」

 

 ったく、我ながら本当に面倒なことを引き受けたものだ。そうぼやく太公望を見て、コルベールは思った。

 

(きみはやはり、教師になるべきだよ――)

 

「さて。とりあえず全員の基本方針はよいとしてだ。キュルケ、ギーシュ。おぬしらのしようとしていた質問は、今までの解答によって満足できるものか?」

 

「ぼくは大満足さ!」

 

「あたしも。ああいう話が聞きたかったから」

 

「オスマン殿と、コルベール殿は?」

 

「正直に言えば聞きたいことはまだたくさんあるが、さすがにこれ以上話し続けるのは、体力的な意味で辛かろう?」

 

「そ、そうですね。ただ、もしもまた機会がありましたら、是非色々と伺いたいです」

 

「そうか」

 

 ふたりの声に頷いた太公望は、場を締めるべく声を上げた。

 

「よし、まだ時間がある。このあとだな、全員でもってトリスタニアの街へ出て、ぱーっとやるなんてどうかのう? ルイズの魔法成功祝賀会をするのだ!」

 

「それはいい!」

 

「賛成!」

 

「異議なし!!」

 

 と、盛り上がるメンバー。そして、彼らの言葉にぱあああああっと顔を輝かせるルイズ。そうだ、わたしは今日、はじめて〝召喚〟と〝使い魔契約〟以外の魔法を成功させたのだ!

 

 そして、街のなかなか洒落たレストランで大いに盛り上がる一行。ちなみに、これらの費用はオスマン氏が全てもつこととなった……もちろん、太公望の策によって。

 

 ――その夜。ルイズは、家族に宛てて手紙を書いた。

 

 初めて魔法が成功したこと。そして、それに至る経緯を……他人に話しても構わないと言われている範囲内で。

 

 友達が、遙か東方、ロバ・アル・カリイエのメイジを招いてくれたこと。

 

 そのメイジの知人に、自分と全く同じ失敗をしていたひとがいたこと。

 

 その知人は『才能』がありすぎて、普通の魔法の枠に収まらず〝爆発〟を起こしてしまっていたこと――そして。自分がそれと同じ原因で失敗を繰り返しているのではないかと言って、色々と見てくれたこと。

 

 結果は、そのメイジの言うとおりだったということ。

 

 きみは、いつか『スクウェア』どころかそれを凌駕する可能性すら秘めている――一緒に調べてくれていた先生たちも、そう言ってくれたこと。

 

 今はまだ、物を浮かせることしかできないが……その東方のメイジ曰く、いつかわたしは、ハルケギニアの誰よりも速く空を飛ぶことが叶う、そう話してくれたこと。そしてその彼自身が、魔法学院の誰よりも速く空を飛ぶことができる、素晴らしい風のメイジであるのだ、と。

 

 最後に。今日、自分の魔法が初めて成功した――それを祝う会を、先生たちと友達みんなが開いてくれたこと。とても嬉しくて、楽しくて、涙が出たことをしたため……伝書フクロウの足にくくりつけると、空へ向けて放つ。

 

 この一通の手紙が、後の歴史にとてつもない嵐を巻き起こす結果となるのだが、それはまだ、ルイズにはわからなかった――。

 

 




2話に分けてもいいくらい文字数があった。
でも編集たいへんなのでこのままいきます、ごめんなさい。


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交わりし道が生んだ奇跡
第19話 伝説、新たな名を授かるの事


 ――刻は数日だけ前に戻る。

 

 平賀才人は、太公望から貰ったアドバイスについて、延々と考え込んでいた。

 

「メイジにとってはそう見えない武器、かあ……」

 

 ちなみに現在、ルイズに買ってもらった皮の手袋をして過ごしている。そう、ふたりは太公望のアドバイスをちゃんと守って〝ガンダールヴ〟のルーンを隠すようになっていたのだ。

 

 そこで、例の武器の件なのだが。最初はお約束とも言うべきか、隠しナイフあるいは手裏剣を持つことを思いついた才人だったのだが、しかし。

 

「それ、武器に見えちゃうんじゃないの?」

 

 と、いうルイズのコメントにより却下。手裏剣は武器には見えづらいが、投げられたら危なそうだという想像くらいはつく、という返答で才人はこのふたつを候補から外した。

 

 次に、刃物から離れることにした。そこで出てきたのがメリケンサック。確かに武器には見えない。ところが、名案に思えたこれにも問題があった。

 

「指輪っぽいわね。でも、手袋の上からそれをつけたら指が痛くなりそうだわ」

 

 絵図面を見せたところ、ご主人さまは可愛らしく首をかしげながらそう言った。

 

「うーん、悪くないアイディアだと思ったんだけどなあ。そうか、手袋をしたまま持つってことも考えないといけないんだよなァ……いや、ちょっと待て。手袋?」

 

 ぼんやりと、才人の中にイメージが浮かんでくる。

 

「そうだよ……武器って限定して考えすぎたからいけないんじゃないか? いや、あれこそは(おとこ)の武器だよなあ!!」

 

 そこで登場したのがボクシンググローブ。拳は男の武器である……という才人らしい考え方から出た発想。確かにこれは、ハルケギニア人からすれば到底武器には見えないだろう。しかし、スケッチを見たルイズの反応はというと。

 

「普段からそんなのつけて歩いてたら、馬鹿だと思われるわよ」

 

 ……ごもっともである。リングの上以外でつけて歩くようなシロモノではない。

 

「結構難しいもんだなあ、こういうこと考えるのって」

 

 ため息をつき、自分の手を見る。皮の手袋を――と、その時だった。彼にまさしく天啓と呼ぶべき閃きが舞い降りたのは。

 

「オッケエェェェエ! これだあああああああッ!!」

 

 さっそくルイズに意見を求めたところ。

 

「確かにそれなら武器には見えないし、手袋としても言い訳できるわ」

 

「だろ? フッフッフ……まさか、ファンタジー世界でコレを使って戦うことになるなんてな。ある意味アクションゲーム、格ゲー好きな俺にとってはたまらないぜ」

 

 そう言いながら彼が書いた絵図面――それは指ぬきグローブだった。日本流に言うなれば、アキバファッションのひとつであり、テレビゲームやマンガなどによく登場する、ストリートで戦う格闘家たちが愛用していたアレである。

 

 ――そして現在。虚無の曜日の翌日、昼。太公望に早速図面を見せたところ。

 

「なるほどのう、拳闘用の『武器』か。わしにもこの発想はなかったわ」

 

「やった! タイコーボー閣下がそう言うなら問題ないな!!」

 

「その呼び方やめんかい。今まで通りに接してくれと言ったであろう?」

 

「わざとだハハハ」

 

「こやつめハハハ」

 

 

 ――拳骨で才人が悶絶しておりますので、しばらくお待ち下さい――

 

 

「でさ、これ作ろうと思ったんだけど。〝錬金〟頼むにも、ギーシュには言えないだろ? かといって、他に俺から頼めそうなひとがいなくてさ」

 

「ああ、そういうことならわしから学院長に聞いてみよう」

 

 ――で。その結果〝ガンダールヴ〟のことを知っていて、かつ印を隠したほうがいいであろうという事情を理解し、またそういった技術開発に熱心なコルベールが改めて紹介され……そしてこの出会いが後に、世界に様々な『発明品』をもたらすきっかけとなる。

 

○●○●○●○●

 

「なるほど、それで私のところへ来たと」

 

 魔法学院の一画・火の塔の側に建てられた研究室の中で、コルベールは雑多な資料やら実験器具で埋め尽くされたテーブルの上を片付けつつ、才人と太公望のふたりへ椅子を勧めながら言った。

 

「はい。コルベール先生なら、そういったことに詳しいって聞きましたので」

 

 才人は部屋の中を見回した。いかにも研究者・技術屋の部屋といったような雰囲気だ。あちこちに散らばる羊皮紙は、何かの設計図なのだろう。いろいろな記号やイメージ図のようなものが書き込まれている。天井からは、船と思しき模型が吊り下げられていた。

 

 着座し、早速例の絵図面を見せたところ、コルベールは興味を示した。

 

「これが『武器』かね……しかし、このままだと拳を痛めますぞ」

 

「それなんですけど、本当は拳の周りに衝撃をやわらげるようなものがついているのが普通で……たしか、こんな感じで」

 

 サラサラと絵を描き加えた才人。それを見てふんふん……と頷くコルベール。

 

「しかしあれだのう、この『武器』はどういう場面で使われるのだ?」

 

 殺傷力は剣や槍などに比べて低いであろう? そう質問した太公望に対しては。

 

「ああ、これは元々スポーツ用なんだ」

 

「そうか、なるほどのう」

 

「すぽぉつ?」

 

 納得した太公望と、よくわかっていないコルベール。後者に対して説明するべく、指ぬきグローブを使うわけではないが、拳で戦う格闘技の中でも特にわかりやすいと思われるものについて語りはじめた才人。

 

「はい。えっと、俺の国……というか、世界に『ボクシング』っていう競技があって、そこで使われるものなんですけど……ここでいう決闘みたいにあくまで試合形式で、あとで遺恨が残らないようにちゃんとルールを決めて、拳だけで戦うんです」

 

 才人は、自分の知識を総動員して彼らにボクシングについて説明した。

 

 それは『リング』という、倒れても大怪我を負わないように設計された、闘技場のような舞台で行われること。公平さを保つために体重別でランクを分け、身体の大きなものが有利になるような状況にはしないこと。複数名の審判を置き、選手が激しいダメージを負った場合、即座に試合を終了すること。

 

 また、どちらがより上手に戦ったかを点数にして評価し、勝敗を決めること。さらに身体への影響を考え、時間制限を設けた上で、すぐそばに医師が待機していること……などなど。

 

「と、まあこんな感じです。俺たちの国では60年以上戦争が起きていないから、こういう試合を見て鬱憤を晴らしたり、娯楽の一種として楽しまれてるんですよ」

 

「ふむう、平和な国だのう。わしとしては羨ましい限りだ」

 

「まったくです。ですが、だからこそこういう発想が出てくるんでしょうな」

 

 才人のスケッチを見たコルベールがため息をつく。

 

「それで、できそうですか?」

 

「大丈夫、半日もあればできると思いますぞ。ただ、実際に使ってみて、使い心地や強度を確認したほうがいいでしょう。ですから、まずは試作品を1つだけ作成することにします」

 

「ありがとうございます!」

 

 にっこり笑って答えたコルベールへ、これまた笑顔で礼を言う才人。

 

「ああ、その試作品ができたらわしも呼んではくれぬか? 実物を見てみたい」

 

「もちろんですぞ。全員でいろいろ意見を出し合ったほうがいいですからな」

 

 そんな感じでワイワイと盛り上がる3人。と、そんな中で才人が思い出したように話題を切り替えた。

 

「ところでさ、例のルイズの〝念力〟で、いくつか思いついたんだけど」

 

「む、それはどういったものだ?」

 

 早速興味を示す太公望と、コルベール。

 

「それなんだけど、(ほうき)に乗って空を飛ぶことってできないか?」

 

「……は?」

 

「いや、だからさ。()()()念力をかけるんじゃなくて、()()()念力をかけて、その上に乗るんだよ。そうすれば、失敗して爆発させちまった時の危険性も下がるんじゃないか?」

 

 この才人の発言に、ふたりは文字通り固まった。コルベールはあんぐりと口を開け、太公望は頭を抱えてしまっている。

 

「いや、その発想はなかったわ。わしもまだまだ頭が固いのう」

 

「まったく……サイト君はまさしく『宝物』ですぞ」

 

「ところで、何故箒なのだ?」

 

「お伽噺の中のことなんだけどさ。魔女っていったら箒がお約束なんだ!」

 

「でも、それだと乗っていて尻が痛くならぬか?」

 

「ですなあ……だったら、いっそ椅子を浮かせてそこに座るとか」

 

「ああ、そのほうが確かに楽かも!」

 

 ……そんな感じでどんどんと話が膨らんでいき、そして。

 

「でさ、それに慣れたら大勢を乗せて運べるようになると思うんだけど」

 

「確かに、ルイズの〝力〟をもってすればいけそうだのう」

 

「んで、考えたんだけど……『空飛ぶ絨毯』とかどうだろう?」

 

「ふむ……着眼点は悪くないと思いますぞ。ただ、柔らかいものですから〝念力〟で全体を支えるのが難しい上に、乗っている人間の姿勢も安定しないと私は考えます」

 

「あ、そっか。でも、板とかじゃ座り心地悪そうだなあ。ソファーとか」

 

「……椅子から離れて考えませんか」

 

「わしはどうせなら、ごろりと横になれるようなモノのほうがいいのう」

 

「それだあああああああああ!!」

 

 ……で。

 

「そのままだと持ち運びが不便であろう?」

 

「折りたたみ式にすればいけるんじゃないかな」

 

「折りたたむとは?」

 

「ああ、それはこんな感じにすれば……」

 

 といったような流れで設計図が書き上がっていき……ついにそのアイディアは固まった。

 

 ――名付けて『空飛ぶベッド』(折りたたみ式、バラして持ち運び可能)。

 

 これが実際に使用されるようになるまで、まだしばらくの時がかかるのだが――このとき出た『折りたたむ』という発想が、後にコルベールの発明に大きな影響を与えることとなる。

 

 なお、結局ルイズの自力初飛行は椅子ではなく箒に乗って行われることとなったのだが、これについては、

 

「箒だ! これはロマンなんだ、絶対に譲れねェ!!」

 

 という才人の強固な願いにより実現されたものである。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――さて、場所は変わって学院長室。

 

 そこに居合わせたのは、オスマン学院長、コルベール、ルイズ、才人、そしてタバサと太公望の6名である。デルフリンガーも持ち込まれているので、正確には7名だが。

 

 椅子に座り、周囲を見渡した太公望はこう切り出した。

 

「実は、才人の待遇についてあれから色々と考えたのだが……彼を武成王殿の血縁者ということにしたいと思う」

 

「ブセイオー、とは?」

 

 オスマン氏の質問に、太公望が答える。

 

「武によって成る王と書いて、武成王(ぶせいおう)という。名は黄飛虎(こう・ひこ)。彼はわしにとって大恩ある人物でのう……わしらのような〝力〟は行使できなかったが、その代わり、とんでもない武芸の達人でな。王家の武術指南役を務め、全軍の訓練総指揮者でもある。あらゆる武器を使いこなし、その武勇において右に出る者はなかった」

 

 ほう……と関心を持つ者たちに、太公望は説明を続ける。

 

「ふふふ……魔法が使えないからといって侮ってはいかんぞ。かの人物はな、正真正銘、戦いの天才だったのだ。その太刀筋で大岩を両断し、己の身長と同じくらい巨大な鉄棍棒で敵の城壁を叩き割り、単騎で敵軍のど真ん中に突進して、さんざんかき回した挙げ句に無傷で帰ってくるとかザラでな。術者が〝力〟を使う前に側まで駆け寄り、拳でもってぶっ飛ばしたり……とにかく、とんでもない御仁なのだ」

 

「それは……まさに伝説の〝ガンダールヴ〟そのものですな……」

 

 あんぐりと口を開けて呟いたコルベール。唖然とする一同。才人などは、内心で「三国志の呂布(りょふ)みたいだ」などという感想を持っていたのだが、まさかその武成王が、呂布と同じ大陸で活躍した武将だなどとは思いも寄らなかった。

 

「そういえば彼の愛刀も、デルフリンガーと同じくしゃべる剣であったな」

 

「なにっ! 俺っち以外にもそんな奴がいたのか!!」

 

 興奮するデルフリンガーに、うむ、と頷く太公望。

 

「飛刀といってな、名前の通り飛ぶ能力を持つ妖剣でのう。敵に投げつけても自力で飛んで帰ってきてくれる便利な剣なのだ。ただ……うっかり固いモノを切ったりすると『刃こぼれするからやめてくれ!』などと大騒ぎして五月蠅い上に、剣のくせして臆病で戦うのを嫌がるので、評判はいまいちであったが」

 

(ああ、たしかにそれはちょっとイヤだ。俺の相棒がデルフで良かった……)

 

 と、おかしなところでデルフリンガーの評価が上がる。

 

「でだ。彼の息子たちは、皆そろって武芸に秀でておっての。その血縁者――妾腹の子で、母親と共にわしのあずかり知らぬ遠国へ行っていた、ということにすれば、彼がわしと同じ東方の出身者ということにしてもおかしくない。最近になって偶然才人の太刀筋を見て、ふと思い立ったわしが詳しく話を聞いてみた結果、彼の境遇を知ったと。これでどうだ?」

 

「なるほど。〝ガンダールヴ〟のような実績を持つ人物の血縁に見せかけることで、サイト君が普通の平民ではないという方向へ持って行こうというわけじゃな?」

 

「そういうことだ。彼を知る者はこの地にはおらんしのう」

 

「でも、そのひとの身分はどうなの?」

 

 ルイズの問いに、太公望は答えた。

 

「それについては問題ない。そもそも『武成王』とは我が国において全軍を統括する役職のことで、黄家自体も国で有数の大貴族なのだ。ちなみにだが、武芸者だけでなく術者も大勢輩出しておる。実際、武成王殿の息子のひとりは優秀な〝魔法剣(ブレイド)〟使いだ」

 

 黄飛虎の息子は、魔法剣ではなく『莫邪の宝剣(ばくやのほうけん)』という〝生命力〟を刃に変える宝貝を使う道士なのだが、そこまでは言わない太公望。

 

 だが、それを聞いたルイズの目がまん丸になった。他のメイジたちの反応も、彼女とほぼ同じようなものだったが。

 

「ええッ! コウ家って、貴族なのに魔法じゃなくて武器を使うの!?」

 

 興奮して叫んだルイズをなだめながら、コルベールが言った。

 

「向き不向きを、幼いうちに見極める目があるということでしょう。戦場に限って言えば、腕の良い〝メイジ殺し〟のほうが『ドット』や『ライン』程度のメイジと比べて数段有利に戦えますからな。もちろん、両方できるのならばそれに越したことはありませんが」

 

「理解できる」

 

 そう言って、才人のほうをちらりと見るタバサ。実際、才人の剣技は『ドット』メイジであるギーシュの攻撃をものともしない。状況や使い手次第で、武器が魔法を上回ることがある。過去の任務で幾度となくそれを目にしてきたタバサは即座に納得した。

 

「正直わたしには理解できないけど、それなら問題なさそうね。ハルケギニア風にそのひとの名前を直すと『ヒコ・ド・ブセイオー・ド・ラ・コウ』になるのかしら? そうなると、サイトの場合……」

 

 ルイズの提案を、太公望が慌てて押し止めた。

 

「いやいや、長い上にややこしいので、名前の後ろに『武成王』または『黄』だけつけるほうがわかりやすかろう。なにより才人本人だけでなく、全員が混乱してしまう」

 

「俺は、つけるなら『ブセイオー』のほうがいいかな。覚えやすいし、そっちのほうが名前の響きがカッコイイし! けど、変に名前変えたりしたくはないなあ」

 

 それはそうだと納得する一同。貴族平民問わず、名前とは自分を表す大切なものだからだ。

 

「ならば、正式な場で名乗りを上げる場合だけに限ればよかろう。ちなみにだが、武成王殿は個人の武勇だけではなく、軍を率いることにかけても超一流、さらに気さくな性格で、兵や民たちに慕われた人格者でな。わしも、かの人物には本当にお世話になったのだ。妾腹とはいえ、その息子に無体な真似をするなど許し難い。わしがそう主張したとなれば、反発も少ないであろう」

 

 オスマン氏は頷いた。ただの平民を貴族同様に扱えなどと言われて納得する者は、まずいない。だが、相応の理由があれば説得のしようがあるのだ。たとえ、それが作り話を元にしたものであっても。

 

「才人よ。そういうわけで、今の話をしっかりと覚えておいてくれ。おぬしは武成王・黄飛虎の血を引く者だ、という設定だとな。幸いわしと同じくこの国では珍しい黒髪で、肌の色も同じだから説得力は充分だ。国の名は……おぬしの出身国を、そのまま言えば問題なかろう。自分たちの住む土地をロバ・アル・カリイエとは呼ばないから、今までわからなかったのだ、とな」

 

「ああ、わかった」

 

「他の者たちもよいか?」

 

 全員が了承の意を示すのを見た太公望は、満足げに頷くと言った。

 

「では、これより以後才人を『武成王』の妾腹の息子として扱う。この件について、もう少し話を詰めておくことにしよう」

 

 ――こうして、太公望はトンデモな……それでいて説得力のある捏造話を練り始めた。

 

 父の記憶はおぼろげにしか残っておらず、幼少の頃ほんの少しだけ教わった剣技だけを頼りに自己流で腕を磨いてきたという設定にすることで、それを素早さだけはとんでもないものの、剣技自体はさほど成熟していない理由付けとし。

 

 父の話は母から聞いていたが、ずっと海を隔てた遠国で過ごしていたため、太公望から話を聞くまでそこまでの大人物だとは全く知らなかった――といったようなお涙頂戴要素まで交えつつ、徹底的に才人へ叩き込んだ。

 

「と、まあこんな感じで話を合わせていくとするかのう。よって、ルイズも今後は才人を使い魔ではなく護衛として扱って欲しい。都合の悪いときは、わしに話を振ってくれてもよいからな」

 

 それを聞いて、頷くルイズ。

 

「そうね。昨日の件もあるし、サイトがすごい剣士だっていうのは真実だし。貴族として、嘘をつくのは嫌だけど……でも、わたしが助けられたのは本当のことだし。だから、今度はわたしが礼を尽くす番よね。貴族の子女として」

 

 その言葉に、ぱあああっと顔を綻ばせた才人。もともとルイズはとんでもない美少女だ。しかも、彼にとっては好み超ド級ストライクな――某所の装甲を除き――女の子だ。その彼女に、そんなことを言われて嬉しくないわけがない。

 

「とはいえ、才人もあまり調子に乗るでないぞ。ここの魔法信仰と平民蔑視は、かなり根深いものだからのう。それと、いきなり態度を変えるのはおかしいから、基本は今までのままでよいぞ」

 

「ああ、そうだな。何か聞かれたときだけ答えるくらいにしておくよ」

 

「以上だ。ほかの皆もこれでよいか?」

 

「ひとつ大切なことが抜けてるわ」

 

「む、なんだルイズ」

 

 問われたルイズは太公望ではなく、ぐっと才人の目を見て言った。

 

「サイト。あんた、仮にも大貴族の名前を借り受けることになるんだから、これからはそれ相応の努力をしなきゃいけないってこと、わかってる?」

 

「え、どゆこと?」

 

「あんたがおかしな真似をしたら、コウ将軍の名誉に関わるのよ。もちろん、ミスタ・タイコーボーにも迷惑がかかるわ。だから、妾腹とはいえ貴族の血を引く者として恥ずかしくないように、これからは言動に気をつけなさい」

 

 才人は露骨に顔をしかめた。

 

「なんつーか、めんどくさそうだな。貴族って」

 

「文句言わないの! そのぶん待遇が良くなるんだから」

 

「んー、まあ、そうだな。ところで、いくつか納得いかないことがあるんだけど」

 

「なによ? 貴族についてわからないことがあるなら……」

 

「いや、貴族云々じゃなくてさ。その……ブセイオー将軍の話を聞けば聞くほど、どうしてそのひとが〝ガンダールヴ〟に選ばれなかったのかと思ってさ。俺よりも、そのひとのほうがずっと()()()じゃん」

 

 やや自虐的とも取れる才人の疑問に答えたのはルイズでも太公望でもなく、オスマン氏だ。

 

「そんなふうに自分を卑下するものではないぞい。そもそも〝召喚〟は、召喚者と相性の良い使い魔を選び出す魔法じゃ。どんなに立派で、強い〝力〟を持っていたとしても、互いに波長が合わなければ良きパートナーたりえんからのう」

 

「そういうものなんですか?」

 

「うむ。じゃから、そのことで悩んだり、くよくよしたりするだけ損だということだ。きみは間違いなくミス・ヴァリエールに選ばれたのじゃ。わかってくれたかの?」

 

「はい! ありがとうございます」

 

 笑顔で礼を言う才人に頷き返すオスマン氏。だが、太公望は武成王・黄飛虎が選ばれなかった最大の理由を知っていた。もちろん、才人では不満だとか悪いという話ではない。

 

 武成王・黄飛虎が〝召喚〟に選ばれなかった最大の理由、それは。彼が戦場に斃れ、既にこの世の者ではなくなっているからだ――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――寮塔のルイズの部屋へ帰る道すがら、才人は頭を掻きながら言った。

 

「タイコーボー、か。う~ん……」

 

「どうかしたの?」

 

 訝しげに問うてきたルイズに、才人は正直に答える。

 

「あ、いや。さっきの話聞いてて、思い出したことがあってさ」

 

「思い出したこと?」

 

「ああ、昔の話なんだけど。俺んとこの隣の国……中国っていうんだけどさ。そこに、あいつと名前の響きが似てるってか、ここで言う二つ名かな? 『太公望(たいこうぼう)』って呼ばれてた、偉いひとがいたんだよ」

 

「ふうん、確かに響きが似てるわね。で、どんなひとなの?」

 

「王さまの相談役だよ。政治だけじゃなくて軍事にも通じてて、今でも『軍学の始祖』とか『軍神』なんて呼ばれてる。二つ名の由来からして『太公に望まれし賢者』だしな」

 

 才人は、こう見えて結構軍事方面に詳しい。所謂『ミリオタ』というやつである。例の『破壊の杖』にしても〝ガンダールヴ〟のルーンの恩恵を受けずに正式名称をぽんと出せたくらいであるからして、その知識は意外と幅広いのであった。

 

 才人の説明を受けたルイズの額に、じんわりと汗がにじんだ。

 

「ね、ねえ。昔って、どど、どのくらい?」

 

「どのくらいって……確か、3000年以上前の話だよ」

 

 ルイズはほっと胸をなで下ろした。

 

「お、脅かさないでよ! 万が一、そのひと本人だったりしたらどうなることかと思ったわ!」

 

「いや、そんなん絶対ありえねえから。だいたい、タイコーボーはロバ・アル・カリイエとかいうとこから来た魔法使いなんだぞ。いま俺が話したのは、あくまで俺がいた世界でのことだからな?」

 

「そ、それもそうね。どう考えても別人よね。驚いて損したわ」

 

 事実は小説より奇なり、である。

 

 

 ――才人が偶然とはいえ自分の正体に迫りかけていたことなどつゆ知らず。部屋へ戻り、書をめくっていた太公望は、ふと思い出したように声を出した。

 

「タバサよ。前におぬしと約束しとった模擬戦の件なのだが」

 

 同じく本を読んでいたタバサは、視線を文字から太公望へと向けた。

 

「わたしとの約束も覚えていてくれた」

 

「ふむ、忘れていたほうが良かったか?」

 

 ぷるぷると小さく首を横に振るタバサ。それを見て、太公望は苦笑しながら告げた。

 

「それならばよい。お互い、あと数日もあれば完全に疲れが取れるであろう? とはいえ、ちと準備もあるので……それが終わり次第、そうさのう。来週末あるいはそれ以降になってしまうが、約束通り一戦やってみてもよいと考えておるのだが、どうする?」

 

 平穏を望む彼のほうから試合の申し込みをしてくれる機会など、そうそうあるものではない。しかも、太公望はあきらかに自分以上の実力者にして、戦場を駆け抜けた本物の軍人だ。当然のことながら、タバサは奮い立った。

 

「是非お願い」

 

「よし、決まりだな。ただし……これは絶対に1対1で、かつ誰にも見られない場所で行いたいと思うのだが、構わぬか?」

 

「それは、何故?」

 

「この国に来てから、まだわしがおぬしに見せていないものがある。だがこれは、おそらく『異端』とされてもおかしくないほどに特殊な、国元でもわしだけが扱える、わしだけの魔法なのだ」

 

 異端。あの〝場〟(フィールド)以外にも何かあるとは思っていたが、さらに隠し技があるというのか。それなら、誰にも見せたくないというのは理解できる。タバサは承諾の印に頷いた。

 

「これを使うということは、ある意味わしの全力にして本気だ。タバサ……覚悟はよいか?」

 

 ――そう告げた太公望の目に宿る光は、とても真剣なものであった。

 

 

 




指抜きグローブで反応した理由はもうしばらく後で説明する予定。


if・ルイズが才人ではなく黄家の方々を喚んだ場合。

飛虎さん:賈氏命なので恋愛には発展しない。そのかわり、
娘みたいに扱いそう。で、ルイズもそれに甘えそう。
マルトーさんと料理対決! 鉄鍋から杏仁豆腐が出てくる不思議!
マントしてるし立ち振る舞いも堂々としているので、
ゲルマニアの平民貴族のように見られるかも。
インテリジェンス・ソード(飛刀)持ちなのでさらにドン!



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第20話 最高 対 最強

 ――怪盗改め、情報斥候となった『土くれ』のフーケはご機嫌であった。

 

 トリステインからの逃亡成功後、彼女は隣国である帝政ゲルマニアの首府・ヴィンドボナへ渡りその身を隠していた。

 

 そして、新たな上司となった太公望との約束通り、伝書フクロウで潜伏先を知らせてからわずか数日後。すぐに返事が返ってきたのである。

 

「カット済みの石に、原石が半々か。しかも、売り払うには安過ぎず高過ぎずで取引しやすいようなものが選ばれてる上に、傷がつかないようにちゃんと梱包されてるなんてね」

 

 上司から寄越されてきた伝書フクロウの足には、報酬として約束されていた宝石――なんと当初の予定であった1ヶ月分の前渡しどころか、3倍の額に相当する品が同梱されていたのである。

 

『約束の1月分、および例の情報料だ。それと、打ち合わせの際に逃亡先での一時的な滞在費について詳細を話し合っておくのを忘れておった、すまぬ。よって、今回併せて同封させてもらうこととする』

 

 そう記された手紙を見て、フーケはにんまりした。これは予想以上の()()()を引いたのではなかろうか、と。

 

『また、今回はカット済みの品と原石を半々で送ったが、もしもどちらか片方がよい、あるいは希望する石や貴金属、装飾品などがあるということであれば、その都度教えて欲しい。可能な限り対応する』

 

「まったく、あのセクハラジジイなんかよりもよっぽど気が利いてるじゃないか、あの坊や。おっと、確かわたしよりも年上なのよね……あれで。さて、それで肝心の仕事内容は……って! あはははッ、なるほどね。これはわたしの〝力〟を欲しがるはずだわ」

 

 そこに書かれていた仕事内容とは――。

 

『〝魔道具(マジックアイテム)〟に関する情報、およびその詳細調査報告』

 

『近隣諸国の最新の噂話、および可能であれば政治関連の情報調査報告』

 

 ……だった。

 

 貴族の家に押し入っては貴金属や宝石、魔道具を頂戴していたフーケにぴったりの仕事であり、彼女以上に優秀な者はそうそう居ないだろう。後者についても、今後情報入手のために世界各地を移動することを考えればさほど難しくはなさそうだ。

 

「ふむふむ。魔道具のほうは、最近確認したものであれば下調べをしてあった情報でもいいのね。それなら、すぐにいくつかリストアップできるわ」

 

 そう呟いたフーケは、かつて入手していたアイテムの情報について書き連ねる。

 

「それにしても、最後のコレはまた変わった注文だね」

 

『なお〝魔道具〟について、特に以下のような特徴を持つものの情報を強く求める。これらについては入手難易度は一切問わない。たとえば王宮の金庫に仕舞われているようなものでも構わない。情報だけでも寄せられたし』

 

 その特徴とは。

 

『破壊の杖と同様〝魔道具〟とされているにも関わらず、使用方法が一切不明であるもの』

 

『触れると呪われる、あるいは気絶・干涸らびて死亡する等の噂、或いはそういった特徴を持つ〝魔道具〟または、それに類するとされているもの』

 

「なんだい、えらく物騒なものをご所望だねえ。でもまあ、わたしが使うわけじゃないし、あくまで情報を送ればいいだけなんだから構わないか」

 

 手紙の内容を反芻しながら、フーケはひとりごちた。

 

(そういえば、いくつかそんな魔道具があったっけ。思い出すだに忌々しいけど――)

 

 彼女とその家族を不幸のどん底に叩き落とした人物が所持している、古ぼけたオルゴール。

 

「〝魔法探知〟はしっかり反応するのに、おかしな〝魔道具〟だったねえ、あれは。腕のいい職人でも、どうして音が鳴らないのか突き止められなかったみたいだし。他にも何かあったっけ? ああ、そういえばあれと似たようなものが三王家とロマリアの教皇に代々伝わっているんだったわ。ついでにそれも書いておこうかしらね」

 

 ――この彼女の思いつきが、後の歴史へ大きな影響を与えることとなる。

 

「さて、他には何か書かれてないのかしら」

 

 と、改めて手紙を読み続ける。

 

『とりあえず、今回は以上だ。なお、この手紙の内容が他者へ漏れることがないよう、開封してから30分で自動的に爆発する』

 

 その文章を見た途端、フーケは「ヒイイイッ!」と、情けない悲鳴を上げて、机の下に潜り込んだ。何故なら、間もなく開封してから30分が経過するからだ。

 

 だが――待てど暮らせどその時は訪れない。と、おそらく最後の1枚であろう手紙が、ひらりと彼女の前へ舞い落ちてきた。

 

『……と、いうような便利機能は搭載されていないので、内容を暗記したら即座に燃やして処分して欲しい――望』

 

 その一文を見た彼女は、両手をプルプルと震わせ……大声で叫んだ。

 

「やっぱりガキだよ、あいつはッ!」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――さて。その頃フーケにガキ認定された者はというと。

 

「……ヘッキシッ!!」

 

「おや、風邪ですか? でしたら無理はなさらないほうがいいですぞ」

 

「いや、そういう訳では……誰か、わしの噂でもしておるのかのう」

 

 コルベールの研究室で、才人と共に例の『試作品』を見せてもらっていた。注文の品を受け取った才人は、早速手にはめてみる。

 

 すると……身体中が軽くなり、その『武器』の使い方が才人の頭の中へ流れ込んできた。拳の使い方のみならず、足技まで網羅したそれは――格闘ゲームの操作説明書が脳内にインプットされていくような、なんとも不思議な感覚であった。

 

「ちゃんと武器として認識できてるみたいです! 使い方もバッチリ」

 

「おお、それはよかったのう!」

 

「はめ心地はどうかね?」

 

「ちょっとキツめかな……とは思いますけど、皮だから馴染めば大丈夫そうです」

 

「それでは、さっそく試してみますか」

 

 ……で。

 

 開発関係者3名と、それを知った見学者数名――ルイズ、タバサ、ギーシュの3名+デルフリンガーが、人通りのない中庭へと移動する。ちなみに、キュルケは先約があるとかで今回は参加していない。

 

 なお、この時ルイズは練習を兼ねて、柄の部分に柔らかい布を巻き付けた箒に乗り――跨るのではなく横に腰掛ける形で、ぷかぷかと宙に浮いていた。そう、既に太公望から『物体を浮かせて飛ぶ』のはやっても構わないという許可が出るまでに彼女の〝念力〟の腕は上達していたのだ。それにしてもルイズ、すごいバランス感覚である。

 

 そして中庭中央まで移動すると、全員の見ている前で早速シャドーを開始した才人。正拳突き、回し蹴り、両手を交互に動かしたコンビネーション……などなど、それらはかなりのスピードで展開され、見学者たちを驚かせた。

 

「いやはや……これはたいしたものですぞ」

 

「すごいな。サイトは剣だけでなく素手での格闘もここまでやれるのだね」

 

 そう呟いたギーシュは、彼の動きにすっかり魅入られていた。

 

 一通り試して身体が温まった才人は、全員の元へ戻ってきた。観客たちはそれを盛大な拍手で出迎える。才人は照れくさそうに頭を掻いて笑っていた。

 

「すごいじゃないのサイト!」

 

「わたしでも見切れなかった」

 

 そう褒め称える彼らに満面の笑みでもって応える才人。相変わらず調子に乗りやすい男である。まあ、気持ちはわからなくもないが。

 

「うーん、できれば組み手とかもやりたいとこなんだけどな……さすがに『ワルキューレ』殴ったら痛そうだしなあ」

 

 そんな彼のリクエストに応えたのは、なんと太公望であった。コキコキと全身を鳴らしながら才人の元へ近づいてゆく。

 

「よし、ならばわしが相手をしてやろう」

 

「おい待てや将軍閣下。お前、魔法使いじゃねーか!」

 

「魔法が使えぬ相手に『打神鞭』は使わぬ」

 

「じゃあ、どうするっていうんだよ!」

 

 才人の問いに、太公望は握り込んだ左手をぐっと突き出し、腰だめに構えて見せた。

 

「武器ナシでやるのだ」

 

「……面白ぇじゃねえか!」

 

 不適な笑みを浮かべる才人。ふたりは広場の中央へと移動すると、向き合って礼をした。

 

「ミスタ・タイコーボーは大丈夫なのかしら」

 

「彼はああ見えて元軍人ですからな。おそらく勝算があるのでしょう」

 

 共に見学者の輪に加わっていたタバサも太公望を心配するひとりであった。

 

(たしかに彼は軍人。でも、杖なしであれほどの動きをする相手にどう立ち向かうの?)

 

「さあ! ラウンドワンだ!!」

 

 ――そして、ふたりの戦いは始まった。

 

「そんじゃ……行くぜッ!!」

 

 かけ声と共に一気に距離を詰めた才人は、太公望に向けて殴りかかる。だが、やや大振りにすぎたその拳はあっさりと躱され、地面へと叩き付けられる。驚いたことに、彼の拳はそのまま土をえぐり、派手に土砂を舞い上げた。

 

「なんなのだ、そのパワーは! とんでもないのう」

 

 思わずひるんだ太公望の隙を、才人は見逃さなかった。ザッと太公望の懐へ入り込むと、素早く蹴りを叩き込む……が、これは「どひゃー!」というちょっと間の抜けた声とともに綺麗に躱されてしまう。

 

「くそ、結構動きが速いな」

 

「わしは、逃げ足には定評があるのだ」

 

「威張って言うことじゃねえだろ!!」

 

 軽口をたたきあいながらも彼らの戦闘は続く。そのうち、だんだん太公望の動きに慣れてきたのだろう、才人の動きに無駄がなくなってきた。次々に繰り出される攻撃を紙一重で躱しながら、太公望は反撃のチャンスを伺う。

 

「ふ、ふたりとも凄いな……」

 

「予想外」

 

「いやはや、まったくですぞ」

 

「わ、わたし、どうやって戦ってるのかよく見えないわ……速すぎて」

 

 集まった観客たちは、驚きの目で彼らの動きを必死に追っている。そんな中、ついに反撃のきっかけを掴んだ太公望は身体をサッと沈めると、下段回し蹴りで、才人を転ばせることに成功した。そしてそのまま拳による追撃に入るも、あっさりと避けられた上に、即足技によって反撃される。なんとかギリギリでそれを躱した太公望は、いったん距離を取ると額の汗をぬぐう。

 

「だまされた! 才人のくせに強いではないかっ!!」

 

「聞き捨てならねぇ台詞だぞコラ」

 

「仕方ない……こうなったら、これを使うしかあるまいのう」

 

 と、太公望は懐に手を入れると一本の瓶を取り出した。

 

「ワイン……ですな」

 

「ワイン……よね」

 

 観客たちの呟きをよそに、

 

(そんなデカイ物、懐のどこに入ってたんだよ!)

 

 そうツッコみたくなるのを必死にこらえた才人は、太公望に向かって訊ねる。

 

「おい、なんだそりゃ」

 

「かかかかか! 厨房からアルビオンの古いのをパクってきたのだ」

 

「マルトーさんにチクんぞヲイ」

 

 と、太公望はワインの瓶口を手刀でスパーンと綺麗に叩き切ると、ゴクゴクといっきに飲み干してしまった。

 

「ウィ~、ヒック……」

 

 しゃっくりを上げた太公望の顔は赤らんでいた。それはもう見事な酔っぱらいの完成である。

 

「おい、どういうつもりだよ!」

 

 そう問うた才人へ、足元をふらつかせながら太公望は答える。

 

「酔えば酔うほど強くなる~。師匠直伝の泥酔拳(でいすいけん)で勝負~」

 

「テメェ、ふざけんな!」

 

 そう叫んで飛びかかっていった才人をぬらりと躱した太公望は、ちょこんと片足を前に出して相手をあっさり前へと転ばせる。そして空中へ飛び上がると、彼の背中へ落下による力を加えた強烈な肘撃ちを炸裂させた。

 

「ぐはッ……!」

 

 思わず昼に食べたものを戻しそうになった才人は、なんとか立ち上がろうとしたものの、そこへさらに太公望の蹴りが飛び、2メイルほど吹っ飛ばされる。悶絶する才人をよそに、太公望は余裕の表情でその場に横になってしまった。

 

「き……きったねえ……! 急に強くなりやがって……ドーピングじゃねえのか」

 

 よろめきながら立ち上がり、抗議した才人へ太公望は答える。

 

「泥酔拳は立派な技。おぬしが弱いのでは~?」

 

「こっ……このヤロー!!」

 

 そして。必死の攻撃をはじめるも、ぬらりくらりとトリッキーな動きで躱されまくった才人はだんだんと体力を削られていき……ついには、大振りの右正拳突きにカウンターを合わせられ、その場で気絶してしまった――。

 

「いやぁ強ぇな兄ちゃん。さすがは元軍人だ」

 

 木の根元に立て掛けられたデルフリンガーは、感心した声で褒め称えた。

 

「本当よね。あなたはメイジなのに」

 

 そう言ったルイズへ、太公望は答えた。

 

「戦場で『杖がなくなりました、もう戦えないので命だけは勘弁してください』が通用するわけなかろう? 当然、体術も鍛えておるのだ」

 

 彼の言う通りです。そう頷いたコルベールへ、ほえ~っとした顔をするルイズ。タバサも何か思うところがあったのだろう。考え込むように下を向いていた。ちなみに、才人はそのタバサの〝治癒(ヒーリング)〟によって、既に回復している。

 

「ところでデルフリンガーよ。おぬし、確か才人に剣を教えておるのだったな」

 

「まあな。伊達にこの6000年の間、いろいろな剣士に使われてきたわけじゃねぇからな。基本的な動きから応用まで、強かった奴らの剣技はだいたい覚えてるぜ」

 

「それは素晴らしい」

 

 そう褒めた太公望は、次に才人に向かって言った。

 

「と、いうわけで剣についてはデルフリンガーから教えてもらうとして……素手の組み手については、ある程度わしが相手になってやれると思うが、どうだ?」

 

「やる。つーか、絶対お前の顔面に一撃入れるまで諦めねェ」

 

「ニョホホホホホ。さーて、いつになったら実現するのかの~」

 

「チクショー! マジムカツクーッ!!」

 

 こうして、平和な一日は過ぎ去っていった……。

 

 

○●○●○●○●

 

 時は流れ――才人が新たな『武器』を手に入れてから2週間が経った。

 

 この間、彼の周囲には劇的な変化があった。まず、自分への待遇がこれまでの使い魔扱いから一転、ルイズの『護衛役』として認識されるようになったこと。

 

 そのいちばんの理由として、例の『才人は武成王の妾腹の息子』云々の話について、学院長から教師達に対し、その旨の通達が行われたからである。

 

 当然のことながら、最初はほとんどの者達から反発の声が上がった。だからどうした、所詮は他国。しかも遠い東方の平民だろう……と。

 

 そこで、オスマン氏が次の段階――もしも彼、サイト君を侮辱するならば、そのブセイオー将軍の祖国であり、ミスタ・タイコーボーの出身国にしてロバ・アル・カリイエ最大の国家・シュウを侮辱したと見なされ、最悪の場合戦争になる可能性があると話した。これで、教師たちは遠い東方とはいえ国際問題を懸念し、了承した。

 

 数こそ少ないが、商人たちのキャラバンがサハラを超え、東方の品々を交易品として持ち帰ってきている以上、絶対にありえないとは言い切れない。

 

 ……さすがに教職に就いている者に、そこまで説明する必要はなかったのだった。

 

 生徒の見本たるべき教師が才人を無体に扱わない。これは大きい。

 

 また、召喚者であるルイズ――トリステインでも特に有名な大貴族の娘が、あえてクラスメイト達の前でこれまでとは一転、才人に対しての扱いを変えたという事実もまた、周囲の子供たちに衝撃を与えた。

 

 あのプライドの高いルイズがあそこまで態度を変えるとは……実はこいつ、ただの平民じゃないのではないか? と。

 

 それに続いて。既に生徒たちのほとんどと仲良くなっていた太公望が、才人の父親である(という設定の)武成王の武勇伝や、自国……つまりは東方のメイジについて、これまた捏造設定を交えつつ面白おかしく語り――それの受けが思いのほか良かったことで、才人が『東方最強の〝メイジ殺し〟の息子』という認識が少しずつ染み渡っていったこと。

 

 ――そして。その認識が広範囲にまで至った頃。タイミングを見計らったように太公望がギーシュに協力を依頼した。

 

 快くその申し出を受けた彼の『ワルキューレ』7体を瞬殺してのけた才人の剣技と、おまけに太公望との組み手までも見せられた生徒及び学院関係者たちの内心に、この少年……メイジでこそないが、実はとんでもない存在なのではないか、という意識が生まれ。さらに、それによって相対的に同じ平民たちの間での評判も上がった。特に、厨房の責任者であり料理長のマルトーなど、

 

「あの若さで、貴族どもとまともに戦えるほどの武芸の達人なのに、ちっとも偉ぶらない。妾の子ってことで今まで大変だったみたいだが……そのせいなのかね。苦労は人を成長させるっていうからな」

 

 などと周囲に話してまわっていたほどだ。

 

 ついには、才人本人が持っていた最大の資質――性格が人なつっこく明るい。また、ある意味誰に対しても公平に接するため、いつのまにか周りに人の輪を作ること――のおかげで、彼は最初からこの学院にいたのではないのかというまでに周りにとけ込むことに成功したのであった。

 

 

 ――そんな彼を召喚したご主人さまはといえば。こちらも大きな変化があった。

 

 二つ名が『ゼロ』から『箒星(ほうきぼし)』に変わったのである。

 

 『箒に腰掛ける』という、他のメイジ達と比べると特殊な形ではあったが、はじめて自力で空が飛べるようになったルイズはそれを心から喜んだ。

 

 そして、宙を飛び回ることでさらに『空間把握』の能力が上がるであろう、という太公望の言葉と、自分自身の「もっと自由に空を飛べるようになりたい」という願望から、彼女は放課後になると練習のためずっと箒で空を飛ぶようになっていた。

 

 当然、そんなことをしていれば人目につく。当初は奇異の目で見られていたのだが、しかし。そんな彼女の姿を目撃した一部の者――おもに男子生徒が、その可憐な姿に、文字通り心臓(ハート)を鷲掴みにされてしまったのだ。

 

 本来、平民が使う箒という粗末な道具。そこに貴族の娘――それも、学院内でもとびきりの美少女が可愛らしくちょこんと腰掛けてぷかぷかと宙に浮かぶ姿は、そのアンバランスさが故に男たちの心を捕らえた。才人の祖国風に言うならば、所謂『ギャップ萌え』というやつである。

 

 さらに、ルイズは常に気難しい表情を浮かべていた以前と異なり、よく笑うようになった。

 

 系統魔法は今までと同様、全く成功しなかったが……、

 

「また失敗するかもしれないから、気をつけてね」

 

 などと周囲に注意を促すようになり、予想通り爆発を起こした場合には教師やクラスメイトたちへきちんと頭を下げるようになった。

 

〝浮遊〟(レビテーション)〝念力〟(サイコキネシス)だけとはいえ、ある程度魔法が成功するようになって、心に余裕が出てきたんでしょう。今までは、何をしても失敗していましたからね」

 

 教師たちはそのように解釈し、

 

「もう『ゼロ』とか言えないよな」

 

「ま、まあ、ちゃんと迷惑かけたことを謝るなら、受け入れてあげても構わなくってよ」

 

「そうね。前みたいに開き直られたりしたら頭にくるけど、今のあの子となら仲良くなれるわ」

 

 こんな感じで生徒たちからの評判も徐々に改善されつつあったあるときのこと。

 

 ギーシュが、そんなルイズに対して……よりにもよって教室の中で、

 

「きみが空を舞う姿は、まるで流れ星のようだよ」

 

 ……などと、実に格好良く例えてしまったからさあ大変。

 

 彼とよりを戻した(と、周囲から噂されている)モンモランシーという名の少女が「また他の女に目移りして!」などと騒ぎ出すわ。

 

 ギーシュの言葉に心から同意した男子生徒がそれを取りなすわ。

 

 言われたルイズ本人が――気性の激しい彼女にしては珍しく、顔を赤くしてうつむきながらもじもじする姿を見たその他男子生徒が床を転げ回って悶絶するわの大騒ぎに発展。

 

 そんな中、周囲にとけ込みつつあった才人が

 

「流れ星っていうより、どっちかというと『彗星』って感じだな」

 

 などと発言し。

 

「スイセイって何?」

 

 というルイズの質問に対して、

 

「流れ星の中にも、キラキラ光る、綺麗で長い大きなしっぽがついてるやつがあるだろ? 俺たちのところでは、それを『彗星』って呼ぶんだ」

 

 と答えたところへ「確かにそれっぽい」という同意の声があがり。調子に乗った才人がさらに、

 

「だろう? それにルイズの髪ってさ、桃色だよな。俺たちの間では、赤い彗星は他のより3倍速いって相場が決まってるんだ。近い色の髪色のルイズに『彗星』の二つ名はピッタリだと思うぜ」

 

 ……などとまたハルケギニアの人間には全く意味のわからないことを言って辺りを騒然とさせたところへ、さらに割り込んできた太公望が、

 

「わしのところでは彗星のことを『箒星(ほうきぼし)』とも呼ぶぞ」

 

 と、口を挟んだ結果。

 

「それだあああああ!!」

 

 という男子全員の意見一致をみることとなった。

 

 ただ、ここまでなら二つ名が変わるほどのことではなかっただろう。だがしかし……そこでまた才人が余計なことを付け加える。

 

「また俺の国の話で悪いんだけどさ、彗星……タイコーボーと俺の父さんがいた国だと、箒星だっけ? それはさ、何十年も、ずっと空の上にある世界を旅してるって言われてるんだ。で、一度消えても何年かするとまた帰ってくる。その星に向かって一緒に将来を誓い合った恋人同士は、幸せになれるっていう伝説があるんだぜ」

 

 などという、いろいろと間違った解釈がまぜこぜとなった話を出したせいで、今度はそういうロマンティックな話に弱いルイズをはじめとした女子生徒達から「それ素敵!」といった声が出て。遂には、ルイズの真似をして〝念力〟で箒を浮かせ、空を飛ぼうとする者達が現れた。

 

 しかし、これはもともとルイズの『才能』が可能とした技術であり、他の者にはせいぜい浮かんだ箒に座るのが精一杯であった。故に、いつしかルイズには『箒星』の二つ名が冠されることとなったのだ。

 

(わしのところでは、箒星は不吉の前兆なんだが)

 

 とは、空気の読める太公望には口が裂けても言えなかった。

 

 

 ――彼らふたり以外にも、変化は訪れていた。

 

 まずはタバサ。彼女は、太公望と同じ時間に起床し、彼と共に本塔の屋上で瞑想を行うようになっていた。

 

 澄んだ空気の中、正しい形で『感覚』を研ぎ澄ますための訓練。これまでは騎士や狩人、あるいは刺客としての感覚に頼っていた彼女であったが、そこへ周囲に満ちる〝力〟の流れを掴む方法を付け加えようというわけだ。

 

 これらを併せることで、最終的にはルイズや太公望が行っている『空間座標指定』による魔法の発動を行えるようになることが、彼女にとって現時点での最大の目標。実際これができるようになれば、ある意味『スクウェア』へ昇格する以上の価値がある。

 

 キュルケは〝力〟のコントロールを。ギーシュは『太公望著・兵の動かし方基本編』なるマニュアルを渡されてそれを読み、学んでいた。

 

 双方共に基礎の基礎であったが、特に〝力〟のコントロールについては、これまでハルケギニアにはなかった概念であったため、キュルケにとって非常に価値あるものとなり。少しずつではあったが1日に放てる魔法の最大数が増えつつあった。

 

 そしてギーシュ。彼は軍学の基礎について、王国元帥たる父の薫陶を得てはいたものの、それはあくまでメイジ専用。平民の兵の動かし方についてはほとんど無知に等しかった。

 

 そこへ『ワルキューレ』を運用する上で参考になる、しかも――ギーシュ本人は知らないことだが――地球の歴史において、後世の軍学に多大なる影響を与えた人物直筆のマニュアルという、コレクターからしたらまさに垂涎もののアイテムを授けられ、さらにそれを読んだことで雷鳴に打たれたかの如き衝撃を受けた彼は、なんと才人に一撃を入れられるほどにまで成長していた。

 

 全員が少しずつ、それぞれの『道』を歩んでいる。

 

 ――以下、そんな日常の一コマである。

 

 

○●○●○●○●

 

 その日。魔法学院の教師であり、優秀な〝風〟の使い手にして『疾風』の二つ名を持つ『スクウェア』メイジのミスタ・ギトーが教壇の前に立ち、授業を行っていた。

 

 彼は自分の系統である〝風〟に、誇りを持っていた。だが、それが強すぎるがために、あまり生徒たちからの評判がよくない教師でもあった。

 

「最強の系統が何であるか知っているかね? ミス・ツェルプストー」

 

「〝虚無〟じゃないんですか?」

 

 その答えを聞いたギトーは、鼻で笑った。

 

「伝説の話ではなく、現実的な答えを聞いているんだ」

 

 その言い方にカチンときたキュルケは即座に反論をしようとした。ところが、その前にギトーは別の人物を指名したのだ。

 

「では、ミスタ・タイコーボー。君はどうかね? もちろん東方から来たメイジの視点からでよろしい、是非その答えを聞いてみたい」

 

 ギトーは当然、太公望が〝風使い〟であることを知っている。例のフーケ事件の際に学院長のオスマン氏からそう紹介を受けているからだ。

 

(ったくこの先生は……言いたいこと丸わかりだよ)

 

 教室の空気がそんな色に染まりかけたその時、太公望は口を開いた。

 

「そうですのう……ここは〝風〟と答えるべきなのでしょうな」

 

 ギトーは、実に満足げな笑みを浮かべる。さすがは同じ風のメイジ。よくわかっている。東方でもその考えは変わらないのだな……と。

 

「さて……その上で、何故〝風〟が最強であるのか。それについて、話をさせていただいてかまわぬでしょうか? あくまで持論ですが」

 

「もちろんだ。東方のメイジから話を聞ける機会はそうそうはないからな」

 

 真剣な表情になったギトーに対し、

 

「それでは失礼して……」

 

 と一言断りを入れると、太公望は改めて語り始める。

 

「まずは、結論から先に言わせてもらいますと。風の系統は……『最強』にして『最弱』である。わたくしはこのように考えます」

 

 最強にして、最弱? 突然何を言い出すんだ。ギトーは目を剥いた。生徒たちもいつもとは全く違う展開に、これからどうなるのかを期待した。

 

「風は、時には己を守る盾となり、時には敵を打ち払う矛となります。しかし、他の系統に比べ、その万能さが故に使い手を選ぶのです」

 

 使い手を選ぶという言葉に思うところがあったのか、ギトーは表情を改めた。

 

「ふむ……続けたまえ」

 

「例えば自分を狙う敵に囲まれたとします。このとき盾と矛、いったいどちらを出せばよいのか。風系統は、そのどちらも出せる……故に状況を的確に判断し、より良い選択を行うことを常に迫られる。そこに迷いは許されない」

 

 これが〝風使い〟に付きまとう最大の問題です。そう語る太公望。

 

「もちろん、全てを吹き飛ばすだけの強大な〝力〟があるメイジであれば攻撃一辺倒でも構わないのかもしれません。しかし、残念ながら全ての風メイジが、そう……『スクウェア』といった高みに到達できるわけではありません」

 

「その通りだ。私も、ここに至るまでは本当に苦労したからな」

 

 そう言って遠い目をするギトー。

 

「よって、そこに至るまでの間は常に最良の選択を迫られ続ける。当然、その選択に必要なものは……ギトー先生でしたら、もちろんおわかりですな?」

 

 と、ここでギトーへ言を向ける太公望。そして、それに対して大きく頷き、持論を展開しはじめるギトー。

 

「君が最初に言った状況に対する的確な判断力と、どのように〝力〟を使うべきであるのかを常に考え、正しく実行するための知恵と技術、そして応用力だ」

 

 その言葉を聞いて満足そうに頷く太公望。

 

「さすが先生、まさに仰る通りです。よって……それらを持たぬ者は〝風〟を使いこなすことができず、判断に迷い……自滅する。つまり『最弱』となるわけです」

 

 ある意味、やるべきことがほぼ決まっている他の系統に比べ、多くのことができるがために取捨選択の即断力が必要となる。よって、正しく運用する上での難易度が圧倒的に高い。ゆえに風系統は使い手を選ぶ――そう言った太公望はさらに語り続けた。

 

「我が国では、古来より風は叡智の象徴とされています。風は知恵を運び、ひとを導くものである……と。そういった意味では教師という『道』を選択したギトー先生は、まさにその体現者ということになりますな」

 

 ピクリとギトーの口端が上がる。思わず笑みを浮かべそうになったのを、必死でこらえているといった表情だ。それを見た太公望は、まとめにかかった。

 

「そう……風系統とはまさしく『知恵ある者』の象徴!」

 

 バンッ! と、机を叩いて力説する太公望に、隣の席に座っているタバサが同意するようにコクコクと頷いている。ギトーの両手がプルプルと震えている。その他、風系統に属する生徒たちも皆一様に胸を張っている。

 

「万物の事象を学び、そしてそれを元に知恵を出すことによって! 他系統に比べ圧倒的な汎用性を誇るが故に!! たとえ元の〝力〟が弱くとも使い手次第でいくらでも『最強』に近付くことができる素晴らしき系統! それが〝風〟ッ!!」

 

 腕を高く挙げ、周囲を見回した太公望は、最終結論を叩き出した。

 

「つまりッ……風系統、最ッ高!!」

 

 そう大声で叫んだ太公望。そしてそれにつられるように、教室内の風系統メイジたちが、次々と雄叫びを上げはじめた。

 

「風、最高!」

 

「風こそ最高!!」

 

「風は最高」

 

「風!」

 

「か~ぜ!!」

 

 もはや大合唱となって教室中を包み込んだそれは、教師であるギトーまで巻き込んだシュプレヒコールとなった。『最強』ではなく『最高』という話に見事なまでにすり替わっているのだが、場の雰囲気に飲まれ誰も気がついていない。

 

 そもそも、系統の強さは地形やその他状況によって常に変わるので、どれが『最強』であるのかを語ること自体がおかしいのだ。『最高』ならばあくまで好みの問題とでも言い換えられるので問題ないと判断し、無理矢理そういった空気を作った太公望であった。

 

 ……もっとも。メイジではなく、かつ地球のコンテンツ産業に毒されまくっている才人だけは、似たようなシチュエーションの物語をたくさん見て目が肥えていた。そのため、太公望が行った論説のすり替えと聴衆のコントロールに気付き「閣下また煽りまくって遊んでるし」などと、ひとり呆れ果てていたわけだが。

 

 だがしかし。当然の流れで――それに反対する者たちが現れる。もちろん、他系統に属するメイジたちだ。

 

「でも〝風系統〟って、あたしたち〝火〟に比べて地味よね」

 

 ピタリ。文字通り、場の空気が止まった。

 

「地味……だと……!?」

 

 ゆらり……と、太公望を始めとする〝風系統〟に属する者達の身体から、黒い何かが立ち上り始める。それでも流れは止まらない。

 

「そうよ! 〝火〟には〝風〟にない華やかさがあって最高だわ!!」

 

「〝土〟はあらゆるものを生み出す。これこそ最高の〝力〟だ!」

 

「〝水〟には、全てを包み込む寛容さがあるわ。〝水〟こそが最高よ!!」

 

 こうなってしまっては、もう収集がつかない。そして各系統ごとに固まっての大論戦が始まる。と、いってもあくまで子供の口喧嘩レベルで。

 

「よろしい、ならば〝風〟が最高たる所以を証明してみせよう」

 

「地味? このわしに地味と言ったな!?」

 

「オホホホホホ、情熱の〝火〟。火傷じゃすみませんことよ」

 

「ぼくの『ワルキューレ』の本気をみせてあげるよ」

 

「〝水〟って結構面白いことができるのよね……フフ」

 

 ……で。ならばチーム戦で勝負をつけようではないかという話になり、まだ系統がいまいち定まっていない人物の取り合いが始まった。

 

「ルイズはわしが育てた。よって〝風〟チームへ来るのだ」

 

「歓迎する」

 

「あら? 〝爆発〟だから〝火〟が相応しいのではなくて?」

 

「いやいや、あの見事な〝土煙〟の〝錬金〟があるのだから〝土〟だよ」

 

「『箒星』のルイズ。その二つ名はもともとは『彗星(すいせい)』から来ているわ。つまり、彼女は〝水〟こそが最適なのよ」

 

「いや最後強引すぎだから!!」

 

 思わず無関係な才人がツッコミを入れるほど、場はもうぐだぐだだった。

 

 ……それにしても太公望、ギトーとタバサという学院内の〝風〟メイジ2強に加え、さらに自分という極悪な風使いが所属しているにも関わらず、とどめとばかりにルイズをチームへ勧誘するあたり本当に容赦がない。

 

 さて。そんなぐだぐだかつとんでもない大騒ぎをしていれば、当然の如く他のクラスにとっては大迷惑以外の何者でもないわけで。

 

 あまりのやかましさに、とうとう堪忍袋の緒がブチ切れた隣のクラスを受け持つ『赤土』シュヴルーズが乱入。全方位に向けて粘土弾を解き放つというとんでもない暴挙の末――ようやく教室内は静まり返り、その後には。

 

「なあ、実はあの赤土先生が『最強』じゃね?」

 

 という才人の感想の呟きと共に、ギトーの授業時間は終わりを告げた。

 

 ――なお、この事件がきっかけで、生徒間におけるギトーの評価が「実は、結構ノリのいい先生?」というものに書き換わった結果、授業を受ける者たちの空気がやや穏やかなものとなり。

 

 それに気をよくしたギトーの態度もまた、少しずつ柔らかくなっていくという、お互いにとって良い意味での『風の循環』が発生することとなった事実をここに記す。

 

 

 




原作で、ガンダールヴをガンダムと聞き間違えた男、才人なら言う!

このあたりから、大幅に原作から逸れます。
そのため、この時点ではお姫様来訪も滑りやすい方のお知らせもありません。



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第21話 雪風、軍師へと挑むの事

「ハルケギニアのメイジが予備の〝力〟を蓄えておかないのは何故だ?」

 

 これは数日前に瞑想を始める準備の最中、太公望がポロリと零した言葉である。それを聞いたタバサは、最初は彼が何を言っているのか、理解できなかった。

 

「何のこと?」

 

「いや、そのままの意味なのだが。普通に霊穴(パワースポット)とかあるではないか。どうして利用しない?」

 

 太公望曰く。世界の各地には『霊穴』(パワースポット)と呼ばれる〝力〟の溜まり場が存在し、そこで瞑想を行うことで自身の根源たる〝力〟を回復することができるらしい。しかも、休息や睡眠を取るよりも圧倒的に早く。

 

 さらに、そこに在る〝力〟を取り込み、自分が持つ本来の〝力の器〟の中とは別に予備として体内で循環させておくことで、より大きな事象を発生させることが可能になるのだとか。

 

「そもそもわしがずっとこの塔の上で瞑想しておるのは、ここがその霊穴に相当するからだ。おそらく魔法学院を建てようとした人物が、この土地が〝力〟の溜まり場であると気付いていて、その上でこのような設計をしたのであろう」

 

 魔法学院の5つの塔と、その周囲に張り巡らされた外壁が、大地から効率よく〝力〟を吸い出す――五芒星に見立てられた形に沿って建てられており、中央塔に集められた〝力〟が結集しているのだと太公望は語る。

 

「そういえば、このあいだガリアへ行ったときに上空を通り過ぎた湖……たしかラグドリアン湖といったか? あそこからも強い〝力〟を感じたのう。今度、暇なときにでもあそこで釣りをしながら〝力〟を蓄えるというのも悪くない」

 

 などと言いながら瞑想の準備に入った太公望。そんな彼の隣で、タバサは驚愕のあまり打ち震えていた。

 

 〝力〟を使わずに溜めておくだけならばまだしも、蓄えたり、あまつさえ予備を持つなどという概念はそもそもハルケギニアには存在していない。

 

 〝精神力〟の最大量は本人の資質と、メイジとしてのランクアップ時に増加するものだと考えられているからだ。しかし、彼にはそれができるのだという。さらにこの魔法学院がそれを前提に設計されていたという事実に驚いていたのだ。

 

 それはつまり……過去、ハルケギニアにもそういった技術が存在していたが、何らかの理由で失われてしまったということだ。当然のことながら、タバサはこの話に飛びついた。

 

「教えてほしい。〝力〟の蓄え方と、予備の循環のさせかたについて」

 

「なんだ、まさか本当に知らんかったのか!? 別にかまわぬが……」

 

 そう言うと、ちらりと下のほう――食堂の方向に目を向ける太公望。

 

「本日の日替わりデザートを進呈する」

 

「よしわかったこのわしに全て任せろ」

 

 ……こうして。遙かなる昔に失われた技術は、その価値にも関わらず、実に安い値段でハルケギニアの地へ復活することとなった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから数日後。

 

 ついにタバサの念願である、太公望との対戦が叶うことになった。太公望が「ようやく準備が整った、3日後に模擬戦をやるぞ」と通達してきたからだ。

 

 ところが、その日が近付くにつれてタバサの胸に不安が押し寄せてきた。

 

(今のわたしがまともに彼と戦った場合、そもそも勝ち目があるのだろうか?)

 

 ――わしの本気だ。覚悟はいいか?

 

「タイコーボーは、あの時……確かにわたしにそう言った」

 

 しかも、これまで見せてこなかった『切り札』をタバサ限定で開示するつもりらしい。異端とまで言うからには、相当変わったものであると覚悟しておかなければいけないだろう。

 

 それを考えると、タバサはより心配になってきた。そもそも彼女は頑なに〝力〟を追い求めてこそいるが、別に戦い自体が好きだというわけではない。あくまで自分の実力を上げたいがために、太公望との模擬戦を求めただけなのだから。

 

(こんなとき、彼……タイコーボーならどうするだろう)

 

 ふと、そんな思いがタバサの内に浮かんだ。そこで彼女は彼のように、考えることから始めることにした。

 

 戦いにおける基本――それは、彼我の戦力差をしっかりと認識すること。

 

 タバサはまず徹底的に自己分析を始めた。手持ちの魔法についてだけでなく、太公望から教わった『力のプール方法』によって、これまでよりも手数が増やせることを念頭に置きつつ。

 

 そして、彼女は次の段階へ移行した。敵――対戦相手である太公望の能力について、思い出せる限りを手元の羊皮紙に書き出してゆく。

 

 

 ・鋭い敵観察能力、及び解析能力を持つ

 

 ・元軍人、国軍指揮の経験有り(単独戦闘も可能)

 

 ・風の『スクウェア』

 

 ・触媒があれば〝火〟も使用可能(トライアングル程度? 要調査)

 

 ・ハルケギニアの常識とはかけはなれた形で魔法を使用する

 

 ・〝念力〟使用で、風竜以上の速度で飛行可能

 

 ・同時に4つまでの魔法を展開可能(さらに多い可能性有)

 

 ・正面以外の方向から『空間座標指定』による攻撃が可能

 

 ・『瞑想』によって〝力〟をさらに蓄えている可能性大

 

 ・近接格闘技の達人(何故か飲酒によって強化される)

 

 ・非常に高い回避能力を持つ(トリッキーな動きで翻弄)

 

 ・出身地特有の〝場〟(フィールド)で相手の〝力〟の流れを感知可能

 

 ・現在に至るまで本気を出していない。つまり全能力上昇の可能性大

 

 ・本気時に使用する『切り札』が存在する(能力不明)

 

 

「……これで才能がない? シュウのメイジはみんな化け物……?」

 

 タバサは本気で頭を抱えてしまった。正直、まともに彼と戦った場合――現時点で集めうる情報だけでも勝てる気がしない。

 

 まず、飛ばれた時点でアウト。間違いなく空から魔法を撃たれる。しかも『複数同時展開』と『空間座標指定』持ちのため、こちらの攻撃が届かない場所から呪文が飛んでくるだろう。

 

 次に、接近されたらアウト。ほぼ確実にあの格闘術で杖を奪われ終了。

 

 さらに、距離を取られてもアウト。これは空中戦とほぼ同義。

 

 おまけに本人の回避能力がとてつもなく高いため、先手を取れても避けられた上に反撃を受ける可能性大。

 

 仮に、不意打ちをしようとしてもまずアウト。ほぼ間違いなく接近を察知された挙げ句、反撃を受ける。下手をすると『空間座標指定』でこっちが先に不意を打たれる。

 

 最後に、正面からの力押しもアウト。そもそもメイジとしてのランクが違う。そんな真似をすれば、逆に押し切られて終わってしまうだろう。

 

(タイコーボーなら、たとえエルフと真正面から戦っても普通に完封しそうな予感がするのはわたしだけ……?)

 

 タバサは改めて戦慄した。自分の〝使い魔〟たる彼の能力に。しかも、戦いが基本的に嫌いであるため、本気を出していないのだというから怖ろしい。ハッキリ言って、彼に対抗できるメイジがいるとしたら――それは伝説の『烈風』カリンそのひとくらいではなかろうか。

 

「こういう圧倒的強者を相手に戦うとき、彼ならどうする?」

 

 タバサはさらに考えた。と――ここであることに気がついた。太公望の基本。あのコボルド相手にすら、彼はそれを持ちかけようとしたではないか!

 

 

○●○●○●○●

 

「よしよし、よく気がついたな。まずは第一段階合格だのう」

 

 部屋へ戻ったあと、タバサは早速太公望へ交渉を申し入た。それに対する彼の返答がこれだ。

 

「あきらかに格上であるわしに対して、真正面から挑みかかろうとする時点で間違いだからのう、その選択は正しい。で、どういった話がしたいのだ?」

 

「ハンデ戦を申し込みたい」

 

 そう頭を下げたタバサへ。

 

「ふむ。内容と、それに対する対価は?」

 

 太公望は静かに答えた。どうやらハンデの内容と対価によっては受け入れてくれるらしい。

 

(それなら、まずは彼が持ち、かつハルケギニアのメイジにとって驚異的な()()を封印してもらおう。対価についてはデザートでいいのだろうか? いや……ちょっとここは彼を見習って、出方をうかがってみよう)

 

 タバサは、じっと太公望の目を見て言った。

 

「『複数同時展開』の封印。対価は……第一段階合格だというわたしへのご褒美」

 

 それを聞いた太公望は目を見開いた後――大声で笑った。

 

「かかかか、面白い! わしはそういうやりとりが好みなのだ。受け入れよう。第二段階合格だ。で、他にはもうないのかのう? ああ、わかっているとは思うが同じ手はもう通じぬぞ」

 

 タバサはほっと胸を撫で下ろした。下手にあそこでデザートを材料に出すよりも、こういうやりとりのほうが彼の性格的に喜ぶのではないか。そう考えた末の発言に、うまく乗ってくれた。それならば、次にすべきことは……。

 

「『空間座標指定』による魔法展開を封印。対価は……明日のデザートを1個追加」

 

「よかろう、受け入れようではないか」

 

 これでだいぶ楽になった。さすがにこれ以上は受け入れてくれないだろう。それでは改めてルールの確認を。そうタバサが考え、行動に移ろうとしたそのとき。太公望がふいに口を開いた。

 

「では、今度はこちらから交渉を申し込みたいのだが」

 

「内容と、対価による」

 

「うむ。試合開始前の条件として、お互いの距離を200メイル以上あけること。なお、これに対する対価は……あとふたつだけ、わしに備わっていると思える〝能力〟のうち、いずれかを封印して構わぬ」

 

 この内容に正直タバサは驚いた。距離を開けるだけであと2つ封じていいのか――!

 

(ここは飲むべき? いや、よく考えよう。ここで重要なのは数じゃない。あの彼がわざわざ指定してきたということは、つまり距離を重視しているのだ。それなら……)

 

「条件付きなら受け入れる」

 

「ほう、それはどのような?」

 

「距離を100メイルにしてほしい。ただし、封印する能力はひとつで構わない」

 

 それを聞いた太公望は、顎に手をやり……少し考え込んでいた。やはり、距離がポイントだったのだろうとタバサは思った。

 

「ぬう……まあよかろう。では、封印したいと思う〝能力〟を提示するのだ」

 

 太公望は腕を組んで考え込んでいる。思った以上に距離が重要だったらしい。最初の『2つ』という数に乗らなくて正解だった。最後のひとつ……ハッキリ言って、断られる可能性大。でも、やってみる価値はある。覚悟を決め、タバサは踏み込んだ。

 

「あなたの〝風魔法〟を封印してほしい」

 

 この申し入れに太公望は破顔し、笑いながらこう答えた。

 

「そりゃまあ、そうくるのが当然だろうな。あきらかにわしが持つ最大の〝能力〟だからのう。よかろう、受け入れようではないか。これで交渉は終了だ。では、改めてルール確認に入ろうか」

 

 タバサは本気で驚いた。まさか受け入れられるとは思わなかったのだ。しかも、あきらかに彼の中では想定していた内容らしい。

 

 しかし、これで本来彼が苦手とする属性にして、限定条件つきの〝火〟メイジとして戦わせるに等しい条件まで落とすことができた。この状態なら、最も怖いのは彼に接近されることだけだ。そこさえ気をつければ何とか戦いに持ち込めるだろう。彼女はそう判断した。

 

 ――そして、彼らはルールの設定を行った。

 

 

 ・1対1で戦う

 

 ・互いの地形に不利が生じないよう、見通しのよい平原で行う

 

 ・制限時間はなし

 

 ・相手を降参、あるいは気絶させたら勝利とする

 

 ・開始時、お互いの距離を100メイル開ける

 

 ・交渉によって決めた封印を破った場合は太公望が即座に敗北となる

 

 ・お互いに、位置についたらいつ仕掛けてもよい

 

 

 ――設定の結果。以上が、今回のハンデ戦条件となった。

 

 交渉終了後。部屋を出て行ったタバサを見て、太公望はニヤリと笑った。

 

「ふぅむ……年齢の割にはなかなかやると言いたいところだが、まだまだ甘いのう。今回の交渉における最終段階合格は、残念ながら出すことはできぬな」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そしてハンデ戦当日の夜。

 

 誰にも見られていないことを確認したふたりは、前もって探しておいた場所――開けた平原であり、かつ近くに民家などがない場所へと移動した。

 

 その途中で、タバサにはひとつ気になったことがあった。

 

「タイコーボー。それは何?」

 

 太公望の腰に、重そうな布袋が4つ――それぞれに赤・青・黄・緑の可愛らしいリボンがあしらわれたものが括り付けられていたからだ。

 

「ああ、ただの(おもり)だ。別にこれを使って戦ったりするわけではない。気になるなら、中を見せても構わぬぞ」

 

「興味ある。見せてほしい」

 

「中身を取り出してもよいが、ちゃんと元入っていた袋へ戻すのだぞ」

 

「わかった」

 

 タバサが早速中身を取り出すと、そこには煉瓦(れんが)が入れられていた。全ての袋に、それぞれ1個ずつ入っている。

 

〝魔法探知〟(ディテクト・マジック)を試しても?」

 

「もちろんかまわぬぞ、試合前に確認するのは当然だからのう」

 

 本人の了承を得て、タバサは早速〝魔法探知〟を唱えた。ふたつの煉瓦には何の反応もなし。残りの2個に〝固定化〟がかけられている他は、本当に何の変哲もない煉瓦であった。念のため、腰の布袋についても調査したが、こちらもただの袋であった。

 

 なんのために、わざわざ錘などくくりつけてあるのだろう……そう訊ねたタバサであったが、さすがにそこまでの情報は開示してもらえなかった。つまり、何らかの理由があって太公望はそれを持ち込んでいるのだ。

 

 それにしても。あんなものを4つもくくりつけていたら近接格闘をする上でも、全体のスピードも相当落ちてしまうはず。もしかして、さらにハンデを背負ってくれようとしているのだろうか。思考の淵へ沈み込もうとしていたタバサへ、太公望が声をかける。

 

「それでは、そろそろ始めるかのう。お互い位置につこうではないか」

 

 ――こうして、ふたりの試合は始まった。

 

 太公望は、精神を集中し……『打神鞭』を構える。そして、その先に取り付けられた宝玉――彼最大の切り札・スーパー宝貝『太極図(たいきょくず)』に〝力〟を集める。

 

 フイィィィイイ……ン。という静かな音と共に『太極図』が起動した。それから、サァァァ……ッと文字――当然、ハルケギニアのそれではありえないものが列をなし、螺旋を描き、宙へ向けて流れるように書き記されていく。

 

「太極図よ! 支配を解き放て!!」

 

 太公望の号令と共に、並んでいた文字列が太公望を中心に、渦巻き状になって地面へ染み渡る。それからすぐに、彼だけの魔法にして〝場〟(フィールド)は完成した。その効果範囲は、約50メイル。

 

「ククク……相手との距離が100メイルもあれば、さすがにこの程度の範囲展開は余裕だの。さてタバサ……どうくるつもりかのう」

 

 一方のタバサはというと。太公望が宙に向けて何かしているのはわかったが、周囲が暗い上、距離があったために詳細まではわからなかった。輝く光のようなものが彼の周囲に消えていったところまでは見えていたのだが……しかし。

 

(このまま仕掛けるのは危険。少し様子を見たほうがいい)

 

 そう考えたタバサであったが……その『何か』以降、太公望は左手に持った杖を天に向けて掲げたまま、その場から全く動かない。

 

「おそらく、あれが彼の〝場〟。あそこに何かがある」

 

 それならば、そこから彼を出してしまえばいい。タバサは〝風の槌(エア・ハンマー)〟のルーンを紡ぐ。そして、太公望へ向けて打ち下ろした……だが。それは彼に届くどころか、はるか手前で消えてしまった。

 

「どういうこと!?」

 

 太公望は、相変わらずその場から動いていない。当然のことながら、風の流れも変わってなどいない。

 

「それなら……ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ!」

 

 再び遠距離から、今度は得意の〝風の氷矢(ウィンディ・アイシクル)〟を打ち出した……しかし。こちらは空中で、まるで砂の山が崩れるように、さらさらとかき消えた。太公望のほうはというと、相変わらずその場から移動してはいないが……左手の杖をまるで指揮棒のように軽く振りながら、何かを口ずさんでいる。まるで、唄うように。

 

 タバサは慎重に近付いて行った。そして、地面をよく見て気がついた。そこに何かが描かれていることに。ひょっとすると、これが彼の言っていた切り札にして〝場〟なのか。

 

 ――絶対にこれを踏んではいけない。

 

 彼女のこれまでの経験と、それらによって磨かれた勘がそう語っていた。よって、タバサは距離を取ったまま魔法を打ち続けた。しかし、やはりこれまで撃ったのものと同様、全て〝場〟に入った途端かき消えてしまった。

 

「まさか……ありえない」

 

 もしや……これは『遠距離からの攻撃を届かせないための場』なのか。それならば納得がいく。確かにハルケギニアでは異端とされる可能性がある。そして、彼があそこまで体術を鍛えている理由も。何故なら彼と戦うためには、この不思議な〝場〟を踏まずに側へ近寄り、近接攻撃を仕掛ける以外にないからだ。

 

 ――自分のペースに巻き込む。

 

(そうだ、召喚初日から一貫して彼が見せ続けてきたスタイル。まさしくこの〝場〟は、それを体現したものなのだろう)

 

 タバサはぎゅっと杖を握り締めた。

 

 わたしはお世辞にも近接攻撃が得意だとは言えない。だけど、ここまで来てそんなことは言っていられない。それなら――。

 

「イル・フル・デラ・ソル・ウィンデ……」

 

 タバサは〝飛翔〟のルーンを紡ぎ出した。空を飛び、太公望の側まで近づき〝風の槍(ウィンド・スピア)〟で仕掛けるために。

 

 そうして彼女は1メイルほどの高さに浮き上がり、高速で太公望へ向かって飛びかかろうとしたのだが……しかし。〝場〟の範囲へ入った瞬間。身体がまるで鉛のように重くなって墜落。全身を激しく地面へと叩き付けられた。

 

 そのままタバサは意識を失い、気絶してしまった……。

 

 

○●○●○●○●

 

「タバサ、大丈夫か?」

 

 ふいに目が覚めた時。タバサは自分の目の前に太公望の顔があることに驚いた。そして、彼が自分の身体を抱き起こしていたことに。

 

「試合は」

 

「おぬしの気絶により、わしの勝ちだ。どうだった? わしの()()は」

 

「……よくわからなかった」

 

 カッカッカ……と笑い声を上げながら太公望は言った。

 

「そうであろうな。初見であれを見切れる者はまずおらんからのう。まあ、それはともかく……部屋に戻って反省会をしようかの」

 

「反省会?」

 

「うむ。今日行った試合の内容について、話し合いをするのだ! そして、何が良くて、どこがいけなかったのかをしっかりと確認する。そのための模擬戦であろう?」

 

「確かに」

 

 タバサは頷いた。今まで行ってきた任務では、たとえやろうと思ってもこういったことはできなかった。太公望が召喚される前は常にひとりで戦い続けてきたし、前回一緒に着手した任務では、状況が状況だっただけに、そういった話し合いが持ちづらい雰囲気だったからだ。

 

 そういう意味でも、試合を行った価値がある。タバサは了承し……身を起こそうとして、ふいに気がついた。あれほど激しく地面に叩き付けられたというのにどこにも怪我がないどころか、痛みすら感じていないことに。

 

 立ち上がり、自分の身体を改めて確認してみる。全く異常はない。むしろ、なさすぎるといっていいくらいに。

 

「ああ、心配することはないぞ。おぬしの傷は、わしが全部癒しておいたからのう」

 

 どこも痛んだりはしていないであろう? そういって笑う太公望に、タバサは問うた。彼女は本気で驚いていたのだ。

 

「あなたは〝治癒(ヒーリング)〟も使えたの?」

 

「〝火〟以上に厳しい限定条件つきだがな。そういえば、これも見せたことがなかったのう」

 

 そう言って、再び笑う太公望の顔を見ながらタバサは思った。

 

 まさか、彼が〝水〟まで扱えるとは思わなかった。しかも、これほど完璧な〝治癒〟を行った後にも拘わらず、彼には全く消耗している様子がない。水メイジとして相当の実力がなければ、こうはいかないだろう。なるほど、ハンデとして〝風〟を封じられてもなんとも思わないわけだ。

 

(これで才能がないとか……)

 

 タバサはなんだか泣きたくなってきた。そして、思いを馳せた。その彼をして『才能がない』と言わしめるほどの実力者たちが集まるシュウとは、いったいどんな場所で、どれほど酷い戦禍に見舞われていたのだろうか――と。

 

 押し黙ってしまったタバサに太公望が声を掛けた。

 

「そろそろ部屋へ戻らぬか? ちと冷え込んできたことだし、厨房へ寄って温かい茶と、何か菓子でも用意してもらおう」

 

 ――タバサは頷いた。そしてふたりは、自室へ戻るべく空へと舞い上がった。

 

 

○●○●○●○●

 

「準備の仕方が間違っていた」

 

「ふむ。それはどういう意味でだ? タバサ」

 

「あなたの実力を完全に把握していなかったにも関わらず、調査が足りなかった」

 

 ニッと笑った太公望は、ポンポンと軽くタバサの頭を叩いた。

 

「その通りだ。まあ、そもそもわしはわざと自分を見誤らせるように行動しておるから、奥まで見抜くのは難しいだろうがな」

 

 ニョホホホ……と、笑って言う太公望。現在、タバサの部屋では『反省会』が開かれている真っ最中である。

 

「交渉を考えついたところまでは正解だったのだが……残念ながら、話の持っていきかたがちとマズかったのう」

 

 厨房からもらってきた紅茶とお菓子を楽しみつつ、太公望は答えた。

 

「話の持っていきかた、とは?」

 

「うむ、さっきタバサが自分でも言っておったであろう? わしに関する調査が足りなかった……と。そう感じていたのならば、何故聞かない?」

 

「えっ?」

 

「タバサは、いままでわしを見てきた結果から、自らハンデ戦を申し込む必要があるくらいに差があることに気がついていたわけだ。さらに、未だわしがさっぱり効果がわからない切り札を持っていると明言していた。ここまではよいな?」

 

 コクリ、とタバサは頷く。それを見て、一口茶を啜ると太公望は先を続ける。

 

「ならば! そこでいきなりハンデ戦を申し込むのではなく……わしが持つ〝能力〟について『今まで見せてもらっているもの以外についての情報を、ある程度開示してくれ』と切り出すべきだったのだよ」

 

 タバサは唖然とした。まさか、そういう方向からの指摘を受けるとは思わなかったのだ。いや、そもそも……。

 

「聞いたら、教えてくれたの?」

 

 そのタバサの問いに、太公望はニヤリと笑って頷いた。

 

「交渉の内容次第ではな。もちろん、対価や話の持っていきかたによって開示される情報の量は大きく変化したわけだが。もしもおぬしがそういう交渉に来たら、ある程度教えるつもりでおった。これはあくまで模擬戦なのだからな」

 

 そう語る太公望を前に、タバサは頭を抱えてしまった。正直、敵対する相手が情報を教えてくれるなど想像の埒外であったからだ。まあ、普通はそうだろう。タバサの反応が正常なのだ。

 

「わしの『切り札』を体験してみて、どう思った?」

 

「驚いた」

 

「それ以外には?」

 

「……怒らないでほしい。正直、怖かった」

 

 俯いて呟いたタバサに、うむ……と呟き返した太公望は、こう言った。

 

「相手のことを知らないということが、いかに怖ろしいか。今回のことで改めて理解できたのではないか?」

 

 頷くタバサ。過去の任務においても、そういった経験を積んできたから。

 

「逆に言えば、自分のことを出来うる限り悟らせないということ……そして周囲、また現状をしっかりと把握しておくことで、そのぶんだけ恐怖を抑えることができ――さらには敵から自分の身を守る効果を高めることができるのだ!」

 

「自分をよく知り、敵についてできるだけ情報を得る……それが大切」

 

「敵だけではないぞ。周りの地形、状況、その他にもよりたくさんの情報を持ち、かつ自分の手札を隠す巧みさ、それを活かせる力量を持つ者こそが最後には勝利する。たとえ、お互いの実力に差があっても、だ。ちなみにこれは、別に戦いに限ったことではない。取引交渉などでも同様だ」

 

 まあ、交渉も一種の戦いではあるがな……そう言った太公望は、さらに語る。

 

「そうだのう、例えば今回の場合であれば、手持ちの情報だけでなく、他人――特に、わしと直接戦闘経験のある才人から話を聞くだけでもだいぶ違ったであろう」

 

 その指摘にタバサは衝撃を受けた。確かにそうだ。今回は、つい自分の持つ情報だけで判断してしまっていた……太公望についていちばんよく知っているのはわたしだからという思いが、心のどこかにあったからかもしれない。

 

「ああ、ちなみに例の切り札の件だが。あれについては申し訳ないが、これ以上の情報を開示するわけにはいかんので、以後聞かれても絶対に答えないから、それだけは覚えておいて欲しい」

 

「異端の可能性があるからという以上に……それを隠すことによって、あなたが勝利する確率を上げる、そういうこと?」

 

 タバサの問いに、太公望は破顔した。

 

「そうだ。こればかりは、たとえ身内といえど教えられない。それほどのものなのだ。もっとも、そうでなければ『切り札』とは言えぬであろう?」

 

「理解できる」

 

「よし。ではもう1点。最後の取引で、わしに提示した『封印してほしい能力』についてだ」

 

 わたしが駄目元で封印を依頼した〝風魔法〟。それがいけなかったのだろうか。タバサは首をかしげた。

 

「わしが発した言葉の意味を、もっとよく考えるべきだったのう。わしは『わしに備わっていると思える能力』と言った。もしも、わしが同じ交渉を持ちかけられたら……さて、どう切り返したと思う?」

 

 タバサは首をかしげた。タイコーボーなら、なんと言う? それを考えろ……? タイコーボーの能力……彼なら……いや、まさか、さすがにそれはないだろう。でも……!

 

「魔法そのものを封じてほしい。そう持ちかけていた、と?」

 

「その通りだ。もしもその申し入れがあった場合、わしは限定条件をつけることで受け入れる用意があった」

 

 タバサはある意味、ここまでで一番の衝撃を受けた。まさかそんな交渉まで想定していたのか、彼は……と。

 

「ちなみに、その条件は?」

 

「『切り札』のみ使用してもいいなら、他の魔法は一切使わないというものだ」

 

 ……確かに、あの〝場〟と格闘術があれば、並大抵の者では勝てないだろう。あれはまさしく『切り札』だ。タバサはがっくりと肩を落としてしまった。

 

「まあ、そんなわけで。今回については最終段階合格は与えられなかった」

 

 惜しかったのう。そう言って笑う太公望。

 

 だが、タバサは彼が発した言葉の意味に気がついていた。

 

「今回? つまり、また試合を受けてもいいということ?」

 

「よし、ちゃんと今の言葉に気がついたな! 会話に神経を研ぎ澄まし、その『咄嗟の言葉の意味に気付く力』をさらに磨くのだ。やはりおぬしには、その才能がある」

 

 満足げにうんうんと頷いた太公望は、彼女にご褒美を与えることにした。

 

「以後『切り札』なしで挑戦を受けよう。もちろん、事前交渉もそれに含まれる。まあ、1ヶ月にせいぜい1~2度程度にはしてもらいたいところだがのう。あと、今月はもう終わりということで頼む」

 

「了解した」

 

「では、今夜はこのあたりで休むとしようか」

 

 その言葉で『反省会』はお開きになったのだが――タバサは、試合の内容についてはともかくとして、非常にためになるやりとりだったと満足してベッドに入り――それからすぐ寝息を立てはじめた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサが眠ったことを確認した後。太公望は寝床から抜け出した。

 

 例の赤・青・黄・緑のリボンがあしらわれた、ちょっと可愛らしい布袋と、その中に入れられていた煉瓦を取り出して調べ始める。

 

「ふむ、なるほど。やはりこういう結果になったか。赤は……うん、元通りの形に戻っておるな。青は……ふむふむ。黄色は……」

 

 ……そう。太公望はハルケギニアの魔法に対する『太極図』の効果の詳細を確かめる為に『平民の手によって作られた煉瓦・2つ』『錬金で作られた煉瓦・2つ』を用意し、さらにそれぞれ傷をつけてみたりと、色々実験していたのである。

 

 彼が必要としていた準備とは、これら袋と煉瓦を揃えることだったのだ。ちなみに、その過程で既に顔なじみとなっているメイドのシエスタに、

 

「これこれこういったものを用意してもらいたいのだ。材料については、当然こちらで交通費他の全費用を負担するので、申し訳ないが購入してきてもらえないだろうか。量があるので、数名一緒に連れて行き、手伝ってもらってくれ。そうだのう……手伝いは3人もおれば足りるであろう。人選はシエスタに頼んでもよいか?」

 

 と依頼した。シエスタは、それに笑顔で答えた。

 

「わかりました。無料で街へ行けるなんて、他の子も喜びますし」

 

「ちなみにこの袋についてだが、絶対に魔法のかかっていない材料で、全て手作りしてほしい。当然、別途報酬を支払うことによって礼をさせてもらう」

 

 そう申し入れた太公望に、慌てたのはシエスタのほうであった。

 

「え、そんな、そこまでしていただかなくても……」

 

「何を言う。普段とは別の仕事をしてもらうのだ。礼をするのは当然であろう?」

 

 と、太公望はポンと手を叩いてさらに続けた。

 

「わしとしたことが、肝心なことを言い忘れておった。この仕事や報酬については、他の者たちには絶対秘密にしておいてもらいたいのだ。つまり、口の堅い者を選んで連れて行ってもらいたい。頼んだぞ」

 

 シエスタは喜んでそれを受け――同僚のメイド3名を伴い、トリスタニアの街へ出かけてゆき、言われた通りの仕事をして太公望を喜ばせた。

 

 ――なお、手伝いをしてくれた者たちに申し入れた報酬の内容はというと。

 

 ・金貨5枚

 

 ・トリスタニアの街で流行っている店の最高級デザート

 

 だった。はっきり言って破格の報酬である。どのくらいの価値があるのかというと、金貨(エキュー)120枚で王都に住む平民ひとりあたりの1年間の生活費がまかなえる――と、言えばおわかりになるであろうか。

 

 さらに、貴族御用達の店のデザートつき。普段の彼女たちには到底口にすることなどできないものである。当然のことながら、喜んで飛びついた女性たちであった。むしろ、また何か仕事を頼んではもらえないかと期待している節すらあった。

 

 ちなみに、報酬のデザートを購入する際に、ついでに自分とご主人さまの分まで確保してきた太公望であった。

 

 そう――既に言うまでもないことだが、彼は甘味に対してとてもこだわりがあるのだ。

 

「やれやれ……系統魔法については、今まで見てきた内容からして、まず間違いなく無効化できるとは思っておったが『癒やしへの転換』もちゃんとやれて一安心だ。地球にいたころとほぼ同じ使い方ができそうで良かったわ。機会があれば、先住魔法とやらでも試してみたいところだが、近くに使い手がおらんのが問題だのう……」

 

 ――まあ、結論を述べるならば。この男、ご主人さまとの模擬戦にかこつけて『太極図』の試し撃ちをしていたわけである。仙人界No.1の腹黒と謳われていたのは伊達ではない。たとえ女子供が相手でも容赦のない太公望であった。

 

 だがしかし。ひとつだけ彼にも解けない謎が残った。

 

「ここまでの結果を見るに〝召喚〟の意思疎通能力と〝使い魔契約〟のルーンは消えとってもおかしくないはずなのだが……両方とも普通に残ったままなのは何故なのだろうか。これはもう少し検証が必要かのう」

 

 このふたつが消えなかった理由。それは――魔法でも科学でも解き明かせないもの。これについては、追々物語の中で語らせていただきたいと思う。

 

 

 




太極図ほんと反則。


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宮中孤軍
第22話 鏡の国の姫君と掛け違いし者たち


 ――タバサと太公望による『ハンデ戦』が終わってから、約1週間後。

 

 物語の舞台はガリアの王都リュティス東部の郊外に林立する宮殿群・ヴェルサルテイルの一画『プチ・トロワ』へと移る。

 

 薄桃色の大理石で組まれたその宮殿の一室で、ガリア王国の王女イザベラ・ド・ガリアが昼餐を摂っていた。

 

「この酒に料理……なんてまずいんだい。もう飽き飽きしてしまったよ」

 

 イザベラはそう言って形の良い眉根を寄せた後、脇の小テーブルに置かれていた豪奢な羽根扇子を手に取ると、口元を隠すように広げた。

 

「そうだねえ……どれにしようか」

 

 側に控えた侍女や召使いたちは、震えた。またしても虫の居所が悪いのであろうか、と。

 

 そう、この王女。機嫌が悪い時に見せる態度が本当にロクでもないのである。と、そのイザベラが周囲に控えるものたちを見回し始め、何度か小さく頷くような仕草をした後、指差した。

 

「そこのお前と、そっちのお前。こっちへ来るんだ」

 

 イザベラによって『ご指名』を受けた侍女ふたりは真っ青になった。周囲の者達は哀れな犠牲者に対して同情の視線を送っている。

 

「まずはそこのお前。奥にある果物籠と焼き菓子全部。それをわたしの部屋へ運びなさい。そっちのお前は厨房から絞りたての果実水を冷やしたものを、ピッチャーで持って来な。グラスの数は……4つだ。一国の王女たる者、同じ食器を何度も使い回すなんて真似はしたくないからね」

 

 そう言うと、イザベラは席を立った。指名された者も、それ以外の者達もほっとした。どんな難題を持ちかけられるのかと戦々恐々としていたのだから、それも当然である。

 

 ……と、部屋の外へ出ようとしていたイザベラが、再び口を開いた。

 

「そうそう、残った昼餐の料理は、お前たちがたいらげな。いいかい、残したりしたら承知しないよ! なにせ、国中から集められた腕利きのコックたちが作った料理なんだ。本来なら、わたしたち王族しか口にできないものなんだからね。わかったかい?」

 

 そして、今度こそイザベラは部屋の外へと出て行った。

 

「いやはや……どんな難題が持ちかけられるかと、冷や冷やしたよ」

 

「まったくだ。こんなすごい料理を残さず食べろ、なんて話なら大歓迎だ」

 

 テーブルの上に並べられた昼餐は、それはそれは豪華で……今ここにいる人数では食べきれないほどの量がある。

 

「だったら、そこに立ってる衛兵さんも呼んで、みんなで食べないか」

 

「それはいい考えだ」

 

 召使いたちは思わぬ役得に預かったと心から喜んだ――のだが。

 

 そこへ、ひょっこりと王女が顔を出す。

 

「言い忘れてたけど、食器を使うんじゃないよ? この宮殿にあるナイフやフォークは、王族専用なんだからね」

 

 金属食器(カトラリー)に手を伸ばそうとしていた者たちが凍り付く。

 

「さすがに手掴みで食べなさいなんて言わないけどさ……1時間以内に片付けを始めないと、大変なことになりそうだねえ。あはははははッ!」

 

 高らかに笑いながら去って行く王女を呆然としながら見送る侍従たちだったが、全員が大慌てで食器確保のために駆け出した。イザベラの言う通り、この後も行事は続く。急いで食事を終え、部屋を片付けなければ今度こそ何をされるかわかったものではないからだ――。

 

 

「あっはっは! まったく慌ただしい連中だねえ」

 

 イザベラはグラスに注いだ果実水を片手に昼餐会場を眺めていた――自分の部屋であって、そうではない場所から。そこへ、奥のほうから声がかかった。

 

「なぁイザベラよぉ。ちとこっち来て見てみろよ。面白ぇ事になってんぜ」

 

「え、本当? どれどれ……」

 

 イザベラは声のしたほうへ向かうと……その先にある『窓』を覗き込む。

 

「おほ! おほ! おっほっほ!!」

 

「な? 傑作だろ!?」

 

「なによ、あれ! あはははっ!! 積んだ皿を手で滑らせて全部割っただけじゃなくて……おまけに隣の棚にぶつかって……くくっ……中で食器が雪崩起こして……」

 

 イザベラを呼んだ者――青白い顔に長い耳を持った少年は、器に盛られた焼き菓子を手で掴めるだけ掴み取り、口へ放り込むと……それをバリボリと噛み砕きながら言った。

 

「その前はもっとすごかったんだぜぇ!? あのガキ、厨房のど真ん中ですっころんで、器の中身全部ぶちまけやがってよぉ。しかも、そいつがまた見事に料理長の顔面にクリーンヒットしやがってな……ククククッ」

 

「うそー! もうっ、最初からそっちを見ていればよかったわ!!」

 

「って。またやりやがったぜ、あいつ! 見てて本当に飽きねぇなぁオイ!!」

 

「あっはっは……あはははっ!!」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――時は、半月ほど前まで遡る。

 

「そう怖がらなくていいんだぜ……オレはお前の味方だ」

 

 突如引きずり込まれた部屋の中で、イザベラは目の前のエルフにそう告げられた。はじめは何を言われているのかわからなかった。

 

「あの『窓』を開けてオレを呼んだのは、オメーだろう? オレはこんな姿だからよ、怖がって騒がれちゃ面倒だと思ってな、こっちへご招待させていただいたと。まぁそういうわけだ」

 

 イザベラは戸惑いの表情を浮かべた。

 

(『窓』? ひょっとして、このエルフは……わたしの〝召喚〟(サモン・サーヴァント)のことを言っているの?)

 

「でだ。少しばかり話を聞かせてくれねぇか? 教えて欲しいことがあってな。もちろん、タダでなんて言わねぇ。オメーさえよければ、オレの〝力〟を貸してやってもいい」

 

 イザベラはだんだん落ち着きを取り戻してきた。もともと王族としての教育を受け、さらに裏仕事を一手に任される程の実力を持つ彼女である。状況判断は早かった。

 

(このエルフは、少なくともわたしを今すぐどうこうするつもりはないようだ。それに――わたしが希望するなら〝力〟を貸してくれるとまで言っている。あの、強大な〝力〟を持つといわれるエルフが……!)

 

 敬虔なブリミル教徒なら、異教徒かつ人類の敵であるエルフと会話しようだなんて思わなかっただろう。それも『始祖』の直系たる王族なら、たとえ己の命と引き替えにしてでも〝敵〟を討とうとしたはずだ。

 

 しかし、イザベラはその教義が故に幼い頃から苦しんできた。だからこそ、対話を選んだ。ある意味意趣返しとも言える。

 

 蒼髪の王女は改めてソファーの中央へ腰掛けると姿勢を正し、目の前の少年に向き直る。

 

「わたしはガリア王国の王女イザベラ・ド・ガリア。あなたを呼んだ者よ。よろしければ、お名前を教えていただけるかしら?」

 

「へぇ……本物のお姫さま(プリンセス)だったわけか。オレの名前は王天君。まぁよろしくたのむぜ。ククク、だいぶ落ち着いたみてぇだな。話……させてもらって、かまわねぇか?」

 

 イザベラは、頷いた。

 

 こうして、ふたりはお互いに語り合った。イザベラは〝使い魔〟を召喚するためのゲートを開く呪文を唱えたこと。

 

 王天君は、突如現れた『窓』によって攫われた自分の弟――『半身』というとややこしいのと、王奕(おうえき)がベースである自分のほうが当然年上なので、太公望を弟ということにした――を探していることを告げた。 

 

「あいつがこの世界のどこかにいるのは間違いねぇ。でだ、オメーに〝力〟を貸す見返りに、情報と食料を提供してくれねぇか? ああ、寝床は要らねぇ。こんなふうに自分で用意できるからな」

 

「あなたが貸してくれる〝力〟とは、どんなものなのかしら?」

 

 イザベラは王天君の〝力〟を見た。そして驚愕した。

 

 それは、部屋中に現れた数十枚を越える『鏡』。いや、正確に言うと『自分の姿が映らない窓』だろう。その中には――王宮のそこかしこで繰り広げられている光景が映し出されていたのだ。

 

「これがオレの〝力〟だ。この部屋は誰にも見えねぇ。だが、こっちからはこうやって、好きな場所を、好きな時に『窓』から覗くことができる。しかも、相手の声は全部筒抜けだ。どうだ? オメーが気に入ってくれたんならいいんだがな」

 

『使い魔は、自分の目となり、そして耳となる』

 

 これは素晴らしい『目』にして『耳』ではないか! イザベラは、すぐさま彼の価値に気がついた。その上で取引することにした。自分が呼び出した、このとてつもない〝力〟を持つ者――王天君を相手に。

 

 その後すぐにふたりは交渉を開始した。食料や情報の提供については全く問題ない。その見返りとして、イザベラは職務中以外の時間に、王天君の部屋からいろいろな場所を見せてもらうことを条件とした。

 

「オレは、絶対にこの『部屋』から出ねぇ。理由は……」

 

「その姿が目立つから、よね?」

 

「そうだ。あぁ、できれば口元と耳が隠れるような扇子を用意しておきな」

 

「それは何故かしら?」

 

「オレが気付いたことがあったら、オメーの耳元に小さな『窓』開けて教えてやれる」

 

「そんなことまでできるなんて! あなたって最高よ、オーテンクン!」

 

「イザベラよぉ。オメーもなかなか見所があるぜ。どうだ? オレ達は……」

 

「ええ、いいパートナーになれそうね。よろしく頼むわ」

 

 こうして彼らは手を取り合い『パートナー』となる。お互いを尊重するという意味合いで〝使い魔契約〟(コントラクト・サーヴァント)は行わないこととした。

 

「もしも、どっかのバカが『姫様にも使い魔が必要でしょうな』とか言い出しやがったら、オレが楕円の窓開けて、そっからフクロウでも飛ばしてやるよ」

 

「あら、それはいい考えね! その時はお願いするわ。ところで、あなたの好物って何かしら? この国でいちばん腕のいいコックに作らせて運ばせるから」

 

 こうして、似た者同士……結構すぐに打ち解けたふたりであった。

 

 ……で、時は現在へと戻る。

 

 『窓』の中を見てひとしきり爆笑した後、イザベラは以前から疑問に思っていたことを王天君に聞いてみることにした。

 

「ねえ、オーテンクン。思ったんだけど……あなたの〝力〟で、もっと遠い場所を見ることはできないのかしら?」

 

 そう。現在『窓』の中に映るのは、このプチ・トロワの中だけなのである。

 

「できなくもねぇが……まだ(あみ)を広げてる最中でよぉ」

 

「網って何かしら?」

 

 イザベラの質問に、爪を噛みながら王天君は答える。

 

「ああ、蜘蛛の網……っつってもお姫様にはわかんねぇか……この『窓』を開くには、そのための準備が必要でな。今、少しずつそれを作ってんだ。もうちっとでこの建物だけじゃなく、あの青い城の中も見えるようになるから楽しみにしてな」

 

「そうだったの。準備が必要なら、当然ね。楽しみにしてるわ」

 

 ……と、その時だった。とある『窓』から、おかしな声が聞こえてきたのは。

 

「ん、なんだ?」

 

「あれは侍女のひとりと……花壇騎士の男、かしら」

 

 『窓』の先に映し出された光景は、所謂「身分の差に屈しない愛」と称した、男と女のラブゲーム。誰もいない部屋の暗がり。ひっしと抱き合うふたり。その先には寝台が――。

 

「ここで、更に先の展開を見続けることもできるけど……これ以上セクシーな場面を実況したら、ここの年齢制限的にヤバくなくて? オーテンクン」

 

「ダメ」

 

「はあ……やっぱりそうよねぇ……つらいわぁ~」

 

「って、オイ。オメーの部屋に誰か向かって来てんぞ?」

 

「あらやだ、父上の伝令係だわ。何か指令書でも持ってきたのかしら? それじゃあわたしは仕事に戻るわね」

 

 そう言って、イザベラは『王天君の部屋』から外へ出て行った。

 

「王族ってなぁどこでも大変だねぇ。ま、オレは今のうちに網を広げておくか」

 

 こうして、ふたりはなすべき仕事に取りかかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。トリステイン魔法学院のとある一室では。

 

 やせぎすで小柄な少女がその身を椅子に預け、無我夢中で目の前の薬壺をかき回していた。

 

「まったく、全部あいつが悪いのよ……!」

 

 金色の巻き毛がところどころほつれ、額にはぐっしょりと汗が滲んでおり、口からは呪詛のような恨み言が出続けている。端から見ると、異教の怪しい儀式のようだ。

 

 彼女の名はモンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシ。タバサのクラスメイトであり、過去ギーシュとルイズたちが決闘をする遠因となった少女でもある。

 

 現在彼女が調合しているのはただのポーションではない。それは、禁断の秘薬。法律で作成と使用を禁じられているご禁制の薬だ。

 

「ほんっとにもう、どうしてこんな苦労させられるのかしら……!」

 

 香木をすり潰して作った粉薬や竜硫黄、蛇の抜け殻、マンドラゴラなどをかき混ぜた中に、肝心要の秘薬を少しずつ垂らしてゆく。

 

 この秘薬だけで彼女の小遣い1年分と、他の女生徒たちに自ら調合した香水を販売し、こつこつ集めた貯金の全てをこれに注ぎ込んだのだ。うっかりこぼしでもしたら泣くに泣けない。

 

「……ついに、完成したわ」

 

 モンモランシーは、できあがった魔法薬(ポーション)を慎重に手持ちの香水瓶の中へと注いでいく。

 

 モンモランシーがこの薬を作ったのには理由がある。万が一所持していることがバレたら、最低でも退学。国から厳罰が科せられると知りつつも、どうにも我慢がならないことがあったのだ。

 

「まったく。な~にが『君が空を舞う姿は、まるで流れ星のようだ』よ! あれだけわたしに愛してるだの、永遠の奉仕者だの言ってたくせに! あいつが浮気性じゃなかったら、こんなものを作る必要なんてなかったのよ!!」

 

 ――モンモランシーの悩み。それは彼氏の度重なる浮気だ。

 

 お相手の名はギーシュ・ド・グラモン。ふたりが付き合っていることは、ほぼ公然の秘密状態なのであるが、彼女はギーシュとよりを戻し、交際を再開していることを頑ななまでに認めようとはしなかった――それは何故か。

 

 本人のプライドもあるのだが、それ以上に問題なのがギーシュの浮気性だった。男に浮気されるなど、トリステイン貴族の娘として沽券に関わるのである。

 

 可愛い女の子が近くにいればついつい目をやってしまうのが男の性だから、ある程度は仕方がないとはいえ――時と場合、状況によってそこはグッと耐えねばならないのである。ところがギーシュは、そのあたりがまったくもってわかっていなかった。

 

「デート中に他の女に声かけるとか、ほんとありえないわ……」

 

 つい先日のこと。ふたりっきりで陽当たりの良いベンチに腰掛け、愛の言葉を囁いてもらっていたところへ1年生の女の子が通りかかった。途端にギーシュは立ち上がり、いきなりその娘に名前を聞いたのだ! モンモランシーがすぐ隣にいるのに、である。しかも――。

 

「あいつ……最近、やたらルイズと一緒にいるのよね」

 

 交際しているはずの自分よりも、他の女と過ごしている時間のほうが長い。

 

 ……あえてここでギーシュの擁護をするならば、彼はルイズと過ごしているのではなく、その使い魔にして護衛の才人と、訓練のために一緒にいる。ただ単にそれだけの話なのであるが……。

 

「なにが流れ星よ! なにが箒星よ! あの浮気者~ッ!!」

 

 恋する乙女は盲目とはよく言ったものではある……が。この場合、モンモランシーは同情されてしかるべきであろう。ハッキリ言って9割方ギーシュが悪い。残り1割はモンモランシーの、トリステインの女貴族特有のプライドの高さから来る「お互いの距離を縮めたいのに、プライドが邪魔をして、つい邪険にしてしまう」性質のせいであろうが。

 

 モンモランシーは、ここ1週間ほどギーシュの行動をじっくり観察した。その上で考えついた作戦に満足している。

 

(これなら自然かつ、さりげなく目的を達成することができるわ。あんたが悪いのよギーシュ! あんたが浮気なんかしなければ、わたしだって……)

 

 こうして彼女は、作戦を実行すべく行動を始めた。薄紫色の香水瓶を手にして――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――放課後・トリステイン魔法学院の中庭。

 

 ここ半月ほど彼ら――タバサ、ルイズ、才人、キュルケ、ギーシュの5名は、この場所に集ってそれぞれの訓練を行っていた。太公望は昼寝していることのほうが多かったのでカウントせず。

 

 才人はおもにギーシュと剣の訓練、その後余裕があれば太公望との組み手を。

 

 タバサはそれを見て『空間の感覚』を磨くべく神経を研ぎ澄ませ。

 

 ルイズは、箒よりも重いもの――現在は、ふたりがけのベンチを浮かせ。

 

 キュルケは最低限の〝精神力〟でもって、以前と同威力の魔法を撃つ。

 

 そして、それらが一段落あるいは休憩している者は、側に置かれたベンチ――ルイズが浮かせているものとはまた別のもの――に腰掛け、他の者の様子を見ていた。

 

「ギーシュが休憩に入ったら、さりげなくこのワインを持って行けば……うふふ、我ながら完璧な作戦だわ」

 

 ――激しい運動の後で喉が渇いているであろうギーシュに、例の魔法薬入りワインを手渡す。これがモンモランシーの考えた作戦だった。

 

(今ベンチに腰掛けているのはタバサとミスタ・タイコーボーのふたりね。もうそろそろ、ギーシュが戻ってくる頃だわ)

 

 狙うのはそのタイミングだ。モンモランシーは、虎視眈々と機会をうかがっていた。

 

「いよっしゃあ! これで俺の勝ちだな」

 

「くうっ! もう一撃入りそうだったんだがね……次こそは!!」

 

 そんなことを言いながら、ギーシュが戻ってくる。

 

(今だ!)

 

 モンモランシーはグラスを傾けたりしないよう、細心の注意を払いながらベンチへ近付いていった。ところが……ここで彼女にも、そして当人にも想像だにしていなかった事態が発生する。

 

「ふむ。だいぶ動きが速くなったのう、才人よ」

 

「へっへっへー、だろう? お前の顔面に一撃入れるまでもうすぐだ!」

 

「ワハハハハ、バカめ! そううまくゆくものか!!」

 

「なら一戦やってみるか?」

 

「ふふん、まあよかろう。吠え面かかせてくれるわ!」

 

 と、太公望は答えたものの。ここ数日の才人の伸びは実際凄まじいものがある。

 

(こやつ、本当に黄家の血を引いているんじゃなかろうか)

 

 などと、捏造かました太公望ですら疑いはじめたほどのレベルで成長している。

 

 未だ顔面どころかクリーンヒットすら受けていないが、さすがにそろそろお灸を据えてやらないと、また調子に乗り出すかもしれない。最初から泥酔拳で行きたいところだが、今日は酒を持って来ることが出来なかった――厨房の警戒レベルが上昇したからだ――はて、どうしたものか。

 

 と、そこへひとりの少女が近付いてきた。手にワイングラスを持って。

 

「おぬし、それはワインではないか? 悪いがちょっともらうぞ」

 

 そう言って太公望は少女――モンモランシーの手にあったグラスを素早く横取りすると、中身を一気に飲み干してしまった。

 

「ああーッ!!」

 

 思わぬ事態に悲鳴を上げたのはモンモランシーだ。しかし、まずい。このままここにいたら……()()を飲んだ彼に、わたしの顔を見られてしまう! 少女は慌ててその場から逃げ出した。

 

「いったいどうしたというのだ? いきなりで驚かせてしまったかのう」

 

 ぽかんとした様子で、モンモランシーが走り去る姿を見送った太公望。

 

「どうしたの?」

 

 そこへ声をかけてきたのは、先程まで隣に腰掛けていたタバサであった。

 

「ああ、それがの……ッ!?」

 

 タバサと目を合わせた瞬間。太公望はその場で硬直してしまった。身体から力が抜け、手に持っていたワイングラスを取り落とす。そしてグラスは、そのまま地面へ落ち――パリーン……と乾いたような音を立てて割れた。

 

「ううッ、こ、これ……は……」

 

 太公望は、その薬効に覚えがあった。強引に精神を塗り替えられるような感覚、そして鼻孔に漂ってくる蠱惑的な香りと痺れ……これは、まさしくかの女狐が得意とした〝魅惑の術(テンプテーション)〟そのものだった。

 

「ま、まさか、さっきの娘が持っていたものは――!」

 

 突如地面へと蹲り、頭を激しく振り始めた太公望の様子に周囲の者たちはただならぬものを感じて駆け寄ってきた。

 

「おい、大丈夫か!?」

 

「タイコーボー!」

 

「何があったんだね」

 

「ちょっと、しっかりしなさいよ!」

 

「いったい、どうしたっていうのよ」

 

 太公望は必死に〝魅惑の術〟に抵抗しようともがいた。だが、完全に無防備だったのと、体内に取り入れるという形でかけられてしまったせいか、普段であれば耐えられる術にうまく対応できない。

 

(このままではまずい。せめてタバサに……あの娘なら、もしこのままわしが倒れたとしても、うまく対処してくれるであろう)

 

 そう望みをかけて、口を開いた。

 

「何か薬……おそらく、魅惑系……精神を……書き換え……さっきの娘……」

 

 そこまでなんとか言い残した後、太公望の意識は闇へと落ちた――。

 

 

○●○●○●○●

 

「惚れ薬ぃ!?」

 

「ば、馬鹿! 大声出さないでよ……禁断の薬なんだから」

 

 ベンチに太公望を寝かせ、キュルケに介抱を頼んだタバサとそれ以外のメンバーは、太公望が言い残した『さっきの娘』という一言を手がかりに即座にモンモランシーを追い掛け、身柄を確保。現場へと連行した。

 

 そして、洗いざらい事情を吐かせた。取り調べを担当したのはタバサである。その身に纏う荒れ狂う吹雪のような雰囲気に飲まれたモンモランシーは、あっさり全てを語った。

 

 ギーシュの浮気性に悩んでいたこと。そして、高額の秘薬を手に入れ調合し、ご禁制の惚れ薬を調合したこと。それを飲ませれば、彼の浮気が一時的にでも治るかもしれないと考えたこと。しかし、予想外の事故でそれを太公望が口にしてしまったことを――。

 

 ギーシュは感動していた。まさか彼女がそこまで自分を想っていてくれたとは、これまで思ってもみなかったのだ。

 

「モンモランシー、そんなにまでぼくのことを……」

 

「ふ、ふんっ、別にあなたじゃなくても構わないのよ! 暇つぶしに付き合っていただけ。ただ、浮気されるのが嫌なだけなんだから!!」

 

 その台詞に呆れたのは才人とキュルケだ。

 

「暇つぶしの付き合いにメチャクチャ高い、しかもご禁制の薬使うんだ?」

 

「これだからトリステイン貴族は……プライドだけ無駄に高くて自分に自信のない女って、困ったものだわ。そうは思わなくて?」

 

 しかし。そんな彼らのやりとりとの裏で、タバサの纏う冷気はどんどんと強まっていった。

 

 ……実は彼女は、あるトラウマを抱えていた。そういう意味で、今回の事件はまさしく『地雷』そのものだったのだ。

 

「それで?」

 

 聞く者全てが凍えるような声で、タバサは呟いた。

 

「それで、って……?」

 

「彼が飲まされた薬には、具体的にどんな効果があるのか詳しく述べよ」

 

 モンモランシーは心の底から震え上がった。こんなタバサの姿はこれまで全く見たことがない。以前、同級生から手酷い侮辱を受けた際に決闘で黙らせたという噂を聞いたことがあった。しかし普段は読書好きの物静かな優等生という印象しかなかった。

 

 なのに、どうしてわたしは竜の(あぎと)に放り込まれたような錯覚に囚われているのだろう……。

 

 冷や汗をだらだらと流しながらモンモランシーは答えた。

 

「の、飲んだあと、いちばん最初に目を合わせたひとに強く魅了される効果があるわ。それ以外は一切目に入らないほどに」

 

「……最初にミスタと目を合わせたのは誰だね?」

 

「おそらくわたし。それから彼は倒れ込んだ」

 

 そう呟いたタバサの声に、才人は青くなってしまった。

 

「おい、それマズくねーか。あいつロリコンになっちまうぞ」

 

「ロリコンって何かしら?」

 

 才人の言葉が聞き慣れない言葉だったため、質問したキュルケ。

 

「ロリータ・コンプレックスの略。小さな女の子しか愛せない男のこと」

 

 うわぁ……と、周囲の空気がなんともいえないものに変化する。しかし、唯一事情を知らないモンモランシーがぽかんとした顔をしていた。

 

「え? でもミス・タバサと彼って、せいぜい1つか2つしか違わないでしょう?」

 

 このモンモランシーの言葉を聞いた彼らは、互いに目を見合わせた後、頷き合った。

 

「事情が事情だし、この際仕方がないと思うわ」

 

「え、何よキュルケ。どういう意味?」

 

「彼は見た目通りの年齢ではない」

 

「子供みたいな顔してるだろ……あれで27歳なんだぜ……」

 

「馬鹿ねえ、人を担ぐのもたいがいにしなさいよ」

 

 そう言って軽く笑ったモンモランシーは、すぐに周囲の様子に気がついた。皆、一様に黙り込んでいる。

 

「冗談……よね?」

 

「冗談だったらどれだけ良かったか」

 

「嘘よおぉぉぉおおおおお!!!!」

 

 と、そんなモンモランシーの大声で気がついたのか、太公望がベンチの上で身じろぎすると、ゆっくりと上半身を起こした。

 

「なぜだ……? どうしてわしは、こんなところで寝ておったのだ?」

 

 うげ、起きちゃったよ……そんな空気が辺りを支配する。だが。

 

「どうした? みんな揃って。わしの顔に何かついておるのか? しかし、いつのまに寝ておったのだろう……最近の疲れが溜まっておったのだろうか」

 

 そんな彼の様子は、普段と全く変わりがないように見える。

 

「もしかして、効いてない?」

 

「そんな馬鹿な! わたしは調合に失敗なんてしてないわ!!」

 

 試しにタバサが近付いてみても。

 

「うーむ。今日は早めに休んだほうがよさそうだ。かまわぬか?」

 

 などと聞いてくる始末。どこからどう見ても、普段と変わらぬ太公望だ。

 

「もしかすると、ミスタのことだから〝抵抗(レジスト)〟に成功したんじゃないかしら」

 

 安心したわ……と続けたルイズの言葉に、全員が心から同意した。ところが。そんな穏やかな空気は、太公望が発した次の台詞によって、粉々に打ち砕かれることとなる。

 

「そろそろ日も陰ってくるであろう。さあタバサ、兄と一緒に部屋へ戻るのだ」

 

 ――ん? 今、タイコーボーさん何て言いましたカ? 全員が石になった。

 

「タイコーボー、あなた……今、何て言ったの?」

 

 タバサは震える声でそう訊ねた。

 

「む? どうしたのだタバサ。いつもは兄さまと呼んでくれるではないか。それはともかく、部屋へ戻ろう。おぬしが風邪でもひいたら困る」

 

 全員、石から青銅に変化した。そんな空気を察することなく、

 

「どうしたのだ、皆も早く戻ったほうがいいと思うぞ」

 

 などと言葉を続ける太公望。

 

「あきらかに惚れ薬が効いているみたいね……方向性がおかしいけど」

 

 キュルケの言葉に、相変わらず嘘よー! と、絶叫するモンモランシー。と、そこへまた才人が余計な一言を付け加えた。

 

「まさか、タイコーボーってシスコンだったのか!?」

 

 唖然とした才人。これまた聞き慣れない言葉に、今度はギーシュが反応した。

 

「シスコンとは何だね?」

 

「シスター・コンプレックスの略。妹とか姉のことを溺愛する奴のこと」

 

 そんな発言をよそに、タバサへ向かって「安心してよいぞ、全てこの兄に任せるのだ!」などと言い続けている太公望を見た一同は、こう思った。

 

「……シスコン?」

 

「シスコン……」

 

「シスコン!!」

 

 だがしかし。タバサだけが、その流れに乗っていなかった。

 

 ――今、わたしの目の前にいるタイコーボーは。いつもの彼ではなくなってしまった。よりにもよって……〝魔法薬〟のせいで。

 

 タバサの心は凍り付いた。その後……激しい怒りに囚われた。それは、ここ数年の間ついぞ感じたことのないほどに大きなものだった。この瞬間、モンモランシーが踏み抜いたものは地雷から大型地雷……いや、核地雷へと変化した。

 

「早く彼を元通りにして」

 

 静かに。だが、内に激しい怒りを込めてモンモランシーへ通告する。

 

「い、いいじゃない別に。優しいお兄さんができたと思えば……ひっ」

 

 タバサの纏う空気が変化した。彼女は無表情のままルーンを紡ぎ始める。

 

「か、解除薬を作るには、とっても高価な秘薬が必要で……」

 

 顔を引きつらせながら後ずさるモンモランシー。だが、そのときタバサの呪文が完成した。彼女の得意な〝風の氷矢〟(ウィンディ・アイシクル)。これまで3本までなら同時に撃つことができていた魔法。しかし今、タバサの周囲に漂っているのは――その数なんと40本。

 

 ……そう。タバサはこの怒りで『スクウェア』へのランクアップを果たしたのだ。

 

 そんなタバサを見たモンモランシーの全身に、嫌な汗が流れ始める。彼女はじりじりと後ずさりしながら叫んだ。

 

「で、でも、それを買うだけのお金がないの! 本当よ!!」

 

「いくら必要なの」

 

「ご、500エキュー……」

 

 その言葉に、いまいち金銭感覚のない才人以外の者たちは戦慄した。

 

「大金じゃないか! ぼくらの小遣いじゃ、とても足りないよ」

 

「たしかに、ぽんと出せるような金額じゃないけど……なんとかしないと、あなたタバサの()()で穴だらけにされるわよ」

 

「だ、だからね、効果が切れるのを待てば……」

 

「それはいつ?」

 

 〝風の氷矢〟を待機させたまま、タバサは問うた。

 

「個人差があるから……だいたい1ヶ月か……1年ぐらい」

 

「長すぎだろオイ! なんとかしろよモンモン!!」

 

「誰がモンモンよ!!」

 

 ――結局。この場にいる全員から借金をして必要な材料を購入し、解除薬を作る。そうタバサと約束することによって、どうにか『穴だらけ』にならずに済んだモンモランシーは、涙した。どうしてこんなことになったのだろう……。

 

 最終的に「全部あんたのせいよ!」という叫びと共に頬を張られたギーシュであったが、これはある意味自業自得であろう。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽう、そのころ『王天君の部屋』では。

 

「なんだ、その紙っ切れはよぉ」

 

「ああ、父上から寄越された指令書よ。なんでも領内にあるラグドリアン湖っていう湖の近辺で、水の精霊がいろいろと悪さをしているみたいだから、それを鎮められるような部下を出して対処しろ、ですって。ふふん……これはあの人形娘にピッタリな任務だわ」

 

 ほくそ笑むイザベラに、王天君は訊ねた。

 

「その人形娘ってのは何者だ?」

 

「ああ、まだ言ってなかったわね。あたしの従姉妹なんだけど……今は部下として使ってやっているの。人形みたいに表情がない娘でね、ちょっと魔法が上手いからって、それを鼻にかけて、しかも周りにちやほやされていい気になってたのよ。だけどね……」

 

 ププッと吹き出したイザベラへ、怪訝な表情を浮かべた王天君。

 

「〝召喚〟に失敗して、なんと人間を呼び出しちゃったのよ。それも……異国のメイジをね。あれはおかしかったわ。いつもひとを見下してたくせに、いい気味!」

 

 そう言って笑うイザベラに、王天君は静かに語りかけた。

 

「なあイザベラ。その人形娘とやらが呼び出した()()とやらについて、オレに詳しく教えてくれねぇか」

 

 ――こうして。歴史の『道』は、再び交差するべく動き出した。

 

 

 




イザベラさまのS度がさらにUP。
太公望のサボリ魔度もUP。


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第23話 女王たるべき者への目覚め

 ――太公望が惚れ薬を飲んでしまってから、2日が過ぎた。

 

 解除薬を作るため、モンモランシーと彼女の手伝いとして連れ出されたギーシュは、秘薬の材料を求めてトリスタニアの街を駆け巡っていた。それ以外のメンバーはというと、今の太公望から目を離すのは危険だということで魔法学院に残っていた。

 

 そして、問題の太公望はというと。

 

 タバサのことを妹だと思い込んでいるような行動をとる以外は、とりたてて問題を起こしたりするようなことはなかったのだが……2日目の放課後。

 

 ほぼいつものメンバー――太公望、タバサ、キュルケ、ルイズ、才人が集まって中庭に置かれたテーブルにつき、午後のお茶を楽しんでいた時にそれは起きた。途中までは、単なる世間話をしていただけだったのたが……その際に、

 

「タイコーボーの国の話を聞いてみたい」

 

 という流れになり。そこで、キュルケがタバサに頼み事をしてみたのだ。

 

「ねえタバサ。もちろん彼が話せる範囲でいいから、何か聞いてみてよ」

 

 ……と。

 

 タバサは困った。今彼女が何かを頼めば、きっと太公望は嘘をつくことなく何でも教えてくれるだろう。しかし、魔法薬(ポーション)の効果を利用して何かを聞き出すような真似は絶対にしたくない、というのが彼女の本音だった。

 

 とはいえ親友の頼みを邪険にするわけにもいかないし、正直なところシュウという国に関して全く興味がないと言ったら嘘になる。

 

(なら……話しても全く問題がないような、当たり障りのないことを聞いてみよう)

 

 そう判断したタバサは、その願いを口にした。

 

「タ……兄さま。お願いがある」

 

「なんだ? タバサの頼みなら、わしはなんでも聞いてやるぞ」

 

 この言葉、実は初日の時点で太公望の口から出続けているものなのである。

 

 惚れ薬が国の法律で作成及び所持を禁止されるわけだ。ある意味、飲ませた者を完全に操り人形にしてしまうのだから。よって、その怖ろしさに早々に気付いていた彼らは、絶対に太公望が明かしたくないであろう内容に踏み込むような真似はしていなかった。

 

「兄さまは、ここへ来る前に旅をしていたと聞いた。その時の話をして」

 

 タバサの願いに周囲も賛同した。

 

「あら、それはいいわね! あたしも是非お願いしたいわ」

 

「俺も! それならタイコーボーも話せるだろ?」

 

「わたしも、東方の話を聞いてみたいわ!」

 

 彼らの頼みに笑顔を見せた太公望は、それならもちろん構わないぞ――と、前置きをした上で、当時の話をし始めた。

 

「そうだのう、あちこち見てまわったのう。仲間の故郷に立ち寄ってご両親に挨拶したり、果樹園に潜り込んでみたり、暇を持て余した最強の〝雷使い〟から、いきなり一騎打ちを申し込まれそうになったり……」

 

 思い出すように語る彼の話に、身を乗り出す一同。

 

「ああ、そうそう。王宮も見に行ったな、そういえば」

 

「へえ、いいわね」

 

「いやあ、愉快であったぞ」

 

「あら、何か面白いことでもあったのかしら?」

 

「久しぶりに王や補佐官たちの顔を見にいったのだがな、滅茶苦茶忙しそうだったので、連中の執務室の隣に敷物をしいて自分専用コーナーを作ってな、その中で思いっきりごろごろだらだらしてやったのだ。見せつけるようにのう。ついでに食い物まで要求してやったわ」

 

 ワハハハハハ……! と、大笑いする太公望。それを耳にした全員が固まった。

 

「いや、ちょっと待て」

 

「なんだ才人」

 

「王さまの側でだらだらって……怒られるとかそういうレベルじゃねーだろ?」

 

 なあ? と、全員に賛同を求めるように視線を動かす才人。激しく何度も首を縦に振る一同。だがしかし……太公望の口から飛び出したものは、そんな彼らをあざ笑うような内容であった。

 

「馬鹿を言うでない! あやつがこのわしを叱ったりなどできるものか!!」

 

 ニヤニヤと笑いながら太公望は続ける。

 

「そもそもあやつが王になる以前から、わしはさんざん面倒を見てやっていたのだ。あの男は昔っからとんでもない女好きでな! 父親の意思を継いで王になる前は、しょっちゅう城を抜け出しては、そこらじゅうの娘を見境なくナンパしまくりおって……いやはや、わしをはじめとした王宮にいた者たちは、さんざんに手を焼かされたのだ」

 

 遠い目をして、空を見上げる太公望。他の者たちは声を出すこともできない。

 

「そのうち怒るのもアホらしくなったのでな、一緒に街へ出かけるようになったのだ。で、屋台をひやかしてみたり、賭けレースに興じたり、民たちと一緒に居酒屋巡りをしたり……そこへ武成王殿が息子たちを引き連れてやってくるのがお約束になっていたほどなのだ。もちろん、混ぜろと言ってな。そうしてみんな一緒に、飲めや唄えの大騒ぎをしていたのだよ」

 

「ず、ずいぶんフランクなかたでしたのね、お国の王は」

 

 ようやく声を絞り出すことに成功したキュルケに対し、太公望は「ああ、うちは堅苦しいのが嫌いな連中が集まっていたのだ」などとさらりと答えた後、再び語り始めた。

 

「で、宴もたけなわというあたりになると、ようやくわしらが城からいなくなったことに気付いた宰相殿がすっ飛んできてな。特大のハリセンで酔ったわしら全員をはり倒して、城まで引きずり戻す……と。これが、ある意味王都の名物行事になっておったのだ」

 

 もしやすると、あの宰相殿こそが国内最強だったのかもしれぬのう。いやはや実に懐かしい……そんな風にあきらかにヤバイ昔話を語る太公望に待ったをかけたのは、タバサであった。

 

「に、兄さま、もういい。ありがとう、楽しかった」

 

「そうか、それならばよかった」

 

 にっこりと笑った太公望はそれきり話をやめると、ふいにタバサのティーカップが空であることに気がついた。

 

「む、茶がないではないか。どれ、このわし自ら厨房へ取りに行ってやろう」

 

 太公望の後ろ姿を見送った残りのメンバーは、あまりのことに呆然としていた。

 

「いい、いまの話……ほ、本当なのかしら」

 

「タバサが聞いたことだから、たぶん本当なんだろうナ」

 

 カタカタと震えるルイズと、その横で固まっている才人。元は将官だったという話は聞いていたが、よりにもよって、自国の王とそこまで親しい仲だとは想像だにしていなかったのだ。と、いうかそれが普通だ。

 

「ね、ねえ、タバサ。今更なのかもしれないけれど」

 

 口を開いたキュルケの顔は、真っ青だった。

 

「彼、実はものすごく身分の高い方なんじゃないかしら? まさかとは思うけど、ロバ・アル・カリイエの国王陛下の身内、それも王弟殿下なんてことは……それならあの若さで将官ってことも、大きな宝玉つきの杖を持っていることも、さっきの話にも納得できるんだけど……」

 

(……ありえる)

 

 タバサは思った。彼が王族ならば、あの驚くべき教養の高さも、聴衆をコントロールする話術の巧みさについても、これまでの行動も……全て理解できる。そんな人物が若くして将官の地位に就いていたというのはある意味当然のことなのだ。何故なら王族は、戦時下において自軍を統率する立場に置かれるからだ。

 

 それに、前線に出る軍人メイジが装備するのは〝軍杖(ぐんじょう)〟と呼ばれる手元に鍔のついた細剣のような形状をした杖が一般的で、逆にあのように目立つ宝玉つきの杖を使う人物は、それを指揮官・上位者としての証にしていることが多い。つまり……。

 

 タバサはなんだか目眩がしてきた。

 

「な、なあ、みんな。治るまで、閣下に話聞くのやめようぜ」

 

「心から賛同する」

 

「そうしたほうがいいと思うわ。話を振ったあたしがいうのもなんだけど」

 

「わたしも賛成……なんだか怖くなってきたわ」

 

 そこらじゅうに散らばった、目に見える地雷をわざわざ踏み抜きたくない。今聞いた話は、他の人間には絶対内緒にしておこう。そう呟いた彼らは、以後静かになった。太公望がティーセットを持って戻ってきた後も、それは変わらなかった。

 

 しかし。そんな彼らの気持ちをあざ笑うかのように事件は起きた。

 

 それは――空からやって来た、一羽の伝書フクロウ。タバサのもとへ舞い降りたその足には、以前と同様、書簡がくくりつけられていた。タバサの顔が瞬時にこわばる。そして、書簡の中身を見た途端……凍り付いた。

 

「しばらく留守にする。兄さま、わたしと一緒に来て」

 

「うむ、わかった」

 

 立ち上がり、部屋へと戻ろうとした彼らふたりだったが、ふいにタバサは後ろを振り向くと、キュルケたちにこう頼んだ。

 

「モンモランシーたちが戻ってきたら、急いで解除薬を作るよう、見張っていてほしい。わたしたちは、どうしても行かなければいけない用事ができた」

 

「そ、それはかまわないけど……」

 

 太公望を連れて行っても大丈夫なのか? そう言いたげな彼らへタバサは答える。

 

「彼が指名されている」

 

 タバサと太公望は急いで部屋へ向かい、準備を始めた。魔法学院から少し離れた場所に迎えの風竜が到着するという時間まで、あと少ししかない。改めて指令書を見たタバサは、それを手でグシャッと強く握りつぶした。

 

 そこに書かれていた命令、それは。

 

『出頭せよ。その際、件の〝使い魔〟を同行させること』

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ガリア王国の王都郊外にある、壮麗なヴェルサルテイル宮殿。その一画に建つ小宮殿プチ・トロワの謁見室で、イザベラは従姉妹がやって来るのを待ちわびていた。より正確に言うならば、従姉妹が〝使い魔〟とした男の到着を。

 

 ……時は、少しだけ遡る。

 

「ひょっとすると……そいつがオレが探していたヤツかもしれねぇ」

 

 『王天君の部屋』の中で、部屋の主がそう言ったとき……最初は彼が何を言っているのか、イザベラにはわからなかった。

 

 ――しかし。

 

「オメー、そいつの顔……見てるんだろ?」

 

「え、ええ、もちろん。それが――――ッ!?」

 

 イザベラが全てを言い終える前に、王天君はそれまで被っていた帽子を脱いで見せた。それがゆえに……イザベラは、先を続けることができなかったのだ。

 

 長い耳に、青白い肌。だが……彼の顔をよくよく見てみると、それ以外の部分は従姉妹が連れていたあの使い魔と瓜二つ――まさしく合わせ鏡のようだったから。

 

 イザベラは王族だ。他人と接することが多く、大勢の人間の顔と名前を覚える必要がある。だからこそ、しっかりとその特徴を記憶していたのだ。

 

「ま、ま、まさか、あ、あの子って……」

 

「やっぱりそうか。そうだよ、そいつがオレの『弟』なのさ」

 

 イザベラは驚愕した。まるで害のなさそうな、それでいて礼儀しらずな田舎者と馬鹿にしていたあの子供が、自分のパートナーが話していた弟だとは。だとすると、彼は……。

 

「気がついたようだな。そう、あいつはオレと同じだ。人間じゃねぇんだよ。ま、見た目はあの通りだから、だぁれも気付いてねぇようだがな」

 

「まさか、先住魔法で姿を変えているというの?」

 

「いや、素の状態があれなんだよ。だから、いつもあいつが『表』にして『光』。外に出て、前面に立って仕事をする。そしてオレが『裏』にして『闇』。あいつの影に徹して背後から手伝う。長ぇことそうやってきたんだ」

 

 そう言って深いため息をついた王天君を見たイザベラは思った。

 

(どうして彼とこんな短期間で打ち解けることができたのか、やっとわかったよ。オーテンクンはわたしと同じように、いつも表舞台を支える側にいたからなんだね……)

 

 ――まばゆい輝きを放つ光を羨む、闇。それがふたりの共通点だった。

 

「一時は、なんであいつばかりがイイ思いをするんだ、そう思って恨んだこともあったよ。だがなぁ、どうにか和解して、それなりにうまくやってたんだ。にも関わらずよぉ、どっかの人形姫とやらがいきなりあいつを……オレから引き剥がしやがったんだ」

 

 ギリッと爪を噛み、怒りを顕わにする王天君。

 

「もっとも、あいつのことだから『ご主人さま』にも正体隠してすっとぼけていやがるんだろうがな。ともかく犯人はわかった……だが、念のため確認だけはしておきてぇな。これからその女を呼ぶんだろ? そん時、一緒にあいつを連れてくるように命令してくれねぇか?」

 

「ええ、わかったわ。わたしとしても警戒しないといけないし」

 

 その言葉を聞いて、王天君は大笑いした。

 

「ああ、オメーに危害を加えるとか、そういう警戒をする必要はねぇぜ。あいつはマジでイイコちゃんでな、戦争ごっこが大嫌いときてる。特に、人間同士の戦いになんか絶対干渉しやしねぇよ。それだけは保障しといてやるぜ」

 

(ただし、裏ではいったい何考えてるのかわからねぇけどな)

 

 王天君はそう心の中で付け加える。

 

「それにしても……まさか失敗じゃなかっただなんて」

 

「通常は人間が呼び出されるなんて、ありえねぇ……ってぇ意味か?」

 

「ええ。だからこそ失敗とか事故だって思い込んでいたのよ。念のため、トリステインに潜り込んでいる間諜に、気取られない程度に噂を集めさせていたんだけど……その情報によると、魔法学院側も事故扱いしていたのは間違いないわ」

 

「……ってことはだ。やっぱりあいつ、正体隠してやがんな」

 

「じゃあ、彼もあなたと同じエルフで……見た目通りの年齢じゃないのね」

 

「オレたちはエルフとやらじゃねぇよ。ただ、見た目通りの年齢じゃないってぇのは正解だ。少なくとも、あいつは100年近く生きてるぜ」

 

「う、嘘おッ!!」

 

 あたしと同じかそれ以下にしか見えなかったのに! そう言って慌てるイザベラの姿を見ながら王天君は笑って告げた。

 

「オメーのことだからわかってるたぁ思うが、念のため言っとくぜ。こっちが気づいてるってことを向こうに悟らせんなよ?」

 

「ありがと。忠告、しっかりと受け止めておくわ」

 

「ククッ……それでいい。やっぱオメー見所あるぜ」

 

「あら。あなたこそ、とっても素敵よ? オーテンクン」

 

 そう言って笑い合ったふたりは、従姉妹姫に送る指令書の文面を検討し始めた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして現在。イザベラは従姉妹姫到着の報を受け取った。

 

 謁見の間で、問題の男と改めて対峙する。

 

(やっぱり似ているわね……)

 

 イザベラは驚きの表情を表へ出さぬよう気を引き締めた上で、そっと例の羽根扇子を広げた。

 

「どう? 間違いない?」

 

「ああ。だが、なんだか様子がおかしい。探ってみてくれ」

 

 イザベラは、改めて王天君の弟を見た。確かに、前回見たときのそれとは違っている。

 

 あんなにきょろきょろと落ち着きのない姿を見せていた彼が、今はただ……静かに従姉妹姫の後ろへ付き従うように控えている。

 

「あら、どうしたんだい使い魔さん。今日はずいぶんと静かだね」

 

 相変わらず件の少年(?)は反応しない。じっとその場で佇んでいる。

 

「どうしたの? もしかして、ご主人さまに遠慮しているのかい?」

 

 ここまで言っても、彼は全く答えようとしない。

 

「なぁ、前もああだったのか?」

 

「まさか。めちゃくちゃ五月蠅かったわよ」

 

 小声で確かめてきた王天君へ、これまた小さな呟きで返すイザベラ。

 

 その返事を受け、王天君は改めて己の『半身』――太公望を確認した。

 

(たしかにあいつだ、それは間違いない……ッ!?)

 

「んな馬鹿な……どうなってんだオイ……!?」

 

 王天君は、彼としては珍しく心底動揺していた。何故なら太公望の瞳に宿っていた光が――完全に消えていたからだ。

 

「イザベラ。もしかして、ここには心を操るような魔法があるのか?」

 

「あるわ。禁呪扱いになってるけど」

 

「ありえねぇ……あいつ、精神系の攻撃にはめっぽう強ぇんだぞ!? それなのに、あきらかに操られて、完全に正気を失ってやがる。そこをちぃとつっついてみな。『人形姫』さまに」

 

 王天君の言葉を聞いたイザベラは驚いた。だが、それを外へ出さぬよう必死に抑えると、他人に見えないよう王天君に頷き、今度はタバサへと言を向ける。

 

「あら? 彼……ずいぶん大人しくなったじゃないのさ。どうやって『しつけ』をしたんだい? 是非今後の参考のために聞かせておくれよ、人形七号。まさかとは思うけど……〝制約(ギアス)〟でも使ったのかい?」

 

 その言葉にビクリと震えるタバサ。彼女は、ここにきてようやく悟った。

 

(城に立ち入る前に頼んだ『お願い』が、完全に裏目に出てしまった……!)

 

「兄さま、お願いがある」

 

「なんだ? 何でも聞いてやるぞ」

 

「お城の中にいる間は、何があっても絶対に静かにしていて欲しい。たとえ、わたしが何をされても。お願い」

 

「……わかった。タバサがそう言うのなら、そうする。ただし、命に関わるような危険があった場合はその限りではないからな」

 

「その時はお願い」

 

「わかった、全てこの兄にまかせておくのだ」

 

 ――太公望は、タバサの言うとおりに静かにしている。イザベラから質問を受けても、何一つ答えない。今から『お願い』を変えたところで、もう遅いだろう。

 

「おやおや……まさか、本当にやっちまったのかい?」

 

 騒然とする室内。側に控えていた召使いたちが驚いているのだ。それも当然だろう、なにせ〝制約〟は禁呪である。それも、ハルケギニアの国際法の使用を固く禁じられているレベルの。

 

 明らかに動揺した従姉妹を見て、イザベラは再び小声で王天君に語りかける。

 

「どうやら当たりっぽいわ」

 

「マジかよ、あいつを操ってるだとぉ!? クソッ……許さねぇぞあのガキ」

 

 怒りを含んだ声で呟いた王天君は、すぐさまイザベラに何やら耳打ちをする。それを聞いて思わずニヤついたイザベラは、彼が告げた言葉をそのままタバサへと投げつけた。もちろん……憎たらしいまでに満面の笑みを浮かべて。

 

「ふうん……人形姫らしい振る舞いだねぇ。『おともだち』が欲しくなったから、言うことを聞くように感情を奪ったってことかい」

 

「違う。〝制約〟なんかじゃない。これは事故で……」

 

「へえ、また事故? よく続くもんだねえ」

 

 ――そのイザベラの発言に、タバサは思わず反応してしまった。

 

「わたしが飲ませたんじゃない。今、元に戻すよう手配している」

 

「飲ませた? まさか……よりにもよって魔法薬をかい!?」

 

 再び謁見の間がざわめいた。これも当然である。〝制約〟と同様に、心を操る類の薬品類はその使用を法律で制限されている。しかもシャルロット姫――タバサには深い事情があり、万が一にも魔法薬など使うはずがない。それは宮廷貴族の多くが知っている。であるからして、実際にこれは事故なのだろう。だが……。

 

 騒然とした室内の中で、タバサはひとり小さな身体を震わせていた。いつもは全く感情を見せなかった少女の瞳から、ぽろぽろと涙が流れ落ちる。

 

 そんな従姉妹の姿を見たイザベラの脳裏に、ふと閃くものがあった。先程提示された、王天君の言葉に繋がるものを。王女は実に嫌味ったらしい声でそれを解き放った。

 

「なるほどねえ。感情のないガーゴイル姫は、呼び出した使い魔から心を奪い取って、自分のものにした……そういうわけかい。『パートナー』として、実に素晴らしい対応じゃないか、ねえ? お前たちもそう思うだろ!?」

 

 そう言って謁見の間を見渡すと、高笑いするイザベラ。

 

「ククッ……いい追撃じゃねぇか。オメーやっぱセンスあるぜ」

 

「お褒めにあずかり恐縮ですわ、ジェントルマン」

 

 小声でやりとりする王天君とイザベラ。このふたりが組むのは実に危険である。ある意味、それを象徴した場面であった。

 

 そして、涙を流す従姉妹の惨めな姿を思う存分堪能したイザベラは、タバサたちに今回の任務を言い渡した。

 

『平民たちからラグドリアン湖の水位が上がったという訴えが届いている。この件について湖周辺を調査の上、水位が元に戻るよう働きかけよ。戻らない場合は〝水の精霊〟との戦闘を行い、これを鎮めること』

 

 ――その後。「いい仕事した!」と、実に満足げな笑みを浮かべて自分の部屋へ戻ったイザベラに、王天君が『自分の部屋』から呼びかけた。

 

「おい、イザベラ。オレはこれからあいつらを追い掛ける。オメーもついてくるか?」

 

「えっ、そんなこともできるの!?」

 

「ああ、あいつが側にいるからな。どうする?」

 

「もちろん! こっちからお願いするわ」

 

 こうして。『部屋』から新たな『道』を展開した王天君はイザベラを伴い、太公望たちの後を追うこととなる。

 

 ――事態は突然、まるで傾斜の厳しい坂道を転げ落ちるように急展開を遂げていく。

 

 

 




こんなの書くからドSとか言われるんだ。
でも反省はしていない!


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第24話 六芒星の風の顕現、そして伝説へ

「おのれーッ、なんなのだ、あの意地悪姫は!!」

 

 新たに受けた任務、その舞台となるラグドリアン湖へと向かう道中。跨った風竜の上で――太公望は怒り狂っていた。彼は、先程まで王宮の謁見室で繰り広げられていた光景に、心の底から憤っていたのである。

 

「もしもタバサに『静かにしていて欲しい』と頼まれておらなんだら、あの小憎たらしい娘をわしの〝風〟の最大出力でもって、城ごと次元の狭間まで吹き飛ばしてやったというのに!」

 

 ぐぬぬぬぬ……と両手を固く握り締め、悔しげに何度も何度も唸り声を上げる太公望を見てタバサは思った。

 

(あんな結果になってしまったけれど、静かにしておいてもらって正解だったのかもしれない)

 

 ……いっぽう、彼らを追いつつ『窓』を眺めていたイザベラと王天君はというと。

 

「ね、ねえ。人間に危害は加えないんじゃなかったかしら?」

 

 少し青ざめた顔で、そう訊ねたイザベラに。

 

「まあそうなんだがよぉ。今は操られて、おかしくなっちまってるからなぁ。オレだって、あいつがあんなに怒るところなんて久しぶりに見たんだぜ」

 

 そう返した王天君だったが……実のところ、彼は内心驚いていた。普段は飄々としている太公望があそこまで怒りの感情を露わにするなど滅多に無いことだったのだ――仲間が傷ついたり、自分がちょっかいをかけた時を除けば。

 

「城ごと吹き飛ばすとか言ってるけど、まさか……冗談よね?」

 

 怯え顔のイザベラを見て、王天君は意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「そうだな。あいつが本気で暴れたら、城どころかリュティス全体が1時間以内に跡形もなく消し飛ぶぜ? そのくらいでけぇ〝力〟の持ち主なんだ」

 

「そ、そんな! 嘘でしょ!?」

 

「嘘なもんか。実際あいつがちょろっと起こした竜巻で、森がまるごと吹っ飛んだこともあるくれぇなんだ。まぁ、そういうわけでだ。普通の状態なら絶対そんなこたぁやらねえだろうが、今は別だ。落ち着くまでは、あんまり突っつかないほうがいいぜ」

 

「わ、わかったわ……」

 

「ま、ある意味珍しいものが見られるし、それはそれで面白ぇかもしれねぇけどな」

 

 そう言って暗い笑みを浮かべた王天君を見て、イザベラは凍り付いた。

 

(彼は、自分のことをエルフではないと言っていたけど、もしかして……竜族の中に韻竜(いんりゅう)と呼ばれる上位種がいるように、エルフの中でも特に強力な亜種なのかもしれない)

 

 イザベラは内心で密かに誓った。

 

 ――あの男の前で、シャルロットを虐めるのはほどほどにしておこう、と。

 

「見えてきた」

 

 『窓』の外から聞こえてきたタバサの声で、ふたりは眼下を眺めた。その先には――ハルケギニアでも名高い名勝であり最大の湖ラグドリアン湖が広がっていた。

 

 器用に手綱を操り、湖岸から少し離れた場所に風竜を着陸させたタバサは、早速湖の中を調査すべく、杖を掴んだ。空気の球を作り、その中に入って湖底を歩こうというのだ。

 

「む、タバサよ。おぬし、何をするつもりだ?」

 

「湖の中を見に行く」

 

「わしも行くぞ」

 

「わたしひとりで大丈夫。兄さまはここで待っていて」

 

「だめだ! 危険な場所へ妹をひとりで行かせるなど、兄のすることではない!!」

 

 普通の状態ならばともかく、薬の影響で明らかにおかしくなっている彼を湖底へ連れて行ったりしたら何が起こるかわからない。そう考えたタバサは、仕方なく『お願い』をすることにした。

 

「兄さま、お願いだからここで待っていて。大丈夫、本当に危険はない。わたしはただ、湖に入って中の様子を見てくるだけだから」

 

「しかしだな」

 

「お願い」

 

「うぬぬぬぬ……そうか。おぬしがそこまで言うなら仕方がない。ならばわしは、ここで釣りをしながら待っておるぞ」

 

 太公望は渋々ながらそう言うと、懐から針と糸を取り出した。

 

「それは?」

 

「わしの釣り道具だ」

 

 タバサが疑問に思うのも無理はない。なにせその針は真っ直ぐで、(かぎ)の部分がない。どう見ても釣り針ではなく、ただの縫い針なのである。

 

「うむ。これはな、わしの親友からの贈り物なのだ。釣り好きなわしへくれた、とても大切な……思い出の品なのだよ」

 

「でも、その針では魚が釣れない」

 

「ああ、そのことか」

 

 太公望は『打神鞭』の先に釣り糸をぐるぐると括り付けながら、タバサに説明を始めた。

 

「わしは魚を食べない。それなのに、普通の釣り針を使って魚を釣ってしまったら……傷をつけてしまうであろう? だから、このまっすぐな針を水に垂らしておるだけなのだよ。まあ、これも一種の瞑想だのう」

 

 タバサは思った。

 

(ああ……彼は本当に優しい、争いごとが嫌いなひとなんだ。魚を傷つけることすら躊躇い、それを知る友人があんな形の針を贈るほどに)

 

 常に話し合いや策謀で何とかしようとするのは、戦うのが面倒だからではない。できるだけ争いたくない、相手を傷つけたくないからなのだ――たとえそれが、盗賊や妖魔であっても。

 

(そんな彼が将官として兵を率いるなんて……かなりの苦痛だったはず)

 

 仕事のし過ぎで疲れたから、既に軍を退役して気ままな一人旅をしていたというが……そう考えると、自分の事情に巻き込んでしまったことが本当に申し訳なく感じる。

 

(それにしても、どうして彼のようなひとが軍に……あっ)

 

 自分が呼び出した使い魔が、実は遠い異国の王族かもしれないという説を思い出してしまったタバサは、いったんそれを頭の外へ追い遣ることにした。まずは目の前の任務に集中しなければならない。気を散らしては命に関わると、己の心に言い聞かせて。

 

 

 ――そこから空間を隔てた『部屋』の中では。

 

「……な? ああいうやつなんだよ、あいつは」

 

「本当にイイコちゃんなのね……」

 

 『窓』を介して、彼らは見守った。タバサが湖の中へと入っていく姿を。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサたちがラグドリアン湖へ到着したその日。魔法学院では、モンモランシーと居残り組たちの間でひと悶着が起きていた。

 

「解除薬が作れないですってぇ――!?」

 

「仕方がないじゃない! 材料の秘薬が、どこへ行っても売り切れだったんだもん」

 

 キュルケとモンモランシーが大声で怒鳴り合っている。なんでも惚れ薬用の解除薬を作るために絶対に必要な〝水の精霊の涙〟が全ての店で完売。しかも、入手は絶望的なのだという。思い余って闇市場まで足を運んでみたものの、そちらも空振りに終わったのだとか。

 

「そもそも〝水の精霊の涙〟はね、水の精霊から直接譲り受ける必要があるんだけど……お店のひとが言うには、ここ最近彼らと全然連絡が取れないんですって」

 

「そのせいで秘薬が入荷されないってことらしいよ」

 

 ギーシュが横から口を挟んだが、今は誰も彼の言葉を聞いてなどいなかった。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! それじゃあ、ま、まさか……ミスタ・タイコーボーは最悪1年近くあのままだっていうの!?」

 

 ルイズは真っ青になった。例の「もしかすると彼は東方の王弟殿下かもしれない」説を聞いていた彼女にとって、それは恐怖以外の何物でもない。それがなくとも、自分の恩人が魔法薬のせいでおかしくなってしまったことに耐えられなかった。

 

 キュルケが、威圧するように腕組みをしながらモンモランシーに訊ねた。

 

「その水の精霊とやらは、普段はどこにいるのかしら? 連絡が取れないなら、こっちから会いにいけばいいんじゃないの?」

 

「ええーッ、そんなあ。授業はどーすんのよ」

 

「授業なんて後でも受けられるでしょ? 今は解除薬を作るほうが大切よ!」

 

「これ以上授業をサボるなんて、わたし嫌よ。だいたい水の精霊は滅多に人前に姿を現さないし、万が一彼らを怒らせたりしたら、それこそ大変なことになるわ」

 

 才人はぶつくさと文句を言うモンモランシーをジロリと睨んだ。

 

「なあ、モンモン。これが国のえら~いひとたちに知られたら、どうなるだろうな? 他の国の人間にご禁制の薬を飲ませたとか。間違いでしたじゃ済まねえぞ?」

 

 それを聞いたモンモランシーの顔から、すっと血の気が引いた。とどめとばかりに才人は静かにモンモランシーの側へ近寄ると、彼女の肩をポンと叩いた。

 

「臭いメシ食うか? モンモン。それとも、俺たちと一緒に精霊探しに行くか?」

 

 モンモランシーは才人が暗に匂わせた言葉の意味を悟り、震え上がった。

 

 彼女が国法を破り、禁断の魔法薬を作ったのは間違いない事実なのだ。もしもこれが学院側に漏れたらただでは済まない。ここで下手を打てば、退学コースまっしぐら。最悪実家は潰され、父娘共々チェルノボークの監獄暮らし、いや、それどころか磔刑なんてことも――!

 

「わ、わかったわよ! 行けばいいんでしょ、行けば!」

 

「なに、このぼくが付いていけば怖いものなどないよ。モンモランシー」

 

 気障な仕草でそんな台詞を吐きながら、ギーシュは彼女の肩を抱こうとしたのだが。

 

「そんなの気休めにもならないわ。あなた弱っちいし」

 

 あっさりと振り払われた。

 

「ところで、水の精霊ってどこに行けば会えるんだ?」

 

「トリステインとガリアの国境付近にある、ラグドリアン湖よ」

 

 一同は顔を見合わせると――頷き合った。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その翌日。

 

 才人たち一行は、まだ日が高いうちにラグドリアン湖に辿り着いていた。秘薬を手に入れるのはできる限り早いほうが良いと判断した彼らは、朝、ニワトリが鳴く時刻よりも前に学院を出てきたのだった。

 

「ここがラグドリアン湖か! いやあ、実に美しい場所じゃないかね」

 

 丘の上から見たラグドリアン湖は、どこまでも青く透き通り、眩しかった。湖面は陽の光を受けてきらきらと光り輝いている。ひとりだけ旅行気分のギーシュが岸辺へ向かって駆け出した。そんな彼を、一同は苦笑しながら見守っている。

 

「さすがは名勝と謳われたラグドリアン湖ね。そうだわ! 次はみんな揃ってピクニックでもしに来ましょうよ。モンモランシー、もちろんあなたも含めて、ね?」

 

 そう言ってモンモランシーにウィンクしたキュルケは、彼女へそっと囁いた。

 

「まあ、今回のこれは事故だから。あなたも、あんな彼氏を持って大変よねえ」

 

 キュルケが視線を向けた先では、ギーシュが湖面の水をバシャバシャとかき混ぜながら大騒ぎをしていた。

 

「か、彼氏なんかじゃ……!」

 

「そうやって意地張るから、彼が嫌われてると勘違いして他に目移りするのよ」

 

「う……あなたが言うと、説得力があるわね……」

 

「ふふん、でしょう? だから、もう少し態度を改めてみたらどうかしら。そうねえ、まずは優しく手を握ってあげるとか。好意を向けてる娘に触れられて不快に思う男はいないし、なにより自分に気があると思って、いろいろ尽くしてくれるようになるわよ」

 

 学院内でも特に恋愛上手で有名なキュルケの言葉には、重みがあった。少なくとも、

 

(少しだけでいいから、自分の気持ちに素直になってみようかしら……わたしから手を握るくらいなら、まあ……)

 

 こんなふうに、プライドが高いことで有名なトリステイン女貴族のモンモランシーが本気で検討し始めた程度には。

 

「ねえ、早く水の精霊にお願いしてみましょうよ」

 

 ルイズの呼びかけに、はっと現状を思い出したモンモランシーは顔を上げた。

 

「そうね。それじゃあ、みんなちょっと下がっていてくれるかしら」

 

 そう言うと、モンモランシーは波打ち際に近付いて片手を水に浸し、目を瞑った。そして、小さく眉を寄せながら呟いた。

 

「困ったわね。水の精霊はなんだか怒っているみたいだわ」

 

「そんなこと、どうしてわかるの?」

 

「この湖に住まう水の精霊と、トリステイン王家は旧い盟約で結ばれているのよ。そして、水の精霊たちと交渉する役割を請け負っていたのがわたしの実家モンモランシ家なの。わたしにも、当然その〝力〟は受け継がれているわ」

 

 湖面から手を引き上げたモンモランシーに、才人が疑問を呈した。

 

「請け負っていた……って、なんで過去形なんだよ」

 

「それがね。何年か前に、国がこのあたりの干拓事業をやることになったんだけど……そのときに父上が水の精霊を怒らせちゃったの。当然、事業は失敗。王政府の面目も丸潰れ。それで、交渉役を降ろされたってワケ」

 

「一体何したのよ、あなたのお父様は」

 

「水の精霊相手に『濡れるから近寄るな』なんてとんでもない暴言吐いたのよ……」

 

「うわあ……」

 

 当事者の少女を除く全員がドン引きした。

 

「そんなこと言ったら、誰だって怒るわ……」

 

「キュルケもそう思う? 父上ったら、本当に大変なことをしてくれたわ……」

 

「ま、まあ、お前んちの事情はわかったよ」

 

「なるほど。だから、ここに来るのを嫌がっていたのね」

 

「そういうこと」

 

 がっくりと肩を落とすモンモランシーに、思わず同情の視線を送る一同。確かにそんな事情があれば、湖に近付くのは嫌だろう。しかし、気の毒だが今はそのようなことを言っている場合ではない。先程までとは一転、才人はやや遠慮がちに訊ねた。

 

「んで、今でも交渉はできるのか?」

 

「やれるだけのことはやってみるわ。でも、あんまり期待しないでちょうだい」

 

 モンモランシーは腰に下げていた小袋から何かを取り出した。それは、鮮やかな黄色に黒い斑点が散った、小さなカエルであった。カエルはモンモランシーの手のひらに乗り、大人しく彼女の瞳を見上げ続けている。

 

「かか、カエルー!?」

 

 ルイズが小さく悲鳴を上げて才人に縋り付いた。そんなルイズの様子を見て、

 

(カエルを怖がるとか、こいつ意外と可愛いとこあるじゃねえか)

 

 ……などと思ったのだが、実物を間近で見た瞬間、彼は思わず呻いた。

 

「なんつーか、不気味な色したカエルだな。こりゃルイズじゃなくても怖がるわ」

 

「不気味だなんて、失礼ね! ロビンはわたしの大切な使い魔なんだから!!」

 

 モンモランシーはポーチの中から針を一本取り出すと、それで自分の指先を突いた。ぷくりと赤い血が盛り上がる。流れ落ちた血を一滴、カエル――ロビンの背に垂らした。そして、くりくりとしたな瞳で己を見上げている使い魔へ言い含めるように告げた。

 

「いいこと、ロビン。これで相手はわたしが誰なのかわかるわ。覚えてくれていたら、だけどね。湖の中から旧き水の精霊を探し出して、盟約の持ち主のひとりが話をしたいと告げてきてちょうだい。わかった?」

 

 ロビンは了承の印に、モンモランシーの手の上でケロケロと鳴いた。それから、ぴょんと大きく跳ねると湖の中へ消えていった。

 

「これで、あの子がうまく水の精霊を見つけてきてくれればいいんだけど……」

 

 〝治癒(ヒーリング)〟の魔法で指の傷を塞ぎながらそう呟いたモンモランシーに、才人が訊ねた。

 

「なあ。水の精霊が来てくれたらどうすればいいんだ?」

 

「どう、って?」

 

「いや、精霊の涙っていうくらいなんだから、泣いてもらわなきゃいけないのかなって。俺、悲しい話のレパートリーなら、いくつか持ってるぞ」

 

 突然そんなことを言い出した才人に、モンモランシーは呆れ顔で言った。

 

「泣かせる必要なんかないわ。〝水の精霊の涙〟っていうのはあくまで通称で、涙そのものじゃないんだから」

 

「じゃあ、なんなんだい?」

 

 ギーシュの問いにモンモランシーは得意げに答える。

 

「水の精霊はね、わたしたち人間よりもずっと、ずーっと長く生きている存在なの。『始祖』ブリミルがハルケギニアに降臨する以前から、この地に存在していたらしいわ。その身体はまるで水のように自在に形を変え、陽の光を浴びると七色に輝いて、とっても綺麗なんだから。そんな彼らの身体の一部が〝水の精霊の涙〟と呼ばれているの」

 

 そこまでモンモランシーが言ったところで、狙い澄ましたかのように湖面の一部が光を放ち始めた。どうやら目的の水の精霊が現れてくれたようだ。湖からロビンが上がってきて、ぴょんぴょんと跳ねながらモンモランシーのところまでやってくる。モンモランシーは、そんな己の使い魔を愛おしそうに手で包み込むと、そっと撫でた。

 

「ありがとう、ロビン。よく見つけ出してきてくれたわね」

 

 モンモランシーは腰に下げた小袋にロビンを入れると、すっくと立ち上がり、両手を大きく広げて水の精霊に語りかけた。

 

「わたしはモンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシ。水の使い手にして、旧き盟約の一員よ。カエルにつけた血に覚えはおありかしら? ございましたら、わたしたちにわかる言葉とやりかたで返事をくださいな」

 

 モンモランシーの言葉が終わると共に、水面から何かが現れた。一同はそれを驚きの目で眺めている。

 

 現れた何かは、最初は只の水の塊だった。だが、それはぐにゃぐにゃと蠢きながら姿を変え――やがて、モンモランシーとそっくり同じ形になった。そして、まるでクリスタルガラスで作られた彫像のようにきらきらと煌めきながら、水面を滑るようにして一同が待つ湖岸へ近付いてくると、静かに声を紡ぎ出した。

 

「覚えている、単なる者よ。お前の身体に流れる液体を、我は覚えている。お前と最後に会ってから、月が52回交差した」

 

「覚えていてくれて、よかった。実は、今日はお願いがあるの。どうか、あなたの身体の一部をわけてはもらえないかしら?」

 

 モンモランシーの姿を模した水の精霊はにっこりと笑った。それを見て、ほっとした一同だったのだが……しかし。精霊の口(?)から飛び出してきた答えは真逆のものだった。

 

「断る」

 

 そこにいる全員で頭を下げたが、水の精霊は静かな光を湛えたまま何も答えない。

 

 ……と、そこで才人が前へ一歩進み出て土下座した。

 

「頼む。この通りだから! 俺の大切な友達を救うために、どうしても〝水の精霊の涙〟が必要なんだ。お願いだ、俺にできることなら何でもするから!!」

 

 すると、水の精霊はふるふると身体を震わせて、何度も姿形を変えた。しばらくの間そうしていた後で、再びモンモランシーの姿に戻ると才人に告げた。

 

「ふむ……お前は〝神の盾(ガンダールヴ)〟だな? よかろう。ならば、こちらの出す条件と引き替えに、我が身体の一部をわけてやってもよい」

 

「うわ、マジかよ! ありがとう!!」

 

 モンモランシーは驚愕した。

 

(水の精霊に声をかけられるなんて、こいつ何者なのよ!)

 

 ガンダールヴという名は記憶に無いが、東方の大貴族の血を引いているという話は本当なのかもしれない――。

 

 そんな彼女の思いとは裏腹に、彼らの会話は続いていた。

 

「ガンダールヴよ。お前はなんでもすると申したな?」

 

「はい、言いましたッ! 俺は何をすればいいんですか?」

 

「我の領域を侵す、お前たちの同胞を退治してみせよ」

 

 一同は思わず顔を見合わせた。

 

「同胞? 退治?」

 

「左様。昨夜から、我が領域に侵入を試みようとする者たちがいる。奴らを退治せよ。さすれば、望み通り我が身体の一部を、そなたに分け与えよう」

 

 水の精霊が言うには、夜になるとこの先にある森のほうから、魔法を使って水の中へ侵入してくるらしい。

 

「水の中に入るのがまずいのか? さっき、ギーシュが飛び込んでたけど」

 

「違うわ、それだけなら水の精霊は気にしたりしない。たぶん、湖底にある水精霊の都に忍び込もうとしているんじゃないかしら」

 

 モンモランシーの解説に、才人の目が輝いた。

 

「うわあ、そんなのあるのか! すげえなあ、見てみたいなあ」

 

「気持ちはわかるけど、今は水の精霊の依頼を解決するほうが先よ」

 

 ルイズに文字通り水を差された才人は、水の精霊との会話に戻る。

 

「そ、そうだな。ところで、そいつらはあんたたちを傷つけたりするのか?」

 

「今のところそのような気配はない。だが、今後どうなるかわからぬ。〝ガンダールヴ〟よ、そなたの〝力〟で侵入者を排除せよ。さすれば我が身体の一部を分けてやろう」

 

 そう告げて、水の精霊はごぼごぼと水音を立てながら湖の中へ消えていった。それを見届けた才人たちは、早速作戦会議を始める。

 

「んじゃ、とりあえずその侵入者とやらをどうするかだけど……そいつら、精霊に攻撃してるわけじゃないんだよな」

 

「今のところは、だけどね」

 

「待ち伏せして捕まえよう。相手の目的がわからないことには、依頼を解決したことにならないからね。最悪、途中で敵の数が増えるかもしれないし」

 

 ギーシュの提案に全員が頷いた。

 

「オッケー、それで行こう。ところで、モンモンは攻撃魔法使えんのか?」

 

「えッ? 無理よ、無理無理! わたし、ケンカなんてしたことないもの!」

 

 ぶんぶんと首を横に振るモンモランシーをギーシュが庇った。

 

「水系統のメイジは、攻撃にはあまり向いていないんだよ。そもそも、レディを戦いの場に出すべきではないと思うんだが」

 

「そんなこと言ったら、俺だって実戦経験なんかねえよ。でもまあ、嫌がってる女の子を無理矢理ドンパチに付き合わせるのも可哀そうだしな……モンモンは下がってていいよ」

 

 そこへ、燃えるような赤毛を掻き上げながらキュルケが割り込んできた。

 

「あら、あたしは参加するわよ。こう見えても、ツェルプストー領にいる頃に妖魔退治は何度も経験してるし」

 

「マジかよ! じゃあ、参加するのは俺とギーシュ、キュルケに、ルイズの4人だな。モンモンは敵に見つからないように、影に隠れててくれ」

 

「わ、わかったわ。ところで、いい加減モンモンって呼ぶのやめてちょうだい」

 

「なあサイト。ルイズも、モンモランシーと一緒に下がっていてもらったほうがいいのではないかね?」

 

「こいつが大人しく後ろに隠れてると思うか?」

 

「済まない。ぼくが間違っていたよ」

 

「ちょっと! 聞こえてるわよ、あんたたち!!」

 

 真っ赤になって叫ぶルイズに、才人が冷静にツッコんだ。

 

「じゃあ、お前も隠れてるか?」

 

「冗談じゃないわ! わたしは貴族よ。貴族は戦いから逃げたりなんかしないんだから!」

 

「ほれみろ。やっぱり出てくるんじゃねえか」

 

「何か言った?」

 

「いいえ、別にぃ~」

 

「だったらいいのよ」

 

 ……と、まあそんな緊張感があるのかないのかわからないやりとりの後。彼らは夜に控えた戦いへ向けて英気を養うべく、食事と休息をとることにした。

 

 ここ最近毎日のように行ってきた訓練は、彼らに自信と慢心の両方を植え付けていた。だが、実戦経験が圧倒的に不足していた彼らは、それに気付いていなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして、その日の夜。

 

「ねえ、あれじゃないの?」

 

 森の奥から現れたふたつの人影。相手の姿はよく見えないが、おそらくあれが水の精霊が言っていた侵入者であろう。参加者全員が顔を見合わせ、頷いた。

 

「よし、ここはまず様子を見て……」

 

 そう呟き、全員に指示を出そうとしたギーシュであったが、彼の案にキュルケが真っ向から反対した。彼女は、実に不満げな声を漏らす。

 

「なにを言ってるの。いいこと、あっちには気付かれてないのよ!? だから、ここは先制攻撃をかけるべきよ……ウル・カーノ・イス・イーサ・ウィンデ!!」

 

 全員が制止する間もなく、キュルケは火と風のラインスペル〝フレイム・ボール〟を完成させ、怪しい人影に向けて解き放った。火系統に〝風〟を1枚足したこの魔法には、目標をある程度追尾する機能がついている。完全なる不意打ち、おまけにこのタイミング。外すことなど、まずありえない。

 

「キュルケ! 捕まえるだけだって最初に言っただろう!!」

 

「大丈夫よ、加減はしておいたから」

 

「そういう問題じゃないでしょ! これだからツェルプストーは……」

 

「あ~あ。これであの怪しい奴ら、終わったネ」

 

 その場にいた皆が才人と同じ思いを共有していた……のだが。あろうことかキュルケが放った火の球は、相手に当たって燃え上がるどころか空中で停止してしまったのだ。

 

「そんな、う、嘘でしょ……」

 

 不測の事態に、キュルケはただ呆然と呟くことしかできなかった。おまけに彼女が放ったはずの火の玉は、なんと宙に浮いたまま、みるみるうちに巨大化していく。

 

 そして、その大きな炎の塊は、囂々と音を立てて周囲の空気を食い荒らしながら、一行を飲み込まんと襲いかかってきた。まるで、何か別種の〝力〟によって弾き返されたかのように。

 

 それを見たルイズの顔は真っ青になった。呪文を跳ね返すだなんて、ありえない。いや、中には〝魔法の矢(エネルギー・ボルト)〟のように、鏡に反射する性質を持つ呪文もある。だが、ここには鏡なんて無いし、バウンドするのはあくまで一部の魔法に限ってのことだ。ただし……ルイズはとある者たちがそういう魔法を使うと、両親から教えられていた。

 

「ま、まま、まさか、あれ、エルフの〝反射(カウンター)〟!?」

 

 ルイズの叫び声で、その場にいたメイジたち全員が硬直してしまった。

 

「え、エルフが、なんで水の精霊と……」

 

「そんなこと言われたって、あたしにわかるわけないわ!」

 

 そんなやりとりをしている間にも、巨大な火の球は情け容赦なく迫り来ていた。にも関わらず、蛇に睨まれたカエル状態に陥ってしまった少年少女たちは足がすくんでしまい――そこから動くことができなくなってしまった。

 

 エルフは彼らハルケギニアの民にとって天敵も同然なのだ。それも無理はない。

 

 いや、その中でたったひとりだけ行動できた者がいた。それは、異世界人であるために、エルフの怖ろしさを知らない才人だった。

 

 彼は、これまでの人生――ごくごく普通の高校生として生きていた頃には感じたことのない、激しい恐怖を覚え……震えていた。

 

 才人が怖いと感じていたのは、押し寄せる巨大な火の球などではなかった。彼が心から畏れていたのは――このままでは大切な友人たちが失われてしまうという、迫り来る現実だった。

 

 才人の内にあった恐怖は、次第に怒りへと変わっていった。先程まで感じていた畏れに比例するように強く、まさに激情と呼んでいい程に強烈な感情が才人の全身を支配した。

 

 と……指ぬきグローブの中へ巧妙に隠されていた〝ガンダールヴ〟のルーンが眩い光を放ち始めた。握った拳に〝力〟が宿る。

 

「嫌だッ! こんなところで……みんなを死なせてたまるかあッ!!」

 

 魂の底から捻り出された声に、彼の相棒デルフリンガーが反応した。

 

「お、思い出した! 相棒、俺っちを抜け! そんで、あの火球を切り裂くんだ!!」

 

 それは反射的な行動だった。才人は勢いよく背負っていたデルフリンガーを鞘から抜き放つと、飛んでくる巨大な火の球へ向けて走り出した――普通の人間には到底不可能な、神速とも言うべきスピードで。そして、勢いよく振り下ろした刀身は突如猛烈な光を放つと――なんと火球を全て、その身に吸い込んでしまったではないか!

 

 一同は――才人も含め、あっけにとられていた。何が起きたのかわからない、そんな顔をしていた彼らの耳元へ、まるで長雨の後で、久しぶりに陽を浴びた喜びを隠しきれずにはしゃいでまわる子供のような声が聞こえてきた。

 

「いやあ……嬉しいねえ! この姿に戻れたのは。懐かしいねえ、思い出したよ。そうだ、俺っちは〝ガンダールヴ〟の左手にして『盾』たる者、デルフリンガー。6000年前のあのときも、あいつに握られてブリミルのやつを守ってたんだ。ちゃちな魔法なんか、全部吸い取ってやるぜ」

 

 嬉しげに叫んだデルフリンガーは、眩く白い輝きを放ち――神々しいまでの姿を衆目に晒していた。その刀身からは全ての錆が消え失せ、まさに今磨き上げられたばかりの鏡であるかのように、驚愕が貼り付いた才人の顔を刃の表面に映し出していた。

 

 ……いつもの才人なら、ここで「レベルアップイベント来たー!」などと大騒ぎしていたことだろう。だが、今はそれどころではなかった。彼は全身をぷるぷると震わせ、己の相棒をしっかりと握り締めながら、大声で怒鳴りつけた。

 

「そういうことは早く言え――!!」

 

 一斉にズッコけるメイジ一同。そして相棒にツッコまれたデルフリンガーはというと、

 

「俺っちも、今まで忘れてたんだ。すまねぇな」

 

 などと、とぼけた声で答え……場に安堵感が漂い始めた。しかし、そんな和やかな空気があっさりと掻き消されたのは、それから間もなくのことであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――刻はデルフリンガーが真の姿を現した、ほんの少し前まで遡る。

 

 タバサと太公望のふたりは、昨日の場所から少し離れた湖岸へと移動していた。昨夜の調査では何も掴めなかったため、再び水中へ潜る必要があったからだ。

 

 そんな彼らの元へ突然、何の前触れもなく巨大な火球が襲いかかってきた。とっさに〝風の盾〟(ウィンド。シールド)の詠唱を開始したタバサだったが、到底間に合いそうになかった。

 

(だめ、かわしきれない!)

 

 タバサは思わず顔を伏せた。しかし――最後の瞬間は、いつまでたっても訪れなかった。そろそろと顔を見上げたタバサの視線、その先にあったものは。彼女を庇うように立ち、杖を正面に突き付けるようにして目の前の火球を止め……まるで捏ねまわすように練り上げている太公望の姿であった。

 

 さらに、その巨大化した炎を撃ち返したのを見るに至ったタバサは驚きのあまり立ち尽くした。こんなことは、メイジの常識ではありえない。だが、話に聞くエルフの先住魔法〝反射〟ともまた違っている。前に見た、遠距離攻撃を防ぐ〝場〟でもない。彼にはいったい、どれだけの隠し技があるというのだろう。

 

 すると突然、タバサを庇うように立っていた太公望の周囲から、静かな……それでいて、浴びた者を心の奥底から凍り付かせるような気配がゆらり、と立ち昇った。彼は杖を左手で握り締め、ふるふると身体を震わせている。

 

「おのれ……わしの大切な(タバサ)に、よりにもよって火を向けるとは……!!」

 

 タバサは、はっとして太公望の顔を見た。そして、震えた。今までに見たことのない、彼の貌(かお)。そこに浮かぶ激しい憎悪の色に、彼女は恐怖してしまった。

 

「あのときとは違う。()はもう、無力な子供じゃない。タバサ……もう二度とお前を……何も出来ずに妹を、家族を、みんなを死なせたりするもんか――!!」

 

(わたしを……家族を死なせない? もう、二度と……? まさか、彼は――!)

 

「『打神鞭』・最大出力!!」

 

 太公望の怒りに満ちた叫び声と共に、彼とタバサを中心にして――巨大という言葉では生やさしい程の大竜巻が顕現した。

 

「な、な、なによ、あれ……」

 

 『部屋』の中からタバサたちを観察していたイザベラは震え上がった。

 

 『スクウェア』などというレベルを超越した、天空へ届かんばかりにそびえ立つ巨大な竜巻が一瞬にして周囲の森を消し飛ばした場面を見てしまったのだから当然だろう。その一方で、彼女の隣に陣取っていた王天君は、爪を噛んでタバサを睨み付けていた。

 

「やっぱりそうか。あのガキ、よりにもよって太公望を、自分のことを妹だと思い込ませて操ってやがる……最悪じゃねぇか。あれじゃ、怒り狂うのも当然だぜ」

 

 そう呟いた声に、イザベラが反応した。

 

「どういうことかしら?」

 

「妹が……いや、あいつの一族は隣国の奴らの手で皆殺しにされてんだよ」

 

 あのガキ……治す用意をしていると言っていたが、もしも太公望が元に戻らなかったら、ただじゃあ済まさねぇぞ。そう言って凄む王天君の姿は、まさしく『死神』そのものであった。

 

 そして、その巨大竜巻の顕現を見た才人たちのほうはというと――。

 

「な、な、な、ななななんだアレは」

 

「あの規模……『スクウェア』どころじゃない」

 

「じゃ、じゃあ、ま、まさか〝乗法魔法〟(ヘクサゴン・スペル)!?」

 

「三王家に伝わる、伝説の魔法……この目で見る日が来るなんて」

 

 あまりのことに、メイジたちは完全に腰が抜けてしまって動けない。魔法で逃げることすら思いつかない。そんな彼らを叱咤したのは、魔法が使えない才人であった。

 

「馬鹿野郎、早く逃げろ! 俺があれを食い止めている間に!!」

 

 そう言って、才人はデルフリンガーを片手に竜巻目掛けて駆け出した。その後ろ姿を見たルイズの心は――完全に凍り付いた。彼が行ってしまう。わたしたちを助けるために、たったひとりで、あの……巨大な暴風の渦中へ。

 

 ルイズは絶叫した。

 

(嫌よ! わたしの使い魔、ううん違う……わたしの護衛、わたしの『道』、わたしの、わたしの大切な……!!)

 

「いや――ッ! 行かないで、サイト―――ッ!!」

 

 そんなルイズの叫び声……いや、魂が上げた悲鳴に気がついたのは、タバサだった。音に敏感な風メイジならではの聴覚がここで幸いした。暴風の中心にいたのが彼女でなければ、声を捉えることすら不可能だっただろう。

 

 このままでは太公望が彼らを死なせてしまう。それに気付いたタバサは、急いでルーンを紡ぎ出した。

 

「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ!」

 

 背後から、突如薄緑色の〝眠りの雲(スリープ・クラウド)〟に覆われた太公望は、そのまますぐ意識を失い――それと同時に彼の周囲に顕現していた巨大な竜巻は、そこにあったことがまるで嘘だったかのように、ふい……とかき消えた。

 

 

 




某隊長登場前にデルフ覚醒。
なんというバタフライエフェクト(棒)

太公望、子供の頃は「僕」だったんですよねえ……。
もしもあのままの口調だったらショタ好き大歓喜



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過去視による弁済法
第25話 放置による代償、その果てに


「待って、こちらにはもう戦う意志はない」

 

 大竜巻が消えたあとも油断なくデルフリンガーを構えていた才人の耳に、どこかで聞いた覚えのある声が飛び込んできた。

 

「あれ? この声って、まさか――?」

 

 声と共に現れたのは自分がよく知る少女、タバサであった。

 

 

 ――彼らは互いを確認し合い、そして……。

 

「ラグドリアン湖の水位があがった件について、調査してたァ!?」

 

 現在の時刻を地球流に直すと、おおよそ深夜の二時頃であろうか。湖面にはふたつの月が映し出され、幻想的な雰囲気を醸し出している。

 

 湖のほとりに作った簡易キャンプ――申し訳程度につくられた焚き火を囲み、地面に敷くために持ってきていた布製のシートの上に座りながらタバサに詳しい説明を聞いた解除薬作成チームメンバーの背中には、嫌な汗が流れていた。

 

 まさか水の精霊が侵入者と呼んでいた相手が顔見知り、しかも友人たちだとは思ってもみなかったのだ。ちなみに現在〝眠りの雲(スリープ・クラウド)〟によって眠らされた太公望は、彼らのすぐそばにその身を横たえられている。

 

「みんな……本当にごめんなさい。あたしが先走ったばっかりに、一歩間違えたら大変なことになるところだったわ」

 

 そう言って全員に頭を下げたキュルケの全身は、未だ小刻みに震えていた。

 

「まあ、ぼくもちゃんと止めることができなかったからね。きみだけのせいじゃないよ」

 

「今回はなんとかなったことだし、次からは注意すればいいんじゃないか? 散々やらかしてる俺が言っても、あんまし説得力ないかもしれないけどさ」

 

 そんなギーシュと才人の言葉に、みんなで気をつけよう……と、頷く一同。

 

「ところで、あなたたちはどうしてここに?」

 

 そのタバサの疑問に答えたのは、モンモランシーだ。

 

「実は、惚れ薬の解除薬を作るために必要な〝水の精霊の涙〟を手に入れようとしてトリスタニア中を探し回ったんだけど、どこもかしこも売り切れでね。それで、水の精霊に直接〝涙〟をもらえないかどうか、お願いをしにきたところなんだけど……」

 

 そこから、お互いに改めてここまでの経緯と――もちろんタバサは任務云々の話は出さずに――情報の交換を開始した。

 

 

 ――その場所から遠くでもあり、間近でもある『王天君の部屋』の中では。

 

「ハ……ハハハッ……こいつぁ傑作だぜぇ!!」

 

「も、もう駄目……わたし……涙が……くっ……」

 

 ガリアの王女イザベラと彼女のパートナーたる王天君が、しっかりとその場面を見ていたわけなのだが――。

 

「惚れ薬を誤飲しただぁ!? 馬鹿かよあいつは! 意地汚ぇ真似すっからだ」

 

 長椅子に座り、のけぞりながら高笑いする王天君。いっぽうのイザベラはというと。

 

「あの禁断の……〝魅惑〟の秘薬で妹……恋人じゃなくて妹認定……おほ……おほほほほほっ! 駄目、やっぱりわたし、もう……笑いで涙が……溢れて止まらないっ! あの子たちってば、ふたり揃って本当に面白すぎるわぁ~!!」

 

 豪奢な絨毯の上を、文字通りゴロゴロと転げ回って大笑いしていた。

 

 それから10分ほどが経過して。ようやく笑いの発作から解放されたふたりは、改めて見知った情報に関する整理を開始する。

 

「解除薬があれば、彼は間違いなく元に戻るわ。その点は安心していいわよ」

 

「そいつぁよかった。おかげで死体をひとつ増やす手間が減ったぜ」

 

「冗談にしても笑えないから、それだけは勘弁してもらえないかしら……今、あの子が任務以外で死んだりしたら、ガリア国内で間違いなく内戦が勃発するわ」

 

「ふん、それはそれで面白ぇんじゃねえか?」

 

 ……などと言いつつしばしイザベラをからかっていた王天君は『窓』の外で静かに寝息を立てている己の『半身』を改めて見た。その上で断定した。

 

(この連中の話から察するに、あの野郎……やっぱり衣食住に釣られた挙げ句、オレのこと完全に放置してやがったな。そうかい、そういうコトならなぁ、こっちにも考えがあるぜぇ、太公望ちゃんよぉ……)

 

 王天君は、すぐ隣で「うーん。モンモランシ家が没落せずに、まだ湖の管理を任されていた時期だったら、これをネタに色々できたと思うんだけど……」などと物騒なことをブツブツと呟いているイザベラに向かって声をかけた。

 

「あいつがきっちり治るってわかったことだし、そんじゃあ城へ戻ろうや」

 

 これに驚いたのはイザベラだ。

 

「えっ? あなたの弟が元に戻ったら、一緒に故郷へ帰るつもりじゃなかったの?」

 

 寂しそうだった顔から一転、喜びの表情を浮かべたイザベラを見た王天君は、ニヤリと笑ってこう答えた。

 

「最初はそのつもりだったんだがよぉ……ちぃと気が変わった。もうしばらくお前んとこでやっかいになっててもいいか?」

 

「本当!? もちろんよ! ずっと側にいてもらいたいくらいだわ!!」

 

「へぇ……このオレを受け入れる度量があるたぁ……やっぱりオメーは」

 

「いいえ、あなたこそ」

 

「わかってるぜ」

 

「素晴らしいわ」

 

 こうして王天君とイザベラは『空間』を渡り、リュティスへの帰路についた。

 

 ――亜空間の中へひとりで放置され続けていたことに対して、王天君は自分自身が想像していたよりも、遙かにイラッときていたのだった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして焚き火の側では。

 

 タバサたち『調査チーム』と『解除薬作成チーム』は、たき火を囲み、夜を徹して語り合っていた。そこで、太公望に関する非常に大切な協約を結んだ。その内容とは。

 

「彼の事情には絶対に触れないこと。特に家族に関して」

 

 これであった。当初はタバサに理由を尋ねようとしたギーシュとモンモランシーであったが、それを他のメンバーが必死の形相で食い止めた。

 

 ここ数回の失敗で、他人の事情に踏み込む行為が大変失礼かつ、それがとんでもない地雷たりえることを思い知っていたからだ。

 

「確かに。他人の事情を根掘り葉掘り聞くのは、貴族としてどうかと思うね」

 

「で、でしょう? や、やっぱり、そそ、そういうのは、その、よくないわ」

 

 心なしか声が震えているルイズの姿を見ながら、才人は口を開いた。

 

「あと、さっきの魔法についても聞かないほうがいいんじゃないかな。言いたくないから隠してるんだろうし」

 

 その言葉にほぼ全員が頷いた。ところが、唯一モンモランシーだけが異議を唱える。

 

「そういえば、それがあったわ! あれ、先住魔法の〝反射(カウンター)〟でしょ? 彼、異教徒だったわけ!?」

 

「ヤバい薬に手ぇ染めたモンモンがそれ言う資格あると思ってんのか?」

 

「そ、それとこれとは話が別よ! 先住魔法の使い手はブリミル教徒の敵なんだから!」

 

 危うい方向へ行きそうだった話の舵を戻したのはタバサだった。

 

「あれは〝反射〟じゃない」

 

「なぁに? まさか使い魔だからって庇うつもり!?」

 

「わたしは〝反射〟に関する記述を本で読んだことがある」

 

「そ、それがどうしたのよ」

 

「彼は〝火球〟(ファイア・ボール)を跳ね返したんじゃない」

 

 と、そこへキュルケが割り込んできた。

 

「そういえば、あたしが放った〝火球〟よりもずいぶん威力が増していたような……」

 

 親友の証言に、タバサはコクリと頷く。

 

「そう。彼は魔法を〝風〟で受け止めて、威力を増加してから投げ返しただけ」

 

「いや、きみは()()とか言うがね。矢を〝風〟で逸らすという話は聞いたことがあるが……って、ああ、そういうことか!」

 

「ちょっとギーシュ。一人で納得してないで説明してちょうだい」

 

「いいとも、愛しのモンモランシー。エルフの〝反射〟は単に魔法を跳ね返すだけだ。いっぽう、彼は魔法を受け止めて投げ返したんだ。これは似ているようで全然違うよ? 風メイジなら、たぶん相当技量を磨けばできることなんだろう」

 

「まあ、彼の実力はあの竜巻を見れば一目瞭然だものね」

 

 肩をすくめるキュルケ。威力が増したことについてはあえて突っ込まずに黙っていた。話をややこしくしたくはないし、いつかやり方を教えてもらえる可能性を潰すわけにはいかない。

 

 ――いい女は計算高くあれ。母の言葉に忠実に従うツェルプストー家の娘だった。

 

 周囲の風向きに気付いたモンモランシーは、葛藤しつつも妥協することにした。異端云々はともかく、自分の作った惚れ薬が原因でクラスメイトたちに迷惑をかけたのは事実なのだから。

 

「う……わ、わかったわよ。確かに〝反射〟とは違うみたいね。いいわ、わたしの薬のせいであんなことになったんだし、聞かないでおくわ」

 

「ありがとう」

 

「あ、謝らないでよミス・タバサ! そ、その、こっちこそごめんなさい……」

 

 そんな彼らを見て才人は思った。

 

(色々あったけど、こいつらと会えて本当によかった……)

 

 それから、静かな寝息を立てている友人に視線を向けた。

 

「俺、こいつの世話になってばっかりだ。今の俺の実力だと借りを返す機会がないけど……どうすりゃいいんだろう。もっと強くなればいいのかな……」

 

「何か言った? サイト」

 

「いや、別に何も」

 

 

 ――それから数時間後。太公望を除く全員が眠れぬまま明けた、翌朝。

 

 「兄さまは夢を見ていただけ」というタバサの説明をあっさりと受け入れた太公望は、普段と全く変わりない様子で才人たちがここにいる目的を聞いていた。

 

「なるほど、特別な薬をつくるためにその〝水の精霊の涙〟とやらが必要なのだな。その条件として侵入者を止めるように言われたと。ならば交渉の余地があるな」

 

「わたしもタイコーボーに同意する。その際に、水の精霊が水位を上げている理由を知ることができれば、こちらとしても助かる」

 

 確かにその通りだと一同は頷く。

 

「ふむ……タバサよ。おぬしなら交渉役として誰を選ぶ?」

 

 その太公望の振りに、タバサは即座に返答した。

 

「まずモンモランシー。精霊に声をかけてもらうために必要。続いてサイト。もともと最初の交渉を実現できたのは彼のおかげ。そのサイトの補佐役として、兄さまについてもらいたい」

 

 指名された3人はその場で頷き、交渉役となることを了解した。そして、全員で交渉のための案を出し合い……数十分後。

 

 モンモランシーは再び湖岸に立つと、昨日と同じように湖へ使い魔のロビンを放った。すると、朝靄の中――水面の一部が再びぐにゃぐにゃとうねり、固まり、水の精霊が姿を現した。

 

「呼び出しに応えてくださって感謝します、水の精霊よ。それでは改めて、昨日あなた方から依頼された内容の詳細について答える者たちを紹介します」

 

 そう精霊に語りかけたモンモランシーは、一歩右横へ移動する。その後、ガラス製の瓶を持ち、彼女の後方に控えていた才人と太公望のふたりが前へと進み出た。

 

「俺のことを覚えていてくれましたか? 水の精霊よ」

 

 その声に水の精霊が答える。

 

「覚えている……〝ガンダールヴ〟よ。して、結果は?」

 

「ありがとう、水の精霊。それについては彼が説明するので聞いてほしい」

 

 才人はモンモランシーとは逆の左側へ一歩移動すると、太公望に前へ出てくるよう促した。

 

「わしは今回の報告をさせていただく太公望と申す者。以後お見知りおきを」

 

 すると、彼の言葉を聞いた水の精霊が輝きを増した。

 

「話を聞こう〝生命としての道を極めし者〟よ。そなたならば信用できる」

 

 この呼びかけに、太公望は一瞬ピクリと片眉を上げた。

 

(こやつ、わしが何者であるのかわかっておるようだ――もしやとは思っていたが、やはり精霊とは〝星の意志を宿す者〟か。これは、しっかりと話を進めねばなるまい)

 

 いっぽう、側に控えていた者たちは皆一様に不思議そうな顔をしていた。普通、水の精霊は自分たち人間を全て〝単なる者〟と呼ぶ。だが、才人のことは〝ガンダールヴ〟と、そして今交渉のテーブルへついている太公望のことを〝生命としての道を極めし者〟と称した。

 

 ふたりを除く者たちは思った。やはり、彼らはただの人間ではないのだ――と。

 

「ありがたい。では、まず依頼のあった侵入者の件についてだ。彼らはこの湖の水位が上がってしまった原因を調査するために現れた」

 

 太公望は身振り手振りを交えつつ、精霊と会話を続けている。

 

「その上で、可能であれば水位を下げたいと願っている。よって、水の精霊殿が何故水位を上げているのか、その理由を教えてはもらえないだろうか。それがわからぬ限り、彼らは今後、幾度となく現れるであろう……最悪の場合、数が増えるかもしれぬ」

 

 彼の言葉に水の精霊が反応した。

 

「〝生命としての道を極めし者〟よ。我が水位を上げ続けている理由を教えることで、そなたは何をしようというのだ?」

 

「うむ。内容によっては、わしらが水の精霊側に対して協力することで、彼ら侵入者を完全に排除できるやもしれぬ。よって、詳しい事情をお教え願いたい」

 

 その進言を受けた水の精霊は再びぐにゃぐにゃと形を変え、蠢いている。もしかすると、みんなで話し合ってたりするのかも? などと才人が考えていると。再度モンモランシーの姿をとった水の精霊は言葉を発した。

 

「〝ガンダールヴ〟と〝生命としての道を極めし者〟が共に在るならば、我らが動くよりもよい結果が出るだろう。我らはお前たちを信用し、話すこととする」

 

 ぐねぐねと身体を蠢かせながら、水の精霊は語り始めた。

 

「月が30回ほど交差する前の晩のことだ。お前たちの同胞が、我らが暮らす水底の都から、我らが守る〝水〟の秘宝を盗み出したのだ。なればこそ、我らは己の領域を広げている。水が浸食し、大地の全てを覆い尽くせば、我が身体が秘宝に届くだろう」

 

「つまり、その秘宝とやらを探し出すために水かさを増やしていると?」

 

「その通りだ」

 

「そりゃまた、ずいぶんと気の長い話だなあ」

 

 思わず呆れ声を出した才人に、水の精霊は諭すような口調で言った。

 

「〝ガンダールヴ〟よ、我とお前たちとの間では時に対する概念が違うのだ。我らは全にして個。個にして全。過去も未来も、時も空間も、我にとっては同じものだ。いずれの時間にも我は存在するゆえにな。しかし……」

 

 そこまで言うと、水の精霊は太公望のほうを向いた。

 

「このまま領域を広げ続けることで、再び侵入者が現れるというのならば……それを阻止せねばならぬ。〝生命としての道を極めし者〟よ。そなたは我らに協力できると申し出た。よって、我は依頼する。期限は一切問わぬ。今すぐ水位を下げ、我が身体の一部を授ける代わりに、我らが秘宝を取り戻してきて欲しい」

 

「期限を問わず、とは……」

 

「それは助かる」

 

 ざわめく周囲の者たちの声を聞きながら、太公望は内心で呪詛の言葉を紡いでいた。

 

(おのれ、精霊どもめ。わしが何者かわかった上で期限なしという設定をつけおったな! つまり絶対取り返してこいという意味か! ……とはいえ、これを呑まねば薬はともかくタバサが困る。う~む、こればかりは面倒などとは間違っても言えぬのう……)

 

 ――惚れ薬の影響で、太公望の行動原理の全てがタバサを優先していた。法律でこの薬が規制されるのもやむなしである。

 

「ふむ……そういうことであれば、何か手がかりがほしいところではある。水の精霊殿は盗人について何か記憶していることはないだろうか。また、秘宝とやらがどんなものであるのか教えて欲しい。どんなに細かいことでも、一切漏らさずにだ」

 

「奪われたのは〝アンドバリの指輪〟。我が永き時と共に過ごしてきた秘宝」

 

 モンモランシーの顔色が変わった。

 

「水系統の、伝説の魔法具じゃないの! 確か、死者に偽りの命を与えるという指輪よね?」

 

「その通りだ、単なる者よ。お前たちがこの地に現れたときには、既に我と共に在った。死は我らにはない概念ゆえしかと理解できぬが……死を免れぬお前たちには魅力的に映るのやもしれぬな。しかしながら〝アンドバリの指輪〟がもたらすは、偽りの生命。真実の〝力〟ではないのだ」

 

「そんなシロモノを、いったい誰が盗んだんだ?」

 

「風の〝力〟を用いて我の住処に現れたのは、数個体。その中に『クロムウェル』と呼ばれていた者がいた」

 

「アルビオン風の名前ね」

 

 ルイズが呟くと、キュルケが同意するように頷いた。

 

「アルビオンは『風の王国』なんて呼ばれているくらいだし、水の精霊の住処に潜入できるほどの〝風〟の使い手が大勢いてもおかしくないわ」

 

「ところでその指輪には、他に隠された効果などはないのか? あるのであれば、用心のために教えてもらいたいのだが」

 

 太公望の問いに水の精霊が答えた。

 

「偽りの命を与えられた者は、指輪の使用者に従うようになる。また、指輪が解放せし〝力〟に触れた水を飲んだ者の精神を思うがままに操る魔法が込められている」

 

 それを聞いた一同の反応はというと。

 

「ずいぶんとまた、えぐいシロモノだのう」

 

「死者を操るなんて趣味が悪いわね……」

 

「死人だけじゃなくて、生きている人間が水を飲んでもダメなのね。まさか、ワインとかにも効果があるのかしら」

 

「それ、やべーだろオイ。ただのゾンビじゃないってだけでも厄介なのに!」

 

 と、いったようなものだった。ある意味想定内のリアクションである。

 

「なるほど、詳細は了解した。では、取引終了ということでよいだろうか?」

 

 太公望の問いかけに対し、返ってきたのは虹色に輝く水の塊であった。それは才人が持っていたガラス瓶の中を目掛けて飛んでゆき、きれいに収まった。おそらく、これが〝水の精霊の涙〟であろう。

 

 その後、ごぼごぼと水音を立てながら水の精霊が湖底へ姿を消そうとしたその時、突如タバサが動いた。

 

「待って。あなたに聞きたいことがある」

 

 その場にいた全員が驚きの眼で彼女を見つめた。普段から滅多に感情を表さないタバサの声に、必死ともいうべき色が滲んでいたからだ。

 

「水の精霊。あなたは『誓約』の精霊とも呼ばれている。その理由が知りたい」

 

「〝単なる者〟よ。おそらくは我の存在自体がそう呼ばれる理由かと思う。我に決まった姿形はない。しかし、我はお前たちが目まぐるしく世代を入れ替える間も、ずっと変わらぬ形でこの湖と共に在り続けてきた。それゆえに、お前たちは我に変わらぬ何かを祈りたくなるのだろうな」

 

 その言葉を最後に、今度こそ水の精霊は湖の中へ姿を消した。

 

 タバサは精霊の言葉を噛み締めるかのように目を閉じると、膝を折り、手を合わせた。ただ一心に……何かを祈っていた。秘めた誓いを、改めて確認するか如く。そんな彼女の肩に、太公望がぽんと手を置いた。

 

 周囲の者たちが、なにやら「誓いなさい」だのなんだの騒いでいたようだが、それはタバサの耳には届かなかった。その熱心な祈りによる強い願いが思わぬ形で届くのは――彼女が想像していたよりも、遙かに早かった。

 

 

○●○●○●○●

 

「ふう、これで完成! しっかし、やたらと苦労したわね――!!」

 

 トリステイン魔法学院の一室。モンモランシーの部屋の中で、見守っていた一同から歓声が上がった。そう……ようやく解除薬の調合が終わったのだ。

 

 モンモランシーは額の汗を拭うと、どっかと椅子に腰掛け大きく息を吐いた。かなりの重労働だったのであろう。部屋の隅に置かれたテーブルの上には、彼女の苦労の結晶ともいうべき薬瓶が乗せられている。

 

「これは、そのまま飲ませればいいの?」

 

「ええ」

 

 タバサは早速その薬瓶を手に取ると、太公望の元へ持ってゆく。だが、あきらかに苦そうな香りがするそれを彼へ近づけた途端。太公望は顔をしかめ、ふいっと後ろを向いてしまった。

 

「兄さま、これを飲んで」

 

「やだ!」

 

 ……即答である。しかもタバサの『お願い』すら無効化している。

 

「わしは苦い薬はいやなのだ。甘いシロップか糖衣でなければ飲まぬ!」

 

 その場にいた全員が、あきれ果てたように呟いた。

 

「ガキかよ……」

 

「27歳にもなって……」

 

「情けない」

 

「大人なのに」

 

 彼らは顔を見合わせると……頷いた。そして、後ろから一斉に太公望へ飛びかかると、ジタバタともがく彼を押さえ込んで強引に口を開け、薬瓶を傾けた。

 

「飲まんかい、われ―――ッ!!!」

 

 そこへ、ドバドバと注ぎ込まれる解除薬。

 

「―――――――――ッ!!!」

 

 無理矢理飲まされた解除薬の苦さにむせかえったような声を出しつつ、

 

「苦いのはこれだからいやなのだ――!!」

 

 などと叫びながらゴロゴロと床を転げ回る太公望。が、突然その動きがピタリと止まった。

 

「効いた……かな?」

 

「た、たぶん」

 

 やがてむくりと起き上がった彼は、周囲をきょろきょろと見回して言った。

 

「ここは……どこなのかのう? 確か、中庭でワインを飲んで、それから急に頭が痛くなったところまでは記憶にあるのだが。わしはいったい何をしていたのだ?」

 

 そんなことを言いながら、太公望は首をひねり、うんうんと唸っている。

 

「も、もしかして薬が効いていたときの記憶がないのか?」

 

「まあ、確かに覚えてたらアレはキツイだろうなあ……忘れていて良かったよ」

 

「でも、余計なこと言うの禁止な」

 

 こっそりと集い、そう囁きあっているのは太公望を除く関係者一同だ。

 

 太公望の元へ、おそるおそるといった様子でタバサが近付いていく。

 

「タイコーボー、もう大丈夫なの?」

 

「どうしたのだ? タバサ。頭痛のことなら心配ないぞ」

 

「わたしのこと……どう見える?」

 

「どう、とは? いつも通りのタバサだ。特に変わったところは見受けられんが……あ、いや……ちと髪が乱れておるようだな。念のため、自分の目できちんと鏡を見て確かめるがよい。ああ、わしは鏡など持ち歩いてはおらぬ。どっかの美形と違って」

 

 などと言いながら笑う太公望。だが、その笑みは突如困惑の表情に取って変わった。何故なら、彼の目の前にいたタバサの瞳からぽろりと一筋の涙が零れ落ちたからだ。

 

「今ここにいるのは、元通りのあなたなのね」

 

 小さく掠れた声でそう呟いたタバサは、太公望の胸に飛び込むと、大きな声を上げて泣きはじめた。魂の奥底から迸るような、それでいて聞く者全てを困惑させるほどに切実な声で。

 

「どうしたのだ、タバサ!? いったい何があったのだ! 誰でもいいから状況を説明してくれ、頼む!!」

 

 部屋の中には慌てた声で叫ぶ太公望と、タバサの泣き声だけが響いていた――。

 

 

○●○●○●○●

 

「なるほどのう、よくわかった」

 

 解除薬を飲んでから、約3時間後。泣いていたタバサをようやく落ち着かせ、その上で改めてここまでの事情を聞かされた太公望は頭を抱えていた。

 

 今回説明役にまわったのはキュルケである。太公望がタバサをなだめている間、それ以外のメンバーたちは、彼の記憶が飛んでいるもっともらしい言い訳を検討した。その上で、モンモランシーが惚れ薬を作った経緯を説明し、謝罪をするということでまとまっていた。

 

 ……ちなみに、その言い訳とは。

 

「今まで3日間、太公望は意識を失っていた。ようやく解除のための薬ができあがったため、モンモランシーの部屋へ運び込んでいたのだ」

 

 と、こういうものであった。その上で、

 

「惚れ薬が効かなかった理由は、自分たちにはよくわからない」

 

 そう説明することで信憑性を増そうというのが、彼らなりの作戦だ。

 

 なお、この『言い訳』については前もってタバサへ説明しようとしたものの、彼女が太公望から離れようとしなかったので実現しなかった――それはさておき。

 

「おぬしたちには大変な心配と迷惑をかけてしまったのう。それについては、このあと改めて謝罪したい。だが、その前に……」

 

 そう告げると太公望は立ち上がり……モンモランシーの前に立った。そして、なんと深々と頭を下げたのである。

 

「わしの軽率な行動のせいで、モンモランシー殿には大変な損失を与えてしまった。それに関しての弁済はこのあときちんとさせていただくとして、その前にまずは謝罪したい。どうか許して欲しい」

 

 この行動に、部屋にいた全員が驚いた。

 

「え、あ、あの、ミスタ? わたしがあなたに薬を飲ませて……」

 

 頭を下げたまま自分の前から動こうとしない太公望に対し、モンモランシーはどう対応していいのかわからなかった。

 

「本人の了解も得ず、勝手に奪って飲むという行動をしたのはこのわしだ。それによって意識を失ったのは完全に自業自得。しかも、700エキューもする魔法薬をだいなしにしてしまった」

 

 心底申し訳なさそうな声で「本当にすまなかった」と謝罪する太公望へ、モンモランシーは「とにかく頭を上げてくれ」そう告げるしかなかった。

 

「わたしには惚れ薬を作ったという罪があるから」

 

「いや、それとこれとは話が別だ。謝罪を受け入れてもらえるだろうか?」

 

「わ、わかったわ。だから顔を上げてちょうだいミスタ・タイコーボー! あ、あと、わたしのことはモンモランシーと呼んでくれないかしら? それと、普段どおりに喋ってちょうだい。お願いよ!」

 

 彼女の言葉に、心底ほっとしたような表情で顔を上げた太公望。

 

「おぬしの寛大さに感謝する。では、遠慮無く……モンモランシーよ、解除薬を作るのには全部でいくらかかったのだ? 交通費込みで」

 

 言われて、急いで自分の財布の中身を確認するモンモランシー。

 

「ええっと……精霊の涙を取りにいったぶんの馬車代も含めると……うん、全部で150エキューかしら」

 

「了解した。それについては話が終わり次第、すぐに全額返金する。しかし惚れ薬の代金700エキューを即金というのはさすがに無理だ。よって、分割にするか……あるいは別の対価を支払うことによって弁済とさせてもらいたいのだが」

 

「え、ちょ、ちょっと待って!」

 

 慌てて太公望を遮るモンモランシー。周囲にいたルイズ、才人、ギーシュ、キュルケも、あまりのことに呆然としている。タバサも、びっくりした顔で太公望を見つめていた。彼らには被害者である彼がここまでする理由が全く理解できなかったからだ。

 

「む、やはり不足であったか」

 

「いや、そうじゃなくて! どうしてあなたがそこまでする必要があるの!?」

 

 モンモランシーのその言葉を聞いた太公望は、不思議そうな顔をして彼女を見つめた。心底意味がわからないと言わんばかりの表情で。

 

「何を言うのだ。してしまったことに対して謝罪するのは当然であろう?」

 

 ……と、こう返すのみであった。

 

 モンモランシーのほうはというと、わざわざ弁償してもらえるならそれに越したことはないし、それに対価というのも気になる。そう思い直し、改めて質問することにした。

 

「そ、そこまで言ってもらえるなら、わたしとしても悪い気はしないわ。ところで……別の対価って、いったい何なの?」

 

「それなのだがな……おぬし、わしらが毎日放課後集まって、何かをしていることを知っていたであろう?」

 

「ええ、もちろん。内容はわからなかったけど」

 

 彼女の言葉を聞いた後、にっこりと笑って太公望はこう告げた。

 

「実はな、おぬしをその『仲間』として迎え入れる用意があるのだが」

 

 は? それが対価!? 思ったよりつまらないわ……モンモランシーがそう口に出そうとする直前。その場にいた全員が大声を上げた。

 

「モンモランシー! きみも是非仲間に加わるべきだよ」

 

「700エキューなんて、あれに比べたら安いものだわ!」

 

「わたしも、現金よりこちら側に加わることを勧める」

 

「こっちに来たほうが将来的に絶対得だぜ、モンモン!」

 

「お金に換えられることじゃないわよ、これ! あなたすごくラッキーよ!?」

 

 太公望を除くその場にいた全員が、一斉にモンモランシーの側へ近寄ってくる。しかも、口々に仲間になることを奨めながら。モンモランシーはあまりのことに目を白黒させた。

 

「ど、どういうことなのかしら?」

 

 彼女の疑問に、ふむ……と考え込んだ太公望は、()()()()に声をかけた。

 

「ルイズよ。おぬしは『仲間』になって、どうなった?」

 

 ――その声に、笑顔で答えるルイズ。

 

「誰にもわからなかった〝爆発〟の謎が解けて、空が飛べるようになったわ!」

 

「……えっ!?」

 

「才人よ、おぬしはどうだ?」

 

 ――右腕に力こぶしを作り……ニカッと笑って答える才人。

 

「素手での格闘技の腕が上がった! 今ではワルキューレ7体とも戦えるぜ」

 

「ええっ!?」

 

「キュルケよ。おぬしは?」

 

 ――キュルケはオホホホホ……と、声を上げて笑ったのちにこう答えた。

 

「1日に魔法を放てる数が、以前の1.5倍になりましてよ」

 

「ええええっ!?」

 

「ギーシュ。おぬしはどうだったかのう?」

 

 ――薔薇を咥え、優雅にお辞儀しながらギーシュは答えた。

 

「ワルキューレ操作の幅がとても広がったよ。しかも『ライン』が見えている」

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

「最後に……タバサ。おぬしの成果は?」

 

 ――タバサはくいっと眼鏡を直すと呟いた。その声は、どこか自慢げだ。

 

「『スクウェア』にランクアップ。さらに独自に教わった技術で〝精神力〟の最大容量が1.5倍にまで膨らんだ上に、回復速度が最大5倍まで上昇。しかもわずか1日の訓練で身についた」

 

「ちょっ」

 

「ねえタバサ何それ!?」

 

「ぼくはまだ聞いていないよミスタ!」

 

 自分たちにもそれを教えて欲しい! そう言って詰め寄る生徒たちを「まあまあ……」と抑えている太公望。

 

「待って、ちょっと待ってよ! どういうことなのよ、みんな! この短期間で、そこまで〝力〟が上昇するなんて、常識ではありえないわ!!」

 

 そう叫んだモンモランシーに、全員が満面の笑みを向けた。

 

「わしはな、独自の技術でその人物が持つ素質を見抜くことができるのだ。それに合わせた訓練を行った結果が――今の彼らだ」

 

 その言葉に全員が首を何度も縦に振る。じつにいい笑顔で。

 

 モンモランシーは驚愕した。

 

(そんな馬鹿な……ううん、ちょっと待って。そういえばミスタ・タイコーボーは東方ロバ・アル・カリイエのメイジ。たしか、東方では魔法技術がハルケギニアと比べて、ものすごく進んでるって噂を聞いたことがあるわ。まさか、それを放課後に教えてもらっていたから、みんな――!)

 

 ゴクリと喉を鳴らす。

 

「ひょっとして、わたしにもその方法を教えてもらえる……とか?」

 

 ――もしもそうならば、たしかに700エキューなんて安いものだ。

 

「その通りだ。これは、学院長公認の課外授業的なものでな。ただし、決して他の人間にわしが教えている内容を漏らさないという絶対条件付きだが。ちなみにこの機会を逃した場合、余程のことがない限り参加の許可は下りないと考えてもらいたい」

 

 こっちにおいでよ! 誘うように手招きのジェスチャーをする他の者たち。それを見て、ようやくモンモランシーは悟った。これに参加していたからギーシュはいつも放課後あそこにいたのだ。ルイズと二股をかけていたわけではなかったのだと。

 

 と、そこへ太公望からさらなる追撃が飛んできた。

 

「ちなみに、今ならもれなく特典がつく」

 

「えっ! まだなにかつけてくれるの!?」

 

 あまりのことに驚きすぎたモンモランシーは、口を開けたままで固まった。それは周囲の者たちも同様だった。「なんだ特典って!?」などと、ざわついている。

 

 ――ちなみに才人だけは「テレビの通販かよ!」などと思っていたのだが。

 

「そもそもだな……この事件が発生した理由は、ギーシュの浮気性が原因なのであろう? モンモランシーよ」

 

「そ、その通りよ」

 

「この特典をつけるにあたって、念のため確認しておきたいのだが……もしもギーシュが一切浮気をしなくなったら、おぬしは本気で彼とつきあうつもりがあるのか?」

 

「ぼくは浮気なんか」

 

「おぬしはちと黙っておれ」

 

 ギーシュの発言はモンモランシーの耳、いや脳まで届いていなかった。何故なら、

 

『ギーシュが本当に浮気をしない男になったとしたら』

 

 それをシミュレートすることだけで、彼女の頭の中はいっぱいだったからだ。

 

(そうねえ、彼……なんだかんだで結構優しいし、気が利くわ。頭の出来も、調子にさえ乗っていなければ悪くない。顔については文句なし。ちょっとエッチなところはあるけれど、男の子だったら誰だってそうだと思うし。おまけに家柄は名門の軍閥貴族。う~ん、わたしだけに尽くしてくれる、そんなギーシュ……)

 

 すうっとモンモランシーの顔が朱に染まる。

 

「どうやら答えは出ておるようだのう。そこで提案なのだが……まずは、お試しで数ヶ月ほど付き合ってみるのだ。その上で、もしもギーシュがまた浮気をしたらだな」

 

「彼が、浮気をしたら?」

 

 モンモランシーの問いに、悪魔のような微笑みでもって答える太公望。

 

「3回だ」

 

「3回? 何が?」

 

「このわしに、やつが浮気をしたと言うのだ。そうすれば、わしの〝風〟でもって、その場でギーシュを天まで吹き飛ばしてくれるわ……3回までな。ちなみにわしの〝風〟に関する実力だが……タバサよ」

 

「彼は風の『スクウェア』メイジ」

 

 言われなくとも、彼の実力はラグドリアン湖畔で見ている。モンモランシーは天使の微笑みでもって応じた。

 

「とてもいい特典ね」

 

「そうであろう? もし3回わしの〝風〟を食らっても浮気癖が治らないようなら、キッパリと別れてやればいいのだ。そのための『お試し期間』というわけなのだよ」

 

「そうね、あなたの言う通りだわ」

 

 頬を染め、両手で軽くそこを抑えながら、実に可憐な笑顔で受け答えを続けているモンモランシーの態度に、ギーシュが慌てた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれたまえ、ミスタ・タイコーボー!」

 

 冷や汗をかきながら抗議しようとしたギーシュに対し、太公望はぐりん! と首を回し、顔だけを向けて凄んだ。

 

「おぬしが浮気をしなければいいだけのことであろう?」

 

「その通りよ」

 

「まったくだわ」

 

「彼に賛成」

 

「お前また二股する気なのかよ、懲りねえ奴だなあ」

 

 ――結局。次の虚無の曜日からモンモランシーは『仲間』に加わることをもって惚れ薬の弁済とする旨を承諾し……ギーシュは彼女との関係を公にすることとなった。とんでもない枷つきで。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして、その夜。

 

 夕食を取りながら近くで食事をするいつものメンバーの顔をちらちらと眺めつつ、太公望は考え込んでいた。

 

(あやつらには、とんだ借りができてしまったのう……)

 

 そう、実のところ太公望は全てを覚えていたのである。惚れ薬を飲んだ後に起こしてしまった、自分の問題行動を。ハッキリ言って、失態などというレベルで済むものではない。

 

 今……どこか遠く、誰もいない空間に自分だけが居たとしたならば、その場で頭をかかえつつ、転げ回って叫び出したい心境だった。

 

「このわしがシスコンとか! あきらかに問題のある言葉をさらっと口にしてしまうとか! しかもタバサに不安を抱かれるような発言をした挙げ句に『打神鞭』最大出力かますとか、いちばんありえんわ! このわしへの信頼が、威厳が壊れてゆく――ッ!!」

 

 ……と。

 

 だが、彼らはそれを黙っていてくれた。そして、自分を気遣ってくれた。だから、太公望はあえて彼らの策に乗ったのだ――あきらかな穴があることを承知の上で。

 

(あいつら……わしが他人に事情聴取をするとか、誰かから「なんだかこの3日間は様子がおかしかったね」とか言われる可能性について考えつかんかったんかい……そもそもだな、3日も倒れていたのなら、誰かが見舞いに来ることだってありえるのだぞ。穴だらけではないか!!)

 

 事情説明直後に彼が頭を抱えていたのは、実はこれが原因だったのである。

 

「しかし……ある意味あの娘、モンモランシーをこちら側へ引き込めたのは成功であった。このわしが抵抗しきれないほどの薬を作れる調合師なぞ滅多におらぬ。将来は秘薬による〝治癒(ヒーリング)〟のエキスパートとして役に立ってくれるであろう」

 

 ……そう、実はあの謝罪。弁済と見せかけた、太公望流のスカウトだったのである。相変わらず転んでもタダでは起きない男であった。

 

 ちなみにギーシュに対する枷は、原因を根本から絶つ……と、いうよりも。今回の件に関する、太公望なりの仕返しである。彼はもう二度と浮気などできないであろう。

 

 こうして、この惚れ薬を巡る一連の事件は幕を閉じた――はずだった。

 

 

 




王天君はどうやらお怒りのようです。
太公望はこの先生きのこれるのか。
ゼロ魔の水系統ってえげつない魔法大杉。


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第26話 雪風、始まりの夢を見るの事

 ――その夜。思いも寄らぬところからタバサにとっての〝運命の分かれ道〟が訪れた。

 

 モンモランシーへの支払いを終え、部屋へと戻った後……太公望は思わずぼやいた。その一言がタバサにとって、とてつもない意味を持っていたことも知らずに。

 

「まったく……自業自得とはいえ150エキューとはとんだ出費だ。もしもわし以外がアレを飲んでいたのだとしたら、最長でも2日以内には治してやれたものを」

 

 あれだけあれば、新作デザートがいくつも買えたのにのう……そのため息混じりの言葉を、まさに運命と呼んで差し支えない呟きを、タバサの耳は聞き逃さなかった。

 

「どういうこと?」

 

「む。どういうこと、とは?」

 

 タバサの顔色は、劇的に変わっていた。必死の形相で太公望へ詰め寄っていく。

 

「あなたは今、惚れ薬の症状を2日以内で治してやれたと言った」

 

「ああ、そのことか。実はな……」

 

 そして、太公望は語り始めた。国元にハルケギニアでいうところの〝先住魔法〟の使い手にして凶悪な妖魔が多数存在していたこと。

 

 それらの中に〝魅了の術(テンプテーション)〟を含む、人為的に精神を塗り替えるものがいくつもあったことから、国元ではそれに対抗するための技術が発達しているのだということを語って聞かせた。

 

 ……とはいえ、それらの術を〝解除〟するには北欧の隠れ里に住まう霊獣一族の特殊能力を利用するか、太公望が持つ『太極図』を使う以外には、術中に落ちぬよう本人が気合いで〝抵抗〟するしかなかったわけだが、そこまでは言わない太公望であった。わざわざ説明する必要がないと考えたからだ――この時点では。

 

 しかし、太公望からこの話を聞いたタバサの瞳には狂おしいまでの光が宿っていた。蒼い髪の少女は声を震わせながら、己のパートナーを問い質す。

 

「でも、あなたはあのとき……フリッグの舞踏会があったあの日、わたしがした質問に、心の病は治せない――そう答えた」

 

(ああ、そういえばそんなことがあったな……)

 

 と、当日の夜を思い出しつつ太公望は告げた。

 

「そうだ。自然にかかってしまった心の病は治せない」

 

「つまり、それ以外なら……?」

 

「うむ。今回のような魔法の薬や道具。または妖術の類によって人為的に歪みを発生させられているような症状であれば、わしが診断して〝解呪〟することが可能だ」

 

 太公望は唯一の希望に縋るような目をした娘の目を見ながら、先を続ける。

 

「もちろん、現れている症状によって診断にかかる時間や、解く方法は変わるが。ちなみにわしに惚れ薬の効果が正しく現れなかったのは、おそらく無意識に〝解呪〟を試みたせいで、それが薬効に割り込んだからであろう。国元ではそういう〝抵抗〟のための訓練も行われておるからのう」

 

 そう答えた太公望にタバサはしがみついた。そして、小さく震えながら訊ねた。

 

「あなたなら、どのくらいの時間で……どれくらいの確率で治せるの?」

 

 その真剣な問いに、太公望はこちらも誠実な態度でもって応えた。

 

「時間については症状によって異なるが――早ければその場で数秒以内に。長期の場合は約1年程かかる。治せる確率に関しては……ほぼ100%だ」

 

 ――それから10分後。太公望はタバサをその背に乗せて、魔法学院から飛び立った。彼女に架せられた重い〝運命〟と戦うために。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサと太公望が心の病に関する問答をしていた、ちょうどそのころ。

 

 キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。

 

 人呼んで『微熱』のキュルケ。帝政ゲルマニアでも有数の富豪として知られる大貴族の娘であり恋多き女として学院内でも有名な彼女が、珍しくひとりで部屋に籠もり、空の月を眺めていた。

 

 実際、これは異常事態と言って差し支えない。

 

 普段なら、彼女が付き合っている彼氏()()が毎時間のように部屋を訪れている。彼らがダブル、あるいはトリプルブッキングによる騒ぎを起こすことなど、日常茶飯事なのであるからして。

 

 冠せられた『微熱』の二つ名は、そんな彼女を的確に表す象徴のようなものだ。

 

 しかし今日に限って言えば、間違ってもそういった騒動は起こり得なかった。何故ならキュルケは全ての予定をキャンセルした上で自室の窓枠にもたれかかり、酒杯をあおっていたからだ。

 

 そんな彼女の足元では、使い魔であるサラマンダーのフレイムが、主人に寄り添うようにして伏せの姿勢を取っている。

 

 キュルケの心は今、ぷすぷすと燻り続けていた。そのことを思い、ふっとため息をついたその時だ。彼女の瞳に、太公望とタバサのふたりが遠い空へと舞い上がっていく姿が映り込んだのは。

 

「はあ。元気になったから、ふたりで夜空のデート……ってところかしら」

 

 そしてキュルケは、足元に控えるフレイムの頭をそっと撫でた。フレイムはウルルルル……と声を上げ、気持ちよさそうに目を細めている。

 

「あたしね、あなたのことが気に入らないわけじゃないのよ。むしろ、大当たりを引いたと思って喜んでいるくらいなの。火竜山脈のサラマンダーを使い魔にできた生徒なんて、ここ数年いなかったって、先生からも褒められたくらいだし」

 

 このサラマンダーと呼ばれた幻獣は、ハルケギニアにおいて所謂『ブランドもの』に相当する、レアかつ強力な存在なのである。間違いなく当たりと言っていいだろう……例年ならば。

 

「ええ、ええ、もちろんわかってるわ、あなたが悪いんじゃないのよ。でもね……」

 

 そう言って、キュルケは再び空に輝く双月を見上げた。

 

「あのふたりの〝使い魔〟さんは、大当たりどころじゃないのよぉぉお!!」

 

 ……そう。キュルケの心の内では今、とあるふたりの人物に対する想いで小さな『葛藤』という名の炎が燻り続けていたのだ。

 

 ――ひとりは彼女の仇敵・ルイズの使い魔『サイト・ヒリーガル・ド・ブセイオー』。

 

 最初はただの平民と侮っていたが、実は東方ロバ・アル・カリイエの由緒正しき大貴族にして、〝東方最強のメイジ殺し〟と謳われた武将の息子だった。

 

 平民の血が濃いせいか、魔法は一切使えないが――彼の神速とも呼ぶべき剣の腕は『ドット』では最強レベルといっても過言ではないギーシュの『ワルキューレ』総攻撃を持ってしても対抗できない。しかも、剣がなくても足で蹴り倒してしまうほどの強さを誇る。並のメイジでは彼に勝つことなどできないだろう。

 

 そして昨夜。サイトは巨大な炎に飲み込まれそうになっていた自分たちを救うために、たったひとりで剣を振るった。

 

 そこで判明した事実。彼の持つ剣は、なんと『始祖』ブリミルを護りし『光の盾』。魔法吸収能力(マジック・ドレイン)を持つ、紛う事なき国宝級の〝インテリジェンス・ソード〟だったのだ。

 

 突如顕現した『ヘクサゴン』級の大竜巻にまで、光り輝く剣一本で立ち向かわんとしたその姿と勇気は、まさしくお伽噺に登場する『伝説の勇者』イーヴァルディそのもの。人間の営みに無関心であるはずの水の精霊にすらその名が届いていたほどだ。

 

 にも関わらず、普段はいたってふつうの男の子。誰にでも公平に接し、お調子者だが明るく、強さをひけらかすことなく、心根も優しい。あの気難しいルイズですら笑わせてしまった……まさに太陽のような輝きを放っている存在だ。

 

 サイト本人は全く気付いていないようだが、キュルケは知っていた。魔法学院内で働く平民の女の子たちから、彼に熱い視線が注がれているのを。

 

 あの強さと性格だ、無理もない。これが平民と貴族の身分差が厳しいトリステインではなく、キュルケの出身国ゲルマニアだったなら、貴族の娘からも注目を浴びること間違いなしだろう。

 

 ――もうひとりは彼女の親友・タバサの使い魔『タイコーボー・リョボー』。

 

 はじめは、ただのお子ちゃまだと思っていた。だが、その実態は。サイトと同様ロバ・アル・カリイエ出身のメイジにして元軍人。しかも国軍を率いた経験を持つ将軍様だったのだ。年齢も、自分より10歳年上の27。あの発言や行動のそつのなさから察するに、もっと上かもしれない。

 

 深い知識を持ち、その目に映るもの全てを解析する能力はまさしく『率いる者』。

 

 あの『ゼロ』だったルイズの才能を見抜き、たった1週間で空を飛べるまでに成長させた。キュルケ自身も、彼の薫陶によりどんどん腕が上がっているのを実感している。

 

 そんな彼が魔法薬の効果で語った真実。国王ですら、自分を叱ることなどできはしない――つまりはそういう血筋、あるいは身分であるということだ。本来穏やかな性格であるため、戦いの毎日に疲れ、ついには全てを捨てて旅をしていたらしい。

 

 とはいえ、メイジとしての腕は超一流。昨夜顕現した、天を貫かんばかりにそびえ立つ大竜巻は『スクウェア』などという枠には到底収まらない。もしかすると彼は世界中にその名を轟かす伝説の風メイジ『烈風』カリンとも互角に戦えるのではないだろうか。

 

 どうにも掴み所のない性格で、かつ「面倒くさい」が口癖の怠け者のようにも見える。しかし今日のモンモランシーに対する対応。ただ事実のみを告白し、己の過ちを認める姿は立派な大人の男性だった。まさしく上に立つ者として相応しい。にも関わらず、過去の身分を笠に着て偉ぶったりしないところも好感度が高い。

 

 あえて難点を挙げるなら、シスコン疑惑があるところぐらいか。

 

 ――サイトを太陽と称するならば、タイコーボーは隣で静かに輝く月だ。

 

 キュルケは残っていたワインをひと息で飲み干すと、さらにテーブルの上に置かれていたボトルから、グラスへなみなみと赤い液体を注ぎ入れた。

 

「サイトはクラスの子たちと変わらないか、それ以下の恋愛術(スキル)しか持ってない初心(うぶ)な男の子。はあ……伝説の勇者候補を自分色に染められる、なんて考えたら、あたし……」

 

 新たに注いだワインをも一気に口へ流し込んだキュルケは、甘い吐息と共に吐き出した。

 

「ミスタ・タイコーボーは子供みたいな見た目の中に包容力のある男を感じさせる、あのギャップが魅力よね。彼となら、大人の恋愛や駆け引きを楽しめそう、なんだけど……」

 

 キュルケは腰をかがめてフレイムの首周りをぎゅっと抱き締めながら呟いた。

 

「彼はタバサの『パートナー』だから論外として。サイトなのよね……問題は。ツェルプストー家の者としては仇敵ヴァリエール家の()()を奪うのが流儀のはず、なんだけど……なんだけど!」

 

 突然キュルケは立ち上がって声を上げた……隣に聞こえるので控えめに。

 

「どうしてヴァリエールの『いちばん』になっちゃったのよおおお! あたしはね、どんなことがあっても、そのひとの『いちばん』は取らない主義なのよ!!」

 

 ……彼女はテーブルの上に突っ伏して、ぼそりと呟いた。

 

「神の剣を持つ勇者さまと、身分を捨てた流浪の王子さまが、自分の目の前にいるのがわかっているのに手が出せないこの葛藤! 『微熱』の名が泣くけど、この心は届かない……ああ、このあたしの運命のパートナーは、いったいどこにいるのよ……ッ」

 

 ――実は、結構近くに『運命のパートナー』がいたりするのだが、彼女がそれに気がつくのは、もうしばらく先の話。

 

 ……と、このようにキュルケの中にある『誤解』が現在進行形でとんでもない方向へ走り続けていることを知らせる意味で、その葛藤をここに記載しておこう。ただし、本人はこれらの内容について一切他者へ口外するつもりはないということも、併せて記す。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――キュルケがワインをあおりすぎ、テーブルで寝息を立て始めた頃。

 

 タバサと太公望は、ガリアとトリステインの国境から馬車で10分ほどの場所に建つ古いながらも立派な屋敷の門を通り抜けていた。

 

 その門に刻まれた紋章――交差した2本の杖に古代文字で『さらに先へ』と記された銘は、まごうことなきガリア王家の紋章である。だが、その上には大きな×印が刻まれていた。不名誉印と呼ばれるそれは、貴族または王族でありながら地位と権利を剥奪されたという意味を持つ。

 

 ふたりが玄関の前へ到着すると、屋敷の中から従順そうな老僕が現れ、恭しく頭を下げた。

 

「シャルロットお嬢さま、お帰りなさいませ。失礼ですが……そちらの方は?」

 

「事情を知っている」

 

 老僕はピクリと身体を震わせると、すぐさまふたりを屋敷内へと案内した。それから彼は、改めて太公望へ深い礼をした。

 

「このオルレアン大公家の執事長を務めさせていただいております、ペルスランと申します。どうぞ、よろしくお見知りおき下さい」

 

「わしは太公望と申す者だ、よろしく頼む」

 

「彼を客間へ案内して。わたしは母さまの様子を見てくる」

 

「承知いたしました。では、こちらへ」

 

 隅々まで手入れの行き届いた邸内を抜け、客間まで案内された太公望は、ペルスランが「紅茶と何か軽くつまめるようなものをお持ち致します」という言葉を残して立ち去った後――慎重に周囲を伺い、感覚を研ぎ澄ませた。

 

「ふむ、このあたりに間諜の類はいないようだな」

 

 屋敷へ入る前にも念のために近隣の偵察を行ったが、どこかから見張られているような気配はなかった。太公望は、ほっと息を吐く。

 

 そうこうしているうちに、ペルスランが茶と焼き菓子を持って戻ってきた。出されたものをつまみつつ、太公望は人の良さそうな老僕に訊ねた。

 

「この屋敷はずいぶんと歴史あるものだと思われるが、おぬし以外の人間は誰もいないようだな。幸いなことに、魔法で見張られているということもなさそうだのう」

 

「失礼ですが、どこまでご存じでいらっしゃいますか?」

 

「タバサ……シャルロット姫殿下が病気の身内を人質に取られ、王家の為に命がけで汚れ仕事をさせられている。その人質の病が魔法薬によって引き起こされたものである。患者がこの家にいる。ここまでは承知している」

 

 そこまで一気に話した太公望は、改めて自己紹介をする。

 

「ペルスラン殿についてはシャルロット姫殿下より伺っている。偵察により間諜がいないことが判明したため、改めて自己紹介させていただく。わしの名は『太公望』呂望。使い魔召喚の儀で、東方ロバ・アル・カリイエより姫殿下に召喚された使い魔だ」

 

「なんと……!」

 

 ペルスランは驚いた。使い魔召喚の儀で人間が呼び出されるなど、これまで聞いたことがない。しかもロバ・アル・カリイエからというのは、想像の埒外にある。だが、次に続いた太公望の言葉で、老僕は『始祖』の導きを感じることとなる。

 

「わしには魔法薬によって心を壊された者を治療する(すべ)があるのだ。もしやすると、殿下の強い願いが、わしをこの地へ呼び寄せたのかもしれぬ」

 

「そ、そ、それでは……ま、まさか……」

 

 震える声で訊ねる老僕に、太公望は笑顔で答えた。

 

「左様……わざわざこんな夜分に参ったのは、王家の者に気取られることなく、奥さまの診察を行うためだ」

 

 老僕は、その場に崩れ落ちた。彼の両目からは、滝のような涙がしたたり落ちている。

 

「あなたさまは、お嬢さまをこの牢獄から解き放ちにいらして下さったのですね。まさしく『始祖』ブリミルのお導きに違いありませぬ」

 

 溢れ出る涙を拭こうともせず、そのままに。ペルスランは事情を語り始めた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その頃タバサは広い屋敷の廊下突き当たり、右最奥の部屋の前に立っていた。

 

 扉をノックしても、中から返事はない。部屋の主がタバサの呼びかけに答えなくなってから、既に三年ほどの月日が流れていた。当時、タバサはまだ十二歳だった。

 

 タバサは扉を開けると、部屋の中へ入っていった。椅子とテーブル、ベッド以外は何もない殺風景な寝室だった。ラグドリアン湖を望める広い庭に面しているのが、唯一の慰めだ。

 

 部屋の主は、すぐさま侵入者に気が付いた。そこにいたのは痩身の女性だった。フェルト生地で作られた小さな人形を両手でしかと抱き締め、タバサを睨み付けている。元は美しかったのであろう顔は酷くやつれ、実年齢よりもはるかに老けて見えた。

 

「あなたはだれ?」

 

 女性の問いに、タバサが答えた。

 

「わたしです、母さま。只今戻りました」

 

 痩身の女性はタバサの母親だった。しかし、彼女の口から出た言葉は娘の帰省を喜ぶ母のものではなかった。夫人は顔中に怒りの色を浮かべ、わなわなと全身を震わせながら叫んだ。

 

「お前、また王家が寄越した回し者ね! これまでに何度も申したではありませんか。シャルロットが王位を狙っているなどとは言いがかりも甚だしいと。宮廷の醜い権力争いなんて、もううんざり。わたくしたちは、ただ静かに暮らしたいだけなのです。どうして、そっとしておいてくれないのですか?」

 

 タバサの母親は、自分の娘の顔がわからないのだった。彼女はその腕に抱いた人形を自分の後ろへ隠すように置くと、悄然と立つタバサへ向けてテーブルの上に置かれていたワイングラスを投げつけた。

 

「お前たちなどにシャルロットは渡しません。ええ、絶対に渡しませんとも! わかったら、お下がりなさい! 下がれ!!」

 

 ワイングラスはタバサの肩に当たり、絨毯敷きの床へ転がり落ちた。

 

 タバサの母はフェルト地の人形を愛おしそうに抱え込むとベッドへ寝かせ、優しく頭を撫でた。その人形はひどく汚れが目立ち、身体のあちこちが擦り切れてぼろぼろだった。永い間、夫人がその人形を手放さなかった証拠だ。

 

「おお、おお、わたくしの可愛いシャルロット。心配はいりませんよ、あなたはこのわたくしが、必ず守ってみせますからね」

 

 タバサの母親は既にぼろきれのようになった人形を、自分の愛娘シャルロット――タバサだと思い込んでいるのだ。そんな母の姿を見ながら、タバサは悲しげな笑みを浮かべた。これは感情を表に出すことのない『雪風』が、唯一母の前でだけ見せる顔だ。

 

「母さま、いま少しだけお待ち下さい。今宵、あなたの病を治せるひとを連れて参りました。あなたが元に戻ったその後で……父さまの命とあなたの心を奪った憎き者どもの首を取りに行きます。そして、この部屋に並べてご覧にいれましょう。どうかその日まで、あなたがくれた『人形』が、仇の目を欺き続けられるよう――祈っていて下さい」

 

 父の仇を討ち、わたしたち母娘の無念を晴らす。それが水の精霊に立てた誓いです――そう心の内で母に告げたタバサは、静かに部屋の扉を閉めた。

 

 

○●○●○●○●

 

「派閥争いの犠牲者……か」

 

 ため息のように吐き出された太公望の言葉に、ペルスランは頷いた。

 

「はい。かつて、ガリア王家にはふたりの兄弟がおられました。ひとりはご長男のジョゼフさま。現在のガリア国王でございます。もうひとりは、シャルロットお嬢さまのお父上であらせられる、ご次男のオルレアン大公シャルルさまです」

 

 ペルスランは語る。本来であれば長男であり皇太子として定められたジョゼフが王位を継ぐのが当然なのだが、彼はお世辞にも王の器とは言えない人物であった。何故なら、三王家の長であるガリアの王族に生まれながら、魔法を一切使うことができないのだ。

 

「そうか、それでガリアの王は『無能王』などと呼ばれているのだな」

 

「左様でございます。外国……しかも東方のおかたには、何故国王の地位にある者にそのような二つ名が冠されたのかおわかりになりにくかったでしょう。王が魔法を使えぬなど、国の恥。わざわざそれを余所で吹聴する者はおりませぬゆえ」

 

「確かにその通り……失礼、話を続けていただけるだろうか」

 

「承知いたしました、それでは……」

 

 『無能』と呼ばれた兄ジョゼフとは異なり、シャルル王子には怖ろしい程の魔法の才があった。物心ついてすぐに空を飛び、七歳で炎を支配し、十歳になる頃には銀を錬金することに成功した。さらに十二歳で水の根本を理解するに至り――国を挙げての祝祭が開かれた。

 

 シャルル王子は、なんと成人する前に『始祖』ブリミル以来初めて、四大系統魔法全ての頂点を極めてしまったのだ。過去の歴史を紐解いてみても、これほど優秀なメイジは存在しない。唯一、トリステインのオールド・オスマンがふたつの系統でスクウェアに達しているが、その他ふたつはトライアングル止まりだというのだから、シャルルの才が如何ほどのものか理解できるだろう。

 

「オルレアン大公はその才能に驕らず、誰にでも分け隔て無くお優しいおかたでした。ですが、そんな大公殿下の才と人望こそが、ガリア王家にとっての不幸でございました」

 

「大公殿下を擁して、王座につけようとする者たちが現れたのだな?」

 

「仰る通りです。魔法の才に溢れる大公殿下こそが、次代の王として相応しいとする動きが宮廷で持ち上がるいっぽうで、既に皇太子として定められたジョゼフさまが王位を継ぐのが伝統であり、国法だとする一派が対立した結果……シャルル殿下は暗殺されました。ジョゼフ派が催した狩猟の会の最中に、下賤な毒矢で胸を射貫かれたのです! しかし、大公家を襲った悲劇はそれだけに留まりませんでした」

 

 流れ落ちる涙を拭くことなく、老僕は先を続ける。

 

「ジョゼフ王と彼を擁する一派は、争いの禍根を断とうと考えたのでしょう。奥さまとお嬢さまを宮殿へ呼びつけ、酒肴を振る舞いました。その宴席でシャルロットお嬢さまに手渡されたワイングラスの中に、魔法薬が盛られていたのです。それに気付かれた奥さまは、ジョゼフ王へ必死の思いで命乞いをなさったのです。自分がこれを飲むかわりに、娘の命だけは助けてほしい……と」

 

 魔法薬という言葉に小さく眉を吊り上げた太公望だったが、そのまま黙って老僕の言葉に耳を傾けていた。

 

「その薬は、心を狂わせる水魔法の毒でございました。以来、奥さまはお心を病まれ――ご自身の命を賭してまで守ろうとした愛娘の顔すらわからなくなってしまわれたのです。そして、目の前で母を狂わされたお嬢さまは……言葉と表情を失いました。快活であられた頃のお姿が、まるで夢か幻であったかのように」

 

 ペルスランは口惜しそうに顔を歪め、先を続けた。

 

「にも関わらず! ジョゼフ王はご両親を奪われたばかりのお嬢さまを、大勢の騎士が命を落とした怖ろしい魔獣討伐に従事させたのです! あれは事実上の処刑宣告でした。しかしお嬢さまはその苦難を乗り越え、ご自身を守られたのです。王家はそんなお嬢さまを持て余したのでしょう。王族の地位と名を奪って〝騎士(シュヴァリエ)〟の爵位のみを与え、厄介払いも同然に外国へ留学させたのです。その上で、奥さまをこの屋敷に幽閉することで、お嬢さまの行動を縛り付けました」

 

 老僕の悔しさに満ちた告白に、太公望は無言のまま聞き入っていた。今まで語る相手がいなかったのだろう、滝から落ちる水のように言葉が尽きない。

 

「奥さまを人質にとった王家は、宮廷で表沙汰にできない汚れ仕事が持ち上がると、任務と称してお嬢さまを呼びつけ、まるで牛馬のようにこき使うのです! これが血を分けた姪に対する仕打ちでしょうか!? 残酷にも程があります。私には、せめて奥さまのご病状がこれ以上悪化しないようお世話をして差し上げる以外、何もできませぬ。我が身の不甲斐なさを、ただ嘆くことしか叶いませぬ……!!」

 

 全てを語り終えたペルスランは「どうか奥さまとお嬢さまをよろしくお願い致します」そう告げて頭を下げると、冷めた茶を淹れ直すために客間を出て行った。

 

「なるほど……そういうことであったのか……」

 

 太公望はひとり残された部屋の中、思考の淵へと沈み込んでいた。タバサが〝魔法薬〟を飲まされた自分を見て怒り狂い、治ったとわかった時に流した大粒の涙の訳。

 

 普段から表情のない人形のように振る舞う事情。

 

 本来は心優しい娘であるにも関わらず『雪風』などと呼ばれるほどに冷たい空気を纏い、絶望と憎悪に燃える本心を瞳の奥に隠した理由。彼にはそれらがよく理解できた。できてしまった。

 

「絶対にタバサの母を治してみせる。たとえ、いかなる手段を使おうとも」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから三十分ほどして。

 

 部屋の外から『患者』の様子を一通り観察した太公望は、タバサに「今は〝力〟を温存しておきたい」と告げて、母親に〝眠りの雲(スリープ・クラウド)〟をかけてもらい、詳しく状態を確認した。その後、不安げに見守っている少女と老僕のふたりを伴い、客間へと戻った。

 

「結論から言おう。わしの手で、ほぼ間違いなく治せる」

 

 その答えを聞いたふたりは身体を小刻みに震わせ、静かに涙を流した。その様子を見た太公望は静かに頷くと、彼らが泣き止むのを待った。そうして彼らが落ち着きを取り戻したところで、改めて説明に入る。

 

「そこでだ。()()ではなく()()にするため、おふたりの手を借りたい」

 

「どうすればいい」

 

「私にできることなら、なんなりと」

 

 ふたりの答えに頷いた太公望は、再び説明を開始する。

 

「失礼ながら、いつも通りに呼ばせてもらう。タバサよ、ひとつだけ確認したいのだが。おぬしは自分に対してだけ〝眠りの雲〟の魔法をかけることができるか? 身体を寝かせた状態で」

 

 その質問に、ちょっと考えたタバサは「可能である」と答えた。

 

「うむ、それならば確実だのう。では、つぎにペルスラン殿にお願いしたい」

 

「はい、私は何をすれば?」

 

「奥さまの隣に敷物かクッションのようなものでかまわないので、ふたりが横たわれるだけの場所を用意してきていただけるだろうか……できれば早急に」

 

「承知いたしました」

 

 ペルスランは頷くと、足早に客間から出て行った。

 

 自分への質問と今のペルスランへの指示から、おそらく眠りに関する何かをしようとしているのだろう。ただ、その意図がわからない。そう考えたタバサは、太公望へ質問することにした。

 

「なにをするの?」

 

「見にいくのだ」

 

「それは……なにを?」

 

「おぬしの母上が見ている『夢』を、だ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ペルスランが準備が整ったことを伝えに客間へ戻ってきた後、太公望はふたりを伴い、再びタバサの母親が眠る部屋を訪れた。

 

「タバサよ。母上は、あとどのくらい眠り続けるかわかるか?」

 

「最短でも3時間、長ければ5時間ほど」

 

 タバサの声に、うむ。と頷いた太公望は、ふたりに向き直って説明を開始した。

 

「まず最初に言っておく。タバサは時折見ていたからわかるであろうが……今回ここでわしがしようとしていることは、ハルケギニアではほぼ間違いなく異端とされる内容だ。よって、他者には絶対に漏らさないで欲しい」

 

 タバサと老僕は互いに目を見合わせると、すぐに太公望へ強く頷いた。

 

「それではタバサよ……母上に近いほうへ身体を横たえるのだ。右手側に忘れず杖を持ってゆくのだぞ」

 

 タバサは言われた通りに並べられたクッションの上へ身体を横たえた。そして、その隣――タバサの左側へ太公望が移動する。

 

「これからわしの技でもって、奥さまの夢の中へタバサを誘う。もちろん、わしも同行する」

 

 この発言に、タバサもペルスランも驚いた。そんなことができるのか――と。

 

「つまり、わしらはふたりとも完全に無防備となってしまう。そこでペルスラン殿」

 

「はい」

 

「1時間だ。タバサが眠りに入ってから1時間経過したら、わしらを即座に起こしてもらいたい。また、もしも誰かがこの家にやってくるようなことがあれば、経過時間に関わらず身体を揺すって教えていただきたい。同時に、部屋の見張りをお願いしたいのだが」

 

 その言葉にペルスランは丁重な礼をもって応えた。

 

「ではタバサよ。わしが合図をしたら、自分に〝眠りの雲〟をかけ眠りにつくのだ。よいか?」

 

「わかった」

 

 タバサの返事を聞いた太公望は、左手に『打神鞭』を持って彼女の横へ座り込むと、自分も身体を横たえた。それから右手でタバサの左手を軽く握り締める。

 

 と――タバサは太公望の手から何か暖かいものが自分の中へ流れ込んでくるのを感じ取った。

 

(これは……?)

 

「タバサよ、それに逆らってはだめだ。よいか、流れに身をゆだねるのだ」

 

 小さく頷いたタバサ。そして、太公望は彼女に〝眠りの雲〟をかけるよう命じると、自分も目を閉じた。

 

 その直後、ペルスランは見た。ふたりの身体から何か薄く光る珠のようなものが浮かび上がったかと思うと、奥で眠る患者――オルレアン大公夫人の中へ吸い込まれて、消えたのを。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ここはどこだろう。

 

 タバサが気がつくと、そこは暗闇の中であった。

 

 部屋の様子どころか、どちらが上で、下なのか、それすらもわからないほどの闇。手にした杖の先に〝光源(ライト)〟で明かりをつけようとしたその時。遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「明かりを灯す必要はない」

 

(この声は……?)

 

 タバサは周囲を見回したが、何も見えない。気配も感じられない。

 

「すまぬ、わしとしても正直これは想定外だったのだ。よって『いい部屋』に案内できなかった。迎えにゆくから、少し待っていてくれ」

 

 すると。タバサの前に突如光り輝く長方形の鏡、いや窓のようなものが現れた。そして、その強い光を放つ窓の中から、ズル……と衣擦れの音を響かせながら、誰かが出てくる。

 

〝召喚〟(サモン・サーヴァント)の門? ううん違う。これは、もしかしてタイコーボーが話していた『空間ゲート』の出口……!?)

 

 タバサは『空間ゲート』の中から現れた人物を見た。『窓』から差す光が強すぎて、その顔はよく見えない。漆黒のマントを羽織り、フードを被ったその人物は――。

 

「た……タイコーボー!?」

 

「――誰のことだ、それは?」

 

 その言葉と共に、闇に包まれていた空間に淡い光が現れた。それから彼は、高らかに名乗りをあげる。

 

「我が名は伏羲(ふっき)! 『始まりの人』がひとりである!!」

 

 ……10秒ほどの間を置いて。男はバッ! とフードを取り去った。

 

「な~んてのう! ニョホホホホ……」

 

 タバサは、黙って杖を振り上げると、太公望の頭をポカポカ殴り始めた。彼女の身長より遙かに大きい、節くれ立ったその杖は、それ単体が立派な凶器である。

 

「や、やめんか! 悪かった! 夢の中でも痛いものは痛いのだ!!」

 

 その言葉に、タバサはハッとした。そうか、ここは夢の中なのだ、と。

 

「その姿は……?」

 

「説明はあとあと。とりあえず、このしみったれた場所を出ようや!」

 

 その言葉と共に、太公望の杖の先にぴっと小さな光が灯った。すると、太公望はその光で空中に大きな円を描き始めた……そして。

 

「じぇい!!」

 

 という叫び声と共に、その円を蹴飛ばして中を打ち割った挙げ句、穴を開けてしまった。足が通り抜けるという予想をしていたタバサは仰天してしまった。

 

(いくら夢の中とはいえ、さすがにこれはない)

 

「ほれ、こっちへ来るのだ!」

 

 穴の側で太公望が手招きをしている。と、彼はすいと穴へ飛び込んでしまった。

 

「ではお先に!」

 

 呆気にとられていたタバサだったが、その穴がじょじょに小さくなっていくのを見た彼女は慌てて彼の後を追い、その中へと飛び込んでいった――。

 

 

 




伏羲さんが復帰!
ナンデー? という回答は次回にて……。


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第27話 雪風、幻夢の中に探すの事

 ――そこは、不思議な『部屋』だった。

 

 白くつややかな――それでいて大理石でも花崗岩でもない、これまで目にしたことにない石材で造られた壁。それと同じものを用いているらしき床の中心には、透明のガラス板が張られている。その中で魚影らしきものが動くのが見えた。これは、もしや水槽だろうか。

 

 部屋の奥には大きな天窓がついている。タバサは伏羲の後を追う際にちらっと窓の中を見た。そこには何処までも続く、星の海が広がっていた――。

 

「さあ、こっちへ来るのだ」

 

 タバサはハッとした。

 

(いけない、思わず見とれてしまっていた。今は母さまを助け出すことを第一に考えなければならないのに)

 

 窓から目を逸らした彼女は、急いで伏羲の元へ駆けていった。

 

 ――案内された奥の部屋は、もっと不思議だった。

 

 丸い光の玉が、いくつもふよふよと室内を漂っている。魔法のランプの一種らしく、部屋全体を昼間のように明るく照らし出している。部屋の隅にはベッドと机……何かの道具だろうか、見たこともないような品々が棚の上に所狭しと並んでいる。

 

 伏羲は机の側に設置されていた、これまた不思議な形の一人がけ用のソファーに腰掛けると、タバサを手招きした。

 

「質問したいことがたくさんあるだろうが、今は時間がない。まずはここにいるうちに、タバサの母上の魂魄(こんぱく)がどこに囚われているか当たりを付けねばならぬ」

 

 いやはや、この姿で調査できて助かった。『夢』に入る前のわしだったら、最悪当たりづけだけで終わってしまう可能性があったからのう。などと呟きながら、伏羲は机の上を片付けている。

 

(この姿。いま、彼はそう言った)

 

 いつも先の割れた外套の内側に着ている橙色の胴衣と手袋。だが、それ以外は全て黒を基調とした服装をしている。頭にいつもの白布も巻かれていない。代わりに左頬を守るような形をした金属製の装飾品を身につけている。

 

 幾重にも折り重ねられた肩当てに、皮のような、そうでないような見知らぬな素材で作られた胸当てと、細かい意匠が施されたフードがついた、足元まで届く黒く長いマント。それは中心から先が3つに割れている。そのマントは、肩当てのところに、金や銀とは明らかに違う、それでいて高級感の溢れた鈍い光沢を放つ金属でできた複数のボタンによって留められていた。

 

 そのマントも含め、胸当てを除く全てが最高級の絹のように上品な光沢を放つ、美しい布地で作られている――。

 

 タバサの探るような視線が気になったのだろう、伏羲は苦笑して答えた。

 

「ああ、これはな……軍にいた頃の服装なのだ。おそらく、当時の記憶と影響が強いせいで『夢』に入り込もうとした際にこうなってしまったのだろう。おかげで『空間操作』が使える。これは正直嬉しい誤算だ」

 

 言い終えると、伏羲は左手を正面にかざした。すると、さっきまでは何もなかった床の上に落ち着いた色のソファーが現れた。

 

「さあ、タバサよ。それに座るのだ」

 

 言われた通りにソファーへ腰掛けてすぐにタバサは気がついた。

 

(さっき、彼は『今は空間操作が使える』と言った。ひょっとして――)

 

「タイコーボー、ここは……」

 

「そうだ。これが『自分の部屋』というものだよ。前に話した、わしらの本拠地である星の海を征く船、その船室のひとつをイメージしてわしが作り出した『小さな異世界』。『夢』の中でもそれは可能なのだ」

 

 ……いや、夢の中だからこそできたのか。伏羲はそう独りごちた。

 

 伏羲は隣の一人掛けソファーに腰掛けたタバサと話しながら、机の上に薄緑色をした、幾つものガラスのような透明の板――なにやら文字が書かれているが、ハルケギニアのそれではない。付随して複雑な図形の類が描き出されているものを、何枚も空中に並べている。

 

「よし、タバサよ。それではこれからお母上の魂魄、すなわち心を構成する魂が薬による影響で、夢の中のどこに囚われているのかを探し始める」

 

 その言葉で、タバサの顔がより引き締まったものとなった。

 

 すると、タバサの目の前に4枚の『鏡』――いや、姿が映らない『窓』が現れた。不思議なことに、その中には様々な場所の様子が映し出されている。

 

「左から……1、2、3、4。これらの『窓』に、このあと色々な場所が映し出される。そのなかで、タバサと母上にとって思い出深い場所。あるいは、例の薬を飲まされたであろう宮廷の景色が映ったら、その番号を言ってくれ」

 

 伏羲はタバサへ説明しながら、自分の右手にある薄いガラスのような板――タバサには何だかわからないが、実は記録操作用のコンソール・パネルを片手でいじっている。

 

「その景色の近くにおぬしの母上が閉じこめられている可能性が高い。ちなみに、母上自身を見つけた場合にも、同じく番号を教えて欲しい。映っている窓がひとつもなかったら、次、と言ってくれれば映し先を変えるからの」

 

「わかった」

 

 コクリと頷いたタバサへ、優しい笑顔で答える伏羲。

 

「では、始めるぞ。ふたりでお母上を捜すのだ」

 

 ――こうして『調査』は始まった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――調査は約40分に及び、その末に伏羲はタバサの母の魂魄らしきものの居場所をほぼ特定することに成功した。「らしきもの」としているのは、病み衰えた現在の姿ではなく、若く瑞々しい姿をしているからだ。

 

 彼女はとある扉の前――何故か蔦のようなもので固く封印が施されているそこに、全身を縛り付けられていたのだ。おそらくあの『植物の枷』が彼女の心を縛り付けているモノなのだろう。その扉の奥に、彼女を狂わせている原因があるのだろうと当たりをつけた。

 

「あれがタバサの母上で間違いないか? もしもそうならば、何かおぬしの身体に不思議な感覚が現れるはずなのだが」

 

「身体を包み込まれるような感じならある」

 

「それだ! よし……間違いないな。このふたつほど手前の部屋の座標を記録しておけば、次に来たときに危険なく入り込めるであろう」

 

 その言葉に、タバサは驚きと失望がない交ぜとなったような表情を浮かべた。

 

「今日は治せないの?」

 

「うむ、おぬしも承知の通り心とは複雑なものだ。よって、その在処を特定したのちに、丁寧な処置を行う必要がある。そうでなければ本当に壊れてしまう危険性があるからのう。診断の結果は悪いものではないので、外に出てから改めて説明しよう」

 

 その言葉に、タバサは深々と頭を下げた。

 

「お願いします」

 

「なんなのだ、いきなり改まって。調子が狂うから、いつも通りで頼む」

 

 慌てたような口調でそう告げた彼の姿がなんだかおかしくて、タバサはつい笑みを浮かべてしまった。そして気付いた。こんな笑みを浮かべたのは、いつ以来だろうか。

 

「さて、それではわしは、今後の治療のためにいろいろとしなければならない作業があるので、おぬしは部屋の中を見学してきてよいぞ」

 

「あなたの作業を見ていてもかまわない?」

 

「見ておっても、おぬしには何が何だかさっぱりわからんと思うぞ?」

 

「それでもかまわない」

 

「ならば、おぬしの好きなようにしてくれてかまわぬ」

 

 ――それから10分ほど経過して。行うべき作業を終えたふたりは、突如夢の世界から引き戻された。指定していた『目覚め』の時間が訪れたのだ。

 

 起き上がったふたりを見て、ペルスランは涙を流していた。

 

「おかえりなさいませ、お嬢さま。そしてタイコーボーさま。お疲れでしょう、すぐに軽い食事と飲み物をご用意致します」

 

 老僕はそう言ってふたりを客間に通した後、急いで屋敷の奥へと戻っていった。

 

 そして、さらに10分後。太公望は診察のより詳しい結果を、ふたりに話していた――ペルスランの手によってカットされた林檎を咀嚼しながら。当然のことだが伏羲の姿ではなく、現在は太公望のものに戻っている。

 

「それで治療にかかる時間だが、おそらく最長で2週間。ただし、まる一日を全て治療に費やすことができればほぼ1日で終えられると思う。基本は三日程度と考えておいてもらいたい」

 

 タバサとペルスランは頷いた。

 

「とはいえ、ここは敵地。つまり……」

 

 太公望の言葉を継いだのはタバサであった。

 

「この屋敷で治療を行うのは危険。あの無防備な姿を晒すのはだめ」

 

「その通りだ。よって、おふたかた共に安全な場所へ移動していただいてから、治療を行うのが最善だと思われる」

 

 その言葉に慌てたのはペルスランだ。

 

「お待ち下さい! 私どもがこの屋敷を出るのは無理でございます。時折見回りの兵がやって来ますし、なにより我らがここからいなくなってしまったら、王家への叛意ありと見なされ、お嬢さまはもちろん、シャルル派の生き残りが粛正されてしまう可能性が」

 

 そんな彼を頼もしそうな表情で見遣った太公望は、まあまあ……と両手でペルスランを落ち着かせると、説明を続けた。

 

「それについては問題ない。おふたかたが逃げたと思われぬとっておきの策がある。詳細は逃亡の当日になってから改めて説明するが、他の関係者に迷惑をかけるようなことはない」

 

「承知いたしました。で、迎えはいつごろに……?」

 

「早くて二週間。遅くとも一ヶ月以内には。もしもそれ以上かかる場合は、必ず前もって報せに来る。今回のように、夜半過ぎに」

 

「伝書フクロウは気取られる可能性があるので出せない、ということですな」

 

「その通りだ。では、本日はこれで……」

 

 話を終えた太公望とタバサのふたりは、老僕ペルスランに見送られながら、夜が明ける前にオルレアン公邸をあとにした――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――魔法学院へと戻る道すがら、太公望とタバサのふたりは件の逃亡作戦についての詳細を煮詰めていた。

 

「逃亡先だが……できればゲルマニアが望ましいのだが」

 

「キュルケに土地勘がある、から?」

 

「それもあるが、実はわしの手のものをヴィンドボナへ放ってあるのだ」

 

 その言葉にタバサは仰天した。今日はもう何度彼に驚かされたのかわからない。

 

「時折、わしの元へ伝書フクロウが飛んできていたことを?」

 

「知っていた。でも訊ねるべきではないと判断した」

 

「それはありがたい」

 

 そう言って太公望は先を続けた。

 

「あれはな、わしがスカウトした情報斥候(スパイ)からの調査報告書なのだよ。非常に有能な人物でのう、おかげで色々と助かっておるのだ」

 

 いつのまにそんなことをしていたのだ、このひとは……タバサは頭を抱えた。まさか、自分の『パートナー』が、個人的に斥候を雇っていたなどとは思いもよらなかった。

 

「でだ。その者に逃亡の際の案内協力と輸送用の風竜の手配をしてもらう。他国の人間だからガリア経由で足がつくこともない。避難先についてはできれば誰の手も借りたくはないのだが、キュルケならば信頼できる。彼女はなんだかんだで口も堅いし、気が利く娘だからのう」

 

「全面的に同意する。では、キュルケに場所の確保、あるいは推薦を依頼するということで」

 

「うむ。次にひとがいなくなってしまう、おぬしの屋敷についてだが」

 

「あなたが何をしようとしているのか、おおよそ理解している」

 

「そうか……この件についてはユルバン殿と男爵夫人に感謝せねばならぬな」

 

 太公望の言葉にタバサはその背の上で頷いた。

 

 かつて彼女たちと共に戦った老戦士――いや『騎士』ユルバン。その彼を守るために造られた『箱庭』を立ち去る時、彼らはロドバルド男爵夫人の魂を宿したガーゴイルから、ふたつの魔法人形を手渡されていた。

 

 その人形は血を、吸わせることでその人物の姿形を写し取り、性格や記憶までコピーする。さらに、意思を持った個人として完全自立行動を可能とする。おまけに、年を追うごとに老化までするという、魔法研究の進んだガリアの王都でも絶対に手に入らないほどに優秀、かつ激レアな〝魔道具〟だ。

 

 同梱されていた説明書きによれば〝土石〟と呼ばれる先住の〝力〟の結晶を元に作られたために〝魔法探知〟(ディテクト・マジック)にすら反応しない。メイジを写し取った場合はその限りではないが、むしろそのせいで入れ替わりに気付くのは至難の業であろう。

 

「あの人形を、ふたりの身代わりにする」

 

「そうだ。あれを使えば、しばらくの間――最低でも数年間は時間稼ぎが可能であろう。何せ、このわしですら直に触れて、そこに宿る魂魄の儚さを感じ取り、ようやく人間ではないと気付けたほどのシロモノなのだ。そう簡単には見破られまい」

 

「あれと似た『スキルニル』という魔法人形があるけれど、スキルニルは老化なんてしないし、思い通りに動かすためには、所有者がしっかりと指示を与える必要がある。スキルニル自身が全てを判断して行動することはできない」

 

「つまり、その『人形』と疑われる心配も少ないということだな」

 

「そう」

 

「あとは逃亡後の生活資金かのう」

 

 この意見にタバサは小さく眉根を寄せた。現在彼女が自由にできるお金は、毎月送金されてくる〝騎士〟の年金、五百エキューだけ。平民の四人家族が一年間裕福に生活できるだけの金額だ。今はそこから自分の学費や母たちの生活資金をやりくりしているのだが、それは土地屋敷があるからこそできることであって、それらを手放した後のことを考えると頭が痛くなる。

 

「だからと言って屋敷から何か持ち出したりしたら怪しまれる」

 

「まあ、それに関してはちょっとわしに当てがある。そのかわり、タバサだけではなく、例の仲間たちに協力を依頼する必要があるが」

 

「当てとは……いったい何?」

 

「ふっふっふ……懸賞金つきの討伐依頼受領を兼ねた宝探しだ!」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――キュルケは、夜明け前ふいに目を覚ました。

 

「う……テーブルで寝ちゃってたなんて……か、身体が痛い……」

 

 とりあえず立ち上がって、伸びを……そう考えたキュルケが偶然窓の外へ目をやると。なんと太公望とタバサが共に空から舞い降りてきたではないか。

 

「あらあら……とうとうあのふたり、外で一晩過ごしちゃった?」

 

 キュルケはにんまりとした。これは是非ともふたりに突撃していろいろと聞き出さねば。急いで身支度を調えると、上の階にあるタバサの部屋へと急ぐ。

 

 キュルケが足音を忍ばせ、タバサたちの部屋の扉に耳をつけて外から様子を伺うと……中から「今日は授業を休む」だの「いや、仮眠だけ取って出席せねば怪しまれる」などという、実に想像力をかき立てられる台詞が飛び交っている。

 

「やっぱり、タバサってば大人になっちゃったのね」

 

 ここで突撃しないでいつするのだ。燃える恋愛を至上とするツェルプストー家の者としては、どうしてもやらずにはいられない。いや、やらねばなるまい。

 

 そして、キュルケはいつものように(校則違反の)〝解錠(アンロック)〟を唱え、勢いよくタバサの部屋の扉を開いた……すると。

 

「いいところへ来たキュルケ!」

 

「あなたに頼みがある」

 

 ふたりの思わぬリアクションに、固まることしかできないキュルケであった。

 

 ――そして、タバサは改めてキュルケに事情を語った。

 

 もちろん彼女を信頼した上で、全てを話し、頭を下げた。

 

「どうか母と忠実な老僕が過ごすための、安全な場所の確保をお願いします」

 

 全てを聞いたキュルケは、泣いていた。しかも〝消音(サイレント)〟がかかっているにも関わらず、声をあげずに。内容が内容だけに間違っても聞かれてはいけない。そんな思いに駆られているのだろう。

 

 キュルケは静かにタバサの元へ歩み寄ると、親友を優しく抱き締めた。

 

「大丈夫、あたしに任せて! うちの実家には、いくつも別荘があるわ。そこのひとつを貸し出してもらえるよう、お父さまにお願いしてみるから」

 

「ありがとう……」

 

 タバサとキュルケのふたりは声もなく泣いた。そして、そんなふたりを見守っていた太公望は、彼女たちが落ち着くのを待って、その後改めて話を切り出した。

 

「お父上への報せだが、念のため直接にではなく中継点を通して送りたい。よって、のちほど手紙を書いて、わしに預けてもらえないだろうか。ちなみに預かってもらいたい人数はふたりだ」

 

「わかったわ。急いで連絡用の手紙を用意してくる」

 

 そう言って部屋へ駆け戻っていったキュルケを見送ったふたりは呟いた。

 

「タバサ。おぬしは素晴らしい友を持ったな」

 

「……うん」

 

 ――キュルケが覗き兼冷やかし目当てに部屋を訪れたなどとは、これっぽっちも気付いていない太公望とタバサであった。

 

 

○●○●○●○●

 

「畑仕事ォ!?」

 

 その日の夕方。新たに仲間に加わったモンモランシーを含めたいつものメンバーは、中庭に集まっていた。そこで太公望が「そろそろ初歩の応用授業に入りたいと思う」と切り出した際に、内容を聞いた全員から返ってきた言葉がコレである。

 

「うむ。と、いっても別に野菜を作れというわけではない。本来次の虚無の曜日から参加してもらうはずだったモンモランシーを呼んだのも、それが理由なのだ」

 

 一斉にモンモランシーを見る一同。だが、見られた本人も、いったい何故自分が呼び出されたのかわかっていなかった。

 

「それはどういうことかしら? ミスタ」

 

「うむ。実はな、魔法の応用訓練を兼ねて薬草畑を作ってみたらどうかと思いついてのう」

 

「薬草畑?」

 

「そうだ。そこでな、傷薬などによく使い、かつ育ちがよい植物についてモンモランシーならば詳しいと思ってのう。それを教えてもらいたかったのだ。もちろん対価はきちんと用意してある」

 

 対価という言葉にピクンと反応したモンモランシー。実際、先日太公望が提示してきた別件の対価は非常に魅力的かつ良いものだった。彼がわざわざもちかけてきたことなのだ、悪いものではないだろう。

 

「しかし、ミスタ・タイコーボー。なぜ畑なんだね?」

 

 ギーシュの、ある意味当然とも言える質問に太公望は笑顔で答えた。

 

「うむ。それについては畑の作り方の説明を行う際に詳しく話そうと思う。そうすれば、どうしてそういう選択になったのかが理解できると思う」

 

 ……そして、太公望は説明を開始した。

 

「ここから五リーグほど離れた場所に、水場が近く、かつ割と開けた場所があるのだ。そこは魔法学院が管理している土地なのだが、これまで特に使われていなかった。そこで、オスマン殿に対価を申し出ることで、わしら一同だけが利用できるよう許可を貰ったのだ」

 

 わざわざ学院長に許可まで取ってあるのか。生徒たちは思わず顔を見合わせた。

 

「でな、まずは才人とギーシュ」

 

「ん、何だ?」

 

「何だろうか?」

 

「お前たちはな、そこを耕すのだ。才人は(くわ)を使え。ギーシュはあえて『ワルキューレ』を操り、同じように鍬を持たせて耕すのだ」

 

「ええーっ!」

 

「どうしてそんな農民の真似ごとをしなければいけないんだい?」

 

 嫌そうな顔で返事をするふたり。それはまあそうだろう。今まで毎日戦闘訓練をしてきたというのに、いきなり畑仕事をやれと言われて喜ぶ男の子がいるならば、今すぐ顔を見てみたい。

 

「気持ちはわからんでもない。だがな。鍬で耕すのは武器を振り下ろす訓練にも繋がる。つまり、ただ素振りをするよりもお得なのだよ」

 

「ああ、なるほどな。軍事訓練と食料……っと、この場合は薬草か。それの確保を同時にやろうってことを言いたいんだな? 屯田兵みたいなもんか」

 

 太公望の指示に対して才人がそう答えると、いままで無関心だった周囲の者たちの目に興味の色が現れてきた。

 

「その通りだ。そしてルイズはその畑に薬草の種をまいて、そののち水をやるのが主な仕事だ」

 

〝念力〟(サイコキネシス)で桶に水をくんで、って意味かしら。もちろん種まきも」

 

 ルイズの解答に満足げに頷いた太公望。

 

「よしよし、よくわかっておるな。たしかに貴族らしい仕事とはいえんかもしれぬな。だが、みんなの役に立つ上に、しかも魔法の練習になると思えば苦にならぬであろう?」

 

 コクリと頷くルイズ。

 

「そしてタバサとキュルケは畑に生えた雑草を〝念力〟でむしるのだ。これは、いかに効率よく魔法を使うかの訓練を兼ねている。また、小さな石などをどけて、植えたものの成長を妨げるものを排除するのだ。特に細かい〝力〟調整が必要のため、今後間違いなく役に立つであろう」

 

「ちょっと面倒そうだけど、訓練なら」

 

「……やってみる」

 

「ああ、そうそう。草むしりは才人とギーシュも手伝うのだぞ。そのころにはもう耕す仕事も終わっているはずだからのう。才人はもちろん手で、ギーシュは『ワルキューレ』でもって行うのだ。才人のほうは、体力の増強に役立つであろう。ギーシュはより細かな操作の練習だ」

 

 了解した、という顔で頷く才人とギーシュ。

 

「うむ。それで最後にモンモランシーなのだが……おぬしには、この畑全体の監督を行ってもらいたいのだ」

 

「監督、っていうのは具体的に何をするのかしら?」

 

「畑に植えるのに相応しい薬草の採択、育て方……たとえば正しい世話のしかたや、植える場所の選定など、これらを図書館で調べた上で、全員に指示を行う仕事だ。作業分担の振り分けもな。これはおぬしの『調合』の知識を深める上で、必ず役に立つであろう」

 

 その上で……と、太公望は続ける。

 

「畑で作った薬草を使って、傷薬を調合してもらいたいのだ。そして、それがわしを含む全員にそれぞれ10個ずつ行き渡ったら……」

 

「行き渡ったら?」

 

「残りの薬は、全て売り払っておぬしの小遣いにするのだ。ちなみに、買い取りは魔法学院側が適正価格で行ってくれるので、特に商売を行う必要はない。これがオスマン殿に提示済みで、かつおぬしに提案する対価だ」

 

 ええーっ!! と、全員が大声を上げた。

 

「ちょっと待って! モンモランシーだけ、なんでそんな」

 

「ひとりだけお小遣いって、凄い不公平感があるんだけど」

 

「傷薬はありがたい。わたしは歓迎する」

 

「あー、俺も薬があると助かるな」

 

「ぼくも訓練で使えるなら身体が鍛えられるし、いいと思うよ」

 

 当然のごとく一部から沸き上がった不満の声を「まあまあ……」となだめることによって静めた太公望は、改めてこれに関する説明を追加しはじめる。

 

「不満はもっともであろう。だがな……わしが何故傷薬を指定しているのか、それを聞いたらちょっと意見が変わると思うぞ?」

 

「どういうことだよ?」

 

 才人の言葉に、太公望はニヤリと笑って見せた。

 

「ククク……もうすぐ魔法学院は夏休みだ。この機会に胸躍る冒険をしたくないか?」

 

 胸躍る冒険。その言葉に、ピクリと反応したのは才人とギーシュ。

 

「しかも……困っている領民を助け、彼らに感謝されてしまうようなものを」

 

 これにピククッ! と反応したのはルイズ。

 

「さらにだ……喜ばれた上に、多額の懸賞金までもらえてしまう」

 

 懸賞金という言葉に大きく目を見開いたのはキュルケ、モンモランシー、そして訳ありのタバサの三人だった。

 

「おまけに! そこには、このわしが自ら厳選した情報によって! 複数の〝魔道具〟が確実に眠っていることが明らかとなっている!!」

 

 全員が静まり返った。

 

「領民を苦しめる妖魔……といっても今回はみな初陣なので、さほど強くないものを選んであるが……それらを訓練の成果をもって倒し、さらに魔道具を手に入れ、懸賞金までいただいた上に、ひとびとから感謝の言葉を受ける。どうだ? わくわくしてこんか? これが、畑完成後のわしからの褒美だ!!」

 

 ――少しの間をあけて。生徒たちの間から大歓声が上がった。

 

「ちなみにだが……わしはそこに安置された、とある〝魔道具〟のみ入手できれば、その他の分け前は必要ない。懸賞金もな。ああ、ちなみにその懸賞金は総額五千エキューだ。そこから諸経費を差し引いたものを、わしを除いた参加者全員で山分けだ!」

 

 この太公望の言葉に再び歓声が上がる。

 

「ご、ごご、五千エキュー!? 王都でちょっとしたお屋敷が買える金額じゃないのよ!」

 

「げ、マジかよそれ!」

 

「そんな大金がもらえるのかい!?」

 

「山分けでも、それだけあれば新作の服が、あれも、これも……」

 

「わたしも、新しい秘薬が買えるわ……」

 

「それは助かる」

 

 口々に冒険終了後の展望を語り合う子供たち。

 

「そうそう、わしの〝術〟をつかうことによって、まいた種をすぐに芽吹かせることが可能だ。よって、選んだ薬草によっては夏休み前に全て収穫できるであろう」

 

「東方の魔法って、そんなことまでできるの!?」

 

「もちろん内緒だからな」

 

 太公望はそう言い置いて、さらに言葉を続ける。

 

「でだ。薬草の収穫後は畑が空くわけだが。そのあとは監督のモンモランシーが好きなものを植えてよい。もちろん、全員で話し合いをして決めるのも自由だ。そうして収穫したものを売るなり、調合してさらに価値を上乗せするなりなんなりして、成果を皆で分配する。うまくやれば安定した収入源となるであろう」

 

 訓練になる上に、みんなが得をする。もう、誰も文句を言う者はいなかった。

 

「なお、この畑の運営についてわしは一切口を出さない。当然ながら出た利益もわけてもらわなくて構わない。よって、最初に指定したやりかた以外にもっと効率のよい運営法や、植えるものに関する選定を、知恵を出し合って考えるのだ。これが『応用訓練』と言った理由である」

 

 ……と。ここで才人が手を挙げた。

 

「質問があるんだけど。そこって、結構広いのか? 畑は何面くらい作れる?」

 

 その質問に、ふむ……と、手を顎にやって考え込む太公望。

 

「そうだな。一般的サイズの畑ならば3面……いや4面いけるかもしれぬのう」

 

 その答えに才人は満面の笑みを浮かべた。

 

「だったら、薬草だけじゃなくて他にもいろいろできるんじゃないか?」

 

「ああ、それもそうね」

 

「途中で畑を休ませることもできるし」

 

 この才人の言葉にビクンと反応したのは太公望。その他のメンバーの中で「なるほど……」という反応をしているのはルイズ、タバサ、モンモランシー。ギーシュとキュルケのふたりはぽかんとしていた。

 

「休ませる、ってどういうことなのかしら?」

 

 キュルケの質問に、サイトが反応した。

 

「ああ。え……っと、なんていったらいいかな……」

 

 頭を掻きながら考えを纏める才人。いい例えがみつかったのか、身振り手振りで語り始める。

 

「土の中には、魔法で例えると〝作物を育てる魔力〟みたいなものがあるんだ」

 

「ふんふん……」

 

「でな、その〝魔力〟のおかげで、野菜とか畑の作物は育つんだよ。けど、同じ場所でずっと芋とか作り続けてると、だんだんその〝魔力〟がなくなっていくんだ」

 

 その説明に補足を入れたのがタバサだ。

 

「〝精神力〟の回復と同じで、たまに休ませてあげないといけない」

 

 さらに説明をくわえたのがルイズとモンモランシーだ。

 

「タバサの言うとおりよ。そうじゃないと、土地がどんどん疲れていって、しまいにはなんにも生えない場所になってしまうわ」

 

「だから、サイトは全部で4面の畑を作って、そのうち3つに薬草を植えて、1つは何も植えずに交代で休ませたほうがいい、って言っているのよ」

 

 ほぅ……と、感心するキュルケとギーシュ。さすがは本の虫タバサ、座学トップのルイズ、薬調合の名人モンモランシー。ただ、何故か太公望はひとり眉根を寄せていた。そんな中、どうにもその説明に納得のいっていない人物がいた。キュルケである。

 

「でも……それなら森とかの木や草は、どうして枯れないの?」

 

 彼女の質問はもっともである。ここで、タバサ、ルイズ、モンモランシーが脱落した。だが……才人はそれに関する解答もちゃんと持っていた。

 

「森とかには〝育てるための魔力〟を回復する仕組みがあるんだ」

 

 ……と、ここで太公望が口を挟んだ。

 

「それはひょっとして食物連鎖のことを言っておるのかの?」

 

「さすが閣下! そういや自然科学勉強してたって言ってたもんな」

 

「閣下って何かしら?」

 

 意味がわからない、という顔をしているモンモランシーはとりあえず無視し、ギロリと才人を睨み付けた太公望。さすがの才人もその表情を見て口元が引きつった。「ついクセで……」と、片手で拝むようなポーズで謝罪する。

 

「まったく……ああ、すまぬ。モンモランシーにはとりあえずあとでちゃんと説明するから、才人はこのまま先を続けてくれ」

 

(俺より閣下が説明したほうがいいんじゃないかなあ……)

 

 などと思いつつも才人はできるだけかみ砕いて食物連鎖についての解説を行った。日本においては小学生の理科で習う、動物が草を食べ、落としたフンによって植物が育つ。互いに喰い、喰われる関係で繋がっているというアレである。

 

「ロバ・アル・カリイエって、本当にいろんな研究が進んでるのね……」

 

 才人の説明と、それを明らかに知っていたとみられる太公望の反応を見たその他全員が感心している。特にモンモランシーは授業初参加だけあって驚きもひとしおだ。

 

「とりあえず〝育てる魔力〟についてはそれはいいよな。ところで……」

 

 説明を終えた才人は、今度はモンモランシーに言を向けた。

 

「モンモンって二つ名が確か『香水』だよな? ひとつの畑は花畑にするとかどうだ? 香草もありだな! んで、それで香水作って学院の女の子たちに売るんだ。わざわざ材料買いに行かなくても済むぜ」

 

「すっごくいいわそれ! 採用!!」

 

「でさ。厨房から、いつも捨てられてるだけの残飯をタダで引き取ってきて〝錬金〟で肥料に変えてから畑にまけば、金かかんない上に、植えたものの育ちもよくなると思うんだけど……畑休ませる期間も大幅に減らせる、ってか物によっては休みもいらなくなるかも。どう思う?」

 

「素晴らしい考えだわ! うまく調整してあげれば収穫も早まるでしょうし」

 

「まてまてまてまて!!」

 

 盛り上がりまくるふたりを制止したのは、太公望であった。

 

「のう才人よ、おぬしは何故農業や自然科学に関して、そこまで詳しいのだ? まさかそれも高校とやらで習うのか?」

 

「いや、食物連鎖は母さんに教わったんだけど……子供の頃に」

 

 ついにはフリーズしてしまった太公望。

 

(母親から子供のころに食物連鎖を教わっただと……!? いったいどういう家庭に育ったのだ、こやつは!)

 

 日本のどこにでもいる、単なるちょっと教育熱心なお母さん。本当にそれだけの話なのだが、さすがにそんなことまでは太公望にはわからない。

 

 それからしばらくの後。ようやく硬直から解けた太公望は、改めて質問を再開した。

 

「才人よ、まさかとは思うのだが。おぬしの母上は、実は国でも著名な植物……あるいは農業関係の学者だったりするのか?」

 

「いや、ごく一般的な母親だと……って、普通じゃないかも。いきなり『頭が良くなる機械』なんておかしなモノ持ってきて『お前はヌケてるから、これで頭を良くしてあげる!』とかなんとか言って、電撃流されたことあるし」

 

 この発言により太公望はついに頭を抱え、がっくりと膝をついてしまった。なんだなんだと騒ぎ出す生徒たちと「俺、なんかおかしなこと言ったか?」という顔でぽかんとしている才人。

 

 太公望は混乱の極みにあった。

 

(いったいなんなのだこやつの国……いや、母親は! 頭がよくなる機械に、電撃だと!? もしや、わしの義手にマジックハンドなんぞを仕込みおったイロモノ三人衆の如きマッドな学者だとでもいうのか? そうか、ようやくわかった。それならば、才人のあの奇抜な閃きも血筋と教育ゆえのものだと納得できる……!)

 

 ……太公望に、個人的評価をおかしな方向に軌道修正されてしまった才人であった。

 

 ちなみに、この『頭がよくなる機械』は彼の母親が怪しげな通販で購入したシロモノである。『電撃』に関しては、その装置がショートした為に起こった現象だ。ある意味『この親にしてこの子あり』を実証した例のひとつともいえよう。

 

 ――その後。

 

「せっかくだからマンドラゴラとか育てたいわ! すっごい高値で売れるし!!」

 

 などと言い出したモンモランシーと、

 

「地面から引き抜くときの絶叫を聞いたら、ぼくたち全員死んでしまうよ!」

 

 それを必死の形相で止めようとするギーシュ。

 

 逆に賛成側にまわり、

 

「収穫時に〝消音〟をかけて外から〝念力〟を使えば呪いの叫びを聞かずに済む」

 

 などと提案したタバサに、

 

「その発想はなかったわ」

 

 と、目をキラキラさせて賛同するキュルケとルイズ。

 

「毎日新鮮な桃が食べたいから、是非果樹園を……」

 

 そう軽い気持ちで横から口を出し、

 

「桃が実るまで何年かかると思ってんだよ!」

 

「口を挟まないって約束よね!?」

 

 と、全員から猛反撃を食らい、精神的な意味でボッコボコにされた太公望。

 

 そんな感じで太公望を除く全員が知恵を出し合い続けた結果、しまいには揃って図書館へ移動して調べ物を始めるほどの盛り上がりを見せることとなり……そして。最終的にとんでもなくカオスな畑完成予定図ができあがったのは、既に日がとっぷりと暮れた頃であった――。

 

「わし……ひょっとして、とんでもない提案をしてしまったのではなかろうか」

 

 ……珍しく、とてつもない敗北感で胸がいっぱいになった太公望であった。

 

 なお、この図書館での話し合いの最中に、才人がハルケギニアの文字が読めないことが判明し、主人であるルイズが自ら彼に文字を教えることとなった。

 

 ――太公望と彼の周辺は少しずつ焦臭さを増してはきたものの、まだ平和であった。

 

 

 




夢の中だから好き勝手してみた。反省はしていない。
ぼやっと記憶しているのですが、
序盤を書いた当時、PHANTASY STAR PORTABLE2にハマっていて、
そこのマイルームをイメージしていたはず。
ご存じの方は、それを思い浮かべていただければと。

なお、設定的にはスターシップ蓬莱島(地球到着前)の伏羲の私室です。


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継がれし血脈の絆
第28話 風と炎の前夜祭


 ――ルイズが才人にハルケギニアの文字を教え始めた、ちょうどそのころ。

 

 帝政ゲルマニアと国境を接するラ・ヴァリエール公爵領に在る屋敷のダイニングルームで、かの地の領主と妻が食後の茶を楽しみながら、今後の予定について語り合っていた。

 

「もうまもなく魔法学院が夏期休暇に入ります。あなた、例の件でこちら側の用意は調いました。そろそろ使いを出したほうが良いと考えているのですけれど、そちらの準備はいかがかしら?」

 

 あなたと呼ばれた初老の貴族――品の良い片眼鏡(モノクル)をかけ、立派な口髭を蓄えた彼の髪は、ところどころ白いものが混じりはじめてはいるものの、豪奢な金色だった。この人物の名はピエール・ド・ラ・ヴァリエール公爵、つまりルイズの父親は目の前に座る妻に向かって頷いた。

 

「今月末……確かダエグの曜日を最後に魔法学院は休みに入るのだったな。今のうちに使者を――それも、絶対相手に失礼にあたらない者へ用意した手紙と伝言を託そうと考えているのだが、お前はどう思うね? カリーヌ」

 

 夫からそう問われたカリーヌ夫人――娘のルイズそっくりのピンクブロンドをアップにまとめた中年女性は満足げに目を細め、夫に頷き返した。

 

「問題ありません。ルイズには事前に伝書フクロウを送っておきますわ」

 

「そうか。ではよろしく頼む」

 

 

 ――刻は、この公爵夫妻の会話から1ヶ月ほど前の早朝まで遡る。

 

 トリステイン王国の中でも随一の歴史と格式を誇るラ・ヴァリエール公爵家の書斎。その奥から部屋の主自慢の渋みがかったバリトンが響き渡った。

 

「カリーヌ! カリーヌよ!!」

 

「まあ、いったいなにごとですか。公爵ともあろうお方がそのような大声を出すなどとは。わたくしに何か用があるのなら、使用人を呼べばよいではありませんか」

 

 カリーヌ夫人はその鋭い目に炯々(けいけい)とした光を湛え、公爵――己の夫へ抗議した……のだが。彼の顔に浮かんだ、抑えようにも抑えきれないといった笑みを見た瞬間、それ以上口を挟むことができなくなってしまった。

 

「ルイズだ。ルイズからな、今しがた手紙が届いたのだよ!」

 

「確かにあの子から手紙が届くなど、実に半年ぶりではありますけれど。そこまで大げさに騒ぐほどのことなのですか?」

 

 子は、いつしか親元から離れてゆくもの。便りがないのは娘にもその自覚が芽生えてきた証拠なのだと、カリーヌ夫人はむしろ喜んでいたくらいなのだ。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は妻に件の手紙を差し出した。

 

「まあ、そう言わずに読んでみるがいい。カリーヌ!」

 

 夫に勧められるがままに、差し出された手紙へ目を通すカリーヌ。読み進めてゆくうちに、瞳に宿した光が徐々に柔らかいものへと変化していった。それを見たラ・ヴァリエール公爵は妻の手を取り自分の胸元へと引き寄せると、その身体を強く抱き締めた。

 

「かつて『烈風』と呼ばれた君の血を、最も濃く受け継いでいたのはあの子だったのだ! いや、まさか……才能がありすぎて普通のやりかたでは魔法が使えなかったなどとは思いもよらなかったぞ。しかも、目覚めたのは風系統。素晴らしい報せではないか! なあ、カリーヌ。わしの愛しいカリン!」

 

 夫の熱い抱擁に身をゆだねていたカリーヌ、別名カリン――彼女はかつて伝説とまで謳われた、トリステイン、いやハルケギニアの歴史上最強の〝風〟の使い手にして『烈風』『鋼鉄の規律』の二つ名を持つ人物である。

 

 ――現在からおよそ30年ほど前のこと。事故で危うく命を落としかけたところを偶然通りかかった騎士に救われたカリーヌは、女の身でありながら騎士になることを夢見た。しかし彼女の憧れであった近衛魔法衛士隊は、昔も今も女人禁制とされていた。そのため男の服に身を包み、名をカリンと偽り、見習い騎士として隊に潜り込んだのだ。

 

 魔法の才に溢れていたカリンはそれからすぐに頭角を現し、トリスタニア中央の広場で大勢の観衆が見守る中。なんと当時の国王『英雄王』フィリップ三世が自ら〝騎士(シュヴァリエ)〟に任じたほどの働きを見せるに至った。

 

 騎士となって以後のカリンの活躍ぶりは書物となり、詩の題材にされ、歌劇として演じられるほどの人気を誇り、現在も世界各地で親しまれている。

 

 だが彼女は――今、自分を掻き抱いている愛する夫との結婚を機に魔法衛士隊を引退。最後まで正体を公にすることなく現在に至る。その事情を知る者は、家族と当時の友人たち、そして今も王宮に残る、わずかな者のみとなっていた。

 

「それにしても。わざわざ東方ロバ・アル・カリイエから、ルイズのために優秀な風メイジを招いてくださるとは……あの子は本当に良き友を得ましたね」

 

 カリーヌ夫人は少し震えた声で夫の抱擁に応えた。彼女の目にはうっすらと光るものが浮かび上がっている。

 

「まったくだ。あの子は……ルイズは本当に幸せ者だ。そして、わが娘を系統に目覚めさせてくださったというメイジ殿や魔法学院の先生方に、我々はどのようにして報いればよいのだろうか」

 

 やや名残惜しそうにゆっくりと愛する妻の身体から離れながらラ・ヴァリエール公爵は唸った。今すぐにでも使者をやり、屋敷で歓待したいところだが、相手にも都合というものがある。そのようなことをしてはかえって失礼にあたるというものだ。

 

「そうですわね、あなた。来月、魔法学院は夏期休暇に入ります。その際に……わが娘の成功を、わざわざ宴を開いてまで祝ってくださったという皆様、そして東方の風メイジ殿と友人――いえ、我が家の恩人たるお二方を揃って我が家へお招きし、歓待する……というのはいかがかしら?」

 

 妻から出された提案に破顔した公爵は、再び彼女を抱き締めた。

 

「素晴らしいよ、カリーヌ。では、そのように手配をしよう。だが、その前に」

 

「ええ、あなた。わたくしも賛成です」

 

 カリーヌ夫人は微笑んだ。そんな彼女を心から愛おしそうな目で見つめたラ・ヴァリエール公爵は、ベルを鳴らして執事長を呼び出した。そして、すぐさま現れた老僕に申し渡す。

 

「今宵は家族で盛大な祝いの宴を催す。もちろん、このわしも参加する。ワイン蔵の奥に寝かせてある最高級のタルブ16年ものをそこで1本開けたい。急いで準備に取りかかってくれ」

 

 タルブの16年もの。トリステイン王国いちばんのワイン産地タルブの最高級品。それは愛娘ルイズが生まれた年に買い求めた3本のうちの1本だ。残る2本のうち1本は、娘が嫁ぐ際に嫁入り道具のひとつとして持たせ、もう1本は、その結婚式の夜に夫婦揃って飲もうと決めていた。

 

「かしこまりました、旦那さま」

 

 恭しく一礼した執事長は、落ち着いた足取りで廊下へと姿を消した。

 

「早速ルイズに宛てて返事を書かねばならん。今日の執務は全て後回しとする」

 

「まあ、あなたったら! 『鋼鉄の規律』としては、そのような無法を許すわけには参りませんことよ」

 

「ふふふ、厳しいな! わしのカリンは」

 

「あなたこそ娘に甘すぎですわ」

 

 ふたりはひとしきり笑った後、愛しい娘に宛てた手紙を書くための時間を捻出すべく、全力でもってその日の仕事に取りかかった。

 

 その翌日――ルイズの元へ父と母、そしてふたりの姉から祝福の言葉と共に、夏休みになったらお世話になった皆様を連れて帰省するように、との旨がしたためられた手紙が届いた。

 

 だがしかし。伝書フクロウが飛んできた時間帯が、夜遅くであった――それがルイズにとっての不幸の始まりであった。

 

「今からみんなのところに行くのは、いくらなんでも失礼よね」

 

 だから、みんなに報せるのは明日以降でいいだろう。そう考えた彼女は、そのまま仲間たちに伝えるのをすっかり忘れていた。何故なら、折悪く翌朝に「今日からモノを浮かせ、その上に乗って空を飛んでもよい」という許しを得て、初めて自力で空を飛べるようになった喜びのあまり――両親から受けた指示が忘却の彼方へと消えていたからだ。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから1ヶ月後の現在。

 

 一台の豪奢な馬車がゴトゴトと音を立て、整備の甘い山道を一路トリステイン魔法学院へと向けて移動していた。その車体に刻まれたるは、ヴァリエール公爵家の紋章。

 

 馬車に揺られていたのは、美しく輝くブロンドの髪に、見る者全てに知的な印象を与える眼鏡をかけた若い女性であった。彼女の名は、エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール。ルイズの長姉にあたる人物である。

 

「魔法学院まであと二日……と、いったところかしら。まったく、研究が大詰めで忙しいわたくしをわざわざトリスタニアから呼び寄せたと思ったら、学院への使者に立てとは。いくらなんでも、こちらの都合を考えていないにも程があるわ!」

 

 トリステイン貴族としての格式を重んじるというのならば、当然の如く手元に相応の支度ができるだけの用意がしてあったのだ。よって、手紙と馬車だけ寄越してくれればいい。

 

 にも関わらず、ラ・ヴァリエール公爵がわざわざ彼女を屋敷まで呼び戻したのには理由がある。エレオノールは当然の如くそれを察していた。

 

「本当にもう、父さまったら。わたくしの顔が見たいのなら、素直にそう仰ってくださればきちんと時間を作りますのに。いつまでたっても娘離れができないんだから!」

 

 ほんの少し顔を赤らめ、ぷりぷりと美しい頬を膨らませて不平を漏らすその姿は、髪と瞳の色を除けばまさに妹のルイズに生き写しである。彼女たちは紛れもなく同じ血を分けた姉妹だった。

 

「それにしても、東方のメイジだなんて。そんなどこの馬の骨かもわからないような相手に、わざわざ大貴族の娘たるこのわたくしを使者に立てるなど……!」

 

 ぎゅっと握った拳を膝元に乗せて、エレオノールは口惜しげに呟いた。

 

「もちろん、おちびを系統に目覚めさせてくれたことについては感謝しているわ。だからといってここまでする必要があるのかしら」

 

 ……ここで、念のため彼女の擁護をしておこう。現在、エレオノールはまさに不幸のどん底にいたといっても過言ではなかった。

 

 もしも普段の――不運の深淵に沈み込んでいないときの彼女であれば、可愛い妹の恩人たる相手に対し、ここまで露骨な嫌悪感を抱くようなことはなかったであろう。

 

 実際、ルイズが初めて魔法を成功させたという報せを受け取ったとき、エレオノールは我がことのように喜んだ。そして、そのきっかけとなった東方のメイジに心からの感謝と――ほんの少しだけ嫉妬を覚えていたほどなのだ。

 

 伝統あるトリステイン王立アカデミーの主席研究員たる自分にすら原因のわからなかったおちび――彼女はふたりいる妹のうち、下のルイズをこう呼んでいる――の失敗の原因を、ほんの少し見ただけで解き明かし、さらには風系統に目覚めさせたという人物。機会があれば、一度ゆっくりと語り合ってみたいとすら考えていた。

 

 ところが、そんな時だった。彼女の身辺に大きな異変が巻き起こったのは。

 

「もう限界」

 

 そのひとことだけを告げ、婚約者のバーガンディ伯爵が自分との関係を白紙に戻すなどと言い出し――理由もわからぬままエレオノールは婚約を破棄されてしまったのだ。

 

 よって、エレオノールの機嫌は現在……最悪の最悪の最悪。最悪の底を突き破って、なお突き進むほどに悪化し続けていたのだ。

 

『今現在、不幸をその背に負う者は、言動にくれぐれも気をつけよ。なんとなれば、それはさらなる不運をその肩に乗せる理由となりえるからだ』

 

 誰が残したのかもわからぬその言葉。これはまさしく彼女に対する警告たりえる言葉であろう。だが、やはり不運であった彼女に、それは届かなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――同日午後。

 

 魔法学院のとある教室では、その教壇に『炎蛇』のコルベールが上がっていた。彼は学問を心から愛していた。生徒たちに授業を行うのも大好きだった。何故なら、そこは自分の愛する学問と、研究成果を披露できる晴れ舞台でもあったから。

 

 今日の彼は教室に現れた途端、授業開始の挨拶もそこそこに満面の笑みを浮かべ――教壇の上におかしな機材を乗せた。

 

「それはなんですか? ミスタ・コルベール」

 

 生徒のひとりが質問した。

 

 それも当然である。そこに置かれた物体は謎に満ちあふれていたからだ。金属製のパイプやクランク、さらに車輪などが複雑に組み合わされ、おかしな箱までくっついている。

 

「えー、誰かこの私に〝火系統〟の特徴を開帳してはくれないかね?」

 

 教師の言葉に応じ『微熱』の二つ名を持つキュルケが、立ち上がりすらせず、どことなく気怠げな口調でこう答えた。

 

「情熱と破壊。それこそが〝火〟の本領ですわ」

 

「そうとも!」

 

 『炎蛇』の二つ名を持つコルベール自身も優秀な火系統のメイジである。にっこりと笑ってその答えを受け入れた。

 

「だがしかし……情熱はともかく、火が司るものが破壊だけでは寂しい。私はそう考えます。火は……」

 

 と、そこまで言葉を紡いだコルベールは、ふとキュルケのすぐ側――正確には常に彼女の隣に座っている、タバサの横の席に腰を下ろしている太公望に視線を移した。

 

 以前、後輩の『疾風』のギトーがコルベールに面白いことを話してくれた。あの少年――いや、既に27歳。青年と呼ぶべき彼が、風系統をして『知恵ある者の象徴』と断じたのだ――と。

 

 コルベールは太公望の見識の深さをよく知っていた。だから訊ねたくなった。そんな彼は〝火系統〟に対してどのような意見を持っているのだろうか。

 

「ふむ。そうですね、ミスタ・タイコーボー。きみは本来風系統のメイジだが、火系統についても非常に優秀な『使い手』であると学院長から伺っています。きみが常日頃から思い浮かべる〝火〟についての見解を、是非聞かせてもらいたい」

 

 コルベールの言葉に教室中がざわついた。指名を受けた太公望はというと「あのクソ狸めが、まだ占いの件引きずっとったんかい……」などと、内心で強烈なまでの呪詛を込めた恨み言を放っていたわけだが。

 

 ハッキリ言おう。引きずっていたのはコルベールであってオスマン氏は悪くない……この場において、という意味では……だが。

 

「ミスタ・タイコーボー! 君は〝火〟も扱えたのかい!?」

 

 教室の各所から驚いたように質問が飛んできた。そして太公望がふうとため息をつき、

 

「言われるほどのものではないがのう」

 

 そう答えると室内はさらに湧いた。タバサのすぐ隣では、何故かキュルケがぎりぎりとハンカチーフを噛み締めている。

 

 期待にきらきらと顔を輝かせているコルベールを見て太公望は思わず肩を落とした。これは断ろうとするだけ無駄だろう。

 

 太公望の脳裏には、かつて行動を共にした同僚の顔が浮かび上がっていた。彼は、一度好奇心に取り憑かれたが最後、絶対に探求を止めようとはしなかった。どう考えても、その同僚とコルベールは似たタイプの研究者だ。

 

 こうなっては致し方ない――太公望は再びふうと息を吐くと、コルベールに確認した。

 

「コルベール先生、少し長くなっても――?」

 

「もちろん構いません。是非、きみの意見が聞きたい」

 

「わかりました。それでは――」

 

 生徒たちは色めき立った。例の『風最高』事件で放った彼の発言は実に面白かった。もっとも、彼らにとって本当に楽しかったのはその後の展開だったのだが、それゆえに教室の注目が一斉に太公望に集まった。あのおかしな物体も気になるが、まずはコイツの話を聞いてみよう――と。

 

 注目を集めてしまった太公望のほうはというと、顎に手を当て、なにやら考え込んだような様子を見せたあと、ぽつりと言った。

 

「わしはこう思うのだ。人類で初めて火で肉を焼き、さらにそれを食べた人物は――『神』として崇められてしかるべき存在なのではないだろうか、と」

 

「何言ってんだこいつ……」

 

「なんかまた変なこと言い始めたよ!」

 

 生徒たちの心は、その瞬間ひとつとなった。だが、コルベールだけは目を輝かせて太公望の発言に聞き入っている。

 

「そもそもだ、火の側にいけば暖かい。そして、触れたら痛い目を見る。ここまではわかるのだよ……だが、どうしてそんなモノの中に彼は――もしかすると彼女かもしれぬが、貴重な食料である肉を入れようと考えたのだろう?」

 

 太公望は語る。

 

「まだ魔法はおろか、狩りのための道具すらろくなものがなかった時代――肉を取るために、人間はどれだけ苦労したのであろう。今の我々からしたら、想像を絶する困難だったに違いない。にも関わらず、どうしてそのような考えに至ったのであろうか?」

 

「狩りの途中で、寒くなって焚き火にあたってたら、偶然そこに肉が転げ落ちたとか……案外そういうオチかもしれないぞ?」

 

 そう呟いた才人の声に「かもしれぬな」と答えた太公望は、さらに続けた。

 

「だが、何故それを食べようとしたのか。まあ、単にもったいないと思った結果、口にしてみた。そうしたら思いのほか美味かった。それだけなのかもしれぬがのう」

 

 そう言って周囲を見回した太公望は、自分の意見を押し出した。

 

「でもな。彼らは――その発見を自分たちだけで独占しなかった。結果『火に肉を入れて食べると美味い』『焼いて食べれば腹を壊さない』『そうすれば死ににくくなる』という事実が世界中に広まった。この功績で、どれほどの数の人間が救われただろう? この偉大なる発見は、確実に人類の『世界』を変えたのだ。これを見つけ、広めた者を『神』と呼ばずして、なんとする」

 

 コルベールは歓喜に震えていた。彼が聞きたかったのは、まさしくこういうことであったのだ。常日頃から『破壊だけに火を用いるのは寂しい』そう考えていたから。

 

「そして火は、人類にさらなる繁栄をもたらした。水を汲んだ器を火にくべ、湯をわかす者が現れた。森の木を切る代わりに火を用いて焼くことで、切り倒すよりもずっと簡単に、そこを人間が住まう場所である平地に変え――結果、その土地で産み育てられる子供の数が増えた。そうして人間はさらに増えていった」

 

 身振り手振りを交えながら持論を展開していく太公望。風のときとは違って、なんだかちょっと哲学的だよな……などと思いながら才人はその言葉に耳を傾けていた。

 

「もちろん、火は破壊をも司る。戦で使われれば、それは簡単に人間を焼き殺す怖ろしい武器となる。しかし……これまで語った通り、火は『使い手』次第で人間を大きく繁栄させることも可能な……文字通り、世界を変える〝力〟なのだよ」

 

 世界を変える。それはなんと素晴らしく、怖ろしいものであるか。

 

「以前、わしが風系統をして『知恵ある者の象徴』と例えたことを覚えている者もいると思う。今回は、同じように火系統がいかなる者の象徴であるのか、わしなりの意見を述べさせていただきたいのですが、コルベール先生……よろしいでしょうか?」

 

 コルベールは大きく頷いた……何度も、何度も。それを見た太公望は、結論した。

 

「火系統のメイジとは『自ら道を切り開く者』。使い方次第で、周りを暖かな光で満たすことも、破壊の権化として君臨することも可能。よって使い道を、自分自身で常に選び、己の判断のみで『道』を切り開いていかねばならない。その大きな〝力〟が故に振り回されたが最後――それは、破滅の『道』へしか繋がらないからだ」

 

 誰かがごくりとつばを飲み込んだ音が、やけに大きく室内に響き渡った。

 

「火系統の者は、心せねばならぬ。その〝力〟は自分のみならず周りをも巻き込む。幸せな旅路にも、絶望の底へも一緒に……だ。以上が、わしの個人的な〝火〟に対する見解である。長々と失礼した」

 

 パチ、パチ……と、拍手の音が聞こえた。コルベールであった。そして、それを契機に教室の各所から同意するかの如く拍手がわき起こった。観客たちに深々と一礼した太公望は、すとんと席に着いた。

 

 ――少しの間を置いて、場が落ち着きを取り戻した頃。コルベールは授業を再開した。

 

「いやはや……あのような話を聞いたあとにこれを出していいのか正直迷いましたが、まだまだ時間がありますので、改めて公開しましょう」

 

 そうだ。さっきの話にも興味があったけど、今はあのおかしな物がなんなのか、そっちのほうが気になる。生徒たちの関心が一挙に教壇の上へと移動した。

 

「コルベール先生、それはいったいなんですかのう?」

 

 質問を投げてきたのは先程の話の主、太公望だった。彼はこれを見たらなんと言ってくれるだろう。コルベールは、なんだかそれがとても楽しみになった。

 

「うふ、うふ、うふふ。よくぞ聞いてくれました! これは私が発明した……油と火の魔法を使って動力を得る装置なのですぞ!」

 

 そのコルベールの発言に、大きく目を見開いた太公望。なんだかそれに見覚えがあるような気がして、壇上に注目した才人。

 

 そして彼らは見た。その『装置』を。コルベールが何の知識もなく、誰の助けも得ず、自力で考え出した奇跡の象徴を。

 

 コルベールは足で何度もふいごを踏んだ。すると、ふいごによって気化した油が円筒状の筒の中へと放り込まれた。筒の横に開いた小さな穴に慎重な手つきで杖を差し込み、呪文を唱える。それは火系統の初歩〝発火〟の魔法だった。その小さな火は断続的な発火音を生み出し、気化した油へ燃え移ると、爆発音に変わった。

 

「どうですか? この円筒の中では、なんと気化した油が爆発する〝力〟で、上下にピストンが動き続けているのですぞ!」

 

 そうこうしているうちに、円筒の上に取り付けられていたクランクが動き出し、車輪を回し始めた。回転した車輪が小箱のフタを開くと、その中から妙に愛嬌のあるヘビの人形がぴょこぴょこと連続で顔を出した。

 

「ピストンが上下する〝力〟が動力として車輪に伝わり、このように回転させる! するとほら! 愉快なヘビくんが、ぴょこぴょこと顔を出してご挨拶! ほら! ご挨拶!」

 

 興奮したようにまくし立てるコルベールとは対照的に、生徒たちの関心は冷めていった。今や熱心にその様子を見守っているのは、才人と太公望のふたりだけだ。

 

 生徒のひとりが、がっかりしたような声で感想を述べた。

 

「それがいったいどうしたんですか? 動かすだけなら、全部魔法でやればいいじゃないですか。そんな妙な装置なんて、必要ありません」

 

 他の生徒たちも、その通りだと言わんばかりに頷き合った。コルベールは自慢の発明品が全く評価なかったことに落胆し、がっくりと肩を落とした。しかし彼は、持ち前の打たれ強さでなんとか立ち直ると、こほんとひとつ咳をして、説明を始めた。

 

「諸君、よく考えてみなさい! 今は、まだヘビの人形が顔を出すだけだし、点火を魔法に頼っていますが、例えば火打ち石などを利用して、断続的に着火できる方法が確立されれば、いろいろなモノに応用できます。たとえば、この装置を荷車に乗せて車輪を回させれば、馬がいなくても荷車は動く! どうです、素晴らしい発明だとは思いませんか!?」

 

 コルベールは生徒たちへ熱心にこの発明品の利点を説明したが、彼の情熱は全く伝わらない。だが、そんな中。食い入るようにコルベールが生み出した奇跡の装置に注目している者たちがいた。

 

「や、やはり……!」

 

「あ、もしかしてタイコーボーも気がついた、よな?」

 

 ふたりは顔を見合わせ、頷き合う。それから大声で叫んだ。

 

「内燃機関だ!」

 

「エンジンだ!」

 

 ふたりはドタドタと足音を響かせながら教壇前まで駆け寄った。

 

「ゼロからこれを生み出されたのですか? コルベール殿!!」

 

「すっげえ! コルベール先生は天才だよ!!」

 

「才人の言う通りだ! この発想力、そして応用力……正真正銘の天才だ!」

 

 取り残された生徒たちは、興奮してまくし立てるふたりをただぽかんと眺めていた。いまいちよくわからないが、技術開発が進んでいると噂される東方出身の彼らが、あそこまで褒めているんだから、ひょっとしてアレはスゴイものなのかもしれない……と。

 

 コルベールは感動していた。遠い世界から来たふたり。ひとりは、柔軟な発想で魔法の常識を覆す使い方を提案してくる少年。もうひとりは、先程『持論の行き着く先』とも言うべき論説を聞かせてくれた、若くして将官の地位にまで上り詰めたほどの実力者。

 

 そんなふたりが目を輝かせて自分の発明を見てくれている。しかも、こんなに興奮しながら褒め称えてくれるだなんて。コルベールはなんだか胸の奥底に暖かな火が灯った……そんな気がした。だが、事態はそれに留まらなかったのである。

 

「なんと素晴らしい……コルベール殿。さっきわしが言った言葉を覚えておられますか? 火は世界を変える〝力〟だと」

 

「え、ええ、もちろんですぞ」

 

 戸惑うように口を開いたコルベールに、追撃をかけたのは才人だった。

 

「先生! この発明は……本当に世界を変える〝力〟だ! しかも、人類を繁栄させるものなんですよ! 俺の国では実際にそれと似た機械を使って、さっき先生が話してた通りのことをやってるんです」

 

「なんと……!」

 

「今は授業中ゆえ、のちほどお時間があるときに改めて先生のお話を伺いたい」

 

「俺も俺も! 絶対ですよ!?」

 

 ふたりはそう言い置いて、共に自席へ戻っていった。

 

 彼らの後ろ姿をぼんやりと見送ったコルベールの頭の中では、先程彼らが放った言葉が、繰り返し再生され続けていた。

 

『これは世界を変える〝力〟だ』

 

『人類を繁栄させるものなんですよ!』

 

「この罪深き私の〝火〟が、世界を変え、人類を繁栄させる――?」

 

 そののち、コルベールはどうやって授業を終え、いつのまに自室まで戻ったのか一切覚えていなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その晩。キュルケは今夜もひとりで飲んだくれていた。

 

「はあ、アンニュイな気分だわ……トリステインの国立魔法学院で、アンニュイな学院生活。略して国立アンニュイ学院! なーんてね……うふふふふふ」

 

 もうだめだ。完全に出来上がってしまっている。

 

「炎を使った占いの噂は聞いてたけど、まさか学院長が認めるほどの『使い手』だとは思わなかったわ……本当に、どうしてあたしの〝召喚〟で彼が来てくれなかったのよぉ~。そしたら、こんなに悩まなくて済んだのにぃ~!」

 

 キュルケはワインボトルを傾けると、グラスに赤い液体をどばどばと注ぎ込んだ。

 

「現在進行形で困ってる親友のパートナーに粉かけるわけにもいかないしぃ~、う~、も~!」

 

 ぐったりとテーブルに身体を預けながら、キュルケは酒杯をあおる。すると……隣の部屋から、何やら妙な声が聞こえてきた。

 

(馬鹿……力入れすぎだろ。それじゃ入らないって)

 

 キュルケの酔いが、この瞬間一気に冷めた。この声は……もうひとりの〝大当たりの使い魔〟。サイトのものだ!!

 

(ち、ちがうわ……もう少し……そう……上に)

 

 そして、次に聞こえてきたのはルイズの声だ。これはまさか……!

 

(おい、声が大きいぞ。隣に聞こえちまうぜ)

 

(そ、そんなこと……言われたって……)

 

 これは……間違いない。今度こそ()()だ。葛藤のあまりブレイク寸前なあたしの心臓(ハート)を癒やすため、彼らには生け贄になってもらおう。

 

 キュルケは急いで部屋の外へ飛び出し、すぐ隣――ルイズの部屋の扉に向けて(毎度おなじみ校則違反の)〝解錠〟を唱えると『現場』へ勢いよく飛び込んでいった。

 

 ……すると、そこには。

 

「もうちょっとでうまくいきそうな気がするんだけど……」

 

「やっぱり、イメージが難しいのかなあ」

 

 などと言いながら、床一面に広がった紙――なにやら図形のようなものが書き込まれたそれらを見ながら、うんうんと唸っているルイズと才人のふたりがいた。

 

 ふたりは同時に扉のほうへ振り返った。

 

「ちょっと、ツェルプストー! 〝解錠〟は校則違反だって……」

 

「いや、だからお前の声がでかすぎだったんだって!」

 

「う……ご、ごめんなさい。ちょ、ちょっと騒ぎすぎちゃった、かも」

 

 それから揃ってぴょこっと頭を下げたふたりを見て、キュルケの心は文字通り砕け散った。あの子たちといい、こっちの連中といい……!

 

「あ、あんたたちなんか……」

 

 ぷるぷると震えながら、キュルケは叫んだ。

 

「爆発しちゃえばいいのよ!!」

 

 走り去っていったキュルケを呆然と見送ったふたりは、ぽつりと呟いた。

 

「やっぱ、夜は騒いじゃだめだよな、ウン」

 

「そ、そうね……」

 

 ――国境を起点に発生した嵐は、まだここまでは届いていなかった。

 

 

 




爆発は様式美。


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第29話 勇者と魔王の誕生祭

 ――刻は、ふたたび数日前まで遡る。

 

 ラグドリアン湖から帰還し、太公望が元に戻った日の夜。自室へ戻ったルイズは激しい自己嫌悪に陥っていた。

 

 あのとき、自分が考え無しに「エルフ」などと口走らなければ状況はあそこまで悪化しなかっただろう。タバサが途中で気付いてくれたから良かったようなものの、最悪の場合――自分たちは今頃死後の世界(ヴァルハラ)へ旅立っていたかもしれない。

 

 そんな彼女の様子を不審に思った才人が声をかける。

 

「どした? 元気ねえな」

 

 普段のルイズなら、ついつい憎まれ口のひとつも叩いてしまっていたかもしれない。だが、本気で落ち込んでいた彼女から飛び出た言葉は珍しく素直なものだった。

 

「ラグドリアン湖でのことよ。わたしが余計なことを言ったせいで、みんなが……」

 

「は? 何か言ったっけ?」

 

「魔法が跳ね返ってきたのを見て、エルフの〝反射(カウンター)〟だって……」

 

 才人は思い出した。そういえばエルフがどうのと聞いたような覚えがある。しかし、どうしてルイズがそんなことでうじうじと悩んでいるのかが彼にはわからなかった。

 

「そういや、この世界には本物のエルフがいるんだったな。俺たちの世界じゃ、ファンタジーの代名詞みたいなもんだけど。それがどうかしたのか?」

 

 ルイズは唖然として自分のパートナーの顔を見つめた。

 

「あ、あんた、エルフが怖くないの!?」

 

「そんなこと言われたって俺、エルフなんか見たことねえし。だいたい俺たちのところじゃ、エルフは森の中で暮らしてて、大人しいイメージだしな。ここじゃ違うのか?」

 

「なにそれ、全然違うわよ! エルフはね、わたしたちブリミル教徒の『聖地』を奪った敵なの! 強力な先住魔法を使う悪の手先なんだから! それに、住んでる場所も森じゃなくて砂漠よ」

 

「ふうん。で、エルフって強いの?」

 

「強いなんてもんじゃないわ。ご先祖さまたちが『聖地』を取り返そうとして、何度も何度も大がかりな遠征軍を編成したんだけど……ほとんど返り討ちにされてるもの」

 

「ほとんど、ってことはさ。エルフ相手に勝ったこともあるんだろ? だったら同じ戦法で攻めればいいじゃねえか」

 

「無理よ」

 

「なんで?」

 

「遠征軍が初めてエルフ相手に勝利を収めたときはね、たまたま敵の守りが薄かったの。それに、勝ったとはいえ半分以上の兵を失ったらしいわ」

 

「それ、どのくらいの戦力差で?」

 

「七千対五百よ……記録ではね。父さまが言うには、本当はもっと差があったらしいわ」

 

「なんだそりゃ!? 滅茶苦茶じゃねえか!」

 

「わかった? エルフと戦うためにはね、最低でも十倍の人数を用意しなきゃいけないの。そんな大人数、簡単に動かせるわけないでしょ」

 

 才人はようやく納得した。そこまで実力差があるのなら、ルイズたちハルケギニア人がエルフを怖がるのも無理はない。

 

「そうか! それでみんなビビって身体が固まっちまったんだな。でも、もう過ぎたことだろ? 全員無事だったんだし、今更悩むことなんかないじゃんか」

 

 ルイズは形の良い眉根を寄せると、はあっとため息をついた。

 

「随分と気楽に言ってくれるわね……あんただって、巻き込まれたのよ? あんな大きな竜巻に剣一本で突撃する羽目になったのだって、結局はわたしのせいじゃないの」

 

 このルイズの発言でようやく才人も自覚した。そうだ、あの時は頭に血が上っていて気付かなかったが巨大な竜巻、いやハリケーン相手に剣一本で立ち向かうなど、自分でもどうかしていたとしか思えない。地球にいた頃に何度も見た、テレビの衝撃映像で家屋がバラバラに壊されるシーンを思い出した才人は身震いした。

 

「そうだよなあ。あんな攻撃、普通に考えたらどうしようもねえよなあ」

 

 才人はそう言った後で、慌てて壁に立て掛けてあったデルフリンガーに言い訳じみたフォローを入れる。

 

「あ、いや、別にデルフが頼りにならないって意味じゃねえぞ?」

 

 そんな才人へ、彼の相棒は寛大にもこう返した。

 

「まぁな。さすがにあれだけの規模の竜巻を吸い込むのは、俺っちでも厳しいかもな」

 

「無理とは言わないんだな」

 

「試したことがないことを、無理とは言い切れないやね。ただ……」

 

「ただ、何だよ?」

 

「さすがに広い範囲で、しかも大人数から何発も魔法を撃ってこられたりしたら、いくら俺っちが優秀な『盾』でもお前さんたちを守りきれない。それだけは覚えておけよ」

 

「ま、そうだよな。いや、実際デルフの『魔法吸収能力』はたいしたもんだと思うぞ? だけど、それとこれとは……ん? 『盾』? 広範囲を守る!? それに〝反射〟か。うん! これ、もしかすると……!」

 

 突然天井を見上げてぶつぶつと呟き始めた才人に、ルイズは恐る恐る声を掛けた。

 

「な、なによ、どうかしたの?」

 

「ルイズ、悪い。紙とペンもらえないか?」

 

「別にいいけど……ちょっと待ってて」

 

 才人は手渡された紙とペンを使い、早速そのアイディアを紙に書き込んでゆく。あまり上手とはいえない絵ではあったが、イメージをするための助けにはなるだろう。

 

「うし、できた! なあルイズ。これ、見てくれないか?」

 

「なんなのよ、いったい……」

 

 そして才人は説明を始めた。自分が描いたモノが、いったい何であるのか。どういった目的で使われるのかを。

 

「と、いうわけなんだけど……お前、どう思う? ()()が実現できたら、凄い武器になると思わないか?」

 

「確かに、もしもわたしに()()ができたら……あんなことにはならなかったわ」

 

 少なくとも、自分のパートナーの身を危険に晒すような真似はしなかっただろう。それに、万が一タバサが気付いてくれなかったとしても、全員助かったかもしれない。デルフリンガーの〝力〟は確かに凄かった。でも、あの剣一本で立ち向かえる相手など限られているということを思い知ったのだ。

 

 とはいえ疑問が残る。ピンクブロンドの少女は小さく首をかしげた。

 

「でも、これ本当に? だって……」

 

「それなら、このあいだの授業で……」

 

「そういえば……。あんた、意外と考えてるのね」

 

「おい、さりげなく馬鹿にすんな」

 

「事実じゃないの。授業中は居眠りばっかりしてるし」

 

「お前なあ……ま、それは置いといてだ。どうすんだ?」

 

「やるに決まってるじゃない!」

 

「よし! 決まりだな。じゃあ、俺はもっといろいろな絵を描いてみるよ。そのほうが、ルイズにもイメージしやすいだろうしな」

 

「お願いするわ! えーっと……忠実なるわたしの使い魔よ」

 

「かしこまりました、お嬢さま。このわたくしめにお任せあれ」

 

 ルイズの()()にあわせ、ちょっと気取ったポーズでもって返礼する才人。ふたりは顔を見合わせてひとしきり笑いあうと……出来うる限りの紙とペンを入手するために、部屋中を奔走した。

 

 ――それから四日後の現在。

 

 途中でキュルケに(たぶん夜に騒ぎすぎたせいで)乱入されたりしながらも、ようやく()()は形になった。

 

「いってーっ! やっぱコレを手で殴っちゃダメだな」

 

「ちょっとサイト! 大丈夫!?」

 

 右手を水滴を払うかのようにひらひらさせた才人は「大丈夫、問題ない」と答え、改めて成果を報告する。

 

「『ワルキューレ』よりずっと固いんじゃないか? コレ」

 

 ふたりはここ数日かけて行っていた実験結果におおむね満足していた。

 

「なら、コレの強度は問題ないわね。将来的にはもっと固くできると思うわ。ところで、どうしてこんな形にしたの? わたしはこうしたほうが、もっと簡単に作れたと思うんだけど」

 

 ルイズは、自分の『イメージ』を才人に伝えるべく、新しい紙とペンを取ると、そこにさらさらとひとつの図形を書き込んだ。

 

「ああ、実はそれなんだがな……」

 

 詳細を説明する才人。

 

「う、な、なるほど」

 

「だろ?」

 

「ええ。わたしひとりで練習しなくてよかったわ……」

 

「危ねーなオイ! やるなら、せめて俺かタイコーボーがいる時だけにしとけよ!?」

 

「そ、そうするわ……」

 

 ――こんなふうに、ふたりで毎日練習の成果を確認しあった結果。ついに()()は完成した。そして彼らは自分たちの努力の結晶を体験してもらうために必要な準備に取りかかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――六月第四週・イングの曜日。

 

 太公望はいつものように訓練場(兼昼寝場所)としてほぼ定着していた中庭へと向かうべく、部屋で準備を整えていた。すると、扉をコン、コンッと誰かがノックする音がした。

 

「む、シエスタではないか。何かわしに用があるのかの?」

 

 扉の外に立っていたのは、メイドのシエスタだった。太公望と才人、そしてこのシエスタは全員見事なまでにつややかな黒い髪の持ち主である。前にルイズが「この国で黒髪はすっごく珍しい」などと言っていたが、一箇所に三人も揃っていると、正直あまり説得力がない。

 

「はいっ! 実はミス・ヴァリエールから伝言を言付かりまして。『新作のデザートをホールでいただいたから、今日は皆さんとお茶をご一緒しませんか? 中庭の、いつもの場所でお待ちしています』……とのことです」

 

 新作のデザートと聞いた太公望の表情がキリリッ! と引き締まった。

 

「了解した、伝言感謝する……と、これはお礼だ」

 

 そう言ってしきりに恐縮するシエスタへ銀貨を一枚握らせると、太公望はいつもの如く内側から扉に鍵を閉め、窓を開け放って外へ飛び立った。

 

 その後まもなくして。地面に降り立った太公望は、そのまま中庭へと移動を開始した。

 

 少し歩いて目当ての場所へ近付くと、視線の先に綺麗な装飾が施されたテーブルと椅子――おそらくはギーシュの〝錬金〟で作られたものが並べられており、そこでルイズ、才人、タバサ、キュルケ、ギーシュの五人が談笑していた。

 

 ……ちなみに、モンモランシーは図書館に籠もるからと言って今日は誘いには乗らず、ひとり資料探しに奔走していた。と、それはさておき。

 

 そんな彼らのいる場所を見た太公望をして最も注目させたのは――テーブルの上に、これ見よがしに置かれた大きなデザートであった。季節の果物によって所狭しと飾り付けられ、さらに彼の大好物である桃まであしらわれていた。文字通り食い入るように菓子を見つめていた太公望へ、才人が声をかけた。

 

「おーい閣下! 早く来いよ。さっきからルイズの目が怪しいんだよ……先に食べはじめていいわよね? とか言っててさ」

 

「ちょ、ちょっと! わたしはそんなこと……」

 

「まあ、確かにきみの視線はデザートにしか向いていなかったね」

 

「ギーシュまで!」

 

「あの目は危険領域に突入寸前だった」

 

「そうよね~、まだまだ色気より食い気だものね。『箒星』のルイズは」

 

 その場にいた全員から一斉攻撃を受けたルイズはぷんぷんと頬を膨らませて怒っている。そんな彼らの様子を見た太公望は、両手をぷるぷると震わせて叫んだ。

 

「新作のデザートをルイズひとりで食べるだと!? そのような真似はこのわしが許さぬ! 全ての甘味はわしのものだ――ッ!!」

 

 大声と共にテーブルへ向けて突撃してゆく太公望。そう……くどいようだが、彼は甘味に対してとてもこだわりがあるのだ。

 

 ――そして、テーブルまであと二メイルという位置まで迫った、そのとき。

 

 べっちーん! と、いう、実にいい音を立てて、太公望は見えない何かに正面衝突し……わずかな時間それに張り付いた後、ずるりずるりと滑り落ちた。

 

「うはははははっ! 成功! 大成功ッ!!」

 

「なるほど、これが囮作戦なのだね」

 

「完璧な誘導だった」

 

「どうかしら、わたしの『壁』は」

 

「そ……そうね、なかなか、面白……プッ……あはははははッ!」

 

 地面に倒れ伏した太公望を指差し、げらげらと笑う生徒たち。そう――彼女たちの前には『目に見えない壁』が展開されていたのだ。

 

 いつつつ……と呟きながら、思いっきり強打してしまった顔を押さえ、立ち上がった太公望は、自分が衝突した何かを指でコンコンと叩いてみた。

 

「こ、これは、まさか〝A.T.フィールド(Absolute Terror FIELD)〟!? いや防御壁(バリアー)か!」

 

 ――今回才人が思いついたもの。それは透明な障壁にして〝力〟の盾。つまるところバリアーであった。

 

 才人的にはA.T.フィールドをイメージしていたのだが、魔法の性質がよくわからない今の段階で『絶対領域』を展開するのは絶対に危険だと判断、より簡単に構築できそうなエネルギー障壁のイメージ図を描き、ルイズに手渡していたのだ。日常的に秋葉原へ出入りしている、オタク気質な彼らしい発想である。

 

「うぬぬぬぬ……」

 

 太公望は思わず呻いた。これは間違いなく才人とルイズの仕業だ。アイディアを出したのが才人で、実行者がルイズに違いない。

 

(あの娘、いつの間にこんな〝力〟の使い方を覚えたのだ! まったく、これだから『天才』というやつは……!)

 

 『太極図』を使えば解除は容易であろう。だが、さすがにそんな真似をするほど強力な障壁だとは思えない。そう判断した太公望は、懐から『打神鞭』を取り出すと、いつものようにルーンを唱えるふりをする。

 

「デル・ウィンデ!」

 

 だがしかし。かなり手加減していたとはいえ、太公望が放った〝風の刃〟こと〝打風刃(だふうば)〟はあっさりとその壁に弾き飛ばされてしまった。

 

「な、ななな……なんだと……!?」

 

 思わぬ事態に呆然としている太公望。そんな彼の姿を見て、才人以下『仕掛け人』たちは相変わらず爆笑し続けている。

 

「うぬぬぬぬぬ……」

 

「閣下! 降参したほうがいいぜ! このバリアーはデルフじゃなきゃ切れないぞ」

 

 そう、才人が笑顔で降参を促すと。

 

「あたしの〝火球〟(フレイム・ボール)にもビクともしませんわよ」

 

「ぼくの『ワルキューレ』七体総攻撃でも突破できなかった」

 

「わたしの〝氷の槍〟(アイス・ジャベリン)でも傷ひとつ付けられない、おそるべき立方体の壁」

 

 全員が突撃結果を報告し、改めて太公望へ警告する。「はやくしないと、俺たちだけでデザート食べちゃうぞ~!?」などという言葉を投げかけながら。

 

 ――だが、彼らの言葉を聞いた太公望は。突如くるりと後ろを向くと、がっくりと俯き、ふるふると肩を震わせ始めた。

 

「あれ? ひょっとして、やりすぎちゃった……カナ?」

 

 彼の姿を見て、思わずそう呟いた才人。しかし次の瞬間――太公望は、ゆっくりと振り返った。全身に黒い気配を身に纏い、その顔に邪悪な笑みを張り付かせて。そして一歩前へ進み出ると、両手を大きく広げ……こう宣告した。

 

「クックック……この悪ガキ共が、遊ばせておけばいい気になりおって。だが、それももう終わりだ。己の無力さを、その身でもって思い知るがよいわ……!」

 

 太公望が手にした『打神鞭』を軽く振った、その直後。ルイズを除く全員が〝風の縄〟で全身を縛り付けられ、さらに一メイルほど宙へ舞い上げられた。

 

「ちょ、ちょっとー!」

 

「無敵の『盾』じゃなかったのかい!?」

 

「な、なんだこりゃ!?」

 

「……動けない」

 

 慌てて拘束を解こうとした彼らであったが、じたばたしようにも手足が全く動かない。それほどに太公望が創り出した〝風の縄〟は強く全身を縛り付けていた。ただひとり取り残されたルイズはというと、その場で見事に硬直している。

 

「愚か者どもめ……このわしに『空間座標指定』能力があったことを忘れたか!」

 

「あ!」

 

 全員の表情が強張った。

 

 そう、この〝防御壁〟は外側からの衝撃にはかなりの強度を誇るものの、内側からの攻撃に対しては完全に無防備であったのだ。

 

 そして太公望は縛り上げた全員をまっすぐに立たせると、再び『打神鞭』を縦に振る。と、その動きに合わせて彼らは飛び上がり、見えない天井に頭を打ち付けた。

 

「ぎゃんッ!」

 

「痛ぁいーッ!」

 

「……ッ!」

 

「ちょ、やめて閣下ッ!」

 

 どうやら相当痛かったらしい。友人たちの悲鳴にルイズの口元が引きつった。

 

「今のは警告だ……さあ、ルイズよ。その〝防御壁〟を解くのだ」

 

「うっ……」

 

 言葉に詰まるルイズ。今〝念力〟で作ったこの壁を解除したらどうなるかわからない。しかし、このままでは……友人たちが大変なことになってしまう。それだけは理解していた。

 

「ちょ、ちょっと! た、確かに悪戯したのは認めるけど」

 

「……けど?」

 

「人質を取るなんて、卑怯だわ!!」

 

「卑怯?」

 

 この言葉にはさすがの彼も堪えたようね……と、ルイズは内心で勝利を確信した、だが。彼女は太公望という男の本質を、まったくもってわかっていなかった。太公望は顔に貼り付けた暗い笑みをさらに大きく広げると、こう言った。

 

「卑怯、か。実にいい褒め言葉ではないか」

 

 嗤いながら『打神鞭』を振り、人質たちの頭をガンッ! と壁の天井に打ち付ける。あまりの痛さに生徒たちは再び悲鳴を上げた。

 

「そういえば、おぬしたちにはまだ教えとらんかったな……このわしに、国元でつけられた多くの『二つ名』を」

 

 そういえば。全員が、その事実に気がついた。

 

「そ、その『二つ名』が、な、なんだっていうのよ!」

 

 ルイズの言葉に、口端を上げ、実にいやらしい笑みでもって応えた太公望は、高らかに名乗りを上げた。かつて、自分に投げかけられた()()を。

 

「『腹黒』『ペテン師』『悪魔』『卑劣』『釣り師』『逃亡の名人』『ある意味最も敵に回したくない男』……ちょっと思い返しただけで、この程度の数がすぐに出てくるほどなのだ」

 

「威張って名乗る『二つ名』か――ッ!!」

 

「素晴らしい『二つ名』であろう? わしの誇りだ」

 

「そんなもん誇るな――ッ!!」

 

 そんな彼らの反応を楽しげに、嗤いながら見つめる太公望。その身体全体に纏う闇の気配が徐々に周囲へと広がってゆく。そして、おそらくはわざわざ自分で発生させているのであろう風によってバサバサとはためくマントと――邪悪な笑み。

 

 ――今の太公望の姿は、悪魔どころか魔王そのものであった。

 

 太公望はこれまでとは違い、ゆっくりとした口調で問いかけた。まるで、闇の魔王が光の勇者たちへ向けて毒のしたたる甘言を放つが如く。

 

「そういうわけだ……このわしに卑怯だの正々堂々などという言葉は一切通用しない。さあ、ルイズよ……再びおぬしに問おう」

 

「な、なな、なによ」

 

 杖を構えたまま思わず立ち上がったルイズに太公望は告げた。

 

「素直にバリアを解くならば……まあ、許すことを考えてやってもよい」

 

「う、うう……」

 

 ルイズの呻き声を聞いた太公望が、再び『打神鞭』を振る。ゴチンと勢いよく壁に頭を打ち付けられ、悲鳴を上げる生徒たち。

 

「ルイズよ……いいのか? このままではおぬしの大切な『おともだち』全員の頭が、間違いなくタンコブだらけになるであろう……!」

 

「うう……そんなっ」

 

 ルイズは戦慄した。目の前にいる男は悪魔――いや間違いなく『魔王』だ。おそらく彼は、躊躇うことなくそれを実行するであろう。

 

「わ、わかったわ。みんなの無事には代えられないもの……」

 

 その言葉と共に〝防御壁〟を解いたルイズ。だが! この時をこそ待ち望んでいた太公望は猛烈な勢いでもって彼女へ突進し、その頭上へ拳を振り上げながら叫んだ。

 

「バリアさえ消えればこっちのもんだ――ッ!!」

 

「ギャ――ッ!!」

 

 ゴッチーン! と、いう詰まった音が周囲に響くと共に、ルイズの意識は暗闇へと落ちていった――。

 

 

○●○●○●○●

 

「ダーッハッハッハッ! わし! 完・全・勝・利!!」

 

 ゲラゲラと笑いながらテーブル上のデザートをひとりだけで食べ尽くし、お茶を楽しむ太公望。彼の足元には〝風の縄〟で縛られた者たちが転がっていた。

 

「ひひ、ひどいじゃない! あんた、許すって」

 

 彼らと同じように縛り付けられ、涙目で抗議するルイズに対し、太公望はまさに邪悪という言葉を体現したかのような笑みでもって応えた。

 

「ダァホが! わしは許すことを『考えてやってもよい』と言ったのだ。ちゃんと考えてはみたぞ? だがな、タチの悪い悪戯をした子供に罰を与えるのも大人の役目。そう思って実行した。ただそれだけのことだ」

 

 茶を飲み終え「うははははは!」と満足げに高笑いしながら立ち上がった太公望は、床に這い蹲る面々を見回すと、こう言い放った。

 

「まったく、タバサまで一緒になってこのわしをたばかるとは……とりあえず、あと三十分もすればその拘束は外れるであろう。それまでは、その姿のままでよ~っく反省するがよい」

 

 わし! 最ッ強!! などと高らかに勝ち鬨を上げながら遠ざかってゆく太公望の背中をただ見守るしかなかった一同のうちのひとり、彼のパートナーであるタバサは……小さく呟いた。

 

「『最凶』の間違いだと思う」

 

 彼女の発言に同意する一同。ただ、ひとりだけ全く違うことを考えていた者がいた。

 

「ロバ・アル・カリイエって〝A.T.フィールド〟まであるのかよ……うわー、リアルで見てみたいな! いつか絶対みんなで行くぞ! これは決定だからな!!」

 

 ――ある意味当然のことながら、それは才人であった。

 

 なお、バリア精製の練習開始前にルイズが発した疑問とは。

 

「〝見えない壁〟ねえ……魔力を展開すること自体はいいんだけど、それじゃ普通に通り抜けちゃわないかしら?」

 

「それなら大丈夫。ほら、このあいだ授業で〝魔法の矢(マジック・アロー)〟と〝魔力の短矢(エネルギー・ボルト)〟の違いについておさらいしてたじゃんか」

 

「あっ!」

 

 〝魔法の矢〟と〝魔力の短矢〟は共に汎用魔法(コモン・マジック)だ。双方共に己の〝力〟を透明の矢に変えて飛ばすというものだが、その性質が大きく異なる。

 

 〝魔力の短矢〟は系統を纏わぬ魔力を放ち、対象を貫く魔法だ。実体のない光弾を放つので、威力はさほど無いが、その代わりに命中精度が高い。また、鏡やガラスで反射する性質を持つため、屋内での使用には注意が必要とされている。才人の世界風に表現すると「レーザービーム」といったところか。

 

 いっぽう〝魔法の矢〟は魔力を無色透明の矢に変えて対象を攻撃する。無色透明だが実体があるため、僅かだが〝短矢〟に比べて命中率が落ちる。その代わり反射という弱点がなく、刺さったら使い手が解除するか一定時間が経過するまで消滅しないため、殺傷力が高い。

 

「そうよ。あの〝矢〟があるんだから〝壁〟だって理論上は可能なはずだわ!」

 

「だろ?」

 

 そして実践中にルイズが提案し、才人が危険だと判断したのは……。

 

「ねえサイト。これ、どうしてわざわざ『箱の中』をくり抜くイメージをしなきゃいけないの? 〝力〟の塊で、立方体をそのまま作ったほうがずっと簡単なんだけど」

 

「ああ。わかりやすく言うと『いしのなかにいる!』状態になるんだ」

 

「う、なるほど。中に埋もれて息ができなくなっちゃう可能性があるのね。危険だわ」

 

 例えに用いたものはともかくとして、ある意味的確でわかりやすい説明をしていた才人だった。実際にそうなってしまうのかどうかは実験してみないとわからないが、危険回避の意味で正しい解答だったのは間違いない。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それからちょうど二十分ほど経過した、そのころ。

 

 デザートで満腹になった太公望は、実にいい気分で校門付近を散歩していた。だがしかし、そんなご機嫌な時間は、突如投げかけられた一言によって中断させられた。

 

「ちょっと! そこの……あなたでいいわ」

 

 その声に太公望が振り返ると。視線の先で、自分より長身の眼鏡をかけた金髪の若い娘が仁王立ちしていた。その女性の後ろには、彼女付きの小間使いと思われる、さらに若い少女がおずおずと付き従っている。

 

 眼鏡の女性は、顎をくいっと動かした。

 

(ふむ、わしに何かをさせようというのか? いったい何者であろう。ずいぶんとキツそうな娘だが、はて、誰かに似ているような……?)

 

 太公望はその女性と彼女の周辺へ微かに視線を動かしつつ、観察を始めた。

 

 その間、金髪の娘――エレオノールは目の前にいる平民の察しの悪さに苛立ちを募らせていた。

 

 魔法学院へ到着した直後、馬車から降りたところで案内役を探し始めた彼女が唯一見つけられけたのが、彼――太公望であった。

 

 エレオノールの目から見た太公望は、奇妙なマントを身に付けた、単なる平民に過ぎなかった。制服を着ていないので魔法学院の生徒ではない。

 

 貴族であることを示す五芒星の紋も見当たらない。とはいえ、普通の平民にはまず手が届かないような質の良い生地で作られた服を着ていたため、魔法学院に雇われた平民メイジだろうと当たりをつけたのだ。

 

 トリステイン国立魔法学院はエレオノールの母校である。当然、学院の内部は知り尽くしているのだが、それでもあえて使用人に案内させるのが大貴族というものだ。しかし、目の前の少年の反応はいまひとつ要領を得ないものだった。

 

 その態度と察しの悪さに苛つきを覚えたエレオノールは、彼を怒鳴りつけようとした。だが、その直前――件の少年はポンと手を打ち、口を開いた。

 

「おお! あなたは、ルイズ嬢の姉君……お名前は確か、エレオノールさま。でしたな? お噂はかねがね聞き及んでおります。なかなか気がつかず、大変失礼しました」

 

 エレオノールはその美しい眉根を寄せ、目の前のおかしな子供を睨み付けた。自分の顔を見知っているということは、元はヴァリエール公爵領の領民だったのだろうか。それと、彼にどうしても聞かなければならないことがある。そう考えた彼女は冷えた声で問うた。

 

「わたくしの噂……とは?」

 

 もしも例の婚約破棄関係の話だったなら、馬車に積んである鞭でしこたま打ってやる。不機嫌のあまりそこまで考えていたエレオノールは、続いた言葉に絶句した。

 

「はい、いつも妹君が口癖のように話しておったのです。『わたしの姉さまは、王立アカデミーに勤める主席研究員なの。わたしの自慢の姉さまなのよ!』 ……と」

 

 機嫌が最悪の底の底の底にあったエレオノールは、この発言で少し立ち直った。まさかあの生意気な末妹が、学院内でそのような話をしていたなどとは。「あの子にも可愛いところがあるじゃないの」と心の内だけで呟いた彼女は、さらに質問を続けた。

 

「そ、そう……ほ、ほかに、あの子は何か、いい、言ってはいなかった、かしら?」

 

「そうですのう……まだ魔法が使えなかった頃の話ですが、よく『姉さまはあんなに優秀なのに、どうしてわたしは『ゼロ』なのかしら』と嘆いておられましたな」

 

 エレオノールは即座にその言葉の意味を汲み取った。

 

(まだ魔法が使えなかった頃。この平民はそう言ったわ。つまり、下々の者まで伝わっているほど確実に、おちびは魔法が扱えるようになっているということね。しかも、このわたくしと自分を比べてずっと落ち込んでいたなんて……)

 

 ――エレオノールの中で、ルイズに対する評価が数段上がった瞬間であった。

 

 ちなみに太公望は嘘は言っていない。表現をやや誇張しているだけだ。直前に美味しい菓子をひとりじめできて、平常よりもいくぶん機嫌が良かったのがお互いにとっての幸運だった。太公望は軽く頭を下げると、エレオノールに確認を取った。

 

「と、これは失礼致しました。わたくしは『太公望』呂望と申す者。何かご用がおありのようですが……エレオノールさまとお供の方々を、学院内のいずこかへ案内せよ……と、いうことでよろしいのでしょうか?」

 

 それを聞いたエレオノールはようやく納得した。

 

(この子供はわたくしのことを知っていて、使用人として正しい対応を検討していたからあんなに反応が遅かったのね。それならば、きちんと導いてあげるのが大貴族たる者の務めだわ)

 

 そう判断した彼女は、くいと眼鏡の端を持ち上げながら言った。

 

「わかっているようね、よろしい。わたくしはオスマン学院長に用事があるの」

 

 その言葉に太公望は一礼して応えた。

 

「承知致しました。それでは来客室までご案内します。どうぞこちらへ」

 

 ――エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール。彼女にとって、これはある意味〝運命〟の出会いとなった、そのはじまりであった。

 

 

 




A.T.フィールドは封神演義内で本当に登場します。
ちょろっとだけですが!



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第30話 研究者たちの晩餐会

「大変恐縮ですが、此度はどの程度の滞在を予定しておられますか?」

 

 来客室へと向かう途中で、エレオノールは案内役を命じた少年に尋ねられた。

 

「最低でも1時間。最長で3時間と見込んでいるわ」

 

「左様ですか。差し出がましいようですが、必要であれば会食の手配を致しますが」

 

 いかがでしょう? そう言外に訊ねてきた少年に対する心証をエレオノールは初対面の時よりも大幅に修正していた……もちろん上方向へ。

 

「そうね。夕食の時刻も近いことだし、そのように手配しなさい。それと……」

 

「はい。お供のかた……侍女殿と御者のおふたりにも食事と待機するための部屋を別途ご用意させて頂きます。ところでエレオノールさまにおかれましては、学院長との会談中も侍女殿をお側近くに控えさせることをご所望ですか? そうでなければ最初から控え室のほうへ案内させますが」

 

「なら、この娘は控え室に通しておいてちょうだい」

 

「承知しました」

 

 全てを語るまでもなく、こちらの意図を汲み取る。この若さで既にこれだけの気配りができるのだから、たとえ今は落ちぶれていたとしても、そのうち身分の高い貴族の執事として請われるか、あるいは魔法学院の平民たちを取り纏める長となるだろう。エレオノールは学院の敷地内を歩きながら、案内役を務める少年をそのように評価していた。

 

「ところで今、学院長は?」

 

「現在の時刻ですと職員室で会議をなさっておられるはずです。よって、誠に申し訳ございませんがエレオノールさまにおかれましては、来客室にて少々お待ち頂くことになるかと。もちろん早急にご来訪を伝えて参りますし、できうる限り急いで面会の準備を整えさせていただきますが」

 

「まあ、仕方がないわね。こちらも到着時刻までは伝えていなかったことだし、少しくらいなら待ってあげてもかまわないわ」

 

 エレオノールは、不機嫌の極みにあった先程までとは一転。ほんの少しだけ寛大な気分になっていた。

 

「お待ちいただいている間のお飲み物などで、何かご希望はございますか?」

 

「そうね、温かい紅茶をお願い。砂糖壷と、ミルクを添えて」

 

「かしこまりました」

 

 少年は歩きながら、近くで作業をしていたメイドや下働きの者たちに対し、てきぱきと指示を与えている。命令を受けた使用人たちが全く別の方向へ早足に移動していく。

 

(さすがは国立魔法学院、下々の者への教育が行き届いていて、大変よろしい)

 

 国の査察官さながらといった様子で、エレオノールは使用人たちの行動を観察していた。

 

 そして、たとえ王族が訪れたとしても失礼にあたらないよう整えられている豪奢な来客室に通されたエレノールは、案内役を務めた少年に、先程から気になっていたことを尋ねた。

 

「あなた、この学院に来てどのくらい経つのかしら?」

 

 これだけの仕事ができるのだ。最低でも数年はここに勤めているのだろう。そう考えていたエレオノールだったが、少年は彼女にとって想定外の答えを返してきた。

 

「ちょうど二ヶ月ほどです。こちらの学院へ留学して来られた主人の従者として請われ、お側に仕えさせていただいております。よって、案内役としては未熟であるため色々と不手際があり、誠に申し訳ございませんでした」

 

 そう言って頭を下げた少年を前に、エレオノールは絶句した。まさか彼が魔法学院の使用人ではなく、他国の貴族の従者だったとは。

 

 エレオノールが驚くのも無理はない。

 

 本来であれば、子供たちの自立を促すために設立された教育機関たる魔法学院の生徒に従者がつけられることなど、余程の事情がない限りはありえないのだ。トリステインでも随一の家柄と格式を誇る大貴族・ヴァリエール公爵家の息女であるエレオノールにすら、学生時代に個人的な付き人はいなかった。

 

 つまり彼は他国の大貴族――もしかすると、王族の子女の従者かもしれない。

 

 それに気付いたエレオノールは内心で頭を抱えた。

 

(このわたくしとしたことが、トリステイン貴族として――いえ、ヴァリエール公爵家の長女としてなんと迂闊な真似をしてしまったのだろう。彼の服装を見て、すぐに異国出身であることを察して然るべきだったのに。個人的なことで苛ついていたせいで、大変な失敗をしてしまったわ)

 

 とはいえ、ただの従者を相手に頭を下げるような真似をしては貴族としての威厳が損なわれる。エレオノールは仕方なく、代案をもってして謝罪に変えた。

 

「いいえ、あなたの案内に不備などなかったわ。そちらのご主人さまに、よろしく伝えていただけて? 素晴らしい従者をお持ちのようで、羨ましいですわ、と」

 

 エレオノールの言葉を聞いた少年は実に爽やかな笑みを浮かべ、深々と一礼すると静かに部屋を出て行った。それからすぐに届けられた紅茶を口に含みながら、エレオノールは何とか気持ちを切り替えようと努力した。

 

「ある意味、できた従者に声を掛けられただけでも幸運だったと思わなければいけないわね……おかげで、少し気分も落ち着いたし」

 

 もしも魔法学院へ到着した時のように苛立ったままであれば、これからお会いするお客さまを相手にとんでもない失態を演じていたかもしれない。

 

 エレオノールは名も知らぬ大貴族の主従に感謝した。

 

 ――既に失態などというレベルでは済まない真似をしでかしてしまっていたことについては、当然のことながら彼女は気付いていなかった……。

 

 

○●○●○●○●

 

「いやはや、さすがにルイズの姉というだけのことはあるのう」

 

 エレオノールの案内を終えた太公望は、苦笑いしながらタバサの部屋へ向かっていた。彼の計算ではそろそろ例の拘束が解けて、彼女が戻ってきているはずだった。

 

「しかし、わざわざ侍女まで連れて学院を訪れるとは。いったい何の用であろう?」

 

 彼女はほぼ間違いなく実家――つまり、ヴァリエール家の使者として学院を訪問したのだ。そうでなければオスマン氏へ前もって来訪を報せておくはずがないし、侍女を連れていたり、あそこまで馬車や付随する馬具などが綺麗に整えられていた理由がない。

 

「わしの考えすぎかのう? ヴァリエール公爵家はこの国いちばんの大貴族ゆえ、常に見た目に気を配っているだけのことかもしれぬ」

 

 そんなことを考えながら部屋へ戻ると――そこに居たのはタバサだけではなかった。

 

 何故かモンモランシーを除く仲間たち全員が彼の帰りを待っていたのだ。中でもルイズはがたがたと身体を震わせ、怯えたような目をして太公望を見つめている。その様は、まるで突然の夕立に打たれた子猫のようだ。

 

(しまった。子供相手に、つい昔の仲間内のノリで悪ふざけをし過ぎたかもしれぬ)

 

 太公望が反省しかけたその時だ、ルイズが口を開いたのは。

 

「わ、わた、わたし、た、た、たいへんなことを、わ、わ、忘れてて、あの、その」

 

 必死に言葉を紡ごうとするルイズだが、舌がもつれて上手く回らない様子だ。

 

「慌てず、まずは深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐くのだ。それを何度か繰り返すがよい。そうすれば、少し落ち着くであろう」

 

 苦笑いしながら促す太公望に従って、ぷはっと息を吐いたルイズ。それで多少はましになったのか、ルイズはぽつり、ぽつりと語り始めた。

 

「あ、あのね。わ、わたし、初めて〝念力〟が成功した日にね、嬉しくて、家に報告の手紙を送ったの――も、もちろん、話しちゃダメだって言われたことは、書いてないわ。でね、すぐに返事が届いたんだけど」

 

「ふむ、それで?」

 

「そこにね、夏休みに入ったら、協力してくれたおともだち全員とお世話になった先生方をヴァリエール家総出で歓待したいから、皆さんに話を通しておきなさいって書いてあったんだけど……」

 

「何か問題でも?」

 

 太公望以外の面々は既に事情を知っているのだろう。全員が、なんともいえない表情でルイズを見守っている。

 

「そ、その、えと、フクロウが飛んできたのが夜遅くだったから、次の日に話せばいいかなって思ってたんだけど、色々あって、つい、話すのを忘れてたのよ。そ、それでね、さっき、また伝書フクロウが書簡を運んで来たの。そこに、き、今日、ヴァリエール家からの使者が到着するって書いてあって……」

 

「……なるほどのう。それで、慌てて全員に報せて回っていたというわけか」

 

 コクリと小さく頷くルイズ。

 

「あとは先生方にお伝えすれば、ぎりぎり間に合うと思うんだけど。今の時間帯って、職員会議中だから生徒は職員室に入れないのよ。で、でもね、ミスタならたぶん……」

 

「わしなら、口八丁手八丁で潜り込めるやもしれぬと?」

 

「そ、その通りよ。うちからの使者が来る前に、何とか先生たちに話を……」

 

 わずかな希望に縋るルイズであったが、しかし。

 

「残念だが、その使者ならば既に到着しておる」

 

 まるで〝固定化〟の魔法でもかけられたかの如く硬直したルイズは、ギギギ……と、何年も油を差していなかった機械のようなぎこちなさで口を開き、問い返した。

 

「そ、そんな! う、嘘、よね?」

 

「ダァホ、こんなことでわざわざ嘘をついてどうする! ちなみにだがその使者は今、来客室で紅茶を飲んでおるはずだ。それも、ミルクと砂糖入りのやつを」

 

「どど、どうして、ミスタが、そそ、そんなことを、し、知っているの、かしら?」

 

 ふっと小さく息を吐き、疲れ切ったような顔をしながら太公望は呟いた。

 

「……おぬしの姉君に案内役を頼まれたからだ。それはもう、ものすごい剣幕で」

 

 太公望の言葉を聞いたルイズは、ピシリと凍り付いた。

 

「先に情報を受け取っておれば、わしとてもう少し案内の仕方を考えたのだがのう」

 

「みみ、ミスタの、ああ、案内の、し、仕方って、どどど、どんな?」

 

「できうる限りのことはしたぞ。いち貴族の従者として、恥ずかしくない程度には」

 

 ルイズは実家での姉の立ち居振る舞いを思い起こした。胸を張り、眼鏡の端を押さえながら使用人たちに指図する姿を。あれを『お客さま』相手にやらかしてしまったのか、我が姉は。しかもそれは、前もって客人に情報を伝えてあれば回避できたはずの惨劇だと悟ったルイズの顔から、ざあっと血の気が引いた――そして。

 

「イヤアァァア――――――ッ!!」

 

 とんでもなく大きなルイズの悲鳴が、部屋中に木霊した。だが、幸いなことにタバサが咄嗟に展開した〝消音〟のおかげで、寮塔中に響き渡るという惨事は未然に防がれた。

 

 それからしばし、部屋の中にはなんともいえない雰囲気が漂っていた……。

 

 

 ――数分後。

 

 お腹を押さえ、床に蹲ってしまったルイズを見て全員が首をかしげていた。確かに彼女の伝達忘れは大変礼儀を欠いた行動ではあるのだが、ここまで実姉に怯える理由がわからないのだ。

 

「ルイズの姉君は、そんなに怖いひとなのかい?」

 

 ギーシュの問いに、太公望は頬を掻きながら答えた。

 

「わしの印象では、そこまでとは思えぬ。確かにキツそうな娘ではあるが」

 

 それを聞いたルイズが、吐き出すように呟いた。

 

「ねね、姉さまだけじゃないのよ。もも、もしも、わたしが原因でお客さまに失礼な真似をしたと知れたら、とと、父さまも、か、母さまだってお許しくださらないわ」

 

 猛獣に狙われて竦んだ小動物のように怯え続けるルイズに、今度は才人が聞いた。

 

「なんだよ。お前の親ってそんなに厳しいの?」

 

「厳しいなんてもんじゃないわ。だって、わたし魔法ができなくて叱られる夢、未だに見るもの。にに、逃げ出すと、屋敷中の使用人たちが、み、みんなで、わ、わたしを追いかけきて、それで、み、見つかると、かか母さまの前に、つつ、連れて行かれて……」

 

 とうとうルイズは恐怖のあまり、精神が限界に達してしまったらしい。虚ろな瞳で宙を見上げ、何やらぶつぶつと呟きはじめた。どうやら幼い頃のトラウマが蘇ったようだ。

 

「まあ、今からでも()()の規模を抑える方法はなくもないが……」

 

 それを聞いたルイズの瞳に、僅かながら光が戻ってきた。

 

「それには、ここにいる全員の協力が必須となる。おぬしたちは……」

 

 太公望が最後まで言い終える前に、ルイズが割り込んできた。

 

「びなざん、おでがいじばず。だずげでぐだぢい」

 

 ぼろぼろと涙を零し、なんと鼻水まで垂れている。せっかくの美少女が台無しである。普段は何があろうとも毅然とした態度を崩さないルイズが恥も外聞もかなぐり捨てて頭を下げる姿を見た全員が、一も二もなく頷いた。

 

 太公望は全員の顔を見回すと、指示を飛ばした。

 

「もう時間がない! これから会談が終わるまでの間、全員わしの命令通りに動くのだ」

 

 了解の印に、頷く一同。

 

「まず、ルイズは急いで顔を洗って来い。そのままでは怪しまれる」

 

 大慌てで外へ駆け出すルイズ。

 

「キュルケ、タバサ。わしの前に、自分の部屋にあるありったけの紙……できれば10枚以上。ひとりあたり20枚あればそれで充分。大至急持ってくるのだ」

 

 その言葉を受けたふたりは即座に立ち上がって行動を開始した。

 

「才人は椅子を全員が向き合って座れるよう配置! その後、蓋を閉めた状態のインク壷を1つ用意するのだ! ギーシュは〝錬金〟でペン2本と紙を急ぎ作成してくれ。ああ、余力は残しておくのだぞ。ここで倒れてしまっては、後に響くからのう」

 

「了解した」

 

「任せとけ」

 

 太公望の命令通り、一斉に動き始めた者たち。それから約3分後――テーブルに着いた太公望の前に羊皮紙・計60枚と、羽根ペン2本。そしてインク壷が置かれ、メンバー全員が並べられた椅子に着席した。

 

 用意された羽根ペンのうち1本を手に取った太公望が、再び全員に指示を飛ばす。

 

「ルイズ。今からわしが行う質問にできるだけ詳しく答えるのだ。よいか?」

 

「わ、わかったわ」

 

「タバサ、才人、ギーシュの3名はその場で待機。キュルケよ、おぬしは少しだけドアを開けて外を見張り、誰かが使いにきたら、ルイズがいいと言うまで時間を稼いで引き留めておいてくれ。ルイズは、わしの合図でそれを行うのだ」

 

「わかった」

 

「了解」

 

「わかったわ」

 

「了解であります!」

 

 太公望のすぐ隣で彼の質問に答え続けるルイズ。しかし、太公望はルイズのほうを見ていない。一心不乱に、目の前の紙に文字を書き付けている。だが、驚くべきはその筆記速度だ。二言三言と言葉を交わす間に、1枚の羊皮紙全てが埋まってしまう。

 

「よし才人。そこに積み上げた書類の束を、ひと束ずつ全員に配ってくれ。ただし、いちばん手前にあるのはおぬしの席の前へ置くように」

 

「わかった」

 

 ……ちなみに、ここまでで約5分が経過している。

 

 才人の手によって全員に書類が行き渡ったのを確認した太公望は、再び命令を発した。

 

「皆の者、まずはそれを読みながら聞け。才人よ、おぬしはまだ字を習い始めたばかりなので、おぬしのものだけ可能なかぎり簡単な言葉で記述しておるが、読めるか?」

 

「な、なんとか大丈夫そう」

 

「わからないところがあったら即座に聞いてくれ」

 

 その言葉に「おう」と声を出して頷いた才人は、紙に記された文字に集中する。

 

「わしの第一印象と、今ルイズから聞いた内容を元に、これから行われるであろう会談に関する内容を、時間内で想定できうる範囲・タイプ別に分けた上でマニュアル化した。残りについても急いで纏めるので、それらを全て頭に叩き込め。よいな!」

 

 ……ここまでで、6分経過。

 

「記述内容への疑問や追加事項があったら即座に教えてくれ。他の者が何か発言している途中でも遠慮なく言ってくれてかまわぬ。ただし、どうやってここまで分析したのか等といった類の質問は会談終了後に受け付けるので今は禁止だ。以上!」

 

 真剣――いや必死の形相でマニュアルに目を通す参加者たちと、彼らと質疑応答を行いつつさらに書類を積み重ねていく太公望。

 

 それから15分ほどが経ち、全員がその内容をほぼ完璧に理解し、覚えたころ――学院長の使いとしてコルベールが現れた。もちろん、彼はすぐに部屋の中へ通された。

 

「さすが狸、いい仕事をする。コルベール殿、実はかくかくしかじかで……最後に」

 

「了解」

 

 太公望の簡単な指示を受けた後、即座に書類に目を落としたコルベール。その顔は、ほとんど別人のように引き締まっていた。

 

 学問方面における正真正銘の『天才』コルベールは、太公望がまとめた文書の内容を1分以内で全て暗記し終えると、窓を開けて懐から杖を取り出した。

 

 そして小声でルーンを唱え、蛇のような形をした炎を作り出すと――全員分の書類を一瞬で燃やし尽くした。部屋の中を一切焦がすことなく、灰すらも残さずに。

 

 あまりの早業に、生徒たちは仰天した。実戦経験が豊富なタバサですら、驚愕のあまり目を見開いている。生半可な腕では、間違ってもあんな真似はできない。並の火メイジが同じことをしようとした場合、壁を黒焦げにするか、カーテンに火が燃え移り、最悪火事になっていたことだろう。彼女はそう判断した。

 

 生徒たちは、あの温厚で変わり者として有名なコルベール先生が、まさかここまで見事な〝炎〟の使い手だったとは――と、呆然とした眼差しで見つめている。かたや太公望はというと、これがさも当然であるかのように振る舞っている。

 

「では、参りましょうか」

 

 表面には笑みこそ浮かんではいるが、その瞳の奥に宿すものは、温かみに満ちた普段のそれとはまるで別物。例えるならば、静かに――だが、より高温で燃える青き炎であった。しかし軽く眼鏡を直したコルベールは、その直後。いつもの見るからに温厚そうな『教師』に戻ると……全員に移動を促した上で、静かに学院長室へ向けて歩き出した。

 

 その後ろ姿を見た赤毛の娘の心に、ほんの少しだけ。ごくごくわずかな『微熱』が生じていたのだが……彼女はまだ、周囲にある『葛藤の炎』のせいで、それに気付いてはいなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ……それから数時間後の、現在。

 

「ほほう。『始祖の像』を作る研究……ですか」

 

 来客室では会食を終えた一同が、食後のワインを楽しみつつ、たわいのない会話を行っていた。場の雰囲気は、会食前の騒動が嘘であるかのように穏やかなものだった。

 

 ――今から2時間ほど前のこと。エレオノールはここ最近己の身に連続して降りかかる災厄に、危うく心が折れる寸前であった。

 

「『始祖』ブリミルよ。なぜ、あなたさまはこうもわたくしに試練を与え続けるのでしょうか」

 

 エレオノールはもしもそれが可能であるならば、今すぐアカデミーの研究室に駆け戻り、これまで作った『始祖』ブリミル像全てに向けて、そう問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。

 

 すぐ側に腰掛けている、相手の特徴をしっかりと伝えてこなかった末妹の頬を思いっきりつねりあげてやりたい衝動に駆られたが、しかし。使者としてこの場にいる以上、そんな真似ができようはずもなく。

 

 まさかだ。まさか……よりにもよって例の従者が、妹を系統に目覚めさせてくれた恩人にして、両親からくれぐれも失礼のないようにと申し伝えられていた『お客さま』のひとりだなどとは思いもよらなかったのだ。

 

 しかも、彼の主人は深い水底のような蒼い髪をしていた。御年27歳、それなりに社交界にも通じ、数年前にラグドリアン湖で開催された、各国の王族が集う園遊会にも出席しているエレオノールはすぐさまタバサの出自を察し、青くなった。

 

 『タバサ』という名前は、本来犬や猫などの愛玩動物や人形などに与えるものであって、人間につけることはない。であればこそ、ほぼ間違いなく偽名だろう。

 

 身分と名を隠し異国へ留学。それに加えて特徴的な蒼い髪――彼女は、ガリア王家に連なる人物だ。現在の状況から判断するに、もしかすると先代か現国王陛下のご落胤かもしれない。

 

 慌てて太公望とその主人であるタバサに謝罪しようとしたエレオノールだったが、彼ら主従は笑顔でそれを制した。

 

「わたしがエレオノール殿と同じ立場だったとしたら同様にしていたかもしれません。ですので、そのように恐縮なさらないでください」

 

「主人の申す通りです。エレオノールさまはこの学院の卒業生と伺っております。妹君と同じか、それ以下の後輩に見える相手に案内をさせるのは、ごくごく当たり前のことではありませんか?」

 

 エレオノールは、彼らが言外に匂わす主張を即座に察した。

 

(なるほど、そういうことにしようと提案してくれているわけね。やはり、彼は頭の回転が速い子だわ。その主人である目の前の少女も。ならば、有り難くその好意に乗らせてもらいましょう)

 

「全くお恥ずかしい限りですわ。ですが、そのように仰って頂いて感謝致します。タバサさまは、とても良い従者殿に恵まれましたわね。彼の案内は、まさしく完璧でしたわ。わたくしだけではなく、連れの者たちにまで細かい配慮をしてくれました。あれほど気の利く者は我がヴァリエール家の家臣団にもおりません」

 

 会談開始当初よりもいくぶん柔らかくなった表情で、エレオノールは改めて礼を述べると、急いで使者としての役割に取りかかった。

 

「お嬢さまだけでなく、わたくしのような者にまでそのようなご配慮を頂けるとは。光栄の極みです」

 

「あなたは理由のわからない失敗にずっと苦しんでいた妹を救ってくださったのです。このくらいはトリステインの貴族として……いえ、家族として当然の礼儀ですわ」

 

 それからエレオノールは、改めて彼らの今後の予定について確認した。その質問に太公望は懐から予定表を取り出し、さっと目を通すと――視線をエレオノールに戻し、淀みなく答えた。

 

「アンスールの月フレイヤの週と、第3週から第4週については、1ヶ月前からどうしても外すことができない予定が入っておりまして……妹君に、前もってそれをお伝えしておくことを失念しており、誠に申し訳ございません。ヘイムダルの週でしたらこれといって用事はございませんが」

 

「いえ、あくまでこちらとしましては、お招きする皆さまのご都合に合わせたいと考えておりますので。オールド・オスマンと、ミスタ・コルベールのご予定と、お友達の皆さんについてはいかがですの?」

 

「わしは特に問題ないぞい」

 

「私も、これといった予定は入っておりませんです、はい」

 

 ルイズの『おともだち』も、全員「問題ありません! お招き感謝致します」と輝かんばかりの笑顔で答えた。やや声が震えているのは大貴族の屋敷へ招かれることに対する緊張だろうか。エレオノールは目の前にいた子供たちが、なんだか少し可愛らしく思えた。

 

(わたくしにも、このような時期があったのよね――)

 

 軽く咳払いをすると、エレオノールは再度確認の作業に入る。

 

「左様ですか。では、ヘイムダルの週・ユルの曜日から当方へおいでいただく形でよろしいでしょうか? もちろん全員分の竜籠を出させて頂きます。わずか数日の歓待となってしまい申し訳ございませんが」

 

「とんでもありません、こちらこそ恐縮です」

 

 ――今後の予定と参加人数(もちろん才人も含まれる)が決まったということで、客室内にて小規模ながら晩餐会が開かれる運びとなった。

 

 コース料理の全てが出揃い、最後にデザートを……といった辺りで、太公望がハルケギニアのメイジたちにとって非常に興味深いことを言い出したのだ。

 

「いやはや、こちらに来てから本当に驚きました。魔法体系は似通っているのにハルケギニア――ロバ・アル・カリイエ諸王国から見て西側のため、以後『西方』とさせていただきますが……互いに存在する魔法とそうでないものがあり、大変興味深いです。その最たるものが〝錬金〟ですな」

 

 この発言に最も食いついたのはエレオノールだ。それはある意味当然である。なにしろ彼女は、優秀な土系統のメイジであり〝錬金〟を最も得意とする王立アカデミーの主席研究員なのだから。もちろん他の系統に属する出席者たちも、見事に釣られたという意味では同様だ。

 

 ……ちなみに現在、才人だけはエレオノールの付き人たちとは別の控え室で待機しつつ、豪華な料理に舌鼓をうっている。これはもちろん太公望の指示によるものだ。

 

「まあ! 東方には〝錬金〟がありませんの!?」

 

「それは驚きですぞ!」

 

「そうだったんですか!?」

 

「それは知らなかった」

 

「はい、ですから初めて実物を拝見したときには本当に驚きました。このようなことが可能であったのかと」

 

 さも驚いた! といった顔で答える太公望。

 

「ところで……失礼ですが、エレオノール殿は優秀な土系統のメイジであると妹君から伺っております。王立アカデミーでの研究ですし、そう簡単に開示できるものではないとは重々承知しております。ですが、もしも差し支えが無いようであれば、現在なさっておられる研究内容について、是非ともお話を聞かせては頂けないでしょうか?」

 

 ゆっくりとワイングラスを傾けながら、太公望は語り続けた。

 

「実は、妹君も姉上のお仕事に興味があったようですが、わたくしと同様にアカデミーの研究内容を聞き出すのは姉に迷惑がかかるかもしれない――そう考え、遠慮していたらしいのですよ。それだけに、失礼ですが……余計に気になりまして。知的好奇心が強いというのはこういった時に問題がありますな」

 

 ……で、冒頭のやりとりに繋がるのである。

 

 『始祖の像』を作る研究。

 

 そもそも、このハルケギニアにおいて『始祖』の御姿を描写するという行為は、大変畏れ多いことだとされている。よってブリミル教の寺院などに置かれている礼拝用の始祖像は、

 

『両手を前に突き出した人型のシルエット』

 

 ……という非常に曖昧な形をしている。

 

 よって、像自体の形状に関しては、このシンプルな表現のみを用いなければいけない。この制約の中で、いかにして『始祖』ブリミルの偉大さを感じ取らせることができるか。

 

 エレオノールはこの難しいながらも遣り甲斐のある課題に、全身全霊を傾けてきた。そして彼女はこの仕事に誇りを持っていた。だが、同僚たちはおろか、彼――元婚約者であるバーガンディ伯爵にどれほどこの研究が大切なものだと訴えても、ついに最後まで理解してもらえなかった。

 

「え、ええ……ミスタには、取るに足らない研究内容かと思いますけれど」

 

 これがどんなに素晴らしく、かつ大変意義のある研究であるのか、誰もわかってくれない。エレオノールはその思いだけはかろうじて内心へ隠し、そう答えた。

 

 だが太公望は、ある意味エレオノールにとって予想外の返答をしてきた。

 

「いや、それはとても重要な研究なのではありませんか?」

 

 エレオノールの片眉がぴくりと動いた。

 

「それは……どうしてそのように思われましたの?」

 

 エレオノールの問いに、太公望は笑顔で答えた。

 

「つまりですな。『始祖』の偉大さを、多くのひとびと……それも、遠い後の世にまで、可能な限り伝えるための研究だと判断したからです」

 

 そう告げて、さらに言葉を続ける太公望。

 

「たとえば書物に残そうとした場合、字が読めなければなりません。言葉や歌でも、耳が聞こえなければ伝わりません。ですが……『像』という形あるものにすることにより、誰でも『始祖』の御姿に触れ、触覚によってそれが実体あるもの……つまり『始祖』の偉大さを己が身で感じることができると。そういうことではないのですか?」

 

 太公望の説明を聞いたオスマン氏が、自分なりの意見を述べた。

 

「しかも、大きさによっては常に持ち歩くことすら可能になるのではないかね。『始祖』の像を側に置くことで、その慈愛を身近に感じることができる。ふむ、素晴らしいことじゃ」

 

 さらに部下のコルベールが後に続いた。

 

「その他にも、燭台の炎を上手く配置して像に光を当てる角度を調整すれば……『見える者』たちに対してより『始祖』の存在感を示すことが可能となりますぞ。エレオノール女史が行われている研究とは、つまりそういう類のものなのですな?」

 

 彼らの発言に、居並んだ生徒たちは皆顔を輝かせ「確かに素晴らしい研究です!」とエレオノールを褒め称え、拍手を送った。

 

 エレオノールは驚いた。実際彼女は、そういった理由で今まで努力を続けてきたのだ。

 

 全てのひとびとに『始祖』ブリミルの偉大さ、素晴らしさを伝えるために。だが、これと似たような話をして説明しても理解を得ることは難しかった。しかも、最近ではアカデミーの最高評議会での受けも悪く、年々研究予算を削られてゆくばかり。

 

 ところがこの東方から来た少年は、すぐさま自分の研究における本質を見抜いた。さらに、ここにいる者たち全員が彼の話を聞いただけでそれを理解し、評価してくれた。

 

 ……ふと、エレオノールが自分のかたわらに座っていた妹を見遣ると、ルイズは何故か顔を赤らめて俯いてしまっている。

 

『エレオノール姉さまは、わたしの自慢の姉さまなのよ』

 

 太公望から聞いた末妹の言葉を思い出したエレオノールは

 

(おちびは――この妹は、わたくしの研究内容をきちんと理解した上で、わたくしが褒められたことを喜び、照れているのだわ)

 

 そう解釈した。

 

 ――エレオノールの、ルイズに対する評価がさらにアップ。そして、件の従者殿とその主人に教師2名、ルイズの友人たちに対するそれも同様に上昇した。

 

 そして内心感謝した。彼らが〝力〟を合わせて、わたくしの大切な妹を救ってくれたのだ。これは、相当気合いを入れて歓待せねばなるまい。だが、その前に。

 

「ところでルイズ。よかったら、練習の成果を見せてもらえないかしら?」

 

 エレオノールはそう言って目の前にある空のワイングラスを指差すと、妹を促した。

 

 その言葉にルイズはすぐさま杖を取り出し、小声で、かつ素早く呪文を完成させる。すると……テーブル脇に置かれていたワインボトルがすいと浮かび上がり、エレオノールのグラスに赤い液体を注ぎ込んだ。まるで、専門のソムリエが行うかのごとく、実に優雅な動きで。

 

「まあ。こんなに〝浮遊〟(レビテーション)が上手に扱えるだなんて! 想像以上だわ」

 

「あ、その……姉さま、みんなが、いろいろと、教えてくれたから」

 

 そう言って再び顔を赤くした妹は……なんだか、以前よりも大人びて見えた。

 

(自分の努力よりも周囲の協力を強調するだなんて、この子も成長したものね)

 

 エレオノールには、それがとても嬉しかった。

 

 その後、歓談は『東方』と『西方』の魔法の違いについて大いに盛り上がり、研究者としての血が激しく騒いだエレオノールは、普段の彼女からは想像もつかないほど饒舌で、かつ非常に機嫌が良かった。彼女の笑顔は、まさしく輝いていた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから約5時間後。

 

 なんと全員が想像以上に魔法の話題で盛り上がり、滞在予定時間を大幅に過ぎてしまったばかりか、これから戻るには遅すぎる時間帯になってしまった。

 

「エレオノール君。もし君さえよければ、来客用の宿泊設備がある。または、ひさしぶりに可愛い妹と同じ部屋で一緒に夜を過ごしてみてはどうかね?」

 

 オスマン氏の勧めに、エレオノールは甘えさせてもらうことにした。久々に会った妹とは、まだまだ話し足りないと思っていたから。もちろんお説教をするつもりなどなく――これまでの学院生活や、魔法の練習方法などについて詳しく聞きたかったのだ。

 

「では、ありがたくそうさせていただきますわ。ルイズ、久しぶりにわたくしと一緒に寝ましょうか」

 

「ええっ! そ、そんな、この歳になってまで姉さまとだなんて……恥ずかしいですわ」

 

 そう言ってもじもじと手を動かす妹は、なんだかいつも以上に愛おしかった。

 

 そうこうしている間に、学院長が使用人のひとりを呼び出し、何事かを指示していた。どうやら明日の朝食について話をしているらしい。

 

「さすがにそこまでは……」

 

 そう遠慮したエレオノールであったが、

 

「ここまで引き留めてしまったのはわしら一同じゃからの」

 

 と、オスマン氏はにこやかに応じた。

 

 そして部屋から出ようとした直後。ノックの音と共に声が聞こえてきた。

 

「失礼致します。お客様方の護衛に参りました」

 

 扉を開けると――そこには、整った……それでいて清潔な服に身を包み、腰にレイピアを下げた黒髪の少年が佇んでいた。

 

「ご苦労。では、こちらにおわすエレオノールさまとルイズお嬢さまを部屋までお送りしてくれ。その後、こちらへ戻ってくるのだ。今夜は部屋の前で番をするには及ばない」

 

 エレオノールは太公望の言葉に仰天した。平民の護衛!? しかも話を聞く限りでは、毎日ルイズの部屋の前で警護をしているらしい。

 

 そんな彼女の疑問に答えるべく、太公望は笑顔で告げた。

 

「彼はわたくしと共にこの地を訪れた者でしてな。魔法は使えませんが、武芸に秀でております。実際『ライン』程度のメイジでは相当な実戦経験がない限り、まず勝てないでしょうな」

 

 自慢げに胸をそらす太公望にエレオノールは驚きを露わにした。まさか、こんな子供が〝メイジ殺し〟だというのか。いや、それよりも――。

 

「あの、どうしてわざわざルイズの護衛など……?」

 

「実は、よく個人的に手紙を送る関係上、妹君の使い魔を時折お借りしておりましてな。その礼を兼ねて、ルイズ嬢から使い魔をお借りしている間、護衛をさせておるのですよ。『目』『耳』にして『盾』たるものを使わせて頂いているわけですから」

 

 その解答に、エレオノールは感心した。本当に気が利くわね……この子。それに、ルイズの使い魔はフクロウだったのね。確かに風系統らしいわ。ほっと息を吐き、エレオノールは太公望に微笑みかけた。

 

「過分な礼を尽くして頂いて感謝します。それにしても、あなたはまだルイズと同じ年頃なのに、よくぞここまで気が回るものですね。驚きましたわ」

 

 これはエレオノールにとって、最大級と言っていい程の賛辞だった。しかし……その言葉に、なんだか目の前の少年の表情が陰ったような気がするのは何故だろう。

 

「あ、あの……姉さま?」

 

「どうかしたの? ルイズ」

 

「えっと、ミスタ・タイコーボーは、その……今年、27歳で」

 

 目を見開いて、己の妹と目の前の『少年』を何度も見返すエレオノール。

 

「いや、よいのです。子供扱いされることにはもう慣れておりますゆえ。これまで何度も、繰り返し皆さまには申し上げておりますが、これは〝変相〟(フェイス・チェンジ)ではなく素顔ですので念のため……」

 

 ハハハ……と力なく笑う少年――いや、彼は自分と同い年の男性で、妹ルイズを導いてくれた優秀な風のメイジ。その上、今までなかなか理解を得られなかった自分の研究に対する価値を即座に見抜いた識者だ。エレオノールの顔に、羞恥で血が上った。

 

 ――数秒後。

 

「おちび! どうしてそれを先に伝えて寄越さなかったの!!」

 

「いでででで、あでざば、ごべんなざい……わるがっだでずゆるじでぐだざあ」

 

 まだ全員がその場に残っていたにも関わらず、ルイズの頬が豪快につねり上げられたのは……ある意味当然の流れだったのかもしれない――。

 

 

 




エレ姉様が独神とか言われているのは理想が高すぎるからなんや!
このへんの事情は、もうちょっとしたら出てくる予定です。
あくまで、独自解釈ですが。


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第31話 参加者たちの後夜祭

「どうにか無事乗り切れたようだのう」

 

 ぐったりとソファーに沈み込んだ太公望の目は、まるで腐った魚のようだった。

 

「舞台の上で歌劇を演じている気分だったわ」

 

 その隣で、珍しく疲れの色を瞳に滲ませたキュルケが呟けば。

 

「ミス・ツェルプストーの言うとおりだよ。劇を終えたばかりの役者たちはきっとこんな気分なんだろうと、ぼくは思うね」

 

 吐き出すように紡がれたギーシュの言葉に、残る一同は頷いた。

 

「いやはや……実際とんでもない脚本でしたぞ、あれは」

 

 感嘆の声を上げたのはコルベール。

 

「うーむ、わしも是非読んでみたかったのう」

 

 実に残念そうな表情で、そう述べる学院長に。

 

「あれを残しておくのはだめ」

 

 タバサが真剣な声音で告げた。

 

 ルイズとエレオノールが出て行った後。来客室に残っていた者たちは才人が戻って来るのを待ちながら、先程まで繰り広げていた『舞台劇』について語り合っていた。

 

 ――そう、実は。あの一連の会話のほとんど全てが、太公望が作製したマニュアル通りに操作されていたのだ。ただし、エレオノールの研究内容に関する詳細などの最も盛り上がりを見せた歓談部分については、事前に予測できる性質のものではないので全てアドリブだが。

 

 それだけではない。裏で才人に部屋を片付けさせたり(自分用の荷物を一時的に別の場所へ移動するなど)衛兵詰め所から吊り下げタイプの細い剣を借りてくるよう指示するなど、各方面にわたっての行動がタイムテーブルつきで記されていたのである。

 

 しかも。ルイズが姉のそばで緊張のあまりマニュアルの内容を忘れそうになり、それが恥ずかしくて要所要所で顔を赤らめながら必死に思い出そうとしていたことや、最後に彼女が姉に頬をつねられるところまで見事に計算の上で台詞が配置されていた。

 

 ……もっとも、このルイズに関する情報まで開示されていたのは唯一タバサのみだったのだが。

 

「大切な情報を留め置いたおしおきなのだ。ルイズには黙っておれよ」

 

 などというメッセージつきで。彼女が妙に疲れた顔をしているのはそれを知っていたからだ。

 

 と、そんなところへヴァリエール家の姉妹を部屋まで送り届けに行っていた才人が戻ってきた。精魂尽き果てた一同を見た彼は、とりあえずいちばん近くにいたギーシュに声をかけた。

 

「みんな、ずいぶんとくたびれた顔してんな」

 

「そりゃあ疲れもするさ。きみはあの場にいなかったからわからないだろうけどね」

 

 ギーシュからため息混じりの説明を受けた才人は、思わず「うは……」と声を上げてしまった。それからまじまじと太公望を見つめながら聞いた。

 

「なあ、まさかとは思うけど……ひょっとして閣下の国の将官クラスって、みんなこのくらい当たり前にこなしちゃったりするものなのカナ? カナ?」

 

 問われた太公望はさも心外だと言わんばかりの表情でこうのたまった。

 

「この程度のことは、なにも将官でなくともやれるであろう? 会議に臨む上司のために補佐官が資料を用意しておくのと別段変わらぬ」

 

 などとあっさりと返した太公望にオスマン氏が言った。

 

「のう、ミスタ・タイコーボー」

 

「おぬしの秘書になれという話なら断る」

 

「そう一方的に拒否せんでもよかろ? 少しは考えてくれてもええじゃろうに」

 

「嫌だ。なんでわしがそんな面倒なことを引き受けねばならんのだ!」

 

「ミス・ロングビルがいなくなってからというもの、書類がほんと片付かなくて……」

 

「秘書の身辺調査を怠ったおぬしが悪いのでは?」

 

「それはさておき」

 

「置くなっつーの!」

 

「老い先短い老人の頼みじゃ。聞き届けてはもらえんかのう?」

 

「他を当たるがよい。わしは知らぬ。知ら~ぬ」

 

「そんな冷たいこと言わんと、ねえ?」

 

 漫才を始めてしまったふたりを止めたのはコルベールだった。彼は、どこか申し訳なさそうな、それでいて不思議でたまらないといった表情で太公望に尋ねた。

 

「以前から疑問に感じていたのだが、どうしてきみは軍人になったんだね? 私の偏見かもしれないが、軍隊に所属するなぞ面倒の極みだと思うが」

 

 コルベールの質問に、タバサを初めとした例の「異国の王族説」を知っていた者たちの顔が強張る。ところが聞かれた本人はというと、至極あっさりと理由を述べた。

 

「師匠に課せられた修行の一環でのう。やらねば破門だと言われてしまっては、さすがのわしにもどうすることもできんかったのだ」

 

「なんと、破門宣告と引き替えですと!?」

 

「それは酷い」

 

「いくらなんでもあんまりじゃなくて?」

 

 太公望へ向けて同情の眼差しを向ける一同。しかし、才人にはその理由がわからない。

 

「え? 破門って、単に弟子じゃなくなるってだけのことだろ? 俺だったら絶対やりたくないことと引き替えなら、そのくらいアリだと思うんだけど」

 

 これを聞いたギーシュがやれやれと肩をすくめた。

 

「平民のきみにはわからないだろうな。ぼくたちブリミル教徒にとっての『破門宣告』は、社会的に抹殺されることと同義なんだよ」

 

「たとえば?」

 

「貴族なら地位を剥奪されて平民に落とされる。さらに、他のブリミル教信者と交流することも許されなくなるんだ。結婚も無理、死んでも葬式すらしてもらえない。『始祖』に祈りを捧げることすら禁じられる。こんな怖ろしいことはないよ」

 

「う~ん。昔の村八分みたいなもんか?」

 

「ムラハチなんとかはよくわからないが、貴族どころか人間扱いされなくなるのは確実だね」

 

 そこへ、タバサがぽつりと付け加える。

 

「異端認定よりも畏れられている罰。それが破門宣告」

 

 これを聞いた太公望は、うまくいったと内心ほくそ笑んだ。

 

 仙人界における破門はせいぜいが追放刑を受ける程度で、彼らが言うほど厳しいものではない。だが、自分が好きこのんで軍を率いたわけではないということを納得させることはできたようだ。師匠から破門を申し渡されそうになったのは事実であるし、別に嘘をついているわけではない。

 

「とは言うものの、師匠としてもわしの他に適任だと思える者がおらんかったから、そうせざるを得なかったのだろうが」

 

「あなたが軍にいる必要があったということ?」

 

 タバサの問いかけに太公望は頷いた。

 

「結果的にはそういうことになるのう」

 

「それは何故?」

 

「敵対する派閥が、とある帝国に与していたからだ。きゃつらを放置しておけば戦乱が続くと判断した上層部が、わしと同僚の数名を帝国と対峙していた公国へ派遣したのだよ。わしとしては武力に頼らず平和的な交渉で争いを収めたかったし、そのつもりで色々と準備していたのだが……残念ながら、そう上手くはいかなかった」

 

 つまり、彼は最低でも一国の外交と軍務を牛耳る派閥に所属していた宮廷貴族であり、同盟国において客将として扱われていた人物なのだ。しかも、王族疑惑が完全に消えたわけでもない。

 

 即座にそこまで察したタバサの心臓付近が再びキリキリしてきた。

 

「ところで、その時の合戦規模はどのくらいのものだったんだい?」

 

 ギーシュがした質問に、太公望はわずかに眉を寄せながら答えた。

 

「開戦当初こそ両軍併せて十万程度の数だったのだが……最終的には総勢百万の大軍がぶつかり合う大決戦に発展した」

 

「ひゃ、百万じゃと!?」

 

 ハルケギニア組はそれを聞いて戦慄した。百万などという大軍は、この世界の常識では考えられない規模だ。いや、最初の十万の時点で既に常軌を逸した激突なのである。

 

 地球出身でミリオタの才人はというと「三国志とかそのへんの、昔の中国っぽい数?」などという感想を持っていた。まさか、その中国を舞台に繰り広げられた合戦の話を聞いているとは夢にも思わない。

 

 オスマン氏は頭の中で密かに試算を始めた。魔法学院を卒業した後、士官学校へ進み軍人を志す若者は大勢いる。卒業生らと顔を合わせる機会が多い氏は、トリステインや各国の情勢を一般的な宮廷貴族以上に把握している。なればこそ、この数字を聞いて慌てた。

 

 もしもトリステインの王軍が今の時点で全軍を動かした場合――陸・海・空軍併せて、せいぜい一万がいいところか。諸侯軍や国境防衛軍を全てかき集めたとしても五万。大国ガリアですら十五万が限界であろう。

 

 もっとも、ハルケギニアは数の少ないメイジが主体。周と殷は平民の兵士たちと両手の数ほどの仙人という大きな構成の違いがあるので、動員力という意味で双方を比較するのは間違っているのだが……それを知らずに数だけ聞けば、彼らが驚くのも無理はない。

 

「正直、我々には想像もつかない大合戦ですな」

 

 コルベールは思った。

 

(ロバ・アル・カリイエでは、それほどの大規模会戦があったというのか。研究者として悲しむべきことだが、戦争は技術革新が行われるきっかけとなることが多い。東方諸国がハルケギニアに比べ、進んでいるのも当然だ……)

 

 オスマン氏は内心の動揺を抑えつつ尋ねた。

 

「君は軍を指揮した経験があるそうだが、公国軍ではどのような立場にあったのかね?」

 

 その問いに、今更隠しても仕方がないと言わんばかりに答える太公望。

 

「正確には同盟軍だ――帝国と隣接する四カ国が同盟を結び、兵を派遣したのでな。で、わしはそこに参謀として参戦しておった。ただし、戦況次第では自ら部隊を率いることもあったがのう」

 

「参謀かあ……」

 

「確かにそれっぽい」

 

 太公望の説明を受けた一同は、その説明に納得した。

 

 ――本来であれば、太公望の役職は〝軍師〟とするのが正しい。

 

 軍師とは、情報精査から作戦の立案・兵站の管理・軍全体の指揮など、その人物の能力によって幅広い行動が求められる役職だ。普通は複数の軍師を抱えるのが一般的だが、周の場合は前述した仕事のほとんどを太公望が兼任していた。そのため殷の将たちから、

 

「太公望さえ潰せば革命軍は瓦解する」

 

 という認識を持たれていたわけだが――それはさておき。

 

 図書館で基本的な軍事用語を学んでいた太公望は、ハルケギニアに軍師という役職がないことを知って驚いた。こちらでは一人の責任者に多くを求めるのではなく、指揮・作戦の立案・兵站の確保など全て専門家が分業することにより効率を上げていたのだ。

 

 その中で最も軍師、というよりも太公望の立ち回りに近い役職が〝参謀〟だった。指揮官の幕僚として作戦計画を立てたり用兵などに関して進言する役割を負うが、指揮権を持たない――殷周革命戦争最終戦・牧野の戦いにおける武王と太公望の関係そのものである。

 

 ゆえに、己の立場を訊ねられた彼は参謀と答えたのだ。互いの価値観の問題があるため、最初から全部説明するのが大変だったという事情もあるのだが……。

 

 そんなこととは露とも知らず、何気なく訊ねる才人。

 

「今はもう、その戦争自体は終わってるんだよな?」

 

「うむ。周辺諸国もだいぶ落ち着きを取り戻してきたところだ」

 

「お前が軍辞めてのんびり旅できてたってことは……つまり、同盟側が勝ったんだな」

 

 才人の言葉に、太公望は心底疲れたといったような顔で返した。

 

「最後の最後まで『女狐』のやつに引っかき回されたが、どうにか……な」

 

「ちょ、ちょっと待って! 敵には女将軍がいたの!?」

 

「いたもなにも、その女こそがわしらと敵対する派閥の『頭脳』にして、帝国軍を陰から操る黒幕だったのだ。当然、自らも参戦していたぞ」

 

「ええーッ!」

 

 驚きの声を上げたのはキュルケだ。これまたハルケギニアの常識になるのだが、戦場は男のものであって、女が出る幕はない。たとえ従軍を希望しても鼻で笑われるのがオチだ。しかも軍の重要なポストに女性が就任することなど、まずありえない。

 

「能力の有る無しに、男も女も関係ないであろう?」

 

 この太公望の発言に、キュルケは目を輝かせた。

 

「つまり、実力さえあれば性別も家柄も問題にならないのね?」

 

「まあ、なくはないが……それでも、この国のようにガッチガチではないのう」

 

「へえ~。あたしたちゲルマニアに近い考えなのね。戦争がなければ、きっといいところなんでしょうね……ミスタの国って」

 

 そのキュルケの発言に、太公望は破顔でもって答えた。

 

 ――ちなみに、この時点での才人の思考はというと。

 

(あいつんとこ、確か本拠地が宇宙船なんだよな!? おまけに『同盟軍』対『帝国軍』とか……うは! スペースオペラたまんねえ!!)

 

 などという、ちょっと不謹慎な方向へ移行しつつあった。まあミリオタで、かつ戦争というものを肌で実感できない日本人にとってはある意味仕方のないことではあるのだが。

 

 割り込むようにしてタバサが問うた。

 

「あなたはその女将軍を知っているの?」

 

「嫌というほどな」

 

「どんなひとだったの?」

 

 その問いに腕を組み、当時を思い出すように語る太公望。

 

「ああ……まずは見かけから言うと、いわゆる『傾国の美女』というやつだ。実際とんでもなく美しい女でな。ただしその本質は『魔性』。側に近寄っただけで骨抜きにされる者たちが多数。その美の信奉者も数十万人単位。うちの国王陛下なぞ事前知識があったにも関わらず、たまたま戦場ですれちがった時に鼻血吹いて馬から転げ落ちたくらいなのだ」

 

「そこまでかい! 是非一度、その姿を拝んでみたいのう!」

 

 思わず叫んでしまったオスマン氏と、それを呆れ顔で見つめる生徒たち。そんな中、キュルケが実に鋭いツッコミを入れる。

 

「ふ~ん。もしかして、ミスタ・タイコーボーも誘惑されたクチ?」

 

「……初対面の時にクラッといきかけたのは否定せんが、それ以上は何もないからな」

 

 もちろんこれは、太公望が『女狐』と称した相手が持つ宝貝『傾世元禳(けいせいげんじょう)』に当てられかけた時の話だ。これは射程範囲内にいる者全てを魅了し、使用者の操り人形にする〝魅惑の術(テンプテーション)〟を放つ、強力かつ凶悪なアイテムである。

 

 使い手たる『女狐』自身の美しさと実力が相まって、とてつもない威力を発揮。最大で100万人以上の人間を操った怖ろしい兵器だ。もっとも、太公望はさすがにそこまでの情報や彼女との間にあった因縁について開示するつもりはなかった。

 

 とはいえ、ここまでの事情を話したおかげで「彼って別にシスコンとか、女に全然興味がないってわけじゃないのね、よかったわ」などと、キュルケに持たれていた変な誤解が解けていたので結果オーライである、かもしれない。

 

「でも、美人だから何をしても許されたってわけじゃあないわよね。当然、相応の実力があったんでしょう? 国政を動かせるほどの派閥を作れたくらいなんだから」

 

「うむ。実際とんでもない『女狐』であった」

 

 と、今の言葉に疑問を抱いたのはタバサだ。

 

「……だった? もしかして」

 

「ああ、あの女は既におらぬ。あやつは『土に還った』のだよ。それも、わしがひとりであやつを追っていた時に、わざわざわしの目の前で、見せつけるかのように命を散らして逝きおったのだ。まったく……あれでは恨み言のひとつも言えないではないか」

 

「あらミスタ、ひょっとして戦場で芽生えた『禁断の愛』とか、そういう……?」

 

 こういった空気に敏感なキュルケがすかさず茶化す。その言葉にタバサも……他の参加者たちを含む全員が身を乗り出してきた。

 

「あっちはどうだか知らんが、自分についてはよくわからぬ。なにせ常に命の取り合いをしていた相手だからのう」

 

 そんな彼らに苦笑して答える太公望の目は、どこか遠くを見ているようだったが――しかし。そのわずか数秒後。彼の瞳に宿る光が、ふいに悪戯っぽいものに変化した。

 

「わしの『魔王』演出なぞ、あの女に比べたら可愛いものだぞ?」

 

 太公望はふふんと鼻で笑いながら、生徒たちを見回す。赤くなって俯く少年少女たちと、何が何だかわからない教師陣。そこで、太公望はさきほど行われた悪戯について、オスマン氏たちに話した――おしおきの内容まで含め、詳細に。

 

「まあ、きっちり締めてはおいたので、停学にまではしなくてもよいと思うが」

 

「では反省文を書いて提出させるというのはどうでしょう」

 

「それもありか。ふむう、枚数をどのくらいにするかじゃが……」

 

 などと視線を交わしつつノリノリで罰則について話し合っていた教師陣三名とは対象的に、才人を含む生徒側は既に全員顔が真っ青である。それをよく観察していた大人たちは「もう勘弁してやるか」と目で語り合い、代表として太公望が口を開いた。

 

「まあ、とにかくだな。悪戯に関してはまだいいとしてだ、才人よ」

 

「は、ハイ」

 

「ああいった閃きがあったら、必ずわしかコルベール殿に相談してくれ。あの『防御壁』はな、最悪の場合……展開した瞬間におぬしとルイズ、ふたりの命を奪ってしまった可能性すらあったのだぞ?」

 

「『いしのなかにいる』状態になる、ってことだろ?」

 

 ああ、そのあたりは気付いていたのか……と、思いつつも念のため追加する太公望。

 

「それなのだがな。もしもあの壁が〝念力〟を解いた後も、実体化したまま残っていたとしたら? うまく調節できずにだんだん縮んできて、中の者が潰されたら? 使い手が気絶した途端、割れて崩れ落ちてきたら? 内側が真空だったら? と、まあ……こういった可能性も充分にありえたのだよ。だから、わしはルイズが自らバリアを解くまで手出しせんかったのだ」

 

「う、そこまでは考えてなかった」

 

「おぬしのアイディアは確かに面白い。だが、何事も最初は危険がつきまとうのだよ。考えてはいけない、ということではない。あくまで実行する前に声をかけてほしいだけだ。もちろん、これはおぬしたちを心配してのことだ。わかってくれるかのう?」

 

「よくわかりました……」

 

 ガックリとうなだれる才人。実際に命の危険があったのだと聞いて、さすがにお調子者の彼でも血の気が引いていた。

 

「まあ、あれだけ痛い目に遭わせたのと、ルイズへの指示書に『防御壁の使用及び口外は、以後許可が出るまで禁ず』と書いておいたので、しばらくは大丈夫だと思うが、この件については念のためしっかりとおぬしの口から伝えておいてくれ」

 

「ああ。よく説明しておくよ」

 

 話の区切りがついたと見たオスマン氏が、ぽんぽんと手を叩いた。

 

「さて、だいぶ夜も更けてきたし、みな疲れたじゃろ? そろそろ解散しようか」

 

 オスマン氏の提案に頷く一同。

 

 ――なお、この翌日。エレオノール女史は上機嫌で朝食をいただいた後、足取り軽くヴァリエール領に帰っていった。緊張のあまり、長姉を乗せた馬車が見えなくなった途端、その場へ崩れ落ちたルイズを残して。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――昼食時。ルイズは仲間たちに笑顔で礼を言った。

 

「あのエレオノール姉さまがわたしに……あんな嬉しそうな顔で話をしてくれるなんて、初めてだった。あんなふうに笑ってるのも、見たことなかった。本当にみんなのおかげよ、ありがとう」

 

 夕べは緊張こそしていたものの、姉妹の会話自体は相当盛り上がったようだ。

 

「それにしても……あの気難しいエレオノール姉さまとあんなふうにお喋りができるだなんて。ミスタ・タイコーボーは話が上手よね」

 

「そうかのう? 単純に研究の話をしただけなのだが。研究者というものは自分のしている研究について、他の研究者と話し合い、お互いに刺激しあう関係になりやすいものだからな。もちろん性格にもよるがのう」

 

 太公望はそう言いながら、サラダに使われていたハシバミ草を器用によけて、そろりとタバサの皿に乗せた。この草は独特の香りと苦味が特徴で、苦いものが大嫌いな太公望はいつも彼女に食べてもらっているのだ。

 

「それ以外でもぽんぽん話が続いてたじゃないの。わたしだったら、あそこまでできないわ。なにかコツでもあるのかしら?」

 

 その疑問に対し、太公望はちょっと考えると……実例を示してみることにした。

 

「そうだのう、モンモランシー」

 

「な、何かしら?」

 

 ギーシュの隣にちょこんと座っていた彼女は、突然話をふられて驚いていた。

 

「あのな、これからちょっとした見本のためにギーシュを借りる。これはあくまで演習なので、浮気ではない。よって例の数にカウントしないでやってくれ」

 

「……ミスタ、きみはぼくに何をさせようというのかね」

 

 思わず椅子を引いて後ずさったギーシュに、太公望は笑顔でこう命じた。

 

「キュルケを褒めつつ、できるだけ会話を引き延ばしてみるのだ」

 

「……は?」

 

「キュルケはこれ以上会話を続けたくないと感じたら、その時点で『終了』と言うのだ」

 

 この命令に、面白そうだ! という顔をする面々。その中で最も期待に満ちあふれた表情をしていたのは指名されたキュルケ自身であった。

 

「ほれ、やってみろ。おぬしは全ての女性を楽しませる薔薇なのであろう? ならば、キュルケが喜ぶような会話ができて当然。さあ!」

 

 そう太公望から促され「ふむ……」と少し考えたギーシュは、彼女へこう切り出した。

 

「キュルケ。きみのその髪は、まさに炎のようだよ。二つ名に相応しい」

 

「はい終了」

 

「え~」

 

「早いなオイ」

 

 さすがに気の毒に思った才人がツッコむと、

 

「だって、ちっとも面白くなさそうなんだもの!」

 

 と、がっくりきているギーシュに追撃をかけるキュルケ。火系統だけあって実に容赦がない。

 

「では、次にわしがやってみようと思うのだが……かまわぬかのう?」

 

「あら、それは楽しみね」

 

「今から始めるぞ。ふむ……その爪に塗られておるものは、何といったか」

 

「このマニキュアがどうかしまして?」

 

「ほう、それは『まにきゅあ』というのか。実はな、ちと気になっておったのだが。どうして今日はいつもと色が違っておるのだ?」

 

「えっ? あたし、毎日変えてるわよ?」

 

「あ、いや、そういう意味ではなくてだな。おぬし、今月に入ってから曜日によって決まった色にしておったであろう? にも関わらず、今日はそれらの法則から外れていたのが気になってのう」

 

 この発言に、聞いていた一同が驚いた。逆にキュルケは満面の笑みを浮かべている。

 

「さすがね、そこまで細かく見てくれていたなんて。これはね、昨日ゲルマニアから届いたばかりの新作なの。初めて使う色だったんだけど、思ったより発色が良くて気に入ったわ」

 

 そう言って、自慢げに爪を見せびらかすキュルケ。

 

「おぬしは流行に敏感だのう」

 

「女として当然よ。ゲルマニアだけじゃなくて、トリステインのものもチェックしてるんだから」

 

 オホホホホ……と、上機嫌で笑うキュルケ。周囲にいた者――特に女性たちが彼女の爪に注目する。そして「たしかにいい色ね……」とか「キュルケの肌にぴったりの色だわ」などという囁き声が離れた場所から聞こえてくる。キュルケはそれらの賞賛を聞いて、とても気分がよくなったようだ。

 

「それでだな。そんなおぬしに聞きたいことがあるのだが」

 

「あら、ミスタが……あたしに?」

 

「うむ。実はな……」

 

 そう言って、ちょっと視線を下に向けると、右手の指で頬をかきはじめる太公望。それを見たキュルケは彼が何を言いたいのかおおよそのところを理解し、柔らかな笑みを浮かべてこう言った。

 

「なるほどね……だいたいわかったわ」

 

「さすがはキュルケ、察しが良くて助かる。でな、それに相応しいものを教えてもらいたいと」

 

「オホホホホ、このあたしに任せておけば大丈夫! まあ、たしかにこれは殿方には難しい問題よね。ところで……」

 

 そう言って視線を太公望の目に合わせるキュルケ。

 

「もちろん、それ相応の対価は用意させてもらう。そうだのう、今度トリスタニアの街で……」

 

「あら、いいわね。実は美味しいデザートを出すお店の噂を聞いたんだけど」

 

「ほう、それはとてもいい話だ」

 

 にっこりと笑った太公望に、これまた笑顔で応えるキュルケ。

 

「でしょう? でも……」

 

「ふむ? 何か問題でもあるのかのう?」

 

「あら、ミスタにしては察しが悪いわね。その件について、あたしの部屋でゆっくりと、ふたりっきりでお話を……そうね、今夜にでも」

 

 ごぃん! ごぃんっ!! と音を立て、長く太い木の杖の先が、ふたりの頭にクリーンヒットした。衝撃を受けた頭を押さえ、テーブルの上に突っ伏したのはキュルケと太公望だ。

 

「いった~い!!」

 

「何故わしまで殴るのだタバサ……」

 

「なんとなく」

 

 まさに風の如き素早さで杖を仕舞うと、再び着席するタバサ。

 

「つーかまるっきりナンパ……口説いてるみたいだったぞ」

 

 すごいものを見た! とでも言わんばかりの才人に、うんうんと同意する一同。

 

「違うわ! おぬしら、話の内容をちゃんと聞いておらんかったのか!!」

 

 うがーっ!! と周囲を威嚇する太公望。だが、支援は思わぬところからやってきた。

 

「ミスタ・タイコーボーは、キュルケに誰かへのプレゼントを見繕う手伝いをしてもらいたい、対価に街で何か奢るから……っていう話をしていたのよね?」

 

 こう援護してきたのはモンモランシー。その言葉にようやく見ていた全員が「あ!」という反応をする。

 

「そういうことだ。途中で話がおかしな方向へ流れてしまったが、ちゃんと軌道修正の用意もあったのだ」

 

「え~、あたしは結構本気で」

 

 ごぃ~ん!! タバサ会心の一撃がキュルケの頭を捉えた。再び突っ伏すキュルケ。

 

「でも、同じように褒めているのに、ぼくはあっさり会話を切られたのは何故だい?」

 

 当然とも言うべきギーシュの質問に対し、最初はキュルケが答えようとしたのだが……それを制して太公望が説明する。

 

「キュルケは何か自慢したいようなことがあったとき、いつも髪を掻き上げるであろう? これは自分の髪の美しさに自信があるということだ。わし以外にも、それに気付いている者は当然いる。よって、髪については『褒められ慣れている』のだ」

 

 と、ここまで言ったところでキュルケに補足を依頼する。

 

「そういうこと。だから、これ以上ギーシュと話しても面白くなりそうもないと思ったの。でも、ミスタは気付くひとが滅多にいない、あたしのマニキュアへのこだわりを突いてきたわ。だから、あそこまで盛り上がったのよ」

 

 しかも……と、キュルケは続ける。

 

「わざとそれっぽい仕草で、あたしに頼み事があるように見せかけて誘導してたわ。それに興味があったから、あたしも乗ったってわけ」

 

「まあ、キュルケはこのように察しのいい女性だから、今の技が通じたのであって、常にこれが可能であるとは限らない。よって、相手をしっかりと見極めた上で、より好みそうな内容を提示すれば、このようにお互いに楽しく話ができるわけだ」

 

 少し冷めてしまった茶を口に流し込みながら、太公望は説明する。

 

「かつ、やりかた次第でさっきキュルケがわしにしようとしたように、自分が望む方向へ話題そのものを誘導することも可能なのだ……が」

 

 そこで突然太公望は会話を中断してしまった。当然「何事だ?」と訝しむ一同だったが――何気なく周囲を見て絶句した。

 

「何故こんなにひとが集まっておるのだ……」

 

 彼らの周りには大勢のひとだかり――特に男子生徒、さらには教師までが集まって、ぐるりと輪を作っていた。

 

「いや、なかなか興味のある話でしたので」

 

「面白そうだったから、つい」

 

 口々に言い合う野次馬たちに、呆れたような口調で問う太公望。

 

「あのな……おぬしらは貴族であろう? ひとから何か聞きたいのなら、せめて気を利かせるべきではないかのう?」

 

 そう言って、彼は自分の空っぽになったデザート皿をじっと見つめた。途端にドタバタと走り出す少年少女と教師たち。積み上がってゆくデザート、そしてフルーツ。そんな様子を満足げに見ていた太公望はふと、ある人物の行動に目を留めた。

 

「ほほう、なかなか面白いではないか。これは……」

 

 それから会話のテクニックを昼休み終了まで披露し続けた太公望は、語り終えると同時に先程目を留めた人物にこっそり声をかけた。その後――夕刻。

 

 いつもの時間、いつもの中庭。だが……そこには、これまで存在していなかった人物が新たに加わっていた。

 

「ミスタ・タイコーボー。何故彼がここにいるのかね?」

 

「よほどのことがない限り仲間は増やさないんじゃなかったかしら?」

 

 ギーシュとモンモランシーの問いに、太公望は満面の笑みでもって応えた。

 

「その『よほど』があったからなのだよ。理由はこのあとちゃんと説明する」

 

 そして、太公望は問題の人物に視線を移した。その先には茶色がかった金色の髪を短めに揃え、丸い眼鏡をかけた生真面目そうな少年が立っていた――。

 

 

 




原作で未だ彼の家名が明かされていない件について。
最終刊で判明するかなあ……。
するといいなあ……。


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水精霊への誓い
第32話 仲間達、水精霊として集うの事


 太公望に連れられて中庭へやってきた少年は、レイナールと名乗った。彼はタバサたちの隣のクラスに所属している二年生だという。

 

「ずっと前から、君たちのことが気になっていたんだ」

 

 そう言ってにっこりと笑った少年は、ここに至った経緯を語り始めた。

 

 ――レイナールは、ここ1ヶ月ほど前から中庭で行われていた『あること』が気になっていた。最初のうちは他のクラスメートたちも同じように思っていたようだが、彼らはたったの数日であっさりと興味をなくした。何故なら、そこに平民が混ざっていたからだ。

 

「平民と貴族がなれ合うだなんて、どうせロクなことじゃない」

 

 そう言って笑いながら去って行った彼らについてはどうでもいい。

 

「けど、あれは一体どういうことなんだ?」

 

 日を追うごとに動きが良くなっていくゴーレムの集団。それらをなんと剣1本でなぎ倒し、あるいは蹴りによって地面に叩き伏せていく平民の少年の、なんと力強いことか。

 

 レイナールは『ライン』クラスのメイジで、学院内での成績はそこそこ上位に入っている。特に〝風の刃(ブレイド)〟の魔法を用いての接近戦はクラスで一番の腕前だ。しかし、正直あの平民には勝てる気がしなかった。

 

 それだけではない。この1年間『ゼロ』と笑われていた少女が、箒に乗るという常識では考えられない方法を採ってはいるものの、通常の〝飛翔〟よりもずっと速く軽快に空を舞う姿も彼の興味を引いた。

 

 他にも、同じ〝火球〟(ファイア・ボール)を唱えているはずなのに、何故か毎回違う大きさで発動する謎や、異国風のマントを纏った――これもたぶん自分と同世代のメイジと共に、何かに祈るような姿勢で芝生に座り込む眼鏡の少女たちについても好奇心がそそられた。

 

 そして、ついに昨日――彼は見てしまったのだ、決定的なモノを。

 

 『見えない壁』。そこに次々と投げかけられる魔法。だが、それはまるで盾のように全てをはじき飛ばした。とはいえ、書物で学んだエルフの〝反射〟(カウンター)とは異なっている。

 

「あんな魔法、ハルケギニアには存在していないはずだ! と、そういえば……」

 

 そこでようやくレイナールは気がついた。あの異国風の装いをしているメイジ――名前はタイ……なんとかというらしい彼は隣のクラスの『雪風』が召喚事故によって呼び出してしまったという、東方ロバ・アル・カリイエのメイジではなかったか?

