扇谷秋子の追想録 (長谷川光)
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‶扇矢秋子‴
順天の変 ~響と足柄の見解~


登場人物の紹介
 響:日本海軍から満州海軍『北洋水師』へ派遣された軍事教官。
足柄:酌量の交換条件として日本海軍に入ったアングラの姐さん。

順天:東北軍閥の首領の長女であり、北洋水師の新しい旗艦。
養民:順天の異母妹であり姉と響を慕う少女、オーリャという愛称で呼ばれる。
海威:北洋水師を開設した日本人であり、元北洋水師旗艦。


略説
日本人に劣等感を抱く艦娘『順天』はある計画の密告を受けて、北洋水師の旗艦艦娘『海威』を監禁し旗艦の座を自らの物とした。
幸い、海威は自力で監禁場所から脱出し、響や足柄たちの活躍によって二人は一先ずの和解に至る。
これは、和解直後に起きたお話である。



「……ふぅ。やっと戻って来られた」

自室に戻ってきた響は、胸の内に溜まっていた空気を肺から吐き出すように呟いた。

入院前、資料を読み漁ったまま散らかしていた部屋だが、今は資料の山が場所ごとに作られている。

 

(……少し片付いてる。養民だろうな)

自分のことを慕ってくれている少女が、アタフタとしながら片づけている様子を想像すると、微笑ましさを感じた。

「よし……」

胸の内でその様なことを想いながら外着から楽な部屋着に着替えると、順天への報告書を翌朝までに書き上げてしまえと、疲れた体に気合いを入れる。

 

紙に向かっていると、色々と胸に込み上げてくるものがあった。

これまでと同じように作る報告書だが、これからは順天に渡すようになる。ただその一点からでさえ、ここ二週間で環境が急変したことを否応無く意識させられる。窓から差し込んだ強烈な光に、意識が紙面上から外れて屋外に向かう。

窓から覗けば、松花江の白波が哨戒艇の探照灯で暗闇の中に浮かび上がっていた。

『…………松花江』

彼らも順天の家族である郎党たちなのだろうか。江上の彼らには容赦なく冷たい風が吹き付けていることだろう。

感傷半ばに目の前に意識を戻す。

「…………さて、朝までには仕上げないとな……」

 

報告を書くという事は、今現在に至るまでの二週間を思い返すことになる。

響はいったん進めようとした筆を止めた。

水師営から離れていた最初の一週間と少しの日時、暗鬱と唯々時を過ごしていた病床に養民(オーリャ)が見舞いに来てくれた。一日に一回は顔を出してくれることが嬉しくて、特に注意しなかった。そう度々来てくれなくても良かったなどとは、口が裂けてもいえない。

その後、海威が見舞いを兼ねて近況を報告に訪れたが、もしかしたら自分と海威の密談に順天からは見えたのかもしれない。

やもすれば、彼女が水師営を離れていた隙に、順天は決起に至ったのではないだろうか。

 

「…………」

 

順天と海威、響は二人の軋轢を特に解消しようとは思わなかった。

響にとって、二人への責任を負いたくなかったからだ。一度の行動が、たった一言の言葉が、生み出す影響が自分一人だけで収拾がつかないということを身を以て知ったからだ。

 

けれど、と。彼女は思う。

(私は…少なくとも彼女たちをもう少し理解しようと努力してもいいんじゃないだろうか。)

 

筆先が止め、考え込んでいた彼女を現実に戻ったのは体が寒さを訴え指先が悴み始めたことによってだった。

 

「…………? …………雪か」

 

窓の外でしんしんと降る雪を見つめていた彼女は、海威がよく釣りをしながら朗々と吟じあげる詩を、そしてそれが歌われる光景が思い出された。

「そういえば、この辺りに……。」

不精で買い置きしたというのに未だ手を出していない本の存在を思い出した彼女は、目線を部屋に巡らせる。

「あった …………千山、鳥飛ぶこと絶え……」

五言絶句の日本語訳が書かれた、漢詩の入門書。

中国語に未だ不慣れな彼女にとって、日本語として咀嚼されたこの手の本はありがたい存在だった。

「…………寒江の雪……そうか……」

本には日本語訳として、こう充てられていた。

 

山という山から飛ぶ鳥の姿が絶え、

道という道から人の歩く足跡が消えた

小船の上では、蓑笠をかぶった老人が、

雪の降る寒い川で、たった一人で釣りをしている

 

