とあるティーガー整備生の恋 (mickey)
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とあるティーガー整備生の恋
黒森峰は日本一戦車道が盛んな高校だ。
戦車道というのは古くから強い女性を育むために日本各地で嗜まれてきた伝統的な武芸で……という一般教養は今はどうでもいい。
大事なのは、俺がこの黒森峰の工業科に通う一年生で、授業の一環として機甲科の生徒たちが取り扱う戦車の整備を担当しているということだ。
学園艦における高等教育は生徒の自主独立心を養うことが目的の一つである。
学生による自治というとざっくりとした言い方になるが、学校の運営から艦そのものの運用に至るまで、大部分を学生が担当し責任を持っているということになる。
戦車の整備も同様だ。
乗用車のように整備工場に預けてその辺の喫茶店で時間を潰していればいい、だなんてことはない。
日常的な運転に伴う細かなメンテナンスや乗員の癖に合わせた重心調整まで、全て生徒が担当する。
工業科はもっぱら設計やら溶接やらを学ぶ学科なのだが、そのカリキュラムの一つに整備があり、学園艦内の多種多様な乗り物を整備する傍ら、機甲科の連中が乗り回した戦車の面倒を見ているのだ。
放課後のガレージは人気が少ない。
戦車の前方にはライトが取り付けられているから日が暮れてしまってからも練習できないことはない。しかし、実際のところはその日の課題や提出せねばならないレポートが控えている学生がほとんどなので、この時間まで戦車を使っているような者はまずいない。
俺はこの静かな空間が好きだった。
黒森峰の戦車隊は規律正しく、私語を慎む隊員がほとんどなのだが、戦車の出し入れの際には否応なしに声が出る。四方八方で湧きだした指示は不協和音になって、たちまちガレージという密室に響いてしまう。
まだやることが残っているというのに、たまに俺はこのガレージへと足を伸ばしてしまう。
戦車は好きだ。
諸々の都合があって乗ることはできなかったものの、整備や修理という形で戦車と触れ合う機会が得られたことは喜ばしい。
普通の車と比べれば足は遅いし燃費は悪いし履帯は重いしで手がかかることこの上ないしろものだけれど、逆に言えば腕の振るい甲斐があるともいうことで、自分を試すことができるみたいで気に入っているのだ。
それに、ここに入学してから戦車が好きな理由が一つ増えた。
「逸見先輩」
「ん……? ああ、あなた」
後から声を掛けると、逸見先輩はティーガーⅠを撫でていた手を止めてこちらに振り返った。
逸見エリカ。
黒森峰機甲科の二年生で、学科こそ違うが自分の一つ上の先輩にあたる。
そして、この黒森峰戦車隊を率いる副隊長でもある。
「今日もここにいらしたんですね」
「……それはあなたも同じことでしょう」
「はは、そうですね」
どうぞ、と手に持っていた缶コーヒーを手渡す。
行き掛けに自動販売機で買ったもので一本百円のありふれたミルクコーヒーだ。
今の季節はよく冷える。
釣瓶落としのようにすとんと日が落ちた後は、バケツに入ったペンキをぶちまけたみたいに空の色が紅蓮から群青へと変わってしまう。伸びた影はあっという間に宵闇の中に吸い込まれてしまう。
夜風は分厚い鉄筋コンクリートに遮られてしまうから届かないけれど、それでもガレージの中はじっとしているだけだと身体が縮こまってしまうくらいには冷え込んだ。
缶コーヒーの粗熱は自販機からここに来るまでの間に適度に取れていた。逸見先輩は、微笑みを代価にしてそれを受け取った。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
俺が手元に残ったコーヒーのプルトップが引き起こすと、缶内に篭ったガスが吹き出した。同時に、出来合いのコーヒーとはいえ捨てたものではない芳醇な香りが辺りに漂った。
逸見先輩は、戦車のフェンダーに触れて冷えた手を缶コーヒーで温めていた。
コーヒーで喉を潤す俺と手の内のカイロを見比べて、逸見先輩は軽く首を傾げた。
「……まさかあなた、私がここにいると知っててコーヒーを二本買ってきたの?」
「博打でしたけど、予想を外しても持って帰ればいいだけですし」
「ええと、あなたは確か、一年生の……」
「アキラです。ティーガーⅡのメンテをさせてもらってます」
「そう、アキラさん。いつも世話になってるわ」
名前を覚えられていなかったことは少し寂しかったけれど、朧げながらでも自分の顔が先輩の記憶の片隅に引っかかっていたことに、俺は仄かな喜びを抱いた。
俺がガレージ通いを始めたのはこの人がいたからだ。
逸見先輩は――エリカさんは、この黒森峰で最強とも言うべきケーニヒスティーガーを隊長から任された、凄腕なのだ。最強というのは俺個人の物の見方なので、異論があるやつもいるだろうけどそれはさておく。