 

「もしかすると……彼らはみんな、東方の魔法を教えてもらっているのか!?」

 

 レイナールは胸の高鳴りを抑えることができなかった。それも当然だろう、そもそも東方諸国とのやりとりをしている商人自体がごくごくわずか。かの地に関する情報はほとんど無いといっても過言ではない。

 

「杖をふるって使えているということは……使い方はハルケギニアとだいたい同じなのかな。それが東方流にアレンジされているのか、それとも東方独自の魔法が存在するんだろうか? くうッ、彼らと直接話ができればなあ!」

 

 レイナールは悔しかった。あの場にいる貴族たちのほとんどがトリステインでも有数の大貴族ばかり。かたやレイナールの実家はというと、お世辞にも良い家柄とは言えない。あきらかに家格が上の者たちに声をかけるのは、大変な勇気がいることだった。

 

 トリステイン魔法学院には「学院内において生徒を地位や家柄、爵位にとらわれることなく平等に扱う」という教育方針がある。そうでなければ、共に机を並べて学ぶことができないからだ。とはいうものの、それはあくまで建前であり、いざ生徒同士が交流を――となれば、それなりのきっかけが必要だ。レイナールが彼らと同じクラスであれば、

 

「ぼくも仲間に入れて欲しい」

 

 そう声をかけるだけで良かったのだ……実際に入れるかどうかはともかくとして。しかし、不幸にも彼は別のクラスに所属していた。

 

「ここは勇気を出して、前進すべきだろうか。いやしかし……」

 

 そんなふうに迷っていたレイナールだったが、意外や意外。なんとその翌日に、思わぬ機会がやってきたのだ。

 

 普段と同じようにアルヴィーズの食堂で昼食を摂っていると――いつの間にか、テーブルの中央付近にひとだかりができていた。いったい何事だろう? そう思って席を立ち、奥を覗いたレイナールは驚いた。正確にはそこで繰り広げられていたやりとりに。

 

 一見すると、よくある男女の駆け引きのように思えた会話が、実は相手の興味を引きつけるための技なのだという。少なくとも、魔法学院で学べるようなものではない。

 

「なるほど。相手の興味を引く、か」

 

 レイナールが思考の淵へ沈み込もうとした矢先、ふいにその発言が聞こえてきた。

 

「あのな……おぬしらは貴族であろう? ひとから何か聞きたいのなら、せめて気を利かせるべきではないのかのう?」

 

 ――気を利かせる。

 

(つまり、ここで彼の興味を引くような何かができれば――もしかすると、声をかけるための良い機会になるかもしれない!)

 

 そう考えたレイナールは周囲を観察し始めた。

 

 催促されドタバタと走り出した、自分以外の者たち。例の人物の目前に積み上がってゆく果物やデザート。彼らと同じことをしても歓心を得られないだろう。と――レイナールは、あることに気が付いた。

 

(もしかすると、これなら――!)

 

 ――それから約20分後。レイナールの前に彼が立っていた。

 

「わしの名は太公望。さきほどの心遣い、感謝する」

 

 レイナールは、内心でぐっと拳を握り締めていた。

 

(やった! 予想通り、ぼくに興味を持ってもらえた!)

 

 その思いを一切表へ出さずに、彼は生真面目な表情で答えた。

 

「こちらこそ。ぼくはレイナールだ。あの話、すごく興味深かったよ」

 

「ふむ、レイナールというのか。おぬし……時折()()()を見てはいなかったか?」

 

 言われて、レイナールはどきりとした。どうやら気付かれていたようだ――しかし相手の口調は、見ていたことに対して責めるようなものではない。なら、正直に答えたほうがいいだろう。そう判断した彼は、返すべき言葉を選び、繰り出した。

 

「さっきの件ではないよね?」

 

 この返しに相手は満足したようだ。笑みを浮かべ、レイナールにこう言った。

 

「のう、おぬし。()()()()へ来る気はないか?」

 

「これから授業が始まるから、放課後からでいいかな? その……いつもの場所で」

 

 目の前の男――太公望はニヤリと笑い、頷いた。

 

 ――そして今。念願の仲間入りを果たしたレイナールは彼らが集うテーブルの横に並んだ椅子に座り、太公望の話を聞いていた。

 

「実はな、さっきの話をしている途中、ひとだかりができたであろう?」

 

「ええ。それがどうかしたのかしら?」

 

 太公望の言葉に、首をひねって疑問を呈すモンモランシー。

 

「そのとき、わしは『ひとの話が聞きたいなら、気を利かせろ』と言った」

 

「覚えている」

 

「あ、俺も」

 

「デザートたっくさん集まってたものね」

 

 口々にそのときの様子を語る少年少女。彼らが静まるのを待って、太公望は続けた。

 

「そこでな……たったひとりだけ他人と違う行動をした者がいたのだよ」

 

 そう言って、レイナールへ顔を向ける。当然のことながら全員の視線が彼へと集まる。レイナールはなんだか照れくさくなって、頭を掻いた。

 

「他の者たちが周りと同じようにデザートや果物を持ってくる中で……このレイナールだけが、食堂のメイドたちが集っていたところへわざわざ歩いて行ってな、そこにいたシエスタに声をかけて、新しい茶をわしを含む仲間たち全員に出すよう命じていたのだ」

 

「えっと、言いたいことがよくわからないのだが」

 

 ギーシュの疑問に、太公望はそれならば――と、詳しく解説を始めた。

 

「まずはだ……レイナールはわしが飲んでいた茶が無くなりかけていることに気がついた。しかも時間の経過で、冷めていることにも目が行った。まだわしの話は続く、しかも長くなりそうで、さらには食べ物はたくさんあるのに飲み物がない。そのことに気付けたのは彼だけだったのだよ」

 

 太公望はレイナールに言を向けた。

 

「どうだ、わしの推測は当たっておるかのう?」

 

「うん、その通りだ」

 

「だからあたしが頼む前に、新しいティーセットが届いたのね。気が利くじゃない、あなた」

 

 キュルケの称賛にうっすらと頬を赤く染めたレイナール。彼女のような美人に褒められたら、男なら誰だって悪い気はしないだろう。

 

「では、次だ。レイナールよ、おぬしに聞きたい。あそこでわざわざ立ち上がって、あえてシエスタに茶の用意を依頼したのは何故だ?」

 

「それは……側に使用人の子がいなかったということもあるけど、あの黒髪のメイドはそこにいる彼……ええと、あとで名前を教えてもらえるかな?」

 

 そう言うと、レイナールは才人に視線を合わせ軽く右手を挙げる。才人はそんな彼と同じように手を挙げた後、笑顔で頷く。

 

「彼と食堂でよく話をしていたよね? だから彼女に頼めば、ぼくが自分でお茶の種類を選んで頼むよりも、ずっと君たちが好むものを出してもらえると思ったんだ。でも、それが確実とは限らないから、念のため本人のところへ確認をしに行っただけのことさ」

 

 感心の声を上げる一同。ニヤッと笑い、レイナールの肩の上にぽんっと手を置いた太公望は、どうだと言わんばかりに周囲を見渡した。

 

「素晴らしいであろう? 他の者たちがただ周りを真似するだけであった中、レイナールだけがここまで考えて行動していたのだよ。しかも、よりよい結果が得られるように。こんな人材に声をかけないでどうするというのだ!」

 

 確かに彼が好みそうな人材ではある。タバサは納得顔でレイナールを見た。しかし太公望が次に放った言葉で、思わずその場に崩れ落ちそうになった。

 

「こういう有能な人材が多く集まれば、わしも堂々と怠けられるというものだ!」

 

 才人が盛大にツッコんだ。

 

「お前がサボるために勧誘したんかよ!」

 

「というかだね、ミスタは例の畑に関わっていないだろう?」

 

「他に何かしてたっけ?」

 

「覚えがないわ……」

 

「失礼な連中だのう! 畑の前準備も、この後に控えた冒険に関する交渉や手続きも、全部わしがやっておるではないか!!」

 

「ああ、そういえばそうだったわね」

 

「忘れていた」

 

「タバサよ、おぬしまでそんなことを言うのか……」

 

「畑? 冒険? それに交渉って何のことだい?」

 

「ああ、それはだな」

 

 蚊帳の外に置かれてしまったレイナールが至極当たり前の疑問を呈す。太公望がそれに答えると、少年は驚きで目を丸くした。

 

「ちょっと待ってくれよ! きみ、僕たちと同じくらいの齢だろう? あの食堂での話術もそうだけど、一体どこでそんな知識を!?」

 

 少なくとも魔法学院で学べるような内容ではないし、食堂での教師たちやここにいる仲間たちの反応を見るに、爵位の高い家に伝わる知識というわけでもない。もしかすると、東方では当たり前に習えるのだろうか?

 

 その疑問に答えたのは才人だった。

 

「そりゃあ閣下だもんよ」

 

「閣下?」

 

 訳が分からないといった顔をするレイナールと、目を剥く太公望。

 

「この集まりが内緒だって話、もうしてあるんだろ?」

 

「もちろんだ」

 

「なら、先に言っといたほうがいいんじゃないか? モンモンにもまだ説明してないし」

 

「だから、モンモンはやめてちょうだいって言ってるでしょう!」

 

 

 ――只今才人による説明中です。しばらくお待ち下さい――

 

 

「か、彼が東方軍の、た、退役軍人!?」

 

 口をあんぐりと開けているレイナールに、才人が追い打ちをかける。

 

「冗談みたいな話だろ。おまけに、この顔で二十七歳だぜ?」

 

「やっぱりそれ、嘘じゃない、の……よね?」

 

 顔を引き攣らせてるモンモランシーを見て、太公望はため息をついた。

 

「わし、この1ヶ月でもう何度同じ答えを返したんだろうか。〝変相〟(フェイス・チェンジ)なんぞは一切使ってないからな? もちろん魔道具もだ。ついでだから言ってしまうが、軍では参謀を務めていた。指揮官としての経験もある」

 

「ええええええええ!!」

 

 この言葉を聞いても、まだ信じられないといった風情のレイナール。そして、同じくここで初めて太公望が元軍人であることを知ったモンモランシーは揃って半信半疑といった表情を浮かべていた。それに苦笑でもって答える太公望。

 

「まあ、それが普通の反応であろうな。いきなり納得されるほうがある意味怖いわ」

 

 ずり落ちた眼鏡の位置を直しながら、レイナールは言った。

 

「あなたが()()なのかどうかは、これから見極めさせてもらうとして……ヒリガル」

 

平賀(ヒラガ)だ。あと、できれば名字じゃなくて名前――才人って呼んでくれ」

 

「わかった。これからよろしく、サイト」

 

「おう、こっちこそよろしくな!」

 

 がっちりと握手を交わす二人。と、才人が全員を見回しながら言った。

 

「なあみんな、だいぶ人数も増えてきたし、そろそろこの『仲間』のチーム名を決めないか?」

 

「賛成!」

 

「いいわね」

 

「たしかに『仲間』は言いづらかった」

 

 異議なし! とばかりに拍手する面々に、太公望は提案した。

 

「全体の編成も、ほどよく揃ってきたしのう。何か良い案はないか、みんなで話し合ってみるのだ」

 

 そう彼が促すと、全員が一斉に案を出し始めた。

 

「トリステイン守備隊!」

 

「留学生もいるんだけど?」

 

「マンティコア隊とか」

 

「いや、それ実在するから」

 

「赤い彗星騎士団」

 

「ルイズの親衛隊作るわけじゃないのよ」

 

「アンリエッタ姫ファンクラブ」

 

「これ、そういう集まりじゃないから」

 

 喧々囂々の論争を続けるメンバー。いつまでたってもまとまりそうになかったため、ついつい口を出してしまう太公望。

 

「なかなかまとまらんのう。どうしても決まらないなら、わしが昔臨時で組んだ、敵本拠地潜入用・特殊チームの名前をつけてしまうぞ?」

 

「え、それどういう名前?」

 

 『敵地潜入用』『特殊チーム』という響きに興味を持った一同であったが――。

 

「ドドメ・チーム!」

 

 ――この太公望の言葉で、参加者全員が一斉に脱力した。

 

「却下」

 

「てかなんでドドメ」

 

「意味わかんないんだけど」

 

 彼らの疑問はもっともである。沈痛な表情で、太公望はチーム名の由来を告げた。

 

「いや、くじ引きでチーム分けしたら、わしのところでドドメ色の玉が出てきてな」

 

「特殊潜入チームをくじ引きなんかで決めるなよ!」

 

「組み分けの段階で明らかにモメそうな状況だったから、仕方がなかったのだ!」

 

「ずいぶんとフリーダムだな、お前の国の軍隊」

 

 このぐだぐだな雰囲気をなんとか元の流れに戻してくれたのはモンモランシーだった。

 

「ねえ……ちょっと思ったんだけど、トリステインは〝水〟の国よね。だから……『水精霊団(オンディーヌ)』とかどうかしら?」

 

「あら、それいいじゃない」

 

「素敵」

 

「うん、悪くないね」

 

「覚えやすい」

 

 ……こうして。後に『水精霊騎士団』と呼ばれ……トリステインの歴史上において、王国近衛部隊の伝説となる、その原型となったチームがここに誕生した――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その夜。

 

 太公望とタバサ、そしてキュルケは寮塔5階にあるタバサの部屋に集まり、小声で話し合っていた――もちろん、厳重に〝施錠(ロック)〟をかけ、周囲には〝消音(サイレント)〟を施して。

 

「タバサ、そしてキュルケよ。すでにわかっていると思うが」

 

 ふたりは太公望の目を見て頷いた。

 

「母さまとペルスランの救出を決行する日程について」

 

「うむ。キュルケの父上から連絡が届き次第、行動を開始する。こちらは既に逃亡用の風竜の手配準備及び、航路地図を入手済みだ」

 

「早ければ明日の朝、遅くとも明後日昼にはあたし宛てに届くと思うわ。来たら、こっそりミスタへ渡すわね」

 

「ありがたい。しかし、ヴァリエール家からの招待は思わぬ僥倖だ。ついでにゲルマニア見学へ行くとでもすれば言い訳が立ちやすい。そのあたりは、まずはこのメンバーで詳細を詰めていこう」

 

「了解。ところでタイコーボー」

 

「む、他に何かあるのか?」

 

「友人に招かれてヴァリエール家とツェルプストー家に出かけるという報告と、実際に出かけている日時をガリア王家に手紙で報せるつもりだけど、問題ない?」

 

「そうだのう、下手に誤魔化すよりはそのほうがよかろう。念のため、推敲だけはさせてくれ」

 

「わかった」

 

「ところでミスタ、まずはこのメンバーでって言ってたけど、誰か増やすの?」

 

「その通りだ。三名追加を検討している。もちろん全員顔見知りだ。今はまだ明かさないでおく」

 

「了解」

 

「そのほうがいいわね」

 

 ――静かに、だが確実に歴史は動いていた。

 

 いっぽうそのころ。ガリア王国の首都リュティス、プチ・トロワを拠点とする王女イザベラと、彼女の『パートナー』たる王天君は何をしていたのかというと。

 

「イザベラよぉ……もうわかってるたぁ思うが」

 

「ええ、大丈夫。しっかりと掴んだわ」

 

「自信持っていいぜ。オメーならやれる」

 

 王天君の声に強く頷いたイザベラは、目の前に用意された『窓』と、そこに映し出された光景ををしっかりと見据え――そして、いっきに『仕事』にかかる。

 

「ああ――ッ! ここに置いておいた、クッキーの皿がないッ!!」

 

 直後『窓』の外から響き渡った大声に、ふたりはゲラゲラと大声を上げた。

 

「やったわ! 見事にクッキー皿入手成功よ!!」

 

「ククク……やっぱりオメーはセンスあるぜぇ」

 

 王天君が開いた『窓』を利用し、厨房から直接食料をつまみ食いするという、とんでもなくしょうもない技能を習得していた――。

 

 





王天君とイザベラさまが遊んでいる間、
プチ・トロワ周辺はおおむね平和な模様。


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第33話 伝説、剣を掲げ誓うの事

 ――ニューイ()の月・エオロー(第三)の週、ダエグ(八日目)の曜日。

 

 夏の日差しを避けて木陰のベンチで涼を取りながら、ギーシュがひとつの提案をした。

 

「明日は夏期休暇に入る前の最後の休日だね。せっかく仲間が増えたのだから、みんなで集まって、どこかで歓迎会をしようじゃないか」

 

「歓迎会だって? ぼくたちのために!?」

 

「あら。それは素敵な考えだわ、ギーシュ」

 

 新たに『水精霊団』に加わったレイナールとギーシュと正式に付き合い始めたばかりのモンモランシーはその提案を諸手を挙げて歓迎した。もちろん、喜んだのは彼らだけではない。その他の仲間たちも同様だった。

 

「あ、それいいな! みんなでどっか行こうぜ」

 

「わたしも賛成!」

 

「わしも参加するぞ」

 

「あたしも行くわ!」

 

「わたしも」

 

 ギーシュは気取った仕草で髪を掻き上げながら、満足げに言った。

 

「全員参加で決まりだね。では、明日はトリスタニアの街に出て……」

 

 と、ここでキュルケがギーシュを遮った。

 

「確かに王都へ出るのも悪くないんだけど、もっといい場所があるわ」

 

「それはどこだね? ミス・ツェルプストー」

 

「ラグドリアン湖よ。厨房で何か用意してもらって、あそこでピクニックなんてどうかしら? 今の季節ならまだ過ごしやすいし、眺めもいいと思うんだけど。それに……」

 

 キュルケはモンモランシーを見て、こう言った。

 

「チーム『水精霊団(オンディーヌ)』結成祝いには、ぴったりだと思わない?」

 

 その意見に反対する者は誰もいなかった。

 

「じゃあ、厨房へはあたしが頼んでくるわ」

 

「一緒に行く」

 

 そう言ってキュルケとタバサが席を立つ。

 

「それじゃあ俺は厩舎に行って、明日の馬車予約してくるよ」

 

 厩舎へ向かおうと、立ち上がって歩き出しかけた才人を太公望が止めた。

 

「いや、それには及ばない」

 

「なんでだよ? 馬車がないと、あんなに遠くまで行けないだろ?」

 

「そろそろおぬしが考えた()()の試運転をしてみようと思うのだが、どうだ?」

 

 その発言に驚いたのはルイズと才人だ。他のメンバーはなんの話をしているのかさっぱりわからないので、ぽかんとした表情で彼らを眺めている。

 

「で、でも、まだわたし、浮かせることしかできないわ」

 

「そうだよ。おまけに結構人数いるし、荷物だってあるだろ?」

 

 彼らの答えを聞いて、してやったりとばかりに太公望は笑った。

 

「浮かせることができれば充分だよ。なに、わしにいい考えがあるのだ。それを試してみて、もしも駄目なようであれば、改めて馬車を借りに行けばよい」

 

 ――それから三十分後。誰の目にもつかない裏庭のさらに奥に位置する場所へ、問題の()()が設置された。

 

「これ……ベッド?」

 

「ベッド……よね? おかしな形をしてるけど」

 

 そう。これは以前才人が太公望とコルベールにひとつのアイディアを披露し、それを元に検討を重ねて作成された、題して

 

『空飛ぶベッド』(折りたたみ式、バラして持ち運び可能)

 

 である。ちなみにこれは当初のものから改良を重ねた『弐号機』(才人命名)で、試作品である『初号機』は現在、ルイズの部屋で才人が寝起きをするために使われている。

 

「これで、なにをするのかしら?」

 

 不思議そうな顔をして訊ねるキュルケに、太公望は答えた。

 

「皆でこれに乗り、空を飛ぶのだよ」

 

「ええええぇぇぇぇえぇえええ―――――――ッ!!」

 

 その答えに全員が驚愕の叫びをあげた。

 

 それはそうだろう。一見なんの変哲もない――いや、前後と両脇に変わった形の手すりが取り付けられた珍しいスタイルではあるのだが――ベッドに乗って空を飛べるというのだから。しかも、これだけの人数を乗せて飛行可能とは、それだけで充分驚くに価する。

 

「これ、もしかして東方の魔道具(マジック・アイテム)なのかい?」

 

 銀縁の丸眼鏡に手をやりながらまじまじと問題のベッドを見遣るレイナールと、その発言に目を輝かせた一同。しかし、才人の答えはあっさりとしたものだった。

 

「これはコルベール先生が作ってくれた特別製なんだ。魔法は〝固定化〟以外かかってないぜ」

 

「そうなの? だったら、どうやって……」

 

 モンモランシーの質問を途中で遮った太公望は「実際にやってみせるから……」と、ルイズと才人のふたりを手招きした。

 

 それから彼らの耳元に何かをゴニョゴニョ、ゴニョリ、ゴニョリータ……と囁く。この提案に目を見開いて驚いたふたりは顔を見合わせると……直後、同時に太公望へと向き直ってこう答えた。

 

「なるほどな、それならいけそうだ!」

 

「ええ、やってみるわ!」

 

 ――こうして『試運転』が始まった。

 

 まずはベッドの中央にルイズが座る。前方には太公望。そして後ろ側に才人がつく。

 

「ルイズよ。まずは三十サントほど浮き上がらせてみるのだ!」

 

「まかせて!」

 

 ルイズはマントの内ポケットから杖を取り出すと、早速〝念力〟でベッドを浮き上がらせた。そこそこの重さがあるためか最初は少しふらついたが、それでも何とか指定通りの高さまで持ち上げることができた。

 

「では、ルイズはそのまま浮き上がらせ続けてくれ。次はわしの番だ!!」

 

 その言葉の後、太公望が『打神鞭』を取り出して、軽く一振りした。すると……ベッドが〝風〟に乗り、ゆっくりと前進し始めたではないか!

 

「ルイズ、まだ大丈夫か?」

 

「ええ、ぜんぜん問題ないわ」

 

「よし、ならばもう少しスピードを上げるぞ!」

 

 太公望の言葉と共に、ぐんと速度を上げた『空飛ぶベッド』は中庭をぐるぐると飛び回り始めた。最初は徒歩程度の速さだったが、すぐに駆け足よりも速くなり――ついには馬車並の速度まで到達した。

 

「すげえ! 閣下の言った通りだ!!」

 

 大声をあげながら興奮する才人に、太公望は大笑いしながら答えた。

 

「かかかか、そうであろう? 何も全部をひとりでやる必要はないのだ。このように浮かせる者と動かす者を別々に分担してやれば、単独ではできなかったことが可能となる」

 

 呆然と彼らの様子を見守っていた残りのメンバーの前に降り立った三人は、それはそれはもう得意げな笑みを浮かべ、こう言った。

 

「どう?」

 

「これが俺のアイディアだ」

 

「それをわしがアレンジし、コルベール殿が実現したのだ」

 

 見たかとばかりに胸を張るルイズ、才人、太公望の三人の前へ全員が一斉に駆け寄ってきた。

 

「ちょっと何これ!」

 

「着想が面白いね!」

 

「すごいな! きみたちは」

 

「これ、みんな一緒に乗れるの!?」

 

「たしかに、これなら馬車で行くよりずっといいわね!!」

 

 ワイワイと盛り上がる一同。だが、唯一心配そうな顔をしたのはタバサだ。彼女は自分の考えた案が実現可能であるかどうか、太公望へ聞いてみることにした。

 

「今のままではルイズとタイコーボーへの負担が大きすぎるように思う。そこで、サイトを除く乗員全てが〝浮遊〟(レビテーション)や〝飛翔(フライ)〟などを唱え、少しだけ浮いた状態でベッドに掴まることを提案する」

 

 それを聞いた太公望はにんまりとした。

 

「実はそれを前提とした乗り物なのだよ。だから、このような手すりがついているのだ」

 

「なるほど」

 

 全員は改めて『空飛ぶベッド』に注目する。柵のような手すりは太すぎず、細すぎずで掴みやすそうだ。ベッド全体をぐるりと囲むような形で取り付けられていることから、転落の可能性もしっかりと考慮されていることがわかる。

 

「みんながほんの少しだけ身体を浮かせてくれれば、ルイズやわしにはほどんど負担がかからない。もしも誰かが途中で疲れたら、交代しながら進めばよい。移動に関しては、ルイズがもっと操作に慣れるまでは、わしが全て担当する」

 

 早く乗ってみたくてたまらないキュルケが、きらきらと顔を輝かせて言った。

 

「ね、ね、早速試してみましょうよ」

 

「賛成!」

 

 というわけで早速全員が乗り込んだわけだが。

 

「……スピードを上げすぎると向かい風がきついね。これ」

 

 レイナールが風でぼさぼさになってしまった髪を、手櫛で軽く直しながらぼやいた。馬程度の速さならば問題ないが、それ以上に速度を上げると、向かい風でバランスを崩しやすくなるのだ。

 

「ふむ……では、ここで問題を出そう。誰か解決案はないか?」

 

 その太公望の問いに、レイナールが確認を取る。

 

「問題……ということは、解答があるという意味だよね?」

 

「その通り。当然、解決策が存在する。さあ、全員で考えてみるのだ」

 

 と、即座に解答へ辿り着いたらしきタバサが、ちらりと太公望に目を向ける。

 

「む、タバサはもう気が付いたようだな。まあ、ある意味当然ではあるな。すまんが、おぬしは発言を控えていてくれ。できれば他の者たちに、自力で答えを出してもらいたいのだ」

 

「わかった」

 

 タバサはコクリと頷いた。

 

「向かい風で問題になるのはなんだろう、まずはそこから考えないと」

 

「髪が乱れるわ」

 

「そんなことはどうでもいい」

 

「え~」

 

「振り落とされるのはまずいよね。メイジのぼくたちはともかくサイトが落っこちたら大変だよ」

 

「ベッドにしがみつくしかないか?」

 

「ベッドだけに寝ころんでみるとか」

 

「なるほど。そうすれば、向かい風の負担はだいぶ軽減されそうだね」

 

「いや、それ根本的な解決になってないんじゃないか?」

 

 様々な意見が飛び交うが、なかなかよい解答を出すには至らない。と……ここでキュルケがあることに気が付いた。

 

「ヴァリエールの『見えない盾』が使えれば解決しそうなんだけど、あの子には浮かせる役目があるし……」

 

「いや、ちょっと待ってくれないか」

 

 このキュルケの言葉に反応したのはレイナールだ。

 

「そうだ、盾だよ! 誰かひとりが風を受け止めるのではなくて、うまく受け流すことができる盾をベッドの前に出すことができれば……」

 

 彼の発言に、一瞬反論をしかけたのはギーシュだ。

 

「しかし、それほどの盾を作れるとなると『トライアングル』以上の……あッ!」

 

 会議に加わっていた全員が、いっせいにタバサのほうに向き直る。

 

「そうか! 風の『スクウェア』のタバサに盾役を担当してもらえばいいのか!」

 

「えっ! 彼女、いつのまにランクアップしていたんだい!?」

 

 隣のクラス所属のレイナールにとって、当然そんなことは初耳だ。

 

「あ……ええ、つ、つい最近ね……」

 

 例の惚れ薬事件のことを思い出して冷や汗を流すモンモランシー。そして、彼らの答えに満足したらしき太公望とタバサは揃って拍手した。

 

「それが彼の考えていた計画」

 

「よしよし、見事に辿り着いたのう。それでは答えが出たところでだな……全員まだ〝精神力〟に余裕があるのなら、どのくらいの速度が出せるのか、限界に挑戦してみようではないか!」

 

「お――ッ!!」

 

 ――結果。竜とまではいかないが相当な速度が出せることが判明し、全員が興奮した。もっとみんなの息が合ってきたら、さらに上を目指せるのではなかろうか――と。

 

 こののち、才人の出身世界風に表現するならばモータースポーツ――フォーミュラ・カーのセットアップが如く、効率のよい盾の展開方法やら、加速について議論が重ねられ。

 

 さらには技術開発担当者としてコルベール氏が招聘されるに至り、ベッドに使用されているパーツ各種の軽量化や取り付け位置の調節を行うなど、どんどんと改造と工夫が続けられていくのだが……それについては、また別の話――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして翌日、虚無の曜日。

 

 雲ひとつない晴天の中『空とぶベッド』でゆうゆうと――他人の目につくとさすがにまずいので、かなりの上空を飛行して――ラグドリアン湖に到着した一行は静かに波打つ湖畔の側で、大きな布製の敷物を広げ、バスケットいっぱいに詰め込まれたお弁当に舌鼓をうちながら、実に楽しい時間を過ごしていた。

 

 いよいよ、来週からは念願の夏期休暇。そして『胸躍る冒険』と題した実戦演習が待ちかまえている。レイナールにも当然その話は伝えられていて、彼は喜んで参加を希望した。

 

 畑の運営についても順調で、明後日には最初の薬草が収穫できるまでに成長していた。モンモランシー曰く、新規加入メンバー分の傷薬を作ってもまだかなりの余裕があるため、少し多めにストックしておいた上で、残りの薬を売り払い、そのお金で新しい種を購入する予定だそうだ。

 

 ちなみに夏休み中の畑の世話は、魔法学院の庭師に依頼することになっていた。これについての代金は、学院側が実習費用ということで負担してくれるらしい。

 

 よって、この期間中に植えるのは、それほど育成に手間がかからない、香水用の薬草にしておこうということで全員の意見が一致している。

 

「俺、こんなに楽しくっていいのかな……」

 

 才人は仲間たちの顔を見ながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

 

 彼がこのハルケギニアに〝召喚〟されてから、もう三ヶ月以上が経過している。突然自分が姿を消したせいで、両親も、学校の先生や友人たちも、きっと心配しているだろう。

 

 才人自身、地球に残してきた家族や友達に会いたくないといったら嘘になる。

 

 だが……今こうして自分の目の前にいるのも、やっぱり大切な仲間で。しかも、過ぎゆく日々をごくごく普通の、どこにでもいる高校生として、これといった目標もなくただ漠然と過ごしていたあの頃とは違い――毎日が本当に充実している。

 

 輝く湖面を見つめながら、才人は心の内で謝罪した。

 

(父さん、母さん……ごめん。俺、まだもうしばらくこっちにいたい。いつか必ず帰るけど……もう少しだけ、わがままを許してほしいんだ。地球に戻ったら、土下座なんてもんじゃないくらい、とにかく謝るから)

 

 そんな彼の様子に気が付いたのか、ルイズが声をかけてきた。

 

「どうしたの? サイト。なんだか元気がないみたいだけど」

 

「あ、いや……なんでもないって! ほら! 俺こんなに元気いっぱい!!」

 

 さっきまでうっすらと感じていた望郷の念をルイズに悟らせまいと、無理にポーズをつけようとした才人は、指ぬきグローブ着用効果による〝ガンダールヴ〟の〝力〟を派手に無駄遣いし、連続でバック宙を繰り返した。

 

 が、いつもの如く調子に乗りすぎた彼は、目測を誤り、思いっきり湖の中へ飛び込んでしまった。ばっしゃーん! という激しい水音が周辺に響き渡る。

 

「ちょ、ちょっと何やってんのよあんた!」

 

「ぶはっ……湖が近すぎたッ……この俺としたことが、失敗したッ!」

 

 ルイズを除くその場にいた全員が、湖面から顔を出した才人を指差しゲラゲラと笑った。

 

 それからすぐにずぶ濡れになってしまった彼の側に〝風〟の使い手たちが集まり、服を乾かした。そして〝火〟のメイジが小さな焚き火を作って、風邪をひかないように早く身体を温めるよう才人を促す。そんな友人たちの姿を顧みて、才人はつくづく思った。

 

(やっぱいいなあ、こいつら。みんなで馬鹿やって、楽しくて。俺、この世界に呼ばれて本当に良かった。最初のうちは、ほんとどうなることかと思ったけど……)

 

 才人がひとり思いに耽っていると、すぐ側にいたキュルケがぽつりと呟いた。

 

「例の『空とぶベッド』もそうだけど、こうやって、みんなで〝力〟を出し合うことで、本当に色々なことができるのね。『水精霊団』に入るまでは、こんなこと……考えてもみなかったわ」

 

 みんなで〝力〟を出し合う。この言葉に大きな反応を見せたのはタバサであった。

 

 今まで、彼女はずっとひとりで戦い続けてきた。

 

 母の心を取り戻すために、自分の身を守るために、そして――父の無念を晴らすために。孤独な『道』を歩み続けていた。

 

「わたしも……こんなふうに過ごせるなんて、思ってなかった」

 

 それがどうだろう。ほんの数ヶ月で自分を取り巻く環境は劇的に変わってしまった――もちろん、思いも寄らぬ良い方向へ。まもなく、母を助けるための準備も整う。そのための手はずも、ほぼ揃った。今日はその緊張をまぎらわすための大切な心の休日だ。昨夜自分のパートナーが、1日だけでも全てを忘れ、楽しく過ごせと言ってくれた。

 

 この湖を挟んだ向こう側――対岸に建つ屋敷で、母さまと……忠実な老僕が待っている。

 

(もうすぐです。もうすぐわたしが助けに行きます、心を許せる仲間たちと共に)

 

 そんな思いを抱きながら、タバサは親友の呟きに賛同した。

 

 そして、そのタバサの声で気付かされたのはルイズだ。ずっと魔法の才能『ゼロ』と馬鹿にされ、誰からも期待されず、ただひとり殻に閉じこもっていた自分。それが、今ではこんなに大勢の友人たちと共にピクニックを楽しんでいる。

 

 しかも、彼らを運ぶための乗り物は、彼女が魔法で浮かせたものだ。それを見たみんなが「きみはすごいんだなあ」そう褒めてくれた。

 

 他人から認められることのなかった自分が、今――みんなを支えている。その喜びが、溢れ出る感情が、ルイズに無限の〝力〟を与えてくれているのを感じた。だから、彼女はタバサの言葉に心から同意した。

 

「わたしだってそうよ。もしも、みんなと出会えなかったら……そんなこと、考えたくもないわ」

 

 一同の間に、なんとなくしんみりとした空気が流れた。

 

 まあ、その気持ちは俺もわからなくはないけどな。そんな風に思いながら、才人は陽の光を反射してきらきらと輝く湖へ視線を移した。

 

「そういえば、前にここへ来たときは色々と大変だったっけな」

 

 他の者たちに聞こえぬほどの小声でそう呟いた才人は、ふと、ラグドリアン湖に住む水の精霊のことを思い出した。そして、彼らが別名でなんと呼ばれていたのかを。

 

「確か誓約の精霊、だったよな」

 

 才人の脳裏には、今――ひとつの物語が浮かんでいた。

 

 それは、子供のころ母親に幾度となく読んでくれとせがんだ絵本に書かれていたもの。

 

 高校に上がってから、その物語が童話などではなく海外の有名な作家が書いたロマン溢れる冒険活劇が元であることを知った。才人はいつか翻訳版を読んでみようと思ってはいたものの、なかなか手にする機会がなかった。

 

 その物語には、とある名場面が存在する。多人数競技などでたびたび登場するほど有名なものだ。才人はその名台詞を仲間たちに教えたくなった。

 

「あのさ、みんな……ちょっといいかな?」

 

 才人の言葉に一斉に振り向く『水精霊団』の面々。彼がいったい何を言い出すのか期待しているといった表情が、ありありと見て取れた。

 

「みんなと、この湖を見てて思い出したんだ。俺が住んでいた国の、ずっと西にある王国伝説になった、ひとりの騎士の話なんだけどさ」

 

 本当は物語の中のことなんだけど、それは黙っておこう。そう思いながら才人は語る。

 

「まだ田舎から出てきたばっかりで、世間知らずだったその男が――色々な偶然が重なったせいで、いきなり三人の近衛騎士と決闘する羽目になったんだ」

 

 異国の――それも、決闘の話。そういった話題に目がないギーシュとキュルケが、揃って瞳を輝かせた。

 

「そ、それで?」

 

「うん。で、いざ決闘――ってところで騎士団と対立してた枢機卿の護衛士たちが出てきてな、騎士たちをさんざん侮辱したんだ。でも、護衛士たちは十人以上、騎士たちはたったの三人。どんなに悔しくても戦力差がありすぎてどうしようもない、はずだった」

 

「はずだった、ってことは……当然続きがあるのよね」

 

「ああ。そこで、例の男が騎士たちの味方をするって大声で宣言したんだ。あきらかに不利なのがわかってたのに、だぜ? けど、それで勇気と加勢をもらった騎士たちは奮い立った。自分たちの倍いた護衛士たちを、こてんぱんにやっつけたんだ!」

 

 歓声を上げた一同。その反応に気を良くした才人はさらに続けた。

 

「それが、その男が伝説の騎士として名を上げた事件の始まりだった。それから男と、彼と決闘するはずだった三人の騎士たちはすごく仲良くなって――全員で酒を酌み交わした後で永遠の友情を誓うために、天に向かって剣を掲げ、交差させながら、こう言ったんだ」

 

 才人は背負っていたデルフリンガーを鞘から引き抜くと、空に掲げてその名台詞を声高らかに叫んだ。

 

「みんなは、ひとりのために! ひとりは、みんなのために!!」

 

 その才人の叫びに呼応したかのように、一筋の陽光がデルフリンガーの刃を照らし、反射した。まるで後光が差したような才人の姿は、宣誓を行う勇者そのものであった。

 

「四人の騎士たちは、その固い友情を武器にして、次々と襲いかかってくる困難を〝力〟を合わせて乗り越え続けた。そして、男と仲間たちは『伝説』になったんだ」

 

 その言葉を聞いて、まず立ち上がったのは太公望であった。

 

「みんなで〝力〟を合わせる……いい言葉だのう」

 

 続いて立ち上がったのは、タバサ。

 

「みんなで困難を乗り越え伝説になった……」

 

 次に立ち上がったのは、ルイズだ。

 

「みんなは、ひとりのために……ひとりは、みんなのために。いい言葉ね」

 

 その後に立ち上がったのは、ギーシュ。

 

「そういえば、ここは『誓約の精霊』が住まう場所……だったと思うんだがね」

 

 彼の言葉に、全員が頷く。そして、まだ座っていた者たちも立ち上がり、才人の側へ集まると――杖を抜いて、天に掲げ、交差させた。デルフリンガー自身も、そこに加わる。

 

 そして、彼らは大きな声で誓約を行った。『水精霊団』のメンバーとして。

 

「みんなは、ひとりのために! ひとりは、みんなのために!!」

 

 輝く湖畔は、そんな彼らの姿を、ただ静かにその水面へ映し出していた――。

 

 

 




こころに冒険したくなる。
おとなだもの。
みつを。



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第34話 水精霊団、暗号名を検討するの事

 ――静かな湖畔で友情の宣誓を行ってから一時間ほどが経ち、ひと段落ついた頃。

 

 太公望が突然おかしなことを言い出した。

 

暗号名(コードネーム)で行動するゥ!?」

 

 例の冒険期間中は本名を一切明かさないというこの通告に、全員が驚きと批難の声を上げた。

 

「どうして!? それじゃ、意味がないじゃないのよ!」

 

「ヴァリエールの言う通りよ! それじゃあ名を上げられないわ」

 

「わたしもそう思うわ。せっかく立てた手柄を自慢できないなんて、面白くないもん」

 

「まったくだぜ!」

 

 真っ向から反対するルイズ、キュルケ、モンモランシー+デルフリンガーの全四名。彼らの言い分はある意味当然である。ところが、

 

「ぼくは暗号名に賛成だな」

 

「俺も!」

 

「ぼくも、そのほうがいいと思うね」

 

「わたしも賛成」

 

 彼らとは対照的に、タバサと残る男子生徒陣は暗号名の採用に賛同した。

 

「ふむ。では、賛成側にまわったものは順番に理由を言うのだ」

 

「下手に本名を使うと、不都合が生じる可能性があるからね」

 

 太公望に促され、最初に答えたのはレイナールだ。

 

「不都合って、たとえばどんな?」

 

「着手する任務によっては身分を明かしてはいけない、あるいは貴族であること自体が逆に枷になることがあると思うんだ。依頼人が萎縮してしまうかもしれないし、現場の領主とモメるようなことがあったりしたら大変だろう?」

 

「確かに、それはあるかもしれないわね」

 

 モンモランシーがしみじみと頷いた。父親が起こした不祥事を思い出したのだろう。そこへ、今度はギーシュが自分なりの補足を加えた。

 

「ぼくの家は国内でも有数の軍閥貴族だからね。家名に泥を塗るような真似は絶対にできないのさ。『命を惜しむな、名を惜しめ』が家訓のグラモン家の男が、いったい何を言うんだと思われるかもしれないが、できれば保険をかけておきたい――というのが正直なところなんだよ」

 

 さらにタバサが意見を述べた。

 

「名前を隠すことによる利点もある」

 

 その言葉に全員が注目した。

 

「どういうことかしら? タバサ」

 

「本名を隠すことによって、家名に頼らず、実力のみを見てもらえる。あの家の人間なのだから、この程度できて当たり前。逆に、あんな低い家柄の者にできるわけがない。そう思われる可能性がなくなるということ」

 

「ああ、なるほど」

 

 と、反対側にいた者たちが納得しかけたその時。太公望がさらなる追撃をかけた。

 

「家名に頼らないということは、すなわち実力の証明となり、おぬしたちにとって大きな自信に繋がるであろう。だからこそ、わしは暗号名採用を推すのだ」

 

「そっか。そういうことなら理解できるわ」

 

 家名やコネに一切頼らず、己の〝力〟のみで問題を解決する。それはまさしく自分の手で掴み取った栄光だ。暗号名の採用に不平を述べていた者たちも、この説明を受けて完全に納得した。

 

「ところで……才人は何故賛成にまわったのだ?」

 

「えー! だってさ、コードネームってなんか響きがカッコイイじゃん!!」

 

「おぬしに聞いたわしが間違っていた」

 

「閣下ひでえ!」

 

「いや、いまのはきみが悪い」

 

 ――とまあこんなやりとりがあり、気持ちのよい湖畔で暗号名を考えてみようという、いまいち噛み合わないシチュエーションの中、太公望がひとつの提案をした。

 

「そうだのう。できればで構わないので、その名前を聞いたら誰を指すのか。それが仲間内ですぐわかるようなものが望ましいのだが」

 

「二つ名みたいなものかしら?」

 

 ルイズの質問に、その通りだ! と答えた太公望。と……ここで才人がふと閃いた。

 

「なあ、みんなの『二つ名』か系統を、俺の国の言葉に直すっていうのはどうだ?」

 

「ふむ、具体的には?」

 

「そうだな……たとえばルイズなら『コメット』。これは『箒星』の別名なんだ」

 

 別名というか別言語なのだが、そのあたりはさすがに伏せる才人であった。

 

「あら、可愛い響きじゃない? それ」

 

 笑顔でそう言ったルイズに、だろう? と、得意げな表情でもって応えた才人は、続いてタバサに目を向けた。

 

「あとは、そうだな。タバサなら『スノウ』とか。これは『雪』って意味」

 

「悪くない。わたしはそれでいい」

 

 このやりとりに、残る全員が面白そうじゃないか! と、食いついてきた。

 

「なるほど。サイト、それだとぼくの『青銅』はどういう名前になるんだね?」

 

「『ブロンズ』だな」

 

「あたしの『微熱』はどうなのかしら?」

 

「キュルケの『微熱』はちょっと難しいなあ……どっちかっていうと『フレア』とかのほうがカッコいいかな。太陽の炎のことをそう呼ぶんだけど」

 

「あら、いいじゃないの! あたしの系統や情熱の象徴に、太陽の名は相応しいわ!」

 

 実際には炎ではなく、太陽で起こる爆発現象のことを指すのだが――才人はわかっていてもあえてそこには言及しないことにした。説明すると、ややこしいことになるからだ。

 

「ぼくは風と火の両方が使えるんだけど」

 

 レイナールの申し出に、才人は難しそうな顔をして答えた。

 

「それだけだと難しいな、他に何か特徴ないんか? 得意な魔法とか、あだ名とか」

 

「〝魔法剣(ブレイド)〟の腕なら、クラスで一番だよ」

 

「お、マジか! 今度手合わせしてくれよな……と、それなら『ブレイズ』とかどうだ? 火炎と、(ブレイド)をかけてるんだけど」

 

「あ、それちょっとかっこいいかも」

 

 レイナールはその名前について、真剣に検討し始めた。

 

「わたしはどういう名前になるのかしら?」

 

 期待に溢れる顔で聞いてきたモンモランシーに対しては。

 

「モンモンでいいんじゃないか?」

 

「ちょっと! それはひどいんじゃないの!?」

 

「冗談だって! ええっと『香水』はなんだっけかな……あ、フローラルな香りなんてよくテレビとかで聞くから『フローラル』とかどうかな?」

 

「てれ……なんとかはよくわからないけど『フローラル』は悪くないわね」

 

「ちなみに、わしの場合はどうなるのだ?」

 

 才人は首を捻った。

 

(たしか、こいつの二つ名って『腹黒』とか『悪魔』とか、ぶっちゃけヤバイのばっかりだったような気が。まさか『魔王』とか『閣下』って呼ぶわけにもいかないし……なら系統が安全かな)

 

 才人は地雷原を避け、無難なほうへ流れることにした。

 

「それなら『ウインド』かな」

 

「〝風〟の初歩魔法そのままじゃないか」

 

「わしはそれでかまわぬのだが」

 

「まぎらわしいから却下」

 

「まあね、ちょっと混乱するかもしれないわね」

 

 これまで順調にきていたにもかかわらず、思わぬところで躓いてしまった。

 

「えっと……それじゃあ、閣下がいちばん気に入ってる『二つ名』って何だよ?」

 

「それなら決まっておる。『太公望』だ」

 

「ああ、そうなんだ……って、ええええええ!」

 

「ちょっと待って! それ『二つ名』だったの!?」

 

「ずっと名前だと思ってたんだけど……」

 

「わたしも聞いてない」

 

「普通に本名だと」

 

「ぼくもそう思っていたよ」

 

 大騒ぎをする生徒たちを相手に、太公望は頭を掻きながら説明した。

 

「召喚された時に、ちゃんと『太公望』呂望と名乗ったはずなのだが」

 

「あら? じゃあ『リョ』って呼ぶべきなのかしら」

 

「いや、名前は『望』で『呂』は家名なのだがのう……呼ばれ慣れているという意味では、やはり『太公望』だろう」

 

「風習?」

 

 キュルケとタバサの質問に答える太公望。

 

「それもあるが、わしには名前が沢山あってのう。全部並べると、とんでもなく長くなってしまうので、師匠からいただいたこの二つ名を普段から名乗りの際に使っておるのだよ」

 

 厳密には『二つ名』ではないのだが、意味合いは同じようなものなので、そのように説明する太公望。名前については「呂望」の他に「王奕(おうえき)」「伏義」さらに「羌子牙(きょうしが)」というものもあるのだが、それらについては割愛する。

 

 それを聞いてうんうんと納得したように頷く才人。

 

「わかる。ルイズの名前とかめっちゃ長いし! 舌噛みそうになるもんな」

 

「ちょっと! それどういう意味!?」

 

「そのまんまの意味ですが何か」

 

「ウガ――ッ!!」

 

 じゃれ合うピンクブロンドと黒髪の主従をよそに、タバサは再び太公望に尋ねた。

 

「『太公望』とは何のこと?」

 

「わしが軍に所属していたのは師匠の肝煎りだ、という話は前にしたと思うが」

 

「覚えている」

 

「今から十年ほど前のことだ。わしの師匠が、とある老いた大公さまから『将来的に、軍事や政治などの面で息子を補佐できる者を紹介して欲しい』という依頼を受けたのだ。それと例の敵対派閥の件があり――白羽の矢を立てられたのが、このわしだったのだよ」

 

 わしの師匠と既にお亡くなりになられた大公さまは旧知の間柄だったのだ。そう説明を入れつつ、太公望は先を続ける。

 

「師匠の弟子の中で、わしは〝術者〟としての実力は中の上程度であったのだが、軍学や政治学を専門に学んでいたことと、大公さまのご子息――今の国王陛下と性格的に合いそうだというのが選ばれた理由らしい。わしはまだ師匠の元で学んでいたかったので、一度は断ったのだが……」

 

「ああ、それで『受けなければ破門』だと言われたのか」

 

「酷いわ! ほとんど強制みたいなものじゃない!」

 

 ギーシュの言葉にモンモランシーが眉を顰める。この話を聞いていなかったルイズとレイナールのリアクションも似たようなものだ。

 

「でだ、結局は師匠の命令に従うことにしたわけだが……」

 

 太公望は珍しく生真面目な表情で続けた。

 

「その際に、師匠から『今後は大公が望む通りの者となれるよう、研鑽を続けよ』という意味で『太公望』という名を与えられ、以後そう名乗るよう命じられた。これがわしの二つ名の由来なのだ」

 

 ――この説明は九割方が嘘である。

 

 何故太公望がわざわざこんな偽りを述べているのかというと……例の『惚れ薬事件』の際に漏らしてしまった「国王がわしに文句を言えるはずがない」という強烈な発言を打ち消すためだ。それと、魔法薬でおかしくなった自分を気遣ってくれていた者たちに対するフォローも兼ねている。

 

「ああ、なるほどね……やっと理解できたわ」

 

「同じく」

 

「わたしも」

 

 そういうことなら『二つ名を常に名乗る理由』として納得できる。そして、彼が王族ではない(らしい)ことがわかった。太公望の説明により、今まで色々な意味で心臓に負担がかかっていた者たちは少しだけ気分が楽になった。

 

(それにしても……)

 

 タバサは思った。

 

(今から十年前ということは――つまり彼は十七歳で王宮に出仕するようになったということだ。わたしは今十五歳だけど……二年後は、いったいどうなっているのだろう)

 

 彼女は、珍しく自分の将来について思いを馳せる。

 

 そんな中。この話を聞いていて、頭の隅に引っかかりを覚えた者がいた。それはもちろん才人である。地球上の歴史に残る有名な軍師とよく似た二つ名。偶然にも程がある。と、そんな才人の思考を中断するような形で太公望から声がかけられた。

 

「のう才人よ、こういう場合はどうなるのだ? そもそもわしは、職を辞した上で、身分も捨て、大陸を渡る風のように気ままな旅を続けていた『風の旅人』だ。いわば世捨て人、隠者といっても差し支えないのだが」

 

「あ、ああ、そうだな……悪い、ちょっと考えるから待ってくれよ」

 

 ある意味絶妙なタイミングで発せられた質問により、思考の淵から無理矢理釣り上げられた才人は本来の役目であった『太公望に合いそうな暗号名』を再検討し始める。

 

「うーん……旅人だと『トラベラー』でなんかイマイチだし、世捨て人だとよくわかんねーし……って、隠者!? ああッ、そうだ確か……!!」

 

 ふいに才人の脳内に閃いた名前。これはある意味、彼にぴったりだと思った。

 

「『ハーミット』とか、どうだろう? 『隠者』のことなんだけど、これには『隠れる者』以外に『助言する者』とか『迷い人を正しい道へ案内する賢者』っていう意味もあるんだ」

 

「彼にぴったり」

 

「わたしもそう思うわ!」

 

 即座に賛成するタバサとルイズ。他の者たちも「いいんじゃない?」といった感じで、賛意を示している。言われた太公望本人はというと、

 

「いや、それはちと格好が良すぎるというか……」

 

 などと、珍しく照れたような表情をしていたりしたのだが、結局全員に押し切られてしまい。暗号名は『ハーミット』で確定してしまった。

 

「ところで、おぬし自身の暗号名はどうするのだ?」

 

「……あ!」

 

 これに答えたのは、キュルケであった。

 

「ヴァリエールの『盾』にして『剣』なんだから、そこから考えてみたらいいんじゃないかしら? いつもつきっきりで守ってあげてるでしょう? サイトは」

 

「ちょ、ちょっと、えと、あの」

 

「あ、いや、ちょっと、待って」

 

 真っ赤になってゴニョゴニョと何かを言おうとしているふたりを「これは今後からかい甲斐がありそうだわ」と、遊んだら面白そうなおもちゃを発見した子供のようにニヤニヤ笑いを続けながら見守るキュルケ。

 

 結局『ナイト(盾から連想)』は騎士と混同されるといろいろと不都合なため『ソード(剣)』という、シンプルながらもそれっぽい名前に落ち着いた。なお、この名前にはデルフリンガーも満足した。まるで俺っちと一体化しているみたいじゃないか、相棒に相応しい……と。

 

 そして、彼らがどう呼び合うようになったのか。以下はその一覧表である。

 

 

 ・太公望『ハーミット』

 

 ・タバサ『スノウ』

 

 ・ルイズ『コメット』

 

 ・才人『ソード』

 

 ・キュルケ『フレア』

 

 ・ギーシュ『ブロンズ』

 

 ・モンモランシー『フローラル』

 

 ・レイナール『ブレイズ』

 

 

 以上、彼らが任務についている際に名乗る『暗号名』だ。

 

 全員分の名簿をまとめ終えた太公望は、にっこりと笑って頷いた。

 

「ふむ、これで冒険前の準備はほぼ整ったな。あとは、そうだのう。ちょうどラグドリアン湖に来ているので、おぬしたちにあることを教えておけば完璧であろう」

 

「あること……というのは?」

 

 タバサの問いに、太公望は改めて全員を見回しながら答えた。

 

「前にタバサには話したことがあるのだが……ここラグドリアン湖は〝霊穴〟(パワースポット)と呼ばれる〝力〟の溜まり場なのだ。しかも、ここは特に強い〝力〟が溢れている。この場所であることをすることによって〝精神力〟の最大量を増やすことができるのだよ」

 

 ――少しの間を置いて。

 

「えええええっ!」

 

「精神力の最大量が増やせる!?」

 

 タバサは大騒ぎしている仲間たちを見て、驚くのも無理はないと思った。彼女自身、初めてそれを知ったときには驚愕したのだから。でも、今、ここでそれを言い出した理由がわからない。

 

(彼のことだから、何か特別な考えがあるのだろうけど)

 

 そんなご主人さまの思いをよそに、太公望は説明を続けていた。

 

「タバサには既に教えてあるのだが、わしの国に伝わる〝瞑想〟という技術を使うことにより、ただ眠るよりも圧倒的に早く精神力を回復できるのだ。さらに、それを応用することによって〝精神力の器〟の最大量を一.五倍……修行を積めば、より多くの〝力〟を溜め込むことができるようになるであろう。念のため確認するが、教えてもらいたい者は手を挙げよ」

 

 太公望の問いに、才人とタバサを除く全員が手を挙げたのは言うまでもない。

 

「よしよし、おぬしたちはメイジとしての修行をきちんと積んであるから、一時間もあれば〝回復〟と〝循環〟の両方ができるようになるはずだ。ところでギーシュよ」

 

「な、なんだね?」

 

「おそらくだが。これを覚えることによって、おぬしは『ドット』から『ライン』へランクアップできる可能性が高い。既に壁を破る直前まで到達しておったからのう」

 

 全員から驚きの声が上がった。ギーシュは嬉しさのあまり、その場で飛び跳ねている。

 

 友人の喜びがいまいち理解できない才人は、素直にそれを口にした。

 

「ランクアップって、新しい魔法が使えるようになるんだろ? やっぱ、嬉しいものなんか」

 

「当然だよ! 戦術の幅も広がるし、何より将来に関わる!」

 

「どゆこと?」

 

「ぼくはグラモン家の四男だ。うちには優秀な兄たちがいるから、家を継ぐことなんてできない。となると、戦場で名を馳せて王室から領地を貰うか、どこかへ婿入りするしかないのさ」

 

「お前モンモンいるじゃん」

 

 途端、真っ赤になるギーシュとモンモランシー。

 

「そ、そうだが! 将来的に、モンモランシーと一緒になるとしてもだね! 無名で、しかも『ドット』のぼくじゃ厳しいんだよ! 彼女の家は、トリステインではヴァリエール家に次ぐ名門中の名門なんだから!」

 

 未だ顔中に疑問符を浮かべている才人に対し、ギーシュは説明を続けた。

 

「貴族といっても、そのうちの六割が『ドット』なんだよ。『ライン』ならそこそこ優秀。『トライアングル』なら近衛隊やアカデミーにすら就職できるエリート。『スクウェア』に至っては引く手数多! 〝貴族は魔法を持って成す〟という言葉通り、ランクさえ高ければ多少身分が低くても重要視されるのさ」

 

 なるほど、日本でいえば学歴で見られるようなものかと納得した才人。そこへ、太公望が声をかけてきた。

 

「ちなみに才人。おぬしもこれを覚えておくといい。〝瞑想〟は精神を落ち着かせ、かつ体力の回復にも役立つことなのだ。もちろん、おぬしには基礎から教えるからな」

 

「もしかして〝気〟のコントロール、ってやつか!?」

 

「そうだ。よく知っておるではないか」

 

「……ひょっとして〝気弾〟が出せるようになったり、しちゃったり、して?」

 

「その〝気弾〟とやらのことはよくわからぬが……どれ、ちとやってみせようかのう。皆の者、少しの間静かにしていてくれ」

 

 そう断りを入れた太公望は湖のほうへ向き直って座り込むと、両手で印を結び、体内の〝力〟を集中させる。そして、湖面の一点へ向け気合いを発した。

 

「ほッ!!」

 

 ――と、それまで静かだった湖の水面が噴水のように勢いよく立ち昇り、その後バシャン! と音を立てて潰れた。

 

「……とまあ、こういう〝術〟なのだが」

 

「うは! 〝水遁の術(すいとんのじゅつ)〟!!」

 

「な、ななな、なに今の」

 

「ま、まさか先住魔法!?」

 

 怯える生徒たちを落ち着かせると、太公望は改めて説明を開始する。

 

「これは体内を巡るもうひとつの〝力〟。人間だけではない、全ての生物が宿す〝気〟というものを利用した技だ。よく『気配を消す』と言うであろう? あれは、この〝気〟を一時的に断つことで、相手に存在を気取られぬようにしておるのだよ」

 

「おおーっ!」

 

 感心の声を上げる参加者たち。これにはタバサも覚えがあった。

 

(なるほど……あのとき、わたしや()()は無意識にその〝気〟を扱って、敵の気配を探ったり、身を潜めたりしていたのか……)

 

「魔法と違いこうして〝印〟を結ぶだけで展開可能だ。杖も、ルーンも、精霊との契約も必要ない。ただ、ハッキリ言うが、見た通りたいした威力は期待できない。おまけに習得するには〝気〟を扱うセンスと長い修行時間が必要だ」

 

「ああ、なるほど。魔法に比べて難しい割に効果が今ひとつだから廃れてしまったんだね」

 

 レイナールの発言に頷く太公望。

 

「そういうことだ。これなら、普通に魔法を使ったほうがよいであろう? わしが扱えておるのは、単なる師匠の趣味だ。まあ、メイジ以外の者がこれを利用して土煙を発生させれば、逃げたりする時に便利かもしれぬがのう」

 

 理解できたといった面持ちで頷くメイジたち。いっぽう才人は「〝木の葉隠れ〟とか〝土遁(どとん)〟もできるんじゃないか!? コレ」などと、ひとり興奮していた。

 

「ちなみに才人にこれを教えるのは、体力の回復を早めることと、敵や味方の気配に敏感になってもらうことが目的なのだ。〝術〟に関しては難しすぎて、そうそう簡単に習得できるものではないぞ? わしだって、数年かかってようやくあの程度なのだ」

 

 その言葉に落ち込みかけた才人だったが、よくよく考えてみた結果、時間をかければいつかできるようになるという意味だと理解し、顔を輝かせた。

 

 ――本当にできるようになるのかどうかは定かではないわけだが。

 

「ねえ。これって、もしかしてわたしに魔法の感覚を教えてくれたときの……?」

 

「その通りだルイズ。あれは、あくまで流れだけだがのう。だからあのとき『ルイズは特別な感覚を持っているから、掴める。他のメイジには意味がない』と言ったのだ」

 

「そういうことだったのね」

 

(やっぱり、ミスタ・タイコーボーは『ハーミット』ね)

 

 ルイズは彼をこの地へ呼び寄せてくれたタバサと『始祖』ブリミルに、心から感謝した。

 

「それでは、さっそくやりかたを教えよう。だが、さっきも言った通り、タバサには既に教えてある内容なのだ。よって、悪いがタバサは少し休憩していてくれ」

 

 太公望はそう告げて、タバサを除く全員に水際まで移動するよう伝える。生徒たちが揃って水辺付近へ向かうのを確認した後、タバサへ向けて小声で囁いた。

 

「タバサ。〝遍在(ユビキタス)〟は何体まで出せる?」

 

「まだ二体」

 

「よし。よいか? 〝遍在〟二体を彼らに見られぬように出し、その〝遍在〟と自分自身の内に〝瞑想〟によって〝力〟を蓄えるのだ。その後、決して気取られぬよう付近の森に待機させておけ」

 

「つまり、これは」

 

「そうだ、例の件が動き始めている。だからこそキュルケにここへ来るよう誘導してもらったのだ。決行は明日の夜。心のほうは落ち着いているか?」

 

「みんなのおかげ。だいぶ、落ち着いた」

 

「よし。ここでの〝瞑想〟は、魔法学院で行うよりも遙かに効果が高い。〝遍在〟二体と自分の中に〝力〟を蓄えておくことで、このあと動きやすくなる」

 

「わかった」

 

「では、わしは向こうの者たちに教えてくる。おぬしは」

 

「瞑想しながら待っている」

 

 ――頷き合ったふたりは、それぞれの準備をすべく立ち上がった。

 

 

 




静かな湖畔の森の陰から♪


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狂王、世界盤を造る
第35話 交差する歴史の大いなる胎動


 ――救出作戦開始数日前。帝政ゲルマニアの首府・ヴィンドボナ。

 

 『土くれ』のフーケ――現在は、魔法学院の秘書として振る舞っていた時の名前であるミス・ロングビルを名乗っている女性は、鏡の前でため息混じりに呟いた。

 

「身の安全のためとわかっちゃいるんだけど……やっぱり違和感があるねえ」

 

 かつて初夏の新緑のようであった艶やかな緑色の髪は、変装の為に赤みの強い茶色へと変化していた。魔法薬を使い、ゲルマニア人に多い赤毛に染めたのである。

 

 さらに肌を小麦色に染める、あるいは焼けば完璧にゲルマニアの人間にしか見えなくなるのだが、指示書にはそこまではしなくてよいという注釈がついていたのでロングビルはそれに甘えることにした。

 

 髪を梳き、最近ゲルマニアで流行しているアンティーク調の洒落た髪留めでアップにまとめると、それだけでこれまでの自分とは全く別人のように見えた。今の姿は、まるで裏の仕事をしていた頃のようだ。

 

「つまり、それだけ重要かつ難しい仕事ってことよね。今回の依頼は」

 

 これまた普段とは異なる上品な銀縁の眼鏡に、首元には同じく銀の細工物をあしらった皮ごしらえのチョーカーをつけ、唇に薄くルージュを引いた鏡の中の別人は、妖艶に微笑んでいた。

 

 そう……彼女は期待していたのだ。これまで彼女の新しい上司太公望は、彼にとって何か重要な情報を送った、あるいは通常よりもちょっと難しい依頼をこなした後に決まって『ボーナス』と称した追加料金を支払ってくれていたから。しかも、最初にボーナスが支払われた際に、

 

『今後も、こういった特別な仕事を依頼した場合は給与とは別に追加料金を支払う』

 

 という契約書と、仕事の難易度別により具体的な金額を記した追加料金表つきの一覧を送って寄越してきたのだ。これで俄然やる気になったロングビルは、それまで以上に精力的に仕事をこなすようになっていた。

 

「風竜三頭の手配に手紙の中継。それと、送迎及び護衛。よっぽど重要な荷物らしいねえ……中身は詮索しないけど、これは期待できそうだ」

 

 ロングビルは小さく呟いた後……小机の上に置かれた紙束へ目を落とし、いつもの彼女からは想像もつかないような柔らかい微笑みを浮かべた。

 

「良かった。これであの子たちへの仕送りが増やせるわ」

 

 紙の上には、たどたどしい筆跡が踊っている。この手紙の送り主たちこそが、彼女が大勢の貴族を敵に回してまで〝魔道具〟を盗み続けてきた最大の理由だ。

 

「ふふッ、みんな元気にしているようだね……」

 

 ロングビルの脳裏に、故郷に残してきた家族たちの顔が浮かび上がる。小さな森に囲まれた、貧しい村。そこでは十名を越える子供たちとロングビルの妹とが肩を寄せ合い、つつましい生活を送っている。

 

 彼らのほとんどは戦災孤児だった。『白の国』アルビオンで現在進行形で起きている、一部貴族たちと王家との間に起きた戦争により、家族と住処を奪われた者たちだ。ロングビルは彼らを引き取り、育てているのだった。

 

 子供たちはみな幼く、仕事の口がない。ロングビルの妹には特殊な事情があり、村の外へ出ることができない。つまり、家族の中で働けるのは唯一ロングビルだけ。彼女がたくさんお金を稼ぐことができたなら、それは子供たちと大切な妹に、人並みの生活を送らせてやれることに繋がる。

 

「最近はみんな三食しっかり食べられるようになったみたいだね。おまけに、全員分の新しい服まで作れたのかい。本当に、新しい上司さまさまだ……って、今までだったら素直に喜べたんだけどねえ……」

 

 そう呟き、はあっと大きなため息をついたロングビル。無理もない、ようやく軌道に乗り始めたと思えた新しい生活に、またもや陰りが見えはじめているのだ。

 

「『レコン・キスタ』……か」

 

 最近になってここゲルマニアにも噂が届くようになったその集団は、なんでも、

 

「我々はハルケギニアの将来を憂い、国境を越えて結びついた有能な貴族の連盟であり、頼りない現王家の代わりに『聖地』を取り戻す旗頭として世界に革命を起こす」

 

 ……などと嘯いているらしい。

 

 そもそも、ブリミル教の信者にとって『聖地』とされる場所は、エルフたちに奪われてから既に数世紀以上の時が流れている。ハルケギニアの王族たちは、幾度となく連合軍を率いて『聖地』を取り戻す努力をしてきたが、そのたびに無惨な敗北を喫している。なにしろエルフたちの繰り出す〝先住魔法〟は強力無比で、彼らの文明も人間たちより数世代は先に進んでいるのだ。闇雲に戦いを挑んだところで勝てるはずがない。

 

 王族だけではなく、ハルケギニアに住まう人間たちはみなエルフを畏れ、彼らに挑むことの愚を学んできた。現にここ数百年間『聖地奪還運動』の気運は影を潜めている。にも関わらず『レコン・キスタ』は再び立ち上がろうとしているのだ――その手始めとして、ロングビルたちの故郷である『白の国』アルビオンの王権を打破すべく、彼らはアルビオン国王の王弟モード大公粛正をきっかけに反乱を起こした貴族たちと手を結んだのだ。

 

 ロングビルは遠い過去に思いを馳せた。彼女の本名はマチルダ・オブ・サウスゴータ。アルビオン最古の都市サウスゴータ太守の娘であった。彼女の両親はモード大公粛正の折に、大公と彼の家族を匿ったとして連坐責任を問われ、断頭台の露と消えている。

 

 世が世なら、ロングビル自身も『レコン・キスタ』に身を投じ、彼女とその家族たちを今の境遇に貶めた憎きアルビオン王家に復讐するために立ち上がっていたかもしれない。だが、今のロングビルには守るべき者たちがいる。間違ってもそんな真似はできない。

 

「今はまだ戦況が膠着しているみたいだけど、この先どうなるかわからないし――できることなら、あの子たちをこの国へ呼び寄せたい。だけど、色々と問題が……」

 

 そこまで考えたところでロングビルはふと気がついた。駄目元で上司に現状を報告し、相談してみようか、と。あの切れ者ならば、ひょっとすると自分には思いつかないようないい手を提案してくれるかもしれない。

 

「もし、それを実現してくれたなら……わたしは彼に生涯の忠誠を誓っても構わない。やれと言われた仕事なら、たとえどんなものでもやってみせる」

 

 わたしのような者をも抱え込んだ懐の深い彼ならば――妹の特異性を理解した上で、良い案を出してくれるかもしれない。その考えに望みを賭け、ロングビルはペンを取ると……相談事の詳細を羊皮紙に記し、伝書フクロウへと託した。

 

 ――その後、全ての支度を終えた彼女は改めて上司から指定された場所へと赴くべく、これも上品かつ目立たない色のマントを身に纏い、隠れ家を後にした――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして救出作戦当日の夕食後、タバサの部屋。

 

「あの『土くれ』のフーケを雇ったですってェ!?」

 

 そこには驚愕の叫び声が響き渡っていた。もちろんそれはタバサが展開していた〝消音(サイレント)〟の効果によって、外に漏れ出るようなことはなかったわけだが。

 

「ククク……そうだ。国の上のほうに『交渉』を持ちかけてな。所謂『政治的取引』というやつだよ」

 

 邪悪と呼んで差し支えない笑みを顔に貼り付けたままそう嘯く太公望に、キュルケとタバサは驚きと畏れがないまぜとなった顔を向けた。

 

「フーケは監獄へ送られたはず」

 

 タバサが震え声でした質問に、太公望はまるで息をするような気軽さでもって答えた。

 

「ああ、その通りだ。だが蛇の道は蛇といってな。裏には色々な世界が広がっておるのだよ。そして、そこでは常に様々な事件が起きておるのだ」

 

 その言葉が発せられた直後。窓から差し込んだ双月の淡い光が、椅子に腰掛けていた太公望に昏い影を落とす。タバサとキュルケの目に飛び込んできたその影が、一瞬『闇の衣』のように見えたのは、ただの錯覚であったのだろうか――。

 

「実はな、多額の賄賂を受け取って贅沢三昧していた証拠だの、王家から請け負っていた役目をおろそかにしていただのといった取り返しの付かない失態の証拠が突然わんさと表に出てきてしまった気の毒かつ愚かな貴族がおるらしくてのう。本来ならばフーケが入っていたはずの牢屋の中へ、代わりにぶち込まれておるらしいのだ。その証拠に、これまで彼女が既に逃亡したなどという噂は一切表に出てこなかったであろう?」

 

 そう言ってクツクツと小声で嗤う太公望を見て、タバサは文字通り頭を抱えてしまった。有能な情報斥候を雇ったという報告を受けてはいたが、まさかそれが自分たちの手で捕らえた『土くれ』だとは思ってもみなかったのだ。いや、普通なら想像すらしない。

 

 しかも彼が裏から手を回した結果、平民たちは勿論のこと、貴族からも畏れられている難攻不落のチェルノボーグ監獄から彼女を脱獄させた上に、それを悟らせてすらいないとは。おまけに、いつのまにかトリステイン王国の上層部との繋がりまで持っている……。

 

 ――そういえば。と、タバサは思い起こした。確か、彼は師匠の下で政治学を学んだと言っていた。今まで見てきた交渉術や今回の仕事の段取りなどは、そこで身に付けたものなのだろう。だとすれば、彼の先生は相当に優秀な人物だ。王宮に出仕せず、そのまま師の下で学び続けたかったという彼の気持ちも理解できようというものだ。

 

「『ある意味最も敵に回したくない男』って二つ名は、伊達じゃないってことね」

 

 青い顔で呟いたキュルケにタバサは心の底から同意した。彼女のパートナーは味方に対しては驚くほど義理堅い面を持ち、争い自体も好まない。実力さえあれば、今回のフーケのように一度敵対した者すら取り込む度量をも持ち合わせている。

 

 だが、一度攻撃対象と認識した相手に対しては、たとえそれが女子供であろうとも一切容赦しない。例の『防御壁事件』で、タバサとキュルケのふたり共に、その身でもって理解している。

 

 おそらくその愚かな貴族とやらは、平和的交渉を持ちかけた彼の無邪気な少年のような見た目と振る舞いに騙され、侮った結果――そのような事態に追い込まれたのだろう。

 

 ――彼を敵に回すような真似だけは絶対にしてはいけない。タバサとキュルケは揃って固く心に誓った。

 

 ……実際のところ『国の上のほう』とは国立トリステイン魔法学院の長のこと。よって、太公望は嘘をついているわけではない。そして『政治的取引』の相手はというと、その学院長たるオスマン氏を指し――『交渉』はフーケ本人と直接行ったものである。その彼女を実際に逃がしたのはチェルノボーグの監獄へ送られる道中で、しかも実行犯は太公望ではなくオスマン氏だ。

 

 そして『愚かな貴族』とやらは、ある意味自業自得で転落人生を歩んでいるだけであって、彼の処遇に関して太公望はもちろんのこと、フーケも、そしてオスマン氏も一切手を出してはいない。これは『言い方ひとつでここまで持たれる印象が変わる』という好例――いや、悪い例の最たるものであろう。

 

「そういうわけで、今回の救出作戦には彼女――ミス・ロングビルに参加を依頼しておる。一見してわからぬよう変装をしてもらっておるが、おぬしたちの眼力ならば一発で正体を見抜くであろうから、先に情報を開示することにしたのだ。いざという時に争いになったりしたら、目も当てられぬからのう」

 

「まあ、確かにあたしたちなら……ね」

 

「理解できる」

 

 納得したとばかりに頷くキュルケとタバサ。確かに、かの大怪盗『土くれ』が逃亡計画に協力してくれるというのは非常に心強い。

 

 実際、あの『破壊の杖盗難事件』の折に太公望が居合わせなかったら、最悪の場合『破壊の杖』を盗まれるだけに留まらず、死人が出ていた可能性すらあったのだ。それほどの実力者がこの大事に味方になってくれるというのは、今のタバサにとっては千人の兵を得るよりも有り難いことだった。

 

「でだ。彼女の件についてはこれでよいとして、今夜、双つの月が真上に到達する時刻より行動に移るわけだが……タバサよ、おぬしが現在偵察に出している〝遍在〟の様子はどうだ?」

 

「1体目の『スノウ』は予定通り昨夜のうちに、誰にも見られることなく目標と接触することに成功。周囲に見張りはいないが、警戒は怠っていない。2体目『フレア』は風竜到着第一ポイントにて近隣を哨戒中。現在異常なし。何かあったらすぐに報告する」

 

 昨日決めたばかりの『暗号名』、それもタバサ本人とキュルケのそれを〝遍在〟に利用している。タバサの淀みない答えに満足した太公望は黙って頷くと、続いてキュルケに向き直った。

 

「おぬしは今回の作戦の鍵だ。フォン・ツェルプストー領内までは3体の風竜を乗り継いで、かつ直線ではなく特別な航路をとって移動する」

 

 真剣な表情で頷くキュルケ。それを見た太公望は説明を重ねた。

 

「これは風竜の手配先をそれぞれ分けることにより、逃亡ルートをできるだけ割り出されないようにするための措置だ。そのぶん時間がかかるため、道中辛い思いをさせることになるであろう。にもかかわらず、それをわかった上で協力してくれることに感謝する」

 

 そこまで告げると、太公望はキュルケに頭を下げた。タバサも彼と同様に礼をする。そんなふたりを見たキュルケは、どこか困ったような笑みを浮かべた。

 

「いまさら何を言っているのよ。親友を助けるのに理由なんて必要ないでしょう? お父さまも、あたしの行動を喜んでくださったわ。だからこそ別荘なんかじゃなくて、うちの屋敷の一角を提供してくれたのよ。だからといって、哨戒の兵を増やすような真似もしていないわ。普段と違う行動をしたら、怪しまれるものね」

 

 キュルケがクスリと笑ってみせると、太公望は改めて彼女に一礼し、タバサは彼女がこれまで一度も見せたことのなかった、晴れ渡る空のような笑顔でもってそれに応えた。

 

(ある意味、この顔を見られたのが今回最大の報酬かもしれないわね)

 

 キュルケは密かにそう思った。

 

「さて、それでは作戦開始後の行動についてだ。タバサは〝遍在〟でなんとかなるが、キュルケの不在については隠しようがない。下手に病気などと偽って、見舞いが来ても面倒だ。よって、戻ってくるまで『知人が突然倒れた。父からその報せを受け、慌てて見舞いに出かけた』という設定で行動する。内容を聞かれた場合は、先住魔法の使い手によって呪われたらしい、ということにしておいてくれ。学院を休む旨の報告は、紙に『急いで親元へ行かなければならない』とだけ書いて、わしに託して欲しい」

 

「ずいぶんと具体的だけど、当然理由があるのよね?」

 

「もちろんだ。これはヴァリエール領での歓待が終わった後、おぬしの実家へ移動するための言い訳として使う。あくまで移動理由について訊ねられたとき、あるいは何らかのトラブルが発生した場合に限るが。その場合、わしが〝解呪師(かいじゅし)〟だという話を出すので、覚えておいてくれ」

 

「解呪師? それって何かしら」

 

 キュルケの疑問に即座に答える太公望。

 

「タバサには既に説明してあるが、同盟軍が敵対していた帝国にはな、先住魔法の使い手たる妖魔たちが大勢いたのだ。そのため〝魅了〟や〝呪縛〟といった人為的な呪いに対抗するための手段が数多く存在する。わしは、そのうちのいくつかを習得しておるのだよ」

 

 その太公望の言葉にタバサが補足する。

 

「彼の腕前は確か。母さまが飲まされた魔法薬の効果を取り除く方法は、数千年分の蔵書がある『フェニアのライブラリー』でも発見できなかった。にも関わらず、彼は簡単な診察だけでその原因と対処法を発見した上に、既に治療の準備まで開始してくれている。例の〝惚れ薬〟についても、彼以外の人間が飲んでいたら秘薬なしで〝解呪〟できたと聞いている」

 

「うそッ! それ、本当なの!?」

 

「うむ。おかげで150エキューも損をしてしまったわ。まあ、自業自得なのだが」

 

「そう。そういうことだったの……」

 

 キュルケは、なんだか納得できてしまった。彼がタバサの〝召喚〟によってこの地へやって来たのは事故なんかじゃない。タバサの強い願い――母を助けたいという思いが奇跡を生んだのだ。

 

(やっぱり運命なんじゃないのよ、このふたり……)

 

 ――これにより、彼女の中で燻っていた『葛藤の炎』のうちの一柱が完全に消えた。

 

「でだ、キュルケと共についてゆくのは『スノウ』とする。本当ならば、タバサ本人が一緒に行きたいであろうし、キュルケのご実家に対し礼儀にもとる行為ではあるのだが……この先は言わずともわかるであろう?」

 

「ええ、もちろん」

 

「もしも移動中に『任務』で呼ばれたら、言い訳ができない」

 

 ふたりの解答に真顔で頷く太公望。

 

「その通りだ。よって、タバサ本人についてはわしと共に学院に戻ってもらう」

 

「事情の説明はこのあたしに任せて。だいたい、お父さまはそんな理由で怒るようなひとじゃないわ」

 

 そして3人は、その後さらに詳細な計画を練り、話し、確認しあうと――行動に移った。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――刻は動き……深夜、トリステイン国内・風竜到着第一ポイント。

 

「ちょっとミスタ、大丈夫!?」

 

「う、うむ……少し息を整えれば大丈夫だ」

 

 ラグドリアン湖から約3リーグほど離れた場所にある森の中の、少し開けたポイントまでほぼノンストップ――しかも、人間ふたりという『大荷物』を抱えて飛んできたのだ。タバサに〝風の盾(エア・シールド)〟である程度向かい風への対策を手助けしてもらってはいたものの、さすがに重労働だったのだろう。太公望の顔からは血の気が失せ、ぜえぜえと肩で息をしている。

 

「まあ、このためにここを中継地に選んだのだ」

 

「ここを選んだ?」

 

 顔に疲れの色を出しながらも、ニヤリと笑って『打神鞭』を掲げた太公望は、その握り手部分にある丸いボタンをポチッと押す。すると、ポンッ! というちょっと気の抜けたような音と共に、先端から1枚の旗が現れた。

 

「きゃっ!」

 

「それは?」

 

 突然現れた旗に驚くふたりへ、悪戯が成功して喜ぶ子供のような顔で答える太公望。

 

「フフフ、かっちょいいであろう? これは霊穴(パワースポット)からエネルギーを吸い取って、あっという間に〝力〟を回復してくれる『杏黄旗(きょうこうき)』という魔道具なのだ」

 

(……かっこいい……のかしら? おまけに〝力〟を回復……!?)

 

 疑惑に満ちた目で件の旗を見ていたキュルケであったが、その旗をひらひらさせていた太公望の顔色がみるみるうちに良くなっていくのを見て、仰天した。

 

「なによそれ! とんでもなく価値のある魔道具じゃないの! その旗を売るだけで城が建つわよ!?」

 

「ほう、そうなのか? まあ、わしはこの旗を手放すつもりなどないがのう」

 

「でしょうね」

 

「とはいうものの、ちと大きな副作用があるので、多用はできぬのだ」

 

「副作用?」

 

「ああ、反動でな……1週間ほど〝力〟が極端に低下してしまうのだ。その間は当然この『杏黄旗』は言うに及ばず〝瞑想〟での〝蓄積〟すら不可能となる。便利なものにはそれなりの代償が必要なのだよ」

 

 ……実はそんな副作用などないのだが、さらりとハッタリをかます太公望。もちろん、多用させられてはたまらないのでこんなことを言っているのである。なにせ身体の疲れ自体は、この宝貝では取れないのだから。

 

 ちなみにこの宝貝『杏黄旗』本来の効果は『〝生命力エネルギー〟を特定の場所から取り込み、自分のものへと変換。強大な〝力〟に換え、より大きな事象を発生させる』というものである。

 

 念のため、太公望は前もってここラグドリアン湖と魔法学院の両方で効果を試してみたところ、学院を対象として選んだ際には残念ながら発動せず、この湖では機能を発揮した。おそらくだが、このハルケギニアの地においては〝星の意志の力〟を特に強く宿す場所から、その〝力〟を取り込むことができるのだろうと彼は結論していた。

 

「……さて、待ち人が来たようだのう。素晴らしい、時間ぴったりだ」

 

 ――振り仰ぐと、空の上から一頭の風竜が舞い降りてきた。

 

「あら、お嬢ちゃんたち。お久しぶり……と、いっても驚いてはいないみたいね」

 

 以前とは全く別の姿に変貌を遂げた『土くれ』のフーケことミス・ロングビルは、タバサとキュルケのふたりへにこやかに微笑んで見せた。

 

(どうやら前もって説明を受けているようだね。さすがに抜かりがないわ……)

 

 と、ロングビルは内心で舌を巻いた。

 

「あなたのことは彼から聞いている。今日はよろしくおねがいします」

 

 そう言ってタバサはペコリと頭を下げた。続いて、キュルケも。

 

「ふふッ、ちゃんとそこの彼からもらうものはもらってるから気にしないでちょうだい。それにしても、貴族の娘のあんたたちが、わざわざ頭を下げるなんてね。わたしも偉くなったもんだわ」

 

 ロングビルの思いも寄らぬ柔らかな声に、タバサは驚いた。

 

(『土くれ』は仮の姿で、実は……これがこのひと本来の姿なのかもしれない)

 

 かたやキュルケのほうはというと、

 

(例の女将軍といい、ルイズのお姉さんと盛り上がっていたことといい、このフーケの姿といい……ミスタって、やっぱり知的な女性がタイプみたいね。それなら、タバサは充分資格ありだわ。あと何年か待てば――っていう条件つきだけど)

 

 などという相変わらず場にそぐわぬ感想を持っていた。もっとも恋愛を至上とするツェルプストー家にとって、この程度は通常運転に過ぎない。

 

 タバサはともかく、キュルケからそんな感想を持たれているなどとはつゆとも知らぬ太公望は、早速ミス・ロングビルに労いの言葉をかけていた。

 

「苦労をかける、ロングビル。では、これから『目標』を回収してくるので、ここでキュルケと共に待っていてくれ」

 

 その言葉に全員の緊張が引き締まった。

 

「承知しましたわ、ご主人さま」

 

「ふたりとも、気をつけてね」

 

 頷いたふたりは、揃って空へと舞い上がった。なお、この間周囲警戒のために『フレア』が第一ポイントと屋敷の中間地点を見張っている。

 

「周辺、異常なし」

 

「おなじく、このあたりから怪しい気配は感じられぬ」

 

 互いに警戒しながら屋敷へと向かったタバサと太公望。そして、彼らを見送ったキュルケとロングビルは、同じく辺りに注意しつつ、それぞれ全く別の意味でふたりの無事を祈り、その帰還を待った――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――オルレアン大公邸に無事到着した太公望とタバサは、老僕ペルスランに客間のホールへ通されてすぐ、脱出のための準備を開始した。

 

 ホールのソファーでは、既に『スノウ』の〝眠りの雲(スリープ・クラウド)〟によって眠らされたオルレアン公夫人が静かな寝息を立てていた。

 

 母親を起こさぬよう、慎重に指先へほんの少し傷をつけ、血をひとしずく手に入れたタバサは、太公望が持ってきた特別製のガーゴイル1体に、入手したばかりの血を垂らす。それから彼女は、幼いころから忠実に自分たち家族に仕え続けてくれた老僕から血液をもらうと、同じように処置を行った。

 

 すると、2体の人形は少しずつその姿を変え……やがて、夫人と老僕そっくりになった。

 

「では『新しいペルスラン』殿。これからの仕事についてはわかっておるな?」

 

 『新しいペルスラン』と呼ばれたガーゴイルは深々と一礼した。そのお辞儀の仕方は、本人と寸分違わず。そこに宿る一部の魂魄までもが生き写しであった。

 

 そもそも、ロドバルド男爵夫人が造ったこの特別製のガーゴイルは太公望の『本気』の眼力を持ってしても若干の違和感程度しか覚えられず、彼自身が直接触れてみて、はじめて身体に宿る魂魄の儚さを感じ取り、ようやくその正体に気がつけた程のものだ。ハルケギニアのメイジに正体を見破れるようなシロモノではない。

 

「『新しい奥方さま』は……すまぬ、タバサ」

 

 タバサはすぐさま『彼女』に〝眠りの雲〟の呪文を唱える。悲しいまでに『人形』のそれは魔法薬の症状が現れているときと同じ。つまり、これまでと変わらぬ状態であったから……。

 

(ある意味誤魔化しやすくはあるのだが……タバサには辛い思いをさせてしまったのう)

 

 小さくため息をついた太公望は眠ってしまった『新しいタバサの母』を寝室へ運び終えた後、改めて全員に対し、素早く指示を行った。

 

「よし、ここからが本番だ。タバサよ。外へ出たら『スノウ』と共に〝飛翔(フライ)〟でそれぞれ一人ずつ手を取り、浮かび上がれ。できるだけ広がりすぎないようにしてな。それをわしが引っ張って、第一ポイントまで全速力で連れて行く」

 

 屋敷へ来るまでの間、ふたりの間では既に何度も確認した内容だ。つまりこれは老僕ペルスランに対しての説明である。

 

「『新しいペルスラン』殿。おぬしたちにとって本来食料は必要ないであろうが、これまでと変わらず入手し、消費してくれ。もし可能であれば、そのうちの一部は保存のきくものとし、屋敷の奥に貯蔵しておくのだ。敵に違和感を与えない程度の少量をな。また、生活習慣についても一切変えることなく行動してほしい。ここで変化を見せると王家に気取られてしまう可能性があるからの」

 

 我々も、これから時折顔を見せる。その時も、普段と変わらぬ対応を頼む。そう頼んだ太公望とタバサに対し『新しいペルスラン』は簡潔に答えた。

 

「承知致しました」

 

 そして深々と頭を下げた『彼』へ頷き返した太公望は、屋敷内で最後の指示を出す。

 

「外に気配はない。さあ……出発だ」

 

 愛する母を抱え、太公望の手を取り空へと舞い上がったタバサは、一度も後ろを振り返らなかった。ただ謝罪し……そして願った。ガーゴイルに置き換わった『新しい母』の手元に残してきた、小さな人形――今は自分と名前を交換し『シャルロット』と呼ばれているその娘に。

 

 ――母さまは必ず救ってみせる。だから、どうか……わたしたちの身代わりとなってくれた、そのひとたちを守ってあげてください……。

 

 そして、この夜から……オルレアン大公邸宅は完全なる人形屋敷となった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサたちがオルレアン大公邸宅を後にしたのと、ほぼ同時刻。

 

 ガリアの王都・リュティスの中を流れるシレ川の左側に建つ巨大な宮殿群ヴェルサルテイル。その中央にそびえ立つ巨大な建造物がグラン・トロワだ。王族の象徴たる蒼い髪にちなみ、それと同じ色の石と煉瓦を組み合わせて造られた壮麗な城である。

 

 その城の一番奥に位置する部屋に、蒼みがかった髪と髭によって彩られ、見る者をはっとさせるような美貌を持つ男――ガリア王国千五百万の頂点に立つ人物が居た。

 

 彼は今年で四十五歳になるはずであったが、未だ三十過ぎ程度にしか見えないその男――当代のガリア国王ジョゼフ一世が王の執務室に設置するには相応しくない物の前に立ち、にこやかに笑っていた。

 

 部屋中に所狭しと置かれたそれは、差し渡し10メイルはあろうかという巨大な箱庭。国中から腕利きの彫金師を集め、数ヶ月以上の時をかけて造らせた、ハルケギニア全土を模した壮大な模型であった。その上には錫や銀で作られた将棋(チェス)の駒がずらりと並べられ、まるで本物の軍勢よろしく配置されていた。

 

 国王のすぐ側には、美しく長い黒髪と紅く晄る瞳を持つ……まさしく妖艶という言葉を体現しているといって差し支えない、艶めかしい女性が控えていた。

 

「おお、女神よ(ミューズ)。余の愛しいミューズ! その話はまことか!?」

 

「はい。まさかこのハルケギニアで彼の名を聞こうとは、思いもよりませんでした。イザベラさまからの報告書を拝見した際には、まさかと思いましたが」

 

「ふむ、新たな指し手となる可能性がありそうだ。少しは楽しませてもらいたいな! だが今は、作りかけであった碁盤がようやく完成したばかりなのだぞ? いやいやいや、これは困った。まったくもって困ったものだ!」

 

 ジョゼフ一世は心底参ったといったような表情で、目の前に置かれた箱庭を見た。そこにはひとつの島――その上に建つもの全てを精巧に再現した模型が配置されていた。その島は『白の国』『風の王国』とも呼ばれ、世界に宿る〝風の力〟の結晶〝風石(ふうせき)〟によって天空に浮かぶ巨大な陸地――アルビオン大陸だった。

 

「だが、そんな困りごとならば余はいつでも大歓迎だぞ! それに、どうせ果実をもぎ取るならば、きちんと熟れてからにしたほうがより美味しく食べられるというものだ。違うか? ミューズ」

 

 ミューズと呼ばれた黒髪の女性は、その問いに艶やかな微笑みをもって応えた。

 

「それに、成長の途中で多少の障害を与えたほうがより甘みを持つ。まずは例の屋敷を見張る者たちの質を上げておいてやるとするか。それと……最近、どうも面白い遊び相手を手に入れてはしゃいでいる様子の我が娘に、この父が! 自ら指示を出してやるとしよう」

 

 そう言って手を出したジョゼフの手に、黒髪の女性は指示を記載するための紙とペンを差し出した。それらを受け取った国王は、そこに何事かをさらさらと書き記すと、呼鈴を鳴らして伝令兵を呼び出し――指示書を手渡した。

 

 ――そして、その伝令兵がイザベラの部屋へと向けて移動を開始しはじめた頃。

 

 ある意味、間一髪。見張りの質が上がる直前に救出作戦に移ることができたタバサたちは、無事第一ポイントへ到達すると、彼らの到着を今や遅しと待ちこがれていたふたりと一体の前へと降り立った。

 

 そして一路ゲルマニアへの逃避行を開始しようとしていた一行が離陸する直前。太公望は、信頼を寄せている己の情報斥候ミス・ロングビルへ向けて、こう告げた。

 

「頼まれた例の件についてだが。おぬしが無事この仕事を終えて宿に到着する頃に必要なマニュアルが届くよう、手はずを整えてある。かかるであろう費用も併せて、だ。つまり……絶対にこの仕事を成功させてくれ。頼んだぞ」

 

 それを聞いたロングビルの目が大きく見開かれる。彼女は力強く頷くと、風竜の手綱をとり、彼らから託された者たちと共に空高く舞い上がっていった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌朝。『王天君の部屋』の中で。そこの主たる者と彼女のパートナーは、与えられた指示書を見て呆然としていた。

 

「オメーの親父……ずいぶんとおっかねぇなぁ、オイ」

 

「なるほど。これは確かに効果的な鎖よね」

 

 王天君はニイッと口の端を歪めた。

 

(さすがは一国の王……しかも、これだけ栄えている国の長だ。考えることが実にえげつねぇ。ひょっとして、オレの存在にも気が付いてんじゃねぇか? おぉ、怖い怖い。せっかくぐうたらできる生活を手に入れたと思った矢先にこんなのを相手にするハメになるのかよ、太公望ちゃんは)

 

「まぁ、身から出た錆ってヤツだ。ククッ……せいぜい頑張ってくれよな」

 

「どうかしたの? オーテンクン」

 

「いや、なんでもねぇよ。さ、とっととソイツを送りつけてやんな」

 

「ええ、もちろんそのつもりよ。でもね……これを見たふたりがどんな顔をするのか、すぐ側で見られないのが本当に残念だわ」

 

 そう言って、しょんぼりとした――だが、口端が微妙に上がった顔を見せたイザベラに、王天君がこれまた実に無念そうな――しかし、その目に実に愉快げな色を湛えた表情でもって答えた。

 

「下手に『繋ぐ』と、アイツに気取られる可能性があるからよぉ……ここはぐっと我慢しねぇとな。正直、オレだって現場が見たいんだ」

 

 そう言ってニヤリと嗤った王天君に、イザベラも嗤い返す。そして彼女は問題の手紙を出すために伝書フクロウを手配させた。

 

 ガリア国王ジョゼフ一世が自らしたためた指示書にして、太公望へ宛てた親書。そこにはこう書かれていた。

 

 …………

 

 ――我が姪シャルロットが起こした事故により、貴君にはまったくもって大変な迷惑をかけてしまった。

 

 にも関わらず、不出来な姪を影から支え、その〝技〟でもって困難な任務を達成するに至った貴君に報いるため、我がガリア王国における〝騎士(シュヴァリエ)〟の地位、及び勲章を授ける。

 

 我が姪とその家族のためにも、是非ともこれを受けていただきたい。なお、略章のみで申し訳ないがこの手紙に同封するので、早速身につけてくれたまえ。きっと貴君に似合うものと思う。

 

 配属については『北花壇警護騎士団』とするが、貴君が既に知っての通り、これは表向き存在しないとされている騎士団であるため、通常は『東薔薇花壇警護騎士団』へ所属している旨、宣言することを差し許す。もちろん、そのための席次及び、騎士団章も用意する。

 

 正式な受勲及び両団長への面通しのために、是非一度こちらへ出向いてくれたまえ。日時は追って連絡する。現在の東薔薇花壇警護騎士団団長は、若いがなかなか見所がある男だ。期待してくれて問題ない。

 

 なお、魔法学院内及び公式の場、並びに他家に訪問する場合において着用するマントについて〝騎士〟を示す刺繍を必ず入れた上で、服に『ガリア王国・東薔薇花壇警護騎士団』の騎士団章あるいは略章を身につけること。このあたりの規則に関する詳細はわが姪に聞いてくれれば理解できることかと思う。ただし『北花壇騎士』としての任務中及び、それ以外の場所で身につけるものについては貴君の自由とする。

 

 側にいる友人たちに自慢するためにも、是非とも服とマントを新調してくれたまえ! そのための費用は当然のことながら送金させてもらう。

 

 遠く東の大陸よりハルケギニアへと来訪された親愛なるミスタ、リョ・ボー・シュヴァリエ・ド・ノールパルテルへ――ガリア国王・ジョゼフ一世

 

 

 




知っているか?
大魔王からは逃げられない。


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第36話 軍師と雪風、鎖にて囚われるの事

 ――無事、目的地に到着した。現在魔法学院へ向け帰還の途中である。

 

 ゲルマニアへ向けて旅立った一行と共に居た〝遍在〟からその報せを受けたタバサは、安堵のあまり全身の力が抜けてしまい、その場で崩れ落ちそうになった。幸いすぐ側にいた太公望に身体を支えられ、床に倒れるという事態だけはまぬがれたが。

 

 その後はこれまた気が抜けてしまった太公望と共に、しばし揃って部屋の床に敷かれたふかふかの絨毯の上に転がっていた。

 

(これで、母さまとペルスランはもう大丈夫。そして、母さまが元に戻った姿を確認できたなら、あとは――残るもうひとつの目的を果たすだけ。でも、今はただみんなの無事を喜ぼう……)

 

 そんな想いにふけっていたタバサを奈落の底へと突き落とす使者――灰色の羽を持つ伝書フクロウが飛んできたのは、それからわずか一時間後であった。

 

 ジョゼフ一世より送り届けられた、太公望への親書と見せかけたタバサへの脅迫状と呼んで差し支えない手紙。それと共に送りつけられてきた騎士(シュヴァリエ)と東薔薇花壇警護騎士団の略章を見た時……タバサは申し訳なさと無念さのあまり、血が滲むほどにギュッと唇を噛みしめた。

 

 一見すると正体不明の異国人である太公望に対し、過分ともいうべき報奨――最下級ではあるがガリア貴族としての身分保障と、さらには入団するだけで名誉とされる花壇騎士団に席を用意されたように思える文面だ。しかしその奥底に潜む『狂王』ジョゼフ一世の強烈なまでの悪意を、聡い彼女は即座に読み取ってしまったからだ。

 

(母さまとペルスランを無事逃がすことに成功した。でも……それと引き替えに、よりにもよって彼を、ガリア……いや、わたしから逃げられないよう、鎖で縛り付けられてしまった!)

 

 タバサは震えた。その先の展開が手に取るようにわかってしまったから。

 

(彼のことだ。最悪の事態に陥った場合、自分のことなら心配ないからひとりで逃げろなんて言い出しかねない。しかも、わざと追っ手を自分のほうへ引きつけた上で。そんなことはさせない。いざという時には、たとえ自分がどうなろうともタイコーボーだけは無事に逃がしてみせる。それが、本来無関係の彼を巻き込んでしまったわたしが果たすべき責任……!)

 

 そんなタバサの思いとは裏腹に、同じく『親書』を読んだ太公望の心の奥底へ彼女とは全く別の不安が沸き上がっていた。しかもそれは……彼だけでなく、タバサとその家族、そして最悪の場合――この世界全てを巻き込む可能性があった。

 

「タバサよ。確かめたいことがあるのだが」

 

 静かな、それでいて落ち着いたその声を聞いたタバサの身体がビクッと震えた。

 

(彼はわたしの覚悟を試すつもりだ)

 

 タバサはそれを確信し、次の言葉を待った。ところが太公望から発せられた質問は、彼女をして全く想定外のものだった。

 

「初めて意地悪姫に会ったとき、あの娘には使い魔がおったかのう?」

 

「え?」

 

 いったい何を言い出すのか。思わずそう口に出しそうになったタバサだったが、ぎりぎりのところでそれを飲み込んだ。状況的に、太公望が意味のないことを言い出すはずがないと気付いたからだ。急いで知り得る限りの情報を整理し、告げる。

 

「いなかった。少なくとも、わたしが知る限りは」

 

「なるほど。ちなみにジョゼフ王のほうはどうだ?」

 

「彼は魔法が使えない。だから〝召喚〟(サモン・サーヴァント)を執り行うこと自体が不可能」

 

「ふむ。果たして本当にそうなのだろうか……? しかし、ならば国王側についた可能性が四割。イザベラのところに六割、といったところかのう」

 

「どういうこと?」

 

 太公望は、名残惜しそうに絨毯の上から起き上がると、タバサへと椅子への着座を促す。そして、テーブルに置かれていたティーセットで器用に茶を淹れると、改めて口を開いた。

 

「まずは、その話をする前に……伝えておかねばならぬことがいくつかあるのだ」

 

 両手でカップを受け取ったタバサの身体は、小さく震えていた。既に初夏。先程までは若干の蒸し暑さすら感じていた室内が、今は寒風吹き荒ぶ平原のように冷え切っている。

 

「これは、今まで誰にも言っていなかったことだ。その必要もないと思っていた。だが……あの手紙を見てしまった以上、話しておかねばならぬ」

 

 今までになく真剣な表情をして話す太公望。その顔を見たタバサは居ずまいを正す。

 

「わしが職を辞して旅をしていたという話は、既にしたと思う。その時……わしはひとりで旅をしていたわけではないのだ」

 

「連れがいた?」

 

「まあ、そのようなものだ。でな……例の事故が起きたときに、当然ながらあやつはわしの側にいて――わしが『光の道』に飲み込まれていく姿を見ていたわけだ」

 

 太公望はさらに先を続けた。自分の想定している『最悪』に向けて。

 

「その連れがイザベラ王女。あるいはジョゼフ王に〝召喚〟されて使い魔となり、敵側に回った可能性が高い。敵味方はともかくとして、いずれかの側におるのは確実だろう」

 

 その言葉にタバサは仰天した。いや、そもそも……。

 

「あれは天文学的な確率で起きた事故だと……」

 

「そうだ。それは間違いのない事実なのだ。しかし、わしの連れは天才的な『空間使い』。あの男ならば、例の『光の道』によってわしが誘拐されたと判断した上で、行き先を辿ることができるであろう……間違いなくな。今までわしが平然としていられたのはな、いつか必ず迎えが来ることを確信しておったからなのだよ」

 

(彼の落ち着きはらった態度には裏付けがあった。けれど、何故そこにイザベラの〝召喚〟が関わってくるのだろう?)

 

 タバサは当然ともいうべきその疑問を、太公望に対して投げかけた。

 

「それなのだがな、タバサよ。もしもだぞ、あのキッツい娘がおぬしの失敗。つまり、わしという結果を見たら……そのあと、どう動くと思う?」

 

 タバサは考えた。

 

(イザベラが、わたしが起こした召喚事故を知ったらどうする? もちろん父王に報告するだろう。さらに周囲へ喧伝するはずだ。いや、でもその前に――)

 

「〝召喚〟を試す? わたしに、自分の成功を見せつけるために」

 

 その言葉に黙って頷く太公望。そして彼は、改めて口を開いた。

 

「おそらくな。でだ……連れは、前に夢の中で見せた『窓』のようなもので、わしを誘拐した『道』と同種のものを探し続けていたに違いない。そして発見したのだろう……おぬしに近しい者が創り出した『道』を。その上で、無理矢理それを自分のいる場所に接続したのだ」

 

「そんなことができるの!?」

 

「わしには無理だ。しかし、あやつならば間違いなくやってのけるであろう。それほどの実力者なのだよ」

 

(空間を曲げるのはとてつもない〝力〟を必要とするのだと以前聞いた。にもかかわらず、遠い場所から開いた〝召喚〟の気配を感知しただけでなく、自分の元へ導いた……!? それが本当ならば、その連れというのは……)

 

 そんなタバサの内心を見透かしたかのように太公望は続けた。

 

「そうだ。普通のメイジには想像もつかない程に強大な〝力〟の持ち主なのだよ」

 

 タバサは思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 

「あの手紙の最後に、こうあったな? 遠く東の大陸よりハルケギニアへと来訪された――と。わしは、イザベラに対して大陸から来たなどとは一言も言ってはおらぬ。なのに、それを知っておるということはだ。イザベラを通じて王に伝えられたか、あるいはジョゼフ王が呼び出した使い魔から情報がもたらされた可能性が高い」

 

 ジョゼフが使い魔を呼び出すことなんて、ありえない――そう言い返そうとしたタバサだったが、できなかった。何故なら彼女の身近に、つい最近まで魔法が使えなかった人物がいたからだ。彼女の場合は魔法ができないのではなく、どんな魔法も爆発する状態だったわけだが、ジョゼフ王はどうなのだろう――?

 

 そんなタバサの思考を太公望の言葉が打ち消した。

 

「よいか? 怖がらせてしまうかもしれぬが、ここからは今まで以上にしっかりと聞いておいてくれ。わしの連れはな……ある意味最も敵に回したくない相手なのだ」

 

 『ある意味最も敵に回したくない男』これは太公望が自身に冠された二つ名のひとつとして、誇りに思っていたほどのものである。そんな人物が敵に回したくない存在……。

 

「どういうひとなの?」

 

「名前は王天君(おうてんくん)という。前に少し話したことのある女狐が、手ずから育てた愛弟子でな。当然のことながら、かつては敵対……それこそ命の取り合いをしておった。だが、とある事件がきっかけで、お互いの正体を知るに至り――以後、行動を共にするようになったのだ」

 

 正体を知ってからは、行動を共にするようになった? つまり、本来は味方であるということ。しかも……ここまでの話から判断するに、タイコーボーが『必ず自分を助けに来る』と確信していたほどの信頼関係を築いている人物。なのに絶対敵に回したくないとはどういうことだろうか?

 

 顔中に疑問符を浮かべているタバサを見て思わず苦笑してしまった太公望は、改めて説明を再開する。もちろん、核心となるような情報は完全にぼかし、表現を変えた上で。

 

「王天君はな、まだ幼い頃に――敵国側と停戦条約を結ぶための人質として送り込まれていた、わしの双子の兄なのだよ」

 

 ……奇しくも、半身と同じ『兄弟』という表現を使うことになった太公望。ここで一切嘘をつかずに自分たちにまつわる話をするとなると、冗談抜きで日が暮れる。そこで彼は最も手っ取り早く、わかりやすい手段に訴えたのだった。

 

 かたや『双子の兄弟』と聞いたタバサの片眉がわずかに動いた。彼女がこのような反応を見せるのも無理はない。ガリア王国は、かつて双子の王子が起こした内乱によって、激しく疲弊した。その悲劇を二度と繰り返さぬため、もしも王族に双子が生まれた場合――後に生まれた者は『忌み子』とされ、その場で命を奪うか、二度と戻れぬ遠方へ流すという習慣がある。中には東方へ送られた者もいたという噂だ。

 

 もしかすると、彼の国にも似たような習慣があるのだろうか。そんなことを考えていたタバサはふとした疑問を覚え、口にした。

 

「双子なら、顔を見ればすぐにわかるはず」

 

 タバサの疑問に「それなのだが……」と、深いため息をつきながら太公望は言った。

 

「王天君はな、こちらで言うアカデミーのような場所で人体実験の材料とされ――肉体を妖魔そのものに変えられてしまっていたのだ。わしの肌を青白くして、書物で読んだエルフのように長い耳を持たせたような姿だと思ってもらえばイメージがわきやすいと思う。おまけに、その実験の副作用で心までもが壊されていた。だから、出会った後も……しばらく互いの関係がわからなかった」

 

 沈んだ顔でそう語る太公望の言葉に、タバサは戦慄した。

 

(そういえば、彼は戦乱で妹を失っていたはず。まさか、実の兄までがそのような目に遭っていたとは。しかも、出会った時は敵同士……)

 

 戦いを忌避する彼が、どうして軍学を学んだのか、タバサには嫌というほど理解できてしまった。形こそ違えど、自分も――大切な家族を戦いの末に失っていたから。治療の見通しこそ立ってはいるものの、現時点ではまだ母の心も壊されたまま……元に戻っていない。

 

 〝召喚〟は自分の属性に合う相手を自動的に選び出すという。だとすれば――この出会いのなんという皮肉なことか。わたしたちの境遇は、あまりにも似すぎている……。

 

 身体の震えを抑えきれないタバサをよそに、太公望の説明はまだ続く。

 

「わしを『軍人』『政治家』とするならば、王天君は『暗殺者』にして『策謀家』だ。女狐の英才教育を受けた兄は、特に裏の仕事に秀でておってな。あやつが仕掛けた罠によって、多くの仲間たちが殺された……」

 

 実の兄が自分の仲間を罠にかけ、暗殺していた――タバサは『始祖の加護』などというものは、やはりこの世には無いのだと実感した。そのようなものが本当に存在するならば、彼やわたしがこんな酷い運命に翻弄され続けることなど、あろうはずがないではないか。

 

「でだ。そんな兄が、あるとき偶然……内部に残されていたとある資料に目を留め、知ったのだ。自分に双子の弟がいたことを。そして探し続けていたのだよ……たったひとり生き残っていた肉親を。まさかその相手がわしだとは思いもよらんかったようだが。もっとも、それはお互いさまだがのう」

 

「どうして、お互いのことがわかったの……? 姿も、何もかも変わっていたのに」

 

 震え声で訊ねたタバサに、太公望は断言した。

 

「魂魄が共鳴したからだ。例の夢への移動でタバサも見たであろう? わしらの間には魂を視る術があるのだ。だから、お互いに理解してしまったのだよ……目の前にいる相手が、間違いなく己と近しい者であることをな」

 

 そして彼らは互いをより深く理解するため、語り合い、やがて知るに至った。自分たちが、特に過酷な運命を強いられ続けていた兄が――長い戦いのせいで心身共に疲れきっていたことを。

 

「だから、当初は葛藤こそあったものの……最終的にわしらは過去の因縁を捨て、手を取り合って戦乱を鎮めるべく戦ったのだ。そして全てを終えた後、ふたりで疲れを癒やすための旅に出たのだ……」

 

 遠い目をして語る太公望を見て、タバサは悟った。数奇な運命の末に巡り会い、ようやく平穏を取り戻したと思っていた兄弟。その弟が事故とはいえ誘拐されたとなれば……当然のことながら兄は怒り狂うだろう。そして犯人を追い詰めようとするに違いない。

 

「あやつは間違いなく怒っておるだろう……」

 

(ああ、やはりそうだ。彼の兄――凄腕の暗殺者が、わたしの敵になった可能性がある。彼はそう言いたかったのだ。だから、最初に「怖がらせてしまうかもしれない」という注釈をつけてくれた)

 

 タバサは太公望から発せられるであろう次の言葉を覚悟して待った。彼をして『絶対に敵に回したくない』と言わせるほどの人物。そんな相手に狙われて、無事に済むはずがない。

 

 ところが次の言葉は、彼女の想像をして遙か斜め上どころか次元の彼方を越えていた。

 

「絶対、長い間放置しとったわしのことを恨んでおる! しかも、相当根に持っておるに違いない! あの手紙を見ればわしには一目瞭然なのだ! ものすごくあやつ好みな、心の端っこから、こう……キリキリと何かを削り取っていくような嫌がらせの数々ときたら……!!」

 

「……え?」

 

「悪かった! すっかりあやつのこと忘れて、こっちでひとりぐうたらしておったことは認める。だが、タバサを巻き込んでしまったのはわしの本意ではない! これだけは信じて欲しい!!」

 

「……えっ?」

 

 あああああ……! と、呻き声を上げながら頭を抱え、机に突っ伏してしまった太公望を見てタバサは完全に思考を停止してしまった。いったいどういうことなのか、さっぱり意味がわからない。

 

「怒らないで聞いて欲しい。あのな、たぶんなのだが……例の〝惚れ薬〟事件の時だ。あやつ、苦労して見つけたわしがこんな豪華な部屋で、ひとりぐーすか寝ているところを見てしまったのだ」

 

 ――実際のところは、おそらく〝惚れ薬〟のせいで操り人形のようになってしまっていた自分を、プチ・トロワ宮殿の中で見てしまったのだろう。もしも、あのとき自分が正気であれば『見られていた』ことにすぐさま気付けていたはず。そう――魂の共鳴で、互いが近くにいれば存在を察知できるからだ。

 

 発見した直後はタバサに怒りが向いたに違いない。ただ、すぐさま異常に気付き、様子を見ていたのだろう。にも関わらず、太公望が正気に戻った今になっても連れ戻しに来ないということは……『自分の部屋』に閉じこもり、こちら側に察知されないようにしているということだ――それはつまり。

 

「それでもって……『オレが苦労して探してやってたっつうのによぉ……オメーときたら、こぉんなにイイお部屋でおねんねかぁ!? そーかい、そっちがそぉいうつもりならなぁ、オレにだって考えがあるぜ』とかなんとか言って、あっち側についてしまった可能性が大なのだ……!」

 

 ――さすがに『半身』のこと。ほぼ完璧にその思考を読みきった太公望であった。

 

 なるほど、彼の兄弟……双子の兄。確かにそうなのかもしれない。思考パターンがどこか彼と似通っている。しかも、どうやら弟以上に容赦のない性格をしているらしき兄が、よりにもよってあの魔法薬を飲んだ彼の姿を見てしまっていたとしたら……間違いなく敵に回る。タバサは頭がくらくらしてきた。

 

「ただ、今現在『王天君の部屋』から見られていないことは保障する。もしも『窓』がわしの近辺に繋がっておれば、すぐに魂が共鳴するはずだからのう。もちろん、昨日の作戦行動中にもそれらしき気配は感じられなかった。ということは……おそらく今は王宮を拠点に『部屋』を作り、潜んでおるに違いない」

 

 王宮に潜んでいる……最悪ではないか。間違いなく彼がおかしくなっていたところを見られている。タバサの精神は、既に崩壊寸前のところまで追い込まれていた。

 

「そういうわけでだ、タバサよ。おぬしには本当に申し訳ないことをしてしまった! わしがうかつな真似をしたせいでこんなことになってしまうとは、痛恨の極みだ。ああ、ちなみに現時点で兄は絶対にタバサに対して怒りを向けてはおらぬ。その点については安心して欲しい」

 

「どうして、そう言い切れるの?」

 

 かろうじて残った気力を振り絞り、タバサは解答を求めた。

 

「もしも兄が、タバサにほんの少しでも怒りを向けておれば……その時点で間違いなくおぬしが死んでいるからだ。言ったであろう? あやつは天才的な『空間使い』にして『暗殺者』だと。わしと違って躊躇ったりなどせぬ。おぬしの背中側に『窓』を開けて、そこから刃を、こう……ズブリ。それで終わりだ」

 

 暗い顔をして、自分の心臓に手刀を突き立てる太公望を見たタバサは、すうっ、気が遠くなっていくのを感じた。そして彼女はそのまま翌朝まで目を覚まさなかった……。

 

 

○●○●○●○●

 

「……いくらなんでも、脅かしすぎてしまったかのう」

 

 そもそも王天君は、いきなり背後から刺したりするような真似はしない。どちらかというと、その策でもって相手を精神的に追い詰め、自滅させるような戦い方を好むからだ。今回の発言は、タバサが太公望に対して持ってしまった罪悪感を別のところへ向けるための方便だ。正直やりすぎだった気がしないでもないが……。

 

「しかし、我ながら迂闊であったわ。虎穴に入って虎児を得るつもりが、虎の尾を踏んでしまったらしい」

 

 太公望はイザベラと会おうとした時点で、こうなることを想定しておくべきだったと悔いた。タバサと血の連なる存在が〝召喚〟を用いたらどうなるのかを。そして、もっと早く気が付くべきだったのだ――自分の魂が、ごくごくわずかではあるが、ざわめきを覚えていたことに。

 

「まあ、王天君がわしだけに怒りを向けておるのは間違いなかろう」

 

 それだけが不幸中の幸いだ。太公望は改めて手紙の文面を見直した。たしかに『らしい』内容ではあるのだが、王天君が書いたにしては芝居がかりすぎている。とはいえ、助言を与えている可能性がなくもない。

 

「騎士団章と略章の着用規則については、一応タバサから確認をとらねばならぬが……マントへの刺繍は裏地の内側にでも入れておけばよかろう。場所の指定はないわけだからな。文句があるなら、次は裏地の表に。まだ何か言ってくるようであれば、小さ~く、目立たないのをどこかに入れればいいのだ。大きさの指定もされておらんのだから」

 

 確かに、刺繍に関するこの解釈は間違ってはいない。いないのだが……ハッキリ言って『セコイ』と言われても反論できないレベルの反撃である。

 

「面通しのときに、どっちについておるのか探りを入れてみるかのう。イザベラのほうについていてくれれば、早々に停戦協定を結ぶことも可能であろうが、問題は国王についとった場合か」

 

 太公望は改めてその場合周囲がどう動くかを計算し始める。

 

「もしもこの文章を考えたのが国王単独であるならば、その危険さを王天君も察しているはず。いくらなんでもわしを見殺しにしたりは、たぶん……しない……と、思うのだが……本気で怒っておった場合、この肉体が滅びるのを待った上で、わしの魂魄だけ回収に走る可能性がなくもない……うむ、ここは念のため確認せねばならぬな!」

 

 両腕を組み、うんうんとひとり納得する。先程タバサに話した「後ろからグサリ」の件だが、自分に適用される可能性がないわけでもないのだ。いくら自分が『不老不死』たる仙人とはいえ、肉体が滅びるときの苦しみは耐え難いものがある。過去に消滅を経験している太公望は、さすがにそれだけは避けたいと思った。

 

「それにしても、タバサを巻き込んでしまったのは迂闊であった……」

 

 いや、最悪の場合は彼女だけではなく、側にいる友人たちにまで累が及ぶかもしれない。彼らに出会う以前の太公望であれば、とっくに面倒になって逃げ出しているところだ。しかしそれをするにはもう――彼らにも、この地に対しても情が移りすぎていた。

 

「わしはただ、おかしな義務に縛られず、静かにぐうたら過ごしたい。気の合う仲間たちと馬鹿なことをして、のんびりと暮らしたいだけなのだ。王天のやつも含めてな。にも関わらず、こうも立て続けに問題が起こるというのはいったいどうしたことなのだ!?」

 

 マチルダの家族の問題といい、水の精霊からの依頼といい、この件といい――やはり、この世界の『始祖』に出会ったそのときには『打神鞭』の最大出力、いや。王天君と融合した上で、改めて『太極図』攻撃形態でもって挑んでくれるわ……!

 

 助けを求める声に対して無碍にできない自分の性格と今回の失策を完全に棚に上げ、ハルケギニアの『始祖』に対して再び呪いの言葉を吐く太公望。

 

 ある意味とんでもないものを呼んでしまったブリミルこそ、いい災難であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして翌朝。

 

 目を覚ましたタバサへ改めて謝罪の言葉を述べた太公望は、今後どうするかについて相談を持ちかけた。略章は基本、左胸の上のほうへつけるとのことなので、それは現在のマントならばうまく隠れる位置につければいい。そう思って一瞬胸をなで下ろした太公望であったが……まだ手元にない騎士団章については、どうにもならなかった。

 

 何故なら、それはマントを留める形で使うのが規則とされているからだ。魔法学院の学生たちが身につけている五芒星のタイピンのようにマントの前面へ目立つように身に付けるものなのだという。しかも鎖状の紐付き。これではどうにも隠しようがない。

 

「つまり、わしがガリアの貴族になったことは遠からず知れ渡るというわけだな」

 

「シュヴァリエの紋だけならともかく、騎士団章を身につけろと書かれているのは痛い。北花壇騎士(ノールパルテル)なら『存在しない存在』だけに必要ないけれど、東花壇騎士(エストパルテル)はそうもいかない」

 

「と、なると……例のヴァリエール家の歓待の際には下手に隠さぬほうが得策か。タバサの正体が知られる可能性が高まるが、構わぬか?」

 

「問題ない」

 

 心底申し訳なさそうに聞いてきた太公望に、タバサはそう答え、さらに補足した。

 

「髪の色で気付かれている可能性が高い」

 

 以前使者として訪ねてきたエレオノールは、タバサを見た途端挙動不審になった。異国ではさほど知られていない『ガリアの青』だが、爵位の高い貴族なら実物を見たことがあるかもしれない。

 

「なるほど。ならばマントのほうはともかく、略章は見える位置につけることにしよう。学院内では、もう少し隠しておくがのう。それにしても、実に面倒なことになったものだ」

 

 そう言ってため息をついた太公望。と、彼はとあることに気付き、タバサに尋ねた。

 

「勲章で思い出した。タバサよ、おぬしトリステインから精霊勲章もらったか?」

 

「まだ。そもそもフーケが逃亡しているのだから、報奨が出るほうがおかしい」

 

「いや、そんなことはないぞ? オスマンのジジイはとうの昔に申請書を出しておるし、これは例の『政治的取引』とは完全に別件なのだから」

 

 言われて小さく首をかしげるタバサ。

 

 精霊勲章とは、立てた軍功に応じて受けられる報奨のひとつだ。受勲によって一定額の年金が保障される。最低額は年間二百エキュー、平民ひとりが一年間遊んで暮らせるほどの金額だ。ガリア王政府の手から逃れた母と老僕を養うには到底足りないが、お金はいくらあっても困らない。

 

「もらえるものなら、もらいたい」

 

「まあ、トリステインの場合は王政府がまともに機能しとらんからのう。そのせいで、単純に申請書類が埋もれているだけかもしれぬが……あとで狸にせっついてみるか」

 

「助かる」

 

 ――トリステイン王国の王政府が機能していない理由。それは先帝崩御の後、本来であればその責務を引き継ぐべきマリアンヌ王妃が喪に服したまま、なんと三年以上もの長きに渡り、国の頂点に立つ者としての役割を一切果たしていないからだ。

 

 現在は先帝の片腕として宰相職に就いていた『鳥の骨』マザリーニ枢機卿が王政府と議会全体を取り仕切り、なんとか現状維持に留めているのが精一杯という状態である。これでは国が衰退するのも無理はない。

 

 ……ロングビルからの情報や自分なりの解釈で、既にハルケギニア各国の情勢をある程度把握している太公望であった。

 

「わしの見立てだとマザリーニ枢機卿ひとりで保っておるようなものだぞ? この国は。もしも彼がいなくなったら、最悪の場合――内乱が起きた上に、国そのものが崩壊するであろう。それに比べてリュティスのあの栄えようといったら……あれほどの内政手腕を持つ国王を『無能』だなどと本気で思っている者がいたとしたら、そやつはただの馬鹿だ」

 

 タバサもそれには当然気が付いていた。だいたい魔法の腕だけで国王になれるなら、父は今も生きていて、グラン・トロワの中心でガリア国王として立ち、政治の杖を振るっている。しかし、わかっていても感情というものはそう簡単に割り切れないものだ。特に、復讐という強烈な意志に動かされているのであれば、なおさらだ。

 

「今回の手紙の件といい、油断ならぬ相手だぞ。それをきちんと理解しておるか?」

 

 少女の眉がピクンと跳ねた。

 

(彼は、やはりわたしの目的を見抜いている……その上で、言外に注意を促してくれた)

 

 タバサは太公望の目を見て告げた。

 

「わたしは色眼鏡で()()()を見ていた。それは否定できない」

 

「それでよい。相手を知らないのであれば、知る努力をすればよいのだ。ただ、あくまでわしの主観だが……あのジョゼフという男は、それをさせてくれるほど甘い相手ではないかもしれぬ」

 

 そのあたりは例の受勲と面通しの際に、ある程度見ることができるであろう。直接会えればよいのだがな。そう言って、タバサに向け微笑んだ太公望であったが――その目は一切笑っていなかった。

 

 

 





いつも誤字報告ありがとうございます。
修正滞っていて申し訳ありません。
きちんと全部目を通しています。

……ひとつ贅沢なリクエストなのですが、
用法などのコメントは無しでお願いできますでしょうか?
勉強になってありがたいのですが、
執筆環境の関係上、修正に時間が掛かってしまうので;

特別なコメントがあります際は、感想欄または
メッセージにていただけると助かりますm(_ _)m



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第37話 団長は葛藤し、軍師は教導す

「なんだ、この命令書は……」

 

 伝令兵からそれを受け取った男は使いが立ち去った直後、怒りで声を震わせた。

 

「どうかされましたかな? 団長」

 

 団長と呼ばれた男は振り向いた。声の主は髪に白いものが混じり始めた壮年の騎士だった。自分の父とほぼ同年代であるこの人物を、彼は肉親のように信頼している。

 

「副長か。これを見てくれ」

 

 老騎士は渡された羊皮紙を手に取ると、一読し――それからすぐに眉を顰めた。

 

「どうだ? とんでもないことを言ってきたぞ、あの薄汚い簒奪者めが!」

 

 憤る男を副長が窘めた。

 

「カステルモール団長。郊外の練兵所とはいえ、どこに目と耳があるのかわかりませぬ。お気持ちは理解できますが、どうか自重なさってください」

 

「わかっている! ……ああ、すまない。お前はわたしを気遣ってくれているというのに」

 

「それが役目でございますれば」

 

 柔らかに微笑む副長に、カステルモールと呼ばれた男は笑みを返す。

 

 男の名はバッソ・カステルモール。ガリア王国の名誉ある騎士団の一画・東薔薇花壇騎士団の団長を務めている人物だ。彼は練兵所での訓練中に届いたジョゼフ一世からの命令に憤慨していたのである。

 

 国王の側近くに仕える花壇騎士の団長として、主君に対しそのような感情を覚えるというのは不敬である。通常ならばそう受け取られてしかるべきなのだが――カステルモールが現在仕えている国王ジョゼフ一世が普通ではないのだ。

 

 ついつい漏らしてしまった「薄汚い簒奪者」という言葉通り、ジョゼフは一国の王として相応しい人物ではない。それが彼と、彼の周辺に集まっている者たちの共通認識だった。

 

 何せジョゼフは魔法が使えない。『始祖』の直系という尊い血筋に連なる幸福に恵まれながら、それに胡座をかき努力を怠ってきた証である。いくら皇太子として定められ、王位継承権第一位を所持していたとはいえ、騎士としてもブリミル教徒としても、そのような男に仕えるなど御免被る。

 

 しかも、ジョゼフは実の弟を手に掛けた。魔法の才に溢れ、心優しく、貴族たちの人望も篤く、大勢の民に慕われていたシャルル王子を暗殺したのだ。自分の地位を脅かす敵として!

 

 カステルモールは、かつてこの練兵所でシャルル王子に声をかけられた日のことを思い出した。

 

「お前はまだ若いのに見どころがある」

 

 そう言って、わざわざ時間を割いて魔法の手ほどきをしてくれたシャルル王子のお陰で今の自分がある。殿下が至高の座にお即きあそばされた際には、心からの忠誠と我が生涯を捧げよう。そこまで心酔していた。

 

 ところが、貴きお方は毒矢などという下賤な武器で若い命を散らされてしまった。当時まだ十代の若さで、かつ爵位の低かったカステルモールはガリア国内で吹き荒れた粛正の嵐から逃れることができたが……彼は今でもシャルル王子への恩を忘れていない。

 

 行き場のない彼の忠誠心は現在、恩人の忘れ形見であるシャルロット姫殿下に捧げられている。

 

 とはいえ、そんなことを公言すれば間違いなく粛正の対象となる。それだけならまだしも、大公姫殿下とその母君の身に危険が及ぶ。

 

 そう考えたカステルモールは影から彼女を支援すべく、賛同する者たちを少しずつ自分の元へと集め――そして現在。この東薔薇花壇警護騎士団の団員全てがシャルロット姫殿下に対し、表に出せぬ忠誠を誓う騎士団へと変貌を遂げていた。

 

 にもかかわらず、そんな彼の努力をあざ笑うかのような命令書が届いたのだ。

 

「よりにもよって……」

 

 今にも命令書を握り潰しそうな年下の団長をなだめながら、副長は溜め息をついた。

 

「まさか、例の異邦人をこの騎士団の末席に加えろと言ってくるとは……」

 

 ――異邦人。問題の人物のことを、カステルモールや副長の老騎士のみならず、東薔薇花壇騎士の団員たち全員がそう呼んでいた。

 

 彼らが本来仕えるべき主人が、留学先であるトリステイン王国の魔法学院で執り行なった〝使い魔召喚の儀〟。そこで事故を起こした結果であり、異物的な存在。直接その姿を見た者によれば、貴族に対する礼儀もろくに知らないような、学の無い流浪の民だという。ハルケギニアでは珍しい黒髪の少年は彼ら『シャルル派』にとって、目の上のたんこぶそのものだ。

 

「例の異邦人が〝召喚〟されてからというもの、我らも肩身が狭くなり申した」

 

 副長から出た偽らざる本音に同意するカステルモール。

 

 この召喚事故により、それまでシャルロット姫に忠誠を誓っていた大勢の貴族たちが掌を返すように多数離反してしまった。そして、それを憎き簒奪者の娘――北花壇警護騎士団長のイザベラが派手に周囲へと喧伝した上で、嘲笑っているのを、彼ら東花壇警護騎士団の団員たちは皆知っていた。

 

「とはいえ、喚ばれた子供に罪はありません」

 

「ああ、もちろんわかっている。本人も、わざと召喚の邪魔をしたわけではない。たまたま、ゲートが彼のすぐ近くに現れてしまっただけなのだろう……」

 

「はい。姫殿下もお気の毒ですが、彼とて一方的に故郷から連れ去られた被害者なのですから。しかし、憚りながら……団員たちがそれを悔しいと思っているのも事実です」

 

「そうだな。わたし自身、時折もっと姫殿下に相応しい――たとえば風竜などが召喚に応えてくれてさえいれば、今の苦境は無かっただろうと考えてしまう。すまんな副長、未熟な団長が苦労をかけてばかりで」

 

「いいえ、団長たちを支えるのが私の生き甲斐ですので」

 

 優しく微笑む副長に、カステルモールは心の中で頭を下げた。この老爺には〝騎士〟(シュヴァリエ)に叙勲されたばかりの頃から世話になりっぱなしだ。いつかその恩に報いねばなるまい。

 

(例の異邦人は、基本は北花壇警護騎士団に配属される。あくまで東薔薇警護騎士団への所属は偽装に過ぎないようだ。それでも、最低一度は面通しの為に顔を合わせねばならない。そのとき、わたしは……己の胸に秘められた感情を抑えることができるのだろうか――?)

 

 カステルモールは思わず天を仰いだ。雲ひとつ無い澄んだ青空が、そんな彼を悠然と見下ろしていた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽう、そんな理不尽な憤りを向けられつつあった当の太公望はというと。

 

「で、でも、私、そんなこと……」

 

「もう! シエスタったら。いつまでもウジウジしてたら、欲しいものは手に入らないのよ! ここは押して押して押しまくるべきよ!! ミスタもそう思いませんか?」

 

「いや。あやつの性格から察するに、押し過ぎると逆に引かれてしまうと思うのだが」

 

 ……厨房の片隅にある休憩所で、メイドたちと暢気に雑談を楽しんでいた。

 

 温めのお茶をぐいとひと飲みしたシエスタは、困ったような顔をして同僚に言った。

 

「ほら、ローラ! タイコーボーさまもそうおっしゃってるじゃないの」

 

「えーっ、でも……落としたい相手に迫るのは当たり前じゃない!」

 

 ローラと呼ばれた眩い金色の髪のメイドは頬をぷうっと膨らませ、不満げに口をすぼめている。ふたりの意見が気に入らないのであろう。そんな彼女の様子を見て、思わず苦笑いする太公望。

 

「押すのが悪いと言っておるわけではない、程度というものを考えねばならぬのだ。やりすぎて、万が一ストーカーなんぞと勘違いされたら、目も当てられぬぞ?」

 

「すとおか……って、なんですか?」

 

 首をかしげたシエスタとローラに、太公望は暗い顔をして語り始める。

 

「実はな、昔……こんなことがあったのだよ」

 

 かつて、知り合いの娘に一目惚れをした男が、彼女のことを一方的に『運命の相手』だと思い込んで暴走し、異常なまでの行動(ストーキング)を繰り返した結果――その娘に決定的なまでに嫌われたばかりか、ついには命を落とす結果になった事件の顛末を。

 

「ずっと後ろをつけてこられるとか、めちゃくちゃ怖いんですが……」

 

「何をしていても見られてるとか、想像しただけで鳥肌が立ってくるわ……!」

 

 両手で自分の身体を抱え込み、ガタガタと震えるメイドたち。

 

「で、あろう? もしもそんな輩と勘違いされてしまったら……」

 

「た、確かに押し過ぎは問題ですわね……わたしも考えて行動しなきゃ」

 

「勘違いはされたくないけど、想いは伝えたい場合はどうしたらいいんでしょうか」

 

「普通に告白すればよいのでは?」

 

「それが難しいから悩んでるんですよォ~!」

 

 ……などという実に緊張感のない会話をしている太公望。昨日の今日でもうこれである。

 

 まあ、今の時点でじたばたしても焦るだけで意味がないということと、彼なりにちゃんとした理由があってこの場を訪れていたわけだが。

 

 と、そんなところへ厨房の長マルトーが顔を出した。恰幅の良い四十過ぎの親父である。特別にあつらえたシェフコートを身に纏い、コック帽からはみ出た金色の髪は、厨房と外の熱気により吹き出した汗で濡れている。

 

「待たせたな! 頼まれた件についてはもちろんオーケーだ。けどよ、本当にいいのか? 男連中を連れていったほうが役に立つんじゃねえか?」

 

「いや、申し出はありがたいのだが、そもそも危険なことや荷物持ちをさせるつもりはないので男手は必要ないのだ。それに、シエスタは土地勘があるからのう」

 

「そういや、タルブへ立ち寄るって言ってたっけな」

 

 ――タルブ村。トリステイン北部にある国内最大のワイン産地だ。

 

 太公望は魔法学院が夏休みになった翌日から、水精霊団に所属するメンバーたちと共に『宝探し』に出る予定だった。最初の目的地は深い森の奥にある、とある事情で廃村となった場所だ。そこへ同行してくれる、山歩きができて、なおかつ野外での調理が上手い料理人をひとり手配してもらいに来ていたのである。

 

 偶然、廃村の次の目的地としていたタルブの村がシエスタの故郷だったこともあり――太公望はシエスタを一週間ほど借り受ける旨、オスマン氏にまず確認をした上で、現場の責任者であるマルトーへ依頼しに来たのだ。ついでに当日昼の弁当の注文を兼ねて。

 

「ちょうどシエスタも再来週から休みに入るところだったんだ。少し早い里帰りだな」

 

「は、はいっ! ありがとうございます!」

 

 シエスタは笑顔で許可を出してくれたマルトーに感謝した。もちろん早めの帰郷は嬉しい。でも、それ以上に彼女にとってはありがたいことがあった。何故なら今回の冒険には彼女が以前から好意を寄せている男の子――才人が同行することを知っていたからだ。

 

「それじゃ、例の件は頼んだぜボウズ」

 

「かかかか、任せておけ! タルブのいいやつを数本見繕ってきてやるわ。まあ、どうせまたわしがこっそりいただいて飲んでしまうわけだが!」

 

「へッ。ウチの厨房特別守備隊を、そう何度も突破できるもんかい! なあみんな!!」

 

「我々は、防衛ラインを突破させない!」

 

「させない!!」

 

 手の動きは一切止めず、ぐるりと首だけ休憩所方面へ向けて唱和するコックたち。

 

 ――料理長のマルトーと厨房で働くコック一同。彼らはこの学院における全ての食を担う存在だ。

 

 そんな彼らは腕の良い職人たちの例に漏れず、魔法と、それを用いるメイジたちを毛嫌いしていた。マルトーなど、魔法学院の料理長という立場にありながら堂々と「給料がいいからここで働いてやっているだけだ」などと嘯いているほどだ。

 

 そんな厨房の料理人たちだったが、彼らは同じ平民の才人と、彼と仲の良い太公望、そしてその主人であるタバサのことは結構気に入っていた。

 

 才人は以前、シエスタを庇い貴族に立ち向かったその勇気と『平民は貴族に勝てない』という常識を打ち壊した英雄であること。時折「いつも美味しい料理を食べさせてくれるお礼」などと称して、薪割り他の手伝いをしていく義理堅さが大いに受け。

 

 タバサに関しては、彼らが精魂込めて作った料理を絶対に残さず、全部綺麗に食べてくれることを評価しており。

 

 そして太公望はというと、全く貴族らしくないその態度と――マルトー率いる『厨房最終防衛ライン』を巧みに突破してはワインや果物をちょろまかしたり、つまみ食いをしていくいたずらっ子として認識していた。

 

 料理人たちは最初のうちこそ腹を立ててはいたものの、最近ではいかに太公望に見つからないよう秘蔵の品々を隠し通すか。それを考えることを一種の娯楽として昇華している。彼を引っかけるための罠について、わざわざ定期的に作戦会議を開いているほどだ。

 

 ちなみにその会議にはこっそり才人も顔を出していたりする。もちろん、太公望には内緒で。

 

 ――なお、これまでの最高傑作は才人が作成した『ぴたごらすいっち』なる罠である。

 

 太公望が人気のない時間帯にこっそりと厨房へ忍び込み――ワインのある戸棚を開けた瞬間。棚の裏側に取り付けられていた糸が引っ張られ、フライパンの大演奏会だの、そこらじゅうの扉の連続開閉だのが発生した挙げ句、何が起きたのかわからず混乱していたところへ棚の上に仕掛けられていた金属製のタライが落ちてきて、実にいい音を立てた。

 

 あの時は隠れて見ていた厨房の者たち全員が、大いに湧いて――と、まあそんなことはさておき。

 

 週明けの早朝――夏期休暇初日の朝、所定の場所へ集合とシエスタへ告げた太公望は、厨房を後にした。果物籠の中から、さりげなく桃をふたつほど懐に忍び込ませながら。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして夕方、最近ではすっかり水精霊団の溜まり場となっている中庭にて。

 

「と、いうわけで食事の手配その他諸々は済んだ」

 

 太公望の言葉に、わっと歓声を上げた水精霊団メンバーたち。

 

 もうすぐ夏休み。彼らが楽しみにしていた胸躍る冒険の日々が、目前に迫っていた。

 

「最初にこれだけは言っておく。今回行われる『冒険』で、わしは一切手を出さない。たとえ戦闘になっても、あくまで見ているだけとする。おぬしらだけでなんとかするのだ」

 

 それを聞いたギーシュが抗議の叫びを上げた。

 

「そんな! どうしてだい? ミスタは我が水精霊団の最高戦力なのだよ!?」

 

「だからなんじゃないの?」

 

「は?」

 

 ぽかんとしている同級生たちに、ルイズは自分なりの考えを述べた。

 

「これはわたしたちの冒険なのよ。彼に手伝ってもらったら、暗号名を決めた意味が無いじゃないの!」

 

「あ、ああ、そういうことか」

 

 彼らのやりとりに太公望は満足げに頷いた。

 

「今のおぬしたちが〝力〟を合わせれば、それほど危険はないであろう。万が一の場合は一応手助けはするが……」

 

「するが?」

 

 タバサの問いに、太公望はあっさりと答えた。

 

「その場合、全員が減点対象となるので危険な状況に陥らないよう注意するのだ」

 

「減点対象ってなんだよ!?」

 

 才人からのツッコミを受け、太公望は懐から一冊のメモ帳を取り出して見せた。それは皮ごしらえの表紙で、単なるメモ帳にしてはなかなかに立派なシロモノだった。

 

「これは学院長から預かった、全員分の考課表だ。道中、皆の行動をわしが評価した上で点数をつける。そしてその点数は、実技の成績表に加味される」

 

「つまり……テストの成績が悪かった場合、ここで頑張れば取り返せるってこと?」

 

 これまで魔法の実技がボロボロだったルイズが顔を輝かせた。最近はともかく、以前のマイナス分がここで取り返せるというのは彼女にとってありがたいことなのだ。

 

「そういうことだ。なお、冒険中は『授業に出ている』とみなされ、そのぶんの日数を別途休日として申請できるようにすると狸が言うておったわ」

 

 わっと沸く生徒たちと、やや不満げな態度の太公望。

 

「なにか問題があるの?」

 

「その代わりにわしがしっかりと考課表をつけねばならぬのだ! まったく面倒な……」

 

「何と引き替え?」

 

「桃のタルトだ」

 

「安ッ!」

 

「何を言うのだ。なんと、ホールまるごとだぞ!?」

 

「デザートに左右されるわたしたちの成績表って一体……」

 

 漫才化しつつあったやりとりを中断し、無理矢理確認を入れたのはレイナールだった。

 

「つまり、教導官つきの実戦訓練みたいな扱いになるということかな?」

 

「そういうことだ。ただし才人は学生ではないので、冒険後にもらえる報酬が増減すると考えてくれ。ちなみに手を貸さないというのは、あくまで今回のみの措置だ。以後、冒険の難易度が上がっていくに従ってわしも参加するようになる……かもしれぬ。まあ、完全に状況次第だのう」

 

「本格的にゲーム始める前の、チュートリアルみたいなもんだな!」

 

 才人の言葉に全員が首をかしげた。ハルケギニアにゲーム用語があるわけがない。失敗したかな……などと思いつつ、才人は頭を掻いた。

 

「あー。えっとだな、前準備を整えてもらった上に、説明つきの冒険ができるって意味だ。何も無い状態から始めるよりもずっと安全だし、勉強になるわけだ。うん」

 

「なるほど」

 

「ところで教導官って何かしら?」

 

 そう尋ねてきたモンモランシーには、ギーシュが答えた。

 

「軍隊における教官……つまり、先生のようなものでね。当然のことだけど、実戦経験が豊富で、かつ指揮や作戦立案能力の高い人物が特別に選ばれて任官するのさ。士官学校の生徒じゃなく、既に実戦経験を積んだ相手に実技や指揮を教えるんだ、そんな大切な役目を実力のない者が果たせるはずがないからね」

 

「そういうことなら、ミスタは適任よね」

 

 そのルイズの発言に、タバサを除く全員が太公望の左胸――濃紺色の外套に着けられた〝騎士〟と〝東薔薇花壇警護騎士団〟の略章を見る。

 

 ――太公望はタバサと色々話し合った結果、まずは水精霊団のメンバーにのみ略章のお披露目をすることにしたのだ。もちろんこれはヴァリエール公爵家の歓待前に行うべき下準備と、ガリア王政府の目がどこまで届いているのかを確認するための措置である。

 

 当然ながら、才人を除く全員が驚いた。才人も説明を受けてびっくりした。もっとも、彼の場合は「外人が日本国籍もらえたようなもんか」程度の認識だったのだが。

 

 最下級の爵位とはいえ、出自もわからぬ異国の民が貴族としての身分を手に入れただけに留まらず、他国にもその名を知られた〝花壇騎士〟に叙せられたとあっては、驚くなというほうが無理だ。先進的な意識を持つ帝政ゲルマニアならばともかく、他国ではまずありえないような厚遇である。

 

 つまりこの略章は太公望という人物の実力を、大国ガリアが認めた証なのだ。

 

 ……本人がちっとも喜んでいないのは、この際脇へ退けておく。

 

 余談だが。太公望が使用人のひとりを借り受けるための許可を得にオスマン氏の元を訪れた際に、件の略章を見た氏は、内心で悶絶していた。

 

(おのれ、まさかガリアに先を越されるとは……!)

 

 彼はタバサと太公望の主従ふたりを揃ってトリステインに取り込みたいと考えていた。

 

 タバサ――シャルロット姫はガリアの元王族だが、厄介払いも同然に海外へ留学させられている以上、宮廷政治にからむような真似をしなければ、むしろ歓迎されるであろうと睨んでいた。

 

 太公望に「教師にならないか」と持ちかけたり、秘書としての採用を匂わせていたのはその前振りだったのだ。タバサの卒業後にふたりを娶せ、自分の養子にしてしまえば、トリステインが受ける恩恵は計り知れない。そこまで考えていた。

 

 タバサの才能と太公望の知識は、オスマン氏にとって喉から手が出るほど欲しいものだったのだ。

 

 ところが、ガリア王政府の素早い行動で、それをあっさりと覆されてしまったのだからたまらない。ただの〝騎士〟なら既に学院で雇っているなどと言い訳をしても問題にならなかっただろうが――よりにもよって、ガリア王国騎士団の花形である〝花壇騎士〟に叙せられたとあってはもう手が出せない。

 

 従者扱いの魔法学院と貴族待遇のガリア王国。はっきり言って勝負にならない。

 

 用を片付け、部屋を出て行った太公望の後ろ姿を見送ったオスマン氏は、ぐったりとセコイアの机に突っ伏してしまった。

 

 ところで。ヴァリエール公爵家の招待について、ルイズは後から加入した友人二名を追加して欲しいとの旨を実家に問い合わせた上、了承をもらっている。もちろん、ふたりに予定の確認を取った上でだ。思わぬ役得に、モンモランシーもレイナールも二つ返事で頷いていた。

 

 ……閑話休題。

 

「そういうわけで、わしの立ち位置については理解してもらえたと思う。さてと……それでは、いよいよ今回の『冒険』について、詳しく説明したいと思う」

 

 この言葉に顔つきを変えた生徒たち。それを見た太公望は、冒険内容を説明し始めた。

 

「現場はトリステインとガリアを結ぶ街道にある廃村『ジャコブ村』。そこに巣くうオーク鬼三十体の殲滅、並びに村の解放だ。達成時に支払われる懸賞金は合計で五千百二十五エキュー。現地で手に入れた各種アイテムについての取り扱いはこちらに一任されている」

 

 歓声を上げるメンバー。だが、タバサだけが何かしっくりこないような顔をしている。その理由は単純だった。何故なら――。

 

「オーク鬼三十体……たしかに、それなりの賞金がかかる相手。でも、五千エキューを越える懸賞金が出るような討伐任務ではない。六~七百エキューが相場」

 

 その問いに「よくぞ聞いてくれました!」とばかりに太公望が答える。

 

「ああ、それなら簡単だ。懸賞金をかけていた団体が複数あったからだよ」

 

 これを聞いた才人がピンときた。

 

「ああ、そっか。なるほどな! クエストの重複受諾か!!」

 

「クエスト……という言葉の意味をわしが正しく理解しているかどうかはともかく、才人の言うとおり重複して依頼を受けたのだよ。村を捨てなければならなかった者たち、その地を治めていたものの、手持ちの駒が足りずに困っていた領主と……」

 

 指折り数えながら依頼主を挙げ続ける太公望。

 

「近辺の街道を他国との交易道として利用していた商人たち。村の近くにある石切場から良質な石を切り出していた石工の組合。そして……オーク鬼そのものにかけられたトリステイン王国の賞金。これらを合計した額が五千百二十五エキューになった、と。そういうわけだ」

 

 トリステインの王政府を除く全てと交渉し、重複受諾をすることを前もってきちんと明かした上で、通常よりも遙かに安い金額で討伐依頼を請け負ったという彼に対し、才人を除く一同は声も出ない。

 

「まあ、よくあることだよな。向こうは少ないお金で仕事を頼める。こっちは普通にやるよりもたくさんお金がもらえる。お互い得だし、全然アリだろ。おまけに、あちこちの団体に俺たち『水精霊団』の名前を売るチャンス。うまくやれれば依頼が入ってきやすくなる。そういうことだよな?」

 

 ネットゲームなどでよくある状況だ。同じ場所を指定されているクエスト――依頼を複数同時に請け負うことによって効率よくお金やアイテムを稼ぐのが『クエスト重複受諾』だ。地球にいた頃は「特技はアクションゲーム」などと公言して憚らなかった程のゲーマーである才人はすぐさまその利点に気がつけた。

 

「その通りだ。これら交渉や現地偵察を行った報酬として例の魔道具ひとつをわしがもらい受け、その他の懸賞金については経費を差し引いた上で全員に分配する……と。どうだ、誰も損をしてはおらぬであろう?」

 

 確かに、誰も損をしてはいない。むしろ、通常よりも安く依頼を請け負ってもらえた者たちや、自分たちにとっては得しかない。あえて挙げるなら、ふっかけていた傭兵たちがババを引いた程度だろうか。

 

「ところで、きみが欲しがっている魔道具ってどういうものなんだい? わざわざ交渉までしたのに、賞金はいらないからそれだけもらえればいい、だなんて」

 

 レイナールの疑問に、全員が「そういえば……」という顔をして太公望を見る。

 

「うむ、実はそれなのだが……この冒険を終えた後に立ち寄る予定の、タルブ村にある伝説のアイテムと似たような名前を持つ品なのだ。ただし!」

 

 そう言って、彼は左手の人差し指をぴんと立てて注釈を入れる。

 

「触れた者を砂に変えてしまうという……呪いのアイテムでもある」

 

「うげ、なんだそれ」

 

「なんでそんな危険なものを欲しがるのよ……」

 

 思わず引いてしまった才人とルイズ、そしてその他のメンバー。ただし、タバサだけが違った見解を持ち合わせていた。何故なら、彼女のパートナーは自分が持つ杖に似たような処置を施していたことを覚えていたからだ。

 

「それは……もしかして、あなたの杖と同じ呪いがかけられているの?」

 

 その問いかけに満足げに頷いた太公望。

 

「その通りだ。例の『破壊の杖』の持ち主が才人の住む国の近くから〝召喚〟されたと聞いてな。もしかすると、わしの国から来ているものがあるのではと思い、色々と調査していたのだ」

 

 所持者以外が手に入れようとすると呪われ、生命力を吸い尽くされるという盗難防止用の措置が施された杖。そう……太公望の持つ『打神鞭』と同様の処理が施されているというアイテム。もちろん、それが初耳だというメンバーたちは驚き、当然ともいうべき質問を太公望へ投げかける。

 

「所有者以外が手にすると呪われるってことは……危険なのではないのかね?」

 

 その問いに、うんうんと頷く一同。だが、太公望はこともなげに切り返す。

 

「それについては問題ない。わしの推測通りならば、既にそれに触れていて、しかも手に入れたことがある道具だからのう。ならば、わしが呪われることなど絶対にありえぬ」

 

 そう断言した彼に、タバサは疑問を呈した。

 

「どういう道具?」

 

 タバサの質問に「それでは……」と、もったいぶったような口調で答える太公望。

 

「先に依頼のあった村とタルブ村において、その道具がなんと呼ばれていたか教えよう。ひとつは『竜の羽衣』、もうひとつは『天使の羽衣』だ。共に空から舞い降りてきたという、曰く付きの〝魔道具〟だ」

 

「空から舞い降りてきた……」

 

「曰くつきのアイテム……かあ」

 

 その姿を想像し、空想の彼方へと飛び立っていった子供たち。

 

 ――空に関係するふたつの〝魔道具〟。こうして、本来交わるはずのなかったふたつの歴史は改めて交差することとなった――。

 

 

 




週末なので2話投稿!
……完全新作じゃないので、さすがにもう少しペース上げたい。


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最初の冒険
第38話 水精霊団、廃村にて奮闘するの事


 ――ジャコブ村。今は廃墟と化しているその村は、かつて良質な粘板岩が切り出せる石切場への足がかりとして、あるいはトリスタニアからガリアの国境方面へ向かう商人たちの休息所として栄えていた地であった。

 

 また『天使が舞い降りた地』という伝説があったため、その証拠とされている羽衣を拝みにやってくる観光客が後を絶たなかった。それほどの村が、何故廃村となってしまったのか。

 

 それは数年ほど前のある日、血気に逸った若者たちが自分たちの実力もわきまえず、ジャコブ村から十数リーグ離れた場所に存在していたオーク鬼の巣窟に突撃を敢行。返り討ちに遭い、ほうほうの体でジャコブ村へと逃げ込んだ結果――村がオーク鬼たちに新たな餌場として目をつけられてしまったからである。

 

 近年では、オーク鬼たちは自分たちの巣を元いた場所からジャコブ村へと移転しており、何も知らずに近くの道を通りかかる旅人たちに襲いかかってくるのだという。もちろん、村を追われた人々は領主に掛け合った。

 

 しかしながら、この地を治める貴族にはオーク鬼の群れを追い払えるだけの兵力がなかった。そこで彼はトリステインの王政府へ騎士の派遣を訴え出たものの、返事はなしのつぶて。仕方なく領民たちは故郷を捨て、別の場所に移り住むしかなかったのである。

 

 そして現在――その廃村の中で複数の足音と怒号が響き渡っていた。

 

「くっそ、しつこいな、こいつら! ま、だからこそ作戦が上手くいくんだけどな!」

 

 コードネーム『ソード』こと才人はひたすら目的地に向かって走っていた。そこは前もって全員で決めていた攻撃ポイントだ。全員の中で最も足の速い彼が、特定の場所までオーク鬼数匹をおびき寄せる囮役を務めているのだ。

 

 才人を追っているオーク鬼は身長二メイル超。豚のように突き出た鼻を持ち、醜く太った身体を獣皮で造った鎧で包んでいる。彼らは広い肩をいからせ、手にした鉄棍棒を激しく振り回しながらブヒブヒというわめき声を上げていた。

 

「スノウαより報告。『ソード』ポイントAを通過。東側の路地を曲がり、現在ポイントCへ向けて駆け足にて移動中。どうぞ」

 

 仮設司令部に待機しているスノウことタバサが、α(アルファ)と名付けた〝遍在〟の目を通して見た現状を周囲に報告する。

 

「こちらブレイズ、了解した。ブロンズ司令! ここは作戦プランBへの切り替えを進言します」

 

 現況を聞いた参謀役――ブレイズことレイナールが司令官に声をかけた。

 

「ブレイズの進言を採用する。コメット、フレア。聞こえたかい?」

 

「任せて!」

 

「こっちもオーケーよ」

 

 ふたりの声の後に、今度はβ(ベータ)と名付けたもう1体の〝遍在〟の視点を確認しつつ、タバサが小さく声を上げた。

 

「スノウβより報告。『ソード』まもなくポイントCに到着。作戦切り替えに伴う進路変更のための合図を発信します」

 

 その声と共に、廃屋の屋根の上からチカッ、チカッと〝光源(ライト)〟の魔法が発せられた。それを見た才人はすぐさま作戦変更があったことを知る。そう、これは味方からの信号なのだ。

 

「点灯二回ってことは……プランBに変えたのか。だったら、この先の角を曲がった先でよかったはず……俺が巻き込まれないように、うまいことこいつらをおびき寄せないとな!」

 

 才人はぐんっと足に力を入れた。これまでよりも、ほんの少しだけ走る速度を上げる。だが、彼を必死に追い掛けるオーク鬼たちはそれに気付かない。

 

 そして。ついにプランBを実行するための目印を見つけた才人は大きく跳躍した。その直後。彼を追い続けていたオーク鬼たちは……その場で突如何かに足を取られたように転んでしまった。それもそのはず、地面に大量の油が撒かれていたのだ。

 

「今だ! 撃て――ッ!!」

 

 ブロンズ司令ことギーシュの合図と共に、フレア――キュルケの〝炎球〟(フレイム・ボール)数発が、オーク鬼の集団目掛けて飛んでゆく。

 

 油まみれになっていたせいであっという間に業火に包まれ、悲鳴を上げるオーク鬼。その場から逃げだそうと暴れたが、袋小路へ追い込まれている上に、何故か『見えない壁』に遮られて、外へ出ることもできない。

 

 遂には断末魔の叫び声を上げ、どうと崩れ落ちる。生き残りの一部が司令たちのいるバリケードを発見して突撃してきたが、司令官ギーシュが操るワルキューレの『盾』に行く手を阻まれ、さらに参謀レイナールの〝風の鞭〟(ウィンド・ウィップ)によって転倒。情報斥候として〝遍在〟を使い、周囲を観察しつつ司令部で連絡係に徹していたタバサの〝氷の槍〟(アイス・ジャベリン)によってとどめを刺された。

 

「やったあ! うまくいったぜ!!」

 

「ねえ、見た!? あたしの〝炎〟。素晴らしかったでしょう?」

 

 大喜びで駆け寄ってきた才人たちに、タバサが冷静な声で告げる。

 

「喜ぶのはまだ早い。今の音でここを察知された模様。遠くから雄叫びが聞こえた」

 

「むむ、それはいけないな。では、次の拠点へ移動するとしようか。ブレイズ、スノウと一緒に撤退ルートの割り出しを頼む」

 

 ギーシュの言葉にレイナールは頷くと、早速手元の地図を見ながらタバサと相談を始める。

 

「わたしの『壁』に、こんな使い方があるなんて思わなかったわ」

 

 自分の〝力〟の意外な使い方に驚きを隠せないルイズ。

 

「ワルキューレに『盾』を持たせるという考えから、ふと思いついたのさ。きみの可能性をね」

 

 ――今回の『作戦プランB』とは袋小路になった通路へオーク鬼を誘い込み、ギーシュの〝錬金〟で作った油で転倒させ、キュルケの炎で焼いてしまうという少々残酷なものであった。

 

 逃げ道を塞いでいたのは以前ルイズが才人と共に開発した〝防御壁(バリアー)〟だ。今回は一枚の壁を作るだけにとどめ、消耗を抑えている。これを思いついたのは、作戦司令官を務めていたギーシュである。

 

「みんな、怪我したりはしていない? 痛むところがあったら、すぐに言ってね」

 

 ミス・フローラルことモンモランシーが薬箱を持って駆け寄ってきた。

 

「怪我は大丈夫。飲み物があったら、少しもらえないか?」

 

 才人からリクエストを受けたモンモランシーは、手持ちの水筒からコップ一杯分の液体を注ぎ、彼に差し出した。

 

「はい! ハーブ入りの特製ドリンクよ。気持ち程度だけど、疲れが取れると思うわ」

 

「サンキュー、フローラル!」

 

 笑顔で特製ドリンクを受け取った才人は、それを一気に飲み干した。タバサの作り出した〝氷〟で冷やされたそれはモンモランシーの調合の腕も手伝って、このうえもなく美味であった。

 

「ルート検索が終了したよ。さあ、みんな。移動を開始しよう」

 

「了解!!」

 

 ――昼前から開始されたこの討伐作戦はこんな調子で繰り広げられ……なんと夕方には全てのオーク鬼殲滅に成功するという、とんでもない快挙を達成するに至った。

 

 なお、この戦いにおいて才人が傷を負ってしまったが、それは曲がる角を間違えた結果、壁に激突したためである。オーク鬼の攻撃を受けたものは幸いにして誰もいなかった。

 

「いやあ、それにしても見事に作戦がハマったよな!」

 

 全員で凱歌をあげながらキャンプ地へと戻る道すがら、才人は上機嫌でレイナールに語りかけた。

 

「うん、ギーシュ……じゃなかったブロンズ司令の指揮も良かったし」

 

「最初にスノウを情報斥候にしようって言い出したときは、どうなることかと思ったけどね」

 

 キュルケのその発言に全員が頷いた。そう――実は今回の作戦指揮は、ギーシュが指揮官となり、全員で綿密な作戦を練った上で執り行われたのである。

 

 教導官である『ハーミット』こと太公望は、最初に「今回はギーシュが指揮官だ。あとは全部任せる」と言ったきり、作戦会議中はキャンプ内に引きこもる宣言をして、本当に天幕の中で横になってしまった上、なんといびきまでかいていた。

 

 行動開始後は一応上空で警戒兼観察をしていたのだが……それでも、一切手を出す必要がないほど全員の統制が取れていたことに、太公望は満足していた。一部、連絡統制関係での不備(作戦変更時の連絡不徹底など)は見受けられたが、そのあたりは後ほどの反省会で指摘すればいいだろう。

 

 そう判断した太公望は手元の考課表にその旨を書き記した。総合的な成績評価は八十点といったところであろうか。ギーシュ惜しい! あと一歩が足りなかった。

 

 なお、今回の布陣は以下の通りである。

 

 ・教導官 太公望

 

 ・総指揮官 ギーシュ(兼妨害工作兵)

 ・作戦参謀 レイナール(兼本拠地守備隊)

 ・情報斥候 タバサ(兼本拠地守備隊)

 ・突撃兵  才人

 ・砲撃兵  キュルケ

 ・砲撃兵  ルイズ(兼妨害工作兵)

 ・看護兵  モンモランシー

 ・糧食担当 シエスタ

 ・工作兵  ヴェルダンデ

 

 さすがはトリステイン王軍元帥を父に持つギーシュである。メイジの配置方法についてはほとんど問題なかった。そこへ、以前太公望から与えられたお手製の軍学書より得た知識と詳細な廃村の地図及びオーク鬼の生態に関する情報が加わって、見事なハーモニーを奏でていた。

 

 特に『スクウェア』メイジであるタバサをあえて攻撃に回さず〝遍在〟による情報斥候として配置したことは特筆に値する。

 

 通常ならば、その攻撃力に目がくらみ、狙撃手として配置していたことだろう。あと、さりげなくギーシュの使い魔である、ジャイアントモール(巨大モグラ)の『ヴェルダンデ』が工作兵――落とし穴作成要員として参戦していたことも見逃せない。

 

 また、ルイズの〝爆発〟も上手に利用している。

 

 当初本人は嫌がっていたのだが、彼女の〝爆発〟によって瓦礫を撤去、あるいは敵をそれに巻き込むのに使いたいというレイナールの案に「それなら……」ということで試してみたのだが、これが〝防御壁〟以上に上手くいって、ルイズも、提案したレイナール自身も驚きの結果となった。

 

 シエスタはキャンプで食事の用意をしていたので、実際の戦闘現場には立ち会っていないが、それにしても凄まじいとしか言えない戦果を聞いた彼女はおおはしゃぎで全員を迎え入れた。

 

「すごい! すごいですわ、みなさん! あの凶暴なオーク鬼を、こんなに早くやっつけて戻ってこれちゃうだなんて!!」

 

「いやあ、まあ、それほどでもあるけど!」

 

 デルフリンガーについたオーク鬼の血をぼろ布で拭いつつ、得意げにシエスタへ語る才人であったが……実はその言葉とは裏腹に、声と手が少し震えていた。

 

 最初にオーク鬼を見たとき、才人は恐怖でパニックを起こしそうになるのを抑えるだけで精一杯だった。なにしろ、連中はでかい。しかも、手にしている鉄製の棍棒は人間の身体ほどの大きさがあった。あんなもので殴られたらどうなるか……その答えはオーク鬼の首元に、荒縄によってぶら下げられていた。

 

 ――それは人間の骸骨だった。前もって話に聞いていた通り、オーク鬼には喰った獲物の骨を首飾りにする習慣があるようだ。

 

 恐怖を抑えるように、ぐっと両手を握る。すると、指抜きグローブに〝ガンダールヴ〟のルーンが反応し、血が逆流するほどの興奮が才人の全身を支配しそうになった。どうにかそれを抑え込み、見事与えられた役割を果たすことが出来たが……。

 

「これが本物の戦いなのか」

 

 才人はようやくそれを実感した。普段の訓練やゲームなんかとは全く違う、本物の命の遣り取り。己の生存を賭けた殺し合いなのだと。あそこで足を滑らせたのはオーク鬼だったが、もしもあれが自分だったらと思うと、ぞっとする。

 

 そんな才人の様子に気が付いたシエスタが、不安げに近寄ってきた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 シエスタを怖がらせてはいけない。そう考えた才人は無理矢理笑みを浮かべた。

 

「その、いくらサイトさんが強くても……危ないことをするのは、よくないですね」

 

 シエスタの呟きに、才人はうまく答えることができなかった。

 

 かたや周囲の友人たちはというと、こういった状況に慣れているのであろう。全員ケロッとした顔をしている。

 

 才人としては、いくら相手が人喰い妖魔とはいえ、生き物の命を奪うのは正直不快だった。それだけに、異世界の友人たちとの間に横たわる大きな価値観の違いを実感し、静かな衝撃を受けていた。そんな彼の心の揺らぎを察したのであろうデルフリンガーが、小さな声で語りかける。

 

「まあ、これが初めての実戦だしな。俺っちを使うってなぁこういうことさ。すぐに切り替えろ、なんて言うつもりはねぇが、戦いの途中に迷っちゃいけねぇぜ?」

 

「剣のお前にそんなこと言われるのも何だか不思議な気分だけど……ありがとな、デルフ!」

 

「いいってことよ! 何たって、相棒のためだかんね!!」

 

(最近ちょっと手入れをサボりがちだったけど……帰ったら、もっとちゃんと磨いてやろう)

 

 一通りデルフについた汚れを拭い終えた才人は、そう決心した。

 

「サイトさん、気分転換しませんか? お食事の用意ができましたから」

 

 そう言ってシエスタはキャンプ内に作られた焚き火の上にくべられた鍋から、シチューをよそってめいめいに配り始めた。実にいい香りが全員の鼻孔をくすぐる。肉が食べられない太公望のために、わざわざ小鍋が用意されているのがまた泣ける。

 

「うわあ、いい香り!」

 

「外で食べる食事がこんなに美味しいだなんて」

 

 手渡された料理に舌鼓を打つメンバーたち。ほとんどが貴族の子女であるが、そんな彼らの舌をも満足させたこの料理は、もちろんシエスタの作である。彼女はみんながオーク鬼討伐に出かけている間……山中を歩き、罠を仕掛けて野兎や鷓鴣(しゃこ)を捕まえたり、山菜やキノコ、香草といった食材を集めてシチューを作っていたのだ。

 

「シエスタって器用なんだなあ」

 

「私、山育ちですから」

 

 才人の褒め言葉に、思わず照れて俯いてしまったシエスタ。しかし彼女は急いで顔を上げると才人に向かって微笑んだ。頬がやや引き攣っているのは緊張ゆえか。

 

「あ、あのッ、お代わり、いかがですか?」

 

「もらうよ! ありがとう」

 

 そんなふうに甲斐甲斐しく才人の世話を焼くシエスタを見ていたルイズは、理由はよくわからないが心の中に何かもやもやとしたものが溜まってくるのを感じた。自然と顔が強張ってゆく。そんなルイズとシエスタをニヤニヤと見比べているキュルケ。

 

「香草の使い方が独特。これはなんという料理?」

 

「あ、はい! これはわたしの村に伝わる『ヨシェナヴェ』というシチューなんです」

 

 タバサの質問に慌てて答えるシエスタ。実にいいタイミングで発せられたその言葉に、残念そうに首を振るキュルケと何だかほっとしたような顔をするルイズ。ここに微妙なトライアングルが形成されつつあった。

 

「ほう。ということは、タルブの料理か! わしは気に入ったぞ」

 

「俺も。なんでかな、ちょっと懐かしい味がするっていうか……」

 

「本当ですか? でしたら、みなさんがタルブにいらっしゃった時に、もっと本格的なものをお出ししますね!」

 

 そう言って微笑むシエスタの顔に才人は不思議と親近感を覚える。今、手元にあるこのシチューにも、同じように遠く離れた故郷を思い起こさせる何かを感じさせられた。だが、それが何故なのか、今の才人にはまだその理由がわからなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――明けて、翌朝。

 

 改めて問題の廃村へ向かうべく、全員が準備を始めた。何故ならそこに、例の〝天使の羽衣〟と呼ばれる魔道具が残されていたことと、夕食後に発した才人の一言、

 

「なあ。あんまり気持ちのいい話じゃないかもしれないけど……オーク鬼が鉄の棍棒持ってたよな? あれって、どっかで売ったりとかできないのか?」

 

 と、良家の子息たちにとっては目から鱗が落ちるような発言があったからである。

 

「その考えはなかったわ……そのままじゃ無理かもしれないけど〝錬金〟でインゴットにしたら、結構いいお金になりそうね」

 

「戦場で相手の装備を奪うなんて正直貴族らしい行いとは言えないけど、いい考えだと思うね」

 

「サイトはよく気がつくなあ」

 

「や、それほどたいしたことじゃ……」

 

 感嘆する友人たちに、才人は照れくささと恥ずかしさの入り交じったような顔で答えた。まさかこの場面で「ゲームではドロップアイテムを集めて売るのがお約束」などとは言いづらいであろう。

 

 とはいえこの時の才人の思いつきが、後々にまで渡って結構な額の資金や錬金のための材料を集める大きなきっかけとなったのは確かだ。

 

 

 ――そして、再び廃村・ジャコブ村。

 

 オーク鬼が駆逐されてすっかり静けさを取り戻した村はどこもかしこも荒れ果てており、牧歌的な雰囲気すら漂っている。

 

 持ち帰れる限界の金属装備を〝錬金〟でインゴットに変え、さらには売り物になりそうな品物をより分け終えた水精霊団一行は、最後の目的である〝天使の羽衣〟を手に入れるため、村の最奥にある石造りの寺院前に立った。

 

 屋根の上には天使を模したのであろう立派な石像が配置され、入り口は両開きの大扉によって封印が施されている。

 

 念のため罠の類がないかどうかを調べた後、タバサが〝解錠(アン・ロック)〟の呪文を唱えた。

 

「どれ……では、念のためわしが先頭に立って中へ入ってみよう」

 

 そう言って扉に両手をついてぐっと力を込めた太公望。どうやらかなり重い扉だったらしく、彼は「ぐぎぎぎぎ……」とうめき声を上げながら全力で押し開いていく。

 

 と、何故かキュルケが突然小さく身体を震わせはじめた。

 

「どうしたの?」

 

 タバサの問いに、キュルケは小声で呟いた。

 

「い、いやっ、よくわからないんだけど……めくるめく笑いの予感が……!」

 

「む、何かあったのか?」

 

 キュルケの発言にただならぬものを感じたのであろう太公望が、思わず振り返った――そう、よりにもよって、全力で重い扉を押し開けようとしていた真っ最中に振り返ってしまったのだ。

 

 当然のことながら、鈍い音を立て再び閉まりそうになる大扉。

 

「いかん! また扉が閉まる!!」

 

 必死になって扉の動きを止めようとする太公望。だがしかし、勢いのついてしまったそれは止まらない。「ぐおー!」とか「ぐぎー!」などと言いながら抵抗するのだが――。

 

「あ、危ないわよ、ハーミット!」

 

「止まれっ、止まるのだっ!!」

 

 やっぱり扉は止まらない……そして。

 

「ギャ――――ッ!!」

 

 ゴーン……という鈍い音と共に、扉は中途半端な形で閉ざされた。無理矢理中を覗き込むような形で扉を開けようとしていた太公望の頭を挟み込んだ状態で。

 

「でゃははははははははっ!!!」

 

 そんな彼を指差して大爆笑するキュルケ。

 

「わ、笑っちゃ悪いわよ、ツェル……フレア」

 

 そう言って注意したルイズの口端も、ヒクヒクと激しく動いている。

 

「…………クスッ」

 

「わ、笑っちゃいけない、いけないんだけど……でもッ……あはははははッ!!」

 

 必死にこらえていたが、つい吹き出してしまったタバサと、我慢しきれなくなったレイナール。後方ではモンモランシーやギーシュ、危険が無くなったので一緒についてきたシエスタまでもが悶絶している。彼らは既に、苦しすぎて笑い声すら出せないといった風情だ。

 

「か、閣下って、頭良いクセに時々とんでもなく馬鹿なことするよな!」

 

 これまた腹をかかえて笑い転げている才人。彼も時々とんでもなく失礼な男である。

 

「…………」

 

 だが、この状況では正直何も言い返せない太公望であった……。

 

 

 ――5分後。扉から助け出された太公望は、改めて奥へと進んでゆく。

 

 寺院の奥には、うっすらと光る何かがあった。

 

 それは一本の木だった。〝固定化〟をかけられたためであろう、このような陽の差さぬ場所に立っているにも関わらず、枯れもせず青々とした針葉を茂らせている。

 

 そして、幹から伸びた一本の枝の先に、きらきらと輝くものが掛けられていた。

 

「あれが、天使の羽衣……?」

 

「綺麗……」

 

 繻子(しゅす)に似た美しい光沢のある、半透明の布地だ。その両端にはレース織りのような白い飾りがつけられている。まさしく天使が纏うに相応しい一品だった。

 

 だがしかし。羽衣の下に落ちているものを見た一同はその場で固まってしまった。なんと複数の砂の山が、羽衣を中心に積み重なっているのである。

 

「ひょっとして、あれが例の呪いってやつ……?」

 

「た、たぶん……」

 

 触れた者を砂に変えてしまうという畏るべき呪い。前もってその情報を伝え聞いていた彼らが尻込みしてしまうのは当然であろう。しかし、そんな中――平然とその羽衣の側へ歩み寄っていく者がいた。それはもちろん太公望である。

 

 彼は羽衣の下へたどり着くとへなへなと崩れ落ちるように膝をつき、全身の力が抜けてしまったような声で呟いた。

 

「こっちへ来ていたのが予想していた通りのモノで本当に良かった……万が一アレだったら、シャレになっとらんかったわ」

 

 ……と。

 

 それから、まるで年老いた老爺のようによぼよぼと立ち上がると、全員が声を出す間もなく羽衣を手にする太公望。すると〝天使の羽衣〟は、鈍く眩い光を放ち始めた。まるで彼が到着するのを待っていたかのように――。

 

「うむ。やはりわしを覚えていてくれたようだのう」

 

 そう言って光る羽衣をさっさと畳んで懐へと仕舞い込んだ太公望は……唖然としている一同を見回して、こう告げた。

 

「これで依頼は終了だ。依頼人のひとりであり、今日の宿泊地でもある『ジャコブ新村』の村長宅へ向かうとするかのう。そうそう、みんなよく覚えておいてくれ。わしがいいと言うまで、この羽衣を手に入れたことを内緒にしておいてもらいたいのだ」

 

 片手の指をぴっと立て、そう言った太公望の瞳には悪戯っぽい色が煌めいていた。

 

 

○●○●○●○●

 

「なんと、あのオーク鬼どもを全て駆逐してくだすったと!? ありがたい……!」

 

 一同を出迎えたジャコブ新村――廃村となっていた旧村との区別のため、この名称が用いられている――の村長にして、壮年の神父ジャコブ氏が、水精霊団全員の手を取って感謝の言葉を述べた。

 

 どこにでもある、寂れた小さな山村。ジャコブ新村はその程度の印象しかなかった。と――そこへ肩に桶をかつぎ山の下のほうから村へ入ってくる人々の姿が目に留まった。

 

 ジャコブ氏曰く、この村で生きていくためには、なんと毎日村から十リーグ以上も離れた場所にある川から、ああして水を運んでくる必要があるのだという。

 

「この村の近くには水源がないのです。井戸を掘ろうにも、その知識を持つものがおらず――皆さんが解放してくださったかつての村にでしたら、すぐ側に泉があったので、このような不便はなかったのですが」

 

 そう言って苦笑する神父だったが、その瞳には溢れんばかりの笑みが零れ出していた。

 

「しかし、皆さんのおかげで私たちは再びあの村に帰ることができます。復興までに数年はかかるでしょうが……きっとまた、かつての賑わいを取り戻してみせます。さあ、皆さまお疲れでしょう? 何もない村ですが、今日は精一杯の歓待をさせていただきます。どうぞこちらへ……!」

 

 案内された先――村長の家で、水精霊団は盛大な……村にとって精一杯の歓待を受けた。そこで彼らは〝天使の羽衣〟についての伝説を聞くこととなったのである。

 

 

 ――今から六十年ほど前のこと。

 

 ひとりの老いた傭兵が故郷の山村へと戻るため、山道を歩いていた。

 

 彼は長年にわたる身体の酷使で疲れ切っており、馴染みの医者にも「動ける今のうちに進退を決めておいたほうがいい」と勧められていた。そこで、せめて人生の最期は故郷で迎えたいという考えから、重い身体を引きずるようにして旅を続けてきたのである。

 

 そんなとき、彼は子供――それも幼い少女と思われる者の泣き声を聞いた。

 

(こんな山奥に、どうして子供が?)

 

 そう考えた彼は、声がするほうへそろそろと歩み寄っていった。

 

 すると、大きな木の下にひとりの少女が座り込み、しくしくと泣いているではないか。しかし、そこにいたのは普通の子供などではなかった。

 

 何故なら、その背には白く輝く、美しい翼が生えていたからだ。

 

 みつからない……まにあわない……そう呟きながら泣き続ける少女の切なげな声に同情し、彼女の側へ近寄っていった老兵。だが、そんな彼の姿を見た彼女は驚いたのだろう。

 

 慌てた様子で翼を広げ、空へ舞い上がっていった。その時だ、彼女が身につけていた羽衣が、側にあった木の枝に引っかかってしまったのは。

 

 だが、老兵が怖かったのであろう少女は、そのまま天へと昇っていき――ふいと消えてしまった。枝に静かな光を湛えた羽衣を残したままで……。

 

「それは翼人ではないの?」

 

「翼人?」

 

 タバサが発した確認の言葉に、才人が疑問を投げかける。

 

「大きな森を拠点にする亜人。背中に大きな翼を持つのが特徴」

 

 彼女の説明を聞いた一同は一斉に神父へ目を向ける。彼は笑顔のまま続きを語り始めた。

 

「確かに、普通ならばそう考えるでしょうな。戦争のたびにさまざまな場所を渡り歩いた傭兵なら、なおのことでございます。事実、彼はその時まで翼人の子供と出会ったと思っていたのです。ところが――」

 

 老いた傭兵は『奇跡』あるいは『祝福』と呼ぶべき出来事に遭遇したのである。

 

 彼は身体が羽根のように軽くなっていることに気が付いた。それから、自分の手を見て驚愕に目を見張った。皺だらけだったはずの(てのひら)に瑞々しさが戻っている。

 

 慌てて近くにあった泉に己の姿を映してみると……なんと、彼は十代そこそこの若者の姿になっていたのだ――!

 

「ええ……信じられないかもしれませんが、この私こそがその老いた傭兵。天使さまの御力で新たな人生をやり直す機会を与えられし者なのです」

 

「そんな、嘘でしょう!?」

 

 驚き慌てる少年少女たち。

 

「いいえ、天使さまに誓って嘘は申しません。私は既に百を超えているのですよ」

 

「ええ――ッ!!」

 

「どう見ても、五十歳前後にしか見えないよ!」

 

 にこにこと微笑みながら彼らの言葉を聞いている村長。どうやら、こうした問答は日常茶飯事だったらしい。

 

 部屋中が静まり返るのを待ち、ジャコブ氏は告白した。

 

 ただ老いさらばえ、朽ちていくのを待つばかりであった自分に新たな人生が与えられたのは、きっとあの羽衣を守るためだと。そのために一生を捧げることを誓ったのだ――と。

 

「私は天使さまが『ジャコブがどこにもいない、みつからない』と嘆いておられたのを聞きました。ですから、いつか天使さまが地上へお戻りになられた時、あるいはその『ジャコブ』というお方がこの地へ現れたときに気付いてもらえるのではないかと思い、この名を名乗るようになったのです」

 

 名を変えた元老兵――現在は神父となっている彼は羽衣を神聖にして不可侵のものとし、守ろうと誓った。しかし、ひとりではどうしても限界がある。そう考えた末、急いで故郷の村へと戻った。

 

 はじめは世迷い言と信じなかった村人たちであったが、ジャコブの昔を知っていた者が複数いたことと、実際に〝天使の羽衣〟を見た一部の者たちがその話を信用し――また、水源が側にあったことからそこに新たな集落を作り、名を『ジャコブ村』とした。

 

 しかしあるとき、欲深き者が羽衣を売り飛ばそうとした。その不届き者は、夜半過ぎに警戒の網を抜けて羽衣へ近づくと――手を伸ばし、強く握り締めた。だが、次の瞬間。魂消(たまげ)るような悲鳴と共に欲深者は乾いてゆき……崩れ、やがて砂になった。

 

 さらに、どこからか噂を聞きつけたブリミル教の神官が「始祖以外を崇めるなど不届きである」として、羽衣を取り上げようとした。しかし、その神官も同じように砂山と化し――以来、村に異端審問官が現れることはなくなった。

 

 ジャコブ氏はこれらの現象を神罰だと考え、金を支払い土メイジに依頼して神木に〝固定化〟をかけてもらうと、近隣の石切場から切り出した石を用いて、その周囲を覆うように立派な寺院を建て、羽衣を封印した。

 

 そして建物の頂上に天使さまの姿を模した像を掲げた。いつか、あの天使さまの目に留まるよう祈りながら――。

 

「私は明日の朝いちばんに、天使さまの羽衣を確認しに参ろうと思います。皆様はゆっくりとこの村で疲れを癒やして行ってください」

 

 全員を寝所へ案内し終えたジャコブ神父はそう告げると、何度も何度も頭を下げ、離れ兼小さな寺院となっている場所へと戻っていった。

 

「ねえ、いいの? あの羽衣って、すごく大切なものだったんじゃない?」

 

 そう言って、咎めるような視線を太公望へと向けたルイズ。その他メンバーの意見もほぼ同様であるようだ。しかし……。

 

「まあいいから、明日の朝を楽しみにしておくのだ」

 

 太公望は一切取り合わない。それどころか、

 

「疲れたから今日はさっさと寝るのだ!」

 

 と、全員を促した。

 

 

 ――明けて翌朝。朝陽が昇る直前のこと。

 

 朝のお勤めを終え、早速旧村へ向かおうと寺院を出たジャコブ神父はふいに足を止めた。何故なら今は誰もいないはずの寺院から、カラーン……カラーン……と美しい鐘の音が響いてきたからだ。

 

「こ、これはいったい……?」

 

 思わず振り返ったジャコブ氏。そして、朝早くに突然鳴り始めた鐘の音に驚いて、なんだなんだと集まってきた村人たちと、水精霊団のメンバーは見た。村に一陣の〝風〟が舞った直後。教会の屋根にひとりの少女が現れ――佇んでいるのを。

 

 ゆっくりと昇る朝日に照らされ……少しずつ少女の姿が顕わになってゆく。

 

 歳の頃は十歳前後といったところだろうか。長い金髪を三つ編みにして、一本にまとめて後ろへと下げている。

 

 きらきらと輝く宝石がそこかしこに散りばめられた黒いドレスを身に纏い、腰には白く輝く細い雲の如き〝天使の羽衣〟が巻き付いている。肩には晴れ渡った空のように清んだ、青色のケープを羽織っていた。

 

 朝、昼、夜。全ての空の姿を模したかのような装いをしている彼女の背には――白く、美しい翼が生えていた。

 

「お……おお……天使さま……!」

 

「天使だ」

 

「天使さまだ!」

 

 跪いて祈る村人たち。そんな彼らを優しげな微笑みで見つめた天使は、鈴の音のように可愛らしい声で彼らに語りかけてきた。

 

「神父のおじいさん、ありがとッ☆ キビの羽衣、見つかりッ☆」

 

 ちょっと独特(?)な喋り方でもって嬉しげに語る天使は、陽の光を浴びて輝いていた。跪き、祈りを捧げていたジャコブ神父はその声を聞いて涙を流した。

 

「おお……おお……! やはり、あのときの天使さまであらせられるのですね」

 

「うんッ☆ ジャコブにも会えりッ☆ おじいさんと、みんなのおかげッ☆ キビはこの村のひとたちに、お礼をしッ☆」

 

 そう言うと、天使は懐から一本の杖を取り出し、くるくると空を舞い始めた。

 

「まほ~のじゅもん~☆ ロリロリロリッタ~☆ ロリロリ……リン☆」

 

 きらきらと星の輝きを纏いながら唄い踊る天使。

 

「天使だネ」

 

「うん、天使だ」

 

「まさしく天使だよ、きみ」

 

 ちょっとダメな方向で感激している才人、レイナール、ギーシュの馬鹿男ども。幸いにしてそんな彼らの声は、同じく外へ飛び出してきていた女性陣の耳には届かなかった。彼女たちは村人たちと同様に――ただ、その可憐な天使の姿に魅入っている。

 

 すると、ドンッ! という音と共に村外れの一角から噴水のように勢いよく水が噴き出した。それは徐々に小さくなってゆき……最後にはただ静かに、こんこんと清んだ水が湧き出る泉となった。

 

「はいッ☆ と~っても美味しいお水だよッ☆ これが、キビにできるお礼ッ☆」

 

 輝かんばかりの笑顔でそう告げた天使は、そのままくるくると村の上空を舞い飛びながら、高く空へ、天へと昇っていった。

 

「神父のおじいさんのことも、村のひとたちのことも、ずっと、ず~っと、忘れないッ☆ 水精霊団のみんなも、ホントに、ホントに、ありがと――ッ☆」

 

 こうして『キビ』と名乗った天使は空の彼方へと消えてゆき――しかし見守っていた村人たちと、水精霊団の一同はしばらくの間、その場を動くことができなかった――。

 

 




本日も2話投稿です。
流れ着いていた羽衣は、これでした。


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第39話 雪風と軍師と時をかける妖精

「皆さんのおかげで役目を果たすことができました。このご恩は一生忘れません」

 

 涙を流し、何度も水精霊団一同へ頭を下げるジャコブ神父と村人たち。

 

「あなたがたがオーク鬼を退治してくだすったおかげで、我々はなんと天使さま自らの祝福を受け、素晴らしい泉をいただくことができました」

 

「これで水汲みの重労働から解放されます。ありがとうごぜえますだ」

 

「おまけに、こんな立派な工具を格安で譲っていただけるとは。これで旧村の復興速度も大幅に上がることでしょう。本当に有り難いことです」

 

 例のオーク鬼が持っていた鉄棍棒から作り出したインゴットは〝錬金〟によって、円匙(スコップ)や金槌などの復興作業に必要と思われる工具となり、村で買い取ってもらった。

 

 水精霊団の一同は当初無料で譲ると言っていたのだが……。

 

「これ以上お世話になるだなんて、とんでもありません! 罰が当たるというものです」

 

 というジャコブ氏以下村の住民たちとの間に太公望が立ち、

 

「こちらとしても荷物を減らしたいので、引き取ってもらえると助かる。どうしても気が引けるというのならば――街で工具を入手する際の運送料や手間賃、引き取り料を差し引いた額で購入してもらえぬだろうか? 具体的には……このくらいで」

 

 指を数本立てて見せた太公望に、ジャコブ氏は顔色を変えた。

 

「とんでもない! そんな安値でなど……最低でも、この程度は」

 

 今は神父になっているとはいえ元は傭兵、こういった交渉事には慣れているのだろう。同じく指を立てて答えたジャコブ氏に、太公望は言い返した。

 

「ぬな!? これから村を復興するというのに、そんなに出しては大変であろう。ならば、これくらいならどうだ」

 

 ……と、まあこんなやりとりがあり、市場価格よりも遙かに安い値段で売買が成立した。村は格安で今後必要な道具類が手に入り、水精霊団は重い荷物の代わりにお金を入手する。お互いに得となる取引であった。

 

 やがて別れの時がやってきた。水精霊団の一同は村人総出の見送りに手を振り返しながら、空飛ぶベッドに乗って、ふわり……ふわりと上空へ舞い上がっていく。

 

 生徒たちの胸は感動でいっぱいになっていた。オーク鬼退治で上げた想像以上の大戦果とジャコブ神父や大勢の村人たちから投げかけられた感謝の声、さらに早朝に見た『天使降臨』という奇跡が、彼らの心の中を暖かいもので満たしていた。

 

 ――それから約1時間ほどして。

 

 休憩ポイントに設定されていた川辺に到着した一行は慎重にベッドを降ろしていく。無事に着陸した後は村人たちが持たせてくれたバスケットいっぱいのお弁当を広げ、川のせせらぎを聞きながら、冒険中の話を繰り返しつつ、のんびりとした時を過ごしていた。

 

 そんな中――唐突にタバサが口を開いた。

 

「タイコーボー。あなたに聞きたいことがある」

 

 彼女の質問を、待っていたとばかりに受け付けた太公望。

 

「うむ、そろそろ聞かれる頃だと思っていた。例の羽衣の件であろう?」

 

 一同の視線が集まる。みんな気になっていたのだ。何故ならあの〝天使の羽衣〟は、確かに太公望が入手して、自分の懐へと仕舞い込んでいたはずだ。

 

 にもかかわらず、わざわざそれを内緒にしろと全員に口止めしていたことといい、その羽衣を例の天使さまが身に纏っていたことといい……はっきり言って謎が多すぎた。

 

「ふっふっふ……」

 

 そんな彼らの顔を、ニヤニヤと、実に悪い笑顔でもって見渡した太公望は、ちょっと離れた場所まで移動すると懐に手を入れ、そこに入っていたモノをささっと取り出して羽織ってみせた。

 

 それは間違いなくあの〝天使の羽衣〟であった。

 

「ウハハハハッ! 胡喜媚(こきび)に〝変化〟ッ!!」

 

 ボウンッ! という音と共に太公望の周囲でもうもうと煙が立ちこめる。突然のことに思わず仰け反ってしまった水精霊団のメンバーたち。と、煙が徐々に消えてゆき――そこに立っていたのは。

 

「喜媚ちゃん登場ッ☆ ロリッ☆ ロリッ☆」

 

 なんと、軽快なステップを踏み踊っている……『天使さま』であった。

 

「えええぇぇぇぇええええ――ッ!!!」

 

 それまでは静かだった川辺に、驚愕の叫び声が響き渡った――。

 

 

○●○●○●○●

 

「これはッ☆ 如意羽衣(にょいはごろも)と呼ばれるッ☆ 纏った者をッ☆ 変身させる〝力〟を持ったッ☆ マジック☆アイテムなのだッ☆」

 

「やめて! その喋り方と姿はもうやめてッ!!」

 

 相変わらず『天使さま』の姿で解説を続ける太公望と、半泣きでそれを止める才人を含む男子生徒陣。そりゃあ泣きたくもなるだろう、今朝方その可憐な姿で村人や自分たちを魅了し、感動を与えてくれた少女の正体が――実はその本性をよく知る、イイ歳をした男だったわけだから。

 

「不覚ッ……ゴスロリ天使というだけで萌えてしまっていた自分が情けない……ッ!」

 

 ぎりぎりと拳を握り締め、悔し涙を流す才人とそれに追随するギーシュにレイナール。

 

「現実とはッ☆ いつも残酷なものなのだッ☆」

 

「イヤァァァアア――ッ!!」

 

 そこへ、さらなる追加攻撃をかます太公望。この男、ノリノリである。

 

 遙か昔、自分が最も信頼を置く副官にして親友である青年が似たようなことをした際には、その姿を見て笑いまくっていたにもかかわらず……いざ自分がやるとなったらこの始末だ。

 

 

 ――それから数分後。

 

 ひとしきり彼らをからかって満足したのであろう太公望は元の姿へ戻った途端、こうのたまった。

 

「……と、まあこういうわけだったのだよ」

 

「どういうわけなのか最初から説明しろ――ッ!!」

 

 全員の声が川辺に木霊(こだま)した。まあ、彼らのツッコミはもっともである。これだけで理解しろというほうが無理だ。

 

「まったく。面倒だが仕方がないのう……」

 

 などとぼそぼそと呟きながら、太公望は説明を始めた。

 

「あの『天使』と呼ばれていた娘は、名を胡喜媚(こきび)という。あの姿を見てわかる通り、人間ではない。あれは、わしの国に住んでおる『雉鶏精(ちけいせい)』という妖精の一種でな……時間と空間の狭間を行き交う、伝説の〝力〟を持つ者なのだよ」

 

 ――あえて『妖怪』と言わなかったところに、彼なりの優しさを感じていただきたい。

 

「時間と空間を行き交う……伝説の妖精……?」

 

「うむ。そして、彼女が泣いたときに舞い散らす羽根や涙に触れた者は時間的退行を引き起こす。最悪の場合、生まれる前にまで戻されて、存在そのものを消されてしまうのだ」

 

 それを聞いた一同の顔色が変わった。

 

「はうう、あんなに可愛らしい姿をしていましたのに……実はとんでもない妖精だったんですね」

 

「ジャコブ神父が若返ったのは、つまり――」

 

「あのコキビという妖精の〝力〟に触れて、身体だけが時間的に逆行したからなのか」

 

「あの神父さまは十歳くらいまで若返った程度で済んだけれど、もしも運が悪かったら、赤ちゃんの姿にまで戻されていたってことかしら?」

 

「ううん、それどころか()()()()()()()ことになってしまうってことよね?」

 

 その問いに重々しく頷く太公望。それを見て、改めて戦慄するメンバーたち。

 

「若返りは、あたしたち女にとっては共通の夢だけど……」

 

「失敗したらこの世から消されちゃうっていうのは……さすがに、ねえ?」

 

「あまりにもリスクが高すぎる」

 

 と、ここまで聞いたところでタバサはあることに気が付いた。

 

(タイコーボーとあの妖精は知り合い同士。少なくとも、互いの名前を知る程度には)

 

 それからタバサは改めて自分のパートナーを見た。二十七歳という年齢の割には驚くほど若い――十四~五歳、もしかすると、それ以下といっても通用するかもしれない姿。まさか――。

 

「タイコーボー。ひょっとして、あなたはその妖精の〝力〟で今の姿に……!?」

 

 タバサの言葉に一斉に反応する一同。思わぬことで全員の注目を浴びてしまった太公望は、仕方がないと言わんばかりの表情でぽりぽりと頬を掻いた。

 

 これはある意味――特に自分の『見た目の若さ』について他者が納得できる、それらしき理由付けとして提示するには丁度良い……などと考えながら。

 

「わしとしたことがうっかり失敗して、あの娘を泣かせてしまってのう。結果、ジャコブ殿と同様に時間的退行を受けてしまったのだ。まあ、今では死なずに済んでよかったと前向きに考えることにしておるのだが……」

 

「なるほど。それで身体は子供、頭脳は大人状態になってしまったと」

 

 太公望の答えを聞いてタバサが頷いた。そんな彼女の呟きを聞いた才人が、思わずぼやく。

 

「その例え、すっげえわかりやすいんだけど……どっかで聞いたような覚えが……」

 

 改めて太公望の姿をまじまじと見た一同は、それで完全に納得してしまった。なるほど、彼の見た目が実年齢よりも遙かに若いのはあのジャコブ神父と同じように妖精の〝力〟に触れてしまったせいなのか――と。

 

 まあ、例によってキュルケが内心「それなら、精神的にはともかく年齢は釣り合うじゃないの! よかったわねタバサ……」などという、またしてもそっち系の感慨を抱いていたわけだが、当然のことながらそんなことに太公望が気付くわけもなく。

 

 ――なお、太公望が胡喜媚の『時間的退行』を受けたことがあるのは事実である。ただし、彼の見た目の若さと「それ」は、直接的な因果関係は一切ない。若いうちに〝生命〟の極意である〝不老不死の秘法〟を極めて仙人になることに成功し、年齢不詳となった。それが彼の外見に関するたったひとつの真実だ。

 

「どうして?」

 

「む、何がだ? タバサ」

 

「何故その妖精を泣かせるような真似を?」

 

「……ちと長くなるが、構わぬか?」

 

 苦い顔をしている太公望へ向けて、全員が了承の代わりにぶんぶんと首を縦に振った。

 

「実はな、わしには使い魔がおるのだ」

 

「ミスタにも使い魔がいたのかね!?」

 

 あなた自身が使い魔なのに!? という言葉を危うく飲み込んだギーシュだったが、幸いにも太公望はそれに気付いた様子はなかった。

 

「うむ。喋る……竜の子供なのだ」

 

 ――空飛ぶカバと言わなかったところに彼なりの思いやりを感じていただきたい。

 

 ちなみに、ここで太公望が〝使い魔〟という表現でもって説明しているのは、彼がかつて騎乗していた霊獣・四不象(スープーシャン)のことである。

 

 その姿は一見するとカバのようだが、頭には立派な角とたてがみがある。また、1時間限定だが、東洋風の竜と呼ぶに相応しい姿『戦闘形態(バトルモード)』に変身する能力を持つ。その他にも様々な能力があるのだがここでは割愛する。

 

「喋る竜の子供って……まさか、韻竜(いんりゅう)の幼生体!?」

 

「それは珍しい」

 

「と、いうより……韻竜はとっくに絶滅したとばかり思っていたよ」

 

「ぼくも」

 

「あたしも……」

 

 メイジたちは驚きを露わにしているが、才人とシエスタには何のことだかさっぱりだ。才人がいつものように疑問を口にすると、ルイズが得意げに己の知識を披露してくれた。

 

「韻竜っていうのはね、遙か昔……『始祖』降臨以前からハルケギニアに住まう、古代竜のことよ。高い知能を持っていて、先住魔法で人間に〝変化〟して人里に降りてくることもあったらしいわ。けど、もう何百年も姿を見たひとがいないから、絶滅したと言われているの」

 

「普通のドラゴンとは違うんか?」

 

「ええ。竜便なんかに使われている風竜や火竜は、せいぜい賢い犬程度の知能しかないわ。喋ったり魔法を使うなんて無理よ」

 

「へえ、なるほどなあ。じゃあ、すっげえレアなわけだ」

 

「珍しい、召喚するのが難しいって意味ならそうね」

 

 このハルケギニアにおいて、喋るドラゴン――韻竜は既に伝説の彼方にしか存在しないとされている。もっとも、太公望が騎乗していた四不象自体も非常に珍しい霊獣だ。その背に跨っているだけでステイタスとされる程度には。

 

「で、話を元に戻すが。胡喜媚はわしの使い魔スープーをひと目見ただけで気に入ってしまったようでのう。気だてのよい、可愛い竜であったから、彼女の気持ちはわからんでもない。だが、問題はその後だ――なんと胡喜媚は『自分が勝ったら、スープーとの結婚を許してほしい』と、わしに決闘を申し込んできたのだよ……よりにもよって、衆人環視の中で」

 

 心底疲れたといった風情で語る彼に、驚きと同情がない交ぜとなった視線を送る一同。

 

「決闘? あんな小さな妖精が!?」

 

「あきらかに結婚の意味がわかってないわよね、それ。決闘についても」

 

「周りに大勢ひとがいたところで、それは……正直対応に困るわよね」

 

「で、うっかり泣かせちゃった……と?」

 

 彼らの発言を肯定するかのように、がっくりと項垂れる太公望。

 

「なるほど、それはきつい」

 

 その場にいた全員が、太公望へと同情の視線を向けた。

 

「でだ。結局わしの負けということにして、婚約だけ許してやったのだが……お互いまんざらでもなさげに仲良くしておるので、それならばと思い、以後スープーには騎乗せずに胡喜媚と一緒に遊ばせてやることにしたのだ。そこでスープーの身柄と引き替えにと言うとアレなのだが、胡喜媚はわしにこの羽衣をくれたのだよ。蔵に仕舞っておいたのだが、わしがおらんくなったので、スープーのやつが彼女に返却したのであろう」

 

 ――その四不象を含む、仲間たちの捜索の目から逃げ回っていたとは言わない。

 

 ついでに言うと、胡喜媚との決闘は『負けということにした』のではなく『手も足も出ずに完封されかけた挙げ句、その後弄した策も失敗。彼女に完敗した』のである。さらに言えば、胡喜媚は『如意羽衣をあげた』のではなく『太公望に強奪された』が正しい。もっとも、彼女はそれからすぐに太公望を倒し、あっさりと取り返したわけだが。

 

 もちろん、そんなことは間違っても言えない……おもに、自分の威厳を保つ的な意味で。よって、それについては完全に黙っていることにした太公望であった。

 

「と、ここからは推測になるのだが……おそらく胡喜媚は自分を置いて旅に出てしまったわしのことを探して欲しいとスープーに頼まれたのだ。あやつは寂しがりやだからのう。で、彼女は『空間ゲート』を開き、このハルケギニアの地へと舞い降りて来たのであろう。妖精と呼ばれるだけあって、彼女の〝力〟は人間を遙かに上回る。そのくらいは朝飯前だ」

 

「なるほど。泣かせたりしなければ害のないエルフ……のような存在なのだね」

 

 ギーシュの言葉に太公望は頷いた。

 

「何故六十年ものズレが発生していたのかまではわからぬが、強い〝力〟を持っていても、まだまだ子供だからのう。おそらくだが、何らかのミスで別の時間軸に出現してしまったのであろうな。なにせ彼女は『時と空間を渡る妖精』だからのう」

 

 この言葉に、ふと閃いたのはルイズだ。

 

「じゃあ、もしかして『ジャコブ』っていうのは……」

 

「うむ。間違いなくわしのことだ。魔法学院には未だにわしのことを『ジェイコブ』と呼ぶ者がおるし、前にレイナールが才人の家名を『ヒラガ』ではなく『ヒリガル』と発音したであろう? あの神父殿も、おそらくそんなふうに彼女の言っていた名前を聞き間違えたのだ」

 

 タイコーボウ……タァイコゥボゥ……ジェイコブ……ジャコブ……なるほど。『ジャカルタの芋』が、いつのまにか『ジャガタラ芋』に変わって、そこから『じゃが芋』って呼ばれるようになったようなもんか……と、強引だが妙な方向で納得してしまった才人であった。

 

「と、まあ天使についてはこんなところかのう。ちなみに、あの湧き水についてはたいしたことはしておらぬ。もともと、あそこに水質のよい地下水脈があるのはわかりきっておった。だから、最も相応しい場所に〝風の針(エア・ニードル)〟で穴を開けてやったに過ぎない」

 

 そもそも、現在こうしてくつろいでいる川の水源はラグドリアン湖である。廃村に泉があったこともあり、その中間地点に位置する新村付近に水質のよい地下水脈があるのはほぼ間違いない――と、昨夜のうちに全員が寝静まったのを確認した上で、ひとり調査を済ませていた太公望であった。

 

 ……なお、そのときの彼の姿はまるでゴソゴソと這い回る家庭内害虫のようであったのだが、幸いなことに誰にも見られていなかった。

 

 ただ、そんな太公望にもいくつかわからないことがあった。それは、胡喜媚が呟いていたという『まにあわない』という一言や、それに関連すると思われる出来事についてである。

 

 六十年もの時間軸のズレ。そして、この異世界ハルケギニアを既に発見しているにもかかわらず、今だ太公望の前に誰も――まだ姿を見ていない王天君や如意羽衣を残した胡喜媚を除き――現れないこと。彼女が残した言葉はそれらに関連しているような気がするのだが……正しい答えを導き出すためには、まだまだ情報が不足し過ぎていた。

 

 そのまま思考の淵に囚われそうになっていた太公望を引き戻したのはキュルケだった。彼女は興味津々といった表情で羽衣を見つめている。

 

「ところで……その羽衣って、あの妖精の子にしか変身できないの?」

 

 その問いに、太公望はどう答えるべきかを考えた。

 

 使ってみた感触からして、自分にできるのはせいぜいよく知る他者か特定の物体に〝変化〟するのが精一杯だろう。本来の持ち主たる胡喜媚の自由自在な〝変化〟には到底及ばない。それでもあえて説明しようとするならば、実際にやって見せるのがいちばん手っ取り早い。

 

「そうだのう……キュルケに〝変化〟ッ!」

 

 再び巻き起こった煙に包まれた太公望。だが、煙が晴れた後、その姿は――キュルケのそれと瓜二つに変わっていた。

 

「才人に〝変化〟ッ!」

 

 またしても大声で変身を宣言する太公望。そして、その言葉通り彼が才人の姿に変わったのを見た生徒たちは大歓声を上げた。

 

「うわあ、面白いじゃないか!」

 

「ちょっとよく見せて!!」

 

「俺にも貸してくれよ!」

 

「わたしも!!」

 

「わたしも見たい」

 

「あ、これ! 触ってはいかんと……!!」

 

 わいわいと太公望のもとへ駆け寄って羽衣に触れてしまった彼らは、その瞬間。電撃のような衝撃を受け「きゅうんっ!」と、散歩中にうっかり打ち水を掛けられてしまった子犬のような悲鳴を上げてその場に崩れ落ちてしまった。

 

 ところが、その中に無事だった者たちがいた。『呪い』についてよく覚えていたため、羽衣に触れなかったルイズとレイナール、貴族さまの持ち物に触れるだなんてとんでもない! と、遠慮していたシエスタ。この3人についてはまあいいだろう。問題は……。

 

「さわり心地は絹のよう。それに、何か不思議な〝力〟を感じる」

 

 一斉に崩れ落ちた友人たちの様子が全く目に入らず――それどころか、羽衣に魅入られてしまったかのように、ただひたすら触れ続けているタバサである。

 

「た、タバサよ……おぬし、こ、これに触れて、なんともないのか……?」

 

 太公望は驚愕していた。これはあきらかにおかしなことなのである。

 

 〝如意羽衣〟はれっきとした宝貝の一種。本来であれば仙人あるいは道士以外の者が触れた場合、よくて気絶。長く手に取り続けた場合――持ち主の〝生命力〟全てを吸い尽くし、ミイラのように乾いた状態にしてしまうという、怖ろしい道具なのだ。

 

「ん……特には」

 

 と……ここでようやくタバサは周囲の様子に気が付いた。自分の周囲にいた者たちのほとんどが、その場に倒れていることに。

 

 とりあえず無事だった者たち全員で倒れた彼らを一箇所に集めて寝かせ終えると、太公望は改めて検証を開始した。

 

「何故だ!? これは本来わしの国の術者にしか触れられぬはず。そのための厳重な感知用プロテクトがかけられておるからだ。現にこやつらは気絶しておるというのに……!」

 

 慌てふためく太公望に声をかけたのはルイズだった。

 

「感知……? ねえミスタ、ひょっとして『感覚の共有』じゃないかしら?」

 

「む、ルイズよ。それはどういうことなのだ?」

 

「えっと、本来〝使い魔〟は主人と視覚や聴覚を共有することができる……ってことは、当然知ってるわよね?」

 

 そのルイズの言葉に、はっとする太公望。

 

「そうか! わしはタバサの使い魔だから……!」

 

「ええ。もしかすると、ミスタとその魔道具を使うための特殊な『感覚』を共有できているんじゃないかしら」

 

 太公望は腕組みしながら考えた。

 

(わしの仙人としての感覚を、タバサが使い魔と主人の絆で結ばれた特別な何かでもって共有している? まさかとは思うが、もしもそれが事実であるならば……試してみる価値はありそうだ)

 

 そうして『ご主人さま』に視線を向ける。

 

「ふむ、タバサよ。ちとこの羽衣を纏ってみるのだ。そのマントは邪魔になるだろうから、とりあえずいったん外して、だぞ」

 

 言われた通りにするタバサ。やはり直接〝如意羽衣〟に触れても、なんともないようだ。それどころか羽衣は彼女のことを所有者として認めてしまったようだ。その証拠に、初めて太公望が触れたときと同じように淡い光を放っている。

 

「では次に……頭の中でその羽衣に向かって念じてみよ。『浮かべ』……とな」

 

 タバサは太公望の言葉通りに念じてみた。魔法で空を舞うときのようなイメージで。すると、彼女の身体はふわりと宙へ浮き上がった。まるで〝浮遊〟(レビテーション)で持ち上げられたかのように。

 

「と、飛んでる!」

 

「浮いた! 浮いたよ!!」

 

「す、すごいですね……!」

 

 ――そう。〝如意羽衣〟には、変身以外にも持ち主の思うがままに宙を舞う能力がある。〝飛翔(フライ)〟で空を飛び慣れている彼女なら、もしかすると……そう考えて実行させてみた太公望であったが、予想以上に馴染んでいるその姿に驚いてしまった。

 

 その上で、太公望は改めて脅威を感じた。

 

(これは……ひょっとすると『打神鞭』に触れても大丈夫かもしれぬな。だが、かの宝貝に取り付けられている『太極図』は、タバサにとってあまりにも危険すぎる!)

 

 何故なら『太極図』は宝貝の中でも特に強い〝力〟を秘めた『最強の7つ』の一画を占める特殊な『超宝貝』なのである。太公望自身、初めて手にした時に、ただそれだけで気を失いかけた程だ。

 

 太公望は現在の自分自身の状態についても確認してみた。如意羽衣へ〝力〟が吸い取られているような感覚は一切無い。

 

 つまり〝生命力〟の供給はタバサ自身から行われている。よって、下手に『太極図』へ触れさせたが最後、それだけで彼女を死なせてしまうかもしれない。そう判断した太公望は、急いでタバサ本人の状態を調べることにした。

 

「ふむ、タバサよ。ちと確認させてもらいたいのだが……その羽衣の正しい使い方がわかるか? そうだのう……例えて言うならば、頭の中に使い方の説明が入り込んでくるような感覚はあるか?」

 

 タバサは首を横に振った。

 

(なるほど。飛行能力は利用できるが、現時点では変身できるほどの〝生命力〟がないため、羽衣自身の判断でもって封印を施しているのか)

 

 そう判断した太公望は改めて補足をしておくことにした。彼女に危険が及ばぬように。

 

「以前、全ての生物には〝気〟と呼ばれる〝力〟が宿っているという説明をしたと思う。その羽衣はその〝気〟――別の言い方をすると〝生命力〟を変換することで奇跡を起こすアイテムなのだ。よって、使い過ぎれば当然のことながら死に至る危険性がある」

 

 その言葉を聞いて、あわてて地上へ降りてきたタバサ。心なしか彼女の顔は青ざめていた。それを見て「これは少し驚かしすぎてしまったか?」などと内心苦笑した太公望は改めて〝気〟に関する説明を追加した。

 

「そう慌てなくても大丈夫だ。〝気〟が減るということは、身体が疲れるということだ。よって、すぐに限界が判断できる。まずいと思ったら、単に使うのをやめればよいだけなのだから」

 

 と、タバサはその太公望の言葉を聞いて非常に有益なことを閃いた。

 

「もしかして、この羽衣で空を飛びながら魔法を使うことが……?」

 

 彼女の言葉を肯定するように、太公望は頷いた。

 

「うむ。使い慣れれば〝飛翔(フライ)〟の倍近い速度で飛びながら、全く別の魔法を使うことすら可能となるだろう。おまけに〝精神力〟を消費せずにな。ただし、それには『複数思考』の訓練が必要で、かつ『瞑想』と『空間座標指定』の修行をさらに先へと進める必要がある。もちろん〝生命力〟つまり体力の増強も必須だ。おぬしは……」

 

「その訓練を受ける」

 

 その答えを受け、満足げに頷いた太公望はこう言った。

 

「そうか、ならばその羽衣はおぬしにやろう。ただし、わしが使いたいと申し入れたときには貸し出してもらいたい。それでもかまわぬか?」

 

「本当に……?」

 

 予想だにしなかった太公望の申し出に、目を輝かせたタバサ。それは当然だろう、こんな貴重な魔道具をもらえるというのだから。

 

「それをおぬしに贈るのは修行の役に立つということと、そもそも女性用に作られているので、男のわしが身につけるというのはおかしな話だからなのだ。ただし、例の『呪い』の件があるから、他者が絶対に触れないような形で所持せねばならぬ。それだけは、くれぐれも気をつけるのだぞ」

 

 その言葉に、タバサはコクコクコクと激しく頭を上下することで応えた。だが、実際のところ太公望は敵の多い彼女の護身用具として〝如意羽衣〟を手渡したのだ。もしも杖を奪われたとしても、最悪この羽衣さえ持っていれば、空を飛んで逃げることが可能であろうから。

 

「確かに、羽衣といえば女性的な印象がありますよね。本当に素敵ですわ!」

 

 そう言って褒め称えるシエスタ。

 

「それ、すっごく綺麗よね……タバサが羨ましいわ」

 

「おまけに〝精神力〟を全く使わずに〝飛翔〟と同じかそれ以上の効果が得られる魔法具か……同じく羨ましい」

 

 例の『呪い』さえなければ、是非自分たちにも貸してもらいたいのに……そう、しきりに羨ましがるルイズとレイナール。

 

 それから太公望は、非常に重要なことをタバサに言い渡した。

 

「タバサよ。ちなみにだが、わしの杖にかかっている例の呪いも感覚の共有で無効化してしまうかもしれぬ。だがのう、間違ってもあれに触れてみようなどとは思うでないぞ? あれは、ただの杖ではないのだ」

 

 そう告げて、懐から『打神鞭』を取り出して見せる。

 

「この杖……『打神鞭』は、複数の魔道具を内蔵し! かつ、わしの師が手ずから作成してくださった、わし専用にカスタマイズされた特別製なのだ。よって、その〝如意羽衣〟とは比べものにならぬほど強力な封印を施してある」

 

 言われてタバサは思い出した。

 

(そういえば、母さまを助けにいったあの晩、彼は杖の先から不思議な旗を出して広げていた。なるほど……あれ以外にも何か別のアイテムが取り付けられているのなら、盗難防止のために強力な呪いをかけておく理由になる)

 

 そしてタバサは、どうして太公望がわざわざあの『土くれ』を雇ってまで魔法具に関する情報を集め、懸賞金を簡単に放棄するほど執念を燃やしているのかについても理解した。

 

 何故なら、この羽衣のようなアイテムを複数組み合わせ、使いこなすことができたなら――とてつもない〝力〟になるからだ。事実、あのときの旗も、この羽衣も、実際に見てわかったが、間違いなく『秘宝』と呼ぶに相応しい〝力〟を持っている。その価値は、当然のことながら懸賞金などには替えられない。

 

「今はまだ飛ぶことしかできぬようだが……修行が進むにつれ、わしと同じように〝変身〟が可能となるやもしれぬ。その時がきたら、その羽衣が教えてくれるであろう」

 

 遙かな時を越えて訪れた妖精は……『雪風』に新たなる可能性を示した――。

 

 




戦闘妖精雪風、フェアリィの空へ――


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第40話 伝説、大空のサムライに誓う事

「例の秘宝について知っていることがあれば教えて欲しいのだが」

 

 タルブ村へ向かう道すがら、太公望から問われたシエスタは困ってしまった。

 

 〝竜の羽衣〟

 

 それはシエスタにとって身近なものであり、困惑の種でもある。何故なら、かつて彼女の曾祖父が村に持ち込んだまがい物だからだ。

 

 ――竜の羽衣を纏う者は、自由に空を飛ぶことが叶うであろう

 

 実家に伝わるこの言い伝えが真実だとはどうしても思えない。父も母も、祖父母ですらシエスタと同じように考えている。

 

 それなのに、地元の人間の中にはそんなガラクタを有り難がって拝んでいる者さえ存在するのだから困ったものだ。

 

 つい先ほど本物の〝羽衣〟を見ているだけに、余計に言い辛い。

 

(ど、どうしよう……このまま黙っていても、すぐにあの〝羽衣〟がうちのものだって知られてしまうわけだし、それなら貴族さまたちががっかりする前にお話ししておいたほうがいいわよね)

 

 そう考えたシエスタは、ぽつり、ぽつりと〝竜の羽衣〟の由来について語り始めた。

 

「ずっと昔……今から六十年くらい前の話です。私のひいおじいちゃんは、ここからずっと東にある国から〝竜の羽衣〟に乗ってタルブの村へやって来たんだそうです。でも、誰もそれを信じませんでした。ひいおじいちゃんはどこか頭がおかしかったんだって、村のみんなが言ってます」

 

「なんでそんなこと言われてんだ?」

 

 才人の疑問に、シエスタは寂しげに答えた。

 

「それは……ひいおじいちゃんが空を飛べなかったからです」

 

「どういうこと?」

 

「村の誰かが『その羽衣を使って飛んでみろ』って問い詰めたんです。でも、ひいおじいちゃんは何だかよくわからない言い訳をして、飛ばなかったんだそうです。だから、そこに居たひとたちは誰もひいおじいちゃんの言うことを信じませんでした」

 

「なるほどねえ……」

 

「おまけに『もう飛べない』なんて言って、そのまま村に住み着いちゃって。毎日毎日一生懸命働いてお金を貯めて……貴族さまにお願いして、わざわざ〝固定化〟の魔法をかけてもらってまで、大事に大事にしてました。たとえまがい物でも、ひいおじいちゃんにとって〝竜の羽衣〟はかけがえのない宝物だったんです。期待している皆さまには、大変申し訳ないのですが……」

 

 そう言って悲しげに笑うシエスタだったが……その他の一同は笑っていなかった。それどころか、真剣に彼女の話に聞き入っていた。特に、最初に話を振った太公望と才人のふたりが。

 

「なあ閣下、どう思うよ? 東ってのがポイントだと思うんだけど」

 

「うむ。しかし、わしの国の魔道具ではない。例の呪いが発動しておらぬからのう。だが、初めてその情報に触れたときに、これは『破壊の杖』と同じ場所から来たものではないかと感じた。であればこそ、今回のタルブ訪問を決めたのだ」

 

「やっぱりアレ系か。とりあえず、実物見ないと何とも言えないけどな」

 

「うむ。全ては〝竜の羽衣〟を見てからだのう」

 

 そう言って頷き合った――奇しくも自分と同じ黒い髪を持つふたりの少年を、シエスタは実に複雑な心境で見守っていた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タルブの村近くに建てられた寺院は、草原の片隅にぽつんと存在していた。

 

 丸木を組み合わせて建てられた門は朱色に塗られている。そして、枯草で編まれたのであろう太い縄と独特な形をした紙飾りが取り付けられていた。

 

 寺院本体もトリステインでよく見かける石造りではなく、板と漆喰の壁に木の柱。屋根は粘板岩ではなく麦藁葺きだ。村にある建物とは明らかに趣が異なっている。

 

「これ、神社だ……それにあの門、鳥居だよ。間違いない」

 

 才人は胸の高鳴りを抑えることができなかった。それも当然だろう、まさかこんな異世界で日本独特の神社を見ることになるとは思ってもみなかったのだから。

 

「ねえ、サイト。あんた、この建物を知ってるの……!?」

 

 その場に立ち尽くしたまま小刻みに身体を震わせ続けている才人を見て、ルイズは不安を覚え……思わず声をかけた。理由はわからない――けれど、彼がそこからついといなくなってしまうような、そんな気がして。

 

 そんなルイズの想いとは裏腹に、意識がどこかへ旅立ってしまったかのように虚ろな表情をした才人はよろよろと鳥居の下へ近付くと、丸木の柱に手を触れ、感触を確かめながら呟いた。

 

「間違いない。これは俺の国の……神さまを祀るためのお(やしろ)だ」

 

 彼の呟きに驚いたのはシエスタだった。

 

「これが? サイトさんの国の寺院……なんですか!?」

 

 曾祖父が自ら設計し、建造したという寺院が、目の前にいる彼の国の建造物だという。シエスタは過去に何度もトリスタニアへ足を運び、街中で歴史ある寺院をいくつも見てきた。だが、そのどれもがこの建物とは似ても似つかぬ形をしていた。

 

 シエスタは、はっとして才人の顔を見た。

 

(まさか……それが本当なら、私のひいおじいちゃんと才人さんは……)

 

「中、見せてもらっても構わないか?」

 

 そう言ってこれまでになく真剣な眼差しを向けてきた才人に、シエスタはただ黙って頷くことしかできなかった。

 

 ――鍵が掛けられ、閉じた格子戸の奥に〝竜の羽衣〟は安置されていた。

 

 いや、正確には〝羽衣〟を包み込むように寺院が建てられていたといったほうが正しいだろう。板敷きの床の上に、くすんだ濃緑の塗装をされたその物体が。〝固定化〟のおかげであろう、錆ひとつ浮いていない状態で。造られた当時そのままの姿を残していた。

 

 才人はその物体に覚えがあった。子供の頃、彼の祖父が買い与えてくれたプラモデルの外箱に描かれていたイラストそのままだったから。それに、完成品は彼のお気に入りでもあった。

 

 東京にある自宅の部屋が現在も変わらぬ状態であったなら――机の脇にある透明のアクリルケースに入れられて、大切に飾ってあるはずだ。

 

 才人はまるで何かに憑かれたかのように〝竜の羽衣〟を見つめ続けていた。あまりにも彼が真剣に眺めていたため、水精霊団の一同も、改めてそれを観察してみたのだが――。

 

「うーん。サイトには悪いけど、あんなモノが飛ぶとは思えないわ」

 

 キュルケの言葉にうんうんと頷くモンモランシー。

 

〝魔法探知〟(ディテクト・マジック)にも〝固定化〟以外は一切反応なしだ」

 

 眼鏡の位置を直しながらレイナールが呟く。タバサも彼と同様の反応を示した。

 

「あれはカヌーか何かだろう? 小舟の側面に鳥の翼のような形をした板を取り付けただけにしか見えないな。これじゃあ、羽ばたくことなんかできやしないだろう。つまり、飛べない。きみもそうは思わんかね? ミスタ・タイコーボー」

 

 格子戸から覗き込んだ直後。素直な感想を述べたのち、彼らの中で最も博識な太公望にそう問いかけたギーシュだったが、相手から戻ってきた反応は彼の予想を裏切るものであった。

 

「いや……あれは間違いなく飛べる。そのように造られている」

 

 その太公望の言葉に、才人を除く全員が振り返る。その声に追従するかのように、これまでずっと黙り込んでいた才人が呟いた。

 

「なあおい。これ、なんかの皮肉か? 『ゼロ』のルイズに〝召喚〟された俺の目の前に、よりにもよって……コイツが現れるなんてさ」

 

 久しぶりに聞いた『ゼロ』の二つ名。ルイズは当然のことながら憤慨した。

 

「ちょっとサイト! それ、どういう意味よ!?」

 

 ぷりぷりと怒る彼女に才人は乾いた笑みを浮かべながら、こう返した。

 

「アイツはな、俺の国の軍隊が昔使ってた戦闘機。大空を飛んで戦うための武器なんだよ。でもって名前は……『零戦(ぜろせん)』っていうんだ」

 

「サイトの国の空で戦う……『ゼロ』!?」

 

 戸惑ったようなルイズの声に頷いた才人は、改めてシエスタに向き直り、尋ねた。

 

「なあ、シエスタ。お前のひいおじいちゃんが残したのはこのゼロ戦だけか!? 他にも……何かなかったりはしないのか?」

 

「え、そ、そんなにたいしたものは……遺品が少しと、あとは……お墓だけです」

 

「頼む。それを見せてくれ」

 

 そう言って頭を下げた才人に、シエスタはただ困惑するばかりであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タルブ村の片隅にある共同墓地。

 

 シエスタの曾祖父の墓は、その一画に建てられていた。白い幅広の墓石が並ぶ中、その墓だけが、唯一趣を異にしている。黒い石で造られたそれは、才人には見覚えのある形をしていた。

 

 墓石にはハルケギニアのものとは異なる文字で、墓碑銘が刻み込まれている。

 

「ひいおじいちゃんが、死ぬ前に自分で造った墓石なんだそうです。異国の文字で書いてあるので、村の誰も読めなくって。きっと、ひいおじいちゃんの国の字なんでしょうけど……サイトさんには何て書いてあるか、わかりますか?」

 

 静かに問いかけてきたシエスタに才人は頷き……答えた。

 

「大日本帝国海軍少尉・佐々木武雄(ささきたけお)、異界ニ眠ル」

 

 才人の解答にシエスタは目を丸くした。それは祖父から聞かされていた墓碑銘の読み方そのままであったから。

 

「なあ、シエスタ。その髪と目。ひいおじいちゃん似だって言われただろ?」

 

「は、はいっ! よく言われます」

 

「ついでに聞くけどさ、例の『ヨシェナベ』って……もしかして、シエスタのひいおじいちゃんが村に広めたんじゃないか?」

 

「えっ? ど、どうしてそれを……あ、じゃ、じゃあやっぱり、サイトさんは……!」

 

 震え声で問いかけるシエスタに、才人は頷き返した。

 

「ああ、そうだよ。俺はシエスタのひいおじいちゃんと同じ国から、このハルケギニアに〝召喚〟されてきたんだ。ここに眠ってる佐々木武雄さんが生きていた頃は大日本帝国――今は日本って呼ばれている、西側に大きな大陸があって……それを挟んだ海のさらに東にある、小さな島国からな」

 

 この答えに全員が驚きの声をあげた。普段は滅多に感情を表に出さぬタバサですら驚きを露わにしている。彼女は、とある事実を思い出していたのだ。

 

 太公望がハルケギニアにやってくる前に居たという国・周。そこは広い大陸の中にある国なのだと聞いていた。

 

 タバサは改めて太公望と才人、シエスタを見比べた。ハルケギニアでは珍しい黒い髪に黄色がかった肌と、彫りの浅い顔の造形。瞳の色こそ違えど、彼らの間にはあまりにも共通点が多すぎる。

 

 サイトの国から見て、西側には大陸があるという。目の前にある〝竜の羽衣〟はハルケギニアの東から飛んで来た。

 

 ――でも、サイトの世界には魔法がない。月も、ひとつしかないらしい。

 

 ――けれど、タイコーボーの国には魔法がある。月の数はわからない。

 

 ――にもかかわらず、ふたりとも〝竜の羽衣〟は間違いなく飛べると言っている。

 

 ――そして。全く同じ時間軸、六十年ほど前に現れた〝天使の羽衣〟〝竜の羽衣〟というふたつの羽衣の名を冠する秘宝。偶然と言うには正直出来過ぎている。

 

(わからない。これらが意味するものは、いったいどういうことなの?)

 

 タバサは再び太公望の顔に視線を移した。彼は黙って墓石に視線を這わせている。

 

 静かに考え続けるタバサをよそに、周囲のざわめきは収まることを知らなかった。だが、何かを決意したかの如く紡ぎ出されたシエスタの声により、それらは突如中断した。

 

「皆さん、今日の宿は既にお決まりだったはずですが……もしよろしければ、荷物を置いた後で結構ですので私の家へいらしてはいただけませんか? サイトさんに見てもらいたい物と……会ってほしいひとがいるんです」

 

 

 ――1時間後。水精霊団の一同はシエスタの生家に集合していた。

 

 そこにシエスタが会ってほしいと言っていた人物――彼女の父親が、驚愕を顔に貼り付けたといった風情で彼らの到着を待ちわびていた。

 

 彼は予定よりも1週間以上早く愛娘が帰ってきたことにも驚いたが、それ以上にシエスタから、

 

「ひいおじいちゃんのお墓に書かれている文字を読めるひとが現れた」

 

 そう告げられたことに衝撃を受けていた。まさか本当に現れるとは思ってもみなかった。だが、実際にやって来たというのならば――その人物にお渡しせねばならないものがある。

 

 それが彼の祖父……シエスタの曾祖父が残した遺言だったから。

 

 シエスタの父は、それをそのまま才人に告げた。

 

「本当に俺が、あの〝竜の羽衣〟をもらってもいいんですか!?」

 

「はい、それが祖父の遺言だったのです。もしもあの墓碑銘に書かれた文字を読める者が現れたら、その人物に〝竜の羽衣〟をお渡しした上で、これをお見せするように、と」

 

 シエスタの父が差し出した箱に入っていたのは、飛行眼鏡と飛行帽。絹でできた白いマフラーに、軍服から外して手元に残しておいたのであろう階級章だ。

 

「桜の紋……うん、これ間違いなく日本の階級章だ。お墓に書いてあったけど、少尉でしたよね。たぶんですけど、シエスタのひいおじいちゃんはものすごく頭のいいひとだったんじゃ?」

 

「どうしてご存じなんですか!? もしや、あなたは」

 

「いや、親戚とかってわけじゃありません。ただ、あの〝竜の羽衣〟を手にするためには滅茶苦茶難しい試験に合格しなきゃいけなくて。昔、俺のじいちゃんが言ってました。年間何千人もいる志願者の中から、ほんの数人しか受からないような超難関なんだって」

 

 シエスタの父も、彼の娘も、驚嘆の色を顔中に貼り付けていた。

 

「確かに祖父は頭のいいひとでしたが、そこまで……」

 

 才人は自分の知識を総動員してふたりに語り聞かせた。

 

「その試験に合格しなきゃ入れない海軍の士官学校を卒業しても、ゼロ戦のパイロット……あの羽衣の使い手になるまでにはすごくたくさん勉強して、辛い訓練をくぐり抜けなきゃいけないから……シエスタのひいおじいちゃんは、余計にゼロ戦を大切にしていたんじゃないかな」

 

 そんなふうに熱心に説明してくれる才人を見ていたシエスタは、不思議な感慨に囚われていた。

 

 貴族さまが何かの間違いで呼び出してしまったという平民。のちに、実はミスタ・タイコーボーの国の、とてもえらい貴族さまの妾腹の息子さんだと耳にした。深い事情があって、母親と一緒に海を渡ったのだと聞いている。

 

(ひいおじいちゃんの国とサイトさんのお母さまの祖国が、まさか同じ場所だったなんて! やっぱり魔法は凄い。こんな奇跡を起こしてしまうんだから)

 

 シエスタは、ただただその奇跡の邂逅に驚いていた。

 

「俺のじいちゃんが、昔……よく言ってました。ゼロ戦のパイロットは『大空のサムライ』なんだ。自分たちにとって憧れの存在だったんだ……って」

 

「それです! そのサムライ……という言葉、祖父もよく言っていました。でも、私には意味がよくわからなかったのです。よろしければ教えていただけませんか?」

 

 目を輝かせるシエスタの父に、才人はどう答えようか悩んだ末――こう切り出した。

 

「トリステイン風に言うなら、やっぱり〝騎士〟だな。祖国と、誇りと、名誉のために戦い抜いた空の戦士。俺のじいちゃんが言うには、男子たるものかくあるべしってお手本にされるようなひとたちだったらしいですよ。もっとも俺はそんな凄い人間なんかじゃありませんから、期待されても困りますけど!」

 

 それを聞いて、最も強い反応を示したのはルイズだ。

 

「ちょっと待って! 大空を舞う騎士ってことは、竜騎士みたいなものってこと!?」

 

「竜騎士の実物はまだ見たことないけど……そういうことになるのかな。シエスタのひいおじいちゃんは〝竜の羽衣〟を纏って戦う騎士だったってことだ」

 

 ルイズは本気で驚いていた。あの〝ゼロせん〟のことはよくわからないが、少なくとも竜騎士になるためには高い資質を持つメイジでなければならないからだ。

 

 竜は誇り高く、賢い生き物だ。自分の背に乗せるに相応しい〝力〟を持つ者かどうかを嗅ぎ分け、資格を持たぬ者を寄せ付けない。たとえ竜に選ばれたとしても、その後の厳しい訓練を経てようやく最強の空の騎士になれるのだ。

 

 ところが今、自分たちの側にいる平民――メイドの少女シエスタの曾祖父は竜騎士のように空を舞い、戦っていたのだという。少なくとも、トリステインではありえないことだ。才人が嘘をついていないのであれば、だが。

 

 しかしルイズは確信していた。

 

(サイトがそんな嘘をつく意味がないわ。お国自慢にしても、何の得にもならないし。あのガラクタをもらえるって知ったとき、ものすごく嬉しそうな顔してたし。それにしても……ニホン、かあ。今度、もっと詳しく聞いてみたいわね。できれば部屋にいるときじゃなくて、いつもとは違う場所で、そうね、美味しいお茶とお菓子があるところがいいわ。それも、できれば……ふたりだけで)

 

 と、そこまで考えたルイズは、どうしてだか顔が熱くなってくるのを感じた。

 

(な、なな、なんで、こんなに胸がどきどきするの? わ、わたしはただ、静かな場所でサイトと話がしたいって思っただけなのに! そそ、それだけなのに!!)

 

 ――そんなルイズの微妙な心の変化に誰も気付くことなく、部屋での会話は続いていた。

 

「祖父がニホンという国の騎士さま……と、いうことは……なるほど。ようやく祖父の遺言の意味がわかりました」

 

「どうかしましたか?」

 

「祖父は亡くなる前に繰り返し呟いていたのです。『もしもあの墓碑銘が読める人物が現れたら〝竜の羽衣〟を渡した上で、こう伝えてくれ。なんとしても、これを陛下にお返しして欲しい』と。祖父の言う陛下とは、あなたの国の王さまのことなんですね」

 

「いや、王さまじゃなくて天皇陛下……えっと、こっちでいうと皇帝かな? ただ、お祖父さんの言っていた陛下はもうかなり昔にお亡くなりになっていて、今はその息子の皇太子殿下が即位して、新しい天皇になってるから……あれを持ち帰ることができたとしても、佐々木さんが言う陛下にはお返しできないと思います」

 

 ――皇帝と天皇は実は似ているようで全く異なるものなのだが、それを説明すると長くなるので、あえてわかりやすく例えた才人であった。

 

「それは仕方のないことでしょう。なにしろ、六十年以上経っているわけですから。しかし、その新しい陛下にお返しするにしても、あれが飛ばないことには……」

 

 困り果てていたシエスタの父に、才人は切り出した。

 

「もしよかったら、あれに触らせてもらってもかまいませんか? 俺なら、どうして〝竜の羽衣〟が飛べないのかわかるかもしれません。あれは俺の国の『武器』ですから」

 

 才人は左手――指ぬきグローブの下に隠された〝ガンダールヴ〟のルーンを右手で押さえるようにして立ち上がった。この〝力〟があれば、もしかすると本当に理解できるかもしれない。全ての『武器』を使いこなす、ルイズがくれたコイツなら。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タルブの村・羽衣神社。

 

 なんとなしにそう名付けた才人は、今……〝竜の羽衣〟の前に立っていた。そして彼の後方で、シエスタと彼女の父と、水精霊団の一同と――村に貴族さまがやってきたという話を聞きつけて、おっとり刀で駆けつけたタルブの村長が、その一挙一動を見守っていた。

 

 深緑に塗られたボディ。翼に描かれた赤い丸印。これは国籍標識『日の丸』だ。そして黒いつや消しのカウリング(エンジン部分を覆うカバー)に、白い文字で抜き出すように書かれた『辰』という文字。これは佐々木氏が所属していた部隊を示す識別印(パーソナル・マーク)だろうかと才人は考えた。

 

「じゃあ、ちょっと診せてもらいますね」

 

 そう宣言した才人は、手袋はそのままに『ゼロ戦』の胴体に触れてみた。途端に、彼の脳内に機体スペックが流れ込んでくる。

 

 ――三菱・零式艦上戦闘機二二型(A6M3) ……最高速度540.8km/h(高度6000m) ……航続距離/2600km ……武装/7.7mm機銃×2、20mm機銃×2――

 

「うわ。六十年経ってんのに武装全部生きてやがる。魔法ってマジやべえな……」

 

 そんなことを呟きながら、さらに詳しく〝竜の羽衣〟を調査する才人。その間も、左手のルーンは彼にゼロ戦の詳細な操縦法や、その他内部構造などを鮮明なイメージとして伝えてくる。

 

 俺は間違いなくこれを飛ばせると才人は確信した。

 

 より詳しく調べていくうちに、才人は気が付いた。何故この〝羽衣〟が飛べないのか。

 

「ガス欠だ……燃料が切れたせいで飛べなくなったんだよ、この〝羽衣〟は」

 

「やはり、これは内燃機関でもって空を舞う飛行機械であったか」

 

 そのための燃料が切れているということだな? そう問うた太公望に、才人は頷いた。

 

「内燃機関というのは、もしかして、このあいだミスタ・コルベールが授業中に見せてくれた『ヘビのおもちゃ』が扉から出てくるあれのことかね?」

 

 彼らにそう問うたのはギーシュだった。それを聞いていた生徒たちが驚きの表情を浮かべる。

 

「そうだよ、あの先生は本物の天才だよ! なんにも無い状態から、この〝竜の羽衣〟を飛ばすためのエンジン……それの原型になるものを生み出したんだから! こいつはな、なんと馬の十倍近い速さで飛べるんだぜ!」

 

 目をきらきらと輝かせ、満面の笑みでもってそう宣言した才人。「それは素晴らしい!」と、同じく……こちらは好奇心で瞳をきらめかせた太公望。

 

 そんな彼らの言葉に仰天したのはその場に残っていたシエスタと彼女の父親だ。

 

 無理もない、彼らはこの〝竜の羽衣〟がそんなとんでもない〝秘宝〟だとは想像だにしていなかったのだから。これまで、ずっとただのガラクタだと思いながらも「家族の形見だから……」と、複雑な思いで寺院を守っていただけだったのだ。

 

 そして水精霊団のメンバーたちも、まさしく開いた口がふさがらない状態となっていた。馬の十倍の速度で飛べる!? それが話半分だとしても小型の『フネ』としては凄まじい性能ではないか。しかも、魔法なしでそれを実現しているとは。

 

 おまけにこれは、以前コルベール先生が嬉しそうに披露していた『愉快なヘビくん』と同じ原理で動くのだという。だとしたら、それを無の状態から作り出せたコルベール先生は――。

 

「……冴えない先生だと思ってたんだけど、実は結構すごいのかしら?」

 

 目を丸くしたまま呟いたキュルケに、

 

「うん、あの先生間違いなく凄い!」

 

「コルベール殿は正真正銘の天才だぞ? 彼の教えを受けられるおぬしたちは幸運だ」

 

 断言する才人と太公望。このふたりがそこまで言うならば、間違いないのだろう。そう判断した一同は改めて『ゼロ戦』を興味津々といった表情で見始める。

 

 そんな彼らの反応に満足した才人は太公望を手招きすると、燃料タンクの元へと歩み寄り、コックを開いてみせた。

 

「ほら見ろ、ほとんど空っぽだよ。ここにガソリンを入れないと、飛べない」

 

「がそりん……ふむ、この感じからすると相当に揮発性の高い油だな? ただ、これを実際に精製するとなると、相当な技術と知識が必要となると思われるが――技術畑ではないわしには無理だ。おそらくそれを実現できる者は、このハルケギニアにはただひとりしかいないと思うのだが、才人よ……おぬしはどう思う?」

 

 ニヤリと笑って自分の目を覗き込んできた太公望へ、これまたイイ笑顔で見つめ返す才人。

 

「さすがは閣下、話が早くて助かるぜ。俺も、コルベール先生にしかできないと思う。かといって、先生をここに呼び出すわけにもいかないし……となると、問題はこいつをどうやって魔法学院まで持って帰るかだよな。いくらルイズと閣下でも、こんなデカくて重いモノ浮かせるのは無理だろ?」

 

「無茶苦茶なこと言わないでよ!」

 

「わしらを殺す気か!」

 

 ……たぶん、ふたりで相当頑張ればできないことはない。浮かべてさえしまえば『空飛ぶベッド』以上に安定すると思うが、色々な意味で死ねる上に面倒この上ない。即座にそう判断した太公望と、絶対無理だと即断したルイズが声を張り上げた。

 

「と、いうか……本当にこれ、俺がもらって帰ってもいいんでしょうか?」

 

 ひょこっと神社の内部から顔を出し、シエスタの父とタルブ村長の顔を見つめて問うた才人に彼らは笑顔で頷いた。

 

「私たちでは〝竜の羽衣〟を生かすことができません。これを持ち込んだ祖父と同じ国からやってきたあなたがお持ちになるのがいちばんでしょう」

 

「そもそも、これは大きすぎて管理するだけでも大変でしたからな」

 

「ありがとうございます! じゃあ、遠慮無く戴いていきます」

 

 頭を下げた才人に、シエスタの父と村長は微笑んだ。

 

「どうやら話は決まったみたいだね。なら、このあとすぐに父上――グラモン元帥宛てに伝書フクロウを飛ばして、運送専門の竜騎士隊を出してくれるよう頼んであげるよ。ただし、彼らに運搬費用を払ってもらう必要があるが、それでもかまわないかね?」

 

「ああ、そういうことならば経費で落とそう。これはわしら水精霊団にとって、のちのちまで役に立ってくれる……そんな予感がするからのう」

 

 ギーシュの申し出に太公望が頷いた。

 

「サイト殿。これも一緒に空へ持っていってやってください。そのほうが祖父も喜ぶでしょう」

 

 シエスタの父親は後ろに控えていた娘に笑顔で頷くと、祖父の遺品を才人の元へ持って行かせた。佐々木氏が身につけていたゴーグルと飛行帽、絹でできた白いマフラー。そして帝国海軍少尉の階級章を。

 

 それを見た才人はふたりに対し、日本流の敬礼をした。と――シエスタの父が満面の笑みを浮かべて敬礼を返してきた。

 

 おそらく彼も、祖父である佐々木少尉に教わっていたのであろう。才人のように。

 

「この村へ来るときに見ました。あの草原にならこのゼロ戦を着陸させることも……たぶん離陸もできると思います。だから、この〝羽衣〟がまた飛べるようになったら真っ先に見せに来ます!」

 

 そう言って才人は、前へ進み出てシエスタの元へ近寄っていった。

 

「シエスタはこのあと……夏休み中はずっとここにいるんだろ? もし、それまでに間に合ったら、お前のひいおじいちゃんが残したものがどれだけ凄いのか、しっかりと見てやってくれよな!」

 

「はいっ! 私……ここで〝竜の羽衣〟が飛んで来る日を待ってます。それと……もしよかったら、是非一度乗せてくださいね」

 

 そう言って笑ったシエスタの手から佐々木武雄氏の形見を受け取った才人は早速飛行帽を被り、マフラーを巻き、ゴーグルをつけてみせた。

 

 そして、彼が建物の外へ出たその瞬間。赤い夕日が――あのゼロ戦に描かれた丸い印と同じ色をした輝きが、すっと頭上を照らし……それを反射したゴーグルのレンズが眩い光を放った。

 

 ――六十年という永き時を経て。異界ハルケギニアより、新たなる『大空のサムライ』が生まれようとしていた――。

 

 

 




ゼロ戦とは全然関係ないんですが、
エースコンバットZEROのリメイクはまだですか!
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星降る時
第41話 軍師、はじまりを語るの事


 ――夜。宴席となってしまった夕餉の最中に、

 

「飲み過ぎてしまった」

 

 と言い訳をして外へ抜け出した太公望は、独りタルブ村の側に広がる草原に立ち、そよぐ風に頬を嬲られながら……空を眺めていた。

 

 彼の視線の先には、双つの月がこれまでと変わらず輝いていた。

 

「思えば、ヒントになるようなことはたくさんあった。だが、このわしともあろうものが先入観に惑わされた結果、今の今まで気付かなかったとは。何故、これが()()()()ことに考えが至らなかったのであろうか」

 

 気が付いたのは、あの黒い墓石を見た時だった。

 

 全てを読み取ることはできなかったが、太公望――いや、かつて『繰り返す歴史』を見続けてきた地球の『始祖』伏羲には、あそこに刻まれていた文章の一部が読めた。

 

 何故なら墓碑銘に書かれた文字は、彼の切り札『太極図』によって紡ぎ出されるものと非常に似通っていたからだ。その文字を才人がすらすらと読み、シエスタに語ってみせたとき――疑問は確信に変わった。

 

「魔法のない世界。にもかかわらず、何故わしらの間ですら廃れかけていた〝術〟がおとぎ話などという形で残っているのか。どうして〝気〟のコントロールなどという言葉が出てくるのか。考えてみれば、おかしな話ではないか」

 

 まだまだ多くの謎が残っている。しかし、ここに至るまでに揃えた情報という名のパズルピースは太公望に――それが明確な事実であることを告げていた。

 

「民の間で科学技術が大きく発展していること……そして、月がひとつしかない惑星。わしと同じ黒い髪と肌の色、よく似た顔の造形。全く同じ時間軸に現れたふたつの羽衣と、大陸の話。これらが示す答えはひとつしか考えられない」

 

 思わず口に出してしまったその思考は、本来であれば誰にも聞かれることなく、風と共にこの地を去るはずであった。しかしそれは……いつの間にか太公望のすぐ側に集っていた四つの人影によって受け止められていた。

 

 人影の正体はタバサとキュルケ。そして才人とルイズであった。

 

 双月の光を背にゆっくりと振り返った彼は、おどけたような口調で言った。

 

「どうやら……宴の主役が、こちらへ移ってきたようだのう」

 

 その声に、まずタバサが答えた。

 

「あの黒いお墓を見て、サイトの話を聞いた後……あなたの様子がおかしくなった。それに、わたしも疑問に感じていた。タイコーボー、あなたとサイトには共通点がありすぎる。おそらく、わたしにしか開示されていない情報とこれらを合わせて検討したとき、わたしは可能性に至った」

 

 その解答に、太公望は小さく笑いながら思った。

 

(この娘、やはり聡いのう。偶然とはいえ、このわしを〝召喚〟できただけのことはある)

 

 いや、もしかするとこれは必然だったのかもしれない。タバサはわずかな手持ちのカードだけで、自分と同じ答えに行き着いた。

 

 しかし彼女の性格からして、この状況下で他人を連れてくるとは思えない。ならば、どうして残りの三人はここへ現れたのだろうか。

 

 前もってその答えを予測しつつも、太公望はあえて彼らに問いかけた。

 

「で? おぬしらはどうしてわしらの後をつけてきたりしたのだ?」

 

 あえて『タバサの』とは言わない。何故なら、自分たちふたりが――時間差はあったにしても――揃って外へ出て行ったが為に彼らは興味を抱いたのであろうから。

 

 太公望の問いに、気まずげな顔をして俯く三人。

 

 太公望は苦笑した。思考に深く囚われるあまり、彼らの接近に寸前まで気が付かなかった自分にも非はある――それに。これはこの世界の『始祖』とやらが導いた結果なのかもしれない。彼がそんな思いに至ったのは、ここに集いし者が……自分を含む『最初の五人』だからだ。

 

 タバサによって、この世界に〝召喚〟された。

 

 新たな世界を見ようとしたときに、才人との〝出会い〟があった。

 

 キュルケの橋渡しによって、大きな〝縁〟が生まれた。

 

 ルイズが流した涙の光で、彼女が背負おうとしている〝運命〟を知った。

 

「これも、ハルケギニアの『始祖』ブリミルのお導き、というやつなのかもしれぬ。よって、もしもおぬしたちが聞きたいと望むのならば全て話そう。ここではない別の世界。このわしがやってきた国……いや星のはじまりと『始祖』と呼ばれる者たちの物語を」

 

 どうする? そう瞳で語りかけてくる太公望に、全員が黙って頷いた。

 

 

○●○●○●○●

 

「タバサは既に知っておることだが、わしは東方ロバ・アル・カリイエの出身者ではない。あまりにも自国が遠く離れていたがために、そのように言って誤魔化すよう、オスマンのジジイから勧められていたのだ」

 

 最初にそう断りを入れた太公望。その発言に驚く三人。先程、彼は別の世界と言った。まさかとは思うが、彼は――。

 

「もしかして、あなたもサイトと同じように異世界から〝召喚〟されたの……?」

 

 ルイズの問いに頷く太公望。これにはタバサもびっくりした。

 

「違う世界。やっぱり、あなたも……なの?」

 

 タバサは太公望の出身地がロバ・アル・カリイエではないと知りつつも、これまでハルケギニアと同じ世界にある、遠い国から彼を呼び出したとばかり考えていたのだ。だからこそ才人との間にいくつもの共通点を見出しながらも、そこから先へ進むことができず――彼に話を聞きに来たのだ。

 

「ああ、そうだ」

 

「ねえ、どういうこと!? 別の世界って……いったい」

 

 困惑していたのはキュルケだ。それもそうだろう、太公望はロバ・アル・カリイエの出身者だと、彼女はずっと思い込まされ続けてきたのだから。

 

「キュルケも、それに他の者たちも、質問したいことが山ほどあるであろうが……それをするのは、どうか今からわしがする話が終わるまで待っていてほしい」

 

 そう断りを入れると、太公望は改めて語り始めた。はじまりの……はじまりについて。言っても構わない範囲で、かつ才人にとある確認をするため、事実と――そうでない話を交えながら。

 

「かつて。広大な星の海の中に、大いなる叡智によって栄華を極めた惑星……生物が住まうことのできる世界があった。そこは、例えるならば科学と魔法。このふたつの〝力〟を合わせた非常に高度な文明によって栄えていた。そしてその繁栄は――永久に続くと思われていた」

 

 ――しかし。それは唐突に終わりを告げた。今でも、その理由はわからない。

 

「その世界は、ある日突然消失してしまった。国が滅ぶなどという程度の生易しいものではない。文字通り世界が――いや星が爆発し――消えてしまったのだよ。偶然星の海――宇宙へ出ていたわずかな者たちだけが難を逃れた。だが、そのままではいずれ自分たちも星と同様、消えて無くなってしまう。そう考えた生き残りし者たちは、それぞれが乗っていた宇宙船で新たな世界を発見すべく、星の海の彼方へと飛び去っていった」

 

 まるで神話を紡ぐ語り部のように朗々とした声で話を続ける太公望。

 

「そのうちのひとつ。強い〝力〟を持つ五人の人間を乗せた星の海を征く船が、気が遠くなるほど長く苦しい旅の末に、大宇宙の果てで……美しい、青き星を発見した。そして彼らは船を降り、新たな大地に降臨した。彼らこそ、その世界の『始祖』。わしがいた星のはじまりを造った者たちだ。例えるなら、このハルケギニアに6000年前に現れたというブリミルと同様の存在であろう」

 

 そう語る太公望の瞳は、まるでその場面に立ち会っていたかのように遙か遠くを見つめている。

 

 タバサも、ルイズも、キュルケも――驚く以前に戸惑っていた。そして、彼女たちは空を見た。あの輝く星々の中に、このハルケギニアのような世界がたくさんある。そんなことは今まで思いも寄らぬことだったから。

 

 いや、ルイズとタバサに関しては才人という前例があっただけに異世界というものの存在を概念として理解していたが、それにしても太公望の話は、あまりにも荒唐無稽なもののように感じた。

 

 もしもこれが、彼と出会ったばかりの頃であれば「何を馬鹿なことを」と言って、即座に斬り捨てたに違いない。

 

 でも、彼女たちは既に聞いて知っていた。太公望が本拠地としていた場所が、月の裏側に浮かんでいるということを。中でもタバサは夢の世界のこととはいえ、星の海を征く船を実際に見ている。

 

 そして才人はというと、説明し難い、不思議な胸の高鳴りを覚えていた。まるで、あのゼロ戦と出会ったときと同じように。

 

 理由はわからない。でも、この話を最後まで聞いたらわかるかもしれない。そう考えた彼は黙って太公望の話に聞き入っていた。

 

「その星は美しく、彼らが住むのに適していた。だが、人間はもちろんのこと……まだ知的生命体と呼ばれるようなものは一切存在していなかった。そこで五人の『始祖』は集い、話し合ったのだ」

 

 ――自分たちは異邦人。この美しい星を自分たちの思うように作り替えるには忍びない。しかし、長く苦しい旅を続けてきたせいで、我らはもう疲れてしまった。だから、最後にこの星と融け合うことで〝星の意志と力の源〟となろう――

 

「……とな。その言葉を最後に彼らは光の粒と化し、世界中に霧散した」

 

 ――ある者は〝風〟に乗り、世界の隅々まで広がっていった。またある者は〝土〟に宿りて細かな砂粒の1つに至るまで、その〝力〟を分け与えた。〝水〟に溶け、世界を慈愛で満たした者もいた。〝力〟の塊と化し、暖かき〝炎〟となった『始祖』も存在した。そうして彼らは星に宿る〝意志〟となり、消えていった――

 

「それから、さらに数万年の時が流れ……青き星に様々な知的生物が現れ始めた。彼らは進化を繰り返し、ついに人間が誕生した。やがてその人間たちの中に……ごくまれに、特別な〝力〟を宿した者たちが現れた。『始祖』の流れを汲み、その〝力〟を発現させた〝力在る者〟。ハルケギニア風に言うメイジの原型となる者が誕生したのだ」

 

 その言葉に全員が一斉に反応した。つまり、太公望はその世界に生きていたメイジなのだ。

 

「いっぽう、人間以外――たとえば巨大な木。意志を持った岩石。人間ではない生き物たち。それらにも〝意志〟と〝力〟を持つ者が現れた。彼らは妖怪あるいは妖精などと呼ばれ、基本的に好戦的で……人間よりも遙かに強い〝力〟を宿していた。こっちで言うなればエルフや妖魔、亜人たちがそれにあたる」

 

 世界の誕生を語る吟遊詩人・太公望の声と話に、集う者たち全てがいつしかぐいぐいと引き込まれていった。

 

「彼らはそれぞれ異なる文明を築き、発展していった。そんな中……とある〝力〟を持つ者たちが現れた。それは過去の歴史を視る〝力〟だ。彼らはその〝力〟によって知ったのだ。かつて青き星に散った『始祖』の意志を。そして〝力在る者〟たちは種族を越え、ひとつところに集い、語り合ったのだ……『始祖』について。結果、彼らは『始祖』の御心を継ぐ決意をした。その内容とは――」

 

 そこまで言った太公望はふいに言葉を止めると、こう告げた。

 

「なにやら、ここのメイジたちを非難するような話になるので申し訳ないが……これはあくまで価値観や世界の(ことわり)に関する問題なので、どちらが正しいとか、そういったことを論じる意図はない。よって、怒らないで聞いて欲しい」

 

 そう注釈を入れ、自分たちの世界の〝力在る者〟が決定した内容を話した。

 

 ――〝力在る者〟が〝持たぬ民〟を支配してはならない。それは〝星の意志〟に反する。だが、このまま同じ場所に住んでいれば、いずれ両者が衝突するのは間違いない。だから、自分たちは別の世界を作り、そこへ移ろう――

 

「……とな。そうして、かすかに残る『始祖』たちの科学や魔法を代表する超文明の叡智を生かし、人工的に『空飛ぶ街』や『空間を隔てそびえる山脈』、『雲間の大陸』を造り〝力在る者〟と〝持たぬ民〟。つまりメイジと平民……お互いを隔て、それぞれの上層部……王族や代表者、特別な許しを得た者以外とは一切の交流を断ったのだ」

 

 ここから太公望は、お得意の作り話をより大幅に付け加えることにした。そうしないと、彼にとって色々と不都合なことが発生するからだ。特に『不老不死の仙人』であることを悟られるのだけは、絶対に避けたかった。

 

「だが、そんなことをしては血が濃くなりすぎてしまい、やがて生物としての限界が訪れてしまう。事実、それによる弊害があった。それに、地上ではまだ〝星の意志〟を継ぐものが誕生し続けていた……ごくわずかにだがな。そこで〝天界〟――さきほど語った人工的な別世界を以後こう呼ばせてもらう――で『千里眼』と呼ばれる世界を見通す目を持った者たちが、地上を監視し……〝力在る者〟が現れたとき、使いをやってスカウトを行うようになった」

 

 この言葉に反応したのがルイズだ。

 

「まさか、その『スカウト』って前にわたしに言ってた……」

 

 彼女の言葉に、太公望は笑って頷いた。

 

「そうだ。わしらはここのメイジたちほど数が多くないからのう。だから〝天界〟それぞれの島で、スカウト合戦が繰り広げられたのだよ。ルイズなら……いや、今ここにいるおぬしたち全員が、間違いなく〝天界〟に誘われる……しかも取り合いになるほどの高い素質を備えておるよ」

 

「お、お、お、俺も!?」

 

 興奮して自分を指差す才人に、苦笑しながら太公望は答えた。

 

「ああ、もちろんおぬしも含まれる。『武器による攻撃を得意とする能力者』扱いでな。わしのところでは杖を持ち、奇跡を起こすことだけが〝力〟の全てだとは見なされないのだ。専用の武器を手にすることで、体内に眠る〝力〟を引き出し、戦う者たちが大勢いる」

 

(なるほど。彼がハルケギニアのメイジには想像できないような魔法の使い方をするのは、そのあたりが関係しているのかもしれない)

 

 タバサはそう考えた。

 

「ところが、そのスカウト合戦から悲劇が始まったのだ」

 

 そう告げると、太公望は再び真剣な顔をして語り始めた。

 

「スカウトによって人間やそれ以外の者が大勢集えば、当然のことながら派閥が生まれる。それに、姿が違えば考え方も変わってくるものだ。やがて〝天界〟にあった三つの島には、それぞれに異なる理想を持つ者たちが集うようになり……対立が始まった」

 

 太公望は左手指を1本立てた。

 

「ひとつめは〝崑崙山(こんろんざん)〟。空に浮かぶ山脈。これはわしが所属していた派閥であり、人間出身者がほとんどを占めていた場所だ。『始祖』の意志を継ぎ〝力在る者〟が〝力無き者〟を虐げることがあってはならない。そう考える者たちが集まっていた」

 

 そして、指をもう1本立てる。

 

「ふたつめは〝金鰲島(きんごうとう)〟。空を飛ぶ街。ここはおもに妖怪などの亜人が住まう街だ。わしら〝崑崙山〟よりも遙かに文明が進んでいた。彼らの多くが『強い者が弱い者を支配して何が悪い』と考えていた。もちろん、そうではない者たちもおったがな」

 

 再び指を立てる太公望。これで3本目だ。

 

「そして最後の〝桃源郷(とうげんきょう)〟。雲間の大陸。ここは完全中立地帯。どちらにも所属せず、地上と関わることすらしなかった。最後の最後までな」

 

(だいたい〝桃源郷〟はそこに住まう民を統べる者からして、可能な限り他者との関わりを持ちたがらなかったからのう……)

 

 過去の出来事を思い出し、ため息をつきそうになるのをこらえつつ太公望は言葉を紡ぎ続けた。

 

「やがて〝崑崙山〟と〝金鰲島〟の対立は激しくなり、とうとう戦争が勃発した。当然、そんなことになれば互いの監視が弱まる。その隙を見た一部の者たちが、ついに地上世界に干渉をはじめてしまったのだ」

 

「それって、つまり……」

 

 ごくりと唾を飲み込む音が、辺りに響く。

 

「そうだ。奴らはその強大な〝力〟をもって、平民たちの王の側へ現れ、彼らの野心と欲望をかき立てたのだ。その結果、地上に戦の種火がまき散らされた。多くの男たちが兵として駆り出され、残された者たちには重税がかけられ――大陸中が混沌の渦に巻き込まれた。世界は流された血で赤く染まり、諸国はまるで麻のように乱れた」

 

 空に浮かぶ双月を見上げながら、太公望は続けた。

 

「それから数百年ほどが経ったある時。長き動乱の時代を迎えていた地上世界に、わしは生まれたのだよ。国境付近に小さな小さな領地を持っていた――地方領主の息子としてな」

 

 物語の中に知り合いが登場すると、その話は俄然面白くなってくる。それがよく知る人物であればなおさらだ。一同は息を潜めて太公望の話を聞いていた。

 

「当時のわしは自分の中に〝力〟が眠っていることを知らない、ただの子供だった。両親に温かく見守られ、頼もしい兄たちに囲まれ、まだ幼かった妹からは兄さま、兄さまと呼ばれ、懐かれていた。あの頃は、毎日が幸せであった。だが、わしが十二歳になったあの日……唐突に、その平和な日々の終わりがやってきたのだ」

 

 ……少し、周囲に吹く風が強くなってきた。

 

「あの日……わしは偶然屋敷を離れていた。当時、早く両親の役に立ちたいと願っていたわしは父にせがんで、領内で飼われている家畜を調べて回るという仕事をもらったのだ。それがわしの命を救った――奇跡的にな。何故なら、わしが外へ出ていたほんのわずかな間に街は不可侵条約を結んでいたはずの隣国の軍勢によって蹂躙され尽くし……そこにいた者たちは当然の如く皆殺しにされ……全てが紅蓮の炎に包まれていたからだ」

 

 その言葉に全員が息を飲んだ。普段は飄々としている彼が、そこまで壮絶な経験をしていたとは思いも寄らなかったから。そしてタバサは気付いてしまった。太公望が例の惚れ薬を飲んだ際に、自分のことを妹だと思い込んでしまった理由と――迫り来る〝炎〟を見て怒り狂った訳に。

 

「わしが屋敷に戻ったとき、そこにあったのは……わずかに焼け残っていた家の柱だけ。家族の形見になるような品すらも、一切残っていなかった……」

 

 ――タバサは震えた。十二歳の誕生日。それは彼女の幸せな毎日の終わりと、波乱に満ちた現在の始まり。大きなケーキを前に、母と共に父の帰りを待っていたあの日。玄関の扉を開けて現れたのは優しい父親ではなく、彼が暗殺されたという知らせを持った使者だった。太公望の運命が変わったのも、タバサと全く同じ十二歳。皮肉にも程がある。

 

 だが、そんな彼女の思いをよそに太公望の独白は続く。

 

「しかし、そんな中。たったひとりだけ生き残りがいてくれた。長年我が家に仕えてくれていた従僕の老人がな。だが……その彼も既に瀕死の重傷を負っていたのだ。置いて行かないでくれと泣いて縋るわしに彼はただ一言、こう告げて世を去った」

 

 ――〝力在る者〟が全てを支配する……この世の中全体を変えなければ、悲劇は繰り返されるでしょう。どうか我らの無念を晴らすため、復讐してください。この世界と……戦争に――

 

「わしは憎かった。家族と領民たちを奪った戦争が。そして、地上の王たちに野心を吹き込んだ〝力在る者〟たちが! ところが……皮肉なことに、そのときの強い怒りと悲しみによってわしは目覚めたのだよ。己の内にあった〝力〟にな」

 

 ――また同じだ。タバサは両手の拳を握り締めた。醜い宮廷争いによって父は殺され、母は狂わされた。その上、当時まだ『ドット』だった彼女は討伐任務と称した処刑宣告を受けた。魔獣が闊歩する森に追い遣られ、子供の細腕では到底敵わない怪物たちと対峙させられた。

 

 その時出逢った狩人の女性がタバサに向けて放った言葉と、彼女を襲った悲劇。そしてタバサの前に横たわったとてつもない苦難と深い悲しみが『雪風』となって心の中に吹き荒れ、メイジとして大きくランクアップを果たした――つまり、己の内に眠っていた〝力〟に目覚めたのだ。

 

「その〝力〟の発現がゆえに、わしは彼らの目に留まった……〝崑崙山〟の『千里眼を持つ者』に。彼はわしを迎えにやってきた。そして、こう言ったのだ」

 

『お前には普通の人間には無い特別な〝力〟がある。それを〝天界〟で磨くがよい。その〝力〟は、いつかお前が望む復讐を成すために役立つであろう』

 

「……とな。だから、わしは復讐することにしたのだ。世の中と、戦争にな」

 

 ――やっぱり同じなのだ。彼もわたしと同じ復讐者だったのだ。タバサは戦慄した。〝召喚〟(サモン・サーヴァント)が起こした、皮肉と呼ぶにはあまりにも重い、自分たちの巡り合わせに。

 

「わしは〝崑崙山〟の理念を知り、それに殉ずることで、世に平和を取り戻すために――あらゆることを学び、全ての原因となった〝金鰲島〟との対立を収めるべく、ただひたすらに邁進した。わしは争いごとが嫌いだとつねづね言ってきたと思う。それは戦争を憎んでいるからなのだよ。そのために本来すべきではない地上への干渉も行った。そうだ、公国の主に仕え軍を率いたのだ。破門宣告? あんなもの、ただの口実に過ぎぬ。むしろ、そこまでして地上へ遣わしてくれた師に、影ながら感謝したほどだ」

 

 太公望の言葉を聞いて、タバサははっとした。ふたりは確かに同じ復讐者だ。けれど、彼女と彼との間には、ひとつ決定的な違いがあると気付いた。それは復讐の対象だ。

 

 タバサは『個』であるジョゼフ一世ひとりを恨み、復讐を決意していたが――太公望は『全体』を見ていた。戦争と、その原因となった派閥を憎み、全てを収めようとしたのだ。そうして、彼女は初めて疑念を持った。

 

(わたしの復讐の方法は、今のやりかたで問題ないのだろうか?)

 

 そう思った瞬間。彼女の胸の内に……水の精霊に誓ったそれの片隅に、小さなヒビが入った。

 

 ……実際のところ、太公望の復讐心は当初ひとりの女狐だけに向けられていた。自分から家族と故郷を奪い、国を乱した彼女さえ倒せば全てが終わると考え――実行に移そうとした。

 

 だが、後にそれが大きな間違いであったことを身をもって体験していたため、あえてこのような話し方をしていたのだ……そう、聡いご主人さまが自分と同じ過ちを犯さないように。

 

 復讐をやめろとは言わないし、言えない。何故なら、彼も結局は復讐者だったからだ。

 

「で、結果として……おぬしたちには既に話していた通り、戦争は終わった。わしら〝崑崙山〟側の勝利でな。そして、地上にも平和が戻った」

 

 遠い目をして太公望は語る。

 

「後に〝金鰲島〟も、実は一部の強行派が〝力〟や薬によって反対者と全てを束ねていた代表者を洗脳していた事実が判明し――これは対外的な話ではなく、本当のことだ――それによって無理矢理対立させられていたと知った我々は、和平交渉に応じた。だが、その時点で〝崑崙山〟も〝金鰲島〟も激しい戦いによって荒れ果て……生き物が住める状態ではなくなってしまっていたのだ」

 

 そんなとき――まるで、それが定められていたかのように『始祖』の遺産が発見されたのだ。そう呟いた太公望は天を指差した。

 

「『始祖』たちが乗ってやってきた星を征く船『スターシップ蓬莱』。そこは〝力在る者〟全てが住まうに足る広さと環境が整っていた。我らは過去の過ちを繰り返さぬために、人間だけではなく――妖怪や妖精、亜人を含む者たち全てがそこへ移り住み、さらに亜空間ゲートと力の障壁によって、自分たちの世界を青き星から遠く隔てた。そこは、たったひとつしかない月の側。以後、我ら〝力在る者〟はずっと地上界を……ただ見つめているだけとなった。こうして――ごくまれに下界へ降りても絶対に悪さをしないと認定された者のみが、特別な許可を得て訪れる場合を除き〝力在る者〟は、完全に地上から消えた」

 

 ――この時、その青き星での『神話の時代』が終わりを告げたのだ――

 

 そう告げた太公望は遂に核心へと迫るべく、話を進めた。

 

「それでもごくごく稀に〝力〟に目覚める者や、眠らせている者が地上に現れる事実は変わらない。よって、スカウトは変わらずに継続されている。ひと知れず、な。そうして天界へ昇りし者は特別な事情がない限り、二度と地上には戻らない。戻れるのは、厳しい適正審査を受けたごく一握りの者に限られる。だから、いつしか〝力在る者〟の存在は忘れ去られ、ついには……おとぎ話や物語の中にだけ存在するようになったのだろう。地上は、わしが望んだ通りの世界になったというわけだ」

 

 太公望はその場で静かに立ち上がり、見つめた。自分と同じ色の髪と肌を持つ少年を。そして、決定的な言葉を解き放った。

 

「わしをはじめとした〝力在る者〟たちが見守る、月がひとつだけしかない、青く美しき星は――かつて『始祖』たちからこう呼ばれていた。太陽系第三惑星『地球』とな」

 

 太公望の言葉に、才人が強烈な反応を見せた。彼は勢いよく立ち上がり、太公望の襟元を掴んで叫んだ。

 

「なあおい、今の星の名前……もう一回言ってくれ!!」

 

「ああ、何度でも言ってやる。青き星・地球。そこがわしとおぬしが住んでいた世界だ。違うか? 〝力在る者〟平賀才人よ。まだ〝力〟に目覚めぬうちに異界へ呼ばれし者よ」

 

 一陣の風が――タルブの草原を吹き抜けていった。

 

「嘘だよ! ありえねぇよ! だって、俺たちの世界で、そんな……そんな、魔法での戦争なんか無かったはずだ!!」

 

「ああ、既に神秘の類が神話の彼方へ消えていたのだろう。そうなるように表の歴史が操作されておったからのう。そして、ここからはあくまで仮定だが……おぬしとわしは、呼び出された時間軸が違う可能性が高い。もしも胡喜媚が現れてくれねば、それに気付けぬままだったかもしれぬのう」

 

「呼び出された時間軸が違う?」

 

 才人はその言葉に引っかかりを感じた。

 

「あの墓石に書かれていた文字だがな。わしにもある程度読むことができたのだよ」

 

「日本語をか!?」

 

「ニホン語――というのか。だいぶ簡略化されていたが、天界に伝わる文字――正確に言うと〝力を宿す記号〟そう、ルーンのようなものによく似ていたのだ。そして、おぬしの黒い髪と、住んでいた国の側にある大陸……これらの情報をふまえた上で、才人よ……改めておぬしに問おう。どうやらおぬしは軍事やそれに関連する事柄に詳しいようだが、その大陸の軍に関する知識はあるか?」

 

 才人の背筋にじとりと嫌な汗が浮かぶ。いやまさか、()()は前に否定したはずだ。

 

「あ、ああ……基本的なのはだいたい押さえてると思う、けど」

 

 その言葉に満足げに頷いた太公望は、ある意味ここまでで最大級の爆弾を投下した。

 

「改めて名乗ろう。わしは〝崑崙山〟に所属する術の使い手『太公望』呂望。地上では周の武王に仕える軍師として『殷周易姓革命戦争』を主導した者だ」

 

「殷周易姓革命戦争……せ、世界史の授業で習ったけど、嘘だ! だ、だ、だって……!」

 

 声を震える才人に全員の注目が集まる。

 

「ちょ、ちょっとサイト! どうしたのよ!?」

 

「シュウとニホンって、やっぱり近い国だったわけ!?」

 

「やっぱりサイトとあなたは」

 

 才人はどうしても信じられなかった。目の前で笑っている少年――いや、実際には妖精の〝力〟で子供にされてしまったらしい二十七歳の大人なのだが……それでも、絶対にありえないと何度も首を横に振り続けた。

 

「嘘だッ! だって、伝説の軍師太公望がいたのって……たしか三千年以上昔のはずだぞ!!」

 

 その言葉に太公望は驚愕した。互いに呼ばれた時代がずれているとは考えていたが、まさかそこまでの開きがあるとはさすがに想定外だったからだ。

 

「三千年だと!? そ、そんな未来、いや、おぬしらからすると過去か……そこまで離れた時代から〝召喚〟されてしまったのか、わしは! どおりで王天君と胡喜媚しか現れないわけだ……」

 

 そう言ってがっくりと膝をついてしまった太公望を見て才人はしばし困惑した後――やがて小刻みに震え始めた。

 

 広い宇宙の中に、同じ地球なんて名前の星がそういくつもあるはずがない。それに、かの大軍師『太公望』は生まれも――いつ死んだのかすらよくわかっていない、謎に包まれた人物だ。

 

(周の建国だけじゃない。他にもたくさん功績を残してるのにほとんどその実体が掴めなかった理由は……そうか、そういうことだったのか。それなら色々と辻褄が合うし、伝説にもなるはずだ)

 

 才人は月に向かって――魂が裏返るかのような大声でもって叫んだ。

 

「よりにもよって、地球の英雄を過去から連れてくるんじゃねえよ! ファンタジー!!」

 

 

 




「問おう。おぬしがわしのマスターか」

「趣味で釣りをやっている者だ」

後半修正中に浮かんできたワード。わけわからんちん!


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第42話 最初の五人、夢に集いて語るの事

 ――人間が想像できることは、必ず実現できる。

 

(これ、昔どこかで聞いた覚えのある言葉なんだけど……どこだっけかな)

 

 才人はぼんやりとそんなことを考えながら、現在自分が置かれている状況も立場も忘れて周囲の様子に魅入っていた。

 

「さすがに冷えてきた。場所を変えて話を続けよう」

 

 数時間ほど前。才人が異世界ハルケギニアに来てから初めてまともに接してくれた魔法使いの正体が、実は中国の歴史に登場する大英雄だったという衝撃の事実が判明したのだが――才人はそれを完全に信じることができずにいた。そんなところへ、問題の『太公望』が申し入れてきたのがこの提案だ。

 

「一度自分たちの部屋へ戻り、他の者たちが寝静まる頃に改めてわしの部屋へ集合せよ。敷物と枕を持ってな」

 

 そう指示してスタスタと宿のほうへと歩いていってしまった太公望を、才人をはじめとする全員が必死で追い掛けた。その後、言われた通りに集まった一同は何やらよくわからないうちに眠らされ――気が付いたら全員揃って不思議な部屋の中にいたのである。

 

 眼前に映る光景に心を奪われていたのは才人だけではなかった。

 

 ルイズは窓から見える無数の星々に魅入っているし、キュルケは見たこともない調度品や、ふわふわと浮かぶランプに興味を示していた。タバサは床に埋め込まれていたガラスの水槽の中で泳ぐ、色とりどりの魚たちを熱心に眺めている。

 

 才人はというと、

 

(プラスチックじゃないし、大理石でもない。金属でもないみたいだけど、なんだこれ?)

 

 顔が映るほど磨き抜かれた壁に触れながら、状況にそぐわぬことをぼんやりと考えていた。と、そこへ部屋の主から声が投げかけられた。

 

「どうやら『わしの部屋』が気に入ってくれたようで、なによりだ」

 

 丸テーブルの周りをぐるりと囲むように並べられた椅子のひとつに腰掛けている男。

 

 『太公望』呂望。それが彼の名前。しかしその姿は、今まで見慣れていたものとは異なっている。黒い髪と、青い瞳は変わらない。ただ、雰囲気が一変していた。黒を基調とした高級感溢れる服装だけではない。顔や体つきが今までとは違う。明らかに、これまでよりも年齢を重ねているように見えるのだ。

 

「あとで部屋中ゆっくり見学させてやる。だから、まずは話をしようではないか」

 

 苦笑しながらそう告げた彼はかなりの童顔ではあるが、一応年齢相応には見えた。

 

(もしかすると、こっちがほんとの姿なのかもしれないな)

 

 そんなことを思いながら、才人は大人しく勧められた椅子のひとつに腰掛けた。他の女の子たちも、テーブルの周りに集まってきた。

 

「ねえ、ミスタ……ここって、もしかして『自分の部屋』なの?」

 

 窓の外に見える星のように、きらきらと目を輝かせながらルイズが訊ねる。

 

「ああ、そうだ。いや……厳密には違うな。これは魂魄移動のひとつ〝夢渡り〟と〝空間操作〟初歩の初歩〝亜空間調整〟を使い『スターシップ蓬莱』を元に創り出した心象世界(イメージ)だ。つまり、今ここにいる全員が同じ夢を見ているのだよ。だが、基本は『自分の部屋』と変わらない。これが以前おぬしに示した『道の先』だ」

 

 太公望の説明を聞いたルイズは再びきょろきょろと周囲を見回すと、嬉しげに声を上げた。

 

「努力を続けてさえいれば……いつかわたしも、これができるようになる可能性があるのね?」

 

「うむ。ちなみにこんなこともできるようになるぞ」

 

 そう言って、太公望が『打神鞭』を一振りすると――いきなり周囲が草原に変わった。

 

「これが空間操作だ。イメージを膨らませることで、いくらでも自分の好きな内装にできる。ほれ……こんなふうにだ」

 

 現在は伏羲の姿に変わっている太公望が杖をひと振りするたびに、周囲の風景が変わる。あるときは、全面がガラス張りの水槽に囲まれ、外で魚たちが泳いでいた。またあるときは豪奢な家具に囲まれた、オリエンタルな風情の一室に変化した。広い荒野のど真ん中に現れたと思ったら、何もない空中に彼らだけが浮かんでいることさえあった。

 

 元の『部屋』に戻ってきたときに、全員の胸はもう好奇心ではちきれんばかりに膨らんでいた。

 

「どうだ、面白かったか?」

 

「すごく」

 

「こんな刺激はじめてよ!」

 

「わたしも!」

 

「俺もデス!!」

 

 それはよかった。そう言って太公望は微笑むと、再び口を開いた。

 

「どうだ、才人? 地球の〝力在る者〟も、なかなかのものであろう?」

 

「あ、はい……俺たち、普通の地球人が知らなかっただけなんだ。地球にも、昔は魔法があったってこと。いや、今もあるのかな。そっか、だから世界中に神話とか魔法使いの伝承だのが残ってたんだな。なんにもない場所から突然生まれたわけじゃなかったんだ。そうだよなあ……『A.T.フィールド』まであるくらいだもんな」

 

 ――流されやすい才人少年のリアクションは、事ここに至っても相変わらずであった。

 

「そういうことだ。全ての事象には何らかの理由があるのだ。理由がないと考えられることも中にはあるかもしれない。だが、実はそれ自体が理由となる」

 

「なるほどな。だけど中国だから魔法使いじゃなくて道士とか仙人になるのかな? そこらへん、どうなんデスカ?」

 

 才人の指摘に太公望はぎくりとした。

 

(やはり、道士や仙人という呼称が残っていたか。と、いうことは……下手なことを言うと最大の秘密――不老不死に触れられてしまうかもしれぬ)

 

 そう考えた太公望は、才人がどの程度の知識を持っているのか探りを入れることにした。彼は顔色ひとつ変えず、眼前の少年に質問を繰り出す。

 

「ふむ、おぬしたちの伝承では、わしら〝力在る者〟はそんな名前で語られておるのか……もしよかったら説明してはもらえぬだろうか」

 

「は、はい。でも、あくまで全部おとぎ話の知識ですよ? えっと、国によって違うから知ってるやつを挙げてくけど、日本なら魔法使いとか魔術師、あと陰陽師(おんみょうじ)に……霊媒師(れいばいし)? 中国なら道士や仙人。他だとウィザードとかドルイド、マジシャンは手品師だから違うか。マジックユーザーなんて呼び方もあった気がする」

 

「ずいぶんと数があるのう。皆メイジと同じ扱いなのか?」

 

「そんなことねえ、いや、です。でも、魔法使い・魔術師・ウィザード・マジックユーザーはイメージ的にメイジに近いかな。このへんは呼び方が違うだけでだいたい同じだと思う」

 

「なるほど」

 

「俺の国の陰陽師はちょっと独特で、魔法というよりまじないとかの使い手だった……と、記憶してます。未来を占ったり、敵を呪い殺したり、逆にそれを防いだり……」

 

 必死に自分の中の知識……おもに漫画やゲームのそれを引っ張り出す才人。

 

「ちなみにだけど、呪いはそれよりも強い〝力〟で呪い返すことで、何倍も強くして跳ね返すことができるみたいだ、です。だから『呪い合戦』は相手の力量見てやらないと自滅するっていう危険がある……ます。似たようなのに〝解呪師〟がいて……これは、名前の通り呪いを解く専門家」

 

 才人の語った〝解呪師〟という言葉にタバサとキュルケが反応した。

 

「〝解呪師〟って、たしかミスタがそうだったわよね?」

 

「前に聞いた」

 

 その言葉に太公望が頷いた。

 

「うむ。タバサとキュルケは既に知っておることだが、わしは〝解呪〟のエキスパートなのだ。ちなみにさっきの話に出てきた〝呪い返し〟もできるぞ。敵が放った術の〝力〟を支配し、威力を増大させた上で撃ち返す技だ。ただし見切りと解析に失敗すると、当然のことながら全部まともに食らってしまうので、あまりやりたくないことではあるのだが」

 

 ――真名・Bクイック。本来ならば、太公望とその親友が組んで行う合わせ技である。

 

(……ああ、そういえばラグドリアン湖でそんなことがありました)

 

 当時を振り返ったキュルケは冷や汗をたらした。放った〝火球〟(フレイム・ボール)が倍以上の大きさになって戻ってきたあの衝撃は、今でも忘れられない。

 

(アレって、実はエルフの〝反射〟や、ヴァリエールの『壁』よりも質が悪かったんじゃないの! サイトのおかげで助かったけど、もしもあたしひとりだったら……!)

 

 キュルケの身体が知らず震える。

 

 太公望は、当然それを覚えていて、わざと口にしているのである。「あんなこと、次にやったら承知しないぞ!?」的な警告を暗に送る意味で。

 

「霊媒師は幽霊を見たり、話せたりするらしいんだけど……あ、そういやハルケギニアに幽霊っていんの?」

 

「いない」

 

 即答するタバサ。

 

「え、そんなことないと思うんだけど。お話なんかによく出てきて……」

 

「いない」

 

 ルイズの反論を即座にぶった切るタバサ。よくよく見ると、あまり顔色が良くない。

 

 実は彼女、こういった類の話が苦手なのである。今でこそだいぶ恐怖心は薄れているが、子供の頃はそれこそ夜中にカーテンの端がちょっとめくれただけで、執務中の父親の部屋に駆け込んでしまったくらいの怖がりだったのだ。

 

「と、ところで地球に幽霊は……」

 

「いない、と言ってやりたいところだが、その霊媒師とやらは魂魄だけで彷徨っている者の姿が見えているのではなかろうか」

 

「こんぱく?」

 

「生物全てに宿る魂のことだ。普通は肉体の滅びと同時に消え去るのだが、ごく稀に自分が死んだことに気付かず生前住んでいた土地の近くに留まっていたり、人形などに乗り移ったりする事がある。遺言を残すために枕元に立つ、なんて話もあるくらいでのう。地球ではもちろんのこと、ハルケギニアに来てからも何度か見ておる」

 

「マジすか」

 

 はたと思い出すルイズ。

 

「そういえば、ここへ来るためにミスタは〝こんぱく〟を操作したとか言ってたわよね。なら、見えるのは当たり前だと思うわ」

 

 全員の視線が太公望に集まる。

 

「その通りだ。さすがは学年一の優等生、よく覚えておるのう」

 

「うわ、日本の霊媒師ってマジモンだったのか……インチキだと思ってたのに」

 

 褒められた喜びでほんのり頬を赤らめるルイズと青くなる才人。小さく震えているタバサ。親友の珍しい表情が見られたとばかりに観察しているキュルケ。

 

「それはともかく、説明を続けてくれんかのう?」

 

「あ、ご、ごめんなさい。俺の国だとこのくらいかな。あとは中国の道士と仙人か。うーん、ハルケギニアのメイジに近いのは道士かなあ。風を吹かせたり、雷を落としたり、雨を降らせたり、火を起こしたり――あとは万能薬を作って病気を治したりとか」

 

 この解説に大きな反応を示したのはルイズだ。

 

「ミスタは、もしかするとこの〝道士〟に近いのかしら?」

 

「話を聞く限りではそのようだのう。ただしわしは薬の類は一切作れぬし、医術の心得もない。修行不足だとよく師匠に怒られていた」

 

「さすがに、そこまで上手くいくとは限らないのね……」

 

 ルイズはがっくりと肩を落とした。

 

「なんだ? もしや、おぬしの家族に病気を患っている者でもおるのか?」

 

「ええ。腕のいいお医者さまに何度も診てもらってるんだけど……全然良くならないの。苦しがって、ずっと寝込んでいるわ。ミスタ・タイコーボーならもしかすると、って思ったんだけど……」

 

「実は何者かに呪われている、あるいは魔法の毒を飲まされたなどということは?」

 

「父さまたちがその可能性も調べたわ。でも、何も見つからなかったの」

 

「そうか。呪いや魔法薬の類であれば、わしがなんとかしてやれたかもしれぬのだが」

 

「ううん、気にしないで。あ、と、ごめんねサイト。話、続けてもらえる?」

 

 珍しく素直に謝るルイズに戸惑いながら、才人は再び口を開いた。

 

「お。おう。あとは仙人だけど……これは、なるための条件が滅茶苦茶厳しいんです。ちょっと……言ったら悪いんですけど太公望、さまにできるとは思えなくて」

 

 心底申し訳なさそうな顔をしている才人へ実に不満げな表情で答える太公望。

 

「のう、才人よ。さっきから気になっておったのだが、おかしな敬語と様づけなんぞやめてくれんか? 正直言って薄気味悪い。前にも言ったがわしは堅苦しいのが苦手なのだ。今まで通りに対応してくれ」

 

「いや、でも……」

 

「今更何を遠慮しておるのだ。わしがかまわぬと言っておるのだから、かまわぬ」

 

「かといって、本物の太公望さまなら『閣下』なんて呼ぶのは失礼だし」

 

「そもそも閣下自体やめてもらいたかったわけだが……そこまで気にするのなら太公望師叔(すーす)、または師叔とだけ呼べばよい。これはわしらの間で使われている、目上の者に対する敬称のようなものだ」

 

 ――本来であれば、才人が太公望を『師叔』と呼ぶのは拝師制度の観点からすると正しくない。あえて当てはめるならば『老師』だろう。

 

 しかし『老師』という呼称がこの世界に存在することと(オスマン氏のような年配のメイジがそう呼ばれることがある)、これ以上閣下だの様づけだので呼ばれることに不都合を感じた太公望は、このハルケギニアには無い『師叔』を用いるよう提案することにした。かつて、武成王の息子のひとりが自分をそう呼んでいたことも、それを後押しした。

 

「わかりました……じゃなかった、わかったよ太公望師叔」

 

「うむ、それでよい」

 

 満足げに頷いた太公望と、ほっとした顔を見せた才人。まあ、まだ完全に信じ切れていないとはいえ、いきなり伝説の偉人に出会ってしまったのだからパニックになるのも当然だろう。むしろ、彼は落ち着き過ぎているくらいだ。

 

 そんな彼らのやりとりを聞いていたルイズが疑問を投げかけた。顔の端が少々引き攣っている。

 

「ね、ねえサイト。まま、まさかとは思うけど、ミスタは、その、ほんとに、前にあんたが言ってたひとだったの?」

 

「本当に、本物だったら、まあ、そういうことになるな」

 

 カタカタと震え始めたルイズに、タバサが問うた。

 

「どういうこと?」

 

「さ、サイト。あんたが答えて」

 

 と、ジロリと太公望を見る才人。

 

「その前に、ひとつ確認したいんだけど」

 

「なんだ? 答えられるものであれば答えるぞ」

 

「師叔……釣りが趣味ってマジ?」

 

「よく知っておるな、その通りだ。今もこうして懐に針と糸を持ち歩いておる」

 

 太公望はそう言って、懐から糸と……例の縫い針を取り出して見せた。以前、ラグドリアン湖でタバサに見せたアレだ。

 

「げえっ! 伝説そのまんまの針じゃねえかよ! 騙りにしちゃ出来すぎだ! や、や、やっぱり、本物の『釣り師』太公望なんだ!!」

 

 そう言って椅子から立ち上がると、床の上で頭を抱えながらゴロゴロと転がりはじめた才人にタバサが声をかけた。

 

「その伝説を教えて」

 

 タバサの依頼に息も絶え絶えといった風情で才人は語り始めた。

 

「ピクニックに行ったとき、師叔の二つ名の由来を聞いたけど……あんとき、なんかどっかで聞いたことがある話だと思ったんだよなあ、ちくしょう! えっとな、昔、まだ大公国だった周の大公さまが、夢の中で神さまのお告げを受けたんだ。『明日、身分を隠しひとりで近くを流れる川辺を歩け。そこで初めて出会う人物こそ、お前が心から欲しいと望む人物だ』って」

 

 ――夢の中。その言葉を聞いて全員がピクリと反応した。

 

「大公さまは悩んでたんだ。代々殷の皇帝に仕えていたけど、民衆が酷い圧政受けてるのを見て、このままでいいのだろうか、ってさ。そんなときに神さまの声を聞いたもんだから、もう藁にも縋るような思いで、わざわざ変装してまで、夢で言われた通りにたったひとりで近くの川へ行った。そこで大公さまは、おかしな釣り人に出会ったんだ」

 

「おかしな釣り人?」

 

「釣りをしてんのに魚籠を持ってない。おまけに川から数サント上に糸を垂らして、針を水の中に入れてなかった。しかもその針は魚を釣るための鉤つきの針じゃなくて、まっすぐ伸びた縫い針だったんだ」

 

「それはたしかにおかしいわね」

 

 キュルケの反応に「そう思うよな?」と返した才人は、さらに言葉を続けた。

 

「そんで、当然興味を持った大公さまは、ついお告げのことも忘れて、その釣り人に話しかけたんだ。『釣れますか?』って。そうしたら、その釣り人はにっこり笑ってこう言ったんだ」

 

 ――はい、大物が釣れました。あなたさまのような大人物が。

 

「……ってな。そう、その釣り人は一発で大公さまの変装を見破ったんだ。大公さまも、この釣り人が夢のお告げにあった人物なのかもしれないと思っていろいろ話を聞いてみた。そしたらその釣り人は……とんでもない賢者だった。で、大公さまは大喜びでその釣り人をお城に連れて帰ったんだ。『あなたこそ、大公たる我が望む人物だ』って。その日から、釣り人は『大公が望みし賢者』。それを縮めて『太公望』って呼ばれるようになった……そういう伝説」

 

 前に聞いた話とだいぶ違うみたいなんだけど、そこんとこどうなの師叔? と聞く才人に、太公望はいけしゃあしゃあと答える。

 

「ふむ、だいたい合っとるな。あのときは釣りの話をすると混乱させると思って、あえて出さなくとも不自然にならぬように一部脚色したわけだが……誰かが夢枕に立ったというのは初耳だのう。策を用いて西伯侯――姫昌殿がわしに興味を持った上で、わしがいつもいる川辺へ来るようさりげなーく誘導しただけに過ぎないのだが。いや、案外わしの師匠あたりが何かやらかした可能性も否定できぬのう」

 

 ――『歴史の道標』による意識操作かもしれぬが。そう考えた太公望だが、当然表には出さない。

 

「うわ、本当なんだ! やっぱり『釣り師』って二つ名もそこからか!」

 

「そうだ」

 

「ちなみに俺んところでは、釣りの名人に贈られる称号が『太公望』になってるくらいなんだぜ! ゲームの中でもらえる一番いい釣り竿の名前にも、大抵『太公望』の名前がついてるし。そんで弓矢は『与一』ってのがお約束」

 

「なんだその称号は! しかも後半の意味がさっぱりわからぬ!!」

 

「それにしてもさ。まさかあの太公望がこんなに若かったなんてなあ。資料とか肖像画だと、だいたい爺さんの姿で描かれてるし。俺、最低でも七十歳は越えてると思ってたんだぜ」

 

 意外だと言わんばかりの顔でそう呟く才人の肩を、タバサがつんつんと指でつついた。

 

「どした?」

 

「彼が、あなたの隣国の大人物ということはわかった。けれど、まだどんなことをしたひとなのか聞いていない」

 

「ええと、太公望は中国の歴史に出てくる有名な軍師……って言ってもわかんねえか。こっちの世界の軍隊ってどうなってんだ? ギーシュとかの話聞く限りだと、階級なんかはだいたい同じような感じだよな? 元帥とか参謀って単語が普通に通じるし」

 

「全部同じかどうかはわからない。でも、そのふたつがあるのは間違いない」

 

「まあ、早い話が『軍師』ってのは参謀のいちばんエライ人だな」

 

「参謀総長?」

 

「そう、それそれ。国によっては司令官を務めることもある。俺が知ってる太公望は周の元帥で、王さまの相談役。軍人っていうよりも、軍学と政治の専門家ってイメージなんだけどな」

 

 それを聞いてぴしりと固まる女性陣。そこへ、才人はさらなる追撃をかけた。

 

「確か、軍師として殷打倒に大きく貢献した功績で(せい)の大公になったんじゃなかったかな? だから『斉太公』って呼ばれることもあるんだけど」

 

「ああ、表の歴史ではそういうことになっておるな。武王からもそのように打診されたが、例の〝崑崙山〟の掟がある。世の中が平和になった以上、大陸の政治に関わるわけにはいかぬ。だいたい、ようやく大仕事が片付いた直後だというのに、そんな面倒な地位なんぞ欲しくないわ」

 

 そう言って、手をひらひらさせてみせる太公望。

 

「た、たた、大公の地位を、面倒って……」

 

「筋金入りの面倒くさがり屋だなオイ」

 

「ダァホ! 大公職なんぞ引き受けた日には身動きが取れんくなるだろうが!!」

 

「なんで?」

 

「わからぬか!? これまで縁の無かった地域の状態を調べて、どうすれば領民を豊かにできるか考えねばならぬし、新しく役人を雇うだけでなく、誰がどんな仕事に向いているのか見極めねばロクでもないことになるのは目に見えておる。他の領主とのつきあいもせねばならぬし、王への報告も必要だ。民を守るために軍備も整えねばいかん。そのためには金を用意せねばな。毎日大量の書類と格闘せねばならんくなる。ああもう、想像しただけで面倒で面倒でやってられるかああああああ!!」

 

 バン! と両手でテーブルを叩く太公望。

 

 ああ、このひと普段はぐうたらしてるけど、実は根が真面目でやり過ぎちゃうタイプなんだろうなあ……と暖かい眼差しを向ける一同。

 

「とにかくだ! 斉は信頼できる周時代の部下に任せ、地上に降りる許可を〝崑崙山〟から得た上でのんびり旅をしていたのだよ。その後、斉や周がどうなったのかまでは知らぬ。たまに王宮へ顔を出すことはあったが、口は絶対に挟まなかったしな」

 

(大公の地位に就いていたかもしれない人物……そんなところまで似なくてもいいのに)

 

 タバサはもう本気で頭を抱えるしかなかった。彼らの話が本当ならば、自分が召喚してしまったのは、サイトの世界で三千年以上も前に生きていたひと。しかも歴史に名を刻み――海を隔てた隣国にまでその功績が知れ渡っているほどの英雄ということになる。

 

 確かにタバサは心のどこかでずっと憧れ、夢見ていた。

 

 子供の頃、母に繰り返し読んでもらった絵本『イーヴァルディの勇者』。そこに描かれている勇者さまのような人物が、過酷な運命を強いられている自分を助けに来てくれたなら、どんなに素晴らしいことだろう、と。

 

 ……ところが、そんなタバサの〝召喚〟に応えてくれたのは勇者どころか魔王だった。ただし、何故か甘いものに弱く、争いごとが大嫌い。その言動や姿は一見すると子供っぽく、頭に『味方には』という注釈を入れる必要はあるが、とても心優しい魔王さまだ。

 

 うっかり敵対すると厄介極まりないが、味方につけると非常に頼もしい存在。そんなパートナーにタバサは不満など全く――いや、たまに心臓に悪いことをするのでそれだけは正直勘弁してもらいたいと思ってはいるが、それ以外の点については文句はない。

 

 最近では、今のままだとこちらが彼とは不釣り合いなのではないかと不安になってしまうほどだ。そんな思いもあり、タバサは以前よりもさらに熱心に、勉学や修行に励むようになっていた。

 

 そんな彼女の複雑な思いとは裏腹に『魔王』は話を元に戻そうと奮闘していた。

 

「で、結局〝仙人〟とやらになる方法とは、いったいどんなものなのだ?」

 

「ああ、仙人は中国の魔法使い最高位の存在、かな。ただ、なるまでがとにかく大変なんだ。まず、最初は肉と魚を食べられなくなくなる。次に、生きているもの……野菜とか、果物なんかを口にしちゃダメになる。その先に進むと、水しか飲めなくなって――最終的に肉体を捨てて魂だけの存在になったのが仙人だ。身体が無いから死なないし、歳もとらない。当然、何も食べなくても生きていける」

 

 その才人の説明に、太公望は深いため息をついて答えた。

 

「甘味と桃と酒のない生活などわしには無理だ」

 

「デスヨネー」

 

 太公望はほっとした。なるほど、途中までは〝不老不死の秘法〟を習得するための技法に当てはまっているが、さすがに〝仙人界〟の秘中の秘であっただけに正確な伝承は残っていないようだ。

 

「それにしても、どこからそんな知識を手に入れてくるのだ? おぬしは」

 

「ネットとかマンガ、かな。ガキの頃、友達と一緒に仙人になろうとか言って実際に給食の肉と魚残しました……先生と母さんに滅茶苦茶怒られたけど」

 

「当たり前だ!」

 

 子供の好奇心で、そこまで調べられる環境が周囲にあるのがまず怖ろしい。しかし肉体を捨てた状態になるというのは……まるで〝神界〟にいる、かつて『封神』された者たちのようではないか。

 

 ――よし。ならば、この情報を少し利用させてもらおう。太公望は、即断した。

 

「ふむ。わしが肉と魚を食べないというのは〝崑崙山〟の掟によるものだ。水以外に何も口にしないなどという無茶な話は聞いたことがない。だいたい、そんな真似をしたら死んでしまうわ!」

 

「ダヨネー」

 

「ただ、先に述べた通り魂の操作についてはある程度だがやれないことはないぞ。実際、今こうして全員の魂魄を〝夢渡り〟によって、ひとつのところに集めているのだから。そのあたりがいろいろと混じり合って、伝承として残っておるのかもしれぬな」

 

「あ、そういえばこれ夢なのよね」

 

 ルイズの呟きに、太公望は頷いた。

 

「そうだ。だが、覚めてもしっかり記憶として残る。おまけに身体は眠っておるから、体力も通常通りに回復する。しかも、外の者に聞かれる心配もないから、夜に行う密談用にはうってつけの〝術〟なのだ。わしのような空間使いが行使した場合、このような快適空間を提供することもできる」

 

「だから、みんなを〝夢世界〟に招いたの?」

 

「そういうことだ。なかなか良いものであろう? とはいえ面白くてついハマりすぎると、うっかり数ヶ月間眠り続けてしまったりするので、近くに監視役を置いてこないと危ないのだが……それについてはタバサが〝遍在〟を出して外に置いてくれとるから心配ない」

 

(ああ、だからここに入る前に〝遍在〟を出せと言っていたのか)

 

 タバサはようやく納得した。

 

「それにしても、まさかファンタジー世界で周の大軍師に会うなんてな。想像もつかなかったぜ」

 

 才人の発言に太公望は苦笑した。

 

「それはお互い様だのう。まさかおぬしが地球人だとは予想だにしとらんかった。おまけに、ここまでわしのことを知っておるとは思いも寄らんかったわ」

 

「いやあ、俺、軍とか武器とか、そういうのが好きでいろいろ調べてたから。と、ちょうどいいや。『軍師』太公望に聞きたいことがあるんだけど」

 

「何だ?」

 

「周軍三万で、殷の軍七十万撃破したっていうのはほんと?」

 

 それを聞いて女性陣全員が顔を引きつらせた。どんな怪物指揮官だ、それは!

 

「これ才人、経過を端折るな! 準備に数年をかけ、大勢の仲間たちに手を貸してもらいながら、できる限り戦を仕掛けることなく、軍備を増強しつつ周辺諸国と同盟を結び、どうにか周軍・同盟側二十五万に加えて援軍五万を最終決戦までに用意した。その上で、周囲の地形を利用した策を用いて、七十万おった殷側を実質十万程度しか動けない状態に持ち込み、黄河の中へ押し込んで、ほとんどの敵兵を降参させることに成功したのだ」

 

「ゴメン、どの程度まで本当なのか知りたくて。スゲエ……歴史の本に書かれてる内容そのまんまだわ。しかも、そんだけ数の不利があったのにしっかり勝ったわけだろ!? 数よりも質を上げて、自信満々で仕掛けたってところなのか?」

 

「いや、実のところ同盟軍三十万・対・敵軍十万……最悪でも十五万相手での合戦規模を想定していたところへ、例の女狐が国中から即座に人員かき集めて、なんと七十万も用意してきおったのだ。あのときは内心『わしも周も同盟軍もまとめて終わったかもしれぬ』なんて一瞬考えてしまった。まあ、今だから言える、ここだけの秘密だ」

 

「……本当に容赦がなかったのね、例の女狐さん」

 

「いやはや、正直なところあれは危なかった……自軍本陣まで突っ込まれて、しかも武王が槍で腹を貫かれてしまってのう。あの大怪我で、よくぞ最後まで生き延びてくれたわ」

 

 当時を思い出したのであろう、青ざめた顔で語る太公望。

 

「本当にぎりぎりの戦いだった。わし自身も、例の女狐に〝力在る者〟として絶対回避できぬ一騎打ちを仕掛けられた結果、自力では動けなくなるほどの大怪我を負わされて、戦線離脱を余儀なくされてしまったのだ」

 

 実際のところは彼女の〝魅惑の術(テンプテーション)〟を打ち消すために〝力〟を使いすぎて、体内が限界までぼろぼろになってしまったというのが正解なのだが、ハルケギニアのメイジたちや才人にはわかりにくい概念なので、あえて『怪我』という表現を用いた太公望であった。

 

「『スクウェア』のミスタを一方的に!? 正真正銘の実力者なのね、女狐さんて」

 

「信じがたい」

 

 そう呟いたのはタバサだ。太公望の実力を目の当たりにしている彼女からすれば、女狐の強さは既に想像の粋を越えていた。彼らの反応に、太公望は苦笑しながら先を続ける。

 

「実際、よくもまあ勝てたものだよ。わしに何かあったときのために、念のため作戦指揮用のマニュアルを配っておいたのが功を奏した。おまけに女狐の奴が、己の術でわしを一方的にズタズタにしてくれよった直後に『いやぁ~ん! 太公望ちゃんがいじめるのぉん! 紂王さま助けてぇ~ん!』とか意味不明なことを叫んで戦場から消えてくれなかったら、わしは黄河のほとりに屍を晒しておったかもしれぬ」

 

「ああいうマニュアル、合戦でもやっぱり用意してたのね……」

 

「抜け目がない」

 

「てか、なんなんだよその女……」

 

「本当に意味がわからないわ……」

 

 口々に感想を言い合う少年少女に、太公望は実に苦々しげな声で呟き返した。

 

「あやつの考えについて、わしに聞かれても困る。実力者であることは間違いないのだが、とにかくやることなすこと本当に意味不明! そういう実に気まぐれな女だったのだよ」

 

 そう言ってガックリと肩を落とした太公望を見て、キュルケは思った。

 

(なるほど、例の女狐さんってそういう趣味だったのね。おまけに、対象の彼がニブすぎるから余計いじめたくなっちゃう的な?)

 

 今までの話を吟味し、彼女なりの推理は進む。

 

(ものすごく頑張って、倍以上の兵士つれてきて、気に入ってる彼を驚かせた。でもって威圧して、わざわざ一騎打ちまで仕掛けたのは戦わずに降伏させて……自分のモノにしようとしたからよね。でも、メイジとしては格下のミスタが圧倒的に上の〝力〟を持ってる自分に全力で抵抗してきたからへそをまげちゃったんじゃないの? 彼女)

 

 じとりと横目で太公望を睨むキュルケ。

 

(だいたい、本気でミスタを倒すつもりなら、とっくにとどめを刺してなきゃおかしい状況じゃないのよ、それって。で、気に入ってる彼を死なせたくない。でも、自分が作り出した圧倒的な数的有利は覆らない。だから万が一を考えて、わざと彼を戦線離脱させるように仕向けたとしか思えないわ。う~ん、ミスタってば頭はいいけど、女性関係は意外と奥手なのかしら……)

 

 ……と、彼女はまたしてもそっち方面におかしな想像をかきたてている。だが、これがツェルプストー家の通常運転だ。

 

 それにしても……と、太公望は改めて才人を見た。

 

「おぬし、本当に詳しいのう」

 

 その素直な感嘆に、才人は照れくさそうに頭を掻く。

 

「周の建国とかは世界史でも習ったし。けど殷周易姓革命戦争で俺がそこまで知ってるのは、始まりの部分と最後の牧野の戦いだけだよ。少ない兵力で大軍を打ち破るとか、男のロマンっていうか。ネットでそういう資料探して見るのが好きだったから。ま、その戦いが魔法大戦だったっていうのはさすがに知らなかったけどな」

 

「正直なところ、わしとしては不本意極まりない戦いだったのだがな。勝てる状態まで自軍を整えてから兵を動かすのが本来の在りかたなのだ。にもかかわらず、女狐に完全に裏をかかれてしまった」

 

「ふうん、大軍師・太公望にも天敵がいたんだなあ……俺が知ってる歴史に名前が残ってないのが不思議だよ」

 

「あれほどの策士の名が全く残っておらぬのか! まあ、事実上殷を滅ぼすきっかけとなった女だから、後世の歴史に残したくなかったのだと考えたにしても……不自然だのう」

 

「伝説ってそんなもんじゃね? 師叔だって、こんなに若かったんだし。三千年前のことなんだから、そんな正確には記録されてないんじゃないかなあ。もしかすると、男の武将に書き換えられてるのかもしれないぜ」

 

「それはありえるかもしれぬな。しかし、こうして改めて話し合ってわかったことだが……才人よ。おぬし、案外本当に武成王殿の血を引いておるのかもしれぬな。『武器』を扱う能力といい、普段の性格といい、話に聞いた若い頃の彼とそっくりだ」

 

 そう感慨深げに言葉を紡ぎ出した太公望は、噂で聞いた武成王・黄飛虎の若き日の話を彼らに披露した。明るく、豪快で、お調子者。だが、一本筋を通す為ならば、たとえ自分よりも身分の高い者――なんと上司の将軍や国王までをも殴り倒してしまったほどの熱血漢。

 

 とはいえ別に乱暴者というわけではなく、普段は誰にでも分け隔て無く接する心優しい青年であったのだという。若いうちに軍学を修めた彼は、後に政治についても学び……大人になるに伴って、お調子者だった性格はだんだんと影を潜め、大武将・大貴族のそれに相応しい風格が現れてきたのだという。元来の豪放さは最後まで変わらなかったが。

 

「なんだか食堂でギーシュにつっかかっていった時なんかと被るわね、その話」

 

 ルイズの言葉に頷く太公望。才人本人を除く他の面々も、納得顔だ。

 

「実際、それならば才人が〝召喚〟されたことについて、色々と納得がゆくのだよ。彼の血縁者には〝力在る者〟それも『武器』の扱いに長けた能力者が多く現れるという特徴があったからのう。ちなみに言うと、武成王殿はとてつもない愛妻家で、奥方一筋なのだ。本来であれば妾をもつことなぞ絶対にありえぬ。わしが『才人が武成王の妾腹の息子』などという作り話を流したことが知れたら、彼の持つ飛刀で背中から刺されるやもしれぬ」

 

 そう語りながらブルブルと身体を震わせる太公望を見て、全員が笑い声を上げた。

 

「というかそれ、作り話だったのね」

 

 肩をすくめたキュルケに「内緒だぞ?」と念を押す太公望。彼女は素直に頷いた。そんなふたりのやりとりを聞いていた才人がぽつりと言った。

 

「俺、本当にその武成王……黄飛虎さんの子孫だったらいいなあ。ふたりは轡を並べて戦ってたんだろう? 師叔にとって戦はもちろん嫌なものだったんだろうけど……そりゃ、俺だって戦争するのなんかごめんだけどさ。少しだけ憧れるな、そういう関係」

 

「その気持ちはわからぬでもないよ。しかし、本当にそうだとしたら……奇縁だのう」

 

「だよなあ」

 

 本来であれば絶対に交わることのなかったふたりの『道』。それが〝召喚〟(サモン・サーヴァント)という奇跡によって、こうして重なり合った。

 

「そういう意味では、ここハルケギニアと地球の繋がりにも縁を感じるのう」

 

「それは、どんな……?」

 

「たとえばラグドリアン湖。あそこには〝星の力〟が満ちあふれていた。それも……地球と同質のものが、だ。もしも世界に在る〝力〟が完全に異なっておれば、わしは空を飛ぶどころか〝風〟を起こすことすらおぼつかなかったはずだ」

 

「そういや、シエスタのひいおじいちゃんがゼロ戦で迷い込んだりしてたもんな。例の『破壊の杖』で、学院長先生を助けてくれたっていう兵士さんとかもそうだし。探せば、俺たちの他にも地球人がいるかもしれない!」

 

 才人の推測に頷く太公望。そして彼は、さらなる推論を述べた。

 

「もしやすると、例の『星の始祖』と同じ『滅びた世界』から来た者たちがこの世界を創世したのかもしれぬな。そののちに、地球から〝力在る者〟『始祖』ブリミルが降臨し――メイジたちに魔法を授けた。そう考えると楽しくなってこんか?」

 

「ルーンも同じ」

 

「そういえばそうね!」

 

 ルーンに関してはそれらしく真似しているだけなのだが、あえて言及せず太公望――伏羲はついと『打神鞭』を振り、星の海が広がっていた『窓』の映像を切り替えた。

 

 ――新たに映し出されたのは……どこまでも青く美しい天体と、その側にある衛星。

 

「師叔。これ、地球だろ……!? 隣にあるのは……」

 

「そうだ才人。ハルケギニアにはふたつあり、わしらの世界にはひとつしかない月だ」

 

 それを聞くなり窓の側へ駆け出していった才人と、彼を追い掛けていった少女たち。そして彼らは見た。眼前に広がる、煌めく青い宝石のような『世界』の姿を。

 

「綺麗……これが惑星……」

 

 タバサが魅入られたように呟けば。

 

「ここがサイトの故郷なの? あの青い部分は、もしかして空かしら?」

 

 ルイズが早速疑問点を才人に尋ねる。

 

「いや、あれは水……つまり海だ。そんでもって、白いのは雲だよ。ほら、この島が俺の住んでる日本だ。で、隣に見えるのがユーラシア大陸……このあたり全部が師叔の周だ」

 

「ニホンの大きさってどのくらいなの?」

 

「あー、俺ハルケギニアの面積の単位わかんねえから島の端から端までの長さでいいか? だいたい三千リーグくらいだったはずだ」

 

「と、トリステインより大きいのは確定ね……。でも、あんたの国基準にした場合、シュウってめちゃくちゃ広くない!?」

 

「そりゃそうだ。世界で三番目にデカイからな」

 

「こ、これより大きな国がまだあるなんて……」

 

 指を差しながら答える才人と、驚きを新たにしたルイズ。

 

 そんな彼らの話を聞きつつ、新たな疑問を覚えるキュルケ。

 

「ひょっとすると、ハルケギニアも外から見たらこんな姿をしているのかしら? 今までずっと、世界は平らで……端っこに行ったら、どこまでも落ちていくものだと思っていたわ」

 

 キュルケの独白を耳にした才人が言った。

 

「ハルケギニアも地球と同じで、丸いと思うぞ」

 

「え? どうしてそんなこと言えるわけ?」

 

「魔法学院から離れた場所にある森の木が、上のほうしか見えないからだよ。平らなモノの上に立ってたら、全部見えなきゃおかしいだろ? つまり、球体の上に載っかってるんだ」

 

 しかし、女生徒三名はその説明を受けてもわからないといった顔をしている。どうやって理解させればいいのか苦しむ才人に、太公望が助け船を出した。

 

「才人が言っておるのはこういうことだ」

 

 その言葉と共に『窓』に映っていた光景が変化した。真円の図の左右に2本の棒が立ち、それぞれを結ぶような形で、複数のラインが平行に引かれている。

 

「この円が地面。棒が人間。ラインが視線だ。ほれ、こうして図にしてみると……」

 

「ほんとだわ! 丸い地面が邪魔して、下が見えないのね」

 

「わかりやすい」

 

「これが俺や師叔が習ってた自然科学ってやつだ」

 

「なるほど」

 

「面白いわ!」

 

「エレオノール姉さまが喜びそう……」

 

 そんなやりとりの後。太公望がとんでもない発言をして、居合わせた者を驚かせた。

 

「実際に宇宙まで出られれば、一発なのだがのう。さすがに生身で大気圏を突破して宇宙遊泳をするのは辛過ぎるから、実証できぬ」

 

「オイ待てや! 宇宙遊泳が()()じゃなくて()()()()なのかよ!!」

 

「〝風〟をうまく操れば、なんとかなりそうなものだが」

 

「ならねーよ!」

 

 才人の猛烈なツッコミもなんのその。太公望はさらりと爆弾発言を追加する。

 

「わし、実際に中間圏までなら出たことがあるぞ。髪と服の一部が凍り付いてしまったが。あの時ほど、温かい湯に浸かることを望んだことはない」

 

「あるのかよ! てか、なんでそれだけで済むんだよ!!」

 

「使い魔の背に乗っておったからのう。スープーは騎乗者を守るシールドを張ることができるのだ。時間制限はあるがな」

 

「ファンタジーにも程があるだろ、地球のドラゴンと魔法使い!」

 

「才人よ。おぬしもその『ファンタジー』に連なる可能性があるのだが?」

 

「そうだったあぁぁあッ! 俺の中の常識がッ、もはやブレイク寸前だッ!!」

 

「ふぬう。才人よ、おぬしの時代の常識とやらも、できればいろいろと聞いておきたいのだが」

 

「あ、それは聞きたいわね」

 

「あたしも!」

 

「わたしにも聞かせて欲しい」

 

 ――こんな感じで彼らは夜が明けるまで様々なものを見、聞き、話し合い……結果。これらの事実――つまり太公望と才人の正体や彼らの出身地に関する情報は、もうしばらくの間ここにいる『最初の五人』だけの秘密にするということで決着した。

 

 

 




さらば霊幻道士。
地球儀を中国視点じゃなくもうちょい回していたら……。

今週末まで忙しいため、少しペース落ちると思います。


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第43話 微熱は取り纏め、炎蛇は分析す

 ――なるほど、だいぶ情報がまとまってきたのう。多くの手札を晒す必要があったが、その価値は充分にあった。

 

 『自分の部屋』の片隅で才人から様々な話を聞きながら、太公望――伏羲は頭の中で、ここまで集めた情報を整理していた。

 

 伏羲が彼らに『始祖』の物語をするにあたり、いくつかの事実を歪曲した。

 

 その中でも特に大きなものは――地球へ降り立った『始祖』たち全員が〝星の意志〟になったわけではないという点だ。実は星と融合せずに残った者たちが存在する。しかも彼らの話し合いは、到底平和的とは呼べないものだった。

 

 地球に降り立った『最初の人』のひとり――全員の中で最も強い〝力〟有する女性が、惑星改造を施して滅びた故郷と同じ環境を作り出すことを提案した。しかし、自然に手を加えることを良しとしなかった残る四名がこれに反対。彼らの話し合いは平行線を辿り、最終的に彼女は〝力〟でもって無理矢理意見を通そうとした。

 

 彼女の暴走を抑えるために反対者たちは協力し……どうにか彼女を〝亜空間〟の中に封印することに成功する。

 

 それから残る『始祖』たちは監視役ひとりを残し、星と一体化した。地球は大いなる加護を得て豊かな土地となるはずであったのだが……しかし。数万年の刻を経て、封印されていたはずの彼女は凄まじい執念と共に復活を遂げてしまった。

 

 蘇った彼女は地球に芽吹き始めていた生命を全て滅ぼし、新たに造り替え――自分の管理下に置いた。あるときは生物の遺伝子を自分の都合に良いように改造し、またあるときは特定の人間の〝心〟を奪い、あるいは〝力〟を与え――時代を築かせた。さらに、意図的に大地の形を変えることまでやってのけた。

 

 こうして彼女は影から地上に生きる者たちを意のままに操り、己の望む歴史を作る〝破壊と創世の女神〟と化したのだ。

 

 ――故郷の歴史を最初からそのままに再現すれば……自分たちがどこで間違えたのか、どうすれば滅びずに済んだのか、その答えがわかるかもしれない。

 

 過去の妄執に囚われた彼女は永遠とも思える永き刻の流れの中で、何度も世界を作り、壊し、直した。滅びた故郷と全く同じ歴史をなぞる作業を繰り返した。まるで、子供が砂の城を作って遊ぶかのように――何回も何回も、積み上げ、潰した。

 

 ――彼女こそが『歴史の道標』と呼ばれた存在。伏羲にとって最大の『敵』だった。

 

 彼女を止めようにも、監視役として地上に残された伏羲では荷が重すぎた。そもそも四人がかりでようやく押さえ込むことができた程の強者相手に、ひとりで立ち向かえと言うほうがどうかしている。

 

 だから、彼はずっと待っていたのだ。地球の生命が叩かれ、折られることで強くなり、共に肩を並べて『道標』と戦えるほどの〝力〟を身に付ける日を。

 

 伏羲が自らの魂魄を分割し『太公望』と『王天君』の中に封印していたのは、永きに渡り温めていた『封神計画』を『道標』に悟られぬための行動だったのだ。

 

 ……赤子の呂望と伏羲の魂魄とがうまく馴染まず『始祖』としての記憶を失ってしまったのは完全に誤算だったが、それはさておき。

 

 最終的に、自儘な〝女神〟に支配されることを嫌った者たちの強い意志によって彼女は討ち滅ぼされ、地球は過去の呪縛から解き放たれた。世界はようやく『導なき道』を歩み始めることができたのだ。

 

 ……しかし、それまで同じ歴史が繰り返されていた事実は変わらない。

 

 よって、実際には太公望のほうが才人よりも数千年――いや、数十億年先の未来から呼び出されている可能性すらある。『殷周易姓革命戦争』の詳細を喋らせるよう、わざわざ才人を誘導したのはそれを確認するためだ。

 

 何故なら、今ここにいる『太公望』だけではなく、幾度も繰り返された歴史の中に、その数だけ『太公望』が存在したからだ。

 

 彼らはみな『道標』によって定められた『道』を歩んでいた。だからこそ、才人の話を聞いて『太公望』の足跡を追い、自分との差異を比較すればある程度判断できる。

 

 例外はありえない。何故なら、もしも彼が正しい道を歩まなかった場合――その直後、再び地球の歴史は『道標』の手によって、最初からやり直されていたから。

 

 太公望と呼ばれた賢者と西伯侯・姫昌の出逢いから始まる『殷周易姓革命戦争』は『道標』の故郷を再現する上で、特に重要とされる『歴史の分岐点』だったからだ。

 

 これまで得た情報から、少なくとも彼ら――才人だけではなく、オスマン氏を救った兵士やシエスタの曾祖父が同じ地球から呼び出されているのがほぼ確定している。

 

 才人少年の知る歴史が、今の太公望が辿ってきた道順に極めて近いことも判明した。しかし、この情報と胡喜媚の降臨だけではまだ足りない。どちらが先で後なのかを判断するための材料が、圧倒的に不足している。

 

 ――そして、問題の才人少年が持つ〝力〟について。

 

 才人には「お前は力在る者だ」と告げたが……残念ながら、彼には〝仙人骨〟が無い。その証拠に才人は『如意羽衣』に触れたとき、それだけで気絶してしまった。つまり彼は〝ガンダールヴ〟のルーンが無ければ、どこにでもいる、ごく普通の少年なのだ。

 

 もしも〝仙人骨〟があれば、奇跡は起こせないまでも触れただけで瞬時に気絶したりはしない。せいぜい極端に疲れる程度で済むだろう。握り続ければその限りではないが。

 

 だいたい、彼からは〝仙気〟が一切感じられない。タバサが宝貝に触れても平気でいられたことで太公望があそこまで慌てふためいたのは、彼女にもそれが無かったからだ。使い魔の感覚共有、いや〝魔法〟畏るべし――!

 

 ただし、わざわざ異世界人の才人が〝ガンダールヴ〟に選ばれたことからもわかる通り、ルーンの〝力〟を借りてこそいるが、彼が潜在的に各種戦闘や軍務に関して優れたセンスを有しているのは間違いない。実際に本人と何度も拳を交えてみたり、これまで彼と話をした経験などから、太公望はそれを実感している。

 

 才人とルイズとの間に何か特別な繋がりがあるのも間違いないだろう。そのあたりの詳細については今後さらに情報を集めた上で、検証を進めていく必要がある。これは太公望とタバサにも言えることだ。

 

 地球出身で、しかも隣国にいた以上――彼が本当に武成王・黄一族の血を引いている可能性もゼロではない。今後の修行次第ではかの偉大なる殷の太師のように、身体の内より〝力〟が現れるかもしれない。

 

 ただし、それには数十年の長きに渡り、血を吐き、自身の骨肉を削るほどの厳しい修練が必要となる。本人の意志で行うならばまだしも、太公望は彼にそのような苦行を押しつけるつもりは一切ない。

 

 ――また、このハルケギニアと地球について。

 

 間違いなく何らかの関連性がある。それがどういったものかはまでは確定できないが、〝星の意志〟を継ぐ水の精霊の存在や『杏黄旗』が正しく起動したことによって、世界に満ちる〝力〟が、地球と完全に同質であることが証明されたからだ。

 

 さらに〝召喚〟や何らかの事象によって、地球から引き寄せられている道具や人間の存在。これらがほぼ地球からの一方通行であることも気になる。

 

 胡喜媚については自力帰還を果たせたか、あるいは〝仙人界〟の協力があったのかもしれないが……それ以外の者たちについては帰還できたという情報が一切ない。

 

 この件については、正直なところもっとたくさんの情報が欲しい。特に『東方』に関するものが。可能であればロングビル以外にも有能な情報斥候を増やしたいのだが、そう簡単に使える人材が発掘できるわけもなく。

 

 ……さらに、このハルケギニアという世界そのものについても大きな疑問がある。かつての地球を『繰り返す世界』と称するならば、ここは『輪に閉ざされた世界』だ。

 

 ひとつの文明とその歴史が六千年以上も滅びずに保ち続けられているなど、通常ならば考えられないことなのだ。実際、あれほどの叡智を備えた『滅びた世界』でも、過去にいくつもの文明が滅びては生まれ、それを糧にして成長を続けていたのだから。

 

 一方このハルケギニアは――まるで意図的に作られた箱庭のようだ。魔法という名の輪によって外へ出ることを禁じられた、進歩を止められた世界――。

 

 と、ひとり情報整理に努めていた太公望にキュルケが声をかけてきた。

 

「あら、どうしたのミスタ? ああいう話には興味がないのかしら?」

 

「いや。才人の国の教育に関する話が面白くてな、思わず聞き入っていたのだ」

 

 先述の通り、太公望は全く別のことを考えていたのだが、会話自体はしっかりと聞いていたので淀みなく返事をすることができた。それに、義務教育を含む日本の学校全般のシステムは彼の興味を引いた。

 

「そんなに面白いか? そういや、古代中国って学校はなかったんだっけ」

 

「うむ。だいたい師匠に弟子入りして学ぶことが多かったのう」

 

「へえ~。じゃあ、サイトが話していた学校ごとの制服みたいなものはないのね。サイトの国が羨ましいわ。いろいろ種類があって、しかもすごく可愛いのがあるんでしょう?」

 

「ああ。近くに学校があるのに、憧れの制服が着たいからって、わざわざ隣の町まで行くやつらもいたんだぜ? 女子なんかは特にそうだったな」

 

 その言葉にオシャレ好きのキュルケが強く反応した。

 

「すっごくわかるわ、その気持ち!」

 

「学生だけじゃなくて、職業によっては結構格好いい制服があったりするからな。女の子ならスチュワーデスとかナース服とか。男なら電車の車掌とか警察官、パイロットスーツかな。もちろん制服がない仕事もあるけど、憧れの衣装があるのは間違いないよ」

 

「制服に憧れるっていう気持ちは、わたしにもわかるわ。将来は近衛魔法衛士隊の制服が着たい! って男の子がたくさんいるもの。それと同じようなものよね?」

 

「そういうところはどこも一緒ね。あたしとしてはサイトの世界にどんな制服があるのか是非知りたいわ! 制服だけじゃなくって、他の服やアクセサリーにも興味あるし」

 

「おう! いつかみんなが日本に来たら俺があちこち案内してやるよ。すっげえたくさん揃ってるぞ。こっちみたいに注文して最初から造るんじゃなくて、学院のホールくらい大きな売り場にいろんな服が見本でずらーっと並んでて、それを見ながら好きなデザインを選べるようになってるんだ。試しに着てみることだってできるんだぜ?」

 

「なにそれ、面白いわね! 是非見に行ってみたいわ!」

 

「わたし、もっと魔法の練習頑張って、早くサイトが家に帰れるように努力するわね。あっ……べ、べつに、あんたの世界が見てみたいだけで、そそ、それ以上の意味は、な、ないんだから!」

 

「頼んだぜルイズ! 俺も練習には協力する。そしたら絶対みんなで行こうな!」

 

 ……日本という国における常識の話だったはずが、いつのまにか制服談義になってしまっているのは才人の才人たる所以であろう。彼はこだわりのある男なのだ。

 

 と、そこに口を挟んできたのはタバサだ。

 

「タイコーボーが着ているのも何かの制服?」

 

 以前着替えの用の服を仕立てる際に、太公望はタバサに対してそんな説明をしていた。特に決まりがあるというわけではないのだが、一定の法則は存在する。

 

(丁度いいので、少しこちら側の話をしておくか)

 

 そう太公望は考えた。知られて問題のある内容は出さなければいいだけのことだし、何よりこういった会話が人間関係の潤滑油になってくれるのは間違いのない事実だ。

 

「うむ。制服というほど厳密なものではないがのう」

 

「やっぱり、そのマント?」

 

「てか、どうなってんだよその服の構造。さっぱりわかんねーぞ」

 

 伏羲の黒衣をジロジロと眺め、指摘する才人。確かにかなり複雑怪奇な造りだ。

 

「わしに聞くな! 自分で造ったわけではないのだ! まあ、それはともかくとしてだな、身につける物に関する法則について説明するには〝崑崙〟に関する話をある程度せねば理解できぬと思うのだが、してもかまわぬか?」

 

「むしろ聞きたい」

 

「あ、俺も」

 

「わたしも」

 

「是非お願いしたいわ」

 

 好奇心でいっぱいです! といった視線を自分へ向けてくる子供たちに思わず苦笑してしまった太公望は、おもに〝崑崙山〟の組織構成について――さすがに詳細を語るわけにはいかないため微妙な嘘情報を交えつつ、説明することにした。

 

「まだキュルケには話していない内容だったのだが……例のスカウトには、二種類あるのだ。ひとつは通常のスカウト。もうひとつは『幹部候補生』としてのスカウトだ」

 

「あ! それ、前にわたしなら幹部候補になれるって言ってくれてた……?」

 

 ルイズの問いに、太公望が頷く。

 

「現時点で判断するならば、ルイズ、タバサ、キュルケの三名は幹部候補としてスカウトされる可能性が高い。才人は通常のスカウトになるな。もっとも、その後の努力次第で幹部になれる素養は充分に持っておるが」

 

「幹部とは?」

 

 タバサとしては国の運営をする者たちという認識があったのだが、もしかすると違うかもしれない。よって、念のため確認しようと質問を投げた。

 

「うむ。わが〝崑崙山〟の幹部とは派閥組織を構成する者たちのことだ。各部署の運営はもちろんのこと、後に続く人材育成をも任される。ただし、中には後進の育成を一切行わずに自分の研究や修行だけに集中する者もいる」

 

「部署?」

 

「魔法でいえば系統ごとに教師が違うであろう? 国の組織にも、衛士隊だけではなく財務管理や外交その他の役割があるのと同じで、さまざまな専門家がいるのだよ」

 

 顎に手を当て、相応しい言葉を探しながら説明する太公望。

 

「たとえば、開発部門。これは、いわゆる〝魔法具〟を造ることを専門とした者たちが集まる部署だ。話に聞くトリステインの『王立アカデミー』のような場所でな。各種アイテムを造るだけでなく、どうすれば効果的な運用ができるか等の調査・研究を日々行っている」

 

 ふむふむ……と、説明に聞き入る子供たち。

 

「そして情報管理部門。ここは、例の『千里眼』や『過去視』などの特殊な〝力〟を持つ者や、そこから得られた情報を精査して役に立てるために存在する部署だ。ここには非常に高い解析、分析能力を持つ人材が集中しておる」

 

「情報部とか、参謀室みたいなもんだな」

 

「そう呼んでも差し支えない。と……まあこんな感じで、おおまかに分けると全部で十二の部署が存在する。ここに所属するためには幹部候補としてスカウトされる、または所定の昇格試験を突破する必要があるという非常に狭き門だ。もっとも、せっかく幹部候補生として〝崑崙山〟へ来ても、途中で脱落する者もおるがのう」

 

「エリートばっかり集まるんですもの。そういうことはありえるでしょうね」

 

「うむ。単なる派閥とはいえ、一応は国家規模の組織だからのう。でだ、その各部署ごとにリーダーが存在する。全十二部門のため、当然同数の十二名だ。この者たちは〝最高幹部・崑崙十二卿〟と呼ばれ、これに選出されるのは大変な名誉とされている」

 

 太公望が〝崑崙十二仙〟という真名を出すことを避けたのは、才人に自分が仙人であるという可能性に到達されるのを万が一にも防ぐためである。

 

「最高幹部の上にはさらに上がいるの?」

 

 そのタバサの質問に満足げな笑みを浮かべた太公望は、さらに説明を続ける。

 

「うむ、この最高幹部のさらに上にいるのが〝崑崙山〟の長たる〝教主〟。この人物が『始祖』の意志の代弁者として全てを取り仕切っている。ハルケギニア流にいうなれば、ロマリアの教皇のような存在だ。教主は崑崙山・金鰲島・桃源郷の各派閥ごとに存在するので全部で三名おることになるのう」

 

「ふうん、教皇のすぐ下についているひとたちってことは……〝コンロン十二卿〟っていうひとたちは、つまりブリミル教の司教枢機卿みたいなものよね?」

 

「それに近いと思ってくれて間違いない」

 

「なるほどね。つまり幹部っていうのは司教に相当するのかしら」

 

「そんなところだ」

 

「理解した」

 

 これを耳にした才人は「この世界にも枢機卿団みたいなもんがあるのか」などと、ひとり地球とハルケギニアの宗教の相似について思いを馳せていた。

 

「仕事の内容は全く違うが、まあ組織としてはそのようなものだ。で、ようやく本題に入るのだが。わしが普段身に付けているマントと服は、我が師より授けられたものでな。独特の意匠が施されておるので、見る者が見れば誰の弟子なのか一目瞭然なのだ」

 

「そういえばあなたの師のことを聞いていなかった」

 

 タバサの発言に、太公望としては珍しく生真面目な顔をして答えた。

 

「才人ならば知っていそうだが……実際のところ、どうなのだ?」

 

「いや、さすがに師叔の師匠までは知らねえよ」

 

 手をぱたぱたと振りながら否定する才人を見て、太公望はほっとした。

 

 彼の師匠である元始天尊(げんしてんそん)は広く知られた存在だ。彼の名を明かした途端、藪をつついて蛇を出すことになるかもしれない。

 

 師匠の名前は伏せておこう――そう決心した太公望であった。

 

「ちなみに、どんなひとなんだ?」

 

 太公望はこほんとひとつ咳をし、誇らしげな顔で胸を反らせた。彼を良く知る者たちがこれを見たら「何たくらんでるんスか」などと言われかねない、そんな表情であった。

 

「わしの師匠は〝崑崙山〟の教主だ。わしが普段から愛用しておるマント留めは彼の弟子たる証でもある。術のみならず、学問、体術、全てを師より学んだのだ」

 

「もしかして、あのぬるぬる動く拳法もか?」

 

「うむ、師匠は拳法の達人なのだ。その中でも蟷螂拳(とうろうけん)を得意としておられる」

 

「なんつーか、師叔が中国出身なの納得した」

 

「何故そこで納得するのだ!」

 

「だって、中国の武術って言われてイメージするの拳法だし。蟷螂拳とか、男なら絶対一回は真似するだろ」

 

「……おぬしもやらかしたクチか?」

 

「へっへっへ、当たり~!」

 

 彼らのやりとりを聞いた女性陣は固まっていた。

 

 ブリミル教の神官はたとえ平民の出だとしても、それなりの敬意が払われる。教皇聖下の直弟子ともなれば無位無冠であろうとも、その影響力は計り知れない。この若さで王の相談役になれたのも当然だと思った。

 

 少し事情は異なるが、トリステインの宰相マザリーニもロマリア出身の司教枢機卿だ。彼は二十代で先の王に引き立てられ、政治の世界に足を踏み入れている。

 

 タバサは思い出した。

 

(確か、あの服を着て店に入ればそれに相応しい料理が用意されると聞いている。彼にとって息をするくらい当たり前のことだから、食事について伝え忘れた!?)

 

 いくらブリミル教への信仰心が薄いとはいえ、宗教というものが社会に与える影響力がわからぬほど彼女は愚かではない。

 

(どうしてこう、彼の打ち明け話には心臓に悪いんだろう)

 

 タバサはなんだか穴でも掘って隠れたい気分になってきた。ギーシュから使い魔を借りようか、などと真剣に検討し始める程に。だが、彼女にとっては気の毒なことに話はそこで終わらなかった。

 

「ただ、師匠はもうかなりお年を召しておられてのう。しばらく後になって知ったのだが、実はわしが地上へ遣わされたのは師が引退した後にわしを〝崑崙山〟の教主に据える為の教育の一環であったらしい」

 

 この発言でタバサがとうとう凍り付いた。それに気付いた太公望が、フォローを入れる。

 

「これこれ、タバサよ。今更わしの元の身分がどうこうなどというくらだないことで、悩む必要などない。地球での肩書きなんぞ、こちらでは何の役にも立たぬのだからのう」

 

「でも……」

 

 顔を青ざめさせたタバサを落ち着かせるように、太公望は言った。

 

「そのことなら旅に出る以前に辞退したから安心するがよい。そもそも、わしには複数の兄弟子がおってな。その中で最年長の人物――大師兄こそが次期教主になるものとばかり思っていたのだが……」

 

「だが、どしたん?」

 

 ふうとため息を吐き、太公望は語る。

 

「彼は非常に正義感の強い人物でな。長く続いた地上の戦乱に、酷く心を痛めておった。そのため、自らの戦闘力を生かすほうが世界の為になると判断した上で教主の座に就くことを拒み、地上世界へと降りて行かれたのだ。なにせ大師兄の繰り出す炎は〝崑崙山〟の歴史上最強と謳われる程に凄まじかったからのう」

 

 それを聞いたルイズが毅然とした顔で言った。

 

「わたし、そのひとの気持ちがよくわかるわ。そんな状況で領民を見捨てて、遠いところでただお祈りしているだけだなんて……貴族としてあるまじきことだもの。自分に強い〝力〟があるなら、なおさらだわ」

 

 ルイズの反応に太公望は内心苦笑した。全てを終えた今だからこそわかる、元始天尊の徹底した仕事ぶりを『ただ祈っていただけ』と思われるのは正直心外なのだが……彼女は詳しい事情を知らないのだから、無理もない。そんなことを考えつつ、先を続ける。

 

「もちろん大師兄はその考えに同意した師匠からきちんと許可を得た上で、あえて全ての地位を捨て、最前線に身を投じたのだ。事実、彼の加入によって同盟軍や民の犠牲者が大幅に減ったのだよ。さすがに次期教主と目されていた人物だけあって、判断力はピカイチであった」

 

「まさしく『道を切り開く』火系統に相応しい使い手だったのね、その彼」

 

 キュルケの感想に強く頷く太公望。

 

「実際、熱い男であったよ、かの御仁は。でだ……彼は後任として、よりにもよって師匠の数いる弟子たちの中で最年少のわしを推薦したのだ。それが、わしが『教主候補』にされてしまった理由なのだよ」

 

 実に苦々しげな顔でそうのたまった太公望を、全員が思わず見返してしまった。

 

「されてしまった、って……」

 

「何か不満でも?」

 

「次期教皇候補ともなれば、栄達が約束されたも同然じゃありませんの?」

 

「まさか、また『やること多くて面倒だから嫌だ』とか言わないよな?」

 

 口々にそんなことを言う彼らを見て、深いため息をついた太公望は、こう切り出した。

 

「あのな。わしはその時点で既に、地上世界で周の軍師を務めていた。その上、さらに教主になるための修行を積めとか。そんな無茶振りをされては、仕事を終えた時点で身体がボロボロだ! いい加減、逃げ出したくもなるだろうが!!」

 

 ドン! と、テーブルを叩いて力説する太公望。

 

「だいたい、教主なんつう面倒な地位になぞ就いてたまるか! いや……そうか。わしの性格を見抜いた上で、わざとか。わざとやらせおったのだな? 地上が平和になれば、大師兄が手元に戻るのを見越した上で! うぬぬぬぬ、いかにもあのクソジジイが考えそうなことではないか。何故今の今まで気が付かなかったのだ、わしは!!」

 

 口から火を吐かんばかりに興奮する太公望を見て女性陣は唖然とし、才人は呆れた。

 

「教皇聖下と同じくらい偉いおかたなのよね? ミスタの先生って。それを……」

 

「クソジジイ呼ばわり」

 

「ここがロマリアだったら聖堂騎士団が飛んでくるわよ」

 

「てか、やっぱり面倒だからなんじゃねーか!」

 

 そんな彼らの反応もなんのその、太公望の悪態は留まることを知らなかった。一分間ほど立て続けに罰当たりな台詞を吐いた後、ようやく本題に戻る。

 

 ……そこまでにルイズをはじめとしたブリミル教徒たちのHPゲージが大幅に削られたのだが、太公望はどこ吹く風だ。

 

「ああ、思い出すだけでも腹が立つわ! と、まあ、それはともかくだ。これらの服装を見れば一発で身分がわかる。ずいぶんと長い説明になったが、あれが制服といえば制服のようなものかのう。たとえ現役を退いても、理由がない限りは〝力在る者〟であることを周知するために着用が義務付けられるのだ」

 

「だから、同じものを仕立てたいと言っていたの?」

 

「その通りだ。まあ、着慣れているので楽だというのもあるがのう」

 

「確かに、制服があると私服より気楽だよな」

 

 と、ここでキュルケがとあることを思いついた。

 

「ふうん、制服ね……ちょっと良い考えがあるんだけれど。みんな、いいかしら?」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌日、タルブ村からの帰り道。

 

「ねえ、水精霊団専用の制服を作らない?」

 

 風竜の背の上で、キュルケは突然全員に向けてこんなことを言い出した。ちなみにこの風竜はギーシュの父であるグラモン元帥が、例のゼロ戦と折りたたんだベッドを運ぶついでに全員の足に……と気を遣ってわざわざ用意してくれたものである。

 

「制服? 魔法学院のものをそのまま着ていればいいのではないかね?」

 

 ギーシュの反論に、キュルケはしたり顔で答える。

 

「それがいけないのよ! せっかく暗号名まで決めて自分たちの正体を隠そうとしているのに学院の制服を着てたりしたら、知ってるひとが見たらバレバレじゃない!」

 

 その意見に、モンモランシーとレイナールも納得顔で頷いた。

 

「そうね、キュルケの言う通りだわ。わたしは賛成よ」

 

「ぼくも賛成だな。ただし、活動用だから動きやすいものにしないといけないと思う」

 

 彼らの相づちにキュルケは実に満足げに微笑んだ。

 

(うふふ、うまくいったわ。ミスタ・タイコーボーも制服には賛成で、しっかり経費で落としてくれるって許可をくれたし、せっかくだから、オシャレな服を作りたいわね。サイトの国にはハルケギニアにはないデザインがたくさんあるみたいだし、色々参考にさせてもらえば、きっとあたしが気に入る制服ができあがるに違いないわ!)

 

 ……オシャレ好きなキュルケならではの閃きと提案であった。

 

 才人は才人で彼女の考えにいたく共感し――。

 

「せっかくだから、女子は動きやすさと可愛らしさを重視して、男子は東方の軍服風にしないか? 実際にデザイン画見て、気に入ってくれたらでかまわないからさ」

 

 などという意見を出し、全員がこれに賛成した。

 

 結果、日本の(才人好みな)あらゆる制服――セーラー服やブレザーなど、主に女子高生が身に付ける服(リボンの大きさや靴の種類、ソックスやタイツの長さまでが細かく指定されたもの)や、OLにバスガイド、スチュワーデスに婦人警官、ナース服と巫女装束。果てはアニメやゲームに登場するそれまでが飛び出してきて……ハルケギニアという異世界で彼のオタク趣味全開なイメージ画が一般公開されることとなる。

 

 ……くどいようだが、彼はこだわりのある男なのだ。

 

 男子生徒のほうに関しては軍服――佐々木少尉への敬意を込めて、大日本帝国海軍のものを筆頭に、他国の各種軍装(またしても才人好み、もちろん階級章などの小物もバッチリ付属だ)や、これまたアニメやマンガに登場する某帝国軍や某惑星連合宇宙軍、とどめに某自由同盟軍まで網羅と、実に幅広くチョイス。

 

 一部、才人にとって非常に口惜しいことに――マントと合わせにくいと思われるデザインのものは初期段階で外されてしまったものの、いくつかの候補が残った。

 

 その中でも、特にスカーフやマフラーを身に付け易いタイプのものを重視して――さらに夏装備と冬装備を選んで、再び冒険の機会が訪れるその日までに全員分を揃えるということで話はまとまった。

 

 この夏休みは彼らにとって一生忘れられない思い出となるだろう。色々な意味で。

 

 ……ところで。才人はこのハルケギニアに来てからというもの、絵を描くスキルが以前と比べて極端に上がっている。自分の想像したものを、こうやって描いて説明する機会が増えたせいなのだが――それだけに、描写力が特にアップしているのだ。地球帰還後は、間違いなく美術の成績が上がるだろう。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――彼は後にこう述懐している。あのとき夢が舞い降りてきたのだ、と。

 

 『炎蛇』のコルベール。この年で四十歳になった彼は、トリステイン魔法学院に教員として勤め始めてはや二十年。現在独身、只今嫁さん募集中。そんな彼の趣味と生き甲斐は学問と、それを元にした発明及び研究である。

 

 多くの教員が夏期休暇ということで交代制の休暇を取り帰郷する中、コルベールだけはただひとり自分の研究室に閉じこもり、相変わらず謎の薬品だの設計図とにらめっこする生活を続けていた。

 

 そんなある日、彼は――偶然窓の外へ視線を移したときに、風竜たちによって運び込まれようとしていた謎の物体を目撃し、椅子の上で跳ね上がった。そのあとすぐに部屋を駆け出すと、それが降りてきた学院外の草原に、文字通り飛んでいった。

 

 荷下ろしの指揮をしていたのが異世界人の才人であることに気が付いたとき、コルベールの胸はもう、知的好奇心ではち切れんばかりになっていた。

 

「さ、サイト君! こ、こ、これは一体なんだね!? きみさえよければ、是非とも説明して欲しい!!」

 

 目をきらきらと輝かせて側に寄ってきたコルベールを見て、これまた大きな笑みを浮かべた才人は、ハルケギニアで最も頼もしい発明家の手を取って、こう言った。

 

「俺のほうこそ、これを先生に見てもらいたかったんです。是非お願いします!」

 

「なんと! 私に?」

 

 才人はコルベールに、この物体が彼の国の乗り物であることを説明した。空を舞うために魔法を一切使っていないこと。プロペラや翼の役割――そして。

 

「えんじん……もしや、以前私が作った『愉快なヘビ君』に使っていた……?」

 

「はい! あれが発展したのが、この『ゼロ戦』に取り付けられている機械……エンジンなんです。だから、俺たちは是非コルベール先生に見てもらいたかったんですよ!」

 

 コルベールは、震えた。

 

(私の夢が、実際に形になったものが、今……現実に、目の前にある――?)

 

「そ、それで、これは今すぐ動かせるのかね!?」

 

「実はそこなんですよ、先生に相談したかったのは」

 

 それから水精霊団はいったん解散し――才人と太公望だけが草原に残った。ここから先は専門的な話になることと、汗で汚れた身体を風呂で洗い流したかった残りのメンバーたちは、あとでわかる範囲で教えてもらえるよう、ふたりに頼んでこの場を去った。

 

 

 ――それからしばしの後。場面は移り……コルベールの研究室。

 

 燃料タンクの底に、ごくごくわずかに残っていたガソリンを陶器の壷の中に入れて、研究室へと持ち込んだコルベールは、早速それの分析に取りかかっていた。

 

「ふむ、嗅いだことのない臭いだ。おまけに、随分と気化しやすい性質を持つ油だな。これは、爆発したときに相当な〝力〟を生むのではないかね?」

 

「その通りです。そのために作られた、特別な油ですから。幸い〝固定化〟がかけられていたおかげで、ぜんぜん変質してないみたいで、本当によかったです」

 

「なるほど、なるほど……」

 

 ぶつぶつと呟きながら、コルベールは手元にある羊皮紙に、さらさらとメモを書き込んでいく。その姿を、才人と太公望は頼もしげに見守っていた。

 

「わしにはこれが非常に気化しやすい油ということまでは理解できたが、残念ながら〝錬金〟によって同じものを精製するだけの技術や、その性質を分析するだけの能力がない。しかし、コルベール殿ならばできるであろうと考えた末、ここへ持ち帰ってきたのだが……どうやらその判断は間違っていなかったらしい」

 

 ニヤリと笑った太公望と、うんうんと頷く才人。

 

 そんなふたりの意見を聞き、研究者としてのプライドをいたく刺激されたコルベールは大張り切りで部屋中から秘薬を引っ張り出したり、実験用の卓上ランプに火をつけたりしながら声を上げた。

 

「あんな素晴らしい宝物を、私の知識と技術を信頼してわざわざ持ち帰ってきてくれたとは……ああ、私は実に幸せ者だ! その期待にお応えするためにも、全力でもってこの油の精製に取り組ませてもらいますぞ!!」

 

 それを聞いた才人は顔を輝かせた。

 

「お願いします! もし精製に成功したら……いちばん最初に先生に乗ってもらいます! 操縦は俺じゃなきゃできないし、ふたりで飛ぶためにはコックピットの部分が狭すぎるから少し改造しないといけませんけど」

 

 これは魔法学院への帰還中に水精霊団の中で話し合って決めていたことだ。

 

 研究者たるコルベールに対価も兼ねて実際に体感してもらう。それが彼にさらなるインスピレーションをもたらすであろうという太公望の意見に全員が賛成していた。

 

 ちなみに二番手の権利を獲得したのは才人のご主人さまであるルイズであり、三番手は『ゼロ戦』をこの世界に持ち込んだ佐々木少尉の曾孫シエスタだ。最初に精製したガソリンに余裕があれば、彼女の父親にも祖父の持ってきた『竜の羽衣』の素晴らしさを体験してもらう。これについても全員納得済みである。

 

 これらの相談内容を全く飾らずにそのまま伝えた太公望。それを聞いたコルベールは、心から喜んだ。

 

 自分への信頼も、もちろん嬉しい。だが、それ以上に――魔法を一切使っていない〝飛行機械〟に乗せてもらえる。それも世界でいちばん最初に自分が体験できる。その事実が彼を激しく興奮させていた。

 

「ああ、コルベール殿。だからといって、徹夜などされては困りますぞ? せっかく飛べる状態になった時にコルベール殿が研究の疲れで倒れてしまっていては、本末転倒ですからのう」

 

 太公望の言葉に、コルベールは手で自分の額をぺしっと叩いた。

 

「おっと、それはいいことを聞きました。ついつい我を忘れて研究にのめり込みそうでしたから! では、しっかりと体調に気をつけながら、できるだけ急いで分析した上で、精製しましょう。ところで……分量的にはどの程度必要なのでしょう?」

 

 彼の問いに答えたのは、当然『ゼロ戦』の操縦者たる才人だ。

 

「そうですね、まともに飛ばすには最低でも樽五本。できれば六本以上欲しいです」

 

「なんと! それはまたかなりの量が必要なのだな。せめて、この油がどんな成分でできているのか、その足がかりとなるようなものがあれば作業工程を減らせると思うのだが。サイト君、何か知らないかね?」

 

 コルベールの言葉に、才人は必死に自分の知識を総動員させた。学校で習ったはずだ――ガソリンの成分。あれは石油から作られている……石油は何から出来ていた?

 

「バクテリア……ええっと、確か微生物の化石が油状になったやつ……原油が原料。たぶんですが、いちばんそれに近いのは木の化石。つまり石炭だと思います。ハルケギニアにもありますか? すみません、俺の知識だとそこまでしかわからなくて」

 

 畜生、インターネットに接続できればなあ! 才人は地球の便利な文明世界を懐かしく思った。彼が持ち込んでいるノートパソコン。今は既にバッテリー切れで動かなくなっているが、もしもそれでネットに繋げられればすぐにでも答えがわかるのに……。

 

「なんと、石炭がこの油に近しいものですと? それなら学院の倉庫にも置いてあるはずですぞ。ゲンユというものについては残念ながらわかりませんが、調べてみればそれらしきものに行き当たる可能性はありますな。それがあれば、今後の〝錬金〟はずっと容易になるでしょう」

 

 才人から聞いた内容を手元のメモに書き写しながら、コルベールは続けた。

 

「それでは、私はこの油と石炭の成分を比較するところから始めてみます。分析が終わって精製に入れたら、本当にそれが正しく作り出せたのかどうかの実験をしないといけないので――そうだな、ワインの瓶一本くらいの量だけ試しに作ってみるが、サイト君。それで足りるかね?」

 

「いや、最低でも二、三本は必要になると思います。申し訳ないんですが」

 

「謝る必要などないよ。正確な分量がわかっているほうが助かるんだ」

 

 そう言って、才人と太公望に向かって右手を差し出したコルベール。彼らふたりは揃ってその手をガッチリと握り締めた。

 

「よろしくお願いします!」

 

 そんな彼らに「任せなさい!」と、拳で胸をドンと叩いて見せたコルベールは、早速石炭とガソリンの研究に取りかかり――なんとその翌日の昼前に分析と精製を終え、才人のところへ飛んできた。

 

 ――そして。彼が作ったガソリンで、見事ゼロ戦のエンジンは始動した。プロペラは激しい音を立てて回転し、コルベールをいたく感動させた。

 

「おおおおお! やった、やりましたぞ! 本当に、魔法を使わずに動いている!」

 

 才人は油圧計や各種計器が問題なく動作しているのを確認した後、点火スイッチをオフにし、操縦席から飛び降りた。

 

「バッチリでしたよ、先生! あとは座席の改造と、ガソリンの量さえあれば……」

 

「任せておきたまえ。必ずこれを飛ばせてみせますぞ! まずは、この油を量産するところから始めることにしよう」

 

 さほど得意とは言えない土系統。だが、コルベールの胸の内に沸き上がる『喜び』の感情が、そんな不利を完全に吹き飛ばしてしまった。杖を振るたびに、新たな油が樽の中へ注ぎ込まれてゆく。彼の中に生じた〝情熱〟は囂々(ごうごう)と燃え盛り……その夜、眠る前までに初飛行に必要な量以上。なんと樽七本分を作成するまでに至った。

 

 最後の樽がいっぱいになったのを見届けたコルベールは、大切な『成果』が外へ漏れ出したりしないよう、しっかりと相応しい処置を施し――実に満足げな笑みを浮かべてベッド代わりのソファーへと倒れ込むと、翌朝まで目を覚まさなかった。

 

 いっぽうの才人はというと、そんなコルベールの熱気に当てられて、必ず初フライトを成功させねばと張り切った。

 

 工具の類が残っていなかったので、残念ながら〝ガンダールヴ〟のルーンによる不具合調査と各部を磨くくらいしかできなかったが、それでも、その心は既に空へと舞い上がっていた――。

 

 

 




活動報告に記載しました通り、
来週明けまで多忙のため、感想へのお返事が滞ります。
また、更新も一時ストップしそうです。

あああ早く用事終わらせないとー!


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第44話 伝説、大空を飛ぶの事

「それにしても狭いなあ」

 

 ゼロ戦のコックピットを改めて見回しながら、才人はぼやいた。どうにかして座席部分をもう少し後ろへ下げられないものか。

 

 そんな悩みを抱えていたところへルイズ、そして太公望とタバサの三人がスタスタと足音を響かせてやって来た。

 

「それで、どうなのよ? 明日はちゃんと飛べそう?」

 

 微妙に不機嫌そうなルイズの声に疑問を抱きながらも、才人は素直に答えた。

 

「ああ、計器の類には問題ないし、エンジンの調子も良好! ちゃんと飛べるのは間違いないんだけど……」

 

 そう言って彼はコックピットを指差した。

 

「わたしとサイトなら、ぎりぎり乗れそうだけど」

 

「狭い」

 

「今のままでは才人の他に大人を乗せるのは無理であろう」

 

「やっぱ、改造しないとダメだよな」

 

 佐々木武雄氏が乗ってきたこのゼロ戦は単座――つまり、パイロットひとりで操縦することを想定して設計された戦闘機だ。狭い空間内に各種計器類やスイッチが所狭しと並べられている。現時点でコックピットにもうひとり乗り込めるだけのスペースは無い。

 

 と、興味深げにゼロ戦の内部を眺めていた太公望が尋ねる。

 

「座席の後ろには何が取り付けられておるのだ? もしも不要なものであれば、それを取り外せばどうにか隙間ができそうなのだが」

 

「あ、それは考えてなかったな! たぶんいらないものだと思うんだけど、一応調べとくか」

 

 太公望の提案を受け、才人は〝ガンダールヴ〟のルーンを起動させた。前回スペック確認をした際に、この機材はハルケギニアでは使い物にならないと判断していたのだが、取り外してしまうという考えには至らなかったのだ。

 

「うん。機能自体は生きてるけど、ここじゃ使いようがないし……外すか! ギーシュ呼んで手伝ってもらうよ。いいこと教えてくれてありがとな」

 

 そう言ってゼロ戦の側から離れようとした才人を太公望が引き留めた。

 

「ちょっと待て才人。その前に、念のため確認しておきたいのだが」

 

「ん、何?」

 

「機能は生きているが不要とは……いったいどういうことだ?」

 

(ああ、そうか。こいつ……いや、太公望はものすごく慎重なんだった。正確に言うと、使いたくても使えない物なんだけど、説明だけはしておくか。宇宙船に乗ってたくらいなんだし、詳しく教える必要もないだろ)

 

 そう考えた才人は問題の機材について、実にあっさりと言ってのけた。

 

「ああ、無線機だよ。基地とかと通信するための機材だけど、ここじゃ使えないし。置いといても邪魔なだけだろ」

 

 笑いながら立ち去ろうとした才人を太公望は必死の形相で引き留めた。

 

「待て才人、無線機はもの凄く大切なものではないか! それを外すだなんてとんでもない!!」

 

「え? でも、通信相手なんていないんだから……」

 

 そのくらいわかるだろ? そう返した才人に、太公望は黙って自分の懐へ手を突っ込み、そこからとあるアイテムを取り出すことで応えた。

 

 その道具は才人にとって非常になじみ深い形をしていた。片手で持つには少々大きいサイズだったが、所謂『コードレス電話機』の子機そのまんまだったからだ。

 

「……ヲイ。それ、まさかとは思うけど、携帯電話だったりしないよな?」

 

「いや、これは広域通信機だ。あの広大な大陸で行動するためにはホットラインを繋げておかねば不便極まりないであろう?」

 

 ――冗談のようだが、これは事実である。

 

 少なくとも太公望がいた歴史では、実際に王や諸侯、そして〝崑崙山〟の仙人たちがこれを使って互いの状況を報告し合っていたのだ。

 

 ちなみに才人の祖国風に言うと、なつかしの黒電話受話器タイプから設置式大型電話機風、小型折りたたみ式メタリックコートガラケー他諸々という実に幅広いデザインが採用されており、それらは所持する者の趣味が大いに反映されたものとなっていた――それはさておき。

 

「てか、携帯電話で意味通じるのかよ! おまけに、古代中国にホットラインとか! もうだめだ、俺の中の常識リミットゲージが限界に達しているッ!!」

 

 地面に膝をついて頭を抱え、上半身を仰け反らせながら叫ぶ才人と。あの『部屋』を見ているくせに今更この程度で何をそんなに驚いているのだ? という態度で彼を見つめる太公望。そして、ふたりの間に何が起こっているのかさっぱりわからないルイズとタバサ。

 

「気持ちはわからんでもないが、これが現実というものだ。受け入れろ才人! ああ、そうそう。周波数のチューニング諸々の設定はこの通信機から行えると思うので、そっち側で何かをする必要はないぞ」

 

 そんなことを言いながら、雑巾などの掃除用小道具が雑多に置かれていた小テーブルの上を簡単に片付けた太公望は早速そこへ通信機を横向きにして置くと、複数のボタンをプチプチと操作し始める――すると。機械の上に小さな鏡のようなものが三枚現れた。

 

 その瞬間、バネのように飛び上がって側へ駆け寄る才人。常識と精神のリミットブレイクよりも、持ち前の好奇心のほうが遙かに強かったらしい。

 

 タバサは以前この『窓』を見たことがあった。母を診察してもらったときに使われていたものとは少し形状が違うが、雰囲気その他はほとんど同じだ。初見のルイズも、どうやらふたりの世界にある魔道具らしいと当たりを付け、もっとよく見てみようと近付いてきた。

 

 才人はきらきらと顔を輝かせながら聞いた。

 

「タッチパネル……じゃないよな、立体映像式のビジュアルフォンか?」

 

「その通りだ。本来ならば、相手の顔を見ながら会話可能なのだが……あの飛行機械に搭載されている機材にはモニターらしきものはないから、その機能は使えぬ。それに、わしの知識ではレーダー機能――たぶんあれにもあると思うのだが、そこへのリンクまではできぬ。通信状況のモニタリングや拡声機能を利用するのがせいぜいといったところかのう」

 

「そこまでやれれば充分だろ! うわあ、リアルで立体ビジュアルフォンが見られるとか、マジ嬉しいんですけど!」

 

「む、まだおぬしたちの国にはない技術だったか?」

 

「立体映像の技術はあるけど、ここまでリアルなやつは見たことないな。ところで、こいつにも例の『呪い』がかかってんのか?」

 

「うむ。これはわし専用にと配布されたものだからのう」

 

「ちぇ。触ってみたかったのになあ」

 

「そうか、確認をしておく必要があるな。のう、タバサよ。ちと試しに、この『窓』に触れてみてくれぬか? おぬしならばわしとの〝感覚共有〟で問題なく触れると思うが、念のため指先で軽くつつく程度にとどめるのだ」

 

「わかった」

 

 言われた通りにしてみたタバサだが、やはり異変が起きたりはしない。一見、幻のようにも見える『窓』に触れることができる。それは何だか不思議な感覚だった。

 

「ここに書かれているのがあなたの国の文字?」

 

 タバサの質問に頷く太公望。

 

「見たことのない字だわ……」

 

「同じく」

 

 しかし、才人の反応は違った。

 

「あ! 確かに日本語と微妙に似てるかも。それに数字とかもかなり近い!」

 

「才人。確認するが、ここに映し出されている文字が読めるか?」

 

「ええっと……二百五十六……えむ……? そのあとの文字は……しん……なみ……?」

 

「よし、やはり近い文字を使っておるな! 少なくとも数字だけはほぼ同じらしい。それ以外も読みについてはだいたい合っておる。才人よ、今度余裕があるときにでも互いの言語を軽くすりあわせておかぬか? できればハルケギニアの言語を覚えておいてもらいたいのだが」

 

 その太公望の発言に才人は驚いた。何故なら、ここに至ってようやく自分が『異世界の言葉』を違和感なく耳にしていたことに気が付いたからだ。

 

 文字が異なっている時点で違和感を覚えなかったところからして、彼は担任教師や母親から評されている通り、少々ヌケているのだった。

 

「ひょっとして師叔、今はハルケギニア語で喋ってるのか?」

 

「そうだ。いや、正確に言うとガリア語だな。時折実験のために、わしが知るその他の言語を併せて使っておるが、〝召喚〟の翻訳機能によって正しく意思疎通ができておる。いやはや、実際あれはとんでもない魔法だよ」

 

 そう言って、やれやれとばかりに首を振る太公望。

 

「できればエルフ語やロバ・アル・カリイエ語、その他の比較用資料も入手したいところなのだが、そっち方面の本は残念ながら『フェニアのライブラリー』にすら、全く存在しておらんのだ」

 

 それを聞いて「うわあ……」という顔をしている才人と「翻訳機能ってどういうこと!?」と混乱しているルイズに答えたのは、タバサだった。

 

「タイコーボーは召喚翌日にハルケギニアとシュウの言語体系が異なっていることに気付き、それと同時に〝召喚〟に翻訳機能がついていることを証明した。だから、わたしたちは放課後ほとんどの時間を図書室で過ごしていた。今ではガリア語だけでなく、コモンルーン、古代ルーン、地方訛りに至るまで網羅している。わたしもすごく勉強になった」

 

 ……そう。実は太公望の勉強につきあっていたタバサも、各種言語の解読能力が大幅に上昇していた。これのおかげで魔法への理解度がさらに深まったといっても過言ではない。何故なら、魔法は〝力ある言葉(ルーン)〟によって紡がれるものだからだ。

 

「すごいわね。わたしも古代ルーン語なら習得してるけど、ふたりほどじゃないわ」

 

「かかかか、これは例の『複数思考』のおかげだのう。ちなみにその訓練のためにわざと別言語の、しかも全く内容が異なる本を同時に読んで書き写すという方法がある。実はタバサに課そうとしていた次の訓練課題がそれなのだ」

 

 『複数思考』。これは例の『魔法同時展開』に必須といえる技能である。さらに、先日の冒険で太公望からもらった『如意羽衣』を使う上でも重要だ。

 

(もうすぐ()()を教えてもらえる!)

 

 タバサは思わずぎゅっと両手拳を握り締めた。

 

「俺、勉強は嫌いだけど、日本語とハルケ……じゃなくてガリア語の簡単な単語表とか作っておいたほうがよさそうだな。挨拶とか、ふだんよく使うようなやつだけでも。ただ……ガリア語って日本語よりも英語に近い感じだから、比較がちょっと大変そうだな。そういう意味では太公望師叔のところの文字のほうが早く覚えられるかも」

 

 首をかしげ、モニターの文字を見ながら答えた才人に太公望が確認する。

 

「それは文字そのものに意味がある〝天界〟の言葉と、複数の文字を組み合わせて意味を形作るハルケギニア言語の違い……という認識で間違いないか?」

 

「そそ! それそれ。みんなのコードネームに使った『コメット』『スノウ』『ハーミット』は、全部その別の言語から取ってきたんだ。俺の時代では国ごとにほとんど別の言葉とか文字が使われてるから、覚えるのがマジで大変なんだよ……英語は学校で習うから挨拶くらいならできるかな。ちなみに古代の中国語は駄目だけど、近い文字使ってる〝天界〟の文字なら、少しは読めると思うぜ」

 

「それはありがたい。ならば隙を見て、お互いに日常会話用の単語表を作ってみるか。そうすれば、のちのち助かるであろう?」

 

 ――のちのち助かる……それはつまり。

 

「いつか、みんなで地球に行くときに……だよな?」

 

 ニヤッと笑った才人に、同じく笑顔で頷いた太公望。それを聞いたルイズとタバサの顔は輝いた。そうか、もしも『翻訳機能』が使えなくても、彼らの言葉を覚えておけば……そこに行った時に、不自由がないではないか。しかも『複数思考』の訓練にもなる。いいことずくめだ!

 

 こんなふうに何かを学ぼうとすることが楽しいだなんて、今まであっただろうか。

 

(俺、勉強嫌いなのに……目指すものがあるだけで、気持ちって変わるんだな)

 

 才人は、なんだか一歩だけ大人に近づけたような気持ちになった。

 

 いっぽう、そんな会話をしつつも、太公望のほうの作業は着々と進んでいた。

 

 元同僚にして〝崑崙最高幹部・開発部門長〟たる技術畑の天才が作り出したこの通信機はずっと懐に入れてあったのだが、何度か試しに使っただけでしまいっぱなしにしていた。念のため彼はハルケギニアにきてからすぐに、こっそりと回線状況を確かめていたのだ――ひょっとすると、誰かに逆探知されている可能性があったから。

 

 とはいえ、万が一を考えると捨てるわけにはいかない。そのため、常に持ち歩いていたのだが……チェックの結果は常にオフライン。今現在もそれは変わらない。半径最大五百リーグはカバーするこの携帯通信機が機能しないということは、つまり。その近辺に接続先が存在しないということだ。

 

「まさか、こんなところでこれの出番がくるとは思わなかったぞ。簡単な設定(セットアップ)は済んだから、実際に飛行機を起動させた後、そっち側のスイッチさえオンにしてもらえればすぐにでも交信可能だ」

 

「俺だって、まさか魔法使いと無線で会話できるなんて思ってなかったよ。って、無線通信!? そっか、そうだよ! あのさ、師叔。頼みがあるんだけど……」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その翌昼、トリステイン魔法学院の外にある広い草原にて。

 

 そこには水精霊団の全員が勢揃いしていた。そして、一部残っていた教員――学院長のオスマン氏だけではなく『疾風』のギトーやその他数名と、使用人の平民たち……マルトーをはじめとする厨房の者たちが集っている。

 

 教員たちはともかく彼らがここへ来ているのは、魔法を一切使わずに空を飛ぶことができるという貴重な道具を、彼らお気に入りの才人が持ち込んだという噂を聞きつけたからだ。

 

「ミスタ・タイコーボー。あれは、もしや風の流れを利用して飛ぶのではないかね?」

 

「仰る通りです、ギトー先生。ただし! 〝固定化〟を除く一切の魔法が使われていない、東方の非ッ常に! 貴重な宝物『竜の羽衣』です。今日はそれを特別に公開致します! 皆様、是非〝魔法探知〟をお試しください!」

 

 広場に設置した管制用の席――ギーシュのお手製テーブルに着いた太公望が促した。その言葉を受け、一斉に〝魔法探知〟を試すメイジたち。

 

「なるほど、確かに彼の言うとおりだ」

 

「魔法を使わずに空を飛ぶなど、正直半信半疑だが……」

 

「いやいや、技術が進んでいるという噂のロバ・アル・カリイエ由来の『秘宝』ならば、もしかするとそれが可能なのかもしれませんよ」

 

 そんな風に言葉を交わし合う彼らに太公望は大切なことを告げる。

 

「ついでに申し上げますと、今わたくしの目の前に置かれているコレも東の道具です。あの『空飛ぶ秘宝』と同様、東方の『通話の秘宝』と呼ばれるもので、かの〝飛行機械〟に乗る人間と会話を可能としております。ただし、泥棒対策の『呪い』が込められておりますので、直接触れたりはしないよう、くれぐれもよろしくお願い致します」

 

 また適当な名前で通信機を例える太公望。実際、これに魔法はかかっていない。ただ、今後を考えるとオスマンあたりに〝固定化〟をかけてもらったほうがよいであろう。そんなことを考えながら、太公望は調整作業に追われていた。

 

 いっぽう才人と――体調万全、心は既に空の上! なコルベールはゼロ戦のシート改造と最終チェックを終え、いよいよコックピットに乗り込もうとしていた。

 

 才人はシエスタの父から譲り受けた飛行帽をかぶり、古ぼけたゴーグルと絹のマフラーを身に付けている。彼のポケットには日本海軍少尉の階級章が入れられていた。佐々木武雄氏と共に、再び空へ征くために。手には、直前まで「俺っちなら操作の補助ができるから連れてけ!」とさんざんゴネたデルフリンガーを握っている。

 

 準備を終えた才人が、既に夢見心地になっていたコルベールに声をかけた。

 

「それじゃ、行きましょう先生!」

 

 こうして彼らは六十年前にこの世界にやってきた『竜の羽衣』に乗り込んだ。

 

 シート部分を改造したとはいえ、やっぱり狭いし、キツイ。でも、なんとかなった。あとは正しくこいつを操作するだけだ。そう〝ガンダールヴ〟のルーンに向かって念じた才人の頭の中に、再び詳細な操作方法が流れ込んでくる。

 

「コルベール先生、プロペラを魔法で軽く回してください!」

 

「任せておきたまえ!」

 

 才人は各部の操作に取りかかった。ルーンの〝力〟で、流れるようにそれらの作業が進んでいく。さらに、本人(剣?)の言うとおり、デルフリンガーの説明も堂に入っていた。彼もまた『伝説』を担う者なのだ。

 

 と――ピ……ガガッ……という、才人にとっては映画やゲームなどでお馴染みとなっている音と共に無線機から声が飛んできた。

 

『あー、メーデー、メーデー。こちら太公望。各機応答せよ』

 

「こちら才人! てか、なんで救難信号なんだよ!!」

 

『おぬしがよく言う、お約束というやつだよ』

 

「縁起でもねえからやめてくれよな! ついでに言うけど、これ一機しかねーよ!!」

 

『かかかか、これで無事通信テストは終了だのう。では、次の連絡を待て』

 

 ガ……ピッ。という音と共に途切れた太公望の声に、思わず才人は苦笑する。いっぽう、準備中に『通信機』の説明を受けていたコルベールの胸はさらに高鳴った。魔法を一切使っていない、遠距離に声を届ける道具が見せてくれた、もとい聞かせてくれた奇跡に。コックピットの窮屈さなど、もはや彼の頭の中から完全に抜け落ちていた。

 

 ――そして、いよいよ発進準備が整った。コルベールの魔法によって、ごろごろと重たそうに回るプロペラを見ていた才人はタイミングを見計らい、叫んだ。

 

「コンターック!」

 

 同時に点火スイッチを押す。と、ババッ、ババッという燻ったような音が聞こえた後、プロペラの回転速度が上がった。ゼロ戦に搭載されたエンジンが始動したのだ。

 

 そこへ、待っていた通信が入った。才人が前もって頼んでおいたアレである。

 

『こちら、水精霊団空軍特殊航空部隊OAF(オンディーヌ・エア・フォース)所属・トリステイン魔法学院上空特別飛行空域管制官ハーミット。ドッグ・ゼロへ通達。周辺空域及び滑走路に異常なし。初フライトにはよい空だ。各種計器類及び装備を確認の上、離陸準備を開始せよ』

 

 才人は念のため再度ルーンで各種計器や装備を確認した。全て正常だ!

 

「ドッグ・ゼロ、パイロット・ソード了解! 全計器及び装備確認。こちらの視界、及び各種計器にも異常なし!」

 

『了解した。ドッグ・ゼロ、離陸を許可する』

 

「ソード、管制官の指示に従い離陸体勢に入る」

 

 才人はブレーキをリリースした。ごろごろという音を立てながら車輪が地面の上を転がり、ゼロ戦が動き出す。それを見て驚きの声をあげる観衆たち。だが、その声はエンジン音にかき消され、コックピットまでは届かない。もっとも、それがなくとも才人とコルベールには聞こえなかっただろう。何故なら才人は、離陸点に向かってゼロ戦を移動させる操作に集中していたし、コルベールは計器類の動きに目を奪われていたからだ。

 

 それからすぐに離陸ポイントへ到達した。才人はしっかりとブレーキを踏みしめる。開閉ハンドルを回してカウルフラップを全開にし、ピッチレバーを離陸上昇に合わせた。ブレーキを弱めてスロットル・レバーを開くと、ゼロ戦は弾かれたように加速した。操縦桿を軽く前方に押してやると、尾輪が地面から離れる。ゼロ戦は平野を滑るように走ってゆく。

 

相棒(バディ)! 今だ!!」

 

 デルフリンガーの声を受け、才人は操縦桿を引きながら叫んだ。

 

「ドッグ・ゼロ、テイクオフ!!」

 

 その声と同時にブワッとゼロ戦が浮き上がり――そのまま、どんどん上昇を続けた。

 

『ドッグ・ゼロ、高度制限を解除……幸運を祈る(グッドラック)!』

 

 無線機から飛んできたハーミット管制官こと太公望の声で、機内がわっと湧いた。

 

「飛びました! 飛びましたぞ!!」

 

「うおー! おもれえな!!」

 

 コルベールとデルフリンガーが興奮極まったといった風情で騒ぐ。

 

「そりゃあ、飛びますよ。飛ぶように出来ているんですから」

 

 内心の安堵と興奮を隠して才人は答える。

 

 本物のゼロ戦を操縦できた。しかも、でっちあげのイメージで名付けたものとはいえ空軍管制官のコールつきで、である。ミリタリーファン、特に空軍系が好きな人間にとって感涙モノだ。

 

 そして、こういうノリに付き合ってくれる――おまけに、あれほど長い台詞を一切噛まずに発してくれた太公望に心の底から、もう本気で感謝しまくった才人であった。

 

 と、そんな彼の気分を更にノセてくれる通信が入ってきた。

 

『ハーミットより通達。今回の作戦目標は技術官ミスタ・コルベールを乗せた上での高度五千メイルまで達する試験フライトである。ドッグ・ゼロ、作戦行動を開始せよ』

 

「ソード、作戦内容了解! 先生、見てくださいよ……この『羽衣』の凄さを!」

 

 『ドッグ・ゼロ』と名付けられたゼロ戦は濃緑の翼で風を切り裂き、異世界の空を駆け上る。建物や周囲に悪影響がない高度を保ち、何度か魔法学院の周りを旋回するように飛んだあと――いっきに雲の上を目指して飛んでいった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いったい、これをなんといって表現したらいいのだろう。

 

 コルベールは狭いコクピットの中で陶酔に浸っていた。

 

 〝飛翔〟とは全然違う。身体の重さはしっかりとその場に残っているのに、何か壁のようなものに身体を押さえつけられつつも、力強い何かによって高く持ち上げられていくような不思議な浮遊感。心理的な意味ではない、もちろん肉体的な感覚だ。

 

 そして眼下に広がる光景。どんどん小さくなっていく魔法学院の建物。それは激しく流れる河のように遠ざかっていったと思ったら、再び近付いてきた。〝ひこうき〟を操縦しているサイト君曰く、これは『ゆうらんひこう』というものらしい。私に見せるため、わざと学院の周りを回ってくれているのだそうだ。なんと素晴らしい心遣いだろうか!

 

 狭い室内にはなじみのない振動音が響き渡っている。これは、例の『えんじん』が生み出し、前方の『ぷろぺら』が出す音なのだそうだ。以前作った『愉快なヘビくん』に組み込まれていたものよりも激しい連続爆発を起こしているらしいのだが、それでも壊れずに耐えることができるとは――いったいどんな構造になっているのだろう。是非、中身を詳しく見てみたい。

 

 それに、サイト君が時折触っている小さな何か。複雑でありながら、美しく滑らかな動作に、私はすっかり魅入られてしまった。時折針が揺れたりしているのは、操縦者に機械の調子を教えるためなのだと説明された。これほど精密な部品類を作り出すことなど、今のトリステイン……いや、私の技術では絶対に不可能だ。

 

 しかし、本当に驚いたのはその後だ。

 

 〝ひこうき〟は雲の上まであっという間に到達してしまった! 『ふうぼう』と呼ぶらしい、ガラス窓の外を流れゆく雲の速さといったら! おまけに、これでもまだ全力を出していないらしい。あくまでも様子見でこの速度を――それも、魔法を一切使うことなく実現するとは、なんともはや素晴らしいことだ。

 

 しかも、これは彼の国で六十年以上前に作られた旧式なのだそうだ。まさかとは思うが、現在サイト君の国で使われている新型の〝ひこうき〟は、もっと凄いものなのだろうか。それをサイト君に確認してみたら、とんでもない答えが返ってきた。

 

「その通りです! 音の倍以上の速さで飛べる飛行機だってあるんですよ」

 

「音より速いとはどういうことかね?」

 

 その質問にも彼は丁寧に教えてくれた。以前、ミスタ・タイコーボーが話していた『遠くで雷が落ちた後、光るよりも雷鳴が遅れて聞こえてくる理由』を説明してくれることによってだ。それを聞いたとき、私は文字通り雷鳴にうたれたの如き衝撃を受けた。

 

 光や音に伝わるための速度があり、それぞれの速さが異なっているなどという概念はこれまでハルケギニアには存在しなかった。いや……疑問に思ったことはあったが、そこまで深く考えたことはなかった。これが『しぜんかがく』という学問なのか。

 

 確かにそれらを学んだ上で魔法を使えば、より効果が高くなるだろう。事実、私が使う〝炎〟がそうだ。周囲の空気を燃やし尽くす、今は封印している忌むべき魔法。だが、あれも実は『しぜんかがく』を学ぶ上での入口に過ぎなかったのだ。

 

 『なぜ』『どうして』『それ』が『起こる』のか。全てに理由があるという。

 

 以前それを教えてくれた若者の声が、既に10リーグ以上離れた魔法学院にいるはずの彼の声が〝むせんき〟というものを通じて聞こえてくる。サイト君も、ミスタ・タイコーボーも、まるでこれが当たり前であるように受け答えをしている。つまり、両者共にこの技術が身近にある国に住んでいるということだ。

 

 誰がなんと言おうとも、私は決めた。

 

 ――ひとり決意を固めたコルベールは、震え声で才人に言った。

 

「なあ、サイト君」

 

「どうかしましたか? 先生」

 

「いつか私は、きみやミスタ・タイコーボーの出身地に行こうと思う。そこで、見てみたいのだ! こんな素晴らしい技術がある国を! 世界を! 自分の目で確かめたいんだ!!」

 

 コルベールの声に、才人は力強く答えた。

 

「はい、俺も先生に是非来てもらいたいです! みんなで行きましょう。もちろんデルフもな! ルイズたちとはもう約束してるんです。こっちに来たら、あちこち案内するぞって。先生が好きそうな機械を、実際に手に取って眺められる場所もあるんですよ」

 

 コルベールは目を見開いた。そして思った。なんと画期的なことだろう。いや、そういった場所があるからこそ、魔法無しでこんなことを実現できる技術が生まれるのだと。

 

「これは夢などではないのだね。いやはや、私はもうこのままずっとここに居たいくらいだよ」

 

「いや、さすがにそれはできませんよ先生。燃料と順番待ちが……って、夢? そうだ、そうだよ! もしかすると……うん、ちょっと確かめてみます」

 

「確かめる、とは?」

 

 その声に答えず、才人は無線機に向かって話しかけた。

 

「こちらドッグ・ゼロ。ハーミット、応答せよ」

 

『こちらハーミット。何か問題でも発生したか?』

 

「いや。お客様は大変満足してくださっている。そこでドッグ・ゼロから確認だ。彼にそちらの()を見せることはできるか?」

 

 少しの間を置いて、返答があった。

 

『もともとそのつもりだった。あとでご招待する。当然のことだが……』

 

「ああ、わかってる。地上へ戻ったら本件について改めて話し合おう」

 

 それを最後に太公望の声は途切れた。そして才人は自身が信頼する教師に向けて、こう言った。

 

「先生。近いうちに太公望師叔がいいものを見せてくれるそうですよ!」

 

 コルベールがその言葉の意味を理解したのは……それから数日後のことだった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それは大きな音と一緒に、空から舞い降りてきた。

 

 タルブの片隅にある生家の庭で幼い姉弟たちを遊ばせていたシエスタは、上空から響いてきた謎の音に思わず天を振り仰いだ。

 

「なんだろう? 雷……? ううん、違う。あれはそんな音じゃない」

 

 最初は小さな影だった。しかし、だんだんと大きくなってきたものの姿を目の片隅で捉えたシエスタは息を飲んだ。それから、大慌てで自宅に駆け込んだ。

 

「お父さん! お母さん! 外を見て!!」

 

 娘の切羽詰まったような、それでいて嬉しげな声を聞いたふたりは揃って首を傾げると、子供たちの集う庭へ出て行った。同時に空から響いてくる音に気が付いた村人たちが、なんだなんだと家の外へと飛び出してきた。

 

 そして、彼らは見た。空を切り裂くように飛んでくるモノを。雄々しく宙を舞う、翼を広げた力強き大空のサムライ。タルブの守護神の勇姿を。

 

「竜の羽衣だ……!」

 

 村人の誰かが発した声に、その場に居た全員が跪いた。

 

 六十年前、遙か東から舞い降りてきたという伝説の羽衣。つい数日前まで村外れの寺院に祀られていた謎の物体。多くの者たちが偽物だと信じ切っていた、あのおかしな小舟。だが――今、それは確かに空を飛んでいた。猛々しい叫びを上げながら、村の上空を……まるで、自分がお前たちを守護してやるといわんばかりに舞い踊っている。

 

 そんな中、シエスタの父は思い出した。あれを渡した少年の言葉を。

 

『あの草原になら、竜の羽衣を着陸させることができます』

 

「みんな! あれは草原に降りてくる。危ないから安全が確認できるまで近寄るな!」

 

 その声を受けて跳ね上がるようにして立ち上がった村人たちは、我先にと草原近くに向かって走り出した。もちろん彼らは言われた通り、草原に立ち入るような真似はしなかった。そして、待った。タルブの村を守護する『竜神』が、そこへ舞い降りてくるのを。

 

 そして、ついにその時は来た。うなり声を小さくしながら降りてきた『竜の羽衣』は、草原の上をほんの少し跳ねるような格好で走ったかと思うと、ゆっくりと足を止めた。その中から出てきたのは――シエスタの曾祖父の形見を身につけた黒髪の少年と、彼の主人である桃色の髪をした少女であった。シエスタは我を忘れて彼らの元へ駆けていった。

 

 竜の羽衣の周囲に、人の輪が作られていく――。

 

 

 

「すごい、すごいですサイトさん!!」

 

 シエスタは興奮していた。

 

 確かに彼と約束していた。いつか、この『竜の羽衣』に乗せてほしいと。だが、まさかそれがこんなに早く実現するとは。正直なところ、彼女は想像だにしていなかった。いや、守られるとすら思わなかった。

 

 才人を信じていなかったわけではない。ただ、この『羽衣』はずっと偽物だ、空を飛べるわけがない。幼い頃からそのように両親や身内から教えられ、育ってきたシエスタがそう考えてしまうのは、ある意味仕方のないことだと言えよう。

 

「どうだ? シエスタ。お前のひいおじいちゃんが持ってきた羽衣は!」

 

「すごい、すごいです、こんなにすごいなんて思ってませんでした!!」

 

 先程からただひたすらに「すごい」しか言わないシエスタの言葉とは全く別の意味で、才人はとあるすごさを実感……もとい体感していた。

 

(シエスタって痩せてるように見えたんだけど……実は、脱いだらすごい?)

 

 狭いコックピットの中。背中に押しつけられるふたつのいけない果実に抵抗すべく、才人は必死に戦っていた。比べてしまっては大変申し訳ないのだが、わが愛しのご主人さまが持つあれとは比較にならない。彼我戦力差――計測不能ッ!!

 

 ……正直なところ。健康的な高校生男子として、これはごくごく当たり前の反応である。どうか生暖かい目と態度でもって、彼の戦いを見守ってあげて欲しい。

 

「もうちょっと余裕があるから、シエスタのお父さんにも乗ってもらおうと思ってるんだ。シエスタの弟はまだちっちゃいから危なくてダメだ。もっと大きくなってからだな!」

 

 その言葉を発した直後、再びたわわに実った桃が才人の背中に押しつけられた。

 

(うん、シエスタは本当に大きく育ったんだネ)

 

 自分の発した言葉によって急所に被弾。別方面の……おもに自前のスロットル・レバーに大ダメージを受けてしまった才人。それからしばし空中での戦闘行動は続き、再び草原へと着陸した頃。彼のHPゲージは既にゼロまで落ちる寸前となっていた。

 

 ――その後。シエスタの父を乗せてしばし遊覧飛行を行った『竜の羽衣』は夕日を背に学院へ向けて飛び立った。シエスタを含む村人たちは、ある者は手を振り、またある者は大地に膝をつけて祈りながら見送った――。

 

 




原作だと外してしまった無線機ですが、
ここでは残ってます。

あの狭いコックピットをよくぞ復座改造したな才人&ギーシュ!


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限界大戦
第45話 輪の内に集いし者たち


 ――ゼロ戦に乗り、魔法学院へ帰還したその日の夜。

 

 ルイズは夢を見ていた。生まれ故郷のラ・ヴァリエール公爵領を舞台に繰り広げられるその夢は、いつも同じ場面から始まる。

 

「ルイズ、ルイズ! どこへ行ったのですか? 母の話は、まだ終わっていませんよ!」

 

 紅い月が満ちる夜。母親の金切り声を背に、まだ幼いルイズは広い屋敷の中庭を逃げ回っていた。どんなに練習しても魔法ができず……出来の良い姉たちと比べられ、叱られ続けた彼女はとうとう耐えきれなくなって外へ飛び出したのだ。

 

 終わりのない迷宮のような植え込みの中を駆けながら、ルイズは思った。

 

(エレオノール姉さまはとても魔法がお上手だった。ちい姉さまは身体が弱いけれど、それでも魔法が全く使えないなんてことはなかった。父さまも母さまも、優秀なメイジだ。それなのに、どうしてわたしは、みんなと同じようにできないのだろう? 貴族の精神は魔法を以て為すと言われている。なら、わたしは……?)

 

 メイジとして、貴族としての根深い悩みがゆえに酷く傷つき……ついには植え込みの中で蹲ってしまったルイズの側に誰かが近寄ってきた。

 

(たぶん、母さまの命令でわたしを探しに来た使用人たちだわ)

 

 そう考えた彼女は彼らに発見されぬよう息を潜めた。

 

 使用人たちは口々に文句を言いながら、ガサゴソ音を立てて灌木の周囲を探っている。木立の隙間から、砂埃にまみれた靴がちらりと見えた。

 

「まったく、ルイズお嬢さまにも困ったもんだ」

 

「本当だよ。エレオノールお嬢さまも、お身体の弱いカトレアお嬢さまでさえも……ちゃんと魔法がおできになるのにねえ」

 

 ルイズは悔しかった。反論したくてもできない。彼らの言う通り、自分は一切魔法が使えないのだから。だが、そんな彼女の思いをよそに草木がこすれる音がだんだんと近くなってきた。

 

 ルイズは焦った。

 

(このままじゃ見つかっちゃう!)

 

 幼いルイズはそろりそろりと灌木の影から逃げ出すと、自身が『秘密の場所』と呼ぶ中庭の池に向かって駆け出した。そこは普段はあまりひとが寄りつかない場所だった。池の周りにはいつも季節の花が咲き乱れ、水面には一艘の小舟が浮かべられている。

 

 昔はここに家族の皆が揃って、よく舟遊びをしていた。しかしふたりの姉は大きくなり、父親は領地を治める仕事で忙しく、母親は娘たちの教育に熱をあげるばかりで――いつしか、この場所から彼らの足は遠のいていった。

 

 家族たちから忘れ去られた場所にぽつんと浮かぶ小舟が、小さなルイズにとって唯一安心できる避難所だった。何故ならその小舟を気に掛ける者は、今ではルイズただひとりだけだったから。

 

 ルイズはそっと小舟の中に忍び込んだ。用意しておいた毛布にくるまり、身を横たえる。そうしてようやく一息ついた彼女は、ぎゅっと身体をすぼめて呟いた。

 

「わたしは、ここにしか居場所がないのかしら……」

 

 だって、わたしは魔法ができない。だからきっと、みんなと同じようには生きられない。

 

 小舟の中――そんな思考の渦によって頭の内をぐるぐるとかき回されていた彼女の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。

 

 そんなふうにルイズが小舟の中でしばらくじっとしていると、池の中にある小島の岸辺に誰かが姿を現した。その人物は立派なマントを羽織り、大きなつばつきの帽子を被った若い貴族であった。

 

「泣いているのかい? ルイズ」

 

 声の主の顔は、大きな帽子の影に隠れてよく見えない。だが、ルイズはその声の主に覚えがあるような気がした。そう、どこかで聞いたはずの、あの独特な響き……。

 

 ルイズは現れた人物の姿をもう一度よく見直してみた。背格好からして十六~七歳前後だろうか。夢の中のルイズはまだ幼く、六歳くらいの姿だったので、その相手がとても大きく感じた。

 

 目の前の人物は小舟の中で蹲っていたルイズに、岸辺から手を差し伸べてきた。

 

「ミ・レィディ。いつまでも、こんなところにいてはいけないよ? 手を貸してあげよう。ほら……掴まって」

 

「でも……」

 

 ルイズは躊躇った。大きく、暖かく、頼りがいのありそうな手が、自分のすぐ目の前に差し出されている。でも、本当にわたしは……この手を取ってもいいのだろうか? こんなにちっぽけで、おちこぼれの自分が。

 

「怖いのかい? 心配しなくても大丈夫だよ。みんなが一緒にいるのだから」

 

(みんなが、一緒にいる……?)

 

 その言葉にルイズははっとした。そのとき、突如吹いてきた強い風が彼女の前に立っていた若い貴族の帽子を吹き飛ばした。

 

「あ……!」

 

 現れた顔を見てルイズは驚きの声を上げた。いつしか彼女の身体も現在の姿に戻っている。

 

「な、な、なによ、あんた……」

 

 帽子の下から現れたのは、彼女が呼び出したパートナー・才人の顔だった。

 

「さあルイズ。おいで」

 

 才人はその顔に満面の笑みを浮かべ、ルイズに向けて手を伸ばしている。

 

「おいでじゃないわよ! なな、なんであんたが、こ、ここにいるのよ!!」

 

「それはこっちのセリフだ! 約束してただろ、みんなで一緒に行こうって」

 

 立派な貴族の格好……それも、ルイズがよく知るマンティコア隊の古風な隊服を身につけた才人が笑顔から一転、不機嫌そうな声でぼやく。

 

「約束? いったい何の……?」

 

 ルイズの問いに、才人はぐいと親指で後方を示す。

 

 すると。彼の後方にどこまでも広がる青い空と、広々とした草原が現れた。そこには、あの『竜の羽衣』がでんと置かれている。それだけではない。その側にルイズがよく知る人物たちが集い、笑顔でふたりを見守っていた。

 

 自分に『道』を示してくれた恩人タイコーボーが、仁王立ちをしながらふんぞり返っている。

 

 彼を〝召喚〟によってハルケギニアへ招いてくれたタバサが、こちらをちらちらと伺いながら彼のすぐ隣に座って本を読んでいる。

 

 仇敵だったはずのツェルプストーが腰に手を当て、笑みを浮かべて立っている。

 

 気取ったポーズで薔薇を咥えたギーシュが彼と腕を組み、頬をほんのりと染めたモンモランシーと共にこちらを見つめてくる。

 

 眼鏡の位置を直しつつ手元のメモ帳に何かを書き留めていたレイナールが、その手を止めて笑いかけてくる。

 

 髭をしごき、上機嫌といった風情の学院長がにこにことルイズに微笑みかけている。

 

 愛おしそうに『竜の羽衣』を撫で続けていたコルベール先生が、突然振り返ってルイズに向けて頷いている。

 

(そうだ。わたしはみんなと大切な約束をしているんだった)

 

 ルイズは被っていた毛布をばっとはね除け、急いで立ち上がろうとしたのだが――そこは安定しない小舟の上。ぐらりと身体がよろめいてしまった。しかし、そんな彼女を力強く逞しい腕がしっかりと支えた。それはもちろん、すぐ側にいた才人の手だ。

 

「舟の上でいきなり動くなよ、危ないだろ! ったくしょうがねえなあ、お前ってやつは……」

 

 才人はため息をつくと、そのままルイズを抱きかかえようとした。

 

「ちょっと! やめてよ、バカ!!」

 

 あまりにも突然の事態に、顔を真っ赤にして抗議したルイズであったが……その声は本人が思っていたよりもずっと小さかった。

 

「うまく立てないんだろ? 強がるなよ、マイ・レィディ。俺のルイズ」

 

「ふざけないで! いつ、わたしがあんたのものになったのよ!」

 

 ぽかぽかと彼を殴りながら抗議するルイズ。

 

 だが、才人はそんな彼女の様子などまるで気にも留めていないかのように、ぐいとルイズを自分の側に引き寄せると、彼女の身体を両腕で軽々と抱き上げてしまった。

 

 ルイズの心臓が、ばくんと跳ねた。それから、がんがんと早鐘を打つかのように鳴り続ける。

 

「お、おろして! おろしなさいよ、この馬鹿! 馬鹿犬!!」

 

「まだ俺は犬なのかよ。わん。つまり、人間の言葉は通じないのであります」

 

 じたばたと抵抗するルイズであったのだが、しかし。才人は馬鹿なことを言いながらそれを無視したばかりか、どこから沸いてくるのだろう自信に満ち溢れたような表情で、彼女を両腕で抱きかかえたまま仲間たちのところへ連れて行こうとした。

 

 そんなふたりに向けて、やんややんやとひやかしの声が飛んでくる。ルイズはもう恥ずかしくてたまらず、必死に才人の腕を振り解こうとするのだが……何故か身体に力が入らない。

 

「放しなさいってば、もう!」

 

 そして、そんな態度とは裏腹に、妙に気分が高揚している自分に心底困惑したルイズは大きな声で叫んだ。

 

「どうしてこの夢に出てくるのがあんたなのよ!」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌朝。

 

 チチチ……という小鳥のさえずり声で目覚めたルイズは未だ混乱の只中にあった。

 

「なんであんな夢を見たのかしら」

 

 ルイズはこれまで、何度も何度も繰り返し同じ夢を見ている。それなのに、どうしてか今回に限って内容が大きく変化していた。そのことがルイズをさらに困惑させた。

 

 以前は、あそこに別の人物が迎えに来てくれていた。ラ・ヴァリエール公爵領近隣の領主の息子。見事な銀色の髪が印象的な逞しい青年。十歳年上の彼は親同士が決めたルイズの婚約者だった。

 

 いつも見る夢では彼が岸辺からルイズの手を取り、優しく声をかけてくれる。その直後、ルイズは我が身の不甲斐なさと安堵とがないまぜとなった気持ちで目を覚ます。それが、これまで繰り返し見てきた夢の筋書きだった。

 

 彼とはもう十年近く顔を合わせていない。数年ほど前に、父から近衛魔法衛士隊へ入隊したという報せを聞いたきりだ。

 

(わたしのことなんて、とっくに忘れてるわよね――)

 

 なんだかもの悲しいような、切ないような気持ちで胸がいっぱいになったルイズはふいに部屋の反対側に置かれた折りたたみベッドの上に目をやった。すると、そこでは新たな夢の中で彼女を迎えに来てくれた人物がうんうんと唸り声をあげていた。どうやら彼は何かにうなされているらしい。

 

「夢の中では、あんなに自信満々だったくせに」

 

 思わずぷっと吹き出してしまったルイズは、彼を起こさぬよう、そろそろと近付いていった。と、壁に立て掛けられていたデルフリンガーがそんな彼女に気付き、声をかけた。

 

「どうしたんだ? 娘ッ子」

 

 ルイズはデルフリンガーに向き直ると、口の先に指を一本立てた。

 

「黙ってろってか? まあ……実に面白そうな夢見てるみたいだからなあ、相棒は」

 

 鍔を小さくカチカチと鳴らすデルフリンガー。どうやら笑いを堪えてるようだ。ルイズはそんな彼に笑顔で才人がよくやるようにグッと親指を立てて見せると、静かに少年が寝ているベッドの脇に立った。

 

 すると、突然才人が寝返りをうち「う~ん……」と声を上げた。ルイズはそれに驚いて大きな声を上げそうになったが、かろうじて押し止めることができた。

 

「も、もうダメだ……これ以上の被弾には……耐えられねェ……こんなに……狭いのが悪いんだ……もうこのままじゃ俺、墜落する……許してくれ、ルイズ……戦力差が……」

 

 ルイズはまるで〝硬化〟の魔法をかけられたかの如く固まってしまった。しかし、才人はそれだけを呟くと、すやすやと寝息を立てはじめた。悪夢が過ぎ去ったのであろうか? 彼の寝顔を見た少女は思わず安堵のため息を漏らした。

 

「なんだ、寝言か。何かと戦ってる夢でも見てんのかね? 相棒は」

 

 デルフリンガーの感想に、ルイズは頷いた。

 

「しかも、わたしに何か謝ってたわよね……」

 

 もうダメだ、許してくれ、ルイズ。

 

 その言葉を思い出して、ルイズははっとした。

 

(まさかサイトはわたしを命がけで守ろうとして、何者かに倒される夢を見ていたのだろうか)

 

 そこまで考えた彼女の頬が、すっと朱に染まる。

 

「俺っちは剣だから、人間の男女関係についてはよくわかんね。けど、これだけは言える。今のお前さん……顔が真っ赤だぜ。なあ?」

 

 ルイズはさらに顔を紅潮させ、デルフリンガーをぽかぽかと殴る。しかし相手は剣である。鞘の上からとはいえ、ダメージを受けたのは自分の手のほうであった。

 

 痛む手をさすりつつ、ルイズは考えた。デルフリンガーが放った言葉の意味を。

 

(人間の男女関係。ううん、そんなはずはない。サイトは確かにわたしのパートナーだ。それ以上でも、以下でもない、はず。だいたい、わたしたちは貴族と平民で、身分が違いすぎる。けれど、だったら……今朝見た夢とこの胸の高鳴りは、一体なんなの……?)