続く作品説明が云うには以下のようだった。

この作品は作者、柳宗元が地方に左遷されていたときの作品と言われており、地方に左遷された作者の寂しさが伝わってきます。

この句は、五つに並んだ漢字が四つのブロックからなる五言絶句というスタイルをとっており、「絶」「滅」「雪」が韻を踏んでいます。

 

寂しさ、なのだろうか。響は疑念に思った。

釣り糸を垂らしながら詠う海威の心を殆ど表していないように感じた。少なくとも、海威は満州国に来たことを嘆いては居ないように感じているからだ。けれど、ならば彼女がこの詩に託した思いが何であるのかが分からない。

文学の教養の足りない自分が今ばかりは恨めしく感じながら、響は本を閉じた。

「…………」

この事ばかり考えていると、直ぐに朝を迎えてしまうだろう。

頭を彼女たちの事から、仕事、響が日本に協力して得てきた情報、そして行った活動についての報告書を認めることに専念させる。

 

紙の上をペン先が走る音だけが部屋に響く。

しばらくして、一人の足音が響の自室に近づいてきた。それは扉の前に来ると軽いノックに変わった。

「ん。ちょっと待って……」

それまでに書き終えた報告書を集めて角を揃えると、引き出しに仕舞いながら、響は外の来客に声を掛けた。

「どうぞ。鍵はかかってない」

云うやいなや遠慮なく足音の主が入ってくる。

「響ー、みっちーがひどーい。」

部屋に入ってきて開口一番にそのような事を宣う女性、足柄は何故かコップを片手に持っている。

「何をしようとしたんだ。まさかこの期に及んでまだ順天に茶々入れる気か?」

「え。入れないヨ。覗こうとしたけド。」

何でもないことのようにさらりと告白する足柄に、響が即座に返す。

「そいつは私も断固として阻止する。」

「ぇー。」

どこ吹く風の足柄の様子に、少し呆れながらもコップに気がついた響は空いているイスを示しながら立ち上がる。

「……ん、お茶でも淹れよう」

すっかりお茶を待つ姿勢になっている足柄に、思わず苦笑する。

棚の中で、養民のマグの隣に置かれている自らの茶入れを取り出すと暖炉にかけてある薬缶の中で沸き立つ湯を急須に注ぎ、ジャスミン茶を煮出すと、手早く二人分を用意した。

「……どうぞ」

「ありがト。」

 

向かい合って座る彼女らは、少なくとも響は、湯呑みに口を付けながら話題を探していた。

「……出雲のところはどうだ。上海は楽しいか」

そう、響が切り出した。

 

「スリルあっていいネ。この前も捕り物したシ。 あ、ボスも元気になったヨ。」

「そうか。戻ったらよろしく言っといてくれ」

「あいあイ。ちなみに戻れたら戻る気あるノ?」

「……私が上海にか?」

「そソ。」

「どうだろうな。ここへは出向辞令ひとつで飛ばされてきた身だが…」

「戻る気無いならそう伝えるしネ。」

「…もう随分、松花江の水に馴染んでしまった気がする」

 

戻る気がない癖にどこか言い訳がましい響の言葉に、足柄は『戻る』という議論を止め、別角度からつつき始める。

「もし今回の件、真っ当に収まらなかったらここに残って建て直すつもりだったでショ。」

足柄の言葉に、直ぐに言葉が返せなかった響は少しばかりの思案の後に口を開いた。

「……建て直せるかは別として、そうしようとしただろうな。実はね、出雲にも直接、『私がどうなろうと、しばらくはそっちで働け』と言われていたんだ」

「ふーン?」

「それからしばらくして、足柄と満潮が遣支艦隊所属になったと聞いた。出雲もそういうつもりだろう。……上海は、皆に任せるよ」

全く心残りが無いわけではなかった。

あの時迷惑をかけてしまった彼女(野分)とは以来会わず終いであり、出雲の名を少なからず汚してしまった事にもまだ凝りを残したままだった。

それでも、彼女にとっての居場所は数ヶ月で変わってしまった。

「ま、言うと思っタ。そう伝えておくネ。」

しかし一方で足柄の態度は軽い。

真っ当ではない感情を並人以上に知るからこそ、鬱屈した感情を放置した結果を知っている。

真っ当ではない感情を並人以上に知るからこそ、吐き出された感情に彼女は深入りしない。

そう感じさせるものがある足柄の様子に、響は言伝を頼む。

「……そうだな。伝えておいてくれ。当面の間、こっちで働くと」

「あいあイ。」

 