とまれかくまれ、エリカさんは俺のあこがれの先輩なのだ。
少々気性の荒い一面もあるけれど、言い換えればそれは勇猛果敢で恐れを知らないということでもあり、西住先輩に付いてひたすらに戦車道に邁進する職人気質ともいうべきその姿に心惹かれた。
特に、夏休みが明けてから先輩はがらりと変わった。
ハリネズミみたいに外に向いた棘がなくなったというか、人間として一回り成熟してきたというか、険が取れたというか……異なるものを受け入れる包容力を、感じるのだ。
エリカさんは時折ティーガーⅠ重戦車を愛でに、誰もいないガレージまでやってくる。
最初にそれを知ったのは忘れ物をとりにった際の偶然だったが、それ以降ガレージを訪れるようになったのはエリカさんに会えればという期待を込めてのことだった。
ううん……改めて言葉にしてみると、すっげえ気持ち悪いな……。
エリカさんはしばらく缶のぬくもりを味わっていたのだが、やがてそれを戦車の上に置くと、俺が来る前と同じようにしてティーガーを見つめ始めた。
俺なんか眼中にない。当たり前だ。
俺はただの工業科の生徒で、彼女の扱う戦車を整備する多数のスタッフの中に紛れた一年坊ってだけなんだから。
それでも、何故エリカさんが自らが乗り込むわけでもないティーガーⅠに思いを馳せるようにしているのかは、気になった。
黒森峰にはティーガーが二輌ある。
一輌は西住隊長が扱う『212』のナンバーが振られたティーガーなのだが、『217』のナンバーを持つもう一輌はずっとお蔵入りしている。
俺は当初、エリカさんがティーガーⅡからティーガーⅠに乗り換えをしたいと考えているのだろうかと予想した。
しかし何度か話をしていく内に、それが見当外れなのだということが分かってきた。
俺は戦車に乗ったことがないから分からないけれど、どうも戦車というのは同じ国、同じ系列のものでも乗り換えの際の慣熟訓練にはかなりの時間がかかるらしい。
一人で動かす車ならばともかく、戦車は複数人で足周りと砲塔周りの操作を受け持つ乗り物だ。
エリカさん個人の意思で、機種転換が決まるということではなかったのだ。
俺は好奇心を抑えきれずに尋ねた。
「……そのティーガー、使う予定ってあるんですか?」
「……まあ。今のところは、ないわ」
歯切れの悪い返事だった。
エリカさんは、俺を見ることなく、コーヒーを手に取ることもなく、『217』のティーガーを愛おしげに撫で続けている。
「このティーガーはね、みほのものなのよ」
「みほ?」
「ああ……一年生のあなたは会ったことないでしょうけど、隊長の妹さん。去年はここで副隊長をやっていて、このティーガーに乗ってたの」
俺は機甲科の内部事情なんて皆目知らない。
知っているのはエリカさんや今の代の機甲科がどんな戦車に乗っているかってことだけだ。去年までいた人のことなんて知る由もなかった。
「みほはね、凄腕だったわ」
「……逸見先輩よりも、ですか」
「それ、私に聞くの?」
「あっ……す、すみません!」
エリカさんは苦笑しながらも「いいのよ」と俺をフォローしてくれた。
不躾なことを言ってしまったのだという後悔でずきんと心臓が痛む。
みほさんとやらは、エリカさんにとって何だったのだろう。
「……もうここにはいないけれど、みほは私なんかよりもずっと副隊長向きだったわ」
エリカさんは、ぽつぽつとみほさんについて語り始めた。
西住みほという副隊長が如何に西住隊長の指揮を効率よく隊員に伝えていたか。
また一人の戦車乗りとして如何に優れていたか。
全国大会の決勝戦。それに夏の終わりに開かれた大学選抜チームとの試合で、みほさんが皆からどれほど慕われ、強敵難敵を打ち破り、そして交友を深めていったのか……。
みほさんの武勇を我が物のように喜んで語るエリカさんはどこか痛ましくて、俺は見ていられなくなった。
『エリカさんは遠く離れた学校へ転校してしまったみほさんを、今でも慕っているのではないか』と、気付いてしまったことが辛かった。
エリカさんの思い出話は俺を置き去りにして更なる広がりを見せていく。
反目していたみほさんとどのようにして互いを認め合ったのかを語るエリカさんの目は光り輝いている。
煤で薄汚れたランプの光が、エリカさんの瞳で何倍にも煌めいて黄金のような神々しさを醸し出していた。
聞かなければよかった。
あなたの心に、これほどまでに深く根を張っている女性がいるだなんて、知りたくなかった。
知らなければ苦しむこともなかった。
知らなければ、胸で疼く醜い嫉妬の炎を抑えようとして手を火傷するようなこともなかった。
「……みほさんって、逸見先輩にとって、とても大切な方なんですね」
やめろ、バカが!