 

 ルイズは再びベッドの上ですやすやと寝息を立てているパートナーを見た。

 

「まったく……主人より遅くまで寝てる使い魔なんて、あんたくらいよ」

 

 愛らしい頬を膨らませながら、ルイズは才人の頬をつんつんと突っついた。

 

 ――実際のところ、才人は昨日のフライト中に行われた『戦闘』の夢を見ていただけなのだが……ルイズがそれを知らなかったことは、両者にとって本当に幸いなことだったといえよう。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――同日、昼過ぎ。

 

「いやあ、わざわざ私にまで声をかけてくれてありがとう! すっかり忘れていたから、本当に助かったよ」

 

 コルベールが街を歩きながら水精霊団の一行に感謝の言葉を述べた。

 

 彼ら一同は来週行われるヴァリエール家の歓待に備えるため、王都トリスタニア街へ買い物に繰り出して来ていた。大貴族の家に招待されたともなれば、それに相応しい準備が必要になるからだ。

 

「お礼といってはなんだが、買い物が済んだ後の食事代は私が出そう」

 

 そのコルベールの申し出に全員が歓声をあげた。そして彼らは太っ腹な教師の視界に入らぬよう、街へ出かける前に彼へ声をかけることを提案した太公望に向けて、ぐっと親指を立てて見せた。

 

「コルベール殿は『竜の羽衣』を研究することに夢中になっていて、歓待のことなど絶対忘れているに違いない」

 

 という太公望の予測が、見事なまでに当たっていたからだ。

 

 ……ちなみに学院長のオスマン氏のところへも念のため顔を出して来たのだが、さすがは国の教育機関を任される重鎮だけあって、そのあたりの準備については一切の抜かりがなかった――それはさておき。

 

「ところで例の懸賞金だけど、いつになったらもらえるのかな?」

 

 レイナールの問いはその他生徒たちにとっても気になる内容だったらしい。交渉役の太公望に視線が集まる。

 

「それなのだが、全額支払われるのはどんなに早くても今月末になりそうだ」

 

「さすがに即金は難しいか……あの額だし」

 

「うむ。ただし、未払いということは無いので安心するがよい。手元に届き次第、きちんと全員に分配する」

 

「残念だなあ。先に賞金が手に入れば豪華な服を着てご招待に与れただろうに」

 

 そんなことを言い出したギーシュに、モンモランシーがツッコんだ。

 

「何言ってるの。こういう席で身の丈に合わない支度をするのは、かえって相手方に失礼に当たるのよ? わたしの目が届く限り、そんな真似はさせませんからね」

 

「ふたりの将来を垣間見た気がする」

 

 タバサの呟きに、キュルケが驚いたような顔をした。

 

「あなた。たまに口を開いたと思ったら結構言うわね」

 

 ぱんぱんと手を叩いて、コルベールが声をあげた。

 

「ミス・モンモランシーの言うとおりだ。だから全員個別に、出来る範囲で支度を調えたほうがいいだろう。そうだな、夕食前にはさすがに買い物も済んでいるだろうから、中央広場の噴水前に集合ということでよろしいですかな?」

 

「わかりました」

 

「じゃあ、また後でね!」

 

 彼らは互いに声を掛け合うと、それぞれの目的地に向けて散っていった。

 

 

 ――そして夜。約束の刻限が来た。

 

 トリスタニア中央広場の噴水前に集合した彼らは早速食事へ出かけようとしたのだが、そこでギーシュがひとつの提案をした。

 

「実は最近面白い店ができたという噂を聞いているんだがね」

 

「へえ……どんな?」

 

 才人の言葉に、その質問を待ってました! とばかりに得意げに胸を反らすギーシュ。

 

「可愛い女の子が大勢でお出迎えをしてくれ……」

 

「ミスタ・タイコーボー。恐縮ですが『一回目』をお願いしますわ」

 

「わかった」

 

 笑顔で――ただし目が全く笑っていないモンモランシーのリクエストに応え『打神鞭』を取り出した太公望は、即座に〝(ウインド)〟のルーンを――毎度のことだが唱えるふりをする。そして詠唱が終了したと同時にギーシュは文字通り空の彼方まで吹き飛ばされた。

 

「どうして彼女連れなのにあんなこと言うかなあ……」

 

 唖然とした表情でレイナールが呟くと。

 

「あいつさあ、なんでか女の子がらみとなると、頭が可哀想なことになるんだよ」

 

 自分のことをすっかり棚に上げて才人が答える。

 

「なるほど、すごくよくわかったよ」

 

 そんなふたりに、キュルケがくすくすと笑いながら言った。

 

「コルベール先生のおごりじゃなければ、そのお店に行ってみるっていうのも案外面白かったかもしれないけどね」

 

 そして、彼ら以外のメンバーはというと。たったいま目撃した〝風〟に対する見解をそれぞれの視点から述べていた。

 

「それにしても、ただの〝風〟であそこまで飛ぶとは驚きですな」

 

「しかも、周囲に一切被害を出していない。これも『複数同時展開』の利点」

 

 目の前で自分の生徒が吹っ飛ばされたにも関わらず、淡々と、事実だけを冷静に述べたコルベールに補足を行ったのはタバサだ。さすがは『炎蛇』と『雪風』の二つ名を冠するふたりだけあって、実に容赦のないコメントである。

 

「ミスタの〝風〟は、母さまといい勝負だわ……」

 

 そうポツリと口にしたルイズは内心かなりの衝撃を受けていた。彼がサイトの世界の『伝説』だという話は聞いていたが、あれはやはり真実なのだと本能で理解した。

 

「へえ。ルイズのお母さまも相当な凄腕なんだね」

 

「え、ええ。母さまは風の『スクウェア』だから」

 

「それはすごいな!」

 

 ルイズの呟きを聞いて、即座に彼女の母親に対する分析を始めるレイナール。とはいえ、さすがの彼にもその『お母さま』がトリステインのみならず、ハルケギニア全土にその名を轟かす伝説的存在だということまではわからなかった。何故ならこれはラ・ヴァリエール公爵家と、彼らに近しい者だけにしか知られていない秘密だからだ。

 

「頼んだわたしが言うのもなんだけど、ギーシュ、無事かしら……」

 

「打ち上げの高さや落ちる位置はきちんと計算しておる。心配しなくても大丈夫だ」

 

 改めて太公望の実力を目の当たりにしたモンモランシーは、激しい不安を覚えた。自分という相手がいるのに、女の子がいる店に行きたいなどと言い出したギーシュについ苛立ち、軽い気持ちでお願いした『一回目』だったが、あれをまともに受けた彼は、本当に大丈夫なのだろうか。

 

 思わず天を仰ぎ『始祖』ブリミルに対し、彼氏の無事を祈ってしまった彼女の思いがたぶん通じたのであろう。それから間もなくして、くるくると回転しながらギーシュが落ちてきた。もっとも、彼は完全に気を失っている状態ではあったが。

 

 口をあんぐりと開けて豆粒より小さくなったギーシュを見上げながら、才人は聞いた。

 

「なあ師叔(すーす)。あれほんとに大丈夫なん?」

 

「もちろんだ。落下Gやその他もろもろの要因でギーシュの身体にダメージが残ったりしないよう、細心の注意を払っておる」

 

「そうなんだ! それわかっててやってもらったら楽しそうだな。バンジージャンプみたいで」

 

「なにそれ?」

 

 聞き慣れない言葉に、ルイズをはじめとした仲間たちが反応する。

 

「すごく高い場所から、命綱つけて飛び降りる遊びだよ」

 

「どうしてそんなのが楽しいと思えるのよ……」

 

「あたしは少しやってみたいかも」

 

「本気!?」

 

「興味ある」

 

「僕は絶対嫌だからね!」

 

 そんなやりとりをしている間に、空からギーシュが降ってきた。慌ててモンモランシーが〝浮遊(レビテーション)〟を唱え、必死の思いで受け止めた……その瞬間。突如周囲から嵐のような拍手が巻き起こった。

 

「やるなあ兄ちゃんたち!」

 

「いやあ、いいモン見せてもらったぜ!」

 

 まあ、それも当然である。トリスタニア最大の広場、しかも噴水前という目立つ場所でこんな大道芸のような真似をしたら、野次馬が大勢集まる。

 

 しかも、遙か空の彼方へ吹き飛ばされたはずの()()が無事な姿で戻ってきたとくれば、お祭り騒ぎの好きなタニアっ子たちは盛り上がるに決まっている。

 

「ご夕食はまだですか? よろしければ、当店へお越し下さい。割引致しますので」

 

「いや、是非うちの店にいらしてくださいよ」

 

「待った! 皆さまをお招きするのは我が店に決まっている!!」

 

 ――ある意味身体を張ったギーシュのおかげで、思いも寄らぬ歓待を受けることになった水精霊団一同だった。ただし、この一件でいちばん得をしたのは原因となった本人ではなく、間違いなくコルベールだったわけだが。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ほぼ同じ頃、ラ・ヴァリエール公爵領の屋敷内では。

 

「あんなに生き生きとしたエレオノール姉さまを見るのは、久しぶりだわ」

 

 使用人たちの先頭に立ち、来週頭に開催される歓待のための指揮を執る姉の姿を遠目に見ながら、儚げな空気を身に纏う娘は……その顔に、今にも零れ落ちそうな微笑みを浮かべていた。

 

 そこへ、あでやかな桃色の髪をアップに纏めた女性――ラ・ヴァリエール公爵夫人カリーヌがつかつかと歩み寄ってきた。

 

「今日はよく来てくれたわね、カトレア。ところで……身体の具合はどうなのです?」

 

「ありがとうございます、母さま。最近はだいぶ落ち着いています」

 

 そう言った途端、カトレアと呼ばれた娘はゴホゴホと激しく咳き込んだ。

 

「カトレア!」

 

 顔色を変えて使用人を呼ぼうとした母を、娘が止めた。

 

「大丈夫です、ほんの少しむせただけですから」

 

「本当ですか?」

 

「はい」

 

 カリーヌ夫人は娘が不憫でならなかった。身体の弱いカトレアは、これまで一歩たりともラ・ヴァリエール公爵領から出たことがない。今のままでは誰かの元へ嫁ぐことも叶わぬだろう。

 

 もちろん、ラ・ヴァリエール公爵夫妻はできうる限りの努力をした。腕のよい水メイジがいると聞けばすぐに呼び寄せ、よく効くという薬の情報を得られた際にはそれがどんなに高価なものであろうとも買い求めた。しかし、そんな彼らの必死な努力も虚しく娘の病が癒えることはなかった。

 

 そもそも、病の元がなんなのかすらも判明していない。長女エレオノールの伝手で王立アカデミーへの問い合わせをしたこともある。だが、やはり原因不明であるとの解答しか戻ってこなかった。

 

 公爵家の肩書きも、国で有数の財産も、最強と謳われた『烈風』の魔法ですらカトレアを蝕む病の前では無力だった。

 

 そんな母親の思いを察したのであろうカトレアは、ころころと笑って言った。

 

「母さま、そんな顔をしないでください。こう見えても、わたしはみんなが思っているよりもずっと元気に毎日を過ごしているんですから。ほら、こんなこともありますし……床に臥せってばかりもいられません」

 

 カトレアはそう言って足元に置かれていた蓋つきのバスケットを持ち上げると、中身をカリーヌ夫人に見せた。

 

「まあ、小鳥ではありませんか! どこで拾ってきたのです?」

 

 バスケットの中には傷付いた一羽のつぐみがいた。その羽根には包帯が巻かれている。

 

「この子、森の中で一生懸命訴えていたんです。羽根が痛いよ、誰か助けて、助けて……って。偶然馬車で通りかかったときにその声が聞こえたものですから、わたし、もうびっくりしてしまって。それで、慌てて駆け付けて手当てをしたんです」

 

 驚くべきことに、カトレアは広大な森の中に溢れるたくさんの小鳥たちの声の中から、羽根が折れて飛べなくなったつぐみの声を拾い上げたらしい。

 

「あなたは、いつもそうやって怪我をした生き物を拾ってくるんだから……そのうち、屋敷中が動物で溢れかえってしまいますよ」

 

「それはそれで楽しいと思います。今でも、わたしのお部屋は動物たちでいっぱいですし。それが屋敷全体に広がったとしても、あまり変わらないんじゃないかしら」

 

「まったく、この子ったら……」

 

 つい苦笑してしまった母親を見て安心したのであろうカトレアは、再び姉のほうへ視線を戻した。それを見たカリーヌ夫人は、もうひとりの娘について語り始めた。

 

「まったく、あの娘は。魔法学院へ使者に出る前は不機嫌であることを隠そうともしなかったというのに。帰ってきたら、本当に嬉しそうにルイズのことを話してくれたのよ」

 

 カリーヌ夫人の声には、彼女としては珍しく――喜びの感情が溢れていた。

 

「しかも、ですよ? 研究一筋だったあのエレオノールが、アカデミーに一ヶ月の休暇届を出してまでこの歓待の総指揮を執るなどと言い出したときにはさすがのわたくしも驚きました。例のお客さまがたのおかげで、ルイズは大きく成長していたようね。会うのが本当に楽しみですこと」

 

 そんな母の意見に、カトレアは笑顔で頷いた。

 

「はい、わたしも楽しみですわ! あの小さなルイズが、どんなふうに大きくなったのか。それ以外にも気になることがありますけど」

 

「例のお客さまのことですか? エレオノールの話を聞く限りでは、学者のようですけれど」

 

 そう答えた母親の声に僅かな落胆を感じ取ったカトレアは、くすくすと笑い声を上げた。カリーヌ夫人が小さく眉根を寄せる。

 

「まあ、まあ! 母さまったら! 例のお客さまが『東方』の優秀な風のメイジと聞いて、つい()()()()期待をされておられたのでしょう? だって……」

 

 ――母さまは、かつて『最強』の名を欲しいままにした騎士だったのですから。

 

 その言葉をカトレアは口に出さない。既に目で充分語っていたから。

 

「まあ、代わりといっては可哀相ですが別の風メイジも招待していることですし、彼の様子を見てあげることにします。それにしても……エレオノールがわざわざルイズの婚約者を招くよう言い出したことに、わたくしはいちばん驚きました。自分の身にあんなことがあった後だというのに……」

 

「ええ、本当に。実はわたしもそれを気にしていたのですが、姉さまはもう大丈夫みたいですね」

 

「突然のことで、あの子も精神的に参っていたでしょうに。さて……それでは、わたくしも手伝ってくることにします。さすがに我が家の恩人をお迎えするにあたって、公爵夫人たるわたくしが何もしないというのは礼にもとる行為ですからね」

 

 そう告げて立ち去ろうとしたカリーヌは、途中で振り向くと言った。

 

「いいですか? あなたはあまり長い時間ここにいてはいけませんよ。辛くなったら、すぐにベッドへ入りなさい」

 

 母を見送るカトレアの瞳に浮かんだ色の意味を正確に読み取れる者は……今、この場所には存在していなかった――。

 

 

 




予定よりだいぶ遅くなってしまったので、今日は2話投稿!
次で皆様お待ちかねの(?)あの人が登場です!


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第46話 祝賀と再会と狂乱の宴

 ――さすがは公爵家。しかも、国内でも大きな権勢を誇る家柄だけのことはある。

 

 風竜に四隅を持ち上げられた巨大な籠――竜籠に揺られ、上空から遙か下に広がる光景を眺めながら太公望は内心舌を巻いていた。彼の向かい側の席に腰掛けている才人などはこれを見て、

 

「日本の市くらいの大きさって……ルイズんち、金持ちとかってレベルじゃねェだろ」

 

 などとぶつぶつ呟いている。

 

「それはそうであろう。ヴァリエール公爵家はトリステイン王家の傍流にして、国内でも有数の大貴族だ。所謂本物のお姫さま、というやつなのだよ。彼女は」

 

 その太公望の言葉を聞いた才人はゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「これ見るまではイマイチ実感できなかったんだけど……ルイズって……」

 

 本物の貴族だのお姫さまなどというものは、地球にいたころの才人にとってテレビの中でしか見ることのない、遠い場所に住んでいる――それこそ現実味のない存在だった。

 

 しかし眼下に広がる領地を見て、なんとなくだが理解できた。ルイズは()()()()()()に住んでいる人間なんだと。そして、今まで見てきた彼女の態度やその他の事情がストンと頭の中に落ちてきた。ありていにいえば、しっくりきてしまった。

 

 才人は思わずため息をついた。もしも馬車で来ていたら、魔法学院からここまでまる2日もかかっていたらしい。さらに、領地に着いてから屋敷へたどり着くまで半日以上必要なのだという説明も受けていた。

 

「大貴族って、やべえ……」

 

 才人はなんだか猛烈に緊張してきた。落ち着かなげに籠の内部や外へ視線を這わせる。それから、縋るように目の前の友人へ声をかけた。

 

「ううっ、俺……こっちのマナー? 礼儀作法とか、いちおうルイズに教わってきたんだけどさ……なんだか自信なくなってきた。師叔はこういうの慣れてるんだろうけど」

 

「いや、わしだってハルケギニアの細かい流儀などわからぬ。よって……」

 

 ゴソゴソと懐を探る太公望。その手には、数冊の本が掴まれていた。

 

「貴族付きの従者の仕事やら、失礼のない作法の類いを魔法学院の従業員たちから聞いてまとめておいた。とりあえず一冊貸してやるから今のうちに読んでおくがよい」

 

「うは、助かるぜ! てか、いつも思うんだけどさ。その懐のどこにそんだけの物が入るんだ? ひょっとして、内側に亜空間に繋がってるアイテムでもつけてあんのか?」

 

 四次元ポケットみたいな? という才人の言葉に、太公望は頷いた。

 

「おぬしの予想は大当たりだ。着脱式の亜空間収納用ポケットがついておるのだ。箪笥の引き出し程度の小さな空間……例の『自分の部屋』の簡易版のようなものに接続するための道具だと思ってくれれば間違いない」

 

 ――縮めても最低50サントはある『NEW・打神鞭』がまるごと収まる上に、携帯通信機まで入っている。さらにはワインが瓶ごと一本出てきたこともある恐怖の懐。その謎の一端が明かされた瞬間であった。

 

「便利だなそれ! って、いつもだったら見せてくれって言いたいところなんだけど!」

 

「うむ。わしも念入りに確認しておきたいので、本に集中させてもらう」

 

「なんか籠に乗るメンバーの組み合わせで少しモメたみたいだけど、師叔と一緒の組になれて本当に良かったよ」

 

 ルイズとマンツー・マンの猛特訓をしたことが功を奏し、既にハルケギニア語を読むことについては問題なくできるようになっていた才人は、必死の思いで本のページをめくり始めた。

 

 ちなみに、いったい何をモメたのかというと。本来お客さまという扱いであった太公望が乗る籠についてである。当初はもっと良い籠に――というのが今回案内役を務めるエレオノールの提案だったのだが、これに太公望が異を唱えたのだ。

 

「お気遣い感謝致します。ですが、自分はあくまで従者でございますので、身分相応の籠に乗らせていただきたく……その、恥ずかしながら落ち着きませんので」

 

 ……などと、しきりに恐縮するふりをしながら。

 

 その結果、全員の中でいちばん身分が低い(と、いうより唯一メイジではない)才人と同乗することになったのだ。もっとも、太公望はこれを最初から狙っていたのだが。おもに自分と才人の復習時間を稼ぐ的な意味で。

 

 ――それから数時間後。

 

 夕日を背に受けながら、竜籠はラ・ヴァリエール公爵家の()に近付いていた。屋敷ではなく、完全に城と呼ぶべき建造物である。周辺に森以外何もないせいか、トリスタニア中央の王城よりも巨大に見える。分厚い城壁によって囲まれ、周囲には深い堀が巡らされている。壁の向こう側には高い尖塔がいくつも見えた。

 

 と、先頭をゆく籠のそばへ巨大なフクロウがばっさばっさと羽音を立てながら近付いてきた。中に乗っていたタバサは一瞬それに驚いたが、ほんの僅かに眉を動かした程度で内心の動揺を抑えた。

 

 フクロウは竜籠につけられた窓枠部分に止まると、優雅にお辞儀をする。

 

「おかえりなさいませ、エレオノールさま」

 

(喋るフクロウ。ヴァリエール家の誰か……もしかすると、わたしの目の前に座っているエレオノールさんの使い魔?)

 

 タバサは大きなフクロウを見つめながら、そんな他愛のないことを考えていた。

 

「トゥルーカス、準備のほどは?」

 

 エレオノールの質問に、トゥルーカスと呼ばれたフクロウは淀みなく答える。

 

「はい、全て整ってございます。旦那さまも、奥さまも、皆さまの到着をお待ちかねです」

 

「そう。では、まもなく到着すると伝えてちょうだい」

 

「かしこまりました」

 

 再び一礼したフクロウは、城を目指して飛んでゆく。

 

 堀の向こうに城門が見えてきた。それから間もなく、客人たちが乗る全ての竜籠がその上をゆうゆうと越え、城壁の内側へと向かっていった。

 

 着陸地点と思われる場所には大勢の召使いたちが控えている。もちろん、彼らの到着を待っていたのであろう。竜籠が降り立つと、彼らはいっせいにその周りに取り付いた。竜使いの一同がそれぞれの竜をなだめている隙に籠につけられた扉が開かれ、緋毛氈(ひもうせん)が入り口の前までばっと敷かれた。

 

 自ら従者であると宣言していた太公望と、その連れという役柄である才人が急いでタバサの元へ駆け寄ると、すぐ側に控える。ちなみに今日の才人は指ぬきグローブではなく、白い布手袋をはめ、腰にレイピアを下げ、従者に相応しい礼服に身を包んでいる。デルフリンガーは可哀相だが荷物の中で解放を待っていた。

 

 地面に敷かれた赤い絨毯の左右には、ずらりと召使いたちが並んでいる。彼らは一斉に「お待ち致しておりました」という歓迎の挨拶を述べ、頭を下げた。

 

 と、そこへ王族もかくやと言わんばかりの豪奢な装束を身につけた、初老の貴族が近付いてきた。白くなりはじめたブロンドの髪と髭を揺らし、左目には片眼鏡(モノクル)をはめている。

 

 ルイズの父であるラ・ヴァリエール公爵であった。

 

 彼の姿を見たオスマン氏が驚きに目を見張る。主人自ら客人を出迎えに来るなど、大貴族としては異例と呼んで差し支えない対応なのだから、当然だ。

 

 娘の恩人に対し、自分自身が出向くという最高の礼をもって遇する。これが、ラ・ヴァリエール公爵が出した答えだった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――エレオノールから話を聞いたとき、もしやとは思っていたが。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は即座に自分たちの予想が当たっていたことに気が付いた。自ら出迎えた少女が持つ、特徴のある蒼い髪。これは『ガリアの青』と呼ばれる、ガリア王家の血筋にしか現れない色だ。たとえ魔法の髪染めを使ったとしても、この色だけは絶対に再現できない。実際にやれたとしても、不敬罪で即刻重い裁きを受けるであろう。

 

 しかも、その側に仕える『東の客人』とおぼしき人物が身につけている略章は、誉れ高きガリア王国東薔薇花壇警護騎士団(エストパルテル)のものに間違いない。

 

(本来であればこういった席には略章ではなく、礼装一式でもって参加すべきところをあえてこのような選択をしているということは……つまり、目敏い者以外には彼女の身分を知られたくない。そして可能であればそれを明かしたくない。だが、国法を守るため身に付けないわけにもいかないという彼らなりの苦肉の策。我々へ宛てたメッセージなのだろう)

 

 わずか数秒にも満たない時間でそこまで察したラ・ヴァリエール公爵は、タバサたちをあくまで娘の恩人に対する礼でもって迎えた。いっぽうのタバサも、そんな彼の気遣いを察し、公爵本人にしか気付かれないよう、彼の素晴らしい歓迎に対する感謝の言葉とは別に、ごくごく小さな声でもって礼を述べた。

 

「ご厚意、感謝致します」

 

 それを耳にしたラ・ヴァリエール公爵の瞳の奥に、まるで一生懸命仕掛けた悪戯がうまく成功して喜ぶ子犬の目のような煌めきが、ほんの一瞬だけ現れた後……消えた。

 

 それから彼らは豪奢な、それでいて品のある調度や絵画が飾られた部屋をいくつも通り抜け、晩餐会場である巨大なホールへと通された。中庭を臨むその部屋には複数の丸テーブルが置かれ、奥にはずらりと使用人たちが控えている。

 

 季節の花や魔法の灯りによって美しく飾り付けられた会場は、大貴族たる者の品位というものを具体的に表したらどうなるかという見本そのものであった。

 

 ……そんな場所で、彼女たちは待っていた。

 

 待ち人のひとりは、ラ・ヴァリエール公爵夫人カリーヌ。ルイズたちの母親である。

 

 桃色がかったブロンドの髪をアップでまとめ、落ち着いた雰囲気のドレスに身を包んでいたが、放つオーラが半端ではない。日本流に例えて言うなれば、アスファルトの遙か上空でギラギラと輝く真夏の太陽の、肌の奥まで刺し込んでくるような鋭い日差し……といったところであろうか。その迫力に思わずたじろいでしまった才人を、太公望が見えない角度からこっそりと指でつっついた。

 

 カリーヌ夫人からの歓迎の挨拶後、後ろに控えていた娘が前へと歩み出てきた。見た者全てがはっとするような可憐さを、顔中に滲ませた娘であった。

 

 蕩けそうな微笑みを浮かべているその娘が纏うのは、母とは正反対。雪解けを誘う春の柔らかくも暖かい陽光のようだ。ルイズにそっくりな顔をしたその女性の名はカトレア。ラ・ヴァリエール家の次女であると自己紹介をした。

 

 ――だが、その暖かい空気の中で唯一困惑している者がいた。

 

 太公望は戸惑っていた。

 

(この娘が纏う〝気〟は一体なんなのだ……? 〝仙気〟の類とは似て異なる、これは)

 

 内心の驚きをひた隠しにしつつ、普段のように『観察』を開始しようとした太公望だったが、それは彼女の家族たちによる再度の挨拶と礼、歓迎の宴開催を告げる声によって妨げられた――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その後、歓待の宴は実に和やかな空気で進んでいった。

 

 その流れを突如変えたのは、さきほどカトレアと名乗ったルイズの姉であった。

 

「わたしの小さなルイズ! もしよかったら、あなたの魔法を見せてもらえる?」

 

 そう言って、彼女はランタンに照らされて幻想的な雰囲気を醸し出している中庭を指差した。

 

「カトレア! まだ宴の最中よ」

 

「まあ、姉さま。でしたら、どうして宴席をこのようなに円卓になさったの? わたしはてっきり、皆さまと一緒にあの子の成長を見たかったのだとばかり思っていましたのに」

 

 ころころと笑いながら行われた妹の指摘にエレオノールは頬を染めた。実はカトレアの言う通りなのだ。そのため、庭園を望むように複数の円卓が並べられており、かつ途中で席が移動できるよう配慮されていた。もっとも、彼女としては他にも理由があってこの形式を採用したのだが。

 

 ルイズは戸惑った。練習の成果――しかも家族たちが見守っているという、彼女にとって実に緊張する状況下で、いったいなにをすればいいのだろう……?

 

 と、そこへ声をかけてきたのは彼女の恩人である太公望だった。

 

「ルイズお嬢さま。差し出がましいようですが、そちらの中庭で空を飛んでみるというのは如何でしょうか。そうですな……池の上を何度か周回してみれば、皆さまに練習の成果をご覧頂くにはちょうど宜しいかと」

 

 この声にピクリと反応したのはルイズの両親だった。

 

 あの失敗続きだったルイズが〝飛翔(フライ)〟を使う。しかも……既に自分たちの目の前で、池の周りを飛びまわってみせられるほどに上達していると言うのだから当然だろう。

 

「……わかったわ」

 

 太公望の提案を受けたルイズは杖を取り立ち上がった。そして、ゆっくりと中庭へ続くバルコニーから外へ出た。しかし、彼女が極端に緊張しているのは誰の目から見てもあきらかだ。

 

 ――失敗したらどうしよう。

 

 屋敷の中庭。幼い頃、毛布にくるまって隠れていた小さな舟は、まだあの池の上にある。ここは、ルイズにとって思い出の場所であり、己の過去を強烈に刺激されるトラウマのひとつでもあった。

 

 だが。そんな彼女の心の内を見透かしたように、太公望が声をかける。

 

「いつも通りにやればよいのです、絶対に大丈夫。何せ風の『スクウェア』である我が主人に空で追いつくことができるのは、今や学院内の生徒たちの中ではルイズ殿ただひとりではありませんか! それは本日お招きに預かった全員が知るところです」

 

 途端に、おおっという声が上がった。ルイズの家族と、宴席の後ろに控えていた召使いたちの声であった。ルイズはその声を聞いてまた心臓が飛び跳ねそうになったが……にこにこと笑いながら促す太公望の顔を見て、きゅっと手を握り締めた。

 

(そうよ、わたしはもうやれるのよ! 小舟の中に蹲って隠れていることしかできなかった、小さなルイズじゃない。箒に乗れば、タバサにだって負けないわ。乗らなくても……彼女と、ほとんど同じ速さで飛べるじゃないの! 自信を持っていいんだわ)

 

 彼女は宴席側へ背を向けると、中庭に視線を移す。杖を指揮棒(タクト)のように構え、放課後に行っている特訓のときと同じように呪文を唱え始めた。

 

「イル・フル・デラ・ソル……」

 

 小さな声で紡がれたそれは、最後までは続かない。何故なら彼女がこれから行おうとしているのは〝飛翔(フライ)〟に見せかけた〝念力〟(サイコキネシス)による飛行だから。

 

『〝念力〟はコモンだ。よって、口語で術者が好きなように発動用の文言(ワード)を指定することができる。己のイメージを手助けするために、自由にな。なればこそ将来〝念力〟以外の魔法を使えるようになるそのときまで、あえて使いこなせるようになった自分をイメージし、途中まで呪文を唱えて止め、やがて必ず訪れるその時に向け、備えるのだ』

 

 その太公望の言に従い、ルイズはこれまで〝念力〟による空中での物体操作を行う為には〝浮遊(レビテーション)〟のルーンを途中まで唱えて停止させるようにしていたし、単独で空を飛ぶときは同様に〝飛翔(フライ)〟の呪文を紡いでいた。もちろん、最後まで詠唱を続けず止めている。

 

 ……実のところ、これはイメージトレーニングなどではなく〝念力〟で空を飛ぶことに対して頭の固い連中が文句をつけてくるのではないか? と、危惧していた太公望なりの策である。事実、自分が同じように『唱えるふり』で誤魔化しているからこそ、あえてこの措置を採ったともいえる。

 

 それに、もしもこれが『ふり』であることを正直に伝えていた場合。生真面目なルイズのことだから、間違いなく葛藤したに違いない。だからこそ、あえて将来のイメージをつくるためというもっともらしい理由づけをして、彼女の注意を本質から逸らしてしまったのだ。

 

 ――少しの間をおいて、ルイズの『呪文』が完成した。マントをたなびかせ、ゆっくりと宙へ舞い上がった彼女は振り返って自分の家族と友人、そして先生たち全てに愛らしいとしか表現しようのない笑顔を見せると、そのままぐんっと空高く飛び上がった。それから高速飛行へと移る。その速度に再び居合わせた者たちの間からどよめきの声が上がった。

 

 華麗に宙を舞い続ける彼女の姿は、数多くのランタンの灯りにぼんやりと照らされて……まるで、物語の中から抜け出してきた妖精のようであった。

 

「わしの可愛い小さなルイズが、あのような姿を見せてくれるとは。父親として、苦しんでいたあの子に何もしてやれなかったというのに……いつの間にかこんなに大きくなってくれていた……!」

 

 愛娘の成長を目の当たりにしたラ・ヴァリエール公爵は我知らず熱くなった目頭を押さえた。

 

「すごい、すごいわルイズ! あの小さなルイズが……姉さま、ご覧になって?」

 

「ええ、もちろん見ているわよカトレア」

 

 手を叩いてはしゃぐ歳の近い妹を微笑ましく思いながら、エレオノールは改めて末の妹が舞い踊る姿に視線を移した。以前見せてもらった〝浮遊〟も素晴らしかったが、〝飛翔〟までこんなに上達しているとは想像だにしていなかった。

 

 空中で舞い踊るルイズの姿を観察しながら、彼女は認めた。これが『東方』流の教育による成果なのだと。

 

 それを行った人物はエレオノールが行っている研究と〝錬金〟に強い関心を示していた。東方にはこれらの概念がないので、詳しく教えていただきたいとまで言っていた。

 

 そもそも『西方』ハルケギニアと『東方』ロバ・アル・カリイエのどちらがより優れている、などという観点で物事を語るのは研究者として間違っている。

 

 それどころか、お互いの知識を交換しあうことで双方に大きな利益があるだろう。末妹の姿がまさしくその象徴なのだとエレオノールは実感した。

 

(彼だけじゃない。オールド・オスマンやミスタ・コルベールとの会話も非常に知的水準の高いものだったわ。この歓待行事は1週間続く。よって、彼らと会話する時間はたくさんある。自分の研究も大切だけれど、これはそれ以上に得難い貴重な機会。そのために、わざわざ円卓の座を用意したのだから。可能な限り、彼らと交流を深めなければ!)

 

 ――今まで名門貴族の出であるという極端に高いプライドが邪魔をしていたがために、自らが作る『始祖の像』とは異なり、己にも……他者に対しても厳しい姿しか示してこなかった『彫像』エレオノールに微細な変化が生じていた。

 

「あれがルイズの〝飛翔(フライ)〟ですか」

 

 カリーヌ夫人はその微妙な違和感に戸惑っていた。彼女は『伝説』とまで謳われた〝風〟の使い手だからこそ、離れていても僅かに異なる空気の流れにすぐさま気が付いたのだ。

 

(確かに、紡がれたルーンは〝飛翔〟のものでしたが……魔道具の類を使っているわけではないことも、わたくしの持つメイジとしての感覚で正確に掴める。あれは間違いなくルイズの内から生み出されたもの。では、この感覚の隅に引っかかるのは……いったいなんなのでしょう……?)

 

 そんなとき、飛び回っていたルイズと夫人の目が一瞬だけ合った。

 

(これ以上無粋な真似は止めておきましょう。可愛い娘にあのような顔を見せられてしまっては、もう……わたくしからは何も言えません)

 

 顔いっぱいに喜びを溢れさせ、沢山の灯りに照らされながら中庭の池上空を舞うルイズの姿を見ていたカリーヌ夫人の目に、家族の前でも滅多なことでは見せない、優しい光が宿っていた。

 

 ――それからしばらくして。

 

 もうじゅうぶん見てもらえただろうと判断したルイズは優雅にバルコニー前へと舞い降りた。途端にわっと巻き起こる歓声と拍手。家族と、友人と、先生……そして使用人達。その場に集っていた全員から祝福された彼女は幸福の絶頂にあった。

 

 と……そこへ、先程までは居なかった人物が拍手の輪に加わってきた。

 

 それは銀色に輝く髪と長い口ひげが凛々しい、精悍な顔立ちをした貴族であった。幻獣グリフォンの刺繍が胸に施された黒いマントを羽織り、礼服を着たその青年の歳のころは二十五~六といったところだろうか。

 

「ルイズ! 小さなルイズ! 素晴らしかったよ」

 

 彼の姿にはもちろん覚えがある。ルイズは思わず歓喜の叫びを上げそうになった。が、それはすぐに戸惑いの感情によって打ち消された。何故なら……現れた青年の顔には誰が見ても明らかな程、深い疲れの色が浮かんでいたからだ。

 

「ワルド子爵! いや、済まなかったね……せっかく来てもらったのに、いきなりで」

 

 ラ・ヴァリエール公爵が何やら申し訳なさそうな声音でその青年――ワルド子爵を労うと。

 

「まったくですわ! この日のために、わたくしが招待致しましたのに」

 

 眼鏡の端をキッと持ち上げながら、エレオノールが声を上げた。ただし、その内心で「うふふ……計画通り!」などと考えていたことは誰も気付いていない――はずであった。

 

「ええ、本当に」

 

 困ったような表情を浮かべたカトレアだけが、姉の真意に気付いていた。もちろん、彼女はそれを口に出すような真似はしない。

 

 そんな彼らの声を聞いて、小さく俯いていたのはカリーヌ夫人だ。母の様子を見たルイズは察してしまった。場の空気が読めないことで仲間内では有名な彼女が、である。

 

(母さま……ワルド子爵に『稽古』をおつけになられましたわね?)

 

 それを目だけで語る娘に、小さく視線を外すことで応えたカリーヌ。だが、ルイズに解明できたのはそこまでであった。

 

 そう……自分の母の気性を嫌というほど理解していたエレオノールは、ワルド子爵には本当に気の毒だとは思いつつも、母が間違って客人に対して何かをしでかさぬよう、かの青年を生け贄に選択したのである。彼が末の妹ルイズの婚約者であるという事実によって、自爆する危険を覚悟をした上で――わざわざ表舞台に引っ張り出してきたのだ。

 

 まあ、この母にしてこの娘ありといったところだろう。場に置かれた手札の中で唯一オープンしていたカードが風の『スクウェア』であるというのも、それを後押ししていた。

 

 ――もっとも『墓場送りの対象者』として選択されてしまったワルド子爵にとってはたまったものではないだろうが。

 

 と、そんな風向きを突然変えたのは、エレオノールの気遣いによって被害を免れた客人・太公望だった。彼はまじまじとワルド子爵を見つめると、さも心配げな声でこう言った。実際、彼は本当に気を遣っていた。

 

「新たにお越しの客人殿は何やら大変お疲れのご様子。そこで、ひとつご提案があるのですが」

 

「言ってみたまえ」

 

 ラ・ヴァリエール公爵の勧めに頷く太公望。

 

「我が国で祝賀の席でのみ使われる魔道具を解放することによって、ルイズお嬢さまへのお祝いと、こちらの御仁の疲れを癒やして差し上げたいと愚考致したのですが……如何でしょう?」

 

「東方の魔道具?」

 

 この発言にもっとも興味を示したのはエレオノールだ。ワルド子爵も一瞬だけ片眉を動かしたのだが、すぐにそれを元に戻した。

 

「ま、まあ。ミスタ、そ、それはどのような由来の品ですの?」

 

「はい、我が国には『御振る舞い』という風習がございましてな。王侯貴族にのみ許されたこの風習は、こちら『西方』でいうメイジが桃に数ヶ月間〝力〟を込めることで作られる特殊な魔法具を池に投げ込み、キーワードを唱えることで、水をとある品に変化させるのです」

 

 またさらりと嘘八百を並べる太公望だが、アイテムの効果や見た目などに関しては一切嘘をついていない。しかし当然のことながらその場に居合わせた者たちがそれを判断できるわけもなく。ただ、唯一才人だけがなんとなく理解していた。

 

「ああ、桃か。確かにそれっぽい」

 

「む、才人よ。さすがに知っておるようだな? 何に変えるか言ってみるがよい」

 

「はい師叔。それは……酒、ですよネ?」

 

「その通りだ!」

 

 頷いた太公望に、周囲から驚きの声があがる。彼は懐から1つの桃を取り出してみせた。一見するとただの桃にしか見えないそれを高々と掲げながら、太公望は言い放った。

 

「この桃は王や高位の貴族に対する貢ぎ物として、部下から献上する特別な品です。これによって、水は一晩だけ酒に変わります。受け取った者は家族や領内で大きな祝い事があった時だけ、自らの屋敷にある池にそれを投げて効果を解き放ち、屋敷にいる者――家族や招待客のみならず、使用人全てに至るまで振る舞うのです」

 

 ふむふむ……と真剣な表情で聞き入っている観衆に対し、得意げに語り続ける太公望。こうなってしまったら、もう完全に彼のペースである。

 

「この酒はいくら飲んでもほろ酔い気分になるだけで依存性はなく、身体に害を及ぼしません。しかも! 体力増強、疲労回復の効果があり! さらにその身に浴びれば肌が若返る効果がある上に、魔法による強い浄化作用があるため、もしも池に誰かが飛び込んでも一切汚れが残らないという優れモノなのです!!」

 

(本来であれば、ほろ酔いどころか泥酔してしまう程のシロモノなのだが――今回用意した〝仙桃(せんとう)〟は完全に熟成しておらず、ある意味祝宴に出す品としては丁度良かった)

 

 などと、とんでもないことを頭の隅で考えつつ、太公望はどよめく一同を尻目にラ・ヴァリエール公爵へと向き直ると一礼し……こう告げた。

 

「大変差し出がましいことであるとは承知の上でございますが、この桃をそちらの池に解き放ってもよろしゅうございますか?」

 

 うむ、よきにはからえ。重々しく頷くことで了承の意を伝えるラ・ヴァリエール公爵。実のところ彼も内心、少年のようにどきどきしていたのである。

 

「それでは早速!」

 

 公爵の許可を得た太公望はそっと池の中へ桃を沈めると、いつかラグドリアン湖でやったように、池の岸辺に座り込むと、気合いを発した。

 

 すると、突如中庭の池全体から勢いよく複数の水柱が立ち上った。それからすぐに眩い閃光が辺りを包み込んだかと思うと――水は静まり、ほのかな光と微香を放つものへと変化していた。

 

 使用人のひとりからグラスを受け取った太公望は、まず自分でそれを飲んで害がないことを示した後、別のグラスに〝仙酒〟を注ぎ、恭しく公爵へと手渡した。ラ・ヴァリエール公爵は、受け取った酒杯をワインテイスティングをするかの如く扱うと、中身を一口だけ含んでみた。

 

「これは……香りといい、口当たりといい……まろやかで、舌の上でさらさらと蕩けるようだ。それに甘い。ワインとは全く異なる味わいだが――非常に高価な酒だということは理解できる」

 

 うんうんと実に満足げに頷いた公爵は、早速執事長を呼びつける。

 

「ここにいる全員分のグラスを早急に用意せよ。もちろん、お前たち使用人を含む全てに行き渡る数をだ。これはそういう酒なのだろう? 東方からのお客人」

 

 命令をしつつそう確認してきた公爵に、嬉しげに頷いた太公望。

 

 ――そして。次の瞬間わき起こった歓声が、狂乱の宴の開始を告げる鬨の声となった。

 

 

○●○●○●○●

 

「こんな高貴な風味のお酒、今まで飲んだことがないわ! 香りも素晴らしいし」

 

「王侯貴族が祝いの席でしか振る舞わないというだけのことはあるね」

 

 ほろ酔い加減で言うモンモランシーに、ギーシュがそう答えていた席のすぐ側には。

 

「身体中に英気がみなぎってくるこの感覚……しかも、深みのある素晴らしい味わい。依存性はないと言われたが、正直クセになりそうだ」

 

「本当ですわ! わたしも、身体の調子がいつもよりずっと良くなっておりますし」

 

「まあ、あなたたちったら! あまり飲み過ぎては……いえ、たしかこれはどんなに飲んでも害がないどころか身体に良いお酒でしたわね。でしたら規律も何も関係ありません。カトレア、あなたは特にたくさんお飲みなさいね」

 

「はい、母さま!」

 

 笑顔でグラスをあおるラ・ヴァリエール夫妻と、それに追従するカトレア。

 

 それはそうだろう、家族の成長を目の当たりにできた上に、普段であれば絶対に手に入らない東方の……しかも王侯貴族にのみ出すことが許された酒を飲みながら、その姿を思い返すことができたとあれば親として上機嫌になれないほうがおかしい。しかも、病弱な娘の身体にも良いとくれば最高の気分になれることうけあいだ。

 

「さっき池に手を浸してみたら……ほら! お肌がピカピカのスベスベになりましてよ! 最高品質の化粧水でもこうはいかないわ。これがたったの一晩しか保たないというのは、本当に残念なことですこと!」

 

「ええっ、そんな効果が!? あたしも是非試してみないと!」

 

「今日のお風呂にこの酒を使うよう、使用人たちに手配させてあるから大丈夫よ」

 

「まあ、なんて素晴らしいご配慮ですこと! 痛み入りますわ」

 

 池のほとりではあのエレオノールが、よりにもよってラ・ヴァリエール家の仇敵であるフォン・ツェルプストー家の娘キュルケを相手にそんな報告をしていた。これが数ヶ月前であったなら、絶対にありえない光景だ! と、周囲が恐れおののくような光景が今まさに繰り広げられている。

 

「おいしい。でも、いつのまにあれを用意したの?」

 

「なに、いつものように厨房から桃をパク……もとい頂いて、この一ヶ月間毎日〝力〟を込めていただけのこと。良い機会でしたので、この場で解放したまで」

 

「あなたは『薬』の類は一切作れないと言っていたはず」

 

「はい、作れません。これはあくまで娯楽用の品ですから。ついでに申し上げておきますと、自作できる魔法具はあの桃だけです」

 

「前に依頼した件といい、本質を正しく伝えることが重要であることがよくわかった」

 

「さようでございます。下手な壁を作るのは、正しく物事を伝える上での障害にしかなりませぬ」

 

「なるほど、ためになる話だね。情報伝達の正しさは……と」

 

 グラスでは物足りないとピッチャーを拝借した太公望が『ご主人さま』であるタバサに酌をしながら説明している。その隣では、彼らと同席していたレイナールがメモ帳を取り出して、今の物事を伝える際に云々という発言を書き留めていた。

 

 国内でも非常に(外見その他の意味でも)レベルが高いメイドたちが、働きつつも交代でお酒を飲む姿を見ながら目尻を下げているオスマン学院長。懐に入れてあった試験管にこっそりと酒を注いでいるコルベール。彼があの酒を一体何に使おうとしているのかについては、あえて追求しないであげてほしい。

 

 ――このように誰も彼もが浮かれ騒ぐこの雰囲気の中、ただひとり……どんよりと暗い空気を纏う者がいた。彼は池のほとりに座り込み、ちびちびとグラスを傾けながら、じっとある一点を見つめ続けていた。池の中央にある小さな浮島――そこに立つ、ふたりの姿を。

 

「この酒……弱すぎて、いくら飲んでも酔えねえな。たしかに酒の味なんかわからない俺でも、これがスゴイものだってことくらいはわかる。けど……どうしてか、ちっとも美味く感じねえよ」

 

 そう小声で呟いたのは才人であった。

 

 彼は先程目の前で繰り広げられた光景に、激しいショックを受けていたのだ。

 

「トリステイン王国近衛魔法衛士隊・グリフォン隊隊長ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドと申します。二つ名は『閃光』。どうか宜しくお見知りおきのほどを」

 

 太公望が提供した酒の効果ですっかり元気を取り戻した彼――ワルド子爵はラ・ヴァリエール公爵から改めて来客者たちに紹介された。そこで突如飛び出た単語が、才人を激しく動揺させたのだ。

 

「ルイズの……婚約者!?」

 

 才人の口があんぐりと開いた。

 

(こいつが? この髭の貴族がルイズの!?)

 

 彼の身体――いや、全てが瞬時に硬直した。

 

「ワルドさま……」

 

 男の名を呼ぶルイズの声が震えている。

 

「久しぶりだな、ルイズ! 僕のルイズ!!」

 

 ワルドさまと彼女に呼ばれた若い貴族は、人なつっこい笑みを浮かべながらルイズの側まで駆け寄ると、ルイズの身体を逞しい両腕で軽々と抱え上げてしまった。

 

(僕のルイズ!? なにそれ)

 

 呆然としていた才人の目に映ったルイズの顔は、ほんのりと朱く染まっている。「君は、相変わらず羽根のように軽いよ!」などと言って笑う男と、彼女は視線を交わし合っていた。

 

 それを見ていた才人はなんだか居たたまれなくなって――彼を気遣ってくれようとした仲間たちの手を振り払い、その場から逃げるように立ち去った。

 

 ――そして現在へと至る。

 

 才人が醸し出す空気のせいで、仲間の誰もが側に近寄れない。いや、今あそこへ行ってはいけないと判断した結果、あえて普段通りの別行動を取っていた。

 

「婚約者、か……」

 

 婚約者。コンヤクシャ。もちろんその言葉の意味は知っているし、才人はそれを充分理解できる年齢に達している。そう、あのワルドとやらはルイズと結婚の約束をした相手……ということだ。

 

「そうか、そりゃあそうだよなあ……」

 

 再び池の酒をグラスに継ぎ足しながら、才人は思った。でかい城に……街どころか市レベルの土地持ち。由緒あるお家柄。ルイズは本物のお姫さまなんだ。

 

 日本にいた頃、自宅の居間に置かれた液晶テレビに映っていた――にこにこと笑顔を振りまきながら黒塗りのゴツイ車に乗って、SPやら報道陣だのを大勢引き連れていた外国の女王陛下や、自国の皇族、政治家たち。一般庶民である才人にとって、彼らは液晶画面の向こう側にしかいない――別の世界の住人だった。

 

 本当に別の世界――俺にとって異世界の人間だったんだな、ルイズは。

 

 ――最初は、可愛い顔はしてるけど、ひとの話を一切聞かないイヤな女だと思った。

 

 その考えが少しだけ変わったのはギーシュとの決闘の時だった。自分の名前を呼びながら、笑顔で駆け寄ってきた彼女を見て、こんな顔もできるんじゃねえか……と、心の片隅が暖かくなった。

 

 ――それが憧れに変わったのは、フーケのゴーレムを見たときだ。

 

 たったひとりで、あの巨大な化け物相手に立ち向かおうとした。それが貴族の務めだからと言って振り返った彼女の顔は凛々しくて、美しかった。あのとき初めて、手助けがしたいと思った。

 

 ――役に立ちたい。そう感じたのはあの日……舞踏会で、ダンスに誘われてからだ。

 

 踊ってくれませんこと? そう言って差し伸べられた手は白くて、か細かった。こいつの力になってやろう。そう誓った。

 

 ――絶対一緒に行く。そう決意したのは、あいつが初めて魔法に成功した日だった。ルイズに示された『道』は俺が手助けすることで開かれる。そう教えられたとき……俺の胸は高鳴っていた。

 

「わかってたけどさ……こうやって確認しちまうと、なんだかなあ……」

 

 答えなんて、あの時点でもうとっくに出ていたのだ。けれど、それを口にしたら全部壊れてしまいそうで、怖くて言えなかった。

 

「なあにが『伝説』だよ。誰が『神の盾』ナンデスカ? そんなご大層な名前貰っちまった俺は――ほらこの通り、ただの臆病者じゃねぇか」

 

 『竜の羽衣』を纏って空で戦う『大空のサムライ』? 笑っちまうぜ。あのとき、シエスタの父ちゃんに言った通りだ。俺は、そんな立派な男なんかじゃない。その証拠に、こんなところでいつまでも未練がましくあいつを見ながら、ウジウジグダグダしてやがる。

 

(俺……ルイズに惚れてたんだな)

 

 口には出さず、己の胸に問う才人。

 

(そうだよ、だから厳しい現実ってヤツを突き付けられて、こんなにショック受けてんだ。畜生)

 

 再び手にしたグラスを池の中に突っ込んで、なみなみとそれを満たした才人は、いっきに中身を飲み干した。

 

 だが、酔えない。ワインを半分も開けたら視界がぐるぐる回り始めるくらい弱いのに、潰れたい時に限ってそれができない。と、ここに至ってようやく才人は思い出した。これがどんなに飲んでもほろ酔い程度で止まってしまう『魔法の酒』だったことを。

 

「畜生……あんまりだぜ、伝説の大軍師さまよ」

 

 それがとんでもない八つ当たりだと、自分でもわかっている。だが……才人はハルケギニア世界に来てから初めて出来た友人を、この日――心の片隅で恨んだ。

 

 

 




恋愛話を書くのが苦手です。
書きたくないという意味ではなく文字通り。
読んでて「くわあああッ!」となれるお話が書ける方を心から尊敬します。



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第47話 炎の勇者と閃光が巻き起こす風

 ――ラ・ヴァリエール公爵家の屋敷、中庭の池にある小島にて。

 

 ルイズは困惑……いや、沈痛としたほうが適切とも言える表情を顔に浮かべながら、目の前で笑うワルド子爵の身体を気遣っていた。

 

「ワルドさま、本当にもう大丈夫ですの?」

 

「ははは、心配性だな僕のルイズは! いただいた酒のおかげで、この通りさ」

 

 そう言って再び自分をその逞しい両腕で抱きかかえてみせてくれたワルドに対し、彼女は心から申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

 

 今から十年以上前、小さな自分の遊び相手になってくれていた憧れのひと。いつもの夢の中で、小舟に隠れていた自分を探し出し、手を差し伸べてくれた……歳の離れた兄のような存在。

 

 ――ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド子爵。

 

 彼はヴァリエール家と領地が隣接するワルド子爵家の現領主であり、ルイズの婚約者だ。と、言っても友人同士だったふたりの父親が口頭で交わした約束に過ぎず、証文の類があるわけでもない。

 

 ただし、貴族同士の約束事とは軽々しく行われるものではない。実際、何気なく放ったつもりの一言が生涯を賭けて果たすべき誓いと化した、などという例が星の数ほど存在する。それを充分に心得ているであろうラ・ヴァリエール公爵は――当時、本気でルイズとジャンを結びつけようと考えていたはずだ。

 

 事実、十年前にワルド子爵家を襲った悲劇さえなければ、状況的に考えても彼らは既に結ばれていてもおかしくなかった。そんなふたりの『道』が突如違えてしまった理由とは――ジャンの父親が、戦場に散った為だ。

 

 既に母をも亡くしていた彼は躊躇わなかった。父の爵位と領地を受け継いだ後、ジャンはすぐさまヴァリエール家を訪れ、目に涙をいっぱい溜めた幼いルイズに告げた。

 

「いつか立派な貴族になって、君を迎えに来るからね」

 

 その一言を最後にルイズに背を向けたジャン――ワルド子爵は王都トリスタニアへ出て、騎士見習いとなった。年に幾度か、ヴァリエール家を訪れることはあったものの……その間ルイズはほとんど彼と顔を合わせなかった。

 

 別に、ワルドに避けられていた訳ではない。ルイズが彼から逃げていたのだ。

 

 屋敷を訪れるたびに立派になってゆくワルドに対し、ルイズ自身は幼い頃と全く変わらず、どんな魔法も爆発させてしまう、おちこぼれメイジのままだった。立派なメイジになれるまで、ワルドさまとお会いする訳にはいかない。それが彼女なりのけじめだった。

 

 そのうち、ワルドはだんだんと訪問の数を減らしてゆき……ついには姿を見せなくなった。最後にワルドの消息を知ったとき、彼はトリステインの中でもエリート中のエリートしか所属できない王国魔法衛士隊の、隊長を任されるまでに出世していた。

 

 だからこそ、ルイズはこう思い込んでいた。

 

(もう、婚約なんて反故にされてしまったに違いない。だからワルドさまは遠慮して、屋敷へいらしてくださらないのだ。おちこぼれのメイジなど、グリフォン隊の長の隣に立つには相応しくない。それを直接わたしや父さまに仰らないのは、お優しいワルドさまなりの思いやりなんだわ……)

 

 そう自分の中で結論していた彼女は、とっくの昔に彼との仲を諦めていたのだ。

 

 ……しかし。つい先程の()()を思い起こしたルイズは、あることに思い当たった。そこで、彼女はおそるおそるといった表情で口を開いた。

 

「わ、ワルドさま。お、お聞きしたいことがあるのですが」

 

「なんだい? ルイズ」

 

 ルイズはカタカタと震えながら訊ねた。

 

「ここ、子供の頃は、恥ずかしながら気付いてい、いなかったのですが。も、もしや、騎士見習いになった後に、や、屋敷へ、いらしてくださっていた際に、その……きき、今日の、よ、ような?」

 

 その言葉を聞いたワルドの全身が、瞬時に硬直した。それから彼はギギギ……と、錆び付いた金属製の甲冑を身につけているかのようなぎこちない動きでもって腕に抱えていたルイズをそっと岸辺に降ろすと頭を抱え、その場へ蹲ってしまった。

 

「や、や、やっぱり……! か、か、母さまったら……!」

 

 衝撃の真実を知ってしまったルイズはぷるぷると身体を震わせ、その場で叫びそうになるのを必死にこらえた。

 

(まさか……まさかとは思っていたが、よりにもよってワルドさまがいらっしゃるたびに()()をおつけになっておられたのですか、母さま!)

 

 魔法ができないおちこぼれの娘に、来訪のたびにとんでもない試練を押しつけてくる姑がもれなくついてくる。そんな状況で婚約を破棄されないほうがおかしい。

 

 ルイズとしては婚約はとっくに破棄されたものだという認識だったため、今回彼が婚約者として紹介されたのは、あくまで儀礼上のことだと考えていた。

 

 さらに言うと、長姉のエレオノールが最近婚約破棄をされたばかりだという事実があり、連続してそのような事が表沙汰になれば家の恥となる。だから、優しい彼はきっとそれに乗ってくれているのだ。ルイズは心からそう思い込んでいた。

 

 そんな複雑な思いを抱いていたルイズに対し、ワルドはややぎこちない笑顔で告げた。

 

「い、いや、そんなことは気にしないでくれ、ルイズ。正直なところ、君のお母上に課していただいた訓練のおかげで今の地位に就けたといっても過言じゃないんだ」

 

 元トリステイン王国近衛魔法衛士隊・マンティコア隊隊長『烈風』カリン。その苛烈さと『鋼鉄の規律』とまで呼ばれた厳しさがゆえに、かの者が隊長職にあった時代のマンティコア隊は各国にその名を知られる精強な騎士団であったといわれる。

 

 当然、彼らに課せられた訓練も他部隊のそれとは一線を画すものであった。事実、当時を知る現マンティコア隊の隊長など、既に引退して久しいカリンのことを未だ夢に見るほど畏れている。

 

 かつておちこぼれであったルイズは、その内容を誰よりもよく知っていた。それだけに、自分のあずかり知らぬところで、かつての『憧れの君』がそんな目に遭っていたことも、それを知らなかった自分自身にも腹が立った。

 

「相変わらずお優しいのね、ワルドさまは」

 

 そう言って頭を下げようとしたルイズをワルドは押し止めた。

 

「ま、まあ確かに厳しい訓練ではあったけれど、僕は本当に気にしてなどいないよ。むしろ感謝しているくらいさ。逆に、済まなかったね……いくら出世のためとはいえ、こんなに長い間、君のことを放っておいてしまった」

 

 ワルドは申し訳なさそうに顔を伏せた。それを聞いたルイズの頬が、恥ずかしさのために朱く染まる。知らないとは本当に罪なのだ……と。

 

 しばし、なんともいえない気まずげな空気がふたりの間に漂った。その沈黙を破り、最初に口を開いたのはワルド子爵のほうだった。

 

「それにしても、素晴らしかったよルイズ。あんなに華麗に飛べるようになっていただなんてね。ひょっとすると、僕よりも速いんじゃないかな」

 

「いえ、そんな。わたしなんて、まだまだですわ」

 

「いやいや、実際びっくりしたよ。〝飛翔(フライ)〟や〝浮遊(レビテーション)〟を使わずに空を飛べるのなんて、トリステインでは君くらいだろうからね」

 

 ルイズの鳶色の両目が、驚愕によって見開かれた。

 

「姉君からいただいた招待状に『東方から来た風メイジが、君の魔法を見てくれた』と書かれていたんだ。もしかして、あれは彼が教えてくれた魔法なのかい?」

 

「いいえ。あれは、その……」

 

 ルイズは悩んだ。果たしてこれを言ってしまってもよいのかどうか。だが、別に〝念力〟で飛んでいることを隠しているわけではない。喋ってはいけないと念押しされてもいない。そもそも、クラスメイトたちだって自分が〝念力〟で箒を浮かせて飛んでいることを知っている。

 

(お忙しいのに、こんなちっぽけなわたしのお祝いに危険を顧みず駆けつけてくれたワルドさまに、嘘をつくだなんて……貴族としてあるまじきふるまいだわ)

 

 そう判断した彼女は、

 

「ワルドさまだけに、こっそりお教え致しますわ」

 

 と念を押した後、答えを告げた。

 

「実は〝念力〟で浮いていたのです。わたしにそれを教えてくださった先生が仰るには、もっと慣れれば〝飛翔〟よりも楽に、しかもずっと速く飛べるのだそうですわ。ひょっとすると……ワルドさまも練習すればすぐおできになるのではないかしら?」

 

「んな! 〝念力〟で空を飛ぶだって!? し、しかも〝飛翔〟よりも速いと?」

 

 驚愕を隠そうともしないワルドを見て、ほんの少しだけいたずら心が湧いたルイズは小悪魔のような笑みを浮かべて言った。

 

「ええ。先生の出身地では、ごく当たり前のことらしいですわ」

 

 ワルドは信じられないとばかりに右手で顔を覆い、ふるふると首を横に振った。それから小さく肩を竦めながら言った。

 

「いや、驚いたよ。例の酒といい、この件といい……東方とは実に興味深い場所なのだね。他にもこちら側とは異なる魔法や魔道具があったりするのだろうか」

 

「ま、魔法はわかりませんが……ハルケギニアにはない道具や凄いフネがあるそうです」

 

 さすがに〝夢渡り〟などの話をするわけにはいかないので、そこは誤魔化すルイズ。

 

「素晴らしい! いつか君とふたりだけで、かの地を旅してみたいよ。ルイズ」

 

 ――いつか、君とふたりだけで、かの地を旅してみたいよ。

 

 彼の言葉で数日前に見た夢のワンシーンを思い出したルイズは、激しく動揺した。

 

『約束してただろ? みんなで一緒に行こうって』

 

(いつもワルドさまが現れていた夢の中……。でも、あのときわたしの手を取ったのは別のひと。どうして今になってあんな夢を見たの? 憧れが書き換わったから……? ううん、まさか。そ、そんなはず、あるわけないじゃない!)

 

「さてと、いつまでも主役の君をひとりじめしているわけにはいかないし、ホールへ戻ろうか。もしよかったら、お友達と例の先生を紹介してもらえるかい?」

 

 そのワルドの問いに、ルイズは黙って首を縦に振るのが精一杯であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――かっこいい。ああ、そうだネ。こいつ、かっこいいヨ。

 

 並べられた円卓を囲み、歓談する者たちの中で。才人は、ただひとりの男だけを、じっと見つめ続けていた。

 

 鋭く光る、鷹みたいな目。男らしさを強調する形のいい口髭。おまけに魔法使いのくせにがっちりした身体つきしてやがる。しかも、いいやつだ。俺のことを平民とか言って見下さなかっただけじゃない。「ルイズが世話になっているそうだね!」なんて言いながら、笑顔でばんばん肩叩いてきやがった。おまけに超エリートらしい。女王さまを守る近衛隊の隊長だと。SPってやつ? つまり相当強いってことか。

 

 しかも、さっきからルイズに取ってる態度もすごい。

 

 グラスの中身が少し減っただけで注文してやったり「魔法を使った後だから、疲れただろう?」なんて言って、使用人に足元に置くクッションやら、柔らかそうな膝掛けを持ってこさせたり。これが貴族のたしなみってやつですか? いや、モテる男の秘訣ってとこ?

 

 才人は悔しかった。どこを取っても自分が勝てそうな要素が見あたらない。

 

(ルイズはこいつと結婚するのか)

 

 そう考えた途端、なんだか胸の奥に大きな穴がぽっかり開いたように感じ……首を垂れた。

 

(相変わらずわかりやすい男だのう。しかし、このまま放っておくわけにもいくまい)

 

 才人の態度を横目で見ていた太公望は、さすがにこのままではまずいと思った。よって、彼の脇腹を軽く肘で小突いた。それがまた、才人を苛つかせた。

 

(いいですよね、アナタは。ねえ? 伝説の大軍師サマ。なにせ、本物の英雄ですから! その気になれば、こいつと充分以上に張り合えますもんね!)

 

 ……完全に八つ当たりでしかないのだが、気分が底の底のどん底まで落ちてしまっていた才人は、そこで、よりにもよって恨みの矛先を太公望に向けてしまった。

 

(師叔がルイズと? あ……決闘で助けてくれたのもそうだし、魔法が使えるようになったのも師叔が教えてやったからで……あれ? も、もしかして、そういう可能性もあったりする!?)

 

 もしも、ワルド子爵が次に発した言葉がなかったら――才人はその嫉み僻みを口に出してしまっていたかもしれない。だが、閃光の如く繰り出されたその質問によってある意味才人も太公望も、大変な窮地から救われた。

 

「ミスタ・タイコーボーは何故ルイズに魔法を教えてくださったのですか? その……狭量だと思われてしまうかもしれませんが、他国の人間に技術を伝えるというのは祖国の不利益になるのではありませんか?」

 

 太公望はぽりぽりと頬を掻きながら答えた。

 

「いや、まあ……お恥ずかしい限りなのですが、他人ごととは思えなかったのですよ。子供の頃、小石ひとつまともに動かすことができなかった『おちこぼれ』としては」

 

 ――小石ひとつまともに動かせなかったおちこぼれ。

 

 その場にいた者たちはざわめいた。それも当然である。なにせ太公望は「失敗続きであったルイズの魔法を成功に導いた優秀な教師」と紹介されていたのだから。魔法学院の関係者たちも、どん底の底にいた才人ですら、ピクリと反応した。

 

 しかし実際、この話は嘘でもなんでもない。崑崙山へ入山したばかりの頃の太公望は何もできないただの子供だったのだから。もっとも、これは別に彼に限ったことではなく、仙人を志す者ならばあたりまえのことなのだが。

 

 どうしていきなり太公望が、こんなことを言い出したのかというと――さすがに今のままではまずいと思い始めていたからだ。届かない領域にいるような目で見られるのも、全員から頼られ過ぎるのも、はっきり言って迷惑極まりないことであった。自分にとってもそうだが、何よりも、このままでは将来ある者たちの成長を阻害してしまう。

 

 もともと自分の不注意から『正体』を晒すことになってしまったわけだが、太公望はこれを機にある程度評価をリセットさせてもらおうと考えた。それに、彼らと同年代であった頃――自分に〝力〟が無かったのは間違いのない事実なのだから。

 

 ワルドの言葉を〝仙桃〟の礼として受け取ることにした太公望は、それを策に変えた。

 

「み、ミスタ・タイコーボーがおちこぼれ!? 嘘よ、信じられないわ!」

 

 そう言って、ガタリと立ち上がったのはルイズだ。それはそうだろう、魔法学院の誰よりも速く空を飛び、複数の風魔法だけでなく火系統をも自在に使いこなす『天才』。ルイズの目には、太公望がそのように映っていたのだから。

 

「世に生まれ落ちたばかりの赤ん坊が、最初から魔法を使えないのと同じですよ。歴史上伝説と呼ばれる者たちですら、例外ではありません。そこに至るまでの『道』を歩んでいるからこそ、彼らはそのように語り継がれる存在となったのです。無の状態――原初からある伝説などないのです」

 

 何やら思うところがあったのであろう、ラ・ヴァリエール公爵がうんうんと頷いている。

 

 それを聞いた才人が再び反応した。無からある伝説など存在しないという彼の言葉に。ただ、今回向いた方角はいつものそれではなかった。才人はとことんネガティブ思考に陥っていた。

 

(え、ひょっとして俺の心読まれてる!? さっすが伝説すごいデスネ……って、何それ超怖い)

 

 もちろん、太公望に(仙術的な意味での)〝読心術〟の心得などない。だいたい、そんなものがあったら例の女狐相手にあそこまで苦労していないだろう。もう、そんなことを考える余裕すらない才人であった。

 

「信じられない」

 

 思わず声を出してしまったタバサと、それに同意するように頷く魔法学院関係者たち。彼らの反応に「釣れた!」と内心でにんまりとしながらも、本音とはまるっきり正反対の表情――眉をしかめてボソッと呟く太公望。

 

「いやいや。わたくしには本当にメイジとしての才能が無かったのですよ」

 

 彼はわざとらしくため息をつき、がくっと肩を落としながら言葉を続ける。

 

「同期の者たちが自在に〝火〟や〝水〟を操る中で――そよ風ひとつ起こしただけで倒れてしまうような貧弱者でした。そのせいで、周囲から完全に邪魔者扱いされていたことすらあります。もしもあのとき師に巡り会えなければ、わたくしは潰れていたかもしれませぬ」

 

 ルイズは思った。

 

(もしもそれが本当なら、わたしに近い状態だわ。何をやっても爆発させていたわたしとミスタは同じだったんだ。気絶しなかったぶん、わたしのほうがずっと恵まれていたのかもしれない)

 

 それからルイズは想像した。もしも、自分が彼に巡り会えなかったら……どうなっていたのかを。だから、彼女は問うた。

 

「ミスタの先生って、どんな方だったの? どうやってあなたは変わったの?」

 

 その問いに重々しい雰囲気でもって頷き、答える太公望。

 

「師はわたくしの根本となった自然科学の教師であり、高名な魔道具の制作者でした」

 

「まあ!」

 

「魔道具工匠ですか!」

 

 この言葉に飛びついたのはエレオノールとワルドだ。

 

「どういったものをお作りになっていたんですの?」

 

「そうですな……有名なところでは、物の重さを自在に調整できる道具とか」

 

「それは〝軽量(ライトネス)〟の魔道具ということですか!?」

 

 目を輝かせるエレオノール。もしも身近にそんな道具があったら、アカデミーの資料整理がどれほど楽になることか。〝念力〟や〝浮遊〟を使わないで済むと考えただけでもありがたい。

 

 ところが、全く別の方向からアプローチしてきた者がいた。

 

「まさか! 軽くするだけではなく、重くすることも……?」

 

「左様です、ワルド卿」

 

「物を重くしてどうするんですの?」

 

 エレオノールが発した質問に答えたのはワルドだ。

 

「たとえば、身につけている鎧を重くされたらどうなりますか?」

 

「……なるほど。さすがはジャン、軍人らしい考え方ね」

 

 ……実際、太公望の師・元始天尊はそういう使い方をしている。ただ、効果範囲と規模がワルドの脳内にあるものから大幅にかけ離れているだけで。

 

「ええ。ワルド卿の仰る通り、軍事的な用途にも……荷運びなどの平和的なものとしての利用も行われております。他にも様々な魔道具を作成しておられますが、それはさておき。いくら練習しても同期の皆のようにできなかったわたくしは、師に訴えたのです」

 

 ――ぼくも、みんなと同じように〝力〟が使えるようになりたい。

 

「わたくしの切実な訴えに対する師の答えは、こうでした」

 

 太公望は大きく息を吸い込むと、自分の師をそっくり真似た口調で怒鳴った。

 

『お前には最初っからメイジとしての才能なんぞ一切期待しとらんわ! 自分でもわかっとるだろ? だが、いつまでもわしの屋敷でぐうたらさせておくわけにもいかんのだ、このたわけが! 才能が足りないぶんは、その狡い頭でなんとかせいボケ!!』

 

「……と」

 

 ――見事なまでに場が凍った。タバサなど、テーブルに突っ伏してしまっている。

 

 太公望にメイジとしての才能がないのは当然である。そもそも彼は仙人なのだから。よって、嘘は言っていない。ちなみに師の言葉も後半末尾に限って言えば、ほぼそのまんまである。

 

「そもそも、わたくしは頭の回転の速さを買われて師に拾われたので、それ以外に関しては全く期待されていなかったのですよ。それでもやはり〝力〟に憧れる年頃でしたから、周りと自分を見比べながら、いつもこう思っていたのです」

 

 ――ぼくも、みんなと同じようになりたい。

 

「そこで、改めて我が師に教えを請い出ましたところ……蹴り一発で気絶させられた挙げ句、襟首を掴まれて、師の住まう屋敷の外へと引きずり出されました」

 

(この話が本当に本当なら、ミスタはわたしと同じだったんだ。ただ、みんなと同じようになりたかっただけ。でも、それを願い出ただけで気絶させられるなんて! 彼の先生はわたしの母さまよりもずっと苛烈だわ……)

 

 ルイズはその光景を想像し、思わず身震いしてしまった。

 

 ……なお、太公望が師の部屋から蟷螂拳や気功で吹っ飛ばされるのは一種のお約束である。

 

「で、そのまま図書館へ連れ込まれましてな。自然科学の棚にある本の内容を連日連夜、徹底的に叩き込まれました。その上でより効率化を計るため『速読』『分析』『解析』『複数思考』を習得したわけですが……これらを身につけるまでの数年間は術の修行どころか、練習すらさせてもらえませんでした」

 

 と、ここでワルド子爵が手を挙げた。

 

「失礼。先程から何度か『シゼンカガク』という言葉が出てきておりますが、初めて耳にする言葉です。それは一体どんなものなのでしょうか?」

 

「簡単に申しますと、自然の成り立ちや在り方を法則として導き出し、理解するための学問です。たとえば……そうですな、魔法によらない自然の風は何故吹くのかを簡単にご説明します」

 

 『風は何故吹くのか』。風メイジにとって非常に興味深い内容である。

 

「これは温度によって空気の重さが異なることが根本的な理由です。身近でわかりやすい例としては――太陽の光によって暖められた空気は、軽くなります。逆に海の水に触れると冷やされ、重くなります。それらが重さの違いによって、上がったり、下がったり、ぐるぐると循環するわけです。空気が動く、すなわち風ですな……とまあ、こういったような学問です」

 

 この説明で、即座に『自然科学』の意味が理解できたという表情を見せたのは、風メイジ全員と、オスマン氏、コルベール、エレオノール。才人に関しては学校で習っている内容なので、メンバーからは除外する。

 

「魔法でも『循環』を意識することで、より効率的に〝風〟を吹かせられますからな」

 

 納得したという顔をしたワルドに、太公望は笑顔で頷いた。

 

「その通りです。つまり師は、もともとの〝力〟が弱かったわたくしに、それらの法則を徹底的に学ばせることで、少ない〝力〟で効率的に事象を発生させるための知識と応用力を叩き込んでくださったわけです」

 

 ――事象を学び……効率的に、かつ計算して魔法を使う。コルベールは思い出した。これは、今まで彼がよく口にしてきた言葉だ。確かにこの学問を修めているか否かで、メイジとしての実力に相当な差が出るだろう。

 

 事実、コルベール自身がそうだ。自己流だが、この『自然科学』の扉を開け放ち、入り口どころか既に玄関から廊下へ上がりかけている彼は、通常のメイジでは為し得ない事象を発生させることに成功している。その成果があのエンジンやガソリンだ。

 

 そんな彼らの思いとは裏腹に、太公望の弁舌は続いていた。

 

「ハルケギニアにもこれと非常に近しい学問があると思われるのですが……自分の立場では、まだ『フェニアのライブラリー』に収められている、ごくわずかな資料にしか触れられません。そのため、ハルケギニアにおける正式な名称がわからないのです」

 

 実に残念だ。そう言いたげな顔をしていた太公望に答えたのはエレオノールだ。なにしろ彼女はこの手の話がしたいが為に、わざわざ休暇を取ってまでこの場を用意したのだから当然だろう。

 

「それは各国のアカデミーでも最先端レベル。しかも首席研究員になって、ようやく着手できるような機密性の高い内容ですもの。一般に出回っているはずがありませんわ。学問の名に関する総称についても確定しておりませんし」

 

「やはりそうでしたか! もっとも、総称以外についてはわが国でもほぼ同様の扱いです。先程の図書館も、師がいたればこそ入館を許されたような、一般人立ち入り禁止の場所でして……本来であればわたくしのような若輩者が読める書物ではなかったのです」

 

 太公望は場を締めるべく動いた。

 

「そして、それらのあらゆる自然現象に関する法則や事象を学んだ後――師が、この杖をわたくしに授けてくださったのです。それで……ここからは、その、我ながら少しお恥ずかしい話となるのですが……」

 

 左手で懐から『打神鞭』を取り出し、空いた手で頭を掻きながら太公望は言った。

 

「以前『疾風』ギトー先生の授業で話したことなのですが……実は一部、我が師の受け売りなのですよ。この杖を渡されるときに、こう言われたのです」

 

 ――わしはお前に〝風使い〟としての『道』を示す。お前は時間をかけて、万物の事象を学んだ。それらを元に知恵を振り絞れ! 〝風〟はな、大きく化ける可能性を秘めている。そう……たとえ元の〝力〟が弱くとも、使い手次第でいくらでも『最強』に近付くことができるのだ。その汎用性の高さがゆえにな――

 

「……と。それと併せて、複数の魔道具を卒業祝いとして贈られました。残念ながら、わたくしには師のようなアイテム造りの才能は無かったのですが、師曰く『お前は制作者からして完全に想定外の使い方をするから面白い。その発想力を生かせ!』などと言われましてな」

 

 この『アイテム作りの才能』が云々は半分嘘である。勉強しようと思えば、きっと出来たはずだ。しかし太公望は、その手のことが実はちょっと苦手――というよりも、覚えるのが面倒でサボりまくっていたのだ。彼からしてみれば、自分などがやるよりも、身近に天才技術者がいるのだから全部そっちに任せればいいという考えがあったのだろう。

 

 ――任せきった結果、いろいろと弊害もあったのだが、ここでは割愛する。

 

 なお、太公望がここでわざわざそれらしくアイテム云々の話をしたのは、所謂『前置き』だ。ありていに言えば、自分の能力やハルケギニアで『異端』と見られてしまうような事柄――特に宝貝で起こす一部の奇跡について「アイテム使ってやってます」と誤魔化すためである。

 

 誰かに追い回される生活は、しばらくご免被りたいのだ。そういう意味では、先程提供した未熟な〝仙桃〟も立派にその役割を果たしたと言えよう。

 

「それで、ミスタは魔道具を集めることにこだわるの?」

 

 ルイズの言葉に太公望は頷いた。それを聞いたワルド子爵の表情が、ごくごく僅かに強張ったことに気が付いたのは周囲に気を配っていた太公望と、彼の顔をずっと見続けていた才人だけだった。

 

「左様です。卒業から十数年、こつこつと積み上げて、ようやく現在の段階まで辿り着いたわけですが、まだまだ力不足であることを実感しております。強力なアイテムさえ手に入れば、多少なりともそれを補えますから」

 

 これを聞いた才人はまたしてもネガティブ思考の渦に飲み込まれてしまった。

 

(あれで力不足なのかよ。どんだけ師叔はとんでもない戦いを潜り抜けて来てんだよ。パソコンで見た数字と、直接聞いた言葉だけじゃ想像がつかない。ウン、なるべくしてなった伝説なんだよな。ほれみろ、やっぱり俺はダメなんだ。ギーシュのモグラ……は、役に立ってたな。モグラより下、つまりオケラだ。いや待てよ? オケラって、結構凄くなかったっけ? 水陸両用で、空も飛べたはず。じゃあそれより下だ。となると、ミミズ?)

 

 ……もう、完全に思考の悪循環にはまり込んでしまった才人はひたすらに自分を貶める作業に取りかかってしまった。普段の姿からはあまり想像がつかないが、実は彼、非常にアップダウンの激しい性格をしているのである。

 

 良い意味でも悪い意味でも『風の循環』そのものだ。現在、彼の空気は冷え切ってしまっている。才人は一度こうなってしまうと、なかなか自分の世界から戻ってこられない。

 

 ちなみに才人がここまで激しい落ち込みを経験したのは、ハルケギニアに来てから初めてだった。そう――太公望という名の防御壁があったために彼は厳しい異世界の風から守られ、心が折れるという経験を積むことができなかったから。

 

 これも太公望が危惧していた、ひとつの弊害かもしれない。

 

「と、まあ……そういうわけで、ルイズお嬢さまの魔法を拝見しましたところ、我が国で『戦いの天才』と謳われし〝火〟の使い手が若い頃によくしていたとされる失敗と非常に似通っておりましたので、これはもしやと思い、改めて調査させていただきましたところ、まさしく! その彼と同じ『才能がありすぎる』がゆえに通常の魔法の枠に収まらず、呪文を爆発させてしまっていたことが判明致しまして」

 

 そして現在に至ります。と、これで締めようとしていた太公望だったが、それは〝火〟それも『戦いの天才』と聞いて黙っていられなかったキュルケによって阻まれた。

 

「もしかして、その使い手って……前に少しだけ仰っていた、ミスタの出身国最強の火メイジのお話ですの?」

 

「はい、その通りです。彼は自由自在に炎を操る、戦の申し子でありました。しかし彼はその才能に驕らず、無駄な殺生は一切行わず、ひとびとを救う為だけにその〝力〟を振るった高潔な魂の持ち主だったとのことです。よくルイズお嬢さまが仰る『貴族たるもの、かくあるべし』を体現しておられた方ですな。わたくしが知る伝説によれば、ですが」

 

「伝説によれば……ということは、そのかたはもう……?」

 

 カリーヌ夫人の質問に、太公望は頷いた。

 

「なにしろ、三千年以上前も昔の話でございますから。ただ、その功績は今も我が国の歴史に記されております」

 

「そうですか。その人物は、まさに伝説の勇者だったのですね」

 

「左様です。ある意味、ルイズお嬢さまが往く『道』は彼に近しいものとなるのかもしれませんな。あくまでもお嬢さまがそう望まれるのであれば、ですが。ただ、個人的にはもっと穏やかな方向へ進んでいただければと考えております。なにしろ、ルイズお嬢さまは学問に関しても大変優秀であらせられますから」

 

 その解答に、ルイズの父親であるラ・ヴァリエール公爵は満足げに頷いた。いくら才能があっても愛する娘を戦に出すなどという真似はしたくない。自分の妻という例外があるにしても――だ。一瞬危うい方向へ話が進みそうであったが、少なくとも娘を目覚めさせてくれた人物は、穏やかな『道』を提示している。彼としても、それには大賛成であった。

 

 それから公爵は、ちらと一瞬だけ愛する妻の顔を見た。そして気が付いた。ほんのちょっとだけ、彼女の顔に残念そうな色が浮かんだのを。果たして、その〝火〟の使い手と戦ってみたかったのか、娘が自分と同じ『道』を歩んでくれないことに対する反応であるのか。

 

 妻の持つ気性に思わずため息をつきそうになったラ・ヴァリエール公爵であったが、彼はなんとかそれを押し止めることに成功した。

 

「なるほど。学者らしいご意見ですこと。ルイズ、よい方に巡り会えましたわね。そして、ミス・タバサ。彼を娘に引き合わせてくださったことに、改めてお礼を申し上げます」

 

 ルイズは母の声で思い出した。

 

(そうだ、彼は今から遠く離れた時代から、タバサが呼んでくれたんだ。しかも、サイトの知っている歴史の中の英雄。そんなひとと――世界を越えて引き合わせてもらえたんだ!)

 

 彼が『おちこぼれ』だったという話は、今の彼からは正直想像がつかない。しかし、そう考えるとルイズに魔法を教えてくれようとしたときに、太公望があそこまで不機嫌になってしまった理由が少しわかる気がする。

 

(自分と同じ『おちこぼれ』だと思って同情して面倒を見てくれていたのに、実は彼の世界で最強の火メイジと同じ才能がありました! なんてことがわかったとしたら――もしもわたしがミスタと同じ立場だったとしたら……確かに、悔しかったと思うもの)

 

 ルイズは席を立つと改めてタバサと太公望のふたりに感謝を述べた。本来なれば、そこで話は終了するはずだった。太公望が、そのように会話の流れを導いていたからだ。しかも、トリステインでも有数の大貴族相手に自分の素性を『学者』として認識されるという、太公望本人にとって思わぬ副産物を手に。

 

 ……だが、残念ながら話はそう上手く運ばなかった。

 

 もしも、これがハルケギニアではなく地球上で繰り広げられていた物語であるならば、太公望はこの時を振り返って、こう例えたかもしれない。

 

 ――『歴史の道標』の介入か? ……と。

 

 割り込みをかけてきたのは、ルイズの婚約者であった。彼は感心しきりといった体で太公望を褒め称えた。

 

「東方の学者殿のお話、大変興味深く拝聴させていただきました。いや、しかし残念ですな。もしも貴君が学者ではなく軍人であったなら……是非とも手合わせをお願いしたいところだったのですが。なにせ東方のメイジと杖を交える機会など、まずありませんからね」

 

 そう言って、ワルド子爵はにっこりと笑って見せた。

 

(こやつ、まさかバトルマニアだというのか! だとしたら面倒な……)

 

 などという思いは一切表情に出さず、太公望は答えた。

 

「いやいや、このわたくしめが現役の近衛隊隊長殿と? そんな、とんでもない! それにしても、すっかりお元気になられたようで、本当に良かった。こちらへいらした際にはまるで――どなたかと一戦交えた後のようなお顔をなされていましたからな」

 

 ワルドの身体がほんの一瞬だけ固まった。それは、よほど注意していなければ気付かないほどの硬直。しかし彼はすぐさま自分を立て直すと、口を開いた。

 

「いえいえ、突如発生した問題を解決するために、予定よりもこちらへ出向くのが遅くなったまで。貴君のおかげですっかり回復しました、ありがとうございます。そこで……感謝のついでなどと言っては大変失礼なのですが、実はひとつお願いがございまして」

 

「む? わたくしに、ですか? やはり杖を抜いてくれ、などと言われては困りますぞ」

 

 慌てふためくように後ずさる太公望の姿を見て、ワルドは苦笑しながら言った。

 

「そんな、とんでもありません。僕がお願いしたいのは――あなたの連れである、彼です。細剣を吊り下げているということは、剣士なのですよね? もしもよろしければ、互いを高め合う意味での手合わせ……模擬戦の許可を頂きたいのですが」

 

 ワルド子爵が相手に指名したのは、太公望ではなく――その舞台こそ異なってはいたものの、この物語本来の歴史通り、才人だった。

 

 『閃光』が新たに起こした風が、場を支配しようとしていた――。

 

 

 




みんなだいすきワルドさん。
かれとサイトのうんめいやいかに!


中村イチさまから挿絵をいただきました!
トップページの目次でばばーんと公開中です。
本当にありがとうございましたm(_ _)m


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第48話 ふたつの風と越えるべき壁

 ――場に一陣の風が吹いた。ただし、それはあまり心地よいものではなかった。

 

 それに当てられて、内心で頭を抱えていた者たちが大勢いた。彼らはとりあえず現状を整理しようと己の脳みそをフル回転させた。それからすぐに、最初のひとりが事態を収拾すべく、基本的な確認作業に取りかかった。

 

「ワルド子爵。失礼ですが、念のため確認させていただいてよろしいでしょうか?」

 

 そう切り出したのは太公望である。

 

「はい、何でしょう?」

 

「その模擬戦の実施日程というのは……いつをご希望で?」

 

「実は、明日の昼にはこちらを立たねばなりませんので……このあと、すぐに」

 

 やはり、これはまずい。模擬戦云々ではない――それ以前の問題だ。即座にそう判断した太公望はいったん彼から視線を外すと、ラ・ヴァリエール公爵に言を向けた。

 

「閣下。大変ぶしつけとは存じますが、本日の進行予定についてお伺いしても?」

 

「うむ。ただし、今回の歓待行事についてはわが娘エレオノールに総責任者として全般を取り仕切らせておるので、そちらから説明をさせよう。さ、エレオノール」

 

 そう言って娘に役目を引き渡したラ・ヴァリエール公爵の片眼鏡の上で、形の整った眉がごくごくわずかに上がったのを太公望は見逃さなかった。いっぽう、父親から指名を受けたエレオノールの口端がひくひくと動いていたのは誰の目にも明らかであった。

 

「はい。あと三十分程で皆さまをお部屋へご案内させていただくこととなっております。なお、現在全ての客室に備え付けられた浴槽に湯を張る支度をさせておりますので、本日の疲れをそちらで癒やしていただければと。なお、この風呂には先程ミスタがご用意くださった『水酒』を使わせていただいております」

 

「丁寧なご説明、痛み入ります。質問を重ねるのは無礼と承知しておりますが……このお屋敷から模擬戦が可能と思われる平地、可能であれば練兵場へ移動するまでにどのくらいの時間がかかるのか、お教え願えますか?」

 

 この質問に答えたのはカリーヌ夫人だった。彼女の眉は見事に吊り上がっている。

 

「馬車で一時間ほどの距離に練兵場があります。庭では被害が大きすぎますから。よって、本日模擬戦を行うのは事実上不可能です」

 

 彼らのやりとりを聞いたワルド子爵は硬直した。自分が犯してしまった大変な失態にようやく気付いたからだ。

 

 ……そう。本来であれば、今回のホストであるラ・ヴァリエール公爵にまずお伺いを立てるのが筋であり、最低限の礼儀なのだ。しかも、太公望がわざわざ日時の確認をするという気配りを見せてくれていたにも関わらず直後を指定してしまった。王宮勤めの騎士隊長ともあろうものが、正直これはいただけない。

 

 場になんともいえない空気が漂ったところで、再び太公望が口を開いた。

 

「ありがとうございます。それではこれらの状況を踏まえた上で……ご主人さま」

 

「あなたの裁量に任せる」

 

 即座に切り返すタバサ。伊達にこの数ヶ月間、太公望と過ごしていたわけではない。このあたりの意思疎通については見事なものである。

 

「承知致しました。ワルド卿が模擬戦を希望されておられるわけだが――才人よ、おぬしはどうだ。彼と一戦交えてみたいか?」

 

 この発言に周囲がどよめいた。ワルド自身も驚いた。思わず太公望に対し、聞き返してしまったほどだ。

 

「日を改めて、機会を設けてくださると?」

 

 だが、そうは問屋が卸さなかった。

 

「ミミズはね、土壌を改良できるすごいヤツなんだ。うん、エライ。俺とは大違い。つまり俺はミミズ以下。微生物。小さな小さな存在です。生まれてきてごめんなしゃい」

 

 ……などと、指名された張本人が下を向いてぶつぶつと意味不明なことを呟き続けていたからだ。こんな状態では模擬戦などできようはずもない。

 

「うぬぬぬぬ……ワルド卿には誠に申し訳ないのですが、本人がこの調子でございますので、さすがに模擬戦の申し入れはお受けできかねます」

 

 頭を下げる太公望と、彼と才人のふたりを交互に見遣ったワルド子爵は顔の端々に無念の色を滲ませていた。銀色に輝く美髭が微かに揺れている。そして、残念だと言わんばかりに首を振った。

 

「そ、そうですか。是非とも東方の剣術を拝見したかったのですが……」

 

 と、そんなワルドの様子を伺っていた太公望がタバサに小声で許可を取ると、彼へ向けてこう切り出した。

 

「ワルド卿は東方に強い感心をお持ちのようですな。連れが模擬戦をお受けできなかった代わりといっては失礼ですが、互いに風呂を頂戴した後に――そう、一~二時間程でもよろしければ、個人的にかの地の話などを披露致しますが、如何でしょう?」

 

 その申し出にワルド子爵は破顔した。それからすぐに、ヴァリエール公爵家の者たちとタバサたち招待客へ向けて深く頭を下げた。先程の失敗を取り返すかのように。

 

「どうか、ミスタとふたりで話し合う機会と場所をご提供願えませんでしょうか?」

 

 

○●○●○●○●

 

(さてと。あのワルドとやらが何を考えているのか、巧く聞き出せればよいのだが)

 

 太公望は密かにここまでに拾い上げた情報の精査を行っていた。

 

 最初は彼が自分と才人に対し、妙に関心が高いのが気に掛かった。何くれとなくルイズの世話を焼いているようでいて、その実こちら側をさりげなく伺っている。長年観察眼を磨いてきた太公望にはそれが手に取るようにわかった。

 

 そこで、誰にも気取られないよう、会話を進めながらワルド子爵を観察してみると、ある特定のキーワードに反応が見られた。『東』と『魔道具』だ。

 

 そして彼が才人に模擬戦を申し込んできたとき――ワルド子爵が自分たちを探ろうとしているのだと確信した。そもそもこの世界の常識から考えて、魔法の使えぬ平民と模擬戦がしたい、などという発想が出てくること自体がおかしい。それも近衛部隊を率いる隊長がそんなことを言い出すなど不自然にも程がある。ただ、どうしてそんな真似をするのか、その理由がわからない。

 

 そんな風に分析を続けていたとき、ワルド子爵が漏らした言葉が太公望の意識を捉えた。

 

 ――是非とも東方の剣術を拝見したかったのですが。

 

 ここにも『東』というキーワードが登場している。つまり……ワルド子爵はかの地、あるいは方角に強い関心があるということだ。

 

(東にはロバ・アル・カリイエと呼ばれる諸国の他には、何があっただろうか? そうだ、確かエルフと呼ばれる種族が支配しているという土地と、ハルケギニアの民の間に広がっている、宗教という概念。それを信ずるブリミル教徒たちにとって『聖地』とされている場所だったかのう)

 

 ここまで思考を巡らせ、ようやく太公望は思い至った。ルイズが背負う運命を知った――あの日。オスマン氏から聞いた才人の持つルーンと、自分がそうなっていないのが不思議だと称された存在について。

 

 彼は『フェニアのライブラリー』に収められていた書物の中から、重大な情報を得ていた。それはかつて『始祖』ブリミルが使役していたとされる、使い魔たちに関するものだ。

 

 あらゆる武器を使いこなす『神の盾』『神の左手』〝ガンダールヴ〟

 

 あらゆる魔道具を使いこなす『神の本』『神の頭脳』〝ミョズニトニルン〟

 

 あらゆる生物を操る『神の笛』『神の右手』〝ヴィンダールヴ〟

 

 最後のひとりは記すことすら憚られる者。

 

 ……最後の一文がいろいろと不吉なものを連想させるが、それ以外の者についてはだいたいのところを把握した。

 

「ええい、もっとしっかり情報を残しておかんか、ブリミルめ!」

 

 などと書をめくりながら恨み言を吐き出していた太公望であったが、ともかく『伝説の使い魔』とやらが全部で四体いたらしきことだけは確認できた。また『ひとり』という単語から、彼らが人間、あるいはそれに近しい存在であることも念頭に置いていた。実際に才人が人間であることから、この推測はほぼ正しいのであろう。

 

 ――そこから導き出された、太公望の答え。それは、

 

『自分が〝ミョズニトニルン〟という存在と間違えられている』

 

 これであった。

 

 そういうことならワルド子爵が〝魔道具〟という単語に反応する理由として納得できる。さらに言えば、彼がルイズの系統に気付いている可能性が高い。最悪の場合、ルイズが〝ガンダールヴ〟を、タバサが〝ミョズニトニルン〟を呼び出したと認識しているのだろうと当たりをつけた。

 

 何故最悪なのか。それは、自分たちが現在の治世に不満を持っている者たちにとって都合の良い御輿として担ぎ上げられるという危機が、目前に迫って来ているからだ。

 

 太公望やタバサが黙ってそんな状況に甘んじているわけがないが――ルイズと才人は権力争いの醜さや戦争の厳しさを一切知らない子供だ。ふたりの性格からして、下手にちやほやされたら舞い上がってしまうかもしれない。その末に、戦の道具として利用される。

 

 しかも、ワルド子爵は妙に焦っていた。そうでなければ礼儀を重んじる宮廷貴族が、あのように露骨なマナー違反などやらかすはずがない。

 

(何をそんなに慌てているのだ? 自分の立場とヴァリエール家との関係を利用すれば、少なくともルイズと才人について確認する機会など、いくらでも捻出できるではないか。何か、急いで調べなければならない理由があるのだろうか。こうなったからには仕方がない。公爵家に失礼のないよう対応してから情報を収拾してみるか。あんなことを言われたら、才人のことだ。状況からしてほぼ間違いなく模擬戦を受けるはず。ならば、あえてぶつけることも念頭に置いていたほうがよかろう)

 

 そう判断した太公望は、念のため本人の意思を確認しようとしたのだが……結果はご覧の通りである。才人はルイズと自分の間に突如現れた巨大な壁にぶち当たって、それを打ち破ろうとするどころか、地面に深く潜り込んでしまった。これは正直太公望にとって予想外の事態であり、戦略面における大きな敗北であった。

 

(才人が、まさかここまで打たれ弱かったとは! わしとしたことが、完全に見誤っておった。武成王のような、常に前向きで豪快なタイプだと思い込んどったわ)

 

 人物観察眼の鋭い太公望としては珍しい部類の失策である。ただ、彼は昔から時折こういうポカをやることがある。特に自分の正しさや勝利を確信しているときに、それは顕著となる。

 

(才人についてはあとで何とかするとして。まずは早急に目の前の男が何者なのか、見極めねばならぬ。このまま放置しておいた場合、わしだけでなく周囲に大きな危険をもたらす可能性がある)

 

 よって太公望は手札を一枚切ることにした。果たしてそれが吉と出るか、凶と出るかは――まだわからない。

 

○●○●○●○●

 

 ――それから二時間後。

 

 中庭を臨む客間のひとつを提供されたふたりは揃って部屋を訪れた。中に入った直後、ワルドは腰に差していた細剣風の拵えの軍杖を軽く一振りした。きらきらと光る粉が部屋中に舞い散る。

 

「〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟ですか」

 

 太公望の問いに、ワルドが頷いた。

 

「その通り。どこに目が、耳が光っているかわかりませんので」

 

 ワルド子爵はそれだけで満足せず、さらに〝消音(サイレント)〟を展開した。その後、ようやく揃って対面に着座した。と、同時に太公望がいきなり会話の口火を切った。

 

「それで? このわしに相談したいこととは一体なんだ?」

 

 付けていた仮面をいきなり剥ぎ取られてしまったかのようにワルドの表情が変わった。先刻まで浮かべていた爽やかな笑みが消え、瞳には戸惑うような色が見え隠れしている。

 

「どうした、ワルド子爵。わしの『頭脳』に頼りたいのではないのか? それとも、わしの見込み違いであったのかのう」

 

 ワルドはいきなり胸に氷の刃を突き立てられたかのような心境であった。目の前にいる、子供にしか見えぬ男が纏う空気は先程までと変わらぬ穏やかなものだ。しかしその眼差しと語り口は、これまでとはまるで別人。太公望のあまりに突然の変貌に、彼はつい気圧されてしまった。

 

 絶句した後、しばしの間を置いて。ワルド子爵は姿勢を正すと改めて口を開いた。

 

「その前に、君……いや、まずはあなたの正体について教えていただきたい」

 

 思いも寄らぬ素直な質問に、太公望は小さく笑った。

 

「なかなかまっすぐな男だな、おぬしは。嫌いではないぞ、そういう性質は。ただ……そこへ至るための試験をさせてもらいたい」

 

「試験、とは?」

 

 太公望は魂を譲り渡す契約書へのサインを迫る悪魔のような笑みを浮かべた。それを見て、ワルドの顔が僅かに強張る。

 

「ククク……そう構えるでない。試験といっても実に簡単なものだよ。さあ、答えるがよい。おぬしはこのわしをいったい何と見立てて『交渉』に乗り出してきたのだ?」

 

 やや押され気味になりながらもまっすぐに太公望の目を見据え、ワルドは言った。

 

「僕は『本』と判断しています」

 

 それを聞いた太公望はくつくつと低く笑うと、相手の目を見返しながら尋ねた。

 

「ふむ、なかなか面白い見解だ。で? ワルド子爵。おぬしはそれをどこで、何を見て、何をして判断した? 端的に述べよ。これに答えられた場合、正式に交渉のテーブルにつくことを検討してやってもよい」

 

 ワルドは胸に溜めていた空気を全て吐き出すと、再び大きく吸い込み――その後、いっきに答えを述べた。

 

「以前、この屋敷でルイズの失敗を見た時に、明らかにおかしいと感じました。よって、王立図書館で多くの書物を見、調べたのです。そこで彼女の系統に関係あると思しきものに行き当たりました。ですので、それを確認するために本日の宴に出席し、観察した上で、貴君をルイズが〝召喚〟した使い魔だと判断しました」

 

 ワルド子爵の言葉を聞いた太公望は穏やかな笑みを浮かべた。しかしその内心は穏やかとはほど遠いものであった。

 

(やはり、早急に対応して正解だったのう。こやつを放置しておいたら、大変なことになるところであったわ!)

 

 太公望は内心の安堵を一切表に出すことなく、ただ不敵に笑うばかり。それを不気味に感じたのだろうワルド子爵が、ゴクリと喉を鳴らす音が部屋に響いた。

 

「なるほど、おぬしは『神の本』に手をかけておるようだな。ならば最後の質問だ。わしがいったい何者であるのか。与えられている印と名を、知りうる限り答えてみよ」

 

 睨め付けるような視線に負けることなく、ワルドは自身の内にあるものを口にした。

 

「あなたは『始祖』ブリミルが使役した伝説の使い魔のひとり〝ミョズニトニルン〟。『神の頭脳』『神の本』『知恵の塊』『導き手』『助言する者』ではありませんか?」

 

 なんともはや皮肉なものだ。太公望はその場で笑い出したくなった。ほぼ自分の予測通りの結果にではなく――才人がつけてくれた暗号名『ハーミット』(隠者・助言者)と同じ名を冠する使い魔と認識されていたとは。

 

 ここまでの話を聞くに、少なくともこの男は閃きと直感、そして情報収集及び情報精査に関して非常に有能であることは間違いない。ただ、何かを焦るがゆえに周囲の状況を的確に判断できなくなっているようだ。そのため、自分が見たいと思うように相手を見てしまう傾向にある。明日には帰らなければならないから、などという程度の焦りではない。もっと根深いものだ。

 

 とはいえ、これほどの『直感力』を持つ相手に初対面で踏み込みすぎると、不要なことまで悟られる危険性がある。そう認識した太公望は、より用心深く相手の陣地へと攻め込んでいった。

 

「不正解だ……と、言っておこう。今はな」

 

 牢獄で死刑執行を待つ囚人が、遂にその時がきたかと観念した際に浮かべるような表情を見せたワルド子爵だったが、その直後。いきなり無罪放免の報せを受けたかの如く、顔色が青から白へ、それからすぐに興奮による朱色へと変化した。

 

『今はまだ不正解だと言っておこう』

 

(今は不正解。つまり、この場ではまだ正体を開かせないということか!?)

 

 そこへ思考が至ったワルド子爵は次に放たれた言葉によって、完全に太公望の策に絡め取られてしまった。

 

「久しぶりだのう、その名を聞くのは。そして……その結論を導き出すことができたのは、おぬしが初めてだ。我が主ですら、未だそこへ到達できていないというのに。見事だ、新しき〝風〟よ。わしはおぬしを交渉の価値ある相手と認める」

 

(主人よりも早く自分の正体に気が付いた。つまり、ルイズは彼が何者であるのかをまだ知らない。そして彼は「その名を聞くのは久しぶり」と言った。過去に〝ミョズニトニルン〟と呼ばれていたことがあるのだ!)

 

 ワルドはそう認識し、全身を震わせた。

 

「やはり、あなたは……」

 

 目を見開いたワルドに、頷いて見せる太公望。

 

 ……これは、オスマン氏から「ミョズニトニルンにならなかったのが不思議」と言われたことと、召喚数日後に図書館の蔵書で『主人』たるタバサと一緒に自分の左足の裏に刻まれたルーンを調べた際に、古代魔法語で〝知恵〟を象徴するものであることを突き止めていること。これらを言い換えただけに過ぎない。

 

 ついでに言うと、ルイズの系統に関しては正解なのだが、太公望に刻まれたルーンは完全に外しているため『不正解』だとしているだけだ。よって、ワルドに嘘をついているわけではない。所謂『言葉のマジック』というやつである。仙人界No.1の腹黒さは未だ健在だ。

 

「迷いし者よ。まだ、お互いに出会ったばかり。即座にわしのことを信用しろなどとは間違っても言えぬ。だが……もしも、少しでもよい。わしの言葉に耳を傾けてくれる気があるのならば。話してもよいと感じてくれているのならば、わしの持つ知識を開示しよう。新たな〝風〟よ。いったいどんな『道』で迷っているのだ? 簡潔に事実だけを述べよ。そこに推測はいらぬ。何故なら、それは迷路の奥に踏み込む罠たりえるからだ」

 

 ――静かに、深い叡智を湛える瞳を向けてきた少年にワルドは賭けてみようと思った。無風であるはずの部屋の中。自分に向かって吹いてくる〝風〟が神聖なものであるように感じられたから。自分を全面的に信じろ、などと言ってこなかったのもその判断をする上で助けになった。

 

 もはや完全に太公望のペースである。ただ、ワルド子爵がここまであっさりと策に乗せられてしまったのには理由があった。

 

 首から提げたロケットつきのネックレスの上に手を乗せ、ワルドは心の内で呟いた。

 

(母さん。これは貴女の探し求めていた『道』に続く出会いかもしれません。この場へお導きくださった『始祖』ブリミルに感謝を……!)

 

 決意の光を瞳に宿し、ワルドは一気に告げた。

 

「国境を越えた貴族連盟『レコン・キスタ』から誘いを受けました。彼らは『聖地』を取り戻すために活動を続けています。現在はアルビオン王国の貴族派と手を結ぶことで、かの国の王権を打破し、本拠地とすべく動いています。僕は、理由あって『聖地』に至るための〝力〟が欲しいのです。ですが、本当にこの連盟に加わってよいものかどうか迷っています。そして、彼らには明日の夜までに返答をしなければなりません」

 

 その言葉に深く頷いて見せた太公望は『レコン・キスタ』に関する、現時点での見解を述べることにした。それがワルド子爵の迷いを打ち払う材料になると確信した上で、ロングビルの調査報告により知り得ていた情報を自分なりに精査した結果を彼に告げた。

 

「なるほど、そのために伝説の〝力〟を欲したか。当然の帰結であるな。そこまで明かしてくれたのならば答えよう。わしから言わせてもらえば『レコン・キスタ』なる者どもは、本気で『聖地』を取り戻す気などない、あるいはその程度も判断できぬ無能者の集いだ」

 

「無能者の集いですと!?」

 

 思わず立ち上がって怒鳴ったワルドを手で制し、やれやれ……といった風情で首を左右に振った太公望は、焦るワルドを落ち着かせるべく声をかけた。

 

「連中は『聖地』に対する戦を仕掛ける上での前提条件からして間違っておるであろうが」

 

「それは、いったいどういう……」

 

「その若さで女王陛下の側近くに仕えるに至ったほど優秀な軍人であるおぬしが、何故気付かぬ? 焦りとは怖ろしいのう。では、ヒントをやろう。まずはハルケギニア全土の地図を頭の中に浮かべるのだ。次に『聖地』と『浮遊大陸』アルビオンの位置関係について考えてみるがよい」

 

 そう言われたワルドは考えてみた。それからすぐにその結論に至った。

 

「補給線が伸びすぎる。上位者との意思疎通も大きな手間となる! 両方とも、戦場では致命的じゃないか!!」

 

「正解だ。しかもだ……浮遊大陸だぞ? おまけに『王家を打倒して聖地を取り戻す』と宣言しているということは、つまり!」

 

「飛び地で孤立状態になる。いや、そうさせられる可能性が高い。『王権』を持つ三王家が『レコン・キスタ』そのものを敵とみなし、三カ国で同盟を結んだらそこでチェック・メイトだ!」

 

「そうだ。ほれみろ、焦らずに考えれば、おぬしは正しい答えにたどり着けるのだ。どうだ? ワルド子爵よ。たったこれだけの事実で『本気で聖地奪還をする気がない』『あるいは無能者の集団』だとわしが判断した理由になるであろう?」

 

(その通りだ、今までどうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだ、僕は!)

 

 ワルドは背筋を這い上がってくる恐怖に震えた。無理もない、危うく全てを捨てて、沈没確実の泥船に乗り込みそうになっていたのだから。

 

 そんな彼に追い打ちをかけるべく、目の前の『頭脳』はとんでもないことを言い出した。

 

「もしも、わしが『レコン・キスタ』を率いる長だったとする。その上で『聖地』を取ろうと本気で考えた場合――まずはゲルマニアと同盟を結ぶ。その上で、皇帝に世界征服という名の甘い蜜をちらつかせ、籠絡する。この程度のことができぬ者に『聖地』を取り戻すことなど不可能だ」

 

「それは立地条件と国力があるから、という意味ですか?」

 

「それもある。だが『頼りにならない王家を打倒する』というご立派なお題目を唱えるのにはゲルマニアが最適であるからだ。なにせ、由緒ある三王家の血を引いていないのだからな。まあ、わしならそんな愚かな宣言はせぬがのう。もっと上手くやってみせる」

 

「ふむ。たとえば?」

 

「わざわざ身内に敵をつくる必要はないのだよ。そこで、まずはロマリアと手を組む」

 

 ワルド子爵は眉をひそめた。それは彼自身も考えていたことだからだ。ロマリア皇国連合はブリミルの弟子・聖フォルサテが師の死後、彼が斃れた地に築いた国だ。ブリミル教の総本山であり『光の国』などと世界各地から持て囃されている。ただし――。

 

「未だ『皇国連合』などという状態で、あんな小さな領域ですらろくに纏めきれない無能な神官どもに価値があると? 数年前など教皇選出にすら手間取り、我が国で宰相を務めるマザリーニ枢機卿に帰国要請を出した程の死に体ですが」

 

「わしも当初はそう考えた。だが、実際問題としてブリミル教が社会に与えている影響は大だ。連中と敵対すると面倒なことになる。それに『聖地』奪回のための正義を唱えて兵を挙げるには、絶対に三王家を敵に回してはならんのだ」

 

 太公望の言葉をじっくりと検討したワルドは答えに行き着いた。背には嫌な汗が滲んでいる。

 

「『始祖』の血を受け継ぐ王家を敵に回せば異端認定されるという訳ですか……」

 

「その通り。現時点でいつ宗教庁から『レコン・キスタ』に通達が行くかわからぬような状態だぞ。これも、連中のトップが本気で『聖地』奪還を目指していないと判断した理由のひとつだ」

 

 ワルドは唸った。言われてみればその通り、ロマリアの教皇が介入してきた場合、たとえ王族であろうとも無視できない。それが出来るだけの〝力〟を持っているのが宗教庁なのだ。信じる神を敵に回そうとする者はまずいない。軍人、特にそれがメイジであればなおさらだ。

 

「だからロマリア――いや『ブリミル教』とは敵対せず、味方に引き入れると?」

 

 心底嫌そうな顔をしながら太公望は答える。

 

「面倒だが、適当な貢ぎ物でも送ればよかろう。ただし、ああいった連中はやりすぎると調子に乗るので慎重にな」

 

 ニッと口端を上げながら、ワルドが呟いた。

 

「なるほど、その上で坊主どもの口から『聖地奪還』を言わせればいいのか。三王家はブリミル教をないがしろにしている、何故『聖地』を取り戻そうとしないのだ――と」

 

「うむ。そうして世間の〝風向き〟を変えながらゲルマニア国内を完全に掌握し、国力を増強させ、さらにガリアとの同盟を結ぶわけだ」

 

「確かに、ガリアはロマリアにとって背中にあたる土地。背後を安全にしておかなければ、戦はおぼつかない」

 

「そうだ。そして最後にトリステインの王室と血を通わせることができれば、ゲルマニアが『聖地奪還』の旗手となる大義名分としては充分だのう」

 

「王家と手を取り、聖地を目指す……なるほど、成り上がりのゲルマニア皇帝が好みそうな話ではありますな」

 

 まるで神話で語られる知恵の泉に触れたかのように、頭の中から次々と妙案が湧いてくる。これが『神の本』なのかとワルドは驚嘆した。自分が自分で無くなったようにすら感じる。

 

 とは言うものの、ここまで挙げられたのはあくまで理想論であり、机上の空論に過ぎない。実現できなければ意味がないのだ。

 

「失礼かと存じますが、あなたにはこの案を実行できるというのですか?」

 

 その質問を、太公望は別の角度から斬り返した。

 

「三ヶ月だ」

 

「はっ?」

 

「わしがハルケギニアに〝召喚〟されてから三ヶ月目で既にヴァリエール公爵家及び、グラモン家、モンモランシ家。それ以外にも多数の有力なトリステイン貴族との繋がりを作っている。さらにゲルマニアの大貴族ツェルプストー家とアルビオンの――名は明かせぬが、高貴な血に連なる者との交渉に成功しておる」

 

 ……魔法学院の生徒たちとの間に築いた『繋がり』なのだが、そこは黙っている太公望。そんなことは知らないワルドは唖然とした表情で、太公望の服に付けられた略章を見た。

 

「まさか、花壇騎士団の席もご自身の手で得られたと? と、申し訳ありません。実はその略章は借り物だと思っていました」

 

 その発言に太公望は思わず苦笑した。そして、内心でほっとした。

 

(なるほど、タバサの正体は知られていないか。『ガリアの青』とやらは、想定していたほど民の間には広がっておらぬのだな。ま、学院の職員や生徒たちも知らんようだしのう)

 

「まあ、この見た目だから仕方がない。とうの昔に慣れておるよ」

 

「僕よりひとつ年上だとは聞いていましたが……本当なのですね」

 

「それはさておき、わしはガリア王家との接触にも成功している。その上で、知力面での実力を認められて〝騎士〟(シュヴァリエ)の爵位を賜ったのだ。どうだ? これらの事実はおぬしにとって、わしが〝力〟になると判断するには足りないか?」

 

「あ、いえ、そんなことは……」

 

 実際、身知らぬ土地を訪れてからたったの三ヶ月でこれだけのコネクションを築き、ガリア王国の花形である花壇騎士に叙されるなど自分には無理だとワルドは判断した。貴族の地位はそんなに軽いものではないのだ。

 

「それならばよい。さて、そろそろ交渉に移りたいのだが?」

 

「内容にもよります」

 

「即座には了承しないか。ふふん、気に入ったぞ。では、まずひとつめだ。ラ・ヴァリエール公爵にも言った通り、わしはルイズを戦の道具にするつもりなど一切ない。彼女が心から望むならば話は別だが、できうることならばそっとしておいてやりたいのだ。『伝説』の肩書きは、あの小さな身体には重すぎる」

 

 そう言ってふっとため息をついた太公望は、視線をまっすぐにワルドへと向けた。

 

「よって、わしやルイズ、そして現在主人と呼んでいる娘及び各関係者に関する情報を完全なる極秘事項として扱って貰いたい……それを厳守してくれるのならば、できる範囲内で、わしの知識をおぬしに開示してやろう。急ぎの用件ならば、魔法学院を本拠とするわしに宛てて伝書フクロウを飛ばしてくれてもよい。どうだ?」

 

 神の本の知識。これは間違いなく自分の〝力〟になる。ワルド子爵は了承のかわりに頷いた。

 

「受けてくれるか、助かる。おぬしの誠意に応え、あえて証文の類は作らずに交渉を進めることとしよう。それではふたつめだ。おぬしの軍人としての実力と、その情報収集能力を見込んで依頼する。あえて『レコン・キスタ』に潜入してもらいたい。所謂二重間諜(ダブルスパイ)というやつだ。いや、わしを含むから三重だな」

 

 補足を入れつつ、顎に手を当てて考え込むようなそぶりを見せながら太公望は語る。

 

「既に無能と判断しているが、奴らの本当の目的を絞り込むには情報が足りぬのだ。少し考えればわかるような、愚かな戦をしかける理由。単に既得権益を破壊して富の再分配を狙っているようにしか見えぬのだが、こうも露骨だと何か裏があるのではと考えてしまう。念のために、それ以外の可能性も探っておきたいのだ」

 

「その……対価は?」

 

「おぬしがどちら側についても問題のない策を最後の交渉後すぐに授ける。それによりトリステインでの基盤を確立し、万が一の場合にも自領を保護できる。かつ、もしも『レコン・キスタ』に、実は本当に『聖地』を取り返せる実力があった場合、そちらについてもらっても一向に構わぬ。おぬしのような機転のきく人間ならば、あちらについてもすぐ上へ行けるはずだ。わしの助言は、そのどちらに対しても行う用意がある」

 

「最後の交渉の前に、その策とやらを授けていただくわけには?」

 

「当然の疑問だのう。やはり、おぬしに話を持ちかけて正解であった。実はその最後の交渉――今から話す内容に関連するため、受けてもらえなかった場合、わしは第二及び第三の交渉自体を諦める必要があるのだ。もっとも、第一の交渉についてはおぬしがどちらを選ぶにせよ有効である」

 

(つまり『レコン・キスタ』の情報よりも、ルイズを守ることを優先しているという訳か。それが第二の交渉に関わってくる内容ということは――)

 

 ワルドは必死にここまで開示されている情報を整理しはじめた。そして、気が付いた。

 

「ルイズとの婚約を破棄しろということですか? 僕の身に万が一のこと……二重間諜であることが相手方、あるいはトリステイン側に悟られた場合、彼女を巻き込まないために?」

 

 ワルドの解答に太公望は拍手でもって応えた。

 

「その通りだ。ああ、誤解してもらいたくないのだが。わしは別に彼女やその姉妹のいずれかと結婚してヴァリエール家を乗っ取ろうだなどという、いかにも三流な策士が好みそうなことを企んでおるわけではない。これは絶対だ。なお、この条件を飲んでくれた場合、おぬしに更なる『上』を見せてやる。ルイズの〝飛翔もどき〟を見たであろう?」

 

 この申し出にワルドは硬直した。

 

(通常の〝飛翔〟よりも遙かに速く飛べ、しかも慣れさえすればずっと楽に宙を舞うことができるというアレを詳しく教えてもらえるというのか!?)

 

 『閃光』の名を冠す者として、これは聞き逃せない。

 

「あれを僕にも教えていただけると!?」

 

 先程までとは一転、欲しいおもちゃを前にした少年のような目を向けてきたワルドに対し、内心で驚きつつも太公望は言った。

 

「いや、その前段階だ。この交渉と例の策の説明が終わった後……一時間でおぬしの〝精神力の器〟の大きさを一.五倍にし、さらに〝精神力〟の回復速度を通常の五倍にするための秘技を授けよう。もしもこれが実現できなかった場合には、相応の対価を別途用意させてもらう」

 

 ワルドは驚愕した。

 

(僕の、メイジとしての〝力〟をさらに上げられるだと……!?)

 

 現時点で、ワルドはトリステインで五本指に入る〝風〟の使い手だ。そんな彼がさらに上に到達できるということは――あの規格外の象徴『烈風』にすら手が届くかもしれない!

 

 おまけに、万が一失敗しても別の対価を用意できるという。もしかすると、彼が集めているという強力な魔道具をいくつか授けてくれるのではなかろうか。それはそれで大歓迎だ。どちらに転んでも損は無い。

 

 正直なところ、ルイズは彼にとって妹のような存在であり、結婚すること自体は好ましいことであるのだが――ワルドにとっての最優先事項は、聖地に至る可能性を高めること。太公望の提示してきた内容とルイズとの婚姻を天秤にかけた場合……どちらに傾くかは自明の理であった。

 

「ルイズとの婚約破棄については受け入れましょう。僕としても、今から辿ろうとしている『道』に彼女を巻き込みたくなどありませんから。ただ……第二の条件を飲む前に〝精神力の器〟を大きくする方法だけでも先に教えていただけませんか? それ次第で、受けるか否かを検討させてもらいたいのです」

 

「いいだろう……いや、むしろ〝力〟を求める者として当然の提案だ。ますます気に入ったぞ。幸いにも、現在あの中庭は〝霊穴〟(パワースポット)に近しい状態になっておる。わしが解放した例の道具の効果でな。では……早速」

 

 ――それからわずか三十分後。

 

 ワルドは新たな〝力〟を手に入れ、歓喜した。まさしく彼は『助言する者』だ。いや、もしも彼が〝ミョズニトニルン〟でなくとも関係ない。彼との接触自体が求めていた〝力〟そのものだから。そしてワルドは全ての交渉内容を受け入れ――さらなる〝力〟を得た。

 

 想像以上に実りある交渉結果に満足し、部屋を後にしたワルド子爵を見送った太公望は、思わずため息をついてしまった。

 

「わしは本当に甘いのう。わざわざ面倒な条件を飲んだ上で、いちばん厚い壁を壊してやるとは。ただし、実際に乗り越えるまでの手助けなんぞしてやらぬ。だいたい、そっち方面は管轄外なのだ。ここから先は自力でなんとかせい。ふたりとも、な」

 

 重要な情報の取得に、身内の保護。自分の懐に影響を及ぼさない情報斥候の確保。ついでに才人の前に立ちふさがっていた最大の壁を叩き壊すことに成功した太公望。彼は、結局『仲間』に対してとことん甘い男であった――

 

 

 




数日更新できなかったので、今日も2話です!

以前ちらっと触れましたが、
このように太公望は既にハルケギニア全土の地図を
図書館で入手していたのでした。

つまり、それでもなお

ハルケギニア大陸 = 旧世界のヨーロッパ近隣と形が似ている

という認識が生まれなかったわけですね。
とはいうものの……(以下ネタ語りになるので封印ッ!)


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第49話 烈風と軍師の邂逅、その序曲

 ――歓待二日目の早朝、日の出前の時刻。

 

 あの小さなルイズに『伝説』の可能性がある!? その話を聞いたラ・ヴァリエール公爵と彼の妻は、まるで魂全てが凍り付いたが如き衝撃を受けた。

 

 昨夜遅くに、

 

「ルイズに関することで、どうしてもおふたかたへ内密の……しかも早急にお伝えしなければならないことがあるため、大変恐縮ではありますが、明日の朝食前にお時間をいただけませんか?」

 

 血の気の失せた顔をして、夫妻以外の誰にも見られないよう、細心の注意を払った上でそう申し入れてきたワルド子爵の様子にただならぬものを感じた夫妻は、会談に応じた。

 

 その席で、彼らはこう告げられたのだ。

 

「ルイズは〝飛翔(フライ)〟を使って飛んでいたのではありません」

 

 彼の言葉に即刻反応したのはカリーヌ夫人だった。彼女自身がルイズの〝飛翔〟に強い違和感を覚えていたからだ。あのときは娘の笑顔を見て満足し、そのまま流してしまったが……わざわざワルド子爵が伝えてきたからには何か複雑な理由があるのだろう。それを夫に説明した後、夫人は目の前の青年に続きを促した。

 

「では、あの子はいったいどうやって空を飛んでいたのです? その口ぶりからすると〝浮遊〟(レビテーション)でもありませんね?」

 

「はい、それなのですが。実は〝念力〟(サイコキネシス)を使っていたのです。しかも、例の教師に『将来に備えるため、途中まで〝飛翔〟の呪文を唱えて練習をしなさい』と指示されていました」

 

 ワルドはさらに説明を続けた。〝念力〟は汎用魔法(コモン・マジック)。ルーンではなく口語で紡がれる、系統魔法とは異なる存在。メイジが自分のイメージの手助けをするために、自由にキーワードを指定することができるのが特徴だ。

 

「〝念力〟が口語……確かにそうだ。我々も、窓を開くときにそのイメージを強く描くため『我が〝力〟よ、窓の戒めを解き放て』などと唱え、カーテンを開き窓を押し開けたりしている。だが、そこにあえてルーンを当てはめるという発想はなかった! それにしても妙な話だ。どうしてそんな真似をさせているのだろう? 普通に〝飛翔〟を使えばよいではないか」

 

 公爵の疑問に、ワルドは深く頷いた。

 

「実は僕も閣下と全く同じ疑問に辿り着き……気が付いてしまったのです。その前提として申し上げておきます。あの小さなルイズが大きくなってもまだ失敗を繰り返していると知ったとき、僕はなんとかあの子の力になってやりたいと思いました。そのため、この数年間というもの、暇を見つけては王立図書館へと通い詰めていたのです」

 

 それを聞いたヴァリエール夫妻の顔が、わずかに綻んだ。

 

(知らなかった。この青年は……ルイズのために、わざわざそこまでしてくれていたのか)

 

 夫妻の思いをよそに、ワルドの話は続く。

 

「そこで詳しく調べてゆくうちに、大変なことに気が付いたのです。ルイズの〝爆発〟が、系統魔法では絶対再現できないという事実に」

 

「それは、どういうことかね?」

 

「はい。ルイズの爆発にはとある特徴があったのです。そもそも〝爆発〟という現象を系統魔法で実現する場合は、まず〝土〟で油を錬金し、次にそれを〝火〟の熱で気化させ、さらにもうひとつ〝火〟を重ね、そこに引火させるという手順が必要となるのです。ですので、僕はルイズが最低でも火と土の『トライアングル』なのではないかと考えました」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は唸った。言われてみればその通りだ。自分たちは失敗という事実に囚われ過ぎていて、娘が〝爆発〟というとてつもなく技術と才能を必要とする魔法を無意識で使っていたことに気付けなかった。

 

「ではルイズは火系統なのですか? あなた、確か……」

 

「うむ。わしの父の系統が〝火〟であった。戦にまみれる、罪深き系統だ」

 

 沈痛な表情を浮かべたラ・ヴァリエール公爵へ、ワルドは果たしてこれ以上告げるべきか――と、葛藤するような顔で、さらなる衝撃をもたらした。

 

「それが〝火〟ではないのです。ルイズの〝爆発〟には特異性がありましたから」

 

「その特異性とは?」

 

「燃えていないのです。もしも〝火〟と〝土〟を重ねることで発生した爆発ならば、ルイズが失敗したときに、その余波で火災が起きていてもおかしくなかったにもかかわらず、せいぜい机が壊れるか、煤で汚れる程度でした。ルイズ自身も火傷など一切負っていませんでした。こんなおかしな性質を持つ呪文は、少なくとも四系統には存在しません」

 

 それを聞いたカリーヌ夫人が、はじけたように立ち上がった。

 

「確かにその通りですわ、あなた。あの子が失敗したときに何かが燃えたなどということはありませんでした。それは実際に教えていたわたくしがいちばんよく知っています」

 

 系統魔法では再現できない爆発。先住ではありえない。ならば、残るは……。

 

「ま、まさか……あの子の系統は始祖の系統たる〝虚無〟だと……?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は心の奥底が冷えていくように感じた。

 

(もしもその推測が当たっていたら、最悪の場合トリステインはふたつに割れてしまう。いや、それどころかロマリアの介入を受け、属国にされてしまうかもしれん!)

 

 〝虚無〟は『始祖』ブリミルの直系である三王家、またはブリミルの弟子・聖フォルサテの血を受け継ぐ者にしか現れないとされている伝説の系統だ。公爵家は王家の傍流。その主人たるラ・ヴァリエール公爵はトリステインの王位継承権第三位を持っている。

 

 ……おまけに、ヴァリエール家には昔から不思議な特徴があった。

 

 一般的な貴族は、家ごとに系統がほぼ定まっている。それは王室とて例外ではない。

 

 たとえばトリステイン王家は優秀な〝水〟メイジを多く輩出しているし、国境を挟んで隣接するフォン・ツェルプストー家などは代々〝火〟系統を得意としてきた。アルビオンのテューダー家は〝風〟の使い手として名を馳せている。

 

 ところが、ヴァリエール家には得意な系統が存在しない。現当主のピエール・ド・ラ・ヴァリエール公爵は〝水〟メイジだが、彼の父親は〝火〟系統。祖父も、曾祖父も、さらに歴史を遡ってみても父と子の系統が同じだった例は稀だ。

 

 かといって母方の血が出ているわけでもない。実際カリーヌ夫人は〝風〟だが、長女のエレオノールは〝土〟の『トライアングル』だ。通常、反属性の風メイジから土系統の子は産まれにくい。そもそも別系統が出てくること自体珍しい。

 

 『始祖』の流れを汲み、何故か得意とする系統が定まらぬ家系。不敬な物言いだが、いつ〝虚無〟という名の当たりくじが出てもおかしくない土壌が揃っている。

 

 ……そして、もしも『始祖』の〝虚無〟が出たと知れたら。

 

「始祖の血を最も強く受け継ぐヴァリエール家こそが、トリステインの正統な王室だ」

 

 などと言い出す者たちがほぼ間違いなく現れる。困ったことに、現在トリステイン王国の王座は空位だ。それも、正統な王位継承者が頑ななまでに即位を拒んでいるがために。

 

 少なくとも、ラ・ヴァリエール公爵に王位簒奪の意思はない。彼はトリステイン王家に絶対的な忠誠を誓っている。とはいえ宗教を前面に押し出された場合――自分たちを擁立しようとする勢力に反抗すれば、それはそれで面倒なことになる。〝虚無〟とはそれほどまでに重いものなのだ。

 

 無意識に指で眉根を押さえながら、公爵は己の考えに没入する。

 

(トリステインの乗っ取りを企んでいるなどとと噂されているマザリーニ枢機卿の動き次第では、あえて立ち上がることも視野に入れなければならんが……その場合、現王家が公爵家という扱いになってしまうのか。ただ、そうなれば当然のことながら内乱になるだろう……)

 

 それよりも〝虚無〟を受け継ぐミス・ルイズこそが女王に相応しいなどとして、宮廷内で暗躍が始まる可能性のほうが高い。為政者として名を馳せている公爵よりも、何も知らない娘のほうが傀儡にし易いと判断する者は大勢いるはずだ。

 

 そして、それ以上の最悪はロマリア皇国連合――ブリミル教の総本山に介入を受けることだ。

 

 ルイズを『虚無の巫女』などと祭り上げた挙げ句、聖地奪還運動を再開するかもしれない。娘に命の危険が及ぶだけでなく、絶対に戦争を回避できないという意味でこちらのほうが重大だ。しかも、その場合敵になるのはエルフである。どれほどの数の死者が出るのか想像もつかない。

 

 青ざめた顔で自分を見つめる夫妻に、ワルドは同じく血の気が失せた表情で告げた。

 

「僕も当初はお二方と同じように考え、身震いしました。ちょうどそのときです、エレオノール殿から『ルイズが風系統に目覚めたので、その祝いの宴に出席して欲しい』という招待状が届いたのは。それを見たとき、僕は心の底から安堵しました。良かった、彼女は()()ではなかった。それどころか夫人や僕と同じ風系統だったのだと。ですが、あの〝飛翔〟を見てしまったとき――心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けました……」

 

「念力による〝飛翔〟を騙った、あれ……ですか」

 

「ええ。あれを見たとき、疑念が恐怖に変わりました。そこでルイズに尋ねたのです。それを教えてくれたのは、いったい誰だい? と。その結果行き当たったのです。例の、東方の学者殿に」

 

 ワルドは沈痛な色を顔に浮かべ、語り続けた。

 

「絶対に彼から真意を聞き出さねばならないと決意しました。ですが、今日中にトリスタニアへ戻らなければならない僕には時間の余裕がありません。かといって、薔薇花壇騎士団の略章を身につけた彼に杖を向けたりしたら、最悪ガリアと戦争になる可能性が……」

 

 そこでよくよく相手を観察したところ――彼は疲れていた自分を気遣って非常に高価な魔道具を惜しげなく使い、騎士でありながら戦いを望まぬ穏やかな人物であると感じた。

 

 よって、かなり強引な手段ではあったが、公爵家への礼儀にもとる行為とは承知の上で、あえて彼の連れに模擬戦を申し込んだ。彼ならばほぼ間違いなくそれを阻止し、その際にうまく事を運べば個人的な話し合いの機会が持てるのではないかと考えた上で。

 

「今思うと、もっと良い手段があったはずなのですが……あのときは恐怖と焦りのあまり、とんだ真似をしてしまいました。改めて、お詫び申し上げます」

 

 しきりに恐縮するワルドに、夫妻は事態の深刻さにも関わらず苦笑いをしてしまった。

 

「それであんな真似をしたのかね。君ともあろう者が、おかしいと思っていたのだよ」

 

「まったく。困った子ですこと」

 

「いやはや、情けない限りです」

 

 額に浮いた汗をぬぐい、ワルドは続けた。

 

「幸い、うまく会談の機会を得ることができました。そこで直接尋ねたのです。彼女の特異性について僕は既に気付き、調べもついている。その上で、貴君は彼女の真の系統を知っているのではないか? だから、あのような教え方をしているのではないか、と。すると、彼は僕の手を取ってこう言ったのです。やっと話せる人物に巡り会えた、これも『始祖』のお導きであろう、と」

 

 ――そしてワルドは語った。例の祝宴の席で語られた『炎の勇者』の話を。

 

「かの勇者殿はその業績にもかかわらず……どこから来たのか定かではないのだそうです。彼の国の伝承によれば西の彼方――学者殿曰く、東方から見た西。つまり、このハルケギニアからやってきたのではないかという仮説が立てられているのだとか」

 

 ワルド子爵は必死に()()の言葉を思い出しながら、手を顎に当て言葉を紡ぐ。

 

「その勇者が使う魔法は確かに炎のように見えてこそいたものの……系統魔法では説明できない、不可思議なものが数多く存在したそうです。そのひとつが炎の生じない爆発だったのだと」

 

「つまり……ルイズの〝爆発〟と同じもの、だね?」

 

 公爵の確認にワルドは頷いてみせた。

 

「はい。当初は魔法の失敗とされていたらしいのですが、後年、彼は意図的にその失敗魔法を攻撃に用いるようになったのだとか。系統魔法よりも遙かに簡単に、しかも短い詠唱で起こせる爆発は彼にとって最大の武器だったのだと、古文書に残されているそうです」

 

「勇者の系統に関する伝承は残っていなかったのかね?」

 

「ええ、そこまでは。あえて伏せられていたのかもしれないと学者殿は仰っておられました。その上で、ルイズの〝爆発〟を見た彼はすぐさま彼女と勇者の関連性に思い当たり、同時にその危うさに気が付いたため、系統に関係なく使える〝念力〟によってそれらしい事象を発生させ、彼女に疑いがかけられることがないよう偽装し、誰にも……自分が仕える主人やガリア王家はもちろんのこと、ルイズ本人にすら明かさず、これまで沈黙を守ってくれていたのだそうです」

 

 それを聞いたラ・ヴァリエール公爵は深く頷いた。

 

「確かに、ルイズ本人に系統の可能性について全く打ち明けなかったのは正しい判断だ。わしでもそうする。あの子は潔癖すぎて、上手く嘘をつくことなどできないからな。それは貴族としての美点ではあるのだが、時と場合による」

 

 夫の言葉に、妻も同意を示す。

 

「その上で風系統に見せかけていただけではなく、本当に風系統だった場合についても備えてくれていたとは。想像以上に思慮深い方ですのね、かの学者殿は。おまけに騎士として忠誠を誓うガリア王家にすら一切情報を開示していないとは。まだ確定に至らない段階にもかかわらず、これほど娘と我が公爵家を気遣ってくれていたなんて」

 

 さらにワルドは言った。

 

「彼はこの歓待行事を待ち望んでいたのだそうです。滞在中に閣下と夫人にのみお伝えしようと決意してはいたものの、どうやってその機会を作るか悩んでいたのだとか。そんなとき、自分以外の誰にも辿り着けなかったルイズの可能性に気付き、その身を心から心配していると思しき僕が現れたため、学者殿は縋るような思いでメッセージを託してくれたのです」

 

「なるほど。それで、彼はあのとき『炎の勇者』の話を持ち出したのだな」

 

「その通りです。もしもご家族のうち誰かがその話で気付いてくれれば、そこから秘密裏に直接会談の機会を得られるのではないかと考えておられたそうで」

 

 カリーヌ夫人は静かに首を振った後、ワルドの目をまっすぐ見据えた。

 

「わたくしたちはかの学者殿にも、あなたからも大きな恩を受けました。どうやってこれを返したらよいのでしょう? 本当に、よくぞ発見し……話してくれました」

 

「まったくだ。まだ可能性に過ぎないが、もしも我々が知らないところでルイズが失われた系統に目覚めてしまったとしたら! 考えただけで、ぞっとする」

 

「ええ。僕のような疑念を持つ者や、学者殿のような優秀な研究者が再び東の地からハルケギニアを訪れるというような()()が起きてしまった場合。しかも、それが学者殿のような分別を持たぬ者だとしたらどうなるか……結果は見えています」

 

「そうですね。復活の可能性がある以上、わたくしたちはそれに備えねばなりません」

 

 ――復活に備えなければならない。

 

 これはワルド子爵が待ち望んでいた言葉だった。彼はついに踏み出した。『神の本』との契約。そして己の信念のために征かねばならぬ『道』の第一歩目を。

 

「僕もそう考えます。そこで、念のため確認させていただきたいのですが。閣下は『レコン・キスタ』に関する情報をどの程度お持ちですか?」

 

「例の『国境を越えた貴族連盟』とかいう連中か? 『王権打倒』『聖地奪還』などという世迷い言を抜かしてアルビオンの反乱勢力と手を組んだらしいな。最近、その影響で王党派がやや押されぎみになってきているようだ」

 

 そこまで言うと、ラ・ヴァリエール公爵は深いため息をついた。

 

「本来であれば同盟国である我がトリステインから援軍を出すべきか否か、早急にアルビオンの王室へ確認すべき案件なのだが、宮廷に巣くう一部の愚か者共が反対しておる。その他にもいくつか気になることはあるが……それが、どうかしたかね?」

 

 ワルドは素直に感心した。さすがは政治家として名高いラ・ヴァリエール公爵、周囲が見えておられる。しかも『神の本』が得ていない情報を既にいくつか手に入れているらしい。

 

「申し訳ございません、その件につきましては今少し情報をいただいてからお答えしたいのですが……閣下が他にお気になさっていることとは、いったい何でしょう?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は立派な髭をしごきながら口を開いた。

 

「ふむ……君が無意味な質問をするとは思えんし、話しておこう。実はな、やつらと同盟を組んでからというもの、王党派から反乱勢力側に寝返る者が増えておるらしいのだ。理由はわからん。ただ単純に全体の数が増えたから、などというような事情ではなさそうだ。探りを入れておきたいところだが、内部に潜らせることができるほど優秀な間諜がわしの手元には……」

 

 そこまで言ったラ・ヴァリエール公爵は大きく目を見開いた。

 

「まさかワルド子爵! 君は……!」

 

「はい。その『レコン・キスタ』に潜り込むつもりです。実は……つい最近、連中から接触があったのです。僕を優秀な貴族と見込んで仲間に加えたいと」

 

「馬鹿な! 何故そのような危険な真似をする!? いや、そうか。君は!」

 

「はい。もしもアルビオンが陥とされた場合、次に連中の標的となるのは我らが祖国トリステインでしょう。さらに、やつらが都合のよい御輿として〝失われた系統〟について調査していないとも限りません。この時期にわざわざ向こうから接触してきたのは、国を護れという『始祖』ブリミルの御託宣なのではないかと」

 

 カリーヌ夫人の瞳に強い光が宿った。

 

「本気ですか?」

 

 その目をまっすぐと見返し、ワルドは答えた。

 

「はい。未熟者であることは充分に承知しておりますが……それでも、やらねばなりません」

 

 その答えにラ・ヴァリエール公爵は苦悩に満ちた目をして天を仰いだ。

 

「君以上に優秀な者など、このわしがトリステイン中を探し回ったとしても見つけ出すことなどできんよ。だが、そんなことをしたら……!」

 

「わかっております。万が一を考えると、ヴァリエール公爵家にご迷惑をおかけするような真似はできません。よって……ルイズとの婚約を破棄させていただきたく存じます。彼女には……既に婚約は破棄されていたと伝えてください。何故かあの子はそう信じ込んでいるように感じられましたから。もしかすると、既に誰かが心の中に住んでいるのかもしれませんね。長い間、彼女を放っておいた自分が悪いのですが」

 

 そう言って自嘲するワルドを見たカリーヌは、思わず叫んだ。

 

「何故です? どうしてあなたがそこまでする必要があるのですか!?」

 

 カリーヌの問いに、ワルドは寂しげな笑みを浮かべて答えた。

 

「父が亡くなったあと……僕はトリスタニアに出てすぐに騎士見習いとなりました。その後、異例の速度で出世できました。閣下は何も仰いませんが、裏で何かと手助けをしてくださっていたのではありませんか?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は何も言わない。だが、瞳がそうだと語っていた。

 

「ご恩返しをさせてください。このようなことを言うのはおこがましい限りですが、僕は閣下と夫人を、本当の両親のように思っておりました。そして、小さなルイズやエレオノール殿、カトレアのことは……大切な姉妹だと。僕は、家族を守りたいのです」

 

 しばしの沈黙のあと――最初に口を開いたのはラ・ヴァリエール公爵だった。

 

「ワルド子爵領についての心配はいらん。活動資金について不足があれば、遠慮なく申し出たまえ。ただし、秘密裏にな。いや、君にこのようなことを言うまでもないか」

 

「あなた!」

 

「ご配慮痛み入ります。自領の民と、昔から僕に仕えてくれている従僕たちのことだけが心配だったのです。これで後顧の憂いなく、やつらの根城へ潜入できます」

 

 決意に満ちたワルドの言葉に、しばし立ち尽くしていたラ・ヴァリエール公爵は……ゆっくりと彼に近寄ると、その身をしっかりと抱き締めた。

 

「ワルド子爵。いや、ジャン。わしも、お前を本当の息子だと思っている。できることなら、お前にヴァリエール公爵領を継がせたかった。いいや、継がせたいという思いは変わらん。だから絶対無事に戻ってきてくれ。それがわしから出す唯一の命令だ。これを違えることはまかりならん」

 

「わたくしもです。なればこそ――あそこまで厳しくあなたをしつけて参りました。朝食後に最後の稽古をつけてあげます。ただし、いつもよりずっと軽めに、ですが」

 

 ワルドは内心で呻いた。

 

(しまった、カリーヌ夫人の件も彼に話しておくべきだった! まだまだ僕は詰めが甘い。もっと研鑽を積まなければいけないな。でも、全力でこられるよりましだ。前向きに考えよう……)

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ヴァリエール公爵家の一画。従者たる太公望と才人に用意された客室にて。

 

「ククク……見事に演じきったようだな、ワルド子爵は。このわしが見込んだだけのことはある。しかし、稽古とはなんのことだ? 彼らの声音から判断するに、策を見破られたわけではなさそうだし、やはり作法がらみであろうか? 昨日はえらくやらかしてしまったからのう」

 

 守袋に入れ、ワルドに渡した超軽量の小型集音宝貝によって集められた音声を、手元の通信機を介して受け取っていた太公望は策がうまくはまったことに安堵していた。

 

(気になる発言はあったが、それについては改めて調査すればよい。本来ならば、このままアレを持たせておきたいところなのだが……誰かに見つかると面倒なことになる。予定通り朝食の前に回収するとしよう)

 

 太公望はそう独りごちた。

 

 ……実のところ。ここまでの彼らの会話は、全て太公望が書いた脚本によるものである。

 

 ルイズの使い魔に関する情報を出さず、かつ、ワルドの立場を一切貶めず『レコン・キスタ』への潜入を実現させるために書かれた筋書きであり、ヴァリエール公爵家に迫る危機〝虚無の目覚める可能性〟を、より自然に伝えるための策。

 

 また、ルイズとの婚約破棄を「ルイズなどいらない」という拒絶の意味ではなく「家族を守りたいから」という献身的な行動としてヴァリエール公爵夫妻に納得させ、彼らの強い好意と信頼をワルド子爵に向けさせるためのもの。これが『第二の交渉』を受け入れた彼への対価であり、太公望が切った大逆転のカードだ。

 

 さらにトリステインの内乱を避けるため、ラ・ヴァリエール公爵の戦を好まないという希有な性質を太公望がわずかな期間で見抜いた上で、ルイズの系統に関して彼女の両親にのみ警告を行いつつ、ワルドを金銭だけでなく心理的にも支援させるという大技を決めた瞬間でもあった。

 

 もちろん、太公望が『炎の勇者』云々などという言葉が飛び出してくる三文芝居じみた策を練ったのには然るべき理由がある。この脚本を与える前に、彼はワルドへこう助言していた。

 

「ワルド子爵。おぬしには政治家として必須ともいうべき才能がある」

 

「僕に政治家の才能、ですか? 一体どんな……」

 

「演技力だよ。宮廷に勤めているだけあって各種所作が洗練されておるし、何より嫌味がない。これはある意味、魔法よりもずっと希有な能力だぞ? 時間があるときに軍事だけではなく政治、特に外交についてより詳しく学んでおくがよい。将来、必ずおぬしの役に立つであろう」

 

 太公望からこう告げられたとき、ワルドは感激していた。何故なら国を構成する駒のひとつとしてだけでなく、盤面全てを動かす者を目指せ。お前にはそれができるだけの才能がある。そう言われたに等しいからだ。それも『神の頭脳』と思しき存在から。

 

「確かに、前線に立つ軍人であれば『聖地』に至る〝力〟を得やすいという考えには賛成だ。だがのう、突然の怪我や病気で戦えなくなったら一体どうするつもりだったのだ?」

 

「そ、それは……」

 

 ひたすら目的に向かって邁進していたワルドは、保険になるような代案を用意していなかった。トリステインの近衛衛士隊長とはいえ、貴族としての位はさほど高くない。潤沢な資金があるわけでもない。彼は今を駆け抜けるだけで精一杯だったのだ。

 

「なればこそ、ヴァリエール公爵家との繋がりを強く残しておく必要があるのだ。思うように身体が動かないのなら、代わりの手足を用意すればよいのだと考えよ!」

 

「それが政治家になる、ということですね」

 

「うむ。ヴァリエール家の後援を受け、政界という名の戦場に立て! 目的地へ至るための『道』はひとつではない。なればこそ、あえて高い演技力が必要となるこの策をおぬしに授ける」

 

 この太公望からの助言はワルドにとって非常に大きかった。おもに、彼の焦りやすい精神を安定させるという意味あいで。実際これはとてつもない保険であろう。何故なら『聖地へ至る』という先が見え辛い状況の中で、なんと四つもの選択肢を与えられたのだから。

 

 さらに言えば、常に陰謀渦巻くトリステインの宮廷内で叩かれ、鍛え続けられてきたワルド子爵の演技力は、事実相当に高いものであった。

 

 そしてワルドは太公望の期待に見事応え、国内でも有数の目利きであるラ・ヴァリエール公爵夫妻を相手に、彼らの本当の目的を一切悟らせないというとてつもない偉業を達成した。いくら太公望の脚本があったとはいえ、演技の下手な大根役者ではこうはいかなかっただろう。

 

 ――それから間もなくして。

 

 部屋を後にしたワルド子爵の後ろ姿を見送ったラ・ヴァリエール公爵夫妻は顔を見合わせ、共に深いため息をついた。

 

「ジャン、いやワルド子爵ならば必ずやこの困難な任務を達成してくれるだろう。しかし、問題はこれを伝えてくれた学者殿だ。主人やルイズに対する気遣いなどを見ても、彼が分別を持った人物であろうことは間違いないとは思うのだが……全てを信用するにはまだ時間が足りないな」

 

「わたくしもそう思います。用心をするに越したことはありません。なにしろ家族のみならず――トリステイン王国全体に関わる重要事なのですから」

 

 そう言って自分を見返してきた妻の目の中に、ラ・ヴァリエール公爵はなにやら不穏なものを感じ取った。そこで、彼は先手を取るべく動いた。

 

「カリーヌ。わしは彼と()()()()の機会を持とうと思うのだが、どう思うかね?」

 

「ええ、そうですわねあなた。彼を見極めるためにも必要なことでしょう。その上で、杖をもって解決するのが我ら古い貴族というもの」

 

「い、いや、そうではなくてだな……!」

 

 こうして、ヴァリエール公爵家の書斎にてトリステインの古き伝説が立ち上った。『力強き風』『烈風の騎士姫』『鋼鉄の規律』。彼女がいったんこうと決意したら、もう誰にも止められない。家族どころか姫殿下にも、王妃殿下ですら不可能だ。

 

「た、頼むから、国際問題にまでは発展させないでくれよ……」

 

 妻に見られないよう、そっとマントに縫いつけてある内ポケットからごく小さな薬壜を取り出したラ・ヴァリエール公爵は、壜の中に入っていた液体をぐいと口内へ流し込んだ。

 

 末娘の問題のみならず、妻のことでも深い心労を重ねてしまった彼の胃には、いい加減安らぎが必要であった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――朝食の時間になった。

 

 だが、才人はどうにも起きる気になれなかった。そこで、同室の太公望へ体調が悪いから……と仮病を使って朝食会への出席を断った。

 

 そして、やわらかいベッドの上で、肌触りの心地よい掛け布団を肩のあたりまで掛け、ぼんやりと天井を見つめていた。彼は唐突に東京の自宅二階にある自分の部屋のそれを思い出そうとした。だが……天井どころか部屋の中すら脳裏に浮かび上がってきてくれない。

 

 才人は何だかせつない気持ちでいっぱいになった。

 

 それから三十分程して。扉を軽くノックする音がしたと思うと、部屋に誰かが入ってきた。太公望が戻ってきたにしてしては早すぎる。だが、なんとなく他人と顔を合わせるのが嫌だった才人は布団の奥に潜り込んだ。

 

 何やらカチャカチャと音がする。陶器と、金属が微かに触れ合うような音。どうやら誰かが気を利かせて才人の分の朝食を部屋へ運んでもらうよう、頼んでくれたらしい。こういうことをする人物が誰であるのか、彼には心当たりがあった。

 

 その気遣いまでも今の才人には何だか寂しく思えてしまい、

 

(絶対食べてなんかやるもんか!)

 

 などと意地を張り、ふて腐れたように寝返りを打った。

 

 ところが、その直後。空気中を漂い鼻孔をくすぐった香りが彼の胃腸を刺激した。ぷんと漂う、ほんの少し焦げた腸詰めと、いい塩梅に溶けたバター。そして焼きたてのパンの芳香が彼の脳を、鼻孔を通じて直撃した。

 

 からっぽの胃袋が、唾液の溢れた口が、早く寄越せと騒ぎ始める。ちょっとした意地と本能的欲求が葛藤を続けた結果――五分程度で重かった才人の身体を起き上がらせることに成功した。

 

「なんか悔しいけど、うめえ……」

 

 朝食は一日の活力。全てを腹におさめた後に飲んだお茶が、身体中を巡っていた淀んだ水を押し流してくれたような気がして……酷く落ち込んでいた才人の気持ちがほんの少しだけ回復した。

 

「外で、身体動かしてくるかな」

 

 少しは気晴らしになるかもしれない。そう考えた才人はいつも魔法学院で着ている従者用の平服に着替え、デルフリンガーを背負うと――そっと部屋を後にした。

 

 実のところ。ほんの少しだけ彼の元気を回復させたこの朝食を用意させたのは、太公望ではなくルイズだったのだが……このときの才人は、まだそれを知らなかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして、朝食とは思えぬほど豪勢な食事を終えてから約一時間後。

 

「東方から来たという貴君に、ハルケギニアの魔法に関する見解が聞いてみたい」

 

 というラ・ヴァリエール公爵からの申し入れを快く受けた太公望は傍聴を希望する者――突如元気をなくしてしまい、欠席を申し出たルイズと、そもそも朝食会に出席していなかった才人、そしてカリーヌ夫人と連れ立って移動したワルド子爵を除く者たちを前に「あくまで個人的な見解で申し訳ございませんが」という断りを入れた上で、それを述べていた。

 

 ちなみに、この父の発言に露骨なまでに大きな喜びの反応を示したのは当然のことながらエレオノールだった。彼女はわざわざ大量の紙と羽根ペンを用意して『講義』に参加している。同じく、コルベールもほぼ同様の装備でこの得難い機会に備えていた。

 

「まず、結論から述べさせていただきますと。『始祖』ブリミルは為るべくして神と崇められる存在となった。これに尽きますな」

 

 いきなり自分の研究対象たる『始祖』がらみの発言。魔法を語る以上、ある意味当然の内容ではあるのだが、この言葉にエレオノールの眼鏡がキラリと光る。

 

「それはいったいどういった意味で、ですの?」

 

「はい。こちらへ来てから改めてブリミル教の教義や、過去の歴史書などを調べたところ『西方』における系統魔法は『始祖』ブリミルの手によって、現在のような形でメイジたちの間に広められたとされておりました」

 

 ニッと笑って片手指を1本立てながら、さらに続けた。

 

「つまり、裏返せば『始祖降臨』以前は全ての魔法が魔法語ではなく、汎用魔法(コモンマジック)のように全て口語によって行使されていた。いや、そうする必要があったという可能性が考えられるからです」

 

 その発言に場がどよめいた。

 

「口語の必要があった!?」

 

「それは先住魔法ということですか?」

 

 コルベールたち研究者の質問に、太公望は首を横に振る。

 

「いいえ。そもそも〝先住魔法〟とは、場に存在する〝精霊〟と契約することで発動するものだと聞き及んでおります。そうではなく、世界に溢れる粒状の小さな〝力〟をメイジが持つ〝力〟と〝力在る言葉(ルーン・ワード)〟を併せて用いることによって操作する。これが系統魔法とされるものです」

 

「世界に溢れる〝小さな力〟とは?」

 

 エレオノールの質問に、しごく真面目な表情で答える太公望。

 

「我が国において、研究が進められている〝星の意志〟と呼ばれるもののことです。これらは、肉眼では到底見えないほどにごくごく小さなもので、この世界のあらゆる場所に溢れております。特に〝霊穴〟(パワースポット)と呼ばれる場所に強く宿っており、具体例として『ラグドリアン湖』『トリステイン魔法学院』などが挙げられます」

 

 水の精霊が住まうラグドリアン湖はともかく、魔法学院にそのような〝力〟がある!? 当然、それを聞いたラ・ヴァリエール公爵家のひとびとは驚いた。だが『お客さま』達には一切動揺が見られない。何故なら、彼らは既に魔法学院がそれを前提として建造されている事実を知らされていたからだ。

 

「これは、あくまで個人的な見解なのですが……」

 

 そう前置きをして、太公望は持論を展開し始めた。

 

「ルーンが『始祖』ブリミルによって発明、あるいは持ち込まれる以前は、たとえば簡単な〝風〟を起こすのにも〝念力〟を使い、しかも非常に難解な、自然の法則に関する知識――そう、自然科学の理論を学んだ者でなければ、まともに吹かせることなどできない状態だったのではないかとわたくしは愚考致します」

 

 〝念力〟で風を起こす。この発言を聞いたラ・ヴァリエール公爵は、太公望と視線を合わせて頷いた。それに瞳を動かすだけで応えてきた相手を見て、公爵は理解した。自分の発した『魔法の話が知りたい』というメッセージを、彼は正しく受け取ってくれたのだと。

 

「それが劇的に変わったのが六千年前。そう、ルーンの出現によって、です。『始祖』ブリミルはこの〝力在る文字〟を組み合わせることで〝力宿る言葉〟とし、メイジとしての才能を持つ者ならば簡単に魔法を行使できることを発見、あるいは知らせたのです」

 

 太公望は例の如く『打神鞭』を手に持ち、教壇に立つ教授のように説明を続ける。

 

「しかも! それを自分の家族……現王家だけで独占せず、メイジたちの間に等しく広めた。これほど度量が広く、かつ慈愛に満ちた存在が神として崇められるようになったのは、至極当然の成り行きなのではないでしょうか」

 

 再びどよめく講義会場。

 

「こんな角度から見た系統魔法の理論なんて、初めて耳にしたわ!」

 

「『始祖』に関する見解もじゃ。論文にして公開したら、宗教界が湧くじゃろうて」

 

「……」

 

 タバサ自身も魔法から受けた恩恵は計り知れない。現状をもたらした原因とも言えるが、さすがにそれは「ナイフで腕を刺されたから作り手を恨む」ようなものだ。決して『始祖』ブリミルが悪いわけではないと理解できる。普段は信仰心の薄い彼女だったが、この話を聞いて、

 

(昼食前の礼拝は、もう少し感謝を込めよう)

 

 そう思える程度には『始祖』に対する認識を改めさせられた。

 

 ご主人さまがそんなことを考えているとは露知らず、太公望の話は続いている。

 

「ただ……あえて欠点を述べるとするならば。汎用性を持たせすぎたが故に〝力〟が足りない者が系統魔法を扱おうとすると何も起きない。逆にありすぎる者が使うと〝力在る文字〟の組み合わせによる枠内に収めきれず、爆発を起こしてしまうのでしょうな」

 

 太公望はそう言って、頭を掻いた。

 

「本来であれば、魔法というものは〝力〟のコントロールを前もって身につけてから扱うべきなのですが、何故か『西方』からはこの技術が失われてしまっているようですな。その理由まではわかりませぬが」

 

「つまり、あなたの国にはその技術が残っているということですわね?」

 

「その通りです、エレオノール殿。それが故に〝爆発〟させてしまうほどに強い〝力〟を持つ妹君にコントロールの方法をお伝えし、まずは系統が一切関わらない〝念力〟を用いることによって、基礎から徹底的に学び直していただきました。なお、これについてはそちらにおられるミスタ・コルベールの尽力が大きいのです」

 

 必死に講義内容をメモしていたコルベールは突然の指名に驚いた。だが、すぐに立ち直ると、かつて自分が生徒たちに行った講義――汎用魔法に関する歴史的発見に関する理論を発表した。

 

 なお、ここでは汎用魔法を調べるに至った経緯は含まれなかった。その話を出してしまうと、ルイズが伝説の使い魔を〝召喚〟していることに触れてしまうからだ。

 

「まさか〝光源(ライト)〟が火の系統魔法だったなどとは!」

 

 という驚愕の声をラ・ヴァリエール公爵が発すれば。

 

〝魔法探知〟(ディテクト・マジック)については、とてもよくわかりますわ。流れを解析するための魔法が水に属するというのは、わたしにも理解できる説明です」

 

 その娘、カトレアが研究に対する理解を示すと。

 

「おそらくじゃが、われわれメイジの感覚的な慣れによって、特に簡単な初歩の初歩の初歩である一部の系統魔法が、長い年月を経てコモンに組み込まれたのじゃろうて」

 

 このように、コルベールの上司であるオスマン氏がそれを後押しした。

 

「ミスタ・コルベール」

 

「はい、何でしょう?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵の呼びかけに視線を向けたコルベールは仰天した。突然公爵が立ち上がって自分の元へ近寄り、彼の両手をがっしりと掴んだからだ。

 

「貴方の発見は娘を救ったのみならず、歴史的な意味でも大きな成果だ。もしよろしければ、それを論文に纏めてわしに預けてはもらえないだろうか? わしが直接王室に献上しよう」

 

 ラ・ヴァリエール公爵の言葉にコルベールは目を大きく見開いた。

 

「心配されることはない、もちろん貴君の名前でだ。わしの名誉を賭けて誓おう。これは我が国にとって大変に価値ある発見だ。何故なら、子供たちに教える最初の魔法として最も適切なものが何であるのかを完全に確定できたということなのだから。これはまさしく大手柄。王家から直接、勲章どころか領地を下賜されてもおかしくない程の働きだ」

 

 それに賛意を示したのはエレオノールだ。

 

「わたくしもそう思いますわ。これはトリステインの教育レベルを上げるという意味において、大きな一歩となる発見ですもの! ただ、もしもアカデミーを通した場合……その、お恥ずかしい話ですが、誰かに研究成果を横取りされる危険があります。父さまから直接でしたら、間違いなく王室に宛てて届けられますから」

 

「そ、そんな畏れ多い! そもそも私は研究一筋で、領地を切り盛りするような器量はございませんし、だいたいですな……」

 

 心底慌てたといった口調でそう言ったコルベールは視線を太公望に向けた。ところが、その相手は彼を制すると、こう言って()()()の後押しをした。

 

「でしたら、年金が出る勲章をいただいた上で、それを今後の研究費に充てるというのは如何でしょうか? これならば領地運営の手間もなく、しかも毎年決まった額のお金が受け取れるので、予算が組みやすいと思うのですが」

 

 その案にラ・ヴァリエール公爵が同意の頷きを返した。

 

「それは良い考えだ。万が一勲章が出ない、あるいは功績に相応しくないものが与えられるようなことがあった場合、ラ・ヴァリエール公爵家の当主としてミスタ・コルベールの歴史的大発見に相応しい額をお支払いしよう。貴方は娘を助けてくれた、大恩人だ。親として、そしてトリステイン貴族として相応の礼をさせて頂く」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は心の底からコルベールに感謝していた。もしも彼が〝念力〟に関する発見をしてくれていなかったら……最悪の場合、ルイズは未だ魔法が使えず、その才能にも関わらず潰れていたかもしれない。いや、それ以上に『東の学者』が彼女の真の系統に思い当たっても、正体を偽装してくれる余裕が生まれなかった可能性があったのだ。

 

 ……と、そのやりとりを側で聞いていたオスマン氏がぽんと手を叩いた。

 

「そういえば! 勲章で思い出したのじゃが……わしがルイズ君の大手柄について王家に申請した〝騎士〟(シュヴァリエ)の勲章は、いまだ受勲に至っておりませんな」

 

「オールド・オスマン。わしのところにそのような話は来ておりませんが。だいたい、その『大手柄』の件についても初耳なのですが?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵の発言にオスマン氏は、

 

「そんな馬鹿な! あれほどの話がお耳に入っておりませなんだか!」

 

 などと驚きつつも、例の『土くれ』捕縛に関する件を話した。もちろん、一部魔法学院や自分に関して都合の悪い点はぼかしつつ。

 

 話を聞いたヴァリエール公爵家の一同は嘆息した。勲章云々に関することではない。末の娘が行った無謀な行いに対して肝が冷えたからだ。

 

「まったくあの娘ときたら……自分から、しかもまだ魔法がろくに使えなかった時期に、そのような危険に飛び込むとは!」

 

「正直、あの子らしいことですけれど……さすがに驚きましたわ」

 

「おちびったら、もう! 確かに母さまは『貴族たるもの、背中を見せてはなりませぬ』などとおっしゃいますけど、それは自分から危機へ飛び込めという意味などではないわ!」

 

 この言葉を聞いた太公望はピクリと眉を動かした――それは何故か。とてつもなく嫌な予感が襲いかかってきたからだ。

 

 背中を見せてはいけない。つまり戦いから逃げるなという意味だ。そのような教えを、息子相手にならばまだしも娘に対して行う母親……そして、今朝耳にした『稽古』という言葉。

 

(そういえば、あのルイズを十倍キツめにして小瓶の中に無理矢理詰め込んだような気配を放つ母親には隙が無かった。もしや――!)

 

 ――彼の予感は、それからわずか数時間後に当たることとなる。

 

「まさかとは思うが、どこかで申請書類が握りつぶされているのか!? それは追々調査するとして……やはりミスタ・コルベールの論文は、わしが直接王室へ届けたほうがよさそうだな」

 

「ええ。ルイズの〝騎士〟(シュヴァリエ)だけではなく、トリステインのために働いてくださったミス・タバサとミス・ツェルプストーに対しても一切連絡がないだなんて! トリステイン貴族の一員として、本当にお恥ずかしい限りですわ」

 

 顔を赤くして――それぞれ怒りと羞恥という別方向のものだが――声を上げたラ・ヴァリエール公爵とエレオノール女史。彼らの間でおろおろするコルベール。そんな彼らの元に、まもなく昼餐会の時間であることを執事が伝えに来たのは、それから約三十分ほど後のことであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ひとり外を歩いていた才人は、道に迷っていた。

 

 このお屋敷、とにかく大きいのである。初めてそこを訪れた者がうっかり庭へ出たりすると、まるで迷宮のような植え込みにやられてしまう。

 

 ずっと同じ部屋で寝ていたり、最近では一緒にテーブルについて食事をしていたが、こうやってルイズの実家を見てしまうと……それらがまるで幻想のように思える。

 

(大金持ち。大貴族のお嬢さま。いや、本物のお姫さま、かあ……)

 

 俺にはトリステインの身分制度なんて一切関係ない。これまで才人は、本気でそう思って過ごしてきた。だが……昨晩のような豪華な歓待やこの屋敷、いやお城を見てしまっては、ルイズと自分との間に歴然とした『壁』があるのは仕方がないことなのだと、何だか納得してしまった。

 

 厳然たる『身分の差』というものを初めて見せつけられたようで――才人は再び落ち込みそうになった。だが偶然彼の視線が捉えた者の姿が、それを救った。

 

 池に浮かんだ小さな小舟。その中で、桃色の髪をした少女が蹲っていた。

 

 ルイズだ。才人は、いつものように彼女へ声をかけようとして思いとどまった。

 

(どうせ俺とあいつじゃ、身分ってやつが違い過ぎるんだ……)

 

 そう感じてしまった。しかし……遠目からもわかるほどに沈み込んだ彼女の姿が、彼の背中を押してくれた。

 

 ――ルイズは池の中に浮かぶ小舟の上から、静かに水面を見つめていた。

 

 朝食前に告げられた、ワルド子爵との『婚約破棄』の知らせ。とっくの昔に覚悟はできていたはず。でも、やっぱり彼は、ルイズにとっての憧れだった。

 

 父親から、

 

「お前には本当に可哀相だとは思ったが、ワルドの将来を考え、わしの独断で数年前に彼との婚約を破棄していたのだよ」

 

 そう教えられて、ルイズは落ち込んでいた。

 

 もしもの可能性。もしも、ミスタ・タイコーボーがもっと早くハルケギニアを訪れてくれていれば。ううん、もしも自分が入学前に〝召喚〟を試してさえいれば。もしかしたら、わたしはワルドさまの隣に立つことができていたのかもしれない。

 

(でも、それならなんで涙が出てこないの? それに、どうしてあんな知らせを受けた後なのに、わたしの心はこんなに落ち着いているの……?)

 

 ルイズは不思議でならなかった。落ち込みはするけれど、悲しくない。だけど、その理由がどうしてもわからない……。

 

 そこへ、中庭の土を踏みしめる音が聞こえてきた。しかし、ルイズは振り返らなかった。その足音はすぐに池の中央にある小島へ続く木の橋を渡って来た。それでも、少女は動かなかった。

 

「泣いてるのか? ルイズ」

 

 声の主の顔は強い日差しによる逆光のせいで、一瞬わからなかった。だが、そこにあったのは――彼女のパートナーである、才人のものだった。

 

「泣いてなんかいないわ。あんたこそ、もう身体の具合はいいの?」

 

 何かに沈み込みつつも自分を気遣う言葉をかけてくれたルイズの態度に、才人の胸は温かいもので満たされた。だから、彼はそれに応える勇気が持てた。

 

「ん、まだあんまり。それより、なんだよお前! 元気ねえな」

 

 普段のルイズであったなら。

 

「あんたって、本当に気が利かないわね!」

 

 などと八つ当たりしていたかもしれない。だが、このときの彼女は違っていた。素直に沈んでいる理由を答えた。それがどうしてなのか、ルイズ本人にもわからなかった。

 

「わたしの婚約ね……とっくの昔に破棄されてたらしいの。ま、覚悟はしてたんだけどね。わたし、おちこぼれだったから」

 

 そう言って寂しげに笑うルイズの姿は、幻のように儚げであった。

 

 今、俺が手を差し伸べなければ……このままルイズは消えてしまう。そんな予感に囚われた才人は彼女の前にすっと手を伸ばした。

 

「ほら! 手、貸してやるよ。行こうぜ、そろそろ昼飯だろ?」

 

「でも……」

 

 あの夢と同じだ。ルイズは躊躇った。大きく、暖かく、そして頼りがいのありそうな手が――夢で見た時のように目の前に差し出されている。

 

 けれど、本当にわたしは……この手を取ってもいいのだろうか?

 

「なんであんたがここにいるのよ?」

 

 ルイズの口から思わず飛び出した言葉は、本心からのものであった。どうして今、才人がここにいるのかわからなかったのだ。

 

「道がわからなくなっちまったんだよ! そしたら、お前のこと見つけてさ。なあ、一緒に来てくれよ。じゃないと俺、また迷っちまう」

 

(ああくそ、俺ってば……こんなことしか言えないなんて情けねえ!)

 

 ふくれっ面とは裏腹にそんなことを考えていた才人であったが、ふいに己の手に伝わってきた暖かさがそれをかき消してしまった。

 

「勝手に出歩くからでしょ! しょうがないわね。わたしが案内してあげるわ」

 

 こうしてふたりは手を取り合い――屋敷の中へと戻っていった。

 

 

 




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伝説と神話の戦い
第50話 軍師 対 烈風 -INTO THE TORNADO-


 ――彼は、困惑していた。目に映る……今の自分を取り巻く環境に。

 

 抜けるような青い空と、どこまでも広がる荒野。それはいい。遙か後方に控えている子供たちと、小さな笑みを浮かべて彼らと同席している教師ども。沈黙を守っている公爵と、その傍らで震えている金の髪の娘、戸惑いの表情を浮かべた儚げな妹。

 

 自分の正面、五十メイルほど離れた場所に立つ、幻獣の姿を模したとおぼしき刺繍入りの黒いマントを羽織り、羽根飾りつきの帽子を被っている女性。顔の下半分を鉄の仮面で覆ったその人物についても、まあ……すぐに理解できるであろう。だが……。

 

「何故に、わしはここにおるのかのう……」

 

 ……しかし、その疑問に答えてくれる者はなく。

 

「元トリステイン王国近衛魔法衛士隊所属、マンティコア隊隊長カリーヌ・デジレ・ド・マイヤール・ド・ラ・ヴァリエール。二つ名の由来は『強く、激しく吹き荒ぶ風』。『烈風』カリン」

 

 ただ、目の前に立つ人物による名乗りの声が響くのみであった。

 

 

 ――今から約二時間ほど前のこと。

 

 それは朝は出席しなかったルイズ・才人とカリーヌ夫人を加えた昼餐会が終わり、全員がのんびりと食後の談話を楽しんでいた際に起きた。カリーヌ夫人がこう切り出したのだ。

 

「ミス・タバサ。ひとつお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 

 妻の言葉にラ・ヴァリエール公爵の顔が一瞬凍り付いたのだが、タバサにはそれが見えなかった。公爵夫人にのみ視線を向けていたからだ。

 

「わたしにできることでしたら」

 

 タバサの返事に、優しげな微笑みを浮かべたカリーヌ夫人はこう申し出た。

 

「ありがとうございます。実はそちらの従者殿から色々とお話を伺って、大変興味が湧きましたの。そこで、もしよろしければ……場所を変えて語り合いの機会をいただければと」

 

 その言葉に昼餐会場にいた召使いたちが固まったのだが、彼らは客人席の後方に控えていたため、これまた残念なことに、さすがのタバサにも気が付けなかった。

 

「もちろんわたしは構いません。タイコーボー」

 

 そう言ってタバサは太公望の顔を見た。すると、彼の表情は見事なまでに硬直している。いや、視線だけがあちこちせわしなく彷徨っていた。

 

「どうしたの?」

 

 太公望はタバサの問いには答えず、額に汗をたらしながら夫人に確認した。

 

「失礼ながら、その語り合いとは……いったい、どのような?」

 

 彼の言葉にヴァリエール公爵家の長女と三女の顔が引き攣った。

 

「あ、あの、か、母さま? ま、ま、まさか」

 

 ルイズが顔中を強張らせながら母に問うと、夫人はキッと娘を見据えた。

 

「わたくしが語り合いがしたいといえば、決まっております。ルイズ、あなたもよく知っていることでしょう?」

 

 場のただならぬ雰囲気に、タバサはようやく気が付いた。

 

(彼らは何を言っているのだろう?)

 

 そう思って周囲をよく見てみると、控えていた召使いたちがそそくさと部屋を後にしている。執事長など「私、用事を思い出しました」などと言って、真っ先に退出してしまった。

 

「そ、そんな、か、母さま? お、お客さまを相手に、そ、そのようなことを、な、なさるというのは……ねえ? カトレア」

 

 明らかな作り笑いを浮かべたエレオノールが妹へ話を振ると。

 

「わ、わたしもそう思いますわ」

 

 カトレアも本当に困ったような声でそれに答えた。ラ・ヴァリエール公爵はというと、上品なハンカチーフで額の汗を拭い続けている。

 

 そんな彼らの様子など一顧だにせず、カリーヌ夫人は太公望を見据え、こう言った。

 

「娘を魔法に目覚めさせてくださった方がどのような人物であるのか、しっかりと見極める。これは親としての責任です」

 

 そう言い放ち、公爵夫人カリーヌは席から立ち上がった。表情こそ先程と変わらず笑みを浮かべたままだ。しかし……その身体から、強烈な何かが吹き出している。

 

「あ、あの、公爵夫人。わたくしめは、その」

 

 あわてふためく太公望の発言は突如起こった轟音によって、無慈悲にもかき消されてしまった。パラパラとテーブルの上に埃が舞い落ちてくる。なんと、先程まで昼餐会場に存在していた壁が完全に消失していた。怖ろしく強烈な〝風〟である。

 

 杖を構えていたカリーヌは、ふうとため息をついた。

 

「これ以上弱く放つのは難しいわね。まあ、なんとかなると思いますが」

 

「か、カリーヌ! だ、だから、それはだな……!」

 

 ガタガタと震えながらも、必死の覚悟で妻を抑え込もうとしたラ・ヴァリエール公爵であったが、そんな彼の思いも空しく彼女が止まることはなかった。その二つ名が如く。

 

「お受けいただけますわよね? 従者殿」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ラ・ヴァリエール公爵家・屋敷の一画にある客間のひとつにて。

 

「ルイズのお母さまが、あの『烈風』カリン……」

 

 しきりに頭を下げ、恐縮した様子でエレオノールが立ち去った後。タバサを含む招待客全員が、ルイズの口から驚愕の事実を知らされていた。

 

「なあ、その『烈風』カリンっていったい何のことだ?」

 

 例の婚約破棄とルイズと手を繋いで歩いたことによる影響か、精神的にだいぶ立ち直った才人がそう尋ねると、その場にいた全員――ただし、魂が抜け出たような顔でソファーの背もたれの中に埋もれている太公望を除く――が口々にその偉業を語る。

 

「ハルケギニア世界始まって以来の〝風〟の使い手さ! 他国はともかく、トリステインなら平民の子供でも知っている有名人だよ」

 

「つまり、すごく強いのか?」

 

 その問いに、集まっていた一同が頷く。

 

「昔、僕の父上が一個連隊を率いてとある戦場に赴いたんだ。ところが、到着した時には全てが終わっていたそうだよ。敵軍は『烈風』カリンがたったひとりで鎮圧してしまったんだ」

 

「え、それグラモン元帥の話だったの!?」

 

「そうさ。僕だけじゃなくて兄上たちもみんな知っていることだよ」

 

「火竜山脈から飛んできたドラゴンの群れを、ひとりで退治したと聞いた」

 

「大公がトリステイン王家に反旗を翻したときにも、ほとんどひとりで反乱軍のメイジたちを取り押さえたって話だよね」

 

「あたしも、ゲルマニアとトリステインが小競り合いになったとき、それまで優勢だったゲルマニア軍が『烈風』出陣の報告が戦場に届いた途端、全部放り出して逃げたって聞いてるけど」

 

「ガリアの騎士団と決闘になったときには、杖の一降りで全員吹き飛ばしたそうだよ」

 

 わいわいと『烈風』の偉業を語る仲間たち。カリンはそれだけ有名な人物なのだ。そして、それを聞いた才人は至極当然な反応を示す。

 

「オイ、なんだよそれ。どんな化け物だよ!」

 

 思わずそう口にしてしまってから、

 

(しまった! ルイズの母さんのことなのに、とんでもなく失礼な事を言っちまった)

 

 おそるおそるその娘を見た才人だったが、ルイズはただカタカタと小さく震えているばかり。もはやそれどころではないといった状態だ。

 

「あの『烈風』だけは絶対相手にしたくない。これは父上の口癖のようなものだよ」

 

 ギーシュの言葉にモンモランシーが追従する。

 

「とっても美しい方だって聞いてたわ。昔から、カリンさまは男装の麗人じゃないかって噂があったんだけど」

 

「ええ、私もその噂は耳にしています。まさか本当だったとは驚きましたぞ」

 

 コルベールは額に浮かんだ汗を拭きながらそう呟いた。

 

 そんな彼らの様子と埋もれたパートナー・太公望の姿を見ながら、タバサは後悔していた。

 

(何故もっと夫人の言う()()()()について、詳しく内容を聞かなかったのだろう)

 

 彼の主人として振る舞っているタバサが応じてしまった以上、取り消すことなどできはしない。彼女の従者とされている太公望が、上位者による申し入れを断ることなど不可能だ。

 

「み、ミスタ、それにタバサ、ほ、本当にごめんなさい……母さまが『烈風』だって話はヴァリエール家の秘密だから、絶対に話しちゃいけないって言われてて……」

 

 涙目で謝罪するルイズをタバサが宥めた。

 

「トリステインの魔法衛士隊は女人禁制。その隊の『伝説』が女性だと明かすわけにはいかない」

 

「父上は知ってたのかなあ……」

 

「ええ、そのはずよ。騎士見習いだったころ、お世話になったって母さまが言ってたから」

 

「初耳だよ! そうと知っていたら……」

 

 ルイズを『ゼロ』なんて馬鹿にしたりしなかったのに。そう続けそうになったギーシュだが、すんでのところで思い留まることに成功した。

 

「え、なに?」

 

「な、なんでもないさ!」

 

 訝しげな声で問いただすモンモランシーと、必死に誤魔化すギーシュ。

 

(それにしても……)

 

 タバサにはどうしてもわからないことがある。そんな彼女の思いを代弁してくれたのは、親友のキュルケだった。

 

「だけど、なんでいきなりミスタに決闘を申し込んできたりしたのかしら? 直感で彼のことを強力な風メイジだって知ったのだとしても、不自然よね?」

 

「まったくじゃ。一体、カリーヌ夫人に何が起きたというのだろうか?」

 

 そう言って太公望に視線を移したオスマン氏。実は、彼だけはどうしてこんな事態が発生したのか知っていたのだ。

 

 もともと、太公望とオスマン氏がふたり揃って歓待期間中にラ・ヴァリエール公爵夫妻へルイズの系統について警告する予定だった。そのための打ち合わせも、前もって行っている。

 

 朝食前のわずか一瞬、彼と接触した時に『ゼロ成功』とだけ伝えられたオスマン氏は、

 

(詳しい事情はわからんが……おそらく公爵の側から接触を受け、あの男が直接話すことになったんじゃろうて)

 

 そう判断していた。結果、カリーヌ夫人が太公望のひととなりを見定めようとしてこんな申し出をして来たのだ。

 

「おい狸ジジイ。おぬし、知っとったな!?」

 

「当然じゃ。だが、国の秘事を明かす訳にいかんかった理由は理解できるじゃろ?」

 

「うぬぬぬぬ……!」

 

「まあ、頑張れとしか言いようがないのう」

 

「おのれ……人ごとだと思って気軽に言ってくれる……!」

 

 軽く流された鬱憤晴らしに、小さく呟き返すのが精一杯の太公望であった。

 

 正直なところ、太公望は本気で困っていた。自分への評価をリセットしようとしていた矢先にこの災難。よりにもよって、世界最強と謳われるメイジから挑戦を受けるなど、想定外にも程がある。

 

 ルイズやワルドに文句は言えない。これは外に出してはいけない情報だ。そういう意味で、ワルドの評価は高まる。ただ、単純に言うのを忘れていた可能性や、初対面の太公望に対する警戒が故に黙っていたことを考えると、まだ保留せざるを得ないが。

 

(もしタバサが断ってくれたとしても、受けざるを得なかったであろう。なにせ、あんな情報を伝えた直後なのだ。相手の人格を見極めるために、何らかの手段を取るのはおかしな話ではない……)

 

 現にラ・ヴァリエール公爵は「魔法の話を聞きたい」という、やや迂遠な手段でコンタクトを取ってきている。

 

 そのため、すぐに直接会談の機会が訪れるであろうと予期していた太公望だったが、カリーヌ夫人がこんな思い切った手を打ってくるというのは、策を練った段階では予想の埒外だった。

 

 しかも、これは人格を見極めるための一戦である。太公望お得意の搦め手は絶対に使えない。かといって、自分を『おちこぼれ』と話した直後に全力で戦うという選択肢も選べない。そもそも余程のことがない限り、そんなつもりなどさらさら無い。

 

(これらの条件を満たしうる策を検討せねばなるまい。まったく面倒な!)

 

 この状況では誰も頼りに出来ない。自分だけでなんとかせねばならぬ。ソファーの柔らかさだけに安らぎを感じながら、太公望は必死に己の最大の武器である頭脳を回転させる作業に戻った。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――数時間後。

 

 ガタゴトという音を立てながら、数台の馬車が練兵場へ向かっていた。

 

 その中でもひときわ大きなワゴンタイプの馬車に、エレオノール・ルイズ・タバサ・カトレアの四名が乗り合わせている。これはカトレアたっての希望だった。

 

 轍を踏んで揺れる車内で、彼女たちは魔法学院での日々について語り合っていた。授業風景や寮での生活、学院の先生や友人たちのこと……。

 

 その話題が才人と太公望に関することに移ろうとしたとき、ふわりとした笑みを浮かべたカトレアが口を開いた。

 

「あのふたり、何者かしら? ハルケギニアの人間じゃないわよね。なんだか根っこから違うように感じるの。とっても不思議だわ」

 

 妹のおかしな発言に、エレオノールは首をかしげた。

 

(東方からいらしたお客さまなのだから、ハルケギニアの人間でないことはわかりきっているはずなのに……どうしてカトレアはこんなことを言い出したのかしら?)

 

 ただ、エレオノールは妹が特殊な勘の持ち主であることをよく知っていた。だから、叱ったりせずに素直に疑問を口にした。

 

「それはどういう意味かしら? カトレア」

 

「ええと、何ていったらいいのかしら? あのふたりはとても近い場所から呼ばれたけれど、わたしたちとはすごく遠く離れた……そうね、まるで別の世界から来たような、そんな感じがするの」

 

 静かに微笑みながら語るカトレアに、エレオノールは心底困ったといった顔を見せた。

 

「ねえカトレア。あなたはすごく勘が鋭いから、試しに聞いてみたけれど……わたくしには何を言っているのかさっぱりわからないわ。呼ばれたって、誰に? それに別の世界? もしかして、東方の端からミス・タバサに招かれたという意味かしら?」

 

 頭痛がすると言わんばかりに眼鏡の一山を押さえながら確認してきた姉と、不思議そうな顔で自分を見ているふたりの少女に向かって、カトレアは謎かけをする女神のような表情を浮かべた。

 

「さすがにそこまではわかりませんわ。そんな気がしただけで。特に、あの方! ミス・タバサの従者殿はまるで神話の彼方からいらっしゃったみたい。あらいやだ、ごめんなさいね。わたし、すぐに間違えるのよ。もう気にしないで」

 

 そう言ってころころと笑うカトレアの顔を、タバサは驚愕の思いで見つめた。姉の不思議な〝力〟について良く知るルイズもびっくりしていた。カトレアの言うことは完全に当たっているのだ。

 

 ハルケギニアとは全く別の世界。地球という名の星から〝召喚〟によってやって来たふたり。ひとりはまだ〝力〟に目覚めていない状態だが、もうひとりは三千年前に、その世界における神話の終焉を見届けたという英雄。

 

(このひとは一体何者? 勘が鋭いなどという次元を遙かに越えている。念のため、あとでタイコーボーへ伝えたほうがいいかもしれない)

 

 胸の中でそう呟いたタバサは、ふいにそこがどきどきと高鳴り始めたことに気が付いた。そうだ、これから行われるのはまさに伝説と神話の戦いなのだ!

 

 ――ハルケギニアの伝説にして、歴史上最強を謳われる『烈風』カリンと。

 

 ――別世界・地球の伝説にして、時を越えて語り継がれる『軍師』太公望。

 

 戦いを好まぬ彼には心から申し訳ないとは思う。思うのだが……実際問題として、こんな対戦は、本来ならどんなに見たいと望んでも絶対に実現しない夢の試合(カード)なのだ。

 

 一瞬たりとも彼らの戦いから目を離してはならない。タバサはそう心に決めた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして舞台はラ・ヴァリエール公爵領の練兵場へと移る。

 

 屋敷から馬車で一時間ほどの距離にあるその場所は、兵たちの訓練を行う場所とは思えないほど荒れ果てていた。地面がでこぼこしており、そこかしこに鋭い何かで削り取られたような傷跡があることから察するに、ごくごく最近使われたばかりなのであろう。

 

「ま、太公望師叔なら大丈夫だろ? 伝説の軍師様の戦いってやつを見せてもらうぜ!」

 

 などとバシバシと自分の背中を叩きながら言ってきた才人に対し「ずいぶんと元気になったではないか。元はといえば、おぬしが原因とも言えるのだぞ!?」と、怒鳴りつけてやりたいのを必死に堪えながら、太公望は馬車を降りると練兵場の中央へスタスタと歩いていった。

 

 そして、ふたりの英雄は五十メイルほど互いの距離を開けると、向かい合った。

 

「大切な恩人にして学者でもあるあなたにこのような真似をするのは、本来礼にもとる行為であることと充分に承知しております。ですが、これは親として。いいえ、ルイズの母として! 成さねばならぬ試練とお考えくださいまし」

 

 既に避難……もとい、高台に位置する観客席へ移動した者たち全てに聞こえるよう、高らかに宣言したカリーヌ夫人。色褪せた――しかし一切手入れを怠っていないマンティコア隊の隊服に身を包んだ彼女に対し、太公望はこれまた大音声でもって応えた。

 

「わかっております。わたくしと致しましても、ここで逃げるわけには参りませぬ。最下級ではありますが、ガリアより爵位を賜った、貴族のはしくれ。そして、わたくしはこう考えます。魔法が使える者を貴族と呼ぶのではありませぬ」

 

 『打神鞭』をグッと握り締め、太公望は高らかに叫んだ。

 

「敵に後ろを見せない者を、貴族と呼ぶのだ!」

 

 その宣言に満足げな笑みを浮かべるカリーヌ。いっぽう観客席では。

 

「どうしてかしら。今の宣言を聞いたら、なんだかイラッとしたんだけど」

 

「奇遇ですな、ルイズお嬢さま。わたくしめも全く同じ気持ちに襲われたところです」

 

 一段高い席に腰掛けてそう呟いたルイズに追従したのは、側に控える才人であった。

 

「学者の身でありながら、良い覚悟です」

 

 気に入った。そう言いたげな顔で呟いたカリーヌ夫人に、太公望はニヤリと笑いかけた。

 

「カリーヌ夫人。なにやら誤解をされておられるようですが、わたくしめは『学者』などではございませぬ」

 

 不敵に笑いかけてくる相手に対し、怪訝そうな表情を見せるカリーヌ夫人。

 

(はて。学者ではないのなら、彼はいったい何者だというのでしょう?)

 

 だが、そう問いかける前に彼女の夫であるラ・ヴァリエール公爵の声が響いてきた。

 

「双方がそれぞれ名乗りをあげた後に、わしが『はじめ』と声をかける。それをもって試合開始の合図とする。ふたりとも、よいか?」

 

 その声にしっかりと頷くふたり。そして刻は、本文冒頭・後半へと戻る。

 

「元トリステイン王国近衛魔法衛士隊所属、マンティコア隊隊長カリーヌ・デジレ・ド・マイヤール・ド・ラ・ヴァリエール。二つ名の由来は『強く、激しく吹き荒ぶ風』。『烈風』カリン」

 

(せっかく学者で誤魔化し通せると思っておったのに。だが、万が一ばれた時のことを考えると、ここである程度情報を出しておかねばならぬ。まったく……何故にわしはここにおるのかのう)

 

 太公望は内心で再び『始祖』ブリミルへ呪いの言葉を吐いた。

 

(前もってタバサたちと打ち合わせをする時間が持てたのが唯一の救いかのう)

 

 そう考えた彼は高らかに名乗りをあげる。目の前の『伝説』に合わせ、トリステイン風に、かつハルケギニア調で。あえて、現在ではなく過去のそれを大声で叩き付けた。

 

「中国大陸同盟国軍・周国〝崑崙山〟所属、元同盟軍参謀総長リョ・ボー陸軍元帥。二つ名の由来は『大公より知恵を望まれし賢者』。『太公望』呂望」

 

 ――ラ・ヴァリエール公爵領内の練兵場を、風が吹き抜けていった。

 

「今、彼はなんと言ったのかね? 同盟軍とか、元帥とか、なにやら不穏な単語が聞こえてきたような気がするのだが?」

 

 広場に立つふたりをいったん制した後、そう訊ねてきたラ・ヴァリエール公爵の声に、タバサは簡潔にこう告げた。

 

「陸軍元帥と言いました」

 

 その発言に観客席が凍り付いた。

 

「東の大陸で最大の国家・シュウの参謀でもあります」

 

 顔を強張らせたラ・ヴァリエール公爵を気の毒に思いつつも、タバサは続ける。

 

「総勢二十五万にのぼる大陸同盟軍で、参謀総長まで務めた正真正銘の『軍学』の天才。指揮官としても超一流です。今は既に軍を退役していますが」

 

 固まっていた一同の中で、最も早く再起動に成功したのはギーシュだった。彼はタバサのほうを向いて叫び声を上げる。

 

「た、退役元帥だって!? 彼が将官だったという話は聞いていたけど……!」

 

 彼らのやりとりを聞いたラ・ヴァリエール公爵は慌てて練兵場中央にいたふたりを呼び寄せると、改めてタバサに訊ねた。

 

「彼はいったい何者なのかね? よかったら、教えてもらえないだろうか」

 

 ラ・ヴァリエール公爵の問いに頷いたタバサは、こう切り出した。

 

「実は、つい最近までわたしも知りませんでしたが……とある情報筋によって確証を得ました。彼は東の大陸において『伝説の参謀』と呼ばれていた存在なのだと」

 

 その上で……と、タバサはさらに先を続けた。

 

「彼の名が大陸中に響き渡ったのは強襲をかけてきた敵軍九万に対し、自軍側は三万しか用意できなかったにもかかわらず、ほとんど損害を出すことなく相手を封じ、逆に降参させるという策を総軍司令官へと提言し、成功させたことがきっかけです」

 

「あれ? 帝国軍との戦いは、確か百万人近い大軍勢がぶつかり合ったんじゃなかったかね?」

 

「それは最終決戦時。シュウが与した同盟軍側は総勢二十五万だったと聞いている」

 

「ちょっと待ってくれたまえ! な、なら帝国軍は……」

 

「七十万」

 

「ええええええ!!」

 

 ギーシュの問いに淡々と答えるタバサを見ていたラ・ヴァリエール公爵の背中を、冷たい汗が伝い落ちていった。

 

「彼は軍人でありながら、まず相手に交渉を持ちかけることを信条とし、できる限り平和裏に、話し合いによって事態の解決を目指す変わり種としても知られていました。周囲から臆病者との誹りを受けながらも『兵士や民の血を流さずに済むのならば、それがいちばんだ。敵を倒すことだけが軍人の仕事ではない』そう言って意志を曲げず、退役するまでその方針を変えませんでした」

 

 この言葉に大きな反応を示したのはカリーヌ夫人だ。「話し合いによって平和裏に事態の解決を目指す」確かに軍人らしくない。ないのだが……。

 

「とはいえ本当に臆病なのかといえばそうではなく、高級将校の立場にありながら、戦況に応じて前線に立つことも厭わなかったそうです」

 

 確かに彼はそういう人物だろう。わたくしを前にして、一歩も引かなかったのだから。カリーヌ夫人の背に、一筋の冷たい汗が流れ落ちる。

 

「やがて同盟側の勝利で戦争が終わり、周辺諸国に平和が戻った後、その絶大なる功績と無駄に血を流さぬ戦いぶりを国王から評価され、大公の地位を打診されていたにもかかわらず『そんな面倒くさい地位など不要』とあっさりそれを蹴って軍を辞め、引き留める者全てを振り払って旅に出てしまったという……別の意味での伝説まで持っているのだとか」

 

 この話が本当ならば、確かに伝説になってもおかしくない偉業だ。ラ・ヴァリエール公爵夫妻はまずタバサを見、次いでオスマン氏に視線を移した。

 

「オールド・オスマン。あ、あなたは彼の正体を……?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵はやや固くなった声でオスマン氏に問いかけた。

 

「ええ、まあ……ただ、知ったのはごくごく最近でしたがの。例のフーケ事件の指揮ぶりを見て、これはと思い調査しましたから。彼は元の身分を晒すのを嫌がっておりましたので、黙っておったまでですじゃ。こんな状況にさえならなければ、わしとしては本人の意志を尊重し、伏せておこうと思っておったのですが」

 

 そう言って深いため息をつくオスマン氏。それを見たラ・ヴァリエール公爵はその場で崩れ落ちるのを必死になってこらえるのが精一杯であった。

 

(ガリアの姫君が持つ情報網と、国立魔法学院の長という、卒業生たちからの情報を確保しやすい位置にいるオールド・オスマンが調査の上で知っているということは……彼が『東の伝説』とやらであるのはほぼ間違いのない事実なのだろう)

 

 そう悟らざるを得なかったからだ。

 

 ――名乗りの際にわしの昔の地位をバラすので、話を合わせておいてくれ。

 

 これが太公望からタバサとオスマン氏に前もって依頼していた策のひとつであった。太公望が伝説を残したのは間違いのない事実である。ただ、出身地が公爵たちの想定と違っているだけで、彼らは一切嘘をついていない。

 

 もっとも、オスマン氏はタバサが語った太公望に関する諸々の内容については完全に初耳だったわけだが、それでもきっちり話を合わせられるのは流石である。

 

 沈黙が場を支配する中、ラ・ヴァリエール公爵は考えた。

 

(そうか、彼はガリア経由でハルケギニアへやって来たのか。その上で、何らかの手柄を立て、晴れてガリアの〝騎士〟となり、後に彼の正体を知った者がミス・タバサ――いや、かのオルレアン大公の忘れ形見・シャルロット姫殿下に従者として付けたのだろう)

 

 その上でトリステイン魔法学院という、隔離された場所に姫と共に送り込まれたのだ。〝ガリア王国東薔薇花壇騎士団〟に入団させたのも、そうしておけば姫に名誉ある騎士をつけている、あるいは東の伝説をわざわざ大公姫につけたと内部反対勢力、つまり『シャルル派』と呼ばれる反国王の派閥を抑えるための、都合のよい言い訳にしやすいという思惑があるのだ。

 

 公爵はさらに検討を重ねる。逆に、現国王が抱える派閥『ジョゼフ派』に対抗するため、国外勢力の手を借りるため『シャルル派』の手によって、有力貴族とのコネクションが作り易い、留学生の多い魔法学院へ遣わされた可能性はないだろうか?

 

 ……いや、その可能性は低いだろう。もしもそうであるならば、ここまで彼らが正体を伏せてきた理由がわからない。ルイズの件があるのだから、なおさらだ。おそらくカリーヌがこのような行動に出たこと自体が姫にも、彼にとってもほぼ想定外の事態であるはず。

 

 それなのにわざわざ名乗りを上げた理由は――考えるまでもない、自分たちの身を守るためだ。おもに、カリンの手から。同じ状況なら、わしでもそうする。

 

 そもそも彼――大公の地位を蹴った上で国を捨て、旅に出たミスタ・タイコーボーがガリア王国に仕えようと考えた経緯。そしてガリアの姫君に従者にまで身を貶めた上で付き従っている理由が全く想像できない。何故そのような真似をしているのだろう?

 

 そんな風にラ・ヴァリエール公爵が深い思考の淵へと沈み込んでいたのとほぼ同じころ。『烈風』カリンことカリーヌ公爵夫人は遠い昔を思い出していた。

 

 まだ若かりし頃。情熱に浮かされるまま、立ち向かうもの全てに〝力〟だけで突撃し――失敗してしまったあの時のことを。

 

 幾度も直属の上司から「今は作戦を立て、準備を整えている最中だから絶対にこちらから手を出すような真似をするな」と忠告を受けていたにもかかわらず、それを「臆病者」「騎士として相応しくない」となじった上に無視した結果、敵の奸計によって捕らえられてしまった。

 

 あの時は幸いにして衛士隊の仲間たちが助けに来てくれたからよかったようなものの、最悪彼女はトリスタニアの中央広場で、街の住民たちから罵声を浴びせかけられる中、公開処刑されてしまうところだった。事実、彼女は処刑台に乗るところまでいってしまっていたのだ。

 

 カリーヌは慢心を自覚せざるを得なかった。ガリア王家の血を引く姫君に仕えているとはいえ、ただの従者。しかも最下級の爵位である〝騎士〟しか持っていない木っ端貴族。おまけに本ばかり読んでいるような学者で、元おちこぼれ。

 

 自分が名乗った上で、ほんの少しだけ脅かしてやれば、だいたいの性格は掴めるだろう。怪我さえさせなければ問題になどならないと考えていた。なにしろ、自分は公爵夫人なのだから。

 

 ところが。相手は自分の名を聞いて怯えるどころか正々堂々、真正面から受けて立ってきた。そこまでは良かった。だが――彼は学者どころか元軍人。それも、あの若さにして東方では『伝説』とすら呼ばれるほどの知謀を持つ参謀総長だった。同盟国を含むとはいえ、二十五万もの軍勢を用意できる超大国の大公位を与えられるほどの手柄を立て続けてきた、頭脳面における天才。

 

 カリーヌ夫人はその場で頭を抱えてしまった。

 

(彼自身がそう語っていたではないか。自分は魔法の腕に期待されていない、頭脳面でのみ評価されていたのだと!)

 

 それを完全に失念してしまっていた。自分が余計なことをしなければ、彼はこんな風に己の正体を明かしたりはしなかったはず。もちろん、国際問題に発展する可能性があるからだ。

 

 にもかかわらず、彼がわざわざ自分の正体について名乗りを挙げたということは……母親として、娘を案ずると言い放ったカリーヌの気持ちに応えてくれた……と、いうこともあるだろう。だが、それ以上に『烈風』と戦うという危険から自分の身を守ろうとしたのだ。

 

 全てを知ってしまった今、もう彼と杖を交えることなどできはしない。昔ならばいざしらず、経験を積み、守るべきものが増えた今――彼女はそこまで無謀な真似をするほど愚かではなかった。

 

(うわあ、どうしよう。わたしってば、またやっちゃった……)

 

 まるで騎士見習いであった当時のように、カリーヌはどんよりとした気持ちでその場に立ち尽くしてしまった。

 

 そんな彼らにさも心配げな声をかけてきたのは、問題の主たる太公望であった。

 

「あの……わたくしめは名乗りこそしましたものの、別に元の地位がどうとか、今更そんなことを気にしたりは致しませぬぞ。今はあくまでタバサさまにお仕えする、ただの従者なのですから。ささ、いざ尋常に勝負!」

 

 実に爽やかな――だが、彼をよく知る者たちにとっては嘘くさいとしか言いようのない笑顔でもって公爵夫人へ語りかける太公望を見たタバサは、

 

(やっぱり彼は勇者じゃなくて魔王だ)

 

 そう思った。

 

 いっぽう、主人から正式に魔王認定された太公望のほうはというと。

 

 もしもこのまま戦いになっても構わない。いや、現段階に限っていえば、むしろ戦ってみたい……そこまで考えていた。ハルケギニア最強のメイジの実力がどの程度であるのか、自分で直接見極めることができる機会など、他ではまず訪れないから。

 

 戦いではなく観察がしたい。それが太公望の本音であった。よって、どちらに転んでも構わない。そう……万が一戦いになっても相手が手加減せざるをえない、自分が本気を出さなくてもよい状況を作り出したのだ。

 

 このような策をあえてとったのは――観察以外にも目的がある。もしもカリーヌ夫人がバトルマニアであった場合、歓待期間中が地獄になる可能性があるからだ。それを阻止するための牽制。もしも戦いになってしまった場合、一回見られればそれでよい。太公望はそう考えていた。

 

 だが。そんな魔王の驕りとも呼べる考えの隙をついた者がいた。

 

 彼女は伝説の勇者でも、雄々しき騎士でもない。

 

「あの……ミスタ? 失礼ですけれど、そんな無理をなさらないほうがいいと思いますわ。どうやってお姿を変えていらっしゃるのかわたしにはわかりませんが、本当はもう、八十歳をとっくに越えたお年寄りなのでしょう?」

 

 ――驕れる魔王の時を止めたのは、か弱き姫君カトレア嬢であった。

 

 

 




果たして最終巻でカトレアさんの謎は明かされるのでしょうか。
来年二月か……。


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第51話 軍師 対 烈風 -INTERMISSION-

本日2話目の投稿です。


 ――ルイズの姉カトレアには、幼い頃から不思議な『声』が聞こえる。

 

 彼女がその〝力〟に目覚めたのは、両親から杖をもらい、契約を終え、生まれて初めて魔法を使った時だった。ごくごく簡単な汎用魔法の〝光源(ライト)〟を成功させたとき母がこう言ったのを、カトレアは今でもよく覚えている。

 

「初めてなのにきちんとやれましたね。ですが、これが始まりです。これからもしっかりと勉強を続けて立派なメイジになるのですよ。わかりましたか」

 

 彼女の母親であるカリーヌ夫人が、実際に口に出したのはこの言葉だけであった。しかし……カトレアにはもうひとつ、やわらかな声が聞こえていたのである。

 

『まあ、こんな簡単にできてしまうだなんて。本当に素晴らしいこと! 今日は初めて魔法が成功した記念に、この子が好きなものをたくさん用意して、家族みんなでお祝いしましょう』

 

 カトレアは目を見開いた。ちょっと怖くて苦手だった母が、こんなに優しい声で褒めてくれるだなんて、彼女は思ってもみなかったのだ。

 

 幼いながらもそれが本当に嬉しかったカトレアは、素直に礼の言葉を口にした。

 

「母さま! ありがとう。カトレアは、これからもがんばりますわ」

 

 これを聞いたカリーヌ夫人は、カトレアが自分の教えに対して礼を言っているのだと思った。なんてけなげな子だろうと、彼女は思わず娘を抱き締め、頬ずりをした。

 

「ええ、ええ。わたくしといっしょに、頑張りましょうね」

 

『わたくしの娘! かわいいカトレア。あなたたちは母の宝物です』

 

「はい、母さま。カトレアに、いっぱいおしえてください」

 

 

 ――ところが、それからしばらくして。突如カトレアの身に悲劇が襲った。

 

 それは原因不明の病に罹ってしまったことだ。魔法を使うと激しく咳き込む。特に、強い呪文を唱えたときに症状が現れやすい。

 

 最初のうちは、少し身体が弱いくらいだと考えられていた。そのうち、魔法を使わなくても体調不良を訴え始めたカトレアは日を追うごとに弱ってゆき――ついには、一日のうちのほとんどをベッドの上で過ごさざるを得なくなった。

 

 そして、大勢の水メイジが彼女を診るために屋敷を訪れた。

 

「すぐに良くなりますからね、カトレアお嬢さま」

 

 それが彼らの決まり文句。しかし、カトレアは彼らの『本音』を『聞いて』いた。

 

『いったいなんなんだ、この症状は!?』

 

『病巣がどこにあるのかすらわからないとは……。だが、原因を見つけ出せねばクビだ』

 

(もしかすると、わたしは死ぬまでこのお城――ラ・ヴァリエール公爵領から外の世界へ出ることができないのではないだろうか。普通のひとと同じように、ただ生きていくことすら叶わないのかもしれない……)

 

 カトレアの心は、それを思うたびに酷く乱れた。

 

 そんな己の心情を表へ出したように寒々とした真冬のある日。ベッドの中で、今まさに絶望の淵へと飲み込まれそうになっていたカトレアは、唐突に……庭に面した窓の外で、ふたつの『声』が飛びかっていることに気が付いた。

 

『もっとごはんがたべたいな』

 

『たべたいねえ』

 

『はやく春にならないかなあ』

 

『ならないかねえ』

 

『お花が咲いたらごはんがふえるのになあ』

 

『ふえるのにねえ』

 

『たのしみだなあ』

 

『たのしみだねえ』

 

 窓の外には、今は誰もいないはず。では、あの声はなんだろう? そっとベッドから起き上がり、窓を開けたカトレアは『声』の正体を知って驚愕した。

 

『ヒトが出てくるよ』

 

『こないよ』

 

『どうして』

 

『あのヒトはいつもそうだ』

 

 それは窓の外にある木の枝に止まっていた二羽の小鳥が出していたピチュチュチュ……という声。なんと、そのさえずりと共に『声』が聞こえていたのだ。

 

「小鳥さんたち。わたしの言葉がわかる? わかったら、お返事をして」

 

 カトレアは彼らを驚かさないよう、窓からそっと声をかけてみた。それは、まだ幼い彼女なりのちょっとした冒険心。

 

(通じるわけないわ。でも、もしも彼らとお話ができたら……なんて素晴らしいことかしら)

 

 そんな儚い願望から出た声だった。

 

『うん、わかるよ』

 

『わかるに決まってるじゃないか』

 

『わたしたちの言葉もわかるのかい?』

 

『わかるのかしら』

 

『めずらしいヒトだね』

 

『そうだね』

 

 端から聞いていたら、ただの小鳥のさえずりにしか聞こえない。たが、カトレアはしっかりと彼らの『声』を受け止めることができたのだ。

 

 ――その日をきっかけに、カトレアの世界がほんの少しだけ広がった。

 

 しばらくの刻を経て――彼女はこの〝力〟について、おおよそのことを理解するようになった。これは人間でも動物でも関係なく、彼らが発する「外の声」と『中の声』が、感覚的に理解できるというものなのだと。

 

 その後、魔法の本を読んでいた時に〝召喚〟(サモン・サーヴァント)によって呼び出された使い魔は人間の言葉を理解し、話すことができるようになることがあるという記述を発見したカトレアは、もしかすると自分に聞こえている『声』は、これに関係しているのではないかと考えた。

 

 そのため、最初はメイジであれば誰にでもできることなのだろうと思っていた。しかし、それを両親に話した直後。病弱なカトレアには妄想癖があるのではないか、もしや心の病に罹っているのではと不安視され、ベッドに縛り付けられてしまった。

 

 こうして彼女は知るに至った。これは自分だけに在る特別な〝力〟なのだと。

 

 カトレアはそれ以降この〝力〟について、誰にも話すことはなくなった。話しているつもりのない『心の声』が聞かれていると知れば、周囲の人々が自分のことを畏怖し――離れていってしまうかもしれない。それが何よりも怖かったから。だが、いつしか彼女はこの〝力〟がゆえに、家族から

 

『非常に勘の鋭い娘』

 

 という認識を持たれるようになった。さらに彼女は時を経るにつれ、相手の気配や本質にも敏感になった。たとえば〝変相〟(フェイス・チェンジ)で顔を変えた者の正しい姿をイメージで見破ったり、心の動きに敏感になり、嘘や悪意を直感的に見抜けるなど、どんどんその〝力〟が強まっていった。しかし、それと比例するかのように身体の具合も悪くなっていった。

 

 

 ――そして時は現代へと移り……ラ・ヴァリエール公爵家で執り行われた歓待の宴の当日。彼女は出会った。とても面白い人物に。

 

 父に案内されてやってきた蒼い髪の少女の側に控えている、黒髪の小柄な従者。どう見てもルイズと同じ年頃だとしか思えないその少年は、カトレアの姉であるエレオノール曰く、なんと二十七歳なのだそうだ。

 

 そんな彼が母と挨拶を交わしたときに聞こえた声が、彼女の興味を捉えた。

 

「『太公望』呂望と申します。わたくしめのような者にこのお気遣い、感謝致します」

 

『ルイズを十倍キッツくして無理矢理瓶詰めにしたような雰囲気を持つ母親だのう。瓶口から威圧感が溢れ出しておるわ』

 

 カトレアは思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。これまで自分の母親を畏れ、怯える人間は大勢いたが――このひとは怖がるどころかあっさりと受け流した上に、とんでもなく面白い評価を下している。

 

(わたしとの挨拶では、どんなことを言われるのかしら?)

 

 カトレアは期待した。ところが、その時に聞こえてきた『声』は彼女にとって完全に想像外のものであった。

 

「ルイズお嬢さまの姉君ですか。どうぞ、よろしくお見知りおきを」

 

『この娘が纏う〝気〟は、いったいなんだ……? 〝仙気〟の類とは似て異なる、これは?』

 

(なんだろう、このひとは。何を言っているのかわからない。〝センキ〟って一体? ひょっとしてわたしの〝力〟について、何かを感じたのかしら?)

 

 これをきっかけに、カトレアはこの面白い従者さんに興味を持った。

 

 その後、カトレアは太公望の言葉へ特に注意して耳を傾けるようになっていた。

 

「この桃は王や高位の貴族に対する貢ぎ物として、部下が献上する品です」

 

『本来は国王の座にある者ですら、まず口にすること叶わぬ超貴重品だ。わしはしょっちゅう師匠の隠し棚からパクっておるがのう。ケケケ……』

 

 カトレアはもう笑いをこらえるだけで精一杯であった。少なくとも――たとえそれが心の内側だとしても、こんなに面白いことを言うひとは今まで自分の近くにはいなかった。

 

 それに嘘をついてはいるけれど、悪気は全く感じられない。本気でワルド子爵の身体を気遣い、妹の成功を喜んで、あれを使おうとしてくれていることが……彼女独特の勘で理解できたから。

 

 そのひとがくれたお酒も本当に美味しかった。飲むたびに自分の身体が羽根のように軽くなっていくのを感じた。今なら、どこまでも飛んで行ける……そう感じられる程に。

 

 父も母も、いや、家族みんなを笑顔にする魔法。たった一晩の夢かもしれないけれど、この時間をくれた彼にカトレアは心から感謝した。

 

 そんな彼女がより彼に注目するようになったのは、ルイズにどうして魔法を教えてくれたのか、その理由を話してくれた時であった。

 

「いや……まあ、お恥ずかしい限りなのですが。人ごととは思えなかったのですよ」

 

『あんな涙を見せられてしまっては、いくらなんでも無視できるか!』

 

「小石ひとつ、まともに動かすことができなかった『おちこぼれ』としては」

 

『小石どころか、砂の粒すら動かせなかったのう。修行を始めたばかりのころは』

 

(本当に魔法ができなかったのだ、このひとは。だから、ルイズの涙を見て余計に放っておけなくなったのね)

 

 そう考えたカトレアだったが、彼女は次の言葉で驚愕した。

 

「生まれ落ちたばかりの赤ん坊が、いきなり魔法を使えるわけではありません」

 

『まったく。わしがいったい何年修行したのか知らぬからのう、このガキどもは。六十年と言ったらさぞ驚くだろう』

 

(六十年? 彼が!?)

 

 思わず太公望の顔を見つめたカトレアであったが、どう見てもそんな年齢には見えない。ならば、彼は亜人なのであろうか。しかし、そういう感じもしない。彼はある意味『人間らしい人間』だと感じる。〝変相〟でもなさそうだ。なら、どうやって?

 

「そこに至るまでの『道』を歩んでいるからこそ、彼らはそのように語り継がれるのです」

 

『自分より遙かに格上の化け物どもと何十年も戦い続けておれば嫌でも腕が上がるっつーの。弱いから命だけは助けてください、なんて話が通用するような甘っちょろい世界ではなかったからのう』

 

(母さまは学者のようだと仰っていたけれど……ひょっとして軍人さんなのかしら。少なくとも、学校を卒業してから何十年も妖魔討伐を経験していらっしゃるのね。と、いうことは、もうかなりお年を召しておられるんだわ)

 

 カトレアはこっそりと頭の中で計算してみた。八十? もしかすると、九十歳をとうに越えているのかもしれない。

 

「魔法面に関しては全く期待されていなかったのですよ」

 

『わしはハルケギニアでいうところの『ドット』か? 現時点で。周りがとにかく化け物だらけだったからのう。我ながら、よくもまあ挫折せずにいられたものだ』

 

(素晴らしい風のメイジだと聞いていたのだけれど……実は『ドット』? もしかして、周りが『スクウェア』ばかりだったから、自分がおちこぼれだと思い込んでしまったのかしら……)

 

 カトレアはそのように受け取った。

 

 その後、師匠から魔道具をたくさんもらったという話を聞いたカトレアは考えた。

 

(もしかすると、それを使って子供のふりをしていらっしゃるのかしら。確かに、そのほうがお年寄りの姿よりもミス・タバサの側に仕えやすいわよね。特に、魔法学院にいる間は)

 

 だが、次の発言が彼女にさらなる驚愕をもたらした。

 

「三千年以上前の話でございますから。ただ、その功績は我が国の歴史に記されております」

 

『はあ……三千年か。まったくブリミルのやつめ、よりにもよってそんな離れた時代から〝召喚〟(サモン・サーヴァント)なんぞでこんな異世界まで引き寄せおって! そういえば、あの炎の勇者や他の仲間たちは、あのあとどうなったのであろう……』

 

 ――三千年前から〝召喚〟で喚ばれた? しかも、異世界!?

 

(ということは……彼はミス・タバサの従者ではなく使い魔だというの? いえ、そんなことよりも……今から三千年前から喚ばれただなんて。しかも別の世界の……勇者さまの仲間! まるで、絵物語に出てくる神話時代の英雄みたいだわ!)

 

 こうして聞こえてくる『声』には決して嘘がない。カトレアはこれまでの経験で、それを嫌というほど実感している。つまり、これは絶対の真実なのだ。彼女の胸は、期待によって高鳴った。

 

 もっと続きが聞きたい。そう思って身を乗り出したところへ、侍従が迎えに来たために席を立たざるを得なくなった。薬を飲んでベッドへ戻る時間になったからだ。ある意味これは彼女だけでなく、その場にいた全ての者たちにとって、幸運なことだったのかもしれない――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして練兵場……現在よりも、少しだけ前に戻る。

 

 そんな神話時代から来た英雄に叩き付けられた、母の『語り合い』。少なくとも、申し込まれた時点での彼は本気で戦いを嫌がっていたように感じた。姉や母が学者だと評したように、実際彼は勇者さまの補佐をするような役割をしていた人物なのだろう。そう思って母を止めようとしたカトレアだったのだが……。

 

『娘を魔法に目覚めさせてくださった人物がどんな方であるのかを見極める。これは、親としての責任です』

 

 母の言葉は内外共に全く同じで、一切の迷いがなかった。いったい何が母さまをここまで駆り立てているのだろう? 悩んでいるうちに、昼餐会場の壁が消失した。

 

 そして、彼の名乗りを聞いたカトレアは本気で仰天したのだ。

 

「中国大陸同盟国軍・周国〝崑崙山〟所属、元同盟軍参謀総長リョ・ボー陸軍元帥。二つ名の由来は『大公より知恵を望まれし賢者』。『太公望』呂望」

 

『さらに詳しく述べるならば! 〝崑崙山教主〟元始天尊が一番弟子にして最高幹部十二名を束ねる総軍司令官だ。さあ、これを聞いてもなおわしに立ち向かってくるか? カリーヌ夫人よ。たとえやるとしても、全力を出すことなど絶対にできぬであろう? フハハハハハハッ!!』

 

 ……彼は、名乗りよりもずっと上の地位にいる。領内に閉じこもりきりで世間知らずのカトレアにもそのくらいはわかる。何かの理由があって、全てを明かさないようにしているのだろう。

 

 それから、彼の『ご主人さま』であるミス・タバサの言葉にも衝撃を受けた。

 

「大公の地位を『そんな面倒くさい地位など不要』とあっさり蹴って旅に出てしまったのです」

 

『おまけに彼の世界で次期教皇の座まで約束されていたのに、それまで蹴ったとんでもないひと』

 

 カトレアはここまでの情報を整理した。彼は三千年も前の、しかも異世界から〝召喚〟で呼び出された勇者さまの仲間で、六十年以上修行を積んだ『ドット』メイジ。とても偉い軍人さん。

 

 魔法を教えてくださった先生から離れてから戦いに赴いているから……少なく見積もっても、現在八十歳以上のお年寄り。おまけに、ハルケギニアでいうならロマリアで教皇の座に就いていたかもしれない大神官さま!

 

(いきなりこんな突拍子もない話をされても、信じてくれるひとはいない。だから、彼はわざと自分を低く見せようとしているんだわ。わたしが自分の〝力〟を隠しているのと同じように)

 

 なのに、わざとそれを名乗ることで母さまを止めようとしている。やっぱり彼は、できることなら戦いたくなんてないんだわ。だって、本当はかなりのお年なんですもの……無理したくないのは当然のことよね。カトレアは、そのように結論した。

 

 だからこそカトレアはその『お年寄り』が次に放った言葉に居ても立ってもいられなくなった。

 

「ささ、いざ尋常に勝負!」

 

『ま、どっちに転んでもかまわぬ。あれだけの名乗りをした後なのだ、戦いになってもさすがに手加減してくるであろう。ハルケギニアの伝説とやらがどの程度なのか、見てみるのも悪くない』

 

 カトレアは焦った。なんて無茶をするおじいさまなの! そういえば、エレオノール姉さまにもこういうところがあるわ。すごく知りたいことがあると、無理を通してしまう……これが研究者気質というものなのかしら。でも、このおじいさまは、母さまの『強さ』を全く知らない。このままでは、絶対に怪我をしてしまうわ。なんとか止めなくては!

 

 そして、カトレアは声を上げた。それが、戦いどころか周囲全ての時を止めてしまうことも気付かずに。

 

「どうやって姿を変えていらっしゃるのかはわかりませんけど、本当はもう、80歳をとっくに越えたお年寄りなのでしょう?」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――彼が、八十歳を越えたお年寄り!?

 

 それを聞いたとき、タバサは一瞬頭の中が真っ白になった。だが、さきほど馬車の中であった出来事やこれまでの事件などが彼女の頭の中でパズルの欠片(ピース)となり、瞬時に組み上がった。

 

 それから、タバサは太公望を見た。完全に硬直してしまっている。

 

(これは、彼が絶対に隠しておきたかったことだった)

 

 そう推測した。そんな中、タバサはふいに思い出す。以前、才人が〝夢の部屋〟で語った太公望に関する伝説の一部を。

 

『まさかあの太公望が、こんなに若かったなんてなあ。肖像画とか伝説の中だと、爺さんの姿で描かれてるし。俺、最低でも七十歳は越えてると思ってたんだぜ』

 

 彼は太公望という人物は老人だと考えていた。だからこそ、見た目とのギャップに戸惑っていたのだし、彼の名前を知っていたのに子孫や関係者という結論に辿り着けなかったのだ。

 

(そう、タイコーボーは一度たりとも自分を二十七歳だと断言してはいない。わたしたちがそう思い込んでいただけのこと。このカトレアというひとがどうやってそれを知ったのかはわからない。けれど、彼の真の年齢を感覚で見抜いてしまっている。下手な嘘をつくのは逆効果。なら、わたしの役目を果たすまで。そう……今こそ彼を守るために動く。いつも彼がそうしてくれているように)

 

 ――チェックメイト寸前。『聖なる女王(クイーン)』から『邪悪な魔王(キング)』を救うために颯爽と立ち上がったのは『雪風の騎士(ナイト)』タバサ。

 

「彼は時と空間を駆ける能力を持つ伝説の妖精の〝力〟によって、子供に戻されてしまったのです。だから、今はこんな姿をしています。わたしは彼が本当は七十代の老人であると聞いております。決して嘘ではありません。お疑いでしたら、トリステイン国内の『ジャコブ』という村に問い合わせてみてください。彼と全く同じ『祝福』を受けた人物がいますから」

 

 カトレアは口を半開きにして、タバサを見つめた。それから、にっこりと笑みを浮かべる。

 

「まあ、まあ、まあまあ。やっぱり! わたし、妙に鋭いみたいで、そういうことがわかってしまうんです。ええ、ええ、あなたが本当のことを言っているのも確かだわ。世界には不思議なことがあるものなのね!」

 

 そこまで言ったカトレアは、くいっと首をかしげてこう呟いた。

 

「でも、七十代ってことは……まあ、いやだわ。わたしったら計算を間違えたのね。あのかたは六十年間魔法の修行をして、それから何十年も妖魔討伐をなさっておられたみたいだから、最低でも八十代だとばかり」

 

(わたしはそこまで聞いてない)

 

 思わず太公望を見てしまいそうになったタバサだったが、考え直した。

 

(このひと相手にタイコーボーが何かを伝えていたことなどなかった。さすがに、深夜まで彼と一緒にいたわけではないけれど、いくらなんでもそんな時間帯に女性のところへ行くような真似はしていない……はず。たぶん)

 

「それで彼を止めてくれたのですか?」

 

「あ! ええと、あの、ごめんなさい。これって秘密にしていたことなのね? それなのにわたし、つい……」

 

 心底申し訳なさそうにしゅんとしてしまったカトレアに向け、タバサは小さく首を横に振った。

 

「いいえ、カトレア殿は彼の身を案じてくださったのですから、気に病まないでください。よくあんなふうにわたしの心臓に悪いことをするので……かえって助かりました」

 

 タバサは心の底から感謝した。実際問題、太公望の行動は本気で心臓に悪いのだ。

 

「本当にごめんなさいね。従者のおじいさま……あ、今は若返っていらっしゃるのだから、おじいさまなんて言ったら失礼ね。彼にも悪いことをしてしまったわ」

 

 ――いっぽう、そんな彼女たちのやりとりを聞いていた太公望はというと。

 

 ようやくブルースクリーン表示の完全フリーズ状態からOS起動画面まで戻り、現在までの情報を精査する作業に取りかかっていた。

 

 当初は、かつて彼に『太極図』を授けてくれた――カツアゲして奪ったと言ってはいけない――老子のように、相手の心を読む〝読心術〟の使い手なのかと思い、警戒した。

 

 しかし、それならタバサが『七十代』と言ったことに対して『計算を間違えた』などという返答をするのはおかしい。それに、カトレアが本当に相手の心を読めるなら、八十どころか伏羲の来歴――それこそ億をゆうに越えた数値が出てくるはずなのだ。

 

 おまけに、普通なら質の悪い冗談としか思えないような胡喜媚の話を完全に信じているようだ。

 

(相手の嘘を見抜く〝力〟を持っておるのか? いや、違うな……だいたい、わしは自分が六十年間修行をしていた話など出しては――む、ちょっと待て。これはもしや――?)

 

「あ~失礼、お嬢さまがた。ちょっとよろしいですかな?」

 

 相変わらず時間停止から立ち直れない一同を尻目に、太公望が一歩を踏み出した。

 

「カトレア殿。わたくしの推測が間違っていたら誠に申し訳ないのですが。ひょっとして、あなたは『声』を聞き分けることができる『聴覚』をお持ちなのではないですかな?」

 

『もしもそうなら、聞こえますと答えてください。この声が聞こえていればですが』

 

 カトレアは驚いた。目の前の『少年に戻った老人』は、自分の〝力〟を知っている。

 

「ええ、聞こえます」

 

 太公望は思わず手で顔を覆った。

 

(なるほど、やはり彼女は『読んでいる』のではなくて『聞き分けている』のか? ならば、もう少し実験させてもらおう)

 

 そして今度は十秒ほど無言でじっと彼女の目を見つめた。

 

『この声は聞こえていますか? 聞こえているならば、はいと答えてください』

 

 だが、それには無反応であった。

 

「なるほど、だいたい理解できました」

 

『他人の表向きの声と、心の声の両方が同時に聞こえるのですな? ひょっとして、動物と話すこともできませんか? 正解なら、どうしてわかるのですか? と、答えてください。違うのでしたら、それ以外の言葉で教えてください』

 

「どうしてわかるのですか?」

 

 やはりそうかと太公望は納得した。カトレアの能力は〝読心術〟などではない。「外に出す声」に付随してくる思考を、表の声と同時に特殊な『感覚』で掴み取り、その上で理解することができるという〝力〟なのだ。

 

「知り合いに『聞ける』『話せる』人物がおったのですよ。どうやらカトレア殿はルイズお嬢さま以上に鋭い『感覚を掴む』能力をお持ちのようですな。ひょっとして、聴覚だけではなく他の感覚も極端に鋭くありませんか? ひと目見ただけで、相手の持つ雰囲気を完全に察してしまうような?」

 

『嘘をついているかどうか、姿を偽っているかどうか。そういったものも含めて』

 

 この問いにカトレアは目を見開いた。家族の誰にも話していなかった事を、ほぼ完璧なまでに理解されている。

 

「え、ええ……その通りですわ」

 

「それは自分の意志でコントロールできますか? 探りたくないものがあった時、つまりですな……あえて、それを止めることはできますか? それとも、常に鋭いままですか? わたくしには後者のように感じるのですが」

 

 難しい顔をして問うてきた太公望に、カトレアは困惑した顔で答えた。

 

「ある程度方向を絞ることはできますけど……止めるというのは考えたことがありませんでした」

 

 自分はずっと部屋に閉じこもったまま一生を過ごすのか。そんな切ない思いが、彼女の〝力〟の範囲を広げていたのだ。そうすれば、世界に溢れるさまざまな『声』が聞こえるから。たとえ、外へ出ることが叶わなくても。

 

「なるほど、やはりそうでしたか! 初めてお会いした時に、お身体から不思議な〝力〟が漏れ出しているのを見て、何事かと思ったのですよ」

 

 太公望はまっすぐにカトレアを見据え、断言した。

 

「もしも自分の意志で止めることができるなら、すぐに止めたほうがよろしい。そうでないと、全身から〝生命力〟と〝精神力〟が漏れ出すことによる影響で、どんどん身体が弱っていきますぞ」

 

 その言葉に、これまであまりにもあまりな展開が続いていたがため停止した時の住人となっていた人々のうち、ヴァリエール公爵家の者たちが再起動を果たした。中でも特に大きな反応を示したのはカトレアの父親であった。

 

「ミスタ。それはいったいどういうことかね!?」

 

「はい。あくまでわたくしの見立てで確証は持てないのですが……カトレア殿は、そう。例えて言うならば、何らかのきっかけで、底に穴が開いてしまった湖なのです」

 

 今度はラ・ヴァリエール公爵の目をまっすぐ見ながら答える太公望。

 

「穴が開いているから、どんなに水を注いでも一杯にならない。だから、棲んでいる生き物が減っていく。つまり、衰退していく。逆に、穴を塞げば生命力に満ち溢れる、美しい湖に戻るでしょう」

 

「つ、つまり……病気が治る、そういうことかね!?」

 

 震え声で問うたラ・ヴァリエール公爵。

 

 どんな名医に診せても娘の病名は一切わからなかった。魔法でも、薬でも治してやれなかった。その重大な問題を、今、自分の目の前にいる男が解決してくれるかもしれない。

 

「病気? いや、カトレア殿は健康体ですよ。病人特有の〝気〟の乱れがありませぬから。だから、わたくしも今まで気が付きませんでした。ただ単に〝生命力〟が常に外へ漏れ出してしまっているがために、それが原因で身体が弱っているだけです。カトレア殿は魔法を使うと、息が苦しくなったりしませんか?」

 

「なります! 苦しくて、咳き込んで……熱が出たりします!」

 

 カトレアは思わず声を上げた。

 

(わたしが、病気じゃなくて健康体? どんなお医者さまも匙を投げてしまった、このわたしの身体が……!?)

 

「やはりそうですか。では、その感覚の『網』を身体の中に戻して、使いたいと思ったときだけほんの少しだけ出すようにすればよろしい。それから美味しいものを食べて、一ヶ月ほど養生し、その後改めて外に出て毎日ごく軽い運動をすれば数ヶ月で体力や筋力がつき、元気になれるでしょう。魔法も他のメイジたちと同じように使えるようにはなると思いますが、無理は禁物ですからな。ああ、もしも『網』の戻し方がわからないというのであれば、このわたくしがお教え致しますから」

 

 そう言って笑った太公望に、

 

「おじいさま、ありがとうございます!」

 

 泣きながら叫び、ぎゅっと抱きついたカトレアの姿を見て、思わず杖を抜きそうになったラ・ヴァリエール公爵を〝(ウインド)〟で空の彼方まで吹き飛ばしたカリーヌ夫人と。その、あまりの早業に止める間もなく呆然とするしかなかった様子のエレオノール。

 

「ちい姉さまは、病気なんかじゃなかったのね! これからは、みんなと同じように、外へ出られるのね!」

 

 そんな風に大好きな次姉が弱っていた原因と治療法を知って喜ぶルイズの側で。

 

「あんな美人で柔らかそうなお姉さんに抱きつかれるとか羨ましすぎる……」

 

 などとうっかり呟いて、当然の如くご主人さまから踵落としをお見舞いされた才人、

 

 彼と全く同意見ながらも年の功でそれを表に出さなかったオスマン氏。ラ・ヴァリエール公爵の飛んでいった方角と距離を冷静に観測するコルベールとレイナール。相変わらず事態の推移についていけずに固まっているギーシュとモンモランシー。

 

「タバサって妹どころか、もしかして孫……ううん、曾孫みたいに思われてたわけ!?」

 

 そんなことを考えつつも、

 

(ひょっとして例の女狐さんって、実はエルフみたいな長命の亜人だったりとか? それなら、ミスタと〝力〟の差がありすぎるって意味が理解できるんだけど……)

 

 などと微妙に鋭い感想を持っていたキュルケと。

 

「聞かなければいけないことが増えた」

 

 親友のすぐ隣で、杖をぎりぎりと握り締めるタバサ。

 

 そして、ご主人さまから『事情聴取対象』とされた太公望本人はというと――埋もれて窒息寸前に陥っていた。いったいどこに埋まっていたのかは、あえて言うまい。

 

 もう、正直戦いどころではないほどに場の雰囲気は乱されていた――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ラ・ヴァリエール公爵が天界(ヴァルハラ)から地上へと帰還し、ようやく場が落ち着きを見せ始めた頃。席についていたオスマン氏が長い髭をしごきつつ、太公望に対しボソッと呟いた。

 

「まったく。妙に枯れたジジイみたいな発言が多いと思うとったら……本物のジジイじゃったのか」

 

「やかましい! 二百歳を越えとるおぬしにジジイとか言われる筋合いはないわ!」

 

 漫才のような掛け合いをしている老爺ふたりを尻目に、才人は頭を抱えていた。ルイズの綺麗な踵落としによって受けたダメージのみならず、新たに判明した衝撃の事実によって。

 

「いやマジで、ショタジジイとか本当に誰得なんだよ!」

 

「ショタジジイって何だい?」

 

 聞き慣れない言葉にレイナールが疑問をぶつけると、才人は律儀にも解答した。

 

「俺の国の言葉で、外見子供で中身が爺さんのこと」

 

「なるほど、ショタジジイ……と」

 

「いや、メモらなくていいからそんなこと」

 

 そんな彼らのやりとりが終わったと見るや、太公望は改めて自分の年齢について語り始めた。カトレアが近くにいるので、うかつなことは喋れない。それを念頭に置いた上で。心からの本音を全員にぶつけた。

 

「これまで黙っていたことについては申し訳ありません。ですが! ここに来たばかりの時に、もしも本当のことを話していたらどうなったと思われますか!?」

 

 最初に答えたのはラ・ヴァリエール公爵だった。

 

「妖魔や亜人の類と間違われていたかもしれないな……」

 

 そこへ、彼の妻が補足を入れる。

 

「誰かがおかしな使命感に囚われて、討伐に向かっていた可能性がありますね」

 

 おそらく、わたくしのような者が。内心でそう続けるカリーヌ。

 

「アカデミーに連れて行かれて、分解されてたんじゃないかしら」

 

 ルイズの指摘に、長姉が目を吊り上げた。

 

「そんなことするわけないでしょう! 貴重な被検体なのよ!?」

 

「実験台にされるのは確定なんだ……」

 

 ぶるぶると震える才人。彼の左手に刻まれたルーンは、今も手袋で隠されている。太公望の助言に従った結果なのだが――そうしなかった場合のことを考えると色々と怖すぎる。

 

 そんな彼らをぐるりと見回した後、太公望は続きを述べた。

 

「ついでに申し上げておきますが。ここにいる生徒たちはわたくしから見れば曾孫ほど歳が離れている、大人として庇護すべき者たちです。そのような存在が、自分の目が届く場所で、一切相手の実力を計ることなく正面突撃するような真似をしでかしたら、その場でパッタリと心臓が止まりそうになるというのはご理解いただけますでしょうか? 特に、完全に無策で『土くれ』が操る三十メイル級のゴーレム相手に特攻かまそうとした者たちのこととか!!」

 

 顔を引き攣らせながら紡ぎ出された太公望の言葉に、該当者三名が顔を赤くして俯いた。なお、タバサはきちんと策有りで動いていたので数には入らない。

 

「主人には散々話しておることなのですが、この機会にラ・ヴァリエール公爵閣下並びにご家族の皆様方、魔法学院の皆へも念のためお伝えしておきます。わたくしは戦争というものが大嫌い……いいや、憎んでいるといっても過言ではないのですよ。軍に所属したのも、元はといえば数百年に及ぶ、我が国周辺の戦乱を終わらせたい。ただ、その思いが強かったがゆえにです」

 

 そう言った太公望は、静かな笑顔でラ・ヴァリエール公爵とその家族を見つめた。

 

「よって、わたくしに杖を向けたから戦争だ! などという愚かな選択は、我が祖国にはございませぬのでご安心を。ガリアについても、いち従者に対して()()を申し込んだ程度で他国の公爵家相手におかしな真似をする程の愚か者はおらぬでしょう。少なくとも、わたくしどもは内密にします」

 

 彼の言葉に、タバサは小さく頷きながら答えた。

 

「わたしも本国へ報告したりは致しません」

 

 そして。そのタバサの発言を受けた太公望はその後……ある意味一同にとって完全に予想外のことを言い出した。まず、彼はラ・ヴァリエール公爵に対して、こう告げた。

 

「カトレア殿がわたくしの真の年齢を察して、試合に耐えられないのではないかと心配なされたがゆえに止めに入ってくださったわけですが……そのおかげで長年不治の病と思われていた体調不良の原因が判明した。これはまさしく僥倖といって差し支えないでしょう」

 

 それを聞いたラ・ヴァリエール公爵は訝しげに尋ねた。

 

「君はカトレアが病に伏せっていたことを前もって知っていたのかね? 宴席では話題に出さなかったはずなのだが」

 

「はい。以前ルイズお嬢さまから、家族に病人がいる。良く効く薬に心当たりはないか、医療技術あるいは知識を持ち合わせていないかと尋ねられたことがございましたので」

 

「なるほど。それで、カトレアの異常な状態に気付いてくれたのだな」

 

「左様でございます。そこで、お礼の代わりと言っては大変恐縮なのですが……公爵閣下にひとつ、お願いがございます」

 

「わしにできることであれば何でもしよう。君はそれだけのことをしてくれたのだ」

 

 太公望は嬉しげに笑うと、言った。

 

「このあと、改めて『烈風』殿と試合をさせていただきたいのです。なに、ご心配なさらずとも肉体年齢に関しては見た目通りですから」

 

 その言葉に一同はどよめいた。さっきまではあきらかに戦いを避けようとしていた彼が、何故に突然このようなことを言い出すのかと。

 

「実際問題、こんな機会は二度とありますまい? かの『烈風』殿と杖を交えるなど! おまけに、年齢がバレてしまった以上、わたくしが長期間修行をし、戦い続けてきたという事実が全員の目の前に横たわっておるわけですよ。つまり『あいつは天才だからあそこまで戦える』などというような、わたくしにとって不本意極まりない評価を受けずに済みますし」

 

「も、もちろんわしはかまわんが、その……本気かね?」

 

「はい」

 

 返事の後、改めてカリーヌ夫人へ向き直ると、太公望はしっかりとした言葉でもって彼女に()()を申し込んだ。

 

「よろしければお相手願えますかな? 『烈風』カリン殿。まあ、わたくしは自力で空を飛べるようになるまで、まるまる十年以上かかった『おちこぼれ』のため、ご満足いただけるかどうかはわかりませぬが」

 

 その申し出に、鋭くも――笑みを湛えた瞳で答えたカリーヌ夫人。それからふたりは改めて練兵場の中央で向かい合うと、名乗りを上げた。ラ・ヴァリエール公爵が行った開始の合図と同時に彼らは揃って杖を構える。

 

「ふふッ……六十年間の修行の成果とやらを見せていただきましょう」

 

 そう言って微笑んだ『烈風』に、異界の『軍師』は不敵な笑みでもって応えた。

 

「その余裕、いつまで続くかのう?」

 

 太公望はその言葉と同時に裂帛の気合いを込め『打神鞭』を一振りした。カリーヌ夫人――いやカリンの真横、数メイルほどの場所目掛けて。

 

()――――ッ!!」

 

 巨大な風刃が超速でカリンの横を駆け抜けていった。しかも、ガリガリと凄まじい音を立てて大地を抉りながら。

 

 そして、彼女は見た。自分の真横にできた長大な地割れを。それは――今、目の前に立つ『少年』が放った〝風の刃(エア・カッター)〟が作った傷跡。その規模は、全長約五十メイル。深さは……わからない。底が見えない。

 

「なっ……!?」

 

 先程までの涼やかなそれとは一変。まるで大蛇の如く絡みつく強き〝風〟を全身に纏った男が、絶句した彼女を見据え――こう言い放った。

 

「おちこぼれが、いつまでも弱いままでおるとは限らぬよ。さあ、本気で来い『烈風』よ!!」

 

 ――こうして。伝説と神話の戦いは幕を開けた。

 

 

 




休日につき二連投。
明日は状況次第で夜になるかもしれません。


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第52話 軍師 対 烈風 -BATTLE OVER-

 ラ・ヴァリエール公爵領の練兵場。その高台にある観客席から、とんでもないものを目の当たりにした観客たちは――あまりのことに言葉を失っていた。

 

「い……今のは〝風の刃(エア・カッター)〟だよね!?」

 

 顔を引き攣らせながら、なんとか最初に声を絞り出せたのはレイナールだった。

 

「な、なんであんな威力が出るのさ! 『ライン』の僕が唱えても、木の枝を一本切り落とすのが精一杯なのに……」

 

「は? 『スクウェア』のメイジなら普通にできることなんじゃねえの?」

 

「無理」

 

 才人が同じ『スクウェア』のタバサに視線を向けると、彼女は即座に否定した。

 

「だって、前にルイズが……」

 

「彼女の基準は『烈風』。今考えると色々とおかしかった」

 

 仲間たちの視線にルイズは縮こまる。タバサの分析通り、彼女の比較対象は母親だった。だからこそ母より速く飛べる太公望を「素晴らしい風使い」と家族に紹介したのだ。

 

「んじゃ、普通のメイジだとどんくらいなの、です?」

 

 思わず素で対応してしまった才人がようやく『役割』を思い出し、強引に言葉遣いを改めた。そんな彼にレイナールが説明する。

 

「うーん。『ドット』なら鋭いナイフですっぱり切られるくらい、かなあ」

 

 そう言って、改めて新たに誕生した地割れを見るレイナール。彼の周囲にいる者たちの反応も似たようなものだ。

 

 ラグドリアン湖で例の〝ヘクサゴン・スペル〟こと『打神鞭・最大出力』(ただし全開前にタバサの手で強制停止)を目の当たりにした面々はともかくとして、太公望の〝攻撃魔法〟を初めて見ることになったオスマン氏・コルベール・レイナールの三名と、ルイズを除くラ・ヴァリエール公爵家の人々が仰天するのは当然である。

 

 と、図らずも補足するような形でエレオノールが口を挟む。彼女は半分腰を抜かしていた。

 

「な、なな、何なのよあれは!? 母さま並の〝力〟じゃないの!!」

 

 その声に、ルイズの母ちゃん――つまり『烈風』カリンもあのレベルなのかよ! と、内心でツッコミを入れる才人他、ヴァリエール公爵家の者以外の面々。さらに、そこへ追い打ちをかけたのは太公望の『主人』たるタバサだ。

 

「以前、彼と実戦形式の模擬戦を行ったことがあります」

 

 観客たちは一斉にタバサのほうへ向き直った。

 

「タバサ! あなた、いつのまにミスタと模擬戦なんかやってたのよ」

 

「なあ、どうしてみんなを誘ってくれなかったんだよ! 俺も見たかったのに」

 

「ぼくも」

 

「わたしだって!」

 

 そう問い詰めてきた友人たちに、

 

「観客なしという条件だった」

 

 と、いつものようにほとんど表情を変えずに回答したタバサ。ちなみに、ここで言う『実戦形式』とは各種交渉の類も含まれている。実際に杖を交えたのはまだ一度きりだが、あの戦いはその前後も含め――彼女にとって大きな糧となっていた。

 

「そ、それで? 試合のほうはどうなったのかね?」

 

「あなたたちがぶつかりあったんですもの、とんでもないことになったんじゃない?」

 

 興味しんしんといった表情でタバサを見つめるギーシュとモンモランシー。

 

「風の『スクウェア』同士の対決か……興味深いな」

 

 レイナールの発言に、これまた素っ気なく答えるタバサ。

 

「わたしはまだ風の『トライアングル』だった」

 

「じゃあ、結構前の話だね」

 

「そう。だから彼は多数のハンデを背負ってくれた」

 

「ふうん、どんなハンデだったの?」

 

「煉瓦の入った布袋を四つ錘として腰から下げて、風魔法も封印してくれた」

 

「全部で五リーブルくらいか……回避重視の彼には辛そうだね」

 

「風メイジなのに〝風〟を封印したの? それ、勝負にならないんじゃない?」

 

 呆れたような顔でそう尋ねてきたキュルケに、タバサは頷いた。

 

「やっぱり。そりゃそうよね」

 

 ところが、タバサは彼女の想像とは真逆のことを告げた。

 

「それなのに、歯が立たないどころか完封されてしまった。『スクウェア』にランクアップした今でも真正面から彼に挑んだ場合……正直、勝てる気がしない」

 

 タバサの言葉に一同は驚いた。特にびっくりしていたのが学院メンバーである。

 

「え、嘘! つまり錘付き・風魔法無しでミスタはタバサに勝ったわけ!?」

 

「完封なんて冗談だよね!?」

 

 彼らに、ふるふると首を横に振ってみせるタバサ。

 

 現時点で、彼女は魔法学院に在学する生徒の中で唯一の『スクウェア』メイジだ。その彼女がハンデ付きの相手に一矢報いることすらできないとは――。

 

「得意系統の魔法と格闘術無しで、そこまで……」

 

 唖然としているギーシュとレイナール。彼らはタバサと何度か杖を交えており、彼女の強さを身にしみて理解している。なら、それを完封してしまうという太公望は……。

 

「こ、コルベール先生。質問いいっすか?」

 

「なんだね? サイト君」

 

「俺、魔法使えないからわからないんですけど……メイジって、長い間修行して、何十年も実戦経験積めば、誰にでもあんなとんでもない魔法が使えるようになるんですか?」

 

 その問いに、青ざめた顔で首を横に振るコルベール。彼のメイジとしての実力は相当なものだが、魔法であそこまでの破壊力を出すことなど不可能だ。

 

(いや、研究一辺倒で鈍りつつある身体と勘を鍛え直した上で自然科学を学び、例の魔法を巧く発動させられればもしかすると……)

 

 と、そこまで考えたコルベールは何かを振り払うかのように再び首を振った。そして、ちらりと上司に視線を移す。

 

「まあ、わしくらい多くの経験を積んだメイジならやれないこともないのじゃが……あそこまで大規模の〝風の刃〟を撃つとなると、一発だけでかなりの〝精神力〟いや、どっちかというと体力のほうを消耗してしまうのう。いい加減、歳じゃし。ええのう、本当はジジイのくせしてあんなに若い身体を取り戻せているというのは」

 

 などとボソリと呟いたオスマン氏に対し、

 

(あんたもできるのか! てか、ただの偉そうなスケベジジイじゃなかったのか、このひと!)

 

 などと内心で大変失礼なツッコミを入れていたのは公爵とカトレアを除く全員だ。

 

 全体評価はさておき、さすがは『トリステイン最高のメイジ』の称号を持つオールド・オスマン。その名前は伊達ではないのだ。もっとも、寄る年波には勝てないようだが。

 

 答えをもらえた才人はコルベールに確認する。

 

「つまり、誰でもできるって訳ではないんですね」

 

「ええ、もしもそれが可能なら『烈風』は伝説になれなかったでしょう」

 

「ああ、そっか! 確かにそうですね」

 

 みんなの〝器〟を見ている才人も理解した。同じプロ野球というカテゴリにいる選手の中にも、一軍で大活躍する者がいる一方で、芽が出ないまま引退するひともいる。魔法もそれと同じで『スクウェア』というランクに立てたとしても、その中には明確な差が存在するのだ。

 

(その例で言うと、ルイズは金の卵だったのに、運とか巡り合わせが悪くてあいつの才能を引き出せるコーチや監督に恵まれなかったわけだ。それが太公望っていう名監督に出会えたことで、今は一軍で好成績を残し始めている、ってところか)

 

 例えはともかく、才人はしっかり的を射た受け止め方をしていた。

 

 

 ――さて、実際に戦場に立っているふたりのほうはというと。

 

 『烈風』カリンは、勇猛果敢を売りとする彼女としては珍しく――完全に身体が固まってしまっていた。それはそうだろう、これまで散々『おちこぼれ』だの『頭脳面のみの天才』という前情報を叩き込まれていたのだ。しかも、彼女の目に映っていた決闘直前までの太公望は、軍人という割に、完全に隙だらけだった。

 

(それがどうだ。今、わたくしの目の前に立っているこの男は!)

 

 自分が全力で放つのと変わらない威力の魔法を平然と飛ばしてきただけではなく、息一つ乱れていない。しかも、全身にごく自然な風を纏っている。

 

 それは威圧感を伴う類のものではない。例えるならば、何もない平原でごくごく稀に発生する、渦巻き状の小さなつむじ風だ。いや、だからこそカリンは驚いたのだ。相対する人物が完全な自然体であることに。ハルケギニアの歴史上最強とまで謳われる自分を前にして平常心を保てるような相手を警戒するのは『騎士』として当然だ。

 

 これまで、いくつもの戦場を経験してきたカリンだからこそわかる気配。

 

(彼は間違いなく強敵だ――それも、これまで戦ってきた、誰よりも)

 

「来ないのか? ならば、こちらから行くぞ!」

 

 わずか数秒にも満たなかったカリンの硬直を、太公望は見逃さなかった。大声でそう宣言した後、即座に前傾姿勢を取る。それを見たカリンは、すぐさま杖に魔法の刃を纏わせた。〝(ブレイド)〟の魔法である。彼女は近距離戦(ショートレンジ)も得意としている万能の戦士だ。

 

「受けて立つ!」

 

 そのカリンの反応を見た太公望はニイッと笑みを浮かべると、風と共に……人間業とは到底思えないほどの超速度で猛然と走り出した――正面を向いたまま、後方へ。

 

 カリンが見事にずっこけた。観客席にいた者たちも、ほとんど全員崩れ落ちかけたのだが……。

 

「絶対何かやると思った。相変わらず器用」

 

「いや……だから、感心している場合なのかね? これは」

 

 平然と。こういった場面での太公望の行動など、もうわたしにはお見通しだとばかりに呟くタバサと、以前似たような場面に遭遇しているのでなんとなく予想はしていたものの、やっぱり呆れるギーシュ。そして、太公望の大声宣言時に聞こえてきた、

 

『かかかか! ついて来られるかな? このわしのバック走に!!』

 

 という『付随してきた中の声』による予告で既に吹き出しそうになっていたカトレアの合計三名だけが、これに耐えきった。

 

「ふ、ふざけるなあああッ!!」

 

 大声で叫び風を纏うと〝風〟を駆使して飛び出すカリン。彼女はそれと同時に〝風の刃〟を呆れるほどの超高速で後退していく太公望へ向けて、毎回――数枚単位で飛ばしまくったのだが、全部ひらりひらりと躱されてしまう。それも、紙一重で。

 

 太公望が行っているこの回避行動は、とてつもない技量を必要とする『超高等技術』なのだが「うひゃー」とか「ごひゅー!」「どひぇー!」などという叫び声が一緒についてくるので、締まらないことこの上ない。

 

「逃げてばかりいないでちゃんと戦いなさい! 敵に後ろを見せないという話は、嘘だったのですか!?」

 

「嘘ではない! その証拠に、全部前を向いたまま避けておる!!」

 

「それを屁理屈と言うのです!」

 

「ハッ、屁理屈だろうとなんだろうと事実であることには変わりあるまい!」

 

 練兵場の中で乱れ飛ぶ〝風の刃〟と〝風の嵐(ストーム)〟。そこは既に暴風域へと達していた。これらの現象を起こしているのはカリンのみ。太公望はただひたすらに回避するばかりである。しかも、だんだん余裕が出てきたのか、いつもの邪悪なワハハ笑いまで飛び出している始末だ。口調まで、敬語ではなく元通りになっている。

 

「それにしてもさ。マジでとんでもねえ威力だよなあ、ルイズ……お嬢さまのお母上が使う魔法は。地面、もうボロボロなんじゃねえの?」

 

 そう呟いた才人の声に、ルイズが唖然とした声を返す。

 

「そうなんだけど……なんだか母さまが凄いのか、全部避けているミスタがとんでもないのか、わたしにはもうわけがわからなくなってきたわ」

 

 そう。ここまで〝風の刃〟はもちろんのこと〝風の嵐〟〝刃の竜巻(カッター・トルネード)〟他、相当数の長距離用(ロングレンジ)魔法が乱れ飛んでいるのだが、なんと一撃たりとも太公望に当たっていないのだ。擦りすらもしていない。ついでに言うと、太公望は全く反撃を行っていない。

 

 何故カリンが放つ魔法が長距離系ばかりなのか。その理由は簡単である。彼らが試合開始以降ずっと追い掛けっこを継続しているからだ。

 

 それはいつしか楕円を描くようになっていた。ぐるぐると、まるで陸上のトラック沿いを走るようにひたすら後退を続ける太公望を、カリンが追跡するような形で。

 

(なるほど、そういう意図なのだな……)

 

 ラ・ヴァリエール公爵は内心唸った。彼はいち早く太公望の狙いに気が付いたのだ。公爵はラ・ヴァリエール家の家督を継ぐために近衛魔法衛士隊の職を辞す以前はカリンと同じマンティコア隊に所属しており、その『頭脳』たる役割を果たしていた。公爵家の主として父親の代わりに対ゲルマニア方面国境防衛軍の長となって三十有余年、一度たりとも国境線を突破されたことがないというトリステインでも有数の知将である。

 

 最初の一撃以降、太公望は一度たりともカリンに対して攻撃を仕掛けていない。いや、正確に言うと彼からはもう、一切仕掛ける気がないのかもしれないと判断した。ついでに、怒ると完全に冷静さを失う妻の気性を良くわかっている公爵は、こう考えた。

 

(彼はカリンの〝精神力〟が切れ、倒れるのを待っているのだ)

 

 ……と。

 

 そして、そのまま試合を終えるのが目的なのだろう。平和裏に事を解決するために。公爵はそのように受け取った。確かにカリンのパワーは凄まじい。だが、あれほどの冷静さを欠いた状態であることと、彼の驚異的な回避能力を併せれば、それが可能であるという判断の上で。

 

 と、ここまで思考を進めたラ・ヴァリエール公爵は疑問を覚えた。

 

(何故、彼はこんな回りくどいことをするのだ? そもそも事を荒立てたくないのならば、最初から試合など申し込まなければよいではないか。にもかかわらず、このような真似をするということは、何か他に理由があるはずだ。それはいったい何だ?)

 

 ――ラ・ヴァリエール公爵が太公望の行動理由について首を捻っていた、ちょうどそのころ。カリンは若い頃を思い出していた。騎士見習いになる前、とある人物と出会ったときのことを。

 

 カリンは内心驚いていた。彼女は『伝説』と謳われるほどに優秀な騎士である。外見はどうあれ、内面ではとっくに冷静さを取り戻している。

 

 若い頃ならばいざしらず、戦士としても、公爵夫人としても。そして母としても経験を積んだ今では長年連れ添った夫にすら怒り狂っているように見せかける程度の()()をすることなど、どうということはない。とはいえ、最初は割と本気で怒っていたわけだが。

 

 カリンは、まるで道化師のように振る舞っている目の前の対戦相手がこれほどの技巧派だとは想像だにしていなかった。自分と同じ〝力押し〟を得意とするメイジだと完全に信じ切っていた。いや、最初の一撃でそのように思い込まされたのだということを、嫌と言うほど実感していた。

 

(この男は、避けているだけではない。幾重もの風で受け流しているのだ。しかも、こうして戦っているわたくし以外の者に悟られない程度の、ごくごく小さな風の流れを作り出すことによって)

 

 優秀な風の使い手たるカリンには、それが手に取るようにわかる。

 

 戦いの最中だというのに、カリンはつい微笑んでしまった。幼さがゆえに、無茶ばかりしていたあの頃。初めてあのひとと出会ったのも、そんな若さからくる無謀な行いがきっかけだった。腹部に大怪我をしていたにもかかわらず、あのひとはそれをひた隠しにして、自分のような生意気な子供から挑まれた決闘を受けてくれた。

 

(あのときもこんな風に……簡単にあしらわれてしまったわね)

 

 ―――『烈風』カリンはずっと孤独であった。

 

 家族や血縁者、友人がいないという意味ではない。その強さがゆえに、敵――そう。彼女にはライバルと呼べるような相手が全く存在しないのだ。

 

 もちろん、最初はそんなことはなかった。数多くの年上の騎士や、妖魔達によって簡単にねじ伏せられ、何度も悔しい思いをしてきた。しかし〝力〟が強まるにつれ、少しずつカリンの相手ができる者が減ってゆき……いつしか、ずっとその背中を追い続けてきた『あのひと』をも、追い越してしまった。

 

 終いには『出陣した』という一報が戦場に伝わっただけで敵軍が逃げ去ってしまうほどに、彼女の名声は高まってしまった。そうして、まともに戦うことすらできなくなり――ついにはひとりぼっちになった。

 

 今朝方、ワルドに稽古をつけたとき。カリンは突如変貌した彼の姿に驚いた。おそらく『国と家族を守る』という強い決意がゆえにワルドは――実の息子のように可愛がっていた青年は、壁をひとつ越えたのだ。昨日よりも明らかに〝力〟が……それも数段上がっていた彼が、いつの日か自分と並び、追い越していってくれるのを楽しみに待っていよう。そう考えていた。

 

 ところが。そんな期待が胸に宿ったその日のうちに、それ以上の――しかも、最低でも自分と同等かそれ以上の威力を持つ〝風〟を放ち、かつ明らかに戦闘スタイルの異なる相手が現れた。騎士、いや戦士としてこれほどの幸せがあるだろうか。いや、絶対に無い!

 

 息子が大きな壁を越えた。長年病弱だと思われてきた娘が、実は病気などではないとわかった。そして今――自分の目の前にいるのは。数十年以上探し、求め続けてきた、生涯の好敵手(ライバル)たりえる存在。今日は()き日だ。わたくしは一生忘れないだろう。

 

「嬉しい。やっと本気で戦える相手に出逢えた」

 

 カリンは喜びの感情を爆発させ――戦場に本物の『烈風』が顕現した。

 

 

 ――ルイズの母親は本当に『人間』か!?

 

 いつもの如く自分のペースに巻き込んで相手を観察していた太公望は、突如〝力〟を爆発させた『烈風』カリンの変貌ぶりに、ただただ驚愕していた。

 

 ()()ルイズの母親である。相当な〝力〟の持ち主であろう。そう当たりをつけてはいたが、まさかこれほどとは! この威圧感、そして溢れ出てくるエネルギーはかの偉大なる『古き時代の風』殷の太師を彷彿とさせる。

 

 さすがにあそこまでの〝力〟はないものの……もしも彼女が〝仙人界〟に在ったなら、現時点で幹部級――いや、今後の修行と心得次第で間違いなく最高幹部の座に就ける程の〝器〟の持ち主だ。

 

 太公望は歯ぎしりした。相手はただの人間。そんな驕りが、自分のどこかにあったことは否定できない。だから、わざわざ試合などを申し込んだのだ。本来であれば回避できたであろうものを、よりにもよって、自分から行ってしまった。

 

(ふん、上げすぎた評価をリセットするために利用する? 『おちこぼれ』なりの戦い方を見せて納得させようとした、だと? 笑わせるでないわ)

 

 もっとちゃんと考えてさえいれば、他にも策が――ずっとよい方法があったはずなのだ。

 

(まったく……これではわしも〝力〟を発揮せざるを得ないではないか。このわしとしたことが、なんという馬鹿な真似をしてしまったのだろう)

 

 太公望はそう自嘲した後に改めて気を引き締めると、立ち止まった。

 

 そして『打神鞭』を構え直した太公望は、カリンへ向き直ると――こう言った。

 

「わしも、本気で戦おうと思う」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それは、まさに神話の戦いであった。

 

 『烈風』が唱えた魔法によって出現した十六人の〝遍在〟の一斉突撃を、『軍師』が左手に構えた『打神鞭』の先から発生させた総数二十本もの〝風の鞭(エア・ウィップ)〟によって迎え撃ち、払い退ける。

 

 その〝風の鞭〟をかろうじて避け、懐へかいくぐったわずかに残る『近衛部隊長』の〝遍在〟を、全身に、まるでバネのような形の風を纏った『参謀総長』が、それだけで一撃必殺となりうる強烈な多段蹴りと突き上げた拳によって空中へと打ち上げると、頭上に発生させた円輪状の〝風の刃〟を投げつけ、切り裂いた。

 

 そして、先程のお返しとばかりに本体へ近接戦を挑むべく、足元に〝強風〟を吹かせることで実現した超高速の前進を仕掛けてくる『拳士』を、手に持った軍杖に纏わせた〝風の刃〟を盾のように広げることで牽制する『剣士』。

 

 遙か彼方、天空まで届くほど長大な竜巻に乗って空を舞う『騎士姫』を、ほとんど同規模の大竜巻を纏った『魔王』が迎え撃ち、練兵場の中央で、轟音と暴風をまき起こしながら大激突を繰り返す。何度も、何度も。

 

 トリスタニア中央部にある大劇場『タニアリージュ・ロワイヤル座』の演目にはもちろんのこと、書物にすら存在しない程の、激しくも凄まじい〝台風〟ふたりの戦いを前に……観客席に座った一同は既に畏怖すらも通り越して。ただその場で、見惚れることしかできなかった。

 

「ま、まさか、あ、あのカリンの『本気』と互角に撃ち合える、だと……!?」

 

 観客席の肘掛けに乗せた手を握り締め、ラ・ヴァリエール公爵がかろうじて喉の奥からしわがれた声を絞り出すと。

 

「撃ち合いなどではない、あれは従者殿が受け流した上で、その〝力〟を利用し、反撃しようとしておるのじゃ! だが、カリーヌ夫人の〝力〟が強過ぎるがゆえに流しきれず、受け止める形になっておる。そのせいで双方決定打を繰り出すことができない。これは、そういう戦いじゃよ」

 

 『烈風』にその座を奪われるまで、トリステイン王国最高の『天才』と呼ばれたメイジだったオールド・オスマンが公爵の言葉に反論する。

 

「これは、まさに『(パワー)』のミセス・カリンと『(スキル)』のミスタ・タイコーボーの決戦。そういうことですな!」

 

 コルベールが興奮した声で上司の言葉に補足を入れる。

 

「『烈風』殿のほうが強い。これはわかりきったことだよ!」

 

「絶対、太公望師叔だ! 経験の差でこっちが勝つ!」

 

 ギーシュと才人は手に汗を握りながら、揃って応援合戦に興じている。他の観戦者たちも、彼らと似たようなものだ。『西』異世界・ハルケギニアと『東』地球・中国大陸の英雄同士が繰り広げる東西対抗・異世界大決戦。通常ならば、どんなに望んでも決して見ることなど叶わない、正真正銘『黄金の試合(カード)』だ。

 

 そんな中。ふたりの姫が、おかしなことに気が付いた。

 

「なぜ、あれほど強い〝風〟がぶつかりあっているのに、ここまで届かないのかしら」

 

 ――そう感じていたのは、その純粋さがゆえに身体を損なっていた、春風の姫君。

 

「どうして、あの〝風〟はふたつあるのだろう」

 

 ――疑問を覚えたのは、その過酷な運命がゆえに心を閉ざしてきた、雪風の姫君。

 

 戦いの均衡が崩れたのは、その直後。カリンが放った巨大な〝風の刃〟を、それまでと同様極小の〝風の盾〟で受け流そうとした太公望が、足元の小石に足を取られた……わずかな時間。そのタイムラグにより、弾く角度に微少のズレが生じた。

 

 己が犯したミスに即座に気付いた太公望が、大声を上げる。

 

「守りきれぬ! 才人、デルフで!!」

 

 〝風の刃〟が唸りを上げて観客席に迫る。太公望の声と主人の危機に対し、即座に反応した〝ガンダールヴ〟平賀才人が背にした大剣を瞬時に引き抜くと、観客席の前に立ちふさがった。そして長大な〝風の刃〟を刀身でもって粉砕し、全てを吸収した。

 

「みんな、大丈夫か!?」

 

 左手に煌めく剣を持つ才人の姿は、まさに仲間を守る『神の盾』。彼の手によって救われた人々は口々に感謝の言葉を述べた。

 

 そして、決戦に赴いていたふたりの戦いは、そこで終わった。

 

「わたくしの……負けです」

 

 『烈風』カリンが手にしていた軍杖を落とし……そう宣言したことによって。

 

 

○●○●○●○●

 

「わたくしは戦うことだけに夢中になっていたというのに、彼は観客席まで気に掛けていました。攻撃を逸らす際に、絶対にそちらへ〝風〟がいかないよう、細心の注意を払っていたのです」

 

 全員の前で、そう言って力無く笑うカリーヌ夫人。

 

「母さまの仰る通りです、あんなに強い〝風〟同士がぶつかり合っていたのに、こちらへはそよ風ひとつ届いていませんでした」

 

 母親の言葉を補足するかのように紡ぎ出されたカトレアの声に、一同は驚いていた。

 

 風系統に属するタバサ・レイナールのふたりと、オスマン氏とコルベール、ラ・ヴァリエール公爵の大人組はそれを薄々感じ取ってはいたものの、いまいち確証が持てていなかった。だが、カリーヌ夫人の口から直接聞いたことによって、彼らは自分たちの直感が間違っていなかったことを悟る。

 

「それと。彼がどうして自分を『おちこぼれ』などと言うのかも、理解できました」

 

 そう告げて『烈風』カリンからラ・ヴァリエール公爵夫人カリーヌへと戻った女性は太公望のほうへ向き直ると、彼の目をじっと見て尋ねた。

 

「あなたは風の『スクウェア』メイジではありませんね? それどころか『ドット』がせいぜい。それも〝念力〟(サイコキネシス)と〝(ウインド)〟このふたつしか使えない。違いますか?」

 

 その発言にざわめく一同。あれほどの戦いを繰り広げた達人が『ドット』!? だが、夫人の発言にいち早く反応を示した者がいた。コルベールだ。

 

「そうか! 私には、不思議でならなかったのです。どうして彼が〝遍在〟を使わないのかと。使いたくても使えなかった。そういうことだったのですな!?」

 

 さらに、そこへ補足した者がいた。太公望の『パートナー』タバサだ。

 

「夫人の言葉で納得できました。先程の戦いで彼が使う風が、普通のものと、そうでないもの……何か別種の〝力〟が込められたような風であることに気が付いてはいたのですが、わたしの感覚では、残念ながらそこまでしか判断がつきませんでした」

 

 タバサの発言に、

 

「こればかりは実際に両方の〝風〟を何度も受けないとわからないでしょう」

 

 そう言って微笑んだカリーヌ夫人は、再び太公望へ向き直った。

 

「最初は手加減をされているのかと思いました。でも、あなたの風からはそのようなものは感じませんでした。そして、あの『守りきれない』という声を聞いて確信したのです。あなたは〝遍在〟を出せないと。けれど『トライアングル』レベルでは到底扱いきれない風を纏っている。これはいったいどういうことなのかと、わたくしは疑問を覚えたのです」

 

 まっすぐと自分を見返してくる太公望の視線を受け止めながら、カリーヌ夫人は続けた。

 

「吹いてくる風の質が、どこか普通のものと違っている。そこでようやく気付きました。あなたが魔法を完成させてから放つまでの時間が、異常なまでに速いことに。つまり、短い詠唱で済む呪文を用いているのだと。そこまで考えるに至って、やっと分かったのですよ。あの竜巻は〝風の嵐(ストーム)〟に見せかけた〝(ウインド)〟。刃は〝風の刃〟のように形作られた〝念力〟。あなたは〝力〟を偽装していた」

 

 事件を解明しようとする名探偵が如く、カリーヌ夫人は持論を展開する。

 

「あなたは二種類の魔法を使い分けることによって、自分の〝力〟を大きく見せかけていたのでしょう? 昨夜語ってくれた自然科学の知識と知恵、そして磨き抜かれた技を駆使し、いろいろな形の風を吹かせることによって。そう……最小限の〝力〟を用いて最高の〝威力〟を発揮させる。あなたの先生は、正しい『道』を示されていたのですね」

 

 カリーヌ夫人の最後通告に、太公望は片手で顔を覆った。

 

「完敗です、カリーヌ夫人。まさしくその通りです。わたくしにはそれしかできないのですよ。これまでずっと隠し通してきたというのに……参りました」

 

『風を操ること、そこに〝力〟を込めることしかできないというのがより正確なところであるが』

 

 内側の『声』を聞いていたカトレアも、これで納得した。あのとき聞こえてきた言葉は比喩的表現ではなく、事実だったのだ。『ハルケギニアで言うところのドット』。本当に、彼は『ドット』メイジだったのだ。しかも〝念力〟と〝風〟しかできないという、通常の『ドット』にすら届いていない存在。一般的なメイジの感覚からすれば、完全におちこぼれだ。

 

「待ってよ! ミスタは火の『トライアングル』以上だって、前に学院長が……!」

 

 そのルイズの発言に、太公望は首を横に振った。

 

「確かに、その気になれば火も扱えます。ですが、わたくしは自力で魔法による火を灯すことができないのですよ。杖で薪を叩いて火花を起こしたり、松明などの炎に風を重ねることによって、ようやく火メイジのような事象を起こすことが可能となるのです」

 

 太公望はそう言い終えた後……カリーヌ夫人に向けて頭を垂れた。

 

「と、いうわけで……この勝負はわたくしの負けです、カリーヌ夫人。退役済みとはいえ、一度は国から軍を任された元帥。しかも参謀総長たるこのわたくしが、よりにもよって自軍の作戦と戦力を完全に見抜かれてしまった。これは戦争で例えれば、戦略的敗北に等しいことですから」

 

 ところが、カリーヌ夫人はその言葉に異を唱えた。

 

「何を言うのです。わたくしは国や民草を守るべき騎士でありながら、その本分を忘れ、戦いの楽しさに酔ってしまった。しかも周囲の状況すらわからなくなるほどに。あなたが負けだと言うのなら、わたくしこそが真の敗北者です」

 

「いや、わたくしめの負けです」

 

「いいえ、わたくしが」

 

 やいのやいのと言い合うふたりに、座席から立ち上がり、苦笑しながら近寄って行ったのはラ・ヴァリエール公爵であった。彼はさも難しげな顔をしながら伝説の騎士と参謀総長を見比べると、こう告げた。

 

「さて、これはどうしたらよいものか。ふたり揃って負けを主張するとは」

 

 そう呟いて、オスマン氏をちらりと見る。その視線にオスマン氏はまるでいたずらっ子のような目を向けて「これは難問だ」などと呟き、何かを考えるようなそぶりを見せた。

 

「まったくもって難しい問題じゃの。あれほどの名勝負が繰り広げられたというのに、目の前にいるのが敗者だけだというのは。これはあってはならないことだとわしは思うのじゃが、どうかね? ここにいる皆はどう思う?」

 

 答えを聞くまでもなかった。何故なら、彼らの顔はみんな輝いていたから。それを見たオスマン氏はラ・ヴァリエール公爵に向けて笑顔で頷いた。それを見た公爵が、高らかに宣言する。

 

「この勝負に勝者も敗者もない。よって……引き分けとする」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして、夕食後。

 

「まさか、ミスタが『ドット』だとは思わなかったよ」

 

 未だ興奮冷めやらぬといった様子で声をかけてきたギーシュに対し、太公望はこう言った。

 

「おぬしは、最近『ライン』に上がったからのう。とうとう追い抜かれてしまったわ。教え始めた頃はわしにいちばん近いタイプのメイジだと思っておったのに」

 

 〝錬金〟によるゴーレム七体の複数同時操作。言われてみれば、今日太公望が見せてくれた〝風の鞭〟二十本の『同時展開』も、実は〝風〟によって行われていた。

 

 同じ指揮官タイプでもあるし、系統や手法こそ違えど戦い方自体はそっくりだ。

 

(いつの日か、僕もあの〝鞭〟のようにたくさんのゴーレムを扱えるようになるのだろうか)

 

 そんなことを考えていたギーシュに声をかけてきたのはカリーヌ夫人だ。

 

「あなたはグラモン伯爵のご子息でしたわね? お父さまもゴーレムの操作がとてもお上手でした。やはり、血筋なのでしょう。わたくしが騎士見習いだった頃、彼は『トライアングル』でね。見事なゴーレムで、よくわたくしたちを助けてくれたのよ」

 

 そう言って笑顔を見せたカリーヌ夫人は、今までとは別人のように柔らかな表情をしていた。

 

「それにしても。あんなに多くの〝風の鞭〟を出せるメイジなど、今まで見たことがありません。わたくしでも、同時に十六体の〝遍在〟が限界です。やはり、あれは訓練と実戦によって磨かれたものなのでしょうね」

 

「それもありますが、自然科学の知識が大きいですな。それと『複数思考』。これらを組み合わせて……現時点で〝鞭〟だけでよい状況ならば、最大二十四本はいけるかと」

 

「まあ! では残りの四つは……ああ〝盾〟と〝風移動〟それと〝円輪〟に回していたのですか」

 

「その通りです。この域に達するまで、実に六十年かかりました……」

 

 老メイジならではの熟練した技。正直なところカリーヌ夫人は、天使の『祝福』によって若返り、人生のやり直しができているという太公望が羨ましかった。しかし、彼女はすぐに思い直した。今のわたくしは、過去によって築かれたものだと。

 

 そこに新たな声が加わってきた。ラ・ヴァリエール公爵だ。

 

「ところで、ひとつ聞きたいことがあるのだが……かまわんかね?」

 

「どういった内容でしょうか?」

 

 太公望の返事に「うむ」と頷きながら公爵が口を開いた。

 

「君が本気を出す前。あの戦い方の意図だよ。最初は相手の〝精神力〟切れを待つ作戦ではないかと考えたのだが、それならば最後まで貫き通せばよかったはず。にもかかわらず、それをせずに真っ向勝負を仕掛けたのは何故だね?」

 

 その質問に、太公望は思わず苦笑して答える。

 

「最初のあれはですな、夫人の実力を測らせていただいていたのです。魔法の威力や、攻撃が届く範囲、得意な戦法、逆に苦手なものは何なのか。まず、相手を徹底的に調べる。これは戦いの基本ですからな。国元で『回避だけなら史上最強』などと陰口を叩かれたほど、逃げ足には定評があるわたくしだからこそ取れる戦法ですが」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は感心すると同時に呆れた。まさか、そんな意図で『最強』を挑発するような真似をしたのか、この男は……と。しかし、ふとそこに至るまでの太公望の言動を思い返す。

 

(確かに、カリンと全力で杖を交える機会などまず訪れないし、彼女の実力を見ることで今後の指針とする。そこまで考えていたのか)

 

 素直にその考えを口にしたラ・ヴァリエール公爵に、太公望は頭を掻きながら、心底恥ずかしそうな顔をして告白した。

 

「自分の勇猛ぶりや賢さを周りに証明したくてたまらない年頃に……ろくに情報を集めぬまま、敵の本拠地へ潜入したことがありましてな。で、結果は大失敗。あっさり捕えられ、牢へ放り込まれた挙げ句、公開処刑されそうになったという経験がございまして」

 

 この発言に全員がぎょっとした。カトレアなど、

 

『あの時のことは、未だ夢に見るわ……』

 

 などという『付随する声』を同時に聞いてしまい、身震いした。

 

「いや~あの時は本当に、もう自分の一生はこれで終わったのだと絶望したのですが、幸いなことに今まさにこの命を奪われるという寸前で、仲間が――今、わたくしの横に座っている才人の親族たちが決死の覚悟で刑場へと乱入し、助け出してくれたお陰で、九死に一生を得たのですよ」

 

 その言葉に全員の視線が才人へと向かう。

 

(先程の剣技といい、持っている〝魔法剣〟と思しき剣といい……この少年只者ではないと思っていたが、もしや彼の家に仕える〝メイジ殺し〟の一族があり、そこの出身だったりするのか?)

 

 などと判断したラ・ヴァリエール公爵。

 

 既に『武成王一族』の話を聞き及んでいた才人を含む魔法学院のメンバーは、これも彼らの武勇伝のひとつか! と、大人しく話に聞き入っていた。

 

 公爵夫妻はしばし絶句した後、互いに目を見合わせた。何故なら、彼らはかつて、ものすごく似たような話をどこかで聞いた……いや、実際に体験した覚えがあったからだ。

 

「彼ら一族に窮地から救い出される前。わたくしは処刑台の上で、こう思ったのです。どうして自分は失敗したときのことを考えなかったのだろう。何故、相手を全く知らずに敵地へ潜入するなどという愚かな真似をしたのだろうかと。死の足音が聞こえてきた時になって、ようやく気付いたのです。勇気と無謀は別物なのだ……と」

 

 俯きながら、深いため息をついた太公望。

 

「そんなわけで、魔法学院の生徒たちに無謀がどうこう言える筋合いはないのですよ、そういった意味では。まあ、とにかくそれ以来、わたくしは事に当たる前に必ず、徹底的に情報を集めるようになりました。そして、それを元に有利に戦いを進めるための術を学んできたのです。ですから、あのような戦法を採った次第でして」

 

 そう言って自嘲する太公望を、その場にいた全員が見つめた。ああ、だからあそこまで徹底的に情報集めをしようとするのか、そう考える者たちと。彼にもそういう時期があったのだなあ、最初から今のような判断力があったわけではないのだ。と、少しだけ親近感がわいた者たちと。失敗したときのことを考える、その意味を深く胸に刻んだ者もいた。

 

(よりにもよって公開処刑にされかかるとか、無謀な敵地潜入とか……彼は、若い頃のわたくしと本当に良く似ていたのですね)

 

 そう思い、なんだか目の前の男に共感を覚えてしまったカリーヌ夫人は再び若い頃のことを思い出していた。あのひとの口癖。若さゆえに無茶ばかりするカリンを諫めるために、上司だったあのひとがよく口にしていた言葉。

 

『勇気と無謀は別なんだ』

 

(目の前にいる彼は、自力でそこに辿り着いたけれど、わたくしは……どうだったろう?)

 

 当時を振り返ったカリーヌ夫人は、あのひととの過去に思いを馳せた。最初は騎士になることが目的だった。その次は彼に追いつくことが目標となり――いつしか、その隣に立ちたくなった。

 

 と、ここで彼女はふいに良いことを思いついた。それを行うために必要な条件を確認すべく、探りを入れる。『烈風』カリンらしく、真正面から――まっすぐに。

 

「ところで、あなたは今……お独りですの?」

 

 ピクリ。このカリーヌ夫人の発言に、その場にいた全員の神経が耳へと集中した。

 

(これは、まさかあの手の話か!)

 

 太公望は即座に気が付いた。状況は異なるが、そういう話を持ちかけられた経験があるからだ。

 

 かつて、太公望が殷打倒のため周軍を率いて敵の王都・朝歌を目指していたときのこと。不意を打たれ、周の王を含む複数名の人質を取られてしまった。それを行ったのは〝金鰲島〟の公爵だった。所謂『バトルマニア』だった公爵は「人質を返してほしくば、自分たちと戦え」という要求を叩き付けてきたのだ。

 

 そこで太公望が相対したのが、三人の女性――公爵自慢の妹たちだった。太公望はこの戦いで、そのうちのひとりを策によって陥れた。

 

 具体的には自分に惚れさせる、こちらも相手に好意があるような言動を取ることによって、同士討ちを狙ったのだ。彼の策は見事に成功。三姉妹は完全に無力化され、太公望は(ある意味で)壮絶な戦いに勝利することができた。

 

 ……と、ここから先が太公望にとっての失敗であり、誤算だったのだが。『美の女神』を自称する公爵家の長女は卑劣な罠に嵌められたにも関わらず――なんと太公望のことを運命の相手だと思い込んでしまったのだ。

 

 後に彼女の兄である公爵を打ち倒した際に、よりにもよって彼は末期の言葉として「妹たちを頼む」などと言い残して昇天してしまい……そのせいで、太公望は『自称・美の女神』から完全に婚約者認定され、以後ずっと彼女を含む姉妹たち全員に付きまとわれるようになってしまった。

 

(性格は、ものすごく良い娘なのだがのう……)

 

 つい、当時の彼女たちを思い出し、血を吐きそうになった太公望は当然の如く警戒した。違う可能性もあるが、もしもソレ系の話題だったりしたら本気で困る。とはいえ、この場面で下手に断ろうものなら公爵家に恥をかかせることになる。よって、太公望はこう切り返した。カトレアに『掴まれ』ないように、身の回りに関する真実のみを表に出すことによって。

 

「三人の娘には土地屋敷と財産を残して参りましたし、曾孫同然の娘は周の国王陛下の元へ嫁いでゆきましたから、あとはのんびりと、ひとり悠々自適の楽隠居生活を送るだけだと、こう考えております。見た目はともかく、この歳ですから」

 

 なお、土地屋敷云々の話は事実である。こういうところは意外と義理堅い男なのだ。

 

 国王のところへ行った親戚筋の娘については、彼女が自分の意志で嫁いでいったので、太公望自身は全く関係ないのだが。

 

「なぬっ!? 娘三人だけでなく、曾孫までおったのか! いやはや……君は正真正銘ジジイだったんじゃのう」

 

「だから、おぬしのような狸ジジイにジジイ呼ばわりされる筋合いはないと、何度言わせればわかるのだ!」

 

 オスマン氏のボケに、ツッコミ返す太公望。もはや完全に漫才である。

 

 これを聞いてカリーヌ夫人はしょんぼりしてしまった。さすがに、母親としては子供三人――おまけに曾孫までいるような男に、可愛い娘を嫁にやるわけにはいかない。たとえ相思相愛だとしても。どう考えても、家族の問題で苦労するのが目に見えているからだ。

 

 かつて夫と、

 

「もしもカトレアの病気を治すことができる男がいたら、たとえそれが平民であろうとも、娘婿にしてやってもいい」

 

 などという話を戯れにしたような覚えがあったのだが、これでは無理だ。もしもカトレアにその意志があったとしても、彼自身にその気がなければ話にならない。

 

 カリーヌが女親で、かつ身分の低い家から公爵家に嫁いだからこそ自分の娘には持ちかけたくない縁談だ。全く同様の理由で、長女のエレオノールに対しても言えない内容である。

 

(彼がわたくしの息子になってくれれば、毎日あのような楽しい戦い――いや、素晴らしい訓練ができるのですが……)

 

 などと、わずかに、いや、少し。そう、ほんのちょっとだけ想像してしまったカリーヌ夫人は、深く反省することにした。

 

(で、でも、歓待期間中にあと一回くらいなら……)

 

 などと考えているあたり、彼女はやはり懲りていないのであった。

 

 そもそも齢八十を過ぎ、既に枯れたジジイ(ハルケギニア風に言うところの使い魔談)である太公望は、元々そっち方面に関しては、全くと言ってもいいほど興味がないのだ。

 

 と、いうよりも。そういう時期はとっくに過ぎ去ってしまっているので、こういった話を持ちかけられること自体が面倒極まりないことなのだが、周囲はそう取らないから困ったものだ。おもに、親友を応援している赤毛の娘が。

 

「タバサ。障害は多いほうが燃えるものよ?」

 

「意味がわからない」

 

 それにしてもと太公望は思った。

 

(完全に結果オーライ。今回行った『本気の戦い』以降については観客席の防衛と〝盾〟による魔法の受け流し以外、ほぼ無策に等しかったにもかかわらず、この結果。カリーヌ夫人に試合を申し込んだおかげで色々と助かったわ)

 

 あの〝生命力〟を込めた風と、普通の風の使い分けを見抜かれたのは正直痛かったのだが――逆に言えばカリーヌ夫人とタバサ以外には見破られなかった。それが判明したのは太公望にとって大きな収穫だ。今後微調整をかければ、より分かりづらくできるだろう。

 

 さらに、全く別の角度からおちこぼれメイジという印象を持ってもらえた。それに、自分の〝力〟や知識全般を、年齢と経験による熟練の技によるものだと、ある程度納得させることができた。こればかりは、いくら言葉で言ってもなかなか理解してもらえないようなことだっただけに、ハッキリ言って嬉しすぎる。

 

 しかもだ。あの勝負によって、自分が軍人でありながらも他者を常に気遣う、戦いよりも守りを優先する性格であるとラ・ヴァリエール公爵家の者たちに納得してもらうことができた。そのおかげか例の『ルイズの系統』に関連すると思われる会談について、秘密裏に持ちかけられている。

 

 おまけに。あの〝風の刃〟を打ち消した剣技のおかげで、才人の評価まで上がった。ハルケギニアでは、魔法を使えない者を蔑視する者たちがいるが、少なくともこの公爵家において、以後才人がそういった扱いを受けることはないだろう。なにしろラ・ヴァリエール公爵自ら声をかけ、礼を述べていたくらいなのだから。

 

 あとは「老齢による精神的疲労から、頼られすぎるのがもう嫌なのだ」といった〝空気〟を作り出し、蔓延させることができれば最高だ。それに関しては、改めて検討を重ねておくこととしよう。今度こそは、慎重に。

 

(ようやく一個、借りを返してもらえたのう。正直助かった)

 

 太公望は、この世界に来て初めて『始祖』ブリミルに対し、心の中で感謝の言葉を述べた。

 

 

 




対烈風戦、決着!
何かと公爵家に縁がある太公望。

……全然関係ないんですが(そうでもない?)
某所に例の美人三姉妹をルイズが召喚したという短編がありましてですね。
なんというかもう、すごかったです。


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第53話 歴史の重圧 -REVOLUTION START-

 ――ラ・ヴァリエール公爵家での歓待三日目の朝。

 

 カトレアは、例の『感覚の網』の調整方法について、長女エレオノール立ち会いのもと、早速太公望から教えを受けることになった。何故エレオノールがついているのかというと、本人の好奇心のみならず――可愛い娘が、若い男(実際には年寄りなのだが)とふたりきりになるという状況を彼女たちの父親が嫌ったからである。

 

 ちなみに、ふたりきりどころか侍従たちが大勢側に控えているので万が一にもおかしなことには為り得ないのだが、それでもやはり娘たちが心配なのであった。ラ・ヴァリエール公爵はかつて長女が評したように、娘には本当に甘いのだ。

 

「その状態から手元に……そう、全身でたぐり寄せるようにしてみてください」

 

『そうだのう、ベッドからシーツを思いっきり引っぺがすような感じで』

 

「は、はいっ」

 

 笑いを堪えながら、言われた通りにするカトレア。太公望は己の感覚で、カトレアが『網』を引き寄せるさまを観察する。そんなふたりを興味深げに見守るエレオノール。

 

 それからわずか数時間後。カトレアはほぼ完璧に『網』の出し入れが可能となり――太公望は彼女の飲み込みの良さに舌を巻いた。その上で、こうアドバイスした。

 

「まだ出し入れしかできない状態ですが、もっと練習を積むことで、より細かく『網』を調整できるようになるでしょう」

 

『あえて心の声を聞かないで済むよう、完全に遮断することも可能になるはずだ』

 

 そう教えられたカトレアは、このまま全てを聞いてしまうのはなんだかもったいないと感じた。

 

(できれば、おじいさまともっとお話がしたいな……)

 

 そう思った彼女は、本人にお伺いを立ててみることにした。

 

「あの、歓待の期間中では全部覚えきれないと思うんです。ですから、ミスタさえよろしければ……どのくらい先になるかはわかりませんけれど、わたしの身体が完全に治ったら、そのときにまた色々と教えていただけませんか?」

 

 その願いに、太公望は頷いた。

 

「ご両親と我が主人の許可、それと、わたくしが時間を取ることができましたら」

 

『世の中はギブ・アンド・テイクだ。わしはな、桃が大の好物なのだ』

 

 カトレアの顔が、ぱっと輝いた。

 

「許可ならちゃんと貰います! もちろん、桃もたくさん用意しますから」

 

「桃?」

 

 首をかしげるエレオノール。

 

「では、お身体の調子が良くなったら、わたくし宛てにフクロウを飛ばしてください。詳細についてはそれから決めたほうがよろしいでしょう」

 

『これこれ! 桃のことは表へ出しておらんのだから、口にしては駄目だ。その調子では、心の声が聞かれていることが周囲にバレてしまうぞ。元気になったら、おぬしは外の世界へ出て行くことになるのだから、くれぐれも気をつけねばのう』

 

「わ、わかりました」

 

 親に叱られた子供が影でやるように、ちろりと舌を出して見せるカトレア。すまし顔の太公望。そんな彼らのやりとりを見て、顔中に疑問符を浮かべるエレオノール。

 

 それから数回ほど練習した後、昼食の時間になったためにお開きとなったのだが……その際に、さりげなく太公望と再会の約束を取り付けたカトレアに同席を依頼して、これを快く受け入れられたエレオノールが、妹とがっちりと握手を交わしたのは、また別の話――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして、昼餐後。季節の花が咲き乱れる庭園に設置されたテーブルに着き、異国から特別に取り寄せたとされる高級なお茶を楽しみながら歓談をしていた際に、コルベールがふいに呟いた。

 

「メイジのランク評価は、本当に現状のままでよいのでしょうか」

 

 それを聞いて、思案顔になったのはオスマン氏を始めとする大人組である。

 

「確かに、ミスタ・コルベールの言う通りじゃ。昨日のアレを見てしまってはのう」

 

 オスマン氏の言う昨日のアレとは当然、風の『スクウェア』メイジ『烈風』カリンと、同じ風の『ドット』以下である太公望の試合についてである。

 

 その意見に研究者であるエレオノール女史も頷いた。

 

「ええ。これまで、疑問に思うことが少なかったのですが……あの戦いを見てしまっては認めざるを得ないと思いますわ。これまでの常識では『ドット』が『スクウェア』と互角に戦えることなど、考えられませんでしたから」

 

 と、これに異を唱えたのが彼女の父親ラ・ヴァリエール公爵だ。

 

「そんなことはないぞ。わしは実戦経験豊富な『ドット』が未熟な『スクウェア』を凌駕する場面を何度も見てきた。もっとも、今回の試合は双方共に熟練者同士のぶつかり合いだったわけだから、エレオノールが言いたいことも理解できるが。だが、それ以上に問題なのが、あの〝風の刃〟だ」

 

 立派な口髭をしごきながら、ラ・ヴァリエール公爵は続ける。

 

「どうも我がヴァリエール家の者には、カリンを基準にしてメイジの実力を測ってしまうようなところがあるが、一般的な『スクウェア』メイジはあのような高出力の攻撃魔法を撃つことなどできん。それが『ドット』ならば、言わずもがなだ。つまり、同じ『スクウェア』同士でも、持っている〝精神力〟に個人差があるのは明白だ。にもかかわらずドット・ライン・トライアングル・スクウェア。この四つしか能力を示す指標が無い」

 

 オスマン氏は頷くと、教育者としての意見を述べた。

 

「公爵閣下の仰る通りですじゃ。同じランクにあるメイジに〝力〟の差がありすぎる場合、より正確に評価するための土台が一切無いのはやはり問題かと。魔法学院の実技テストでは、ひとつの呪文ごとに、その巧みさを評価することで点数をつけておりますが、各個人の持つ〝精神力〟の大きさについては測りようが……」

 

 オスマン氏はここまで語ると、近くの椅子に腰掛けていた太公望へ視線を向けた。それを「説明してくれ」という合図と受け取った彼は口を開いた。

 

「ハルケギニアでは我が国のように個人が持つ〝力〟の量を測るための技術が失われている、あるいは存在しないようですからな。かといって、わたくしの持つ手法をお教えしようにも……と、すみません。ここからは異端すれすれの内容になってしまうのですが、お話をしても……?」

 

 『異端』と聞いて、ラ・ヴァリエール公爵はピクリと眉を動かしたが、あくまで「すれすれ」であるということらしいので、話を続ける許可を出した。

 

 くどいようだが、このハルケギニアでは生活と宗教が密接しているため、ブリミル教の教義から外れるような行為は大きな罪であると認識される。公爵の反応は非常に大人しい部類だ。相手によってはその場で吊し上げられかねない。異端とは、それほどまでに畏れられているものなのだ。

 

「ありがとうございます。わたくしどもが持つ〝場〟(フィールド)と呼ばれる技術の中に、普段は目に見えないものを視えるようにするといったものがあります。実は、これのおかげでルイズお嬢さまの失敗の原因を完全に特定することができたわけでして」

 

 なるほど、といった風情でエレオノールが頷く。

 

「つまり、あの子の〝精神力〟が大きすぎる状態であるということを、その〝場〟というものを使うことで実際に目で視られたから……と、いう意味ですわね?」

 

「その通りです。そして、カトレア殿の体調不良についてわたくしが『掴めた』のは、この〝場〟を展開する上で必要な技術と知識、その初歩を会得していたからです。これは本来戦闘用、かつ相当な実戦経験を積まなければ覚えることが困難であるため、取得を希望する一部生徒にのみ教えるに留めております」

 

 この一部生徒とはタバサのことだ。現在太公望が彼女に教えている『力の流れを掴む』『流れを視る』技術がそれだ。最近では本人の努力の成果が実り、そろそろ実戦投入できるのではというところまで『掴む』能力が上がっている。カリンと太公望の戦いを観ていた者たちの中で、唯一彼女だけが太公望の『使い分け』を感じ取れていたのがその証拠だ。

 

 ちなみに、この技術の初歩の初歩の初歩が『瞑想』であり初歩の初歩が『力の蓄積』にあたる。

 

「できれば、この技術をわしにも教えてもらいたいくらいなのじゃが……本当に異端すれすれであるため、さすがに魔法学院内で大々的にこれを使った授業を行うわけにはいきませんのじゃ。実に勿体ないことですわい」

 

 オスマン氏の言葉を聞いて、一斉にため息をつく大人たち。もしもこの技術が魔法学院にあれば、生徒たちの教育レベルを上げる――すなわち、大幅な国力増強の役に立てられるにもかかわらず手を伸ばすことができないのだから、当然だ。

 

 これは、ある意味ブリミル教の〝力〟が強すぎるがゆえの弊害だろう。ハルケギニアに異端などという概念がなければ、即座に採用したいほどの技術なのだから。

 

 気まずげな空気が漂う中、それを振り払うようにオスマン氏がひとつ咳をし、太公望に尋ねた。

 

「わしが以前見せてもらったところによると、ミス・タバサとミスタ・タイコーボーの〝精神力〟の大きさは同等。いや、ミスタのほうが少し大きかったわけじゃが……君の感覚だと『烈風』カリン殿の〝力〟はどの程度と視た?」

 

 オスマン氏の発言に、全員の視線が太公望へと集まった。確かにこれは気になる内容である。そのリクエストに太公望は額に汗を流しながら応えた。

 

「いやあ……正直あれには鳥肌が立ちましたぞ。『烈風』カリン殿が本気になられた際の〝精神力〟の大きさは、ルイズお嬢さまと全く遜色ございませんでしたので」

 

 そう語る太公望の言葉に、当時ルイズの〝大樹〟を視ていた者たちは仰天した。

 

「なんですと!」

 

「さすが『烈風』殿だ!」

 

 彼らの反応に、何事かという表情をするラ・ヴァリエール公爵家一同。そして、彼らはオスマン氏の口から説明を受けて驚いた。

 

 なんと末の娘が持つ〝精神力〟の器は、現在トリステイン魔法学院の生徒の中で、唯一の『スクウェア』にして実技試験最優秀であるタバサの十倍を軽く越えるほど大きなものだというのだ。

 

「つまり、ルイズはわたくしを越える可能性を秘めているというわけですわね?」

 

 カリーヌ夫人の言葉に、強く頷くオスマン氏。

 

「だからこそなのです。それほどの才能を持つミス・ヴァリエールの〝力〟を正しく評価するどころかおちこぼれ扱いをしてしまっていた現在の評価方法に疑問を覚えたのは。それが確信に変わったのが、昨日の『烈風』殿とミスタ・タイコーボーの戦いです。本当に、このままであってよいものかどうかと……」

 

 苦悩に満ちたコルベールの言葉に、一同が沈黙した。本来であれば爆発などという現象を起こせるのは相当に優秀な火系統のメイジだけだ。他系統でも膨張による破裂を起こすことは可能かもしれないが、それには高度な知識と技術が必要となる上に、そもそも破裂であって爆発ではない。

 

 静寂の中、最初に声をあげたのはエレオノール女史であった。

 

「ミスタ・コルベールの仰る通りですわ。先程、父も言っていましたが――同じランクにあるメイジでも、明らかに〝精神力の器〟に個人差があるのに、四段階しか評価基準が無い。これは重大な問題だとわたくしも考えます」

 

 エレオノールの言葉にオスマン氏が同意の声を上げ、さらに補足する。

 

「従来のドット・ライン・トライアングル・スクウェアの四つを、系統を重ねられる数のみを示すものとし、将来〝精神力〟を測る技術の採用が可能になった際に、これらとは別に新たな指標を作っていければよいと、わしは考えておるのじゃが……」

 

 そう言って、ちらりと太公望のほうを見る。

 

「魔法学院の教員になるには、最低でも『トライアングル』であることが必須でな……」

 

「だから、わしは教師になるつもりなどないと何度言ったらわかるのだ!」

 

「アカデミーに所属するのも『トライアングル』以上が条件になっていますわ。ですが、ミスタのようにランクこそ低いものの、優秀な人材が大勢埋もれている可能性があります。これは、我がトリステインにとって大変な損失に繋がるかと」

 

 学院長と娘の言葉を受けたラ・ヴァリエール公爵が顎に手をやり、深く考えるような顔をする。

 

「ふむ。確かに異端すれすれではあるが考慮に値する案件ではあるな。オールド・オスマン、そしてミスタ・タイコーボー。後でそれに関する話を聞きたいのだが、構わないだろうか? 内容が内容であるため、できればわしを含む三人だけで。そうだな、今夜――夕食後に」

 

 そう言って、公爵は肩を落とした。

 

「本当はもっと早く聞いておきたいのだが、これから公務で席を外さなければならないのだよ」

 

 実に残念そうな顔をしたラ・ヴァリエール公爵に、ふたりは了承の意を伝える。

 

「ミス・タバサ。後からの確認になってしまい申し訳ないが、彼を借り受けて構わないだろうか」

 

「はい、もちろん」

 

「ありがとうございます。父に代わってお礼申し上げますわ」

 

 そう口にしたエレオノールも、会談に混ぜてもらいたそうな顔をしていたのだが……。

 

(国営に関わる内容だろうし、さすがに許可を頂けそうにないわね)

 

 そう判断した彼女は、自分の希望を口に出さずにいた。それを見たカトレアが、くすくすと笑っていた――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――夕食後、ラ・ヴァリエール公爵家の一角にある談話室にて。

 

「ハハハ、実に自然な会話の誘導でしたな。さすがはオールド・オスマン」

 

「ま、そのためにミスタ・コルベールに、あえてそれらしい話題を、わざわざ前もって振っておいたからのう」

 

「お陰で助かったわ。わしとしても、これでだいぶ話しやすくなった」

 

 そう。この対談への流れ、実はオスマン氏とラ・ヴァリエール公爵による合作だったのである。そこに太公望が誘われた結果、自然な形で密談の約束を取り付けることができていた。

 

 ところで、この会話において太公望が例の胡散臭い敬語を使っていないのは、ラ・ヴァリエール公爵の許可……というよりも要望によるものだ。

 

 さすがはトリステイン最大の権勢を誇る大貴族である。例の身分と年齢バラシ以降、太公望があきらかに無理をして、いかにもそれらしく喋っていることに気が付いた公爵は、普段通りの形で語り合おうという提案をし――全員同意のもと、それが行われていた。

 

 なお、公爵は例の『天使の祝福』について、カトレアの『勘』の裏付けを取るため、昨日練兵所から屋敷へ戻った後、すぐに問い合わせの高速フクロウ便をジャコブ新村に宛てて送り、今日の夜――現時点で、既に返事を貰っている。

 

 よって、彼は本当に『祝福』の存在があることを知った。そして、目の前の少年が、実際には自分よりもずっと高齢であることを素直に受け入れることができた。いくら娘の『勘』の良さを理解していても、それだけで、全てを信用するわけにはいかないからだ。このあたりはさすがに国境を守る重鎮だけあって、慎重に慎重を重ねている。

 

 これらを前提とした上で、彼らは改めて語り始めた。ルイズの系統について。そして、ラ・ヴァリエール公爵は驚愕の真実を知ることとなった。

 

「そんな……! 彼と、あの少年が使い魔だと言うのかね!?」

 

「そうじゃ。ミスタ・タイコーボーの場合は、あくまでお互いの魔法が何らかの理由で衝突したという事故により、無理矢理呼び寄せられてしまったわけじゃが……サイト君は違う。ミス・ヴァリエールが〝召喚〟(サモン・サーヴァント)によって呼び出した伝説の使い魔『神の盾』ガンダールヴじゃ」

 

 オスマン氏の言葉に、思わずゴクリと唾を飲み込んだラ・ヴァリエール公爵。

 

「オールド・オスマン。その〝ガンダールヴ〟とはいったい、どのような……?」

 

「うむ。かつて『始祖』ブリミルが使役したとされる使い魔のことじゃ。あらゆる武器を使いこなす能力を持ち、左手に握った魔法を吸収する〝インテリジェンス・ソード〟『デルフリンガー』の補佐を受け『始祖』の身を守る『盾』として働いた勇者的存在だと三王家に伝えられておる。一部には、ロマリアの伝承に残る聖者エイジスこそが、この〝ガンダールヴ〟だという説もある」

 

 オスマン氏から話を聞いたラ・ヴァリエール公爵は、身体が冷えていくのを感じた。可能性であってほしかったものが現実となって近付いてくる。その足音が、ゆっくりと聞こえてきたから。

 

 観客席を襲った流れ弾を一撃で切り裂いた剣技。あの『烈風』カリンが全力で放った〝風の刃〟を吸収した光り輝く剣。かの少年はまさしく『神の盾』に相応しい存在だったでないか。

 

 しかも、彼の左手――現在は布手袋によって隠されている甲に刻まれた(ルーン)と同じ〝ガンダールヴ〟を使役していたのは『始祖』ブリミル。つまり……。

 

 そんな公爵に追い打ちをかけたのは太公望だ。

 

「時間がなかったため、オスマン殿にはまだ話していなかったのだが……ここで打ち明けておく。実はごく最近の調査で判明したのだが。わしと才人は、なんと海を隔てた隣国から呼び出されておったのだ。しかも、才人は本当に例の『武成王一族』の血族である可能性が高い」

 

「なんじゃと!? それはいったいどういうことかね!」

 

 そして、太公望は語り始めた。『異世界』『時代の違い』ということは伏せ、あくまで隣国であることを強調した上で――例の〝力在る者〟つまり、仙人たちの考え方を説明した。地球の『始祖』については当然のことながら話さずに。また、東方の全域ではなく、あくまでこれは自国と近隣諸国限定であるという保険をかけることにした。

 

「なんと! 君の国や近隣諸国のメイジたちは『始祖』の考えを、あらゆる者に分け与えられた慈愛を平和と平等の意志と受け取り、それを尊重した上で、平民を魔法で支配することを良しとせず、あえて浮遊大陸へ移住するなどという選択をしたのか……」

 

 メイジ――〝力在る者〟たる貴族が平民たちを支配する。これを当たり前として生きるハルケギニアの民としては、正直なところ脳天を木槌で叩き割られるほどに衝撃的な価値観であった。

 

「そうか! じゃからサイト君は自分たちの国や同盟国には魔法が存在しないと完全に信じ込んでおったのじゃな! それにスカウトか。それならば魔法が秘匿され続ける理由も、彼が魔法がないと言い続けてきたことも納得できる」

 

 自分の知らぬ、どこか遠い場所に『違う世界』がある、ということについてはまだしも、魔法が無いというただ一点について、どうしても信じられなかったオスマン氏は、これで才人の言動や、例の『竜の羽衣』について、完全に納得してしまった。

 

 特定の者にしか魔法に関する情報が開示されていないのであれば、知らない者たちが魔法のない生活を送っているのは、ある意味当然のことだからだ。

 

「だが、結局はそのせいで、長きにわたる戦乱の時代が始まってしまったことを考えると……ここハルケギニアのメイジと我ら諸王国、いったいどちらの選択が正しかったのか? そんな比較をすること自体おこがましいことであると、わしは考えておる」

 

 それをふまえた上で……と、太公望はさらに武成王一族について語った。

 

 本来才人は〝仙人骨〟も〝力〟も持たないごく普通の少年ではあるものの、ルイズと何らかの縁があるのは確かだろうし、一億もの人口を有する超大国の出身者であることや、近い将来『始祖の盾』という重要な役割を任される可能性を考慮し、彼が不当な扱いを受けたりしないよう、念押しの意味で説明を加えた。

 

「黄家の血筋には、昔から『武器』の扱いに長けた不思議な〝力〟を宿す者が多く現れるという特徴があるのだ。よって、才人が〝ガンダールヴ〟に相応しい存在として〝召喚魔法〟に選ばれた可能性が非常に高い。また、かの少年は非常に発想力が豊かだ。実はルイズがたったの一週間で空を飛べるようになったのは、才人の補佐があってこそなのだよ」

 

 太公望の発言にオスマン氏が同意する。

 

「確かにサイト君の発想は、我々メイジの常識を覆すようなものが多い。〝念力〟で箒を浮かせて、それに座ることで空を飛んでみたらどうか、などという発言が飛び出してきたときは驚愕しましたわい」

 

「いや、あの発想はなかったわ」

 

「うむ、まったくじゃ」

 

 などと言いながら顔を見合わせうんうんと頷くオスマン氏と太公望を見て、公爵は仰天した。確かにそんな発想は普通なら出てこない。

 

「当初はまだ爆発の危険があったからこそ、安全策として才人が出してきた案なのだが、あれのおかげでルイズの実力がいっきに伸びた。魔法が使えないからこそ、わしらの常識からかけ離れた案が出せる上に、どうやら母親が研究者らしくてな。こちらが思いも寄らぬ知識を提示してくることがあるので、補佐役としてもあなどれぬ少年なのだ」

 

 さらに太公望は、以前学院の特別課外授業で始めた畑の話を出した。ラ・ヴァリエール公爵は、これを聞いて唸った。才人の知識に関することだけではなく、畑を使って魔法の練習をする。そのように見せかけられたこの授業における本来の目的に――彼はすぐさま気が付いたからだ。

 

(開墾から始まり、育成、生産、管理、収穫、売却までの流れ。そして全体の監督。一見すると畑仕事という平民がするような作業にも見えるが、全体を通して考えた場合、これは領地運営の縮図と言って差し支えないではないか。上に立つ子供たちの将来を見越した、素晴らしい教育だ)

 

 公爵はそのように受け取った。実際、彼の考えは正しい。

 

 その上で、ラ・ヴァリエール公爵はこの教育方法を考え出した太公望の見識と、即座にそれを採用したオスマン氏の眼力に着目した。

 

(このふたりが、それぞれの分野で伝説と呼ばれたのは、ある意味必然だったのだな……)

 

「なるほど、よくわかった。ただ、彼に対して貴族と同等の扱いをするというのは無理だ。周囲の目があるからな。そんなことをしたら逆に目立つことになる。だが、決して無碍には扱わないと約束しよう。『始祖』の補佐役たる『神の盾』を鍛え、磨くのも、わしら大人の仕事だろうからな」

 

 公爵の発言にオスマン氏と太公望が頷いた。そして太公望はこう言った。

 

「この地では魔法が使えない者は全て平民扱いだが、わしの国では才人やカトレア殿のような、魔法以外の〝特殊能力〟を持つ者も、メイジと同様に敬われる存在なのだ」

 

 この言葉にラ・ヴァリエール公爵が大きく反応した。彼は改めて太公望にカトレアに関する礼を述べると、当然ともいうべき質問を投げてきた。

 

「カトレアの能力というのは……?」

 

「うむ。カトレア殿の場合は元々メイジだ。また〝特殊能力〟のほうについても、効果範囲が極端に広いだけで〝力〟自体はさほど強くはないのだが……まずはひとつめの『動物との会話』。これは、動物たちが何を言っているのか、独自の感覚で理解できてしまうという能力だ」

 

 そう言われてラ・ヴァリエール公爵は思い当たった。そういえば、カトレアはよく動物たちの声に耳を傾けている。動物たちも、カトレアには非常によく懐く。その理由が完全に理解できた。

 

「もうひとつが『超感覚』。これは相手が嘘を言っているのかどうか、実像を偽っていないかどうかなどを常人離れした鋭い感覚によって見破る〝力〟だ。これのせいで、わしの実年齢が見事にバレてしまったと。そういうわけでのう」

 

 太公望はあえて『心の声』については語らないことにした。この〝力〟については、あきらかにカトレアが隠していたことを察していたからだ。それに……能力の詳細を知られた場合、あの心優しい娘が深く傷つくであろうことが彼には容易に想像できた。

 

「なるほど。カトレアはその〝力〟の抑え方がわからず、常に使い続けていたが為に身体が弱ってしまったのだな。一日中無意識に呪文を唱えていたようなものか。それでは医者に診せても、薬でも治るわけがない」

 

「まさしくその通り。しかし、本当に危なかった。もしもあと数年わしが来るのが遅れていたら……最悪の場合、カトレア殿は寝たきりになってしまったかもしれぬ」

 

 それを聞いてぎょっとするラ・ヴァリエール公爵。

 

「実際に師匠の友人がそうなってしまってのう。とてつもない『超感覚』の持ち主なのだが、その〝力〟を使い過ぎてしまったがゆえに、今では年に数度しか目覚めることがない程にまで弱ってしまわれたのだ……」

 

 ――ただ単にその師匠の友人が、ぐうたら大好きな太公望ですら怒り狂う程に超ド級の怠け者なだけなのだが……さすがに、それは言わないでおく太公望であった。

 

「警告感謝する。カトレアには、その〝力〟を使い過ぎないよう、注意しておこう」

 

「是非そうしてくれ。あれは本当に危険なのだ」

 

(彼にはとてつもない恩を受けてしまった。ルイズの魔法のみならず、カトレアの命まで助けてくれたのだ。かの人物は、まさしく家族を救ってくれた大恩人だ。もしも彼に何かあった場合、総力でもって支援せねばならぬ)

 

 そう決意したラ・ヴァリエール公爵は、太公望の手を取り、再度礼を述べた。

 

「随分と長くなりましたが、ここまでの話をふまえて……オスマン殿」

 

 太公望の言葉に頷いたオスマン氏は、公爵に非情な宣告を下す。

 

「ミス・ヴァリエールの系統は、ほぼ間違いなく失われしペンタゴンの一角〝虚無〟じゃろう。系統魔法を失敗し続けてきたのもそれが理由じゃ。自分に合わない系統の魔法を使うのは、大人でも難しいことじゃからの」

 

 それを聞いて一気に顔を青ざめさせた公爵に、太公望が追い打ちをかけた。

 

「実はオスマン殿から〝ガンダールヴ〟の話を聞いた時点で、ルイズの系統についてはほぼ特定が済んでおったのだ。しかし、万が一それを誰かに知られてしまった場合、彼女は間違いなく戦の道具にされる。そう考えたわしらふたりは、才人が使い魔であることや、彼女の真の系統について秘匿し続けてきたのだ」

 

 エレオノールが使者として訪れたときも、太公望の従者ということにして誤魔化した。

 

「ワルド子爵に尋ねられたときも、彼のような好青年に対して申し訳ないことだと思ったのだが、完全に信用を置くには時間が足りなかった為〝ガンダールヴ〟については完全に伏せておいた」

 

 そう呟いた太公望にラ・ヴァリエール公爵は頷き、彼の用心深さに感謝した。

 

 もしもワルドが軽率な人物であった場合……今頃、トリスタニアの宮廷内で貴族たちの暗躍が始まっていたかもしれないからだ。公爵自身はワルドを深く信頼していたが、彼を知らない太公望が突然近付いてきた者を警戒するのは当然である。そう判断した。

 

「さて、ここからの話はトリステインの国家運営に関する、特に秘匿すべき重要な内容を開示する必要があるため、大変申し訳ないのだがミスタ・タイコーボーには遠慮していただきたい」

 

 そう言って部屋からの退出を促したオスマン氏に、太公望は頷いて立ち上がる。そしてドアへ足を向けたその時。彼は何かを思い出したかのように立ち止まると、振り返って口を開いた。

 

「すまぬ、おふたかたに大切なことを伝え忘れておった。これは、ルイズやわしの主人の『問題』には全く関係のないことなのだが、ガリアだけではなく、トリステイン王国にも関連するであろう重大な内容なのだ。それを話しておきたいのだが、かまわぬだろうか?」

 

 トリステイン・ガリアの両国に関する重大事項。かつ、ガリア大公姫の抱える『問題』には抵触しない内容。これは聞いておくべきだ。

 

 そう判断したオスマン氏とラ・ヴァリエール公爵は重々しく頷いた。

 

「実は先日、ラグドリアン湖でこのようなことがあったのだよ」

 

 そう前置きすると、太公望は例の事件についてふたりに語り始めた。ただし、一部自分たちに都合の悪い部分を省き、内容を脚色した上で。

 

「主人と共に、ラグドリアン湖へ気晴らしに行った時の話だ。わしらのマントを見て、トリステインの貴族と勘違いした近隣の住民たちからここ二年ほどの間ずっと湖の水位が上がり続けており、家屋や土地の水没による被害が後を絶たないのだという訴えを受けてのう」

 

 そこで、気になった太公望が詳しく住民たちから話を聞いてみたところ――彼らが湖の管理をしているトリステイン貴族に何度被害について訴え出ても、なしのつぶて。とはいえ、平民が直接王政府へ申し出ることなどできない。そんなところへ太公望たちがやって来たので、これ幸いと声をかけてきたらしい。慌てて自分たちはガリアの貴族だと名乗ったのだが、この際ガリア王家にでも構わないから……と、涙ながらに頼られてしまった。

 

「急ぎの用件にもかかわらず、わしにはトリステイン王家に伝手がない」

 

「いや、それならわしに話してくれればええじゃろ!」

 

 抗議するオスマン氏をギロリと睨む太公望。

 

「……タバサの精霊勲章はどうなった?」

 

「わしが悪かった。続けてくれ」

 

「そういう事情があり、誠に申し訳ないとは思ったのだが……わしのご主人さまからその日のうちにガリア王家に対して報告をしていただいたところ、ガリア側でも急ぎ調査はするが、もしも原因を特定できたら報奨を与えるという返事があったので色々と調べてみたのだよ。そこで判明したのが秘宝の盗難だ」

 

 ラグドリアン湖の底には水の精霊が住まう都がある。その最奥に安置されていたのが〝水〟の秘宝『アンドバリの指輪』だ。

 

 ところが、二年ほど前に賊の襲撃を受け、水の都から奪い去られてしまったらしい。

 

「水の精霊たちはその秘宝の行方を追うために、自分たちが動ける範囲――つまり、水かさを増やし続けていたそうなのだ。大地の全てを水で覆えば、必ずや指輪に届くと信じて。なんともはや、気の遠くなる話であろう?」

 

「アンドバリの指輪じゃと!?」

 

「ぬ、知っておったのか?」

 

「うむ。死者に偽りの生命を与えるという、伝説の魔道具じゃ。名前だけはよく知られておるからのう。ただ、ラグドリアン湖にあったというのは初耳じゃ」

 

「それならば話は早い。実は、水の精霊から『今すぐ水位を戻してやるから秘宝を取り戻して来い。期間と手段は問わぬ』などという無理難題を押しつけられてしまってのう。おかげで水難については何とかなったのだが、わしはご主人さまの側から離れて指輪を探しに行くことなどできぬ。そもそもこれは、個人でやれるような仕事ではない」

 

 がっくりと肩を落とし、ため息をついた太公望。

 

「よって、まずはガリア王家へ事件についての詳細を連絡した。その上で、ラ・ヴァリエール公爵閣下に依頼したい。どうかトリステイン王家へ、この『アンドバリの指輪』盗難の件についてお伝え願えないだろうか?」

 

 これを聞いたラ・ヴァリエール公爵は顔色を変えた。それも当然だろう、本来であればこのような重大な案件は、国が早急に対処すべき内容だ。

 

 にもかかわらず、湖の管理者が責務を完全放棄しているせいで王政府に全く情報が届いていないどころか、平民たちがよりにもよって、対岸の国ガリアへ救助を依頼しようとしたというのだから洒落にならない。これは国の沽券に関わる由々しき事態である。

 

 公爵は言葉にこそ出さぬものの激しく憤っていた。民の訴えを無視し続けるなど、彼にとって許し難い所行だった。いくら他貴族の管轄領とはいえ、このまま放っておくわけにはいかない。

 

「よくぞ報告してくれた。水難の解決についても、トリステイン貴族として感謝する。ところで、もしも秘宝を盗んだ者や指輪の特徴などについて水の精霊から聞き及んでおられたら、そちらも開示してもらえると助かるのだが。今後の捜索のためにも、是非頼む」

 

 公爵の返事を聞いて、太公望は胸をなで下ろした。あちこち嘘情報が混じってはいるものの、トリステインの民の訴えが結果としてガリアにまで届いたことや水没その他は事実であるし、実際問題『アンドバリの指輪』の回収は、彼の手に余る案件だったのだ。

 

 いくらフーケが魔道具調査の専門家でも、彼女ひとりだけでやれるような規模の仕事ではない。とはいえ放置するには危険すぎる『道具』だ。よって、この歓待中になんとか公爵へ相談しようとしていたのだが、それが見事に通ってくれた。

 

(さすがはあの生真面目なルイズの父親だ。民にとっても良い為政者なのだろうな)

 

 太公望は心の底から安堵した。

 

「やはり、公爵閣下に相談して正解であった。盗人は複数人。その中に『クロムウェル』と呼ばれる者がいたことと、その『アンドバリの指輪』には死体をまるで生きた人間のように操る能力。それと……指輪の効果を解き放った液体を飲んだ者を持ち主の意のままにしてしまうという、かなり性質の悪い魔法が込められておるとのこと。これが現在までに得られている情報だ」

 

 ――死体を生きた人間のように操る能力。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は再び顔色を変えた。かつて、彼はひとつの町の住民全てを偽りの生命で動く、死者の軍勢にしてしまった女と杖を交えた経験があったのだ。心臓を突いても倒れぬ兵士。彼らを止めるには首を落とすか、炎で焼き尽くすか、あるいは……。

 

 もしも、あの悪夢が再びトリステインを覆ったら――想像するだにおぞましい。

 

「わかった。即座に調査を開始しよう」

 

 そう太公望へ返事をし、改めて彼に礼を述べた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――太公望が部屋を退出した後。

 

「まったく……モンモランシ家が没落せず、今もラグドリアン湖の管理をしてさえおればこのような問題は発生しておらなんだものを! いったい今は、どこの家の持ち回りなのじゃ!?」

 

 おそらく、その報奨とやらが〝騎士〟と〝ガリア王国花壇騎士団章〟の受勲なのであろうと当たりをつけたオスマン氏はそれを一切声には出さず、歯噛みして悔しがった。その予想はだいたい当たっているが真実は違う。もちろん、オスマン氏がそんなことを知るよしもないが。

 

 オスマン氏は本気でタバサと太公望のふたりを揃ってトリステインへ迎え入れたい、状況さえ許せば彼らを自分の養子に迎えたいとまで考えていたのだ。にも関わらず、その不心得な貴族のせいで、完全にガリアへ持って行かれてしまったのだと内心で怒り狂った。『烈風』とのやりとりを見た後だけに、その無念さは計り知れない。

 

「いや、オールド・オスマン。今はそんなことよりも考えるべき重大なことがいくつもあります。まずはアンドバリの指輪の話だ。盗人は、たしかクロムウェルと呼ばれていたそうですな?」

 

「ふむ、公爵閣下には、何かお心当たりでも?」

 

 左目にかけていた片眼鏡(モノクル)を外し、懐中から取り出した布でレンズを拭きながら公爵は答えた。

 

「最近『レコン・キスタ』という連中が、あちこちで暗躍しているのをご存じで?」

 

「うむ。『王家打倒』と『聖地奪還』を唱える馬鹿者たちのことじゃろう?」

 

 オスマン氏の目が大きく見開かれた。

 

「その通りです。首魁の名はオリヴァー・クロムウェル。これは偶然と言って片付けることなどできない案件だと思うのですが……如何ですかな?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は心の内側でさらに推理を進めていた。

 

 ワルドに対して語った「レコン・キスタが合流してから王党派で裏切りが増えた」という事実。まさかとは思うが、用心に越したことはない。念のため、子爵には指輪の件だけでも伝えておいたほうがいいだろう、そう考えた。

 

「ううむ、確かに。ところで公爵閣下。これからわしがお伝えしようとしていたのも、実はとある指輪に関係することなのですじゃ。ただし、これは各王家に伝わる品の話ですがの」

 

「それは、もしや『水のルビー』の話ですかな?」

 

 公爵の言葉に頷いたオスマンは、改めてその件について語り始めた。トリステイン王家だけではなく三王家とロマリア皇国に伝わる4つの『秘宝』について。

 

 それらは全て指輪と対になっており『始祖』の時代から、連綿と受け継がれてきたものなのだと。ちなみに、この情報を報告してきたのは『土くれ』のフーケである。これを受け、内容を精査した上でオスマン氏へ手渡したのが太公望だ。

 

「ミス・ヴァリエールの系統について思い当たったとき、もしやと思い、王家の歴史を調べ、情報を集めてみたのじゃ。その結果、これらの『秘宝』に行き当たったのだよ。その上で、わしは……これこそが鍵なのではないかと考えたのじゃ」

 

「鍵……とは?」

 

「もちろん『始祖』の〝力〟を解放するための鍵じゃ。『始祖の祈祷書』は白紙の書物。『始祖のオルゴール』は動かしても音が鳴らない。『始祖の香炉』は焚いても香りがしない。『始祖の円鏡』に何も映らない。何故このような無意味な魔道具が六千年もの長い間、王家に伝えられているのか? 何事にも理由がある。おっと! これはあの子供の姿をしたジジイの口癖じゃったわい」

 

 ――『始祖』ブリミルの〝力〟を解放するための鍵。それは、つまり。

 

「それが〝虚無〟に目覚めるための鍵。そうおっしゃりたいのですかな?」

 

「うむ。さすがに持ち出しは不可能であろうが、王宮で触れさせてもらう程度ならばなんとかなるのではないかな? もしも、それでミス・ヴァリエール、あるいは『秘宝』に何らかの反応があった場合は……」

 

「ほぼ確定――か。畏れ多いことではあるが、もしも娘がそれで真の系統に目覚めるのであれば、わしの目が届くところで試すに越したことはない。ただ……あの『秘宝』を閲覧だけとはいえ、借り受けるとなると……」

 

 机に両肘をつき、まるで神への祈りを捧げるように呟くラ・ヴァリエール公爵。

 

「女王マリアンヌ陛下とマザリーニ枢機卿の許可が必要となる」

 

 その声に、暗い声でオスマン氏が応える。

 

「この数年間、お亡くなりになった国王陛下の喪に服し、頑なに女王への即位を拒否し続けておられるマリアンヌさまの許可、ですか。最近ではこのわしですらお目通りも叶わぬ状態じゃ。ところで公爵閣下は現在の王室をどうご覧になっておられる? 魔法学院の長としては、正直なところを聞いておきたいのじゃが?」

 

 その言葉にビクリと両肩を震わせたラ・ヴァリエール公爵。彼はトリステイン王家に絶対の忠誠を誓っている。だが……。

 

「いや、わしは……」

 

「忠義と盲信は完全に別物じゃぞ。もしや、そこをはき違えてはおらんかね? ラ・ヴァリエール公爵閣下」

 

 ――忠義と盲信は別物。その言葉を受けたラ・ヴァリエール公爵は身じろぎもせず、しばし考え込むようにした後。机に視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「マリアンヌ王妃殿下は国王陛下の崩御によって、お心を病んでしまわれた。これはわしだけではなく国内の主立った貴族や宮廷の者たち、ほぼ全ての認識となっている」

 

 そう言うと、ラ・ヴァリエール公爵は深いため息をついた。

 

「この数年間、あのお方は政治に口を出さないだけではなく、毎日ただ静かに喪に服しておられるばかり。このわしだけでなく、グラモン伯爵やアストン伯、その他大勢の有力貴族たちが揃って何度もご自身のことやアンリエッタ姫殿下の即位について持ちかけても、首を横にお振りになるだけだ。かつて王城を抜け出して、外へ遊びにゆくほどに快活であられた頃の面影はもう……欠片も見あたらない。宮廷付きの医師たちによる見立ても、わしとほぼ同様だ」

 

 心の底から吐き出すような呻きをあげたラ・ヴァリエール公爵の声に負けぬほど、重々しい声でオスマン氏が答える。

 

「この国は、現在マザリーニ枢機卿によって動いておる。いや、生かされていると言っても過言ではない。もしも彼がいてくれなかったら、トリステインはとっくの昔に空中分解しとってもおかしくないわい。フーケ事件の対応といい、先程のラグドリアン湖の件といい、王政府の機能が正常に働いておらん証拠じゃ」

 

 老メイジの言葉を聞いた直後、ラ・ヴァリエール公爵は両手の拳で机をダンッと叩いた。

 

「わかっている! マザリーニ枢機卿がトリステインの乗っ取りを企んでいるなどと、あちこちで噂されておるが……もしも彼がそのような野心家であれば、ロマリアの教皇選出会議前に行われた帰国要請を断ったりなどしなかったはずだ!!」

 

 公爵の言葉に頷いたオスマン氏。彼も全く同じ結論に達していたからだ。しかし、ラ・ヴァリエール公爵はその頷きを見てはいない。未だ視線を机上へと落とし続けていたからだ。

 

「何故? 簡単な話だ。こんな国庫のみならず、民心までもが傾きかけた小国を奪うよりもブリミル教の教皇の座についたほうが、遙かに強大な権力を振るうことができるからだよ! ああ、そうだ。わしにはわかっているのだ、そのようなことは!!」

 

 マザリーニ枢機卿は未だ四十代にも関わらず『鳥の骨』などと民から揶揄されるほどに痩せ衰え、白髪が目立つ外見をしている。それは国のため激務をこなし――トリステイン王家に対し、ただひたすらに忠義を尽くしてきたためだ。ラ・ヴァリエール公爵はそれがわからぬ程、愚かではない。まるで懺悔するかのような仕草のまま呟き続ける彼の姿は、実に痛々しいものであった。

 

「長きにわたる王座空位によって生じた宮廷の腐敗により……現在のトリステインは貴族だけではなく、平民たちからの信頼まで失いかけている。同盟を結んでいるアルビオンの王室からさえも。テューダー王家が窮地に陥っているにもかかわらず、我が国へ救援要請を出さない理由。援軍を出そうという声に、反対する者が大勢いるだけでなく、そんな声に全く抗えないこと自体がその象徴と言えるだろう」

 

 ぎりと両手を握り締め、ぶるぶると身体を震わせながら公爵は唸った。

 

「アルビオンが陥落したら、その次に狙われるのは間違いなく我がトリステインだというのに! そんなことすらわからない愚か者ども、もしくはアルビオンの貴族派や『レコン・キスタ』に袖の下を掴まされた者が、我が物顔で宮廷を跋扈している!!」

 

 そう叫んだ公爵に、オスマン氏は静かに声を掛けた。

 

「とはいえ、アンリエッタ姫殿下はまだ十七歳とお若い。おまけに蝶よ花よと育てられ、外の厳しさを一切知らぬ温室で暮らしておられた。世界情勢が安定している時ならばよいじゃろう。だが、今即位なされても、この混乱を乗り切るだけの実力があるとはわしには到底……」

 

 そう言って首を左右に振ったオスマン氏に対し、公爵は小さな声で、囁くように訴えかけた。まるで人智を越えた何者かに縋るように。祈るように問いかける。

 

「……オールド・オスマン。お聞きしたい。わしは、これから何をすべきなのかを」

 

 オスマン氏は……しばしの沈黙の後、こう切り出した。

 

「マリアンヌ王妃殿下は、既に王位継承権第一位を放棄しているといって差し支えない。第二位の継承権を持つアンリエッタ姫殿下は求心力こそあるかもしれんが、早急に国内の乱れを正し、立ち直らせるための実力をまだ持っておられない。成長を待つだけの時間もない。トリステインは荒れ狂う嵐の中で、完全に行き先を見失っておる。じゃが、王位継承権第三位を持つ者が先導すれば、あるいは……」

 

 今まさに天啓を受けた神官のような顔をして、ラ・ヴァリエール公爵はゆっくりと顔を上げた。彼の脳裏には様々な思いが駆け巡っていた。若き日の思い出。国王陛下に絶対の忠誠を誓う近衛騎士として戦ったあの頃。まだ幼かったマリアンヌ姫を護衛した日々。大勢の仲間たちとの出会い、そして――現在。

 

 小さな娘が、その肩に伝説という名の(おもり)を乗せようとしている。

 

 頼りになる息子は自分に全てを託し、家族を守るため、敵陣へとその身を投じた。

 

(彼らが心から安らげる家を。そして、戻るべき場所を――後の歴史家、いや……たとえハルケギニアに住まう者たち皆から逆賊と罵られようとも。その大切な住処と、民を、今。命だけではなく全てを(なげう)ってでも守るという重大な覚悟と使命を背負うべき者は、いったい誰だ――?)

 

 公爵はゆっくりと……静かに口を開いた。

 

「重いな……歴史の重圧(おもみ)で、潰れてしまいそうだ」

 

 こうして彼は立ち上がった。世界の全てを背負うが如く、力強きその両足で。

 

「……だが、これがわしの天命なのかもしれない」

 

 ――歴史の追い風が、ラ・ヴァリエール公爵の背に向けて吹き荒れた。

 

 後世の研究者たちは語る。このふたりの会談が、長く続いたトリステイン王朝の終わりの始まりにして、ヴァリエール王朝の誕生を導いた〝風〟である。その初代国王となったひとりの男が、苦難の『道』を歩み始めた、歴史的第一歩だと。

 

 その死後『賢王』『鎮静王』『救世王』と称された、偉大なる初代国王が残した言葉。

 

「次の歴史を作る若者たちのために『道』を開いておきたいのだ。長きに渡って続いてきた伝統を壊すという大罪の責任を負うのは、わしひとりだけで充分だ。そう……末期の灰をかぶるのは、年寄りの仕事なのだよ」

 

――トリステイン王国・ヴァリエール王朝 初代国王

サンドリオン(灰かぶり)一世

 

 なお、この歴史的会談の直前に関わっていたひとりの男については、そこにいた事実さえも一切知られてはいない。ただ世界に吹いた風のみが、それを記憶しているだけである――。

 

 

 




あの名台詞が言えるのは彼しかいない!
彼らの道行きに幸あらんことを。



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それぞれの選択
第54話 学者達、新たな道を見出すの事


 ――ラ・ヴァリエール公爵家での歓待・最終日の夜。

 

「そもそも〝錬金〟とは、どういった魔法であるのか」

 

 最初に太公望がこの言葉を発したとき、エレオノールは思わず金切り声をあげそうになった。それはそうだろう。なにせこの歓待期間中、彼女は太公望に対して〝錬金〟がいかに素晴らしい魔法であるのか、また、どれほど生活に欠かせないものであるのかを散々説明し尽くしていたのだ。

 

 しかし、エレオノールは家柄だけではなくその実力でもって王立アカデミーの首席研究員まで上り詰めたほどの才媛である。

 

(彼がもったいぶってこんなことを言うからには、何か特別な意味があるということよね)

 

 そう判断して深呼吸をし、心を落ち着かせた後、改めて問いかけた。

 

「それは、どういった意味で……ですの?」

 

「はい、それなのですが。才人よ」

 

 いきなり話を振られた才人はビクッと身体を緊張させた。何やら小難しい、しかも自分にはあまり関係のない魔法の話を延々と聞かされていた彼の意識は半分飛びかけていた――つまり、居眠りをしそうになっていたからだ。

 

「な、なんですか太公望師叔」

 

「魔法学院の『赤土』先生を覚えておるか?」

 

「ハイ、もちろん。あの、ものすごい数の粘土飛ばしてきた女の先生ですよネ?」

 

 あの先生が一番最強に近いんじゃないかなあ。アレが口に入ったら、呪文唱えられないし。そんなことをブツブツと呟いていた才人に対し、太公望はさらに質問を続けた。

 

「初めてあの粘土の魔法、つまり〝錬金〟を見たとき、どう思った?」

 

「びっくりしました」

 

「……質問の仕方が悪かった。あれを科学的な視点から捉えた場合、どう見た?」

 

 カガク的。この言葉に、エレオノールだけではなくコルベールも強く反応した。彼らはこれから展開される会話が、以前聞いていた『自然科学』に近いものではないかと判断したからだ。

 

「あれ質量保存の法則とかどうなってんだ? とは思いましたです、ハイ。粘土だけじゃなくて、ただの石から鉄とかガラス作るんならまだわかる。納得はできないけどな。あと、水をワインに変えたりとか。もう〝錬金〟じゃねえじゃねえか!」

 

 などと呟き続ける才人に太公望は再び質問を投げた。

 

「ふむ。おぬしの言うその法則とは、物質の状態が変化しても質量は変わらないという意味で合っておるか?」

 

「ハイ。合ってます」

 

「すまぬが、その法則について簡単に説明してはもらえぬだろうか?」

 

 その言葉と同時に太公望は他者に気取られないよう、ラ・ヴァリエール公爵とオスマン氏に視線を投げた。ふたりはそれを受け止め、小さく頷く。

 

「え~、俺よりも太公望師叔のほうが詳しそうなんだけど。ま、いいけどさ」

 

 文句を垂れながら、才人は質量保存の法則について説明を開始した。これは彼の故郷である日本ならば中学までに理科の授業で習う、ごく簡単な化学知識である。

 

「ええっと、そうだな……たとえばコップ一杯の水とスプーン一杯の塩を用意して、重さを量る。そのあと水の中に塩を入れて溶かしてから重さを量ると、溶かす前の水と塩の合計と同じ重量になる。つまり、前後で『質量が変わっていない』ってことになるよな。塩が水に溶けて消えたように見えるけれど、実はなくなってなんかいないんだ。溶けた塩はちゃんと水の中に残ってる。重さが変わらないのがその証拠だ」

 

 その他にも質量に関する説明や各種実験の際の注意事項を挙げ、必死に脳内の記憶と知識を手繰り寄せながら質量保存の法則について説明する才人。思考が完全にそちらへ向いてしまったため、喋り口調が完全に普段のものに戻ってしまっているのだが、聞いている者たちは誰もそんなことを気にしていない。

 

 魔法学院に所属するメンバーたちについては、才人が時折こういう知識を出してくることに対し、既に何の疑問も持っていない上に、彼の口調や普段の態度にも慣れているからこそなのだが……ラ・ヴァリエール公爵家の人々はそもそも平民の従者である才人にこんな学があるということに驚いていたため、礼儀がどうとかいう些細な問題など頭の中から消え失せていた。

 

 特に才人の正体について知らされている公爵は、内心で唸っていた。

 

(母親が研究者らしいとは聞き及んでいたが、自分の息子に対してこれほどの教育を施したその人物は、間違いなく東方でも高名な学者に違いない)

 

 彼の補佐でルイズの魔法が伸びたというのは、まぎれもない事実なのだと納得できた。

 

 ラ・ヴァリエール公爵家の中でも特に礼儀作法に五月蠅いエレオノールまでもが静かに才人の話を聞き入っていた。

 

(アカデミーの学術会議に出しても恥ずかしくない内容だわ。ただの従者が、こ、これほどまでの学問を修めているだなんて……!)

 

 彼の身分以上に東方の教育やそこにあるだろう学問が気になってしまった。もう、平民の話だからなどと頭から否定するような意識は彼女の頭から完全に消えている。

 

「これが質量保存の法則ってやつだ。ちなみに、金属が錆びると重くなるのは表面に錆をつくるための物質がくっつくからだ。そのぶんだけ重くなる。俺が思うに〝固定化〟の魔法は、対象に見えない膜みたいなものを張って、錆の元になるものがついたり、酸化するのを防いでるんじゃないかと思うんだ。なんで堅くなるのかまではわからんけど。ああっと、悪い。酸化の説明は結構ややこしいからパスさせてもらってもいいかな?」

 

 その才人の問いかけに、太公望は頷いた。

 

「うむ、よくわかった。大変よい説明であった。では再び質問だ。それをふまえた上で、才人よ。おぬしはあの粘土がいったいどうやって空中の何もない場所に現れたと考える? 『魔法だから』で思考を停止せず、予想できる範囲で己の見解を述べよ」

 

 ――『魔法だから』で思考を停止するな。この言葉にエレオノールは目を見開いた。

 

(今、わたくしはとても大切な何かを掴まえようとしているのではないだろうか?)

 

 いっぽう、才人は必死に空中に粘土が現れる理由を自分なりに解明しようとしていた。

 

「どこか別の場所から粘土を〝転送〟してきてるんじゃないか?」

 

 これに反論を述べたのはオスマン氏だ。

 

「いや、それはない。あれは彼女が〝錬金〟で創り出したものじゃ」

 

「そうなんですか? それじゃあ……う~ん。空中に全く何も無いってことはないよな。空気とか埃とか、いろいろなものがあるんだから……あ! ひょっとして、それを何かの方法で粘土に変えてるのかな? でも、そうなるとやっぱり質量が絶対的に足りないんだよなあ」

 

 そこに突っ込んできたのがエレオノールだ。

 

「その足りない部分を補っているのが魔法。つまり〝精神力〟を対価に発生させている事象ということなのでは?」

 

 彼女の解答に拍手を送った者がいた。太公望である。

 

「おそらくエレオノール殿のおっしゃる通りでしょう。あくまでわたくしの推論ですが、彼女は空気中に漂う埃を核にして、その周囲に〝精神力〟を用い、作用させることで、何らかの補填……つまり必要な質量を補うための事象を起こし、粘土を創り出しているのです。これこそが〝錬金〟という魔法の根源のひとつに繋がるものなのではないかとわたくしは考えます」

 

 ところが、その意見に真っ向から対抗してきた者がいた。才人である。

 

「いや、それだと説明つかないことがあるんだけど?」

 

「ほう、具体的には?」

 

 太公望の質問に、才人がこれまでいちばん疑問に思っていたことを述べた。

 

「ギーシュの『ワルキューレ』だよ。いや、あの小さな粘土くらいの大きさなら、俺でもまだ理解できるぞ? けど『ワルキューレ』って人間よりちょっと大きいくらいのサイズがあって、しかも七体同時に出せるんだぜ? 核が薔薇の花びらだとしてもさ、ギーシュってあんまり〝精神力〟多くないんだよな? それなのに、どうしてあんな凄いものが作れるんだ? 中が空洞でも、質量的にありえないだろ」

 

 その疑問に思わず反応してしまったのはラ・ヴァリエール公爵である。ただし、それは才人の投げかけた謎に答えるものではなかったが。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。ギーシュ君は〝錬金〟でゴーレムを錬成しているのかね? 〝クリエイト・ゴーレム〟ではなく? 何故わざわざそんな真似を……グラモン元帥はそのような魔法の使い分けなどしていなかったはずだが」

 

 そう問いかけてきたラ・ヴァリエール公爵に答えたのは、激論の対象たるギーシュ・ド・グラモン少年本人である。

 

「父上や兄上たちはともかく、ぼくは〝精神力〟が足りなかったんです。つい最近まで『ドット』でしたから。それで、子供の頃に戯れで〝錬金〟を使って小さなゴーレムを造り、動かしてみたらこれが結構上手くいきましてね。それからは、ずっと〝錬金〟で……」

 

 この言葉に動揺したのは、同じ土系統であるエレオノールだ。

 

「それはおかしいわ。だって〝錬金〟にゴーレムを操作する効果なんてないはずよ!」

 

 言われてみればその通りだ。ギーシュは自分のことにも関わらず頭を抱えてしまった。彼はこれまで何の疑問も持たずに〝錬金〟で『ワルキューレ』を創り出していたが、その後の操作についてはほぼ無意識に行っていたからだ。

 

 そのとてつもない謎を解明してくれたのは、ルイズだった。

 

「ねえ。ひょっとして……無意識に〝念力〟(サイコキネシス)で動かしてるんじゃない? たしか、ギーシュが『ワルキューレ』を突撃させるときって、必ず号令をかけてるわよね? あれが〝念力操作〟発動のキーワードになってるんじゃないかしら」

 

「それだああぁぁぁぁああッ!!」

 

 ルイズの意見に全員が賛同の声を上げた。

 

「さすがは〝念力〟の名手ルイズ。これで大きな謎がひとつ解けた」

 

 こう呟いたのはタバサだ。

 

「ギーシュの『ワルキューレ』を見て、いつも疑問に思っていた。他の生徒が作ったゴーレムは、彼のものと比べて、動きがぎこちない。これまでは技量の問題だろうと考えていたけれど、彼が〝念力〟を使って動かしていたというのなら、あのなめらかな動作についても理解できる」

 

 〝クリエイト・ゴーレム〟で作り出されたゴーレムには使用者が操作を一時放棄しても大丈夫なように、最初からある程度の自由意思が付加される。馬車の御者や門番などに使われる、所謂『作業用』のゴーレムにそれが顕著だ。細かな動きをさせるのには向かないが、これらはある程度放置していても、忠実に命令を実行してくれるようになっている。

 

「そういえば、ギーシュのゴーレムは薬草を収穫したり、花を摘んだりできたよね……あれ、作業用ゴーレムじゃ絶対無理だよ。雑過ぎて痛んじゃうから」

 

「そのうち、縫い針の穴に糸を通せるんじゃないかしら」

 

「慣れれば編み物とか刺繍もできそうよね」

 

 レイナールと女子生徒陣がざわめく。

 

「ギーシュが、どうしてあそこまで〝力〟のコントロールが巧いのか、やっとわかったわ。まさかそんな難しいことを、無意識にとはいえ、子供の頃からやっていただなんて!」

 

 そうぼやいたのはキュルケである。彼女はつい最近までひたすらコントロールの練習をしてきた。にもかかわらず、ギーシュの技術には未だ及ばないのだ。

 

 自分の『ワルキューレ』に関する謎の解明と、そこへ付随してきた称賛の言葉にギーシュは鼻高々だ。しかし、その後太公望から発せられた言葉に彼はさらなる衝撃を受けることとなる。

 

「操作については、ほぼ解明されたようだが、まだ才人が出した質量に関する謎が残っておる。これについてなのだが……実はギーシュの持つ薔薇の杖が、それを解明するための重要な鍵となっておるのだ」

 

 思わせぶりな太公望の言葉に、ギーシュは戸惑った。

 

「それはどういうことだい? ミスタ」

 

「逆におぬしへ問いたい。その薔薇の杖を最初に持たせたのは、いったい誰だ?」

 

 最初にこの杖をくれた人物。ギーシュはもちろん、その相手をよく覚えている。

 

「ぼくの父上だよ。たとえ戦場にあっても華を忘れてはならない、って」

 

「やはりそうか。おぬしの父上が元帥位に就かれている理由がよくわかった。おぬしが持っているその杖にはな、いくつもの利点があるのだ。それはなんだと思う?」

 

 薔薇の花をベースに作られた杖の利点とは何だ? コルベールは首を捻る。

 

(彼の言葉から察するに、元帥位に就けるほどの軍人であるミスタ・グラモンの父上が、わざわざそれを渡したという事実にこそ謎の解明に至る秘密が隠されているのだろう)

 

 その直後に解答へと到達したコルベールは、立ち上がって大声を上げた。

 

「ミスタ・グラモン。ひょっとして、きみは自力で『杖契約』を完結できるのでは?」

 

「え、ええ……もちろん。十五分もあれば」

 

 コルベールの剣幕に思わずたじろいでしまったギーシュ。だが、彼の答えを聞いたその他一同の反応は大きく違っていた。

 

「あなた、最初から最後まで、たったひとりで自力契約できるの!?」

 

「普通できないわよ、そんなこと!」

 

「な、なんでそんな短時間で、契約まで行けるのさ!」

 

「とてつもなく難しいことよ。あなた、もしかしてわかっていないのかしら!?」

 

 モンモランシーをはじめとした生徒たちだけでなく、エレオノールまで驚いていた。唯一置いてけぼりをくらっているのが才人である。

 

「え、花を杖にするとか、邪魔な葉っぱとか枝を切ればいいだけじゃないの?」

 

「違うわよ! まあ、あんたが知らないのは仕方ないんだけど……」

 

 こうして、彼のご主人さま直々のありがたい解説が始まった。

 

「普通、杖との契約は何日もかけて行うものなの。それも、ひとりで全部できるわけじゃないわ。杖材を選ぶところから始まって、職人にどんな杖がいいか伝えた上で仕上がりを確認しなきゃいけないし、儀式の準備を整えるひとも必要よ。大抵はその家の当主……うちの場合は父さまね」

 

「ふむふむ」

 

「それが終わったら、いよいよ杖を手に馴染ませる儀式が始まるの」

 

「手に馴染ませる?」

 

「ええ。同じように見える杖でも、うまく馴染まないことがあるのよ。相性の問題でね。だから、いろいろな材質の杖を何本も用意する必要があるの」

 

「そりゃ大変だな」

 

「そうなのよ! 杖が手に馴染んで契約が終わるまでには普通二~三日、長い場合は何週間もかかるんだから!」

 

「なるほどな。だからたった十五分でギーシュが契約できるって聞いて、みんな驚いたのか」

 

「そういうこと」

 

 一同の視線が再びギーシュに集まる。

 

「でだ、ギーシュは何故そこまで杖契約を素早くこなせるのだ? 理由を察してはおるが、本人の口から確認しておきたい」

 

「え? だって、花びらの落ちた薔薇の杖をそのまま使うだなんて、美しくないじゃないか」

 

「はあ!?」

 

 やはりと言わんばかりに片手で顔を覆った太公望、呆れ声を出すその他参加者たち。

 

「だから、いつでも新しい杖に持ち替えられるように予備の杖と材料を用意してあるのさ」

 

 そう告げて、バッとマントを広げるギーシュ。

 

「うわ……」

 

「薔薇の花だらけじゃねえか!」

 

 彼のマントの裏地には〝固定化〟を施された薔薇の花が何本も挿されていた。

 

「そういえば、君の部屋にもたくさん薔薇が飾られていたよね」

 

 時折ギーシュの部屋に遊びに行くレイナールがそう呟くと。

 

「もちろん。生け花だけでなく造花もあるからね」

 

「まさか、花びらがついていないと魔法が使えないの?」

 

「そんなことはないさ。だけど、そのままじゃ格好悪いじゃないか」

 

「確かにそうだけど……」

 

 そんな彼らのやりとりを見ていたラ・ヴァリエール公爵が笑みを浮かべた。

 

「ある意味グラモン伯爵らしい発想だよ。『常に華を忘れてはならない』これは、昔から彼の口癖なのだ。軍人が杖をなくすということは、即座に死へと繋がる。すぐさま代わりを用意しなければならない。だからこそ自分の息子に、あえて管理が難しい『花で作られた杖』を持たせることによってそれを学ばせていたのだろうな」

 

 公爵の補足に感嘆のため息をもらす一同。

 

「杖の紛失は死に繋がる……」

 

 タバサはふと自分の手元にある杖を見た。ごつごつとした、自分の身長よりも長く無骨な木杖。父の形見であり、彼女の愛用品でもある。その大きさが故に両親や教師たちから「持ち替えたほうがよいのでは」と勧められているが、タバサは頑なにこの杖にこだわってきた。

 

 しかし、このラ・ヴァリエール公爵の発言により新たな発想が生まれた。

 

(手放す必要はない。代用品を隠し持てばそれでいい)

 

 杖契約の性質上、複数の杖を持ち歩くのは難しい。だが、絶対にできないことではない。その証拠に父・シャルル大公は常に何本か杖を所持していたし、彼女の杖はそのうちの一本だ。

 

(そこまでやるなら、自力で杖契約が完結できるよう学んでおくべき)

 

 そんなタバサの決意を知ることなく、太公望はギーシュの杖に関して更なる見解を述べようとしていた。

 

「それ以外にも利点がある。それが『花びら』だ。その花びらが地面に触れたと同時に、地面から『ワルキューレ』が作製されている。つまり花びらは核であると同時に、精製のための〝精神力〟を運ぶ触媒なのだよ。これのおかげで『空間座標指定』ができないギーシュが、より少ない〝力〟でゴーレムを創り出すことができていたというわけだ」

 

「どういうことですの?」

 

 ヴァリエール家の長女から投げかけられた質問に、太公望は以前の実験結果を告げた。

 

 地面からゴーレムを作製する場合――いや、それに限らず普通のメイジは魔法を発動させる際に杖から発動場所へ〝魔力〟を運ぶ誘導用の〝糸〟を必要とする。

 

 この〝糸〟には誘導距離が長ければ長いほど途中で魔力の一部を蒸発させてしまうという有り難くない副産物がある。また、この〝糸〟は詠唱終了後に全て霧散するため、そこから余計な〝力〟を消耗していることがわかる。

 

 よって、この〝糸〟は細ければ細いほど、かつ短いほうが良い。何故なら表面積を小さくすることで、それだけ魔力の蒸発を抑えられるからだ。また『空間座標指定』ができるメイジは〝糸〟を作成するために必要な〝精神力〟の消耗がなくて済む。これは大きなメリットだろう。

 

「つまり、ギーシュが持っている杖から落ちる『花びら』は、その中に〝錬金〟発動のために必要な魔力を溜め込んで、〝錬金〟のための材料となる地面へと散ることにより〝糸〟を使わずに〝魔力〟を誘導でき、さらに着弾時に起動スイッチの役割も果たす、複数の効果を持っておるのだ」

 

 そう解説した太公望の言葉にコルベールが補足する。

 

「さらにいうと、薔薇の刺ですね。これでほんの少し指などに傷をつけることによって、儀式に必要な分量の血液が出せる。杖契約のために必要なものが、薔薇の花という、ただそれひとつだけで揃ってしまう。これは実に合理的な考えですぞ」

 

 ギーシュは自分の杖を手に取り、まじまじと見た。まさか、この薔薇の杖にそんな深い意味が隠されていたなどとは想像だにしていなかった。父の考えにも思い至らなかった。

 

「なるほどな。それでギーシュの〝錬金〟でも、あんなに大きなものをたくさん作れるのか」

 

 うんうんと頷く才人。どうやら彼なりに納得できたらしい。

 

「とはいえ、ここまではあくまで推測。本当にそれが理由でギーシュのゴーレムが造られているという証拠にはならんがのう。先ほど才人が質量保存の法則について証明したのと同じように、実験して確かめてみねばわからぬ」

 

「んだな。このままじゃ仮説のまんまだもんな」

 

「おぬしはこの現象をどう証明する?」

 

 頭をぽりぽりと掻きながら答える才人。

 

「〝精神力〟がどう動くかは師叔の〝場〟で直接見られるけど、花びらに溜め込んだ〝力〟が落ちた先にどう作用するかは……たとえば箱の中に土を敷き詰めて重さを量っておく。んで、その土の上に薔薇の花びらが落ちるように『ワルキューレ』を〝錬金〟するとか。どうかな?」

 

「なるほど、それで〝錬金〟の前後で重さが変わっていたら、花びらが落ちた場所の土が錬成の材料になっているというわけだな」

 

「もちろん、風のない部屋の中でやるのが前提だけどな。箱自体も〝固定化〟したやつを使わないとだめだと思う。できれば、気温とか気圧も測れればいいんだけど……」

 

「環境を整えるのは実験を行う上で大切なことだからのう。同じ状況、条件、手法で再現できなければ科学的な意味で正しい証明とは言えぬ」

 

「だよなあ」

 

 科学実験について語り合う太公望と才人を目を白黒させて見つめる一同。無理もない、貴族と思われている太公望はともかく、才人はあくまで平民。そんな彼からアカデミーの職員が行うような研究をしていたと思われる発言が、次々と飛び出してくるのだから。

 

「ところで、その実験で重さが変わらなかった場合はどうなるのですかな?」

 

「そのときは花びらが落ちた場所の土が材料になっているわけではないっていう証明になります。けど、そこで終わるわけじゃなくて、今度は錬成のために必要な質量を他の場所から持ってきているっていう別の仮説が成り立ちますよね?」

 

 その説明に、質問の主であるコルベールがポンと膝を叩く。

 

「なるほど! でしたら、箱に入れるのは土ではなく水にして、染料で色をつけておくというのはどうでしょう」

 

「興味深い提案ですわ。色のついた水に〝精神力〟がどのように作用するのか、波紋や色の移り替わりなどを見ることでわかることがあるでしょうね」

 

「その通りです! 逆に何も起きなければ、それはそれで〝精神力〟そのものが錬成の対価として使われていることの証明に近付くはずですぞ」

 

 目を輝かせて案を出し合うコルベールとエレオノールに苦笑しながら、ラ・ヴァリエール公爵が総括する。

 

「これが東方で研究されている科学、という学問なのだな」

 

「左様でございます。このようにあらゆる事象の『なぜ』『こうなる』を理論的に解明し、実験によってそれが正しいか証明する。その課程と結果を知識として蓄積してゆくのです。自然科学とはその名の通り『自然科に分類した全ての事象を解明するための学問』なのでそう呼ばれています。今までの会話は〝錬金〟とギーシュの杖を科学によって分析しようとしたもの。そう言って差し支えないでしょう」

 

 そう告げて、太公望はぴっと指を一本立てた。

 

「なお、今回のように〝錬金〟による物質の変化を詳細に解明するもの、すなわち『あるモノが別のモノに化ける理由を、より詳細に突き詰めるための学問』は『化学』(かがく・ばけがく)と称されます。このように事象について追求し、深く分析と実験を繰り返していけば……魔法について、もっと色々なことがわかってゆくはずです」

 

 そう語る太公望の言葉を聞きながら、エレオノールは思った。

 

(ああ、なんて楽しいのかしら。まさか〝錬金〟がこんなに面白く、興味深いものだとは思ってもみなかった! あまりにも魔法が身近にありすぎて、これまで深く考えたことがなかったけれど……こうして少し中を覗いてみただけで、こんなにたくさんの謎が詰まっているだなんて!)

 

 それを考えただけで、彼女の胸は躍った。〝錬金〟の入口ひとつ取ってみただけでもこれなのだ、もっとずっと奥まで覗き込んだら、果たしてどれほどの不思議が詰まっているのだろう。

 

 エレオノールはついに理解した。この「中身を奥深くまで覗く」という行いが科学という学問なのだと。そして気が付いた。

 

(これは『始祖』ブリミルの慈愛に、より近付くために最善の方法ではないかしら)

 

 何故なら、今までメイジなら使えて当然と受け取られてきた魔法の根本をより詳しく調べることによって、それを当たり前にしてくれた『始祖』に対する深い感謝の念が生じるからだ。しかも、その理由全てを知ることによって、より明快に他者へと伝えられる。

 

 これまで『始祖の彫像』を造り、研究することで、偉大なる『始祖』ブリミルの慈愛と業績を後世へ伝えるべく努力していたエレオノールだったが、悲しいかなその成果はごくごく一部の者にしか認められず、年々予算を削られていくばかりであった。

 

 しかし魔法を『科学』するというこの研究手法は――。

 

(創立からずっと始祖の御心を知るための研究を続けている、我が王立アカデミー全体の意志に沿うもの。それに、なんといってもこのわたくしの知的好奇心を徹底的に満たしてくれる、素晴らしき学問にして命題だわ!)

 

 ――後に、エレオノールは彼女が新たに開いた『道』に続く大勢の研究者たちから、敬意を込めてこう呼ばれることとなる。

 

『魔法科学の母』

 

『エレオノール・第一号魔法科学博士』

 

 これはハルケギニアという世界で初の『魔法科学』という学問と、その創始者にして母親となる存在が誕生した〝運命〟にして記念すべき瞬間であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――歓待の数日前。

 

 最初に太公望からその話を打ち明けられたとき、キュルケは彼の正気を疑った。

 

「ミスタ・コルベールにタバサのお母さまの治療を手伝って貰うですってぇ?」

 

 コルベールは火系統の使い手だ。正反対の属性である水魔法の〝治療〟は、たとえやれたしても相当の〝精神力〟を消耗するであろう。

 

 そう意見をしたのだが、太公望は笑って言った。

 

「いや。これには彼の〝切り開く力〟が必要不可欠なのだ。そういう意味で、キュルケよ。おぬしにも同じ火系統の使い手として、是非とも治療の手伝いを頼みたいのだがのう? 出会ったばかりの頃ならばいざ知らず、今のおぬしならば確実に頼れる」

 

 そう言われて、キュルケは正直悪い気はしなかった。しかも『破壊と情熱』を司る火で親友の母の病気を治す手伝いができるというのだ。救出時のみならず、そんな重要な役割を任せてもらえるというのは彼女にとって誇らしい依頼だった。

 

 キュルケは胸を反らせ、髪を掻き上げながら高らかに笑った。

 

「そういうことなら任せてくださいな。親友のお母さまを助けるためにあたしの〝火〟が役立てるだなんて! こんなに嬉しいことはなくてよ」

 

「……ありがとう」

 

 彼女の手をぎゅっと握り締め、感謝の言葉を述べたタバサの身体を、これまたぎゅっと抱き締めたキュルケは訊ねた。

 

「で、それはいつミスタ・コルベールに依頼するのかしら?」

 

「うむ。例の歓待期間中に機会を作り『部屋』に招待するつもりだ」

 

「わたしたちも?」

 

 タバサの問いに太公望は少し悩んだ後、こう返した。

 

「ひょっとすると途中で退出してもらうかもしれぬが……それでも構わなければ」

 

 タバサとキュルケは了承の印に強く頷いた。

 

 

 ――そして現在へと至る。

 

 〝錬金〟に関する思いも寄らぬ話を聞いたコルベールは激しく興奮していた。

 

「科学とは、まさしく私が行っている研究方法そのものではないか! あれをもっと深く知りたい! 学びたい!」

 

 そう呟きながら自室へ戻ろうとした彼に声をかけたのは太公望とふたりの女子生徒だった。

 

「でしたら、先生の部屋でこれから少しお話など如何でしょうか?」

 

 これが普段のコルベールならば「夜に女子生徒を部屋に招くなど。とんでもない!」などと反論していたかもしれない。ところが旺盛な知的好奇心が、そんな教師としての良識を吹き飛ばしてしまった。

 

 やがて――彼は見て、悟った。以前、空の上で才人が告げた言葉の意味を。

 

『近いうちに、太公望師叔がいいものを見せてくれるそうですよ』

 

 コルベールはそれを見て、文字通り驚喜していた。

 

 ガラスでも水晶でもない球体。それが一定の高さを浮遊して、部屋の中を照らしている。

 

(どれも手の中にすっぽりと収まる程度の大きさだ。こんな小さなランプでこれだけ広い部屋を真昼のような明るさにできるとは……いったいどういう仕組みなのだろう?)

 

 球体そのものが発光する物体なのか。あるいは中に光苔のような光源となりえる物質が詰め込まれているのだろうか。それとも常に〝光源(ライト)〟の魔法を発し続ける魔道具なのであろうか。時折球体の表面に謎の記号が浮かび上がるが、これはいったい何を示すものなのか。

 

 部屋の入り口に浮かんでいた『光源』を発見したコルベールが早速分析に入ってしまったのを見た太公望は――現在は再び〝夢の部屋〟にいるので伏羲の姿になっていた彼は――思わず苦笑してしまった。

 

(コルベール殿はやはり根っからの研究者だのう。少なくとも、現時点においては)

 

 そんな彼にこの()()を依頼してよいものかどうか迷ったのだが、正直なところ、彼以上の適任者がどうしても見つからなかった。本来であれば、才人も一緒に連れて行く予定だったのだが、これから行く先は『経験者』でないと厳しい。あの打たれ弱さを見てしまった以上、残念ながらまだ力不足であると判断せざるを得なかった。

 

(そういう意味ではキュルケがいちばんの不安材料だが、今の彼女であれば暴走する心配はまずあるまい。それを防ぐための準備は充分にしてきたからのう)

 

 もしも可能であればオスマン氏の協力を得たいところではあったのだが、彼ほどの大物を隣国とはいえ他国へ動かしてしまうと()に察知される危険性があるため、即座に却下した。

 

「コルベール殿。部屋の見学はあとでたっぷりしていただいてよいので、まずは話を聞いてはもらえないだろうか?」

 

 

 ――それから三十分ほどして。

 

 タバサの持つ事情を聞き終えたコルベールの両手はぶるぶると震えていた。

 

「私の〝火〟を頼りたいと? 技術ではなく……?」

 

「その通りだ。機密保持の関係上大変申し訳ないが、より詳しい話については依頼を受けていただけるまでは打ち明けられないのだ。どうであろう? 不躾な頼みではあるのだが、引き受けてはもらえぬだろうか」

 

 技術ではなく自分の〝火〟つまり『炎蛇』たる者の〝力〟が借りたい。即座にこれはそういう依頼だと理解したコルベールは、躊躇した。

 

 俯き、押し黙ってしまったコルベールを見てキュルケはフンと鼻を鳴らした。

 

(なんでこんな男が『炎蛇』なんてご大層な二つ名を持ってるのかしら。普段からのんきに本ばっかり読んでるのに。研究者として優秀なのはまぁ認めてあげなくもないけど、そんなの土や水メイジの仕事じゃない。破壊を本領とする火系統に相応しいとは思えないわ)

 

 だが、わざわざ太公望が依頼したのだからそれ相応の理由があるはず。そう信じていたキュルケにとって、彼の反応は単に臆病者が当たり前のように怖じ気づいたようにしか映らなかった。

 

(フーケのときも杖を掲げてなかったしね。期待するだけ無駄じゃないかしら)

 

 いっぽう、タバサは疑問に思っていた。過去にコルベールの〝炎の蛇〟を見たとき、彼女は背筋に鳥肌が立ったのだ。もしもあれが自分に向けられていたら……反撃する間も与えられず、瞬時に焼かれていただろう。

 

 いや、あの〝炎〟だけではない。呼吸、動作、それら全てが彼を相当な達人……しかも対人経験のある熟練者だと匂わせていた。おそらく、本気を出したコルベールに不意打ちを受けたらまず助からない。それどころか、襲撃を受けたことに気付かないうちに燃やされているだろう。それほどの戦士が何故躊躇うのか。

 

(臆病というわけではなさそう。何か深い理由がある)

 

 タバサはそこに悲しみを見た。だが、目的のためにあえて一歩踏み込むことにした。

 

「先生は、いつも授業で仰っていました。『破壊だけに火を用いることは寂しい』と。その言葉を発するとき、先生はどこか悲しそうでした。その理由は聞きません。でも、もし……火を壊すのではなく切り開くために使うことを躊躇わないのであれば、どうかわたしたちに手を貸してはいただけないでしょうか」

 

 タバサの切なる言葉にコルベールの心が震えた。そして、彼は思い出した。

 

 ――火系統のメイジとは『自ら道を切り開く者』。

 

(そうだ、私は決めたではないか。自分の〝火〟で、ひとびとを幸せにするための『道』を切り開いてゆこうと。破壊の権化ではなく、暖かな光になりたい。そう願っていたではないか。助力を願うこの小さな瞳から視線を外すことは、その決意に砂を掛けるに等しい行為ではないのか?)

 

 コルベールは、未だ躊躇っていた。しかし、それ以上にタバサの真摯な眼差しに心を打たれた。そこで彼は自らに試練を課すことで、彼女に応えるための準備をしようとした。

 

「私はきみたちが思っているような立派な教師などではないのだよ。重い……いや、そんな言葉では軽すぎるほどの罪を背負う咎人(とがびと)だ。ミスタ・タイコーボーはそれを既に知っているか、あるいは予想しておられるために、私に助力を請うてきたのでしょう?」

 

 全身を黒の装束――現在は伏羲の姿をとっている太公望は、頷いた。

 

「詳細までは知らぬ。聞き出そうとも思わぬ。だが、召喚されたあの日のうちに気付いていた。コルベール殿が何者であるのか。だが、少なくともあの場での反応は……間違いなく子供たちを守る立派な教師たりえる姿であったよ」

 

 その言葉にキュルケが反応した。

 

「ミスタ。それはどういうことですの?」

 

 太公望は黙ってコルベールの目を見た。視線を受けたコルベールは頷いた。それを了承と受け取った太公望は静かに語り始める。

 

「コルベール殿はあの〝使い魔召喚の儀〟でわしが現れたとき、瞬時に動いた。自然に、実にさりげなく。相手を警戒させない滑らかな動作でもって、生徒たち全てを守れる位置についた。あれを見たとき、わしは即座にこの男は只者ではないと判断した。彼は間違いなく軍人。それも相当な手練れであると」

 

「コルベール先生が軍人ですって!?」

 

 キュルケは即座に反論しようとした。そんなはずはないと。だが、彼女は知っていた。太公望の解析能力が常人のそれとは比べものにならない程に正確なものであると。そして、彼がサイトの世界で伝説の英雄として語り継がれる大将軍であることを聞き、かの『烈風』と互角に戦えるほどの技量を持つ超技巧派のメイジであることを見せつけられていた。だから、舌を動かせなかった。

 

「トリステイン魔法学院は有力貴族の子弟のみならず、外国からの留学生が多く集まる場所。考えようによっては、常に紛争の火種を抱える巨大な火薬庫だ。コルベール殿はその番人として、生徒を守るという特殊任務を与えられた軍人。わしはそう捉えていたのだが……違いますかのう?」

 

 コルベールは何も言わない。俯き、両の手を握り締めている。

 

「そうだのう。たとえばわしを除く水精霊団の者たちが一斉にコルベール殿へ挑みかかった場合。見通しのよい平野ならばともかく、市街地や森などで地形を有効活用されたら――ほぼ間違いなく全員揃って完封されるであろう」

 

 太公望の言葉に少女たちは驚愕した。特にコルベールの実力をある程度把握してはいたものの、そこまでの腕利きだとは思っていなかったタバサは激しい衝撃(ショック)を受けた。

 

(先生はタイコーボーと同じ。わたしはまた見た目や言動に騙されてしまっていた!)

 

 それを理解したがゆえに、タバサは凍り付いた。

 

 いっぽうのコルベールは内心で苦笑していた。目の前の人物――太公望が持つ甘さに対して。こんな罪深き私すら、彼は守ってくれようとしている。

 

(ミスタは本当に事情を知らないのかもしれない。だが、こちらの力量をほぼ正確に把握しているということは……私がどのような性質を持つ軍人であるのか、当然わかっているはずだ)

 

 この依頼を受けるということは、それを開帳する必要に迫られる可能性があるということ。だから、コルベールは話すことにした。あえて生徒たちがいる前で――自分が犯してきた罪を。

 

「いえ、私はそのような立派な存在ではありません。ただ、かつて軍人であったことは事実です。それも……トリステイン王国の〝特殊魔法実験小隊〟を率いた指揮官でした」

 

 キュルケは思わずコルベールを見つめた。そして、おののいた。今の彼は、いつものどこか間の抜けた教師などではなかった。纏う空気が完全に違う。それは味方すらも焼き尽くすと称される、ツェルプストー家生まれのキュルケですら感じたことのない熱気だった。彼に触れれば火傷する。燃えて、灰すら残さず〝消滅〟してしまう。

 

 オーク鬼退治という実戦を経験したキュルケだったが、あれはあくまで保険つきの戦いだった。命を賭けた本物の戦いなどこれまで体験したことはない。だが、コルベールが発する気配は違う。戦場を駆け抜けた経験者だけが持つ、独特の雰囲気を漂わせている。それは肉が焼け、死そのものを感じさせる香りであった。

 

「なあ、ミス・ツェルプストー」

 

「は、はいっ」

 

「きみさえよければ、火系統の特徴をこの私に開帳してくれないかね?」

 

 そう言って視線を向けてきたコルベールの瞳は、獲物を狙う爬虫類を思わせた。彼の静かで優しげな声を聞いたキュルケは、自分の耳に達したその声音とは裏腹に――生まれて初めて、純粋な死を感じさせる恐怖の旋律を聞き取った。

 

 その畏れは『炎の女王』とまで称された赤毛の少女から、瞬時に全ての熱を奪い尽くした。

 

「……情熱と破壊が、火の本領ですわ」

 

 震えながらも小さく発せられたキュルケの言葉に、コルベールは静かに頷いた。

 

「情熱はともかく、破壊こそが火の本領。そうだ、若い頃の私はそれを信じて疑わなかった。だからこそ軍に所属して、立ちふさがる者全てを焼いた。顔色ひとつ変えず、何もかも、全てを破壊し尽くしてきた。いつしか、そんな私についた二つ名が『炎蛇』。蛇のように静かに這い寄り、炎という確実に死に至る毒を敵対する者に与える――非情の使い手だと」

 

 ふと顔をあげたコルベールの瞳に太公望の顔が映った。彼は静かに、首を横に振っている。それ以上語らなくともよい、そう言いたいのであろう。だが、コルベールは頷かなかった。

 

「その考えが変わったのは二十年前だ。とある村に疫病が発生したと上司から告げられた。全てを焼き払い、病の蔓延を防げ。そう命じられ、任務を遂行した。その時はそう信じていたし――何より命令を忠実に実行するのが軍人の役目だ。なんの疑問も持たずに私は村を焼き払った。そうだ、家屋だけでなく、動くものたちをも含め、全てを灰にした」

 

 疫病の蔓延を防ぐために、動く者全てを焼く。つまりは――そういうことだ。キュルケとタバサの背中に冷たい何かが伝い落ちていった。全体を救うために、個を犠牲にする。よくあることだと言われてしまえばそれまでだろう。しかし、それはあくまでする側の理論である。される側にとってはたまったものではない。

 

「ところが、後に仕事で軍の資料庫を訪れた際に……知ってしまったのだよ。その任務に隠された真実を。あれは疫病を防ぐための出兵ではなかった。ただの『新教徒狩り』だったのだよ。しかも一部の貴族と神官が癒着した結果、自分たちの利権を守るためだけに行われた……欲望の果ての虐殺だったのだ!」

 

「新教徒狩りですって……!?」

 

「新教徒やその歴史についてはタバサから聞いておったが……そのようなことまで……」

 

 ――新教徒。

 

 六千年以上に及ぶブリミル教の長い歴史の中で、有力者たちと馴れ合い、祈祷書の内容を自分たちの都合のいいように解釈する神官が多数現れた。そのせいで寺院の腐敗が進み、やがて深刻な社会問題となってゆく。そんな現状を変えようと、百年ほど前にロマリア皇国でひとりの司教が立ち上がったのが、後に『実践教義運動』と呼ばれる宗教運動の始まりだ。

 

『ブリミル教を本来のあるべき姿に戻そう』

 

 この運動と教義を信じる者は『新教徒』と呼ばれ、かなりの〝力〟を付け始めている。当然のことながら旧来のブリミル教徒――特に甘い蜜を吸っている神官たちや寺院からしてみれば、そんな状況を面白いなどと思えるはずもなく。それらは弾圧という形で表へ現れた。コルベールが任務と称して行わされたのもそのひとつである。

 

 苛烈を極めたこの弾圧は、数年前に教皇が替わった際に全面的に禁止された。しかし、旧教徒の新教徒に対する偏見は未だ根深く残っている。ガリアではその対立を畏れるがゆえに『実践教義』を国法によって禁じたほどだ。

 

 いつしか部屋の中はしんと静まり返っていた。ただひとりの口奥から漏れ出る、嗚咽混じりの声を除いて。

 

「私は、それからずっと罪の意識に苛まれ続けてきた。私のしたことは、到底許されることではない。任務だったから、軍人だから、知らなかったから。そんなものは言い訳にもならない。紅蓮の炎に包まれたあの村を――私の火で焼かれていった彼らの悲鳴を、私は一度たりとて忘れたことなどない。だから私は軍を辞めた。そして二度と火を破壊に使うまいと誓ったのだ」

 

 コルベールの唇が強く噛みしめられた。そこから流れ出た血を見たキュルケは――それを燎原(りょうげん)を静かに這い進む、炎の蛇のようだと感じた。

 

「そのまま罪の意識に押し潰され、自ら地獄へ続く道に墜ちてゆこうとしていたあの時。私はひとりの老人に出会ったのだ。彼は放っておいてくれ、このまま死なせてくれと願う私を制し、大声で怒鳴りつけた。死んでどうなる? 自分だけ。たったひとりの命で全てを償うことができると思うほど君は傲慢な人間なのか? とね」

 

 自嘲したコルベールの瞳に映っていたのは闇などではなかった。それは、もっと別の何か。

 

「その老人こそ、トリステイン魔法学院の学院長オールド・オスマンだったのだ。そして、彼は自分の犯してしまった大罪を前にただ嘆くことしかできなかった私に、こう言ってくれたのだよ」

 

『火が司るものが、破壊だけでは寂しい。そうは思わんかね? 君の手にはもっと別の何かが乗せられている。わしにはそう思えるのじゃよ。本気で罪を償いたいと願うのならば、その〝力〟で新たなものを生み、育ててみてはどうかね?』

 

「彼の言葉は私にとって〝天啓〟と呼ぶに相応しいものだった。その後、私はオールド・オスマンの口利きでトリステイン魔法学院の教師となったのだよ。子供たちが私と同じ間違いを繰り返すことのないように。火の『道』にも、壊す以外に別のものがある。それを教え、指し示すために」

 

 同時に「火で何かを生み出すことができないか」それを追い求めるがゆえに、コルベールは学問に走ったのだと語った。やがて彼は火系統の持つ、破壊以外の可能性を知るに至った。だから彼はひたすら学問に殉じた。オスマン氏の依頼で学院の生徒たちを影から守ることも行っていた。

 

「じゃあ、フーケのときはどうして……」

 

「オスマンのジジイに制止されておったのだよ。視線を向けられた途端、コルベール殿は杖を掲げようとしていた腕を降ろした。違うか?」

 

「そこまでお見通しでしたか……流石ですね」

 

 コルベールは乾いた笑みを浮かべた。

 

「私の手はたくさんの血に濡れている。この手にかけたひとびとの命は、もう戻ってこない。であればこそ、オールド・オスマンと出会い……こんな私を地獄の底から救ってくれた彼の理想を手伝うことこそがこの私に科せられた使命のひとつであり、贖罪なんだ」

 

 そう言って、コルベールはじっとタバサの目を見つめた。

 

「本当に、こんな私の手を借りたいと……そう言うのかね? ミス・タバサ」

 

 その問いかけに、タバサは力強く頷いた。一切の迷いを見せずに。

 

「ならば、私の〝火〟を貸そう。オールド・オスマンの理想。それは生徒たちを正しい道へと導くこと。困っている子供たちに、手を差し伸べることだから」

 

 そう言って、目の前へ差し出されたコルベールの節くれ立った手を……タバサはしっかりと握り返した。そのか細く、小さな両手で。

 

 

 ――それから数時間後。

 

 ふたりの女子生徒が退出し、客室として割り当てられた部屋へと戻った後。〝夢の部屋〟に立ち窓の外に映し出された景色を眼下に眺めながら、コルベールは呟いた。

 

「私はやはり卑怯者です。あれでは彼女たちを脅迫したも同然ではありませんか。今になって思うのです。自分の罪を誰かに打ち明けることで、楽になりたかった。ただ、それだけの気持ちであんな話をしてしまったのではないかと」

 

 そう言葉を紡いだコルベールの瞳には再び涙が溢れていた。

 

「罪を自覚して悩む。それが新たな道を征くための第一歩なのだとわしは思う。かつて、とある敵将からこう問われたことがある。お前は地に平和をもたらすために働いていると言うが、結局は本来不要な争乱を巻き起こし、憎むべき自分の敵と同じように軍を率い、罪なき民を大勢巻き込んでいるだけなのではないか? ……とな」

 

 コルベールの隣に並び、同じように窓の外を眺める太公望。その視線の先には彼――いや、伏羲の故郷である滅びた惑星を模した大都市が、宵闇の中、煌々とした無数の灯りによって照らし出されていた。

 

「わしは言葉に詰まってしまった。何故なら、その将軍の言うとおりだと思う自分が、心の中に居たからだ。本当にわしはこの道を歩んでも良いのだろうか。これは正しい道なのであろうかと、ずっと悩み続けた」

 

 戦を好まぬその気性がゆえに、一国の元帥として軍を率いるという矛盾を抱えることになった男の話を――戦う意味を知ろうとしなかったが為に、ひとりでは到底抱えきれぬ大罪を背負うことになった男は、ただ静かに聞いていた。

 

「だが、周囲にいた仲間たちがわしを支えてくれた。道に迷うわしの背中を、皆が押してくれた。だから前へ進むことが出来た。たとえどんなに傷つけられようとも、この手を血に染めようとも」

 

 そのとき、彼らの眼前で一機の宇宙船が力強く飛び立って行った。天高く、煌めく星の海へ向けて。囂々と輝く炎を噴きながら、遙かな天上の世界へと旅立ってゆくその船を見たコルベールはぽつりと呟いた。

 

「私の〝火〟も、いつかあの船のように……飛び立てるのでしょうか」

 

 遠い星の海を目指す船。それは、あの『ゼロ戦』とどこか似た姿をしていた。

 

「あれは今おぬしが歩んでいる『道』の遙か先に在るものだ。必ずとは言えない。だが、迷わず進めば、いつか手が届くかもしれぬ。もしやすると、あの星々にさえも。少なくとも、おぬしの周りにはその手助けをしてくれる者たちがおる。そうであろう? コルベール殿」

 

 その言葉と共にすっと差し出された手を、コルベールは無言で握り返した。

 

 ――こうして『炎蛇』は火系統の使い手として、再び立ち上がった。破壊のためではなく、自分の守るべき者たちの目指す『道』を切り開く為に。

 

 

 




予定以上に帰宅が遅れてしまい、日をまたいでしまいました。
申し訳ありませんでしたm(_ _)m


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第55話 流れゆく時の中を歩む者たち

 (とが)を背負うふたりの男が星の海を征く船を見送っていた――ちょうどその頃。

 

 ラ・ヴァリエール公爵家の一画に用意された客室のひとつで、タバサは寝間着姿のまま、じっとベッドの上に腰掛けていた。その手には、どこへ行くにも――授業中はもちろんのこと、入浴の際や眠る時すら手放さない節くれ立った長い杖を握っている。

 

 既に就寝時間は過ぎている。けれど、彼女はどうしてもベッドに潜る気になれなかった。タバサの頭の中で、様々な思いがぐるぐると巡っていたせいだ。と、そんな彼女の部屋にカツカツと足音を立てて誰かが近付いてきた。風メイジ特有の鋭い聴覚が捉えたのは、親友のキュルケが愛用しているロングブーツの音だった。

 

 それからすぐに部屋の扉がノックされる。タバサが入室の許可を出す間もなくドアはバタンと音を立てて開かれ、見事な赤毛と褐色の肌が眩しい少女が顔を覗かせた。

 

「やっぱり、まだ起きていてくれたわね」

 

 そう言ってキュルケは静かにとタバサの元へ歩み寄り、両手を広げると――友人の華奢な身体をぎゅっと抱き締めた。それはいつもと変わらない、親愛の表現。

 

 しかし、キュルケの身体が微かに震えていることを見て取ったタバサは、泣いている子供をあやす母親のように彼女の頭を両腕で優しく包み込んだ。

 

 キュルケはタバサの思わぬ優しさに一瞬だけ驚いたような表情を見せると、目にうっすらと涙を浮かべた。

 

「ありがとう、タバサ……」

 

 普段のキュルケの姿を良く知る者が今の彼女を見たら、これは夢か幻なのではないかと驚くだろう。それほどまでに現在のキュルケの姿は小さく、か弱く見えた。

 

「おかしいわよね。このあたしが怖いと思うだなんて」

 

 そう呟いたキュルケの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。それからキュルケは幼子が母親にするかのように、己の顔をタバサの膝に埋めた。

 

「でもね、本当に怖かったの。コルベール先生のことじゃないわ。ううん、先生が怖ろしくなかったっていうのは嘘ね。すごく怖かったわ、先生が纏う空気も、あの話も――でも、そうじゃない。あたしが一番怖かったのは、自分がなんにも知らなかったことなの」

 

 こくりと小さく頷くと、タバサは涙を零し続ける親友の頭を優しく撫でた。

 

「火は情熱と破壊の象徴。偉そうにあんなことを言っていた自分が恥ずかしい。あたしは火がどんなものなのか、自分がどういう系統を背負っているのか、ちっともわかっていなかったのよ。あの話を聞いた今でも、本当に理解できたのかどうか怪しいものだわ」

 

 ――全てを燃やし尽くす。それがいったい何を指すのか。どういう意味を持つのか。

 

「それに引き替え、コルベール先生はすごいわ。火の怖さをちゃんと知っていて、それでもタバサの……ううん、生徒のために、自分の持っている知識を生かそうとしてくれているんだもの」

 

 赤毛の少女から嗚咽が漏れる。

 

「もしも、あの話を聞かせてもらえなかったら……あたしも若い頃の先生と同じような『道』を歩んでいたかもしれないわ」

 

 そう言って震えるキュルケの頭を、タバサはただ優しく撫で続けていた。

 

「わたしも、全然知らなかった。知らないということの怖さを。わかっているつもりになって得意になっていた」

 

 静かに涙を流し続けながら、キュルケはタバサの言葉を聞いていた。

 

 知らないことの怖さ。タバサは太公望との模擬戦や今日まで続けてきた彼とのやりとりの中で、それらを完璧に学んだつもりでいた。だが、まだまだ自分の持つ考えが甘いものであったということを今回の一件で思い知らされた。

 

 コルベールの過去について、ではない。彼の背負う咎について……でもない。コルベールがこれまで見せてきた姿――お人好しで好奇心旺盛な、どこか間の抜けた教師。それは、コルベールという男を形作る一面でしかなかった。にも関わらず、それを完全に真実の姿だと決めつけていた自分の見通しの甘さがただひたすらに怖かった。

 

 それだけではない。自分のパートナーに対する評価が甘過ぎたことも、彼女が抱く恐怖に拍車をかけていた。以前太公望と行った模擬戦の前に、タバサは彼の実力について、こう評した。

 

「彼に対抗しうるのは、伝説の『烈風』カリンそのひとくらいではなかろうか」

 

 ……と。

 

 だが、実はその判断すらも生温かったのだ。何故なら――他の誰も知らない、タバサだけが知っている秘密。それは彼が自身最大の切り札だと語っていた〝場〟(フィールド)の存在。これを使うときが正真正銘、自分の本気なのだと彼は言っていた。

 

 にも関わらず、あの〝術〟を一切見せぬままにハルケギニア最強と称された『烈風』との戦いは両者引き分けという形で終わってしまった。しかも、あの強力な〝治癒〟すら用いずに。これが意味することは、ひとつしか考えられない。

 

 ――彼の実力は、あの『烈風』すら上回っている。

 

 そして。それほどの実力を持つ彼が、ハルケギニアの基準では『ドット』に分類されてしまうという驚愕の事実がタバサを打ちのめしていた。

 

 同時に二十四個もの魔法――公爵夫人とのやりとりから察するに〝(ウインド)〟を唱えるだけで、二十本の鞭と一枚の盾、移動の補佐と、攻撃用の風刃二枚を創り出し、かつ同時に展開する程の知識と実力があるにも関わらず、現在の基準では『おちこぼれ』扱いをされてしまうこの不条理は、一体どうしたことか。

 

 しかし、それ以上に彼女へ衝撃を与えたものがある。タバサは思わず声を上げてしまった。認めざるを得なかったが為に。溢れる感情を止められなかったがゆえに。

 

「悔しかった。どうしてわたしには彼らのような〝力〟が無いんだろう。ふたりの戦いを見て、そう思ってしまった」

 

 ひとりは絵物語や観劇の題材とされ、貴族・平民問わず、大勢の民たちの間で未だ絶大な人気と羨望を集める伝説の騎士。その二つ名に相応しい強烈な風を纏い、最強の名を欲しいままにしたハルケギニア世界が誇る英雄。

 

 もうひとりはいくつもの魔法を同時に展開し、魔法学院の教師たちはおろか、アカデミーの首席研究員すら凌駕する知識を有し、軍を率いて王の隣に立てるほどの頭脳を持ち――さらには三千年という時を越えてなお語り継がれる程の戦果を挙げていたとされる、異世界の英雄。

 

「彼らと同じような〝力〟がわたしにあれば。ううん、せめてタイコーボーがわたしに手を貸してくれさえすれば、今すぐにでも父さまの仇が討てる。そう思ってしまった自分に気が付いて……ぞっとした」

 

 ガリア王宮の醜い権力争いに無関係な彼を、自分の都合で巻き込みたくない。そう考えていたにも関わらず、タバサは無意識にパートナーの〝力〟を欲してしまっていた。そんな自身の無自覚な変転も怖ろしかった。

 

「もしもルイズのお姉さまと、お母さまが気付いて教えてくれなかったら……わたしは、彼こそが本物の天才だと信じ込んでいた」

 

 幼い頃から天性の素質があると誉めそやされ、その〝力〟で生き延びてきた。魔法学院でも、タバサと正面から撃ち合えるのはキュルケだけだった――とはいえ北花壇騎士として身に付けた戦法を用いれば勝てない相手ではない。教師たちですら、これまで死線をくぐり抜けてきたわたしの前に立つことはできないだろう。

 

 心のどこかでそんな風に考えていたタバサの自信と傲慢を、ずたずたに破り捨てたのが太公望という存在だった。指一本どころか、そよ風すら届かず完敗。本物の天才とは彼のようなひとを指すのだろう。そう考えていた。

 

 ところが、カトレアとカリンがそんな『天才』の化けの皮を剥いでしまった。

 

 厳しい制約の下に置かれる、あるいは触媒を用いなければ〝念力〟と〝風〟しか使うことのできないおちこぼれのメイジ。それが『烈風』が見破った彼の正体だ。魔法の才能が無いという彼の言葉は、決して過ぎた謙遜でも、場を誤魔化す嘘などでもなかったのだ。

 

「それなのに彼は自分が『スクウェア』メイジであるかのように振舞い続けていた。本当の〝力〟を誤魔化すために」

 

 タバサの呟きに、キュルケは小さな声で返した。

 

「あれには完璧に騙されちゃったわね」

 

 その言葉に、こくりと頷くタバサ。

 

「もしも、知らないままだったら……わたしは彼の偽りの背中を追い掛けて、途中で潰れてしまっていたかもしれない」

 

「無理もないわよ。陸軍元帥どころか国王陛下の相談役までこなすとか。おまけに魔法の使い方も滅茶苦茶巧かったし。あれで二十七歳とか、傍から見たら化け物としか思えないもの。まあ、実際は七十歳を越えたお爺ちゃんだったわけだけど」

 

「お祖父さまより年上」

 

「王子さまの面倒を見ていたとか、同盟軍の参謀総長に任命されたとか、びっくりするような知識や話術を身につけているとか……やっと理解できたわ。だって彼、わたしたちの何倍も長く生きてるんだから、そのぶん経験もたくさん積んでいるってことでしょう?」

 

 再び頷くタバサ。

 

「それを見破ったカトレアさんも只者じゃないわよね。あのひとがいなかったら、わたしたち、今も騙され続けていたはずだわ」

 

 ため息をつきながら語るキュルケに、タバサは心から同意した。

 

 例の試合後に、タバサたちはルイズから教えられたのだ。

 

「ちい姉さま……じゃなかった。カトレア姉さまはね、昔からああなのよ。ものすごく勘が鋭いっていうか、実は心を読めるんじゃないかって思えるくらいだわ」

 

 タバサは疑うことなくそれを受け入れた。ルイズはそういった類の嘘を言うような人間ではないし、事実カトレアはふたりが異世界から来ていることはおろか、太公望の年齢や経歴をほぼ完璧に言い当てていたからだ。

 

 そんな〝超能力者〟によって暴かれたパートナーの真の姿とは。二十七歳どころか七十を越える老齢のメイジにして、歴戦の勇士。自然のあらゆる法則を学び、人間よりも遥かに強大な〝力〟を持つ妖魔と戦い続けるという、文字通り命がけの試練を潜り抜けることで才能の無さを跳ね返した努力のひとだった。

 

 妖精の〝力〟で若返り、十五~六歳の身体を取り戻しているとはいえ、その経験の量だけでなく修羅場を乗り越えてきた数すらも――ガリアの()に所属してからまだ数年程度の自分など、到底及ぶところではない。彼があそこまで用心深い性格をしている理由についても、タバサはようやく理解できた気がした。

 

「あれはきっと、彼がまだ若かった頃……今ほどの技術が無かった時代に、自分の圧倒的不利を隠すために造り出した仮面(ペルソナ)の一種」

 

 わずか十五歳にしてメイジとして最高位の『スクウェア』へと至ってしまったタバサには到底思い及ばぬ程に苦難に溢れた『道』を、彼は歩んできたのだろう。

 

 そして、タバサの思考は遂にその場所へと辿り着いた。

 

 これまで、タバサはどうしてイザベラからあそこまで苛められるのか、いまいちよくわかっていなかった。

 

「イザベラさまはシャルロットさまに嫉妬しているからあんな酷い扱いをするんだ」

 

 王宮の衛士たちが影で囁いているのを聞いた当時、嫉妬という言葉についてはもちろん知っていた。だからイザベラから嫌がらせを受けるのだということも。

 

(けれど、わたしはその感情がどういうものか、どんな結果をもたらすのかまでは理解できていなかった……)

 

 そんなタバサがあの模擬戦を見て、生まれて初めて己の内に生じたナニカ(・・・)に向き合ったとき……ようやくわかった。焦がれて、苛立たしくて、羨ましく、妬ましい。怒りや憎しみとはまた別の、じりじりと胸を焼き焦がすもの。

 

(憧れと憎悪。相反する思いがどろどろと心の中で渦を巻いて、気が狂いそう。抱え続けるには苦し過ぎて、どうにか外へ吐き出したい。これが嫉妬という感情……)

 

 魔法の才能がないと陰口を叩かれ、従姉妹とさんざん比較され続けてきたイザベラが周囲に当たり散らしていたのも、納得したくないが理解はできる。あれは、この醜い感情の捌け口を求めてのものだったのだ。

 

 イザベラはもちろんのこと『スクウェア』に至った自分ですらこれなのだ、幼い頃からさんざん無能扱いされてきた伯父ジョゼフが才気溢れる弟に向けていた嫉妬の念は、いかほどのものであったのだろう。もっとも、その心情を察することはできても、父を殺され、母を狂わされた事実まで許す気にはなれなかったが。

 

 そんなタバサの独白を聞いたキュルケがぐいと自分の顔を拭うと、口を開いた。

 

「あたしね……もしかすると、見つけたかもしれないわ。自分の『道』を。あたしの中で燻り続けていた、情熱の行き先を」

 

 そう言って、今度はキュルケがタバサの頭を掻き抱いた。

 

「まだ、この気持ちが本物かどうかはわからない。だからね、もう少し見続けてみようと思うの。知ろうとすることの大切さが、あたしにもちょっとだけわかったから。まあ、そうは言っても無理矢理奥まで踏み込んじゃいけないから、慎重に……ね」

 

 キュルケの顔には先程まで浮かんでいた苦悩の色は、もう見られない。

 

「先生のこともびっくりしたけど。ミスタ・タイコーボーの年齢にも驚いたわよね。そうそう、あたしね。ひとつだけ、彼の言動について気が付いたことがあるのよ。タバサはどう?」

 

「タイコーボーについて、気付いたこと……?」

 

 彼の実年齢が最低でも七十を越えていて、かつ百歳以下であるというのはタバサにも把握できている。それ以外に何かあるというのだろうか?

 

 不思議そうな顔をして自分を見つめてくるタバサに、キュルケは面白い玩具を見つけた子猫のような顔をして、こう答えた。

 

「彼が何かについて断言しないときって、ほぼ間違いなくその近辺にとんでもなく大きな隠し事が紛れ込んでいるの。年齢のこともそうだったし、それに……」

 

「それに?」

 

「うふふ。それはタバサが自分で気付かなきゃダ・メ。いいこと? 彼の言葉をよ~っく思い出してごらんなさいな」

 

 キュルケはそう言うと再びタバサを抱き締め、立ち上がり……自分の部屋へと戻った。その道程で彼女がポツリと呟いた言葉は――誰にも届くことはなかった。

 

「彼……結婚してるとか、奥さんがいるとは断言していないのよね」

 

(自分自身に娘と曾孫がいるとも言わなかったわ。あれは婚約の申し出を遮ろうとする言い訳としては、正直なところ、ちょっとばかり迂闊な言動だったんじゃないかしら。絶対にあたし以外にも気付いているひとがいると思うんだけど)

 

 キュルケはあのときの太公望と周囲の言動を思い出し、くすりと微笑んだ。

 

「ミスタ・タイコーボーって、実年齢は高いのかもしれないけれど、男女関係の機微についてはほとんど子供と同じだわ。たぶん、だけれど……修行や仕事で毎日が忙しくて、そっち方面については手をつける暇がなかったんじゃないかしら。そんな彼が、妖精の『祝福』でタバサと同年代の子供にまで戻された。これって、ある意味面白い状況よね」

 

 ……この手の会話に強いキュルケならではの、実に鋭く正確な分析であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――キュルケが用意された自室へ戻ろうとしていたのと、ほぼ同時刻。

 

 三人のうら若き女性が、黒い衣装を身に纏い『白の国』アルビオンの山中を分け入るように進んでいた。

 

「こんな真夜中に山歩きなんかさせちゃって、本当にごめんなさいね」

 

 そう呟いたのは、銀縁の眼鏡をかけた女性だ。深く被ったフードの隙間から理知的な素顔が覗いている。『土くれ』のフーケことマチルダだった。彼女は現在ミス・ロングビルを名乗り、一行の先導をしている。

 

「わたしは雇われの傭兵だ。来いと言われれば、どこへでもついてゆく」

 

 そう呟いたのはマチルダとほぼ同年代と思われる、若い女性だった。短く切った金色の髪と、ややつり目がちな青い瞳が印象的な彼女の腰には一本の剣が差してあった。

 

「わたくしもです。これは正式に請け負った『仕事』なのですから」

 

 そう言って微笑んだ女性は、黒衣の奥に聖職者の装束を身につけている。彼女は『始祖』ブリミルに仕える修道女だった――あくまでも、表向きは。

 

 そんな彼女たちの返答に満足げな笑みを浮かべたマチルダは、再び目的地へ向けて歩き出した。シティ・オブ・サウスゴータと港町ロサイスを結ぶ街道から少し外れ、西の山を分け入った先にある――ウエストウッドと称される、小さな村。そこは彼女にとって第二の故郷であり、大切な者たちを残してきた場所だ。

 

 ――今から半月ほど前。

 

 マチルダが主人から託された荷物たち(・・・・)を無事送り届け、根城へと戻ったその翌日。茶色い羽根のフクロウがなんと全部で十羽も彼女の元へ飛び込んできた。その全てが、以前藁にも縋る思いで託した願いに対する回答であった。

 

 ひとつは『パターン別・要人救助マニュアル』と記された、詳細な救助用の手配についてびっしりと記された文書だった。それは八羽のフクロウの両足に、それぞれ括り付けられていた。

 

 そう。マチルダの妹たちを安全にアルビオンからゲルマニアへ移送するために必要な手配に関する詳細なマニュアルが送られてきたのである。しかも、そこにはミッション開始準備から救助後の移送方法に至るまで、パターン別・しかもフローチャート付きで細かく記載されていた。

 

 さらに残る二羽に託されていたものを見て、マチルダは息を飲んだ。それは、総額二千エキュー相当の宝石に加え、

 

『金額が不足している場合、三千エキューならば即座に送付可能だ。それに加え、最大二万五千エキュー、合計三万までならば何とか用意できる。これは宝石ではなく、手形での発行も可能だ。金が必要になった場合は遠慮せず、早急に連絡されたし』

 

 という但し書きが記されたメモであった。

 

 二千エキューもあれば、首府ヴィンドボナの郊外に庭付きの屋敷が購入できる。それが三万エキューともなれば――小さな城が手に入るほどの大金だ。

 

「まったく、ふざけんじゃないよ! なんだって、こんな……貴族の資格を剥奪されたこそ泥なんかにここまでしてくれるっていうのさ!? そんなに、あの荷物が大切だったってのかい? アハハハハッ、まったく……傑作だよ!」

 

 マチルダは大声で笑いながら、送られてきたマニュアルに目を通そうとした。だが、何故か両目が霞んでしまい、何度眼鏡を外して拭いても、まともに読み進めることができなかった――。

 

 ……それから。マチルダは必要な準備をすべく、まずは最大の問題点の解決に動いた。それは彼女が妹同然に可愛がっている少女が持つ特異性を隠すための行動である。

 

 その少女には、他人には決して知られてはならない秘密があった。それは彼女がハルケギニアの民の天敵エルフの血を半分引く者、つまり『ハーフエルフ』であることだ。

 

 見た目は、ほぼ人間と変わらない。しかしマチルダの妹には、唯一他者と違っている箇所があった。それが耳だ。本物のエルフと比べればずっと短いものの、長く尖ったそれを見られでもしたら即座に人類の敵と見なされ、抹殺の対象とされてしまう。

 

「シャジャルさまもモード大公さまも、とてもお優しくて素敵な方々だったのに……ただ生まれがエルフってだけで殺されるなんて酷過ぎだよ! 王家が寄越した連中のほうが、話に聞くエルフなんかよりもよっぽど悪魔みたいなことをしたじゃないか!」

 

 マチルダの記憶にあるシャジャル――妹の母は、天使のように心清らかな女性だった。時折父に連れられて会いに行ったマチルダを、実の娘のように可愛がってくれていたのだ。

 

 そんな彼女を、王室から派遣された騎士たちは遺体の見分けもつかないほどむごたらしく殺害したのだという。当時父が語ったことによると、

 

「王弟モードの妾がエルフであると知れたら、間違いなく異端審問にかけられる。それも家族――現国王ジェームズ一世陛下を含む王室も宗教庁からの詮議を免れない。だから、シャジャルさまたちをアルビオンから追放するよう、陛下は大公殿下に何度も説得を試みたのだそうだ……」

 

 しかし、モード大公はシャジャルと娘を手放そうとはしなかった。

 

 結果、彼は叛逆者の汚名を着せられ、火刑に処された。さらに、大公親子を庇った者たち全てが断頭台の露と消え――あるいは貴族の地位を剥奪され、故郷を追われた。処刑された者たちの中にはマチルダの両親や親族も含まれている。

 

 シャジャルがあんなふうに始末(・・)されたのも、王家の身内にエルフと通じた者がいたという証拠を抹消するためだったのだろう。

 

 だが――。

 

(あの娘はわたしの妹なんだ。悪いことなんか、何にもしちゃいない。それなのに、あんなふうに一生隠れて過ごさなきゃいけないだなんて……あんまりじゃないか……)

 

 マチルダはエルフの母娘を恨むどころか、屋敷の隅に隠れていた幼い娘を救い出し、これまでずっと自分の妹として可愛がってきた。ハーフエルフの娘もそんなマチルダを本物の姉として心から慕っている。

 

(どうにかしてあの子を外の世界へ連れ出してやりたい……)

 

 マチルダが魔道具の調査を始めたのは、元はといえばそんなささやかな願いが切っ掛けだった。装着者の顔形を変える〝変相〟(フェイス・チェンジ)の効果を持つ道具さえ手に入れば――自分の可愛い妹は、お日様の下で、誰憚ることなく過ごすことができる。当初、彼女はそう考えていたのだ。

 

 だが〝変相〟の魔法はスクウェア・スペル。そう簡単に〝道具〟に込められるようなシロモノではない。トリステイン魔法学院には全身を映すことで一時的に別の者に変身できるという効果を持つ姿鏡があったのだが、大き過ぎて持ち歩くことなどできなかった。

 

 そのうち目的が手段と化し、いつしか『土くれ』のフーケが誕生した。そう――変身のためのアイテム捜索が、家族を養うための方策になってしまったのだ。それはやがて貴族社会への鬱憤を晴らすものへと変化していった。その結果――現在に至る。

 

 つまり、現時点では『土くれ』の情報網をもってしても〝変相〟の効果を持つ魔道具は見つかっていないことになる。たとえどこかにあったとしても、それは相当高位の貴族が極秘裏に使用しているだけに過ぎない、超貴重品だろう。

 

 そこで、マチルダは別の手段を使うため『土くれ』だった頃の伝手を頼ることにした。それによって、即座に動けて口が堅く、かつ〝変相〟の魔法が使える『裏』の人間を確保できた。マチルダは、ここにいちばん金をかけた。そのおかげか『裏』を取り仕切る者も、非常に良い人材を紹介してくれた。

 

 次に大切なのが護衛の選択だ。これについては裏ではなく、表側で人材を捜し、最も信頼の置けそうな者一名を雇い入れた。その人物は平民だが、メイジだけで周囲を固めてしまうと余計な詮索をされる可能性が高くなることと、何より女性であることがマチルダの目に適った。

 

 何故なら、マチルダの妹が女神か妖精かと見紛うばかりに美しいからだ。そんな女性の身柄を、荒事を商売にして生きる男の傭兵に託すというのはできるだけ避けたい。マチルダ自身も相当な美人なのだが、妹はそれを数段上回る美麗さを兼ね添えていたから。

 

 移送用の足や、逃避行の際に利用する宿泊所についての目星もつけた。その後の住処についても用意を済ませた。これらの作業を終え、詳細を連絡するために妹と家族へ向けてフクロウを飛ばしたマチルダは――早速行動に取りかかった。

 

 現在膠着中であるアルビオンの戦争が、いつ激化するか全くわからない。家族たちを脱出させるのは出来うる限り急ぐに越したことはないのだ。

 

 ――そして、現在。

 

 彼女たち『救助チーム』は遂に目的地へと辿り着いた。村はずれにある小さな家の扉を、マチルダが小さくノックする。前もって伝書フクロウに持たせた手紙に書いてあった通りの回数を。

 

 すると、中から同じように扉を叩く音が聞こえてきた。それに被せるように、マチルダが再度ノックをすると、キィ……とごく小さな音を立て、静かに扉が開いた。

 

 中から現れたのは輝く星の河のような金の髪を持つ、美しい少女だった。

 

「お帰りなさい。待っていたわ、姉さん」

 

 三人の女性は周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認すると、即座に家の中に滑り込んだ。そこには十名を越える子供たちが待ち受けていた。全員が背負い袋をかつぎ、目をらんらんと輝かせている。それは、これから行われる『大冒険』について既に知らされている証だ。

 

「全員、揃っているわね?」

 

 そう確認するマチルダに、金の髪の少女が頷いた。その少女は真夜中……しかも部屋の中にいるにも関わらず、頭が半分以上隠れてしまうような帽子を被っていた。

 

「紹介するわ。この子はティファニア」

 

「あ、あの、はじめまして。ど、どうか、よろしくお願いします」

 

 ティファニアと呼ばれた少女はもじもじと恥ずかしげな仕草で、お辞儀をした。どうやら彼女は人見知りをするタイプらしい。マチルダの影に隠れるような位置へ立ち、そっと見知らぬ女性ふたりに視線を投げかけている。彼女こそがマチルダの妹でありエルフの血を引く少女であった。

 

「テファ。彼女たちが手紙に書いておいた護衛よ。ふたりとも相当な腕利きだから安心してちょうだい。時間がないから、手短に自己紹介を頼むわ」

 

 マチルダの言葉にふたりの女性は頷いた。

 

「わたしの名はアニエス。ミス・ロングビルに雇われた傭兵だ。魔法は一切使えないが、剣の腕と……これには少々自信がある」

 

 アニエスと名乗った女性は笑顔でそっと黒装の中に隠されていたものをティファニアに見せた。それは彼女の切り札にして、最高の相棒であるマスケット銃だった。

 

 次いで、もうひとりの女性が名乗りを上げた。

 

「わたくしはリュシー。シスター・リュシーと呼んでください。『スクウェア』スペルを扱えるため、この『仕事』に同行させていただくことになりました」

 

 だが、その名乗りを聞いた途端。ティファニアは「ひうっ……」と何かに酷く怯えたような声を上げ、マチルダの後ろに隠れてしまった。

 

「大丈夫だよ、テファ。彼女はテファを異端審問へかけにきたわけじゃない」

 

 怯えるティファニアを、マチルダは抱き締めて慰めた。そんな彼女に応えるように、シスター・リュシーは静かに頷いた。

 

 だが、その顔には聖職者と呼ぶにはあまりにも不釣り合いな笑みが浮かんでいた。それは例えて言うならば――燃えるために必要な空気を求め、ひたすらに彷徨う炎だろうか。

 

「ええ、あなたの事情は聞いていますよ。怖がる必要などありません。なにしろ、わたくしはブリミル教など欠片も信じてはいないのですから」

 

 そう言うと、リュシーは懐から杖を取り出した。

 

「さあ、もう時間がありません。まずは、あなたの顔を変えさせていただきますね。そのためにこそ、わたくしはここまでやって来たのですから」

 

 シスター・リュシーはティファニアへ向け、ゆっくりとルーンを紡ぎ始めた。それは、もちろん〝変相〟と呼ばれる水と風のスクウェア・スペルであった。呪文が完成すると同時にティファニアの顔と髪の色、そして耳の形は――完全にこれまでとは別人のものへと変化した。

 

 ……こうして。ウエストウッドと呼ばれた小さな村は、この日を最後に誰一人住む者のない廃村と化した。そして、そこにいた最後の住民たちの行方を知る者はごく限られた人物――彼女たちの救出作戦を練った太公望と、その資金を全額捻出したオスマン氏のふたりだけとなった。

 

 これは太公望の仲間を厚遇する姿勢と。オスマン氏による、彼女たちの事情を知るがゆえの深い同情。それらが合致した結果、実現した――総額一万五千エキューもの大金が表と裏で動いた大救出劇である。

 

 だが、そんな救出劇を影から支えた彼らにも、まだ知らされていないことがあった。それは――金色の尾を引く流れ星のように白の国から降りていった少女が持っていたもの――現時点ではまだ明かすことのできない重大な秘密。本人すら知らない運命について。

 

 既に『箒星』の名を冠した桃色の髪の娘と全く同じものを背負ったハーフエルフの少女ティファニアは、ここで一旦舞台裏へと消えてゆくのだが――後に、本来の歴史とは全く違う形で再び表舞台にその姿を現すことになるだろう。

 

○●○●○●○●

 

 ――黄金の流れ星が、無力な幼子たちを抱えて動きだそうとしていたちょうどそのころ。同国内にある『レコン・キスタ』総本部にて。

 

「おおおおお! ミス! ミス・シェフィールド! そ、それはまことかね!?」

 

 司教の衣に身を包んだ痩せぎすの男が、まさしく感に堪えないといった風情で、自分の目の前に立つ女性に向け、喜びの声を――割れんばかりの音量でもって届けていた。

 

「はい、クロムウェル閣下。これがその証文にございます」

 

 シェフィールドと呼ばれた女が、ついと男に一通の便箋を手渡した。彼女は黒い装束を身に纏い、フードを深く被っているため、その顔はおろか表情も伺い知れない。

 

 クロムウェルと呼ばれた司教姿の男は、受け取った便箋に目を通し、歓声を上げた。

 

「トリステインの近衛衛士長が、我が『レコン・キスタ』へ加盟してきたと! かの国へはそれなりの伝手があったとはいえ、あくまであれは裏方。しかし、ワルド子爵は違う! これは女王の喉元に杖を突き付けたに等しいことだ。素晴らしい、実に素晴らしいぞ。さすがはミス・シェフィールドだ!」

 

 クロムウェルは椅子から転げ落ちるようにしてシェフィールドの元へ近寄ると、彼女の手を取った。まるで、貴人に触れるが如く。ところが、フードの女性はそんな彼の態度を窘めるように、静かに首を横に振った。

 

「閣下。あなたはもう、うらぶれた街の小さな酒場で独りくだを巻いているような、ちっぽけな存在などではないのです。聖地を回復するために立ち上がった神の戦士。『レコン・キスタ』の総帥にして、全てを統べる者なのです。その自覚を持って頂かなければ困りますわ」

 

 彼女の言葉にクロムウェルは身体をビクリと反応させ、背筋を伸ばした。

 

「そう……その通りだ、ミス・シェフィールド。忠告感謝する」

 

 クロムウェルの言葉に満足したのか、シェフィールドは満足げな笑みを浮かべた。それは双月に照らされて、怪しげに輝いていた。

 

 ――造られし歴史の舞台は、着々と整いつつあった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――白の国の舞台裏で、黒服の女参謀が微笑みを浮かべてからわずか数分後。ガリアの王都リュティスにある小宮殿プチ・トロワの一画では。

 

「知らないっていうのは本当に怖いことだわぁ~。そうは思わなくって?」

 

「ククッ……あァ、オメーの言うとおりだぜ。ッたく、本当に馬鹿な奴らだ」

 

 自室であり、そうでない場所。亜空間と呼ばれる場所に創られた特別な『部屋』の中。目の前にあるたくさんの『窓』の前で、その『部屋』の創造者である黒装束に身を包んだ少年と、彼のパートナーたる蒼い髪の姫君が、揃って笑い声を上げていた。

 

 現在『窓』の中に映っているのは、とある貴族たちの集まりであった。

 

「こぉ~んな夜中に、わざわざ詰め所の中で集会とか。自分たちが、今ここで密談してますって喧伝しているようなものじゃないのさ!」

 

 そう言って、蒼い髪の姫イザベラが嘲笑すれば。

 

「おまけに見張りすら立ててやがらねぇ。どこまで笑わせてくれるんだかなぁ」

 

 青い肌の少年、王天君がそれに追随する。

 

「どこか別の場所から聞かれてる、見られているだなんて、欠片も疑ってないんでしょうから。なにしろ、自分たちをとぉっても優秀だと信じ込んでいる連中ですものね。みぃんな、魔法がすっごくお上手なお貴族サマですから~。おほ! おほ! おっほっほ!」

 

 現在ふたりの前で繰り広げられている舞台劇。それは『北』と『東薔薇花壇騎士団』のふたつを除く王国騎士団内部に潜む『シャルル派』と称する騎士たちの、今後の指針を決める上での密談であった。

 

 こんな真夜中に、あえてグラン・トロワの内部にある衛士隊の詰め所でそれを行えば、事が表沙汰になることなどないだろう。そんな思惑でもって秘密会議を開いたシャルル派貴族たちだったが……結果はご覧の通りである。このふたりには、そんな計画など筒抜けであった。

 

 現在、彼らが話題にしているのが『異邦人』。タバサの使い魔・太公望のことである。

 

「我らが姫殿下はラ・ヴァリエール公爵家で歓待を受けており、来週からゲルマニアのツェルプストー家へ移動するとのこと」

 

「これらの内容はガリア王家へ、姫殿下ご自身から詳細な日程も含め報告されている」

 

「問題の人物は正式にガリアの〝騎士〟となる際に、配属先となる東薔薇花壇騎士団の団長カステルモール及び北花壇騎士団の長イザベラとの面通しを行うことが決定した」

 

「日時は?」

 

「確定ではないが、姫殿下がゲルマニアからお戻りになった後――来月早々になるだろう」

 

「例の『異邦人』を見極めるならばその時をおいて無いが……」

 

「どこで謁見するのかが問題だ。プチ・トロワならば何名か同志を配属できる」

 

「グラン・トロワだと少々手こずりそうだな」

 

「ふん。『無能』は我々のような優秀なメイジを近付けたくないのだろう。少しでも怪しいそぶりを見せたら、即座に放り出す」

 

 王を嘲笑する声が室内に響き渡る。そんな彼らは、今まさに自分たちが嗤われていることに全く気付いた様子がない。

 

「でだ。『異邦人』が噂通りの浮浪者だったらどうするのだ?」

 

「ああ、それについてなのだが……」

 

 『窓』を眼下に望み、手元の菓子入れをがさがさと漁りながら、王天君は呟いた。

 

「ハハッ、せいぜい頑張んな。こいつらのことだ、どうせ太公望の上っ面だけ見て『人形姫』から『イザベラさま』に乗り換えようってぇ腹づもりなんだろうからよ」

 

 真夜中の会議は、そんな彼の予測通りに進んでゆく。

 

「魔法的に無能なジョゼフ王に仕えるってなぁ癪に障る。だから、ちょびっと魔法が使えて、若ぇから自分たちの言うことをよぉく聞いてくれそうな王女さま(プリンセス)にお仕えする。そんな忠誠に溢れかえりまくった貴族のミナミナサマを、オメーならどう扱う?」

 

 そう言を向けてきた王天君に、イザベラはフンと鼻を鳴らして答えた。

 

「ええ~ッ! わたし、いらないわぁ! あ~んな目が利かないどころか、密談場所の選定すらまともにできない連中なんて。あ、いや、ちょっと待って! ああいうお馬鹿さんたちにしか任せられないようなお仕事を、いかにも重要な任務みたいに見せかけて、放り投げてあげればいいのかしらッ? たとえば、最近発生してる新教徒による爆破予告関連の一斉捜査とか?」

 

 イザベラの返事を受けた王天君は、ゲラゲラと大きな笑い声を上げた。

 

「おいおい、軍施設への爆破予告が重要じゃねぇとか! 仮にも一国のお姫さまが言うことじゃねぇだろうが?」

 

「だってぇ! 犯人のことなんて、とっくの昔にわかってるんですもの。だからって、捜査をさせなかったら王家の看板に傷が付くわ。仕方がないから、彼らに任せてあげようっていうのよ? わたしって本ッ当に優しい王女だわ。そうは思わなくって?」

 

 新教徒による爆破予告。これは父王ジョゼフに許可を得た上で、イザベラ自身が仕掛けたガス抜きなのだ。現在の王室に不満を持つ者や、抑圧されている新教徒たちの鬱憤を晴らすために、自前の工作員を使ってそれらしい動きをさせているに過ぎない。

 

 実際に、いくつかの家屋や軍施設を爆破してみたりもしているのだが、これらは全て、近日中に廃棄予定の国営施設に限定されており、かつ、そこから出た怪我人とおぼしき者たちは皆イザベラ配下の工作員。そう、つまり……これは完全な自作自演(マッチポンプ)。この『作られた混乱』を見せることによって本物の内乱を抑えるという、一種の荒技だ。

 

 さらに。もしも工作員に接触してくる者がいた場合、それはそれで別組織の動きを掴む機会を得ることが可能になると。一粒で二度美味しい策なのである。

 

「昔のわたしは、ここにいるのが嫌で堪らなかった。日が差さない裏側。眩しい表舞台になど絶対に出られない、影たる自分が。でも、最近()も悪くないんじゃないか、そう思えてきたんだ」

 

「住めば都って言うからな。本気でやってみると、案外面白ぇもんだろ?」

 

「ええ。あなたが教えてくれなかったら、気が付かなかったかもしれないわ」

 

 この『窓』の中にいる、わたしの〝魔法〟しか見ていない愚かな連中とあなたは根本から違う。そう独りごちたイザベラへ、王天君は満足げな笑みを返した。

 

「それにしても……あの連中! あなたの弟を『いらない』とか、よく言えるわよね。知らないって本当に怖いことだわぁ。巧くやれば、素晴らしい逸材が手に入る機会だっていうのにね!」

 

 イザベラはラグドリアン湖で太公望が発生させた大竜巻を目にしていた。にも関わらず、彼女はその〝力〟について、父王には一切報告をしていなかった。それは王天君に対する遠慮もあったのだが、それ以上に――とある考えを持っていたからである。

 

 そんなイザベラの考えを読んでいたかのように、王天君が忠告する。

 

「なあイザベラよぉ。間違っても太公望を言いくるめようだなんて思うなよ? いくらオメーにそっち方面のセンスがあるっつっても、ヤツに対抗するのはまぁだ早すぎるぜ? まぁ、んなこたぁオレが言うまでもなくわかってると思うけどよ」

 

「忠告ありがと。わたしも、そこまで思い上がってなんかいないわ。なにせ初対面の時、完ッ璧に騙されちゃったんだから! オーテンクンがここへ来てくれなかったら、今も騙され続けていたはずよ。でもね、だからこそ……やりようがあると思うの」

 

 そう言ってニッと笑ったイザベラに、王天君は実に小憎らしい笑顔でもって応えた。

 

 ――時はひとりの無知な少女を、知る大人へと変貌させつつあった。

 

 

 




各勢力同時進行。
こんな感じであちこち動き始めています。


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第56話 雪風と人形、夢幻の中で邂逅するの事

 ――一週間に渡るラ・ヴァリエール公爵家での歓待が終了したその日。

 

 公爵家から借り受けた風竜の背に乗り――フォン・ツェルプストー家との関係や国境警備上の都合により竜籠を出せないことを詫びる公爵に過分の気遣いに対する感謝の言葉を述べたタバサたち一行は、一路帝政ゲルマニアの地へと向け飛び立とうとしていた。

 

「ゲルマニアかあ。トリステインとは違う国なんだろ?」

 

 彼らに同行するコルベールをうらやましげに見遣る才人。

 

「いいなあ、おれもついていきたいなあ……」

 

 これまで外国旅行の経験などなかった彼は、見知らぬ異国に興味津々といった様子だ。

 

「おぬしはルイズの護衛としてここに残るよう、伝えておったはずだがのう?」

 

「なら、ルイズも俺と一緒に連れてってくれればいいじゃんか!」

 

 言い合うふたりの側に、すすすっとキュルケが近付いてきた。彼女は才人の耳元に顔を近付けると、彼にしか聞こえない程小さな声で囁く。

 

「あなた、ルイズとふたりっきりになれるチャンスをふいにするわけ?」

 

「ハッ! 護衛の職務を全うするであります!」

 

 顔を真っ赤にしながらビシリと敬礼のポーズで直立する才人。キュルケによくやったと言わんばかりにグッと親指を立てて見せる太公望。

 

「ゲルマニアへの道中、くれぐれも気をつけるのじゃぞ」

 

 そう言ってタバサたちを見送るオールド・オスマンは、この後ラ・ヴァリエール公爵と国の教育機関に関する重要な話があるとのことで、あと1週間ほど逗留することが決まっていた。

 

「もしも夏休み中に次の冒険が決まったら、必ず連絡をくれたまえよ」

 

「あ! その時は是非ぼくも参加させて欲しいな」

 

「わたしも! 実家にいるから声をかけてね。絶対よ!」

 

 ギーシュ・レイナール・モンモランシーの三名は、夏休み中はそれぞれ実家へ戻ることになっている。公爵家から沢山の土産を持たされた彼らは、この歓待期間中の話題も含め、しばらくの間家族との会話に困ることはないだろう。

 

「ゲルマニアでの御用がお済みになられたら、是非また当家へお越し下さい」

 

『体調を万全にした上で、かつ最高の状態であの戦いの続きを……!』

 

「あら、母さま。そう何度も我が家へ長逗留をしていただくわけにはいきませんわ。皆さまには他にも大切な御用がおありになるんですから」

 

 カリーヌ夫人は太公望へ再会という名の次回挑戦状を叩き付けようとしていたものの、その行動を完全に見抜いて――もとい『掴み取って』いたカトレアによって阻止されていた。若き頃と変わらず、彼女は本当に懲りていないのであった。

 

 ……そのせいで、ラ・ヴァリエール公爵が常に懐に忍び込ませている薬瓶の数が増えたのは、公爵本人だけが知る秘密だ。

 

 いっぽう、今回の歓待総指揮を務めたエレオノールは妹に心の中で喝采を浴びせつつ、さりげなく太公望と再び談話を行う機会の取り付けに成功していた。タバサたち主従がトリステイン王立図書館への外国人立ち入り許可証を得るための手助けをするという理由(・・)を持ちかけることで。

 

「それでは、ミス・タバサ。来月末にトリスタニアでお会いしましょう」

 

「ご配慮、痛み入ります」

 

 感謝の意を述べるタバサ。大の読書好きである彼女にとって、トリステインの王立図書館に立ち入り可能になるというのは本当に喜ばしいことなのである。

 

 太公望にとっても、この許可証取得に関する助力の申し出は、情報取得の範囲がさらに広がるという意味で本当に有り難かった。よって、彼はエレオノール女史へ心からの礼を返した。

 

 なお、そのエレオノールが、内心で「計画通り!」などと叫び声を上げながら両拳を握り締めていることは、彼女の妹であるカトレアしか知らない極秘事項である。

 

 そう、エレオノールは――この歓待期間中に、完全に恋をしてしまっていたのだ。科学という名の、異国よりもたらされた学問に。よって、それを知る太公望と会話する機会をできるだけ多く持ちたい。彼女がそう考えるのは、自明の理であった。

 

 そんなエレオノールの行動を、本人とカトレア、そして太公望を除く周囲が、全く別の意味に捉えてしまい――渦中の者たちにとって、いろいろと面倒な騒動が持ち上がってくるのだが、この時はまだ、そのようなことは誰も……想像だにしていなかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その翌日、アンスールの月第三週・ユルの曜日。

 

 帝政ゲルマニア――トリステインとの国境沿いにあるフォン・ツェルプストー家領内の屋敷に、ベッドの上で静かな寝息を立てているひとりの女性がいた。

 

 彼女の名はオルレアン公夫人。タバサの母親である。出所不明の魔法薬を飲まされ、強制的に心を狂わされてしまった彼女は現在〝眠りの雲(スリープ・クラウド)〟の効果によって深い眠りに落ちていた。

 

 ベッドのすぐ側に置かれたふたつの椅子にはタバサの〝遍在〟とオルレアン公家の忠実な従僕ペルスランが腰掛け、患者と――治療のために夫人の〝夢〟の中へと旅立っていった者たちが眠りから覚めるのをただ静かに……祈るような面持ちで見守っている。

 

 そして、オルレアン公夫人の〝夢の世界〟の内部に構築された『伏羲の部屋』では、大公夫人の治療方針とその理由について、詳細な医療説明会議(カンファレンス)が開催されていた。

 

 一人掛けのソファーに腰掛けた伏羲――現在は太公望からこの姿になっている為、本章においては以後こちらの名前で記述する――が、正面に展開した大きな『窓』を参加者たちに見せながら、患者の状態について詳しく解説している。

 

 現在『窓』に映し出されているのは、(つた)状の何かによって固く封印を施された両開きの扉の前に、同じくそこから細かく枝分かれした(つる)のようなもので全身をくまなく、がっちりと括り付けられている中年女性の姿であった。

 

「なるほど。たしかにこれは火系統の者にしかできない仕事ですな」

 

 最初にこの患者の〝解呪〟に関する簡単な説明を受けたコルベールは、その時点でどうして火系統である自分が〝治療〟という本来水メイジの独壇場に呼ばれたのかを即座に理解した。だが、同じ火の使い手たるキュルケはいまいちその理由に納得がいっていなかった。

 

「〝火の刃(ブレイド)〟で焼き切る必要があるというのは、どうしてですの?」

 

 そんな彼女の疑問に答えたのは、太公望ではなくコルベールだ。

 

「治療施設が整っていない場所で早急に止血が必要となったときに、応急処置として〝火刃〟を使うことがあるんだ。これは切断面を火で焼くことによって血管の断面を塞ぎ、それ以上の出血を防ぐ効果が見込めるからなのです」

 

 そういうことですよね? そう確認を取ってきたコルベールに伏羲は頷いた。

 

「この(つた)が奥方の魂魄(こんぱく)を絡め取り、彼女に繰り返す悪夢を見せ続け、偽りの記憶の中に縛り付ける元凶――いわば鎖のようなものだ。一見すると、この蔦だけを取り除いてしまえば良いように思えるであろう? ところがだ……!」

 

 そう言って伏羲が『打神鞭』を一振りすると――患者の身体の一部が大写しになった。

 

「……ッ!」

 

「なに、これ……!」

 

 それを見た参加者全員が息を飲んだ。何故なら、その蔦はタバサの母親を縛り付けているのみならず、体内に深く食い込んでいたからだ。

 

「この薬の性質の悪さはここにある。魂魄――患者の本質を構成するモノの奥深くに食い込んで、その記憶を利用することにより、精神を狂わせながらも生命活動には一切の影響を及ぼさぬように工夫されておる。つまり、彼女をあえて生かさず殺さずの状態に保ち続けておるのだ」

 

「普通の〝解除薬〟で治すことができなかったのは、このせいなの?」

 

 タバサの問いに、伏羲は首を縦に振った。

 

「この蔦を枯らす効果を持つ〝除草薬〟ならばともかく、これだけ複雑に絡みついているものを、通常の手段で解きほぐすのは無理であろう。一応、こういったモノを一気に〝解除〟する術もあるのだが……今回の症状に対しては、正直危なすぎて使えないのだ」

 

「差し支えなければ、その理由を教えていただいてもよろしいですかな?」

 

 眼鏡の位置を直しつつ質問を飛ばしてきたコルベールに、伏羲は頷いた。

 

「コルベール殿の疑問はもっともだ。実はその〝術〟で強制的に蔦を解除してしまうとだな……奥方の身体を魔法薬を飲む前の状態にまで完全に回復(・・・・・)してしまうのだ。ようは、薬を飲まされる直前の状況まで奥方の記憶と心を含め、全て元通りの場面に巻き戻してしまうのだよ」

 

 それを聞いたタバサの顔から、ざあっと血の気が引いた。あの日――自分の身代わりとなって、ワイングラスの『毒』をあおり、宮殿の床へ倒れ込んだ母親の姿は、今でも彼女の脳裏に強く焼き付いていたからだ。

 

 そんなタバサの様子を見たキュルケは、どうして彼の技術で〝解呪〟してはいけないのか、即座に悟った。

 

「なるほどね。その時の恐怖とか思い出が一気に蘇ることによって、タバサのお母さまの心を根本から破壊してしまうかもしれない。だから危なくて使えないってことでいいのかしら?」

 

「そういうことだ。心というものは非常に繊細なものだからのう」

 

 キュルケの解答に頷きつつ、伏羲は先を続けた。

 

「さらに言うとだな、あの蔦は、まるで血管のように奥方の記憶を『扉』の奥深くまで流し、巡らせている。よって、焼き塞ぐ効果を持つ火系統以外の〝刃〟で無理矢理切断してしまうと、その切り口から奥方の持つ記憶が大量に外に漏れ出してしまい……これまた心を破壊してしまう危険性があるのだ」

 

 汎用魔法(コモン・マジック)(ブレイド)〟は使用者の系統によって、刀身に纏う基本属性が変わる。あえて属性を纏わせずに〝力の刃(フォース・ブレイド)〟だけにしたり、状況に応じて使い分ける者もいるが、基本は自分に合った〝刃〟をそのまま出すほうが〝精神力〟の消耗を抑えられるのだ。

 

 そういう意味ではルイズに〝刃〟の魔法を使わせることによって、彼女の系統を完全に絞れたかもしれないのだが……失敗による爆発の危険があることと、〝虚無の刃〟が一体どんなものであるのか全く不明であった為、オスマン氏との話し合いの結果、ルイズに〝刃〟の魔法を使わせるのは禁止したという裏事情がある。

 

「かといって普通の小刀を持ち込んで、熱して使うというわけにもいかぬ。この大事に慣れない道具を用いるのは危険であるし、なによりここは心象世界だ。手に持っている、それが可能だといったようなイメージを強く描き出す能力こそが最も重要だからのう」

 

 ここまで語った伏羲は、ふうっと大きなため息を吐いた。

 

(本来であればデルフリンガーを持つ才人にも同行してもらいたかったのだが……)

 

 〝夢〟の世界は強いイメージを具現化する〝場〟でもある。よって、心の弱い者が下手に関わろうとすると、最悪の場合――心や記憶だけではなく、魂魄ごと破壊されてしまう。

 

 そのため、現在参加している者たちやデルフリンガーはまだしも、この壊れかけた夢の世界に精神的逆境に弱い才人を連れてくることに危険を感じてしまったのだ。

 

「よって、この切り離し作業に関しては優秀な火系統の使い手であるコルベール殿とキュルケのふたりに頼みたいのだ。事ここに至るまで詳しい事情を説明できず、大変申し訳なかった」

 

 そう言って頭を下げた伏羲に対し、コルベールとキュルケは気にするなといわんばかりの笑顔を見せ……強く頷いた。

 

「わたしは何をすればいい?」

 

 母を助けるために何かがしたい。そんな切なる思いが込められたタバサの声に、伏羲は真剣な顔で答えた。

 

「わしは彼ら蔦を切る順番や切り取り方を詳しく伝える指示役に回らねばならぬので、タバサはふたりが効率よく切断作業ができるよう、彼らの側について補佐してやってほしい。かなり根気の要る作業なので、手伝ってくれる者が絶対に必要なのだ」

 

「わかった」

 

 それから、伏羲は再び手元の『窓』を見た。そこには、以前の診察時に記録したデータが保存されている。それを現在映し出されている画像と重ねると――あきらかに蔦の本数が増えているのが見て取れた。

 

「この蔦は奥方の記憶を象徴するものなのだ。よって、新しい記憶が増えれば増えるだけ、蔦の本数も増えてゆく。できれば今日中に全て魂魄から切り離したい」

 

 伏羲の言葉に全員が頷いた。

 

「それと……これは今ここにいる者たちならば、既に充分承知しておることとは思うが、念のため言っておく。治療中、あるいは治療前になんらかの妨害が入る可能性が高い。ここは〝夢〟という他者が支配する〝場〟だ。何が起こっても不思議ではないので、決して警戒を怠らぬよう頼む」

 

 そう告げた伏羲の言葉へ、コルベールがさらに補足すべく口を開いた。

 

「むしろ、絶対に妨害が入る。そのぐらいの心づもりで事に当たったほうがよいでしょう」

 

 頼もしい先達の言葉に、女子生徒ふたりも了解したとばかりに首を縦に振る。

 

「あの扉の奥については、開けてみるまで何があるかわからぬ。だが、間違いなく魔法薬の根幹となっているモノが居座っておることは確かであろう。よいか、最後まで決して油断することのないよう常に周囲を警戒の上、行動するのだ。また、何らかの異常を発見した場合はすぐにわしへ知らせるのだぞ」

 

 伏羲の号令に全員が了承の意を表明し――彼らは患者の処へ向かった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから数分後。

 

 幸いなことに、タバサの母が捕らわれている場所まで何事もなく到達することができた。伏羲は手元にいくつかの『窓』を展開すると、コルベールとキュルケのふたりに早速指示を与える。

 

 もしもこの場面を才人が見ていたら。

 

「医療ドラマに出てくる主治医の先生と執刀医みたいだ」

 

 そう評したかもしれない。

 

 実際彼らが行っている治療は心臓外科手術のようであった。魂魄を傷付けないよう、杖の先に極細の〝炎刃〟を出現させて、患部を慎重に切り進めるコルベールが執刀医である。

 

「ミス・ツェルプストー。右後方部位の蔦の細部切り離しが完了した。同箇所残りの範囲については君の〝炎〟で焼いてくれたまえ。くれぐれも慎重に」

 

「承知しました、ミスタ・コルベール」

 

 そんな彼に付き従うように作業を進めているキュルケが、執刀助手たる存在だ。

 

「コルベール殿。次は、その隣の蔦を切り離してくれ」

 

「今、ミスタが指差している、この蔦ですな?」

 

「そうだ。食い込みが先程の箇所より酷い。難しい箇所だが、やれそうか?」

 

「任せてください。こういう細かい作業は得意中の得意ですからな」

 

 手元の『モニター兼拡大鏡』を見ながら彼らに指示を飛ばす伏羲が、主治医兼指導医だ。

 

 いっぽうタバサはというと。彼らが切り離した蔦を部屋の隅に片付けつつ、周囲の警戒を行っていたのだが……少々手持ち無沙汰になっていたことは否めない。〝遍在〟が出せるぶん、余計にそう感じてしまうのだろう。

 

(他にも、わたしにできることはない?)