温くなった茶に喉を湿らせる足柄を見つめながら、響は彼女に聞いてみようとしていたことを切り出す。

「……そういえば」

「何かナ」

「足柄に会ってから、ずっと順天に引き合わせたいと思っていたんだった」

「うン?」

怪訝そうに相槌を打つ相手に、響は尋ねる。

「足柄から見て、順天の生き方はどう見える?」

差ほど悩むまでもなく、あっさりと足柄は答えた。

「面倒くさい生き方よネ。」

「……やっぱりそうか」

想定していた答えであるし、響から見た順天の像も煎じ詰めればそこに至るだろう。

「まーでモ。良いんじゃないノ?その面倒くさいのでも良いっていってくれソなの居るシ。」

趙という幼なじみとの言動や、順天をお嬢様と呼ぶ郎党たちの姿。そして妹の養民という存在。

「その通り。順天には、彼女のことを慕う……順天のことを、心の底から大切に思ってくれる人が大勢いる」

「そーネ。」

「足柄は、そういう生き方を……その。……嫌な言い方になってしまうな……こほん。前置きするが、私は足柄の身軽さを美徳だと思ってる」

「正直に言っても良いヨ?」

「つまりだ……。足柄は、自ら孤高の生き方を選んでいるようだけど、順天みたいな生き方に憧れたりはしないのかなって」

「ンー、ああいう生き方もありだと思うけどネ。合わないヨ。」

苦笑しながら足柄は答えたが、響は神妙な表情に変わる。

「……そう言うと思って、ひとつ警告を用意してある。」

一呼吸の間を空けて、告げる。

「出雲の下にいるとその内、重たいものが背中に引っ被さってくるかもしれない」

「そうかナ?」

「多分ね。そして足柄自身も……誰かの背中に引っ被さることになる」

「そう思うのはそいつの勝手だしネ。」

きっぱりと言い切り取り付く島のない様子に、響は息をつく。

「……ま、これは失敗したパターンの経験者の談だ。聞き流しておいてくれ。足柄なら上手くやるだろう」

「そうそう、適当に上手くやるヨ。適当にしか出来ないかもだけドネー」

そんな響の様子を特に気にすることもない足柄は、軽く答える。

「それでいいさ。無理して自由に拘り過ぎると、自由は悪い方向へ逃げていくだろうから……」

「それはどっちでも同じだと思うけどネ。順天ちゃんとカ。」

「それはまぁ……順天なんか、ちょっと雁字搦めが酷いからな」

「ま、順天ちゃンは可愛い拗らせ方だったけどサ。もっと酷いのも居るわけだシ。」

「……彼女の場合、そう遠くない内に養民が荷物を半分こし合えるようになる」

「う、うン」

 

響の言葉に、大きな異議を感じたものの突っ込まないでいいやと思った足柄は詰まりながらも適当に相槌を打つ。

 

「そうなれば……もっと多くのものを守れるようになる。彼女たちも、この北洋水師も」

「そうなってくれるといいネ。順天ちゃンも良い失敗ノシ方したしネ」

 

旗艦海威への謀反。それは海威の背後に控える関東軍への抵抗だった。

本来ならば更に大事になっていただろうが、被害者である海威と石原莞爾の機転によって何事も起こっていないという建前が作られていた。

ことで内密に事は終わった。

大人たちに守られていたからこそ良い失敗が出来た事を考えれば、新しく旗艦となる順天の道は険しいものだろう。

 

「おかげで、新たな問題が山積みだけどね……」

「国のために何しても良いと思ってるのとは大違いだシ。」

「……ん。いつか破裂する爆弾だったと思えば、確かに。今この時、この形で収まって良かったかな。こんな爆弾が、大陸にいくつも埋まってると思うと……先は長い。誰が撒いたのやら……」

「誰もがばらまいてるんだともうけどネ。」

溜息を吐きながらボヤけば、返答は容赦がない。

「うーん……。トクサの仕事が減る日は当分来そうにないな」

「退屈しなくて良いヨ ……さって、そろそろ部屋に戻るかナ。みっちー待たせちゃってるシ。」

「分かった。……このまま降り続けば静かな夜になるだろう。くれぐれも順天や満潮の安眠の邪魔をするなよ」

「あいあイ。」

「……おやすみ、足柄」

手をひらひら振って部屋から出た足柄の背に、響は声をかけて扉を閉めた。

 

夜遅くに随分と喋ったものだと、微苦笑しながら一つ伸びをしながら片づけをする。

すっかり冷たくなったお茶を片手に、再び机に向かう。

 

(……さて、早いとこ仕上げて寝よう)

 

 

彼女が来る前と同じ物静かな部屋の中にペン先が紙を引っ掻く音ばかりが響いた。

 

 




扇矢萩子の捜査録の本編、[憎悪の殻<後>]と[冷泉研究員]の間に起きていた二人の会話です

前後の詳細(ある計画や、和解に至るまでの経緯)は本編を読んでね!