何を聞いているんだ。
そんな、くだらない合いの手なんて入れるんじゃない。
「……ええ、そうね」
やめて。
エリカさん、言わないで。
お願いだから、もう、私に何も教えないで。
「みほは、きっと私にとって掛け替えのない人なのよ。多分」
西住隊長には敵わないけれど、とエリカさんは照れ臭そうにしながらこぼした。
俺は、私は、目の前がレッドアウトしそうなのを堪えながら、コーヒーの残ったスチール缶を握りしめていた。
「昔話なんて、退屈だったでしょう」
「あ……いえ、そんなこと、ないです。みほさんって、すごい人なんですね! 一度お会いしてみたいです」
「そのうち、練習試合でもする時にきっと会えるわよ。サインでも貰う?」
「あー……そう、ですね。もしよろしければ、逸見先輩から貰ってもらえますか?」
「じゃあ、そういうことで……あ、電話。ちょっと先に失礼するわね」
逸見先輩はジャケットのポケットから震えるスマートフォンを取り出すと、画面を見て僅かに口元をゆるめた。
軽く俺に会釈をして、逸見先輩は電話を耳に押し当てながらガレージの出口へと向かっていった。
蓋に手をかけられてすらいない缶コーヒーがティーガーの上に置き去りになっている。
俺は、慌てて声を掛けた。
「先輩! これ、このコーヒー」
「ああ、ごめんなさい! 悪いけど、あなたに返すわ」
戸締まりよろしくねアキラさん、とエリカさんは俺に言い残して、あっけなく姿を消してしまった。
がらんとした車庫で、俺は立ち尽くしている。
エリカさんから突き返された缶コーヒーを手にとった。
もう、まるで熱は残っていなくて、無骨なスチールが俺を嘲笑うかのように手を冷やしていった。
何がみほだ。
もう、ここにはいない女じゃないか。
隊長の妹さんだろうが、元先輩だろうが知ったことか。
今は俺の方がエリカさんの近くにいるのに。
近くに、いたのに。
腹いせにティーガーの転輪を蹴飛ばしたくなって、あいつの面影が残っているものなんて全部ぶっ壊してやりたくなって、それでも利き足は動かなくて、どうしようもない虚しさだけが残った。
なんてことはない。
結局のところ、エリカさんの心に入り込む余地なんてハナからなかったんだ。
俺は最初からありもしないチャンスを追いかけていたのだ。
「……馬鹿野郎」
口から漏れた汚言は締め切られたガレージでやたらと大きく響いた。
誰に向けた言葉なのか、もうよく分からない。
* * *
「おー、おかえりアキラ。どーだった?」
「……何も、なかった」
「え? 今日こそ逸見先輩に告るんじゃなかったん?」
「何もなかったって言ってる!」
「おー、こわこわ。じゃあ聞かないよ……と」
「……」
「……ほら、泣くなよ。泣くくらいなら愚痴っちゃいな」
「……俺、何か間違えてたのかな」
「んー……間違いって? 私はその場にいなかったんだから、あんたが逸見先輩と何話してたかなんて知らないよ」
「……先輩には、もう好きな人がいたんだ」
「あー……なるほど、そういう」
「俺なんか最初から出る幕なかったんだよ」
「まあ、そういうこともあるわな。あんたは悪くないよ。ただ、運が悪かったんだ」
「運?」
「巡り合わせって奴だよ」
「そんな、もんかな」
「それ以外何があるっていうの。あんた、いい娘だと思うよ。女の私からしてもさ」
「……ん、まあ、ありがとう」
「……初恋は実らないもの、なんていうもん。くよくよするなって」
「うるさい、うるさいよ……余計なこと、言わなくていい」
「ほら、アキラ! とっとと泣き止め! ずっとうじうじしてたら女らしくないぞ。ただでさえ、あんた俺っ娘なのにさ」
「うるさい、うるさい……ちょっと一人にしてくれ」
「はいはい……そのコーヒー貰ってくよ。どうせあんたは飲まないんでしょ?」
「……もってけ」
「ほいほい……っと。そんじゃ、これ飲みながらその辺ぶらぶらしてくるから、落ち着いた頃に戻ってくるよ」
「……ありがとう」
「気にすんなって……じゃあ、後でね。アキラちゃん」
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