 

 そう考えたタバサは周囲警戒の手を緩めることなく、作業を行っているコルベールたちを詳細に観察した。彼らは非常に細かい手業を要求される上に、長時間ずっと火を使っているせいか、全身がぐっしょりと汗に濡れている。

 

「タイコーボー」

 

「どうした?」

 

「ふたりの身体を魔法で冷やしてあげてもいい?」

 

 そのタバサの申し出に、伏羲はもちろんのことコルベールとキュルケも破顔した。

 

「もちろんだ。ただし、彼らの手元を狂わせないよう、そっとだぞ」

 

「わかった」

 

 その声と共に、執刀医たちの元へ冷たい風がぶわっと吹き込んだ。小さな雪粒が混じった空気が、彼らの火照った身体を適度に冷やしてゆく。

 

「おおっ、これは素晴らしい!」

 

「すっごく涼しいわ! ありがと、タバサ」

 

 ふたりから飛んできた感謝の声に、タバサはぽつりと……喜びの感情を込めて呟いた。

 

「これが、いちばん効率がいいから」

 

 涼しい風に煽られ作業ははかどった。特にコルベールの〝炎刃〟が冴え渡ってきた。火を実戦で扱うための勘が戻ってきたこともあるのだろう。だが、それ以上に。

 

「私の〝火〟に、こんな使い道があるとは! やはり、オールド・オスマンが指し示してくれた『道』は正しかった。そして、ミスタの『切り開く』という言葉も」

 

 このような変則的な使い方をする機会など、変わり映えのしない日常生活の中ではまずありえないことだろう。だが、それでも。再び〝火〟の担い手として立ち上がったばかりの『炎蛇』コルベールの背中を押す〝力〟となるには、充分であった。

 

「壊すことしかできなかった私の〝火〟が、まさかこんな風に……ひとを癒やすための役に立てるとは、思わなかった!」

 

 『蔦』を焼き切るたびに、患者の顔色が目に見えて良くなっていくのだ。もっと早く、このひとを助け出してやりたい。コルベールの手技は、さらに鋭く輝きを放ち始めた。

 

「あたしも、ずっと火は破壊と情熱の象徴だと信じていましたわ。でも、使い方次第でこんなふうにひとを助けることもできるんだって、知ることができました」

 

 キュルケの言葉にコルベールは実に嬉しそうな声で同意した。そんな彼の貌からは、以前垣間見えた暗い影は跡形もなく消え失せている。

 

「そうだな、ミス・ツェルプストー。きみの言う通りだ。だから、私はもっと学び続けようと思う。火には破壊以外にも多くの可能性が詰まっていることが改めて証明されたのだから」

 

「ええ。あたしも、これからはもっと真面目に授業を受けようと思います。先生に教えていただきたいこともたくさんありますし」

 

「そうか、そうかッ! きみの学問に対する情熱に〝火〟がついたのだね。実に素晴らしいことだ! 私が知っていることでよければ、いつでも教えてあげよう。熱心な生徒は大歓迎だよ!」

 

 コルベールの答えに、キュルケは妖艶かつ意味ありげな笑みを向けた。それを見たタバサは親友の心に別の〝火〟が灯ったことを察したのだが……小さく微笑んだだけで、何も言うことはなかった。

 

 ……いっぽう『炎の女王』に目を付けられたコルベールのほうはというと。

 

 そんな彼女たちの心の移り変わりには一切気付かず、『夢』へ持ち込んでいたスペア――2本目の杖を併用し、なんと二刀流で〝炎刃〟を扱い始めた。

 

 その杖捌き……もとい〝炎刃〟捌きは、まるで舞踏の名人が行う、煌びやかな剣舞のようであった。もともと、繊細な手業を要求される各種科学実験を、それこそ毎日のように繰り返していた『発明家』コルベールにとって、こういった細かい作業は、まさしく独壇場だといっても差し支えないだろう。

 

 水を得た魚……もとい酸素を得た炎の如く、彼の手とその指先は文字通り踊り狂った。指示をする伏羲など、それを見て、

 

「ぬおおおッ! 回転が早すぎて、次の径路指定が追いつかぬわッ! これでは『炎蛇』ではなく『炎刃(えんじん)』のコルベールではないかッ!」

 

 などと慌てふためきながらモニタと格闘している程だ。

 

 それから。

 

 ごく稀に、極限の集中による疲れからキュルケの手元が狂いそうになることもあったが、その度に他の全員がフォローに周り、結果――八時間ほどで魂魄の切り離し手術は無事成功した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ……そして。

 

「皆の者、ご苦労であった。これにて魂魄の摘出作業は完了だ。夫人の魂魄が癒着――つまり、再び扉に繋がれることのないよう、いったん『わしの部屋』へ移送の上、保護する」

 

 長時間に渡る作業のため疲れ切った――だが、達成感に溢れた治療チーム全員の顔を見渡しながらそう宣言した伏羲が、切り離したオルレアン公夫人の魂魄を『自分の部屋』へ運ぼうとした途端。突如オルレアン公夫人の側に現れた闖入者によって、行動を遮られてしまった。

 

 その闖入者は――ふたつの〝光〟であった。

 

 片方は、夫人の魂魄、その手元から飛び出した……冷たく青い〝光〟。

 

 もう片方は、切り離して隅に片付けておいた蔦の中から現れた暖かい〝光〟。

 

 それらはいつしか人間の姿に変わり――ふたりの小さな少女となった。

 

 ひとりは赤い上衣と純白の乗馬ズボンを身につけた、十一~十二歳程度の幼い娘。短く切り揃えた蒼い髪と凍り付いた湖の如き色の瞳から、真冬の冷気のように刺し込んでくる視線を侵入者たちに向けてきた。

 

 もうひとりは傍らの少女とは真逆。真っ白な上衣を纏い、深紅の乗馬ズボンを履き、腰まで届く蒼い髪を揺らしている。だが、その目に宿る光は純真無垢といって差し支えない輝きだ。こちらは思いも寄らぬ来客に好奇心を抑えきれないといった風情で、オルレアン公夫人の側にちょこんと座り込んでいる。

 

 ふたりの少女のうちのひとりが夫人の上に覆い被さるようにして、伏羲たち全員が近寄ろうとするのを遮った。

 

「このひとをつれていかないで! いじめないで!」

 

 全身に冷気を纏う少女が大声で叫ぶと、先程まで陽光のような笑顔を振りまいていた娘が顔を曇らせた。だが、その口が開かれることはなかった。その代わりに小さく首を傾げ、隣にいる少女を見つめる。

 

「このひとたちは、きっとおかあさまをいじめにきたのよ」

 

 真冬の少女がそう言うと、陽光のような笑みを浮かべていた白衣の少女も一緒になって伏羲たち一行を睨み付けてきた。改めてよく見てみると、ふたりの顔はそっくりだった。もしかすると双子の姉妹なのかもしれない。

 

 思いも寄らぬ闖入者に、さすがの伏羲も困惑した。彼女たちから悪意の類は一切感じられない。かといって、この〝場〟を支配する『空間使い』というわけでもなさそうだ。それに……この少女たちの顔には見覚えがあった。それもそのはず。

 

「この子たち、ひょっとして……小さい頃のタバサ?」

 

 キュルケの声に、全員が改めて少女たちの顔を見た。確かにタバサの姉妹――いや、本人そのものと言えるくらい彼女たちはよく似ていた。眼鏡をかけさせて横一列に並べたら、間違いなくタバサの血縁者と判断されるであろう。

 

「なるほど、この娘たちは奥方の『過ぎ去りし記憶の欠片』であるのか? いや、ちょっと違うな。これはひょっとすると……?」

 

 闖入者を分析していた伏羲の横から一歩前へと進み出た者がいた。それはタバサであった。

 

「だめッ! つれていっちゃだめ!」

 

 ふたつの瞳に涙をいっぱいに溜めた『冬風』の少女は大声で叫んだ。『陽光』の少女も、声こそ上げないものの、全身を震わせながら、ついには夫人を庇うように身体を投げ出した。いや、実際庇っているのであろう。

 

 タバサはもちろんその少女たちの姿を見知っていた。いや――ある程度、感覚と過去の記憶によって理解をしていたといったほうが正しいだろう。だから、タバサは伏羲たちを静かに制すると一歩前へ進み、ふたりに声をかけた。

 

「そこをどいて、シャルロット。わたしたちは母さまを助けに来たの」

 

 その名前を聞いた少女たちは目を大きく見開くと、口を開いた。

 

「あなたのおなまえは?」

 

「タバサ」

 

「うそ。だって、それはわたしの……ほんとうのなまえなのよ?」

 

 今度はそれを耳にしたタバサの両目が見開かれた。

 

(この子たちは……なるほど、そういうこと)

 

 母の魂を守ろうとしている者たちの正体に気が付いたタバサは、振り返って視線で仲間たちを制すると――改めて少女たちへと向き直り、ふたりに聞かせるに相応しい回答を提示した。

 

「知ってる。わたしたちは名前を取り替えっこしたから」

 

「じゃあ、あなたはほんとうのシャルロットなの?」

 

「そう」

 

(人形には、本当に魂が宿るのだ)

 

 ――タバサは心の内で呟いた。

 

 かつて、太公望と共に任務で訪れたガリアの山村アンブラン。そこは人形たちの住まう巨大な箱庭だった。村を出るとき、パートナーが呟いた言葉。

 

「あそこに宿る魂魄は、全て本物であったよ――」

 

 その台詞が鮮やかにタバサの脳裏へと蘇る。

 

 魔法薬によって狂わされた母が、自分の娘だと思い込んで守り続けた者。今、タバサの目の前にいるのは……彼女が、かつて自分の本当の名前を託した相手。フェルト生地で造られた、手のひらほどの小さな人形――その魂なのだ。

 

「ありがとう。あなたは、ずっとこうして母さまを守ってくれていたのね」

 

 今から三年ほど前――当時まだ『ドット』メイジだったシャルロットに下った討伐任務。それは実質処刑宣告に等しいほど厳しく、険しいものだった。だが、その逆境を跳ね返したことが、

 

「これはみんな夢。父さまが死んでしまったのも、優しかった伯父さまがあんなに怖い顔をしていたのも、母さまがおかしくなってしまったのも……全部夢なんだ。目が覚めたら、きっとみんな元通りになるはず……」

 

 そんなふうに現実逃避することしかできなかった少女に『雪風』を纏わせた。

 

 イザベラから〝騎士〟の地位を与えられた当時を思い出す。

 

「おまえは今日からわたしの召使いになるんだ。何か肩書きがなくちゃ、王家の仕事を任せられないからね」

 

 放って寄越された羊皮紙は『北花壇警護騎士団(ノールパルテル)』への所属と〝騎士〟(シュヴァリエ)の任命書だった。

 

「ああ、そうそう。大切なことを言い忘れていたよ。おまえは今日からシャルロットって名を捨てるんだ。なんたって、もう王族じゃないんだからね。けど、慈悲深いわたしは好きな名前を選ぶことを許してあげる。さあ、今すぐ決めるんだよ!」

 

 彼女は狂わされた母が掻き抱いていた人形の名を名乗ろうと決めた。何故なら、母はその人形を自分だと信じて疑わず、ひたすらに守ろうとしてくれていたから。自分の心はあの人形と共に在るのだ。そう思い込むことによって、全ての感情を――己の内側に封印することを決意した。

 

「王族を待たせるなんて、いい度胸じゃないか。さあ、はやく言いな!」

 

 少女は静かに目を閉じると、がなり立てている従姉妹に新たな名を告げた。

 

「タバサ」

 

 ――こうして。大公姫の地位だけでなく、真の名をも剥奪された十二歳の少女は……感情のない『人形姫』タバサになった。過去の幸福な思い出を、自分の本当の名前と共に全て――その小さな人形『シャルロット』に託して。

 

(『シャルロット』はあのときわたしが願った通り、母さまの側にいてくれたのね)

 

 封印した過去を思い出したタバサの瞳から、一筋の涙が零れて落ちた。

 

 そんなタバサの姿に驚いたのであろうシャルロット(・・・・・・)ともうひとりの少女は、立ち上がってととと……と小走りに彼女の元へ走り寄り、顔を覗き込むと着ていた服の袖でタバサの涙を拭いた。

 

「なかないで。ねえ、ほんとうに? あなたはほんとうのシャルロットなの?」

 

「どうすれば信じてもらえる?」

 

 その問いに冬風の少女――小さな人形の魂は質問を返すことによって答えた。

 

「わたしは、なあに?」

 

「母さまが買ってくれた、可愛いフェルトのお人形」

 

「つぎのしつもん。わたしのからだは、いまどこにいるの?」

 

「オルレアン公領のお屋敷。『新しい母さま』を守ってくれている」

 

「さいごのしつもん。ほんとうに、おかあさまをたすけてくれる?」

 

「絶対に救い出す」

 

 その答えに『シャルロット』は心から満足げな微笑みを浮かべ、立ち上がった。

 

「なら、わたしはタバサのなかにもどる。あなたも、シャルロットにもどるのよ」

 

 そう呟いた『人形』はタバサの元へ駆け寄ると、その胸目掛けて飛び込んできた。少女の柔らかな身体をしっかりと受け止めたタバサは、そのままぎゅっと抱き締めた。

 

 すると――『人形』の魂は再び笑顔を見せた。晴れ渡った青空のような笑みを浮かべた少女はきらきらと輝き始め――やがて、光の粒になってしまった。

 

 そのうちの半分がタバサの身体へ染み込むように消えてゆき――残りの半分は遙か天上へと飛び去っていった。その去りゆく姿は、夜空で尾を引く流れ星のようであった。

 

「ありがとう……タバサ」

 

 自分の中に『感情』を戻し、オルレアン公家の屋敷に在る『本体』に戻ってゆく人形に、タバサ――遂に『シャルロット姫』としての心を取り戻した少女は、静かに礼の言葉を述べた。

 

 そして。残るもうひとりの少女はそんなふたりを寂しげに見つめると、こう呟いた。

 

「おねえさま、わたしからもおねがい。おかあさまをたすけてあげて」

 

 その言葉にタバサは驚いた。この少女は自分自身――かつて捨て去った、シャルロット姫としての記憶の残滓だと思い込んでいたからだ。しかし、彼女は確かに自分をこう呼んだ。

 

「おねえさま」

 

 ……と。

 

「あなたは、誰?」

 

 震える声で問うたタバサへ、陽光の少女は悲しげな眼差しを向けると……再び暖かな光となり、オルレアン公夫人の中へと消えていった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから約一時間後。

 

 蔦を切り離した扉から薬効が漏れ出さぬよう厳重な封印を施した後に、改めてタバサの母親の魂魄を『自分の部屋』に用意したベッドへと寝かせた伏羲は外で待っているペルスランに〝遍在〟を通して治療状況の報告をするようタバサへ告げると、残りの二名に睡眠を取らせた。

 

「夢の中で眠るだなんて、なんだか変な気分だわ」

 

 などと言っていたキュルケだったが、参加者全員の中で最も早く眠りに落ちた。部屋に戻った当初は新たに提供されたベッドその他に興味津々といった風情であったコルベールも、さすがに疲れには勝てなかったのであろう。自分用に用意された寝床に入って早々に寝息を立て始めた。

 

 そしてタバサの治療経過報告が済んだ後、念のため、先程の少女ふたりに関する最終確認を行うことにした。扉を開けた後、同じような乱入者に作業を妨害されては非常に面倒だからである。たとえ敵対の意志がないにしても……だ。

 

「片方の娘は間違いなく例の『人形のタバサ』に宿った魂魄の片割れであった。おそらくだが、タバサが自分の心と感情を封印しようと決意したとき、その強い〝意志〟によって、魂魄の一部が新たな魂となって人形に乗り移ったのであろう」

 

(もしやすると、この世界の人間はわしや『道標』のように、魂魄を〝分割〟できる資質を持つのかもしれぬ)

 

 それから、伏羲は先程見た『陽光』の少女を『窓』に映し出した。

 

「さて、問題はこの娘だのう」

 

 伏羲の言葉にタバサも頷いた。『人形』の魂でも、自分の記憶の残滓でもないのであれば、あの寂しげな陽光の少女は果たして何者なのであろう。だが、タバサには全く覚えがなかった。

 

「少なくとも、わたしは知らない」

 

「そうか。奥方の『記憶の欠片』から現れたこと、魂魄の色などから察するに、奥方とタバサに非常に近しい存在であることは間違いない。念のため聞くが、おぬしには姉妹あるいはあの意地悪姫以外にも従姉妹がいたりするのかのう?」

 

 伏羲の問いに、タバサは静かに首を横に振った。

 

「ふぅむ。すると、あの娘は何者なのであろうか」

 

「もしかすると、母さまの親戚なのかもしれない」

 

「うむ、その可能性は充分あるのう。敵対者でないことは確かなようであるし、彼女の詳細については奥方が回復されてから、改めて尋ねてみればよかろう」

 

 伏羲の言葉にタバサは頷いた。

 

(彼の言う通り。今、最も優先すべきは母さまを完全に治すこと。それに集中しよう)

 

 ――そして、彼らは夢の中で休息に入った。さらなる戦いに備える為に。

 

 

 




当初の構想では、才人とルイズがついてくる予定でした。
しかしいろいろとイベントの順番を考えた結果、
二手に分かれることに。

まずは本作メインのタバ太コンビに頑張っていただきます。


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第57話 雪風、物語の外に見出すの事

 ――オルレアン公夫人の魂魄切り離し手術から、十時間ほど後。

 

 〝夢〟の中で充分な休息をとった一行は、再び例の大扉の前に立っていた。

 

「おそらくだが、扉の奥にはこの〝場〟を支配する存在が居座っておる。よって、わしらを近づけぬよう、何らかの罠が仕掛けられているはずだ。皆の者、絶対に気を抜くでないぞ」

 

 伏羲の言葉に全員が杖を抜くことによって応えた。

 

 それを確認した伏羲は前日に施した封印を解くため『打神鞭』を一振りした。昨夜、手術が終わった後に伏羲は『空間宝貝』を使うことにより、薬効が表へ漏れ出さないよう扉のあちら側(・・・・)こちら側(・・・・)の空間を隔てることによって扉を封印していたのだ。

 

 両開きの大扉に鍵はかかっていなかった。伏羲とタバサ、コルベールとキュルケがそれぞれ左右に分かれ、中から何かが飛び出してきた場合にすぐ対処できるよう身構える。

 

「開け」

 

 全員が位置についたことを確認したタバサが扉を〝念力〟で強く押すと、ギイィィ……ッと軋んだような音を立てながら開いた。

 

 扉の奥に見えた光景は、タバサの記憶にあるものだった。

 

 長く続く廊下、その両脇に並んでいる片開きの扉。ここはタバサの実家――旧オルレアン公邸を在りし日の状態そのままに再現した、文字通りの〝夢の世界〟なのであった。

 

 今、彼女たちが立っているのは――いつもなら従僕のペルスランが笑顔で迎えてくれる玄関口の前。しかし、当然のことながら彼は現在ここには居ない。〝夢〟の外でタバサたちが無事帰ってくるのを天に祈りながら……ひたすらに待ち続けてくれている。

 

 タバサは自分の身長よりも長大な木の杖を右手に下げ、大きく深呼吸した。そうしなければ心の内から溢れ出てくる怒りの感情で、どうにかなってしまいそうだったから。

 

「この扉の奥は、オルレアン大公家の屋敷そのもの。だとすると、目の前の廊下をまっすぐ行った突き当たり、横の通路いちばん右奥にある部屋が最も怪しい」

 

「どうして?」

 

「そこが母さまの寝室」

 

 タバサの言葉に、伏羲が頷く。

 

「ふむ、見覚えがあると思ったが、やはりそうか。ならば案内を頼んでもよいか?」

 

「わかった」

 

 伏羲の依頼にタバサは即答した。それを耳にしたコルベールがふいに目を細めると、注意深く周囲を観察し、その後ぎりぎり全員に届く程度の小声で報告した。

 

「通路左右の扉の奥に複数の気配があります。ただし〝温度〟から察するに人間ではありません。〝守護者(ガーディアン)〟の類が多数配置されているようですぞ」

 

 コルベールからの報告を受け、伏羲がタバサへ確認を取る。

 

「タバサ。通路に並ぶ扉の奥は別の場所へ続いていたりするか?」

 

「全部個室の入口。記憶通りならだけど」

 

「わかった。ただし、あくまで夢の中であるため別の場所に繋がる廊下が存在する可能性がなくもない。その先から敵が現れることを想定した上で行動するほうがよかろう」

 

「扉を開けたら落とし穴……なんてこともあったりして?」

 

「うむ、充分考えられるのう」

 

「なるほど。ミス・タバサ……この場合はオルレアン公夫人の記憶がベースになっているというわけではないということですな」

 

「作戦会議のため一旦後ろへ引くぞ。ああ、中が見えるよう扉は半分だけ開けた状態でな」

 

 全員、了承の印に頷いた。

 

 玄関を出て、入口扉外まで戻った四人+α(タバサの遍在)は、それぞれ前一・中三・後一の隊列――前衛にスノウ(遍在)、中軸にコルベール・キュルケ・タバサチーム、後衛役は伏羲という編成を組んだ。

 

 その上で、改めて玄関周辺を警戒しつつ、タバサから内部の基本構造を聞き取る。と、コルベールがすいと手を挙げた。

 

「意見があるのですが、よろしいですかな?」

 

 全員が目で頷く。

 

「今回の作戦は屋内で行われます。狭い通路や小部屋などで爆発を伴う性質がある〝火球〟のような殲滅系呪文を使うのはまずい。ですから、作戦行動中に用いる火系統の魔法は〝炎の鞭〟〝炎の刃〟などに制限したほうがよいかと」

 

「そうだのう。ただし、状況次第で〝炎の壁〟を使うことも念頭に入れておこう」

 

「了解しました」

 

「了解」

 

「わかったわ」

 

「ただし、廊下の左右に並ぶ扉の先に大量の敵が潜んでいる、または例の蔦のようなものがあった場合、即座に焼き払ってもらいたい」

 

 キュルケとコルベールの目を見て、伏羲は念を押すように言葉を紡いだ。

 

「あの扉の奥は独立した病巣だ。夫人の身体や心に悪影響はない。よって遠慮は一切いらぬ」

 

 その指示に、コルベールが再び意見を述べた。

 

爆燃気流(バックドラフト)等が生じる危険性があるため、着火を含む室内殲滅の指揮についてはこの私が執らせていただいてよろしいですかな? そのほうが燃焼の規模や範囲の調整がし易いですから」

 

 そう告げたコルベールの声には一切の迷いがなかった。昨日の〝炎刃〟を用いた手術経験が、彼を火の使い手として完全に立ち直らせることに成功していたのだ。

 

 それを聞いた伏羲は心から安堵したように言った。

 

「そうか、それは助かる。ならば、そちらについては完全に一任する。そもそも〝火〟に関しては、コルベール殿のほうが、わしなどよりも遙かに巧く扱えるからのう。キュルケは、彼の指示に従って動いてくれ」

 

「わかりましたわ。先生、よろしくお願いします」

 

 キュルケの返事に、コルベールは力強く頷いた。

 

「それでは最後の確認をするぞ。室内の殲滅はコルベール殿とキュルケが担当し、廊下に現れた敵については、基本的にわしとタバサが受け持つ。なお、移動中並びに殲滅中の防衛、つまり〝盾〟の展開は、特別な指示がない限りわしに任せてくれ。スノウは索敵及び周囲警戒、タバサは攻撃のみに集中するのだ」

 

「了解した。あなたの〝盾〟が、全員の中で最も強固。そのほうがいい」

 

 タバサの言葉に、全員が同意を示す。その後、質疑応答などを行ってさらに細かい点を詰めた伏羲は、最終確認へと移った。

 

「ただし、あくまでこれらは基本であって、緊急時はその限りではないからな。いざという時は夢の外へ待避、つまり目覚めることも念頭に置いて行動してくれ。ここでの死は最悪の場合、心の消滅に繋がる。よいな? 夢の中だからといって絶対に無茶をしてはならぬぞ」

 

 伏羲からの忠告に全員が頷いた。

 

「皆の者、行くぞ!」

 

 伏羲の号令で、特殊潜入『治療班』は一斉に行動を開始した。

 

 

○●○●○●○●

 

 全員が慎重に屋敷の奥へと続く廊下を歩いてゆくと――すぐにその時は訪れた。左右の扉が全て一斉に開き、中から多数の〝木枝の矢(ブランチ)〟が先頭を進むスノウ目掛けて飛来してきた。

 

 しかし、既に伏羲が展開していた〝風の盾〟によってそれら〝木枝の矢〟は全て明後日の方向へと逸れていった。と、その矢がまるで挨拶代わりであったかのように、部屋の中から不格好な兵士たちがぞろぞろと姿を現した。それは樹木でできた魔法人形(ガーゴイル)だった。

 

 もしもここを訪れたのが並のメイジであったなら、その不気味な姿に腰を抜かすか、あるいは一度に襲いかかってきた十数体の木製ガーゴイルが持つ棍棒のような腕によって、あっという間に昏倒させられていたかもしれない。

 

 だが、今ここにいるのは。トリステイン魔法学院――いや、国内でもトップクラスの使い手と呼んで差し支えない者たちである。伏羲が展開した〝風の鞭〟十本があっという間にガーゴイルたちをはじき飛ばすと、タバサがそこへ二十本の〝氷の矢〟でもって追撃。全てを射貫き、ばらばらにした。

 

「前方一時方向扉内、炎による殲滅作戦を行う。ミス・ツェルプストー! 〝火球(フレイム・ボール)〟準備! 着弾目標、指定の扉奥。現在位置から五メイル先!」

 

「了解ッ!」

 

 コルベールの指示で、キュルケが呪文の詠唱準備に入る。彼女の状態を確認したコルベールは、なんと懐から取り出した手鏡に、目標とした室内の奥を映し――それと同時にキュルケが構えるところを見ながら〝錬金〟で揮発油を精製し始めた。つんとした独特の刺激臭が鼻を刺す。もしもここに才人がいたら「ガソリン臭い……」などと言っただろう。

 

 これを目撃したタバサは「手鏡でこんなことが……」と、素直に感心すると同時に、コルベールに対する内心の評価を大幅に上昇させた。やはり彼は、自分よりも遙かに経験豊富な軍人であったのだ、と。

 

「〝火球〟発射五秒前……四……三……二……一……今ッ!」

 

 キュルケが放った〝火球〟が部屋へ飛んでいったのとほぼ同時に、伏羲が全員の身体を〝風の盾〟で防御する。途端に響き渡る轟音。燃え上がるガーゴイル達。

 

「〝火球〟着弾確認! 爆燃気流及び延焼の可能性、極めて軽微! 室内に残敵有り、二体出てきます!」

 

 目が熱やその他のものでやられぬよう、鏡を使って慎重に扉内部を確認していたコルベールの声と同時に、火のついたガーゴイルが二体、ふらふらとよろめきながら出てきたが、双方共にタバサの〝風の刃〟によって切り裂かれ、ぱらぱらと床に舞い散った。

 

「正面一時方位室内の敵、全滅。内部の鎮火を確認。火炎治療班、次に備え待機します」

 

「了解した。皆の者、陣形を立て直せ! 周囲確認の後、前方へ移動する!」

 

「了解!」

 

 号令と同時に陣形を立て直す一同。見事なまでに息ぴったりである。

 

「次! 正面十一時方向扉奥、殲滅準備にかかる! ミス・ツェルプストー、何か問題はないか?」

 

「大丈夫、まだ十発以上……いえ、十四発撃てますわ!」

 

「残弾数了解した! 大変よろしい。では、行きますぞ!」

 

 こんな調子でずんずんと廊下を進んでゆく『治療班』。

 

 ……どう見ても屋内殲滅部隊以外の何者でもないのだが、これは正真正銘、誰がなんと言おうと『治療班』なのである。だが、現在の彼らの進軍状況を見たら、並の使い手ならば対峙はおろか、側に近寄ろうなどとは間違っても思わないであろう。

 

 ガリア王国の裏組織『北花壇騎士団』闇の騎士七号『雪風』のタバサ。

 

 夢の中で〝力〟を取り戻している、地球の『始祖』伏羲の半身『軍師』太公望。

 

 元トリステイン王国〝特殊魔法実験小隊〟指揮官『炎蛇』のコルベール。

 

 水精霊団が誇る最大火力砲台にして、炎の女王『微熱』のキュルケ。

 

 彼らの行く手を遮るものは――何もない。全てが、塵と化し風に乗って消えた。

 

○●○●○●○●

 

 ――やがて一行はついに最後の部屋、オルレアン公夫人の居室前に立った。

 

 その扉には魔法的な罠はおろか、鍵すら掛かっていなかった。中に何かがいるのは確かだが、殺気立っているような雰囲気はない。

 

 そこでタバサの〝遍在〟スノウが先頭に立ち、そっと観音開きの扉を引いてみた。奥にはベッドと小机が見える。双方共に、タバサにとっては見慣れたものだ。それらは母の部屋にあったものと、全く同一だったから。

 

 部屋の周囲には本棚が並んでいた。その正面にひとりの男が立っている。

 

(おそらく、この者こそが〝夢世界〟の支配者にして、この薬を調合した者の〝意志〟が具現化した存在だろう)

 

 そう判断した伏羲は、冷静に分析を開始した。

 

 かの存在は薄茶色の――トリステインでは見かけない、ゆったりとした造りの長衣を身につけ、羽根飾りのついたつばの広い帽子を被っている。帽子の隙間からは、腰まで届く黄金色の髪がさらりと垂れていた。

 

 男の〝意志〟は扉に背を向けたまま、本棚に向かっていた。パラパラというページをめくる音が聞こえてくることから察するに、どうやら本を読んでいるらしい。

 

 いくら夢の中とはいえ、すぐ側に他人――それも、明らかに敵意を持つ者が近付いてきているにも関わらず、全くそれを気にすることなく書を読み進めているというのは、余程肝が据わっているのか、それとも自分に自信があるのか、あるいは――。

 

 と、その〝意志〟が背を向けたままふいに口を開いた。

 

「この『物語』という概念は、実に素晴らしいな」

 

 思わぬ言葉に、その場にいた全員が呆気に取られた。

 

「なるほど。歴史や文化、思想などに独自の解釈を織り込んだ上で、娯楽に変化させる。それを読み手が受け取った際に書き手が望む感情を呼び起こすことで、己の主張を理解させるのだな。実に素晴らしい。我が種族には無い文化だけに興味をそそられる」

 

 異国風の長衣を纏った金髪の〝意志〟は、ガラスで造られた鐘のように澄んだ声音でそう言った。そこには、一欠片の敵意も含まれてはいない。

 

「老人は尋ねた。『おお、勇者よ。イーヴァルディよ。そなたは何故、あえて苦難に立ち向かうというのだ?』少年は答えた。『わからない、ただ……ぼくの中にいる何かが、歩みを止めることを許さないんだ。自分の内側にいる誰かが、ぐんぐんとぼくを引っ張っていくんだよ』このやりとりなどは、不思議と勇気を呼び起こす作用を持つ」

 

 伏羲は思わず顔をしかめた。口端がぴくぴくと引き攣っている。

 

「何だ、このロマンティックで微妙に場の空気が読めない男は」

 

 その言葉に、同行者たちが次々に疑問を呈した。

 

「薬の元凶……なのではないの?」

 

「ミスタがわからないのでしたら、専門外の私では完全にお手上げですぞ」

 

「まあ、空気読めてないのは確かよね」

 

「いや、そういうことを言いたいのではなくてだな……!」

 

 排除を目指す敵を前にそんな暢気なやりとりをしていれば、当然のことながら相手に悟られる。金髪の男は手にしていた本をそっと本棚に戻すと――静かに、優雅な動作で振り向いた。

 

「薬の元凶……なるほど、お前たちは侵入者か」

 

 正面を向いた金髪の男は線の細い……一般的な観点でいえば、美形といってよいであろう涼やかな顔立ちをしていた。切れ長な目の奥に光る瞳は、深い海の底を思わせる群青色。だが、全く年齢がわからない。幼年とも老齢とも取れるような、不可思議な気配を漂わせている。

 

「ふむ。この〝場〟に侵入するのみならず、人形を配置した廊下をも無事抜けてきたのか。なるほど、蛮人にしては相当に強き〝力〟を持つ者たちと見える」

 

「……蛮人?」

 

 自身も最初の段階でかなり失礼な発言をかましていたにも関わらず――思いっきりそれを棚に上げて呟いた伏羲に心底不思議そうな顔を向けた男の〝意志〟は、ようやく何かに気付いたような声でこう言った。

 

「もしや、我を蛮人と勘違いしているのか? これは失礼した。お前たち蛮人の間では、初対面の挨拶をする際には帽子を取るのが作法だったな」

 

 男は全く裏表のない声でそう言うと、帽子を脱いだ。

 

「わたしはこの場を管理するため、創造主より生み出されし者だ」

 

 さらりとした金髪の隙間から、尖った長い耳が突き出している。

 

「え、エルフ……!?」

 

 キュルケは思わず声を上げてしまった。

 

 長身の男――調剤者の正体はハルケギニアの東に広がる砂漠(サハラ)に住まう長命種。人間の天敵。強力な先住の魔法を用いる種族、エルフであった。

 

 既に述べた通り、ハルケギニアの住民にとって、エルフとは恐怖の象徴である。人間の数倍の寿命を持ち、高度な文明と長い歴史を持つ彼らと立ち会うなどという無謀な行いは――少なくとも単独では絶対にしたくない。これは全てのメイジ――いや平民も含めた住人全体の共通認識だ。

 

 以前、ラグドリアン湖で太公望の『B・クイック』が炸裂した際に、それをエルフが用いる先住魔法と勘違いしたルイズたちが恐慌状態に陥ったのはそのあたりに由来する。

 

 杖を握るタバサとキュルケの手に力が籠もる。その指先は、恐怖で細かく震えていた。だが、そんな彼女たちを庇うように、ひとりの男がすっと立ち塞がった。

 

 彼女たちの〝盾〟になったのはコルベールだ。彼の額からは幾重もの汗が流れ落ちている。

 

(さっきの戦いではあんなに頼もしかった先生が、怖がっている?)

 

(あんなに強かったコルベール先生も、エルフは怖いのね。でも……)

 

 彼の背には一切の迷いがなかった。

 

 ――生徒たちを守る。

 

 コルベールの熱意は、魂の天敵を相手にしても揺らがぬほどに強く篤い剛炎となり、護るべき者たちの前にそびえ立っていた。

 

(あの背中……まるで炎の壁だわ……)

 

 その炎熱に当てられたキュルケは、自分の胸の中にこれまで感じていたものとは全く違う、燃え尽きる程に熱く……それでいて柔らかに踊る〝炎〟が灯るのを自覚した。

 

 ところが、そんな彼らの目の前に立つ――現在はエルフの姿を取っている〝意志〟は、気の毒な者を遠い場所から見つめるような態度でこう告げた。

 

「お前たちに要求したい」

 

 もしもこの場にいたのがメイジだけであったなら、その言葉だけで震え上がっていたかもしれない。だが、幸いにしてここに居合わせたのはメイジだけではない。

 

「なかなか面白いことを言う。交渉(・・)ではなく、いきなり要求(・・)なのか」

 

 ……そう。エルフの存在を何とも思わない者、伏羲であった。

 

 彼からしてみれば「耳が長い妖怪なんぞ、別に珍しくもなかろう」程度の認識しかない。宗教的な縛りも、刷り込まれたものもない。だいたい、己の半身たる王天君も細く長い耳を持っている。よって伏羲が無条件にエルフを畏れる理由など、一切ないのである。

 

 だが、エルフの〝意志〟にはそんな彼の反応が思いのほか面白く感じられたらしい。彼はふっと表情を緩めると、伏羲に向けて口を開いた。

 

「これは失礼した。この部屋へ至る『道』を〝力〟でもって突破してきた蛮人たちに、まさか話して通じるとは思ってもみなかったのだ。我は無益な争いを好まない。どうか大人しく引き下がってはもらえないだろうか。もちろん、あの女性の〝意志〟も元の場所へ戻して欲しい」

 

 それを聞いた伏羲は持っていた『打神鞭』の先端を、掌でぽんぽんと弾ませながら、心底呆れたといわんばかりに目の前のエルフの姿形をとっている〝意志〟に尋ねた。

 

「わしも正直戦いは好かぬのだがのう。おぬしが申し出てきているのは、話し合いとは呼べぬものだと思うのだが?」

 

 求められているのは一方的な要求であって、交渉どころの話ではない。だが、その言葉を聞いた男は、再びため息をついた。

 

「やはり蛮人と話し合いをするのは無理なのか。我としては、できる限り穏やかに事を済ませたかったのだが」

 

 タバサは激しく憤った。

 

(母さまの〝夢〟を無理矢理ねじ曲げた挙げ句、一方的な要求をつきつけておいて穏やかに済ませたい? 馬鹿にしないで!)

 

 エルフと対峙するという恐怖を、迸る怒りの感情が上回る。杖を構え直し、一歩前へ出ようとしたタバサを、しかし伏羲が遮った。

 

「念のため確認しておきたいのだが。それらの要求は一切相譲れぬものであるのか?」

 

 その問いかけに、エルフの姿をしたモノは小さく首を縦に振った。

 

「我はこの世界を保つためだけに造られた、かりそめの〝意志〟だ。よって、そこから外れることはできない」

 

 いっぽう、伏羲の後方で身構えているタバサ、そしてキュルケとコルベールは心底驚いていた。彼はエルフ……いや、薬に込められた〝意志〟とすら交渉するのか、と。

 

 少し考え込むような素振りを見せた伏羲が、再度口を開いた。

 

「どうしても……なのか? 戦わずにここからおぬしが去るわけにはゆかぬのか? 夫人さえ元に戻してくれれば、こちら側が何らかの条件をつけてもよい。それでも譲れぬものなのか?」

 

 その言葉を聞いてもエルフの〝意志〟は頑ななまでに動かなかった。

 

「創造主の命に反することはできない。その必要もないだろう」

 

「そうか。わしとしても、できれば戦わずに済ませたかったのだがのう」

 

 その言葉を合図に全員が杖を構えた。しかし、エルフの〝意志〟は畏れるどころか顔色ひとつ変えずに、ただ静かにその場に佇むのみであった。

 

(絶対に母さまの心を治す。たとえ、そのために戦わなければならない相手がエルフだろうと、ここで引くわけにはいかない)

 

 タバサの心が、強い感情で震えた。彼女は杖を構え、呪文を詠唱する。

 

「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ……」

 

 タバサが最も得意とする呪文〝氷の風矢(ウィンディ・アイシクル)〟が完成した。合計二十本の〝氷の矢〟がエルフの〝意志〟目掛けて飛んでゆく。しかし、彼女が放った矢は敵対者の胸の前でぴたりと停止すると、そのまま床に落ちて、キィンという澄んだ音と共に砕け散った。

 

 直後に叩き付けられたキュルケの〝炎の鞭〟も、タバサの〝氷の風矢〟と同様に壁のようなものに遮られ、男の身体には届かなかった。

 

「なるほど……これが先住魔法。エルフの〝反射(カウンター)〟か。書物で読んだものと実物では、ずいぶんとイメージが違うのだな」

 

 杖に〝炎の蛇〟を纏わせたコルベールがポツリと呟くと、それを聞いた少女たちの身体が完全に硬直した。自分たちが相対している敵が何者であるのかを、改めて思い知ってしまったがゆえに、彼女たちは魂に刻まれた恐怖によって縛られてしまったのだ。そんなふたりと同じように、コルベールと伏羲もその場から全く動かない。

 

「先住魔法……何故、お前たち蛮人はそのような無粋な呼び方をするのだ?」

 

 金髪で細身の身体を持つ〝意志〟の瞳には、怒りどころか敵意の欠片すら浮かんでいない。タバサは……いや、キュルケとコルベールも、敵対者の瞳に宿るモノの正体に気付いて愕然とした。

 

 そこにあるのは戦わねばならないことに対する悲しみではない。哀れみですらない。なんと『無関心』であった。

 

(このエルフは――わたしたちを敵と認識していない)

 

(敵になる相手どころか、置物程度にしか見られてないってこと!?)

 

 つまり、メイジとこのエルフの間にはそれほどの力量差があるということ。伏羲を含む全員が、思わず後ずさった。

 

「蛮人よ。我は争いを好まない。だが、敵対するというのならば〝精霊の力〟をもって、この場から強制的に排除する。それが我に課せられた使命だからだ」

 

 そう言ってエルフの〝意志〟が片手を前にかざし、タバサたちがいる場所へ向けて一歩足を踏み出した――その時。

 

「タバサ! 〝風の盾(ウィンド・シールド)〟で全員を包み込め!」

 

 伏羲のかけ声と共に、突如〝意志〟の足元に八角形の輝きが出現する。

 

「かかったな! 宝貝『誅仙陣(ちゅうせんじん)』!!」

 

 タバサが〝盾〟を展開し終わったのと、ほぼ同時。突如周囲の風景が塗り替わった。

 

 つい先程までタバサの母の居室であった場所は、いつのまにか荒涼とした原野に変わっていた。空は深く暗い闇に包まれており、光る糸状の何かが、まるで鳥籠のように格子状に周辺全域へ張り巡らされている。

 

「これは……!?」

 

 突然のことに、さすがの〝意志〟も驚いたのであろう。その瞳に、彼らと対峙してから初めて別の色が浮かんでいる。それは、わずかながらの焦り。そんな彼の様子を見た伏羲が、実に嫌らしい顔をしつつ、大声で嗤った。

 

「ダァホが! わしがビビって動けないのだと思っていたようだが、違うわ! タバサとキュルケがおぬしの気を引いてくれている間に、自分の〝陣〟を構築しておったのだよ!」

 

 タバサは驚いた。

 

(彼が手を出さなかったのは、これの準備をしていたから?)

 

 蒼い髪の少女は改めて周囲を観察する。

 

(前に見せて貰った『切り札』とは明らかに違う。これはいったい……?)

 

 ――実は。最初に『要求』という言葉を聞いた時点で、交渉が一切通じない可能性があると判断した伏羲は『打神鞭』を掌の上で弾ませるという一見何気ない仕草を装いながら、こっそりとこの空間宝貝『誅仙陣』を展開する準備を整えていたのだ。

 

「なるほど。隙を見て罠を張っていたということか。だが、我に通用するようなものでは……」

 

 そう言って〝精霊の力〟を行使しようとしたエルフの〝意志〟であったが……次の瞬間、叫び声を上げた。

 

「馬鹿な! 蛮人め、いったい何をした!?」

 

「なるほどのう。やはり先住魔法とは、そういう性質のものであったか。そして、どうやらおぬしの主は『空間使い』と戦った経験がないとみえる」

 

 先程までとは別人であるかのように取り乱し始めたエルフの男とは対照的に、伏羲の顔は冷徹な『観察者』そのものに変化していた。

 

「確か、エルフや妖魔が使う先住魔法とは場に宿る精霊と契約して行使されるものであったな? では、ここで問題だ。その〝場〟(フィールド)が何者かによって書き換えられてしまった場合。精霊との契約は、果たしてどうなるのであろう?」

 

 その伏羲の言葉に、調剤者の〝意志〟が凍り付いた。

 

「そんな! 魔法薬を一切使わずに〝夢〟を塗り換えたというのか!?」

 

「そうだ。あの部屋の周辺だけだがのう。〝夢〟は無限の宇宙に例えられるほどに広大な別世界。自分の夢ならばともかく、他者の〝世界〟を全て書き換えられるほど強大な〝力〟など、わしは持ち合わせておらぬのでな」

 

 夢を塗り換える。タバサは驚嘆した。そういえば、夢の中だからこそこのようなことができると以前彼自身が言っていたではないか。実際に『部屋』の内装が書き換わるところを何度も見せて貰っている。

 

「ありえない! 〝場〟を書き換える魔法……こんなものが……ッ!」

 

 慌てふためくエルフの〝意志〟に伏羲は追い打ちをかけた。

 

「おぬしのおかげでよい実験ができた。書物だけではいまいち確定できなかった先住魔法の性質について、これで確証が持てた。感謝するぞ」

 

 聞いた者全てが凍てつくような声でそう告げた伏羲の姿は、まるで開発中の薬品によって大きな被害を受けた被験者たちを前にして、静かに実験結果のみを報告する冷徹な研究者のようだ。

 

 そんな彼らのやりとりを聞いて、タバサは気付いた。

 

(これが実戦における『空間操作』の扱い方……)

 

 タバサだけでなく、キュルケも一緒になって周囲を見渡した。

 

(これも、ミスタがよく話していた〝場〟なのね。彼やサイトがいたチキュウという世界のメイジたちが使う魔法。〝空間〟っていう属性の呪文……確かにこれじゃ、ロマリアや聖堂騎士団の連中に異端扱いされるでしょうね。例の科学って学問から生み出された新しい系統なのかしら? コルベール先生が喜びそうだわ)

 

 赤毛の少女がちらりと好意を寄せ始めた教師を見ると、彼女の予想通り目をきらきらと輝かせながら周囲を観察している。エルフに対する恐怖など、既に吹き飛んでいるに違いない。

 

(想像以上に挑戦し甲斐のあるお相手だわ。うふふ、燃えてきた!)

 

 獲物を見定めたキュルケが舌舐めずりしていることなどつゆ知らず。コルベールは初めて見た魔法技術に驚嘆していた。

 

(系統魔法に一切の悪影響を及ぼさず、それでいて簡単に先住魔法を封じてしまうとは。対妖魔のみならず、エルフとの戦いの常識すら覆してしまうだろう!)

 

 ところが、彼の驚きはそれだけでは終わらなかった。

 

 それはふいに空から落ちてきた。小さく白い何かがふわりと宙を舞う。

 

「あ……!」

 

「これは……?」

 

「雪だ!」

 

 思わず〝風の盾〟から外へ手を伸ばしてしまった一同を、伏羲が慌てて制した。

 

「いかん、その雪に触れるでない!」

 

 どうして? そう問おうとした彼らであったが、その答えはすぐ目の前で公開された。なんと、粉状の雪に触れた〝意志〟の手が、ジュッという音と共に溶け崩れてしまったのだ。それを目撃した全員が、慌てて〝盾〟の中で身を縮めた。

 

「なにッ!?」

 

 調剤者の〝意志〟は急いで〝反射〟を展開しようとした。しかし書き換えられてしまった〝場〟の内に存在する精霊との契約を最初からやり直すほどの時間は残念ながら――既に残されてなどいなかった。

 

「お、おのれ蛮人……ッ。このままでは済まさぬぞ!」

 

 口では強気な発言をしてみたものの〝意志〟は内心焦っていた。精霊との契約を完全に無効化されてしまったのだから当然だ。

 

「最後に、もう一度だけ聞くぞ? 夫人に二度と手を出すでない。そして、この場を去ると誓うのだ。さすればわしは攻撃を止める。おぬしを追うこともしないと約束しよう。この交渉を受け入れてはくれぬか?」

 

「我は創造主の代弁者。おまえたちを排除することこそが我の使命なのだ!」

 

 頑なに言い返した〝意志〟は、見慣れない手振りと聞き慣れぬ詠唱を行った。

 

「土は契約に基づき飛礫(つぶて)となり、我の敵を撃つ」

 

 どうやら短時間で足下の土を支配下に置いたらしい。数個の石飛礫が伏羲目がけて飛んできた。しかしタバサの〝風の盾〟に逸らされてしまう。

 

「それがおぬしの答えか……残念だ」

 

 伏羲が『杖』をついと一振りした途端、はらはらと舞い落ちていた雪の勢いが増した。再度エルフの〝意志〟が身振りと共に魔法を解き放つ。

 

「空気は蠢きて雪を逸らすなり」

 

 降り注いでいた粉雪が吹き散らされる。しかし、それも一時しのぎにしかならない。再び身体の一部を溶かされた〝意志〟の顔に焦りがくっきりと浮かび上がった。

 

(まずい! この雪に触れ続けていたら、我は完全に消失してしまう。そうなれば、創造主から与えられた命令を守ることができなくなる!)

 

 調剤者の〝意志〟は必死の思いで外への出口を探した……しかしどこにも見当たらない。薬そのものに植え付けられた〝意志〟たる彼には、目覚めによる自力脱出も不可能だった。

 

「これは魂魄を溶かす雪。そして、ここはわしが支配する『空間』だ。記憶の欠片、その一片すら逃がさぬよ」

 

 静かに降り続ける粉雪は、ごく細かなものから大粒の綿雪へと変化してゆき――しまいには囂々と唸り猛る豪風を伴う吹雪となってエルフの〝意志〟に襲いかかった。

 

深深(しんしん)と……溶けるがいい」

 

 そう告げて、天を仰いだ伏羲の横顔からは――普段の暖かみのある表情が全て消え去り、真冬……いや、生きとし生ける者全てが強制的に活動を止められる、絶対零度の冷気が全面に貼り付けられていた。

 

「き、き、貴様、まさか悪魔(シャイターン)……ッ!」

 

 調剤者が注いだ〝意志〟に、初めて怯えの色が浮かんだ。だが、全ては遅すぎた。

 

「う……くッ、そんな馬鹿なッ!」

 

 全身から煙を噴き上げながら、悲鳴をあげて逃げまどう〝意志〟の姿を見ても、杖をかざしたまま全く動じずにその場に佇む伏羲の様子は――これまでタバサたちが見知っていた彼とは完全に別人のようであった。

 

 ――その姿はまさしく『雪風の魔王』。主人の持つ二つ名に相応しい、極寒の空気と闇の衣を纏いし者。

 

「そ、創造……主……さま……申し……訳……」

 

 エルフの〝意志〟も、悲鳴すらも。ジュウジュウという魂魄が溶ける音はおろか、全てが無音の闇に消えたその後に現れたのは……。

 

 澄んだ青空と暖かな春風。そして全面に広がる美しい花畑――。

 

「お……終わった……の?」

 

 タバサの言葉に、伏羲は頷いた。

 

「うむ。病巣は跡形もなく全て消え失せた。おぬしの母上はこれで元通りになる」

 

 その言葉に全員が歓声を上げた。しかし伏羲の顔は、どこか陰っていた。

 

「これはわしの親友の口癖なのだが……」

 

 ふうと大きなため息をついた伏羲は、小さな声でそれを口にした。

 

「言葉を交わすことができるにも関わらず、わかり合えぬとは。本当に悲しい事だな」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサは未だ夢の中にいた。

 

 そこは幼い頃に住んでいた、懐かしいオルレアン公邸。晴れ渡った青空の下、家族全員がラグドリアン湖を望む庭に用意されたテーブルを囲み、花が咲き乱れた春の湖畔を眺めている。父と母は優しげな笑みを浮かべ、揃って料理を摘みながら談笑していた。

 

 タバサ――幼いシャルロットは母がわざわざリュティスまで足を運び、自ら選んで買い与えてくれたフェルト地製の人形『タバサ』を自分の隣に座らせ、絵本を読んで聞かせている。

 

 本のタイトルは『イーヴァルディの勇者』。小さな少年が剣を手に、怖ろしい試練に立ち向かうという……貴族・平民問わず子供たちの間で大人気となっている冒険譚だ。

 

 この本に記された『イーヴァルディ』とは地名やその他を示す単語ではない。物語の主人公である少年の名だ。にも関わらず、この本の表題が『勇者イーヴァルディ』ではなく『イーヴァルディの勇者』と表記されるのは何故なのだろうか。

 

 幼い頃はそれを疑問に思いつつも意味がわからなかったタバサだったが、今なら理解できる。『イーヴァルディ』とは勇者の名前ではない。かの少年の心奥に住まう強く激しい衝動や、固い決意といった概念を勇気ある者、つまり『勇者』と表現しているのだ。

 

 現に『イーヴァルディの勇者』の主人公はいつも同じ少年とは限らない。女性であったり、時には年老いた老爺として描かれることすらあった。そして、それら全ての主人公たちに共通しているものが、前へ前へと突き進む勇気。

 

 幼いシャルロットがフェルトの人形へ読み聞かせている本の主人公は、巨大な〝力〟を持つ怖ろしい魔王によって捕らわれた姫君を救うため、剣一本と勇気だけを頼りに、たったひとりで魔城の奥へと進んでゆく少年だ。

 

 ハルケギニアの子供たちは幼い頃、皆『イーヴァルディの勇者』に憧れる。この絵本を読んで、イーヴァルディのような勇者になる、あるいは英雄に付き従う騎士となり、共に世界を救う大冒険をすることを夢見るものなのだが、幼い頃のタバサ……シャルロットは違った。

 

(このお姫さま、いいなあ……羨ましい……)

 

 彼女は怖ろしい魔王に連れ去られた姫君に憧れた。勇者によって救い出された、か弱き少女に。楽しいながらも退屈な日常から自分を連れ出して、未知の世界へと案内してくれる勇者さまが目の前に現れ、その手を差し伸べてくれる日を待ちわびていたのだ。

 

 やがて、成長したシャルロット姫は囚われた。魔王にではなく過酷な〝運命〟という名の鎖に。期待が全て絶望へと変わる牢獄の中に閉じこめられた。だが、本に書かれた姫君のように、自分を助け出してくれる勇者が現れることはなかった。

 

 そう――物語の『勇者』は、彼女の前に現れてはくれなかったのだ。

 

「お嬢さまの客人がお見えになられました」

 

 ふいに聞こえた従僕ペルスランの声に、タバサははっとした。それから、自分の姿を見て驚いた。人形の『タバサ』に本を読み聞かせていたシャルロットは、どこにもいなかった。今の自分は『雪風』を纏った北花壇警護騎士(ノールパルテル)。ずっと孤りで戦い続けてきた、氷でできた人形。

 

(やはりあれは夢だったのだ。時の彼方へ消えていった、幸せな記憶――)

 

 夢の中で夢を見ていたことに気付いたタバサは、思わず苦笑した。どうしてあんな夢を見ていたのだろう。あのように笑いかけてくれる父は、もうどこにもいないのに。優しく微笑みかけてくれる母も、怖ろしい魔法薬で――。

 

「まあ、シャルロットのお友達? ペルスラン、急いでお通しして」

 

 飛び込んできたのは、間違いなく母の声であった。タバサは思わず振り返った。そこにいたのは先程まで丸テーブルについていた母ではなかった。少し歳を重ね、より表情の柔らかくなった……眠っている時にしか見ることのできない、穏やかな顔つきをしたオルレアン公夫人が椅子に腰掛けて微笑んでいた。

 

「母さま……」

 

「どうしたの? ほら、お友達の出迎えをしていらっしゃいな」

 

 そう言って笑うオルレアン公夫人の顔には、あの怖ろしい薬の影響など、どこにも見られなかった。それからすぐ、笑い声と共に近付いてきた足音にタバサは振り返った。

 

 屋敷の庭に、魔法学院の仲間たちが現れた。

 

 ギーシュとモンモランシーが、ふたり揃って大きな花束を持ち、笑顔でタバサの側へ近寄ってきた。ルイズと才人が、照れたような笑みを浮かべながら、手に持った包みを差し出してきた。その中には焼き菓子がたくさん詰まっていた。レイナールは綺麗なリボンが掛けられた本を彼女に手渡そうとしている。

 

 そして、彼女の親友である赤毛のキュルケが駆け寄ってきた。いつものように笑ってタバサを抱き締めてくれる。そんな彼女たちを見守るかのように、後方でオスマン学院長とコルベール先生が微笑んでいた。

 

 最後に現れたのは太公望だ。

 

 ただし、それはいつもの彼ではなく……夢の世界でしか見ることのできない、全身に漆黒を纏った姿。

 

「あなたが、みんなを連れてきてくれたのね」

 

 そう言って椅子から立ち上がったタバサの手から、抱えていた『イーヴァルディの勇者』がとすんと滑り落ち、テーブルの上へ乗った。絵本のページが突如吹いてきた暖かな風によって嬲られ、ぱらぱらとめくれていく。

 

(わたしの前に現れてくれたのは、勇者さまではなかった)

 

 開いたページに描かれていたのは。畏れる姫君の前へ悠然と立つ、魔王の絵姿。

 

 〝使い魔召喚の儀〟を執り行ったあの日。絶望の色を瞳に宿した姫君の前に現れたのは。彼女を自由な空へと案内してくれる気高き竜ではなく……勇者さまにお仕えする聖騎士のような存在でもなかった。あのとき、タバサが出逢った相手は。

 

(でも、わたしにとっては……きっと、これでよかったんだ)

 

 どこまでも優しく、温もりに溢れた夢の中で……タバサはそう思った。

 

 

 




捕らわれ願望のあるタバサ。
そんな彼女の前に現れたのは、原作では勇者さまでしたが
本作では……。


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第58話 雪風、古き道を知り立ちすくむ事

 ――アンスールの月・ティワズの週、虚無の曜日。

 

 つい先程まで心地よい微睡みの中にいたタバサはそこから突然追い出されたことに驚き、きょろきょろと周囲を覗った。ここは親友のキュルケが用意してくれた屋敷の一画。今、彼女がいるのはその部屋に置かれたベッドの中だ。

 

(ああ、そうか。さっきまでわたしがいた場所は、やっぱり夢の中だったんだ)

 

 それに気付いたタバサは涙を零しそうになった。ところが、そんな彼女の身体をふいに暖かなものが包み込む。

 

「どうしたの? シャルロット。また怖い夢を見てしまったのかしら?」

 

 それはオルレアン公夫人の柔らかい両腕だった。

 

「母さま……」

 

「大丈夫。今こうしてあなたの目の前にいるわたくしは、夢が創り出した幻などではありません。あなたと、あなたのお友達が助けてくれた、正真正銘……本物の母です」

 

「母さま……ッ!」

 

(夢じゃない。わたしを包んでいるこの温もりは――夢なんかじゃないのね)

 

 タバサは目の前にいる母の身体を、か細い両腕でぎゅっと抱き締め返した。

 

 オルレアン公夫人を魔法薬の呪縛から救い出してから、既に六日が経過していた。

 

 幸いなことに、夫人には薬による精神面での後遺症は一切なく、身体面についても――体力こそ衰えてたものの、健康体といって差し支えない状態だった。オルレアン公家に仕える忠実な従僕、ペルスランの献身的な看護が、夫人がさらなる病魔に晒される危機から護っていたのだ。

 

 タバサたち母娘はあれからずっと寝所を共にしている。これはオルレアン公夫人とタバサ、双方の心身を安定させる上でも必要な措置であった。

 

「ほらシャルロット、もうすぐ朝食の時間ですよ。身支度を整えましょう。皆さまをお待たせしてはいけませんからね」

 

「はい、母さま」

 

 母娘はもう一度だけ抱擁を交わすと、ベッドからゆっくりと起き上がった。

 

 

 ――フォン・ツェルプストー家の離れにあるダイニングルームで、仲間たち全員と従僕のペルスラン、そして焼きたてのパンが漂わせる芳ばしい香りがタバサたち母娘を出迎えた。

 

「奥さま、お嬢さま。どうぞこちらの席へお着きください。本日の朝食は白パンと、茸のシチューでございます。ワインのほかに絞りたてのミルクと発泡酒もご用意いただいておりますので、いつでもお申し付け下さいませ」

 

 静かにと椅子を引き、ふたりに着席を促したペルスランがそう告げると、オルレアン公夫人は忠実な従僕の顔を見て柔らかく微笑んだ。それから、対面にいるキュルケとふたりの同席者――太公望とコルベールに向かって改めて礼を述べた。

 

「ツェルプストー家の方々には本当に良くしていただいて、感謝致します。こうして親子揃って食卓を囲むことができるのも、こちらにいる皆さま方のおかげです」

 

 オルレアン公夫人はゆっくりと……しかし確実に昔を取り戻しつつあった。柔らかいパンを口に運び、暖かなシチューで胃を満たすと、参加者全員の顔がほころび、自然と言葉が交わされる。

 

 話題を周囲に振りまくのは、主にキュルケであった。タバサの過去などについては一切触れず、魔法学院での思い出や、みんなでピクニックに出かけたことなど、楽しくも他愛ない話がほとんどだった。そんな話を、オルレアン公夫人は笑みを浮かべながら、嬉しそうに聞いている。

 

 食卓には、ゆったりと、静かで、幸せな時間が流れていた――。

 

(けれど、いつまでもこの屋敷にはいられない)

 

 母たちを横目で見つめながら、タバサはそう考えていた。

 

 キュルケや彼女の父親はガリアの情勢が定まるまでの間、主従揃って屋敷に逗留してくださっていても構わないとまで言ってくれたのだが……だからといって、その好意に甘え続けるわけにはいかない。

 

(キュルケの家にこれ以上迷惑をかけないためにも、早くここから立ち去らなければ)

 

 母の治療にとりかかるずっと以前からそれを念頭に置いていたタバサは、太公望に相談した結果――ゲルマニアの首府・ヴィンドボナに母とペルスランの住処を構えるべく動いていた。

 

 太公望曰く『木を隠すなら森の中』。こそこそしていては、かえって目についてしまう。もちろん夫人とペルスランの身元がわからぬよう、ある程度の細工は必要であったが――ツェルプストー家の助力もあり、それら各種問題についても既に解決の目処が立ちつつあった。

 

(これで、母さまたちの安全は確保できた。あとは、残るもうひとつの目標――ガリア国王ジョゼフを討ち取りさえすれば、父さまの無念を晴らすことができる。それで全てが終わる)

 

 決意を新たにしたタバサであったが、しかし。それは、その夜語られたオルレアン公夫人の言葉によって大きく揺らぐこととなる。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その日の夕刻。

 

 タバサは従僕のペルスランだけを伴うと、体調への配慮から早めに夕食を済ませ、先に寝室へと戻っていたオルレアン公夫人の元を訪れた。

 

 正統な王座だけではなく、その命までをも奪われた父の無念を晴らしたい。でも、病から回復したばかりの母にそのようなことを告げて、心配をかけたくはない――。

 

 当初はそのように考えていたタバサであったが、しかし。

 

「わたしがあなたのお母さまだったら、話してもらえないことのほうが悲しいわ」

 

 今後に関する相談を快く受けてくれた親友キュルケと、彼女に――より現実的な意味で同意した太公望とコルベールの勧めによって、母に胸中の全てを打ち明けることに決めた。

 

 ところが。そのオルレアン公夫人の口から告げられた衝撃の事実が、タバサとペルスランを徹底的に打ちのめした。

 

「簒奪じゃ……ない……?」

 

 タバサは思わず耳を疑った。何かの間違いだ、そう叫び出しそうになった。

 

「奥さま!? お嬢さまの御身を気遣って、そのようなことを仰っておられるのですね? どうかそうだと言ってください!」

 

 側に控えていた従僕ペルスランも、夫人の言葉を聞いて顔色を変えた。それはそうだろう、彼はオルレアン大公家を襲った悲劇について、現在ガリア国内で流布している噂に加え、国王ジョゼフが魔法を使えないがゆえの逆恨みから、実の弟を手に掛けたと信じて疑わなかったのだから。

 

「シャルロット。あなたはこれまで何と聞かされていたのです? 父上の死や、わたくしたち家族の処遇について」

 

 憂い顔でそう問うたオルレアン公夫人に、タバサは震える声で答えた。

 

「イザベラ……姉さまからは、父さまが王になれなかったことに不満を抱き、反乱を企てた。だから秘密裏に処刑されたのだと言われました」

 

 血の気の失せたペルスランが反論のために口を開こうとした。しかし、オルレアン公夫人は視線でそれを制すと、娘を促す。

 

「他には?」

 

「父さまは国中の貴族たちに愛されていた。誰もが次の王はシャルルさまだと言って……」

 

「それはどこで、誰から聞いたの?」

 

「屋敷で……魔法の先生や、訪ねてきたお客さまから。〝騎士〟(シュヴァリエ)になってからは、お城にいた召使いや衛士たちが……」

 

「耳にしていたのは、それだけ?」

 

 理不尽に叱られた幼子のような表情で、タバサは続ける。

 

「王に選ばれたのは、本当は父さまだった。ジョゼフ……伯父上はそれを嫉んで、わたしや母さまを殺すと脅迫した。それで、仕方なく父さまは王位を譲った。けれど、その秘密がバレるのを畏れた伯父上は、父さまを自ら手にかけたと……」

 

 夫人は眉間を押さえ、しばし何かを考えるように黙り込んでいたが……顔を上げ、愛娘と従僕の目を交互に見つめた。

 

「あなたたちは、それを全部信じていたの?」

 

 小さく頷くタバサと真顔で同意するペルスラン。それを見たオルレアン公夫人は悲しそうな顔をして、首を横に振った。

 

「もしも本当に脅迫されたのならば、あのひと……オルレアン公なら、まずわたくしたちを保護するために動いたはずです。でも、そのようなことは一切ありませんでした」

 

「でも、お祖父さまは病床にありながら父さまを次期国王に指名したと!」

 

 必死に言葉を繋ぐタバサを、しかし夫人は言下に否定した。

 

「いいえ。陛下は間違いなく皇太子ジョゼフ殿下を後継者として指名なされたのです。わたくしは実際にそれを聞いています。他ならぬオルレアン公そのひとの口から。次のガリア国王は兄上に決まった、父上からそう告げられた……と」

 

 タバサは自分の足元が突然がらがらと崩れ去っていくような衝撃に見舞われた。

 

 何故なら、彼女はずっと信じていたからだ。現ガリア国王ジョゼフ一世は、本来王座に在るはずだったタバサの父親を暗殺して王位を簒奪したのみならず、怖ろしい薬によって母を狂わせ……さらには自分たちに叛逆者の汚名を着せ、その地位を徹底的に貶めた正真正銘の『狂王』なのだと。

 

「そんな馬鹿な! ならば、どうして罪なきご主人さまがジョゼフ王の手によって害されねばならなかったのです!?」

 

 泣き声の入り交じった叫びを上げたペルスランに対し、夫人は静かに……まるで幼子を諭すかのように告げた。

 

「全く罪がなかったわけではありませぬ。あのひとは自分が国王の座につくために、影で色々と動いていましたから。我が大公家でそれを知っていたのはこのわたくしだけです。実際、オルレアン公が行った裏工作のせいで、ガリアは――国を二分した戦争が起こる寸前だったのですよ」

 

 当時を思い出したのであろう、オルレアン公夫人の顔が暗く陰った。

 

「その証拠に、あのひとが亡くなった直後……大勢のシャルル派に属する貴族たちが、わたくしに決起を促してきました。おそらく彼らは先王陛下の遺言状が読み上げられた直後から、挙兵の準備を進めていたのでしょうね。王位は魔法の才能溢れるシャルル王子こそが継承すべきである。そう宣言した上で、オルレアン公を旗頭に――ジョゼフ王を追い落とすために」

 

 オルレアン公シャルルが暗殺された翌日。公邸周辺はシャルル派貴族たちが擁する大勢の兵達で溢れかえっていた。

 

「前もって用意していなければ、あんなに早く兵を動かせるはずがありません」

 

 そう淡々と告げる母に、タバサは震えながら問うた。

 

「お祖父さまの……遺言状?」

 

「ええ。先王陛下の葬儀の席で、リュティス大聖堂を預かる大司教が『始祖』の御名において読み上げた遺言状です。次王に皇太子ジョゼフを定めると。臣下の者たちはこれをよく補佐するようにと書かれていました」

 

「奥さま! その遺言状が偽造されたものであるという可能性も」

 

 ペルスランの必死の訴えを夫人は遮った。

 

「リュティスの大司教が預かっていた、亡き国王陛下直筆の遺言状ですよ。そのようなものを偽造したとなれば、たとえ王族といえど大逆罪に問われます。遺言状が本物だったからこそ、これまで問題とされなかったのではないのですか?」

 

 先代国王直筆の遺言状。そんなものがあったこと自体、タバサは知らなかった。いや、正確に言うなれば、彼女は覚えていなかっただけなのだ。葬儀の当日……当時まだ幼かったシャルロットの心は、優しい祖父を亡くした悲しみでいっぱいになっていたから。

 

 もしも遺言状の存在を知っていたら、タバサは真っ先に真偽を確認しただろう。それが偽物だった場合、復讐の正当性が増す。現国王打倒のための切り札にすらなりえたからだ。

 

 そこまで考えたところで、聡いタバサは気付いてしまった。

 

(母さま以外にも、遺言状の存在を知る者は大勢いたはず。なのに、今までその話がわたしの耳に入ってこなかったということは――つまり、それが本物だったから――ジョゼフ王に反旗を翻すための材料にならなかった。そういうこと?)

 

「いいえ……嘘よ……そんなことって……」

 

 信じられない。いや、信じたくなかった。タバサは首を左右に小さく振りながら、全身から一挙に熱と血の気が失せてしまったかのようにぶるぶると身体を震わせ続ける。

 

(母さまは薬の後遺症でこんなことを言っているんじゃ……)

 

 そこまで考えてしまったタバサであったが――静かな声で語りかけてきたオルレアン公夫人の声でようやく我に返った。

 

「シャルロット。あの日……ジョゼフ王が座す宮殿へと向かう馬車の中で、母はあなたにこう言ったはずです。もしも無事に明日を迎えることができたなら、その時は――間違ってもわたくしたち両親の仇を討とうなどと考えてはなりませぬ……と」

 

 その言葉にタバサはビクリと身体を震わせた。

 

(確かに、母さまから固く念を押されていた。けれど……)

 

 彼女はその言葉に従わず、復讐の道を歩むことを選択したのだ。それこそが自分が生きている意味だと、頑ななまでに信じていたから。

 

 タバサは復讐者としての原点――魔獣の森での出来事を思い起こす。

 

 初めての任務。それは魔獣の合成という禁忌の魔法に手を出したメイジの後始末だった。森を闊歩する合成獣(キメラ)たち、かの者らを従える〝合成魔竜(キメラドラゴン)〟を討伐せよ――。

 

 戦うことなんてできないと怖がるシャルロットはイザベラに城から叩き出され、魔の森へ送り込まれた。そこで出会った狩人の少女・ジルの信念がタバサの心を震わせたのだ。

 

「あんな怖ろしいものとは戦えない。わたしなんかが母さまを助けられるはずがないもの!」

 

 そう言って泣き叫び、過酷な現実から逃げ続けていたシャルロットに喝を入れ、狩りの仕方を教えてくれた平民の少女は、家族の仇――魔竜を仕留めるための努力を惜しまなかった。

 

 そして、魔道具屋で買い入れた〝凍矢(アイス・アロー)〟を手に、強大な敵に立ち向かったジルは――竜と相打ち(・・・)になって斃れた。

 

 そんな彼女が最期に遺した言葉。

 

『人間ってすごいよね。死ぬ気でやったら、大概のことはできるんだわ……魔法の使えない、平民のあたしにも、あんなバケモノが倒せるくらいに。だから大丈夫、貴族のあんたになら、きっとできるはずだよ。父さんの仇を討つことも、母さんの心を取り戻すことだって……勇気を出すんだ。あんたはもう、立派な狩人なんだから……』

 

(ジル……わたしは……)

 

 震え続けるタバサの耳を、再び母の言葉が打つ。

 

「あなたが起てば――間違いなく多くの血が流れることになるでしょう。なればこそ、わたくしは公の仇を討てと猛る貴族たちを鎮め、ジョゼフ王が催した酒宴に出席したのですよ。そうすれば、最悪でも失われるのはわたくしたち家族の命だけで済む。国を分かつことなく、全てが終わると考えたからです」

 

 タバサは脳天を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 

 彼女の母は王族の一員として、国の安寧を維持するために――己の身を捧げたのだ。娘であるシャルロットの命すらも。

 

(そうだ、あのとき……母さまは上座についていたジョゼフ王にこう言っていた)

 

『わたくしだけでご満足ください。なにとぞ、娘だけはお救いくださいますよう』

 

 オルレアン公夫人は愛娘の側へゆっくりと歩み寄ると――彼女の顔を両の手で包み込み、その中にある碧眼をじっと覗き込みながら、毅然とした声で告げた。

 

「誰かを恨むのならば……そのような選択をしたこのわたくしを。夫の行為を知っていながら止めることができなかった、この母を恨みなさい」

 

 夫人はタバサの身体をひしと抱き締めると、涙声で訴えた。

 

「シャルロット。今のわたくしには……もう、あなたしかいないのです。どうか、オルレアン公の仇を討とうなどという愚かな真似はやめてちょうだい。わたくしはこれ以上、大切なひとを失う悲しみを味わいたくなどありませぬ」

 

 タバサは母に抱かれながら、その声をただ聞いていることしかできなかった。

 

「わたくしは、国を乱すことなど望んではおりませぬ。叛逆者の一族として処刑されていたはずのわたくしたち母娘を生かしてくれた義兄上を憎むなど、筋違いにも程があります。この母を臆病者だと罵ってくれても一向にかまいません。だからお願い。復讐など、もう考えないで……」

 

(母さまの言葉が全て真実なら、わたしがしようとしていたことは――歩もうとしていた復讐の『道』は、根本から間違っていたということ?)

 

 そう思った瞬間。タバサの胸の内でパキンという乾いた音が鳴り響き、水の精霊に立てたはずの不屈の誓いに――大きなヒビが入った。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――母親から衝撃の告白を受けた翌日。

 

 タバサはその場にいた恩人たちに全てを語った。彼女が話し終えるまで、ただ黙って耳を傾けていた太公望は静かな声で尋ねた。

 

「それで……おぬしはどうしたいのだ?」

 

 父の仇を討つために、今までと同様ひたすら復讐へと突き進むか。それとも、家族と共に平穏無事な生活を営むことを選ぶか。タバサはそのどちらに対しても頷かなかった。

 

「わたしは知りたくなった。この事件に隠された真実を」

 

 タバサはとつとつと語り始めた。ずっと昔……まだ幼かったころの思い出と、現在胸に抱いている想いを。

 

「ジョゼフ……伯父さまはとても優しいひとだった。父さまとも仲が良くて、よくお屋敷の中庭にあったポーチで将棋(チェス)をやったり、一緒にお酒を飲んだりしていた。大きな手でわたしの頭を撫でてくれて……いつも、街で人気のお菓子をいっぱい、シャルロットへのお土産だって言って……持ってきてくれた」

 

 タバサは綺麗な包み紙にくるまれたお菓子の山を置き、笑顔で幼い自分を抱き上げてくれた伯父の力強い腕の感触を思い出す。心の奥に封印していた、温かい記憶――。

 

「そんな伯父さまが、何故あんな風に豹変してしまったのか。どうして父さまは死ななければならなかったのか。母さまの言葉が本当なら、今までわたしが聞いてきたたくさんの噂話は? いったい何が正しくて、どれが間違っているのか……わからなくなってしまった」

 

 子供の頃は知らなかった、優しい父の隠された姿。母の言葉が真実なら――タバサは俯いた。

 

「だからわたしは知らなければならない。今まで、あまりにも無知なままだった。父さまを失った悲しみと憎しみに囚われて――目と耳を塞いでいたのだと思う。そのせいで、母さまが命を賭けてまで行った……無駄な血を流さないための決断を、危うく台無しにするところだった」

 

 俯きながら語るタバサの瞳は、いつしかじんわりと光るもので滲んでいた。

 

 ジルが遺してくれた意志と勇気を否定するつもりなどない。だが、何も知らず、無責任な噂話だけを信じていたあの頃と今とでは、状況がまるきり変わってしまったのだ。

 

「できるだけ他人に迷惑をかけずに、父さまの仇を討つ。腕を磨いてジョゼフ王の側に近付けば、きっとそれができる。わたしはそう考えていた。そこで思考を停止させてしまっていた。実際には関係のない大勢のひとを巻き込む寸前だったのに」

 

 母の言葉が絶対の真実であるならば。確かに父は――国王への逆心ありと判断され、内紛を起こす前に処断されてもおかしくない。それだけのことをしているのだ。むしろ、今まで母と自分が生かされていたこと自体が奇跡にも等しい。

 

「それなのに……伯父さまは、反乱勢力の御輿となりうるわたしを、どうしてあの場で殺さなかったのか。あるいはどこかへ軟禁しようとしなかったのか。何故、母さまにあのような薬を飲ませたのか――わたしには、どうしてもわからない」

 

 ――もしも、それが肉親への情ゆえにということならば。今の自分たちへの扱いは、いったいどういうことなのか。彼から向けられてくる悪意は、魔法の才能への嫉妬以外にも何かあるのではないか? 正直なところタバサにとって、ジョゼフの行動には謎が多すぎた。

 

「父さまが暗殺されたという事実は変わらない。でも、どうしてそうなってしまったのか……わたしは本当のことが知りたい。確かめたい。でも、直接ジョゼフ王を問いただすわけにはいかない。母さまが嘘を言った可能性も否定できないから」

 

 残念ながら、真偽を判断するための材料があまりにも少なすぎる。そう呟いたタバサへ、キュルケは言った。

 

「それなら、必要な情報を集めなきゃいけないわね」

 

 コルベールも「ふーむ……」と首をかしげながら同意した。

 

「しかし、相当な難問であることは確かですぞ」

 

 キュルケとコルベールの言葉に、タバサはこくりと小さく首を縦に振った。

 

「そのためには北花壇騎士のままでいることが望ましい。だから……」

 

 タバサの言葉に、さもありなんと太公望は頷く。

 

「そういうことであれば、わしも花壇騎士団へ所属できたことを好機と捉えることができる。とはいえ、現状のままでは少々手詰まり感があるのも事実だ。まったくもって面倒なことではあるが、この機会にいろいろと探っておくとするかのう」

 

(母さまから告げられたことを、全て鵜呑みにはできない。いいえ、したくないと思う自分が心の中に住んでいる。だからこそ、わたしは真実を知りたいと願うのだ。そんな子供じみたわがままにまた大切なひとたちを巻き込んでいる……)

 

 それを自覚したタバサは、深く頭を下げた。

 

「ごめんなさい。わたしは、本当に迷惑ばかりかけている」

 

 そんなタバサの心からの謝罪を、太公望とキュルケは笑い飛ばした。

 

「それはお互い様だ。そもそもこれは、わしの判断の甘さから生じた事柄でもあるからのう」

 

「あたしはね、好きでやっているのよ? いまさらそんなこと気にしないでちょうだい」

 

 残るコルベールも苦笑しながら同意する。

 

「新たな『道』を歩もうと決意した生徒を支えるのも、私たち教師の役目ですからな」

 

 そう言って、三人はタバサに向けてすっと片手を差し出した。それを見たタバサは今にも泣き出しそうなまでに顔を歪めると――その小さな両手で頼もしき仲間たちの手を取り、ぎゅっと強く握り返した。

 

 

 ――それから。

 

 与えられた部屋に籠もり、タバサたちは改めて情報精査を行った。

 

 オルレアン大公家とガリア王家の間に起こった衝突に関すること。そして――先日判明したばかりの重大な懸念事項について検討を重ねる。

 

「あれって本物のエルフ……よね?」

 

 そう。あの魔法薬に刷り込まれた〝意志〟は何故エルフの姿をしていたのか。

 

「侵入者を排除するため?」

 

 タバサの発言に太公望は首を横に振った。

 

「いや、あれはあくまで薬効を象徴するような存在であって、決して〝夢世界〟への侵入者を怯えさせるような意図で作られたものではなかろう」

 

 そもそも、このハルケギニアには太公望が実行している〝夢渡り〟と同等の効果を持つ魔法は存在していない。それはこれまで太公望が行った調査によって、ほぼ確定している。

 

(例の失われた系統に属しておるからこそ、表に出て来ないだけなのかもしれぬが……それならそれでえらいことになるがのう)

 

 パートナーの発言を受けたタバサは考えた。すぐさま、とある結論に辿り着く。

 

「まさか、ジョゼフ王はエルフと通じている……?」

 

 タバサはその考えを口にした後――初めてジョゼフ王に対して心からの畏れを抱いた。

 

(それなら納得がいく。母さまを狂わせた薬の入手先が一切わからなかったこと。どれほど探し求めても解除薬の入手はおろか、作るための手がかりすら得られなかったことについても……)

 

 ジョゼフとエルフが秘密裏に繋がっているとなれば、これらの謎について容易に説明がつく。しかし、コルベールがその考えを遮った。

 

「ミス・タバサ。あくまでそれは推論ですぞ? 結論を焦ってはいけません。確か、ガリアの東端はエルフの住まう土地と国境を接していたはず。私が実際にそこへ行ったわけではありませんが、かの地には、ごく僅かながら東方諸国やエルフと交易をする商人たちがいると書物で読んだ記憶があります」

 

 タバサは小さく頷いた。

 

「アーハンブラ城。砂漠(サハラ)西端の丘にある都市。オアシスと隣接する極東の交易地」

 

 それを聞いた太公望が、首を捻って呟いた。

 

「もしかすると、そこからの伝手で例の薬を入手したのかもしれぬな。だが、エルフと裏で何らかの取引をしている可能性も否定できない状況だ。どちらにせよ、ジョゼフ王が容易ならざる『手』の持ち主であることに変わりはない。気を引き締めてかからねばのう」

 

「ミスタの言う通りだわ。どんな状況でも動けるようにしておかなきゃいけないわね」

 

 キュルケの意見に頷いた太公望は「そういえば……」と手をぽんと叩いた。

 

「その件で思い出したのだが。例の娘御について、タバサの母君に念のため確認をしておいたほうがよかろう。そうでないと、あの者が人質になっていたからこそ、おぬしたちへの監視が緩かったという可能性を捨てきれぬのだ」

 

 ――例の娘。夢の中で出逢った、タバサにそっくりの少女。タバサを「おねえさま」と呼び、オルレアン公夫人の記憶の中へ消えていった謎の存在。

 

「わかった。このあと聞きに行く」

 

 そして、タバサはさらなる衝撃を受けることとなる。

 

 

○●○●○●○●

 

 オルレアン公夫人は最初にその話を聞いたとき――心の内に秘めた動揺を娘に悟られまいとするだけで精一杯だった。しかし、その『陽光の少女』が最後に言い残したというメッセージを耳にした途端。両手で顔を覆い、首を左右に何度も激しく振った。

 

「おおおお……そんな……まさか、あの子が、このわたくしを……?」

 

 オルレアン公夫人は指の隙間から絞り出すような嘆き声を紡ぎ出した。

 

「許してちょうだい。いいえ、憎んでちょうだい。シャルロット……あなただけではなく、あなたの実の妹すら救ってやれなかった、この無力な母を……」

 

 ごめんなさい……ごめんなさい……。ひたすらにそれだけを呟きながら、両目からとめどなく涙を溢れさせる母を、タバサはただ静かに抱き締めることしかできなかった。

 

 ――それからしばしの時が流れ。

 

 ようやく落ち着きを取り戻したオルレアン公夫人は、娘に語り始めた。タバサ――シャルロットが誕生した十五年前。ティールの月・ヘイムダルの週・エオーの曜日、八時十分過ぎにオルレアン公邸の一室で起きた出来事について。

 

「シャルロット。あなたは知っていますね? ガリア王家の紋章に隠された意味を」

 

「はい。交差した二本の杖は、遙か昔に王冠を巡り共に倒れた双子の兄弟を慰めるための……」

 

 そこまで言ってタバサは気が付いた。母がこれから自分に対して何を話そうとしているのか。

 

「あの日、この世に生まれ落ちたのは……シャルロット、あなただけではなかったのです。あの運命の日。わたくしたち夫婦は天よりふたりの子を授かりました」

 

 ――ガリア王家における最大の禁忌、それが『双子』。

 

 かつて国内で起きた血で血を洗うような内紛と悲劇を繰り返さぬため、王家に連なる者に双子が生まれると、後に生を受けた者の命を奪う、あるいは二度と世間に戻ることが叶わぬ程遠い場所へ流す――捨てるという習慣がある。

 

「ガリア王族の禁忌がゆえに……あの子の命を奪うか、あるいは決して他人の目に触れぬ場所へと流すか。そのどちらかを選ぶしかなかったのです。何故なら、あのときのわたくしたちは王族であることを捨てることすら許されなかったから!」

 

 オルレアン公夫人はタバサの身体にしがみつき、大声で泣いた。

 

「だから、わたくしたち夫婦は選んだのです。あなたの妹を遙か遠い地へ捨てることを。あの娘がその後どうなったのか……どこへ流されたのかすら、わたくしは知りません。我が子の行方を尋ねることすら許されなかったのです――禁忌がゆえに」

 

 滂沱の涙を流しながら、許しを請う巡礼者のように夫人は言葉を紡いだ。

 

「それなのに……あの子は……名前すら、つけてやることができなかったあの子が! この非情な母を、ずっと、護って……くれ……て……おお、おおお……!」

 

 泣きじゃくる母親を胸に抱きながら、タバサは震えていた。

 

(わたしに双子の妹がいた。しかも妹は……遠い地へ捨てられて、行方不明……)

 

 〝召喚魔法(サモン・サーヴァント)〟がどうして自分と太公望を結びつけたのか。タバサはようやくその理由がわかったような気がした。

 

 十二歳で劇的に変わった運命、同じ『雪風』を纏う者、復讐を胸に抱いて歩んだ壮絶な人生、そして――生き別れになった双子の兄弟との邂逅。もはや偶然などという言葉では語れない。これはきっと、必然だったのだ。

 

(もしも、わたしが彼と出会うことなく、今の『道』をそのまま突き進んでいたら……)

 

 父を殺されたことに対する復讐だけではなく、王位の正当性を理由に軍勢を率いて、現王家を滅ぼすために動いていたのかもしれない。そしてその先に――血を分けた双子の妹と敵対する運命が待ち受けていたのだ。

 

 その後ガリアは大きく衰退し……ついには、ひとが住める場所ではなくなるほどに朽ち荒れ果ててしまうのかもしれない。

 

(でも、わたしたちガリアの民は、彼ら〝コンロン山〟のひとびとのように移住可能な土地も、それを可能とする『星の海を征く船』も持っていない。だから、きっとその後に――ほぼ間違いなく、住む場所を失った民と、そうでない者たちの間で争いが起こる。ハルケギニア全土を巻き込むほどに大きな戦乱が……)

 

 この地に住まう全ての者が、生きるための場所を確保するために、杖を、あるいは剣を持つ。それをきっかけに引き起こされる世界規模の戦争。そんなことになれば、間違いなく大勢の血が流れるだろう。もしかすると……それだけでは収まらず、エルフたちと争うのかもしれない。

 

 そうして、最後には全てが滅んでしまう――。

 

(だからこそ『始祖』ブリミルは、それを防ぐために召喚事故を起こし、彼をわたしの元へ遣わしたのだ。わたしの個人的な復讐をきっかけに始まるガリアの衰退と、それに続く滅亡の運命を回避するために。彼の故郷と同じ、滅びへの『道』を歩ませないために……)

 

 ブリミル教に対する信仰心が極端に薄いタバサがそう思い込んでしまうほどに、ふたりの境遇は似ていた。似過ぎていた。だからこそタバサは決意した。ならば、わたしは歩むべき『道』を――ここで大きく変えようと。

 

「母さま、もう泣かないで。わたしがあの子を探し出してくるから」

 

「……え?」

 

「不思議なことだけれど、わたしにはわかるの。妹は……どこかで無事に生きているって」

 

 娘の言葉に、オルレアン公夫人は顔を上げた。

 

「そのためにも、わたしは今のまま北花壇騎士(ノールパルテル)のひとりとして、ガリア王家からの仕事を請負い続けようと思います」

 

 涙で潤んだ母の目をじっと見つめながら、タバサは言葉を続けた。

 

「でも、今更ジョゼフ王に忠誠を誓うこともできません。こうして母さまたちを逃がしてしまってから、それを正直に明かしても……叛意ありと受け取られて、今度こそ母娘揃ってヴェルサルテイル宮殿の城壁に首を並べることになりますから」

 

 あの『人形』とのすり替え工作が絶対に見破られないなどという保障はどこにもない。だが、タバサはそれを隠し、愛する母に向かって微笑んだ。

 

「シャルロット、あなた……何を言って……」

 

「だから、今までと変わらぬ態度で王家に仕え続けます。北花壇警護騎士団はガリアの裏に通じています。あそこなら、妹のもとへ繋がる何かが見つかるでしょう。そこで、あの子を探し出すことができたなら……」

 

 母を抱く腕に力を込め、タバサは新たな誓いを述べた。

 

「家族揃って、仲良く静かに暮らしましょう。貴族の地位も、あの湖畔の屋敷も、何もかも捨てて……ガリアから遠く離れた……ここ、ゲルマニアの地で」

 

「おお、シャルロット……! おお、おおおお……」

 

 ――こうして。『雪風』を纏う少女は本来歩むはずであった歴史から大きく逸れ……父の死に関する真実と、妹の行方を追うための『道』を歩み始めた。

 

 

 




実際には相打ちではなく、トドメを刺したのはタバサでした。
しかしそのための隙を作り、覚醒のきっかけを作ったのがジル。
そのため、こういう表記としました。


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指輪易姓革命START
第59話 理解不理解、盤上の世界


 ――雪風の姫君がゲルマニアで新たな『道』を歩み出したのと、ほぼ同じ頃。

 

 トリステインの王都トリスタニア、市街地中央を走るブルドンネ通りの突き当たりにある王宮。その最上階にある一室で、ひとりの可憐な少女が若く美しい顔に似合わぬ愁いを帯びた表情で、眼下に映る都市を眺めていた。

 

 気品のある顔立ちに艶やかな栗色の髪。白く輝く肌と南の海のような淡い碧眼に高い鼻が目を引く見目麗しいその美少女は、やや青みがかった白いドレスを身に纏い、ほっそりとした手に大きな水晶の飾りがついた杖を持っていた。杖と都市を行き交う人々の姿を交互に眺めながら、何度も何度も、繰り返しため息をついている。

 

 と、そんなところへ王宮仕えの侍女が現れた。

 

「姫殿下、ラ・ヴァリエール公爵閣下が面会をお求めになっておられます。只今控えの間においでですが、いかがなさいますか?」

 

 疲れた様子の少女を気遣っていたのだろう侍女は、ぱあああっと顔を輝かせた姫君を見て驚く。しかし王宮に勤めて長い彼女はそれを表に出さず、姫の指示を待った。

 

「すぐにお通しして」

 

「かしこまりました」

 

 命令を受け取った侍女が退出すると、少女はふうと息を吐き出した。

 

(大丈夫。あの方ならば、きっとうまくやってくださったはず……!)

 

 麗しき姫君は胸中に大きな不安と深い悩みを抱えていた。それは日を追うごとに大きくなるばかりだったのだが――ごく最近、そんな彼女の心に安らぎを与えてくれる人物が現れた。

 

 それがラ・ヴァリエール公爵だ。

 

 これまで国境の守備と自領運営のため、国政参加を固辞してきた公爵が議会に顔を出すようになった。それを「あの穴熊にも野心があったと見える」などと嘯いている者もいるようだが、実際には違うと理解している。ここ最近になって、国防上無視できない案件が持ち上がったからだ。

 

 公爵が居室内へ通されてきたとき。彼女は思わず声を上げ、心から信頼している遠縁の叔父の元へたたっと駆け寄っていった。

 

「ラ・ヴァリエール公爵!」

 

「これはこれは、アンリエッタ姫殿下御自らお出迎えくださるとは、感激の至りでございます。老骨に鞭打って参内した甲斐がございました」

 

「まあ、公爵ったら! わたくしをからかっていらっしゃるのね」

 

 それを聞いたラ・ヴァリエール公爵は大げさに両腕を広げ、首を左右に振った。

 

「そんな、畏れ多い! このわたくしめが姫殿下をからかうですと!?」

 

 そう言って、公爵はにっこりと姫君へ笑いかけた。少女――アンリエッタはその笑顔に思わず釣られて微笑んだ。それから、すっと左手を公爵の前へ差し出す。ラ・ヴァリエール公爵は姫君の前へ静かに歩み寄ると、片膝をついて恭しくその手をとり、軽く口づけた。

 

 公爵を出迎えた少女の名はアンリエッタ・ド・トリステイン。この国の王女だった。姫君は挨拶も早々に本題を切り出す。

 

「それで、首尾のほうはいかがでしたか?」

 

 姫の言葉に、公爵の顔が少し陰った。

 

「正直なところ、芳しくありませぬ。相変わらず王政府議会の意見は三つに割れており、今日も過半数を取れませんでした。アルビオンへ援軍供出の問い合わせをするというだけで、この始末。国内の一部有力貴族から支援に関する協力を取り付けることはできましたが、まずはこれを通さぬことには内政干渉と受け取られてしまいます」

 

 アンリエッタ姫は眉をひそめた。

 

「何故です! どうして同盟国であるアルビオン王国へ我が国からの協力が必要か否かの問い合わせをしようとするだけで、こんなにも意見が割れるのですか? 馬鹿なひとたち! このままアルビオンが陥ちたなら、次に狙われるのは、ほぼ間違いなく我がトリステインなのですよ!?」

 

 姫君の言葉に、公爵は重々しく頷いた。

 

「まさに姫殿下の仰る通りです、彼らには何故それがわからぬのでしょう。はっきり申し上げて、このわたくしにも理解できませぬ」

 

 深くため息をついた公爵に、アンリエッタは問いただした。

 

「ラ・ヴァリエール公爵、そしてグラモン伯爵とその一派が賛成側に回っているのは既に承知しています。現時点で、未だに反対を唱えているのはどの派閥なのです?」

 

「おもに高等法院に属する者たちです。彼らはみな一様に『まずは国内の乱れを正すことが先決』そう触れ回っております。マザリーニ枢機卿とその周囲は中立を保っています。せめて、どちらか片方をこちら側へ取り込むことができれば、話は早いのですが……」

 

「かの『鳥の骨』を動かすことは、公爵の手腕をもってしても難しいと?」

 

 それを聞いたラ・ヴァリエール公爵の片眉がピクリと動いた。

 

「姫殿下! そんな街女が口にするような二つ名で枢機卿猊下を呼ぶなど!」

 

 姫の口先がつんと尖った。

 

「これぐらい、別にいいじゃない。なにせこのトリステインの王さまは彼なのですから。ラ・ヴァリエール公爵は街で流行っている小唄をご存じ? トリステインには美貌はあっても杖がない。杖を握るは枢機卿。灰色帽子の鳥の骨……」

 

「姫殿下。わたくしをこれ以上困らせないでください」

 

 苦笑いをする公爵を見たアンリエッタ姫は、それで少し気が晴れたのだろう。クスリと笑って先を促した。ラ・ヴァリエール公爵はこほんと軽く咳払いをすると、現状報告を再開する。

 

「マザリーニ枢機卿は現在隣国ゲルマニアとの軍事防衛同盟の成立を目指して動いております。ですから、彼は中立を保っているのです。わたくしの見立てですと、アルビオンが陥落した場合に備え、先の先を読んで手を打つつもりなのでしょう。トリステインを生き残らせるための、まさに苦肉の策ですな」

 

「アルビオンが陥ちぬよう、先に援軍を出せばよいではありませんか!」

 

 姫が思わず発した抗議の叫び声を、公爵は宥めるような口調で取りなした。

 

「常に複数の『道』を用意しておくのは、政治における基本です。わたくしと鳥の――ゴホン。マザリーニ枢機卿とは意見こそ異なっておりますが、方策として間違ってはいないので責めるわけにも参りませぬ。送り込んだ援軍が王党派と共に敗れた場合、トリステインは文字通りの窮地に立たされますから」

 

「諸侯軍の供出を求めても、ですか?」

 

「少なくとも、現状で我がヴァリエール家から兵を出すわけには参りませぬ。これは、姫殿下なら言わずともおわかりかと存じますが」

 

「……そうですわね。ゲルマニアとの国境を守護する公爵家の兵たちは絶対に動かせません。なるほど、マザリーニ枢機卿の外交政策はそれを見越したものでもある、ということですね」

 

「左様でございます」

 

 それなら確かに責められない。諸侯軍――貴族たちの抱える兵は、ある意味国の切り札。中でもラ・ヴァリエール公爵が率いる国境防衛軍は国防の要、最後の砦なのだ。彼らをアルビオンに送り込んで疲弊したところをゲルマニアに狙われたりしたら、目も当てられない。そうならないよう行動するマザリーニについては理解できた。

 

「ですから、攻め落とすのならば高等法院側なのですが……これがなかなかうまくいかずに困っております。まったくもって、力不足で申し訳ございません」

 

 そう言ってうなだれたラ・ヴァリエール公爵に、アンリエッタは労いの言葉をかけた。

 

「いいえ、公爵は本当に良くやってくださっているわ。わたくしなど、ひとりでは何もできず……こうして公爵にばかり頼りきっている状態なのですから。いまわたくしの手元にあるのは、これこの通り。王国の姫という名の、単なるお飾りの身分だけ」

 

 両の手を合わせ、アンリエッタは小さく首を振り、自分の不甲斐なさを嘆いた。

 

「アルビオン――テューダー家のひとびとは、わたくしの親戚だというのに……彼らに手を差し伸べるどころか、声を聞くことすらできない。今のわたくしは鳥籠……灰色の骨によって作られた檻に閉じこめられた、自由に鳴くことすら叶わぬ無力な小鳥なのです」

 

 深いため息をついた姫に、ラ・ヴァリエール公爵は悔しげな呟きを漏らした。

 

「ああ、このわたくしめにもっと〝力〟があれば姫殿下にそのような御顔をさせずとも済みますものを。我が身の何たる不甲斐なさよ! 姫殿下におかれましては誠に、誠に申し訳なく……!」

 

 床に崩れ落ちるようにして膝をつき、両手で顔を覆って無念を噛みしめるラ・ヴァリエール公爵の姿を見たアンリエッタ姫は感極まったといった表情を顔全体に浮かべ、彼の手を取った。

 

「ああ、公爵! ラ・ヴァリエール公爵! そんなことを言わないでちょうだい! 母があのような状態である今……わたくしにはもう、あなたしか頼れるひとがいないのです。同じトリステイン王家の血を引く、公爵だけが頼りなのです」

 

「姫殿下……ッ!」

 

 ラ・ヴァリエール公爵のほうも姫君と同じく感極まったといった体であった。そんな彼の両目からは大量の水が滂沱と流れ落ちている。

 

「もったいのうございます。そのお言葉だけで充分でございます。トリステイン王家にお仕えして幾星霜、これほど感激したことはございませぬ。姫殿下より頂戴したお言葉と信頼を無駄にせぬためにも、我が公爵家の総力を挙げて、かの議題を通してご覧に入れます」

 

「おお、ラ・ヴァリエール公爵……!」

 

 アンリエッタ姫はこの頼もしき味方――幼い頃から実の父のように慕ってきた公爵の言葉に心を打たれた。

 

(ラ・ヴァリエール公爵家はわたくしと同じ『始祖』の血を引き、祖父の時代からわたくしたち王室に仕えてくれている忠義のひと。この方をもっと大切にしなければいけないわ。そうだ、父さまがよく仰っておられました。『忠誠には報いるものがなくてはならぬ』と)

 

 アンリエッタ姫はラ・ヴァリエール公爵の忠義に対し、自分ができることを考えた。そして彼女は決断した――それが、いったいどんな意味を持つのかを知らずに。

 

 姫君は右手の薬指に填っていたものをすっと引き抜くと、未だ床に蹲っていたラ・ヴァリエール公爵の手に乗せた。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。これを受け取ってください」

 

 己の手に乗せられたものを見たラ・ヴァリエール公爵は目を剥いた。

 

「こ、これは……!?」

 

 もちろん、彼は知っていた。今、自分の手にあるものが何であるのか。

 

「先日、母后から戴いた『水のルビー』という指輪です」

 

 静かに微笑むアンリエッタ姫と、手の中にある『水のルビー』を、ラ・ヴァリエール公爵は信じられないものを見るような目つきで交互に眺めた。

 

「ひ、姫殿下! わたくしめがこれを受け取るわけには参りませぬ!」

 

 慌てて『指輪』を返そうとした公爵を、だがアンリエッタ姫は遮った。

 

「忠誠には報いるところがなければなりません。嫌な話ですが、宮廷政治にはお金がかかるものと聞き及んでいます。いざというときはそれを売り払って資金に変えてくださっても一向に構いませんわ」

 

 それを聞いた公爵は、思わず息を飲んだ。それから彼はすぐさま気が付き――戦慄した。

 

(アンリエッタ姫殿下はこの『指輪』にどういう謂われがあるのか、全く知らない。いや、マリアンヌ王妃殿下から教えられてすらいないのか!)

 

「し、しかし……この『指輪』を頂くということは……」

 

 本当にこれを受け取ってよいものかどうか、公爵は迷った。彼の手の上では『水のルビー』が小さく踊っていた。何故なら、彼の両腕、両掌が……ふるふると震えていたから。

 

「これは命令です。返還はまかり成りませぬ」

 

 その言葉を最後にぷいと横を向いてしまった姫君へ、公爵は心底参ったといった声で呟いた。

 

「ならば……しばし、この『水のルビー』は当家でお預かり致します」

 

 公爵が提示したその代案にもアンリエッタ姫は頷かなかった。

 

「わたくしは、あなたに下賜すると申しているのです」

 

(姫殿下に考え直していただくのは難しそうだ。とはいえ真実を告げるのも不敬にあたる。いや、忠義と盲信は別なのだ、この場でしかと忠言を……それはそれで笑顔で渡されそうな気がするな。今、そうなるのは拙い。仕方あるまい、ここは素直に受け取っておこう。ただし――後々のことを考えると下手に流すわけにはいかん)

 

 そう考えたラ・ヴァリエール公爵はすぐさまこの突発事態に対応すべく、全く別の方向からアンリエッタ姫に反撃を加えることにした。

 

「左様ですか。それでは姫殿下のご意志(・・・・・・・)として、ありがたく頂戴致します」

 

 そう告げた後、懐から取り出した絹布にうやうやしい手つきでもって『指輪』を包もうとしたラ・ヴァリエール公爵は、その前に改めて『水のルビー』とアンリエッタ姫の顔を交互に見遣りながら、こう言った。

 

「それにしても姫殿下は思い切ったことをなさいますな! わたくしはこの指輪は姫殿下が想い人と交わす婚約指輪として相応しい品なのではと、つねづね思っていたのですが。たとえば……そう、アルビオンのウェールズ皇太子殿下と」

 

 それを聞いたアンリエッタ姫は目を丸くした。次いで、白く透き通った頬をすっと朱に染める。

 

「ど、どうして公爵がそれを……?」

 

 絹布で包み込んだ『指輪』をそっと懐中へと仕舞いつつ、とびっきりの悪戯を成功させた子供のように瞳を煌めかせた公爵はその表情とはまるで正反対の――実に重々しい口調で告げた。

 

「三年前……わたくしと共にラグドリアン湖畔で行われた園遊会に出席していた我が末娘ルイズの髪の色が、いつのまにか艶やかな栗色に染められておりましてな。いくら本人に問いただしても、あの子は頑ななまでにその理由を話そうとしなかったのですよ」

 

 ――ラグドリアン湖畔の園遊会。それは今からちょうど三年前。マリアンヌ王妃の誕生日を祝う……というのは名目上のこと。実際には最愛の夫である国王ヘンリー三世を失い、塞ぎ込みがちであった彼女を慰めるために世界各国から多くの賓客を招いて執り行われた、社交と贅を尽くした席のことである。

 

 そこで、アンリエッタ姫はひとりの青年に恋をした。

 

 彼の名はウェールズ・テューダー。『白の国』アルビオンの皇太子にして、亡き父の実兄である現アルビオン王国国王ジェームズ一世の一人息子。つまり、彼らは従兄妹同士ということになる。

 

 きらきらと水面輝く湖畔で、彼らは偶然と呼ぶには出来すぎた出逢いを果たした。いつしかふたりは惹かれあい、二週間もの長きに渡って――しかし恋するふたりにとっては短すぎる園遊会の間、逢瀬を重ねた。

 

 だが、よりにもよって一国の王女が夜半過ぎに天幕を抜け出して外へ出ることなど、普通に考えれば不可能だ。それを可能にしたのが、アンリエッタ姫の幼なじみであり、遊び相手を務めていた少女の存在だった。

 

 アンリエッタ姫は少女――ルイズに自分の『身代わり』になってくれるよう頼み込んだ。「他でもない姫様のご命令であれば……」と、ルイズは素直にそれを引き受け、姫君が用意した魔法の染料によって自分の髪をアンリエッタ姫と同じ綺麗な栗色に染めると――そのまま王女の天幕に詰め切っていた。

 

 もちろん、アンリエッタはルイズにウェールズ王子と会うためだなどと打ち明けてはいない。

 

「息の詰まる催しの数々で、もううんざり! ひとりだけで、少しだけ気分転換がしたいの」

 

 そう話していたのだ。なのに、どうしてラ・ヴァリエール公爵がそのことを知っているのか。姫君はやきもきしながら公爵の言葉を待った。

 

「ルイズはああ見えて頑固ですからな。それで、仕方なく姫殿下の天幕近くに我が手の者を複数名伏せておきましたところ……なんと! フードを目深に被った姫殿下が湖畔の方角へ走ってゆかれるのを目撃してしまったと。まあ、こういうわけでございまして」

 

 アンリエッタの顔はまるで熟れた苺のように真っ赤になった。

 

(見られていた! わたくしたちが密会していた場面を!)

 

 恥ずかしさのあまり、アンリエッタは何とかこの空気を変えようと必死に頭を回転させた。そこで、彼女ははたと思いついた。今の話からそれほど外れてはおらず、かつお互いにとって共通の話題があるではないか。

 

「こ、ここ公爵。ところで……その。ル、ルイズは、最近どうしていますの? 昔はよく伝書フクロウを飛ばしてくれていたのですが、魔法学院へ入学してからというもの、すっかり交流が途絶えてしまって」

 

 かなり無理矢理な話題転換であったが、ラ・ヴァリエール公爵は顔色ひとつ変えず、真面目くさった表情で答えた。

 

「今は夏期休暇で屋敷へ戻っております。連日、我が妻カリーヌの指導を受け〝飛翔(フライ)〟の練習を繰り返しておりますが、これがなかなかの上達ぶりでしてな! あまりの速さに、もうこのわたくしではふたりに追いつくこと叶いませぬ」

 

 表情は全く動いていないが、しかしどこか嬉しげな声で紡ぎ出されたその言葉にアンリエッタの気持ちが一挙に華やいだ。

 

(わたくしのおともだちが! あの、どんな魔法も失敗させてしまっていた幼なじみが、ついに系統に目覚めることができたのね! ああ、本当に良かった……)

 

 心優しい姫君は、まるで我が事のように喜んだ。

 

「まあ! ラ・ヴァリエール公爵が〝飛翔〟で追いつけないですって? と、いうことは……つまり、わたくしの大切な『おともだち』は〝風系統〟に目覚めたのね」

 

「大切な『おともだち』などと……もったいないお言葉です。姫殿下がそのように仰ってくださったとルイズが知れば、さぞ喜ぶことでしょう」

 

 先程までとは一転。笑み崩れた公爵の顔を見たアンリエッタ姫は小さく微笑んだ。ラ・ヴァリエール公爵が三人の娘たちを目に入れても痛くないほどに可愛がっているというのは、宮廷内部でも有名な話だ。こうなれば、もう会話は彼女のペースである。

 

「わたくしはルイズが系統に目覚めたという報せのほうが嬉しいですわ! あの子はずっとひとりで苦しんでいましたからね。ああ、ルイズ! ルイズ・フランソワーズ! 久しぶりに顔を見たいものだわ!」

 

 姫君の言葉を聞いたラ・ヴァリエール公爵は「それでしたら……」と申し出た。

 

「夏期休暇は長いですからな。姫殿下のご都合がよろしい時に、王宮へ連れて参りましょう」

 

 アンリエッタは公爵の申し出に飛びついた。鬱々としていた日々を過ごしていた彼女にとって、今、何よりも必要だったのは……気を許せる友人とゆっくりと語らう時間だった。

 

「わたくしの都合などと! たとえ予定が入っていたとしても、そのようなものは全て後回しにしてしまえばよいのです!」

 

「姫殿下! 王族たるもの、間違ってもそのようなことを申してはなりませぬ」

 

「まあ、公爵。あなたまで枢機卿のようなことをおっしゃるのね!」

 

 心外だとばかりに口を尖らせた姫に、公爵は至極真面目な顔で切り返した。

 

「こうして苦言を呈しますのも、臣下として当然の務めでございますれば」

 

 だがしかし。その言葉を発し終えた直後、ラ・ヴァリエール公爵は大きな笑みを浮かべていた。

 

「で、ご都合はいかがですか? アンリエッタ姫殿下」

 

 それを見たアンリエッタ姫は実に満足げに……見た者全てが傅くような優雅な微笑みでもって、こう答えた。

 

「ラ・ヴァリエール公爵は明日も王宮へいらっしゃいますの?」

 

「もちろんでございます。アルビオンの件は、まさしく急務ですからな」

 

「それでしたら、明日一緒に連れてきてくださいな。久しぶりにルイズとお茶を楽しみたいわ」

 

「姫殿下の仰せとあらば、わたくしめに否などございませぬ」

 

 その後、ふたりは揃って笑い声を上げた。

 

 

 ――それからしばらくして。

 

 ラ・ヴァリエール公爵が退室した後。アンリエッタは再び深いため息をついた。

 

「トリステインでいちばんの権勢を誇る、あのラ・ヴァリエール公爵ですら議会を完全に掌握できないだなんて。いったい、この国はどうなってしまうのかしら……」

 

 ついつい憎まれ口のようなものを叩いてしまったが、マザリーニ枢機卿がよくやってくれていることはアンリエッタにもわかっている。今すぐ即位して彼と同じ事をしろと言われても、まず無理だと思っていた。それこそ国の崩壊を招きかねない。

 

 それに。アンリエッタ姫の王位継承権は現在第二位。第一位の継承権を持つ彼女の母親は、数年前に亡くなった父王の喪に服し続け、数多くの貴族たちから意見されているにも関わらず、未だに即位しようとしない。そのため、ずっとトリステインの王座は空位のままだ。

 

「母さまがご病気だという話は、やはり本当のことなのかしら……」

 

 嫌でも耳に入ってくる、宮廷雀たちの噂話。そこでまことしやかに語られるのはアンリエッタの母・マリアンヌ王妃が心の病を患っているという内容である。

 

 曰く、仲睦まじかった夫君――先王陛下崩御の折に、王妃さまはあまりの悲しみに耐えきれず、心が壊れてしまった。それがゆえに、一切国政に携わることなく自室にただひとり閉じ籠もり続けておられるのだと。

 

 確かにここ数年間の母の様子はおかしいと、アンリエッタ姫はつねづね思っていた。

 

 快活で笑顔に満ち溢れていたかつての姿が幻であったかのように、今のマリアンヌ王妃は暗い影を帯びていた。娘であるアンリエッタが部屋を訪れても、ほとんど笑うことがない。母はただ、寂しげに頷き……小声で挨拶の言葉を呟くだけだ。

 

 ここ最近で、何か変わったことがあったかといえば――。

 

「これはあなたのものです」

 

 ただそれだけを告げ、あの『水のルビー』を自分の右手薬指に填めてくれたことだけだ。

 

「このわたくしに、もっとできることがあればいいのに……」

 

 そう呟き、再びため息をついたアンリエッタは窓を開け――天に祈った。

 

「おお、始祖ブリミルよ。どうかこのトリステイン王国を、そして今は遠きアルビオンを、あまねく平和へとお導きください……」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――王宮からの帰り道。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は竜籠の中で小さく震えていた。彼の手の中では『水のルビー』が、その名に相応しい深き水の如き色を湛え、静かに輝いている。

 

「まさか……このわしが『指輪』を継承することになろうとは……」

 

 愛娘ルイズの〝系統〟を確定させるため、少しのあいだだけマリアンヌ王妃から借り受けることができればよい。ラ・ヴァリエール公爵はそう考えていただけなのだ。

 

 ――水のルビー。

 

 それはトリステイン王家設立の際に『始祖』ブリミルより賜ったとされる、伝説の秘宝である。以後六千年もの間、王家の者たちの手によって護られ……連綿と受け継がれてきた。そして、その伝統ある役目を負うべき者は『王権の継承者』。

 

 そう。本来であれば、この『系統の指輪』を持てる者は、国王。あるいは次期王位継承者として既に定められている者に限られる。これはなにもトリステイン王家だけが守り続けてきた伝統ではない。『始祖』ブリミルの血を引くハルケギニアの三王家全てに共通する習わしなのだ。

 

 ただし、それが時を経るごとに形骸化しつつあることも事実。

 

「ガリアやアルビオンでは今でも戴冠式に用いられているが、トリステインでより重視されているのは指輪ではなく祈祷書のほうだからな……それも、結婚式に詠み上げるだけだ」

 

 ラ・ヴァリエール公爵がこれらの儀式に詳しいのは、若い頃先々代国王フィリップ三世の側に仕えていたことが大きい。自ら「政治が苦手」と公言していたかつての王に、式典の手配に関する報告書の確認やら他国の祝い事に参加するための準備などの諸々を丸投げされてきたからである。

 

 とはいえ、この指輪が代々王権の象徴となってきたのは間違いのない事実なのだ。

 

 本来であれば数年前、新たなロマリア教皇が誕生した際にも『炎のルビー』と呼ばれる始祖の指輪がその地位と共に受け継がれるはずだった。ところがかの秘宝は二十年ほど前に盗難の憂き目に遭い、その行方は現在に至るまで杳として知れない。

 

 その『象徴』が。つい先日までマリアンヌ王妃がその指に填めていた、王家の秘宝が。いつのまにかアンリエッタ姫の右手で静かに輝いていたばかりか、なんと自分の手元へ転がり込んできてしまった。

 

 ――ラ・ヴァリエール公爵は、突如のし掛かってきた重圧に打ち震えていた。

 

 確かに、公爵はトリステインを護るために立たんとしていた。しかし彼は、現王家を打倒して王座を奪おうなどとは、露ほども考えていなかった。

 

 アンリエッタ姫殿下の覚えを良くし、危機を乗り越えるまでは摂政としてマザリーニ枢機卿と共に政治の杖を振るう。あるいは王政府議会を通じて――宮廷内で国に対する危機感を大いに煽り、元王家から自然に王位を禅譲される方向で動く心づもりでいた。そのためにグラモン伯爵をはじめとした信用のおける極々一部の有力貴族と内通し、いずれに転んでも問題がないよう、既に協力を取り付けることに成功している。

 

「既にわかっていたことだが……やはり、マリアンヌ様はご病気であらせられるのだ……」

 

 王権の象徴とも呼べる水のルビーを娘に手渡す。つまり、彼女は王位継承権を完全に放棄し――娘に譲り渡したのだ。にも関わらず指輪に関する口伝を次世代の継承者に一切申し渡していないとは正気の沙汰とは思えない。それに、姫にその情報が伝わっていないということは……マザリーニ枢機卿にも『継承』が行われた事実が知られていないに違いない。公爵はそう判断した。

 

 だが、これは受け取り方によっては――アンリエッタ姫は自ら王位継承権を放棄し、第三位の継承権を持つラ・ヴァリエール公爵へトリステインの王権を平和裏に禅譲したとも言える。

 

 少なくとも、マザリーニ枢機卿がこの指輪の在処を知れば――今後、ラ・ヴァリエール公爵と敵対することはなくなるだろう。いや、むしろ協力して事に当たれるに違いない。何故ならロマリア出身で、かつ教皇候補と目された彼なら、この『系統の指輪』の価値と意味を良く理解しているはずだから。

 

「やはり、これは……わしに与えられた天命なのだろうな……」

 

 正統な王権は、王位継承権を持っていた姫殿下が自らの意志でもって公爵に下賜したのだ。彼がこれから行おうとしていることは、断じて王位簒奪などではない。しかも、ラ・ヴァリエール公爵はアンリエッタ姫に何度も意思確認を取っているのだ。当初は受け取れないと。次に、当家でしばしお預かりすると。そして最後に――ならば意志を継ぎますと。

 

「この事実を姫殿下……それと、マザリーニ枢機卿を交えて再度確認するのがよかろうな。信頼のおける証人たちの前で」

 

 だがしかし、その前にすべきことが山ほどある。公爵は水のルビーを再び絹布に包んで懐中に仕舞うと、手元に置いてあった資料に目を通す。

 

「ふふッ、ジャンは……ワルド子爵は早速期待に応えてくれた。なるほど、高等法院の参事官どもが揃って援軍供出反対を唱えるわけだ。あのリッシュモン高等法院長が『レコン・キスタ』と通じていたとなれば、それも道理だろう」

 

 ――リッシュモン高等法院長。数十年の長きに渡ってトリステイン王家に仕える政治家にして、王国の司法権を担う機関・高等法院の長である。

 

 国の法律を司る重職にありながら、その裏では金に汚い政治家として名を知られた男だ。ラ・ヴァリエール公爵のような誇り高く潔癖な貴族にとって唾棄すべき行為をこれまで散々行ってきているのだが、しかし。いつもその証拠が挙がる寸前で見事逃げ切ってしまうという、実に狡猾な面を持つ人物でもあった。

 

 その男が、今度は王家を他国へ売り渡すに等しい行為をしているのだ。これが明るみになれば、罷免程度では済まない。良くて投獄、普通に考えれば火あぶりの刑は免れない。国家の安全機密を漏らすということ、これ即ち大逆罪であるからだ。

 

「とはいえ、今の段階で奴を抑えるのは色々な意味で危険だ。むしろ、泳がせておいたほうがよかろう。各種情報、周囲の人間、そして金――あらゆる流れを見て、それからだな。あの男を処断するのは」

 

 立派な口髭をしごきながら、公爵は独りごちた。

 

「いや、事と次第によってはこちら側に取り込むことも考えておいたほうがよかろう。あれほど狡猾な男だ、使い方次第では間違いなく今後の役に立つ。毒も、少量ならば薬に変わる。政治というものは綺麗事だけでは済まないものだからな。その程度のことができずして、荒れ狂う国の舵取りなどできるものか」

 

 公爵は完全に腹をくくった。最早、好き嫌いを言っている場合ではないのだ。清濁併せ飲むことができなければこれから先が思いやられる。

 

 そして、ラ・ヴァリエール公爵は……袖口裏の隠しポケットから、既に空となった目薬の瓶を取り出すと――それを片手でいじりながら、善後策を検討し始めた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――公爵が灰色に染まる覚悟を決めたのと、ほぼ同刻。

 

 ガリアの王都に建つ巨大な宮殿群・ヴェルサルテイル。その一画に在る王の居室にて。ハルケギニア全土を模した壮大な模型を前にした蒼き髪の狂王・ガリア国王ジョゼフ一世は大声で嗤いながら――その両手でもって、何かを動かしていた。

 

「よしよし。これで準備はほぼ整ったな。あとは、こいつをどう取るかだ! 本格的に面白くなってくるのはここからなのだ。よくよく考えて作戦を立てねばならぬな!」

 

 現在彼が手にしているのは、黒曜石で作られた『フネ』の精巧な模型であった。

 

「アルビオン王国艦隊旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号。備砲は、両舷合わせてなんと百八門! おまけに竜騎兵まで積み込める巨大戦艦だ。いいぞ、実に素晴らしい! 『新たな皇帝』が乗るに相応しいフネではないか!」

 

 ジョゼフ王は、その『フネ』をそっと『浮遊大陸』の模型に載せると、かつかつと靴音を響き渡らせながら部屋を歩き回り、色々な角度からそれを眺め回した。

 

「ふ~む。いくつか候補はあるのだが……やはりここか!」

 

 どうやらお気に召す場所が見つかったらしい。模型の上に置いた『フネ』の位置を微妙に変えると――ジョゼフ一世はすぐ側のテーブルから一体の人形を掴み取った。黒髪の、細い形をした女性の人形である。それを愛おしそうに撫で回したあと、王はその耳元に口を近づけた。

 

「聞いているか? 余の可愛い女神(ミューズ)。おお! そうかそうか、ちゃんと聞いていてくれたな! 例の件だがな、置き場所が決まったのだ。そうだ、それだよ! さすがは余のミューズだ、実に話が分かる」

 

 ジョゼフ王は嬉しげな笑みを浮かべると、人形の耳に向かって囁いた。

 

「その場所だがな。レキシントンにしようと思うのだ。なに? お前も賛成してくれるのか! そうかそうか! 実に喜ばしいことだ。では、早速その通りに」

 

 と、そこでジョゼフ王は口を噤んだ。人形から声が聞こえてきたからだ。それを聞いたジョゼフはうんうんと頷くような仕草をしながら、口を開いた。

 

「ほう? 『水の王国』で妙な動き? ふぅむ……なるほど、なるほど。かの御仁は徹底的な保守派。それが何故か支援側に回っていると。さすがは余の女神だ、よくぞ知らせてくれた。素晴らしい働きだ! うむうむ、確かにおかしいぞ? あの国で何かが動こうとしているのか? ようやく白百合の蕾が花開くのか、あるいは……」

 

 そこまで呟いたジョゼフは、目を見開いた。

 

「そうだ! 確か、例の伝説(・・)が動き出していたな! 確か、次の移動先はかの御仁が住まう場所であった! まさかとは思うが、早くもこの遊技(ゲーム)に参戦してきたかッ!?」

 

 そこまで言うと、ジョゼフは再びテーブルの上に手を伸ばした。そこには小さな木箱――洒落た意匠を全面にあしらった宝石箱のようなそれを取り上げると、上蓋を開けて中身を取り出した。

 

 そこに入っていたのは、氷水晶(アイス・クリスタル)から造られた親指大の人形二体であった。

 

 一体は節くれ立った杖を持つ少女を模ったもの。もう一体は先がふたつに割れた異国風のマントを身に纏った少年の人形であった。数ある水晶の中でも特に透明度の高い氷水晶で造られたそれらは、まるで酒杯に浮かべられた氷のように、冷たく、つややかな煌めきを放っていた。

 

 ジョゼフ王はふたつの人形を取り出すと、もう用はないとばかりに宝石箱を放り投げた。床に落ちた木箱はカシャンという鈍い音と共にばらばらになった。

 

「さあ! 先頃出来たばかりの()をここに配置するぞ!」

 

 そう言ってジョゼフが嬉しげに人形を置いたのは、トリステイン東の国境沿いにあるラ・ヴァリエール公爵領が在る場所。

 

「おっと。余としたことが、ついうっかり忘れていた! 急いでかの御仁の駒も造らせねばならぬな! 仮に参戦してこなかったとしても、遊技の駒はたくさんあって困るものではないからな! ははははははッ!!」

 

 ――ハルケギニアの大いなる歴史は、静かに。だが、確実に胎動を始めていた――。

 

 

 




悩む姫様、ビビる公爵、はしゃぐ国王。
一番胃を痛めているのは誰だ!(聞くまでもなかった)



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第60話 成り終えし者と始まる者

 ――ふたつの国で歴史が大きく動こうとしていた、ちょうどそのころ。ラ・ヴァリエール公爵家の使用人居住区として割り振られている建物の一部屋で、平賀才人が天井を眺めながら、うめき声を上げていた。

 

「か、身体中の筋肉が、悲鳴あげてやがる……俺、もう動けねえ……」

 

 ベッドの上に横たわった才人は激しく後悔していた。

 

(ちくしょう……こんなことになるんなら、やっぱり師叔たちと一緒にキュルケん家に遊びに行っとけば良かった!)

 

 ……どうして才人がこのような状態になっているのかというと。

 

 例の歓待期間終了後――今からちょうど一週間前のこと。

 

 ルイズの護衛としてラ・ヴァリエール家の屋敷へ残った才人に対し、彼女の父親である公爵はこう言い渡した。

 

「大切な娘の護衛を任せる以上、それ相応の使い手になってもらわねば困る」

 

 それからの一週間、才人は毎日のように――昼間はルイズママ、夜はルイズパパの手によってたっぷりと稽古をつけられるハメになったのである。

 

 ――稽古初日。

 

 よりにもよって、あの『烈風』と剣を交える。しかも、デルフリンガーではなく訓練用の木刀を使って行うと知った才人は当然の如く及び腰になったのだが。

 

「魔法が使えぬ平民相手に無体な真似はしませんから、大丈夫です」

 

 そう告げたカリーヌ夫人に、練兵場まで無理矢理連れ出されてしまった。本人の声はもちろんのこと、護衛対象であるルイズの意見すら聞いてもらえなかった。

 

 ……ちなみに。

 

「いくらなんでも、あんなのと戦えるわけねえだろ! RPG始めて城から一歩外に出たら、目の前にラスボスが突っ立ってるようなもんじゃんか! クソゲーとかってレベルじゃねえぞ!!」

 

 これは『烈風』カリンと相対することになった才人が、稽古前に漏らした本音である。

 

 極端な喩えだが、あながち間違っていないものだから質が悪い。なにせ才人はごくごく最近――その『ラスボス』が実際に戦っているところを、すぐ間近で目撃しているのだ。実際、カリーヌ夫人の目から見た才人の姿は、さながら冒険を開始したばかりの初期レベルの冒険者。あるいは経験値稼ぎのためにひたすら狩られ続ける、ザコモンスターといったところであろう。

 

 そして稽古が始まったのだが――確かにカリーヌ夫人は手加減をしてくれた。剣士である才人に合わせ、自分も〝剣の魔法〟しか使わないという条件で相手をしてくれたのだ。

 

 カリーヌ夫人が扱う〝風の細剣(レイピア)〟はただ速いだけでなく、思わず見とれてしまうほどに優雅でありながら、その動きに一切の無駄がなかった。

 

 これまでギーシュの『ワルキューレ』や、オーク鬼しか相手にしたことがなかった才人は人間と――それも実戦経験者と剣を交えるのは初めてだったこともあり、あっと思う暇すらなく、握っていた木刀をはじき飛ばされ、喉元に切先を突き付けられた。近接格闘に持ち込む余裕など、どこにもなかった。

 

 無理もない。才人の相手はこの世界最強と謳われた騎士なのだ。つい数ヶ月前まで、平和な日本でごくごく普通の高校生として生活していた才人が対抗できる相手ではない。いくら〝ガンダールヴ〟のルーンを持ち、太公望やギーシュと戦闘訓練を続けていたとはいえ、土台からして違い過ぎるのである。

 

 幾度めかの掛り稽古の末、刀身で手首をしたたかに打ち据えられ――あまりの痛さに地面へ蹲ってしまった才人に対し、カリーヌ夫人は問いかけた。

 

「魔法を使えぬ身でありながら、これほどの速さで動けるとはたいしたものです。しかし、対人剣術についてはまだ素人の域を出ていないようね。もしや、これまで稽古の時ですら本物の剣士と対峙したことがないのではありませんか?」

 

「は、はい、その通りです。格闘術については太公望師叔から直接教えを受けているんですが」

 

 素直に才人が答えると、やはりそうかと夫人は頷いた。

 

「あなたの動きには規則性がありすぎるのです。今のままでは戦い慣れた〝(ブレイド)使い〟にはすぐにそのクセを見抜かれ、このように無力化されてしまうでしょう。まずはそこから矯正しなければなりませんね」

 

 そう言って、夫人は後方で稽古を見学していたラ・ヴァリエール公爵に振り返った。

 

「そういうわけですから……あなた」

 

 と、その言葉を待っていたかのように彼女の夫であるラ・ヴァリエール公爵が杖を手に前へ進み出て来る。公爵は才人の前へ立つと呪文を口ずさみ、すっと杖を一振りした。すると、きらきらと輝く光の粒が才人の身体を包み込んだ。

 

「傷の具合はどうかね?」

 

 公爵から問われた才人はそれでようやく気が付いた。カリーヌ夫人との打ち合いでつけられた傷が全てふさがっていることに。まだ若干の痛みこそ残ってはいるものの、ほぼ完治しているといってよい状態だ。そう、ラ・ヴァリエール公爵は非常に優れた〝水〟の使い手だったのだ。

 

「は、はい! もう大丈夫です。ありがとうございます!」

 

 感激を顕わにする才人。

 

(タバサとかモンモンに〝治療(ヒーリング)〟してもらったことがあるけど、あれの数倍すげえ。ルイズパパって、ひょっとしてRPGでいうところの〝治癒術師(ヒーラー)〟なのか?)

 

 だが、その認識は数分後――衝撃へと変わった。

 

「よろしい。ならば、次はこのわし自ら相手をしてやろう」

 

 その言葉を聞いたとき、再び『烈風』と剣を交えなければならないとばかり思い込んでいた才人は心の底から安堵した。

 

(ふへえ、よかった……やっとひと息つける……)

 

 まだ三十代といっても通用しそうな『烈風』カリンとは違い、ラ・ヴァリエール公爵は年寄りにしか見えない。奥さんよりも明らかに格下だと思われる――先日カリーヌ夫人の〝(ウインド)〟で、抵抗する間もなくあっさりと空へ吹き飛ばされた人物が出てきてくれた。おまけに彼は〝水使い〟だ。

 

(モンモンと同じで、たぶん攻撃魔法は苦手だろう。やっとまともな戦いができそうだぜ)

 

 そう考えた才人だったのだが。その認識はカラメルソースとメープルシロップと蜂蜜の混合液に半日ほど漬け込んだスポンジケーキよりも甘かった。ラ・ヴァリエール公爵が素早くスペルを唱え杖を一振りした途端。なんと十数本もの水の鞭が出現したのだ。

 

 そして、すぐさま〝水の鞭〟は一箇所に収束し、幅広の両手剣(ブロード・ソード)となった。これぞラ・ヴァリエール公爵の得意技〝水流の刃(ウォーター・ブレイド)〟である。

 

「え、えええええ!? あ、ちょ! ま!」

 

 その後才人は気持ちを切り替える間もなく、流れるような動きでもって内へ斬り込んできた公爵の〝水流剣〟であっさりと木刀を絡め落とされ、指抜きグローブによる接近戦を挑もうにも再び複数本の〝鞭〟に変化した〝水〟によって全身を縛り付けられてしまい――全く身動きが取れなくなってしまった。

 

「普通の魔法使いは同時に一個しか魔法使えないんじゃなかったのかよ!」

 

 地面に転がされ、残る〝鞭〟で散々に打ち据えられた才人は敬語を使うのも忘れ、思わず抗議の叫びを上げてしまった。

 

「かの『東の参謀』殿ほどではないのだがね、わしも〝水の鞭(ウォーター・ウィップ)〟の『複数展開』を得意としているのだよ」

 

 髭をしごきながら得意げにそう告げた公爵の言葉に補足をしたのは、すぐ側で彼らのやりとりを見学していたカリーヌ夫人であった。

 

「〝剣〟と〝鞭〟による接近戦に限定するなら、我が夫はわたくしよりも数段上です。ついでに教えておきますが、彼が最も得意とするのは片手剣の扱い。その技術は王国一と噂され、現役時代、一度たりとも〝刃使い〟や剣士(メイジ殺し)相手に負けたことがありません」

 

 つまり。ラ・ヴァリエール公爵は置かれた状況次第ではハルケギニアの『伝説』よりも強いということになる。しかも、同時に十数本もの〝水の鞭〟を使いこなす超技巧派。剣か拳かの違いだけで魔法ありの太公望と、戦闘スタイルがほぼ一緒なのだ。すぐさまそれを理解した才人は頭を抱えてしまった。

 

「そういうことは早く言……ってくださいよ奥方さま!」

 

「礼法に則った決闘ならばいざしらず、あなたは実戦の最中に、敵対する相手に能力の開示をするよう求めるというのですか?」

 

「うぐっ……」

 

 才人は反論できなかった。カリーヌ夫人の言うことは至極もっともだからだ。

 

「どうやら、あの参謀殿は……身内に対して甘すぎるようですね。まだ子供とはいえ、自分の従者にこの程度の軍事教育すら施していないとは。せっかくの機会ですから、このわたくし自ら鍛え直してあげます」

 

 キリリと目をつり上げながらカリーヌ夫人が叩き付けるような声を出すと、ラ・ヴァリエール公爵が重々しく頷きながら、その意見に賛意を示した。

 

「細剣の扱いについてはカリーヌでいいとして……片手剣と両手剣についてはわしが鍛えてやろう。同じ剣でも、必要な動作が全くといってよいほど違うからな」

 

 公爵がそう言うと、夫人は怪訝な顔をした。

 

「あなたには、公務と宮廷での大切なお役目があるではありませんか」

 

「うむ、その通りだ。よって、昼はカリーヌに全て任せた。わしは夜に稽古をつける」

 

 それを聞いたカリーヌ夫人は、微笑みながら頷いた。

 

「では、そのようにいたしましょう」

 

「いつもすまないな、カリーヌ。では、よろしく頼む」

 

「俺の意志が入る余地は全く無いんですネ……」

 

 にこやかに語り合う夫妻を尻目に、才人はがっくりと肩を落とした。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして、現在に至る。

 

「なんつう夫婦だよ。ひょっとして『烈風』カリンの伝説って……ひとりじゃなくて、あのコンビで作ったんじゃねえのか?」

 

 実は、この才人の推測は当たっている。公式記録を含むトリステインの歴史にカリンの名前だけが燦然と輝いているのは……夫であるラ・ヴァリエール公爵が性格面と諸々の事情から目立つのを嫌い、自分の手柄をほとんど彼女に譲ってしまっていたからなのだ。

 

 この事実について、名誉を重んじるカリン本人としては、正直なところ不本意極まりなかったのだが――本質的に控えめな公爵の性格をよく知る彼女は最終的に、しぶしぶながらもそれを受け入れたという裏事情がある。

 

 広域殲滅能力最強の妻と近接限定なら伝説をも上回る夫。まさに歩く戦略兵器である。しかも、現役時代は今よりも数段強かったというのだから怖ろしい。

 

(そりゃあ、ルイズみたいな規格外の『天才』が生まれるわけだよなあ……)

 

 と、才人はしみじみ思った。

 

 ところで、その『最強夫婦』の愛の結晶であるルイズは現在何をしているのかというと。〝念力〟を使って、才人の身体に冷たい水の入った袋をあてがっていた。

 

「ここ、このわたしが、ひ、冷やして、あ、あげてるんだから、かか、感謝してよね」

 

 などと、才人とは絶対に目を合わせないよう、顔を背けながら。

 

「なあ、お嬢さまよ。俺が、誰のせいでこんな目に遭わされてるんだか、口に出してハッキリ言ってみてくれるか?」

 

 憎まれ口を叩く才人であったが、それはもちろん本心などではなかった。

 

(惚れた女の子につきっきりで看病してもらえるなんて、男冥利に尽きるぜ……!)

 

 と、彼は内心の感動を必死に隠していたのだ。これがあるから、俺はあの猛烈なまでの稽古に耐えられるんだとまで思っていた。

 

 結局のところ、才人は好きな女の子に対して、とことん弱い男なのであった。

 

「わ、悪いとは思ってるわよ! でも……」

 

「でも、なんだよ?」

 

「あ、あんたは、わた、わたしの護衛なんだから、ああ、あたりまえで」

 

 ルイズ自身、そんなことを口にしつつも、内心では嬉しさを隠せないでいた。

 

 彼女は自分がおちこぼれであるがために――ずっと、家族から見放されていると思っていた。ところが、そうではなかったとわかったから。

 

 ルイズの成功を我が事のように喜び、それを手助けしてくれた友人や先生を招いて盛大な宴を開いてくれただけではない。

 

 一週間前のあの日。来客たちが去った後――母親からこう言われたのだ。

 

「ルイズ」

 

「は、はい母さま」

 

「失敗という結果だけに囚われていたせいで、苦しんでいるあなたに何もしてやれなかったわたくしを、どうか許してちょうだい」

 

 深々と頭を下げた母の姿にルイズは驚愕した。『鋼鉄の規律』などと渾名され、使用人たちはおろか家族の前でも厳しい態度を崩さなかったカリーヌが、まさか自分を相手にこんな真似をするとは想像だにしていなかったのだ。

 

 ちなみにすぐ隣で見ていたエレオノールも仰天していたのだが、カトレアはにこにこと微笑んでおり、ラ・ヴァリエール公爵は神妙な顔で妻の姿を見つめていた。もっとも、ルイズ本人にはそんな家族の様子に気付くほどの余裕はなかったが。

 

「か、母さま! そんな、や、やめてください!」

 

 娘の言葉を受けてもなお、夫人は顔を上げなかった。

 

「本来であれば、子の教育を夫から任されていたわたくしが、あなたの失敗が普通ではないことに気付かねばならなかったのです」

 

「え……」

 

「呪文の詠唱に間違いはない。杖との契約は上手くいっている。〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟で調べても、きちんと魔力の流れを感知できる。それでもなお魔法を成功させることができない。だから、あなたがきちんと集中していないからだと決めつけて……あんなに一生懸命だったあなたをなじってしまった。娘のために親がすべき努力を放棄してしまった……」

 

 ルイズは、気丈な母の声が僅かに震えていることに気付いた。そんな夫人の元へオスマン学院長が歩み寄ってくる。

 

「カリーヌ夫人だけの罪ではないわい。魔法学院でもきみを正しく導くことができんかった。コルベール君が、もしかするとあの〝失敗〟を再現することができればそこから原因が判明するかもしれんと言って、いろいろと実験を繰り返していたようじゃが、全くうまくいかんかった」

 

「そんなことが……」

 

「ラ・ヴァリエール公爵からじきじきに『どうか娘を目覚めさせて欲しい』と頼まれていたのにもかかわらずこの体たらく。危うく新たな『烈風』たりえる逸材を潰してしまうところじゃった」

 

 そう言って同じように頭を下げたオスマン氏の言葉がルイズの耳の奥で反響する。

 

(父さまが、じきじきに学院長のところへ……?)

 

 ――ルイズは、ずっとこの屋敷から外へ出たくて仕方がなかった。

 

 父はいつもルイズに無関心で――近隣の領主との付き合いや仕事にしか興味を示さないように見えたし、母は公爵家の面子や娘の嫁入りのことばかり重視して、

 

「魔法ができなければ、よい家へ嫁げませんよ」

 

 そう言って毎日厳しく叱りつけてくる。そう思い込んでいた彼女にとって、この屋敷は出口のない牢獄のようなものだったのだ。

 

(でも、そうじゃなかった。父さまも母さまも、わたしに失望していたわけじゃなかった。わたしのことを本当に心配してくれていたから、あんな態度をとっておられたのね。わたしは……おちこぼれのできそこないだって、見捨てられていたわけじゃないんだ……)

 

 だから、今は――この屋敷にいることが、彼女にとって大きな安息となっていた。

 

 そんな家族の想いと愛情を知るきっかけとなってくれた目の前のパートナーに、ルイズは本当に感謝していた。もしも彼が〝召喚〟に応えてくれなかったら……未だに、自分の魔法が失敗していた原因がわからないままだったかもしれないのだ。

 

 その上、才人はいつもルイズのことを考えてくれている。

 

 空を飛べるようになったのも『箒星』という素敵な二つ名をもらうことができたのも、彼のアイディアがきっかけであったし――その後も、色々な案を提示してくれている。あの『見えない盾』も『空飛ぶベッド』も、才人が一生懸命知恵を絞り出し、提案してくれた。ルイズの〝力〟を最大限に生かすために。

 

 それだけではない。彼はルイズを護るために強くなろうとしてくれている。あのワルド子爵すら恐れをなす『烈風』の稽古を、一日たりとも休むことなく継続しているのだ。

 

(わたしのために、サイトはこんなにも頑張ってくれている……)

 

 これまでルイズが知らなかった、いや気付いていなかった快感。自分のことを真剣に考え、頑張ってくれるひとがいる――それが、これほどまでに気分を昂揚させるものであったとは。こんなこそばゆい気持ちになるのは初めてだった。

 

(これでもう少し礼儀正しくて、た、たまに優しい言葉をかけたりしてくれれば、わたしだって文句なんか言わないのに……)

 

 才人はふて腐れたような口調でぶつくさ言いつつも、なんだかんだと手を貸してくれる。そんな彼の態度が……何故かルイズには不思議と心地良いものだと思えるのだ。

 

 けれど、それを素直に口にするのがなんだか恥ずかしくて、ついつい心とは裏腹のことを言ってしまうのだ。今、自分の内に芽生えつつあるこの感情を認めたくない――いや、認めてはいけないのだと信じ込んでいたから。

 

「だだ、だいたいね、ここ、こんなこと、ふつうなら、あ、ありえないんだから」

 

「ほほう。それはどういう意味でかネ?」

 

「わわ、わたしは、ここ、公爵家の娘なんだから! ここ、こんな看病……じゃなくて! 護衛のそばに、ひ、ひとりだけでつきっきりとか、ぜ、ぜったいに、ああ、ありえないことなんだから!」

 

 そんなルイズの言い訳じみた言葉を聞いていた才人は、口をへの字に曲げた。こいつ、本ッ当に変わんねえよなあ……と。実際には相当柔らかくなっているのだが、そっち方面の勘については、鈍感を通り越してドラム缶な才人は、それに気付けないのであった。

 

「へいへい。どうせ俺はしがない護衛でございますよ。ああ、左足のほうがなんか温くなってきた」

 

「えっ? ちょっと待って、取り替えるから。他の場所は?」

 

「まだ平気。で、キミは悪いと思ってるだけなのカナ? カナ?」

 

「だ・か・ら! こ、こうやって、わたしが、かか、看病……じゃない、面倒見てあげてるでしょ!」

 

 主従揃って素直じゃない……と、いうよりも。実に面倒な性格をしているふたりであった。

 

 と、そんなところへ。コツコツという、控えめなノック音が響いてきた。

 

「開いてますよ」

 

 才人がそう言っても、ノックは続いている。これがルイズや友人たち、この屋敷で働いている使用人ならすぐさま中に入ってくる。にも関わらず、自分で扉を開けないということは――普段、自らそういうことをしない身分の人物であろう。

 

「もしかして、やんごとないお客さまか?」

 

 そう言って立ち上がろうとした才人をルイズが制し、扉を開けた。そこに立っていたのは……彼女の姉、カトレアであった。

 

「ち、ちい姉さま! あ、あの、えっと」

 

 ルイズがわたわたしていると、カトレアはにっこりと微笑んだ。

 

「やっぱりここにいたのね。あらあら? もしかして、お邪魔しちゃったかしら?」

 

「んな、ななななななにをいってるんですかちいねえさまおじゃまとかよくわからないことをいってまたわたしをおどろかせようとかそういうはなしですかおねがいだからそういうことはやめてくださいわたしびっくりしちゃったんだから……」

 

 などと息継ぎ無しで呟き続けるルイズに見えないよう、才人に向かってぺろっと舌を出して見せるカトレア。

 

 それを見た才人は胸がきゅーんと締め付けられた。ルイズの姉カトレアは柔らかい目つきにふんわりとした笑顔が似合う、優しくとげのない表情の、おっとりとした美人であった。そんな彼女が見せた思わぬいたずらっぽい雰囲気に、ぐっときてしまったのである。

 

(このお姉さん、可愛いよなあ……)

 

「あ、あのっ、どういったご用件で……?」

 

 ルイズがもう少し大人になったら、このお姉さんみたいな感じになるのかなあ。だったら間違いなく買いだよなあ。そんなことを思いながら才人が尋ねると、カトレアは何が可笑しいのか、くすくすと笑いながら部屋の中へ入ってきた。

 

「父さまが、ルイズのことを探していたの。明日、王宮へ連れて行くからって。姫殿下が、久しぶりにルイズの顔が見たいとおっしゃっていたそうよ」

 

 それを聞いたルイズの顔が、ぱっと綻んだ。

 

「姫殿下が!?」

 

「ええ。とても楽しみにしていらっしゃるんですって。それと、サイト君も護衛として一緒についてくるように父さまが言っていたわ。だから、今夜の稽古はお休みよ」

 

 才人の顔もきらきらと輝いた。稽古が休みというのは勿論嬉しい。だが、それ以上に楽しみなのが王宮見学である。仲間たちと何度かトリスタニアの街へ買い物に行ったときに見かけた、綺麗なお城。これまでは外から眺めるしかなかったのだが、なんと中へ入れてもらえるというのだ。日本で例えるなら、皇居のいちばん奥まで入れるようなものだ。こんな機会など、滅多にない。

 

 だが、才人にはひとつだけ気になることがあった。

 

「あの、カトレアさん。質問いいっすか?」

 

「使用人に伝えるんじゃなくて、わたしが自分でこの報せを持ってきたことについて、かしら? ひとつめの理由はこれね」

 

 ほんわかとした笑顔を浮かべながら、ベッドの側に近付いていったカトレアは、杖を取り出して呪文を唱えた。

 

「イル・ウォータル・デル……」

 

 それは〝治癒〟の呪文であった。みるみるうちに才人の身体から痛みが引いていく。いつもは夜の稽古前に公爵がかけてくれていたのだが、今日は急ぎの仕事が入ったらしく、カトレアがその役目を頼まれたらしい。

 

「もう痛くないです! ありがとうございます」

 

「ち、ちい姉さま! 大丈夫なんですか?」

 

「もちろんよ。そうじゃなきゃ、あの父さまがわたしに頼むはずがないでしょう?」

 

 ふたりのやりとりを聞いて才人は思い出した。

 

(そういえば、カトレアさんは魔法を使うと発作を起こすみたいなこと言ってたな。でも、今はなんでもなさそうだ。てことは……)

 

「あの、快復おめでとうございます!」

 

「うふふ、どうもありがとう」

 

「よ、良かった……ところでちい姉さま、もうひとつの理由って?」

 

 妹に微笑みかけながら、カトレアは言った。

 

「それはね、あなたたちふたりとお話がしたかったからよ」

 

 にっこりと笑いながらそんなことを言われた才人はどきっとしてしまった。

 

「え、あ、お話って、どういう……?」

 

(このあいだの太公望師叔の件もそうだけど、めちゃくちゃ勘が鋭いひとなんだよなあ、このお姉さん。俺たち、いったい何聞かれるんだろ?)

 

 才人はどぎまぎしながらカトレアの答えを待った。

 

「ルイズとサイト君って、いったいどういう関係なのかしら?」

 

「どど、どういう関係って……」

 

「さ、サイトはわたしの護衛で……」

 

 思わぬ問いかけに揃ってわたわたするふたりを好ましげに見遣ったカトレアは、ころころと声を上げて笑った。

 

「あら? わたしはあなたたちが恋人同士だなんてひとことも言ってないわよ。それなのに、どうしてそんなに慌てているのかしら」

 

 カトレアの発言に、ふたりは真っ赤になった。

 

(恋人同士!? ち、ちち、違うわ、そんなんじゃないもん……)

 

 そう心の内で必死に否定するルイズと、

 

(本当にそうなれたらいいんだけど……)

 

 と考える才人。

 

「うふふ。そうね、今のあなたたちは、まだ『お姫さま』と『騎士』かしら。ミス・タバサたちが『お兄さん』と『小さな妹』みたいな関係なのとおんなじね」

 

 ルイズと才人はどきりとした。ルイズは、やはりちい姉さまは鋭いわ――と。才人は、やっぱりこのお姉さんの勘、ハンパじゃねェ! と驚愕した。

 

「ふたりとも、どうしてって顔をしているわね。でも、わたしにはわかるの。なんだか、普通のひとよりも少し鋭いみたいで」

 

「や、少しってレベルじゃないと思うんですが」

 

「ちょっと、サイト!」

 

 慌てて才人を遮ろうとするルイズの姿に、カトレアはまた笑った。だがその陰で、彼女は気が付いていた。彼らの『中の声』が聞こえていたせいで。

 

『師叔のことといい……ホント、超能力者(エスパー)みたいなひとだなあ』

 

『まさか、ちい姉さま……サイトがわたしの使い魔だって気付いてるのかしら』

 

 カトレアは内心で驚いていた。

 

(この男の子はおじいさまの従者じゃなくて、ルイズの……しかも使い魔だったのね)

 

 才人が太公望と同じ異世界から来ていること自体は既にルイズの声を『聞いて』わかっていた彼女だったが、さすがに使い魔ということまでは知らなかったのだ。そして、カトレアはこの件でもうひとつの事実に気が付いた。

 

(やっぱり、おじいさまは……わたしの『声』を聞き分ける〝力〟について、誰にも教えていなかった。きっと、わたしがこの〝力〟を隠していたことに気付いてくださっていたんだわ)

 

 それを思うと、カトレアの心はほんのりと温かくなった。

 

 ――つい先日。カトレアは父親であるラ・ヴァリエール公爵から〝力〟をあまり使いすぎないよう、厳重な注意を受けていた。

 

「カトレア。例の参謀殿から詳しく聞いたのだが。お前が持っている〝力〟は使い過ぎると健康を損なってしまうのだそうだ。彼の国では実際に寝たきりになった者までいるらしい。少し使うくらいなら問題はないらしいが、絶対に無理をしてはいかんぞ」

 

『動物と会話する能力と、偽りの姿や嘘を感覚で見破る〝力〟か……まさか、カトレアにそのように不思議な能力が備わっていたとは。だが、間違っても多用させるわけにはいかん。体調を悪化させる〝力〟なれば、なおさらだ』

 

 それを聞いたカトレアはすぐに察した。父が自分の〝能力〟に関する詳細について、太公望に確認を取ったのだと。だが、父の『声』を聞く限り、どうやら『心の声を聞く』ことに関しては開示されていないように思える。

 

(ひょっとして、ほかの皆さんにも内緒にしてくださっているのかしら……?)

 

 期待混じりの不安を抱いていたカトレアであったが、ふたりと会話をしたことによって確信した。やはり、心の声については誰にも話していないのだと。〝力〟の詳細を知られることを極端に畏れていた彼女にとって、これはとても有り難かった。

 

 そんな内心の喜びを表には出さず、カトレアは口を開いた。

 

「あら、困らせちゃったかしら。ごめんなさいね」

 

「あ、いや、そんなことは……」

 

 頭を掻きながら言葉を紡ぐ才人にカトレアは再び尋ねた。彼女にはどうしても聞いてみたいことがあったのだ――彼女の生い立ちに関わる、強い好奇心がゆえに。

 

「実はね、あなたたちふたりに聞きたいことがあるの。ほら、前におじいさまが炎の勇者さまのお話をされていたでしょう?」

 

「え、ええ。歓待の時よね」

 

『確かミスタがいた世界の歴史上、最強の〝火〟メイジだったはずよね』

 

「そんな話あったっけ? 俺は覚えてないんだけど」

 

『あんときはルイズのことだけで頭がいっぱいだったからなあ……俺』

 

「ほら、前にミスタ・タイコーボーが話してくれた最強の火メイジの話よ」

 

『まさか、話が長すぎて居眠りしてたとか言わないわよね……』

 

「ああ、あれか!」

 

『ふうん。このお姉さんも強いメイジが好きなのかな』

 

「わたしね、昔から身体が弱かったせいで、ずっとお部屋で本ばかり読んでいたから……そういうお話にすごく興味があって」

 

 照れくさそうに話すカトレア。彼女は長い間部屋の中に閉じこもっていたが為に、外の世界に強く憧れている。ゆえに、例の勇者さまの冒険譚を聞いてみたくてたまらなかったのだ。

 

 歓待期間中はハルケギニアの魔法談義ばかりで、詳しい話を聞く機会がどうしても得られなかったが、もしかするとルイズたちなら既に何か教えられているのではないかと考えたのだが――『聞いて』みた限り、どうやらそれは正解だったらしい。カトレアは心密かに喜んだ。

 

「ああ、そういうことっすか!」

 

『うわあ……勇者に憧れるとか。やっぱり可愛いなあ、このお姉さん』

 

「えっと、わたしたちも、そんなにたくさん聞いたわけじゃないけど……領民たちを救うために、自ら前線に立った、真の英雄だったらしいわ」

 

『本当は次の教皇になるはずだったのに、寺院に籠もって祈祷するよりも自分の〝力〟を生かしたほうが民のためになるからって後任をミスタ・タイコーボーに任せて、危険を顧みず前線で戦ったのよね』

 

 才人のほうはともかく、ルイズの声を聞いたカトレアの胸は躍った。

 

(素敵だわ! その方は正真正銘、本物の勇者さまだったのね!)

 

「滅茶苦茶強かったらしいですよ。そのひとが前線に立ったことで、大勢のひとが命を救われたんだって、師叔が言ってましたから」

 

『ひとを助ける〝力〟があったから、黙って見てるだけじゃなくて自分から動くとか、マジで勇気あるよな……思ってても、なかなかできることじゃねえし。俺はどうなんだろう……そういう時が来たら、ちゃんと動けるのかな』

 

「貴族として相応しい行動よね。ご本人にお会いできるものなら、ぜひ一度お目に掛かってみたいわ」

 

『貴族の模範たるべき立派な振る舞いだわ。いつか、わたしも彼みたいな立派な貴族になれるように頑張らなくちゃ!』

 

 彼らの声を集めたカトレアの顔が、華麗に綻んだ。

 

「まあ! やっぱり伝説になるべくして為ったおかたなのね」

 

 手を打ち鳴らしてそう言ったカトレアの言葉に、何故か目の前の少年の顔が一瞬だけ陰った。それが気になったカトレアは、理由を尋ねることにした。

 

「あの、わたし……何か悪いことを言ったかしら?」

 

 自分を見つめながら、急に不安げな声を出したカトレアの様子に才人は焦った。そのせいで、つい、表に出すべきではないことを口走ってしまった。

 

「いや、なんで俺なんかが〝伝説の使い魔〟になっちゃったのかなって……」

 

『どうして、俺みたいな普通の高校生が選ばれちまったんだろう。師叔はまだ俺が目覚めてないだけだって言ってくれたけど……ルイズパパとかママのこと見てたら、とてもじゃないけど俺なんかが伝説に相応しいとは思えないんだよなあ。はあ……マジで意味わかんねえし』

 

「伝説の……使い魔?」

 

「ちょっとサイト!」

 

「……あっ」

 

 慌てて制したルイズであったが、時既に遅かった。

 

「まあ! あなた使い魔だったの!? それも、伝説って呼ばれるような?」

 

 カトレアは大げさに驚いたふり(・・)をした。そんなカトレアに、才人は床に頭をこすりつけんばかりの勢いで哀願した。以前ルイズから聞いた「もしも噂が広まれば、アカデミーで解剖されるかも」という言葉を思い出したからだ。

 

「あ、あの、すみません。これ、内緒にしてもらえませんか? 周りにバレるとまずいんで――お願いします! だいたい、俺……伝説なんて肩書きもらえるような、立派な人間じゃないんで……」

 

「内緒にするのは、もちろんかまわないけれど……」

 

 〝伝説の使い魔〟とやらが何を指すのかまではさすがに知らなかった。だが……独特の『勘』により、いま目の前にいる少年が、その事実を重く感じていることを察したカトレアは、自分が思ったことを素直に口にした。

 

「ねえ、あなたはひょっとして『伝説』って呼ばれるのが嫌なのかしら?」

 

「あ、いや。そうじゃなくて、なんつーか……相応しくないっていうか」

 

「それは、どうして?」

 

 天使のような微笑みを向けてきたカトレアを前に、才人は思わず抱えていた悩み事の全てをさらけ出してしまった。ずっと心の奥底に固まっていた不安という名の氷山が、暖かな光によって溶け出したのだ。

 

「俺……これといって取り柄もない、どこにでもいる普通の学生ですから。毎日なんにも考えないで、ただ過ごしてただけの子供なんです。それが、いきなり伝説なんて言われてもピンとこないっていうか」

 

 その言葉を最後に俯いてしまった才人へ、カトレアは優しく声をかけた。

 

「それは……あなたが、これから始まるからなんじゃないかしら?」

 

 カトレアの声に、才人はぴくりと反応した。

 

「これから……始まる?」

 

「ええ。おじいさまも言っていたでしょう? 無の状態からある伝説なんかないんだって。そう呼ばれるひとたち全員が、そこに至るまでの『道』を歩んでいるんだって」

 

 顔を上げた才人に向けて、カトレアは微笑んだ。

 

「わたし、思うの。あなたは伝説になるために選ばれたんじゃないかしら? きっと、今はその準備をしている最中なんだわ。だから、もう伝説になり終えているひとたちと自分を比べて、落ち込む必要なんかないんじゃないかしら」

 

 カトレアの言葉、とても暖かく……じんわりと才人の胸へ染み込んでいった。

 

(そうか、俺は……いつか伝説になるために、ルイズに選ばれたんだ。本当になれるかどうかはわかんねえけど、今はそのための準備をしてるんだ)

 

 才人は思わず手袋越しに――左手甲に刻まれたルーンへと視線を注いだ。

 

 『神の盾』ガンダールヴのルーン。

 

「ああ、そっか……そうですよね。お伽噺に出てくる伝説の勇者だって、最初から強かったわけじゃないんですもんね」

 

 ポツリと呟いた才人に、カトレアはにっこりと頷いた。

 

「勇者っていう称号も、自分から名乗るものじゃないわよね? 何かに立ち向かっていく姿を見た大勢のひとたちが、その勇気を讃えて『勇気ある者』つまり『勇者』って呼ぶようになるのよ」

 

 ――無の状態からある伝説など存在しない。勇者とは、自分で名乗るものではない。両方とも、そう呼ぶ者たちがいて初めて生まれるものなのだ。カトレアの言葉に、才人は思わず右手でぎゅっと左手の甲を握り締めた。

 

「でも、この家にいる『伝説』は、ホント厳しいですからね……俺、耐えられるかな」

 

「まあ、準備にしてはちょっと激しいわよね」

 

 ルイズの呟きに、才人は猛烈な勢いで反論した。

 

「ちょっとどころじゃねえよ! あれは『烈風』じゃなくて『台風』の間違いだろ!? おまけに旦那は『激流』だよ!!」

 

 そんなふたりのやりとりを聞いていたカトレアは、にこにこと笑みを零していた。

 

 伝説と呼ばれることを重荷に感じ始めていた少年は心優しき娘の助言を受けたことで、いったんそれを地面に置いた。それが彼のはじまりの道の、最初の一歩となる――。

 

 

 




ブラウザのタブ切り替えを間違えて
同じ話をダブルで投稿してしまったようです。
大変失礼致しました。


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第61話 新たな伝説枢軸の始まり

 その日。ラ・ヴァリエール公爵家の食卓はいつもと様子が違っていた。

 

 一家全員が揃う晩餐の席。そこでは誰も言葉を発しようとしない。

 

(ここまではまあ、いつも通りなのですけれども……)

 

 食器を掴んだエレオノールの両手が、微かに震える。

 

(どうして、ここまで空気が重苦しいのよ!)

 

 金髪の長女は横目でちらりと上座に目を向ける。

 

 その主な原因となっているのが彼女の視線の先――上座に着いているラ・ヴァリエール公爵と、来客用の席に腰掛けているオールド・オスマンだ。彼らは揃って気難しい顔をしながら、ナイフとフォークを動かしている。だが、その動作はどこかぎこちなかった。

 

 ――時を遡ること、一時間前。

 

 ラ・ヴァリエール公爵家へ向かう竜籠の中で、オールド・オスマンは呆れ果てていた。

 

 彼の膝には一冊の古い書物が載せられていた。古びた革の装丁がなされた本の表紙は既にボロボロで、うっかり落としたりしたら中身のページを含め、ばらばらになってしまいそうだ。

 

「ふう……まさか、こんな簡単に手にすることができるとはのう」

 

 嘆息しながら、オスマン氏は本のページをめくった。色褪せた羊皮紙には何も書かれていない。おおよそ三百ページほどあるその書物は、どこまでめくっていっても無地――つまり白紙なのであった。

 

「これが、トリステイン王家に伝わる『始祖の祈祷書』か……」

 

 この不可思議な書物『始祖の祈祷書』には今から六千年前、かの『始祖』ブリミルが、神に祈りを捧げる際に用いた呪文が記されているという伝承がある。

 

「こうして見る限りでは、なーんも書かれとらんのじゃがのう」

 

 それどころか、染みのひとつも残されていない。おまけに書の状態を見てわかる通り〝固定化〟を施されてすらいないのだ。

 

 そのため、まがい物なのではないかとの噂が宮廷内でまことしやかに流されていたのだが――オスマン氏は知っていた。これが、まぎれもない本物であることを。

 

 〝魔法探知〟にしっかりと反応するし、何よりこれはトリステイン王家の者が結婚する際に、選ばれた巫女が読み上げるという名目で代々受け継いできた秘宝なのだ。

 

 〝固定化〟も、施していないのではなく何らかの理由で施せない(・・・・)のだろう。

 

「もっとも、そのまがい物という噂のお陰でそれほど手を患わせることなく、こうもやすやすと外へ持ち出すことができたわけじゃがの」

 

 オスマン氏は王宮での出来事を思い出す。

 

 いろいろと理由をつけて城を訪れたオスマン氏は、王家の財産を管理する財務卿に、

 

「後学のために、是非一度『始祖の祈祷書』を閲覧させてもらいたい。もちろん、実際にお見せいただくのは枢機卿猊下からお許しを得てからということにしますがのう」

 

 そう申し出た。すると、財務卿は人の良さそうな笑みを浮かべた。

 

「さすがはオールド・オスマン。そのお歳でなお向上心を持ち続けておられるとは。私も是非見習わなければいけませんな」

 

 そう言うと、彼は「少しお待ちください」と断りを入れ、王室の宝物庫に収められていた始祖の祈祷書を持って戻ってきた。

 

「私の裁量で貸し出します。ああ、一応こちらの書類にサインをいただけますかな? 枢機卿への報告はこちらでしておきますので」

 

 といった次第で、あっさり借り受けることができた。もちろん、オスマン氏の名声や実績あってのことだろう。とはいえ――。

 

(それにしても王家に伝わる秘宝を、こうもあっさりと表へ出してしまうとは。近頃の宮廷内部はいったいどうなっとるんじゃろうか)

 

 オスマン氏は複雑な思いを抱きながらそっと祈祷書の表紙を撫でた。

 

(もっとも、わしとてマチルダから三王家と宗教庁の『秘宝』に関する情報がもたらされとらんかったら、これを偽物と断定していたかもしれんがの)

 

 なにせこの『始祖の祈祷書』は――その伝説がゆえに、贋本が世界各地に存在しているのだ。それらを全て集めたら、専用の図書館ができるのではと言われているほどである。

 

「ま、おかげで仕事が楽になったわい。これで、今週中にラ・ヴァリエール公爵が『水のルビー』をマリアンヌ王妃殿下から一時的にでも借り受けることができれば、ミス・ヴァリエールの系統をほぼ確定することができるじゃろう」

 

 ……と、まあそんなことを考えながら公爵邸へ到着したオスマン氏だったのだが。

 

「まさか……いや、まさか。冗談じゃろ!?」

 

「これが冗談だったなら、どれだけ良かったか」

 

 その『水のルビー』が、なんと姫君が手ずから公爵に下賜なされていたとは、さすがの彼も想像だにしていなかった。

 

 客室のソファーにどっかと腰掛け、ふたつの秘宝を前にして、揃って顔を突き合わせたオスマン氏とラ・ヴァリエール公爵は共に盛大な溜息をついた後、事のあまりの重大さに打ち震えた。

 

「わしは自領の運営と国境の防衛ばかりに気を取られて、肝心の――トリステイン中央部全体に広がっている大きな歪みの深刻さに全く気付いていなかったようだ。まさか、ここまで現体制が緩みきっていたとは……!」

 

「わしもじゃ。よもや『水のルビー』に王権にまつわる謂われがあったとは知らなんだ! おまけに、継承に関する口伝が姫殿下まで届かず完璧に途切れておるとは。マリアンヌ王妃殿下は予想よりも遙かにお加減が悪かったのじゃな。もっと早く気付いてしかるべきであった……」

 

 公爵は顔をしかめ、オスマン氏はこめかみに指をあてながら呻いた。

 

「さて、期せずして鍵が揃ってしまったわけじゃが、どうするね?」

 

「不意打ちにも程がありますぞ。本来であれば、早急に試したいところなのですが」

 

 ふたりは揃って肩を落とした。

 

「明日、ミス・ヴァリエールが姫殿下とお会いする件……ですかの?」

 

「ええ。ルイズが姫に対して嘘をつき通せるとは思えません。念のため、姫殿下にはあの子が〝風系統〟に目覚めたと錯覚するよう、話をしておきましたが――」

 

「姫殿下にお会いする前に、万が一〝虚無〟に目覚めてしまった場合……そこで系統について問い詰められたら、うっかりぽろっと話してしまいそうだと?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵はオスマン氏の目を見て頷いた。

 

「その通りです。他の者にならば黙ってもいられましょうが、相手はルイズが敬愛してやまぬ姫殿下ですからな。念のため、娘には〝念力〟で空を飛んでいることを絶対に口にせぬよう、釘を刺しておきます。系統についても、わしとカリーヌが〝風〟だと判断していると話します」

 

「それがよかろう。実際、彼女に〝風〟の素養があるのは事実じゃ。周囲の空間と、風の流れをきちんと把握できているからこそ、ミス・ヴァリエールはあれほどの速度で宙を舞うことが可能なのじゃから」

 

 ガラス窓の外、ラ・ヴァリエール公爵邸の庭でルイズが空を飛ぶ練習をしている。既に馬など比較にならないスピードながら、彼女はまだまだ満足できないらしい。

 

「ホッホッホ、練習熱心で何よりじゃ。若い頃のおぬしによう似ておるわい」

 

「まったく、あの娘はどこまで行くつもりなのやら……」

 

 苦笑しながらも、満更でも無い口調で呟き返すラ・ヴァリエール公爵。

 

「彼女の幸せな未来のためにも、今度こそわしらは力を合わせねばならんな」

 

「はい、オールド・オスマン」

 

 それから、さらに詳細を詰めるための打ち合わせを行っていたふたりは、執事長から食事の支度が調った旨の報せを受けて晩餐の席へと向かい――結果、考え事に集中するあまり、ろくに味のわからぬ夕食を摂るはめになったのだった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして翌日。

 

 ラ・ヴァリエール公爵家専用の竜籠に揺られてトリスタニアの街へと移動した公爵とルイズ、それからお供を務める才人たち一行は途中で豪奢な馬車に乗り換えると、一路王宮へと向かった。

 

(歩きで中へ入るわけじゃないんだ、そりゃそうか、こんだけ広いんだもんな)

 

 そんな感慨を抱きながら、才人は窓の外に広がる光景を眺めて感嘆の溜息をついた。

 

 王城の門をくぐると、そこには広い中庭があった。規則正しく植えられた生け垣は全て竜に跨った騎士や様々な幻獣の形に刈り込まれており、今にも動き出しそうなほど見事だった。

 

 馬車寄せの中央にある池には一定のタイミングでリズミカルに水を吹き出す噴水があった。その噴水の水がどこから来ているのか気になった才人は、周囲をぐるりと見回した。

 

「なんだろ、あの側溝みたいなやつ。お城の壁から延びてきてるみたいだけど」

 

 見上げるほどに巨大な王宮は、幾筋もの水流が反射する太陽光によって煌めいていた。この水が集まり、噴水となって噴き出しているのであった。

 

(そういえば、トリステイン王家の象徴は〝水〟だってルイズが言ってたっけ)

 

 馬車を降りた後、そんなことを思いながらぼんやりとしていた才人は、既に王宮内部へ向けて移動を開始していたふたりに置いて行かれぬよう、あわててその後を追い掛けた。

 

 到着した三人は待合室へは通されず、すぐさま姫君の居室へと案内された。

 

 アンリエッタ姫は小さいながらも精巧な彫刻の施された椅子に腰掛け、机に肘をつきながら来客の到着を待っていたが――待ち人が来たという報せを受けるやいなや立ち上がり、彼らを迎えた。

 

「ルイズ・フランソワーズ! 本当にお久しぶりね」

 

 鈴の音のように涼しげな姫君の声を聞いたルイズは、さっとその場に膝をついた。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。今日は彼女を連れてきてくれて、本当にありがとう」

 

「勿体ないお言葉でございます。それでは、わたくしは公務がございますので……また後ほど」

 

 そう言って笑顔で退出したラ・ヴァリエール公爵を微笑みながら見送ったアンリエッタ姫は、彼の背中が見えなくなった直後。感極まったといった様子でルイズの側に駆け寄ると、彼女の身体を抱き締めた。

 

「ああ、ルイズ。ルイズ! 懐かしい、ルイズ・フランソワーズ!」

 

「姫殿下、いけません。臣下たるわたくしめに、このような……」

 

 ルイズは畏まった声でそう言った。

 

「いやだわ、ルイズ! ルイズ・フランソワーズ! そんな堅苦しい行儀はやめてちょうだい! あなたとわたくしはおともだち! おともだちじゃないの!」

 

「もったいないお言葉でございます、姫殿下」

 

 アンリエッタは美しい眉根を寄せ、拗ねたような口調で言った。

 

「ああ、もう! そんなよそよそしい態度はやめてちょうだい! 幼い頃、いっしょになって王宮の花壇の上を飛び回っていた蝶々を追い掛けた仲じゃないの! 泥だらけになって」

 

 姫の言葉を受けたルイズの顔ははにかんだ。

 

「はい、そうでしたわね。お召し物を汚してしまって、ふたり揃って侍従長のラ・ポルトさまに叱られました。ふわふわのクリーム菓子を取り合って、大喧嘩になったこともございましたわ」

 

 きらきらと輝くルイズの瞳を見たアンリエッタは喜んだ。

 

(わたくしの大切な幼なじみは、昔と変わらず、今もおともだちのままでいてくれた……)

 

 それが本当に嬉しかった。アンリエッタが心を開ける相手は、ごくごく限られているのだ。

 

「そうよ! そうよルイズ。取っ組み合いの喧嘩をしたことだってあったじゃないの! ほら、例の『アミアンの包囲戦』と呼んでいた、あの一戦よ」

 

「たしか、当時宮廷内で流行していたドレスを奪い合ったのでしたわよね。あのときはわたくし、姫さまの見事な一発をおなかに受けて、御前で気絶いたしました」

 

 昔を思い出し、懐かしそうに笑い合うふたりの少女を見ていた才人は唖然とした。いやはや、あのルイズの幼なじみとはいえ、一国の王女さまと聞いていたから、どんな深窓の令嬢かと思って期待していたのに……とんだおてんば姫じゃないか、と。

 

 と、その姫君の視線が才人のほうを向いた。

 

「ところでルイズ。そちらの彼は?」

 

「あ、はいっ。わたくしの護衛でございます」

 

 アンリエッタはそれを聞くと才人のほうに向き直り、小さく首をかしげた。だが、才人は相変わらずぽけっとしている。ルイズは慌てて口を開いた。

 

「な、なにぼーっとしてんのよ! 早く姫さまに名乗りなさい! 失礼でしょう!?」

 

 というルイズの言葉で、ようやく才人は気が付いた。

 

(そうか、さっきお姫さまが首をかしげたのは俺に名乗れっていうサインだったのか! うわあ、貴族ってめんどくせえ……)

 

 などとはさすがに口には出さず、彼は深々と一礼した。

 

「平賀才人と申します。才人とお呼び下さい」

 

 それは到底宮廷内の礼法に適った態度とはいえないものだったが、アンリエッタ姫はこれといって気にしたりはしなかった。彼女はほうっと溜息をつくと、ルイズに椅子への着席を促し、自らも腰掛けた。

 

「あなたが羨ましいわ、ルイズ。お父上に心から愛されているのね。こんなふうに護衛士までつけてもらえるだなんて」

 

「なにをおっしゃいます。姫さまなら、護衛士など選び放題ではありませんか」

 

 アンリエッタは寂しげに首を振った。

 

「いいえ。何もかも他の者が決めてしまいます。そこに、わたくしの意志はないのです。王国の姫などとは名ばかりで、籠に飼われた小鳥も同然なのよ」

 

 そんな切なげな姫の言葉に、才人はつい口を挟んでしまった。

 

「まあ、お姫さまって大変そうだよな。この国のことはよく知らないけどさ、王家の行事だの他の国との付き合いだので、分刻みでスケジュール決められたりするんだろ? 自由にできる時間なんて全然なさそうだし」

 

「ちょっとサイト!」

 

「あ、悪い……つい」

 

 ルイズは心底慌てた。よりにもよって王宮におわす姫殿下に対し、無礼を働いてしまうとは。

 

(あううう、もっとしっかり礼儀作法を叩き込んでおくべきだったわ……サイトの常識がトリステインとはかけ離れているのはわかってたけど、ま、まさか、ここまで酷いだなんて……!)

 

 最悪の場合、主従揃って打ち首すらありえる。そう考えて肝を冷やしたルイズだったが、その後に飛び出したアンリエッタ姫の言葉は彼女の想像とは異なり、とても柔らかなものだった。

 

「まあ! あなた王族の実情について、それなりに詳しいのね」

 

 そう言って、才人の顔をまじまじと見つめる。

 

「ひょっとして異国の出なのかしら? 黒い髪なんて珍しいものね。それに、その肌の色も変わっているわ……いったい、どちらからいらしたの?」

 

 美しい姫君に優しく問われ、才人は僅かに顔を赤くしながら答えた。

 

「あ……ハイ。ずっと東の、日本という小さな島国から来たんです。ハルケギニアでは全部まとめて『ロバ・アル・カリイエ』って呼ばれる諸国のひとつってことになっているみたいですが」

 

 例の太公望が捏造かました設定に平然と乗っかる才人であった。このあたりは前もってしっかりと口裏を合わせていたので、たとえ不意打ちを受けようとも、彼らは最早一切動じたりしない。

 

「まあ、まあ! ロバ・アル・カリイエですって!? ルイズ、ルイズ・フランソワーズ! あなた……魔法学院へ入学してから、わたくしの知らないことをたくさん経験しているみたいね? 今日はせっかくの機会ですもの、いろいろと聞かせてちょうだい」

 

 アンリエッタ姫に促されるまま、ルイズは魔法学院での生活ぶりについて話した。ただし、才人が使い魔であることや、出がけに何故か絶対に話してはいけないと父から念入りに釘を刺されていた『念力を使って空を飛ぶ』ことに関連することを省きつつ。

 

 そうして話が例のオーク鬼討伐に至った時、姫君の目が見開かれた。

 

「あのジャコブ村を開放した『水精霊団(オンディーヌ)』が、まさか、あなたたちだったなんて!」

 

「えっ、あのっ、ひひ、姫さま? どど、どうしてその名前をご存じで……?」

 

 心底驚いたといった様子のルイズの手を取り、アンリエッタはきらきらと瞳を輝かせながらこう答えた。

 

「デムリ財務卿が書類の決済を求めてきたときに、偶然耳にしたの。オーク鬼三十体を半日で討伐してしまったのでしょう? それも、普通なら十名以上の騎士が数日かけて行う討伐任務をたったの八人でやってしまったんだって、財務卿ったら本当に驚いていたのよ」

 

 アンリエッタ姫の言葉を聞いたルイズと才人は口をあんぐりと開けてしまった。

 

 まさかあの戦いが、通常ならば国の騎士隊が数日かけて行うような討伐任務だったとは思ってもみなかったのだ。なにせ彼らは、

 

「初陣だから、簡単なものを選んだ」

 

 そう太公望から何度も聞かされていたのだから。

 

(それだけ俺たちの〝力〟が評価されていたのかと思うと嬉しくはあるんだけどさあ……)

 

(とんでもない真似をしたことだけは、間違いないわよね……)

 

 しかし今は喜んでいる場合ではない。それに気付いたルイズはおそるおそる口を開いた。

 

「あ、あの……姫さま? 大変申し訳ございませんが、このことはご内密に願います」

 

「まあ、どうしてかしら? 素晴らしいことだと思うのだけれど」

 

「実は……」

 

 ルイズは事情を語り始めた。『水精霊団』は全員が家名を出さずに暗号名(コードネーム)で活動している、秘密の集まりなのだと。自分たちの実力だけで勝負するために全員一致で、あえてそのような措置を執っているのだと説明する。

 

「そういうわけで、家族にも内緒にしているんです。ですから……」

 

 縋るような目で願い出てきた『おともだち』を見て、アンリエッタ姫は思った。

 

(ここで彼らと繋がりを作っておくことが、後に何かの役に立つかもしれないわ。でも……)

 

 ふっと息を吐き、不安げに瞳を揺らがせる幼なじみを見つめる。

 

「わかりましたわ。大切なおともだちの頼みですもの! その代わり……わたくしからも、ひとつだけお願いしたいことがあります」

 

「そんな、お願いなど! 姫さまの仰せとあらば、なんなりと」

 

「その暗号名というものを、わたくしにもつけてはもらえないかしら?」

 

「は?」

 

「え?」

 

「だって、とっても素敵じゃないの! 身分を隠して、あちこち冒険するだなんて。わたくし憧れてしまうわ! 共に行くことは叶いませんけれど、せめて名前だけでもあれば……どこかであなたたちの冒険譚を聞くたびに、一緒に旅をしているような気分になれると思うの」

 

 ルイズは思った。

 

(姫さまは本当にお寂しいのだわ。今まで想像したこともなかったけど……この広いお城の中で、心を許せる友人もなく、たったひとりで過ごしておられるのだから)

 

 だからこそ、せめて想像の翼を広げる手助けくらいはして差し上げたい。そう考えたルイズは、才人を促した。

 

「サイト。姫さまの暗号名を考えてさしあげて」

 

「あ、ああ、もちろん構わないけど……それじゃあお姫さま。二つ名か、得意な系統を教えてください。それを東方の言葉に直したのが俺、じゃなかった、わたくしどもの暗号名として使われておりますので」

 

 アンリエッタの顔が、ぱっと輝いた。

 

「二つ名は特にありませんので……得意としている系統〝水〟を使ってください」

 

(水かあ。『ウォーター』だと可愛くないし、何か女の子に似合いそうなものがあったかな)

 

 才人は自分の中にある知識を総動員し、なんとか目の前にいる姫の期待に応えようと努力した。そして閃いた。これならイケてるんじゃないか、と。

 

「それなら『マリン』か『アクア』というのはいかがでしょう? 『マリン』は海洋のことで『アクア』はたくさんの水という意味です。ちなみに、両方合わせて『アクアマリン』に致しますと、青くて綺麗な宝石の名前になります」

 

 才人の提案に、アンリエッタは手を叩いて喜んだ。

 

「まあっ、どれも素敵な響きを持つ名前ですわね! どうしましょう……ねえルイズ、どれがいいかしら? わたくし、迷ってしまうわ!」

 

 姫君の声に、ルイズは澄まし顔で答えた。

 

「姫さまはトリステインの宝石でございますから『アクアマリン』がよろしいかと」

 

「もう! ルイズったら、わたくしをからかっているのね?」

 

「そんな、畏れ多い! このわたくしが姫さまをからかうだなんて!!」

 

「……あなた。本当にラ・ヴァリエール公爵とそっくりね」

 

「お褒め頂き、恐縮ですわ」

 

 ふたりの少女は顔を見合わせると――声を上げて笑った。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その夜のラ・ヴァリエール公爵家の晩餐は、昨夜よりもさらに重く沈んでいた。

 

(な、何なの? この異様な雰囲気は……!)

 

 ルイズの両手が僅かに震える。思わず食器を取り落としそうになったが、どうにか堪えた。そしてこっそりと周囲の様子を伺う。

 

(父さまと学院長が揃って難しい顔をしてるし、母さまも、姉さまたちまで何か考え込んでるみたいだし! どういうことなの……?)

 

 これでは、せっかくの豪華な料理もだいなしである。

 

 そんな、明らかに不気味な空気が漂う夕食が済んだ後――ラ・ヴァリエール公爵は家族全員の顔を見渡しながら、重々しく告げた。

 

「カリーヌ、エレオノール、カトレア。今から一時間後に礼拝堂へ集まるように」

 

 公爵はオスマン氏と一瞬視線を合わせた後、最後にルイズへ申し渡した。

 

「ルイズは一時間半後に、護衛のサイトを伴って礼拝堂へ来なさい。そうそう。彼には例の『光の剣』を持って来るよう、忘れずに伝えるのだぞ」

 

 それだけ言うと、ラ・ヴァリエール公爵はオスマン氏と連れ立って、そそくさと席を立ってどこかへ行ってしまった。

 

「全員で礼拝堂へ来いだなんて……いったい何事かしら? しかも、わたしだけ三十分遅れて来いって、どういうこと?」

 

 戸惑いの表情を浮かべて周囲を見渡したルイズであったが、しかし。その疑問に答えてくれる者は誰もいなかった……。

 

 

 ――時は過ぎ、指定された時間の五分前。

 

 ルイズと才人のふたりはラ・ヴァリエール公爵から言われた通り、屋敷内にある礼拝堂へ続く廊下を歩いていた。才人の背にはしっかりとデルフリンガーが背負われている。

 

「なあ、これから何があるんだ?」

 

 才人は顔中に疑問符を浮かべてルイズに問うた。今日の稽古は休みであると前もって伝えられている。

 

「それなのに、デルフリンガーを持って来いなんてさ」

 

「わたしにもわからないわ。ただ、父さまがあんたとデルフを連れてきなさいって」

 

 ルイズの言葉に、デルフリンガーは鍔をかちかちと鳴らした。

 

「俺っちも連れてこいだなんて、おかしな指定だねえ。まさかたぁ思うが、今からみんな揃ってドンパチやるってか?」

 

「いくらなんでもそれはないと思うわ……たぶんだけど。家族みんなだけじゃなくって、学院長も一緒に待っているみたいだから」

 

「たぶんなのかよ! てか、学院長先生って、何で屋敷に残ってんだ?」

 

「父さまと毎日打ち合わせしてるのは確かなんだけど、何を話しているのかまでは教えてもらってないわ。たぶん、国のお仕事に関係することだとは思うんだけど」

 

「ふうん……学院長って偉い先生だったんだな」

 

「当たり前でしょ!」

 

 ……などという話をしているうちに、礼拝堂の前へ到着した彼らは、豪奢な装飾が施された観音開きの扉の前に立った。移動で僅かに乱れた服装を簡単に直したルイズは、才人のものも手早く整えてやると、コツコツと小さくドアをノックした。

 

 すると――礼拝堂の大扉はまるでふたりを迎え入れるかのように、静かに開いた。中にいたラ・ヴァリエール公爵が〝念力〟を唱えたのだ。

 

 扉の奥は礼拝堂よりも大神殿と呼ぶほうが相応しいと思えるような、荘厳な部屋だった。

 

 床の中央にはまっすぐと奥まで伸びる赤い絨毯が敷かれており、最奥には立派な祭壇と『始祖』ブリミルのシンボルが置かれていた。中央通路の左右に木製の長椅子がずらりと並べられており、室内は魔法のランプの灯りによって煌々と照らされ、神聖な雰囲気を醸し出している。

 

 祭壇の奥にオスマン氏が立っている。その左右にラ・ヴァリエール公爵とカリーヌ夫人が。祭壇手前左右にエレオノールとカトレアが待ち受けていた。だが、それ以外の人間は誰もいない。普段なら大勢の使用人たちが側に控えていることを考えると、これは異常事態といって差し支えない状況であった。

 

 この光景を見た才人は、一瞬「なんだか結婚式みたいだ」などと考えてしまい、思わず顔を赤らめてしまったのだが――そんな彼と一緒に居たルイズは、彼とは全く違う気持ちでいた。

 

 どうしてなのかはわからない。でも、この扉をくぐったら、その瞬間――自分の中で、大きな何かが始まる。そんな予感が彼女の胸に去来していた。それが、ルイズに一歩を踏み出すことを躊躇わせていた。

 

 ルイズは思わず隣――自分の右横に立っていた才人のほうを見た。すると、不思議なことにそれとほぼ同時に才人が彼女に顔を向け、彼らふたりの視線が交差した。

 

「サイト」

 

「ん、どした?」

 

「手……貸して」

 

 言われるがままに左手を出した才人は、差し出されたルイズの華奢な右手が小さく震えているのに気が付いた。彼がその手をそっと握ってやると、ルイズがきゅっと握り返してきた。ふたりは手を取り合い、ゆっくりと礼拝堂の中を歩いていった。

 

 礼拝堂に設置されていた祭壇は、白い大理石で造られていた。祭壇には細かな彫刻が施されており、壇上左右には豪奢な燭台が設置され、その上では蝋燭が紅い炎を揺らめかせながら、周囲を静かに照らしていた。

 

 そんな祭壇の中央には、立派な壇上に相応しくない、古びた本が置かれている。

 

 祭壇の前まで来たルイズと才人のふたりを、オスマン氏は交互に見遣ると、小さく頷き、ラ・ヴァリエール公爵を見た。

 

 公爵は静かにふたりの前へと歩み寄ると、ルイズの前に立った。

 

「ルイズ、右手を出しなさい」

 

 ラ・ヴァリエール公爵が厳かな声で告げた。そこで初めて、彼女は未だ才人の手を握っていたことに気付き、慌てて彼の手を離すと……そっと父親のほうへ手を差し出した。

 

 公爵は懐へ手を入れると、そこから絹の布に包まれた小さな指輪を取り出した。そして、ルイズの手を取り、その指に填めてやった。台座には、青く清んだ美しい宝石――まるで、昼間に王宮で才人が言っていたアクアマリンのような石が留められている。

 

「父さま、これは……?」

 

「それは、これからわかることだ。さあ、ルイズ……祭壇の前へ立ちなさい」

 

 言われるままにルイズは祭壇の前へ――オスマン氏と向かい合うような形で立つ。すると、右手薬指に填められた指輪が淡く輝きを放ち始めた。それは、どこまでも蒼く透き通った光だった。

 

「ミス・ヴァリエール。この本を手に取るのじゃ」

 

 ルイズは心臓がどきどきと早鐘を打つように高鳴るのを感じていた。

 

(こ、この不思議な集いは、いったいなんなの……?)

 

 不安げな顔で周囲を見渡すと、全員が彼女に注目――いや、見守ってくれているのがわかった。彼らの瞳に湛えられた光に勇気づけられた少女はそっと本を手に取った。その途端、指輪と本が同調したかのように、輝く光輪に包まれた。

 

 まるで何かに導かれたかのように、ルイズは本を開いた。そして、光り輝く本の中に文字を見つけた。それは古代ルーン文字であった。

 

 もしもこれを見たのがごくごく普通の生徒だったなら――何が書かれているのか、さっぱりわからなかったかもしれない。幸いルイズは非常に勉強熱心な学生だったので、その文字をなんなく読むことができた。

 

 ルイズは光の中の文字を追い――無意識にそれを読み上げた。

 

「――序文。これより、我が知りし『真理』をこの書に記す。全ての物質は、小さな粒より為る。四の系統は、その小さな粒に干渉し、影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり。その四つの系統は〝土〟〝水〟〝火〟〝風〟と為す」

 

 彼女の声を聞いた者たち――才人を除く全員が小さく震え始めた。だが、ルイズはそれに全く気付かず、ひたすら文字を追い続けた。

 

「四の系統が影響を与えし小さな粒は、さらに小さな粒より為る。神は、我に四の系統よりもさらなる先の『道』を示された」

 

 ――〝土〟の先、此即ち〝支援〟。全ての『支柱』を司る『道』。

 

 ――〝水〟の先、此即ち〝生命〟。全ての『生死』を司る『道』。

 

 ――〝火〟の先、此即ち〝消滅〟。全ての『破壊』を司る『道』。

 

 ――〝風〟の先、此即ち〝空間〟。全ての『場所』を司る『道』。

 

 ルイズはまるで何かに導かれるように、本のページをめくり続けた。

 

「我が系統の『道』は、さらなる小さな粒に影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり。此、四の先にして、四に非ず。四にあらざれば零。零、すなわち此、虚無。我は、神が我に示された『道』を〝虚無(ゼロ)の系統〟と名付けん」

 

 ルイズは、ここに至ってようやく気が付いた。自分が今、何を知ろうとしているのか。

 

「虚無の系統……『伝説』だわ! 失われた、伝説の系統じゃないの!」

 

 思わず叫び声を上げたルイズは、さらにページをめくる。胸の鼓動が高まった。そして、彼女は鈴を鳴らすようなその声で『始祖の祈祷書』を朗読し続けた。

 

「この書を読みし者は、我の行いと理想、目標を受け継ぐものなり。〝虚無〟を扱う者は心せよ。志半ばで倒れし我とその同胞のため、異教に奪われし『聖地』を取り戻すべく努力せよ。〝虚無〟は強力無比なり。その詠唱は長きにわたり、多大な〝精神力〟を消耗する。詠唱者は注意せよ、時として〝虚無〟はその比類なき威力がゆえに命を削る。決して多用することなかれ。我は〝虚無〟の強力さが為に、この書の読み手を選ぶ。資格なき者には、決してこの書は開かれぬ。神に選ばれし者は、四の系統の指輪を填めよ。さすれば、我が〝虚無〟の呪文を紐解くこと叶うであろう――ブリミル・ル・ルミル・ユル・ヴィリ・ヴェー・ヴァルトリ」

 

 そこまでルイズが読み上げた途端、今度は才人に背負われたデルフリンガーの鞘から、淡い光が漏れ始めた。

 

「サイト君! デルフリンガーを抜いて、頭上に掲げるのじゃ!」

 

 オスマン氏の声に応え、才人はすらりとデルフリンガーを鞘から引き抜くと、両手で掲げ持った。鏡の如き美しさを持つその刀身は指輪と本が放つ光を反射して、青白く煌めいた。

 

「いやあ、嬉しいねえ! 久しぶりだねえ! 『担い手』に出会えたのは! さあ嬢ちゃん、ページをめくりな。ブリミルのやつは、きっと今の嬢ちゃんに相応しい呪文を用意しているはずだ」

 

 ルイズは、言われた通りに本のページをめくった。だが、次のページには何も書かれていない。完全なる無であった。

 

「なんにも書かれてないわ! 真っ白よ!!」

 

「もっとめくりな。嬢ちゃんが心から必要としていれば、読める。いいか? 嬢ちゃんが本当にしたいと願うことを強く念じながら、ページをめくるんだ」

 

 ――わたしが、したいこと。ルイズはふいに思い出した……あの言葉を。

 

『いつか、みんなで一緒に行こう』

 

 彼女は才人を見た。

 

(そうだ、わたしはサイトと一緒に行くって決めたのよ! ううん、彼だけじゃなくて、仲間たちみんなと約束したんだ。わたしは、彼らと――どこまでも一緒に飛んで行くって!)

 

 ルイズは必死にページをめくった。と、ようやく文字の書かれた場所を発見した。彼女はそこに書かれていた古代文字を読み上げる。

 

「〝瞬間移動(テレポート)〟。『空間』の初歩の初歩の初歩。此、瞬きの間に『場所』を移動する呪文なり。汝が知る行き先を強く念じ、把握し、掴み、詠唱せよ。さすれば『空間』を渡ること叶うであろう。以下に、発動に必要となる魔法語(ルーン)を記す」

 

 まるで熱に浮かされたようになったルイズは、さっと杖を取り出すと……そこに記されていた呪文を唱えはじめた。

 

「ウリュ・ハガラース・ベオークン・イル……」

 

 杖を振り下ろし、呪文を解放した次の瞬間。ルイズの身体は、彼女が思い浮かべていた場所――礼拝堂の入り口に立っていた。約五十メイルの距離をたったの一瞬……文字通り、瞬きの間に飛び越えたのだ。

 

 そして、彼女は瞬時に掴んだ(・・・)。この呪文であそこ(・・・)にも行ける。

 

「ウリュ・ハガラース・ベオークン・イル!」

 

 ルイズが思い浮かべたのは、才人の隣に立つこと。次の瞬間、彼女は眩い光と共に才人のすぐ側に現れた。その場にいた全員が驚愕を顔に貼り付けてルイズの姿を見つめていた。まるで、そこに女神が降臨したかの如く。

 

「これが『空間移動』……!」

 

 声に出してそれを言った後、ルイズは遂にその結論へと到達した。

 

「これが……わたしの『道の先』なの? 〝虚無〟が……わたしの……系統……?」

 

 彼女の小さな呟きを受け止めたのは、祭壇の前に立つ老人であった。

 

「そうじゃ、ミス・ヴァリエール」

 

「学院長は知っていたんですね?」

 

 オスマン氏はルイズの問いかけに重々しく頷いた。

 

「その可能性があるとは思っておった。だが、本当に知ったのは……今じゃよ」

 

 それを聞いたルイズは思わず乾いた笑い声を上げてしまった。

 

「ねえ……『始祖』ブリミル。あんた、これ……何かの皮肉なの? わたしの、昔の二つ名は『ゼロ』。サイトの国から舞い降りてきた『竜の羽衣』の名前も『ゼロ』。おまけに虚無(ゼロ)の系統? なんなのよ、これ。どうしてもこのわたしを『ゼロ』に戻したかったっていうの……!?」

 

 カリーヌ夫人は両手で顔を覆い黙りこくっていた。エレオノールに至っては額に手をやり、ぱたりと床に倒れてしまった。そんな姉を側にいたカトレアが慌てて支え、介抱し始める。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は末娘の手を取り、その目を見つめながら呟いた。

 

「可能性であってほしかった。だが、現実になってしまった。ルイズ……おまえはやはり『始祖』の再来。伝説の〝虚無の担い手〟だったのだね」

 

 父の言葉を聞いたルイズは、思わず目を見開いた。

 

(始祖の再来? 伝説!? このわたしが……?)

 

「父さまも、知っていたんですか……?」

 

 ラ・ヴァリエール公爵は娘に向かって頷くと、こう告げた。

 

「いいかね? ルイズ。このことは家族以外の誰にも話してはいけないよ。たとえ、王家の方々から問われたとしてもだ」

 

「どうしてですか?」

 

「〝虚無〟は『始祖』ブリミルしか扱うことができなかったと言われている伝説の魔法にして、本来であれば、その血を受け継ぐ王家の者にしか現れないとされている系統だからだ」

 

「王家にしか現れない系統? だったら、どうしてわたしが」

 

「忘れたのかね? ルイズや。我がヴァリエール公爵家は王家の傍流だ。〝虚無〟が出ても、ちっともおかしくない家系なのだよ。そして〝虚無〟が出たということは……」

 

 そこまで言われたルイズは、はたと気が付いた。

 

「つまり、トリステイン王家の正統がヴァリエール家に移る……と?」

 

 娘の言葉を継いだのはラ・ヴァリエール公爵ではなく、その妻カリーヌであった。

 

「その通りです。現在、トリステインの王座は空位。もしもこれが外部に漏れたりしたら、最悪の場合――愚かな一部の貴族たちがあなたを御輿に担ぎ出して、戦争を起こそうと考えるかもしれません。ヴァリエール家こそが正統な王家である、よって杖を取り、現王家を打倒せよ……と」

 

 さらに、妹の介抱によってようやく立ち上がったエレオノールが追従する。

 

「もしもロマリアの宗教庁にこれが知られたら、大変なことになるわ。おちびを『虚無の巫女』だなんて祭り上げて、大騒ぎするかもしれない。聖地奪還運動を再開することすらありえる……つまり、エルフと杖を交えることになるかもしれないということよ!」

 

 ルイズの全身が、突如背負わされた伝説の重みで震え始めた。ラ・ヴァリエール公爵は末娘の側へ歩み寄ると、その身体を掻き抱いてこう告げた。

 

「わしは、おまえの系統を盾に王座につくことなど考えてはおらん。『虚無の巫女』だなど、もってのほかだ。大切な娘を戦争の道具になぞしてたまるものか!」

 

 娘を抱く腕に力を込め、ラ・ヴァリエール公爵は宣言した。

 

「よって、ルイズ。これからおまえの系統を、今ここにいる者だけの秘密とする。幸いなことに、そのための準備は既に整えられている。かの『東の参謀』殿の手によってな」

 

「ミスタ・タイコーボーが……?」

 

 彼女の疑問に答えたのはオールド・オスマンだった。

 

「そうじゃ。そのために、彼はあのような指示をしていたのだよ。まずは〝念力〟を極めろと。そして〝力〟を発動するためのキーワードを、あえて系統魔法のルーンに当てはめ、唱えさせていたのじゃ。ミス・ヴァリエール、君が持つ真の系統を隠すためにな」

 

 カリーヌ夫人はまっすぐに末娘を見据えて言った。

 

「実際、彼の行った偽装はほぼ完璧です。余程の〝風〟の使い手でなければ、あなたが〝念力〟を使って空を飛んでいることも〝浮遊(レビテーション)〟を唱えるふりをして物を浮かせていたことにも、全く気付けないことでしょう」

 

 母親が告げたその事実は、ルイズに激しい衝撃を与えた。

 

(ミスタ・タイコーボーは、わたしにはそんなこと言わなかった。ただ、将来系統に目覚めたときに備えて、ルーンを途中まで唱え、イメージの練習をしなさいって――!)

 

 と、ここまで考えた彼女は気付いた。

 

(わたしの系統を隠すためにそんなことをさせていた? つまり、それって……)

 

 戸惑いを目に浮かべながらルイズは問うた。

 

「ミスタ・タイコーボーは、わたしの系統に気付いていたってこと……?」

 

「そうじゃ。フーケを捕縛したあの日……君が、ミスタ・タイコーボーに泣いて解析を頼んだあのあとすぐに、彼とわしは揃って辿り着いておったのだよ。ミス・ヴァリエール、君がほぼ間違いなく『始祖』の再来。つまり〝虚無の担い手〟であることにな。じゃが……」

 

 オスマンは申し訳なさそうに続ける。

 

「どうすれば〝虚無〟を目覚めさせることができるのか、あの時はどうしてもわからなんだ。なにせ〝虚無〟は既に失われて久しい系統だったからのう。じゃから、わしらは協力して調査に当たっておったのじゃよ。彼の持つ解析能力と、わしの伝手を利用することによって、徹底的にな」

 

「でも、ミスタが知っているってことは……タバサも?」

 

「いや、彼女は何も知らんよ。あの男は自分の主人にすら完全に黙秘を貫いておる。何故なら……これは言わなくてもわかるのではないかね?」

 

 ルイズは小さく頷いた。

 

「ミスタは戦争が嫌い……ううん、憎んでいるから。わたしの系統が漏れたら、利用されて……戦争の道具にされるかもしれない。そう考えたから」

 

 それを聞いたオスマン氏は、真剣な表情で首を縦に振った。

 

「その通りじゃ。くどいようじゃが、わしの口からも言わせて貰う。ミス・ヴァリエール、君の真の系統や、それを匂わすようなことについて、決して外へ漏らしてはいかん。これには当然サイト君のことも含まれる」

 

 突然名前を呼ばれた才人は、ビクリと身体を震わせた。ブリミル教についてよく知らない彼は、現在の状況についてほとんど理解できていなかったのだが――それでも。

 

 自分だけではなく、すぐ隣にいる少女も何らかの重荷を背負わされようとしている。そのことだけは気付いていた。

 

「ひょっとして、俺の〝ガンダールヴ〟にも関係してるんですか?」

 

「その通りじゃ。いや、正確に言うと君という存在が彼女の系統を導き出したのだよ。何故なら、かつて〝ガンダールヴ〟を使役していたのは『始祖』ブリミルだからじゃ。つまり……君たちふたりは揃って伝説となるべく選ばれし者なのだ」

 

「わたしたちが……」

 

「俺たちが、選ばれし者……?」

 

 揃って声をあげた『伝説候補』に、オスマン氏は重々しい表情で告げた。

 

「ミス・ヴァリエール。君は今日から〝風〟になるのじゃ」

 

「わたしが〝風〟に……?」

 

「そうじゃ。幸いなことに〝念力〟で風を吹かせるコツを心得た男が、わしらのすぐそばにおる。今はゲルマニア見物に出かけておるが、来月頭には魔法学院に戻ると言っておった。後ほど相談してみるといい。それまでは……」

 

 オスマン氏はどこにでもあるような、地味で目立たぬ装丁のメモ帳を一冊取り出し、ルイズに手渡した。

 

「今、君が手にしている『始祖の祈祷書』に記された呪文を書き写しておきなさい。ひょっとすると新しい呪文が読めるかもしれんから、それも合わせてな。そして誰にも見られない場所で、さきほど習得した〝虚無魔法〟を練習するのじゃ」

 

 続いてラ・ヴァリエール公爵がルイズに告げた。

 

「ルイズや。その指に填っている指輪――水のルビーは始祖の秘宝だ。万が一にも紛失してはならぬものである。よって、普段はこのわしが祈祷書と共に預かっておく。そして、毎朝おまえに貸し出す。そのとき新しい呪文を見つけたら、オールド・オスマンからもらった帳面に書き記すのだ。いいね?」

 

 ルイズはこくりと頷いた。そして自分の右手薬指に填められている指輪を見た。それは新たなる伝説の到来を告げる星のように、青白く瞬いていた――。

 

 

 




そして でんせつは はじまった!

にげられない!


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第62話 空の王権の滑落と水の王権の継承

 ――アンスールの月、ティワズの週、ダエグの曜日。

 

 ルイズが自分に課せられた〝運命〟について知らされてから五日が経過した。しかし、彼女の生活はこれまでと一切変わらないものだった――少なくとも、表向きは。

 

 これは、

 

「目立たないようにするためには、何も変えないのがいちばんだ」

 

 というラ・ヴァリエール公爵が打ち立てた方針によるものである。

 

(本当にそれでいいの? わたしには伝説の系統に目覚めた者として、成すべき務めがあるんじゃないのかしら……)

 

 そう考えたルイズであったが、自分の目をただまっすぐに見据えてくる威厳に満ち溢れた父親に口答えをすることなど、彼女にはできなかった。

 

 ――そんなルイズの新生活を紹介しよう。

 

 朝、日が昇る前に目を覚ます。そして寝間着の上にガウンを羽織り、父親の書斎を――誰にも見られることのないよう〝瞬間移動(テレポート)〟を使うことによって訪れ、その場で指輪と本を借り受けて新しい呪文が現れていないかどうかの確認を行う。

 

 しかし〝虚無〟に目覚めた時のように指輪と本が光ることはなく、新たな呪文も全くみつからなかった。ラ・ヴァリエール公爵とルイズは嘆息しつつも――

 

「もしかすると、読めるページがあるときだけ光るのかもしれんな」

 

「はい。それをひとつの目安にしてもよいのではないかと」

 

 そう結論した。

 

 それからルイズは再び〝瞬間移動〟で自室に戻り、ガウンを脱いでベッドの中へ潜り込み、使用人が自分を起こすためにやって来るのをじっと待つ。

 

 現れた使用人の手による着替えを終えた後、今度はダイニングルームへ歩いて移動し、そこで家族揃って朝食を摂る。相変わらず無言のうちに過ぎてゆく食事を済ませた後はいつも通り(・・・・・)に次姉カトレアの部屋で、長姉エレオノールを交えて姉妹三人で優雅にお茶を楽しむ。

 

 だが、実際に部屋の中にいるのはこの三人だけではない。才人がカリーヌ夫人と稽古をしている間、暇を持て余しているデルフリンガーが彼女たちとの会話に加わっている。

 

 そう、これは優雅なティータイムと見せかけられた、虚無魔法と『始祖』ブリミルに関する研究のための時間なのだ。

 

 あるとき、デルフリンガーがこの席でとんでもない発言をした。

 

「相棒が嬢ちゃんのために絵図面描いてる姿がさ、何だか不思議と懐かしかったんだ。そうそう、思い出した。ブリミルのやつとガンダールヴの姉ちゃんに似てるんだよ。あいつらも、よくああやって一緒に新しい魔法を考えてたっけなあ……」

 

 これを聞いて仰天したのはエレオノールである。

 

 この時点で、デルフリンガーが『始祖』ブリミルを護る盾として使われていた、文字通り国宝級の〝魔法武器(マジック・ウェポン)〟であり、才人がその使い手として召喚された伝説の使い魔〝ガンダールヴ〟だと父親とオスマン氏から打ち明けられていた彼女は、探求心のあまりぷるぷると震える両手を必死の思いで抑えながら質問した。

 

「あ、あなた、し、しし『始祖』ブリミルを、し、知っているというの!?」

 

「そりゃあ知ってるさ。なにせ俺っちはガンダールヴの姉ちゃんに握られて、あいつを護ってたんだかんね。いやはや、懐かしいねえ。あいつらも、よくふたりで新しい魔法を創る実験をしてたっけなあ。相棒がルイズの嬢ちゃんに『見えない盾』の魔法を教えたときみたいにな」

 

「ああ、あ、新しい、魔法を、つつつつ、創る……!」

 

 なんとこの剣はその歴史的場面に立ち会っていたのだというのだ。

 

 この話を聞いたエレオノールは歓喜のあまり、その場で飛び跳ねそうになるのをこらえるだけで精一杯といった体であった。それはそうだろう、なにせ『始祖』の魔法開発秘話を聞くことができるというのだ。こんな機会は得ようとして得られるものではない。

 

 だが、カトレアはそんな姉とは全く別のところが気になっていた。

 

「ガンダールヴの姉ちゃん? まあ! 『始祖』ブリミルを護っていらした『神の盾』は女のひとだったの!?」

 

「ああ、そうだよ。顔や名前は全然思い出せねえけど、やたらとキツい性格だったってのは覚えてるぜ。懐かしいねえ……相棒とルイズの嬢ちゃんは立場までそっくりだったっけ。あ、普段のやりとりがって意味な」

 

「た、たとえば、どど、どんなところが?」

 

「ああ、それなんだがな……」

 

 ルイズの問いに、何やら含み笑いをしているような声で答えるデルフリンガー。

 

「いつもブリミルのやつが『新しい魔法を考えついたんだ。ちょっと試してみていいかい?』とか言って姉ちゃんを実験台にしようとするんだ。そのたんびに『ふざけないで! この高貴なわたしを使い魔にできたんだから、もっと敬意を払ってしかるべきよ!』なんて怒鳴りつけられてな……いやあ、懐かしいねえ」

 

 カチャカチャと鍔を鳴らすデルフリンガー。どうやら笑っているらしい。

 

 使い魔に怒鳴られる主人。エレオノールの中にあった敬愛する『始祖』ブリミルのイメージが、がらがらと音を立てて崩れ落ちていったのは言うまでもない。

 

 いっぽうルイズは羞恥で顔を真っ赤に染めながらも――この話を聞いて、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

 

 当初は始祖の再来などと呼ばれ、その重圧と使命感に打ち震えていたのだが……実はそのブリミル本人が、欠点など一切ない完璧な偉人などではなく――どこにでもいる、ごく普通の人間だったとを知ることができたからだ。

 

 それに『始祖』ブリミルとかつての〝ガンダールヴ〟が、どこか自分たちふたりと似ていると言われたのが、何故かルイズにはとても嬉しく感じられた。

 

 ――しかし。それ以外にはたいした収穫は得られなかった。

 

 エレオノールが虚無魔法を習得するためのより詳しい条件や『始祖』ブリミルがどこから来たのか等について、デルフリンガーをさんざん問い詰めてみたのだが、

 

「……知らね」

 

「……忘れた」

 

「……思い出せねェ」

 

 と、いう答えしか返ってこなかった。

 

 口端をひくひくと震わせる姉を押さえていたカトレア曰く、

 

「デルフリンガーさんは六千年以上生きているんですもの。古い記憶が埋もれてしまうのは仕方のないことだわ」

 

 とのことだったが、事実カトレアには例の〝能力〟で、デルフリンガーが嘘を言っていないことが感覚的にわかっていた。また、彼の『中の声』が複数の扉のようなものによって遮られており、全く聞き取ることができないのも確かであった。

 

「相変わらず記憶の面では役に立たないわね、このボロ剣」

 

 ジトリとルイズに睨まれたデルフリンガーは、鍔を鳴らしながら言い返す。

 

「んなこと言われてもなぁ。どうにも俺っちの中じゃ曖昧でよ。ブリミルのやつがニンニク嫌いだったとか、しょうもないことは覚えてるんだ。なんでなのかね?」

 

「聞きたいのはこっちよ!」

 

「『始祖』はニンニクがお気に召さない? ……悪魔の実として認定すべきかしら」

 

「エレオノール姉さま!?」

 

「じょ、冗談よ? 冗談に決まってるじゃない!!」

 

「ほんとかしら……」

 

 わたわたする姉に助け船を出したのはカトレアだった。

 

「そういうことでしたら、何かきっかけさえあれば思い出してくれるんじゃないかしら」

 

「そ、そうね……ここまでの話を聞く限りだと充分ありえることだわ。ひょっとすると、特定の場面やキーワードに反応するのかもしれない」

 

 首をひねり、思いつく限りのいろいろな言葉を投げかけてみたエレオノールであったが、以後大きな進展はなし。結局その日判明したのは、

 

 ・デルフリンガーは、かつて『始祖』の側に在った。制作者は不明。

 

 ・六千年前の〝ガンダールヴ〟は女性だった。

 

 ・ルイズのことを嬢ちゃん、過去の〝ガンダールヴ〟を姉ちゃんと呼ぶことから、彼女はルイズよりも年上である。

 

 ・『始祖』ブリミルと〝ガンダールヴ〟は大変親しい間柄であった。

 

 ・『始祖』ブリミルは繰り返し新作魔法の実験を行っていた。

 

 ・『始祖』ブリミルはニンニクが嫌い

 

 たったこれだけと言ってはいけない。『始祖』ブリミルが正真正銘、魔法の開発者であるという証言はもちろんのこと、これまで不明とされていた『神の盾』の性別が判明しただけでも充分な成果だ――ニンニクはともかく。当然、これらを確認できたエレオノールは至極ご満悦であった。

 

 昼食の後、ルイズは自室に籠もって魔法やブリミル教に関する古い書物を紐解く。これらはオスマン氏がわざわざ『フェニアのライブラリー』から特別に持ち出してきてくれた、千年以上も昔の貴重な古書ばかりである。

 

 その中には、当然『始祖ブリミルとその使い魔たち』に関するものも含まれていた。

 

(そっか……ここに書かれていた使い魔のルーンと才人の〝力〟が一致したから、学院長とミスタ・タイコーボーはわたしが〝虚無〟だっていう結論に達したのね。もともと得意な系統を確認するための〝召喚〟なんだから、当然と言えば当然なんだけど)

 

 そんなことを考えながら、指で本に書かれた文章をなぞる。

 

(だけど、そういうことなら……まさか……ううん、でも……)

 

 読み進めていくうちに、ルイズの中にとある疑問が浮かんだのだが……この時点ではまだそれを口にすべきではないと判断した彼女は、自分の心の中に刻み込んでおくだけに留めていた。

 

 夕方以降は、より厳しい稽古を課せられた才人の看病――ルイズ本人の言葉を借りるならば世話をする。そこで何気ない会話をするのが、彼女にとって最大の楽しみになりつつあった。

 

 いつもの通り、ふて腐れたような声で才人が何事かを呟く。話は必ずそこから始まる。

 

「お伽噺なんかによく出てくる『伝説の勇者』ってスゲエわ。正直ナメてた」

 

「なによそれ。どういう意味?」

 

「お城に行って、王さまから『おお伝説の勇者サイトよ! わしはお前が現れるのを待っていた』とかなんとか言われるだけで、たったひとりで平然と旅立っちゃう。さすがは伝説、格が違った。うん、勇者ってスゲエ。俺には真似できません」

 

「ちょっと、なんなのよそれ! ただ待ってるだけなの? その王さま。騎士団をお供につけたりとか、勇者さまの手助けをしたりはしないわけ?」

 

「ん……まあ、だいたい椅子にふんぞり返ってるだけだな。で、勇者は安物の武器と小遣い程度のお金を持たされて、悪いヤツをやっつけに行かされるんだ。魔王とかな」

 

「ず、ずいぶんと酷い話ね……お小遣い程度で魔王討伐って。それで? その勇者さまは、旅立った後はどうなるの?」

 

「世界中を旅して、魔物を倒したりしながら経験を積んで、強くなって――そんで、最後に魔王を倒してお姫さまと結婚してハッピーエンドってのがお約束だな。ああ、魔王から『世界を半分やるから仲間になれ』なんて言われることもある」

 

「馬鹿な魔王ね! 勇者さまがそんなことで転向するわけがないじゃないのよ」

 

「いや……それがさ。実際に仲間になって世界半分もらっちゃったり、中には自分が魔王に成り代わったりしちゃうヤツもいたりするんだな、これが」

 

「嘘でしょ!?」

 

「いやマジで。けど、大抵ロクなことにならない」

 

「……サイトはそんな『道』を選んだりしちゃダメだからね?」

 

「それ以前の問題だよ! 俺、勇者になるの確定なの!? 確定なんデスカ!?」

 

「なによ! 勇者になるのが嫌だって言うの!?」

 

「普通がいい。お嬢さまんちの『台風』と『激流』を体感して、俺はつくづく思い知りました。平凡な人生って素晴らしい。地球にいた頃は真面目に将来のことを考えたりしたことなかったけど、少なくとも俺の進路に『伝説の勇者』はありませんでした」

 

 それを最後にむっつりと押し黙ってしまった才人に、ルイズは尋ねた。

 

「あんたは、その……元の世界に帰ったら、なりたいものがあるの?」

 

「やっぱりサラリーマンかな。普通に考えたら」

 

「サラリーマンってなに?」

 

「会社で働いて、給料をもらうんだ。どんな仕事するかはよくわかんねえけど」

 

「ええ? あんたはそれになりたいの? よくわからない仕事をするものなのに?」

 

「本当になりたいってわけじゃねえよ。さっきも言ったけど、ここに来るまでは……あんまりそういうこと考えてなかったし。で、お前は? やっぱし立派な貴族か?」

 

 それを聞いたルイズはしばらく黙っていたが――ふいに、ぽつりと呟いた。

 

「わたしはね、普通のメイジになりたかったの。父さまや母さまみたいな強力なメイジになんかなれなくてもいい、ただ、他のみんなと同じように……呪文を成功させることができるメイジになりたかった」

 

 幼い頃から、どんな呪文を唱えても爆発させていたルイズの目標。それは普通のメイジならごく当たり前にできることを、当たり前のようにやれるようになりたい。ただ、それだけだった。

 

「あのあと学院長から聞いたの。わたしが系統魔法を失敗し続けていたのは単に〝力〟が大きすぎるだけじゃなくて、系統が合わなかったからなんだって」

 

「それ、どういうことだ?」

 

 才人の疑問に、ルイズは身近な例を出すことによって答えた。

 

「メイジにはね、得意な系統とそうでないものがあるの。たとえば、母さまは風魔法はもの凄いけど、水の〝治癒〟(ヒーリング)なんかは全然ダメ。父さまは〝水の盾〟(ウォーター・シールド)みたいな身を守るための魔法は上手だけど、攻撃魔法はあんまり得意じゃないわ」

 

(攻撃のママに、回復と防御のパパですか。怖ろしくバランスのいいコンビだなあオイ……やっぱふたりで『伝説』なんじゃねえのか?)

 

 そんなことを考えつつ、才人は言った。

 

「ああ……なるほどな。そういえば公爵は〝水〟の魔法しか使って来なかったっけ。つまり、ルイズは〝虚無〟だったから他の魔法ができなかったってことか」

 

「そういうことみたい。普通なら、自分の系統に目覚めたあとは他の系統魔法もある程度使えるようになるものなんだけどね……エレオノール姉さまにもそう言われて、試しに〝錬金〟してみたんだけど、やっぱり爆発しちゃったわ」

 

「てことは、ルイズは母ちゃんと同じで『一点特化型』なのか」

 

 無言のままコクリと頷いたルイズ。どうやら他系統の魔法が一切使えないという事実が、彼女にとっては相当ショックだったらしい。

 

「あんたの言うとおりだわ。わたしも普通がよかった。どうして、よりにもよってこのわたしが『伝説』なんて肩書き背負っちゃったのかしら……」

 

 楽しみだったはずの時間が、このように一転してどんよりとした愚痴大会と化し……『伝説』を背負った主従が揃ってため息をつくこともしばしばであった。

 

 晩餐の後は再び自室へ籠もり、新たに覚えた〝瞬間移動〟を練習する。なお、ルイズがこの魔法をひとりで使用するにあたり、前もって才人から、

 

「必ず、行き先をしっかり決めてから使えよ。そうでないと、魔法が暴走してとんでもない場所に出る可能性があるからな」

 

 ……という注意を受けていた。

 

「あんたのところの伝承にもある魔法なの? これ」

 

「ああ。少なくとも、俺が知ってる〝瞬間移動〟は滅茶苦茶ヤバイ魔法なんだ。最初に行きたい場所をちゃんと決めて跳べば全然問題ないんだけど……なんにも考えないで使うと、地面の中に出現してそのまま出られなくなったり、反動で何リーグも上空に放り出されたりすることがある」

 

「うっ……そ、それは確かに危ないわね。教えてくれてありがとう」

 

 もちろん、彼が語っているのはゲームやマンガ、SF小説などで得た知識であって、本物の魔法に関する話ではない。だが、例の『防御壁』と同じく、可能性としては充分ありえることなので、念のため口にしておいた才人であった。

 

「いえいえ、どういたしまして。お嬢さまを補佐するのも〝ガンダールヴ〟の役目でございますから。ああ、そうだ。もうひとつ注意点がある」

 

「な、何かしら」

 

 既に顔を引き攣らせまくっていたルイズに、才人は真面目くさった顔で答えた。

 

「空間の座標、つまり場所(・・)を指定して飛ぶのはいいんだけどモノ(・・)を指標にするのはできるだけやめたほうがいい。特に、動くモノの近くに跳躍するのはヤバイ。最悪の場合、移動した瞬間ソイツの中に出現して、揃って爆発! なんて可能性もある。特に、誰かの隣なんていうのは相手が絶対に動かないっていう保障がない限りは、間違ってもやめておけよ」

 

 そう才人から告げられて、ルイズはカタカタと震え出した。

 

「おい、まさかとは思うけど。あのとき、俺の隣指定して跳躍したとか? とか?」

 

 ふいっと視線を外したルイズを見て、才人は確信した。

 

(ああ、やってくれやがりましたねこのお嬢さまは……)

 

 しかし、何故彼女がそのような考えに至ったのかについては全く気付けない。彼の鈍感ぶりは、筋金どころか鉄骨入りなのであった。

 

「なあおい! 頼むから、次からは絶対『やる』って宣言してから試してくれよ! ふたり揃って大爆発! なんて結末だけはゴメンだからな!?」

 

「わ、わかったわ……」

 

 その後ルイズは自主訓練中に〝瞬間移動〟――いや、虚無魔法について非常に興味深いことに気が付けた。

 

 自室でひとり練習をしている最中に、たまたま部屋を訪れた使用人のノック音に驚いたルイズは思わず詠唱を停止してしまった。にも関わらず、彼女が当初から思い浮かべていたベッドの上へ跳躍することができたのである。

 

「え? え? どういうこと? なんで最後までルーンを唱え終わってないのに、ちゃんと魔法が発動したわけ!?」

 

 再び同じ箇所で詠唱をやめてみても、結果は同じ。ルイズは指定した位置にきちんと転移できた……今度はクッションの上だったが。

 

「もしかして、四系統魔法と違って虚無は詠唱をある程度省くことができるのかしら……?」

 

 この件が引き金となり、ルイズは、初めて魔法が成功したときのことを思い出した。

 

 ――それは太公望に教わった『掴み』『解き放つ』ための手法。

 

『よいか? 自分の〝中〟に意識を集中するのだ』

 

『魔法を紡ぎ終えるまでに〝力〟を廻し、巡らせ、集め……そして、唱え終えるのだ。くどいようだが、イメージが大切だからな』

 

(この魔法の場合は意識を向ける〝方向〟が逆なんだわ)

 

 ルイズはすぐさまそれを理解した。それに、あの『始祖の祈祷書』にもこう書いてあったではないか。汝が知る行き先を強く念じ、把握し、掴み、詠唱せよと。

 

(行き先……自分の〝外〟に意識を集中するのよ!)

 

 その上で、全身に〝力〟を巡らせる。ルイズは自分の体内に独特のリズムが生まれてくるのがわかった。そして、彼女は完全に把握し――掴んだ。

 

「ウリュ・ハガラース・ベオークン・イル……!」

 

 呪文に〝力〟を込めれば込めるだけ、唱える文字の数を増やせば増やすだけ、跳躍できる距離が延びるらしい。そのとき彼女が掴めた範囲は、自分を中心とした半径最大一リーグの空間。そこに在る全てが、鮮やかなまでに脳内へ浮かんできたのだ。その動きに至るまで、余すことなく。

 

 そうして彼女は跳躍した――誰もいない空間、屋敷の上空一リーグの高さへ。

 

 当然のことながら、何もない場所へ出現したのだから……自然の法則に従って彼女は落下を開始した。だが、ルイズには一切の動揺は見られない。

 

「ウリュ・ハガラース・ベオークン!」

 

 さらに上へ。

 

「ウリュ・ハガラース!」

 

 今度は横へ跳躍した。繰り返し、繰り返し……彼女は夜空という空間を渡り続けた。そして最後のジャンプで自室へ戻ったルイズはひとつの結論に達した。

 

「普通に空を飛ぶだけなら……〝念力(テレキネシス)〟のほうが速いし、疲れないわ」

 

 この〝瞬間移動〟という魔法は、宙を舞う手法としては残念ながら……全くもって適していないのであった。

 

「それと……広い『空間』を掴むのも、できるだけやめたほうがよさそうね。行きたい場所だけを思い浮かべて、その周辺だけを把握したほうが〝力〟の消耗を抑えられるし――飛べる距離を伸ばすこともできそうだわ」

 

 考えついたことを早速メモに取って残す。こういう几帳面なところはやはり血筋というべきか、為政者として優秀な父や研究員である姉エレオノールとそっくりである。

 

 ……だがしかし。

 

「おちび! このお馬鹿! よりにもよって、こんな上空に飛び出すだなんて……もしも途中で〝精神力〟が切れたらどうするつもりだったのよ!!」

 

「ひたいでふ、ぼうしばぜん! でべざばやべでくだざひおでがいじばず」

 

 実験結果によって判明したことを早速レポートに纏め、提出した途端――その姉の手で頬を思いっきりつねりあげられてしまった。このように、行動の結果を全く考えず、まるで鉄砲玉の如く飛び出していってしまうようなところはしっかりと母親の血を受け継いでいるルイズであった。

 

 ――と、こんな調子で日々を過ごすルイズ。今のところ彼女の周辺だけに限って言えば……世界はまだ、平穏を保っていた。

 

 

○●○●○●○●

 

 トリステインの王宮にアルビオンの港湾都市・レキシントンが『レコン・キスタ』と貴族派の連合軍によって完全包囲されたという報せが届いたのは、その日の朝であった。

 

 すぐに軍関係者や大臣、主立った貴族たちが集められ、緊急会議が開かれた。何故なら同都市はこれまで王党派が抑えていた主要都市のひとつであり、最大の空軍基地がある場所だからだ。

 

 これまで王党派と貴族派連盟の戦況が膠着していたアルビオン王国内の戦争が、今後の状況いかんによっては一挙に貴族派連盟側に傾きかねない。よって、トリステインが国として王党派に援軍を出すのなら、最早一刻の猶予もない。急使を出し、アルビオン側の承認を得る必要がある。

 

 しかし会議はいつもの通り似たような内容を、ただこね回すばかり。

 

「まずは大使館へ事と次第を問い合わせるべきだ」

 

 とか、

 

「情報の流出を抑えて国内の混乱を防ぐべし」

 

 といった意見が飛び交っている。

 

 会議室の上座には珍しくアンリエッタ姫の姿もあったが――彼女はただ呆然としていただけだった。無理もない、あまりに突然の事態急変に、精神がついていけなかったのだ。

 

 怒号が飛び交う中、アンリエッタはふいに傍らの席を見た。そこに腰掛けているのは彼女が最も頼りとする人物、ラ・ヴァリエール公爵である。本来はゲルマニアとの間にある国境線防衛を任されている重鎮でありながら、この一ヶ月というもの、自領と国境の安定と昨今の国際情勢を鑑み、わざわざ王宮へ足を運び続けてくれているのだ。

 

 ラ・ヴァリエール公爵はトリステイン国内において、徹底した保守派として知られる政治家である。また、それは政治思想だけではなく、各種戦略・戦術の組み立てにおいても『守り保護す』即ち『防衛』を基本とする武将として名を馳せた存在だ。

 

(公爵がお父上から爵位を継いでからというもの、一度たりとも国境線が動いていないというのはすごいことだわ。先代のラ・ヴァリエール公爵は、隣のフォン・ツェルプストー家と血で血を洗うような闘争を何十年も続けていたと聞いているのに……それだけ、公爵の手腕が優れているということなのでしょう)

 

 そんな彼は現在、年齢を理由に対ゲルマニア国境防衛軍の第一線からは退いており、実際に国境近辺の守護役を務めているのは彼の部下たちであるのだが、もちろんその『守護者』としての知謀は未だ衰えてはいない。

 

 そんなラ・ヴァリエール公爵が、大切な国境守護のみならず、領地運営までをも公爵夫人と部下に任せ、連日のように参内し、同盟国への援軍供出を議会に提出する。

 

(この事実だけを取ってみても、いかにアルビオン王家が――いいえ、トリステイン王国が危難の淵に立っているのがわかろうというものなのに、どうして彼らはこんなくだらない論争を延々と続けていられるのかしら! でも、わたくしは……そんな家臣たちに何も言うことができない……)

 

 アンリエッタは我が身の不甲斐なさと無念さのあまり、きゅっと唇を噛みしめた。

 

 ――そして昼過ぎ。王宮の会議室に急報が飛び込んできた。

 

「レキシントン、陥落しました!」

 

 どよめく会議場の中で、ラ・ヴァリエール公爵の怒声が響いた。

 

「そんな馬鹿な! あれほどの都市が、半日持たずに陥とされただと!? いくらなんでも早すぎる。通常の防衛戦ならば、単独で半月以上は耐えられたはずだ。これは一体どうしたことだ! 他に何か情報が入ってきてはおらぬのか?」

 

 温厚で知られるラ・ヴァリエール公爵の剣幕に、急報を伝えにやってきた使者は震え上がった。と、すぐさま次の伝令が舞い込んできた。

 

「アルビオン王党派空軍のうち半数が戦線離脱! 造反です! 『レコン・キスタ』の旗を掲げ、貴族派の下へ走ったとの旨、報告あり!」

 

「王党派旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号、船内に潜んでいた『レコン・キスタ』の蜂起により占拠されたとの報告あり! 同艦に乗艦されていたアルビオン王立空軍大将・艦隊司令長官ウェールズ皇太子殿下の生死については未だ不明であります!」

 

 それを聞いたアンリエッタ姫の顔から、ざあっと血の気が引いた。だが、姫君の顔色を気にしている者はこの場にはいなかった。

 

 最早王党派への援軍供出は間に合わない。何故なら、既に貴族派の手によって戦略空域を抑えられてしまったに等しいからだ。

 

 アルビオンはハルケギニア最強の空軍を擁する国である。いっぽうのトリステインは陸軍を主体としており、空海軍は毛が生えた程度にしか持っていない。そんな力関係にも関わらず、よりにもよってその『最強』の空軍のうち半数と、重要な基地のひとつを貴族派連盟に奪われた。

 

 そう、空を抑えられてしまったがゆえに、トリステイン軍を運ぶための運搬船を出すことができなくなってしまったのだ。たとえ出航したとしても、途中で撃ち墜とされてしまっては援軍の意味がない。

 

 この場を取り纏めるべき議長たる宰相マザリーニも、事態のあまりの急変に議論すべき内容を出しかねていた。そもそも彼はブリミル教の司教枢機卿であって、軍人ではない。よって、現在の状況に対応しきれないのだ。トリステイン王国の内政と外交を一手に引き受け、こなしている敏腕政治家の彼にも、さすがに限界がある。

 

 マザリーニだけではない。その場にいる貴族たちのほとんど全てが、右往左往しているといった状況であった。まるで戦場さながらといった怒号が飛び交う中に在って、アンリエッタ姫は気を失わず、意識を保っていることだけで精一杯であった。これらの報せはか弱き姫君にとって、あまりにも刺激が強すぎた。

 

 と、そんな姫君にラ・ヴァリエール公爵が静かに声をかけてきた。

 

「姫殿下。今こそ頂戴した変わるための勇気(・・・・・・・・)を使わせていただきます」

 

「わたくしが与えた……変わるための、勇気?」

 

 姫君の言葉に頷いたラ・ヴァリエール公爵は懐中から絹布に包まれた『水のルビー』を取り出すと、それを自分の右手人差し指に填めようとした。蒼き指輪は公爵が填めるにはあまりにも小さかったが――公爵が指輪に向かって呪文を呟くと、不思議なことに、それはすぐさま適切な大きさとなり、彼の指にぴったりと収まった。

 

 それからラ・ヴァリエール公爵は大きく深呼吸をして立ち上がると、議会会場に向け、戦艦主砲の砲撃音もかくやというほどの大音声を発した。

 

「静まれ! 姫殿下の御前である。静まるのだ!!」

 

 彼は『指輪』を填めた右手人差し指でもって会場中央を指差すと、こうのたまった。

 

「この緊急時に、いったいなにをもたついているのだ! 既に援軍供出は間に合わぬ。そして、かの国で空域を支配されたということは、アルビオン王家の命運はほぼ定まったといっても過言ではない。この状況下において、我らが行うべきことなど既に決まっておるではないか!」

 

(突然何を言い出すんだ)

 

(議長でもないくせに偉そうに)

 

 そう反論しようとした貴族たちだったが……皆、声を上げることができなかった。

 

 何故なら、重職にありながら普段は控えめで、周囲の人間を立てるといった穏やかな紳士であるラ・ヴァリエール公爵から立ち上っている彼本来の身分――国内最大の権勢を誇り、伝統ある王家の血を受け継ぐ大貴族に相応しい『威厳』という名の圧倒的な気配に、揃って気圧されてしまったからだ。

 

 そんな中。ただひとり、ラ・ヴァリエール公爵の姿――いや、正確に言うとその指に填っているものを見て、驚愕のあまり震え出した者がいた。それはこの国の宰相を務めるマザリーニ枢機卿そのひとであった。

 

(何故だ! つい先日までマリアンヌ王妃殿下の指に填っていたはずの『王権』が、どうして彼の――『導く者』の象徴である、右手人差し指で輝きを放っているのだ!?)

 

 だが、マザリーニはすぐさまそこに見出した。優れた政治家にして、トリステイン王家ではなく王国の守護者(・・・・・・)たる彼は、そこにあるとてつもなく大きな利点に気が付けた。

 

(ラ・ヴァリエール公爵はトリステインという国を護る上で、どうしても必要だった存在たりえる。血統だけでなく、その実力も折り紙付きだ……)

 

 ブリミル教司教枢機卿は、静かに口を開いた。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。確認させていただきたい」

 

「猊下。既におわかりかと思うが、事は急を要する。簡潔に願えますかな?」

 

「もちろんです。あなたは先刻、行うべきことは既に決まっていると仰った。我らは果たして何をすべきかを、改めて発言願いたい」

 

 ふたりの政治家の視線が一瞬交差した。互いを呼び合うごくごくわずかな口調の変化とその動作だけで、彼らは互いの立場と今為すべきことを即座に理解し、頷き合った。

 

「まずは不要な混乱が起きぬよう、国内における情報の統制を行うこと。流言飛語の類にはこれまで以上に気をつける必要があります。『レコン・キスタ』やアルビオン貴族派によって、トリステイン国内で煽動が行われる可能性がありますからな」

 

 マザリーニ枢機卿は重々しく頷くと――手元にあった羊皮紙に指示の内容を書き留め、側にいた伝令係に手渡した。

 

「そして、早急に防衛体制を整えねばなりません。特にラ・ロシェール周辺空域の確保は王都防衛の上での必須事項です。その上で、タルブの近郊に竜騎兵を含む各種哨戒兵を配置します。可能であれば、砲亀兵(ほうきへい)も展開すべきでしょう。かの地から上陸され、策源地にされると厄介ですからな」

 

「ラ・ヴァリエール公爵。ラ・ロシェール防衛の指揮及び伝令配置の責任者として、グラモン元帥を推薦したいのだが、問題はないだろうか?」

 

「最適の人選です、猊下。彼ならば、必ずその任を全うしてくれるでしょう」

 

 頷き合ったふたりは同じく会議に出席していたグラモン伯爵――ラ・ヴァリエール公爵の親友であり、対ガリア国境防衛軍の長にして、古くからの盟友に向き直った。

 

 グラモン元帥は彼らの視線を受け止めると、しっかりと頷いた。それを見たラ・ヴァリエール公爵は、すぐさま次の確認に入る。

 

「枢機卿猊下が現在行われている、ゲルマニアとの軍事防衛同盟についての進捗状況をお聞かせ願えますかな?」

 

 マザリーニ枢機卿はぐいと眉をしかめ、苦々しげに吐き出した。

 

「正直、芳しくない状況だ。認めるのは癪だが、国力でいえばあちらのほうが数段上だからな。しかし、このレキシントン陥落の報を皇帝に伝えることで、同盟のための条件を引き出しやすくなるだろう――ああ、伝令は報が届いた時点で既に送ってある」

 

「承知しました。では、そちらはそのまま進めてください。次に――いや、同時に行うべきことはガリアへの防衛同盟打診です。同じ『王権』を持つガリアは我がトリステインと同様『レコン・キスタ』の標的となりえますからな」

 

「確かに。きゃつらが本気で『聖地』への進軍を検討しているとして……あえて最短距離のゲルマニアではなく、ガリアを経由することも充分考えられますな」

 

 これを聞いて顔色を変えたのは高等法院に所属する、約半数ほどの――ワルド子爵の内偵調査により『レコン・キスタ』と通じていると判明している裏切り者たちだ。

 

「ガリアと同盟!?」

 

「正気の沙汰とは思えませんな!」

 

「実の弟を殺して王位を簒奪したあの『無能』に助けを求めるですと!?」

 

 彼らは口々に公爵を非難し始める。そして、そんな声をまとめるかの如く立ち上がってきたのが彼らの長・リッシュモン高等法院長であった。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。あなたほどの知将が、いったい何を仰るのですか? そんな目立つことをして我がトリステインが『レコン・キスタ』の怒りを買ったら、真っ先に標的とされてしまうではありませんか!」

 

 そうだそうだと口を揃える者たちを、ラ・ヴァリエール公爵は鼻で笑った。

 

「リッシュモン殿。この期に及んで何を言っておられるのだ? まさかとは思うが、かの『レコン・キスタ』が、いったい何と言ってアルビオンの貴族派と手を組んだのか、あなたは知らないとでも言うのかね?」

 

「それは……しかし……」

 

「頼りない現王家を打破し、能力のある貴族が代わりに国を支配することで『聖地』奪還を目指す。それが彼ら『レコン・キスタ』が掲げる理念(スローガン)だ。つまり、次に狙われるのは地理的にアルビオンから最も近く、聖地への通り道となり、かつ――現王家の中で最も国力が低い、我がトリステイン以外にはありえないのですよ」

 

 以後、完全に黙り込んでしまった者たちを尻目に、ラ・ヴァリエール公爵とマザリーニ枢機卿、彼らに同調する者たちは次々と今後の方策を打ち出してゆく。

 

 アルビオンからの避難民受け入れや、輸出入に関する件について、国防に関する必要経費の捻出方法や国庫の現状に関する財務局への問い合わせなど、今までの停滞ぶりがまるで嘘のように、会議は激しく流れる川の如き怒濤の勢いでもって進行していった。

 

 そして、いよいよ締めに入ろうかといった段階でラ・ヴァリエール公爵は再び行動に出た。彼にとって、今後絶対に必要となるものを、そこ(・・)から引き出すために。

 

 この機会を逃したら、次はいつになるかわからない。よって彼は、あえてこの場で――後に逆賊と誹られることをも覚悟した上で、それを行った。

 

「アンリエッタ姫殿下におかれましては、これまでの件につきまして、何かご意見などございますでしょうか」

 

 そう言って、ラ・ヴァリエール公爵はアンリエッタ姫と目を合わせると、その後『水のルビー』に視線を移し――小さく頷いた。それを見たアンリエッタは思い出した。先日の会見の際に、ラ・ヴァリエール公爵が、自分に何と言ったのかを。

 

(自分にもっと〝力〟があれば。そう嘆いていた彼が、この無力なわたくしに後押しを求めている。ならば、せめて……わたくしにできることをしよう)

 

アンリエッタは立ち上がって会議場を見渡すと――はっきりとした声で、こう告げた。

 

「マザリーニ枢機卿とラ・ヴァリエール公爵の良いようになさってください。ここまでの内容を聞く限り、おふたりが下した判断が最善であると……わたくしも考えます」

 

 その直後。清廉な姫君は決定的な一言を放ってしまった――その意味を知らずに。灰色に染まったラ・ヴァリエール公爵が、その言葉を泰然として待ち受けていたことも理解できずに。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。わたくしが下賜したその指輪が、穏やかな湖であったあなたを激流に変えてしまったようですね。もちろんそれは……このトリステイン王国にとって良い変化だと、わたくしは思いますわ」

 

 ――アンスールの月、最後の日。水の王国の姫君が放ったこの言葉が。永きに渡って続いてきた古き王家の主流たる血統の完全なる終わりにして、傍流による新たな王朝の始まりを告げる、鬨の声となった。

 

 

 




ささやき、いのり、えいしょう、ねんじろ!
     ※ベッドのなか※

マザリーニさんの胃薬服用が少しでも減りますように。
代わりに増える方がいらっしゃるようですが……。


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新たなる風の予兆
第63話 軍師、未来を見据え動くの事


 ――ニィドの月、フレイヤの週、ユルの曜日。

 

 ハルケギニアが最も暑くなる八月の開始直後。太公望たち『治療チーム』の一行が、トリステイン魔法学院へと帰還する日がやってきた。

 

「くれぐれも無理をしてはいけませんよ」

 

「はい、母さま」

 

 別れの抱擁を交わす母娘を見守る従僕のペルスランが、涙を浮かべている。

 

「トリステインに戻るより、こちらのほうが過ごしやすいのではないか?」

 

「お父さまがまた例の老侯爵との結婚話を蒸し返さないなら、それも悪くないんだけど」

 

「あ、いや、あの件はだな……」

 

「うふふ、冗談よ。ほら……今は火がついてしまったから、ね?」

 

 夏休みの間はそのまま実家に残る予定だったキュルケも共に学院へ戻るらしい。見送りに来た父親に視線でその理由を説明していた。

 

 タバサたち母娘が療養をしている間に、ゲルマニアの首府ヴィンドボナの観光を――もちろんキュルケの案内、しかも二人っきりでしてきたコルベールが、そこで目にした冶金技術に大いに触発され、一刻も早く魔法学院に戻って『ゼロ戦』をより詳しく研究したいと言い始めた。そう、彼女は燃える想いを胸に、彼の後についてゆくことを選んだのだ。

 

 ちなみにその間太公望はなにをしていたのかというと……あてがわれた部屋に籠もり、借り受けた本を片手にだらだらしていた。彼が観光に出なかったのはキュルケの気持ちを察していたことと――万が一にも他者にフーケとの繋がりを割り出されたくなかったため、出来る限り街へ姿を現さないようにしようと考えていたからだ。

 

 ……単純に面倒だったという説もあるが、あえてここは前者を推す。

 

 太公望にとって、三食昼寝付きに加え、徹底的に気を抜くことができたこの療養期間は、久しぶりに獲得できた最高の休日だった。もうひとりの使い魔がこれを聞いたら、血の涙を流すこと請け合いである。

 

 愛する母と抱擁を交わし、涙を流す従僕の手を取って再会を約束したタバサは改めてキュルケと彼女の家族たちへ礼を述べると、ツェルプストー家が用意してくれた火竜の背に乗り込んだ。

 

 

 ――それから三十分ほどして。

 

「ここは空の上という監視が非常に難しい場所です。今後のことを考えると、ある程度情報の交換をしておいたほうが良いと思うのですが」

 

 火竜の上で暇を持て余していたコルベールが、突然そんなことを言い出した。そういう話なら、ツェルプストー家にいる間にさんざんしてきている。つまり……。

 

(あの家にいるうちは聞けなかったことが知りたいという訳か)

 

 例の〝夢渡り〟や関連する諸々の話がしたい。コルベールはそう申し出ているのだ。

 

(正直なところ、あまり手の内を明かしたくないのだが……)

 

 ちらと勉強熱心な教師を見ると、期待できらきらと目を輝かせている。隣に陣取ったキュルケと彼女の側で本を読んでいたタバサまでページをめくる手を止めていた。

 

「おぬしがしたいのは、わしが見せたあの技術についての話で間違いないかのう?」

 

「は、はい。もちろん、軍事機密ということであれば無理に聞き出したりはしませんぞ」

 

 さすがに元軍人というだけあって、そのあたりはわきまえている。

 

「ふむ。確かに、一部機密扱いの情報もある。だが、それを伏せても構わないというのであれば、話すのもやぶさかではない」

 

 太公望は自分の罪を明かしてまで今回の依頼を受けてくれたコルベールへの、感謝と謝罪という意味合いで、話せる部分のみを開示することにした。聞き手たちの顔が期待に輝く。

 

「もともと、あの〝夢渡り〟はな、わしの師匠の友人が開発したものなのだ」

 

「なんともはや、羨ましい話ですな」

 

「む、コルベール殿。それはどういう意味だ?」

 

「既にご存じかと思いますが、トリステインでは新しい魔法の開発が禁止されているのです……異端だという理由で」

 

「ああ、そういう意味でか。同じ技術者の友人がいるという意味かと思ったわ」

 

「そちらはほぼ諦めていますから。少なくとも、トリステインでは」

 

 もちろん、新呪文開発が異端になるかもしれないという話は聞いている。国法で明確に禁じられているわけではないが、

 

『始祖が与えてくれた祝福を改ざんするとはとんでもない』

 

 という理屈をこねる輩がいるらしい。特にトリステインやロマリアなどではそういう傾向が強いのだとか。

 

「私が若い頃はそれほどでもなかったのですがね」

 

「そういえば、先生の『蛇』の魔法って初めて見ましたわ。うちは火の系統なのに……」

 

「あれは昔、私が自分が使いやすいように調整した専用スペルだからね。〝火球〟から爆発力を無くす代わりに温度と着火地点のコントロールがしやすいように改造したんだ」

 

「まあ、そんなことが可能なんですか? あたしも是非試してみたいですわ!」

 

「それなら、もう少し勉強しなければならないだろうね。ああ、ミス・ツェルプストーの実力が足りないという意味ではなく、魔法学院の授業では習得できない知識が必要になるからです」

 

「でしたら、時々先生の研究室にお邪魔しても構いませんこと? あそこで教えていただけるのでしたら、異端だなんておかしな難癖をつけてくるひともいないでしょうし」

 

「もちろんだとも! きみなら決して悪用したりしないだろうし、何より意欲のある生徒は大歓迎ですぞ!」

 

 あっさりと個人授業の約束を取り付ける恋の狩人。哀れな獲物と化した教師はそれに気付いてすらいない。

 

 側で聞いていたタバサも、本音を言えばコルベールから呪文の改造方法を習いたかった。そもそも魔法に手を加えるという発想自体が彼女には無かったのだ。

 

 とはいうものの、現在は太公望の教えを受けている身。まずはそちらをしっかりと自分のものにする必要がある。それに、親友の恋路を邪魔したくはない。

 

 彼らの話を聞いていた太公望は、腕組みして唸る。

 

「なるほどのう。トリステインもロマリアも、色々と勿体ないことを……とまあ、そういう訳で。あれが表沙汰になるとマズイいうのはここにいる皆は言うまでもなくわかっておるな?」

 

 頷く一同。

 

「よかろう。では、誰かわしがタバサの母を治療している最中に口にした言葉を覚えておるか? 例の〝意志〟を封じ込んだときの話なのだが」

 

 コルベールは少し考え、関連しそうな内容を思い出した。

 

「それは『夢とは、無限の宇宙に例えられるほどに広大な別世界である』と、いうあれのことでしょうか?」

 

 太公望は頷きながら言った。

 

「そうだ。そもそも夢とは意志を持つ生物が、自らの持つ想像力と自己の根幹たる魂魄を結びつけて無意識に構築する、現実とは異なる〝別世界〟なのだ。そこに干渉するための技術を生み出したのが先程挙げた人物なのだが……」

 

「だが?」

 

「三度の飯より寝るのが好きという困った人物でのう、隙を見てはすぐに眠ってしまうのだ」

 

「あら、ミスタみたいな方なのね」

 

「失礼な! わしはだらだらするのが好きなだけだ!」

 

「同じ」

 

「全然違うわ!」

 

 ガーッと少女ふたりを威嚇する太公望。

 

「話を戻すぞ。そんな彼が『究極の眠り』を追求するために生み出したのが、あの技術なのだ」

 

「何か問題があるのですかな?」

 

「あたしは素晴らしい技術だと思うんだけど」

 

「同じく」

 

 げんなりした顔でぼやく太公望を、不思議そうな顔で見つめる一同。

 

「あの〝場〟(フィールド)はな……前にタバサとキュルケにはちらっと話したと思うのだが、自在に操れるようになるとものすごく面白いのだ。そのせいで、放っとくと〝夢世界〟の中にいる者は永遠に眠り続けてしまう。結果、周囲が大迷惑を被るのだ」

 

 それを聞いたコルベールが、研究者らしい疑問をぶつけてきた。

 

「寝ている間の食事や、その他の生理現象についてはどうなるのですか?」

 

「そこがまたうまいこと出来ておってな、あそこにいる間は生命維持のために必要なエネルギーの消費が、普通に眠っている時の数千分の一以下にまで抑えられるため、なんと一年近くもの間、完全に飲まず食わずのままでいられるのだ。筋力が落ちるなどの弊害もほとんどない。だからこそ質が悪いのだよ」

 

「もしや、過去に何かありましたかな?」

 

 そう問われた太公望は、がっくりと肩を落とした。

 

「わし、その〝場〟に巻き込まれて、うっかり半年近く眠ってしまったことがあってな。危うく何年もかけて準備していた最終決戦に遅刻するところだったのだよ……」

 

「誰か、起こしに来てくれなかったんですか……?」

 

 額の汗を拭きながら尋ねてきたコルベールに、太公望は苦々しげに答えた。

 

「不幸中の幸い、もとい不幸中の不幸というか。その開発者の住居は秘中の秘とされておってな。居場所を知る者が誰もいなかったのだ。前もって知らせることすら禁じられておったしのう。おまけに通信機の圏外で……わしの居場所を逆探知することすらできなかったらしい」

 

 実際には必死の思いで彼を起こそうとしていた者が側にいたのだが――完全に〝夢世界〟の中に閉じこもっていた太公望は、その声で目覚めることはなかった。たとえ他の人物がいたとしても、それは変わらなかっただろう。

 

「自分で起きようとは思わなかったの?」

 

 首をかしげながらタバサは問うてきたタバサに、太公望は答えた。

 

「それなのだが。あの〝場〟に巻き込まれてしまうと、そこが夢であることをなかなか自覚できないのだよ。しかも、時間の経過が一切わからなくなる」

 

「そういえば、あたしも最初はあれが夢だとは思わなかったわ」

 

「私もです。もっとも、あそこは別の意味で夢の世界でしたが」

 

 ハルケギニアよりも遙かに進んだ技術によって造られているとおぼしき大都市を、彼方に見下ろす不可思議な窓。奇妙奇天烈な家具たち。青白い炎を吹きながら、星の海を目掛けて飛んでゆくフネの姿。『伏羲の部屋』はコルベールにとって、まさしく夢の光景だった。

 

「そうであろう? おまけに、わしは例の開発者から助力と技術の提供を請うために彼の国へ赴いていたため、自分が巻き添えで長期間眠ってしまっていたことに全く気付けなかったのだ」

 

 直接的な助力を得られなかった代わりに超宝貝(すーぱーぱおぺえ)太極図(たいきょくず)』を授けられ――くどいようだが、カツアゲしたと言ってはいけない――自分用にカスタマイズされた新装備を使いこなすため、太公望は〝夢世界〟の中で激しい修行を行うことになったのだが……その際、外でどれほど時間が経過しているのかわからなかった。

 

 その後〝夢〟の支配者に「安眠妨害になる」という理由で外へ叩き出されるまで、なんと六ヶ月も眠り込んでしまったというのだから怖ろしい話である。

 

「まあ、その夢の中で〝夢渡り〟を含む〝場〟や解析のために有用な技術を教えてもらえたので、修行期間だと割り切ることにしたのだが……周軍に戻った直後は部下たちから愚痴られまくるわ、陛下の視線が痛いわで、もの凄く面倒だったのだ」

 

 それを聞いたキュルケが苦笑した。

 

「大きな戦争の前に、半年近くも王軍元帥が行方不明になったりしたら、ねえ……」

 

「もう少し帰還が遅れていたら、危うく副官に主役の座を奪われるところであったわ!」

 

 大口を開けて叫んだ太公望になんともいえない視線を向ける一同。それに気付いた太公望はこほんと小さく咳払いをすると、話を戻す。

 

「ともかくだ。そういうわけなので、わしがアレを使うときは必ず近くに起こしてくれる者を配置するようにしておるのだ。見張りにもなるしのう」

 

 タバサとキュルケは納得したといわんばかりに頷いた。

 

「あなたが〝遍在〟を出せと言う理由がよくわかった」

 

「生死に関わらなくても、そんな長期間寝たきりになっちゃうのは怖いものね」

 

「また〝夢世界〟を体験してみたいというのであれば、再び展開しても構わぬ。わしの都合がつく時に限るがのう。ただ……あまりやりすぎると夢と現実の区別がつかなくなるため、もうしばらく時間を置いたほうがよい」

 

「なるほど、了解しました。ところで、もうひとつお伺いしたいことが……」

 

 コルベールの申し出に、太公望はニヤリと笑った。

 

「例の〝先住魔法〟を封じたアレの件について、であろう?」

 

「その通りです。もちろん、軍の機密に関わるというのであれば結構です」

 

「今コルベール殿が言ったように軍事機密に関わることでもあるので、申し訳ないが詳しく教えることはできぬ。ただ、これだけは言っておく。現時点のわしでは〝夢世界〟の中にいる時しかあの〝技〟を使うことができぬのだ」

 

「つまり、以前は夢の中以外でもできていた……と、いうことですな?」

 

「うむ。ただし……あれを現実世界でやるためには、とある人物の助力が必須なのだ。本来わしひとりでできるものではない」

 

 タバサはその人物について思い当たった。今後のことを考えると念のためキュルケとコルベール先生にも話しておいてもらったほうがいい。そう考えた彼女は、小声で太公望に耳打ちした。

 

 いっぽう、タバサの助言を聞いた太公望も彼女と同様、事情を話しておいたほうがよいと判断した。彼の危険性を知らせるため、さらに――これまでに生じた年齢その他に関する情報の齟齬を何とか誤魔化すといった意味あいで。

 

 ――こうして太公望は自分の『兄』王天君について語り始めた。最悪の場合、その人物が現ガリア王家の使い魔になっている可能性があることも含めて。

 

「ミスタ・タイコーボーにも、双子の兄弟がいただなんて……」

 

「お互いの関係を知らずに命の取り合いとは……なんという……」

 

 既に、タバサから現在行方不明となっている双子の妹について教えられていたキュルケとコルベールは〝召喚〟によって巡り会ったふたりの間に存在する、あまりにも多くの共通点に驚きを隠しきれなかった。

 

 特にコルベールはタバサの事情は前もって教えられていたものの、太公望が歩んできた『復讐の道』については完全に初耳だったため、驚愕した。

 

(なるほど、ミス・タバサは彼との邂逅を『始祖』の啓示と受け取ってしまったのだろう。それも無理はない、あまりにも似通った運命を辿っているのだから)

 

 とはいえ、コルベールにも引っかかることがあった。

 

「双子であるからには自然と姿形が似通うものだと思うのですが……」

 

「そうでもないぞ。男女の違いやその他の要因で、双子とは思えない子が生まれてくる場合もあるのだ。ただ、わしと兄の場合は初めて出会った時点で互いの姿が変わっていたのが大きい」

 

「ミスタが若返っていることと関係あるのかしら?」

 

「うむ。わしはこの姿になっていた。見た目と年齢が合わなかったのだ……それに」

 

「ほ、他にも何か?」

 

「王天君は帝国で肉体を改造され、妖魔と化しておる。残っていたのは人間であった頃の……わずかな面影だけだった。これでは互いに気付けなかったのも無理はない」

 

 それを聞いたコルベールはごくりと唾を飲み込んだ。

 

「有能な水メイジが、死者の肉体の一部を別の者へ移植することに成功したという話は〝魔法実験小隊〟に所属していた頃に何度か聞いたことがありますが……身体そのものを別種の生物に改造してしまうなどという神をも畏れぬ所行については――さすがの私も初めて耳にしました」

 

 コルベールの声は恐怖に震えていた。無理もない、彼はこの世界における科学者の走り的な存在ではあるが、専門はあくまで自然科学と機械工学系である。生物に対してそのような行いをするなど、考えたことすらなかったのだから。

 

「戦争というものは、人間をどこまでも残虐なものに変えてしまうのですな」

 

 吐き出すように紡がれた恩師の言葉を聞いて、タバサは思った。

 

(人間ではないモノに変えられる。いったいどれほどの恐怖を伴うのだろう)

 

 かつて討伐任務で目撃した合成魔竜(キメラドラゴン)は、巨体のあちこちに埋め込まれた生物や捕食された者たちの身体や顔が浮かび出ている奇怪な獣だった。思い出すだに震えが来る。

 

(あんなモノに改造されるなんて想像したくない。彼のお兄さんが耐えきれずに心を壊してしまったのも無理のないこと)

 

 タバサはぽつりと呟いた。

 

「ガリアにも、動物を魔法で掛け合わせた合成獣(キメラ)がいました」

 

「それ、本当なの!?」

 

 親友の問いかけに小さく頷くタバサ。

 

「何という罰当たりな……!」

 

「そのメイジには神罰が下った。実験に使っていた合成獣が檻を抜け出して……」

 

「ああ、うむ。その先は言わなくともよい」

 

 それからしばらくして。最初に重苦しい沈黙を破ったのはキュルケだった。

 

「あたし、ずっと疑問に思っていたんだけど……今の話を聞いて、ほとんど確信に変わったわ。ねえ、ミスタ。例の女狐さんって妖魔か――エルフだったんじゃありませんこと?」

 

 キュルケの発言にタバサとコルベールはぎょっとした。しかし、太公望は動じるどころか小さく笑って頷いてみせた。

 

「さすがだのう、キュルケ。その通り、かの女狐は数千年の刻を生きる大妖魔だ。しかし何故そう思った?」

 

 キュルケはどこか悲しげな笑みを浮かべながら答える。

 

「だって、そうでもなきゃ説明がつかないんだもの。年齢のことはもちろんだけど、あの『烈風』カリンと互角に撃ち合えるほどの技術があって、しかも本物じゃないとはいえ、エルフを前にして怖がるどころか完封しちゃったミスタが手も足も出ずに負けるような相手なんて……人間のはずないじゃない」

 

 太公望は露骨に顔を顰めた。

 

「失礼な! このわしを化け物呼ばわりかい!!」

 

「え~、だって……」

 

「キュルケよ。おぬし、どうもおかしな誤解をしておるようだが……本物の妖魔であるかの女狐はともかくとしてだな! わしや『烈風』殿は状況の持っていきかた次第でいくらでも普通の人間が対抗しうる相手だぞ? それこそ平民でもな」

 

「そんな馬鹿な!」

 

「ありえない」

 

 そう言い募るキュルケとタバサに、太公望は思わず苦笑してしまった。実際、彼の言葉は嘘でもなんでもないからだ。

 

「別に難しいことではないぞ。コルベール殿ならわかると思うがのう」

 

 話を振られたコルベールは頷いた。

 

「あの試合のような、真っ向勝負を仕掛けなければいいだけの話です」

 

「その通りだ。そういう意味ではわしはおぬしとは間違っても敵対したくない。ある意味おぬしは『烈風』殿よりも、数段厄介だからのう」

 

 トリステインの暗部である〝特殊部隊〟の元指揮官、つまり『裏側』の戦い方に精通している。おまけに自然科学の一部を理解し、それを魔法に生かすことのできるハルケギニアでは非常に珍しい類のメイジ。それがコルベールの正体だ。

 

 もちろん〝力〟に関しては比べるまでもなくカリンのほうが上だ。しかし騎士道精神に溢れ、真正面から堂々と仕掛けてくる彼女とは異なり、言い方は悪いが平然と汚い(・・)戦い方ができ、かつ、静かに這い寄って即死級の〝火〟を放てるコルベールのほうが一対一という状況下においては数段怖ろしい。そう判断しているのだ。

 

 と、そこへタバサがボソリと追従した。

 

「先生の杖二本同時持ちも凄かった」

 

 タバサの言う〝二本同時持ち〟とは、例の治療時にコルベールが行った、メインの杖とスペアの杖を用いて左右両手に〝炎の刃〟を出現させた件である。

 

「いやいや、あれは文字通り夢中だったからで、普段からできるようなことではありませんぞ」

 

 慌てふためいたコルベールに、彼にとっては思いもよらぬ言葉が飛んできた。

 

「そんなことはないぞ、あそこでやれたことは現実世界でもできる。わしのように特別な制限がない限りはな。おそらく、あの手術を切っ掛けとして、コルベール殿は『複数同時展開』に目覚めたのであろう。それができるだけの素養は充分にあったからのう」

 

 太公望からそう告げられて、コルベールは自分の両手をまじまじと見つめた。と、そこへさらなる追い打ちが来た。

 

「おそらくだが、今コルベール殿が杖を両方の手に1本ずつ持った状態で〝火球〟(フレイム・ボール)を唱えたとしたら――二個同時に火球を飛ばせると思うぞ。しかも、それぞれ思い通りの場所へ、個別にな」

 

「ええーッ! なにそれ!!」

 

「コルベール先生も規格外」

 

 驚きのあまり、あんぐりと口を開けた女子生徒ふたりへ太公望は言った。

 

「規格外云々ではない。もともと『複数同時展開』とはそういう技術なのだよ。もっともコルベール殿はわしと同じで戦いを好まぬ質であるし、そもそも魔法は戦闘だけに使うものではない」

 

 魔法は戦いのためだけに存在しているわけではない。その言葉を受けたコルベールは改めて件の『二本同時持ち』について考え――そして、すぐさま自分にとって最善の解答に辿り着いた。

 

「そうか! 例えば、同時に複数の〝浮遊(レビテーション)〟を扱うことができれば……宙に浮かんでの観察中に、一本目の杖を使って自分を浮かせながら、二本目の杖で同時に、遠くに置いてある資料を手元へ引き寄せたりできます。複数同時展開か! これは頼りになる助手がひとり、手元についたようなものですな!!」

 

 それを聞いた太公望は嬉しげに頷いた。やはり彼は根っからの技術者なのだと。

 

「その通りだ、コルベール殿。ただし、杖二本ということは……当然、消費する〝精神力〟も二倍になる。そういった意味では一本での同時展開を覚えたほうが効率がいい。もちろん、両方使いこなせれば選択の幅が広がるので、便利ではあるがのう」

 

 〝炎の嵐〟(ファイア・ストーム)のような属性を重ねる必要のある――『同時展開』が難しい類の魔法を複数個、それも容易に操れるというのはとてつもなく貴重な技能だ。

 

 この話を聞いたキュルケは、思わず口を開いた。

 

「ねえ、ミスタ? 前に、あたしは一撃の威力を上げる才能があるから『複数同時展開』は諦めたほうがいいって仰ってましたけど……先生みたいな方法でも、やっぱり難しいんですの?」

 

 キュルケの問いに、太公望は難しい顔をして答えた。

 

「残念だが、本来『二刀流』は習得までに相当な努力を必要とされる技能なのだ。展開へ導くための知識と技術、その上『複数思考』が要求されるだけではない。杖との複数同時契約と、体内における力流の分割という別種の技まで必要となる。ハッキリ言うが、今から練習を始めたとして……身に付けるまでには最低でも十年はかかるぞ」

 

 キュルケの肩が、がっくりと落ちた。何故かタバサまでうなだれた。

 

「コルベール先生も規格外」

 

「これ、タバサよ。そのような誤解をしては彼に対して失礼だ。あれは、コルベール殿がこれまで積み重ねてきた経験があってこそ。才能だけでどうにかなるものではない」

 

「ちなみに、ミスタは『二刀流』が可能ですの?」

 

「いや、無理だ。そもそも、わしは杖1本での『複数展開』ができる上に、使える〝術〟の種類が少ない。よって、習得する意味がないのだ」

 

「ああ、そういえばそうでしたわね……」

 

「なるほど、理解できた。コルベール先生、申し訳ありません」

 

「いや、ミス・タバサ。気にしないでよろしい」

 

 太公望が『二刀流』を扱えない理由。それは単に『打神鞭』が一本しかないというだけのことなのだが、もちろんそんなことは口に出さない。

 

「代わりといってはなんだが、キュルケには『込める』才能がある。これは、あえて通常より多くの〝精神力〟を魔法につぎ込むことにより、威力を大幅に増強する技術だ。以前と比べて〝力〟のコントロールが格段に巧くなっておるので、そろそろそっちへ修行内容を移行しようと考えておったところなのだが、試してみるか?」

 

「もちろん!」

 

 キラキラと瞳を輝かせ、即答した親友を羨ましそうな顔で見つめていたタバサは、ちらと己のパートナーを見た。すると、そこには……待ってましたと言わんばかりに視線を投げかけてくる太公望の姿があった。

 

(あの目。彼は間違いなく何か企んでいる)

 

 ――それに気付いたタバサであったが、しかし。続いて太公望から出てきた言葉によって、彼女は完全に我を忘れてしまった。

 

「タバサには、いよいよ次の段階――『空間座標指定』と『複数同時展開』習得用の課題を渡す。『烈風』殿と同様にわしの『使い分け』をほぼ完璧に見切ることができていたということは、すなわち! それをするための準備が整ったに等しいからだ」

 

(遂に来た!)

 

 タバサの両手に力が籠もる。これで、例の『天使の羽衣』を存分に生かすことができる。おまけに彼女にとっての憧れだった『空間座標指定』つきだ。喜ばないほうがおかしい。

 

 ――周囲の者たちが強くなってくれれば、そのぶんだけ自分の負担が減る。つまり、ぐうたらできる時間が増える。相変わらず将来の平和と怠惰のために、今の努力……現在の仲間育成に余念がない太公望であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌日。

 

 道中、眼下にあったそれなりに設備の整った宿屋で一泊し、その後ものんびりと空の旅を楽しみつつ魔法学院の玄関前に降り立った一同を出迎えたのは、太公望を見た途端、何故か慌てふためいてすっ飛んできたメイドの少女ローラであった。

 

「みみみ、ミスタ・タイコーボー! お、お客さまが! 学院長室で……」

 

 どうやら、太公望ひとりで来いということらしい。

 

(狸ジジイめ、また何かやらかしおったか!?)

 

 太公望はそんな風に考えつつ、タバサたちへ先に部屋へ戻っているよう伝えると、ローラの案内で学院長室へと出向いた。

 

 そこで待ち受けていたのは。

 

「わた、わた、わたし、ま、魔法が……つつ、使えなくなっちゃったの!!」

 

 泣きながら飛びついてきたルイズと、困惑げに立ち尽くす学院長、そして恐縮した様子で自分を見つめてくるルイズの姉エレオノールであった。

 

 ――それから三十分ほどして。

 

 どうにかルイズを落ち着かせ、詳しく話を聞いた太公望は、学院長室のソファーの上で腕を抱え込みながら思案に暮れていた。

 

 ルイズの話はこうだ。

 

 遂に〝虚無〟の系統に目覚め、その際に最初の魔法として〝瞬間移動〟を習得した。昨日まで毎日練習を繰り返していたのだが、今朝になって突然〝瞬間移動〟が一切発動しなくなったというのだ。おまけに〝念力〟までろくに使えない状態らしい。

 

「具体的に、今〝念力〟で、どの程度のことができる? たとえば……学院長の机に置いてある、羽根ペンを持ち上げるくらいのことは?」

 

「全然ダメ。持ち上がらないの。せいぜいカタカタ揺れるくらい」

 

「なるほど。と、いうことはだ。全く魔法が使えなくなったというわけではなく、何らかの原因で極端に〝力〟が弱まっているということかのう」

 

 今朝になって突然なのか。それとも以前から予兆があったのであろうか。太公望は魔法について詳しく、かつ、ずっとルイズの側についていたというエレオノールから、より詳しい事情を聞いてみることにした。

 

「エレオノール殿。ここ数日間で虚無に目覚めたこと以外に何か変わったことはありましたか? たとえば生活習慣を極端に変えたとか、特に重い荷物を〝念力〟で運んだといったような?」

 

「いえ、特には。せいぜい朝起きる時間を一時間ほど早めただけで……って、まさか! この子、極端に寝起きが悪いから、それが影響したなどということが?」

 

「ねねね姉さまこんなところでそんな恥ずかしい話をしないでくださいわたしどうしたらいいのかわからないじゃないですか」

 

 ……と、息継ぎ無しで長姉に抗議した直後に頬をつねり上げられたルイズを見遣りつつ、太公望は呟いた。

 

「就寝時間は変わらず、ですか。しかし、睡眠時間の減少程度で魔法が使えなくなるというのはおかしい。どれ、ちょっとルイズ殿を診てみましょうか……と、学院長。エレオノール殿。ここで、例の〝場〟を使っても?」

 

(確か、異端すれすれと言っていた魔法のことね)

 

 即座に思い当たったエレオノールは、内心でほんの少しだけ葛藤したのだが――研究者としての好奇心と、末妹への心配がそれを上回った。

 

「わしは構わん。むしろ頼む」

 

「わたくしもです。どうか、お願いします」

 

「了解した。ではルイズ。以前の〝場〟を展開するので、わしが『はじめ』と言ったら、あの羽根ペンに向かって〝念力〟を唱えるのだ」

 

 その言葉にコクリと頷いたルイズ。そして太公望は『打神鞭』を構えると、床に半跏趺坐(はんかふざ)の姿勢で座り込み、例の『見えないものが視えるようになる』場を創り出したのだが――。

 

「なんだこれは! 〝器〟の中身が、ほとんどなくなっておるではないか!!」

 

 そう――何故か『大樹』と表現して差し支えないほどに揺らめき、立ち上っていた〝力〟がほとんど消えてしまっているのだ。

 

「これでは魔法が使えなくなったのも無理はない。何故こんなことになったのじゃ!?」

 

 オスマン氏が立派な髭をしごきながら呟いている側で、エレオノールは顎に手を当て、何かを考えている。ルイズに至っては、再び半泣き状態だ。

 

「普通ならば〝精神力〟は眠ることで徐々に回復するものなのじゃが……」

 

 オスマン氏の言葉に、エレオノールが補足意見を述べた。

 

「オールド・オスマン。それには日常生活で魔法を使った程度なら、という但し書きをつける必要がありますわ。さらに、気絶する程大きな魔法を立て続けに使用した場合、完全に回復するまでに数週間、メイジのランクによっては一ヶ月以上かかることが判明しております。これは以前、我が王立アカデミーで実証された研究内容ですから、確かですわ」

 

 これを聞いて、太公望は閃いた。ひょっとすると――。

 

「ルイズよ。まさかとは思うが、毎日〝瞬間移動〟を多用しておったのか? それも……短距離ではなく、長い距離を跳躍し続けていたなどということは?」

 

「え、ええ……練習しなきゃって思ったから……」

 

 太公望は片手で顔を覆った。

 

(なるほど、そういうことか……)

 

「あのな、前に〝召喚〟(サモン・サーヴァント)の説明をしたのを覚えておるか? そこで、わしはおぬしにとんでもない素質があるという話をしたと思うのだが」

 

「ええ。よく覚えてるわ」

 

「でだ。その際に『空間ゲート』同士の距離が長ければ長いほど、それらを接続するためには多大な〝力〟を必要とする……という説明をしたはずだ」

 

 太公望の言葉に、ルイズはハッとした。

 

「つ、つまり……長い距離を飛び続けていたから〝精神力〟の回復が、眠っただけじゃ間に合わなくなっちゃった。そういうこと?」

 

「おそらくそうだ。『空間移動』はとんでもなく疲れる技術だからのう」

 

 やれやれと、苦笑いをしながら太公望は肩をすくめた。

 

 それを聞いて居心地の悪い思いをしていたのはオスマン氏だ。ルイズに虚無魔法の練習をしろと勧めたのは彼だったのだから。

 

「自分と目的地までの距離を、空間を無理矢理ねじ曲げることで縮める。もしくは対象物を粒体に変換した後に『亜空間通路』を通じて目的地へ超高速で移送し、移動後に再構築するのが『空間移動』の主流だ。こんなとんでもない真似をするわけだから、当然必要とする〝力〟は多くなる。ちなみに、わしの師匠がこれを利用した〝魔道具〟の開発に成功しておる」

 

 彼の国ではそんな道具まで造り出されているのか! と、驚くオスマン氏とエレオノール。いっぽうのルイズはというと、聞いた内容を反芻しながら、自分の魔法についての見解を述べた。

 

「わたしの〝瞬間移動〟は、あとのほうに近い感じがするわ。うまく言えないんだけど、何か全身と行き先に『流れ』みたいなものを感じるというか……でも、何かを曲げているような感覚もあるから……どっちなのかって言われると、少し困るかも」

 

「ほほう! それは興味深いな。ちなみに『空間移動』は、通常の〝移動系〟技術と比べ、圧倒的な速度と距離を稼げるのだが、先に述べた通り、極端に〝力〟を消耗するという欠点がある。しかしどうもルイズの場合は、それだけではないように思えるのう」

 

「確かに。普通でしたら睡眠をとることによって〝念力〟が使える程度には〝精神力〟が回復していてしかるべきなのです。なのに、おちび……いえ、ルイズのそれは正しく回復していない」

 

「エレオノール君の言うとおりじゃ。確かにこれはおかしい」

 

 揃って頭を抱えてしまった研究者たち。ルイズは既に涙目である。

 

「他に〝精神力〟を回復する手段と言えば……」

 

 腕を組み、片手で顎を抑えながら考え込む太公望の横ではエレオノールがこめかみを抑えつつ、次善案の検討を行っていた。

 

「そうですわね……やはり『感情の爆発』でしょうか。怒り、喜び、悲しみ。これらの感情と〝精神力〟は深く結びついていますから」

 

 太公望はポンと手を叩いた。

 

「そうか! エレオノール殿の言う通りだ。いずれかの感情をうまくコントロールすることができれば、あるいは……」

 

 だが、その意見にオスマン氏が異を唱える。

 

「しかし、心を落ち着かせて冷静になる……というならばともかくじゃな。その他の感情をわざと爆発させるのは難しいじゃろうて。いくらミス・ヴァリエールが爆発の名人だとしてもじゃ」

 

「ば、ばば、爆発の名人って酷い! 酷すぎるわ! 学院長、それはあんまりです!!」

 

 思わず大口を開けガーッとオスマン学院長に喰ってかかったルイズだったが、そのすぐ側では、太公望が再び床に座り込んでいた。

 

「ルイズ。ちと〝念力〟を使ってみるのだ」

 

「いい、今は、そ、それどころじゃ……!」

 

「いいから、あの羽根ペンを浮かせてみろと言っておるのだ!」

 

 その剣幕に気圧されたルイズは素直に〝念力〟を唱えた……すると。

 

「う、浮いた!?」

 

 いつもの通り、ぷかぷかと浮かんだ羽根ペン――そして。

 

「ふたりとも見てみろ、さっきよりも明らかに〝器〟の中身が増えておる」

 

「ええ……少しだけですが回復、していますわね」

 

「フォフォフォ、思った通りじゃ。怒りの爆発で〝精神力〟が戻ったか」

 

「さすがは狸ジジイ。自然かつ、実に見事な怒らせ方であった」

 

 そこには――ルイズ本人に気付かれぬよう、こっそりと〝場〟を再構築し、冷静に観察している研究者たちがいた。

 

「わわ、わざと!? あ、あれ、わざとだったんですか学院長!? し、しかも、これってみんなわたしが絶対怒るって、わかってやってたってことよね!?」

 

「ほれ見ろ、また〝力〟が溜まってきておる。母君もそうであったが、ルイズは感情を爆発させることで体内を巡る〝精神力〟の回復速度を一般的なメイジよりも極端に上昇させる、という特質があるようだのう。怒りっぽい性格で得をしておるという、ある意味非常に珍しいケースだ」

 

 言葉を用いてさらにルイズを煽る太公望。他人を挑発させたら、この男の右に出る者はそうはいまい。あまり威張れたことではないが。

 

「ぐぬぬぬぬ……」

 

 怒れる末妹の横で、彼女の姉エレオノールは『東方』の技術に魅入っていた。

 

「これが〝場〟。たしかに、興味深い技術ですわね」

 

(い、異端すれすれどころか、もしもこれをロマリアの神官が見たら、聖堂騎士団を引き連れて、異端審問状を片手に魔法学院に乗り込んでくるでしょうね。それほどに異質な技術だわ……)

 

 ブリミル教の敬虔な信者にして研究者たる彼女はそう判断した。

 

 しかし――この技術がトリステインにあれば、今回のような異変の察知や才能の発掘など、間違いなく国の発展に繋げることができる。

 

(オールド・オスマンが欲しがるはずだわ……)

 

 もしも、これを見たのが数ヶ月前の彼女であったなら、ここまで冷静な目で分析することなど不可能だっただろう。だが、末の妹が〝虚無〟に覚醒したという危機と、新たに『魔法科学者』として目覚めた者としての見識が、これまでエレオノール女史の中に存在していた、進歩と成長を阻害する束縛を徐々に打ち消しつつあった。

 

 エレオノールは嘆息した。

 

(どうして異端なんて概念が存在するのだろう……そんなものさえ無ければ……)

 

 そこまで考えたところで、彼女はすぐさまぶんぶんと頭を振り、その罰当たりな考えを外へ追い遣った。そして、心の中で『始祖』ブリミルに懺悔した。

 

 いっぽう、太公望はさらに分析を続けていた。

 

「ルイズよ。ひょっとして、おぬし……ここ最近怒ったり、極端に喜ぶようなことがなかったのではないか?」

 

「そういえば……」

 

 ルイズは改めてこの半月あまりの生活を思い起こしてみた。

 

 規則正しい生活に、両親との触れ合い。姉たちとの楽しいお茶会と、才人とふたりだけの気の休まる会話。『伝説』に目覚めてしまったという使命感からくるプレッシャーはあったものの、家族に囲まれ、穏やかな生活を送っていたおかげで、ルイズはそれをほとんど感じずに済んでいた。よって、感情が爆発するような出来事は一切起きなかった。

 

「だが、それ以前に……」

 

 太公望はジロリとルイズを見据え、言い放った。

 

「おぬし、帰省してから『瞑想』をサボっておるだろう? ついでに言うと、今朝も間違いなくやっておらぬな。どうだ?」

 

「な、なんでわかる……あ!」

 

「気付いたようだのう。そうだ、毎日ちゃんと『瞑想』をしておれば、ここまで極端に〝精神力〟が減る前に、自分で〝器〟の異変に気付けたはずなのだ!」

 

 ここでエレオノールが割り込んできた。片手で縁なし眼鏡の端をついと持ち上げ、太公望へ向き直る。

 

「失礼、ミスタ。その『メイソウ』というのは、いったいなんですの?」

 

「それをお教えするのはやぶさかではないのですが、ひとつ条件があります」

 

「条件……とは?」

 

 途端に、太公望の顔が暗く陰った。

 

「絶対、他者には内緒に……特に、母君には秘密にしておいてください……」

 

 ルイズの表情まで沈んだ。どうやら彼女は問題点に気付いたらしい。

 

 エレオノールとオスマン氏には彼らがそんな顔をする理由がわからない。顔中に疑問符を浮かべている長姉と学院長に、ルイズが解答した。

 

「母さまが……今よりもずっと強くなってしまう危険性があるの……」

 

 その言葉を最後に黙り込んでしまった妹を見たエレオノールは、呆然とした。

 

「つ、つまり……せせ、精神力を、お、大幅に回復するだけでなく……増強する効果のある技術。そ、そういうことかしら?」

 

 揃って、震えながらカクカクと頭を上下に動かすふたりを見て、エレオノールとオスマン氏は怯んだ。確かに、それを『烈風』に教えたら大変なことになる。おもに、周囲の人間が苦労する的な意味で。最も被害を被る人物は、ほぼ間違いなく彼女の夫であるラ・ヴァリエール公爵だ。それだけはなんとしても避けねばならない。

 

 そんなふたりの思惑を知ってか知らずか、太公望がぽつりと呟いた。

 

「もしも夫人に知られてしまったら……このわしの〝風〟と〝技〟の全力をもってしても、反撃はおろか捌くことすらできなくなってしまうやもしれぬ」

 

「そこまでかい!」

 

「ぜ……絶対内緒にしますわ。『始祖』に誓って」

 

「それを聞いて安心しました。ちょうどこの部屋は〝力〟が集う中央塔にございますので、エレオノール殿にもお教えしましょう。王立図書館への口利きをして下さるお礼の前渡しということで。そうそう、念のため聞いておいてやるが、狸ジジイはどうする?」

 

「ずいぶんと扱いが違うのう、このガキジジイめが! まあええわい、ようは他に漏らさねばいいということじゃろう?」

 

「その通りだ。この技術は間違っても他者へは漏らさないで欲しい。将来的にコルベール殿への伝達は検討しておるが、それ以外の場所へ流出すると色々と問題があるからのう。それと……」

 

「桃りんごのタルト一ホールでどうじゃ? 季節モノだから美味いぞ」

 

「タルブのいいやつがついたりはしないのかのう?」

 

「それはおぬしが厨房への土産に買ってきたやつじゃろうが! アルビオンの古いので手を打たんかい。あ、ボトルではなくグラスじゃからな?」

 

「トリステイン魔法学院の長ともあろうものが、ケチくさいこと抜かすでない!」

 

「誰のせいで倹約生活を強いられとると思っとるんじゃ!」

 

「元はと言えば、おぬしの自業自得であろうが!!」

 

 さっぱり事情のわからない姉妹をよそに、丁々発止の喧嘩漫才的交渉を繰り広げるふたり。決着がつき、実際に『瞑想』のレクチャーが行われたのはそれから数十分後のことであった――。

 

 

 ――数時間後。

 

 『瞑想』を行ってみたものの、本来の十分の一にも満たぬ程度しか〝精神力〟が戻らなかったルイズは今夜は魔法学院に残り、明日改めて回復を行うことになった。

 

 既に『始祖の祈祷書』の返却期限が過ぎており、王室の宝物庫へ戻されていたのも帰宅せずに残留した理由のひとつだ。

 

 エレオノールは妹の魔法が明日以降回復する見込みであるということを、不安な心持ちで待ち続けている家族に報告するため、竜籠に乗ってヴァリエール領へと戻っていった。覚えたばかりの『瞑想』を、籠の中で練習しながら。

 

 

 ――ちょうどそのころ。

 

 ラ・ヴァリエール公爵家の城では平賀才人が呻き声を上げていた。今日に限って、何故か極端に身体が重く、いつものように動けなかった。そのせいで、カリーヌ夫人の剣戟を全く捌くことができず、まともに受けてしまったのだ。

 

 稽古の後、ズタボロになった身体を引き摺りながら自室へと戻った才人を出迎えたのはカチカチと鍔を鳴らしながら相棒の帰りを待っていたデルフリンガーであった。

 

 彼は才人が部屋に入ってきた瞬間、こうのたまった。

 

「よう相棒、こりゃまたひでェ状態だね。ああ、そうか! 嬢ちゃんがすぐ近くにいなかったせいで〝ガンダールヴ〟の能力が弱まってたのか」

 

「は!?」

 

「いやあ、すっかり忘れてたぜ。〝ガンダールヴ〟はもともと『虚無の担い手』を護るために存在するんだ。だから、誰かを護るって気持ちが強まれば強まっただけ、誰かのために戦うんだって、心が震えれば震えただけ〝力〟が上がる」

 

「へ!?」

 

「護る対象がいなけりゃ、当然〝ガンダールヴ〟は弱くなる。そんでもって、心が震えてなきゃ最悪の場合、発動しない。そうだった、そうだった。ようやっと思い出した。まァ、嬢ちゃんが近くにいない上にただの稽古だかんね。〝力〟が弱まるのも仕方ないやね」

 

 才人は両手をぷるぷると震わせ、デルフリンガーを引っ掴んだ。

 

「そういうことは早く言え――ッ! ルイズゥ、カムバァ――――ック!!」

 

 ――ラ・ヴァリエール公爵家城内で、才人のせつない叫びが響き渡った――。

 

 

 




シェーン!


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第64話 若人の悩みと先達の思惑

 ――日が落ちて、数時間ほど経った頃。

 

 魔法学院から竜籠でラ・ヴァリエール公爵邸に帰還後、ルイズの魔法に関する詳細説明を待ちわびていた家族たちへ妹を突然襲った不調の原因と――〝精神力〟の回復に時間はかかりそうだが、普通に魔法を使うぶんには問題ないことを報告したエレオノールはその足ですぐさま自室へ戻り、机の上に置きっぱなしになっていた羊皮紙の束を手に取って、大慌ててめくり始めた。

 

「このわたくしとしたことが、なんて失敗を……」

 

 エレオノールは己の迂闊さを呪った。

 

 末妹ルイズの不調と、これまで見たこともない技術の目新しさに気を取られ、肝心なことに気付けなかったことを徹底的に悔やんだ。

 

「もしもあの時点で気付いていたら、もっと詳しく話を聞くことができていたのに……!」

 

 だが、その事実に思い至ることができたのは竜籠内部で行っていた『瞑想』の最中であった。

 

 彼女が現在手にしている紙束。それは、以前『お客さま』を歓待した際に行われた、東方の視点から見たハルケギニアの魔法に関する見解を書き留めておいたものだ。

 

 エレオノールはそこに書かれた一文を読み、唇を噛んだ。

 

『世界に溢れる粒状の小さな〝力〟を、メイジが持つ〝力〟と魔法語を併せて用いることによって操作する。これが系統魔法とされるものである』

 

 それから、彼女はごく最近取ったばかりのメモと見比べた。

 

『全ての物質は小さな粒より為る。四の系統はその小さな粒に干渉し、影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり』

 

「やっぱりそうだわ! どうして今まで気が付かなかったのかしら。世界に溢れる小さな粒。彼は始祖の祈祷書に記されていたのと全く同じことを言っていたのに!」

 

 そこへ至るまでの『道』が目の前に何本も用意されていたにも関わらず、不安と焦りという名の深い霧に迷わされ、完全に見逃してしまっていた。エレオノールはそれが本当に悔しかった。

 

「お、王立アカデミーの首席研究員ともあろうものが、こ、こんな……研究室に配属されたばかりの新人がするようなミスをしてしまうだなんて!」

 

 金髪の女史は、思わずその美しい眉根をぎゅっと中央へと寄せた。

 

「ミスタ・タイコーボーは今日初めておちびが〝虚無〟に目覚めたことを知ったはずなのに、一切動じていなかった。前もって予測していたとはいえ不自然よね。おまけにあの〝移動魔法〟について、最初から全部わかっていたような受け答えをしていたわ。そして、彼の先生はあの魔法と同じ効果を持つ〝魔道具〟の開発に成功しているとまで言っていた。つまり……」

 

 ――彼、ミスタ・タイコーボーの国では〝虚無〟が失われておらず、残っている。あるいは非常に近しい魔法が数多く存在している。

 

「そうよ! 『始祖』ブリミルは『聖地』に扉を開いて、遙か東の大地からこのハルケギニアへ降臨したという説があるくらいなんだもの。いいえ……ひょっとすると……ミスタ・タイコーボーの出身国こそが『始祖』生誕の地だということも考えられるわ!」

 

 エレオノールは己の内に浮かび上がってきた考察を、さらに先へと進めた。

 

 もしかすると、かの国には『始祖』ブリミルの血に連なる者――彼の親戚縁者が大勢いるのではないだろうか。

 

 そのために、本来であれば『始祖』の血を受け継ぐ者でなくては使うことができず、かつ扱いが非常に難しい〝虚無〟が、時間の経過と共に失われずに済んだのかもしれない。

 

 だから『失われた系統』『伝説の再来』などと極端に神聖視されていないのではないだろうか。それどころか、ハルケギニアの四大系統魔法と同じくらい身近に存在する魔法なのかもしれない。そういう事情なら、彼がルイズの覚醒を聞いても全く動じない理由として納得がいく。

 

 そして。その虚無魔法をアイテムに込めることができるほどの技術と知識を持つ〝魔道具工匠(アイテム・マスター)〟の存在。つまり、彼の師も『始祖』の〝力〟と叡智を受け継ぐ者のひとりなのではないだろうか?

 

 そこまで考えるに至り、エレオノールの身体がぷるぷると震え始めた。

 

「そういえば、ミスタは『魔法は〝力〟のコントロールを覚えてから習得するもの』だと言っていたわよね。にも関わらず、ハルケギニアにはそれらの技術が伝わっていない、あるいは既に失われているようだと推測していたわ。と、いうことは……」

 

 そこから導き出される解答。すなわち『始祖』ブリミルは――生誕の地『東方』ロバ・アル・カリイエで自分の一族と共に魔法の基礎部分を開発し、ひとびとの間へそれを広めた後に『西方』ハルケギニアを訪れたという可能性がある。

 

 始祖が降臨した当時――つまり六千年前は〝場〟の魔法や瞑想は極秘の技術とされており、自国の者以外に教えることを固く禁じられていたのかもしれない。それなら、ハルケギニアに伝わっていないのは当然だし、納得もできる。

 

「特に『瞑想』を広めるのは危険ですものね。降臨当時に伝わっていたら――今頃、トリステインはガリアに吸収されていたかもしれないわ」

 

 瞑想が最大の効果を発揮するには〝霊穴〟(パワースポット)と呼ばれる土地を押さえる必要がある。現時点でエレオノールが知るその場所は、トリステイン国立魔法学院の中央塔とラグドリアン湖だ。前者はともかく後者はガリアとの国境をまたぐように存在している。

 

 〝力〟の独占を狙った国同士が戦争になった場合、勝つのは大国ガリアだろう。

 

「『始祖』の英知に心からの感謝を……」

 

 祈りの言葉を中空に捧げたエレオノールは、中断していた考証を再開する。

 

「〝錬金〟は『始祖』ブリミルがこのハルケギニアへ辿り着いた後、新たに開発した魔法なのかもしれないわね。それなら、東方に〝錬金〟の概念がないというのも頷けるわ。あの博識な東の参謀殿が全く知らない魔法だと驚いていた程なのだから、これは充分にありえるんじゃないかしら」

 

 ちらと机に置かれた予定表を見た。あと数日で取得していた休暇が終わる。

 

(アカデミーへ戻ったら、始祖に関する資料を確認してみよう。それと、王立図書館の蔵書も調べなければ。ただし、家族の秘密に抵触する危険性があるから……あくまで極秘裏に)

 

 だが、エレオノールにはその前にすべきことがあった。

 

「ミスタ・タイコーボーからお話を聞いておくことができれば――この説はさらに信憑性を帯びてくるかもしれないわ。明後日おちびを学院へ迎えに行くついでに、改めて対談を申し込むことにしましょう。ええ、そうよ。そうすべきだわ!」

 

 眼鏡の奥で瞳をぎらぎらと光らせながら、エレオノールは独白した。

 

「も、もしかすると、わ、わたくしは……こ、これまで六千年もの間、誰にも解明できなかった『始祖』生誕の地についてや、魔法開発の秘事に踏み込む好機に恵まれたのかもしれないわ!」

 

 絶対にこの機会を逃してはいけない。何故なら――。

 

「そうだわ! きっとこの謎を解くことこそが、わたくしの! 〝虚無の担い手〟を家族に持ち、王立アカデミーの首席研究員となったこのわたくしに『始祖』がお与えになられた使命に他ならないからよ!!」

 

 エレオノールは興奮で震える腕を押さえるのに苦心しながらペンを取り、ここまでの考えをレポートに纏め始めた。明後日に控えた対談予定に備えて。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――同時刻。魔法学院内の寮塔五階にあるタバサの部屋内では。

 

「うぬぬぬ……真夏だというのに、いったいなんだ? この寒気は」

 

 何の前触れもなく襲いかかってきた強烈な悪寒に、太公望が腕を抱え震えていた。

 

「夏風邪?」

 

 自分の手を太公望の額へぴたりと当ててみたタバサであったが、しかし。別段冷たすぎたり、熱すぎたりといったようなことはなかった。

 

「たぶん、違うとは思うのだが……念のため、今日は早めに寝ようと思う」

 

「そのほうがいい」

 

 そう言って、タバサはじっと太公望を見た。

 

「なんだ?」

 

「さっき、窓からラ・ヴァリエール公爵家の紋が入った竜籠が飛んでいくのが見えた。ルイズも寮の部屋へ戻ってきている」

 

 心配げなタバサの問いに、太公望は思わず頭を抱えそうになった。

 

(あんな派手な来訪をすれば、当然目立つだろうに――ルイズだけでなく、家族たちも余程慌てていたのだろう。まあ、今までやれていたことが突然できなくなったのだ。無理もないことではあるのだが……あとしまつをする者のことも、少しでいいから考えて欲しかった……)

 

 こうなっては仕方がない、ある程度の情報を公開しておいたほうがいいだろう。そう判断した太公望は今回ルイズに起きたトラブルに関して、外部へ漏れても問題のない一部の出来事を――今後間違いなくタバサの役に立つであろう知識をいくつか付け加える形で開示することにした。

 

「ああ、あの件だがな。ルイズのやつ、どうもわしらがゲルマニアへ移動した後に、家族の前で必要以上に張り切って魔法を披露しすぎたようでのう。今朝になって、何故かまともに飛べなくなってしまったと、わしに泣きついてきたのだ」

 

「どういうこと?」

 

 〝飛翔(フライ)〟の魔法なら、精神力不足で浮かべなくなることはあっても、動作そのものがおかしくなるようなことはない。ひょっとすると〝念力〟での浮遊は何か特別な制限があるのだろうか。そう考えたタバサは素直にそれを聞いてみることにした。

 

「それなのだが〝飛翔〟の場合は自身の周囲に〝風〟を纏うことで空を飛ぶ、そのため『空間把握』が最低限できれば問題ない。ところが〝念力〟で同じことをしようとした場合、ちょっとでも感覚が狂うと、まともに浮かぶことすらできなくなるのだよ」

 

「それは、たとえば風邪をひいて熱が出ると集中力が阻害されて、うまく魔法が使えなくなるのと同じような?」

 

「その通りだ」

 

 タバサの問いに、太公望は頷いた。

 

「念力による〝高速飛行〟をする場合、自分と行き先の間にある空間と距離、そして座標を完全に把握しておく必要があるのだ。先程タバサが例に挙げたように、風邪などで体調を崩したり、疲れで極端に集中力が落ちると、それに比例して『掴む』ための感覚が鈍る。その結果、まともに飛ぶことができなくなるのだ」

 

「理解した。繊細な感覚を必要とするため、身体にほんの少し違和感が生じただけで障害が発生してしまう。でも、それなら今まで飛行阻害が起きなかったのは何故?」

 

 ルイズは毎日のように空を飛ぶ練習をしていた。なら、何度か疲労でうまく浮かべなくなっていてもおかしくないのではないか。

 

 当然の疑問をぶつけてきたタバサに、太公望は至極真面目な顔で答えた。

 

「それはルイズが今まで魔法学院で生活していたからだ。あの娘は感情の起伏が激しいからのう。わしやおぬしから見たらごくごく日常のささいな出来事に対してもいちいち怒ったり、大喜びしたり、何かと跳ね返っておったであろう?」

 

 使い魔召喚の儀以降、何かとルイズと関わる機会が増えたタバサはなるほどと頷いた。

 

 かつてルイズは『ゼロ』と周囲から馬鹿にされ、いつも激しく怒っていた。あるいは悔しさにじっと耐え忍んでいた。

 

 ここ最近の彼女は魔法が使えるようになった喜びを全身で現していた。感情と〝精神力〟は密接な関係にある。実家へ戻り、静かな生活を送るようになって回復力が落ちてしまったのだろう。

 

「本来であれば、それに加えて『瞑想』を行うことにより、体力と精神力を回復させることができていたはずなのだが……」

 

 太公望は頭を掻きながらぼやいた。

 

「わしとしたことが、あまりにも基本的な内容であったがために、教えるのをすっかり忘れておったのだ。瞑想は〝霊穴〟(パワースポット)で行わなくとも効果を発揮するということをな。〝力〟の蓄積こそできぬが、回復に関しては、ただ眠るよりもずっと早く行える」

 

 それを聞いたタバサは、なるほどと頷いた。

 

「つまり、それを知らなかったルイズは外での瞑想を全く意味のないものと認識してしまい、帰省してから一切行わなかった。結果、家族の前で魔法を使い過ぎた彼女は疲弊し……〝精神力〟の回復が間に合わなくなった。そのせいで、うまく飛べなくなった。これで合っている?」

 

「うむ、完璧だ。これは前もってきちんとそれを教えておかなかったわしのミスだ。その結果、帰還した直後にルイズの調子を診る羽目になったと。まあ、こういうわけだ」

 

「ひょっとして、さっきからずっと机に向かっているのは……」

 

 タバサが問うたのも無理はない。学院長室から自分たちの部屋へ戻ってきてからというもの、太公望はずっと机に向かい、羊皮紙に何かを書き記し続けていたのだから。今までの会話中も、ずっとペンを動かしていた。

 

「いや、これはおぬしへ与える新たな課題だ」

 

 そう言って、太公望は書き終えたページの一枚をタバサへ手渡した。

 

「空気の重さ……圧力とその流れ……それに風の発生。これは……!」

 

 タバサはその内容を理解し……驚きのあまり目を見開いた。以前書店で買い求め、自室の本棚に収めてある、ハルケギニアの天気と風の関係について記された書物。

 

 その内容をさらに吟味した上で凝縮し、煮詰めたようなものがびっしりと書き記されていたからだ――しかも、非常にわかりやすい図解つきで。

 

「風が吹くのは何故か。雨と風の関係について。空気の中に含まれるもの。そういった〝風〟に関する根本を纏めたマニュアルを作製しておるのだ。わしからおぬしに与える次の課題は、それをガリア語で読み上げながら古代ルーン文字に翻訳し、紙に書き写すという内容だ」

 

「ひょっとして『複数思考』の訓練課題?」

 

「そうだ。『声に出して読む』『書かれた内容を正しく理解する』『頭の中で別言語に翻訳し直す』『腕を動かして紙に書き写す』という、同時に全く別種かつ複雑な思考を要する特別メニューだ。さらに時折わしが話しかけるので、それに答えて貰う」

 

「複数思考中でも集中力を乱さないための特訓。それがあなたからの対話」

 

「その通り。しかも、そのマニュアルを使うことによって〝風〟に関する理解が深まり、メイジとしての総合力まで上げられるという、実にお得感溢れる訓練なのだ!」

 

 確かにこれはとてつもなく難しいが、最後までこなすことができたら――今後、大いに役立つ訓練だ。タバサは奮い立った。

 

「これは今から始めても……?」

 

「もちろんかまわぬが、ゲルマニアから帰ってきた直後で疲れておるのでは?」

 

「大丈夫、問題ない」

 

「そうか。だが、疲れて効率が落ちては意味がないので、今夜はあくまで練習。最初の三ページだけに留めるのだ」

 

「わかった」

 

 タバサは早速自分のぶんの紙とペンを用意すると、少し離れた場所に置いてあるテーブルの上にそれらを広げ、マニュアルに書かれた内容を声に出して読み上げ始めた。

 

「風が吹くというのは、つまり空気が動くことである。この動きが発生するのは……」

 

 部屋の中に少女の声と、カリカリと紙の上をペンを走らせる音が響く。

 

「タバサ、読み上げが止まっておるぞ」

 

「……思っていたより、ずっと難しい」

 

「最初からいきなりできるようなら、わざわざ訓練する必要などなかろう?」

 

「努力する。ん……と、動きが発生するのは空気に重さが……これを空気圧と呼ぶ。この圧力の違いにより……流体である空気が……圧力の……」

 

「ところでタバサよ。明日の昼食についてなのだが」

 

「食堂は開いているはず……低いほうへ移動を開始する。これが風である」

 

「ほれ、今度は手が動いておらぬぞ」

 

「……いじわる」

 

「かかかか! そう簡単に達成させてなるものか!」

 

「今のタイミング、まさか……わざと?」

 

「当然だ! 集中が乗り始めたところへ声が掛かる恐怖を、存分に味わうがよい!!」

 

「悪趣味」

 

「クックック……何とでも言え。果たしておぬしは就寝時間前までに、三ページ全てを訳し終えることができるかな!?」

 

「意地でも終わらせる」

 

「ふふん。このわしの妨害を受けてなお、任務を達成することができるかのう? ま、せいぜい無駄な努力をするがよい……って! これタバサ、杖を構えるな! そして殴るな! 痛い! その杖は固いから、叩かれると本当に痛いのだ!!」

 

 主人と使い魔の心温まる(?)交流はその後しばらく続き――結果。この夜の訓練は目標の三分の一も進まぬまま終了したのであった……。

 

 

 ――それから数時間後の、真夜中。

 

 タバサはベッドの中で横たわったまま、薄く目を開いた。

 

 昨夜、宿に泊まったときもそうだったのだが――眠りに落ちることができない。

 

 ニィドの月はハルケギニアが最も暑くなる時期だ。しかし、今日は寝付けないほど酷い熱帯夜ではない。その証拠に、同居人は部屋の反対側に置かれている折りたたみ式寝具の上で、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てている。

 

 外の風が入ってくるよう、窓は全て開け放ってある。窓際に椅子を置き、そこに腰掛けたタバサは杖を手に取り、手元へ空のグラスを引き寄せると〝水〟の初歩魔法である〝凝縮〟(コンデンセイション)を唱えた。

 

 水蒸気が集まり、液体となってグラスを満たす。その中に小さな氷を浮かべ、一気に飲み干した。ひんやりとした水が喉を潤してくれたが、美味しいとは到底言い難かった。魔法で人工的に創り出した水は自然に湧き出たものと比べ、数段味が落ちるのだ。

 

「水汲み場で冷たい水を飲んでこよう」

 

 そのついでに少し空を舞って気分転換をすれば、すんなりと眠れるかもしれない。そう考え、外へ飛び出したタバサであったが、しかし。残念ながらその試みは成功しなかった。部屋の中では太公望の静かな寝息が響いているにも関わらず、だ。

 

 仕方なく、タバサは再び杖を手に取ると――自分に〝眠りの雲(スリープ・クラウド)〟をかけた。それで、ようやく彼女は夢の世界へ旅立つことに成功した。

 

 ただ、あまり良い夢を見ることはできなかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから一日が経った、ラーグの日の早朝。

 

「うぬぬぬぬ……そろそろ来るだろうとは思っていたが、やっぱりか」

 

 太公望が灰色の伝書フクロウによって届けられた召喚状を前に、唸っていた。

 

 ついに彼の元へ〝騎士(シュヴァリエ)〟と〝東薔薇警護騎士団章(エストパルテル)〟の正式受勲の手続きを行うため、ガリア王宮プチ・トロワへ出頭せよと書かれた命令書が届いたのだ。

 

 さらに、タバサにも出頭命令書が届いている。任務の詳細内容については、いつも通り何も書かれていない。

 

「時期が時期だけに慎重を期したほうがいい」

 

 オルレアン公夫人を救い出した直後であるため、タバサが相手方の動向を不気味に感じるのは当然だ。太公望も、彼女と全く同意見だった。彼はふうっと大きく息を吐くと、改めて口を開いた。

 

「とはいえ、現時点で深く考え過ぎても仕方なかろう。もちろん用心を怠るつもりはないが。しかしふたり揃って小宮殿のプチ・トロワ指定ということは……ジョゼフ王が自ら出てくるわけではなさそうだのう。一度、顔を拝んでおきたかったのだが」

 

 タバサは小さく首を振った。

 

「ガリア国内で余程名を上げるか、花壇騎士団の中で相当序列が上がらない限り……普通の貴族ではジョゼフ王との謁見はまず叶わない。わたしもイザベラから任命状を受け取った」

 

「なるほど。まあ、そのあたりは大抵の国に共通することだから仕方がないとして……まったく、ルイズの件といい、これといい……ちと住処を空けただけで、どうしてこうも厄介事がまとめて飛び込んでくるのだ?」

 

 実に迷惑げな顔で、届いた召喚状をひらひらさせながら呟く太公望。

 

「ルイズは大丈夫?」

 

 夕べ食堂で顔を合わせたときは、それほど疲れているようには見えなかった。しかし〝精神力〟の消耗による疲労は、肉体的なものよりわかりにくい。

 

「ああ、それなら心配ない。まだ完全に〝精神力〟が回復したわけではないが、今まで通り魔法を使うぶんには問題なかろう」

 

「元の〝器〟が大きいと回復にも時間がかかる」

 

「ルイズのアレは特別大きなものだからのう。ま、瞑想についても最初からちゃんと説明しておいたし、魔法の使いすぎにも注意するよう念を押しておいたから、もう帰宅しても平気であろう」

 

 しかし――太公望はルイズの〝器〟について、いくつか気になることがあった。

 

 ひとつは、ルイズの回復速度が自分たちと比べて異様に遅いことだ。ルイズの『瞑想』が下手というわけではない。むしろ、太公望が教えた子供たちの中では巧いほうだと言ってもいい。にも関わらず――昨日、約半日かけて〝器〟の十分の一程度まで戻すのが精一杯であった。

 

 家系的にそういう体質なのだろうか? あるいは〝虚無〟特有の何かがあるのかもしれない。念のため、オスマン氏を交えて三人で会談してみたが、体質についてはもちろんのこと、虚無の特性についてもたいしたことはわからなかった。なにせ数千年前に失われた系統のこと、比較対象どころか、資料すらろくに残されていないのだから。

 

 そのあたりについて、今日改めて調査を行う予定であったのだが――この召喚状が届いてしまったがために、それはできそうもない。

 

「とりあえず、オスマンのジジイから国境越えの認可証を貰いにいってくる。おぬしのぶんも受け取ってくるので、その他の支度を頼んでもかまわぬか?」

 

「わかった。ところでそれは何?」

 

 タバサが指摘したものは、布にくるまれた一抱えほどある謎の包みであった。

 

「ああ、狸ジジイに頼まれとった書類だ。あやつ、最近わしを秘書か何かと勘違いしておるのか、やたらと仕事を持ち込んでくるのだ」

 

「昨日、一昨日と連続で出てきた桃りんごのまるごとタルトは……」

 

「その報酬だ。まったく、あのようなものでこのわしを釣るとは!」

 

 デザートを報酬に書類の作成を引き受ける――やっぱり、彼に何かモノを頼むときには甘味を与えるのがいちばんなのだ。充分わかっていたつもりであったが、今更ながらそれを思い知らされたタバサであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その日の夕方。

 

 トリステイン魔法学院の学院長室内で、ひとりの女性の絶叫が響き渡った。

 

「が、が、ガリアへ、かっ、帰ってしまわれたですってェ――!?」

 

 大声の主はルイズを竜籠で迎えに来たエレオノールだった。

 

「う、うむ。今朝方ミス・タバサのご実家から報せがあってな……急いで戻ってくるようにと、国元からわざわざ迎えが来たのだ。当然のことながら、ミスタ・タイコーボーも、彼女について行ったのだよ」

 

 凄まじい剣幕で自分の前へと詰め寄ってきたエレオノールにたじたじとなりながら、オスマン氏は答えた。

 

「で、でもですね、あの方には、おちび……い、いえ、その、る、ルイズの件を、お、お任せしていたわけで」

 

「それなんですが、姉さま。ミスタはわたしにこれを読むように、って」

 

 そう言ってルイズがエレオノールに手渡したのは、古代ルーン文字がびっしりと並ぶ書類だった。それは〝風〟に関する自然科学の書(図解付き)、そして〝念力〟で簡単な風を発生させるためのコツを記した簡易マニュアル、さらに〝瞬間移動〟を行う際に注意すべきことを箇条書きにしたメモであった。

 

「あの男、本当に用意周到というか……ミス・ヴァリエールの話を聞いた後、即座にそれを纏めておいたらしい。あくまで基礎の基礎の基礎らしいが、いやいやどうして、良く書けておるわ。わしも勉強になった」

 

 可能であれば『フェニアのライブラリー』に収めたいくらいじゃ。おまけに、あえて不勉強な者には読めぬよう、共通語ではなく古代ルーン語で書かれているのがまた憎たらしい。そうぼやき続けるオスマン氏の声は、しかしエレオノールには届いていなかった。

 

「そ、それで? ミスタはいつ魔法学院へお戻りになるんですの!?」

 

「さあ……」

 

「さあ……って、そんないい加減な!」

 

 机を叩いて抗議してきたエレオノールの迫力に、オスマン氏は思わずたじろいだ。

 

「いや、そんなことを言われても。そもそも彼らはガリアの〝騎士〟じゃからのう。ああ、何やら親族への顔見せも兼ねとるらしいから、いつ戻れるかわからんとも言うておった。最低でも一週間……ひょっとすると、夏期休暇が終了するまで戻ってこんかもしれん」

 

「そ、そんな……ッ」

 

 エレオノールはがっくりと落ち込んだ。傍目に見てもわかるくらいに。

 

 それはそうだろう。過去六千年間誰も辿り着けなかった『道』を発見したかもしれないのに、その手がかりを持つと思しき人物が、しかも、今日会えるとばかり思っていた相手がいきなり目の前から消えてしまったのだから。そのうち戻ってくるとわかってはいても、気落ちしてしまうのは当然だろう。

 

「なんじゃ? エレオノール君。そんなにあの男に会いたかったのかね?」

 

 オスマン氏がいつもの軽口のつもりで叩いた言葉に戻ってきた返答。まさか、これが事件の始まりになろうとは、発した本人も、受けた者も、思いも寄らなかった。

 

「えっ? え、ええ……まあ。そ、その、彼と、お話し……したいことが……」

 

 顔を俯かせ、そんなことを言い出したエレオノールの様子にオスマン氏は仰天した。一緒に聞いていたルイズまでもが目を丸くした。

 

(なに? この態度。本当にこれが……いつも強気で周りを威圧するような空気を纏っていた、あのエレオノール姉さま? いったいどうしちゃったの!?)

 

 長姉のただならぬ様子に、ルイズは心の底から驚いた。

 

 だが、それ以上に驚愕していたのがオスマン氏だ。なにせラ・ヴァリエール公爵家の長女・エレオノールといえば、トリステインの社交界でも広くその名が知られた存在なのだ――正直、あまりよろしくない方向で。

 

 とにかく性格がキツい。伝統と格式高き家柄を誇るあまりに、爵位の低い者に対しては鼻もかけない高慢さが、持ち前の美しさを全て台無しにしているのだと。

 

 つい先頃、長年付き合っていた貴族の男性から、もう我慢の限界だと一方的に婚約を破棄されたという噂まで耳に届いていた。それが本当の話なら――エレオノールは元婚約者から、こう言われたに等しい。彼女と結婚するくらいなら、トリステイン国内で最大の権勢を誇るヴァリエール公爵家との繋がりを断っても構わない、と。

 

 ラ・ヴァリエール公爵家での歓待期間中やその前後、エレオノールと実際に話してみた時には、そのように高慢な印象など、ほとんど受けなかった。学生時代と比べ、たいぶ丸くなったものだ。噂は所詮、噂でしかなかった。オスマン氏はそう思っていた。

 

(いや、まさかとは思うが……念のため、確かめてみるか)

 

 オスマン氏はエレオノールに対し、いくつか質問をしてみることにした。

 

「話とはいったい何だね? わしでもよければ相談にのるぞい」

 

「いえ、あ、あの、個人的なことですから……け、結構ですわ」

 

(えっ、嘘。これ当たり? ひょっとして当たりなの!? まさか、最近彼女が妙に柔らかくなったのって、そのせいだとか!?)

 

 オスマン氏は顔が引き攣るのを懸命にこらえながら、必死の思いで次の言葉を紡ぎ出した。

 

「そ、そうか。では、戻り次第、君宛に連絡を入れたほうがよいかの?」

 

「お願いします! 来週からはトリスタニアへ戻りますので、そちらへ」

 

 即答である。しかも身を乗り出すようにして、連絡先を書き記したメモを手渡してきた。これは、ほぼ確定と言ってもよかろう。オスマン氏はそう結論した。もちろん、エレオノールが太公望と話したいのは『始祖』に関することであって、それ以上でも以下でもない。だが、ここに至るまでの態度がいかにもまずかった。

 

(あの『彫像』エレオノール女史が、まさかあんな年下好みとは――あ、いや中身はジジイじゃったから年上か。互いに学者肌で話が合う上に、メイジとしての強さは、かの『烈風』に匹敵する男。これは、ある意味仕方のないことなのか……)

 

 オスマン氏は、初めて恋を知った少女のようにそわそわしているエレオノールを観察する。

 

(しかし、あやつの爵位は貴族として最下級の〝騎士〟で……と、待て。そういえば、国元で大公位を蹴ったとかミス・タバサが言っておったわい。おまけに二十五万もの大軍の参謀総長を務めるほどの実績を持つ軍人。現在はともかく、昔の身分を考えれば充分釣り合う。じゃが――)

 

 オスマン氏の中で、数々の思いが縦横無尽に駆け巡りはじめた。

 

 目の前にいる老人が、まさかそんなことを考えているなどとは今のエレオノールには気付けない。現在、彼女を盲目にしているのは『恋』ではなく『知識欲』であった。と、彼女はふいに気付いた。最大の目的が果たせなかったのは残念だ。しかし、彼から妹に託されたものについては――。

 

「ほらおちび! 急いで帰るわよ。それではオールド・オスマン。ミスタ・タイコーボーがお戻りになったら、必ず連絡をお願いしますわ! 絶対ですわよ!?」

 

「ね、ね、姉さま!?」

 

 ルイズの手を引っ掴み、駆け出すように外の竜籠へ向かったエレオノール。彼女は、先程渡された数々のレポートを早く読んでみたくてたまらなくなった。オスマン氏が太鼓判を押すほどの内容。それは、いったいどれほどのものなのかと。

 

 ――こうして。本人たちが全く与り知らぬ場所で、大変な人物の中に、とんでもない誤解が生じてしまったことを、改めてここに記す。

 

 

 




エレ姉さま暴走の巻。やはり血は争えない……。
そしてオスマン氏の誤解。
こういう勘違い系書くの、たのしいです!


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第65話 雪風と軍師と騎士団長

操作ミスで修正中に66話の内容を上書きしてしまいました。
ご指摘くださった方ありがとうございました。


 ――魔法学院の学院長室を起点に、妙な事件が発生しようとしていたのと同日。

 

 ガリア王家が迎えに寄越した風竜の背に跨ったタバサと太公望は、途中で街道に舞い降りてトリステインの国境を越えると、そのままラグドリアン湖の畔に佇む屋敷――オルレアン公邸へと立ち寄っていた。

 

 今まで通り、玄関口まで出迎えに現れた老僕ペルスラン――彼とそっくりの魔法人形(ガーゴイル)は、これまた普段タバサが訪れたときと変わらず、食事と寝所の用意をしてくれた。

 

「変わりはない?」

 

「はい、お嬢さま。定期的に王家から差し向けられた兵士が見回りに来ておりますが、これといって変化はございません」

 

 つまり、屋敷はかつての状態のまま、そこに在るということだ。

 

 頭ではわかっていても、屋敷の惨状を――特に狂乱した母親の姿をした人形によって壊され、飛び散った陶器の破片で散らかった部屋を目にしたとき、タバサの心は酷く乱れた。

 

(母さまたちはゲルマニアへ脱出し、元気でいる。ここにいるのはただの人形……)

 

 正直なところ、こんな偽りの姿を見続けるのは辛い。立ち寄ることすら苦痛だった。しかし、目を背けてはいけない。かつてと同じように、機会のあるときはこうして出向かなければならない。王政府に屋敷内の異変を悟らせないためにも。

 

(ここはもう、ただの人形屋敷)

 

 そう思い込むことによって、なんとか悪夢を払おうとしたタバサであったが、やはりその夜も……うまく寝付くことができなかった。

 

 明けた翌朝。日の出前に屋敷を後にしたふたりは一路ガリアの王都リュティスへと向かった。その日の朝に出頭するよう、厳命が下されていたからである。

 

 

 ――ニイドの月、フレイヤの週、オセルの曜日。

 

 壮麗なるヴェルサルテイルの小宮殿プチ・トロワでは、そこの主である王女イザベラが、ネグリジェ一枚でベッドに寝そべり菓子をつまむという、およそ一国の王女とは思えぬだらしのない姿で暇を持て余していた。

 

 イザベラは枕元に置かれたベルを鳴らし、侍女を呼びつける。

 

「人形娘はまだ来ないの?」

 

 呼び出された侍女は困惑した表情で告げた。

 

「シャルロットさまの到着時刻は、その……」

 

 これを聞いたイザベラはベッドから飛び降りると、ドスドスと足音を立てながら猛然と侍女に詰め寄った。

 

「おい、お前! 今、なんて言った!?」

 

「あ、し、失礼致しました!」

 

「あれはね、わたしの玩具なんだ! どこにでもある、ただの人形なのさ! 二度と『シャルロットさま』なんて呼ぶんじゃないよ、わかったかい? ええおい、こらッ!」

 

「申し訳ございません! 申し訳ございません!」

 

 侍女の耳元で叫ぶイザベラに、侍女は何度も謝罪の言葉を述べる。しかし彼女の主人はそれだけでは満足せず、すらりと杖を抜いた。

 

「うあ……ああああッ……」

 

 恐怖のあまり顔を歪め、侍女はその場でがたがたと震え出した。

 

「ふふん、馬鹿なお前を少し利口にしてやるよ。最近、便利な呪文を覚えたんだ。他人の心を操り意のままにする魔法をね……」

 

「な、なにとぞ、お慈悲を……」

 

「どうしたんだい? お前に王女に仕えるに相応しい教育を施してやるって言ってるんだ。何を遠慮する必要がある?」

 

 ずいと顔を寄せるイザベラ。侍女の面貌は既に蒼白を通り越して紫色だ。そんな彼女の頬を、蒼髪の姫は手に持つ杖でするりと撫でた。

 

「お許しを……お許しを……」

 

 跪いて許しを乞う侍女の姿を見たイザベラの顔が、愉悦で醜く歪む。

 

 毎度のことながら、この王女に暇な時間を与えると本当にロクでもない行動に走る。これはイザベラの退屈しのぎに他ならないのだ。

 

 と、そこへ呼び出しの衛士がやってきて、イザベラが待っていた人形姫とその使い魔の来訪を高らかに告げた。報せを受けた王女は顔中に笑みを浮かべる。ただし、それは慈愛や微笑と呼ぶものとはほど遠い。

 

「ここへ通しなさい」

 

 現れた者たちの様子は前回会ったときとは大きく異なっていた。イザベラの従姉妹であるタバサはいつも通りの無表情。だが、もうひとり――太公望の瞳には初めて謁見したときと同様の光が戻っている。

 

(どうやら惚れ薬の後遺症はなさそうね)

 

 当時のことを思い出してうっかり吹き出しそうになるのを堪えながら、イザベラは視線を太公望へ向け、じろじろと眺め回すと……おもむろに口を開いた。

 

「よろしい、ちゃんと略章を身に付けて来たね。いい子だ」

 

 と、そのイザベラに太公望が疑問を投げかけた。

 

「あのう……王女さま。お聞きしたいことがあるのですが」

 

「なんだい?」

 

 王女の下問に、太公望は頭を掻きながら、心底困ったといった声で答えた。

 

「これ、お返しすることはできませんかのう?」

 

 この発言に、居合わせた衛士や侍女たちが顔色を変えた。

 

 無理もない。国王から受け取った騎士団章を返却するということは――この国に仕えたくないと言っているにも等しい、不敬極まりない行為であるからだ。ところが、それを聞いたイザベラは怒るどころか、遊び甲斐のある玩具を見つけた子供のような顔で訊ねた。

 

「どうしてだい? その『花壇騎士団章』はね、いくら欲しいと思っても、そう簡単に手に入るものじゃないんだよ」

 

「ご主人さまにも同じことを言われたんですがのう。ですが、わたくしは――このような大きなお国から勲章をいただけるような働きなど、何もしておりません。それなのに、こんな大層なものを身につけるというのは……その、重すぎるのです」

 

 イザベラは美麗な顔に愉悦の笑みを浮かべた。

 

「あっはっは、何を言っているんだい。お前はね、とてつもない戦果を挙げたんだよ!」

 

「戦果、とは?」

 

 おかしくてたまらないといった風情で、イザベラは続けた。

 

「なんだ、わかっていないみたいだね……まあいいわ。お前がそれを身につけているだけで、さらに戦果は拡大するんだ。いいや、縮小すると言ったほうがいいかもしれないねえ。いいから大人しく受け取っておきな」

 

「そうなのですか。王女さまがそのように仰るなら、そうします」

 

「ふふん、素直でよろしい。それじゃ、これも渡しておくわ」

 

 イザベラが再びベルを鳴らすと、控えていた侍女が部屋の中へ入ってきた。その手には黒塗りの盆が乗せられており、そこには二枚の羊皮紙と、品の良い装飾が施された小箱が置かれていた。

 

「〝騎士(シュヴァリエ)〟と〝東花壇警護騎士団(エストパルテル)〟着任の任命状に、騎士団章だ。父上からの手紙に書いてあったと思うけど、今後はそれを身につけるようになさい。それと……」

 

 イザベラは手元にあった紙と太公望とを交互に見ながら、声を出した。

 

「お前の正式な所属先は、この『北花壇警護騎士団』だ。もう人形娘から聞いているかもしれないけれど、うっかり抜けているところがあるといけないから、このわたしが自ら説明してあげる。光栄に思いなさい」

 

 ――そして、イザベラは改めて『北花壇警護騎士団』についての説明を行った。

 

 この騎士団はガリア王国の裏仕事を一手に引き受ける部署であること。

 

 表向きは存在しないとされているため、本来の所属を明かすのは禁忌であること。

 

 ここに所属する者は互いに名前では呼び合わず、番号で名乗る決まりがあること。

 

「お前に割り振られた番号は『八』だ。最近ちょうど空きが出てね。ご主人さまの隣で覚えやすいだろう? よかったね!」

 

 本人としてはにっこりと――端から見るとニヤリといった表現のほうが正しい笑顔で、イザベラは続けた。

 

「それと、年金についてだけど……財務庁に任命状を持っていけば、持っている勲章に応じた額が月割りで支払われる仕組みよ。最初はご主人さまに連れて行ってもらいなさい。そうそう、毎月ガリアへ戻ってくるのは大変でしょうから、最大三ヶ月分まで前借りができるようにしておいたわ。どう? わたしって、とっても優しいでしょう?」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 この返事を聞いたイザベラは、さも驚いたといった顔をした。

 

「おやまあ。最初の頃と違って、ずいぶんと大人しくなったじゃないか。シャルロット……お前、やっと使い魔のしつけをする気になったみたいだね」

 

 ようやくイザベラから言を向けられたタバサであったが、普段と変わらず人形のように表情を動かさない。

 

「なんだい、結局『心』は返したってわけかい。もうしばらくあのままのほうがよかったんじゃないかしら? そうすれば、あんたの父親に忠実だった連中から同情が引けたかもしれないよ? おお、なんとお気の毒なシャルロットさま! あんなに涙を零されて……なんてね!」

 

 その言葉にも、タバサは反応を示さない。

 

「ふん! 相変わらず、余裕気取っちゃって。少し魔法ができるからって、思い上がりも甚だしいんだよ! けど、まあいいわ。今回の任務にその無表情は役立つでしょうし」

 

 イザベラの顔が、さらに凶悪な笑みで歪んだ。部屋の両脇で不安げな表情を浮かべている侍女たちへ向けて口早に命じる。

 

「ほら、お前たち! さっさとこの子たちを連れて行きな。例の支度をするんだよ」

 

 そう言うと、イザベラはあごをしゃくった。それを侍女たちの後についてゆけと解釈したタバサと太公望は静かに部屋を後にした。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから一時間ほどして。まずは、太公望が謁見の間へ姿を現した。

 

 彼の装いは先刻までとは一変していた。

 

 銀糸の入った上品なシャツに濃緑色のベスト、白い乗馬ズボンという服装に、騎士団の象徴とおぼしき刺繍が裏地に縫いつけられた紺色のマントを身に纏っている。さらに彼の頭には巻き帯部分に薔薇の花と茎をあしらった小さな銀細工がついた、つば広帽子が被せられていた。これは花壇警護騎士団に所属する者が身につけている隊服である。

 

「ふうん、なかなか似合っているじゃないの。どう? ガリア騎士の格好をした感想は」

 

「首のあたりがえらく窮屈です」

 

「あはははっ、すぐに慣れるから我慢しなさい! と、お前のご主人さまが支度を終えてきたみたいだよ」

 

 イザベラに促された太公望は視線を扉の方角へと移した。そして、入ってきたタバサの姿を見て、思わず「ほう」と唸った。

 

 おそらく湯浴みをさせられたのであろう。やや赤く上気した少女の顔には、華麗な化粧が施されていた。青を基調とした豪奢なドレスを身に纏い、全身を宝石や貴金属などの装飾品によって飾り立てられたタバサは、その内側に隠されていた神秘的ともいえる高貴さが浮き彫りとなり、どこに出しても恥ずかしくない、完璧な姫君そのものであった。

 

 後ろについてきた侍女たちもタバサの可憐な姿を見て、感嘆のため息を漏らしている。もしもこの姿で舞踏会に参加したら、数多の男性がダンスに誘うべく殺到するであろう。

 

「ふん、まあまあってところかしら」

 

 イザベラはつかつかとタバサの側へ歩み寄ると、その手で従姉妹の頭部をぐりぐりとこねくり回した。そして、邪悪と言ってもいい笑みを浮かべながら、自分の頭に乗せられているものを指差した。それは宝石がふんだんに散りばめられた、ミスリル銀製の冠であった。

 

「ねえ、シャルロット。お前、これが欲しいんだろう? もしかすると、お前のものだったかもしれない王女の冠だよ」

 

 その言葉によって、室内にいる者たちの間に緊張が走った。しかし、タバサは相変わらず無表情のまま、空虚な瞳で銀色の冠を見つめている。

 

「ほら! かぶってみたいでしょ? ねえ。素直に欲しいって言ってごらんなさいな。そうしたら、あげてもよくってよ」

 

 イザベラは冠を取り、なんとタバサの目の前で指を入れてくるくると回し始めた。表情を変えぬままそれを見ていたタバサは思った。

 

(わたしが欲しいのは、それじゃない)

 

 そんなタバサの様子を見たイザベラは、フンと下品に鼻を鳴らした。

 

「相変わらず頑固ね。ま、いいわ。それじゃあ今回の任務について説明するよ」

 

 そう言って冠をタバサの頭にかぶせたイザベラは、手を叩いて室内にいた者たちに退出を促し、ベッドに腰掛けた。それから、部屋の中に自分たち三人しかいなくなったことを確認すると、イザベラは声を上げて誰かを呼んだ。緞子(どんす)の影から若い騎士が姿を見せる。

 

「お呼びでございますか」

 

 歳のころは二十をいくつか過ぎた程度であろうか。手入れの整った髭が凛々しい、なかなかの美男子であった。

 

「東薔薇警護騎士団団長バッソ・カステルモール、参上仕りました」

 

 カステルモールと名乗った騎士はイザベラの前で一礼すると、膝をついた。

 

「カステルモール。そこにいるのが例のリョ・ボーだ。父上から説明は受けているわね?」

 

「はっ、書面にて頂戴致しております」

 

「本来はわたしの預かりなんだけど……表向きはお前のところに所属しているということになる。面倒を見てやってちょうだい」

 

「承知仕りました」

 

 カステルモールは、立ち上がってくるりと振り向くと、太公望へ視線を投げて寄越した。それを見た太公望は慌てたように、ぎくしゃくとした礼をする。

 

「よ、よろしくお願いします」

 

「ふむ、最低限の礼儀は心得ているようだな。しかし、いくら姫殿下の御前で緊張しているとはいえその礼はいただけない。これからは名誉ある東薔薇花壇警護騎士団の一員として、相応しい所作を身につけるよう努力せよ」

 

「か、かしこまりまして、ございます」

 

 そんなふたりの様子を実に面白そうに眺めていたイザベラが、口を挟んだ。

 

「挨拶は済んだようだね。じゃ、そこにいる人形に、例のものを」

 

「御意」

 

 イザベラの命令に頷いたカステルモールはすらりと杖を引き抜いた。青白く鈍い光を放つ、相当に使い古された杖だ。これほど見事な古杖を持っているということは、年齢によらず、かなりの使い手なのだろう。

 

(この若さで花壇騎士団の長に抜擢されるだけのことはある)

 

 タバサはカステルモールをそのように評価した。

 

 カステルモールは素早く呪文を唱え、タバサに向けて杖を振り下ろした。すると、タバサの顔に変化が現れた。目鼻立ちが微妙に変わり……イザベラと瓜二つになったのだ。

 

 風と水の合成魔法。スクウェア・スペル〝変相〟(フェイス・チェンジ)だ。

 

 〝風〟ひとつと〝水〟を三つ重ねる必要があるため、基本が風系統であるタバサには未だ使いこなすことができない、非常に高度な魔法である。

 

 とはいえ、全身を完全に変化させることのできる如意羽衣とは異なり、この魔法では顔の形を変えることしかできない。しかし、今回言い渡される任務にはこれで充分だったようだ。

 

「あっはっは! そっくりじゃないのさ」

 

 大声で笑いながら、イザベラはタバサの眼鏡を取り上げた。こうして顔を突き合わせていると、まるで双子の姉妹のようだ。

 

「わたしね、地方の領主に招かれて今日から旅行をするの。お前はその間の影武者ってわけ。理解できた?」

 

 イザベラの問いに、タバサはコクリと頷いた。

 

「お前はチビで、痩せ細ってて、美貌ではわたしの足下にも及ばないけどさ。ハイヒールを履いて胸に詰め物でもすれば、どうにか誤魔化せるでしょう」

 

 出発予定時刻まであと二時間と予定が押している。イザベラは三人に命令を下すと、ひとり居室に残った。その細く切れ長な目をさらに細めると、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。

 

「あの〝召喚〟の日から、今日でぴったり二ヶ月目。偶然って本当に怖いわぁ~」

 

 その声に応えるかのように、イザベラの耳元に小さな『窓』が開く。

 

「なぁオイ、本気であいつに仕掛けるつもりなのか?」

 

 声の主は王天君だ。

 

「もちろんよ。でも、心配しないで。あなたの弟を傷付けるような真似はしないから。だいたい、そんなことをしようと思っても、できないでしょう?」

 

「まぁな。だが、約束通り今回オレはついて行かねぇからな」

 

「大丈夫よ。わたしだけでも絶対に成功させる自信があるから! それにね、これはあくまでただの遊び(・・)なの」

 

 そう言うと、イザベラは凄みのある笑みを浮かべた。

 

「ただし。遊びでも、あなたから学んだように……決して手を抜かない。あの人形娘を苦しめて、苦しめて、苦しめ抜いてあげるわ。そういうのが、わたしの趣味だから」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――王都リュティスから南西に百リーグほど離れた地方都市グルノープルへ向かう馬車の中で、イザベラは機嫌の良さを隠そうともしなかった。

 

 彼女は王女付きの侍女に変装していた。なんと自慢の蒼い髪をわざわざ栗色に染めるほどの念の入れようだ。新しく雇い入れた女官という触れ込みで一行に紛れ込んだイザベラは身分を隠し、他の召使いや侍女たちを欺いているのであった。

 

「どう? わたしの変装術は。誰もわたしが王女だなんて、気付いてないわ!」

 

 イザベラは自慢げに――すぐ隣に座っている、王女の衣装に身を包んだタバサに声を掛けた。

 

 変装術というよりは、イザベラが生まれ持った資質――ありていに言えば、まるで王女らしくない立ち居振る舞いや、その性格面からくるものであるのだが、この場に居合わせた者たちは全員、それを口にするほど愚かではない。

 

 現在、馬車の中にいるのは四名。影武者であるタバサと、そのお付きの女官に扮したイザベラ。彼女たちの護衛という扱いでカステルモールが同乗しており、さらに王女から「道中の退屈しのぎに東方の話を聞かせろ」という気まぐれという名の命令によって、正式にガリア騎士となったばかりの太公望が一緒に乗り合わせていた。

 

 今回の旅行中、王女の護衛を担当するのは東薔薇花壇警護騎士団と西百合花壇警護騎士団、そして影ながらイザベラに付き従う、北花壇警護騎士団の精鋭たちである。

 

 この旅行は現地滞在が三日、往復にかける時間が四日という予定であった。アルトーワ伯爵領は竜籠を利用すれば王都から数時間程度で到着できる距離にあるのだが、そこをあえて時間のかかる馬車で行くのが王族というものである。これはガリア王家の権威を国民たちに見せつけるための、大切な行事なのだ。

 

 一行は、先頭に交差する杖――ガリア王家の紋章が描かれた青い旗を掲げた騎士を立て、中央の列には王女たちが乗る豪奢な装飾の施された四頭立ての馬車と、その前後を挟むかのように並べられた護衛の兵士や召使いを乗せた馬車を従え、その後ろについた東西ふたつの騎士団が整然と隊列を組む、威風堂々と街道を征く。

 

 行く先々では周辺の通り沿いに住まう者たちが整列し、歓呼の声を投げかけてきた。

 

「イザベラさま、万歳!」

 

「ガリア王国、万歳!」

 

 小さく開いた馬車の窓からタバサが軽く手を振ると、住民たちはさらに熱狂した。

 

「あははははっ! みんなお前のことを本物の王女さまだと勘違いしてるわ! よかったね、気分だけでも王族に戻れて!」

 

 げらげらと笑い続けるイザベラには目もくれず、タバサは黙々と手を振り続けた。

 

「今回向かうのはアルトーワ伯爵が治める地方都市・グルノープルよ。お前は彼のことを知っていて?」

 

 タバサは外に向かって手を振りながら、小さく頷いた。

 

「ガリア王家の分家筋」

 

「あら、よく覚えてたじゃないの。外国生活が長いから、とっくの昔に忘れているものだと思っていたのに。ああ、ひょっとして自分の味方になってくれそうな人間だから、前から目を付けていたってわけ?」

 

 イザベラはタバサの頭に被せた冠をつつきながら問うた。

 

「そんなこと考えてない」

 

 と、カステルモールが窓の外には見えぬよう、さっと杖を引き抜いた。

 

「おのれ、影武者風情が。なんだ、その口の利き方は! 王女殿下を愚弄するか!」

 

「おやめ、カステルモール。今はわたしが話しているのよ」

 

 イザベラの言葉で、若き騎士団長は杖を収めた。だが、その顔は怒りに歪んでいる。

 

「失礼致しました。しかし……敬愛する我らがイザベラ姫殿下に対して、あのような態度を働く無礼にこのバッソ・カステルモール、我慢がならなかったのであります」

 

 口を閉じてなおタバサを睨み付け続けるカステルモールの態度が、どうやらイザベラにはお気に召したらしい。すっと左手の甲を差し出した。

 

「お前の忠誠に、疑うところなどないわ」

 

 カステルモールは笑みと共に差し出された手を恭しく取ると、そっと口付けた。

 

「ねえ、シャルロット。お前はずっと外国暮らしだから知らないでしょうけど、ここ最近リュティスを中心に新教徒たちが大暴れしているの。このあいだは王軍の施設が襲撃を受けてね、怪我人が大勢出たわ」

 

 タバサは何も答えない。そのような事件が起きていたことなど彼女は知らなかった。そのため、返事のしようがなかったのだ。

 

「旅行なんてやめたほうがいい。そう思うでしょう? けどね、そうはいかないのよ」

 

 ふっとため息をついたイザベラは、今度はタバサの頬を指でぷにぷにとつつき始めた。

 

「アルトーワ伯爵はね、長年ガリア王家に忠誠を誓い続けてきた、本当に誠実な紳士なの。そんな人物が半年以上も前から申し込んで来ていた園遊会への招待を、たかが襲撃騒ぎ程度で断るわけにはいかないのよ。王家の威信に傷がつくものね。ああ、王族でいるのって、本当に辛いわ!」

 

「だから、わたくしのご主人さまを影武者にされたのですか?」

 

 太公望の言葉に、イザベラは満足げに頷いた。

 

「その通りよ。見てご覧なさいな、この蒼い髪」

 

 イザベラはタバサの髪を撫で回した。この色だけはどんな魔法の染料を使っても真似できない。高位スペルである〝変相〟をもってすら再現するのが難しい輝きを放っているのだ。

 

「お前のご主人さまは、わたしの影武者に最適なのよ。この子はもう王族じゃないけど、髪の色だけは王族のままだからね! とはいえ、シャルロットだけをアルトーワ伯爵のところへ送り込むわけにもいかないのよ。わたしが側にいないと、対応できない事もあるでしょうから」

 

 そう言うと、イザベラは髪を掻き上げながらタバサに告げた。

 

「そういうわけさ、人形7号。王女さまのお仕事は、お前に任せたよ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その日の夜。

 

 タバサたちは街道の途中にある宿場町へ到着した。前もってガリア王家からの予約を受けていたその町の宿という宿は、百人を軽く越える王女さまご一行の到着で全て満室となっていた。

 

 タバサには町でいちばん上等な宿屋の二階にある、最も豪華な部屋があてがわれた。イザベラはそこまでタバサを案内すると、恩着せがましい口調でこう言った。

 

「ここがお前の部屋だ。こんな上等な客室で過ごせるだなんて、夢のようだろう? せいぜいわたしの慈悲に感謝するんだね」

 

 そう言い残すと、侍女姿のイザベラは召使いに扮していた数名の北花壇騎士団の者たちと共に、階下の部屋へと引っ込んだ。太公望はというと、この建物へ来る以前にカステルモールの手によって東薔薇花壇騎士団員の詰める宿へ連れて行かれてしまった。

 

 広い部屋でひとりきりになったタバサは奥にあった鏡台の前に立つと、じっとそこに映る姿を見つめた。王女が纏うドレス、そして冠……。

 

 イザベラは「これが欲しいんでしょう?」と、光輝く冠を突き出してきたが、タバサは別にそんなものが欲しいとは思っていなかった。彼女が今、探し求めているものは――。

 

「妹の消息、そして父さまの死の真相に関する情報」

 

 タバサはひとり呟いた。これが半月前ならば話は違っていただろう。

 

(あのときわたしが欲しかったのは、イザベラ――あなたのお父さんの首。けれど、数多くのことを知ってしまった今は……)

 

 簒奪だと言われていたジョゼフ王の即位は、大司教も認める正統なものだった。

 

 心優しき善人だと信じていた父は、王座を狙い、人知れず暗躍を続けていた。

 

 復讐を求めていると感じていた母の心は、王族として、国の安寧だけを願っていた。

 

 一人っ子だった自分には、実は何処とも知れぬ遠地へと流された双子の妹がいた。

 

 父の人物像については未だよくわかっていない。あくまで母からの伝聞でしかないからだ。しかしそれ以外については――裏付けがほぼ取れている。

 

 窓際に置かれていたサイドテーブルに冠を置くと、タバサは天蓋つきの豪華なベッドに身体を横たえた。次いで、その小さな口から歌声が漏れだした。

 

 それは彼女が幼かった頃――まだ眠りたくないとぐずる自分を寝かしつけようと、母が枕元で唄ってくれた子守歌だ。かつて、タバサはよくこの歌を口ずさんでいた。何故なら、これは――希望への出口から垂れた、極細の糸であったから。

 

 絶望の淵に囚われ、己の身の上を嘆くあまりに、自ら命を絶とうとしたこともあった。しかし、そうなれば必然と母を道連れにすることになる。今にも砕け散りそうなタバサの心と命を、かろうじて現世に繋ぎ止めていた、懐かしくも優しい思い出。ほんのわずかに過ぎないが、こうして歌うことによって、彼女の脳裏へ鮮やかに蘇るのだ。幸せだった昔と、微笑みに溢れた日々の記憶が――。

 

 久しく歌っていなかった、その歌を紡ぎ出していると……コツコツと扉を叩く音がした。タバサは、側に置いてあった杖を手元に引き寄せる。その表情は、既に騎士のそれだ。

 

「誰?」

 

「わたしだ。カステルモールだ」

 

 慎重に扉を開けると、そこに立っていたのは間違いなくタバサの顔に〝変相〟をかけた、東薔薇花壇警護騎士団の長そのひとであった。

 

「何の用?」

 

 短く問うたタバサに、片手の指を一本立てる仕草を見せたカステルモールは慎重に周囲と部屋を見渡すと、さっと室内へ滑り込み、後ろ手に扉を閉め〝魔法探知〟を唱えた。

 

「ふむ……よし。怪しい者も、魔法で聞き耳を立てている輩もいないようだ」

 

(あなたがいちばん怪しい)

 

 一瞬そんな風に考えたタバサであったが、しかし。その場で恭しく帽子を取り、足元に跪いたカステルモールを見て驚いた。もっとも、表情は相変わらず全く動かなかったが。

 

「どうか、わたくしどもに姫殿下をお護りする栄誉をお与えくださいませ。昼夜を問わず、護衛つかまつります。隣の部屋に、隊員を待機させる許可をいただきたくあります」

 

「不要。わたしはただの影武者」

 

 タバサの否定に、カステルモールは首を横に振った。

 

「いいえ。シャルロットさまはいつまでも我々の姫殿下でございます」

 

「どういうこと?」

 

 そう訊ねたタバサに、カステルモールは静かに告げた。

 

「わたくしめは……いえ、我ら東薔薇花壇警護騎士団一同は、表にできぬ、変わらぬ忠誠をシャルロットさまに、そして今は亡き大公殿下に捧げております」

 

 どうやら彼は亡き父に縁がある人物らしい。しかし、時期が時期である。こうして近付いてくる相手を簡単に信用するわけにはいかない。

 

 タバサは小声で聞いた。

 

「昼間のあれは?」

 

 カステルモールはその声にビクリと身体を震わせた。

 

「その節は、大変失礼をば致しました。『始祖』より賜りし王権を簒奪した者の娘に、我が心の内を悟られては……と、愚考した次第であります」

 

 しきりに恐縮する彼の様子はタバサの見たところ、演技とは思えないほどに真摯なものだ。もしも彼が本物(・・)ならば、是非とも聞いてみたいことがある。

 

「あなたは父を知っているのですか?」

 

 タバサの問いに、カステルモールは俯かせていた顔をぱっと上げ、瞳を輝かせた。

 

「よく、存じております。今のわたくしがございますのは、亡き殿下……いえ、陛下のお引き立てがあってこそ。身分を問わず、誰にでもお優しいおかたでした」

 

 騎士団長の言葉を脳内で反芻する。

 

(彼は父さまに強い恩義を感じているから、わたしを護ろうとしてくれている?)

 

 とはいえ、タバサの過去の記憶にカステルモールの姿はない。少なくとも、オルレアン公邸では見たことの無い人物だ。だからこそ、対応のしづらい相手でもある。

 

(万が一にも騒動を起こすわけにはいかない。だから、受け答えは慎重に……)

 

 そう考えたタバサは思いついた言葉の中で、最も無難であろう答えを返すことにした。

 

「ありがとう。その言葉だけで充分」

 

「姫殿下。どうか、御身をお護りする許可を……」

 

 カステルモールの申し出に対し、静かに首を横に振る。

 

「今のわたしは北花壇騎士(シュヴァリエ・ド・ノールパルテル)。それ以上でも、以下でもありません」

 

 真剣な目で己を見つめてくるタバサに、カステルモールはそれ以上に生真面目な瞳を向けた。

 

「姫殿下さえその気であれば、我ら東薔薇花壇警護騎士団一同、決起のお手伝いをば……」

 

 カステルモールの言葉を聞いたタバサは、ハッとした。

 

(今、彼は決起と言った。つまり、反乱も辞さないということ。もしもこのまま放っておけば、このひとたちは……いつか暴走してしまうかもしれない。そうなれば、多くの血が流れる)

 

 瞬時にそう判断したタバサは静かな、しかし決然たる声で告げた。

 

「間違ってもそのようなことを言ってはいけません。わたしはこれ以上、不幸になるひとを増やしたくありませんから。その代わり……」

 

 続く言葉を紡ぐのを酷く躊躇うかのようなタバサを、騎士団長は怪訝な面持ちで見つめた。

 

「シャルロットさま……?」

 

「いつの日か、あなたの知る父の話を……わたしに聞かせてくれますか?」

 

 それを聞いたカステルモールの全身が、瘧のように震えた。タバサはそんな若き騎士の姿を、静かに眺め続けている。

 

 それから、わずかの間を置いて。カステルモールは静かに立ち上がるとタバサの手を取り、そっと接吻した。

 

「真の王位継承者に、変わらぬ忠誠を」

 

「いいえ、わたしは北花壇騎士。感情を持たぬ、ただの人形です」

 

「左様ですか……承知致しました。ですが、たとえ御身を地の底に落とされたとしても……我らが忠誠の在処は変わりませぬ」

 

 カステルモールはそう言い残して部屋を出て行った。顔の隅に抑えようにも抑えきれぬ、僅かな笑みを浮かべて。

 

「……また、巻き込んでしまった」

 

 部屋に取り残されたタバサは、窓の外に浮かぶ双月を眺めながらぽつりと呟いた。

 

(真実を知りたいという自分勝手な欲求のせいで、また無関係なひとたちを裏道へ誘い込んでしまった。彼らの暴走を抑えるという、自分の心に都合の良い言い訳をして)

 

 タバサは空に輝く双つの月に向かって小さく独白した。

 

「わたしは、本当にこの『道』を歩んでもいいの……?」

 

 だが、その問いに答えてくれそうな者は今――この部屋にはいなかった。

 

 

 ――バッソ・カステルモールは、己の内に沸き上がる感激を抑えるのに、全身全霊をつぎ込まねばならなかった。

 

(昼間あのような無礼を働いたにも関わらず、シャルロットさまは寛大なお言葉をかけてくださったばかりか、我らの身まで気遣ってくださった。さすがはシャルル殿下が遺された姫君だ。あのかたと同じく、どこまでもお優しい……)

 

 で、あればこそ。何としてでも、御身をお護りせねばなるまい。若き騎士団長は心からの忠誠を捧げる姫君の身を案じていた。

 

 ここ最近、国営施設に対する爆破予告や襲撃事件が後を絶たない。それだけ現在の王政府に不満を持つ者が多いということだろう。

 

(この行幸はあの厚顔無恥で畏れを知らぬ僭王の娘が、身の危険を感じてわざわざ己の影武者を立てるほど危ういもの。敬愛する我らがシャルロット姫殿下を、あんな下劣な女の身代わりになどしてたまるものか!)

 

 真の王位継承者を護ることこそ、我らの務め。心の底からそう信じているカステルモールはタバサの部屋を出た直後。即座に彼が『簒奪者』と断じている者の娘・イザベラの元へと向かい、彼女の前に跪くという屈辱に耐え、必死の思いで『影武者』に護衛をつけたほうがよいと提案した。そうすれば襲撃者が現れた際に、本物と錯覚するであろうという嘘までついて。

 

 しかし、イザベラの許可は降りなかった。それどころか、彼ら東薔薇警護騎士団は――本来であれば騎士団ではなく平民の警備兵が行うような、宿場町外周の警邏任務を命じられてしまった。まるで何事もなかったような顔をして、だが内心では激しく憤りながら、カステルモールは宿舎へと向かった。

 

「警邏任務!? しかも、よりにもよって件の異邦人まで一緒に連れて行けとは! かの者は当初想像していたほどの礼儀知らずではなかったが、しかし……あのような子供を連れ歩くなど、我らにとって足手まとい以外の何者でもない」

 

 せめて外から賊が入り込まぬよう、精一杯努力しよう。敬愛するシャルロット姫殿下の御為に。そう決意したカステルモールであったが、しかし。その判断は既に遅きに失していた――。

 

 

 




すみません、帰宅が遅れて
日をまたいでしまいました……。
イザベラさまのドS成分が足りない……。


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第66話 古兵と鏡姫と暗殺者

操作ミスで、修正中に65話にこちらの内容を上書きしてしまいました。
ご指摘くださった方ありがとうございました。



 ――東薔薇花壇騎士団団長バッソ・カステルモールが、理不尽な命令に憤然として王女イザベラの部屋を後にした、ちょうどそのころ。

 

 騎士団の詰め所として指定された宿屋の片隅で、ひとりの老騎士が苦笑していた。

 

 彼の名はアルヌルフ。東薔薇花壇警護騎士団の副団長を務める人物だ。団長であるカステルモールとは親子ほども年の離れているこの初老の騎士は、長年この騎士団に所属し、歴代団長の補佐を務めてきた。

 

 彼がこの歳になるまで騎士団長になれなかった理由は、三つある。

 

 ひとつめは、彼がメイジとしても、騎士としても平均点以上になれなかったことだ。彼にあるのは長年の積み重ねによる経験と、知識だけであった。

 

 ふたつめは、家格が低かったせいだ。もしも、彼の実家が男爵程度の位を持ってさえいれば――既に団長のひとりとして、いずこかの騎士団を任されていたかもしれない。

 

 最後の理由は、彼の性格によるものだ。アルヌルフは頭の回転こそ悪くないものの、慎重に慎重を重ね過ぎ、素早い決断ができぬ男であった。なればこそ、積み重ねてきた経験を生かし、補佐役に徹したほうがよいと考えていた。アルヌルフは己の性質と能力についてよく弁えていたのである。そのため、彼は副団長という現在の地位に充分満足しており、出世を望んでいないのだった。

 

 アルヌルフは『東薔薇花壇警護騎士団の執事長』などと周りから揶揄されても、逆に喜んでそれを受け入れてしまう、懐の深さを持っていた。そんな彼の人柄ゆえに、歴代の団長たちから寄せられた信頼は厚く、それは現団長カステルモールも例外ではない。

 

 そのため、カステルモールはそれがさも当たり前であるかのように、新たに増えた『異邦人』の面倒を見るよう彼に命じた。新人の教育も、アルヌルフにとっては毎度お馴染みの仕事だ。

 

「どうなさいましたか? 副団長殿」

 

 側にいた騎士が、苦笑いしていた副団長に話を振ってきた。

 

「あれだよ、きみ」

 

 現在、彼らふたりの騎士をはじめとする東薔薇花壇騎士団の団員たちは宿屋の地下に併設された居酒屋にいる。アルヌルフが指差した先に、横長のテーブル中央付近に腰掛けて大勢の騎士たちと一緒に笑い合っている少年がいた。

 

「なるほど」

 

 騎士は上司と同じように複雑そうな笑みを浮かべる。

 

 ――使い魔召喚の儀で起きた事故によって、東方から呼び寄せられた『異邦人』。

 

 彼ら東薔薇花壇騎士団に属する者たちは件の少年をそう呼んでいた。敬愛する大公殿下の遺児・シャルロット姫殿下が、たった一度だけ犯してしまった失敗の結果であると。

 

 だが、そのたった一度のミスが大公姫を苦境に陥れた。

 

 主君に忠誠を誓う貴族たるもの、仕えるべきお方の小さな失敗に心を揺るがすことなどあるわけがない。そう信じていた東薔薇花壇警護騎士団の面々は完全に裏切られた。

 

 その日まで熱心に大公家を支持していた者たちが、あっさりと手のひらを返し――現王家に永遠の忠誠を、などと言い始めたのだ。そんな貴族たちの離反行動は未だ続いている。

 

 かつて『シャルル派』と呼ばれたガリア国内最大規模の派閥は、現王家によって行われた激しい粛正と、この失敗により、今や見る影もない程に縮小していた。かの『異邦人』はただそこに現れただけで、残っていた貴重な兵力を大幅に削ってしまったのだ。

 

 本来であれば、憎むべき対象は変節した貴族たちだ。しかし、人間の心とは複雑なもの。そう簡単に割り切れるものではない。結果、全く罪のない子供――『異邦人』に恨みが向いてしまうのではないかと危惧していたアルヌルフであったが、幸いなことに、それは全くの杞憂に終わった。

 

 いや、合流した当初こそ、騎士団内にぎくしゃくとした空気が醸し出されていたのは確かだ。それを霧散させた最大の功労者は宿の地下にあった、この居酒屋である。

 

 街道沿いにある宿屋で出される食事など、普通であればさほど期待できるものではない。ところがここで出された料理と酒はどれもこれも及第点以上だった。おまけに、地元で採れた川魚やキノコ、芋などの材料がふんだんに盛り込まれた夕食は、王都リュティスではまずお目にかかれない、珍しいものばかりであった。

 

 美味いつまみと酒があれば、自然と心が広くなる。宮廷内部で日がな一日机に向かい、そうでない時は、どろどろとした心理戦を繰り広げ続けている腐敗した役人どもならばまだしも、城門の外を活躍の場としている騎士団員であれば、基本的にその性格はさっぱりとしたものだ。

 

 問題の子供自身も、これまで流されてきた噂とは異なり――厚顔無恥な浮浪者などではなかった。歳のころは十五~六程度であろうその少年は食事前の簡単な自己紹介のあと、全員に向かって礼儀正しく頭を下げたのだ。

 

「何も知らない不作法者ですが、皆さま、どうかよろしくお願いします」

 

 どこか初々しいその様子は、騎士団の者たちから好意的に受け入れられた。

 

 自分たちの従士時代――正式に花壇騎士として叙任を受ける前の、右も左もわからぬ見習いであった頃を思い出したのであろう彼らは、やれこのワインを飲んでみろだの、こっちの野菜とキノコを詰めた芋が美味いだのと、競い合うかのように少年の世話を焼き始めた。

 

 少年のほうもそれが大層嬉しかったらしく、まるでミルク入りの大皿を与えられた子犬のように、勧められるまま酒と料理をたいらげていった。腹を壊してしまうため、肉や魚はどうしても食べられないのだと断っていたが、その言葉すらも、

 

「それならば、別のものをもっとたくさん食わねば大きくなれぬぞ」

 

「お前はこう言ってはなんだが小さいからなあ」

 

 と、料理皿の枚数を増やされる等、一種のからかいとなって昇華された。

 

(どうやらうまく溶け込んでくれたようだな、心配は無用であった。とはいえ、甘やかしすぎてはいけない。念のため、釘を刺しておかねば)

 

 そう考え、行動を起こそうとアルヌルフが席を立ったちょうどその時、先程までイザベラ王女の護衛任務に就いていた騎士団長カステルモールが居酒屋へ顔を出した。そして、彼ら東薔薇花壇警護騎士団に命じられた任務を静かに告げた。

 

「これより日の出まで宿場町外周の警邏を行う。ふたりひと組となって行動せよ」

 

 アルヌルフ副団長は、迷わず新入りの少年と組んで任務に就くことを選んだ。

 

 

○●○●○●○●

 

 雲ひとつない晴れ渡った夜空の上で、双月が静かに輝いている。その淡い光の中を、アルヌルフ副団長と新たに騎士団に加わった少年――太公望は馬に騎乗して闊歩していた。

 

 月明かりに照らされた周囲は明るく、松明や〝光源(ライト)〟の魔法を使うまでもなく視界は良好。そんな中で、アルヌルフは感心していた。

 

「随分と様になっているではないか。きみは乗馬が得意なのかね?」

 

「はい。幼い頃より、父に鍛えられておりましたので」

 

 流浪の民だと噂で聞いていたが、なんと父親から馬術を習っていたとは。その言葉を裏付けるように、少年は今日初めて騎乗した軍用馬を、見事なまでに乗りこなしている。

 

(ひょっとすると、彼は東方ではそれなりに家柄のよい貴族の子弟なのではなかろうか)

 

 元来心配性のアルヌルフは念のため確認してみることにした。

 

「そうか。では、今頃家族は心配しているのではないかね? その……きみが突然いなくなってしまったわけだから」

 

「いえ、それはありません」

 

「何故だね?」

 

「故郷は既に妖魔の軍勢によって滅ぼされているのです。助かったのは……偶然遠くへ出かけていたわたくしだけでした」

 

 アルヌルフは絶句した。自分と轡を並べて進む少年の顔には諦観が浮かんでいる。彼の発した言葉に嘘はないのだろう。だいたい、そんな偽りを並べ立てたとして何の得があるというのか。

 

「立ち入ったことを聞いて、悪かった」

 

「いえ、お気になさらないでください副団長殿」

 

 屈託のない笑顔を見せた後、まるで何事もなかったかのように常歩で馬を進める少年を、アルヌルフは横目で観察した。おろしたての隊服が、彼にはいかにも窮屈そうだ。しかし、少年の腰に下げられている長さ七十サントほどの使い古された杖が、老騎士の目を引いた。

 

 金属製――おそらく鉄製であろう杖の先端には丸い宝玉が填められている。ガリアではまず見かけないタイプの杖だ。頑丈そうな造りではあるが、軍杖として相応しい形状とは言い難い。

 

 だが、目を凝らしてその杖の全体をよく見たとき――初老の騎士は思わず息を飲んだ。何故なら、そこには魔法や武器によってつけられたとおぼしき傷が、多数刻まれていたからだ。

 

(そういえば、宮廷出入りの大商人が話していたな……)

 

 その大商人は砂漠の街エウメネスを中継点とする交易路に隊商を派遣し、東方諸国の商家と取引を行っている。そんな彼が言うには、ロバ・アル・カリイエはハルケギニア各国と比べて妖魔や亜人の数が多いのだとか。さらには、エルフと交戦している国もあるらしい。

 

(そんな東方から召喚されて来たこの少年は、見かけによらず、相当な修羅場を潜ってきているのではなかろうか)

 

 杖を見れば持ち主の力量がある程度判断できる。アルヌルフが長年積み重ねてきた経験と、それによって裏打ちされた勘が、この少年は断じて非力な子供などではないと告げていた。

 

 と、ふいに件の少年が馬を止めた。

 

「どうかしたのかね?」

 

「いや、奥に見える建物で――部屋のひとつに明かりがついたのが気になりまして」

 

 これがもっと早い時刻であったなら、アルヌルフは特に気にせず流してしまったかもしれない。だが、現在時刻は既に深夜二時を回っている。使用人たちが朝の支度をするために起き出すには早すぎ、なおかつ宵っ張りの貴族が就寝前の読書をするにしては遅すぎる時間帯だ。よって、彼は念のため確かめることにした。

 

「それは、どこだね?」

 

 少年が指差す先にはこの宿場町でいちばんの宿と、唯一明かりのついた窓があった。アルヌルフは急いで懐に入れてあった宿場町の割り振り一覧を確認し――顔色を変えた。彼はその部屋に宿泊している人物がいったい誰であるのか、正確に掴んでいた。東薔薇花壇警護騎士団の団長・カステルモールの口から、信頼のおける副団長たる彼にだけは明かされていたのだ。

 

 ここ最近増えてきた、新教徒やその他勢力と思われる者たちによる襲撃事件。それらの脅威があってなお、やむにやまれぬ事情から、中止できない地方都市への行幸。用心のために立てられたイザベラ王女の影武者――その役目を引き受けているのは、自分たちが敬愛するシャルル王子が遺した、シャルロット姫殿下。

 

 彼はその名を口にするほどの愚か者ではなかった。しかし、呟きは漏れてしまった。

 

「あそこは、姫殿下の寝室……!」

 

 ――風は本来目には見えないものだ。しかしアルヌルフはそのとき確かに目撃した。双月の下、濃紺色の軌跡と共に……突風が吹き抜けてゆくのを。

 

 

○●○●○●○●

 

 太公望が宿場町の外から怪しい明かりを発見する、ほんの少し前。

 

 夜空に並んだ双月が、王女イザベラの影武者たるタバサに割り当てられた客室の中を照らし、窓枠の影を床に描く頃。

 

 がらがらと台車か何かを押すような音がタバサの部屋に向かって近付いてくると――扉の前でぴたりと止まった。

 

 夢と現実の狭間を揺れ動いていたタバサはその気配で完全に目を覚ました。急いで身を起こすと眼鏡をかけ、手元に杖を引き寄せる。ついで、燭台に立てられた蝋燭に火を灯す。月明かりと蝋燭の炎によって、部屋は淡い光に包まれた。

 

 寝台の横に設置された小机の上に乗っている水時計は、現在時刻が深夜二時過ぎであることを示している。

 

(こんな時間に王女の部屋を訪れる人物……)

 

 当然のことながらタバサは警戒した。

 

 その直後。客室の扉が開かれ、若い娘が現れた。手押し車を押すその横顔に、タバサは覚えがあった。王女一行に付き従っていた侍女のひとりだ。

 

 タバサがじっと見つめているにも関わらず、侍女はまるで気にしていないといった様子で、手押し車に乗せられていたティーポットを持ち上げてお茶を淹れ始めた。もちろん、タバサは飲み物を頼んだりなどはしていない。

 

 そして侍女は、

 

「どうぞ」

 

 と、カップに注がれたお茶を差し出した。タバサはそれを受け取らず、まっすぐに侍女の目を見、新たな疑問を覚えた。

 

(この昏い瞳の色……どこかで見たような記憶がある)

 

 侍女は無言を貫くタバサに、困ったような声で促した。

 

「どうぞ、受け取ってください」

 

「頼んでない」

 

「お飲みになったほうがよろしいですよ。とても良く眠れますから」

 

 にっこりと微笑みながら、侍女は告げた。

 

「どうか召し上がってください。高貴なお方の末期の顔を、苦痛で歪ませるというのは……私の主義に反しますので」

 

 タバサは弾かれたように飛び退ると、早口で呪文を唱えた。

 

「ラナ・デル・ウィンデ」

 

 〝風の槌(エア・ハンマー)〟が完成した。タバサの周囲にあった空気が急激に膨張すると、巨大な塊となって侍女に扮した暗殺者に襲いかかる。しかし女は身体を素早く回転させると、見えないはずの魔法を避けた。どうやら彼女は並の刺客ではなさそうだ。

 

 続けさまにタバサは攻撃呪文〝風の刃(エア・カッター)〟を解放した。幾重にも放った不可視の刃を、暗殺者とおぼしき女はなんなく躱していく。おそるべき体術の使い手であった。

 

「おやおや。イザベラさまはかなりの使い手であられるようですね。まったく、噂など当てにならないものです」

 

 タバサは杖を構え直した。どうやら相手はイザベラの暗殺を請け負っているらしい。すっかり彼女をイザベラだと思い込んでいる様子だ。

 

「誰の差し金?」

 

「さぁ? 私はあなたさまを『永遠に眠らせて差し上げろ』という依頼を受けただけですので。どうか大人しくお休みになってはいただけませんでしょうか」

 

 そう言うと、侍女は馬鹿丁寧な仕草で一礼した。堂々としたその様子は自信の表れであろう。タバサは無表情を装いつつも、その内心では少しずつ焦りを覚えはじめていた。

 

 建物の内部は風メイジにとって、非常に相性の悪い地形だ。何故なら、外とは異なり操作できる空気の最大量に限りがあるからだ。たとえ全ての窓が開いていたとしても、壁やその他の障害物によって風の流れを妨害されてしまうことに変わりはない。

 

「ふう。どうあっても眠っていただけないとあらば、仕方がありません」

 

 女はまるで聞き分けのない子供を諭すような口調で呟くと――すいと左手を突き出した。

 

「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ」

 

 その詠唱を聞いた瞬間、タバサはぎゅっと唇を噛みしめた。呪文が発するであろう効果に耐えるためだ。

 

 タバサが予測した通り、青白い霧が彼女の頭を覆った。〝眠りの雲〟の呪文である。猛烈な眠気が襲いかかってきたが、しかし彼女は耐えきった。メイジの最上位『スクウェア』クラスである彼女はもともと〝抵抗(レジスト)〟能力が高い。それに加え、痛みという負荷を付け加えていたため、なんとかやり過ごすことができたのだ。

 

「なかなか聞き分けのよろしくないおかたですね、イザベラさまは。この点は噂通り」

 

 余裕の笑みを浮かべる刺客をタバサはぐっと睨み付けた。しかし、彼女の心は驚愕のあまり激しく震えていた。

 

(この暗殺者は間違いなく系統魔法を使ってきた。しかも……)

 

「ふふ。杖を持たずに、いったいどうやって魔法を使っているのか。それが不思議でならないといったお顔ですね」

 

 微笑みながら近寄ってくる暗殺者に、タバサは一瞬怯んでしまった。そんなところへ再び呪文が飛んでくる。今度はタバサが最も得意とする呪文〝風の氷矢(ウィンディ・アイシクル)〟だ。なんとかぎりぎりで身を翻したが、どうしても躱しきれなかった数本が彼女の身体を傷付けた。寝間着の一部が切り裂かれ、腕と足から幾筋もの血が滴り落ちる。

 

「動かないほうがよろしいですよ。苦しみが長く続くことになりますから」

 

 余裕綽々といった様子で、暗殺者は再び手を正面にかざす。

 

(次に来る呪文は何?)

 

 タバサは文字通り必死で頭を回転させ、周囲を把握しようと努めた。ぴりぴりと肌を刺す感覚が痛い。空気の全てが張り詰めている。室内はほぼ乾燥しきっているようだ。

 

(この状態では、もう水分を凝固させる性質を持つ〝氷の矢(アイス・アロー)〟や〝氷の槍(アイス・ジャベリン)〟などは使えない。室内で火を放つのも悪手。これほどの刺客がそんな真似をするとは考えにくい)

 

 そう判断したタバサは小さく呪文を唱え、自分の周囲に風の流れを作り出した。こうしておけば、たとえ〝風の刃〟や〝風の針(エア・ニードル)〟が飛んできたとしても即座に軌道を逸らすことができる。〝風の槍〟なら持っているこの杖で、ある程度対応可能だ。

 

 そしてほぼ予測通り、タバサに向かって飛んできたのは〝風の刃〟であった。しかし、暗殺者が次に唱えた魔法はそういった類のものではなかった。

 

「……ッ!!」

 

 侍女が唱えたのは、なんと〝風の縄(ウインド・ロープ)〟。目標を拘束する風魔法であった。〝風の刃〟は完全に囮。それを放つことでタバサの周囲にある空気の流れを変化させ、逆に利用したのだ。

 

 全身を縛り上げられ、口をも封じられてしまったタバサは、もはや声を出すことすらできなくなってしまった。

 

「イザベラさまは、どうやらご自身の腕に絶対の自信があったようですが……ここは大声で助けを呼ぶべきでしたね。私は〝消音(サイレント)〟を展開していなかったのですから」

 

 タバサは呻いた。

 

(確かに救援を求めるべき状況だった。わたしは心のどこかで侮っていたのかもしれない。魔法の使えない平民くらい、ひとりで対応できると。だから、詠唱を聞いて焦ってしまった)

 

 心の底から悔やんだ。しかし、全てが遅きに失した。

 

 完全に無力化された少女の胸の内は、目前に迫る死という名の極限の恐怖によって凍て付いた。暴れようにも力が入らぬように縛られているせいで、まったく身体が動かない。助けも呼べない、口が開かない、悲鳴を上げることすら叶わない。

 

 床に転がっているタバサの姿を何の感情も映さぬ瞳で見下ろした暗殺者は、右手袖口から滑らせるようにして一本の短剣を取り出すと、固く握り締めた。

 

「では、おやすみなさいませ」

 

 暗殺者が膝をつき、タバサの胸に短剣を振り下ろそうとした――その瞬間。

 

 ガシャン! という激しい音と共に窓ガラスが割れ、何者かが飛び込んできた。

 

「うぐっ!」

 

 突入してきた者の手で暗殺者は部屋の反対側まで吹き飛ばされ、小さく悲鳴を上げた。それと同時にタバサの拘束が解かれる。〝風の縄〟の効果が消えたのだ。

 

「すまぬ、遅くなった!」

 

 外から突入してきたのは太公望であった。アルヌルフの言葉を聞いた時点で瞬時にタバサの危機を察した彼は「先に行きます」という断りをいれた直後〝高速飛行〟で部屋までまっすぐに駆けつけてきたのだ。

 

 そして、床に倒れているタバサとそれを見下ろす女を見た太公望は、迷わず部屋へ飛び込んだ――得意の蹴り技で。そう、暗殺者は手ではなく足で吹き飛ばされたのだ。なお、この際「太公望キーック!」などという台詞が一緒についてきたのだが、幸か不幸か誰もそれを聞いてはいなかった。

 

 太公望は急いでタバサに駆け寄ると、周囲を警戒しながらそっと彼女を抱き抱え、傷の具合を確かめた。

 

「う……タイ、コー……ボー……?」

 

 全て急所は外れている。命に別状はないようだが、出血が多い。

 

「もう大丈夫だ、すぐに手当てを……」

 

 太公望が言い終える前にバタンと勢いよく扉が開き、どやどやと警備の騎士たちが大勢なだれ込んできた。彼らはカステルモール率いる東薔薇花壇騎士団ではなく、下の階に詰めていた西百合花壇騎士団の者たちであった。

 

「姫殿下!」

 

「イザベラさま!」

 

 彼らは見た。夜着を血で濡らしている姫君と、割れた窓ガラス、ぐったりとした彼女を不敬にも抱きかかえている不審な騎士の姿を。

 

「おのれ、貴様! 姫殿下に何をする!」

 

「姫殿下を離せ!!」

 

 ……部屋の反対側に倒れていた暗殺者は、ちょうど彼らの死角になっていたのだった。

 

 太公望は、彼としては珍しく、非常に焦った。この状況はあきらかにまずい。よって、早急に誤解を解かねばならぬ。そう判断した彼は、声を上げた。

 

「待て! 話せばわかる!!」

 

「問答無用!」

 

 危うく某国の首相官邸内で起こったようなやりとりが発生しかけた、その直前。怒り狂う騎士たちを止めたのはタバサのか細い声であった。

 

「彼は、わたしを……助けて、くれた。本物の刺客は、そこに」

 

 タバサ――現在はイザベラの顔をした彼女が指差す先には侍女の格好をした女が倒れていた。それを見た騎士たちはぐるりと刺客を取り囲んだ。いっぽう、騎士たちの中にいた水のメイジたちは一斉にタバサと太公望の元へと駆け寄ってきた。

 

「姫殿下! なんと酷いお怪我を……」

 

「すぐに治療致します、今少しのご辛抱を」

 

 即座に〝治療〟の魔法が唱えられ、タバサの身体につけられた傷は癒えていった。

 

「ありがとう」

 

 いつもは短気で気まぐれな王女イザベラから、ふいにかけられた優しい言葉に、騎士たちはしばし目を白黒させていたが、姫君が無事とわかると、ほっと息を吐き、救助に来るのが遅れたことを深く謝罪した。

 

 いっぽう、刺客を取り囲んでいた騎士たちは倒れ伏していた若い女を抱え起こすと、激しく揺り動かした。

 

「おい貴様! 起きろ!」

 

「うう……ん……」

 

 揺さぶられた侍女はゆっくりと目を開けた。どうやらようやく気が付いたらしい。彼女は自分の周りをぐるりと取り囲んだ騎士たちを見ると、大きく目を見開いた。

 

「きっ……」

 

「き?」

 

「キャアァァアア――――――ッ!!」

 

 耳をつんざくような悲鳴に、部屋にいた関係者一同は思わず耳を塞いだ。なんとか立ち直った騎士のひとりが侍女の尋問を開始する。

 

「きゃあじゃない! 貴様、何故姫殿下を襲った!?」

 

「えっ? イザベラさまを襲う!? わたしが? ど、どういうことですか?」

 

「おのれ、とぼける気か!?」

 

「そんな、わ、わたし、目が覚めたらここにいて……」

 

 侍女は本当に何も知らないといった様子で、がたがたと震えながら、騎士たちをきょろきょろと見回している。それを見たタバサはふいに気付いた。彼女の瞳が、先程までとはまるで違う色――いうなれば、光を宿しているように見えたのだ。

 

 先程までの侍女の瞳は、かつて魔法薬によって正気を失ってしまった母や太公望のものとよく似ていた。だからこそ、タバサはそれに気がつけた。

 

「まさか……〝制約(ギアス)〟!?」

 

「はっ!? どういうことでありますか」

 

 騎士の問いを目で制すると、タバサは気丈にも身体全体がふらつきそうな状態に耐え――ゆっくりとした足取りで侍女のもとへ近付いていった。イザベラの横暴ぶりをよく知る侍女は、それで完全に怯えてしまった。ぽろぽろと大粒の涙を零している。

 

「ひえ……お、お許しを……」

 

「あなたを罰するつもりはない。だから安心して」

 

 そう言われても、侍女の震えは止まらない。

 

「あなた、名前は?」

 

「な、ナタリー……です。お、お助け……」

 

「ナタリー、あなたが覚えている範囲でいいから、詳しく話を聞かせて。いったいどこから記憶がないの?」

 

 ナタリーと名乗った侍女の話はこうであった。

 

 仕事を終え、夕食を済ませたあと、同僚たちと共に割り当てられた部屋へと戻り、そのまま眠っていた。気が付いたらここにいて、床に倒れていたのだという。

 

「あなたはメイジ?」

 

「と、とんでも、ご、ございません……」

 

 と、ここで西百合花壇騎士のひとりが手を挙げた。

 

「失礼、姫殿下。おい、ナタリー。俺を知っているだろう?」

 

「え、あ、はい……ジェイクさま、ですよね?」

 

 ジェイクと呼ばれた騎士はタバサに向き直った。

 

「この娘は王都にある料理屋出身の平民です。自分は彼女の父親が経営する店に何度も足を運んでおりますから、間違いありません」

 

 ナタリーが身元のしっかりした平民の出であるという証言を得たタバサは、念のため確認をすべく杖を手に取った。もちろん、彼女は〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟をかけようとしただけだったのだが……これを見たナタリーはふたたびぐんにゃりと気を失ってしまった。どうやらイザベラは相当侍女たちから畏れられているらしい。

 

「……身体に魔法反応なし。彼女は本当に何も知らない可能性が高い」

 

「どういうことでありますか?」

 

 警護の騎士たちの反応はもっともである。よって、タバサは先程あった出来事を、彼らに余すことなく伝えることにした。

 

 夜中に突然ナタリーが茶を持って現れたこと。何者かから永遠に眠らせろという依頼を受けたと言っていたこと。そのときの彼女はまるで別人であるかのように昏い目をしていたこと。とてつもない体術の使い手であったこと。杖を持たずに複数の系統魔法を放ってきたこと――。

 

「なるほど、それで〝制約〟の疑いがあるということでありますか……」

 

「おのれ! 新教徒どもが好んでやりそうな手だ!!」

 

 〝制約〟とは水系統に属する『対象者の心を意のままに操る』呪文である。

 

 この魔法をかけられた者は、平時はごく普通に生活を送っているが……日時や置かれた状況など、使い手が設定した条件を満たすことで豹変し――命令された内容を忠実に実行する操り人形と化す。しかも熟練者が唱えた場合、効果が切れた後に全く痕跡を残さぬという厄介なものだ。

 

 新教徒と呼ばれる者たちのほとんどは平民だ。しかし、貴族――つまりメイジがまったくいないわけではない。そして彼らは実際に〝制約〟を用いて、過去に何度も事件を起こしてきた。

 

 かけられるほうも『殉教』という言葉に酔い、自ら望んでそれを受け入れるため、呪文の効果を強く受けやすく、しかも見分けるのが非常に困難であった。それゆえに〝制約〟も、新教徒が唱える『実践教義』もガリアの国法で禁じられたのだ。

 

「だが、仮に〝制約〟だとしてもだ。いったいどうやって平民に魔法を唱えさせていたというのだ? 体術にしてもそうだ。かの禁呪にそのような付加効果はないはずだぞ」

 

 喧々囂々の議論で、場が騒がしくなる。そのうち、騎士のひとりがぽつりと呟いた次の一言で、流れが変わった。

 

「そもそもだ。いったい誰が〝制約〟をかけたのだ?」

 

 騎士たちは額を寄せ集めて談義した。

 

「この宿場町に滞在していた者たちを洗い出してみるか」

 

「いや。俺は最近雇い入れられた者が怪しいと思うぞ」

 

 そう言って、騎士のひとりが太公望に視線を向けた。

 

「確かに……」

 

「こやつはシャル……いや『人形』の使い魔だ。姫殿下を狙う動機としては、充分だ」

 

「絶妙のタイミングで姫殿下を助けに現れたというのも気に掛かる。もしや、暗殺者が失敗したときのために待機していたのではないか?」

 

 これを聞いたタバサは焦った。この状況はまずい、まずすぎる。彼には、ガリアではあえて『無知な子供』として振る舞ってもらっている。もしもパートナーの『正体』が知れ渡れば、自分たちを御輿に担ぎ上げ、王家に反旗を翻そうとする者たちが現れるかもしれない。それは、タバサが望むことではない。

 

 今ここで、自分が影武者であることを明かせば、彼にかけられた疑いは晴れるだろう。ただし、その場合は任務失敗となり――イザベラから厳罰を受けることになる。でも、大勢のひとを犠牲にするよりは、ましな選択だ。そう判断したタバサが名乗りを上げようとした、その時だ。アルヌルフ副団長が、数名の同僚を引き連れ、部屋を訪れたのは。

 

 いきり立つ騎士たちから状況を聞いたアルヌルフは、落ち着いた表情で告げた。

 

「リョボーは無実だ」

 

「何か証拠があるとでも言うのですか!?」

 

「彼はつい先程まで私と共に街の外で警邏任務に就いていたのだ。その途中、偶然姫殿下の部屋に明かりが灯ったことに気が付いた」

 

 その上で、そこが王女の部屋であると教えたのはアルヌルフであり、それを聞いた途端、彼は先行して飛び込んでいったのだと証言した。

 

「ふむ。他ならぬアルヌルフ殿がそう仰るのなら……」

 

「し、しかし、それよりも前は……」

 

 それでも納得しない騎士に向かって、アルヌルフは説明を続けた。

 

「リョボーはここへ到着するまで、姫殿下の退屈しのぎのために馬車へ同乗している。そのあとすぐにカステルモール団長に我らの宿舎へ連れてこられた。それからはずっと誰かと一緒にいた。一度たりともひとりになっていない。そもそも、普段はトリステインに住んでいるのだ。〝制約〟をかけるためにガリアを訪れたとしても、この黒い髪と風貌は人目を引く。すぐ噂になるだろう」

 

 騎士は恥ずかしそうに顔を赤らめると、頭を下げた。

 

「確かにその通りです。申し訳ありません、自分の早とちりでした」

 

 他の騎士団にも、古参としてその名を知られているアルヌルフ副団長の仲裁は、タバサと太公望を窮地から救った。

 

「いや、本当に済まなかった」

 

「しかし、若さゆえの思い切りのよさというか……いやはや、怖ろしいな」

 

「だが、それが姫殿下のお命を救ったのは確かだ。よくやったな、少年」

 

 疑惑をかけたことに対する詫びの言葉を述べた後、口々に太公望を褒めそやした西百合花壇騎士団の面々は、恭しくタバサに一礼すると、壊された窓を〝錬金〟で直し――警備体制をより強化すべく、詰め所へと戻っていった。

 

 部屋に残ったアルヌルフは彼らが完全に立ち去ったことを確認すると、タバサの前に跪き、一礼した。

 

「イザベラさま。ご無事で何よりでございました」

 

「ありがとう。あなたが彼を寄越してくれたお陰で、この命を救われました」

 

 タバサは心の底からアルヌルフに感謝していた。もしもあと数秒、太公望が部屋へ飛び込んでくるのが遅れていたら……彼女は父の待つ天界(ヴァルハラ)へと招かれていたかもしれない。さらに、彼は太公望にかけられそうになっていた容疑をも晴らしてくれた。お陰で、イザベラから下されたであろう厳罰からも逃れることができた。

 

 恩人たる彼に報いるため、現在イザベラの姿をとっているタバサは――アルヌルフの前へ、ごく自然に左手の甲を差し出した。

 

 タバサに忠誠を誓ってくれているという東薔薇花壇騎士団、その副団長のイザベラに対する評価を上げてしまうなどといったような些細なことは、タバサの頭にはなかった。ただ、彼に対して純粋に、今できる最大限の礼をしたい。その思いだけが彼女を動かしていた。

 

「おお、姫殿下! もったいのう、もったいのうございます……!」

 

 かたやアルヌルフも、内心で感激していた。今、自分に御手を許してくれようとしているのは、彼ら東薔薇花壇警護騎士団の者たち全てが真の主君と崇めるシャルロット姫殿下。しかも、深い恨みを持っているであろうイザベラの姿をしていてもなお、それを行うということは……心からの感謝を彼に捧げてくれていることに他ならない。騎士として、これほどの幸せが他にあるだろうか。いや、ない。

 

 ――互いに真実を知らぬまま、主君と古参騎士の絆は深められた。

 

 いっぽうそのころ。

 

 詰め所としている部屋に戻った西花壇騎士団の者たちは、念のためナタリーを監視下に置きつつ、彼女の持ち物を調べていた。

 

「ジェイク、何か変わったものはあったか?」

 

 ジェイクはナタリーが倒れていた所の近くに落ちていたナイフを、じっと観察している。

 

「いや、特に何も」

 

「そういえば、さっきの姫殿下はなんだかおかしかったよな。いつもなら『お前たち、来るのが遅いんだよ! いったい何をやってたんだい!』なんて大騒ぎして、減給処分を言い渡されていたところだ。あのヒステリー王女、暗殺されかかって少しは大人しくなったのかね」

 

 だが、ジェイクはナイフを見つめたまま返事をしなかった。

 

「そのナイフがどうかしたのか?」

 

「いや、どうもしないよ」

 

 ジェイクはあっさりとそのナイフを手放すと、元あった位置へと戻した。しかし――彼は同僚たちが目を逸らした途端。それをなめし革に包むと、自分のポケットにそっと仕舞い込んだ。

 

 

 ――翌日。

 

 グノープルの街に到着したイザベラ王女の一行は熱烈な歓迎を受けた。

 

 領主たるアルトーワ伯爵は自ら街門の外へ出て、彼らを出迎えた。王家の分家筋である彼の髪はやはり珍しい蒼色であった。しかし、その色はタバサやイザベラ・ジョゼフ王とは異なり、やや黒みがかった水色に近いものだ。

 

 老いて痩せこけた身体を深く折り曲げ、アルトーワ伯爵は一礼した。

 

「これはこれはイザベラさま、ようこそグノープルの街へ。われら一同、姫殿下の行幸を、今か今かと首を長くしてお待ちしておりました」

 

 それから彼は、にっこりと微笑んでこう言った。

 

「以前よりもさらに美しさに磨きがかかっておられますな。リュティスに比べましたら、ここはただの田舎町でございますが、どうかゆっくりとおくつろぎくださいませ」

 

 そんなアルトーワ伯爵の声は、しかしタバサの耳には届いていなかった。いや、正確に言うならば、完全に通り抜けてしまっていた。タバサの心の中で、つい先ほど馬車の中で聞いたイザベラの声が、ぐるぐると渦を巻いていたからだ。

 

「昨日のことは西百合の騎士たちから聞いたよ」

 

 真正面からタバサを見据え、イザベラは叩き付けるように言った。

 

「どうだい、おちおち眠れやしないだろう? わたしはね、子供の頃からずっとあんな恐怖に耐え続けているのさ。ま、外国でのんびり学院生活を送っているお前に、わたしの気持ちなんか……絶対にわからないだろうけどね!」

 

 いつもの哄笑ではなく、やや影のある乾いた笑みを浮かべながらそう言い放った従姉妹姫の姿はタバサの脳裏に深く焼き付いた。歓迎の宴も、翌日の園遊会で披露された華麗なダンスも、タバサの心を晴らしてはくれなかった。

 

 それから、小旅行が終了するまで――タバサが再び刺客に襲われることはなかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――リュティスへの帰還後。プチ・トロワ宮殿内にて。

 

 イザベラはいつになくご機嫌であった。

 

(さすがだね『地下水』。よくぞあそこまで、あの子を追い詰めてくれたわ)

 

『恐悦至極に存じます』

 

 イザベラの懐中には、あの侍女ナタリーが握り、ジェイクという名の騎士が自分のポケットに放り込んでいたはずのナイフが収められていた。彼女はその短剣と、心の中で会話しているのだ。

 

 傭兵『地下水』。ガリアの裏世界に凄腕の水メイジとして広く名の通った存在だが、その実体は完全に謎に包まれていた。湧き出る水のようにじわりと現れ、音もなく流れ、静かに目的を果たして消えてゆく。性別はおろか、年齢も、その姿も一切わからないとされている凄腕の暗殺者。それが彼に冠された名の由来だ。

 

 『地下水』について、ただひとつわかっていることは――狙われたら最後、絶対に逃げることができないということだけであった。

 

 そんな『地下水』の正体が表に出なかった理由は簡単だ。彼は人間ではなく、ナイフに込められた〝意志〟だったからだ。手にした者の意志を奪い、意のままに操る能力を持つ〝インテリジェンス・ナイフ〟。それが、ガリアの裏世界で広く畏れられる暗殺者の正体であった。

 

『それにしても、襲いかかるのが一度きりでよいとは。てっきり、何度も恐怖を味わわせるものとばかり思っておりましたが』

 

(いいえ、あれでいいのよ。見たかい? 日に日にやつれていく、あの子の姿! あそこまで愉快な見せ物はそうは無いだろう?)

 

 それから、イザベラはわざとらしくため息をついた。

 

『だいたい、あの子の側にはとんでもないのが付いてるものだから、迂闊に手を出しづらいのよね。だから今回は身体じゃなくて、心に傷を負わせ続けたってわけさ』

 

『ひょっとして、あのガキのことですかい?』

 

『それは秘密ということにしておくわ。そうそう! 今回の報酬はいつも通りシレ銀行の口座に入れておくわね。いい仕事をしてくれたから、約束の額より割り増ししておくわ』

 

『へへっ、毎度ありがとうございます。こういう変わった仕事は大歓迎です、退屈しのぎになりますからね。いつまでもお得意さまでいてくださいよ』

 

『もちろんよ。わたしはね、信用の置ける部下は大切にする主義なの』

 

 と、そこへひとりの侍女が現れた。イザベラが『地下水』を握らせるために呼び出したのだ。ところが、その侍女はとんでもないものを持っていた。

 

「イザベラさま。先程お帰りになられたミスタ・タイコーボーから伝言を頂戴したのですが」

 

「あの子から伝言?」

 

 イザベラの心は浮き立った。襲撃を表沙汰にすると、王家の威信に傷が付くというもっともらしい理由付けが必要だったため、王女の命を救ったという本来勲章ものである働きに対し、金貨しか与えられなかったイザベラであったが――それでも、太公望と東薔薇花壇騎士団の副団長に、それぞれ五百エキューという大金を渡した彼女は感謝されてしかるべきであった。

 

(ひょっとすると、シャルロットから乗り換えたい……なんて申し出だったりして!)

 

 そんな期待を胸に抱いたイザベラであったが、しかし。伝言の中身はというと――彼女が心待ちにしていたものなどではなかった。

 

「その……わたくしには意味がよくわからないのですが。『窓が大層お気に召したようで、なによりです』だ、そうです」

 

 侍女に『地下水』を握らせた後、足をふらつかせながら自室へと戻ったイザベラは、王天君に声を掛けると、彼の『部屋』にある長椅子の上に、ばたりと倒れ込んだ。

 

「嘘よぉ……なんでバレたの!? あの作戦の、どこがいけなかったのよぉ!!」

 

 太公望に自分の存在を気取られることを警戒し、イザベラたちを一切『窓』で監視していなかった王天君は、作戦内容の詳細を彼女から聞いた上で、こう返した。

 

「イザベラよぉ。オメー、ちぃとばかしオレの()を出しすぎたみてぇだな。せめて襲撃二回なら、まだ引っ張れたかもしれねえんだがなぁ」

 

「も、もしかして、警戒しすぎたってこと!?」

 

「あぁ、そうだ。襲わせる場所の選択は悪くなかった。太公望をあの女から引き離しておいたところまでも、まぁ、よかったと思うぜ。わざわざ怪しい状況で、あいつに手を出させることになったってのも、ある程度想定してた事なんだろ? 実際、もうちっとでふたりとも追い込めたわけだしな。アルヌルフとかいう騎士がその場に居合わせなければ」

 

 そう王天君から指摘され、イザベラはぐっと詰まった。

 

「そうね。このわたしとしたことが、本当に迂闊だったわ。あなたの弟と組む人間まで、ちゃんとこっちで指定しておくべきだったのにぃ~!」

 

 懐から取り出した絹のハンカチをギリギリと噛みしめながら、イザベラは悔やんだ。

 

(今回の作戦がうまくいけば、シャルロットに任務失敗の罰に与えることも、影武者を立てていたことを知らない騎士や召使いたちに、リョボーはわたしの命を救ってくれたんだからって言って『王女のお気に入り』扱いにして……奪い取れたかもしれないのに!)