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二人の絆

ある男が居た。

その頃の彼は海軍中佐へと進んだばかりで、海軍の重責を十分に担い始めていた彼は後に歴史を大きく改変する力を蓄えることになるが、その頃はただの海軍軍人であった。

既に年は壮年と呼ばれる年になっていたが、妻帯しておらず彼の友人たちをヤキモキさせていた。一方で、男の本心を知る親友たちは苦笑ばかりしているのだが。

 

そんな彼が上気したように、ただ一人の女を熱心に口説いている。

何度も、何度も飽きることなく。

手を変え品を変え、事ある毎に口説こうとしていた。

 

周りからみれば、普段はお堅い男が女に執心しているようにしか見えない。

その様子を見てアイツもついに本気になる女ができたのかと揶揄い、笑い飛ばしていたのだが。

 

しかし、二人の間にはそのような艶めいた雰囲気は皆無であった。

 

「ですから、残念ながらお答えする気持ちは毛頭もございません」

そう、釣れなく返答する女を男は仏頂面で睨む。

「悪くない話だと思うのだが」

低く底冷えした声で、それでも女に縋る男。

「申し訳ありません」

容赦なく叩き切る女。

それらは二人の間ではすでに、ルーチン化したストーリーと成りつつあった。

 

女について語ろう。

その女は艦娘という存在だ。

艦娘とは、深海棲艦と呼ばれる突如として人類への敵対勢力として降って沸いた存在に対抗する半ば兵器として扱われる存在である。

帝国海軍では彼女たちは士官並みの扱いを受けており、男の立場とは形式的にはほぼ同格。しかし、実際の処は海軍士官の方が艦娘よりも上位に立つ場合が殆どである。

 

にも関わらず、女はにべもない。

いや、男が彼でなく他の士官や将官であれば態度も違ったのであろう。

二人は共にとある事案を上層部からの圧力にめげることなく完遂した戦友であり、心置けない友人であると双方が認めているからこその態度なのだ。

 

男女は今、佐世保鎮守府という帝国海軍が内地で持つ西方の一大拠点に軍命の下に籍を置いている。

女は次の作戦で南方戦線に向かうことが内々に打診されており、艦娘としての役割を遂行するためにこれに従おうとしている。

一方で男は、自らがこれから組織しようと考えている『チーム』に女を参加させるために、艦娘ではなく士官としての道を進んでくれと頼んでいた。

 

艦娘は士官としての道を用意されることは滅多にない、滅多に無いのだが過去に事例が全くないのかといえば一、二件ほど存在した。逆は皆無であるのだが。

 

とは云え、女性海軍士官とは海軍軍属まで含めて1%程度のレアケース。

その様な立場になりたくないと、女は主張する。

 

男は説得を一時的に諦めた、あくまでも一時的であり気が向いたなら来てくれと続けることを忘れなかった。

そんな男に、苦笑してみせながら女は答えた。

「もし、気が回ったらね」

それが彼との友誼のために彼女が示しうる、最大限の社交辞令だった。

 

 

 

それから幾つもの満ちた月が闇を照らした

 

男は海軍大佐に就任し、海軍省第一局の局長としての立場にまで出世していた。

そして、念願の『チーム』を組織し、優秀な人材をかき集めていた。

『チーム』の仕事は、地味ながら軍内部に確かな影響力を確立しつつあった。

そんな中、男の下に衝撃的な事実が入ってきた。

『女が死亡した可能性有』と。

 

直ちにその懸案の詳細を調べ上げようとした男の下に、遅れて一通の手紙が送られてくる。

 

それは女から、男に『チーム』への合流を打診したものであり、また自らの痕跡をカヴァーストーリーで包み隠して欲しいという依頼でもあった。

 

男は『チーム』への合流は唯々一時的に自らの力を、女が利用したいが為の方便だと理解していた。

しかし彼は女を受け入れた。

文面には表れていないものの、手紙に現れる文字から漏れ出してくる彼女の暗い感情を認めてしまった彼に女を捨ておくという選択肢は取れなかった。

 

カヴァーストーリーを用意し、元から士官として海軍に存在していたかのように彼女の経歴を作った。

 

それらは全て、女の暗い感情の原因を読み取るため。

そして、もし『万が一』があれば自らの職務にかけて彼女の暴走を食い止めるため、そして最悪の事態に陥ったならば自らが彼女を裁くために。

 



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