 

「平民に魔法使わせたのも失敗だったな。せめて騎士の誰かに持たせてからヤるべきだったんじゃねぇか? そのせいで、あいつに『道具』の存在を疑われたんだ」

 

 ニイッ……と不気味な笑みを浮かべながら、王天君は続けた。

 

「とどめに、さんざんあの人形姫を脅した後でイイコちゃんな太公望の同情引くような台詞吐いた挙げ句、たった一回しか襲撃を起こさなかった。実にオレ好みな、効果的で、しかも手のかからねぇ精神的追い込みだぜ。こんだけ状況が重なれば、あいつなら当然オレの影に辿り着くわな」

 

「ううッ。わたし、まだまだ詰めが甘いわぁ~」

 

 もともと、ある程度の目星はつけてたんだろうが。そう思った王天君であったが、それはあえて言わないでおくことにした。こういうところは母親そっくりである。

 

「今回のことや、あなたのことは、もう……あの子に全部バラされちゃったかしら」

 

「さぁて、そいつぁどうかな。見てみるか?」

 

 そう言って、王天君が新たに開いた『窓』には、風竜の背に跨り、トリステイン魔法学院への帰路についた太公望とタバサの姿が映し出された。

 

 風竜の手綱を握っているのは太公望であった。タバサは前方に座っている。彼女は太公望にもたれかかるようにして、こっくりこっくりと船を漕いでいた。

 

「まったく! どこかの誰かさんのせいで、この一週間ろくに眠れなかったようだからのう。せめて帰り道くらい、ゆっくりさせてやってもよいのではないかとわしは思うのだが、どうだ?」

 

 そうぽつりと呟いた太公望は、その言葉とは裏腹に――黒い気配を全身に纏い、嗤っていた。口から覗く鋭い八重歯はまるで牙のようだ。

 

(か、完全に気付かれてる……)

 

 そんな彼の貌を見、声を聞いたイザベラは、王天君と彼は正真正銘、本物の兄弟なのだと改めて実感し、顔全体を引き攣らせた。

 

 だが、イザベラは……後に続いた言葉に、思わず目を見開いた。

 

「見事にしてやられたわ。まあ、今回の件はタバサには黙っておくことにする。代わりと言ってはなんだが、わしは次の機会に是非話し合いの機会を持ちたいと考えておるのだ。検討しておいてくれると有り難いのう」

 

 その言葉を最後に『窓』が音を立てて割れた。

 

「ったく、相変わらず大人げねえなぁ太公望ちゃんはよぉ。フツー『太極図』まで使うか!? この程度の場面で」

 

「な、何? 今のは何なのッ、オーテンクン!?」

 

「これ以上覗くなっていう、アイツなりの警告だ。で、どーすんだ?」

 

 王天君の問いに、イザベラはごくりと唾を飲み込んだ。

 

 

 ――ちょうどそのころ。

 

 東薔薇警護騎士団の詰め所では、アルヌルフのおごりで飲みに繰り出そうという提案が、本人を含めた全員一致で可決されていた。

 

 暗殺者に襲われたのが、実はシャルロット姫であったこと。

 

 姫君を窮地から救ったアルヌルフは、騎士団の誉れ高き英雄であるということ。

 

 この事実だけで飲みに行く理由としては充分である。勇ましくそう宣言したカステルモール団長の声に、騎士団の者たちは賛同し――副団長は思わず苦笑した。

 

「例の子供も、噂に聞いていたような礼儀知らずではなかったしな」

 

「そういえば副団長殿は、リョボーの腕前を見たんですよね?」

 

「あいつはどの程度のメイジだったのですか?」

 

 好奇心も顕わに尋ねてきた団員たちに、アルヌルフは苦笑しながら答えた。

 

「いや、残念ながら私は見ていないのだよ。とにかく急いで反対側から回り込まねばならない状況だったしな。だが、あの思い切りのよさは買いであるな」

 

「それは残念」

 

「そのうちまた機会があるだろう」

 

「いや、下手にあっても困るのだが」

 

 そんなことを言い合いながら、騎士たちは詰め所を出て行った。

 

 アルヌルフは手柄を独り占めしようとしたわけではない。彼は、あのとき吹き抜けてゆく強き〝風〟を見た。しかし、それは――まだ周囲に明かしてはならないものだと長年の経験と勘で判断したのだ。

 

(あの少年は、やがて姫殿下にとって大きな〝力〟となりうる存在だ。なればこそ、今は側についていてもらったほうがよい。もしも、かの少年が持つ力量が周囲に知れ渡ってしまったら――最悪の場合、王家に排除されかねないからな)

 

 それに、どっちつかずの貴族たちがまたぞろ戻ってくる可能性もある。足手まといになるだけならまだしも、足を引っ張られてはたまらない。

 

(この東薔薇花壇警護騎士団を、シャルロット姫殿下が最も望むことのために動く存在にしなければならない。それが、私の役目だ)

 

 初老の騎士は新たな誓いを胸に秘め、ゆっくりと詰め所を後にした。

 

 

 




今回登場したアルヌルフさんはオリキャラではありません。
彼がどこに出てくるのかわかる方は、相当の原作通です。

そして、原作と違い地下水が捕獲モードではなく
にっこり笑って殺しに来るスタイル。怖い。


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第67話 策謀家、過去を顧みて鎮めるの事

 ――イザベラは幼い頃そうしていたように、無意識に親指の爪を噛んでいた。

 

「悔しいけど、オーテンクンの言う通りだったわ。まだ早すぎたみたいね……」

 

 途中までは確かに上手くいっていたのだ。

 

 ここ最近、自分の手の者を使って引き起こしていた自作自演の爆破予告や襲撃事件が新教徒や王家に不満を持つ者の仕業だ……と、北以外の花壇警護騎士団のみならず、王都の住民たちにまで思い込ませることに成功していた。リュティス近隣で流れる噂話が、それを証明している。

 

 その背景を元に、いかにもイザベラ自身が新教徒の襲撃を怖がっているように見せかけ、ごく自然に従姉妹であるシャルロットを影武者として仕立て上げることもできた。

 

 『地下水』と西百合騎士団の中に潜り込ませた自分の手駒を利用して偽の暗殺未遂事件を起こし、本来〝水〟を最も得意とする暗殺者に、あえて〝風〟を主体とした戦法をとらせることによって魔法の巧さを鼻に掛けた小生意気な従姉妹の自信を根底から打ち砕いてやれた。

 

 残念ながら『任務失敗』まで状況を運ぶことはできなかったが、代わりに王天君の弟を自分の陣営へ引っ張り込むための布石は打てた。イザベラはそう信じていた。

 

 ところが、今回の策本来の対象者は、ごくごくわずかな綻びから自分の兄・王天君の影に辿り着いたばかりか、王女襲撃事件そのものがイザベラの自作自演であると看破してしまったらしい。

 

 おまけに、わざわざ向こうから話し合いこそ持ちかけてきてくれたものの、相当怒っているように見えた。王天君の『窓』が音を立てて割れたとき、イザベラがそれまで持っていた自信も一緒に粉々に砕け散った。

 

「彼の前でシャルロットをいじめすぎたのがまずかったのかしら……計画は完璧だったはずなのに、どうしてこんなことになっちゃったの!? そもそもわたしは、あなたの弟と敵対するつもりなんかこれっぽっちもなかったのよぉ!」

 

 そう王天君に向かって叫んだイザベラの胸は、暗澹たる思いでいっぱいになっていた。

 

 

 ――イザベラには昔から敵が多かった。

 

 地方都市へと向かう馬車の中で彼女が語った、

 

「自分を狙う刺客の存在に毎日怯えて過ごし、ろくに眠ることもできない」

 

 という話は周囲の者から同情を買うつもりで吐いた台詞などではなく――彼女の内で澱のように沈殿していた、心からの本音を吐露したに過ぎない。もっとも、これには『王天君や地下水が側にいてくれなければ』という但し書きがついてくるのだが。

 

 事実、イザベラの命を狙う者は大勢いる。現国王ジョゼフ一世は、まだ四十を少し越えた程度の若い王だ。しかし彼にはイザベラしか子がおらず、王妃も既に流行病で世を去っている。よって、イザベラが夭逝することで多くの者に好機が訪れるからだ。

 

 たとえば、現在ジョゼフが囲っている愛人がそうだ。今はまだ子を為すまでには至っていないが、もしも彼女に子供ができたとしたら――ガリア王国の王位継承権第一位を持つイザベラは当然の如く目の上のタンコブとなるだろう。

 

 そして、その規模こそかつてと比較して大幅に縮小したものの、未だ亡き大公シャルルに忠誠を誓う『シャルル派』と呼ばれる貴族たちも、たびたびイザベラに刺客を放ってくる厄介な存在だ。

 

 正統な王権だの、正義がどうこう言う者たちが大勢いることは確かなのだが、それでも。この後に及んでもなお、シャルル派にしがみついている者たちのほどんどが、担ぐべき者を間違えたばかりに現在は不遇をかこつ、落ちぶれ貴族たちで構成されているのは間違えようのない事実だ。

 

 もしもイザベラがいなくなれば、彼らは大公シャルルの遺児であるシャルロット姫を御輿として担ぎ上げ、彼女に王位継承権を与えるべく策動を始めることができる。

 

 また、現王家を打倒するために大勢の兵を雇うよりも、数名の暗殺者を王あるいは後継者の元へ送り込んで始末させたほうが、遙かに安上がりであるし――なによりその功績によって御輿の覚えを良くすれば、後々美味しい思いができる……などと考えるのは、時勢の読めない二~三流の策謀家ならばある意味当然であろう。

 

 今はイザベラの配下となっている『地下水』も、数年前までは――そんな身の丈に合わぬ大それた野望を持つ貴族に雇われた、暗殺者のひとりであった。

 

 傭兵『地下水』は変わった性質を持つ暗殺者だ。暗殺や雇われの傭兵といった仕事を単なる暇つぶしとして捉えていることもそうだが――それ以外にも、他の刺客とは決定的に違う点があった。

 

 理由はよくわからないが、名誉よりもカネを。報酬よりも楽しく過ごせる時間を。つまり面白い、あるいは遣り甲斐のある仕事を欲する傾向が強かったのだ。

 

 そんな暗殺者に、あるときひとつの依頼が舞い込んだ。それが王女イザベラの抹殺だった。とても面白そうな仕事だったので『地下水』は迷わず引き受けた。

 

 いつも通りの手順で王宮内部へと潜入し、多くの者たちが寝静まった夜半過ぎに、たったひとりでイザベラの部屋を訪れた『地下水』の手には一本の短剣と――紅く透き通った液体がなみなみと注がれたティーカップがあった。

 

 いっぽう、狙われたイザベラのほうはというと。

 

 暗殺者と思しき相手から湯気の立つ茶をすっと差し出されたとき。ふいに宮廷雀たちの間に広がっている噂話に思い当たった。その話を上手く利用して、この場を切り抜けられないかと考えた。

 

 ティーカップを受け取ったイザベラは、精一杯の微笑みを浮かべて言った。

 

「お前――『地下水』だね?」

 

 暗殺者はにっこりと微笑んだ。

 

「これはこれは、よくご存じで」

 

 イザベラは受け取った茶の香りをかいだ。水メイジである彼女には、それだけで茶に含まれた成分について、おおよその検討がついた。

 

「強い睡眠薬が入れてあるんだね。だけど、なんでこんな回りくどい真似をするのさ?」

 

「高貴なお方の末期の顔を、苦痛で歪ませるというのは……私の主義に反しますので」

 

 そう言って馬鹿丁寧に一礼した『地下水』を前にして、イザベラは心の奥底にどっしりと根付いた恐怖を必死の思いで押さえつけていた。

 

 彼女が刺客に狙われたのはこれが初めてではないが、ここまで接近された経験はなかった。でも、宮廷雀たちの噂――

 

(この()が面白い仕事を優先して受ける暗殺者だっていう話が本当なら、まだ切り抜けられる可能性がある。そのためにも、怖がっていることを悟らせちゃダメだ)

 

 イザベラは、文字通り必死に頭を回転させた。

 

「なるほど、よくわかったわ。お前のことはもちろん知っている。普段、どんな仕事を請け負っているのかもね。わざわざ訪ねて来てくれるだなんて、嬉しいわ。一度でいいから、直接会って話をしてみたかったんだよ」

 

 『地下水』は――侍女の姿をした暗殺者はイザベラの言葉に目を丸くした。

 

「なんともはや、まさか一国の王女さまからそのようなお言葉を頂戴するとは、光栄でございます。で……姫君御自らお話とは、いったいどんな内容でございますか?」

 

「普段は自由に動いてくれていて構わない。依頼を受けたときだけ、わたしの部下として働く気はないかい? もちろん、相応の金は出すよ」

 

 『地下水』は考えた。

 

 派閥争いに敗れてもなお無駄な暗躍を続けようとする、先の読めない三流貴族と――自分を狙う暗殺者を相手に、微笑を浮かべながら雇用契約の交渉を持ちかけるほどの余裕を見せた王女。どちらを正式な雇い主とすれば、より楽しい時間を過ごすことができるだろうか。

 

 それからすぐに彼女(・・)は答えを出した。

 

「なかなか興味深いお申し出でございますね、大変結構です。それではイザベラさま、よろしければ具体的な報酬と契約内容について、詳しいお話を伺いたく存じます」

 

 提示された条件は『地下水』にとって十二分に満足のいくものだった。よって、彼は以後イザベラの命があったときだけ動く『懐刀』になることを承諾した。

 

 もちろんその前に、かつての雇い主の頭に()をつける必要があったが、そんなことは凄腕の暗殺者たる『地下水』にとって、赤子の手を捻るよりも簡単なことであった。

 

 こうして。文字通り命がけの交渉を見事成功させたイザベラは、それ以降、ガリア最凶の暗殺者から狙われる確率を大幅に下げることができた。状況次第では刺客に反撃を加えることすらできるようになった。

 

 そして、イザベラが『地下水』を自分の配下としてから――数ヶ月後。

 

 何度も官職への就任願いを出していたイザベラの希望が、ついに通った。しかし、それは彼女が望んでいたような、華やかなものなどではなかった。なんと、国の裏仕事――つまり汚れ役の長である『北花壇警護騎士団』の団長就任を命じられたのだ。

 

 当然のことながら、イザベラは荒れた。

 

「どうして? なんでわたしがこんな裏仕事をしなければならないのよ! わたしは魔法が下手だから表舞台に出すわけにはいかないって言いたいわけ!?」

 

 彼女は怒り狂い、地団駄を踏んで悔しがった。そして、メイジとしての才能に溢れ、多くの者たちに愛され、その境遇に対して同情され続けている従姉妹姫・シャルロットへの憎しみと妬みがよりいっそう募っていった。

 

 『北』の支配者になったのをいいことに、イザベラは以前にも増して無理難題を従姉妹に押しつけるようになった。ところが、憎い相手はいつも無表情で、何をしても氷でできた人形のように自分を見返してくるばかり。それがまた、イザベラを激しく苛立たせた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから数年後。イザベラにとって、まさしく運命と呼べる日が訪れた。

 

 無様な失敗をした従姉妹姫を嘲笑ってやろう。その程度の軽い気持ちで唱えた〝召喚魔法(サモン・サーヴァント)〟が、イザベラに比類なきパートナーをもたらしてくれたのだ。

 

 突如現れた『光の道』によって誘拐同然に連れ去られた弟を探すために、自分の召喚に応えてくれたという彼――王天君は本当に素晴らしかった。持っている〝力〟もそうだが、何よりも彼が持つ考え方が、イザベラに強烈な衝撃を与えた。

 

 それはハルケギニアの常識では考えられない、存在すらしなかった価値観。

 

「魔法なんてもんはなぁ、所詮はただの道具だ。物事を達成するためのひとつの手段に過ぎねぇ。そんなもんの上手い下手なんぞにいちいち拘るのは、おつむの弱え馬鹿のやることだからやめときな。わたしは魔法の腕でしか他人の価値を計る方法を知りませんって書かれた看板を、首からぶら下げてるようなもんだぜ?」

 

 神の御技たる魔法を『ただの道具』と言い切った王天君自身が、己が持つ強大な〝力〟をつまみぐいや覗き見などといった単なる暇つぶしに使う姿は、それまで頑強なまでに凝り固まっていたイザベラの魔法に対する先入観を叩き壊すには充分であった。宮廷の内外にいる貴族たちを見る目も、それと同時に少しずつ変わっていった。

 

 やがてイザベラは、自分の価値を魔法の腕でしか計れない者とそうでない者を、完全にではないが見分けられるようになった。これは彼女にとっても、配下である『北花壇警護騎士団』に所属する多くの者たちにとっても、非常に良い変化であった。

 

 彼らはもともと、汚れ仕事を引き受ける『闇の騎士』だ。よって、相手を色眼鏡で見ることは最悪の場合死に繋がるということを充分承知している。そのため、彼ら北花壇警護騎士団に所属する騎士たちのほとんどが、イザベラの持つ手腕と、与えられる報酬のみで彼女を評価していた。

 

 その事実に気付けたイザベラは、良い仕事をする者に対し厚く報いることで応えるようになった。その結果、裏側の騎士たちの忠誠が国ではなくイザベラ個人に対して大きく傾いていったのは……ある意味当然の流れであろう。

 

 こうして、未来の女王は――自分に忠実な下僕たちを手に入れることに成功した。

 

 ふいに襲いかかってくる刺客についても、常に見張りをしてくれる王天君のお陰で完璧に躱せるようになったし――何より彼の『窓』のお陰で、任務に失敗し、逃げ戻る刺客の追跡も容易になった。イザベラは王天君の到来によって、はじめて心からの安寧を得ることができたのだ。

 

 もちろん、刺客を送り込んできた者に対する反撃には『地下水』を使った。ガリアの裏にその名を轟かせる暗殺者は、以前にも増して楽しい仕事を割り振ってくれるようになったお得意様に大きな期待を寄せるようになり――ついには自分の正体を明かすほどの信頼関係を築くに至った。

 

 王天君ほどの者を召喚できたという事実も、イザベラにとって大きな自信となった。

 

「こんなに素晴らしいパートナーを呼び出すことができたわたしに、魔法の才能が全くないわけがないじゃないか!」

 

 自信は、時として固い殻を打ち破るための〝力〟となる。

 

 それまで、水系統のメイジとして『ドット』スペルを日に数回程度しか唱えることが叶わなかったイザベラは、いつしか『ライン』に昇格し――ついには、かの禁呪〝制約〟を扱えるほどにまで成長していた。

 

 しかしイザベラには、そんなことはもうどうでもいいことに変化しつつあった。何故なら、彼女にとって、もう魔法は絶対のものではなくなっていたから。

 

 そう考え、改めて周囲を見渡してみたイザベラは、遂に知るに至った。『無能王』と国内外で蔑まれる自分の父親が、為政者としてどれほど優れた手腕を持っていたのかを。

 

 過去の歴史を鑑みても、現在ほどガリア王国が繁栄した時代はない。ジョゼフ一世が即位してからというもの、魔法だけでなくそれ以外の技術分野も、経済的な面でも飛躍的な進歩を遂げている。

 

 たとえば測量だ。国防上だけではなく、政を正しく行う上で重要となる正確な地図を作製するための技術がメイジたちの間だけではなく、国から支援を受けた平民の技術者たちによって確立されつつあった。それを元に行ったラグドリアン湖の干拓事業は、現在は王家の直轄領となっている旧オルレアン公領を、シャルル大公が運営していた当時よりも遙かに実り豊かな土地へと変えていた。

 

 さらに、砂漠(サハラ)との国境にある城砦都市アーハンブラを対エルフ用の城塞都市ではなく、東方諸国との貿易中継都市として再整備した結果……珍しい茶葉や置物をはじめとした貴重な交易品がガリア国内だけではなく、ハルケギニアの他の国にまで届くようになった。

 

 彼ら交易商人たちの動きで、それまで停滞気味であったガリア国内の経済は、水と肥やしを与えられた草木のようにぐいぐいと伸びを見せ始めた。

 

 そして『ガリア王国両用艦隊(パイラテラル・フロッテ)』の存在。

 

 普段は軍港サン・マロン近郊の海上でその偉容を見せつけている戦列艦の全てに最新鋭の造船技術が投入されている。これらの艦の機関部に〝風石〟が積み込まれており、帆を空用のものに張り替えれば即座に空軍艦に早変わりする。

 

 海と空の両方を駆ける艦隊。これもジョゼフ一世の発案から生み出されたものだ。

 

 今でこそアルビオン王国の持つ空軍に『世界最強』の名が冠せられているが、早ければ半年――遅くとも一年後には、国内外の評価は完全に塗り変わるであろう。

 

 これら新型戦艦の大量建造計画が持ち上がったのは、ジョゼフの即位後だ。そして、最新鋭の艦を大量に揃えたにも関わらず、軍事費の大幅増加に伴う増税などは一切行われなかった。

 

 国が発注した大量の戦艦建造を契機に、造船業をはじめとした魔法技術産業の発展と、それらが生み出す人と金の流れに勢いがつき――軍事関連施設を置く都市近辺はかつてない好景気によって大いに潤った。

 

 さらに、先に述べた東方交易とこれらが合わさった結果――商家や直轄領から入る税収が大幅に増え、国庫には多くの蓄えができていた。そんな状態でわざわざ税金を上げ、民の感情を逆撫でする必要などないというわけだ。

 

 ――魔法ができない『無能王』はそれ以外の方法で、国を大きく発展させている。かの王はまさしく国の〝支柱〟たる存在だ。

 

 それを脇から支える『ジョゼフ派』の貴族たちも、王の魔法には一切関心を払っていない。ただ彼の腕たらんとして精力的に働いている。そう、彼らはジョゼフが即位する以前から、ちゃんとわかっていたのだ。

 

『国王として上に立つ者に求められるものは、魔法の腕などではない』

 

 ……と。

 

 ガリアの国王は、そんな『見る目』を持った貴族たちに囲まれている。そして、彼らを上手く使うことで国を運営していたのだ。イザベラは父王に被せられた『無能』という名の仮面の下に隠されていた素顔を知ったとき、驚愕のあまり打ち震えた。

 

 そんな王が、国の裏側を自分に任せた。これはいったいどういうことなのか。

 

 表沙汰にできない、国にとって都合の悪い仕事が多く持ち込まれる『北花壇警護騎士団』を取り仕切らせるということは、文字通り自分の背後を任せる――それも、国を背負う重鎮のひとりとして扱っているに等しい。

 

 つまり、ジョゼフ王は自分の娘・イザベラの持つ才能を正しく見出していたのだ。

 

 おそらくは『地下水』の一件からそれを判断したのであろうジョゼフ王は、間違いなく国の暗部にまで届く長い手を持つ、優れた政治家であった。

 

 そのことに気が付いたとき。イザベラは人知れず涙を流した。

 

 イザベラには父ジョゼフと触れ合った記憶がほとんどない。皇太子の娘としての教育を受けていた彼女は、父親と共に過ごす機会を持たせてもらえなかった。

 

 幼い頃は、そのことで幾度も寂しいと泣いた。しかし母親や家臣たちから、逆に「王女たるもの、そんな軟弱なことではいけません」などと窘められていたのだ。

 

 それなのに、父は自分の弟の家を訪問する際には大量の菓子や玩具を持って行くという。まだ幼い子供だった頃、よく一緒に遊んでいた従姉妹の口からそれを聞いたイザベラは――それ以降、彼女と距離を置くようになった。

 

 このときイザベラの内部に生じた小さな憎悪こそが、後に従姉妹姫が持つ魔法の才能への嫉妬と複雑に絡み合い――現在に至るまで続く、憎しみの原点なのである。

 

 イザベラはそんな子供の頃から鬱積してきた数々の想いや、裏方に回されたことで……父親を少なからず恨み、人知れず悩んでいた。

 

「父上。あなたは反逆者の妻と娘に、生命を助けるなどというこれ以上ない程の愛情を与えておきながら、何故それをたったひとりしかいない娘に対して向けてくれないのですか? わたしは実の父親にすら嫌われ、疎まれる存在だというの?」

 

 かつて、まだ王天君と出逢う以前。誰もいない広々とした自室の中で、そんなことを呟きながら、ひとり悔し涙を流すこともしばしばであったイザベラは、だからこそ泣いた。

 

 そこに、親子としての愛は存在しないのかもしれない。

 

「でも、少なくとも父上は――わたしを魔法という名の色眼鏡を一切通さず、ただひとりの人間として見てくれていたんだ」

 

 そして、自分の背中を任せても大丈夫だと信じ、わざわざこの仕事を寄越したのだと悟ったイザベラは父の期待に応えようと思った。任された役目に対し、本気で向き合う気になった。

 

 それを素直に王天君へ告げたところ、以後彼は――それまでの『見張り役』『話し相手』としてだけではなく、イザベラの行動に対して時折助言をくれるようになった。ただし、それは直接的なアドバイスではなく、やや迂遠なものではあったが。

 

 たとえば、人間の心の弱さを見抜き、そこを効果的に突く手法。

 

 影から他者を操り、望み通りのことをさせるための上手いやりかた。

 

 王天君の持つそういった技術と知識は、もともと裏仕事をするための素養が高かったイザベラを、大きく成長させた。

 

 その結果、時折助言を受けつつではあったが――わずか二ヶ月で、国内の不穏分子を抑えるための自作自演による襲撃事件を考え出した上で立案し、さらには父王から、

 

「余が口を挟む必要を感じない。おまえの良きに計らえ」

 

 という笑顔のお墨付きまで貰い、最高責任者として計画を実行するまでに至った。しかも、芋づる式に新教徒の裏組織や、近年不穏な動きを見せていた過激派の隠れ家を押さえることにまで成功するという素晴らしい結果までついてきた。

 

 イザベラはグラン・トロワから自室へ戻り、王天君の部屋へ駆け込むと、叫んだ。

 

「聞いてよオーテンクン! 父上がね、わたしを褒めてくれたの! あの、いつもわたしに素っ気ない態度しか見せてくれなかった父上が、にこにこしながら『お前はよくやってくれた』って、本当に嬉しそうな顔で言ったのよ!!」

 

「オメーは褒められて当然の仕事をしたんだ。娘の成長を見たら、そりゃあ親父なら喜ぶだろ」

 

「やっぱりあなたもそう思う?」

 

「あぁ。実際オメーはよく頑張ったと思うぜ」

 

「ありがとッ。あなたにもそう言ってもらえて、嬉しいわ!」

 

 イザベラは得意の絶頂にあった。

 

 わたしの策は、政治家として凄い〝力〟を持つ父上から正式に認められた。しかも、あんな笑顔を見せてくれたのは初めてだったと喜んだ。わたしと同じ歳の娘で、これほどのことができる者が他にいるものかと高笑いした。

 

 そんな時だ。イザベラが、とあることを思いついたのは。

 

「ねえオーテンクン、あなたの弟をシャルロットから奪い取れないかしら。もちろん、あなたみたいに気が向いた時でいいから、わたしを手伝ってもらえると嬉しいんだけど……どう思う?」

 

 諸手を挙げて賛成してくれるとばかり思っていたパートナーは爆笑でもってその案に応えた。王天君はげらげらと大笑いしながらこう言ったのだ。

 

「あいつに仕事をさせるのは骨だから、やめときな。今のままでも充分だろ?」

 

 次いで、王天君はとんでもないことをさらりと口にした。

 

「だいぶ前に言ったと思うが、オレは()。あいつは()で仕事をしてたんだ。少なくとも、このオレを言いくるめることができるくらいでなきゃあ、太公望に何か仕掛けるのは無謀ってもんだぜ」

 

 王天君は、基本的にイザベラのほうから聞かない限り、昔のことを語ろうとはしない。言いたくない何かがあるのだろう――そう考えていたイザベラは、これまで彼ら兄弟が何をしてきたのかについて詳しく尋ねたりはしなかった。

 

 王天君のほうも、イザベラの過去をわざわざほじくり出すような真似はしなかった。いつしか、それがふたりの間で暗黙のルールのようになっていた。

 

 よって、イザベラは王天君や彼の弟が、このハルケギニアに召喚されるまでの間、いったい何をしていたのか、どんな仕事をしていたのか、全くといっていい程知らなかった。せいぜい、ふたりで旅をしていたことくらいしか聞いていない。

 

 だからこそ、王天君の言葉に興味を持った。

 

「ねえ、オーテンクン。あなたたち兄弟は、いったいどんな仕事をしていたの?」

 

 珍しく自分たちの過去を問うてきたイザベラに、王天君は口端を上げた。

 

「でけぇ国家計画(プロジェクト)に関わってた。もっとも、オレたちにとっちゃいい迷惑だったんだがなぁ、あの仕事はよぉ」

 

 イザベラは驚きのあまり思わず目をしばたたかせた。何らかの国家計画に携わるには、それ相応の実力・実績がなければ不可能だ。王天君の能力については疑うべくもない。『窓』を含む情報収集だけでなく、イザベラ自身に伝授された技術からもそれは伺える。

 

 では、彼の弟はどうなのだろうかとイザベラは考えた。少なくとも、魔法の〝力〟が強いのは確かだ。それはラグドリアン湖近隣の森をひとつ、たったの一瞬で消し飛ばしてしまったことが証明している。しかも、その気になれば一時間以内にリュティスを更地に変えることすら可能らしい。

 

 だが、その本質はイイコちゃん。争いごとが大嫌いで、少なくとも人間の戦争に進んで干渉したりはしないだろうとも聞いている。

 

(そんな彼がしていた仕事って、いったいなんなのかしら。兄弟一緒に、揃って世界各地を巡っていたみたいなんだけど……)

 

 イザベラはそれらしき職業について口にしてみた。

 

「あなたたちって、ひょっとして情報斥候だったの?」

 

「似たようなコトはよくしてたっけなぁ。少なくとも、盗みの腕は保障するぜ」

 

 くつくつと嗤いながら答える王天君に、イザベラは絶句した。それから、とんでもないことに気が付いた。もしや、東方諸国を渡り歩いていたという彼らは機密情報を盗む専門家だったのではないだろうか。それなら、ふたりの役割分担にも頷ける。

 

 弟が愛嬌のある態度を周囲に振りまきながら、ごくごく自然に目的地へと忍び込み、そこを起点に兄が『窓』を開ける。

 

 なるほど、これは素晴らしい泥棒たりえる。しかも、弟は凶悪な風の使い手だ。たとえ単独潜入に失敗したとしても、ただ逃げるだけではなく、戦って切り抜けることすら可能だろう。性格的に後者はそうそう選ばないであろうが。

 

 これまでは太公望という人物に対し、とてつもない〝風〟の使い手であり、ただ存在するだけで従姉妹の味方を減らしてくれるという程度の評価しかしてこなかったイザベラだったが、俄然彼が手元に欲しくなった。

 

「ふぅん、腕のいい泥棒ねえ。すっごく興味深いわ! ねえオーテンクン。あなたの弟はガリアの裏を支配するわたしの側にいるほうが、本来の能力を活かせるとは思わなくって?」

 

「オレはやめといたほうがいいと思うんだがなぁ。ま、どーしてもオメーがやってみてぇっつーなら止めねぇが」

 

 王天君からそう忠告を受けたものの、自信に満ちあふれていたイザベラはそこで立ち止まろうとはしなかった。優秀な暗殺者と、有能な泥棒を手元に置くことができたなら、自分の仕事がさらにやりやすくなると考えたから。

 

(そうなれば、もっと父上に喜んでもらえるかもしれない。父上が、わたしをもっと認めてくれるかもしれないもの!)

 

 イザベラは頑ななまでにそう信じた。家族――特に父親からの愛情に、心の底から飢えていたがゆえに。

 

 とはいえ『弟』の有能ぶりを表沙汰にするわけにはいかない。それをしてしまうと、最悪の場合、彼の功績によって大幅に勢力を減らした『シャルル派』が再び息を吹き返してしまう。

 

 そう考え、計画・実行した策が件の『王女暗殺未遂事件』(自作自演)だったわけだが――結果はご覧の通りである。

 

 イザベラは困り果てた。彼女は、念のため失敗した時のこともある程度考えて行動し、準備を進めていた。だが、もしも策が露見し、相手……従姉妹ではなく王天君の弟を本気で怒らせてしまった場合どうなるか。そこまでは計算に入れていなかった。

 

 魚を傷付けることすら嫌がり、鉤なしの針で釣りをするような優男。怒り狂って巨大な竜巻を発生させたのは、あくまで魔法薬のせいでおかしくなっていたからだ。そう信じ切っていたイザベラは、彼が纏っていた黒い気配を思い起こし、背筋が凍り付いた。

 

「ううッ……こんな……どうしたらいいのよぅ……」

 

 親指の爪を噛み締め、必死に解決策を考えだそうとしたが……うまく頭が回らない。初めて『地下水』と相対したときに感じたものと同等か、それ以上の恐怖がイザベラの心を押し潰そうとしていたそのとき。横から、ふーっというため息が聞こえた。

 

「ったくしゃーねぇなぁ。オレがナシ付けてきてやるよ」

 

「えっ!?」

 

 イザベラは驚いた。彼女は、当初からこの計画に反対していた王天君が、まさか援助を申し出てくれるとは思ってもみなかったのだ。

 

「た、助けて、くれるの……? わたし、あなたの忠告を無視したのに……?」

 

「オメーには色々と世話になってるしな。あーあ、オレも甘くなったもんだぜ……コレも、あいつの影響ってやつかねぇ」

 

 頭を掻きながら立ち上がり、大きな『窓』を作った王天君が、その中へと消えていく姿を――イザベラは、ただ見送ることしかできなかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――王天君は、太公望の元へ繋がる『道』を辿りながら、思いを巡らせた。

 

「ハハ……ハ……ハハッ、太公望のやつ、マジで怒ってやがったぜ! そりゃあそうだよなぁ、いくらイザベラに才能があるっつってもまだ18にもなってねェガキだ。そんな小娘に、よりにもよってお得意の頭脳戦であと一歩ってトコまで追い込まれたりしたら、自分自身が許せねえよなぁ」

 

 王天君は自分の『半身』がしたであろう思考の流れを、ほぼ正確に掴んでいた。そう、太公望はイザベラに対して怒りを向けていたわけではない。

 

 もちろん、何とも思っていないということはないだろう。だが、それ以上に……イザベラという少女の持つ『策謀家』としての才能を甘く見ていた自分の不甲斐なさに憤り、わざわざ『太極図』を展開するなどという大人げない真似をしでかしたのだ。

 

 もっとも、王天君がイザベラから作戦内容を聞いた限りでは、太公望がそこまでの危地に陥った理由はイザベラが想定していた最高の――太公望とタバサにとっては最悪のタイミングで襲撃現場に飛び込んでしまったからに過ぎない。

 

 いくらイザベラに才能があるとはいえ、彼の目から見ればまだまだ未熟だ。事実、彼女が立てた策には、あちこちに穴が存在した。とはいえ、そこまでわざわざイザベラに教えてやるほど王天君は優しくない。

 

「とりあえず準備は整ったみてぇだし、そろそろ仕上げにかかるとすっか」

 

 凶悪な笑みを顔中に貼り付け、王天君は『空間』を駆けた。

 

 

 ――それから数時間後。

 

 太公望の元へ到着した王天君は……目の前に広がる光景に唖然としていた。

 

「おい、なんだよこりゃあ……?」

 

 十二畳くらいある落ち着いたデザインの洋室、それは別にいい。壁面に置かれた本棚と、机やテーブルの上に積み重なっている書類の束についても、まあいいだろう。部屋の片隅にある衣紋掛けに、無造作に掛けられたマントや帽子類についても、これといって問題はない……だが。

 

「こいつら……よりにもよって、一緒に住んでたのかよ……」

 

 王天君の場合は『空間』を隔てているので、イザベラと同居しているわけではない。ところが、太公望と彼を呼び出した『人形姫』は同衾こそしていないとはいえ、どう考えても長期間、同じ場所で一緒に寝泊まりしている。生活臭が漂う部屋の様子が、それを明確なまでに物語っていた。

 

 王天君は、彼としては珍しくぽかんとした表情で、既にそれぞれの寝所で横になって休んでいるふたりを眺めた。まさかあの太公望が、おかしな真似をしでかすとは考えられないが、しかし。

 

美人三姉妹(ビーナスたち)にこれ見られたら、下手すりゃ建物ごと破壊されるんじゃねぇか?」

 

 太公望の妻を自称する娘の姿を思い浮かべつつ、それはそれで面白そうだと独りごちると、王天君はパチンと指を鳴らした。それと同時に、眠っていた太公望の真下に大きな『窓』が開き――彼を飲み込んで、消えた。

 

 ボスッというくぐもった音と共に、用意した『部屋』に設置しておいたソファーの上へ落ちてきた太公望を窓越しに見て、王天君はげらげらと笑い声を上げた。

 

「せ、背中から落とすとは……卑劣なり王天君……」

 

「オメーが話し合いたいっつったから、遠くからわざわざ来てやったんだろーが。つーか、あんな啖呵切った後なんだからよぉ、ちったぁ警戒しとけよ。何あっさり寝てんだ」

 

 したたかに背中を打ち付けた衝撃で、げほげほと咳き込み続ける太公望に、王天君は冷ややかな声で追及した。

 

「わ、わしが話し合いたいと言ったのは、おぬしではなく、あの意地悪姫とだ!」

 

 叩き付けるようにそう言い放った太公望へ、王天君は実に愉快げな声で答えた。

 

「だったらちゃんと名指ししろよな。こちとらてっきり、用意した『趣向』を存分に楽しんでくれたんだとばかり思ってたんだぜぇ?」

 

「王天君。それはどういう意味だ?」

 

 怪訝な面持ちで訊ねてきた太公望に、王天君は意地の悪い笑みを見せた。

 

「なんだぁ? まさか本当に気付いてなかったのか!? たった数ヶ月で随分と鈍っちまったみてぇだな太公望ちゃんよぉ! せっかくオメーの可愛い可愛い妹分に凄腕の暗殺者から狙われるっつー、滅多にできねぇ経験積ませてやったってのになぁ」

 

 王天君の言葉に、太公望は驚きの表情を浮かべた。

 

「ぬな!? あれは、おぬしの仕業だったというのか? 何故あんな真似を!?」

 

「その理由は、オメーだってわかってるんじゃねぇか?」

 

 実際に計画を実行したのはイザベラであって、王天君ではない。しかも、王天君はあくまで終了後に感想を述べただけで、一切手を出してはいない。いないが――彼女がそうするように仕向けたのは彼だった。僅かな期間でイザベラの性格をほぼ完璧に掴み、時には褒め、おだて上げ、その気にさせた後で……あえて反対するような演技まで見せて。

 

 ――かつて、自分が『母親』にされたのと、同じように。

 

 だが、当然そんなことは知らない太公望はその顔に一瞬だけ怒りの表情を浮かべ――すぐさま不敵な笑みを見せると、王天君がいる『窓』に向けて指をビシリと突き付けた。

 

「ふ、ふん。だとしたら、おぬしのほうこそ、えらく腕が落ちたのではないか? 王天君。西百合騎士団に潜り込ませた配下どもが飛び込んでくるタイミングもそうだが『誰が〝制約〟を使ったのか』などというあきらかに不自然な話題への無茶な誘導、利用した者たちの後始末もお粗末極まりなかったではないか!」

 

 ムキになってそう指摘してきた『半身』へ、即座に切り返す王天君。

 

「そのお粗末極まりない策に追い込まれかけたのは、一体誰だったのかねぇ」

 

「うぬぬぬぬ……」

 

「そもそもだなぁ。オメー、オレに言うべきことがあるんじゃねえか?」

 

 仕切り窓越しに冷え切った目で太公望を見つめながら、王天君は息を吐いた。

 

「あ……う、その……ずいぶんと久しぶりだのう」

 

「ふーっ、まったくよぉ……こちとら散々苦労して、ここまでオメーを探しに来たっつーのに、なんだそりゃ。どうせまた衣食住に釣られて、オレのこと忘れてたんだろう?」

 

「わ、わしは、一時たりともおぬしを忘れてなどおらぬぞ~?」

 

 太公望の顔が一瞬引きつりかけたのを、王天君は見逃さなかった。

 

(やっぱりオレのことカンペキに忘れてやがったな、この野郎。なら、しっかりとその報いは受けてもらわねぇとな)

 

 王天君は内心で嗤う。

 

「フン、嘘だな。絶対に忘れてたろ……まぁ、オレは別にこのままでも構わねぇけどよ。ここ最近の怠け暮らしも、思ったほど悪くねぇと感じはじめてきたところだったしなぁ」

 

「は?」

 

「毎日、好きなときに、好きなだけ食える生活」

 

「なぬ!?」

 

「自由につまみぐいだの噂話やらを楽しみながら、ごろごろできる空間」

 

「ちょ」

 

「オレも、オレなりに、オレとしてやってきたってコトだ。それを、ホイホイと捨てられるわけねぇよな」

 

「待て! どこかで聞いたような台詞を吐くな! というかさっさと融合を」

 

「オレの気が向いたらな。さぁて、いつになったらその気になるのかねぇ……十年後か、それとも百年先か……こればっかりはオレにもわからねぇなぁ」

 

「な、な、なななななな」

 

 目に見えて動揺しはじめた太公望に向けて、王天君は嗤いながら宣告した。

 

「オレは、しばらく前からイザベラんところで厄介になってんだ。送迎に、捜索、ついでにイザベラへの迷惑料だ! このオレから逃げられるだなんて思うなよ? 優先的に仕事回してやるから、融合してもらいたけりゃ大人しく働け!」

 

「嫌アァァァアア――――――ッ!!」

 

 王天君が仕掛けた、太公望にとって、ある意味もっとも精神的に堪えるであろう仕返し。それは現在自分がしている『怠けぶり』を知らせた上で、強制的に働かせること。

 

 亜空間の中に取り残された上に忘れ去られていたことで、王天君本人がイラッとした結果。自業自得とはいえ、太公望は最も嫌いな労働をさせられる羽目に陥ったのだった――。

 

 

 



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火炎と大地の狂想曲
第68話 微熱、燃え上がる炎を纏うの事


 ――王天君がイザベラの元へ帰還した後。太公望は部屋の隅にある書き物机の上に突っ伏して、独り思考の淵へと沈み込んでいた。その魂魄は、半分ほど飛びかけている。

 

「おのれ、王天君のやつめ。言いたいことだけ言って帰りおって! それにしても、まさかこのような形で仕返しをしてくるとはのう……」

 

 正直なところ。王天君の存在を実時間で数ヶ月ほどの間、完全に忘れていた太公望の側に非があることは間違いない。王天君は――本人曰く相当な苦労をして、この世界まで自分を探しに来てくれたらしいのに、だ。

 

 太公望は、はあっと深いため息をついた。

 

「今さら、わしの側ではどうしようもなかったのだ! などと言ってもあやつには通用しないだろうしのう……考えていた最悪中の最悪の事態に陥っていなかっただけでもましであると、前向きに考えるしかないか」

 

 太公望が想定していた最悪中の最悪とは。王天君がガリア国王ジョゼフの使い魔としてハルケギニアに〝召喚〟されていた上で、王の手足となり働いている――つまり、この世界全体に干渉(・・)するという事態に陥っていた場合のことである。

 

 王天君の持つ〝力〟は情報の収集に際だった効果をもたらす。また、彼の持つ頭脳とそれに伴う技術も、間違いなく人類にとって脅威となるだろう。おまけに、その気になれば一時間以内にトリスタニアを廃墟に変えるほどの攻撃力まで併せ持っているのだ。

 

 そんな王天君を、この世界最大の隆盛を誇る大国の王が手に入れたらどうなるか。結果は考えるまでもない。

 

「もちろん、普段の王天君なら素直に人間の王に従ったりはせんだろう。だが……」

 

 王天君の『半身』を誘拐同然に拉致したのが誰か。その情報を得る経緯と状況次第によっては、太公望を取り戻し、かつ誘拐犯と目した少女への復讐を兼ねて、王天君自身が何らかの行動を起こしていてもおかしくなかった。

 

 王天君は、伏羲の『闇』を象徴する存在だ。彼と鏡合わせの存在、太公望なら思いついてもやらないような非道なことでも、目的を達成するためとあらば躊躇なく行う。『半身』を取り戻すためとあらば、自身の〝力〟をもって平然とこの世界を混沌の渦に突き落としていただろう。

 

 もしも、そうならなかったとしてもだ。ここハルケギニアには人間の心を支配し、思いのままに操る効果を持つ魔法や道具が多数存在している。かつて殷で百万を越える人間を同時に操った『傾世元禳(けいせいげんじょう)』ほどの威力があるとは考えにくいが、用心しておくに越したことはない。現に、例の惚れ薬を誤飲した際に、精神攻撃には滅法強い太公望が全く抵抗できなかったのだから。

 

 ゆえに、太公望はガリア国内に在るうちは常に警戒を怠らず、王天君の気配を探り続けていたのだが……『部屋』に籠もっているらしき彼を捉えることはできなかった。

 

 そこへ、王天君と非常に似通った手法の策を講じてきた者がいた。それがイザベラ王女だった。よって、太公望は彼女ひとりに対象を絞り、罠を仕掛けたのだが――なんと、あの『王女暗殺未遂事件』はイザベラではなく王天君が仕組んだものだった。太公望は王天君の手によって完全に嵌められていたのだ。

 

「まったく、見事にしてやられたわ。とはいえ、本当にあの意地悪姫が仕掛けてきていたのだとしたら、それはそれで先行きが不安だったわけだが。この世界に王天君の影響を受けた、新たな女狐が現れることに繋がるやもしれぬからのう」

 

 ……くどいようだが、あの自作自演劇の脚本を書いたのは太公望が看破した通り、イザベラだ。王天君はそれを利用しただけに過ぎないのだが、今の太公望にそんなことはわからない。

 

「それにしても王天君のやつめ。このわしだけではなく、まさかタバサのような子供を相手にあのような真似をしでかすとは! 相当腹に据えかねておったのか、あるいは、あの意地悪姫のことが気に入ってしまったのか」

 

 〝召喚〟は基本的に召喚者と相性の良い者を呼び出す魔法とされている。裏を司る姫君が王天君を呼び込んだ末に、意気投合してしまったのかもしれない。太公望はそのように判断した。

 

「おまけに、あやつがまさか夢のぐうたら生活を手に入れておったとは!」

 

 太公望は歯噛みして悔しがった。自分は苦労に苦労を重ね、必死の思いで居場所作りをしていたというのに、後から召喚された王天君は、なんとイザベラの側で何不自由ない生活を送っていたというのだ。怠けることを至上の喜びとしている太公望にとって、こんな理不尽な話はない。

 

 しかもだ。王天君はそんなぐうたら生活の様子を太公望に対して開示したばかりか、よりにもよって彼が一番嫌っている労働を強制してきたのである。自分が撒いた種、身から出た錆ではあるものの。何やら完全に『半身』たる王天君の掌の上で踊らされているようで――それが妙に癪に障る太公望であった。

 

「状況いかんによっては、別に無理して融合せずともよいのだが……」

 

 全ての役割を終えた今、地球の『始祖』伏羲としてではなく、再び『太公望』呂望となり、新たな世界で悠然と人生を送る。それはそれで悪くない選択なのだが……しかし。

 

「わしら仙人が、これ以上人間たちの世界や政に干渉するような事態だけは、絶対に避けねばならぬ。よって、このまま王天君のやつを放置しておくわけにはいかんのだ。とはいえ、無理矢理融合しようとすれば、どうなるかわからんしのう」

 

 かつて地上世界で軍を率いていた時とは異なり、あくまでひとりの人間――このハルケギニアにおける特権階級的存在、メイジとしてではあるものの、現在のように日常的な事件を解決する程度であるならば、世界へ及ぼす影響を最小限に抑えることができる。

 

 オスマン氏と協力したり、ラ・ヴァリエール公爵と友誼を結ぼうとしたのは決して政治的な発言力を求めてのことではなく、いち個人ができる範囲内で、周辺に巻き起こりそうな争乱の芽を潰そうとしただけに過ぎない。彼はただ、心を許せる者たちと共に、平和な世界でのんびり気ままに生きてゆきたいだけなのだ。

 

 当初のうちこそ、力在る者が持たぬ民たちの上に君臨しているという事実に複雑どころではない感情を抱いていたものの――半年以上この世界で過ごした今なら理解できる。ハルケギニアと地球とでは、環境その他諸々の事情が完全に異なるのだと。

 

 地球では別に仙人がいなくとも、人間たちは自分たちだけで生きていくことができた。むしろ、下界の王や権力者に近付いて勝手気ままに力を振るい、民を虐げ、欲望のままに奪い続けていた邪悪な仙人たちの存在がひとびとを苦しめていた。

 

 いっぽう、凶悪な妖魔や魔獣が跋扈し、猛威を振るっているこのハルケギニアからメイジたちがいなくなれば――脅威への対抗手段を失った人類はほぼ間違いなく衰退し、彼らの文明も大きく後退してしまうだろう。その先に待つものは滅亡、あるいは長く苦しい暗黒の時代だ。

 

 横暴なメイジもいるが、例の女狐一党のように民を奴隷にして斃れるまで働かせたり、農民たちが飢えて死ぬ程の税を取ったりするような者はごくごく稀だ。そもそも、そういう類の悪人は仙人やメイジに限らず、どこにでもいる。それが免罪符になるわけではないが。

 

 地球――殷最大の問題は、不老不死の女狐や歴史の道標に対抗できる者が長い間現れなかったことだが、ハルケギニアの場合は違う。

 

 メイジはオスマンのような例外を除き、基本的に普通の人間と同様寿命がある。女狐のように肉体を滅ぼされても新たな身体を手に入れて復活する、などということはない。

 

 そのため、どうしても〝力〟で対抗できない場合は最悪寿命が尽きるまで待てばいい。

 

 それに、ガリアの北花壇騎士団のような存在もいる。

 

 彼らは国の裏仕事を一手に引き受ける闇の騎士だ。その中には不当に民を虐げ、王の権威を傷付けた貴族の暗殺なども含まれる。この世界ではトリステインのように王政府がまともに機能していない場合を除き、基本的に自浄作用がきちんと働いているのだ。

 

 タバサと共に請け負ったコボルド退治のように、平民では対抗しきれない相手と戦い、これを排除するという役目もある。彼らは民の剣であり、盾でもあった。

 

 さらに、魔法が民の生活に完全に密着している。都市部では井戸を掘る代わりに浄水所を造り、水メイジが水質・水量を管理している所があったり、平民用の安い酒場で出されるワインが〝錬金〟で作られていることもしばしばだ。

 

 その気になれば、魔法で食料すら生み出せるというのが大きい。太公望もギーシュが土から造ったパンを試しに食べてみたことがある。お世辞にも美味とはいえないが……いや、正直もう一度口にしたいとは思えないレベルの出来だったわけだが……腹を壊したりはしなかった。

 

 天候の影響で作物の出来が悪かったり、漁や狩りで獲物が捕れなかったとしても、メイジがいれば飢えずに済む。これは大きい。貧しさがゆえに食料が手に入らず、雑草を食べて腹を下した経験を持つ太公望が目眩を覚えたほどだ。

 

 酷い怪我を負ったり、病を患っても水メイジに金を支払えば治してもらえる。よほどに貧しくない限り、平民が症状に合う秘薬を購入することもできるらしい。つまり、傷の悪化や病気で命を落とす人間の数が地球に比べて圧倒的に少なく、そのぶん民の生活が安定しているのだ。

 

 住む家も〝固定化〟のおかげで壊れにくく、自然災害で住処を失わずに済む。衣服や道具などにもさまざまな魔法が用いられている。

 

 衣食住全てが魔法に依存している。メイジが平民の上に君臨するのはある意味必然とも言えた。この世界の平民たちが彼らの庇護下から離れ、自立の『道』を歩むには、まだ時期尚早だろう。

 

 太公望たちが世界の営みそのものに直接干渉すれば、あるいはそれが可能となるかもしれないが――それはハルケギニアという世界の(ことわり)から、大きく外れることに繋がる。

 

「わしは、この世界の遠い未来まで責任を持つことはできぬし――それができると思う程、傲慢にはなれぬよ。今のわしにできるのは、わしらが正しく使った世界を、後に続く人々へバトンタッチすることだけだ。地球とは違うハルケギニアの歴史がどこへ行き着くのか、それはわしではない、他の誰かが見ればよい」

 

 もしも現状を良しとせず、変えていきたいと本気で願う者が居るならば、それはこの世界に生まれた者が、自分たちの意志でもって行うべきなのだ。

 

 ――かつての太公望や、彼を取り巻く大勢の仲間たちがそうであったように。

 

 仮に、そういった『世界を変える意志』を持った者たちから手助けを請われた際に、太公望がどういった選択をするのか。それはまた別の話だ。

 

 それにしても……と、太公望は頭を掻きながら呟いた。

 

「わしの存在そのものが、王室が勲章を下賜するほどの大戦果に繋がる、か」

 

 太公望が見、これまで集めた情報から判断する限り、ガリア王国は間違いなくこのハルケギニアで最大の隆盛を誇る国家だ。

 

 王都リュティスの賑わいや、市井の民たちが酒場などで自国の王を『無能王』などと揶揄しても罰を受けない自由な国風。これほど安定した治世であれば、王の実力も相まって、既にさほど魔法を重視しなくなっているのではないか。そう考えていたのだが――。

 

「かの国にはわしが想定していた以上に極端な魔法偏重のきらいがあったのだな。いや、より正確には王が魔法を使えないことを理由として兵を挙げることが『正義』であると認められるような土壌が未だ残っている、というべきか。たった一度の失敗が、よもや現王家の敵対派閥に大打撃を与えることになるとはのう」

 

 当初、忠実な家臣と称してすり寄ってくる者に対する踏み絵を兼ねて、タバサへと提言した『失敗報告』が、まさかそこまでの影響を及ぼすとは。ある程度この世界を見知った現在ならばともかく、当時の太公望にはそれこそ思いも寄らぬことだったのだ。

 

 もっとも、そういった状況を考慮すればイザベラの下につくことに問題はない。

 

 タバサの持つ事情もあり、それについては元々大人しく受け入れるつもりであったし、なにより太公望がイザベラの目論見通り――つまりタバサが起こした『失敗』の象徴らしく、ごくごく平凡な子供として動いてみせることによって、身勝手な理由で内紛を起こさんと謀る者たちの数を減らすことに繋がるのであれば、

 

『力在る者による理不尽な理屈で引き起こされる戦によって、民が巻き添えになる』

 

 という、太公望が最も嫌う形式の戦乱を防ぐことができる。彼のご主人さまであるタバサも、国を分かつ戦争を起こすことなど望んではいない。彼女は今、復讐ではなく――真実を追い求めることに目を向けているのだから。

 

 そういう意味で、イザベラとタバサには共闘できるだけの理由が存在するのだ。

 

 イザベラと話し合いの機会を持とうとしたのも、元はといえば彼女たちふたりが歩み寄るための条件を探ることを目的としていたのだ。王天君がイザベラの側にいることが確定した今ならば、彼と融合することによって、それが実現できると見越した上で。

 

 だが、そう上手く事は運ばなかった。それどころか王天君は太公望の元を離れ、よりにもよってあちら側についてしまった。そのせいで、彼と融合せずに放置するという選択ができなくなった。この世界への影響のみならず、先に危惧していた最悪の事態が発生する危険性があるからだ。

 

「うぬぬぬぬ……このわしとしたことが、完全に読み違えてしまったわ。王天君の言う通り、鈍ってしまっておるのだろうか。まったくもって不本意極まりないのだが、事ここに至ってはあやつの機嫌が直るまで、大人しく言うことを聞くしかない」

 

 王天君とイザベラを相手に一敗地に塗れることとなった軍師は、もはや彼らの下で働くしかない。しかも仕事の内容を選ぶこともできず、拒否権すらない。一見ふらふらといい加減なようでいて、実はとてつもなく責任感の強い太公望の頭の中には、既にここから逃げ出すという選択肢は残されていなかった。

 

 王天君の、ある意味最も効果的な仕返しにただ頭を抱えることしかできなかった太公望は机にぐったりと身体を預け、夜半過ぎから日が昇るまで、そこから動くことができなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――キュルケは、今日という日に大いなる期待をしていた。

 

 それというのも、昨夜こんなことがあったからだ。

 

 夜半過ぎ。自室の窓枠にもたれかかりながらワイングラスを傾けていたキュルケは、双月を背にゆったりと地上へ舞い降りてきた風竜の姿を視界に捉えたとき、思わずほっと息を吐いた。

 

「ああ、ふたりとも無事に帰って来られたのね。良かったわ……」

 

 だが、次の瞬間。彼女は首筋に冷たい氷の刃をあてがわれたような恐怖を覚えた。風竜の背に跨るふたつの人影が、帰還を待ち望んでいた者たちの姿とは明らかに異なっていたからだ。

 

「あのシルエット、どう見ても騎士装束よね。ま、まさか、タバサかミスタ・タイコーボーの身に何かあったんじゃ……?」

 

 彼らふたりがガリア王家から言い渡されたという任務に赴いていたのを知っていたキュルケは沸き上がってくる不安を必死に押し殺し、慌てて校門前まで駆けつけたのだが――その甲斐あってか、ある意味彼女にとって、素晴らしいものを目撃できた。

 

 風竜に乗っていたのは。騎士装束に身を包み、つばつき帽子を被った太公望と、彼の胸にぐったりと身体を預け、寝息を立てているタバサであった。

 

 これはまるで、絵物語に登場する姫君と、それを護る騎士のようではないか。キュルケは両手の拳を天にかざし、大声で快哉を叫びたい気持ちを必死の思いで堪えた。

 

 と、さらにそんなキュルケへ、太公望が小声で囁きかけてきたのだ。

 

「ちょうどよいところへ来てくれた。今回の任務で、相当疲れてしまったようでな、これこの通りの状態なのだ。起こすのも気の毒なので、部屋へ運ぶのを手伝って欲しい」

 

「あら? ミスタがそのまま連れていけば……って、ああ、そういうことね」

 

「うむ。おぬしが得意なアレを頼みたいのだ」

 

「別に〝解錠(アンロック)〟はあたしの得意技ってわけじゃないんだけど……そういうことなら喜んで」

 

 その後、タバサの寝支度が終わるまで部屋の外で待っていると告げ、くるりと背を向けて扉から出て行った太公望を横目で見遣りつつ、半分寝ぼけた状態の少女を着替えさせてやったキュルケの顔には、抑えようにも抑えきれない微笑みが浮かんでいた。

 

「タバサが、あんなふうに誰かに寄りかかって眠るだなんて……ちょっと前なら、絶対ありえなかったことなのにね」

 

 親友である自分以外の人間には全くといってよいほど心を開こうとしなかった『雪風』が、いくら疲労の極致にあったとはいえ、その身の全てを預けられるほどに信頼できる相手ができた。

 

 さらに、それが異性だという事実はキュルケにとって大変喜ばしい出来事であった。ふたりの間に横たわる年齢差やその他諸々の事情など、彼女にとって考慮に入れる必要のないものだ。

 

「そうよね、タバサもそろそろ恋の喜びを知ってもいい頃だわ。あの子は今まで、ずっと辛い思いをしてきたんだもの。お母さまも助かったことだし、これを機会に少しくらい楽しいことをしたって罰は当たらないわよ!」

 

 『燃える恋愛』を至上とし、家訓とするツェルプストー家の娘として生まれたキュルケにとって恋愛は娯楽のひとつでありながら、最も熱心に取り組むべき対象なのである。

 

 そんな彼女自身も、現在〝情熱の炎〟でその身を焦がすような恋の真っ最中であった。

 

 キュルケが虎視眈々と狙っている獲物――魔法学院の教師コルベールは今のところ学問と研究に愛の全てを注ぎ込んでいるような状態ではあるものの、決して彼女を邪険に扱っているわけではない。それどころか、キュルケの訪問を心から喜んでいるフシがある。もっとも、彼らの関係はまだ男女のそれではなく、いち教師と生徒のままなのではあるが。

 

 しかしキュルケは彼女独自の勘によって、既に確信していた。

 

(コルベール先生は奥手な上に、男女の関係について少々お堅い面はあるけど……まあトリステイン貴族なら普通だし、別に女嫌いってわけじゃないわ。あたしの見立てでは、その逆ね)

 

 その証拠にキュルケがコルベールの手元を覗くふりをして、さりげなく相手の背中にこぼれんばかりに豊かな胸を押しつけると、彼の身体は見事なまでに硬直する。そして、

 

「先生の研究所って、閉め切っているせいか本当に暑いですわね」

 

 などと呟きながら、わざとシャツのボタンを外して見せようとすると、

 

「そ、そうかね。なら、風通しがよくなるように窓を開けるとしよう」

 

 と、ドタバタと窓を開けながらも、視線が泳ぎ始める。実になんともわかりやすい反応ではないか。キュルケは、そんな初心な年上の教師が、もう可愛くて仕方がなかった。

 

「先生は思ったほど鈍い訳じゃないし……生徒と教師っていう壁さえなければ、すぐにでも応じてくれそうなんだけどね、お嫁さんを探してるって公言してるくらいだし。けど、ここで変に焦っちゃダメ。このあたしが、やっと見つけた本命なんだから!」

 

 これまで大勢の男性と付き合ってきたのは運命の相手を探すためだ。そう言って憚らなかったキュルケが、ついに最終目標を見定めた。実家への滞在中、首府見学にかこつけて、さりげなく家族へコルベールを紹介しているあたりに彼女の真剣さが伺えよう。

 

「あたしと同じ火系統のメイジで、おまけに元特殊部隊の指揮官! 有名な軍人を大勢輩出している我がフォン・ツェルプストー家に迎え入れるには、ぴったりの男性よね」

 

 軍人としての実力はもちろんのこと、度胸についても申し分なし。キュルケの芯に〝火〟が通ったのは実際に彼の戦いぶりを間近で見て、それを知ったからだ。生徒たちを護るため、エルフを相手にしてもなお一歩も引かぬその背中に、彼女は初めて本物の『男』を感じた。

 

「先生は戦いが嫌いだけど、うちはギーシュのところみたいな軍閥貴族って訳じゃないから、本人が望まなければ無理矢理戦に駆り出される心配もないし……婿入りしたって問題無いのよね」

 

 それどころかツェルプストー家は、自領内にいる数多くの職人や研究者たちを支援し、新技術――特に魔法以外の技術開発に注力しているという、ハルケギニアでも特に先進的な考えを持つ、非常に珍しい家なのである。そういった意味で、これはコルベールにとっても決して悪い話ではないのだ。

 

 ……おまけに、彼にはツェルプストー家にとって、とてつもない『付加価値』がある。

 

「あのラ・ヴァリエール公爵の目に留まった天才学者っていうのも大きいわよね。直接王室へ論文を届けてもらえるなんて、実際とんでもない話よ? そんな彼を、あたしがお婿さんに迎える……フォン・ツェルプストー家の者として、実に相応しい行動だわ」

 

 『仇敵』ヴァリエール家にとって重要な人物を奪う。これは、ツェルプストー家に代々伝わる伝統行事のようなものだ。事実キュルケの曾祖父は、元々ヴァリエール家に婿入りするはずの人物だった。それ以前にも、かの家に嫁ぐはずだった娘はおろか、既に結婚していた相手を寝取ったことすらある。歓待期間中、かの家の人物たちとはそれなりに仲良くなれたキュルケであったが、それはそれ、これはこれである。

 

 コルベールを――本人には内緒で紹介した当初こそ、微妙に難色を示していた両親も、これを話した途端、完全に折れた。今では、連日のように娘の元へ、彼を誘惑するために効果的だと思われる服や装飾品、おまけに軍資金まで送りつけてくる等、積極的に後押しをしている始末だ。

 

 よって彼女は、魔法学院への帰還後毎日のように、太公望からガリアへの出立前に教えられていた『込める』ための練習を終えた後、コルベールの邪魔をしない程度に彼の研究所を訪れては、いろいろと工夫をこらしたちょっかいをかけているのである。

 

 恋愛の手練手管に長けたフォン・ツェルプストー家の娘キュルケが、実家のバックアップを受けた上で、一方的な攻撃を加えている現在、本物の戦場ならばともかく、こういった戦いにはてんで弱いコルベールには、もはや逃れる術はない。

 

 ――お堅い教師が陥落するのは、最早時間の問題といっても差し支えないだろう。

 

 そんなキュルケだからこそ、唯一無二と信ずる親友であるタバサに、是非とも恋をする喜びを知って貰いたい。楽しみを分かち合いたいと考えるのは至極当然の成り行きなのだ。対象となりえる相手が身近にいるとなれば、なおさらだ。

 

「うふふふふ。今度こそ、もしかすると、もしかするわよね……」

 

 これまで、タバサを相手に恋愛のなんたるかを説くのは、水をたっぷりと吸い込んだ薪に火を灯すような行為であった。だがしかし、遂に機は熟した。これを生かさずしてなんとする。フォン・ツェルプストー家の娘として、頑としてやり遂げねばならぬ。

 

「いつかあたしたちと一緒にダブルデート! なんていうのも悪くないわよね~!」

 

 それが実現できたなら、絶対楽しいに違いない。そう考え、早速朝食後にタバサを呼び寄せ、今後についてのアドバイスを送ろうとしていたキュルケだったのだが……朝、アルヴィーズの食堂に現れたふたりを見た瞬間。彼女は思わず叫び声を上げそうになった。

 

 これが、普通の女子生徒だったなら気が付かなかっただろう。だが、常に他人の動向を気にするキュルケだからこそ見抜けた。いつもと何ら変わらぬそぶりをしているが、太公望の目が、わずかに充血しているのを。

 

「こ、これは……まさかの大逆転……!?」

 

 タバサの表情から察するに、キュルケが期待するような『何か』があったわけではなさそうだ。しかし、あきらかに彼女のパートナーの様子がおかしい。おそらくだが、昨夜満足に眠ることができなかったのだろう。

 

 遠くガリアから帰ってきたばかりで疲れていたはずの彼が、何故眠れなかったのか。そんなものは決まり切っている。同じ部屋で眠っているタバサのことが気になって、どうしようもなかったに違いない。

 

 キュルケは、内心で狂喜乱舞した。正直なところ、タバサの『お相手』を落とすのは、自分の全力を持ってしても難しいのではないかと考えていたからだ。

 

 何故ならあの太公望という男は、とにかく女性に興味を示さない。

 

 ……たとえば、以前こんなことがあった。

 

 校庭で実習授業が行われた際に、突如巻き起こった悪戯なつむじ風が、女子生徒たちのスカートを膝上二十サントほどまでたくし上げたことがある。

 

 その時、周囲にいた男子生徒のみならず、教師までもが(名誉のため、あえて名前は挙げないこととする)彼女たちのあられもない姿に視線が釘付けとなったのだが――唯一太公望だけが、まるで何事もなかったかのように授業の再開を待っていた。

 

 ……また、こんなことまであった。

 

 訓練用に作った畑で水まきをしている最中のことだ。ルイズがうっかり目測を誤り、キュルケの頭上に桶の中の水をぶちまけてしまった。当然のことながら、そのせいでずぶ濡れとなったキュルケのシャツは、身体のラインを強調するかのように、ぴったりと上半身に張り付いた。

 

 それを見た『水精霊団』男子のうち一名が、

 

「ハルケギニアの女の子って、やっぱりブラジャーつけてないんだネ」

 

 などという意味不明な言葉を発した後、鼻血を流して倒れたり。

 

 別の一名が眼鏡を外し、自分は何も見なかったと言わんばかりに後ろを向いた後、その場でしゃがみ込んだり。

 

 彼女の肢体を目にする直前、突如沸き上がった〝水柱〟(ウォーター・ポール)によって視界を遮られた者が約一名いた中。平然とした顔で手ぬぐいを寄越してきただけでなく、そのままでは風邪をひいてしまうからと、タバサと揃って〝(ウインド)〟を唱え、服を乾かす手伝いまでしてくれた。

 

 その結果。キュルケは体調を崩すことこそなかったものの、言いようのない敗北感に襲われ、夜、自室でひとりワインを呷る羽目に陥った。

 

 その後、彼が実は七十歳をとうに越えていることが判明し、さらに老いてなお盛んであるオールド・オスマンの「枯れたジジイ」発言により、興味のあるなし以前に、既にそういう時期を過ぎてしまっていることを悟らざるを得なかったキュルケは内心頭を抱えていたのだ。いくら肉体が若返っているとはいえ、彼を『その気』にさせるのは、相当難しいのではあるまいか――と。

 

 もしもだ。太公望がタバサのパートナーではなく、かつコルベールという『運命の相手』と出逢っていなかったとしたら。キュルケはツェルプストー家の名誉にかけて、彼を落としにかかっていただろう。彼女はそれだけの価値を太公望という人物に対して見出していたのだ。

 

 だが、現状でそれはありえない。よって、キュルケは親友を応援することに注力する決意を固めていた。しかし、前述の理由から、恋愛スキルの高い彼女を持ってしても相当『難易度』の高い相手であることを承知していた。よって、いかにして彼を攻略するか、タバサとふたりで知恵を絞って考えよう。そう決心していたのだが……。

 

「うふふふ、そうよね。ミスタでなくとも気になるわよね……あんな無防備で、しかも愛らしい女の子が自分のすぐ側で寝てたりしたら、ねえ?」

 

 太公望が気にしていたのは、王天君の動向と今後の展望であって、キュルケが考えているようなものではない。しかし、当然のことながら彼女にはそんなことはわからない。

 

「ええ、わかる、わかるわ。昨日のタバサってば、女のあたしから見ても本当に可愛かったもの。さすがのミスタ・タイコーボーも、あれで落ちちゃったって訳ね」

 

 本音を言えば、ものすごくイジりたい。だがしかし、ああいうタイプが『出来上がる』前にちょっかいをかけると、せっかくの〝火〟が消えてしまう可能性が高い。過去の経験から、それを嫌と言うほど思い知っているキュルケは、必死の努力で自分を抑えた。

 

「おはよう……じゃなくて、おかえりなさい。ふたりとも無事で本当に良かったわ」

 

 本音を一切表に出さずにこの台詞を言えた彼女は、相当頑張ったといえよう。

 

「ありがとう」

 

「心配をかけたようだな、すまぬ」

 

 挨拶まではいつも通り。ところが、いつもなら席についた途端喋り始める彼が、何故か今日は黙ったままだ。

 

「あら、今朝は随分と静かですわね。どうかしましたの?」

 

 心底不思議そうな顔をして、そう聞いたキュルケに、

 

「ああ、すまぬ。少し考え事をしておってな」

 

 夏期休暇中だけあって、現在食堂内にいる生徒は彼ら三人だけであった。今、この場には他に誰もいない。一応、給仕のメイドがいるにはいるのだが、距離が離れているため、ちょっとした内緒話をする程度ならば問題ない環境だ。そう判断したキュルケは万が一聞かれても支障がない程度の内容を、小声で話を聞いてみることにした。

 

「考え事? まさかとは思うけど、例の任務中に何かあったんですの?」

 

 と、この言葉を聞いた太公望がタバサに声をかけた。

 

「任務……か。そうだ、タバサよ。頼みがあるのだが」

 

「わたしにできることなら」

 

「食事の後、できればでかまわぬので、わしに〝制約(ギアス)〟をかけてはもらえぬだろうか」

 

 太公望の爆弾発言を耳にしたキュルケは、盛大に咽せた。

 

「使ったことがない」

 

 タバサの答えに、太公望は首をかしげた。

 

「つまり、その気になれば唱えられるということかのう?」

 

 太公望の問いに、タバサは首を横に振った。

 

「〝制約〟は禁呪。各国の法律で使うことを禁止されている。効果についてはある程度学んでいるけれど、ルーンまでは知らない……公開されてないから」

 

「ふむ、そうか。おぬしにかけてもらえるならば助かったのだが、こればかりは無理に頼めることではないからのう」

 

 横でこのやりとりを聞いていたキュルケの胸の内では、歓喜と動揺とがないまぜとなって溢れかえっていた。

 

(え、何? 彼、もうそこまで追い込まれてるの? 禁呪で縛られないと自分が抑えられないってわけ? それともまさか……そういう趣味だとか!?)

 

 ……説明するまでもないことだが、太公望が〝制約〟をかけて欲しいと言っているのは、自分がちゃんと〝抵抗〟できるかどうかを試すためであって、キュルケが考えているようなものでは断じてない。だが、燃え始めてしまったキュルケは止まらない。彼女の思考は完全にそっちへ向いてしまった。声には出さず、ひたすら先に思いを馳せる。

 

(〝魅了(チャーム)〟じゃなくて〝制約〟ってところがニクいわね。ううん、もうすっかりタバサに参っちゃってるから、そっちはいらないって意味の告白かしら。そう考えると素敵だわ。でも、いざとなると大胆ね、ミスタって。人前でいきなり縛ってくれ、だなんて)

 

 ああ……もうだめだ、あたしは彼をイジらずにはいられない。キュルケが勢いよく立ち上がろうとしたその時だ、無粋な闖入者が現れたのは。

 

「なんなら、わしがかけてやってもええぞい」

 

「おぬしだと〝抵抗〟に失敗した時何をさせられるかわからぬ。よって却下だ」

 

 それは教員用のロフト席から降りてきた、オスマン氏であった。

 

「それよりもじゃな、何故、自分に対して〝制約〟なんぞをかけてもらう必要があるのか。わしはそれが知りたい」

 

 ニヤニヤと笑いながら顔を近づけてきたオスマン氏に、太公望はぶっきらぼうに返す。

 

「……個人的なことなので、おぬしに話すわけにはいかぬ」

 

「個人的、のう。君ともあろう者が、迂闊にもこんな場所でそのような話をするとは、相当切羽詰まっておるようじゃのう。ほれ、このわしでよければ相談に乗ってやるから話してみんかい。ん? ん?」

 

「おぬしに話したら余計に混乱するに決まっておる! ところで、何か用なのか?」

 

「君、わしのこと全く信用しとらんな……? ああ、そうそう。個人的で思い出したわい。明日は何か予定が入っとるか? 特にないなら、早急な用件で会談を申し入れてきておる人物がおるのじゃが」

 

「わし個人に、か?」

 

「うむ。実は、君たちがガリアへ向かった直後に申し込みがあってな」

 

 そう言うと、オスマン氏は再びニヤリと笑って太公望を見た。

 

「で、明日以降の予定は?」

 

「できることなら、今日から数日間は勘弁してもらいたいところではあるのだが、相手にもよる」

 

「ああ、会談相手はエレオノール女史じゃよ」

 

 オスマン氏の言葉に、太公望の眉が動いた。キュルケの眉もピクリと上がった。

 

「そういうことならば仕方がないのう……ただし、会談場所はできるだけ魔法学院内に設定してくれ。さすがに、あちらの屋敷まで出向くというのはご免被りたい」

 

「それならば心配ないわい。既にそのように話はつけてある」

 

「わかった。では、日時が確定したら、連絡をくれ」

 

「疲れておるところにすまんのう。何せ彼女ときたら、相当焦っておるようじゃったので、さすがのわしにも断りきれなんだわ」

 

 しきりに、心の底から済まなさそうな声で太公望へと語りかけているオスマン氏を見たキュルケは思った。これは怪しい。声音こそ申し訳なさそうなものではあるのだが、目元が微妙に笑っているのだ。

 

 急ぎの会談――しかも、個人的なもの。申し込んできたのは、ヴァリエールのお姉さま。そこまで考えるに至って、彼女はとんでもない可能性に気が付いた。

 

(まさか! あのひと、ミスタ・タイコーボーのこと――)

 

 思い当たる節はある。会談期間中、やたらと彼と話をしたがっていた。彼の言葉に、いちいち頷いて、メモを取っていた。それだけならまだしも、単に研究熱心だと言うには、あまりにもミスタの側にくっつき過ぎていた気がする。ただ、キュルケはエレオノールからそれらしき雰囲気を感じていなかったため、これまで気に留めていなかったのだ。

 

(おまけに、わざわざトリステインの王立図書館へ入館するために必要な、外国人特別許可証を取得する手助けを申し入れていたわよね。最初は、単にタバサとミスタへのお礼だと思っていたけれど、こうやって状況を並べてみると、怪しすぎることこの上ないわ!)

 

 オスマン氏が用件を言い終え、その場を立ち去った後も、キュルケは考え続けていた。もしかすると、自分の思い違いかもしれない。しかし、せっかく彼に〝火〟がつきそうな状況にも関わらず、別の女性に外からおかしな横槍を入れられてはたまらない。

 

 よって、彼女はしかるべき最初の一歩を踏み出した。

 

「ねえ、タバサ。〝制約〟覚えてみてもいいんじゃない?」

 

「いや、別に無理をしてまで覚える必要は……」

 

 そう告げた太公望の言葉を、しかしキュルケは遮った。

 

「きっと『フェニアのライブラリー』になら、魔法書があると思うわ。あたしは入れないけど、タバサなら許可証を持っているでしょう?」

 

「……ん。タイコーボーがわざわざ頼んで来るということは、何か大切な理由があるからだと思う。なら、わたしは力になりたい」

 

「そうよね~、さっすがタバサ。あなたみたいないい子、なかなかいないわよ!」

 

 そう言ってキュルケは親友にぎゅっと抱きつくと、その頭を優しく撫でた。

 

「と、いうわけですから。ミスタは、先にお部屋へ戻っていてくださいな!」

 

 そしてタバサとキュルケのふたりは、まるで吹き抜ける突風のように、図書館へ向けて飛んで行ってしまった。後に残された太公望はというと……。

 

「部屋に戻れと言われても……鍵、閉まっとるのだが。どうしろと……?」

 

 これまで〝解錠〟の魔法を全てタバサに任せっきりにしていた太公望は、部屋の鍵を開ける手段を持っていないのであった。その気になれば、無理矢理こじ開けることは可能かもしれないが、しかしそんな気力など、今の彼には無く。

 

「仕方がない。瞑想しながら考えを纏め直すとしようかのう……」

 

 よたよたと外へ向けて飛び去っていった太公望。だが、彼の心だけではなく、周囲に巻き起ころうとしている争乱は、収まる気配を見せなかった――。

 

 

 




いつも誤字報告ありがとうございます、
大変助かっております。
できるだけ更新前に潰しておきたいのですが、
思いもよらぬところに残っていたりするものですね……。


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第69話 雪風、その資質を示すの事

 ――慌ただしかった朝食の後、魔法学院の図書室にて。

 

 比較的容易に発見できた〝制約(ギアス)〟のルーンに関する書物と、その用法に関する注意事項をまとめた資料を閲覧しながら、タバサとキュルケは揃って頭を悩ませていた。

 

「予想していた以上に、難しい魔法だった。〝制約〟だけに」

 

「制限がある? タバサ。あなたって、たまに顔色ひとつ変えずに冗談言うわよね」

 

 〝制約〟

 

 水の系統魔法に属するこのスペルは、現在ハルケギニアのほぼ全ての国で使用を固く禁止、あるいは制限されている禁呪のひとつである。

 

 この魔法が禁じられた理由は簡単だ。呪文の対象者に特定の命令を与え、本人の意志に関係なく自在に操れるという効果があるからである。おまけにこの魔法をかけられた者は指示の内容のみならず、操られて動いていたことも、魔法にかかった記憶さえも残らない。

 

 腕の良くないメイジが使用すると、対象者の目に独特の輝き――〝魔光〟が宿るため、比較的簡単に見破ることができるのだが、熟練者が唱えた場合は瞳の奥に〝魔光〟が完全に隠れてしまう。そのせいで、実際に呪文の効果が発動するまでの間、本人は勿論のこと、周囲の者も〝制約〟をかけられていることに気付けない。おまけに〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟にも反応しなくなるという、非常に厄介な特性までついている。

 

「ただ……」

 

 手元の書物をめくりながら呟くタバサ。

 

「惚れ薬のような効果は見込めない」

 

「アレは危険すぎたものね。まあ水の秘薬があってこそなんでしょうけど、本当にどんな命令でも聞くって感じだったもの。例外もあるみたいだけど」

 

 うんうんと腕組みしながら同意するキュルケ。

 

 〝制約〟はかつて仲間内で問題を引き起こした惚れ薬のように、対象者を完全な操り人形にしてしまうほど強力な魔法ではなかったのだ。たとえば、

 

『日の入りと同時に』『倉庫の中にある箒を一本持ち出し』『自室の壁に立て掛けよ』

 

 と、いう『発動条件』『行動指定A』『行動指定B』という命令が可能なのだが――。

 

 羽根ペンの先で羊皮紙をこつこつと叩きながら、タバサは呟いた。

 

「このように指定した場合、複数箒があったときにどれを選ぶか、どうやって持ち出すか、立て掛ける位置などについてはかけられた人間の裁量任せになる」

 

 それを聞いたキュルケが、机に頬杖をつきながら続けた。

 

「しかも、条件付けを増やすためにはそのぶんだけ属性を足さなきゃダメとか……! なんで禁呪指定されるほど危険な魔法が『ライン』スペルなのかずっと不思議に思ってたんだけど、こういうことなら納得できるわ」

 

 まず、呪文を唱えるために水属性をひとつ使い、行動内容を指定するためにふたつめの〝水〟を重ねる必要がある。つまり、先に述べたようなみっつの指定を行えるのは〝水〟を四枚重ねることのできる『スクウェア』メイジのみであると、ふたりの前にある資料には記されていた。これを見たタバサは小さく眉根を寄せた。

 

「わたしの基本は風系統。風だけなら四枚重ねられるけれど、水はまだふたつが限界」

 

 もっと修行を積まなければならない。という親友の呟きを受け、キュルケがぼやく。

 

「火系統で『トライアングル』のあたしじゃ無理ね。たとえ唱えられたとしても、まともに効果が発動するかどうか怪しいわ。ただでさえ自分の系統に属さないスペルを唱えるのは難しいのに……反属性の魔法を成功させるのは、ほとんど不可能に近いもの」

 

「他系統のメイジでは、父さまか学院長レベルのメイジでないと、まずまともに扱えない」

 

「オールド・オスマンって、確か全部の系統が『トライアングル』かそれ以上だって噂だけど……タバサのお父さまはどのくらい凄かったの?」

 

 親友の問いに、タバサは小さく頷いた。

 

「全系統『スクウェア』」

 

 キュルケの顔がぴくぴくと引き攣った。

 

「な、何よそれ! 四系統完全制覇ってこと!? そんなの『始祖』ブリミル以外に聞いたことないわ! あなたのお父さまって正真正銘の天才だったのね……」

 

 使用する属性がひとつで済む『ドット』スペルならさほど技量を必要としないのだが、他系統で複数の属性を重ねる必要がある、つまり『ライン』よりも上位の魔法を扱うとなると、生まれつき〝複数系統〟の資質を持つメイジでないと厳しい。

 

 そして、ほとんどのメイジはキュルケや『烈風』カリンのように単一系統であることが多い。複数の系統を自在に扱えるというのは、とてつもなく貴重な才能なのだ。

 

 ――余談だが、彼女たちの身近にはオスマン氏の他にも複数系統の持ち主が存在する。

 

 水精霊団のレイナールは基本が風メイジだが、状況に応じて火と風を使い分けることができる。教員ではコルベールがそうだ。火メイジでありながら、反属性の水魔法〝眠りの雲(スリープ・クラウド)〟や〝治癒(ヒーリング)〟を操るとびきりの変わり種である――閑話休題。

 

「父さまが――」

 

 それほどの天才で、ジョゼフ伯父上が魔法的に無能だったからこそ、ガリアは危うくふたつに割れるところだったのだ――そう続けそうになり、タバサは内心驚いた。蒼髪の少女は家族に降りかかった悲劇を他人事のように分析してしまった自分の変化に戸惑いながら、ゆっくりと資料のページをめくってゆく。乱れた心を静めるために。

 

「この本によると〝制約〟はスペルを確実に対象者の耳へ入れなければ効果を発揮せず、命令の指定もできない」

 

 そのタバサの発言に被せるように、キュルケが口を開いた。彼女は資料に視線を落としていたために、親友の微妙な変化に気付かなかった。

 

「おまけに、唱える時には対象者と視線を合わせなきゃいけない上に、相手の意志が詠唱者よりも強かったら、あっさり抵抗されるだなんて、条件が厳しすぎるわよ! それなのに、たったの一回しか発動させられないのよね? 使いづらいったらないわ」

 

「つまり、眠っている人間に〝制約〟をかけるのは無理」

 

「人混みに紛れて狙い打ちする、なんていうのも難しそうね。これを見る限りだと」

 

 タバサはがくっと肩を落とし、うなだれた。

 

「この情報があれば、もっと上手く立ち回れたはず」

 

 〝制約〟はおそるべき魔法だとして、効果が広く世に知れ渡っている。ただし、それはあくまで『呪文の対象者へ、強制的に命令を刷り込むもの』という、非常に曖昧な情報だけに限られる。

 

 タバサは任務で裏仕事に関わることが多かった。よって、一般的なメイジよりも多くの知識――〝魔光〟の存在や〝魔法探知〟にかからなくなるという情報を持ち合わせていた。だからこそ、あの夜襲いかかってきた侍女が、実は〝制約〟によって操られていたのではないかという推理を働かせることができたのだ。

 

 しかしさすがのタバサも〝制約〟という魔法が、これほど発動条件の厳しいものだということまでは知らなかった。元より禁呪であるため、資料の数は限られている。この情報自体、数千年分の蔵書があり、一般生徒立ち入り禁止の『フェニアのライブラリー』でなければ集められなかっただろう。とはいうものの、調べようと思えばいつでも可能だったのだ。タバサは思わず嘆息した。

 

 そんな親友の様子に、キュルケが反応した。周囲を伺い、聞き耳を立てている者が誰もいないことを確認すると、彼女は蒼い髪の少女に囁きかけた。

 

「やっぱり、例の任務に関することかしら?」

 

「そう。彼がわたしに〝制約〟をかけて欲しいと言ってきたのは、おそらくそれが理由」

 

「ねえ。その話、もう少し詳しく教えてもらっても構わなくて?」

 

 タバサは小さく頷くと、キュルケに向かって静かに語り始めた――今回の任務について。あの怖るべき夜の話と、その後に起こった出来事を。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ、ヴェルサルテイル宮殿のプチ・トロワでは。

 

 イザベラと王天君が『部屋』の中に置かれているソファにごろりと寝そべりながら、厨房から拝借――例によって『窓』を使ってパクったワインを飲み、新鮮な果物をつまみつつ、昨夜の一件について振り返っていた。

 

「ありがとう、オーテンクン! 本当にどうなることかと思ったわ……」

 

「オメーにはマジで世話になってるからな」

 

「それはわたしの台詞よ! あなたには心から感謝してるんだから!」

 

 トリステインから戻った王天君の報告を受けたイザベラは歓喜した。自分の失態で国に大きな不利益を被るところを救われたからだ。

 

「あんなに怒っていたのに、わたしの下で働いてくれるなんて……!」

 

「アイツは本当にイイコちゃんだからなぁ。お兄サマの言うこたぁ大抵素直に聞くんだよ」

 

 王天君曰く、スネていた弟をうまく宥めることに成功したそうだ。その際に「オメーを探すためにイザベラに協力してもらっていた」と言い添えることを忘れずに。

 

 結果「兄が世話になったのなら」という理由で矛を収め、今後も北花壇騎士団で働くことを了承してくれたらしい。

 

 当然のことながら、それを聞いたイザベラは歓喜した。

 

「よかった……正直に言うとね、もうダメかと思ってたの」

 

 森ひとつを一瞬で吹き飛ばすほどの〝力〟を持ちながら、泥棒としての腕も超一流。おまけに、王族としての教育を受けているイザベラを遙かに上回る目利き。

 

 これほどの人材を自分の接触の仕方が悪かったせいで逃すところだったが、王天君がフォローしてくれたお陰で確保することができた。喜ぶのも無理はない。

 

「ま、せいぜいこき使ってやんな。つっても、やり過ぎるとまたスネるだろうから気ぃつけろよ……なんてこたぁ、さすがにもう言うまでもねえか」

 

「ええ、くれぐれも気をつけるわ。今後は、あなたの弟に向いた仕事を厳選するようにするわね! それと……シャルロットをいじめるのも、ほどほどにしたほうがいいかしら」

 

「そうしときな。それはともかくよぉ。あいつらのことだが……」

 

 指で果物をつまんでぽいっと口に放り込み、イザベラは笑った。王族としての慎みや気品など欠片も感じられない仕草である。

 

「あの子たちが同じ部屋で暮らしていた……ねえ。まあ、貧乏貴族が見栄を張るために従者を雇ったのはいいけれど、個室を与えるだけの金銭的な余裕なくて自分と一緒に住まわせる――なんてことは別に珍しい話じゃないんだけれど」

 

「へぇ、そぉいうもんなのか」

 

「ええ。だからこそ、一緒にいても学院側が問題にしていないんだと思うわ」

 

 イザベラは手にしていたグラスに新たなワインを注ぎ込みながら嘲笑った。

 

「それにしても……ぷぷっ、あの子もとうとう貧乏根性が染みついてきたってわけね! あれでも一応は王家に連なる者なのに、みっともないわぁ! どうせなら、思いっきりそのあたりを突っついてやりたいところなんだけど……」

 

「仮にも元王族相手にそれをやっちまうと、うるせぇコトになる……か」

 

「そういうこと。まったく面倒だわぁ~、王家の血筋って。おまけに、万が一あなたの弟が人間じゃないことがバレると、それはそれで別の問題が発生するしね」

 

 シャルロットが、よりにもよって強力なエルフの亜種(と、イザベラは思っている)を使い魔として従えていることが外に漏れたら、またシャルル派の連中が息を吹き返すかもしれないわ……と、声を出さずに続ける。

 

 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、王天君がニヤリと嗤った。

 

「まぁ、オメーが気にしないってんなら別にいいけどよぉ」

 

「あら、何か含みのある言い方ね? まさか、他にまずいことでもあったの?」

 

「いや……な。アイツは人間が大好きだからよぉ」

 

 これを聞いたイザベラは口に含んでいたワインを吹き出しこそしなかったものの、思いっきりむせてしまった。液体の一部が気管に流れ込んだ影響で、げほげほと激しく咳き込む。

 

 エルフたちはハルケギニアに住まう人間全てを『蛮人』と蔑み、自分たちよりも生物として格下であると認識している。そのため、人間とエルフが結ばれることなどまずありえない。よって、従姉妹が未だ自分の〝使い魔〟の正体を知らないことを差し引いても、間違いが起こる事など絶対にない。イザベラは、そう考えていたのだが……。

 

「内緒で住処を抜け出して、しょっちゅう人間どもの国へ遊びに行ってたっけな」

 

「ちょ、ちょっと待って! ま、まさか……」

 

 果物と同様に調理場から頂戴した干菓子を囓りながら、王天君は続けた。

 

「今はじっくり育ててる真っ最中ってトコだろーな。アイツ、妙にあの人形姫が気に入ったみたいだしよ」

 

「そ、育ててるって! 確かに、あの子は十五歳にしては小さいけれど、それって……」

 

 イザベラの顔色は赤と青を交互に行ったり来たりしていた。

 

(いや、まさかあの子に限ってそんなことは。で、でも、風竜で飛んでいたときのふたりの様子は、まるで……)

 

「まぁ、いくら気に入ったからっつっても、さすがに喰ったりはしねぇだろうが」

 

「つまり、絶対じゃないってことよね!? いくらなんでも、それはまずいわ!!」

 

 従姉妹は既に王族としての身分を剥奪されている。

 

 とはいうものの、元王族ともあろう者が万が一にも人間の天敵であるエルフと情を交わし、さらにそれが外部へ漏れたとしたら……ただの醜聞などという話では済まない。ガリア王家の威信に傷がつくばかりか、最悪の場合国が傾きかねない程の一大事だ。

 

(そもそも、わたしがオーテンクンと同じ部屋にいるところを誰かに見られただけで、王位継承権を剥奪されても文句は言えないくらいなんだから……!)

 

 イザベラの顔から、ざあっと血の気が引いた。

 

 蒼髪の王女は慌てて立ち上がると『部屋』の外へ飛び出そうとした。だが、王天君がそんな彼女を引き留めた。

 

「おい、イザベラ。まだ話の途中だぜぇ?」

 

「悪いけど、また後でね! 急いで部屋を別にするよう命令しないといけないし!」

 

「なんでだよ? さっきまでは気にしないって言ってたじゃねぇか」

 

「だって、あなた言ったじゃないの! 弟が、あの子のことを育ててるって!!」

 

「あぁ。アイツのことだから、たぶん色々面倒見てんじゃねーかと思ってな」

 

「だから! それがまずいっていうのよぉ!!」

 

 自慢の蒼髪を振り乱して叫ぶイザベラに、王天君はニヤリと嗤って見せた。

 

「そーか。やっぱりアイツが人形姫の勉強を見てやるのはヤバイことだったのか」

 

「は?」

 

「アイツ、口では面倒くさいだのなんだのと文句は言うが、結構なお人好しだからよぉ。人間ともすぐに仲良くなっちまうんだ。ちらっと部屋ん中見た限りじゃ、効率よく風を起こすための基礎から教えてやってるみたいだったな」

 

「ええっ?」

 

「従者っつーより、親の顔だよなぁ。いや、兄貴か? 惚れ薬の影響残ってんじゃねーかっつーくらいあの人形姫のこと気にしてるしよ……ったく本当に物好きなヤツだぜ。ああ、ちなみに太公望もオレと同じで、肉は喰えねーからな?」

 

 イザベラは思い出した。

 

(そうだ、あの男は心を強制的に塗り替える効果を持つ魅了の秘薬・惚れ薬を飲まされてもなおシャルロットを妹認定したのだ。つまり、あの子のことを異性として全く意識していない――)

 

 と、ここまで考えるに至ってイザベラはようやくその事実に気付き、顔を熟したリンゴのように赤らめた。

 

「オーテンクン。あなた、わたしのことをからかっていたのね!?」

 

 その声に、実に悪い笑顔でもって応えてきた王天君を見て、イザベラは叫んだ。

 

「もうっ! オーテンクンのいじわる~ッ!!」

 

 ガリア王国のプチ・トロワ宮殿内は、今日()平和であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――そして場面は再びトリステイン魔法学院の図書室へと戻る。

 

 キュルケは背中にびっしょりと嫌な汗をかいていた。

 

「聞いておいてよかったわ……」

 

「どういうこと?」

 

「ああ、気にしないで。こっちの話だから」

 

「……?」

 

(危なかったわ……あのとき下手にイジっていたら、せっかく盛り上がってきていた雰囲気が完全に壊れちゃってたかも)

 

 キュルケは絶妙なタイミングで乱入してきてくれたオスマン氏に、心の底から感謝した。

 

「〝制約〟で暗殺命令を与えられていた可能性のある侍女……ね。だけど、今聞いた話とこの資料を調べてみた限りでは、なんだか違うっぽいわね」

 

「そう。だからこそ、このことを知っていれば」

 

「別の可能性も追えたってことね」

 

 青い頭がコクリと揺れる。

 

 なるほど……と、キュルケは思った。確かにタバサの言う通り、ミスタ・タイコーボーはそれを知りたいが為に〝制約〟をかけて欲しいと言ってきたのだろう。そういうことなら任務という言葉に反応した理由として納得もできる。ただ、それなら何故彼は寝不足気味だったのだろうか。

 

「ねえタバサ。夕べ、何かおかしなことはなかった?」

 

「わからない。どうやって寝間着に着替えたのかも、よく覚えていない」

 

 一瞬「ミスタが着替えさせてくれたんじゃないの?」などと、からかいたくなったキュルケであったが、先程の件があったので、さすがに自重することにした。

 

「ああ、それならあたしが着替えさせてあげたのよ。あのときミスタに頼まれて……って、あああああっ!!」

 

 いきなり発せられたキュルケの大声に、タバサは思わずビクリと身体を震わせた。図書室出入り口付近のカウンターにいた司書がものすごい顔で睨み付けてきたことに気付き、慌てて彼女の口を塞ぐ。

 

「ここで大声はだめ」

 

「ご、ごめんなさい。けど、あたし、大変なことを忘れてて……!」

 

「大変なこと?」

 

 夕べ、他にも何かあったのだろうか? 思わず首をかしげてしまったタバサへ、キュルケが至極真面目な顔で囁いた。

 

「ミスタ・タイコーボーは〝念力(サイコキネシス)〟と〝(ウインド)〟しか使えないんでしょう?」

 

 ……それはつまり。

 

「部屋に戻れない?」

 

「そうよ! あたしたち、行き場のない彼を放り出して来ちゃったのよォ~!」

 

 今まで、あまりにも自然に――必ずふたり揃って、あるいはタバサが側にいる時だけ部屋への出入りをしていたので、全くその事実に気付けなかった彼女は愕然とした。

 

(まさか、あれも偽装……?)

 

 しかし、キュルケがここまで慌てている理由がわからない。

 

「彼は子供じゃない。ひとりでも大丈夫」

 

 どこかで適当に時間を潰しているだろうと続けたタバサを、キュルケは大声で遮った。

 

「そういう問題じゃないのよ! 大人だからまずいの!!」

 

「どうして?」

 

「このままだと彼の好感度が…… と、とにかく! 早く戻って謝らなきゃ!」

 

 再びギリギリと睨み付けてきた司書に向かって慌てて頭を下げたふたりは、大急ぎで資料を片付けて寮塔へと戻った。

 

「どうだった? タバサ」

 

「部屋にはいなかった」

 

「食堂でも見かけなかったわよね。もしかして、いつもの中庭かしら? あそこなら、寝そべるにはちょうどいいベンチもあるし」

 

「可能性は高い」

 

 しかし、そこにも太公望の姿はなく。揃ってあちこち探し回った末に、彼が本塔裏の日陰に座り込み、瞑想という名の昼寝をしているところを発見したのは、既に太陽が空の真上へと昇った後であった……。

 

 余談だが。太公望を発見したタバサとキュルケは、当初彼が昼寝をしていることに全く気付けなかった。声をかけても完全に無反応。そっと近寄ってみて、ようやく彼が寝息を立てている――つまり、眠っているという事実に到達することができたのだ。

 

「だって、あれはどう見ても……」

 

「瞑想しているようにしか見えなかった」

 

 ……とは彼女たちふたりの素直な感想である。仙人になる修行をしていた時代と変わらず、おかしなところで器用な太公望であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――軽い昼食の後。

 

 彼ら三人は揃ってタバサの部屋で、夕べの出来事について話し合うこととなった。

 

 当初は立ち会いを遠慮していたキュルケであったが、詳しく話を聞いていくうちに同席しておいて良かったと心の底から安堵した。何故なら、昨夜太公望の兄が現れたという重大な話を聞くことができたからだ。

 

 キュルケは心の中でそっと呟いた。

 

(危なかった……もしもこのことを知らないまま、あたしが余計な気を回してたら、タバサの恋路を邪魔しちゃったかもしれないわ)

 

 お相手の心を確認せずに、見当違いの茶々を入れるなど『恋愛の伝道師』フォン・ツェルプストー家の娘として、危うくやってはいけない失敗をするところであったと、キュルケは冷や汗をかいた。先の判断の時点で既に暴発寸前だったのはさておくとして。

 

 だが、太公望が語って聞かせた内容は――恋愛云々以前に、彼女たちふたりの想像を遙かに超えていた。

 

「お兄さんと一騎打ちになったって……怪我はないようだけれど、大丈夫なの?」

 

「うむ、背中を少々打ち付けた程度だ。痛みはもう引いておる」

 

「それなら良かった。でも、全然気が付けなかった……」

 

 悔しそうに唇を噛むタバサに、太公望は思わず苦笑した。

 

「おぬしが気に病むことではない。そもそも、王天君の接近に気付けるような者は滅多におらぬ。実際、わしも完全に不意を打たれてしまったのだ」

 

「そ、それで、勝負のほうはどうなったんですの……?」

 

 不安げに自分を見つめてくる少女たちに、太公望はふうとため息をついて見せた。

 

「手も足も出ずに打ちのめされた挙げ句『実戦から離れていたせいだろう、完全に鈍っている』と、叱り飛ばされてしまったわ」

 

 そう呟いた後、がっくりと肩を落とした太公望を見てふたりは仰天した。

 

「お兄さんの話は聞いていたけれど……」

 

「ミスタを完封するって、どこまでとんでもない実力者なのよ!?」

 

 そんな彼女たちを見て、苦々しげに呟いた。

 

「相性の問題でな。接近戦を得意とするわしと遠距離――それも、別空間からの攻撃を主体とする王天君の戦闘スタイルは元々噛み合わぬのだ」

 

「別空間からの攻撃って、どういう意味かしら?」

 

 きょとんとした顔をしているキュルケに、太公望はかみ砕いて説明することにした。

 

「常に死角から攻撃できるメイジだと言えば、怖ろしさを理解してもらえるだろうか?」

 

 これを聞いたキュルケの目が、驚きで見開かれた。

 

「ちょ、ちょっと待って! まさか、あの〝夢世界〟みたいな場所の中に閉じ籠もって、そこから直接〝現実世界〟にいる相手に攻撃できるってこと?」

 

 既に「背後に『窓』を開けて剣でズブリ」の話を聞いていたタバサが、ぽつりと呟く。

 

「そんなの察知できるわけがない」

 

「しかも、相手の『空間』を打ち破れるほど強力な術者でなければ『あちら側』へ干渉することすらできぬ。見えない場所から一方的に打ち倒されて終わりだ」

 

「何それ。反則にも程があるわよ……」

 

「戦闘スタイル以前の問題」

 

 と、ここで思い出したかのようにタバサが付け加えた。

 

「そういえば、あなたはお兄さんの接近を感知できたはず」

 

「ああ、なるほど。夕べはそれをずっと警戒していたから、ろくに眠れなかったのね」

 

「うむ。しかしキュルケよ……おぬし、よくわしが寝不足であると気付いたのう」

 

「わたしは全然わからなかった」

 

 ふたりの言葉を受けたキュルケは、得意げな表情で髪を掻き上げた。

 

「オホホホホ。殿方の不調を瞬時に見抜くのはいい女である条件のひとつだもの。そのくらいのこと、できて当然よ」

 

 完全無警戒でぐーすか寝こけていたところを問答無用で亜空間へ叩き落とされ、抵抗する間もなく『労働』を押しつけられたとは、さすがに言えない太公望であった。おもに、自分の威厳を保つ的な意味で。

 

「と、いうわけでだ。あやつが意地悪姫の使いとして現れた事実と、わしに『鈍った』などと言ってきたことから考えるに、今後はさらに危険な仕事が増えるやもしれぬ。わしが至らぬばかりにおぬしを巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」

 

 深く頭を下げた太公望をタバサは遮った。

 

「巻き込まれたのはあなたのほう」

 

「いや、そんなことはない。そもそもだな……」

 

 まるで精霊飛蝗(ショウリョウバッタ)のように、ぺこぺこと交互に頭を下げあうふたりを見ているうちに、さきほどまでの機嫌の良さはどこへやら。キュルケの内に、激しい憤怒の感情が湧き上がってきた。その後すぐに、彼女は太公望の『兄』へ向け、心の中で怒鳴りつけた。

 

(〝風使い〟のお兄さんなんだから、少しは空気読みなさいよ馬鹿――ッ!!)

 

 ……と。

 

(せっかくいい雰囲気だったのに。しかも、タバサが言うには任務中に殺されそうになったところをぎりぎりで飛び込んできたミスタに助けてもらったとか。不謹慎かもしれないけれど、そんな女として憧れるようなシチュエーションまで実現してたのに。夕べのタバサは、あんなにも愛らしかったのに! お兄さんのせいで、それが全部吹っ飛んじゃったじゃないのよ、あんまりだわ!!)

 

 別の『空気』を読んだからこその来訪だったわけだが、そんなことは『恋愛の伝道師』たる彼女にはわからないし、関係ない。せっかくの好機を潰されたと、まだ見ぬ王天君への評価と好感度を大幅に下げたキュルケであった。

 

 そんな彼女の思いとは裏腹に、タバサと太公望の話は続いていた。

 

「あなたのお兄さんが、イザベラの使い魔になっているというのは確実? イザベラは命令を出しているだけで、周辺の誰かが本当の召喚者ということはありえない?」

 

「うむ。あの意地悪姫が王天君と共に『窓』から覗いているのを感覚で捉えることができた。あのとき『部屋』の中にいたのは、間違いなくあの娘だけだ。王天君の性格からして、無関係の者を『自分の部屋』へ招き入れることはまずありえぬ。よって、彼女が主人であると判断した」

 

「お兄さんの性格?」

 

「わしと違って、あやつは他者を自分の側に近づけるということをしないのだ」

 

「エルフに似ているから?」

 

 タバサの問いに、太公望は小さく頷いた。

 

「それもあるが、あやつは近接での戦闘は不得手なのだ。基本的に、空間を隔てた場所からの遠隔攻撃を主軸としておるからのう。己の弱点を晒さぬために、敵対の可能性がある他者を自分の側に置いてはおけないのだよ」

 

「なるほどね。それなのにガリアの王女さまが一緒にいたということは……」

 

「そうだ。既に、それなりの信頼関係を築いていると見て間違いなかろう。おまけに、あやつが最も得意とするのは〝紅水陣(こうすいじん)〟という水と縁が深い〝(フィールド)〟なのだ。タバサよ、おぬしはあの意地悪姫の系統を知っておるか?」

 

 太公望の言葉に、タバサはあっという顔をした。

 

「イザベラの系統は〝水〟だったはず」

 

「そういえばミスタは〝風〟で……お兄さまの系統が〝水〟ってことは!」

 

「〝召喚〟は、詠唱者と相性のよい者を自動的に選択する。タイコーボーのお兄さんの場合、自力でイザベラとの間に『窓』を開いた可能性があるとしても、系統が同じなら、その縁で引き寄せられたとも考えられる」

 

 タバサの言葉に、太公望は同意を示した。

 

「ガリアの裏側を取り仕切る姫と〝金鰲島(きんごうとう)〟の闇を司る策謀家だ。系統だけでなく、相性的にもぴったりなのだ。ある意味、落ち着くべきところに落ち着いてしまったというべきかもしれぬ」

 

 そう呟いた太公望の顔が何故か安堵しているように見えたタバサは、素直にその理由を聞いてみることにした。

 

「なら、どうしてそんな顔を?」

 

「万が一、ジョゼフ王の使い魔になっておったとしたら。最悪の場合――わしは、この命に替えても兄を討伐しに行かねばならなかったからだ」

 

 血を分けた自分の兄を討つ。そう告げた太公望の顔は、どこまでも真剣そのもので。それが少女たちを不安にさせた。

 

「それはお兄さまが凄腕の暗殺者だから、ですの?」

 

 震えるようなキュルケの声に、太公望は深刻な顔で頷いた。

 

「そういう意味では王女の側にいるというだけでも不安なのだが……夕べ見た限りでは自分の意志で行動しておるようだった。とはいえ、できるだけ早いうちにこちらへ引き戻さねばならぬ」

 

 これを聞いたタバサはピンと来た。

 

「あなたのお兄さんに〝制約〟がかけられてしまったらどうなるか知りたかったの?」

 

「うむ。そうなった場合の恐怖をおぬしは身をもって体験したであろう?」

 

 タバサはコクリと頷いた。あの日、彼女は他者に操られた平民の侍女(・・・・・・・・・・・・)の手にかかり、危うく命を落とすところだったのだ。

 

 今回の調査で知り得た情報から判断する限り〝制約〟であのような命令を実行させるのはまず不可能だ。つまり、あの侍女は全く別の手段で操られていたか、あるいは何も知らない被害者のふりをして、周囲を欺こうとしていたのかもしれない。

 

 もしも〝制約〟で似たようなことをしようとした場合、有能な暗殺者を素材(・・)として用意する必要がある。手間はかかるが、その場合は『ライン』程度の指示だけで充分だ。『目標を屠れ』これだけで済んでしまうのだから。

 

(もしも素材となるのが『烈風』と互角以上に戦えるひとを、一方的に打ち倒すほどの実力者だとしたら……)

 

 タバサは思わず身震いした。

 

 それほどの人物が大人しく〝制約〟を受け入れるとは思えないが、万が一ということもある。『狂王』ジョゼフが彼を手に入れ、思いのままに操れるようになったらどうなるか……想像するだに怖ろしい。

 

 ジョゼフ王本人が魔法を使えなくとも、彼の側には大勢のメイジが控えている。イザベラの側にいるだけでも不安だという太公望の言葉が、タバサには嫌というほど理解できた。

 

「わしは〝抵抗〟のための訓練を受けておるので簡単にはかからぬとは思うのだが、できれば機会があるときに試しておきたかったのだ。そうすれば、どれほどの抵抗力があれば耐えられるか、ある程度当たりがつけられるからのう」

 

「お兄さんも訓練を受けているの?」

 

 その問いに、太公望は首を横に振った。

 

「普通の人間よりは耐性があるが、あやつは一度心を壊されておるのでな、精神的な抵抗力がわしと比べて遙かに弱いのだ。だからこそ、心配なのだよ」

 

 この話を聞いてタバサははっとした。確かに〝制約〟は発動条件が厳しい。だが、それ以外にもっと手っ取り早い方法がある。それは魔法薬を使うことだ。抵抗力の高い太公望ですら、惚れ薬の効果から逃れることができなかった。

 

 それに、ジョゼフ王なら母を狂わせたような強力な薬を複数持ち合わせていてもおかしくない。おそらく、彼もそれを不安視しているのだろうと当たりをつけた。

 

「というわけでだ。準備ができたのならば早速実験してみたいのだが……かまわぬか?」

 

 そう申し入れてきた太公望へ、タバサは一も二もなく頷いた。被験者は多いに越したことはないため、キュルケも参加することになった。

 

 

 ――実験開始。

 

 

 被験者、太公望・キュルケ。実行者、タバサ。

 

 実験内容概略:被験者へ『ライン』レベルの〝制約〟をかける

 

 ※注意事項

 

 ・命令内容は『左手を上に挙げる』に統一すること

 

 ・他の魔法を併用しないこと(例:眠りの雲 など)

 

 ・試行回数はそれぞれ五回までとする

 

 

 ――実験の結果。

 

「かからない」

 

「かからぬのう」

 

「魔光も現れないわね……」

 

 ルーンは正しく紡がれているのだが、しかし。効果が現れるどころか、命令以前の段階で完全に抵抗されてしまっている状態である。太公望、キュルケ共に同様の結果に終わった。

 

「あたしは反属性の火系統とはいえ『トライアングル』だから『ライン』スペルを簡単に打ち消せるのはわかるとして……『ドット』のミスタ・タイコーボーにもぜんぜん効果が現れないって、どういうことなのかしら?」

 

 キュルケは首を捻った。メイジたちの常識でいえば『ドット』の太公望にまで呪文が通らないというのはおかしなことなのだ。

 

「わしの場合は無意識に〝抵抗〟してしまっておるようだ。魔法が完成した途端、身体の中に嫌な『流れ』が生じるからのう」

 

「具体的には?」

 

 太公望はこつこつと指で自分の頭をつつきながら説明した。

 

「うむ。感情を司るのは頭……つまり脳みそだ。魔法が完成した瞬間、ここの『流れ』を無理矢理歪ませるような気持ち悪い感触があってな。訓練の成果なのだろう、無意識に弾いてしまうのだよ」

 

「そういえば、あなたの国の周辺には精神攻撃を仕掛けてくる妖魔が大勢いたという話を聞いたことがある」

 

 タバサの呟きに、キュルケが納得したといわんばかりに頷いた。

 

「なるほど。だから、ミスタは抵抗力が普通のメイジに比べて高いのね。ところで〝制約〟と魔法薬って同じような『流れ』があるのかしら?」

 

「似たような『流れ』は感知できたぞ、強さは段違いだがのう」

 

「魔法薬のほうが強力ということ?」

 

「そうだのう。わしが実際に受けてみた感覚だと〝制約〟による支配は、あくまで感情と記憶の一部を操作するだけで、タバサの母上に使われた魔法薬のように、魂魄にまで影響を及ぼすことはないようだ。あくまで『ライン』レベルでは、だが」

 

 この実験結果により、ただでさえ精神攻撃への抵抗力が強い太公望には少なくとも『ライン』程度の〝制約〟はかからないことが判明し、太公望はほっと息を吐いた。

 

「この程度ならば、王天君に〝制約〟がかかることはないであろう。ただし、上位のメイジが唱えた場合はその限りではないが」

 

 それについてはタバサの腕が上がった時点で、もう一度協力を依頼したい。そう告げてきた太公望へ、今度はタバサが別の角度からの実験を提案した。

 

「その『嫌な流れ』に、あえて乗ることはできる?」

 

「ふむ、やれないことはないと思う。ただ……その場合、命令内容を知らないほうがよい。どうしても意識してしまうからのう。よって、できれば今の実験とは方向性の異なる『行動』を設定してみてはくれぬか? ああ、言うまでもないことだが……」

 

「大丈夫、おかしな『命令』はしない」

 

 タバサは当然だといった顔で頷いた。

 

「さっきから横で笑っておるキュルケの入れ知恵は無しで頼む」

 

「え~、せっかくの機会なのに」

 

「おぬしはそれだから不安なのだ!」

 

「大丈夫、ちゃんとわたしが考えた『指示』を与える。おかしな真似はしない」

 

「……信用しておるからな?」

 

 ……そして。タバサの提案通り、太公望が『流れ』に乗ってみた結果――。

 

「魔光……瞳の奥に出てたわね」

 

 タバサは小さく頷いた。

 

「しかも、魔法薬で精神を塗り替えられた時のものとは明らかに異なる。あの夜、わたしを襲った侍女のものとも。あちらは完全に光を失っていたけれど、〝制約〟の場合は逆に輝きが増すことがわかった」

 

 手元に置いてあった羊皮紙に実験結果をさらさらと書き記すタバサ。

 

「あれじゃあ『操られてます』って看板を首から提げてるようなものだわ。それにしてもタバサ。あなた、随分とキツい命令したわね」

 

「そうでもない」

 

「確かに、普段の彼なら絶対にやらない行動なのは間違いないけれど……あたし、いくらなんでもあれはないと思うわよ?」

 

「そんなことはない」

 

「タバサって……ううん、なんでもないわ」

 

 

 ――それから、十数分後。

 

「ぐおおおおおッ! く、くく、口の中が! 何故かとてつもない苦みであふれておる! 誰か水を……いや、甘いものをくれ――ッ!!!」

 

 アルヴィーズの食堂内の床を転げ回る太公望を尻目に、タバサはポツリと呟いた。

 

「おいしいのに」

 

「タバサ。あなた、やっぱり酷いと思うわ……」

 

 タバサの出した命令とは。

 

『今日の夕飯に出されるハシバミ草のサラダを完食せよ』

 

 で、あった。

 

 

 




タバサとイザベラは間違いなく血縁。
なお、制約については本作の独自解釈が含まれております。


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第70話 軍師は外へと誘い、雪風は内へ誓う事

 トリステインの王都・トリスタニアの西端に、地上三十階建ての巨大な塔がそびえ立っている。その塔を中心に数々の宿舎、薬草や魔法植物を栽培する広大な畑が広がっており、それらをぐるりと取り囲むように分厚い壁で他者を寄せ付けぬよう守られた拠点がある。

 

 創立から数千年の歴史と伝統を誇る、王立魔法研究所。通称『アカデミー』と呼ばれる学術研究機関であり、トリステイン王国の知を司る場所だ。

 

 こういった施設はトリステインに限らず他国にも多数存在するが、取り扱っている研究内容は千差万別。国家や機関によって大きく異なる。

 

 たとえば、ガリア王国の学術機関で現在最も精力的に取り組まれているのは、魔法人形(ガーゴイル)に関する研究だ。常に操り手が側についている必要のあるゴーレムと異なり、ある程度の自律意志を持つガーゴイルはひとびとの暮らしを豊かにする存在だとして、国が研究者に補助金を出すほどの熱の入れようだ。

 

 成果物として納品された魔法人形は衛兵の代わりに門を守ったり、辻馬車の御者として用いられたり、重い荷物の運搬を補佐するなど、実際の生活に沿う形で利用されている。

 

 ジョゼフ王が即位し、この研究を始めさせた当初こそ一部の貴族や寺院などから、

 

「神の御技たる魔法をそのように使うのは下賤で、はしたないことなのではないか」

 

 といったような意見が出たり、

 

「魔法のできない『無能王』らしい思いつきですな」

 

 などと陰口が叩かれることもしばしばであったが、鼻薬を嗅がされたり、もたらされた研究成果によって自身の領地収入や寄付金の額が大幅に増えたことがわかった途端、彼らは一斉に口をつぐんでしまった。

 

 ……結局のところ。新しい技術が台頭してきたとしても自分たちが損をせず、より大きな利益が得られることさえ理解できれば、こういった輩は文句など言わなくなるのだ。

 

 帝政ゲルマニアでは『魔法と工業技術の融合』に関する研究が盛んだ。中でも冶金技術の向上に関して特に熱心に取り組んでいる。

 

 〝錬金〟の魔法で金属を錬成すると、どうしても不純物が多く混じってしまう。これはメイジ個人がそれぞれに持つ感覚とイメージによって、錬成結果が大きく左右されてしまうためだ。

 

 だが、問題の不純物さえ上手く取り除くことさえできれば、将来的に鉱山で採掘した鉱石から精製される金属と同等かそれ以上の物が比較的安定して入手可能となるだろう。そのため、この研究に投資している資産家は多い。さらに、錬成における個人差を埋めるための分析・考察なども併せて行われている。

 

 これら研究による副産物として、ゲルマニアでは『錬金術師』と呼ばれる〝錬金〟を専門としたメイジが数多く輩出されている。

 

 中でも、ハルケギニア中にその名を轟かせている『宝剣の錬金術師』シュペー卿が作る宝剣はその美術品としての価値も相まって、なんと一振りが王都の郊外に庭付きの屋敷を構えることができるほどの高値で取引されている。彼の作品を自分に仕える平民の従者や護衛士たちに持たせるのが一種のステイタスになっている程だ。

 

 ある意味、過去の常識や伝統に囚われず、金と実力さえあれば魔法の有無に関係なく貴族の身分を手に入れることができるゲルマニアならではの現象とも言えるだろう。

 

 ――そして、トリステイン王国の王立魔法研究所の基本方針はというと。

 

 かの機関では創設当初からの理念と伝統を守り、所属する研究者の全てが一丸となってひとつの課題に取り組んでいた。そのテーマとは、

 

『魔法をより深く学ぶことで、始祖の御心を知る』

 

 ことである。ただし、それは……

 

「なぜ、魔法によってこのような事象が発生するのか」

 

 といったような、魔法の仕組みや詳細を調べるための研究ではなく、

 

「『始祖』ブリミルを照らした明かりはどのような形で、どんな色をしていたのか」

 

 とか、

 

「聖具を作成するための金属として、どのようなものを用いるのが最も適しているか」

 

 とか、

 

「寺院に設置された燭台の火を揺らすための風量は、どの程度の強さが望ましいか」

 

 などという、神学の域を出ないものがほとんどであった。とはいえ、トリステインのアカデミーが『始祖に関する研究』という分野において、ブリミル教の総本山たるロマリア皇国連合に次ぐ研究成果を上げているのは間違いようのない事実である。

 

 ……それがきちんと国政に生かされているのかどうかについては、また別の話だ。

 

 このような気風であるゆえに、少しでも変わった研究テーマ――たとえば、風と火の魔法を利用した暖房装置の制作などといった『始祖から伝えられし魔法本来の用法から外れたもの』を提示すると、最高評議会と呼ばれるアカデミーの運営意志決定機関によって研究の開始前段階で全て弾かれ、消えてゆく。

 

 研究予算が下りない程度ならばまだいい。あまりにも伝統から外れたテーマを出したりすると、最悪の場合異端の烙印を押された挙げ句、研究員としての資格をも剥奪され、アカデミーはおろか学会からも永久に追放されてしまう。

 

 これが伝統と格式を重んじる、トリステイン王立魔法研究所の現実だった。

 

 だが、そのような空気が蔓延している機関だったからこそ、長期休暇を終えて戻ってきた直後にエレオノールが示した姿勢は最高評議会のメンバー達から高く評価された。

 

 復帰直後。評議会長の元へ挨拶に訪れた彼女は、こう言ったのだ。

 

「長期の休暇をいただきましたお陰で、改めて自分の研究について見つめ直すことができましたの。『始祖』の御心に近付くためには、神学をより深く学び直す必要性がある。今のわたくしに真に不足しているものは、それなのだと」

 

 エレオノールの言葉を聞いたアカデミー評議会長のゴンドラン卿は、大いに喜んだ。

 

「さすがは国内でも特に伝統と格式を重んじる、ラ・ヴァリエール公爵家のご息女だ。一時期は、その、なんだ。色々あっていまいち研究に熱が入らないようであったが、彼女本来の調子が戻ったようで何よりだよ」

 

 などと、会談終了後に自分の秘書に向かって、ほっとした様子で告げたほどだ。

 

 だが、そんなエレオノールの態度を逆に不安視する者たちも存在した。その筆頭は彼女の同僚であり後輩でもある、ヴァレリーという名の女性研究員だ。

 

「神学をさらに追究するですって? まさかとは思うけれど……例の一件を気に病んで、将来は修道女になる、なんて言い出したりしないでしょうね」

 

 エレオノールが長年付き合っていた貴族から一方的に婚約を破棄されたという噂は、既に魔法研究所中に広がっている『公然の秘密』であった。噂が出回り始めた当初こそ、単なるゴシップだろうと思っていた人々も、

 

「そうよ……こんなふうに研究一辺倒の生活を送っているから、彼との縁がなくなってしまっただけなのよ。わたくし個人に難があるわけではないの」

 

 などと、どんよりとした空気を纏い、ひとりぶつぶつと呟き続けていたり――もちろん当の本人はそんな自分の思考が外界へだだ漏れになっているなどとは思いも寄らなかったわけだが――どこかで『結婚』という単語を耳に入れた途端、それを発した者の側に電光石火の如き素早さで駆け寄り、ぎりぎりと喉を締め上げながら、

 

「そのように縁起の悪い言葉を、わたくしの前で軽々しく口に出さないでくださる?」

 

 と、凄まじい勢いで詰め寄った挙げ句、

 

「さあ『結婚は人生の墓場』とおっしゃい! じ・ん・せ・い・の! は・か・ば!!」

 

 などと、不気味な微笑みを浮かべながら復唱を迫る姿を見てしまっては真実であると認めざるを得ないだろう。特にエレオノールと仲の良いヴァレリーは――自身が締め上げられた経験を持つだけあって――他の人間よりも余計に、同僚の行く末を案じていた。

 

「彼女、戻ってきてから自分の研究室に籠もりっぱなしだし……きっと、精神的に不安定になっているに違いないわ。少し気分転換させてあげたほうがいいわよね」

 

 ヴァレリーはそっと自室の外へ出ると、研究塔の四階にあるエレオノール専用に設けられた研究室へと向かった。

 

 ――いっぽうのエレオノールはというと。一部の同僚たちからそんな目で見られていることなどつゆ知らず。ただひたすらに、自分の征くべき『道』を邁進していた。

 

 半月ほど前。彼女の妹が真の系統に目覚めた直後のことだ。エレオノールは唯ひとり父親の書斎へと呼び出され、衝撃の事実を知らされていた。

 

「が、が、ガンダールヴの名を聞いたときに、もしやとは、思っていました、けど……やっぱり、あ、あのサイトが、おちびの使い魔……し、しかも、み、ミスタ・タイコーボーもミス・タバサに〝召喚〟されてこのハルケギニアへやって来たですって!?」

 

 同席していたオールド・オスマンが重々しく頷いた。

 

「彼の件については『事故』として処理した上で箝口令を敷いておるが、教職員たちはともかく、生徒たちや魔法学院内で雇っておる平民たちについては完全に手を回しきれたとは言い難い。よって、いつかは外に漏れてしまう可能性のある情報であることと……」

 

 オスマン氏の視線を受けたラ・ヴァリエール公爵が、その後を引き継いだ。

 

「我がヴァリエール公爵家の長女であり、女の身でありながら三十しか席のないアカデミーの主席研究員まで上り詰めた実力者ならば、自力でそこへ辿り着く可能性がある。それを踏まえた上で、エレオノールよ。おまえにだけは前もって伝えておいたほうがよいと判断した」

 

 ルイズの系統と同様、決して他言無用である。そう前置きをした上で、ラ・ヴァリエール公爵は娘に訊ねた。

 

「例の歓待を行う前。魔法学院から帰還した直後に、おまえはわしにこう言ったな? ミス・タバサはガリア王家の血を引く、高貴の出である可能性があると」

 

「え、ええ。そもそもタバサという名前自体、普通は犬や猫に用いられるもので、人間につけるようなものではありませんわ。ですから、偽名を使っておられるのではないかと判断したのです。それに、わたくしは実際に『ガリアの青』を見たことがありますもの。あの透き通った水底のような髪色は……ガリア王家の直系か、それに近しい者にしか現れないものとされていますから」

 

 エレオノールの答えに、ラ・ヴァリエール公爵は至極満足げに頷いた。

 

 『ガリアの青』はその名前こそ通ってはいるものの、実際にどのような『青色』であるのかを詳しく知る者は少ない。ガリアの宮廷に出入りする者たちならまだしも、他国の人間ならばなおさら知り得ないことだ。

 

 実際、このハルケギニアには青色がかった緑や、濃紺色の髪を持つ者なども存在する。よって、身近に青い髪の者がいても、すぐに『ガリアの青』と結びつけて考えることのできる者はごく一握りの者に限られていた。

 

 これまで研究一筋に生きてきたとはいえ、トリステインの社交界に通じ、海外の事情についてもそれなりに承知していたエレオノールだからこそ、タバサが偽名を使ってまで身分を偽る必要のある人物だという可能性に辿り着くことができたのだ、とも言える。

 

「君の推測は当たりじゃよ、エレオノール君。とはいえ、さすがにミス・タバサの素性まで明かすわけにはいかんが……ここまで聞いて、何か思い当たることはないかね?」

 

 オスマン氏からそのように告げられて、エレオノールは考えた。

 

(おちびの系統を知った直後、新たにわたくしへともたらされたこの情報について、アカデミーの研究員の立場で精査しろということね……)

 

「ガリア王家の血を引く者にしか現れないとされる青い髪の少女が、おちびと同じように人間の使い魔を呼び出した。おちびの使い魔サイトは『あらゆる武器を使いこなす』能力を持つ、かつて『始祖』ブリミルが使役したとされる伝説の使い魔と、同じルーンを刻まれし者……」

 

 わずかな時間、頭の中で検討を重ねた結果――彼女はすぐさまそこへ到達した。

 

「ま、まさか、ミスタも……伝説の使い魔の一柱だと仰るのですか!? いえ、そう言われてみれば確かに、あのかたが持つ知識や、魔法具を複数お持ちだという話は……始祖の伝承に残された『神の本』そのものだわ!」

 

 思わず叫び声を上げ、興奮して椅子から立ち上がったエレオノールであったが、何故か目の前にいる老人がくすくすと笑っているのを見て少々気分を害した。

 

「な、何がそんなにおかしいんですの!?」

 

「その若さでたいしたものだと感心しておったのじゃよ。もしも契約の儀式に立ち会っておらなんだら、わしもほぼ確実に君と同じ間違いをしていたと思えるだけに、なおさらじゃ」

 

「わたくしと、同じ間違い?」

 

「そうじゃ。彼に刻まれた印は〝アンサズ〟で〝ミョズニトニルン〟ではない」

 

「アンサズ……確か、暦のアンスール(一月)の元になったとされる、古代ルーン文字ですわよね。わたくしの記憶では〝知恵〟を象徴する文字で――あ!」

 

 己が辿り着いた答えに、思わず身震いするエレオノール。『始祖』降臨以前から伝わる神話――この世界は、大いなる神が巨大な斧を振るって創ったとされる逸話。そのうちのひとつを口にした。

 

「勇敢な戦士は死後、戦乙女(ワルキューレ)に見出されヴァルハラへと導かれる。天へ昇りし戦乙女と勇者の魂(アインヘリヤル)を迎えるのが……そこを統べる戦神。わたくしの記憶が確かなら〝アンサズ〟のルーンは、その象徴でもあったはず。み、ミスタ・タイコーボーは、国元で『伝説』と呼ばれるほどの、天才的な軍人でした、わね」

 

 これを聞いたオスマン氏は、満面の笑みを浮かべてラ・ヴァリエール公爵を見た。

 

「いやはや、公爵のご息女は本当にたいしたものですじゃ。若くしてアカデミーの主席研究員の席を確保しただけのことはありますわい。古代ルーン語の資料なしで、これほど即座に答えを出せる者など、そうはおりませんぞ。大抵の場合〝知恵〟の象徴という所まで調べて満足し、足を止めてしまう。ミス・タバサも、あのコルベール君ですら、そこまでじゃった」

 

 自慢の長女についてオスマン氏から飾り気のない賛辞を受けたラ・ヴァリエール公爵は思わず笑み崩れそうになった。が、状況が状況だけに必死の体でそれを押さえ込んだ。

 

「つまりだ。君ほどの知識と情報を持つ者ならば、最悪の場合、彼が『神の本』であるという間違った結論に達した挙げ句、おかしな推論を重ねて時間を無駄にしかねない。そう判断したため、念のため話しておこうと考えたと。こういうわけなのじゃよ」

 

「おまえは我がヴァリエール公爵家の中で、最も神学に関する知識を持ち合わせている。その学識と頭脳を、正しき方向へ向けて欲しいのだ」

 

「おちび……いえ、祖国と家族を守るために……ですわね?」

 

 長女が出した答えに満足したラ・ヴァリエール公爵は、それ以上言葉を重ねることはなかった。

 

 

 ――そんな父の期待を背に受けたエレオノールは、ただひたすらに己の信じた『道』を突き進んでいた。それが本当に正しいものかどうかはさておくとして。

 

「これよ……この資料だわ! わたくしの学説を後押ししてくれるのは!!」

 

 現在彼女が手にしているのは、ロマリアの神学書に記載されていた『始祖の調べ』という詩であった。似たような資料はアカデミーの書物庫や王立図書館にも存在していたが、伝説の使い魔についてここまで詳しい記述があるものは他に無かった。

 

 そして問題の書物には、こう記されていた。

 

~~~~~

 

 神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢な神の盾。左手に掴んだ大剣と、右手に構えた長槍で、道征く我を守りきる。

 

 神の右手はヴィンダールヴ。心優しき神の笛。あらゆる獣を操りて、我を運ぶは地海空。

 

 神の頭脳はミョズニトニルン。知恵の塊、神の本。あらゆる知識を溜め込みて、迷いし我に助言を呈す。

 

 そして最後にもうひとり……記すことさえ憚られる……。

 

 四人のしもべを引き連れて、我はこの地へやってきた……。

 

~~~~~

 

「四人のしもべ。つまり、この資料によれば『始祖』ブリミルの使い魔は人間だった。そして『始祖』はハルケギニアで使い魔を呼び出したのではなく――出身地または近隣諸国のいずれかで彼らを従えた後に、この大地へ降臨なされたということだわ」

 

 エレオノールはさらに推測を重ねた。

 

「サイトとミスタ・タイコーボーは髪や肌の色といい、特徴的な顔形といい、実の兄弟と言っても通じそうなほどによく似ているわ。オスマン氏がおっしゃるには、ふたりの出身国は隣同士だとか。ああっ、もう! ミスタ・タイコーボーが今ここにいらっしゃれば、すぐにでも事実確認ができるのに……」

 

 と、そんな彼女の声に応えるかのように一羽のフクロウが窓をコツコツと叩いた。慌てて窓を開いたエレオノールはフクロウの足に括り付けられた書簡を開く。途端に、彼女の顔がぱあああああっと華やいだ。

 

 何故なら、そこには彼女が待ち望んでいた人物が帰還したという報せと、希望する会談日時を折り返し送付されたし――というオスマン氏からの伝言が記されていたからだ。

 

 エレオノールは急いで羽根ペンを取ると、手元にあった羊皮紙にすらすらと文字を書き付け、窓枠に留まって返事を待っていたフクロウの足へと括り付けた。

 

 そして、見るからに頑丈に造られた金庫の中から複数の紙束を取り出して鞄に詰め込み、部屋の外へと飛び出そうとしたその瞬間。コンコンと遠慮がちに扉がノックされ、エレオノールは口から心臓が飛び出すかと思うほどに驚いた。

 

「ど、どうぞ」

 

 内心の動揺を押し殺すように、来訪者へ入室を促す。

 

 扉を開けて入ってきたのは、ひっつめ髪に眼鏡をかけた妙齢の女性であった。彼女はエレオノールの様子を見て言った。

 

「もしかして、お取り込み中だったかしら」

 

「え、ええ。これからちょっと、急いで出かける必要があるの。と、ところで、何か用かしら? ヴァレリー」

 

 ヴァレリーと呼ばれた女性はエレオノールの足元に置かれた鞄をちらと見て、顔にわずかな戸惑いの表情を浮かべた。

 

「良かったら、今夜街で一緒にお食事でもどうかと思ったんだけど……これから出張みたいだし、無理ね」

 

「ごめんなさい。悪いけれど、また今度誘ってもらえるかしら?」

 

「ええ、もちろん。でも、思ったより元気そうで良かったわ」

 

「あら。わたくしがどうかしまして?」

 

「あ、ううん、こっちの話だから気にしないで。お邪魔しちゃってごめんなさい」

 

 そう言って、慌てたように部屋を出て行ったヴァレリーの後ろ姿を見送ると、エレオノールは今度こそ目的地へ移動すべく外へ飛び出した。

 

 彼女の行き先はもちろんトリステイン魔法学院である。

 

 ちなみに。先程フクロウで返送した手紙には、こう書かれていた。

 

『今から3時間後にお邪魔致します』

 

 ……普段はそれなりに落ち着いている彼女も、やはり『烈風』の血を引く者であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――どうやら彼女たち姉妹の〝力〟は、何かを掴むことに特化しているようだ。

 

 来客室に通された後、挨拶もそこそこにエレオノールから手渡された論文へ目を通す羽目になった太公望は、そのように結論した。

 

 今まで開示されていたごくごくわずかな情報の断片から、彼女がとある可能性――

 

・太公望の師が、始祖あるいはそれに近しい者の叡智と〝力〟を継ぐ者である

 

・始祖ブリミルが、太公望の祖国からハルケギニアへやって来た可能性がある

 

 ここまで辿り着けたことに、太公望は素直に感心していた。

 

(なるほど。末妹が『虚空』を掴み、次女が『思考』を拾う者だとするならば、彼女は『真理』を手にする者なのかもしれぬ)

 

 こういった天才(・・)は、過去の歴史においてもごく稀に存在した。そこへ至る道順や数式が間違っている、あるいは存在すらしていないにも関わらず、いったいどういう理屈からなのか、最終的に正しい解答を導き出してしまうのだ。

 

 だが、ある意味当然のことながら、彼らは他者に経緯の説明を行うことができず、やがて個の中に埋没し――長い刻を経て、ようやく正しい道筋を開拓した者たちの手によって、その功績を評価される。ただし、それは既に『真理』へと導いた功労者が、儚く世を去った後であることが多い。と、それはさておき。

 

 ――まずは太公望の師・元始天尊(げんしてんそん)について。

 

 崑崙山の教主・元始天尊が、地球の『始祖』伏羲の同盟者にして、理念を共有する者であったことは確かだ。

 

 その力と叡智についても、五人の始祖が万が一のときの為に残した『最強の七つ』のひとつであり、周囲の重力を自在に操るスーパー宝貝『盤古幡(ばんこはん)』を完全に使いこなせるほどの実力があったことや、残された知的財産を元に数多くの宝貝を生み出せた事実。そして封神計画の根幹を立案した腹黒さ――もとい知謀などを鑑みても、彼が『始祖』たちの〝意志〟を色濃く受け継いでいたことは間違いない。

 

 ただし、これはあくまで地球の『始祖』の話であって〝虚無〟云々を含めたハルケギニアとの関連性は一切不明だ。そもそも、虚無魔法とされるものが未だ〝瞬間移動(テレポート)〟だけしか開示されていない現状で、それを判断するのは無理があるというものだ。

 

 ――次に、ハルケギニアの『始祖』ブリミルが太公望の祖国……つまり地球からやって来た可能性について。

 

 これは実際にゼロではない。ただし、絶対とも言い難い。何故なら、これは以前太公望が才人たちに語った内容でもあるのだが、ブリミルが『滅びた世界』から星の海へと逃げ延びた者たちのひとり、あるいは彼らの子孫であるということも考えられるからだ。

 

 『杏黄旗(きょうこうき)』の起動状況から判断するに、決してありえない話ではない。確率からいえば五分五分といったところか。

 

 じっと黙り込み、額を抑えて思考の海に埋没してしまっていた太公望に向けて、エレオノールが不安と期待に満ちたような声をかけてきた。

 

「あ、あの……それで、いかがでしょうか? この、説についてなんですけれど」

 

 正直なところ、なんとか煙に巻いて誤魔化したいというのが太公望の本音だった。

 

(だが、これほどの知識と感覚を持つ人材を放置し、間違った『道』を探らせ続けるのは忍びないのう。わしのように永遠の時を生きる者ならばともかく、ごく限られた時間しか持たない人間が相手ならば、なおさらだ)

 

 ――結局のところ。太公望という男は、やはりどこまでもお人好しなのであった。

 

 とはいえ、自分や周囲を大きく脅かすほどの危険までは冒したくない。そう考えた太公望は大きく息を吐き出した。

 

「エレオノール殿、念のため確認したいのですが」

 

「は、はい、な、なんでしょう?」

 

「これはまだ、誰にも……?」

 

 その問いに、眼鏡の端を抑えながらエレオノールは答えた。

 

「当然、秘匿しておりますわ。わがヴァリエール公爵家だけではなく、国家の安全に関わる情報となる可能性をも秘めていますから」

 

「左様ですか。ならば、ひとつエレオノール殿にお伺いしたいことがあります」

 

「な、なんでしょう……?」

 

 これまでになく真剣な顔で、そう問うてきた太公望を見たエレオノール女史は思わず息を飲んだ。

 

「あなたは真理を追うためならば、輪の外へ飛び出す――そう、たとえ異端と後ろ指を差されても構わないと言えるだけの、強い覚悟をお持ちですか?」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ、学院長室では。

 

「もうええ加減〝魔法探知〟の効果は切れとる頃じゃろ。モートソグニル~」

 

「ちゅう、ちゅう」

 

 そう呟き、いそいそと自身の使い魔を来客室へ忍び込ませる準備をしていた人物がいた。それはもちろん、この部屋の主であるオールド・オスマンそのひとである。

 

「うくくくく……個人的な話、のう。はてさて、あのエレオノール女史がどんなことを言い出すのか楽しみじゃわい」

 

 ……とんだ出歯亀ジジイである。

 

 

 ――さらに。寮塔5階、タバサの部屋では。

 

「ねえタバサ。ミスタたちが何をしているのか、興味ない?」

 

「それほどは」

 

「それほどってことは、少しはあるってことよね! だったら水の塔の屋上へ行ってみない? あそこって、ほら……来客室の窓がよく見える場所でしょう?」

 

「〝遠見〟で中を覗けということ?」

 

「んもう! タバサってば覗きなんて言っちゃダ・メ。ただの確認なんだから」

 

 キュルケが親友を焚きつけていた。

 

「気が進まない」

 

 それなりに付き合いの長いキュルケにしかわからない程度に顔をしかめて、タバサが答えると。彼女の親友は、自慢の赤毛を揺らしながら青髪の少女にしなだれかかった。それでもタバサはぴくりとも動かない。

 

「本当にあのひとたちのこと、気にならないの?」

 

「話してもいい内容なら、あとで聞けば教えてもらえる」

 

 ついにキュルケは恋愛に関してはそれなりに気の長い彼女としては珍しく……しびれを切らしてしまった。

 

「……質問を変えるわ。ねえタバサ。あなた、ミスタのことをどう思う?」

 

「どう、とは?」

 

 いつも通り全く感情を表に出さぬまま、タバサは親友に訊ねた。

 

「そうねえ……たとえば、一緒にいるとわくわくしてこない?」

 

「確かに、色々なことを知ることができて楽しい」

 

 思わずがっくりしそうになったキュルケであったが、ギリギリのところで耐えた。

 

「そ、そう。なら、彼の近くにいると、どんな感じがする?」

 

「どきっとする」

 

 この答えに、キュルケは顔全体を輝かせた。

 

「そ、それは、もっと具体的に言うと!?」

 

「心臓に悪い」

 

 ……だが、帰ってきた答えは想像以上に無情だった。

 

 それから十数分後。肩を落とし、何やら悟りでも開いたような顔をしたキュルケが部屋から出て行くのを見送ったタバサは、ひとり静かな思いに耽っていた。

 

 タバサはキュルケが本当は何を言いたかったのか、何を求めているのかを充分に理解していた。だからこそ、彼女は何もわかっていないふりをして、わざわざあんな答えを返したのだ。

 

「キュルケはわたしに恋人ができればいいと思っている」

 

 なにせ一年以上も前から、タバサはキュルケにこう言われ続けてきたのだ。

 

「恋は本当に素晴らしいものなのよ。わくわくして、どきどきして、ただそのひとのことを考えるだけで、夜も眠れないほど興奮するの!」

 

 そして、〆の文句はいつも同じだった。

 

「だから、恋人を作ってみない? なんなら良い男を何人か見繕ってくるから!」

 

 もはやお決まりとなっていたその言葉を、キュルケはここ最近全く口にしなくなった。その代わりに時折タバサと太公望の様子を、こっそりと探るように見つめてくるのだ。

 

 そんな彼女が、ここ数日間何やら妙に張り切っていた。そこへ、よりにもよってルイズの姉と太公望が会談している場面を覗けなどという、おかしな催促までしてくる始末。

 

 いくら恋愛事情に疎いタバサでも、さすがにそこまでされたら――自分たちふたりが、親友から何を期待されているのかぐらいは判断できる。

 

「間違いなく、わたしとタイコーボーが恋人同士になればいいと願っている」

 

 その考えを口に出したタバサは、改めて自分の心に向けて問い質してみた。

 

(わたしは彼のことをどう思っているのだろう。もしかすると、本当にキュルケが期待するような対象として、彼のことを見ている?)

 

 確かに、一緒にいると楽しい。だが、わくわくするかと言われると違う気がする。

 

 近くにいて彼の言動を見続けていると、心臓だけではなく胃がキリキリしてくる。

 

 彼を思って興奮するどころか、逆に冷静な視点で自分を観察し直すことができる。

 

 キュルケの言葉だけでなく、これまで多くの書物から得てきた『恋』に関する知識と照らし合わせて検討してみても、自分がそういう対象として太公望を見ているとは到底思えない。ただ……と、タバサは考えた。

 

「じゃあ、わたしは……彼を、どんな目で見ているの?」

 

 そう呟いた直後、タバサはふいにあの日のことを思い出す。

 

 あのとき。暗殺者の手にかかって、命を失いそうになったあの夜。絶望に塗り潰されかけていた心の片隅で、ごくごく僅かにだが期待している自分がいた。

 

(必ず、彼が助けに来てくれる)

 

 そして、期待通りに彼は現れた。半分途切れそうになっていた意識の中、タバサの心は安堵と喜びで満ち溢れていたのだ。

 

(ほら、やっぱりこのひとは来てくれた……)

 

 だからこそ、イザベラが放った言葉に激しいショックを受け――そこではじめて、自分の従姉妹が置かれた立場や王女というものについて、真剣に考えるに至ったのだ。

 

 正統な手段で王座を継承したにも関わらず、簒奪者と呼ばれ続ける国王の一人娘。

 

 いつなんどき、そんな嘘にまみれた噂を信じた家臣たちに寝首を掻かれるかわからず、夜もおちおち眠れない。だが、今のタバサのように――いざという時に手を差し伸べてくれるひとは誰もいない。数少ない味方であるはずの父王との関係も、非常に薄いと話に聞いたことがある。

 

 国の裏側の支配する者として高い実力を持っているにも関わらず、ただ魔法が下手だというだけで笑われ、宮廷のそこかしこで陰口を叩かれ、誰からもその手腕を正しく評価してもらえない――孤独な姫君。

 

 かつて、太公望はイザベラをしてこう評した。

 

「他人に自分の存在価値を認めてもらいたくてたまらない、孤独な子供」

 

 ……と。

 

 あのときのタバサには、その意味が全くわからなかった。豪奢な王宮で大勢の家臣に傅かれるイザベラの、いったいどこが孤独なのかと反論した。今でも彼女の心情を完全に理解できたとは言い難い。しかし、その内情くらいはわかるようになった。

 

 広い宮殿の中に、イザベラの味方と呼べる者は――ごく僅かにしかいないのだろう。

 

 そんな状況下で、あの東薔薇花壇騎士団の長のように表では自分に忠誠を誓っているように見せかけつつも、裏では反逆者の娘に心を捧げている者が大勢いることを知ってしまったら――それはいったいどれほどの孤独と恐怖を心の内に呼び込むのだろうか。

 

「けれど、イザベラは王女だから怖いと言えない。その代わりに周囲に不満をぶつけて、自分のほうが従姉妹よりも優れているとわめき散らしていた……子供だから。恐怖と悔しさを打ち消すために。そして、さらに味方を失っていくという悪循環に陥っている」

 

 ガリアの政情から遠く離れたトリステインの魔法学院で、心を許せるパートナーや友人たちに囲まれた生活を送っている自分には到底理解しえないだろう感情を、イザベラはずっと抱え続けていたのだ。そこに思い至ったとき、タバサの不眠はさらに酷くなった。

 

(もしも父がジョゼフ伯父上を打ち倒し、正統な王権を力づくで奪い取っていたとしたら。わたしがイザベラと全く同じ立場に置かれたとしたら――耐えられる?)

 

 そんなありえない妄想を描き出し、昏い思考の淵に囚われてしまったせいで。

 

 ところが、とある出来事をきっかけに不眠の原因があっさりと消え去った。

 

 任務を終え、ガリアから戻ってきたあの夜。タバサは夢現の中に在りながら、ぼんやりと覚えていた。太公望に背負われ、キュルケから静かに見守られながら自分の部屋まで戻ってきたことを。

 

 その後――タバサは夢を見た。

 

 幼い頃、未だ健在であった両親に連れられて、ラグドリアン湖へピクニックに出かけたときの夢を。嬉しくて湖畔ではしゃぎ回り、水遊びに疲れた自分をおぶってくれた父親と、笑顔でそれを支えてくれた母親の姿を。幸福と温もりに包まれたその幻は、彼女にまとわりついていた暗闇の雲を綺麗に祓ってくれたのだ。

 

「ごめんね」

 

 思考の末、遂に結論へと達したタバサは微かに口元を綻ばせた。

 

 まさか『雪風』とまで呼ばれた自分が――年長のパートナーと親友のことを、心の奥底で父と母のように感じていたらしいなどということは……赤面するほど恥ずかしくて、表に出すことなんか絶対にできない。当然、ふたりにも話せない。

 

「イザベラのことを子供だなんて言えない。わたしだってそう」

 

 今ならわかる。病から回復し、元気を取り戻した母さまと離ればなれになったというだけで不安のあまり眠れなくなったのだ。けれど、信頼できるひとたちが自分の側にいてくれるのだと改めて確認できたから、こんなにも落ち着くことができたのだとタバサは心で理解した。

 

「わたしは弱くなってしまった」

 

 復讐だけを胸に抱いて、全ての感情を封じ込めていたあの頃。それ以外のことから耳を閉ざし、目を瞑っていたときは――ただ内に秘めた憎しみだけが自分を突き動かしていた。物言わぬ、冷たい人形の兵士として。

 

 それが――母を無事救い出した途端。封印していた感情だけでなく、これまで知り得なかった、いや、知ろうとしなかったことに目を向けた瞬間。タバサの視野は大きく広がったのだ。心の安定と引き替えに――。

 

「ううん、安定していたんじゃない。無理矢理押さえつけていただけ。だから、母さまが助かったとわかってから、心の動きを抑えきれなくなったのね」

 

 あの時から、タバサは人形ではなくなった。感情豊かなシャルロット姫に戻ったのだ。周囲の出来事に大きく心が揺れるようになったのが、その証拠だ。

 

 だからこそ、キュルケは今までよりもずっと熱心に恋愛に興じることを奨めてくるのだ。タバサの中で一つの区切りがついたと思しき今、自分が最も楽しいと感じているものを共に分かち合おうと誘ってくれているのだと、タバサは受け取った。

 

「キュルケの気持ちは嬉しいけれど、わたしはまだ、恋人を作ったりなんかできない。だって、子供だし……なによりも、やらなければいけないことがあるから」

 

 弱くなってしまったぶんは、別のところで取り返さなければいけない。自分の目的――妹の消息を掴み、真実を知る上で、それは絶対に必要なことだから。でも……。

 

「全てが終わった後、わたしが本当に恋をすることができたなら……その時は、いちばん最初にあなたに報告するから。今はまだ……許して欲しい」

 

 タバサは心の内だけでこっそりと――赤毛の親友に誓った。

 

 

 




各国の進捗状況

工業: ゲルマニア >> アルビオン=ガリア > トリステイン
魔法: ガリア >> アルビオン > ゲルマニア > トリステイン
神学: ロマリア >>>>> トリステイン >> その他


原作みたいに斜体を使おうとしたのですが、
うまくいかなかったため太字に。
見づらいようでしたら修正します。


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第71話 女史、輪の内に思いを馳せるの事

 ――時は数日前の朝まで遡る。

 

 エレオノールは鏡に映った自分の顔を見て、笑みが溢れ出るのを止められなかった。

 

「う、うふ、うふふふふ……まるで学生時代に戻ったようだわ! これって、やっぱり『瞑想』の付加効果よね」

 

 末妹ルイズに起きた異変の原因を突き止めるため、かの『東の参謀』を頼った際に、話の流れで教えてもらった東方の秘術が、彼女のご機嫌を最高の状態にまで高めていた。

 

「毎日一時間実行するだけで、お、お肌の張りが……髪のツヤが……あの魔法酒に浸したときのようにツルツルのすべすべになるだなんて! 本当に素敵だわ!」

 

 そもそも仙人界における『瞑想』は〝生命力〟の回復と精神の安定のために生み出された技術であるため、実行すれば『仙酒』ほど強力ではないものの、ほぼ同様の効果が現れるのは至極当然のことであり――お肌の曲がり角を意識し始める妙齢の女性にとって、到底抗い難い魅力があることは言うまでもない。

 

「ミスタ・タイコーボーが、未だに子供のような姿を保っておられるのは、もちろん妖精の祝福があってこそなんでしょうけど、この『瞑想』の効果もあるのではないかと思うわ。ああ、もう! なんて素晴らしい魔法なのかしら!!」

 

 そう口に出した瞬間。エレオノールは大変な事実に気がついた。

 

「い、いいい、いま、わたくしは、何と言った、かしら?」

 

 素晴らしい魔法。すばらしいまほう。スバラシイマホウ。

 

「そそ、そうよ。こ、これって……精神力と身体を、か、回復してる……魔法よね。つ、つまり、杖も、ルーンすら用いずに行える〝治癒魔法〟の一種じゃないのよ!」

 

 エレオノールはその場で冷えきった青銅の彫像と化した。

 

 世界に宿る精霊と契約し、その助力を得て奇跡を行使するのが精霊魔法――メイジたちが言うところの先住魔法であって、それと『瞑想』とは根本から性質の異なるものだ。しかし、そのようなことはエレオノール――いや、ハルケギニアの人間たちには関係ない。

 

 なにせ、彼らはゆりかごの中にいる時から、

 

「神の御技たる魔法は、杖と魔法語を用いて行われる奇跡である。しかるに異教を信ずるエルフや妖魔どもは、それらを使わずに魔法を行使する。偉大なる『始祖』ブリミルの業績を認めぬ、罰当たりな亜人たちが扱う邪悪な技。それが先住の魔法なのだ」

 

 このように教わり、育てられているのだから。

 

 乱暴な話だが、彼らの間では杖と魔法語(ルーン)を用いずに行使される魔法的事象は汎用魔法という一部の例外を除き、全て先住魔法という名のカテゴリとして纏められてしまっているのが現状だ。

 

 つまり、彼らハルケギニアの民の間に広まっている常識と照らし合わせて考えるならば。エレオノールは邪悪な異教の技とされている先住の治癒魔法を身につけてしまったことになる。

 

 その、畏るべき現実を前にしたエレオノールは、自分の身体からざあっと血が引いていく音を聞いたような気がした。

 

「も、もしも、ここ、これがブリミル教の、神官に知られたら、い、異端認定確実よ。アカデミーから除名される程度じゃ済まないわ。その場で拘束されて、聖堂騎士団に引き渡されるでしょう。そうなれば、ま、間違いなく異端審問にかけられた挙げ句に有罪判決を下されて、釜茹で。もしくは火あぶり」

 

 たとえ寺院に気取られずとも、問題は山積みだ。その筆頭が『烈風』カリンことエレオノールの母親の存在である。

 

 『鋼鉄の規律』などという仰々しい二つ名を持つ母に「先住魔法を覚えてしまいました」などと告げたらどうなるか。ほぼ間違いなく、厳しい裁きを受けることになるだろう――それこそ、異端審問など生ぬるいと思える程に苛烈な罰を。

 

 そこまで思い至ったエレオノールはへなへなと床へ崩れ落ち、震え出した。

 

 それから彼女はすぐさま『始祖』に許しを請うべく、身を清めて屋敷の礼拝堂に籠もり、一心不乱に祈りを捧げた。

 

「意図して行ったことではないとはいえ、ブリミル教の教えから外れてしまったわたくしに、どうかお慈悲を賜らんことを――!」

 

 ――彼女のことを笑ってはいけない。これは敬虔なブリミル教信者の視点から見た場合、ごく当たり前ともいえる反応なのだ。むしろ、何の疑問もなく『瞑想』を受け入れてしまった水精霊団の面々のほうがおかしいのである。

 

 もっとも、彼らの場合はこの――ブリミル教信者にとっては――忌むべき技が内包する大変な問題にちっとも気が付いていないだけのことなのだが。

 

 思わぬことから魂の危機に瀕したエレオノールであったが、しかし。幸いなことに、彼女は希望の光を見出しかけていた。それが、

 

『始祖ブリミルが、太公望の祖国からハルケギニアへやって来た可能性がある』

 

 という彼女自身が打ち立てた学説である。

 

「そうよ。わたくしの説が正しければ『始祖』生誕の地では、ごく当たり前とされている、別系統の魔法を身につけただけ。そういうことになるのよ!」

 

 ただの屁理屈。現実から目を逸らしているだけだと言われてしまえば、全く持って反論できないことではあったのだが、それでも。エレオノールには他に縋るものがなかった。よって彼女は――その時以降、より熱心に自説の証明のために奔走した。

 

 ……そして、現在に至る。

 

 結果として『始祖』は彼女に微笑んではくれなかった。期待三割、不安七割で提示した論文に目を通した後、彼女の学説を証明してくれるであろう人物から改めて現実を突き付けられてしまった――こう問いかけられたことによって。

 

「真理を追い求めるためならば『輪の外』に出る……そう、たとえ異端と後ろ指を差されても良いと言えるだけの覚悟がありますか?」

 

 ――と。つまりはそういうことだ。結局のところ、どう足掻こうとも現在のブリミル教の観点からすれば『瞑想』が異端視されてしまうことに変わりはなかったのだ。

 

 これを聞いたのが数ヶ月前の彼女であれば――その場で席を立ち、太公望を「異教の手先」「不信心者」などと激しくなじった上で、頬のひとつも張っていたかもしれない。

 

 だが、現在のエレオノールはそうしなかった。いや、できなかった。

 

 誰にも――家族はおろか、アカデミーですら突き止めることができなかった末妹ルイズが起こす失敗の原因と、すぐ下の妹カトレアが抱えていた病の根源を見出すために用いられた異端の技が、間違いなく有用なものであることを知ってしまっていたから。

 

 あの技がなければ〝虚無〟は現代に蘇ることなく、その『担い手』たるルイズはおちこぼれと周囲から蔑まれたまま、潰れてしまっていたかもしれない。原因不明の病に苦しんでいたカトレアは衰弱し続け――最後には寝たきりになっていただろう。

 

 彼女の大切な妹たちが異端によって救われたのは確かな事実であり――目の前にいる人物は紛れもなく家族の恩人だ。エレオノールはそれを充分承知していた。

 

 とはいえ、これはすぐさま「はい」と言えるほど軽い問いかけではない。

 

 『始祖の教え』すなわちブリミル教は彼女――いや、ハルケギニアに住まう人間……特にメイジにとっては全ての価値観の土台となるものであり、頭ではなく魂に刷り込まれた、まさに己を形成する根幹に関わるものだからだ。

 

 その『教え』から外れろというのは、現在持っている地図を捨て、道先案内人どころか灯火も無しで、闇に包まれた樹海の中へ飛び込めと言われているに等しい。

 

 突如迫られた選択に、エレオノールは肩を震わせ、ただ押し黙ることしかできなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽう、そんなエレオノール女史の葛藤などつゆ知らず。溢れる期待に胸を踊らせている者がいた。

 

 それはもちろん、自身の使い魔・ハツカネズミのモートソグニルを通してこっそりと覗き、もとい盗み聞きを敢行しようとしていたオスマン氏である。

 

「これは将来国を背負う若者たちの未来を憂いての行動であって、決して単なる好奇心からくるものではないのじゃ。それにしても……エレオノール君の発言も気になるが、あのガキジジイがどんな反応をするのかも見物じゃて。うししししし……」

 

 現在の彼はなんというかもう、いろいろとダメな大人の見本と化していた。

 

 オールド・オスマン。既に百歳、いや、それどころか三百歳を越えているなどと噂されるかの老爺はメイジとしての力量のみならず、偉大な教育者としても名の通った存在なのだが――そんな彼にもたったひとつだけ、どうしようもない悪癖があった。

 

 隙を見て秘書ミス・ロングビルのお尻を触ろうとしていたことなどからもわかる通り、彼は自他共に認める女好き――とんでもないスケベジジイなのである。

 

 スキンシップと称して、美人秘書の身体にタッチするなど序の口。使い魔のハツカネズミを女性の足元に忍び寄らせ、身につけている下着を覗き込んだり。酒場で酔ったふりをして給仕の女の子の胸目掛けて倒れ込んだりなど、事例を挙げればきりがない。以前起きた『破壊の杖盗難未遂事件』も元はといえば、彼の女癖の悪さが招いたものだ。

 

 しかもだ。そういった行為を他者から窘められても、

 

「何故おなごに触れたがるのかじゃと? そんなものは決まっとる。そこに女体があるからじゃ! わしは決して悪くなんかない! 美人はな、ただそれだけでイケナイ魔法使いと化すんじゃからして!!」

 

 ……などと、反省するどころかおかしな逆ギレをかます始末。

 

「これさえなければ、立派なお方だと手放しで評価できるのに……」

 

 と、いうのが彼の側近くにいる者たちの共通認識である。

 

 オスマン氏なりのストライクゾーン、或いは良心の呵責なるものが存在するのであろう、生徒には絶対に手を出さないだけ、まだマシなのであるが……『老いてなお盛ん』などとキュルケその他関係者一同から評価されている通り、女性に対する(悪い意味での)行動力及び好奇心が、とにかく半端ないのだ。

 

 そんなオスマン氏が、このような面白い場面を見過ごすわけもなく。

 

 とはいえ『遠見の鏡』では直接部屋の中を覗くことはできないし、たとえやれたとしても、感覚の鋭いあの男なら、感付いてしまうかもしれない。かといって、窓越しでは肝心の音声が拾えない。そこで、ふたりとも〝消音(サイレント)〟の魔法が使えないことを承知していたオスマン氏は隣室の戸棚の裏に巧妙に隠されていた、小さな亀裂を通じてモートソグニルを忍び込ませたのだ。

 

「よしよし、潜入成功じゃわい。さぁて、なにを話しておるのかの~」

 

 にやけ顔で耳をすましたオスマン氏の元に、早速室内の声が飛び込んできた。

 

(わたくしとしたことが、少し先を急ぎすぎましたかな。驚かせてしまって申し訳ありません)

 

(え……あ……)

 

 オスマン氏の目が、くわわっ! と見開かれた。

 

「なんじゃ? この妙に冷静かつ意味深なセリフにかぶさってきた、エレオノール女史の動揺しきったような声は」

 

(ですが、どうしても確認せざるを得なかったのです。エレオノール殿から頂戴したのは、その……実に複雑な問題をはらんだ内容でしたから)

 

(は……はい……)

 

 張り詰めたオスマン氏の全神経は、完全に使い魔の『耳』だけに集中した。

 

(今すぐに答えを出すのは、まず無理でしょうな……お互いに、立場や価値観といった分かちがたいしがらみによって、縛られておりますので)

 

(そ、そうですわね……おっしゃる、通りです)

 

(ですから、この先へ進むためにはエレオノール殿にとって……いや、このわたくしにとりましても相応の時間が必要であると考えます)

 

「さ、先に進むとは、どういうことじゃい!?」

 

 オスマン氏は考えた。

 

「もうエレオノール女史からの告白は終了していて、あやつはその返事を保留しておるということか! いや、それならば最初の意味深なセリフはなんだったんじゃ? まさか、エレオノール君の想いを受け入れた上で手のひとつも握りおったのか、あのガキジジイめが!」

 

 もちろん、これは完全に誤解なのだが……そんなことは初めから話を聞いていたわけではない彼にはわからない。オスマン氏は両の手を握り締め、足を踏み鳴らしながら羨ましがった。

 

「おのれ! 娘が三人に曾孫までおる楽隠居の分際で、あんな美人に言い寄られるとは……うらやまけしからん話じゃ! くそッ、わしに娘のひとりくらい紹介してくれてもバチは当たらんのと違うか!?」

 

 普段は明晰であるはずの彼の頭脳は――何故か女性がからむことによって、おかしな方向へと走り出してしまうのであった。

 

 ついでに言うと。娘を紹介しろなどと言われたら、太公望は肩の荷が下りたとばかりに喜び勇んで面倒を見ている三姉妹の世話を任せるはずだ――ただし、下のふたりはともかくとして、長女については無理、いや無駄だろう。なにせ彼女は心の底から太公望に惚れ抜いている上に、彼の妻を自認しているのだから。

 

 ……そんな真相を知らぬオスマン氏の思いとは裏腹に、室内での会話は続いていた。

 

(とはいえ、このままお帰りいただくというのはさすがに失礼かと存じますので……少しお話をさせていただいてもよろしいですか?)

 

(えっ! ええ、はい……喜んで!)

 

「カァーッ! なぁにが『お話をさせていただいてもよろしいですか』じゃ! 子供みたいなツラして一丁前に気取りおってからに!」

 

(あ、あの、それと……もう、そのような慇懃な言葉遣いはおやめいただけませんか?)

 

(……ふむ、そうか? ならば遠慮無くそうさせてもらうぞ。だいたいわしは、堅苦しいのが苦手なのだ)

 

「おいおい! ふたりとも、もう清く正しい男女交際なんて年齢じゃなかろ!? いっきにガッと行かんかい、ガッと!!」

 

 興奮して思わずドンと机を叩いたオスマン氏であったが、コンコンと学院長室の扉をノックする音が、そんな彼の無駄に盛り上がりまくった気分に水を差した。

 

「く、ここからが本番じゃというのに……入りたまえ」

 

 扉を開けて部屋に入ってきたのは『疾風』のギトーであった。

 

「ったく、風メイジなんじゃから空気読めっちゅうの……」

 

「はっ、何か?」

 

「いや、こっちの話じゃ。で、何用かね?」

 

「まもなく職員会議が始まるのですが、学院長がお見えにならないので……」

 

「なぬ、もうそんな時間じゃったのか! むむむむむ……了解した。すぐに支度をして向かうので、今少しだけ待つよう皆に伝えておいてくれんか」

 

「承知しました」

 

 そう言うと、ギトーの姿はその場でかき消えた。どうやら〝遍在〟を寄越したらしい。

 

「はあ、まったく……げに悲しきは宮仕え、か」

 

 立場上、会議に集中しなければならない。それに、客室内に使い魔を放ったままにしておいて、万が一客人たちに発見されたら目も当てられない。仕方なく、モートソグニルに自分の元へ戻るよう指示を出すオスマン氏。彼の愛鼠は命令を受け即座に引き返してきた。

 

「実にええところじゃったのに。のう? モートソグニルや」

 

「ちゅう、ちゅう!」

 

 駄賃に好物のナッツをもらったモートソグニルはオスマン氏が抱く複雑な思いなど、どこふく風といった様子で嬉しげに鳴いた。

 

 オスマン氏の中で、またしても妙な方向に誤解が深まってしまったようだ。

 

 

○●○●○●○●

 

「あ……あの魔法が、まさか、そんな……! で、でも、確かに……」

 

 その話を聞いたエレオノールは、驚きを顕わにしていた。

 

「どうやら、理解してもらえたようだのう」

 

「ええ。そういうことでしたの……だから、おちびは他の魔法が一切できなかったにも関わらず〝召喚〟と〝契約〟を成功させることができたのですね。かの魔法が――虚無の系統に属するものだったから」

 

 ルーンではなく口語で編まれ、かつ自分の系統に合った魔法だった。故に爆発させずに済んだ。そう結論したエレオノールに太公望は頷いた。

 

「そうだ。最初にコルベール殿から『コモン・マジックのほとんどが、元は系統魔法の初歩の初歩の初歩とされていた』という事実を発見したと聞いた時に、もしかすると、そのふたつがそうなのではないかと思い当たったのだ。しかし残念ながら、確証を得るには至らなかったのだ」

 

「ですがミスタは『始祖の祈祷書』の中に、同じ空間移動に属する〝瞬間移動〟が記されていたという事実によって、それを確信なさったというわけですのね」

 

 エレオノールが提示した説に、太公望は頷きつつも補足を行った。

 

「そもそも、遠く隔てた空間同士を繋ぐ扉を作るのみならず、使い魔との意思疎通を図るための翻訳機能や感覚の共有などといった、とてつない特殊効果が付与されている魔法が汎用魔法(コモン・マジック)とされている時点でおかしいのだ。あ、いや……だからこそなのかもしれんがのう」

 

 エレオノール女史の眼鏡の端がキラリと光る。

 

「もしかすると『始祖』ブリミルは自らの後継者――『担い手』を見出すために、あえて魔法語――ルーンに翻訳せず、口語のままとされておられたのかもしれませんわね? 『伝説』を呼ぶことができる者を探し出すために」

 

 太公望は同意の印に頷いた。

 

「案外、それが真相なのかもしれぬな。エレオノール殿の言う通り、伝説の使い魔を呼び出せた者が〝虚無の担い手〟となる――すなわち秘宝を受け継ぐことができると考えるのが自然であろう。現に『使い手に最も適した系統を判断する』ための儀式専用魔法として、長く利用されてきたわけだからのう」

 

 もしも本当にその通りならば、これはコルベールの論文をも越える歴史的な大発見だ。エレオノールはそれを思うと悔しくてならなかった。

 

 その気になれば、妹の話を一切からめずとも、この説を展開させることは可能だろう。だが、少なくともトリステインのアカデミーには持ち込めない。

 

 何故なら『失われた系統』『始祖の魔法』とされ、神聖視されている〝虚無〟が、実は失われてなどおらず、汎用魔法のひとつとして現代に伝わっていたなどという学説が――たとえ、それが紛れもない事実だったとしても――現在のアカデミー内部に蔓延る風潮やブリミル教における観点から考えれば、絶対に認められようはずがないからだ。

 

 それどころか、逆に『罰当たり』『異端論者』などと非難され、首席研究員の資格を剥奪されてしまう可能性のほうが高い。

 

 エレオノールは深く嘆息した。ほんの少し他と違うものを表に出すだけで、伝統や異端という名の分厚い壁に阻まれてしまう現状に。

 

 そして、彼女は『瞑想』のみならず、自分が書いた論文そのものがそれ(・・)に抵触するものなのだと気が付いた。今、目の前にいる人物が――自ら危険を冒してまでブリミル教という名の概念を外れる覚悟があるかと問うてきたのは、そのためだったのだ。

 

 俯きながら、金の髪の女史は言った。

 

「ミスタの、おっしゃる通りです。今のわたくしは、場やしがらみだけではなく……これまで学んできた伝統や、価値観に強く囚われています」

 

 だが、彼女はその言葉を発した後、ぐっと顔を上げた。

 

「自分から押し掛けてきておいて、このようなことを申し上げるのは大変失礼なことですが……この論文について、いったん取り下げてもよろしいでしょうか。今はどうしても『輪の外』へ出る勇気が持てませんの。お恥ずかしい話ですが……」

 

 しかし、その言葉を受け止めた人物は笑みを浮かべていた。

 

「いいや。むしろ、即答されなくてほっとしたわ」

 

 驚いた顔で自分を見つめるエレオノールに、太公望は言った。

 

「確かに、外を見る勇気は自分を成長させる上で必要なものだ。しかし時には立ち止まり、じっくりと周囲を確認することも、また大切なことなのだ。何事も、ただまっすぐに突き進めばよいというものではない――勇気と無謀は、別物なのだから」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから数時間後。

 

 王立アカデミーの正門前に、家紋入りの豪奢な馬車が停められていた。たまたま部屋の中からそれを見かけたヴァレリーは、小さく呟いた。

 

「あら、もう出張から戻ってきたのね」

 

 ヴァレリーの予測通り、馬車から降りてきたのはエレオノールであった。従者に大きな書類鞄を持たせたエレオノールは、足取りこそしっかりしていたものの、その顔には深い疲労の色が浮き出ていた。

 

「ずいぶんと疲れてるみたいだけど、大丈夫かしら?」

 

 そこまで口にしたヴァレリーは、はたと気が付いた。

 

「うふふ、ちょうど疲労回復の魔法薬を調合したばかりだったのよね。何本かエレオノールに差し入れてあげようっと」

 

 彼女はアカデミーの中でも特に優秀な〝水〟の使い手であり、魔法薬調合の名手でもあった。ヴァレリーは手近の棚に並べられていた小瓶を数本ばかり手に取ると、足早にエレオノールの研究室へと向かった。

 

 エレオノールは自室に戻ってからも悩み続けていた。

 

(歴史と伝統を守ることは、とても大切なことよ。でも、本当にこのままで良いのかしら)

 

 以前見せてもらった〝場〟が、この国を発展させうる技術であることは間違いない。だが、現状ではあれ(・・)を取り入れることなどできないだろう。展開する際に杖を構えていたとはいえ、ほぼ確実に異端認定される。それほどまでに異質な技だった。オスマン氏が平然と受け入れていたこと自体が信じがたい。

 

 『瞑想』にしてもそうだ。

 

(精神力を回復するのみならず最大量を増加させた上に、なんとお肌がスベスベに――いえ、それはともかく。明らかに利益に繋がるものでありながらも、異端に触れるからと使うことができないなんて。髪もツヤツヤになるのに……だから、それは脇へ退けておくとして。惜しいなどという言葉で片付けるには、あまりにも――)

 

 と、そこへ遠慮がちなノック音が響いた。

 

「どうぞ」

 

 扉を開けて入ってきたのは同僚ヴァレリーだった。手に小瓶を数本持っている。

 

「だいぶお疲れみたいね。これ、良かったら飲んで」

 

 微笑みながら差し出されたのは疲労回復によく効く飲み薬であった。時折、彼女はこんなふうに自作のポーションを差し入れてくれるのだ。

 

「まあ、ありがとう。喜んでいただくわ」

 

 何らかの香草を付け加えてあるのだろう、瓶の中から清涼感に満ちた香りが溢れ、エレオノールの鼻孔をふわりとくすぐった。

 

「素敵な香りね。あ、ひょっとして新レシピかしら?」

 

「ご名答。季節の花のエキスを加えてあるの。もちろん、薬効があるもの限定よ。効果は実証済みだから、安心して飲んでちょうだい」

 

 新レシピ。新しい調合。自分の言葉にエレオノールは引っかかった。

 

「そうよ……調合……回復薬は新しくても問題にならない……でも……だから……」

 

 突如トリップしてしまったエレオノールを前にしても、ヴァレリーは全く動じない。研究所の同僚たちがいきなりこんなふうに考え事を始めるのは、今に始まったことではないからだ。

 

「ねえ、ヴァレリー。ちょっと質問があるんだけれど、構わないかしら?」

 

「なあに? あ、もしかして香りが強すぎた?」

 

「ううん、そういうことじゃないの。いい? あくまでもたとえ話よ? もしも、自分の目の前に〝精神力〟を回復したり、増幅するような効果のある、全く新しい道具や薬があったとしたら……あなたは欲しいと思う?」

 

 その質問に、ヴァレリーは目を丸くした。

 

「あらあら、ずいぶんと異端的な考えじゃないの! エレオノールったら、らしくないことを聞くのね」

 

「やっぱり、あなたもそう思うわよね……」

 

 だが、溜め息混じりのその声に対して戻ってきた反応は。エレオノールの予測していた、遙か斜め上を行っていた。

 

「実はね、わたし……作ったことがあるのよ」

 

「えっ?」

 

 ちろりと舌を出しながら、ヴァレリーは言った。

 

「ここだけの話よ? わたしね、昔……精神力増幅薬の調合について研究したことがあるの。だって、上手くいったら絶対に売れること間違いなしでしょう?」

 

 エレオノールは仰天した。大人しい顔をした同僚が、まさかそんなとんでもない真似をしていたなどとは思いもよらなかったからだ。

 

「で、でも、それって……異端よね?」

 

「その通りよ。研究の途中で最高評議会にバレて、即刻中止させられたわ。おかげで首席研究員の席につくまでにずいぶん時間がかかっちゃった」

 

 そう言って肩をすくめた同僚を、エレオノールはぽかんとした表情で見つめた。そういえば……ヴァレリーはアカデミーで最も優秀な水の使い手にも関わらず、自分よりずっと出世が遅かった。まさか、それが原因だったのか。

 

「そ、それで……調合には、せ、成功したの?」

 

 そう声に出すのがやっとだったエレオノールに、ヴァレリーは苦笑でもって応えた。

 

「それがね、確かに増幅させることはできたんだけど。酷い副作用があったの」

 

「副作用……あ、まさか!」

 

「ええ。たぶん、あなたが思った通りよ。〝精神力〟は怒りや悲しみ、それに喜びといった感情の揺れに大きく関わるものでしょう? 一時的に器を大きくすることはできるんだけど、それと同時に感情の動きが激しくなってしまうの。最初に自分で飲んで試してみたんだけれどね……狂ってしまうかと思ったわ」

 

「む、無茶をしたものね……あなたが無事で、本当に良かったわ。だけど、よく異端審問にかけられずに済んだわね、それ」

 

 エレオノールが口元を引き攣らせながらそう言うと、ヴァレリーはふふんと笑った。

 

「馬鹿馬鹿しい話よね、異端認定だなんて。わたしから言わせてもらえれば、異端なんて言い方自体がおかしいんだけど」

 

「……えっ?」

 

「薬で精神力の増幅をしたら異端? 『始祖』ブリミルがそんなことを仰ったわけじゃないでしょう? わたしの研究を異端と認定したのはアカデミーの最高評議会よ。そもそも、地元の司祭さまにこの話をしたら、お怒りになるどころか興味津々って顔をされたくらいなんだから!」

 

「異端認定をしたのは……最高評議会……? 司祭さまは反対しなかった……と?」

 

「そうよ! それどころか、本当にそんな魔法薬がこの世にあれば、救われる命が増えるかもしれないのに、なんて残念がっておられたわ」

 

 ブリミル教の司祭さまが認めておられるのに、最高評議会は異端認定した。これはいったいどういうことか。エレオノールは足元が大きくぐらついたような感覚に陥った。

 

「みんなが幸せになれるかもしれないのに、なんでもかんでも異端、異端って。結局、自分たちが理解できない新技術が出てくるのが気に入らないだけなのよ、上の連中は!」

 

「理解できないから、気に入らない……だけ?」

 

「そうよ! 異端って、本当に便利な言葉だわ。それで下を脅して押さえつけておくだけで、あのひとたちの地位はずっと安泰なんですもの」

 

 自身の過去を思い出したのであろう、痛烈なまでの皮肉を放ったヴァレリー。だが、エレオノールはそこに確かなものを見出した。

 

「安泰……だから、異端……新しいものを……否定……それが『輪の中』……」

 

 新しいもの。つまり、今までの常識の中になかったものをずっと否定し続けていれば……それは現状維持に繋がる。発展や進歩はないかもしれないが、常に安定する。

 

 現状を維持することで利益を得る者たちがいる。だからこそ、彼らは声高に新しいものを否定し「異端」だと叫び続ける。多くの民を伝統や格式という名に彩られた、見かけだけは美しい『輪の内』に無理矢理閉じ込めて、外の世界へ一歩も出さないようにしているのだ。

 

 ――わたくしは、いま……とてつもない『真理』を掴んだのではないだろうか。

 

「ねえ、ヴァレリー。明日の夜、時間を取ってもらえないかしら?」

 

「え、ええ。それはかまわないけれど……何かあるのかしら?」

 

「夕食を一緒にどうかと思って。どうしても、あなたにお礼がしたいの」

 

「ええっ!? わ、わたし、そんなつもりで薬を持ってきたわけじゃ……」

 

「もちろん、それだけじゃないわ! あなたはね、本当に素晴らしいものをわたくしにもたらしてくれたのよ!!」

 

 突然自分の身体を抱き締めてきたエレオノールに、ヴァレリーは目を白黒させた。

 

 こうして。思いも寄らぬ場所で〝天啓〟を受けることとなったエレオノールは、自身の中にあった頑迷な鎖のうちの一本を、見事断ち切ることに成功した――。

 

 

 




エレオノールさん、魔法科学の母になる前に
哲学に目覚めるの巻。

私が恋愛モノを書こうとすると、どうしてこう
勘違い系に偏るのか……。


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異界に立てられし道標
第72話 灰を被るは激流、泥埋もれしは鳥の骨


 ――夏の終わりも間近。ニイドの月、ティワズの週、ユルの曜日。

 

 例年ならば、王都トリスタニア近辺の街道は避暑地でのバカンスを終えて戻ってきた貴族や一部の裕福な平民たちの往来が目立ち始める時期だ。しかし、今年はそんな季節の風物詩の代わりに全く別のものが随所に見られた。

 

 晩夏の日差しに輝き、はためいているのは、紫色の布地に金糸で薔薇と豹の紋章が縫い込まれた旗印。その旗の下に夏装備の兵士たちが配備されている。

 

「あれはグラモン家の家紋じゃないか。ギムリの言った通りだ」

 

 魔法学院へと向かう乗合馬車の中窓から外を眺めていたレイナールは、普段冷静な彼にしては珍しく、驚きもひとしおといった顔で側に腰掛けていた少年に声をかけた。

 

「だろう? グラモン元帥が首都防衛責任者に任命されたってのは父上が宮廷のサロンで聞きつけてきた話なんだから間違いないって」

 

 ギムリと呼ばれた少年――レイナールと同じ魔法学院行きの駅馬車に乗り合わせていた彼のクラスメートは友人からの問いに、訳知り顔で胸を張った。

 

 級友の発言を受けて改めて外を見たレイナールは、街道要所に王軍だけではなく、諸侯軍――それも王国陸軍元帥であるグラモン伯爵家の兵士たちが多く配備されている事実に心の底から驚いていた。戦時下でない今、ここまで諸侯軍が展開するなど、数千年の長きに渡るトリステインの歴史を振り返ってみてもありえない事態だ。

 

 レイナールは途中の駅で購入した新聞を広げた。トリステインには王政府が各種の布告を行う際に利用する広報機関の他に、トリスタニア近郊に広がっている様々な噂話を集めて記事にまとめ、売り出している小規模の新聞社がいくつも存在する。いま彼が手にしているのも、そんな情報紙のうちのひとつだ。

 

 一ヶ月前にアルビオン王国の空軍都市・レキシントンを陥とした貴族連盟『レコン・キスタ』は怒濤の勢いで進軍を続けていた。戦略空域を抑えられ、さらに王立空軍最大のフネにして旗艦でもあった『ロイヤル・ソヴリン』を奪われた王党派は国内各地で敗走を繰り返していた。現在紙面を賑わしているのは、専らアルビオンの戦況に関する情報だ。

 

「アルビオン王党派拠点・王都ロンディニウム、貴族派連盟によって完全包囲さる――か。想像以上にアルビオン王家は追い込まれているようだね」

 

「それ、いつの情報だ?」

 

「ええと、三日前だね。さすがに王都がそう簡単に陥ちるとは思えないけど……」

 

 眉根を寄せてレイナールが呟くと、ギムリも生真面目な顔でそれに答えた。

 

「だな。レキシントンの例があるから、どう転ぶかわからない」

 

 アルビオンの空軍施設都市・レキシントンが、包囲されてからわずか半日で陥落したという衝撃的な事件は、既にトリステインのみならず、世界各地へ広まっていた。

 

「このままアルビオン王家が倒れた場合、次に狙われるのは、ほぼ間違いなく我らがトリステイン王国だろうから、王政府が早急に防衛の準備を開始するのは当然だとしても……こんなに早い時期からグラモン元帥が出てくるなんて、正直驚いたな」

 

「それだけどさ、あの『鳥の骨』がグラモン閣下を推薦したらしいぜ」

 

「えっ、本当かい!? ギムリ」

 

「うん。なんでもレキシントンが陥落した日に、緊急で開かれた議会に提出したんだとさ。おまけに全会一致で可決したらしい」

 

「意外だな。いや、決定内容がどうこういう話じゃなくてさ、その……」

 

「きみが言いたいことはわかるよ。いつもの王政府なら、誰を防衛の責任者にするかで大モメするか、ぎりぎりまで引っぱった挙げ句ド・ポワチエ中将あたりを出して様子見する程度だっただろうに今回はいやに動きが早かったからな」

 

「こ、声が大きいよ!」

 

 友の不敬な発言に驚いたレイナールは慌てて彼を制すると、用心深く周囲を見回した。だが、幸いなことに彼らの話に聞き耳を立てている者は、車内にはいなかった――単に聞いていないふりをしているだけなのかもしれないが。

 

 それからしばらくの間、ふたりは無言のまま馬車に揺られながら、車窓の外をゆっくりと流れゆく景色を眺めていたが……ふいにレイナールが、ぽつりと呟いた。

 

「始祖の御代から続いた『王権』の一柱が、ついに倒れる……か」

 

「グラモン元帥が防衛に立ったくらいだから、それについてはほぼ確実だと思う」

 

「もうすぐ、戦争になるんだろうね」

 

「……だろうな」

 

 

○●○●○●○●

 

「そうとは限らぬ。逆に、完全に防衛を固めてしまったトリステインに攻め込むのを躊躇するかもしれんな。うまくすれば、戦自体が起きない可能性もある」

 

 ――翌日。

 

 食堂のテラス席で、見てきたままを伝えたレイナールに対して太公望が行った返答がこれであった。ちなみに現時点で魔法学院に帰還を果たしている水精霊団のメンバーは太公望、タバサ、キュルケ、レイナール、モンモランシーの五名だけだ。

 

 モンモランシー曰く、ギーシュはひとつ上の兄と共に領内に現れた妖魔の討伐に出かけるため、学院に戻るのは新学期の直前になるという手紙を寄越してきたらしい。

 

 ルイズと才人については、あと数日で戻ってくるとのことだ。これは先日王立図書館への立ち入りに関する口利きをしてくれたエレオノールからもたらされた情報である。

 

 何かを深く考え込むような表情で、レイナールは言った。

 

「それは『レコン・キスタ』と『アルビオン貴族派』本来の目的がそれぞれ異なるから、ということでいいのかな?」

 

「ふむ。その答えが出せるということは、なぜ此度の戦が起きたのか知っておるのだな?」

 

 太公望の問いかけに、レイナールは頷いた。

 

「確か、モード大公――アルビオンの王弟殿下が粛正されたことが、大公殿下に仕えていた貴族たちが王家に反乱を起こすきっかけになったんだよね。最初は小さな内乱だったんだけど『レコン・キスタ』が戦列に加わったことで、一気に流れが変わったんだ」

 

「ああ、なるほどね。大公の仇を討ちたかった貴族派と、王家を倒して『聖地』奪還を目指す『レコン・キスタ』は当面の目的が一致していたから手を組んだ。でも……」

 

 キュルケの言葉にタバサが追従する。

 

「大公の敵討ちを果たした貴族派が、その時点で離脱する可能性がある」

 

 ふう……と、憂い顔でため息をひとつついた後、太公望は口を開いた。

 

「嫌な言い方だが、戦によって勝ち得た土地を切り分けるという大切な仕事も残っておるしのう。特に、勝ち馬に乗って後から貴族派に鞍替えした者どもは本当に取れるかどうかわからぬ『聖地』や隣国などよりも目先の利益に飛びつくであろうしな」

 

 ハーブティ入りのカップを口に運んだ後、モンモランシーは呟いた。

 

「わざわざトリステインに攻め込むよりも先に、新しい領地の確保に走ろうとするひとたちが大勢出るってことね」

 

「そういうことだ。ところがレコン・キスタは『頼りない王家を打破し、自分たちが旗頭となり聖地を目指す』という大義を掲げる以上、急いで体制を立て直して残る二王家へ攻め込まねばならぬ。そうでなければ、内部勢力や民の支持を得られぬからのう。だが……」

 

「既に目的を達成した貴族派と、日和見に徹している者たちを動かすのは大変」

 

「相手が完全に守りを固めちゃったトリステインと、ハルケギニアで一番大きな国ガリアだもの、説得するのも骨よね。かといって『聖地奪還戦争』を取りやめて領地の奪い合いをするなんてことは彼らの『正義』に反することだから、無理でしょうしね」

 

 『聖地奪還戦争』と『正義』というフレーズを妙に強調したキュルケだったが、この場に集っていた全員が彼女と全く同じ思いを共有していた。

 

「最終目標が完全に異なる者たちが多数集まっておる。しかも、彼らの『連盟』を構成する大きな勢力のうちふたつの目的は、アルビオンが陥ちた時点で達成されてしまうのだ。このような状況下では、ほぼ間違いなく揉め事が起きるであろうな」

 

「そうなれば、貴族連盟は空中分解。足並みを揃えてトリステインに攻め込むことなんて、まずできなくなる」

 

 太公望とタバサの言葉に、レイナールは思案げな顔で頷いた。

 

「なるほどね。こんなに早く防衛を固めたことにも、いきなり王国元帥のグラモン伯爵が出てきたのにも驚いたけど、そうか。そういうことなら納得できるな。この布陣最大の目的は防衛じゃなくて、相手の結束を揺るがすことだったんだね」

 

「うむ。実際、かなりの牽制になる。そうして空の上で敵軍がもたついている間に、トリステイン側はさらに防衛を固めつつ、その他の国と交渉して上手く連携を取ることができれば――相手の本拠地が孤立した浮遊大陸だけに、あっさりと包囲網を作り上げることができるであろう」

 

 レイナールは懐からメモ帳を取り出すと、ここまでの会話内容を書き記した。そんな彼の様子を好ましげに見遣りながら、太公望は続けた。

 

「とはいえ、あくまでこれは机上の空論だ。もしやすると王党派がここから奇跡の大逆転を果たすかもしれぬし『レコン・キスタ』と貴族派の結束が想定以上に固く、包囲網を敷くのが間に合わぬ可能性もある」

 

「ガリアとゲルマニア、それとロマリアがどう出てくるかもわからないしね」

 

「そうだのう。政治や戦は生き物だ。どう動くかある程度の予測はつくが、実際のところはその時になってみるまでわからぬ。だから、わしらが今できることといえば……」

 

 と、そこへ同じく実家から戻ってきていたメイドのシエスタが、新しいティーセットと大きなフルーツケーキを持って現れ、テーブルの上へ静かに乗せた。

 

「これを切り分けて、みんなで仲良く味わうことくらいだ」

 

 そう言ってナイフを手にした太公望を、タバサが制した。

 

「わたしが切る」

 

「まあまあ、ここはわしに任せておけ!」

 

「ホールの五等分は難しい」

 

「だからこそ、このわしが自ら公平に切り分けようと言っておるのだ」

 

「わたしが切る」

 

「のう、タバサよ。まさかおぬし、わしのことを信用しておらぬのか?」

 

「あなたがいちばん小さなピースを取るというのなら、任せてもいい」

 

「…………」

 

「何故黙っているの?」

 

「ピースの選択順は、くじ引きで決めるというのはどうだ?」

 

「ナイフを寄越して」

 

「なんなら、じゃんけんでもかまわぬぞ?」

 

「デル・ウィ……」

 

「ま、待て! 魔法で切ろうとするでない!!」

 

 ふたりのやりとりを見たキュルケが、思わずぼやいた。

 

「ケーキひとつとってもこれだもの。それが領土となったら、モメて当然よね」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――若き貴族たちが、隣国の未来とケーキの大きさを比較していたちょうどそのころ。

 

 ゲルマニアから王都トリスタニアへ続く街道を、風格溢れる四頭立ての馬車がゴトゴトと音を立てて進んでいた。その中にはトリステイン希代の宰相が静かに座していた。車内に同乗者は存在していない。

 

 マザリーニ枢機卿、当年とって四十歳。だが、その髪や髭はすでに深雪のように白くなり、肌には深く細かい皺が刻まれ、長く伸びた指は骨張っていた。

 

 そのせいで、少なくとも五十代、いや六十代と言っても通用するほどの老爺に見える。先帝亡き後、トリステインの内政と外交の全てを執り仕切ってきた激務の日々が、彼の姿を老人そのものに変えてしまっていたのだ。

 

 王座空白という他国が付け入るのに都合のよい状態が長く続いたにも関わらず、列強と比べて吹けば飛ぶような小国トリステインが無事でいられたのは、マザリーニの持つ優れた外交手腕と涙ぐましいまでの内政努力によるものである。

 

 マザリーニは、ただひたすらに第二の祖国であるトリステインに、己の全てを捧げ尽くしていた。だが、そんな彼のいじらしいまでの献身と確かな政治能力を見てもなお、多くの貴族や民衆たちは『鳥の骨』などと枢機卿を揶揄し、嫌っている。

 

 先代国王即位の際に、異国ロマリアから派遣されてきた司教枢機卿であること。平民の血が混じっているなどとまことしやかに囁かれていることなどが、宮廷の内外に彼が意図せぬ敵を多数作り出していた。他国ならばいざ知らず、特に伝統と格式を重んじるトリステインにおいて、マザリーニの出自は逆風にしかなり得なかったのである。

 

 小さく揺れる馬車の中で、枢機卿はひとり思考の淵へと深く沈み込んでいた。

 

「やはり、これが皇帝の狙いであったか。いや、考えるまでもなかったな。だからこそ事ここに至るまで、返答を引き延ばしていたのだろうから」

 

 数日前。軍事防衛同盟締結に向けて首府ヴィンドボナにて行われた、ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世との対談中に、トリステインの将来に関する憂慮すべき懸案事項が持ち上がったが為に、彼は馬車の中でひとり静かに物思いに耽っていた。

 

「王室同士の血の結びつきが両国の同盟に花を添えるなどとは、皇帝め……よくも言ったものだ。アンリエッタ姫を娶ることで、我が国を緩やかに併合することこそが自分の狙いだと、口以上に目が語っておったわ」

 

 ゲルマニアがトリステインと軍事防衛同盟を結ぶにあたり、条件として皇帝アルブレヒト三世が求めたものとは――トリステインが誇る麗しき白百合姫・アンリエッタとの婚姻であった。

 

 ゲルマニアの皇家は『始祖』ブリミルの血を引いていないという理由から、ハルケギニアの諸王国においてトリステイン、ガリア、アルビオンの三王家及びロマリア皇国連合よりも格下であるとされている。そのため、かの帝国を統べる皇帝は、トリステイン王家と血を通わせることによって自らの地位と家格を高めることを強く望んでいた。

 

 また、トリステインの王室にはアンリエッタ姫以外に子が存在しない。そのため、彼女がゲルマニアの皇室へ嫁いだ場合、伝統ある王家の直系が途絶えてしまうことになる。

 

 そればかりか、姫君と皇帝の婚姻関係、あるいは彼らの間に生まれた子を継承者として強く前面に押し出すことで、将来的にトリステインがゲルマニアの一地方とされてしまうことはほぼ確実。よって、どんなに国が困窮しようとも、姫君を嫁がせることなどありえない話であった――つい先日までは。

 

 マザリーニは声を上げずに嗤った。

 

「皇帝よ、残念ながらそう上手く事は運ばぬぞ。既に我が国の『王権』は、しかるべき場所へと移動しておるのだから」

 

 王国宰相にしてブリミル教司教枢機卿マザリーニだけが知る『王権』の在処。当然、それを所持する本人――国境守護役ラ・ヴァリエール公爵も、事の重大さを充分に理解していた。

 

 ふたりは既に秘密裏に会談を行い、事実と意志の確認を行っている。もっとも、現時点でそれを表沙汰にして国をふたつに割るような真似をするほど彼らは愚かではない。

 

 特に、トリステイン王国の乗っ取りを企んでいるなどとあらぬ噂を立てられているマザリーニが慎重になるのは当然だ。

 

 よって、彼らは表向きは今まで通り、互いに中立あるいは不仲であるよう振る舞い――だが、裏ではしっかりと手を取り合っていた。それがまた、マザリーニには嬉しかった。

 

 公爵ほどの大物が、色眼鏡を通して自分を見ることなく、正当に評価してくれていたことがわかったばかりではない。彼が宰相として背負い続けてきた重荷の半分を自ら引き受けてくれようとしているのだから。

 

「姫殿下が仰った通り、かの『指輪』が、あのお方を変えてくださったのだ」

 

 トリステインで最大の権勢を誇るだけでなく、このハルケギニアで有数の大富豪にして、王位継承権第三位まで持つ大貴族でありながらも、その立場に驕ることなく、常に周囲の者たちを立て、影ながら王家を支え続けてきた忠臣の中の忠臣。

 

 かつて、ラ・ヴァリエール公爵に摂政の座へ就いてもらい、アンリエッタ姫が成長して王配――婿を迎えるまでの間、共に政治の杖を振るって欲しいと匂わせたことがある。だが、その時はきっぱりと断られてしまった。マザリーニもそれ以上食い下がろうとはしなかった。

 

 公爵が摂政になるということは、当然国境防衛の任務と兼任になる。彼が睨みを利かせているからこそ大人しくしているゲルマニア貴族どもが、これ幸いとちょっかいをかけて来かねない。

 

 これらの事情と、目立つことを嫌い控えめな公爵の人柄を鑑み、即座に諦めてしまったのだ。

 

 ところが、そんな人物が前へ進み出てきてくれたのだ。『王権の指輪』を手にして。しかも国の存続がかかった一大事に、自ら立ち上がってくれた。公爵の導きの指で輝く水のルビーを目にしたそのとき、マザリーニの心は年甲斐もなく躍った。

 

 

 ――トリステインの国難は、先々代国王フィリップ三世の即位から始まった。

 

 フィリップ三世は『英雄王』などと讃えられるほどに戦の才能に恵まれていた。しかし「政治は苦手」と公言し、他国や内部の反乱勢力との闘争にのみ明け暮れ、国政を一切顧みず、当時の大公エスターシュに全て丸投げしていたのだ。

 

 にも関わらず、稀代の名君との評価は全てフィリップ三世のものとなる。これでは大公が怒るのも無理はない。いつしかその怒りは野心に変わり、彼は王位簒奪のための兵を起こすに至る。

 

 幸いなことに、この反乱が大きくなる前に『烈風』とその仲間たちがエスターシュの野望を阻止することに成功したのだが――問題はその後だ。

 

 執政の全てを取り仕切っていたエスターシュ大公が処刑された後、その椅子に座ったのが若き日のラ・ヴァリエール公爵、ピエール・ド・ラ・ヴァリエールだ。

 

 当時はまだ公爵位を継いでおらず、近衛騎士としてフィリップ三世に仕えていたのだが――王位継承権を持っていたのが彼の不幸だった。大公が斃れてもなお政治に無頓着だった『英雄王』の尻ぬぐいをする羽目になったのである。

 

 このときの経験が公爵の為政者としての実力を高めさせたのだが……それはさておき。

 

 そんなピエール氏も数年後、父の急逝でヴァリエール公爵領へ戻ることになった。しかし、幸いなことに――と言うのは不敬だが、既に次のトリステイン国王が定まっていたことで、王政府の混乱は最小限に留まっていた。

 

 フィリップ三世の一粒種、マリアンヌ姫の王配として請われたアルビオンの第二王子ヘンリー・テューダーがマリアンヌたっての希望でトリステインの王座に就いたのだ。女王の即位がハルケギニアの歴史上数例しかなかったことも、これを後押しした。

 

 ヘンリー一世は『英雄王』が落とした影により傾きかけていた国を立て直すべく、人材の発掘に努めた。当時まだ二十代であった若き日のマザリーニを宰相として重用し、マザリーニもまた王の引き立てに応えるべく努力した。

 

 手を取り合い、共に苦難の道を歩むうち、王と宰相の間には、いつしか友情という名の固い絆が生まれていた。ふたりは苦心惨憺して国政に立ち向かって行った。

 

 それから十数年後。苦労の甲斐あって、少しずつだがトリステインが上向きとなる兆しを見せ始めていたそのとき――彼らの努力を嘲笑うかのように、死に至る流行病が発生した。

 

 畏るべき病は平民も、王侯貴族たちにも分け隔て無く襲いかかり――多くの民と、善き国王をヴァルハラへと連れ去ってしまった。

 

 片翼を失った王国は、もう一枚の羽根によってかろうじて高度を保ちつつ、だが、静かに地面へと向け落ちてゆこうとしていた。そこに、新たな翼が生えてきたのだ。

 

 あの議会中、公爵が行った大立ち回りを見たマザリーニは、まるで志半ばで倒れた先代国王がヴァルハラから舞い戻ってきてくれたような錯覚に陥った。それほどまでに『指輪』によって生まれ変わった公爵の姿は、眩しかった。

 

 さらに公爵はマザリーニに対し、裏で密かにこう告げたのだ。

 

「枢機卿猊下。長きに渡り続いてきた伝統を打ち壊すという大罪を負い、末期の灰を被るのは……わたくしのような老い先短い年寄りにこそ相応しい役目だと思うのです」

 

 公爵が放ったこの言葉が『王国の守護者』たる枢機卿の意志を、完全に決定した。始祖に捧げる懺悔の如き言葉の中に込められた公爵の決意を知ったマザリーニの心は、激しく震えた。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は、国と民草を救うためならば、自らを簒奪者の立場にまで貶めても構わないと言っているのだ。何代にも渡って王家の側近くに仕え続けてきた名家の当主がこの決断をするまで、果たしてどれほどの勇気を振り絞る必要があったのか。

 

 マザリーニは、その心情がわからぬような馬鹿者ではなかった。

 

 ブリミル教司教枢機卿マザリーニは、公爵の前に深く頭を垂れて宣言した。

 

「閣下。なんとしても、あなたさまを清い御姿のまま王座につけてご覧にいれます。そのためならば、わたくしめはいくらでも泥を被ってみせましょう。何故なら、それこそがトリステインを混迷の内から救い出す唯一の『道』にして、希望だからです」

 

 ……この時から、彼らふたりは盟友となった。

 

 清廉潔白な人格者として国内外に知られるラ・ヴァリエール公爵にも、敵対する者が全く居ないわけではないが――いや、むしろ一切敵を作らぬよう、周囲の機嫌だけを伺いながら行動するような人物が王たりえるはずがない。

 

 もともと、マザリーニは公爵が持つ為政者としての手腕を疑うどころか尊敬すらしていた程であるし、そういった意味でも彼に大きな期待を寄せていた。

 

 枢機卿の中では、もはやトリステインの王座は空位ではない。彼の脳裏には、そこに座る人物が――登場を待ち焦がれていた強き国王の御姿が、まざまざと浮かび上がっているのだ。

 

「皇帝からの申し入れは、ある意味渡りに船だな。王権を持たぬゲルマニアと誼を通じることで、強力な軍事防衛同盟を結べるばかりか『レコン・キスタ』の矛先を、ある程度分散させることにも繋がる」

 

 本来、王権を持たないゲルマニアは『レコン・キスタ』の攻撃目標たり得ない。かの国を攻めることは彼らが掲げる理念に反するからだ。ところが、トリステインとゲルマニアの両国が血の絆によって結ばれ、さらに軍事防衛同盟を組むとなれば話は別だ。

 

 ゲルマニアは本来不必要であった貴族連盟への防衛に戦力を回さねばならず、しかも自国領を戦火にまみえさせぬために、アルビオン大陸からの防波堤となるトリステインを死守する必要性が出てくるのである。

 

 唯一人の姫君を娶った上でトリステインを見捨てるなど論外だ。もしもそれを行った場合、ゲルマニアは国際的な評価を大きく下げるばかりか、攻め入るための口実を得て勢い付いた『レコン・キスタ』の手によって、激しい戦禍に晒されることになるだろう。

 

「アンリエッタ姫を娶るのは、ゲルマニアにとって自ら大きな危機を呼び込むことに繋がる危険な賭けなのだが、領土の拡大と地位向上に熱心な皇帝は、どうやらその事実に気が付いていないようだな。だからこそ、平然とあのような申し入れをしてきたのだろう」

 

 いっぽう『レコン・キスタ』の側はというと。これまではトリステインとガリアの動向だけでなく、ゲルマニアからも目が離せなくなる。

 

 既にトリステイン内部に放たれている間諜――ラ・ヴァリエール公爵から、高等法院の長リッシュモンや彼の取り巻き、一部の有力な商家がその役割を果たしているという驚愕の内偵調査報告を受け取っていたマザリーニは、自身も信頼を置く密偵を各所に放ち、情報収集に奔走している。

 

 結果、国内で蠢いていた者どもの目が、外――特にゲルマニア周辺に向けて動き出していることを突き止めている。諜報と策動のために、より多くの人員を割くことを余儀なくされた裏切り者たちは、これから大変忙しいことになるだろう。

 

 マザリーニはそんな者たちに同情するほどお人好しではない。いつでも不逞の輩を取り押さえることができるよう、特に有能な部下を用いて物証集めに尽力した。あとは逮捕状を用意するだけで佞臣どもを処断することができる状態にまで準備を整え終えている。

 

 序盤戦である情報収集において、トリステインが貴族派連盟と帝国を完璧に抑え、イニシアティブを取れた。これは情報伝達手段が少ないハルケギニアにおいて、非常に大きい。

 

「王家の血を、戦禍を被る危険性の高いトリステインから、比較的安全なゲルマニア領内へと避難させることにもなる。国同士を婚姻によって結びつけるという、実にもっともらしい理屈をつけた上で……な」

 

 そうしておけば、最悪トリステインが『レコン・キスタ』によって陥とされても、主家の血筋を絶やすことなく残すことができる。この場合、トリステインが革命貴族派連盟による共同統治、あるいはゲルマニア領となってしまうことは避けられないが、どのみち国が滅亡しているのだから、血を残すことができるだけ、まだましと言えるだろう。

 

「しかも、内乱を起こすことなく堂々と陛下(・・)を王座に上らせることまで可能としてくれるとは、なんともはや素晴らしき提案だ」

 

 マザリーニは、頭の中で改めてトリステイン国内の現状を確認した。

 

 先日まで王位継承権第一位を持っていたマリアンヌ王妃については、夫の喪に服し続け、女王への即位を頑なに拒み続けている。つまり、既にその権利を放棄している状態だ。さらに、事実上の継承権第一位のアンリエッタ姫が他国へ降嫁すれば、その時点で彼女の持つ権利は完全に消え失せてしまう。

 

 結果、自然と王冠はラ・ヴァリエール公爵の手元に転がり込んでくるのだ。しかも、それ以降の継承順位については特に定められていない。王室の存続を図る上では危険極まりないことではあるのだが、お陰で公爵は誰憚ることなく王座につくことができる。

 

 もちろん、宮廷内外での反発が一切起きないでもないだろう。国王不在で国内が不安定な今だからこそ、甘い汁を吸えている者が大勢いるからだ。王位継承権を持つ身とはいえ、公爵が主筋ではないからと難色を示す者が、ほぼ間違いなく出てくるはずだ。

 

 とはいえ、家柄で唯一公爵の対抗馬たりえたモンモランシ家は、ラグドリアン湖の干拓事業に失敗したばかりか、そこに住まう水の精霊の怒りを買い、ついには交渉役の任をも解かれ、すっかり没落してしまっている。王座を争う能力など、あろうはずもない。

 

 ラ・ヴァリエール公爵家に次ぐ資産を誇るクルデンホルフ大公家は、豊富な資金力によってその地位まで上り詰めた、所謂『成り上がり』だ。また、当主が王家の血を引いているわけでもない。よって、家柄に関して言えば完全に位負けしている。

 

 それに、名目上とはいえクルデンホルフは既に大公国としてトリステインから独立している。王の即位に関して口を挟むのは難しいだろう。

 

 万が一、クルデンホルフ大公が王位継承戦に立ったとしても、勝負は既に見えている。彼の味方につこうなどという奇特な者は、ほぼ皆無であるに等しい。

 

 懐の寂しい大勢の貴族たちに金を貸し付け、それによって彼らの首根っこを強引に押さえつけている『金貸し』クルデンホルフ大公は『鳥の骨』マザリーニよりも人気が無い。それどころか、憎まれているといっても過言ではないのだから。

 

 国軍の頂点に立つグラモン伯爵家に至っては、古くからラ・ヴァリエール公爵の盟友として通っており、既に水面下では公爵・枢機卿・伯爵の間で三者同盟が成立していた。

 

 このように、トリステイン国内には、単体で御輿となりえるような候補はいない。そもそもラ・ヴァリエール公爵は、姫から――たとえ彼女がそれを知らなかったからとはいえ、王権の象徴とも呼べる『水のルビー』を手ずから下賜されているのだ。血筋についても王家の傍流。宗教的な見地からも、家柄の面においても、即位を反対される筋合いはない。

 

 とはいえ『指輪』を前面に出すのは、ロマリア宗教庁の不必要な政治介入を防がねばならないという意味合いから、あくまで最後の手段として取っておかねばならないが。

 

 そう……全ては、アンリエッタ姫の去就次第なのだ。ここに来て、彼女は『クイーン』ではなくトリステイン・ゲルマニア両国における『ジョーカー』と化していたのだ。

 

「急いては事をし損じる。かといって、この機会を逃すわけにはいかん。なにせ、これはガリアとロマリアが未だ『レコン・キスタ』に対する声明を出していない、今だからこそ行える縁組みとも言えるからな」

 

 『始祖』に連なる王権を打破すると宣言している貴族派連盟『レコン・キスタ』は、本来であれば完全に異端認定されてもおかしくない存在なのだ。もしもロマリアが何らかの声明を出せば、たったそれだけで彼らを内側から崩壊させることもできるだろう。それほどまでに、ブリミル教の権威は強大なのである。

 

 この状況下で、教皇と宗教庁は完全に沈黙を守っている。金にならないことに余計な首を突っ込み、火の粉を浴びるような真似を避けている。あるいは頼られるのを手ぐすね引いて待っているのだというのが、マザリーニ枢機卿の見立てであった。

 

 実際に少しでもロマリアが持つ権威、つまりブリミル宗教庁の手を借りた場合、以後間違いなく内政干渉を受け続けることになり、実質上、かの皇国の属国と化してしまう。そうなったが最後、民は血の最後の一滴まで絞り尽くされることになるだろう。

 

 それを極端に畏れるがゆえに、滅亡の危機に見舞われているアルビオン王室も、安易に彼らを頼ることができないのだ。『光の国』『喜びの野』などと敬われるかの皇国の実体は、欲と陰謀にまみれた魔窟なのだから。ロマリア出身の聖職者であるマザリーニ枢機卿には、テューダー家の苦悩が痛いほど理解できた。

 

 残る『王権』を持つガリアはというと、内憂を払うことで手一杯という有様で、援軍を出す余裕がないという状態だ――表向きは。実際のところはそれほどの脅威を受けているようには見えず、のらりくらりとトリステイン側から持ちかけた交渉を躱されているというのが実情だ。

 

 とはいえ『シャルル派』と呼ばれるガリアの反体制派が『レコン・キスタ』と繋がっている可能性も否定できないため、トリステインとしても兄弟国の絆を強調し、軍事的な支援を取り付けることができないでいる。援助を行うために貴重な戦力を割いてくれたガリアが、内部の反乱勢力の手によってアルビオンの二の舞となる危険性を孕んでいるからだ。

 

「しかし、このような情勢だからこそ、我が国がゲルマニアと手を組むことを、状況的にも当然の流れと見せかけられる。しかも、同盟の条件である姫との婚姻は、我が方から申し入れたことではない。いやはや、実によいタイミングであったよ。皇帝閣下(・・)

 

 枢機卿の中では既にアンリエッタ姫の輿入れは決定事項であった。あとは、細かい条件をよく検討して、じっくりと煮詰めるだけだ。自分が認めた王と共に。彼は頑ななまでに、それが最善であると信じていた。

 

 ――しかし。歴史の流れは、敏腕政治家たるマザリーニが想像すらしていなかった方角から吹き始めていた〝風〟によって奔流となり、底深き滝壺に向かおうとしていた。

 

 

 




説明会続きで申し訳ないです。
本編初、マザリーニ枢機卿の登場。
胃薬テイスティングでは他の追随を許しません!
……最後が不穏ですが。


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第73話 険しき旅路と、その先に在る光

 ――毎夕定例の職員会議終了後。

 

 研究室へ戻ろうとしていた『炎蛇』のコルベールを、学院長が呼び止めた。

 

「コルベール君」

 

「はい、私に何か?」

 

「新学期の授業に関する準備のため、書類の作成を手伝って欲しいんじゃが……」

 

 その依頼に、コルベールは嫌な顔ひとつせずに頷いた。

 

「作業はこちらで?」

 

「必要な資料が学院長室にあるでな、悪いが一緒に来てくれんか」

 

「承知致しました」

 

 こういった仕事は秘書のミス・ロングビルが学院を去った――正確には国の衛士に引っ立てられていった後、教員たちが持ち回りで行っていたことだ。

 

 そのため、コルベールはもちろんのこと、その他教職員たちも何の不審も抱かなかったのだが――学院長室内で実際に申し渡された話の内容は、彼の想像を絶するものであった。

 

「ミス・ヴァリエールが〝虚無の担い手〟ですと!? いや……とうの昔に気付いていてしかるべきでした。彼女が呼び出したのはガンダールヴ。かつて『始祖』ブリミルが使役したと言われる、伝説の使い魔なのですから」

 

 畏るべき事実を前にして、コルベールは全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。この話はトリステインの国家機密に抵触するどころではない。ハルケギニア全土を揺るがしかねない大事だ。

 

 以前、教え子のひとりが東方ロバ・アル・カリイエの退役元帥を召喚してしまったと知った時も背筋が冷えたものだが、これはその時の衝撃を遙かに上回る。

 

「本来であれば、これは明かすべきでない秘事なのだが……サイト君の正体を真っ先に突き止めた君には前もって知らせておくべきだと考えたのじゃよ。何かのきっかけで辿り着かんとも限らぬからの。ラ・ヴァリエール公爵には既に許可を取ってある」

 

 オスマン氏は驚愕に打ち震える部下に、さらなる爆弾を投下し続けた。

 

 四系統とは異なり〝虚無〟に目覚めるためには、特定の条件を満たす必要があること。

 

 その条件とは『担い手』となる資質を持つ者が秘宝を手にすること。

 

 秘宝とは、三王家と教皇が代々受け継いできた系統の指輪と始祖の宝物。

 

 資質については未確定だが、おそらく伝説の使い魔を呼び出せた者であること。

 

 選ばれし者が指輪を填め、宝物に触れると始祖の御言葉が現れること。

 

 その言葉を授かることによって、はじめて〝虚無の担い手〟が誕生するのだと。

 

「わしはミス・ヴァリエールが〝水のルビー〟と〝始祖の祈祷書〟を手にする場面に立ち会い、実際に〝虚無〟が目覚める姿を目の当たりにした。〝虚無魔法〟の効果も確かめた。あれは、断じて系統魔法で再現できるものではない。彼女は紛れもなく『始祖』ブリミルの後継者なのじゃ」

 

「この話を、王室には……?」

 

「報告できるわけなかろう。万が一この情報が外に漏れたら、宮廷で暇を囲っておる雀どもが、戦がしたいとさえずりはじめるに決まっておるわい」

 

「な、なるほど……」

 

「ただでさえ、アルビオンがあのような状況に陥っている今、トリステインで王位継承戦争を起こすわけにはいかん。そうなったが最後、この国は完全におしまいじゃ」

 

「で、では、どうして私に、このような大事を打ち明けられたのです……?」

 

 戸惑いの表情を浮かべたコルベールに、オスマン氏は重々しく告げた。

 

「この学院に勤める教員の中で、唯一君にしかできない仕事があるからじゃ」

 

「私にしかできない仕事、ですか?」

 

「そうじゃ。それについては……わしが言わずとも、わかるのではないかな?」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから数時間後。

 

 コルベールはひとり研究室に籠もり、深く静かに考え込んでいた。

 

「これがために……私は生かされてきたのだろうか」

 

 彼は細い鎖に通し、首に下げてローブの中にたくし込んでいた鈍い光を放つ鍵を取り出すと、掌に載せ――じっと見つめた。

 

「そうだ。きっと、このためにこそ、私は今……ここに居る必要があったのだろう」

 

 コルベールはその小さな鍵を机の引き出しの鍵穴に差し込み、ガチャリと回した。引き出しの中には小さな宝石箱があった。彼はそれをそっと取り上げ、蓋を開く。

 

 小箱の中に納められたものを見ていると、コルベールの脳裏に過去の罪――己が犯した取り返しのつかぬ過ちがまざまざと蘇り、彼の心を責め苛む。片時も忘れることのない、煉獄の中に消えた村々の光景が――。

 

 

 ――アングル地方(ダングルテール)

 

 かつてトリステイン北西部の海岸沿いに存在していたその地方は、数百年前ほどに浮遊大陸アルビオンから移住してきた人々が開拓した土地だ。かの地に点在していた村々は、歴代のトリステイン国王たちにとって常に頭痛の種になっていたのだという。

 

 何故なら、この地方の住民には島国アルビオン人特有の独立独歩的な気風があり、事あるごとに王政府に対して反発するからだ。かといって、彼らは王軍をもって制圧するほどの反乱を起こすわけではない。口では文句を言いながらも、飲むべきところはきっちりと飲む。だが、出せる口は出す。つまるところダングルテールの住民たちは、実に要領よくやっていたのである。

 

 ところが、今から二十年ほど前。彼らは突如自治政府の設立をぶち挙げ、トリステイン王政府にそれを認めさせようとしたばかりか、実戦教義を信奉する新教徒のための寺院を開いた。それが、かの地の命運を決めた。

 

 ダングルテールはロマリア宗教庁に睨まれ、ブリミル教の総本山から圧力を受けたトリステイン王軍の手によって滅ぼされてしまったのだ。

 

「かの地方に疫病が発生した。病の蔓延を防ぐため、全てを燃やし尽くせ」

 

 ……などという、実に言い訳じみた命令によって。

 

 この殲滅作戦を実行したのが〝魔法実験小隊〟と呼ばれ、現在では既に消滅している特殊部隊。その指揮を執っていたのが、当時まだ軍に所属していた『炎蛇』のコルベールだった。

 

 作戦の最中、彼はひとりの女性からその品を託された。

 

 女性が今際の際に差し出したものを、コルベールはただ黙って受け取った。それが持つ鮮血のような輝きが、以後二十年もの長きに渡って己の心を焼き続けることを知らずに。

 

 ――そして、現在に至る。

 

 コルベールは椅子から立ち上がり、研究室の中をぐるりと見回した。外観こそみすぼらしい掘っ立て小屋だが、ここには並の教師には到底入手できない高価な道具や秘薬が揃えられており、コルベールの研究成果ともいうべき模型や書類の束が処狭しと並べられている。

 

 ここにある物は、彼が先祖伝来の屋敷や財産を売り払ってまで手に入れたものだ。すべては破壊以外に〝火〟が生かされるであろう『道』を見出し、それをもって贖罪となさんがために。だが、たとえどんなことがあっても、彼はこの箱の中身だけは絶対に手放さなかった。あえてそれを持ち続けることで自らの心に重い罰を科していたから。

 

 それらを見つめながら、コルベールは呟いた。

 

「今こそ、ここにあるものたちを生かそう。少しでも、あの日の過ちを償うためにも」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌日。

 

 ラ・ヴァリエール公爵領から戻ってきたルイズと才人は、荷物の整理も終わらぬうちに学院長室に呼び出され、そこの主からこう告げられた。

 

「既にラ・ヴァリエール公爵には許可を取っておる。その上で……君たちふたりに申し伝えておく。ここにいるコルベール君に、ミス・ヴァリエールが〝虚無の担い手〟であることを話した」

 

 驚きの声をあげたルイズと才人に、オスマン氏は頷いた。コルベールはその隣で小さく微笑みながら言った。

 

「サイト君がミス・ヴァリエールに召喚されてきたとき、私がきみの手に刻まれたルーンをメモしたのを覚えているかい?」

 

「あ、いや、すみません。メモされてたこと自体知りませんでした……」

 

 心底申し訳なさそうな顔をした才人を見て、コルベールは思わず苦笑した。

 

「ははは、謝ることなんかじゃない。そもそも、メモを取らせてもらったのはきみの持つルーンが非常に珍しいものだったからなんだ」

 

「彼の強い好奇心が、サイト君が〝ガンダールヴ〟であることを突き止めるきっかけとなり、ひいては君たちふたりの『道』を知る、大きな一歩となったのは間違いない。それに、教員の協力者がどうしても必要だったのでな。そのために彼を選んだのじゃよ」

 

「協力者?」

 

「サイト君については今まで通りでよいのじゃが……ミス・ヴァリエール、問題は君だ。授業や実技試験などで君本来の系統を隠し通すためには、どうしても彼の協力が必要なのじゃよ。こればかりは直接わしが動くわけにもいかん。そんなことをしたら、間違いなく怪しまれるからのう」

 

 言われてみればその通りである。それに、コルベールが学院内で手を貸してくれるというのはルイズにとって非常に有り難いことだった。

 

 〝念力〟について調べてくれたのもコルベールだし、何らかの問題が発生したときに、才人たちと仲が良い教師の元へルイズが教えを請いに行くというのは、学院長室へ直接赴くよりもずっと自然なことだからだ。

 

 オスマン氏に視線で促され、コルベールは先を引き取った。

 

「公爵閣下からミス・ヴァリエールが〝念力(サイコキネシス)〟を用いることによって〝(ウインド)〟をほぼ完璧なまでに再現できるようになったという連絡を受けています。それを念頭に置いた上で、新たな課題に取り組んでもらおうと考えました。もちろんこれはミスタ・タイコーボーにも連絡済みで、既に賛意を得ています」

 

「新たな課題、ですか?」

 

「ええ。今後は〝念力〟以外の汎用魔法(コモン・マジック)全ての習得を目指して下さい」

 

 課題の内容を聞いて、ルイズは驚いた。

 

「えっ!? で、でも……他の汎用魔法って、元は四大系統の初歩の初歩の初歩だったんですよね? それじゃ〝虚無〟のわたしが唱えても……〝錬金〟を試したときみたいに爆発してしまうと……」

 

 しょんぼりとそう言ったルイズに、コルベールは笑いかけた。

 

「それならば心配ありませんぞ。以前、ミスタ・タイコーボーが話しておられた通り、君の持つ〝力〟が強すぎるせいで、系統魔法用に作られた魔法語という名の『器』が耐えきれずに爆発を起こしてしまっていただけなのですから」

 

 ルイズは思わず叫び声を上げてしまった。

 

「そ、そうよ! 汎用魔法は全部口語で、ルーンを使ってないわ!!」

 

「その通りじゃ。〝念力〟の練習を積み重ねてきたことによって、だいぶ〝力〟のコントロールが上手くなってきておる今ならば、他の汎用魔法を使ったとしても、これまでのように無闇に爆発させるようなことはないじゃろう」

 

 と、それまで黙っていた才人が疑問を呈した。

 

「ん? コントロールができるようになってるんですよね。なら、なんで普通の魔法だと爆発するんですか? それって、おかしいと思うんですけど」

 

 至極もっともというべき才人の質問に答えたのは、コルベールであった。

 

「それについてなのだがね……ミス・ヴァリエール。きみは授業の場以外で〝火球(フレイム・ボール)〟を使ってみたことはあるかな?」

 

「は、はい、数え切れないくらい。どうやっても爆発しちゃってましたけど……」

 

「その爆発なんだが、きみが〝炎球〟を当てようとした場所で起こったかね?」

 

 ルイズの脳裏に、フーケの巨大ゴーレムに立ち向うべく、件の魔法を使ったときの思い出がまざまざと蘇った。ゴーレムの肩に乗っていた黒ずくめの人物を狙ったはずの炎球は、まるっきり見当違いの場所――本塔宝物庫近辺の壁で大爆発を起こし、その結果。盗賊の侵入を助けることに繋がってしまったのだ。

 

 ふるふると首を振ったルイズに、コルベールはさらに質問を続ける。

 

「その目標のズレは、全ての系統魔法で起こることだったかね? ひょっとして〝風の刃(エア・カッター)〟や〝土弾(ブレッド)〟といった、一部の攻撃魔法に限定されてはいなかったかい?」

 

 ルイズは過去の練習の日々――ありとあらゆる魔法を爆発させてしまっていた頃のことを思い返してみた。毎日、文字通りぼろぼろになるまで努力していた彼女だからこそ鮮明に覚えていた。

 

「あッ……せ、先生の仰る通りかもしれません! 目の前の小石を〝錬金〟をしようとしたのに、別の物が爆発したなんてこと、ありませんでしたし」

 

 少女の答えを受け、実に満足げな笑みを浮かべたオスマン氏は言った。

 

「では、それを踏まえた上で……ミス・ヴァリエール。改めて君に問おう」

 

「な、何でしょうか」

 

「コルベール君が挙げたふたつの魔法には本来の効果とは別に、とある『付加効果』がついておる。それがなんだか、君にはわかるかの?」

 

「は……はいッ。〝風の刃〟や〝土弾〟のような特定の目標に向けて放つ攻撃魔法には、対象に当てやすくするような補正効果がついていると授業で習いました」

 

「そのせいなのじゃよ」

 

「えっ?」

 

「特定の魔法のみが極端にズレて発動していたのは、ルーンに込められた補正機能が暴走した結果、逆に狙った場所での発動を妨げておったからなのじゃ」

 

 オスマンの言葉を聞いて、才人が叫んだ。

 

「あー、わかった! 魔法自体にいろんな機能がついてるから、ちょっとでも〝力〟のコントロールミスると簡単に暴走しちまうってことか!!」

 

 スイッチがたくさんついてる機械なんかで、よくあることだよな……うっかり同時押ししちゃったりとか。などと、うんうんと納得げに頷く才人と、まだよく理解できていないルイズ。彼女にわかりやすいよう、今度はコルベールが噛み砕いて説明することにした。

 

「そうだな。例えば、ルーンをひとつの器だとして、その中にいくつもの仕切り枠がついていると考えてみてくれたまえ」

 

 それを聞いた才人は、幼稚園に通っていた頃に母親から持たされていた弁当箱を思い出した。蓋に当時流行ってたヒーローアニメの主人公が描かれ、中にはいくつもの間仕切りがついており、ふりかけをまぶしたご飯とおかずが詰め込まれていた。

 

「その枠のひとつひとつに、丁寧に、必要な分量の〝精神力〟を正しく注ぎ込むことで魔法が発動するわけなのだが……水差しではなく、大きなタライを使ってそれを行おうとした場合、相当気を遣わなければならない。どうかね? これで理解できるかな?」

 

「ええと……〝火球〟のルーンには『火の玉をつくる』『飛ばす』『目標に当たるようにする』ための仕切りが全部別々についていて……ひとつでも〝精神力〟を注ぐのに失敗すると、溢れて爆発するということでいいんでしょうか?」

 

「そういうことです! こういった付加効果は一部の攻撃魔法に留まらず、ほとんど全ての系統魔法に元からついているものなんだ。よって、ただでさえ大きな注ぎ口を持つきみが系統魔法を扱うというのは――相当に緻密な操作を必要とする、非常に難しいことだと言えるだろう」

 

 非常に難しいこと。それは、つまり。

 

「今よりもっとたくさん練習すれば……わたしでも、普通に系統魔法が使えるようになるってことですか!?」

 

 己の系統に目覚めた後、勧められるられるままに行った〝錬金〟に失敗したことで、ほとんど諦めかけていた『普通のメイジへの道』が開かれたと思ったルイズは、きらきらと瞳を輝かせた。だが、目の前の教師たちから戻ってきた答えは、そう甘くはなかった。

 

「いや、残念ながらそう簡単にはいかんじゃろう」

 

「どうしてですか!?」

 

 悲鳴混じりの声を上げながら、机越しにぐっと詰め寄ってきたルイズに、オスマン氏が渋い顔をして答える。

 

「よく考えてみたまえ。魔法を唱えるたびに、全ての『仕切り枠』の中に、一寸の狂いなく〝精神力〟を注ぎ込むなどという離れ業は、相当の達人でもない限り難しいじゃろう」

 

「じゃあ、やっぱりわたしは……」

 

 どう頑張っても『普通』にはなれないのだ。先程までとは一転。まるで、処刑宣告を受けた囚人のような表情で、ルイズは呟いた。だが、そんな彼女にコルベールが言った。

 

「待ちたまえ。学院長先生は、あくまで『難しい』と仰っているだけですぞ。きみが目指す系統魔法への『道』への足がかりとして、汎用魔法の習得があるのです」

 

「それって、どういうことですか?」

 

「最初にきみが言った通り、現在コモンとされている魔法の多くは『系統魔法の初歩の初歩の初歩』だった。そして、初歩の初歩の初歩があるということは――『初歩の初歩』が存在するということだ。たとえば〝発火〟だ。これは〝光源〟の上位にあたる」

 

 ルイズの目に、再び狂おしいまでの希望が宿った。しかし、彼女のパートナーにはその理由がわからない。普通のメイジになりたい、という少女の想いを知ってはいたが……どうしてそこまで執着するのか、感覚的な理解ができていないのだ。

 

(魔法なら、もう使えるじゃん。やっぱりすごいメイジになりたいのかな?)

 

 そんな思考が顔に出ていたのだろう。オスマン氏が才人に向かってこう告げた。

 

「サイト君は、自分の足で歩くことができるじゃろう?」

 

「え? あ、はい。もちろん」

 

「なら……もしも、何らかの原因で足が動かなかったら? いや、動かすことはできても、うまく歩けなかったらどう思う?」

 

「不便、ですね」

 

「そういうことじゃ。わしらメイジにとって、魔法は手足も同然なのじゃよ」

 

 そこまで言われて、才人はようやく気がついた。

 

 例えるなら――ルイズはこれまで、歩けるはずなのに歩けなかった。思い通りに足を動かすことができなかったからだ。原因がわかった今、ゆっくりなら歩けるけれど、走ったり、飛び跳ねたりできない。五体満足、健康な身体なら、あたりまえにできるはずのことができない状態だからこそ彼女は「普通になりたい」と訴えていたのだ。

 

 これは「魔法が使えるようになったからもういい」という問題ではない。長く苦しいリハビリ生活を経て、ようやく掴まり立ちで歩けるようになった相手に対し「歩けるようになったんだから、もう頑張らなくてもいいのに」なんて言ったりしたら残酷過ぎる。

 

「……ごめん」

 

「なんでいきなり謝るわけ?」

 

「だって俺、ぜんぜんわかってなかったから」

 

 と、そこへオスマン氏が割り込んだ。

 

「そのあたりは、あとでふたりで話し合うとええじゃろう。というわけでミス・ヴァリエール」

 

「は、はい」

 

「まずは『仕切り枠』が全くないコモンを、次に『枠』の数が極端に少ない初歩の初歩の系統魔法を身につけるための練習をするのじゃ。その上で……」

 

 オスマン氏の視線を受け、コルベールがすっと前へ出てきた。そして、ルイズに一冊の古びたノートを差し出す。

 

「これを見てみたまえ」

 

 言われるままにノートを開いたルイズは、そこにびっしりと書き込まれたものを見て驚いた。それは今まで彼女が見たことのない法則で記された、ルーンの羅列であった。

 

「先生、これは……?」

 

「それはだね……私が若い時分に編み上げた『オリジナル・スペル』と、その研究過程について纏めたものなんだ」

 

 コルベールの言葉を聞いた途端、ルイズはその場で固まった。

 

 オリジナル・スペル。それは『始祖』ブリミルが後世に残した魔法に手を加えた特殊な呪文のことである。時の経過により、系統魔法から汎用へ移動した一部のコモン・マジックも、ある意味オリジナル・スペルの一種といえよう。

 

 ただし、これは『始祖』に対する冒涜だとして現在では禁忌とされている研究だ。バレたら当然異端扱いされる可能性が高いのだが、裏で密かに行っているメイジが存在すると噂されていた。

 

 ……どうやらコルベールは、そのうちのひとりだったらしい。

 

「以前、私の〝炎の蛇〟を見せたことがあったね?」

 

「は、はい」

 

「あれも、そのうちのひとつでね。『対象に食らい付き、燃やし尽くすまで消えない』という効果を付与した特殊なスペルなんだ」

 

「ず、ずいぶんえぐい魔法だったんすね……なんか、先生らしくないな」

 

「……そうか。私らしくない、か」

 

「ハイ。正直びっくりしました」

 

「わ、わたしもです……」

 

 コルベールの瞳が微かに陰ったのを、若いふたりは目に留めることができなかった。

 

「まあ、つまりだね。実は魔法語というものは組み替えを行うことで、効果を追加したり――省いたりすることができるものなのだよ。そう……例の『間仕切り』をあえて取り外すことによって、ミス・ヴァリエールが上位の系統魔法を扱えるようになるのではないかと、私は考えたのだ」

 

「そそ、それで、この、ノートを……?」

 

「その通りだ。残念ながら、私は省く(・・)方向の研究はほとんど行っていないし、あくまで自分に合うよう編んだに過ぎない。だから、きみがその『道』を選ぶというのなら、自分の手で、適合するルーンの組み合わせを探し出さなければならないだろう。それは間違いなく遠く険しい旅路になるだろうが――できうる限りの協力はしますぞ」

 

 長い顎髭をしごきながら、オスマン氏が部下の言葉に補足する。

 

「ミス・ヴァリエール。系統についてもそうだが……もしかすると『担い手』たる君は『始祖』ブリミルが歩まれたものと、似た『道』を征くことになるのかもしれん」

 

「始祖が歩んだ『道』ですか……?」

 

「そうじゃ。『始祖』ブリミルは、多くのメイジたちが使えるようなルーンの組み合わせを数多く考え出し、後世に残してくださった。いつの日か、君が編み出した『メイジであれば誰にでも使える』新たな魔法が教科書に載り、後に続く者たちに受け継がれてゆくとしたら――それは素晴らしく意義のあることだとは思わんかね?」

 

 コルベールから受け取ったノートを押し抱き、ルイズはコクリと頷いた。

 

「とはいえ、全ては汎用魔法の習得を完全に終えてからですぞ。何事も……」

 

「基本と積み重ねが大切……ですよね!」

 

 ルイズの言葉に、ふたりの教師はにっこりと頷いた。

 

「それとだ。実はサイト君にも渡す物があるんだ。もう見てくれたかもしれないが」

 

「すみません、コルベール先生。俺、それ見てないと思います」

 

「おや、そうかね。ならば、そこの窓から外を見てみたまえ」

 

 言われるまま外に視線を移した才人は、その先に在ったものに驚いた。

 

 魔法学院から少し離れた場所にある草原に、夏休み前にはなかった石造りの納屋が建っている。そして、ようやく才人は気が付いた。そうだ、あそこにあったものは――!

 

「先生! あれ、もしかしてゼロ戦の!!」

 

「そうだ。あの飛行機械の格納庫だよ。いくら〝固定化〟がかけられているとはいえ、あのような貴重な宝物を雨ざらしにしておいていいわけがないからね。だから、ヴァリエール家での歓待に入る前から建造するための準備を進めておいたんだ」

 

 笑顔でそう言ったコルベールに、才人は全力で頭を下げた。

 

「ありがとうございます! 俺、すっかりあれのこと忘れてて……そのまま放っておいたら、壊れてたかもしれないのに」

 

「ん、まあ、構造を見るために少し……ゴホン。いや、喜んでもらえたようで何よりだよ。鍵を渡しておくから、あとで問題がないかどうか確かめておきたまえ」

 

「はいっ!」

 

「それでだね、サイト君。実は……ひとつ、頼みがあるのだが」

 

「俺にできることなら、なんでもします! 先生には、あんな立派な格納庫建ててもらったんですから!!」

 

 勢い込んで言う才人に、コルベールは少し躊躇うような……それでいて照れくさそうな顔をして言った。

 

「きみさえよければ、あの飛行機械の操作を教えてはもらえないだろうか。是非一度、魔法を一切使わぬ機械で自由に空を飛んでみたいんだ。そうすれば、もっとあの機械の仕組みが理解できると思うのだよ」

 

 〝ガンダールヴ〟のルーンの補助を受ければ、操作方法は自動的に頭の中へと流れ込んでくる。現在、それらの全てを覚えているわけではないが――何度か飛行すれば、コルベールに知識の伝授をすることができるようになるかもしれない。そう考えた才人は、改めてコルベールに格納庫建造に関する礼を述べると、言った。

 

「ひとに操縦を教えるためには、俺自身がもっと飛び慣れてからじゃないと難しいと思うんです。それには……」

 

「例の『がそりん』が必要なんだろう? それなら樽十本分ほど用意して、危険がない場所に保管してありますぞ」

 

「うおッ! さすが先生、仕事が早いぜ!!」

 

「他には何か無いかね?」

 

「はい! できれば、俺と一緒に先生も飛んだほうがいいと思うんです。そうすれば、お互いに慣れるのも早くなるはずです……操縦席が狭いのは、我慢するってことで」

 

「そんなことでいいのかね? むしろ、こっちからお願いしたいくらいだよ!」

 

「じゃあ、決まりですね?」

 

「うん、決まりだ!」

 

 ……こうして。生徒と、その従者と、彼らの教師。強い絆で結ばれた『トライアングル』が形成された。

 

 

 ――ふたりが意気揚々と退出していった後。

 

「あの研究が、まさかこんなところで生きてくるとは思いもよりませんでした」

 

 コルベールがぽつりと呟くと、オスマン氏がそれに応えた。

 

「君たちの〝部隊〟が当時の王立研究所の依頼で、様々な実験を繰り返していたというのは王政府筋でもごく一部の者しか知らぬ秘事じゃったからな。これまで明かせなかったのも無理はない」

 

「……学院長は、ご存じだったんですね」

 

「むろんじゃ。だからこそ、君を失うのが惜しかった。オリジナル・スペルを自力で、しかも自分に合うように編み上げることに成功したじゃと! それがどんなに難しいことなのか、君にもわかっておるだろう!? どれだけ多くの研究者たちが挑戦し、夢破れていったことか……」

 

 オスマン氏は溜め息をついた。

 

「長年、魔法の研究とメイジの育成に携わってきたわしだからこそ理解できる。あれは間違いなく『始祖』の領域に踏み込む『道』じゃ。そしてあのノートは、その道標ともいうべき貴重な書物だ。あれがなければ、ミス・ヴァリエールは深淵の闇の中、手探りで行き先を見出さねばならなかったじゃろう。君が手渡したものは彼女の往く道筋を照らす、希望の灯火なのだ」

 

 しばしの静寂が室内を包み込んだ。その後オスマン氏は、遠く窓の外を見遣りながら、頼もしき協力者へ向けて、言葉を投げた。

 

「君が、ここに居てくれてよかった」

 

「それは私の台詞です、オールド・オスマン。もしもあのとき、あなたが現れてくれなければ――」

 

「ふむ……若者たちの新たな門出を見送ったばかりじゃというのに、何やら辛気くさい雰囲気になってきおったの。どうじゃ? これから景気づけに街へ一杯やりに行くというのは」

 

「……喜んで、お供します」

 

 

○●○●○●○●

 

 

 ――さらにその翌日。抜けるような青空の下。

 

 トリステイン魔法学院の中庭で、複数の少年少女たちが地面に膝をつき、蹲っていた。仰向け、或いはうつ伏せになって倒れている者も存在する。

 

 そんな中、中央付近で膝をついていたひとりの少女が、ゆっくりと立ち上がると。周囲をぐるりと見渡して、言った。

 

「ちょ、ちょっと失敗したみたいね」

 

 彼女の言葉を聞いた途端。倒れていた者たちが一斉に起き上がり、口々に叫んだ。

 

「ちょっとどころじゃねえだろ! なんなんだよ、アレ!!」

 

「これは……予測しておいてしかるべきだったな」

 

「ま、まあ、爆発しなかっただけ、マシだけどね……」

 

「うぬぬぬぬ、わしはモロに喰らってしまった……まだ頭がくらくらする」

 

 

 ――朝食を済ませ、お互いに夏休みをどう過ごしたのか等の近況を話し合った後。

 

 早速みんなの前で〝光源〟の魔法を初お目見えさせるべく張り切ったルイズだったのだ、どうやらそれがまずかったらしく。彼女が魔法を唱え終えた瞬間――とんでもなく強烈な〝光〟が出現し、立ち会っていた全員の眼球を直撃したのである。

 

 ……彼ら(本人含む)が、その場で悶絶したのは言うまでもない。

 

 ようやく衝撃(・・)から立ち直ったタバサが、眼鏡を直しながらポツリと言った。

 

「コルベール先生が立ち会っていなくて良かった」

 

「それは反射する的な意味でか?」

 

「タバサ。あなたって、たまに眉ひとつ動かさずにとんでもないこと言うわよね」

 

 未だチカチカする目を押さえながら、才人が言った。

 

「予告なしであんなデカいフラッシュ焚くとか、凶悪すぎんだろ……」

 

 と、ここで聞き慣れない単語を耳にしたレイナールが才人に聞いた。

 

「フラッシュって何だい?」

 

「あ、ああ。さっきみたいな強烈な光のことだよ。ん? もしかして閃光弾とか、あの光みたいな目くらましに使う魔法は無いんか?」

 

「トリステイン軍はどうだか知らないけど、ゲルマニアにはあるわよ。〝黄燐〟っていう火の秘薬と〝着火〟の魔法を組み合わせて、敵の視界と耳を奪うために使うの」

 

「ああ、それならトリステインにもあるわ。火をつけると、光と爆音が生じる秘薬のことよね? 量は少ないけど、魔法学院の実験室にも置いてあるはずよ」

 

 まだ視力が完全に戻らないのだろう、両手で目をごしごしと擦っているキュルケに、モンモランシーが言った。

 

「黄燐って、こっちにもあるのか……あれって確か、ものすごい毒薬だろ。なのに剥き出しで使うとか、めちゃくちゃ危なくねーか!?」

 

「ええ。だから、取り扱いには充分注意しなきゃいけないわ」

 

「ファンタジーやべえ……」

 

 そのままハルケギニアの一般的な軍装や秘薬についての話題で盛り上がりそうになったのだが、しかし。レイナールが次に放った一言によって、その空気が一変した。

 

「いや、それにしてもすごい光だったね。あそこまで行くと一種の兵器だな」

 

 その場にいた全員が、目を大きく見開いた。

 

「確かに、使い方次第では強力な武器になるわね」

 

「いやはや。失敗は成功の母とは言うものの……これはその最たる例だのう」

 

「ひょっとして、あたしたち……例の『防御壁』みたいな、新魔法開発の瞬間に立ち会っちゃった!?」

 

 キュルケが喜びの声を上げると。

 

「興味深い」

 

 〝光源〟の魔法にそんな使い道があるとは思わなかったと、俄然興味を示し始めたタバサ。他の生徒たちも、目をきらきらさせながらルイズの側へ駆け寄っていく。

 

「どうやって今の光を出したの?」

 

「えっ? えと、ちょっと〝力〟を入れすぎただけだと思うんだけど」

 

「そっか! わざと『込め』ればいいのね……えいッ!!」

 

 もともと火系統の使い手で、かつ〝力〟のコントロールに関する修行を進めていたキュルケはすぐさまこの〝閃光〟の再現に成功した。

 

「うお、まぶしッ!」

 

「目が、目がァ~!!」

 

「だから、予告なしでやるなっての!!」

 

「いや、ここは杖が取り出された段階で目を半分閉じておくべきであろう」

 

「いやまあ、そうなんだけどさ……」

 

「うーん。これ……かなりの〝精神力〟が必要ね。今ので〝火球〟三発分は持っていかれたわ」

 

「うわ、それは結構大きいね……ぼくにもできなくはなさそうなんだけど、連続で試すとなると、さすがに厳しいかな」

 

「それならば、本塔の屋上で『瞑想』しつつ交代で練習するというのはどうだ?」

 

「あ、それいいかも!」

 

「賛成!」

 

「わたしも試してみたい」

 

「あたしも!」

 

 ――その日。トリステイン魔法学院の上空で、謎の発光現象が多数確認されたのだが……その正体を知る者は、ごく一握りの者だけであった。

 

 

 



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第74話 水精霊団、竜に乗り南征するの事

※残酷な描写あり。苦手な方はご注意下さい


 ――そこは山の裾野、広大な草原の中に点在する、平和な村のひとつだった。

 

 ある者は土地を耕して畑とし。またある者は自然の牧草地に羊を放ち、牧場を運営していた。この地に住まうひとびとは、皆そうやって日々の糧を得ていた。平凡ながらも幸せな生活を送る村人たちの、活気ある声で満ち溢れていた。

 

 だが、その日。村に住民たちの姿はなかった。そこに在ったのは、牧場で飼われていた羊たちのけたたましい鳴き声と、厩舎を包み込む紅蓮の炎。そして、聞く者の魂全てを焼き尽くすかのような鋭い咆吼であった。

 

「スノウαより報告。C地点にて目標の姿を確認。現在食事を摂っている模様」

 

「敵の数は?」

 

「視認できる限りでは、一体。目撃者から得た情報と特徴が一致」

 

「うむ、わかった。ではゆくぞ、皆の者。わしの後へ続け!」

 

「了解!!」

 

 

 ――ことの起こりは二日ほど前の夕方だった。

 

『父上たちがグラモン家の兵士たちを連れて領地を出た途端、領内の亜人や妖魔どもが暴れ出したのでね、残っていたぼくと兄上で、やつらを鎮圧しに行かねばならない。心配はいらないよ、ぼくのモンモランシー。すぐに片付けて、新学期までには戻るからね』

 

 そんな内容の手紙を寄越していたにも関わらず、新学期の開始はおろか、それから一週間が経過してもギーシュは戻ってこなかった。遅延の連絡すら届かなかっため、その間モンモランシーは彼氏の身を案ずるあまり、ほとんど食事が喉を通らない有様だった。

 

 それからさらに一週間が過ぎ、ようやくギーシュが教室に元気な姿を現した時。少女は少年の側へ駆け寄ると、吐き出すように一言。

 

「よくもそんな平然とした顔で、わたしの前に出て来られたものね!」

 

 そう大声で怒鳴りつけた挙げ句、勢いよく彼の頬を張った。パーンという乾いた音が教室内に響き渡り……わずかな間を置いて、室内に静寂が訪れた。

 

「あいたぁ! いきなりなにをするんだね、モンモランシー!」

 

 赤くなった頬をさすりながら、ギーシュは彼女に抗議した……のだが。モンモランシーはくしゃっと顔をゆがめたかと思うとその場へ蹲り、わんわんと大声で泣き出してしまった。

 

「も、モンモランシー? どうしたんだい? そんな風に泣かないでおくれよ。薔薇のように美しいきみの顔が、涙で崩れてしまうのをみるのは忍びない」

 

「あ、あんだがぜんぶわるいんじゃないのよ!」

 

「へ? ぼくが?」

 

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、モンモランシーは続ける。

 

「すぐにもどるっでがいであっだどに、ぜんぜんがえっでごないじ!」

 

「いや、あの、妖魔どもが予想より多くてだね?」

 

「いえにでがみおぐっても、へんじがないじ!」

 

「が、学院に戻って直接話せばいいかなって……」

 

 泣きながら怒鳴りつけてくるモンモランシーに、ギーシュはたじたじになった。だが、次に彼女の口から飛び出した台詞で、少年は少女の心の内を悟る。

 

「だがらわだじ、あなだになにが、あっだんじゃないがっで、じんばいで、じんばいで……うわああああん!」

 

「モンモランシー。そんなにまでぼくのことを……!」

 

 自分の身を案じていたというモンモランシーの涙に心の底から感激したギーシュは、膝を突いてがばっと細身の少女を抱き締める。ここが生徒たちが集う教室であることなど、彼の脳裏からはすっかり抜け落ちていた。

 

 ……こんな愁嘆場じみたものを見せつけられた上に、ギーシュの父親であるグラモン元帥が王軍と諸侯軍を率いて王都防衛の任に就いているというのは、既に生徒たちの間でも周知の事実だ。

 

(ギーシュの登校が遅れたのは、間違いなくそれと関係しているに違いない)

 

 周囲にいた生徒たちがそのように考え、渦中の人物を質問攻めにしたのはある意味当然の流れだと言えよう。

 

 なんとかモンモランシーを落ち着かせるのに成功した後、ギーシュは早速同級生たちの問いかけに答え始めた。暴れていた妖魔たちの数が多かったせいで討伐に時間がかかってしまったことや、ひとつ上の兄と共に、いかにして邪悪な者どもを成敗したのかを。

 

 もともと目立ちたがり屋のギーシュは、注目を浴びたことをいたく喜び、傍目に見てもオーバーな振り付けをしながら、持ちうる限りの語彙でもって、自身が経験した戦いの場面を再現しようと頑張った。

 

「オグル鬼たちが、砦から外へ飛び出して来ようとしていた、その時だ! 我が愛しの使い魔ヴェルダンデが掘った落とし穴に、見事やつらが引っかかったのは!!」

 

「それで? その後、どうなったんだい?」

 

「せめてもの餞にと、ぼくがやつらの頭上へ薔薇の花吹雪を降らせてあげたのさ。その花びらを、兄上が〝錬金〟で油に変えて――」

 

「そこへ〝着火〟したわけか」

 

「その通り! こうして見事、やつらの出鼻をくじくことに成功したというわけさ」

 

 そんな彼の努力は水精霊団のメンバーがいつもの場所へ集ってからも続き――聞き手たちが少々退屈し始めてきた頃。タバサの元へ、伝書フクロウが舞い降りてきたのだ。

 

 いつも通り、タバサがフクロウの足に括り付けられた書簡を開くと、そこに書かれていた内容を一瞥し――ごくごく僅かに眉を顰めた。それから側にいた太公望へ視線を向けると、彼はすぐさま事情を理解し、席を立った。

 

 ……と、ここまでならば普段と何ら変わらぬ任務となったはずだ。しかし今回ばかりはどうにも指令書が届けられたタイミングがまずかった。

 

「なんだよ、どっか行くのか?」

 

 以前、同じようにフクロウが飛んできた後、タバサたちが連れ立ってどこかへ行くのを見ていた才人が、ふたりに声をかけたのがきっかけとなり。

 

「ひょっとして、また妖魔討伐の依頼が来たのかね?」

 

 才人の言葉を聞き、過去に太公望とタバサが妖魔退治を依頼されて魔法学院を留守にしていたことを覚えていたギーシュがそれに乗っかった途端。

 

「えっ! 君たち、ふたりでそんなことをしていたのかい?」

 

 それを聞いたレイナールが強い興味を示し。

 

「マジか、何退治しに行くんだ?」

 

 いつもの好奇心から才人が尋ね、さらにギーシュの武勇伝を聞いていた一部メンバーたちが一緒に行きたいなどと騒ぎ出してしまい。

 

 任務の内容が、実際に魔獣討伐であったことと。今回自分たちが対峙する相手が何であるのかを教えれば、さすがの彼らも引くだろうと考えたタバサが、内容を公開した結果。

 

「あなたたちなら、ふたりだけでも大丈夫だとは思うんだけど。手伝いがいたほうが絶対確実だと思わない?」

 

「ものすごく手強い相手だけど……上手く倒すことができれば、とっても高価な秘薬の材料が手に入るのよね」

 

 世話焼きなキュルケと、戦いに関しては仲間内で最も消極的なモンモランシーまでもが珍しい素材の入手を目当てに参加を表明し。

 

 さらに。普段ならば、危険だからと彼らを制する側にまわる太公望が、

 

「まあ、たまには外で腕試しをするというのも悪くはなかろう。ただし、今回のこれはガリア騎士としての仕事であるため、このあいだのような懸賞金は出ない。それでもかまわぬか?」

 

 などと、断りとも了承ともつかぬ言葉を述べたところ、それでも付いて行きたいという積極的な意見が全員から飛び出して。

 

 あれよあれよの間に、水精霊団第二回目の遠征が決定したわけだが――その内容とは。

 

『火竜山脈の麓にある村へと急行し、現場を荒らしているはぐれ火竜を討伐せよ』

 

 ……で、あった。

 

 

○●○●○●○●

 

 現場から少し離れた場所にある、小高い丘の上に建てられた小屋の影から、こっそりと件の火竜を見た才人はゴクリと唾を飲み込んだ。

 

 乗ってきた風竜よりもずっと大きい。建物の大きさと比較して判断するに、十八~二十メイルほどはあろうかと思われる巨体が、炎の中で揺れている。

 

 同じく様子を伺っていたタバサが呟いた。

 

「鱗の色が濃く、とさかがない。火竜の中でも特に攻撃的な雌の成竜」

 

「なあ、ハーミット。あれって、絶対倒さなきゃいけないのか? たとえば、大きな音を立てて、追い払うだけって訳には……?」

 

 才人――水精霊団コードネーム『ソード』が『ハーミット』太公望に訊ねる。

 

「そうしたいのはやまやまなのだがのう。火竜は炎の息を吐いて動物も人間も見境無く襲うのだそうだ。おまけに、あの通りだ」

 

 厩舎のほとんどが炎に包まれ、すぐ側にある民家にも火が移っている。このままあの火竜を放置すれば、村の全てが焼け落ちるだろう。

 

 その声に『スノウ』タバサが補足する。

 

「今はまだ家畜の羊を食べているだけ。でも、人間の味を覚えられると厄介。この村だけでなく、周辺地域にも被害が及ぶ」

 

「なるほど、人喰い竜になっちまうってわけか……そりゃまずいな」

 

 地球にいた頃にテレビで見た、山から下りてきて民家を襲う熊のニュースを思い出す才人。

 

(今回の依頼って、猟友会のおっさんたちが鉄砲持って駆けつけるのと似たようなもんか)

 

 いっぽうレイナール――コードネーム『ブレイズ』は、目標に察知されない程度の距離まで〝遠見〟の魔法を放ち、食事中の竜を観察していた。

 

「なんだか地面にブレスを吹きかけてるみたいなんだけど、どうしてだろう?」

 

「火竜には地面に獲物を埋めて、熱して食べるという習慣がある」

 

 レイナールの疑問に、すぐさまタバサが答える。

 

「竜のクセに焼肉かよ! しかも蒸し焼きとか……意外とグルメだなオイ」

 

「それだけ知能が高いってことよ。絶対油断しちゃダメだからね!」

 

「しねーよ! あんなの相手に気ぃ抜いたりしたら、間違いなく死にますから!!」

 

 『コメット』ことルイズの忠告に、才人は盛大に突っ込んだ。

 

「うぬぬぬぬ……急いでかわいそうな羊たちを助けてやりたいところなのだが、食事中の獣を邪魔するのは自殺行為だ、殺気立っておるからな。あれほどの巨体を持つ相手であれば、なおさらだ。よって、この場で今しばらくの間、待機することとする」

 

(彼、実は動物好き?)

 

 などという他愛のない疑問を抱きつつ、タバサは今回の指揮官である太公望――『ハーミット』に了承の言葉を伝えた。残る全員が彼女に追従する。

 

「よし、皆の者。今のうちに装備を確認しておくのだ」

 

 指揮官の言葉に、全員が杖を、あるいは持ってきた武器をチェックする。

 

 特に、前回の冒険で手に入れた懸賞金の一部を使い、魔法学院の衛兵詰め所からロングボウ一式を買い取って来た才人はそれらを念入りに確認し、少しだけ不安になった。

 

「なあブロンズ。出かける前に結構作ってもらっといて悪いんだけどさ……できたら、あともう少しだけ矢を追加してくれないか?」

 

「何本あれば足りるかね?」

 

「なるだけ数があったほうがいいんだけど……あと五本頼んでもいいか?」

 

「なんだ、そのくらいなら余裕だよ。十本でも全然平気だが、どうするね?」

 

「あ、すげー助かる! 十にしてくれ」

 

 『ブロンズ』ことギーシュはすぐさま青銅の矢を作り出し、友人に手渡した。才人はそれを腰に下げた予備の矢筒に納める。

 

 出発前に、

 

「弓矢なんかじゃ、火竜の鱗に傷をつけるなんて無理よ!」

 

 と、主人から忠告されてはいたものの。今度の相手がドラゴンだと聞いて、さすがに飛び道具がないとヤバそうだと感じた才人は念のため詰め所に置いてあった弓を入手した上で、出発前に〝ガンダールヴ〟が正しく発動するかどうか、実際に撃って確認しておいたのだが――どうやらそれは正解だったらしい。

 

 才人は遠目に見える魔獣の姿を改めて確認し、ぶはっと大きく息を吐いた。アレを相手に接近戦を挑むなど、完全に自殺行為だということを改めて認識したからだ。

 

「あんなのの群れをひとりで退治したとか……ルイズママ、やっぱりとんでもねーな」

 

「何か言った?」

 

「いやっ、別に! 何でもありましぇん」

 

 ところで。現在水精霊団の一同は、魔法学院の制服を身につけてはいるものの――太公望を除く全員がお揃いの、濃紺色に染めた丸くて平らな鍔無しの帽子――地球でいうところのベレー帽を被っている。これはもちろん才人のデザイン、ついでに水の紋と百合の花の意匠をこらした帽章つきだ。さすがはミリオタ、無駄なところまで凝っている。

 

 ギーシュの帰還が予定よりも大幅に遅れ、揃って水精霊団用の制服を作りに行けなかったことと今回の冒険があまりにも唐突に決まったことから、先行して全員分の作製を依頼し、受け取っていた帽子だけでも身に付けようという話になったのだ。

 

 ちなみに、太公望だけがベレー帽をかぶっていないのは、彼がいつもの服装ではなく『東薔薇花壇騎士団』の装束を身に纏っているからだ。当然、理由があってそうしているのだが――この件については後述するので、今少しお待ちいただきたい。

 

「ねえ。絶対に火竜の眼は撃たないでよ? あれは秘薬のひとつなんだから」

 

「ああ、わかった」

 

「それと、頭とか首を爆破したり〝風の刃〟で斬り落とすのもナシよ。火竜の首にはブレスを吹くための油袋があるんだからね!」

 

 『フローラル』――モンモランシーの言葉に全員が頷いた。

 

「引火の危険があるということであろう? 攻略の難易度が大幅に上がるが、先ほどの作戦会議で打ち合わせた手順でやれば、まあなんとかなるであろう」

 

 それを聞いたモンモランシーが、言いにくそうな、それでいて物欲しげな顔で告げた。

 

「本当なら、心臓も傷付けないでほしいんだけど……」

 

 この言葉に、才人が露骨に顔をしかめた。

 

「なんでだ? いくら相手が化け物だからって、そりゃねえだろ。周りから削るとか、じわじわいたぶるみたいで趣味わりーし……直接心臓狙ったほうが早いだろうが。苦しませずにとどめを刺してやるのが武士の情けってもんだ」

 

 などと言いながら腕を組み、胸を反らして見せた才人に、モンモランシーが反論した。

 

「だ、だって! 傷のついていない竜の心臓は、最低でも千エキュー以上で取引される、特に高価な秘薬の材料なんだもん。一攫千金の機会をみすみす逃したくないわ!」

 

 呆れ顔で才人がぼやく。

 

「お前、いつも誇りだなんだ言ってる貴族だろうが! んな貧乏臭い真似すんなっての」

 

 と、そこへギーシュが割り込んできた。ちっちっち、と舌を鳴らしながら説明する。

 

「いいかね、サイト。貴族の種類は大きく分けてふたつあるんだ。お金のある貴族と、お金のない貴族だ。たとえば、モンモランシーのご実家のモンモランシ家のように、領内の干拓事業に失敗して多額の借金を抱えていたり……」

 

 被せるようにモンモランシーが続ける。

 

「ギーシュの実家のグラモン家みたいに、軍事費に無駄にお金を使いまくって、生活費がかつかつになっていたりとかね」

 

「こう言ってはなんなのだが、トリステイン貴族のほとんどが自分の屋敷と領地を維持するだけで精一杯という有様なのさ。貴族の誇りと体面を守るというのも、これでなかなか大変なのだよ」

 

「平民のあなたにはわかりにくいことなのかもしれないけれど、ヴァリエール家やクルデンホルフ家みたいな大金持ちなんて、例外中の例外なんだから!」

 

 このやりとりを横で聞いていた太公望はがくっと肩を落とし、ため息をついた。

 

「わしも、本音を言えば才人の意見を支持したいところなのだが……事情は理解できる。貧乏は辛いものだからのう。ただし、いざという時は躊躇わない。それでよいな?」

 

 その言葉に、モンモランシーの顔がぱっと輝いた。

 

「ええ、もちろんよ!」

 

 彼らのすぐ側で、自慢の杖を磨きながらキュルケが微笑む。

 

「うふふふふ……ようやく例の〝閃光〟を実戦で試せそうね」

 

「フレアよ。念のために言っておくが」

 

「大丈夫よ、ミスタ・ハーミット。指示された時以外は、絶対に使わないから」

 

 心配性の指揮官に『フレア』――キュルケは思わず苦笑した。

 

 と、先程から〝遠見〟で観察を続けていたレイナールが小声で太公望に告げた。

 

「ハーミット。火竜の動きがさっきまでと変わったよ! ただ、細かいところまでは、ここからじゃ判断できない」

 

「スノウ。α側の目で、詳細を確認してくれ」

 

「了解。確認する……目標の食事が済んだ模様。掘り返した地面に土をかぶせている」

 

「意外と律儀だなヲイ。竜のクセに」

 

「蹲って目を閉じた。昼寝を始めようとしている」

 

「なぬ、それは好都合だ! では行動を開始するぞ。皆の者、準備はよいか?」

 

「準備よし!」

 

「大丈夫よ!」

 

「オッケー!」

 

「フローラルはここで待機しておれ」

 

「わかったわ。みんな、気をつけてね」

 

 モンモランシーの言葉に、全員が頷いた。直後、太公望が小声で号令をかける。

 

「ゆくぞ! 戦闘開始だ!!」

 

「了解!!」

 

 ――こうして、彼らの戦いは始まった。

 

 

○●○●○●○●

 

「コメット、正面に立つな! ブレスが飛んでくると言ったであろうが!!」

 

「だだ、だって、くく、首が、ぐぐ、ぐるんって……」

 

「ソード! コメットを背負って離脱しろ!!」

 

「わかった!」

 

「きゃあ! どこ触ってんのよ!!」

 

「暴れんな! あとで殴られてやるから、とりあえず今は、大人しくしててくれ!」

 

 豪勢な食事を済ませ、のどかな昼寝を楽しもうとしていた火竜は、突如現れた闖入者たちによってせっかくの午睡を妨げられた。

 

 当然、不機嫌になった彼女(・・)は自慢のファイア・ブレスで邪魔者を黒こげにしてやろうとしたのだが。吐き出した炎は突然目の前に発生した気流の壁によって阻まれてしまった。しかも、その間に不届き者たちは遠くへ走り去ってしまっていた。

 

 空から追い掛けてやろうと翼を広げたところに、今度は上空から、その翼目掛けて何本もの〝氷の矢〟が飛んできて、突き立った。竜は空を見上げ、怒りの咆吼を上げた。

 

「空から魔法が撃てるのは、やはり大きい」

 

 『如意羽衣』の〝力〟によって宙高く舞っていたタバサは火竜の皮翼中央付近に〝風の氷矢(ウィンディ・アイシクル)〟が全弾入ったことを確認すると、素早く距離を取り、再び呪文の詠唱を開始する。

 

 『複数思考』を働かせることで〝飛翔(フライ)〟の倍以上の速度で飛ぶことができ、さらに空からの魔法攻撃を可能としてくれるこの『如意羽衣』は、もう完全に彼女のお気に入りだ。とはいうものの、使うたびに極端に体力を消耗するため、今のままでは多用できない。タバサは密かに、より一層の身体強化を誓った。

 

「おっしゃ! 胴体はダメだったけど、翼になら刺さる!!」

 

 ルイズを安全圏へ送り出した才人が、ロングボウでタバサの援護に入る。彼とはちょうど反対の位置で、レイナールが〝風の針(エア・ニードル)〟のスペルを詠唱し、同じく右側の翼目掛けて解き放った。

 

「うぐぐ、すごい力だ! 足一本掴むだけでやっとだよ。ああ、この場にヴェルダンデがいてくれれば、落とし穴で足止めできるのに……ッ」

 

「今はそれで充分だ、ブロンズ! そのまま〝土腕(アース・ハンド)〟で抑え続けてくれ。解体班は右翼の破壊を急げ、飛ばれると厄介……と、まずい! 全員、ここから離れるのだ!」

 

 ギーシュの〝土腕〟によって後ろ足の一本を掴まれていた火竜が、大暴れすることによって強引に拘束を振り切り、羽ばたきを開始する。

 

「きゃっ! ちょ、ゆ、揺れ……」

 

 ルイズが撤退中に足をもつれさせ、転んでしまった。それを見た才人が、慌てて主人の側へ駆け寄ると、彼女を肩に担ぎ上げ、人間離れした速度でその場から逃げ出した。指抜きグローブ装備によるガンダールヴの特殊効果発動は、こんなところにも生かされている。

 

「フレア! 〝閃光〟の準備だ! 皆〝光〟に警戒せよ!!」

 

「いつでも行けるわ! カウントだけお願い!!」

 

「了解した、三……二……一……放て!」

 

 宙へ舞い上がりかけていた火竜は眼孔を強烈な〝光〟で焼かれ、暴れながら地面へと墜落する。ズシン……という激しい地響きが起こった。身体の重さのせいだろう、落ちた直後に足の一部が土にめり込んでしまい、雌竜は急いで引き抜こうともがき始めた。

 

「よし、いいぞ! ブロンズ、埋まった足元を〝錬金〟で固めるのだ!」

 

「了解! イル・アース・デル!!」

 

 火竜の足元が、青銅の錘に変わった。

 

「今だ、解体班! 撃て撃て撃て!!」

 

 才人に肩車をしてもらっていたルイズが〝錬金〟を唱えた。途端に火竜の右翼中央が爆発する。移動砲台の完成である。この主従――特にルイズ、あいもかわらずとんでもないバランス感覚だ。全力疾走している才人の肩の上で、平然と杖を振っている。

 

「このほうが、自分で動きながら詠唱するよりも、ずっと狙いがつけやすいわ」

 

「俺も、ついにご主人さまの乗り物かい!」

 

「光栄に思いなさいよね」

 

「へいへい」

 

 そこへ、さらにレイナールとキュルケが放った〝炎球〟がボスッ、ボスッという音を立てて炸裂し、爆発と矢によって開けられた穴の内から皮翼を焦がす。

 

 追い打ちとばかりに太公望の〝打風輪〟とタバサの〝氷の矢〟が上空から飛んできたところで、ずたずたになった片翼は完全に使い物にならなくなった。ピギャアァァアア……という火竜の悲痛な叫び声が周囲に響き渡る。

 

 直後、再びファイア・ブレスが空を焦がすも、太公望の〝風〟によって、周囲への延焼は完全に防がれた。事ここに至って、ようやく自身最大の武器を封じられていることを悟った火竜は悲鳴を上げた。

 

「解体班、次は尻尾を狙え! 振り回されると厄介だ」

 

「了解」

 

「任せて!」

 

「オッケー!」

 

 攻撃を続けていたルイズが、返事をした後、再び〝錬金〟の詠唱を開始する。同じく、上空のタバサと遍在二体、そして少し離れた位置に立っていたレイナールとキュルケが杖を構え直した。

 

「ブロンズ! 〝精神力〟はまだ持つか!?」

 

「ワルキューレ五体までならなんとか。それ以上は、この後を考えると厳しいな」

 

「承知した。では、ワルキューレ三体に槍を持たせた上で、待機させておいてくれ」

 

「了解した!」

 

 それからすぐに、尻尾がぼとりと落ちた。と、同時に火竜の身体がぐらりと(かし)ぐ。

 

「ブロンズ! ワルキューレを火竜の腹を目掛けて突撃させるのだ!!」

 

「任せてくれたまえ! 行けッ、ワルキューレ!!」

 

「よし、コメットとソード、フレアは後方で待機! その他の解体班は、同じく腹に攻撃を回せ。撃ち込む場所を間違えるなよ!」

 

「了解! 行くよ!!」

 

「わかったわ」

 

 青銅の乙女たちの槍と、タバサとレイナールが編み上げた〝風の針〟が火竜の腹に突き刺さる。火竜は再び叫び声を上げた。

 

 だが、それは先程までのものとは異なり、ごくごく小さく……か細かった。

 

 ――そして、約二十分ほどの激戦の末。ついに火竜は崩れ落ち。戦場に水精霊団勝利の雄叫びが響き渡った。

 

 

「しくしくしくしく……」

 

「デルフリンガーよ。気持ちはわからんでもないが、そう嘆くでない」

 

「だってよう……ずっと荷物ん中で、俺っちの出番待ってたのによう……」

 

「んなこと言ったって、あんなのの側で剣振るうわけにいかねーだろ! 最悪、吹っ飛ばされて終わるし! 踏まれたりしたら、ぺしゃんこだし!!」

 

「だからってよう……この扱いはあんまりじゃねぇかよう……しくしくしく……」

 

「ちょっと、気をつけてよ! 下手して傷つけちゃったら、みんなの苦労が台無しになっちゃうんだから!」

 

「と、いうわけだ。俺は集中して事に当たりたい。だから黙っててくれ。つーか、いちいち口でしくしくとか言うな」

 

「畜生……俺っちは肉斬り包丁じゃねぇやい……」

 

 図鑑を片手に部位の切り取りを指示するモンモランシーと、それに従って黙々とデルフリンガーを振るい続ける才人。さすがは伝説の剣である、竜の鱗などものともしなかった。本人(剣?)の意志はともかくとして。

 

 ――怪我人、ゼロ。目的の素材、採取成功。

 

 こうして、水精霊団第二回目の遠征は、大成功のうちに幕を閉じた――。

 

 

○●○●○●○●

 

「いやはや、こんなに早くお城の騎士さまがいらしてくださるとは。助かりました」

 

 暴れ回っていた火竜が倒されたという報せを聞きつけ、別の村へ避難していた住民たちが早速戻ってきた。ぺこぺこと頭を下げる村長を、太公望が制す。

 

「ガリアの騎士として、当然のことをしたまでのこと。それよりも、このたび被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げる」

 

「ありがとうございます。幸いにして、怪我人はほとんど出ませんでした。死んだ者もおりませんでしたし、火竜を退治していただいたとなれば、はい。あとはもう、焼かれた建物を建て直せば良いだけの話ですから」

 

 命さえ無事ならば、あとはどうとでもなります。村長の言葉に、うんうんと同意を示すその他の村人たち。彼らの手には、既に復興のために必要な道具類が握られていた。

 

「……皆さん、逞しいですなあ」

 

 思わずそう言ってしまった太公望に、再び村人たちの笑い声が被さってきた。

 

「ははは、火竜山脈の麓に住めば、みんなこうなりますて。あんなに大きな竜が家畜を狙ってくるなんてことは、めったなことではありませんが――万が一襲われても、騎士さまのような方々が来て退治してくださいますからな」

 

「時折あることだとは、前もって伺っておりましたが……」

 

「ええ。この地を治める貴族さまがたも、それをよくご存じですから。すぐに何らかの手を打ってくださるのです」

 

 太公望は周囲の様子を改めて見た。標高六千メイルの山々が連なる火竜山脈。その麓に広がる、肥沃な大地。青々と茂った草は家畜たちの良質な餌となり、肥えた土地は作物を育てるのに適しているのだろう。

 

 それに――村人たちの顔には諦観の色は伺えない。確かに、この地で生活するのは大変だろう。だが、彼らにとってここはかけがえのない故郷なのだ。

 

「良い……土地ですな」

 

「はい。これで火竜が出なければ最高なのですが」

 

 再び沸き上がった村人たちの笑い声に、太公望は安堵した。

 

(未だ魔獣に襲われた傷跡は残るが、この様子であれば、すぐに元通りの生活に戻れるであろう)

 

「ところで、解体した火竜についてなのですが」

 

「承知しております。秘薬になる部位は、ご自由にお持ち帰りくださいまし。残った部分はこちらで始末致しますのでご安心を。竜の肉を喰えば精が付きますのでな!」

 

「……本当に、逞しいですなあ」

 

 こうして村は、かつてのような笑い声を取り戻した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌日。ガリア王国の首都リュティスにある宮殿プチ・トロワにて。

 

 北花壇警護騎士団団長のイザベラが、自室に展開された『部屋』の中で唸っていた。

 

「あなたの弟……ずいぶんしっかりと仕事(・・)してくれたわね」

 

「口では面倒くさいとか文句言うクセに、やるべきこたぁやるからな、アイツは」

 

 いつものように焼き菓子を口の中に放り込みながら、王天君が答える。

 

 正直なところ、イザベラはこの任務を彼らに任せたくはなかったのだ。そもそも、火竜退治などといった華々しい仕事は、本来であれば自分たち()ではなく()の騎士たちの役割であり、他の騎士団が出るべき内容なのだ。

 

 もちろん、タバサと太公望――特に後者の〝風使い〟としての実力を目の当たりにしていたイザベラは、彼らがこの任務に失敗するなどとは思っていなかった。むしろ、成功して当たり前だと考えていた。だからこそ、出したくなかったのだ。

 

 自業自得とはいえ、前回の王女救出の話が『東薔薇花壇騎士団』と『西百合花壇騎士団』の一部に知られたことで『異邦人』の評判が想定以上に高まってしまうという、イザベラとしては少々困った状況に陥っていたためだ。

 

 そこへ持ってきて、彼らが火竜を退治したなどという噂話が広まってしまったら――今もそれなりに苦心して調整している『弟』の評価がまた上がってしまう。それはイザベラとしても、ガリア王政府から見ても、正直あまり望ましくないことだった。

 

 だが、今回は父王ジョゼフから、

 

「この任務には、シャルロットたち主従を送り出すように」

 

 という指令を直々に受けていたため、他の人員を回すわけにはいかなかった。

 

 時折、ジョゼフはこういった不可解な指示を出してくる。とはいえ父王の命令に逆らうわけにもいかず、仕方なくふたりを火竜山脈の麓へ送り込んだのだが――。

 

「自分たちふたりだけでは到底果たせそうもない任務であったため、武者修行中の若いメイジを複数雇いました――ねえ。黙っていればわからないことなのに、召使いや衛士たちの目がある謁見の間で、しかも大声で報告してくれるとは思わなかったわ」

 

 おまけに、わざわざ『東薔薇花壇騎士団』の装束を身につけて行ってくれたおかげで、あちらの領主にも顔が立ち、他の騎士団の面目も失われずに済んだ。騎士団長のカステルモールには後できちんと話を通し、口裏を合わせておかねばならないが。

 

「自分の立場がちゃんとわかっているから、あんな真似をしたってことよね」

 

「ま、そういうこった。ずいぶん前に言っただろ? アイツは人間同士の争いになんか干渉しねぇってよ」

 

「ええ。もちろん覚えているわ」

 

 王天君の言葉にイザベラは頷いた。

 

(彼はシャルロットに味方することはあっても『シャルル派』に与する意志は持っていないということね。つまり、ガリアの情勢をほぼ正確に掴んでいるばかりでなく、自分たち主従が争いの火種にならないように、きちんと弁えて行動していることになるわ)

 

 イザベラは王天君の弟に対して抱いていた内心の評価を、さらに上方修正することにした。

 

 そして。認めるのは癪だが、彼の主人であるシャルロットが、単にメイジとしてだけではなく、それ以外の面でも優秀な娘であることを思い知った。

 

 もしも従姉妹が、今だ宮廷内に残る一部の貴族たちのように魔法以外の面では無能であってくれたなら――自分はここまで苦労していないだろうとまで思っていた。

 

「あの子……どうして自分の使い魔が味方になりうる『シャルル派』を減らすような行動をとるのを平気な顔して見ていられるのかしら」

 

 母親が人質に取られているために、王政府の言いなりになっているのは理解できる。これ以上、敵を作りたくないというのだろうか。それとも、自分に忠誠を誓う家臣のみを厳選しようとしているのだろうか。それにしては従姉妹とシャルル派が接触したと思しき形跡がない。

 

 グルノープルへの行幸中にカステルモールが妙な行動を取ったことから、彼がシャルル派である可能性を疑い、王天君の『窓』と北花壇騎士団の配下を使って彼の身辺を探ってはみたものの――これといって怪しい動きはなかった。今も時折様子を見ているが、おかしなことはしていない。

 

 従姉妹自身の様子はというと、これまた普段と変わらなかった。

 

 使い魔が、やれ火竜は厩よりも大きかっただの、一緒に退治に出かけた者たちとガリア料理を存分に楽しんできただなどと任務中にあった出来事を面白おかしく報告し、居合わせた者たちを笑わせている最中も――全く表情を動かさず、ただじっと人形のようにその場に立っていた。

 

 何故、シャルロットがあのような態度でいられるのか。たったひとつだけ思い当たる節はある。いや、ありえない。認めたくない。もしも、自分が想像した通りだったとしたら。イザベラには『人形姫』の心情が、どうあっても理解できなかった。

 

「わたしたちは敵同士なのよ。怖いでしょう? なら、怯えなさいよ。憎い仇のはずでしょう? だったら、怒ってみせなさいよ。なんであんたはいつもいつも、涼しい顔してるのさ! ねえ……どうしてなの? シャルロット……」

 

 

 ――蒼き姫君が、薄桃色の宮殿で悔しさに唇を噛んでいたころ。

 

 ガリアの国境から海沿いにトリスタニアへと延びるヴェル・エル街道沿いの宿場町シュルピス。その中にある『貴族の羽根飾り』亭という仰々しい名を冠した旅館の一室で、ひとりの女性が小さな人形を前に、ぺこぺこと頭を下げるという珍妙な光景が繰り広げられていた。

 

「も、申し訳ございません。例の件は失敗に終わりました。どのような罰でも甘んじてお受けします……」

 

 まるで気が触れたかのような行動をしているこの女性を貴族派連盟『レコン・キスタ』の幹部たちが見たら、あっと声を上げるに違いない。

 

 足下まで届くフードつきの黒いマントを身に纏い、その色に負けないほど黒く艶のある髪の彼女は、常に『レコン・キスタ』総帥オリヴァー・クロムウェルに影のように付き従う秘書、ミス・シェフィールドそのひとであった。

 

「はい。それが――情報では、グラモン家の主立った将兵は全て出払っているはずだったのです。ところが、残っていた者たちが想定以上に強敵で……ええ、あの『指輪』で妖魔たちを扇動させたところまでは良かったのですが、返り討ちに……」

 

 クロムウェルの前では女王然とした態度を見せていた彼女が、まるで冬の雨に打たれた野良猫のように、ぶるぶると震えている。

 

「そのため、グラモン領を混乱させ、諸侯軍と王軍を分断することが叶いませんでした。『指輪』の消耗も激しく、これ以上の行使は本来の作戦に支障が……」

 

 と、シェフィールドの目の前に置かれていた人形がカタカタと揺れた。

 

「えっ? お、お許しくださるのですか? ご期待に応えることのできなかった、不出来なこのわたしを?」

 

 ぱっとシェフィールドの顔が輝く。その表情は、まるで恋する乙女のようだ。

 

「はい……はい……元の持ち場へ戻れと? わかりました。すべては仰せのままに……」

 

 シェフィールドは人形に向かって優雅にお辞儀をして見せると、手荷物を纏め始めた。

 

 

○●○●○●○●

 

 

 ――それから数日後。

 

 トリスタニアの王宮でアンリエッタ姫はひとり自室に籠もり、茫然自失の体となっていた。

 

「ハヴィランド宮殿が『レコン・キスタ』に占拠された……こんな……こんなことって……ああ、ウェールズさま……!」

 

 アンリエッタは天蓋つきの豪奢な寝台に身を投げ出し、はらはらと涙を流した。

 

 アルビオンの王都・ロンディニウムが貴族派連盟の手により陥落したという報せが王宮へともたらされたのが三日ほど前。

 

 その直後――トリステインとロンディニウムを直接繋ぐ港湾都市・ロサイスが貴族派の手によって抑えられたことにより、アルビオン宛のフクロウ便を送るための中継所が一切利用できなくなってしまい、王宮の貴族たちは大混乱に陥った。

 

 上を下への大騒動の末、アルビオン大陸への玄関口である港町ラ・ロシェールに常駐している大使に宛てて手紙が届けられた。それは、

 

『行商人やアルビオンからの避難民たちからもたらされる情報を元に、現在の状況を可能な限り伝えられたし』

 

 という命令書だった。

 

 命令を受けた大使の尽力により、おおよその現状が王宮に伝わった。それが、貴族派連盟によるハヴィランド宮殿の占拠、そして国王ジェームズ一世をはじめとしたアルビオン王家と王党派が残存勢力をかき集め、アルビオン大陸の東端にあるニューカッスル城方面に落ち延びたらしいという情報だった。

 

 ――もはや、アルビオン大陸の趨勢は誰の目にも明らかであった。

 

 愛するひとの命運は、風前の灯火。だが、無力なアンリエッタ姫にはどうすることもできない。そればかりか、彼女の前にも運命という名の巨大な壁が立ち塞がろうとしていた。

 

「結婚。ゲルマニアの皇帝と、このわたくしが……」

 

 隣国ゲルマニアとの軍事防衛同盟を結ぶための条件が自身の降嫁――トリステインを離れ、皇帝アルブレヒト三世の元へ嫁ぐことだというのだ。

 

 この条件を宰相マザリーニが持ち帰ってきたとき、当然のことながら王政府議会は紛糾した。

 

 マザリーニと王都防衛責任者のグラモン元帥やその他大勢の貴族たちは、もはや時間がない、急ぎ同盟を締結せねば、最悪の場合トリステインが滅びると主張した。

 

 いっぽう、ラ・ヴァリエール公爵とリッシュモン高等法院長、そして彼の配下である高級官僚や参事官たちは、強硬に反対してくれた。いくら国の危機とはいえ、姫さまを差し出すなどとんでもない、もっと別の条件を引き出すべきだと。

 

 アンリエッタはそんな彼らの心遣いが身に染みた。

 

 彼女は決して馬鹿ではない。現在自国が置かれている状況を正確に理解していた。まもなくアルビオンを陥とし、空から攻め寄せてくるであろう『レコン・キスタ』の侵攻を防ぐためには、トリステインの空軍力では到底足りない。最新鋭の軍艦を多数保有する、隣国ゲルマニアの手を借りねばならないということを。それでもなお、世界一の空軍力を誇るアルビオン空軍に対抗できるかどうかわからないということまで。

 

 結局、その日の議会は纏まらなかったが――反対者に比べ、賛成意見が圧倒的に多かったことを思うに、そう遠くない将来……自分は人身御供としてゲルマニアの皇帝へ差し出されるのだろう。アンリエッタは憂い顔で深いため息をついた。

 

「本来でしたら、兄弟国のガリアに助けを求めるのが筋なのでしょうが……あの国を治めているのは『無能王』と嘲りを受けるジョゼフ王。期待するだけ無駄というもの」

 

 アンリエッタ自身、ラグドリアン湖で開かれた園遊会で、実際にジョゼフ王に会ったことがあるのだが――公の場での礼儀すらろくにわきまえぬ、評判通りのおかしな人物だという印象しか残っていなかった。

 

 なにしろジョゼフ王ときたら、各国の代表者たちが集う会に遅れてきたばかりか、悪びれもせず満面の笑顔でとんでもないことをしでかしたのだ。

 

「舌の肥えたお歴々の口に合うかどうかはわからぬが、ガリアで最高の料理人と珍味。それと酒を用意した。存分に味わってくれたまえよ」

 

 パンパンとジョゼフ王が手を鳴らすと、裏に控えていた大勢の召使いたちが現れ、来客者たちの前へ数々の料理皿と酒を、これでもかと言わんばかりに並べ始めた。それも一皿、一本で平均的な貴族が一年間は遊んで暮らせるほどの贅を尽くした品を、だ。

 

 この下品な行為に多くの出席者たちが眉を顰めた。トリステイン王室主催の園遊会で自国の料理と財力自慢をするなどという真似をしたのだから当然だろう。それらがまた極上の美味だっただけになおさら質が悪い。

 

 トリステイン側もできうる限りの努力をしてはいたのだが、ガリア王が提供したものと比較した場合、明らかに見劣りした。かけている予算が桁違いなのだから仕方のないこととはいえ、プライドをいたく傷つけられた進行役の貴族や王宮お抱えの料理人たちが、揃って辞職を申し出る騒ぎにまで発展した程だ。

 

 そんな、王族どころか客として最低限の常識すらない変人に助けを乞うたとて、どうなるわけもなく。事実アンリエッタの耳には、今のガリアは国王に不満を持つ反対勢力を押さえ込むだけで精一杯で、援軍を出すだけの余裕はないという噂話が届いている。

 

「ええ、覚悟はしていました。でも、わたくしは……あのかたを愛しているのです」

 

 王族として生まれたからには町娘のように愛する人物との恋の末、結ばれるなどということはまずありえない。アンリエッタも、頭の中ではそれがわかっていた。しかし、理解と感情は別物だ。彼女はウェールズ王子のことを忘れることなどできなかった。

 

 けれど、この運命を変えることなどできそうもない。アンリエッタは嘆いた。

 

「おお『始祖』ブリミルよ。どうかこの哀れな姫に、お慈悲を賜らんことを……!」

 

 その祈りが通じたのであろうか。ふいにアンリエッタの脳裏に閃くものがあった。

 

「わたくしは、灰色の骨によって作られた鳥籠に閉じこめられた、哀れな小鳥。あのかたの元へ羽ばたくことなど、叶わぬ願いでしょう。ですが、せめてさえずりの声を上げることくらいは許されてもよいはずですわ」

 

 アンリエッタは立ち上がって呼び鈴を鳴らし――隣室に控えていた侍女を呼び出した。それから鈴を転がしたような涼やかな声で、何事かを命じた。

 

 

 




モンハン in ハルケギニア。

さて、姫さまは何を思いついたのでしょうか。
とりあえず枢機卿猊下に胃薬を。


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第75話 教師たち、空の星を見て思う事

「突然呼び出したりしてごめんなさいね、ルイズ・フランソワーズ。実は、どうしてもあなたにお願いしたいことがあるの」

 

 幼なじみであるアンリエッタ姫からこの言葉を聞いたとき。ルイズは細かに震える足をなんとか押さえつけるだけで精一杯だった。

 

 

 ――時を遡ること、数時間前。

 

 ガリアでの火竜退治を終え、魔法学院に帰還してから二週間ほどが経過したその日。なんの前触れもなく、いきなり王宮から迎えの馬車が彼女の元へと寄越されてきたのだ。

 

 しかも、アンリエッタ姫直々のお召しであると使者から伝えられたルイズは才人を連れて行くことすら叶わず、たったひとりで取るものも取り敢えず馬車へと乗り込むことになったのだが――彼女の心中は不安で溢れ返っていた。

 

(まま、まさか、あの件が王宮に漏れたのかしら……!?)

 

 あの件――すなわち、ルイズが『虚無の担い手』であることを王政府に知られてしまったのだろうか。自分が王宮から呼び出される理由に関して、それ以外のことに一切の心当たりがなかったルイズは、震えた。

 

 さらに、謁見室にいたのがアンリエッタ姫だけではなかったのが、彼女の畏れに拍車をかけた。よりにもよって、ブリミル教の司教枢機卿・マザリーニが側に控えていたのだ。その手に、あの『始祖の祈祷書』を持って。

 

 こうなってしまっては、もはや言い逃れはできない。

 

(父さま、母さま……先立つ不孝をお許し下さい)

 

 などとルイズが行き過ぎた覚悟を決めた、その時だ。件の言葉がアンリエッタ姫の口から飛び出したのは。

 

「お願いごと……とは?」

 

 震え声でそう問うたルイズに答えたのは姫君ではなく宰相マザリーニであった。

 

「そなたにとって悪い話ではないので、そのように畏まる必要はない」

 

 そう前置きした彼は、怯える少女にこう告げた。

 

「トリステイン王室の伝統でな。王族が結婚する際に、高位の貴族より選ばれし巫女が、この始祖の祈祷書を手に式の(みことのり)を読み上げる習慣になっておる。そして姫殿下はミス・ヴァリエール。そなたを是非にとご指名あそばされたのだ」

 

「え、ええっ? あ、あの、それは、つまり」

 

 完全に意表を突かれた格好のルイズは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。そんな幼なじみの様子を見たアンリエッタは、突然降って湧いたような報せに驚いたのだろうと解釈し――苦笑しながら事情を説明した。

 

「ええ、そうよルイズ。もうすぐ結婚するの、わたくし」

 

「……おめでとうございます」

 

 アンリエッタの声がどこか哀しみに沈んでいるように感じられたルイズは、小さく祝いの言葉を述べるに留めた。

 

「それで、どうかしら。お願いできて?」

 

「光栄にございます。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール、謹んで拝命致します」

 

 膝をつき、臣下の礼をとったルイズの元へマザリーニが歩み寄ると、彼女の手に始祖の祈祷書を手渡した。ルイズは恭しくそれを受け取る。

 

 そのやり取りを見届けたアンリエッタ姫は、にっこりと微笑んだ。

 

「快く引き受けてくれてありがとう、ルイズ・フランソワーズ。もしもあなたに断られてしまったら、わたくし、どうしようかと思ったわ!」

 

「なにを仰います! 姫さまのご命令とあらば、たとえそれが何であろうとも、断る道理などございません」

 

 それも、王族の婚儀に立ち会った上で詔を詠む機会など、そうそうあることではない。呼び出されたときの不安などすっかり忘れて、ルイズは与えられた名誉に酔った。だが、その陶酔をすぐ側にいたマザリーニがだいなしにした。

 

「選ばれし巫女は始祖の祈祷書を肌身離さず持ち歩き、詠み上げる詔を考えねばならぬ。ゆめ、忘れることのないようにな」

 

「ええッ! 詔の内容を、わたしが自分で考えるんですか!?」

 

「うむ。それが伝統であるからな」

 

 ルイズは困ってしまった。彼女は優秀な学生ではあるのだが――自分の持つ詩才については、正直なところ全く信用が置けなかったのだ。

 

「そう構える必要はないぞ、ミス・ヴァリエール。ある程度は我々宮廷の者が推敲するからな。とはいえ、原文については自力で書き上げてもらわねばならないが」

 

 枢機卿の言葉を受けたルイズはごくりと唾を飲み込んだ。

 

「期日まではまだ余裕があるから大丈夫よ、ルイズ。ゆっくり考えて頂戴な。ところで、マザリーニ枢機卿」

 

「いかがなさいましたか、姫さま」

 

「帰りの馬車はどうなっていますの?」

 

「すぐにでも用意させますが」

 

「でしたら、二時間後にしてもらえまして? おともだちをいきなり城へ呼びつけておいて、何のおもてなしもせずに帰らせるわけにはいきませんからね」

 

「承知致しました。それでは、わたしはこれにて失礼させて頂きます」

 

 マザリーニがしずしずと謁見の間を去るのを見届けたアンリエッタは、たったひとりの友人に、微笑みながら言った。

 

「東方由来の珍しいお茶とお菓子があるの。よかったら、わたくしの部屋で少し休んでいってくれるかしら」

 

 ルイズに、嫌のあろうはずがなかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 気が置けない友人との楽しいお茶会――ただ、それだけのはずだった。茶を飲み、菓子をつまみながら、少女たちは幼い日の思い出話に花を咲かせて終わる……。

 

 話が進むにつれて、王女の顔が少しずつ陰っていかなければ。

 

「あの頃は毎日が楽しかったわ。悩みなんか、なんにもなくって」

 

 アンリエッタは小さく首を横に振ると、深いため息をついた。

 

「姫さま、どうなされました? どこかお加減でも悪いのですか?」

 

 ルイズはそんな姫君の様子が気になって、思わず顔を覗き込んでしまった。そこに浮かんでいたのは――湖の底よりも深い、憂いの色であった。

 

「覚えているかしら? あなたが『土くれ』のフーケを捕縛した件だけれど」

 

 もちろん、ルイズがそれを忘れようはずがなかった。あの事件に関わったことが、自身が持つ素養を知る大きな契機となったのだから。

 

「あの功績で、あなたが受けるはずだった〝騎士(シュヴァリエ)〟なんだけれど。わたくしの知らないところで、いつのまにか受勲の条件が変わっていたらしいの。なんでも、従軍が必須になったんですって。代わりに別の勲章を出せればよかったのだけれど……」

 

 残念ながら、それすら叶わなかった。哀しみを湛えた瞳で詫びの言葉を述べた姫君に、ルイズは慌てて言った。

 

「いえ、そんな! わたくしは勲章が欲しくて杖を取ったわけではございません」

 

「……あなたはまさしく貴族の鑑ね、ルイズ・フランソワーズ。最近はそのような物言いをする貴族すら、数を減らしているというのに」

 

 そう言うと、アンリエッタ姫は再び深いため息をついた。

 

「実はあなたにお願いした巫女の件もね、最初はクルデンホルフ大公姫に依頼することになっていたらしいの。そのほうが政治的に都合が良いんですって」

 

「えっ?」

 

 驚きの声を上げたルイズに、アンリエッタは俯いて答えた。

 

「こんなふうに、何もかもわたくしの知らないところで決められていくのよ。王国に生まれた姫なんて鳥籠に囚われた小鳥も同然。飼い主の都合であっちへ行ったり、こっちへ行ったり」

 

「姫さま……」

 

「でもね、わたくし思ったの。せめてさえずりの声を上げるくらいは許されてもよいはずだって。それで、あなたを巫女に指名したのよ。ろくに顔も見たことのない大公姫ではなく、たったひとりのおともだちに、祝いの詔を詠み上げてもらいたかったから」

 

 そう告げた途端、アンリエッタの瞳から涙が一筋はらりと落ちた。ルイズは慌てて懐からハンカチーフを取り出すと、姫君に手渡した。

 

「まあ、いやだわ、わたくしったら。ごめんなさいね、あなたにこんなことを話すつもりなんて、なかったのに」

 

 そう呟き、再び涙を流し始めたアンリエッタを見てルイズは訝しんだ。

 

 ひと月ほど前に顔を合わせたとき。敬愛する姫殿下は無理に明るく振る舞っているようだった。しかし、今日はそれすらできていない。あの時点では、まだアンリエッタ姫の婚姻は決まっていなかったはずだ。

 

(つまり……このご結婚に、姫さまを塞ぎ込ませるような何かがあるんだわ)

 

 ルイズはそう判断し、口を開いた。

 

「姫さま、仰ってください」

 

「まあ。わたくし、あなたに何を言えばいいのかしら? ルイズ・フランソワーズ」

 

「おとぼけにならないでくださいまし。悩み事がおありになるのでしょう?」

 

「……いえ、あなたに話せるようなことではないのです」

 

 やはりそうだとルイズは確信した。

 

(姫さまは、たったひとりで苦しみを抱え込んでおられたのね!)

 

 思わず彼女は声を荒げてしまった。

 

「そんな、いけません! 昔は、何でも包み隠さず話し合った仲ではございませんか! わたくしを『おともだち』と呼んでくださったのは姫さまです。そのおともだちに、悩みを話せないと仰るのですか?」

 

 ルイズがそう言うと、アンリエッタは嬉しそうに微笑んだ。

 

「まだわたくしを『おともだち』と呼んでくれるのね。とても嬉しいわ。でも……」

 

「言って! 言ってください姫さま! わたくしを、本当に『おともだち』だと思ってくださっておられるのでしたら、なおのことでございます!」

 

 ルイズの声に励まされたのだろう。アンリエッタは決心したかのような表情で、周囲を伺った。このお茶会の間、ふたりきりで気の置けない会話を楽しみたいからと側付きの者たちは全て下がらせていた王女は杖を取り出すと、小さくルーンを唱えた。

 

「〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟?」

 

 ルイズの問いに、アンリエッタは頷いた。

 

(人払いだけじゃなくて、魔法の目や耳があるかどうかを確かめるなんて……)

 

 どうやら相当に重い話であるようだ。ルイズは思わずぎゅっと手を握り締める。

 

「実は、わたくしはゲルマニア皇帝の元へ嫁ぐことになったのですが……」

 

「ゲルマニアですって! どうしてそんなことに!!」

 

 伝統を軽んじ、何かというと金で物事を解決しようとする隣国ゲルマニアに対して良い感情を持っていないルイズは驚きの声を上げてしまった。アンリエッタの制止で、慌てて口を塞ぐ。大声を出して騒いで、姫の悩みを他人に聞かれたりしたら大変だ。

 

 人払いをしているとはいえ、壁や扉の向こうに誰も控えていないとは限らないのだ。わたしにも〝消音〟が使えればよかったのにと、ルイズは内心で嘆いた。

 

 ――その後アンリエッタは、ハルケギニアの政治情勢についてルイズに語り始めた。

 

 水精霊団の集まりの中で、時折太公望やレイナールがそういった話題を出すことがあったので、ルイズもアルビオンの現況についてある程度把握してはいたものの――祖国が置かれた国際的立場がそこまで厳しいとは想像だにしていなかった彼女は、驚きを露わにした。

 

「姫さまの降嫁がゲルマニアとの同盟条件だなんて、いくらなんでもあんまりですわ。他に方法はないのですか?」

 

 切なげな声で尋ねるルイズに、アンリエッタはため息をついて答えた。

 

「ありがとう、ルイズ。あなたのお父上も、そう言って反対してくれたのだけれど……もう、時間がないのです。アルビオンが陥ちれば、次に狙われるのは――わかるでしょう? ですから、わたくしがゲルマニアへ嫁ぐこと自体に異論はないのです。国を、護るためですもの」

 

 それだけに……と、アンリエッタは呟いた。

 

「『レコン・キスタ』はトリステインとゲルマニアの同盟を望まないでしょう。いくら戦力で上回るとはいえ、一国を相手にするのと二カ国と同時に戦うのでは、どう考えても後者のほうが大きな損害を被りますからね。したがって、彼らがこの条件を知れば、わたくしたちの婚姻を妨げるための材料を血眼になって探し始めるに違いありません」

 

「な、ならその条件を内密にしておけば……」

 

「ゲルマニアとの同盟や締結のための条件については、既に王政府議会で承認されています。まだ正式に公表していないとはいえ、知られていると思って間違いないないでしょう。宮廷内に『レコン・キスタ』が放った密偵がいないとも限りませんから」

 

 そこまで言うと、アンリエッタは俯いてしまった。

 

「もしや……姫さまには何かお心当たりがあるのですか?」

 

 ルイズが顔を蒼白にして尋ねると、アンリエッタは両手で顔い、机に伏してしまった。

 

「おお、始祖ブリミルよ……この不幸な姫をお救いください……」

 

「いったい、なんなのですか!? 姫さまがお気になされているものとは!」

 

 言うべきか否か悩むようなそぶりを見せたアンリエッタだったが、興奮してまくしたてる友人の声に励まされたのか、ぽつりと呟いた。

 

「一通の手紙です」

 

「手紙?」

 

「そうです。もしも、それが『レコン・キスタ』の手に渡ったら……」

 

「いったい、どんな内容の手紙なのですか?」

 

「そこまでは言えません。ですが、その手紙がゲルマニアに届いたら――皇帝は間違いなくわたくしとの婚姻を取りやめるでしょう。そうなれば、同盟の話は反故。トリステインはただ一国のみで『レコン・キスタ』に立ち向かわねばならないでしょうね」

 

 姫君の手を取り、ルイズは問い詰めた。

 

「どこにあるのですか? トリステインに危機をもたらす、その手紙とやらは!」

 

 だが、アンリエッタは弱々しく首を振った。

 

「それが、手元にはないのです。実は、アルビオンに……」

 

 それを聞いたルイズは真っ青になった。

 

「アルビオンですって!? で、では、すでに敵の手中に落ちていると……?」

 

「いえ、幸いなことにその手紙を持っているのは『レコン・キスタ』ではありません。反乱勢と骨肉の争いを繰り広げている、アルビオン王家のウェールズ皇太子が……」

 

「プリンス・オブ・ウェールズ? あの、凛々しき王子さまが?」

 

 以前、ルイズは父や家族と共に参加したラグドリアン湖での園遊会で、一度だけ件の王子と顔を合わせたことがあったが――残念ながら、はっきりとした顔立ちまでは思い出すことができなかった。ただ、彼の凛々しい立ち居振る舞いだけは印象に残っている。

 

 アンリエッタはおもむろに椅子から立ち上がると、身体をのけぞらせ、よろめきながら天蓋つきのベッドにその身を横たえた。

 

「ああ、破滅です! ウェールズ皇太子は遅かれ早かれ、反乱勢に囚われてしまうことでしょう。そうなれば、あの手紙も明るみに出てしまう! でも、わたくしには……どうすることもできないのです。この無力な姫は、座して祖国の滅亡を見るしかないのです!」

 

 ルイズは息を飲んだ。この話は紛れもなくトリステインの存亡に関わる話だ。それに気付いたと同時に――彼女は姫君の前で膝をつき、恭しく頭を下げていた。

 

「その手紙を取り戻して参れば宜しいのですね?」

 

 『おともだち』が発した言葉に、アンリエッタは顔色を変えた。

 

「無理よ! 無理よルイズ! 考えてもみてちょうだい。反乱軍と王党派が争いを繰り広げているアルビオンに赴くなんて、危険にも程があるわ!」

 

「何を仰います! たとえ地獄の釜の中、竜の顎門(あぎと)の内であろうとも、姫さまの御為とあらば何処へなりとも向かいますわ! 姫さまとトリステイン王国の危機を、このヴァリエール公爵家三女、ルイズ・フランソワーズ、見逃すわけには参りません!」

 

 アンリエッタはベッドから飛び起きると、ルイズの肩を抱いて言った。

 

「その言葉だけ有り難く受け取っておくわ。でも、駄目よ! あなたをそんな危ない目に遭わせるわけにはいきません。ああ、わたくしったら、なんてことでしょう。きっと混乱していたんだわ! あなたに、こんなことを話すべきではなかった!」

 

 慌てふためく姫君の手を取り、安心させるような微笑みで、ルイズは告げた。

 

「もうお忘れになったのですか? 姫さま。わたくしたち『水精霊団(オンディーヌ)』のことを」

 

 ルイズの言葉に、アンリエッタははっとしたような表情を見せた。

 

「オーク鬼三十体を、たったの一日で退治してしまったという……?」

 

「つい先日、火竜討伐も経験致しました」

 

「まあ、まあ、火竜討伐ですって!? あなた、そんなことまで……」

 

「はい。それに……わたくしたちには水の精霊に誓った言葉があるのです」

 

 ぐっと顔を上げ、ルイズは姫君と目を合わせて言った。

 

「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために。姫さま……いえ、ミス・アクアマリン。あなたはわたくしどもの仲間でもあります。その尊き誓いを、どうして破ることができましょう」

 

 

○●○●○●○●

 

「で、おぬしはその依頼を引き受けてきたわけだ」

 

「こんな夜遅くに全員格納庫へ集まれなんて言うから、何事かと思えば……」

 

 魔法学院の外に広がる草原。その中に立つ、ゼロ戦の格納庫内で。水精霊団に所属するメンバーたちが、ある者は頭を抱え、またある者は与えられた名誉に打ち震えていた。

 

 それはそうだろう。昼間、王宮へ呼ばれていったルイズが、みんなにしか頼めない大切な話があるからと水精霊団一同を集合させた挙げ句、

 

「王家からの依頼でアルビオンへ赴き、皇太子に姫君からの密書を届ける」

 

 などという、とんでもない話を打ち明けたとなれば、なおさらだ。

 

 痛む頭を押さえつつ、太公望は口を開いた。

 

「正直なところ、何故トリステイン王家がわしら『水精霊団』について知っておったのか。そこから問い詰めたいところなのだが……それはさておき」

 

 その言葉を聞いた途端。ルイズと才人が顔を伏せたので、こやつらが何か漏らしおったな? などと思いつつも、既に王家から直接依頼を受けてしまった以上、今更文句を言っても始まらない。そう判断した太公望は、次のステップへ移行することにした。

 

「ルイズよ。念のため確認したいのだが」

 

「何かしら?」

 

「その手紙とやらは、持ち帰ることが必須であるのか?」

 

「ええ。わたしが預かった密書を皇太子殿下にお渡しすれば、必ず返してくださると姫さまは仰っておられたわ。その上で、絶対に王宮へ持ち帰るようにと命じられたの」

 

 それを聞いた太公望は考えた。

 

(問題の手紙とやらは、トリステインとアルビオン王家にとって重要なものであり、かつ『レコン・キスタ』及びゲルマニアの手に渡ると重大な不都合が生じるもの――つまり、国の存亡に関わるような密約が記された書類なのではあるまいか)

 

 さらに、途中で破棄せずにわざわざ持ち帰るよう厳命されているということは……ルイズの生還はもちろんのこと、それを手元に置いておくことで、トリステインに多大な利益が生まれる――たとえば互いの『王権』あるいは『領土』の移譲に関するようなものであるとも考えられる。

 

 そういう類の品であれば『レコン・キスタ』の手に渡ってしまった場合甚だ不都合であり、ゲルマニアとの同盟が反故にされるというのも理解できる。また、偽造であるという言い訳が一切通用しない類の加工が施されている可能性が高い。

 

 とはいえ、たったこれだけの情報で判断するのは危険だ。そう考えた太公望は、さらに確認を取ることにした。

 

「できれば密書の中身を見せてもらいたいのだが」

 

 それを聞いたルイズはぶんぶんと首を横に振った。

 

「ダメよ! 魔法の封蝋と王室の花押が押されているもの。開けたりしたら一発でバレちゃうわ。それに、姫さまはウェールズ皇太子さまだけにお見せするようにって」

 

(やはり、そういう加工技術が存在するのか……)

 

 太公望は思わず嘆息した。

 

(密書の中身を知ることができれば、採れる選択肢の幅が広がるのだが……少なくとも、全員で戦場へ突撃するなどという無茶を承諾することはできぬ)

 

 そう考えた太公望は、がっくりと肩を落とした。

 

「まったく……とんでもない面倒を背負い込んできてくれたものだのう」

 

 その言葉に、ルイズとギーシュが猛然と反論した。

 

「面倒ですって!? 姫さま直々の頼みなのよ! なにが気に入らないっていうの!?」

 

「ルイズの言う通りだ! こんな名誉ある任務を賜れる機会なんて――」

 

 そこまで言ったところで、ギーシュは思わず口を噤んだ。太公望から、形容し難い光の宿る瞳でギロリと睨み付けられたからだ。

 

「あのな。ただのお使いではないのだぞ? 戦場のまっただ中を突っ切って、滅亡寸前まで追い遣られているアルビオン王家の陣中へ向かうのだ。それを理解しておるのか!?」

 

「それなら、心配しなくても大丈夫よ。『空とぶベッド』に乗って、みんなでびゅーんと飛んで行けばいいだけなんだし」

 

 このルイズの言葉に慌てたのはレイナールとモンモランシーだ。

 

「待ってくれ、ラ・ロシェールまで三百リーグ以上あるんだよ!? 早馬で、しかも途中の駅で何度も乗り換えをしたとしても、最低二日はかかる距離だ。タルブへ行った時は宿に泊まりながらだったから、なんとかなったけど……いくらなんでも、空を漂流しているアルビオン大陸までは無理だよ。みんなが保たない」

 

「えっ!?」

 

「ラ・ロシェールからアルビオンまではフネで行くとしてもよ? あんな目立つモノで戦場の上を飛んだりしたら、絶対途中で撃ち落とされるわ!」

 

「じゃ、じゃあ、さ、サイトの『ドッグ・ゼロ』を使えばいいんじゃないかしら? 風竜よりも、ずっと早く飛べるじゃない」

 

「のう才人よ、おぬしの持つ飛行機械の航続距離はどのくらいだ?」

 

「確か千九百リーグくらいだったと思う。正確な数値、調べようか?」

 

「いや、構わぬ。航続距離的には一応往復可能であるのか……と、駄目だ。着陸その他諸々の事情を考えると、現実的ではない。よって、これらの案は却下だ」

 

「ああ、確かに。戦場のど真ん中にゼロ戦降ろせるわけねえしな。おまけに俺、アルビオンとやらがどこにあるんだか、わかんねえし」

 

 アルビオンまではわたしが案内するし、着地については空中から〝瞬間移動(テレポート)〟で降りれば大丈夫――そう反論しようとしたルイズだったが、できなかった。ここに至って、彼女はようやく重大な問題に気が付いたからだ。

 

 虚無魔法云々の話ではなく――皇太子ウェールズの所在についてはアンリエッタ姫からもたらされた情報によって理解してはいるのだが、ルイズはそこへ行ったことがない。つまり〝瞬間移動〟後の出口を掴むことが非常に難しいのだ。

 

 おまけに、移動中の物体を指標にして〝瞬間移動〟を使うのはとてつもない危険を伴うことであると才人から忠告を受け、さらに太公望から手渡されたメモにも、ほぼ同じことが書かれていた。絶対に手紙を持ち帰らねばならない以上、無謀な賭けはできない。

 

 彼女ひとりで跳躍したり〝念力〟で飛んでゆくのも無理だ。いくらなんでも距離がありすぎる。ほぼ間違いなく、途中で〝精神力〟が切れてしまうだろう。

 

 ラ・ロシェールからフネに乗り、ロサイスへ到着してから移動するにしても、前述した出口探査や撃墜の問題から考えれば、実現は不可能に近い。

 

「え……あ、う……」

 

 言葉に詰まってしまったルイズの元へ、太公望がスタスタと歩み寄る。そして、彼女の頬をぐいとつねり上げた。

 

「ひだい! ひだい!」

 

「ひとりで突撃しようとしなかっただけ、成長したと認めよう。だがのう、こんな無茶な依頼を、よりにもよって自分から進んで受けてくるなど、無謀にも程があるわ! 単なる狩りと戦場とではな、天と地ほどの差があるのだぞ!?」

 

「ごべんなざい! ぼうしばぜん! おでがいだから、ほおつでるどはやべで!!」

 

「ならば、なんとか取り下げてもらうよう、公爵閣下へ早急に相談をしてだな……」

 

「そえはらめ! もうりかんがらい」

 

「なぬ?」

 

 ようやく解放されたルイズが、頬をさすりながら言った。

 

「急ぎの任務なのよ! 朝には出発しなきゃいけないの!!」

 

 これを聞いた太公望は激怒した。

 

「こんな子供を相手に、無理難題を言うにも程があるわ! 戦場への潜入のみならず、国の命運を分ける貴重品の奪還を指示した上に、時間制限ありだと!? いったい何を考えておるのだ、トリステインの王室は!」

 

 無茶振りをしてくるという意味ではガリア王家も同列なのだが、タバサへ与えられる『任務』と今回のこれは根本から事情が異なる。

 

「姫さまを悪く言わないで! 受けるって申し出たのはわたしで……」

 

「そんなふうに王室を罵るなど、不敬にも程がある!」

 

 反論を述べたルイズとギーシュは、とてつもない迫力を伴った太公望のひと睨みによって再び黙らされた。

 

「ルイズを送り込むと決めたのは王室であろうが! 責任は命令を与えた者にある。そもそもだな……おぬしはこの任務に失敗した場合どうなるか、少しでも考えたのか?」

 

「失敗するだなんて、そんな……」

 

「考えとらんかったようだな。では皆の者、失敗した場合の問題点を挙げてみるのだ」

 

 真っ先に手を挙げたのはルイズだ。

 

「手紙が取り戻せなかったら、ゲルマニアと同盟が結べなくなるわ。そうなったらトリステインは自分たちだけで『レコン・キスタ』と戦わなきゃいけなくて……」

 

「それ以前の問題よ」

 

 そんなルイズに真っ向から反論を述べたのは、キュルケであった。

 

「もしもヴァリエールが戦場に散ったらどうなるか……あたしでも想像つくわよ」

 

「せせ、戦場に、散る、って……」

 

「怒り狂ったラ・ヴァリエール公爵が、国境の守備を放棄――最悪の場合、そのままトリステイン王家に反旗を翻すでしょうね」

 

「と、父さまがそんなこと……」

 

「するわけないと言い切れるか?」

 

「いや、その前にルイズの母ちゃんが黙ってないと思うな、俺」

 

「ああ、そうね。そっちのほうが早いかもしれないわ」

 

 太公望、それから才人とキュルケの発言にルイズは真っ青になった。そこへモンモランシーが追い打ちのように繋げる。

 

「ギーシュが同行していた場合はグラモン元帥も動くでしょうし……それについては、他の家の誰でも同じだと思うわ」

 

「で、でも、こ、この依頼は、わたしが受けるって、自分から申し出たことで……」

 

 その反論を、ばっさりと切り捨てる太公望。

 

「その事実が表に出たら、親たちは間違いなく王家を恨むぞ。何故、子供たちを止めてくださらなかったのか。どうしてもっと相応しい人員を出してくれなかったのだ、とな」

 

 流れた冷や汗で滑り、ズレた眼鏡の位置を直しながらレイナールが呟いた。

 

「ルイズ個人じゃなくて『水精霊団』宛ての依頼だけに、質が悪いんだよね」

 

「その通りだ。依頼を受けた者たちが戦場に斃れても、トリステイン王家は知らぬ存ぜぬで通そうと考えた。そのように受け止められてしまうであろう。つまり、ハルケギニアの貴族たちがよく言う『名誉の戦死』にすらならないのだ。犠牲者の親族は口惜しいであろうな。さて……彼らの怒りの矛先は、いったいどこへ向くのかのう」

 

「下手をしたら、王家・公爵家・王軍元帥という三つ巴の戦いが勃発するんじゃないかな」

 

「そこにゲルマニアのツェルプストー家が加わる可能性もあるぞ」

 

「もしもそんなことになったら『レコン・キスタ』が攻め込んでくる前に、トリステインは確実に滅亡だよ!」

 

 太公望とレイナールの掛け合いを聞いたルイズの震えが激しくなった。

 

「そそ、そんな、そんなことって……わた、わたし……なんてこと……」

 

 ルイズは、これまでトリステインという国におけるヴァリエール家の立ち位置や、実家が持つ影響力というものをこんなふうに客観的な視点から見たことがなかった。彼女の顔からは、もう完全に血の気が失せていた。

 

「ルイズが囮ということも考えられる」

 

「囮!?」

 

 タバサの言葉に全員が振り返った。

 

「わざわざ迎えの馬車を寄越したことから、そう判断するのが妥当。ルイズが魔法学院から出立するのを確認した後、本命がアルビオンへ向かうものと考えられる。それが時間指定の理由」

 

「ラ・ヴァリエール公爵を敵に回してまでルイズを死地へ送るというのか? さすがにそれはないと思いたいのだが。いや、待てよ。そうか、そういうことならば……!」

 

 太公望はルイズに顔を向けると、改めて彼女に訊ねた。

 

「『水精霊団』のメンバーについて、どのくらいの情報を王家に明かしたのだ? まさか、全員の名前を知らせているなどということは……」

 

「ぐ、偶然、別の話をしているときに、ひ、姫さまに知られちゃっただけよ! で、でも、それだけ。わたしとサイト以外の名前は、出してないわ」

 

「なるほど。うむ……それならば、何とかなるであろう」

 

「な、何か名案があるの!?」

 

 ルイズはもはや完全に涙目だ。巣穴に籠もったリスのように縮こまっている。

 

「ルイズよ。ここまでの話を聞いてなお、わしが面倒だと言った理由がわからぬか?」

 

 太公望の問いかけに、ルイズはふるふると首を振った。

 

「とはいうものの、一旦引き受けてしまった以上、放置しておくわけにもいくまい。どこに目や耳が光っておるかわからぬからのう。たとえば、扉の外に立っておる……そこのおぬしとかな」

 

 全員が一斉に格納庫の扉へと振り向いた。

 

「いやはや、気付いておられましたか……どうもすみません」

 

 扉の影から現れたのはコルベールであった。

 

「コルベール先生!」

 

「どうして、先生がこんなところに……」

 

 頭を掻きながら、コルベールは格納庫の奥へとやって来た。

 

「いやなに。今行っている研究のために、そこの飛行機械を見に来たら……明かりがついていたものでね。つい、気になりましてな」

 

「いったい、いつから……」

 

 口をぱくぱくさせているギーシュに、コルベールが答えた。

 

「ちょうどラ・ロシェールへの距離について、ミスタ・レイナールが話し始めたあたりだろうか」

 

「全然気付かなかった……」

 

「それはともかく。生徒たちを戦場へ送り込むなど、私は断固反対しますぞ。たとえ、それが王家の命令であろうとも……です。幸いなことにミスタ・タイコーボーも、私と同様の考えだとお見受けしましたが」

 

「うむ。ただし……何名か手前までついて来て貰う必要がある」

 

「できうることならば、それも回避していただきたいところなのですが……」

 

「だがのう。昨今の国内情勢を鑑みるに、トリステイン王家と貴族たちの間に亀裂を入れるわけにはいかぬのだ」

 

 大人ふたりの会話についていけなかった子供たちが、質問を投げかけた。最初に口を開いたのはモンモランシーだ。

 

「つまり、どういうことなのかしら?」

 

「うむ。わしがこれまでに集めた情報では、ラ・ロシェールからロサイスへの航路については両軍における完全中立地帯として設定されておるようなのだ」

 

「あ、それならぼくも知ってるよ。中立航路を進んでいる避難民や商船を軍が襲うのはハルケギニアの国際法でも禁止されているしね」

 

「ぼくも父上から聞いているよ。特に、今はトリステイン側が防衛体制を敷いているからね。最低でも中間地点までの監視は厳しくなっているはずさ」

 

 レイナールとギーシュの言葉に、太公望は頷いた。

 

「つまりだ。何名か、明日の朝一緒に魔法学院を出て……そのまま、ロサイスまでついてきてもらいたいのだ。そうすれば、アルビオンまで行ったという言い訳が立ち、囮の役目も最低限果たせるであろう」

 

「で、でも、それだけじゃ手紙の回収が……」

 

「うむ。本命の使者が用意されているとは限らぬ。いたとしても、向こうが失敗することも考えられる。そこでだ、タバサよ」

 

「何?」

 

「おぬしの『如意羽衣』を借り受けたいのだが」

 

 それを聞いたルイズの顔色が変わった。

 

「ま、まさか……ミスタ、わたしの姿に化けてアルビオンへ行くつもりじゃ……!」

 

 やれやれといった口調で太公望は言った。

 

「全員の安全や、ヴァリエール公爵家の今後を考えた場合、そうするしかなかろう。王室からじきじきの依頼を拒絶したなどと世間に知れ渡れば、公爵閣下の立場が悪くなる。最悪、領地を召し上げられることにもなりかねん」

 

「い、いくらなんでもそこまでは……」

 

「政治とは、そんなものだ。事実、わしの祖国と敵対していた帝国にはな、皇帝に意見しただけで領地どころか一族全員の命を奪われた者たちが大勢おるのだぞ」

 

 王権の怖ろしさをその身でもって思い知っているタバサは、俯いた。もちろん、本心では太公望に戦地へ行って欲しくなどなかったが、友人が自分のようになるのを黙って見過ごすわけにはいかない。それに、彼の提案が最も確実であることを、彼女は理解していた。

 

「まったく! 休暇中だというのにこうも働かされるとは、面倒極まりないわ! よいか、ルイズよ。わしが戻ってくるまでに、美味い菓子をたくさん用意しておくのだぞ!」

 

「で、でも……」

 

 と、そこへコルベールが口を挟んだ。

 

「私も一緒に行きます」

 

「先生! どうして……」

 

「子供、それも女の子がひとりだけで大使として派遣されるなど、常識では考えにくい。まず相手の信用を得ることはできないだろう。逆に『レコン・キスタ』の斥候だと疑われるかもしれない。いくら世情に疎い私でも、そのくらいのことはわかりますぞ」

 

「そんな! ミスタ・タイコーボーと先生がわたしの身代わりだなんて、イヤ!!」

 

 姫殿下から直々に使命を与えられたという栄誉に酔っていたルイズは、ようやく気付いたのだ。この任務が大切な恩師や仲間たち、家族、それに国を破滅に追いやる危険性を孕むものだと。

 

 ぼろぼろと涙を零す生徒に、コルベールはにこやかに笑いかけた。

 

「それが最善なのですよ、ミス・ヴァリエール」

 

「わしらふたりだけならば、陣中突破して王党派の元へ辿り着くことも可能であろう。とはいえ、才人よ。最低でもおぬしだけはロサイスまで来てもらわねばならぬ」

 

 平和な国・日本で生まれ、育ってきた才人には、戦場と言われてもまるで物語の中のことのようでいまいち実感が湧かない。だが、それでも。自分の友と、先生と呼んだ人物が、命の危険に晒されることくらいは理解できた。

 

「……わかったよ。けど、師叔も先生も、絶対に無理しないでくれよ? 見送って、そこで一生お別れだなんて、俺……絶対に嫌だからな!」

 

 と、キュルケがすっと杖を掲げた。

 

「あたしも、ロサイスまでご一緒させていただきますわ」

 

「ミス・ツェルプストー!?」

 

「わたしも行く」

 

「ミス・タバサまで!」

 

 ぐしぐしとぐずり続けながら、ルイズも杖を掲げた。

 

「わたしも、行きます」

 

「ルイズ!」

 

「あの『羽衣』を使うと〝生命力〟を削られるんでしょう? タバサがあれを使った後にぐったりしてたの、みんなが見てるわ。空を飛ぶだけであそこまで疲れるなら〝変化〟するのはもっと大変なんじゃない?」

 

「うむ、まあ、それは否定せぬが、しかし……」

 

「だったら、せめてロサイスまではついて行かせて。元はといえばわたしが申し出たことなのに、ミスタと先生だけが泥を被るなんて……おかしいもの。それに、三人だけじゃ『水精霊団』が動いたって思われないかもしれないわ」

 

「囮……なのよね? だったら、途中で襲撃があるかもしれないわ。みんなの怪我を治すのは、わたしの役目よ」

 

 モンモランシーが杖を掲げた。その手は微かに震えている。

 

「恋人や友人たちが手前までとはいえ戦地へ向かうというのに、グラモン家の男子たるぼくが行かずして、どうするというのだね」

 

「ロサイスまでの案内はぼくに任せて欲しいな。地図なら持ってるからさ」

 

 ギーシュとレイナールも、懐から杖を取り出して、高く掲げた。

 

 生徒達の姿を見た大人ふたりは、揃って息を吐いた。

 

「まったく、きみたちは、なんというか……」

 

「……わかった。だが、これだけは約束してくれ。よいか、ロサイスまでだぞ。間違っても、その後わしらふたりについてこようなどとは思うなよ?」

 

 その声に、生徒たち全員が唱和した。

 

「……杖にかけて!」

 

 

 ――水精霊団のメンバーたちが、明日の準備をするために自室へと戻っていった後。

 

 出発前の打ち合わせがあるからと、その場へ残った太公望とコルベールは、揃って格納庫から外へ出て、夜空を見上げた。

 

「ちと、脅しすぎてしまったかのう」

 

「いえいえ、あのくらいでちょうどよい塩梅かと」

 

「……すまない、コルベール殿。また、巻き込んでしまった」

 

「謝らないでください。私は最初からついてゆくつもりでしたから」

 

 しばしの間を置いて。空に浮かぶ双月を見ながら、太公望はぽつりと呟いた。

 

「どうやらわしは、余計なことまで教え過ぎてしまったようだ」

 

「正直なところ、判断に困る問題ではありますね……」

 

 コルベールの言葉に、太公望は大げさなため息を漏らしてみせた。

 

「ここは『そんなことはありません』と答えてもらいたかったところなのだが」

 

 それを聞いたコルベールは、ぷっと吹き出した後……おもむろに口を開いた。

 

「以前、ミスタは仰っていましたね。『ひとに何かを教えるという行為は、ある意味、その者の人生に道を指し示すことなのだ』……と」

 

「……覚えておる」

 

「今頃になって、ようやくその意味と、重さが理解できました。そんな私が言うのもなんですが、あの子たちはお日様の下で……まっすぐな『道』を歩いていますよ」

 

 ――教師たちの頭上で。一筋の流れ星が、地上へ向けて尾を引いて流れた。

 

 

 




皆様お待ちかね、アルビオン遠征のお時間です。


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今此所に在る理由
第76話 伝説と零、月明かりの下で惑う事


※本日2回目の投稿です


 夜明けと同時に魔法学院を出発した水精霊団一行は、街道沿いにまっすぐラ・ロシェールの街へと向かった。途中の駅で幾度も馬を変え、ただひたすらに飛ばし続けたおかげで、日が落ちる頃には目的地までの三分の二ほどを走破している。

 

 初めて馬に乗った才人や体力のないモンモランシーが一行に加わっていたことを考えると、これは驚異的なペースともいえるだろう。

 

「今日はこの先にある旅籠で一晩過ごそう」

 

 馬を降り、地図を見ながら仲間たちに提案したレイナールにルイズが異を唱える。

 

「ねえ、もう少しペースを上げたほうがいいんじゃない?」

 

「いや、これで充分だよ」

 

 顔に戸惑いの色を浮かべたルイズに、レイナールは丁寧に説明した。

 

「このままの速度で行けば、明日の昼にはラ・ロシェールに到着できる。どっちみち、フネは明後日の朝にならなきゃ出ないんだから」

 

「あら、どうして?」

 

 今回、生まれて初めてアルビオン大陸へ渡航するというキュルケが疑問の声を上げた。幼い頃にロンディニウムへの旅行を経験していたルイズは、彼の返答を聞いて逆に納得できたらしい。

 

「あ、そっか。明日がちょうど『スヴェルの月夜』だったのね」

 

「そういうこと」

 

「ちょっと。ふたりだけで納得してないで、説明してもらえないかしら?」

 

 キュルケの問いかけに答えたのはレイナールだった。

 

「『スヴェルの月夜』については、もちろん知っているよね?」

 

「当たり前じゃない。ふたつの月が、ひとつに重なって見える日のことでしょう?」

 

「うん。実はその翌朝がアルビオン大陸がラ・ロシェールにいちばん近付く日なんだ。それで燃料になる〝風石〟を節約するために、ほとんどのフネがその日に発着するんだよ」

 

「なるほど。だから、急ぎ過ぎても意味がないってことね」

 

 キュルケは素直に感心した。もしもこの事実を知らなければ、全員が限界まで飛ばした挙げ句、アルビオンへ渡る前に、体力を無駄に消耗してしまっていただろう。

 

「うへ~、やっと休めるのか。もう部屋に入った瞬間、寝落ちしそうだぜ」

 

 ぐったりと馬に身体を預けていた才人が、大きく息を吐いた。

 

「どうして、わざわざベッドの上から転がり落ちる必要があるんだね?」

 

「いや、寝落ちってそういう意味じゃ……」

 

 そんなギーシュと才人のやりとりを苦笑しながら見ていたコルベールが、パンパンと手を打ち鳴らした。

 

「さあさあ皆さん。こんなところで固まっていないで、宿へ入りましょう」

 

「ミスタ・コ……じゃなかった、エンジン!」

 

 今回同行しているコルベールにも、他のメンバーと同様に暗号名がつけられていた。その名も『ミスタ・エンジン』。これは、もちろん彼の発明に敬意を表した才人の命名だ。

 

 そのコルベールの言葉に、太公望が同意した。

 

「休めるときにしっかりと休む。これは行軍における基本だ。幸いなことに、追っ手らしき者の気配もない。だが、明日以降はもっと厳しくなると考えておいたほうがよかろう。今のうちに、しっかり体調を整えておくのだ」

 

「わかりました」

 

「はーい!」

 

「了解した」

 

 ちなみに今日の太公望は魔法学院の制服に身を包み、頭には水精霊団のベレー帽を乗せている。いくら囮役を務めているとはいえ、いつもの道士服では目立ち過ぎるため、レイナールから予備のマントと制服を借り受けたのだ。

 

 才人も、普段着ている青いパーカーではなく、シンプルなシャツにスラックスという同世代の平民が身に付けるような服装をしていた。

 

 傍目には課外授業の一環で遠出をしてきた魔法学院の生徒と教師と、お付きの従者にしか見えない一行は、ゆるゆると馬を進めると、最寄りの宿へと向かった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。

 

 王都トリスタニアでは宰相マザリーニが執務室の中で灰と化していた。室内の空気は完全に冷え切っている。そこはまるで、通夜の席のような雰囲気であった。

 

 彼の対面に座る老爺――オールド・オスマンもまた、真っ白に燃え尽きていた。

 

 半日ほど前のことだ。引率の教師と生徒たちが出立するのを見送った後。彼はその日の職務を教員たちに任せ、すぐさま王宮へと向かった。

 

「魔法学院の長として、学生を戦場へ送り出すなどという無体な決定を下した王政府に――いや、正確にはマザリーニ枢機卿に対し、断固抗議せねばならん」

 

 王室じきじきの命とはいえ、教育者としてこのような横暴は許し難い。しかし自分が騒いで国の機密に関わるとおぼしき密命を表沙汰にするわけにもいかず。

 

 オスマン氏は内心の怒りを必死に押し隠し、学院運営に関する陳情を述べに来たという、いかにもそれらしい理由をつけ、マザリーニとの対面を望んだのだが――多忙を極める宰相殿と面談が叶ったのは、陽が中天より沈みかけてからのことであった。

 

「オールド・オスマンが、わたしとの面談を希望している? 珍しいことがあるものだ」

 

 取り次ぎの秘書官からその報告を受けたとき、マザリーニは少なからず驚いた。

 

 通常であれば必ず約束を取り付けてからやって来るオスマン氏が、前置き無しで直接会談を申し入れてきた。

 

(これは、魔法学院内で貴族同士の大きないざこざがあったのではないだろうか)

 

 そう考えた枢機卿は慎重に人払いをした後、執務室の中へ客人を通したのだが――事態は彼の予想をして、遙か斜め上を超えていた。

 

「なんと! ヴァリエール公爵令嬢と彼女の友人たちが王室からの密命を帯び、戦争中のアルビオン大陸へ赴いたと仰るのですか!?」

 

 まさしく寝耳に水。そのような話は聞いていないと言うマザリーニ枢機卿。

 

「何を寝ぼけたことを! 命令を下されたのは、王政府ではございませぬか!」

 

 戸惑いを隠せぬ枢機卿と怒り狂った学院長の間で一悶着あった後、しばらくして。どうにか落ち着きを取り戻したふたりが、双方が持つ情報を交換するに至り――そこで初めて、お互いの認識に大きな齟齬があることに気が付いた。

 

「王政府からの命を下すためにミス・ヴァリエールを呼びつけたのではないと?」

 

 オスマン氏の言葉に、枢機卿は頷いた。

 

「ええ。そもそもですな、ヴァリエール嬢に登城願ったのは、詔の巫女を引き受けてもらうためであって、それ以外の役目を申し渡すような真似は――」

 

 と、そこまで言ったマザリーニ枢機卿は目を見開いた。

 

「まさかあの後、姫殿下が……!」

 

 オスマン氏に確認の時間を頂きたいと断りを入れた後。即座に王女の居室へ向かった枢機卿は、表面上は静かな湖面のような顔で。だが、内心にはさざめく波の如き焦りを抱きつつ、麗しき姫君を問い質してみた結果。彼女はさめざめと泣きながら事情を語り始めた。

 

「ずっと前から、あのかたを愛していたのよ……わたくし」

 

 姫君の言葉を聞いて、マザリーニは衝撃を受けた。驚くべきことに、アンリエッタ姫とアルビオンの皇太子ウェールズは恋仲であった。彼女がルイズに回収を命じた手紙とは、ふたりが交わした恋文だったのだ。

 

「ま、まさか、ただの恋文を回収するためだけに、戦場へ使者を遣わしたのですか!?」

 

 マザリーニの問いかけに、アンリエッタはしばし俯き黙っていたが……やがて、ぽつりぽつりと詳細を語り始めた。

 

「あれは、ただの恋文ではないのです。実は……」

 

 話が進むに従って、枢機卿の顔からは血の気が引いていった。これが単に愛の言葉をしたためた程度の手紙であったなら――何の問題もなかった。王族の一員として、確かに迂闊な行動ではあるのだが『たかが恋文』で流せた。偽造であると誤魔化すこともできた。

 

 ところが、その恋文は国を瓦解させる巨大な爆弾たりえたのだ。何故ならそこに、

 

『始祖ブリミルの名に於いて、アンリエッタ・ド・トリステインは、ウェールズ・テューダーに永遠の愛を誓う』

 

 このような一文が書き添えられていたからだ。

 

「よりにもよって『始祖』ブリミルへの宣誓文……それも、王女の印と署名入りとは。しかるべき場所へ提出すれば、婚姻の証明書となりうる物ではありませんか!」

 

 そう――アンリエッタ姫は、受け取りようによってはアルビオンの皇太子ウェールズと結婚していることになるのだ。これは間違っても『子供が戯れに書いた懸想文』などという言葉で片付けられるようなシロモノではない。

 

 枢機卿は今後起こり得るであろう最悪の事態を想定し、全身を震わせた。

 

 もしも、この事実がアルビオンの貴族派連盟に知れたら。彼らはウェールズ皇太子を生きたまま捕らえ、軟禁するだろう。その上で、件の手紙を血眼になって探すはずだ。

 

 そして『レコン・キスタ』の総帥であるブリミル教大司教オリヴァー・クロムウェルの手に『宣誓文』が渡ってしまったら。

 

 彼はブリミル教の寺院でそれを詠み上げ、ふたりの結婚を笑顔でもって祝福し――ハルケギニア全土へ向けて派手に喧伝するに違いない。その後、ゲルマニア皇帝の元へ証拠の品を届け、こう問うはずだ。

 

「閣下は、重婚の罪を犯されるおつもりですか?」

 

 ……と。

 

 ブリミル教の教義において、重婚は重罪とされている。ウェールズ皇太子が既に死亡していた場合はその限りではないが、彼が生存している現在、これが大きな枷となる。

 

 まず、ゲルマニアの皇帝アルブレヒト三世は、たとえこの婚姻が形式上のものだといえど、法的そして対外的な意味で、アンリエッタ姫を諦めざるを得なくなる。軍事防衛同盟の締結は大幅に遅れるだろう。いや、完全に頓挫する可能性のほうが高い。

 

 トリステイン王家としても、国辱ともいうべき失態を国内外に晒すことになる。そればかりか、ウェールズ王子が『レコン・キスタ』に身柄を拘束されている限り、アンリエッタ姫の婚姻が事実上不可能となってしまう。ゲルマニアへの降嫁ができなくなるだけではない。彼女は別の誰かの元へ嫁ぐ、あるいは婿を迎えることすら叶わなくなるのだ。

 

 未だ同盟条件受け入れの返答には至っていないため、重婚の罪を負わされたなどという理由を掲げたゲルマニアが『レコン・キスタ』と手を組み、攻め寄せてくるという最悪中の最悪の事態にだけはならずに済みそうだが、マザリーニが密かに立てていた計画が破綻してしまうことだけは間違いない。

 

「つまるところ。わたしは姫殿下から全く信用されていなかったということだ」

 

 静かに涙を流し続ける姫君に、念入りな口止めをした後。執務室へ戻ったマザリーニは、オスマン氏に思わず零した。もしもアンリエッタがこの激白を耳にしたら、そんなことはないと強硬に訴えたことだろう。だが、全ては遅きに失した。

 

「ロンディニウムが貴族派連盟によって包囲される前に、わたしに一言でも相談してくださっていれば、いくらでも対処のしようがあったのだ。それが……それが……ッ!」

 

 両の手で顔を覆い、椅子にぐったりと身を預けたマザリーニ枢機卿に、オスマン氏は深い同情と憐憫溢れる視線を投げかけた。

 

「とはいえ、今から別の使者を立てるわけにもいきますまい?」

 

「その通りです。トリステイン大使としての身分証明書を発行するだけで、外部へ情報が漏れかねませんからな」

 

「ミス・ヴァリエールには……?」

 

「姫殿下が手ずから、確実に身の証となる品を手渡したそうです」

 

「それはまた、ずいぶんと用意がよろしいことですな」

 

「ええ、まったく。おそらくですが――詔の巫女の件は単なる隠れ蓑で、本来の目的はミス・ヴァリエールにアルビオン行きを命じることだったのでしょう」

 

「猊下ともあろうおかたが、してやられましたな」

 

「いやはや。姫殿下のご成長を喜んでいいものやら……正直なところ、オールド・オスマン。あなたが真っ先にわたしの元へいらして下さった事に、心から感謝します。一歩間違えば、ゲルマニアと同盟を結ぶどころか、内乱の口火が切られるところでした」

 

「……猊下の心痛、お察し申し上げる。幸いなことに、今回使者となる者たちは双方共に元軍人。揃ってとびきりの腕利きですじゃ。彼らならば、間違いなく役目を果たしてくれるものと信じております」

 

 オスマン氏の言葉に、マザリーニはようやく顔を上げた。

 

「既に杖は振られました。とはいえ、失敗した時のことも考えておかねばなりません。成功を信じ『始祖』に祈りを捧げるだけで、全てが解決するというのなら……どんなに気が楽であることか」

 

 聖職者らしからぬ問題発言に、さもありなんとオスマン氏は頷いた。

 

「ならば、わしが猊下の代わりに祈ろう。『始祖』ブリミルの加護と、アルビオンに吹き征く風に幸あらんことを」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――翌日、昼過ぎ。

 

 水精霊団の一行は、予定通りその日の昼間にラ・ロシェールの手前まで辿り着いた。険しい岩山の中を進んでゆくと、深い峡谷の間に挟まれた街らしきものが見えた。街道沿いに、岩を穿って造られたとおぼしき建造物が所狭しと並んでいる。

 

 才人は怪訝な顔をして周囲を見渡した。ここは山の中である。海どころか、川や池の類すら見当たらない。

 

 行き先が浮遊大陸だと聞いてはいたが、そんなことを言われても、地球生まれの彼には実感が湧かなかった。もしかすると、この山を越えれば港と船の発着場が見えてくるのかもしれないと考えはしたのだが、しかし。それでも言わずにはいられなかった。

 

「なんで港町が山の中にあるんだよ! おかしいだろどう考えても!!」

 

 才人の心からの叫びを聞いたギーシュが、呆れたように言った。

 

「きみ、アルビオンの話はもう何度も聞いただろう? ぼくらの間では常識なんだが」

 

「あのな。ここの常識を、俺の常識と思ってもらっちゃ困る」

 

 と、彼らが互いに疲れたような笑い声を上げた、その時だ。

 

 轟音と共に、才人たちの跨った馬めがけて崖の上から大きな岩が転がり落ちてきた。続いて、何本もの矢がびゅんびゅんと風を切り裂いて飛んでくる。

 

「奇襲だ!」

 

 ギーシュが叫んだ。

 

 カッ、カッ、カッと軽快な音を立て、複数本の矢が地面へと突き刺さった。

 

 馬は元来臆病な動物だ。軍事用の訓練を受けているならばまだしも、単なる乗馬用の馬が突然の襲撃に耐えられるはずもない。馬たちは驚きと恐怖で大きく嘶き、前足を高々と上げたので、才人を含む数名が地面に転げ落ちた。そこへ、さらに追撃の矢が飛んでくる。

 

「キャアァァア――ッ!!」

 

 ルイズとモンモランシーが悲鳴を上げた。しかし才人も、すぐ側にいたギーシュも、この不意打ちと地面に転がされた痛みで身体が硬直してしまい、動くことができなかった。

 

 才人が声にならない叫びを上げそうになった、その直後。一陣の風が巻き起こり、飛んできた矢を全て明後日の方向へはじき飛ばした。

 

 思わず顔を上げると、杖を構えたタバサが全員の前に立ちはだかっている。

 

「大丈夫?」

 

「あ、ありがと」

 

「助かったわ……」

 

 タバサは小さく頷くことで仲間たちに応えると、周囲に風の流れを生じさせた。

 

「まさか『レコン・キスタ』の仕業……!?」

 

 崖の上を睨み付けながらキュルケが杖を抜く。同じく杖を構えたレイナールが答えた。

 

「貴族が弓を使うとは思えないけど、敵が雇った傭兵だっていうならありえるね」

 

 降り注ぐ矢の雨を風で受け流しつつ、太公望が指示を飛ばす。

 

「皆の者、気を散らすでない! まずは落ち着いて陣形を立て直すのだ!」

 

「は、はいっ」

 

「わか、わかりましたっ」

 

 その指示に、慌てて『ワルキューレ』を錬成しようとしたギーシュだったが、そこへ狙い撃つかのように石つぶてが飛んできた。しかし、それが少年の腕に当たる寸前。光線のように伸びてきた〝炎の蛇〟が石弾をくわえ、蒸発させた。

 

 油断なく杖を構えながら、コルベールが小声で告げた。

 

「ミスタ・ハーミット。崖上の敵兵ですが……攻撃の範囲及びその内訳から判断するに、平民の傭兵集団。最大でも三十名程度の構成と推測します」

 

「わしもおぬしと同意見だ、ミスタ・エンジン。捕らえて、何者なのか尋問しよう」

 

「了解しました」

 

「残りの者たちはここで〝盾〟を展開し、身を守りつつ待機するのだ。他の場所からも襲撃があるやもしれぬ。この場の指揮権はスノウに一任する」

 

「了解」

 

「き、気をつけてね……」

 

 生徒たちの応援を背に受け、風を纏って崖を駆け上がろうとした太公望とコルベールに才人が待ったをかけた。

 

「師叔、俺も連れてってくれよ!」

 

「……相手は人間だぞ。わかっておるのか?」

 

「あ、ああ。もちろん」

 

「ならば、どうしてそのようなことを言う?」

 

 太公望の目をまっすぐと見返した才人は、相棒の柄を握り締めて言った。

 

「もし上にメイジがいても、デルフがいれば魔法打ち消せるだろ?」

 

 才人の手が微かに震えているのを太公望は見逃さなかった。しかし、少年の決意が固いと見て取った太公望は、ふっと息を吐いて告げた。

 

「わかった。しかし」

 

「斬ったりなんかしねえよ。俺は『盾』だからな。人殺しなんてゴメンだ」

 

「ふふん、戦だというのに甘いのう。だが……」

 

「だが、なんだよ?」

 

「おぬしは、そのままでよい」

 

 そして――彼らは太公望が起こした〝風〟に乗って、宙へ舞い上がった。

 

 その直後、崖の天辺で悲鳴が上がった。どうやら襲撃者たちは上空から反撃を受けるとは思ってもみなかったらしい。

 

 崖上に降り立った三名のうちふたりは、早速それぞれの仕事に取りかかった。賊の数はコルベールの見立て通り、三十数名余。

 

 焦って放ったのであろう敵の飛び道具を、太公望が全て〝風〟で逸らし。

 

 コルベールが敵対者の装備を一目見て「メイジはいない」と通達し、さらに懐へ飛び込んで〝眠りの雲〟を発動させた。途端に複数名の男たちが崩れ落ちる。あまりの手際の良さに、彼が元軍人であることを知らない才人は驚愕した。

 

「うは、なんなんだよ先生の動き! ハンパねえな」

 

 呆然と立ちすくむ才人を尻目に、敵の矢弾が尽きたと判断した太公望が攻勢に出た。得意の拳法で次々と敵を打ち据えている。

 

(師叔は魔法使いなのに、なんでわざわざ素手で戦ってんだろ……)

 

 などとぼんやり考えていた才人は、はっとした。

 

「って、俺は何しに来たんだよ! ボケッとしてる場合じゃないっつーの!!」

 

 いつまでも衝撃に立ち竦んでいるわけにはいかない。ここは、まぎれもない戦場なのだ。才人は改めて周囲を見回した。そして、稲妻の如き速さで残った賊どもの背後へ回り込むと、デルフリンガーではなく手刀と蹴りでもって相手を倒して回った。

 

 数では圧倒的に上回る賊も〝ガンダールヴ〟と彼の師たちを捉えることは叶わず――結果。五分とかからず全ての敵を気絶あるいは降伏させることに成功した。

 

 

 ――それから十数分後。

 

 周囲の安全を確保した後、一つ処に集まった水精霊団一同はギーシュが造り出した青銅製の鎖によって襲撃者たちを縛り上げると、早速尋問を開始した。子供にしか見えない太公望では相手に舐められるだろうということで、コルベールが自ら進んで賊の前に立った。

 

「さて」

 

 木製の杖をぽんぽんと手の上で弾ませながら、コルベールは賊どもにずばりと訊ねた。

 

「きみたちの目的は、なんだね?」

 

 その冷え切った声に、襲撃者たちは震え上がった。普段はどこか間の抜けた教師が持つ、もうひとつの顔を目の当たりにした生徒たちは、ぽかんと口を開けた。

 

「ひ、ひいッ! 俺たちゃただの物盗りで……」

 

「こんな明るい時間帯にかね? しかも、相手は貴族だとわかっていただろう?」

 

 才人以外、全員がマントを羽織っている。誰がどう見ても貴族の旅行者だ。

 

「この国では平民が貴族を相手におかしな真似をした場合、裁判などの正規の手順を踏まずにその場で無礼打ちにされても文句は言えない。にも関わらず、わざわざこんな場所で仕掛けてきたということは、何か特別な理由があるのではないかな?」

 

 杖を構えながら静かな声でそう言い募るコルベールに、賊の頭は震え声で答えた。

 

「ぐ、軍の連中があちこちで張ってやがるから、狙える場所が少ねえんだよ! そっ、それに……ガキの集団だったから、上手いこと生け捕りにできれば身代金が取れると思ったんだ! 本当だ、嘘じゃねえ!!」

 

 太公望の目から見ても、彼らが偽りを述べているようには感じられなかった。どうやら追っ手や妨害工作の類ではなく、正真正銘、本物の物盗りであるようだ。

 

(身に付けている装備から察するに、傭兵崩れといったところだろう。アルビオンへ渡る前に一稼ぎしようと考えたのか? あるいは……)

 

 少し考えた後、彼らの持ち物を一通り改めると、太公望は言った。

 

「おぬしら、ひょっとして王党派の逃亡兵か?」

 

 太公望の言葉に、集まっていた一同の顔色が変わった。賊たちも同様に。ただし、それぞれの面に表れた色は正反対であったが。

 

「が、ガキのくせして、どうしてそんなことがわかるんでい!?」

 

「おぬしらが身に付けておる装備を見れば、一目瞭然だ。明らかに何度も交戦した痕跡があるからのう。ところが、金目のものは何一つ持っておらぬ。ごく最近戦があった場所といえば、アルビオンだろう? 勝っている貴族派連盟側についていたのならば、もう少し景気が良いはずだ。こんなところで物盗りをしている道理などあるまい?」

 

 兵士たちの長らしき男はがっくりと頭を垂れた。

 

「ちきしょう……こんな連中を襲っちまったとはな。俺ぁとことん見る目がねえみたいだ。だいたい王党派なんぞに味方したのが、ケチのつきはじめだったんだ!」

 

「けどよォ、隊長。貴族派の下についてたら、どうなってたかわかりやせんぜ?」

 

「それはいったいどういう意味かね?」

 

 副官とおぼしき男の声にコルベールが反応した。まるで獲物を見据える蛇のような眼に捕らえられた相手は、ひっ! と小さな悲鳴を上げると、堰を切ったように喋り始めた。

 

 曰く。貴族派の軍勢には、人間とは相容れぬはずの亜人や妖魔の類が大勢混じっている。

 

 曰く。死んだはずの敵の指揮官が、翌日何事もなかったかのように戦場に姿を現した。

 

 曰く。『レコン・キスタ』の総帥オリヴァー・クロムウェルは、先住のものとは違う、何やら変わった魔法が使えるという噂が流れている……など。

 

 ついには、

 

「貴族さま、どうか命ばかりはお助けを……」

 

 などと、涙声で命乞いを始めた敗残兵どもの話を聞きながら、太公望は以前から懸念していた、ひとつの事柄に行き着いた。

 

「クロムウェル……」

 

 この名を、太公望は覚えていた――あまり思い出したくない事柄も含まれているのはさておき、到底看過することのできない重要案件として。

 

 独自に集めた情報や、ロングビルからの情勢調査報告、そしてワルド子爵の内偵などにより判明していた『レコン・キスタ』総帥の名前。

 

 彼らが合流してからというもの、王党派から寝返る者たちが増加したという事実。そして、今仕入れた最新の噂話。それらは彼にひとつの解答を示していた。

 

(ううむ、想像以上に厄介なことになりそうだのう……)

 

 太公望はコルベールを促し、更なる情報を引き出すべく物盗りたちへの尋問を続けさせながら、突如持ち上がってきた重大な懸念事項に対する検討を開始した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ラ・ロシェールは、白の国アルビオンヘの玄関口として設けられた港街である。峡谷の間に築かれた街なので、昼間でもなお薄暗い。人口は三百にも満たぬ程度だが、ふたつの大陸を行き来する人々が大勢おり、住人の十倍以上の人間が街中を闊歩している。

 

 狭い山道を挟むようにして数多くの旅籠や商店が立ち並んでいた。全て立派な石造りの建物だ。と、それらを物珍しげな目で見ていたキュルケが驚きの声を上げた。

 

「ねえ。この街の建物って、ひょっとして全部一枚岩からの削り出しなの!?」

 

 それを聞いた才人は、建物を注意深く観察してみた。一見すると、トリスタニアによくある石造りの建造物のようだったが、よくよく目をこらしてみると、一軒一軒が、全て同じ一枚岩から削り出されたもの――つまり、彫刻であることがわかった。

 

「すげえな、これ。めちゃくちゃ手間かかってるだろ」

 

 そんな彼らの称賛に、レイナールが彼としては珍しく自慢げな声で応えた。

 

「そりゃあそうだよ。ここはトリステインが誇る土系統の『スクウェア』メイジが、卓越した魔法技術で造り上げた街なんだ」

 

「街全体がひとつの芸術品ってやつだな」

 

「そうとも言えるね」

 

 それからしばらくして。『女神の杵亭』という宿に立ち寄った一行は、一階に併設されていた食堂兼酒場でくつろいでいた。いや、正確には旅の疲れを癒やしていた。ただでさえ強行軍だった上に途中で襲撃にあったとなれば、これは当然の帰結である。

 

 椅子に腰掛け、周囲を見回しながらギーシュが言った。

 

「あまり期待していなかったんだが、なかなか立派な宿じゃないかね」

 

 それを聞いたタバサがぽつりと呟いた。

 

「ここは貴族専用の宿」

 

「ふむ、ミス・スノウはこの町に来たことがあるのかい?」

 

「外の看板を見た」

 

「な、なるほど。そういう理由ならば理解できるな、うん」

 

 『女神の杵亭』は貴族を相手に商売をしているというだけあって、揃えられている調度品の全てが豪華な造りだった。椅子やテーブルなどの家具も建物と同様に一枚岩からの削り出しで、極限まで磨き抜かれている。土メイジのギーシュは、それらにいたく感銘を受けたらしい。目をきらきらと輝かせながら、芸術品とも呼ぶべき品々に魅入っている。

 

「このテーブル、ピカピカだなあ。ほら見てごらん、ミス・フローラル。顔まで映るよ」

 

 岩製のテーブルを指して、ギーシュが言えば。

 

「もう、恥ずかしいわね! 少しは落ち着きなさいよ」

 

 色々な意味で顔を赤くしたモンモランシーが、それに答える。

 

 と、そこへ桟橋に乗船交渉に出向いていたコルベールと太公望が戻ってきた。ふたりは揃って席に着くと、真面目な顔で言った。

 

「明日の朝一番に出るフネを手配できた。予定通り出発できる」

 

 コルベールは鍵束をテーブルの上に置くと、言った。

 

「今は渡航者が少ないらしくてね。あっさり全員分の部屋が取れたよ。しかもかなり安い値段で。いやあ、本当に助かった」

 

「え? 魔法学院のお給料って、もしかして安いんですか?」

 

 レイナールの質問に、コルベールは苦笑した。

 

「それなりにもらってはいるんだがね。ほとんど研究費に回してしまうから――と、私の懐事情はさておき。ミス・フレアとミス・フローラル、ミス・コメットとミス・スノウが相部屋だ」

 

「あら、珍しい組み合わせですのね」

 

 再びタバサがぽつりと呟く。

 

「襲撃への備え」

 

「ああ、なるほど」

 

「残りは全員、大部屋だ。彼女たちの部屋と隣接しているのが、そこしかなかった」

 

 それを聞いた才人が言った。

 

「なんか修学旅行みたいな振り分けだな」

 

「シュウ・ガク……なんだい? それ」

 

「俺たちの国にある習慣でさ。卒業する年度に全員で旅行に行くんだ。ただ、受験勉強とかの都合で前の年に済ましちまう学校もあるみたいだけどな」

 

「へえ、面白い行事があるんだね」

 

 揃って、そんな他愛のない話をしながら運ばれてきた食事を摂る一同。そうすることで、この先に訪れるであろう、大いなる不安に備えるかのように。

 

 

 ――その夜。

 

 才人はひとり、部屋のベランダで月を眺めていた。他のメンバーはまだ酒場にいて、まるで壮行会だといわんばかりに盛り上がっている。彼はそこから抜け出してきたのだ。どうにも飲んで騒ぐ気分になれなかったから。

 

 星の海の中、紅い月が青白い月の後ろに隠れ、ひとつだけになっていた。その月は才人に故郷を思い出させた。今は遠い、地球の夜を。

 

「サイト」

 

 振り返ると、ルイズが立っていた。月明かりに照らされたその顔は、はっとするほど美しい。

 

(俺がホームシックにかからないで済んでいるのは、こいつの側に居たいからなんだろうな)

 

 そんなことを考えていると、ふいに少女の顔が陰った。

 

「ごめんね」

 

「何がだよ」

 

「……全部よ。月、見てたんでしょ。あんたの故郷とおんなじ、一個になってる」

 

「それで、どうしてお前が謝るんだよ」

 

「わたしが、ろくに考えもしないでこの任務を受けてきたせいで……もしかすると、あんたが帰るための『道』が……」

 

「それ以上、言うな」

 

「でも……」

 

「そんな顔すんなよ、らしくねーな! だいたい、師叔があっさり死ぬようなタマに見えるか?」

 

「…………確かに見えない、けど」

 

「だろ? だから、言うな」

 

 ふたりはベランダの縁にもたれかかると、揃ってしばし月を眺めていた。どちらからともなく、そっと互いの距離を縮めた後――ふいにルイズが口を開いた。

 

「あのねサイト。小さい頃から、わたしずっと思ってたの。いつか、誰かに認めて欲しい。立派なメイジになって、父さまと母さまに褒めてもらうんだ、って」

 

「そんなの、とっくに認められてるじゃねーか」

 

 才人の言葉に、ルイズはふるふると首を横に振った。

 

「違うの」

 

「何がだよ」

 

「最近になってね、やっとわかったの。わたしが認めてほしかったのは他の誰かじゃなくて、自分自身になの」

 

 ひとつになった月を見上げながら、ルイズは言葉を紡いだ。

 

「子供の頃からいつも失敗ばっかりで、何をやっても上手くいかなくて。周りからは、ゼロゼロって馬鹿にされて。そんな自分が、どうしても好きになれなかったの。だから、誰からも認められるような大きな手柄を立てれば、たとえ魔法ができなくても自分に自信が持てる。わたし、心の中でずっとそう思ってた」

 

 ルイズの声が、か細くなった。

 

「そんなわたしも、やっと魔法ができるようになったわ。でも、まだまだみんなの足元にも及ばない。せいぜい〝念力〟が得意な程度で、系統魔法は相変わらずさっぱり。なのに、いきなり『伝説の再来』とか言われて。それで、怖くなっちゃったの。本当に、わたしなんかでいいのかって」

 

 才人は、困ってしまった。彼の目から見たルイズは、自信と誇りに満ちあふれた、とても強い女の子だった。魔法がどうこうではない。この世界に召喚されるまで、ただぼんやりと毎日を過ごしてきた自分とは心の在り方が根本から違う。俺は、彼女のそんなところに惹かれたのだと。

 

 しかし今――目の前にいる少女は。冬の雨に打たれた雛鳥のように弱々しかった。いったい何て声をかければいいのか。才人が悩む間も、ルイズの独白は続いていた。

 

「姫さまから任務を言い渡されたときにね、心のどこかで思ってたの。これで、わたしは自分が好きになれる。『伝説』の名に相応しい働きができるって、そればっかり考えてた。だから、これが本当に命懸けの仕事で。み、みんなを死なせちゃうかもしれないってこと、言われてみるまで……ぜ、全然。これっぽっちも気付かなかったのよ」

 

 最後のほうは完全に嗚咽混じりになってしまったルイズの声に、才人は慌てた。

 

「おい、泣くなって!」

 

「だって……」

 

「言われて気付けたんだろ。だったらいいじゃねーか。俺なんか、さんざん言われて、打ちのめされて。なのに、ホントにやってみるまでマジわかってなかったんだぞ」

 

「なんのことよ?」

 

 戸惑うようなルイズの声に、才人はつい先程まで考えていたことを口にした。

 

「俺、師叔たちについて行くつもりだったんだ」

 

「えっ!?」

 

「ルイズの父ちゃんと母ちゃんに鍛えてもらってさ。こう言っちゃなんだけど、けっこう強くなったと思うんだ、俺。みんなと一緒にドラゴン退治もできた。今の俺なら、戦場でも絶対足手まといになんかならない。やっと師叔に借りを返せる。先生のことだって守れる。そう信じてた」

 

「あんた、強いじゃない……」

 

「全然ダメだよ。お前だって見てただろ? 矢を射かけられただけで、頭ん中が真っ白になって、動けなくなっちまった。タバサが護ってくれなかったら、お前、絶対撃たれてた。もしかしたら、死んでたかもしれない」

 

 ルイズは才人をじっと見つめた。いつも自分の盾になって護ってくれる、太陽みたいに明るい男の子。それが、これまでルイズが見続けてきた才人の姿だった。

 

 並のメイジなど一歩も寄せ付けない強さを誇るばかりか、トリステインでも特に厳しい両親の稽古をも乗り越えた、暖かくて頼もしい、大きな背中が……今夜は何故か、小さくなってしまったように感じた。

 

「そんでも意地張って、崖の上までついて行ってさ。んで、最初はやっぱり動けなかった。何していいんだかわかんなくて、師叔と先生が戦ってるとこ、ただぼけっと見てた。戦場のど真ん中でだぞ? ぶっちゃけ、ありえねえだろ」

 

「そ、そりゃあ、最初は誰だって……仕方のないことじゃない」

 

「その最初がもっと強い相手だったら……どうなってた?」

 

 ルイズは彼に何と言えばいいのかわからなくなってしまった。

 

 そもそも彼女がここへ来たのは――才人と話したい。彼と会話して、胸の内に溢れるこの罪悪感を消して貰いたい。そう考えていたからだ。ふいに、それがとてつもなく自分勝手なことのように思えて、ルイズは自己嫌悪のあまり再び落ち込んでしまった。

 

 いっぽう才人も、塞ぎ込んでいたルイズを励ますどころか、自分の不甲斐なさを見せつけてしまったと、情けない気持ちでいっぱいになっていた。

 

 しばしの間を置いて。才人が、ぽつりと呟いた。

 

「明日の朝、船……出ちまうんだよな」

 

「……ええ。今夜は『スヴェルの月夜』だから」

 

 ――地上を煌々と照らす月を見上げながら。伝説の主従は、最後まで心の内へ澱のように沈んだ想いを表へ出しきることができぬまま、ただ、その場に佇んでいた――。

 

 

 




たかが恋文。でも、それが途轍もない爆弾だったら……?

もしも私がクロムウェルの立場だったら、あの手紙ゲットしたらこう使う。というのを書いてみた次第。ほんと性格悪いな!!


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第77話 水精霊団、黒船と邂逅するの事

 翌朝早くに宿を出た水精霊団一行は、町外れにあるという桟橋へと向かった。

 

 崖沿いの長い石段を上り、岩山を上方向へ抜けるように掘られた洞穴の出口から見えたものは、まさしく絶景そのものであった。

 

 山ほどもある巨大な樹が、そこに在った。四方八方に枝を伸ばしているその大樹はあまりにも大きく、天辺がまるで見えない。そして、樹の枝には紐状の何かに吊されるような形でぶら下がっている物体がたくさんある。

 

 それを見た当初、才人は実か何かだろうと思った。だが、よくよく目をこらしてみると――。

 

「あれ、ひょっとして全部船なのか!? んで、あの樹の枝が桟橋?」

 

「驚いたであろう? わしも、昨日初めてこれを見たときはびっくりしたわ」

 

 大樹の各所にぶら下がっていたのは、なんと大小さまざまな形の帆船であった。その外観は、まるで地球の大航海時代に活躍したキャラックやガレオン船のようだ。

 

「帆船型の飛空艇とか、ふざけてる。あんなのでホントに空飛べるのかよ!?」

 

「飛べるからこそ、この場所が桟橋たりえるのであろうな」

 

「ファンタジーにもほどがあるだろ!」

 

 口では文句を垂れていた才人であったが、言葉とは裏腹に目がきらきらと輝いている。そんなふたりの会話を耳にしたギーシュが、怪訝な面持ちで聞いた。

 

「ハルケギニアではこれが普通なんだが……東方では違うのかい?」

 

「少なくとも、俺のところでは桟橋も船も海にあるってのが常識だ」

 

「水に浮かぶ船もあるよ。もしかして、空を飛ぶ大きなフネがないのかね?」

 

「一応あるけど、あんな形はしてない。そもそも、桟橋じゃなくて空港に……」

 

 才人の発言に、前を歩いていたコルベールが振り返った。

 

「なんと、空中に港があるのかね! それは是非一度見てみたい!」

 

「あ、いや、空港ってそういう意味じゃないんですが……」

 

 とまあそんなやりとりをしているうちに、彼らは大樹の根元へ到着した。才人は思わず上を仰ぎ見ながら呟いた。

 

「ゲームなんかによく出てくる世界樹の実物って、きっとこんな感じなんだろうな」

 

 ギーシュの隣で歩を進めていたモンモランシーが、立ち止まると言った。

 

「何言ってるの。これは正真正銘〝世界樹(ユグドラシル)〟よ」

 

「え、マジで!? じゃあ、この木の葉っぱで死人が生き返ったりするんか!」

 

「そんな訳ないじゃない。それこそお伽噺だわ。だいたい、この木はもう枯れてるでしょ」

 

「だったら、本当かどうかわからねえじゃんか」

 

「そ、それはまあ、そうだけど……」

 

 ふたりのやりとりを聞いていたコルベールが、こほんと咳払いをした。

 

「あー、きみたち。我々は先を急ぐんだ。立ち話はそのくらいにしておきたまえ」

 

「す、すみません」

 

「気をつけます……」

 

 枯れた世界樹の内部は空洞で、日本のビルでよく採用されている吹き抜けのような構造になっている。壁面の部分には、鋭い刃物か何かで削ったような跡があった。

 

「この港も街と同じで、中をくり貫いてるみたいね」

 

 キュルケの言葉に、才人は周囲を見回した。

 

 根元の部分は駅のロビーのようになっており、忙しく立ち働く人々の姿が目に付いた。それぞれの枝に通じる通路の上部には、鈍い光を放つ金属製のプレートが下げられている。そこには行き先や船の発着時刻とおぼしき文字が躍っていた。

 

「アルビオン・ロサイス行き一番は……この通路を抜けて、階段を上った先ですな」

 

 コルベールの先導で、全員が再び移動を開始する。

 

 通路の先にあった木製の階段は、足を乗せるたびにギシギシと鈍い音を立てる。おまけに手すりはぼろぼろな上に苔生していて、非常に心許ない。階段の隙間からは小さくラ・ロシェールの街並みが見える。今いる場所の高さを実感した才人は、たじろいだ。

 

「こんなの昇るのかよ……」

 

 尻込みしていた才人の頭上を、ふたつの影が通り過ぎた。

 

「ああッ! 空飛んで行くとかズルイぞブロンズ! しかも、さりげなくフローラルの手ぇ握ってんじゃねーよ!」

 

「レディをエスコートするのは貴族として当然のたしなみだよ。きみ」

 

 ふたりのやりとりを聞いていたルイズが、やや上目遣いで言った。

 

「ねえ、ソード」

 

「……おんぶは駄目だぞ、コメット。俺、階段踏み抜いて墜落したくねえし」

 

「ししし、失礼ね! わわ、わたしが、お、重たいって言いたいの!?」

 

 ルイズの綺麗な回転蹴りが、才人の背中を直撃する。

 

「いてェ! 馬鹿、こんなところで暴れんなっての!!」

 

 そんな彼らを見ていた太公望とタバサはといえば、揃って冷めた目をしていた。

 

「まったく。何をしておるのだ、おぬしたちは……」

 

「ユニーク」

 

 ……とかなんとか騒ぎつつ長い階段を上がった先に、一本の太い枝が伸びていた。その枝に寄り添うように一艘の船が停泊している。一同が立っている枝のさらに上から、何本ものロープが伸びており、それで船は上の枝から吊されていた。船の舷側には、コウモリの羽のような巨大な翼が取り付けられている。

 

 その船を見たレイナールが言った。

 

「先生。これは客船じゃないみたいですけど」

 

「今の時期にアルビオンへ渡るフネは、貨物船しか無いらしくてね。船長と交渉して、なんとか同乗させてもらえることになったんだ」

 

「なるほど」

 

 タラップから船の甲板に乗り込むと、船長らしき恰幅のよい男性が一同を出迎えた。

 

「マリー・ガラント号へようこそ! 貴族の皆さまがたにゃあ、ちいとばかし退屈な船旅かもしれませんが、どうか勘弁してくだせえ」

 

「いえいえ、とんでもない。アルビオンまで、よろしくお願いします」

 

 平民である自分に対し、微笑みを浮かべながら挨拶を返してきたコルベールに驚き、一瞬声を失った船長だったが……その直後。陽焼けした顔全体に大きな笑みを浮かべ、船員たちへと矢継ぎ早に命令を下し始めた。

 

「野郎ども、出港だ! もやいを放て! 帆を打てェ!」

 

 船員たちは船長の命令に粛々と従った。船を枝に吊るしていたもやい綱を解き放ち、横静索へとよじ登ると帆を張った。すると、戒めが解かれた船は、まるで水の上に浮かんでいるかのように、ゆるゆると空中を進み始めた。桟橋と大樹の枝の隙間に見えるラ・ロシェールの街並みが、ぐんぐん遠ざかっていく。

 

「うお、マジで飛んでるよ! どういう仕組みなんだよこれ!!」

 

 左舷前方に陣取っていた才人が興奮して叫んだ。彼の隣に立っていたルイズが呆れ顔で呟く。

 

「風石を積んでるんだもの、飛べるのは当たり前じゃない!」

 

「俺んところじゃ違うんだよ! てか、そもそもフウセキって何だ?」

 

 才人の疑問に答えたのはご主人さまではなく、すぐ後ろにいたコルベールだった。

 

「風の魔法力を蓄えた鉱石のことだよ。石の中に込められてる〝力〟を解放すると、それによって浮力と風が生じるんだ。小指の先程度の大きさしかない結晶でも人ひとりくらいなら軽々と、しかも数時間は持ち上げ続けることが可能だ」

 

(小さい頃に見たアニメに、確かそんな〝力〟が込められてる魔法の石があったな。それと同じようなもんか)

 

 などと至極あっさりと説明を受け入れてしまう才人。そしていざ納得してしまうと、持ち前の好奇心がむくむくと膨れあがってきた。

 

「へえ、面白いですね。できれば実物がどんなモノなのか見てみたいんですけど」

 

「それなら、船長に頼んでみるといいだろう。ああ、今すぐは駄目ですぞ。出港直後は風石が設置されている機関室は大忙しだろうからね。そうだな……あと一時間くらい経てばさすがに大丈夫だと思うが」

 

「わかりました! ありがとうございます」

 

 そんな他愛のない会話を交わしながら、舷側に立ち、眼下に広がる光景を楽しんでいた才人達であったが……ふと太公望の姿が消えていることに気が付いた。

 

「あれ、ハーミットは?」

 

「彼なら、少し前に船長のところへ話を聞きに……と、戻って来ましたね」

 

 スタスタと甲板の上を歩いてきた太公望へ、コルベールが声をかけた。

 

「で、どうでした?」

 

「うむ、昨日入手した情報と大差ない。やはり王党派は相当押し込まれておるようだ。彼らがニューカッスル城とやらの近くに陣を敷いていることだけは確からしいのだが……」

 

 ルイズが、それを聞いてはっとした顔になった。

 

「ウェールズ殿下はご無事なの?」

 

「港町とフクロウの中継所が全て貴族派連盟に抑えられておるせいで、王党派の情報はほとんど入ってこないらしい。とはいえ、王族の身に何かがあれば、当然騒ぎになるはずだ。つまり、まだ生きておられるということだろう」

 

 太公望の言葉に、ルイズの表情が曇る。

 

「そんな……フクロウも飛ばせないなんて! だったら、いったいどうやって王党派と連絡を取ればいいのよ!」

 

「当初の予定通り、陣中突破するしかなかろう」

 

 陣中突破。つまり、戦闘中の敵陣を突っ切って王党派の本拠地を目指すということだ。しかも、相当不利な状況に追い込まれている相手のところへ。ルイズはもちろんのこと、その意味くらいは理解している才人の顔も沈んだ。

 

「なあ。今更かもしれないけど、本当に大丈夫なのかよ?」

 

「なんだソード、心配してくれておるのか」

 

「当たり前だろ! それに……」

 

 才人はちらりとコルベールに視線を移した。その実力を良く知る太公望はまだしも、いかにものんびりとした教師のことが、彼は本当に心配だったのだ。

 

 自分のことを息子のように可愛がってくれる料理長のマルトーと、普段からよく言葉を交わし、面倒見の良い顧問教師のように接してくれるコルベールは、この世界に来てから才人が心を開き、頼りにしている数少ない大人だった。

 

 昨日、崖の上での戦い振りを目撃してはいたが、それでも。心から信頼している人物が命の危険に晒されるとあれば、その身を案じるのは当然だろう。

 

 だが。そんな才人に、当の本人から思ってもみなかった言葉が投げかけられた。

 

「私のことなら心配いらないよ。こう見えても……若い頃は軍にいたからね」

 

「う、嘘ッ!?」

 

「信じらんねえ!」

 

「それ、本当なんですか!?」

 

 コルベールの発言に、周囲にいた生徒たちも驚きの反応を示した。

 

 どこか牧歌的な雰囲気を漂わせた、暢気な先生。これまで彼らの目に映っていたコルベールの姿は平穏と研究を愛し、生徒たちを大切にしている心優しい教師であった。

 

 この場に集う者たちは――事情を知る一部の女子生徒たちを除き、皆ほぼ同様の認識を持っている。それだけに、コルベールがかつて軍に所属していたなどと言われても到底信じられない。そして、その筆頭がルイズだった。

 

「先生……わ、わたしのこと、かばってくれるのは、その、嬉しいんですけど」

 

 しゅんと俯いてしまった教え子へ、コルベールは慌てて説明を続けた。

 

「いや、嘘偽りなく本当のことだよ。士官教育もちゃんと受けているし、敵地への潜入任務はこれまでに何度も経験している。まあ、確かに現役を退いてから相当時間は経ってしまっているが、こう見えても毎日それなりに身体を動かすようにしているんだ」

 

 それでも顔を上げないルイズと、既に自分の正体を理解しているふたり以外の面々が揃って難しい顔しているのを見て、コルベールは思わず苦笑した。それから、心の内で微笑んだ。

 

(私は、本当に良い生徒たちに恵まれたな……)

 

「きみたちが私の身を気遣ってくれるのは大変嬉しいが、そういうわけだから、そんなに不安そうな顔をしないでくれたまえ。私たちは与えられた任務を達成して、必ずみんなのところへ戻ってくるから」

 

 その言葉が終わろうかという時、突如コルベールの真横から拳が飛んできた。それはもちろん、才人の仕業であった。しかし熟達の元軍人は、自分に向けられた攻撃を最小限の体捌きでもって軽快に躱し、虚しく空を切った才人の腕を掴んで捻りあげた。

 

「あだ、あだだだだだッ!」

 

「ソード君。私を試したくなる気持ちはわからなくもないが、いきなりとは酷いな」

 

「や、やめ、ごめんなさい! 離してッ、ミスタ・エンジン!!」

 

「それと、ミスタ・ブレイズ。背面へ回り込んだ時の歩き方については評価できるが、足音を消すのに集中しすぎて周囲が見えていないようだね。移動方向と光源の位置をきちんと把握しておかねば、影の動きで容易に次の行動を察知されてしまうよ」

 

「ご、ご指導ありがたくあります……」

 

 関節を極められて動けなくなった才人と、手厳しい指摘を受けて顔を引き攣らせるレイナール。彼らは、飛び道具無しの近距離戦に限定した場合、太公望を除く水精霊団の仲間内ではツートップの実力者だ。特に、才人の戦闘技能は頭ひとつ抜けている。

 

 ここ最近の模擬戦では、とうとう『ワルキューレ』だけでは相手をしきれなくなり、レイナールが〝風の剣〟装備でギーシュの指揮下に入り、参戦している程なのだ。そのおかげで彼の剣技も、以前と比べてキレを増してきているのだが……それはさておき。

 

 そんなふたりをあっさりといなしてしまったコルベールを見た子供たちは、ようやく目の前にいる教師が語ったことが正真正銘――真実なのだと理解した。

 

「あいたたたた……つか先生、マジで強かったんすね。でも、どうして今まで教えてくれなかったんですか!?」

 

「それは……」

 

 ようやく解放され、痛む腕をさすりながら才人がしてきた質問に、コルベールの表情が一瞬陰った。だが、才人の問いに答えたのは彼ではなかった。

 

「当たり前だ。そんなことをしたら、彼の仕事に支障をきたすに決まっておる」

 

「師叔は知ってたのかよ! てか、仕事って何だ?」

 

 コルベールが何かを言いたそうにしていたが、太公望は視線でそれを制した。

 

「生徒を導く教師であることはもちろんだが、生徒たちに危機が迫った場合、それを排除するのが彼の役目なのだ。そのために、オスマンのジジイがわざわざ軍からスカウトしたらしい。軍人よりも教師や研究者としての適正のほうが高いと見越した上でな」

 

「確かに、先生に職業軍人は合わないと思う……」

 

「ぼくも」

 

「わたしも……」

 

 口々に素直な感想を述べる子供たちに、そうであろう? と、畳み掛ける太公望。

 

「本来、彼は秘密裏に魔法学院全体を防衛する『守護者』なのだ。よって、下手に実力を明かしてしまうと色々と不都合が生じるのだよ」

 

「不都合って何だよ」

 

 あえてその質問に乗ったのは、太公望と同様コルベールの事情を知るタバサだった。

 

「もしも『敵』が現れた場合、実力を知られていると、妨害を受けてしまう」

 

「その通り。だから、ミスタ・エンジンはこれまで自分の〝力〟を表に出さなかったのだ。決しておぬしたちを騙そうとしていたわけではない」

 

「じゃあ、どうしてミスタ・ハーミットは……って、ああ、そうか!」

 

「いつもの解析ってわけね……」

 

 レイナールの閃きへ被せるように、今度はキュルケがタバサと同様の誘導(・・)を仕掛ける。彼女の言葉に、仲間たちは納得したとばかりに頷いた。

 

「と、いうわけでだ。ミスタ・エンジンの実力については、ここにいる者たちだけの秘密とする。今後、彼の仕事について詳しく聞くのも駄目だ。その理由はもうわかったな?」

 

 コクコクと首を縦に動かし続ける生徒たちの様子に、実に満足げな笑みを浮かべた太公望は、コルベールに頷いてみせると、一同をぐるりと見回して言った。

 

「では、わしらふたりはアルビオン到着まで船室におる。何かあったら声をかけるのだ」

 

 そして、連れ立って船倉へ降りていったふたりを見送った子供たちは、彼らの姿が見えなくなると揃ってぶはっと息を吐き出した。

 

「まさか、先生まで元軍人だったなんて……」

 

「おでれーた。ありゃあ、ただもんじゃねェな」

 

「デルフもそう思うか?」

 

 カチカチと鍔を鳴らしながら、才人の相棒は答えた。

 

「ああ。俺っちが今まで見てきたメイジの中でも、相当の腕利きだな」

 

 才人はがっくりと肩を落とした。

 

(俺がいなくても、全然問題なさそうじゃないか。のこのこついて行ったりしてたら、かえって先生たちの邪魔になってたかもしれない)

 

 

 ……もしも、ここにいたのが才人だけであったなら。アップダウンが極端に激しい彼の性格からいって、またしても自分を不当に貶める作業に取りかかっていたことだろう。だが、その不穏な空気を強烈な〝炎〟によって消し飛ばした者がいた。

 

 もちろんそれは、火の使い手であるキュルケだ。

 

「あなたたち、気付くのが遅いわよ! あたしは先生が只者じゃないって、とっくの昔にわかってたわ。だって……彼ってば、ああ見えて結構締まった身体してるもの」

 

 うっとりしたような声で紡ぎ出された爆弾発言に、周囲は色めき立った。

 

「……えっ? どゆこと!?」

 

「そこんとこ、もう少し詳しく」

 

 一斉に問い詰めてきた友人たちに、キュルケは余裕の笑みを浮かべて見せた。

 

「あら、あたしは先生と寝ただなんて一言も言ってないわよ。彼の前でうっかり転びそうになったときに、身体を支えてもらっただけ。ものすごい早業だったわ!」

 

 ルイズとモンモランシーは、それを聞いて真っ赤になった。

 

「ね、ねねね、寝たとか、そ、そそ、そんなこと」

 

「そのとき寄りかかってみてわかったんだけどぉ~、先生ってば着痩せするタイプなのよねぇ~。腕周りの筋肉とかすごく締まってるしぃ~、胸板も結構厚かったしぃ~」

 

 わざとらしく身体をクネクネ動かしながらそんなことを言い出したキュルケを、タバサを除く全員が唖然とした表情で見つめている。

 

 そんな中。何かを察したモンモランシーが、呆れたような声で聞いた。

 

「キュ……フレア、あんた……まさか……」

 

「そのまさかなの。あたしの中の『微熱』がね、炎に変わってしまったみたい」

 

「な、なんだって――ッ!!」

 

 この発言に驚いたのは男性陣だ。『微熱』のキュルケといえば、魔法学院内でも五指に入るほどの美女であり、彼女に憧れを抱く男子生徒は大勢いる。そして恋多き女性としても有名な彼女が、よりにもよってコルベールのような風采の上がらない中年教師を相手に熱を上げていたなどとは、これまで露ほども考えていなかったからだ。

 

「そ、そういえばあんた……最近、よく先生の研究室に行ってたわよね」

 

「あらん、しっかり見られてたのね。ま、別に困ることじゃないけど」

 

「そ、それで、先生が行くって言った後、真っ先に杖を掲げたのか……」

 

「うふふ、そういうこと。だって彼、なかなか振り向いてくれないんですもの!」

 

「頭、薄くない?」

 

「まるで太陽のようだわ。情熱と閃きの象徴ね!」

 

「恋は盲目ってやつですか」

 

「違うわ。そのひとの本質を見る目が上がるだけよ!」

 

「何歳離れてるのよ……」

 

「年の差なんか、愛の前には何の障害にもならないわ。ねえ?」

 

 そう言って、チラリと己の親友に向かって意味ありげな視線を送るキュルケ。タバサがそれに気付いたときには既に手遅れであった。

 

「そういえば……とんでもない年齢差がある子たちがいたわね」

 

 実にイイ笑顔で乗ってきてくれたモンモランシーに、うんうんと頷くキュルケ。そんなふたりとタバサを交互に見遣りながら、才人が呆然とした顔で呟いた。

 

「えっと……まさかキミタチモ」

 

「違う」

 

 いつもの如く、なんの感情も表さずに答えるタバサ。

 

 だが、お年頃の少年少女たちにとって、こういう話題――所謂『恋バナ』は格好の題材である。一旦走り始めてしまったら、そう簡単には止まらない。

 

 レイナールとギーシュは顔を引き攣らせながら言った。

 

「ま、まあ、見た目は確かにぼくたちと変わらないんだけど、本当は……」

 

「彼には曾孫がいると聞いた記憶があるんだが」

 

「だから違う」

 

「つーか、スノウみたいな小さい子に手出したら犯罪じゃね?」

 

 才人の発言に、さも心外だと言わんばかりにキュルケが反論した。

 

「あら、小さくなんかないわ。この子、もうすぐ十六歳になるのよ?」

 

「マジかよ! まだ十二か三くらいだと思ってた!!」

 

 そう言って、才人はタバサに視線を移した。それは、彼女の上半身のとある一点でピタリと停止する。

 

「……ッ!」

 

 能面のような顔で持っていた杖を大きくふりかぶるタバサ。避けようにも、周囲を他の生徒たちに囲まれていて逃げ場がない。ポカポカという乾いた音が甲板上に響き渡った。

 

「ちょ、やめて! その杖で殴るのマジ勘弁して! 超痛いんですケド!!」

 

「ねえ。止めなくてもいいの? コメット」

 

「今のは、誰がどう考えてもソードが悪いわ」

 

 そう言った後、ルイズは思わず自分の持ち物を見た。

 

(うん、少なくともあの子よりはあるはず。そ、それに、わたしもまだまだ成長途中だもん)

 

 ……などと考えながら。

 

 この一連のやりとりで、ルイズと才人を中心に広がりつつあった暗い影は、綺麗に霧散した。コルベールの事情に関する話題も、完璧に吹き飛んでしまった。会話と場の雰囲気の誘導を得意とするキュルケの面目躍如である。導いた方向についてはさておくとして。

 

 

 ――いっぽうそのころ、船室内では。

 

 噂の渦中にある大人ふたりが、揃って盛大なくしゃみを繰り返していた。

 

「むむむ、風邪でしょうか。体調には充分気をつけていたつもりなのですが……」

 

「気圧の変化によるものかもしれぬ。どちらにせよ、現地到着まではまだ時間がある。横になって、出来る限り身体を休めておこう」

 

「賛成です。ところで、先程の件ですが……」

 

「わしは嘘などついてはおらぬ。そうであろう?」

 

「その……ありがとうございました」

 

「それはお互い様だ。おぬしがああして実力の片鱗を見せたことで、ルイズも少しは気持ちが楽になったであろう。だいたい、元はといえばわしの――」

 

「話はこのくらいにして、休みませんか?」

 

「……そうだのう。では、そうするか」

 

 

○●○●○●○●

 

 

 ――ラ・ロシェールを発ってから、数時間後。

 

 甲板上で温かな秋の日差しを浴びながら読書をしていたタバサは、船員たちのざわめき声を耳に捉え、顔を上げた。

 

「アルビオンが見えたぞー!」

 

 鐘楼の上に立っていた見張りの船員が大声をあげる。タバサのすぐ側で、壁に寄りかかって昼寝をしていたルイズと才人、そしてキュルケも、その声で目を覚ましたようだ。寝ぼけ眼をこすりながら、ふらふらと舷側へ向かって行った才人は下を覗き見た後、不満げな声を漏らした。

 

「陸地なんてどこにあるんだよ。何にも見えないぞ」

 

 才人の呟きを聞いたルイズが、空中を指差して言った。

 

「下じゃないわ。あっちよ」

 

「はあ?」

 

 指し示された方向を振り仰いだ才人は口をあんぐりと開け、呆然と立ち尽くした。彼の視界に入ったものは――なんと宙に浮かんだ巨大な島であった。浮遊大陸というのは、嘘でもなんでもなかったのだ。

 

 白雲の切れ間から、黒々とした陸地が覗き見えていた。大地は遙か遠く、視界の続く限り延びている。地表にはいくつもの山がそびえ、その隙間には川が流れていた。

 

「すごい景色ね! 初めて見たけど、驚いたわ!」

 

 歩み寄ってきたキュルケが、才人のすぐ側で感嘆の叫びをあげた。

 

「俺も! こんなの、見たことねえや」

 

 そんなふたりに、ルイズは得意げに説明した。

 

「びっくりした? あれが浮遊大陸アルビオンよ。あんなふうに空中を浮遊して、大洋の上を彷徨っているの。でも、月に何度かハルケギニアの上空にやってくる。大きさはトリステインの国土ほどもあるわ。通称は『白の国』よ」

 

「どうして『白の国』なんだ?」

 

「あれを見て」

 

 ルイズが指差す場所には大河があった。そこから溢れた水が、空に落ち込んでいる。その水滴が白い濃霧となって、大陸の下半分を包んでいた。

 

「なるほどな、だから『白の国』なのか!」

 

「そういうこと。あの霧は雲になって、ハルケギニアの広い範囲に雨を降らせるの」

 

 と、そのとき。鐘楼にいた見張りの船員が大声を張り上げた。

 

「右舷上方の雲中より、フネが接近してきます!」

 

 それを聞いた他のメンバーも、舷側に集まってきた。そして、揃って言われた方向を見た。確かに一艘の黒い船が近付いてきている。水精霊団の一同が乗り込んだものよりも一回り以上大きく、舷側にはずらりと大砲が突き出ていた。

 

「へえ、こっちにも大砲なんかあるんか」

 

「あれは戦列艦かな?」

 

「うん、アルビオン式の巡洋艦だ。いやあ、実に立派なフネじゃないかね、きみ」

 

 とぼけた声でそんなことを語り合う男子生徒陣の側で、ルイズは眉を顰めていた。

 

「いやだわ……もしかして、貴族派連盟の軍艦かしら?」

 

「わからない」

 

 アルビオンの空軍が、中立航路を進むフネを攻撃するとは考えにくい。だが、万が一ということもある。念のため、用心しておいたほうがいいだろう。そう判断したタバサは読んでいた本を閉じると、船倉に向かって駆け出した。

 

 いっぽう、後甲板で隣に副長を従え、操船の指揮を取っていた船長も、問題の船をその目に捉えていた。黒いタールが塗られた船体の舷側には砲門が二十数個ずらりと並び、こちら側へ砲口を向けている。それを見た船長の顔が、みるみる青ざめていった。

 

「ま、まさか、ありゃ空賊船か!?」

 

 副長はゴクリと喉を鳴らした後、それに答えた。

 

「おそらくは。あのフネは所属旗を揚げておりませんから」

 

「くそッ、なんてこったい! 安全のためにわざわざ遠回りの中立航路を選んだってェのに、それが裏目に出ちまった!」

 

「ど、どうしましょう?」

 

「逃げろ! 取り舵いっぱい!!」

 

 しかし、船長のその判断は遅きに失した。既に問題の黒船は併走を始めている。そして脅しの一発をこちらの針路めがけて放ってきた。

 

 ドゴン! という砲撃音が辺りに響き渡った。不審船から放たれた砲弾は、風を切り裂きながら空の彼方へと消えていったが、砲撃によって生じた乱流の影響で、マリー・ガラント号の船体が大きく揺れる。直後、威嚇してきた船のマストに旗流信号が掲がった。

 

 それを見た副長は暗い声で言った。

 

「停船命令です、船長」

 

 船長は苦渋の決断を迫られた。この船に武装がないわけではないが、移動式の砲がわずかに三門ばかり甲板に置いてあるだけに過ぎない。片舷側にずらりと大砲を、それも二十門以上並べた敵の火力と比較した場合、まるで役に立たない飾りのようなものだ。

 

 誰かに助けを求めたいところだが、朝一番に出港したことが災いし、近くを飛行中のフネは一隻もない。乗り合わせている客は全て貴族だが、人品の良さそうな男がひとりに、あとは子供だけという構成である。

 

 第一、彼らが善戦できたとしてもだ。空の上での戦いはフネの性能差がモノを言う。砲撃によってフネが大破したら、その時点で終了なのだ。巡洋艦とおぼしき軍艦と、民間の貨物船。勝負は最初から見えている。

 

 こんな状況で無理に抗戦すれば、最悪の場合、積み荷どころかフネそのもの、いや、乗組員の命を含む、全てが失われる。そう判断した船長は「これで破産だ」と呟くと、沈んだ声で部下たちに命令を下した。

 

「白旗を揚げ、裏帆を打て。停船だ」

 

 

 ――船長が降伏を決めた、数十秒ほど前。

 

 コツコツという扉を叩く音で目を覚ましたコルベールは、すぐさま甲板上の温度(・・)に異変を感じ、素早く杖を取り出すと、ハンモックの上からひらりと飛び降りた。

 

 これは、軍人としてだけでなく、優秀な火メイジならではの能力だ。そして、向かい側で寝息を立てている太公望を揺り起こす。

 

 船室の扉を開けて中へ入ってきたのはタバサだった。コルベールは、未だ夢の中にいる太公望を揺さぶりながら訊ねた。

 

「ミス・スノウ。状況を報告してください」

 

「アルビオンの軍艦が接近中。所属は不明。念のため、外に……」

 

 タバサがそこまで言ったところで、まるで空気をえぐり取るような轟音が響き渡り、船体が傾いだ。ようやく目を覚まし、ハンモックから降りようとしていた太公望が、その反動によって顔面から思いっきり床に叩き付けられる。

 

「あいつつつ……なんなのだ、いったい!」

 

 と、再び船が小さく揺れた。どうやら減速し、空中で停船するようだ。三人は顔を見合わせると頷きあい、足音を忍ばせながら、しかし素早い動きでもって後甲板への出入り口へ急ぐ。

 

 外へ通じる出口へ到着した三人がそっと外を伺うと、自分たちが乗り込んでいる船より遙かに大きな黒塗りの軍艦と、その舷側に開いた穴から二十を超える砲門が見えた。

 

「貴族派連盟の巡視艦でしょうか?」

 

「ただの偵察にしては、物騒なものを積みすぎている気がするがのう」

 

 その直後、黒い船から男の怒鳴り声が聞こえてきた。

 

「俺たちゃ空賊だ! 命が惜しけりゃ抵抗するな!!」

 

 黒船の舷側に弓やフリント・ロック式のマスケット銃を持った屈強な男たちがずらりと並び、甲板に立つ者たちへ狙いを定めている。太公望は思わず顔をしかめた。

 

「また襲撃か! しかも今度は空賊だと!?」

 

「アルビオンの戦乱に乗じて……と、いうことでしょうな」

 

「まったく、はた迷惑な!」

 

 そこへ〝遠見〟の魔法を使い、相手をつぶさに観察していたタバサが告げた。

 

「敵艦上に、杖を所持している者が複数名。明らかにメイジが混じっている」

 

「ふむ、一筋縄でいく相手ではないということか……」

 

 空賊船から鉤のついたロープが幾重にも放たれ、マリー・ガラント号の舷縁に引っかけられた。斧や曲刀などの武器を持った男たちが、ふたつの船の間に張られたロープを伝ってぞろぞろとやってくる。その数、およそ五十人。

 

「かなり統制のとれた動きだのう。単なる賊ではないのかもしれぬ」

 

 動き出した賊を相手に才人とギーシュが何やら行動を起こそうとしていたようだが、レイナールとキュルケの手によって、かろうじて押し止められている。彼らのすぐ側で、ルイズとモンモランシーが、肩を寄せ合い震えていた。

 

「この状況はまずいですね。まだ我々の存在は察知されていないようですが、不意を打とうにも相手の数が多すぎます……と、砲口が動きました。最低でも砲撃手と操舵手が敵船内に残っているのは間違いありません」

 

「下手に動けば、砲撃でこのフネごと撃墜される可能性がある」

 

「その前に弓と鉄砲、それに魔法で誰かが蜂の巣にされるほうが早いかもしれないな」

 

 額に汗を滲ませながら相手の戦力を分析するコルベールとタバサ。太公望は現在の状況を改めて整理し――盛大なため息をついた。

 

「正直なところ、これだけは絶対にやりたくなかったのだが……緊急事態だ。万が一のことを考えれば、好き嫌いを言っておる場合ではなかろう」

 

「何か策があるのですか!?」

 

「策と呼ぶにはあまりにも乱暴な上に、博打にも程がある手だがな。のう、タバサよ」

 

「何?」

 

「おぬしに、頼みがあるのだが」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それは風に乗り、芳香と共に現れた。

 

 白磁のように透き通ったすべらかな肌を惜しげもなく晒し、豊満でありながらも締まるべきところはきっちりと締まった肉体にぴったりと貼り付くような衣装が、身体のラインをくっきりと浮き立たせている。

 

 腰よりも長くつややかな桃色の髪をたなびかせ、見る者全てが傅くような笑みを浮かべながら練り歩く姿は、まさしく女帝。

 

 そこに在るのは、見事なまでに完璧な『美』であった。

 

 彼女の姿を見た者たちは、敵も味方も。まるで魂魄を抜き取られたかのような顔で立ち尽くした後に――大きな歓声を上げた。

 

「うおおおお――ッ!!」

 

「女王様!!」

 

「女王様――ッ!!」

 

 歓びの声を受けた女は、見せつけるようにバチンとウィンクすると、笑った。

 

「あはん♡」

 

 さらに大きくなる歓声。盛り上がる一同。そこにはもはや、敵味方の区別はなかった。ところが一部、その流れに乗っていない者たちがいた。

 

「お、おい! どうしちまったんだよ、みんな!」

 

 突如甲板に現れた美女の肢体に、だらしなく鼻の下を伸ばしながらも――あまりにも滅茶苦茶な空気の変化に困惑していた才人と。

 

「何だこれは!? いったいどうしたことだ!!」

 

 空賊の中で、ひときわ目立つ格好をしていた男――おそらく彼らの首領が、大声で手下たちを叱咤している。だが、誰ひとりとして彼の命令に従おうとはしなかった。

 

 それどころか女を拝み、滂沱の如き涙を流す者までいる始末。おまけに空賊船の甲板上に乗組員とおぼしき男たちがぞろぞろと現れ、周囲の者たちと同様に歓呼の叫びを上げ始めたのを見るに至って、空賊の長は手下達の身に起きた異変を察し、顔色を変えた。

 

 そんな空賊の頭と才人を交互に見遣った女は、目を細めて言った。

 

「あらん♡ あなたたちには、わらわの〝魅惑の術(テンプテーション)〟が効いてないのねぇん♡」

 

「魅惑だと……まさか先住魔法か!!」

 

 空賊の頭は懐から上品な水晶の飾りがついた杖を取り出し、構えた。長くぼさぼさの汚い髪に無精髭を生やした彼は、その見た目によらず、メイジであるらしかった。

 

「ラナ・デル・ウィンデ!」

 

 頭が唱えた〝風の槌(エア・ハンマー)〟が完成し、空気の塊が女に向けて襲いかかった。だが、女は余裕の笑みを崩さなかった。

 

「いやん、粗雑な攻撃ん♡」

 

 それから彼女は、手にしていた()を一振りする。

 

「えい♡」

 

 杖から発生した突風によって、空賊の頭は〝風の槌〟ごと吹き飛ばされ、そのまま甲板に叩き付けられて気絶した。

 

「その杖……オネーサン、ま、まさかアナタ」

 

 ようやく女の正体に気付いた才人が呆然と呟く。そんな彼に、意味ありげな笑みを浮かべてみせた女は、身体をくねらせながら叫んだ。

 

「みんな聞いてぇ~ん♡ 不幸な事故で倒れちゃった、お頭さまの代わりに言うわん♡ この船にあなたたちが攻め込んで来ようとしているわけだけどぉん……」

 

 両の手を可愛らしく頬に当て、涙まで浮かべた女は、イヤイヤと首を振った。

 

「いや~ん、そんなのわらわ、困っちゃう~ん♡ 助けてぇ~ん♡」

 

「ヴォォオオオ――――ッ!!」

 

「女王様!」

 

「女王様ァ――ッ!!」

 

 空賊たちは、みな雄叫びを上げながらマリー・ガラント号の中央へ集まると、黒船内から持ち込んだロープで、なんと互いを縛り始めた。捕らえられた者たちの中には、もちろんあの空賊の長も含まれている。

 

「ねぇん、ソードぉん♡」

 

「なあ。頼むから、その喋り方やめてくんね? つか、どうなってんだこれ……他のみんなまで、なんかおかしくなっちまってるじゃねえか!」

 

「かかかか、ちと悪ノリが過ぎた。ところで、おぬしに頼みたいことがあるのだが」

 

「な、なんだよ?」

 

「わしは、あの空賊船は武器(・・)の一種だと思うのだが……おぬしはどうだ?」

 

 ニヤリと、まるで獲物を前にした獣の如き凶悪な笑みを浮かべた女に、これまた悪い笑みを返しながら才人が答える。

 

「イケると思うぜ」

 

「すまぬが、ちと調べてきてはもらえぬか? 風に煽られて動くと厄介なのでな」

 

「オッケー! 任せとけ!!」

 

 空賊船に乗り移りながら、才人は思った。前に見た天使といい、今回のアレといい……。

 

「まさか、太公望師叔には女装の趣味があったりするんか?」

 

 ……いっぽう、後甲板出口で一部始終を見ていたタバサとコルベールは。

 

「あれが『如意羽衣』本来の〝力〟……」

 

「いやはや、実に怖ろしい魔法具だな。前もって〝抵抗(レジスト)〟の準備をしておけと言われなかったら、間違いなく私たちも巻き込まれていたよ。しかし、あの女性はいったい……?」

 

「おそらく、例の女狐」

 

「ああ、なるほど。それにしてもあの美貌! まさしく傾国の美女ですな」

 

「納得」

 

 だが。そう呟いたタバサの眉根は、少し中央に寄っていた。

 

 ――そう。タバサから『如意羽衣』を借り受けた太公望が、己の天敵にして最終目標であった女狐の姿に〝変化〟し、彼女の持つ宝貝『傾世元禳』の〝力〟を発動。マリー・ガラント号だけではなく空賊船をも巻き込んで、その場にいた人間たち全員を〝魅了〟してしまったのである。

 

 いくら緊急時とはいえ、力業にも程がある策であった。

 

 たが、所詮は物真似。一部、魅惑の効果が通らない者もいた。しかし、敵側でまともに抵抗できたのが空賊の頭ただひとりだけであったことが幸いし、結果。総勢八十余名にのぼる空賊たちは、ろくな抵抗もままならず、全員が捕縛の憂き目に遭い。おまけに空賊船の拿捕にも成功。双方共に目立った負傷者なしという、実に平和的な結末をもって、両船舶同士の戦いは終了した――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから、約三十分ほどして。

 

 ガンダールヴの〝力〟で空賊船を完全に安定させた才人が戻ってきたとき。既に太公望は元の姿に戻っていた。一見何でもなさそうな顔をしているが、額が汗でぐっしょりと濡れている。

 

 ものすごく何かを聞きたそうな一同を制すると、太公望は言った。

 

「さて、こやつらの処遇をどうするかだが……」

 

 固いロープでひとつなぎの数珠のように括られた空賊たちを前にして、彼は首を捻っていた。

 

「まさかアルビオンまで連れてゆくわけにもいかぬし、かといって船ごと沈めるというのも寝覚めが悪い。そこでだ、ソードよ」

 

「ん、何だ?」

 

「あの空賊船だが、おぬしひとりで動かせそうか?」

 

「いや、さすがに帆船でそれは無理。操舵だけなら俺ひとりでもやれるけど、最低でも帆の上げ下げする人手がないと、風に対応できねえよ」

 

「ということは、人手があればなんとかなるのだな?」

 

「おう。帆畳む指示とか、俺が出せばな」

 

「燃料はどうだ?」

 

「たっぷり載ってた。その気になれば、トリステインにも行けそうだったぜ」

 

「そうか。ならばミスタ・エンジンを除く全員に命ずる。おぬしたちはこいつらを連れて、あの黒い船でトリステインへ戻るのだ」

 

 悲鳴と抗議の叫びが甲板上に響き渡った。前者はもちろん空賊たち、後者は水精霊団一同のものである。

 

「で、でも、ロサイスまでは一緒に行くって!」

 

「緊急事態だ、致し方なかろう。それに……」

 

 実に悪い笑みを浮かべ、太公望は言った。

 

「空賊をこのまま見逃すわけにはいかぬ。そこでだ……ブロンズよ」

 

「何かね?」

 

「ラ・ロシェールに到着したら、まず最初におぬしの父上へ連絡を入れて欲しいのだ。空賊船とはいえ立派な軍艦だ。そんなフネをタダで手に入れたとなれば……」

 

 ギーシュは思わずにんまりとした。

 

「父上は間違いなく喜ぶよ! これほどのフネは、トリステイン空軍にはないからね。おまけに、航路を荒らす空賊を捕まえたとなれば、国から賞金だって出るだろうし」

 

 こうして。襲撃を図った空賊たちをトリステインへ移送するところで話はまとまりかけていたのだが――残念ながら、そうは問屋が卸さなかった。

 

「待ってくれ!」

 

 声をかけてきたのは空賊の頭であった。

 

「恥を忍んで頼む。どうか、我々を見逃してはもらえないだろうか。もちろん、間違っても解放後に君たちを狙うような真似はしない。『始祖』ブリミルの名にかけて誓おう」

 

 苦悶の表情を浮かべた彼に、太公望は言った。

 

「ふむ……やはりおぬしたち、ただの空賊ではなかったようだな」

 

「知っていたのかね!?」

 

「いや、違う。おぬしたちの整然とした動きや装備を見て、そう判断していただけだ。おまけに、この状況下でそのような申し出をしてくるということは――万が一にも自分たちの身元が割れては困るということだ。つまり、おぬしたちはアルビオンの正規空軍。それも、王党派に所属しておる者たちであろう?」

 

 その言葉に、周囲の空気がざわりと揺れた。

 

「な、何故それを……!」

 

 だが。人の悪い笑みを浮かべた太公望を見た空賊――いや、王党派空軍に所属する兵士たちは、トリステインへの移送云々を含め、自分たちが完全に引っかけられていたことを悟った。

 

「アルビオンの空軍であることまでは察していたが、貴族派連盟と王党派のどちらなのか、完全に絞り込めていなかったのだよ。だが、お陰でひとつ大きな手間が省けた」

 

 そう言って、太公望は『打神鞭』を一振りした。途端に空賊の頭を捕らえていたロープがばらばらになる。

 

「誠に失礼ながら、まずは閣下のみ解放させていただきます」

 

 縛られていた腕をさすりながら、閣下と呼ばれた男が緊張した声で訊ねた。

 

「ふむ……君は、我々にいったい何を求めているのかね?」

 

 その言葉に、太公望は丁寧な礼を返しながら申し出た。

 

「わたくしどもはトリステインの王室より、御国の皇太子ウェールズ殿下へ宛てて、密書を言付かっております。どうか皇太子殿下へお取り次ぎ願いたい」

 

 そして懐から一通の手紙を取り出し、トリステイン王室の花押が男に見えるよう、跪いて差し出す太公望。

 

 しかし、その後起きたことは――さすがの太公望にも想定外の出来事であった。

 

「この花押、確かに本物だ。いや、まさか……襲おうとしたフネにトリステインからの大使殿が乗り合わせていたとは、これは大変に失礼した。そうとわかれば、こちらも所属と名を明かさねばなるまい」

 

 男はそう言うと、汚れた髪をはぎ取った。なんと、それはカツラであった。さらに彼は髭を剥がした。どうやら両方とも変装用の小道具だったらしい。本物の髪は見事な金髪で、素顔は凛々しい目鼻立ちの若者だった。

 

「僕はアルビオン王立空軍大将、本国艦隊司令長官――とはいっても、既に君たちに拿捕された『イーグル』号と数隻の輸送船しか存在しない、無力な艦隊だがね。まあ、そんな肩書きよりもこちらのほうが通りがいいだろう」

 

 若者は居ずまいを正すと、威風堂々名乗りを上げた。

 

「アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーだ」

 

 ――ひとときの間を置いて。

 

「うぇえええぇぇぇええ――ッ!!」

 

 アルビオンの空に、絶叫が響き渡った――。

 

 

 




原作と違ってワの方が同行していないので、
のんびりとした紀行モノっぽい雰囲気に(ただし前半のみ)
順調に外堀を埋めていかれてる先生。

ついに登場した妲己ちゃん(偽)。
ここなら♡が使えるとばかりに乱舞しています!

才人と彼ならきっとレジストできる、はず。


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第78話 軍師と王子と大陸に吹く風

 その場に居合わせた全員が、名乗りを上げた若き皇太子を見つめていた。皆、あまりのことに呆然自失といった格好だ。

 

「君たちが何を言いたいのかは理解できるよ。皇太子ともあろう者が、何故こんなところで貨物船を襲うような真似をしていたのか。どうだい、違うかね?」

 

 ウェールズ王子は、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。

 

「いやなに、簡単な理屈だよ。景気の良い貴族派連盟軍には、続々と物資が送り込まれる。敵の補給路を絶つのは戦の基本。しかしながら堂々と王軍旗を掲げていては、あっという間に敵のフネに囲まれてしまう。残念ながら、この『イーグル』号だけでは到底太刀打ちできない。空賊を装うのも致し方なしということだ」

 

 そこまでウェールズが言っても、全員が揃ってあんぐりと口を開けたまま、その場へ棒のように突っ立っているばかり。あまりにもあまりな状況で目的の人物に出逢ってしまったが為に、完全に心の不意を衝かれてしまったのだった。

 

 そんな中、ようやく立ち直った太公望が口を開いた。

 

「あ、あの、大変失礼ですが……」

 

「なんだね?」

 

「本当に、本物の皇太子殿下で……?」

 

 その疑問に答えたのは目の前の若者ではなく、キュルケだった。

 

「間違いなくウェールズ殿下だわ! だって、あたし……ヴィンドボナで開かれた式典に皇太子殿下が出席されたときに、貴賓席でお顔を拝見しているもの」

 

「証明できるか?」

 

「この『微熱』が殿方の顔を見間違えるなんてこと、あるわけないじゃないの!」

 

 ふたりのやりとりを聞いていたウェールズが、くすくすと笑った。

 

「まあ、この状況やさっきまでの顔を見れば無理もない。僕は正真正銘、アルビオン王国皇太子・ウェールズだよ。ふむ、そうだな……では、これならどうだろうか」

 

 ウェールズは自分の薬指に填めていた指輪を外すと手のひらに載せ、一同に見えるよう目の前に差し出した。

 

 丸い宝石が指輪の中央で輝いている。その石は透明で、内側には空を漂う雲を思わせる乳白色の物体が漂っていた。

 

 ルイズはその指輪に見覚えがあった。正確には、石が留められている特徴的な台座が彼女の記憶に残っていた。大貴族ヴァリエール家の一員として、幼い頃から数多くの美術品に触れ、審美眼を養ってきたルイズだからこそ気が付くことができたとも言える。

 

「そそ、その指輪……も、もしや、アルビオン王家に伝わる『風のルビー』では?」

 

「ふむ。君は何故そう思ったのかな?」

 

 ウェールズの問いかけにルイズはゴクリと唾を飲み込むと、回答した。

 

「だ、台座の拵えが、トリステイン王家に伝わる始祖の秘宝『水のルビー』と非常によく似ているからです」

 

 ルイズの言葉を受け、ウェールズはにっこりと魅力的な笑みを浮かべた。

 

「なるほど。君たちは確かにトリステイン王家の信任を得ているようだ。これはまさしく『始祖』の秘宝。王族の側近くに在る者しか、その価値を見出せないはずだからね」

 

「た、大変失礼をば致しました……」

 

 揃って頭を下げた一同に、ウェールズは鷹揚に頷いた。

 

「それはこちらの台詞だよ。おっと、申し訳ないがずっとここへ留まっているわけにはいかない。『イーグル』号が他のフネに目撃されると、色々と不都合だからね。まずは海岸線まで移動するとしよう。ところで、船長」

 

「へ、へい、何でございましょう?」

 

 いきなり話を振られたマリー・ガラント号の船長は心底仰天した。急転直下の展開について行けなかったところへ、よりにもよって正真正銘、本物の皇太子殿下から直接の御下問とくれば、慌てるなと言うほうが無理である。

 

「この船の名前と、積荷は何だね?」

 

「トリステインの『マリー・ガラント』号。積荷は硫黄でございます、はい」

 

「船ごと全部買った。料金は、相場の三倍額支払おう」

 

 思わぬ申し出をされた船長は歓喜に震えた。それから、ウェールズは甲板の上に佇む水精霊団の一同に向けて、こう言った。

 

「君たちは我が『イーグル』号へ乗り換えてくれたまえ。歓迎するよ」

 

 

○●○●○●○●

 

 一同は、皇太子自らの先導で『イーグル』号の後甲板の上に設けられた立派な船室に通された。『マリー・ガラント』号の船員たちは、ここには居ない。つい先程まで自分たちのものだったフネの曳航を手伝っているらしい。

 

 船室に到着後、全員が簡単な自己紹介――任務中は名を隠しているという事情を説明した上で、それぞれの『暗号名』を名乗り、一礼した。その最中、皇太子はちらとタバサに視線を移したが、何も言わなかった。タバサも、視線で礼を返すに留めた。

 

 挨拶と簡単な自己紹介を済ませ、全員が用意されたテーブルについたのを見届けたウェールズは笑顔で言った。

 

「それにしても驚いたよ。襲撃したフネに、トリステインからの使節団が乗り合わせていたこともそうだが、最も衝撃を受けたのは、あの……」

 

 彼の言葉で、この場に居合わせた全員の視線が太公望へ移動した。

 

「その節は大変申し訳ありませんでした。乗組員全員の命に関わると判断致しましたので、急遽、あのような手段を取らせていただいた次第で……」

 

 額に汗を流しながら言い訳をする太公望に、ウェールズは訊ねた。

 

「なるほど。もしや、君はマリアンヌさま……もしくはアンリエッタの使い魔か?」

 

 思いもよらぬ質問に、太公望の口があんぐりと開いた。タバサの片眉も少し上がった。

 

「は?」

 

「今更とぼける必要はない。先住の〝変化〟それに〝魅惑〟。人間が使えるものではない。となると妖魔か亜人。まさか、既に滅びて久しい韻竜種かね!?」

 

「いやいやいやいや」

 

「へー、そうなんだー、しらなかったなー」

 

「ソード! 話がややこしくなるから余計なことを言うなッ! 殿下、わたくしめは断じてトリステイン王家の使い魔でも、ましてや妖魔や韻竜などではございませぬ!」

 

「では、一体何者なのかね? 僕たちの正体を看破した眼力だけではない。大人を差し置いて最上位者とおぼしき振る舞いを見せていたのだから、それ相応の理由があるはずだ」

 

 笑顔を絶やさぬまま問うてきたウェールズへ、太公望は答えた。

 

「何者もなにも、見たままでございます! 今回はたまたま自分が仕切り役を任されていただけの話でして。あの先住魔法にしても、単に道具を用いただけのことで……」

 

 太公望は席を立ち、懐にしまってあった『如意羽衣』を取り出して纏ってみせた。

 

「これはわたくしの出身地に伝わる『如意羽衣』という魔道具で、過去に出会った者の姿と〝力〟を写し取り、真似ることができる秘宝中の秘宝なのでございます」

 

 厳密には少し違うのだが――そのように『羽衣』の効果を説明する太公望。

 

「そのような魔道具が存在するとは!」

 

「まさしく秘宝、いや、国宝級の品ではありませぬか!」

 

 周囲を固めていた兵士たちがざわめいた。説明を受けた王子も強い関心を持ったらしい。瞳を輝かせながら如意羽衣を見つめている。

 

「なんともはや、興味深いな。できれば実際に〝変化〟するところを見てみたいな。そうだな、僕に変身してみてはくれないか」

 

 その申し出に慌てた太公望であったが、しかし。

 

「どうしたんだね? さあ、やって見せてくれたまえ」

 

 笑顔を絶やさず迫る王族の申し出に、使うたびに体力を消耗するなどという言い訳を――たとえそれが真実だとしても――述べるわけにはいかない。ここで下手を打てば、この次に控えている重要な交渉に失敗する可能性が高くなる。

 

 おまけに自分が妖魔だなどという、あらぬ疑いをかけられているのだ。

 

 太公望は既に人間を超えた存在になっているが、それが明らかになった場合……あまり好ましくない状況に置かれることは想像に難くない。

 

「……承知致しました。では、その効果のほどをとくとご覧あれ! ウェールズ皇太子殿下に〝変化〟ッ!!」

 

 ボウンッ! という音と共に、太公望の姿がウェールズと瓜二つに変化した。それを見た王子と兵士たちは揃って驚きの声を上げた。

 

「これは、なんとも大変な魔道具だな! まるで鏡を見ているようだ」

 

 と、そこまで言ったところで、ウェールズは目の前の少年の様子がおかしいことに気がついた。息が荒く、滝のような汗を流している。心なしか足元もふらついているようだ。

 

 かたや太公望も、自身の身体におきた異変に気がついていた。もちろん、その原因についても。よって、慌てて元の姿に戻ったのだが……既に手遅れであった。

 

 慣れない宝貝を――しかも、本来自分が持ち得ない〝力〟を使い続ければどうなるか。そんなことはとうの昔にわかりきっていたはず。それも、あの女狐の〝魅惑の術(テンプテーション)〟を再現した直後に、さらに〝変化〟を行ったりしたら、身体にガタがくるのも当然だ。

 

(少しばかり交渉が不利になっても、安全を取るべきであった。我ながら、なんという馬鹿な失敗をしてしまったのだろう……)

 

 そんなことを考えながら、がくりと両膝をついた太公望はそのまま床に崩れ落ち――完全に意識を手放した。口からぶくぶくと泡を吹いて。

 

「ちょっと!」

 

「おい、いきなりどうしたんだよ!?」

 

 いきなり床に倒れてしまった太公望を見て、水精霊団の一同は悲鳴を上げた。タバサと治療係のモンモランシーが、急いで彼の側へと駆け寄った。

 

 太公望の手を取ったモンモランシーの顔色が変わる。彼女は水のメイジだ。触れたものの流れを感じ取れる感覚が生まれつき備わっている。火のメイジが温度を、風メイジが音を、土系統のメイジが物質の組成を知覚できるのと同じように。

 

「なんなの、これ……身体中の流れがボロボロじゃないのよ!」

 

「たぶん『如意羽衣』の使い過ぎ」

 

 タバサの言葉に、一同は「あ……」と呟いた。彼らは如意羽衣が〝生命力〟を対価に奇跡を起こすアイテムであることを、前もって知らされていたからだ。

 

「一体何事だ! 彼は、大丈夫なのかね!?」

 

 席を立ち、心配そうな声で問うてきたウェールズに、タバサが簡単に事情を説明した。それを聞いたウェールズは、固い表情で言った。

 

「なるほど、済まなかった。王族の頼みとあらば断れまい。僕の好奇心のせいで、彼に大変な無理をさせてしまった。おまけに大使殿を人外呼ばわりするなど、無礼にも程がある。王族の一員である僕がこのていたらく。我がテューダー家から民心が離れるのも道理だ」

 

 倒れ伏した太公望の側に片膝をついていたタバサは、王子の言葉を受け、頭の片隅に引っかかるものを感じた。

 

(彼が化け物扱いされるのは今に始まったことではない。けれど、先程行われた会話の中に、重要な何かが隠されているような気がする。それは一体何……?)

 

 そんなタバサの思考は、診察を続けていたモンモランシーの声によって中断された。

 

「殿下、このフネに水メイジは同乗されていますか? わたくしどもの〝治癒(ヒーリング)〟だけでは到底治せそうもありません。どうかお力添えを」

 

 モンモランシーの願いに、ウェールズは頷いた。

 

「数名待機している。医務室になら、水の秘薬も置いてある。もちろん、全て自由に使ってくれて構わない」

 

 その言葉を合図に、数名のメイジが倒れていた太公望に駆け寄り〝浮遊(レビテーション)〟をかけた。タバサは彼が持っていた手紙をコルベールに手渡すと、未だ意識を失ったままのパートナーに付き添い、モンモランシーと共に船室の外へ出て行った。

 

 

 ――それから一時間ほどして。

 

 モンモランシーとタバサ、そしてフネに同乗していた水メイジたちによる懸命の治療によって、ようやく意識を取り戻した太公望は、見舞いに訪れたルイズたちの口から、現在の状況について聞かされた。

 

 曰く、無事皇太子に密書を手渡すことができた。

 

 曰く、問題の手紙はこのフネには無く、ニューカッスル城に置かれている。

 

 曰く、手紙を受け取るために、現在ニューカッスル城に向けて航行中である。

 

 ……全てを聞き終えた太公望は、盛大なため息をついた。

 

「よりにもよって、全員で王党派の本陣へ向かう羽目になるとはのう」

 

「仕方がないじゃない! どっちみち、貨物船は殿下がお買い上げになったんだもの。わたしたちだけじゃロサイスまで行けないし、トリステインへ戻ることもできないわ」

 

 そう。太公望が不安視していたのは、まさしくこの状況に陥ることだったのだ。

 

 そのため、何とか『マリー・ガラント』号だけでもトリステインへ戻してもらえるよう皇太子に話を持ちかけるつもりであったのだが……無理をした結果、交渉のテーブルにつくことすらできなかった。

 

 太公望は文字通り頭を抱えてしまった。正直なところ、これは自分たちにも、トリステインにとっても致命傷になりかねない大失敗だ。

 

「今からでも遅くない、何とか殿下に願い出てみよう」

 

「その……残念ながら、それはもう無理だと思います」

 

 申し訳なさげに頭を掻きながら、コルベールが言った。

 

「何故だ? 風石が足りないというのであれば……」

 

「いえ、そういう問題ではないのです。外を見てください」

 

 コルベールに促されて上半身を起こした太公望は、ベッドの脇にあった窓から外を覗き見て仰天した。なんとフネの翼すれすれの位置に、巨大な岸壁が存在しているではないか。

 

「雲に隠れながら、入り組んだ海岸線沿いにフネを移動させているのだそうです。しかも、これは王立空軍の熟達した航海士にしか進めない、特殊なルートなのだとか」

 

 彼ら以外の者が、そこから外れようとした場合……ほぼ間違いなく座礁する。そのように告げられたというコルベールの言葉を受けた太公望は、再びベッドに倒れ込んだ。

 

(やはりあの女狐は、わしの天敵だ。間違っても救いの神などにはならぬ)

 

 ……そんな思いっきり八つ当たりじみたことを考えながら。

 

 

○●○●○●○●

 

 

 ――それから、数時間後。

 

 水精霊団一行を乗せた巡洋艦『イーグル』号は、浮遊大陸アルビオンのジグザグした海岸線沿いを縫うように航行を続けていた。そのままさらに数時間ほど進んでいくと、大陸から突き出た岬が見えてきた。その先端には高く堅牢な城がそびえ立っている。

 

 未だ顔色は優れないものの、水の〝治癒〟魔法のお陰でベッドから起き上がり、ひとりで歩き回れる程度には回復した太公望を含む客人たちに向かって、ウェールズが説明した。

 

「あれが、ニューカッスルの城だ」

 

 そのまま陸地へフネを寄せるのかと思いきや。『イーグル』号は大陸の下側に潜り込むような進路を取った。

 

「どうしてまっすぐ進まないのですか?」

 

 ギーシュが投げかけた質問に、ウェールズは城の遙か上空を指差しながら言った。

 

「あれを見たまえ」

 

 全員が視線を向けると、遠く離れた岬の突端の上から、巨大なフネが降下してくるのが見えた。雲の中にいるので、向こうからは『イーグル』号が見えないようだ。

 

 ウェールズが、苦々しげな表情で吐き捨てた。

 

「叛徒どもの、艦だ」

 

 それは禍々しいとしか形容できない巨艦であった。全長は『イーグル』号のゆうに数倍はある。大きな帆を何枚もはためかせながら、ゆるゆると降下してきたそのフネは、舷側にある砲門を一斉に開いた。砲弾の向かう先は、もちろんニューカッスル城だ。

 

 斉射による轟音と震動が、遠く離れた『イーグル』号にまで伝わってくる。巨大艦から放たれた数多の砲弾は城に着弾し、城壁を砕いた。

 

「あれは、かつての本国艦隊旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号だ。叛徒どもが手中に収めてからは『レキシントン』と、その名を変えている」

 

「元は王党派の空軍基地があった場所、ですね?」

 

 レイナールの言葉に、ウェールズは頷いた。

 

「彼の地を奪われてから、我が方の敗色が濃厚となった。まさしく因縁の土地さ」

 

 一同は雲の切れ間に覗く巨大戦艦を見つめた。無数の大砲が舷側にずらりと並び、艦上には竜とおぼしき影がいくつも舞っている。

 

「あの忌々しい艦は、ああして空からニューカッスルを封鎖しているのだ」

 

 それを聞いた太公望は、引っかかりを覚えた。そして、目をこらして雲間を覗き込んだ。確かにあのフネがあれば岬を孤立させることくらい容易そうではあるのだが――。

 

「城の近辺にはあの巨大な艦しか見あたりませぬが、貴族派連盟のものどもは艦隊を出してはいないのですか?」

 

「ああ。わざわざ出すまでもないと判断しているのだろう。なにせ、王党派に味方しようとする者は現時点で皆無。それに、向こうは我々が『イーグル』号を持っていることにすら気付いていないのだから」

 

「なるほど」

 

「とはいえ、両舷合わせて百八門の備砲に、竜騎兵まで積んでいる化け物など相手にできるわけもない。そこで、このまま大陸の下へ潜り込み、地下から城へ戻ることになる」

 

「地下から?」

 

 才人の問いかけに、ウェールズはニヤリと笑いながら言った。

 

「実はそこに、我々しか知らない秘密の地下通路があるのだよ」

 

 大陸の下に移動すると、周囲は深淵の闇に包まれた。頭上に大陸があるため、日差しが完全に遮られているためだ。おまけに、周囲は濃い霧のような雲によって包まれており、視界はほぼゼロに等しい。湿気を含んだ冷たい空気が一同の頬を嬲る。

 

「このような空間であるため、技術を持たぬ者はすぐに上方の陸地に激突してしまう。貴族派連盟の軍艦は、それを怖れるがゆえに大陸の下へは決して近付かないのだ」

 

「確かに。これじゃあとてもじゃないですけれど、危なくて近寄れませんわね」

 

 キュルケが発した心からの感想に、ウェールズが応えた。

 

「地形図と小さな魔法の明かりだけを頼りに進むことなど、王立空軍の航海士にとっては造作もないことなのだが、貴族派連盟――あいつらは所詮、空を知らぬ無粋者さ」

 

 そう言うと、ウェールズは笑った。しかし濃霧と闇に隠れていたせいで、その表情までは覗えなかった。

 

 それから一時間ほどして。頭上に巨大な――直径三百メイルほどの穴が空いている場所に出た。ウェールズの命令で、穴の下にぴたりと停止した『イーグル』号は、そのままゆっくりと上昇していく。『イーグル』号から派遣された航海士が乗る『マリー・ガラント』号が、後に続いた。

 

「いやはや、実に見事な操船技術ですな!」

 

 感心しきりといったコルベールに、ウェールズは笑いながら言った。

 

「どうだね。まるで空賊のようだろう?」

 

「まさに空賊ですな、殿下」

 

 縦穴に沿って垂直に上昇すると、その先に明かりが見えた。光の中へ吸い込まれるように『イーグル』号が進んでゆく。次の瞬間、眩いばかりの光に晒されたかと思うと、艦はニューカッスル城の地下にある、秘密の港に到着していた。

 

「すげえ……」

 

「綺麗……」

 

 ルイズと才人は思わず声を上げてしまった。他の者たちも彼らと同様、周囲の光景に目を奪われている。そこは白い光を放つ苔に覆われた巨大な鍾乳洞。自然が作り上げた芸術の園だった。

 

 『イーグル』号が鍾乳洞の岸壁に近づくと、一斉にロープが飛んできた。水兵たちがそれを結わえつけ、艦を岸壁に寄せる。その後、すぐさま車輪つきのタラップが近付いてきて、艦にぴったりと取り付けられた。

 

 そこへ、背が高く人品の良さそうな老メイジが近寄ってきた。

 

「殿下! これはまた、たいした戦果ですな」

 

 『イーグル』号に続いて鍾乳洞の中に姿を見せた『マリー・ガラント』号を見た老爺が、にこにこと顔を綻ばせている。

 

「パリー! 後ろのフネに乗っているのは、戦果ではない。我々と取引するために、はるばるトリステインから来てくれた、勇気ある商人たちだ。くれぐれも粗末に扱ってはいけないぞ。積荷は、なんと硫黄だ! 硫黄!!」

 

 集まっていた兵士たちが、それを聞いて歓声を上げた。空の上で完全に孤立していた彼らの元へ、交易商人が現れた。その事実だけでも喜ばしいことなのだ。しかも――。

 

「硫黄ですと!? 火の秘薬ではございませぬか!」

 

「これで、我々の名誉も守られる!」

 

 兵士たちは、おいおいと泣き始めた。パリーと呼ばれた老人も、彼らと同じように顔全体を涙で濡らしている。

 

「先の陛下より、テューダー王家にお仕えして幾星霜。これほど喜ばしい日はありませぬ。レキシントンを叛徒どもに奪われてこのかた、苦渋を紙め続けておりましたが……なに、これだけの硫黄があれば……」

 

 にっこりとウェールズは笑った。まるで秋の空の如き、澄みきった顔であった。

 

「ああ。王家の誇りと名誉を叛徒どもに示しつつ、敗北することができるだろう」

 

「はい。まさに栄光ある敗北でございますな! して、ご報告なのですが……叛徒どもは明日の正午に攻城を開始するとの旨、伝えて参りました」

 

「なんと。間一髪とはまさにこのこと! 戦に間に合わぬは、武人の恥だからな!」

 

 王子たちは心底嬉しそうに笑いあっている。それを見たタバサは思った。敗北ということは――つまり、死ぬということだ。

 

(彼らは希望のない闇の中で全てを諦め、厳しい現実をただ受け入れているだけ……)

 

 かたや才人は、彼らが何故笑い合っているのか理解できなかった。

 

(もうすぐ死ぬかもしれないのに、なんであんな顔ができるんだ……)

 

「ところで、殿下。そちらの皆さま方は?」

 

 パリーの問いに、ウェールズが答える。

 

「外国からの使節団だ。重要な用件で、我が王国へやって来られたのだよ」

 

「使節団……で、ございますか?」

 

 もう間もなく滅びる国に使節団が訪れるなど、常識では考えられないことだ。一瞬、怪訝な顔をした老爺だったが、すぐさま表情を改めると、深々と一礼した。

 

「おお、これはこれは。わたくしは殿下の侍従を仰せつかっております、パリーと申します。遠路はるばる、ようこそアルビオンへお越し下さいました」

 

 

○●○●○●○●

 

 一同はウェールズに付き従い、城の天守にあるという彼の居室へと向かった。途中の壁に設けられていた狭間(さいま)から、ちらりと外を伺った才人は絶句した。

 

 砲撃によるものなのだろう、城の外壁は半壊していた。焼け焦げた壁の近くには、備え付けられていた大砲とおぼしき残骸が転がっている。そのすぐ側にある、赤黒い染みは――。

 

(俺は今――正真正銘、命のやりとりをする場所に立っているんだ。テレビやネット越しに見てる訳じゃないんだな……)

 

 壁一枚に隔てられた向こう側に横たわる、圧倒的な現実。

 

 他のメンバーはというと、戦争というものが身近にある世界に暮らしているせいか、ケロッとした様子で歩を進めている。才人には、何故かそれがとても哀しいことだと思えた。

 

 いくつもの階段を昇り、ようやく辿り着いたウェールズの居室は、とても王族の部屋とは思えない質素な造りだった。

 

 唯一装飾と呼べるものは、岩壁に飾られている合戦の様子が描かれたタペストリーだけ。置かれている家具も、木製の粗末なベッドに、椅子と机が一組。その机の上には、ニューカッスル城周辺のものとおぼしき地形図と駒のようなものが無造作に置かれていた。

 

 王子は机の引き出しを開き、中にあった小箱を取り出した。それから首にかけられていたネックレスを外し、ついていた鍵で箱の蓋を開けた。蓋の内側にはうら若い女性の肖像が描かれている。その奥に、ぼろぼろになった紙束が見えた。

 

 客人たちが後ろから覗き込んでいることに気付いたウェールズは、はにかんで言った。

 

「宝箱でね」

 

 どうやら、そこに入っていた紙が件の手紙であるらしい。ウェールズはそれを取り出し、愛おしそうに口づけたあと、開いてゆっくりと読み始めた。手紙がぼろぼろになっているのは、こうして何度も繰り返し読まれたからだろう。

 

 読み終えるとウェールズはその手紙を丁寧に畳み、封筒に入れて太公望に手渡した。

 

「確かに返却したぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 太公望は深々と頭を下げると、その手紙を受け取った。それを見たウェールズは優しげに微笑むと一同に告げた。

 

「明日の朝一番に、非戦闘員を乗せた『イーグル』号と輸送船が出港する。全員それに乗って、トリステインへ帰りなさい」

 

 太公望は心底ほっとしていた。

 

(手紙の中身はまた後で確認するとして……少なくともこの王子は、使者の帰り道についてきちんと考えていてくれたのだな)

 

 その礼を述べようとしていたところへ、突如ルイズが割り込んできた。

 

「あの、殿下。先ほど栄光ある敗北と仰っていましたが、王党派に勝ち目はないのですか?」

 

 躊躇うように問うたルイズへ、ウェールズは至極あっさりと答えた。

 

「ないよ。我が軍は三百。敵軍は五万。万に一つの可能性もありえない。我々にできることはといえば……はてさて、勇敢な死に様を叛徒どもに見せつけることくらいだ」

 

 ルイズは俯いた。

 

「殿下が討ち死になさる様も、その中には含まれるのですか?」

 

「当然だ。僕は真っ先に死ぬつもりだよ」

 

 ルイズはこの任務を請け負ったときのことを思い出した。まるで、恋人の身を案じるようなアンリエッタの様子を。そして、ここまでの王子の仕草を見る限り――おそらく彼らは恋仲なのだろうと推測した。

 

(近いうちに、ウェールズ殿下は間違いなく死んでしまう。そうなれば、姫さまは……わたしの大切な『おともだち』は深く悲しむに違いないわ。でも、わたしには何も出来ない。せいぜい殿下に亡命をお勧めすることくらい。だけど、もしも断られてしまったら……?)

 

 ルイズは怖かった。また失敗したら、どうしよう。そればかり考えていた。

 

 ――後に、彼女はこの後起こった出来事の始まりを、こう述懐している。

 

「あの日、わたしはやっと認めたの。意地を張って、絶対に表へ出そうとしなかった本当のわたし――心の奥底に無理矢理押し込めてた、臆病な自分のことをね」

 

 失敗することに怯えたルイズは震え声で聞いた。今から勝つことなんてできるわけがない。だから自分たちと一緒に逃げてください。それを上手く相手に伝えられそうな人物に。素直に己を表現できない彼女らしく、やや迂遠な言い方で。

 

「ねえ、ハーミット。何か策はないの? 王党派が勝てるような、いい方法が?」

 

 無理に決まってる。できっこない。予想していたのはそんな返答。ところが……戻ってきたのはまるで冗談としか思えないような言葉。

 

「勝てる」

 

「やっぱり無理……って、えっ!?」

 

「だから、勝てると言ったのだ。殿下をはじめとした、王党派全体に仕掛けられている()を解除すればのう」

 

 ウェールズの顔が強張った。

 

(この賢しらな子供は、いったい何を言っているのだ? たとえこの場に『始祖』が降臨したとしても、この状況を改善する見込みなどないというのに)

 

 だが、空で起きた事件によって生じていた太公望に対するわずかな後ろめたさが、王子の中に生じかけた憤りを抑えた。それが、彼が辿るはずだった運命を変えた。

 

「面白い。その罠とやらは、いったいどういうものなのかな?」

 

「それを説明するために、机の上にある地形図と駒をお借りしてよろしいですか?」

 

「いいとも」

 

 王子の許可を得た太公望は、地形図の上に駒を並べ始めた。

 

「まずは、現在の状況を確認させていただきます。王党派の現有兵力は三百。対する貴族派連盟側は五万。敵軍の数に、艦隊や竜騎兵などの航空戦力は含まれていますか?」

 

「いや、陸地に展開している軍のみだ」

 

「そうですか。あえて航空戦力は無視するとして……おかしいとは思いませぬか?」

 

「ふむ、具体的には?」

 

 地形図の上をこつこつと叩きながら、太公望は説明する。

 

「この戦場の地形ですが……岬の突端にある城が、王党派の本陣です。そこへ至るための道は狭く大軍でもって攻め入るのはまず不可能です。にも関わらず、五万もの兵力を結集している。攻城兵器は地形的にも使えない。逆に考えてみてください、殿下が本気でこの城を陥とそうとした場合――陸軍をここまで大量に揃えますか?」

 

「……いや、そんな馬鹿な真似はしない。岬の出口は三千もいれば完全に封鎖できるからな。その上で艦と竜騎兵を出す。空から艦砲による砲撃を加えて城壁と砲台を破壊し、火竜でもって突入。相手の残存兵力を削いだところで初めて陸軍を投入する」

 

 ウェールズの顔は、いつしか怜悧な司令官そのものに変化していた。

 

「わたくしも殿下とほぼ同じ考えです。見通しが良く狭い岬の上を、上空からの援護なしに進軍させるなど愚の骨頂。兵たちに、的になれと命じるようなものです」

 

「その通りだ。そうだ、何故貴族派連盟は艦隊を出さぬのだ? 叛徒どもがやってくることといえば『ロイヤル・ソヴリン』号で、外壁に嫌がらせ程度の砲撃を加えるのがせいぜい。竜騎兵も、上空をただ飛び回るばかり。城そのものに攻撃を仕掛けてこないのは、どうしてなのだ!?」

 

 静かな声で、太公望は告げた。

 

「しかるべき理由があって、きゃつらは艦隊を出すことができないのですよ。そして、それこそが王党派に仕掛けられた罠を解除するための鍵なのです」

 

 ウェールズは地形図を睨みながら唸る。

 

「予算的な問題ではないだろう。それなら陸上兵力を五万も出す道理がない。数を大幅に削減して艦隊側に回せばいいだけの話だ。敵の司令官が無能であるわけもない。そうであれば、我らはこんな大陸の端まで追い遣られてなどいない」

 

「左様。そもそも、この戦争における貴族派連盟側の『勝利条件』とは何ですか?」

 

「テューダー家と、王党派を全滅させること……では、ないということかね?」

 

「そうです。お嫌でしょうが、ここはあえて敵の立場で考えてみてください。合戦だけではなく政治的な勝利を収めるために、彼らがこの後しなければならない事とは、いったい何ですか?」

 

(貴族派だけならば、王族を滅ぼす。それだけを目的として動いてもよかった。しかし『レコン・キスタ』が加わった現在はどうか……)

 

 そこまで考えるに至って、王子はようやく太公望が言わんとしていることに気がついた。

 

「戦後、より平和的に国を治めるために、我らを滅ぼすのではなく……屈服させようとしているのか! そうすれば『始祖』に連なる王権を消し去るという、ブリミル教の教義に反するような真似をしなくて済む。世界全体を敵に回すこともなくなる!」

 

 ウェールズは喉の奥から声を絞り出すようにして続けた。

 

「艦隊を出さないのは、城を破壊しようとした際に、まかり間違って王族を砲弾で吹き飛ばしてしまうのを避けるため……だな? そして、わざわざ五万もの兵で岬の出口を封鎖しているのは……圧倒的な兵力を見せつけることで外からの援護を躊躇わせ、かつ王党派に属する者たちに絶望を与えることが狙いなのだ!」

 

 太公望は王子の顔を見て頷いた。

 

「そうすることで内部崩壊を誘因し、殿下たちの身柄を差し出させるために。ここまで従ってきた王党派の兵士たちが、この期に及んで王家の方々を弑さぬと見越した上で」

 

 顔を歪め、呻き声をあげた王子に、太公望は断言した。

 

「『レコン・キスタ』の長であるオリヴァー・クロムウェルは、政治的な勝利を得るために殿下、あるいは国王陛下の身柄を抑えようとやっきになっているのです。だからこそ、このような布陣を敷いているのだと、わたくしは判断しました」

 

 ウェールズは乾いた笑みを浮かべた。

 

「つまりだ。君の言う『王党派が勝つ方法』とは、やつらの目の前で、見せつけるように僕と父が死んでみせることだと……」

 

「いいえ、そんなことをしてはいけません。それこそ敵の思うつぼですわ!」

 

 ふたりの会話に割り込んできたのはモンモランシーだった。彼女の顔は青ざめ、その身体は小刻みに震えている。

 

「それはどういうことかな? ミス・フローラル」

 

 王子の質問に、モンモランシーは緊張しながら口を開いた。彼の信用を得るためには、まずしなければならない重要なことがある。

 

「その前に、まずはわたくしの真の名をお聞き下さい。モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシと申します。これがその証拠です」

 

 そう告げたあと、モンモランシーは懐からハンカチーフを取り出して見せた。それには、モンモランシ家の紋章が銀糸で刺繍されていた。

 

 ウェールズは、もちろんその家名に覚えがあった。彼女の家はトリステインでも有数の名家であるからだ。

 

「なんと、モンモランシ伯爵家の! 水の精霊との交渉役を務める名家ではないかね」

 

「残念ながら、実家は既に交渉役の任を解かれ、没落しておりますが……それはともかく。今のお話を聞いていて、わたくし、どうしても殿下のお耳に入れておかねばならないことを思い出したんです。その、水の精霊に関することで」

 

「……聞かせてもらおうか」

 

 モンモランシーは語り始めた。以前、彼女たちがラグドリアン湖で行った、水の精霊との交渉について。惚れ薬の解除薬を作るという自分たちに都合の悪いことは省きつつ、何故彼らが湖の水かさを増やしていたのか、その理由を。

 

 全てを聞き終えたとき。ウェールズの顔は憤怒によってどす黒く変色していた。

 

「死体を、まるで生きているかの如く操る効果を持った先住の指輪……それを奪った盗賊の名が『クロムウェル』だと……?」

 

「も、申し訳ございません。その、あまりにも突飛な話で、そう簡単に信じていただけるなどとは思っておりませんが……」

 

「いや、モンモランシ伯爵家令嬢の言葉だ、信じるよ。あの『羽衣』の威力を目の当たりにした後だから、余計にね。我が国で連続して起きた数々の不可解な事件についても……ようやく得心がいった。そこでだ、君たちに頼みがあるのだが」

 

「わたくしたちに、できることでしたら」

 

 全員を見渡しながら、ウェールズは言った。

 

「今の話を……父と、主立った将兵たちの前で、もう一度してもらいたい」

 

 

 




宝貝の使いすぎで久しぶりにぶっ倒れる師叔。
あんな無理したら、こうなるよねということで……。

そして、わずか三百の敗残兵を5万で囲む意味。

やっぱあの青髭王さま怖い!


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第79話 王子と伝説と仕掛けられた罠

 ――それから約一時間後。

 

 ニューカッスル城の一画にある作戦会議室の中で、ある者は怒りに震え、またある者は悔し涙で顔中を濡らしていた。

 

「なんと汚らわしい……忌まわしい! このような非道が許されてよいものか!!」

 

 アルビオンの老王ジェームズ一世は、突如明かされた残酷な事実に打ちひしがれていた。そんな父王を息子であるウェールズ王子が叱咤する。

 

「父上、今は嘆いている場合ではありませぬ。これまでは我らが不徳ゆえに配下の者たちに見限られた、そう考えておりました。ですが、先住の秘宝のせいだとすれば全て納得できます。不可解な離反についても、敵軍の中に妖魔が混じっていることも……兵たちの間でまことしやかに語られていた不気味な『死兵』についても」

 

「誠に失礼ながら、その『死兵』とは一体?」

 

 太公望の問いかけに、侍従長のパリーが答えた。

 

「いくら急所を突いても倒れぬ、文字通りの『死なぬ兵』のことでございます。首を落とすか、火で焼き尽くさねば動きを止めぬため、これまでは『スキルニル』の類ではないかと考えられていたのですが……」

 

「スキルニル?」

 

 初めて聞く単語に首を傾げる生徒たち。小声でタバサが解説する。

 

「大昔に暇を持て余した王族が作り出した魔法人形。血を吸わせた人間の姿と能力を写し取る機能を持つ。ただし魔法の使用は不可能……あくまで、わたしが知る限りでは」

 

 さらに、ウェールズが頷きながら補足する。

 

「スキルニルは、破壊されれば人間から元の姿――つまり、人形に戻る。だが、件の『死兵』は人間の姿を保ったままだった。おまけに、当たり前のように魔法を使ってきた。その謎が解けぬうちに、我らは現在の状況まで追い込まれたというわけだ」

 

「丁寧な説明、痛み入ります。なるほど……それで理解できました。実は、こちらへ出向く前に、かつて王党派に属していたという傭兵たちから話を聞く機会があったのですが、そこでもやはり『死兵』らしきものが噂にのぼっておりました。わたくしも皆さま方と同じくスキルニル、またはガーゴイルの可能性を疑っていたのですが……」

 

 そう言って、太公望はちらりとモンモランシーに視線を向ける。

 

「わ、わたくしも、一緒にその話を聞いていたのですが……あの時はまだアンドバリの指輪のことを思い出すまでには至りませんでした。ですが、先程殿下が貴族派連盟の前で見せつけるように死んでみせると仰ったときに――記憶が繋がったのです」

 

 未だに身体の震えが止まらないモンモランシーの肩に、ギーシュがそっと手を置いた。それで、彼女はわずかながらも落ち着いたらしい。ふっと小さくため息をついた。

 

「だとすると、今我々を取り囲んでいる敵兵たちは、全てその指輪によって操られた死体だというのか……!?」

 

 畏れおののくように声を絞り出した国王へ、ウェールズが首を横に振ってみせた。

 

「いえ、父上。おそらく一部の将兵――それも、ごく少数の貴族のみが死兵化されているものと考えられます。それ以外の者たちは何も知らず、ただ上司に従っているだけのことでしょう。軍人、特にアルビオン人とはそういうものですから」

 

「息子よ、何故そう言い切れるのじゃ?」

 

 ウェールズは机の上にあった紙束を手に取り、それを軽く叩きながら言った。

 

「これまで上がってきた『死兵』に関する報告が極端に少ないからです。そして、実際に目撃された場所はレキシントンでの空軍造反、シティ・オブ・サウスゴータ包囲戦中やロンディニウム防衛戦中に外門が内部から開け放たれた時。ハヴィランド攻城戦の最中に起きた内部蜂起後。そこで死兵化していたのは全て、王家に忠実に仕えてくれていた者たちばかりでした」

 

 会議室に集っていた将兵たちは揃って呻き声を上げた。彼らは思い出していたのだ、全ての始まりを。軍港都市レキシントンが大量の離反者を出したことによって、わずか半日で陥落するという悪夢のような一日から続いてきた、異常ともいうべき毎日を。

 

 それまで共に王家へ忠誠を誓い続けてきた同僚が、友人が、親族たちが杖を向けてきた。彼らのあまりに急な変節に、戸惑う間もなく――いつしか王党派はアルビオン大陸の端まで追い遣られてしまった。

 

 ウェールズは苦々しげに吐き捨てた。

 

「おそらく――ですが。彼らは暗殺されたのです。モンモランシ嬢が語ってくれた、指輪の〝力〟を解放した水を飲ませることで相手の意志を奪うという能力によって。先住の魔力は〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟に一切反応しない。井戸水やエールの樽に指輪の〝力〟が使われていたとしたら――彼らが容易に操られてしまったことは想像に難くありません。その上で、外へ誘い出した獲物を殺害して自分たちの都合良く動く『操り人形』とし、再び元の場所へ戻した。その結果が現在の状況なのだと僕は考えます」

 

 王子の出した結論に、国王はおろか、その場にいた将兵たちの誰一人として反論しようとしなかった。あまりにも心当たりが多すぎたがゆえに。

 

「おお、なんということだ……朕は、朕は、このように残酷な事実など知りたくはなかった! 王家の誇りと名誉を胸に抱き、ただ死んでゆきたかった!!」

 

「我らには栄光ある敗北すら許されないというのですか! 正々堂々討ち死にすることこそ武門の誉れ。それすらも先住の指輪によって汚されるなど、あってはならぬこと!」

 

 老王と年老いた侍従長の叫びに、ウェールズは固く――決意に満ちた声で反論した。

 

「いいや、そんなことはない。我らはまだ名誉と誇りを守れる。例の交易商人たちが運んできてくれた硫黄があるからな。叛徒どもが砲撃によって我らを破壊(・・)することを怖れているということは、これすなわち城に火をかけて自爆すれば……!」

 

 そんな悲壮感に溢れた王子の言葉を遮ったのは、太公望の声であった。

 

「何故、わざわざ死を選ぶ必要があるのです? 王党派には、まだ勝利の目が残されているというのに」

 

 その言葉に、居合わせた将兵たち全員が目を剥いた。そんな馬鹿なことがあるかと声を荒げる者もいたが、どこ吹く風といった様子で受け流し、太公望は発言を続けた。

 

「確かに、わずか三百で五万もの兵を打ち倒せというのは無理があります。ですが、王党派にとって幸いなことに、敵は詰めを誤りました。自らの兵力が強大であるがゆえに、あやつらは到底無視できない損害を――皆さまの行動次第で、致命傷を負うことになるでしょう」

 

 反論しようとした者が大勢いたものの――ウェールズがそれを制した。王子は決して無能な指揮官ではない。ここまでのやりとりによって、既に自分の側にいる少年が非凡な才を持つ者であると理解していた。よって、彼は先を促した。

 

「続けたまえ」

 

 ウェールズの目をまっすぐ見据えながら、太公望は言った。

 

「戦争とは、とかく金がかかるものです。矢弾や装備といった各種物資、兵士たちを養うための水や食料に加え、それらを運ぶための馬や荷車などが必要となるわけですが……はてさて、連中はこれらをいったいどうやって用意しているのでしょう?」

 

「貴族派の者ならば各自持ち寄りか、あるいは……」

 

 と、ようやくウェールズは気がついた。目の前の少年が告げようとしている大変な事実に。王子は腕組みしながら呟いた。

 

「これまでは王党派の拠点を落とし、そこにあった金品を奪うことで、膨れあがる軍事費を賄っていた。だが、今や我らの本拠地はこのニューカッスル城のみ。攻囲戦が長引けば、資金繰りが苦しくなるということか。五万もの兵を率いているとなれば、なおさらだ」

 

 ウェールズの発言に、太公望は頷いた。

 

「叛徒どもが政治的な勝利を得るためには、国民の支持が絶対に必要です。やつらは『聖地奪還』を標榜しております。つまり、民の支持を集めつつ戦争を継続するためには、自分たちが『金持ちで有能』だと世に知らしめる必要があるわけです。よって、物資を徴発するなどもってのほか。正規の料金を支払い、買い求めるしかないのですよ」

 

 将兵のひとりが手を挙げた。

 

「恥知らずの貴族派連盟が、平民たちから略奪することは考えられませぬか?」

 

「いいや、それはないじゃろう」

 

 ここへ来て、なんとアルビオン国王ジェームズ一世が自ら意見を述べた。

 

「略奪を行った土地を治める貴族に反発されるのが目に見えておる。此度の戦によって領地を得んと欲する者ならば、間違いなく止めに入るじゃろう。ただでさえ避難民たちの多くが他国へ流出しているのだ。自分の土地を耕してくれる者たちを、一時の欲によって逃したくはなかろうて。荒れ果てた畑から生み出される物など、何もないのじゃから」

 

「た、確かに……」

 

「ならば、今展開している兵たちは……どうやって養われているのです?」

 

 その問いに、太公望は人の悪い笑みを浮かべた。

 

「それですよ。貴族派はともかく『レコン・キスタ』の者どもが掲げる『国境を越えた優秀な貴族の連盟』という言葉からもわかる通り、連中の全てがアルビオン人で構成されているわけではありませぬ。ほぼ間違いなく、外から支援を受けているはずです」

 

 ウェールズも太公望と全く同意見だと表明した上で、自身の見解を述べた。

 

「外国からの資金や物資の持ち込みには、それなりの手間と時間がかかる。手持ちが心許なくなったからといって、すぐさま用意することなどできない。なればこそ、我らは空賊を装ってまで貴族派連盟の補給路を断つべく行動していたのだ」

 

「そして既に、敵軍の持つ資金はともかく物資のほうは限界に近い」

 

「何故そう言い切れるのかね?」

 

「明日の正午に総攻撃をかけるなどという、見え透いた脅しをかけてきたからですよ。おそらく、これ以上物資を消耗させたくない状況に陥っているのです。そう――つまり! あやつらが兵の展開をやめることができない状態にしてやれば……!」

 

「その方法とは?」

 

「なに、現時点でやつらが最も嫌がることをしてやればよいのです」

 

「……具体的には?」

 

「貴族派連盟――いや、オリヴァー・クロムウェルは、王党派の皆さまが真正面から(・・・・・)名誉ある戦い(・・・・・・)を仕掛けて来ることを願っているのです。つまり、その逆。全員揃って、秘密の地下港から逃げればよいのですよ」

 

 会議室が、しんと静まり返った。全員がぽかんとした表情を見せている。開いた口が塞がらないといった一同に、太公望は畳み掛けるように説明を続けた。

 

「当初は――不敬な発言を何卒お許しください――陛下と殿下の遺体を回収し〝固定化〟によって保存した上で血液を採取し、スキルニルへ植え付けることがやつらの狙いだと考えておりました。お二方がご存命の場合は魔法薬や〝制約(ギアス)〟でもって心を縛ることすらありうると」

 

 太公望の発言に、静寂を保っていた会議室内がどよめいた。

 

「なんと悪辣な!」

 

「おぞましいことを考えるな……」

 

「しかし、奴らならやりかねんぞ」

 

「申し訳ございません。そのため、皆さまが決して逃げ出さぬよう岬の先端で孤立させ、精神的な追い込みをかけているのだという考えに至った訳ですが……」

 

「先ほどウェールズが申していた件だな?」

 

 白の王の疑問に、太公望は淀みなく答える。

 

「はい。先ほどウェールズ殿下からご説明がありました通り、陸軍三千で封鎖できる城を五万で取り囲む必要などありませぬ。そのため、わたくしは現時点で敵が仕掛けてきているのは心理戦……王党派の皆様方を、自分たちの都合の良いように動かそうとしていると判断した次第です」

 

「ふむ」

 

「あらゆる逃げ道を塞ぎ、陛下と殿下の身柄を確保する。それが貴族派連盟の狙いであることは、ほぼ間違いありませぬ。例の指輪のようなものがあるとなればなおさらかと。しかも、うまくやれば旧王家に忠実な『死兵』を三百も手にすることができる。対外的にも、内政的な面においても、そのほうが都合がよいでしょうな」

 

 ガタンと音を立てて椅子から立ち上がったウェールズが、叫んだ。

 

「そうか! それこそが君が言っていた『王党派に仕掛けられた罠』なのか! 数々の裏切りによって我らの心を徹底的に疲弊させ、圧倒的な戦力をもって威圧することで最後の拠り所である名誉と誇りに縋らせ……逃げるという『道』を断つことが!」

 

 それまで大人しく話を聞いていた水精霊団の生徒たちが、義憤の声をあげた。

 

「なんて汚い連中なの! 貴族の名誉と誇りをそんなふうに利用するだなんて!!」

 

「恥知らずにも程がある!!」

 

「追い込みかけて、玉砕誘うとか……いくらなんでもエグすぎだろ」

 

「悪趣味」

 

「こんなの、生命への冒とくよ!」

 

「これが、貴族派連盟が並べ立ててる『正義』? 笑う気にもなれないわ」

 

「まったくだよ。いくら戦争でも、やっていいことと悪いことがある」

 

 戦争というものの裏を知り尽くしているコルベールは何も言わなかった。だが、その表情は固く、唇は強く噛み締められていた。

 

 集まった将兵たちの顔も、赤と青を行ったり来たりしている。それも当然だろう、自分たちの名誉と誇りを罠にかけるための餌にされていたと言われてしまったのだから。そこへ、太公望がさらなる追い打ちをかける。

 

「貴族派連盟側は、間違っても王党派の皆さまを逃すわけにはいかないのですよ。そうなったが最後、金食い虫である兵を食わせ続けねばならなくなりますからな。いつ敵が戻ってくるかわからない、しかも新たな軍勢を伴ってくる可能性すらあるわけですから」

 

 太公望は身振り手振りを加えながら、熱心な声で続けた。

 

「だからこそ、皆さま方を大陸の先端へ追い込み、五万もの兵で周囲を見張らせ、巨大戦艦で空を封鎖しているのです。こちらへ伺う前に、殿下はわたくしたちにこう仰いました。『王軍旗を掲げてはすぐさま敵のフネに取り囲まれる』と」

 

 ウェールズは唸った。

 

「ああ、確かに言った。なるほど、空軍を回せないのは全ての港町を監視し、我らが避難船によって逃げ出すことを防ぐ意味合いもあったのだな……もっとも、叛徒どもは『イーグル』号と我らが秘密の港については全く気付いていないようだが」

 

 太公望は頷いた。

 

「フクロウの中継所が全て抑えられているのも、同様の理由からだと思われます。王党派に対し、外からの支援者が現れることを畏れているのでしょう。この城の地下に逃げ道があることを知らぬからこそ、徹底的に情報伝達の手段を断ってきたのです」

 

「しかし、王軍が逃げたとなれば、あの者どもは……!」

 

 将兵のひとりが放った言葉を、しかしジェームズ一世が遮った。

 

「いいや、逃げられたなどとは間違っても言えまいて」

 

 全員の視線が老いた国王に向いた。王は……なんと、くつくつと笑っていた。

 

「どこにも行き場がない岬の突端にある城を五万もの兵に見張らせていただけではない! 上空から『ロイヤル・ソヴリン』号で完全封鎖していた。にも関わらず、我らを取り逃がしたなどと世間に伝わったらどうなるか!」

 

 ウェールズが、この部屋に来てから初めて笑みを浮かべた。

 

「間違いなく、連中は能力を疑われますな!」

 

 王子の言葉に、太公望が実に悪い笑みを見せながら追従した。

 

「その程度のことすらできない者に、聖地奪還が可能だと思えますか?」

 

 パリーがにっこりと笑った。

 

「到底無理でしょうな。貴族議会の運営すら不可能では? このていたらくでは、外国の貴族からの支援も打ち切られるやもしれませぬ」

 

 将兵たちも、笑っていた。

 

「五万の兵士全員に、口止めをすることができると思うか?」

 

「たとえ先住魔法を使ったとしても、難しいだろうな」

 

 そこにいた全員が、にやにやと笑っている。

 

 彼らはついに気が付いたのだ。自分たちがただ逃げるだけで、貴族派連盟に与えることのできる損害の大きさに。馬鹿正直に真正面から戦うよりも、相手が失う物は多いのだと。

 

 ウェールズは将兵たちを見遣りながら言った。

 

「戦いが終わったから、その場で軍を解散――と、いうわけにはいかない。目標が忽然と消えたとなれば、なおさらだ。全く気を緩めることができなくなった叛徒どもは、空の上で停滞し――金品や物資を消耗してゆくことになるだろう。そればかりか、ここまで破竹の勢いで勝ち続けることによって得た名声や信用にも大きなヒビが入る」

 

 そこへジェームズ一世が補足した。

 

「かといって、接収した領地から略奪を行うような真似をすればどうなるか。先程朕が述べたように民心を失い、それが新たな叛乱の口火となって、貴族派連盟そのものが瓦解する可能性すらあるじゃろう」

 

 会議室に詰めていた将兵たちがざわめく。

 

 これは敵の連携に楔を打ち込む絶妙な一手だ。しかも、敵・味方共に傷つく者は最小限で済む。何も知らずに『死兵』の元で働いている兵士たちが真実を知れば、揃って自分たちの側についてくれる公算が高い。

 

 それどころか『指輪』の情報を上手く使うことができれば、全世界を味方につけることすらできるかもしれない。この場に集う将兵たちの顔には、もはや諦観の色はない。代わりに彼らの瞳には未来への希望が宿っていた。

 

「問題は撤退する場所についてだが……」

 

「それについては、わたくしどもにいくつか心当たりがございますれば」

 

 そう言うと、太公望はキュルケに視線を投げた。彼女はそれを見て一瞬驚いたようだが、すぐさまにっこりと微笑むと、優雅にお辞儀した。特徴的な赤い髪に小麦色の肌。典型的なゲルマニア人の容貌を持つ少女を見た将兵たちは、逃亡先は十中八九ゲルマニアであると推測した。

 

 ジェームズ一世は会議を締めるために椅子から立ち上がろうとしたが、長い療養生活と老齢による衰えで足元がふらつき、倒れそうになった。しかしそんな父王を、側にいたウェールズがしっかりと支える。

 

 ふたりの姿を見た将兵たちは、軽口を叩いた。

 

「陛下! お倒れになるのはまだ早いですぞ!」

 

「そうですとも! 再びアルビオンへ戻ってくるその日までお立ちになっていてもらわねば、我々が困る!」

 

 ジェームズ一世は、そんな部下たちの言葉に気分を害した風もなく、にかっと人懐っこい笑みを浮かべた。先程まで彼の顔に表れていた悲嘆の色は最早欠片も無くなっていた。

 

「なに。座っていて、ちと足が痺れただけじゃ」

 

 国王はこほんと軽く咳をすると、居並ぶ一同が一斉に直立した。

 

「諸君。忠勇なる臣下の諸君に告げる。今ここに、新たな『道』が開かれた。朕は、たとえ国と民を捨て、異国へ逃げた恥知らずな王と罵倒されてもよい。『始祖』の怒りをこの身に受けることも厭わぬ。諸君が叛徒どもの手にかかり、名誉と誇りのみならず、魂までをも汚される姿など見とうはない! そのような世界で、生きる意志もない!!」

 

 ジェームズ一世は声の限りに叫んだ。

 

「よって、皆の者。朕を腰抜けと罵ってくれてもかまわぬ。どうか、共に逃げてくれ! いつの日か必ずこの地へ舞い戻り……雪辱を果たさんが為に!!」

 

 ひとりの将兵が大声で王に告げた。

 

「陛下! 我らは陛下の命令とあらば、死すら厭いませぬ。共に戦えとのご下命に、否のあろうはずがございませぬ!」

 

「腰抜けですと? 言いたい者には言わせておけばいいのです。戦略的撤退は立派な作戦のひとつですからな!」

 

「左様。それに『始祖』がお怒りになることなど、あろうはずがない! 『王権』を護るは王家の――そして我ら貴族に科せられた、高潔なる使命なのですから!」

 

 居並ぶ将兵たちはみな一様に頷き――杖を高く掲げた。

 

「我らは、ただひとつの命令をお待ちしております。『全軍、新たな道を征け!』」

 

「我ら一同、それ以外の命など、耳に届きませぬ!」

 

 そして彼らは、声高らかに唱和した。

 

「国王陛下、万歳!」

 

「皇太子殿下、万歳!」

 

「テューダー王家に、栄光あれ!」

 

 将兵全員の唱和に老王は思わず溢れ出た涙を拭うと、杖を天高く掲げ、命を下した。

 

「されば全軍、朕に続け! あの恥知らずな叛徒どものことだ。約束の刻限を破り、夜が明けてすぐに総攻撃を仕掛けてこぬとも限らぬ。皆早急に、忌まわしき〝力〟に覆われたこの大陸を離れようぞ!」

 

 ――こうして、彼らの『戦略的撤退』は始まった。

 

 

○●○●○●○●

 

「慌てるな、まだ時間には余裕がある。落ち着いて行動するのだ!」

 

「避難民たちに、食料と金貨を配れ! 彼らを食うに困らせてはならぬ!」

 

「金目の物は何一つ残すな! 全て外へ運び出せ! どうしてもフネに載せきれなければ、地下の穴から空へ捨てても構わん!」

 

 宵闇に包まれた城内で、粛々と撤退作業が行われていた。

 

 当初は王や将兵たちの変心に眉を顰めた者たちも、詳しく事情を聞かされるに至って、静かに王命に従った。彼らもまた現状に疑いを持っていたのだった。

 

 死体となって操られ、全てを汚されるか。生き延びて再起を図るか。答えはすぐに出た。

 

 明日の朝一番に城を脱出する手はずになっていた兵士の家族や従者たちは、涙を流して喜んだ。外面では貴族の誇りがどうのと謳ってはいても、やはり大切な身内や長年仕えてきた主人の命が助かると知れば、手放しで歓迎するのが人情というものだ。

 

 ニューカッスル城周辺が攻囲されるにあたり、住んでいた土地を追われ、城内へ逃げ込んでいた近隣の平民たちもまた安堵していた。彼らは彼らなりに、本気で国王や王子、城に残る貴族たちの行く末に心を痛めていたのだ。

 

「王さまや、このお城にいる貴族さま方は、俺たちを邪魔者扱いしなかったよな」

 

「ああ。のぶ……なんとかっつうやつでな」

 

「ノブレス・オブリージュだよ。高貴なる者の義務だとか何とか王子さまは仰ってただ」

 

「私たちも魔法で家を焼かれて途方に暮れていた時に、この城へ入れてもらえたの。自分たちだってろくに食べてないだろうに、嫌な顔ひとつしないで食料をわけてくれたわ」

 

「儂の孫娘は、レコン何とか言う奴らに酷い目に遭いそうだったところを助けてもらった。生粋のアルビオン貴族なら、間違ってもそんな真似はしねえ」

 

「ああ、空で生きる者としての誇りがあるからな。だからこの城にいるのが正真正銘、本物のアルビオン王と貴族さまだ」

 

「そうとも、そうとも!」

 

「それに比べて、この城を囲んでいる連中ときたら……!」

 

「ああ。何が『聖地奪還』だ! 『共和制』だ! そっただもんと、おらたちの家や畑を焼くことに何の関係があるってんだ!」

 

「その通りさね。結局のところ、あんなにお優しい王さまたちを押しのけて、自分たちが後釜に座りたいだけじゃないのよ!」

 

「まったくだ」

 

「俺はあんな欲の皮の突っ張った奴らよりも、王さまたちに協力する」

 

「おらもだ!」

 

「あたしも」

 

「儂もやるぞ」

 

 こうして彼らは自ら進んで荷運びの列に加わり――いつしか、城内には貴賤を問わず、強い連帯感が生まれていた。

 

 水精霊団の一同もまた、揃って撤退作業の手伝いをしていた。

 

 撤収作業中に起こるであろう騒音を、どのようにして隠蔽するかについて話し合っていた時に出たタバサの、

 

「床。〝消音(サイレント)〟」

 

 という呟きを耳にしたウェールズは、即座にそれの意味することを理解し――風メイジたちへ避難路に〝消音空間〟を創り出すことを命じた。これは北花壇騎士として裏側の仕事に従事するタバサならではの発想で、普通の貴族にはなかなか思いつかないことなのだ。

 

 土メイジたちは作業用のゴーレムを錬成し、宝物庫から次々と金貨や宝石が詰まった樽や、王家伝来の宝物を運び出していた。ギーシュは七体の『ワルキューレ』でもって、その列に加わり……城兵たちから称賛の声を受けた。

 

「応用訓練の『畑作り』で培った技術が、こんなところで役に立つとはね……」

 

 などと、ギーシュは奇妙な感慨に浸っていた。

 

「そこは段差になっています。足元に気をつけて」

 

「港はそちらの角を曲がった先ですぞ」

 

「そこのあなた! そっちじゃないわよ。魔法の光を目印にして進んでね」

 

 荷運びの列や避難民たちを誘導する役目を負ったのは火メイジたちだ。彼らは〝光源〟の魔法を用いて曲がり角や段差のある場所を指示し、混乱を未然に防いだ。コルベール、キュルケ、レイナールはここに配置され、光によって人々を地下へ導いた。

 

「これが、今のわたしにできる戦い方よ。女にだって、やれることがあるんだから!」

 

 水メイジたちは怪我をして動けない者たちの〝治癒〟や運搬を主に動いていた。昼間の事件で精神力を消耗していたモンモランシーは看護士補佐として、秘薬を用いた治療の手伝いに、忙しく立ち働いていた。

 

 そして、才人はというと。

 

「ほんとにいいのかなあ。みんな働いてんのに、俺だけが寝てるなんてさ」

 

 才人のすぐ隣のハンモック上で横になっていた水兵が、笑いながら言った。

 

「休むのも仕事のうちだぜ、ボウズ。俺たちが忙しくなるのは、この後なんだからな」

 

「はぁ。そういうもんすか」

 

 なんとアルビオン離脱後に『イーグル』号の操舵士交代員となるべく、控え室で休養を取らされていた。

 

 初めて乗った軍艦の仕組みを即座に理解したばかりか、完全に無風状態だったとはいえ、たったひとりで安定させた才人の手腕を、ウェールズや彼に同行していた水兵たちがしっかりと覚えていたからだ。複数のフネで逃亡するにあたり、腕の良い操舵士がひとりでも多く欲しかった彼らにとって、それは当然の帰結であった。

 

「うぬぬぬぬ、空の上へ来てまで書類仕事とは。菓子だけでは割に合わんわ!」

 

「何か言ったかね?」

 

「いえ、別に。陛下、こちらの内容で問題ございませぬか?」

 

「うむ。いやしかし、その若さでたいしたものだな。トリステインが羨ましいわ」

 

「過分な御言葉、恐悦至極に存じます」

 

 太公望は、船長室の中で大量の書類作製に追われていた。これまでの経緯をまとめ、避難先に寸分漏らさず連絡する必要があるからだ。なお、これらは全てジェームズ一世の目前で行われた。国王の承認を得るための手続きを、できる限り簡略化するために。

 

 以前、タバサの部屋で行われた『高速筆記』を見せつけられた老王とパリーは最初のうちこそ目を白黒させていたが――すぐさま本分に立ち返り、自分たちのなすべき仕事に取りかかった。船長室はさながら王の執務室のようであった。

 

 そんな中。ルイズは、ひとりあてがわれた船室の中で『瞑想』を行っていた。

 

 覚えたばかりの〝光源〟で、火メイジたちの手伝いをしようと張り切っていた彼女を太公望が引き留めた。当然ルイズは反発したのだが――。

 

「おぬしには、より大きな仕事を手伝ってもらいたいのだ。それも、大幅に〝精神力〟を消耗するような役目をな」

 

 耳元で、そう太公望に囁かれたルイズは、それだけでぴんと来た。多くの〝精神力〟を使う――つまり、自分の〝虚無〟が求められているのだと。

 

「ここへ着いてすぐにわかったことなのだがな、このアルビオン大陸は大地そのものが巨大な〝霊穴〟(パワースポット)なのだ。つまり『瞑想』の効果を最大限に発揮できる。可能な限り〝力〟を溜めておいてくれ」

 

「わかったわ!」

 

「頼んだぞ。これはおぬしにしか任せられない、本当に重要な仕事なのだ」

 

 ルイズは真剣な面持ちで頷くと、部屋に籠もった。

 

 

 ――そして、夜が明ける一時間ほど前。

 

 地下港が貴族派連盟に発見されぬよう、洞窟の入り口に厳重な封印を施す作業をするために残っていた土メイジたちを載せ終えたフネは、無事大空へ飛び立っていた。

 

 大陸下の空間を抜けた船団は、それぞれが目的地への航路上を運行していた。

 

 『マリー・ガラント』号を先頭とする船団は、派遣されてきた王立空軍の航海士の案内により、中立航路へ向けて海岸線の側を縫うように進んでいた。

 

 この一団には避難民と彼らに紛れた情報斥候――兵士たちの中で、特に選ばれた者たちが乗り込んでいる。彼らはラ・ロシェール到着後に再びロサイス経由でアルビオン大陸へ上陸すべく、準備を進めていた。アルビオンへ舞い戻り、貴族派連盟の情報を集めることこそが彼らに課せられた使命だ。

 

「いやあ、まさかここまで貰えるたぁな。これでしばらく楽ができるってもんだ!」

 

「船長、いいんですかい? 俺たちまで、こんなに……」

 

「当たり前だ。どうしてなのかは、もちろんわかってるよな?」

 

「へい、承知してます」

 

「それならいいんだ。お得意さまの秘密をぺらぺら喋るなんざ、商人……いやさ、空の男としてあるまじきことだからな!」

 

 約束されていた三倍額の金貨だけでなく多額の運搬費用を得て、さらにフネまで手元に残してもらえた『マリー・ガラント』号の船長と乗組員たちは、笑み崩れる顔を支えるだけで精一杯といった体であった。

 

 彼らは、もはや完全に王党派のシンパと化していた。少なくとも、船長やその部下たちの口から地下港の情報が漏れることはないだろう。

 

 『イーグル』号を先頭とする二艘のフネは、アルビオン大陸の遙か上空五千メイルの空を目的地へ向かって航行していた。この高みにまで至れるのはアルビオン製の頑健なフネならではだ。

 

 こちら側には水精霊団一行とふたりの王族、そして兵士とその家族たちが集っていた。彼らは雲と空の中――風に嬲られながら、遠ざかるアルビオン大陸を見つめていた。全員が、それぞれの想いを心に抱いて。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――出航後、数時間が経過した頃。

 

 朝焼けの中、ひとり操舵輪を握っていた才人は、ふいに後ろから声をかけられた。

 

「その若さで見事な操船だ。我がアルビオン空軍に来て欲しいくらいだよ」

 

 声をかけてきたのは、ウェールズだった。口から覗く白い歯が輝いている。

 

「でも俺、魔法使えませんよ?」

 

「フネの操舵に魔法の腕は関係ないよ。我が王立空軍では実力さえあれば、たとえ平民でも士官になれる。君ほどの操舵技術持ちなら、佐官も夢ではないだろう」

 

 この王子さまは、いいひとだと才人は思った。召喚当初のような差別は受けなくなっていたものの、この世界の『メイジ至上主義』に正直なところ辟易していた彼は、ウェールズの賛辞が素直に嬉しかった。こんなにいいひとが、あんな嫌な奴らの手にかかって死ななくて本当によかったと、心の底から感じた。

 

「あの、休まなくていいんですか? 王子さま、ずっと起きてるじゃないですか」

 

「僕の身体を気遣ってくれるのか! 君は優しい少年だな。大丈夫だよ、さきほど少し仮眠を取ったからね」

 

 そのまま、しばし無言で操舵を続けていた才人であったが……ふいに口を開いた。彼は、どうしても王子に聞いてみたいことがあったのだ。ニューカッスル城に到着したときに見た信じがたい光景が、強く脳裏に焼き付いていたがゆえに。

 

「その、失礼ですけど……王子さまは、怖くなかったんですか?」

 

「怖い? 何がだね?」

 

 ウェールズはきょとんとした表情で、才人を見つめた。

 

「洞くつの中で、お城のひとたちと一緒に笑ってたじゃないですか。どうして、あんなふうに笑えたんですか? 死ななきゃならない戦いの前に笑うなんて、俺なら無理です。怖くてできません」

 

 才人の言葉に、ウェールズは笑った。

 

「死が怖くない人間なんているわけがない。王族も、貴族も、平民も、それはみな同じだろう」

 

「じゃあ、どうして?」

 

「守るべきものがあるからだ。その大きさが、死の恐怖を忘れさせてくれるのだ」

 

「何を守るんですか? 名誉? 誇り? そんなもののために死ぬなんて馬鹿げてる。そのせいでみんな罠に嵌められてたじゃないですか!」

 

 語気を強めた才人に、ウェールズは思わず苦笑した。

 

「まあ、その通りだな。実際、怖ろしい罠だったよ。負けは確実。だが、せめて勇気と名誉とはいかなるものかを『レコン・キスタ』の者どもに見せつけ、ハルケギニアの三王家は決して弱敵などではないのだと思い知らせる。それが、内憂を払えず滅び行く我らに残された最後の義務なのだと――そう、考えていた。あの時まではね」

 

「義務だけで、死のうとしてたっていうんですか……?」

 

 しかしウェールズはそれに答えず、逆に才人へ聞いた。

 

「君には、命を賭して守りたいと思うものはないのかね?」

 

「俺ですか? 俺は……」

 

 半年前の才人なら、そんなものはないと答えていたかもしれない。だが、今の彼の脳裏にはくっきりとそれが浮かび上がっていた。わがままで、プライドが高くて。自信と勇気に満ちあふれているようで、本当は臆病な面もあった――小さな女の子の姿が。

 

「どうやら、あるようだね」

 

「それは……ッ」

 

 ウェールズは周囲を見遣り、すぐ近くに誰もいないことを確認すると――才人だけにしか聞こえないよう小さな声で言った。

 

「結局はそういうことだったのだ。だからこそ、僕たちは彼の策にあっさりと乗せられてしまったわけだ」

 

「策って、まさか」

 

「そのまさか、さ。玉砕するよりもずっと良い方法があると知ったとき……僕はその提案に縋ってしまったのだよ。そうすれば、守り続けることができるからね。たとえ、僕の手の届かないところへ行ってしまうのだとしても」

 

 そこまで言ったウェールズは、口の前で指を一本立てた。

 

「おっと、これは内密に頼むよ。空軍総司令ともあろう者がこんなことを言っていたと知れれば、全軍の士気に関わる」

 

 才人ははっとした。

 

(王子さまは密書を読んでお姫さまが結婚するって知ったとき、顔色を変えてなかったか? 宝箱に描かれていたのは、お姫さまの顔じゃなかったか? あの手紙は何回も読み返されて、ぼろぼろだった。つまり……)

 

 いくら普段はヌケているだの、ニブいと言われる才人でも気が付いた。ウェールズが、最後まで本当に守り抜きたかったものとは――アンリエッタ姫のことだったのだと。

 

 彼と運命を共にしようとしていた兵士たちが守りたかったのも――きっと家族や恋人、そして親しい友人たちだったのだろう。

 

 これまで才人はさんざん聞かされてきた。アルビオンが陥ちたら、その次に狙われるのは、ほぼ間違いなくトリステインだと。トリステインは弱国で、一国では到底『レコン・キスタ』には対抗できない。そのために、隣国との同盟が絶対に必要なのだと。

 

 本来であれば――兵士たちの家族は全員『イーグル』号に乗り、トリステインへ逃れることになっていたのだと教えられていた才人は、ようやく腑に落ちた。彼らは、自分の大切な者たちを守るため、最後にトリステインの盾になろうとしていたのだ。

 

「あの席では、ああ言ったが……実際に『レコン・キスタ』が瓦解する可能性は低いだろう。もちろん、金銭的に大きな損害を与えられることは確かだし、最低でもトリステインがゲルマニアと軍事防衛同盟を組むまでの時間稼ぎくらいはできそうだが」

 

 才人にはわからなかった。ウェールズ王子には心から愛しているひとがいる。けれど、そのひとはもうすぐ結婚して、遠くへ行ってしまう。そんな相手を命を賭してまで守ろうという、その想いが彼には理解できなかった。

 

「なんで!? もう、手が届かなくなるんでしょう? だったら、どうして……」

 

 死ぬ覚悟ができたのか。才人がそう言うと、ウェールズは寂しそうに微笑んだ。

 

「したことに対する見返りを期待するのは、真実の愛と呼べるのかね?」

 

 王子の言葉を受けた才人は、鈍器で脳天を殴られたような衝撃を受けた。自分は、果たしてどうだったろう。期待してはいなかったか? 守り続けることで、振り向いて欲しい。これだけ頑張っているんだから、俺のことを好きになって当たり前。頭の片隅で、そんな風に思ってはいなかっただろうか?

 

(そうだ、俺は間違いなく待っているんだ。あいつの方から手を伸ばしてくれるのを。自分から告白する勇気がない、意気地無しだから……)

 

 そんな邪なルイズへの想いと、自分の身の安全とを天秤にかけてしまったからこそ――あのとき矢弾に晒されたあいつの前に、飛び出せなかったんじゃないか?

 

 操舵輪を握る手が、かすかに震える。そんな才人に、ウェールズは告げた。

 

「いま僕が言ったことは、アンリエッタに告げないでくれたまえ。彼女は、輿入れ前の大切な身体だ。いらぬ心労は美貌を損なう原因となるからね」

 

 それを聞いた才人は、さらなる衝撃を受けた。

 

「まさか……会わないつもりなんですか!?」

 

「当然だ。僕が生きていることすら、アンリエッタには報せないほうがいい」

 

 そう告げたウェールズの顔には、苦悩がありありと浮かんでいた。

 

「やっぱりそうなんですね? お姫さまも、王子さまのことが好きなんだ。あの手紙はラブレターなんでしょう? だからあんなに大切にしてたんだ。なら、どうして? 会うくらい、別にいいじゃないですか。せっかく生き延びたのに」

 

 才人の言葉に、ウェールズの表情がわずかに緩んだ。まっすぐに自分を見据えてくる少年の心に打たれた王子は――それまで、ずっと隠し続けてきた本音を晒した。

 

「そんなことをしたら、彼女は……僕の可愛い従姉妹姫は間違いなく揺らぐ。もしかすると、一緒に逃げてくれなどと言い出すかもしれない。そして、もしもそう言われてしまったら、僕は、一度逃げ出してしまった僕は……自分を抑える自信がない」

 

「別にいいじゃないですか、逃げても……!」

 

「駄目だ。そんな真似をしたら、トリステインは文字通り破滅だ。軍事同盟締結どころか、ゲルマニアから攻め入られるやもしれぬ。そうなれば数千……いや、数万もの民の命が失われることになるだろう。君たちだって、無事では済まない」

 

 現代日本に生まれ、ごくごく平凡な人生を送ってきた才人にとって、ウェールズが語ることは理解の範囲外にあった。たったふたりの男女が逃げ出したくらいで戦争になるなんて、全く意味がわからない。そう言い募る才人に、ウェールズは諭すように告げた。

 

「それが王族というものが背負う〝力〟と責任なのだ。我らの一挙一動で大勢の民が生き、あるいは死ぬ。僕は、亡国の王子だ。もう、アンリエッタの盾になることはできない。その資格もない。彼女を本当に守れるのは、今やゲルマニアの皇帝だけなのだ」

 

「そんなこと……!」

 

「愛するがゆえに、身を引かねばならぬこともあるのだよ」

 

 才人は口ごもった。どうやら、王子の決意は並々ならぬものがあるようだ。自分では、どうあっても説得できそうにない。完全に黙り込んでしまった才人の目をまっすぐに見つめながら、ウェールズは言った。

 

「もう一度言う。これは絶対にアンリエッタには告げないでくれたまえ」

 

 才人は、ただ黙って頷いた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その日の正午。

 

 ニューカッスル城に貴族派連盟の軍勢が押し寄せた。だが、岬の突端にある城からは一切の反撃が行われなかった。

 

 密集陣形を取っていた先陣の指揮官は当然それを疑問に思った。砲台の裏には、確かに人影らしきものが見える。だが、いっこうに撃ってくる様子がない。もちろん、攻撃など受けないことに越したことはないので、彼らはそのまま、まっすぐに城門前へと突撃し――攻城梯子をかけ、城壁をよじ登った。

 

 そこにあったものは。なんと、貴族の服を着せられた案山子(かかし)であった。

 

 城内へ侵入した彼らは、さらに驚くべき光景を目にすることになった。内部は完全にもぬけの殻――人っ子一人いない、空城と化していたのだ。

 

 報告を受けた貴族派連盟総軍司令官――サー・ジョンストンは、最初、それを何かの冗談だと思った。貴族議会議員でもある彼は生粋の政治家であり、これまで指揮を執ったことなどない。

 

 今日はクロムウェルに気に入られている彼が、最終決戦の指揮をしたという箔付けのために、お飾りの総軍指令として出陣させてもらえたに過ぎない。

 

 部下たちからの再三の説得により『レキシントン』号から降り、恐る恐る城内へ足を踏み入れたサー・ジョンストンは、それを見て絶句した後――激怒した。

 

 彼が目にしたものとは。宝物庫の中央に堆く積み上げられた、硫黄入りの樽と。

 

『風は遍在する』

 

 と書かれた一枚の羊皮紙だった。

 

 

 




筆者の目線で双方の人員に最も損害を与えず、最大限のダメージを与えるとしたらどうするか。それを考えた結果がこうなりました。

戦略で派手に負けていたから、戦術でひっくり返してみた次第。ガチバトルを期待していた皆様、申し訳ありません!

でも、こういうほうが太公望らしいかな、なんて……。


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第80話 其処に顕在せし罪と罰

 ――サー・ジョンストンがニューカッスル城の宝物庫前で、憤怒のあまり口から泡を飛ばしまくっていたのと、ちょうど同じ頃。

 

 アルビオンから遠く離れた空の上、高度八千メイルの位置に停泊した『イーグル』号の甲板から、箒ではなくデッキブラシに――艦内には箒に近いものがそれしかなかったので――腰掛けたルイズが、天駆ける流星の如く大地へ向けて飛び立った。肩に、その小さな身体には不釣り合いとしか思えない、大振りの書類鞄をぶら下げて。

 

 太公望からルイズへ与えられた任務とは、領内の誰にも姿を見られることなく、彼女の父であるラ・ヴァリエール公爵へ、アルビオン国王からの親書と太公望が纏め上げた状況報告書を手渡すことだった。

 

 任務の内容を詳しく聞いたとき、ルイズは少なからず驚いた。

 

「父さまに書類を届けるって……わたし、王党派の行き先はゲルマニアだと思ってたのに」

 

「かかかか、そう思わせるのが狙いだったのだよ。逃げ出す前に本当の避難先を報せてしまっては、どこかから情報が漏れる可能性があるからのう。わざわざ貴族派連盟の者どもに付け入る隙を与える道理はあるまい?」

 

 そのために、あのときわざとらしくキュルケへ視線を投げたのだ。そう教えられたルイズは完全に引っかけられたことをちょっぴり悔しく感じたのと同時に、嬉しく思った。それだけヴァリエール家が信頼されているということなのだから。

 

 しかも――だ。あんな手酷い失敗をした自分が、こんな大切な役目を任せてもらえる。信じてもらえている。その事実がルイズを奮い立たせていた。

 

 

 ――今から、数時間前のこと。

 

 ルイズは内心で怯えながら太公望に確認を取っていた。

 

「確かに、わたしにしかできないことかもしれないけど……こんな大切な仕事、わたしなんかに任せて本当にいいの?」

 

 だが。戻ってきた答えは、彼女にとって思いも寄らないものだった。

 

「おぬしなら必ずできると確信しているからこそ頼んでおるのだ」

 

「で、でも、わたし、いつも失敗ばっかりで……アルビオンへ来ることになったのだって、元はといえば、わたしがろくに考えもしないで動いたせいだもん」

 

 しゅんとして俯いたルイズへ、太公望は柔らかい声音でもってこう言った。

 

「おぬしはこれまで、どんなに失敗しても、決してくじけなかったであろう?」

 

 ルイズの身体が、ピクリと動いた。

 

「何度魔法を失敗しても、ぼろぼろになっても諦めなかった。フーケのゴーレムが現れたときも、ほとんどの貴族たちが怯え、隠れていたにも関わらず、おぬしは飛び出していった。己の力量をきちんとわきまえとらんかったのは確かにいかんかったが、自分なりに何とかしようと努力したことについては評価できる。これは、おぬしが持つ最大の美点だ」

 

 太公望の言葉に、ルイズは小さく首を振った。

 

「そんなことない。だって、わたし……逃げたもの」

 

「なぬ? もしやおぬし、王子に亡命するよう説得するために、わしへ話を振ったことを逃げたなどと言っておるのか?」

 

 ルイズは思わず目を見開いた。

 

「全部わかってて……それで王子さまのこと、助けてくれたの!?」

 

 しかし、その問いに太公望は頷かなかった。代わりに彼は、ふうとため息をついた。

 

「あのときはわからなかったが、返却された手紙の内容を確認してようやく理解できた。おそらくだが、例の密書のほうに亡命を勧める文章が記されておったのだろう。姫君は手紙の奪還にかこつけて、想い人を救い出そうとしていたのだ」

 

「じゃあ、あれってやっぱり恋文だったのね……」

 

「おぬしな! わかっとったなら、もっと早く教えんかい!」

 

 くわっと目を剥いた太公望を見て、ルイズは思わず首をすくめた。

 

「し、知ってたわけじゃないわ! わ、わたしも、ウェールズ殿下にお会いするまでは全然気がつかなくて」

 

「まあ、それはともかくだ。おぬしは別に、責任を放棄して逃げたわけではない。自分よりも上手く説得できそうな相手に仕事を振ったのだ。結果として、その試みは成功しておる。何ら恥じることなどないであろうが。胸を張ってよいのだぞ? おぬしの的確な判断によって、避難民を含む千余名の命が救われたのだから」

 

 しかし、そこまで言われてもなおルイズは顔を上げようとしない。

 

「もしかすると、そうなのかも、しれない、けど」

 

「けど?」

 

「ミスタに声をかけたのは、また失敗したらどうしようって、怖かったからで」

 

 なるほど……と、太公望は思った。以前からなんとなく察してはいたが、ルイズを常に前へ前へと突き動かしているものの正体は、やはり勇気ではなく恐怖なのだと悟った。

 

 これまで、メイジとして『あたりまえ』のことができなかった。そのために、周囲から見捨てられるかもしれないという畏れ。それが、時に無謀としか思えない暴走を引き起こしていたのだと。〝念力〟を習得して以降、徐々に落ち着いてきていたのがその証拠だ。

 

「ルイズよ。失敗を怖がるのはな、決して悪いことでも、恥ずかしいことでもないのだ」

 

「え……?」

 

「そもそも『失敗を怖がるな』という台詞は、それが致命傷にならず、後に経験として生かすことができる場合にのみ使うものなのだ。たとえば、前に授業で赤土先生が〝錬金〟の魔法をおぬしにやらせようとした時に、こう言ったな。『失敗を怖がっていては、何もできませんよ』と」

 

(そういえば、そんなことがあったわね……)

 

 と、ルイズは過去の出来事を思い起こした。

 

「あれはな、魔法が失敗したところで悪いことなど何も起きないと確信していたからこそ言えた台詞なのだ。実際には石ころが爆発して大騒ぎになったわけだが――」

 

「い、い、いまここで、そそ、そんなこと蒸し返さなくても……!」

 

 真っ赤になって抗議するルイズを制し、太公望は続けた。

 

「しかしな、世の中には本当に取り返しのつかない過ちというものが存在するのだ」

 

「今回、わたしが受けた任務みたいな?」

 

「そうだのう。これも出立前の夜に説明した通り、もしも失敗していたらトリステインが火の海になっていたかもしれぬな」

 

 これを聞いて首を竦めたルイズの姿を見ていた太公望の脳裏には、かつて自分がしてしまった取り返しのつかない過ちが、まざまざと蘇っていた。

 

 ――師より『封神計画』を受けた当初。『女狐』さえ倒せば、全てが終わると過信していた、あの頃。策を弄して人質をとり、上手く敵の根城に潜入できたところまではよかったのだが、標的には寸分の隙もなく、逆に囚われの身になってしまった。

 

 そして皇帝暗殺未遂の罪に問われ、処刑場に引き立てられていった彼が目にしたものは。同じ羌族の出身者――奴隷とするために捕らわれ、都で強制的に働かされていた者たちが、多数の毒蛇が待ち構える穴の底へ突き落とされてゆく様だった。

 

「彼らは関係ない、やめてくれ!」

 

 叫ぶ太公望に応えたのは、女狐でも、皇帝でも、ましてや処刑人でもなかった。それは、今まさに殺されようとしていた羌族たちの魂の声。

 

「俺たちが殺されるのは、お前のせいだ!」

 

「たいした〝力〟もないくせに、蜂の巣を突くような真似をするから――!」

 

 その後生じた混乱に上手く乗じた黄飛虎の手によって、命を救われた太公望は、この失敗を心に刻み、ひとりでは到底勝ち得ぬ強大な敵に立ち向かうための〝力〟となってくれるであろう仲間を集め始めた――。

 

 そんな己の苦い過去を思い出しながら、太公望は語る。

 

「誰にでも失敗や間違いはある。だが、そうならぬよう努力することはできるのだ。多くを学び、選ぶべき『道』を見極めることも、そのひとつだ」

 

「ミスタにも、やっぱり失敗が怖いと思うことがあるの?」

 

 ルイズの問いに、太公望はおどけるように答えた。先程までの思いを振り払うために。

 

「もちろんだ。というか、怖いことだらけだ。失敗なんてしたくないし、傷つけたり、傷つけられたりするのはあちこち痛くなるからイヤなのだ。おぬしはどうだ?」

 

「わたしも、あちこち痛いのはイヤ。だから、これからはもっと考えるようにするわ」

 

 クスリと小さく笑ったルイズの頭に、太公望はぽんと手を乗せて言った。

 

「失敗がイヤなわしが考え抜いた結果、おぬしに任せることにした。それが最も成功率が高いと判断したからだ。これで、少しは自信が持てたか?」

 

 返事の代わりに、ルイズはぎゅっと鞄を抱きしめた。

 

 

 ――フネを飛び立ってからしばらくして。ラ・ヴァリエール公爵家の屋敷から、十リーグほど離れた森の中に舞い降りたルイズは、側にあった木にデッキブラシを立て掛けると、しっかりと鞄を抱えて〝瞬間移動〟のルーンを紡ぎ出し――空間を駆けた。

 

 良く知るラ・ヴァリエール公爵家の屋敷内で、ルイズは細かい〝跳躍〟を繰り返した。広い実家の中では、常に大勢の使用人たちが忙しく立ち働いている。瞬間移動時にできる『空間把握』で、彼らの動きを完璧に掴み取り、その隙間を縫うように移動を繰り返す。そして十数回目の跳躍で、彼女はついに目的の人物を捉えた。

 

 何の予告もなく、ルイズが自分のすぐ側に現れたとき。書斎の書き物机に着いていたラ・ヴァリエール公爵は一瞬目を丸くしたが――すぐさま隣の――自室以外の何処とも繋がっていない扉の奥へ愛娘の手を引いて移動した。

 

 それからルイズの顔をじっと見つめると――静かに彼女を抱き寄せた。

 

「え、あの、と、父さま!?」

 

「良かった……おまえが無事に戻ってきてくれて、本当に良かった。もう二度とあんな無茶な真似はしないでくれ!」

 

「と、父さま! ま、まさか、任務のこと、ご存じで……」

 

「ああ、もちろん知っていたとも! おまえが姫殿下から無茶な役目を請け負ったことも、友人たちと連れ立ってアルビオンへ赴いたことも、全部だ!」

 

 どうしてそこまで知っているのか。そう問おうとしたルイズは、抱き締められた腕の中から父を見上げ、はっとした。普段は威厳溢れる父の目は赤く、顔には深い心労の色が浮き出ていた。

 

(父さまは、本気でわたしのことを心配してくれていたのね……)

 

 ルイズの胸はそれだけで暖かなものに満たされ、自然と口から謝罪の言葉が漏れ出た。

 

「父さま、心配かけてごめんなさい……」

 

「全くだ! さあ、ルイズや。わしの心臓へ負担をかけた償いをしておくれ」

 

 ルイズは父の首へ静かに両手を回し、その頬へキスをした。ラ・ヴァリエール公爵は愛おしそうに娘の頭を撫でた後、すぐさま普段の優秀な為政者の顔に戻り、問うた。

 

「おまえがわざわざひとりで飛び込んできたということは――わしに宛てて、何か厄介事を持ち込んできたのだろう?」

 

 ルイズはコクリと頷くと、父へ書類鞄を手渡した。

 

 

○●○●○●○●

 

「いや、まさか……こんなことが……!」

 

 ラ・ヴァリエール公爵はひととおり報告書に目を通した後――両手で顔を覆った。そこに書かれていた内容が、あまりにも衝撃的だったからだ。

 

 アルビオンへの道中で起きた、二度にも及ぶ襲撃事件。それだけでも目を回しそうだったところへ、なんと五万の軍勢に取り囲まれた王党派本陣へ、ルイズが直接出向く羽目になったこと。『レコン・キスタ』総帥が仕掛けたとおぼしき下劣極まりない罠――そして。

 

「アンドバリの指輪、か……」

 

 この忌まわしき指輪が元凶と思われる数々の事件が、ラ・ヴァリエール公爵の精神を徹底的に打ちのめした。正直なところ、これは数年もの間ラグドリアン湖の管理を怠っていたトリステインの大失態といって差し支えない。もしもアルビオンのテューダー王家に責任を問われた場合、反論することさえ難しい状況だ。

 

 そういった意味では対岸のガリアも同罪なのだが――皮肉にも、かの王国は湖周辺の干拓事業に成功していたがために、ごく最近まで水害に見舞われなかったらしい。

 

 第一、隣国の領地まで常に監視しておけなどというのは、いくらなんでも無理がある。よって、ガリア王国に連座を求めるなど論外だ。

 

 指輪の盗難に関連する調査の過程で、ラグドリアン湖の管理を任されている貴族が宮廷政治にうつつを抜かし、住民の訴えを無視し続けていたことが判明している。彼は近い将来、相応の罰を受けることになるだろう――それはさておき。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は報告書を手にしながら言った。

 

「これを読んだ限りでは、おまえたちが『アンドバリの指輪』が盗まれたという情報を得た時点で、もう既に手遅れだったようだな」

 

「そんなことないわ! わたしたちが、王政府へちゃんと連絡していれば……きっと、ここまで酷いことには……」

 

「いいや。むしろ、報告しなくて正解だった」

 

 父の言葉に、ルイズは思わず眉を吊り上げた。

 

「そんな! どうしてですか!?」

 

 今の王政府では、どのみち情報が上へ届く前に途中で握り潰される――とは言わず、ラ・ヴァリエール公爵は別の角度から娘に問題提起をした。

 

「よく考えてみなさい、ルイズや。もしもこのような怖ろしい指輪の存在が何処かから漏れて、野心ある者たちに知れ渡ったりしたら……どうなると思う?」

 

 父親からそう諭されて、ルイズは考えた。野望を持つ人物がアンドバリの指輪に秘められた効果を知ったとしたら、いったいどうするだろう。今回の一件で、人間が持つ心の闇というものの一端に触れることになったルイズはすぐさま答えに行き着いた。

 

「指輪を巡って、別の戦争が起きるということですか?」

 

 ルイズの解答に、ラ・ヴァリエール公爵は真剣な表情で頷いた。

 

「そうだ。その結果、指輪の行方がわからなくなれば……さらに厄介なことになる」

 

 父の言葉にルイズは首をかしげた。

 

「行方がわからなくなる?」

 

「今は『レコン・キスタ』の元にあるとわかっているから、対策の立てようがある。だが、この情報が広まって、相手に警戒されれば――奪還が極めて難しくなるのだ。それにだ、もしも指輪の争奪戦が起きて、別の誰かに奪われでもしたら……対応自体ができなくなってしまうのだよ。そうなれば、より大きな悲劇が引き起こされるだろう」

 

 それが理由で、ラ・ヴァリエール公爵は太公望から前もって警告を受けていながらも、調査が終わるまでは王政府へ報告することができなかったのだ。

 

「それに、水の精霊から『クロムウェル』という名前を聞いたというだけで『レコン・キスタ』総帥を犯人と断定するわけにはいかん。証拠もなしに相手を盗人呼ばわりすれば、国の評判を落とすばかりか、向こうに戦争を起こすための口実を与えることに繋がる」

 

「で、でも、ウェールズ殿下や、王さまたちは信じてくれたわ!」

 

「王党派が『指輪』の存在を認めたのは、ウェールズ殿下と一部の兵士たちが、直前に『他者を魅惑して操る』という強烈な魔法具の効果を体験していたことや、状況がある程度噛み合っていたこと。さらに、彼らが戦乱の中に在り心身共に疲弊していたからに過ぎない。もしも彼らが瀬戸際まで追い詰められていなかったら、たとえ水の精霊との対話が可能なモンモランシ家令嬢の言葉といえども、すんなりと納得させるのは難しかっただろう」

 

「う~ッ、アンドバリの指輪のことを世界中にバラしちゃえば、あいつらの言う『正義』を壊せると思ったのに!」

 

 悔しげに唇を噛むルイズを、ラ・ヴァリエール公爵はなだめた。

 

「そのためには、もっと確実な証拠が必要になる。魔法具を使っていることを証明するのはとても難しいことなのだよ。それが〝魔法探知〟に反応しない先住の秘宝であれば、なおさらだ。第一、戦争に魔道具を用いてはならないなどという決まりはない」

 

「そんな! 貴族の礼節を重んじる父さまのお言葉とは思えません!」

 

「確かに、貴族が用いる手段としては卑劣極まりないものではあるのだが……戦とは礼儀正しさを競うものではないのだよ。それだけに、相手方を崩す理由としてはあまりにも弱い。せめて、何かもう一押し欲しいところだ」

 

「それは政治的な意味で、ということですか?」

 

「ふむ。魔法学院ではそのようなことまで教えるようになったのかね? 結構なことだ。さてと、アンドバリの指輪の件については今は置くとしてだ。急ぎ、返書の作製とフネの着陸場所を指定せねばならんな。まだ上空で待っておられるのだろう?」

 

「はい。二艘とも国境へは近付かず、雲の中に隠れて空の上に停まっています」

 

「その判断は正しい。今は国境近辺の警戒が厳しくなっておるからな。では、わしは急いで用意をしてくるので、お前はそこで待っていなさい」

 

 ――それから、約一時間後。

 

 再び鞄を抱えて跳躍した愛娘を見送ったラ・ヴァリエール公爵は、受け取った報告書を一枚ずつ暖炉の火にくべながら、思わず溜め息を漏らした。

 

「これは自領の運営にばかり熱心で、王室を顧みようとしなかったわしへ『始祖』が与えられた罰なのだろうか。『王権』など、ひとつだけでも充分重いというのに……まさか、ふたつも手元へ抱え込むことになろうとは」

 

 その後。王党派と彼らの主が乗るフネは、フォンティーヌ領に降り立つこととなった。

 

 かの地は、病弱な次女カトレアの療養地とするべく、王室へ特別にと願い出たラ・ヴァリエール公爵が自領の一部を分け与えたものだ。高い山と森に囲まれ、他貴族の領地から完全に隔絶されたその土地は、異国の客人たちを隠すにはうってつけの場所であった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――三日後。ケンの月、エオローの週、エオーの曜日。

 

 秋も深まり、冬の足音が徐々に近付いてきていたその日。マザリーニ枢機卿は王宮の廊下をすたすたと足早に進んでいた。黙って聞き逃すには正直危険に過ぎる噂話を耳にしていたからだ。

 

 すぐに目的の場所へたどり着いた枢機卿は両隣に控える衛士を下がらせると、扉をコンコンと軽くノックした。

 

「姫殿下。わたしです」

 

 声をかけてから、しばしの間を置いて。ガチャリと鍵が開く音が響き……静かに扉が開く。部屋の奥へ進んだマザリーニは、軽く眉を顰めた。姫君の居室の中央に、以前は置かれていなかった『始祖』ブリミルの像が飾られていたからだ。

 

「お勤めの最中でございましたか。これは大変失礼をば致しました」

 

 アンリエッタ姫は憂い顔でそれに答えた。

 

「いいえ、気にせずともよいことです。いつなんどきいらしても、同じこと。わたくしは、朝目覚めてから夜更けまで、ずっと『始祖』へ祈りを捧げておりますから」

 

 マザリーニは一切の感情を映さぬ目で姫君を見つめた。アンリエッタ姫が自室に閉じ籠もり、一日中お祈りをしているという宮廷雀たちの噂話は本当だったのだ。

 

「姫殿下、このような真似をなされては困ります。日頃の習慣にないことをされては、臣下の者たちがいったい何事かと騒ぎ立てますゆえ」

 

「ですが、この無力な姫は……ただ『始祖』に祈ることしかできないのです」

 

 姫君の言葉に、枢機卿はかすかな違和感を覚えた。どこかずれた――根本的な何かが噛み合っていないような、そんな感覚が彼の嗅覚に触れた。

 

 再び姫を問い質すべく、彼が口を開こうとしたそのとき。扉の外から近衛衛士のひとりが現れ、アンリエッタ姫に来客を告げた。

 

 その瞬間、姫君の顔は華やぎ――枢機卿の緊張は一挙にほぐれた。

 

 客人の名は、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールであった。

 

 アンリエッタはマザリーニに下がるよう命じた。だが、彼は頑としてその場から動こうとはしなかった。姫はふうとため息をつくと、客人を通すよう衛士へ申し渡した。

 

 髭面のいかつい近衛衛士――幻獣マンティコアの刺繍入りのマントを纏った青年によって案内されてきたルイズの姿を見たアンリエッタの顔が、まるで陽光の下にある噴水のように輝いた。それを受けたルイズの瞳も、夜空に点在する星々のように煌めいた。

 

「ルイズ!」

 

「姫さま!」

 

 ふたりは室内にいる人々が見守る中、ひっしと抱き合った。

 

「ああ、ずっとあなたの帰りを待っていたのよ。ルイズ・フランソワーズ!」

 

 衛士が一礼して退室した後。ルイズは、姫へシャツの内ポケットの中に入れていた件の手紙をそっと見せると、恭しく手渡した。

 

「姫さま。どうかお確かめくださいまし」

 

 アンリエッタは手紙を一瞥すると大きく頷き、ルイズの手をしっかと握り締めた。

 

「やはり、あなたはわたくしのいちばんの『おともだち』ですわ!」

 

「もったいないお言葉です、姫さま」

 

 それから周囲を見回したアンリエッタ姫は、ルイズの他に才人の姿しか見えないことに気付き、顔を曇らせた。

 

「ウェールズさまは……?」

 

 ルイズは目を閉じ、顔を伏せた。できれば本当のことを話して、姫さまを喜ばせて差し上げたい。だが、父親と太公望だけでなくアルビオン王、おまけにウェールズ皇太子本人の口から、絶対に王党派のアルビオン脱出に関する話をしてはならぬと念を押されていた。

 

 自分を信じ『おともだち』と呼んでくれる姫殿下を騙すのは心苦しいが、王党派の人々のみならず、トリステインの命運をも左右する大事だと言われてしまっては、どうにもならない。ルイズはただその場で唇を噛み締めることしかできなかった。

 

「そう。あのかたは祖国と父王に殉じたのですね」

 

 アンリエッタは、かつて自分がウェールズへ宛ててしたためた手紙を見つめながら、はらはらと涙を零した。

 

「ねえ、ルイズ。ルイズ・フランソワーズ。あのかたは……ウェールズさまは、わたくしの手紙を最後まで、きちんと読んでくれたのかしら?」

 

「はい。ウェールズ皇太子殿下は、間違いなく姫さまの手紙をお読みになりました」

 

 それを聞いたアンリエッタは、弱々しく首を振った。

 

「ならば……あのかたは、わたくしを愛してはおられなかったのね」

 

「では、やはり……あの密書で、皇太子殿下に亡命をお勧めになられたのですね?」

 

「ええ。だって、死んで欲しくなかったんですもの。愛していたのよ、心から」

 

 哀しげな顔で手紙を見つめたまま、アンリエッタは呟いた。かたや、それを間近で聞いていたマザリーニはというと、喉の奥で小さく呻き声を上げた。

 

 姫を問い質したあのとき、そんな話は出てこなかった。いや、遠慮などせずにもっと突っ込んで聞いておくべきだったと枢機卿は己を責め立てた。それからすぐに、姫君の誘いに乗らなかったアルビオンの皇太子ウェールズに対し、心の底から感謝した。

 

 もしも彼が姫の勧めるままに亡命を図っていれば――最悪の場合、世界最強と謳われるアルビオン艦隊が、王子の後を追ってそのままトリステインへと攻め寄せて来たかもしれないからだ。

 

 そんな枢機卿の思いとは裏腹に、姫君は呆けたような声で言葉を続けていた。

 

「あのかたと結ばれることなど無理だと、わかっています。けれど、せめて……生きていて欲しかった。ウェールズさまは、わたくしよりも名誉と誇りのほうが大切だったのですね」

 

 アンリエッタの呟きを耳にした才人の身体がピクリと震えた。

 

 それは違うと、大声で叫びたかった。ウェールズは名誉のために戦おうとしていたのではない。お姫さまとトリステインを守るために、自分の意志を押し殺したのだと告げたかった。だが、王子と固く約束を交わしていた才人には、どうしてもそれを口にすることができなかった。

 

「名誉と誇りを守るため、勇敢に戦い……死んでゆく。殿方の特権ですわね。あとに残された女はいったいどうすればよいのでしょうか」

 

 ルイズも才人も、姫君の問いに答えることができなかった。それぞれ全く別の理由から。ふたりは、ただ黙って下を向いていた。そんな彼らを見たアンリエッタは、にっこりと笑った。それは、無理矢理造り出したとしか思えない、寂しげな笑みであった。

 

 そしてルイズの手を取ると、務めて明るい口調で言った。

 

「わたくしの婚姻の妨げとなる暗躍は、未然に防がれました。これで我が国は、何の憂いもなくゲルマニアと同盟を結ぶことができます。そうなれば『レコン・キスタ』とて、簡単に攻めてくるわけにはいきません。あなたは、祖国を危難の淵から救ったのですよ。ルイズ・フランソワーズ」

 

 

 ――それからしばらくして。

 

 ルイズと才人のふたりが部屋を辞去した後、マザリーニ枢機卿は物憂げに窓の外を見遣る姫君を問い詰めた。

 

「姫殿下。いったいどういうおつもりですか?」

 

「……何のことです?」

 

「言わずとも、おわかりのはずです。我が国がウェールズ皇太子殿下の亡命受け入れを表明すれば、貴族派連盟に戦を起こす格好の口実を与えることになったのですぞ!」

 

 しかし、枢機卿の言葉に姫君は頷かなかった。

 

「たとえウェールズさまが亡命しようがしまいが、攻めてくるときは攻め寄せてくるでしょう。戦とは、個人の存在だけで発生するものではありませんわ」

 

 マザリーニの心臓が凍り付いた。いま、姫は何と言った――?

 

「ウェールズ皇太子殿下を、個人(・・)と。そう、仰いましたか?」

 

「ええ。言いましたが……それが何か?」

 

 マザリーニは――ようやく自覚した。己がしてしまった最悪の失敗について。いや、より正確に言うなれば。この国の貴族たちが、等しく犯していた罪を知った。

 

 トリステインの王室――マリアンヌ王妃とアンリエッタ姫は『王権』の持つ権力と責任というものを、全く理解していない。自分を含む側仕えの貴族は皆、彼女たちにそれを正しく認識させることができていなかったのだと悟った。

 

 傾いた国を立て直すことに汲々としていた先帝ヘンリーとマザリーニは、次代の養育を王妃ひとりに任せきりにしていた。それでも、公務や政治の心得などについては、姫君と顔を合わせるたびに、口が酸っぱくなるほど教え、聞かせてきた。しかし、王族が背負う重責について正しく教育できていたかと問われれば――現状を見る限り、否と答えざるを得ない。

 

 姫は優秀な生徒であった。口喧しい教師である枢機卿を避けるような素振りこそ見せてはいたものの、まるで乾いた土に水を零したが如く、教えたことを余さず吸収した。

 

 マザリーニはそれだけで満足してしまっていた。一番肝心なことを伝え切れていないと気付かずに。思い起こせば、これまでに兆候らしきものはいくつもあった。にも関わらず、彼はそれを拾い上げることができなかったのだ。

 

「わたしは役立たずの『鳥の骨』であるばかりか『馬の骨』だったというわけか……」

 

 そもそもが、夫の喪に服すなどという理由を掲げ、数年間もの長きに渡って王位継承を頑なに拒み続け、国の頂点にありながらも政務を放置してきたマリアンヌ王妃に、王族たる者の心得を娘に伝える能力などあるわけがないのだ。何故それに気付かなかったのだろう。

 

 権力の怖ろしさを知らぬ子供に政治を語る。それはまさに、火が有する危険を教えぬまま、火災が起きる可能性が高い木造の家屋の床で、焚き火をさせるようなものだ。

 

 これは『始祖』より与えられた罰だとマザリーニは思った。今回の事件が起きたのは、そんな基本的な――それでいて大切なことに今の今まで気付けなかった大間抜けである、自分が負うべき罪科なのだと。

 

 だが。そうと判明したからには即座に間違いを正さねばならない。

 

(想い人を失い、嘆き悲しむ気の毒な少女を責めるのは心が痛む。しかし、どうしてもやらねばならない。たとえ、姫殿下との間に決定的な亀裂を作ることになろうとも)

 

 マザリーニは、心を鬼にしてアンリエッタに向き合った。

 

「ヴァリエール嬢が無事に戻って、本当にようございましたな。姫殿下」

 

 アンリエッタはマザリーニの声音が一オクターブ下がったことに気付かなかった。

 

「……ええ。彼女は本当によくやってくれました」

 

「まことに。もしも彼女が――いいえ、ヴァリエール嬢だけではありませぬ。彼女の仲間たちのうち誰かが戦場に斃れていれば……トリステインは『レコン・キスタ』に攻め込まれるまでもなく、滅亡の憂き目に遭っていたでしょうから」

 

「それは、どういう意味ですの?」

 

「姫殿下は全く確認しようとなさいませんでしたな。ヴァリエール嬢が、どのようにして任務を達成したのか。彼女を守りし『水精霊団(オンディーヌ)』とは、いったい何者なのかを」

 

 そういえばと姫は思った。部屋を訪れたのはルイズと――以前顔を見たことのある護衛士の少年だけで、共にアルビオンへ向かったという仲間たちの姿はなかった。もしかすると、控えの間にいたのかもしれない。しかし、正直なところ。今のアンリエッタには他者と何かを論じるほどの気力がなかった。

 

「今日はわたくし、どうしても気分が優れませんの……わかるでしょう? ですから、その話はまた日を改めてすることに致しましょう」

 

 枢機卿は姫君の哀願を受け入れず、そのまま言葉を紡ぎ続けた。

 

「『水精霊団』とは、オールド・オスマンが魔法学院の中でも特に優秀と認めた者を実験的に選抜し、秘密裏に指導を行っていた金の卵たちなのです。そこには家柄や出自などは加味されませぬ。ただ実力のみを評価され、大切に育まれておりました」

 

 アンリエッタは小さくため息をついた。いつもの政治談義が始まると思ったのだ。

 

「そのことに、何か問題が?」

 

「トリステイン魔法学院は、他国からの留学生も受け入れております。と、ここまで申せば――姫殿下におかれましては、もうおわかりですな?」

 

 アンリエッタは戸惑いを隠せぬまま、枢機卿の言葉を待った。

 

「わかりませぬか? では、お教え致しましょう。かの集団には、ガリアやゲルマニアから留学してきた子供たちも所属していたのですよ。もちろん、我が国の有力貴族の子弟も」

 

 未だ事態を飲み込めないアンリエッタに対し、マザリーニは叩き付けるように言った。

 

「姫殿下はよくご存じではなかったのですかな? ラ・ヴァリエール公爵が、自分の娘たちを、それはもう猫可愛がりしていることを。かの人物が、今回の件を――姫殿下の無体な御下命により、愛娘が危うく生命を失うところだったと知ったら! いいや、実際に彼女がアルビオンの戦場に散っていたら、どう動いたと思われますか!!」

 

 既に自分の口から報せているなどとまでは話さない。実際にありえたことのみを姫君に突き付けるマザリーニの表情は、普段とは打って変わって険しいものだった。

 

「死んでいたかも……しれなかった? わたくしの、大切な『おともだち』が……?」

 

 アンリエッタは、震えた。これまで乳母日傘で育てられてきた彼女は、今、こうしてマザリーニから噛んで砕いたように話して聞かされるまで、唯一『おともだち』と呼べる幼なじみの少女とその仲間たちを死の淵に追い遣ったという自覚が無かったのだ。

 

 オーク鬼や火竜を倒す程の実力がある傭兵団がついているのだから、ほんの少し危険なお使いをするだけ。そう思っていた。

 

「わ、わたくしは、そんなつもりでは……」

 

「では、姫殿下は明日にも攻め滅ぼされそうな国へ使者を送るという意味を、全く考えずに命令を下したと。そう仰るのですな?」

 

「命令だなんて! わたくしは、ただ『おともだち』にお願いを……」

 

「お願い、ですか。ミス・ヴァリエールならば絶対に断らない。そう考えて依頼したのではありませんかな?」

 

「そ、そんなことは……」

 

「『始祖』に誓って、違うと言えますか?」

 

「……」

 

 沈黙が雄弁にアンリエッタの思惑を物語っていた。

 

「なるほど。姫殿下は自分に都合良く動く駒のことを『おともだち』と呼ぶのですな」

 

「……ッ! 訂正してください! 酷い侮辱ですわ!」

 

「良いのですかな? 訂正するということは、姫殿下は己の欲求を満たすために、友と呼んだ相手すら平然と窮地へ追い遣り、あまつさえ死すら生温いと思える程の、苦痛や辱めを受ける可能性が極めて高い任務に就けるような方である……わたしはそのように受け取りますが」

 

「どういう……ことです……?」

 

「ミス・ヴァリエールが戦場で命を落とす。あるいは貴族派に捕らえられ、厳しい尋問を受ける。彼女は高潔な人物ですからな、簡単に口を割ったりはしないでしょう。そうとなれば……長い戦で気が立っている兵たちが、貴族的な対応をするとは到底思えませぬ」

 

 枢機卿の言わんとするところをようやく理解して顔を青ざめさせた姫君に、さらに残酷な台詞が浴びせかけられた。

 

「姫殿下に想い人がおられたように、彼ら『水精霊団』にも家族があり、その身を案じる者たちが存在しているのです。今回は幸いにも成功し事なきを得ましたが――姫殿下。あなたは危うくトリステインはおろか、ハルケギニア全体を戦火の只中に突き落とすところだったのですよ」

 

「世界中が、戦に……」

 

「そうです。そうなれば、どれほど多くの民が住処を……いや、生命を失うことになったのか、このわたしにもわかりませぬ。この世はそれこそ宮廷付きの楽師が時折歌うような、地獄と化していたことでしょう」

 

「それもこれも、全てはわたくしの軽はずみな行動のせいで……?」

 

 姫君のか細い呟きに、枢機卿は重々しく頷いた。

 

 『水精霊団』は優秀な傭兵団とだけ知らされていて、その実情を何ひとつ調べようとしなかった己の迂闊さに、アンリエッタは総毛立った。

 

 悲恋に酔い、ウェールズのことばかり考えていたが、確かにマザリーニの言うとおりだ。ルイズや彼女の仲間たちの身に何かがあれば、トリステイン国内でもアルビオンのような内乱が起きていたかもしれない。息子を、あるいは娘を喪った他国の貴族が王を焚きつけ、宣戦布告してきた可能性もある。元より吹けば飛ぶような小国なればこそ、隣国ゲルマニアの皇帝も強気になり、同盟したくば姫を嫁に寄越せなどと申し入れてきたのだから。

 

 敏腕の宰相をうまく出し抜けた、などと内心で舌を出していたあの時の自分の頬を、思い切り張ってやりたい。アンリエッタの瞳から、悲しみではなく悔恨の涙が零れ落ちた。

 

「おお……わたくしは、わたくしは、なんという浅はかな真似を……!」

 

 両手で顔を覆い、机に伏せたアンリエッタに対し、マザリーニはさらなる猛攻を加えた。それが姫君だけではなく、自分の心の傷口へ塩を擦り込む行為であると認識しながら。

 

「姫殿下は先程、こう仰いましたな。『自分は無力な姫である』と。どうか、自覚してください。あなたの声は決してか細き小鳥のさえずりなどではありませぬ。たったの一声で、国を滅ぼすことすら可能な――強大な〝力〟なのです」

 

 その言葉を最後に、渋面の宰相は姫君の居室を後にした。残されたアンリエッタ姫はただただ震え、泣き続けることしかできなかった。つい先程まで祈りを捧げていた『始祖』の像に、ひしと縋り付きながら。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――同日、夕刻。

 

 トリステインから遙か数百リーグの彼方にある巨大な宮殿群の最奥。 昼もなお薄暗いその部屋で、ガリア国王ジョゼフ一世が小さな人形を手に、気が触れたような笑い声を上げていた。もしも彼の周囲に在る者たちがその姿を見たら、即座に典医を呼びに走ったであろう。そのくらい異様な光景だった。

 

「ハハハハッ、これはまさしく傑作だ! あの老いぼれに、この期に及んで撤退を選ぶ勇気があったなどとは思いも寄らなかったぞ! しかもだ! いつ、何処から消えたのかすら掴めぬとは……実に楽しませてくれるではないか!」

 

 と……せわしなく部屋を歩き回っていたジョゼフが、ふいに歩みを止めた。

 

「待てよ。あの耄碌ジジイにこのような決断ができようはずもない。とすると、これは息子の仕業だな! いやはや、かの王家はとんだ牙を隠し持っていたものだ。おかげで、欲しかった玩具が手に入らなかった!」

 

 人形を机の片隅に置いたジョゼフは自慢の世界模型に近付くと、その中にある島――アルビオン大陸の端に置かれていたふたつの駒のうち、王冠を頭に載せていたほうを指で弾き飛ばした。

 

「風は遍在する――か。何処にでも在り、何処にも無い。火の秘薬と、どうとでも受け取りようのある言葉を残して現場を混乱させ、時間を稼ぐのが狙い。そう見せかけて、こちらの出方を探って来るとは。参ったな、かの若造は思った以上の指し手であった。やはり、余は皆が申す通りの『無能王』だ!」

 

 それからふっとため息をつくと、彼はやや影のある表情で呟いた。

 

「始祖の御代から続く兄弟国が、たったひとつの指輪によって、歴史の舞台に幕を降ろす。そして神聖皇帝の名の下に、新たな国が興る。皇帝を守護せし者は、死体となってもなお指輪の魔力によって操られる亡国の王子! ああ、なんと悲劇的な話だろう。その様を最後まで見届ければ、あるいは余の悲願が達成できたかもしれぬのになあ……!」

 

 ジョゼフは顎髭をしごきながら、世界盤を見渡した。

 

「さてと、こういう場合でもルールを違える訳にはいかん。決まりごとを自分に都合良く書き換えてはゲームがつまらなくなる。いつも通り、これを使わねばな!」

 

 机の上から大理石で造られたサイコロを三つ鷲掴みにしたジョゼフは、それを模型の端に向かって乱暴に放り投げた。カタ、カタンという軽快な音を立て、サイコロが転がる。

 

「賽の目は、ふむふむ、なるほど。この数値が出たときは……」

 

 手元の紙束と賽の目を見比べながら、蒼き髪の狂王は人形に向かって何事かを呟いた。

 

 

 ――その夜。

 

 アルビオン大陸の端、岬の突端に立つニューカッスルの城は、天を焦がすような爆炎に包まれた。その有様は遠くハヴィランド宮殿からも望むことができたという。

 

 それと同じ頃。魔法学院へ帰還したコルベールは駆け足で自分の研究室へと向かった。そして数々の書物や模型類に埋もれた机の引き出しにかけられた鍵を外すと、中に入っていた小箱を取り出した。彼の両手はかすかに震えている。

 

「やはり、そう、なのか……?」

 

 小箱には古びた指輪が収められていた。その台座には、深紅の丸い宝石が留められている。その奥で、ちろちろと小さな炎が踊っていた。

 

「これなのか。これがために、私は今、此処に在るというのか」

 

 コルベールの頬を、一筋の涙が伝って落ちた。彼の手元で輝く指輪は、白の国の王子が填めていた始祖の秘宝と、留められている輝石以外の全てが酷似している。

 

 かつて犯した大罪の証が、紅き光を放ち『炎蛇』の貌を静かに照らした。

 

 

 




旧版よりもマザリーニさんが手厳しくなりました。
アンドバリの指輪、ほんとに扱いが難しい……。


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それぞれの現在・過去・未来
第81話 帰還、ひとつの終わりと新たなる始まり


「なるほど。やっぱり、ただの一人遊技(ソリティア)なんかじゃなかったわね」

 

「あの人形が命令用の通信機で、模型全体が世界ってワケだ。こいつぁまた随分とスケールのでけぇ遊びじゃねーか。なぁ?」

 

 空間を隔てた『部屋』の中。ふたりの傍観者が、グラン・トロワ宮殿の最奥で蒼き髪の狂王が行っているゲームの正体を知り、驚嘆の声を上げていた。

 

「まさか、父上が『レコン・キスタ』の黒幕だったなんて! 完璧に見誤っていたわ。裏から糸を引いているのは、九割方ゲルマニアの皇帝だと思ってたのに」

 

 狂王の娘イザベラ王女が肩をすくめると、それに同調するかのように彼女のパートナー・王天君が口を開く。

 

「アルビオンを内側からかき回してトリステインを動揺させる。ロマリアは色々ヤバ過ぎて間違っても頼れねぇし、ガリアのトップは『無能王』。とくれば、残るはゲルマニアだけだ。トリステインとしちゃ、嫌でも皇帝が出した条件を飲む以外にねぇしな」

 

「白の国が疲弊すれば、ゲルマニアは空からの脅威が無くなるに等しいわ。おまけにアンリエッタを娶れば『始祖』の血を皇家に入れることができる。いかにも、あの強欲な皇帝が考えそうなことなんだけど……周りにそう思わせるのも、計算のうちなのね」

 

「そういうこった。だからこそ、トリステインからの支援要請をのらりくらりと躱してきたんだろうよ。弱り切った『シャルル派』に対抗するフリしてな」

 

 ニヤリと口端を上げた王天君に、イザベラは微笑み返した。ただし、一般的に微笑と呼ばれるものとはほど遠い表情で。

 

「父上の悲願っていうのは、ほぼ間違いなく世界制覇に違いないわ! そう考えれば、色々と辻褄が合うもの。ガリアの防衛のためだけに、新型船をあんなに揃える必要なんてないものね」

 

 イザベラの言葉を聞いた王天君が、吐き捨てるように言った。

 

「バッカじゃん?」

 

 一瞬、イザベラは何を言われたのかわからなかった。なにしろ、王天君はこれまで一度たりとも――少なくとも、イザベラに対して否定の言葉を吐いたことがなかったからだ。

 

「ば、ば、ば、バカって、こ、このわたしがッ!?」

 

 興奮するイザベラを見た王天君は、フンと鼻を鳴らした。

 

「この程度でガタガタ騒ぐんじゃねぇよ。オレにはオメーの親父が、んなダセェ野望で動く男にゃ見えねぇっつってるだけだ」

 

「ふえ?」

 

 王天君はジョゼフが落とす影に覚えがある。かつて――己の身の上を嘆き、周囲の全てを呪った自分とどこか似通ったものを、狂王と呼ばれた男に見出していた。だが、彼はそれをイザベラに告げることなく、全く別のことを口にした。

 

「火竜山脈、だったか? 名前からして硫黄が取れそうじゃねぇか」

 

 イザベラは、王天君の言葉に頷いた。

 

「ええ。あの一帯のほとんどがガリア領よ。今や硫黄は黄金と同じ重さで取引されるくらい値上がりしてるわ……って、そうか! そういうことなのね!?」

 

「ククッ……わかったみてぇだな。答え合わせしてやるよ」

 

 先を促す王天君に王女は解答を述べた。

 

「ガリアから遠いアルビオンで内乱を起こせば、危険を冒さずに金が手に入る――火薬や、火の魔法の触媒として使う硫黄は戦争には欠かせないものだからね。あなたが言いたいのは、父上がアルビオンの内戦に介入したのは自分の手を汚さずに懐を暖めるためだってことでいいかしら?」

 

「正解だ。格安で手に入るもんが同じ重さの金に変わるんだ、利用しねぇ手はねぇだろ」

 

「そうね。戦争で相手から領土やモノを奪うには危険を伴うわ。死人も大勢出る上に、絶対勝てるとは限らないし。だけどこの方法なら、ガリアは安全を保ちながら、他の国からたっぷりお金を搾り取った上に、弱らせることができる。逆にこっちはどんどん豊かになって、防衛のための戦力増強にお金を回す余裕が持てる。いいことづくめじゃないのさ!」

 

「ま、そういうこった。戦争ってのはなぁ、血を流さなくてもやれんだよ」

 

 感嘆のため息をついた後、イザベラは呟いた。

 

「まさか、こんな方法があるなんてねえ……今まで思いもよらなかったわ」

 

 イザベラはますます父親への尊敬の念を深めると同時に、自分が呼び出したパートナーを誇りに思った。魔法の腕でしか父を見ない愚かな貴族たちとは違い、彼はジョゼフの王としての本質をしっかりと見抜いてくれている。それが、何よりも嬉しかった。

 

 再び『窓』を通して盤面を見ながら、イザベラは嗤った。

 

「それにしても、アルビオン王家も気の毒なことだわぁ~。まさか自分たちの王国がサイコロで滅ぼされただなんて、思ってもみないことでしょうから!」

 

「最後の最後に噛みつき返してきたみたいだがよぉ……ちぃとばかし遅すぎたな」

 

「普通の司令官が相手なら、すっごくいい策だったと思うんだけど。残念ながら、最後の詰めで失敗したわね」

 

「あぁ……相手が悪かったな」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ケンの月、ティワズの週、エオーの曜日。

 

 水精霊団の一行が魔法学院へと帰還し、王党派が潜伏場所に落ち着いてから数日後。

 

 トリステイン王国の王女アンリエッタと帝政ゲルマニアの皇帝アルブレヒト三世の婚姻が国内外へ向けて正式に発表された。ふたりの結婚式は、一ヶ月先のウィンの月上旬に執り行われるはこびとなり、それに先立ち、両国の間で軍事防衛同盟が締結された。

 

 ある者はその報を素直に祝福し、またある者はそれを歯噛みして悔しがったが――その翌日に、テューダー王家の滅亡と『神聖アルビオン共和国』設立の報が全世界に向けて発せられ、両国の政府関係者は上を下への大騒ぎとなった。

 

 アルビオン新政府の公式発表によると、ニューカッスル城で籠城を続けていた王党派の残党は、城の奥深くまで貴族派連盟軍を誘い込み、火の秘薬を用いて自爆。大勢の兵を巻き添えに全滅したのだという。

 

 城の焼け跡には黒焦げとなった焼死体が残るのみで、個人の判別は不可能。そのため、元アルビオン国王ならびに皇太子の亡骸らしきものは発見できなかったとされている。

 

 王党派の兵三百に対し、貴族派連盟側の死者は二千名。火傷による負傷者を併せると、五千の損害。アルビオン革命戦争の最終決戦・ニューカッスル城攻防戦は百倍以上の貴族派連盟に対し、自軍の十倍以上の損害を与えるという文字通り伝説の戦いとなった――。

 

「やられましたな。この勝負、まことに失礼ながら殿下の負けです」

 

「僕の甘さが事態を複雑にしてしまった。彼の進言通り、メッセージを残して逃げるだけに留めておけばよかったものを……!」

 

「まさに。硫黄入りの樽を見て、敵が火計を用いるところまで思考を誘導できた、そこまではお前の目論見通りであった。じゃが、今回ばかりは相手が悪かった! まさか、あのクロムウェル大司教が我らの死を偽装するためだけに、二千名もの兵を平然と犠牲にするような狂信者だったなどとは想像もつかなんだ」

 

「……いえ、父上。例の指輪の件がありました。これは当然、予測しておいてしかるべきことだったのです。僕の未熟な考えが、この結末を導いたのです」

 

 フォンティーヌ家屋敷の客間で、トリスタニアから取り寄せた最新の情報紙を手に、ラ・ヴァリエール公爵とアルビオン王国の元皇太子ウェールズ、元国王ジェームズ一世が膝を突き合わせて談話をしていた。その顔に暗澹たる表情を滲ませて。

 

「僕たちは、ていのいい伝説にされてしまった。せめて、自爆に巻き込まれたのが『死兵』だけであることを祈るのみだ」

 

「ええ、まったく」

 

 テューダー王家のふたりのみならず、ラ・ヴァリエール公爵もアルビオン革命戦争の壮絶な結末に頭を垂れた。

 

 いくら立派なお題目を掲げてはいても、いざ自軍が困窮したとなれば民から略奪を行う。あるいは彼らを辱めようとする者たちが現れるかもしれない。それを心配したウェールズ王子が、逃亡作戦最後の締めくくりとして仕掛けた策。

 

 空になった宝物庫に「風は遍在する」などという、どうとでも取れる言葉を残し、これみよがしに硫黄入りの樽を置いたのは――五万もの兵で包囲していながらも王党派を取り逃してしまった貴族派連盟側へ、城へ火を放ち、兵たちの目を逸らした。あるいは、自爆して果てたなどという、もっともらしい言い訳を作らせ、大軍の展開を一時的に中断させるためだったのだ。

 

 秋も深まり、冬の足音が近付いてきた今、軍事行動を継続することは自殺行為である。そんな行軍の常識を相手方の意識から掘り起こすために。

 

 この策を実行することで『レコン・キスタ』を自壊させることはできなくなるかもしれないが、ある程度の金銭的損害を負わせることは可能だ。それに残された民や、真相を知らずに戦い続けている元臣下たちの間に不必要な犠牲を出さずに済む。トリステインとゲルマニアが軍事防衛同盟を締結し、軍備を整える時間を稼ぐこともできるだろう。

 

 そう考えたウェールズが、空城にどうとでも取れるメッセージのみを残して消え去るという太公望の出した案に、父王に許可を得た上で手を加えた。その結果がこれだった。

 

「敵方は僕のそんな思惑を逆に利用してきたのだ。大量の死者を出すことによって、味方にも王軍の手による自爆と信じ込ませた。ある意味、見事な口封じだよ」

 

 ウェールズは悔いた。自分が余計な真似をしたせいで、敵兵とはいえ二千名もの無意味な犠牲を出してしまったことに。

 

「おまけに、王党派逃亡における対費用効果まで大幅に薄れさせてしまった。王族が自らの手で果てたのだと信じられてしまっては、各国のブリミル教会へもたらすであろう影響も軽微なものとなるだろう」

 

 しかもだ。クロムウェルは己の失策を隠すためだけに、このような真似をしでかしたのである。もはやどのような事態が発生しても、彼は一切躊躇うことなく突き進むだろう。たとえ、それが氷雪に閉ざされた冬の最中、炎が舞い散る地獄の釜の中であろうとも。わざわざ敵が抱えていた狂気に拍車をかけてしまったようなものだ。

 

「僕の甘さが、取り返しのつかない失敗を生んでしまった……!」

 

 顔を伏せ、懺悔するかの如く漏らしたウェールズを励ますように、息子の肩へ静かに手を載せたのは父ジェームズ一世だった。

 

「お前の判断は、民を案ずる王族として正しいものだった。それだけは間違いない。それに最終的に許可を出したのは朕だ。責任は朕にある」

 

「いいえ。この案を出した上で、実行したのは僕です。それに、戦場では出た結果が全てですから。僕は、いったい何をもって償えば……!」

 

「そこまで仰るのでしたら、殿下。どうか我らに力を貸してください」

 

 ラ・ヴァリエール公爵の言葉に、王子は顔を上げた。

 

「クロムウェルは、間違いなく狂っています。狂人の考えることなど、常人には図りきれませぬ。ですが王党派の皆さまは、その〝狂皇〟を相手に杖を交えてきました。どうか、我らにその情報と経験を分け与えてください。さすれば力無き我らトリステインにも、きゃつらと戦う術が見出せるやもしれません」

 

「是非もない。もとより、そのつもりだった」

 

 亡国の王子は公爵の手を取ると、しっかと握り締めた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから、さらに数日後。

 

 神聖アルビオン共和国初代皇帝オリヴァー・クロムウェルは、トリステインとゲルマニアの両国へ特使を派遣し、不可侵条約の締結を打診してきた。

 

 両国は協議の結果この申し出を受け入れることにした。トリステインとゲルマニア両国の空軍力を合わせても、世界最強のアルビオン艦隊に対抗するのは難しい。未だ軍備が整わぬ両国は、それを受け入れるより他に術がなかった。

 

 そして、アルビオンの王都――いや、現在では既に『始祖』に連なる王国はなく、神聖皇帝と貴族議会が治める共和国の首都・ロンディニウムの宮殿では。

 

「予想通り、かの国々は暖かいパンに飛びついてきましたわね、大司教どの。テューダー王家滅亡の様は、彼らの脳裏にしっかりと焼き付いていたはずですから」

 

「まさにその通りだ、ミス・シェフィールド。あなたの言うことは常に正しい」

 

 皇帝の地位に上り詰めた男と、黒衣の女性秘書が談笑していた。

 

 ただし、その関係は到底皇帝と秘書と呼べるものではなく――まるで女王と下僕のようだ。

 

「外交には二種類ございます。それが杖とパン。時間に飢えている彼らに、平和という名の暖かいパンを差し出せば……手を伸ばしてくるのは道理ですわ」

 

「まったく。しかし、いずれトリステインは我らが版図に加えねばなりますまい」

 

「ええ。それこそが、あのお方が望むことですから」

 

「始祖の祈祷書ですか。確かに、聖地へ赴く折には是非とも携えたい品ですな」

 

「始祖のオルゴールが行方知れずとなった今、祈祷書だけでも手に入れねば、あのお方に顔向けができないわ」

 

 その言葉を聞いたクロムウェルは、ばっと床に伏せ、頭をこすりつけた。

 

「ま、誠に、申し訳なく……! あれほどの舞台を整えていただきながら、きゃつらを取り逃がすなどあってはならぬこと。にも関わらず、寛大にもお許しを下されたご恩、必ずやお返ししてご覧に入れましょうぞ!」

 

 シェフィールドと呼ばれた女は笑みを浮かべてクロムウェルの前にしゃがみ込むと、彼の顎をくっと持ち上げ、告げた。

 

「何度も言わせないでちょうだい。こんな真似をして、誰かに見られたらどうするの? あなたは聖地回復を目指す神の戦士、その先兵なの。ハルケギニアをひとつに纏め上げ、始祖の御心に沿うために努力する、偉大な神聖皇帝なのだから」

 

「そ、その通りです……いや、その通りだ。助言を感謝する、ミス・シェフィールド。わたしは、白の国から世界を睥睨する共和国の議長にして、神聖なる初代皇帝だ」

 

 立ち上がった道化の姿を見た黒衣の女は、満足げに微笑んだ。

 

「ふふっ、あなたは本当にいい子ね。いい子にはご褒美をあげなくては」

 

 シェフィールドは一枚の設計図を取り出すと、クロムウェルに差し出した。

 

 こうして。ハルケギニアに再び穏やかな――それでいて噴火直前の火口に立つような、危険の一歩手前にある――かりそめの平和が訪れた。

 

 世界中の政治家たち、特にトリステインとゲルマニア両国の舵取りを行う者には夜もろくに眠れぬような忙しい日々が訪れた。だが、ごく普通の貴族や大勢の平民たちにとっては普段と何ら変わらぬ毎日が在るばかり。

 

 そして、それはトリステイン魔法学院も例外ではなかった……はずなのだが。

 

 

○●○●○●○●

 

 

「な~んか、こう、雰囲気が悪いのよねえ……」

 

 食堂のテラス席に腰掛けたキュルケが自慢の爪を磨きながら呟くと。周辺を固めていた少女たちがうんうんと頷いた。最初に小声で囁いたのはルイズだ。

 

「例の日からね、なんだかサイトの様子がおかしいの。ちらちらとこっち見てると思ったら、急におどおどし始めたり。外を眺めてぽけっとしてたりするのよ」

 

 それを聞いたモンモランシーも、これまた小声で囁き返す。

 

「ギーシュもね、なんだかヘンなの。今までだったら、最低でも一日二回はわたしの部屋に来て、詩を詠んでくれていたのに、それがぱったりと止んじゃって。また浮気してるのかと思って彼の後をつけてみたら……ねえ、あいつってばどこにいたと思う!?」

 

「図書館」

 

「んもう、タバサったら即答しないでよ! あのギーシュがよ? レイナールと一緒に、図書館に籠もって勉強してるのよ! ありえないわ!!」

 

「コルベール先生もよ。あたしが研究室を訪ねていっても、扉を開けてくれないの! そおっと中に入っても、ものすごく熱心に調べ物してて。話しかけてもうわの空。試しにジャン、なんて呼びかけてみてもね、ああ。とか、うむ。なんて生返事するだけなのよ!」

 

「キュルケ。あんた、もう先生のことファーストネームで呼んじゃうんだ……」

 

「いいじゃない、別に。前と変わらないのは、ミスタ・タイコーボーくらいかしらね」

 

「そんなことない」

 

 親友の言葉を、タバサが言下に否定した。

 

「ふうん。たとえば? あたしには、いつもと同じように見えるけど」

 

「彼の趣味は釣り」

 

「ねえ、タバサ。もう少しわかりやすく説明してくれないかしら?」

 

 少し苛ついたような表情のルイズに、タバサは言った。

 

「あなたは彼の釣り針を見たことがあるはず」

 

「え、ええ……あの、まっすぐな針、よね?」

 

「何よそれ。そんなんじゃ、魚なんか釣れるわけないじゃないの!」

 

 女子生徒の中で、唯一太公望の釣り針を見ていないモンモランシーが、素っ頓狂な声を上げる。ルイズとキュルケも、そういえばと顔を見合わせた。

 

「彼があの針を使うのは、魚を傷付けるのが嫌だから」

 

「つまり、例の公式発表を聞いた彼は周りには何でもないように見せかけているけど、実は落ち込んでるって言いたいの? 魚を傷付けるのを怖がるくらいに優しいひとだから、自分の献策のせいで敵軍とはいえ大勢の兵士が死んだことに対して責任を感じていると」

 

 キュルケの補足に、タバサはコクリと頷いた。それを見たルイズが声を上げる。

 

「そんな! ミスタは何にも悪くないわ。だって、お城に火を放ったのは……」

 

「声が大きい」

 

「う~」

 

 タバサは注意深く周囲を伺うと、仲間たちにしか聞こえない程度の小声で言った。

 

「彼は、近いうちにトリステインとアルビオンが戦争になると話していた」

 

「嘘でしょ!? アルビオンとは、ついこのあいだ不可侵条約を結んだって聞いてるわ! それにもうすぐ冬よ。こんな時期に戦争なんか起きるわけないじゃない」

 

 モンモランシーの反論に、タバサは小さく首を振った。

 

「今度の相手は、そういった心の隙をついてくるのが巧いと言っていた」

 

 キュルケも、その発言に賛同した。

 

「言われてみれば『王権打破』を宣言してるあいつらが、自分から停戦を申し出てくるなんて、おかしな話なのよね。『レコン・キスタ』の理念を思いっきり否定するようなものだもの。つまり、冬に備えているように見せかけて、油断させるための策ってことよ」

 

「じゃあ……やっぱり、もうすぐ戦争になるのかしら」

 

 テラスの外、手入れの行き届いた庭を眺めながら、ルイズは呟いた。視線の先で、同級生たちがボール遊びに興じていた。魔法を使い、ボールに一切手を触れず木に吊り下げた籠に入れて得点を競うゲームだ。平和な光景――これがまもなく破られるなど、彼女には信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 

「だから、ギーシュも真面目に本なんか読み始めたのかしらね?」

 

 モンモランンシーは思わずため息をついた。彼女の手元にあるハーブティはすっかり冷めてしまっている。代わりの茶を側にいたメイドに注文した後で、キュルケは言った。

 

「ふたりとも『ライン』クラスの中ではかなり優秀な部類だと思うんだけど……それだけじゃ足りないって、思い詰めてるのかもしれないわ」

 

「ありえる」

 

 キュルケとタバサの言葉を聞いたルイズは項垂れた。

 

「もしかして、サイトもそうなのかしら」

 

 本物の戦場を見て、かなりショック受けてたみたいだし。そんなふうにあのときの才人の姿を思い出しながら。

 

 ルイズはこれまで以上にしっかりと才人の様子を観察していた。その理由については、まだ完全に認めるまでには至らなかったが。

 

「先生も……なのかしらね。あ~、もう! なんだかあたしまで切ない気分になってきたわ。いやあねぇ! 戦争なんて、本当にいやだわぁ! そうは思わなくって?」

 

 キュルケは集まった女性陣の顔を見回した後、大げさに嘆いて見せた。残る少女たちも、まったくもって彼女と同意見であった。

 

 ――いっぽう、彼女たちの噂の一画を占めていた『図書館籠もり組』はというと。

 

 彼らふたりは確かに思い詰め、勉学に勤しんでいた。だが、その内情はというと……彼女たちが考えていたものとはまた違っていた。

 

「逃げるほうが、玉砕するよりも敵に大きな損害を与えるだなんて……ぼかぁ今まで、考えてもみなかった。貴族たるもの、ただ真っ直ぐに杖を構えるだけでいい。そう思ってた」

 

「戦略的撤退の有効性は認めていたけれど……それを、まさか自軍の自爆で無理矢理覆すなんて、ぼくには想像すらつかなかったよ。真似したいとまでは思わないけどね」

 

 ギーシュとレイナール。ふたりの少年は顔を見合わせると、力無く笑った。

 

「なんというかだね。ぼくたちは、とんでもないものを見てしまったとは思わないか」

 

「うん。ああいうのを、本物の『盤上の読み合い』って言うんだろうね」

 

「ここだけの話だがね。彼のメイジとしての実力はともかくとしてだ、東方軍の元帥とか、伝説の参謀だとかいうアレは、正直なところ眉唾物だと思っていたんだ」

 

「奇遇だね、ぼくもだよ。だけど、今はもう信じるしかないよね」

 

「ああ。見た目はぼくたちと変わらないんだけどなあ……」

 

 それからしばしの間、ふたりは黙って読書に集中していたが――ややあって、ギーシュがぽつりと呟いた。

 

「ぼくも、今からしっかり勉強しておけば……いつかは彼らのように、戦場の中だけではなく、外の世界まで見渡せるようになるんだろうか」

 

「やっぱりギーシュは軍人――それも、指揮官を目指してたんだね」

 

「それ以外の『道』なんて、想像したこともないよ。そういうきみはどうなのかね?」

 

「あれ、言ってなかったっけ? ぼくも軍志望だよ。ただし、参謀室が目標だけど」

 

 レイナールの言葉に、ギーシュは破顔一笑した。

 

「なら、いつかふたりで轡を並べて戦う日が来るかもしれないね」

 

「酷いなあ。ぼくはそのために、今こうして一緒に勉強しているつもりだったんだけど」

 

 くすりと笑ったレイナールに、ギーシュは気まずげに頭を掻いてみせた。

 

「に、してもだね。やはり、魔法学院の蔵書の中には軍学書が少ないな」

 

「それは仕方のないことだと思うよ。ここは士官学校じゃないんだから」

 

「今度、父上にお願いして軍事教練書を何冊か送ってもらおうかな」

 

「と、いうかさ。ミスタ・タイコーボーが書いてくれた教本、ぼくにも貸してよ」

 

「あ~、あれなんだがね。実は兄上に取り上げられてしまって、手元にないんだ」

 

「ええ~ッ、どうしてだい!?」

 

 ぽりぽりと頬をかきながら、ギーシュは答えた。

 

「ほら。夏休み中に、うちの領地で妖魔が大暴れしただろう?」

 

「うん」

 

「そのときに、ぼくの『ワルキューレ』を見た兄上が、今まで見たことのないゴーレムの運用法だ、いったいどこで覚えたんだって問い詰めてきてだね」

 

「ああ……それで、見せちゃったんだ」

 

「そうなのだよ。魔法学院へ戻る前には返してくれる約束だったのに……」

 

「返却されてこないんだね」

 

「まったく。我が兄ながら困ったものだよ」

 

 ――これよりしばらくして。

 

「この本が『基礎編』なのだから、つまり『応用編』もあるわけだな!?」

 

 ……などと、3人の兄はおろか父親からも突っ込まれたギーシュが、太公望に何度も頭を下げて続きの執筆を依頼する羽目になるのだが……それはまた、別の話。

 

 

○●○●○●○●

 

 どんよりとした曇り空を見上げながら、ひとりの少女が深くため息をついた。

 

「はあ……」

 

「もう五回目ですよ、シスター・ティファニア」

 

「ひうっ、ご、ごめんなさい……」

 

 修道女の格好をした金の髪の少女がびくりと身体を震わせた。彼女のすぐ隣にいる、これまた修道服を身につけた年若い女性が思わず苦笑する。

 

「謝るようなことではありません。ですが、あなたがずっとそのような顔をしていたら、子供たちが不安を覚えてしまいますわ」

 

「そ、そうですね。気をつけるようにします、シスター・リュシー」

 

 帝政ゲルマニアの首府・ヴィンドボナの郊外にある、小さな修道院。

 

 そこには、かつてウエストウッドと呼ばれた村から逃げ出してきたハーフエルフの少女・ティファニアと子供たち、彼女たちの『守り手』として改めて雇われたシスター・リュシーが肩を寄せ合い暮らしていた。

 

 リュシーの〝変相(フェイス・チェンジ)〟によって耳の形を変えられた――顔全体よりも一部のほうが消耗する精神力が少なく、魔法の効果が長持ちするためだ――ティファニアは、生まれて初めて広い外の世界に出た。

 

 当初こそ、世間知らずが故のトラブルも多かったが……今ではリュシーや子供たちと共に町へ出て買い出しができる程度には新たな生活に馴染んでいた。その美しさと胸部の凶悪なまでの豊満さが故に、あからさまな視線を投げて寄越す者もいた。しかし、その身に纏った修道服が、ティファニアを数多の危険から守ってくれている。

 

 いくら情熱的なことで有名なゲルマニア人でも『始祖』ブリミルの敬虔なしもべたる修道女に手を出すなど、罰当たりにも程があるからだ。これは当初、リュシーからマチルダに提案した偽装のひとつだったのだが、彼女の想定以上に上手くいっていた。

 

「それにしても、マチルダ姉さん……本当に大丈夫かしら」

 

「やはり、心配ですか」

 

「ええ。アニエスさんがついて下さってはいるけれど……たったふたりで、まだ戦争が終わったばかりのアルビオンを見に行くだなんて……」

 

 と、そこへ遠くから大勢の子供たちがふたりを呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「テファ姉ちゃん! リュシー姉ちゃん!」

 

「おつとめのじかんだよ!」

 

「おてがみ! おてがみ! みんなでかくの!」

 

「今日はフクロウさんが二羽来たよ! 片方は、マチルダ姉ちゃんからだよ!!」

 

 ティファニアの顔が、その背に流れる髪のように輝いた。そんな彼女や子供たちを見つめながらリュシーが微笑んだ。ティファニアたちと出会った頃とは別人のように穏やかな顔をしている。

 

「あなたたち姉妹やここにいる子供たちには、本当に感謝しているのですよ。もしも、あのまま祖国に残っていたら、きっと今頃は――」

 

「えっ?」

 

「いいえ、なんでもありません。さあ、わたくしたちも仕事を始めましょうか。シスター・ティファニア」

 

「はいッ、シスター・リュシー」

 

 今、ティファニアたちが請け負っている仕事とは、現在の暮らしぶりや、子供たちが首府ヴィンドボナで聞いてきた数々の噂話、姉が各地から集めてきた情報を手紙にまとめ、トリステインに住む『雇い主』のところへ送ることだ。

 

 子供たちに文字を教えながら、共に手紙を書く。既に毎日の習慣となっているこのやりとりは、諜報活動の一環でありながら、端から見ると微笑ましい文通のようであった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――刻をほぼ同じくして。

 

 トリステインの王都中央部に立つ大劇場『タニアリージュ・ロワイヤル座』では最近若い男女の間で流行の芝居が上演されていた。

 

 異国の王子と王女が身分を隠したままに出会い、惹かれあうという、割とありがちな台本であったのだが――結末がハッピー・エンドではなく悲劇であるという物珍しさが話題となり、連日大入り満員の大盛況となっていた。

 

 誰もが夢中になって、繰り広げられる演劇に意識を集中している中で。全く舞台を見ていない者たちがいた。

 

 ひとりは銀色がかった金髪に白髪が混じった初老の男性貴族だ。彼を知る者が見たら、ほぼ間違いなく驚きの声を上げたであろう。もしかすると、仕事熱心なことだと感心したかもしれない。

 

 この男の名はリッシュモン。法の名の下に裁判を執り行う他にも、劇場で公演される歌劇や各種文学作品などの検閲、平民たちの生活を賄う市場の取り締まりなど、行政全般を司る高等法院の長である。

 

 ふたりめは簡素でありつつも上品な私服に身を包んだ、これまた銀髪と美髭の見事な若い貴族――近衛衛士隊グリフォン隊の隊長・ワルド子爵であった。

 

 残るひとりは目立たぬ格好をした商人風の若い男。彼らはゆったりとした座席に並んで腰掛け、密談に勤しんでいるのだ。

 

「で、近衛衛士隊の練度は?」

 

 そう商人風の男が問えば。

 

「マンティコアを中間とすれば、グリフォンが頭ひとつ抜けております。逆に、ヒポグリフが新人の多さゆえか、上手く統制が取れておりません。狙うならばそこでしょうな」

 

 ワルド子爵が淀みなく答える。

 

「艦隊の建造には、少なくともあと三ヶ月はかかる見通しだと聞いたが?」

 

「同じく。ほぼ間違いない情報と見てよろしいでしょう」

 

 リッシュモンの問いに、ワルドが同意を示す。

 

「ふむ、なるほどなるほど」

 

 ふたりの貴族の言葉に、商人が満足げに頷く。

 

 小声で幾度となくそんなやりとりが交わされた後、商人風の男がふたりの貴族に小さな袋を渡した。彼らは、袋の中を覗いてみた。そこにはぎっしりと金貨が詰まっている。

 

「それにしても……劇場で接触を図るとは、考えましたな」

 

 商人がそう囁くと、至極満足げな表情でリッシュモンが答えた。

 

「密談をするのは人混みの中に限る。ましてやここは小声で話をするのが当たり前の場所。なにせ芝居の最中ですからな」

 

 感心しきりといった体で、ワルドが同意を示す。

 

「たしかに。どこぞの小部屋などで行えば、それこそよからぬ企みが行われているなどと喧伝するようなものですからな。さすがはリッシュモンさま、勉強になります」

 

「子爵。きみはまだ若いが、なかなか見どころがある。これからは目をかけてやろう」

 

「なんと、それは誠でございますか! 有り難き幸せ」

 

 そんなふたりを見て、商人風の男が笑う。

 

「ははは。我らが親愛なる皇帝陛下は、おふたかたが提供してくださる情報にいたく感心を寄せられています。雲の上までお越しいただければ、勲章を授与するとの仰せでした」

 

「アルビオンの皇帝陛下は、豪毅ですなあ」

 

「ええ。見かけだけは豪奢でも中身の乏しいトリステインとは、そこが違う」

 

「なに。まもなくこの国も、同じ名で呼ばれることになりましょう。あなたがたの熱心な助力のおかげで」

 

 そう言うと商人風の男は立ち上がり、劇場の外へ出ようとした。ところが、リッシュモンがそれを引き止める。怪訝な面持ちで男が訊ねた。

 

「他に何かご用でも?」

 

終劇(カーテンコール)はそろそろです。どうせなら最後まで見ていきませんか」

 

 

 ――上演終了後。

 

 劇場を後にしたワルドはまっすぐ宿舎にある自室へ戻ると、今日の出来事を整理した。

 

 彼が『レコン・キスタ』に渡した機密情報は全てラ・ヴァリエール公爵から流しても構わないと言われ、手渡されているものである。あえて防衛体制の隙を見せることで、敵の狙いを特定の箇所に集中させるというのが彼らの目論見だ。

 

(公爵閣下と学者殿の見立て通り、降臨祭の前に『レコン・キスタ』が攻め寄せてくるのはほぼ確実だろう。だからこそ、連中は防衛に関する機密情報にここまでの金を出してくるのだ)

 

 手元にある金貨の袋を見つめながら、ワルドはひとりごちた。正直なところ、彼の心はかすかに揺れていた。もちろん、機密情報と引き替えに手にした報酬に対してではない。もしやすると『レコン・キスタ』には本当に『聖地』へ向かうだけの実力があるのではないか、そう思えたからだ。

 

 ただ、彼の中にある軍人としての勘がそれに待ったをかけていた。確かに、常識では考えられない速度でアルビオン王国を陥とした彼らに尋常でない〝力〟があるのは間違いないだろう。しかし――その軍事行動の詳細はというと、実にお粗末極まりない。まるで素人の寄せ集めのようだ。『有能な貴族の連盟』が聞いて呆れる。

 

(特にニューカッスル城の最終決戦。城内に誘い込まれた挙げ句に五千もの損害を出すなんて話にならない。しかも、結局王族の死体も発見できなかったというじゃないか。万が一、彼らが逃げ延びていたらどうするんだ? 陸・空共に完全封鎖していたとはいえ、少人数ならば夜陰に紛れて何処かへ脱出できた可能性も充分にあるだろうに)

 

 それに、かの王国は別名『風の王国』とも称されるように優秀な風メイジを多数輩出することで知られている。〝遍在〟や〝変相〟などの風系統に属するスペルを巧く使いこなせば、自爆したように見せかけるのも、敵兵の間に忍び込み、自然に離脱することも容易であるはず。

 

 ワルド自身が風の『スクウェア』であるだけに、今回の件にはそういった穴が多数存在しているように感じられるのだ。

 

(もしも僕の想像通りなら。『レコン・キスタ』は自分たちの失態を、大勢の味方を犠牲にすることで無理矢理隠蔽したことになる。そんな奴らを信用するなんて、自殺行為だ)

 

 既に王党派は千を切っていたという情報を得ていたし、かつて彼らを支持していた者たちの生き残りは新政府樹立の際に、粛正されたとも聞く。よって、テューダー王家がアルビオン国内に潜伏して単独で力を蓄えるのは難しいだろう。

 

 だが、もしも彼らが国外に逃亡していたら。それも、ガリアやゲルマニアなどの強国に保護されていたとしたら。正統な『王権』を盾に、大軍を率いて戻ってくることも充分ありえるのだ。そうなれば、聖地奪還など夢物語と化すに違いない。

 

 ワルドは、ふいにあの商人に身をやつした男が口にしていた「アルビオンへ来れば、皇帝自ら勲章を授与する」という言葉を思い出した。

 

「実際にかの国へ行くことができれば、ある程度の見極めがつくのだが……こういうとき、近衛衛士隊の隊長という身分は足枷にしかならんな。実に面倒だ。仕方がない、また学者殿から知恵を借りるとするか」

 

 ここまで、彼の助言が外れたことはない。ワルドは、自身の信頼する有能な『頭脳』に向けて、フクロウを飛ばした。

 

 




各地の模様をとつとつと。

ところで空母レキシントンが実装されるって噂はマジですか。
砲が百八門、東方式の新型主砲搭載。
竜騎兵開発とか……レシピ想像できねえ(絶対違う)


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第82話 眠りし炎、新たな道を切り開くの事

 ――ギューフの月、上旬。

 

 アルビオンの港湾都市・ロサイスの端にある共和国空軍工廠(こうしょう)では、昼夜を問わずの突貫作業が行われていた。内戦で損傷したフネの修繕のみならず、新装備の搭載など――見る者が見れば、あきらかに次なる戦いを想定していると考えるであろう。

 

 そんな中でひときわ目立つのが神聖アルビオン共和国空軍艦隊旗艦『レキシントン』号だ。全長二百メイル超の巨艦の舷側から複数突き出た長砲身の大砲は、革命戦争中には実装されていなかったものだ。司令塔の窓からそれらを視界に入れた細身の男は、自分のすぐ側で佇む女性へ向けて、満足げに微笑んだ。

 

「なんともはや、素晴らしい砲ではないかね。設計士の計算によると、トリステインやゲルマニアの戦列艦が標準装備しているカノン砲の約一.五倍の射程を有するとのことだ」

 

「はい、まことに。東方の技術はこれほどまでに進んでいるのですね。設計図を拝見した時には、本当に驚かされましたわ」

 

「だが、その技術を模倣し、ここまで早く実現することができたのは、きみをはじめとした優秀な土メイジたちの助力があってのことだよ、ミス・サウスゴータ」

 

 アルビオン皇帝オリヴァー・クロムウェルは、傍らに立つ女性――ミス・ロングビル改めマチルダ・オブ・サウスゴータに向けて感謝の言葉を述べた。

 

「とんでもありません。閣下はわたくしどもの代わりに悲願を達成して下さったのです。帰国早々その閣下のお役に立てるだなんて。まさに『始祖』のお導きですわ」

 

「サウスゴータ家は、モード大公粛正の際に――」

 

「……はい。連坐責任を問われ、両親は断頭台の露と消えました。残されたわたくしは貴族の地位のみならず、家名までも剥奪され……国外へ追いやられたのです」

 

「あの悲劇が全ての始まりだったのだ。ロンディニウム管区教会の大司教だった余が、テューダー家の理不尽な横槍によってその座を追われたのも……あの時だった。で、あればこそ、余ときみは志を同じくする『ともだち』になれるとは思わないかね?」

 

「そんな、ともだちなどと……もったいないお言葉ですわ。どうか、わたくしのことはただの部下として扱って下さい。閣下はすでに、このアルビオンを統べる皇帝なのですから」

 

 マチルダの台詞に、クロムウェルは笑った。

 

「この余とて、元は一介の神官に過ぎぬ。しかしながら、貴族議会の投票により議長と皇帝の地位を任されたからには、微力を尽くさねばならない。そのためには、ひとりでも多くの『ともだち』が必要なのだ。余には果たすべき使命があるのだから。それが何かわかるかね? ミス」

 

「『聖地奪還』でございますね?」

 

 クロムウェルは大きく頷くと、激しい身振り手振りを交えながら、まるで聴衆を前に演説をするかのような大声で語り始めた。

 

「そうとも。『聖地』だ! 我々選ばれし貴族たちは鋼の結束によってひとつとなり、忌まわしきエルフどもから『聖地』を取り戻す! それが『始祖』ブリミルより余に与えられし使命なのだ! その偉大なる使命のために『始祖』は余に〝力〟を授けられたのだから!」

 

 マチルダの眉がぴくんと跳ねた。しかし彼女はすぐさま戸惑ったような顔をすると、目の前の男に問うた。

 

「『始祖』が閣下にお与えになった〝力〟とは? あ、いえ、出過ぎたことをお聞きしました。どうかお忘れ下さい」

 

 だが、そんな彼女の態度が皇帝のお気に召したようだ。にっこりと微笑むと、クロムウェルは口を開いた。

 

「魔法の四大系統はご存知かね? ミス・サウスゴータ」

 

 そんなことはメイジであれば子供でも知っている。相手によっては侮辱とも受け取られかねないその問いに、マチルダは笑みを浮かべながら答えた。

 

「はい、閣下。土、水、火、風の4つですわ」

 

「その四大系統に加え、魔法にはもうひとつの系統が存在する。それは『始祖』が用いし零番目の系統にして、万物の元となる魔法だ。余は、その〝力〟を『始祖』ブリミルより授かった。なればこそ、貴族議会は満場一致で余を『レコン・キスタ』の総帥とし、ハルケギニアを統べる皇帝にすべしと決定したのだよ」

 

「『始祖』の……ま、まさか、あの失われた伝説の系統が、閣下の……?」

 

 クロムウェルは不気味な笑みを浮かべながら頷いた。

 

「ついてきたまえ、ミス・サウスゴータ。貴女に〝虚無〟の系統をお見せしよう」

 

 神聖皇帝自ら案内された先は、かび臭い暗室の中だった。そこに置かれていたものを視界に捉えたマチルダは思わず顔を引き攣らせた。

 

「本来であれば、うら若き女性に見せるようなものではないのだがね……失礼するよ」

 

 それは棺の中に納められた死体だった。人形などではない、本物の。おそらくは王党派に与していた貴族であろう男性の胸には致命傷とおぼしき裂傷が刻まれ、身につけている衣服のそこかしこに赤黒い染みがこびり付いていた。

 

「余はアルビオンのすべての貴族を知っておる。系図や紋章はもちろんのこと、土地の所有権に至るまで、大司教時代に余すことなく諳んじたのだ。今、目の前で眠るこの男についても」

 

 クロムウェルは腰に差していた杖を引き抜くと、低い声で詠唱を開始した。それはマチルダがこれまで聞いたことのない言葉であった。呪文が完成すると、クロムウェルは優しい仕草で、杖を死体に振り下ろした。

 

 すると――冷たい骸であったはずの貴族の瞳が、ぱちりと開いた。青白かった顔に、みるみるうちに血の気が戻っていく。それからすぐに、死体であったはずのものがゆっくりと身を起こすのを目撃するに至ったマチルダは、糸の切れた操り人形のようにへたりと地面に尻をついてしまった。あまりのことに、さすがの彼女も腰が抜けてしまったのだった。

 

「おはよう、男爵」

 

 声を掛けられた元死体はクロムウェルに向かって微笑んだ。

 

「おはよう、クロムウェル大司教」

 

「今の余は大司教ではない。皇帝なのだよ、男爵」

 

「そうでした。これは失礼をば致しました、閣下」

 

「きみを余の『ともだち』に加えようと思うのだが。男爵」

 

「喜んで」

 

 膝をついて臣下の礼をとった男爵を満足げに見遣ったクロムウェルは、すぐ後ろで呆然と床にへたり込んでいたマチルダに近寄ると、苦笑しながら手を差し伸べた。

 

「すまんすまん、やはり怖がらせてしまったようだね。さあ、手を貸してあげよう」

 

 震えながらクロムウェルの手をとったマチルダは彼の助力によって立ち上がると、畏怖に満ちた声で尋ねた。

 

「し、死者が蘇るだなんて……もしや、これが……?」

 

「その通りだ。〝虚無〟は『生命』を司る系統なのだよ」

 

「『生命』を……司る……」

 

 クロムウェルは、マチルダの顔を見て不気味に笑った。

 

「数多の生命が『聖地』に降臨せし『始祖』によって与えられたとするならば、全ての人間は〝虚無〟の系統で動いているとは言えないかね?」

 

 マチルダは思わず胸を押さえ、心臓の鼓動を確かめた。彼女はふいに、自分が間違いなく生きているという実感が欲しくなったのだ。そんな弱さを見せつつも『土くれ』としての鋭い目は、クロムウェルの指に填められている、古びた指輪を捉えていた。

 

 

○●○●○●○●

 

「あれが、わたしたちが探していた『お宝』で間違いなさそうよ。こうもあっさり懐に飛び込めるだなんて、これも新型カノン砲とやらのおかげだね」

 

 ロサイスの一画にある宿に戻ったマチルダは〝魔法探知〟で周囲に魔法による目や耳がないことを確認すると、彼女付きの護衛という触れ込みでアルビオンに同行していたアニエスに、昼間見たものを余すことなく伝えた。

 

 アルビオンの港町スカボローから、マチルダの故郷であるシティ・オブ・サウスゴータに辿り着いたふたりはそこで情報収集をしていた際に、ロサイスの国立空軍工廠で優秀な土メイジを広く募集していることを知り、この地へやって来たのだ。

 

 土メイジが集められた理由。それはもちろん内戦によって傷ついた船の修繕、そして東方からもたらされた知識によって設計されたという、新型カノン砲鋳造のためだった。

 

 革命戦争によって疲弊し、高位のメイジを大幅に減らしていた貴族派連盟は、中でも貴重な土の『トライアングル』であるマチルダを諸手を挙げて歓迎した。

 

 さらに、マチルダの実家がテューダー王家によって滅ぼされたという事情を多くの貴族たちが知っていたことが功を奏し、なんと皇帝自ら『レコン・キスタ』へ勧誘してくるという副産物までついてきた。まさに新型カノン砲さまさまだ。

 

 彼女にとって、クロムウェルは実家の恨みを間接的に晴らしてくれた恩人ともいえる存在だが、それと仕事とはまた別なのであった。

 

 マチルダの話を聞き終えると、アニエスは形の良い眉根を寄せて言った。

 

「それにしても、死体を蘇らせて操るなど……おぞましさもここに極まれり、だな」

 

「演技のつもりが、本当に腰抜かしちゃったわよ! あれじゃあ、周りの貴族どもがクロムウェルを担ぐのも無理ないわね。いや、もしかすると、とっくに貴族議会は全員『ともだち』にされてるのかもしれないわ」

 

 ぶるっと震えたマチルダに、アニエスが不安げな声で訊ねた。

 

「まさかとは思うが、お前も『指輪』で操られていたりはしないだろうな?」

 

「だったら、こんな話を出したりすることなんて、できるはずないでしょ。でも、意外ね。あんたがそんな声を出すなんて」

 

「うるさい。わたしにだって、嫌悪を感じることはある」

 

 ふて腐れたように口を尖らせる女傭兵を見たマチルダは、思わず吹き出してしまった。

 

「笑うな! しかし、本当に大丈夫なのか? わたしはこのまま深入りを続けるのは危険過ぎると思うのだが。そもそも、依頼主もアルビオンへの潜入は反対していただろうに」

 

「あら、心配してくれてるの?」

 

「当たり前だ。お前にもしものことがあったら、残された子供たちはどうなるんだ!」

 

 いきり立つアニエスに、マチルダは静かな声で告げた。

 

「だからこそ、やらなきゃいけないのよ」

 

「なに!?」

 

「あんただって、よく知ってるでしょう? 戦争が、いったい何を生み出すか。あの子たちはね、身勝手な理屈で戦い続けてるあの馬鹿どものせいで、住む場所も、親も失ったのさ。この戦いが続けば、同じような子供たちがもっと増えるわ。これはね、わたしたち家族全員にとっての復讐でもあるんだよ」

 

 その言葉に、アニエスはぎりっと唇を噛んだ。女だてらに傭兵などという荒々しい職業に就いているのも、すべては過去の清算のため。形こそ異なるものの、マチルダやあの子供たちと同様、理不尽な戦いに巻き込まれて家族も、故郷も……全てを失っていたから。

 

「『レコン・キスタ』の中枢にいれば――トリステインの王軍にいる『裏切り者』を見極めやすくなるわ。その中には、きっと……」

 

「わかっている。わたしの故郷をロマリアに売ったという貴族も、きっといる。いや、いないはずがないんだ。金のために平然と村ひとつ滅ぼしたくらいなのだから」

 

 幼い頃は何もわからなかった。だが、成長して剣と銃をとり、傭兵となったアニエスは『裏側』に触れることで、ついに知るに至ったのだ。彼女の故郷が、王軍によって焼かれたのは――当時、新教徒への弾圧を強めていたロマリア皇国が、トリステインの上層部にいる貴族に裏金をちらつかせて行わせた『新教徒狩り』であったのだと。

 

 彼らはロマリアから逃げ込んだ新教徒たちを殲滅するために、無関係の村人たちをも虐殺したのだ。ただ、己の懐を暖めるためだけに。

 

 そんな腐りきった貴族が、国難の際にどう動くか。ほぼ間違いなく、保身に走る――圧倒的優位に立つ『レコン・キスタ』に国を売ろうとするだろう。アニエスは、そう考えていた。だからこそ彼女はマチルダと共にアルビオンを訪れ『レコン・キスタ』に身を投じたのだ。

 

 サイドテーブルの上に置かれていたワインとグラスを手に取り、マチルダは言った。

 

「その通り。だから、わたしたちは――」

 

「目的を同じくする、同志だ」

 

 それに答えたアニエスの手にあるグラスへ、血のように紅い液体が注がれた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――空の上で、ふたりの女性が酒杯を交わし、盟約を結んでいたころ。

 

「はあ……」

 

 トリステインの魔法学院の女子寮で、才人が何度も何度も、繰り返しため息をついていた。彼の頭の中は現在ひとりの女の子に関することで、いっぱいになっていたのだ。それ以外のことなど、考える余裕すらなかった。

 

(俺、ほんとにどうしたらいいのかな。異世界からピンポイントで召喚されるとか、ぶっちゃけもう運命としか思えねえくらいなんだけど、でもなあ……)

 

 再びため息をついた才人は、窓から外を見る。

 

(もういい加減、覚悟決めなきゃいけないのはわかってんだけどさ。またあの時みたいなことになったら、今度こそ冗談ヌキで立ち直れないんですケド……)

 

 心の中でそう呟いた才人は、かつて自分が盛大にやらかしてしまった失敗を思い起こした。

 

 それは才人がまだ中学生の時――二月十四日に起きた事件(ひげき)

 

 彼の出身地である日本では、毎年その日になると『女の子が、想い人にチョコレートを渡して愛の告白をする』などという、一部の人間には甘く、そうでない者には塩辛過ぎるイベント『バレンタインデー』なるものが発生する。

 

 思春期まっただ中の才人少年が、そんな一大イベントを忘れるはずもなく。朝、いつもより早い時間に起きるやいなや、放たれた矢のような勢いで学校へと向かった。

 

「下駄箱に手紙と一緒に入ってる、とか、ベタ過ぎるけど憧れるよなあ。去年はダメだったけど、今年は一個くらいあるよな! そしたら俺、どうしようカナ! カナ!!」

 

 だがしかし、そんな期待も虚しく下駄箱の中には上履き以外には何もなかった。

 

「ああ、うん。わかってた。わかってたよコンチクショー!」

 

 だばだばと涙を流し、周囲にドン引きされながら教室へ到着した才人はいつものように鞄から取り出した筆記用具と教科書を机の中に詰め込もうとして、異変に気付いた。何かに引っかかってしまい、入らないのだ。昨日は間違いなく空っぽだったはずで――。

 

「も、も、もしかして……?」

 

 どきどきと高鳴る心臓を抑えながら、机の中を覗き込んでみると――そこには可愛らしくラッピングされた小箱がひとつ入っていた。

 

「こ、こ、こ、ここ、ここここここ」

 

「なんだよ平賀、鶏みたいな声出して」

 

 隣に座っていた同級生が、怪訝な面持ちで訊ねた直後。

 

「うおおおお――ッ!!」

 

 才人は教室中に響き渡るような叫び声を上げた。

 

 それまで、女の子からチョコレートはもちろんのこと、プレゼントなどもらったことのなかった才人は心の底から喜んだ。喜びすぎて、まるで天国への切符を手にした虜囚が如く、小箱を手にそこらじゅうを跳ね回った。

 

「今思えば、あそこまでにしておけば良かったのかもしれねえけど、あんときはほんとに嬉しかったんだよなあ。嬉しくて、嬉しくて、もうどうにもならなかったっつーか……」

 

 そう。叫び声を上げて、跳ね回ったところまではまだ良かったのだ。問題は、その後だ。才人は小箱を掲げ、とんでもない真似をしでかしてしまったのである。

 

「誰? ねえ、誰!? これ俺にくれたの誰! もう一生愛しちゃうよ!!」

 

 ……などと、聞いているほうが恥ずかしくなるようなことを叫んでしまったのだ。

 

 と、そこへひとりの女子生徒が名乗りを上げた。ちょっと地味目の子だったが、顔立ちは割と整っている少女だった。才人はすぐさま彼女にお礼を言おうとしたのだが――次の瞬間、彼は地獄へ叩き落とされた。

 

「ごめんなさい、入れる机……間違えた」

 

 そして、唖然としている才人からひったくるように包みを取り上げると、少女は教室の外へ小走りに去っていってしまった。

 

(あれ、照れ隠しだったのかなあ。それとも、本当に入れ間違いだったのかな。どっちなのか確かめる勇気なんか、なかったし)

 

 これで別の女子生徒からチョコレートがもらえていたりすれば、その後の展開も変わっていたのだろうが――運命とは実に残酷で。

 

 その日の夕方。いつも通り、教科書と筆記用具以外には何も入っていない学生鞄を抱えて自宅に戻った才人は、部屋の片隅でひとり布団にくるまって泣いた。

 

(あれから、どうにも怖くなっちまったんだよなあ。気になる子がいても、声かけづらくなったっつーか、つい意地悪したくなっちまうってか……小学生かよ、俺は!)

 

 とはいえ、異性にはものすごく興味があるし、彼女が欲しい。そんな才人が思い余った末にとった行動はというと――。

 

(出会い系サイトに、メアド登録したんだっけ。そういや、メール届いてるのかな。ここからじゃ確かめようがねえけど)

 

 才人は折りたたみベッドの脇で埃をかぶっているノートパソコンに目を向けた。既にバッテリーの充電は切れ、起動させることすらできない。そもそも異世界からインターネットが繋がるとも思えない。才人は三度ため息をついた。

 

(ったく、こんなんで『伝説の勇者候補』とか! 笑っちまうよな。ただ好きな女の子に告白するってだけで、動けないんだぜ? 絶対選ぶ基準おかしいって!!)

 

 だがしかし。伝説だろうとなんだろうと、怖いものは怖いのである。

 

(ルイズに好きだって告白して、断られたらどうしよう。それどころか『キモイ』とか言われたりしたら……いや、絶対そうなる。んで、犬に逆戻りだ。わん。そんでもって部屋の外に追い出されて、きゅんきゅん鳴いてゴシュジンサマにお慈悲を願う俺……)

 

 才人の思考は、またしても底なしの泥沼に沈みかけていた。

 

(ここへ来た頃みたいに、使い魔に見られても気にしないわ! なーんて言いながら、いきなり目の前で服脱いだりしなくなったし、いい加減男として認められては……って、単に使い魔から従者にランクアップしたから、かなあ……でもでも、だいぶ仲良く話とかできるようになったし……ってそれは単に、俺が側にいるからってだけだよなあ……)

 

 ――彼にヌケているのは注意力だけではない。そっち方面の勘も大概だった。

 

 そんな才人の心を揺り動かしたのは、アルビオンの勇敢な皇太子ウェールズだった。

 

 アルビオンからの帰り道。ウェールズと語り合った才人は激しい衝撃を受けた。王子の秘めた覚悟はもちろんのこと――彼が見せた、愛するひとへの心遣い。それに比べて、俺の心の奥底にあった、ルイズに対する身勝手な想いはなんなのだと。

 

『俺はこれだけ頑張って守ってやってるんだから、好きになってくれて当たり前』

 

 そんなふうに考えていた自分に気付き、心底嫌気が差したのである。だからこそ、きちんと「好きだ」と告白して、その上でルイズを守ろうと才人は決めた。別に、玉砕したっていい。王子さまも言ってたじゃないか。真実の愛には、見返りを求めるべきじゃないって。

 

(けどなあ……)

 

 実際に行動に移そうとすると……やはり、はじめの一歩が踏み出せない。今、ふたりの間にある良好な関係が壊れそうで、それが怖くてたまらなかった。

 

 ぼけっと外を眺めながらそんなことを考え、時折ルイズのほうを見る。視線が合うと、慌てて顔を逸らす。アルビオンから戻って以降、才人はずっとこんな調子であった。ルイズが不安に思うのも無理はない。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――かたやルイズのほうはというと。

 

(サイト……やっぱり、まだ戦場を見たショックから立ち直れないのね……)

 

 才人の挙動不審の原因をそう捉えていた。

 

 正直なところ、虚無の担い手である自分を守りし盾たる彼には、もっとしっかりして欲しいと思う。出会ったばかりの頃なら、いい加減煮え切らない態度にイラついて、

 

「いい加減にしなさいよ、このバカ犬!」

 

 などと叫んで、蹴りのひとつも入れていたかもしれない。しかし、それを望むのは酷なことなのだと考える自分も、ルイズの中に存在していた。

 

(サイトの故郷って、確か六十年以上戦争も内紛も起きてない、平和な島国なのよね……)

 

 紛争が日常茶飯事といっても過言ではないハルケギニアとはまるで事情が異なるのだ。自分たちの常識に当てはめて、軟弱だなどと斬り捨てることはできない。

 

(わたしだって子供の頃は、国境の近くで小競り合いが起きたって聞いただけで部屋の隅で震えてたし、ニューカッスルのお城へ向かった時だって、強がってたけど……ほんとは怖くて仕方なかったもん。だけど……)

 

 いつまでも元気のない才人を見ているのは辛い。小さな胸の奥が、チクリと痛むのだ。早く元の明るさを取り戻して欲しいと思うのだが、ルイズにはいったい何をどうすればいいのかわからなかった。自分以外の誰か、それも男の子を元気付ける方法など、彼女は知らなかったから。

 

 才人を元に戻すための良い方法がないかどうか、誰かに相談しようという気にはならなかった。本人に聞くことすら思い浮かばなかった。ルイズはどうにかして、自分の手で才人を元気にしてあげたかったのだ。

 

(なんで、そんなふうに思うのかしら。誰かに手伝ってもらうのがイヤだから?)

 

 ルイズはさらに思考を深めてゆく。

 

(どうして、こんなにサイトのことが気になるんだろう? わたしってば最近、ずっとあいつのことばっかり考えてる。ちょっと前まで〝虚無〟のことであんなに悩んでたのに……バカみたい)

 

 けれど、ただただ不安の種にしかならなかった伝説の魔法と比べて、今回の件で才人が負ったであろう心の傷について心配するのは――なんだか胸がキュッとするのだ。

 

 それに……ルイズは実のところ、今の状況を悪くないと思っていた。

 

 もちろん、才人が元通り元気になって欲しいという思いは本物だ。ただ、それとは別に、誰にも邪魔されず、ふたりきりで部屋に閉じこもっていられるのが何だか妙に嬉しい。夏休みに屋敷で彼の看病をしていたときのような、静かな時間の中にいるのが心地よかった。

 

(わたし、ほんとどうしちゃったんだろう。あいつと一緒にいるだけで嬉しいとか……)

 

 ――次の瞬間。ルイズの脳内に電撃が奔った。

 

(まさか、これって、も、もしかして、わたし、サイトに恋してる、かもしれない?)

 

 そう心の中で呟いてみた途端――ルイズは顔が紅潮していくのを感じた。

 

(う、嘘よ。そそ、そんなこと、あ、あるはずないわ。だって、わた、わたしは貴族。公爵家の娘なのよ。サイトはただの平民で……な、ないわ! メイジと平民は狼と犬! ぜんぜん違うの! 絶対恋なんかじゃないもん! ただ、仲のいい男の子が心配なだけ! それだけ! ほ、ほら! わたしってば優しくって寛大な貴族だから!)

 

 う~ッと唸りながら窓の外を眺める才人の横顔を盗み見る。途端にルイズの心臓が跳ねた。

 

(けど、だったらこれは、なんなのよ……!)

 

 心の内で呟きながら、そっと胸に手を当てると……そこがどきどきと高鳴っているのがわかる。才人のことを考えるだけで、心の奥がぽかぽかと暖かくなってくるのだ。

 

 う~、とか、そんな、でも……などと頭の中で唸りつつも、ルイズはようやく自分が抱き続けてきた感情に、正面から向き合う覚悟をする。その途端、大きな重石を取り除いたかのように、心がすっと軽くなったような気がした。

 

(自分に嘘はつけない。つまり、そういうことなのよね……)

 

 わたしはサイトに恋してる。そう考えるだけで、なんだか頬が熱くなる。

 

(やだ、もう……わたしってば、いつからこんなことに……)

 

 生真面目なルイズは顔を赤らめながらも――過去の出来事を振り返りつつ、自分の気持ちを丁寧に分析し始めた。

 

(初めて魔法が爆発するところを見られちゃったときに、あいつが笑わなかったから?)

 

(それとも、お前はゼロじゃないって言って、励ましてくれたからかしら? 口調は今と同じでぶっきらぼうだったけど)

 

(ギーシュといさかいを起こした時かしら。わたしへの侮辱に本気で怒ってくれたわ。あいつ、名前すらろくに呼ぼうとしなかったわたしのために、決闘を受けて立ってくれたのよね。魔法が使えない、平民の彼が。まだ〝ガンダールヴ〟のことも知らなかったのに……)

 

(フーケのゴーレムに立ち向かおうとしたときも「主人の盾になるのが俺の役目なんだろ」なんて言いながらついてきてくれたわよね。足はちょっと震えてたけど)

 

(フリッグの舞踏会の日に「いつか、一緒に行こう」そう約束してくれたわ。本当に使えるようになるどうかもわからない、わたしの魔法を……ううん、わたしを信じてくれた……)

 

 そこまで思い出すに至って、再びルイズの頬は赤く染まった。そうだ、きっとあの時だ。わたしの心の片隅に、ほんのりと暖かいものが灯ったのは。

 

(サイトはわたしのことをどう思ってるのかしら? 意地悪で、わがままな女の子? それとも、自分勝手なご主人さま? わたしみたいな女の子のこと、どんな目で見てるんだろう)

 

 自分の本心に気付いた途端、ルイズは猛烈な不安を覚えた。彼女は幼い頃から抱え続けてきた劣等感のせいで自分に自信が持てない。その上、こんなにも長く一緒に過ごしているにも関わらず、才人の気持ちがちっともわからなかったから。

 

 大貴族の娘。大勢の召使いに傅かれるという周りから常に気を遣われる環境にあり、婚約者こそいたものの、異性とのお付き合いなどしたことがないルイズにとって、男の子――それも才人のような少年の気持ちを推し量ることなど、どだい無理な相談なのだ。

 

(わたしのために、いろいろ頑張ってくれてるのはよく知ってるけど。それって従者としての役目を果たしてるからってだけなのかしら。ねえ、そこんとこ、どうなの?)

 

 そんなことを考えながらふと顔を上げると、さっきまで窓の外を見ていた才人とばっちり目が合った。それがなんだか気恥ずかしくて、ルイズは思わず顔を背けてしまう。

 

 ……使い魔と主人。いろいろな面で、本当によく似た主従なのであった。

 

 気まずい空気が流れる中。コツコツと遠慮がちにドアをノックする音がした。この状況を打破してくれるものならなんでもいい。ルイズと才人は、奇しくも同時に扉へ向かって駆け寄ると――その手で鍵を開けた。

 

 ――ドアの外に立っていたのは、学院長から寄越されたメッセンジャーだった。

 

 

○●○●○●○●

 

「ミス・ヴァリエール。姫殿下の結婚式で詠み上げる(みことのり)の進み具合はどうかね?」

 

 ルイズは俯いた。その後、ふるふると首を振った。

 

「ふむ。どうやら、まだのようじゃな」

 

「も、申し訳ありません……」

 

 ルイズは酷く落ち込んだ。自分たちのことばかり考えて、詔の作成を完全に忘れていたことを恥じ入った。

 

(姫殿下は、わたしとの友情を大切に思ってくださっていたからこそ、巫女の大役を与えてくださったのに……)

 

 しかし、オスマン氏はルイズを非難するでもなく、顎髭に手をやりながら大仰に口を開いた。

 

「ま、そう急ぐこともなかろうて。式まではまだ半月以上ある。君の大切な友人の式なんじゃから念入りに言葉を選び、祝福してあげるといいじゃろう」

 

 その言葉を聞いたルイズは、何だか悲しくなった。幼なじみのアンリエッタは、トリステインの未来を守るために、国を出て好きでもない相手と結婚しなければならないのだ。それが王族としての務めであるとはいえ、姫君の悲しそうな笑みを思い出すと胸がぎゅっと締め付けられる。

 

 だが。今は、それとは別に気にかかることがあった。

 

「ところで学院長。ひとつお聞きしたいことがあるんですけど」

 

「何かね?」

 

「コルベール先生がいらっしゃるのはまだわかるんですが……どうしてここにエレオノール姉さまとミスタ・タイコーボーがいるんですか?」

 

 始祖の祈祷書とデルフリンガーを持って、ふたりで学院長室へ来るようにとの伝言を受け取り、才人と共にやって来たのはよいのだが……何故か件のふたりが待ち構えていたのだ。

 

「その件なのじゃが……コルベール君。例のものを」

 

「……かしこまりました」

 

 コルベールは頷くと、古びた小箱を持ってルイズの前へと移動した。その中に入っていたものを見てルイズは絶句した。

 

 血のように紅い宝玉の奥で小さく踊る炎。それは見覚えのある指輪の台座に留められていた。

 

「ここ、これは、まま、まさか……」

 

 ルイズは混乱した。始祖の秘宝。系統の指輪。どうしてこれが、ここにあるのか。

 

「それを確かめるために、彼らと君たちに来てもらったのだよ。さあ……」

 

 オスマン氏に勧められるままルイズは指輪を手に取ると、そっと自分の右手薬指に填めた。それからマントの内ポケットに仕舞い込んでいた始祖の祈祷書を取り出し、開いてみると――指輪と書物から淡く、紅い光が発せられた。

 

「あの時と同じ反応……やはり本物か」

 

 オスマン氏が唸る。コルベールの顔が陰る。エレオノールが息を飲む。太公望と才人はその光景をただ黙って見つめていた。

 

(祈祷書が光ったということは――つまり、呪文が読めるんだわ)

 

 以前の経験からそれを察したルイズは無我夢中でページをめくり始めた。そして、新たに浮かび上がっていた文字列を見出した彼女はその内容を声に出して詠み上げる。

 

「〝世界見の鏡(クレヤボヤンス・ミラー)〟。『空間』の中の序。此、遙けき世界の様を映す呪文なり。以下に、発動に必要な魔法語と媒体となる道具を記す」

 

「遙けき世界って……もしかして!」

 

「しッ、今はまだ黙っておれ」

 

 思わず興奮する才人を、太公望が静かにさせた。

 

 ルイズは思った。

 

(これはサイトの故郷を映し出す呪文なのかしら。もしかすると、彼を元気にしてあげたいってずっと考えていたから『始祖』はわたしに、この魔法を授けてくれたのかもしれないわ)

 

「学院長、そこにある鏡をお借りします」

 

 すっと杖を取り出したルイズは、それを指揮棒のように振りながら詠唱を開始する。

 

「ユル・イル・クォーケン・シル・マリ……」

 

 それは〝瞬間移動(テレポート)〟とは比べものにならない程に長い呪文だった。神に捧げる調べのような美しい古代のルーンが、ルイズの口から紡がれてゆく。

 

 約五分ほどの詠唱を終え、呪文を完成させたルイズは学院長室にあった『遠見の鏡』に向けて、静かに杖を振り下ろした。

 

 全員が息を飲んで見守る中。鏡面が淡く輝き出すと、唐突に光が消え――何かが映し出された。それは間違いなく、この部屋ではない別の何処か。高い塔が立ち並ぶ、異国の風景。

 

「こ、これ、新宿だよ……間違いない。あの、てっぺんが二本突き出たビル……東京都庁舎だ」

 

 才人の声を聞いて、全員が彼のほうを振り向いた。彼が知っている場所。つまり……。

 

「これが、サイトの故郷なの?」

 

 才人は〝世界鏡〟から視線を外さずに頷いた。ルイズは――いや、そこにいた全員が、鏡の中に映し出された光景を改めて見、そして目を奪われた。

 

 たくさんの塔が規則正しく立ち並んでいる。しかも、ただの塔ではない。その高さは王立アカデミーの学術塔はおろか、ハルケギニアのどんな建造物も及ばない。

 

 洗練された施工技術を伺わせる壁にたくさんのガラスが填め込まれ、日差しを受けてきらきらと光り輝いている。熟達した土の『スクウェア』の腕をもってしても、到底造り出すことなどできそうもない――まるで芸術作品のような塔だ。

 

 そんな塔が一棟だけではない。両手の指で数え切れないほど並び立っているのだ。

 

 このような建物が立ち並ぶ大都市など、ルイズはもちろんのこと、エレオノールも、オスマン氏でさえ見たことがない。コルベールは、以前『伏羲の部屋』で超文明世界の幻を目にしていたが、それともまた違っている。彼らは目を丸くして、ハルケギニアから遙か遠き世界の景色を見つめていた。

 

 太公望は『新宿』と呼ばれた街を見て、感嘆のため息を漏らした。

 

「才人の故郷は相当に文明が進んでおるようだのう。魔法もなしに、これほどの街を造ることができるとは」

 

「そ、そんな馬鹿な。ここ、こんな美しい塔の建造に、魔法が使われていないですって!?」

 

 太公望の言葉に動揺したエレオノールは、その場で才人を問い詰めようとした。だが、できなかった。何故なら、鏡の前に呆然と立ち尽くしている才人の両目から――ぽたり、ぽたりと大粒の涙が零れ落ちていたからだ。

 

 その理由はともかく、ただでさえ精神的に参っていたところへこの不意打ち。好きな女の子に見られている。そんなことを考える余裕すら、今の才人にはなかった。

 

 高い場所から見下ろすような視点ではあるものの、懐かしく、見慣れた景色。それが、才人が心の奥底に押し込めていた望郷の念を激しく刺激した。

 

 ルイズと一緒にいたい。大勢の仲間たちとこの世界で楽しく過ごしたい。それも才人の本心だ。けれど、家へ帰りたい、家族に会いたいと願う心は消えてなどいなかったのだ。

 

 両親の顔。東京都内にある自宅玄関のブロック塀と、沿うように並べられた植木鉢。毎日歩いていた通学路。いつも一緒につるんでいた親友。小言ばかり言う担任の先生。隣の席に座っていた同級生。そんなひとたちやモノの全てが、才人の脳裏に浮かんでは消えていく。

 

「味噌汁が飲みたい」

 

 最初に口から出てきたのは、切望。

 

「父さんと母さんに会いたい。クラスのみんなに……」

 

 水桶にかけられていた(たが)が外れ、中身が吹き零れてきたかのように、感情が次から次へと溢れ出してきて、才人はその場で無力な幼子のように泣くことしかできなかった。いつしか部屋は静まり返り、彼のすすり泣く声だけが小さく響いていた。

 

 それを目にしたルイズは愕然とした。

 

(やっぱりサイトは、故郷に帰りたいんだ。戦場へ行ったからってだけじゃない。平和な自分の世界を思い出して、元気をなくしていたんだわ。こんなに長い間、家族と離れ離れになってたんだもの……当たり前よね。それなのに、弱音ひとつ吐かずにわたしの側にいてくれた。わたしを手伝ってくれてた!)

 

 手にした杖を握り締める。

 

(なら、わたしがするべきことは、決まってる。彼の世界を視ることができたのだ、きっとこの本の中に、あそこへ行くための『道』がある。それを探し出せればサイトを家へ帰してあげられる。トリステインとアルビオンの戦争なんかに巻き込まないで済む)

 

 ルイズはこれ以上サイトを危険な目に遭わせたくなかった。『神の盾』がどうこうなんて、もう関係ない。

 

(だって、わたしはサイトのことが――)

 

 ルイズは一端魔法を停止すると、再び祈祷書のページをめくり始めた。だが、書かれているのは〝瞬間移動〟と〝世界見の鏡〟の呪文のみで、他のページは全て白紙だった。少女はぐいと振り向くと、才人に背負われたデルフリンガーに向かって抗議した。

 

「ちょっと、ボロ剣」

 

「なんだよ、娘っ子」

 

「あんた、前に言ったわよね? 心から必要とすれば、読めるって」

 

「ああ、そんなこと言ったっけな」

 

「間違いなく言ったわよ! なのに、わたしが今、本当に欲しい呪文が浮かび上がってこないのはどうしてなのよ!!」

 

 デルフリンガーはカチカチと鍔を鳴らした。何かを思い出そうとするかのように。

 

「う~ん、他にも何か条件があったような気がするんだが……忘れた」

 

「こッ……この……!」

 

 思わず拳を振り上げそうになったルイズを制止したのは太公望だった。

 

「もしかすると、だが……まだ足りないからなのではないのかのう?」

 

「足りないって?」

 

「わしがタバサに与えた『如意羽衣』を覚えておるだろう?」

 

「ええ、もちろん。先住の〝飛行〟と〝変化〟が込められた魔法具よね?」

 

 それを聞いたオスマン氏とエレオノールは、目を丸くした。飛行だけならばともかく、変化の効果まで備わっているマジック・アイテムなど、それこそ国宝級の品だからだ。

 

「実はな……あの羽衣には〝変化〟〝飛行〟の他にも特殊な効果が込められておるのだ。しかし、わしの力量が不足しておるせいで、それを引き出せないのだよ。タバサが〝飛行〟だけで〝変化〟できぬのと同じようにな」

 

「それってつまり……わたしの実力が、まだ『扉』を開くには足りてないってこと?」

 

「あくまで仮説だがのう。しかし、異界を視る『窓』を造り出すことができたのだから、もっと修行を積んで〝力〟の底上げをすれば、あるいは――」

 

「呪文が浮かび上がってくるかもしれない。そういうことね!」

 

 そんなふたりの推測を後押ししたのは、神学の研究者であるエレオノールだった。

 

「『始祖』の聖像は、全て両手を前に突き出す格好をしているわよね? あれは、かつて『始祖』ブリミルが『扉』を開いてこのハルケギニアに降臨したという伝承が残っているからなのよ。もしもそれが、ただの言い伝えではなく事実なのだとしたら……」

 

 エレオノールの発言に、オスマン氏が補足する。

 

「うむ。それゆえに『始祖』はハルケギニアとは違う、別の世界――すなわち東方からおいでになったという説が神学会では有力なのじゃ。それに〝召喚(サモン・サーヴァント)〟という実例がある。移動のための『扉』の魔法が隠されていてもおかしくない。いや、ほぼ間違いなく存在しておるはずじゃ!」

 

 エレオノールの眼鏡の端が、きらりと光った。

 

「おちび。できうる限り早急に、その『扉』の呪文を探し出しなさい」

 

「えっ?」

 

「見つけることができたら、何を置いてもまずわたくしに連絡すること。いいわね?」

 

「え、あの……」

 

「あの『鏡』に映った場所は『始祖』ブリミル生誕の地と深い繋がりがある可能性が高いの。研究者として、どうあっても行く必要があるのよ!」

 

「えええええええ!!!」

 

 その発言に、先程までやや沈みがちだったコルベールが激しく反応した。

 

「私も是非ともサイト君の故郷に行ってみたい! 頼むよ、ミス・ヴァリエール。もちろん、できうる限りの協力はしますぞ!」

 

「ちょ、あの……」

 

 ルイズの返事を聞く間もなく、エレオノールはオスマン氏に詰め寄った。

 

「オールド・オスマン。お願いがあります」

 

「な、何かね?」

 

「この指輪をしばらくおちび、いえ、ルイズに預けていただくわけには……?」

 

 その問いに、オスマン氏は重々しく頷いた。それから彼は机の引き出しの中から一本の細い鎖を取り出した。それはミスリル銀で作られた、シンプルなネックレスだった。

 

「それはかまわん。というか、もともとそのつもりじゃったからの。じゃが、その指輪はとても目立つ。万が一、何者かに奪われたり、無くしたりしたら大変じゃ。だから、普段はこの鎖に通して首にかけ、服の下に隠しておきなさい」

 

 そう言ってオスマン氏はルイズにネックレスを手渡した。ルイズの顔が、ぱあああっと輝く。

 

「ありがとうございます! 決して粗末には扱いません」

 

 ルイズは言われた通り指輪を鎖に通し、首にかけてシャツの奥にたくし込んだ。それから懐に入れてあった絹のハンカチを取り出すと、遠見の鏡の前で膝をつき、未だ涙を流し続けている才人の手に握らせた。

 

「ほら、涙を拭いて! 大丈夫、きっとわたしが、あんたを故郷に帰してみせるわ」

 

 ――二十年の刻と、様々な出逢いを経て。『炎のルビー』は本来の歴史とは異なる『担い手』の元へ渡った。

 

 

 




才人のアレは……ほんとに悲劇。性格的には女の子に好かれそうなタイプなので、実は照れ隠しだったんじゃないかなと思いますが。

そしてルイズもようやく自覚しました。他サイト版と異なり、はっきりと口にはしていませんが、原作がまだなのに出してしまうのはなあという考えの元、こちらではこうなりました次第です。

最終刊は来年の2月24日。一体どういう結末になるんでしょうか……。


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第83話 偉大なる魔道士、異界の技に触れるの事

 ――やはり、彼は知っているのだ。オスマン氏はそう結論した。

 

 コルベールから、今から二十年ほど前に行方がわからなくなった始祖の秘宝『炎のルビー』を見せられ、入手した経緯を詳しく聞かされた時にも『始祖』の導きを感じたものだが……己の推測を裏付けるためには、あと一歩が足りなかった。

 

(しかし、先程の様子や、かの人物の発言を踏まえた上で考えるに――どうやら、わしの見立ては間違ってはいなかったらしい。悪目立ちする危険を冒してまで、エレオノール君をこの場へ呼んだ甲斐があった)

 

 オスマン氏はそう思った。

 

 ルイズが未だ呆然自失といった体の才人を連れ、学院長室を出て行った直後。オスマン氏はまるで今日の天気を訊ねるような気軽さでもって問うた。

 

「で、君はまだ『扉』を開けないのかね? ミスタ・タイコーボー」

 

 その言葉を聞いた途端、太公望の片眉がわずかに吊り上がったのを見たオスマン氏は自分の導き出した答えの正しさを確信し、内心ガッツポーズを決めていた。

 

(そろそろ来る頃だとは思っていたが、なるほど。そのために、わざわざこのような場を設定したわけか、この狸ジジイめが!)

 

 オスマン氏が何を言わんとしているのか、太公望は充分に理解していた。ルイズのために〝瞬間移動〟に関するマニュアルを作製したあの時から、訊ねられるであろう事は想定の範囲内だった。よって、太公望は嘘をつくことなく正直に答えた。

 

「おかしな勘違いをされる前に答えておくが、わしの系統は〝虚無〟ではないぞ?」

 

 太公望の言葉に、居合わせたコルベールとエレオノールが凍り付いた。そういえばとエレオノールは振り返る。

 

(〝念力〟と〝風〟しか使えない、おちこぼれのメイジ。そのふたつですら、かつてはできなかったと聞いているわ。彼は、あまりにもルイズの境遇と似通っている――!)

 

 そんな女史の思いとは裏腹に、オスマン氏は、太公望に笑顔で言葉を返した。

 

「ああ、わかっとるわい。君の性格からして、万が一にも『担い手』であれば、絶対に隠し通そうとしたはずじゃからの。それにだ、君は他人に『扉』の魔法を伝授することができないのではないかな? したい、したくないに関わらず」

 

 意外な答えに、太公望は思わず目を瞬かせた。

 

「ふむ。どうしてそう考えた?」

 

「そもそもじゃな、病気や怪我などで感覚が狂ったからといって魔法が使えなくなるなどということはない。集中力が乱されて、うまく発動させられないというのがせいぜいだ。しかし、君がミス・ヴァリエールに渡した、例の〝瞬間移動〟に関する注意書きには『体調が悪い時には決して使うな。最悪の場合、死ぬことすらありうる』などと記載されておった。そして、どこからどう見ても健康体としか思えぬ君が、未だ『扉』を開くことができないでいる」

 

「それだけか? 他には?」

 

 ニッとずる賢そうな笑みを浮かべ、オスマン氏は答えた。

 

「君はひねくれているようでいて、実は心根の優しい男だ。サイト君の涙を見て、出来る限り早く故郷へ戻してやりたいと考えたはずじゃ。ところがミス・ヴァリエールに助言を与えるに留めた。つまり、君が持つ『扉』の魔法は、行使する際に危険を伴う。あるいは、覚えるまでにとんでもなく時間がかかる。すなわち、単純なルーン詠唱だけで発動するものではない。どうじゃな? わしの推測は当たっておるかの?」

 

 オスマン氏の言葉に、太公望は彼に対する評価を修正することにした。この男、確かにくわせ者ではあるが、それはあくまで生徒たちの利益を考えているからなのだと。

 

「なかなか面白いことを言う。もちろん、裏付けあってのことだろうな?」

 

 太公望の問いにオスマン氏は頷いた。

 

「ミスタ・タイコーボー。そしてミスタ・コルベール、エレオノール女史。これはあくまでわしの推論であり、現在のブリミル教を否定するものではないとだけ言っておく」

 

 ――そう前置きした上で、オスマン氏は自説を語り始めた。

 

 ヴァリエール家の礼拝堂でルイズが〝虚無〟に目覚めた、あの日。オスマン氏は彼女が唱えた虚無魔法を見た上で、即座に「四大系統魔法では再現不可能」と判断した。

 

「風のスクウェア・スペル最高位の魔法である〝遍在〟を使えば、似たような現象を起こすことは可能じゃろうが――あれは、あくまで『分身』を指定した場所に出現させる魔法だ。自分自身を空間を隔てた遠方へ、瞬時に運ぶような効果はない」

 

 あの時から、オスマンはずっと気になっていたのだと言う。

 

 始祖の祈祷書に記されていた風の先。場所と空間を司る魔法。全ての物質は小さな粒より成り、虚無はさらに小さき粒に影響を与えるという始祖の御言葉と、その粒を〝星の意志〟と呼んで研究が進められているという太公望の談話。それらは彼にひとつの解答を示していたのだと。

 

「現在の教えでは、魔法を生み出したのは『始祖』ブリミルだとされておる。じゃが、始祖の祈祷書には、こう記されておった」

 

 

 ――全ての物質は世界に宿りし小さな粒より為る。四の系統はその小さな粒に干渉し、影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり。四の系統が影響を与えし小さな粒は、さらに小さな粒より為る。神は、我に四の系統よりもさらなる先の『道』を示された――

 

 

「……とな。つまり、じゃ。虚無の魔法は『始祖』ブリミルが無から創造したのではなく、彼が『神』と信ずる何者かから授けられた。あるいは着想を得たのではないだろうか。まだ祖国におられた時になのか、ハルケギニアへの旅の途中に何らかの出会いがあったのか、そこまではさすがにわからんがの」

 

 オスマン氏の発言にエレオノールは顔を強張らせ、反射的に「それは異端です!」と叫びそうになった。しかし彼女はその寸前で、なんとか自分を抑えることができた。

 

 学院長が述べた論説は、現在のブリミル教において確実に異端視されるものだ。だが、これは実際に始祖の祈祷書に書かれていた内容であり、それさえ周知されていれば、オスマン氏の指摘はごくごく当たり前のものとして受け入れられたであろう。

 

 エレオノールは『異端』という概念の持つ危うさに、改めて気付かされた。真実が、無知や偏見によって駆逐されてしまう。その行いの、なんと愚かしきことか。

 

 そんな女史の思いをよそに、オスマン氏の話は続いていた。

 

「その上で『始祖』ブリミルは与えられた〝秘技〟をルーンに翻訳し、自らの子孫であり、かつ後継者たるに相応しい才能を持つ者だけが紐解けるよう『秘宝』に封印したのではなかろうかとわしは考えたのじゃ……と、ここまでが前置きでな」

 

 そして、オスマン氏はまっすぐに太公望を見据えると、こう切り出した。

 

「ミスタ・タイコーボー。もしかして、もしかすると……じゃぞ? 君が用いているあの〝場〟はその『さらに小さき粒』に働きかける魔法なのではないかね?」

 

 オスマン氏の言葉に、太公望はしばし黙っていたが――やれやれと言わんばかりに肩をすくめると全てを諦めたように頷いた。

 

「うむ、おぬしの想像通りだ。であればこそ、正常な感覚が戻るまでは危険すぎて『扉』を開けないのだよ。相転移をはじめとした『粒』の扱いは緻密操作の極みだからのう。失敗すれば、天災レベルの被害が生じる」

 

 それから大げさにため息をつくと、太公望は再び口を開いた。

 

「わしとしては不本意極まりないことだが――おぬしの予測通り、わしの『扉』はルーンで扱うものではなく、使いこなすためには長い修行期間を必要とするため、才人には気の毒だが、今すぐルイズに教えてどうこうできるようなものではないのだ」

 

 それを聞いて、オスマン氏は破顔した。やはりわしの説は間違っていなかった、と。

 

 ……王天君のご機嫌伺い中、というのが実際のところなのだが、それは言わない太公望。いっぽう、彼の言葉を聞いたエレオノールは思い出した。〝召喚〟と〝契約〟が、現代に伝わる虚無魔法である、という説を。

 

「ルーンを使わない――つ、つまり、ミスタの国では、かの魔法はコモン・マジックだと仰るのですか? ま、まさか先住というわけでは……」

 

「先住――精霊魔法でないのは確かだが、汎用と呼べる程簡単でもない。〝空間使い〟になるためには、自然科学だけではなく、物理学の奥深くまで習得する必要があるのだ。かの術は、文字通り『世界の法則』に繋がる理論を元に行使されるものだからのう」

 

 太公望はいきなりダンッと目の前の机を叩くと、声を荒げて言った。

 

「にも関わらず、だ。ブリミルは、あんな短いルーンを唱えるだけで〝瞬間移動〟を行使させるに至った。ハッキリ言って、信じがたいレベルの天才。いや化け物だ!」

 

 と、ここで今度はコルベールが割り込んできた。

 

「あ、あの……ちょっと待ってください。ええと、今までの話をまとめるとミスタ・タイコーボーの国には虚無のオリジナルとおぼしき魔法がある。けれど、ルーンに翻訳されていない。そういうことですよね? それは、いったいどうして……」

 

 コルベールを片手で制すると、太公望は全員を見回し、もったいぶった口調で告げた。

 

「その先は『輪の外』だ、コルベール殿。ブリミル教という名の概念から、完全に外れる『道』を征くことになる。今ここにいるお三方は、口の堅い、信用の置ける人物だとわしは思う。よって、もしも一歩を踏み出す勇気があるのならば、話しても構わぬ。ハルケギニアの外に在る(ことわり)のうちのひとつを……な」

 

 静まり返った学院長室の中で、誰かがゴクリと飲み込んだ唾の音だけが響く。最初に行動を起こしたのはコルベールだった。

 

「私は、聞きたいです」

 

 その声に、全員が彼の顔を見た。彼の目には好奇心のさらに先――ただ真理のみを追い求める者が持つ、独特の光が宿っていた。

 

「この世界は、ハルケギニアだけで形作られているわけじゃない。エルフたちの住まうサハラや、その先にあるロバ・アル・カリイエ――もしかすると、他にも人間の住まう場所があるのかもしれない。私は見てみたいのです、外に広がる異なる世界を」

 

 続いて口を開いたのは、オスマン氏だった。

 

「ずいぶんと長生きしてきたわしじゃが、ここまで堂々と異端に踏み込むような冒険をするのは久しぶりじゃて。はてさて、どんなことを聞かせてもらえるのかのう?」

 

 最後に残されたエレオノールはひとり手を握り締め、震えていた。これは、以前にも問われた内容。ブリミル教という名の『輪の外』に出る勇気はあるか。あの時は即答できなかった。しかし、今の彼女は違っていた。ひとつの真理を掴んでいたが為に。

 

 金髪の女史はしっかりとした口調で告げた。

 

「わたくしも、是非聞かせていただきたく存じます。自分や周囲と異なる価値観を一切認めないというのは……研究者として失格ですから」

 

 このエレオノールの発言に、オスマン氏は思わず目を丸くした。だが、彼の表情はすぐさま暖かなものへと変化した。教え子の成長する様を見るのは、教育者である彼にとって最大の喜びであったから。

 

 オスマン氏は立て掛けてあった長杖を手に取ると、ついと一振りした。学院長室の扉に、固い鍵が掛けられる。それから、部屋の四隅に〝消音〟による防諜処置を施す。準備が整ったと見た太公望はいきなり核心に迫ることなく、まずは外堀から埋め始めた。

 

「最初に断っておく。すでにオスマン殿とラ・ヴァリエール公爵閣下にはお聞き頂いている内容なのだが……これを話しておかないと、我ら〝崑崙山〟の理念や、何故にわしの『扉』にルーンが用いられていないのか理解してもらえぬであろう。よって、ここでもう一度説明させてもらう」

 

 そう前置きをした上で、太公望は以前と同じく自分たち仙人の価値観について語り始めた。

 

「し、始祖の意志を、へ、平和と平等の意志と受け取り、平民の上に立つことをせず、あ、あえて人里離れた場所――ふ、ふ、浮遊大陸に移住した、ですって……!?」

 

「平民たちだけで、魔法のない暮らしをしているですと!? それでは日常生活が成り立たないのではありませんか? それに、たとえば町に凶悪な魔獣が現れたり、道路が崖崩れなどで塞がれてしまった場合、彼らはいったいどうやって対処するのです?」

 

 エレオノールとコルベールの問いに、太公望は真顔で答えた。

 

「そういった力持たぬ民にはどうしようもない災害が起きた時のために『千里眼』と呼ばれる術でもって、我らは常に地上を監視しているのだ。風系統の〝遠見〟や、さきほどルイズが使った〝世界見〟の魔法に近しいものでな。〝力〟の強い者が使えば、大陸全土――このハルケギニア全域はおろか、世界の裏側まで見通せるほどの効果を発揮する」

 

 〝遠見〟の魔法で見渡せるのは、せいぜい数リーグが限界だ。にも関わらず、ハルケギニア全土に及ぶとは――つまり、それこそがルイズが習得した〝世界見の鏡〟の原型と呼ぶべきものなのだろう。居合わせたメイジ達はそう受け取った。

 

 実際、太公望の言葉に嘘はない。彼の師は『千里眼』によって中国大陸全土を監視していたし、仙人たちが〝人間界〟に関わるのは、非常事態が起きた時に限られる。冗談でも誇張でもなく、彼らが用いる『奇跡』のほとんどが天災レベルの規模を誇っており、その〝力〟を下手に振るえば、人間の住む街や邑など、ひとたまりもないからだ。

 

「その上で、災いを鎮めるのに相応しい者が地上へと派遣され、影から人々を救う。長いこと、我らはそうしてきたのだ――そして、その結果があの『新宿』と呼ばれた町だ。平民たちは魔法に頼ることなく、知恵を駆使し、科学と技術を発展させることによって、あれほどの都市を築き上げるに至ったのだ」

 

「な、なるほど……つまり、あそこは魔法ではなく科学が世界の理となった場所。そういうことなのですな?」

 

 コルベールは激しく興奮していた。

 

 ――もしもの未来。もしも、このハルケギニアがブリミル教という名の輪の外へ、自由に羽ばたけるようになったとしたら。

 

 自分たちの魔法と、彼らの科学が手を取り合えば、あの煌びやかな街並みや、外の格納庫に仕舞われている飛行機械をも越える――かつて〝夢世界〟の中で見た、蒼い炎を吹き上げながら星の海を目指し飛んでゆく、あの美しき船にすら手が届くのではないか。いや、あれこそがふたつの理が融合した姿なのではないだろうか? それはまさしく、コルベールが常に夢描いていた光景であり、信念とも呼ぶべきものだ。彼の心は、激しく踊った。

 

 かたやエレオノールは、体内の血が凍り付いてゆくような感覚に囚われていた。

 

 『始祖』ブリミル生誕の地とおぼしき――彼女がそうだと信じる場所では、メイジは絶対のものとされていない。それどころか、その存在すらほとんど知られていないのだという。

 

 遙かな空の彼方から、地上に暮らす人々を見守り、影から支える生涯を送る彼らはまるで神のようではないか。

 

 翻って、自分たち貴族――いや、わたくしはどうだろう。己の持つ〝力〟に酔いしれ、平民たちを支配し、それを当たり前だと思って生きてきた。けれど、現在の状態は……本当に『始祖』の御心に沿うものなのであろうかと。

 

 そんな彼女の心を見透かしたかのように、太公望は言った。

 

「わしは外から来た部外者だ。正直なところ、わし自身の価値観からすれば、ハルケギニアの支配者たちに対して言いたいことは山ほどある。だが、わずかながらもこの国で暮らし、民の生活を見た今ならば――現体制のもと、この世界がそれなりに上手く回っていることを認めるのはやぶさかではない」

 

 己の過去を振り返りながら、太公望はさらに言葉を続けた。

 

「貴族に虐げられる者もいれば、救われる者もいる。これらは表裏一体だからだ。わしらの国でも掟を破って地上へ降り、その〝力〟でもって非道の限りを尽くした者どもが大勢おる。結局、どちらのやりかたが正しいとは言い切れぬし、それができるほど、わしはうぬぼれてはおらぬ」

 

 それを聞いたエレオノールは、ほっとしたような表情で呟いた。

 

「そ、そう……ですわね。一概に、現状が悪いなどとは言えませんわよね。なにしろ、わたくしたち貴族の魔法によって、社会は成り立っているのですから」

 

「それなのだよ」

 

「はい?」

 

「その『魔法によって社会が成り立っている』のが現在のハルケギニアだ。いっぽう、わしの祖国を含む周辺諸国では『奇跡に拠らぬ生活』を基本としている。しかし〝力〟を持たぬ人間にはどうしようもない災難が降りかかった時に、我らは動く。そのため、こことは異なり、魔法の体系こそ似通っているものの――長い年月を経て、種類や発動する効果が大きく変化したのだ」

 

 オスマン氏は長い顎髭をしごきながら聞いた。

 

「ふむ、具体的には?」

 

「そうだのう。たとえば道路の舗装や農作物の収穫などといった、手間はかかるが平民だけでも可能な作業にも魔法が使われておるし、水をワインに変えるようなことすら、ごく当たり前の技術として受け止められている。大きな怪我も、金さえあれば〝治癒〟の魔法で簡単に治る。こんな魔法がわしの国にもあれば、どれほど多くの命が救われただろうと、何度思ったことか」

 

 それを聞いたエレオノールが意外そうな顔をした。

 

「まあ! 東方には〝治癒〟もないんですの? 〝錬金〟だけではなく?」

 

「全く無いわけではないのだが、こちらの〝治癒〟ほど汎用性がない上に、使い手がごくごく少数に限られておってのう」

 

「ふむ。魔法薬の製法などと同じで、特定の家の秘伝のようになっておるとか?」

 

「そのようなものだ」

 

 少なくとも、太公望が知る限りでは『四聖』と呼ばれた仙人たちのうちのひとりが持つ宝貝『劈地珠(へきちじゅ)』と、自分が持つ『太極図』にしか回復能力は備わっていない。〝仙術〟にもあることはあるのだが、使い手はごくわずか。もしもハルケギニアの水メイジたちが仙界大戦当時の地球へ行ったとしたら、引っ張りだこの大人気となった上に、歴史が変わっていたかもしれない。そのくらい、貴重な能力なのだ。

 

「それでは、病気や怪我はどうやって治すんですの?」

 

「病気については療養するか薬を服用するかのいずれか、だのう。怪我は応急手当をした上で、あとは自然に治るのを待つのが一般的だ」

 

「そのあたりは、平民や貧乏貴族と変わりありませんな」

 

「うむ」

 

「金を出して、水メイジに依頼することもできんのかね?」

 

「我らは浮遊大陸に隠れ住んでおるからのう。基本的に、平民たちとの接点がないのだ」

 

「なるほど」

 

「と、まあこのように、我らが周辺諸国では災害救助や妖魔討伐などの『非日常』以外の場面で〝力〟を行使するのは禁忌とされておる。そのため、ほとんど汎用性がないのだ」

 

「つまり……東方の魔法は、破壊などの戦闘方面に特化していると?」

 

 コルベールの問いかけに対し、太公望は小さく頷くことで肯定した。

 

「わしの〝(ウインド)〟を見て、どう思った?」

 

「とても『ドット』スペルの威力とは思えませんでしたわ……」

 

「効果についても、じゃな」

 

「〝風〟であれほど自在に風を操るなど、普通のメイジには到底不可能です」

 

 三人はハルケギニア最強と謳われる伝説の騎士『烈風』カリンとの激しい応酬を思い起こした。烈風どころか台風と呼んで差し支えないレベルの激突。まさに〝力〟と〝技〟の戦いだった。一般的なメイジの常識で考えれば『ドット』が『スクウェア』と真正面から互角に撃ち合うことなど不可能。そんな思い込みを破壊したのが、太公望という存在だった。

 

 彼らの様子を見て、太公望は上手く会話の主導権を握れたことを確信した。そこで、再びお得意の作り話を加えることにした。真実と、そうでないことを交えながら。

 

「前にも言ったと思うが、系統魔法の根幹である魔法語には、メイジであれば誰にでも奇跡を起こせるという利点がある。しかし〝力〟を注ぎ込み過ぎると暴走し、爆発してしまうという欠点が存在する。逆に、ルーンを用いなければ――理論上、いくらでも底上げが可能ということだ」

 

「な! ま、まさか、東方では、あえて全ての攻撃魔法を口語で紡いでいると!?」

 

「実は、そのまさかなのだ。ルーン無しで奇跡を行使するには長い修行期間を必要とするが、その代わり〝力〟を持つ者は、より強力な攻撃ができる――たとえば帝国軍最強の『古代の風』聞仲太師は半径五リーグの範囲に数百本にも及ぶ〝風の鞭〟を解き放つ、文字通りの超人であった」

 

 ――密閉されているはずの学院長室に、風が吹いた。

 

「……は?」

 

「あの……五メイルと、数十本の間違い、ですよね? それでも充分高威力なのですが」

 

「いいや、間違いではない。わしは、実際にその〝鞭〟で数リーグ離れた場所から弾き飛ばされたことがある。そして彼の部下である『水使い』は町ひとつ簡単に押し流す威力のある〝水滝(ウォーター・フォール)〟を得意としておった。彼らの他にも……」

 

「まてまてまて、なんなんじゃ、君の出身地は! 例の『炎の勇者』といい、まさかとは思うが、そんな化け物だらけだとでもいうのかね!?」

 

 君という存在も、充分規格外だと言うのに? と、いう言葉を必死の思いで飲み込んだオスマン氏だったが、太公望の解答はそんな彼の想定を遙かに超えていた。

 

「そうだのう。わしやカリン殿クラスの術者で、せいぜい『中の上』程度だと考えてもらえれば、なんとなく理解してもらえるものと思うが」

 

「じょ、冗談じゃろ?」

 

「わしはこれまでになく本気で、真実を語っておるのだが?」

 

 カリーヌ夫人と戦った時のように『打神鞭』しか使わないというのであればな……と、胸の内でこっそり但し書きをつける太公望。ちなみに『太極図』を込みで考えた場合、太公望の強さは全ての仙人の中でも上位に入る。『最強にして最弱』と呼ばれるスーパー宝貝『太極図』を扱えるのはごく一握りの仙人だけなのだ。

 

(か、か、母さまが、ちゅ、中の、上……もしも母さまがこの話を聞いたら、是非ともそこへ連れて行って欲しいなんて言い出しそうで怖いわ……)

 

 などとエレオノールは割と真剣に悩んでしまった。自分自身『始祖』の出身地と思しき場所への興味が尽きないだけに、なおさらだ。もしも、そこで母が暴走したらどうなるか――などとうっかり考えてしまった女史は、なんだか頭痛がしてきた。

 

 衝撃から最も早く回復したのはコルベールだった。

 

「しかしですな、それほどの高出力魔法を唱えた場合、普通なら〝精神力〟の枯渇で気絶してしまうのではないでしょうか」

 

 至極尤もな問いに、真顔で答える太公望。

 

「我らは〝精神力〟以外の対価を払うことで、術の威力を増大させておるのだ。もっとも、やりすぎればどのみち気絶することに変わりはないが」

 

「その対価とは?」

 

「それは……生物の根幹。すなわち己の〝生命力〟だ」

 

 太公望の言葉を受けたオスマン氏は、かつて耳にしたそれを正確に再現してみせた。

 

「〝虚無〟は強力無比なり。また、その詠唱は長きに渡り、多大な精神力を消耗する。詠唱者は注意せよ、時として〝虚無〟はその比類なき威力がゆえに命を削る……か」

 

「学院長。それは……?」

 

「始祖の祈祷書の一節だ。今のところミス・ヴァリエールが〝生命力〟を削っているようなことはなさそうじゃが、将来、高位のスペルを手に入れたとき、彼女は……」

 

「……さすがに、命と引き替えに発動するような魔法は記されていないと信じたいが、もしも〝虚無〟に、わしらの術と同じ方法で威力を増大させる性質があるのだとしたら、前もってルイズに警告をしておいたほうがよかろう」

 

「ちなみに、君のところにはそういった魔法は存在するのかね?」

 

「ない……と、言ったら嘘になるな。わし自身〝生命力〟を削りすぎて、何度血を吐き倒れたかわからぬ」

 

「強い〝力〟を得るためには、それ相応の代償が求められる、ということですか……」

 

 コルベールは『イーグル』号の上で太公望が自国のアイテムを使い過ぎ、倒れてしまったときのことを思い出した。

 

 魔法具にはいくつかの種類があるが、大別すると、誰にでも使える物とメイジしか扱えない物の二種類になる。治療薬などが前者で、ガーゴイルや学院内に備え付けられている魔法のランプなどが後者だ。こちらはメイジの〝精神力〟を消費して動くため、平民には扱えない。これと同じように〝生命力〟を用いているのが、彼らの土地の魔法具なのだろうとコルベールは考えた。

 

「真実はわからぬが、もしやすると『始祖』ブリミルは〝生命力〟の損耗を抑えるためにこそ〝虚無〟を魔法語に翻訳されたのやもしれぬな。〝精神力〟だけで、強力無比な魔法を発動させるための工夫として」

 

 太公望の話を聞いたオスマン氏の顔が、驚愕に満ちた。

 

「待て! ま、まさか、君の国では攻撃魔法に限らず、ほとんど全ての魔法でルーンを用いていないのか!?」

 

「少し違うな。我らはルーン自体を用いないのが一般的なのだ。忘れられておる、と、言ったほうが正しいかもしれぬ」

 

 そもそも魔法語自体が存在していないのだが、そのように告げて誤魔化す太公望。実際使っていないのだから、嘘は言っていない。

 

 かたやそれを聞いたメイジ達はというと、衝撃のあまり口を開けないでいた。

 

 なにせ目の前の男は『始祖』の加護を強さと引き替えに自ら手放したというのだ。それも、国ぐるみで。ブリミル教の観点からすれば、罰当たりどころの話ではない。

 

 こんな話がロマリア宗教庁の元に届けば、目の前にいる少年の姿をした老爺はその場で宗教裁判にかけられ、ほぼ間違いなく煮えたぎる湯の中に放り込まれるか、火刑に処されることとなるだろう。正直、危険に過ぎる『内緒話』であった。

 

 ――しばしの沈黙の後。最初に口を開いたのは、エレオノールであった。

 

「ひとつ、お伺いしたいのですが……ミスタがお持ちの『扉』の魔法をルイズに伝授していただいた場合、あの子なら、どの程度で行使できるようになると思われます?」

 

 太公望は腕組みをしながら答えた。

 

「現在よりも遙かに細かい〝念力〟操作の習得と、自然科学と数学、力学、物理学の学習が必須となるので……そうだな、最短でも二十年といったところか」

 

「に、に、に、にじゅうねんですって!? そ、それはいくらなんでも……」

 

「正直なところ祈祷書から探し出すほうが早いだろうし、安全だと思うぞ? 今までの経緯から察するに、ほぼ間違いなく書き残されておるはずだ」

 

「で、でも、時間がないんです!」

 

「うむ。詔の巫女として、祈祷書が貸し出されている期間――つまり、あと半月ほどしか呪文を探すための時間が取れないのじゃよ。姫の結婚式が済んだら、即座に返却せねばならんからのう」

 

 そんな彼らを、まるで不思議なものを見るかのような目で見た太公望は、教え子を諭す教師のような口調で言った。

 

「何を言うのだ。姫が降嫁してしまえば、実質始祖の祈祷書をヴァリエール家の管理下に置けるではないか」

 

「それは、どういう意味……あ、いや、そういうことか……!」

 

「たた、確かに、状況次第ではそういうことに、な、なりますわね……」

 

「あの、学院長。私にはさっぱり訳がわからないのですが」

 

「なあ、コルベール君。きみも、たまには研究室の外に出て、国内外の政情を掴んでおいたほうがいいぞい」

 

「す、すみません。私は、昔から政治方面には疎いもので」

 

 ゴホンとひとつ咳をすると、オスマン氏は部下へ説明をするために口を開いた。

 

「現在、アンリエッタ姫殿下の王位継承権は二位。しかるに、継承権第一位を持つマリアンヌさまは女王への即位を拒み続けておる。つまり、権利を放棄しているに等しい。ここまではきみも知っておるな?」

 

「はい。なんでも、マリアンヌさまは女王陛下という呼びかけには一切お答えにならず、あくまで自分はトリステインの母だと公言しておられるとか」

 

「政治音痴のきみですら知っておることだ、既に他国にも知れ渡っておるじゃろう。さて、その上でだ。こたびの同盟締結の条件として、姫殿下の降嫁が求められておるわけじゃが、そもそも降嫁とは王族が王族以外の人物。つまり格下の家へ嫁ぐということじゃ」

 

 そこへ、太公望が訳知り顔で補足する。

 

「その際にだ、妻の地位が夫よりも高いことによる弊害で嫁ぎ先が混乱するのを防ぐため、元の家が持つ権威を全て捨て去るのが一般的だ。アンリエッタ姫の場合は、王族としての地位と王位継承権が消滅することになるであろう。実質最上位の継承者である姫君が、降嫁によってトリステインを去れば、残るのは――」

 

 カタカタと身体を震わせながら、エレオノールがその先を続けた。

 

「続く王位継承権第三位を持つのは、わたくしの父――ラ・ヴァリエール公爵です。姫殿下の輿入れ後に、その事実を主張すれば……昨今の国際情勢を鑑みるに、国を割ることなく王座に就くことが可能でしょう。もっとも、父にその意志があればの話ですが」

 

「ぶっちゃけ、それがマザリーニ枢機卿の狙いなのではないのかのう? おそらく、同盟調印文書でも婚姻(・・)ではなく降嫁(・・)を強調しておると思うぞ。横あいから、ゲルマニアの皇帝がトリステインの王位継承や国政に口出しできぬようにな」

 

 それに……と、太公望は分析を続ける。

 

「長きに渡る王座空位の影響で、中央政府はガタガタ。おまけに空からの脅威もある。無礼を承知で言うが、ちょっと頭の回る貴族なら、そんな国の舵取りなんぞ頼まれても引き受けたくはなかろう。少なくとも、わしならごめんだ。だが、枢機卿は公爵のような生真面目な人物であれば、祖国を放ってはおけず、自ら立ってくれるはずだと考えたのではなかろうか。いや、既に裏で手を組んでいると考えたほうが自然だのう」

 

 太公望の発言に、オスマン氏は内心でぎくりとした。

 

 以前、ラ・ヴァリエール公爵から「自分は今後どうすべきか」と問われたあの時。彼は公爵に対して国を先導する者になることを示唆している。

 

 それがトリステインにとって最善であろうと考えてのことであったが、その公爵が本当に王座へ昇る可能性が出てきた現在――自分が発した言葉の重みが、彼の両肩にのしかかってきた。

 

 王家の血を盲信していた彼は、もう存在していない。今のラ・ヴァリエール公爵は、自ら王として立つことを躊躇わないだろう――国と、大切な家族を守るために。

 

「し、しかし、それはあくまで可能性ですよね? そうならなかった場合のことも考えておいたほうが良いと、私は思うのですが」

 

「確かにコルベール君の言う通りじゃが、他の『秘宝』は、おいそれとは閲覧できる状態にはないぞい?」

 

 だが、そんな上司の言葉には耳を貸さず、コルベールは太公望の目をじっと見つめると、こう切り出した。

 

「魔法とは、何よりもイメージを重要とする技術……でしたな?」

 

 太公望の片眉が、ピクンと跳ねた。

 

「その、私はこういった交渉事は本来苦手です。それに、私が支払うことのできる対価など、たかが知れています。ですが、ミスタのアレ(・・)を使えば、もしかするとミス・ヴァリエールの新たな目覚めを促すことができるのではないかと、そう思えるのです」

 

「なんじゃ? コルベール君。いったい何を言っておるのだ?」

 

「何か特別な方法があるんですの!?」

 

 太公望は考えた。確かにアレ(・・)を使えばルイズの『空間把握能力』は飛躍的に伸びるだろう。実際に『扉』を見せてやることすら可能だ。しかし、行使にあたっての制約が厳しすぎる。オスマンの協力を仰げば、なんとかなるかもしれない……だが、その前に。

 

「ちなみに、コルベール殿がわしに提示しようとしている対価とは何だ?」

 

 コルベールは、どこまでも真剣な眼差しで太公望に向き合うと、言った。

 

「先程、エレオノール女史にお渡しした例の論文によって得られるであろう報奨の――全てをお支払いします」

 

 それを聞いたオスマン氏は目を剥いた。エレオノールの眼鏡がずり落ちた。

 

「待て! 早まるな! あの論文の価値は……!!」

 

「父さまの話では、最低でも十万エキュー……加えて王立アカデミーの首席研究員への『道』が開かれるかもしれませんのよ? そ、それを、おちび……いえ、ルイズのために失っても構わないと仰るんですの!?」

 

 ふたりの言葉に、コルベールは首を横に振った。

 

「正直なところ、それでも安過ぎると思えるのですよ。それに……これはミス・ヴァリエールやサイト君のためというより、私自身の好奇心を満たすためなのです。あの街並みを直に見て研究できるというのならば、私は何を失っても惜しくありません」

 

 やれやれ、やはり彼はとんでもない好奇心の塊だ。太公望は肩を竦めると、苦笑しながらコルベールに言った。

 

「おぬしは本当に交渉事には向かぬのう、コルベール殿。だが、その飽くなき探求心に免じて対話のテーブルにつくことを了承しよう」

 

「そ、それでは……!」

 

「焦るでない。おぬしも知っている通り、アレ(・・)は間違いなくここハルケギニアにおいて異端とされる技術だ。それは理解しておるな?」

 

「は、はい、もちろん!」

 

「と、いうわけなのだが……コルベール殿は大きな代償を支払うことを既に交渉材料として持ち出している。で、オスマン殿。それにエレオノール殿に確認したい。ルイズの魔法を伸ばす可能性がある技術を――ただし、バレたら確実に異端認定されるものを使うことに対する後方支援を行う意志はあるか?」

 

 オスマン氏は、ふんと鼻を鳴らすと即答した。

 

「もう少し情報がなければ許可できん。ああ、異端云々についてはどうでもいい。あくまでミスタ・コルベールの上司として、効果のわからんシロモノに、そんな大金を支払わせるわけにはいかんという意味でじゃ」

 

「わ、わたくしも同感です。そそ、そもそも、異端かどうか、み、見てみないことにはお答えのしようがありませんわ」

 

 ふたりの解答に、太公望はふむと頷くと、コルベールのほうを見て言った。

 

「ちと例の『二刀流』を、ここで披露してはもらえぬかのう?」

 

「了解しました」

 

 コルベールは頷くと、懐から一本、そして履いていたブーツの中からもう一本の杖を引き抜き、両手で構えた。

 

「ウル・カーノ」

 

 コルベールの詠唱が終了すると同時に、小さな炎が杖の先に灯った。それも――片側だけではなく両方に。

 

「ちょ」

 

「な、な、なななななな」

 

 驚くふたりをよそに、コルベールは次なる呪文を紡ぎ出す。

 

「イル・アース・デル」

 

 机の上に置かれていたインク壷と羽根ペンの素材が、それぞれ鉄と銅に変化した。

 

「んな!?」

 

「ま、ま、ままままま」

 

「フル・ソル・ウィンデ」

 

 今度は変化したインク壷と羽根ペンが宙へ浮き上がった。それぞれが、全く別の螺旋を描いて飛んでいる。

 

「ふむ、まだ一本での『複数同時展開』までには至っておらぬか」

 

「ええ、杖一本につきひとつ……ですね。一度、研究中にものぐさしましてな、個別に浮かせた三個の模型をそれぞれ別の場所へ運ぼうとしたんですが、全部落としてしまいましたよ。残念ながらまだ完全に習得したとは言い難い状態です」

 

「ま、待て! 何じゃこれは!?」

 

「ミスタの国の技術で『ニトウリュウ』というのだそうです。二本の杖を持つことにより、こんなふうに一回の詠唱で、それぞれ個別に魔法を発動させることができるのです」

 

 泡を食ったような表情で、エレオノールが叫んだ。

 

「ここ、こんなこと、母さまにも不可能ですわ! い、いったいどうやって……」

 

「私がこれを身に付けることができたのは、先程から我々が話題に出している、アレ(・・)のお陰なのです。正直、普通でない状況に置かれることになりますが……メイジとしての成長が望めるのは、ほぼ間違いありません」

 

 杖を二本持って魔法を使ってはいけないなどという教えは、今のブリミル教にはない。ただ、異端視――というよりも。異形と見られるのは確実だろう。しかし、少なくとも目の前のふたりには絶大なる効果を発揮した。

 

「後方支援とは、具体的に何を指すのかね?」

 

「な、内容にもよりますし、それを聞かせていただけないことにはなんとも……」

 

「絶対に人目につかぬ場所がなければ、危険すぎて実現できぬのだ。理由は言わずともわかるであろう? しかも、一度試して成功するとは限らぬしのう」

 

「間違っても他人には見られたくないということじゃな? それなら、火の塔にある倉庫をひとつ貸してやるわい。あそこならコルベール君の研究室とも近いし、授業に使う備品や、学院で使わなくなった家具が納められておる。何度か出入りしても怪しまれまいて」

 

「わたくしが行う支援というのは、もしかして……」

 

 深いため息をつきながら、太公望は答えた。

 

「例のごとく、母君には内緒にしておいてもらいたいのだ。もしも彼女がコルベール殿の『技』を身に付けたらどうなるか……」

 

 それに対するエレオノールの返答も、憂いを帯びていた。

 

「ええ。とてもよく理解できましたわ……」

 

「では、これで交渉は終了ということで構わぬか?」

 

「いや、せめてアレとやらがどんなものか、見せてもらいたいのじゃが?」

 

「で、できればわたくしも……」

 

「まあ、そうくるのが当然だろうの。コルベール殿、大変申し訳ないのだが……」

 

「外の監視と〝眠りの雲〟のことなら、お任せください」

 

「話が早くて助かる。では、早速――」

 

 ――こうして、オスマン氏とエレオノールは『夢の世界』を体験することとなった。

 

 煌めく星々に囲まれた『部屋』の中。好奇心と感動で顔を輝かせている女史のすぐ側で、オスマン氏は思った。彼がこの国に呼び寄せられたのは、事故などではない。全てはこのために――虚無の担い手を育て、導くために『始祖』ブリミル所縁の地から遣わされたに違いないと。

 

 だが、オスマン氏は物珍しい技術に目を奪われるがあまりに、いちばん肝心なことを忘れてしまっていた。太公望を呼んだ人物が、いったい誰であったのかを――。

 

 

 




いつも誤字報告大変ありがとうございます。
なかなか個別にお礼できず申し訳ございません。
心から感謝しておりますm(_ _)m


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第84話 伝説、交差せし扉を開くの事

「んもう! せっかくの虚無の曜日だっていうのに、何だってこんなところでガラクタ整理なんかしなくちゃいけないのよ!!」

 

 火の塔二階の一画、古ぼけた黒板や雑多な家具などが処狭しと置かれている倉庫の中で、キュルケが不満の声を上げた。

 

「何度も授業をサボった罰。表向きは」

 

 そんなキュルケに、彼女の親友はいつものように感情の籠もらない口調で答える。

 

「それが気に入らないのよ! あたしたちはね、ゲルマニアとトリステインの同盟を成功させた、影の功労者なんだから。なのに、いくらなんでもこの扱いはないわ!」

 

 うんうんと頷きながら、ギーシュがそれに追従する。

 

「しかもだよ? ぼくたちは戦場の露と消えるはずだったアルビオン王家の血統を、滅亡から救う手伝いをしたんだ。本来ならば、全員に杖交差勲章……とまでは言わないけれど、せめて白毛精霊勲章くらい授与してくれても罰は当たらないと思うね」

 

 訳知り顔でレイナールが呟いた。

 

「白毛精霊勲章かあ。年金額はたいしたことないんだけど、戦場で手柄を上げないと絶対手に入らない、名誉の証だからね。貰えるものなら貰っておきたいというのが本音だな」

 

 そんな彼らに、太公望が苦言を呈す。

 

「おぬしたちの不満はわからんでもないが、大声を出すでない! 万が一、部外者に情報が漏れたりしたら、シャレにならんではないか!」

 

「それはまあ、そうなんだけど……」

 

 〝念力〟で雑巾を絞りながら、実に複雑そうな声でルイズがぼやく。

 

 昨日エレオノールが魔法学院を訪ねてきたのは表向き『水精霊団』がルイズのせいでアルビオンへ遠征する羽目になったことに対する謝罪と、礼金を手渡すためだという話になっていた。

 

 そして実際に王立銀行の手形がリーダーを務める太公望に手渡されており、これは後ほど換金して参加者全員に分配される旨、既に通達されている。

 

 この謝礼金を実際に支払ったのは、トリステインの王政府ではなくラ・ヴァリエール公爵とマザリーニ枢機卿である。今回のアルビオン遠征は国として万が一にも表沙汰にできないために、国庫から資金を捻出できず。かといって、任務の内容が内容だけに無償というわけにもいかず。結果、彼らのポケットマネーが削られる羽目になったのだった。

 

 そして。エレオノール女史が使者に選ばれ、魔法学院を訪れたのは――今から二十年ほど前にロマリア宗教庁から盗み出され、行方不明となっていた『炎のルビー』が、よりにもよって魔法学院の中で発見されたなどという大変な報せを持ったフクロウが、オスマン氏の元からラ・ヴァリエール公爵へ宛てて飛んできたからだ。

 

 彼女に託された本来の――発見された『秘宝』が本物であるかどうかを見極めるという目的を隠すために謝礼金を支払いに来たというのは、実に都合の良い言い訳だった。

 

 ――なお、炎のルビー発見の報せを受けた直後。深い深いため息をついた公爵が、

 

「これで三つ目……か。もう四つの指輪が全部揃っても、わしは驚かんぞ」

 

 などと眉間に皺を寄せながら、懐へ新たな薬瓶を追加したことを知る者は誰もいない。

 

 ……と、まあそんなわけで。

 

 前日のダエグの曜日。水精霊団に所属する全員が学院長室へ呼び出された後で、前述した遠征を極秘とすること。そして、たびたび集団で授業を休んではどこかへ出かけていく生徒たちを快く思っていなかった一部教員たちの反発を和らげるという理由を掲げたオスマン氏の指示を受け、せっかくの休日だというのに、彼らは朝も早くから揃って倉庫の掃除を行う羽目になったと、こういうことである。

 

(とはいえ、こうして不満を漏らすのは……手柄を精一杯誇示したい年頃のこやつらにとって、仕方のないことであろうな)

 

 そんなことを頭の片隅で考えながら、太公望はぱんぱん手を叩き、子供たちを急かした。

 

「ほれほれ、口ではなく手を動かせ! 急がねば昼食に間に合わぬぞ」

 

 タバサがぽつりと言った。

 

「あなたがいちばん働いていない」

 

「かかかか! わしには全員の動きを監督するという役割があるから、これでいいのだ」

 

「椅子に座ったまま?」

 

「わしも、これでいい年だからのう。立ち仕事は堪えるのだよ」

 

「肉体年齢はわたしたちと変わらないはず」

 

「おーい、そこのおふたりさん。漫才はいいからさ、マジ手伝ってくれよ! この箪笥(たんす)がやたらと重くて、俺ひとりじゃ動かせないんだよ」

 

 壁際に置いてある古びた箪笥を前に、才人がひとりで奮闘していた。床掃除をするために邪魔な箪笥を移動させようとしたのだが、根が生えているかのようにぴくりとも動かない。

 

「ずいぶん重たそうだね。もしかして、中に何か入ってるんじゃないかな? 動かすなら、中身を全部出してからのほうがいいと思うよ」

 

 レイナールの指摘に、そういや中開けて見てなかったな……と、納得した才人は、観音開きの大きな両扉を開いてみた――のだが。

 

「なんだよ、空っぽじゃねえか! なのに、なんでこんなに重いんだよ……あ、もしかして二重底みたいな造りになってんのかな? かな?」

 

 そう考えた才人は箪笥の奥板に触れてみた。すると、突然板が眩く輝き始めたではないか。

 

「へ? なんすかこれ」

 

 ただの箪笥が、どうしてこんなふうに光るんだ? そんな疑問を声に出す間もなく――いつしか、才人の姿は倉庫の中から忽然と消えていた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――才人がふと気がつくと、そこは街中だった。白い石造りの建物が立ち並ぶ、この景色は間違いなく……。

 

「トリスタニアじゃねえか! え? なんで!? さっきまで倉庫にいたのに……」

 

 ここはルイズや仲間たちと何度も遊びに来たトリステインの王都・トリスタニアに間違いない。場所は、たぶんデルフを買ったチクトンネ街の近くだろう。いったい、どうして自分はこんなところにいるのだろうか。才人は思わず頭を抱えてしまった。

 

「もしかして、あの箪笥が実は魔法のワープ装置みたいなモノで……そんで、ここまで飛ばされちまったってことか?」

 

 そんなふうに、才人が自分の身に起きたことを分析していると。いきなり足元がぐらりと揺れ、下のほうから怒鳴り声が響いてきた。

 

「おい、貴様ッ!」

 

「へ?」

 

 その声に驚いた才人は、ようやく気が付いた。なんだか、自分の下に柔らかなモノが敷かれていることに。それから、急いで視線を下へ向けると――なんと、彼の主人である桃色の髪の少女が、才人の下敷きになっているではないか。

 

「なんだルイズ! お前も飛ばされて来てたのか」

 

 ひとりじゃなくて良かった……歩いて魔法学院に帰ろうとしたら、一日がかりだもんな。などと胸をなで下ろしていると。再び怒声を浴びた。

 

「何を意味のわからないことを言っているんだ! いいから、早くどけッ!!」

 

 才人は慌ててルイズの上から飛び降りると、ぴょこっと頭を下げた。

 

「ご、ごめん! わざとじゃないんだ。大丈夫か? どっか怪我したりしてないか?」

 

 ところが、そんな才人の気遣いにも関わらず、立ち上がった桃色髪の少女は彼を頭ごなしに叱りつけた。どうやら相当頭に来ているようだ。

 

「ごめん、だと? わざとじゃない、だ!? あのなあ、ぼくはれっきとした貴族だぞ。そんな口の利きかたがあるか! 無礼にも程があるだろうがッ!」

 

 才人は思わず首をかしげてしまった。

 

「へ? ぼく? なあ、お前……本当に大丈夫なのか? もしかして、飛ばされた時に頭でも打ったか? それに、なんなんだその格好。いつのまに着替えたんだよ」

 

 才人の前に立っているルイズは、先程まで着ていた魔法学院の制服ではなく、青い厚手の上衣に派手なフリルのついた白いシャツ、膝が出た乗馬ズボンに黒いブーツという、騎士のような出で立ちをしている。襟ぐりには五芒星のタイピンの代わりに大きなリボンが巻かれていた。

 

 全身に無遠慮な視線を投げかけてくる才人のことが気に障ったのだろう少女は、顔を怒りに歪めると、再び大きな声で怒鳴った。

 

「き、貴様! 平民の分際で、騎士の身なりを愚弄するかッ!」

 

 これにはさすがの才人もカチンときた。彼女のことを心配しての発言に、この返しはいくらなんでもあんまりなのではなかろうか。

 

「オイ。貴様貴様って、なんだよお前! あと、そのおかしな男言葉やめろよな」

 

 才人の言葉を受けたルイズの顔が、朱に染まった。

 

「なんだと! お、男が男言葉を使って、何が悪いッ!」

 

「お、お前、やっぱりどっか打ったんだな? ちょっと見せてみろよ」

 

 これは相当の重傷だ。そう判断した才人はすっと少女の顔に手を伸ばした。もちろん、ルイズの身体を気にしての行動だったわけだが、彼が伸ばした手はバシッと激しい音を立てて弾かれた。

 

「無礼者ッ!」

 

「痛えな! おい、お前。いい加減にしろよ? 俺、そろそろ怒っちゃうぞ?」

 

「ふざけるな、いい加減にするのは貴様のほうだろうが! これ以上ぼくに無礼を働くと、手打ちにするぞッ!」

 

 人が心配してやってるのに、その態度はなんなんだ。才人の頭にカッと血が上った。たとえ相手が誰であろうと、そこまで言われて黙っていられるほど彼は大人しくない。

 

「手打ちだァ? 俺がこんなに心配してやってるってのに、なんだよそりゃ!? 無礼なのはそっちのほうだろ!」

 

「こ、こいつ、貴族を馬鹿にして! もう我慢ならん。そこになおれ! 成敗してやるッ!」

 

 桃色の髪の少女は叩き付けるような声で叫ぶと、腰から杖を引き抜いた。その猛烈な剣幕に、才人は思わずたじろいだ。

 

(なんなんだよ……ルイズ、明らかにおかしくねえか?)

 

 と、少女が持っている杖をよく見てみると、普段彼女が愛用している指揮棒(タクト)状のものではなく、フェンシングのフルーレのような形状をしていた。それに、怒りに燃えた彼女の顔を、改めて観察したところ――ルイズとは微妙に違う。瞳の色こそ同じ鳶色なのだが、目のつり上がり具合が才人の思い人よりもだいぶキツい。

 

「あ、あれ? もしかして……あなたルイズじゃない、とか?」

 

「誰のことだ、それは! ぼくは、そんな名前のやつは知らんッ!」

 

 どうやら、完全に人違いをしてしまったようだ。それに気付いた才人は、ぺこりと頭を下げて謝罪した。

 

「た、大変失礼しました。そのルイズって子なんですがね、あなたとそっくりの、とっても可愛らしい女の子でして……」

 

 顔を赤くしながら、自分なりの詫びと賛辞の言葉を述べた才人だったが、それを聞いた少女の顔は朱に染まった。

 

「ぼ、ぼくは男だ! 女なんかじゃないッ!」

 

「またまたァ、冗談ばっかり。どこからどう見ても、普通の美少女じゃないですか。そんな男物の服着てたって、ひと目でわかりますって。余計なお世話かもしれませんけど、ブラウスとか、ワンピースみたいな女性らしい服のほうが、あなたにはお似合いかと」

 

 才人がそう言うと、すぐ側を歩いていた通行人たちからくすくすという笑い声が漏れた。それを耳にしたルイズ似の少女――いや、本人曰く少年の顔からみるみる血の気が引いてゆく。彼は再び杖を構えると、才人に向けて突き出した。

 

「おい平民。これ以上、ぼくを怒らせるな」

 

 それを見た才人の額に、ピキッと青筋が浮かんだ。口端を上げ、無理矢理作り出したような笑顔をし、だが喉の奥から絞り出したような低い声で告げた。

 

「……平民平民うるせえよこの男女」

 

「お、お、男女だとッ!? 僕は男だと、なんべん言えばわかるんだ!!」

 

「はいはい、わかったよ。そこまで言うんなら、お前は男なんだな。まあ、そんなことはどうでもいいや」

 

「ん、んなッ、どど、どうでもいいだとッ! ぼくは全然よくないッ!」

 

「しつこいな。下敷きにしちまった事は、ちゃんと謝ったじゃねえか!」

 

「あ、あ、謝っただとッ! あんなものが、貴族に対する謝罪になるとでも!?」

 

「あー、はいはい。すみません。ごめんなさい。これでいいか? わかったら、早いとこその杖を引っ込めろよ。街中で魔法ぶっ放したりしたら危ねえだろうが」

 

 全く気持ちの籠もらぬ口調で受け流す才人。

 

(ただでさえ昨日ルイズにみっともないとこ見せちまって、こちとら苛立ってんだ。それなのに、あいつと似たような顔して、ひとをとことんコケにしやがって)

 

 喉元まで出掛かったその声までは、さすがに表へは出さない。

 

 彼らのやりとりを笑いながら見ていた通行人たちの顔から、徐々に笑顔が消えていく。こんなふうに平民が貴族に逆らうことなど、トリステインの――いや、ハルケギニア一般の常識からして、まずありえないことだからだ。

 

「なあ、お前。こんな風に貴族を侮辱するなんて、もしかして死にたいのか? それとも、ただの馬鹿なのか?」

 

 冷え切った少年の声に、これまた冷めた声を返す才人。

 

「どっちでもねえよ。お前が男だって言うから、遠慮なく言わせてもらってるだけだ。いいか? 俺はな、お前みたいにただ貴族ってだけで威張り散らすような野郎が大嫌いなんだ。わかったら、あんましナメた口利くんじゃねえ。痛い目に遭いたくなけりゃな」

 

 才人の挑発じみた言葉を受けた少年は、その場でわなわなと震え始めた。

 

「そうか、わかったぞ。ぼくが騎士見習いだから、貴様はそんなふざけた口を利くんだな!? 平民にまでナメられるなんて、ぼくは……ぼ、ぼくは……」

 

「へっ。騎士見習いだかなんだか知らねえけど、ガキがあんまり粋がるなっつうの」

 

「ぼ、ぼくは十五歳だ! 子供なんかじゃない!!」

 

「へぇえ~。とてもじゃないけど十五歳にゃ見えないな。お前、ちっこいし。それに……女の子みたいだからかな」

 

 度重なる才人の挑発に、ついに少年は我慢の限界に達したようだ。

 

「き、貴様……もうだめだ。いくら魔法が使えぬ平民相手といえど、さすがに許せん」

 

 少年は才人が背負ったデルフリンガーを指差すと、宣言した。

 

「見たところ、剣士見習いといったところか? 貴様に、少し稽古をつけてやる」

 

 すると才人は、待っていたと言わんばかりの笑みを浮かべた。そう、才人はあえて少年を怒らせるような真似をしたのだ。

 

 才人がこの世界に召喚されて、既に十ヶ月近くが経過している。いい加減、ハルケギニアの流儀というか、貴族というものがどういう相手なのかわかっていた。しかし、どうしてもやらずにはいられなかった。

 

 これが単なる同世代の貴族が相手なら、こんな馬鹿な真似はしなかっただろう。

 

 だが、よりにもよって自分が恋する少女・ルイズによく似た顔で、しかも彼女に召喚された当時のような、上から目線の発言を連発されたことに対する苛立ちと――そのいっぽうで、もしも告白に失敗したら、ルイズはまたこんな風になってしまうのではなかろうか? と、いう不安とでないまぜとなっていた才人の心が、どうにも収まらなかったのだ。

 

「おいおい、もう勝った気でいやがるのか? おもしれえ。世間の厳しさってヤツを、みっちりと教えてやるぜ」

 

「それはぼくの台詞だ! 貴族の強さというものを、思い知らせてやるッ!」

 

 少年はあごをしゃくってついてくるよう促すと、先に立って歩き出した。才人は指をパキポキと鳴らしながらその後に続く。そんなふたりを、通りすがりの市民たちはこわごわと見送った。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。トリステイン魔法学院の火の塔、二階倉庫内では。

 

 才人が姿を消す原因となった古びた箪笥を遠巻きにして、水精霊団のメンバーが調査を行っていた。

 

「ねえ、見つかった?」

 

「いや。どうやら魔法学院の中にはいないみたいだ」

 

「と、いうことはだ。やはりどこか別の場所へ飛ばされたのか、あるいは箪笥の中にある亜空間に閉じ込められてしまったのか……」

 

 才人が消えたあの瞬間、太公望は『空間ゲート』が開くところを独自の感覚で捉えていた。

 

(この箪笥は、ほぼ間違いなく転送装置の一種であろう)

 

 そう当たりをつけた彼は、残った全員に向けて、くれぐれも箪笥に触れないように通達すると、魔法学院内のどこかに才人が飛ばされている可能性を考慮し、付近の捜査を開始した。

 

 そして現在。学院内の捜索に出ていた生徒たちが、続々と状況報告を行っている。

 

「ミスタ・タイコーボー! 学院長先生は、明日まで戻らないそうだよ。なんでも王都に出張だとかで……」

 

「なぬ!? この肝心なときに、あの狸ジジイめ……あやつならば、この魔道具がどのようなものか知っておるだろうに!」

 

「他の先生方は、そんな箪笥の話は聞いたことがないって……」

 

「うぬぬぬぬ。やはり、オスマン頼みになるのか」

 

「ねえ、箪笥の横に何かボタンみたいなものがついてるんだけど……」

 

「これ、キュルケ! 下手に触るでないぞ。何が起こるかわからぬ状況で、さらなる混乱を引き起こしたくはないであろう?」

 

 太公望の言葉で、キュルケは出しかけていた指をそっと引っ込めた。そんな彼らをルイズがやきもきとした様子でせっつく。

 

「ねえ、みんなでサイトを助けに行かないの? あれって、確か前にミスタが言ってた『空間ゲート』の一種なんでしょう?」

 

 焦りと不安とがないまぜとなったルイズの顔を見て、太公望は決断した。

 

「本来であれば、オスマンのジジイが戻ってくるのを待ちたかったところではあるが、才人の身に危険が迫っておる可能性が高いのも確かだ。ここはひとつ、わしひとりで様子を見に行く……と、言うべきなのだが、おぬしらは……」

 

「一緒に行く」

 

「あたしも!」

 

「当然だね」

 

「うん。仲間の危機を黙って見過ごすわけにはいかないよ」

 

「今更、おいてけぼりなんて無しですわよ?」

 

「ちょっと怖いけど、みんなもいるし、秘薬の用意をしてからなら……」

 

 単なる転送装置なら行き先で才人と合流できるだろう。空間宝貝のような閉鎖空間だとしても、最悪自分の『太極図』さえあれば、簡単に打ち破れるはずだ……それに。

 

(あのジジイが命の危機に関わるようなシロモノを、こんな誰でも触れられる倉庫の中に放置しておくはずなかろう)

 

 そう考えた太公望は、そんな思惑はおくびにも出さず、代わりに渋々といったような表情を浮かべた挙げ句、ため息までついて見せた。

 

「おぬしたちには言うだけ無駄だと、もうわかりきっておる。ただし、決してわしの側を離れるでないぞ! 『扉』の向こうに、何があるかわからんからのう」

 

「やった――ッ!」

 

「倉庫掃除なんかより、ずっと刺激的だわ!」

 

「ちょっとツェルプストー! 遊びに行くわけじゃないのよ!?」

 

「大丈夫、わかってるわよ」

 

「本当かしら……」

 

「それじゃ、わたしは薬箱を取ってくるわね」

 

「わたしは、食堂」

 

「ああ、お弁当を頼みに行くのね? なら、あたしも一緒に行くわ」

 

「ぼくも、ちょっと準備をしておきたいな」

 

「では、一時間後に再びこの場へ集合だ。くれぐれも先走るでないぞ」

 

「了解!」

 

 ――何やら緊張感があるようなそうでないような気分でもって、水精霊団第四回目の遠征(?)がここに決定した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――魔法学院で、そんな騒ぎが起きているとはつゆ知らず。

 

 才人と貴族の少年はチクトンネ街の端にあるセント・クリスト寺院の裏庭で対峙していた。

 

 昼間であるにも関わらず、辺りは薄暗い。高い塀と、崩れかけた廃墟によってぐるりと囲まれているこの場所は、外からは様子が伺えない。後ろ暗い輩が集ったり、表に出せない決闘を行うにはうってつけというわけだ。

 

「さてと、ここならいいだろう」

 

 少年は才人から数メイルほど離れた位置で軍杖を構え、立っていた。彼の杖には青白く輝くオーラが渦巻く風のように絡みついている。だが、その輝きは――カリーヌ夫人の〝風の細剣〟やレイナールの〝風の剣〟と比較すると、ずっと弱々しい。

 

「どうした、かかってこい。背中に背負ったその剣は、ただの飾りか?」

 

 少年は軍杖を正面に突き付けるようにしながら言い放った。まるで、少しばかり遊んでやるとでも言わんばかりの態度。完全に才人のことを馬鹿にしきっているようだ。才人は答えの代わりに、すらりとデルフリンガーを抜き払った。

 

「よう、相棒。なんだか俺っち、ずいぶんとまた久しぶりに戦えそうだね」

 

「待たせたのに悪いな、すぐに片付きそうだぜ」

 

「そうかね? あいつ、相当やるみたいだよ」

 

 デルフの言葉に、才人はピクンと反応した。一昔前の彼なら、そんな忠告は無視して突撃していただろう。しかし、さすがにここまで散々痛い目に遭ってきた経験と、デルフの相手を見る目――彼にそのような器官があるのならば、だが――に、ほとんど狂いがないことを理解していた才人は油断せず気を引き締めることにした。

 

「ふうん。ま、デルフがそう言うんなら、気をつけるよ」

 

「今日の相棒は素直でいいねえ」

 

「ええい、ひとりで何をごちゃごちゃと! 来ないなら、こっちから行くぞ!!」

 

 少年は杖を正面に突き付けるようにしながら叫んだ。

 

「調子に乗りすぎだよ、お前! 言われなくても行ってやるぜ!!」

 

 才人は常識ではありえない程の速度で、あっという間に相手との間合いを詰めると、少年の背丈と同じくらい長大なデルフリンガーを細身の剣のように軽々と振り回し、相手の頭だけではなく、腕、胴、足……ありとあらゆる場所へ向けて、怒濤の如く撃ち込んだ。

 

「え、なに、ちょ!」

 

 少年は、慌てた。彼の杖捌きもなかなかのものであったが、なにしろ才人の得物は大剣である。しかも〝ガンダールヴ〟のパワーが上乗せされているため、その一撃一撃が、とてつもなく重い。魔法の刃を纏っているとはいえ、細剣で受けるには分が悪すぎた。

 

「おらおら、どうしたどうした! ええ? 貴族さまよ!!」

 

「ま、待ってッ、ちょ、ま、えええええッ!!」

 

 何度か打ち合いはしたものの。三本目で、ついに貴族の少年は地面に転がされた。

 

「なんだよ、もう終わりか? 口ほどにもねえな」

 

 そう言い放った才人は、息一つ乱れていない。

 

「ぐぬぬ……ぼ、ぼくとしたことが、へ、平民にまで後れをとるとは……」

 

 ぷるぷると身体を震わせながら立ち上がった少年は、キッと才人を睨み付けてきた。両目の端にじわりと涙が盛り上がっている。今にも泣き出しそうだ。

 

(こんな小さい子供相手に、さすがにやりすぎちゃったかな……)

 

 と、才人が反省しかけたその時だ。少年の周囲から、ぶわっと強烈な風が解き放たれたのは。

 

「うわッ!」

 

 突如襲いかかってきた猛烈な突風で後ろに吹っ飛ばされ、ごろごろと地面を転がされた才人だったが、なんとか剣は手放さずに済んでいた。

 

「な、なんなんだよ、今の風は!」

 

 急いで立ち上がった才人だったが、少年貴族の姿はそこにはない。驚く間もなく、太陽を背にして空から舞い降りてきた。その手に輝くオーラを纏った杖剣を構えて。

 

「もう、遊びはおしまい。貴族の本気を見せてやるッ!」

 

 そう叫ぶと、少年は上空からまっすぐに才人へ向けて斬りかかってきた。

 

「うおっとお!」

 

 咄嗟に横へ飛び退いた才人だったが、そんな才人に息をつく暇を与えず、少年は再び宙へ舞い上がると、風の魔法を巧みに操り、滞空したまま何度も何度も〝風の細剣〟を繰り出してきた。空を飛べない才人は少年の斬撃を躱すか、受け流すので精一杯だ。

 

「空飛んだまま、剣の魔法使えるとか! こいつも『複数展開』持ちかよ!!」

 

「な? 俺っちの言った通りだろう?」

 

「『複数展開』がレアスキルとか、絶対嘘だッ!」

 

 空から一方的に攻撃を仕掛ける少年は、完全に冷静さを失っていた。既に、相手が平民であることなど忘れ去っている。一心不乱に呪文を唱え、才人に対して蝶を刺す蜂のように、ひらりひらりと宙を舞い踊りながら斬撃を加え続けている。

 

 かたや防戦一方に見える才人のほうはというと。デルフリンガーを相手に軽口を叩きながら、自分でも驚くほど冷静に空を舞う少年を分析していた。

 

「こいつの風は確かにスゴイし、仕掛けてくる速さ自体もかなりのもんだ。けど、あんまり戦い慣れてないんだろうな、動きがほとんどパターン化してやがる」

 

「お! そこに気付くたぁ、いい目してるじゃねぇか相棒」

 

「俺だって、そこそこ経験詰んでっからな!」

 

 そして。才人はついに少年の癖を読み切った。

 

「――そこだッ!!」

 

 少年は攻撃を繰り出す際に、杖を才人に向ける。その時、ほんの一瞬だけだが隙――硬直時間が生まれる。才人はその間隙をついて一気に間合いを詰めると、持っていた剣を放り出し、伸びていた少年の腕を掴み、背負い、巻き込むようにして投げ飛ばす。

 

 日本流でいうところの一本背負いが見事に決まり、少年の身体は地面に叩き付けられた。

 

「ぐふッ!」

 

 背中をしたたかに打ち付けた少年は、うめき声を上げた。才人は倒れた少年の側に駆け寄ると、素早く杖を取り上げる。

 

「勝負あり、だな」

 

「あう、こ、こら! 返せッ!!」

 

「決闘では、相手の杖を取り上げるのが一番スマートな勝ち方なんだろ」

 

 ふふんと鼻で笑いながら、訳知り顔で才人が言うと。少年の両目からみるみるうちに涙が溢れ、ぼろぼろと零れた。

 

「あう、ぞ、ぞんなッ、魔法の使えない、平民にまで負けるなんて……」

 

「平民平民言うな。そうやってひとを小馬鹿にしてるから……」

 

「無理だ……」

 

「へ? 何が?」

 

「こ、こんなんじゃ、騎士になるなんて無理だあ! ふえぇぇえ――んッ!!」

 

 少年は、とうとう本格的に泣きはじめてしまった。さすがにバツが悪くなった才人は、なんとか少年を泣きやませようと努力した。

 

「あ、いや、その、なんだ。お前、充分に強かったよ?」

 

 だが、その言葉はどうやら火に油を注いでしまったようだった。

 

「なんて情けないんだッ。平民に慰められるだなんて! うわあああ――ん!!」

 

「お、おい、だからそんなに泣くなって!」

 

「臆病者のあいつだけじゃなくて、とうとう平民にまで負けたぁ! うぇえ――ん!!」

 

「あーあ、こりゃまた凄い攻撃だぁね」

 

「馬鹿、デルフ。混ぜっ返すんじゃねえよ! そ、そうだ! なあ、もう一回! もう一回やろうぜ。次はきっと、お前が勝つから。な? 絶対間違いないって、うん」

 

 それを聞いた少年の泣き声は、一際大きくなった。

 

「け、けけ、決闘した相手に、な、情けをかけられるだなんて! ふえぇえ――ん!!」

 

「ち、違うって! お前の攻撃って、速いけど単調だから、動きが読まれやすいんだよ! だからもう少し考えて戦えば、俺なんか敵じゃなくなるって言いたかっただけだ」

 

 それを聞いた後、一瞬だけぽかんとした少年は再び火が付いたように泣き始めた。

 

「く、くくく、悔しいッ! へ、平民の見習い剣士まであいつと同じこと言って、ぼくをバカにするんだ! びえええ――んッ!!」

 

 どんなに才人がなだめすかしても、少年は泣きやんでくれそうにない。これじゃあ、俺は子供をいじめてる悪者みたいじゃないか。才人は、今度こそ本当に慌てた。

 

「おーい、誰かッ! 誰でもいいから助けてくれ――ッ!!」

 

 廃墟に囲まれた薄暗い裏庭に、ふたりのせつない叫びが響き渡った――。

 

 




才人と決闘したリボンの騎士の正体とは!


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第85話 そして伝説は始まった(改)

2018/06/17 禁光銼と時間移動設定がらみを追加・改訂しました。


「なんだ、トリスタニアではないか」

 

 慎重に慎重を重ね、潜り抜けた『扉』の先は――全員が良く知る王都だった。

 

(箪笥に飛び込んだ際に何やら妙な違和感があったが、気のせいだったか――)

 

 と、太公望はほっと胸をなで下ろす。

 

「『扉』の先が、王都で良かったわね」

 

 ルイズが言うと、全く同感だといわんばかりにレイナールが頷いた。

 

「そうだね。冒険できないのは少し残念だけれど、街の中ならサイトが危険に晒されるようなこともないだろうし」

 

「そうとわかったら、手分けしてサイトを探しましょう」

 

「しかし、思わぬところで面白い魔法装置が見つかってよかったじゃないか。あの箪笥があれば、トリスタニアに出やすくなるよ」

 

「ホントよね! これで、わたしも秘薬の買い出しがとっても楽になるわ」

 

 などとにこやかに笑い合っているギーシュとモンモランシーのすぐ側で、首を捻っている者たちがいた。太公望とキュルケの二人だ。揃って眉根を寄せ、周囲を伺っているふたりを見たタバサが訝しむ。

 

「どうかしたの?」

 

「うむ。はっきりとは言えぬのだが、何かがおかしい気がする」

 

「何か、とは?」

 

「それがわからぬから悩んでおるのだよ。わしの目に映っておる景色は確かにトリスタニアのように見えるのだが、以前訪れた時と比べて、どこか雰囲気が違っているような気がしてのう」

 

 太公望と同じように周囲を伺っていたキュルケが言った。

 

「ねえ、ミスタ。ここ、本当にトリスタニアなのかしら……? もしも大通りの奥に王城がなかったら、絶対に別の場所だって断言できるわよ」

 

 キュルケの言葉に全員が注目した。

 

「ふむ、キュルケよ。おぬし、何か気が付いたのか?」

 

「ええ。あのね、正直ちょっと言いにくいことなんだけど……」

 

 キュルケが悩みながらも先を続けようとしたところへ、純白のサーコートを身に纏った騎士の一隊が通りかかった。

 

 彼らが騎乗しているのは馬ではなく、一角獣――ユニコーンだった。煌びやかな騎士隊は一糸の乱れもなく整然と隊列を組み、しずしずと水精霊団一同の側を通り過ぎていく。まるで絵画の世界から抜け出してきたような彼らの姿に、女生徒たちだけでなく男子生徒ふたりも感嘆と羨望のため息を漏らした。

 

「ユニコーンがいるってことは……姫殿下の行幸に間違いないわ」

 

 この国でユニコーンを用いることができるのは、未婚の王女だけと定められている。その一角獣に跨っているということは、彼らは姫さまを守護する近衛隊に違いない。そう判断したルイズは、後ろについてきているであろうアンリエッタの馬車を探したのだが、影も形も見当たらない。

 

「おかしいわね、どうして姫さまの馬車がないのかしら」

 

「あの騎士隊、何か変だ。みんな、あのサーコートをよく見てみなよ」

 

 小声で告げたレイナールの指示通り、全員が騎士隊の装束を見た。そこには赤い糸で聖具の印が刺繍されている。

 

「何あれ?」

 

「聖堂騎士団の騎士団章と微妙に似てるけど、違うみたいだな」

 

「そもそも、白いマントの騎士なんて聞いたことがないわ。魔法衛士隊のマントは黒だし、それに……騎乗する幻獣の姿が銀糸で刺繍されているはずよ」

 

「彼らは何者?」

 

 そんなことを言い合っていると、騎士隊の中ほどにいた隊士の数名が列を離れ、一同の元へつかつかと近寄ってくると、ギーシュの目の前で立ち止まった。

 

 生徒たちより少し年上だろう彼らは美しい装束に似合わぬ嫌らしい笑みを浮かべると、ギーシュに向けて口を開いた。

 

「こんな昼間から、女子供を連れて散策を楽しんでおられるのかね? ナルシス卿」

 

 声を掛けられた本人は、何のことやらわからずぽかんとしている。どうやらこの若い騎士はギーシュのことを別の誰かと勘違いしているらしい。その事実に気付かず、男はさらに続ける。

 

「まあ、暇を持て余しているのも無理はないからな。しかし、陛下の護衛任務を外されてもなお堂々と表通りを歩けるとは、相も変わらずご立派な精神をお持ちのようだ」

 

 その言葉に、隊列を外れてきた騎士たちが一斉に下卑た笑い声を上げた。どうやら嘲笑されているのが自分のことだと気が付いたギーシュは一歩前へ出ようとした。しかし太公望がそれを片手で遮ると、騎士たちに向かって告げた。

 

「失礼ですが、どなたかとお間違えになっておられるのではないでしょうか? こちらにおられるお方は、魔法学院に通っておられるお嬢さまのご学友のひとりです。陛下の護衛任務を外されたなどと言われましても、何の事やらさっぱりわかりませぬ」

 

「なんだと、このガキ。妙な服着やがって、どこの田舎者だ?」

 

 そう言ってさらに突っかかってこようとした若い騎士は、別の騎士に止められた。

 

「おい待てアンジェロ、あの略章をよく見ろ」

 

「なに?」

 

 アンジェロと呼ばれた男は太公望が身に付けている東薔薇花壇騎士団の略章を見て、忌々しげに顔を歪めた。

 

「こんなガキが、ガリアの花壇騎士だと!? そんなわけが……」

 

「いいや、あれは間違いなく本物だ。俺は何度も見たことがある」

 

「今の時期に余所者とやりあうのは自重しろと、大公殿下が仰っていたではないか」

 

 両脇を同僚とおぼしき騎士たちに固められたアンジェロは、

 

「ったく、まぎらわしい顔しやがって……」

 

 などとぶつくさ文句を垂れながら、隊列の最後尾へと戻っていった。

 

 騎士たちがその場から立ち去った後、ギーシュは苛立ちのあまり叫んだ。

 

「いったい何者なんだね、あの礼儀知らずどもは!」

 

 顔を真っ赤にして怒るギーシュをなだめるかのように、モンモランシーが言った。

 

「大公殿下って言ってたわ。あのひとたち、たぶんクルデンホルフ大公の部下よ」

 

「あの『金貸し』の? クソッ……いくらトリステインから独立しているからって、自分の親衛隊にユニコーンへの騎乗を許すとは! 不敬にも程があるじゃないか」

 

 そんな彼らに真っ向から反論を唱えたのはレイナールだった。

 

「いや、少しおかしくないかな? クルデンホルフ大公の親衛隊といえば、名にしおう『空中装甲騎士団(ルフトパンツァー・リッター)』だよね? それにしては装備が軽すぎるし……第一、彼らが騎乗するのは風竜だけで、ユニコーンじゃないはずだよ」

 

「あ」

 

「そういえばそうだった」

 

「なあに? そのルフトなんとかって」

 

 キュルケの問いに答えたのは、これまたレイナールだった。

 

「クルデンホルフ大公お抱えの竜騎士団でね。軽装が普通の竜騎士と違って、金属製の全身鎧を纏っているのが特徴なんだ。アルビオンの火竜騎士団と、クルデンホルフの空中装甲騎士団は、ハルケギニアの竜騎士団の中でも双璧だって言われてる」

 

「ありがと。でも、そう言われてみると、あいつらとはやっぱり違うみたいね」

 

 ぷりぷりと頬を膨らませながらルイズが言った。

 

「ほんと、一体何者なのかしら? 見た目だけは立派だけど、とんでもなく不敬な連中なのは間違いないわ!」

 

「さすがにそこまでは……」

 

 不埒な騎士たちの正体を詮索する少年少女たちを制して、太公望が言った。

 

「ひとまず、連中のことは後回しにしよう。キュルケよ、さっきの話の続きなのだが。おぬしが気付いたこととはなんだ?」

 

「それなんだけどね。街を歩いている貴族や平民たちの服が、なんだかおかしいのよ。流行遅れどころの話じゃないわ」

 

 キュルケにそう言われてみて、改めて道行く人々の服装に目を留めた一同。

 

「うぬう……確かに、着ているものが微妙に異なっておるのはわかるのだが」

 

「そう? わたしはどこが変わってるのか全然わからないけど」

 

「同じく」

 

「わたしも」

 

 キュルケは痛む頭を押さえながら、周囲には聞こえぬような小声で言った。

 

「ミスタ・タイコーボーはともかくとして、タバサとヴァリエールとモンモランシーは年頃の女の子なんだから、もう少し流行ってものを知っておいたほうがいいわよ。もうハッキリ言うけどね、誰も彼も、とんでもなく時代遅れな格好してるじゃないのよ!」

 

「そうかしら? わたしは別に、そんなふうには感じないけど」

 

「ま、ヴァリエール領は田舎だものね。わからなくても無理ないわね」

 

「ひ、ひひ、久しぶりに、け、喧嘩売ってるのかしら? ツェルプストー。そもそもあんたの家、うちの隣じゃないのよ!」

 

「街中で騒ぐのはだめ」

 

 街の人々の時代遅れな服装に、不敬にもユニコーンを駆る騎士隊。そして、街並み全体から漂う違和感。これらが示すものとは一体何なのか。太公望が思考の淵へと沈み込もうとした直後。今度は背後から声をかけられた。

 

「おうナルシス! 探したぞ。こんなところにいたのか」

 

 振り返ると、そこには短く刈り上げた金髪に筋骨隆々の偉丈夫と、片眼鏡(モノクル)をかけた貴族の青年が立っていた。彼の髪は銀……と、いうよりも。まるで頭から灰でも被ったような色をしている。

 

 大男はずんずんとギーシュのところへ近付いていくと、訝しげな顔をして言った。

 

「おいおいなんだ、その格好は! いつもより、随分と地味じゃないか」

 

 どうやら、またしても人違いをされてしまったらしきギーシュは派手なフリルのついたシャツを着ている。これで地味ということは……その『ナルシス卿』なる人物は、普段どんな服装をしているのだろう。

 

 ギーシュを除く、水精霊団全員の心がひとつになった。

 

 片眼鏡の青年が、ギーシュをしげしげと見つめながら言った。

 

「と、いうか。それ、改造してあるけど魔法学院の制服だろう? おまえ、なんでそんなものを着てるんだ?」

 

「なんでと言われましても……」

 

 これで、本日二度目の人違い。今度はモンモランシーが助け船を出した。

 

「失礼、ミスタ。誰かとお間違えなのではありませんこと?」

 

 すると、偉丈夫の顔が一瞬で真っ赤になったかと思うと、すぐさま穏やかなものに変化し――次の瞬間。彼は猛烈な勢いでモンモランシーの前に跪いた。

 

「お仕えさせてくださいッ!!」

 

「ひうッ!」

 

 いきなりのことに、思わず後ろへ飛び退くモンモランシー。

 

「わたくし、あなたさまのような可憐な美少女にお仕えするのを夢見て、騎士となった男であります! 何とぞ、供のひとりに……」

 

 そう言って頭を上げた男の顔は、自分を取り囲んでいる水精霊団――おもに女生徒たちのほうをぐるりと見回した後、愉悦に崩れた。

 

「こ、こんなッ、揃いも揃って美少女ばかり……皆々様に申し上げ奉る! どなたか、この哀れな子羊の夢を叶えてはくださらんかッ!」

 

 満面の笑みで叫んだ偉丈夫の目と白い歯が、キラリと輝いた。彼は今にも少女たちに縋り付きそうな勢いだ。一見すると爽やかそうにも思えるが、言動が色々と沸いている。一同、完全にドン引きだ。同行者らしき片眼鏡の青年も、すぐ側で頭を抱えている。

 

「へ、変態……」

 

 ルイズが思わず口にした言葉に、大男は顔色を変えた。

 

「変態!? いくらなんでもその言い方は……って、カリン! カリンじゃないか! お前もナルシスと一緒にいたのか。しかし、なんだその格好は? 正直に言わせてもらうが、薄気味悪いくらい似合ってるぞ」

 

「は? カリン?」

 

 ルイズは、ぽかんとして大男を見つめた。カリン――それは自分の母が世を忍ぶ仮の名前として用いていたものではないか。それが何故、目の前にいる変態の口から飛び出してきたのだろう。

 

 桃髪の少女が呆然とその場に突っ立っていると、今度は片眼鏡の青年が近付いてきて、彼女の額に手を伸ばした。

 

「なあ、カリン。お前……熱でもあるのか? 女装して街を歩くだなんて。とうとうおかしくなったか?」

 

 ルイズはその手をパシッを払うと、形のよい眉根を寄せて怒った。

 

「レディに気安く触らないでよ! 失礼ね」

 

 そんなルイズの様子を見た偉丈夫が、ギーシュに向けて呆れ声を出した。

 

「そうか、わかったぞ! おいナルシス。お前がカリンに変なこと吹き込んだんだろう? こいつは女みたいに綺麗な見た目だから、こういう格好させたら引き立つのは間違いないし、実際ものすごく似合っているわけだが……」

 

 それを聞いたルイズのこめかみが、ぴくぴくと痙攣した。

 

(女みたいってはどういうこと!? わたしは、れっきとした女よ!)

 

 ……ああ、そうか。胸がぺったらだからか。まるで洗濯板みたいだからか。伸ばした後のパン生地みたいにまったいらだから男にしか見えないとでも言いたいのか。公爵家の娘ともあろう者が、こんな木っ端貴族から侮辱を受ける謂われはない。

 

(それに、カリンですって!? その名前は『伝説』なのよ、気安く使っていいものじゃないわ。こいつらと、こいつらの実家に抗議してやるんだから!!)

 

 瞬きの間にそこまで思考を巡らせたルイズが再び口を開こうとした、その時。通りの奥から悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。

 

「おーい、誰かッ! 誰でもいいから助けてくれ――ッ!!」

 

 それを聞いたルイズの顔色が、劇的に変わった。

 

「サイト! 今の声、サイトに間違いないわ!!」

 

 しかも、助けを求めていた。

 

 あのサイトが悲鳴を上げるだなんて、余程のことがあったに違いない。そう判断したルイズは青年たちを振り払うと、先程までの怒りなど放り出し、脇目も振らずに駆け出した。

 

「ああッ、これ。先走るでない! ……ええい仕方がない、皆の者、わしの後に続け!」

 

 太公望の号令で、残る水精霊団の一同もルイズの後を追って走り出した。

 

 その場に取り残されたふたりの男は、顔を見合わせた。彼らの表情は先程までとは異なり、険しいものに変わっている。

 

「おい、サンドリオン。今の悲鳴……セント・クリスト寺院のほうから聞こえたぞ」

 

 サンドリオンと呼ばれた片眼鏡の青年は、頷いた。

 

「ああ。まさかとは思うが、おれたちの代わりに別の誰かが巻き込まれたんじゃ……」

 

 それを聞いた大男の顔が、真っ青になった。

 

「そりゃまずい! そんなことになったら、今度は減俸どころじゃすまないぞ!!」

 

「そういうことだ。急ぐぞ、バッカス」

 

 ふたりは頷き合うと、通りの外れにある寺院に向かって駆け出した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――平賀才人は、心底参っていた。

 

「あー。これ、どう見てもいけないのは俺のほうだよなあ……」

 

 冷静になって考えてみれば、この貴族の女の子は何ひとつ悪いことなんかしていない。せいぜい才人に向かって生意気な口を利いたくらいだ。それだって、事故とはいえ彼がこの少女を下敷きにしたりしなければ、起きなかったことだ。

 

「情けねえ。いくらイラついてたからって、女の子相手に一方的に喧嘩ふっかけて、おまけに泣かせるとか。こんなだから俺、モテないんだろうな」

 

 それに。もしもこんなところをルイズに見られたら……どう思われるだろう。そんなふうに才人が自己嫌悪に陥っていると、寺院の外から声が聞こえてきた。

 

「サイト! サイト――ッ!!」

 

 遠くまでよく響く、透き通った――それでいて聞き覚えのある、あの声は。

 

「げ、マジでルイズが来ちまった!」

 

 才人は、今度こそ本当に慌てた。

 

「なあおい、お前! いい加減泣きやんでくれよ」

 

 そう言って少年の肩を揺さぶったが、泣き声はますます激しくなるばかり。

 

「誰かが泣いてるみたいね。待ってて、すぐに助けに行くから!」

 

 やめて! むしろ来ないで!

 

 思わずそう叫びたくなった才人であったが、遅かった。ルイズを先頭に、杖を手にした水精霊団の仲間たちが、ぞろぞろと揃って寺院の裏庭に入り込んできてしまった。

 

 最初にルイズの視界に入ったのは、悪戯がばれて縮こまっている子犬のような顔をした才人と。そのすぐ隣で大声を上げて泣く……自分と同じ桃色の髪をした、小柄な少女の姿だった。

 

「そそ、その子……誰?」

 

 なんか、ルイズの声がカタい。才人の顔が引き攣った。

 

「いやその、こいつは……」

 

 ルイズはぷるぷると身体を震わせたかと思うと、俯きながら、まるで機関銃のような速度で言葉を紡ぎ出した。

 

「いきなりあんたの姿が消えちゃったからわたしたちものすごく心配して急いで来てみればこんな薄暗いところで女の子泣かせてるとかあんたふざけてるのねえどゆことわたしの手で天国に送って欲しいとでもいうのかしら言い訳があるなら言ってみなさいよほら早く話しなさいわたしは気が長いわねって母さまに褒められたこともあるけどそれにも限界ってものがあるのよわかるかしら」

 

 と、そこへ先程の男ふたりが追いついてきた。

 

「なんだ? どうしてカリンがこんなところで泣いてるんだ……って、え!?」

 

 偉丈夫――バッカスと呼ばれた男が、泣いている少年とルイズを交互に見て喚いた。

 

「か、カリンがふたり!? どういうことだあ!」

 

「向こうで泣いてるほうがカリンだな。ま、単なる人違いだろう。世界には、自分と良く似た人間が三人いるって言うしな」

 

 彼らのやりとりに、太公望が反応した。

 

 カリン――もちろん彼は、その名前をよく覚えている。

 

(ルイズと瓜二つな、騎士装束の少女。『扉』をくぐる時に感じた微妙な違和感。どこか普段と違う街並み。時代遅れの衣装を身に纏う街人たち。王女にしか使用が許されないはずのユニコーンを駆る、不敬な大公の騎士ども。これは、まさか――!)

 

 そんな太公望の内心など知るよしもなく、サンドリオンはカリンと呼ばれた少女の元へ駆け寄ると、彼女の肩を揺すった。

 

「おい、どうしたカリン。なんで泣いてるんだ?」

 

 すると、カリンは才人を指差して言った。

 

「こ、こいつにやられた……」

 

 それを聞いたバッカスが、肩をいからせて凄んだ。

 

「なんだとォ!? こいつめ。平民の分際で、よくもカリンをいじめやがったな!」

 

 才人は、ぶんぶんと首を振って否定した。

 

「ち、違いますって、正々堂々とした決闘の結果です! なあ!?」

 

 才人がそう言うと、カリンはこくりと頷いた。

 

「ああ、お互いの意地を賭けた決闘だった。それなのに負けたあ! うわ~ん!!」

 

 サンドリオンはくるりと振り向くと、ギーシュに向かって問うた。

 

「ひとつ確認するが……もしかして、そこのきみもナルシスではない、とか?」

 

「失礼ですが、人違いです」

 

 サンドリオンは、片手で顔を覆った。

 

「やっぱりそうか。しかし参ったな……」

 

 うんうんと頷きながら、バッカスが言った。

 

「お前の言う通りだ、サンドリオン。まだ見習いとはいえ、うちの隊士が平民に負けたというのはどうにも外聞が悪い」

 

「いや、そっちは正直どうでもいい」

 

「ええ? いいのかよ、おい!」

 

「ああ。それどころか平民の身でカリンを負かすなんて、たいしたもんだと思うぞ。おれが困っているのはだな……」

 

 と、寺院の外側から軍靴と思われる複数の足音と、大きな声が響いてきた。

 

「トリステインの諸君はおられるか!!」

 

 ふと見ると、そこにはゲルマニア人とおぼしき騎士たちが、隊列を組んで立っていた。その数、およそ三十名。

 

「うげ、まさか……」

 

 顔色を変えたバッカスに、サンドリオンがため息をつきながら答えた。

 

「そのまさか、だ。時間切れ……ここからは、おれたちが決闘する番だ」

 

「冗談だろ!? あいつら、前にやりあったときは十人だったじゃないか! まさかあんなに引き連れてきやがるとは……」

 

 先頭に立っていたゲルマニア貴族が、大声で叫んだ。

 

「やあやあ、トリステインの貴族諸君! 貴君らの強さに敬意を表したいと、トリスタニアに住まうゲルマニア貴族がこれだけ集まった! 是非とも我らからの礼を十二分に受けられたし!」

 

 バッカスが青い顔で言う。

 

「参ったな。あれだけいたら、さすがにどうにもならんぞ」

 

「こいつも、今回は役に立たなさそうだし……」

 

 サンドリオンはカリンを見ながらそう言うと、ちらりと才人に目をやった。そこに明確な意志を感じ取った才人は、ばっと手を挙げて言った。

 

「お、俺、助太刀します!」

 

「貴様が?」

 

 胡散臭げにバッカスが言うと、才人は頷いた。

 

「は、はい。えと、カリンさんがこんなふうになっちゃったのは、俺のせいだし」

 

 サンドリオンの片眼鏡の奥が、きらりと光った。

 

「そうか。なら、頼む」

 

 そのままゲルマニア人たちのほうへ向かおうとした三名だったが、しかしそれに待ったを掛けた者がいた。太公望である。

 

「待て。これはいったいどういう状況なのだ? 内容いかんによっては『ソード』に手助けをさせるわけにはいかぬ」

 

「師叔! でも……」

 

「死人が出るかもしれぬような場へ、仲間を放り出すわけにはいかぬ」

 

 そう言われて、ぎくりとする才人。

 

 彼らのやりとりを見たサンドリオンはため息をつくと、事情を語り始めた。

 

「先週な、あのゲルマニア人たちと『洞窟の松明』亭で、金を賭けてカードをやったんだ。ところが連中ときたら、店の親父と手を組んで、いかさまをしていたんだよ。こっちがそれに気付いて指摘したら杖を抜いたんで、仕方なく応戦したという訳さ。おれはドンパチが大嫌いなのに、無理矢理付き合わされて……」

 

 サンドリオンの説明に、バッカスが補足した。

 

「俺たちは三人、相手は十人だったんだぜ。今日はその時の礼がしたいと向こうが申し入れてきたから受けてやったまでのことだ。そしたら、ご覧の有様というわけさ」

 

「なるほど。十人では倒しきれぬから、徒党を組んできたというわけか。もうひとつ確認させてもらいたいのだが、今の説明に嘘偽りはないのだな?」

 

「ああ。なんなら『始祖』に誓ってもかまわない」

 

「では、最後の質問だ。おぬしたちは連中と殺し合いをするつもりか?」

 

 その問いに、才人とはじめとした水精霊団の一同はぎょっとした。だが、サンドリオンは生真面目な顔で言った。

 

「できれば少々打ち合いをして、両陣営に負傷者が出ないうちに撤収するのが理想だろう。このあたりで遺恨の連鎖を断ち切っておかないと、ゲルマニアと戦争になりかねん。しかし残念ながら、こちらから引くわけにはいかないんだ」

 

「それは何故だ?」

 

「これとは別件なんだが、色々と面倒な事情を抱えていてな」

 

 と、それを聞いたレイナールがすっと手を挙げて言った。

 

「ねえ、ぼくも手伝わせてもらっていいかな?」

 

「おぬし、何を言い出すのだ!」

 

 レイナールは太公望の問いかけには答えず、ふたりの青年貴族に振り返って言った。

 

「ぼくの名は『ブレイズ』。火と風を『ライン』レベルで扱えるよ。ただ、どっちかというと〝風の剣〟を使った接近戦のほうが得意かな」

 

 と、今度はギーシュが名乗りを上げる。

 

「ひとりは、みんなのために。みんなは、ひとりのために。これは、我が『水精霊団』の誓いだ。多勢に無勢にも程があるし、サ……ソードとブレイズが彼らに助太刀するというのならば、ぼくも協力しよう。ぼくの名は『ブロンズ』だ。〝土〟のラインで、ゴーレムの操作が得意技さ」

 

 続いてキュルケが杖を抜いて宣言した。

 

「バレなきゃいかさまじゃないと思うけど、種明かしされた後に杖を抜くだなんて、みっともないったらないわね。同じゲルマニア貴族として、放っておけないわ」

 

 そう言うと、ふたりの青年貴族に向けて微笑んだ。

 

「あたしの名前は『フレア』。こう見えても、火の『トライアングル』。お二方の足手まといにはなりませんことよ」

 

「おおッ! オレはバッカス。お嬢さんと同じ火系統で、ランクも同じだッ! よろしく頼むぜ」

 

「まあ、奇遇ですわね。こちらこそ、よろしく」

 

 ほんの少しだけキュルケの顔が引き攣ったのだが、偉丈夫はそれに気付かない。片眼鏡の青年はそんな同僚を見て、苦笑しながら名乗った。

 

「おれの名はサンドリオン。得意な系統は水だ。ただし、治癒よりもどちらかというと防衛や接近戦のほうが得意でな。回復についてはあまり期待しないでもらいたい」

 

 と、そこへさらにタバサが名乗りを上げた。

 

「わたしも参加する。名前は『スノウ』。系統は風。四つまで重ねられる」

 

「その歳で『スクウェア』か!」

 

「凄いな……あのカリンだって、まだ『ライン』なのに」

 

 レイナールが、意味ありげに太公望のほうを伺った。

 

「ええい! ここでおまえらだけ行かせるような真似をしたら、あとであのクソジイイから何を言われるかわからんではないか!」

 

「そうだろうね。あなたはぼくたちのリーダーを任されているんだから」

 

 したり顔で言うレイナールに心底迷惑そうな顔を向けた後、太公望はサンドリオンとバッカスに名乗った。

 

「わしは花壇騎士団の末席を汚す身分だが――おぬしたちに手を貸すとしよう。これからは『ハーミット』と呼んでくれ。得意な系統は風だ」

 

 バッカスが、ヒュウと口笛を吹いた。花壇騎士はガリア王国騎士団の花形だ。叙せられるためには相応の家格と実力が必要とされている。バッカスは当然そのことを知っていたのだった。

 

 しかしながら、全員参加の流れに否を突き付ける者も出た。

 

「わ、わたしは嫌よ、決闘なんて!」

 

「わたしも……みんなが怪我したら、手当てくらいはしてあげてもいいけど」

 

 ルイズとモンモランシーだ。身内に危険が迫った、あるいは誰かを守る、そういった戦いには参加する彼女たちは、決闘のような行為を好んでするような性格ではない。

 

「フローラルは、もともと戦闘向きではないからのう。済まぬが、こやつの面倒を見ていてくれぬか?」

 

 そう言って、カリンを指差す太公望。モンモランシーは頷いた。

 

「コメット。気が乗らぬ気持ちはよくわかるのだが、わしが思い描く理想の勝利を得るために、可能であればおぬしの〝力〟を貸して欲しいのだ」

 

「ま、まあ、そこまで言うなら、参加してあげても、い、いいわ。その代わり……」

 

 仏頂面で、才人が言った。

 

「お前のことは、俺が護る。いつもと変わんねえよ」

 

「そ、そう。なら、いい、いいわ」

 

「そうしてくれ。それが、今回わしが立てた策における、重要なポイントなのだ」

 

「は?」

 

「どういうことだ?」

 

 そして、簡単な打ち合わせの後……ゲルマニア人たちとの戦いが始まった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――なんか、体育祭の騎馬戦……いや、サバゲーやってる気分だ。

 

 大乱戦の中。ルイズのことを肩車して廃墟の中を走り回りながら、才人は暢気にそんなことを考えていた。

 

 太公望が戦闘開始前に提案した作戦。それは――。

 

「捉えたわ! イル・アース・デル……」

 

 ルイズの詠唱が完成したと同時に、ゲルマニア人のうちのひとりが持っていた杖が派手に爆発を起こす。直近で爆風を受けた数名が、吹き飛ばされて地面に転がった。

 

「ああ、もう! 倒れちゃったら杖がよく見えないじゃないのよ! 軍人なんだから、あのくらい耐えなさいよね」

 

「いや、それ無理だから……」

 

 〝ガンダールヴ〟才人の移動速度とルイズの驚異的なバランス感覚によって実現した恐怖の『移動砲台』によって、ゲルマニア人たちが持つ杖をピンポイントで狙い撃つというものであった。

 

「しっかし、メイジって杖無くしたらほんとになんもできなくなるんだな。あいつらみんな騎士っぽい格好してんのに武器持ち歩いてないとか、ありえねえんだけど」

 

「何言ってるのよ! 貴族が杖以外の武器を持つなんて、そんな恥ずかしい真似できるわけないじゃない」

 

「え、そういうもんなの?」

 

「弓矢や剣で倒したり、倒されるなんて下品だし、恥さらしなの! 平民同士で戦うわけじゃないんだから」

 

「魔法の剣とか鞭、あるじゃねえか! 似たようなもんだろうが」

 

「全然違うわ!」

 

「俺は、どっちだろうが結局は同じだと思うんだけどなあ」

 

 数名の杖を吹き飛ばされてから、ようやくルイズの脅威に気付いたゲルマニア人たちだったが、彼女を背負っているのは指ぬきグローブで〝ガンダールヴ〟の能力を発動させた才人である。並の人間ではまず追いつけない。

 

 おまけにトリステイン側のメイジたちが、全員揃って補佐や妨害に回っているせいで、〝眠りの雲〟や〝風の縄〟などの拘束系呪文を唱え、足止めすることも敵わない。結果、彼らは少しずつだがその戦力を削られていった。

 

 〝水流の盾(ウォーター・シールド)〟の呪文を維持しながら、サンドリオンが感心したように呟く。

 

「少々えげつない方法だが、効率的だし――何より相手が大怪我をしないのがいいな」

 

 いくつもの〝炎球(フレイム・ボール)〟を地面に向けて投げつけることでゲルマニア人たちの進路をコントロールしながら、バッカスがそれに答えた。

 

「あのお嬢ちゃん、なかなかやるじゃないか! 女にしとくのが勿体ないぜ」

 

「ああ。少なくとも、カリンを負かすほどの剣士を引っ込めただけの価値はあるな」

 

「それにしても、見れば見るほどカリンとそっくりだな」

 

「最初はどっちがどっちだかわからんかったからな。案外、親戚だったりしてな」

 

「ナルシスのそっくりさんもいることだし、その推測は間違ってないかもな」

 

 彼らの視線の先では、ギーシュが『ワルキューレ』を繰り、ゲルマニア人たちの行く手を阻んでいる。相手にできうる限り怪我をさせないために、七体全てが盾のみを装備する徹底ぶりだ。

 

 そのすぐ横ではレイナールが〝風の鞭〟を振り、才人たちを追い掛けようとしていた貴族を転ばせていた。さらに、倒された貴族のマントを『如意羽衣』で滞空していたタバサが〝氷の矢(アイシクル・アロー)〟で地面に縫いつける。

 

「ふむ。なかなかどうして、全員まだ学生とは思えない動きじゃないか」

 

「ああ。正直、今すぐうちの隊に来てもらいたいくらいだぜ」

 

 水精霊団の一糸乱れぬ動きに、騎士たちは感心しきりといった体で魅入っていた。

 

 ――だが、そんな油断が思わぬ危機を招いた。

 

 ゲルマニア人とて、ただやられるばかりではない。烏合の衆にも見えた彼らはれっきとした軍人だった。しっかりと彼我の戦力差を認識し、行動に移った。ルイズが起こした爆風で倒されたフリをしていたメイジが仲間の身体を盾に杖を隠し、地面に向けて魔法を唱えたのだ。

 

 その呪文は〝錬金〟。地面の一部が沼地に変わった。

 

「うお、危ねえ!」

 

 突如発生したぬかるみに足をとられた才人は、その場で転びそうになりながらも、かろうじて踏みとどまった。

 

 しかし、その動きを敵は見逃さなかった。さらに〝土腕(アース・ハンド)〟の呪文――地面から腕を生やし、敵を捕らえる魔法を展開することで、才人の足を絡め取る。

 

「なんだこれ! 放せ! 放せってば!!」

 

 動けなくなった才人とルイズの前に、今度は泥でできたゴーレムが何体も現れ、彼らをぐるりと取り囲んだ。〝クリエイト・ゴーレム〟の呪文だ。

 

「や、やべ……」

 

 ルイズを背負っているため、デルフリンガーを抜くことはできない。かといって、彼女を降ろしていては間に合わない。上空を舞っていたタバサが彼らの危機に気付き〝風の刃〟の詠唱を開始したが、呪文の完成までにはタイムラグがある。

 

 やられる! 才人がそう思った時だった。

 

「ゴールド・レディ! そいつらをやっつけろ!!」

 

 どこからともなく聞こえてきた声と共に、ぴかぴかと金色に輝くゴーレムが現れた。

 

 全長三メイルほどの、貴婦人のような姿形をしたそのゴーレムは、手にした鉄扇の先端で才人の拘束を外すと、その大きな身体からは想像もつかない程優雅な動きでもって、泥のゴーレムたちを片っ端からバラバラにしていく。

 

 ほんのわずかな時間で、敵の造り出したゴーレムは全滅した。

 

「あっはっは! どうだい、ボクの純金の貴婦人は! 素晴らしいだろう?」

 

「純金じゃなくて真鍮だろ!」

 

「ナルシス! おまえ、来るのが遅いよ!!」

 

 バッカスとサンドリオンのツッコミもなんのその。ナルシスと呼ばれた青年は気取った声でこう言った。

 

「いやぁ、詰め所できみたちの行き先を聞いてね。もしやと思い、慌てて追い掛けてきたわけだが……なかなかいいタイミングだったようだね」

 

 裏庭に現れた青年貴族は、しかしどうにも頭の痛くなるような服装をしていた。羽織ったマントはその色こそ落ち着いた漆黒であったが、派手な羽毛の飾り襟がついている。おまけに着込んでいるシャツはどぎつい紫色で、ご丁寧にも光を反射してキラキラと輝くラメが編み込まれていた。

 

 そして、見た目は――確かにギーシュと瓜二つであった。同じ服を着せて横に並べたら、双子といっても通用するだろう。ナルシスの顔に薄く施されている化粧を落とせば……だが。

 

「さて、勇敢なる我が衛士隊の仲間たちと学生諸君。このボクが来たからには、もう今のようなことは起こり得ない。そろそろ勝負を決めようじゃないか」

 

「ちぇ。遅れて来たくせに、偉そうに」

 

「まあまあ、バッカス。今回ばかりは主役を張らせてやろうぜ」

 

 そんな彼らを横目で見つつ『打神鞭』で風の壁を作りながら、太公望が言った。

 

「ふむ。この調子ならば、誰も怪我せずに終われそうだのう」

 

 その声に、サンドリオンが笑顔で答える。

 

「ああ、おかげさまでな! これが終わったら、しかるべき礼をさせてもらう。実は、美味い酒と料理を出す店を知ってるんだ」

 

「ほう、それは楽しみだのう」

 

 ――いっぽうそのころ。モンモランシーは彼女の戦場で奮闘していた。

 

 彼女は未だにぐずっているカリンに向けて、こう言って発破をかけた。

 

「ねえ、あなた。『カリン』の名前を継ぐ者として、恥ずかしくないの?」

 

「はえ?」

 

 何を言われているかわからない。そんな目で、モンモランシーを見つめるカリン。

 

「あなた、男の子なんでしょう? それに、その名前。偽名じゃないのよね?」

 

「あ、当たり前だッ!」

 

「だったら、もっとしゃんとしなさいな。『カリン』の名が泣くわよ?」

 

「はぁ? どういう意味だ?」

 

 モンモランシーは、ぽかんとして言った。

 

「あなた……『吹き荒ぶ烈風』の代名詞を知らないなんて、どこの田舎者よ」

 

 カリンは真っ赤になって言い返した。

 

「だ、誰が田舎者かッ! そ、そのくらい、知っているに決まってるだろう!!」

 

 そんな話は聞いたこともなかったが、カリンは田舎者と笑われるのがイヤで、精一杯の虚勢を張った。

 

「なら、その名前には大きな意味があるってことも、わかっているわよね?」

 

「と、当然だッ!」

 

「だったら、いつまでもグズグズ泣くのはおよしなさいな。ほら! あなたの仲間たちは、みんな向こうで戦ってるわ」

 

 そう言ってモンモランシーが指差す先では、確かにカリンの仲間――豪快なバッカスと気障なナルシス。それに臆病者のサンドリオンが、ゲルマニアの小隊を相手に杖を交えている最中だった。自分を負かした少年剣士も同じ戦場に立っている。

 

(ここで何もしないで泣いていたら、またあいつら(・・・・)に笑われる!)

 

 それを思うと、カリンの心は激しく震えた。

 

(憎たらしいあいつ、サンドリオン! 臆病者のくせに、いつも涼しい顔してぼくのことを馬鹿にして! なにが『勇気と無謀は別』だ! そんなのは、弱虫の言い訳じゃないか! それに、あの生意気な平民! さっきは油断して不覚を取ったけど、今度こそ本当の実力を見せてやる。ぼくの名前――『カリン』の代名詞らしい、吹き荒ぶ烈風を!)

 

 カリンはシャツの襟でぐいと涙を拭うと、詠唱を開始した。途端に、カリンの周囲を猛烈な旋風が包み始める。

 

 最初に異変に気が付いたのは太公望だった。

 

「ぬ? なんだか様子がおかしいぞ」

 

 太公望の言葉に、サンドリオンが反応した。

 

 彼の視線を追うと、その先に――カリンが立っている。周囲に、囂々と吹き荒れる『烈風』を纏って。サンドリオンは真っ青になった。どうやら、カリンは怒りで我を忘れているようだ。

 

(あ、あんな風が解き放たれたら、間違いなくこの辺りの全てが吹き飛ぶぞ! あの馬鹿、頭に血が上ってそんな判断すらつかなくなってるんだ!)

 

「やばい、逃げろ!」

 

 その声に、バッカスとナルシスが反応し――異変の原因を察知すると、一目散に逃げ出した。太公望も、当然カリンの〝風〟に気が付いていた。大慌てで全員に声を掛ける。

 

「皆の者、伏せるのだ!」

 

 そして、大急ぎで『太極図』をカリンに向ける。

 

「あれは……」

 

 急いで空から降り、地面に伏せていたタバサは見た。太公望が持つ杖の先から、螺旋を描くように文字状の光が流れ出してゆく様を。

 

(あの『切り札』で、風を届かせないようにしようとしている?)

 

 次の瞬間。カリンの〝(ストーム)〟が完成した。猛烈な暴風が、その場にいた全員に襲いかかろうとしたその時、太公望の『太極図』が展開し、渦を巻き、発生した烈風をぐるりと包み込んだ。すると、徐々に風が弱まっていくではないか。

 

(あれは地面に描く以外に、あんなふうに使うこともできるのか。つまり、攻撃呪文を届かせないための魔法なんかじゃない。もっと、ずっと怖ろしい……)

 

 そこまで考えたところで、タバサは猛烈な風によって大空へ吹き飛ばされ、くるくると宙を舞った。彼女だけでなく、仲間たちも、協力して戦ったふたりの青年貴族も、敵対していたゲルマニアの貴族たちもが暴風の渦に巻き込まれた。

 

(なるほど。彼が距離を取りたがっていたのは、こういうこと……)

 

 あの『切り札』は、詠唱を完成させるまでに時間がかかる。だから、刻を稼ぐために距離を必要としたのだ。けれど今回は咄嗟のことで、展開が間に合わなかったから――。

 

 タバサが考察できたのは、残念ながらそこまでだった。荒れ狂う風にもみくちゃにされ、徐々に意識が遠ざかってゆく――。

 

 

○●○●○●○●

 

「あれ?」

 

「ここは……」

 

 水精霊団の一同が目覚めたのは、魔法学院の医務室だった。全員、きょとんとして顔を見合わせると、口々に喋り始めた。

 

「わたしたち、確かトリスタニアにいたのよね?」

 

「うん。そんでもって、あのルイズの母ちゃんと同じ名前名乗ってたやつと決闘して、大声で泣かれて……」

 

「そうそう。そのあと、ゲルマニア人たちと戦ってたはずなんだよ」

 

「サイトとルイズのピンチを、ギーシュのそっくりさんが助けてくれたのよね」

 

「そんで、もうすぐ勝てそうってところで、とんでもない風が吹いてきて……」

 

 わいわいと騒いでいた一同の耳に、オホンというわざとらしい咳払いが聞こえてきた。全員が振り向くと、そこには学院長のオスマン氏が立っていた。

 

「君たちはだな。『夢見の箪笥(たんす)』の中にいたのじゃよ」

 

「夢見の箪笥?」

 

「そうじゃ。そこに入ると白昼夢を見てしまうという、実に困った魔道具でな」

 

「なあんだ、そうだったんですか」

 

「でも、すげえリアルな夢だったよなあ」

 

 まるで、師叔の〝夢渡り〟みたいだ。かつて連れて行かれた『部屋』を思い出した才人であったが現時点ではまだ内緒であるため、そこまでは口にしなかった。

 

「それにしても、まさかこんな大勢で飛び込むとはおもわなんだぞい。お陰で、あの箪笥は完全に壊れてしまったようじゃ」

 

「あう、も、申し訳ありません……」

 

 神妙に頭を下げる一同へ鷹揚に頷き返すと、オスマン氏は言った。

 

「まあ、済んでしまったものは仕方がない。その代わり……罰として、来週の虚無の曜日も倉庫掃除をしてもらうからの」

 

「うええええ……」

 

「わ、わかりました……」

 

「まあ、弁償することを考えたらまだマシだよ……貴重な魔道具を壊したんだから」

 

 項垂れる生徒達を尻目に、オスマン氏は医務室を後にした。それからどこかへ行こうとしたところを、ひとりこっそりと部屋を抜け出し、彼の背後に回っていた太公望に呼び止められた。

 

「『夢見の箪笥』だと? なかなか面白い冗談ではないか」

 

「やはり気付いていたか。とっさに、きみの『部屋』を思い出してつけた名前じゃが、なかなかそれっぽい雰囲気じゃろ?」

 

「あの箪笥が壊れたというのは本当か?」

 

「ああ、おかげさまでな。見に来るか?」

 

 太公望は頷くと、オスマン氏の後に続いて火の塔の二階にある倉庫を訪れた。

 

 そこにあった箪笥は、確かに壊れていた。底板が割れ、両開きの扉も傾いている。

 

「これは『過去への箪笥』と呼ばれた魔道具じゃ。その名の通り、触れた者を過去の世界へ運んでしまうというやっかいなシロモノでな。横にあるボタンで、いつでも中に入った者を呼び戻すことができるが……どこまで時間を遡るのかまではわからんのじゃよ」

 

「ま、まさか、時間を移動できる魔道具なんぞが倉庫にポンと仕舞われとるとは……」

 

 それを聞いた学院長は、首を傾げた。彼をして「底が知れない」と評する人物の顔に、はっきりとした怯えの色が浮かんでいたからだ。

 

「きみたちのところにも、似たような魔法か道具があるのかね?」

 

「時間を『早送り』するものだけは、それなりに知られておる」

 

 時間を早送りする宝貝――その名も『山河社稷図(さんがしゃしょくず)』。

 

 これは対象者の周囲の『空間』を喰らい、無音の闇に閉じこめる精神系宝貝だ。

 

 創られた闇に囚われた者たちは五感を支配され、さらに通常よりも三万六千倍の速度で進む時間の流れによって、精神と肉体を完全に破壊されてしまう。かの『歴史の道標』が愛用していた畏るべき兵器である。

 

 そして『最初の人』神農が持つ『禁光銼(きんこうざ)』は、過去と現在を行き来することができるという時空間移動宝貝だ。

 

 万が一、この宝貝を『道標』が手にしていたら……? 太公望――いや、道標の破壊者たる『始祖』伏羲は盛大なため息をついた。

 

 が、隣に立つ老爺が彼の心労に気付ける筈もない。不可思議だと言わんばかりの顔で訊ねた。

 

「はて。早送りができるのなら、その逆もやれるのではないかね?」

 

「バケツに入れた水をぶちまける速度を上げるのと、まいた水そのものを元通りバケツの中に戻すのは、どっちが難しいと思う?」

 

「その説明だけで充分じゃわい。と、いうことは――これはもしや〝虚無〟の魔道具だったんじゃろうか」

 

「そうかもしれぬな」

 

 オスマン氏は、ほっと胸をなで下ろした。

 

「……ある意味、壊れてくれてよかった。これの扱いには、ほとほと困り果てておったのじゃよ。なにしろ、誰でも過去に戻れる魔道具だ。悪用されたら大変なことになる」

 

 顔をしかめながら、太公望は答える。

 

「重大な歴史の改変か……最悪の場合、この世界そのものが消滅していたかもしれぬからのう」

 

 それを聞いたオスマン氏は、ずさっと後じさった。

 

「せ、世界が消滅じゃと!?」

 

「おぬし、わかっとらんかったのかい!」

 

「過去を覗き見出来るだけじゃろ? せいぜい王室の弱みを知られるとか、その程度……っちゅうのはアレじゃが、国の面子が潰れるとか、どこかの貴族が没落するくらいなんじゃ……」

 

 太公望は頭を抱えた。そもそも、ハルケギニアでは『空間移動』の概念すら曖昧なのだ。『時間移動』の危険性など理解できるはずもない。

 

「たとえば、おぬしの父上と母上が出会わなければ、どうなる?」

 

「そりゃ、わしは産まれてこない……って、おい、まさかそういうことなのか!?」

 

「そういうことだ。誰かが『箪笥』を悪用して、おぬしの両親を害したとしたら……おぬしはこの場に存在しないことになる。当然だが、おぬしと出会わなかったわしもここにはおらんだろうし、そもそも例の事故が起きたかどうかも怪しいのう」

 

 オスマン氏の顔は、既に海底よりも真っ青だ。彼も伊達に国の教育機関の頂点に居座ってはいない。この説明だけで、過去に戻れるというのがどういうことなのか、どれほどの危険を孕んでいるのかを察したのだ。

 

 そんな聞き手をジロリと睨みつけながら、太公望は続ける。

 

「どうだ? こんな怖ろしいシロモノを、よりにもよって! 誰にでも簡単に触れられる倉庫なんぞに仕舞っておいた危険性を、少しは理解できたかのう!?」

 

「だ、だって、そもそもそこまでヤバい魔道具だとは思いもよらんかったし! どこへ置けばいいのかもわからなかったんじゃもん! 出入りの激しい宝物庫に入れておくわけにもいかんし、かといって学院長室に置いておくというのも……ねえ?」

 

「のう。おぬし、やっぱりいっぺん死んだほうがいいのと違うか?」

 

 ボソッと太公望が呟くと、オスマン氏は咳払いをして言った。

 

「まあ、ともかく。既に壊れてしまったのだから、これ以上の心配は無用じゃ。それにしても、こんなもの……いったい誰が、何の目的で作ったんじゃろうか?」

 

 オスマンの疑問に、太公望はふふんと笑った。

 

「わしにはなんとなく想像がついたぞ。おそらくだが、彼らふたりを出逢わせるためにこそ、この箪笥は存在したのであろう」

 

「む、それはどういうことかね?」

 

「さあてのう。わしは知らぬ。知ら~ぬ」

 

「カ――ッ! また君はそうやって空惚ける!」

 

「ふふん。美味い酒と菓子でもあれば、何やら思い出すかもしれぬのう」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ちょうどその頃。

 

 ヴァリエール公爵領にある大きな屋敷の一画では、ピンクブロンドをアップにまとめた中年女性が二組の服の手入れを行っていた。そんな彼女の様子を――夫であるラ・ヴァリエール公爵が暖かな眼差しで見守っている。

 

「いったいどうしたのかね? カリーヌや。突然隊服の手入れを始めるとは」

 

「何故か、唐突に昔のことを思い出しましてね」

 

 漆黒のマントに銀糸でマンティコアの絵姿が刺繍されたその服は、トリステイン王国近衛魔法衛士隊・マンティコア隊の正装。カリーヌ夫人と彼女の夫が若き日に身に纏っていたものだ。この制服の手入れだけは絶対に使用人には任せず、夫人が手ずから行うのが習慣となっていた。

 

「昔のこと?」

 

 制服にブラシをかけながら、夫人は答えた。

 

「ええ、あなた。覚えているかしら? チクトンネ街の外れで、わたくしと平民の見習い剣士が決闘した時のことを」

 

「忘れるものかね。あの日を境に、きみは少しずつ変わっていったのだから」

 

 あの時生じた風によって吹き飛ばされた瓦礫や、その他諸々の後始末など、他にもいろいろと言いたいことが山ほどあるのだが、それを口にしたらどうなるか。長い夫婦生活で嫌という程学んでいたラ・ヴァリエール公爵は、静かに妻の言葉を待った。

 

 羞恥でわずかに頬を染めながら、カリーヌ夫人は口を開いた。

 

「家を出る時、父に厳しく言われていたのですよ」

 

「騎士になるために必要なものは、魔法の才能や金貨ではない。何よりも大切なのは勇気――だったかな?」

 

「ええ。『よいか、たとえ相手が誰であろうが一歩も引いてはならん。相手が王さまや隊長殿なら話は別だが、お前はマイヤール家の名を背負うのじゃから。とにもかくにも、勇気を見せる必要があるのだ!』……と」

 

「ははは、まったく義父上らしいな」

 

「あの頃は、本当にその言葉が全てでしたからね。ですが、当時を思い出すと、未だに顔から火が出る程恥ずかしいですわ」

 

「昔のきみは、背中に『決闘全般請け負います』という看板を下げて歩いているようなものだったからなあ……」

 

 そう言って、公爵は遙かな過去を思い出す。

 

 

 ――今から三十年ほど前のこと。

 

 トリステインの片田舎に住んでいた少女カリーヌは、幼い頃……死に繋がる事故に遭った。

 

 そこをマンティコア隊の衛士に命を救われたことで騎士に憧れ、自分の『道』はこれだと定めた少女は家族を説得し、貧しい生活の中で母親が苦労に苦労を重ねて用立ててくれた四十エキューと父の言葉、将来への大きな夢を胸に秘め、王都トリスタニアの門をくぐった。

 

 ところがその日のうちに、なんと彼女はふたつもの決闘騒ぎを起こすに至った。それもこれも、全ては父親の「騎士になるためには、絶対に引いてはならん」という言葉を生真面目に守ろうとした結果によるものだ。

 

「けれど、あの時引かなかったからこそ今のあなたとわたくしがあるのですから……ひとの運命というものは、本当にわからないものですね」

 

「まったくだ」

 

 その時の対戦相手が、マンティコア隊の隊士・バッカスとナルシスのふたりだった。

 

 そして、彼らの介添人としてついてきたのが、今、カリーヌを静かに見守ってくれている夫・ピエール――当時はサンドリオン(灰かぶり)と名乗っていた、その名に相応しい灰のような銀髪の男だった。

 

 深い事情があり、彼が魔法の髪染めを使っているのをカリーヌが知ったのは……それからずっと後のこと。

 

 彼らとの決闘が行われたのも、あのセント・クリスト寺院の裏庭だった。そこで彼女は杖を抜くことになったのだが――複雑な事情が絡み合い、対戦相手はバッカスとナルシスではなく、サンドリオンになってしまった。

 

 結果はカリーヌの勝ちだった。しかし、本当は違っていたのだ。それは実際に戦った彼女自身がよくわかっていた。

 

 何故なら、サンドリオンはちっとも本気を出していなかったばかりか、腹部に巻いた包帯から血が滲む程の酷い重傷を負っており、それを隠して彼女との戦いに望んでいたからだ。もしも、彼が怪我をしていなかったら……地面に叩き付けられていたのはカリンのほうだっただろう。

 

 以後、紆余曲折を経てカリーヌは女であることを隠し、騎士見習い――サンドリオンの従者兼彼の家の居候となるのだが、その時の勝負で「手加減された」「わたしを馬鹿にしている」と認識した少女は以降、やたらと彼につっかかるようになった。

 

 サンドリオンが、彼女の憧れであった魔法衛士隊の正騎士であるにも関わらず、普段から「俺は争い事が嫌いだ」などと公言していたことが、それに拍車をかけた。

 

「戦いを嫌がる臆病者に後れを取るなど、誰よりも勇敢な騎士になることを夢見ていたわたくしにとって、何よりも屈辱的なことでしたから」

 

「あの頃だったかね。きみに『もっと考えて戦え』『勇気と無謀は別だ』と、それこそ口が酸っぱくなるほど言って聞かせたのは」

 

「ええ。ですが、当時のわたくしには、あなたに馬鹿にされているとしか思えなかったのよ」

 

「わしのほうも、きみがそんなふうにわしのことを見ていただなんて、想像すらしていなかったからな……」

 

 それと知らずに竜の尾をぐりぐりと踏み続けていたわけだ。とは、思っていても口には出さない公爵であった。

 

「ちょうどそんな時でした。チクトンネ街の通りを歩いていたところを、よそ見をしながら歩いていた平民の少年に体当たりされて、道端に転がされた挙げ句、下敷きにされたのは。今のわたくしでしたら、子供のしたことだと大目に見たでしょうが……あの時は、その、あなたとのこともあって少々苛立っていたものですから……」

 

「それで、少しばかり生意気な平民をこらしめてやろうとわざわざセント・クリスト寺院の裏庭へ引っ張っていったら――痛い目に遭ったのはきみのほうだったわけだ」

 

 夫の言い様に苦笑しながら、夫人は答えた。

 

「あの頃のわたくしは、少しばかり魔法の才能があるからといって、うぬぼれていたのです。あなたに負けて、あの平民の少年にも打ちのめされて。このままでは騎士になるなんて無理だと、本気で思い悩みました……」

 

 こうして隊服の手入れをしていると、カリーヌ夫人はいつも当時のことを思い出し……自嘲することになる。

 

 ――あの日の出逢いがなければ、今のわたくしは存在しなかったかもしれない。

 

 この時の敗北を境に、カリーヌは徐々にだが変わっていった。少なくとも、対峙した相手を一方的に見下したり、戦いの最中に油断をするようなことはなくなった。たとえ魔法を使えぬ平民といえど、武器を掴めばとてつもない脅威となることがある。それを嫌というほど身体に刻み込まれたがゆえに。

 

「あれからしばらくの間、暇さえあればチクトンネ街を彷徨(うろつ)いていましたけれど……二度とあの少年に会うことはできませんでした。一体、どこに消えてしまったのか……」

 

「ちょうどエスターシュ大公の親衛隊と睨み合っていた時期だったし、少しでも戦力が欲しかったから、わしもそれとなく彼らのことを気に掛けていたんだが……結局行方がわからなかったな。魔法学院にも問い合わせてみたが、それらしい生徒はいないという返事だった」

 

「花壇騎士がついていたのだから、ガリアからの旅行者たちなのではないかね? などと、ナルシス卿――グラモン伯爵が言っていましたが……」

 

「あの中にひとりでもトリステイン貴族がいれば、是非とも近衛衛士隊に勧誘したくてね。結局徒労に終わってしまったが、彼らが仲間になってくれれば、あのあとの戦いもだいぶ楽になっていただろうに」

 

「……そうですわね」

 

 呟くようにそう答えると、カリーヌは、再び自分に泥をつけた少年剣士に思いを馳せた。しかし三十年以上も前のこと。トリステインでは珍しい黒髪だったこと以外、今ではその顔形すらろくに思い出せない。

 

 だが、ルイズの従者・サイトを見たあの時。その顔にどことなく懐かしさを覚えたのだ。

 

 もしかすると、サイトはあの剣士の縁者なのかもしれない――そんなふうに思いながら稽古をつけてやったが、しかし彼の剣術は素人の域を出ていなかった。到底、あの時の少年剣士の技量には及ばない。速さだけは、かろうじて彼に匹敵するほどのものだったが。

 

 『鋼鉄の規律』に似つかわぬ笑みを浮かべながら、カリーヌは夫に言葉を投げかけた。

 

「そのうち、またサイトに稽古をつけてあげるとしましょう」

 

「そうするか。あまり間が開きすぎると、腕が鈍るからな」

 

 その言葉を最後に公爵は執務室へ戻り、カリーヌ夫人……『烈風』カリンはくすりと笑うと、手入れの終わった制服を仕舞いにウォークイン・クローゼットの中へ姿を消した。

 

 




そして でんせつが はじまった!(パパラパ~)

本編は、ゼロの使い魔外伝「過去への箪笥」を元に作成されています。なんとゼロの使い魔と、烈風の騎士姫の公式クロスオーバー。

これは単行本に収録されていない作品なので、ご存じない方が圧倒的に多いかと思われますが……。

(つまり、あの箪笥はオリジナルではありません)

最終刊、または別冊でもいいので、その他の未収録短編全部まとめて出版してくれないかなあと期待している次第。


※軽く伝言
 あちらの最新も更新しました。


2018/06/17追記
封神演義外伝に登場した禁光銼に関する情報を追加、一部を改訂しました。


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風吹く夜に、水の誓いを
第86話 伝説、星の海で叫ぶの事


 『烈風』が過去の運命的な出逢いに思いを馳せていたころ。

 

 トリスタニアの王宮では、王女アンリエッタが迫り来る未来を前に絶望していた。

 

 現在、彼女が身に纏っているのは――半月後に迫ったゲルマニア皇帝アルブレヒト三世との結婚式で用いる、純白の花嫁衣装であった。

 

 大勢の女官やお針子たちがアンリエッタ姫を取り囲み、ドレスの袖や腰の締まり具合、全体の見栄えを確かめる仮縫い作業に追われている。

 

 そんな周囲の様子を、アンリエッタは他人事のようにぼんやりと眺めていた。

 

 お針子たちが、手を動かしながら姫君に確認を取る。

 

「姫殿下、どこかきつい場所はございますか?」

 

「袖周りの具合はこれでよろしいでしょうか?」

 

「……」

 

「……姫殿下?」

 

「あなたたちが、よいと思うようにしてちょうだい」

 

 アンリエッタはお針子たちへ曖昧に頷きながら、ひとり物思いに耽っていた。

 

(今のわたくしは、ただの枯れ葉。河の流れに翻弄されて、もがくことすらできず……流されてゆくだけ……)

 

 生まれたときから何一つ不自由のない、それでいて義務という名の鎖でがんじがらめに縛られた毎日を送ってきた。

 

 宮廷貴族や官僚たちの言うがままにあちこち連れ出され、時には彼女が知らぬうちに閣議決定された新法の承認書に署名を求められたりもした。そのどれもが、アンリエッタの意志で行われたものではない。

 

 そして、今度は「祖国を守る」という立派なお題目を盾に、アンリエッタは人身御供にされようとしている。しかし彼女は牢獄も同然のこの城から逃げだそうとはしなかった。いや、そんな気力すら沸いてこなかった。

 

(わたくしが唯一愛したあのかたは……もう、この世のどこにもいないんですもの。戦乙女に連れられて、天界へ去ってしまわれたのだから)

 

 全てを忘れ、ゲルマニアの皇帝アルブレヒト三世と暖かな家庭を築くのはほぼ不可能。なにせ、かの人物は公的には独身だが、側に複数の愛人がいると聞いている。

 

(おそらく皇帝は、わたくしのことを家格を上げるための道具としか見ていないでしょう。今回の降嫁はわたくしを閉じこめる鳥籠の置き場所が、トリステインからゲルマニアへと移る……ただそれだけのこと)

 

 自身の将来を思い浮かべるたびに、アンリエッタの絶望はさらに深くなってゆく。

 

「あとはもう、この命が尽きて土に還るその日まで、ただ無為に生を貪るだけ。今のわたくしは、まさしく生ける屍そのものですわね」

 

「姫殿下?」

 

 周囲を取り囲む女性たちが、怪訝な顔で姫君の顔を覗き込んでいる。どうやら、思考の一部が口から漏れてしまっていたようだ。

 

「いいえ、なんでもありませんわ。気にせず作業を続けなさいな」

 

「は、はい」

 

 そんなふうに、アンリエッタが深淵の闇へ沈み込んでいると……ふいに、部屋の入り口から優しく声を掛けられた。

 

「愛しい娘や。ずいぶんと落ち込んでいるようですね」

 

 アンリエッタ姫の周囲を固めていた女官たちが、割れる波のように左右へ引いてゆく。普段はひとり自室に籠もっている太后マリアンヌが、娘の晴れ姿を見に現れたのだ。

 

 今日は幾分身体の加減も良いのだろう、その瞳には消えていたはずの精気すら漂っている。

 

「母さま」

 

 答えた娘の目は、赤く充血している。それを見たマリアンヌ王妃はお針子たちの作業を中断させると部屋にいた女官共々下がらせた。それから、アンリエッタの側へ静かに歩み寄り……隠遁生活の影響で細くなった両腕で、愛娘を抱き締めた。

 

「こたびの結婚を、あなたが望んでいないのは……よくわかっていますよ」

 

 アンリエッタは母の胸に顔を埋めると、声を震わせて言った。

 

「いいえ、わたくしは幸せ者です。少なくとも、相手に望まれているのですから。結婚は女の幸せだと、母さまはいつも仰っていたではありませんか」

 

 表に出た言葉とは裏腹に、さめざめと涙を流し続ける娘へマリアンヌは問うた。

 

「恋人がいるのですね?」

 

「『いた』と、申すべきですわ」

 

「そう、ですわね。しかし、恋は麻疹のようなもの。熱が冷めれば、すぐに忘れますよ」

 

「いいえ。忘れることなどできましょうか」

 

 娘の言葉に、マリアンヌは首を振った。

 

「なんとしても忘れるのです。いいえ、忘れねばなりませぬ。国の象徴たるあなたがそんな顔をしていたら、民は不安になるでしょう」

 

「その国と民のために、わたくしは異国へ嫁がねばならないのです」

 

 苦しそうな声で嘆くアンリエッタに、マリアンヌは諭すような口調で言った。

 

「よくお聞きなさい、可愛い娘や。こたびの結婚は、国と民たちだけではなく……あなたの未来のためでもあるのですよ」

 

「わたくしの……未来のため?」

 

 マリアンヌは頷いた。

 

「アルビオンを掌握した『レコン・キスタ』の噂は、わたくしの耳にも届いています。始祖の御代より続いた王家を滅ぼすなどという禁忌を犯した彼らが、アルビオン一国だけで満足するとは思えません。不可侵条約を結んだとはいえ、到底静観などできませぬ。軍事強国のゲルマニアで、皇帝の庇護下にあるほうが……あなたの身は安全なのです」

 

「我が身の安全を図るために、皇帝の元へ行けと仰るのですか?」

 

「その通りです。いくら『始祖』ブリミルの血を引く王族とはいえ、あなたは女。か弱き小鳥も同然の、無力な存在なのですから」

 

 無力な存在。その言葉を聞いたアンリエッタの脳裏に、まざまざと浮かび上がるものがあった。それは、かつてマザリーニ枢機卿が彼女に向けて放った言葉。

 

 

 ――姫殿下の声は、決してか細き小鳥のさえずりなどではありませぬ。たった一声で、国を滅ぼすことすら可能な……強大な〝力〟なのです――

 

 

「わたくしは……」

 

 本当に力無き存在なのだろうか。紡ぎ出そうとした言葉は、しかし途中で遮られた。

 

「年頃のあなたにとって、恋は全てでありましょう。この母とて知らぬわけではありませぬ。わたくしも、昔は……」

 

 そう言って娘の手を取ったマリアンヌは、そこに有るはずのものが無いことに気づき、はっと息を飲んだ。

 

「『指輪』は? あなたに授けた『水のルビー』は、どうしたのです!?」

 

 突然の質問に面食らいながらも、アンリエッタはしっかりとした声で答えた。

 

「あの指輪でしたら、ラ・ヴァリエール公爵に下賜致しましたわ。あのかたは、トリステインのために本当に良く働いてくださっていますもの。忠誠には報いるものがなければなりませんから」

 

「そう。あの指輪を、ピエールに……」

 

「母さま?」

 

 マリアンヌ王妃は静かに首を振ると、再び娘を抱き寄せて呟いた。

 

「ええ、そうね。きっと、これでよかったのです。彼ならば、あの指輪を正しく用いることができるでしょうから」

 

「それはどういう意味ですか?」

 

 しかし母は娘の言葉に答えることなく。静かに彼女を抱き締めるだけだった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――深く暗い森の中を、タバサはただひとりで駆けていた。

 

 共に潜入した仲間たちの姿は既にない。ひとり、またひとりと倒れ、残ったのは彼女だけ。

 

 遠く視線の先に、炎を噴く山が見えてきた。目的の品は、その山の麓にあるという。

 

 どうにかしてそこまで辿り着かなければならないのだが……しかし。思いも寄らぬ遭遇により、ここへ至るまで、魔法を使い過ぎてしまった。どう計算しても、ラインレベルのスペルを数回唱えるのが精一杯という状況にまで追い込まれてしまっている。

 

 茂みの中に隠れ、荒くなった呼吸を整えていると、右手方向から何者かの気配がした。

 

 そこから強烈なまでの殺気を感じたタバサは咄嗟にその場から飛び退くと、走りながら呪文を唱えた。如意羽衣で逃げたいところだが、既に体力も限界に近い。こんな状態であれを使えば、ほぼ間違いなく気絶してしまうだろう。

 

「イル・フル・デラ……」

 

 呪文が完成する前に、巨大な化け物が躍り出てきた。大トカゲかワニのようにも見えるそれは、身の丈十メイルを越える竜だった。太い両足で大地を踏み締め、口からは鋸のような細かい歯が覗いている。巨竜はだらだらと涎を垂らし、激しい足音を立てながら獲物――タバサに向かって襲いかかってきた。

 

 竜の牙がタバサに届かんとした、その時。ようやく〝飛翔(フライ)〟の呪文が完成した。風に乗って宙へ舞い上がったタバサはなんとか竜の攻撃をかいくぐり、生い茂る木々のカーテンを抜けて森の上空へ出た。

 

「このまま、麓まで飛んで行ければ……」

 

 しかし、その考えは甘かった。空を雲霞の如く群れ飛んでいた巨大なコウモリたちが一斉に押し寄せてきて、タバサの身体を包み込み――直後、彼女の意識は闇に落ちた。

 

 

「タバサ、ゲームオーバー! 滞在時間は三十分と十八秒、踏破ステージはふたつか。今のところこれがハイスコアだのう」

 

 手元のパネルを見ながら伏羲が呟くと。タバサはその場でむくりと起き上がり、小さく眉根を寄せた。いつの間にか彼女の周囲はジャングルではなく、オリエンタルな雰囲気漂う立派な部屋に変わっている。

 

「……もう少し先まで行けそうだった。悔しい」

 

「いや、でもさあ。ハッキリ言って無理ゲーにも程があるだろコレ」

 

「そうかのう? 初心者用でもそれなりに楽しめるステージ構成だったと思うのだが」

 

「初心者向けとか、絶対嘘だッ!」

 

「あんなバケモノだらけの森の、どこに楽しむ要素があるっていうのよ!」

 

 ラタン製のソファーの上に倒れていた才人とルイズが、揃って抗議の叫び声を上げた。

 

「コルベール殿にテストプレイしてもらった時にはえらく喜ばれたのだが」

 

「あらやだ、ジャンってそういう……」

 

「違うと思う」

 

 変な方向に行きそうな流れを才人がぶった切る。

 

「ちなみに、先生はどこまで行けたんだ?」

 

「最終ステージのひとつ手前だったはずだ。研究に熱が入りすぎて、ずいぶんと鈍ったものだと苦笑しておったのう」

 

「そ、それ本当かい!?」

 

「どんだけだよあのひと……実は特殊部隊出身とか言わないよね?」

 

 ギーシュとレイナールが呆然としながら呟いた。

 

 

 ――倉庫の片付けが終わった翌日。

 

 水精霊団の一同は伏羲――太公望(本編においては、以後太公望の名で記す)が夢の中で創り出した『部屋』の中へと案内された。

 

 『部屋』や、太公望の姿がいつもと違っていることなどに関する簡単な質疑応答の後。小一時間ほど〝夢世界〟の中を探検した彼らは、太公望が「訓練のため特別に用意した」と称する修行場を体験することとなった……のだが。

 

 そこは鬱蒼と木々が生い茂るジャングル、毒ガスを発する沼地と、どこまでも続く荒野に、炎を吹く山。大自然の厳しさを存分に味わえる構成になっていた。

 

 おまけに、地球の白亜紀を思わせる恐竜や翼竜などの巨大生物が、ごまんと配置されている。ハッキリ言って、学生の訓練用施設としては難し過ぎることこの上ない。

 

 ――それもそのはず。なにせこの〝夢空間〟は、かつて太公望が『太極図』を制御するために、激しい特訓を繰り広げた修行場を元に構築されたものだからだ。

 

 全員の成績を書き記したメモを見ながら、太公望が唸った。

 

「それにしても。タバサと才人以外、開始から十分と持たなかったのは問題だのう。アルビオン行きの時にも感じたが、やはりおぬしらは突発的な襲撃に弱過ぎる」

 

「実戦経験が少ないから……と、いうのは言い訳にしかならないよね。しかも、女の子のルイズやタバサにまで負けてるのはまずい」

 

 レイナールの発言に、ルイズはそこはかとなく申し訳なさを感じていた。

 

 彼女の成績はタバサと才人に続く、第三位。もちろん、その裏には〝瞬間移動〟の存在がある。かの魔法をもっと大々的に使える状況なら、首位の座を奪うことすら可能だろう。思わぬところで自身が持つ虚無魔法の有効さを実感したルイズであった。

 

「総合四位のきみはまだいいさ。ぼくなんか最下位だよ。しかも、十分どころか三分も持たなかった……」

 

 ギーシュの言葉に、モンモランシーが申し訳なさそうな口調で追従した。

 

「それは、わたしのことを化け物から逃がしてくれたからでしょう? なのに、わたしってばすぐ別の怪物に捕まっちゃって。本当にごめんなさい」

 

「謝るのはぼくのほうだよ。結局、きみを助けることができなかったんだから」

 

 ぺこぺこと頭を下げ合うふたりに、レイナールと才人のふたりが口を挟んだ。

 

「ぼくが思うに、ギーシュは普段から『ワルキューレ』に頼りすぎなんじゃないかな。だから、今回みたいな状況に対応しきれないんだと思うよ」

 

「そうそう。たまには、俺たちと一緒に体術の練習しといたほうがいいと思うぜ」

 

「ふたりにそう言われると、説得力があるなあ。接近戦は、あまりぼくの趣味ではないんだが……このままじゃ駄目だというのは充分理解できたよ」

 

 そんな彼らの間に太公望が割り込んできた。

 

「いや、ワルキューレに頼るのは決して悪いことではないぞ。あえて頼り切ってしまうのもひとつの手であろう。今回のようなケースでは特に」

 

「たとえば?」

 

「七体のうち五体を囮にして、残る二体で自分とモンモランシーを抱えて逃げるとか。自分たちで走るよりもそのほうが早いであろうし、下手にひとりだけ残って敵に立ち向かうよりも、ふたり揃って生還できる確率が、ぐっと上がっていたはずだ」

 

「ああ、言われてみればそういう使い方もあるね。ぼくも、まだまだ頭が固いなあ」

 

「それは思いつかなかった。応用訓練で、荷物運びはさんざんやっていたというのに」

 

 頭を掻きながらぼやくレイナールとギーシュに、太公望は笑いかけた。

 

「とはいうものの、体術の訓練は決して無駄にはならぬので、才人たちに混じって鍛えておくのも悪くはなかろう」

 

「おう。俺でよければいつでも相手になるぜ」

 

「魔法なし、しかも素手でサイトと組み手とか。そっちのほうが無理があるんだが」

 

 少年たちの乾いた笑い声が室内に響き渡る。と、そこへ遠くからチリンチリンという涼やかなベルの音が聞こえてきた。

 

「む、どうやら目覚めの時間がきたようだ」

 

 それを聞いた生徒たちが、一斉に不満の声を上げる。

 

「ええ~ッ、もう終わり?」

 

「あと一回だけ挑戦したいんだけど……」

 

「俺も俺も!」

 

「わたしも」

 

 彼らの声を受けた太公望が、やれやれと肩をすくめた。

 

「ほらな。ハマると面白くて抜け出せなくなると言ったであろう? それに、これ以上この場で眠り続けると、夜まともに寝られなくなるぞ」

 

「確かに」

 

「そういうことなら仕方がないわね。次こそは、絶対トップを取ってみせるわ!」

 

 総合五位の成績に終わったキュルケが、次回のリベンジを誓うと。その他の生徒も一斉にそれに倣った。

 

「では、外へ出るとしようかのう――」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――倉庫を出て、自室に戻った後。タバサは早速太公望を詰問した。

 

「なぜ?」

 

「む、いきなりなんだというのだ?」

 

「言わなくてもわかっているはず。どうして、あの〝夢渡り〟をみんなに試したの?」

 

 本来であればルイズだけに試したいところではあったのだが、既に全員が火の塔の存在を知ってしまっている現在、秘密を保持するのは難しいから。

 

 そんな考えはおくびにも出さず、太公望はもうひとつの理由を語ることで本来の目的からタバサの目を逸らすことにした。

 

「なに、単純なことだよ。わしは仲間を失うのがいやなだけなのだ」

 

 窓枠に腰掛け、空に浮かぶ双月を見上げながら太公望は言った。

 

「トリステイン王国とアルビオン共和国は、不可侵条約を結んだ。しかし、それは単なる時間稼ぎに過ぎない。ほぼ間違いなく、今から一ヶ月以内に戦端が開かれるであろう」

 

「推測ではなく?」

 

 タバサの問いに、太公望は頷いた。

 

「フーケをな、アルビオンに潜らせてあるのだ」

 

 それを聞いて、タバサは思わず目をしばたたかせた。

 

「あなたらしくない」

 

 深いため息をつきながら、太公望は答えた。

 

「これは、あの娘が自ら申し入れてきたことなのだ。もちろん、わしは何度も止めたぞ? だが、アルビオン出身のわたしなら、苦もなく情報収集ができるからと言ってな。制止を振り切って行ってしまったのだ……」

 

 そういえばとタバサは思った。フーケ――ロングビルはマントを羽織っていたものの、貴族の身分を示す五芒星の紋を身に付けていなかった。

 

「今の時期にアルビオンで情報収集ができるということは、彼女は『レコン・キスタ』と敵対していない家の出身、あるいは血縁者」

 

「うむ。敵に疑いを持たれる危険があるから、手紙のやりとりはほとんどできておらぬが――つい最近届いた報告によると、ロサイスの工廠は昼夜を問わず動き続けておるそうだ。併せて、傭兵の補充も盛んになっておるらしい。ニューカッスル城で受けた損害を補うためにな。そのような真似をする理由なぞ、ひとつしか考えられまい?」

 

「トリステインへの宣戦布告」

 

「その通りだ。それがどのような形で行われるのかまでは、まだわからぬがのう。来月の結婚式前後が最も怪しいと思われる。国を挙げての祝い事だ、トリステインとゲルマニアの両国共に浮かれ気分で警戒が緩むであろう。そこを裏からついてくるのではなかろうか」

 

「その話を、誰かに?」

 

「念のためオスマンのジジイには話してあるが、トリステインの王政府には決して報告しないよう釘を刺しておいた」

 

「宮廷に間諜がいるということ?」

 

「そうだ。こちらが不意打ちを予測しておることを敵方に知られてしまっては、かの人物たちも動きにくかろうしな」

 

 かの人物。タバサにはもちろん思い当たる名前があった。

 

「ラ・ヴァリエール公爵と、マザリーニ枢機卿」

 

「それとグラモン元帥、テューダー家のお二方だな。わしが直接連絡を取っているわけではないが『レコン・キスタ』が動けば、全員が何らかの対応をするはずだ。彼らもアルビオンに間諜を放っておるようだし、敵の様子はある程度掴んでおるだろう」

 

「学院長に情報を伝えているのは、ここが襲撃される可能性があるから?」

 

 太公望は、頷いた。

 

「この学院には、有力貴族の子弟だけでなく、外国からの留学生が多く集まっている。もしも彼らが人質に取られた場合、親族たちのほとんどが『レコン・キスタ』への恭順を余儀なくされるであろう。そうなれば、王政府とて容易には動けまい」

 

「それでも抵抗する者はいる」

 

「少なくともグラモン元帥は、末の息子を切り捨てざるを得ないであろうな」

 

「だからわたしたち全員に、あそこまで厳しい訓練を?」

 

「そうだ。上に立つ者は、常に最悪の事態を想定して行動するのが基本だからのう」

 

 月明かりに照らされた太公望の横顔を見上げながら、タバサは呟いた。

 

「あなたの考える最悪が、敵軍による魔法学院襲撃」

 

「さらに付け加えるなら、襲撃時にわしとタバサが学院の外にいる可能性だな」

 

(わたしとタイコーボーが魔法学院にいない。つまり、何らかの任務のために、ガリアへ赴いているということ……)

 

 そこまで考えたタバサは、すぐさま答えに行き着いた。

 

「皇帝と王女の結婚式に、影武者として参列させられる」

 

「ジョゼフ王だけが招かれている場合は、その限りではないがな」

 

「確率としては五分五分」

 

 三王家の婚儀や教皇の戴冠式に他国の王族あるいは皇族が招かれるのは、ある意味当然と言っていいだろう。

 

 ただし、今回の場合はハルケギニア諸王国の中で最も格下とされているゲルマニア皇帝の結婚式だ。よってガリアは国王ジョゼフ一世ではなく、イザベラ王女を筆頭とした親善大使たちが参列する可能性のほうが高い。

 

 タバサが五分五分と想定しているのは、皇帝の結婚相手が三王家のひとつであるトリステインの王女アンリエッタだからだ。

 

「ついでに言うとだ。オスマンも結婚式に出席するため、一週間ほど留守にすると話しておった。詔の巫女を任されたルイズや、彼女の従者である才人も同時にいなくなる。もしやすると、キュルケも両親から帰省を命じられるやもしれぬな。なにせ彼女の実家はゲルマニアで五本の指に入るほどの大貴族だからのう」

 

 それを聞いたタバサの表情が、わずかに陰る。

 

「魔法学院の保有戦力が、結婚式によって大幅に削られてしまう」

 

 特に、学院長がいなくなるのは痛い。

 

 タバサは『破壊の杖盗難事件』の際に教師たちが見せた失態の数々を思い出した。彼らを取り纏めているオスマン氏が不在というだけで、最低でも『トライアングル』の実力を持つメイジたちのほとんどが役に立たない烏合の衆と化してしまうのだ。

 

 教職員のほぼ全員が研究者上がりのため、ある意味仕方の無いことではあるのだが……有事の際には頼りない事この上ない。

 

 そこへ、とどめとばかりに太公望が新たな情報を追加した。

 

「オスマンの奴が言うには、コルベール殿を『守護役』として残すらしいが、その他の教職員たちについては結構な数が随伴を希望しておるそうだ。つまり、結婚式の期間中――魔法学院は、ほとんど隙だらけになるということだ」

 

 皇帝と姫君の結婚式はゲルマニアの首府・ヴィンドボナで開かれる。

 

 魔法学院だけでなく、宮廷を含むトリステイン全域から有力貴族たちがこぞっていなくなる――国の中枢がこの慶事によって、半ば麻痺状態に陥るということだ。攻め込む側からすれば、絶好の機会といえるだろう。

 

 そこまで考えるに至ったタバサは、思わず息を呑んだ。華やかな式典を執り行う裏で、トリステインが滅亡の危機に瀕していることに気がついたからだ。

 

(おそらく、彼も同じ結論に達している。だからこそ、異端認定される危険を冒してまでみんなの実力を伸ばそうとしている。戦禍に晒されてもなお、生き延びる確率を上げるために)

 

 タバサはそのように受け取った。

 

 己の両掌を見つめながら、太公望は呟いた。

 

「わしの両手は、これから起きる戦によって消えるであろう命の全てを救えるほど、広くはない。だからといって、救えるかもしれない者に手を差し伸べぬのは……絶対にいやなのだよ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。

 

 ルイズと才人のふたりは淡く光る始祖の祈祷書を前にして、抑えきれない興奮によってぶるぶる震えていた。

 

「さっそく特訓の成果が出たってことだな」

 

「ええ、間違いないわ」

 

「なあなあ、早く読んでみろよ!」

 

「そんなに急かさないでよ! 『空間』の初歩の初歩〝幻影(イリュージョン)〟。汝が描きたい光景を、心に強く思い浮かべながら詠唱せよ。なんとなれば、空をも創り出すこと叶うであろう……って! んもう、わたしは『扉』の魔法が欲しかったのに!」

 

 落胆し、肩を落としたルイズの背中をばしばし叩きながら励ます才人。

 

「何言ってんだよ! 『担い手』として一歩前進したってことじゃねえか。少しずつだけど、目標に近付いてる証拠だよ。やったなルイズ!」

 

 にこにこと笑いかけてくる才人の顔を見て、ルイズは思った。

 

(故郷へ帰るための『扉』が見つからなかったのに、なんて前向きなんだろう。こういうところはわたしも見習うべきなのかもしれないわね)

 

「まあ、そうね。だけど……なんで『扉』じゃなくて『幻』を創り出す魔法が浮かび上がってきたのかしら? 別に、これが欲しいって願ったわけじゃないのに」

 

 ルイズの疑問に答えたのは、彼女のパートナーではなくデルフリンガーだった。

 

「とんでもなく出来のいい幻を、間近で見たからなんじゃないのかね」

 

「ふうん。そういう実体験も『祈祷書』を紐解くための鍵なのかしら」

 

「強烈な体験は、身体に刻み込まれるって言うしな。充分ありえるんじゃねーか?」

 

 才人がそう言うと、感心しきりといった体でデルフリンガーがその先を続けた。

 

「いや、実際ありゃあてーしたもんだ。相棒が俺っちでぶった切った蔓草の化け物なんか、まるっきり本物の植物みたいだったしな。感触まである幻なんて、おでれーた」

 

「マジでリアルな夢だったよなあ、あれ。だけど、痛みまであるのは正直勘弁してもらいたかったかな」

 

 〝夢世界〟の中でのことを振り返り、思わず身震いする才人。

 

 彼はその蔓草の化け物に足を絡め取られ、最終的に全身を締め落とされたのだ。実戦だったら、確実に命を落としていただろう。ある意味、臨死体験をしたようなものだ。

 

「ほんとよね。わたしなんか、身体中の骨が折れたかと思ったわ。できれば、もう少し手加減して欲しいところなんだけど」

 

 そうぼやくルイズは慌てて〝跳躍〟した先で待ちかまえていた恐竜の尾によって、全身を地面に叩き付けられている。もちろん、その場でゲームオーバーだ。

 

「あの兄ちゃんは、そこまでしなきゃ訓練にならないって考えたんだろうよ」

 

「そうなのかもしれないけど……」

 

「って。デルフお前! あの夢の中でのこと、覚えてるのか!?」

 

「ああ。相棒と一緒に引っ張っていかれたことも、しっかり記憶してるぜ」

 

(てことは……つまり、デルフにも魂があるってことか!)

 

 思わぬ発見に才人が衝撃を受けていると。そこへ、さらなる爆弾が投下された。

 

「そういや、ブリミルが創った魔法の中にも似たような呪文があったっけな」

 

 ルイズと才人は慌ててデルフリンガーの元へ駆け寄ると、揃って彼に詰め寄った。

 

「それ、どういうことだ!?」

 

「ブリミルが作った魔法って、あんたまた何か思い出したの!? だったら早く教えなさいよ、ほら! ねえったら!!」

 

「何だったかなあ。確か記憶にまつわる魔法だったような覚えがあるんだが……忘れた」

 

 それを聞いたふたりは、はあっとため息をついた。

 

「お前さあ……なんでこう、いつも肝心なところを覚えてないんだよ!」

 

 いつものようにカチカチと鍔を鳴らしながら、デルフリンガーは答えた。

 

「俺っちはもともと忘れっぽいし、切った張ったをするのが本来の仕事なんだ。それ以外のことに期待されても困るやね」

 

「そうかもしれないけど、もう少しくらいしっかりしててもいいじゃない! あんたを作ったひとって、どっかヌケてたんじゃないの?」

 

「さあな。どのみち俺っちはどうでもいいことには興味がねえんだ。いくら『伝説』だからって、あんまし古い記憶に期待しちゃいけねえよ」

 

「てか、いつも思ってたんだが。そもそもお前の頭って、どこにあるんだ?」

 

「ん~、たぶん柄」

 

「マジかよ! つまり俺は、いつもお前の頭を握って戦ってることになるのか」

 

「それで締め付けられすぎて、色々と忘れちゃうのかしら」

 

「ああ、それはあるかもわからんね」

 

 ……などと、どんどん本筋から脱線しつつあったふたりを元の場所に戻したのはデルフリンガーだった。

 

「そんなことより、せっかく新しい呪文を見つけたんだ。ちと試してみちゃどうかね」

 

「それもそうだな。俺も、どんな魔法なのか見てみたいし!」

 

 目をきらきらと輝かせてにじり寄ってきた才人を見て、ルイズはふと閃いた。

 

(そうだ、あれ(・・)を再現できないかしら)

 

 始祖の祈祷書を開いたルイズは目をカッと見開くと、杖を構え、詠唱を開始した。

 

 ――それは、いにしえの時代に失われた虚無の調べ。空間に幻影を描き出す魔法。

 

 約三分ほどの詠唱を終えたルイズは、虚空へ向けてすっと杖を振り下ろした。

 

 すると。周囲の空間が、白い布地に絵の具を落としたかのようにじわりと滲み、徐々に幻影が描かれ始めた。

 

 ルイズが思い浮かべていたものは、かつて〝夢世界〟の中で見た宇宙空間――星の海。部屋の中が煌めく星々で彩られてゆく――。

 

「おでれーた!」

 

「すげえ、すげえよルイズ! まるで宇宙遊泳してるみたいだ!!」

 

「ま、まあね。わ、わたしがちょっと本気出せば、このくらい、なんてことないわ」

 

 まるでおもちゃをもらった子犬のように、おおはしゃぎで部屋を駆け回る才人を見ながら、ルイズは思わず微笑んだ。

 

(喜んでもらえたみたいで良かったわ……)

 

「すげえな、マジで宇宙の中で散歩してるみたいだ……ッてえィ!!」

 

 ゴスッという鈍い音と共に、才人はいきなり床へ崩れ落ちた。右足の先を押さえ込み、その場で蹲ったままぷるぷると震えている。

 

「ちょ、ど、どうしたのよ!?」

 

「……こッ、こッ、小指の先、思いっきり何かにぶつけた」

 

 ルイズは才人が足をぶつけたという場所を慎重に探ってみた。すると、そこには固く細長い何かがあった。

 

「これ、もしかして机の足……かしら? 目には見えないけど」

 

 カタカタと鞘を揺らしながら、デルフリンガーが言った。

 

「〝幻影〟の呪文は、あくまで幻を描くだけのモンだ。周囲の空間ごと変化させてるわけじゃねえんだから気をつけなよ……って、遅かったみたいだね」

 

「だ、だからさあ! お前、そういうことは早く言えよ――――ッ!!」

 

 ルイズの部屋で、毎度おなじみ才人のせつない叫びが響き渡った――。

 

 

 




原作であの台詞みた時も思いましたが、マリアンヌさまェ……。

いよいよきな臭くなって参りました。
着々と空間系虚無魔法を習得していくルイズ。
あれ? ガンダールヴ召喚者の特性は本来……。

氏より育ち。太公望の影響受けまくりだからシカタナイネ。

……明石が来ない。


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第87話 避けえぬ戦争の烽火

 ――ギューフの月、ティワズの週、エオーの曜日。

 

 トリステイン魔法学院の校門前では、多種多様な私服に身を包んだ貴族の学生や教員、平民の使用人たちが、季節外れの休暇を満喫するために馬車へ乗り込んでゆく姿が数多く見受けられた。そこには水精霊団のメンバーの顔も混じっている。

 

 太公望はその様子を学院長室の窓から眺めながら、部屋の主に言を向けた。

 

「なるほどのう。姫君の結婚式を口実に休暇を与え、あえて人員を分散させることで、ここを敵の襲撃目標たりえなくしたというわけか」

 

 自慢の顎髭をしごきながら、オスマン氏は答えた。

 

「ふぉふぉふぉ、人質にしうる貴族の子弟が大勢いればこそ、この学院は『火薬庫』として機能してしまうのじゃ。ならば、その人数を大幅に削減してしまえばよい」

 

「この特別休暇について、王政府には?」

 

「無論、報告済みじゃ。情けないことだが、そっちのルートから『レコン・キスタ』へ情報が流れるのはほぼ確実じゃろう。これで襲撃の旨味が減った我が魔法学院が、脅威に晒される確率は大幅に下がるはずじゃて」

 

「ふふん、やるではないか」

 

「君の情報と、忠告があってこそだよ。それに、わしは例の『破壊の杖盗難未遂事件』で思い知ったのじゃ。いくら頭数が揃っていたとしても、火急の折に動けぬメイジなど、まるで役に立たない置物同然だということをな」

 

 思わずため息を漏らすオスマン氏。正直、彼の内心は複雑だった。本来であれば、国内最大級のメイジの砦と呼んで差し支えないトリステイン魔法学院が、敵の襲撃を想定して職員や生徒たちを避難させることなど、あってはならない事態なのだ。

 

 何故なら、

 

『魔法学院に勤める教員たちは、戦時や緊急事態が発生した際に一切頼りにならない』

 

 周囲からそのように受け取られるに等しいからだ。生徒たちだけならばいざ知らず、教職員がそのような目で見られることは、最悪トリステインの沽券に関わる。

 

 しかし、悲しいかな彼らは一部の教員を除き、実戦経験が一切無いというのが現実だ。生徒たちは言わずもがな。オスマン氏でなくとも、頭が痛くなるだろう。休暇という形を取っているとはいえ、避難させていることに変わりはないのだから。

 

「ともかく、これで魔法学院についてはなんとかなりそうだのう。絶対安全とまではいかないまでもな」

 

「できうることならば、コルベール君だけではなく、きみたちにも残っていてもらいたかったのじゃが……」

 

 手元にある2通の申請書を見ながら、オスマン氏は深いため息をついた。何故ならば、忘れかけていた――いや、忘れたかった現実を思い出さざるを得なかったからだ。

 

 オスマン氏の目の前に立つ太公望は、ガリア王国花壇騎士団の装束に身を包んでいる。太公望が以前から懸念していた通り、タバサの元へガリア王政府からの召喚状が届いたのだ。もちろん、彼も同行するよう命じられていた――隊服着用の指定付きで。

 

「やはり、ミス・タバサも姫殿下の結婚式に参列するのかね」

 

「おそらく、従姉妹の代理として――ということになるとは思うがな」

 

 オスマン氏は忌々しげに息を吐くと、越境許可証の作成に取りかかった。

 

(ついうっかり忘れそうになるが、今、わしの目の前に立っている男を呼び出したのは〝虚無の担い手〟たるミス・ヴァリエールではない。ミス・タバサ――ガリアの大公姫、シャルロット・エレーヌ・オルレアン。ガリアの宮廷で繰り広げられた醜い派閥戦争の犠牲者。半ば国外追放に近い形でこの魔法学院に留学してきている、哀れな少女なのじゃ)

 

 オスマン氏は悔やんでいた。やはり早急に行動を起こすべきだったと。卒業生との間に太い繋がりを持つとはいえ、王政府への政治的な発言権を持たない自分の養子という形でタバサと太公望のふたりをトリステインに取り込んでしまえば、ガリア王国からの外圧を受けることなく、それを実現できていただろう。むしろ、厄介払いができたと感謝すらされたかもしれない。

 

 だが、太公望がガリアの騎士になってしまった現状ではもう手遅れだ。

 

 身元不明の少年にしか見えぬ彼を貴族、それも花壇騎士の一員として迎え入れたということは――ガリアの王政府に何らかの思惑があるのだろう。それを横から攫うような真似をすれば、最悪の場合、かの国を敵に回すことに繋がる。それだけはなんとしても避けねばならない。トリステイン王国のみならず、彼ら主従の安全のためにも。

 

 アルビオンの現状については、太公望だけではなく独自のルートからも情報を得ている。結婚式の期間中、トリステインが危機に晒される可能性が高いことも充分承知している。自分の留守中に、彼らが魔法学院に残ってくれてさえいれば……万が一のことが起きても安心できたのに。

 

 しかし。そんなオスマン氏の切なる思いは、タバサと太公望のふたりを乗せた風竜の後ろ姿と共に、虚しく空に消えるのみであった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その翌日。

 

 壮麗なヴェルサルテイル宮殿の一角プチ・トロワでは、そこの主たるイザベラ王女が、自らが呼び出したふたりが来るのを待っていた。

 

 蒼く長い髪を指でいじりながら、イザベラは側にいた侍女に尋ねた。

 

「ねえ。人形娘たちは、まだ来ないの?」

 

 侍女は、周りに助けを求めるような視線を投げたが――全員が、目を伏せている。困惑しきったような声で、彼女は主人の質問に答えた。

 

「あ、あの、シャルロットさまは、まだ……」

 

 それを聞いたイザベラは、勢いよく椅子から立ち上がると、侍女に詰め寄った。

 

「おい、お前! 今、なんて言った!?」

 

「ひッ……いえ、あの……」

 

「あれの名前は『人形七号』だ。何度言えばわかるんだい!?」

 

「も、申し訳ございません……」

 

 侍女は震えながら何度も頭を下げ続ける。

 

「本当に覚えの悪い愚図だねえ。まったく、さすがのわたしも叱り疲れてきたわ」

 

 イザベラはわざとらしくため息を吐く。問題の侍女だけでなく、控えていた召使いや衛士たちの顔が引きつった。王女の態度に不吉なものを感じ取ったからである。

 

「記憶力のないお前は知らない、いや、忘れてるだろうけどさ。つい最近、ようやっとファンガスの森の件が片付いたんだ」

 

 ファンガスの森。そこは王都リュティスに住まう民の間では有名な場所だった。複数の動物を魔法で掛け合わせ、合成獣(キメラ)を生み出すという禁忌の研究を行う塔が建っていたのだが……六~七年ほど前に、そこの研究員たちが全員死んでしまうという事故が発生した。

 

 彼らは、実験の最中に逃げ出した合成獣たちに喰い殺されてしまったのだ。

 

 おまけに塔も破壊され、森の中を怖ろしい化け物たちが跋扈する事態となり――当時の王政府はファンガスの森を頑丈な柵で囲み、封鎖するという決定を下した。

 

 その上で幾度となく騎士団を派遣し、合成獣退治を行っていたのだが……先頃ようやく全ての魔獣が駆逐されたとの報告が入り、ひとびとは胸を撫で下ろしたものだ。

 

「でだ、そこに建ってた塔の中から興味深い論文が出てきたんだよ」

 

 この時点で、もう絶望的な予感しかしない。侍女の震えがより激しくなった。

 

「大トカゲに犬の頭をくっつけたら、そりゃあもう人懐っこくて賢い合成獣になったらしいよ。ニワトリ並の記憶力しかないお前の頭を取り替えたら……少しはマシになるかねえ?」

 

 侍女の顔からは完全に血の気が失せている。いつ目を回してもおかしくない。

 

「ところで、お前は本当に頭が悪いだけなのかい? それとも……わかっていて、わざとやっているのかしら? そこのところを詳しく説明しなさい。今、ここでね」

 

 頭のせいだと答えれば、魔法の実験台にされるかもしれない。

 

 わざとだと言ったら、この場で処罰されるだろう。

 

 二律背反(ジレンマ)に陥った侍女はもはや失神寸前だ。もちろん、イザベラは侍女が答えられないであろうことをわかっていて、わざと意地悪な質問をしたのである。今の王女の顔は、堪えようもない愉悦に歪んでいた。

 

 ――くどいようだが。この王女に暇な時間を与えると、本当にロクなことにならない。

 

 と、そこへ呼び出しの衛士がタバサたち主従の到着を告げた。

 

「人形七号さま! 使い魔八号さま! おなり!」

 

 謁見室のそこかしこで安堵のため息が漏れ聞こえた。そして、ようやくイザベラの癇癪から解放された侍女が、柱の影へ逃げるように駆け込んだのとほぼ同時に謁見室へと繋がる大扉が開かれ、人形七号ことタバサと、使い魔八号・太公望が姿を見せた。

 

 イザベラは現れた主従に視線を向けた。相変わらず何を考えているのかわからない、凍り付いた水面のように無表情な従姉妹姫と、別の意味で扱いが難しい、彼女の使い魔。そんな彼らの背丈は自分よりも頭ひとつ分は小さい。

 

 しかし、それは見かけだけのこと。彼らふたりの内に、とてつもない〝力〟が隠されていることを知っているイザベラは、ふんと鼻を鳴らした。

 

 昔の彼女であれば、彼らに激しく嫉妬して、悔しさにその身を焦がしていただろう。だが、今は違う。この世には魔法以外にも大きな〝力〟があることを知り得ていたイザベラは、それを行使することにした。

 

 蒼い髪の王女は従姉妹に向かってじろじろと無遠慮な視線を投げかけると、命令した。

 

「人形。そのマントを外しな」

 

 貴族にとって、マントは身分証明のようなものだ。それを外せとは――と、周囲の侍従たちがタバサに同情溢れる視線を向けた。しかし、本人はまるで自室で着替えをしているかのように、あっさりと身に纏っていたマントを外した。

 

 イザベラとしては着ているものを全部脱げと言いたかったのだが……あまりやり過ぎてしまうと従姉妹のすぐ横に立っている男がどう動くかわからなかったので、これでもぎりぎりのところで自重しているのである。

 

 シンプルな白いブラウスに黒のプリーツ・スカートという、魔法学院の制服だけになった従姉妹を王女は無遠慮に観察した。ただ背が小さいというだけでなく、すとんとした体つきで、年頃の娘に相応しい凹凸がまるで無い。

 

 今までさほど気にしていなかったが、いくらなんでもこれはおかしい。

 

(この娘、あと三ヶ月ほどで十六歳になるはずよね。なんでこんなに小さいんだい?)

 

 それを思い出したイザベラは、何気ない口調で問うた。

 

「ねえ、あんた。毎日きちんと食べてるの?」

 

 コクリと頷くタバサ。だが、そんな受け答えで満足するイザベラではない。口を歪めて従姉妹を詰問した。

 

「その口は、ただの飾りかい? ちゃんとわかるように答えな」

 

「一日三回、きちんと食べている」

 

「ふうん。で、量はどうなんだ? 足りてないんじゃないかい?」

 

 その問いに答えたのは、タバサではなく彼女のパートナーだった。

 

「あれで足りないというのならば、魔法学院の敷地全部を畑にしないと間に合わな……がふッ!」

 

 タバサの拳が太公望の後頭部を直撃した。スコーンという小気味のよい音が謁見室に響き渡る。いい感じにスナップを効かせた一撃は、目にも留まらぬ早業だった。すぐ側にいた侍従や衛士たちのみならず、イザベラまでもが思わず顔を引き攣らせる程度には。

 

 太公望が頭を抱えて床に伏せる横で、何事もなかったかのようにタバサは答えた。

 

「問題ない」

 

「ま、まあ、それならいいんだ。仮にも王族だったあんたが餓死なんかしたら、ガリア王家の恥になるからね」

 

 このやりとりを『部屋』から覗いていた王天君は豪奢なソファーに寄りかかり、身体をのけぞらせて高笑いしていた。

 

「ハ……ハハハハッ、ダセェ! あいつぁ、異界でもこんな扱いなのかよ! こいつぁもう一種の体質かなんかじゃねぇのか?」

 

 何かというと仲間たち――本来、部下であるはずの者たちにボコボコにされていた『半身』の過去を思い出した王天君は『窓』を見遣りながら独りごちた。

 

「に、してもだ。あのガキ、マジでイザベラの従姉妹なのかぁ? 似てんのは髪と目の色くらいじゃねぇか」

 

 すらりとした肢体、絹糸のように艶やかな蒼い髪と、瞳の奥まで吸い込まれそうな碧眼。かつて傾国の美女と呼ばれた母親の側にいた王天君の目から見ても、イザベラは『綺麗』というカテゴリに分類できる女だ。

 

 しかしその従姉妹はというと、まるで幼子のような姿形をしている。彼のパートナー曰く、従姉妹とはふたつしか違わないとのことなのだが……とてもそうは思えない。

 

年齢(とし)にそぐわねぇあの身体……もしかすると、あのガキには普通じゃねぇ何かがあるのかもしれねぇなぁ」

 

 太公望がいなくなったときに王天君が慌てたのは、自分の元に肉体が残っていたからだ。

 

 他者の肉体を乗っ取る〝借体形成の術〟を習得していない『半身』が魂魄だけの状態で長期間彷徨うことになれば――最悪の場合、消失の危険性がある。

 

 ところが、いざこちらの世界へ来てみると……太公望は自分の肉体を得ていた。

 

「太公望のヤツを異界へ引き寄せやがっただけじゃねぇ。胡喜媚に消失させられたはずの肉体まで復活させやがった。あのバカは全然気付いてねぇみてぇだがな」

 

 爪を噛みながら考え事をしている王天君の眼下では、イザベラが謁見室にいた侍従たち全員を下がらせ、今回の任務を言い渡していた。それは、

 

『イザベラの影武者として、ゲルマニア皇帝の結婚式に参列する親善大使となれ』

 

 と、いうものだった。

 

 馬車で王都リュティスの南に位置する軍港サン・マロンへと移動し、そこでガリア王国艦隊旗艦『シャルル・オルレアン』号に乗船。空路でゲルマニアへと向かうというのがその詳細だ。

 

 暗殺された父の名を冠する戦艦に、その子が仇の娘の影武者として乗り込む。端々に皮肉の満ちた任務である。だが、これがあくまで偽装に過ぎないことを王天君は知っていた。

 

 まもなく、イザベラの父親が仕掛けた遊技(ゲーム)が始まる。影から敬愛する父王の手助けをしたかったイザベラはその真意を隠し、再び影武者として彼らを使いたいという理由を掲げ、タバサと太公望をガリアへ呼び寄せたのだ。

 

 ジョゼフ王はイザベラが申し出た案に対し、これといって賛成も反対もしなかった。それが王天君には少し引っかかった。

 

 彼は僅かながらもジョゼフ王の人となりを見て、自分の母親や、華麗なる戦いを好んでいた彼女の同輩に近い――想定外のトラブルをも歓迎し、その上で娯楽に変えてしまうような人物だと判断していたからだ。

 

 とはいえ、王天君としてもこれから戦地となりうる場所に『半身』を置いておきたくはない。そのため、状況次第で強力な『ジョーカー』となりうるふたりを遊技場から離しておきたいという、イザベラの案に賛成するしかなかった。

 

「さぁてと、そんじゃあ少し様子を見させてもらうとするぜ。人形姫さまよ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その翌日。ギューフの月、ティワズの週、ラーグの曜日。

 

 色とりどりのリボンや花、きらきらと光を放つ美しい輝石で飾られたトリステイン艦隊旗艦『メルカトール』号は、神聖アルビオン帝国政府からの客を出迎えるために、艦隊を率いて港湾都市ラ・ロシェールの上空に停泊していた。

 

 アルビオンの新皇帝オリヴァー・クロムウェルと政府高官たちが、三日後に帝政ゲルマニアの首府・ヴィンドボナにて行われる結婚式へ参列する前に、親善大使として王都トリスタニアを訪問するとの報せが届いていたためだ。

 

 『メルカトール』号の後甲板ではトリステイン空軍艦隊司令長官のラ・ラメー提督が、国賓を迎えるために正装し、居ずまいを正している。その隣では旗艦艦長のフェヴィス大佐が、遠くアルビオンの空を眺めながら、口髭をいじっていた。

 

「おのれ、あの薄汚い犬どもめ! 約束の刻限はとうに過ぎているのだがな」

 

 ラ・ラメーはいらいらとした口調で、傍らに立つ艦長だけに聞こえるよう呟いた。

 

 アルビオン新政府が報せて寄越した到着予定時刻から既に一時間以上が経過している。ラ・ラメーでなくとも苛立つのは当然だ。上司の怒りは当然とばかりにフェヴィスは頷く。

 

「仕えるべき主君に牙を剥いた腐れ犬どもですからな。血の臭いがせぬよう、犬は犬なりに汚れを落とし、着飾ろうとしてのではないのですかな」

 

 大の『レコン・キスタ』嫌いの艦長が答えると、提督は囁くような声で訊ねた。

 

「それならば、まだいいのだがな。艦長、例の件だが……君はどう考える?」

 

「グラモン総軍司令長官殿の指示ですか? 勇猛果敢で知られるグラモン閣下が、あえて我々にのみ警告を発してこられたことにこそ意味があるものと考えております」

 

「そうか。ただの懸念であってくれればよいのだがな」

 

「はい。国を挙げての慶事を血で汚すことだけは、なんとしても……」

 

 と、見張り台の上にいた水兵が大声を上げた。

 

「左舷上方より、艦隊!」

 

 ラ・ラメーとフェヴィスが言われた方向を見遣ると、雲と見まごうばかりの巨大戦艦を先頭に、アルビオン艦隊がゆるゆると降下してくるところであった。

 

「なるほど、あれが噂の『ロイヤル・ソヴリン』級ですか」

 

 艦長は巨大戦艦に魂を奪われたかのような声で呟いた。あの艦に、アンリエッタ姫の結婚式に出席する皇帝クロムウェルと貴族議会の官僚たちが乗り合わせているはずであった。

 

 呆れ果てたような口調で、フェヴィスは本音を吐露した。

 

「あのような大口径の砲を積んだ巨艦を、わざわざお召し艦に選ぶとは。砲艦外交もここに極まれりですな」

 

 同意するようにラ・ラメーは頷く。

 

「まったくだ。それにしても、先頭に立つあの艦は本当に巨大だな。後続の戦列艦が、まるで小さなスループかフリゲート艦のようにも見える」

 

「戦場では絶対に会いたくない相手ですな」

 

 提督と艦長が正直な感想を言い合っていると、降下してきたアルビオン艦隊がトリステイン艦隊と併走するかたちとなり、旗流信号をマストに掲げた。

 

『貴艦隊ノ歓迎ヲ感謝ス。アルビオン艦隊旗艦『レキシントン』号艦長』

 

 それを見たラ・ラメーが眉を顰めた。

 

「こちらは提督を乗せているというのに、艦長名義での発信とは。これはまた随分とコケにされたものだな」

 

「不可侵条約がなければ、喧嘩を売られたと思うところですよ」

 

 艦長の言葉に、ラ・ラメーは飾り立てられた自国艦隊の戦力と相手とを見比べながら、思わずため息をついた。

 

 見た目だけは華美な旧式艦が十隻ばかり並んでいる自軍に対し、相手は『ロイヤル・ソヴリン』級巨大戦艦が一隻と、巡洋艦とおぼしき戦列艦が十五隻。親善訪問が聞いて呆れる陣容だ。

 

「買えるだけの戦力は、残念ながらここにはないがな。まあよい、とにかく返信だ。『貴艦隊ノ来訪ヲ心ヨリ歓迎ス。トリステイン艦隊司令長官』以上」

 

 提督が発した命令を側にいた士官が復唱し、それをさらに帆柱に張り付いた水兵が復唱する。信号檣に、指示通りの旗流信号が掲げられた。

 

 すると、アルビオン艦隊から大砲が放たれた。礼砲であるため、砲に弾は込められていない。火の秘薬を爆発させるだけの空砲である。

 

 しかし、その礼砲は周囲の空気を大きく震わせた。その振動は、実戦経験豊富な提督たちを後ずらせる程の迫力を持っていた。

 

「大きな声では言えないが、弾が込められていたらと考えると……正直ぞっとせんな」

 

「……ええ。それで閣下、答砲は如何しましょう。何発撃ちますか?」

 

 礼砲の数は、相手の格式と位で決まる。最上級の客、つまり国王の訪問に対しては国際的な通例で十一発と定められている。ラ・ラメーは少し考えると「九発でよい」と答えた。

 

 訪問者は皇帝だが、彼は三王家の王よりも格が劣る。一応、一般的な礼に叶う数であった。

 

(なるほど、相手が挑発しているからといって、こちらがそれに乗る義理はないということか)

 

 提督の命令をそのように受け取った艦長は、砲撃手に命令した。

 

「答砲準備! 順に九発! 準備出来次第、撃ち方始め!」

 

 艦長の命を受けた水兵たちが、一斉に行動を開始する。

 

 

 ――アルビオン艦隊旗艦『レキシントン』号の後甲板で、艦長のサー・ヘンリー・ボーウッドは左舷の向こうに展開しているトリステイン艦隊を複雑な思いで見つめていた。

 

 彼のすぐ隣には、アルビオン総軍指令長官ホーキンスが立っている。貴族派の将軍として名高い彼は、本来であれば空軍ではなく陸軍を率いる高級将校だ。

 

 しかし今回の作戦に必勝を期した貴族議会は、前任のサー・ジョンストンを解任。歴戦の勇士であるホーキンスを新たな総軍司令として任命した。革命戦争で有能な空の戦士をほとんど失っていたことも、それを後押しした。

 

「艦長」

 

 初めての空軍指揮にも関わらず、ホーキンス将軍は落ち着き払った声で、傍らに立つボーウッド艦長に話しかけた。

 

「如何しましたか、司令長官殿」

 

「乗艦前に話した通り、私は空戦に関しては門外漢だ。よって、上陸作戦を開始するまでの間は、全面的に君の判断に任せる。だからといって、君たち空軍の手柄を横取りしたり、失敗を押しつけたりするような真似はせんから安心して職務に励んでくれたまえ」

 

 そう言ってニヤリと笑みを浮かべたホーキンスを見て、ボーウッドは思った。

 

(憎むべき貴族議会も、たまにはいい仕事をする。噂には聞いていたが、本当に良い上官を配置してくれたものだ)

 

 専門外の分野に素人の上官から余計な口出しをされるよりも、全てを任せてもらったほうが仕事がやりやすいし、軍の士気も上がる。

 

 ボーウッドは姿勢を正して敬礼すると、笑みを返した。

 

「浅学非才の身ではありますが、全力を尽くします」

 

 ボーウッドはこの任務に大いなる不満を持っていた。そもそも彼は心情的には王党派に与していたのだ。しかし彼は、

 

『軍人は政治に関与すべからず』

 

『上からの命令は絶対である』

 

 これを守り抜く生粋のアルビオン軍人であった。そのため、元上官が貴族派連盟についた際に、仕方なく王室の敵となる側で革命戦争に参加しただけに過ぎない。

 

 アルビオンの伝統『高貴なる者の義務(ノブレス・オブリージュ)』を体現すべく努力を続ける彼にとって、アルビオンは未だ共和国ではなく王国であり、クロムウェルと貴族議会は忌むべき簒奪者でしかなかった。

 

 今回出された命令も、彼にとって唾棄すべき内容であった。だが、上司から議会で承認された政治判断だと告げられてしまっては、彼はもう、何も言えなくなってしまうのだ。彼にとっての軍人とは物言わぬ杖であり、国を守る忠実な番犬なのである。

 

(しかし、こんなロクでもない作戦の最中にも、希望を見出せるものなのだな)

 

 頭の片隅でそんなことを考えながら、ボーウッドは部下たちへ矢継ぎ早に命令を下す。

 

「左、砲戦準備」

 

「左、砲戦準備! アイ・サー」

 

 砲甲板の水兵たちによって大砲に装薬が結められ、砲弾が押し込まれる。その直後、左舷向こうの空に砲撃音が響き渡った。トリステインの旗艦が答砲を発射したのだ。

 

「総員、作戦開始」

 

 ホーキンスの指令を受けたその瞬間、ボーウッドは劇的な変化を遂げた。心の内に抱えていた全てが彼の頭の中から消え去り、ただ与えられた命令を忠実にこなす、完全なる軍人になったのだ。

 

 艦隊最後尾に配備されていた旧型艦『ホバート』号の乗組員が〝浮遊〟の魔法で浮かんだボートに乗り込み、脱出を開始する。

 

「準備は終わった。さあ――ここからだ」

 

 答砲を発射し続ける『メルカトール』号の艦上に在ったラ・ラメー達は驚くべき光景を目の当たりにした。アルビオン艦隊最後尾の艦から炎が噴き出したのだ。

 

「なんだ? 何事だ?」

 

「火災だと? このタイミングでか!?」

 

 ラ・ラメーとフェヴィスが事態を見極めようと目を凝らす。彼らの眼前で、小さな旧式艦はまたたく間に炎に包まれたかと思うと、爆散し、残骸となって地面へ向かって墜落していった。

 

 『メルカトール』号の甲板上が、騒然となった。

 

「ええい、落ち着け! 落ち着かんか!」

 

 艦長が、混乱して右往左往する兵士たちを叱咤する。

 

 そこへ『レキシントン』号から、さらなる衝撃がもたらされた。それは、手旗手の送って寄越した信号であった。

 

「『レキシントン』号艦長ヨリ、トリステイン艦隊旗艦。『ホバート』号ヲ撃沈セシ、貴艦ノ砲撃ノ意図ヲ説明セヨ」

 

 それを読み取った艦長が、慌てた声で言った。

 

「撃沈だと? 何を言っているんだ、勝手に爆発したんじゃないか! とにかく返信だ! 『本艦ノ射撃ハ答砲ナリ。実弾ニアラズ』 急げ!」

 

 慌てふためく艦長とは反対に、ラ・ラメー提督の頭は徐々に冷えていった。

 

(なるほど、この親善訪問とやらは、見せかけだけのまやかし。我らを貶める為の罠だったのか。グラモン元帥が抱いておられた懸念が、現実のものとなってしまった……)

 

 ラ・ラメーは落ち着いた声で命令を発した。

 

「総員、戦闘配備につけ」

 

「て、提督!?」

 

 そこへ、さらなる信号が届く。

 

『貴艦ノ砲撃ハ空砲ニアラズ。我ハ、貴艦ノ攻撃二対シ応戦セントス』

 

「馬鹿な! 我々が撃ったのは間違いなく空砲です。実弾だったとしても、あんな後方まで届くわけが――」

 

「あれは偽装だよ、艦長」

 

「なんですと?」

 

「どうやらアルビオンの犬どもは、さらなる領土の拡張を望んでいるらしい」

 

 ラ・ラメーの言葉でようやく事態を把握したフェヴィスが、怒りで顔を朱に染めた。

 

「お、おのれ、アルビオンの腐れ犬どもめが。ふざけた真似を!」

 

 しかし、フェヴィス艦長の憤怒は『レキシントン』号の一斉射撃によってかき消される。

 

 轟音の後、着弾。『メルカトール』号のメインマストが折れ、甲板にいくつも大穴が開いた。砲甲板に届いた弾は爆散し、血煙と多くの死を撒き散らす。

 

 衝撃を受けた提督と艦長の身体が、後方へ吹き飛ばされた。

 

「こ、この距離で砲弾が届くとは! アルビオンの艦は化け物か!!」

 

 全身の痛みに耐え、どうにか起き上がった艦長は信号手に向かって命令した。

 

「信号送れ! 『砲撃ヲ中止セヨ。我二交戦ノ意思アラズ』」

 

 だが、当然のことながら『レキシントン』号の攻撃は止まらない。

 

「無駄だよ、艦長……やつら、は、始めから、こうする予定……だったのだ」

 

「提督!?」

 

 側壁にもたれかかるようにしたラ・ラメーの礼装が、赤く染まっている。彼の腹部には砲弾によって破壊された甲板の破片らしきものが深々と突き刺さっていた。

 

「くッ……」

 

 フェヴィスは周囲を見回した。フネのあちこちで火災が発生し、傷ついた兵たちの苦悶の呻きが渦巻いている。

 

「おそらく、我らはここで……果てることに、なるだろう。だが、このままでは終わら、ない。終わってたまる……ものか。トリステイン貴族の、名誉にかけて……!」

 

 血と共に、ラ・ラメーが壮絶な覚悟を吐き出した。

 

「各部。被害、状況……報せ。 艦隊、全速。 右、砲撃戦、用意……」

 

 悔し涙で顔を濡らした艦長が、大声で提督の命令を復唱する。

 

「各部、被害状況報せ! 艦隊全速! 右砲撃戦用意!」

 

 命令を受けた兵たちが、各部署に向かって駆け出した。

 

(わずかながらも時間を稼ぎ、敵の情報をできうる限り後方に送る。これが、私にできる最後のご奉公です……)

 

 炎と硝煙に包まれながら、ラ・ラメー提督は、その人生における最後の命令を下した。

 

 ――それから約十分後。

 

 アルビオン艦隊から集中砲火を受け続けていた『メルカトール』号の甲板がめくれ上がったかと思うと、轟音と共に戦場へ光を放ち――空の上から姿を消した。爆発による轟沈、爆沈である。

 

「やった、敵の旗艦が墜ちたぞ!」

 

「神聖アルビオン共和国、万歳!」

 

「クロムウェル皇帝閣下、万歳!」

 

 『レキシントン』号のそこかしこから、兵たちの興奮した叫び声が聞こえる。それを耳にしたボーウッドは眉を顰めた。作戦行動中に「万歳」を連呼するなど、かつての王立空軍であれば絶対にありえない。それだけ、兵の質が落ちているということだ。

 

 ホーキンス将軍の顔には何の感情も浮かんでいない。しかし、ボーウッドには総軍司令長官殿が自軍の現状に不快感を抱いているだろうことが容易に理解できた。

 

 将軍は隣にいる艦長にしか聞こえない程の小声で呟いた。

 

「また、戦争が始まったのだな」

 

 

 ――国賓歓迎のため、ラ・ロシェールの上空に停泊していた自国艦隊へ向け、アルビオン艦隊が攻撃を仕掛けてきたという報せが詳細な状況報告と共にトリステインの王宮へともたらされたのは……それからすぐのことであった。

 

 そして、さらに数時間後。

 

 アルビオンの戦列艦数隻を道連れに、トリステイン艦隊が全滅したとの報が届き――それと前後して神聖アルビオン共和国政府からの宣戦布告文が急使によって届けられた。

 

 アルビオンからの通達は、これまた一方的なものであった。そこには親善艦隊に対して理由なき攻撃を行ったトリステイン王政府への批難声明と、先日結ばれたばかりの停戦条約を破棄する旨が記されており……最後はこのような一文で締めくくられていた。

 

『自衛ノ為、神聖アルビオン共和国政府ハ、トリステイン王国政府ニ対シ宣戦ヲ布告ス』

 

 

 




対アルビオン戦がとうとう始まってしまいました。

なお、グラモン伯爵から忠告を受けていた提督たちがある程度警戒していたため、原作のように一方的な蹂躙とならず、反撃できています。そのかわり、降伏無しの全滅になってしまいましたが……。

エリレに先制砲撃で旗艦軽巡スナイプされたようなもの。ぶっちゃけどうしようもない。


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第88話 白百合の開花と背負うべき者の覚悟

 ――ラ・ロシェール上空に展開したアルビオン艦隊旗艦『レキシントン』号の後甲板で、総軍指令ホーキンスは自軍の被害状況を確認していた。

 

「損害は?」

 

「巡洋艦三隻が敵艦の突撃に巻き込まれ轟沈。降下作戦のため、艦へ乗り合わせていた中隊のうち二つの脱出が間に合わず、全滅です。申し訳ございません……皇帝閣下からお預かりした大切な兵を大勢無駄死にさせてしまいました」

 

 項垂れるボーウッド艦長に、将軍は労いの言葉をかけた。

 

「いや、想定していた以上に敵軍の動きが速かった。これは貴族議会及び作戦本部、ひいては私が負うべき責任だ。君はよくやってくれた」

 

「身に余る御言葉です」

 

 そこへ、ひとりの下士官が飛び込んできた。

 

「タルブ方面へ偵察に出ていた部隊からの報告です。敵軍はタルブ周辺の草原に陣を敷き、街道沿いに巡回兵を配備。砲亀兵(ほうきへい)の姿も確認されております」

 

 砲亀兵とは、甲長約四メイルほどの巨大な陸ガメの背に青銅製のカノン砲を装備させた兵科のことである。生き物なので、砲を背負ったままの移動を可能としている。

 

 ハルケギニア大陸においてはさほど珍しくもない存在なのだが、アルビオンにはこの陸ガメが生息していないため、交戦記録がないのだ。

 

 艦隊の砲撃や竜騎士で蹴散らせばよい、などという単純な話でもない。設置式のカノン砲と異なり、移動式というのがここではネックとなる。見える範囲の砲亀兵を片付けた後に上陸作戦を敢行したところを遠方から狙い撃ちされたりしたら、目も当てられない。

 

 砲亀兵がどの程度の速度で動けるのか、装備している砲の射程距離はいかほどか。全体の数は。これら不確定情報を無視して進軍するような人物が、名将たりえるはずがない。

 

 ホーキンスは形良く整えられた眉をしかめた。

 

「やはり、タルブを足がかりにしての侵攻は諦めるべきか……」

 

 ラ・ロシェール近郊の村タルブは、アストン伯の治めるトリステイン国内最大のワイン産地だ。そのため、近隣の街道は全て商用の馬車往来に不便が無いよう道幅が広く、路面の整備も行き届いている。長期に渡り村に滞在して商取引を行う者も多いことから、街と呼んで差し支えないほどに大きく、かつ宿泊施設なども整っている。

 

 よってタルブを占拠、策源地とした上でトリスタニアへと続く街道を進撃路として利用できれば王都侵攻は容易だっただろう。しかしトリステイン側も当然その事実には気付いており、アルビオンの革命戦争終了以前から、街道周辺と村に防衛戦力を割いている。

 

(国を挙げての結婚式でトリステインの国民が揃って浮かれ騒いでいるこの時期に兵を動かせば、あるいはその防衛の隙を突くことができるのではないか、というのが上層部――貴族議会の目論見であったのだが、残念ながらそう上手く事は運ばんようだ……)

 

 ホーキンス将軍は手元の地形図を眺めながら、連絡将校に訊ねた。

 

「北西部に向かった偵察隊から連絡は?」

 

「はッ。障害となる建物、及び兵の姿は確認できずとの報告が届いております」

 

 ホーキンスはタルブへの未練を断ち切るように頭を振ると、命令を下した。

 

「作戦をプランBに切り替える――当該ポイントへの降下作戦を開始せよ」

 

 

 ――そんな中、先行していたフリゲート艦の中で、ひとりの女性が苦悩していた。

 

「あの場所を、軍靴で踏み荒らせというのか……よりにもよって、このわたしに!」

 

 彼女――アニエスの様子を見たマチルダは、そっと肩に手を載せて言った。

 

「無理しなくていいんだよ? わたしたちはトリステインの地理に明るいから、先遣隊に任じられはしたけどさ……」

 

 しばし顔を伏せていたアニエスは、小さく肩を振るわせながら言葉を紡ぐ。

 

「皮肉なものだな。まさか、わたしたちがこのような任務を請け負うことになるとは」

 

 と、外の鐘楼から鐘の音が鳴り響いてきた。

 

「出発の時刻になった。行かなければ」

 

 アニエスは立ち上がると、荷物を背負う。

 

「ねえ、やっぱりおよしよ。なんなら、わたしから直接皇帝にとりなしてもいいわ」

 

 マチルダの勧めに、しかしアニエスは首を振った。

 

「駄目だ。わたしは行かなければならない。復讐を為し得るために。あいつらの足跡を辿るには、それしか方法がないんだ。だから……」

 

「……あんたも強情だね。でも、苦しくなったら遠慮なく言いなさいよ?」

 

 その声に、アニエスは努力の末に小さな笑みを浮かべた。それは、どこまでも苦しそうな微笑みであった。

 

「やっぱり、お前は『家族』の長女なんだな」

 

「馬鹿なこと言うんじゃないよ。だいたい、あんたとわたし、たいして変わらない歳だろ!?」

 

「それでも……だ。ところで、お前の雇い主は大丈夫なのか?」

 

 肩をすくめて、マチルダは答えた。

 

「それが……作戦行動前だからって、フクロウの中継所が全部抑えられててね。警告を送れなかったんだよ。あの男のことだから、自分で何とかできるとは思うんだけど」

 

 それを聞いたアニエスは、形の良い眉根を寄せて言った。

 

「いいのか? わたしよりも、そっちのほうが大問題だろうに」

 

「あの男なら大丈夫よ。このくらいで死ぬようなタマじゃないから。いいえ、そうあってもらわないと、わたしたち家族が困るの」

 

 

○●○●○●○●

 

 

 ――国賓歓迎のため、ラ・ロシェール上空に停泊していたトリステイン艦隊が、アルビオン艦隊の攻撃により全滅。アルビオン政府はこの攻撃を正当防衛とし、次いで自衛のためと称してトリステイン王政府へ向けて宣戦を布告。

 

 降って湧いたようなこの凶報に、ゲルマニアへの出立準備でおおわらわになっていたトリステインの王宮は混乱を極めた。そのため、各軍の将や大臣たちを招集するだけで貴重な数時間が浪費されてしまった。

 

 ようやく開かれた緊急議会も紛糾するばかりであった。穏健派の大臣たちや、高等法院に所属する参事官らが、

 

「アルビオン側は我が艦隊が先に攻撃したと言い張っておる。しかしながら、我が方は礼砲を発射しただけというではないか。つまり、偶然の事故が誤解を生んだのだ」

 

「その通り、これは何かの間違いです。まずはアルビオンに会議を打診しましょう。早急に双方の誤解を正すことが肝要です」

 

 このように慎重論を唱えれば、グラモン元帥を始めとする王軍所属の将軍たちが、

 

「誤解? どのような偶然が重なれば、我が軍の艦隊が全滅させられるというのだ! アルビオンには明確な侵攻の意志があったに違いない。不可侵条約などという甘言に騙されたのだ!」

 

「左様。急ぎゲルマニアへ特使を派遣し、軍事防衛同盟に基づいた援軍の派遣を要請すべきだ」

 

 などとこれに反対。場は混迷を極め、一向に纏まる様子がない。こうして貴重な時間がさらに過ぎ去ってゆく――。

 

 議長を務めるマザリーニ枢機卿は、正直どちらにもつきかねていた。

 

 もちろん彼は、アルビオンの言い分を馬鹿正直に信じるような愚か者ではない。だが、トリステイン国内の軍備はまだ整っていないのだ。今、全面戦争に突入すれば……まず勝ち目はない。それを理解しているが為に、たとえ小を切ってでも負ける戦はしたくないのだ。可能であれば、外交で時間を稼ぎたいというのが枢機卿の本心だった。

 

 会議室にはアンリエッタ姫の姿も見えた。本縫いが済んだばかりの眩いウェディングドレスに身を包み、青ざめた顔で椅子に腰掛けている。この麗しき姫君は飾り立てられた馬車へと乗り込み、いざゲルマニアへ向かうというところで急報を受けたのだ。

 

 その姿は会議室の隅に咲いた一輪の花のようであったが、彼女に気を留める者は――今はまだ、誰もいない。

 

 そんなところへ伝書フクロウによってもたらされた書簡を手にした伝令が、息せききって飛び込んできた。

 

「急報です! アルビオン艦隊は降下作戦を開始した模様!」

 

「場所はどこだ?」

 

「ラ・ロシェール北西部の沿岸! アングル地方(ダングルテール)の砂浜です!」

 

 それを聞いたグラモン元帥が立ち上がった。

 

「竜騎士隊を出す。全機をもって、上空から攻撃させる」

 

 しかし、参事官たちがそれを引き留める。

 

「そのように事を荒立てては、アルビオンに全面戦争の口実を与えることに……」

 

「全くです。我が方から不可侵条約を破ると仰るのですか!?」

 

 グラモン元帥は、顔を赤くして叫んだ。

 

「口実もなにも、連中はトリステインの国土を犯しているのだぞ! 不可侵条約など、とうに紙くず同然に破られているのだ。貴君らは、何故それを理解できんのかね!?」

 

 と、そこへ豪奢な装束に身を包んだ初老の貴族が駆け込んできた。

 

「おお、ラ・ヴァリエール公爵!」

 

 議会に集う貴族たちの視線が、彼に集中した。

 

 公爵は国境の自領で姫君の馬車を迎えるため待機していたのだが、マザリーニから急報を受け、すぐさま竜籠に乗り込み、文字通り王宮へ飛び込んできたのであった。

 

「グラモン元帥の言う通りだ。いったい何をしておるのだ! 早急に兵を挙げ、敵軍を排除することこそ我らが成すべきことではないのか」

 

「しかし公爵! あくまでこれは、誤解から生じた事故で……」

 

「誤解? 事故? 君は大砲の射程外を飛んでいた軍艦を、弾の込められていない礼砲によって撃沈したとでも言うのかね。いったいどうやって? それとも、アルビオン空軍のフネは、まともに空を飛ぶことすらできない脆弱な造りであると?」

 

「そ、それは、たまたま偶然が重なって……」

 

「そんな馬鹿げた偶然があってたまるか! このまま敵軍の侵攻を許せば防衛陣地を築かれ、そこを足がかりに王都へ攻め込まれるだろう。それがわからんのかね!?」

 

 公爵の言葉に、マザリーニはようやく目が覚めた。彼が行おうとした外交努力は、築こうとする以前に空振りで終わっているのだ。

 

(そうだ、今回の侵攻を小さな傷と侮れば、テューダー王家の二の舞となりかねない。このまま放置すれば致命傷になりうる……それだけは、何としても避けなければ)

 

 ところが、そこまで言われてもなお、高等法院の参事官を始めとした高級官僚たちは自説を曲げようとしなかった。

 

「ですが、我々は不可侵条約を結んでいるのです。これは不幸な事故なのです」

 

「その通り。下手に相手を刺激するよりも、まずは両国で話し合いをですな……」

 

「……もういい。君たちはここで好きなだけ会議を続けたまえ。グラモン元帥、わしと共に動員可能な兵員の確認をだな……」

 

 席を立ち、不毛な論争を続ける会議室を後にしようとした公爵と元帥であったが、そんな彼らを押し留めた者がいた。それはトリステインの司法全般を牛耳る高等法院の長、リッシュモン高等法院長だった。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。失礼ながらあなたの行動は、国法を逸脱しています」

 

「それはどういう意味ですかな? リッシュモン卿」

 

 老練の政治家は、生真面目そうな顔で言葉を続けた。

 

「どうもこうも、そのままの意味ですよ。トリステイン軍におけるあなたの地位は、ゲルマニア方面国境防衛軍総司令です。あ、いやそれは名ばかりと言っても過言ではありませんでしたな。ここ数年は年齢を理由に、第一線を退いて部下に任せておられるのですから」

 

「何が言いたいのだ? はっきりと口にしてくれ。事態は差し迫っているのでね」

 

 顔に微かな笑みを浮かべながら、リッシュモンは告げた。

 

「あなたの役職は、ゲルマニア方面国境防衛軍総司令で間違いありませんな?」

 

「……相違ない」

 

「つまりですな、あなたには王軍を動かす権限など無いということですよ。ついでに申し上げておきますが、グラモン元帥閣下はあくまで『王都防衛責任者』であって、王軍の総司令ではありません。そもそも、アルビオン軍への対応を考え、最終決定を行うのは我が王政府議会の役割であり、彼の仕事ではないのです」

 

 リッシュモン高等法院長の言葉によって、騒然とする議会会場。確かにその通りだ、などという意見と、今は国家の存続に関わる緊急時であり、そのような些細な事を論じている場合ではないという反論とが渦を巻き、会議室内で延々と木霊している。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は即座に理解した。

 

(対策会議が遅々として進まないのは、やはりこの男とその取り巻きどもが、わざわざそのように仕向けているからだ……!)

 

 何故なら、トリステインが取るべき方針の決定が遅れれば遅れるほど、アルビオンにとっての利益に繋がるからだ。公爵が想定していた以上に、彼ら『レコン・キスタ』はこの国の内臓深くまで食い込んでいたのだ。

 

 公爵は悔いた。

 

(リッシュモンは正真正銘の毒虫だ。泳がせておき、巧く利用するなどと悠長なことを言っている場合ではなかった。早急に排除すべき存在だったのだ!)

 

 公爵はぎりと歯を食いしばり、まるで真冬の湖面のような冷たい表情で言った。

 

「貴様……このような真似をして、恥ずかしくないのか?」

 

「恥ずかしい? これは異なことを仰る。私は法の番人として、自分に任された仕事を正しく遂行しているだけに過ぎませんが」

 

 そんな一触即発の空気を破ったのは……希代の宰相でも、勇猛果敢な元帥でもなかった。それはこの場の誰もが存在を忘れかけていた、ひとりの少女だった。

 

 自身が信頼を置くふたりの老臣――ラ・ヴァリエール公爵とリッシュモン高等法院長がやりあう様を黙って眺めていたアンリエッタは、ふとした拍子に公爵が人差し指に填めていた水のルビーに目を留めた。彼女が、手ずから下賜した指輪だ。

 

(あの指輪を渡す前、ラ・ヴァリエール公爵は嘆いていたではありませんか)

 

『自分に、もっと〝力〟があれば』

 

 ……と。

 

 彼は今も、祖国の危機を前に……己の無力を噛み締めている。

 

(わたくしは、マザリーニ枢機卿から教えられたはずです……)

 

『姫殿下の声は、国を滅ぼすことすら可能な……強大な〝力〟なのです』

 

(今、トリステインは滅亡の危機に瀕している。軍事に疎いわたくしにも、それくらいはわかる。枢機卿の言葉を信じるならば――わたくしは、とてつもなく大きな〝力〟を持っている。そんなわたくしが、このまま会議を見守っているだけで……本当にいいの?)

 

 国を滅ぼすことすら可能なその〝力〟を正しく用いれば……アンリエッタが声を上げれば、危難の淵からトリステインを救うことができるのではないだろうか。

 

(でも、どうすれば? わたくしは戦のことなどまるでわかりませぬ。政も、マザリーニ枢機卿や王政府議会に任せきりでした。ならば考えましょう、そんなわたくしにもできることを……)

 

 アンリエッタはここまでの現状を慎重に精査し――自身の脳細胞をフル回転させた。

 

(そうですわね……けれど……だったら……ええ……なら、こうして……)

 

 喧噪の中、ようやく最適解に辿り着くことのできた王女は手元にいた小姓に美麗な文字を記したメモを手渡すと、一言二言何事かを囁いた。小姓は頷き、大切そうに姫から託されたメモを持ち、静かな足取りでもって会議室の反対側に陣取っていたデムリ財務卿の元へと急いだ。

 

 受け取ったメモを見た財務卿は目を剥いたが――視線の先でアンリエッタ姫が自分に視線を合わせて頷いたのを見るやいなや、大慌てで会議室を後にした。

 

 デムリの後ろ姿を見送ったアンリエッタ姫は、心を落ち着けるために大きな深呼吸をすると、すっと挙手して立ち上がり、声を上げた。

 

「王政府議会議長に対し、質問があります」

 

 鈴を転がしたような美しい声が、会議室に響き渡った。

 

「姫殿下におかれましては、何かご不明な点がございましたでしょうか」

 

 マザリーニ枢機卿――王政府議会議長の問いかけに、アンリエッタは頷いた。

 

「さきほど、高等法院長が『アルビオン軍への対応を考え、最終決定を下すのは、王政府議会の役割である』と言いました。これは、まことですか?」

 

 姫君から為された質問の意図を掴めぬまま、マザリーニは答えた。

 

「はい。しかし、正確に申せば『現状では王政府議会の役割である』としたほうが、より正しい法解釈となります」

 

 それを聞いたアンリエッタ姫は、我が意を得たりとばかりに頷いた。

 

「つまり、あくまで『現状では』という但し書きがつくのですね」

 

「左様です」

 

「では、本来の状態において、いったい誰がこの困難な役目を負うのですか?」

 

 マザリーニは思わず目を見開いた。アンリエッタが、この可憐な姫君が……これから何を為さんとしているのか、彼は即座に気が付いたからだ。

 

 トリステイン希代の宰相は、静かに姫の御下問に答えた。

 

「それは勿論――上座の奥におわすべきお方が、全てを決定する立場にございます」

 

 それを聞いた姫君は、満足げに頷いた。

 

「ありがとう。なるほど、現在トリステインの王座が空位であるために、王政府議会が全てを裁決している。わたくしの解釈はどこか間違っているかしら?」

 

「いいえ、相違ございません」

 

 姫君に言葉に耳を傾けていたラ・ヴァリエール公爵が、挙手をして意見を述べた。

 

「姫殿下の仰る通り、現在我が国の王座に在るべきお方はここにはおられません。先帝陛下の喪に服し、部屋に籠もられたままです」

 

 ラ・ヴァリエール公爵の言葉に頷くと、アンリエッタは視線を別の者へ向けた。

 

「それでは次に、リッシュモン高等法院長。あなたに伺います」

 

「はい、何なりと」

 

「今、ラ・ヴァリエール公爵が仰ったように、母后マリアンヌはここ数年の間、先帝の喪に服し、自室に籠もっておられます。宮廷付きの医師の話では健康状態に問題があり、到底政務に携わることのできる状態ではないと。これに相違ありませんか」

 

「は、はい、それは事実です。しかし……」

 

 ここに至って、リッシュモンはアンリエッタが自分に対して何らかの攻撃(・・)をしようとしているのだと理解した。しかし、一端走り始めてしまったものを止めるのは、最早難しい。

 

「質問を続けます。父――先帝が崩御して以降、多くの有力貴族たちが、幾度となく母后に対し、女王への即位を申し述べてきましたが……母はその全てを拒否してきました。女王陛下という呼びかけにも一切答えず『自分はトリステインの母であり、女王ではない』と公言しておられます。国法的に鑑みるならば、母は既に王位継承権を放棄していると考えて差し支えないと思われますが、如何かしら?」

 

 会議室にしばしの静寂が訪れた。それも無理はない。これは王室における禁忌。誰もが理解しつつもこの数年間口に出さずに来た、最大のタブーなのだから。

 

 その沈黙を打ち破ったのは、よく通る女性の――しかし、か細き声であった。

 

「相違ありませぬ。わたくしは、元より王位継承権を放棄しています」

 

「女王陛下!」

 

「マリアンヌさま……!」

 

「何故ここへ……」

 

 会議室はざわめいた。傷心にやつれた大后マリアンヌの後ろには、黒木の箱を手にした財務卿デムリの姿も見える。彼は先程アンリエッタ姫から手渡されたメモの指示に従い、暗い自室に閉じ籠もっていたマリアンヌを表舞台へ連れ出して来たのだ。

 

 アンリエッタ姫は自ら壇上から降りてそっと母の手を取ると、静かに着座を促した。

 

「母さま。お身体の加減が悪い中、ご足労いただき誠に申し訳ございません」

 

 頭を下げる娘に、母は鷹揚に頷いた。

 

「いいえ。王国の母として、当然のことをしたまでです。さあ、わたくしの身体のことよりも会議を続けなさい」

 

「……ありがとうございます」

 

 母の元を去ったアンリエッタ姫は再び壇上に戻ると、口を開いた。

 

「ここに、母后マリアンヌの王位継承権放棄が本人の口から正式に認められました。書記官、先程の発言を記録していますか? ……あ、と。ごめんなさいね、マザリーニ議長。今の書記官への確認は、あなたの役割を奪うものでしたわね」

 

 マザリーニはくそ真面目な顔で頷くと、書記官に対し、姫君が行った指示を改めて与えた。それから、彼は改めてアンリエッタに続きを促した。

 

「姫殿下におかれましては、ここで発言を終わられますか?」

 

「いいえ、まだですわ」

 

 アンリエッタ姫の顔には、断固とした表情が浮かんでいた。

 

「まずはこの火急の折に、わたくしの言葉に耳を傾けてくださった皆さま方に感謝を。さて、ここまでの話で、第一位の王位継承者がその権利を放棄したことが明らかになったわけですが……リッシュモン高等法院長」

 

「はい、姫殿下」

 

「第一位の継承者が王位継承権を放棄した場合……その権利は第二の継承者へと移る。この解釈で法的に間違いはありませんか」

 

「間違いございません」

 

 リッシュモン高等法院長や宮廷内に巣喰う腐敗した貴族どもは、思わずほくそ笑んだ。

 

(そうか。この小娘は、自ら王座に就いて場を収めるつもりなのだな。しかし、所詮は世間知らずの子供。影から操るのは容易い……)

 

 そう考えたのだが。その後に続いた姫君の言動は、彼らの予測を遙かに超えていた。

 

「現在、トリステインは空からの脅威に晒され、民は文字通り不安に押し潰されそうな日々を過ごしています。この問題を解決するために、隣国ゲルマニアと軍事防衛同盟を結んだわけですが――議長。いえ、ブリミル教司教枢機卿マザリーニ猊下に確認します」

 

「何なりと」

 

「この同盟締結の条件として、わたくしがゲルマニアの皇室へ降嫁することが求められていますが……そもそもこの『降嫁』とはどういうものなのか、ここで詳しく説明願います」

 

(やはりそうだ。これこそが、姫の狙いなのだ!)

 

 教え子の思わぬ成長ぶりを目の当たりにしたマザリーニはそんな感慨をおくびにも出さず、慎重な受け答えを行った。

 

「はい。降嫁とは――王侯貴族の娘が格下の家へ嫁ぐことを差します。文字通り家から降りることになるため、元の家に付随していた地位や権利の全てが失われることになります。これは、婚姻による主権乗っ取りなどを防ぐために必要な措置でもあります」

 

「全ての権利。つまり、わたくしの持つ王位継承権も失われたということですわね」

 

「左様です」

 

 ここに至って、ようやくリッシュモンやその取り巻きもアンリエッタの真意に気が付いた。

 

「いや、それはまだ……」

 

 慌てふためいた様子で彼女の行動を遮ろうとするが、しかし。それは議長マザリーニによって押し止められる。

 

「姫殿下のお話はまだ続いておられる。姫殿下の発言終了後に改めて挙手願いたい」

 

「し、しかしだな」

 

「リッシュモン高等法院長は、法を逸脱しておられる。定例に拠らぬ方法で、議会の進行を妨げることは許されません」

 

 そんな彼らの小競り合いを横目に、純白のウェディングドレスの裾を摘んだアンリエッタ姫は可愛らしい声で告げた。

 

「困りましたわ。王位継承権第一位の母后はそれを拒否。そして第二位のわたくしは、同盟締結の条件として降嫁をすることにより、その権利を失いました。では――この国の王座に就くべき人物とは、今どこにいる、どなたになるのかしら? こちらにおいでの皆さま方には、当然おわかりですわよね」

 

 会議室の奥にある豪奢な椅子を指差しながら、言葉とは裏腹に輝くような笑顔でそう言い放ったアンリエッタ姫の瞳は、彼女が最も信頼する忠臣にして遠縁の伯父――王位継承権第三位を持つラ・ヴァリエール公爵に向けられていた。

 

 姫君の元へ黒木の箱を持ったデムリ財務卿がそろそろと歩み寄ってきた。そして、姫の机上に箱を置き、深々と礼をする。

 

「ありがとう、デムリ財務卿」

 

 礼を言うと、アンリエッタは箱の中身を取り出した。それは立派な襟飾りのついた漆黒のマントだった。その裏地は紫色で、全面に金糸で百合の紋章が縫い込まれている。

 

 そのマントを見た会議室中がどよめいた。

 

「あれは、まさか……」

 

「国王陛下の……!」

 

 突然の事態に呆然と立ち尽くすラ・ヴァリエール公爵の元へ、アンリエッタ姫はしずしずと歩み寄ると、手にしたマントを彼に差し出した。

 

「これは先々代国王『英雄王』フィリップ三世陛下が戦場で纏っていたという王家のマントです。受け取ってもらえますね? 王位継承権第三位――いいえ、第一位継承者ラ・ヴァリエール公爵。わたくしたちは、この混乱を乗り切るために……強き王を必要としているのです」

 

 半年前の彼がこんな不意打ちを受けたら――畏れおののき、その場で腰を抜かしていただろう。それを纏うのは姫さまの役目であると、突き返していたかもしれない。

 

 このマントを受け取るということは、トリステインの国王として即位するに等しいからだ。

 

 しかし、今の彼は腰を抜かしたりしなかった。愛娘ルイズの〝虚無〟覚醒と、これまで積み重ねてきた経緯によって、彼は既に、国を背負うための準備と覚悟ができていた。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は姫君の前に恭しく跪くと、頭を垂れた。アンリエッタ姫は彼の側へそっと近寄り、手にしたマントを公爵の広い背にかける。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。いいえ、あなたはもう公爵ではありませんわね。さあ、立ち上がって皆にその御姿を見せてくださいまし」

 

 英雄王のマントを身に纏い、立ち上がったラ・ヴァリエール公爵の背を――始祖の祝福であろうか、偶然ガラス窓から差し込んだ光が眩く照らし、後光のように輝きを放った。

 

 マザリーニ枢機卿は臣下の礼をとり、杖を持つ手を天にかざした。

 

「新国王陛下、万歳。陛下の御代に栄光あれ」

 

 その声は、さざ波のように会議室を渡って広がっていった。

 

「新国王陛下万歳!」

 

「トリステインに、新たな国王陛下が誕生された!」

 

「トリステイン国王陛下万歳!」

 

 会議室の熱狂は、あっという間に外まで伝播した。善き報せは王宮を駆けめぐり、やがて城外にまで鳴り響いた。

 

 だが、そんな熱狂とは対極にあるリッシュモン高等法院長は震えながら席を立った。その顔からは血の気が失せ、深雪のように白くなっている。

 

「こ、こんな、こんなことが……」

 

 声を震わせる高等法院長に対し、アンリエッタは不思議そうな顔で訊ねた。

 

「どうなさいました? リッシュモン高等法院長。わたくしは法に則った発言をしただけですわ。法を司るのは、あなたの役目ではありませんか。何か問題があるのなら、政府議会の定例に則り、挙手の後に改めて発言なさればよろしいのではありませんこと?」

 

 リッシュモンは姫君の言葉には耳を貸さず、足を踏み鳴らして会議室を後にしようとした。彼の部下である参事官たちと複数の高級官僚がその後に続く。だが、彼らの足よりも新国王の手のほうが早かった。

 

「近衛! 今外へ出ようとした者たち全員を拘束せよ」

 

 命令を受けた近衛兵たちが、リッシュモン他一同の前に立ち塞がる。

 

「おのれ、このような無法……許されることではないぞ!」

 

 歯をむき出して怒るリッシュモンに、新国王は静かな湖面の如き表情で告げた。

 

「卿らの言い分は、アルビオン軍を追い払ってからじっくりと聞くことにしよう。それまでは地下の特別室で余暇を過ごしたまえ。お世辞にも居心地よい部屋とは言えんが、これからの展望について深く考えるのには相応しい場所だろう。鉄格子の外には、実に興味深い道具類が並んでいることだしな。おっと、近衛兵諸君。言うまでもないことだが、彼らの持ち物は杖も含め、全て取り上げるように。不幸な事故があってはいけないからな」

 

 リッシュモン高等法院長以下が地下牢へと引っ立てられていく間、マザリーニは今しがた起きた一連の――姫君が仕組んだ新王誕生劇から、宮廷に巣食う害虫退治に至る出来事を思い起こし、彼としては珍しくも、ただただ呆然としていた。

 

 なんとアンリエッタ姫は外敵の侵攻という混乱を最大限に利用し、多くの証人たちの前へ病身の母親を引きずり出してきたばかりか、太后が持つ王位継承権の放棄を自ら口に出させ、さらには宝物庫の奥で埃をかぶっていた古いマントを一枚取り出しただけで、国を割ることなく公爵を王座に就けてしまったのだ。

 

(わたしでは、ここまで巧く事を運ぶことはできなかっただろう。姫殿下御自ら公爵に王権が渡ることを宣言した。この国が、強き王を必要としているという言葉と共に。これは大きい。法的な観点からも全く文句の付け所がない、完璧なる新国王の誕生劇だ。まだ十七歳の姫殿下が、たったひとりでよくぞここまで……!)

 

 そんな枢機卿の様子に気付いたアンリエッタ姫は、春の陽光のような微笑みを浮かべた。

 

「『使えるものは、なんでも使う。それが政治の基本』これはあなたの口癖でしたわね、マザリーニ先生」

 

 マザリーニは、思わず熱くなった目頭を押さえた。避けられ、疎まれているとばかり思っていた己の言葉は……しっかりと姫君に届いていたのだ。

 

「姫殿下のご成長、まこと嬉しく存じます……」

 

 帽子を取って礼をした枢機卿に、アンリエッタは言った。

 

「枢機卿。いまはわたくしのことよりも、なすべきことをなさってくださいな」

 

 アンリエッタ姫に促され、マザリーニは静かに頷いた。それから、未だ正式な手順を踏んではいないとはいえ、新たに国王となった人物の前に跪いて質問した。

 

「現在の状況がゆえに、戴冠式諸々の儀式については後回しにせねばなりませんが……国王陛下におかれましては、統治名は如何なさいますか? トリステインの伝統に則り、ピエール一世。もしくはヴァリエール一世陛下とお呼びしても?」

 

 新国王は顎髭に手をやり、少し考えると口を開いた。

 

「いや。わし……余はサンドリオンと名乗ることとする」

 

 再び会議室内が騒然とした。それはそうだろう、灰かぶり(サンドリオン)などという名前が国王に相応しいものとは到底思えない。しかし、自ら灰をかぶるなどと言い出した新しき王は……静かに響き渡る声で、こう宣言した。

 

「これから、余は多くの灰をかぶることになるだろう。それが戦禍によるものなのか、長きに渡る王座空位によって降り積もった悪しき慣習を破壊することにより生じるものなのかはわからない。だが、先頭に立ち、その役割を負うべきは……国王なのだ。余は、その困難から逃げることなく職務を遂行することを、ここに誓うものである」

 

 会議室が水を打ったように静まり返った。この統治名は、まぎれもなく新王の決意表明なのだ。それを理解した宮廷貴族たちは揃って席を立ち、絨毯敷きの床へ跪いた。

 

「さて。これより先、為すべきことは山ほどある。よって、これからの諸君らの助力に大いに期待する。現在我がトリステインは、大いなる危難に見舞われている。余の国王として最初の仕事は、外敵を排除することだ。これは恥知らずにも不可侵条約を一方的に破り捨て、我が国に侵攻を開始したアルビオンの軍勢を打ち破るまで続くものとする」

 

 静寂に支配された会議室の中で、再びラ・ヴァリエール公爵改め、トリステイン新国王サンドリオン一世の声が響いた。それは獅子身中の虫どもにより堰き止められていた、川の流れを解放する一撃となった。

 

「マザリーニ枢機卿」

 

「はい、陛下」

 

「まずは軍事防衛同盟に基づいた援軍の派遣を、ゲルマニア大使館へ向けて打診するように。その後、速やかに国内の情報統制を行うこと。残る毒虫の炙り出しも卿に任せる」

 

「かしこまりました」

 

「それから……グラモン卿」

 

「はッ」

 

「王軍は余が自ら率いる。卿には補佐役を頼みたい」

 

「ありがたき幸せ」

 

 もはや偶然の事故だの、不可侵条約がどうこうなどという馬鹿な讒言を口にする者はどこにもいない。出陣の準備は着々と進んでゆく。

 

「マンティコア隊隊長、これへ」

 

 ごつい身体に厳しい髭面の隊長ド・ゼッサールが、国王の前へ進み出てきた。

 

「アテナイスの様子はどうだ?」

 

 隊長は、その顔に戸惑いの表情を浮かべた。

 

「年齢のせいか、日々気難しくなってきております。最近では気が向いた時しか隊員の騎乗を許そうとしません」

 

「能力はどうかね?」

 

「三十年前より、一度たりとて『最強』の名を譲り渡しておりません」

 

 それを聞いたサンドリオン一世は、強く頷いた。

 

「アテナイスに騎乗の上で、余が全軍の指揮を執る。中庭へ引いて参れ」

 

 国王の御下命に、隊長は慌てた。

 

「いえ、ですが先程申し上げました通り、かの幻獣は」

 

「サンドリオンが騎乗すると言え。あやつならば、それだけで飛んでくる」

 

 そこまで言うと、国王は会議室を出て中庭へと向かった。ド・ゼッサールは大慌てで厩舎へ向けて駆け出した。国王の後にはグラモン元帥――そして、花嫁姿のアンリエッタ姫が続く。彼女がついてきたことに気付いた王は、歩きながら振り返ると言った。

 

「姫殿下。ここから先は我々の仕事です」

 

 しかし、アンリエッタは頷かなかった。

 

「わたくしは、もう姫ではありませんわ」

 

「お輿入れを控えた大切なお身体ですぞ」

 

「わたくしには『始祖』より受け継いだ魔法があります。どうかお連れくださいまし」

 

「戦場に女が立ち入るなど、聞いたことがございませぬ」

 

「いいえ、そんなはずがありませんわ。だって、わたくしは母后から聞いて知っているのですよ。王国魔法近衛衛士隊の『伝説』について」

 

 アンリエッタがそこまで言ったところで、一同は中庭へ到着した。すると、そこではちょっとした小競り合いが起きていた。

 

 年老いたマンティコアと、その横に立つ――魔法衛士隊の制服を着て顔の下半分を鉄仮面で隠した謎の人物を、グリフォン隊の隊員たちがぐるりと取り囲んでいる。

 

「どうなさいました? 隊長殿」

 

 アンリエッタは件の人物を目に留めて、驚きの声をあげた。

 

「まあ。彼はマンティコア隊の衛士ではないのですか? どうしてこんなことになっているのです?」

 

 その疑問に、グリフォン隊の隊長ワルドが答えた。

 

「それが……王宮上空の飛行禁止令を無視して、この中庭へ飛び込んで参りまして」

 

「ここへ至るまで、足止めができなかったと? 空で最速を誇る、あなたたちグリフォン隊ともあろうものが?」

 

「は、はあ……」

 

 なんとも歯切れの悪いワルドに助け船を出したのは、国王サンドリオン一世だった。

 

「かの人物を呼び寄せたのは余だ。どうか彼を責めないでやって欲しい。それに、たとえ魔法衛士隊が全力を持って取り囲んだとしても、足止めなど到底不可能だっただろう」

 

 顔中に疑問符を浮かべているアンリエッタ姫とは対照的に、グラモン元帥は両手を広げ、満面の笑みで件の人物を迎えた。

 

「カリン! まさかきみが来てくれるとは。まさしく千人力を得たに等しいよ」

 

 グラモン元帥の発言に周囲は騒然となった。

 

「カリン? カリンですと!?」

 

「まさか、あれが伝説の『烈風』殿とな……!?」

 

 アンリエッタはぽかんと口を開けて、伝説と謳われた騎士を見つめた。カリンはつかつかと姫君の前へ歩み寄ると、膝をついた。

 

「先代マンティコア隊隊長カリン・ド・マイヤールにございます。ラ・ヴァリエール公爵の命により参上仕りました。王家に変わらぬ忠誠を」

 

「まあ、まあ! あなたが、あの『烈風』カリン殿なのね?」

 

「はい。その名をご存じとは、光栄にございます」

 

「ご存じもなにも、有名ではありませんか! 王国魔法衛士隊の伝説! あなたの数々の武勇伝を聞きながら、わたくしは育ったのですわ!」

 

 アンリエッタはおてんば姫だった頃の表情に戻り、カリンの手を取った。

 

「それにしても、あなたが陛下に所縁の人物だっただなんて。三十年ほど前、突然風のように王宮を去ったと聞いていましたが、ヴァリエール公爵領にいらしたのね」

 

「陛下……?」

 

 事情がわからぬといった目をしたカリンに、アンリエッタは説明した。

 

「つい先程、この国に新たな王が誕生したのですわ。そうですわね? サンドリオン一世陛下」

 

 その名を聞いたカリンの目が、大きく見開かれた。そして一瞬だけ柔らかな光が宿った後、静かに消えた。

 

「ここへ来る前に、ちょうど陛下にあなたの話をしようとしていたところだったのです。実はわたくし、母からあなたの秘密を聞かされておりますのよ! 本当は女性。そうよね? 名と性別を偽り男として魔法衛士隊で働いていた。違いまして?」

 

 姫君の言葉に、周囲がざわついた。

 

「女性……カリン殿が!?」

 

「そんな馬鹿な、魔法衛士隊は女人禁制だぞ!」

 

 カリンは困ったように夫の顔をちらりと見た。サンドリオン一世は頷くと、鉄仮面を外すよう、妻に命じた。ゆっくりと、彼女の素顔が露わになる。

 

 仮面の下に隠されていた顔を見て、アンリエッタ姫は目を丸くした。ワルド子爵やグラモン元帥など、事情を知る一部の者を除いた宮廷人たちも、これには驚いた。

 

「公爵夫人! ラ・ヴァリエール公爵夫人ではありませんか!!」

 

 カリーヌ夫人は、微笑みながら言った。

 

「夫との結婚を機に、わたくしは近衛衛士隊の隊服を脱いだのです。その時のことは話せば長くなりますゆえ、今はご容赦願います」

 

 と、そんな混乱に満ちた中庭へさらなる混乱が飛来した。年老いた巨体のマンティコアが、ド・ゼッサールの制止を振り切り、飛び込んできたのだ。

 

 老成したマンティコアはサンドリオン王の前に降り立つと、愉快げに笑った。

 

「ホホホホ、マンティコア隊伝説の四衛士のうち三人が揃っているとは、面白いわえ。今度の敵はアルビオン人とな? 腕が鳴るわえ」

 

「久しいな、アテナイス。おまえは相変わらずのようだが」

 

「そういうお前はずいぶんと老けたわえ、サンドリオン」

 

「当然だ。あれから三十年以上経っているのだからな」

 

 そう言うと、サンドリオン王はアテナイスの手綱を取った。

 

 それを見たアンリエッタは、大声で叫んだ。

 

「誰か! わたくしの馬車をここへ!」

 

 姫君の命で、聖獣ユニコーンが繋がれた馬車が引かれてきた。

 

「姫殿下……」

 

 心底困り果てたようなサンドリオン王に向けて、アンリエッタは微笑み返した。

 

「奥方……いいえ、王妃殿下とお呼びしたほうが相応しいですわね。カリンさまが出陣するんですもの、わたくしが同行したところで、ちっともおかしくありませんわ」

 

 言いながらアンリエッタは馬車からユニコーンを一頭外し、その背に跨ろうとした。だが、それをサンドリオン王が止めた。どうにもまだ臣下としての感覚が抜けきっていない彼は、ほとほと参ったといわんばかりの顔で姫君に声をかけた。

 

「姫さまの決意の程はわかりました。しかしながら、花嫁衣装を着たまま戦場へ向かうというのはさすがにどうかと思うのですが」

 

「……着替えのお時間をいただけますの?」

 

「できうる限り、早急に願います」

 

「その隙に出陣するのは、おやめいただけますわよね?」

 

「『始祖』に誓って、そのような不埒な真似はいたしませぬ」

 

 ウェディングドレスの裾をたくし上げ、大急ぎで宮殿の中へと駆け戻っていくアンリエッタを見送りながら、サンドリオン王はがっくりと肩を落とした。

 

「わし……余が中心になって指揮を執ろうとすると、昔からこう毎回のように締まりがなくなるのは何故なのだろうか」

 

 それを聞いたグラモン元帥が、思わず吹き出した。

 

「まあ、いいんじゃないか? ボクたちらしくて」

 

 若き日のような物言いをしたグラモン元帥は、王となった盟友の肩をぽんと叩いた。

 

 気を取り直すようかのように新王はアテナイスに飛び乗ると、杖を天高く掲げた。

 

「これより、余が全軍の指揮を執る。近衛! 各連隊を集めよ!!」

 

 中庭に揃っていた魔法衛士隊の面々が一斉に敬礼し、四方へ向かって駆け出した。

 

 アルビオンの宣戦布告から新国王即位、伝説の再来、勇気に満ちあふれた姫君の同行。たったの一日で目まぐるしく状況の変わったトリステインであったが、王軍の士気はすこぶる高かった。

 

 ――こうして。後の世にまで語り継がれる『ユグドラシル戦役』の火蓋は切られた。

 

 

 




公爵、トリステイン国王になるの巻。

タルブ近郊はガッチガチに防衛されていたので焼き払われずに済みました。

彼らがラ・ロシェールを占拠しないのは、渓谷に作られた町であることと、周囲が森で、かつ崖道が長く続いていて見通しが悪く、陸軍が展開しにくいことが最大の理由なんでしょう。


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第89話 ユグドラシル戦役 ―イントロダクション―

「う~ん。馬車、まだ来ねえのかな。予定より、ずいぶん遅れてるんですケド」

 

 現在の時刻は朝五時を回ったところだ。才人は詔の巫女に選ばれたルイズの供として、魔法学院の校門前で王宮から来る迎えの馬車を待っていた。もちろんそれは、彼ら主従を隣国ゲルマニアへ運ぶための馬車だ。

 

「うっさいわね、集中できないから黙ってて」

 

 大きな旅行鞄の上にちょこんと腰掛けたルイズが、相手の顔も見ずに答える。

 

 膝の上には始祖の祈祷書と羊皮紙が広げられており、そこには幾度も修正したのであろう文章の残骸が散らばっていた。この期に及んでもなお、アンリエッタ姫の結婚式で詠み上げられるはずの詔は完成しておらず、ルイズは必死の思いで祝いの文言を捻り出しているのだった。

 

「てか、なんで今までほっといたんだよ!」

 

「ほっといたわけじゃないわ! それはあんただって知ってるでしょ。めちゃくちゃ難しいのよ、これ!」

 

「結婚式のスピーチなんだよな? 苦手なの最初からわかってたんだから、みんなに手伝ってもらえばよかったじゃん」

 

「詔の巫女が、全部自分で文言を考えなきゃいけないっていう決まりがあるのよ。誰かに助けてもらえるものなら、とっくの昔に頼んでるわ……」

 

「めんどくせえんだなあ」

 

「そういうわけだから、静かにしててちょうだい。ゲルマニアに着くまでに、どうにか形にしておかなきゃいけないんだから」

 

「へいへい」

 

 気のない返事の後、才人は再び街道へ視線を移した。王宮からの馬車はまだ来ない。連絡のあった到着予定時刻から既に数十分が経過している。

 

(都内のバスとか電車がこんなに遅れたら、大騒ぎになるよなあ……)

 

 などと益体もないことを考えていると。冷たい風が、ひゅうとふたりの間を通り過ぎた。

 

「ううッ、さみー! 最近ずいぶんと冷え込むなあ」

 

 才人は両腕で身体を抱え込みながら小さく震えた。吐いた息に混じった水蒸気が外気によって冷やされ、白く変わる。

 

「再来月はもう降臨祭だもの、当然よ」

 

 不満げな声で才人が問うた。

 

「俺にとっては当然でもなんでもねーんだけど。なんだよ、その降臨祭って」

 

「そういえば、あんた異世界人だったわね。ついうっかり忘れそうになるけど」

 

「忘れんなよ! それ、大切なことですから!」

 

 ガーッと大口を開けて抗議する才人を軽くいなしながら、ルイズは答えた。

 

「降臨祭っていうのはね、『始祖』ブリミルがハルケギニアに降臨したとされている日をお祝いする真冬のお祭りなの。ちなみに、その日が新年の一日目でもあるわ」

 

(なるほどねえ。クリスマスと正月を足して二で割ったようなイベントか)

 

 などと才人が考えていると、再び強烈な寒気が襲いかかってきた。これはまずい。このままでは間違いなく風邪を引く。

 

「なあ、ルイズ」

 

「あによ」

 

「お姫さまの結婚式が終わったら、街に服買いに行っていいか?」

 

「服?」

 

「そのお祭りが真冬の行事ってことはさ、これからもっと寒くなるんだろ? 俺、冬服持ってねえからさ」

 

 そう才人が言った途端。ルイズはムスッとしたような顔で俯いてしまった。

 

(お、俺、何か怒らせるようなことしたか? あ、もしかするとルイズの護衛をサボろうとしてるとか思われたんかな……)

 

 そんなふうに頭を悩ませていると、唐突にルイズが口を開いた。

 

「ひとりで買い物なんかできるわけ?」

 

「そんくらいなら大丈夫だよ」

 

「店の場所、わかってんの?」

 

「知らねえけど、誰かに聞けばいいだけだろ」

 

 呆れたような声で、ルイズは言った。

 

「そもそもあんた、どんな服があるのか知らないんじゃない?」

 

「そういえばそうでした……」

 

 がっくりと項垂れる才人。だが、次の瞬間。彼の脳内に〝天啓〟と呼ぶべき閃きが降りてきた。そうだ、これを口実に使えばいいんじゃなかろうか。

 

「だったらさ、その……ついてきてくれないか?」

 

「え?」

 

「だからさ、街まで一緒に行って、そんでもって、お前がよさげな服選んでくれよ。もちろんタダでなんて言わねえし。お礼に、どっかでメシでも奢るからさ」

 

 ルイズと街で買い物。これまで何度かトリスタニアに出たことはあったが、大抵誰かと一緒だった。ふたりっきりで出かけたことはない。向こうにその意志はなくとも、これはデートみたいなものだろう。

 

(こんなにさりげなく誘えるなんて、実は俺ってば天才じゃね?)

 

 などと内心でガッツポーズを決めていた才人だったが、当のルイズからの返答は、妙に現実的なものであった。

 

「あんた、そんなにお金持ってないでしょ」

 

「な、なんとかなるよ。例の宝探しと任務でゲットした金貨、まだ残ってるし!」

 

「貴族向けのレストランに入れるわけ?」

 

「それなら……」

 

 安いところに……と、続けようとして才人は思いとどまった。相手は普通の女子高生ではない。ハンパない大金持ち、大貴族のお嬢さまである。いい加減な場所へ連れて行ったりしたら、ご機嫌を損ねるかもしれない。いや、それどころか間違いなく嫌われる。

 

(デートひとつするだけでも、めちゃくちゃ難易度高い相手なんだよなあ……いや、そもそも俺、女の子とお出かけなんかしたことありませんけどネ)

 

 才人がせつない気持ちでいっぱいになっていると、相手から思わぬ台詞が飛び出してきた。

 

「その、あ、あんたが買う必要、な、ないわ」

 

「なんでだよ…… って、あ! も、もしかして、お、お前が買ってくれるのか?」

 

 思わず瞳を輝かせる才人。プレゼントとは少し違うかもしれないが、好きな女の子が自分のために服を選んでくれる。ふたりっきりで街を歩いて、あちこち店を巡る。

 

 こんな、ベタだが青春全開なイベントに心底飢えていた才人は、胸のときめきを抑えるだけで精一杯だったのだが――その後の展開は彼の予想をして、遙か斜め上を超えるどころか宇宙の彼方へ消えていた。

 

 羊皮紙を睨み付けながら、ルイズが呟いた。実際はそれに集中しているわけではなく、単に才人の顔を見るのが恥ずかしかったからなのだが、ニブい彼にはわからない。

 

「……ター、んで、あげる」

 

「は? 声小さくて、よく聞こえなかったんですが。ワンモア」

 

「……編んであげるわよ」

 

「へ?」

 

 がばっと顔を上げると、ルイズは叫んだ。

 

「だ・か・ら! わたしが! セーター編んであげるって言ってるのよ!!」

 

「なんですとッ!?」

 

 手編みのセーター。てあみ。T・E・A・M・I。買ってくれるどころではない。デートを兼ねたお買い物も魅力的だが、それでも手作りの破壊力には到底及ばない。

 

 しかし、その喜びを表に出すのがなんだか気恥ずかしかった才人は、ふてくされたような顔で、まるっきり別のことを口にしてしまった。

 

「お前、貴族のくせに編み物なんかできるのかよ」

 

「子供の頃、母さまに『魔法ができないのなら、せめて裁縫くらいは上手くなりなさい』って言われて、いろいろ仕込まれたのよ」

 

「か、母さまって、あの?」

 

「他に誰がいるっていうのよ」

 

 ルイズの母『烈風』カリンが、暖炉の前でロッキングチェアに座り、優雅にお裁縫。正直想像できない姿なのだが、しかし。

 

「母さまは編み物が得意なのよ。毎年冬が近くなると、父さまのためにセーターとかマフラー編んであげてるし」

 

「い、意外なところがあるんだネ」

 

「ほんとなら、母さまを侮辱されたって怒るべきなんでしょうけど……あんたの気持ちは、まあ理解できなくもないわ」

 

(普段は勇ましいけど、実は結構家庭的とか。ルイズの母ちゃんって、なにげに男がグッとくるポイント押さえてるよなあ。てことは……もしかして、こいつもそうだったり? つーか、嫌いな男に手編みのセーターくれたりなんかしませんよネ!?)

 

 ……などと、才人は思わず期待に満ちた視線を向けたのだが。当のルイズ本人はというと、ぷいと横を向いてこう言い放った。

 

「あ、あんた、わたしのこと頑張って守ってくれてるから、その、ご、ご褒美よ。忠誠には報いるものがなきゃ、い、いけないもの」

 

「あー、はいはい。お嬢さまのお慈悲に感謝します」

 

(そーですよネ。うん、ご褒美。俺は犬。ご主人さまの忠実な家来ですから)

 

 地べたに座り込み、人差し指で「の」の字を書いていた才人は気づかなかった。横を向いているルイズの顔が、まるで生まれたばかりの赤ん坊のように真っ赤になっていたことに。

 

 ――と、そんなふたりの元へ馬蹄の響きが聞こえてきた。

 

「お、馬車が来たみたいだぞ。早くそれしまえよ!」

 

 せっつく才人に、ルイズは怪訝な面持ちで言った。

 

「ヘンね。馬車にしては車輪の音が聞こえないし――馬も一頭だけしかいないみたい」

 

 朝靄の中から現れたのは、ルイズが言った通り馬車ではなく――一頭の馬と全身汗だくになったひとりの兵士だった。彼は校門前に馬を止めると、側に居たふたりに問うた。

 

「オールド・オスマンの居室はいずこか?」

 

 才人は魔法学院の中央塔を指さしながら言った。

 

「建物の真ん中に、大きな塔が見えますよね? そこのてっぺんが学院長室です」

 

「ありがとう、少年」

 

 礼を告げると、兵士は一目散に学院内へ駆け込んでいった。

 

「王宮で、何かあったのかしら」

 

「ずいぶん焦ってたよな。あのひと」

 

 ふたりは互いの目を見て頷き合うと、兵士の後を追った。

 

 

○●○●○●

 

「やれやれ、なんとか間に合いそうじゃな。コルベール君のおかげで助かったわい」

 

「なんの! こちらこそ、臨時手当までいただけてありがたいことです」

 

 オスマン氏はゲルマニアへの旅支度と各種書類の作製を終え、ひと息ついたところであった。これから一週間ほど学院を留守にするため、彼が不在でも問題がないよう、様々な手配をする必要があったのだ。

 

 と、ゴンゴンと猛烈な勢いで扉が叩かれる音が室内に響き渡る。

 

「いったい誰じゃね? 騒々しい……」

 

 正体を詮索する間もなく、乱暴に扉が開かれた。部屋に飛び込んできた兵士――王宮からの使者は大声で用件を述べた。

 

「王宮から参りました。申し上げます! アルビオンが、トリステインに対し宣戦布告! 姫殿下の結婚式は無期延期となりました!」

 

 オスマン氏とコルベールは顔色を変えた。

 

「なんじゃと! 宣戦布告とな!?」

 

「せ、戦争が始まるのですか?」

 

「左様。既にアルビオン軍は我が方の艦隊を殲滅。ラ・ロシェール北西部の沿岸に上陸し、周辺の砂浜に陣を張っております」

 

「なんという……それで? トリステイン側はどうしておるんじゃ?」

 

「姫殿下並びに太后殿下、そして王政府議会の承認を得たラ・ヴァリエール公爵がトリステインの国王として即位。サンドリオン一世を名乗り、王軍を率いて出陣致しました。参謀としてグラモン元帥がつき、さらには『烈風』カリンさまも参戦なさっておいでです」

 

 この報せに、オスマン氏は目を剥いた。

 

「ラ・ヴァリエール公爵が即位!? それは本当かね!」

 

「いかにも。王政府議会中に、太后殿下が王位継承権放棄を宣言。姫殿下はゲルマニアへの降嫁により継承権を失われたため、ラ・ヴァリエール公爵が第一位継承者となりました」

 

「姫殿下の結婚式は無期延期になったのじゃろ? ならば、まだ継承権は失われていないのではないかね?」

 

「はい、それなのですが。姫殿下が自ら『わたくしには既に権利はない』と宣言なさった上で王家に伝わるマントをサンドリオン一世陛下に手渡されましたので――王政府議会としましても、法的に正統な王位継承と判断した模様です」

 

「なるほど。禅譲に近い形で即位なされたのか。そうか、あの公爵がのう……防衛戦で不敗を誇るかのお方が指揮を執られるとは、心強い限りじゃ。しかも、カリン殿とグラモン元帥が側についておられるのだろう? 大事にならずに済みそうではないかね」

 

 ほっとした様子のオスマン氏とは対照的に、兵士の顔色は冴えなかった。

 

「残念ながら、事はそう簡単ではありません」

 

「どういうことです?」

 

 コルベールの問いに、兵士は懇切丁寧に説明した。

 

「アルビオン側は『レキシントン』級の巨大戦艦一隻と巡洋艦九隻を率いています。トリステイン艦隊は敵巡洋艦五隻を沈めましたが、それと引き替えに全滅。その他の艦は未だ建造中で、到底戦に出せる状態では……」

 

「なるほど、制空権を奪われているのですな」

 

「はい。砲亀兵のカノン砲では宙に浮かぶ戦艦を迎撃するのは不可能ですから、我が軍はほとんど無防備の状態で砲撃を受けることになるでしょう」

 

 今度はオスマン氏が疑問を口にした。

 

「ゲルマニア軍はどうしたんじゃね? その程度の数であれば、ゲルマニアの艦隊が出れば最低でも互角には持ち込めると思うんじゃが」

 

「そ、そうです! 確か、かの国とは軍事防衛同盟を結んでいましたな!」

 

 悲しげな顔で、兵士は残酷な事実を告げた。

 

「それが……同盟に基づき、マザリーニ枢機卿がゲルマニア大使館に援軍の派遣を申し入れたのですが、先陣が到着するのはどんなに早くとも三週間後だとか」

 

 これを聞いたコルベールは、温厚な彼としては珍しく顔を真っ赤にして激昂した。

 

「馬鹿な! いくらなんでもそんなに時間がかかるわけがない!」

 

 憤慨する部下とは対照的に、オスマン氏は小さくため息をついた。

 

「なるほど、トリステインは見捨てられたんじゃな」

 

 ぐいと自分へ向き直ったコルベールに、オスマン氏は状況を説明する。

 

「例の軍事防衛同盟は、姫殿下と皇帝が結ばれることによって完成されるものであり、その姫の身柄が未だゲルマニアに届いていない以上、破棄してもさほど非難は受けんじゃろう。トリステインと同盟を結んでいなければ、ゲルマニアは『レコン・キスタ』の標的にはなり得ない。さらに、サンドリオン一世陛下が即位したということは――姫殿下の血筋を盾に、将来トリステインをゲルマニアに併合することも不可能。そのような状況で、あえて火中の栗を拾うような真似をしたくないんじゃろうな」

 

 その分析を受けた兵士が、忌々しげに頷いた。

 

「おそらくは。さらに間の悪いことに、大勢の有力貴族が結婚式のためにゲルマニアへ発った直後の宣戦布告でしたので、ろくに兵が集まらず――二千がやっと。上陸した敵軍もほぼ同数ですが、我が軍とは異なり、空からの援護を受けておりますので……」

 

「さすがの『烈風』殿でも、ひとりで艦隊を相手にするなぞ無理じゃ。ラ・ヴァリエール公爵……いや、陛下には何かお考えがあるのじゃろうか」

 

「わかりません。しかし……このままでは、早晩トリステインはアルビオンに屈することになるでしょう」

 

 扉の外でこっそり聞き耳を立てていたふたりは、思わず顔を見合わせた。

 

「とと、父さまが、即位……そ、それに、アルビオン軍が攻めてきたですって!?」

 

 ルイズの顔は既に青を通り越して真っ白だ。自分の与り知らぬところで身分が変わってしまったとか、いきなり戦争が起きただとか、混乱をきたすには充分な状況であった。

 

 かたや才人のほうはというと。

 

「グラモン元帥って、確かギーシュの……それに、ルイズの父ちゃんと母ちゃんが……」

 

 つい先程までの甘酸っぱい雰囲気がまるで夢か幻かのように、一瞬にして掻き消えた。

 

 彼の脳裏に浮かんだのは、ニューカッスルのお城で見た狭間(さいま)の向こう側。焼け焦げた壁と大砲の残骸。そして地面に染みついた、赤黒い何か。

 

 俺に剣を教えてくれたひとたちが。ルイズや、友人の大切な肉親が、そんな世界に足を踏み入れようとしている。才人の頭に、かっと血がのぼった。少年は扉から離れると、駆け出した。それを見たルイズは、慌てて彼の後を追った。

 

 

○●○●○●

 

 才人が向かった先はゼロ戦の格納庫だった。荒々しく扉を開けて機体に取り付いた彼の背中に、ルイズが声を投げかけた。

 

「どこへ行く気よ!」

 

「ラ・ロシェールの北に決まってるだろ! お前の父ちゃんと母ちゃん……それと、ギーシュの親父を手助けしに行くんだ!」

 

 ルイズは才人の側へ駆け寄ると、彼の腕にしがみつきながら叫んだ。

 

「あんたひとりが行ったって、何にもならないわよ!」

 

 才人はルイズを振り解こうとした。しかし、がっちりと捕まれていて離せない。

 

「問題は、あの空飛ぶ戦艦なんだろ。俺がこいつを使えば、なんとかなるかもしれない」

 

「確かにこの『ドッグ・ゼロ』はすごい速さで飛べるけど、それだけじゃないの! あんな大きな戦艦をどうにかするなんて、無理よ!」

 

 才人は左手に填めていた指抜きグローブを取った。ガンダールヴのルーンが露わになる。そのまま機体に触れると、ルーンは静かな光を放った。

 

「見ろ。こいつは空を飛ぶだけじゃない。俺の世界の武器なんだ」

 

 ルイズは首を激しく振った。

 

「だからって、こんな小さなフネで、あんな大きな戦艦に立ち向かえるはずないわ!」

 

「別に、こいつで戦艦沈めに行くわけじゃねえよ! 他にもやれることはあるはずだ」

 

「あんたは戦争を知らないから、そんなこと言うのよ! いい? 戦争と冒険は訳が違うの。素人が戦場に飛び込んでも、死ぬだけだわ!」

 

「ド素人のくせして、お姫さまから戦場のど真ん中突っ切らなきゃならないような任務引き受けてきたお前にだけは言われたくないんですが」

 

「う、うるさいわね! それとこれとは話が別なの!」

 

「たいして変わらないと思うんだけど」

 

「と、とにかく、戦争は父さまや王軍に任せておけばいいの! 母さまだっているんだし、きっとなんとかしてくれるわ」

 

「トリステインの艦隊は全滅したって言ってたじゃねえか。それに、いくらお前の母ちゃんが強くても、たったひとりであんなでかい戦艦全部片付けられるはずねえだろうが」

 

 うっと言葉を詰まらせたルイズの目をまっすぐに見据えながら、才人は言った。

 

「ほれみろ。お前だって、父ちゃんと母ちゃんのこと心配してる」

 

「あ、当たり前でしょ……」

 

「こいつはかなりの速度で飛ぶことができる。戦艦落とすのはさすがに無理だろうけど、囮になって敵の気を散らすくらいならできるはずだ。それに……」

 

「それに、何よ」

 

「俺は、きっと――この日のために準備をしてたんだ」

 

「ちょ、あんた何言ってるの!?」

 

「もしも俺が、普通の……なんでもない人間だったら、たぶん助けに行こうなんて考えなかっただろうな。がたがた震えて、ただ見てるだけだったよ」

 

 自分の目を見つめ返してくるルイズに向かって、才人は静かに続けた。

 

「けどさ。なんの因果か、俺は他のヤツには無い〝力〟を手に入れちまった。それも、この世界では伝説なんて言われてるヤツをだ。そんな選ばれし勇者候補としてはさ、こんなピンチ……無視するわけにはいかねーだろ」

 

「そ、そうだとしても、あんたはトリステイン……ううん、この世界の人間じゃないんでしょ? なのに、どうしてそこまでするわけ!?」

 

「お前も、みんなも、俺に良くしてくれただろ。召喚されたばっかりの頃は……うん、まあ、ともかくとしてだ」

 

 右手でそっとルイズの頬に触れながら、才人は続ける。

 

「俺は異世界の人間だから、トリステインがどうなろうが知ったこっちゃない。けどな、優しくしてくれたひとや、そのひとたちが大切に思っているものくらいは守りたい」

 

 そんなことを言う才人であったが、手が細かく震えている。それに気付いたルイズは彼の腕をぎゅっと掴んで言い放った。

 

「震えてるじゃないの、バカ! 怖いくせに、無理してカッコつけないで!」

 

「ああ、怖いよ。無理してるよ。戦場になんか、行きたくねえよ。けどさあ……王子さまが言ってたんだよ。守るべきものの大きさが、恐怖を忘れさせてくれるんだってな」

 

「そういう問題じゃないわ。死ぬかもしれないのよ! わかってんの?」

 

「死なねえよ。俺は生きて絶対帰ってくる。だって、死んだらお前のこと守れないし――それに、一緒に地球へ行くって約束も果たせなくなるもんな」

 

 そう言って才人はニカッと笑ってみせた。対照的に、ルイズの顔は歪む。

 

(だめだわ、わたしじゃサイトのことを止められない……)

 

 他の誰か――太公望や他の仲間たちは既に学院を発ってしまって留守だが、元軍人のコルベールなら上手く説得してくれるのではないだろうか。

 

 そう考え、先生がいる学院長室へ行こうとしたルイズだったが……やめた。この場から自分がいなくなったら、才人はすぐにでも飛び立ってしまうと思ったからだ。

 

 ルイズはコルベールの元へ駆け込む代わりに、才人の胸へ飛び込んだ。ぐしぐしと鼻をすする音がする。あまりにも急に色々なことが起こりすぎて、精神的に耐えきれなくなった彼女はとうとう泣いてしまったのだった。

 

 しばしの間を置いて――ルイズはキッと顔を上げた。その顔にはもう、涙はない。

 

「わたしも行く」

 

「ダメだ。お前はここに残れ」

 

「イヤよ」

 

「ダメだって言ってるだろ! 死んだらどーすんだよッ!」

 

「あんた、絶対死なないって言ったじゃないの!」

 

「それとこれとは話が別だろ!」

 

「同じでしょーがッ! いい? とにかくわたしが死なないように頑張りなさい。もしも、あんたかわたしのどっちかが死んだら……」

 

「死んだら?」

 

「どこまでも追いかけて、あんたのこと殺してやるからねッ!」

 

「……また無茶苦茶言ってくれるなあ、おい」

 

 あまりにも矛盾極まりない台詞に、才人は頭が痛くなった。さっさと出撃してしまおうかとも思ったが、よくよく考えてみれば、こいつには〝瞬間移動〟がある。たとえこの場に置いていったとしても、ルイズの性格からして無理矢理にでもついて来るだろう。

 

「あー、はいはい、わかった。わかりましたよ。一緒に連れてけばいいんだろ」

 

「最初から素直にそう言えばいいのよ」

 

「ったく……こんな時なんだからよ、せめてカッコくらいつけさせてくれよな」

 

「何か言った?」

 

「いいえ、別に。何でもありません」

 

 勇者の旅立ちだっつうのに、締まらねぇよなあ――などとぼやきながらルイズを両手で抱え上げた才人は、きゃあきゃあと抗議の声を上げる彼女をゼロ戦の座席に放り込んだ。

 

 

 ――結婚式どころか、すっかりお通夜のような雰囲気になってしまった学院長室に、聞き覚えのある爆音が届いたのは……それからすぐのことであった。

 

 コルベールが窓の外を見遣ると、朝日の中、濃緑の翼をひらめかせ、ゼロ戦が空の彼方へ飛び去って行った。あれを操縦できるのはひとりしかいない。

 

「サイト君、いったいどこへ行くつもりなんだ?」

 

 窓から身を乗り出すようにして行方を確認すると、北西の空目掛けて飛んでゆくではないか。

 

「ま、ま、まさか、きみは……!」

 

 慌てて〝飛翔〟の魔法で外へ飛び出したが、時既に遅し。異世界の飛行機械は、雲に隠れて見えなくなっていた。

 

 

 ――それから、数十分後。

 

 タルブの南方にある貴族の屋敷は大勢の避難民によってごった返していた。

 

 アルビオンとの戦争が始まったので、この地を治めるアストン伯が近隣の住民たちを自分の屋敷へ迎え入れたのだ。逃げてきた者たちの中にはタルブの村人たちも含まれていた。彼らは皆一様に不安げな表情を浮かべている。

 

「戦争だって? ついこのあいだ、アルビオンとは不可侵条約を結んだってお触れがあったばかりじゃないか。いったいどうなってるんだ」

 

「お上の考えるこたぁ、オレたちにゃあさっぱりだ」

 

「蔵は大丈夫なのかしらねえ? あそこに溜め込んでる食料をアルビオン軍に奪われでもしたら、どうやって冬を越したらいいのか……」

 

「それどころか、家を焼かれるかもしれないぞ」

 

「まったく、どうしてこんなことに……」

 

 ふいに――そのうちのひとりが呟いた。

 

「何だ、あの音は」

 

 他の避難民たちも、一斉に空を見上げた。

 

「まさか、アルビオン軍が、もう……!?」

 

 誰もが恐怖に怯え、震えていたその時――爆音の主が雲間から姿を現した。

 

「あ、あれは――!」

 

「竜の羽衣だ!」

 

「タルブの守護神さまだ!」

 

「おらたちを助けに来てくれたんだ!」

 

 先程までとは一転、歓喜の叫びを上げるタルブの住民たち。騒ぎを聞きつけたアストン伯が、護衛の兵士たちを連れて庭に現れた。

 

「何の騒ぎだ? あの奇妙な竜は、一体何だ!?」

 

 遙かな空へ向け、ある者は手を振り、またある者は応援の声を投げかけている。事情を知らない領主が不審に思うのも無理はない。

 

 そこへ、ひとりの中年男性が進み出て言った。

 

「サムライです」

 

「さむ……なんだって?」

 

 男性――かつてゼロ戦に乗り、タルブへ降り立った佐々木少尉の子孫のひとり。つまりシエスタの父は領主へ向けて、高揚する気分を抑えきれぬまま告げた。

 

「あれは遙か東の国の騎士。誇り高き――大空のサムライです」

 

 

○●○●○●

 

 

 ――ダングルテールの砂浜にアルビオン軍の姿が見える。『レコン・キスタ』の象徴である三色の旗を掲げ、陣を敷いていた。さらにその後方、大海原を背に空軍艦隊がずらりと並ぶ。

 

 トリステイン軍は、その五百メイルほど後方の崖地に展開していた。竜騎兵とグリフォンが上空を警戒しているが、敵艦隊に対抗できるような規模ではない。

 

 サンドリオン王の側に陣取っていたグラモン元帥が、王となった盟友に尋ねた。

 

「敵軍は両軍が激突する前に、上空から艦砲による攻撃を加えてくるでしょう。やはり、ラ・ロシェールに立てこもったほうがよろしかったのではないですかな?」

 

 両脇を渓谷に挟まれたラ・ロシェールは、天然の要害とも呼べる場所である。大軍を突入させるには不向きであり、守る側の負担が少ない。もちろんこれは、出陣前に何度も確認されたことだ。しかしサンドリオン王は首を縦に振らず、あえてこの場所を選んだのだった。

 

「トリステイン艦隊が健在で、かつゲルマニアからの援軍が期待できるのであれば、ラ・ロシェールに展開してもよかった。しかし、現状ではいたずらに時を過ごすだけだ。最悪の場合、アルビオン軍の増援が来てしまう」

 

「裂帛の気合いをもって挑めば、アルビオン軍など畏るるに足らず……などと、わたくしならば申し上げるところですが、陛下がそのようなことを仰る訳がありませんな」

 

「無論だ。そのような理屈で兵を無駄死にさせるなど、彼らに対する冒とくでしかない」

 

「昔のわたくしなら、その言葉だけで陛下に決闘を申し込んでいるところですが」

 

「受けて立ってもよいぞ。ただし……」

 

「カードか将棋(チェス)ですよね。わかっておりますとも」

 

 などと主従が軽口を叩いているところへ、一角獣に跨ったアンリエッタが近寄ってきた。

 

 彼女は娘が従軍すると聞いて半狂乱になった母親の制止を振り切り、この地へやって来たのだ。ミスリル銀製の胸当てと短めのキュロットという軍装に身を包んだ姫君は、どこへ出しても恥ずかしくない女騎士に見える。

 

 アンリエッタは周囲の者たちには聞こえぬよう、小声で遠縁の伯父に訊ねた。

 

「我が軍に、勝ち目はあるのですか?」

 

 少女の声は微かに震えている。これまで他者から敵意など向けられたことのない温室育ちの姫君が、殺気に満ち溢れた戦場に足を踏み入れたのだから、無理もない。

 

 そもそも彼女がついて来たのは――自らの手で新たな国王を誕生させた興奮によるものでも、国を守るという義務感からでも、内から湧き出た勇気によるものでもなかった。

 

 アンリエッタを突き動かしていたものは愛しいひとを奪ったアルビオン軍に対する恨みと、己の将来に悲観するゆえの絶望……つまり、半ば自棄になっていたのだ。

 

(勇敢に戦い、斃れれば――ウェールズさまが待つヴァルハラへと旅立てるかもしれない)

 

 そんなことまで考えていたのだが、こうしていざ戦場に立ってみると……彼女の内部に、生物としての本能である死への恐怖が沸き起こった。その場で気絶しなかったのが奇跡に近い。

 

 そんな姫君の内心を知ってか知らずか、サンドリオン王は淡々と事実を述べた。

 

「常識的に考えれば、まず不可能でしょうな。たとえトリステイン軍が他国と比べ、軍内部におけるメイジの割合が多いとはいえど、敵は圧倒的な破壊力を誇る空軍に守られている。艦砲が一斉に火を噴けば、我が軍が総崩れとなるのは避けられますまい」

 

 それを聞いたアンリエッタの意識が飛びそうになったが、悲観的な分析をしているにも関わらず悪戯っぽい笑みを浮かべている王に、彼女は僅かな希望を見出した。

 

「何か考えがおありになるのですね?」

 

「勿論。この日のために、いくつか手札を用意してあります」

 

「それは、どのような?」

 

「いきなり種明かしをしては、面白くありませんのでな。まずは、そのうちのひとつをお見せしましょう――第一、第二大隊! 配備につけ!」

 

 命令を受けた部隊が、左右に展開する。その全員がメイジで構成されていた。

 

「カリン!」

 

「はッ」

 

「一時間……いや、三十分でいい。やってくれるか?」

 

「承知仕りました」

 

 総司令官の命令に応じた『烈風』は老いたマンティコアに跨ると、展開した大隊の中央へ向けて飛び去った。

 

 

 




誤字報告ありがとうございました、助かりますm(_ _)m

布陣だけ見ると勝ち目はほぼゼロなわけですが、防衛戦を得意とするサンドリオンさんが何か企んでいる模様。ダングルテール防衛戦、まもなく開戦!


現在艦これ超久しぶりにプレイしているのですが、システムいろいろ変わっててようわからんとです。基地航空隊って何!? 5-5攻略までで知識止まってるのでお勉強の真っ最中。さて、どこまでいけるものやら。


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第90話 ユグドラシル戦役 ―閃光・爆音・そして―

 ――神聖アルビオン共和国空軍艦隊旗艦『レキシントン』号の眼前に、トリステイン軍の陣容が浮かび上がった。陣の先頭には幻獣に跨る指揮官らしき騎士が立っている。背後には大隊規模とおぼしきメイジの集団が密集陣形を組んでいた。

 

 彼らの数十メイル後方に、杖と百合をあしらったトリステインの王軍旗が見える。周辺の空域には竜騎兵とグリフォンが飛び回るのみで、艦隊らしきものの姿はない。

 

 それを見たホーキンス将軍が、顎髭をいじりながら言った。

 

「ふむ。トリステインの新艦隊は未だ建造中で、到底運用できる状態ではないという情報は正しかったようだな」

 

 艦長のボーウッドは頷いた。が、その顔には戸惑いの色が浮かんでいた。

 

「はい。この期に及んでフネを出さない訳ではなく、出せないのだと判断します。ですが……」

 

 言葉を詰まらせたボーウッドの後を継ぐように、ホーキンスは率直な感想を口にした。

 

「見事なまでにメイジ中心で編成されている。革命戦争で多くの同志を失った我々としては正直羨ましい限りだ。しかし、あの布陣の意図が理解できんな。まさかとは思うが、一点突破を狙っているのだろうか。艦隊を無視して? 正直に言うが、敵わぬと見て自棄になったとしか思えんよ」

 

「現時点ではなんとも言えません。ですが、砲撃を加えてみればわかることかと」

 

 言外に砲撃許可を求めたボーウッド艦長に対し、ホーキンス総司令は頷いた。それから即座に命令を下す。

 

「全艦、砲撃を許可する」

 

 ボーウッドは声を張り上げた。

 

「全艦隊に伝達。左斉射用意!」

 

「左斉射用意、アイ・サー」

 

 命令は即座に伝令兵に伝わり、手旗信号によって各艦に伝えられる。

 

 アルビオン艦隊の舷側が光り、轟音が轟く。艦砲斉射により放たれた数百発の砲弾が重力の後押しを受け、トリステイン軍目掛けて襲いかかった。

 

 着弾と共に砂煙が巻き起こる。しかし、それらは潮風によってすぐさま吹き飛ばされた。アルビオン艦隊の将兵たちは皆、眼下に広がるであろう凄惨な光景を想像した。

 

 ところが、砂塵と硝煙が晴れた先に見えたものは――。

 

「馬鹿な! あんなもので我が軍の砲撃を防ぎきったというのか……!?」

 

 ボーウッドはもちろんのこと、ホーキンスも。そして艦橋に集っていた士官たちはおろか、砂浜に展開した陸軍の将兵までもが、自分の見たものが信じられなかった。

 

 トリステイン側も彼らと似たようなものであった。ただ、敵側と違うのは――。

 

「作戦会議で公爵、いや陛下から伺ったときは、内心では何を馬鹿なと思ったが……」

 

「ああ。自暴自棄になっておられるのではないかと心配したものだが、これは……!」

 

「確かなのは、我々が歴史が変わる瞬間に居合わせるという栄誉を賜ったということだ」

 

 口々にそんな感想を漏らす将軍たちの視線の先には、砂浜の上に直立した二十~五十メイル級の攻城用巨大ゴーレム十数体が並んでいる。彼らは皆、金属製の大盾を構えていた。

 

 かたや、艦隊の攻撃をゴーレムで防ぐという破天荒な策を出した張本人はというと。こんなことはわかりきっていた結果だとばかりに堂々と胸を張っている。

 

 そんな若き日の親友であり、今は忠誠を誓う主君となった人物を脇目で見ていたグラモン元帥は内心で密かに苦笑していた。

 

(まったく、こういうところは相変わらずだなあ。普段は慎重に慎重を期して行動するくせに、たまに信じられない程大胆な真似をするんだよ、サンドリオンは)

 

 

 ――今から三十年ほど前。

 

 王家に対して反乱を企てていたエスターシュ大公にカリンが囚われ、でっちあげの王族暗殺未遂犯に仕立て上げられ、トリスタニアの中央広場で火あぶりの刑に処されそうになったときなどがその典型だろう。

 

 仲間の騎士たちには、

 

「ここで動いたら、大公の思うつぼだ。いいか? こちらからは絶対に手を出すなよ」

 

 などと散々言い含めていたくせに、自分はカリンを救うためアテナイスに跨り、さらに豪奢な礼装という出で立ちで、たったひとりで処刑場へ乗り込んだのだ。しかも、守備を固めていた大公お抱えのユニコーン親衛隊を半壊させるというおまけつきで。

 

 これが後に「『烈風』がたったひとりで大公の反乱を食い止めた」という逸話の大元となった事件であり、実際にそれを成し遂げたのはマンティコア隊の騎士サンドリオン、ナルシス、バッカスの三名である。カリンは処刑台に括り付けられており、参戦すらしていなかった。

 

 この件について、サンドリオン王本人曰く、

 

「思い出しただけで胃が痛くなる。我ながら無茶をしたものだ」

 

 とのことだが、今回のコレもさぞや心身共に負担がかかっているに違いない。

 

(この戦が無事終わったら、一度宮廷付きの医師に診察させたほうがよさそうだな)

 

 グラモン卿がひとり決意を固めていたところへ、再び艦隊斉射の轟音が海辺を揺るがした。ゴーレムたちのおかげでトリステイン側に損害はない――今のところは。

 

 元帥がふうと安堵のため息をついたところへ、サンドリオン王が声をかけてきた。

 

「グラモン陸軍中佐、だったかね? 卿のところの三男坊は。彼もあそこでゴーレムを操っているのだったな」

 

「はい。第二大隊の指揮官として、自ら杖を振るっております」

 

 アルビオン艦隊の斉射を受け止めてもなお屹立しているゴーレムたちの足下に、薔薇と豹の刺繍が入った軍旗が見える。彼らにとっては見慣れたグラモン家の紋章だ。

 

 そもそもサンドリオン王がこの案を思いつき、実行に移したのは――友人のグラモン伯爵から、夏の終わりに領地を襲った妖魔の群れを、留守を守っていた三男と四男が撃退したという自慢話をさんざん聞かされていたことに由来する。

 

 敵の中にトロール鬼が混じっていたことが、全ての始まりであった。

 

 トロール鬼。五メイルを超える長身に筋骨隆々のこの怪物は、滅多なことでは人里に現れないのだが……人間や他の種族を嫌っているため、彼らに見つかればただでは済まない。容貌にそぐわぬ高い知性があるのが厄介で、人間の身長ほどもある棍棒はおろか、弓や投石機まで使いこなすという器用な面を持つ。

 

 この投石機に対抗するために生まれたのが、盾を持つ巨大ゴーレムである。

 

 グラモン家の三男で、父と同じく陸軍に所属しているグラモン中佐は〝土壁(アース・ウォール)〟の魔法と工作兵やガーゴイルなどに掘らせた塹壕でしのごうと考えていたのだが、ふいに末弟のギーシュから思わぬ提案をされた。

 

「ぼくのワルキューレでは小さすぎて無理ですが、兄上のゴーレムに盾を持たせれば、投石機から身を守れるのではないかと思うのですが……どうでしょうか?」

 

 弟の顔をまじまじと見つめながら、グラモン中佐は言った。

 

「おまえ、それを誰から教わった? 父上や兄上たちではないよな?」

 

「教えられたというか、読んだ軍事教本の中に盾を持つ兵の運用法が書かれていまして。それで、盾だけを持ったゴーレムを使えばよいのではないかと考えついただけなのですが」

 

 事実、これまで何度か役立ったという弟に、グラモン中佐は真顔で尋ねた。

 

「その本、持ってきているのか?」

 

「え、あ、はい。常に持ち歩いて……」

 

「後でボクに貸せ」

 

「ええッ! で、でも、あれは東方の元帥閣下直筆の書物で……」

 

「なんだと!? つまり、東方の軍学書なんだな? とんでもない貴重品じゃないか……いったいどこで手に入れたんだ?」

 

「ですから、そうそう他人に貸し出したりするわけには……」

 

「ならば、グラモン家秘伝の書とすればいい」

 

「ダメに決まってるじゃないですか!」

 

「何故だ!?」

 

「そんなことしたら、彼の性格からいって絶対に続きを読ませてくれなくなります!」

 

「借りているものなのか。それに、他にも同じような書物を持っているのだな? そういうことなら仕方がない……だが、閲覧だけなら構わんだろう?」

 

「そのくらいなら大丈夫かと。しかし兄上、なにゆえそんなに必死なんです? あの本は、平民の部隊を指揮するためのもので……」

 

「バカ者! 東方の――それも元帥位にある人物が記した軍学書だぞ? ハルケギニアとは異なる戦法があっても不思議じゃない。実際おまえの発想は、我が軍には無いものだ。気付いていないのかもしれんがな、ボクたちふたりがハルケギニアの戦史に名を残す好機が、目の前に転がっているんだよ!」

 

 〝土壁〟や塹壕は、確かに飛び道具から身を守るのに役立つ。しかし破壊されれば補修が必要であるし、なにより一度構築してしまったらその場から動かせない。戦場が変わったら破棄するしかないのだ。だが、ゴーレムなら歩いて移動することができるではないか。

 

 ギーシュがよく使っているような人間大のゴーレムを、自分の身を守るために利用する者は大勢いる。ただし、それはあくまで『死なぬ兵』としてであって、盾を持たせるようなことは滅多にない。金属や土でできた人形の傷を気にする必要などないからだ。あにはからんや、巨大ゴーレムを攻撃以外の目的で使おうとするメイジなど、いるはずもなかった。

 

 その後、彼ら兄弟は見事妖魔の群れを撃退することに成功した。飛び道具による味方の死傷者はゼロ。ゴーレムたちは充分以上に盾としての役割を果たしたのだ。

 

 ――投石機に対し、わずか数メイルのゴーレムが成果を示した。ならば、艦隊には攻城に用いる数十メイル級の『巨人』をぶつければよい。

 

 トリステイン軍の作戦会議を騒然とさせ、今またアルビオン軍を震撼させた策は……こうして生まれた。グラモン中佐の予感は見事的中したことになる。

 

 そもそもハルケギニアにおいて、攻城にゴーレムが用いられるのは、頑丈で安価だから。これに尽きる。

 

 砲亀兵を含む移動式のカノン砲を運用するには火の秘薬が必須で、砲弾一発撃つにも金がかかる上に整備の手間もある。おまけに城からの砲撃で壊されることが多い。その際に、当然のことながら砲兵も巻きこまれることになる。

 

 破城槌も、城からの攻撃を断つまでは使えない。兵士たちにやらせれば多くの人命を失うことに繋がるし、かといってガーゴイルに肩代わりさせるにも、やはりコストがかかる。

 

 安価な投石機では〝硬化〟や〝固定化〟のかけられた城壁を打ち破ることなどまず不可能だ。

 

 その点、ゴーレムなら使い手の〝精神力〟が切れるまではいくらでも再生できるため、目標からの攻撃をあまり気にせずに済む。城に備え付けてある大砲程度では数十メイルを超えるゴーレムを破壊するのは難しいし、弓矢や魔法など、それこそ蚊に刺された程度にしか感じない。

 

 艦隊からの砲撃は、これらとは比較にならぬ程強力ではあるものの……それはあくまで正確に命中させることができればの話である。

 

 大砲はただ撃てばいいというものではない。風を読み、さらに砲身の角度や詰める秘薬の量を調整することで、初めて本来の威力を発揮することができる。着任したばかりの新兵にはまず務まらない、技術と経験こそが物を言うのがこの砲科だ。

 

 革命戦争で優秀な兵を大勢失い、ただでさえ練度が落ちているところへもって、風の強さが安定しない海辺での戦闘、しかも『烈風』カリンが魔法で風の流れを乱し、妨害しているという状況では艦砲が真価を発揮することなどできようはずもない。

 

 ――そもそもタルブの草原に諸侯軍の一部を配備していたのは、王都への直接侵攻を遅らせるだけでなく、戦場をこの砂浜に設定するという狙いがあった。海水は真水よりも水魔法の通りが良いため、安価な触媒としてよく利用される。水メイジの多いトリステインにとって、海辺はとても戦いやすい、有利な地形なのだ。

 

 風が強いという意味で、風メイジが多いアルビオン側にも利する場ではあるものの……これまた内乱で多くのメイジを死なせているために平民主体で構成せざるを得ない陸軍はもちろんのこと、最大の武器である艦隊も逆に本来の力を発揮しきれていない。地の利は間違いなくトリステイン軍にあった。しかし――。

 

 グラモン元帥が、他の誰にも聞こえない程の小声で王に囁いた。

 

「大丈夫かね? ゴーレム隊はもちろんだが、その……」

 

 言われた王も、これまた小さく呟き返した。

 

「ああ、なんとかな。とはいえ、薬を飲みたくとも無理だろう。王が今の戦況に胃を痛めているなどと知れたら、士気に関わる」

 

「きみ……失礼、陛下でなくとも胃が痛くなりますからな、この状況は」

 

 敵艦隊の舷側が何度も光る。砲弾が本陣まで届くことはなかったが、それでもこの轟音は正直なところ胃ばかりか心臓にも悪い。

 

 さらに斉射は続くが、ゴーレム隊は耐えている。そして敵陸軍が動く気配はない。いや、動きたくても動けないのだろうとグラモン元帥は分析した。

 

 アルビオン側としてはあのゴーレムたちをなんとかしない限り、トリステインの本陣へ攻撃することができない。しかし平民の兵を主軸にしている軍が、メイジの部隊に攻撃を仕掛けるなど自殺行為に等しい。メイジの小隊は平民の連隊に匹敵する戦闘力を誇るのだから。それが大隊ならば、言わずもがな。

 

 周辺に伏兵がいないことが竜騎士隊や使い魔たちの偵察によって判明している。つまり、他方からの奇襲もない。

 

 たとえ竜騎兵が飛んできたとしても、ゴーレムで攻撃すれば問題ない。もともと攻めるための兵器なのだから、そのくらいはお手の物だ。本陣に直接仕掛けてきたときのために、周囲に風竜隊とグリフォン隊、マンティコア隊を配備している。単騎での戦闘力は向こうが上だが、幸いこちらには数の優位がある。最悪でも相打ちには持ち込めるだろう。

 

 もし艦隊自体を動かしたとしても、ゴーレムは歩いて移動できる。まさに動く城壁だ。これが攻城用ゴーレムを防衛に用いる最大の利点であり、長いハルケギニアの歴史において、これまで誰も思いつかなかった画期的戦法だ。

 

 末の息子の閃めきから生まれたこの策に感心していたグラモン元帥の耳に、再び砲撃音が届く。その直後、彼の顔色が変わった。

 

 カリンの支援もあり、ゴーレム部隊は耐えている。耐えてはいる……のだが。一部、足下がぐらつきはじめたものが出始めている。

 

 盾の〝錬金〟と、そこへかける〝硬化〟〝固定化〟を行うメイジ、それらと〝クリエイト・ゴーレム〟を使う者はそれぞれ分担して行動している。ゴーレム・マスターの消耗をできうる限り抑えるためだ。

 

(それでも、この調子で敵艦隊が全ての砲弾を使い切るまで耐えられるのだろうか?)

 

 グラモン元帥の胃にも衝撃が届き始めたそのとき。バサリという羽音と共に、巨大なフクロウが舞い降りてきた。一斉に杖を抜いた衛士たちをサンドリオン王が制す。

 

 フクロウは差し出された王の腕に留まると、流暢な言葉で告げた。

 

「『鷲』からの伝言でございます。『敵軍ノ妨害ハ無シ。我、最大速度ニテ航行中。トリステイン軍ニ始祖ノ加護アランコトヲ』」

 

「承知した。では返礼だ。『貴君ラノ応援ニ心ヨリ感謝ス』」

 

 伝言を聞き終えたフクロウは翼を広げ、再び大空目掛けて飛び立った。

 

「今のフクロウは……?」

 

 敵軍の攻撃が始まって以降、無言だったアンリエッタ姫が口を開いた。彼女の声はかすかに震えている。それを耳にしたサンドリオン一世は思った。

 

(無理もない、わしですらあの艦隊の偉容に飲まれぬよう、無理矢理己を奮い立たせているのだ。温室育ちの姫殿下が、気絶せずにここまで耐えているだけでもたいしたものだ)

 

 気丈な姫君に対し、王は回答を行った。

 

「あれはトゥルーカスといいましてな、カリンの使い魔なのですよ」

 

「いえ、そういう意味ではなく……」

 

 そこまで言ったところで、アンリエッタは王の口端が少し上がっていることに気付いた。

 

(まあ! またしても、わたくしをからかっておられるのね!)

 

 抗議しようとしたアンリエッタ姫を制し、サンドリオン王は告げた。

 

「最初に話した手札のひとつ、とだけ申し上げておきます」

 

 つまり、援軍が来るということか。だが、近隣に頼れる勢力はいないはず。

 

(まさか、ヴァリエール家の兵を動かしたのかしら? 練度は国内最高峰、人数も王軍より遙かに多いと耳にしてはいますが……トリステインの東端にあるヴァリエール領から、このダングルテールまで駆け付けるには、あまりにも距離が……)

 

 そこまで考えたアンリエッタは、おそるおそる王に問うた。

 

「間に合うのですか?」

 

 と、またしても艦隊から数多の砲弾が吐き出された。とうとうゴーレムの一体が崩れ落ちる。本陣の将兵たちから悲痛な呻き声が漏れた。

 

 しかしサンドリオン王は動揺するどころか、大声で一同を鼓舞した。

 

「狼狽えるな、まだ策はある! 『始祖』の加護と、余を信じるのだ!」

 

 その直後だった。陣の後方、上空から、まるで遠雷のような爆音が近付いてきたのは。

 

 

○●○●○●

 

「おっかしーな」

 

 時を遡ること数十分ほど前。機上のひととなった才人は左手を通じて伝わってくる違和感に戸惑いを覚えていた。

 

「なに? どうかしたの?」

 

 彼の背中にしがみつくような形で同乗していたルイズの疑問に、才人は答えた。

 

「それが……なんだか前に飛んだときよりも、機体の調子がいいような気がしてさ」

 

 すると、操縦席の脇に置かれていたデルフリンガーが何でもないことのように言った。

 

「どうもこのひこうきとやらは飛ぶたんびにバラバラにして、修繕する必要があるみたいだね」

 

「え、そうなん? つーか、だったらなんで調子良くなってんだ? おかしいだろうが」

 

「あのメイジ……コルベールのおっさんが、あちこちいじくったからじゃないのかね」

 

 才人は思い出した。エンジンの研究と称して、コルベールがやたらと格納庫に出入りしていたことを……。

 

「もしかしてあれ、機体バラしてたのか……?」

 

 冷や汗をかいたと同時に驚いた。ゼロ戦の調子が良くなったということは、つまり……コルベールはエンジンその他諸々の構造を完全に理解し、自分のものとしてしまったのだ。科学はもちろんのこと、地球の機械に関する知識などゼロに等しい状態だったにも関わらず――だ。

 

「コルベール先生って、本当にとんでもない天才だよなあ」

 

 と、そこまで考えたところで才人はふと沸き上がった疑問を口にした。

 

「つか、デルフ。お前、なんでそんなことわかるんだよ」

 

「はん、俺っちだって『伝説』を担う者なんだぜ。その程度、こうやって張り付いてればすぐにわかるさ」

 

「武器の鑑定能力があるってことか。てか、そんなことできるなら最初から言えよ!」

 

「今の今まで忘れてたんだ、仕方ないやね」

 

「またかよ! お前、ほんと物忘れ激しいな」

 

「六千年も生きてんだ、そういうこともあらぁね」

 

「そういうことばっかりだろうが!!」

 

 言い争うふたりをルイズが制した。

 

「ラ・ロシェールが見えてきたわ。もうすぐよ!」

 

 才人の眼下に、アルビオンへ行くときに通った深い森と、その先にそびえ立つ世界樹が見えた。この先に戦場がある。操縦桿を握る手が、わずかに震えた。

 

 それを無理矢理押さえ込んだ才人は、同乗者たちに告げた。

 

「スピード上げるぞ。しっかり掴まってろよ!」

 

「つ、つ、掴まるって、きゃああああああッ!!」

 

 風竜では到底体感できない加速Gの圧迫感がルイズたちを襲う。そのまま、ハルケギニアの常識ではありえない速度でゼロ戦は飛行を続けた。

 

 ――それから、わずか数分で戦場へ辿り着いたふたりと一本は、風防から垣間見えた光景に度肝を抜かれていた。

 

「ファンタジーすげえ……」

 

 フーケが操っていたような巨大ゴーレムがずらりと立ち並び、盾を持って艦隊の攻撃を防いでいるという、いろいろな意味でありえない状況に才人は呆然とした。

 

「弱点だらけの人間型兵器で艦隊斉射防ぐとか、どうなってんだよ!」

 

 と、呟いた直後に思い直した。以前『イーグル』号に触れたときに積まれていた大砲のスペックを読み込んでいたことを。地球の戦車が使っているような菱の実型砲弾ではなく、鉄球だった。

 

(そっか、だから貫通力が足りなくて耐えられるんだな)

 

 とはいえ、周囲に山となった土塊がいくつも並んでいる。おそらくあれは砲撃によって壊されたゴーレムたちのなれの果てだ。今はなんとか保っているが、全ての巨兵がああなるのも時間の問題かもしれない。

 

「相棒、ぼけっとしてちゃダメだ。向こうがこっちに気付いたようだぜ」

 

 デルフリンガーの声にはっとして前を見ると、艦隊中央に陣取る巨大な戦艦の周囲を飛行していた火竜がゼロ戦目掛けて浮上してくる。

 

「ふうん、単機か。偵察かね? とはいえ、油断してあいつのブレスを浴びるなよ。一瞬で溶かされちまうからな」

 

 相棒の忠告に頷いた才人は、ぐんと操縦桿を倒した。

 

「単騎で突撃してくるとは、栄えある我がアルビオン火竜騎士団もナメられたものだ」

 

 『レキシントン』号の護衛任務を解かれ、迎撃のため離脱した竜騎士は鼻で笑った。

 

 空軍艦隊は元より、己が所属する火竜騎士団は世界最強と謳われている。そんな自分たちにたったひとりで立ち向かってきた愚か者に、無謀な行いの代償を支払わせてやろうと思った。

 

 ややあって、問題の竜を間近に捉えた騎士は首をかしげた。

 

「あんな竜、このあたりにいたか?」

 

 濃緑の皮膚はもとより、まっすぐ横に伸びた翼と、これまで聞いたことのない遠雷のような唸り声。このような生き物がハルケギニアに存在していたこと自体、知らなかった。

 

 とはいえ、相手が何者であろうが、自分のやることは変わらない。アルビオン産の火竜が吐くブレスは鉄をも溶かす。それをを浴びせてやるだけだ。竜騎士はにいっと口を歪め、急降下してくる緑色の竜を待ち受けていたのだが――すぐさま、その顔に驚愕が貼り付けられた。

 

「は、速い!」

 

 敵は信じられない速度で近付いてくる。慌てた竜騎士は大急ぎで手綱を引いた。瞬間、火竜の口がブレスを吐くために大きく開き、周囲が炎によって茜に染まる。

 

「やったか!?」

 

 だが、すぐさま後方から聞こえてきた爆音に彼の心臓は縮み上がった。ブレスを躱した敵の竜はほんの一瞬で旋回を終え、自分の後方を取ったのだ。

 

(いかん、このままではやられる!)

 

 竜騎士としての勘が、激しく警鐘を鳴らし続ける。急いで体制を立て直し、再び火を吐かせようとした直後。今度は相手の両翼が光った。

 

 バスッ、バスッと音を立て、火竜の翼や胴体に風穴が空く。猛烈な痛みに襲われた火竜が大口を開け、悲鳴を上げた。これが彼ら主従にとっての命取りとなった。

 

 ブレスの射程に対し、ゼロ戦のそれは数十倍以上ある。炎の届かない位置からの攻撃など児戯にも等しい。火竜の喉元にある油袋に七ミリ機銃の弾丸がパラパラと飛び込む。喉の奥に炸裂した機関砲弾が油とブレスの火種を引火させ――結果、火竜は爆散した。

 

 迎撃に向かった同僚が爆発する様を見届けた火竜騎士団の一同は、驚きを露わにした。

 

「なんだ、あの竜は!?」

 

「わからん。そもそも竜かどうかも怪しいぞ」

 

「敵の攻撃はブレスではありませんでした。してみると、魔法でしょうか」

 

 竜騎士隊の隊長は慌てふためく部下たちを鎮めながら、己の見解を述べた。

 

「どちらにせよ、一騎ではいかほどのものもあるまい。よし! 五騎、俺についてこい。仲間の敵討ちだ、あの竜ともどもヴァルハラへ送り込んでやろうではないか」

 

 隊長の景気良い発言に、隊員たちは沸き上がった。

 

「続いて五騎。前方斜め右下から上がってくる」

 

 デルフリンガーがいつもの調子で淡々と状況を報告する。才人が言われた方に視線を向けると、五体の火竜が渡り鳥のように横に広がって飛んでくるのが確認できた。

 

 〝ガンダールヴ〟のルーンが指示する通り、才人はぐるりと旋回して竜騎士たちの背後に回り込んだ。彼が駆るゼロ戦は現在、時速四百キロ近い速度で飛んでいる。いっぽう、竜騎士たちが跨る火竜は最高二百キロを越える風竜とは異なり、百五十キロがせいぜいだ。

 

 後ろを取られたことに慌てた騎士たちは急いで体勢を立て直そうとしたが、遅かった。彼らは既にゼロ戦の照準機にその姿を捉えられている。

 

 『ドッグ・ゼロ』から最後尾の竜騎士までの距離は、百メイル。既に照準機から機影――もとい騎影がはみ出している。才人がぐいと発射播柄(はっしゃはへい)を握り込むと、ダダダダッ! という音を立てて機銃が火を噴いた。翼をもがれた火竜が悲痛な叫び声を上げながら墜ちていく。

 

 その真横を滑るように駆け抜け、次の目標に照準を合わせる。ターゲットロックオン、発射。穴だらけにされた火竜はがくりと傾ぐと、そのまま地上へ吸い込まれるように落下していった。

 

 残された竜騎士たちは急降下して体勢を立て直そうとしたものの、上空から矢のように飛んできたゼロ戦より発射された二十ミリ機銃の弾を全身に浴び、異国の空に散った。

 

 このドッグファイトに要した時間は、わずか三分足らず。側で見ていたルイズは思わず大きな歓声を上げた。

 

「すすすすす、すごいわ! 天下無双と謳われたアルビオンの竜騎士が、まるで虫みたいにバタバタ落ちていくなんて!!」

 

「ったりめーだ。こいつが活躍してた当時はな、世界最速で、最強の戦闘機だったんだぜ。あんなゆっくり飛んでる竜落とすのなんざ、止まってる的を狙うようなもんだ」

 

 自慢げに答える才人。

 

(つっても、それはあくまでゼロ戦が登場したばかりの頃の話で、大戦終盤は物資や人材の不足で満足に補充できなかったり、新型機の開発が遅れたりしてる間に敵が強くなっちまって、あっさり最強の座を奪われたんだ――なんて、じいちゃんはよく言ってたんだけどな)

 

 とまでは、さすがに口にしなかったが。

 

「よう、相棒。お国自慢中に悪いんだがな」

 

「べ、別に自慢なんかしてねえよ!」

 

「そうかね。それはともかくとしてだ、あのデカブツの周りにいた竜騎兵、全部こっちに向かってきてるぜ」

 

 それを聞いた才人は、すぐさま機体を上昇させる。機体がいきなり傾いたせいで、ルイズは座席に後頭部をしたたかに打ち付けてしまった。

 

「いったーい! ちょっとあんた、もっと静かに飛びなさいよ!」

 

「戦いの真っ最中に、んなことできるか!」

 

 空中戦を優位に運ぶためには、相手よりも高い位置をとること。降下することで速度が上がる。銃撃の威力も増す。そういった戦うための知識が、才人の中へ流れ込んでくる。教えられた通りに体が動く。まるでベテランパイロットの魂が乗り移ったかのような見事な操縦でもって、竜騎士たちを迎え撃った。

 

 ――数分後。

 

 ボーウッドは今、自分が目にしたものが信じられないとばかりにかぶりを振った。

 

「ぜ、全滅…… たった一騎の竜に、火竜騎士団二十名全員が墜とされた、だと!?」

 

「残念ながら、これは夢ではなく現実だ。そして問題の竜は我が艦に接近しつつある。早急に対策を立てねばならない」

 

 指揮官の声に、艦長ははっとした。

 

 実質艦隊司令を任されている自分が取り乱しては士気に関わる。それに、動揺で神経を尖らせるなどあってはならないことだ。特に、戦闘行動中は一瞬の判断の遅れが軍の命運を左右する。

 

 肺に溜まっていた息を吐き出し、乱れていた精神状態を元に戻すと、ボーウッドは呟いた。まるで自分に言い聞かせるかのように。

 

「たったの一騎で竜騎士二十を討ち果たすとは、まさに英雄ですな。しかし、たかが英雄。いち個人に過ぎません。どれだけの〝力〟を持っていようが、個人には変えられる流れと、そうでないものがあります。とはいえ、あれを放置しては我が軍の沽券に関わりますし、無駄に敵の士気を上げる手伝いをしてやる義理もないでしょう」

 

 それからボーウッドは部下たちに命令を下した。

 

「砲戦準備。弾種散弾」

 

 

 ――竜騎士隊を全滅させた才人は、遊弋している艦隊の中央に座す『レキシントン』号に目標を定めた。ニューカッスル城へ向かうときに見た巨大戦艦だ。

 

「あれが敵の親玉……アルビオンの旗艦だよな」

 

 その呟きに、デルフリンガーが答える。

 

「相棒。雑魚をいくら撃ち落としても、あのデカブツをやっつけなきゃ話にならねえ」

 

「わかってるよ」

 

「火竜騎士団を雑魚呼ばわりするくらいなんだもの、あのフネだって!」

 

 希望に満ちたルイズの声に、ひとりと一本は揃って現実を突き付けた。

 

「無理だろ」

 

「ま、不可能だぁね」

 

「そそそ、そんなの、やってみなきゃわからないじゃない!」

 

「同じ『ゼロ』でも『バイパーゼロ(F-2戦闘機)』なら対艦ミサイル積んでるはずだから、武装次第ではなんとかなったかもしんねーけど、機銃しかねえこいつじゃなあ」

 

 などと言いつつも、才人はさらにゼロ戦のスロットルを開く。フルブーストだ。急激な加速に、ルイズが再び悲鳴を上げる。

 

「なんだよ、自分でもわかってんじゃねぇか。無理だよ相棒。あいつを撃沈するなんて、逆立ちしたって無理だ」

 

「そうだな。けど、時間稼ぎくらいはできるはずだ。そうすれば、崩れたゴーレムが復活するかもしれない。大砲の弾は無限じゃねえ。弾打ち尽くすまでゴーレムが耐え切れたら、あいつら撤退するしかなくなるだろ。攻撃できねーんだから」

 

「ふうん。それなりに考えちゃいるんだね」

 

「当たり前だ」

 

「けど、相当な手間だぜ? 下手打ちゃ死ぬぞ?」

 

「だろうな」

 

 鍔をカチカチと鳴らしながら、デルフリンガーは呟いた。

 

「わかっちゃいたけど、相棒はとんでもないお人好しで、おまけにアホだね。褒美がもらえるわけでもないのに命を賭けるなんてよ」

 

「ご褒美ならあるさ」

 

「へえ、そりゃなんだね?」

 

 才人は応えず『レキシントン』号に向けてゼロ戦を近付けた。ルイズの笑顔だなんて、本人を目の前――もとい背後に置いて、言えるわけがなかった。

 

 と、艦隊の舷側がピカッと光った。一瞬の間を置いて、才人たちが乗るゼロ戦目掛けて何かが飛んでくる。それは無数の小さな鉛玉だった。機体のあちこちに小さな穴が開き、その衝撃でガクンと揺れた。

 

「きゃあああああッ!」

 

 三度ルイズが悲鳴を上げたのは、機体の揺れによるものではなく――前方から血飛沫が飛んできたからだ。風防が破られ、その破片が才人を傷付けたのだ。

 

「ちち、血、血が…… あ、あんた、大丈夫なの!?」

 

「頬かすめただけだ、たいしたことねーよ」

 

 デルフリンガーが大声を上げた。

 

「やばいぜ相棒、散弾だ! あいつら、小さな弾を大砲に込めてぶっ放しやがった!」

 

 才人は急いでゼロ戦を降下させ、二撃目から逃れる。しかし敵の砲弾は容赦なく、まるで雨のように降り注ぐ。才人はもう、それらを躱すだけで精一杯だった。

 

「このままじゃアイツに近寄れねえ。ちくしょう、なにが『勇者』だ! 俺には時間稼ぎすらできねえのかよ……!!」

 

 なんとか敵の弱点を見つけようと飛び回る才人であったが、艦の下に潜り込んだ直後、思わず叫んだ。なんとフネの真下に五十を越える砲が突き出ているのだ。

 

「船の底にまで大砲積んでるとか、ありえねえ。ハリセンボンかよ!」

 

 ぶちぶちと文句を垂れながら回避行動を続けていた才人だったが、どうにも打開策が見つからない。今のところ致命傷は負っていないが、もしも燃料タンクにあの散弾を受けたら、冗談抜きで墜落する。

 

(ん、墜落……? そうだ、そういえば――!)

 

 ややあって、才人は何かを決意したように言った。

 

「シエスタと、シエスタの父ちゃんに謝らなきゃいけないな」

 

「ちょっと! なんでここであのメイドの名前が出てくんのよ」

 

 よく才人と話しているメイドの少女。水精霊団の遠征にもついてきたことがある。

 

 そんな彼女の胸元に、時折才人の視線がちらちらと向けられているのを熟知していたルイズは、ぷっと頬を膨らませた。それからすぐに、がっくりと落ち込んだ。

 

(……やっぱり、男の子ってああいうのがいいのかしら。ででで、でも、山とは言わないまでも、わたしだって丘くらいはあるもん。ただ大きければいいってもんじゃないのよ、う、牛じゃないんだから! だけど、わたしが丘なら、あのメイドは火竜山脈……)

 

 ルイズの葛藤などつゆ知らず、才人は続ける。

 

「この『竜の羽衣』は、もともとシエスタのひいおじいちゃんが乗ってたんだ。お国の陛下にお返しして欲しいからって譲ってもらえたのに、約束破ることになりそうだからさ」

 

(なあんだ、そういうことだったのね)

 

 ルイズはほっとした。

 

(別にわたしとあの子を比較しているわけじゃ……って、ちょっと待って。約束を破る? それって、つまり――)

 

 少女の顔が、瞬時に青く染まる。

 

「あ、あ、あ、あんた、まま、まさか、このひこうきで体当たりするつもりじゃ……」

 

「そのまさかだ。俺の国には『カミカゼ』っつう戦法があるんだよ。さすがに撃沈はできないだろうけど、こいつがぶち当たれば大騒ぎになるはずだ」

 

 それを聞いたデルフリンガーが、感心したような声で言った。

 

「なるほど。旗艦が混乱すれば、指揮系統が滅茶苦茶になるだろうからな。作戦としちゃ、まあアリだと思うね」

 

 しかしルイズはそれを無視すると、顔を真っ赤にして才人を怒鳴りつけた。

 

「バカ言わないで! あんた、死なないって言ったじゃないの!」

 

「死ぬつもりなんかねえよ」

 

「だって、そんなことしたら……」

 

「お前がいるだろ」

 

「え?」

 

「〝瞬間移動〟があるじゃねえか。ゼロ戦をあの化け物の甲板にぶつかるように調整して、そのあとすぐにお前の魔法で脱出すればいい」

 

「無理よ! 今までひとりでしか跳躍したことないし、他のひとを連れて飛べるかどうかもわからないし。試したこともないのにいきなりそんな真似するなんて、危険過ぎるわ!」

 

 慌てたルイズの声とは対照的に、才人は落ち着き払った声で言った。

 

「俺は、お前を信じてる」

 

「わたしの……魔法を?」

 

「ちげーよ。俺はずっと、お前が頑張ってるのを見てきた。だから、きっとできる。俺が信じてるように、お前は自分自身を信じろ」

 

 それを聞いたルイズの両目に、じわりと涙が浮かんだ。

 

(ああ、サイトはどこまでもわたしを信じてくれている。虚無なんて不確かなものじゃなく、わたし自身を心から信頼して、挙げ句の果てに命まで賭けてくれたんだ。それも、わたしの父さまと母さまを救うために……!)

 

 ルイズは、感激のあまり震えた。それから、才人の期待に応えようとした。かつての彼女であれば与えられた栄誉に酔い、そのまま行動に移していただろう。

 

 だが――次の瞬間。かの人物の言葉が、ルイズの脳裏をよぎる。

 

『世の中にはな、本当に取り返しのつかない過ちというものが存在するのだ』

 

 同時に、猛烈な不安がルイズの胸に去来した。

 

(この場合、もしもわたしが失敗したら――どうなる? サイトはひこうきに取り残されたまま、あのフネに激突する。そしたら、こいつは……本当に死んでしまう。ボロ剣も、サイトと運命を共にすることになるわ。もう、二度と彼らに逢えない。そんなの、そんなの、絶対にイヤ!)

 

 でも、だったら――どうすればいい? 考えろ、考えるのよ、ルイズ!

 

「……ルイズ?」

 

 黙り込んでしまったルイズに、才人は返事を求めた。

 

「ねえ。確認したいことがあるんだけど」

 

「あんだよ」

 

「このひこうきで体当たりするのは、あのフネを墜とすためじゃなく――敵を混乱させて、時間を稼ぐのが目的なのよね?」

 

「あ、ああ、そうだけど」

 

「だったら、もっとずっと安全で、しかも確実な策があるわ!」

 

「え、それって……」

 

「だから、あのフネに近付いて。ここからじゃ、さすがに遠すぎると思うから」

 

「大砲のせいで近寄れないの、わかってんだろ!」

 

「それをなんとかするのがあんたの仕事でしょーが!」

 

「無茶言うなよ!」

 

 言い争うふたりの間へ割り込むように、デルフリンガーが声をかけた。

 

「上だ」

 

「え?」

 

「あのフネの真上に、大砲を向けられねえ死角がある。そこへひこうきを持っていきな」

 

 才人は言われた通りにゼロ戦を上昇させると『レキシントン』号の上空を占位した。

 

 すると、彼の背中にしがみついていたルイズが器用に才人の肩に跨り、風防を開けた。猛烈な風がふたりの顔を嬲る。

 

「お、おい、なにすんだよ! 閉めろよ!」

 

「いいから! わたしが合図するまで、ここでぐるぐる回ってて」

 

 ルイズは杖を抜いて深く息を吸い込むと、瞼を閉じた。それからカッと目を見開き、呪文の詠唱を開始する。才人は彼女が紡ぐ調べに覚えがあった。

 

(〝瞬間移動〟なんかじゃない、これは確か……)

 

 ルーンを唱え続けるルイズの中で、心地よいリズムが巡っていた。一種の懐かしさすら感じるそれは、虚無の旋律を奏でるときだけに生じるものだ。

 

 体の中に大きな波が生まれ、さらに大きくうねっていく。そしてその波は、行き場を求めて激しく暴れ始める。

 

 ルイズは右足でとんとんと軽く才人の胸を打ち、合図を送った。それを受けた才人は操縦桿をぐっと倒す。ゼロ戦は『レキシントン』号目掛けて急降下を開始した。

 

(サイトは、伝説になるために準備をしていたんだと言っていた。なら、わたしは? そうよ。きっとこの瞬間のために『始祖』はわたしに〝力〟を授けてくれたんだ)

 

 猛烈な風に嬲られながら、ゼロ戦は真っ逆さまに降下してゆく。

 

 彼らの眼前に迫るは、アルビオン艦隊旗艦『レキシントン』号。

 

 呪文が完成する。ルイズは己の衝動が命じるままに、杖を振り下ろした――。

 

 

 




サンドリオン王のターン! ドロー!
場に伏せていた巨大ゴーレムに盾を装備!

元帥の息子自慢のくだりは、ある意味親子らしいということでw


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第91話 ユグドラシル戦役 ―終結―

 アンリエッタの心は恐怖によって押し潰される寸前だった。

 

 まるで創世神話に登場する雄々しき巨人のように悠然と立ち、敵艦隊の攻撃から自分たちを守っていた巨大ゴーレムの一体が膝をついたとき。馬上に在ったアンリエッタは小さく震えた。

 

 土の山となったゴーレムの周囲に、大勢の人間が集まっているのが見える。

 

 彼らが崩れた土砂に埋もれた者たちを救い出そうとしているのだと気付いた途端、身体の震えが止まらなくなった。

 

(これが戦場……多くの死が撒き散らされる場所、なのですね……)

 

 これまで、絵巻や吟遊詩人の語りでしか知らなかった戦というものの現実。そのことを改めて思い知らされた。

 

(こんなところへ、わたくしは大切な『おともだち』を送り込んだのですか……)

 

 それも、自分と同じように戦などとは全く縁のない少女を、己が恋に浮かれてしでかした不始末の尻拭いと、女としてのわがままを通すためだけに。

 

(ルイズは何も言いませんでしたが……どれほど怖ろしかったことでしょう。それなのに、わたくしのためにこんな危険な場所に飛び込んでくれたのですね……)

 

 今のアンリエッタには歯を食いしばり、しっかり気を持とうとするだけで精一杯。アルビオンでの戦いがどんなものだったのかまではわからないが、それでも戦場というものの雰囲気だけは感じ取れる。敵意と恐怖、ぴりぴりと肌を刺す緊張感――。

 

(無知とは大きな罪なのですね……何も知ろうとせず、ただ安穏と過ごすことも)

 

 悔恨の涙が姫君の顔を濡らそうとした、その直前。巨兵の一体が砲弾の雨を浴びて崩れ、土塊となり――さらに数体が、二度と再生できぬ程に砕かれた。

 

 それを見た麗しき姫君は、ついに恐怖に屈した。既に参戦当初の――死後の世界ヴァルハラで、愛するひとに会いたい。などという甘ったれた気持ちは敵艦隊の斉射によって忘却の彼方へと吹き飛ばされている。

 

 今の今まで知らなかった、いや、理解しようとすらしていなかった死に対する畏れがアンリエッタの口から悲鳴を上げさせようとした刹那。サンドリオン一世の声が周囲に響き渡った。

 

「狼狽えるな、まだ策はある! 『始祖』の加護と、余を信じるのだ!」

 

 溢れ出そうになっていた恐怖の叫びはこの声によって辛うじて堰き止められた。アンリエッタは胸を押さえ、大きく深呼吸して息を整える。

 

(ここでわたくしが取り乱したところを見せたりしたら、畏れが軍全体に伝播してしまう!)

 

 つい先日、己の声がいかほどの〝力〟を持っているのかを理解したアンリエッタは震える身体に鞭を打ち、遠縁の伯父がそうしているように背筋をぴんと伸ばした。胸を反らし、キッと敵軍を睨み付ける。すると、それまで周りから聞こえていた悲鳴混じりのざわめきがぴたりと止んだ。

 

 視線だけでそっと遠縁の叔父の横顔を覗き込んだアンリエッタは、彼の顔に驚きと、それでいて嬉しそうな笑みが浮かんでいるのを確認した。

 

「どうやらわたくしは、ここへ来てから初めて陛下のお役に立てたようですわね」

 

 誰にも聞こえない程の小声でそう漏らしたアンリエッタは我知らず微笑んだ。

 

(このかたは、いつもこうやってわたくしたちを支えてくれていたのですね。『英雄王』と名高い祖父や、名君と評判の父さまが深い信頼を寄せていたというのも頷けるというもの)

 

 アンリエッタは口さがない宮廷雀たちが流していたサンドリオン王――ラ・ヴァリエール公爵に関する噂を耳にしたことがある。

 

 曰く、

 

「自領の運営だけが大切で、国を一切顧みようとしない不忠者」

 

 だの、

 

「王軍以上の兵力を持っているのに領土を拡張しようとしないのは、彼が貴族にあるまじき腰抜けで臆病だからだ」

 

 などという、本人が耳にしたら噴飯し、カリーヌ夫人が聞いたら王宮ごと空の彼方へ吹き飛ばされそうな噂話だ。

 

(馬鹿なひとたち。彼らは今の陛下を見てもなお、あんなことが言えるのかしら)

 

 そもそもラ・ヴァリエール公爵が国政に関わらないのは自領の維持と国境の守護を職務とする封建貴族であり、領土を持たず王政府から仕事を引き受け、その内容に応じて給料が支払われる宮廷貴族とは根本から異なるからだ。

 

 もしも、彼が本来の役目を果たすことなく宮廷政治にうつつを抜かしていたら、今頃トリステインはゲルマニアに併呑されていたかもしれない。

 

(命を賭して、他国の脅威から国を守る。これ以上の忠義が他にあるというのでしょうか)

 

 現にラ・ヴァリエール公爵は祖国が滅亡の危機に瀕した今、王となり軍を率いて戦場へ赴いた。彼が本当に臆病者なら、アンリエッタの言葉など無視して自領へと引き返し、彼女の母マリアンヌのように部屋に籠もっていただろう。そのまま『レコン・キスタ』に恭順すれば、命を永らえることもできたはずだ。にも関わらず、あえて反撃の旗手となった。

 

(そして今もまた、恐怖で折れそうなわたくしや自軍の兵士たちを鼓舞し続けている……)

 

 敗北すればここで死ぬ。もし生き延びたとしても『レコン・キスタに反逆した愚か者』として断頭台の露と消える運命を自ら背負った人物が、腰抜けなどであるはずがない。

 

(そんな貴族の鑑とも言うべき人物に対し、今、わたくしができることは……こうして畏れなど感じていないように振る舞うくらいですわ。戦を知らぬ女が怖がらなければ、殿方たちはどっしりと構えていられるはず。いいえ、動じては恥だと考えるに違いありません。だから、わたくしはもう怯えを表に出さない。出してはいけない!)

 

 ……と、決意してはみたものの、やはり怖いものは怖い。アンリエッタは天を仰ぐと、小さく祈りを捧げた。

 

「トリステインの全ての民と、勇敢な国王陛下に――どうか『始祖』のご加護を」

 

 ――その直後。空から最初の奇跡が舞い降りてきた。

 

 

○●○●○●

 

 

 始めに気がついたのは、空に上がって周囲を警戒していた風竜隊の見習い騎士だった。

 

「あれは……鳥? いや、竜か?」

 

「どうした、ルネ。まさか敵の増援か?」

 

 同じ風竜隊の見習い騎士が声をかけた。彼らはまだ、その顔にあどけなさを残している。結婚式の影響で、大勢の正騎士たちが先遣隊としてゲルマニアへ派遣、あるいは休暇を取って隣国へ旅立ってしまっている。結果、まだ叙勲されていない少年兵たちが駆り出されているのであった。

 

「アッシュ! 敵かどうかはわからないけど、南の空から――」

 

 ルネと呼ばれた竜騎士の少年は天を指差した。すると、彼が見つけたものがみるみるうちに大きくなる。それがとてつもない速さで近付いてきているからだと気付いたのは、戦後しばらく経ってからのことだった。

 

 次にそれを目にしたのは本陣上空に陣取っていたグリフォン隊の隊長、ワルド子爵だった。

 

「なんだ? あの竜は……どこの所属だ?」

 

 近くには一騎だけしかいないようだが、もしも敵の増援による偵察だとしたら、看過できない。すぐ側に本隊が潜んでいることに他ならないからだ。

 

 いざというときは『レコン・キスタ』に走ってもよいというお墨付きをもらっているとはいえ、今の状況でそんなものは、命綱になどならない。

 

 ワルドは腰から素早く軍杖を引き抜くと〝遠見〟の呪文を唱えた。魔法はすぐに完成し、まるで目の前にいるかのように異物の姿が大写しになった。

 

「竜ではないな。そもそも、生き物かどうかも怪しい」

 

 カヌーの両脇に細長い板を取り付けたようなその物体は、金属で出来ている。鋼の皮膚を持つ生き物など、ワルドは聞いたことがない。おまけに翼をはためかせることなく滑空している。竜というよりも海鳥――カモメのようだ。もっとよく観察しようと目を細めた彼は、舳先に信じられないものを見つけた。

 

「あの桃色の髪…… まさか、ルイズ!? それと、前にいるのは……妙な帽子と仮面のせいで顔は見えんが、もしや学者殿か?」

 

 ということは、あれは東方の魔法具か。どちらにせよ、早急に陛下のお耳に入れねばなるまい。そう判断したワルドが報告のために地上へ降りようとした直後。周囲から驚きと歓喜が入り交じったような叫び声が上がった。

 

「信じられん! アルビオンの火竜が、あんなにあっけなく……」

 

「見ろ! もう二騎……いや、今三騎目が墜ちたぞ!!」

 

「あんな竜、我が軍にいたか? いや、そもそも味方なのか!?」

 

「アルビオンの狗どもを駆逐してくれたんだ、味方に決まっている!」

 

「あ、また一騎墜ちた!」

 

「奇跡だ……我々は今、奇跡を目撃しているのだ!」

 

 そうこう言っているうちに、巨大戦艦の周囲を舞っていた火竜の姿が見えなくなった。全て件の竜によって撃墜されたのだ。

 

 歓声の中、ワルドは思わず独りごちた。

 

「あれが虚無の使い魔の〝力〟か。やはり、僕の判断は間違っていなかったようだ」

 

 トリステイン軍の声援を背に、鋼鉄の鳥はさらに前へ前へと進んでいく。その先に在るのはアルビオン空軍艦隊旗艦『レキシントン』号。

 

「ルイズ……学者殿。見届けさせてもらうよ、伝説の復活をね」

 

 瞬く間に敵の竜騎兵を撃ち堕とし、さらに巨大戦艦へ迫る竜の勇姿をその目にしかと焼き付けたアンリエッタは救いの手を差し伸べてくれた『始祖』に対して心の中で感謝を述べた後、王の隣へ馬を寄せた。

 

「陛下。あれが『鷲』ですのね?」

 

 ところが、戻ってきた声にはいくばくかの畏怖と戸惑いが混じっていた。

 

「違う。あれはわし……いや、余が手配したものでは……」

 

 呆然と見上げるサンドリオン王の視線の先で、彼の困惑の原因が『レキシントン』号の真上目指して上昇し――数分ほど上空をぐるぐる飛び回っていたかと思うと、猛然と急降下を開始した。

 

 ――それが、ふたつめの奇跡の始まりだった。

 

 

○●○●○●

 

「これはいったいどうしたことだ!」

 

「わかりません。陸に近い海の天気は変わりやすいものですが、ここまで極端な変化など、聞いたことがありません。それも、こんな――」

 

 アルビオン艦隊は混乱を極めていた。無理もない、つい先ほどまで雲ひとつない快晴だったにも関わらず、突然発生した濃霧によって視界が完全に遮られてしまったのだから。

 

「風メイジの魔法で、なんとかならんのか?」

 

「無理です。既に試してみましたが、霧を吹き飛ばすことはできませんでした。かなりの広範囲に渡って発生しているものと推測されます」

 

「他の艦との連絡は?」

 

「できません。霧が濃すぎて手旗信号が見えず、使い魔同士の交信も不可能。竜騎士隊は全滅。たとえ残っていたとしても、この状況では飛べないでしょう」

 

「ならば、霧の外へ脱出すれば……」

 

「それは危険です! 他の艦の現在位置すら取得できません。この状態で下手に動けば味方同士で衝突し、轟沈する可能性が――」

 

「では、どうすればよいというのだ!」

 

「……早くこの霧が晴れるよう『始祖』に祈るしかありません」

 

 ダンッという、何かを叩いたような音が周囲に響いた。しかし、それすらも濃い霧に阻まれ……誰の目にも見えなかった。

 

 

 ――いっぽうそのころ、霧の外……空の上では。

 

「大丈夫か? ルイズ」

 

「ええ、少し休めば平気よ。ちょっと魔法を使いすぎただけだから」

 

 才人にぐったりと身体を預けながら、ルイズは返事をした。彼女は肌触りの良い椅子に座っているかのように、彼にもたれかかっている。大きな仕事をやり遂げたあとに生じる心地よい疲労感と才人の温もりが、彼女を優しく包み込んでいた。

 

 眼下に広がる霧を見ながら、才人は訊ねた。

 

「これ、あれだろ? アルビオンの……」

 

「ええ、大陸の下にあった濃霧をイメージしてみたの。ウェールズ殿下が仰っていたでしょう? 貴族派連盟には、あの霧の中で動けるような腕のある航海士がいないって」

 

「なるほどな。だから、霧で艦隊を包み込んだってわけか」

 

 カタカタと刀身を揺らしながら、デルフリンガーが笑った。

 

「いやぁ、今度の『担い手』は頭がいいねぇ。これなら時間稼ぎにゃピッタリだし、何より相棒もお前さんも、危険な目に遭わずに済む。いいことずくめやね」

 

「ほ、褒めたって何も出ないんだから!」

 

「しかしなんだね、ちと張り切りすぎたんじゃないかね?」

 

「まあ、さすがにこれはなあ……」

 

 相棒の発言に、才人は同意した。それもそのはず、ルイズが〝幻影〟の魔法で創り出した霧は、艦隊はおろか戦場の周囲数リーグを覆い隠している。それ以外で唯一目に映るのはラ・ロシェールにそびえ立つ世界樹のてっぺんだけという有様だ。

 

「まさかとは思うけど、霧で地上まで隠してたりしないよな?」

 

 呆れたような声で問う才人に対し、ルイズは顔を真っ赤にして抗議した。

 

「そんなことするわけないでしょう! 艦隊が浮かんでた高さより下は、そのままよ。全部包み込んだら敵だけじゃなく、トリステイン軍も動けなくなっちゃうじゃないの」

 

「それならいいんだ。お前たまにやり過ぎるからさ、つい心配になっちまって」

 

「わわ、わたしが! いつ! やり過ぎたって言うのよ!!」

 

「俺が知ってるぶんだけでも良ければ最初から全部教えて差し上げましょうか? って、おいこら暴れんな、危ないだろうが!」

 

「う、うるさいわねッ! だいたいあんたは、いつもそうやってひとをバカにして――」

 

 と、身体ごと向き直って拳を振り上げたルイズが、いきなり糸が切れた操り人形かのように、ふにゃりと崩れ落ちた。

 

「お、おい、ルイズ!?」

 

 慌てる才人の耳に、デルフリンガーの間延びした声が響く。

 

「単に気絶しただけだ。どでかい魔法を撃って疲れてた上に、お前さんと馬鹿話したことで緊張の糸が切れたんだろ。大仕事の後なんだ、そのまま寝かせておいてやんなよ」

 

 エンジンの爆音に掻き消されて聞こえないが、どうやらルイズは寝息を立てているようだった。才人に抱きつくような格好で、胸に顔を埋めている。

 

「そうだな――って、おい、ちょっと待て。ルイズが寝ちまったら、あの霧は……!」

 

 才人の懸念通り、まるで漆喰の壁のようだった霧が徐々に薄れていくではないか。

 

「やばいだろこれ! 霧出してから、まだ十分くらいしか経ってねえんだぞ!? こんな短い時間じゃゴーレム立て直す時間が……」

 

 慌ててルイズを揺り起こそうとした才人を、デルフリンガーが止めた。

 

「無理だよ。嬢ちゃんは〝精神力〟をほとんど使い切ってる。さすがにもう一発撃てっつうのは酷だと思うぜ」

 

「で、でも、それじゃあ下にいるひとたちが……」

 

「そうは言っても、お前さんたちにゃこれ以上できることはないだろ。だから――」

 

「だから、なんだよ?」

 

「違う、そうじゃねえ」

 

 先程までとは一転、デルフリンガーの声音に緊張が混じる。

 

「東からデカいもんが近付いてくる。たぶん、武装したフネだ」

 

 才人の顔が強ばった。背中に冷たい汗がじとりと滲む。

 

「トリステインには、もう軍艦残ってないんだよな? てことは、敵の援軍か!?」

 

 右手でルイズをしっかと掻き抱き、左手で操縦桿を握り直す。燃料計を見る。ガソリンの残量は正直心許ない。

 

「だけど、何とかここで食い止めなきゃ――!」

 

 ぎりと東の空を睨む。

 

 ややあって、まるで和紙の上に墨汁を垂らしたように問題のフネがじわりと現れた。照準機を覗き込んだ才人はそれを見て、小さな笑い声を上げた。笑い声は徐々に大きくなっていく。最後にはもう、泣き笑いになっていた。

 

「お人好しのバカは、相棒だけじゃなかったみたいだね」

 

 デルフリンガーの率直な意見に、才人は頷いた。

 

「ああ、そうだな。なんせ命と引き替えに守ろうとしてたくらいだもんな。一隻じゃ勝ち目なんてないってわかってても……駆けつけてくるよなあ」

 

 ぐっと操縦桿を倒す。また例のドラゴンみたいなやつが近付いてきたら、あのフネだけでは対抗できないだろう。

 

「だから、次に俺が守るのは――」

 

 

○●○●○●

 

「今のうちに怪我人の搬出を。残った者たちは再編を急ぎなさい!」

 

 カリンの命令を受けた兵たちが、わらわらと動き出す。それなりに整然としてはいるものの『英雄王』の時代に前線で戦っていた彼女から見た彼らの動きは、あまりにも緩慢で雑だった。ヴァリエール家が誇る国境防衛軍の兵士たちがこんな醜態を晒したが最後、特訓という名の強烈な罰が待っている。

 

 そういえば――と、カリンは思った。

 

(夫がトリステインの王に即位したのだから、わたくしは今……王妃ということですか)

 

 国王不在の間に腑抜けてしまった王軍に、直接喝を入れられる立場になったということだ。

 

「これは、相当気合いを入れてかからねばなりませんね」

 

 兵士たちには見えぬよう、カリンはふっと息を吐いた。もちろん、これには王軍の不甲斐なさに対する呆れが多分に含まれていたのであるが――もうひとつ、彼女には溜め息をつかざるを得ない理由があった。

 

 『烈風』は、胸の内で思わず漏らした。

 

(まったく、あの子ときたら……あれほど目立つ真似は控えるようにと、何度も言い聞かせていたというのに)

 

 アルビオンの火竜騎士団と謎の竜の対決を、カリンはしっかり見届けていた。その上で、あれほどの敏腕騎手が何者なのか確かめようと〝遠見〟して、知ってしまったのだ。あれは間違いなく末娘のルイズと、護衛の少年サイトだ。

 

 あの竜についてはわからないが、この霧の発生源はおそらくルイズの〝虚無〟だろう。『鋼鉄の規律』としては、この戦が終わり、無事戻ることができたなら――改めて、ふたりに厳しく言い聞かせなければならないだろう。それから、いつの間にあのような魔法を覚えたのか問いたださねばなるまい。

 

 とはいうものの、彼女は別に怒ってなどいなかった。夫が聞いたら眉を顰めるだろうが、心の内では小さな喜びを覚えていた程だ。

 

(本当に、あのひとが言った通りだわ。どうやらあの子が、わたくしの血をいちばん濃く受け継いでいたようね)

 

 生真面目なところは夫ピエールにそっくりだが、それ以外――臆病で、弱虫で。そのくせ負けん気が強く、自ら進んで危険に飛び込んでゆく。

 

『貴族たるもの、敵に後ろを見せてはならない』

 

 己の教えを体現している娘。

 

(もしもあの子が普通のメイジで、男だったなら――あのひとやわたくしをも超える、立派な騎士になっていたことでしょうに)

 

 そんな母として、騎士としての想いは、周囲を警戒していた兵の叫びで断ち切られた。

 

「霧が――霧が、晴れてきました!」

 

 カリンは急いで思考を切り替えると、素早く現在の状況を確認する。崩れたゴーレムの復元は成らなかったが、既に〝精神力〟の切れた者や怪我人の撤退は上手くいった。壊れかけていた巨兵の再生も済んでいる。

 

 時間にしてほんの十分程度の休息だったが、戦場ではそのわずかな時間が勝敗を分けることも珍しくない。ルイズと才人はトリステインに勝利の好機を与えてくれたのだ。

 

 もっと長く霧が残ってくれていれば、単騎で敵陸軍に攻撃を仕掛けることも検討していたが……贅沢は言うまい。

 

 次の指示を与えるべく、カリンが声を張り上げようとしたその直後。今度は別の警戒兵が大声で報告した。

 

「東の上空より、何かが近付いてきます! あれは、アルビオンの……」

 

 前線に緊張が走る。だが――それはすぐさま驚きに取って変わられた。

 

 改めて〝遠見〟で確認したカリンは、ふっと小さく笑った。

 

「どうやら、間に合ったようですね」

 

 

○●○●○●

 

「敵、ではないようですな。それどころか、わたくしどもを守ろうとしているようです」

 

 老齢のメイジが傍らの椅子に座す主君にそう進言すると、相手も同意の頷きを返した。

 

「パリーの言う通り、彼らは僕たちの味方ですよ」

 

「息子や、何故そう言い切れるのじゃ?」

 

 老いたかつてのアルビオン国王――ジェームズ一世は、窓の外を〝遠見〟で観察し続けていた息子に問うた。

 

「あの竜に乗っているのはミス・コメット――ヴァリエール嬢です。おっと、今はトリステインの姫君でしたな。前にいる竜騎士の顔までは残念ながらわかりませんが」

 

「なんと! まさか娘まで参戦させるとは。ラ・ヴァリエール公爵、いや、サンドリオン王はまさに血戦の覚悟で戦場に立っているのだな」

 

 父の言葉に、息子――ウェールズは頷いた。彼の瞳には、強い決意の光が宿っている。

 

「この艦は朕に任せよ。おまえは隊を率いてサンドリオン王をお助けするのだ」

 

「はい。これは、行くあてさえ無き我らに隠れ住む場所と、未来への希望を与えてくれた彼らに恩を返す絶好の機会です。逃すわけにはいきますまい」

 

 それから王子は、父王の側に立つ老臣に命令を与えた。

 

「父上を頼むぞ、パリー」

 

「お任せください。殿下、ご武運をお祈りしております」

 

 紫色のマントを翻し、船室から甲板に出たウェールズは自分たちを守るように飛び回る竜に視線を向けた。すると竜騎士が仮面を外し、こちらを見て手を振ってきた。

 

「あれは――あのときの」

 

 間違いない。アルビオンから脱出する際に『イーグル』号の舵を取った少年だ。ウェールズが笑みを浮かべながら手を振り返すと、彼は竜を操り、くるりと宙返りしてみせた。並の腕ではあんなふうに飛ぶことはできない。火竜騎士団の中にも数名いるかどうか。

 

「いやはや、たいしたものだ。艦の操舵だけでなく、竜まで自在に操れるとは。これはもっと強引に我が軍へ勧誘しておくべきだったかな」

 

 頭を掻きながら歩みを進めると、その先で戦装束に身を固めた兵士たちが待っていた。彼らは革命戦争時から今までずっと、共に戦ってくれた心強い臣下であり――仲間たちだ。

 

 にいっと悪戯っぽく笑った王子に、貴族たちはこれまた似たような笑みで返した。

 

(どうやら僕たちは、同じような心境にあるらしい)

 

 そう考えた王子は声を上げた。

 

「野郎ども! 俺たちの敵は『レコン・キスタ』だ! 思う存分暴れるぞ!!」

 

「おお――ッ!!」

 

 ウェールズが、かつて空賊の真似事をしていたときのような号令をかけると、臣下たちは満面の笑みを浮かべてそれに乗った。そのあとすぐに本来の顔に戻った王子と貴族たちは、急いで降下のための準備を始めた――。

 

 

○●○●○●

 

 ――これは夢だ。

 

 アンリエッタの身体が、再び震えた。

 

(こんなことが、あるはずがない。だって、彼らは炎の中に消えたはずですもの。だから、わたくしはきっと夢を見ているのだ。恐怖や絶望に負けて精神を砕かれた者たちが見るという、儚くも美しい幻を――)

 

 驚愕に打ち震えていたのは彼女だけではなかった。周囲を固める将兵たちも、グラモン元帥でさえも、霧の向こうからやってきたものが信じられなかった。

 

 霧の奥から現れたのは側面を黒い乾留液(タール)で塗られたアルビオンの巡洋艦。普通なら、敵の増援だと考えただろう。しかしマストの上に翻るものが、それを明確に否定していた。

 

 深紅の火竜紋が縫いつけられた旗。それは既に滅亡したはずのアルビオン・テューダー家にのみ許される座上旗だ。つまり、ごく一般的な常識で考えるならば。あのフネにはアルビオンの元国王ジェームズ一世、もしくはウェールズ皇太子が乗っていることになる。

 

 そして、そのフネを先導するかのように、先程『奇跡』を見せつけた竜が舞っている。

 

 『イーグル』号の出現に驚いたのはトリステイン軍だけではなかった。アルビオンの陸軍も、艦上の将兵たちでさえも、驚愕のあまり口が利けないでいた。

 

 まるで時が凍り付いてしまったかのように、戦場は静寂に包まれている――唯一の例外である濃緑の竜が発する遠雷のような爆音を除いた全てが、その場で停止していた。

 

 ――そんな中、最初に動いたのはサンドリオン王だった。彼はゼロ戦を指差すと、至極真面目な顔をして叫んだ。

 

「皆の者、あれは竜などではない! 伝説の鳳・フェニックスだ!」

 

 すぐ側にいたグラモン元帥が驚きの声を上げた。

 

「フェニックス……炎と再生を司るという、あの伝説の不死鳥かね!?」

 

 将兵たちがざわめく。

 

「いかにも! 『始祖』ブリミルがフェニックスをトリステインに遣わし、死後の世界ヴァルハラからテューダー家を呼び戻してくださったのだ。我らを窮地から救うために!」

 

 王の声に応えるかのように、黒塗りの巡洋艦から次々とメイジたちが〝飛翔〟の魔法で飛び降りてきた。彼らの先頭に立っているのは明るい紫のマントを身に纏い、七色の羽根飾りのついた帽子を被った見目麗しい青年だった。

 

「あの装束は、アルビオン王家の象徴……」

 

「すると、あれはただの霧ではなく、不死鳥の炎が起こしたものだと……?」

 

「で、では、やはり……!」

 

 ざわめきが周囲に広がってゆく。それを見計らったかのように、サンドリオン王は再び声を張り上げた。

 

「そうだ! 『始祖』の加護は我がトリステインと、彼らテューダー王家にあり!」

 

 戦場で、歓喜の声が爆発した。

 

「うおおおおッ!」

 

「フェニックス万歳! トリステイン万歳! テューダー王家万歳――ッ!!」

 

 昂揚する軍の中に在っても、アンリエッタはまだ呆然としていた。

 

 ざくり、ざくりと砂を踏む足音が近付いてきても、彼女の意識は宙を漂っていた。

 

 ――死の直前、ひとは幸せな夢を見るという。

 

(そう、わたくしはきっと砲弾の雨に打たれて死んでしまったのでしょう。ウェールズさまと同じように戦場に散ったから、こうしてヴァルハラへ来ることができたのですわね。その証拠にほら、あのひとが迎えに――)

 

 君までここへ来てしまったのかい? そんなふうに声をかけられるとばかり思い込んでいた姫君だったが、彼女の思いは見事なまでに空振りした。自分を迎えに来てくれたはずの恋人が、真っ先にサンドリオン王の前に立ったからだ。

 

「私は、この隊を指揮するウェールズ・テューダー。アルビオン王党派貴族総勢二百名、トリステイン軍にお味方する為参上した」

 

 ウェールズの宣言と同時に、王党派の貴族たちが一斉に杖を掲げる。それを見聞きしたトリステイン軍の将兵が、再び歓呼の叫びを上げた。大隊規模の援軍、しかも全員がメイジという構成だ。さらに彼らは『始祖』の加護を受け、ヴァルハラから舞い戻ってきた勇敢な戦士。盛り上がらないほうがおかしかった。

 

 ここに至ってもまだ、アンリエッタはこれが夢でも幻でもなく、現実なのだと信じることができずにいた。

 

 と、ウェールズが彼女の側へ近付いてきた。それから、怒ったような……それでいて困り果てたような顔をして言った。

 

「やれやれ。君は水の精霊(オンディーヌ)の化身だと思っていたのに、まさか戦乙女(ワルキューレ)だったとはね。こんな戦場にまで飛び出してくるなんて、おてんばなのは昔から変わらないな」

 

 おちおち死んでもいられない。などと笑えない冗談を飛ばすウェールズを前にして、アンリエッタは混乱の極みにあった。

 

「僕の顔を忘れてしまったのかい? アンリエッタ」

 

 胸の鼓動が早まる。ようやく絞り出した声は、掠れていた。

 

「嘘、嘘よ。だって、ウェールズさまは炎に巻かれて死んだって……」

 

「それは驚きだな! じゃあ、いま君の前に立っている僕は誰なんだい?」

 

 想って想って、想い焦がれた愛しいひとにしか見えない。けれど、アンリエッタはどうしても信じられなかった。これは夢か幻、もしや魔法の類ではないだろうか。

 

 一角獣の背上から潤んだ瞳で自分を見下ろす従兄弟姫をまっすぐに見返しながら、ウェールズは自分が自分であることを証明するための言葉を紡ぎ出した。

 

「――風吹く夜に」

 

 アンリエッタは息を飲んだ。それは、ラグドリアンの湖畔で幾度も交わした合い言葉。

 

「水の、誓いを……」

 

 正解だ、と言わんばかりに爽やかな笑みを浮かべ、ウェールズは両手を広げた。アンリエッタは我を忘れて彼の胸に飛び込んだ。

 

「おお、ウェールズさま。ウェールズさま……!」

 

 姫君を受け止めた王子は、苦笑した。

 

「君は相変わらず軽いな! いいや、昔よりも少し細くなっているぞ? 駄目じゃないか。毎日きちんと食べないと、身体に良くない」

 

「だ、だ、誰のせいで、わたくしが……!」

 

 アンリエッタはウェールズの胸にしがみつき、むせび泣いた。そんな彼女を、ウェールズは両腕で優しく包み込んだ。温かい。この温もりは、間違いなく互いが生きている証だ。

 

 そんなふたりを見遣りながら、サンドリオン王が近付いてきた。彼は申し訳なさそうに、こほんとひとつ咳をする。

 

「感動の再会はこの戦いが終わってからにしていただけませんかな。ウェールズ王子には今すぐ手伝っていただかねばならぬことがありますゆえ」

 

 名残惜しそうにアンリエッタの頬を撫でると、ウェールズは彼女を再び馬上に戻した。それからサンドリオン王へ向き直ると、頷いた。

 

「最高の立地ですね。練習の成果を見せるには充分過ぎるほどに」

 

 サンドリオン王は慌てて指を一本口の前に立てて見せた。

 

 テューダー王家が火の秘薬で自爆したというアルビオンの工作と空を舞う見慣れぬ竜を、無理矢理創世神話の鳳凰伝説と結びつけることで誤魔化し、軍を鼓舞した今……彼らとの支援関係を明かすのは得策ではないと判断したからだ。

 

 ウェールズのほうも、周囲から聞こえてくる万歳の声に『不死鳥』『王家の復活』などという単語が飛び交っているのを耳にして、なんとなくだが事情を察した。詳しい話はまた後でしてもらうとして、今はそれに乗っておいたほうがよいと考えた。

 

 サンドリオン王は、ずいと前に出ると杖を抜いた。彼の横にウェールズ王子が並び立つ。これからいったい何が始まるのかと、アンリエッタも、グラモン元帥も、居並ぶ将兵たちも、ふたりの王族の一挙一動に注目した。

 

 磨き抜かれた古杖を敵艦隊に向けると、サンドリオン王は言い放った。

 

「『水の王国』に海辺で戦いを挑んだ愚を、その身をもって思い知るがよい」

 

 ――この言葉が。最後の奇跡の始まりを告げる、鬨の声となった。

 

 

○●○●○●

 

「そんな……アルビオンの『王権』は、未だ健在だったというのか……!?」

 

「ありえん! 旧王家と王党派は自爆して果てたと公式発表が――」

 

 アルビオン軍は未だ混乱の只中にあった。

 

 無理もない。いきなり分厚い霧に遮られ、それがようやく晴れてきたと思ったら、滅ぼしたはずの王家のフネが空から舞い降りてきたのだから。

 

 中でも動揺を露わにしていたのは艦隊旗艦艦長のボーウッドだった。

 

 元々彼は王党派寄りであったものの、軍人として上司の命令に逆らえず、しぶしぶ従っていたという裏事情がある。口にこそ出さないものの、貴族議会と皇帝を簒奪者と蔑んでいた彼にとって、王権の象徴たる火竜の旗が心に与えた衝撃は並々ならぬものがあった。

 

 それこそ『戦闘行動中に気を散らしてはならない』という、彼の信条を忘れ去る程に。

 

 そんな部下の姿を見ていたホーキンスも、正直平静とは言い難かった。しかし彼は元々貴族派に属しており、貴族議会が行った偽装を知る数少ない軍人のひとりだった。

 

 それを苦々しく思ってはいたものの、最後の最後で王族を逃がしたなどと知れれば貴族派連盟にとって致命傷になりうる。そう考え、無理矢理自分を納得させていた。とはいえ、腹立たしくないと言えば嘘になる。

 

(戦を知らぬ政治家などに指揮をとらせた挙げ句起こした失態の、尻ぬぐいまで任される羽目になるとはな……)

 

 胸の内で貴族議会に対して恨み事を呟く。さりとて、それで現在の状況を打破することなどできない。渋々ながら――しかし表にはその不満を一切表すことなく、歴戦の将軍は己の役割を果たすために立ち上がり、声を荒げた。

 

「あのフネはトリステインが行った、精一杯のまやかしだ! 我らを動揺させ、時間を稼ぐつもりなのだろう。小賢しい真似をしたものよ」

 

「ですが、あの霧は……」

 

「ただの自然現象だ。海辺ではよくあることなのだろう? それに、もう間もなく完全に晴れそうだ。少しずつだが、眼下の軍勢が見えてきたではないか」

 

「それは、そうですが……」

 

「狼狽えるな! 空を知らぬ私でもわかる。巡洋艦一隻で、我が艦隊を相手に一体何ができるというのだ? 我々は、ただ粛々と職務を全うすればよい」

 

 上司に発破をかけられたボーウッドはようやく平静を取り戻してきた。だが、それ以外の将兵は未だ狼狽を隠せずにいる。中には錯乱して「始祖の罰だ」などと呟きながら、フネから飛び降りようとする者までいる始末。

 

(革命戦争に生き残った兵たちを無理矢理集め、訓練を積む暇も、団結を強める間もなく無理矢理に事を進めた結果がこれか……)

 

 ホーキンスは歯噛みした。『レコン・キスタ』が合流する前のアルビオン軍なら、到底ありえない光景だ。

 

 ――混乱の渦中にいた彼らは気付かなかった。艦隊の真下、海原の上で……この場所には本来起きえないはずの水流が発生していたことに。

 

 

「フル・ソル・デル……」

 

「イル・ウォータル・イス……」

 

 ウェールズの詠唱に、サンドリオン王の詠唱が重なる。風が立ち、海面が渦を巻く。

 

 〝風〟〝風〟〝風〟そこに〝水〟〝水〟〝水〟

 

 『スクウェア』クラスであるサンドリオン王が『トライアングル』のウェールズ王子のレベルに自らの能力を合わせ、重ねる。

 

 本来であれば、異なる複数のメイジが互いの呪文を合わせるのは難しい。それこそ毎日のように揃って血の吐くような訓練を繰り返し、初めて可能となる技だ。

 

 なれど『始祖』の流れを汲む者――選ばれし王家の血は、その障壁を難なく乗り越える。彼らにのみ許された特権。系統の五乗・ペンタゴンすら超える威力を発揮する乗法呪文。

 

 風と水の六乗。『ヘクサゴン・スペル』。

 

 詠唱は互いの魔法に影響を与え、絡み合い、膨れ上がる。ふたつのトライアングルが重なり、渦の上に輝く六芒星が描かれた。

 

 そうして編まれた強大なる〝力〟が、噴水――いや、間欠泉のような激しい勢いでもって海面を持ち上げた。

 

「これが『始祖』に連なる王権に杖を向けた報い……か」

 

 

 沈みゆく『レキシントン』号の中で、ホーキンスは自嘲した。巨大戦艦の真下に発生した巨大な水柱が、彼が乗るフネを中央から真っ二つにへし折ったのだ。

 

 王族のみが扱えるという乗法呪文の伝説については、当然彼の知識にあった。革命戦争中にそれを目撃しなかったのは、ジェームズ一世が老齢のため呪文詠唱に耐えられなかったのか、あるいはこの威力がゆえに、国土の上で使うのを躊躇ったのか。

 

 はっきりしているのは、自分たちがこの場へおびき出されたということだけ。

 

(これみよがしにタルブへ諸侯軍を配備していたのも、艦隊が海の上空に並ぶのが自然であるように布陣してきたのも、全ては敵の策のうちだったのだ。おそらく、王党派を秘密裏に脱出させたのも彼らだろう。我々は、完全にしてやられてしまった……)

 

 将軍は思わず空を仰いだ。

 

(トリステインが弱国だなどと、いったい誰が言い出したのだろう? あのゴーレムでの防衛といい、この大魔法といい、こんな破天荒な作戦を考えつく知将や、その策を実行に移せるだけの実力がある軍人たちが揃っているではないか……)

 

 がくんと甲板が傾く。何かに掴まる間も、杖を抜く余裕すら無く、ホーキンスは海へ向けて滑り落ちていった。

 

(――ああ、私はここで死ぬのだ)

 

 『始祖』に刃向かった軍人が戦場で生き延びられるはずもない。将軍が全てを諦めようとしたそのとき、誰かが彼の腕を掴んだ。

 

「艦長……!」

 

 死の淵へ沈みかけていた将軍に手を差し伸べたのは、ボーウッドだった。彼の周囲には風メイジとおぼしき者たちが数名浮かんでいる。

 

「あなたは、ここで死んではいけないひとです」

 

「だが、もうフネは……」

 

「やられたのは『レキシントン』号だけです。他の艦はまだ生きています。ご命令を!」

 

 歴戦の将の瞳に再び光が灯る。

 

(兵たちはまだ諦めていない。それなのに、総司令官たる私が先に折れてどうする!)

 

 ホーキンスは決意を新たにすると、矢継ぎ早に命を下した。

 

「……わかった。旗艦を移し、指揮系統を立て直す。貴君がもっとも安定していると判断する艦まで案内してくれ」

 

 

○●○●○●

 

 ――正直、誤算だった。

 

 サンドリオン王は海上に並ぶ船団を見、歯噛みした。

 

 当初の予定では、艦隊全てを『ヘクサゴン・スペル』で葬り去るはずだった。舞台は完全に整っていた――潮風と、水魔法を通しやすい海。お膳立ては完璧だった。

 

 ところが、実際に沈んだのは『レキシントン』号のみ。他の艦は大きく揺らぎこそしたものの、それだけ。敵艦隊は今もなお健在で、その偉容を見せつけている。

 

 失敗の理由は明白だ。サンドリオン王の全身から滝のように流れる汗と荒い息がそれを証明している。老い衰えた彼の体力が、呪文の威力についていけなかったのだ。

 

 噴水が萎みかけている。ちらと横目で見たウェールズ王子の顔色も優れない。彼の場合は体力ではなく、魔法を編むための〝精神力〟が尽きかけているのだろう。

 

 ゴーレム隊の旗色も悪い。順序良く積み上げてきた計画という名の煉瓦の壁が崩された。このままでは、自分が最も忌み嫌う『いちかばちか』の勝負になってしまう。

 

 仮に砲弾が尽きるまで耐えられたとしても、ほとんど無傷のまま艦隊を返してしまえば、敵はすぐにまた攻め込んでくる。同じ戦法はもう二度と通用しないだろう。

 

 そうなれば――今度こそ、トリステインは終わりだ。

 

 歯を食いしばり、サンドリオン王が気合いを入れ直そうとした次の瞬間。いきなり身体が軽くなったような気がした。いや、気のせいではない。

 

(何故だ? どうして突然――)

 

 答えはすぐにわかった。

 

 鈴を鳴らしたような美しい声が彼らふたりの詠唱に干渉してきたことで、身体にかかる負担を大幅に軽減してくれたのだ。

 

 今にも倒れそうな男たちを後ろから支えたのは――戦装束を纏った姫君だった。彼女の立つ姿は神々しく、まさに王子が言った戦乙女そのものだった。

 

 立ち直る余裕を与えられた男たちは、杖を構え直して魔法を唱え続ける。

 

 そんな彼らを見たトリステインと王党派に属する者たちは、トリステインとアルビオンの新たな未来を予感した。

 

 アンリエッタは水晶の飾りがついた長杖をかざし、凜とした声で呪文を紡ぐ。戦場に集いし王族たちによる三重奏。

 

 水と風の六乗へ、さらに三枚の水が重なる。新たなトライアングルが加わり、萎みかけていた水が勢いを取り戻す。ぐるぐると高速で渦を巻き、巨大な水竜巻となって天を衝く。

 

 風と水の九乗。『ノナゴン・スペル』がここに完成した。

 

 三人の王族によって生み出された奇跡の水柱。その頂点ではドーム状に広がった水滴が太陽の光を浴び、きらきらと輝いている。

 

 それを畏怖の眼差しで見上げたグラモン元帥が、呆然と声を漏らした。

 

「……まるで、世界樹(ユグドラシル)のようだ」

 

 ――彼の呟きが、側に居た記録士官によって残され……この戦いは『ダングルテール防衛戦』、通称『ユグドラシル戦役』という名で後世に語り継がれることとなる。

 

「なんだよ、あれ……」

 

 以前、ラグドリアン湖で見た竜巻よりも、さらに巨大な水竜巻がアルビオン艦隊を薙ぎ払うところを上空から眺めていた才人は、呆然とそう呟くだけで精一杯だった。

 

「ありゃあ、王家の乗法呪文だ。ヘクサゴン……いや、オクタゴン級を超える威力はあるかね。あの王子さんと嬢ちゃんの親父が協力して放ったんだろうが、相変わらずすげぇやね」

 

「つまり、王子さまには勝算があったってことか」

 

「そういうこったね」

 

「俺たちって、役に立ったのかな?」

 

「ああ立った、立ったよ。お前さんたちが必死の思いで時間を稼いだから王子さんが間に合って、あの呪文が使えたんだ。いちばん美味しいとこは持って行かれちまったがよ」

 

「いいよ、そんなの。守れたんなら……それで充分だよ。なあ、ルイズ」

 

 才人がいちばん守りたかった少女は、相変わらず彼の胸に顔を埋め、すぅすぅと静かな寝息を立てている。眼下を見遣ると、トリステイン軍と王党派が揃って敵陸軍に突撃を敢行しているところであった。

 

 素人目に見ても、流れはトリステイン側にあった。波に押し流される砂山のように、アルビオン軍が崩れ散ってゆく。

 

(よかった。俺たちがすることは、もう何もないみたいだ……)

 

 そう考えた才人は優しくルイズの頭を撫でると、囁いた。

 

「ありがとな。お前が一緒に来てくれたから、俺、最後まで頑張れたよ」

 

 うにゃ。と、ルイズが声を上げる。

 

 まだ眠っているみたいだし、返事をしてくれたわけじゃない。

 

 けれど、なんだかとても幸せそうな顔で寝息を立てている少女を見ていると、才人は彼女が愛おしくて、どうにもたまらなくなった。

 

 機体が傾かないよう操縦桿を固定させると、才人はそっとルイズの顎に手をかけた。それから、静かに自分の唇と少女のそれを重ね合わせる。

 

 時間にしてわずか数秒。やや名残惜しそうに顔を上げると、才人は操縦桿に手をかけた。それからもう一度ルイズの頭を撫でると、優しく声を掛けた。

 

「帰ろう。俺たちの魔法学院へ」

 

 

 ――それから数時間後。

 

 勝利を収めたトリステイン軍は野営の準備に取りかかっていた。既に夕刻、まだ後始末も終わっていないというのにトリスタニアへ戻るのは、さすがに無理があるからだ。

 

 ひととおりの作業を済ませた国王と王子が休息をとっていると――アンリエッタが微笑みながら口を開いた。

 

「全てが終わった今、ようやく理由がわかりましたわ。何故、陛下がここへわたくしを連れてきてくれたのか、その答えが」

 

 目の動きだけで問いかけてきた遠縁の伯父の耳元に口を寄せ、アンリエッタは小声で語る。

 

「カリンさまのような伝説級のメイジならばまだしも、わたくしのような戦のいの字も知らぬ足手まといの娘を連れてきたのは、いざというときのための予備にするためでしたのね。そう、ウェールズさまたちが間に合わなかった場合に備えて。不死鳥なんて、皆の士気を高めるための方便。ルイズと陛下は、わたくしの願いを叶えてくださっていたのね」

 

 それから、深々と頭を下げ彼の愛娘を命の危険に晒した詫びを述べたアンリエッタに対し、サンドリオン王はふっと笑うと、とんでもない爆弾発言をした。

 

「やれやれ、未来のテューダー夫人は将来有望だ。いや、アルビオン王国王妃と言ったほうがよいのだろうか? 我々は良好な関係を築けると思うが、どうだろう。余は間違ってもあなたと敵対したくはないのだが」

 

 王の発言に、王子と姫は目に見えて狼狽え始めた。それから、悲しげな顔で零す。

 

「で、でも、わたくしは……」

 

「アンリエッタは、ゲルマニア皇帝の元に嫁ぐと……」

 

 若いふたりの顔を交互に見遣ると、王は真顔に戻り、彼らに問うた。

 

「ヴァリエール家の成り立ちを知っているかね?」

 

 前後の会話と噛み合わない質問に、ふたりは目を白黒させた。

 

「トリステイン王の庶子が開祖であると、話に聞いたことはありますが」

 

「わたくしもです」

 

 彼らの回答に、サンドリオン王はやれやれと首を振った。

 

「真実というものは、いつしかねじ曲げられてしまうものなのだな……実のところ、余の先祖である初代ヴァリエール公爵は、領地を持たぬ貧しい騎士の家の出だったのだよ」

 

 この答えに、ウェールズとアンリエッタは仰天した。こっそり聞き耳を立てていたグラモン元帥を始めとする貴族たちも驚いた。既に事情を良く知るカリンは何も言わなかった。夫がカリンほど相手の身分や家格にこだわらないのは、このあたりに理由がある。そうでなければ貧乏貴族の娘である彼女など、相手にもされなかっただろう。

 

「彼は、当時のトリステイン国王を護る近衛衛士だった。王家に心からの忠誠を誓い、命を賭けて王と、王の家族を守り抜いた。それこそ、数えきれぬほどに。やがてその功績が認められ――褒美としてヴァリエールの地と王家の姫君を妻として与えられたのだ」

 

「そういうことでしたか……」

 

 アンリエッタとウェールズ、それに居並ぶ貴族たちも納得した。トリステインでは女王という例外を除き、女が領地や爵位を継ぐことはできない。一代限りの名誉となるか、あるいは婿を迎え、その人物か、相手との間にできた子を後継者として定める必要がある。

 

 つまりヴァリエール公爵家は、その騎士と王家の姫君の間に生まれた子の血を受け継ぐ家だということになる。乗法呪文を扱えたのが『始祖』の末裔たる何よりの証拠だ。

 

 周囲の者たちに理解が広がったと見るや否や、サンドリオン王はにっこりと笑った。

 

「そんな先祖を持つ余としてはだな、対岸の火を畏れて兵を出さなかった臆病者などにではなく、全てをなげうって駆けつけてくれた勇敢な男にこそ、実の娘も同然の可愛い姫を娶って欲しいと、そう思うのだよ」

 

 わっと歓声が上がる。トリステインの貴族たちは成り上がりのゲルマニア皇帝なぞに大切な姫君を渡したくはなかったし、王党派に所属する者たちとしても、自分たちの功績がこのような形で報われることを、とてつもない名誉だと受け取ったのだ。

 

 ところが当の本人たちはというと、未だ夢のような話を受け入れられずにいた。

 

「ですが、それでは同盟が……」

 

 不安げな、それでいて瞳に僅かな希望の灯を宿した王子に、王は優しく言った。

 

「先に約束を破ったのはゲルマニアだ。こちらだけが律儀に守る謂われなどないよ」

 

 そこへグラモン元帥が口を挟んだ。

 

「では、軍事防衛同盟は御破算というわけですかな?」

 

「いや、それもない。『レコン・キスタ』の野望は誰の目にも明らかだ。ゲルマニアとて、今更同盟を破棄しました、ですから我が国だけは見逃して下さいなどという言い訳が通用するとは思わんだろう。なればこそ、兵の損耗を嫌って援軍を出さなかったのだ。トリステインが陥ちたら、次は大国ガリアではなく、ゲルマニアに杖が向く可能性のほうが高いからな」

 

 それに……と、サンドリオンは心底意地の悪い顔で続ける。

 

「我が国には外交の名人がいる。これからは余が内政のほうを背負うのだ。今後、彼にはそちらで存分に腕を振るってもらう。ゲルマニアとの軍事防衛同盟の再構築が、彼の外交官としての最初の仕事だ」

 

 グラモン元帥が呆れたような声を出した。

 

「きみは相変わらず酷いやつだな……っと、失礼。陛下もおひとが悪い」

 

 アンリエッタはぷっと吹き出した。外交の名人とやらが誰のことなのか、彼女にはすぐに見当がついたからだ。

 

「まあ! そんな苦労をさせては『鳥の骨』が『鳥がら』になってしまいますわ!」

 

 今度は、そこら中から吹き出す声が続出した。

 

「そういう訳なのですが。彼らの婚約を認めてくれますかな? ジェームズ一世陛下」

 

 一同が振り返ると、そこには老齢のメイジに肩を貸してもらいながら歩み寄る元アルビオン国王の姿があった。

 

「名誉な話だ。しかし朕としては、それだけで納得するわけにはいかぬのじゃ」

 

 王党派貴族たちの顔色が変わった。我らが王は、この上何を求めるというのか。

 

 ところが彼らの不安に反し、トリステインの新たな王はこう返した。

 

「臣下を抱える者として、当然の言葉ですな。それではトリステインの国王としてお約束しよう。我が国で、アルビオン王国亡命政府の樹立を認める。必要な施設やその他諸々はこちらで用意させていただく。希望する者は一時的に我が軍への所属も検討して欲しい。もちろん、相応の給金を支払おう」

 

 ジェームズ一世は満足げな笑みを浮かべた。

 

「新王はひとの心を掴む術を心得ておられるようじゃ。トリステインの諸君は、このような人物を主君として戴けることを、この上もなき名誉と思うがよい」

 

 それからじっと息子の顔を見つめると、わざとらしく溜め息を漏らした。

 

「貴族の娘たちに興味を示さぬと思っていたら、まさか従姉妹と恋仲になっておったとは。朕の目は正真正銘、節穴だったらしい」

 

 ウェールズの顔が、さっと朱に染まる。

 

「アンリエッタ姫。今の我らは領土を持たぬ、流浪の民じゃ。いつ国を取り戻せるのかも、本当に帰れるのかすらわからぬ。それでも……この不肖の息子を支え、共に人生を歩んでくれるというのかね?」

 

 アンリエッタは一切の迷いなく答えた。

 

「はい。『始祖』に誓って」

 

 サンドリオン王は頷くと、周囲を見渡しながら告げた。

 

「戦後の後始末やこまごまとした仕事が残っている。ゲルマニアとの調整も済んでいない。よって若いふたりには気の毒だが、今すぐ結婚――というわけにはいかん。婚約を発表することもできんが……しかし余は、王としてふたりの仲を祝福しよう」

 

 ジェームズ一世がそれに続く。

 

「彼らがアルビオン王国とトリステイン王国を結ぶ新たな架け橋となるよう、朕もふたりの婚約を認める」

 

 既に闇の帳が下り、篝火に照らされた浜辺を、大きな歓声が包み込んだ。

 

 

 ――それから。

 

 トリステイン王国は新王の即位と、ダングルテールの地において卑劣な騙し討ちを仕掛けてきた『レコン・キスタ』を打ち破ったことを大々的に国内外へと発表。

 

 同時に、アルビオンの王党派がフェニックスの導きによって現世に帰還した英雄たちだとして、彼らが王都トリスタニアに亡命政府を樹立することを許可。その後、国として正式に国交を結ぶと宣言した。

 

 王党派の一部貴族や船乗りたちはトリステイン王立空軍に客将として迎え入れられ、空戦における技術の伝播に貢献する。

 

 また、彼らが乗艦していた『イーグル』号は『フェニックス』号と名を改め、以後テューダー家のお召し艦として活躍。このフネの艦長に任命されるのは最高の名誉とされた。

 

 

○●○●○●

 

 ――トリステイン軍と王党派に属する者たちが、勝利と、歌劇のような王子と王女の恋物語に酔いしれていたころ。

 

 遙か南東、ハルケギニア大陸から長靴のように突き出た半島の端にあるロマリア皇国連合。

 

 ブリミル教の総本山と崇められる場所に立つ、五芒星を模した壮麗な建造物――ロマリア宗教庁の奥に用意された自室で、ひとりの若い男が書物棚を相手に格闘していた。

 

 年の頃は二十をいくつか越えたばかりといったところだろう。透き通るような白い肌に腰まで伸びる長い金髪と、優しげな光を湛えた瞳。知らない者が彼を見たら、女性と見紛うばかりの美貌の持ち主だ。

 

 しかしながら、崩れ落ちた本に半ば埋もれたその姿は、どこにでもいるような少々間の抜けた若者としか映らない。

 

「だから言ったでしょう? そろそろここの書を、まとめて整理しましょうよ。なんなら、召使いに任せればいいじゃないですか」

 

 呆れたような声で彼にそう告げたのは、これまた怖ろしく顔立ちの整った美少年であった。

 

「簡単に言うけれどね、ジュリオ。本の整理というものは、自分でやらないといけません。そうでないと、どこに仕舞ったのかわからなくなるし、そうなったが最後、読み返したくなったときに困りますから」

 

「なら、使った直後に片付ければいいのに」

 

「そうは言っても、すぐに会議やらなんやらで呼び出されて、これがなかなか……」

 

 言いながらようやく本の山から抜け出した若者は、すぐ側にあった椅子に腰掛けると、今しがたジュリオと呼んだ少年に向かって尋ねた。

 

「それで、例の件はどうでした?」

 

 問いかける彼の声と貌には、既に先程までの気の抜けた様子はなく――他を寄せ付けぬ威厳に満ちていた。

 

「はい、聖下。ガリアの大公姫――今はその地位を奪われた少女が人間を呼び出したという噂は、どうやら真実だったようです」

 

 確かめるまで、ガリア貴族たちにかなりの鼻薬を嗅がせる必要がありましたがね。と、肩を竦めるジュリオ。

 

 このハルケギニアにおいて『聖下』と呼ばれる人物はただひとりしか存在しない。それは神官と寺院の最高権威者たる教皇。聖エイジスの名を冠する者だけ。

 

 つまり、ジュリオと問答を行っているこの若者こそが、ブリミル宗教庁の頂点に立つ存在であることを示している。

 

「ご苦労さまでした。ということは……その娘が当代の……」

 

「意外な展開でしたね。てっきり、例の『無能』がそうだとばかり思っていたんですが」

 

「わかりませんよ。ふたり揃って、ということも考えられますし。何せ『四の四』を揃えるための手がかりは未だ禄に掴めていない状況なのですから、慎重に事を運ばねばなりません」

 

「片方が『予備』かもしれないですよ?」

 

「その可能性も否定できません。かの系統は、古の時代より謎に包まれていますからね。そういうわけで、ジュリオ」

 

 青年はじっと相手の目を見つめた。青と紅。相対する青年の瞳は、それぞれ色が異なっている。夜空に輝く双月になぞらえ、生まれつきそういった目を持つ者を『月目』と呼ぶ。

 

 彼らはこの世界において不吉の象徴とされていた。

 

「役目は心得ております。このぼくが直接見極めて参りましょう――彼女たち主従を」

 

 ジュリオの鋭い双眸が、きらりと光った。

 

 

 




これにて原作のタルブ戦役改め、ユグドラシル戦役終結です。ようやく一息つける、と、思ったらなんか出てきた模様。


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ガリア王家の家庭の事情
第92話 雪風、潮風により導かれるの事


 ――時は、トリステインがダングルテールで劇的な勝利を収める数日前まで遡る。

 

 イザベラの命を受け、王女の影武者としてゲルマニアへと向かったタバサは現在、王家の馬車に揺られながらガリア南西部にある港湾都市サン・マロンに到着したところであった。鼻腔をくすぐる潮の香りが、彼女が海の近くにいることを明確に示している。

 

 豪奢な馬車の窓からタバサがそっと外を伺うと、石造りの巨大な建物がずらりと並んでいるのが見えた。入口付近に下げられている大きな錨が描かれた看板から察するに、あれらは全て船渠(ドック)――船の建造や整備をするための施設に違いない。

 

 そんな彼女の推測を裏付けるかのように、海辺には所狭しと船が浮かべられている。さらに港の奥を見遣ると、天へ届くかとも思わせるような長大な鉄塔がそびえ立っていた。四角錐の形状に組まれた鉄材の頂上付近からは幾本もの柱が枝のように伸び、その先端にはロープによって吊り下げられたフネらしきものの姿が多数見受けられた。

 

(あれは、かつて訪れたラ・ロシェールの世界樹のようなもの? けれど、停泊しているフネの形状がだいぶ違う。どちらかというと沿岸に並べられている航海用の船に近い)

 

 両者を比較するように見遣る少女の顔は真剣そのもの。

 

「あのフネは……」

 

 思わず出た呟きに、タバサのすぐ隣に座っていたイザベラが反応した。本物の王女は、以前地方都市へ訪問したときと同様に侍女の服を身に纏い、自慢の蒼髪を栗色に染めている。

 

「我がガリア王国王立空海軍が誇る、水陸両用艦(パイラテラル・フロッテ)よ。海だけじゃなく、空にも浮かべられる特別なフネでね。平民の造船技術者と、アカデミーの魔道具開発者が協力することで生み出された新時代の乗り物なのさ」

 

 その声に喜びの音が含まれていることを察したタバサは訊ねた。

 

「あれは、姫殿下が?」

 

 イザベラは一瞬目を丸くした後、ニッと口端を歪めた。それから手のひらでタバサの頬をぺしぺしと軽く叩く。

 

「ふうん。お前がわたしを『姫殿下』なんて呼び方するとは驚きだねえ。ようやく誰がガリアの王女なのか、認める気になったってことかい」

 

 口を開こうとしたタバサを制し、イザベラは笑った。本人は微笑しているつもりなのだろうが、凄みを効かせているようにしか見えない。

 

「わたしの仕事じゃないわ、父上の計画よ。どう、すごい発想でしょう? ひとつの船を、海と空の両方に浮かべられるようにしたらいいんじゃないか…… だ、なんて! 『始祖』がハルケギニアに降臨してから今まで六千年もの間、誰も考えつかなかったのに!」

 

 確かにこれは画期的だとタバサは思った。

 

 空を遊弋しているアルビオンはともかく、その他の国はみな海と隣接しているのだから、始祖降臨歴六千年の間に臣下の誰かが発案した上で王に進言するか、あるいは王自身が気付いて実行していてもおかしくなかったはず。

 

 海を征く『船』と、空に浮かぶ『フネ』。タバサ自身を含むほぼ全ての人間たちが、このふたつを完全に別物だと考え、そこから一歩も外へ出ようとしなかった。

 

 かつて本から得た知識だが、隣国ロマリアにはトリステインやガリアのようにフネを空中に係留しておくための施設がなく、普段は海に浮かべて保管しているらしい。にも拘わらず、どうして誰も改良を思いつかなかったのだろうか。

 

 思いにふけるタバサの視線の先に、荷を運ぶ水夫の姿があった。よくよく見ると、彼らの瞳には特徴的な玉石が填め込まれている。〝土石〟と呼ばれるその石は、ガーゴイルの核として用いられることが多い。つまり彼らは人間ではなく、魔法で動く人形なのだ。

 

「あれも、父上の命令で進められた研究の成果よ。最近じゃ、他国の商人が大勢買い付けに来ていてね。これがまた結構な値段で取引されているのさ」

 

 語り続けるイザベラが妙に得意げなのは気のせいではない。彼女は心から父親の業績を誇っているのだろう。ガリアが『魔法大国』と呼ばれ出したのは、ここ数年のことだ。ジョゼフが王位に就いてからというもの、この国は壊れて止まっていた時計の針が動き出したかのように、着々と進歩を遂げている。

 

 タバサはふと尊敬していた父のことを思い出した。誰よりも魔法に秀で『始祖』の再来とまで呼ばれた父。心優しく聡明で、使用人たちや周りの貴族たちは言うに及ばず、祖母である先代王妃にすら「次代のガリア王に相応しい」と太鼓判を押されていた――。

 

 ところが、実際に先代国王である祖父が後継者に選んだのは父シャルルではなく――魔法が一切使えない上に変わり者として有名だった、伯父のジョゼフだった。

 

 ジョゼフが変人呼ばわりされるのは、本人の行動以上に、魔法やそれに準ずるものに対するこだわりのなさが所以だ。

 

 彼の奇行の数々は、タバサが覚えているだけでも両手の指では足りない。たとえば、あるとき屋敷へ遊びに来たジョゼフは、なんと腰に細剣をぶら下げていた。杖以外の武器を持つことを恥と考える貴族、ましてや王族としてありえない行動だ。

 

 当然、その姿を見た父シャルルは戸惑った。

 

「兄さん、なぜそんな下賤なものを……」

 

 するとジョゼフは、それがさも当たり前であるかのように言ってのけた。

 

「おれは、おまえと違って魔法ができんからな。この身に危険が迫ったとき、手元に武器のひとつもなければ心許ないだろう」

 

「なら、護衛をつければいいじゃないか」

 

「そんなことをしたら、城を抜け出してきたことが父上にバレてしまうだろうが!」

 

 からからと豪快に笑うジョゼフに、シャルルは呆れ顔で言った。

 

「また許可を得ずに来たんだね。そのうち、本当に幽閉されてしまうよ」

 

「なあに、そのときはおまえが口添えしてくれるだろう?」

 

「……まったく。兄さんは本当に困ったひとだなあ」

 

 このやりとり以降、ジョゼフが表立って帯刀することはなくなった。しかし、その代わりにマントの内側へ何本ものナイフを仕込んでいた。それを発見したシャルルが盛大に溜め息をついていたのを、タバサはよく覚えている。

 

(お祖父さまが父さまではなく、あえてジョゼフ伯父上を後継者として指名したのは……こうした常識に囚われない発想が、ガリアを繁栄させると考えたからなのだろうか)

 

 と、タバサの思考に再びイザベラの声が割り込んできた。

 

「そういえば、あのガーゴイルはトリステインにも輸出されているようだけど。お前、見たことあるかい?」

 

 タバサは小さく頷いた。ヴァリエール家に招かれた際に、敷地内を移動する馬車の御者を務めていたのが件のガーゴイルだったのを思い出したからだ。

 

「どうだい? ただの人形も、上手く使えば役に立つってことさ。ねえ、シャルロット。あんたもあいつらの一員なんだから、せめて負けない程度には王家のために働くんだよ」

 

 愉悦に顔を歪めながら言い放ったイザベラだったが、その気分に水を差した人物がいた。護衛役として馬車に乗り合わせていた東薔薇花壇騎士の団長バッソ・カステルモールだ。

 

「畏れながら申し上げます。姫殿下におかれましては、陛下の発案した品々が異端なのではないかとブリミル教の神官や一部の貴族たちが噂しているのをご存じでしょうか?」

 

「ああ、聞いているよ。あの連中、新教徒どもが暴れ回っている原因は父上の異端的な活動に不満を持っているからなのでは、なんて嘯いているそうだね」

 

 カステルモールは形の良い眉根を寄せ、さも心配げな声で姫に進言した。

 

「さすがは姫殿下、わたしなどが申し上げるまでもなく、既にご存じでしたか。それならば話は早い。陛下の御代と国の安寧を願う花壇騎士団の団長と致しましては、現状のままで放置しておくのは大変危険だと考えております」

 

(騎士団長の目はイザベラを見ている。でも、その声と意志が向けられている先は、このわたし。カステルモールはわたしが旗頭となってガリアを昔の状態に戻して欲しいと願っている。つまり、ジョゼフ伯父上を王座から引きずり下ろして、それから……)

 

 タバサは頭に載せられている王女の冠が急に重くなったような気がした。

 

(そうだ、もしもわたしが昔のまま父上の仇討ちをしたとして。ガリアの王冠は一体どこへゆくのだろう? イザベラが戴冠し、女王になる? ありえない。伯父上がシャルル派との戦争に敗れたら、その娘である彼女も当然処分(・・)されるはず)

 

 王族の地位を剥奪されて何処かに幽閉、あるいは修道院に預けられて尼にでもなれればまだ運が良い。常識的に考えれば、後の禍根を断つために命を奪われることになるだろう。

 

 そうしなければ、ジョゼフ派とシャルル派の間にある憎しみの連鎖が果てしなく続く。タバサたち母娘が生かされていたこと自体、本来であれば考えられないことなのだから。

 

 イザベラは一人娘だ。つまり、叔父の家系で王位継承権を持つ彼女がいなくなれば、自動的に次の継承者が王冠を戴くこととなる。

 

『次の王となるべき人物だったシャルル王子を殺害し、王位を簒奪した狂王を倒す』

 

 という建前でもって動いているシャルル派が、いったい誰を王座に据えるのか。その程度のことは馬鹿でもわかる。

 

(わたしは王冠なんて欲しくない――)

 

 そんなタバサの想いなど知る由もなく、イザベラは騎士団長に向かって笑っていた。

 

「過去の遺産にしがみついて、時代の流れについてくる努力をしない馬鹿共の戯言なんか、気にする必要はないさ。ガリアは父上の手腕によって順調に発展し続けているし、そもそも『始祖』ブリミルが海と空の両方で使えるフネを作っちゃいけないだとか、ガーゴイルを人夫代わりにしちゃダメだなんて言ったわけじゃないだろう?」

 

「た、確かにそうかもしれませんが、神官たちは……」

 

 それを聞いたイザベラは、フンと鼻を鳴らした。

 

「まったく……お前の忠誠心にはほとほと感心するよ。大丈夫、連中を敵に回したら厄介だってことはわたしだってよ~く理解しているさ」

 

 初心な男性客をからかう酒場女のような口調で、王女は続ける。

 

「暇なときに、王立図書館から結構な数のブリミル教の教典や祈祷書を取り寄せて、目を通したんだけどさぁ。発明を禁ずるなんて文言はどこにもなかったよ? つい最近、新しく追加されたのかしら。だとしても、それって本当に『始祖』の御言葉なのかねぇ?」

 

 しかし王女の意見に動じることなく、騎士団長は即座に切り返す。

 

「姫殿下の仰る通りです。しかしあの者どもは『ガリアの王は魔法が使えないから、あんな異端じみたことを平然と実行するのだ』などと、陛下に対して不敬極まりないことを言いふらしておるのですぞ!」

 

 イザベラはふっと息を吐くと、聞き分けのない子をあやすような口調で言った。

 

「確かに、父上は魔法ができないかもしれない。だけど、それがどうしたっていうのさ」

 

 この言葉には、さすがのカステルモールも目を剥いた。

 

「な、何を!?」

 

「王が魔法を必要とする場面なんて、戦争くらいだろ? 普段のこまごまとしたことは、全部召使いや部下たちがやるんだから。朝、目覚めたばかりの国王が魔法で寝室のカーテンを開けたりするかい? 戦場で自ら空を飛んで、敵陣を偵察したりするのかねぇ?」

 

「いや、その……」

 

「そもそもだ。国王が前線に立って、しかも自ら魔法を使わなきゃいけない状況に置かれてるってことはさぁ、国自体が相当追い詰められてるって意味だよね? その時点で、政治的にも戦でも負けてんだよ。それって、国を治める王としてどうなんだい?」

 

 確かに……と、側で聞いていたタバサは思った。しかし、どちらかというと傍若無人で気ままな従姉妹姫がこんな考えを持っていたという事実に驚いていた。これは負け惜しみなどではなく彼女の本心だろう。いったい何が、ここまで従姉妹を変えたのか――。

 

 そんなタバサの思いなどつゆ知らず、イザベラは続ける。

 

「アルビオンのテューダー家は貴族派の反乱を止められずに滅亡した。トリステインに至っては、国を守るためにたったひとりの王女をゲルマニアへ差し出す羽目になった。ウェールズも、アンリエッタも『トライアングル』だって聞いてるよ。わたしなんかと違って優秀だねえ。もっとも、お得意の魔法の出番なんて、全然無かったみたいだけどさ!」

 

 げらげらと笑うイザベラをよそに、カステルモールは完全に黙り込んでしまった。困惑したような表情を顔全面に貼り付けてはいるが、しかしその瞳に油断の色はない。

 

 大した役者ぶりだ……と、タバサは密かに感心してしまった。

 

「かたや魔法ができない王を戴いている我がガリアは、滅亡なんかとは無縁に栄え続けているわ。これらの事実は、魔法の出来不出来が国王としての資質には関係ないってことの証明になるんじゃないのかい?」

 

 笑い続けていたイザベラは外を見て皮肉げに顔を歪めると、タバサに声を投げかけた。

 

「さあ、シャルロット。『始祖の再来』とまで言われた魔法の天才――お前の父親との、感動の再会だよ。せいぜいわたしたち王家の慈悲に感謝しな」

 

 ――彼女たちの視線の先に、ガリア王国空海軍旗艦『シャルル・オルレアン』号の偉容が浮かび上がった。全長約百五十メイルにも及ぶこの巨大戦艦は、ジョゼフ王の即位を記念して建造されたお召し艦でもあり、王権の象徴とも呼ぶべき存在だ。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――空海軍による盛大な歓迎式典の後。

 

 タバサは艦隊総司令クラヴィル卿の案内で、王家専用の船室へと向かった。黒く日焼けした肌に立派な体躯、見事な顎髭をたくわえたこの人物は、イザベラ曰く「父上の命令に忠実に従うことでここまで上り詰めた男」だそうだ。

 

 自国の王女からそんな評価を受けているとは露知らぬ提督は、船室へ続く道すがら〝変相(フェイス・チェンジ)〟でイザベラになりきっているタバサへにこやかに語りかけてきた。

 

「いやはや、イザベラさま。ますます美しさに磨きがかかったようで。眩しい限りです」

 

「ありがとう」

 

 素っ気なく礼を告げられたクラヴィル卿はごくごく僅かに眉を動かしたが、すぐさま大きな笑顔を浮かべた。

 

「ふむふむ、なるほど。アルトーワ伯の不安は杞憂のようで、何よりでした」

 

 アルトーワ伯。以前、任務で訪れた地方都市グルノープルを治める老貴族だ。彼が何を心配しているのだろうか。タバサはつい、普段のクセで小さく首をかしげた。それを「話を聞く」という意思表示だと受け止めた提督は、切々と訴えた。

 

「つい先日、グルノープルへ寄港した際にアルトーワ伯と談話する機会がございましてな。その折に、いたく姫殿下のことをお気にかけてらしたのですよ」

 

「わたしのことを……なぜ?」

 

「何でもアルトーワ伯爵が開いた園遊会の間、ずっと物憂げにしていらしたそうですな。もしや、お身体の具合がよろしくないのではないか、久しく宮廷へ足を運んでいなかったために、時節に疎い自分が姫殿下に対して何か大変な無礼を働いてしまったのではないかと、それはそれは心配なさっておいででした」

 

 例の暗殺騒ぎがあった翌日以降、タバサは塞ぎ込んだままであった。ふと、グルノープルへ到着したときのことを思い出す。

 

 出迎えのために現れた伯爵はかなりの老齢で、その身体は細く痩せ衰えていた。心労という名の嵐に遭えば、枯れて苔生した木のようにぱたりと倒れてしまう程度には。

 

 少し考えた後、タバサはこう切り返した。この間、僅か一秒にも満たない。

 

「さすがは名伯楽と謳われたアルトーワ伯爵ね。隠していたつもりだったのに、このわたしの不調を見抜くだなんて」

 

 それから無理矢理笑みを浮かべてみたものの、顔が少し引きつっている。しかしイザベラに化けていたことが幸いし、それが普段の王女そのものであるかのように写った。クラヴィル提督は心底驚いたような声を上げた。

 

「なんと! やはりお身体の具合が……」

 

「違う」

 

「と、申しますと?」

 

「あの頃、公務が立て込んでいてね。かなり疲れが溜まっていたのよ。その件は、腹の立つことに今もまだ解決していないけど。あなたなら事情を知っているんじゃないかしら?」

 

 途端にクラヴィルの顔が苦々しげに歪んだ。

 

「例の新教徒どもですか。我が空海軍の施設もやられましたよ……まったく勘違いも甚だしい! 何が新教徒こそが『始祖』の真の御心を知る者たち、だ! いつ『始祖』が陛下の御代を乱せと仰ったのだ。愛しき子孫に害なす姿を見て『始祖』がお喜びになるはずもないと、きゃつらは何故わからぬのだ!」

 

 だからこそ、新教は我が国の法で信仰を禁じられたのだ――と続けた提督に向け、タバサは小さく頷いて見せた。

 

「そうね。わたしにも彼らの考えが理解できないし、したいとも思わない。けれど、このまま放置していてはガリア王家の威信に関わるから」

 

 クラヴィル提督はようやく思い出した。そういえば、この姫君は王政府の汚れ仕事全般を請け負う『北花壇騎士団』の団長を務めているのだった。

 

 北花壇騎士団は王軍の行動を逐一上層部に報告する監視者だ。おまけに、彼らから上がってきた情報を元に王政府が謀反の気配ありとの判断を下せば、即座に凄腕の暗殺者へと変貌する――忌むべき存在。

 

 ありていに言うと王軍に所属する者たちは皆、北花壇騎士を蛇蝎の如く嫌っている。

 

 イザベラがこの闇の騎士団の団長に就任することが決定した際、それはもう荒れに荒れていたという話は、宮廷貴族だけでなく王軍士官の間でも有名だ。一国の王女たる者が汚れ仕事に手を染めるなど、彼女でなくとも不快だろう。

 

 普段は粗野で我が儘だと悪名高い姫君ではあるが、このときばかりは彼女に同情する者が多かった。クラヴィルもそのうちのひとりだ。

 

(与えられた仕事への不満を隠そうともしていないが、少なくとも無責任に放り出したりせず真面目にこなしてはいるのだな……)

 

 などという不敬な感想はおくびにも出さず、戦地のみならず社交界においても歴戦の提督は、沈痛な面持ちで言った。

 

「姫殿下の仰る通りかと。ご心痛、お察し申し上げます」

 

「ありがとう。そういうわけでね、アルトーワ伯に何か落ち度があったわけではないのよ。ところで卿は、次にグルノープルへ立ち寄る予定はあって?」

 

「来年の春に新兵の航海練習を兼ねた遠征がありますので、その折に」

 

「そう。なら、伯爵に伝えてもらえるかしら? またのお招きを心待ちにしている、と」

 

 提督は帽子を取ると、恭しく礼をした。

 

 船室に到着し、クラヴィル提督が立ち去るのを見届けたタバサは周囲に誰もいないことを確かめた後、近くにあったソファーにぐったりと背を預けた。慣れないやりとりの応酬で、さすがに疲れてしまったのだった。

 

「妖魔退治のほうが、ずっと楽」

 

 溜め息と共にそう漏らした後で、サイドテーブルの上にティーセットが用意されていることに気付く。喉の渇きを覚えていたタバサはカップに琥珀色の液体を注ぎ、口をつけようとしたが――ふと思い立ち、さっと杖を振るう。〝探知〟の魔法には、何の反応もなかった。

 

 それから素早く部屋の各所を確認して回った。王室専用の部屋というだけあって、小道具ひとつとってみても豪奢でかつ品のよいもので固められている。以前、グルノープルへの行幸の最中に立ち寄った宿など、ここと比べたら鶏小屋も同然だ。

 

 幸いなことに、どこにも己の身に害をなすようなものはなかった。

 

 ほっと息を吐き、再びソファーに身体を埋めた。開け放たれた窓から入ってくる潮風だけが荒みかけた心を癒してくれる。

 

 と、ふいに側の壁にかけられていたものと目が合い、タバサははっとした。

 

 それは一枚の肖像画だった。タバサと同じ色の髪を持つ、若く魅力的な男性の姿絵。

 

「この絵……わたしの中にある記憶よりも、ずっと凛々しい感じがする」

 

 額縁の中の人物は、タバサに柔らかな笑顔を向けていた。肖像画の下に打ち付けられた金属製のプレートには、こう刻まれている。

 

『シャルル・オルレアン公』

 

 その文字を指でなぞりながら、タバサは呟いた。

 

「伯父上は、いったいどういうつもりなの」

 

 魔法の毒薬で弟の妻の心を奪い、姪から王族の地位を取り上げただけでは飽きたらず、過酷な任務に就かせたというのに――自らが座す艦にその原因となった男の名を冠したり、わざわざ肖像画を飾らせるとは。

 

「わたしには理解できない」

 

 と、ふいに強い潮風がタバサの髪を嬲った。思わず窓を振り返った少女は、とあることに気がついた。この絵は窓の外に視線を向けている。そして、すぐ側にある椅子に腰掛けると――まるで置かれたテーブルを挟み、共に船旅を楽しんでいるような構図になるのだ。

 

 かつてオルレアン公邸の中庭で、父と伯父が仲良く将棋(チェス)を打っていたときのように……。

 

 それに気付いたタバサの身体が、かたかたと震え始めた。

 

「どうして……」

 

 殺したいほどの嫉妬と憎悪を向けていた相手との思い出を、こんなふうに目に見える形で自分の側に残したりするだろうか?

 

「そんなこと、ありえない」

 

 愛する父を殺した憎い仇。タバサはずっとジョゼフのことをそう見ていたし、自分たち家族も伯父から疎まれているとばかり考えていた。

 

 だが、その前提からして間違っていたのだとしたら……。

 

「伯父上は、本当は父さまを殺したくなんてなかった……?」

 

 あの日。ジョゼフが主催する狩猟の会に出かけた父は、魔法ではなく平民の武器である毒矢で射殺されるという、貴族として屈辱的かつ不名誉な死を遂げた。

 

 後に「内々に相談事があるから」という理由で父が呼び出されたと聞いたタバサは当時、それこそが罠だったのだと考えたのだが……実は本当に、伯父は父と話し合いがしたかっただけなのではないだろうか。国を二分する戦いを避け、和解の『道』を探るために――。

 

 この絵と部屋を見ていると、そんな考えが頭をよぎる。

 

「もしも……もしも父さまの死が、伯父上の命令によるものではなかったのだとしたら」

 

 タバサの顔が歪んだ。〝変相〟でイザベラのものに変化しているそれは、皮肉なことにモデル本人そのものに見える。

 

「派閥争い。まさか、ジョゼフ派貴族の中の誰かが暴走して、それで父さまを……」

 

 可能性はある。行き過ぎた正義に酔った誰かが伯父に意志確認をせず、争いの根本を絶とうと勝手に刺客を放ったのだとしたら。

 

「それなら理解できなくもない」

 

 伯父が将来政敵となる可能性の高い姪のタバサに『心を壊す』などという回りくどい毒薬を飲ませようとしたことも、自分たち母娘を生かしておいたことも。

 

 弟は死なせてしまったが、せめて家族の命だけは守ってやりたい――伯父は、そんな思いを抱いていたのかもしれない。殺してしまっては取り返しがつかないが、薬なら解除薬さえあればすぐ元に戻せる。狂人を御輿になどできぬと派閥を納得させることも可能だ。

 

 タバサが凶悪な合成獣の巣に放り込まれたのも、事実上の処刑宣告などではなく……本来はもっと別の任務に就かせるはずが、派閥による横槍が入っただけなのかもしれない。

 

 あるいは『天才』シャルルの娘ならば必ず乗り越えられると確信した上で、現在の状況を生み出す――役に立つ『駒』として利用するからと、派閥に働きかけていたのかもしれない。

 

 トリステインへの留学も、王宮の醜い派閥争いから姪を遠ざけるために行った、苦肉の策だったのではないか?

 

 あくまで仮説だが、もし本当に伯父がそんな風に配慮してくれていたのだとしたら――。

 

 大きな震えが、再度タバサの全身を襲う。

 

「……わたしは大変な過ちを犯すところだった」

 

 タバサが物言わぬ人形になったのは、感情を押し殺し、ひたすらに己の〝力〟を磨き――父の仇を討つためだ。

 

 憎きジョゼフの首を取り、父の墓前に供える。それだけが、彼女が生きる意味だった。

 

 北花壇騎士団の一員として黙々と任務をこなし、実績を上げる。そうして王家の信頼を得ることだけが『狂王』に近付く唯一の手段だったから……。

 

 額縁の中で微笑む父の目を見つめながら、タバサは思った。かつてのわたしなら、こんなふうに伯父の心中を想像したとしても……何もわからないし、わかろうともしなかっただろう。

 

 しかし、今なら理解できる。少なくとも伯父にとって父は――本当に大切な存在だったのだ。

 

 少女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 

「それなのに、なぜ? どうして、こんなことになってしまったの?」

 

 父がメイジとして優秀過ぎたから? いや、その程度で国法は覆らない。そもそもガリアは過去の悲劇――双子の兄弟が、王冠を巡って血で血を争う闘争を繰り返した歴史を繰り返さぬために、他国よりも王位継承に関する『縛り』が厳しいのだ。先代国王が早々にジョゼフを廃さず、今際の際まで次王の選定に悩んでいたのも、そのあたりの事情があるからだろう。

 

 それでも尚、今回のような醜い争いが起きた理由はただひとつ。

 

「伯父上が、魔法を使うことができなかったから……」

 

 『始祖』直系の子孫でありながら、魔法が使えない。国の威信や宗教的な意味合いを考えれば、ジョゼフはいつ廃嫡されてもおかしくなかった。

 

 実際、先代王妃は実の息子であるにも関わらず、ジョゼフを「不具の子」だと忌み嫌い、事あるごとに彼を廃し、次男シャルルを皇太子として定めるよう夫に働きかけていたと聞いている。

 

 イザベラは「王たるべき者の資質に、魔法の腕は関係ない」と言っていたが……残念ながらそれを許さないのがこのハルケギニアだ。

 

(そもそも、何故伯父上だけ魔法が使えないのだろう? 父さまだけではない。お祖父さまやお祖母さまも、平均以上の使い手だったと聞いている)

 

 ……と、ここまで考えるに至り、タバサの脳裏にとある人物の姿が浮かび上がった。

 

「ルイズ。あの子も魔法ができなかった」

 

 トリステイン王家の血を引く由緒正しき公爵家の三女。おまけに彼女の母親は『烈風』カリン。血筋的に、魔法が使えないなどということは考えられない。事実、タバサのパートナーによる分析の結果、ルイズは才能がありすぎたがゆえに〝力〟を制御することができず、爆発させてしまっていただけだった。

 

「どうして今まで気付かなかったの」

 

 ひょっとしたら、伯父上もルイズと同じなのかもしれない。だとしたら、ガリア王家とふたつの派閥は、なんて馬鹿げた争いをしていたんだろう。

 

 とはいえ、ジョゼフがどのように『失敗』するのかタバサは知らない。幼い頃、興味本位で父に尋ねたときには、

 

『ジョゼフ兄さんはね、今はまだ目覚めていないだけなんだ。他のひとよりも、ほんの少し遅いだけなんだ。だからね、いいかい? シャルロット。間違っても兄さんに、そんなことを聞いてはいけないよ』

 

 そう諭されてしまった。今思えば、あれは幼子の好奇心で兄を傷つけないための言葉だったのだろう。子供の無邪気さは、ときに残酷だから。

 

「確かめよう」

 

 イザベラなら、父親の魔法がどんなふうに失敗するのかわかるはず。それが自分の推測通りだったとしたら、伯父上は――本人がどう考えているのかはさておき――『無能』という不名誉な冠を外すことができる。

 

 そうなれば、シャルル派はもう妙な建前を掲げて反乱を起こしたりはできない。それに、父親を心から尊敬しているらしきイザベラとの関係も、多少なりとも改善できるはずだ。彼女と仲良くなれれば、その伝手を辿って妹の行方を捜すことも――。

 

 ……と、珍しく極端な前向き思考に陥っていたタバサは、はっとした。

 

「焦っちゃだめ。あくまでこれは仮定」

 

 ジョゼフが魔法を使えない理由がルイズと同じだとは限らないのだ。もしも伯父が、正真正銘魔法的に『無能』だったなら――彼ら親子を侮辱したと見なされるだろう。

 

 そうなったが最後、自分たちがどうなるかは火を見るよりも明らかだ。事はくれぐれも慎重に運ばねばならない。

 

「これは父さまが見せてくれた僅かな光明。逃すわけにはいかない」

 

 ぽつりと呟いた後、顔を上げた。額縁の向こう側から微笑みかけてくる父と目を合わせると、タバサは小さく頷いた。

 

「……そうね、父さま。今のわたしは、ひとりじゃない」

 

 知略に長けたパートナーが、すぐ側にいる。ふたりで知恵を出し合えば、きっと良い案が浮かぶだろう。

 

「大丈夫。タイコーボーは既に気付いていたから」

 

 以前、彼は自分の兄がジョゼフ王またはイザベラによって召喚された可能性がある、と言っていた。同じ三王家の血を引いており、なおかつ魔法が使えないとされていたルイズが〝召喚〟だけは成功させている。その事実を鑑みれば、自然と出てくる仮説だ。

 

 あの時点で彼がそれを教えてくれなかった理由も、今ならわかる気がする。

 

「もし、そんなことを言われたら。復讐に燃えていたわたしは、ろくに考えもせず――それを元手に無謀な賭けに出ていたかもしれない」

 

 けれど、今ならそんなことにはならないし、する必要もない。既に母や忠実な執事は救い出している。妹のことは気になるが、こればかりは焦っても仕方がない。むしろ、重要な情報を得るための手がかりに一歩近付いたと喜ぶ余裕ができた程だ。

 

 『雪風』の胸に希望の火が灯ったそのとき。こちらへ向かって駆けてくる足音が聞こえてきた。タバサは急いで椅子に立てかけていた杖を手に取ると、両の耳に神全経を集中させる。風のメイジは人一倍『音』に敏感だ。特にランクの高い者ならば、足音を聞くだけで敵の人数や身につけているものさえ判断できる。

 

「イザベラや召使いじゃない。これは軍靴の音。それに拍車の音がしない……つまり、花壇騎士たちではない。けれど、クラヴィル提督のものとも違っている。一体何者?」

 

 それからすぐに、丁寧なノックの後に若い男の声が響いた。

 

「お休みのところ、失礼致します。ガリア王国空海軍所属、ヴィレール少尉であります」

 

「用件を」

 

 簡潔極まりないタバサの問いに、扉の向こうにいる少尉は思わず怯んだようだ。が、彼はすぐに己を取り戻すと、改めて声を張り上げた。

 

「クラヴィル提督より言伝です。王宮から、火急の報せが届いたとのこと。長旅でお疲れのところ誠に恐縮ですが、艦橋までお越しください。我らが護衛仕ります」

 

 タバサがそっと扉を開けると、ヴィレールと名乗った士官とおぼしき青年と、水兵服に身を包んだ男たちが十名ほど控えていた。

 

 本来であれば、花壇騎士団が護衛につくはずだが――と、考えたタバサであったが、以前本で読んだ知識が脳裏を掠めた。理由はよくわからないが、どこの国でも陸軍と海軍というものは仲が悪いらしい。また、船乗りはその性質上長い間フネと共に生活を送ることから、フネを家や恋人のように思う者も多いのだそうだ。

 

 おそらくクラヴィル提督をはじめとした空海兵たちは、王都の守護を主な役目とする騎士たちを『陸軍』『大切な家を荒らす余所者』だと認識しているのだろう。

 

(……人間というものは、どうしてこうもくだらないことでいちいち争うのだろう)

 

 我知らず肩を落としたタバサは、大人しく彼らの後に続いた。

 

 ――そして艦橋を訪れたタバサが耳にしたのは、神聖アルビオン共和国がトリステインに対し宣戦布告したという、ガリア王国トリスタニア駐在大使からの報せであった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 

「はい! それじゃ、次はこの毛皮の上着ですよ~」

 

「ほらほら、大人しく手を挙げて!」

 

「いや、だから。これくらいひとりで着られると言っておろうが!」

 

「なぁに? あなた、あたしたちから仕事を取り上げる気!?」

 

「私が王宮勤めをやめさせられたら、我が家の家計が……」

 

「うちも、病気の父さんが……」

 

「あたしの家だって……」

 

「ええい、メソメソするなッ! わかった! わかったから早くそれを着せるのだ!」

 

「うふふ、そうそう。最初から大人しく言うこと聞いてればいいのよ」

 

「うぬ~ッ……」

 

 ――衝撃的な報せから、数日後。

 

 プチ・トロワの一画にある衣装室で、太公望は王宮付き衣装係の着せ替え人形と化していた。

 

 トリステインとアルビオンが開戦したため、イザベラが出席するはずだったゲルマニア皇帝の結婚式は無期限延期となり……その結果。護衛の騎士団を含む王女さまのご一行は、フネで異国へ飛び立つことなく早々に王都へ帰還する羽目になったのである。

 

 ところが、そこで任務終了――というわけにはいかなかった。リュティスへ戻った早々、太公望とタバサは再び衣装部屋へと放り込まれてしまったのだ。

 

 彼が着せられているのは、主に貴族や裕福な商人の付き人に支給される厚手のスラックスと麻のシャツに冬用の上着というお仕着せだった。

 

 こうして衣装係の女たちによって着替えさせられるのは、なにも今回が初めての経験ではない。以前の任務でも行われたことだ。そのときも同じように抵抗したのだが、

 

「貴族さま方のお召し替えが、わたしたちに与えられた仕事なの。それを奪われたら、家族を養えなくなるのよ。あなた、うちの一家を路頭に迷わせるつもり?」

 

 ……と、問答無用で黙らされてしまった。にも関わらず、あえてこんなやりとりをしているのは王宮内での情報を集めるために、彼女たちとの会話の糸口を掴みたかったからだ。

 

「それにしても、あなたも本当に大変よねえ。姫殿下の護衛でゲルマニアへ向かったと思ったら、すぐに戻ってきてまた新しいお仕事だなんて」

 

 言われた太公望は、疲れた顔をして頷いた。もちろん「うまくいった」などという内心はおくびにも出さない。

 

「まったくだ。それに、どうせなら皇帝とお姫さまの結婚式を見てみたかったのう」

 

 うんうんと側にいた別の娘が頷く。

 

「そうよねえ。ものすごくお金をかけた、それはそれは豪華なお式になるはずだったのに! 本当に残念だったわね」

 

「ほほう、よくそんなことを知っておるな」

 

 意外そうな顔をした太公望に、衣装係のひとりが得意げに言った。

 

「そりゃあ王宮に勤めてるんですもの、噂話には嫌でも敏感になるわ。それに……」

 

 そこで言葉を切り、すぐ隣に立っていた若い娘の肩をぽんと叩く。

 

「この子の実家が、ベルクート街にあるリストランテなのよ」

 

「ベルクート街?」

 

「ああ、そっか。あなたは外国人だったわね。ベルクート街っていうのはリュティスの北東にある繁華街のことよ。ただし! 貴族さまの中でも高位の方々や、お金持ちの商人しか入れないようなお店ばかり並んでるの」

 

「だから、そういう話はいくらでも入ってくるってわけ。そうね、たとえば……ゲルマニアの皇帝が結婚式で使う品々を世界中で買いあさらせていた、とか」

 

「なるほどのう。わしには縁遠い場所のようだ」

 

 太公望が感心したように言うと、女たちからくすくすという笑い声が漏れた。

 

「そうね~。さすがに騎士(シュヴァリエ)の俸給だけで通うには無理があるわ。頑張って出世しなきゃ!」

 

 自分の発言にうんうんと頷く女と、同意する彼女の同僚たち。

 

「だけど、いくらメイジだからってあなたみたいな子供……それも外国人が花壇騎士になれるなんて普通はありえないことなのよ」

 

「そうそう! いくらそれが、姫殿下の気まぐれがきっかけだったとしてもね!」

 

「おまえら、言いたい放題言ってくれるのう」

 

 むくれ顔でぼやく太公望の様子が余程おかしかったのか、再びころころと笑い声が上がる。と、女たちのひとりが急に真顔になった。それから、ふっと小さく息を吐く。

 

「あーあ、戦争なんて起きなければよかったのに」

 

 その一言で彼女たちは互いに顔を見合わせると、深い深い溜め息をついた。

 

「まったくだわ」

 

「しばらくの間、平和を満喫できると思ってたのに」

 

「ね~」

 

 これはトリステインが戦禍に見舞われることを憂いているわけではない。もっと身近なことだろう。その件について心当たりがありすぎるほどにあった太公望は、確認のために口を開いた。

 

「よいのか? わしの前でそんな話をしても」

 

「だって、わざわざ告げ口したりしないでしょ? こんなこと。そんな真似したら……」

 

「まあのう。巻き添え食らって、雷を落とされたくはないからな」

 

「うふふ、わかってるじゃない」

 

「ま、そうでもなきゃあの姫殿下に気に入られたりはしないわよね~」

 

「そうそう。たとえまぐれでも、騎士になれたりするもんですか」

 

「おのれ、まだ言うか!」

 

「だってぇ~」

 

 再びくすくすと忍び笑いが漏れる。やはり、彼女たちはイザベラの不在期間を心待ちにしていたようだ。

 

 心底がっかりしたといった表情で、侍女たちは愚痴り続ける。

 

「最低でも半月はのんびりできるはずだったのに」

 

「姫殿下、ここ最近やたら機嫌が良かったのに……これでまたイライラし始めるわよ。何とかうまい手を考えないと……」

 

「ああ、それもう手遅れみたい」

 

「え、ウソ!?」

 

「ホントよ。姫殿下が壁に枕を投げつけてるところ、配膳係の子が見たらしいし」

 

「わたしたちの戦いは、これからみたいね……」

 

 どんよりとした雰囲気が衣装室の中を覆い始めた、そのとき。パンパンという手を叩く音と共に年配の侍従長が顔を出した。

 

「お前たち、いつまでじゃれ合っとるんだ! これ以上姫殿下の機嫌を損ねたくないなら、口ではなく手を動かすんだな」

 

 それを聞いた衣装係の女たちは、慌てて残る仕事に取りかかった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。

 

「まったく! 『レコン・キスタ』の連中も面倒な真似してくれるわぁ~。どうせ仕掛けるなら、わたしたちが出発する前にやれってんだよ。お前たちだってそう思うだろ?」

 

 衣装係たちの予測通り、王女の寝室に毎度お馴染みの金切り声が響き渡っていた。

 

 侍女たちの顔に戸惑いの色が浮かび上がる。ところがイザベラに睨めつけられた途端、彼女たちは精霊飛蝗のようにコクコクと首を上下に振った。そんな部下たちの様子を見て多少溜飲が下がったのであろう姫君は、満足げに口端を上げた後、ベッドの脇に置かせていた果物籠に手を伸ばし、中からブドウを一粒つまんで口の中に放り込んだ。

 

 ネグリジェ一枚でベッドに寝そべり、食器を使わず手で果物を食す。相変わらず、一国の王女とは思えぬだらしのない振る舞いである。

 

 イザベラは足をだらんと伸ばし、気怠げな様子で側に立つ侍女に問うた。

 

「で、あの子たちはまだなの?」

 

「は、はい。シャル……あ! に、人形七号と使い魔八号は、し、支度を終えて、まもなく到着するかと」

 

 イザベラは問題の侍女の顔を、獲物を追い詰めた蛇のような目でじっと見つめた。

 

 うっかり「シャルロット」と言ってしまいそうになった侍女は震え上がる。そんな彼女の同僚たちはというと、とばっちりを畏れて一歩後ろに下がっていた。

 

「最近耳に挟んだんだけどさぁ。異国にはね、王族に無礼を働いた者に対する特別な刑罰があるらしいよ。取り入れるには少しばかり手間がかかるんだけど、検討しておくべきなのかしら」

 

 顔色が青を通り越して白くなった娘に、イザベラは容赦なく追い打ちをかける。

 

「なんでも、鉄の柱を真っ赤になるまで焼いて……それに抱きつかせるんだってさ」

 

 哀れな犠牲者が目を回して卒倒し、周囲にいた同僚たちに抱き抱えられたところで呼び出しの衛士が声を上げた。

 

「七号さま、八号さま。お成り!」

 

 部屋の中にいる者たちの顔に安堵の色が浮かび上がる。これで主人の矛先が、自分たちから多少なりとも逸れるからだ。

 

 面倒そうに起き上がり、ベッドの端に腰掛けたイザベラが叫んだ。

 

「とっとと入ってきな。時間は無限じゃないんだよ!」

 

 その呼びかけに応え、ふたりが入ってきた。もちろんタバサと太公望である。

 

 お仕着せ姿の太公望とは異なり、彼のパートナーは白く清潔なシャツと濃紺のジャケットに乗馬ズボンという出で立ちで、頭には大きなシルクハットを被っていた。

 

「ここ最近、貴族の娘たちの間で男装が流行ってるみたいだから、試しに着せてみたけどさあ……ぷぷっ。身体に起伏のないあんたの場合、本物の男の子にしか見えないね! あっはっは!」

 

 手を打ち鳴らして爆笑するイザベラだったが、それからすぐに不機嫌そうに唸った。すると周囲から同調するような笑い声が巻き起こる。

 

(……こいつら、順調に教育されとるのう)

 

 などという感想を胸の奥に仕舞い込んだ太公望は、ベッドの上で笑い転げているイザベラに不安げな表情で問うた。

 

「あのう、姫さま。トリステインがどうなったのか、何か聞いておられますか?」

 

「ああ。トリスタニアの駐在大使から、高速フクロウ便がひっきりなしに飛んでくるからね。おかげで伝達係は全身羽根まみれだとさ」

 

「魔法学院は無事なのですか?」

 

「さあね、そこまでは知らないよ。わたしの所へ届くのは、あくまでトリスタニアとその周辺に関する情報だけだからね」

 

「そ、そうですか……」

 

「なんだい、もしかして心配してるのかい?」

 

「ええ、まあ。魔法学院の皆さんは、わたくしに良くしてくださいましたので」

 

 イザベラはわざとらしくタバサに視線を投げると、すぐに太公望へ向き直った。

 

「ふふん。戦の報せを聞いても顔色一つ変えなかった主人と違って、お前は優しいんだねえ」

 

 それから、にいっと口端を歪めながら問うた。

 

「トリステインに戻りたいかい?」

 

「はあ、本音を言わせてもらうと。でも、これから仕事があるんですよね?」

 

「ふふん、わかってるじゃないか。そうだよ、お前はもうガリアの騎士なんだから、トリステインなんかよりもガリアを優先するのが当然なのさ」

 

 すらりと伸びた美しい足を乱暴に組み直しながら、イザベラは続けた。

 

「さあて、それじゃ今回の任務について簡単に説明するよ。最近、リュティス北東の街に新しい賭博場ができてね。客から相当派手に金を巻き上げているらしいんだ」

 

 サイドテーブルに置かれていた羊皮紙を広げ、それに目を通しつつさらに続ける。

 

「本来なら、こんなのは警邏隊の仕事なんだが――情けないことに、問題が公になったら恥をかく貴族が王宮やらそこらに大勢いるらしくてさ。王権をもって取り締まる、なんて派手な真似をするわけにはいかないってのが父上の考えでね」

 

 そこまで告げた後、イザベラは手に持っていた羊皮紙を丸め、さらに小さな布袋をタバサの足下に投げて寄越した。カシャン! と、小さな金属がぶつかりあう音が響く。

 

「任命書と、軍資金だよ。いいかい七号、お前はド・サリヴァン伯爵家の次女、マルグリットを名乗りな。八号はお付きの従者という設定だ。いいね?」

 

 タバサは羊皮紙と布袋を拾い上げると、頷いた。太公望が慌てたように追従する。

 

「お前たちふたりで、国王のお膝元で生意気な真似をしている賭博場を叩き潰してくるんだ。連中がどういうカラクリで儲けているのか、それを調べてくるのも忘れるんじゃないよ」

 

 と、ふいにイザベラの顔に冷酷な笑みが浮かんだ。それから毒がしたたるような口調でタバサに告げる。

 

「例の賭博場は、中に入る前に杖を預けるのが決まりなんだそうだ。そりゃそうだ、賭けに負けたメイジが魔法で暴れたりしたら困るからね」

 

「…………」

 

 無言で見つめ返してきた従姉妹に、王女は愉悦を隠そうともせず説明を続けた。

 

「つまり、今度の任務は魔法なしでどうにかしなきゃならないってわけ。少しばかり戦いが上手ければどうにかなるってもんじゃないよ。醜態を晒さないで済めばいいね! あは、あは、あはははははッ……!」

 

 

 ――タバサと太公望が退室した後。

 

 疲れたから少し休むと一方的に告げて付き人全員を追い出したイザベラは、開かれた『部屋』に飛び込んだ。

 

 ゴシック調の長椅子に腰掛けていた主――王天君が、来客を歓迎する。

 

「うまく先延ばしできたみてぇだな」

 

「ええ、なんとかね。あの仕事が回ってきたおかげで助かったわ」

 

 イザベラは王天君の向かい側に置かれたソファーに、どすんと音を立てて腰掛けながら答えた。それから、テーブルの上にあったグラスにフルーツジュースを注ぐと、いっきに飲み干す。

 

「あなたの弟は、人間同士の戦いに干渉したりしないって聞いてるけど……だいぶトリステインに入れ込んでるみたいだし、万が一のことが起きて、父上の妨げになることだけは避けたいのよ」

 

 先程のやりとりを思い出しながら言葉を紡ぐイザベラに、王天君は同意を示した。

 

「アイツはとんでもねぇお人好しだからなぁ。まぁ、オメーの心配もわからなくはねぇぜ」

 

「……実際問題として、あなたの弟が『干渉』したら戦局はどう動くかしら?」

 

 パートナーの問いに、王天君は不気味な笑みを浮かべた。そのまま無言を貫き、否定も肯定もしない。知らず知らずのうちに、イザベラの顔が引きつる。

 

 アルビオン側の兵力は、空に展開した空中戦艦十隻と地上に二千名の兵士、うちメイジが百名程度という報告を受けている。与えられた情報を脳内で素早く精査した王天君は、即座に「太公望がトリステイン側に加勢すれば、レコン・キスタに勝ち目はない」と結論した。

 

 太公望の持つ『太極図』は、展開した範囲内の宝貝を完全に――相手の実力が余程高くなければ無効化できる。

 

 既にこの世界の魔法を目の当たりにした王天君には、あっさり〝風石〟を封じられ、地面に激突する艦隊の姿が容易に想像できた。太公望の性格的に、どうにかして敵味方共に負傷者が出ないような状態にならない限り、そんな真似はしないだろうが。

 

 しかし、それを目の前にいる王女に告げたりはしない。

 

 かたやイザベラはというと、以前ラグドリアン湖で見た巨大な竜巻が、アルビオン軍をまとめて薙ぎ払うさまを思い浮かべていた。

 

「ね、ねえ、オーテンクン。あなたの弟は、いつまでわたしの言うことを大人しく聞いていてくれるかしら? だって、その気になれば……」

 

「ふん、ヘタレてんじゃねぇよ。前にも言ったろ、アイツはとんでもねぇお人好しだってな。オレがオメーの下で働くように、よ~っく『お願い』してきたから心配すんな。それによぉ――」

 

「それに?」

 

 ふたりの間にパッと『窓』が開いた。その中に映ったものを見て、イザベラは目を輝かせる。

 

「いつもの妖魔退治なんぞと違って、今回みてぇな仕事はアイツの好みだ。怒るどころか大喜びするだろうよ。つーわけでだ、オレたちはのんびり高みの見物といこうぜ」

 

 ――王天君が開いた窓には、ヴェルサルテイル宮殿の裏門を抜け、繁華街方面へ向かうタバサと太公望の姿がくっきりと映し出されていた――。

 

 

 




早いもので、今年もあと1月を残すのみとなりました。
そして、本作のストックも残り10話を切りました。

感想返しなどでもちらっと触れていますが、
ストックがなくなった後は現在のようにほぼ毎日更新は不可能となります。

週1を目標にできればとは思っておりますが、年末年始は忙しくなるため、どこまで守れるかはわからない状況です。

どうにか完結までこぎつけられるよう、頑張ります。


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第93話 鏡の国の姫君、踊る人形を欲するの事

 ――ハルケギニア大陸の南方に広がる海洋へと注ぐ大河、シレ川。

 

 その川沿いに、旧市街と呼ばれる大きな中州を挟むようにして発展した大都市、それがガリアの王都リュティスだ。

 

 魔法大国と呼ばれるこの国は、メイジ――それも、裕福な貴族の数が他国に比べて多い。金持ちが多いということは彼らに仕える従者も数多く存在するというわけで……つまるところこの街は、ハルケギニア諸国最大の都市なのであった。

 

 そしてその繁栄ぶりを如実に示すような場所が、ヴェルサルテイル宮殿から見て反対側、都の北東部に存在する。それがリュティス市立劇場を中心に四方へ伸びた繁華街だ。平日、しかも昼前であるにも拘わらず、大勢の人出で賑わっている。

 

 中でも東西に延びたベルクート街には、高位の貴族や上級市民しか立ち入れないような高級店――服飾店や宝石店はもちろんのこと、超一流のシェフが腕を振るうリストランテなどがずらりと並んでいる。通りをゆくのは、主に暇をもてあました貴族の奥方たちだ。派手に着飾った彼女たちは皆揃って召使いの少女を従え、優雅に街を練り歩いている。

 

 そんな中を、昨今流行の男装をしたタバサと彼女の従者という設定の太公望は目的地へ向かって歩を進めていた。

 

「ほほう、ここが噂のベルクート街か」

 

 太公望は、きょろきょろと辺りを見渡した。どの建物を見ても上品な造りで、高級感に溢れている。丁寧に積み上げられた煉瓦、軒先から吊り下げられている華美なランプ、見事な装飾が施された窓枠に填められている大きなガラス窓。そして、その向こう側に並べられているいかにも値の張りそうな品々――。

 

「なるほど、確かに下級貴族や一般市民が立ち入れるような場所ではなさそうだのう」

 

 そう呟いた直後。彼は、自分のすぐ前を歩いていた少女の手を引いた。

 

「お嬢さま、これはなんでしょう?」

 

 振り返ったタバサは、店の窓ガラスにべったり手をついた上に顔まで押しつけて中を覗き込むパートナーを見るやいなや背負っていた長杖を手に取り、彼をぽかりと殴った。

 

「痛ッ!」

 

「店に迷惑」

 

 しかし太公望はその場から離れようとせず、窓越しに寄せ木細工の小箱や、珍しい魔法人形(アルヴィー)が並べられた陳列棚を飽きもせずに見つめている。

 

 ――寒空に、再び木の杖による乾いた打撃音が響き渡った。

 

 道行く人々が、くすくす笑いながらふたりの側を通り過ぎてゆく。絵に描いたような田舎者の従者と、そんな彼を持て余しているように見える貴族の少女との対比が相当可笑しかったようだ。

 

 思わず大きな溜め息をつきそうになったタバサだったが、ふいに気付いた。

 

(どうして彼はこんな無知な子供のような真似を? 任務中だから、従者の役に没頭している? それならもっと別のやりかたがあるはず。もしかすると、何か理由があるのかもしれない)

 

 そう考えたタバサは太公望の仕草を注視した。相変わらず店内を気にしているようだが、よくよく観察してみると、彼の目は商品を見ていない。視線が向かう先はガラス窓に映る青空――。

 

 形のよいタバサの眉が、僅かに動く。

 

「わかった」

 

 振り返った太公望に、タバサはさらに続ける。

 

「用事が済んだら、好きなだけ見てかまわない」

 

「本当でございますか!?」

 

 主人が小さく頷くのを見た太公望の顔が、ぱっと輝いた。

 

「ありがとうございます! お優しい主人を持ったわたくしめは、幸せ者にございます!」

 

 最後まで聞くことなく、タバサは再び歩き出す。太公望は、慌ててその後へ続いた。

 

 

 ――それから約十分後。ふたりは、通りの奥にある豪奢な店の前に辿り着いた。

 

 看板に書かれていた店名を、太公望が読み上げる。

 

「ベルクート宝飾品店。ここで間違いないようです」

 

 タバサは同意を示す代わりに、無言のまま店の入口へと向かった。

 

 観音開きの扉の左右に、柱を挟んで大きなガラスが填め込まれた窓がせり出している。その奥には金や銀、プラチナなどの貴金属でしつらえた飾り棚が並んでおり、指輪や首飾り、イヤリングなどの様々な装飾品に埋め込まれた宝石類が照明を反射してきらきらと輝いていた。

 

 友人たちが見たら歓声を上げそうなそれらには目もくれず、タバサは店の最奥へと向かう。それからすぐに目的のものを発見した。

 

 店内でも特に豪華なショーケースの中で、燦然と輝く大粒の青いダイヤモンド。ダイヤは透明度の高いもの程高い価がつくが、中でも鮮やかな色のついたものは特に珍重される。この石が偽物ではなく本物ならば、どれほどの値段になるのか想像もつかない。

 

 ブルーダイヤモンドを見つめるタバサの元へ、整髪油で髪をぴしりと撫で付けた壮年の男性店員が近付いてきた。彼の顔には人当たりの良さそうな笑みが浮かんでいる。

 

「いらっしゃいませ、お嬢さま。本日はどういった品をお探しで?」

 

 タバサは躊躇うことなくケースの中の青いダイヤを指差した。

 

「これ」

 

 店員は心底申し訳なさそうな声で言った。

 

「このダイヤは売り物ではございません」

 

「これが欲しい」

 

 それを聞いた店員の目が、すっと細められた。

 

「こちら、二千万エキューはいたしますが……?」

 

「に、にに、にせんまんエキュー!?」

 

 落ち着き無く店内をうろうろしていた太公望が、素っ頓狂な声で叫んだ。

 

 平民の家族四人が一ヶ月間、都会で何不自由なく生活できる額が約十エキュー。千エキューもあればトリスタニアの郊外に庭付きの家が買えるとも聞いていた。それらと比較することで、二千万という額が途方もないものだということがわかる。

 

 しかしタバサは全く動じずに応えた。

 

「買った」

 

「左様でございますか。それでは手付け金を頂戴致したく……」

 

 太公望が慌ててタバサの側へ駆け寄る。彼の主人は財布を受け取ると、中から三枚のコインを取り出し、店員の手に握らせた。

 

 店員は渡されたものを見た。金貨ではなく銅貨、それもたったの三枚。到底二千万エキューの手付けになる額ではないのだが、彼は怒り出すどころか少女に向かって丁重な礼をした。

 

「確かに戴きました。それでは、こちらへ……」

 

 促されるまま、ふたりは店員の後へ続く。絹のカーテンで仕切られた店の奥へ入り、いくつかの部屋と通路を通り抜けると、その先は袋小路になっていた。

 

 店員が壁際に置かれた大きな棚の横についていた紐をぐいと引くと、ずるずると音を立てて棚が横に動き、裏に隠されていた扉が現れた。

 

「どうぞ、お通りくださいませ」

 

 ――そう。先程のブルーダイヤに関するやりとりは、王政府からの指示書に記されていた合い言葉。店員は客がここへ至る意志と資格があるかどうかを試していたのだ。

 

 扉の奥には階段があり、地下へ繋がっていた。言われるまま、ふたりは階段を下りた。ランプの明かりで煌々と照らされた先は突き当たりになっており、大きな鉄扉が行く手を塞いでいる。その隣には小洒落たテーブルかけの上にベルが置かれたカウンターがある。

 

 カウンターの奥にいた黒服の男が、タバサたち主従の姿を見るなり告げた。

 

「これはこれは、貴族のお客さまですか。恐れ入りますが、こちらで杖をお預かりする決まりとなっておりますので……」

 

 了承の印に小さく頷くと、タバサは背負っていた長杖を男に手渡した。それを羅紗の布で丁重に包むと、男は笑みを浮かべて言った。

 

「ご協力ありがとうございます。それでは、楽しいひとときをお過ごしくださいませ」

 

 それから、ドアの両脇に立っている詰め襟姿のドアマンふたりに目配せをした。

 

 ドアマンたちが重そうな鉄扉を開くと同時に、その奥から喧噪と、煙草の煙や酒の臭いが混じった何とも言い難い空気がどっと溢れ出してきた。

 

「秘密の社交場『天国』へようこそ!」

 

 派手な化粧を施し、きわどいドレスに身を包んだ接待係の女たちがふたりを出迎えた。

 

「あらあら、ぼうやたち。今日は誰かの付き添いかしら?」

 

 太公望が、彼女たちから守るようにタバサの前へ出た。

 

「お、お嬢さまに無礼をなことを言うな!」

 

 よくよく見ると、彼の身体はぷるぷると小さく震えている。

 

(相変わらず演技過剰……)

 

 などとタバサが冷めた目で観察を続けていると、女のひとりが声を上げた。

 

「あらやだ、ほんとだわ。こっちの子、女の子じゃないの!」

 

「まったく、どこの商家のお嬢ちゃんだい? どっちにせよ、ここは子供の遊び場じゃないんだ。とっとと帰んな!」

 

 女が小馬鹿にしたような表情で叫ぶ。

 

(この怒鳴り声の中に、わたしたちを気遣うような音が含まれている気がする)

 

 そんなタバサの思考は、野太い男の声によって断ち切られた。

 

「この馬鹿者が。貴族のお嬢さまに対して無礼なことを言うな」

 

 現れたのは、恰幅のよい商人風の男だった。四十をいくつか過ぎたくらいであろうその人物は、女たちを叱りつけて奥へと下がらせた。それから、タバサに向かって深々と頭を下げた。

 

「接客係の無礼をお詫び申し上げます」

 

「あなたは?」

 

「当カジノの支配人、ギルモアと申します」

 

 ギルモアと名乗ったその男は、ひとの良さそうな笑みを浮かべている。しかし、その目は値踏みするかのようにタバサたち主従を観察していた。

 

「重ね重ねのご無礼、どうかお許しを。お名前を頂戴してよろしいでしょうか」

 

 小さく首をかしげたタバサに向かって、ギルモアは理由を告げた。

 

「当カジノは安全を第一に謳っておりますゆえ、慎重を期すために全てのお客さまからお名前をお伺いしているのです」

 

 それを聞いたタバサは、王宮で言われた通りの偽名を口にした。

 

「ド・サリヴァン伯爵家の次女、マルグリット」

 

「ありがとうございます。ところでお嬢さま、こういった遊びは今まで……」

 

「少しだけ」

 

「左様でございますか。どうやら他のカジノではご満足いただけなかったようですな」

 

 タバサは周囲を見回した。的当てやカード、ルーレットにサイコロと、部屋のそこかしこで多種多様なゲームが行われている。それらに群がっている客は皆、裕福そうな者ばかりだ。

 

 と、それまで物珍しそうに辺りを眺めていた太公望がギルモアに声をかけた。

 

「支配人さん」

 

「はい、何でしょう?」

 

「とても立派なカジノなのに、どうしてこんな地下に造ったんですか? 外でやったほうが、もっとたくさんお客が来ると思うんですけど」

 

 ギルモアは小柄な主従を見比べた。恥ずかしそうに俯いている少女と、好奇心ではちきれんばかりの少年。これは良いカモになりそうだ……などという思いはおくびにも出さず、彼は投げかけられた疑問に答えた。

 

「我が国においてカジノは合法ですが、賭け金に上限がございます。当店では、そういった普通のレートではご満足いただけないお客さま方のために、特別な設定で運営しているのですよ」

 

「そう。だから、地下に店を構えている」

 

 タバサの補足に、ギルモアは満足げに頷いた。

 

「左様でございます」

 

 太公望が、ぽんと手を打った。

 

「なるほど! お嬢さまはそういう店で遊ぶのが楽しみで、朝からそわそわしていたと……」

 

 コーンという小気味のよい音が、ホールに響き渡った。

 

「ひ、酷い……いきなり殴るなんて」

 

 涙目で床に蹲る太公望へ、冷たい声が降り注いだ

 

「自業自得」

 

「そんな、わたくしめが一体何をしたと?」

 

 無言で従者をぽかぽか殴り始めた少女を、支配人が止めた。

 

「まあまあ、お嬢さま。そのあたりで……こうして折角いらしたのですから、私がご案内致しましょう。今日はどのゲームで遊んで行かれますか?」

 

 太公望を殴る手を止め、少し考えたタバサは――ひとつの卓を指差した。

 

「あれ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサが選んだのは、サイコロを使ったゲームだった。

 

 ルールは簡単。三つのサイコロを銀のカップに入れて振り、出た目を記録する。それから再度振り直し、次に出た目が前の合計値よりも大きいか小さいかを当てるというものだ。

 

 軍資金として預かってきた金貨をチップ――このカジノ専用の通貨に変えると、タバサは早速賭けに臨んだ。

 

 そんな彼女の様子を、全く別の場所から覗き見ている者たちがいた。太公望を起点に『窓』を展開した王天君と、イザベラである。

 

「ふふん、ずいぶんとみみっちい賭け方するのね。意気地がないわぁ~!」

 

 一回の勝負にタバサが賭けているのはチップ一枚。投入できる最少額である。ちりんちりんとカップにサイコロがぶつかる音がする。テーブルに伏せられた賽の目は、六・三・四。前回の目は二・三・六……『小』に張っていたタバサの前から、チップが持ち去られる。

 

「あはははははッ、早速負けてるじゃないの! みっともないったら!」

 

 『窓』の下で、再びタバサがチップを取り出す。

 

「あらやだ、また一枚なのぉ~? 百エキューしか渡さなかったから、仕方ないのかもしれないけど。そうだ! このまま最後まで負け続けたら、全額年金から引いてやろうかしら。あの子を借金漬けにしてやるのも面白いわぁ~!」

 

 げらげらと笑い続けるイザベラに、王天君が訊ねた。

 

「オメー、あの女が換金してたとこ見てたんだな?」

 

「もちろんよ。チップ一枚が金貨一枚だなんて、情報通りかなりの高レートだわ……って、あ! また負けてる! ふふん、魔法を取り上げられたらてんでダメじゃないのさ。まったく、使えないったらないわね!」

 

 王天君の目が、すっと細められた。

 

「さぁて、そいつはどうかな」

 

「え? 何かわかったの?」

 

「まぁ、いいから黙って見てな」

 

 それから十回ほど、タバサは負け続けた。隣の椅子にちょこんと座っていた太公望は、ディーラーが持つカップと少しずつ小さくなってゆくチップの山を、はらはらしたような表情で交互に見比べている。

 

 ところが十数回目のゲームで、状況が一変した。それまでじっとディーラーの手元を見つめていたタバサの目元がキラリと光る。そして、これまでとは一転。なんと三十枚ものチップを一度に賭けた。

 

「お嬢さま! いくら負け続けだからといって、自棄になっては……」

 

「黙って」

 

 チン、チロリンと鳴きながら、カップの中でサイコロが踊る。ディーラーが、卓にカップを伏せる。ごくりという唾を飲む音が響く。そして、結果――。

 

 出た目は二・五・一。前回よりも合計値が大きい。そしてタバサが張ったのは『大』だった。チップの山が、一気に高くなる。

 

「やりました! やりましたよお嬢さま! ほら、こんなに!」

 

 その後、タバサは少額を賭け続けて時折大きく張るという行為を繰り返し、チップの山を少しずつ大きくしていった。

 

「ね、ねえ、オーテンクン! あの子、なんでいきなり勝ち始めたの!?」

 

 戸惑いと苛立ちを隠そうともしない王女に、王天君は意地の悪い笑みを見せた。

 

「目。それと耳だ」

 

「どういう意味?」

 

「あの女、最初の十回は完全に捨てていやがった。んで、徹底的にディーラーのクセを盗んだっつうわけだ」

 

「クセを……盗んだ?」

 

「あぁ。今は確実に見切れた時だけデカく張ってやがる」

 

 なるほど、相手のクセを目で盗んだということか。だとすると、耳とは一体……と、しばし考えたイザベラは、答えに行き着き思わず叫んだ。

 

「まさかあの子、目でカップにサイコロが入れられる瞬間を捉えて――そこからは、音でどのくらい回転したかを聞き取っているってこと!?」

 

 ニッと笑い返してきた王天君を見て、イザベラは悟った。どうやらこれが正解らしい。再び『窓』を覗き込みがら思い返す。風メイジは音に敏感だ。優秀なメイジとして知られる従姉妹が、それを武器にしていることは想像に難くない。

 

 魔法がなくても有能さを垣間見せる従姉妹――これが半年前のイザベラなら、悔しさのあまり家具やら小道具やらに八つ当たりしていただろう。しかしタバサと同様、彼女も少なからず成長していた。モノに当たる代わりに思考を切り替えたのだ。

 

 ――わたしのパートナーは、歴戦のカジノのディーラーすら気付かない従姉妹の技を即座に見切った。

 

 そもそも王天君の『窓』を有効活用するためには、目に映ったものの詳細を確実に捉え、分析し、必要な情報を得るための知識と観察・洞察力が欠かせない。これまでイザベラは、彼を通してそれらを学んできたつもりであったが――この件でもわかる通り、未だパートナーのそれには到底及ばないことを自覚している。

 

 そして、王天君がイザベラの元へ来るまでの間『窓』を開くための起点となっていたのは、彼の弟だ。ということは、つまり――。

 

「あなたの弟も、シャルロットが何をしているのかわかっているのよね?」

 

「だろぉな。飽きもせずにあんなダセェ真似してやがるしよ」

 

 主人が勝つと派手に喜び、負けたらばったりと机に突っ伏す。或いは大げさに嘆く――見事なまでに彼は道化に徹していた。あの所作が迷彩となり、少女の行為がバレにくくなっているのだ。

 

 イザベラは、つまらなさそうにフンと鼻を鳴らした。

 

「もったいないわねぇ~。わたしとしては、シャルロットの引き立て役なんかよりも、彼の『目』に期待しているんだけど」

 

 わたしが仕掛けた罠をことごとく見破ったくらいなんだから、イカサマのタネを突き止めるくらい簡単でしょうに。そう続けたイザベラに、王天君は不気味な笑みを浮かべて見せた。

 

「今はその時じゃねぇってこった。まぁ、そのうち動くだろ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから一時間ほどして。

 

 タバサの前にチップの山が築き上げられていた。その額およそ二千エキュー。幼い(ようにしか見えない)少女が勝っているせいか、テーブルの周囲に少しずつギャラリーが増えてきている。

 

 彼らと周囲のテーブルを見ながら、太公望がいかにも「退屈で仕方がありません」と言うように身体を揺り動かし始めた。

 

 それを合図と受け取ったタバサは、チップを十枚ほど彼に手渡した。

 

「遊びに行ってもいい」

 

「お嬢さまの側を離れるわけには……」

 

「大丈夫」

 

「でも……」

 

「いいから」

 

 嬉しそうに、しかしぺこぺこと頭を下げながら立ち去る太公望を見送るタバサの頭上から、ふいに声がかけられた。

 

「お嬢さまはお優しいのですね」

 

 顔を上げると、銀色の長い髪を括って後ろへ流した若い男が立っていた。

 

「隣に座っても……?」

 

 タバサが頷くと、青年は彼女の隣の椅子へ腰掛けた。爽やかな香りがふわりと鼻腔をくすぐる。柑橘系の香水――どうやら、この男がつけているらしい。

 

 清潔そうなシャツに黒いベスト。周囲を行き交う給仕たちと同じ服装だ。ただ、どこか他の者たちとは違う何かがタバサの中で引っかかる。

 

「お供の彼、自分もやってみたくてたまらないといった様子でしたからね。きっとお嬢さまに感謝していますよ」

 

「違う」

 

「と、いいますと?」

 

「騒ぐから、席を外させただけ」

 

 そんなやりとりをしていたふたりの元へ、どたばたという足音が近付いてきた。

 

「お嬢さま、ただいま戻りました……」

 

 しょんぼりとした声の主は太公望だった。見事なまでにボロ負けしてきたといった格好だ。タバサは黙ってチップを渡す。ぱっと顔を輝かせた彼に、銀の髪の給仕が言った。

 

「いきなり賭けないほうがいいですよ。最初は周りのひとたちのやりかたを見て、ルールを覚えることに専念すれば、だんだん勝てるようになりますから」

 

「わかりました。ありがとう、お兄さん!」

 

 笑みを浮かべ、ぺこりと礼をして立ち去った少年を微笑みながら見送った青年は、タバサに向き直った。

 

「申し遅れました、接客係のトマと申します。どうかお見知りおきを……」

 

 一礼したトマに向かって、タバサは言った。

 

「ありがとう」

 

「何のことでしょうか?」

 

「彼に教えてくれた」

 

 ふっと小さく笑うと、トマは答えた。

 

「素直ないい子ですね。正直な感想を申し上げますと、こういった場所にはあまり向いていないように思いますよ」

 

 もしも本心からの言葉だとしたら。

 

(このひとは、こちらが申し訳なくなるくらい見事に騙されている……)

 

 と、タバサは思った。

 

(彼があんなに早く負けて戻ってきたのは、ほぼ間違いなくわざとだろう。ああやって周囲を油断させているのだ)

 

 それがわかっていたからこそタバサは余計なことを言わず、黙ってチップを手渡した。きっと、この行為は何度か繰り返される――。

 

 ……などと考えていた矢先、またしても太公望が戻ってきた。がっくりと肩を落とし、ご丁寧にも目元に涙まで浮かべている。

 

 そんな彼の様子を見ていた周囲の客や店員たちは、揃って苦笑いを浮かべていた。完全に太公望のペースだ。

 

 大人しく席につこうとした太公望へ、タバサは再度チップを押しやる。ビクリと大げさに身体を震わせたパートナーに、タバサは静かに告げた。

 

「まだたくさんある」

 

 飛び跳ねるようにして立ち去った太公望を見送ることなく、タバサはゲームを再開した。このやりとりを見ていたトマが、静かな声で言った。

 

「やはり、お嬢さまはお優しくていらっしゃる。ですが、優し過ぎると手酷い火傷を負いますよ。くれぐれもご用心を――と、グラスが空になっていますね。何かお飲みになりますか?」

 

 その問いかけに、タバサは頷いた。

 

「スパークリング・ワイン。それと……」

 

「はい」

 

「あなたも、何か好きなものを頼んで構わない」

 

「畏まりました。では、ありがたく頂戴致します。少々お待ちくださいませ」

 

 トマは爽やかな笑みを浮かべて立ち上がると頭を下げ、注文の品を取りに行った。それを見届けたタバサは再びゲームに集中しようと向き直ったその直後。奥のテーブルから、激しい怒声が響いてきた。

 

「こんなことはありえない! このワシを馬鹿にしているのか!?」

 

 タバサを含む、店内の視線が一斉にそちらへ集中した。問題の卓で声を張り上げたのは、髪に白いものが混じり始めた中年男だった。激昂のあまり全身を震わせている。身に纏っているマントの拵えから察するに、王宮ではなく街で働く官吏――つまるところ、貴族の客であろう。

 

「これはこれは旦那さま、如何なさいました?」

 

 支配人のギルモアが、如才なさげな顔つきで貴族の客に近付いた。

 

「あの場面で『フォー・ファイア』が揃うなぞ、いくらなんでも出来すぎだ!」

 

「しかし旦那さま、勝負は時の運と申しますから……」

 

「ああ、一度だけならワシにツキがなかっただけだと諦めただろう。だが、これで五度目だ! こんな馬鹿なことはありえん! イカサマだ!!」

 

「それは言いがかりでございます。旦那さまもご存じの通り、当店には貴族のお客さまがご来店なされた際には、杖をお預かりするという規則がございます。店内で魔法を使われたら、調度に傷がついてしまいますから……」

 

 と、表情ひとつ変えずにギルモアは続けた。

 

「ご覧ください。これこの通り、私は杖を持っておりません。もちろん私だけではなく、店内にいるディーラーも、シューターも、接客係たちも例外なく……で、ございます。なんでしたら〝魔法探知〟の呪文を試していただいても結構ですよ」

 

「で、では、魔法を使わないイカサマをしておるのだろう!?」

 

「カードを切ったのも、配ったのも、旦那さまでございませんか。お楽しみいただいたサンクをはじめとするディーラーと直接やりとりするゲームは全て、そのようにさせていただいております。もちろんこれは、当店の誠実さを示すためのもので……」

 

 支配人の言葉を最後まで聞くことなく、貴族の客はどすどすと足音を立てながら大股歩きで出口へと消えた。

 

「お騒がせして申し訳ございませんでした。どうか、引き続きゲームをお楽しみください」

 

 息を飲んで見つめていた客たちに向け、ギルモアは頭を下げた。ところが、本物の騒動が起きたのはこの後だった。

 

「おのれ、平民の分際で貴族をナメくさりおって……!」

 

 再び響いた怒声に、ホールにいた者たちが振り返る。すると、そこには先程の貴族が顔を怒りで蒼白にして立っていた。その手には年代物の杖が握られている。彼は店を出たのではなく、カウンターへ杖を取りに戻ったのだ。

 

「ウル・カーノ・ギョーフ……」

 

 男の呪文が完成し、杖の先に大きな火の玉が現れた。それを見た客たちは皆、悲鳴を上げて逃げ惑う。炎はまっすぐギルモアへ向かって飛びかかり、そのまま飲み込んでしまう――かに見えた、その瞬間。

 

 何者かが滑り込むように現れると、ギルモアを抱えて床に転がった。

 

「おお、トマ!」

 

 それは間違いなく、先程タバサから注文を受け取った接客係のトマあった。貴族が放った魔法の火の玉は爆発したが、爆心地のカーペットが焦げた程度で、目標や周囲にいた人々を傷つけるには至らなかった。

 

「こ、この……! 邪魔をするなら、貴様も道連れにしてくれる!」

 

 怒りで我を忘れた中年貴族が再び杖を振り上げる。だが、それを聞いたトマはばねのように立ち上がってギルモアから離れると、疾風のような勢いで貴族の懐へ飛び込んだ。そのとき、タバサは彼の左手首――長いシャツの袖口がキラリと光るのを垣間見た。

 

 次の瞬間。貴族が持っていた杖が切断され、先端部分が床にぽとりと落ちた。

 

「なにっ!?」

 

 中年貴族が驚いている隙を突き、トマは素早く後ろへ回り込んだ。そして右手で相手の腕を掴み動けなくすると、左手に持っていた短剣をすいと喉元に突き付けた。周囲から、どっと拍手と歓声が上がる。

 

「店内では魔法の使用が禁じられております」

 

 屈辱に我を忘れた貴族が叫んだ。

 

「おのれ……貴族にこのような真似をして、ただで済むと思っているのか!?」

 

「失礼ですが、杖を切り落とされた……それも平民如きにやられたなどと世間に知れ渡った場合、お立場が危うくなるのは閣下のほうではありませんか?」

 

 恥辱に全身を震わせながら立ち去る中年貴族を一瞥すると、トマは客たちに向かって優雅に一礼して見せた。再び、店内ホールは歓声に包まれる。しかし、今度は一部から小さな舌打ちや苛立ったような呟きが混じっていた。

 

 タバサの耳が捉えたのは「生意気な平民め……」といった中年貴族に対する同情と傲慢さが溢れる呟き。あるいは「貴族の面汚しめが」「紳士の社交場で杖を抜くとは無粋にも程がある」などといった非難の声だ。

 

 それにしても……と、タバサは思った。トマのあの動き――袖口から短剣を取り出す仕草が引っかかるのだ。以前、あれと似た動きをどこかで見たような……。

 

「すごいですねえ、あのお兄さん! 魔法無しで貴族をやっつけちゃうなんて」

 

 振り向くと、いつのまにか太公望が後ろに立っていた。タバサはすぐさま思考を切り替える。騒動に気付いて、わたしを守るために戻って来てくれたのだろうか。

 

 そんなタバサの幻想は、即座に打ち砕かれた。

 

「あの、お嬢さま。軍資金の追加をお願いしたいのですが……」

 

 おずおずと両手を差し出す彼を見たタバサの胸に、暗雲が立ちこめてきた。チップを手渡しながら周囲の者たちに聞こえないよう小声で訊ねる。

 

「あなた、賭博の経験は?」

 

「少しだけなら」

 

「結果は?」

 

 逃げるように駆けていった太公望の背を呆然と見送りながら、タバサは思った。今回の任務は彼が最も得意とする頭脳戦ということで大きな期待を寄せていたが……どんなに頭が良く抜け目がなくとも、それが賭け事の強さに繋がるとは限らないのだ。

 

(彼が負け続けているのが演技ではなく、単に弱いだけなのだとしたら――)

 

 タバサは再びテーブルにつくとゲームを再開した。銀のカップが振られ、サイコロが転がる。出た目の合計値は七で、前回より小さい。タバサがベットしたのは『大』だった。

 

 回収されてゆくチップを見遣りながら、タバサは我知らず呟いた。

 

「わたしは弱くなった」

 

 あの〝使い魔召喚の儀〟が執り行われる以前。わたしは心を持たぬ人形となり、ただひたすらに〝力〟を追い求めていた。そうしなければ、目的――父の仇を討ち、母の心を取り戻すことなどできないと、頑なに信じていたから。

 

 当時のわたしなら、彼が敗北を続ける姿に不安など覚えなかっただろう。誰にも頼らず、自分ひとりで戦い続けていたのだから。

 

「このままじゃいけない」

 

 これまで気付いていなかったが、心のどこかに甘えがあったのだろう。わたしが負けても、彼がきっとなんとかしてくれる。そんなふうに考えてはいなかっただろうか?

 

 今の境地に至れたのは、みんなが手を差し伸べてくれたから。ひとりではできないことも、大勢が力を合わせることで辿り着けることを知った。

 

「でも……」

 

 だからといって、研鑽を忘れていいわけじゃない。どうしても自分だけで乗り越えなければいけない壁が、世の中にはたくさんあるのだから。

 

「わたしは、それを忘れてはいけない」

 

 目を閉じ、乱れていた呼吸を整える。

 

 頭の中から雑念を追い出し、クリアにする。

 

 ゲームに集中し――勝つことだけを考える。

 

 カジノに損失を与えるほど儲けて見せれば、店側は先程の貴族にしてみせたようなイカサマを仕掛けてくるはず。そこで、そのカラクリを見破ってみせる。

 

 これくらいの任務を自分ひとりでこなせないようでは、双子の妹の行方と伯父の真意を探ることなんて、できるわけがないから。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。

 

 『窓』からカジノを覗き見ていたイザベラは、奇しくも従姉妹と同じ考えに至っていた。その方向性はまた違っていたが。

 

「ねえ、オーテンクン。まさかとは思うけど、あなたの弟って……賭け事の類が苦手だったりするのかしら?」

 

「ギャンブルか。そういやアイツ、国元で象レースにハマったことがあんだけどよぉ」

 

「ゾウ?」

 

「コイツのこった」

 

 王天君がパチンと指を鳴らすと、イザベラの前に新しい『窓』が現れた。そこには、ハルケギニアでは見たことのない動物が映し出されている。全身がくすんだ灰色で、顔から長い筒のようなものが伸びている。

 

(頭の横についている、大きな皮翼のようなものは何かしら? あれで空を飛ぶとか、正直考えにくいんだけど……まさか、耳じゃないわよね)

 

 足下には獅子とよく似た生き物がいた。背後にそびえ立つ木の高さや、この獅子もどきと比較すると、ゾウとやらはかなり大きな動物だということがわかる。

 

「それで、このゾウと賭け事に何の関係があるのかしら?」

 

「人間の国でな……このゾウを集めて賭けレースをしてたんだ。それも、賭け金の上限ナシで」

 

「ふぅん。それで?」

 

 王天君は勿体振るようにテーブルの上に置いてあったグラスを傾け、喉を潤す。それから続きを語り始めた。

 

「アイツよぉ。あちこちから借金して、一頭のゾウに全額つぎ込んでなぁ」

 

「もちろん勝算あってのことよね?」

 

「まぁな。太公望の野郎、そのゾウに乗る騎手に手ぇ回しやがったんだ。走っている最中は見えねぇように、鞍に乗らねぇで浮いてろってな」

 

「思いっきりイカサマじゃないのさ!」

 

「あぁ、そうだ。けどな……」

 

「その様子だと、うまくいかなかったのね。騎手が応じなかったのかしら?」

 

「いいや、騎手は言うことを聞いて浮いたままゾウを走らせた。だがなぁ、コースの途中にカーブがあってよぉ……考えてもみろ、あんだけ図体のデケェ生き物を全力で走らせた挙げ句、(おもり)になるようなモンも無しで方向転換させたら、どうなると思う?」

 

 イザベラは、その様を頭に思い浮かべてみた。馬は急に止まれない。その馬よりもずっと大きな動物が全力で走ったらどうなるか。

 

「うまく曲がれなくて……コースから飛び出しちゃった、とか?」

 

 その解答に対し、王天君は拍手と爆笑でもって応えた。

 

「その通りだ。結果はボロ負け! あの馬鹿、デケェ借金こさえて夜逃げしやがったんだぜぇ! アイツに投資した連中は、もう上を下への大騒ぎでなぁ……ク、ククククッ……ハハ、ハハハハハハッ!!」

 

 これを聞いたイザベラは思った。

 

(彼、なんだか弟の失敗を楽しんでるみたい)

 

 そういえば、最近になってようやく仲直りしたみたいなことを言っていた覚えが――。

 

「ねえ。もし彼がここで大負けした場合――」

 

「あぁ、心配すんな。このオレが絶対逃がしゃしねぇよ」

 

 間違ってもそんな事態にゃならねぇだろうけどな。と、内心独白する王天君。

 

「ホントにいいの? だって、そうなったらあなたの弟、最悪一生タダ働きになるわよ?」

 

 そう続けたイザベラに向けて、王天君はニタリと笑い返した。

 

「別に構いやしねぇよ。アイツには、さんざ探し回ったオレの苦労に見合った働きをしてもらわねぇとな。それに――あの女への仕返しにもなる」

 

「シャルロットのことね」

 

 王天君に向けて、イザベラも意地の悪い笑みを返す。

 

 もしも従姉妹がこの任務に失敗した場合――当然のことながら、罰を与えることができる。それが王天君の弟に足を引っ張られるという形であれば、なおよろしい。

 

 父王から与えられた仕事の解決が遅くなるのは問題だが、北花壇騎士団のメンバーはあのふたりだけではない。早急に代わりの者を派遣すれば済む話だ。

 

 もちろん、成功すればそれだけ父の覚えが目出度くなる。イザベラにとって、彼らが成功しても失敗してもオイシイ状況であることに変わりはない。

 

 ソファーの上に身体を投げ出したイザベラは、にやにやと笑いながら『窓』に映る従姉妹に向かって囁いた。

 

「ねえ、シャルロット。お前は人形……わたしの玩具(オモチャ)なんだ。愉快に踊って、楽しませてよね」

 

 

 




そ(の助けにきてくれたと思ったなどという)
げ(んそうを)
ぶ(ちこわす)。


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第94話 賭博場の攻防 ―神経衰弱―

 ――日が落ち、魔法の街灯に明かりが灯り始めた頃。

 

 イザベラの期待に反し、タバサの前にはチップが山と積まれていた。その高さに比例するかのように大勢のギャラリーが彼女の周囲に集まっている。

 

 担当の男性シューターが額に汗を滲ませている。それもそのはず、目の前の少女が稼ぎ出した額は約一万エキュー。家どころか小規模な城が買えてしまう程の大金だ。

 

 シューターが手にしたカップにサイコロを入れ、まるでワインのテイスティングのような動きで転がす。そして卓の上に伏せたそのとき、タバサが動いた。

 

「『小』に、二千」

 

 驚きを多分に含んだざわめき声が、さざ波のように店中へ広がってゆく。シューターはごくりと喉を鳴らし、カップを持ち上げた。

 

 出た目はなんと一・一・一の最小値。もちろん『小』に賭けていたタバサの勝ちだ。チップの山が一挙に倍以上に膨らむ。シューターはがっくりと肩を落とし、項垂れる。息を飲んで見守っていた観客たちからは大歓声が沸き起こった。

 

「いやはや、とんでもないお嬢さんだ」

 

「まだお小さいのに、強いわねえ」

 

 皆が口々にタバサを褒めそやす。と、そこへ支配人のギルモアが現れた。

 

「これはこれはお嬢さま、見事なまでの大勝でございますな。ところで、間もなく夜も更けて参りますが……」

 

 テーブルの周りに群がっていたギャラリーから不満げな声が漏れる。タバサがあまりにも強すぎるため、彼女が子供であることを理由に帰らせようとしていると思ったのだ。

 

 しかし、当のタバサは全く逆のことを考えていた。

 

(支配人は大勝したわたしを引き留めにきている)

 

 それは怯えたようなシューターの様子を見れば一目瞭然だった。手持ちのチップを全て換金した場合、二万エキューはくだらない。そんな大金を持ち帰られてしまったら、店は大きな損害を被ることになる。それを避けるために、彼らは必ずイカサマを仕掛けてくるはず――。

 

「お嬢さま、如何致しますか?」

 

 そう問うてきた支配人へ、タバサは相手が望んでいるであろう答えを告げた。

 

「続ける」

 

 それを聞いたギルモアの目が、すっと細められる。彼がパチンと指を鳴らすと、卓についていたシューターがほっとした表情で席を立ち、店の奥へと消えた。

 

「申し訳ございません。どうやら、このテーブルの担当者が体調を崩してしまったようですので、サイコロゲームはお開きとさせていただきます」

 

 頷きながら、タバサは思考を回転させる。

 

(少なくとも、この卓やその周辺に仕掛けが施されていたり、あのシューター自身がイカサマを仕掛ける腕はない。彼は顔に感情が出過ぎるから)

 

 だからこそ、見え透いた嘘をついてまで後ろへ下げたのだろう。

 

 少女は了承の印に頷いた。

 

「そう。なら、別の遊びをする」

 

「では、サンクなどいかがでしょう? 当店で一番人気のゲームでございます」

 

「それでいい」

 

 ギルモアは一礼して言った。

 

「では、早速お席をご用意致します」

 

 ところが、その申し出にタバサは首を振った。

 

「もしやご存じないとか? ご心配なさらなくとも、私がお教え致しますよ」

 

「違う」

 

「と、申しますと?」

 

「その前に、少し休みたい」

 

 支配人は苦笑した。

 

「昼前からずっとゲームに興じておられましたからな、お疲れになるのも当然かと。それでは休憩室をご用意致しますので、少々お待ちくださいませ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それからすぐに、タバサは休憩所へ案内された。

 

 そこは王宮の寝室もかくやと言わんばかりの豪華な部屋だった。床にはふかふかの絨毯が敷かれており、細かな彫刻が施されたテーブルが配されている。壁には絵画が掛けられ、奥には数名で横になってもまだ余るであろう、大きなベッドが置かれている。

 

 ここへ通される直前に、側を離れていた太公望を探したのだが……一体どこへ行ったのやら、彼を見つけることはできなかった。

 

「色々と打ち合わせしておきたかったのに」

 

 思わず出た愚痴を掻き消すように、タバサは首を振った。

 

(わたしはまだ彼を頼りにし過ぎている)

 

 今はいいかもしれない、けれど……いつなんどき、自分ひとりの手で全てを解決しなければならない事態に直面するかわからないのだ。

 

 椅子に腰掛け、鞄から本を取り出す。杖以外の荷物を取り上げられなかったのは、タバサとしては正直意外だった。おまけに〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟すらかけられていない。

 

 もちろん、高貴な相手に対して〝魔法探知〟を用いるのは大変な無礼にあたることなので、当然といえば当然なのだが……こういった店にしては誠に不用心と言わざるを得ない。

 

 ただ、おそらく彼らは……。

 

「貴族を完全に侮っている」

 

 ぱらぱらと本のページをめくりながら、タバサは思考を巡らせた。

 

 貴族――特に爵位の高い者は、体面を何よりも重んじる傾向にある。だからこそ、己の命綱とも呼ぶべき杖を、容易に見知らぬ他人へ預けてしまえるのだろう。もっとも、そこには相手が無力な平民だからという驕りも多分に含まれているのではあるが。

 

 そして、彼らのほとんどが杖以外の武器を用いることを禁忌(タブー)としている。それだけに、たとえば警邏の目が届かぬ路地裏で不埒な真似をする平民が携帯しているような危険物――刃物や短銃といったものを持ち歩いていることはまず無い。

 

 おまけに皆揃ってプライドの塊ときている。例の中年貴族のように激昂でもしない限り、負けて抗議をすることなど恥だと考え、ろくに調査も交渉もせず、引き下がってしまうのだろう。そういう意味では平民の商人たちのほうが余程手強い相手だ。

 

 先程のような騒動が起きたとしても、側にいた店員があっさりと片付けている。彼のような『メイジ殺し』が他にもいるのであれば、身の安全に関する心配をしなくて済む。

 

 つまり、この店にとって貴族は上客、有り体に言えば良いカモというわけだ。王政府があえて警邏隊を使わず、秘密裏に処分しようとしている理由も頷ける。

 

 考え事をしているせいで、本の内容が全く頭に入ってこない。いや、正確には気分を落ち着かせるために本を開いているだけなので、それについては問題ないのだが――。

 

「ここまではどうにかうまく立ち回れた。でも……」

 

 店が仕掛けているであろうイカサマの正体がわからない。先程の中年貴族が、カードゲームの一種である『サンク』で破れ、自分にも全く同じゲームが持ちかけられたことから、おそらくここに何か秘密があるはずだ。

 

 支配人が自信たっぷりに〝魔法探知〟をお使い戴いても結構――などと言っていた以上、魔法を使ったイカサマではないのだろう。だとしたら、あのトマという給仕が袖口から素早くナイフを取り出したように、卓越した手業でカードをすり替えているのかもしれない。

 

 そこまで考えたところで、タバサは気づいた。この店では毎回客にカードを切らせている。途中ですり替えを行ったとしても、すぐにバレてしまうはず……。

 

「なら、どうやって?」

 

 考えても考えても、答えに辿り着かない。

 

 思考の迷路に嵌り込んでしまったタバサの額には、いつしかじっとりと汗が滲んでいた。

 

「妖魔や魔獣よりも、人間のほうがずっと手強い」

 

 与えられた任務の難しさに眉を顰めていたタバサの耳に、コツコツというドアをノックする音が飛び込んできた。本から顔を上げ、扉に視線を向ける。

 

「誰?」

 

「わたくしです、お嬢さま」

 

 太公望の声だ。しかしタバサはすぐに扉を開けることはしなかった。何故なら、彼の他にもうひとつの足音と、手押し車が止まるのを聞いていたからだ。

 

 ――手押し車。

 

 正確にはそれを押してきた暗殺者に若干のトラウマを植え付けられていたタバサが、必要以上に警戒してしまうのは致し方ない。

 

「遅くなって申し訳ありませんでした。何せ長い廊下に同じような扉がずらりと並んでいるものですから、すっかり道に迷ってしまって。それで、さっきのお兄さんにお願いして、ここまで連れてきていただいたのです」

 

 さっきのお兄さん。あの中年貴族をやりこめたトマという給仕のことだろう。タバサはテーブルの上に本を置くと、口を開いた。

 

「鍵は開いている。そのまま入ってくればいい」

 

 言われた通りに、ふたりは手押し車と共に部屋の中へ入ってきた。台車の上にはワインボトルとグラスがふたつ、それと銀製のクロッシュが被せられた大皿が一枚載っていた。

 

「これは?」

 

「お嬢さま、お昼から何も口にしておられませんよね? ですから、お兄さんに頼んで食事を用意してもらいました」

 

 なるほど、彼の姿が見えなかったのはこのためか。確かに、空腹ではまとまる思考もまとまらないだろう。

 

「ありがとう」

 

 それを聞いたトマは一礼すると、ワインと大皿を室内のテーブルへ運んでいった。ところが役目を終えてもなお、彼は部屋から出て行こうとしない。

 

 ああ、料理と飲み物の代金をまだ渡していないのか。そう考えたタバサは太公望に預けた財布の中から手間賃と併せて支払うよう告げると、トマは小さく微笑んだ。

 

「お代なら、既に頂戴致しております」

 

 小さく首をかしげたタバサに、トマは訊ねた。

 

「失礼とは存じますが、お嬢さまは伯爵家ではなく……ガリア有数の名家の出では?」

 

 沈黙を続けるタバサに、トマはたたみかけるように言った。

 

「このような仕事をしていると、その方の立ち居振る舞いを見るだけで、どのような人物であるのかすぐにわかるようになりましてね。お嬢さまには……並の貴族では到底真似できない品位が備わっておいでですから」

 

 そう言うと、トマはクロッシュを持ち上げた。焼きたてのパンと焦げたバターの香ばしい匂いが室内に漂い、タバサの鼻腔をくすぐる。が、彼女を刺激したのは嗅覚だけではなかった。

 

 皿の上に載せられていたのは、やや薄めに切ったパンにバターを塗り、そこに葉物野菜とハム、チーズを挟んだだけという、貴族用の料理とは言い難いシロモノだ。しかし、タバサはそれに見覚えがあった。

 

 忘れもしない。まだ父が存命で、彼女たち家族が最も幸せだったあの頃――。

 

 伯父のジョゼフが、いつものようにラグドリアン湖畔の屋敷へ遊びに来たある日のこと。中庭で父シャルルと伯父の勝負――将棋(チェス)が白熱し、なかなか決着がつかない。昼食はおろか夕食の時間が近付いてもまだ盤面に向かっていたふたりが、厨房に難儀な注文を出した。

 

『将棋をしながら、片手で食べられるものを何でもいいから持ってくるように』

 

 当然のことながら、屋敷の厨房は大混乱に陥った。

 

 王族が片手で食事をするなどという話は聞いたことがない。焼き菓子を出してはどうか、などという意見もあったが、昼も抜いている主人たちがそれで満足するわけがない。かといって、下手なものを出すわけにもいかず。

 

 そこで、畏れながら……と、料理長がお伺いを立てに行ったところ。ジョゼフが、

 

『そうだな。パンにバターを塗って、その上にハムでも載せてあれば上等だ』

 

 などと言い出し、挙げ句シャルルが、

 

『ぼくは、ハムよりもチーズと野菜がいいなあ』

 

 と、珍しく悪乗りした結果誕生したのが――いま、タバサが目にしている料理だ。

 

「さすがの父も、この注文には悪戦苦闘していましたよ。ですが、あとあと殿下から『仕事をしながらでも食べられる。夜食にぴったりだ』なんてお褒めの言葉を頂戴しましてね。よく執務室へお届けしたものです。ああ、これですか? 残念ながら父ではなく、私が作りました。店を訪れるお客さま方からも、好評を得ております」

 

 切れ長の目に特徴的な銀色の髪。風の使い手たる自分ですら見切れなかった素早い手業――その全てが、タバサの記憶を過去に繋げる。

 

「あなたは」

 

「お久しぶりです、シャルロットお嬢さま」

 

 微笑むトマに向けて、タバサは珍しく感情の込もった声を上げた。

 

「トーマス!」

 

「覚えていてくださいましたか。光栄でございます」

 

「忘れるはずがない」

 

 ふたりの会話についていけなかった太公望が訊ねた。

 

「あの、お嬢さま。このお兄さんとお知り合いなのですか?」

 

「ええ。屋敷でコック長を務めていた、ドナルドの息子さんなの。父さまや母さまがお仕事で忙しいときに、よく遊び相手になってくれたわ」

 

 それを聞いたトマことトーマスが、恐縮したように身体を竦めた。それから、懐かしげな笑みを浮かべる。

 

「執事長のペルスラン殿から、厨房などへ入り浸ってはいけませんと散々注意されていたのに……お嬢さまは、いつも監視の目をくぐり抜けて私の所へ遊びにいらしていましたね」

 

「だって、あなたの手品は本と同じくらい面白かったんだもの! 魔法も使わずに、ポケットからきれいなボールをいくつも取り出してみたり、切れたリボンを一瞬で繋げてみせてくれたり、それから……カーテンに隠れて、そのまま姿を消したこともあったわね」

 

「ええ。懐かしくも美しい思い出でございます」

 

 普段のタバサからは想像もつかないほど明るく饒舌な語り口に、太公望は瞠目した。かたやトーマスは、それを何とも思っていないようだ。なるほど、これが彼女本来の――シャルロット姫としての姿なのだろう。

 

「私も、毎日が本当に楽しゅうございました。しかし……」

 

 途端にトーマスの表情が陰る。

 

「あの忌まわしい事件の後、オルレアン大公家はお取り潰しとなり……使用人たちも、皆散り散りになってしまいました。今では、再び顔を合わせることもできません」

 

「ドナルドは?」

 

「あのあと父はすっかり塞ぎ込んでしまって、食事もろくに喉を通らなくなり……数ヶ月後に他界致しました」

 

「そう……」

 

「父は最後まで、お嬢さまと奥方さまの身を案じておりました」

 

 俯きながら語るトーマスを見ながら、タバサは思った。

 

(幸せな日々を奪われたのは、わたしたち家族だけじゃない。オルレアン大公家を支えてくれていたひとたち全員が、等しく不幸に見舞われた。もしも父さまの叛乱が成功していたら……いったいどれほどの血と嘆きと憎しみが、ガリア国内にばらまかれたのだろう)

 

 顔を伏せてしまったタバサを見たトーマスは、努めて明るい声を出した。

 

「ですが、こうしてお嬢さまと再会できたのは……まさしく『始祖』のお導きかと。お嬢さまと奥方さまがあの後どうなったのか、私どもには何ひとつ知らされず、お屋敷へ近付くことすら許されませんでしたので」

 

 当時を振り返るかのように、トーマスは語り続けた。

 

「お二方の行く末に関しては当時、様々な噂が飛び交ったものです。どこかの城に母娘共々幽閉されている、世を儚んで尼になってしまわれた、人質として他国に送られた、既に秘密裏に処分された……と、まあこのような調子で、明るい話はひとつとしてございませんでした。ですが、これらはあくまで噂話に過ぎなかったのですね。本当に……本当に、ご無事で何よりでございました」

 

 うっすらと涙ぐみながら自分の前に跪いたトーマスに、タバサは訊ねた。

 

「あなたは今までどうしていたの?」

 

 トーマスの顔が、ぱっと綻ぶ。

 

「私の身を案じてくださいますか。相変わらずお嬢さまはお優しい! 母は物心ついた頃には既におりませんでしたので、父を亡くした後は街へ出て、その……恥ずかしながら、ごろつきような真似をしておりました。ご存じの通り、私にできることといえば……」

 

「手品?」

 

「ええ。芸を見せて日銭を稼いだり、まあ、色々と……」

 

 トーマスは口を濁しているが、おそらく見物客の懐を狙ったりもしていたのだろう。とはいえ今更そんなことを追求するつもりはないので、タバサは黙ってかつての使用人であり、遊び相手を務めてくれていた若者の言葉を聞いていた。

 

「そんな荒んだ生活を続けていたある日、このカジノを経営しておられるギルモアさまに拾われたのです」

 

「支配人の?」

 

「はい。ギルモアさまは大層立派なお方で、私に読み書きを教えてくださったばかりか、寝床と食事まで与えてくれたのです」

 

 太公望が、ぽんと手を叩いた。

 

「なるほど! お兄さんは恩返しをするために、ここでお仕事をしているんですね」

 

「ええ。私はギルモアさまに救われたのですから、当然でしょう」

 

 そう言うと、トーマスはタバサに向き直った。

 

「と、まあ、お互いの近況についてはこのあたりで。実はお嬢さまに大切なお話がございます」

 

「話?」

 

「どうか、お改めください」

 

 トーマスは懐から一枚の紙を取り出すと、タバサに手渡した。

 

「これは?」

 

「お嬢さまが稼がれたチップのうち九割の額を記入してあります。シレ銀行で現金に換えることができますので、食事が終わり次第、それを持って急いでお逃げくださいませ」

 

「どういうこと?」

 

「詳しくお話することはできません。しかし、この後行われるゲームは……お嬢さまが決して勝てないように仕組まれております」

 

 タバサはじっとトーマスの目を見つめた。

 

「あなたが、昔と変わらずわたしを心配してくれて……嬉しい」

 

 トーマスは、ほっと安堵の溜め息を漏らした。

 

「ご理解いただけて、私も嬉しく思います」

 

 しかし。次にタバサの口から出た言葉は青年の期待に反するものだった。

 

「ねえトーマス。何故わたしでは勝てないの?」

 

「そ、それは……」

 

「教えてくれるまで、ここから動かない」

 

 トーマスは困り果てた顔でタバサを見つめ返したが、すぐにふっと小さく息を吐いた。

 

「お嬢さまは、相変わらず強情でいらっしゃる……わかりました、お話し致しましょう。そうしなければ、素直にお帰りいただけないでしょうからね」

 

 肩を竦めながら、トーマスは事情を語り始めた。

 

「このカジノは喜捨院(きしゃいん)なのです」

 

「ここが? そうは見えない」

 

「確かに。ですが、富める者から金を巻き上げ、弱者に配ることを目的として作られた賭博場……と申し上げれば、何となく事情を汲み取っていただけますでしょうか」

 

「誰の考え?」

 

「もちろん、ギルモアさまでございます」

 

 タバサは狡猾そうな支配人の顔を思い出した。

 

 影で善行を積むような人物とは思えないのだが、しかし人は見かけによらぬもの。その好例――いや、悪い例ともいうべき者がすぐ側にいるので、どうにも判断がつきにくい。

 

「そのような事情がございますので、お嬢さまが勝たれた金額の九割を、私の裁量で換金させていただきました次第です。残りの一割は貧しい者たちへの施しとお諦めくださいませ。どうか、それでご勘弁願います」

 

 そう言うと、トーマスはタバサが制止する間もなく部屋を出て行ってしまった。

 

 

○●○●○●○●

 

「あの料理……父上が、よく『盤面』の前で食べているのと同じだわ」

 

 先程までの上機嫌はどこへやら。イザベラはぷるぷると全身を震わせ、侍女たちが見たらその場で卒倒しそうな形相で従姉妹を睨み付けている。

 

 王天君が改めて『窓』を覗くと、そこには食事をする太公望と人形姫の姿が映っていた。そういえば、この国の王が例の世界模型を使って思考に耽る際に、厨房に言いつけてあれとよく似たものを作らせていた記憶がある。

 

「オルレアン大公家の……どうして? あの男は反逆者でしょ!? それなのに、なんであんなものを、父上は……」

 

 『窓』を睨み付けながらぶつぶつと恨みの言葉を吐き続けるイザベラに、王天君はかつての己の姿を見た。

 

 大勢の仲間と軍を引き連れ、威風堂々と殷の都へ向かう『軍師』太公望。本当ならあの()は、オレが務めるはずだったのに――!

 

 崑崙山と金鰲島の間で交わされた停戦条約。互いの誠意を示す証として、崑崙側には妖魔の王子が、金鰲には教主の弟子の中で最も才能のある道士が人質として送り込まれた。それが王奕(おうえき)――後の王天君だった。

 

 長き刻を金鰲島で過ごし、己に科せられた真の役割を知るに至った王天君にとって、それは単なる八つ当たりのような感情ではあったのだが……しかし。

 

 保護という名目で固い封印が施された牢獄に閉じこめられ、心を壊され、肉体を妖魔のそれに変えられた怒りの矛先を向けるのに、太公望が最も相応しい対象だったのは確かで。

 

 ……とはいえ、太公望本人に直接危害を加えると様々な問題が発生する。そのため、被害に遭うのは大抵彼の仲間たちだった。それも、太公望が心に深い傷を負うような形で――。

 

 そんな王天君だからこそ、イザベラの心境が手に取るようにわかった。

 

 反逆者が云々などというのは単なる後付けに過ぎない。父親からの愛情に飢えているイザベラは父と彼の弟、そして従姉妹との間に思い出の料理――すなわち、自分が求めても得られない絆があったという事実が気に入らないのだ。

 

 イザベラが王天君に対して不満をぶつけてくるようなことはないので、別にこのまま放っておいても構わないのだが……不快感を露わにした者の側にいるというのは、ステキな時間の過ごし方とは言えない。

 

(……ったく面倒くせぇ)

 

 とは口に出さず、王天君は彼女の思考の在処を別方面へ逸らすことにした。

 

「おい、イザベラ」

 

「なぁに?」

 

「アイツが言ってた喜捨院てぇのは何だ?」

 

 イザベラの知る王天君は博識だが、時折こうして疑問を投げかけてくる。それは大抵、彼の住んでいた国にはない習慣や物に関することであるため、できる限り噛み砕いて教えることになっている。これは『契約』の際にふたりが交わした約束のひとつだ。

 

 ひとまず気分を落ち着かせるために深呼吸した王女は、少し考えてから言った。

 

「そうねぇ~、ありていに言えば貧乏人が最後に縋る場所……ってところかしら」

 

「そりゃ寺院とやらの役割じゃねぇのか? お偉いお偉い神官サマが、ありがたい『始祖』とやらの〝力〟で、民草をまとめて救ってくれるんだろ?」

 

 王天君の皮肉を聞いて、イザベラは笑い転げた。

 

 彼女たち王族はブリミル教の象徴たるべき存在である。これが、あちこちに目と耳がある王宮の内部なら大変なスキャンダルになるところだが、そこは異空間に存在する『部屋』の中。防諜は完璧だった。

 

「説法じゃお腹はふくれないからね。それで、あちこちから寄付金を集めて炊き出しをしたり、住む場所のない連中に寝床を提供するための場所があるのよ。それが喜捨院」

 

「ふん、物好きなヤツがいるもんだぜ」

 

「仕切ってるのはだいたい寺院なんだけどね」

 

「全部ってワケじゃねぇのか」

 

「まあね。オーテンクン、あなた……ロマリアのことはもう知っているわよね」

 

「あぁ。この国の隣にある、神官どもの総本山……だったな」

 

「その通りよ。あなたを喚ぶ前に、一度だけ行ったことがあるんだけどさぁ……あそこ以上に『本音と建前』って言葉を実感させられる場所はないわ」

 

 イザベラはソファーの上に寝そべったまま、テーブルの上に置かれていた薄焼き菓子を一枚つまんで口に運んだ。パキンという乾いた音が『部屋』の中で反響する。

 

「神官たちは、みんな口を揃えてロマリアのことを『光溢れた土地』って呼ぶわ。自分のことを『神のしもべたる民のしもべ』と呼び習わす教皇聖下のもと、神官たちが敬虔なるブリミル教徒を正しく導く聖なる都市。街は『始祖』の祝福によって光輝き、そこに住まう資格を得た信者たちには永遠の幸福が約束されている――ってね」

 

「うさんくせぇ!」

 

「あなたなら絶対にそう言うと思ったわぁ~。けどね、生まれてからずっと同じ土地で育った平民たちは、商人や旅行ができるくらいの裕福な市民でもない限り、せいぜい自分が住んでる隣の町までしか行けないから……神官たちの話を頭から信じ込んで、ロマリアには理想郷があると思っているってわけ」

 

「で、実際のとこはどうなんだ?」

 

 イザベラはフンと鼻を鳴らすと、講義を再開する。

 

「現実は酷いものよ~? ロマリアへ行けば救われると信じて、必死の思いで辿り着いても……住むところもなければ仕事もない。当然よね、同じようなことを考えた平民たちが世界中から集まって来ているんだもの。人手なんか足りるどころか余りまくってるわ」

 

「なるほどな。そいつらを神官どもが安い給料でコキ使う……ってぇワケだ」

 

「そういうこと。信心深ぁい平民たちの奉仕によって肥え太った神官たちが、煌びやかな祭服に身を包んで街を練り歩いているすぐ側で、ぼろを纏った平民たちは救世騎士団が配る薄いスープを求めて行列を作る……まさしく理想郷だわぁ~。神官たちにとっては、だけどね!」

 

 テーブルに肘をつきながら、王天君はここまでの情報を整理した。

 

「つまりだ。そぉいう慈愛に満ち満ちた神官どもが取り仕切っている施設だけに、ロクなもんじゃねぇ。だから、個人でやろうと考える奇特なヤツが出てくるっつうことか。にしてもオメーの言うとおり、あのギルモアとかいうヤローがンなイイコちゃんな真似するたぁ思えねぇな」

 

「でしょ~? あのトーマスとかいう男……シャルロットを店から遠ざけるために、あんなことを言ったんだと思うわ」

 

「同感だ」

 

 すっかり機嫌を直したイザベラの発言に相づちを打ちつつ、王天君は考えた。かつての使用人がいる店に任務と称して派遣される。偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎてやしないだろうか。

 

 この仕事を振ってきたのは、国王のジョゼフだ。差配はイザベラに一任されているが、娘が姪に割り振るであろうことを見越していたのだとしたら……。

 

(あの男、何考えてやがる……?)

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから数時間ほどして。

 

 トーマスの期待に反し、彼の元主人は従者を連れて戻ってきた。ギルモアはそれを揉み手しながら歓迎する。だが、部下の顔が僅かに歪んでいることには気付いていない。

 

「お待ちしておりましたぞ、お嬢さま! 疲れはもう取れましたかな?」

 

 タバサはコクリと頷いた。

 

「お席は用意してあります。こちらへ……」

 

 その申し入れを制し、タバサは言った。

 

「あのテーブルがいい」

 

 タバサが指差したのは先程までサイコロゲームをしていた卓だ。現在はシューターの体調不良のため空席になっている。休憩している間に何か仕掛けが施された可能性もなくはないが、あのテーブルはゲーム中に隙を見て何度も調べているため、変化があればすぐに気がつく。そういう計算あっての指定だった。

 

 当初は部屋ごと移動することも検討していたが、やめた。それこそどこに何があるのかわからないし、何より自分がイカサマを警戒していることを見抜かれてしまう。せっかく太公望が、

 

『無邪気な田舎者の少年従者と、それを持て余し気味な貴族の娘』

 

 という目隠しをして相手の油断を誘ってくれているのだ、それを崩すのは勿体ない。

 

 そんなタバサの思惑などつゆ知らず、ギルモアは感心したように言った。

 

「ふむふむ、なるほど。お嬢さまは縁起を担ぐお方なのですな! あれほど大勝ちされた場所ですからな、無理もございません。では、あのテーブルを使うとしましょう」

 

 ふたりがテーブルへと向かおうとしたところで、それに待ったをかけた人物がいた。タバサに付き添っていた太公望だ。少女の腕をくいくいと引っ張りながら、情けない声で訴えかける。

 

「お嬢さま~。あれだけ勝たれたのですから、もう止めましょうよ~。それに、夜も更けて参りました。お帰りが遅くなると、ご主人さまが心配なさいますし~」

 

「おやおや。従者殿は乗り気ではないようですが、如何なさいます?」

 

 支配人の問いかけに、タバサはきっぱりと答えた。

 

「続ける」

 

「そんな、考え直してください~!」

 

 必死に引き留めにかかる太公望を無視し、タバサは告げた。

 

「彼に、さっき預けたチップの中から百枚渡して」

 

 ギルモアがパチンと指を鳴らすと、接客係のひとりが指定されたものを持って現れた。

 

「お、お嬢さま?」

 

「それで遊んでいて。わたしがいいと言うまで戻らないこと」

 

「で、ですが……」

 

「これは命令。従わないなら、明日のご飯ヌキ」

 

 項垂れながら立ち去る太公望の背中を見送りながら、ギルモアは聞いた。

 

「よろしいのですか? お嬢さまを気遣ってのことだと思いますが」

 

「彼が側にいると、集中できない」

 

「ふむ、なるほど。その厳しさも勝負のため……というわけですか。いやはや、実に勉強になりますな。お嬢さまのような強い方とゲームに興じることで、店員たちの質を上げることができます。ですから、遠慮などせずにどんどんお勝ちになってくださいね」

 

 心にもないことを言うと、ギルモアはタバサに向かって一礼した。それから彼女のために椅子を引いて、そこへ座るように促す。

 

 ……実のところ、集中できない云々という言葉は方便だ。休憩中、タバサが太公望に「自分の手で謎を解明したい」と申し入れ、彼が了承したという経緯がある。

 

 もっとも、それと引き替えに

 

「ならば、わしは遠慮無く遊んでいるとしようかのう」

 

 と、暗に軍資金の催促をされてしまったわけだが。

 

 彼に渡したのは二万エキューを超える手持ちのごくごく一部に過ぎないが、それでも相手の手を探るチャンスを減らしてしまったことに変わりはない。

 

(さっきの部屋で待機していてもらったほうが良かった……?)

 

 ――などと考えるに至って、タバサはぶんぶんと首を振った。

 

「如何なさいました?」

 

「なんでもない」

 

 二万枚以上のチップが手元に残っているのに、たったの百枚を惜しんでどうする。

 

(やはりわたしは弱くなってしまった)

 

 タバサが内心で密かに己を叱咤している間に、目の前の席についたギルモアが懐からカードの束を取り出し、テーブルの上に置いた。

 

「では、ゲームを始めましょう。『サンク』のルールはご存じでしたね」

 

 タバサは頷いた。

 

 サンクとは、一から十三までの数字が割り振られた土・水・火・風の四種のカードを山札と呼ばれる束の上から五枚引き、出来上がった組み合わせの強さを競うゲームだ。上は貴族の大人から、物心ついたばかりの平民の子供にまで、幅広く親しまれている。そのため、改めて説明されるまでもない。

 

 とはいえ、ここはカジノだ。店特有のルールがあるかもしれない。そう考えたタバサは念のため確認を取ってみたが、それらしきものは無かった。

 

 ギルモアが真新しいケースからカードを取り出した。紙紐で束ねられているところを見るに、このカジノでは毎回新品を使っているのだろう。

 

「さて、今回は私がお嬢さまのお相手を務めさせていただきますが……公平を期すために、当店ではお客さまにカードを切っていただく決まりとなっております。どうぞ、お好きなようにお切りくださいませ」

 

 促されるまま、タバサはカードを手に取った。切りながらこっそり確認したが、これといって怪しいところはない。高位のメイジ、それも『スクウェア』クラスともなれば〝魔法探知〟を使わずとも魔道具の類であるか否かの区別くらいはつけられる。だが、それらしき形跡もない。

 

 カード以外のものは……と見るも、ギルモアも、側にいるトーマスやその他店員たちも、装飾品の類は一切身につけていない。アンドバリの指輪の件を思い出し、先住の魔道具を用いているのではとも考えていたが、その線も消えた。

 

 とすると、やはり彼らは魔法や魔法具を使わないイカサマを仕掛けてくるのだろうか。もしやこのギルモアも、トーマスのような手品の名人なのかもしれない。

 

 そんな思いは一切表に出さず、無表情のままカードを切り、束にして卓の中央へ置く。

 

(これは長期戦になる)

 

 タバサは覚悟を決めると、手札を場に伏せた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――結論から言うと、タバサの予想は外れていた。

 

 長期戦どころか一時間にも満たないうちに、チップの山が十分の一以下に減ってしまったのだ。目を覆わんばかりの負けっぷりである。

 

 もちろん、タバサが勝ちそうになることもあった。ところが、勝負を賭けたときに限ってあと一歩及ばない。

 

 この有様を『部屋』から眺めていたイザベラが、床を転げ回って大笑いしていた件については……まあ、改めて語るまでもないだろう。

 

「ふむ、どうやらお嬢さまは『サンク』があまり得意ではないようですな。これは残念、折角勉強させていただきたいと思っておりましたのに」

 

 対面にいるギルモアが、言葉とは裏腹に嫌な笑みを浮かべている。タバサは相変わらずの無表情だが、内心では焦りを覚え始めていた。相手の手が全く読めない。耳に神経を集中するも、怪しい音は聞こえてこない。完全に手詰まりの状態に陥っている。

 

 ふとギルモアの背後に立つトーマスを見ると、苦しげな表情を浮かべている。彼の両腕は後ろ手に組まれ、数歩踏み込まなければ支配人の身体には届かない位置にいる。トーマスと組んで何かをしているというわけでもないようだ。そもそも例の中年貴族が暴れた際に、ふたりはかなり離れた位置にいたし、相手をしていたディーラーもギルモアではなく別の店員だった。

 

 つまり、店員たちが手を組むことで仕掛けるようなイカサマではないのだろう。

 

 そうこうしているうちに、とうとう手持ちのチップが百枚を割った。

 

 表情こそ全く変わらないが、タバサの額には汗が浮かんでいる。どうにか相手のイカサマを見破らなければ、任務を達成することができない。

 

 ……と、そんなタバサの元へチャンスが舞い込んできた。風のカードが三枚と、水が二枚。『満員の劇場(コン・プレ)』と呼ばれる、かなり強い役である。

 

(……ここは勝負に出るべき)

 

 そう決意したタバサは相手に悟られないよう、そろそろとチップを積む。ところが、ギルモアもベットしてきた。さらに掛け金を上乗せするが、相手は一歩も引かない。

 

「これはこれは、お嬢さまは相当自信がおありのようですな」

 

 微笑みながら、ギルモアはチップを追加する。

 

(ここは降りるべき? でも、残るチップはあと僅か。次のチャンスがいつ来るかわからない……仕掛けるしかない)

 

 タバサは有り金全てをベットした。すると、周囲からおおっというどよめき声が上がる。それを耳にしたタバサははっと我に返った。辺りを見回すと、いつの間にか大勢のギャラリーが自分たちを取り囲んでいる。

 

 一筋の汗がついと頬を伝って落ちた。

 

(わたしは熱くなりすぎて、観客が集まってきていることにすら気付いていなかった。こんな状態では勝てるものも勝てない。焦り過ぎて、取り返しのつかない真似をしてしまったのではないだろうか……?)

 

 だが、時既に遅し。ギルモアが大げさな身振り手振りをしながら声を上げる。彼の顔も声も、勝負に逸ったタバサの姿を嘲笑っているかのようだった。

 

「いやはや、大変な勝負になりましたな! では、お互いのカードを開けるとしましょう」

 

 最初にタバサが手札をオープンした。彼女の『満員の劇場』を見た観客は大いに沸き立つ。ところがギルモアに動じた様子はない。

 

「なるほど、なるほど。これは自信を持つのも頷けます。ですが……」

 

 ギルモアの手札がゆっくりとめくられていく。そして最後の一枚がオープンしたところで、周囲の歓声が、さらに大きくなった。

 

「どうやら『始祖』はお嬢さまではなく、私に微笑んでくださったようですな」

 

 土、水、火、風の四種全てが同じ数字――しかも、最弱にして最強とされる(エース)が並んでいる。

 

「この大一番で『四界の妖精(キャトル・ファータ)』か」

 

「凄いな……」

 

 観客たちが驚くのも無理はない。『満員の劇場』よりもワンランク上の役、しかもそれが最高の形で揃っているのだから当然だ。

 

 積まれていたチップが回収されてゆく。とうとうタバサは一文無しになってしまった。しかし、タバサは席を立とうとはしない。いや、正確には立つことができないでいた。

 

 頭の中で、様々な考えが渦を巻いている。

 

(いったいどんな仕掛けになっているの? それともカジノ側は潔白で、単にわたしが弱いだけなのだろうか。いや、それはない。だったらわざわざゲームの種類を指定してくる理由がない。何がどうなっているの? わからない――)

 

「さて、お嬢さま。まだお続けになりますか? と、申しましても既にチップは全て無くなってしまったようですから、新たにお買い求めいただく必要がございますが」

 

 支配人が猫なで声で訊ねてきたが、タバサは黙って首を振った。イザベラから預かってきた軍資金は既に使い果たしている。もしかしたら太公望に渡したチップが残っているかもしれないが――それでは彼に頼らずこの任務を達成すると決めた意味がない。

 

「それではゲームを続けることはできませんな。これにてお引き取り願います」

 

 未だ立てないでいるタバサへギルモアはそう促した。が、すぐに狡賢そうな笑みを浮かべる。

 

「手持ちがないのでしたら、お家の名前でお金をお貸しすることもできますよ」

 

 再びタバサは首を横に振る。それこそ無理な相談だ。偽名を名乗っているのだ、そんな真似をするわけにはいかない。

 

「お嬢ちゃんも頑張ったけど、ここまでかな」

 

「ああん残念! だけど、なかなかいいものを見せてもらったわ」

 

 周囲の観客たちが、口々に慰めの言葉をかけながら引き上げようとした。と、そんな彼らの様子を見ていたギルモアが、とんでもないことを言い出した。

 

「ならばお嬢さま、ひとつ提案があるのですが」

 

 タバサはそのまま、続く言葉を待った。

 

「お金がないのでしたら、そのお召し物を賭けては如何でしょう?」

 

 つまり。勝てばそのまま、負けたら脱げということか。

 

 表情こそ変わらないが、タバサは屈辱のあまりぎりぎりと手を握り締めた。観客たちからは下卑た歓喜の声、あるいは怒りに満ち溢れた叫びが上がった。

 

「ギルモアさま。相手はこんな小さな子供ですよ」

 

 支配人の後ろに立っていたトーマスが止めに入った。彼の声は僅かに震えている。しかしギルモアは振り向きもせずに言い放った。

 

「それを決めるのは私ではなく、こちらのお嬢さまだ。さあ、どうなさいますか?」

 

 このままおめおめと引き下がるわけにはいかない。タバサの答えは決まっていた。

 

「続ける」

 

 

 ――だが、やはり勝てない。

 

 イカサマを見破るどころか、タバサはその手がかりすら掴めずにいた。

 

「私の勝ちですな。さて、次は何を賭けますか? 靴は両方とも脱いでしまいましたが」

 

 タバサは黙って首元に手を伸ばすと、締めていた黒い蝶ネクタイをするりと外し、テーブルの上へ置いた。

 

「これはこれは。お嬢さまはなかなか焦らし上手ですなあ」

 

 ギルモアの言葉に、紳士の社交場とは思えぬ品のない笑い声が上がった。タバサを見守るトーマスの顔は、既に青を通り越して真っ白だ。

 

 勝負はさらに続く。しかしタバサの不利は変わらない。

 

 片方ずつ靴下を脱ぎ、ベストを取り、サスペンダーを外し――そして。

 

「ふむ。だいぶ涼しげなお姿になられましたな」

 

 先程の負けでとうとうズボンを取られてしまったタバサは、白銀のように輝く素足を衆目に晒していた。現在彼女が身につけているのはレースのついた膝上丈のシュミーズと白いシャツ。あとは下着だけという有様である。

 

「まだ続けますか?」

 

 タバサは頷いた。しかし全身が小さく震えている。寒さのためではない、恥辱ゆえだ――と周囲の観衆は思っていたのだが、実は違う。

 

 事ここに至って、タバサはようやくある法則に気がついた。ここぞというとき、支配人はこちらがカードをめくって見せるまで、絶対に手札を晒さないのだ。

 

 賭けの対象が服になるまでわからなかった理由は彼女の行動パターンにあった。

 

 サイコロゲームに興じていた際と同様の賭け方――勝てそうにないときはさっさと降り、勝利の可能性がある場合は少額を、強力な手札が回ってくると決まって大金をベットする……。

 

 これが悪い意味での迷彩となり、いざ勝負に出たときにギルモアがどういう行動に出ているのかを見切ることができなかったのだ。

 

 服は毎回一枚ずつ賭ける。チップのように細かい額の指定ができないから……というよりも。まとめて脱いで勝利を収めたとしても、せいぜい数枚戻ってくるだけで見返りが少ないというのが主な理由なのだが。そのため、絶対勝てるという状況でしかベットしなかった。結果、対戦相手の怪しい行動が浮かんできたというわけだ。

 

 ――そして、ついにタバサの元へ最大のチャンスが訪れた。

 

 風の九から十二が揃ったのである。これに同じ風の八か十三が加われば『高貴なる風の道(ロワイヤル・ラファル・アヴェニュー)』が完成する。実質サンク最強の手だ。

 

 いつものように無表情のまま不要なカードを捨て、山札から一枚引く。風の……十三。勝利の女神はようやく彼女に微笑んでくれたようだ。

 

 タバサは胸に手を当て、宣言した。

 

「次は、このシャツを賭ける」

 

 ギャラリーがどよめいた。

 

「承知致しました。では、私が勝ったらそれを脱いでいただくということで」

 

 ギルモアは降りない。タバサを見て楽しそうに微笑んでいる。

 

「それでは、互いの手札を開けるとしましょうか」

 

 ところが、両者共に動かない。

 

「さあ、お嬢さま。カードをお見せください」

 

(やはりそうだ。敵は、こちらの手を確認してからすり替えを行っている)

 

 確信したタバサは、氷のように冷たい目で相手を見据えたままだ。

 

「どうなさいました? 今更降りるというのは無しですよ」

 

 その催促に、ようやくタバサは口を開いた。

 

「先にあなたの手札を見せて」

 

 ギルモアの片眉が、ぴくりと動いた。

 

「おやおや。まさかとは思いますが、イカサマをお疑いですかな?」

 

 タバサは何も言わず、相手を注視している。

 

「カードは全て、お嬢さまが切られたではありませんか」

 

 支配人は同意を求めるように、観客たちを見回す。頷く者、疑わしげな目を向ける者、反応は様々であった。しかし、相変わらずタバサは黙ったままだ。

 

 ギルモアはわざとらしく溜め息をつくと、肩をすくめた。

 

「わかりました。では、仰る通りに致しましょう」

 

「待って」

 

「今度は何ですか?」

 

「私がめくる」

 

 やれやれと首を横に振ると、ギルモアは諦め顔でタバサを促した。

 

「どうぞ、お嬢さまのお気に召すままに」

 

 タバサは立ち上がって手を伸ばすと、端から順に一枚ずつ対戦相手のカードをめくり始めた。

 

 ……炎の十。

 

 次をめくった。

 

 ……炎の十二。

 

 三枚目。

 

 ……炎の九。

 

 タバサの背に、じっとりと嫌な汗が滲んだ。

 

 四枚目。

 

 ……炎の十一。

 

(嘘。そんなはずはない)

 

 タバサは祈るような気持ちで最後の一枚をめくった。

 

 ……炎の十三。

 

 とすんと音を立て、タバサは椅子に尻餅をついた。

 

「いやはや、我ながら奇跡のような役が揃ったものです。しかし、お嬢さまの手札を確認するまでは勝ち名乗りを上げるわけにはいきますまい」

 

 さあ、さあ。と、意地の悪い笑みを浮かべながらギルモアが迫る。

 

 タバサは暗澹とした気分でカードをオープンした。観客たちがどよめき声を上げる。

 

「これはこれは。『二度続く奇跡は始祖の思し召し』と申しますが……どうやら私は『始祖』の加護によって守られたようですな」

 

 タバサの役『高貴なる風の道』はサンクにおける実質最強の手である。ただし、唯一『高貴なる炎の山(ロワイヤル・デフェール・ラ・モンターニュ)』には負けてしまう。それがギルモアの元に展開していたのだ。

 

「お嬢さま、それではまた一枚脱いでいただきましょうか。ああ、シャツではなく他のものでも構いませんよ」

 

 無遠慮な視線と下品な笑い声を全身に浴びながら、シャツのボタンに手をかける。指先が震えてうまく外すことができない。タバサの脳内を、イザベラの言葉がぐるぐると駆け巡っていた。

 

 

 ――今度の任務は魔法なしでどうにかしなきゃならないってわけ。醜態を晒さないで済めばいいね! あは、あは、あははははははッ――。

 

 

 暗殺者を相手に不覚を取ったことはあるが、その他の戦いで負けたことはない。だが、それはあくまで魔法や風メイジとしての特性あってのこと。杖や能力を取り上げられ、別の舞台に上がった途端……このざまだ。

 

 頭脳戦に持ち込もうにも、その手がかりすら掴めない。ようやく見つけ縋り付いた糸は、あっさりと千切れてしまった。

 

(わたしは……わたしは、こんなにも無力だったのか――!)

 

 絹のシャツがするりと落ちた。タバサはレース付きのシュミーズ姿で棒立ち状態になっている。滑らかな肌が露わになり、薄い胸が屈辱と己の不甲斐なさからくる怒りによって上下していた。

 

「まだお続けになりますか?」

 

 眼鏡を外すわけにはいかないので、今度負けたらシュミーズを脱がなければならない。そうなれば残るは飾り気のないズロースだけになってしまう。けれど……。

 

(ここで退くわけにはいかない。なんとしても、任務を遂行しなければならないから……)

 

 すると、ギルモアの後方から叫び声が上がった。

 

「もう、おやめください!」

 

 これまでじっとギルモアの側に立っていたトーマスが、タバサの元へ駆け寄ってきた。

 

「お嬢さま、どうか考え直してくださいませ!」

 

「トマ! 余計な口出しをするな」

 

 支配人の言葉に耳を貸さず、トーマスは説得を続ける。

 

「賭け事に熱くなったところで、良いことなど何ひとつありません! このままでは、お嬢さまはいい物笑いの種です。それこそ街を歩くことすらできなくなるでしょう。私の知っているシャルロットさまは、こんな……」

 

 その名を聞いたタバサは、己の甘えを切り捨てるように言った。

 

「今のわたしはシャルロットじゃない」

 

「おや? お嬢さまはトマとお知り合いでしたか」

 

 ギルモアが不審げな眼差しでトーマスを見た。後で話を聞かせてもらうぞ、とでも言いたげな表情だ。それから、彼は改めてタバサに確認する。

 

「続けるということでよろしいですかな?」

 

 タバサは頷いた。

 

「お嬢さま……」

 

 元使用人の哀願は、かつての主人に届かない。

 

 タバサは必死の思いでカードを切った。観客、テーブル、その他ありとあらゆるものに注意を払い、耳を澄まし、全神経を尖らせながら。

 

 けれど、おかしなところは見当たらない。手札を確認すると、それなりに強い役が揃っている。まさか、こちらの持ち分までコントロールしているのだろうか。

 

(どうやって? わからない。もう、何も判断できない……)

 

 互いのカードをオープンする。やはり、ギルモアの役が勝っていた。

 

「さあ、お嬢さま。脱いでいただきましょうか」

 

 嫌らしい笑みを浮かべ、支配人は促した。タバサが歯を食いしばり、震える手をシュミーズの肩紐にかけた、そのとき。店の奥からひとりの店員が駆け込んできた。

 

「し、支配人……」

 

「後にしろ。今、いいところなのだ」

 

「で、ですが……」

 

 次の瞬間。その店員がやって来た方向から大歓声が沸き起こった。

 

「一体何事だ!?」

 

 全員の目がそちらに集中する。

 

 店内最奥のテーブル席。そこにはがっくりと項垂れる店員と――向こう側が見えないくらい積み上がったチップの前で、高らかに笑う人物がいた。

 

「あああ、なんて楽しいカードゲーム! 愉快すぎて背景に花が咲きそう――ッ!!」

 

 ――それはタバサのパートナー、太公望であった。

 

 

 




脱げ魔人ギルモア降臨。
なお、ぐうたら仙人に年齢制限寸前で阻止された模様。



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第95話 鏡姫、闇の中へ続く道を見出すの事

 ――ガリア王女イザベラの機嫌は悪化の一途を辿っていた。。

 

 それもそのはず。眼下で繰り広げられる従姉妹の無様さを散々嘲笑っていたものの、ふいにそれが自身にも降りかかり得ることに気付いてしまったからである。

 

 そう。彼女の知力と眼力をもってしても、相手のイカサマを見抜けなかったのだ。

 

 同じ場に立てず、遠くから覗き見しているだけというハンデを背負ってはいるものの、それでもなお謎を解くことができなければ、従姉妹よりも自分のほうが優れていることを示せない。

 

(このままじゃ、あの子を笑えない……!)

 

 それから十数分ほど経ったころであろうか。側仕えの者たちが見たら、その場で失神しそうな視線で『窓』を睨み続けるイザベラの耳に、王天君の呟きが聞こえてきたのは。

 

「そう怖ぇ顔すんな。ありゃオメーの手にゃ負えねぇ。つーかメイジには絶対無理だ。そういう罠が仕掛けてある」

 

「どういうこと?」

 

 イザベラの問いを『窓』から聞こえてきた大歓声が遮った。

 

「すごいな……」

 

「一体どうなってるんだ……?」

 

 ざわめく観客たちを背に、田舎から出てきたようにしか見えない少年――太公望が、オーバーなリアクションと共にテーブル上のカードを次々とめくっている。

 

「これと、これだ――ッ!」

 

 現れたのは、風の三と土の三。

 

「また当たった……」

 

 ギャラリーの熱狂とは対照的に、店員の心にはブリザードが吹き荒れていた。それもそのはず、今まであちこちのテーブルで豪快に負け続けていたカモが、とうとうネギを背負って自分のところへやって来たとほくそ笑んでいたところへこの状況。

 

(どうして俺だけがこんな目に……)

 

 と、半ば自暴自棄になってしまっていても致し方ない。

 

 そんな彼の心境とは対照的な顔をしたカモもどきは、食い入るようにカードの群れを見回すと、再び左腕を大きく振りかぶった。

 

「次は……これと、これッ!」

 

 めくられた組み合わせは、炎の貴婦人と水の貴婦人。再び沸き起こる歓声に満面の笑みで応える太公望。とうとう「皆の応援に感謝する」などと言いながら、ギャラリーに飲み物を奢り始めた。おこぼれに与った客たちが大盛り上がりする一方で、店員側はまるでお通夜のような雰囲気を醸し出している。

 

 その模様をつぶさに観察していたイザベラがぽつりと呟く。

 

「『札合わせ(ラ・コンサント)』かい。初心者向けのゲームで、よくあそこまで稼いだもんだね」

 

「なんだそりゃ?」

 

 王天君が口にした疑問に、イザベラは答えた。

 

「五十二枚のカードを裏返して並べて、その中から二枚選んでオープンするの。両方とも同じ数字が出たら自分のものになって、違っていたら対戦相手にめくる権利がうつる……それを交互に繰り返して、取った枚数の多い方が勝ちっていうゲームよ」

 

「ふん、神経衰弱か」

 

「なにそれ。あ! その名前からして頭脳戦で相手を弱らせる奥義とかかい?」

 

「生真面目にボケてんじゃねぇよ。オレたちんとこじゃ、そう呼ぶんだ」

 

 などというやりとりの間にも、カードは次々とめくられてゆく。

 

「これッ! これッ! これッ! これッ!!」

 

 炎の一と水の一、風の七と土の七。これだけではない、次も、その次もまた外すことなく太公望はカードとチップを奪ってゆく。店員の顔は既に青を通り越して真っ白だ。

 

「百発百中じゃない! いったいどうやってんのよ……」

 

 唖然としているイザベラに、王天君は何も言おうとしない。干した果実を口へ放り込みながら、己の半身を観察し続けている。

 

「ねえってば!」

 

 しびれを切らしたイザベラの声に、ようやく彼女のパートナーは反応を見せた。

 

「こんなの、オレに聞くまでもねぇだろ」

 

「え?」

 

「自分で考えろっつってんだ」

 

「なによぅ、オーテンクンのいじわるッ!」

 

 言葉とは裏腹に、イザベラは怒ってなどいなかった。その証拠に、彼女の瞳は欲しかった玩具を買い与えられた子供のように輝いている。

 

 支配人が仕掛けている罠とやらは、彼女や従姉妹がメイジであるがゆえに見破れないという。しかし今、目の前で繰り広げられているこれは全くの別物らしい。

 

 テーブルを囲む有象無象は兎も角、カジノ内での不正を暴くことにかけては超一流の目を持つディーラーたちすら出し抜く超高等技術――だが。

 

「けどよぉ、オメーの実力なら見破れるはずだぜ?」

 

 やや迂遠な表現でこそあるものの、王天君はそう言ってくれているのだ。

 

 ――父親には見向きもされず、貴族はおろか平民の召使いたちにも常に従姉妹と比較され、密かに馬鹿にされ続けてきたイザベラにとって、その口調こそぶっきらぼうではあるものの、下手なお世辞や追従ではなく素のままに自分を認めてくれる王天君の存在は……大いなる喜びであり、救いでもあった。

 

 そんな中『窓』の向こう側で、再び騙し合いという名の遊技(ゲーム)が始まる。

 

 このカジノ独自の決まりで、カードをシャッフルして配るのは客の役目とされていた。つまり、王天君の弟がそれを担うことになる。彼はデックをふたつに分けた後、ぱらぱらと弾きながら交互に噛み合わせ始めた。

 

「へえ、リフル・シャッフルを使うのかい」

 

 慣れた手つきで切り終えた太公望に対し、イザベラは素直な賞賛を口にした。

 

「相当手慣れたヤツがやらないと格好がつかないから素人には敬遠されがちなのに、なかなか上手いじゃないか……って、んん? ちょっと待った」

 

 右手で軽く額を抑えながら考える。

 

 数字が描かれた側を手のひらに乗せて切る、あるいは山そのものを崩してばらばらに混ぜ合わせるといった一般向けの技法ではなく、あえて熟練者用のリフル・シャッフルを採用しているのは何故なのか。

 

 そもそも彼は、ここまで徹底的に無知な田舎者、ド素人のふりをしてきた。にも関わらず、そんな真似をするということは……それを崩すだけの理由があるのだ。

 

 ゴクリと唾を飲み込んだ後、イザベラは己の推測を語り出した。

 

「リフル・シャッフルはカードの端を弾いて噛み合わせる技法。他の方法と違って、一瞬だけ中身の一部が見える。まさか、それを全部暗記してるんじゃないわよね……?」

 

 自分で言い出したことだが、正直信じられなかった。一瞬で切り終わる上に、数字が垣間見えるのは瞬きする間にも満たない。しかも並べた順番まで完璧に覚えておくなんて、常人とはかけ離れた記憶力と動体視力である。

 

 ところが、半信半疑といったイザベラの解答に対する王天君の反応はといえば。

 

「な? 簡単だったろ」

 

 鷲掴みにした焼き菓子を口に放り込みながら、平然と言い放つ。

 

 確かに、タネさえわかってしまえば単純なカラクリなのだが……しかし。

 

「ううッ、ある意味才能に溢れたグレイトなイカサマだねぇ……」

 

 記憶力や眼力もそうだが、カジノへ入った当初から行っていた田舎者まるだしの子供という演技は主人である従姉妹だけでなく、自分への迷彩にもなっていたのだ。おかげで、その道のプロである店員たちが、彼のイカサマを見破ることができないでいる。

 

 かつて太公望を相手に策を仕掛けたことがあったが、それがいかに無謀な行いであったのか今更ながら思い知らされた。兄である王天君もそうだが、弟も尋常ではないレベルで頭がキレる。

 

 それに、あの演技力もヤバい。容姿の幼さも相まって、皆がころりと騙されてしまう。今でこそ「わざとらしい」と醒めた目で見ることができるが、初対面のときには宮廷内の悪意に晒され続けてきたイザベラですら引っかけられたのだから。

 

「あのときオーテンクンが止めに入ったのも、無理ないわぁ……」

 

 魔法の腕は兎も角、謀略方面における実力にはある程度の自信を持っていたイザベラだったが、正直このふたりには勝てる気がしない――今は、まだ。

 

(けど、このままじゃいられないんだ)

 

 彼も、王天君も、自分より遙かに年齢を重ねている長命種。互いの間に横たわる差、特に経験や知識を縮めるのは容易ではない。けれど、そこはこれから多くを学び、埋めてゆけば良いだけの話。王族たるもの、敗北をそう簡単に認めるわけにはいかないのだ。

 

 そして、彼らふたりに匹敵する実力を身につけることができたなら。

 

(きっと、父上はわたしを褒めてくれる。わたしのことを……大切にしてくれる)

 

 この『窓』に映し出される光景は、ある意味最高の教材だ。脳内に思い描く素晴らしい未来のために、イザベラは食い入るようにそれを見つめ続けた――。

 

 

○●○●○●○●

 

(あの支配人が、動揺している……?)

 

 心を乱され、屈辱に震えていたタバサはそれを見て瞬時に冷静さを取り戻した。この数年間というもの、一瞬の判断が命取りになるような任務を幾度となく乗り越えてきた彼女ならではの切り替えの早さだ。

 

 精神的に立ち直ったタバサは周囲にそれを悟られぬよう視線だけで辺りを観察し、店内に響く声や音に耳を澄ませた。

 

 それらの情報によると、太公望が稼ぎ出したチップはなんと五万エキュー。そこそこ大きな領地を持つ貴族の年間税収にも匹敵する金額だ、動じないほうがどうかしている。いるのだが――。

 

(なぜ、彼らはここまで慌てているのだろう。わたしに仕掛けているであろうイカサマと、同じことをすればいいだけの話ではないの?)

 

 と、そこへ件の支配人が声をかけてきた。その顔には先程までのふてぶてしさが戻っている。

 

(このくらい神経が図太くなければ裏カジノの支配人なんて務まらない)

 

 タバサは内心舌を巻いた。

 

「どうやら、お連れさまが相当な幸運に見舞われているようで」

 

 ねっとりと絡みつくような笑みを浮かべながら、ギルモアはその先を続けようとしたのだが……それは唐突に巻き起こった大爆笑によって掻き消された。

 

「わ――ッははははははははは! わし、大・勝・利!!」

 

「すげえ、またこの子が勝ったよ」

 

「これで、ええと……何連勝だ?」

 

「少なくとも、そんなの忘れるくらい勝ち続けているのは事実だな」

 

 視線を移すと、そこには文字通りチップの山に埋もれた太公望がいた。それを対戦相手のディーラーが死んだ魚のような目で見つめている。

 

 ところが。そんなことは全く気にならないといった体を装いながら、支配人はタバサにとんでもない提案を持ちかけてきた。

 

「お嬢さまは、まだ勝負をお続けになりたいご様子。いかがでしょう? お連れさまからチップをお借りになられては」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ふいにタバサの脳裏に閃くものがあった。

 

 ――彼を警戒している? ううん、違う。あえてわたしに勝負を持ちかけてきたということは、今この時点で、わたしにしかイカサマを仕掛けられないということなのだろう。

 

 支配人にしかできない? いや、それはありえない。例の中年貴族を相手にしていたのは、別のディーラーだった。テーブルも、こことは別の場所にあった。つまり、このふたつは完全に候補から除外される。

 

 それとも、手品の名手であるトーマスが何か細工をしているのだろうか。

 

 違う。それなら彼は、あんな必死の形相でわたしを止めようとはしなかったはず。トーマスが手札を操作しているのなら、単にわたしを勝たせれば済んだのだから。

 

 支配人の不興を買いたくなかった? それもないだろう。わたしに声をかけたときの彼は、完全に冷静さを失っていた。そんなことを判断する余裕がないほど、トーマスはわたしの身を案じてくれていた。つまり、彼には手の出しようがない仕掛けなのだ。

 

 人材じゃない。場所でもない。小手先の技でもない。となると残るは――。

 

「お嬢さま、どうなさいますか?」

 

 沈黙し続けるタバサにしびれを切らしたギルモアが、再び問いかける。

 

「やる」

 

 支配人の目に、獰猛な獣の如き光が宿った。

 

「ただし、条件がある」

 

「また休憩なされますか? ああ、先程お賭けになられたお召し物ですな! もちろん、そのくらいは……」

 

「違う」

 

「と、申されますと?」

 

 顔を上げたタバサは支配人の目をじっと見つめた。それから彼女は死刑宣告をする裁判官のような口調で告げた。

 

「この卓のカードを、今、わたしの従者が使っているものと交換して。その上で、彼のゲームは終わらせる。それが勝負を受ける条件」

 

 ごくごく僅かに支配人の顔が歪んだのを、タバサは見逃さなかった。

 

(間違いない、このカードそのものに仕掛けがある!)

 

 そうと確信したタバサは支配人たちが止める間もなく、手にしたカードを引き千切ろうとした。内側に何か仕込まれているのではないかと考えたがゆえの行動だったのだが、残念ながら彼女は目的を達成することができなかった。

 

 何故なら――。

 

「キュピィィイイッ!」

 

 という高く澄んだ鳴き声と共に、カードが一匹の小さなイタチに変化したからだ。その途端、卓に置かれていた札の全てが、同じように変化し始める。

 

 いつしか、テーブルの上は普通のイタチとは微妙に違う、青く澄んだ瞳を持つ不思議な獣たちで溢れかえっていた。

 

 『窓』から一連の出来事を覗き見ていたイザベラは、思わず呻いた。

 

「あれは幻獣? カードに〝変化〟してたってのかい! なるほどねぇ、支配人がわざわざ〝魔法探知〟で調べてみろ、なんて言うわけだよ。連中が使う先住魔法はアレじゃ見破れないからね」

 

 と、そこまで言ったところでイザベラは気が付いた。王天君は、この罠をして「メイジだからこそ見破れない」と教えてくれた。それはいったいどういうことか。

 

 〝探知〟に引っかからないから、魔法が使われていないと思い込む。使い手の腕が優れていればいるほど対象に込められている魔力の有無で判断し――落とし穴に嵌る。つい先程までの、従姉妹のように。

 

 いや、それだけならわざわざあんな注釈をつけたりしないはずだ。イザベラはお世辞にも魔法が得意だなどとは言えないが、それでも水メイジ特有の能力で水の流れを視ることができる。

 

(あのカードは幻獣。つまり生き物なんだから、高ランクの水メイジなら違和感を覚えるくらいはしたはずだよね。なら、どうして?)

 

 推測を重ねるイザベラに、王天君が補足してやるとばかりに告げた。

 

「異端、だったか? えらく面倒くせぇ概念だな。オレたちはそんなモンに縛られやしねぇが」

 

 その言葉にイザベラの目が大きく見開かれた。

 

「メイジだから、わからない……そう、そうなの。そういうことだったのねッ!」

 

 突然、狂ったように笑い始めたイザベラ。それも、普段の誰かを見下したようなものではない、自虐的なものが多分に含まれている。もしも彼女の姿を侍従たちが目撃したら、間違いなく典医を呼びに走ったであろう。『狂王』ジョゼフと『鏡姫』イザベラは、紛う事なき親子であった。

 

 イザベラはひとしきり笑った後、吐き出すように言った。

 

「そうよね、わたしたちメイジは、みぃんなブリミル教徒。異教の、それも邪悪な先住の魔法を学ぶことは『始祖』への叛逆に等しいことだと教えられて育ってきたわ。だから、わからない。万が一気付いたとしても、プライドに凝り固まった貴族たちは認めない。邪教の手先にいいように弄ばれた、なんてことはさ!」

 

 ――それ以上に問題なのは。

 

「だいたい、そんな連中が集まる場所に入り浸っていたなんて知れたら異端認定確実。身の破滅だものねッ!」

 

 実際、従姉妹とて先住魔法の気配を察したわけではない。これまでの状況から、カードに仕掛けがあると当たりをつけただけだ。手にした札がイタチのような幻獣に変わった瞬間、呆然と突っ立っていたのが何よりの証拠だ。

 

 正直なところ、北花壇騎士団にこの仕事が持ち込まれたのがイザベラには疑問だった。

 

 貴族が平民に恥をかかされた、彼らの威厳を保つために必要な措置だという理屈はもっともらしくはあるのだが、それだけでは弱いような気がしていたのだ。もしかすると父は、ここまで見通した上で裏で密かに始末をつけようとしていたのかもしれない。

 

(ガリアの貴族、それも王宮勤めの官僚や街役人が異端の遊びに手を出していたとなれば、ロマリア宗教庁が政治的に介入してくる充分な口実となるからね。これ幸いと新たな司祭、もしくは枢機卿クラスの人材を王宮に送り込んできただろうさ)

 

 父王の読みの深さに感心していたイザベラは、ふと気付いたことを口にした。

 

「あなたの弟も、最初から気付いていたのかしら?」

 

「当然だろ。あんなダセェ変化、オレたちに通用するもんか」

 

「もしかして〝変相(フェイス・チェンジ)〟も?」

 

 答えの代わりに、王天君は不敵な笑みを浮かべた。

 

 事実、王天君や太公望には〝変化〟の類も〝変相〟も一切通用しない。彼らは、その生物に宿る〝生命力〟別の呼び方をするならば〝魂魄〟を通して偽りの姿を看破し、相手の正体を見抜く目がある。事実、太公望は過去にその眼力を用いて、悪さをする妖怪仙人や魔物たちの真の姿を幾度となく暴いてきた。

 

 〝魂魄〟はおろか〝気〟さえ見切れないほど完璧に〝変化〟されていたとしても、挙動の違和感から正体を看破できる。仙人界きっての天才と呼ばれた男に実力を試された際も、ほんのわずかなやりとりで見抜いてしまった。

 

 そんな太公望を唯一騙すことに成功したのは、あの胡喜媚だけ。後に仙人界最高と謳われた〝変化〟の名手から「彼女の実力は僕を上回る」と言わしめただけのことはある。

 

 むう。と唸りながらイザベラがぼやく。

 

「まあ、そうねぇ。それはそうなのかもしれないけどさぁ」

 

「奥歯にモノが挟まったみてぇな言い方すんなよ」

 

「だって、どうにも理解できないのよ。あなたの弟が」

 

「んなこと、今に始まった訳じゃねぇだろうが」

 

「もう、茶化さないでよッ。わたしが考えてることくらい、わかってるくせにさッ!」

 

 フンと鼻を鳴らし、王天君は言った。

 

「どうしてあの人形姫に直接教えてやらなかったのか。だろ?」

 

「ほらね。そう、その通りよ! いくらシャルロットが自分でやるって言い張ってたからってさ、あそこまで放ったらかしにするってのがねえ……」

 

 イイコちゃんがするような真似じゃないんじゃなくて? そう訴えかける王女の目を見ながら、王天君は不気味な笑みを浮かべた。

 

「アイツぁ、面倒くさがりだからな」

 

「なによそれ! 訳がわからないわッ!!」

 

 余計に面倒なことになってたじゃないの! そう叫ぶイザベラに対し、王天君はただ笑うだけで何も答えようとしなかった。

 

 ――自分は決して手を出さず、部下たちに全てを任せる。たとえ、そのことで彼らが痛い目を見たとしても、本当にどうしようもない状況……それこそ生命を失うような可能性が生じない限り、ぎりぎりまで我慢して経験を積ませる。そうして険しい山を乗り越えたとき、試練を与えられた者たちは大きく成長する。

 

 太公望のもとに集いし仲間たちは、そうやって彼に育てられてきた。後に強大な帝国・殷を打倒した周の武王ですら例外ではない。

 

「皆が成長してくれれば、わしは堂々とサボれるからのう!」

 

 とは本人の弁だが、最終的に『道標』は倒れ、さらに『始祖』たる伏羲がいなくとも世界は回るようになったのだから、その手段自体は間違いではないのだろう――未だかつての仲間であり、部下でもある者たちから追われ続けているのはさておくとして。

 

 

 ――そして、王天君が放置という名の試練をイザベラに課したのと同じ頃。

 

 ざわり……と、裏カジノ店内の空気が揺れた。ようやくその場にいた者たちの理解が現状に追いついたのだ。

 

「つまり、幻獣をカードに化けさせていた、のか……!?」

 

「なるほど。ルールを仕込んで手札を操作してたってわけだな」

 

「おかしいと思ってたんだよ……」

 

「前に大負けしたときのあれは、やっぱり……!」

 

 驚愕のざわめき声は、さざ波のように店内全域へと広がってゆく。それらが憤怒に変化するまでにはさほど時間はかからなかった。

 

「騙しやがったな、このイカサマ野郎が!」

 

「わたしのお金、返しなさいよッ!」

 

「このペテン師め、吊してやるッ!」

 

 怒りを露わにした客たちが、ギルモアを捕らえようと身構えていたタバサを押し退け、支配人に向かって殺到する。だが、そんな彼らの前にトーマスが飛び出してきた。

 

「ギルモアさまに手出しはさせん」

 

 支配人を守るように立ちはだかったトーマスは袖から紙のようなものを取り出し、引き千切る。刹那、猛烈な勢いで白煙が巻き起こって周囲へと広がってゆく。

 

 店の何処かで悲鳴が上がった。

 

「か、火事だあッ!」

 

 ギルモアたちの側にいた者たちは、もちろん違うとわかっていた。しかし問題の卓から離れた位置におり、状況をいまいち把握しきれていなかった者たちがこの声を聞き、白煙がもうもうと立ち広がるのを見た結果、大パニックに陥った。男も女も、貴族・平民の区別すらない。店内にいた大勢の客たちが、我先にと出口へ向かって殺到する。

 

(人混みに紛れて逃げるつもり?)

 

 そう判断したタバサの内に、再び焦燥が押し寄せてきた。彼らを追跡するためには杖が必要だ。しかし、この混乱ぶりでは入口のカウンターへ辿り着くのも難しい。

 

 このまま追うなど論外だ。杖を持たない彼女は、単に戦いの空気を知っているだけの小娘に成り下がる。普段の体捌きや身軽さは、あくまで魔法の補佐があってこそ。接近戦を挑むにしても、父譲りの長杖がなくてはどうにもならない。

 

 タバサは思わず唇を咬んだ。

 

「わたしはまだまだ甘過ぎた」

 

 かつてヴァリエール家で行われた歓待の席で聞いた話を参考に、ブラウスの袖と靴底へ予備の杖となる素材を仕込んでいた。ところがプチ・トロワへ到着するやいなや着替えさせられてしまい、それらはどこかへ運び去られてしまった。

 

 マントに縫い込んでおかなかったのは、貴族の象徴ともいうべきマントは徹底的に調べられる可能性があり、もしもそこで仕込みが発覚した場合、他のものも取り上げられてしまうだろうという警戒心からだ。それが完全に裏目に出た格好である。

 

 とはいえ時間がない。急がなければ、支配人たちに逃げられてしまう。一応「イカサマを暴き、カジノを潰す」という任務は達成できたが、それだけでは足りない。騙された被害者たちにお金を返すためにも、彼らの金蔵を押さえる必要があるのだ。

 

 そう考えて入口へ足を向けたタバサだったが、暴力的なまでの人波に押し潰され、流されてしまった。

 

「急ぐの、道を開けて」

 

 少女の声は悲鳴と怒号に掻き消される。混乱した人々は逃げ惑い、その波に飲み込まれたタバサは入口へ辿り着くことはおろか、脱出することすらままならない。

 

 そんな彼女を掬い――もとい、釣り上げた者がいた。

 

 バーカウンターの奥から吹いてきた風に巻き上げられながら、タバサは思った。

 

(この人混みの中からわたしだけをピンポイントで釣り上げるなんて、本当に器用。『釣り師』の二つ名は伊達じゃない――)

 

 そんなことを考えていた彼女には、当然この〝風〟の使い手が誰なのかわかっている。そして、その推測は投げかけられた声によって裏付けられた。

 

「これで貸しひとつだのう」

 

 店内に設置されていたバーカウンターの奥に立っていた太公望が、抱えていたタバサの服と杖を彼女に手渡した。

 

(結局、彼に助けられてしまった)

 

 今の件だけではない、あのとき彼が大勝ちしてくれていなければ、支配人のイカサマを見抜くことはできなかっただろう。

 

 急いで服を身につけながら、タバサは言った。

 

「この借りはトリステインで返す」

 

「ほほう、一体何でだ?」

 

「お菓子」

 

「貸しだけにか。では、期待しておるぞ」

 

 ニヤリと笑みを浮かべた太公望に頷いて見せると、タバサは風を纏い飛び立った。

 

 

○●○●○●○●

 

「くそッ、まさかあんなことでエコーの〝変化〟が破られるとは」

 

 店内の奥にある隠し通路を駆け抜けながら、ギルモアは歯軋りした。

 

 彼が古代の幻獣エコーと出会ったのは、とある森の中だった。得意先の大商人から鹿狩りに誘われた彼は、小さなイタチが目の前で枯れ葉に〝変化〟するところを見て、彼らを何かに利用できないかと考えたのだ。

 

 王立図書館の隅で埃を被っていた『古代の幻獣とその眷属たち』という書物から、自分の見たモノが「エコー」という名で呼ばれる非常に珍しい生物であること、人間の言葉を理解できる程度の知能を持つことを確認した彼は、当初の思いつきが上手くいくであろうことを確信し――今度は鹿ではなくエコーを狩りに森へ出向いた。

 

 エコーたちに協力させるのはさほど難しいことではなかった。最初にエコーの子を数匹捕らえてその親たちを脅し、無理矢理言うことを聞かせるだけで済んだ。

 

 カードに変化させた上でさまざまなゲームのルールを仕込み、今の場所に賭場を開いたのは半年前。それからは連戦連勝、エコーたちは彼に多大な富をもたらしてくれた。

 

「せめてもう少し数が用意できていれば、こんなことにはならなかったというのに!」

 

 もともと希少種であるため、カード一セット分の数しか揃えられなかったのが最大の誤算であった。それでもこれまでは問題なかったのだが、同じ日に、しかもイカサマを仕掛けた貴族の従者が主人以上の儲けを出すなど、完全に想定外だった。

 

 地団駄を踏む支配人に、トーマスが声をかけてきた。

 

「ギルモアさま、こちらへ」

 

 トーマスが壁に取り付けられた燭台を引くと、ガコンという音と共に仕込み壁が開いた。こうした商売をしている以上、逃げ道をいくつも用意しておくのは常道である。これはそんな仕掛けのうちのひとつだ。

 

 狭く薄暗い路地裏に通じていた扉を抜けると、金色に光る目が通りに溢れていた。それが一斉にこちらへ注目する。

 

「んな!?」

 

 ギルモアが出した声に驚いたのであろう、そのモノたちは「ふにゃあ!」と声を出して方々へ散っていった。どうやら猫の集会場に出くわしてしまったらしい。

 

「な、何だ、野良猫か。脅かしおってからに!」

 

「そんなことよりギルモアさま。今は身を隠して再起を図りましょう」

 

「う、うむ、そうだな……」

 

 ところが。走り出そうとしたふたりの前に、小さな影が立ちはだかった。

 

「お嬢さま……」

 

 タバサだった。急いで走ってきたのであろう、やや息が乱れている。

 

「どうしてここがおわかりに?」

 

「風を辿った」

 

 建物は、空気の流れを計算に入れた上で設計する。それが外気に直接触れない地下室となれば、換気口はより神経を尖らせて配置される。タバサはこともなげに言うが、よほど鋭敏な感覚を持った者でなければ複雑な空気の流れに翻弄されてしまっただろう。

 

 ふたりを交互に見つめたあと、タバサはすっと手を突き出した。

 

「シレ銀行の、金庫の鍵を」

 

 その言葉を受けたギルモアは、はっとした表情で訊ねた。

 

「あなたさまは、もしや政府のお役人ですか?」

 

 タバサは無言で頷く。それを見たギルモアは地面に這い蹲り、頭を擦り付けながら哀願した。

 

「ならば、どうかお見逃しくださいませ! 我らは義賊にございます。富める方々の懐から少しばかりお金を頂戴し、貧しい者たちへ配ることを生業としているのです」

 

「証明して」

 

「は?」

 

 顔を上げたギルモアに、タバサは言った。

 

「わたしの役目はカジノで行われていた不正を暴き、店を潰すこと。あなたたちを捕らえよという命令は受けていない」

 

「そ、それでは……」

 

「だから喜捨院を運営しているという証拠があれば、このまま見逃してもいい。トーマスを救ってくれたことに免じて。ただし、金庫の鍵だけは貰う。わたしにも立場がある」

 

「お嬢さま……!」

 

 トーマスは安堵の溜め息をついた。だが、ギルモアは動こうとしない。

 

「ギルモアさま?」

 

 促されたギルモアはゆらりと立ち上がると、外套の内側に手を入れた。

 

「証拠でございますか」

 

 不気味なほど低い声で告げた後、支配人は懐からフリントロック式の小型拳銃を抜いてタバサに突きつける。

 

「これが答えだよ、世間知らずのお嬢さま。ふん、誰が貯めた金を貧乏人どもに配るような真似をするものか! おいトマ、この小娘を捕らえろ。なかなかの美形だ、そういう趣味の客のところへ連れ込めば、いい金になるだろうからな」

 

「そ、それは……」

 

「そういえば、お前たちは知り合いだったな。そうか……トマ。もう、わしの言うことは聞けないと言うのだな」

 

 びくりとトーマスの身体が震えた。それから迷いを断つかのように首を数回激しく振ると、ギルモアを庇うようにしてタバサの前に立ち塞がった。彼の顔には悲しげな、それでいて切なげな色が浮かんでいる。

 

「トーマス、やめて」

 

 タバサは彼に叛意を促す。しかしトーマスは頷かなかった。

 

「ええ、薄々と……わかっておりました。けれど、ギルモアさまは……路頭に迷っていた私を拾ってくださった恩人なのです。ですが、それよりも……」

 

 トーマスは、悔しげにタバサを睨んだ。

 

「お嬢さまは、役人……ということは、つまり王政府に所属しておられるのですよね」

 

 彼の問いに、タバサは小さく頷いた。

 

「わたくしには理解できませぬ。お嬢さまは、なぜ王政府に――あの『無能王』の命令に従うのですか? お父上の敵、シャルル殿下を暗殺して王位を簒奪したあの狂人に、どうして……!」

 

 それを聞いたギルモアの顔に驚愕の色が浮かんだ。

 

「この娘が、あのシャルル大公の……大公姫殿下、だと!?」

 

 その声を遮るように、再びトーマスが訊ねた。

 

「貴族でない私には、お嬢さまのお心が理解できませぬ。なぜ、このような……」

 

 タバサは俯いた。

 

「母さまが、病に伏せっている」

 

「奥さまが!?」

 

 医者、特に水メイジに診せるためにはかなりのお金が必要となる。家を取り潰された令嬢が唯一残された母の薬代を得るために、苦渋の選択をしたということか。

 

 そう結論しようとしていたトーマスに、想定外の追い打ちが来た。

 

「それに、あなたの認識は間違っている」

 

「ギルモアさまに従うことが、ですか?」

 

 その問いには答えずにタバサは頭を上げると、真正面からかつての使用人に告げた。

 

「伯父上……ジョゼフ王は王位簒奪なんかしていない」

 

 トーマスは目を剥いた。

 

「そんな馬鹿な! お屋敷だけではなく、国中で噂になっております! 魔法のできないジョゼフは皇太子の位を剥奪され、シャルルさまが次期国王の座に即くはずであったと。嫉妬に狂ったジョゼフが実の弟に手をかけ、ガリアの王冠は血に染まったのだと」

 

「それは嘘。伯父上が正当な継承者であるという証拠がある」

 

 驚愕の色で顔中を染めたトーマスに、タバサは淡々と続ける。

 

「リュティス寺院の大司教が、御祖父さま……先代国王陛下直筆の遺言状を持っている。そこには確かに『次期国王に皇太子ジョゼフを定める。臣下の者は、これをよく補佐するように』と書かれていた」

 

「嘘です! そんな、そんなことが、あるわけが……」

 

「本当。遺言状だけではない。次の王は兄上に決まった、父上からそう告げられたと……そう、父さま自身が話していた」

 

 実際には母から聞いた話ではあるが、タバサはさも自分が耳にしたかのように語った。トーマスだけでなく、己の心にも言い聞かせるようにしながら。

 

「ならば、どうして殿下は死ななければならなかったのです!?」

 

 母が毒薬による病から快癒した後。彼と全く同じことを、自分と執事のペルスランが問うたのを思い出しながら、タバサは言葉を続けた。

 

「父さまが……派閥を率いて叛逆を企てたからだと聞いている」

 

「ありえません! あのお優しいシャルルさまに限って、そのような……」

 

「わたしもそう思う」

 

「では、何故!?」

 

「父さまは優しすぎたから……たぶん、派閥の貴族たちに担ぎ上げられて断り切れなかった」

 

 父自ら動いていた、とは言わない。これについては証拠がない……というよりも、タバサ自身がそれを信じたくないという複雑な心理ゆえに。

 

「当時シャルル派は、ガリアの半数にも及ぶ規模だったと噂されている。それだけ大勢の貴族たちが杖を取れば、単なる内乱では済まない。伯父上は数千年前に国を滅ぼしかけた双子の王子たちの二の舞になることを避けたのではないかと思う」

 

 さざ波ひとつ立たぬ湖面のような表情でそんなことを述べるタバサに、トーマスは怒声を浴びせかけた。

 

「そ、そんな淡々と……お嬢さまは憎くないのですか? 悔しくないんですか!?」

 

「憎いし、悔しい」

 

「それなら……」

 

「勘違いしないで。わたしが恨んでいるのは、伯父上にそんな決断を迫った双方の派閥。もちろん伯父上に対して全く思うところがないわけではない。けれど」

 

「けれど、何だというのですか?」

 

「伯父上は、わたしたち母娘を殺さず……生かしてくれた。父さまの敵討ちを大義名分としたシャルル派貴族の軍が、わたしたちを御輿にする可能性に目を伏せて」

 

 それを聞いたトーマスの身体が強張った。シャルル王子暗殺事件当夜のことは、今でも昨日の出来事のように思い出せる。

 

 大公夫人に「殿下の仇討ちを」と詰め寄り、派閥の旗頭になるよう求めた大勢の貴族たちと――彼らに付き従い、屋敷を取り囲んでいた軍勢がいたことを。今、目の前にいる少女が告げていることは……夫人が断りさえしなければ、実際にありえた事なのだ。

 

 震えるトーマスに追い打ちをかけるかのように、タバサは続けた。

 

「あなたは覚えているはず。伯父上が、どんなひとだったか」

 

 その言葉に、トーマスはぐっと唇を咬んだ。

 

 今でこそ自分や主人たちの家族を破滅に追い遣ったジョゼフを憎んでいるが、かつてラグドリアン湖畔の屋敷で見たかの人物は、弟と仲が良く、その妻を立て、幼い姪を我が子のように可愛がるばかりか、使用人たちにも何くれと無く気配りをしてくれていた。彼自身、食事を運んだ際に小遣いを貰ったことがある。

 

 貴族の条件たる魔法が一切使えず、平民である自分の目から見ても常識外れな言動を繰り返していたため、王族としては正直どうかと思うが……かつてのジョゼフが身内や貴族だけでなく、臣民に対しても優しい人間であったことは間違いない。

 

「そんな……そんな……!」

 

 驚愕に震え、立ち竦んでしまった手品師を諫めたのは彼の現在の主人だった。

 

「惑わされるな、トーマス! お前は、お前の仕事をするのだ!」

 

「し、しかし……」

 

 未だ混乱しているトーマスをひとまずそのままにすると、ギルモアはタバサに向かって嫌らしい笑みを浮かべた。

 

「失礼ですが、大公姫殿下。ジョゼフ王があなたさまを生かしておいでなのは、何も親愛ゆえのことではないのではありませんかな? いや、それすらも計算の内なのかもしれませんがね」

 

「どういう意味?」

 

 嗤いながら、ギルモアは語る。

 

「ご存じですか? トリステインの先代国王ヘンリー一世陛下は、アルビオンのテューダー王家の出であらせられます」

 

「それが?」

 

「そもそも三王家は『始祖』ブリミルの直系。つまり、親戚同士なのですよ」

 

 顔中に疑問符を浮かべているタバサに対し、ギルモアは物わかりの悪い子供を諭すような口調で告げた。

 

「戦争が始まったために延期されてしまいましたが……本来であれば、今頃ゲルマニアではトリステインの王女アンリエッタ姫殿下と、皇帝アルブレヒト三世閣下の結婚式が執り行われていたはずです。失礼ですが、大公姫殿下は今……おいくつでしたかな?」

 

 ここまで言われれば、さすがにそういった方面に疎いタバサでもわかる。

 

「伯父上が……わたしを、后として迎えるために生かしておいたと?」

 

「左様でございます、未来の王妃さま」

 

 馬鹿丁寧に一礼してみせたギルモアは、相手に見えないよう握っていた小型拳銃の撃鉄を起こしてコック・ポジションにする。弾と火薬は既に詰めてある。残るは――!

 

「ですが、そんな未来はありえません」

 

 言いながら銃口をタバサに向け、引き金を引いた。さほど性能が良いとはいえぬ拳銃だが、この距離で、なおかつ思いもよらぬ話を聞いて動揺した小娘を穿つ凶弾とするには充分である――はずであった。

 

「そう、ありえない」

 

 呟いたタバサが、ついと杖を振ると同時に風が舞い、弾丸を彼女の身体から逸らした。この場へ駆けつける間に纏っていた風を解き放ったのだ。

 

「下衆の勘ぐり」

 

 言い放った少女の顔は、先刻までと全く変わらぬ無表情。

 

「ぐッ……」

 

 フリントロック式の拳銃は、その性能上連射はできない。メイジを倒しうる自前の武器を失ったギルモアは再び叫んだ。

 

「トマ!」

 

 しかし彼の忠実な部下は、苦痛に満ちた顔で上司に申し入れた。

 

「ギルモアさま、金庫の鍵をお嬢さまへ渡してください」

 

「貴様、何を……」

 

「今なら、失うのはお金だけで済みます。ギルモアさまのお命や、その他のものは――手元に残るのです」

 

「馬鹿を言うな! その小娘を殺ってしまえばいいだけだろう」

 

「確かに、それでこの場はなんとかなるでしょう。ですが、お忘れですか? ここにはあの従者の少年がいません」

 

 ギルモアはぐっと詰まった。すっかり存在を忘れていたが、言われてみればその通り。わざわざ従者を置いてきたということは――己の身に何かあった際に、あの子供が王宮へ駆け込む手はずになっているのだろう。そうなったが最後、自分たちの似顔絵が国中に貼り出される。

 

 元とはいえ王族を害したとなれば、たとえガリアから逃げ出せたとしても追っ手がかかる可能性が高い。ふたりのやりとりから王家の事情を垣間見ていたギルモアは、そう判断した。

 

 気絶させて放置すればいい? 駄目だ。自分が明確な殺意を向けた以上、それを王に告げられれば身の破滅だ。

 

 だが、ここで大人しく金庫の鍵を渡しさえすれば……別の拠点や隠し財産は守れる。トマが暗に促してきているのは、そういうことなのだろう。

 

 ギルモアは腹の底から絞り出すような声で確認した。

 

「シレ銀行の鍵さえ渡せば……本当に見逃していただけるのですな?」

 

「杖にかけて。けれど、時間がないことは理解して欲しい」

 

「なるほど。追っ手がかからないという保証はできない、ということですか」

 

「わたしにはそこまでの権限がない」

 

「……承知しました」

 

 溜め息をつくと、ギルモアはポケットから革製の袋を取り出し、中から一本の鍵をタバサに手渡した。シレ銀行の刻印が入れられた、金属製の鍵だ。

 

「確かにお渡ししましたぞ」

 

 タバサは頷くと、ふたりへこの場を早急に立ち去るよう促した。

 

 ――深々と一礼し、ギルモアを庇いながら暗闇の中へ消えていったトーマスの背中を、タバサはただ静かに見送った――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。

 

「おほ! おほ! おほほほほほッ! シャ、シャルロットが、父上と? 笑わせてくれるじゃないのさ、あは、あは、あはははははははッ!!」

 

 『部屋』の中から一連のやりとりを見ていたイザベラが、狂ったような笑い声を上げていた。

 

「あ~んなちっぽけで、やせっぽちで、出るとこ引っ込んでるようなガキを妻に迎える? あの男ってば道化師の才能があるわぁ~。そうだ、王宮で雇ってやろうかしらッ!」

 

 などと矢継ぎ早に嘲笑の文句を垂れるイザベラだったが……実のところ、その内心は荒れに荒れていた。

 

 伯父が姪を娶る。非常に近しい親族ではあるが、王侯貴族の間では別に珍しいことではない。

 

 それに、従姉妹が父王の後添えになれば「優秀なメイジの血」を王家に取り戻すことができる。さらに彼女たちの名誉が回復され、しかも王妃になるともなれば、シャルル派の動きを抑えることにも繋がる。政治的な意味を考えれば、充分ありえる話なのだ。

 

 普通に考えれば、親を害した男と添い遂げるなんて考えられない。だが、母親が人質にとられていること、そして何よりも――。

 

「自分の父親を殺した相手を憎んでいない、だって? はん、さすがはガーゴイル娘だ。人間らしい感情はとっくの昔に捨て去ったってわけかい。ははッ、笑えるよねえ」

 

 従姉妹が憎んでいるのはあくまで両者を焚き付けた派閥で、伯父王を恨んではいない。それどころか恩を感じているような口ぶりだった。母親の解毒を条件にすれば、案外すんなりと受け入れる可能性がある。

 

 そもそも、父はシャルロットを実の娘であるイザベラより可愛がっていた。従姉妹も父に懐いていた。でなければ、あれだけ酷い目に遭わされておきながらもなお、あんな世迷い言を口にするはずがない。

 

「ああ、そうだよ。こ、こんなの、ただの与太話さ」

 

 だが、ありえないと言い切れないところが怖い。

 

(もしも本当にシャルロットが父と結婚してガリア王妃になったとしたら。わたしは――わたしの立場は、一体どうなる?)

 

 引きつった笑い声を上げながらも、イザベラの脳内はフル回転を続ける。

 

 結婚するということは、当然子を成す。その子が女ならまだいい。先に生まれたイザベラに継承権が残る。しかしそれが男児であったなら。いや、それ以前に王妃として権勢を振るえるようになったあの子が、自分をいじめにいじめ抜いたわたしをどうする?

 

 王室から追放して修道院にでもぶち込むか? それとも、今のあの子のような任務に就かせて暗殺――。

 

「ああ、おかしいッ。傑作だよ、笑い過ぎて、は、ははッ、い、息が苦しいよ……」

 

 早急に追っ手を手配し、あのふたりを捕らえる。その上で、シャルロットの前に引き出せば……面白い見せ物になる。

 

 普段のイザベラならばそう考えた上で、すぐさま実行に移していたことだろう。

 

 だが、今まで想像すらしていなかった畏るべき可能性が、謀略王女の足を竦ませ、その視野を狭めていた。

 

 ――王天君はそんなパートナーの様子を、深々と椅子に腰掛けたまま静かに観察し続けていた。その青白い顔に、不吉な笑みを浮かべながら――。

 

 




こういう展開も考えられますよというお話。

ま、まあ、タバサもうすぐ16だし? この世界なら結婚話が出てきてもおかしくない年齢だし?

ようやくE4甲終了。間に合うのかコレ。


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第96話 嵐と共に……

 ――やはり、わたしは『始祖』に嫌われているらしい。

 

 タバサは悔恨に押し潰されそうになりながら、竜舎へ向かっていた。

 

 王都リュティスの上空は、彼女の心を反映したかのような分厚い雲に覆われている。

 

 ベルクート街のとある商店前でのやりとり――太公望から、ショーケースに並ぶ玩具ではなく、視線をガラス越しに何もない空へ向けるという形で、暗に『窓』による監視を受けていると伝えられたタバサは、行動や言動に細心の注意を払い任務に望んだ。

 

 そんな状況で訪れた、思わぬ好機。

 

 元オルレアン公邸の使用人トーマスに叛意を促すという形で、タバサ自身の心境をイザベラに伝えられるという絶好の機会に恵まれたのだ。

 

 蒼玉の瞳に深い悲しみを湛え、タバサは蕩々と語った。

 

 父シャルルを御輿として担ぎ上げ、ジョゼフ王を打倒しようとしていた派閥こそが全ての元凶であること。

 

 それを防ごうとした伯父に対して複雑な思いを抱いてはいるものの、確たる証拠があることからジョゼフが簒奪者だというのは無責任な噂であり、法的にも正当な王だということ。

 

 ゆえに、タバサには王家に逆らう意志がないこと。

 

 これらの事情を、切々と目の前の青年に――ではなく『窓』の向こう側にいるであろうイザベラへ訴えかけたのだ。

 

 事件の真相に迫り、行方不明の妹を捜すためにはイザベラとの関係改善が必須だ。とはいえ、表立って行動を起こせば不審に思われる。

 

 そこで、タバサはあえて従姉妹が()()覗き見ていた場面で、他者に伝えるところを盗み聞きしてもらうという状況を造り出した。

 

 直接彼女と対面して語るよりも、イザベラに「自ら情報を手に入れた」「他では明かせぬ本音を聞いた」という認識を持ってもらったほうが、より効果的だと考えたからだ。

 

 ……ある意味、太公望の『交渉術』を散々目の当たりにしてきた影響とも言える。それが良いのか悪いのかはともかくとして。

 

 ところが、そこへ思わぬ邪魔が入った。トーマスを思い通りに動かそうとしたギルモアが、タバサたち母娘が生かされていたのはジョゼフが姪を後添えに迎えるためだなどと放言したのだ。

 

 即座に「下衆の勘ぐり」だと切り捨てたが、その言葉が従姉妹姫に与えた衝撃は相当なものだったらしい。

 

 太公望と合流し、任務完了の報告をしにプチ・トロワの謁見室へ向かったタバサが見たものは、怒りと怯えがないまぜとなったイザベラの顔だった。

 

 ――そんな思いを知ってか否か、彼女の相方がぼやいた。

 

「今朝の姫殿下は、何やら様子が変だったのう」

 

 タバサは頷いた。普段から無理矢理自分を大きく見せようと威張り散らすイザベラが、あんな醜態を晒すことなど滅多にない。状況は悪化したと見て間違いないだろう。

 

 とはいえ、この場で太公望に相談を持ちかけるほどタバサは不用心ではなかった。

 

 まだ王城内、もっと言えば敵地にいる今、どこに目と耳があるかわからない。現に太公望も『姫殿下』などともったいぶった言い方をしている。普段からイザベラを『意地悪姫』などと呼んで憚らない彼が、だ。

 

 そんな彼曰く、任務終了以後『窓』は閉じているらしいが……再び開いたとき、タバサ自身にはそれを感知する術はない。

 

 自然と竜舎へ向かう足が速くなる。が、そんな彼女を引き留める者がいた。

 

 いや、正確には――。

 

「勤務明けか、リョボー」

 

「副団長殿!」

 

 太公望のぎこちない敬礼に応えたのは馬上に在った老騎士と、彼と組んで警邏任務にあたっていたらしき若い騎士であった。

 

 東薔薇花壇騎士団の副団長。確か、アルヌルフといった筈――記憶の糸をたぐるタバサを置き去りにしたまま、彼らの会話は続く。

 

「今から風竜でトリステインに戻るつもりか?」

 

「はい。あのう、何か問題でも?」

 

 髭をしごきながら、アルヌルフは言いづらそうに告げた。

 

「アルビオンがトリステインに宣戦布告したことは知っているな?」

 

 太公望は頷いた。

 

「今、その影響で国境や付近の街道がごたついていてな。治安維持のために西の連中だけでなく風竜隊まで駆り出されている始末だ。王宮で竜を借りるのはまず無理だろう」

 

「そんな……」

 

 北の空を見上げながら、アルヌルフはさらに続ける。

 

「おまけに、嵐が近付いてきているようだ」

 

 傍らで彼らの話を聞いていたタバサの眉が、ごくごくわずかに寄った。湿った空気が風となって少女の肌を嬲る。老騎士の言葉に偽りはない、これは大雨が降る兆候だ。嵐の中を好んで駆ける者はまずいない――輸送費として、それこそ目を剥くような大金を積まれでもしなければ。

 

(一刻も早くこの国を出たいのに……!)

 

 焦るタバサの心とは裏腹に、アルヌルフはとんでもないことを言い出した。

 

「まあ、こればかりは致し方なかろう。嵐と街道の混乱が落ち着くまで……そうだな、一週間ばかり街で骨休め、もとい待機しておれ。上には私から報告しておこう」

 

「そんなに!?」

 

「東方から来たお前は知らないのだろうが、この季節の雨は何日も続く。おまけにこの状況だ、リュティスに足止めされる者が大勢出ると見て間違いない。だから、早めに部屋を押さえておいたほうがよいのだよ」

 

 それから、ちらりとタバサのほうを見て付け加える。

 

「もちろん、お前の連れも一緒で構わんぞ」

 

 言い終えると老騎士は腰に差していた軍杖を抜き、呪文を口にしながら軽く一振りする。その途端、空中にぱっと紙とペンが現れた。それらを手にしたアルヌルフは手早く何かを書き記すと、太公望に手渡した。

 

「ボン・ファン街にある馴染みの宿への紹介状と、地図だ。ああ、代金なら気にせんで大丈夫だ。うちの連中がよく使うから、隊の予算に計上されている」

 

「いえ、あの……」

 

「どうした? ああ、そうか。トリステインが気になるんだな?」

 

 太公望が頷くと、アルヌルフは柔らかな笑みを浮かべた。

 

「そうか。ならば安心するといい。トリステインは侵略者どもに完勝。条約破りの恥知らず共は這々の体で逃げ帰ったそうだ」

 

 ぱっと笑みを浮かべた少年に、老騎士はさらなる安心を与えた。

 

「トリステイン側の被害はごくごく僅かに留まったらしい。どこかの街で略奪が起きたり、焼き払われたなどという報告も一切入ってきてはおらんぞ。だから、ほぼ間違いなくお前が滞在している魔法学院も無事だ。詳しくはこれに書いてある」

 

 そう言うと、くるくると丸められた複数の紙束を太公望に渡す。

 

「これは?」

 

「警邏中に手に入れてきた新聞社の号外だ、トリステインの最新情報が書かれている。宿に着いてからゆっくり読むといい」

 

 そう告げて踵を返した老騎士を、若年の騎士が慌てて追いかけてゆく。

 

「お心遣い、ありがとうございます!」

 

 感謝の言葉を背に受けながら、アルヌルフは心の中で大いに安堵していた。

 

(やれやれ。警邏任務にかこつけて、待ち伏せしておいて良かった……)

 

 王都を守護する騎士団の副団長という立場上、彼の耳に入る噂話の類は多い。そんな彼の元に、王女の影武者を務めたシャルロット姫が休む間もなく次の任務に駆り出された、という情報がもたらされた。

 

 直接手助けするわけにはいかないが、姫殿下のお役に立ちたい。そんな思いを抱いていた彼は、即座に行動を開始した。

 

 ガリアとトリステイン間の国境が現在どうなっているのかを、親しくしている伝令係からそれとなく聞き出したり。東薔薇花壇騎士団の中でいちばんの風の使い手であるカステルモール団長に、今週の天気についてさりげなく訊ねたり。

 

 結果として、彼の行為は無駄にならなかった。久しぶりにご尊顔を拝した姫君は幽鬼もかくやといわんばかりにやつれていたからだ。こんな状態の主君を嵐の中、それも未だ混乱が治まらぬ国境方面へ向かわせるなど、もってのほか。

 

 そう判断した彼は、シャルロット姫たち主従が出てくるであろう時刻に合わせて城へ戻れるよう調整を行い、ごくごく自然に彼らへ安全な宿を提供することに成功した。

 

 トリステインの情報源として新聞を手渡したことについても特に心配していない。大公姫殿下が文字を読めないなどということは、絶対にありえない。それに、人通りのある場所で、かつ同僚を連れている状態で受け取らせた。それもこれも、上に無用な疑いを持たせないための気配りだ。

 

 アルヌルフに冠せられた『花壇騎士団の執事長』の二つ名は、伊達ではないのである。

 

 そんな事情など露知らず、立ち去るふたりの騎士を見送った太公望は、満面の笑みを浮かべながらタバサへ振り返った。

 

「いや~、副隊長殿は実に太っ腹だのう! ありがたく、一週間ごろごろだらだらするとしようではないか!!」

 

 しかし、タバサは表情を変えることなく彼を見つめている。

 

「なんだ、不満か?」

 

 蒼い頭が上下する。

 

「トリステインなら心配なかろう。ちらっと確かめたが、合戦場は無人の浜辺。それも半日経たずに決着したとか。ならば民に被害はあるまい。無論、魔法学院もな」

 

 相変わらずの超速読である。しかしタバサは食い下がった。

 

「かもしれない。けど」

 

 煮え切らない様子の少女を見て、太公望はぽつりと告げた。

 

「これは命令だ」

 

 想像だにしなかった発言に、タバサは内心たじろいだ。それを見た太公望は、実に嫌らしい笑みを浮かべている。

 

「わしの上司から待機せよと命じられたのだぞ。おぬし、それに逆らうというのか?」

 

「でも」

 

「でももストもないわ! とにかく、この一週間は休むと言ったら休むのだ!!」

 

 わたしには関係ない。タバサはそう反論しようとして、やめた。このひとがこうと決めたらテコでも動かない。下手に逆らうよりも――。

 

「なら、行きたいところがある」

 

「ほう、どこだ?」

 

「王立図書館」

 

 少し考えるそぶりをした後、太公望は答えた。

 

「まあよかろう。本を読みながらだらだらするのも悪くない」

 

 勝った。タバサは己の勝利を確信し、内心拳を握り締めた。図書館なら様々な調べ物をすることができる。宿に籠もって無為に刻を過ごすよりもずっといい。

 

 それに、これまでタバサはリュティス王立図書館へ行ったことがない。長期間王都に留まることを禁じられているからなのだが、今回は特別に滞在の許可を貰っている……と、ここまで考えたところでタバサは気付いた。

 

(まさか、誘導された?)

 

 タバサが本の虫なのは周知の事実。そんな彼女が活字の世界に浸るのは、体調だけでなく精神を安定させうる良い休息になるだろう。主な目的が調べ物であっても、だ。

 

(一週間の滞在、空いた時間、疲労と焦り……おまけに彼自身も読書好き。それらを加味していたとしたら……)

 

 そう考え、改めて太公望に目を向けると――案の定、彼の顔には賄賂を受け取ってほくそ笑む悪代官のような表情が浮かんでいた。

 

「やられた」

 

「何の話だ?」

 

「しらじらしい」

 

「いいから、宿へ行くのだ!」

 

 イラッとしつつも頷くタバサ。その直後、くうぅ……と可愛らしくお腹が鳴った。

 

「ふははは、どうやら腹ごしらえも必要らしいのう」

 

 爆笑する太公望。直後、彼の頭に木の長杖が叩き付けられた。コーンという小気味の良い音が城壁内に響き渡る。

 

「痛いではないか!」

 

「うるさい」

 

 抗議しながらも笑い続ける太公望を、タバサは手にした杖でぽかぽかと叩く。

 

 そんな彼らを、金色に輝くふたつの瞳が城壁の影から見つめていたが……両人に気取られることなく軽やかに身を翻すと――その姿を消した。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――ボン・ファン街。

 

 ガリア王都リュティスの中央を流れるシレ川、その中州に発達した旧市街からベルサルテイル宮殿の方向に伸びた街である。政治の中心地に最も近いこの場所には、様々な施設が存在していた。各国の大使館や王立図書館に銀行。王宮を訪ねた、或いはこれから向かう者たちが休息を取るための食堂や旅籠、彼らを相手に一稼ぎしようと立てられた屋台……。

 

 当然、往来する者たちも多い。タバサと太公望はその人混みの中を縫うようにして進んでいた。ちょうど食事時と重なったため、周辺からいい匂いが漂ってくる。

 

「宿へ着く前に、何か腹に入れるか」

 

 返事の代わりに、太公望の脇腹へ手刀が叩き込まれた。

 

「いきなり何をするのだ!」

 

「また笑った」

 

「わしは笑ってなどおらぬ。おらぬぞ~」

 

「嘘」

 

 端から見るとじゃれ合っているようにしか見えないふたりの耳に、悲鳴に近い叫び声が聞こえてきたのはそれからすぐのことだった。

 

「だ、誰か! そいつを捕まえてくれ!!」

 

 直後、ふたりの足下をすり抜けるようにして黒い影が走り去った。タバサは反射的に杖を構え、ルーンを紡ぐ。発動したのは〝風の縄〟の魔法だ。

 

「にゃう!」

 

 見えざる縄に捕らえられた影は、小さく鳴いた。地面に革袋が投げ出され、カシャンという音を立てる。声を上げた拍子に、咥えていたものを落としてしまったようだ。

 

「猫……?」

 

 捕まえたモノを見たタバサは小さく首を傾げた。

 

 黒い毛並みはぼさぼさで、あばらが浮いている。そんな状態の猫が食料ではなく貨幣入りの皮袋を奪って逃げたということは……。

 

(野良猫じゃない。食い詰めたはぐれメイジの使い魔?)

 

 ひとり思案に耽っていたところへ、足音が近付いてきた。

 

「捕まえてくれたんだね! 助かった」

 

 駆けつけた声の主は黒猫が落とした革袋を手に取ると、ふたりに向き直った。長身で細身の、女性と見紛う程美しい少年がそこに立っている。だが、彼が他者の感心を最も引き付けるであろうものはその双眸であろう。左目は鳶色だが、右目は宝石のように煌めく碧眼――つまり、左右の瞳の色が異なっているのだ。

 

「危うく一文無しになるところだったよ、ありがとう」

 

 と、そこまで述べたところで少年の表情が一変した。月目を大きく見開いたかと思うと、タバサに向けて大輪の笑みを浮かべる。

 

「ああ、なんて可憐な! まるで月夜に咲く花のようだ」

 

 そんな戯言を人通りの多い街中で恥ずかしげもなく叫んだ少年は、いきなりタバサの白く小さな手を取ると、その甲に口付けした。

 

「んな!?」

 

 無言で立ち尽くす少女に代わり、太公望が声を上げる。

 

「ぼくは美の探求のために、この地へ参ったのです。あなたのような美しい方に出会うためにこそぼくは存在しているのです! マーヴェラス!」

 

(なんだこやつは! この手の類はトリステインにしかいないと思っていたのだが、どうやらそういう訳でもないらしいのう……)

 

 心の中で辟易しつつ、太公望はタバサに耳打ちした。

 

「のう。こういう輩に関わると、長いぞ?」

 

 蒼い頭が同意するように上下する。身近に似たようなタイプの同級生がいるだけに、彼の言葉には説得力があった。

 

 少年の手を振り解くと、マントを翻して目的地へ向けて歩を進めた――そのとき。

 

 ……くうぅ。

 

 空腹に耐えきれなくなった腹の虫が、一斉に抗議の叫びを上げた。ぷるぷると肩を震わせる少女に、月目の少年が微笑みながら申し出た。

 

「財布を取り返してくれたお礼に、何かご馳走するよ」

 

「いらない」

 

「遠慮なんかしないで欲しいな。元はといえば、ぼくのせいであなたに恥をかかせてしまったようなものだし」

 

 少年はそんなことを口にしながら、タバサの前に回り込む。

 

「どいて」

 

「そうはいかないよ。このままあなたを帰したりしたら、男が廃る」

 

「関係ない」

 

 タバサが無理矢理にも押し通ろうとした次の瞬間。再びお腹がぐうと鳴った。滅多なことでは表情を変えない少女の頬に、うっすらと朱が差す。

 

「どうかぼくを立てると思って……」

 

 再びタバサの手を取ろうとした少年の前に、人影がぬっと割り込んできた。

 

「おいこら、わしを無視して話を進めようとするでない!」

 

「ぼくの勘違いかな? 君とは初対面だと思うんだけど」

 

 少年は不機嫌という文字を顔中に貼り付けている太公望に対して怯む様子もなく、無邪気な笑みを浮かべている。

 

「わしはずっとこの娘の隣におったではないか!」

 

「これは失礼。地上に現れた太陽があまりに眩しくて、周りが見えなかったんだ」

 

「自分で言ってて恥ずかしくならんか?」

 

「真実を語っているのに、何を恥じる必要があるんだい?」

 

 月目の少年は、呆れ果てたような太公望の視線をあっさりと受け流す。

 

「ところで、すぐ側にいたのなら……ぼくと彼女の会話を聞いていたよね?」

 

「おぬしが一方的に喋っとっただけだろうが!」

 

 こくこくと蒼髪が上下する。ところが少年は太公望の皮肉にも、タバサのつれない態度にもびくともしないどころか、にっこりと笑いながら言った。

 

「というわけで、是非とも食事に誘いたいんだけど……」

 

「断る」

 

「君も一緒にどうだい?」

 

「話だけなら聞いてやらんこともない」

 

 すわ騒動かと聞き耳を立てていた通行人たちが、一斉にこけた。タバサもその場でよろめきそうになった。すんでのところで耐えきったが。

 

「この近くにあるリストランテでね、ガリア東部の料理がオススメなんだ」

 

「わしはなまぐさが食えんのだが、そのへんは大丈夫かのう?」

 

「なまぐさって何だい?」

 

 即座になまぐさの定義について説明を始める太公望。タバサはなんだか目眩がしてきた。もちろん空腹のせいではない。

 

「大丈夫だよ。料理長にそう頼めばいい」

 

「酒はあるのかのう?」

 

「ガリア産のワインはもちろん、アルビオンの麦酒(エール)まで取り揃えてあるよ」

 

 くいくいとタバサがマントを引いたが、太公望は聞く耳持たず。

 

「果物や甘味などは……」

 

「そうだね、今なら苺かオレンジをあしらったお菓子がお勧めかな。ああ、そうそう。もちろんぼくの奢りだから遠慮はいらないよ」

 

「ふむ、悪くないように思える」

 

 少年は微笑みを浮かべると、近くの路地を指差した。

 

「決まりだね。それじゃ、行こうか」

 

 ……そういうことになった。

 

○●○●○●○●

 

 ふたりが案内されたのは、表通りから少し内側へ入ったところに構えられた小綺麗なリストランテだった。店内には貴族だけでなく、身なりの良い平民の姿も見られる。あまりお高くとまらず、それでいて品位を損なわない店構えだ。

 

「そういえば、自己紹介がまだだったね。ぼくはジュリオ。ジュリオ・チェザーレ。良かったら、きみたちの名前を教えてもらえるかな」

 

 席に着くなり、少年――ジュリオは己の名を告げた。

 

「それは本名?」

 

「実は子供の頃、悪友たちにつけられたあだ名でね。それがそのまま定着して、今に至っているんだよ。本名を告げたいところだけど、残念ながらそれは叶わない」

 

「何故?」

 

「両親が赤ん坊のぼくを孤児院の前へ置き去りにしたときに、名前がわかるようなものを残していってくれなかったからさ」

 

「ごめんなさい」

 

 タバサは素直に頭を下げた。

 

「気にすることはないよ。よく聞かれることだから、もう慣れているし」

 

 壁掛け黒板に書かれているメニューとにらめっこしていた太公望が振り向いた。

 

「理由を聞いても構わぬか?」

 

「なるほど。珍しい顔立ちをしていると思っていたけど、やっぱり君はガリア人じゃないんだね」

 

「ふむ、どうしてそう思う?」

 

「普通、ガリア人がぼくの名前を聞いたら『大王』のことを思い出すからね。だから、あなたも本名かどうか確認したんだ。違うかい?」

 

 同意を求められたタバサは頷き、ジュリオの発言に補足した。

 

「『大王』ジュリオ・チェザーレ。アウソーニャ半島の小国だったロマリア都市国家を現在の形にした張本人。軍務、政治共に優れた王として有名で、当時のロマリアは半島内部のみならず、ガリアの半分まで手中に収めていた。〝杖は振られた〟という引用句は彼の発言から生まれたもの」

 

 ジュリオがぱちぱちと拍手する。

 

「よく勉強しているね」

 

「常識」

 

「ガリアやロマリア人にとっては……だけどね。そのせいで、本名かどうかしょっちゅう訊ねられるんだよ。理解してもらえたかな?」

 

「うむ。しかし、そのような由来のある名では苦労するであろう?」

 

「ははは、まあね」

 

 苦笑するジュリオ。

 

 タバサとしても、それには納得せざるをえない。自身が似たような経験をしているからだ。

 

「面倒」

 

「何か言ったかい?」

 

 ふるふると蒼い髪が左右に揺れる。

 

「さて、ぼくの名乗りは終わったわけだけど……」

 

「タバサ」

 

「え?」

 

「タバサ。わたしの名前」

 

「失礼だけど、それは本当の名前なのかな?」

 

「わたしは名前を無くしてしまった」

 

「……すまない。これ以上聞くのはいくらなんでも無礼だね」

 

「あなたと同じ。もう慣れている」

 

 予想通り、ジュリオはタバサの名を本名だとは思わなかったようだ。それもそのはず、普通なら人間には決してつけない名を用いているからだ。

 

(彼の場合は過去の偉人と比較されて苦労してきた。極端な例えだけど『ブリミル』と名付けられたようなもの。けれど、何かが頭の隅に引っ掛かる。これは一体……?)

 

 猛烈な勢いで脳をフル回転させていたタバサは、はっとした。

 

 ガリア人なら、間違っても自分の息子に『大王』の名をつけたりしない。ロマリアの侵攻から始まった統治時代は屈辱の歴史そのものだからだ。何らかの気の迷いでそんな名を付けようとしてもガリア教区の神官が認めないだろう。子供の渾名にしても、周囲の大人が放っておかない。

 

(つまり、彼は少なくともガリア人ではない)

 

 ――他愛のない世間話を分析し、その中から重要な情報を抜き出す。

 

 太公望がよくやる手法だが、抜き出しはともかく話を持ちかけるのが苦手なタバサは全神経を集中し、彼らの一挙一動を見守ることにした。

 

「わしは太公望だ」

 

「よろしく、ミスタ・ジャコモ」

 

「タ・イ・コ・ウ・ボ・ウ!」

 

 名乗りの後にお約束のように発音を間違われ、大声で訂正を入れる太公望を横目に見ながらタバサはさらに思考を重ねる。

 

 彼はよく「ジャコブ」「ジェイコブ」と呼ばれる。これらは言語や綴りは同じでも、国や地方によって発音が微妙に異なる――所謂訛りのせいだ。

 

 前者はトリステインやガリア、後者は魔法学院に勤めているアルビオン出身の料理人が口にしていた。キュルケのご両親は当初「ヤーコプ」などと呼んでいた記憶がある。ゲルマニア方面だと、そう発音するのだろう。

 

 そのどれにも当てはまらない訛りに「ジュリオ・チェザーレ」という名前。おそらく彼はロマリア人だ。

 

 気付いた途端、タバサの目は北花壇騎士のそれに変化する。

 

(……この男、何者?)

 

 黒い外套を羽織っていたが、店に入った途端コートスタンドに掛けた。貴族のマントならそんなふうに扱わず、身につけたままでいるはず。腰に差しているのも軍杖かと思っていたが、よくよく見ると鞘に入れられている。つまり、杖ではなく細身の剣なのだろう。

 

 と、そこへジュリオが声をかけてきた。

 

「注文は決まったかい?」

 

 隣では、太公望が店員にプティングについての説明を受けている。

 

(お腹を空かせたままでは思考に悪影響が出る。それに、ここの代金はジュリオが持つのだ。遠慮せず、しっかり食べることにしよう)

 

 先程のお返しとばかりに、ささやかな嗜虐心がタバサの中で首をもたげる。本人たちは嫌がるかもしれないが、イザベラとタバサは間違いなく同じ血を引く従姉妹だった。

 

「レモンサワーと、白パン、鴨のロースト」

 

 愛想笑いを浮かべながら店員が復唱する。が、これでは終わらなかった。

 

「小芋の丸揚げ、極楽鳥のワイン煮込み、赤マスのパイ」

 

「ずいぶん頼むけど、そんなに食べられるのかい?」

 

 ジュリオの問いに頷くタバサ。

 

「鳥のあぶり肉、豚肉の蜂蜜漬け、ハシバミ草のサラダ、苺のパンケーキ……」

 

 ジュリオの愛想笑いが引きつった笑みに変わるまで、さほど時間はかからなかった。

 

 

 ――それから一時間後。

 

 リストランテ内は戦場と化していた。

 

「も、もうそろそろこのあたりで……」

 

 そうジュリオが告げた途端、酒瓶を片手に太公望が吠える。

 

「なぬ!? わしの酒が飲めぬか――ッ!!」

 

「うぷおッ!」

 

 グラスではなく瓶から直接ワインが注がれる。

 

「まだ足り――ぬ!!」

 

「がはぁッ!」

 

 顔こそ赤いが平然とした様子の太公望と、あきらかに限界域に達しているであろうジュリオ。

 

「おかわり」

 

「ウサギのシチューとバケットですね、かしこまりました」

 

 次々と料理を注文しては、残さず腹へ納めていくタバサ。

 

 山のように積み上がる空の皿、転がる大量のグラスと酒瓶。彼らの食卓だけが周囲から明らかに浮いている。

 

 ……それからさらに刻が過ぎて。

 

「ふう、食った食った!」

 

 飲んだ飲んだの間違いでは? などと考えながらお腹をさするタバサ。ふたりは知り得ないことだが、彼らのテーブルで消費された酒と料理は、この店の売り上げ一週間分に相当する。

 

「お客さま、お会計を……」

 

 立ち上がって店を後にしようとしていたふたりに、店員が近付いてきた。太公望は酔い潰れてテーブルに突っ伏したジュリオを指差して見せた。

 

「こやつがまとめて支払うことになっておる」

 

 去り際に店内で交わされた「金あるんだろうな」「ブリミル教の神官さまだし大丈夫だろう」という会話は、太公望はもとよりタバサの耳にも届いていた。

 

 

 ――紹介された宿への道すがら、タバサは太公望に尋ねた。

 

「気付いていたの?」

 

 ロマリアの神官が、何らかの理由でタバサに近付こうとしていた。その場で追い返してもいいが、相手の目的がわからない。

 

 だからわざわざ誘いに乗ったのかと暗に匂わせる。

 

「何のことだ?」

 

「いじわる」

 

 珍しく不満げな声を上げたタバサへ、太公望はニヤリと笑って見せた。

 

「ふふん、昨日の今日で相当疲れておるようだのう。たっぷり食べて飲んだことだし、ベッドに入ればすぐにいい夢が見られるぞ」

 

「夢……あ!」

 

 そうだ。なにもこんな人馬の往来する通りで会話せずとも、彼には〝夢渡り〟という機密保全に適した魔法があるではないか。

 

(こんなことも思い出せないなんて、彼の言う通りわたしは相当疲れているのだろう。おまけに、焦りから自分を完全に見失っていた)

 

 そう結論し、ぽつりと呟く。

 

「早く寝たほうが良さそう」

 

「そうであろう? ほれ、宿へ急ぐぞ」

 

 タバサは頷いた。イザベラのこと、あのジュリオというロマリアの神官について、それから……話したいこと、聞きたいことがたくさんあるのだから――。

 

 

○●○●○●○●

 

 網の目のように深く生い茂った灌木の影で、男は気配を殺し、息を潜めていた。

 

 標的は間もなく視線の先にある、小高い丘の上に現れる。何故なら、彼がそうなるように仕組んでいたからだ。

 

 男の手元には、この場に持ち込みやすく、かつ仕事の邪魔にならぬよう選び抜いたクロスボウと短矢(ボルト)が十本。矢尻には獲物を蝕む強力な毒が塗られていた。

 

 仕留め損なうことなどありえない。この数年の間に幾度となく繰り返し、既に欠伸が出るほど単調な作業と化しているのだから。

 

 程なくして標的が現れた。人目を引く蒼い髪と、仮に誰かが側を通りかかったとしたら十人中、十人全てが振り返るであろう美貌の持ち主だった。

 

 馬上から、何かを探しているかのように周囲を見回している標的へクロスボウを向けながら、男は小さく呟いた。

 

「恨むなら、己の才と――」

 

 ボルトをセットし、照準を目標の胸に合わせる。

 

「優しさを恨め」

 

 そして引き金を引こうとした次の瞬間。ザアッという轟音が彼を襲い――意識を暗転させた。

 

 

「またあの夢か」

 

 天蓋付きの豪奢なベッドに身を横たえていた男――ガリア王ジョゼフ一世は両手で顔を覆うと、自嘲気味に呟いた。

 

 しばし臥所でまんじりとせず過ごしていた狂王だったが、すぐに夢の世界へ戻れぬことを悟った彼は枕元に置いていた肩掛けを羽織り、窓の側へ歩いてゆく。

 

 それから冬用にしつらえた厚手のカーテンを乱雑に引くと、窓の向こうに見える大庭園が激しい雨に打たれていた。

 

「なるほど、この雨がお前を救ったというわけか。もしもこれが夢の中ではなく……」

 

 独りごちた後、小さく溜め息をつく。

 

 ジョゼフはガリアの王座についてから――より正確に言えば、弟を〝処分〟して以降、深い眠りにつくことができなかった。

 

 典医に症状を訴えれば、適切な治療を受けることができるだろう。なにせガリアは世界に名だたる魔法大国である。腕の良い水メイジの数はもちろんのこと、魔法薬の品揃えも他国とは比較にならない。しかし彼はそれをせず、あえて今の状態にあることを選んだのだった。

 

 ふいに雷光がジョゼフの顔を照らす。続いて落雷による轟音が彼の耳朶を打つ。

 

「おれも、あの空のようにあれたらいいのに」

 

 降りしきる雨を眺めながら、ジョゼフは独白する。

 

「なあ、シャルル。お前と将棋(チェス)をするのは……本当に楽しかった。この世界にお前ほどの指し手はどこにもおらぬ。お前がいなくなってしまってからというもの、おれは退屈と絶望で死にそうだ。この世の全てが色褪せ、孤独という名の毒が全身を蝕み続けている」

 

 王は背後を振り返った。そこには、彼自慢の『世界盤』が置かれている。

 

「おれの相手ができるのは、おれだけになってしまった。だからな、シャルル。おれはこの盤面で遊んでいるのだよ」

 

 巨大模型の側に歩み寄り、盤面を見渡す。

 

「この世界を盤面に見立て……人間を、国を、生きとし生けるもの全てを駒にしたのだ。ただおれの無聊を慰めるためだけにな」

 

 紡がれた狂王の言葉は虚空へと消える。彼の耳に届くのは雨音だけであった。

 

「もしもお前が今のおれを見たら、どんな顔をするだろう。いつものように肩を竦めて笑うのだろうか。それとも――」

 

 苦笑混じりの声でそう告げると盤の北方、海の上と砂浜にそれぞれ配置された駒を見遣る。艦隊と竜騎士で編成されたアルビオン空軍と、浜辺に展開した歩兵中心の陸軍。それを迎え撃つトリステインの軍勢はというと、騎兵と歩兵、わずかばかりの幻獣隊という貧相な有様だ。

 

「これだけ見れば、勝敗は明らかだ。普通はそう思うだろう? ところがだ、この差し手はおれが想像だにしなかった方法で戦局をひっくり返して見せたのだよ!」

 

 先程までとは一転。弾んだ声を上げると、ジョゼフは側に置かれていたトロール鬼の像を数体盤面に載せた。

 

「まだ注文した駒ができていないから、すまんがこれで勘弁してくれ。なんと、攻城用のゴーレム数十体に盾を持たせて、艦隊斉射を防いだというのだ! その報告を受けたときの衝撃がお前にわかるか、シャルル。おれには到底思い至らなかったことだ!」

 

 サン・マロンにはガリア王国空海軍工廠の他に、ジョゼフの命で造られた研究所が存在する。

 

 通称『実験農場』と呼び習わされるその施設では、ゴーレムやガーゴイルをより効果的に運用するための実験が日々行われていた。

 

 中でもジョゼフが特に熱を入れていたのが、攻城用ガーゴイルの建造だ。

 

 ガーゴイルは全てを指示しなければならないゴーレムと異なり、ある程度自立して動けるだけの知能を付与することが前提のため、繰り手の負担が圧倒的に少ない。

 

 ただし、精神力が続けばいくらでも作り直しができるゴーレムと異なり、破壊されたら再起不能になってしまう。そこで、材料を吟味し、さらに〝硬化〟の魔法で強化することによって敵の魔法や砲撃を受けてもびくともしない鋼の巨兵を造り、陸戦の主力とする。

 

 この案も両用艦隊と同様、ハルケギニア六千年の歴史において、誰も考えつかなかった革新的なものである。しかし――。

 

「おれはゴーレムやガーゴイルを攻撃に使うことしか考えられなかった。結局、常識という名の殻から飛び出せなかったわけだ。ああ、もちろん悔しいとも。だがな、それ以上に嬉しくてたまらなかったのだよ! からっぽだったおれの心に、小さな……本当に小さな喜びという名の炎が灯ったのだから!」

 

 まるですぐ側で弟が聞いているかのように、身振り手振りしながら説明する。

 

「おまけに、とんでもない切り札を隠し持っていた! いにしえより伝わる乗法呪文。王家の『ヘクサゴン・スペル』で艦隊を薙ぎ払い、その勢いでもって地上の軍勢を制圧してしまったのだ! そうとも、援軍が来ると確信していなければ、ゴーレムで守りを固めるなどという選択は採らなかったはずだ! かの人物は知っていたのだよ。かの地に〝風〟が吹き荒れることをな」

 

 ジョゼフは半日ほど前にこの報告を〝女神(ミューズ)〟から受け取った。そのときの興奮を弟と――シャルルと分かち合いたい。そんな表情でひとり語り続けた。

 

「もちろん、その前に起きた〝奇跡〟とやらも特筆に値するだろう。だがな、ここであえて最初に話した、ゴーレムで艦隊斉射を防いだ件に戻ろうと思う」

 

 そう言うと、盤のトリステイン側に配置されていた氷水晶の駒を摘み上げる。

 

「そもそもだ、これを思いついたヴァリエール公爵……おっと! 今はサンドリオン一世陛下、だったな。かの人物は融通の効かない、自分の領地を守ることだけに汲々としているつまらん奴だった。将や政治家としては間違いなく有能だが、定石から外れぬ面白みに欠けた人物だった。だったはずなのだ! それが、ここへ来て化けた! 王になって大胆になった? ありえん。実際に会ったことがあるがな、到底こんなことを考えつくような男には見えなかった。単におれの目が曇っていただけのことかもしれんが……」

 

 今から数年前、まだ弟が己の側にいた頃。ラグドリアン湖畔で夫を亡くした王妃を慰めるためという名目で開かれたトリステインの園遊会。病床にある父王に代わり、兄弟で出席したジョゼフはそこで件の人物と会話をする機会に恵まれた。

 

 王族であるにも関わらず、魔法が使えない。国の恥ともいうべき秘事は、しかし他国の王侯貴族たちに伝わっていた。蔑み、或いは哀れみの視線がジョゼフの元へ集う中で、数少ない例外がヴァリエール公爵であった。

 

 湖の底のような蒼い瞳に映っていたのは、王族に対するごく当たり前の敬意。久しぶりにそういった感情に相対することになったジョゼフは彼に興味を持ったが、結果としてそれ以上のものを見出すことは出来なかった。

 

 水の国の新王を模した駒をまじまじと見つめながら、ジョゼフは独白する。

 

「若い頃ならばいざ知らず、年老いた人間がこうも変わるなど、そうあることではない。伝統を守り、腑抜けた王家を不甲斐なく思いつつも取って替わろうなどとは露ほども考えていなかったであろう忠義の士が……王冠を譲り受けて軍の先頭に立ち、滅亡寸前の王国を奇策でもって窮地から掬い上げた。かの人物に一体何が起きた? おれは、それが知りたいのだ。お前もそう思うだろう? シャルル……」

 

 雷光が部屋と王の横顔を照らす。季節の雨が激しさを増して蒼宮グラン・トロワの頂点を激しく叩き続けていた――。

 

 

 




???「最近、誰かに見られているような気がする」

来た、見た、倒れた。ついに出ましたジュリオ・チェザーレ。
ルイ才コンビにはあれで通せましたが、残念! タバ太ズは引っかからなかった!


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第97話 交差する杖を汚す毒-BRAIN CONTROL-

 ――双月が、夜空の真上から地上を照らす時間帯。

 

 静まりかえっていたはずのプチ・トロワ宮殿の一室から、そこを拠点とする女主人の金切り声が響き渡った。

 

「伯爵家の当主が、こんなくだらない陳情出すんじゃないよ!」

 

 どんなに気分が悪くても、仕事は待ってくれない。とはいえ、深夜まで執務室に籠もっていては肩が凝る。そこで、イザベラは自室のベッドでごろごろしながら回されてきた書類に目を通していたのだが――。

 

「真面目に勉強しないガキを! 叱ってくれとか! 馬鹿か? 馬鹿なんだね!? 自分で解決しなよこんなもん! ほんと、王政府をなんだと思ってんだいこいつはさあ!!」

 

 手にしていた羊皮紙をぐしゃぐしゃに丸めて床に叩き付ける。それだけではどうにも腹が納まらなかったイザベラはドスンという音を立ててベッドから飛び降りると、書類だったモノをげしげしと踏みつけた。

 

 ……相変わらず、一国の王女とは思えぬ行動である。

 

 とはいうものの、ただでさえ従姉妹と父の件で精神が参っているところへこんなくだらない陳情書を出されたら、イザベラでなくとも怒る。

 

 実のところ、こういった貴族の些細な家庭内問題の解決依頼が『北』に持ち込まれることは珍しくもなんともない。今回は内容はもちろんのこと、タイミングも最悪だっただけだ。

 

「えらくご機嫌ナナメじゃねぇか、イザベラ」

 

 ぜえぜえと息を切らし、肩を上下させている王女に声を掛ける者がいた。

 

「どうしたの? オーテンクン」

 

 これが召使いや衛士の類なら切れ長の目で睨め付けていただろうが、王天君が相手ならばそうはならない。そもそも、こんなときに彼のほうから声をかけてくるということは……。

 

「オメーに客だ」

 

 予想通りの言葉にイザベラの口端が上がった。

 

(こんな時間に現れるなんて、刺客の類に決まってるわ。いつものように彼の『窓』から醜態を見届けた上で追跡者を放てば、多少は気が晴れるかもしれないね)

 

 そう判断したイザベラは逡巡することなく『部屋』に飛び込んだ――の、だが。

 

「久しぶりだのう。いや、今朝会ったばかりだったか」

 

「ふえ!?」

 

 奥の窓に、憎たらしい従姉妹のパートナーが鎮座していた。

 

「な、な、ななな、なんで!?」

 

「ああ、怖がる必要はないぞ。ほれ」

 

 太公望は目の前の『窓』を叩いて見せた。鏡のように見えていたそれが、ゴンゴンと金属板のような音を立てる。

 

「これこの通り。王天君の許可がなければ、わしはここから出られぬ」

 

 弟の言葉に、兄が同意しつつ補足を入れた。

 

「まぁ、イザベラがいいって言わねぇ限りそのつもりはねぇがな」

 

「そ、そんなことより! こんな夜中に王女のところへ来るだなんて、どういうつもりだい?」

 

「かかか、相変わらず剛毅な娘だのう」

 

「誤魔化すんじゃないよ!」

 

「そういう訳ではないのだが…… 実はおぬしを見込んで、頼みたいことがあるのだ」

 

 イザベラの目がすっと細められた。わざわざこんな真夜中に人目を忍んでやって来るほど重要、あるいは深刻な案件か。

 

「まさか、あの子のことじゃないだろうね?」

 

「全く関係がないというわけではないが…… どちらかというとおぬしとジョゼフ王、ガリアという国全体に関わる可能性がある、といったほうが正しいかもしれぬ」

 

「へえ、随分と大きく出たもんだね」

 

 ちらりと王天君を見遣ると、彼は黙って頷いて見せた。

 

(おそらく弟から話を聞いているんだろう。その上で放置できないと判断したからこそ、王天君はわたしを呼んだんだ)

 

 そう考える程度には自らのパートナーを信頼していたイザベラは、目線で続きを促した――。

 

 

○●○●○●○●○

 

 ――ボン・ファン寺院。

 

 ガリア管区教会リュティス教区に属するその寺院は、旧市街に位置する静かな礼拝所だ。

 

 新市街にそびえ立つ荘厳なリュティス大聖堂に比べると、地味としか言いようのない建物だが、昔からそれで良いとされている。

 

 何故なら、ガリアの政治的中心地に最も近いこの場所は、代々ロマリアから派遣される神官たちが機密情報を入手し、総本山へ持ち出すための隠れ家――清廉を旨とするブリミル教にも、暗部があるという事実を象徴するような場所だからである。

 

 そんな寺院のとある客室で、ひとりの少年がベッドの上で頭を痛めていた。

 

「昨日は酷い目に遭った。なんて非常識な主従だ……ある意味、古参の神官たちよりやりにくい」

 

 特徴的な月目が苦痛によって細められる。

 

 と、コンコンと規則正しいノック音が室内に響いた。

 

「どうぞ」

 

 来客は神官服を着た初老の男性だった。彼が手にしている銀のトレイには、硝子の薬瓶とタオルが乗せられている。

 

「これはこれは司祭殿御自らのお越しとは、恐悦至極」

 

「世辞なぞいらん。が、貴様のような若造がどうやって聖下に取り入ったのか……その一端を垣間見ることができただけでも、自ら足を運んだ価値があったわ」

 

 憎々しげに吐き捨てると、司祭はトレイをサイドテーブルに置いて部屋から出て行った。

 

「まったく、噂通り正直なお方だ」

 

 だから、いつまでたっても司教の位階に到達できずにこんなところで燻る羽目になるんだよ。などと心の内で続けながら少年――ジュリオは上半身を起こし、薬瓶を手に取る。

 

 栓を抜いて中身を飲み干すと、今までの苦しみがまるで嘘であったかのように全身から不快感が消えた。司祭は憎まれ口を叩きながらも良い薬を手配してくれたようだ。いや、だからこそあの態度だったのかもしれない。効果の高い魔法薬は、そのぶん値が張るのだから。

 

 起き上がって服を着替え、軽く体を動かすと、酒精によって鈍っていた頭が回り出す。

 

「さてと、これからどうしたものかな」

 

 正直なところ、当初ジュリオはこの任務を甘く見ていた。

 

 ジュリオは街を歩けば道行く女性はおろか、男性までもが振り返るほどの美形だ。普通なら不吉だとして忌み嫌われる月目も、彼の魅力を引き立てる装飾品となりえる程に。

 

 自分の()()を正しく理解している彼は、それを利用して少なくない女性の好意と支援を勝ち取ってきた。

 

 世間ずれしていない大貴族の娘なんて、簡単に意のままにできる……。

 

 そんな風に考えていたのだが、その認識はドバドバと砂糖をまぶしたパウンドケーキより甘かった。件の姫君は色気より食い気で、ジュリオの魅力には欠片も興味を示さなかったのだ。

 

 そのため、彼女に接近することができず、目的の人物であるのかどうかわからなかった。というか煙に巻かれた。

 

 主人をダシに使い魔の少年を挑発してみたものの、こちらも芳しくない状況だ。隙だらけのように見えて、どうにも掴みどころがない。

 

 ただ、唯一気になったことがある。

 

「食事中でも手袋を外そうとしなかった。見られたくないものがあるのかな? それとも、わざとそちらに視線を集めて本当に隠したいものから目を逸らしているのか……」

 

 ――太公望に限らず、崑崙の者には食事中には帽子を取るとか上着を脱ぐといった習慣がない。手袋についても同様なのだが、そんなこととはつゆ知らぬジュリオはそれを擬態と誤認した。

 

「彼が『盾』なら、大公姫殿下は機知に富んだ人物だが……もしも『心臓』だとしたら、つくづく悲劇の舞台に縁のあるお方だ」

 

 ジュリオは部屋の隅に置かれた机につき、椅子の背もたれに寄りかかりながら思考を巡らせる。

 

 これまでガリア管区教会を通じて集められた情報によると、シャルロット姫はメイジとして父親同様卓越した才能の持ち主だと評判だったが〝使い魔召喚の儀〟に失敗し、浮浪者も同然の子供を誘拐同然に喚び出してしまった。その途端、それまで彼女を支持していた者たちの多くが手のひらを返し、現王家に忠誠を誓っているらしい。

 

 『優れた魔法の使い手を王座に』という建前でもって動いていたシャルル派が、汎用魔法すらまともに扱えない小娘を御輿にするわけにはいかない。

 

 かといって、母親であるオルレアン大公夫人は毒薬の影響で狂人と化している。そんな人物を担ぎ上げるなど、己の野心を証明するようなもの。

 

 故に、多くのガリア貴族たちが、国内における政治基盤を固めつつあるジョゼフ王に頭を垂れるのは、ごくごく自然な流れであった。

 

「それでも未だに彼女を担ぎ上げようとする連中がいるんだから……まったく、時勢が読めないにも程があるよ。おかげでぼくたちは色々と助かるんだけどね」

 

 呟きの後、ジュリオの月目はトレイの上に載せられたタオルに視線を移す。

 

「司祭殿のご厚意に甘えて、顔を洗ってくるか」

 

 ついでに洗面器に水を張ってきてくれればいいのにな……などと身勝手なことを考えながら手を伸ばし、無造作にタオルを掴み取る。

 

 立ち上がったジュリオは一瞬だけよろめいたが、すぐにぴんと姿勢を正すと部屋の扉を開けて廊下に出た。

 

「おや、どこかへお出かけですかな」

 

 偶然通りがかった若い神官に、月目の少年は爽やかな笑顔を向けた。

 

「気分転換に、少し街をぶらついて来ようと思ってね」

 

「大丈夫ですか? 今はだいぶ雨足が衰えているようですが、いつまた本降りになるかわかりませんよ」

 

「心配してくれてありがとう。いざというときは、近くの店で雨宿りするさ。あ、そうそう。司祭殿に会ったら、ジュリオがとても感謝していたと伝えておいてくれると嬉しいな」

 

 ひらひらと手を振りながら神官と別れたジュリオはそのまま水場へ向かい、顔を洗うと外門へ向けてゆっくりと歩き出した。

 

 鈍い光を放つ短剣を、袖の中に隠し持ったまま――。

 

 

○●○●○●○●○

 

「なるほどねえ。世間知らずの初心な小娘がこんな男を見たら、コロッと参っちまうだろうさ」

 

 特に、あの人形娘みたいな女なら――と、思わず続けそうになったイザベラだったが、紙一重でその台詞を飲み込むことに成功した。側であの男が聞いているのだから、あまり迂闊なことは言わないほうがいい。

 

 着飾らせて王家主催の晩餐会に放り込んだら、参加している女たち――老いも若きも歓声を上げること間違いなし。そのくらい見目麗しい少年だった。ただでさえ整った顔立ちに月目というアクセントが加わって、妖しいまでの魅力を醸し出している。

 

 目標に接近するために〝色〟を使うのはよくあることだ。ロマリアが従姉妹を籠絡するために送り込んだと言われたら、素直に納得してしまう。イザベラは目の前の『芸術品』を見ながら、昨夜のことを思い起こす。

 

 

 『部屋』で太公望と向き合ったイザベラは、その報せに眉を吊り上げた。

 

「シャルロットに接触しようとしている奴がいる、だって?」

 

「うむ。あまりにも怪しいので、おぬしの人脈で調べて欲しいのだ」

 

「……詳しく話してくれるかしら?」

 

 先を促された太公望曰く、

 

 泥棒! という叫びと共に、黒猫が財布を咥えてタバサの足下を通り抜けようとした。

 

 黒猫は飼い猫とは思えないほど痩せていて、毛並みも悪かった。

 

 財布を奪われた被害者は、衆目を集めるような美形だった。

 

 マントのような外套を身に付けていたが〝探知〟に反応がなかった。つまり平民である。

 

 しつこくこちら側、特にタバサと何らかの縁を繋ごうとしていた。

 

 連れていかれた先の店で、従業員が「ブリミル教の神官さま」と呼んでいたのを聞いた。

 

(なるほど。確かに放置しておくには危険過ぎる情報だね……)

 

 これらの情報を脳内で精査したイザベラは、タバサとほぼ同じ結論に達した。即ち、このジュリオ・チェザーレと名乗る怪しい男がロマリア人で、何らかの目的を持って従姉妹に近付いてきたということに。

 

 さらに、痩せた黒猫についても見逃せない。例の男が平民なら、彼を補佐するために自分の使い魔を放ったメイジ――おそらく貴族が最低ひとりはついているということだ。

 

 そこから推測されるのは……猫一匹にまともな餌を与えられない程に零落した貴族が、オルレアン公の忘れ形見に接近しようとしている。それも、ロマリアの支援を受けて。

 

「ったく、冗談じゃないわぁ~!!」

 

 イザベラの献策と奮闘でようやく落ち着いてきた国内情勢を、他国の横槍でひっくり返されてはたまらない。災いの芽は早急に摘み取らねば。

 

「ところで」

 

「む? なんだ?」

 

「これって、あなたのご主人さまの味方を減らすことに繋がると思うんだけど。本当にいいの? もしかしたら、あの子を助けてくれるかもしれないのに」

 

 その問いに、太公望は心底嫌そうな顔をして見せた。

 

「戦なんぞに巻き込まれるのはゴメンだからのう」

 

「ふうん、オーテンクンの言った通りね」

 

「聞いておるなら、わしの考えは理解できるであろう?」

 

「まあ、そうだけど」

 

 念を押すかの如く、イザベラは訊ねる。

 

「それなら、この件に関しては協力してもらえると認識していいのかしら?」

 

「うむ。その気が無ければ、こんなに急いで訪ねて来たりはせぬよ」

 

 太公望の回答に、王女は満足げに頷いた。

 

(シャルロットの内心はともかく、彼は反乱を起こすことに消極的…… というか、逆に叩き潰す気まんまんみたいね。ま、わたしとしては助かるけど)

 

 もしもこちらが先にこの情報を手に入れていたならば、理由をつけて忌々しい人形娘を処分できただろう。その危険を見越してわざわざ当日の夜中に宮殿へ――王天君の手助けもあるが――報せに来るということは、太公望がガリアの現状と主人の立場をしっかりと認識でき、かつ適切な行動を起こせる政治的バランス感覚の持ち主だと証明している。

 

(やっぱり彼、欲しいわぁ~。王天君と一緒にわたしの手助けをしてくれたら、すっごく助かるのに……)

 

 ……などとイザベラが考えてしまうのも無理はない。

 

 なお、太公望本人にあえて「何故わたしに報告したのか」確かめたところ。

 

「わしは、これ以上面倒くさいことに巻き込まれたくないのだ!」

 

 という答えが返ってきて、隣で聞いていた王天君がゲラゲラと笑っていたのは余談である。

 

 その上で、イザベラは事実確認のため即座に『懐刀』を抜いた。

 

「月目と透き通った蜂蜜色の髪が特徴の平民神官ね。それだけ目立つ顔立ちなら、すぐに当たりがつくと思うわ」

 

 イザベラの予測通り、睡眠はおろか休養をも必要としない彼女の『懐刀』は日の出前には目標を捕捉し――結果、ガリア随一の暗殺者の操り人形にされた男は王女らの前で棒立ちしている。

 

 ……ちなみにだが、現在取り調べを行っているのは王天君の『部屋』の中である。いくら相手が平民とはいえ、万が一誰かに目撃されたら大変なことになる。ロマリアの神官を攫ってきたなどと知れたら、国際問題どころか最悪異端審問にかけられても文句は言えないからだ。

 

 ついでに説明すると『窓』越しに太公望もこの場に同席している。「面倒ごとに巻き込まれたくないんじゃないのか?」という問いに「知らないほうが面倒くさいことになる」と答えた上で。

 

 座り慣れた『部屋』のソファーに身体を預け、イザベラは目の前の男に言を向けた。

 

「わざわざ来て貰って悪いね。おまえには色々と聞きたいことがあるんだが、構わないかい?」

 

「おおせのままに」

 

 ジュリオは優雅に一礼して見せた。彼の瞳からは完全に光が失われている。

 

「うぬぬぬぬ、便利だがおっそろしいのう」

 

 『窓』の向こう側から聞こえた感想に、イザベラは得意げに鼻を鳴らして見せた。

 

「ふふん、いいだろう? わたしの自慢の部下なんだ」

 

 イザベラの『懐刀』であり、ガリアの裏で畏れられた暗殺者『地下水』は、意志を持つ魔法の短剣だ。そんな彼(?)の能力は自身に触れた者を操り、その肉体を支配下に置くこと。

 

 操られている間の記憶は『地下水』が好きなように設定できる。消してしまうのはもちろんのこと、夢の中の出来事であるかのように感じさせることも可能。もちろん、宿主の意識を保ったままにするのも自由自在。記憶の一部改ざんまでこなしてしまう。

 

 このような状態なので、支配された者は嘘をつけない。聞かれたことはおろか、呼び出された記憶も完全に消されてしまうため、重要な情報を漏らしてしまったことにも気付けない。〝自白薬〟や〝制約〟などよりも遙かに効率的な、尋問にうってつけの存在なのだ。

 

 ジュリオの情報を得た『地下水』は、ボン・ファン寺院に関わりのある人物に近付いて己に触れさせ、幾人もの手に渡りながら目標に迫った。()をタオルに包みトレイに乗せて運んだ司祭の脳内には当然そんな記憶など残ってはいない。

 

「なるほどのう。例の件は、こやつを使っておったのだな」

 

「そういうこと。ま、まだ怒ってるのかい?」

 

 ついついどもってしまうイザベラ。無理もない、彼女にとって太公望は『本気で怒らせてはいけない人物リスト』の上位にいる相手なのだから。

 

 そんな彼女の心境を見抜いているのだろう、太公望は実にイヤな笑みを見せる。

 

「それはこれから次第だのう」

 

「情報提供料はちゃんと払うよ。それで人形……いや、シャルロット襲撃の件はお終いだ」

 

「ふむ……」

 

 と、これまで黙っていた王天君がふたりの会話に割り込んできた。

 

「太公望ちゃんよ。オメー、少しあの女に肩入れし過ぎなんじゃねぇか?」

 

「……何が言いたい?」

 

「美人三姉妹」

 

 ピシリと太公望が固まる。

 

「いや、ない! ないない! タバサとはそういう関係では断じてない!!」

 

「なんの話だい?」

 

「あぁ。婚約者がいるくせに別の女にかまけてるのはどうなんだ、ってな」

 

「婚約なんぞしてはおらぬ! あやつがそう思い込んどるだけで……!!」

 

「あんだけ尽くさせておいて、そりゃねぇんじゃねーかぁ?」

 

 愉悦に浸る王天君に、太公望は強烈なカウンターを浴びせた。

 

「ふふん、他人事のように言うておるがな、わしとおぬしは一心同体なのだ。逃げられるなどとは思うなよ……?」

 

 今度は王天君の表情が固まる。

 

「おいコラ巻き添えとかふざけんな!」

 

「ククク、それはおぬしの心がけ次第だのう」

 

 ――婚約者。

 

 イザベラの背中を、冷たいものが伝っていった。ぎゃあぎゃあと言い争いをしているふたりの話で、従姉妹と父が将来的に結婚するかもしれない、という件を思い出したのである。

 

「あのさ。その話も気になるんだけど、ちょっといいかい?」

 

「む? あやつの話を聞く前に片付けておきたいのか?」

 

 頷くイザベラ。

 

「だいたい想像はつくが、念のため確認するぞ。タバサとおぬしの父親の件でよいのか?」

 

 やはり、この男わかっている。内心で舌を巻きつつイザベラは訊ねた。

 

「あなたたちから見て、あのふたりが将来的に……その、結婚することってありえると思う?」

 

「ねぇな」

 

「ゼロではないが、まずなかろう」

 

 両者共に即答だった。

 

「その根拠は?」

 

「状況が悪化するだけで、何の得にもならぬ」

 

「どういう意味?」

 

 薄ら暗い笑みを浮かべたまま口を閉ざした王天君をジロリと睨み付けると、太公望はイザベラに向き直った。

 

「現状でタバサをガリア王妃に据えるメリットは何だ?」

 

「シャルル派の沈静と、優れたメイジの血を王家に入れること……かしら」

 

「よく考えてみるがよい。後者はともかく、前者には全く無意味だとは思わんか?」

 

「どういうこと……って、ああ、そうか。そういうことかい……」

 

 イザベラは苦虫を噛み潰したような顔をした。太公望の言うとおり、大公家の名誉を回復して王妃に据えたところで、シャルル王子が死んでいることに変わりはない。派閥の沈静という意味では効果がないのだ。

 

 結局のところ父を排除したい輩にとって、蜂起の理由は何だっていいのだろう。なにせ、ジョゼフが正統な王位継承者である証拠品が揃っているにも関わらず、屁理屈を述べて反乱を企てたような連中なのだから。

 

 こんな状況下で、父と従姉妹が結婚したらどうなるか。

 

「我らがシャルロット姫すら汚した怨敵」

 

 などと言い出して暴発しかねない。なるほど、ある程度事態が沈静化している現状ではこの上ない悪手だ。従姉妹憎しで凝り固まっていた自分ならまだしも、政治家としての手腕に優れる父が気付かない筈がないではないか。

 

 胸に渦巻いていた不安を消し、さらに肩に乗せられた荷を下ろすことに成功したイザベラは安堵の溜め息を吐いた。それから、王天君に非難の声を浴びせかける。彼が浮かべていた笑みと……それを見た弟が兄を睨んでいた意味が、ここにきてようやく理解できたからだ。

 

「最初からわかってたのね。どうして教えてくれなかったのよ、オーテンクンのいじわる!」

 

「オメーなら気付けると思ってたからに決まってんだろ」

 

「うぐッ……」

 

「感情に振り回されて時間はかかったが、結局答えに辿り着いたんだから問題ねぇよな」

 

「あううう……」

 

 茹でた青菜の如くしおしおになってしまったイザベラを眺めつつ、太公望がぼやく。

 

「王天君。おぬし、相変わらずだのう……」

 

 そんな彼らのじゃれ合いに割り込んできた者、もとい()がいた。

 

『そろそろいいですかね? イザベラ様。この男、あんまり長時間連れ出しておくとヤバそうなんですが』

 

「あ、ああ。そうだったね。じゃあ、とっとと始めるとしようか」

 

 

◯●

 

 ――仕切り直し後。

 

 イザベラは腹心の術に敗れ去った、哀れな犠牲者に声をかける。

 

「待たせちまって悪かった」

 

「とんでもございません、ミス」

 

 恭しく礼をする男にイザベラは微笑みを返した。この顔を彼女付きの召使いたちが見たら、その場で震え出すこと間違いなしの凄みを効かせて。

 

「わたしは堅苦しいのは嫌いなんだ。もっと楽にして構わないよ」

 

「そうかい? なら、そうさせてもらおうかな。実を言うと、正直僕も礼儀作法とかそういうのは苦手でね」

 

 そんな彼女の態度に一切動じず、くすくすと笑うジュリオ。端から見ると不自然極まりない。女狐のアレも相当なモノだが、この『地下水』も、記憶はおろか人格までも操れるという意味では同レベルだ。

 

「早速だが。おまえ、ロマリア出身の神官だってのは事実かい?」

 

「ああ。生まれはよくわからないけど、育った場所はロマリアで間違いないし、宗教庁に籍を置いているのも本当だよ」

 

「生まれがよくわからない?」

 

「孤児院の院長の話では、両親の手がかりになるようなものは何も残ってないらしいから」

 

「そ、そうかい。悪いことを聞いたね」

 

「気にしないでいいよ。もう慣れているから」

 

 なるほど、従姉妹たちに語った出自は嘘ではないらしい。最初の確認を終えたイザベラは、ずばっと核心を突く質問をする。

 

「なるほど。そんなあんたが、一体何のためにシャルロットに近付いたんだい?」

 

「そんなの『聖地』を取り戻すために決まってるじゃないか」

 

 はぁ? という気の抜けたイザベラの声を耳にしながら、太公望は表面上何でもないように装いつつも、内心で唸り声を上げていた。

 

(まさかとは思ったが、やはりそういうことなのか……?)

 

「意味がわからないよ。最初から全部説明しな」

 

 ごくごく素朴な疑問から発せられたこの言葉が、まさか数十年に渡りガリア王家を蝕む毒を知る最初の一歩になるとは……質問を投げた本人は想像だにしていなかった。

 

 

○●○●○●○●○

 

「あくまで伝聞だけど……この計画の大元は、今から三十年くらい前に始まったらしいよ」

 

 イザベラの目が鋭さを増した。

 

(三十年も前ってことは……父上はまだ子供で、数年前に亡くなった母上と婚約すらしていない。そんな大昔から続くロマリアの計画か。さて、何を企んでいたのやら)

 

 『聖地』へ至るのが目的ということは、裏から手を回してガリアの軍部を掌握しようとでもいうのだろうか。北の主は敵の目的を探るべく、耳を傾けた。

 

「当時の教皇聖下のところに、リュティス管区教会からガリアの王子たちに関する重要な情報が入ったんだ。第二王子のシャルルは六つで風のトライアングルに到る程の天才なのに、兄のジョゼフはドットスペルもまともに唱えられない『出来損ない』だってね」

 

「ふうん、それで?」

 

「ガリアは広大な土地を持っている上に、王政府がしっかり機能していて隙がない。おまけに、例の『交差する杖』のせいで内乱も起こらない。おかげで、どんどん富を蓄えて手がつけられなくなってきた。なのに、宗教庁が何度もブリミル教徒の悲願である聖地奪還を訴え出ても、国王は首を縦に振らない。だから聖下は自分の言うことを聞いてくれる信心深い人物に戴冠してもらって、信徒としての務めを果たしてもらおうと考えたわけさ」

 

 イザベラを取り巻く周囲の空気が急激に冷えた。当然のことながら、操られているジュリオは気付けない。

 

「そんなとき、リュティス大聖堂の告解室に当時のガリア王妃がやって来た。彼女には深い悩みがあったんだ」

 

 本来、告解室で語られたことは絶対の秘密とされている。だからこそ、多くの迷える民が訪れ『始祖』に懺悔するのだ。

 

(連中はそんな人間の弱い部分を利用しているのか。全くもって度し難い――!)

 

「どんな悩みだい?」

 

 凍り付いた湖の底から響いてくるような声で、イザベラが続きを促す。

 

「息子たちのどちらも可愛くて仕方がないのに、ついつい出来の良い次男にばかりかまけてしまい、長子をないがしろにしている自分は母親として失格なのではないか……それが王妃さまの悩みであり懺悔だったのさ」

 

(知らなかった。父上をまるで汚物のように扱い、その娘であるわたしを一顧だにしなかったあのお祖母さまが、昔はそんなふうに悩んでいただなんて……)

 

 静かな衝撃を受けていた王女の頭上に、さらなる爆弾が投下される。

 

「報告を受けた先代は、王妃の告解を利用することにした。ガリアの王宮に小さな噂話を流し込むことによってね」

 

『シャルル王子はあんなに魔法がおできになるのに、ジョゼフ王子はあまりにも出来が悪い』

 

『もしや、ジョゼフ王子は国王陛下の血を引いておられないのではないか?』

 

「ふたりの王子は『ガリアの青』を色濃く受け継いでいるし、王と王妃の仲も睦まじかった。結婚前の彼女に何かあった訳でもない。だから、そんなことは絶対にありえないんだけど――噂の効果は絶大だったようでね。身に覚えのない不実を王宮のそこかしこで囁かれた王妃は、またしても告解室の扉を叩いた」

 

 ――わたくしは悪い母親です。くだらない噂に惑わされ、罪の無い息子に酷いことを言ってしまった……。

 

 涙を流しながら『始祖』に懺悔する王妃に対し、教会は言葉という名の毒を注ぎ続ける。

 

 曰く、より優れた子を遇するのは民を統べる王族として当然である。

 

 曰く、ブリミル教の敬虔なる信者であれば、後継者に魔法の腕を期待するのは間違っていない。

 

 曰く、才能はまだしも努力が足りないのは母親が悪いのではなく長子自身の責任だ。 

 

 曰く、奇跡の御技を磨く努力を怠る者に愛情を与えるなど『始祖』に対する冒涜である。

 

 故に、怠惰な子に罰を与えるのは罪ではなく必要な教育であり、始祖の御心に適う行為だ。

 

 こうして、ロマリアの悪意に蝕まれたガリア王妃は静かに……だが、確実に狂っていった――。

 

 ジョゼフを「不虞の子」となじり、シャルルに過剰なまでの愛情を注ぐ。それを見た貴族たちも王妃に追従を始める。王宮内部の空気は、毒された王妃というフィルターを通り抜けることによって加速度的に悪化した。

 

「ここまでくれば、もうこっちのものさ。どこにでも現状に不満を持っている層はいる。そんな連中に『ジョゼフ王子よりも優れているシャルル王子が王位を継いだほうが、絶対にガリアのためになる』そう焚きつけるだけでよかった。あとは彼らが勝手に――正義感やら打算やらで動き出して『交差する杖』はふたつに割れた」

 

 イザベラは深い、深過ぎる溜め息をつくと、目の前の男の手に握られている短剣に訊ねた。

 

「なあ『地下水』。こいつの話は本当に……本当なんだろうね?」

 

『へえ。嘘をつけないように心を縛り付けてますから』

 

「魔法や薬で、無理矢理思い込まされてるってことは?」

 

『そういう形跡は全く見当たりませんね。少なくとも本人は真実だと確信してますぜ』

 

「悪いね、おまえの腕を疑ってるわけじゃないんだけどさ……」

 

『お気になさらず。むしろ、雇い主として頼もしいくらいでさ』

 

「ありがと。今回の報酬も弾ませてもらうからね」

 

『へへへ、ほんと得難いお客さまですよ、王女殿下は』

 

 『地下水』の追従を半分聞き流しつつ、イザベラは『窓』に視線を移した。

 

「わしやタバサの仕込みでもないぞ。いきなりこんな話を聞かされて、逆に驚いておるくらいだ」

 

「ああ、大丈夫。そのくらいわかってるよ」

 

 なんならその短剣を掴むことで証明してもいいとまで申し入れてきた太公望を制し、イザベラは答えた。彼らがそんな使い古された手を使ってわたしを騙そうとする程度の輩なら、従姉妹はとうの昔に父親の後を追ってヴァルハラへ旅立っているだろうし、この男は王天君と共に自分の元で働いていただろう。

 

 裏を司る王女は、改めてロマリアの陰謀を得意げに語った男を観察した。

 

(ただの虚言と断じるには説得力がありすぎる。ロマリアが、送り出した間諜にあえて偽の情報を刷り込ませて、捕らえた相手を混乱させようとしたとか? ……ないわね。この状況じゃ害にしかならないし)

 

 そう考えると、目の前の優男が語ったことは真実なのかもしれないが、裏を取らなければ動けない。かの国は昔からこの手の情報戦に長けているし、何よりたったひとりの自白(?)でふたつの国を揺るがすような行動を取るほど北の騎士団長は迂闊ではない。

 

 だが。

 

「そういや、このところとんと『交差する杖』の話を聞かなくなっていたね」

 

 ――そうなるよう、仕向けた相手がいたのだとしたら?

 

「あれもこれも…… 全部、おまえたちの仕業だったってわけだ」

 

 実の祖母から「父親そっくりの出来損ない」と蔑まれ。

 

 努力して何事かを成しても「魔法が下手では意味がない」と貶められ。

 

 父からは遠ざけられ、母からも疎まれて。

 

 王宮内の貴族はおろか平民の召使いたちから、出来の良い従姉妹と比較され続け。

 

 幾度となく『正義』の名の下に命を狙われた。

 

「わたしですらこれだ。なら、父上はどんな扱いを受けていたんだろうね……」

 

 こいつの話が真実ならば。

 

 母と子が、兄と弟が、従姉妹同士が憎しみ合うことになる原因を作り出したのは。

 

(ロマリアのクソ神官共か。それも『聖地』なんていう、どうでもいいもののために!)

 

 悔しさのあまり、ギリッと歯軋りをする。怒り、憎悪、殺意といったマイナスの感情がぐしゃぐしゃに混じり合いイザベラの心をかき乱そうとしたが、王女は必死の思いでそれらを押さえ込む。つい先ほど、似たような焦燥を持て余して失敗したばかりではないか。同じことを繰り返して王天君に失望されたくない…… だけど。

 

「……裏が取れたら潰す。今はまだ無理だけど、いつか……いつか、必ずだ!」

 

 ――この日。イザベラが掲げる生涯の目標が定まった。そのための第一歩として、まず確認すべきことがある。

 

「おまえは一体何者だい? ただの平民神官にしちゃあ知り過ぎてる」

 

 従姉妹を誘惑するためだけに送り込まれた間諜とは思えない。かといって、使い捨てにするには惜しい存在だ。もしかすると、ロマリア宗教庁でもかなり高い地位にいる者の片腕か何かなのではないだろうか。

 

 国の裏側を預かる者として極めて順当な思考から出た疑問だったが、ジュリオの回答はそんなイザベラをして、想定すらできないようなものだった。

 

「僕はジュリオ・チェザーレ。聖エイジス三十二世の使い魔〝ヴィンダールヴ〟さ」

 

 




太公望=王天君。つまり、ふたりとも女神の(自称)婚約者!

ガリアのぐだぐだに関する、私なりの見解でした。
明らかに手が入ってるだろう的な。


おかげさまで甲種勲章頂きました、アドバイス感謝です!


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第98話 虚無の証明 -BLACK BOX-

 ――時は少しだけ遡り、タバサと太公望が昨夜ジュリオと別れて宿に到着した直後。

 

 即座に〝夢世界〟でこれまでのことを話し合ったふたりは、ロマリアの神官が近付いてきたことを早急に王宮――イザベラへ報せる決断に至った。

 

 ここで出遅れたら、それを理由に処罰される可能性があること。

 

 おかしな誤解を与えたイザベラに、他に考える必要のある重要な案件を与えること。

 

 できれば、それをきっかけに歩み寄りができないかどうかを探ること――。

 

 打ち合わせの後、止める間もなく「プチ・トロワに潜入してくる」などと告げて外へ飛び出していった太公望を、ただ見送ることしかできなかったタバサは不安を胸に抱きつつ、彼と話すうちに出てきたさまざまな「なぜ」「どうして」と戦っていた。

 

 なぜ『交差する杖』を掲げるガリアが、内乱寸前まで乱れたのか。

 

 国を乱さぬために娘を捨てる決断をした父が、どうして王位を争おうとしたのか。

 

 アルヌルフが集めてくれた新聞によると、トリステインでは女王と王女が自ら表に立ち、王政府議会で大勢の議員や聴衆を前に次の王を指名したという。何故、祖父は同じように沢山の貴族――証人がいる場所で伯父上が次期ガリア王だと発表しなかったのか。

 

 どうして臨終の間際に父と伯父の兄弟ふたりだけを呼び出し、密室の中で後継者の名を告げるような真似をしたのか。遺言状を書き、他者に託す余裕があったというのに――。

 

 様々な事柄を列挙してみると、不審な点が多すぎる。

 

(かつてのわたしでは、こうして第三者の視点で見て、考えることができなかった。けれど、今ならわかる。どれだけガリアがねじ曲がってしまっていたのか)

 

 それからしばらくして太公望が戻ってきた。よく無事で戻ってきてくれたと安堵したが、どうやらお兄さんの手を借りたらしい。それならそれで、前もって教えておいて欲しかった。

 

 不満の表明に、とりあえず杖で一撃入れておく。

 

(いつものことながら、どうして避けないんだろう……)

 

 場にそぐわないことを思いながら報告を受ける。

 

 あっぷぐれいどなるものについてはよくわからなかったが、明日の昼から定期的にお兄さんから〝つうしんき〟に連絡が入るらしい。

 

 

 ――そして、現在。

 

(なんだ、わたしは最初から人形だったんだ)

 

 父の仇を討つ。ただそれだけを望み、闇の騎士として戦い続けてきた。実績を上げれば、王に近付く好機が生まれるから。

 

 けれど、それこそがロマリアの狙いだったのだ。ジョゼフ王が死に、ガリアが混乱したところで自分たちの言うことをよく聞いてくれる人物を王座に据えるための。

 

(きっと、その血塗られた王冠を被るのがわたし。あのまま復讐の『道』を進んでいたら、間違いなくそうなっていた)

 

 悲劇のお姫さまを気取っていたら、実はただの道化(ピエロ)。操り手の思い通りに動く人形(マリオネット)。イザベラに笑われるのも道理だ。

 

 

 旧市街にある宿の一室で、太公望が『王天君の部屋』と通信機を介して会話している。

 

 得意げに語り続ける月目の演者の声が、嫌でも耳を突く。

 

 『窓』に写らないよう、彼らのやりとりを陰から観察していたタバサの瞳に炎が宿った。

 

 わたしは北花壇騎士(シュヴァリエ・ド・ノールパルテル)タバサ。雪風宿る、氷の人形。

 

 今までは、あなたたちが望むままに踊っていた。でも、これからは違う。

 

「誰に陰謀を仕掛けたのか、思い知らせてあげる」

 

 

○●○●○●○●○

 

 ――ヴィンダールヴ。

 

 イザベラは当然その名を知っている。ガリア王家に代々受け継がれてきた言い伝え――『始祖』の伝承に登場する使い魔の名だ。

 

「あらゆる獣を操り『始祖』を運んだ――〝神の右手〟」

 

 ジュリオは王女の解答に、微笑みながら拍手を送ることで応えた。

 

「その通り、よく勉強しているね。ほぼ失われつつある伝承だというのに」

 

 言いながら、右手に填めていた白い手袋をするりと外して手の甲を見せた。そこには文字のようなものが刻まれている。

 

「それが〝ヴィンダールヴ〟の(ルーン)かい?」

 

「ああ、そうさ」

 

 自慢げな表情を浮かべる男の顔を見てピンときたイザベラは、その直感が正しいのかどうかを確認してみることにした。

 

「言い伝えでは〝獣を操る〟って話だけどさ。お前……もしかして、つい最近野良猫を使わなかったかい?」

 

 ジュリオは驚きを露わにした。

 

「よく知ってるね! 実は大公姫殿下とお近づきになりたくて、一芝居打ったんだよ」

 

「詳しく話しな」

 

「いいとも。宮殿の近くをうろついていた野良猫を操って、入口を監視していたのさ。そしたら、大公姫が中から出てきて、嵐が来るからしばらく街へ留まるって話が聞こえてきたんだ。これは好機だと思ってね、彼女たちの後を追わせたんだけど……」

 

「何か問題があったのかい?」

 

「うん、ボン・ファン通りがすごい人混みでね。ふたりを見失いそうになったから、わざと野良猫をけしかけて顔繋ぎをすることにしたんだよ。ちょっとわざとらしかったけど、相手はまだ子供みたいだし……まあ問題ないかと思って」

 

 その後が災難だったけど。と、肩をすくめるジュリオ。彼らを甘く見たために、現在進行形で酷い目に遭い続けているわけだが、当然彼は気付けない。

 

 どうやら、今回の件についてはシャルル派貴族がついていたわけではないらしい。イザベラは、内心ほっと胸を撫で下ろす。

 

「便利なもんだねえ」

 

「そうだろう? 残念ながら人間相手には通用しないけど、それ以外の動物ならだいたいぼくの言うことを聞いてくれるよ」

 

 偵察にはうってつけの能力だとイザベラは思った。その辺をうろついている動物を、メイジの使い魔のようにしてしまえるのだから。

 

(ま、オーテンクンにはかなわないけどねッ!)

 

 胸の内で密やかにパートナー自慢をしつつ、北の主は月目の少年に問うた。

 

「念のため確認するけど、お前はもともとそういう〝力〟を持っていたのかい?」

 

「いいや、違う。これは使い魔の契約をしてから(ルーン)を通じて授かったものさ」

 

「なるほど、教えてくれてありがとうよ」

 

「どういたしまして」

 

 イザベラの脳内をさまざまな情報が駆け巡る。

 

 聖エイジス三十二世、ヴィットーリオ・セレヴァレ。二十代の若さでありながら、至聖の座についた人物。セレヴァレ家は『始祖』ブリミルの弟子であり、ロマリア皇国の祖王『墓守』フォルサテの血を受け継ぐ名門だ。

 

 民の救済や汚職神官の追放など、これまでにない政策に取り組んでいるため『新教徒教皇』などと呼ばれ、敬虔な信徒らにはともかく、神官たちからの評判は良くないと聞いている。

 

(そんな教皇が、人間の使い魔を呼んだ――?)

 

 ガリアでは召喚失敗として物笑いの種となり――そうなるように仕組んだのはイザベラだが――従姉妹の陰の支援者たりえる派閥は瓦解した。

 

(ところが、こいつはどうだ? 『地下水』の話じゃ、貴族出身の司祭にすら一目置かれている。いくら『始祖』が使役していたのと同じ使い魔を呼んだとはいえ、神官同士で足の引っ張り合いに終始しているロマリアでこんな事実がバレたら教皇の地位が危うくなりそうなもんだが……どうにも引っかかるね)

 

 かまかけのつもりでイザベラは問うた。

 

「さすがはブリミル宗教庁のお膝元だ。人間を呼ぶなんて失敗をした教皇に対して寛大なんだね。それとも、そんな些細なことは気にならないくらい聖下は人心を掌握しているのかい?」

 

 途端にジュリオがげらげらと笑い始めた。陰で嘲笑されることには慣れているイザベラだが、こうして正面から馬鹿にされるのは我慢ならない。

 

 王女の美麗な眉が吊り上がるのを見たジュリオは、笑いながらも軽く手を挙げた。

 

「ああ、失礼。敬虔な信者といえども伝承が途絶えている異国では普通の反応だったね。ロマリアの各派教会なら、間違っても『失敗』や『事故』だなんて表現はしないから、つい……」

 

「詳しく話しな。でなけりゃ、その綺麗な顔をギタギタに引っ掻いてやる」

 

「おお怖い! 麗しのレディを怒らせるのはぼくの本意じゃないから、きちんと教えてあげるよ。本来〝召喚〟(サモン・サーヴァント)は、始祖の後継者を探すために造られた魔法なんだ」

 

 得意げに髪を掻き上げるジュリオ。これがまた憎たらしいくらい様になっている。側面の『窓』から「カーッ! 気取りおって、これだから美形は!!」などという叫びが聞こえた気がしたが、イザベラはスルーした。

 

森の賢者(フクロウ)炎の化身(サラマンダー)湖の住人(オンディーヌ)空の覇者(ドラゴン)。どれもこれも、使い魔として持て囃される。でも、真に世界を支配しているのは彼らじゃない――それは万物の霊長。人類種だ」

 

「人類種?」

 

「そう。自分に近しい存在、意思疎通ができる相手、知恵と勇気をもって世界を広げ、統べる存在をこそ〝始祖の使い魔〟に相応しい――失敗? とんでもない! もしもシャルロット姫にその気があるなら、ロマリア宗教庁は彼女を『聖女』として迎え入れるつもりさ!」

 

 イザベラは苛立ちのあまりギリッと爪を噛む。ところが、次に飛び出したジュリオの言葉でさすがの彼女も唖然とした。

 

「とはいえ、本当に彼女がそうなのかどうか判断しきれないんだよね。『無能』のほうが本命で、あの無口なお姫さまは予備の可能性が高いし」

 

「どういう意味だい?」

 

 しかし相手はそれに答えず、軽く咳込んだ。

 

「ごめん、少し喋り過ぎて喉が痛くなってきたよ。何か飲み物をもらえるかな?」

 

「ああ、いいとも」

 

 イザベラが手ずからワインをグラスに注いでやると、ジュリオはそれを恭しく受け取り、いっきに飲み干した。

 

「ありがとう、ミス。さて、どこまで話したかな……」

 

「ち……『無能』が本命とかいうところだったよ」

 

「そうそう、思い出した。ちょっと話が前後するけど、理解してもらうにはこれを説明しておかないといけないから、我慢してくれるかい?」

 

「いいとも、おまえの話はなかなか楽しいからね」

 

「うれしいことを言ってくれるなあ。それじゃ、続けるよ」

 

 

 ――そしてジュリオは語り始めた。世にもおぞましく、残酷な真実を。

 

「例の計画では、シャルル王子に王位を継いでもらう予定だったんだけど……」

 

 予想外の言葉に、イザベラは目を丸くした。

 

「ジョゼフ王子じゃないのかい?」

 

「うん。宗教庁としては、魔法の使えない王を象徴として担ぐわけにはいかないからね。その点、シャルル王子は四属性全制覇の天才。おまけに人当たりがいい――そう言うと聞こえはいいけど、ようは手を貸したらちゃんと返してくれる相手だと見込んだわけさ」

 

 通信機の向こう側に耳をそばだてていたタバサは眉を顰める。予想はしていたが、やはり父の才能と人柄の良さが、御輿としてロマリアに目を付けられる理由になってしまったわけだ。

 

 新たに担ごうとしている娘に聞かれているとは露知らず、ジュリオは語り続けた。

 

「ところが! いざ本腰を入れてシャルル王子を支援しようとしたところで、ロマリアに大変な報せが届いたんだ」

 

「へえ、どんな内容だい?」

 

「ジョゼフ王子は魔法が使えないわけじゃない。単に失敗しているだけだってね」

 

 『窓』もといモニターの向こうで、冷や汗をだらだら流している太公望。

 

「え、それって何が違うのさ?」

 

「きみはジョゼフ王がどんなふうに失敗するか知っているかい?」

 

「直接見たことはないけど、聞いたことくらいなら。なんでも、どんな呪文を唱えても爆発するんだって……」

 

 陰で耳を澄ませていたタバサも、これを聞いて息を飲んだ。以前立てた仮説は正しかった。伯父上はルイズと同じように、才能がありすぎて魔法が成功しないだけだったのだ!

 

 ――兄さんはね、いまは目覚めていないだけなんだよ。

 

 父の言葉を思い出す。あれは真実だったのだ……。

 

 ちらと太公望を流し見る。なんのことやらさっぱりわからないといったような表情を浮かべているが、あれは間違いなくポーカーフェイス……単にとぼけているだけだ。おそらく彼はこのことを知っていた。いや、予測していたと言ったほうが正しいだろう。

 

 そうでなければ「兄を〝召喚〟したのがイザベラなのかジョゼフ王かわからない」などという発言は出てこない。

 

(ルイズも、わたしと同じように人間を召喚している。たぶん、ジュリオが接近してきたのもそれが関連しているはず。でも彼は秘密にしていた。たぶん、言えない何かがあったから)

 

 それに関しても、このジュリオという男が知っているかもしれない。

 

 タバサは静かに耳を傾け続けた――。

 

 

○●○●○●○●○

 

 そこからの流れは、ほぼタバサの予想通りだった。

 

 魔法が爆発するのは生まれつき〝力〟が強すぎるせいで、呪文が暴発しているため。

 

 同じような才能あるメイジがごく稀に現れるが、そのほとんどが己の系統に目覚めることなく、失意のまま世を去っていること。

 

 偶然ロマリアの情報網に掛かった者が〝始祖の後継者〟として育成されてきたこと。

 

「過去の記録によると『大王』ジュリオ・チェザーレもそのひとりらしいよ。彼はその〝力〟でハルケギニアを統一し、いずれは『聖地』を奪還しようとしていた。残念ながら、その計画は途中で頓挫したらしいけど。彼が成功していてくれれば、ぼくたちは苦労しないで済んだのになあ」

 

 掛け値なしの本音なのだろう。ジュリオは肩を落とし、大きなため息をつく。

 

「そういうわけで、ジョゼフ王子は『大王』と同じ〝力〟を持っている可能性が高まった。そうとなれば話は別さ。ロマリアとしては、何としても彼に戴冠してもらわなければならなくなった」

 

「……よくわからないね。お前たちにとって都合がいいのはシャルル王子だったんだろう? 別にそっちを王座につけて、ジョゼフ王子はロマリアに招けばいいだけの話じゃないか」

 

「うん、本当ならそれでよかったんだけどね……聖フォルサテの系譜が代々受け継いできた炎のルビーが盗難に遭ったせいで、ロマリアで彼の封印を解くことができなくなったんだ」

 

「封印?」

 

「きみは各王家に伝わる〝始祖の秘宝〟について知っているかな?」

 

「一応はね」

 

 ガリア王家に伝わる秘宝は土のルビーと始祖の香炉だ。指輪は王権の証として歴代の王が填めてきたものだが、香炉の存在価値がいまいちわからない。何せ、どんな香を焚いても香りがしないのだから。イタズラにしては手が込み過ぎている。

 

「話が簡単になって助かるよ。ところで、どうしてあの指輪がルビーなんて呼ばれてるのか、わかるかい? 炎のルビーは赤い石だからまだ理解できるけど、他は紅玉とはかけ離れているよね」

 

「そういえば……」

 

 父の指に填っている土のルビーは美しい琥珀色だ。しかし、どうしてそれがルビーなどと呼ばれるのか、その意味を深く考えたことはなかった。

 

「あの宝玉は『始祖』の血を元に創り出されたもので、最初は全部赤く染まっていたんだってさ。だからルビーと呼ばれているんだよ」

 

「知らなかったわ! お前は本当に物知りだねえ。他の秘宝についても詳しいのかい?」

 

「まあね。三王家と聖フォルサテの血筋に伝わる秘宝――土のルビーと始祖の香炉。風のルビーと始祖のオルゴール。水のルビーと始祖の祈祷書。炎のルビーと始祖の円鏡。指輪と対になるこれらの品々は『始祖』ブリミルが遺した魔法書であり――その意思を継ぐ素質ある人物に掛けられた、封印を解く鍵でもあるんだ」

 

「始祖の魔法……? ま、ま、まさか」

 

 ここまで言われて気付かないようでは北の騎士団長は務まらない。イザベラの心臓が、早鐘のように高鳴る。そんな彼女を見て、ジュリオは星のように輝く笑みを浮かべた。

 

「答え合わせをしてみようか。さあ、きみの考えを教えてくれるかな?」

 

 ゴクリと喉を鳴らす。声を震わせながら、イザベラは己が答えを紡ぎ出した。

 

「失われし第五の系統……〝虚無〟の魔法書。それが、あの秘宝の正体だってのかい……?」

 

 静まりかえった『部屋』の中に、ぱちぱちと拍手の音が響き渡る。

 

「その通り! 無能呼ばわりされていた王子さまが、実は『始祖』の再来になりうる素材だったってわけさ。笑えるだろう? 派閥同志で争ったガリアの貴族たちも、噂に踊らされて情報収集を疎かにした先代の教皇聖下も…… みんな揃ってただの道化(ピエロ)だ」

 

 何だそれは。全然笑えない。

 

 もしもその事実が公になっていたとしたら――元々仲の良かった兄弟は、互いに協力し合う道を選んだことだろう。ガリアはふたつに割れずに済んでいたではないか。

 

 ……奇しくも、ガリア王家の血を引くふたりの少女の想いがひとつになった瞬間だった。

 

「ガリアの戴冠式では王冠を被せられる前に、まず土のルビーを指に填めてから始祖の香炉を焚くだろう? ジョゼフ王が()()なら、戴冠式の時点で()を聞いているはずなんだ」

 

「声?」

 

「もちろん『始祖』の声さ。虚無の資質を持つ者が四系統の指輪を填めてあの香炉を焚くと、香りの代わりに始祖の御言葉が身体に染み込む。そして虚無の系統に目覚め――魔法が使えるようになる。そういう仕組みになっているんだよ」

 

 イザベラの、タバサの全身が、震えた。

 

「トリステインでは、始祖の祈祷書が結婚式で詠み上げる詔の儀式に使われているけど…… あれは『始祖』の血筋を受け継いでいくうちに、伝承が妙な具合に変化したのかなあ」

 

「なんで……」

 

「どうかしたかい?」

 

 叫び声を上げたのはイザベラだった。

 

「なんで、そんな馬鹿げた仕組みになってるんだい? 最初から、そういうモノだって伝わっていれば…… あんたたちの言う目的とやらは、もっと早くに達せられただろう!?」

 

 タバサは唇を噛み締め、無言のまま静かに涙を流していた。

 

(イザベラの言うとおり。どうして、そんな大切な情報が失われていたの……!)

 

 もしも。もしも、その伝承が現代にも残されていて――伯父上が〝虚無の担い手〟として覚醒していたとしたら。そんなifが少女の脳裏をよぎる。

 

 ――祖母は狂わず、ふたりの兄弟を等しく愛していただろう。

 

 イザベラはわたしを〝人形〟ではなく、エレーヌと優しく呼んでくれていて。

 

 ラグドリアン湖の屋敷では仲の良い兄弟が、将棋盤を前に考え込んでいる。

 

 蘇りし〝虚無〟の王を支えるは、四系統全制覇の弟。

 

 ガリアは魔法大国の地位を確立させ、歴史上最も繁栄する時代が訪れたはず――。

 

 しかし現実は覆らない。失われた命も、時計の針も戻せはしないのだ。タバサはその事実がただただ悔しく、悲しく、やるせなかった。

 

 〝つうしんき〟の向こうでは、イザベラが激しい口調で詰問している。それでもあの神官は全く動じていないようだ。それが『地下水』に()()()()()()という証なのだろうが、タバサは無性に腹が立った。

 

 少女たちの思いなどつゆ知らぬジュリオの軽い声が『部屋』に響く。

 

「だよね、ぼくも本当にそう思うよ! そんな大切な話を残しておかないなんて『始祖』ブリミルはどこかヌケてるんじゃないかって。けど、どうもそうじゃなかったらしい」

 

 目で先を促すイザベラ。

 

「聖下もそれが気になったらしくてね、前に視たことを教えてくれたよ。秘宝自体は『始祖』が遺したものらしいけど、仕組みが失われるように仕向けたのは聖フォルサテなんだそうだ」

 

 ロマリアの祖王が、虚無の魔法書の存在を意図的に人々の記憶から失われるように仕向けた。その件も気になるところだが、それ以上に注意しなければならない発言があった。

 

「聖下が視たってどういうことだい?」

 

 過去の記録を調べたり、読み取るような魔法はお伽噺にしか登場しない想像の産物だ。少なくとも四系統には存在しないし、そんな魔道具のこともイザベラは寡聞にして知らない。フォルサテ家に伝わる書物か何かを見たにしては、言い方がおかしい。

 

 ところが、ジュリオはあっさりとその疑問に答えた。

 

「ああ、聖下の持つ虚無魔法に〝記録(リコード)〟っていう呪文があってね。物品が造られてから現在に至るまでの歴史を、その場にいたかのように再生することができるんだ」

 

 しばしの間を置いて。

 

「え? え? 虚無魔法? 聖エイジス三十二世が…… 虚無!?」

 

「あれ? 言わなかったかい?」

 

「初耳だよ!」

 

「ごめんよ、てっきりもう話していたとばかり……」

 

 所在なさげにぽりぽりと頭を掻くジュリオ。本気で話したと思っていたらしい。

 

 かたやイザベラは、これまでの事情がすとんと胸に納まったような感覚に囚われていた。

 

 陰謀渦巻くロマリア宗教庁の頂点に、二十代の若さで就けた事情。〝始祖の使い魔〟を名乗ったこの男が、ここまで過去の事情に詳しい訳。従姉妹が『聖女』候補と目されている理由。

 

 全て、ヴィットーリオ・セレヴァレという人物が〝虚無の担い手〟ならば納得できるのだ。

 

 と、そんなところへ割り込んできたのが王天君だ。

 

「なぁおい。その〝記録〟とかいうモンが本当(マジ)に実在するなら、コイツをここに連れ込んだことがバレるんじゃねぇのか?」

 

 イザベラは愕然とした。言われてみればその通りである。

 

「オメー、ジュリオとか言ったな。その魔法は物品(・・)の歴史を視るって話だったが……生物にも有効なのか?」

 

「きみは…… エルフかい? ちょっと変わった種族みたいだけど」

 

「んなこたぁどうでもいい。質問に答えろ」

 

「理屈はよくわからないけど、少なくとも人間や動物にはうまく働かないらしいね。聖下が仰るには、生き物の記憶はそのときの状況や受け止め方次第で大幅に変わるものだから、信用に値しないんだとか。取り調べや尋問に使えれば便利なのに、うまくいかないものだってぼやいてたよ」

 

「つまり、できなくはないんだな」

 

「うん。でも、使うたびに結果が変わるから意味がないんだってさ。半月前には『黒』だって記憶していたものが次に視たときは『白』になってたり、最悪消えてたりするらしいから」

 

「なら、たとえば〝意思〟を持つ魔道具なんかが対象だとどうなるんだい?」

 

 イザベラの質問に、ジュリオは首を傾げた。

 

「どうなんだろうね。試してみたいとは仰っていたけど、とにかく虚無は消耗する〝精神力〟が膨大で、そうやすやすと唱えることができないそうだよ。〝記録〟の魔法を一回唱えるためだけに、半月かけて〝力〟を溜め込む必要があるんだってさ」

 

 それに……と、月目の少年は続ける。

 

「〝意思剣〟なんて、そうそう手に入るものじゃないからね。あの類の品々は、先住魔法じゃないと作れないものだから」

 

 今日は一体どれだけの爆弾が落とされただろう。イザベラは頭痛を通り越して目眩がしてきた。

 

「『地下水』。お前は生みの親を覚えているかい?」

 

『いいや全く。嘘じゃありやせんぜ、あんまりにも昔過ぎて、記憶から引っ張り出せないんでさ。ところで……』

 

「なんだい?」

 

『そろそろこの男を帰す準備をしないとまずいですぜ。物品から記録を読み取れるってことなら、なおさらでさあ』

 

 『地下水』の調査によると、このジュリオ・チェザーレはいつもこの時間帯に町中を散歩するのが習慣化しているらしい。そして、あと一時間もすると夜の礼拝のためにボン・ファン寺院へ戻るのだとか。

 

『幸いなことに外は大雨ですからね。ずぶ濡れになった外套や服を始末する理由付けはいくらでも作れます。問題はこの剣ですが、そのへんはこちらで何とかしましょう』

 

「わかった。処分にかかった費用はわたしに回してちょうだい」

 

『承知しやした』

 

 馬鹿丁寧に(ジュリオの身体で)一礼する『地下水』に頷いて見せると、彼らは立ち去った。ふたりの姿が消えた途端、イザベラは全身をソファーに沈み込ませる。

 

「まだまだ聞き足りないことが沢山あるんだけど、なんていうか頭の中をぐしゃぐしゃに掻き回された気分で…… 悪いけど、今日はこれで解散ってことでいいかい?」

 

「うむ」

 

「オレも構わねぇ」

 

 白と黒が頷く。と、王女が忘れていたことを思い出したように告げた。

 

「ああ、タイコーボー。あとでちゃんとお礼をするから、何が欲しいか考えておいてちょうだい。ただし〝騎士〟(シュヴァリエ)の位を返上するってのは無しだからね」

 

「ちッ」

 

 その言葉に舌打ちする太公望。イザベラは疲れたような笑みを浮かべた。

 

「お前、ほんとに欲がないんだねえ……貴族の地位があれば、大抵の国で困らないのにさ」

 

「代わりに生じる義務があるではないか!」

 

「まあね。わたしだって、たまには王族じゃなけりゃこんな苦労しなくて済んだのかなあ、って考えることはあるし、気持ちはわからなくもないよ。けど、その爵位は父上から与えられたモンだ。わたしが勝手に取り消すなんてできやしないんだよ」

 

 イザベラはソファーに寝そべりながらそう太公望に告げた。

 

「ならば、何か考えておくことにしよう。おぬしも、今は頭の中を整理したいであろう?」

 

「ああ。わかってくれて助かるよ」

 

 このやりとりを最後に、ふたりの姫君の人生観を根本から覆した催しはひとまず終了した。奇しくもその夜、ガリアの王都は彼女たちの内心を表すかのような猛烈な嵐に見舞われた――。

 

 

○●○●○●○●○

 

 ――王天君の『部屋』で、ガリアを揺るがす告白がなされていたころ。

 

 トリスタニアの王宮も派手に揺れていた……こちらは物理、いや魔法的な意味で。

 

「か、カリーヌ! だからルイズにはわし、いや余がよく言って聞かせるから……」

 

 国王サンドリオン一世が、かたかたと震えながら妻を静止する。

 

「あなたがそうやって甘やかすから、王命で待機を指示していたにも関わらず、この娘は竜に乗って戦場へ出るなどという馬鹿な真似をしでかしたのです! よりにもよって一国の王女を、手柄を挙げさえすれば法を破ってもよいなどという前例にするわけには参りません。そのくらい理解しておられるでしょう!?」

 

「そ、それはそうかもしれんがな、ものには限度というものが」

 

 ぶわりとカリーヌ王妃の周囲に風が巻き起こる。

 

「それが甘いと言うのです! 民の模範となるべき王がそんなことでは歴代の国王陛下や『始祖』ブリミルに申し訳が立ちませぬ!!」

 

「ごめんなさい!」

 

 妻の迫力に気圧されたサンドリオン王はずざざざっと音を立てて後ずさった。そんな彼が見つめる先で、愛してやまぬ三人の娘のうちのひとりが暴風に巻き込まれ、くるくると宙を舞っている。その余波で王宮の庭に植えられた草木が激しく揺れており、まるで嵐のような有様だ。

 

 王から数メイル後方に控えていた近衛たちがひそりと呟く。

 

「へ、陛下…… 戦場におられたときはなんと頼りになるお方だと感激したものだが」

 

「いや、あれは無理もない」

 

「ああ。王妃殿下の意向に逆らうなど、杖無しで火竜に挑むようなものだ」

 

「不敬だぞ、お前たち」

 

 マンティコア隊を束ねる巌のような騎士が小声で部下たちを叱咤する。

 

 その人物に、ヒポグリフ隊の若き隊長がおそるおそる声をかけた。

 

「ド・ゼッサール殿……」

 

「あれが『烈風』隊長だよ、きみ」

 

 それに答えたド・ゼッサールの身体はぷるぷると震えている。

 

 若かりし頃に『烈風』カリン率いる魔法衛士隊に在籍していた彼は、元隊長の厳しさをよく知っている。当時受けた苛烈な訓練を数ヶ月に一度のペースで夢に見てしまい、全身にびっしょりと汗をかいて真夜中に飛び起きる程度には。

 

「噂半分に聞いていたのですが」

 

「アレは全て真実だと納得できただろう?」

 

「はい。身内にすら容赦しない『鋼鉄の規律』。しかと見届けました……」

 

「わかったのなら、そろそろ無駄口を叩くのをやめたまえ。でないと、次にああなるのは君だ」

 

 騎士たちの視線の先で、ぼろ雑巾のようになった第三王女ルイズが芝生の上に倒れ伏している。

 

 

 ――いっぽうそのころ。

 

 才人はそんな彼女を、王宮内のとある一室から見守ることを余儀なくされていた。

 

「俺、どうしてここにいるんだろうな」

 

 窓枠にかけていた手をぎゅっと握り締める。本当は、すぐにでもあそこへ駆け付けたい。けれど、それを許してくれない人物が彼の真後ろに立っていた。

 

「あなたの気持ちはよくわかるわ、わたしだって今すぐ止めに行きたいもの。だけど……」

 

「カトレアさ、姫殿下」

 

「周りには他に誰もいないから、そんな風に畏まらなくても平気よ」

 

「すいません。もともとは俺が……」

 

 その先を言わせまいとするかのように、カトレアは人差し指を唇に当てた。

 

「責はあの子がひとりで負うって決めたの。その気持ちを大切にしてあげて」

 

「理解は…… してます」

 

「でも、納得はできないのね」

 

 カトレアの問いかけに、才人は唇を咬む。

 

 吹き荒ぶ烈風の煽りを受けた窓枠が、カタカタと音を立てて揺れる。一枚のガラス板に隔てられたこの部屋と、ルイズのいる庭までの距離は目と鼻の先だ。

 

 しかし、今の才人には見た目にはすぐ側であるはずの場所が、これまで当たり前のように立っていたルイズの隣という位置が、地上と月…… いや、ハルケギニアと地球よりも離れてしまったように感じていた――。

 

 

 




不審点だらけな王位継承!

聖をつけていいのか疑わしいフォルサテ。絶対なんかやらかしてる。

カリンちゃんとサンドリオンは通常運転。


さて、以前より予告しておりました通り、ストック残量不足のため、今回のお話を最後に毎日更新が不可能になります。

週1更新を目標にしておりますが、遅れそうなときは前もって連絡致しますのでご了承ください。



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王女の選択
第99話 伝説、不死鳥と共に起つの事


 戦勝に沸くトリスタニアの町を、ひとりの少年がとぼとぼと歩いていた。

 

「寒いな」

 

 ウィンの月は日本でいうところの十二月にあたる。そして、ハルケギニアが最も寒くなる時期なのだと彼は主人から教えられていた。 

 

 まるで少年――才人の心と連動しているかのように、空は灰色の分厚い雲で覆われている。そんな彼の思いとは裏腹に、町は熱気に包まれていた。

 

 

 ――ダングルテール北部で起きたアルビオン艦隊との激突は、トリステイン側の劇的な勝利で幕を下ろした。王政府の広報誌はもちろんのこと、トリスタニアに点在する各新聞社もこぞって戦いの詳細を報じている。

 

 

~~~~~~~~

 

 

 ――新国王サンドリオン一世、即位までの経緯!

 

 ――『戦乙女』アンリエッタ姫、将兵たちに勇気と勝機をもたらす!

 

 ――天界より舞い降りし不死鳥が呼んだ奇跡! テューダー王家の復活!

 

 ――新旧王家の乗法魔法、アルビオン艦隊を粉砕!

 

 

~~~~~~~~

 

 再来週には未曾有の大勝利を祝う戦勝パレードが開催される。それと同時に、新国王の戴冠式が執り行われる予定だ。

 

 さらに、その先に待ち受けるのは降臨祭。

 

 戦に勝利し、新たな王朝が生まれ、新年を迎える。

 

 この連続した祝賀の催しに商機を見出した大勢の商人たちが、現在も交戦中のアルビオン大陸を除く世界各国から王都に集い、商談に精を出している。主人についてきた護衛や従者たちが街を練り歩き、ダングルテールでの戦いに参加した兵士たちの健闘を称え肩を組み、杯を交わす。

 

 大きな祝祭を前にした前祝いといった雰囲気が街中に漂っていた。

 

「いいよな、みんな気楽に騒げて」

 

 人混みをかきわけて移動しながら、才人は思う。

 

(あそこまでやらなければ、ルイズと一緒にこの街を歩けてたのかな……)

 

 もちろん、助けに行ったことを後悔なんてしていない。

 

 聞いたところによると、あの戦いにおけるトリステイン側の死者はゼロだったという。王軍の一部に負傷者が出たらしいが、命にかかわるほどではないそうだ。

 

 もしもあのタイミングで濃緑の不死鳥が現れなかったら――最低でも数百単位の死傷者が出た。それが王軍元帥の見立てだった。

 

 とはいえ、別の意味でヴァリエール家がピンチになってしまったのも事実。

 

 その場にいた訳ではないので又聞きになってしまうのだが、どうもゼロ戦に乗っていたルイズの姿を〝遠見〟の魔法で見ていた者が大勢いたらしい。

 

 お陰で、やれ「国難の際に、己の身を投げうち国を護ろうとした立派な姫君」だの「『烈風』の再来」だの大騒ぎになった挙げ句、早速ルイズを持ち上げようとする動きが出てきた。

 

(公爵はもともと王さまになりたくなんかなかったのに、ルイズを戦争の道具にしたくないからって理由で即位を決めたんだよな。教えてもらったときはさすがに驚いたけど……なら、余計にルイズが目立っちゃいけなかったんだ……)

 

 当初はいまいち理解できていなかったが、エレオノールからブリミル教の成り立ちや、ハルケギニアの歴史について詳しく教えてもらった今ならわかる。

 

(『始祖』ブリミルって、ようは地球でいうところのイエスさまみたいなひとなんだよな)

 

 クリスマスにケーキを食べ、大晦日はお寺で鐘をつき、元旦に神社へ初詣に行くという、信仰に寛容過ぎる国で生まれ育った才人には想像しにくいことだが、国によっては聖典の一文を巡って論争になることなど日常茶飯事。それこそ『聖地』とされる土地を巡って、複数の国が長い間戦争していたりするわけで。

 

(ようするに、ルイズが虚無ですってバラすのは、そういう国で「イエスさまが復活した」って宣言するようなもんだ)

 

 そうなれば、間違いなく大騒ぎになる。関連する宗教について、学校で習う程度の知識しかない才人でも、どんだけヤバイか想像できてしまう程に。

 

 ゼロ戦に乗って参戦しただけで、大勢の人間がルイズを持て囃した。彼女が神の御技――才人にとって、普通の魔法でも充分奇跡なのだが――を実現できる人物だと判明したらどうなるか。

 

(絶対、ルイズに近付こうとする連中が増えるだろ。そんで、神社みたいなところに閉じ込められたり、拝まれたりすんのか? だからって、嫌がったり断ったりしたら、文句言う奴いそうだし。んで、下手したら戦争。最悪だろそんなの! 公爵や師叔が内緒にするはずだよな……)

 

 才人よりも遙かに早い段階でそれらを予測していたヴァリエール公爵――もといサンドリオン一世は、素早く事態の収拾に乗り出した。

 

 新たなトリステイン王は、

 

『魔法学院の生徒ならびに教員・従業員は王政府の指示があるまで待機するように』

 

 という勅命を無視してルイズが出陣したことを咎め、彼女を持ち上げようとする勢力を威圧し、さらに実の娘に対し、王の指示に従わなかった罰を与えることで功績を有耶無耶にしたのだ。

 

 ……その役目を『烈風』が買って出た結果ルイズがぼろ雑巾になったわけだが、あまりの苛烈さが故に、おかしな動きを見せていた連中の牽制になったのは間違いない。

 

 『鋼鉄の規律』の健在ぶりをアピールする役にも立ったようだ。

 

(アレ見てもルイズをどうこうしようとするような貴族はただの馬鹿だよな……そんな連中、ルイズの父ちゃんと母ちゃんなら怖くないだろ)

 

 そういう愚物が行動したときにこそ悲劇が起こりやすいのだが、それはさておき。

 

 才人は「ルイズが罰を受けるなら俺も一緒に」と訴えた。ところが……ルイズ本人も、彼女の家族たちもそれを許さなかったのだ。

 

 ルイズとしては、

 

「わたしの大切なひとたちを助けに行ってくれたサイトを罰するなんて!」

 

 という理由から才人を庇ったのだが、両親と長姉の意見は違った。

 

 何故なら、ここで一緒に罰するような真似をすればルイズと才人の主従関係が公となり――人間の使い魔というイレギュラーに興味を持った者たちが、詳細を調べる可能性が高いからだ。

 

 やれ失敗だなんだと馬鹿にされるだけならまだしも、そこから〝虚無〟に辿り着く者がいないとも限らない。何せ、太公望とオスマン氏という実例があるのだから。

 

 いずれはバレる話だろうが、できうる限り娘を災難から遠ざけたいと思う親心と自分の虚栄心を秤にかけるほど、才人は曲がった人間ではない。

 

 普通なら、巻き込まれなくて良かったと喜ぶべきところなのだろう。けれど、才人はちっとも嬉しくなかった。あの戦いで僅かながら縮まったルイズとの距離が、大幅に遠ざかってしまった気がしたからだ。

 

 ぼろぼろになったルイズの側にいることすら許されなかった。結果、仕方なくひとりぼっちで街を散策する羽目になったのだから、ため息のひとつもつきたくなる。

 

(せめてきちんと告白しとけばよかったなあ……ほんと臆病だよ、俺)

 

 騒がしい街中でひとり黙り込み、考え事をしながら人混みを掻き分けていく。俯き加減で歩いているうちに、ドンッと音を立てて誰かの身体と衝突してしまった。

 

「痛ぇなおい!」

 

「あ、すみません!」

 

 屋台の前で料理と酒を楽しんでいた、身体のがっしりした大男にぶつかったのだ。よそ見をしていたのは才人のほうなので、すぐに頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。

 

 おそらく傭兵か何かだろう、腰に剣を下げていた。寒風にさらされたむき出しの腕のそこかしこに傷がある。どうやらかなり飲んでいるらしく、酒臭い。周囲には、彼の仲間と思われる屈強な男たちが同じように料理をつまみながら陽気に騒いでいた。

 

「なんだ兄ちゃん、シケた顔してんなあ。ほれ、戦勝祝いだ。一杯飲んでいけよ」

 

 グラスが才人の目前にぐいと突き出される。

 

 ハルケギニアに来てからワインを飲むようになったが、あまり酒に強くない彼は一瞬躊躇したものの……素直に杯を受け取り、中身を一気に飲み干した。

 

「はは、イケる口だな! もう一杯いっとくか?」

 

「お、その剣! まさか、ボウズもダングルテールの戦に参加してたのか?」

 

 お代わりを勧めてきた男とは別の傭兵が、デルフリンガーを見てそう訊ねてきた。勢いに圧されてしまい、思わず頷く才人。

 

「そうか、そうか! 歳からいって初陣か?」

 

「は、はい、そうです」

 

 男たちはニカッと人懐っこそうな笑みを浮かべた。

 

「そりゃあ運がよかったな! あんなとんでもねえモン、普通見られねえんだぜ」

 

「艦隊をばらばらにした魔法と、そのあとの猛反撃っすか? ほんとに凄かったですよね」

 

「おうよ! 今まであちこちの戦場を渡り歩いて来たがな、あそこまで爽快な勝ち戦は初めて経験したぜ!」

 

「ハッ、最初はえらい負け戦に参加しちまったってぼやいてたくせに、よく言うよ」

 

「あんだとォ!」

 

 男たちの楽しげな笑い声が辺りに響き渡る。彼らを見て、才人の心は少しだけ軽くなった。

 

(良かった。俺なんて大したことしてないけど……もしかしたら、ここで笑ってるひとたちもあそこで死んでたかもしれないんだよな)

 

 傭兵たちの一人が声を上げる。

 

「それじゃあ、今度はボウズの初陣勝利を祝って、乾杯!」

 

「乾杯!」

 

 それぞれが、ワイングラスを片手に「乾杯!」と声を上げる。空になった才人の酒杯にも二杯目が注がれ、つまみのあぶり肉が手渡された。一緒になって「乾杯!」と叫ぶ。

 

 と、そこへ新たな集団が乗り込んできた。

 

「粋なことしてるじゃねえか! 俺たちも混ぜちゃあくれねえかい?」

 

 才人を酒宴に誘った傭兵たちも上品とは言い難いが、彼らはさらにガラが悪かった。全員が薄汚れたシャツを身に纏い、腰に曲刀や短銃をぶら下げている。

 

「ほれ、あっちの屋台で手に入れてきた戦利品もあるからよ」

 

 麦酒(エール)の樽をぽんと叩いて笑みを浮かべたのは彼らのリーダーか何かだろうか。ぼさぼさに伸びた長い髪を深紅の布で乱雑に纏め、顔中に無精髭が生えた長身の男だ。

 

 早くも酔いの回り始めていた才人は、とろんとした目で男を見た。

 

(あれ? このひと、どっかで見たような……?)

 

 傭兵たちは新たな客人たちを酒樽と共に歓迎している。何とか思い出そうとするが、酒精の影響で頭に霞がかかったようになり、必要な記憶が取り出せない。

 

 そのうち、宴会騒ぎは周囲を巻き込んでさらに大きくなり――いつしか、飲み過ぎた才人はうつらうつらと船をこぎ始めた……。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――才人が目覚めた場所は、見知らぬ部屋の中だった。

 

 いつのまにか、薄暗い室内でベッドに寝かされている。当然才人は混乱した。

 

(どこだ、ここ……? 俺、確か街で飲んでて、それで……)

 

 頭がズキズキする。どうやら許容量を超えて飲んでしまったらしいが、困ったことにその後の記憶が全くない。

 

 周囲を見回すと、窓掛の隙間から光が漏れているのに気が付いた。才人はベッドから降りて厚手のカーテンを開く。外はすっかり日が暮れて、ふたつの月が輝いている。

 

「うわ、やべえ。もう夜じゃんか。てか、俺なんでこんなところで……」

 

 と、後方から聞き慣れたカチカチという鍔を鳴らす音が聞こえてきた。

 

「よう。目が覚めたみたいだね、相棒」

 

「デルフ!」

 

「俺っちと相棒を運んできた爺さんが、ベッドの横の机になんか置いていったぜ」

 

 そう言われてサイドテーブルの上を見ると、呼び鈴と一枚の羊皮紙が乗せられていた。

 

 

『お目覚めになられましたら、こちらのベルを鳴らして下さい。       ――パリー』

 

 

「パリー? んん? どっかで聞いた覚えのある名前だけど……って、あああああ!」

 

「どうしたね、相棒」

 

「そうだよ! あの髭もじゃの……あれって確か……!」

 

 大声をあげたためにベルを鳴らすまでもなく家の者に気付かれたようで、それからすぐにコツコツという上品なノックの音がして、見覚えのある老爺が入ってきた。

 

「お気づきになられましたか? 殿下がお連れになったときは酷く酔っておいででしたが」

 

 その人物は、テューダー家の従者を務めるパリーだった。

 

 

 ――それからしばらくして。

 

 飲み過ぎに効く秘薬をもらい、酒気を醒ますために風呂まで頂戴した才人は、着替えとして与えられたお仕着せに身を包み、建物の中を案内されていた。

 

 道すがら、この屋敷がシャン・ド・マルス練兵場のほど近くにあり、トリステインの王室から貸し与えられたものだという説明を受けた才人は、周囲をきょろきょろと見回した。

 

 ヴァリエール家も凄かったが、ここも素晴らしく贅沢なつくりをしていた。随所に設置された家具は上質ながらも嫌味のない品の良さがある。アンティークはもちろんのこと、現代インテリアに詳しい訳でもない才人でも理解できる程なのだから、相当なものだろう。

 

 しばらく歩いていく途中、案内役の足が止まった。どうやらこの先に待ち人がいるようだ。勧められるまま扉を開け、中に入る。

 

 応接間とおぼしき場所で、金髪の凛々しい青年が才人を待っていた。

 

「やあ、久しぶりだね少年。いや、ミスタ・ソード……それともサイト、と呼ぶべきかな?」

 

 本名を名乗った覚えのない才人は目を白黒させた。

 

「あの、なんで俺の名前知ってるんですか?」

 

「サンドリオン一世陛下から伺っているからね」

 

「な、なるほど」

 

 彼を屋敷に連れ帰り介抱してくれたのはウェールズ王子だった。

 

 どおりで見覚えがあるはずだ。あの無精髭の男は以前ロサイスへの旅路で出会った空賊の頭――変装したアルビオンの皇太子だったのだから。

 

 王子の話によると、彼は情報を集めるために変装し、部下を引き連れて祝祭気分の街中へ繰り出したのだとか。その途中、偶然傭兵たちと酒を酌み交わしている才人を見つけたのだそうだ。

 

 宴会中の才人は夢うつつといった様子だったが……途中で席を立ち、ふらふらと歩き出したらしい。それも、王宮の方向へ。

 

 その姿があまりにも危なっかしく、おまけに酒の匂いをぷんぷんさせた平民が宮廷の門をくぐろうとしたらどうなるか。たとえヴァリエール家の従者でも、厳しい叱責を受けるに違いないと考えた王子は、部下と共に才人を連れ、彼の主人宛に「具合が悪そうだったので、こちらで預かっている」という伝言をフクロウに託した後、この屋敷へ戻ってきたのだそうだ。

 

「ありがとうございました。俺、お酒はあんまり強くないのに、飲み過ぎちゃって……」

 

 ぺこりと頭を下げた才人に対し、王子は鷹揚に頷いた。

 

「いやいや、この程度のことは気にしないでくれたまえ。僕……いや、我ら王党派は君に感謝と謝罪をしなければならない立場なのだから」

 

 顔中に疑問符を浮かべている才人に、ウェールズは説明する。

 

「君は我らを二度救ってくれたんだ。最初はアルビオンからの脱出時に、操舵士として大勢の命を運んでくれた。さらに不死鳥の繰り手として、王党派の誇りと名誉を守ってくれたのだよ」

 

「俺、そんな大したことしてません。友達の身内が死ぬかもしれないって聞いて……それで、俺でも時間稼ぎくらいならできるんじゃないかって、そう思ったからで……」

 

 才人の話を聞いたウェールズは、優しく微笑んだ。

 

「その心持ちが貴族的、英雄的だと言うのだよ。誰に言われたわけでもなく、自らそうしようと決意し、危険な戦場に降り立った。フネの上で、死ぬのが怖いと話していた君が……だ」

 

 そう言われて、才人は照れると同時に嬉しくなった。愛とは何たるかを教えてくれた王子の役に立てたばかりか、こんなふうに褒めてもらえるだなんて思ってもみなかったからだ。

 

「なればこそ、我々は君に謝罪せねばならない。本来であれば、君はトリステインと王党派を救った英雄として讃えられる立場にあるというのに……その活躍が伏せられて、正しく評価されていない。それも、我々王室の事情がゆえに。これは由々しき問題だ」

 

「いえ、俺は別に褒められたくて戦ったわけじゃないですから」

 

 遠慮する才人に対し、王子は断固として告げた。

 

「そういう訳にはいかない。少なくとも、君の戦果のうち竜騎士二十騎の撃墜だけでも、アルビオンの王立空軍なら爵位と領地が与えられてしかるべき活躍だった。それが、我々の名誉と誇りを守ることと引き替えに無かったことにされるなど、あってはならないのだよ」

 

 論説に熱が入ってきたのだろう、ウェールズは身振り手振りを加えながら続ける。

 

「あの濃緑の竜が伝説の不死鳥という扱いにされたことで、我らは民を置いて逃げ出した無責任な王族という存在から、最期まで勇敢に戦い、反乱軍何するものぞという勇気を世界中に見せつけ、後に『始祖』のお導きでトリステインの危機に遣わされた戦乙女の勇者(アインヘリヤル)、という扱いになった。そのせいで、君の功績が公にできないのだ」

 

 彼の言わんとするところが、ようやく才人にも理解できてきた。王子さまは手柄を横取りしてしまったようで心苦しいのだ。

 

「それなら気にしないでください。俺たちとしても、今の扱いのほうが助かりますし」

 

「む、何故だね?」

 

「その、あんまり目立ちたくないんです」

 

「この国では平民が大きな手柄を立てるといらぬやっかみを受けると聞いているが、王が代わった今ならば、そんなことは……」

 

「そうじゃないんです。えと、なんていうか……」

 

 煮え切らない様子の才人を見ていた王子の顔が、はっとした。

 

「なるほど。君はミス・コメット……ルイズ姫と王室を心配しているのだね。確かに、戦場で彼女の姿を見た者は多い。おまけに『烈風』の血を色濃く引くメイジとくれば、王位継承に関する問題が再燃しかねないというわけか」

 

「……はい」

 

 ルイズ姫。その呼称を耳にした途端、才人の胸がズキリと痛んだ。

 

 もともとお姫さまのような存在だった桃色の髪の少女は、父親がトリステインの国王になったことで一般人には絶対に手の届かない――正真正銘、本物のプリンセスになってしまった。それを改めて思い知らされたから。

 

(だけど、俺はあいつが……)

 

 と、そんな彼の様子を見ていたウェールズが訳知り顔で微笑んだ。

 

「そうか。君が命を賭けてまで守りたいと願っていたのは、あの可憐な少女だったのだね」

 

「あ、いや、それは……!」

 

 言い訳しようにも全く説得力がない。なにしろ、才人の顔は熟れた林檎のように真っ赤に染まっていたのだから。

 

「ふむ、そういうことなら話が進めやすい。既にサンドリオン一世陛下には本人の意志次第だと許可を頂いていることだしな」

 

 ぽかんとした顔で自分を見つめる黒髪の少年に、王子は太陽のような笑顔で言った。

 

「ミスタ・サイト。僕と一緒にフネに乗り、貴族を目指してみないか?」

 

 

○●○●○●○●

 

「父さまから聞いたわ! あんた馬鹿なの!?」

 

「そ、そんな言い方ないだろ!」

 

 ウェールズ王子との対談から三日後。

 

 操舵士兼戦闘員として、一ヶ月ほど王子のフネに乗ることを決めた才人はトリスタニアの王宮に登城した――のだが。ルイズと顔を合わせた途端、不毛な言い争いに突入してしまった。

 

 なお、防諜用の魔法がかけられた部屋なので大声を出しても問題ない。

 

「なんでそんな大切なこと、勝手に決めちゃうのよ!」

 

「んなこと言ったって、急ぎだったし……俺ひとりじゃここに来られないだろ!」

 

 日が開いてしまったのは、才人ひとりでは王宮に入れないからである。普段の彼はトリスタニアにあるヴァリエール家の下屋敷で寝泊まりし、必要なときだけ執事長のジェロームたちと共にお城へ行く。平民という身分もさることながら、主人と使い魔というルイズとの関係性をできるだけ悟られないようにしつつ、宮廷事情に慣れさせる――そういった配慮からだ。

 

「だったら、フクロウを飛ばせばいいじゃない!」

 

「お前と俺がやりとりしてるってバレたらマズイんだろ!」

 

「う~ッ……」

 

 ルイズは才人の行動が全く理解できなかった。

 

(アルビオン遠征から戻った後、あんなにショック受けてたくせに……なんでまた戦場へ行こうだなんて思ったのよ! そりゃあ、ウェールズ殿下は死ぬ気なんてないみたいだし、あくまで密輸船を叩きにいくだけなんでしょうけど……)

 

 ダングルテールでの戦いの後。サンドリオン一世は即座にラ・ロシェールの港に検問所を設け、アルビオン大陸への物資・金銭の持ち込みを禁じた。『レコン・キスタ』を空で孤立させ、敵を干上がらせる作戦に出たのだ。

 

 そうなると当然、密輸という手段でひと儲けを企む者たちが出る。しかし、トリステインの艦隊はほぼ壊滅。新造艦を急ピッチで建造中だが、最低でもあと一ヶ月はかかる見込みであり、出せるフネはというと、新兵の訓練用に残されていた僅かな練習艦のみ。

 

 ゲルマニアとの外交交渉はトリステイン優位で進んでいるものの、未だ再締結に至っていない。

だが、先日の侵攻に対して援軍を送らなかったという負い目がある皇帝は、対アルビオン封鎖政策への同調及び、巡視艇の派遣を決定した。

 

 だが、これだけでは到底手が足りない。そこで王党派の『イーグル』号改め『フェニックス』号に白羽の矢が立ったのだ。

 

 風石や弾薬の適時補給、拿捕した密輸船と積み荷を適正な価格で買い取ること、兵士たちに所定の給与が支払われることなどを条件に、テューダー家は『フェニックス』号投入を了承した。

 

 とはいえ、王党派として密輸船を狩りに出かけたところを、アルビオンの残存艦隊に発見されて追い回された――などという展開になったら目も当てられない。

 

 そのため、ウェールズ王子と王党派の貴族たちは、以前のように空賊を装うことで貴族派連盟の目を欺くこととし、夜を徹して『フェニックス』号の外壁改修を行っていたらしい。

 

 しかし、全く危険がないわけではないのだ。目立つ護衛を引き連れて密輸を行う馬鹿がいるとは思えないが、空の上では何が起こるかわからない。それに、万が一アルビオン側にバレたら間違いなくその場で戦闘になるだろう。

 

 才人を危ない目に遭わせたくない一心で、ルイズは声を荒げた。

 

「誰がなんと言おうと、わたしは反対よ! だいたい、なんであんたがそんなことしなきゃいけないわけ? 王党派には腕のいい航海士がいるって話だったじゃないの!」

 

 そんなルイズに反論する才人。

 

「航海士はともかく、操舵士の数がぜんぜん足りないらしいんだ。俺が加われば交代して休める人数になるから……それだけ多く出撃できるんだってさ」

 

「そ、そんなの、トリステインの操舵士を雇えばいい話だわ!」

 

「ああ、なんかアルビオンのフネとトリステインのは仕組みが全然違うからダメなんだと」

 

「だったら、く、訓練よ! 訓練すればいいわ!」

 

「見習い乗せる余裕があるなら、そもそも俺なんかに声かけねえだろ。それに、ある程度戦えるヤツじゃなきゃ話になんねーし」

 

「だ、ダメよ! 絶対ダメ!」

 

「なんでだ? 王子さま、困ってるんだぞ。トリステインだって、王党派の手助けがなきゃ密輸の取り締まりが難しいって話じゃねえか。それに、ずっと操舵士やるわけじゃない。あくまでトリステインのフネが揃うまで。ほんの一ヶ月だけだ」

 

 才人の言うことは正論だ。しかし、まだ蕾で花開く前の少女特有の我が儘な独占欲と、彼の身を案じる心がそれを認めない。

 

「そ、そんなのわたし、許さないもん」

 

「お前の父ちゃんからオーケー出てるし。むしろ行ってこいって背中押されたし」

 

「ふざけないで!」

 

「俺は最初っから真面目だっつの!」

 

 側にいて欲しい、あんたに傷付いて欲しくない。一ヶ月も会えないなんて嫌。プライドが邪魔をして、素直に本音を口に出せないルイズはとうとう癇癪を起こした。

 

「あ、あんたはわたしの護衛でしょ! わたしを守るのが仕事なの!」

 

「それが! できねえから! フネに乗るっつってんだろーが!!」

 

 だんだんイライラしてきた才人の声音が一オクターブ上がる。この主従、揃って短気なのだ。

 

「意味わかんない!」

 

「だーッ! なら説明してやるよ! 平民の俺はひとりじゃ城に入れないし、お前の側にもいられない! 目立ってもダメ! だから、王子さまはフネに乗れって言ってくれてんだよ!!」

 

「なんでそうなるのよ!」

 

「一ヶ月お城に来なけりゃ、戴冠式だのパレードの準備だので忙しくて、俺なんてすぐに忘れられちまうだろ。ただの平民だからな!」

 

「そんな理由なら、しばらく下屋敷にいればいいじゃないの!」

 

「それだけじゃねーよ! フネに乗れば貴族にしてくれるって、王子さまとアルビオンの王さまが約束してくれたんだ!!」

 

 ルイズはカッとした。わたしの気持ちよりも、貴族の地位が……お金のほうが大切なのか。少女は怒りのあまり、思ってもいないことを口にする。

 

「ふ、ふん。ああ、あんた馬鹿だから、騙されてるんだわ! へ、へへ、平民が、貴族になんて、なれるわけないじゃない!」

 

 才人はムッとした。彼はウェールズ王子の生きざまに憧れ、尊敬すらしていた。空へ誘われて嬉しかったのも事実だ。そんな人物を嘘つきだと貶められて、黙っていられる訳がない。

 

「王子さまも王さまも、嘘つくようなひとじゃねえよ! お前だってわかってんだろ!?」

 

「そんなこと言ったって、アルビオン王国は滅亡してるのよ!? 領地はぜんぶ貴族派連盟に盗られて、お金もほとんど置いて来ちゃって……そんなんで貴族になれたとして、どーすんのよ!」

 

「金も領地もいらねえよ! 今の俺に必要なのは貴族っつう肩書きだけだ! 王党派になるつもりなんかねーし! それも話して、納得してもらってるし!!」

 

「はあ? 訳わかんない。何がしたいのよ、あんた!」

 

(ああもう。こいつ、頭いいくせになんでわからねえかなあ!)

 

 才人は苛立ちのあまり、エレオノールや太公望のように目の前にいる少女の頬をつねりあげたい衝動に駆られた。お互い無駄に興奮しているせいで、起承転結をきっちり説明できていないのが悪いのだが……そのことに気付いてすらいない。

 

「そんくらい察しろよ、この馬鹿!」

 

「誰が馬鹿よ!」

 

 大声で怒鳴る才人の顔は真っ赤で、瞳は怒りに燃えていた。

 

「お前に決まってんだろ! だいたい、誰が好きこのんで戦おうとしてると思ってんだよ! 軍艦見るのは好きだけど、戦争なんか大ッ嫌いだ! 貴族にだって、なりたくなんかねーよ!」

 

「だったら、最初から行かなきゃいいじゃないの!」

 

 ルイズは怒鳴り返した。大声を上げ続けてきたせいで、ぜえぜえと肩で息をしている。

 

(なによ! 心配してあげてるのに、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。三日ぶりに会えてほんとに嬉しかったのに、サイトと話すのが楽しみだったのに……わたしの気持ちなんて全然わかってない! それって使い魔……パートナーとしてどうなのよ!)

 

 いっぽう、才人は俯いたままぷるぷると肩を震わせていた。

 

(ふ、ふん! ほら見なさい。わたしのほうが正しいんだから! 何か言い訳を考えてるんでしょうけど、これ以上馬鹿なこと言うようなら、久しぶりに蹴りでも入れてやろうかしら)

 

 ところが。才人の口から飛び出た言葉は――ルイズにはもちろんのこと、本人にとっても完全に想定外のものだった。

 

「……だよ」

 

「なに? ハッキリ言いなさいよ!」

 

「好きだから! 一緒にいたいんだよ!」

 

 真っ赤な顔をしてそう言い放った才人。しかし、ルイズは何を言われたのかわからなかった。

 

(い、今、サイト……なんて言ったの? 好き? ううん、そんなはずない。聞き間違いよね)

 

「お前が好きなんだよ、俺は! 顔見てるだけでドキドキすんだよ! 守りたいと思ってんだよ! ずっと側にいたいんだよ!」

 

 ルイズの全身を巡る血液がかあっと熱くなる。ばくばく鳴る心臓の音がうるさい。

 

「けど、貴族じゃないと自由に城に入れねえから王子さまが気を利かせて、フネで大手柄立てたことにしてくれるっつってんだ! 俺が竜騎士撃ち落として助けてくれたからってな! 自分たちのせいで俺の手柄取っちまったようなもんだから、そのくらいはさせて欲しいんだって! 王子さまだけじゃねえ! 王さまも、王党派の貴族のひとたちも、みんなそう言ってくれてんだよ!」

 

「え? え?」

 

「そもそもお前さ、なんで俺が戦ってきたと思ってんの? お前のおっかねえパパとママ相手に、死ぬほど辛い稽古続けてた理由わかってんの? お前が好きだからだよ! 何とも思ってねえ女のために、そこまでやる訳ねえだろうが! そうじゃなきゃ空戦とかヤバそうだし参加しねえよ! 魔法学院に戻ってごろごろしてるっつうの! ニブ過ぎだろ、いい加減気付けよ!」

 

 そこまで一気にまくし立てたところで、才人はようやく気がついた。

 

(ちょ、俺、何言ってんの? なんで勢いで告白なんかしちゃってんだよ! 今はそういう話してたんじゃねえだろうがああああああ!!)

 

 おそるおそる目の前の少女を見ると、両手で顔を覆い隠し、床にへたり込んでいる。指の隙間から僅かに見える頬が、夕焼け空のように赤く染まっていた。

 

(うわああああ! やっちまった! もうおしまいだあ! 馬鹿! 俺の馬鹿! 馬鹿犬!)

 

 がっくりと床に突っ伏した才人。彼の顔も、思い人と同じように紅潮していた。

 

 

 ――両者ともに無言のまま時は過ぎ。

 

 ようやく我に返ったルイズだったが、もう何が何だかわからなかった。相変わらず心臓はばくばくしているし、頬も熱を帯びている。

 

 唯一理解しているのは、才人から好きだと告白されたことだけ。

 

(ど、どうしよう……こんなとき、どうすればいいの……?)

 

 喜びたいけど喜べない。才人の言うとおり、彼は平民。ルイズは一国の王女さま。でも、だからといってこの胸の高鳴りは押さえられそうにないわけで。

 

 ルイズはようやく「あなたが羨ましい」と言っていた、アンリエッタの真意が理解できたような気がした。身分が邪魔をして、恋する相手に告白されても素直に喜ぶことすらできないなんて。

 

(でもでも、さ、サイトがほんとに貴族になれるなら……)

 

 桃色の髪の姫君は相反する想いを制御するかの如く、身体をぷるぷる震わせながら才人の側へ歩み寄り、項垂れている彼に声をかけた。

 

「ね、ねえ……わたしが好きって、ほんと?」

 

「お、おう。ほんとだ」

 

 蚊の鳴くような声で答える才人。

 

「嘘だったら、ぶっ飛ばすわよ」

 

「嘘じゃねえし」

 

 普段通り、ぶっきらぼうに答える才人。けれど、ルイズはいつもの態度にすら不安を覚える。

 

(好きって言ってくれたけど、本気? こいつ、魔法学院のメイドだのメイドだのメイドにモテるみたいだし……しょっちゅうキュルケとかメイドとかの、む、むむ、胸の、し、脂肪の塊を、じ、じろじろ見てるし! 大きいのが、こ、ここ、好みなんじゃないの!?)

 

 思い出したらなんだかイライラしてきた。

 

 ルイズは無駄な肉が一切ついていない、若鹿のようなすらりとした体型だ。つまり、彼本来の好み(と、思われる)スタイルからはかけ離れている。それがまた、彼女が才人の告白をイマイチ信じ切れない理由だった。

 

 あー、とか、うー、とか唸りつつ、どうにか考えをまとめたルイズは、全身に宿る気力という気力を全て声に変え、言葉を絞り出す。

 

「な、なら……本当だってこと、証明して」

 

 その言葉と共に、才人の肩にルイズの手が乗せられた。

 

(え? 何? どゆこと?)

 

 混乱したまま才人が顔を上げると、目の前にルイズの顔があった。宗教画のように美しい少女の両瞼は閉じられており、静かに何かを待っている。

 

 小鳥のくちばしのように控えめに突き出された、この口元は。

 

(あ……俺、死ぬかもしんない)

 

 こんな夢みたいなことされたんだから、俺はきっともうだめなんだ。なら、せめてあの世へ行く前に、この可愛らしいご主人さまと……などとブツブツ呟きながら覚悟を決める。前にもしたことだが、あのときルイズは眠っていた。だけど、今回は――。

 

 ……端から見ると、才人の挙動はかなり怪しい。

 

 壊れ物を扱うよりも慎重にルイズの頬に片手を添えた才人は、静かに唇を重ねた。

 

「ん……」

 

 ルイズから甘い鼻声が漏れる。少女の唇は温かく、柔らかかった。

 

 口内の奥まで貪りたいという欲望を決死の思いで抑えつつ、才人はそっと少女から顔を離した。それから、ようやく目を開けた少女をまっすぐ見つめて告げる。

 

「好きだ。嘘じゃない」

 

 その言葉が耳に入った途端、ルイズの全身からぐにゃりと力が抜けた。だが、彼女の奥底に根を張るプライドが、なけなしの気力を振り絞って崩れ落ちそうになるのを耐えた。

 

「わ、わたしは……」

 

 そこで口籠もってしまうルイズ。

 

(好きじゃないって続ける? 何とも思ってないって? けど、そんなの……)

 

 プライドと本音の狭間を彷徨う少女の耳に、とどめの一撃が突き刺さる。

 

「お前がどう思ってようと、俺はお前が好きだ」

 

「あ、あう……」

 

 真正面から投じられた直球。ど真ん中ストレート。バッター・ルイズ、アウト。ベタだが、彼女はこういうベタベタな展開に弱い女の子だった。

 

「し……」

 

「し?」

 

「信じてあげる。あんたが、わ、わたしのこと、好きなんだってこと」

 

 そう言葉にしただけで、ルイズの身体が熱くなる。本人は気付いていないが、顔も真っ赤だ。

 

「ほんとか?」

 

 ミルク皿をもらった子犬のように幸せそうな才人の笑顔を見て、またしてもルイズの全身がぐんにゃりとした。

 

(なんなの、もう! なんでこんなに可愛い顔すんのよ、こいつ!)

 

 そのまま抱き寄せて頬ずりしたいのをすんでの所で我慢したルイズはそっと才人の手を取ると、白く細い指先を割り込ませ、絡めた。それから、きゅっと握る。

 

 鳶色の瞳を所在なさげに踊らせながら、少女は口を開いた。

 

「あ、あのね、あんたは護衛。わたしの盾なの」

 

「うん、知ってる」

 

「危ないこととかさせたくないの。側から離すのも嫌。だ、だって、何かあったらわたしのこと、守れないでしょ?」

 

「そうだな」

 

「けど、あんたがどーしてもやりたい、って言うなら……もう一度最初から説明しなさい。それできちんと納得できたら、ゆ、許してあげてもいいわ」

 

 言い終えたルイズは才人の手を引き、テーブルのほうへ誘導しようと軽く引っ張る。握られた手の指はしっかりと絡められたままだ。その上、時折ちらちらと才人の顔を伺っていた。

 

 ぐはっと声にならない声を上げ、身悶えする才人。

 

(なんなの、なんでご主人さまこんな可愛いことすんの? やっぱり俺、死ぬのかな……)

 

 ぐいと力強く少女の身体を引き寄せ、思い切り抱き締めたいのをどうにか堪えた少年は、大人しく手を引かれていく。

 

 明確な答えはもらえていないけれど……ルイズの手から伝わってくる暖かさが、才人の心を幸せな気持ちで満たしてくれた。

 

 

 ――翌日。

 

 才人は隠された港から、改装済みの『フェニックス』号に乗って大空へ飛び立った。

 

 見送ることはおろか、王宮から一歩も外に出られなかった第三王女・ルイズは考える。精一杯できることをして、自分の側にいようと努力してくれた少年に恥じぬように。

 

 もう一度――彼と。いや、彼だけでなく、みんなと共に歩むための方策を――。

 

 

 




才人、勢い余って第一関門突破。
こういう展開書くの、嫌いじゃないけどマジ難題。

さて、感想欄などでは触れましたが、本編の更新は基本週1、毎週水曜日の朝を目標に行いたいと思います。現在、必死にストック作成中!

がんばるぞー!


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第100話 鏡と氷のゼルプスト

 ――ルイズと才人が、決意を新たに行動を起こしたのと同じ頃。

 

 タバサと太公望は王都リュティスのロンバール街にある、王立図書館を目指していた。

 

 シレ川中州の中央近くに広がるこの街は、別名「学舎街」と呼ばれている。貴族の子弟が魔法を習うために通う専門学校や、淑女たるべく学ぶ女子に作法と振る舞いを教える女学院、将来の王軍幹部の育成を担う士官学校などが街の周辺に集まっているからだ。

 

 歩を進めてゆくうちに、巨大な建造物群が目に入る。その中でも、天高くそびえ立つ円柱の塔が太公望の興味を引いた。

 

「ほほう、あれが……」

 

 明らかに説明待ちの太公望。彼のパートナーはその期待に応えることにした。

 

「リュティス魔法学院。トリステイン魔法学院に並ぶ伝統と格式を誇る学び舎。王家の紋章に描かれた二本の杖のように交差した校舎が特徴。この建物を中心として、遠方の貴族や教員、外国からの留学生が住む寮や魔法研究塔(ラ・トウール)が多数隣接している」

 

 タバサの解説通り、石造りの巨大な建造物が並び立つさまは壮観の一言に尽きた。もしも才人が同行していたら、都内のビル群を連想したであろう。

 

「全寮制のトリステイン魔法学院とは異なり、屋敷から通学する者がほとんど。遠方出身の生徒は寮に入るか、従者と共にアパルトメントを借りて生活する」

 

「なるほど、相当金がかかりそうだのう」

 

 蒼い頭が上下し、さらに補足を入れた。

 

「裕福で、かつ爵位の高い貴族しか入学を許されない」

 

「おぬし、ここへ来たことがあるのだな」

 

「一度だけ」

 

 言われて昨年の出来事を思い出すタバサ。

 

『学院に行こうとしない貴族の息子を、なんとしても毎日通うようにしろ』

 

 という任務を受け、この街を訪れた。

 

 当時は、そんな馬鹿馬鹿しい陳情が王政府に届くこと自体がジョゼフ王の無能と宮廷の腐敗を示す証拠だと考えていたのだが――。

 

(何事も、思い込みで決めつけるのは危険)

 

 今はそんなふうに判断しているわたしは、あの頃よりも成長できたのだろうか。

 

 街並みを碧瞳に映しながら、タバサは現在に至るまでの道のりを思い浮かべる。

 

 そうこうしているうちに、ふたりは目的地に辿り着いた。

 

 

 ――リュティス王立図書館。

 

 ロンバール街の中央に鎮座するその建物は、数千年前に双子の王子が国を分かつ内乱を起こして以後の歴史が詰め込まれた場所だ。それ以前の記録は戦火に焼かれ、灰燼に帰している。

 

「それでは、こちらにお名前を記入してください」

 

 受付カウンターで記名を終え、利用料を支払ったふたりは館内に立ち入った。

 

 平日の昼間だからか、図書館の中は閑散としている。調べ物をしているらしき中年の貴族の他、恰幅の良い――マントを身につけておらず、杖も持っていないので、おそらくは近隣に住まう平民男性が静かに書に親しんでいた。

 

 壁に掲げられていた案内図を見ながら、太公望は傍らの少女に訊ねた。

 

「おぬしが読みたいのは幻獣種に関する本であったな?」

 

「そう」

 

 先日の任務で遭遇した、白いイタチのような生き物。名も知らぬ幻獣に関する知識を得たいと考えていたタバサは素直に頷いた。

 

 本館正面のライブラリには主にガリア国内で市販されている書物が収められており、その中にはタバサが閲覧を希望している、幻獣に関する本も含まれているようだ。

 

 案内図の下に填め込まれた金属製のプレートには、注意書きとおぼしき文字が刻まれている。本館奥や別館と呼ばれる建物には魔法書の他、魔法薬のレシピや国内から集められた技術書、発生した事件、裁判の記録などが保管されているため、ガリア貴族以外の立ち入りが禁止されていた。

 

 今日のふたりは休日ということもあり、マント以外は簡素な服を身に纏っている。一応、太公望は東薔薇花壇騎士団の略章を身に付けているので、身分証明は可能だが――。

 

「ま、別に急いでおるわけでもなし。今日はのんびり書を楽しむとするかのう」

 

「賛成」

 

 奥にある書物に興味はあるが、本館前面のライブラリに収められている本もふたりの好奇心を充二分に満たしうるものだ。立入制限区域の本が読みたければ、また訪れればいいだけのこと。

 

 すぐさま合意に達したふたりは、早速目当ての書架に向かって歩き出した。

 

 

○●

 

 

 ――その夜。

 

「やっぱり、そう簡単に食いついてきてはくれないわよねぇ……」

 

「ここであっさり尻尾を出すような間抜けなら、とっくにオメーの親父に見つかってるだろ」

 

「まあね。認めるのは癪だけど、連中は伊達にブリミル教の総本山として何千年もハルケギニアに君臨してきたわけじゃないってことね。諜報も調略も憎たらしいくらい洗練されてるわ」

 

 王天君の『部屋』で、策謀家たちが今日一日の成果を総括していた。

 

「それで、そっちの首尾は?」

 

 蒼い髪の王女は正面を向いたまま声を発する。と、それに応えるべく側に立っていた侍女が口を開いた。しかしその瞳に光はない。うら若き娘の手には一本のナイフが握られている。

 

 その短剣こそ、ガリアの深淵に潜む暗殺者『地下水』の本体だ。

 

『再来週トリステインで行われる戴冠式に、聖エイジス三十二世の名代としてロマリアから枢機卿が派遣されてきました。週末までリュティス大聖堂に留まり、その後国境方面へ向かう予定です。例の〝月目〟は彼に同行するとのことでした』

 

「そいつの名前は?」

 

『バリベリニ卿と呼ばれておりました』

 

「バリベリニ枢機卿! イオニア会の重鎮じゃないか! わかったわ、そっちには『北』から〝騎士〟を出す。お前は引き続き〝月目〟の周囲を洗って頂戴」

 

『承知しました』

 

 礼儀作法の見本として相応しい優雅な一礼の後、侍女は『窓』から闇に消えた。

 

 

●○

 

 ――あの衝撃の告白から、既に数日が過ぎた。

 

 しかし、イザベラは未だジュリオの発言を裏付ける証拠、あるいはそれに類する情報を得ることができないでいた。王天君にも協力を依頼し、彼の『窓』で従姉妹たちを追跡する者や、使い魔などがいないかどうか調べてもらっている。

 

 今日も図書館へ向かうふたりを追いかけてもらったのだが……何の成果も得られていない。

 

 敵情報部の本拠とおぼしきボン・ファン寺院には『地下水』を、ガリアの管区教会を取り仕切るリュティス大聖堂の近隣には北の中でも特に潜入・情報収集を得手とする騎士たちを放ち、些細な変化も見逃さぬよう、厳重な監視網を敷いた。

 

 それぞれの拠点を訪れる信者、神官の足取り。届けられた品物や手紙の内容、果てには毎食のメニューまで調べる徹底ぶりである。それでも敵の尻尾を掴めない。

 

 もちろん、そんな簡単に捕まえられるようなものなら『交差する杖』が割れるような事態に陥ったりはしなかっただろう。ジュリオと『地下水』の遭遇こそが、奇跡のような偶然だったのだ。

 

 父王ジョゼフには、ロマリアが従姉妹と接触しようとしたこと、その件についてシャルロットが自身と母親、そして王室の危機と判断した上で情報提供を行ってきたこと。

 

 イザベラ自ら『北』を動員して調査を行った結果、かの国が過去シャルル派を利用して調略を仕掛けて来ており、現在もその企みが進行中であるらしいこと、敵の根城だと思われるボン・ファン寺院とリュティス大聖堂に調査の手を伸ばしていることを報告した。

 

 また、これがガリアの王権を揺るがす可能性のある重要な案件として、追跡調査のための追加予算を申請している。

 

 だが……。

 

「お祖母さまの懺悔とか、虚無の件とか……確証を得るまで報告できないことが多過ぎだよ!」

 

 特に後者が問題だ。ジュリオの話が真実で、父が本当に『虚無の担い手』として覚醒しているのだとしたら、どうしてそれを国内外に発表しないのか。

 

 表沙汰にできない理由があるのか、それとも未だ目覚めていないのか。あるいは――本当に魔法的に『無能』なだけなのか。家族にすら隠しておいたほうが有利だと判断しているのか。

 

 聖エイジス三十二世が持つ(と言われた)虚無魔法――物品に宿る記憶を読む呪文のようなものを父も習得しているのだとしたら、己の名を貶めてまでも手札を晒さないでいる意味が理解できてしまうだけに、歯がゆいことこの上ない。

 

「内容が内容なだけに、父上を問い質すわけにもいかないし。そもそも、わたしにはそんな権限なんてないしねえ……」

 

 がしがしと頭を掻きむしる。絹糸のような自慢の蒼髪がだいなしである。

 

「ああもう、何でもいいから足がかりがあれば……」

 

 と、まるでその願いに応えるかのように『部屋』の中に奇妙な音楽が鳴り響いた。

 

 王天君曰く〝着信音〟なるその調べは、ガリアの王女にひとつの選択を迫ることになる――。

 

 

○●○●○●

 

 今は何も映っていない『窓』をぼんやりと見つめながら、イザベラは独白した。

 

「この申し入れについては、ある程度予測してたけどさ……」

 

 彼女自身、それを受け入れたほうがよいと理解している――頭の片隅では。

 

 とはいえ……。

 

「そう簡単には割り切れねぇ、だろ?」

 

 王天君の呟きに、瑠璃色の瞳が揺れた。

 

「感情に振り回されて、好機を逃そうとしているわたしを馬鹿だと笑う? オーテンクン」

 

 異界の『始祖』の口端が僅かに上がる。

 

「いいや。オレもオメーと同じだったからな」

 

 彼が己の過去を語るのは珍しい。イザベラは目を丸くして続きを待った。しかし、王天君は皮肉げな笑みを浮かべたまま何も言おうとはしなかった。

 

 従姉妹への恨み、嫉み、憎しみ、葛藤……王女の胸中を、さまざまな感情が駆け巡る。

 

(だけど、こうなるようにロマリアが仕組んでいたのだとしたら、わたしは――)

 

 イザベラはしばし瞑目し――そして決断した。

 

「オーテンクン、あなたの弟を呼んでもらえるかしら」

 

 

●○

 

 ――そして現在。

 

 ガリアの王女と彼女の従姉妹は『部屋』の一室でソファーに腰掛け、向き合っていた。

 

 この場に王天君と太公望の姿はない。彼女たち――特にイザベラがふたりだけで会話することを望んだからだ。

 

 最初に口を開いたのはイザベラだった。

 

「今更取り繕っても仕方がないからハッキリ言うよ。シャルロット、わたしはお前が嫌いだ」

 

 タバサは普段と変わらず無表情。しかしよくよく気をつけて観察すれば、彼女の瞳の奥に感情の揺らめきが見て取れたはずだ。

 

「お前は魔法ができるし、頭もいい。顔の造りも悪くない。今でこそ人形みたいに何しても無反応だけどさ……昔は笑顔だけで周りを明るくできる子で……皆から愛されていた。お祖父さまも、お祖母さまも、父上さえも……お前のことばかり見てた」

 

 俯きながら、王女は続ける。

 

「王宮の片隅で、わたしはいつもひとりぼっち。お前のように笑ってみても、返ってくるのは嘲笑と侮蔑さ。出来損ないの娘、ガリアの王女として相応しいのはやはりシャルロットさまだってね。もちろん、わたしだって努力したさ! いつかあいつらを見返してやろうと思って……毎日毎日ぼろぼろになるまで魔法を練習したし、ダンスの稽古も、勉強だって頑張った! でも、誰もわたしを見てくれない! 平民どもまでシャルロットさま、シャルロットさま……そればっかり!」

 

 感情の赴くまま、イザベラは(おり)のように心に溜まった思いを吐き出した。

 

「これが餓鬼の癇癪なんだってことくらい、わたしにだってわかってるんだ! お前がちっとも悪くないってこともね! けど、みんなわたしには目もくれない! だからお前を辱めた! 大勢の家臣たちの前で! なのに……お前もわたしを無視した! どんなに難しい任務を与えても、嫌味を言っても顔色ひとつ変えなかった! わたしは、ああすることしかできなかったのに!」

 

 叩き付けるような従姉妹姫の独白を、タバサはただ黙って聞いている。

 

「ねえシャルロット、お前はさぞや恨んでいるだろう? 今までずっと、こんな訳のわからない理由で当たり散らされてきたんだからさ! ガリア王女としての誇りに賭けて、ここでの発言でお前や叔母上を罰したりしないことを確約する。だから、本音を聞かせな」

 

 ぜいぜいと肩で息をするイザベラに向けて、タバサは正直に告げた。

 

「別に恨んではいない」

 

 その一言で、王女の眉が跳ね上がった。

 

「はぁ? 恨んでないだって!? そんな馬鹿な! な、なに余裕気取ってるのさ!」

 

「嘘じゃない。別にあなたを恨んではいない……ただ」

 

「ただ?」

 

「苛立ちはある」

 

 初めて真正面から向けられた、従姉妹シャルロットの悪感情。イザベラの顔が醜悪に歪む。そこへさらなる追撃が繰り出される――無表情で。

 

「そもそも、わたしがこうなったのはあなたが原因。最初の任務――忘れたの?」

 

「あ、あれは……」

 

「依頼を出したのが誰であろうと、最終的にわたしへ割り振ったのはあなた。戦いなんてしたことない十二歳の子供を亡き者にするために、合成獣(キメラ)だらけの森に放り込んだ。違う?」

 

 ぐっと詰まるイザベラ。あの当時は叛逆者の娘に相応しい末路だと本気で考え、各騎士団に割り振られた討伐任務の中でも、特に難易度の高い案件を従姉妹に与えた。

 

 しかし本来、あの仕事は別の騎士団が複数名での着手を想定した上で請け負う予定だったのだ。事実、タバサが合成魔竜(キメラドラゴン)を撃破して以降も魔獣たちの増殖は止まらず、つい最近まで東西南北の花壇騎士団が持ち回りで駆除に奔走していたのだ。

 

「訳もわからないまま暗い森の中を、傷だらけになって走り回った。双頭の狼にのしかかられて、頭から食べられそうになったときの恐怖……あなたにわかる?」

 

 タバサの周囲を不可視の冷気が包み込む。杖を持っていないので、魔法ではないのだが……イザベラは『部屋』の中がいきなり氷室になったような気がした。

 

「父さまは殺されて、母さまは狂ってしまった。勝てるはずのない怪物の巣に放り込まれて、泣いても叫んでも、誰も助けに来てくれない。これが現実だと思いたくなくて、もう何もかもが嫌になって……だけど、黙って喰い殺されるのは怖かったから、偶然森の近くで出会った薬師さんにお願いしたの。苦しまず、眠るように死ねる毒をください、って」

 

 イザベラの瞳が驚愕に見開かれた。いつも無表情で、何をしても堪える様子のない従姉妹が……服毒自殺を望む程に追い詰められていただなんて、彼女には信じられなかったのだ。

 

「でも、薬師さんは毒をくれなかった。人間、死ぬ気になれば大抵のことはできる。それに、もしもわたしが死んだら……わたしの身代わりになったお母さんはどうなるんだって叱られたわ」

 

 腕利きの狩人にして薬師だったジルを思い出しながら、タバサは胸の内を吐露し続けた。

 

「毒の代わりに森の中で生き残る術を教えてもらって、それでわたしは死なずに済んだ。でも……あの任務以来、わたしの心は毎日少しずつ凍り付いて……今みたいになってしまった。感情を動かすことのできない氷の人形は、そうして出来上がったの」

 

 イザベラは三年前、呪われしファンガスの森から従姉妹が生還したときのことを思い起こす。

 

 彼女は腰まで届いていた長く美しい髪をばっさりと切り落とされ、出立前は純白だった乗馬ズボンは血と泥に塗れており、上衣(チュニック)はあちこち破れ、裂け目から傷付けられた肌が露出していた。

 

 だが、それ以上にイザベラの目を引いたのは――感情を全て削ぎ落としたかのような、冷え冷えとした瞳だった。

 

 約二週間にも及ぶ壮絶な体験を経た結果、それまで太陽のように笑い、周囲に愛を振りまいていた従姉妹が別のナニカに変貌したのは間違いない。

 

 タバサが従姉妹姫を無視――正確には何を言われても滅多に反応しなくなったのは、本人が語った通り、イザベラ自身が招いたことだったのだ。

 

「ふ、ふん。なんだい、結局わたしを恨んでるんじゃないか」

 

「恨んでない。それどころか、感謝している」

 

「お、お前、何言って……」

 

 淡々と述べるタバサの表情は、普段のそれと変わらない。だが、纏う空気が完全に違う。イザベラは我知らず身震いした。

 

「確かにわたしは人形になってしまった。けれど、これ以上ロマリアに踊らされるのは嫌。あの森での経験がなければ、きっと何も出来ない子供のまま……いいように操られていたはず」

 

 そう告げた少女の瞳には、紛う事なき憎悪の炎が宿っていた。

 

(この子が氷の人形だなんて、絶対嘘だ……)

 

 研ぎ澄まされたナイフのような身体の内に、溶鉱炉の中で溶かされた鉄の如き熱さと、どろどろに溶け合って渦巻く激情が内包されている。

 

 その熱に気圧されないよう苦心しながら、イザベラは改めて訊ねた。

 

「お前、あの男の言葉を本気にしているのかい?」

 

 蒼い頭が上下する。

 

「そのために、憎らしくて仕方のないわたしと協力するっていうの?」

 

 イザベラの詰問に対し、疲れたような声を返すタバサ。

 

「だから憎んでないし、恨んでもいない」

 

「なら、苛立つって何なのさ」

 

「さっき話した。それと『地下水』」

 

「ぐッ……あ、あいつ、内緒にするって言ってたくせに!」

 

 その発言を耳にして、タバサは悟った。

 

(やっぱり彼は気付いていた……それも、王女暗殺未遂事件が起きた当時から)

 

 あとでお仕置き。もちろん杖で。そう心に誓ったタバサは、さらに言葉を続ける。

 

「彼からは何も聞いていない。単なる推測」

 

 イザベラは踏み潰されたカエルのような呻き声を上げた。完全にしてやられたという顔をしている王女に向けて、大公姫は常々考えていたことを口にする。

 

「あなたは馬鹿」

 

「はぁ!?」

 

 タバサは大きく息を吸い込むと、言葉と共にまとめて吐き出した。

 

「あなたは頭が良いくせに馬鹿。ほんと馬鹿」

 

「お、おま……」

 

 突如降りかかってきた暴言に対して、イザベラが返せたのはそれだけだった。しかし王女の身体はあまりのことにかたかたと震えており、顔は赤と青を行ったり来たりしている。

 

 だが、それはタバサの次の発言で停止した。

 

「北の騎士団長だからって、わざわざ憎まれ役まで引き受ける必要はない」

 

「はん、わたしがそんな真似するわけ……」

 

「してる」

 

「してないよ! どこをどう見たらそうなるんだい!」

 

「あなたの態度」

 

 忌々しげに眉を吊り上げたイザベラに、タバサが追い打ちをかける。

 

「最初はただの八つ当たりかと思っていた。けれど、それにしては不自然」

 

「へ、へぇ。たとえば?」

 

「あなたはわたしだけでなく、侍従たちにも意地悪するけど、決して彼らを魔法で痛めつけたり、暴力に訴えたりはしない。する真似だけして、怖がらせて……結局口だけ」

 

「…………」

 

 侍女が向けられたら卒倒しそうな程に厳しい視線を平然と受け止めながら、タバサは続けた。

 

「トリステインで平民が影で貴族を嘲笑っているなんてバレたら、ほぼ間違いなく手打ち。なのにプチ・トロワにいる侍女の顔ぶれはほとんど変わっていない。あなたはさっき、平民にまで馬鹿にされていると言っていた。どうして、叱るだけで彼らを罰しないの?」

 

「い、いちから使用人を仕込むのは時間がかかるんだよ! そんなこともわからないなんて、ほんとにお前は……」

 

「それで馬鹿にされるのを我慢し続けているの? さっきはあんなに怒っていたのに?」

 

「うッ……」

 

「昔のことは知らないけれど、少なくともここ半年のあなたは、わざと自分に王宮内の憎しみを集めているように見える。不穏分子を監視するため? それとも伯父上……陛下にかかる負担を減らそうとしている? 今のあなたなら、もっといい方法を考えつきそうなものなのに。不可解」

 

 不快感を隠そうともせず、しかし消え入りそうな声でイザベラは告げた。

 

「…………シャルロット。わたしはお前が大ッ嫌いだ」

 

「知ってる」

 

 

○●○●○●○●

 

 主人たちの微笑ましい(?)対談を肴に、太公望と王天君は別室でぐうたらしていた。『窓』を介して王宮の調理場から酒と果物をかっぱらい、つまみまで用意する念の入れようだ。

 

「放っといていいのか? 太公望ちゃんよ。イザベラとあの女を仲直りさせたいんだろ?」

 

「ふん。わしが何か言っただけでどうにかなるようなら、あそこまでこじれやせんわ」

 

「まぁな」

 

 太公望たちからイザベラに持ちかけられた申し入れ。それは「一度でいいから、お互いの立場を忘れて本気で殴り合え」という物騒なシロモノだった。

 

 もちろん、ここで言う「殴り合い」とはあくまで比喩的な表現であり、実質ふたりだけで本音で語り合え、という意味だ。当然、後に怨恨を持ち越さないという制限つきでだ。

 

 情報収集に行き詰まり、焦りを覚え始めていたイザベラと、彼女との仲を多少なりとも改善したいタバサの両者は言葉の意味を誤解せずにこの提案を受け入れ、王天君の『部屋』で対談に臨んだわけだが……現状はご覧の有様である。

 

「それでも、一歩前進といったところかのう」

 

 どちらにせよ互いに向き合い、会話しなければ……過去の遺恨に囚われたままとなり、先へ進むことなどできない。そういう意味で、ロマリアという共通の敵が現れたという契機があったにせよ――これは大きな第一歩だった。

 

 『窓』の向こうでは相変わらずふたりの少女が怒鳴り合っている。いや、正確に状況を説明するなら、大声を上げているのはイザベラだけなのだが。

 

「ふはははは、いいぞ! その調子でどんどん吐き出せ! そしてスッキリするがよい!」

 

 高笑いする太公望に、王天君が呆れたような声で訊いた。

 

「オメーはアイツらを仲直りさせたいのか、殺し合わせたいのか、どっちなんだよ」

 

「おぬしなら、言わずともわかっておろうが」

 

 返事はない。彼の『影』は、ただ静かな笑みを浮かべるのみ。

 

 そうこうしているうちに、眼下の戦いは口論から取っ組み合いに移行した。ふたりとも杖を持たせず『部屋』の中に入れたせいか、非常に原始的な争いをしている。絨毯の上をごろごろと転げ回りながら相手の髪を掴み、衣服を引っ張り、爪で顔を引っ掻くといったような。

 

 北花壇騎士団の団長と騎士の戦いは意外や意外、ほぼ互角であった。体格差をうまく利用して立ち回るイザベラと、素早さを武器に相手の隙を突くタバサ。

 

 端で見ているぶんには麗しき王族姉妹の華麗なる喧嘩で済むが、もしも王宮の貴族たちがこれを目撃したら、その場で卒倒すること請け合いである。

 

「ぬう、一国の姫にあるまじき豪快な足使いだのう」

 

「あいつ、ああ見えて結構鍛えてるからな」

 

「意外だのう。食器より重いものを持ったことのないタイプだと思っておったのだが」

 

「そうでもねぇぜ? 馬に乗って森へ狩りに出たり、護身術を習ってたりな……まぁ、それも貴族のお遊び程度だけどよ」

 

 干菓子を囓りながら、暢気に感想を述べ合う太公望と王天君。姫君たちの衣服があちこち破けて酷いことになりつつあるのだが、彼らが止めようとする気配は全くない。

 

 と、ふいに太公望が疑問を口にした。それも、今日の天気を訊ねるような気軽さで。

 

「ところで王天君。おぬし、ジョゼフ王を見ておるだろう?」

 

 聞かれた側も特に誤魔化さず、あっさりと答えた。

 

「たまに、な」

 

「どんな男なのだ?」

 

 その問いに対し、王天君は意味深に口端を歪めた。

 

「毎日のように、狂気と正気の狭間を歩いてやがる」

 

 怪訝そうな顔をした半身に向け、説明を続ける王天君。

 

「比喩的な意味じゃねぇぞ、あの王サマは壊れる寸前だ。自分でもそれを理解してやがる。今はどうにか正気の淵に手を掛けちゃいるが、いつ振り切れるかわからねえ」

 

「……意地悪姫には?」

 

「言ったところでどうしようもねーよ。心の病の厄介さはオメーだって理解してんだろ? 下手に手出ししたら、マジでぶっ壊れんぞ」

 

 真剣な顔でそう告げられた太公望は言葉もない。

 

 まだ『始祖』としての記憶が戻っておらず、太公望という個人であった頃。彼が仕え、心から尊敬していた西伯侯姫昌は長子の惨死を切欠に心を病み、食事が取れなくなってしまった。

 

 太公望はもちろんのこと、周囲の者たちも何とかして姫昌の傷心を癒やそうとしたが、どうにもならず……賢王とも称された偉人は日々衰えてゆき――多くの者たちに看取られ世を去った。

 

 そして伏羲の半身・王天君もまた、意図的に心を壊された経験を持つ人物である。そんな彼が、ジョゼフ王をして「狂気と正気の狭間にいる」と称した。これは到底無視できない情報だ。

 

「原因は、やはり宮廷での権力争いか……?」

 

「そこまで知るかよ。オレはこっちに来てまだ半年も経ってねえんだぜ。ただ……」

 

「ただ、何だ?」

 

「ロマリアの陰謀とやらが、王サマの足下を揺るがすのは間違いねぇ。それで本格的に狂気の中へ飛び込むか、逆に吹っ切ってオレみたいになるか……まぁ、どっちにせよ見物ではあるよな」

 

「冗談を言うでない! 万が一おぬし側に振り切れたりしたら、シャレにならんわ!」

 

 彼らの知謀に実質的な差はない。ただし暗躍、策謀といった面で王天君が抜きん出ている理由はただひとつ。

 

 王天君は太公望なら考えついてもやらない非人道的な真似を、平然と行うからだ。逆に言えば、どんなに優れた策でも、より犠牲が少ない――平和的な解決を求め、却下するのが太公望。

 

 一度心が壊れた王天君だからこそ、善悪や感情よりも効率を重視できる。ともいえるのだが……もしも、ジョゼフ王が彼のように悪い意味で吹っ切ってしまったらどうなるか――。

 

 太公望の顔から、ざあっと音を立てて血の気が引いた。

 

 そんな『半身』の姿を見て、ニヤニヤと実に嫌らしい笑みを浮かべる王天君。

 

「オメーは清らか過ぎんだよ。もうちっとオレのステキさを見習ったらどうだ?」

 

「断る!」

 

 『部屋』の中に、王天君の嗤い声が響き渡った。

 

 ――密やかに行われた彼女たち主従の第一戦は、こんな調子で幕を閉じた。その結末は一勝一敗と記されているが、それを知るものは参戦者以外に誰も存在しない――。

 

 

 




時間ぎりぎりにも程がある!
大変お待たせ致しました。最新話、第100話をお届け致します。
(プロローグを含むと101話だったりしますが!)

意外とあっさり仲直りした原作と異なり、キャットファイトにまで発展。ただし、ある程度は歩み寄れた模様。

こうなったのは、あくまでふたりの立場が大きく変わっているからであって、決して作者の趣味というわけでは……嘘ですごめんなさい。

次回更新は来週水曜日を予定しています。
つ、次こそは〆切りブッチしないよう努力致しますm(_ _)m

2017/01/01 一部加筆修正


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第101話 最初の人

 ――双月が、夜空の真上から地平の彼方へ向けて移動を開始しようとする時間帯。

 

 世界から隔絶された『部屋』の中、長時間の乱闘により見るも無惨な姿となったタバサとイザベラは互いに背を預け、柔らかな絨毯の上に座り込んでいた。

 

 否、双方共に体力を使い果たし、へたり込んでいたとしたほうが正しい。

 

 ふたりはしばし沈黙を守っていたが……やがて、イザベラの側が再戦の口火を切った。やや俯き加減に紡ぎ出した言葉には、深い疲労の色が滲んでいる。

 

「わたしのこと、さんざん馬鹿だ馬鹿だって言ってくれたけどさあ。お前のほうがよっぽどだ」

 

 タバサは答えない。あるいは答えられないのか、黙って従姉妹姫の口上に耳を傾けていた。

 

「ガリア王女の誇りに賭けて、この場での出来事は不問とする……なんてさ。破棄しようと思えばいくらでもできるんだよ? なのに、こんなになるまでやらかしてくれちゃって! これで、わたしが前言を撤回したら、どうするつもりだい?」

 

 それを聞いたタバサは物憂げに答える。

 

「わたしにひとを見る目がなかっただけだと諦める」

 

 ぐッと言葉に詰まるイザベラ。

 

「そ、その言い方は卑怯だろ……!」

 

「事実だから」

 

 暗に「わたしを罰したら、自分自身を人でなしだと認めることになる」という脅しをかけてきたタバサに対し、抗議するイザベラ。しかし、それもあっさりと躱されてしまった。

 

 再び『部屋』が沈黙に支配される。

 

 それから五分ほど時が過ぎ「よいしょ」と年齢にそぐわぬ声を上げて立ち上がったのはイザベラだった。彼女はのしのしと――そう表現する以外にない歩調で部屋の隅へ移動すると、そこに置かれていた収納箱の中からワインボトルとグラスをふたつ取り出した。

 

 座り込んだままのタバサの元へ戻った彼女は片方のグラスになみなみと赤い液体を注ぎ込むと、ぐいと一気に飲み干す。そして、もう一方の杯を満たして従姉妹の前に突き出した。

 

 タバサは黙ってそれを受け取り、口をつけた。毒や薬が混入されているなどとは露ほども疑っていない仕草だった。乾いた喉に、潤いと酒精による熱が染み渡る。

 

 口を開いたのは、またしてもイザベラが先だった。

 

「わたしね、ずっとお前が羨ましかったんだ」

 

 ぐすぐすと、鼻を啜る音が室内に響き渡る。

 

「お前は素直で、甘え上手で……いつも笑顔を振りまいていた。小さい頃から魔法もできて、頭も良くて、皆から愛されていたわ。わたしはずっと、お前のようになりたかったんだ……」

 

 タバサは無言で従姉妹姫の独白を聞いていた。

 

「ああ、そうさ。宮廷の貴族たちや侍従どもの言うことは正しいよ。自分でもよくわかってるさ。お前のほうが、王女として相応しいってことくらいはね……」

 

 しかし、タバサはその意見に同意しなかった。

 

「それは違う。わたしにできるのは、せいぜい飾り物として振る舞うことだけ」

 

「ふん、慰めなんていらないよ」

 

「本心。何度かあなたの影武者をして、それがよく理解できた。わたしは、あなたのようにはなれない。王族として部下を取り仕切り、適切な指示を与え――舞台裏から国を支えるなんて、誰にでもできることじゃない」

 

 ややあって、イザベラは消え入りそうな程小さな声で訊いた。

 

「……それ、ほんと?」

 

 問う声は、普段の彼女からは想像できない程に弱々しく、震えている。

 

「ほんとに、そう、思う?」

 

 蒼い頭が上下する。

 

「たとえば、ロマリアの陰謀で……伯父上がお隠れになったとする。そうなった場合、あなたはどうするか考えている?」

 

 唐突かつ不敬極まりない問いに戸惑いながらも、イザベラは頷いた。

 

「そりゃあ、ね。想像したくもないことだけどさ、そこで思考を停止したら王族失格だろ。そもそも人間なんて、いつ死ぬかわからないんだから。でも、時間は待っちゃくれない。だから、有事に備えておくのは当然だよ」

 

 それに対するタバサの答えは、乾いた笑みと共に吐き出された。

 

「やっぱり、あなたが王族……ガリアの王女として相応しい」

 

「どういうことだい?」

 

「同じように問われたとき、わたしは何も答えられなかった。だってわたし……そんなの、考えたことなかったもの。もしもガリアで何かが起きて、伯父上とあなたがいなくなって……残った王族が母さまとわたしだけになったらどうなるかなんて、想像してもいなかった」

 

 信じられないものを見るような目で、イザベラは従姉妹を凝視する。

 

「それでも考えろって言われて、わたし……王冠なんて、欲しいひとにあげればいいって答えた。あんなものがあるから父さまは殺されて、母さまは毒を飲まされた。だから、わたしはそんなものいらない、絶対に欲しくないって」

 

「お前……」

 

 皇太子の娘として教育されてきたイザベラにとって、その解答は想像の埒外にあった。

 

 王族ならば王権を尊び、その象徴である玉座と冠の守護を至上とする。そう学んできたし、彼女自身もそのように考えていた。なればこそ「欲しいひとにあげればいい」などと放言する目の前の少女が、自分とは違う――それこそ別の生き物のように見えてしまったのだ。

 

 そんな従姉妹姫の心情など露知らず、タバサは内心を吐露し続けていた。

 

「最初はね、伯父上のことを憎んでいたの。本当は父さまのものになるはずだった王冠を奪って、でも、それだけじゃ不安だから実の弟に手をかけたんだって……無責任な噂話だけを信じて、本気でそう思い込んでいた」

 

 ぼろぼろになったスカートの端を握り締めながら、眼鏡の少女は溢れる思いを言い零す。

 

「だけど、時間をかけて色々なことを調べて……伯父上が正当な王位継承をしたことを知って――父さまが、伯父上が次の王さまになるって言っていたのは本当だったんだって分かったの。父さまが暗殺されたのも、実はジョゼフ派の暴走だったのかもしれないってことも。叛逆の話はさすがに信じたくなかったし、逆に真実だったら、わたしたち母娘が生かされているのはおかしい……」

 

 顔を伏せたまま紡がれる従姉妹の独白に、イザベラは呆然と聞き入っていた。

 

「そんなふうに悩んでいたときに、あの男が接触してきたの。最初はシャルル派がロマリアと組んで何か企んでいるのかと思った。でも、あなたのお陰であのひとたちの思惑を知ることができた。ガリアの裏で何が起きていたのかを知って、悲しかった。やるせなかった。でも……」

 

 これまでずっと抑え続けてきた昏い感情が、小さな身体から噴き出した。

 

「それ以上に、ずっと持て余していた鬱憤をぶつける相手ができたって、嬉しかったの」

 

 タバサが面を上げた。無表情の仮面は既に剥がれ落ちている。露わになった素顔は涙に濡れ、ぐしゃぐしゃに歪んでいる。

 

「ほらね、あなたと違ってわたしは自分のことしか考えてないの。中身はこんなにも醜いの。周りを幸せにするだなんて嘘。ただ、何も知らないから笑えていただけの子供なの……!」

 

 咄嗟に身体が動いた。後に思い返しても、このときのことはそうとしか表現できない。

 

 気がつくと、イザベラは憎くて憎くてたまらなかったはずの従姉妹を抱き締めていた。

 

 劣等感に苛まれ、その感情を他者にぶつけることでしか己を保てない自分が嫌いだった。魔法の才能を遺憾なく発揮し、常に余裕を気取っている従姉妹が妬ましく、でも、わたしはあんなふうにはなれないと羨んで……理不尽に忌避していた。

 

 しかし……眩いばかりの才能に溢れ、静かな湖面のように己を律することができるとばかり思っていた従姉妹が、実は内心に行き場のない憤りやどろどろと煮えたぎる思いを抱えつつも、それを表に出さぬよう、必死に冷静を装っていただけだと知った。理解してしまった。

 

 外に出すか、内に秘めるかの違いだけで――自分たちの本質は同じものだったのだ。

 

 そして何より、憎悪する程憧れていた従姉妹にガリアの王女として認められていた。

 

 それを悟ったイザベラの瞳から、はらはらと涙が溢れ……零れる。

 

「わたしは、わたしの身代わりになって毒を飲んだ母さまを見捨てて……自分だけ死んで楽になろうとしたの。あの出来事のせいで、わたしたち家族の他にも不幸になったひとたちがいたなんて、実際に会ってみるまで想像すらしてなかったの!」

 

「シャルロット……」

 

「あなたと違って、この国のことなんか考えたこともなかったの。ね? わたしはこんななのよ。決してあなたが羨むような人間じゃないの。わたしは……」

 

 イザベラは両腕に力を込め、懺悔し続ける少女を掻き抱いた。

 

「もういい。もういいよ……」

 

「イザ、ベラ……?」

 

「お前の言う通り、わたしが馬鹿だったんだ。何も見てない愚か者だったのさ」

 

「え……?」

 

「もう泣かないでいい……いや、うんと泣きな。泣いて、泣いて……流せるだけ流しちまいなよ。わたしも……今だけは、もう、我慢……しない、から」

 

 タバサは、自身を抱き寄せながら嗚咽を漏らすイザベラにまず驚き……それから、おずおずと彼女の背に両手を回した。

 

 イザベラの抱擁は小柄なタバサにとって、息苦しく感じる程に強かった。母のする、娘を慈しむ温かなそれとは違う。キュルケの、親愛で包み込むような柔らかさとも異なる。

 

(もしかしたら、イザベラは――あんなふうに、誰かに優しく抱き締めてもらったことがないのかもしれない)

 

 考え過ぎかもしれない。それでも、腕に込められた力が、孤独を強いられた従姉妹姫が焦がれ、欲し続けてきた愛情にしがみついているように思えて……タバサは静かに涙を流し続けた。

 

 

○●

 

 ――それからしばらくして。

 

 泣いて泣いて、ただひたすらに泣いて、溜まっていたものを全て吐き出したイザベラは生まれ変わったようにすっきりとした気分で『部屋』のソファーに腰掛けていた。

 

 そんな彼女の対面には、自分と同じく泣き腫らした顔を晒したままの従姉妹がいる。

 

「ねえ、シャルロット」

 

「なあに? 姉さま」

 

()()()に姉さまなんて呼ばれたの、久しぶりだね……それはそれとして、聞きたいことがあるんだ。もしかして、例の『考えてみろ』って言ったのは……」

 

 蒼い髪が上下に揺れた。

 

「ここへ来る前に、タイコーボーが」

 

「そっか、なるほどねえ……」

 

 イザベラは何となしに手にしたワイングラスを覗き込んだ。底に残った赤い液体が僅かな手の震えによってたゆたい、波頭を描いている。

 

「わたしも、あなたには感謝しているの」

 

 グラスの中身を飲み干し、手酌でワインを注ぐ。目線でタバサに欲しいかどうかを確かめると、すいと空の杯を差し出してきた。

 

「ああ、侮辱するつもりじゃないから間違えないでおくれよ。あのね、あなたが召喚事故を起こしてくれたから、今、わたしはこうしていられるんだ」

 

「オーテンクンのこと?」

 

 ワインボトルを傾けながら、イザベラは頷いた。

 

「ええ。彼が召喚に応じてくれたお陰で、毎日がすごく楽しくなったわ」

 

 『窓』越しに姿を見たことはあったが、タバサが実際に王天君と対面したのは今日が初めてだ。太公望の双子の兄は――話に聞いていた通り、邪悪な妖魔のような姿をしていた。言葉を交わしたわけではないが、正直なところ怖かった。

 

 もしも、自分のところへ太公望ではなく彼が〝召喚〟されていたら、儀式の場は大混乱に陥ったことだろう。

 

(元は人間だったのに、実験で無理矢理姿を変えられた挙げ句、怯えられたら辛いはず。だから、オーテンクンはずっと『部屋』に籠もっている……)

 

 そんな相手と良好な関係を築けているイザベラは、ある意味大物だとタバサは思った。

 

 いっぽう、妙な方向に感心されたイザベラはというと、微笑みながら自身のパートナーについて語り続けている。

 

「使い魔は目となり耳となるって言うけど、本当ね。ああ、もちろん彼の『窓』は素晴らしいわ。そっちじゃなくてね、そう……オーテンクンと出会ってから、視野が広まったって意味でよ」

 

「わかる。昔の姉さまなら、あんなこと言わない」

 

「何のことかしら?」

 

「王に魔法の才能は必要ないという話」

 

 言われてようやく思い出したといった様子で、イザベラはぽんと手を叩いた。

 

「ああ、あれか! そうだね、あれもオーテンクンの影響が大きいわ。まあ、トリステインの王族が放った〝乗法魔法〟の件があるから、なんか負け惜しみっぽくなっちゃったけどさ」

 

 トリステインとアルビオンが衝突した結果と王家の勝利を決定付けた魔法の存在は、既に出入りの商人たちが広めた噂話や新聞などにより、リュティス市中で広く流布している。

 

 三人の王族が紡ぎ、重ね合わせた〝九乗魔法(ノナゴン・スペル)〟が世界最強と謳われるアルビオン空軍艦隊をなぎ払ったという衝撃と共に――。

 

「それでも、姉さまの話は真理」

 

 ちびちびと酒杯を舐めながら、タバサは反論を述べた。

 

「あれは薄氷を踏む勝利だった。もちろん、ラ・ヴァリエール公爵……サンドリオン一世陛下の戦術で艦隊を抑え込んだのは凄い。彼の知謀と粘りが奇跡を呼んだともいえる。でも」

 

「でも?」

 

「そもそも、女王陛下が政務を放置せずに対策を施していたら、トリステインは攻め込まれずに済んでいたはず。王党派に援軍を送り、ラ・ロシェールから貴族派や『レコン・キスタ』に支援金や物資が届かないよう、妨害することもできた。それが、姉さまが話していた国王の仕事」

 

「シャルロット……」

 

 まじまじと見つめられて、タバサの頬に朱が差した。

 

「……わたしの考えじゃない。彼が教えてくれた」

 

「もしかして……?」

 

「そう。噂話だけを信じずに、いろいろな方向から冷静に物事を見られるようになったのは、彼の影響が大きい」

 

「そうか……」

 

 ぽつりと呟いた後、イザベラはタバサに向けてニッと笑って見せた。

 

「わたしたち、とんでもない大当たりを引いたよね!」

 

「うん」

 

「わたし、あのとき〝召喚〟して本当によかったわ!」

 

「最初は失敗だと思って絶望したけれど、それは間違いだった」

 

「だよね! だよね!」

 

 きらきらと瞳を輝かせ、テーブルの向こうから身体を乗り出してタバサの手を取るイザベラ。そんな彼女の顔を見て、

 

(このひとも、こんなふうに笑えたんだ……)

 

 内心驚くタバサ。

 

 と、イザベラの細い手がタバサの頬に向かって伸びてくる。

 

「これ、放っておくと残っちまいそうだね……」

 

 そう言って、彼女はうっすらと血の滲む傷跡を撫でた。先ほどの喧嘩で、イザベラ自身がつけた引っ掻き傷だ。

 

「今日のところは、このへんにしておこうか。この傷、外に出てから治してやるよ……っと、このくらいなら自分でできるか」

 

 タバサはふるふると首を振った。

 

「あなたにお願いしたい」

 

 告げた途端、イザベラの目が見開かれた。

 

(何かおかしなことを言っただろうか?)

 

 そんなふうに考えたタバサだったが、イザベラはふっと笑った。

 

「任せておきな。こう見えても、前より少しは魔法の腕も上達してるんだから」

 

 『部屋』の出口に繋がる窓の前へ移動した王女は、振り返りながら言った。

 

「その服もなんとかしないとね。そうだ、衣装部屋で適当に見繕ってやるよ」

 

 提案するイザベラの表情は――これまでタバサが見たこともない程、晴れ晴れとしていた。

 

 

○●○●○●○●

 

 

 ――翌日。

 

 夕べ夜更かしをした影響から、少し寝過ごしてしまったタバサと太公望のふたりは、宿の近くの食堂(ビストロ)で朝食を兼ねた昼食を摂ると、昨日と同様にリュティス王立図書館へ足を運んだ。純粋に読書を楽しみたいという気持ちと、何者かが自分たちという餌に釣られてくれるのを期待しながら。

 

 しかし、後者については残念ながらこれといった成果は上がらなかった。

 

 同じく睡眠時間を削られていたイザベラは水魔法と秘薬でそれを誤魔化し、普段と変わらず政務を執り行い――そして同日夜。彼らは再び王天君の『部屋』に集っていた。

 

 最初に口を開いたのはイザベラだ。

 

「念のため確認しておきたいことがあるんだ。ああ、シャルロットに意地悪しようとか、そういう意図があるわけじゃないよ。だから、誤解しないで欲しい」

 

 首を傾げたタバサに対し、イザベラは言いにくそうに問いかけた。

 

「シャルル……叔父上は忙しい身の上だった。公の補佐をしていたオルレアン公夫人も多忙を極めていた。あなたが構ってもらえたのは、虚無の曜日くらいだった。これは間違ってない?」

 

 蒼い髪が小さく揺れる。

 

「その認識で正しい、でも……」

 

「だから愛されてなかったとか、そういうことを言いたいんじゃないから! とにかく忙しくて、なかなかあなたと一緒に過ごせなかった。そこで、オルレアン公夫人は家庭教師を招いてあなたの教育を一任した。その先生のこと、覚えているかい?」

 

「もちろん。母さまの実家と仲のいい家から来たんだって、自己紹介されて……」

 

「アルル伯爵令嬢コンスタンス。それがあなたの先生で間違いないね?」

 

 そう問われ、タバサは頷いた。

 

 しかし、何故今頃になって幼い頃の家庭教師の名前が出てくるのかわからない。その理由に思いを巡らせたタバサの表情がさっと陰る。

 

「まさか……」

 

 ロマリアの息がかかっていたのか。そう結論しかけた従姉妹に、イザベラは待ったをかけた。

 

「あくまで推測に過ぎないよ。だいたい、本人にその気があったかどうかすら疑わしいしね」

 

「どういうこと?」

 

「アルル伯爵令嬢は、二年前に事故で死んでいるんだ」

 

 それを聞いて、タバサがビクリと身体を震わせる。幼い頃に師事していた人物が非業の死を遂げていたと教えられたのだから、ある意味当然ともいえる反応である。

 

 そんな従姉妹の様子を見遣りながら、イザベラは続けた。

 

「時間がなくて詳しく調べきれてないんだけど、この事故には奇妙な点がいくつもあるのよ」

 

 同席していた太公望の眉がピクリと上がる。

 

「今から二年前。アルル伯爵領の市街にある寺院から帰る途中に、暴れ馬に跳ね飛ばされて即死。連れていた侍女も巻き込まれて重傷を負い、三日後に死亡。馬に乗っていた男は監獄に送られて、それから半月後に牢の中で首を吊ってる」

 

 言いながら、手元の紙束をぺらぺらとめくる。

 

「アルル伯爵家は昔から王室寄りでね、例の派閥争いでは旗幟を鮮明にしなかった。日和見とも取れるけど、例の遺言状が読み上げられたその日のうちに改めて王家に忠誠を誓っているんだよ。シャルル派との直接的な繋がりもない。唯一、この令嬢だけが大公家に関わってる」

 

「派閥の誰かと繋がっていたのではないのか?」

 

「ああ、違う。シャルロットが最初に言った通り、もともとアルル伯爵家はオルレアン公夫人の実家と懇意なんだ。件の娘は夫人に請われて家庭教師になっただけさ。もちろん、シャルル派の蜂起を危惧した父上が調査したときにも、特に不審な動きは見られなかった。だからこそ見落としてたとも言えるんだけど……昨日、あなたと話しているうちに違和感を覚えてね……」

 

 タバサは目をぱちくりとした。

 

「わたしに違和感?」

 

 そんな従姉妹を見据えながら、王女はずばりと言った。

 

「自分でも言っていたでしょう? あなた、ちっとも王族らしくないのよ。最初は王位継承争いの醜さに嫌気が差してのことかと思ったんだけど、そうじゃない。もっと根本的なところから間違いがあるって気付いたのさ」

 

 そう指摘され、戸惑うタバサ。

 

 自分でも王族らしくないと理解している。とはいえ、一般的な貴族なのかと問われれば……これまた首を傾げざるを得ない。歩んできた人生があまりにも壮絶過ぎて、普通という名のカテゴリから外れてしまっていたが故に。

 

 だが、根本的に王族らしくないとはどういうことか。それがタバサにはわからない。

 

 そんな彼女に対し、イザベラは噛んで含めるように告げた。

 

「あなたが元から王族らしくないのは、あなたが悪い訳じゃないの。あなたに王族としての心得を教えるはずの家庭教師が、きちんと仕事をしていなかったせいなんだから」

 

「……どういう意味?」

 

「オルレアン公家が王族から外されたとき、あなたは十二歳だったよね」

 

 頷くタバサ。

 

「その歳なら、とっくに王族としての初等教育を受けてなきゃおかしいんだよ。少なくとも、わたしは七つのときには始めてたんだから」

 

 と、そこへ横から太公望が口を挟む。

 

「その教育とは、具体的にはどういったものなのだ?」

 

「簡単に言うと、王族としての心構えだね。偉大なる『始祖』の直系たる者としての意識と誇りを持てだとか、まあそういうのだよ。例の『交差する杖』の話なんかもここで教わる。もうね、ほんとにうんざりする程、王族たるもの、王族たるべしって言って聞かされたもんさ」

 

「なるほど」

 

 タバサは幼い頃に家庭教師から受けた授業の内容を思い起こす。彼女から習ったのは『始祖』の教えや魔法の使い方、読み書きや算術、イザベラの言う王家の逸話や歴史などだ。

 

 けれど、イザベラが言うような王族としての心得など聞いた覚えがない。

 

 そのことを正直に話すと、従姉妹姫は予想通りといった表情を浮かべた。

 

「やっぱりね。おかしいと思ったんだよ、シャルロットは王権や王冠について無頓着過ぎるんだ。諸々の事情があったにしてもね。他国はどうだか知らないけど、少なくともガリアの王族としてはありえない位に」

 

 トントンと指で苛立たしげにテーブルを叩きつつ、イザベラは語る。

 

「あの何事もそつなくこなすシャルル叔父上や叔母上が、こんな大切なことを見逃すはずがない。多忙で手が離せずとも優秀な教育係をつけるはずだ。そこまで考えたところで家庭教師の存在を思い出してさ。そいつは何者だ? どうやって選ばれた? で、嫌な予感がしたから過去の記録を紐解いてみたわけだ」

 

 その結果、問題の人物は不審な死を遂げていた。

 

 それを見てロマリアにとって用済みとなった彼女が消された、という可能性に思い至るのは――国の裏側を司る者として、ある意味当然だった。

 

「シャルル王子を影から支援して王座に就け、やがて女王になると目されるシャルロットの教育を偏らせた。ロマリアにとって、より都合のいい操り人形にするためにね。それがアルル伯爵令嬢本人の意志じゃないってことも充分考えられる。何しろ、お祖母さまっていう前例があるんだ」

 

「〝制約(ギアス)〟もしくは寺院での洗脳……?」

 

 タバサが思わず漏らした言葉に、イザベラは暗い顔で頷いた。

 

 もしも彼女の推測が当たっていたとしたら。あの月目の少年が語っていた通り、かの国が数十年の時をかけて仕掛けた調略の手は、タバサのすぐ側まで伸びていたということになる。

 

「で、でも、先生は王族じゃ……」

 

 反論するタバサの言を、しかしイザベラは即座に斬り捨てた。

 

「アルル伯爵家出身の王妃が過去に何人かいるわ。王の愛妾になった女もね。あの家の娘は、いつ王族に嫁ぐことになってもいいように、それに相応しい教育を受けているのよ。件の令嬢だって、名門のリュティス女学院を卒業してるしね。だからこそ、叔母上はあなたを任せたんだわ」

 

「嘘……そんなことが……」

 

 タバサという少女を支えてきた基盤のひとつが、またしても大きく揺らいだ。オルレアン公家で過ごした幸せな記憶。その大切な場所に存在していた、うら若き教師の姿が醜く歪む。

 

 知らず、翠瞳から一筋の涙がこぼれ落ちていた。

 

「とはいえ、あくまで連中がオルレアン公家とアルル伯爵家に謀略を仕掛けていて、かつ、神輿を()()()()()()()()と仮定した上での話だからね? 本当にただの事故死だったかもしれないんだから、そんな顔するんじゃないよ」

 

 言いながらイザベラは懐からハンカチーフを取り出すと、立ち上がってそっと従姉妹の顔を拭いてやった。

 

「ふふ。人形が、泣き虫エレーヌに戻っちゃったね」

 

 そう言って笑うイザベラの顔に、タバサは在りし日の父の面影を見た。従姉妹姫は伯父ジョゼフにそっくりだ。父と伯父は性格こそ大きく異なるものの、その顔がとてもよく似ていたことを今更ながらに思い出す。

 

「姉さま……」

 

「ああ、よしよし。今まで我慢してきたんだ、たくさん泣いていいよ」

 

 従姉妹の涙を拭ってやりながら、イザベラは不思議な感覚に囚われていた。

 

 かつて――甘ったれで、すぐにぐずり出す目の前の少女が大嫌いだった。人形のように感情を表さなくなってから、嫌悪は憎しみに変わった。

 

 けれど、こうして昔のように素直に泣く従姉妹と触れ合ううちに、それまで抱いていた憎しみがゆっくりと溶け出して……その隙間に温かくも心地よい感情が流れ込んでくるのを感じている。

 

 愛情と憎悪。このふたつが実は良く似たものであったのだと、イザベラは心で理解した。

 

 

●○

 

「前置きが長過ぎて悪かったね。実は、本題はここからなんだ」

 

 イザベラはタバサが落ち着いたのを確認すると、居住まいを正した。

 

「例の〝月目〟の言葉だけじゃ実行に移せなかった。アルル伯爵令嬢の件も、あくまで状況からの推測に過ぎない。ロマリアの罠だって可能性もある。だけど、こいつは看過できない問題だ。わたしはもう腹を括った。動くなら今しかない」

 

 そう言って、イザベラは参加者全員に目を遣った。

 

「再来週、トリステインで新国王の戴冠式があるのは知っているわね?」

 

 頷くタバサと太公望。王天君は黙ってイザベラを見つめている。

 

「三王家の戴冠式は、教皇か枢機卿のいずれかが執り行うのが慣例になってる。トリステインには司教枢機卿のマザリーニがいるし、アルビオンと交戦中だから出て来ないと思っていたんだけど、王朝が替わる歴史的に重大な案件だけに、宗教庁は式典に詳しい大物を派遣した」

 

 自らの決意を鈍らせぬよう、全身を奮い立たせたイザベラは一気に告げた。

 

「イオニア教会の助祭枢機卿バリベリニ――聖エイジス三十二世の片腕と呼ばれる男だ。国境越えの手続きで、リュティス大聖堂に逗留しているこいつをかっ攫う」

 

 あまりの爆弾発言に驚愕したタバサは、大きく目を見開いた。

 

「それって……」

 

「わかってる。あのジュリオって男を誘拐できたのは、あいつが平民だったってのが大きい。ロマリアの神官を攫ったことがバレても、まだ国際問題。異端審問程度で済んだだろうさ。けど、この場合失敗したら……確実に戦争だ。最悪〝聖戦〟を発動されて、世界中を敵に回すことになる」

 

「聖戦? なんだそりゃ」

 

 王天君の疑問に答えたのは、ハルケギニアの住民ではない太公望だった。

 

「わしが読んだ書物によると、教皇のみが発布できる宣戦布告の一種だそうだ。味方が全滅するか敵と認定した者全てが死に絶えるまで終わらない、文字通りの殲滅戦。兵だけでなく、無辜の民をも巻き込む愚かな戦いだ」

 

 そう吐き捨てると、顔を顰める。

 

 太公望自身――本人にその意志はなくとも、結果として地上の民を扇動し、殷を滅ぼしただけに〝聖戦〟という概念に対して複雑なものがあったのだ。

 

「なるほどな。つまり、そいつが教皇の口から出たが最後、ガリアは国民全部が殺されるか、ハルケギニア全土を相手に勝つしかねぇってことかよ」

 

「ええ、その認識で間違ってないわ」

 

 醒めた声で答えるイザベラを、タバサは信じられないものを見るような目をした。

 

 従姉妹姫はロマリアの謀略を暴いて真実を追い求めるために、ガリアという国全体を賭ける大博打をしようとしているのだ。

 

「バリベリニ卿は宗教庁だけじゃない、教皇の腹心の中でも特に上位にいる存在だ。あの男なら、月目野郎の発言の裏を取れる。そんな相手が目と鼻の先にいるんだ、手を伸ばすべきだろ」

 

「だが、その決断はおぬしがしてよいものではなかろう? これは王の裁定を仰ぐべき案件だ」

 

「……お前、わかってて言ってるだろ」

 

「まあのう」

 

 ふふんと笑う太公望に、舌打ちするイザベラ。

 

「どういうこと?」

 

「自分で考えてみなさい。ここに居るんだから、わかるはずだよ」

 

 やはりこの従姉妹は意地悪だ。そんなことを考えながら、タバサは脳を働かせる。

 

(国王が実行を判断すべき重要かつ危険な作戦を、それをきちんと理解しているイザベラが独自にやろうとしている。それは何故? ここに居るからわかる? 場所のことを言ってるんじゃない。参加している、そういう意味……?)

 

 これまでのこと。今ここに居る人物。彼らの言動……。

 

 散らばっていた(パズル)欠片(ピース)が組み合わさり、タバサの明晰な頭脳は解答を導き出した。

 

「わかったみたいだね」

 

 タバサはおずおずと頷いた。

 

「陛下から実行の判断と許可を得るには、これまでに得た情報と作戦の詳細を明かす必要がある。でも、あなたにはそれができない」

 

「ああ、そうだ。どうしてだと思う?」

 

 イザベラはどこまでも真剣な眼差しでタバサを見据えていた。

 

「あなたがオーテンクンの存在を、陛下に明かしたくないから」

 

「よくできました」

 

 タバサの回答に、悪戯な笑みを浮かべるイザベラ。

 

「オーテンクンは本当に素晴らしいよ! それこそ、世界中で自慢して廻りたいくらいにね!」

 

 断言した後、イザベラは再び真面目な顔をして続けた。

 

「でもね、だからこそわたしは彼の存在を公にしたくないの。色々と手を貸してもらった上で言う台詞じゃないのかもしれないけど」

 

 そう零すイザベラに、王天君は軽く手を振って見せた。

 

「つっても、オレはオメーに色々と借りがあるからな。別に気にする必要ねぇぜ」

 

「あなたが気にしなくても、わたしはするの!」

 

 いきなり大声を上げたイザベラに、王天君には珍しく目を瞬かせた。

 

「あなたは自分の〝力〟と価値を充分理解してるわ。もちろん、わたしもね。だからこそ、余計に父上と会って欲しくないの」

 

「オメー、親父のこと尊敬してんだろ? だから認めて欲しいって、いつも言ってるじゃねーか。オレを引き渡せば、間違いなく褒めてもらえるぜ」

 

 普段のペースに戻ってニヤニヤと笑う王天君に、イザベラは癇癪を起こした。

 

「もう! あなたって、ほんとに意地悪なんだから! そんなことしたって、認められるのはあくまであなたの実力であって、わたしはただの仲介でしかないことくらい、わかってるくせに!」

 

「当然だろ」

 

 ケタケタと笑う王天君。しかし彼の余裕もここまでだった。何故なら、突然イザベラの両目からぽろぽろと涙が零れ落ちたからだ。

 

「わたしは! あなたを! 国の道具なんかにしたくないの!!」

 

 ビクンと身体を震わせる王天君。かたや太公望はというと、そんな『半身』を見て、極めて珍しい反応に遭遇したと内心驚いていた。

 

「わたしね、あなたに逢えて嬉しかったの。そりゃあ、最初は怖くて泣いちゃったけど……でも、あなたは震えてたわたしが落ち着くまで待ってくれた。すごい〝力〟を持ってるのに『できそこない』のわたしに、対等に付き合おうって言ってくれたわ。あの提案に、わたしがどれだけ救われたか……!」

 

 嗚咽を漏らしながらも、イザベラは続けた。どうにも彼女は連日に渡る衝撃の影響で、涙もろく感情的になっているらしい。

 

「……あなたが、初めてなのよ。わたしと同じ立場で喋ってくれたのは。一緒に馬鹿な話をして、笑って、遊んでくれたのは。あなたが来てくれてから、わたし……ほんとに、楽しかった」

 

 瑠璃色の瞳が揺れる。黒曜石の目は固まったままだ。

 

「あなたがどう思っているのかわからない。でも……わたしにとって、あなたは最初にできた……いちばん大切な……友達なんだ」

 

 そう言って、震えながら己が手を握り締めてきたイザベラに、王天君はしばし呆然とした後……気が触れたように笑い始めた。

 

「ハハ……ハハハハ……ッ! こいつぁ傑作だぜぇ! このオレを、友達だって!?」

 

 『部屋』の中に、すすり泣きと引き攣った笑い声が響き渡る。

 

「今回の仕事は『地下水』だけじゃ無理だ。オレと太公望の手が必要なんだろ? 友達(ダチ)を道具にしたくないとか言ったその口で、オレ達に頼み込もうってか」

 

「そんな! わたしは……」

 

「いや、そこは否定すんなよ。オレの言ってること、間違ってんのか?」

 

 ふるふるとイザベラの首が横に振られる。

 

「オメー、前に『地下水』には持ち主の潜在能力を引き上げる〝力〟があるっつってたよな? そいつを潜入の得意な太公望に持たせる。んで、コイツが目標のトコに辿り着いたらオレが『窓』を開けて……かっ攫う。そーいう作戦考えてたんだろ?」

 

「……そうよ」

 

 潜入が得意って何だ。

 

 場の空気を読まずにそう問い質したくなったタバサだが、不意に思い出した。

 

(そういえば、彼はしょっちゅう調理場からお酒や食べ物を盗んでいた。それに、若い頃に敵のお城や本拠地に忍び込んだ話をしていたはず……)

 

 平民を操りつつ系統魔法を繰り出してきた『地下水』が太公望と組めば、鬼に金棒、烈風に杖。彼らに王天君の『窓』が加われば、盗めないものなど何もないだろう。

 

 と、王天君がじとりと太公望を睨んだ。

 

「なあ太公望。オメー、こうなるのがわかってたんだろ?」

 

「まあのう。ロマリアの大物が来ているのは街の食堂で聞ける程の噂になっておったし、あの小僧はまあともかくとして、敵はそう簡単に尻尾を出すような連中ではない。となれば、採れる選択肢は限られておる」

 

 してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべる太公望。

 

「それに、おぬしはどー見てもそこの姫君が気に入っておったようだしのう?」

 

 そして相手を冷やかしながら、利き手ではない右手をすいと挙げる。

 

「今までそれなりに遊べたしな。そーいうことにしておいてやるよ」

 

「ふん、相変わらず素直じゃないのう」

 

「オメーにだけは言われたくねぇな」

 

 そう返した後、王天君は改めてイザベラに声をかけた。

 

「なぁイザベラ。その作戦、悪くはねぇが穴がある。当然、気付いてるよな?」

 

 いきなり話を振られたイザベラは再起動にゼロコンマ一秒ほどの時間を要したが、すぐさま首を縦に振った。

 

「もちろん。リュティス大聖堂はボン・ファン寺院と比べて魔法的な護りや防諜措置が薄いけど、調査できているのはあくまで系統魔法に関することだけで、それ以外の対策をされていたら完全にお手上げさ。今までならそこまで考慮に入れなかったけど、意志ある魔道具の作り方を〝月目〟が知っていたってことは……()()()()()()があるから、かもしれないわ」

 

 異端とされ、禁じられている先住の魔法を宗教庁が用いている可能性を示唆するイザベラ。

 

「ククク……やっぱり、オメーはわかってるぜ。オレ達に頼もうとしたのは間違っちゃいねえよ。何故なら、オレ達ふたりが組めば……そんなモンじゃ捉えられなくなるからな」

 

 口端を上げた王天君に、王女は何故か不吉なものを感じ取った。

 

「あぁ……あぁ、そうだ。言っておくが、オレがオメーを通して見たかったのは、オメーがオレやオフクロになるところじゃねぇ」

 

「オーテンクン……?」

 

「オメーはオレのことを友達だなんて言ってたけどよぉ、オレは違うぜ」

 

 残酷な通達に、イザベラはくしゃりと顔を歪める。だが、それを告げた王天君はいつになく幸せそうに……笑っていた。

 

「オレは……オメーのことを、娘みたいに思ってた」

 

 そう言うと、王天君は太公望の前に左手を突き出した。途端、彼らの正面に『窓』が開く。

 

「……良いのだな?」

 

「シのゴの言わずに手ぇ出せよ」

 

 真剣な眼差しで問う太公望に、感情の籠もらぬ声で応える王天君。

 

「そうか。ならばゆくぞ、王天君!」

 

 彼らのただならぬ雰囲気に、タバサとイザベラは立ち上がった。

 

「待っ……」

 

 彼女たちが言い終える前に、ふたりの手は『窓』に触れ――閃光が『部屋』を満たす。

 

 ――次の瞬間、王天君と太公望は光と共に消え去った。

 

 代わりに彼らがいたはずの、その場所に……圧倒的な存在感を放つモノが現れた。

 

 

 




新年明けましておめでとうございます。
おかげさまで、ようやくノロの魔の手から逃れることができました。

次回更新は1/18を予定しておりますが、状況により前後するかもしれません。


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第102話 始祖と雪風と鏡姫

 ――イザベラは混乱の極みにあった。

 

 食器よりも重いものを持ったことがないなどと言われ、苦労知らずの温室育ち、ひとりでは何も出来ないと陰口を叩かれる彼女だが、その評価は誤りだ。

 

 もしもそれらが真実ならば。イザベラはとうの昔に、思い出すのも億劫になる程放たれてきた刺客の手にかかり、天上(ヴァルハラ)へ召されていたことだろう。

 

 長年そんな荒んだ生活を送ってきたからこそ、イザベラは自身に向けられる悪意や殺気といったものに敏感になっており、それらに対する反応や対処の仕方も洗練されている。

 

 ところが。ズルリという衣擦れの音と共に、輝く『窓』の中から何者か現れたとき。彼女の脳内は困惑、緊張、畏怖といった感情で埋め尽くされてしまい、咄嗟に反応できなかった。

 

 過去に相対してきた腕利きの騎士や暗殺者たちとは、文字通り桁が違う。いや、比べることすら烏滸がましい。人間としての生存本能が、そう訴えかけてくる程のモノが目の前に在る――つい先程まで、生涯で初めての友が居たはずの場所に。

 

(まさか……)

 

 違うかもしれない。だが、確かめずにはいられない。

 

 イザベラは声を震わせながら訊いた。

 

「オーテンクン、なの……?」

 

 しかし、戻ってきた答えは無情だった。

 

「――誰のことだ? それは」

 

「……ッ!」

 

 酷薄な声音に、王女の身体がぶるりと震える。

 

 と、つい先程まで泣いていたはずの従姉妹がいきなり立ち上がった。それから、節くれ立った長い木の杖を大きく振りかぶる。

 

 その途端、張り詰めていた空気が霧散した。

 

「ぼ、暴力反対!」

 

「同じことを繰り返すあなたが悪い」

 

 じりじりと後退していく黒い影。間を詰めるべく、つかつかと歩み寄るタバサ。迫り行く彼女の表情は踏み固められた雪のように堅く、冷たく、平坦だった。

 

 ……そして。

 

「ギャ――ッ!!」

 

 ガスンという殴打音と共に、大きな悲鳴が『部屋』の中に響き渡った――。

 

 

○●

 

 ――仕切り直し後。

 

「うーむ。何か、もはや説明は面倒くさいのう……」

 

 開口一番、頭をさすりながらそんなことを言う黒衣の男。しかし従姉妹のシャルロットが無言で杖を振りかざした途端、慌てた様子でそれを制した。

 

 先程まで彼が放っていた圧倒的な存在感は、もはや跡形もなく消え去っている。

 

「さて、どこから話すべきか……」

 

 不審な男は、顎をさすりながら何事かを考え始めた。

 

 イザベラは心を落ち着かせて目の前の人物を観察することにした。外見は王天君の弟・太公望とよく似ているのだが……服装はもちろんのこと、顔つきも、体格さえもだいぶ大人びている。

 

 もしかすると、この男はふたりの兄か縁者なのかもしれない。

 

(さっき『窓』を開いたのは……こいつを呼ぶためだったのかしら? けど、それならオーテンクンはどこへ行っちゃったんだろう? それに、シャルロットはこの男を知っているみたいだけど、なんで……)

 

 と、腕組みをして考え込んでいた男がぱちんと指を鳴らす。ようやく何か思いついたようだ。

 

「系統魔法は属性を重ね合わせることで威力を増したり、効果が変わるであろう?」

 

 こいつはいきなり何を言い出すのか。

 

 怪訝な面持ちで己を見つめる少女たちをよそに、謎の人物は解説を続ける。

 

「おぬしたちハルケギニアの三王家に伝わる〝乗法魔法〟は『始祖』の血を色濃く受け継ぐ王家の者が互いの詠唱を重ね合わせることで、系統魔法では実現できない強力かつ強大な奇跡を起こすわけだが……わしのこれも同じようなものなのだ」

 

「意味がわからない」

 

 従姉妹の呟きに心の中で同意するイザベラ。それを聞いた黒衣の男は、さらに説明を重ねた。

 

「これは太公望と王天君の一族が持つ特性のようなものでな。あの『窓』を介して互いの魂魄を重ね合わせることによって、大幅に〝力〟を増幅できる。魔法で属性を重ねるように、だ」

 

 聞き慣れぬ言葉に、蒼髪の姫君は眉根を寄せる。

 

「コンパク?」

 

「おぬしたちの言う魂のことだよ。わしの故郷にはな、この魂魄を視、操る術があるのだ。例の『地下水』のように、道具へ意図的に〝意志〟を宿らせる方法も知られておる」

 

 その説明を耳にしたイザベラは、ジュリオが語っていた「意志の宿る魔道具の類いは、先住魔法でしか作れない」という発言を思い出す。

 

「……お前も先住の魔法が使えるって訳かい」

 

「いや、わしは精霊魔法なんぞ身に付けとらんが」

 

「え、お前エルフなんだろ? それなのに先住の魔法が使えないってどういうことさ」

 

「おぬしは何か誤解しておるようだが、そもそもわしはエルフでも妖魔でもない」

 

「だ、だってオーテンクンがエルフなんだから……」

 

「違うわ! 王天君は何度も否定していたであろうが!!」

 

 そう断言され、イザベラは思い出す。確かに彼は自分をエルフではないと言っていた。ならば彼らは一体何者なのか。人間でないのは間違いないはずなのだが。

 

 いや、それ以前に――。

 

「お前、なんでわたしとオーテンクンのやりとりを知ってるんだい!?」

 

「まあまあ、話は最後まで聞け。それも含めて説明しておる」

 

 侍女たちなら卒倒してもおかしくない程に険しい視線を向けたというのに、目の前の不審人物は沼に杭を打つが如く、一向に堪えた様子がない。

 

「さっきも言ったが、太公望と王天君は互いの魂魄を重ね合わせる――〝融合〟させてひとつにすることで、大幅に〝力〟を向上させることができるのだ」

 

 意味がわからない。いや、理解するのを拒んでいたイザベラをよそに、彼女の従姉妹は解答とおぼしきものに行き着いた。

 

「つまり、あなたはタイコーボーとオーテンクンが重なってひとりになった姿ということ?」

 

「その通りだ」

 

 ありえない。イザベラはふたりのやりとりが信じられなかった。より正確に言うなれば、信じたくなかったというのが正しい。

 

 ところがシャルロットのほうはというと。蒼玉の瞳に映る人物を興味深げに見つめながら、とんでもないことを口にした。

 

「なら、今のあなたは……タイコーボーとオーテンクンの、どっち?」

 

 顔を引き攣らせたイザベラをよそに、件の人物はこれまた理解し難い答えを返す。

 

「わしは太公望であり、王天君でもあり……そのどちらでもない。魂魄を融合させることで、ふたりと似通ってこそいるものの、異なる人格が生じるからだ」

 

 などと脳天気な表情で残酷なことを告げた男に対し、イザベラは震え声で問うた。

 

「お、お前が、オーテンクンだっていうのかい……?」

 

「そうだ」

 

「タイコーボーでもある?」

 

「うむ」

 

 シャルロットの確認に頷く男。

 

 確かに彼が纏う黒衣は太公望の特徴的な外套と、王天君が身に付けていた服と数多くの装飾品を彷彿とさせる。しかしイザベラにとって、そんなことは到底受け入れられなかった。

 

(オーテンクン……笑ってた)

 

 彼を〝召喚〟してから約半年。怖そうな外見にも関わらず、意外とユニークな異種族の友達と過ごした今日までの間――あんなに幸せそうな笑顔を見たのは初めてだった。

 

(わたしのこと、娘みたいに思ってたって……)

 

 彼がイザベラに対して抱いていたのは、友情ではなく親愛。自らが示し、求め続けていたのとは違うものだが、それでも彼女の心は救われた。

 

 だが、こうして振り返ってみると……まるで最期の言葉を告げられたような――。

 

(まさか……)

 

 王女の心に暗雲が立ち籠め始めた。

 

 最悪の場合〝聖戦〟が発動する――この作戦で失敗したらガリアが滅ぶ、つまりイザベラが死ぬなどという話を聞いたから、彼がそれを防ぐために〝融合〟を決意したのだとしたら。

 

(そんな、わたし……)

 

 直前に、太公望は王天君に対して「良いのか?」と確認を取っていた。何のことかと訝しむ間もなくふたりは光に包まれ――そして、彼はいなくなってしまった。

 

 ――娘みたいに思ってた。

 

 すぐ側にいる従姉妹の境遇が脳裏をよぎる。彼女の母親は、愛娘の命を守るために自らの死を由とし、毒酒を口にした。

 

(嘘よ、そんなこと……)

 

 もしや王天君は、オルレアン公夫人と同じことをしたのではないか。

 

 もう二度と王天君としての再会は叶わない。だからこそ、あんな遺言じみたことを言い残したのだとしたら。

 

 彼が、娘――イザベラのために命を、文字通りの魂を捧げてしまったのではなかろうか。

 

(わたしは……)

 

 イザベラは自ら導き出した、畏るべき結論に身震いした。ぐらりと彼女の世界が傾ぐ。そのまま倒れてもおかしくない程の後悔と絶望が、少女の心目掛けて押し寄せる。

 

「やだ……」

 

 知らず、王女の口から悲痛な声が漏れ出した。

 

「やだよう……」

 

 イザベラは腰掛けていたソファーから立ち上がると、ふらふらと覚束ない足取りで王天君だったモノの前へ歩み寄った。

 

「こんな、こんなお別れの仕方なんて、やだよ……」

 

 いつか別離の時が来る。覚悟はしていたが――まだ心の準備ができていなかった。いや、このような形で彼を失うなどとは想像だにしていなかったのだ。

 

 黒衣の男にしがみつき、涙ながらに懇願する。

 

「返して、オーテンクンを返してよぉ……」

 

「おぬし、わしの話を聞いとらんかったのか? わしは太公望でもあり、王天君でもあるのだ。融合はしたが、決して死んでしまったわけではないぞ?」

 

 顔をくしゃくしゃに歪めながら、イザベラは反論した。

 

「けど、お前はオーテンクンとは別人なんだろ!?」

 

「同一人物でもあるがのう」

 

「違う!」

 

 イザベラは耳にした言葉を否定するかのように、激しく首を振った。

 

「わたしの友達は……わたしのこと、娘みたいに思ってたって言ってくれたオーテンクンはお前じゃない! わたしは、わたしは……こんな結末、望んでなかった!!」

 

 王女は慟哭する。掛け替えのないものを失ったのだと気付いたから。

 

「戻して! 元のオーテンクンに戻してよぉ……!」

 

「そーかい。オメーも物好きだな」

 

「そういう問題じゃ…………え?」

 

 イザベラが顔を上げると、そこには見慣れた青白い顔があった。すぐ隣には、どこから取り出したのやら、酒杯をちびちびと舐めている従姉妹の使い魔の姿も。

 

「……え?」

 

「なんだよ、オメーが元に戻せって言うから〝分離〟して見せただけだぜ?」

 

 そう言いながら、ニイッと口端を上げる王天君。

 

「……ええっ?」

 

「なんちゅーか、おぬしは相変わらずだのう」

 

 横目で『兄』を見遣りつつ、ぼやく太公望。

 

 それを聞いて、ようやくイザベラは理解した。まるで人間のようにひとの心を読み、場や状況を上手く利用する王天君に――いいようにからかわれていたということを。

 

「お、お……オーテンクンの……」

 

 羞恥やら屈辱やらの感情が複雑に絡み合い、かあっと王女の顔に血がのぼる。

 

「意地悪――――ッ!!」

 

 抗議の叫びが『部屋』中に響き渡った――。

 

 

○●○●○●○●

 

「一方は手、もう片方は大音量口撃とは……おまえらは間違いなく従姉妹同士だ! うぬぬぬぬ、まだ耳がキンキンしておる……」

 

「その言葉、そのまんま()()()()に返すわッ!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴るイザベラと、彼女に同意するようにうんうん頷くタバサ。そんなふたりのすぐ側に、再び〝融合〟した伏羲が頭を抱えてしゃがみ込んでいる。

 

「ところで……」

 

「む、何だ?」

 

「あなたのこと、なんて呼べばいいのかしら。オーテンクンで問題ないわけ?」

 

「それはわたしも聞きたい」

 

 そう声を揃えるガリアの姫たち。

 

「太公望でも王天君でも、好きなほうで構わぬのだが……であれば、わしがこの姿でいるときは伏羲と呼ぶがよい」

 

「フーギ?」

 

「フ・ッ・キ、だ」

 

 もはやお約束となった発音修正を行う伏羲。

 

「わかったわ。ねえフッキ、早速確認したいことがあるんだけど」

 

「今のわしに、どんなことができるか知りたいのであろう?」

 

「ええ、そうよ。話が早くて助かるわ」

 

 ふたりのやりとりを聞いていたタバサもコクコクと頷いている。彼女は〝夢世界〟での彼を知っているが、あれらが現実で本当に可能なことなのか気になっていたのだ。

 

「それならば、まずはこれかのう」

 

 言いながら、ごそごそと懐の中から『打神鞭』を取り出した伏羲は、手にしたそれをついと軽く一振りする。

 

 その途端、少女たちの視界が歪み――次の瞬間『部屋』とは異なる場所に立っていた。

 

「え? なに!?」

 

「ここは……」

 

 きょろきょろと辺りを見回すイザベラ。

 

 どこかの貴族の私室だろうか。石造りの壁に囲まれた部屋の中には、書物がぎっしりと詰め込まれた本棚とベッド、チーク材の机と椅子が置かれていた。

 

「いつもの『部屋』とはだいぶ違うみたいだけど、これは……」

 

 興味深げな彼女とは対照的に、タバサは驚愕のあまり固まっていた。

 

「トリステイン魔法学院の……わたしの部屋」

 

「なんだって!?」

 

 従姉妹の言葉に驚きを露わにするイザベラ。

 

「『部屋』を書き換えたの?」

 

 タバサの発した疑問に、伏羲は意地の悪い笑みを返した。

 

「違う。ここは正真正銘、おぬしの部屋だ。なんなら確認してみるがよい」

 

 言われた通り、タバサは部屋中を調べて回った。机の上には呼び出しを受ける前に纏めていたレポートの束が置かれていたし、読みかけの本も記憶にある通りの場所に栞が挟まれている。

 

 扉は寮の廊下に繋がっており、窓の外には見慣れた魔法学院の庭が広がっていた。双月の光に照らされた渡り廊下を、見知った衛士が巡回している。

 

「嘘じゃない。間違いなくわたしの部屋」

 

 呆然と呟いた従姉妹の声に、イザベラの金切り声が重なった。

 

「ちょ、ちょっと待って! リュティスからここまで千リーグ以上離れてるんだよ!? オーテンクンのときはもっと……」

 

 王女は信じられないといった表情で、伏羲を振り仰いだ。

 

「王天君単体ではここへ辿り着くために何度も跳躍を繰り返す必要があるので、それなりの時間を必要としたが……太公望と融合したことで、曲げられる空間距離が大幅に増しておるのだ」

 

「空間距離? 曲げられる?」

 

 伏羲は頭上に疑問符を浮かべたイザベラに対し、かつてルイズたちの前で行った、紐を用いた距離と空間、そして曲げるために必要な〝力〟について説明した。

 

「な、なるほどね。オーテンクンだけでもできることだけど、あなたになることでもっと簡単で、しかも時間をかけずに遠くまで行けるようになった。そういう解釈でいいのかしら?」

 

 その解答に頷く伏羲、唖然とする王女。

 

「ほんの一瞬で千リーグ以上移動できるなんて! 確かに凄い〝力〟だね……」

 

 高速フクロウ便はもちろんのこと、特に優れた風竜でも不可能な移動速度。情報伝達の早さが、その後の展開を左右する政治その他の分野において、彼の〝力〟はとてつもない価値を持つ。

 

 いっぽうタバサは、太公望が「感覚が戻るまで空間移動は無理」「兄弟で協力しないと使えない術がある」と言っていた意味が、ようやく理解できていた。

 

 王天君と魂を重ね合わせ〝力〟を増幅させる。

 

(これが、彼ら本来の在り方……)

 

 ――夢の世界を支配していた『雪風の魔王』が、遂に現実を侵食してきた。

 

 漆黒のマントをたなびかせ、誰にも気付かれることなくお城にいたふたりの姫君を攫う……。

 

(まるで、お伽噺のよう……)

 

 何やら瞳をきらきらさせている従姉妹を妙に思いつつ、イザベラは質問を続けた。

 

「もう少し詳しく聞いても?」

 

「うむ。情報は国の命運を分ける重大な策を実施するにあたり、必要なものだからのう」

 

 なるほど、だからこんな〝切り札〟を見せてくれたのかとイザベラは納得した。

 

(こういうところに、オーテンクンの意志がちゃんと反映されてるのね……)

 

 裏を司る騎士団長は――本人としてはにっこりと、端から見るとニヤリと微笑んだ。

 

「ありがとッ、じゃあ早速。あなたの〝移動〟にも、やっぱり〝網〟を使うの?」

 

「必要ない。わしが座標をとれる場所――具体的には一度行ったことがある場所か、何かを『窓』で追跡し、視た先へ跳べる。ああ、直接この目で見えるところならば、どこへでも行けるぞ」

 

 生真面目な表情でそう説明した伏羲に、蒼髪の姫君は悪戯っぽく訊ねた。

 

「ふぅん。なら、あの紅い月にも届くって訳かい?」

 

 さすがにそれは無理だろ? と、窓の外に浮かぶ双月を指さすイザベラ。

 

 ……ところが。

 

「もちろんだ」

 

 そう、何でもないことのようにのたまう伏羲。

 

「またまたぁ、冗談もほどほどに……」

 

 笑いかけた途端、再び周囲の空間が歪んだ。

 

「え?」

 

 イザベラの目の前に、広大な――紅い大地がどこまでも続いている。

 

「え?」

 

 振り返ると、そこには蒼い月が……いや、あれは違う。普段目にしていたモノとが別の、しかし青く美しい何かがあった。

 

「え?」

 

 と、すぐ側に立っていた彼女の従姉妹が呆然と呟いた。

 

「惑星……? まさか、あれがハルケギニア……?」

 

「そうだ。どうやら以前予測した通り、この世界も外から見ると丸かったようだのう」

 

「え?」

 

「ほれ、向こうに太陽が見えるぞ」

 

「あれが? なんだか不気味」

 

「地上からだと、周りに空や雲……それに、星なんかがあるからのう」

 

「色も変。まるで〝魔法の矢(エネルギー・ボルト)〟を丸めたかのよう」

 

「ああ、そのへんは光の波長と空気中に含まれる塵が関係しておってな……」

 

「興味深い」

 

 タバサと伏羲が視線を向けている先には、輝く巨大な光があった。彼らはそれを太陽だなどと言うが、しかしそれは普段目にする黄金の光とは異なり、銀色……いや、真っ白だ。おまけに、周囲には吸い込まれてしまいそうな漆黒の闇がどこまでも広がっていて、その他には何もない。

 

「え?」

 

「そのへんはまた別の機会に説明するとして、これで本当だと理解してもらえたかのう?」

 

 イザベラは思わず手の甲をつねった。痛みがある。つまり、これは現実なのだろう。

 

 ということは、ここから見える青いモノはハルケギニアとその周辺世界で、あの薄気味悪い光は本物の太陽であり、今、自分が立っている場所は……紅い月の表面。

 

「ええええええ――――ッ!!」

 

 それはハルケギニアに住まう民が、初めて宇宙に声を響かせた……記念すべき瞬間だった。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから約十分ほど宇宙遊泳を楽しんだ三人は、伏羲が開いた『窓』を介して再びヴェルサルテイル宮殿のプチ・トロワに帰還した。

 

「叫び過ぎて喉が痛い……」

 

 イザベラは新たに構築された『部屋』のソファーにぐったりと身体を預け、口の中で飴玉と愚痴を転がしていた。

 

 伏羲とタバサもご相伴に与っている訳だが、この飴は大宮殿グラン・トロワの食料庫から失敬してきたものである――もちろん『窓』で。

 

 さらに果実水を呷ることで、ようやくひとごこちついたのであろう。深呼吸して気持ちを切り替えたイザベラは質問を再開した。

 

「整理させてもらうよ。あなたが移動できる距離についてはよぉぉっく理解できたわ。ところで、あそこで挙げた条件は『窓』を開けることのできる場所でもある?」

 

 その問いに、伏羲は頷いて見せた。

 

「オーテンクンの網はヴェルサルテイル宮殿の全域に張り巡らされていて、その範囲ならどこでも『窓』が開けるし、手を伸ばすこともできるわよね」

 

「うむ」

 

「あと、タイコーボーを起点――あなたたち流に言うなら〝座標〟に設定して、そこにも『窓』を開けることができる。でも、オーテンクンがいる位置とそこまでの距離が離れすぎている場合は、目的地を見失うことはないけれど、移動に時間がかかる。一度に大きく空間を曲げようとすると、酷く消耗してしまう……あるいは、それをするだけの〝力〟が足りないから?」

 

「その解釈で間違ってはおらぬ」

 

 質問を続けるイザベラの隣で、タバサが手元の羊皮紙にそれらの内容を書き留めている。

 

「オーテンクンの場合、移動するときの〝座標〟はあなたにしか設定できないのかしら?」

 

「いや、そんなことはないぞ。実際、おぬしを狙った刺客のアジトを突き止めていたであろう? あやつ単体でも、目にしたモノや場所を起点にして跳躍することができる」

 

 ううん……と、王女は首を傾げた。

 

「それなら、あなたたちがわざわざ魂を重ね合わせた理由は何? 彼だけでも『地下水』を起点にできるのよね? そもそも、わたしが提案した作戦では弟が忍び込むわけだから、座標とか距離の問題もないだろうし」

 

 言われてみればその通りである。タバサは瞳に興味の色を浮かべて伏羲を見つめた。

 

「オーテンクンは『オレたちを捉えられなくなる』って言ってたけど……もしかして『窓』か彼に何か問題があるのかしら?」

 

「その通り。実は王天君の『窓』には大きな弱点があるのだ」

 

「どういうこと?」

 

 これまでの経緯から、その内容を悟ったタバサだったが、大人しく口を閉ざしていた。

 

「あやつの『窓』は一方通行で目に見えぬ。だが、優れた『空間使い』であれば、誰かに視られていることを察知できてしまうのだ。おぬし、例のカジノでの騒動を覗いとっただろ?」

 

「それはオーテンクンの記憶、って訳じゃないんだね?」

 

「そうだ」

 

「ん? わたしが見てたのも気付いてたわけ!?」

 

「うむ。『窓』が開いていて監視されているかもしれない、と認識しただけではないぞ。おぬしが『窓』の向こう側にいる、ということも分かっておった。察知する側の技量にもよるが、最悪の事態を想定しておいたほうがよいであろう?」

 

 イザベラは生真面目な顔で同意を示した。

 

「そうだね、そこまで考えてくれるのはありがたいよ。わたしに教えてくれたこともね」

 

 太公望の場合は〝魂の双子〟である王天君と互いに共鳴するが故に気が付けるのだが、あえて言わないでおく伏羲。

 

「それが、あなたたちがひとりになった理由?」

 

「うむ。ふたりの性質が合わさることで〝遍在〟が可能となるのだ」

 

「風魔法の〝遍在(ユビキタス)〟じゃないよね?」

 

「神学にある概念のほう?」

 

 少女たちの問いに対し、伏羲は確認で返した。

 

「神という存在の概念、あまねく世界に存在する……だったな? 何処にでも居て、何処からでも見守っている――」

 

「そう」

 

「わしの〝遍在〟とは、それと少々違う。何処にでも居るが、何処にも存在しない……確かにその場所に在るはずなのに姿を捉えることができなくなる――こんな風にのう」

 

 そこまで告げたところで、伏羲は『最初の人』『始祖』の〝力〟を発現させた。

 

「!?」

 

 タバサは慌てて立ち上がり、周囲を見回した。つい今しがたまで側にいたはずの伏羲とイザベラが煙のように消えてしまったからだ。

 

「どこかに跳躍した? でも、それだと先ほどの説明と矛盾している……」

 

 杖を構え、目を細めて気配を探るタバサ。しかし、彼らを見つけることができない。

 

「……っぷぷ。あ、ごめん!」

 

「問題ない、すぐに終わらせるつもりだったからのう」

 

 声と共に、従姉妹姫と黒衣の魔王が現れた。消えたときと同様、唐突に。

 

「何をしたの?」

 

 やや棘のある声で問い質すタバサに、伏羲は悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。

 

「ククク、誰にも捉えられなくなる〝場〟を発生させて、わしとイザベラの存在感をこの世界から一時的に消失させたのだ」

 

 さらっと言うが、それはとんでもないことなのではないだろうか。

 

 ――タバサが感じた通り、これは地球の『始祖』『最初の人』としての〝力〟を極限にまで高めた結果編み出された、次元違いの超高等技術である。

 

 ただし、使い道が「追っ手から逃げる」「仕事をサボってぐうたらする」という本当にしょーもない方向に発揮されているため、その凄さがイマイチ理解されていないだけなのだが。

 

「この〝場〟が効果を発揮しておる間、わしと、わしと共に在る者の存在を認識できない。例えば鏡に映っていても見えなくなるし、触れることもできなくなる。〝遠見〟の魔法で発見することもできぬし、水に浸かっても波紋ひとつ立たぬ。文字通り『いなくなる』のだ」

 

 言い終えた後、イザベラのときと同じように、タバサを〝場〟に取り込んで見せる。

 

 実践というこれ以上なくわかりやすい説明に、少女ふたりは驚き、戦慄した。

 

「凄い」

 

「これさあ、悪用したらシャレにならないよね」

 

 ふたりは率直な感想を述べる。

 

 太公望が用いる〝風〟という系統に〝遍在〟という魔法が属していること、王天君の外から見えない亜空間の『部屋』に、空間移動。そして、彼らふたりがエルフではないことと、先住の魔法を習得していないという言葉――。

 

 それらと、これまでに入手した情報から、イザベラは途方もない結論に達した。

 

「まさかとは思うけど……あなたの『窓』やこの『部屋』が虚無魔法ってことはないよね?」

 

 従姉妹姫の言葉に目を剥くタバサ。ところが……。

 

「虚無ではないと思うが、そう断言できる程の材料がないのう」

 

 こちらのほうが問題発言だった。

 

「ちなみにイザベラよ。おぬし、どういう理屈でそんな結論を出したのだ?」

 

「〝召喚〟で、わたしたちメイジは自分と使い魔候補の間に『道』を創り出すことができるだろ。あれは形や見た目こそ違うけれど、あなたの『窓』に似てる。それに……」

 

 果実水で乾いた喉を潤し、さらに先を続けるイザベラ。

 

「月目野郎はあれを『始祖の後継者候補を探し出すための魔法だ』って言っていたわ。今までは特に気にしていなかったんだけど……〝召喚〟と〝使い魔契約〟って、他の汎用魔法(コモン・マジック)に比べて異質っていうか……違うように感じたんだ」

 

「なるほどのう。王天君が気に入るのも頷ける」

 

 他者から褒められ慣れていないイザベラの頬に、ほんのりと朱が差す。

 

「そ、それとだ。全部がそういうわけじゃないけどさ、汎用魔法の中には系統魔法で似たようなことができるモノがいくつもある。〝浮遊〟と〝飛翔〟みたいな、ね。ということは〝召喚〟と良く似た呪文が、失われた〝虚無〟の中にあってもおかしくはないでしょう?」

 

「確かにその通り」

 

 ぽつりと呟いた後、タバサは伏羲に視線を送った。そして彼は、その意味を正確に受け取る。

 

「タバサには既に話しておることなのだが、実は『始祖』ブリミルがわしの故郷からハルケギニアへやって来た可能性があるのだ」

 

「なんだって!?」

 

 口をぱくぱくするイザベラ。無理もない、神学界において『始祖』の故郷に関する議論が繰り返し行われてきたにも関わらず、未だその謎が解けていないのだから。

 

 もしも、目の前の男が『始祖』ブリミルと同郷なのだとしたら――。

 

「だから断言できないってことかい……」

 

「ああ、そういうこと。わたしも理解できた」

 

 実際に『窓』とよく似た魔法があるのだ。もしも『始祖』ブリミルと彼ら兄弟が同じ場所から来ているのだとしたら、根幹となすものが共通している可能性も否定できないし、逆に虚無とは全く異なる系統なのかもしれない。

 

 そもそも〝虚無〟とやらがどんなものであるのか、例の〝記憶(リコード)〟という魔法以外、ここにいる誰も知らないのだ。そんな状況で断言できないのは当然だろう。

 

 それを言葉にした少女たちに対し、伏羲は満足げに頷いた。

 

「というわけでだ、これから例の枢機卿誘拐作戦を詰めていこうではないか」

 

「そうだね、聞かなきゃいけないことが増えたことだし」

 

「同感」

 

 

○●

 

 ――ガリアの命運を左右する、重要な作戦会議の最中。

 

 伏羲は頭の片隅で、それらとは全く別のことを考えていた。

 

(あれは一体どういうことだ……?)

 

 王天君の記憶に触れることで知ってしまったガリア国王ジョゼフ一世の精神的な危うさや、それに関連しているのであろう、数々の問題行動に関することにも頭を抱えたが……彼に、それらと同様か、さらに上回る程の衝撃を与えたのは――中空に浮かぶ蒼き月だった。

 

 紅い月を間近に見たことで、この世界が地球ではないことを改めて確認した伏羲は、続いてもうひとつの月へ向かおうとしたのだが……。

 

(あの星の周囲に亜空間バリアが張られておった……他はどうか知らぬが、少なくともあの蒼い月はスターシップ蓬莱島のような人工物ということだ)

 

 宝貝(ぱおぺえ)の類いか、それとも伏羲の知らぬ全く別の技術で作られたものなのか。

 

 滅びた世界の歴史を識る伏羲だが、彼は技術畑の人間ではない。そもそも、あまりにも永く生き過ぎたがために、過去に学んだ知識のそこかしこに穴が開いていた。

 

 記憶力には自信のある伏羲だったが、さすがに限界というものがある。

 

(とはいうものの……)

 

 本来の姿に戻った今なら、あのバリアを破壊して内部へ乗り込むことも可能だろう。

 

 一応目視できる位置にはあるので、跳躍してもいいのかもしれないが……もしも蓬莱島のように「バリアを抜けたら、そこはワープゾーンでした」状態だったら目も当てられない。

 

 見えるから、そこにあるとは限らない。虚像が映し出されていた例もある。その場合、空間移動に失敗して何処とも知れぬ場所に放り出されるか、あるいは行き場を喪った〝力〟に圧し潰されて大変なことになってしまう。

 

(どこに飛ばされるのかわからぬ以上、危険は冒せぬ)

 

 王天君は地球の座標を消失(ロスト)していた。無理矢理魂魄を分離させられたせいなのか、複雑に絡み合った亜空間に閉じ込められたからなのか、あるいはその両方なのか。今の伏羲には原因が掴めなかった。

 

 こんな状態で、またどこか見知らぬ世界に飛ばされたら――それどころか、何もない宇宙空間に投げ出されたりしたら、彼は完全なる漂流者となるだろう。

 

 もしも、そんなことになってしまったら。

 

(夢のぐうたら生活がますます遠のいてしまうではないか!)

 

 とりあえず、今は目の前の危機に対処することにしよう……。

 

 ひとり結論を出した伏羲は、改めて国を背負う少女たちとの話し合いに集中した――。

 

 

 




イザベラ「ハルケギニアは青かった」
タバサ「ハルケギニアも青かった」

いつも感想、誤字報告、活動報告へのコメントありがとうございます。

なかなか手が回らず、誤字報告と活動報告へのコメント返しができていない状態ですが、心から感謝致しております。



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第103話 六千年の妄執-悪魔の因子-

 ガリア王国の真南に、ハルケギニア大陸から足を突き出したかのように長く伸びた陸地がある。アウソーニャと名付けられた半島群だ。

 

 その東にある内海、イオニア海と隣接する都市連合群を統括する各教会は『イオニア教会』と呼ばれ、ロマリア皇国連合の中で五指に数えられる程の勢力を誇る。

 

「バリベリニ卿は、そのイオニア会に所属する最高顧問のひとりよ。二十代半ばでその地位に就いた若き俊英ってところかしら。枢機卿には普通なら、そうね……どんなに早くても三十代後半か、四十代になってようやく就任できるのに。素直に大したものだと思うわ」

 

 そう言って、目の前に立つ人物に視線を移すイザベラ。

 

「そんな重要人物が紛争が起きている国に派遣されるんだから、当然それに相応しい護衛がついてくるってわけ」

 

聖堂騎士団(パラディン)

 

 王女は隣に腰掛けていた従姉妹の言葉に頷いた。

 

「当たり。なんとイオニア会はもちろんのこと、アリエステ修道会に救世マルティアス騎士団までお越しときたわ」

 

「なんだそれは?」

 

 その問いに答えたのは、伏羲の正面にいたモノだ。

 

『聖堂騎士っていうのは、いわば総称でしてね。実際には各派教会が精鋭中の精鋭を集めて結成した騎士隊を全部ひっくるめて〝ロマリア聖堂騎士団〟って呼ぶんですよ、この場合はイオニア会とアリエステ修道会、救世会マルティアス寺院附の騎士隊がガリアに来ているという訳で』

 

「ふむふむ」

 

『騎士個人の実力的なことだけで言えば、花壇騎士団の皆さまのほうが上です。連中の厄介なところは教皇の命令と信仰を守るためなら、文字通り死ぬまで戦うことでしょうな』

 

 肩をすくめて見せた相手に、イザベラは同意する。

 

「だからあいつらを敵に回すような真似はしたくなかったんだ。あの連中、いざとなったらほんとに捨て身で来るからね、こっちの損害も馬鹿にならないんだよ。おまけにその場で宗教裁判を開く権限まで持ってるもんだから、北はともかく他の騎士団は絶対に手が出せないし」

 

「まさか、その者たちの意に沿わぬ真似をしたが最後、異端認定されるのか?」

 

「そういうこと」

 

「なんと面倒な……!」

 

 だからこそ、イザベラはリュティス大聖堂に少なくない人員を投入し、警戒態勢の穴を探っていたのだ。

 

 調査の結果、リュティス大聖堂には敬虔なブリミル教徒が心の安寧を得るための聖域とは思えないほどの厳重な護りが敷かれていた。魔法による障壁や罠が幾重にもかけられ、各派教会の聖堂騎士一個中隊が詰めている。

 

「万が一戦闘になった場合、鎮圧には花壇騎士団の中でも特に優秀な部隊が三つ……ううん、四つは必要だろうね。そうなると困るから、あなたたちに依頼したんだけど……」

 

 再び、ちらりと正面の人物を見遣るイザベラ。

 

『正直、あれは二度と御免被ります。私の流儀に反しますので』

 

「済まなかったね。わたしとしても、まさかこんなことになるとは思わなかったんだ」

 

 ふたりのやりとりを聞いていた伏羲が抗議する。

 

「おまえら、一体何が不満だと言うのだ!」

 

 その場にいた参加者たちは目を見合わせた。

 

「いや、だって、ねえ……」

 

「あれはない」

 

『私も姫さま方に同意しますよ』

 

「なんでじゃ――!!」

 

 

○●

 

 ――ハルケギニア人として初の宇宙遊泳をした翌朝。

 

 イザベラは己の懐刀を呼び出し、彼に作戦実行のための指示を与えた。

 

 それを受けた『地下水』は、いつものように大勢の間を渡り歩きながらリュティス大聖堂に潜り込み、そこでもまた多くのひとびとの間を行き交う。

 

 数時間ほど大聖堂の中を全て見て回った暗殺者は最初に受けた王女の命令通り、特に何もせずにプチ・トロワへ戻った。

 

 ……その夜。

 

 『地下水』を起点として、リュティス大聖堂のそこかしこに『窓』を展開する準備を整えていた伏羲は街中が寝静るのを見計い、行動に移った……のだが。

 

「こうするのが一番安全、かつ確実だったではないか!」

 

「わかってる! わかってるわよ! だけど!!」

 

「これは酷い」

 

『いやまあ、私は触れた相手を操れるとは言いましたがね……』

 

 なんのことはない。標的――眠っていたバリベリニ枢機卿の真正面に『窓』を開け、彼の顔に『地下水』を乗せただけである。

 

 そのまま順当にバリベリニ卿を乗っ取った『地下水』は『窓』を潜り抜け……そして。

 

『あれほど厳重な護りの中から、こうもあっけなく要人の誘拐が成功してしまうというのは……なんといいますか、暗殺者としての矜持が粉々に打ち砕かれる的な?』

 

 人好きのする顔立ちの若い男が、そう言って苦笑した。冬物の暖かな寝間着に身を包んだ彼の右手には、鈍く光る短剣が握られている。

 

「仕事が簡単に終わったのだぞ、素晴らしいことだとは思わぬのか?」

 

 不満げに鼻を鳴らした伏羲に対し、男――『地下水』はにっこりと微笑んで見せた。

 

『私は難題に挑むのが大好きでしてね。それに、ずっとあなたの〝力〟を借りていられるわけでもないのでしょう? 頼ることに慣れてしまえば、いつか訪れるであろう困難を乗り越えられなくなりますから』

 

「短剣だけに、錆びつきたくない?」

 

「シャルロット。あなた、真顔でそんな冗談言う子だったのね……」

 

 地球の『始祖』とガリアの暗部が、それぞれの〝力〟を惜しみなく提供した結果。ロマリアでも五指に数えられる程に巨大な派閥の最高顧問は、抵抗することはおろか、自分が攫われたことにすら気付かず『部屋』の中に佇んでいた――。

 

 

●○

 

「ええ、その件についてはもちろん聞き及んでおりますとも」

 

 ロマリアがガリアの内乱に関与しているのは本当かというイザベラの問いに、心を縛られたバリベリニ枢機卿から返ってきた答えがこれだった。

 

「先代の王妃を洗脳したり、ふたりの王子を仲違いさせようとしたことも……?」

 

 底冷えするような声で訊ねるタバサに対し、若き枢機卿は柔らかく微笑みながら頷く。その様は『地下水』に操られているとわかっていても不気味だった。

 

「はい。その他にも、現状に不満を持つ貴族を焚きつけたりしていたようですが」

 

「なるほどね。ところで、卿はこの件にどの程度関わっているの?」

 

「私は無関係ですよ。あくまで概要を理解しているだけに過ぎませんので。そもそも、こうした仕事は情報局が取り仕切るものですから」

 

「ボン・ファン寺院とか?」

 

 枢機卿は首を横に振った。

 

「あそこは本国へ情報を流すための中継地点、それも見せ札のひとつに過ぎません。全てを宗教庁に集めた上で判断し、適切な指示を送るのが情報局の役割ですので」

 

「他にも拠点があるってことかい?」

 

「もちろんです。私も全てを知っているわけではありませんが、何百年も前から地域に溶け込んでいた老舗が実はロマリア情報局員のたまり場だった、なんて話はざらですし」

 

 イザベラはむうと唸った。

 

(なるほどね、これまでの調査で連中の尻尾が掴めない訳だよ。こっちに入り込んでいるのはあくまで末端で、本体は遠く離れたロマリアにいるってんだから。おまけに寺院や聖堂の類は囮。本命は市中に溶け込んでるとか……)

 

 実のところ。間諜に店を持たせ、あまつさえそれを営業させるなどという発想はイザベラの中にはないものだった。ましてや数世代かけて諜報員たちを土地に馴染ませ、滲み出る余所者の空気や不自然さを拭い去るなどというのは想像の埒外にあった。

 

 彼らのやりくちに比べたら、イザベラが立案して実行に移したマッチポンプなど、まるきり子供のおままごとだ。

 

(腹立たしいけど、やっぱりロマリアの諜報機関は洗練されてるわ……謀略国家の名前は伊達じゃないってことね)

 

 昔なら、苛立ちのあまり周囲に当たり散らしていたことだろう。しかし本気でこの仕事に取り組もうと決意して以降、彼女は大きく変わったのだ。

 

(ある意味、これは連中の手口を学ぶ好機だ。時間が許す限り教えを請うとしようか。こんな機会は滅多にないからね)

 

 北の騎士団長は再び哀れな虜囚であり、得難き教師に声をかけた。

 

「その情報局ってのはどこにあるんだい?」

 

「もちろんロマリア宗教庁の中ですよ」

 

「お前はそこへ入ったことが……?」

 

「ありません。秘匿された部署ですから」

 

「関わり合いがないってことかい?」

 

「ええ。そういうものが存在すると知っているだけです」

 

 枢機卿はきっぱりと言い切った。

 

「徹底してるんだね」

 

「噂話というものは際限なく広がるものですからね。歴代の教皇と、周辺を固める一部の人員にしか伝わらないようになっているのですよ。逆に言えば、その程度の情報も掴めないような者がロマリアで権力の座に就くことはありません」

 

 つまり、彼はなるべくして地方教会の最高顧問になったというわけだ。

 

「ありがとう、よくわかったよ」

 

 イザベラは、ここまでの情報を改めて整理した。

 

 父ジョゼフの魔法に関する噂が錯綜したことや、その後の対応が遅かったことについて、こういった事情があるのなら納得できる。おそらくは手足から頭までの距離がありすぎて、有用な情報の仕分けや裏取りに作戦の立案、実際の指示が行き渡るまでに相応の時間がかかるのだろう。

 

(情報の新鮮さを重視するか、暗躍が露見しないよう徹底的に隠れるか……一長一短だね。とりあえず、ロマリアにわたしの息のかかった騎士を何人か派遣したほうがよさそうだ。この件については後ほど父上に相談するとして、その前に……)

 

 瑠璃色の瞳が同席者たちに向けられると、彼らは揃って頷いた。それを見たイザベラは核心に迫るべく口を開く。

 

「つまりだ、ロマリアがガリアに調略を仕掛けて内乱を引き起こそうとしたことや、お前たちに都合の良い王を戴冠させようとしたのは間違いのない事実なんだね?」

 

「はい」

 

「ガリア王をロマリアの傀儡にするために?」

 

「ええ、まあ。表現が直接的に過ぎますが、ありていに言えば」

 

「最終的な目的が聖地奪還だってことも?」

 

「もちろん。『始祖』に誓って」

 

 王女はその美しい眉根を両の指で揉んだ。

 

(あの月目野郎だけじゃなく、イオニア教会の大物までもが知っていた……こいつはもう確定だ。狂人の戯言なんかじゃない)

 

 叶うことなら、今すぐロマリア大聖堂に乗り込んで、奥でふんぞり返っているであろう教皇の胸ぐらに掴み掛かり、思いっきりぶん殴ってやりたい。

 

 ふと、イザベラは隣の椅子に腰掛けている伏羲の横顔を見遣る。

 

(彼ならほんとにやれそうだけど、さすがにシャレにならないわぁ……)

 

 そんな真似をしてしまったら、何のために彼らに枢機卿の誘拐を依頼したのかわからなくなる。諸悪の根源を叩き潰すという甘美な誘惑に耐えつつ、イザベラは質問を続けた。

 

「でもさ、お前たちはどうやって『聖地』を奪い返すつもりなんだい? エルフの先住魔法は強力なんだろう? 実際、過去に何度も遠征軍を差し向けたけどボロ負けだったじゃないか。まさかとは思うけど、数にモノを言わせて突撃するなんて言わないよね?」

 

 その問いを受けたバリベリニ枢機卿は、生真面目な顔で王女の質問に答えた。

 

「当然、聖下はそのための準備を始めておられます」

 

「その話、詳しく聞かせてもらえるかしら? ああ、長い話になりそうだから、その前に喉を潤しておくといいよ。ワインに麦酒(エール)、果実水……蜂蜜酒(ミード)もあるけど、どれがいい?」

 

「貴女のお心遣いに感謝を。では、蜂蜜酒をいただけますか?」

 

 琥珀色の液体を受け取った枢機卿は、嬉しそうに微笑んだ。

 

「いやはや。まさか、遠い異国の地で故郷の味に出会えるとは!」

 

「これこそが『始祖』のお導きってやつだ。違うかい?」

 

「ええ、まさに!」

 

 バリベリニ枢機卿は宝物を見つけた子供のような表情で、琥珀色の液体を口にした。

 

 蜂蜜酒はアウソーニャ半島の北部や、ゲルマニアの一部でのみ醸造されている酒だ。その歴史は古く、なんと始祖降臨以前にまで遡る。

 

 ワインを好むガリアやトリステイン、麦酒の本場アルビオンではやや敬遠されがちで、三王国では一般に流通していないのだが、このような珍品をイザベラがわざわざ用意していたのには当然理由があった。

 

 自在に精神を操れる『地下水』も、相手によっては苦戦することがあるらしいが、酒や好物を用いて前もって溶かしておくことによって、心の壁を打ち壊しやすくできるのだそうだ。

 

『感謝しますよ、イザベラさま』

 

「別に気にする必要はないよ。部下がやりやすいように万事取り計らうのも、わたしの役目なんだからね。で、そろそろ尋問を再開していいかい?」

 

『ええ、いい感じにほぐれてきました。それではどうぞ』

 

 イザベラは改めて目の前の――『地下水』と故郷の酒に心を溶かされた男へ向き直る。

 

「ずばり聞くよ、お前たちはエルフに勝てると確信しているんだね?」

 

「条件さえ整えば、可能と判断しております」

 

「で、その条件ってのは?」

 

「四の四を揃え、始祖の魔法を復活させる。さすれば聖地への道は開かれることでしょう」

 

 怪訝な面持ちの三者を余所に、枢機卿は民衆に説教をするような口調で続ける。

 

「『始祖』ブリミルが用いたゼロの系統。伝説に語られる〝虚無〟は確かに存在するのです」

 

 呆れ果てたような口調でイザベラは告げた。

 

「そう言われてもねぇ……伝説にしか残っていない魔法を信じて砂漠へ進軍しろって急き立てられてもさあ。素直に、はいそうですかとは答えられないよ」

 

「『始祖』の教えに背くと?」

 

「負けるとわかってる戦いに、兵を差し向けるわけにはいかないっつってんだよ! あんたたち神官は自分の騎士たちに『信仰のために死ね』って言えるんだろうし、あいつらもそれを喜ぶんだろうけどさ、他の国の貴族たちはそうじゃないんだから」

 

 バリベリニ卿はやれやれと肩をすくめた。

 

「教皇聖下の仰る通り、信仰は地に落ちたということですか。全く嘆かわしい」

 

「信じて突き進めば救われるなんていう狂信者の戯れ言を、素直に聞かなくなる程度には利口になったと言って欲しいね」

 

「事実をありのまま信じることの、何が狂信だというのです?」

 

「虚無がある、だからエルフに勝てるなんてさ。言うだけなら誰でもできるだろ?」

 

「証拠ならありますが」

 

「なら、もったいぶらずに見せてみな」

 

 若き神官を煽るイザベラ。その口調は男あしらいに慣れた酒場の女将のようだった。ところが、それに答えたほうもかなりの遣り手であった。

 

「六千年前。ハルケギニアと東方諸国を遮る大砂漠は、青々とした草原がどこまでも広がり、中央に清らかな川が流れる……生命に満ちあふれた土地であったそうです」

 

 イザベラは、はっとした。

 

「まさか……」

 

 その問いに、バリベリニは大きく頷いた。

 

「そう、死の大地サハラは先住の軍勢と『始祖』ブリミル率いる連合軍が衝突した場所。その地に根付いていた生命は、畏るべき虚無魔法により灰燼に帰したのです。『始祖』の周囲を固めていたわずかな者たちを除いて。ああ、これは誇張された伝聞ではありませんよ? 聖フォルサテが実際に立ち会い、彼の子孫たちの間で連綿と語り継がれてきた事実ですからね」

 

 二の句が継げず、まじまじと目の前の若き俊英を見つめるイザベラ。

 

 伏羲は声を潜めて傍らの少女に訊ねた。

 

「サハラとやらの広さはどのくらいなのだ? 図書館では調べきれんかったのだが」

 

「わからない」

 

 従姉妹の返答に、イザベラが補足する。

 

「調査できない、ってのが正確なところだね。ただ、出入りの商人どもの話を聞く限りじゃ、少なくともトリステインよりずっと広いはずだよ」

 

 そこへバリベリニが割り込んできた。

 

「正確にはトリステインの約二倍といったところでしょうか。我々神官が『始祖』に祈りを捧げているだけだと思っていましたか? 敵地を知るのは戦において大切なこと。当然、多くの斥候を放ってかの地を調査させています。東方へ向かう隊商などに紛れ込ませてね」

 

 三人は思わず顔を見合わせた。この話が事実なら、虚無の一撃は最低でもトリステインの国土を砂漠に変えてしまう程の破壊力を誇るということだ。

 

(それに比べたら三王家の乗法魔法なんか、そよ風みたいなものじゃないか!)

 

 尊敬する父が、そんな大秘術を操る人物かもしれない。

 

(昔なら喜んだかもしれないけど、今ではどうにも複雑だねえ……)

 

 そんなイザベラの思いなどつゆ知らぬといった風情で、バリベリニは語り続ける。

 

「ですが、慈悲深き『始祖』はこの結末を受け入れることができませんでした。そこで己の〝力〟を四つに分け、自身の子孫と――最も信頼していた弟子フォルサテの血族にのみ受け継がせることに……ゴホン。失礼、もう一杯それを頂いても?」

 

 枢機卿のグラスに蜂蜜酒を注ぎながら、イザベラは訊ねた。

 

「四つに分けた? 担い手を四人に増やしたってことかい?」

 

 受け取った酒杯を嬉しそうにちびちびと舐めながら、バリベリニは答える。

 

「違います。四人揃って、初めて真の虚無を発動できるようにしたのですよ。それほどまでに『始祖』は虚無の〝力〟を畏れたのです。あれはひとりの人間が持つべきものではない、と」

 

「ふうん。その真の虚無とやらは、王家の乗法魔法みたいなものなの?」

 

「むしろ、乗法魔法は副産物というべきでしょうな。〝虚無〟を受け継ぐ血族だけに許された特権とも」

 

 過去に入手した情報を精査しつつ、イザベラは確認する。

 

「『始祖』ブリミルが、自分の子孫と聖フォルサテの血筋から虚無の系統のメイジが生まれるようにした。四つに分けたってのは、そういう解釈でいいのかしら?」

 

「いいえ、そうではありません。虚無の担い手は、最初からそう在るように生まれてくるわけではないのです」

 

「どういうことだい?」

 

 眉をひそめた王女に対し、枢機卿は説明を好む教師のように述べた。

 

「血筋はあくまで条件にしか過ぎません。『始祖』の意志を受け継げる器でなければ虚無の〝力〟は宿らないのですよ。そうでなければ耐えきれませんから」

 

「意志を継げる、器……?」

 

 それを聞いたタバサの脳裏に、級友の顔がよぎる。

 

(ルイズ……あの子の器は大樹と呼ぶべき程大きなものだった。トリステイン王家の血を受け継ぐラ・ヴァリエール公爵と、伝説の『烈風』カリンとの間に生まれた娘。彼女には条件と資格の両方が揃っている。ある意味、当然の帰結……)

 

 いっぽう、伏羲の内心では嵐が吹き荒れていた。

 

(分割に、適合する器。そこに宿る〝力〟とは……まさか……)

 

 ――かつて、タバサと共に訪れたアンブランの村――

 

 そこで、生者のように暮らしていた魔法人形たちには魂魄が宿っていた。

 

 ――オルレアン公夫人の魂魄を守っていた、小さな人形――

 

 彼女は、分断してしまったシャルロット姫の魂魄から生まれたモノだった。

 

 これらを見た太公望は、この土地に住まう者たちには自分と同じように魂魄を分割できる性質があるのだとばかり考えていたのだが、しかし……。

 

(わしは、とんでもない思い違いをしていたのかもしれぬ)

 

 アンブランの人形と、タバサのフェルト人形。前者は〝土石〟と呼ばれる魔法石を用いて、腕の良いメイジが作り上げた魔道具だ。

 

 同じような効果を持つ『スキルニル』という魔法人形の存在が確認されているが、あれは模写したい人物の血を染み込ませることで効果を発揮する。

 

(だが、タバサの人形はなんの変哲もない、ありふれた布きれで作られたものだった。そんな品に魂魄が宿ったのは、まさか……)

 

 ブリミル本人や彼の血を引く者は、自分や『道標』と同じ、あるいは似たような性質――魂魄を分割できる能力があるのかもしれない。そう考えれば、魔法的な処置など施していないはずの人形にタバサの魂魄の一部が寄り添っていた理由も頷ける。

 

(壊れた母を見た衝撃と悲しみで、タバサの魂魄は無意識に割れてしまったのだ……)

 

 そうして無垢な大公姫シャルロットの側面は肉体から離れた。けれど、想いの欠片は消失せぬまま人形に宿り、オルレアン公夫人を守っていたのだろう。

 

 いっぽう、アンブランの魔法人形は動かすために村人と男爵夫人の血を必要とした。

 

(もしかすると、彼女や『スキルニル』を造り出した魔道具職人たちにも、僅かながらブリミルの血が入っていたのではなかろうか。であればこそ、肉体から離れた魂魄を定着させたり、その一部を削り取って素体に転写することができたのかもしれぬな……)

 

 もちろん、これらはあくまで仮説に過ぎないが。

 

 考え込む伏羲の耳へ、まるで答え合わせをするかのようにバリベリニの声が降ってきた。

 

「〝虚無〟はそれに相応しい器に宿ります。そして目覚めの時を待っているのです」

 

(そっちもか!)

 

 顔には出さず、だが内心で伏羲は呻く。

 

(〝虚無の力〟の正体とは、おそらく……四分割したブリミルの魂魄だ!)

 

 地球の『始祖』の驚愕をよそに、枢機卿の話は続いている。

 

「四人の担い手、四人の使い魔、四つの秘宝がひとつところに揃うとき、真の虚無が蘇る。これは遙かな古代より、歴代教皇と聖フォルサテの血筋の間で語り継がれし伝承なのですよ」

 

 どこか誇らしげに語るバリベリニを見ながら、伏羲は内心ひとりごちた。

 

(ルイズは虚無に目覚めたあとも、自我を保っておった。借体形成の術とは異なるようだのう)

 

 借体形成の術。それは女狐が長き刻を生き続けるために用いた技である。

 

 古くなった肉体を捨て、新たな身体に魂魄を写すという禁術の一種だが、そのためには適合する人柱を捜し出す必要があった。

 

 この術を用いた場合、人柱にされた者の魂魄はその意識ごと砕け散り、消失してしまう。

 

 その逆で、合わない身体へ無理矢理魂魄を注ぎ込むと肉体が使い物にならなくなる、あるいは魂魄側が押し負けてしまい、記憶や能力の継承ができなくなるからだ。

 

(引き継がれるのはあくまで〝力〟だけなのか、それとも……)

 

 三杯目の蜂蜜酒を要求した枢機卿の舌は、当初よりも勢いよく回っていた。

 

「既に最初の〝虚無〟は覚醒しています。たったひとりと侮るなかれ、かつての担い手、偉大なる『大王』ジュリオ・チェザーレは単独でロマリア半島とガリアの半分を統一するに至りました。そこにもうひとり加われば、聖地奪還は決して夢物語ではありません」

 

 イザベラが訝しげに問うた。

 

「いまいち信用ならないんだけど、担い手とやらの当てがあるってことかい?」

 

 バリベリニは大きく頷いた。

 

「もちろんです。まずはガリアのジョゼフ王。彼はほぼ間違いなく担い手になりえる器でしょう。まだ目覚めていないとしても、鍵を渡せば〝虚無〟として確実に覚醒するはずですよ」

 

「その鍵って何さ?」

 

 王女はジュリオにもした質問を、あえて繰り返す。

 

「各王家に伝わる始祖の秘宝と系統の指輪のことですよ。資格ある者が指輪を填めて秘宝を紐解くことで、あれらは虚無の魔法書に変わるのです」

 

「なるほどねえ」

 

 呟いたイザベラは、確認のためにちらと周囲に目配せする。従姉妹も、彼女の頼もしい友人も、揃って頷き返してくれた。

 

 答え合わせを終えると、王女はわざとらしく伸びをした。

 

「う~ん。そうだとしても、あの『無能王』がロマリアに協力するかねえ?」

 

「なに、その場合はお隠れいただくだけですよ。既に〝予備〟の充てはありますから」

 

 さらりと父の暗殺を仄めかした男の精神性に吐き気を催しながらも、イザベラはそれを隠して問いかけ続ける。

 

「予備? まさか、王族の隠し子をどこかに確保してるとか言わないよね?」

 

 隠された双子の存在を知るタバサは、内心ビクリとした。

 

(行方不明のあの子が、ロマリアの手に落ちている――!?)

 

 しかし、幸いなことに運命は彼女に味方した――少なくとも、この時点では。

 

「いいえ、そういう訳ではありません。ガリア貴族たちの間で話題になっていたでしょう? 大公姫が召喚に失敗し、人間の使い魔を喚び出してしまったと」

 

「一応聞いちゃいるけど。それと何の関係が?」

 

「虚無に目覚めるには、三王家あるいは聖フォルサテの血を引いていることが条件だというのは先ほども述べましたが、実はそれだけではないのです」

 

「というと?」

 

「もうひとつの目安として、始祖の使い魔を呼び出せる〝力〟を持つことが必須なのですが――かの選ばれし(ルーン)は人間、あるいはそれに近しい種族にしか現れません」

 

「ひょっとして……」

 

 バリベリニ枢機卿はにっこりと微笑むと、参加する全員に向けて特大の爆弾を投下した。

 

「〝虚無〟は器が破壊されると、資格を持つ同じ血筋の他者に乗り移るのですよ」

 

 イザベラは、口をぱくぱくしながら声を絞り出す。

 

「ま、ま、まさか、ジョゼフ王が死んだら、虚無の〝力〟がシャルロット……姫、に移る、なんて馬鹿なこと、言わない、よね……?」

 

 その疑問に対し、枢機卿は微笑みを浮かべたままだった。すなわち――明確な肯定。

 

「未だ、どの使い魔を喚んだのかすら定かではありませんが、人間種を従えている時点で器としての資格は充分です。大公姫殿下さえ抑えておけば、第二の虚無は間違いなく確保可能かと」

 

 それから、バリベリニ卿は思い出したように付け加えた。 

 

「既にアルビオンの王か皇太子の何れかにも虚無が寄り添っているかもしれませんね。かの〝力〟は高貴なる血筋が危機に瀕した際に、より発現しやすくなるそうですから」

 

 タバサは勢い込んで問い質した。

 

「ロマリアがテューダー家の滅亡を黙って見ていたのは……」

 

「第三の虚無が目覚めれば、より目的の成就に近付きますので。その流れでトリステインが危地に陥ればなお良かったのですが、まさか王朝の交替が起きるとは。ままならぬものですな」

 

 いかにも残念といった様子で漏らすバリベリニ卿。

 

 その姿を見たタバサは、背中に氷のナイフを突き立てられたような感覚に陥った。

 

(このひとは……ううん、彼らは聖職者なんかじゃない)

 

 自分たちの目的を達成するためならば手段を選ばぬ、それこそ始祖の血族を滅びの淵へ追い遣ることすら辞さない、六千年の妄執に取り憑かれた化け物だ。

 

「なんなんだ……」

 

 恐怖、怒り、嫌悪、畏れ……さまざまな感情を含んだ声が、イザベラの喉を震わせた。

 

「お前たちをそこまで駆り立てる『聖地』って、一体なんなんだよ!!」

 

 ――同族の血で国土を濡らし、世界を死の砂漠に変えてまで奪還すべきものなのか。

 

 彼らに翻弄された姫君たちの悲痛な問いに対し、教皇の顧問は厳然と告げた。

 

「聖地を取り戻し、その奥にある扉を開いて『約束の地』へ至る――それこそが、我ら『始祖』のしもべたる者たち全てに課せられた、大いなる使命なのです」

 

 

○●○●○●○●

 

 ガリアの国境を守る城塞都市アーハンブラの遙か彼方、砂漠の東端に広がる海上に、同心円状の埋め立て地が並んでいる。その隙間を縫うように、無数の船が行き来していた。

 

 海上都市アディール。ハルケギニアに住まう人類の天敵、エルフの国ネフテスの首都だ。

 

 埋め立てられた土地の上にはガラス張りの建造物が整然と建ち並んでいるが、そのどれもがトリステインはもちろんのこと、ガリアでも、ゲルマニアにすら存在しない、進んだ技術で造られているであろうことが伺える。

 

 もしも才人がこれを見たら、中東の人工都市を思い浮かべていたことだろう。

 

 都市の中央には高くそびえ立つ塔があった。綺麗な塗り壁で作られ、淡い色の堅焼きタイルが幾何学模様を描いており、無味無乾燥な建物に彩りを与えている。

 

 その塔の屋上に一頭の風竜が舞い降りた。それを見た塔の警護兵たちはすぐさま周辺に集まり、訪れた客人の顔を見て礼をした。

 

 竜の背に乗っていた細身の人物は、兵たちを見て被っていたフードを取り、己の身にまとわりつく砂埃を払う。

 

 切れ長の碧眼に、さらさらと海風にそよぐ金色の髪。それだけなら、ハルケギニア世界でも間違いなく美青年と呼べる風貌である。しかし、髪の横からすいと伸びた細長い耳が、彼が人間ではないことを明確に示していた。

 

「ビダーシャル卿、奥の執務室で統領閣下がお待ちです」

 

「ご苦労」

 

 ビダーシャルと呼ばれたエルフの男は警備兵たちを労うと、まっすぐに塔の中へと向かった。それからネフテスの最高権力者が待ち受ける部屋の前に立った彼は、ノックすらせず扉を開けて中へ立ち入った。

 

 部屋の奥では、ひとりの老いたエルフが椅子に腰掛け、何かをいじっていた。来客に気付いた彼は手にしていたモノを机の引き出しに仕舞うと、立ち上がって声を上げた。

 

「よく来てくれた、ビダーシャル卿」

 

 老エルフは人懐こい笑みを浮かべ、ビダーシャルを歓迎した。

 

「テュリューク統領閣下のお呼びとあらば」

 

「そう畏まらなくともよろしい。熱射の中をご苦労じゃったな」

 

 老エルフ――エルフの統領テュリュークは棚から酒瓶を取り出し、ガラスの杯に注いでビダーシャルを手招きした。杯を受け取ったビダーシャルは、中身を一気に飲み干す。魔法の棚に仕舞われていたそれは、いい塩梅に冷やされていた。

 

「それで、統領閣下。わたしをこの評議員議会本部(カスバ)に呼ばれた理由を伺っても?」

 

「ここ最近、竜の巣――いや、今ここにはわしらしかおらん、率直に言おう。〝悪魔の門〟の活動が活発になってきておることは――?」

 

「存じております。おそらくは……」

 

「そう、蛮人世界で〝悪魔(シャイターン)〟どもが復活しようとしておるのじゃ」

 

 統領の言葉に、ビダーシャルはごくりと喉を鳴らした。

 

「わしは無類の臆病者でな、戦なぞしとうないわい」

 

 ビダーシャルは頷いた。

 

「存じておりますよ、わたしも無益な争いは好みません。いえ、我々エルフのほとんどがそうでしょう――ごく一部を除いて、ですが」

 

「『鉄血団結党(てつけつだんけつとう)』の連中じゃな?」

 

 老エルフはため息をついた。

 

「あやつらはただ一生懸命なだけなんじゃ。言うこと成すこと、全くもって賛同できんが」

 

 肩を落とした統領に向け、ビダーシャルは苦笑して見せた。

 

「わたしがあと三十ほど若ければ、彼らと共に行動していたのかもしれませんがね」

 

「であればこそ、きみを選んだとも言えるのじゃがな」

 

 ビダーシャルの片眉がぴくりと動いた。

 

「と、言いますと?」

 

「蛮人世界に出向き、そこを治める王に会って和平交渉に臨んで欲しい」

 

「彼らが受け入れるとは思えませんが」

 

「それがな、唯一話し合いに応じてくれそうな相手がおるんじゃよ」

 

 自信ありげな笑みを浮かべた統領は改めてビダーシャルに向き直ると、書簡を手渡した。

 

評議会(カウンシル)議員ビダーシャルよ。蛮人世界がひとつ、ガリアの王ジョゼフ・ド・ガリアと対面し、悪魔の門に近付こうとする一派を抑えるよう申し入れよ。和平交渉における相手側への見返りは全てそこに記された通りじゃ。汝に〝大いなる意志〟の加護があらんことを」

 

○●

 

 ビダーシャルの足音が執務室から遠ざかるのを聞き届けたテュリュークは、椅子にどっかと腰掛けると、再び机の引き出しを開け、先程までいじっていたものを取り出した。

 

 それは一丁の長銃だった。より正確に言うなれば〝長銃とおぼしきもの〟だ。エルフの国にも銃はある。あくまで、それと似ているからという理由で銃と呼んでいるに過ぎない。

 

 エルフの優れた技術をもってしてもなお、どうやって造られたものなのか……いや、そもそもどう使うのか、どういった目的で造られたのかすらわからぬ、尋常ならざるモノであった。

 

「かつて〝災厄の門〟が開いて悪魔どもが現れたとき。母なる大地は死の砂漠と化し、我々エルフはもちろんのこと、この地に住まう生きとし生けるもの全てが滅亡の危機に追い遣られた……」

 

 老いたエルフは身震いする。

 

 それは六千年の昔から、今もエルフたちの間で語られる、大災厄の伝説。

 

『災厄の門が悪魔たちの手によって開かれるとき、世界は再び炎に焼かれ、大地は毒に侵され、全てが永遠の闇に閉ざされるであろう』

 

 もちろん、伝承に謳われる悪魔の魔法は怖ろしい。しかしエルフたちとてこの六千年の間、無為の時を過ごしてきたわけではない。統領テュリュークが真に恐怖しているのは――。

 

「わしは蛮人どもの魔法なぞ畏れぬ。限られた者しか扱えぬ技なんぞ、どうとでもなる。じゃが、万人が扱える高度な技術が門の向こうにあるのは間違いない……」

 

 その認識が事実であろうことは、彼の手にした銃が証明している。

 

「臆病者と笑われることくらい、なんでもないわい。あの門が開くことに比べたら……!」

 

 エルフの統領は『世界の管理者』としての責任に押し潰されそうになりながらも、海の彼方に沈む夕日に長久の平和を願った――。

 

 

 




更新遅くなりまして申し訳ありません。

さて、そこいらじゅうに散らばった導火線に火が付きそうな状況です。とはいえ、これでもまだ序の口なんですよネ……。

ゼロ魔原作最終巻発売まで、あと10日。
結末がどうなるのか、気になって仕方がありません。



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王政府攻略
第104話 王族たちの憂鬱


 ――ウィンの月・ヘイムダルの週・ユルの曜日。

 

 トリステインの王都で戦勝と新王の即位を祝うパレードが行われていた。

 

 聖獣ペガサスにひかれた豪奢な――サンドリオン一世とカリーヌ王妃が座す馬車を先頭に、三人の麗しき王女たちと国内の高名な貴族が続き、その周囲を礼装に身を包んだ魔法衛士隊が油断なく警護している。

 

 さらに、その華やかな一団の後ろを騎士や軍人たちが馬で闊歩していた。彼らは皆、気分が昂揚するのを隠すことができず、一様に顔を紅潮させていた。

 

「新国王サンドリオン一世陛下、万歳!」

 

「トリステイン軍、万歳!」

 

「我らが祖国、トリステインに栄光あれ!」

 

 街路に詰め掛けた大勢の観客たちから歓声が投げかけられる。道に入りきらなかったひとびとは

通り沿いの建物の窓や屋根の上から手を振り、この日のために用意された色とりどりの花びら――真冬に咲く花は少ないため、そのほとんどが〝錬金〟の魔法によって造られたものだったが――を撒き散らし、新国王を歓迎した。

 

 世界最強の空軍を擁する神聖アルビオン共和国を退けた軍事的な才能もさることながら、豊かで領民たちが安堵して暮らせると評判のラ・ヴァリエール領を長年に渡って統治してきた手腕こそが、国民に最も期待されている事柄であろう。

 

 おまけに、その伴侶は伝説と謳われた風メイジ『烈風』カリン。

 

 もともと「男装の麗人ではないか」という噂があったこともあり、彼女の正体は驚くほどあっさりと国民たちに受け入れられた。

 

 さらに、国王夫妻の後ろに続く三人の王女たちは全員が天上から舞い降りた女神と見紛うばかりの美しさだ。これでは群衆が熱狂しないほうがおかしい。

 

 ブルドンネ街を埋め尽くした民たちの歓声は、後方の列にも投げかけられている。それを耳にした人物――燦然と輝く勲章を身に付けた男は呆然と呟いた。

 

「提督……あなたにも、生きてこの場にいていただきたかった……」

 

 目にうっすらと涙を浮かべたこの人物の名はフェヴィス。トリステイン王国空軍旗艦の艦長を務めていた男だ。アルビオンの砲撃でフネと共に沈む覚悟を決めていた彼は、側にいた部下たちによって半ば強引に退艦させられ、九死に一生を得ていたのだった。

 

『卿らが文字通り命を賭けてくれたからこそ、トリステインは今日という日を迎えられた。まさしく貴族の鑑である』

 

 治療院のベッドに横たわっていた彼ら空軍兵士たちを見舞い、ひとりひとりに声をかけ、激励と謝辞を述べて回ったのは、誰あろうサンドリオン一世そのひとだった。

 

 彼は国王として取り組む二番目の仕事に、奮闘した兵たちと遺族への補償を選んだ。通常なら王族と一部の軍閥貴族だけが参加できる戦勝パレードへの同行もそのひとつであり、彼らが間違っても「敗軍」などと呼ばれぬよう、配慮した結果だ。

 

 王立空軍兵士たちの奮闘は、戦勝パレードでの華々しい行進というこの上ない名誉と、年金つきの勲章授与という実利によって、確かに報われたのだった。

 

 三番目に着手したのが、隣国ゲルマニアとの軍事防衛同盟条約の見直しと再締結である。

 

 両国の話し合いは、終始トリステイン側の優位で進行した。

 

 アンリエッタ姫と皇帝アルブレヒト三世の婚約は破棄。相手方の外交官は不満を露わにしたが、そもそもの原因がアルビオン急襲の際に発せられた援軍要請に応えなかった自国にあるため、強硬な姿勢など取れようはずもない。

 

 とはいえ、野心を露わにしたアルビオンの空襲に怯えるゲルマニアは〝乗法魔法〟の使い手を複数抱え、かつ精強な陸軍を持つトリステインとの同盟解消など論外であり、渋々ながらも受け入れざるを得なかった。

 

 その代わりに軍の共同演習や街道の整備、一部物資に限り関税を優遇するなどの条約が盛り込まれたため、皇帝の面目が丸つぶれになるような事態だけは辛うじて防がれたようである。

 

 新軍事防衛同盟の調印式典は王都トリスタニアで行われ、トリステインからは新国王と宰相マザリーニが、ゲルマニア側からは外交長官オルトーと陸軍大将ハルデンベルグが出席した。

 

 ゲルマニアとの外交交渉とほぼ並行して不穏分子の粛清も行われた。新王の手腕は苛烈を極め、一時はトリスタニアが膝下まで血に浸かるなどと言われた程である。

 

 賄賂で役人を懐柔し、アルビオンからの密航船を受け入れていた貴族。

 

 劇場に潜り込み、観客にトリステイン王家に対する嫌悪感を植え付けようとしていた脚本家。

 

 権力を笠に着て、平民たちから不当な大金をせしめていた徴税官。

 

 これらトリスタニアで蠢いていた『レコン・キスタ』やアルビオン貴族派の間者に加え、腐敗していた官僚たちが揃って罷免された。

 

 彼らを取り締まるべき立場にあった高等法院の参事官・高等法院長リッシュモンに至っては、厳しいという言葉が生温く感じる程の事情聴取を受けた後、過去の汚職や『レコン・キスタ』との繋がりなど恐るべき事実を自白。

 

 さらに、伝染病根絶のため王軍が焼いたと記録されていたいくつかの村落が、実はロマリアから多額の賄賂を受け取った見返りとして行われた新教徒弾圧・虐殺であることが判明するに至り、既に確定していた罪状に加え、収賄罪、外患幇助罪、外患誘致罪、大逆罪が適用された。

 

 リッシュモンの私腹を肥やすためだけに滅ぼされた村々が、今回戦場となったダングルテールに集中していることに、運命の皮肉が感じられる。

 

 高等法院長は貴族の地位と役職だけでなく家名までも剥奪され、領地を含む財産の全てを没収。彼の一族も連坐となり、最終的に死罪の中で最も重い火あぶりの刑に処された。

 

 処刑の当日。それを伝え聞いた『ダングルテールの虐殺』の生存者が、処刑台の下に積み上げられた薪に火をつけさせてくれと涙ながらに訴えていたと噂されているが……その結末がどうなったのか、そもそも何故ロマリアがわざわざ遠国の鄙びた寒村を滅ぼそうとしたのかは不明である。

 

 国内の統制を終えた後、新王は神聖アルビオン共和国に対する禁輸政策を執り、ラ・ロシェール及び国境からの出入国審査に多数の人員を割いた。

 

 魔法や薬などで操られてはいないか、貴族派連盟のメイジが紛れ込んでいないかどうか、危険なものを持ち込んでいないかを〝魔法探知〟で調査するなど、幾重にも渡る確認を行うためである。

 

 一攫千金、あるいは同志への補給を目論んで密航船を出す者たちが現れたが、そのほとんどが軍事防衛同盟締結後ラ・ロシェールに停泊を許されたゲルマニア艦隊によって拿捕され、法により裁かれた。

 

 ごく稀にゲルマニア空軍の目を逃れて支配空域を抜けるフネもあったが、それらはことごとく空賊の餌食になった。法を犯しての密輸だけに、トリステインやゲルマニアへ討伐を願い出るわけにもいかず、彼らは泣き寝入りするしかなかった。

 

 内戦により農地が荒れ、食料供給のほとんどをトリステインからの輸入に依存していたアルビオン貴族派連盟はこの措置を受け、他国へ救援を打診するも、ゲルマニアはトリステインと歩調を合わせ拒否。ガリアは自国における内乱発生の不安があると称して返答を先送りにし、ロマリアはこれまでと変わらず沈黙を貫いていた――。

 

 

○●

 

 ――戴冠式当日の夜。

 

 全ての行事を終え、国王専用の居室で休息を取っていたサンドリオン一世は、心の内側でひとり頭を抱えていた。

 

(おそらく、彼は気付いているのだろう……)

 

 現在彼を悩ませているのは、先日マザリーニ枢機卿自ら届けに来た報告書だ。それを記したのはダングルテールでの戦いにおいて捕虜となった敵兵たちを尋問した衛士であった。

 

 ――フェニックスに関する調書

 

 その報告書には、濃緑の竜に撃墜されながらもかろうじて生き残り、トリステイン軍に捕らえられたアルビオンの竜騎士たちの話が事細かに書き記されていた。

 

 強力な魔弾で次々と味方を撃ち落とした、見たことも聞いたこともない新種の竜。

 

 そんな竜騎士がトリステインにいることなど寡聞にして知らぬ衛士は、引き続き調査を行うことにした。結果、件の緑竜がタルブの村に伝わる『竜の羽衣』と呼ばれる機械であったことが判明したのである。

 

 この『羽衣』が、六十年ほど前に遥か東の彼方から飛来したこと。

 

 以後、村の守り神として寺院に祀られていたこと。

 

 驚くべきことに、火竜を圧倒したその『羽衣』には魔法が一切使われていないこと。

 

 『羽衣』を操っていたのは、ヴァリエール家令嬢の護衛士を務める少年だったこと――。

 

 それが判明した時点で、衛士は少年に接触することを躊躇した。何故なら、彼の主人はトリステインの第三王女となったルイズだったからである。

 

 そこで衛士は一旦調査を中断し、報告書をまとめ上げた上でマザリーニに判断を委ねたのだ。

 

 提出された書類の内容を把握した枢機卿は、何食わぬ顔で王の裁可を必要とする案件と共にこれをサンドリオン一世の執務室へ持ち込み、慎重に人払いをした上でこう述べた。

 

「わたしにとっての祖国は最早ロマリアではなく、このトリステインだと考えております」

 

 その一言だけを告げて退出した枢機卿の背中を、王はただ見送ることしかできなかった。

 

(ゲルマニア皇帝の朝食のメニューから、火竜山脈に生息する竜の正確な数まで把握していると言われるマザリーニのことだ。あの大鳳を切欠にサイトの情報を入手したことで、ルイズとの繋がりに気づき、そこから伝説の系統に辿り着いているに違いない……)

 

 マザリーニの情報収集能力はトリステイン国内において群を抜いている。ヴァリエール家の諜報員もそれなりの実力を持っているが、彼の部下たちはその遥か上を行く。

 

(これだけならまだ良かった……いや、決して良くはないのだが、ううむ……)

 

 昨日オスマン氏を通して届けられた伝言が、サンドリオンの心をより曇らせていた。

 

『ロマリアが、聖地奪還のために本腰を入れて虚無の担い手を捜している。その足がかりとして、ご主人さまに接触してきた』

 

 詳細は諜報の危険があるので、後ほど改めてとのことだったが、この情報が示すのは――。

 

(あの聡い姫君のことだ、おそらく彼女も……)

 

 王は、なんだか胃の奥がキリキリしてきた。

 

(オールド・オスマンやミスタ・タイコーボー、それにジャンという前例がある。気付かれる可能性は高いと警戒していたが、まさかここまで早いとは……!)

 

 ルイズと才人が騎乗していた『竜の羽衣』は魔法に依らぬ飛行を可能とする機械だそうだが、マザリーニがここからルイズの正体を看破したのだとしたら。

 

(オールド・オスマンも、エレオノールも、聖地には『始祖』が降臨した際に用いた〝扉〟があるのではないかという仮説を立てていた……)

 

 ブリミル教の聖典には〝始祖は天上より神に遣わされた〟と記されており、一部の熱心な神学者を除くハルケギニアの民は、それこそが真実だと教えられてきた。

 

 だが、その話がロマリアの偽装工作なのだとしたら。

 

(枢機卿はふたりの説こそが事実であることを知っていて、あの大鳳が〝扉〟の向こうから飛来したのだと考えたのではなかろうか)

 

 だとすると、マザリーニは未だサンドリオンたちが知らない〝虚無〟に関する情報を持っていることになる。

 

(故郷、か……)

 

 生まれた国ではなく、自分がこれまで守り抜いてきた場所はトリステインだ。マザリーニ枢機卿はそう言いたいのであろう。

 

(元々穏健派で、トリステインとアルビオン会戦の際も最後まで直接対決を避けようとしていた。教皇選出会議(コンクラーヴェ)による召還すら固辞し、至高の座に就くことを拒んでまでこの国を救おうと奮闘していた彼が、聖地奪還運動に賛同するとは思えないが……う~む)

 

 マザリーニ枢機卿は信頼に値する人物である。

 

 しかし、かつてはロマリアで最も教皇の座に近いとされた聖職者でもある。

 

 トリステインを守りたいという彼の言葉に嘘はないだろうが、ブリミル教の司教枢機卿として、聖典の教えから外れるような真似ができるとは考えにくい。

 

 サンドリオン王は、見事なまでの二律背反状態(アンチノミー)に陥ってしまっていた。

 

「随分とお悩みのようですね」

 

 そんな王に声を掛けてきたのは、彼の妻だった。

 

「やはり、ジャンの件ですか?」

 

 カリーヌ夫人の問いに、サンドリオンは曖昧に頷く。

 

 ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。彼もまた、王の悩みの種だった。

 

「あのときの判断を後悔しているわけではない。だが……」

 

 息子も同然の若者を、二重間諜として『レコン・キスタ』へ潜り込ませる。彼の技量と知謀を評価してのことだったが、それ自体は問題なかった。事実、ワルド子爵は敵と通じる裏切り者のあぶり出しに大きく貢献してくれたし、先の会戦でも見事な活躍をしてみせた。

 

 しかし……。

 

「あの子なら、エレオノールを支える次代の王配に相応しかったのですが」

 

「ああ、本当にな」

 

 小さく肩を落とす王妃に、王は心の底から同意していた。

 

 あの依頼は、ラ・ヴァリエール公爵がオスマン氏に助言を請う前に行われたものだ。もしもこれらの順番が逆であったなら、ワルドにあんな真似はさせなかっただろう。

 

 例の粛正時、当然のことながらワルドは難を逃れていた。彼が二重間諜であることを誤魔化すために、あえて黒と判定された――しかしながら、さほど罪の重くない者を複数見逃している。

 

 ところが、リッシュモンの自白中に子爵の名が出てしまったがために、無罪放免というわけにはいかなかった。もちろん、マザリーニ枢機卿やグラモン元帥など信用できる一部の貴族には事情を説明してあるが……それを公にすることはできない。

 

 そんな真似をすれば、ワルドは卑劣な裏切り者として『レコン・キスタ』から命を狙われるという重荷を背負うことになるだろう。

 

 本人に状況を説明した上で、何も知らないトリステイン側の監視を付けることにより彼の立場を黒から灰色にし、やがて白へと塗り替える――。

 

 応急処置にも程があるが、現時点ではこれが最良の手であった。

 

「ですが、敵と繋がっているという疑惑を持たれている者を、王室に迎えるわけには参りません。あの子は、国と、わたくしたち家族のために命を賭けてくれたというのに……!」

 

 無念のあまり臍を噛む妻に、夫は沈痛な表情で告げた。

 

「全くだ。なればこそ、せめてジャンのささやかな願いを叶えてやらねばなるまい」

 

 ワルド子爵の願い。それは、かつて王立アカデミーの主席研究員であった母が遺した論文及び、研究に関する資料の開示依頼であった。

 

『僕は、亡き母の遺志を継ぎたいのです。いえ、どうしても継がねばなりません』

 

 終始堅い表情を崩さなかったワルドは、王が手配した偽装工作に関して礼を述べた後、手を取って詫びる義父になるはずだった人物に対し、そう切り出してきたのだ。

 

『陛下は、母が心の病に罹っていたことをご存じでしたか?』

 

 その問いに、サンドリオンは頷いた。もともとワルド子爵家とは家族ぐるみの付き合いがあり、先代の領主は王の友人でもあった。

 

 公爵家の当主として顔の広い彼は、友から妻の病を治す方法についての相談を受けている。

 

『母が狂気に囚われてしまったのは、どうやらその研究に原因があるようで……』

 

 ワルド曰く、子爵夫人が遺した日記に「怖ろしい秘密を知ってしまった」「どうしてあんな研究をしてしまったのか」「これは誰にも話せない」などという記述を発見したのだという。

 

『屋敷の中には、それらしき研究資料は一切残されていませんでした。ですが、ひょっとするとアカデミーになら、何か痕跡があるのではないかと思った次第でして』

 

 サンドリオンの目には、ワルドが他にも何か言い淀んでいることがあると映った。しかし、多大なる働きをしてくれた()()に対し、報いることができていないと感じていた王は、エレオノールの伝手で調べてみることを約束したのである。

 

 ……後日、この調査結果によってヴァリエール家の主と長女の胃に穴が開きかけるのだが、それはもうしばらく先の話――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――同じ頃。

 

 サンドリオン王とはまた別の意味で胃を痛めていた人物がいた。

 

 ガリアの王女、イザベラである。

 

「あなたに会って欲しいひとがいる」

 

 タバサに請われ、何事かと思いつつも彼女は了承した。

 

「向こうは寒い。外套と、厚手の服を用意して」

 

「どこへ連れて行くつもりだい?」

 

「着けばわかる」

 

 従姉妹は相変わらず言葉足らずな上に無愛想だが、表情に僅かな緊張が見て取れた。

 

(……今更、謀殺なんか疑っても仕方ないわよね)

 

 そう考えながらも、用心深く懐に『地下水』を潜ませている。イザベラは、そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。

 

『つくづく救えないよね。心を開いてくれた実の従姉妹を、まだ信じられないなんてさ!』

 

『そいつは職業病ってやつですよ、イザベラさま』

 

 心の内で『地下水』相手に愚痴りながら、伏羲の開いた『窓』をくぐる。

 

 そこは、どこかの都市――ほぼ間違いなくガリアではない、うらぶれた住宅街の一角。

 

「うわ、ほんとに寒ッ……」

 

 イザベラは思わず大きな声を上げてしまった。無理もない、リュティスでは雨が降っていたが、ここではちらちらと雪が舞っていたのだから。

 

(トリステインの裏町かしら? それにしては建物の構造がらしくないような……)

 

 きょろきょろと周囲を見回すも、やはりこんな場所に覚えはない。

 

「シャルロット、ここはどこなのさ?」

 

 訝しげに問う姫君に、タバサはいつもと変わらず簡潔に応えた。

 

「ゲルマニア」

 

「ふうん、ゲルマニアねえ……って、ええええええ!」

 

「静かに。住民に迷惑」

 

 忠告後、蒼い髪の少女は近くにあった共同住宅(アパルトメント)らしき建物の玄関を開け、中に入ってゆく。イザベラは慌ててその後に続いた。

 

 廊下を進んで一番奥の部屋の前に立ったタバサは、扉に付けられた叩き金(ノッカー)を打ち付ける。少し待つと中から返事があり、身なりの整った老爺が姿を現した。

 

「これはこれはお嬢さま、お待ち致しておりました」

 

「ペルスラン。お客さまがふたり」

 

「はい、もちろん承っておりますとも」

 

 そう言って入室を促す老人の顔に、イザベラは全く覚えがない。とはいえ、見たところ彼は単なる使用人に過ぎないようだ。待ち人とやらは奥にいるのだろう。

 

 そんなことを考えながら扉をくぐると、ようやくタバサの後方にいた少女に気付いた老爺は、ぎょっと目を丸くした。

 

「こんなことが、よもや……!」

 

 ペルスランと呼ばれた老従僕は聖具の形に印を切ると、天を仰いだ。

 

「お嬢さま、その……本当によろしいのですか?」

 

「到着前に伝えておいたはず」

 

「しかし……」

 

「いいから、案内して」

 

「……ご無礼を致しました。どうぞ、こちらへ」

 

 ペルスランは主人と来客に対して深々と礼をすると、奥の部屋へ先導した。

 

 タバサと伏羲、そしてイザベラは彼の後について静かに廊下を進んでゆく。

 

(この使用人の顔は、わたしの記憶にない。だけど、こいつはわたしを知っている。それに、シャルロットをお嬢さまと呼ぶってことは……元オルレアン家の、いや、今も従僕なのか)

 

 住宅の内部は質素な造りで、ほのかな明かりに照らされた床には塵ひとつ見当たらなかったが、歩くたびにぎしぎしと音を立てるし、壁には生活によってつけられた傷らしきものがいくつも刻まれていた。どう考えても貴人が住まうような場所ではない。

 

(シャルロットは、一体誰に会わせようっていうんだろう? もしかして、大公家に仕えていた使用人かしら。そいつから昔のことを聞くつもりなのかね?)

 

 そうこうしているうちに、先頭のペルスランが目指していた部屋の前へ辿り着いた。

 

「奥さま、お嬢さまとお客さまをお連れしました」

 

「ありがとう。中へ入っていただいて」

 

 その声を聞いた途端、イザベラの心臓がばくんと跳ねる。

 

(嘘、この声は……!)

 

 イザベラの知るかの人物は、ラグドリアン湖畔の屋敷に閉じ籠もっているはずだ。それも、魔法の毒に冒された状態で――。

 

 立ち尽くす王女の手を、傍らにいた少女がきゅっと握り締めた。

 

「お願い。いっしょに来て」

 

 そう言って見つめる従姉妹の瞳は、僅かに揺れていた。

 

 ごくりと喉を鳴らすと、イザベラはタバサの手をそっと握り返す。

 

 キィ、という音を立てて扉が開く。部屋の奥には丸テーブルが置かれていた。奥の椅子に座っていた赤毛の女性が、ふたりの姿を確認した途端、ゆっくりと立ち上がった。

 

 それから、イザベラに向けて優雅にお辞儀する。

 

「姫殿下。このような遠方まで、ようこそお越しくださいました」

 

 柔らかな声と物腰。髪の色こそ、本来の濃い蒼ではなくなっているものの――。

 

「お、叔母上……」

 

 父王ジョゼフが宴席で毒を呷らせた、オルレアン公夫人そのひとであった。

 

 夫人は、イザベラを見て微笑んだ。

 

「嬉しいわ。あなたは、わたくしを叔母と呼んでくれるのね」

 

「と、当然です! で、ですが、その、あなたは……」

 

 困惑の色を浮かべた姪を訝しげに見遣ると、オルレアン公夫人は娘に向き直る。

 

「まさか……事情を説明せずに、公務でお忙しい姫殿下をここへお連れしたの?」

 

 こくりと頷くタバサ。

 

「まったく、この子は……。申し訳ございません、昔から、こんな風に悪戯ばかりして……」

 

 イザベラが最後に夫人と顔を合わせたのは、もう四年近く前であったか。毒によって錯乱していた当時と異なり、魔法薬の影響は完全に消え失せている。

 

 どうやって、あの薬を無効化したのか。

 

 どうして、こんな侘しい部屋に元とはいえ王族に連なる者が住んでいるのか。

 

 そんな疑問が蒼き姫の脳内を駆け巡ったが、実際に口から出たのは全く別のことだった。

 

「わたしを、責めないのですか?」

 

 オルレアン公夫人は目を丸くした。

 

「まあ、どうしてわたくしがそんなことをする必要があるのです?」

 

「どうして、って……わたしは、あなたの夫であるオルレアン公を殺し、あなたに怖ろしい毒薬を飲ませた男の娘なのですよ!?」

 

「わたくしは、この通り元に戻っています」

 

「でも、叔父上は戻りません」

 

 深いため息と共に、オルレアン公夫人は吐き出した。

 

「そうね、これが夢であればどんなに良かったか。ですが、全て現実に起こったこと。悲しきことですが、それでもわたくしたちは前に進まねば。未来に生きてゆかねばなりませぬ」

 

 静かに姪の側へ歩み寄った夫人は、優しくイザベラの頬を撫でた。

 

「簡単にですが、事情は聞いています。あなたも、さぞや辛かったことでしょう……」

 

 その言葉に、イザベラはぐっと唇を噛み締めた。

 

 全身を震わせながら立ち尽くしていた王女は、ふいに温かなものに包まれた。オルレアン公夫人が彼女を優しく抱き締めたのだ。

 

「叔母上……」

 

「そう、わたくしはあなたの叔母。わたくしたちは皆、同じ一族なのですよ。周囲に煽られて本来無用な憎しみを向け合うなど……馬鹿げたことです」

 

「わたしを、赦してくださると? わたしは、エレーヌに酷いことを……」

 

「赦すも赦さぬもありません。あなた自身が悔いているのなら、それだけで充分」

 

 夫人に同意するように、タバサも頷く。

 

 ガリアから遠く離れた異国の片隅で、血筋を同じくする三人は抱擁を交わした。

 

 ――イザベラと母を対面させる。

 

 この、一歩間違えば全てを失う危険を孕んだ行動を決断したのは、タバサ自身だった。

 

 当時のことを知る、王族の大人。オルレアン公夫人はそういう意味でも貴重な人材である。

 

 さらにタバサは、太公望と王天君が融合した姿と、彼の言動を注意深く観察していた。その上でふたりが〝分離〟した後も記憶を共有していると判断したのだ。

 

 もちろん、太公望本人にもその仮説が合っているかどうか確かめ、ある程度の時差は発生するものの、最終的に同じ記憶を持つに至ると聞かされたタバサは即行動に出た。

 

 何故なら、最も隠しておきたかった家族の安否が筒抜けになってしまったからである。

 

(それなら、聞かれる前に見せてしまったほうがいい)

 

 ……と、いうのは実は建前で。

 

(イザベラは手札の全てを明かしてくれた。ならば、こちらも誠意を見せるべき)

 

 それ程までに、あの夜の出来事はタバサの心を揺さぶった。

 

 太公望も、そのほうがよいと後押ししてくれたし――何より、母が賛成してくれた。

 

 そうしていざ決断してはみたものの、やはり不安で……結局、ここへ来るまでに本当のことを打ち明けられなかった。

 

 でも。

 

(やっぱり、これで良かったのね……)

 

 胸の奥が温かなものが満たされてゆくのを感じながら、タバサは小さく微笑んだ。

 

 

 




なんという滑り込み更新。

いよいよ新章開始。
王族(の胃)に優しくない筆者の独壇場と相成りました。
胃薬友の会、さらに拡大!

次回更新は3/15(水)前後を予定しております。

最後に、ヤマグチノボル先生の逝去により不可能と思われた
「ゼロの使い魔」を完結まで導いてくださった全ての皆様に感謝を。
そして、ヤマグチノボル先生のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。


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第105話 王女たちの懊悩

 ――王都トリスタニア全域が熱狂した戦勝パレードと戴冠式から、二日後。

 

 その朝、日課である朝のお勤めを行うべく王城の一画にある礼拝堂を訪れたマザリーニ枢機卿は祭壇の前に先客……ひとりの若い娘がいることに気がついた。

 

 かの人物はふんわりと波打つ桃色がかった髪を後ろに纏め、淡い色のドレスに身を包んでいる。可憐という概念が服を着て歩いているようなその女性の名は、カトレア。ヴァリエール家の次女、トリステインの第二王女である。

 

 カトレアは始祖の像の前に跪き、熱心に祈りを捧げている。天窓から差し込んだ陽の光に照らされた横顔は、宗教画から切り抜いた一場面のように神々しい。

 

 礼拝の邪魔をせぬよう、マザリーニは後方で控えていたのだが……どうやら、その気配りは不要だったらしい。王女は静かに立ち上がると、彼のほうに振り返った。

 

「おはようございます、猊下」

 

 透き通った美声が、礼拝堂の内部に響き渡る。

 

(まるで天上から舞い降りた聖女のようだ)

 

 そんな感慨をおくびにも出さず、マザリーニは普段と変わらぬ表情で挨拶を返す。

 

「おはようございます、姫殿下。ところで、わたしのことはマザリーニとお呼びくださいと、つねづね申し上げているはずですが」

 

 カトレアは笑みを浮かべたまま、しかし困ったように首を傾げた。

 

「やっぱり慣れないわね」

 

 大仰に頷く枢機卿。

 

「呼称とは新しい服のようなもの。いずれ自然に身に付けられるようになるでしょう」

 

「そういうものなのかしら」

 

「そういうものです」

 

 カトレアは天窓の近くに設置された日時計に目を向けた。間もなく朝八時になる。

 

「猊下……いえ、マザリーニ卿は毎日この時間にいらっしゃるのね」

 

「ええ。若い頃からの習慣というのは、なかなか変えられないものでして」

 

「いつからお続けに?」

 

「神学校に入学したときからですので、そう……十四歳からですな」

 

 じっと己の姿を見つめる王女に対し、マザリーニは念押しした。

 

「姫殿下。わたしはまだ四十を過ぎたばかりですからな」

 

「まあ! まだ何も言っていないのに……」

 

 心外だとばかりに訴えるカトレア。

 

「まだ、と、仰いましたな?」

 

「あら。嫌だわ、語るに落ちてしまいましたね」

 

「それは普通、暴いた側が言う台詞なのですが」

 

「そうなんですか? わたし、よく間違うのよ」

 

 そう言って、カトレアはころころと笑う。釣られてマザリーニも笑い出した。

 

(まったく。わかっていてこんなことを仰るのだから、本当にいたずら好きなお方だ……とはいうものの、誰彼かまわずこのような真似をする訳ではない。冗談を冗談と汲み取れる者、内容を吟味しておられる。つまり、わたしはそういう相手として見て頂けているということだ)

 

 姫君から気の置けない会話ができる人物だと認識されているこの状況が、嬉しくないと言えば嘘になる。

 

 ――先帝ヘンリーが健在の頃から、マザリーニの周囲は敵意に満ちていた。

 

 異国から来た枢機卿。しかも平民の血を引いていると噂される男が、王の側近くに仕える宰相という重要な地位を占めているなどというのは、奇跡の御技・魔法を用いる者としての血筋と誇りを価値観の最上に置くトリステイン貴族にとって、耐え難き屈辱だったのである。

 

 流行病で先代が世を去ってから、彼らの目はさらに厳しくなった。

 

 宮廷貴族たちはヘンリー一世の逝去による女王マリアンヌの即位、それに伴う人事の刷新を期待していたのだが、肝心の太后は夫の死を嘆き悲しむばかりで何もしようとはしなかった。心を病んでしまったがゆえにできなかった、としたほうが正しいのかもしれないが……それをいいことに、忌々しい外国人が国の中枢に居座り続けている、というのが彼らの共通認識だったのだ。

 

 もちろん、全ての貴族がそうだったわけではないが……いくらマザリーニが鋼鉄の精神の持ち主だからといって、心に〝固定化〟の魔法をかけられるはずもなく。悪感情を向け続けられた彼は日々の激務と相まって、内側はおろか外見さえも激しく摩耗してしまった。

 

 四十になったばかりであるのに、六十代の新王と同年代に見えてしまう程……。

 

 ちなみに、新国王サンドリオン一世即位の際にも、当然のことながら彼を排斥しようとする者たちが大勢いたのだが……そういった連中のほとんどが、先の粛正人事によって宮廷を去る羽目になったのは皮肉にも程がある。

 

 そんなわけで、枢機卿の心身にようやく安寧が訪れつつあった。今はまだ宰相の地位に就いているが、新王への引き継ぎが終わり次第その座を辞し、相談役に落ち着こうと考えている。

 

(国を背負うという重圧と敵意の視線から解放されることで、ここまで心が軽くなるのだな)

 

 過去の日々と報われた現在に思いを馳せつつ、マザリーニはカトレアに尋ねた。

 

「ところで、お身体の具合はいかがですかな?」

 

 一昨日は戦勝パレードと戴冠式、各国から訪れた来賓との顔合わせや、集まった貴族たちとの懇親会が開かれるなど、実に多忙な一日であった。行事慣れしているマザリーニや国王夫妻はともかく、三人の王女たちは花のかんばせに疲労の色を浮かべていた。

 

 中でもカトレアは特に辛かったようで、マザリーニは侍従長のラ・ポルトから「自室へ戻られるなり、倒れるように眠り込んでしまわれた」と報告を受けている。

 

 彼女は幼い頃から不治の病に苦しみ、魔法学院へ入学することはおろか、誰かの元へ嫁ぐことも、社交界に顔を出すことすらできなかった。その事実は宮中に知れ渡っている。

 

 半年ほど前に東方から伝えられたという秘薬の効果で奇跡的に快癒へと向かったらしいが、トリスタニアの王宮へ移り住んだ直後、高熱を出して宮廷内を慌てさせたことは記憶に新しい。

 

(幸いなことに一週間ほどで回復し、どうにかベッドから起き上がれるようになったが……本当にカトレアさまは大丈夫なのだろうか? 典医殿は問題ないと話していたが、正直不安だ。また発作を起こされたりなさらなければよいのだが……)

 

 可憐な姫君は微笑みながら言った。

 

「ありがとうございます、おかげさまで元気そのものですわ。それも含めて『始祖』にご報告と日々の感謝を、と」

 

 宮廷付きの医師団から快癒を告げられて以降、カトレアは毎朝欠かさず礼拝堂を訪れ『始祖』に祈りを捧げている。その顔には、健康を得た喜びが溢れていた。

 

「左様ですか。しかし、あまりご無理はなさいませぬように。これから、寒さがより厳しくなって参りますから……ところで、姫殿下には何かお悩みがあるようですな」

 

 カトレアは「それも含めて」と言った。マザリーニはそこに引っかかりを覚えたのだ。

 

 すると、これまでとは一転。いつも笑みを絶やさぬカトレアの顔に、影が差した。

 

「そうね、枢機卿ならご存じかもしれないわ。これも『始祖』のお導きでしょう」

 

「ふむ? 場所を変えたほうがよろしゅうございますか?」

 

「いいえ、誰かに聞かれて困るようなことではありませんから」

 

 何事だろうと訝しむマザリーニに、カトレアは小さく溜め息をつきながら言った。

 

「父さまのことなんですけど、何か深く悩んでいるみたいで……このところ元気がないの」

 

 マザリーニの眉がぴくりと動く。

 

「もちろん、公の場では平然と振る舞っておられるし、家族にも内緒にしているわ。でも、わたしにはわかるんです。それで、もしかしたら猊下なら父さまの悩みがどんなものなのか、ご存じなんじゃないかと思って……」

 

 じっと己を見つめるカトレアの瞳は、快晴の空のように澄み切っていた。マザリーニはその曇りなき目で心の奥底まで覗かれたような錯覚に陥りつつも、どうにか声を絞り出す。

 

「確かに、いくつか心当たりはございますが……」

 

 言葉を濁したが、マザリーニは王の苦悩の原因を正確に把握している。

 

(おそらく、例の大鳳に関する報告書が陛下を悩ませているのだろう……)

 

 遙か東の地から舞い降りたという、魔法を一切用いずに飛行を可能とする機械。それを乗りこなしたのは、第三王女ルイズが〝使い魔召喚の儀〟で喚び出したという黒髪の少年。

 

(例の飛行機械は、ほぼ間違いなく『聖地』から来たものだ。調査報告から察するに、おそらくは『武器』なのだろう。それを自在に使いこなすということは……かの少年が伝承に残る『神の盾』ガンダールヴであることは想像に難くない)

 

 サンドリオンが危惧したように、マザリーニはタルブの『竜の羽衣』にまつわる伝承と、それを受け継いだ才人を足がかりにルイズの正体に辿り着いていた。その上で……。

 

(陛下はご息女の系統が何であるのか、それが白日の下に晒された場合――どういった立場に置かれるのかを正しく理解しておられる。なればこそ、ロマリアから派遣された枢機卿であるわたしに知られたことを畏れているのだ……)

 

 もしもマザリーニが立身出世の野望に燃えているような人物であれば、サンドリオン王の懸念は現実となってヴァリエール家に激震をもたらしていただろう。だが――。

 

(聖地奪還など馬鹿馬鹿しい。新たな王を戴いた今こそトリステインは地固めの必要がある。異国への進軍、それもエルフと争うなどもってのほかだ。災いの種を自ら呼び込んでどうする!)

 

 彼はブリミル教司教枢機卿としての使命ではなく、ただひたすらに現実だけを見ていた。約二十年にも及ぶ宮廷生活が、彼を宗教的な恍惚から遠ざけてしまっていたのだ。

 

(陛下にそれとなく匂わせたのは悪手だったか? しかし、黙っていれば無用な疑いを持たれかねない。まったく、わたしの出自はどこまでも足を引っ張るな……)

 

 ――トリステインに生を受けていれば、ここまで苦労しなかっただろうに。

 

 と、人前であることを忘れて嘆息しかけたマザリーニだったが、申し訳なさそうなカトレアの声によって彼の意識は礼拝堂に引き戻された。

 

「もしかして、国政に関することなのかしら。それなら、ここじゃ話せないわよね」

 

「こ、これは失礼をば致しました」

 

 真冬の礼拝堂で、思わず額を拭うマザリーニ。姫君の御下問に答えられないだけならまだしも、そのまま放置しておくなど無礼にも程がある。

 

 頭を下げようとした枢機卿を、カトレアは遮った。

 

「謝らなければいけないのは、わたしのほうだわ。ごめんなさい、立場上話せないようなことを聞いてしまって」

 

「いえ、それは……」

 

 謝罪合戦になりそうな空気を打ち消したのは、こつこつという控えめに叩かれたノックの音だった。

 

「失礼します。姫殿下、まもなく朝食のお時間となっておりますが」

 

 扉の外から届いた声は、カトレア付きの侍女のものだった。

 

「わかりました、すぐに向かいます」

 

 迎えの侍女に答えると、カトレアはマザリーニに向き直って礼をした。ドレスの端をつまみ、優雅にお辞儀をする。

 

「それでは、お先に失礼しますね」

 

 礼拝堂から立ち去る姫君の後ろ姿を見送ったマザリーニは始祖像の前に跪くと、普段祈祷に用いている聖句の他に、個人的な願いを付け足した。

 

(あの心優しい姫君のお顔が曇るようなことが起きぬよう、どうかご加護賜らんことを――)

 

 

○●

 

 ――同日。

 

「それで、姫殿下。わたくしに相談事とは、一体どのような?」

 

「お、おやめになってくださいまし! 姫さまが、わたしにそのような……」

 

「あら? わたくしはもう王族ではありませんわ。今は、あなたがそのお立場にいらっしゃるのよ。そうですわね、ルイズ姫殿下」

 

「うう~ッ……」

 

 王宮内のとある一室で、奇しくも礼拝堂でのカトレアとマザリーニと似たやりとりが繰り広げられていた。

 

 トリステインの王族から降格したマリアンヌ太后とアンリエッタ姫は、今も宮廷に居を構えていた。その元姫君の部屋に、現姫君が訪ねてきたのだ。

 

「やっぱり慣れませんわ……」

 

 アンリエッタは目の前でうなだれている、年下の『おともだち』を優しく諭した。

 

「真面目な話、わたくしを『姫』と呼んではいけません。宮廷では、どこに目と耳があるかわからないのですから」

 

「で、でも……」

 

 王女の遊び相手を務め、両親に幼い頃から貴族の心得と王家に対する忠誠を教え込まれてきたルイズにとって、かつての主君を敬称で呼んではいけないというのは、頭ではわかっていても、なかなか同意しにくいことであった。

 

「一応、妥協案がありますわ。ただし、あくまで非公式の場に限りますが」

 

「それは、どのような?」

 

「先日、わたくしたち母娘が陛下より爵位と土地屋敷を賜ったのはご存じ?」

 

 ルイズは頷いた。

 

 以前と変わらず宮廷で暮らす彼女たちは、いずれはここを出て行かねばならない。先帝の妻と娘が新王と居を共にするなど、新たな政争の火種になりかねないからだ。

 

「アンリエッタ・ド・ダングルテール公爵夫人、それが今のわたくしの身分。本来ならば、ダングルテール公爵夫人と呼ばれなければならないのです」

 

 王都トリスタニアから遠く離れたアングル地方を下賜されたのは、いくつかの理由がある。

 

 かの地は萎びた寒村が点在する貧しい土地だが、それは耕作地という点で見た場合のこと。ハルケギニア大陸北部の海に面するかの地方は、海産物の漁場として優れている。

 

 優秀な代官を派遣して領地の運営をさせれば、元王族の母娘二人が貴族社会で生活する上で、一生困らぬだけの収益が上げられるのだ。

 

 本人たちがトリスタニアへの居住を希望しているため、彼女たちのためにヴァリエール家の下屋敷が与えられた。

 

 旧アルビオン王家の暫定政府とも近く、太后マリアンヌは「あの屋敷なら、愛した亡夫の実兄であるジェームズ一世と思い出話が咲かせられる」とばかりに快諾しており、未だ非公式ながらウェールズ皇太子と婚約しているアンリエッタも、彼の側にいられると喜んでいる。

 

 ――ダングルテールとは、古ガリア語で〝アルビオン人の住まう土地〟という意味だ。もしもテューダー家の復興の夢破れたそのときは、ウェールズは公爵夫人の入り婿扱いとなり、かの地を治めることになるかもしれない。

 

 それら様々な事情を頭の中で反芻しつつ、アンリエッタは微笑んだ。

 

「ですから、公の場ではダングルテール公爵夫人だけれど……普段はアンと呼んでくれる? 子供の頃、一緒にお庭を走り回っていたときのように」

 

 ルイズの顔が、ぱっと輝いた。

 

「じゃあ、わたしのこともルイズと」

 

「決まりね、ルイズ」

 

「ええ、アン」

 

 ふたりの少女は顔を見合わせて笑った。

 

「ところで、アン。最初の話に戻るんだけど」

 

「わたくしに相談事があると言っていましたね」

 

 ルイズは頷いた。

 

「最初はちい姉さまに話したの。そうしたら、きっとアンのほうが良い知恵を出してくれるんじゃないかって」

 

「まあ、カトレアさんがそんなことを? なら、その信頼を裏切らないように頑張るわ」

 

 アンリエッタにとって、ラ・ヴァリエール公爵が父なら、カトレアは姉のような存在だ。

 

 幼い頃、何度かヴァリエール家へ泊まりがけで遊びに行った際に、ルイズと一緒にカトレアの部屋を訪れては、さまざまな絵物語を読み聞かせてもらったり、女の子同士の話を楽しんだり、三人並んで同じベッドで眠ったものだ。それらは色褪せない思い出として、今もアンリエッタの心に深く刻まれている。

 

 そんな相手から信頼されているとあらば、張り切らざるを得ない。

 

「それで、どんなお話なのかしら」

 

「ええ、実は……」

 

 姫君たちの歓談は日が暮れてもなお終わらず、侍従長が夕餉の支度が調ったとの報せを持って現れるまで続いたのだった――。

 

 

●○

 

 新たな地位に未だ戸惑いを隠せない妹たちとは異なり、エレオノールはすんなりと現状を受け入れていた。

 

 これは彼女が王都での暮らしや、トリステインの筆頭貴族・ヴァリエール公爵家の長女として扱われ続けてきていたことが大きい。であればこそ、国法によって定められた王位継承権第一位の王族として相応しい振る舞いをせねばなるまい。

 

 本人は、そう考えていたのだが……。

 

「王女殿下、執務中に申し訳ございません」

 

 エレオノールのために設えられた書斎の扉を叩く音と、王女附秘書官の声が室内に届く。

 

「…………」

 

「王女殿下?」

 

「……入りなさい。鍵は開いているわ」

 

「失礼致します」

 

 カチャリという音と共に扉が開き、髪をシニヨンに纏めた三十過ぎの女性が入室してきた。

 

「王女殿下、来週のご予定を確認させていただきたく……」

 

 しかし、エレオノールは無言のまま何も言わない。

 

「王女殿下?」

 

「……どうして?」

 

 質問に疑問を返されたことで内心慌てた秘書官だったが、この程度で取り乱しては、女性の身で王宮勤めなど務まらない。

 

 すぐさま最適解を導き出し、目の前の気難しい王女の問いに答えようとした。

 

「王女殿下のスケジュールを管理するのが、私に与えられた職務でございます。念には念を入れておりますが、もしもご都合などが……」

 

「そうじゃないわ。ええ、そうじゃないのよ」

 

 先程よりも一オクターブ低い声で、エレオノールは問うた。

 

「ねえ、どうしてなの?」

 

「も、申し訳ございません。何か粗相を致しましたでしょうか」

 

 その問いに対し、エレオノールは硬い表情で訊いた。

 

「なんで貴女は、わたくしだけを王女殿下と呼ぶのかしら」

 

 途端に硬直する女性秘書官。

 

「あ、あの、それは……」

 

「おちび……ルイズやカトレアのことは姫殿下って呼ぶのに、ど、どど、どうしてわたしの、わたしだけ、おお、王女殿下なの?」

 

 全身をぷるぷると振るわせながら続けるエレオノール。

 

「皇太女殿下なら、まま、まだ理解できるわ。だって、わ、わわわたくしは、王位継承権第一位。しょ、しょ将来、ここ、この国の女王となる者ですものね」

 

「そ、その……」

 

「ええ、ああ貴女の、い、言いたいことは理解してるの。あくまで継承権が一位なだけであって、わたくしはまだ、ここ皇太女の地位にない。父さま、いえ、陛下の戴冠式が終わったばかりだし、議会でもそういう話題が、だ、出せないくらい、たた、多忙ですからね」

 

 自分なりに、どうにか落ち着こうとしているのだろう。エレオノールは机に置かれていたカップを持ち上げ、口に運ぼうとした。しかし、手元がカタカタと揺れている。もう、見ているだけで不安になる挙動であった。

 

「それなら、わ、わたくしだけでなく、いい、妹たちも王女殿下と、よ、呼ぶべきよね。なのに、貴女だけでなく、きゅ、宮廷中の召使いたちは皆、わわわ、わたくしを……!」

 

 秘書官は答えに窮した。

 

 ――エレオノール第一王女殿下、御年二十七歳。

 

 トリステインのごく一般的な常識で考えれば、既にどこかへ嫁ぐ、あるいは婿を迎えているのが当然の年齢に達している。

 

 姫、という敬称には別に年齢制限はない。しかし「未婚であれば」という但し書きが付く。

 

 つまり、エレオノールの言う通り「姫殿下」とするのが正しい。けれど、そう呼称するには――彼女は薹が立ち過ぎていた。

 

 そんなことはエレオノール本人もよく理解している。なればこそ、王城へ移り住んだ直後に、

 

『姫殿下ではなく、王女殿下と呼びなさい』

 

 と、いう命令を出したのだ。

 

 本人としては、

 

(全員が王女と呼ばれるなら、も、問題ないわよね!)

 

 という、自己防衛やら彼女なりの周囲への思いやりから発したものに過ぎない。

 

 王立アカデミーの主席研究員として、公爵家の娘とは思えない程、宮仕えというものの世知辛い事情を体験しているからこその命令であった。

 

 具体的には評議会の圧力を躱すとか、研究資金の確保とか、世間の荒波を超えようとする船から放り出されないようにするための知恵、工夫のようなものの貸し出し等……。

 

 ……ところが。

 

「さあ。どうしてなのか、わかりやすく、お、おお、教えなさい」

 

「え、あ、その、つまりですね……」

 

 言葉が足りなかった、といえばそれで終了なのだが。以後、宮廷人たちはエレオノールを「王女殿下」と呼び、ふたりの妹には「姫殿下」と声を掛けるようになった。

 

 二十四歳のカトレアも姫とするには結構ギリギリだったりするものの、そこはそれ。三年という年齢差は絶望的な断崖絶壁となって、彼女たち姉妹を隔ててしまったのである。

 

「どうして、だだ、黙っているの、か、かしら?」

 

「あ……」

 

 命令されたから、と答えるのは容易い。しかし、それは王女の真意を正確に汲み取れなかったと認めるに等しい行為。つまり「私たちは無能です」と答えるようなもの。

 

 ……不正行為に手を染めた大勢の貴族が、新王により粛正されたばかりの今だからこそ、正直に言えないこの辛さ。

 

 言葉の吟味と周囲の状況、時期の悪さが招いた悲(喜?)劇とも言える。

 

 とは言うものの。

 

「さあ。ここ、答えなさい!!」

 

 ただでさえ爆発しやすいトリステイン女の足下に火の秘薬を埋め込んだ挙げ句、上から油を振り撒くような真似をすれば、エレオノールでなくともこうなる。

 

 点火五秒前。四、三、二、一……。

 

 絶望へのカウントダウンが始まる。正面にいる金絹の王女とは対照的に、秘書官の顔は海底よりも青ざめていた。

 

 と、そんなところへ思わぬ助けが現れた。

 

「何を騒いでいるのですか、エレオノール」

 

 響き渡る声に、びくりと身体を強張らせる第一王女。

 

「か、母さま……!」

 

 エレオノールがこの世で最も畏れる人物。彼女の母親、カリーヌ王妃の登場である。

 

「そこの貴女」

 

「は、はい!」

 

 声をかけられただけで直立不動となる秘書官。

 

 彼女にとって『烈風』カリンは畏怖の対象ではあるものの、憧れの存在でもあった。

 

「この子のことはいいから、貴女の職務を果たしなさい」

 

「しょ、承知致しました!」

 

 乱暴な横槍だが、エレオノールは口を挟めない。鳶色の母の瞳が、彼女を射竦めるような光を放っていたからだ。

 

「そ、それでは来週の予定を確認させていただきます……」

 

 秘書官は聞き取りやすく、正確な発音でエレオノールの予定を読み上げていく。分刻み、とまではいかないものの、研究員として働いていた頃とは比較にならない忙しさだ。

 

「オセルの曜日は、午後二時より王立図書館館長との打ち合わせ。午後三時からは年明けに行われる降臨祭用の装いについて、侍従長からのご確認がございます。午後四時からは……」

 

(はあ……そのうち、自由に外へ行ける時間もなくなりそうだわ)

 

 この頃には、噴火寸前だったエレオノールの頭もだいぶ冷えてきている。老齢の父の負担を少しでも軽くするため、さらには次代としての経験を積むために王族としての仕事をできうる限り引き受けている彼女だったが、年末ということもあり、両親と同様に毎日が多忙であった。

 

「翌ダエグの曜日は、午後一時から五時まで宮廷行事に関する伝達、午後六時からはオールド・オスマン氏とのご歓談。こちらは食事会となっており……」

 

 オールド・オスマン。その名前にエレオノールは敏感に反応した。

 

「オスマン氏の随員は?」

 

「ございません」

 

「そう」

 

「続けさせていただいても?」

 

「構わないわ」

 

 ――全ての確認を終えた秘書官が退出した後、カリーヌ王妃は娘に向き直った。

 

「それで?」

 

「はい」

 

「あなたは宮廷の廊下に響き渡るような大声で、何を言おうとしていたのですか?」

 

 その時、エレオノールは火竜に捕獲される己を幻視したという。

 

「え、衛士隊に、き、教導をされていたのでは?」

 

「もう終わりました。さあ、最初から説明なさい」

 

「そ、それは……」

 

「なにを口籠もっているのですか。ほら、早く!」

 

「あわわわわ……!」

 

 彼女たちは、もう、どうしようもなく母娘であった。

 

 

○●

 

「まあ、そんなことだろうとは思っていました。外まで声が届いていましたし」

 

「だったら、わざわざ聞かなくてもいいじゃないですか! うわああああん!!」

 

 書物机に突っ伏して泣くエレオノール。

 

 つまるところ、彼女は妹たちと違う敬称を用いられることで「早く良人を迎えてください」と催促されているような心持ちだったのである。

 

 ……なお、現在はカリーヌ王妃の〝消音(サイレント)〟で、エレオノールの嘆きというか魂の慟哭は外へ漏れ出さないようになっている。これは王族の醜聞を隠すというよりも、母親としての気遣い、娘への優しさからくるものであった。

 

 それが、エレオノールの慰めになるのかどうかはともかくとして。

 

(まったくこの子は……とはいえ、エレオノールがこうなってしまった原因の大半は、わたくしにあるのでしょうが)

 

 泣きじゃくる娘を見守りながら、カリーヌは過去に思いを馳せる。

 

 共に戦ううちにサンドリオンに心を許し、憧れを抱き、いつしかそれが恋に変わったカリンの『道』が騎士道から逸れてしまったのは、彼の父親が亡くなったことに端を発する。

 

 その日。王都の訓練場で、サンドリオンはカリンにこう申し入れた。

 

 恋をしたせいか、ここ数年でより女らしさが増してきていたカリンは鉄仮面をつけ、男言葉でそれに対応する。

 

『俺は父さんの跡を継がなきゃならない。だから、宮廷を辞すことにした。それでだな……』

 

『なんだよ、ハッキリ言え!』

 

『俺だけだと、その、うまくやれる自信がない』

 

『前にも同じこと言って、僕にマンティコア隊の隊長押しつけたよね?』

 

『い、今じゃおまえのほうが実力があるんだから当然だろ!』

 

『それで、今度は何をさせるつもりだ?』

 

『ああ、ええと……俺と来てくれないか』

 

『は?』

 

『これから、ずっと……俺を、支えて欲しい。おまえと一緒なら、どんな困難も乗り越えられると思うから』

 

 言葉の意味を悟った鋼鉄の騎士の顔に、朱の花が咲く。

 

 こうして彼と彼女は結ばれ、幸せな結婚を――

 

(したところまでは、よかったのですが……)

 

 ――彼女の実家であるマイヤール家は、どが付くほどの底辺、困窮した最下級貴族であった。

 

 社交界に出ることすらおぼつかない貧困家庭で育った彼女が、魔法学院へ通えるわけもなく。上流貴族たちが学生時代に学ぶ作法や交流の際のお約束といったことは、騎士となってから独学にて身につけたもの。

 

 そんなカリーヌが嫁入りしたのは、国いちばんの大貴族・ヴァリエール公爵家だ。

 

 サンドリオン――ピエール・ド・ラ・ヴァリエールの両親は既に他界していたため、いわゆる嫁姑問題は起きなかったが、逆を言えば先代から知識の継承という恩恵を受けられなかった彼女は、それはそれは苦労した。

 

 カリーヌが下手を打てば、それはピエールの恥となり、ラ・ヴァリエール公爵家が侮られる。

 

 愛する夫のため、負けず嫌いな己のために、彼女は歯を食いしばって頑張った。ヴァリエール公爵夫人として相応しい知識と教養、所作、振る舞いを身体に覚え込ませるために。

 

 ピエールも、妻を心から大切にした。夫婦としては間違いなく理想的な関係だと断言できる。

 

(でも、わたくしは……娘たちにあんな苦労をさせたくなかった……)

 

 だからこそ、カリーヌは娘たちに口を酸っぱくして言い聞かせた。

 

『ヴァリエール公爵家の娘として、相応しい振る舞いをなさい。常にそう心がければ、所作は自然と身に付くものです』

 

『妥協して爵位の低い男と一緒になると、不幸になりますよ。お互いに身分の差があり過ぎると、価値観を共有するのがとてつもなく難しいですから』

 

 エレオノールは母親の教えを忠実に守り、行動してきた。

 

「ううう、結婚なんて人生の墓場なのにぃ~」

 

 ……その結果がこの有様である。

 

(城の者たちが「エレオノールさまは理想が高過ぎる」などと無礼な噂をしていましたが……なるほど、彼らの話にも一理あるかもしれません)

 

 つい先程、エレオノールの癇癪が炸裂したとき。通りがかりに偶然それを耳にした衛士たちが『烈風』をして衝撃に打ち震えるような話をしていたのだ。

 

『男は恋人を選ぶとき、まずは母親を基準にするというが……』

 

『聞いたことあるな、それ。女は父親と相手を比較する、とかいうアレだろ?』

 

『ああ。つまり、我らがエレオノール王女殿下は……』

 

『サンドリオン一世陛下と比べたら、そりゃあ恋人なんか出来るわけないよな』

 

『お気の毒なことだ』

 

『おい、不敬だぞ』

 

 トリステインどころかハルケギニアでも五指に入る資産家で、一国の王。

 

 知性に溢れ、温厚で、妻の癇癪も笑って聞き流す懐の深さ。

 

 家族を心から愛し、領民を大切にする貴族の鑑。

 

(あの者たちの言う通りです。わたくしは、相手に恵まれすぎていた……!)

 

 ――若い頃のサンドリオンは、モテた。

 

 銀灰色に染められた髪のせいで地味に見られがちだが、美形と言われる程顔立ちは整っており、背はすらりと高く、訓練と実戦で鍛えられた肉体は引き締まっていた。

 

 当時は今ほど魔法衛士隊の地位は高くなかったが、それでも国王フィリップ三世直属の騎士。

 

 これでモテないほうがおかしい。

 

 酒場へ行けば、女給たちがこぞって彼に酌をしようとし。

 

 娼館の前を通れば、窓から嬌声が振ってくる。

 

 宮廷に参内すると、侍女や貴族の娘たちがちらちらと彼の横顔を伺っていた。

 

 いっぽう、サンドリオンは騒ぐ女たちを一顧だにせず、ただ自分の『道』を往く。

 

 そういうところがまた、女心をくすぐるのだ。

 

 それほどの男が、家庭では愛妻家で恐妻家。カリーヌの叱責に縮み上がり、情けないところを見せていたのもまずかった。

 

「だって、だって、いい男がどこにもいないのが悪いのよぉ~!」

 

 未だにぐずっている娘を見ながら、母は思う。

 

(爵位が高く、お金持ちで、見目麗しく、温厚で、仕事もでき、知性的。女の我が儘など可愛いものだと笑い飛ばす懐の深さ。エレオノールが夫と似た相手を求め続けているのだとしたら……)

 

 これまで婚約破棄されてきたのは、エレオノールの気位の高さに辟易したというよりも、比較され続けて音を上げたというのが本当のところなのだろう。

 

 この条件では、国王夫妻が見込んだワルド子爵ですら駄目なのが怖ろしい。と、いうか少なくともトリステイン貴族では、エレオノールと添い遂げられるような相手が見つからない。

 

(ウェールズ殿下にお相手がいなければ、立派な候補になり得たのですが……)

 

 彼はアンリエッタと絶賛熱烈恋愛中である。それも両国の国王公認で。そんな人物に白羽の矢を立てたりしたら、内乱待ったなしだ。

 

(本当に、どうすればこの子のためになるのでしょう……)

 

 向かうところ敵なしだった騎士の前に、史上最強・最悪の難題が立ち塞がっていた――。

 

 




大変大変遅くなりまして申し訳ございませぬm(_ _)m

実はエレオノールもパパに負けないくらいのファザコンだというオチ。

……実際、あんなスペシャルハイスペック物件なお父さんに大切に大切に育てられたら、そらこうなりますわ。本人も不幸ですが、比較され続けた彼氏たちにもお疲れ様でしたとしか言えねぇ……!

次回更新予定は2週間後、くらいのふわっとした予告のみしておきます。


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第106話 聖職者たちの明暗

 ――年が明け、始祖歴六千二百四十三年ヤラの月。

 

 神聖アルビオン共和国の首都・ロンディニウム。その象徴たるハヴィランド宮殿のホワイトホールでは、共和国議員たちが激論を交わしていた。

 

「我が方のフネは四十隻以上残っていたはずだ!」

 

「正確には四十三隻です。しかし、数があればよいというわけではありません」

 

 白磁の円卓をぐるりと囲むように並べられた椅子に、二十名ほどの貴族が腰掛けている。そこに参加していた将軍のひとりが、苦悶の表情を浮かべていた。

 

「こちらをご覧ください」

 

 一枚の魔鏡に、港湾都市らしきものの様子が映し出された。

 

 らしきもの、と濁している理由はただひとつ。周囲が深い霧に覆われ、かろうじて停泊しているフネの影が見えるだけ、という状態であるからだ。

 

「現在、我らがアルビオン大陸はハルケギニア中央上空、雲内を周回中であります。これより下は猛烈な吹雪に見舞われており、フネを出せる状況にありません」

 

「何を言う! 我ら……いや、民の命がかかっておるのだぞ!?」

 

 共和国議員のひとりが猛烈に抗議するが、将軍は怯えつつも首を縦に振らなかった。

 

「我が空軍の練度では……いえ、熟練の将兵であろうと、あの吹雪の中を航行するのは不可能であります。無理に飛ばしたところで同志とフネを失うだけかと」

 

 議員は苛立たしげに、音を立てて着席した。

 

「では、この未曾有の危機をどう乗り越えればよいというのだ!!」

 

 ホール内の沈黙が痛い。

 

 ――現在、アルビオン大陸全土が深刻な食糧不足に陥っている。

 

 主な原因として挙げられるのは三つ。

 

 まず、王党派の驚異的な粘りにより、秋の収穫期に入る前に決着をつけるという貴族派連盟の目論みが崩れ去ったこと。敵の補給を妨害するため、農村や畑に火をつけたことが、ここにきて自軍へ跳ね返ってきたのだ。

 

 ふたつめは、兵力を抱え込み過ぎたこと。

 

 アルビオンの貴族派と『レコン・キスタ』に加え、カネの匂いを嗅ぎ付け押し寄せてきた傭兵たちや爵位と仕事を求めて浮遊大陸へ渡ってきた平民メイジ、さらに大食いの亜人どもを大量に編入していたことで、瞬く間に兵糧の山がぺしゃんこになってしまった。

 

 最後のひとつはトリステイン強襲を急いだ挙げ句、敗北したことだ。

 

 確かに、相手の裏をかくという意味ではこれ以上ない好機ではあったのだが……反面、失敗すれば大きな痛手を負いかねない作戦でもあった。

 

 議会は大いに紛糾したが、皇帝クロムウェルの鶴の一声により進軍を決定。

 

 その結果、陸軍三千とレキシントン級巨大戦艦一隻、戦列艦十五隻とその乗組員千五百名をまるまる失った挙げ句、何の戦果も得られなかった。

 

 それだけでも痛いというのに、自爆して果てたと公式発表していたテューダー家と王党派がトリステインの援軍として現れ、八面六臂の活躍をして見せたというのだからたまらない。

 

 しかも、死して天上の園(ヴァルハラ)へ招かれた王党派の軍勢が『始祖』の加護を受けて蘇り、伝説の不死鳥に導かれて地上へ戻ってきたなどという戯言が、ハルケギニア中に流布されている。

 

 これを耳にした将兵の士気は大幅に低下した。無理もない、彼らからすれば、倒したと思った『王権』が炎の中から蘇ってきたのだから。

 

(再び杖を交えてもまた無駄に終わるのではないか)

 

(始祖の意志に背いているのは我々ではないのか)

 

 ……という葛藤が生じてしまったのも致し方なく。

 

 共和国議会としては、今更「五万の軍勢でニューカッスル城を取り囲んでいたにも関わらず、逃亡を許しましたが兵士ごと城を燃やすことで敵が全滅したように見せかけました」などという真実を明かすわけにもいかず、頭を抱えるしかない。

 

 さらに、トリステインはラ・ロシェールの港を封鎖して各種物資の輸出入を制限し、ゲルマニアもそれに同調した。航路を軍艦で周回する念の入れようで、両国からの輸入という道は完全に断たれてしまった。

 

 もともとトリステインに穀物や野菜などの多くを依存していただけに、この措置は真綿で首を絞めるように、じわじわと共和国政府を追い詰めている。

 

 そして……。

 

「おのれ、ようやくガリア上空に差し掛かったというのに……このままでは、また遠ざかってしまうではないか!」

 

 アルビオン大陸は、ゆっくりと時間をかけてハルケギニア上空を周回するという性質がある。幸いなことに金銭に不足はない。そこで、旗幟を鮮明にしていないガリア王国に近付いた際にフネを出して物資を買い求めるつもりだったのだが……ハルケギニア大陸全域で降り続ける雪が、彼らの希望を粉々に打ち砕いた。

 

 貴族派議員のひとりが、沈痛な面持ちで述べた。

 

「現在は緊急事態でありますからして、食糧を軍と同様に配給制とし、一部を〝錬金〟によって作成することを提案します」

 

「錬成食か……」

 

 残る議員たちは一様に顔を顰めている。

 

 無理もない。魔法で〝錬金〟した食べ物は、お世辞にも美味とは言えない。それも、豆や小麦粉を混ぜ込んで錬成したものですら、余程の時でない限りは遠慮したいシロモノだ。

 

 今は、その穀物すらない。つまり、土や枯れた草などをベースにせざるを得ないわけで。そんなモノを用いた完成品の出来は……まあ、お察しである。

 

 どうにか餓死だけは免れるだろうが、共和国議会の評価が大幅に下がるのは間違いない。ただでさえテューダー王家復活の報で揺れている国内が、再び割れてしまう。

 

 と、議員のひとりが手を挙げた。

 

「火竜騎士団は出せないのかね? 我が方の竜だけでは荷を運ぶには到底足りぬが、ガリアで風竜を借り受けることができれば……」

 

 一瞬希望が灯りかけたが、それを先程の将軍があっさりと打ち消した。

 

「火竜であれば、もはや一頭も残っておりませぬ」

 

「どういうことかね!?」

 

「竜は牛や馬などとは比べものにならぬ程大食いで、しかも肉食です。しかしながら、我ら人間の食糧確保すら困難な状況下、火竜に餌をやる余裕などあるわけもなく……」

 

 肉が食えぬことで不満を募らせた火竜たちは、非情にわかりやすい形で反乱を企てた。ありていに言えば、空腹を満たすために厩舎の馬や側にいた竜騎士たちに牙を剥いたのだ。

 

 黙って喰われるわけにはいかないメイジたちは杖をとり、そして――。

 

「本日の会食で供された肉は、処分した火竜のものであります……」

 

「ぐッ……」

 

 共和国議員たちは決して馬鹿ではない。火竜の反乱から、すぐさま別の脅威に思い当たる。

 

「我々は錬成食でもまだ我慢できますが……亜人どもは……」

 

 どういう理屈かわからないが、皇帝クロムウェルは人間の言葉が通じないはずの亜人たちを、自軍に引き入れることに成功している。そして彼らは革命戦争中、猛威を振るった。

 

 このままでは、その圧倒的な暴力の矛先が貴族派連盟軍に向きかねない。

 

「皇帝閣下の〝虚無〟で解決できんのか!?」

 

「無理だと伺っております。閣下の〝虚無〟は生を与えるもので、生み出すものではないと」

 

「で、その閣下は今どこに?」

 

 円卓の奥に、空席がひとつ。そこは本来、神聖アルビオン共和国皇帝オリヴァー・クロムウェルが在るべき場所だ。

 

「水メイジの見立てでは、昨夜から高熱にうなされておられるとか」

 

 誰かが苛立たしげに円卓を叩く。

 

 後世、アルビオンにて『暗黒の降臨祭』と呼び慣される厳冬が、空の国を崩壊へと追い遣ろうとしていた――。

 

 

●○

 

 ――同じ頃。

 

 かつてアルビオン国王の居室であった部屋、その片隅に置かれたベッドの上で、クロムウェルは頭まで毛布を被り、震えていた。

 

 高熱で倒れたというのは嘘だ。彼は『ともだち』にした水メイジに、嘘の診断で議会を誤魔化すよう命じたのである。

 

「おおおおお、わたしは、わたしは一体どうすれば……」

 

 部下たちの前で見せる威厳など欠片もない。気弱で、痩せこけた三十過ぎの男がそこにいた。

 

「このままでは、この国が……わたしの夢が……!」

 

 ――今から数年ほど前のこと。

 

 ロンディニウム管区教会司教の座を追われたクロムウェルは、後任に他国への届け物を依頼されるという屈辱と、こんな形で自分に恥をかかせたテューダー王家に対する怒りを胸に抱え、ガリアの王都・リュティスの路地裏を歩いていた。

 

 そこでぼろを纏った物乞いに出会った彼は、既に理由を思い出せない程の気まぐれによって、僅かな施しを与えた。

 

 それが、彼の人生を大きく変える契機になることも知らずに。

 

「ありがとうございます、神官さま。ですが、今のわたくしめには、あなたさまにお礼を言うことしかできませぬ」

 

 老いた物乞いは、クロムウェルに深々と頭を下げた。

 

「礼を受けるつもりで施しをしたわけではないよ。だが、そうだな……もしもきみが心苦しいというのなら、そこの酒場でわたしに付き合ってもらおうか」

 

 うらぶれた場末の居酒屋で、クロムウェルは物乞い相手にさまざまな話をした。神官になるまでの苦労、管区教会を取り仕切る司教に任じられたときの喜び、現状への不満などを、酒精の勢いを借りて吐き出し続けた。

 

 一時間ほど黙ってそれらを聞いていた物乞いは、唐突に口を開く。

 

「神官さま。あなたの夢は何ですか?」

 

 しばし考えたクロムウェルは、ぽつりと言った。

 

「そうだな、王になってみたい。一国を統べる、王に」

 

 それから一週間ほどが経った、ある日。クロムウェルの前に、シェフィールドと名乗る女と数名の騎士たちが現れた。

 

 彼の人生は、その出会いを境に一変する。

 

 シェフィールドに促されるまま騎士たちと共にラグドリアン湖の精霊街を訪れ、アンドバリの指輪を盗み出し、各国で王家に不満を持つ貴族たちを集め『レコン・キスタ』を創設した。

 

 ある時は、大都市の寺院で説教をしていた頃のように大勢の前で演説をし、またある時は、指輪に込められた魔力で欲しい人材を強制的に取り入れ――組織を大きくしていった。

 

 アルビオンで王家に反旗を翻した貴族派と手を組み、自分に屈辱を味わわせたテューダー家に苦痛を与えるべく暗躍した。軍務のことなど何ひとつわからなかったクロムウェルを支えたのは、シェフィールドが「あのお方」と呼ぶ人物だった。

 

 その頃には、己が彼女たちの操り人形であることに気付いていたが、クロムウェルにとって、そんなことはどうでもよかった。なにせ、指示通りに動けば簡単に大勢の畏敬を集めることができたし……何より、復讐という名の美酒に酔っていたから。

 

 楽しかった。存在するかどうかもわからぬ〝虚無〟のメイジとして振る舞うのも、居並ぶ軍勢の前に立ち、彼らを鼓舞するのも。港湾都市レキシントンを陥とし、王国空軍旗艦『ロイヤル・ソヴリン』を奪い取った時は、歓喜のあまり部下たちの前で危うく気絶するところだった。

 

 ――そんな夢のような毎日に狂いが生じたのは、王党派がニューカッスルの城から逃亡したという報せを受けた時から始まった。

 

 いつものように、シェフィールドの指示通りに事を運んで動揺する議員を鎮めた彼は、それをもって王党派の掃討が完了したとし、貴族派議会の承認を得て共和国初代皇帝の座に就いた。

 

 あの場末の酒場で物乞いを相手に語った「王になりたい」という夢は、確かに叶ったのだ。

 

 ……ところが、それを境に状況は坂道を転げ落ちるが如く悪化してゆく。

 

 必勝の布陣でもって臨んだ対トリステイン戦。

 

 敵艦隊を瞬く間に殲滅したところまでは良かったものの、それが新王サンドリオン一世の誕生に繋がり、防衛戦にて不敗を誇るかの人物に、自慢の空軍を抑え込まれてしまう。

 

 さらに、行方不明だった王党派が現れ〝乗法魔法〟でアルビオン艦隊を薙ぎ払った。

 

 とどめとばかりに空域を封鎖され、人の行き来はおろか、物資の流通まで止められた。

 

「くそッ、テューダー家の連中め! どこまでわたしの邪魔をすれば気が済むんだ!!」

 

 戦のことも、政治すらわからぬクロムウェルでも理解できる。トリステインとゲルマニアは、こちらが干上がるのを待っているのだ。

 

 疑念と怨嗟の声が浮遊大陸全土を覆い、共和国議会に非難が集中している。本来であれば、この国の頂点に立つクロムウェルが何らかの方針を示すべきなのだろう。しかし……。

 

「ああ、わたしは、わたしは一体どうすれば……!」

 

 いつも彼の側に寄り添っていた黒髪の秘書の姿が、今はない。ガリア上空に接近した途端、彼女は手持ちのガーゴイルを操り、地上へ降りてしまったのだ。

 

 操り人形のままでいることを由とし、皇帝としての矜持も責任感も、知識すら身につけていない彼にできるのは、ただただ怯え、毛布の中で震え続けることだけだった……。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――マザリーニは戸惑っていた。

 

 降臨祭初日の行事と職務を終えた彼は風呂で身を清めた後、寝所へ向かおうとしていた。そのはずなのに……。

 

「急に呼び出して済まない、枢機卿」

 

「い、いえ、陛下のお召しとあらば」

 

 何故、こうして陛下の御前にいるのだろうか。

 

 枢機卿の困惑は留まることを知らない。そもそも、今いるここがどこなのかわからないのが、彼の混乱に拍車をかけていた。

 

 宮殿の中であることに間違いはないのだろうが、マザリーニはこんな部屋を見たことがない。トリステインの伝統的な建築のようでありながら、何かが違う。

 

(もしや、隠し部屋だろうか?)

 

 王宮のあちこちにそういった部屋があるのは周知の事実だ。緊急時に避難するための隠し階段や仕掛け扉はもちろんのこと、王族にしか伝えられていない特別な通路もある。

 

 マザリーニはそのほとんどを把握していたが、王室専用の隠し部屋までは調べ切れていない。そもそも、そのような真似をしたら不敬罪確定である。

 

(もしも推測通りだとするならば、わたしは一体どうやってこの部屋へ来たというのだ?)

 

 そんな彼に、サンドリオンは気遣うように声をかけた。

 

「ここしばらく行事が立て込んでいたからな、卿も疲れているのだろう。日を改めて、と言いたいところなのだが、この件はトリステインはおろか、ハルケギニア全土を揺るがしかねない」

 

 王の発言に、マザリーニは目を剥いた。 

 

「……まさか」

 

「ああ。卿が昨年末に提出してきた報告書の件だ」

 

 マザリーニは表面上は何事もなく、しかし内側では密かにうろたえていた。

 

 無理もない。各所から入手した情報を精査し、ある程度新王家の事情を察していた彼は、まず相談なぞ持ちかけてもらえないだろうと考えていたからだ。

 

 ロマリア連合皇国出身の聖職者。

 

 枢機卿団の一員であり、過去の教皇選出会議で次期教皇最有力候補として挙げられた人物。

 

 トリステインという異国において――いや、新王家が抱えているであろう問題に対し、脅威にしかなりえないこの肩書きがゆえに。

 

「とはいえ、本音を言えば悩んだのも確かだ。あまりにも悩み過ぎて、わし……余がそのうち倒れるのではないかと家族に心配されてしまった」

 

「それは……」

 

 何かを告げようとした枢機卿を制し、王は続けた。

 

「でな、娘にこう言われたのだ。家族であるわたしにも話せないことであれば、マザリーニ枢機卿に相談するのがいちばんなのではないでしょうか。トリステインのために、身を削ってまで尽くしてくれている方を信頼できずして、誰を信じられるのですか……とな」

 

 察しの良いマザリーニはすぐに気付いた。王に口添えをした人物が、誰であるのか。

 

「老いては子に従えと言うが、本当だな。恥を晒すが、余は肩書きだとか、出自がどうだとか……そういった余計なものに囚われて、本質を見失っていたようだ。王権の指輪を受け取ったあのとき、卿に誓いを立てたというのにな」

 

 王は立ち上がると、呆然と立ち尽くしていたマザリーニの側へ歩み寄り、彼の手を取った。痩せ衰え、艶肌を失った仕事人の手を。

 

「本来であれば、我らトリステイン貴族が成すべき責務を肩代わりし続けてくれたことに、改めて感謝する。その上で、余は卿を……宰相や司教枢機卿という立場ではなく、マザリーニという個人を信頼している。どうか、相談に乗ってはもらえないだろうか」

 

 マザリーニは胸の前で聖印を切った。敬虔なブリミル教徒が『始祖』に誓いを立てるときに用いる仕草だ。これを破るのは、信徒として最大の罪とされている。

 

「謹んでお受け致します。伺った内容は天上まで持って行くと誓いましょう」

 

 

○●

 

「おお……」

 

「これが〝幻影〟(イリュージョン)の魔法ですわ」

 

 部屋の中が輝く星空に変わる光景を目の当たりにしたマザリーニは、感嘆のため息を漏らした。それから、改めて隣にいる少女に確認する。

 

「わたしはこの魔法で、ここまで誘導されたと?」

 

「ええ」

 

「なるほど。文字通りの『始祖のお導き』というわけですな」

 

「ははは、意外だ。卿がそのような冗談を言うとは」

 

「冗句などではなく、本心です」

 

「そうか、それは悪かった」

 

 などと言いつつも笑い合うトリステインの王と宰相。

 

 ……現在、サンドリオン王とマザリーニ枢機卿に加え、ルイズ、才人、エレオノール、デルフリンガーの三名+一本が秘密の会議に参加していた。

 

 ルイズが〝虚無の担い手〟であること、才人が彼女に召喚された使い魔であること、エレオノールがヴァリエール家で最も『始祖』に関する知識を持ち、アカデミーの主席研究員であることを生かしてさまざまな調査をしていることは、既にマザリーニにも説明されている。

 

 そして今、虚無魔法のひとつ〝幻影〟を見せられ、その呪文によって造られた偽物の光景が、見慣れた王宮の通路そのものだったこと。目に映る光景の中で歩を進めることにより、彼の寝所ではなく隠し部屋に誘導されたことを教えられていた。

 

 聖地という名の夢ではなく、国の立て直しという現実を見ていた枢機卿だったが、そこはやはり『始祖』に仕えし聖職者。蘇った伝説を目の当たりにして、内心感動に打ち震えている。

 

 ――数分後。

 

 ルイズが〝幻影〟を解除したところで、マザリーニはぽつりと言った。

 

「やはり、あの不死鳥は〝ガンダールヴの槍〟で間違いなさそうですな」

 

「ガンダールヴの槍……?」

 

 ルイズの問いに、マザリーニは頷いた。それから才人に向き直る。

 

「戦場では剣よりも弓や銃を用いることが多い。何故だかわかるかね?」

 

「ええと、射程……攻撃できる範囲が広いからです」

 

「その通り。遠くから攻撃できるというのは、それだけ自分が有利になるということだ。間合いの広さは強さと言い換えてもいいだろう。聖職にあるわたしですら、そのくらいは知っている」

 

 そう言うと、マザリーニは椅子の横に立てかけられているデルフリンガーを見つめた。

 

「〝ガンダールヴ〟は左手で大剣を握り、右手に掴んだ長槍で『始祖』を護る……」

 

「始祖の使い魔を讃える、聖歌の一節ですわね」

 

「左様でございます、エレオノール王女殿下。そして、シュヴァリエ・サイト。あの飛行機械は、きみの〝長槍〟なのだよ」

 

「どういう意味ですか?」

 

 そう訊ねた才人は、濃緑のマントを羽織っていた。その襟には三首竜と五芒星が銀糸で刺繍されている。ウェールズ王子からの依頼を見事成し遂げた彼は、約束通り〝騎士〟の称号と、最下級ではあるものの、アルビオン王国貴族としての地位を得たのである。

 

「今から六千年前……『始祖』の時代において最強とされた武器は槍だった。それが時代を経ると共に、さらに遠くの敵を倒すために変化していったのだよ。槍から弓に、弓から銃に、そして大砲が現れたわけだが、どうやら天上の武器はさらに進化し続けているらしい」

 

 ぽかんとしている参加者たちに、マザリーニは生真面目な顔で説明した。

 

「『始祖』ブリミルがガンダールヴのために用いた魔法が、未だに効果を発揮しているのですよ。そして例の飛行機械のような、考え得る限り最強の武器を遠方から届けてくださる。事情を知る神官の間では、それらを称して〝ガンダールヴの槍〟あるいは〝場違いな工芸品〟と呼ぶのです」

 

「ガンダールヴのための魔法ですって!?」

 

「遠くから、武器を届ける……?」

 

 エレオノールは身を乗り出し、ルイズは小さく首をかしげた。

 

「ごく稀に、武器と共に人間も一緒に現れることもあります。ロマリア宗教庁は彼らに接触し、さまざまな情報を得ている模様です」

 

「具体的には?」

 

 王の御下問に、マザリーニは首を横に振った。

 

「残念ながら、詳細までは……」

 

 その言葉に、サンドリオンは驚きを露わにした。

 

「我が国で随一の情報収集能力を誇る、卿にも知り得ぬことだと!?」

 

「はい。『始祖』に誓って陛下を謀るような真似は致しておりませぬ。そもそも〝槍〟と共に人間が送り込まれてくること自体が稀で、かつ、彼らが現れるのは決まって聖地の周辺なのです」

 

「ふむ、エルフの目をかいくぐってハルケギニアまで辿り着くことなど、普通なら無理だな」

 

「おまけに、エルフから逃れても周囲は熱暑の砂漠。そこから道を違えれば、妖魔どもが跋扈する蛮族領域。土地勘のある東方商人たちならともかく、生き残ることすら不可能でしょう」

 

 ふたりの会話を聞いていた才人は、なるほどと思った。

 

(シエスタのひいおじいちゃん……佐々木少尉はゼロ戦ごとこっちに来たから、生きたままタルブまで来られたんだな。それなら学院長先生の命の恩人ってひとは、もしかして特殊部隊の隊員とかだったのか? それなら装備次第で砂漠を抜けられるかもしれないし)

 

 学院長先生と会った時点でかなり弱ってたみたいだけど。などと考えていた彼をよそに、王と枢機卿の話は続いていた。

 

「ロマリアは、数百年ほど前からエルフたちに悟られぬよう秘密裏に聖地へ人員を送り込み、周辺を調査しておりました。そこで偶然の邂逅があり、初めて人間が来ることもあると知った次第でしてな。しかし、常にかの地を見張れるわけもなく……」

 

「巡り合わせが良くなければ出会うことすらできない、ってことね。それじゃあ、ロマリアが〝来訪者〟の情報を独占しているのも無理ないわね」

 

 エレオノールの言に、マザリーニは頷いた。

 

「それとは別に、調査員たちが聖地から〝槍〟を持ち出して、ロマリアの地下墓地(カタコンベ)に溜め込んでいるようです。彼らと接触すれば、例の不死鳥のような〝ガンダールヴ〟専用の武器を融通してもらえるかもしれませんが……」

 

「却下だ。ルイズの系統を公にして、ロマリアや野心を持つ貴族たちに利用されたくない。無用な争いを起こすつもりもないし、聖戦などもってのほかだ」

 

「承知しております。もしもロマリア側から特殊な武器に関する持ちかけがあった場合、何らかの探りを入れられているとお考えいただければと」

 

 このやりとりを聞いていたルイズが、ほっと息を吐く。

 

(枢機卿とお話できて良かったわ。父さまや姉さまならともかく、わたし……そこまで強い武器がもらえるならって、ロマリアの手に引っかかっていたかもしれないもの)

 

 才人の身を守るために必要だなどと説得されたら、ふらふらと乗っていたかもしれない。さすがに、その思いは胸の内だけに留めておいたわけだが。

 

「実のところ、今回の戴冠式にわざわざバリベリニ枢機卿を派遣してきたのは……新王家の見極めと〝担い手〟を探すためとしか思えません」

 

「卿もそう感じていたか」

 

「では、陛下も?」

 

「ああ。あの男、切れ者だがまだ若い。おそらく無意識にだろうが、余が填めている水のルビーを見ていたよ。それに……」

 

「他にも、何かお気付きに?」

 

「これはウェールズ皇太子から聞いた話だが、なんでもアルビオンの暫定政府にロマリアの神官が訪ねてきたそうだ。ご無事で何より、であるとか、さすがは『始祖』の直系だとか、心にもない見舞いの言葉をつらつらと述べて濁していたが、そやつが本当に知りたかったのは、始祖の代から伝わる秘宝が無事かどうかだったそうだ」

 

「その話は、いつ?」

 

「今朝だ。父君の名代として新年の挨拶に来た彼から直接、な」

 

 マザリーニは呻き声を上げた。

 

「アルビオン王家の生き残りは彼らだけ。なればこそ、ですか……」

 

「うむ。始祖の秘宝は虚無の魔法書でもある。ロマリアとしては、どうしても抑えておきたい品なのだろうからな」

 

「それは始祖の祈祷書も同じこと。ルイズ王女殿下、くれぐれも取り扱いにはご注意ください」

 

「わかったわ」

 

「それにしても……」

 

「どうかしたかね? エレオノール」

 

「『始祖』ブリミルがハルケギニアでなく、聖地に〝槍〟を送り込む魔法をかけた理由がわからないんです。おそらく、何か深いお考えがあってのことだと思いますが」

 

 王女の疑問に答えたのはマザリーニだ。

 

「あくまでわたし個人が立てた仮説ではありますが、聖地の近辺に遠方の国と繋がる魔法的な穴が開いており、そこから〝槍〟が送り込まれているのではないかと……」

 

 ガタンと音を立て、椅子から立ち上がる才人とエレオノール。

 

「それ、たぶん正解です!」

 

「そう、それよ! 『始祖』は扉を開いて聖地に降臨した……きっと、その穴の向こうにあるのが『始祖』ブリミルの故郷に違いないわ!」

 

 ふたりの、特にエレオノールの剣幕にたじたじとなりながら、マザリーニは訊ねた。

 

「申し訳ありませんが、詳しくお聞きしても……?」

 

 エレオノールはかつて自分が書いた論文について、異端審問覚悟でマザリーニへ告白し、才人はゼロ戦とオスマン氏の持つ『破壊の杖』の来歴から、奇しくも彼女と同じ結論に達していたことを説明した。

 

 ……なお、それを聞いたサンドリオン王とエレオノールの才人に対する評価が、ほんの少しだけ上昇している。

 

「なるほど。一度関係者全員が集まった上で、情報を整理したいところですな。オスマン氏とガリアの大公姫殿下、それと彼女が喚び出したという東の参謀殿からもお話を伺いたく」

 

「タバサがオルレアン大公姫……やっぱりあの子、王家の血を引いてたのね」

 

「おちび。あなた、知ってたの?」

 

「ううん、そうじゃないかなって思ってたの。気付くまでに時間がかかっちゃったけど。あの子の名前、どう考えても偽名だし……わたしと同じく、人間を喚び出してるのよ? ミスタは偶然の事故だって言ってたけど、もしもそうじゃなかったとしたら……」

 

 ルイズは全員を見回してから、ぽつりと言った。

 

「まだ目覚めていないだけで、あの子も〝虚無の担い手〟なんじゃないかしら……?」

 

 と、ここまで沈黙を続けていたデルフリンガーがカタカタと揺れた。

 

「いんや、違うな。あの娘っ子からは、なんっつーか気配が感じられねえ。使い魔の兄ちゃんも、相棒と同類って感覚が一切なかったからな」

 

 才人は目を丸くした。

 

「気配?」

 

「おうよ。相棒と武器屋で会ったとき、すぐに『使い手』だってわかっただろ」

 

「その『使い手』とやらが何なのか忘れてたけどな! って、そうじゃなくて! お前、俺の同類ってどういうことだ?」

 

 デルフリンガーはかちかちと鍔を鳴らす。

 

「俺っちはガンダールヴのために造られた『盾』だが、同じブリミルの使い魔に触れれば気付くぐらいのことはできるさ。あの蒼い娘っ子や使い魔の兄ちゃんに触られたことがあるんだがよ、そんな気配、ちっとも感じなかったからな」

 

 ルイズがぷるぷると震えながら叫んだ。

 

「このボロ剣! そういうことは最初から言いなさいよ!!」

 

「今まで忘れてたんだもんよ、しょうがあんめえ」

 

「あんた、いっつもそればっかりじゃないの!」

 

 そのやりとりを聞いたサンドリオン王とマザリーニが噴き出した。

 

「そのあたりは本人たちから改めて聞くとしよう。オールド・オスマンが言うには、ガリアから戻り次第、打ち合わせがしたいと申し出てきたそうだからな」

 

「賛成です。わたしとしても、大公姫殿下に接触してきたという神官の話が気になりますし、何よりルイズ王女殿下の系統を探り当てたという、東の参謀殿の知識に触れさせていただきたく」

 

 ふたりに同意するその他の参加者達。だが、その会談でロマリアがガリアに仕掛けたおそるべき陰謀が明らかになろうとは、今は知る由もなかった――。

 

 

 




なんと マザリーニ が
なかまに なりたそうに こちらをみている!

なかまにしますか?

 ニア はい
   いいえ

明暗くっきりの聖職者たち。
カトレアさんは、影ながらお父さんとその部下を支えているようです。

次回更新も、また二週間前後お時間をいただきたく。


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追憶の夢迷宮
第107話 伝説と零、異郷の地に惑うの事


 タバサと太公望の主従がトリステインに戻ったのは、降臨祭が終わってから十四日後。既にヤラの月中旬に差し掛かった頃であった。

 

「いやはや、今回はずいぶんと長いことお出かけじゃったのう?」

 

「嫌味を言うでない! だいたい、あの吹雪ではどうしようもなかろうが!」

 

 オスマン氏が水ギセルを(くゆ)らせながらそう言うと、太公望は苛立たしげに鼻を鳴らした。

 

 学院長室の窓枠は吹き付けられた雪で覆われており、石壁の外は見渡す限りの銀世界。強風こそどうにか収まったものの、未だに白いものがちらちらと舞っていた。どうにか通り道だけでも確保しようと、教員と使用人たちが雪かきをしている。

 

「巷では〝白銀(しろがね)の降臨祭〟などと歓迎されとったが、こうも続くとたまらんわい」

 

 同席していたタバサがこくこくと頷く。トリステインのみならず、ハルケギニア大陸で冬にここまで天気が荒れるなど、滅多にないことであった。

 

 当然、各国の交通網は麻痺。緊急で竜籠を出すことこそ可能だが、寒空を飛ぶのを嫌がる竜が多いため、目の玉が飛び出るほどの高額料金を請求される。

 

 もちろん、太公望らにはそれ以外の帰寮手段があったわけだが……そんな真似をしたが最後、融合その他諸々の事情を知るイザベラや王天君ならともかく、その他の王政府関係者から不審な目で見られること間違いなし。

 

 よって、リュティスに滞在して雪が小降りになるのを待った上で、ガリアの王宮から借り受けた風竜で戻るしかなかったのである。

 

「それはともかく、皆が無事で良かった」

 

「君の開戦予測日、どんぴしゃじゃったの~」

 

「おおよその流れが見えておったからのう」

 

「皆に特別休暇を出しておいて正解じゃったわい」

 

「なんだ? まさか……」

 

「そのまさかじゃよ。捕らえられた『レコン・キスタ』の手の者が、魔法学院の襲撃計画を練っていたと自白したそうじゃ」

 

 タバサの顔から、ざあっと音を立てて血の気が引いた。が、オスマン氏は好々爺そのものの笑みを浮かべている。

 

「ミス・タバサ。何もなかったから心配することはないぞい」

 

「詳しく話していただけますか」

 

「もちろんじゃとも。実はな……」

 

 戦況次第ではアルビオンきっての腕利きたちが、内通者の手引きによって警戒の薄い学舎に潜入し、生徒あるいは教職員のいずれかを誘拐。人質の命を盾に、その家族やトリステイン王政府を脅迫して動きを抑える計画があったというのだから洒落にならない。

 

 ほっと安堵の息を吐いたタバサを余所に、太公望が実にイイ笑顔で嘲笑う。

 

「ケケケ、人質にできそうな者たちは皆、特別休暇で学院から出払っておったからのう」

 

 オスマン氏が愉快げに答える。

 

「うむ。王政府に報告しておいたお陰で、計画そのものが立ち消えになったそうじゃ」

 

「内通者さまさまだのう」

 

「まったくじゃ」

 

 顔を付き合わせて嗤う両者。魔法学院の危機を事前に救うことに成功した彼らだが、端から見ると根性悪の老人共が、質の悪い陰謀を計画しているようにしか見えない。

 

「さて……」

 

 パイプから吸い込んだ煙を吐き出すと、オスマン氏は訊ねた。

 

「天気の話や近況はこのくらいにしておこうかの。戻って早々揃ってわしの元を訪れたのじゃ。不在中の単位がどうこうなどという用件ではなかろ?」

 

 頷くふたり。それを確認したオスマン氏は、手にしていた水ギセルを置いて杖に持ち帰ると、ついと振った。ガチャリという音がして、学院長室の扉に魔法の鍵がかけられる。

 

 同時にタバサも自前の長杖を掴み、呪文を唱えた。〝消音(サイレント)〟の魔法だ。

 

 トリステイン最高と謳われたメイジと、若くして『スクウェア』に至った少女が施した防諜を破るのは至難の業である。

 

 そんな中、最初に口を開いたのは……これまで静かだったタバサだ。

 

「学院長は、わたしの事情をどこまでご存じですか?」

 

 内心で密かに驚くオスマン氏。無理もない、彼は太公望が事情の説明を行うものだと思い込んでいたのだから。

 

「君の家にまつわる諸々のことかの?」

 

「……はい」

 

「概要くらいは把握しとるが、わしも一応はトリステインという国に仕える貴族じゃからのう。下手に隣国のお家騒動に首を突っ込むわけにはいかん。君には教員にあるまじき非情さだと受け取られるやもしれんが……」

 

 蒼い髪がふるふると横に揺れる。

 

「わたしは、わたしの事情をトリステインに持ち込むつもりはありません」

 

 顎髭をしごきながら、オスマン氏は確認した。

 

「わしが君の素性を知っているかどうか確かめたのは、説明すべき内容の省略ができるか否かの判断に必要だった。そう解釈して問題ないかね?」

 

 タバサは頷き、言葉を紡ぐ。

 

「本当は、ふたりと直接話がしたかった。あなたたちに危険が迫っていると」

 

 そして彼女は語り始めた。人間を使い魔にしたという噂を聞きつけたロマリアの神官が、ふたりに接触してきたこと。ジュリオが語った虚無に関連する内容を、イザベラや王天君、地下水の助力やガリア王家の悲劇の真相には触れることなく、オスマン氏に伝え聞かせた。

 

 祖母がロマリアに洗脳されたことや、ガリア貴族たちが調略によって煽られていたことは報せない。オスマン氏が信用できないからではなく、ロマリアが「知られていることを知らない」というアドバンテージを最大限に活用するためだ。

 

 同時に、タバサとイザベラの身を守るための措置でもあった。太公望と王天君が側についているとはいえ、万が一ということがある。最悪、王権争いの真相に辿り着いた彼女たちがロマリアに消されかねない。ただでさえ、ガリアの裏を司るイザベラには敵が多いのだから。

 

 『部屋』の外で交わされた言葉は、いつか漏れる。そのくらいの覚悟をもって挑まなければならないし、仲間に伝えるにしても最低限必要な情報だけに留める必要がある。

 

 タバサが情報の取捨選択を行いつつ必死に説明する姿を、太公望はただ無言で見ているだけであった。そんな彼の口端がわずかに上がっているのに気付いたのは、オスマン氏だけであろう。

 

 

 ――それから四日後。

 

 オスマン氏は魔法学院の馬車で、トリスタニアの王城へと向かった。

 

 可能であれば、話を聞いた当日のうちに緊急の案件として王室に持ち込みたかったのだが、しかし。公務での王都行きが迫っていたこともあり、あえて間を開けたのである。

 

 オスマン氏ほどの人物が連日王宮を訪れたりしたら、周囲の者たちは何事かと騒ぎ立てるであろう。内通者を一掃した直後とはいえ、耳目を集めるのは得策ではない。ならば、元々の予定を利用したほうがよいと考えたのだ。

 

 密談の申し入れを受けたサンドリオン王は、これを承諾。トリステイン最高のメイジ・オスマン氏と最強のカリーヌ王妃、蘇りし虚無のルイズが手を組めば、出入りの激しい王宮内とはいえ誰にも怪しまれることなく関係者を隠し部屋へ導くことなど容易かった。

 

 ……そして。問題が起きたのは、ある程度彼らの間で話が進んでからのことだった。

 

 

○●○●○●○●○

 

 頬を撫でる風が、眠っていた才人の覚醒を促した。

 

「あと五分……」

 

 ある意味お約束ともいえる寝言を発しながら、寝返りをうつ。その途端、妙に固いベッドの感触に痛覚を刺激され、才人の意識が徐々に夢の底から浮上し始めた。

 

「んあ……?」

 

 目を開けると、頭上に青空が広がっていた。天頂に輝く太陽が、才人の顔を照らしている。

 

「へ?」

 

 飛び起きた才人は周囲を見て驚愕した。どこまでも続く、広大な草原が目に入ったからだ。

 

「はい?」

 

 ベッドが固いのも道理である。彼は寝床ではなく、地面に横たわっていたのだから。いや、それ以前に……。

 

「つうか、どこだここ」

 

 才人がいたのは、草原の中でぽつんと盛り上がった、小高い丘だった。振り返ると、一本の木が立っている。どうやら、この木の根を枕に昼寝をしていたらしい。強烈な陽差しが草原に降り注いでいたが、この場所だけは背後の大樹に守られ、日陰になっていた。

 

「俺、なんでこんなところで寝てたんだ?」

 

 遥か遠くに、山と森らしきものが見える。が、それ以外には何もない。もちろん才人はこんな場所なんて知らなかったし、来た覚えもない。とすると、誰かに運ばれたのだろうか?

 

(けど、何のために?)

 

 理由はわからない。けれど、とりあえず周りを見てみよう。そう考えた才人は、立ち上がろうとして地面に手をついた。

 

「ん?」

 

 それは、ふにょんとして、柔らかかった。はて? 太陽の光で温められたとして、土がこんなにふよふよになるものだろうか。第一、ぽよぽよしているのは右手側だけで、左手のほうは普通の地面と変わりなかった。

 

「なんだこれ?」

 

 手触り自体は布っぽい。母が愛用していた低反発クッションとも違う、ふよんとして、触れているだけで幸せな気分がこみ上げてくる、この物体は……。

 

 才人はちらりと右手を見た。

 

「る」

 

 それは。

 

「る、る、るるるるるる」

 

 誰かがこの声を聞いていたら「幼竜の鳴き声みたいだ」と表現するかもしれない。とはいえ、才人がこんな声を上げたのも無理はなかった。

 

「ルイズぅう!?」

 

 未だに状況が理解できないが、何故か魔法学院の制服を着たルイズが、彼と寄り添うようにして寝息を立てていたのだ。おまけに、才人の左手は彼女の控えめな胸部に置かれている。

 

「ふぉあッ!」

 

 奇声を上げて飛び退く才人。本音を言えば、もう少し触れていたかったのだが……場の勢いとはいえ、好きだと告白した女の子にアレなことをするのは憚られた。ルイズを大切に思っているということもあるが、その感情と同じくらい、彼女から嫌われるのが怖かったのだ。

 

 普段は感情任せに突っ走るくせに、こういうところではヘタレるのが才人という少年だった。

 

 と、静かに横たわっていたルイズが身じろぎをする。

 

「ん……」

 

 ルイズなら、異変が起きた理由を知っているかもしれない。そう考えた才人は、少女の肩に手をかけ、軽く揺さぶった。魔法学院で共同生活を送っていた頃は、毎朝こうして寝起きの悪い彼女を起こしていたのだ。

 

「もう少しだけ……」

 

 異世界なのに、こういう時の寝言って変わらねえなあ。などと他愛のないことを考えつつも、才人はルイズの意識が覚醒するよう促し続ける。

 

「いい加減起きてくれ、ルイズ。なんかおかしな事が起きてんだよ!」

 

「うるさいわねえ。何なのよ、いったい……」 

 

 不満げな声で抗議しながらも、ルイズは身体を起こそうとした。

 

「うう、なんでベッドがこんなに固いの!?」

 

「それ、もう俺が通った道だから」

 

「訳のわからないこと言わないでよね……」

 

 そこまで口にしたところで、ようやくルイズは周囲の様子に気がついたらしい。鳶色の瞳をまんまるにして才人の顔を眺め、続いて自分が寝ていた場所を見回した。

 

「何これ、どういうこと!?」

 

「それは俺が聞きたいんだが」

 

「そうじゃなくて! わたし、祈祷書に魔法をかけたはずなのに……」

 

「祈祷書? 魔法? ……あ!」

 

 ルイズの言葉を聞いて、才人はようやく前後の状況を思い出した。

 

 

○●

 

「余が甘かった。まさか、ロマリアがそこまで熱心に聖地奪還を目指しているとは……」

 

 オスマン氏から話を聞かされたサンドリオン王は、呻き声を上げた。彼は「ルイズの系統が知られればブリミル教の御輿として担ぎ上げられる可能性がある」程度の認識を持ってはいたが、ロマリアの『聖地』に対する熱意を見誤っていた。まさか、これほどまで躍起になって『担い手』を捜しているとは思ってもみなかったのだ。

 

「テューダー家を見殺しにしたのも、虚無の覚醒を促すためだなんて……」

 

 ルイズの顔は、赤と青を行き来している。滅亡の瀬戸際に立たされた王党派の姿を自分の目で確かめていた彼女は、あまりのことに怒りと悲しみ、恐怖といった感情がないまぜとなって、頭がどうにかなりそうだった。そんな彼女を、カトレアが側で支えている。

 

「…………」

 

 カリーヌ王妃は沈黙を保ちつつも、鳶色の瞳に怒色を湛えている。曲がったことを嫌う彼女は『始祖』ブリミルの代弁者たるべき者たちの行いに対し、深く、静かに憤っていたのだ。

 

「ふざけんな! 何が『聖地』だ! そんなよくわかんねーモノのために王子さまたちのこと犠牲にするとか、馬鹿げてる。だから俺は宗教なんて嫌いなんだよ!」

 

「へッ、さすがはあのフォルサテが作った国だね。腹の黒い連中が集まるのは昔っからちっとも変わらねぇな」

 

 才人は激しく怒っていた。彼と同様に、デルフリンガーも不満を露わにする。普段なら「不敬な!」と怒鳴りつけていたであろうエレオノールですら、彼らに対して反論しなかった。彼女自身が敬虔なブリミル教の信徒であるからこそ、野望のために始祖の血統すら軽んじる、ロマリアのやり口が許せないのだ。

 

 代わりに、彼女は不快感に顔を歪めながら、現時点で入手済みの情報を提供した。

 

「アカデミーの女性研究員のうち数名が、月目の神官に街で声をかけられたという話を耳にしています。まるで宗教画から抜け出してきたような美少年であったと、もっぱらの噂ですわ」

 

 そこへカトレアが追従する。

 

「そういえば、街へ出た侍女たちがそんな話をしていましたわ。ごめんなさい、あまり詳しいことを聞けなくて」

 

「アルビオン亡命政府を訪れたという、若い神官の特徴とも一致するな。『使い魔は主人の目となり、耳となる』とは、よく言ったものだ」

 

 深い深い溜め息の後、サンドリオン王は同席していたマザリーニに訊ねた。

 

「ロマリアという国をいちばんよく知っているのは、卿だ。オールド・オスマンが持ち込んだ情報について、忌憚のない意見を聞かせて欲しい」

 

 指名されたマザリーニは軽く咳払いをした後、処刑場へ向かう罪人のような顔で答えた。

 

「まずは、わたしの読みが浅過ぎたことに対する謝罪を。この二十年ほどの間、かの国は混迷を極めておりました。新教徒の台頭による争乱、神官たちの汚職、理想郷を求めて他国から流入する難民と、現地の住民同士の諍い。それらへの対処に手一杯で、他国に余計な手出しをする余裕などないと、たかをくくっていたのです」

 

 枢機卿は立ち上がり、深々を頭を下げた。

 

「その混乱こそが、呼び水であったのかもしれません」

 

「王室に大きな危機が迫ったとき、虚無が目覚める。聖エイジス三十二世が担い手のひとりとして覚醒したのは、ロマリアに滅亡の危機が迫っていたからだと?」

 

 マザリーニは頷いた。

 

「あくまで推測の域を出ませんが。しかし、そう考えれば納得できることも多いのです」

 

「ふむ、具体的には?」

 

「近年、混乱の只中にあったロマリアが沈静化しつつあります。『始祖』の意志を継ぐ虚無の担い手が頂点に立ち、信仰を語れば――ブリミル教の信徒を束ねるべき神官たちは、表向きだけでも世俗に対する欲を抑えねばなりません」

 

「なるほど。担い手たる教皇を否定するということは……これすなわち『始祖』の御言葉をないがしろにするということであり、ブリミル教の根幹、いや、神官としての立場そのものを揺るがしかねない、と」

 

 王の言葉に、宰相は同意した。

 

「さらに、教皇聖下が操るという〝記録(リコード)〟なる虚無魔法です。どこまで視えるのかは情報が少な過ぎて判断がつきかねますが……競争相手を蹴落とす材料蒐集という点において、絶大な効果が見込めるものと思われます」

 

「神官たちの迂闊な行動を抑止できるという訳だな」

 

「はい。とはいえ、かの魔法は本来切り札とも呼べるもの。存在を公にしているとは考えにくうございます。おそらく、他にも虚無の証明を成す手札があるのではないかと」

 

「そうですね。現時点でおちび……いえ、ルイズも三つの虚無魔法を会得しています。わたくしも卿の考えを支持しますわ。何も無いと断定するよりも、あると仮定して動いたほうがよいかと」

 

 エレオノールはマザリーニの意見を肯定した後、ルイズに向き直った。

 

「そういう訳だから、おちび。祈祷書を開いてみなさい」

 

「え?」

 

「え? じゃないわよ! もしかしたら、あなたも〝記録〟という魔法を身に付けることができるかもしれないでしょう? そうすれば、ロマリアに対抗できるかもしれないわ!」

 

「えええええ!」

 

 と、慌てふためくルイズの後押しをしたのはデルフリンガーだった。

 

「冴えてるな、金髪の嬢ちゃん。確かに、今ならいけるかもしれねぇ」

 

「どういうこと!?」

 

 カチカチと鍔を鳴らしながら、デルフリンガーは説明した。

 

「前にも言ったろ? ブリミルの奴は、担い手が心から必要としている呪文を用意してるんだ。嬢ちゃんはこの国を守りたいし、ロマリアのやり口が気に入らない。だろ?」

 

 コクリと頷くルイズ。

 

「なら、読める可能性は高いぜ? おまけに、絶対にあるってわかってる呪文なんだ。あるかどうかわからねー『扉』よりも、迷いなく探せるはずだ」

 

「う……」

 

 ここ最近、ルイズは夜眠る前に必ず始祖の祈祷書を開いていた。広い王宮の中で一人きりになれる場所と時間がそれしかないからとも言えるが、その度に溜め息をついている。彼女が目指す『扉』の魔法が、未だページ上に現れてくれないからだ。

 

 けれど、デルフリンガーに指摘されたルイズははたと気付いた。確かに、彼女の心の内には「もしも扉の魔法がなかったらどうしよう」という迷いがあった。しかし、この〝記録〟という虚無魔法に関しては違う。

 

 ルイズは、ちらと父の顔を見た。娘の視線を受け止めたサンドリオン王は、右手親指に填めていた王権の指輪を外すと、ルイズに手渡した。

 

「呪文が見つからなくても、焦ることはない。そもそも、この件はおまえの虚無だけに頼るような事柄ではない。今、我々がこうして集まっているのは、皆でより良い知恵を出し合うためでもあるのだよ」

 

「……ありがとう、父さま」

 

 わたしは幸せ者だとルイズは思った。虚無という名の重荷を、家族や仲間たちが共に背負おうとしてくれている。使命感に押し潰されそうになっていた彼女にとって、それは何よりも得難い救いであった。

 

 懐から始祖の祈祷書を取り出して、指に水のルビーを填める。それから、そっとページをめくると……指輪と祈祷書が淡い光を放った。

 

「おお……!」

 

 感嘆の声を上げるマザリーニ。無理もない、聖職者として『始祖』の御言葉を賜る場に立ち会えるなど、これ以上ない幸せである。

 

「あの時と同じだわ。さ、早く読んでみなさい!」

 

 瞳を輝かせながら、妹を急かすエレオノール。〝記録〟という魔法の存在を知った瞬間、彼女は閃いたのだ。ルイズが新呪文習得に成功した際に成すべきことを。

 

「は、はい」

 

 静まりかえった部屋の中で、ぱらりぱらりと本のページをめくる音だけが響く。それが止んだ直後。ルイズの口から鈴を鳴らしたような声が発せられた。

 

「〝記録〟。『空間』と『支柱』の二乗。此、物質に込められし強き記憶と想いを担い手と、担い手に選ばれし者の脳裏に映し出す呪文なり。以下に、発動に必要な魔法語を記す……って、たぶんこれに間違いないと……」

 

 ルイズが最後まで言い終える前に、エレオノールが猛烈な勢いで割り込んできた。

 

「よろしい! なら、次はその魔法を始祖の祈祷書にかけなさい」

 

「は?」

 

「あなた、言ったじゃない! その〝記憶〟という魔法は、物質に込められた強い記憶や想いを、担い手や担い手が選んだ者に見せるものだって!」

 

「ええ、い、言いましたが、何か?」

 

 姉の勢いにたじたじとなりながらも、どうにかルイズが訊ねると。

 

「ああもう、どうしてわからないの! つまり! その魔法を使えば『始祖』ブリミルが、実際に祈祷書へ呪文を記す御姿を拝見できる可能性が高い、ってことよ!」

 

 ルイズの目が大きく見開かれた。

 

「と、ととと、ということは……」

 

「そうよ、やっと気付いたのね! うまくいけば、祈祷書に記された呪文を全部知ることができるかもしれないわ! 教皇聖下も、そうやって他の虚無魔法を覚えたんじゃないかしら」

 

 ルイズの顔が、ぱっと輝く。

 

「さすがはエレ姉さま! わたし、そんなこと思いつきもしなかったわ!」

 

「ふふん、アカデミー主席研究員の肩書きは伊達じゃないのよ」

 

 尊敬のまなざしを向けてくる妹に対し、鼻高々のエレオノール。と、そこへマザリーニが割り込んできた。普段は泰然自若としている彼が、そわそわと妙に落ち着かない様子で。

 

「担い手に選ばれし者、ということは……もしも、エレオノール王女殿下の案が実現可能であるならば、わたしにも是非『始祖』のご尊顔を拝謁する栄誉を授けていただきたいのですが」

 

「わし、いや余もだ」

 

「わたくしも」

 

「わたしも、いいかしら?」

 

「できれば、わしも見てみたいのう」

 

「ま、待ってください! そんな、いきなり言われても!!」

 

 参加者のほとんどが、立ち上がってルイズに注目している。才人とデルフリンガーは蚊帳の外、というよりも。単に才人はハルケギニアの住民ほど『始祖』とやらに興味がないから傍観しているだけであり、デルフリンガーのほうはというと、珍しく口を挟まず、静かなままでいる。

 

 それから、彼らは「同行者」の選定に入った。未だ呪文を試していないため、対象として選択できる最大人数やルイズにかかる〝精神力〟の負担がどれほどのものか不明であるからだ。

 

「それじゃあ、最優先はエレ姉さまで、次が学院長先生。その次にマザリーニ枢機卿、父さま、母さま、ちい姉さまの順で決まりですね?」

 

 ルイズの確認に、全員が首を縦に振った。エレオノールも、マザリーニも、これまで見たこともない程に興奮し、目を輝かせている。

 

「サイトとデルフは……」

 

「ああ、俺は別にいいよ。魔法のこととかよくわかんねーし、後で話だけ聞かせてくれれば」

 

「俺っちも同じく」

 

 ふたりの返答に頷くルイズ。

 

「それじゃ、始めるわ」

 

 虚無の調べが隠し部屋の中に反響する。フルキャストで約二分ほどかかる、長い呪文だ。そしてルイズが半ば程まで詠唱を続けていた、その時。突然、彼女の意識は暗転し――。

 

 

○●

 

「で、なんでかこんな場所にいたと」

 

「え、ええ。呪文を間違えた訳でもないのに、どうしてこんな……」

 

 大樹の根に腰掛けながら、才人とルイズは頭を抱えていた。

 

「せめてデルフが一緒なら、何かわかったかもしれねーのにな」

 

 ルイズが魔法学院の制服姿になっていたのと同じように、何故か才人も愛用の青いパーカーにスラックス、指抜きグローブと運動靴という元のスタイルに変化していた。直前まで、アルビオン王党派貴族の格好をしていたはずなのに、だ。

 

「〝記憶〟だっけ? その魔法を解除する方法、わからねえのか?」

 

 ルイズはふるふると首を横に振った。

 

「〝瞬間移動〟とか〝幻影〟は、詠唱を進めていくうちに魔法の詳しい効果とかが頭の中に浮かんでくるんだけど、今回は何かが掴めそうになった途端、こうなっちゃって……」

 

「途中で精神力が足りなくなったとか?」

 

「それはないと思うわ。魔法が発動した直後にくる、独特の脱力感がないもの」

 

「てことは、消耗自体は大したことないんだな」

 

「ええ」

 

「なら、魔法が暴走して知らない場所に飛ばされた、とかもなさそうだな」

 

「そうね。単に空間を跳躍しただけなら、疲れてなきゃおかしいわ。それに……」

 

「どうした?」

 

 途中で口を閉ざしてしまったルイズに、訝しげな視線を向ける才人。

 

「向こうから来るの、何かしら?」

 

 才人は、ルイズが指を差した方向を見た。彼女の言う通り、何者かが近付いてくる。

 

「人間っぽいけど、誰だ?」

 

「もしかして、姉さまたちかしら」

 

「それならいいんだけどな」

 

 頼れる相棒は、背中にない。才人はぎゅっと拳を握り締め、庇うようにルイズの前に出た。

 

 しかし、こちらへ近付いてくる人物に害意はないようだ。というよりも、こちらに気付いてすらいない様子で、のんびりと歩いている。

 

「女のひとみたい、だけど……」

 

「エレオノールさん、ではないよな」

 

 問題の人物が近付いてくるにつれ、輪郭がはっきりしてきた。草色のローブを身に纏い、フードで頭を隠しているため、顔はよく見えない。しかし、ほっそりとして丸みを帯びた身体のラインからして、女性であることは間違いなさそうだ。

 

 そのまま十メイルほど近くまで来た女性は、ふたりに声をかけてきた。

 

「先客がいたのね。わたしも、ここで休ませてもらっていいかしら?」

 

 そう言って、女性はフードの前を軽く上げた。それを見た才人は息が止まりそうになった。何故なら、件の人物がとてつもない美人だったからだ。金色の髪に、宝石のように煌めく翠瞳。切れ長ではあるけれど、垂れ気味な目元のせいで、眠たそうな印象を受けはするが。

 

「ど、どうぞ」

 

「ありがと。ごめんなさいね、お邪魔しちゃったかしら」

 

「い、いえ」

 

 才人の態度に、

 

(何よ! わたしのこと、すす、好きだって言ったくせに、デレデレしちゃって!)

 

 と、背後から怨念の籠もった視線を向けていたルイズだったが、女性の優しげな態度に慌てて首を振った。

 

 ルイズの姉・カトレアよりも少し若いくらいだろうか。大人びた雰囲気の中に、愛らしさと茶目っ気を感じさせる風貌だ。

 

 女性は微笑みを浮かべると、ふたりに革袋を手渡した。

 

「水よ。この日差しだもの、喉が渇いたでしょ?」

 

「あ、ありがとう」

 

「いいのよ、わたしの手持ちはまだ余裕があるし」

 

 素直に好意を受け取ったふたりは、ごくごくと中身を飲み干した。水は程よく冷えていて、美味しかった。

 

 ふたりが一息ついたところで、女性は不思議そうな声で言った。

 

「わたしはサーシャ。あなたたちの名前は? どこから来たの? 旅人にしては、荷物を持っていないようだけど」

 

「サ……ソードと言います。旅をしていた訳じゃないんですが……」

 

 本名を名乗りそうになった才人だったが、慌てて暗号名を出した。彼ひとりならばともかく、今はルイズがいるのである。一国の王女が見知らぬ場にいるなんてことが知られたら、何が起きるかわからない。

 

 ……これまでの経験上、彼も多少は用心深くなっているのだ。

 

 そんな才人の様子を見たルイズもすぐに現状を思い出し、彼に倣った。

 

「わたしはコメット。気がついたら、ここにいて……ここがどこなのか、そもそも、どうしてここにいるのかわからないの」

 

「ふうん……」

 

 女性はルイズと才人を観察するように、交互に見つめた。

 

「見かけない格好ね。マギ族にしては上質過ぎるけど、ヴァリヤーグって訳でもなさそう」

 

「マギ?」

 

「ヴァ……なんです?」

 

 ふたりの疑問に答える前に、サーシャと名乗った女性はフードを取った。そこから飛び出したモノを見たルイズは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、才人の背中にしがみついた。

 

「エ、エルフ……!」

 

 ハルケギニア人の天敵。異教の徒。サーシャは邪悪な先住魔法を使うとされるエルフだった。

 

「あら? あなた、エルフを知っているの?」

 

 ルイズは怯えて何も答えられない。代わりに返事をしたのは才人だった。

 

「ええ、まあ。俺は話で聞いたことがあるだけですけど」

 

「そう。珍しいわね」

 

 才人は思い人を背後に庇いながらも、目の前の女性を怖がってはいなかった。いきなり攻撃してきた訳でもないし、親切にも水をわけてくれた。何より、彼女からは敵意が感じられない。

 

 それ以上に、気になることがあるのだ。

 

「エルフを知ってる人間が珍しいって、どういうことですか?」

 

 そう、サーシャの言葉はおかしい。少なくとも、ハルケギニアでエルフを知らない人間などいないだろう。世間と隔絶された場所に住んでいる等の、特別な事情を抱えた者を除けば。

 

 が、目の前のエルフ女性から戻ってきた答えは、あっさりとしたものだった。

 

「さあ?」

 

「さあ、って……」

 

 呆れたような声を出した才人に対し、サーシャは不満げにぷくっと頬を膨らませた。緊張していてしかるべき場面であるはずなのに、才人には彼女が可愛らしく思える。

 

「だって、わたしが出会った蛮人は、みんな揃ってわたしのことを珍しい、エルフなんて種族は知らないって言うんだもの。ほんと、どこの田舎者なのよ! ってね」

 

「蛮人?」

 

「蛮人は蛮人に決まってるでしょ? あなたたちは少し違うみたいだけど」

 

「あの、ここはハルケギニアじゃないんですか?」

 

「ハルケギニア? 何それ?」

 

 その発言に才人だけでなく、背後にいたルイズも仰天した。

 

「ハルケギニアを知らない? 冗談でしょ!?」

 

「知らないものは知らないわ。だいたい、初対面のあなたたちにそんな嘘ついてどうするのよ」

 

 肩をすくめるサーシャ。彼女は本当にハルケギニアという名を知らないようだ。しかし……。

 

(もしかして、エルフと人間で土地の呼び方が違うだけなんじゃ? 日本だってそうだし)

 

 そう考えた才人は、質問を変えてみることにした。事あるごとに騙ってきただけあって、その名称は彼の記憶にしっかりと根付いていた。

 

「なら、ここはロバ・アル・カリイエでしょうか?」

 

「さあ? そんなの聞いたことがないわ」

 

「じゃあ、ここはどこなんです!?」

 

「あいつが言うには『イグジスタンセア』って場所みたいよ。ついさっきまで、わたしはニダベリールっていう村にいたんだけどね……」

 

 振り返ってルイズを見ると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。どうやら知らないらしい。

 

「どうなってんだ……」

 

 どうやらここは、ハルケギニアではない。それは間違いなさそうだ。才人はルイズと共に、遠いのか、近いのかすらわからない異郷の地に放り出されてしまったのである。

 

 ルイズが唱えた魔法が暴走したのか、それとも他に何か原因があるのか。その場で立ち尽くす才人の心を反映したかのように、いつしか空に暗雲が立ち込めていた――。

 

 

○●

 

 ぽつり、ぽつりと降り出した雨を避けるために、三人は木陰に隠れた。

 

 それまで黙り込んでいたルイズが、小声で呟く。

 

「父さまたち、心配しているでしょうね……」

 

「そうだな」

 

 突然、目の前から消えてしまったのだ。家族が動揺するのも無理はない。

 

「大切なお話の途中だったのに……」

 

「そっちかよ!」

 

 思わずツッコミを入れる才人。ルイズの生真面目さは、こんな時でも健在だった。

 

「大切な話ってなあに?」

 

 サーシャの問いかけに、才人は戸惑う。

 

「いや、その」

 

「ああ、話せないなら無理に言わなくてもいいのよ」

 

 やはり、話に聞いたエルフとはずいぶんと違うようだ。少なくとも、隣の根に腰掛けているサーシャという女性は相手を気遣うことのできる、優しいひとだ。そもそも、彼女はハルケギニアのエルフではない可能性もある。

 

 才人は嘘をついたことにはならず、本来交わしていた言葉とは似て異なる内容を話し始めた。

 

「もしかしたら、なんですけど。俺たちの住んでる場所が、戦争に巻き込まれるかもしれなくて。それで、みんなで集まって、いろいろ話をしなきゃいけなくて……なのに、その途中で訳のわからないうちに知らない土地に放り出されて。もう、どうしたらいいのか……」

 

「奇遇ね。わたしも同じよ」

 

 サーシャは、大きな溜め息をついた。

 

「今、わたしたちの部族は敵の軍勢に飲み込まれそうなの。それなのに、あいつってば……」

 

「あいつ?」

 

 才人が問いかけるも、返事はなかった。サーシャは黙り込んだまま顔を真っ赤にして、ぷるぷると身体を震わせている。どうやら「あいつ」とやらに相当な憤りを感じているらしい。

 

 いっぽう、ルイズは才人に抱き付くような体勢のまま、サーシャを見つめていた。

 

(さ、最悪の場合、エルフと敵対しなきゃいけないんだもの。今のうちに調べておかなきゃ)

 

 さんざん話に聞いてはいるが、実際にエルフを見るのが始めてだったルイズは、才人から伝わる熱で恐怖を無理矢理抑え込みながら、じっくりとサーシャを観察する。

 

 耳を除いた顔の造形自体は、人間と大差ない。最初に出会った時のように耳を隠していたら、エルフだと気付かないだろう。少なくとも、怖ろしい化け物のようには見えない。

 

 しなやかな肢体はどこか中性的で、年上の女性とは思えない程、すとんとしていた。このサーシャと名乗るエルフに奇妙な親近感を感じつつあるのは、体型のせいではない。たぶん。きっと。

 

 ――それからしばらくして。

 

 降りしきる雨を見つめながら、サーシャがぽつりと呟いた。

 

「わたしね、実は結構人見知りするのよ」

 

「そうなんですか?」

 

 才人は驚いた。これまでの態度を見る限り、そんな風には感じられなかったからだ。

 

「ええ。なのに、あなたたちとは普通に話せるの。おかしいわよね、初めて会ったはずなのに……どうしてかそう思えない。なんでかしら?」

 

「そう言われましても……」

 

 戸惑う才人。そこへ、サーシャの正体が判明して以降、無言を貫いてきたルイズが突然割り込んできた。

 

「実は、わたしもなのよ」

 

「へ?」

 

「その、さっきまでは確かに怖かったんだけど……あなたたちが話しているのを見てたら、どこかでこんなことがあった、そんな気がして……」

 

 そう言われると、何故か才人もそういう気持ちになってきた。

 

(こういうの吊り橋効果って言うんだっけ? いや、違うか? けど、確かに……)

 

 見たこともない場所。会ったことのないはずのエルフに親近感を覚える。エルフに忌避感がない才人はまだしも、ルイズがそう感じるだけの理由があるのではないだろうか。

 

 ルイズと才人が考え込んでいると、突然サーシャが立ち上がった。先程までとは異なり、厳しい顔つきで草原の向こう側を見つめている。細く長い耳が、小さく揺れている。

 

「どうかしましたか?」

 

「しっ、下がって」

 

 言われるままふたりが後方へ下がると、藪の中から灰色の獣がひょいと顔を出した。

 

「狼!」

 

 ルイズは小さく悲鳴を上げた。

 

「狼? 犬みたいだけど」

 

「んもう、暢気なものね! あいつら、わたしたちを獲物にするつもりなのよ」

 

 緊張感のない才人の声に、サーシャは苛立たしげに応える。

 

 実物の狼を見るのが初めてだった彼は、改めて問題の獣を見た。金色に光る細い目が、油断なくこちらの様子を伺っている。警察犬よりもずっと怖ろしい雰囲気を身に纏っていた。

 

 そうこうしているうちに、狼たちは数を増やしてゆく。

 

「体勢を低くして、草の間を抜けてきたみたいね」

 

「なるほど、だから気付けなかったのか」

 

「そういうこと」

 

 狼の群れは、円を描くように三人の周りをぐるぐると取り囲んだ。唸り声ひとつ上げず、徐々に近付いてくる様は、彼らが熟練の狩人であることを伺わせる。

 

「そ、ソード」

 

「わかってる。ちょっと追い払ってくるよ」

 

 そう告げて拳を握り込んだ才人を、サーシャが止めた。

 

「わたしに任せて。武器の扱いには自身があるの。あなたは後ろの子を守ってあげなさい」

 

 サーシャは懐から短剣を取り出した。それから左手で握り締め、狼たちを牽制するように構えて見せた。次の瞬間、ルイズと才人はあまりのことに呆然とした。

 

 短剣を構えたサーシャの左手が光っている。いや、正確には手の甲の一部が輝いているのだ。そこには、見覚えのある文字が刻まれていた。

 

「が、が、ガガガガガガ」

 

「ガンダールヴ!」

 

 見間違えるはずもない。サーシャの左手に刻まれていたのは、彼らにとっても馴染み深い〝ガンダールヴ〟のルーンだったのだから――。

 

 




仲間が成長するにつれて出番が減っていく師叔。
宿命みたいなものだからね! しかたないね!

そして、祈祷書に〝記憶〟をかける云々は研究者であるエレオノールだからこそ。原作でこの案が出て来なかったのは、ルイ才側にはそもそも「記憶」という魔法に関する情報が一切無かったこと、教皇のほうは、試してはみたものの、おそらく……という解釈をしています。

彼らがこんな状況になった理由は、次話以降に説明するということで。今度は二週間前後でお届けできるかと思われますので、今少しお待ちくださいませ。


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第108話 風の妖精と始まりの魔法使い

 ――降りしきる雨の中、銀閃が煌めいた。

 

 草原を渡る風のように、ひらひらと舞うサーシャの姿は信じられない程に素早く、軽やかであった。手にした短剣を振るいながら、飛びかかってくる狼の群れを薙ぎ払っていく。

 

(ガンダールヴ? 俺以外にもいたのか? なんで? どういうことだ?)

 

 突然のことに困惑する才人。と、一匹の狼が彼に向かって襲いかかってきた。自然世界では、隙を見せた者から狩られるのだ。

 

「っ、この!」

 

 牙が届く前にどうにか反応できた才人は、軽く身体を捻ると、狼の腹に上段回し蹴りをお見舞いした。サーシャに勝るとも劣らぬ高速の一撃だった。

 

「ギャンッ!」

 

 腹にきつい一撃を入れられた狼は、悲鳴と共に空を舞い、地面に叩き付けられた。死んではいないようだが泡を吹き、ぴくぴくと痙攣している。続いて飛び込んできた別の狼も、返す刀ならぬつま先で喉元を蹴り上げる。蹴飛ばされた狼は、どさりと音を立てて草原に倒れた。

 

「す、師叔と組み手しといて良かったぜ……」

 

 狼たちは人間と全く違う動きでこちらを翻弄し、想像だにしていない角度から攻撃を繰り出してくる。太公望のアレに慣れていなかったら、反応すらおぼつかなかっただろう。

 

(考えるのは後だ。とりあえず、こいつらを何とかしなきゃ)

 

 才人はぐいと拳を握り締め、狼の群れを睨み付けた。

 

 いっぽう、ルイズはエルフのガンダールヴという驚きから立ち直り、才人に守られながらも、必死に頭を回転させ続けていた。

 

 彼女の中で、細い記憶の糸が繋がりそうな気がしたからだ。

 

(エルフが珍しいなんて、ハルケギニアじゃありえないことよ。つまり、信じたくないけど、ここはわたしの知らない場所。サイトも見覚えがないみたいだし、あいつの故郷って訳でもなさそうね。それに……)

 

 ルイズはサーシャに視線を移した。正確には、彼女の左手で輝くものを捉えている。

 

(サイトと同じガンダールヴ。学院長先生は、虚無の担い手がわたしと教皇聖下以外にあと二人いるかもしれないって仰っていたわ。それなら、他にもガンダールヴを従えるメイジがいてもおかしくない。だけど、何か引っかかるのよね。すごく大切なことを忘れてるような……)

 

 既に、ルイズの中でサーシャは怖ろしい存在ではなくなっていた。ブリミル教の怨敵とされるエルフが、何の見返りもなく自分たちを守ってくれているのだ。それに、彼女に対して心の内から奇妙な親近感が芽生え始めているのも事実。

 

(そもそも、わたしとサイトはどうしてこんなところにいるのよ? さっきまで王宮の隠し部屋で話を聞いていて、それから新しい虚無の魔法を覚えて、エレ姉さまに……)

 

 ルイズの才能のひとつとして、この類い希なる集中力が挙げられるだろう。なにせ、雨風吹き荒ぶ中、唸り声を上げる狼の群れに囲まれていてもなお、揺らがず思考を続けていられるのだから。彼女を守る『盾』がふたりいるからこそ、とも言えるかもしれないが。

 

(そうよ! わたし、始祖ブリミルの御姿を拝見したくて〝記録(リコード)〟の魔法を使ったわ! 今の状況って、もしかしてミスタ・タイコーボーの使う〝夢渡り〟に近いものなんじゃ……)

 

 そこまで考えたところで、ルイズは目が大きく見開いた。

 

 ――ブリミルの奴と、ガンダールヴの嬢ちゃんに似てるんだ。懐かしいなあ――

 

 かつて聞いたデルフリンガーの言葉が、ルイズの脳裏に蘇る。

 

(『始祖』ブリミルを守っていたガンダールヴは女のひとだったって、デルフが言ってたわ。ふたりで一緒に、魔法の研究をしてたんだって……!)

 

 物質に宿る想いを視る魔法を使った直後に、見たことも聞いたこともない土地で、ガンダールヴの印を持つ女性に出会った。これで繋がりを感じるなという方がおかしい。

 

(まさか、この〝イグジスタンセア〟って……)

 

 答えとおぼしきものにルイズが行き着こうとしていた、そのとき。視界の隅で、サーシャの背後に隠れていた一匹の狼が、彼女に飛びかかろうとしているのが見えた。

 

「後ろよ!」

 

 ルイズの声と同時に、サーシャの姿が掻き消えた。いや、正確には消えたわけではない。彼女の動きが速すぎて、ルイズの目で追いきれなかっただけだ。

 

 サーシャの短剣が、目標を見失った狼の足を切り裂いた。エルフの娘はもんどりうって倒れた狼の元へ素早く駆け寄り、獣の首に刃を突き立てた。

 

 とどめを刺されて息絶えた狼以外も、身体のあちこちに傷を受けている。唸り声を上げていた獣の群れは、じりじりと後方へ下がり始めた。才人がドンと音を立てて地面を踏み鳴らし、サーシャがヒュッと短剣を振ってみせると、狼たちはとうとう尻尾を巻いて逃げ出した。

 

 周囲を見回して危険が去ったことを確かめたサーシャは、後方のルイズへ振り向くと、微笑んだ。

 

「声をかけてくれてありがとう。助かったわ」

 

 自然と、ルイズの顔がほころぶ。

 

「こちらこそ、守ってくれてありがとう。その、ごめんなさい。最初に怖がったりして」

 

 それを聞いたサーシャは、輝くような笑みを浮かべた。それから、才人を見て言った。

 

「あなたも、なかなかやるわね」

 

「いえ、サーシャさんほどじゃないっす。ところで……」

 

「なあに?」

 

 才人は振り向くと、問いかけるようにルイズを見た。彼の主人は、皮手袋で隠された使い魔の左手甲に視線を合わせた後、小さく頷いた。

 

(今なら、ガンダールヴのことを聞けるかもしれない)

 

 そう考え、才人が指抜きグローブを外そうとした直後。サーシャの隣に、きらきらと光り輝く鏡のようなものが現れた。

 

「あ、あれ!」

 

「まさか!」

 

 ルイズと才人が同時に叫び声を上げた。無理もない、その光る鏡は〝召喚門〟と見紛う程によく似ていたのだから。

 

 と、それまで柔らかな笑みを浮かべていたサーシャの顔が、急に険しくなった。眉間にしわを寄せ、垂れ気味の目が吊り上がる。

 

(こ、怖い!)

 

 奇しくも全く同じ感想を抱いた虚無の主従は、揃って後ずさりした。サーシャはというと、狼と戦ったときとは比べものにならない程の殺気を全身に漲らせながら、銀色に輝く鏡のようなものを睨み付けている。

 

「お、おっかねえ顔……」

 

「や、やっぱり、エルフは怖ろしい種族なんだわ……!」

 

 小声でそんなことを話し合う才人とルイズ。あまりの恐怖に、ふたりはガタガタと震えながら無意識に抱き合っていたのだが、この状況では色恋もへったくれもない。

 

 そうこうしているうちに、鏡の中から撫で付け髪の冴えない容をしたの若い男が出てきた。才人より少し年上だろうその人物は小柄で、身に纏っている青いローブは裾を引きずる程に長く、手には節くれ立った木の長杖が握られており、丁寧に整えられた髪は輝くような金色だった。

 

 男は慌てた様子でサーシャの元へ駆け寄ると、ぺこりと頭を下げた。

 

「また、きみに迷惑をかけてしまった。ごめん! ほんとにごめん!」

 

 サーシャは無言のまま男の声を聞いていた。しかし、彼女の身体はぷるぷると小刻みに震え、赤く染まっている。

 

「ほんと申し訳ない。その、怒ってる、よね?」

 

 瞬間、周囲の空気がピシリと音を立てて割れた。

 

「当たり前でしょ! この蛮人が――――ッ!!」

 

 叫び声を上げるのと同時に、サーシャは男の顔面に強烈なハイキックをお見舞いした。

 

「ぶべらッ!」

 

 どさりと音を立て、男は地面に崩れ落ちた。サーシャは男の背に片足を乗せ、かかとでぐりぐりしながら訊ねる。

 

「ねえ。わたしとの約束、忘れたの?」

 

「あぐぁ!」

 

「何とか言いなさいよ、蛮人」

 

「蛮人でごめんなさい」

 

 サーシャは、げしげしと男の背中を踏みつけた。

 

「へぎゃ!」

 

「わたしを魔法の実験台にしないって、そう約束したわよね?」

 

 問われた男は、息も絶え絶えに答えた。

 

「ああ、約束した。けど……」

 

「けど?」

 

「他に頼めるひとがいなくて……それに、君を実験台にした訳じゃなくてだね、魔法が人体に及ぼす効果と範囲を研究するために……」

 

 ぐりぐりを継続しつつ、サーシャは叫んだ。

 

「それを実験台って言うんでしょうが!」

 

「ご、ごめんよ! だけど、これは必要なことなんだ! 何せ、今は……」

 

「そういう問題じゃないのよ! わたしは高貴たる種族のエルフ。もっと敬意を払ってしかるべきでしょ?」

 

「き、きみはぼくたちよりも、その、ずっと強いから……」

 

 そう言われたサーシャは、ぎろりと男を睨み付けた。迫力に圧されたルイズと才人が、バックステップで後ずさる。

 

「あなたたちの一族は、相手が強ければ約束を破っていいわけ?」

 

「そうじゃない、そうじゃないよ! だけど、ヴァリヤーグは数が多い! 数で劣るぼくたちは、この奇跡の技〝魔法〟で対抗するしかないんだ!」

 

 サーシャは男の頭に拳を落とした。

 

「あいだぁ!」

 

 踏んだり蹴ったり、もとい、踏まれたり殴られたりな男は既に涙目だ。サーシャは握り拳で男のこめかみをぐりぐりしながら、厳しい顔つきで問い詰める。

 

「あなた、わたしを使い魔だか何だかにするときに言ったわよね? 契約は神聖かつ不可侵のものだって。ねえ、言ったわよね!?」

 

「言った! 言いました!」

 

「約束は契約と同じでしょう? 破ってはいけないものだから交わす価値があるんだし、守れることが文明人の証なの。それなのに、あなたはいつもいつも言い訳ばっかりして、平気で約束を反故にする……!」

 

 そこまで言うと、サーシャは大きく息を吸い込み、草原中に響き渡るような叫び声を上げた。

 

「だから! 蛮人なのよ――――ッ!!」

 

「ギャース!」

 

 後方でこのやりとりを見ていた才人は、ビビりながらも奇妙な懐かしさを覚えていた。召喚された当初の才人と、ボコボコにされている男の姿が、どことなく重なるのだ。

 

(虚無の魔法使いとガンダールヴって、どこでも似たような境遇になるんかな? まあ、俺たちとは逆の関係だけども)

 

 〝反抗したらごはん抜き〟宣言やら、ご主人さまのスカートがめくれ上がったのを目撃(不可抗力)して回し蹴りを喰らった思い出などが、才人の脳裏へ蘇る。

 

 使い魔が神聖な領域を覆い隠す白い布に思いを馳せていた頃。ルイズの身体は、エルフに対する怯えとは、また別の意味で震え始めていた。

 

 ルイズの視線は、今もぐりぐりされ続けている男へ釘付けにされている。

 

(わたしの考えが間違っていないなら、あのひとは……ううん、そんな訳ない。だって……)

 

 と、そんな彼女と才人に気付いたのであろう。件の男が、サーシャに訊ねた。

 

「と、ところで、そこのふたりは何者だい? 見慣れない顔だけども」

 

「あ」

 

 どうやら怒りのあまり、才人たちの存在を忘れていたらしい。羞恥で頬をほんのりと染めたサーシャは、簡潔に説明を行った。

 

「迷子みたい」

 

「迷子?」

 

「気がついたら、ここにいたんですって」

 

「なんだいそれは? 奇妙な話じゃないか。このご時世に、よくも無事でいられたものだ」

 

 話し合うふたりの間に割って入ったのは、ルイズだった。

 

「は、はじめまして。わたし、ル……コメットと申します」

 

「ル・コメット?」

 

「コメット、と、お呼びください」

 

 そう名乗り、頭を下げる。それを見ていた才人は仰天した。ルイズが頭を下げるなど、仲間たちに頼み事をする以外では見たことがなかったからだ。

 

 ぽかんとしていた才人だったが、ルイズに肘でつっつかれ、慌てて自己紹介をする。

 

「ソードです。危ないところを、そちらのサーシャさんに助けていただきました」

 

「あら、あなたも背中を守ってくれたじゃない。おあいこよ」

 

 途端に笑顔を見せるサーシャ。先程まで怒り狂っていたのが信じられないくらいの変わりっぷりである。

 

(エルフっつーか、女って怖い)

 

 そんなことを考えていると、再びルイズにつっつかれた。何だと思って彼女を見ると、指先で左手甲を指している。はっと気付いた才人は、再びサーシャたちに声をかけた。

 

「あの、サーシャさんて〝ガンダールヴ〟ですよね?」

 

 男の目がまんまるになった。

 

「どうしてそれを!?」

 

 返答の代わりに、才人は左手の指ぬきグローブを外して男とサーシャがよく見えるよう、前に突き出した。

 

「まあ! わたしと同じじゃないの!」

 

 サーシャは驚いたようだったが、それほどびっくりしているわけではない。かたや彼女の主人である若い男のほうはというと、慌てて地面から飛び起き、鼻息荒く才人に駆け寄った。

 

「そ、それをよく見せてくれ!」

 

 飛び付くように才人の左手を掴むと、男は食い入るように手の甲に刻まれた印を調べた。

 

「風のように素早い妖精! 魔法を操る小人! 間違いない、これはガンダールヴだ!」

 

「え? 俺、魔法も使えないし、小人でも妖精でもないんですけど」

 

 ところが、才人の言葉は草原に吹く風のように男の耳を通り抜けてしまったようだ。

 

「ほらごらんよ、サーシャ! ぼくが言った通りだろう? ぼくの他にも、この変わった系統を使える人間がいたんだ!」

 

 男は激しく興奮しながら、サーシャに話しかけている。

 

(なんか、初めてゼロ戦を見たときのコルベール先生みたいだなあ)

 

 などと才人が思っていると、今度はルイズに向き直った男が、きらきらと瞳を輝かせながら彼女に訊いた。

 

「もしかして、きみが彼の主人なのかい?」

 

「は、はい」

 

 男は感極まった様子で、ルイズの手を取った。

 

「今日は素晴らしき日だ! 実験は失敗だったけど、まさか、まさか……こうして仲間に出会えるなんて!」

 

 それから、ようやく気が付いたかのように男は言った。

 

「あ、そういえば自己紹介がまだだったね。ぼくはニダベリールのブリミルだ」

 

 才人の表情が強ばり、ルイズの顔が引き攣った。

 

「ごご、ごめんなさい、ミスタ。もう一度、お、お名前を聞かせていただけるかしら?」

 

「ニダベリールのブリミル。ブリミル・ル・ルミル・ニダベリール。気軽にブリミルって呼んでくれて構わない」

 

 にっこりと微笑んだ男を前に、ルイズは完全に固まってしまった。

 

(やや、や、やっぱり! わたしの魔法が失敗したんじゃなくて……)

 

 いっぽう才人のほうも、聞き覚えのある名前に愕然としていた。夏休みというより夏季合宿と化していた期間中、彼は暇さえあれば剣技だけでなく、ハルケギニア全土で信じられている宗教について、徹底的に叩き込まれていたのだから。

 

「始祖、ブリミル!?」

 

「シソ? 何だい、それ」

 

 ブリミルと名乗った男は、きょとんとした顔でルイズと才人を見ている。

 

(待て。確か、ルイズが使った魔法は……)

 

 事ここに至って、才人はようやくルイズと同じ解答へ辿り着こうとしていた。

 

 物質に宿る強い念を視るという、虚無魔法。

 

 ルイズは、自身と家族の願いを叶えるために『始祖』の姿を映し出そうとしていた。

 

 けれど、それが〝世界見の鏡〟と同じように映像が投写されるタイプの魔法ではなく、太公望の〝夢渡り〟のように、()()()()()()に飛び込むのだとしたら?

 

 ぼそりと、ルイズに耳打ちする才人。

 

「なあ。メイジなら普通、子供にブリミルなんて名前つけないよな?」

 

「当然でしょ。そんなこと、畏れ多くてできるわけないわ」

 

「デスヨネー」

 

 改めて、ブリミルという名の若い男をまじまじと見つめるふたり。

 

 世界に奇跡の御技〝魔法〟をもたらした、偉大なる始祖。

 

 ハルケギニア全土で伏し拝まれている、天上におわすブリミル教の神。

 

 遥か彼方の国から『扉』を開いて聖地に降臨したという、五大系統の担い手。

 

 彼がお伽噺の存在ではなく、実在の人物であるのなら。自分たちと同じように子供時代があったはずだし、世界のどこかで暮らしていた……生きていた時代があるはずなのだ。

 

 そして今、目の前にいる男女は。

 

 初代〝虚無の担い手〟と、彼を守る『神の盾』ガンダールヴ。

 

 〝イグジスタンセア〟という土地は、もしや『始祖』ブリミルの故郷なのではないだろうか?

 

 〝記録〟によって導かれたふたりは、文字通り運命の出会いを果たしたのだ――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。

 

「おちび! 一体どうしたっていうの!?」

 

「なんということじゃ、サイト君まで……」

 

 先程まで王家の隠し部屋で密談をしていた面々は、泡をくっていた。無理もない、ルイズが新たに覚えた虚無の呪文を唱えたと思ったら、そのまま動かなくなってしまったのだから。

 

 主人と同じように、使い魔である才人も、ぼんやりと虚ろな目で棒立ちしていた。

 

 声をかけても、身体を揺さぶっても、何の反応もしないふたりに業を煮やしたエレオノールが杖を抜き、魔法を使おうとした。ところが、才人の椅子に立て掛けられていたデルフリンガーが彼女を止める。

 

「やめときな、エレオノールの嬢ちゃん。相棒たちは今、ブリミルのやつと旅に出てんだ」

 

 ぎょっとして〝意志ある大剣〟を見る一同。最も立ち直りの早かったマザリーニが、おそるおそるといった体で訊ねた。

 

「それは、どういう意味ですかな?」

 

「相棒の左手を見てみな。武器を持ってねぇのに、ルーンが光ってるだろ?」

 

 ここにいる才人は指ぬきグローブを外していた。デルフリンガーの言うとおり、他に武器を携帯している訳でもないのに〝ガンダールヴ〟の印が輝いているのはおかしなことだ。

 

「担い手が、虚無の使い魔の側で初めて〝記録〟の魔法を使うと、こうなるんだ。ルイズ嬢ちゃんが唱えた〝記録〟が祈祷書じゃなくて、ルーンに宿る記憶に反応したのさ」

 

「どうして、それを最初から言わなかったのよ!」

 

「今の今まで忘れてたんだから、仕方ないやね」

 

 これまでは〝始祖の遺産〟に対して、それなりの敬意を払っていたエレオノールだったが、この一言でぷつりと切れた。

 

「いい加減にしなさいよ! このボケ剣! オンボロ!!」

 

「誰がボケ剣だコラ!」

 

「あ、あ、あんたに決まってるでしょぉぉおお!?」

 

 ぎゃんぎゃんと甲高い声で、デルフリンガーを叱りつけるエレオノールの姿は、奇しくもブリミルを足蹴にしていたエルフの少女を彷彿とさせるものであった。もっとも、比較できる本人たちは〝記録〟の世界に旅立ってしまっている訳だが。

 

 そんな姉と剣のやりとりを困ったような表情で見つめていたカトレアは、長年の感覚で、ついつい〝網〟を広げてしまっていた。そして気付いた。デルフリンガーを覆っていた深い霧のような壁が、以前よりも薄くなっていることに。

 

「姉さま、どうか落ち着いてください」

 

「カトレア! そうは言っても、このオンボロが……!」

 

「もしかすると、デルフさんのせいじゃないのかもしれません」

 

「……どういうことかしら?」

 

 妹の勘の良さを知るエレオノールは、怒りを一時棚上げにして、カトレアの言葉を待った。

 

「デルフさん、前に仰ってましたよね? 始祖の苦手な食べ物や、日常のささいなやりとりは覚えているのに、肝心なことが思い出せないって」

 

「そういや、そんな話をしたかもしれんね」

 

「もしかしたら、なんですけど。誰かが、意図的にデルフさんの記憶を封じているんじゃないですか? たとえば〝制約〟みたいなもので縛られているとか……」

 

「あ……」

 

 カトレアがそう口にした途端、デルフリンガーがガタガタと動き出した。その様は、まるで人間が何かに怯え、震えているかのようであった。

 

「あ……あ……」

 

「デルフさん!?」

 

「そう、だ……俺っちは……あい、つ、に」

 

 これまで様子を見ていたオスマン氏が、むうと唸った。

 

「まさか、ロマリアの関係者に封印されとるんじゃなかろうな!?」

 

 その発言に、ぎょっとする一同。マザリーニが、額に滲んだ汗をハンカチーフで拭き取りながら続ける。

 

「充分に考えられる話です。デルフリンガーは『始祖』が残した、正真正銘、本物の『盾』ですからな。四つの秘宝に関する口伝を、三王家から意図的に失わせたロマリアが、意志を持つ魔剣を放置していたと考えるほうがおかしなことかと」

 

「うむ、考慮に値する内容だ」

 

「そうですわね、あなた」

 

 落ち着きのある声で呟くサンドリオン王と、同意を示すカリーヌ王妃。しかし、彼らの眉根は中央に寄っている。

 

「デルフさん! 大丈夫ですか!?」

 

 苦しそうな声を上げ、がたがたと刀身を振るわせ続けるデルフリンガーを前に、カトレアは今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 

「ごめんなさい、わたしのせいで……!」

 

「あなたのせいじゃないわ、カトレア。悪いのは、デルフリンガーにこんな卑劣な魔法をかけたロマリアの連中なんだから! まったく、何が〝神のしもべたる民のしもべ〟よ! 剣とはいえ『始祖』の使徒にこんな真似をするなんて、そのうち大きな罰が当たるに違いないわ!」

 

 と、エレオノールの言葉に反応したらしきデルフリンガーが、再び何かを語り始めた。

 

「そうだ、あれは罰だったんだろうなぁ……大地の上に、太陽みてえにでっかい光が現れてよ……それから、なんもかんもなくなっちまった……」

 

「デルフさん!?」

 

「何か思い出したの!?」

 

 静まりかえった部屋の中で、かたかたという音と、デルフリンガーの呟きだけが響く。

 

「最後に、すごく悲しいことが起きたんだ。なんで辛いのか、何があったのかまでは……思い出せねぇ。俺っちは……相棒と嬢ちゃんに、こんな苦しい想い……させたかねぇんだよ……」

 

 それを最後に、デルフリンガーは完全に口を閉ざしてしまった。

 

 最初に口を開いたのは、マザリーニ枢機卿だった。

 

「デルフリンガーが如何様にして市場に出てきたのか、調査したほうがよさそうですな」

 

「多忙な卿に、これ以上負担を強いるのは心苦しいが……頼む。諜報のための予算には、王室の金庫ではなく、ヴァリエール家の資産を当てよう」

 

「お気遣い、ありがたく頂戴致します。どうか、わたしにお任せを」

 

 恭しく頭を下げたマザリーニに、エレオノールが声をかけた。

 

「わたくしが手伝えることはないかしら?」

 

 枢機卿は少し考えると、頷いた。

 

「では、集めた情報の仕分けをお願いしたく存じます。この国で、わたしとオスマン氏に次いでブリミル教に詳しいのは、ほぼ間違いなく王女殿下ですから」

 

「わかりました」

 

 眼鏡のズレを直しながら、エレオノールは呟いた。

 

「わたくしも、この剣と同じ気持ちよ。だって、実の妹を不幸にしたくなんて……ないもの」

 

 

○●○●○●○●

 

 ブリミルの熱烈な歓迎を受け入れた才人とルイズは、彼が開いた『扉』をくぐり、ニダベリールという名の村に招かれていた。雨に濡れていた服は、既にサーシャの魔法で乾いている。

 

(始祖とまで呼ばれるひとが住んでいる場所なのだから、すごく立派な街なんだろうな)

 

 そう考えていた才人が拍子抜けする程、ニダベリールはちっぽけで、貧しい村だった。

 

 『始祖』の御前で緊張のあまり硬直し、扉の魔法を見て大いに感激していたルイズでさえも、彼と似たような感想を抱いたらしい。鳶色の目をぱちくりして呆然と周囲を見回していた。

 

 草原の中に、木と布で造られた円形の(パオ)がいくつも立ち並んでおり、周辺では羊や山羊の群れが草を食んでいる。もしも、太公望がこの場にいたら……驚愕のあまり、立ち尽くしていただろう。

 

 この村は、幼い呂望が家族と共に過ごした故郷――羌族の集落と、あまりにも似通っていた。

 

 もちろんそんなことは知る由もない才人は、社会の教科書やテレビの旅番組などで見た、モンゴルの遊牧民と丸屋根のテントを思い出していた。

 

「ハルケギニアとは全然違うけど、こういう雰囲気も好きだな。俺」

 

 召喚門で訳もわからず連れてこられた時とは違い、今回は虚無の魔法で過去を覗いていることが判明している。ルイズの精神力が切れるか、何らかの目的が達成されれば元いた場所に戻れるだろうと暢気に考えていた才人は、あっさりと現状を受け入れていた。

 

「こっちだ。あそこにあるのがぼくの家でね」

 

 ブリミルが指差したのは、小高い丘の上に建てられたテントだった。他のものより一回り大きいそのテントのてっぺんには旗が翻っている。

 

「青い旗……?」

 

 ルイズの呟きに、サーシャが答える。

 

「青は一族の長を示す色なんですって。それ以外の一族は身に付けちゃいけないそうよ。つまり、彼がこの村でいちばん偉いってわけ。ほんと嫌になっちゃう」

 

 そう言って、エルフの娘は肩をすくめた。

 

「長の色。もしかして、ガリアの青は……」

 

「何?」

 

「い、いえ、なんでも」

 

 ブリミルと才人は、既にテントへ向かっている。ルイズは慌てて彼らの背を追いかけた。

 

 

○●

 

 テントの中には、言葉を飾れば素朴な……ストレートに表現するなら粗末なテーブルと椅子が並べられていた。奥には藁や干し草を敷き詰めたベッドが見える。床には羊毛で編まれたとおぼしき絨毯が敷かれていた。

 

 才人とルイズはブリミルに椅子を勧められ、言われるままに腰掛けた。

 

「いやあ、本当に嬉しいよ! ぼく以外の変わった系統使いに出会えるなんて!」

 

 ルイズは、ぽかんとしてブリミルを見つめた。

 

「どうかしたかい?」

 

「えっと、ブリミルさ……んは、虚無の系統なんですよね?」

 

「虚無? この系統のことを、きみはそう呼んでいるのかい?」

 

「いえ、その……」

 

 あなたが名付けたんじゃないですか! そう言えればどんなに楽か。ルイズは引き攣った笑みを浮かべた。

 

 ところが、そんな彼女の様子を見たブリミルは、まるっきり別の方向へ推理を働かせた。

 

「もしかして、他にも使い手がいるのか? そうだよね? だって、自分以外に使い手のいない魔法に名前をつけて、他の系統と同じように扱うのはおかしな話だし」

 

「え、ええっと……」

 

 身を乗り出してルイズに詰め寄るブリミルの頭に、サーシャのげんこつが落ちた。ごつんという詰まった音がした直後、被害者はテーブルに突っ伏した。

 

「あいだぁ! 何をするんだい!?」

 

「その子、怯えてるでしょうが! まったく、魔法のことになると見境無しなんだから!」

 

(やっぱりこのひと、コルベール先生みたいだなあ。魔法を生み出したって話だし、研究者とか学者って、似るものなのかなあ)

 

 地球の科学者や過去の偉人にも、変人が多いって言うし。などと才人が微妙に失礼なことを考えていると、ブリミルが頭をさすりながら身を起こした。

 

「ごめんよ、初めて同じ系統を使う人間に出会えたものだから、嬉しくて。でも、きみが口ごもる理由もわかる。なにせ、このご時世だからね。万が一ヴァリヤーグにバレたら大変だし」

 

 一瞬どきりとしたルイズだったが、思わず首をかしげた。

 

「あの、ヴァリヤーグって何のことでしょう?」

 

 途端、ブリミルは苦々しげな色を顔に浮かべた。

 

「ヴァリヤーグを知らないのかい? 本当に? 悪魔のように残酷な連中だよ。怖ろしい技術を持っていてね、ぼくらは連中に追われているんだ」

 

「エルフとは違うんですか?」

 

 そう口にした途端、今度は才人の頭にげんこつが落ちた。

 

「いってぇ!」

 

「あんな野蛮人どもと一緒にしないで! エルフは平穏を好む、理知的な一族なのよ!」

 

 ブリミルが、取りなすように告げた。

 

「彼女の言葉は本当だよ。ぼくたちとは全く違う文化や魔法を持ち、この広い世界のどこかで静かに暮らしているんだそうだ。怒らせると怖いけどね」

 

「なんですってぇ!」

 

「ほらね」

 

 にこにこと笑みを浮かべるブリミルとサーシャは、本当に仲が良さそうだ。

 

(六千年前、始祖とエルフは敵同士じゃなかったの……?)

 

 立て続けに起きた大事件のせいで、ルイズの頭はパンク寸前だった。新しい魔法を覚えて、天敵であるエルフの娘と出会い、冴えない見た目の始祖にまみえる。宿敵同士だったはずの彼らは使い魔と主人の関係で、自分たちと同じように仲良く笑い合っていた。

 

 ブリミルは、才人の手を取って首をかしげた。

 

「きみは、魔法が使えないんだよね?」

 

「ええ、残念ですけど」

 

「コメット、どうして彼に〝ガンダールヴ〟なんて刻んだんだい?」

 

「えっ?」

 

「意味が通らないじゃないか、魔法が使えない人間に〝魔法を操る妖精〟だなんてさ。〝風のように素早い小人〟だけなら、わからなくもないんだけど」

 

「わたしが刻んだんじゃありません」

 

「は?」

 

 訳がわからないといった表情のブリミルに、ルイズは告げた。

 

「印は、使い魔と契約すると勝手に刻まれるものじゃないですか」

 

 それを耳にしたブリミルは、瞳を輝かせながらルイズの手を取った。

 

「きみの知り合いに、契約用の魔法を造ったひとがいるんだね! 是非紹介して欲しいな!」

 

 ルイズはぎょっとして叫んだ。

 

「ち、違います! 知り合いが造ったわけじゃなくて!」

 

 あなたの作品です! そう言いたいのに言えないジレンマが少女を苦しめる。

 

「しかし、普通の人間が使い魔になった上に〝ガンダールヴ〟が刻まれるとはなぁ。まだまだ研究の余地がありそうだ」

 

 どうやら、この時代では「人間の使い魔=虚無の素質あり」という概念は存在すらしていなかったらしい。

 

「ところで、まだ聞いていなかったけど。きみたちはどこから来たんだい? ミッドガード? それともビフレストのほうかな?」

 

「と、トリステイン、です……」

 

 これ以上『始祖』に嘘をつくことに耐えられなかったルイズは、正直に答えることにした。ここはあくまで〝記録〟の世界でしかない。過去に来たわけではないし、このくらいは大丈夫だろうと彼女なりに判断したのだ。

 

 とはいえ、崇める神に対して嘘をつくという罪悪感は消えない。今のルイズは『始祖』の像を打ち倒せと王から命じられ、王権への忠誠心と神への信仰の間で板挟みになっている、敬虔な信者的心境なのである。

 

 ところが、ルイズがそれを告げた途端。ブリミルは悲しげにうつむいた。

 

「……すまない。聞いてはいけないことだったね」

 

「どういう意味です?」

 

 わけがわからない才人は、直球で訊ねた。ルイズも目を白黒させていたが、聞きたいことは彼と同じだ。

 

「〝トリステイン〟とは、ぼくたちの古い言葉で〝悲しみ〟とか〝涙〟を意味しているんだ。そんな名がついているということは、もう、既に……」

 

 慌ててルイズを見る才人。ご主人さまはぶんぶんと首を横に振っている。

 

「え、違うのかい? なら、どうしてそんなまぎらわしい名で呼ぶんだい?」

 

 それはわたしが聞きたいです! そもそも、トリステインはあなたの子供が創設した国です! そう叫べれば、どんなにスッキリすることか。ルイズはだんだん疲れてきた。単なる記録のはずなのに、お腹は減るし、精神的にもキツい。本当に〝夢渡り〟そっくりだ。

 

 そんな彼女を天が気遣ったのであろうか。布で出来た扉を開ける音と共に、テントの入口から、七~八歳くらいの可愛らしい少女が顔を覗かせた。

 

「どうしたんだい? ノルン。大丈夫だから、こっちへおいで」

 

 ノルンと呼ばれた少女は、デールのような服を身に纏っていた。手に土釜を持っており、それを落とさないように気をつけながら、ちょこちょこと歩いて奥のかまどに近付いてゆく。

 

「ああ、ペストーレを持ってきてくれたんだね。ありがとう」

 

 少女はブリミルの言葉に笑みで答えると、土釜をかまどの上に置いた。それから、懐の中から杖を取り出して呪文を唱えた。聞き覚えのある呪文より少し長めの詠唱が終わった直後、かまどにぱっと火がついた。

 

「わあ! こんなに小さいのに魔法が上手なのね」

 

 素直なルイズの賞賛に、ブリミルは嬉しげに頷いた。

 

「そりゃあ、ノルンはマギ族の長たるぼくの娘だからね! 見事なものだろう?」

 

 父と客に褒められた少女は、恥ずかしそうに両手で顔を隠してしまった。

 

 この子が始祖の娘! と、仰天する才人とルイズに、さらなる爆弾が投下される。

 

「ちょっと、ブリミル。この子はわたしの娘でもあるのよ? 自慢なら、わたしにもさせるべきじゃないかしら」

 

「は?」

 

 今、サーシャさんなんて言った? 才人が愕然としていると、同じく驚愕の表情を浮かべたルイズが、慌てて彼らを問い質した。

 

「え? え? あの、それじゃ、おふたりは」

 

 聞かれたサーシャは、頬をかすかに赤らめた。笹穂のように長い耳が微妙に垂れているのは気のせいだろうか。

 

「一応、そういう関係でもあるわ。ああ、誤解しないでね? ノルンは義理の娘だから」

 

「へ?」

 

「こいつはほら、族長だから……わたし以外にも妻がいるのよね。長たるもの、たくさん子供をつくらなきゃいけないし」

 

「えええええええええ!!」

 

 ブリミル教では重婚が禁止されている。

 

(後から知ったことだけど、アンリエッタ姫がウェールズ王子に出した手紙は、その決まりに反することが書かれていたから、回収するか燃やさなきゃいけなくて。それで水精霊団のみんなと一緒にアルビオンまで手紙を取りに行ったわけで……)

 

 才人は、なんだか目眩がしてきた。ルイズに至っては、既に気絶寸前だ。無理もない、ブリミル教の祖とあろうものが、禁止されているはずの重婚を推奨されていて。しかも、異教徒でメイジの天敵であるエルフと情を交わしていた。

 

 信心深いブリミル教徒であれば、動揺しないほうがおかしい。

 

「ど、どど、ど……」

 

 これまで我慢に我慢を重ねていたルイズは、ついに大声を上げてしまった。

 

「どういうことなのよ、これ――ッ!!」

 

 

 




ガリアの青他、今回は独自解釈満載です。
原作では結局語られませんでしたが、あの旗怪しいと思いませんか?

また、才人単独での到来時よりも入ってくる情報が圧倒的に多いのは、
ルイズが同行しているからです。
知識ありの人間とそうでない人が集められるものには
差が出来て当然かなあと。

次回も2週間前後でお届けできる見込みです。


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第109話 始祖と零と約束の大地

 彼はただ、魔法と家族の話をしていただけである。それなのに、突然目の前の少女が癇癪を起こしたことに驚いたブリミルは、戸惑いがちに訊ねた。

 

「ど、どうしたんだい? 急に大声を出したりして」

 

「自分のところと習慣が違いすぎるもんだから、びっくりしたんすよ」

 

 混乱しているブリミルに答えたのはルイズ本人ではなく、彼女の使い魔だった。

 

(けど、ルイズが驚くのも無理ねえよな)

 

 例えば、地球で信仰されている有名な宗教の教祖が、自ら教えに背くような真似をしているのを知ったら……そりゃあびっくりするだろう。

 

 もっとも、才人的には「派手な袈裟着たお坊さんが、近所の焼き肉屋でモリモリ肉食ってるの見てマジ驚いた」程度の感覚なのだが。

 

 八百万の神おわす国ゆえに、他の宗教に寛容過ぎる日本人ならではの反応である。

 

 そんな何とも言い難い雰囲気を、共にひとりの闖入者がテントの扉ごと打ち破った。

 

「族長! 来ました!!」

 

 飛び込んできたのは若い男だった。彼は息を切らし、顔には明確に怯えの色が浮かんでいる。声をかけられて立ち上がったブリミルに、彼の娘ノルンが抱き付いた。

 

「もう発見されたのか。わかった、すぐに行く」

 

 男が走り去った後、ブリミルはノルンに声をかけた。

 

「すぐに母さんのところへ行きなさい。大丈夫、いつものように父さんたちで何とかするから」

 

 それから、ブリミルはルイズと才人に向き直る。

 

「客人に頼むのは筋違いかもしれないが、どうか手を貸してもらえないだろうか」

 

「何が起きたんです?」

 

 驚く才人に、サーシャが教えてくれた。

 

「ヴァリヤーグが来たのよ」

 

「敵は大軍だ。コメット。念のために確認するけど、きみは攻撃魔法は得意かい?」

 

 ブリミルにそう問われたルイズは、ぶんぶんと首を横に振った。

 

「わ、わたしの〝虚無〟は幻を創り出すとか、ひとりで遠くへ移動するとか、そういう間接的なものばかりで……」

 

「ふむ。それなら、その幻を使って軍勢を混乱させるようなことはできるかな?」

 

 ルイズは、はっと息を飲んだ。

 

 今、彼女に問いかけているのは……妻の尻に敷かれる冴えない男ではない。一族を護るために最善を尽くそうとする、偉大なメイジ――理想の貴族そのものだった。

 

 大きく深呼吸をした後、ルイズは『始祖』の目を見て答えた。

 

「はい。詠唱に時間はかかりますが、敵の背後に幻の大軍を出現させることも可能です」

 

「手助けしてくれるんだね?」

 

「もちろんです。これも始祖……いえ、神のお導きかと」

 

「済まない、感謝する」

 

 それだけ言うと、ブリミルはテントの外へ飛び出した。ルイズも急いで彼の後を追う。

 

「お、おい、ル……コメット!」

 

 才人は、自分を置いてさっさと行ってしまったルイズに大声で抗議しようとしたが、急に飛んできたモノを受け止めたせいで、その機を逸してしまった。

 

 サーシャが、テントの入口に立て掛けてあった槍を、彼に投げて寄越したのだ。

 

「え、ちょ、何すかこれ」

 

「時間がないの。いいから、これを持ってついてきて」

 

 

○●

 

 ニダベリールの村は、大混乱に陥っていた。怒号が飛び交い、子供のものとおぼしきすすり泣きがあちこちから漏れ聞こえてくる。

 

 村の中央にある空き地には、杖を持った男たちが五十人ほど集まっている。それを見たルイズは思わず首を傾げた。

 

(あのひとたちもメイジよね。ヴァリヤーグって、本当に何者なのかしら)

 

 メイジが畏れるものといえば、エルフくらいのものだ。にも関わらず、村中が大騒ぎになっている。トロール鬼やオグル鬼の集団が襲いかかって来たとしても、ハルケギニアの貴族たちであればこうも怯えたりはしない。

 

(エルフ並の魔法を操る亜人とか……まさかね)

 

 凶悪な化け物の姿を想像し、ルイズは身震いした。

 

 そうこうしているうちに村の男たちと合流したブリミルは、即行動を開始する。槍を手にしたサーシャと才人が、それからすぐに追いついてきた。

 

「敵が来る方角は?」

 

「北側からです、族長!」

 

「他には?」

 

「周囲をくまなく確認しましたが、北からまっすぐ突っ込んでくる連中だけです」

 

 ブリミルは大急ぎで指示を飛ばす。

 

「ビョルン、きみの隊は村の東を護ってくれ。ラグナル隊は西側にある森へ、このふたり……コメットとソードを連れて、彼女の補佐をして欲しい」

 

 ラグナルと呼ばれた男と彼に従っていた男たちは、怪訝な顔でルイズと才人を見た。ブリミルは全員に聞こえるよう、端的に説明する。

 

「ソードはサーシャと同じ〝ガンダールヴ〟で、彼女の護衛だ。そしてコメットは、ぼくと同じ系統を使う。巨大な幻で敵を混乱させることができるそうだ」

 

 男たちがわっと歓声を上げた。

 

「助かる!」

 

「そういうことなら任せてくれ!」

 

 ラグナルたちは、ルイズと才人に手を差し出した。ふたりは、戸惑いながらもそれをしっかりと握り返す。

 

「シグルズール、きみの隊は北側でブリミル組の援護を頼む」

 

「わかりました!」

 

 ブリミルはぐるりと男たちを見回すと、声を上げた。

 

「ブリミル組、準備はいいか?」

 

 十人ほどの若い男たちが、腕を振り上げることでそれに応えた。

 

「ぼくたちは敵の正面に突撃して、戦えない者たちが避難するための準備をする時間を稼ぐ。行くぞ、サーシャ!」

 

「では、我々も森へ急ごう」

 

「わかりました!」

 

 ブリミル組とサーシャは丘の向こうへ駆けて行き、ルイズたちはラグナル隊に護られながら、村の西側――二百メイルほど先にある森へ急いだ。

 

 息を整えつつ木陰から覗き見た光景に、ふたりは息を飲む。

 

 村に向かっていたのは、とてつもない大軍だった。

 

「あれが……ヴァリヤーグ?」

 

 両側に角のついた兜、鈍く銀色に輝く鎧を纏った騎馬隊がいる。その後方には歩兵の部隊が続いていた。四メイルほどの長い槍を構え、しずしずと行軍を続けており、さらに弓と剣で武装した兵たちが、整然と隊列を組んで村の方角へ向かっていた。

 

 その数は……数え切れない。ルイズと才人は、アルビオンのニューカッスル城が五万超の軍勢に囲まれているのを目撃していたが、間違いなくあれより多い。なにせ、地平の彼方まで鋼鉄の兵隊で埋め尽くされているのだから。

 

「ブリミルさ……んは、あんなところへ突っ込んでいったの!?」

 

 さすがのルイズも愕然としていた。いくら『始祖』といえど、たった十人程度の護衛と〝ガンダールヴ〟だけでどうにかできるのだろうか? そこまで考え、ルイズは思い直した。

 

(ううん、なんとかなるんだわ)

 

 そもそも、ここは過去にあった出来事の記録に過ぎないのだ。始祖ブリミルが『扉』を開けてハルケギニアに降臨する前に、命を落とすことはないだろう。

 

 不安を打ち払うかのように軽く頭を振ると、ルイズはラグナルに向き直った。

 

「これから、あの軍の西……この森から北の位置に、騎士隊の幻影を創ります。ただ、あくまでも幻なので、敵を攻撃したり、音を立てたりはできないんです」

 

 それを聞くと、若き部隊長は頷いた。

 

「なるほど、俺たちは現れた幻を本物だと思わせればいいのか。そうだな……風を吹かせたり、地響きのような音を出せばいいかね?」

 

「ええ。よろしくお願いします」

 

 と、男たちのひとりが手を挙げた。

 

「何人かここに残って、彼女を護ったほうがいい」

 

 男の提案に、ラグナルは同意した。

 

「確かに。幻に混乱した奴らが、森に入ってこないとも限らないしな」

 

 隊長を含む男たち全員が賛同したが、ルイズはそれをきっぱりと断った。

 

「わたしたちだけで大丈夫です。だから、皆さんで向かって下さい」

 

「いや、しかし……」

 

「わたしには〝ガンダールヴ〟がいますから」

 

 

 ――男たちが囮作戦を実行するために走り去った後。

 

 才人は、ルイズをじとりと睨み付けた。

 

「お前、何ひとりで話進めてんの?」

 

「うっさいわね。すぐに詠唱始めなきゃいけないんだから、静かにしてて」

 

 雨上がりの森で、好きな女の子と二人っきり。普通ならドキドキするシチュエーションだが、すぐ側まで怖ろしい軍勢が近付いてきているせいで、才人はびくびくしていた。

 

 頼りになりそうなひとたちは、ルイズの言葉で別の場所へ行ってしまった。文句のひとつも言いたくなる。それなりに戦い慣れてきたとはいえ、彼のメンタルは普通の高校生なのだ。

 

「なあ。まさかとは思うが、ここは〝記録〟の世界だから絶対安全とか考えてないよな?」

 

 〝夢渡り〟と同じなら、心のありかたひとつで本当に死ぬことすらありえる。夢の中で特訓する前に太公望からそう言い聞かされていた才人は、内心不安でいっぱいだった。

 

 ところが、ルイズは心底どうでもよさそうに答える。

 

「安全でしょ? 何かあってもあんたが護ってくれてるんだから」

 

「は?」

 

「違うの?」

 

「……違わない」

 

 ルイズは、才人が思わず見惚れるような笑顔で言った。

 

「なら、問題ないじゃない。よろしくね」

 

「お、おう」

 

 話は終わったとばかりに杖を取り出したルイズは、朗々と〝虚無〟のルーンを紡ぎ出す。その姿は、暗い森の中にあってもなお輝かんばかりに美しい。

 

 透き通った鈴の音のように美しい詠唱を聴きながら、才人は思った。

 

(これがただの記録だから、ルイズはあんなことを言ったんだろうか)

 

 それでも構わないと思いながらも、

 

(ルイズは、そんなの関係無しに村のひとたちを護ろうとしているのかもしれない)

 

 とも感じていた。才人は、彼女のそんな高潔さに惹かれたのだから。

 

(ただ、もう少し自分と俺を大切にして欲しいなあ)

 

 『始祖』ブリミルの勇気に当てられたのかもしれないが、アルビオン行きの件で懲りてなかったのかと溜め息を漏らす。

 

(漫画か何かで〝恋愛は先に好きになった方が負け〟なんて台詞があったけど……ほんとだな。悔しいけど俺、ルイズに負けっぱなしだよ。まだ返事ももらってないのに)

 

 彼女の声を聞いていると、不思議と勇気が湧いてくる。タルブの上空で、アルビオン艦隊に突っ込んだときもそうだった。虚無の魔法にそういう効果があるのか、それとも大好きな女の子の歌声をひとりじめしているからだろうか。

 

 才人は両手で頬を叩いて気合いを入れ直すと、槍を構えて油断なく周囲を見渡した。

 

「やってやろうじゃねーか。記録だろうが何だろうが、ルイズには指一本触れさせねぇ」

 

 

○●

 

 ――いっぽう、小高い丘の北側では激しい戦いが繰り広げられていた。

 

 嵐のように降り注ぐ矢を、ブリミルを囲むように円陣を組んだメイジたちが迎え撃つ。風の魔法で目標から逸らされた矢は、次々と地面に突き立った。

 

 サーシャは〝反射〟の魔法で矢を弾きつつ、軍勢の先頭に飛び込んで槍を振り回している。

 

「まったく、しつこいったら……!」

 

 文句を言いながらも、彼女は一瞬たりとも動きを止めずに暴れ回っている。この場を耐えきりさえすれば、ブリミルが絶対になんとかしてくれる。そんな信頼が彼女を支えていた。

 

 そして、そんなサーシャの考えを裏付けるかのように、ブリミルの詠唱が聞こえてきた。

 

 エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ――

 

 何度も耳にしている、彼の切り札。唱え終わるまで時間はかかるが、完成すればエルフの精霊魔法すら打ち砕く、最強の攻撃呪文だ。

 

 と、サーシャの前方から地を揺るがすような雄叫びが聞こえてきた。普段なら、ヴァリヤーグたちは弓での射撃の後に突撃してくるのだが……独特の圧力が感じられないのだ。

 

「妙ね、何かあったのかしら」

 

 その理由は、すぐにわかった。

 

「あれは、まさかマンティコア!? それに風竜まで……!」

 

 ヴァリヤーグ軍の側面に、幻獣に跨った他の軍勢が現れたのだ。

 

 見たこともない程煌びやかな装束を纏った人間たちが、陸と空を埋め尽くしている。彼らの先頭に立っているのは、鉄の仮面を被った騎士だった。桃色がかったブロンドを風にたなびかせ、猛然と鋼鉄の軍団に立ち向かっている。

 

「なるほどね。あの子、うまくやってくれたわ」

 

 それは、ルイズが描き出した〝幻影〟の軍勢だった。

 

 サーシャは知る由もないが、この幻を構成しているのは『烈風』を筆頭とした、ヴァリエール家が誇る国境防衛軍の精鋭部隊、トリステイン王国軍を率いるサンドリオン王、ミスリル銀の胸当てを身に付けて杖を振りかざすアンリエッタ、深紅のマントを纏ったウェールズ王子と王党派の面々だ。なお、さりげなくお揃いの隊服を身につけた『水精霊団』も混ざっている。

 

 ルイズは、己の脳裏に刻まれていた全ての精兵を、この世界に映し出したのだ。

 

 側面を突かれたヴァリヤーグたちは大混乱に陥っている。後はブリミルの呪文が完成するのを待つだけでいい……。

 

 それから約一分後。ついに『始祖』の魔法が解き放たれた――。

 

「なんだ、あれ……?」

 

 油断なく槍を構えていた才人の目が、太陽のように輝く光球を捉えた。その光はみるみるうちに膨れ上がると、軍勢を飲み込んで大爆発を引き起こした。轟音と怒号が戦場に響き渡る。

 

 爆風が周囲の木々を激しく揺さぶる。危険を感じた才人は、突然のことに呆然自失していたルイズを地面に押し倒し、その上に覆い被さった……直後。

 

「ふごッ!」

 

 ルイズの膝が、才人のせつない部分を直撃した。

 

「い、いきなり何すんのよ! は、放しなさい!!」

 

 ルイズの顔は、夕焼け空よりも赤くなっている。

 

「うう、上から、木の枝とか、落ちてきたら……危ないと……」

 

 そう告げて、ルイズの上から転がり落ちるようにどいた才人は、クリティカルされた箇所を抑えて悶絶する。それを聞いたルイズは、羞恥で沸騰寸前に陥った。

 

 今は戦闘中である。才人は約束通り、自分の身体を盾にしてまでルイズを守ろうとしてくれたのだ。それなのに、いきなり押し倒された――実際には、覆い被さって落下物から庇おうとしてくれた――ことに驚き、急所に膝蹴りをかましてしまった。

 

(わ、わたしってば、こんな時にどうかしてるんじゃないの!?)

 

 呪文に集中しながらも、才人の呟きはルイズの耳に届いていた。

 

 ――記録だろうが何だろうが、ルイズには指一本触れさせねぇ

 

 それを思い出し、ルイズの頬は再び赤く染まる。本人には決して言えないが、突然とはいえ才人にぎゅっと抱き締められて、嬉しかったのだ。けれど、恥じらいやら貴族もとい王族のプライドやらが邪魔をして、どうしても素直になれない。

 

 しかし……。

 

(好きなひとにぎゅっとされるのって、あんなに気持ちいいんだ……)

 

 ルイズの頭は完全に沸いていた。たった半日で色々あり過ぎて、脳がオーバーヒートしていたのかもしれない。

 

 そこへ、ラグナルたちが戻ってきた。

 

「君たちのお陰で作戦は成功だ! 大丈夫か!?」

 

「え、ええ、お、おかげさまで」

 

 ルイズは慌てて立ち上がると、スカートについた土埃や木の葉を払いながら答える。才人は未だ地面に蹲ったままだ。

 

「こっちの彼は大丈夫そうに見えないんだが」

 

「さ、さっきの爆発で、その、衝撃を受けたみたいで」

 

「なあ、俺の目を見てそれ言えるのか? オイ」

 

 恨みがましげに唸る才人と、ふいっとそっぽを向くルイズ。

 

「そろそろ脱出の準備が整った頃だ。村に戻ろう」

 

 ラグナルに助け起こされながら、才人は再び森の外を見て――驚愕した。

 

「なんだ、あれ……」

 

「どうしたの?」

 

 ぷるぷると震えながら指差す才人。教えられた方角に視線を向けたルイズは、絶句した。

 

 そこには地獄絵図が広がっていた。爆発が起きた中心部の地面は大きく抉られ、窪地のようになっている。先頭から中央付近に布陣していた敵軍の兵たちは、爆風によって全員まとめて吹き飛ばされ、地面に倒れ伏していた。

 

 各所に火の手が上がり、ヴァリヤーグたちは煙に巻かれて逃げ惑っていた。後方にいた部隊に至っては、武器を放り出して後退してゆく。

 

「族長の〝爆発〟(エクスプロージョン)だよ。あの魔法のお陰で、俺たちはこれまで生き延びられたんだ」

 

 爆発。

 

 ルイズにとっては忌まわしい失敗の象徴だが、実は〝虚無〟の素養ある者だけが起こせる現象だった。太公望や才人はルイズの爆発をして「とんでもない魔法」だと口々に賞賛していたが、今ならその理由が身に染みてよくわかる。

 

 あれを見る限りでは、一撃の威力だけなら『烈風』カリンですら足下にも及ばない。

 

「爆発で……あんなことが……」

 

 呆然と呟くルイズに、ラグナルが言った。

 

「族長のアレは特別で、俺たちは誰も真似できなかった。けど、君だってあんな凄い幻を作れるような天才なんだ。もしかしたら、そのうち使えるようになるかもな」

 

○●

 

 ――ラグナル隊に護られながら村に戻ると、乱立していたテントは全て片付けられていた。

 

 馬の背に水がめや荷物がくくりつけられ、馬に積めないぶんは大人たちが背負っている。ブリミルたちが出撃してから、十分と経過していない。にも関わらず、村人たちは既に撤収の準備を終えていたのだ。とてつもない手際の良さである。

 

 村に戻ってきたブリミルは、一族の前に立つと呪文を唱えた。二分ほどの詠唱の後、彼らの前に銀色に輝く『扉』が現れる。

 

「あんなに大きな魔法を使った後なのに、息切れひとつしてないなんて……!」

 

 〝幻影〟だけでぐったりしていたルイズとは、比べるのもおこがましい程の精神力だ。

 

「女子供が先だ。さあ、急いでくぐって」

 

 ブリミルの指示に従い、村の女や子供たちが次々と扉の中へ消えてゆく。

 

(もしかして、あの門を抜けた先が『聖地』なのかしら。それとも、あのヴァリヤーグって連中に見つからない、別のどこかに繋がっているの……?)

 

 ルイズは、隣にいたラグナルに訊ねた。

 

「皆さんは、いつもこうやって移動をし続けているんですか?」

 

 ラグナルは頷いた。

 

「ああ、そうだ」

 

 いつ来るかわからない敵軍に怯えながら、逃亡生活を続ける。才人には想像もつかない、いや、考えたくもない状況だった。

 

 だからこそ、彼は聞きたくなった。

 

「ヴァリヤーグって、何者なんですか? どうして、皆さんと戦ってるんでしょうか?」

 

「知らん。だが、族長が言うには……俺たちは、わかりあえないから戦うんだそうだ」

 

「わかりあえない?」

 

 首を傾げる才人。ルイズも、彼と一緒に聞き耳を立てている。

 

「ずっと昔、ヴァリヤーグとマギ族は今みたいに争ったりせず、静かに暮らしてたんだそうだ。マギ族が育てた山羊の乳と、ヴァリヤーグが作った焼き物の器を交換したりしながらな」

 

「普通に交流してたんですね」

 

「そうらしい。ところが、ヴァリヤーグたちはある時期から突然俺たちマギ族を目の敵にし始めたんだ。当時の長老たちが、何とか争いを収めようとしたんだが……」

 

「だめだったのね?」

 

 その言葉に、ラグナルは頷いて見せた。

 

「一体どうして……」

 

「それがわからんから、話を聞きに行ったんだ。原因を突き止めんことには、どうにもならん。だが、ヴァリヤーグどもは返事の代わりに……長老たちの頭の上に、矢の雨を降らせたんだ」

 

 ルイズは思わず口元を抑えた。

 

「酷い……!」

 

「まったくだ。その日から、俺たちの氏族は放浪生活を続けているって訳さ。しかし、どこへ行っても連中は追いかけてくる。ったく、俺たちに何の恨みがあるってんだ」

 

 沈痛な表情を浮かべるルイズと才人に、ラグナルは苦笑を浮かべた。

 

「それでも、今の族長が例の不思議な系統に目覚めてからは、前よりもだいぶマシな生活が送れるようになったんだけどな。どうやら、神は俺たちマギ族を見捨てていなかったらしい」

 

 そう言うと、ラグナルはふたりに『扉』の前へ行くように促した。

 

「そら、次は君たちの番だ」

 

 ルイズと才人が近付いてくると、ブリミルは破顔した。

 

「巻き込んでごめん。でも、本当に助かった! いつもなら犠牲や怪我人が出るのに、きみたちのお陰でみんな無事だよ。族長として、心から感謝する」

 

 そう言って、ブリミルはふたりに頭を下げた。それから、扉を指差して言った。

 

「さあ、くぐってくれ。心配しなくても大丈夫、こっちはサーシャに試してもらったやつと違って効果が安定しているからね。扉の向こうに着いたら、改めてお礼をさせてもらうよ」

 

 お礼という言葉に、ルイズが強烈な反応を見せた。

 

「あ、あの! それなら『扉』の魔法を教えてもらえませんか? わたし、どうしても身に付けなきゃいけないんです!!」

 

 ブリミルは鷹揚に頷いた。

 

「そのくらい、お安いご用さ。きみたちは、それだけのことをしてくれたんだからね」

 

 ルイズの顔がぱっと輝いた。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「こちらこそ、だよ。さ、急いで! ヴァリヤーグが隊列を立て直す前に、ここから逃げなきゃ

いけないんだ」

 

 ルイズと才人は、光り輝く『扉』を見つめた。ふたりが遠い異世界で出逢うきっかけになった、使い魔召喚の門とよく似ている。

 

(まさか、あの時みたいに電気ショック受けたりしないよな……?)

 

 才人はやや場違いな不安を胸に抱きながら、ルイズと共に光るゲートをくぐった。

 

 

○●

 

 ――ふたりが扉を抜けると、そこには見慣れた顔が並んでいた。

 

「ルイズ!」

 

「おちび、戻ってきたのね!」

 

「大丈夫かね、サイト君」

 

「え、あ、あれ……?」

 

 ルイズたちが立っていたのは、王宮の隠し部屋の中だった。家族と学院長、枢機卿がこぞってふたりに声をかけてくる。

 

 どうやら『扉』をくぐると同時に〝記録〟の魔法が切れ、現実世界に戻ってきたらしい。

 

「そんな! どうして!? もうちょっとで『始祖』ブリミルから新しい魔法を教えてもらえるところだったのに……!」

 

 ルイズの絶叫に、彼女たちの帰還を待っていた者たちは仰天した。声の大きさもさることながら、その発言は到底看過できない内容だったからだ。

 

「お、お、お、お会いできたのか!? 『始祖』ブリミルに?」

 

「なんとうらやま、いや、素晴らしいことでしょう!」

 

 ところが、唯一別のところへ顔を向けていた人物がいた。第二王女のカトレアだ。

 

「ルイズ。指輪と祈祷書が……」

 

 指摘を受けたルイズがふと目を遣ると、水のルビーと始祖の祈祷書が淡い光を放っているではないか。

 

 ルイズは慌てて祈祷書を手に取ると、猛然とページをめくり始めた。そのあまりの迫力に、エレオノールはおろか、両親ですら声を掛けられない。

 

 と、ページをめくる手がぴたりと止まった。どうやら読める箇所が見つかったらしい。ルイズは食い入るように祈祷書に書かれた文章を読み始める。

 

〝世界扉〟(ワールド・ドア)。『空間』の中級の中の上。此、汝と、汝に縁在りし者が思い浮かべし場所に『扉』を開く魔法なり。此極めし者であれば、世界の壁を打ち壊し〝約束の地〟へすら『道』を拓くこと叶うであろう」

 

 世界の壁すら打ち壊す扉。これを聞いた者たちは驚きと喜び、そして戸惑いの声を上げた。

 

「と、ととと『扉』の魔法……!」

 

「おめでとう、君はついに到達したのじゃな。ミス・ヴァリエール」

 

 エレオノールは完全に感極まっていた。この魔法があれば、かつて垣間見た『始祖』の故郷へ行けるかもしれないのだ。ルイズの熱意を知るオスマン氏も、教育者冥利に尽きる場面に立ち会えたことに喜びを露わにしている。

 

 いっぽう、祝福の言葉を投げかけられたルイズのはというと。祈祷書をぎゅっと抱き締め、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。

 

「ああ……感謝します『始祖』ブリミル。貴方は約束を守ってくださったんですね」

 

 直接教えを賜ることは叶わなかった。しかし彼はこの祈祷書に、ルイズが求めた『扉』の魔法を遺してくれたのだ。

 

(冴えない顔だとか、エルフに足蹴にされるなんて情けないだなんて思ってしまい、本当に申し訳ありません。貴方はまぎれもなく偉大なメイジでした……)

 

 現時点における、ルイズの対ブリミル評価はストップ高を記録した。初めて〝念力〟に成功して以来の更新である。

 

(ああ、これでサイトを故郷に帰してあげられる。魔法学院にいる仲間と一緒に……あの街を旅して回れるのね)

 

 しかし、今のままではその目的を達成することができない。祈祷書にある通り、才人の世界に『扉』を開くためには、この魔法を極めなければならないのだ。

 

 そのために、どうしてもやらなければいけないことがある。それを自覚したルイズは大きく深呼吸をすると、顔を上げた。

 

 ――今こそ、カトレアに相談し、アンリエッタに知恵を請うた策を実行すべき時である。

 

 小さな唇が開き、言葉を紡ぐ。

 

「あの、どうかわたしの話を聞いて下さい」

 

 全員の視線がルイズに集中する。

 

「実際に唱えてみるまでわかりませんが、この魔法は……おそらく〝瞬間移動〟よりも、ずっと難しいものだと思うんです。呪文自体の長さも、ほんとに桁違いですし」

 

 それを聞いた一同は頷いた。始祖の祈祷書によれば〝瞬間移動〟は初級の空間移動魔法である。であれば、中級の中の上と記された〝世界扉〟の難易度が高いと考えるのは当然だ。

 

「魔法を成功させるためには、何度も練習が必要です」

 

「その通りじゃな」

 

 オスマン氏が同意する。彼は、これからルイズがしようとしていることに、何となくだが察しがつきはじめていた。

 

 鳶色の瞳に決意の光を湛えながら、ルイズは続けた。

 

「ですが、空間移動魔法はとてつもない量の〝精神力〟を消費します」

 

 これを聞いて、エレオノールも妹の考えが読めた。何せ、彼女もあの場にいたのだから。

 

 ルイズは、決然とした表情で告げた。

 

「そのためにも、わたし……魔法学院に戻りたいんです」

 

 最初に沈黙を破ったのは、オスマン氏だった。彼は、勉学と友情を守るために熱心な生徒の後押しをしようと考えたのだ。

 

「なるほどのう。魔法学院は、そこで生活しているだけで〝精神力〟が回復しやすい構造になっておる。魔法を練習するためにはうってつけの環境じゃろう。王族が通ってはいけないなどという例外もないし、わしとしては問題ないと思うんじゃが」

 

 さらに、エレオノールもフォローに回った。

 

「わたくしも、オールド・オスマンに賛成ですわ。おちび……いえ、ルイズが覚えた魔法をしっかりと身に付けることは急務ですから。ロマリアの悪意に対抗するためにも」

 

 くすくすと笑いながら、カトレアが言った。

 

「姉さまは、早く『扉』の魔法を体験したくてたまらないんですよね」

 

「ちち、違います! わ、わたくしはただ、おちびのことを思って……!」

 

 そこへ、マザリーニが割り込んでくる。

 

「魔法学院が〝精神力〟を回復しやすい環境だというのは初耳ですが、ルイズ王女殿下を学院に戻されることに関しては賛成です」

 

「その言い方ですと、魔法以外にも理由があるのですね?」

 

 カリーヌ王妃の問いかけに、枢機卿は首を縦に振った。

 

「王宮にいれば、嫌でも人目につきます。王女殿下だけならまだしも、シュヴァリエ・サイトは間違いなく注目の的でしょうな」

 

 確かに……と、頷く一同。なお、ここには才人本人も混じっている。ようやくアルビオン貴族の称号を得た彼だったが、本来トリステインでは平民から貴族になることができない。そのため、物珍しさと侮蔑の視線が飛んでくるのがしょっちゅうなのだ。

 

 城への出入りこそだいぶ楽になったが、ぶっちゃけ居心地が悪い。ふたりで魔法学院へ戻れるというのであれば、才人としても有り難かった。

 

「既に、宮廷の雀たちが王女殿下と彼の繋がりを気にし始めております。今はオスマン氏の協力で情報の制限がなされておりますが、おふたりが王宮に居続けた場合……」

 

「いつか嗅ぎ付けられてしまう。卿はそう言いたいのですね」

 

「左様でございます、王妃殿下。であれば〝学院で学び続けたい〟という王女殿下の希望に添う、という形で一時的に王宮から距離を置いたほうが、対策を練るための時間が取れます」

 

「しかし『レコン・キスタ』が魔法学院襲撃の計画を立てていたはずだ。却下されたらしいが、ルイズが戻ることで、あの者どもがまたぞろ蠢動し始めるのではないか?」

 

 王の疑問に宰相が答える。

 

「それですが、先日アンリエッタ姫殿下……もとい、ダングルテール公爵夫人からなかなか興味深い提案を頂きましてな」

 

「ふむ?」

 

「トリステイン貴族の中でも、子を魔法学院で学ばせることができるのは、ごく少数でございます。そのほとんどが、財政難が理由です。そこで、これはと思う優秀な子供に王政府から資金を提供し、魔法学院に通わせるという案なのですが……」

 

「それをするだけの金銭がない。そういう訳か?」

 

「はい。ですが、ひとつだけそれを解決できる手段がございまして」

 

「ほう、具体的には?」

 

 王の瞳に、興味の色が浮かんだ。

 

「先の戦役には、多くの貴族が参戦しました。ほとんどが魔法衛士隊を始めとしたメイジたちで構成されていましたが……戦力不足から、まだ見習いであった若い従者たちも戦場に駆り出されていたのです。彼らは皆家格が低く、懐に余裕が無いがためにゲルマニアへ同行できず、トリステインに残っていた者たちでした」

 

 オスマン氏が、ぽんと手を叩いた。

 

「なるほど! その若者たちを魔法学院に通わせようというのじゃな?」

 

「その通りです、オールド・オスマン。彼らには〝見習い騎士〟として所定の給与を支払います。そこへ若干上乗せすれば、どうにか魔法学院で学ぶだけの金を捻出できるはずです」

 

 顎髭をしごきつつ、オスマン氏は愉快げに告げた。

 

「ほぼ間違いなく通いたがるじゃろうなあ。何せ、魔法学院を出ておれば出世の糸口になる。あれじゃろ? 君、若輩とはいえ実戦経験のある彼らに、魔法学院の護衛をさせる心づもりじゃな?」

 

 枢機卿はくすりと笑った。

 

「私ではなく、公爵夫人の発案なのですよ。いやはや、よくぞここまで成長してくださいました。将来が空怖ろしい」

 

 そう言って、マザリーニは嬉しそうに微笑んだ。そんな彼を観察しながら、ルイズは内心うまくいったと拳を握り締めた。

 

 この『奨学金』制度をアンリエッタに提案したのは、実はルイズだったのだ。どうしても魔法学院に戻りたいが、王女の身分では難しい。先に述べた通り、護衛の問題があるからだ。

 

 そこで、以前才人の国の学校教育について教えてもらった時に聞いた「奨学制度」を生かし、優秀だがお金のない、同世代のメイジを護衛にできないかと思いついた。しかし、ルイズに考えられたのはここまで。人材の出所を彼女に教え、策の草案を作り上げたのがアンリエッタだった。

 

 魔法学院に戻れば仲間たちに会えるし、何より才人と一緒にいられる時間が増える。ルイズはそわそわどきどきしながら、大人たちの会話を見守った。

 

「見習いとはいえ、実戦を経験したメイジが護衛を兼ねつつ魔法学院に通う。襲撃計画が持ち上がるのは魔法学院が手薄だからであって、兵が常駐していることを周知すれば抑止になります。わたくしは悪くないと思いますが……」

 

 妻の問いかけに、サンドリオンは頷いた。

 

「ルイズとサイトを王宮から遠ざけ、耳目を集めぬようにする。護衛になるのは、魔法衛士隊の見習い騎士たちか。魔法学院に王室の目が届いているとなれば、ロマリアも下手に接触できまい。なるほど、良い案だ。その方向で動くことにしよう」

 

 王の承認を得た宰相は、深々と頭を下げた。

 

「ありがとうございます!」

 

 顔を輝かせ、礼の言葉を述べるルイズ。

 

「わたし、必ず『扉』の魔法を使いこなせるように頑張りますから!」

 

 ――こうして。王宮という名の鳥籠に閉じ込められていた王女は、自らの行動力でもって、制限つきではあるものの、仲間たちと共に過ごす自由を手に入れることに成功した……。

 

 




と、いうわけでどうにか学院編が再開できそうです。
そして、ついに来た世界扉。
ただし、即座に向こう側へ繋げるのは難しいようで……。

原作と異なり、才人が敵の真正面に特攻していないため、
ヴァリヤーグの正体が判明していません。
本当にこのまま進行して大丈夫なのか!?

……次回更新は、2週間前後を予定しております。


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第110話 崩れ去る虚飾、進み始めた時代

――虚無の主従が〝記録〟の世界で『始祖』とまみえてから、半月後。

 

 ルイズは未だ、トリスタニアの王宮で日々を過ごしていた。

 

 当然である。他国民ならばまだしも、トリステインの王族が魔法学院に入学した上に寮で生活するなど、前代未聞の暴挙なのだから。

 

 『始祖』より賜りし王権をもって強行を……というわけにはいかない。なにせヴァリエール家はつい最近、旧トリステイン王家から禅譲に近い形で玉座を譲られたという経緯がある。ここで新たな王室に忠誠を誓った貴族たちをないがしろにすれば、最悪内戦勃発。アルビオンの二の舞だ。

 

 雨降って地固まる――ではないが、まずは数々の難題に対し、王と貴族が手を取り合って立ち向かおうという姿勢を見せることが、国という集団をひとつにまとめる上で重要なのである。

 

 そんな訳で、早速開催された王政府議会において、ルイズの寮生活とそれに付随する新法に関する喧々囂々の議論が飛び交った。

 

 参加者たちは現行の法と照らし合わせて問題がないかどうか、一代限りの特例措置なのか、あるいは今後も王室の伝統として継続される案件なのかを検討し――最終的な承認が得られるまでに二週間、計十六日が費やされた。これでも、国が関わる議題としては驚くほど早い。

 

 たったこれだけの期間で話がまとまった大きな理由は、ふたつあった。

 

 ひとつは、王族の留年問題である。

 

 魔法学院には、進級するために定められた単位というものがある。毎年春に行われる〝使い魔召喚の儀〟もそのひとつ。未だ王宮に留め置かれているルイズが授業を履修できる訳もなく、試験を受けることもままならない。このままでは、留年が確定してしまう。

 

 諸事情を鑑みたとしても、王族が留年したなどということになれば外聞が悪い。そのため、できるだけ早く三番目の王女さまを魔法学院へ戻す必要がある、と、こういう訳だ。

 

 もうひとつは、王族が魔法学院に入学するのが慣例化することにより、自分たちの子供が将来の王と親しくなる機会が生じることに気付いた者たちの熱烈な後押しがあったこと。このあたりは、サンドリオン王がこれまでに築いてきた政治家としての手腕によるものだ。

 

 こうして法律という名の大義名分こそ用意できたものの、全ての準備が整った訳ではない。

 

 見習い騎士の中から『奨学金』受給希望者を募る必要があるし、手を挙げるものがいなかった場合にも備えておかなければならない。

 

 この件で抜けが出る各部隊への兵員補填もしなければいけないし、新たな生徒を受け入れる魔法学院側としても、新制度を導入するための準備期間が必要だ。他にも細かな手続きやら書類の作成などで、大勢の人員や金銭が動くのである。関係する各省庁の官僚たちは、このところ昼夜を問わず書類作成に追われていた。

 

 で、ルイズ本人はというと……深窓の姫君は蚊帳の外、なんて訳にはいかない。

 

 先に述べた通り、留年の問題がある。いくら関係省庁が頑張ってくれているとはいえ、お役所仕事というものはそう簡単には終わらない。

 

 そこで、オスマン氏からの申し出により二年次後期の授業で習う範囲のレポート作成・提出と、学院から教員が派遣され、魔法の実技テストが行われることになった。

 

 これは、病気や家の都合などの〝やむを得ない事情を抱えた生徒〟に適用される特別猶予措置であり、学院長だけでなく、教職員の同意がなければ実現できない。

 

 ……こういう手段があるのなら、宮廷貴族たちが血反吐を吐かずに済んだのではないかという説もあるが、そこはそれ。可能な限り速やかに虚無の主従をトリスタニアから避難させたい関係者一同からすれば、

 

「血を吐くだけで国の滅亡を回避できるのであれば、やるべきだ」

 

 という心持ちな訳で。

 

 とはいえ、国王陛下や宰相猊下は部下たちが苦労した分の手当やら何やらはしっかりと用意している。忠誠には、それ相応に報いなければならないのだ。

 

 そんな訳で、ルイズは魔法の練習とレポート作成の毎日を過ごしていた。

 

 週に一度、書き終えたレポートをフクロウ便で魔法学院に送ると、各科目担当の教師が採点した上で、コメントを付け加えて送り返してくれる。

 

 レポートについては全く問題ない。もともとルイズは座学において学年トップクラスの成績を収めていたし、万が一わからない箇所があれば、長姉が手厳しくも丁寧に教えてくれた。

 

 実技については、学院運営に関する打ち合わせのため、毎月定められた日にトリスタニアへ出張してくるオスマン氏がじきじきにテストしてくれるという厚遇ぶりだ。

 

 もっとも、この特別措置にも「ルイズが春の新学期までに復学する」という但し書きがつく。そう、どんなに王女本人が良い成績を収めても、関係各省庁の準備が間に合わなければ落第扱いになってしまうという訳だ。

 

 ――自分たちの不手際で一国の王女を留年させたりしたら、確実に無能の烙印を捺される。

 

 という強迫観念に駆られた官僚たちは、文字通り死に物狂いで作業を続けていた。

 

 そんな緊迫感に溢れた王宮内で、いま現在ルイズが何をしているのかというと……。

 

「よろしい。次はそのまま赤の箱を上に、青の箱を下へ降ろしてくだされ」

 

 ここは一階にある大ホール。普段は王室主催の舞踏会や音楽鑑賞会といった、華やかな催し物が開かれる場所である。そんな空間で、ルイズは衆人環視の中、魔法を唱えていた。

 

 普段なら宮殿の中庭でやる内容なのだが、この日は朝から雨がぱらついていた。

 

「王女さまが進級試験でお風邪を召してはいけない」

 

 という侍従長ラ・ポルトのはからいで、室内ホールが解放されたのだ。

 

 王女附きの侍女たちが、感嘆の溜め息を吐いた。

 

「さすがはルイズ王女殿下。素晴らしいお手前ですわ」

 

 ルイズ本人は集中していて気付いていないが、観衆から賞賛の声が上がっている。単に〝浮遊〟の魔法で荷物の上げ下ろしをしているだけであれば、こんなことにはならない。

 

「まさか〝浮遊〟と〝飛行〟の魔法を同時に使いこなすだなんて!」

 

 ……そう、ルイズは自らの身体を宙に浮かせたまま、オスマン氏の指示に従って箱の上げ下げをしていたのだ。

 

 過去に述べた通り、ハルケギニア世界における常識では、複数の魔法を同時に発動させた上に維持するのは難しく、これを可能とする者は一握りの天才のみとされている。

 

 つまり、一般的な貴族達の観点からすると。ルイズはメイジとして非凡な才能を秘めている、という認識になる。

 

 もちろん、これらは〝念力〟で行われているわけだが……オスマン氏を除く、この場にいる誰もその事実を知らない。たとえ気付かれたとしても、同時展開していることに変わりは無い。

 

 それから数分後。

 

「そこまで!」

 

 オスマン氏のかけ声と共に、ルイズはふわりと床に着地した。それと同時に、わっとホール内に拍手と歓声が響き渡る。

 

「いやはや。ほんの少し見ない間に、ずいぶんと上達されましたな」

 

 侍女から手渡されたハンカチーフで額の汗をぬぐうルイズの元に、オスマン氏が笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。

 

「先生方のご教示の賜物ですわ、オールド・オスマン」

 

 ドレスの裾をつまんで優雅にお辞儀する姫君に、老メイジは微笑みを返す。

 

「レポートの評価も全科目〝優〟ですじゃ。実技についても問題ございませぬ。ルイズ王女殿下のお戻りを、魔法学院の一同揃ってお待ちしております」

 

 桃色の髪の少女は、ぱっと顔を輝かせた。

 

「それじゃ……!」

 

 オスマン氏は頷いた。

 

「これまで提出していただいたレポートと、今回の実技試験をもって二学年次の科目全てを修了とし、三年生への進級を認めるものと致します」

 

 ホール内の空気が、再び拍手と歓声、祝いの言葉に支配される。ところが、先程までとは一転。ルイズの顔に影が差していた。

 

「ふむ、何か気になることでも?」

 

「ほんとに、いいんでしょうか? わたし、汎用魔法と風系統以外はさっぱりなのに」

 

 そうなのだ。ルイズは汎用魔法はともかくとして、相変わらず四系統の魔法が使えない。

 

 コルベールが以前『フェニアのライブラリー』で発見した古代の呪文書を紐解くことで、かろうじて〝風〟(ウインド)〝着火〟(イグニッション)だけは成功させていたものの……他の呪文はさっぱりだった。

 

 ちなみに、件の魔法書の存在をルイズが思い出したのは〝記録〟で見たブリミルの娘・ノルンの詠唱が、現代で使われてるものより長かったことによる。

 

(他の系統がぜんぜんダメだなんておかしな話だし……ロマリアに疑われないかしら)

 

 そんなルイズの不安を吹き飛ばすような笑顔で、オスマン氏は断言した。

 

「全く問題ありませんぞ。三年次には専門課程へ進まれるわけですし、そもそも苦手な系統が全く使えないメイジというのは、卒業生の中にも大勢おりましたからの」

 

「そ、そうなんですか!?」

 

 〝錬金〟〝凝水〟〝着火〟〝風〟は、四系統の中で最も難易度が低い魔法とされ、メイジなら誰でも使える呪文だと思われている。風系統以外は苦手なカリンでも〝錬金〟で石を銅に変えるくらいのことはできた。なればこそ、ルイズは不安を覚えていたのだ。

 

「はい。そういう者達は三年次に受ける授業をひとつの属性だけに絞り、得意系統を伸ばすことに専念するのが一般的ですじゃ」

 

 観衆の中で、オスマン氏の説明に笑顔で頷いている者が何人もいる。彼らは、一系統完全特化という意味ではルイズの同類だった。

 

「他にも不安などがございましたら、遠慮なくご相談くだされ。迷える生徒を導くのが、我ら教師の役目ですからな」

 

 周囲をちらと見回した後、ルイズはオスマン氏に訊ねた。

 

「……学院長先生、この後のご予定は?」

 

「財務卿との打ち合わせが終わり次第、トリスタニアの宿へ戻るつもりですが」

 

「では、会談後に……三年次の選択科目について、相談に乗っていただけますか? もちろん、ご都合がつけばの話ですが」

 

 少女がそう告げると、オスマン氏は了承の代わりに、とびっきりの笑顔で応えた。

 

 

○●

 

 ――数時間後。

 

 ルイズは王宮の談話室で、再びオスマン氏と対面していた。否、そう見えるよう偽装していた。テーブルを挟み、紅茶を飲みながら進路について談話しているのは、ルイズとオスマン氏本人ではなく、彼らそっくりの影武者――スキルニルである。

 

 では、本物はどこで何をしているのかというと。

 

「〝精神力〟は大丈夫ですかな?」

 

「はい、前回はご心配をおかけしまして……」

 

 例のごとく、王宮の隠し部屋に集まっていた。

 

 ――前回、ガンダールヴの印に込められた〝念〟を垣間見たルイズと才人は、彼らの帰還を首を長くして待っていた一同に、見聞きした一部始終を余すことなく伝えたのだが……そこで問題が発生した。

 

「ひたい! ひたいれふれへさは! ほほつでるのどやべで!」

 

「あ、あんたが! ばば、罰当たりなことを! 言うからでしょおおおお!?」

 

 〝記録〟の世界で見聞きしてきたことを密談の参加者に告げた途端、ルイズは長姉に盛大に頬をつねり上げられた。

 

 ……無理もない。いや、ある意味この程度で済んだのが奇跡だろう。何せルイズたちは、世界中で神と同様かそれ以上に敬われている『始祖』を侮辱するようなことを言ったのだから。

 

 具体的には、

 

「初代ガンダールヴは女性で、エルフだった」

 

「しかも、彼女を妻としていた」

 

「その他にも、複数の女性を妻にしていた」

 

「始祖は、ヴァリヤーグなる異種族から逃げるためにハルケギニアへ来た」

 

 たとえそれが真実だとしても、異端審問待ったなしの暴言である。

 

「当時、青は神聖な色とされており、頂点に立つ者だけが身につけることを許されていた」

 

「着火の魔法が、現在使われているものよりも詠唱が長かった」

 

「トリステインとは古代語で〝涙〟あるいは〝悲しみ〟という意味が込められていた」

 

「始祖は、虚無魔法の一撃で五万をゆうに超える軍勢を葬った」

 

 という歴史的に価値のある成果を語っても、焼け石に水だった。

 

 そんなところへ一石を投じたのが、カリーヌ王妃である。

 

「確かに信じがたい内容ですが……わざわざ『始祖』ブリミルが、あえてこのような偽りの記憶を『後継者』に見せる理由があるのですか?」

 

 その一言に、ぐっと詰まるエレオノール。同様に、ブリミル教司教枢機卿たるマザリーニも頭を抱えていた。

 

 そう、自分たちに都合の悪いモノを見せる必要はない。しかし、どうしても残さなければならない、見てもらわなければならない記憶だと『始祖』自身が考えたからこそ、ルイズと才人は六千年前の世界へ招かれたのだ。

 

「もっとも、ルイズとサイトが偽りを述べていなければ、ですが」

 

 その発言に、ルイズは目の端を釣り上げた。

 

「わ、わたしもサイトも、嘘なんてついていません!」

 

「お、俺も、見たままを話しただけで……」

 

 二人を制しながら、カリーヌは続けた。

 

「ならば、わたくしたちも同じものを見る必要があるでしょう」

 

 ……そんな訳で、ルイズは意気揚々と〝記録〟を唱え始めたのだが、途中でひっくり返ってしまった。ここへ至るまでに〝幻影〟やら〝瞬間移動〟やらを多発した挙げ句、二度目の〝記録〟を使おうとしたのだから〝精神力〟が切れて気絶するのも当然だろう。

 

 月目の神官が語った通り〝記録〟は〝精神力〟を大きく消耗させる魔法だったようだ。

 

 ――そして今。

 

「あの時は倒れてしまいましたが、もう大丈夫です」

 

 全員の顔を見渡した後、ルイズは懐から杖を取り出し、構えた。そして、朗々と虚無のスペルを唱える。そうしてルイズが杖を振り下ろした瞬間、全員の脳裏に見覚えのない景色が浮かんだ。

 

 広大な草原の中、ぽつんと、寄り添うように立ち並ぶ円形の包。その中央、青い旗が翻る一番大きなテントの前に立つ、ふたりの男女。

 

「こ、これは……」

 

「前に話した『始祖』ブリミルと、初代ガンダールヴ・サーシャですわ」

 

「なんと……!」

 

 呆然と呟く枢機卿。

 

「あのお方が……『始祖』」

 

 着古したローブをまとう小柄な若者――ルイズに「ブリミル」と呼ばれた男は、傍らにいたエルフの娘に向かって何やら熱心に話しかけている。エルフの女は、垂れ気味の瞳に困惑の色を浮かべながら、ブリミルの言葉を聞いていた。

 

「このひとが、エルフ…… 想像していたのと違って、優しそうな顔をしているのね」

 

「何を言っているのカトレア! え、エルフを相手に、そんな……」

 

 立場上、妹を窘めたエレオノールも混乱していた。書物や伝承に残され「怨敵」「怪物」と呼ばれたかの種族は、笹穂のような耳以外は自分たちとさして変わらぬ姿をしており、彼女の中にある「怖ろしい」エルフ像とは、どうしても一致しなかった。

 

 それこそ、妹が言うように優しそうな面立ちをしているのだから、困惑するのも無理はない。

 

 脳裏に映し出された映像の中で、何やら話がついたのであろう。ブリミルはテント脇に立てかけられていた木の長杖を手に取った。節くれ立った杖の先端には、青い布が巻き付けられている。

 

「あれ? 前に見たのと違くないか? あの杖」

 

 そう呟いたのは、今回も同席している才人だった。

 

 一週間ほど前。エレオノールが継続していた調査によって、王宮の隠し通路のひとつが地下水道に繋がっていることが判明し……以後、彼は正門を通らずにこの隠し部屋を訪れることができるようになったのだが、それはさておき。

 

「なんか、微妙にタバサの杖と似てるなあ」

 

 タバサが愛用している長杖は、先端が鈎のように曲がっており、丁度その付け根あたりから十サントほど、別種の枝で接ぎ木をしたかのようになっている。今、参加者全員の脳裏に映し出されている杖は、その鈎爪部分を取り除いたモノとそっくりだった。

 

 そうこうしているうちに、ブリミルの正面にきらきらと輝く、鏡のような『門』が現れた。サーシャは肩をすくめると、その中へ飛び込んでいき、そして……。

 

「以上が、わたしたちが見たモノですわ。細かいところが微妙に違っていましたけど」

 

 呪文の効果が切れた後、ルイズは参加者たちに向け、そう語った。

 

 ――細部の違い。

 

 具体的に言えば、今回見た映像は「ルイズと才人がいない」ヴァリヤーグ撃退劇だった。そう、彼女がなんとなく予想していた通り、彼らふたりがいない状況で『扉』をくぐったサーシャは、雨の草原でひとり狼の群れを撃退した後、ブリミルと合流し――例の軍勢と一戦交えたのだ。

 

 結果こそほとんど同じだが、多くの民が傷つけられ、死人も出た。その中には、あのラグナル隊の者たちも含まれていた。

 

(あれが、本当の歴史……わたしたちが関わらなかった場合の、彼らの運命)

 

 〝記録〟は所詮、記憶を垣間見るモノ。過去を変える〝力〟など、なかったということだ。

 

 ある程度察していたとはいえ、その事実を空しく感じていたルイズに、才人が問いかける。

 

「それもそうだけどさ、前回と見え方が違ってたのはなんでだ? あの時は、その場にいるみたいな感じだったのに、今回は……なんか、窓から覗き込んでるみたいだったじゃねえか」

 

「たぶん、指定の方法が違っていたからだと思うわ」

 

「どゆこと?」

 

「あのね、詠唱していくうちに……頭の中に、呪文の効果が浮かび上がってきたの」

 

 ルイズは一息つくと、語り始めた。

 

 指定した物品に宿る、強き念。それらが、ずらりと長い廊下に取り付けられた窓のように並べられ、リスト化していた記憶の、ほんの少しだけ中を垣間見ることができたこと。

 

 ただし、見えたのはあくまで一部だけ。どうやらその品――今回は才人の左手に刻まれたルーンが作られてから現在に至るまでの記憶全てが刻まれているわけではなく、呪文の説明にあった通りの〝強き念〟が込められるような出来事だけが残されていること。

 

 そして、この呪文で選べるものは。

 

 どの『窓』を見るか。

 

 『窓』の外から眺めるか。『窓』の向こう側へ降り立つか。

 

 共に行く者の選定。誰を連れて行くか、どこまで見せるか。

 

 詠唱しながら、それらをひとつひとつ選択してゆくのだという。

 

「どうもね、記憶の中へ入るほうが、外から眺めるよりも多くの〝精神力〟を使うみたいなのよ。だから、この前わたしは倒れちゃったんだと思うわ」

 

 その説明を聞いていた一同も納得した。窓から外を眺めるのと、窓の外まで足を運ぶのでは、手間も段取りも、費やすエネルギーも全然違う。

 

 できるだけ〝精神力〟を節約しつつ、多くの参加者に〝記録〟を見せるために、ルイズなりに工夫した結果が「脳裏に映し出す」というものだったという訳だ。

 

(あれか、ビデオのチャプター選択みたいなもんかね)

 

 才人の他にも日本人がいたら、彼の意見に賛同しただろう。そのくらい的を射た表現だった。

 

 とまあ、そんな感じで納得していた才人以外の参加者たちはというと。

 

 ある者は床の上で苦悶の表情でのたうち回り、またある者は精根尽き果てた様相で、ソファーの背もたれに身体を預けている。居合わせた他の者たちも、彼、あるいは彼女らと似たようなものだ。地に伏せ、天を仰ぎ、悲嘆に暮れていた。

 

 その様を目にしたルイズは、涙目で声を荒げた。

 

「だから言ったじゃない! わたしたちは嘘なんかついてないって!!」

 

 六千年という長きにわたる『刷り込み』は、かくも罪深きものであったということだ。

 

 

●○

 

 ……それから十五分ほどして。

 

「と、とりあえず〝記録〟という魔法については理解したわい。今回見たものはいったん脇へ置いといて別の話をしたいのじゃが、構いませんかのう?」

 

 オスマン氏の提案に、サンドリオン王を始めとした参加者一同は、一も二もなく頷いた。最も頭の痛くなる問題を棚上げしたと言ってはいけない。

 

「実はな、ミス・タバサとミスタ・タイコーボーに対する礼というか、この〝記録〟という魔法を始めとする極めて重要な情報を開示してくれたことに対する対価をどうするか、決めておきたいのじゃが」

 

 その発言に頷きつつ、眉根を寄せる枢機卿。

 

「なるほど、何か申し入れがあったということですな?」

 

「左様。一応断りを入れておくが、わしも、ミスタ・タイコーボーもミス・タバサにルイズ王女殿下が〝虚無〟だと打ち明けてはおらん。じゃが、彼女がガリアで遭遇した事件を切欠にロマリアの教皇が担い手であると判明し……結果、自ら友人の系統に辿り着いてしまったのじゃ」

 

 そして、オスマン氏は参加者に説明を始める。

 

 タバサと太公望が、ロマリアに目をつけられた最大の理由を。

 

「やっぱり……ミス・タバサはオルレアン公の……」

 

「そういえば、姉さまは最初からご存じだったんですよね」

 

 ルイズの呟きに頷くエレオノール。

 

「今のおちびなら『ガリアの青』がどういう意味を持つか、わかるでしょう? 魔法学院へ使者として出向いたときのわたくしの気持ち、理解してもらえたかしら」

 

「ええ、とても……」

 

 ルイズは、それはもう色々な意味で顔色を変えた。実家から歓待の使者が来るのをすっかり忘れて友達と遊んでましたなどとは、口が裂けても言えない。

 

「ガリアって、トリステインの隣にある国でしたよね?」

 

 才人の脳裏に、ラグドリアン湖の風景が浮かび上がった。確かガリアは、あの湖を挟んで反対側にあるという話だったはずだ。

 

「その通りじゃ。どうもガリアの王都では、王家の血を引く名家の姫君が人間を使い魔にしたと、もっぱらの噂らしくてのう。それを知ったロマリアが探りを入れてきたと。まあ、そういうことでな」

 

 それを聞いたカリーヌ夫人は、目を細めた。

 

「結果的に、彼らが囮のような役割を果たしてくれていると。そう仰りたいのですね」

 

 ルイズと才人は息を飲んだ。

 

「ありていに言えば。実際、彼らがガリアという国において、相当な綱渡りをしているのは事実ですじゃ。陛下、並びに枢機卿猊下におかれましては、ミス・タバサ……いえ、大公姫殿下の苦境をご存じかと思われますが……」

 

「……」

 

「ど、どうしたんだよルイズ。俺たちの囮がヤバイのはわかるけどさ、もしかして、それ以外にもなんかあるんか?」

 

 困惑して周囲を見回す才人。全員が何かを察したのであろう、その表情は暗かった。

 

「誤解があってはいけませんからな。では、改めてわしの口から説明しましょう」

 

 そう断りを入れた後、オスマン氏は改めてタバサの身の上について参加者に話して聞かせた。

 

 タバサが、ガリアの王弟オルレアン公の忘れ形見であること。

 

 ガリアの王子たちが、王座を巡って対立していたこと。

 

 先代のガリア王が、遺言で兄のジョゼフを次の王に指名したこと。

 

 その直後に、弟シャルルが叛逆を企てたとして暗殺されたこと。

 

 それに伴い、オルレアン公家が王族の地位を剥奪されたこと。

 

 オルレアン公夫人が娘を庇って毒をあおり、心を病んだこと。

 

 そして、タバサ自身は厄介払いのようにトリステイン魔法学院へ留学させられたこと。

 

 母と己の命を守るため、彼女が王室から課された無理難題に応えていること。

 

「もしかして、師叔とタバサが国の仕事とか言って時々学院から抜け出してたのって……」

 

「その通りじゃ。ガリア王政府がミス・タバサを、言い方は最悪じゃが、そう……合法的に葬るために、並のメイジでは確実に命を落とすような討伐任務に就かせているという訳だ」

 

「なんだよ、それ……!」

 

 才人は以前、水精霊団の遠征と称して彼女たちの仕事に同乗し、ドラゴン退治に行ったことを思い出す。全長二十メイルを超える人食い火竜の姿は、思い出すだけで震えが来る。

 

 もしも、自分たちがついて行かなかったらどうなったのだろう。

 

(あのときは師叔がいたから、たぶん問題なくふたりで倒せてた。けど、タバサひとりで勝てるのか? あんな化け物相手に!?)

 

 即座に無理だと思った。組み手でさんざん対峙していた才人は、タバサの強さをある程度は理解している。けれど、タバサには太公望やカリンが持つような、圧倒的な攻撃力がない。

 

 事実、彼女の〝風〟では、あの堅い鱗にカスリ傷ひとつ付けられなかったので、皮翼の解体に回っていたのだし――第一、太公望が召喚されていなければ、宝探しへ行くこともなく、従って例の『如意羽衣』も使えなかった訳で、つまり、空から氷の矢を飛ばすなんて器用な真似も不可能。

 

 少なくとも、一対一で真正面から戦いを挑んでいたら……タバサは間違いなく死んでいた。それを悟った才人の頭に、カッと血が上る。

 

(ふざけんな! あんな小さな女の子に、なんて酷い真似しやがるんだよガリアって国は!)

 

 少年の内心が手に取るようにわかるオスマン氏は、さらに続けた。

 

「ミス・タバサは魔法学院の生徒で唯一『スクウェア』に届いておるメイジだ。じゃが、これでわかったと思う。彼女は皆が考えているような〝天才〟ではない。死と隣り合わせの境遇に身を起き続けているからこそ、あそこまでの腕を持つに至ったのじゃ」

 

「わ、わたし……そんなの、そんなの、知らなかった。だ、だから……」

 

 ルイズは、一年生の頃からタバサに憧れと嫉妬がない交ぜになったような感情を抱いていた。母と同じ『風』を冠する実力者。自分の系統を知るまでは「いつか彼女に追いつき、追い越したい」と、必死に努力し続けてきた。

 

 ところが、タバサは文字通り「死に物狂い」で腕を磨いていたのだ。比較するのもおこがましい程、自分は恵まれていたのだとルイズは悟る。それからすぐに、彼女の持つ美点のひとつ、正義感が首をもたげた。

 

「だ、ダメよ! そんななのに、わたしたちの代わりにロマリアの囮だなんて!!」

 

 ルイズの叫びに仰天する才人。

 

「な、なんだ? どうしたんだよルイズ!?」

 

「なんでわからないの! タバサとミスタは、わたしたちの隠し事に気付いて……わざと、自分たちが『担い手』みたいなフリをしてる! そういうことですよね、学院長!?」

 

 オスマン氏は口を噤んだまま、何も言わない。つまり、同意したも同然だ。

 

「ど、どうしてそこまで……まさか」

 

 そこまで言って、才人は気付いた。

 

「トリステインと、ロマリアが戦争にならないように……か?」

 

 オスマン氏は重々しく頷く。

 

「実際には、もっと大きなものを見ているようじゃがな。そこで、ふたりからルイズ王女殿下に対して、とある申し入れがあった」

 

 そして、氏は再び口を開く。

 

「もしも、ルイズ王女殿下が〝記録〟の魔法を身につけることに成功した場合……どうにか見せてほしい〝記憶〟があるそうじゃ」

 

 

●○

 

 ――その日、夜半過ぎ。

 

 国王の居室で、部屋の主とその妻が机を挟んで対峙していた。

 

「オスマン氏もひとが悪い。あんな言い方をされては、断れないではないか。実際、わしではもうルイズを止めることなどできぬであろう」

 

 そう言ってため息をついたのは、サンドリオン一世。

 

「ですが、断るつもりもないのでしょう?」

 

 王は、妻の言葉に頷いた。

 

「ああ。彼らには大きな大きな、返しきれない程の恩を受けている」

 

「ええ。ルイズにばかり負担をかけることが、気がかりといえば気がかりですが」

 

「確かにそうだが、状況次第ではルイズだけでなく……トリステインを守る切り札となりえるやもしれん」

 

「そうですわね、あなた」

 

 太公望とタバサが〝記録〟を垣間見たいと願ったもの。それは、ガリア王家に代々伝わる秘宝、始祖の香炉であった。

 

 普通に考えれば、ルイズが始祖の香炉に触れるのは不可能だ。ところが、彼らにはそれを持ち出す術があるという。

 

 〝精神力〟の問題があり、今回は始祖の祈祷書に〝記録〟をかける余裕がなかった。しかし、逆に考えれば〝精神力〟さえあれば、いつでも見られる。けれど、ジェームズ一世が持ち出してきた始祖のオルゴールや、ガリアの香炉はそうはいかない。貸してくれなどと口にしたが最後、何が起きるかは嫌というほど想像できる。

 

 今回の申し出は、まさに絶好の機会と言えるだろう。

 

 さらに、口にこそ出していないものの、サンドリオン一世は別の可能性も見い出していた。

 

 始祖の秘宝に宿る強烈な思念。太公望の狙いが香炉から呪文を引き出すことではなく、最近()()()()()()()()()()人物に当たりをつけるためだとしたら。そして、件の目標がサンドリオンの想像通りの相手だとしたら、ガリアに対する絶大な外交カードたり得るだろう。

 

 いっぽう、カリーヌ王妃は我が身の不明を嘆いていた。

 

「ええ、ええ……自分を守る手札があれば、それだけあの子の身は安全になるでしょう。『烈風』などという大層な二つ名を持ちながら、危うく愛娘を災厄の化身にするところだったわたくしなどよりも、ずっと」

 

「それに関しては、余も同罪だ。きみだけが罪の意識に苛まれる必要はない」

 

「あなた……」

 

 カリーヌ王妃は、机の上に置かれた一枚の羊皮紙に視線を移す。そこに書かれているのは、とある場所に関する調査報告だった。筆者はもちろん、マザリーニ枢機卿である。

 

 ――聖アルティエリ神学校。

 

 ロマリア皇都にあるこの神学校は、厳格な規律で生徒を縛り、ブリミル教徒としての教えを徹底的に叩き込まれることで有名な、牢獄とまで称される教育機関である。

 

 ハルケギニア中から魔法ができない貴族の子供たちが集められ、毎日地獄のように苦しい特訓を強いられるのだと噂されていた。

 

 ガリア・トリステイン・アルビオンの三王国及びロマリアに所属する貴族の家では、子供がわがままを言うと「聖アルティエリ神学校に入学させますよ!」などと怒られる程だ。

 

 なお、ゲルマニアの場合は「『烈風』カリンが罰を与えに来ますよ!」という叱り文句になるらしい……閑話休題。

 

 メイジは、個人差こそあれ十歳くらいまでには全ての汎用呪文を、出来が良ければ、さらに系統魔法のひとつ、ふたつくらいは習得しているのが一般的である。ところが、ルイズは十二歳を過ぎてもなお魔法を成功させることができないでいた。

 

 もしもトリステイン魔法学院でも手に負えなかった場合、カリーヌ夫人はこの神学校へルイズを留学させようと考えていた……のだが。

 

 王室の資料庫に残されていた過去二千五百年の記録によると、トリステインから聖アルティエリ神学校へ進学した子供のうち十三名が、在学中に行方不明になっていた。しかも、いなくなった者たちは全員、王家の血を濃く受け継いでいたのだ。

 

 情報がある今だからこそ想像できる。万が一にも末娘をロマリアに留学させていたら――家族に絶望した彼女は、己の価値を虚無の中に見出し……始祖と神の名の下に、世界に災厄をもたらしていたかもしれない。

 

「おお、始祖ブリミルよ。どうかわたくしたちの娘を、そしてこのハルケギニア世界をお守りくださいませ……」

 

 聖印を切り、祈りを捧げるヴァリエール夫妻。始祖と崇められる人物が、そんな大層な名を背負うには耐えられぬ程に小さく、顔に幼さすら残る若者だと知った今でも……願わずにいられなかった。

 

いつしか外の雪は止み、雲間から輝く星々が顔を覗かせていた――。

 

 

 




大変遅くなりまして、申し訳ございません。
にも関わらず相変わらずの説明回で本当に……。

活動報告に書いた通り、この部分ほぼカットで学院編を執筆していたのですが、説明を省いたせいでどん詰まりになり、結局何歩か戻って書き直した次第であります。

ところで、メモリアルブックに掲載されていた驚きの新事実。

・念力は、極めれば詠唱なしでイケる(できる人は少ない?)
・ロマリア、ガチで世界中から魔法のできない子供を集めていた
・子供の頃、ルイズはツインテだった

おお、もう……。


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