二人の話 (属物)
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第一章、二人が出会う話
第一話、正太と蓮乃が出会う話(その一)


 空はよく晴れている。

 気持ちのよい五月の空だ。まだ梅雨は遠く、空は抜けるような青色。頬を撫でる風は柔らかで、新緑の香りが鼻孔をくすぐる。入学、入社に花見に飲み会と、浮き足だった気持ちも落ち着き、仕事に学業にと皆本格的に身を入れ始めるころだ。

 

 それに反して、帰宅途中の”宇城正太”の気分は陰鬱に沈んでいた。さほど中身が入っていないはずの鞄がやけに重く感じ、背中がだんだんと丸まってゆく。おかげでただでさえ宜しくない顔が、不細工当社比五割り増しである。睨み付けるに適当な細い三白眼は地面に視線を這いずりまわせ、形の悪いタラコ唇からは泥のようなため息が漏れる。

 別段、五月病と言うわけではない。そもそも、五月病にかかるほど全力投球の春を過ごした覚えはない。それに、小学校の頃からこの陰鬱な気持ちは相変わらずだ。理由は簡単。

 

 友人が、学校で何かを話せる人間が、一人もいないのだ。

 

 誰かから虐められているわけではない。単につきあいがないだけだ。何か話すべき事柄があるならば、事務的ながらもしゃべりもする。だが、クラスメイトにとって彼は、単なる風景の一部と同じだ。ゲームの一枚絵で後ろにいる顔のないモブと何一つ違わない。

 

 一人で登校し、

 一人で授業の準備をし、

 一人で休み時間を過ごし、

 一人で昼飯を食べ、

 一人で下校して、

 一人で放課後を過ごす。

 

 これが宇城正太の基本的な一日である。授業を受けるのは除くとしても、基本的に一人である。

 

 正太に特徴がないわけではない。右手首を見れば正太が「特殊」な人間であるとた大抵の人はわかるだろう。だが、彼と同様の「特徴」を持ち、正太よりも優れた外観・社交性・運動能力・背景そのほかを持つ人間が複数いる現状では、とてもじゃないが、彼にスポットライトが当たることはない。

 その上、とある事情で話し下手な正太は事務的な話ならともかく、それ以外の雑談では、話が一分以上続いたことが希だ。そんなだから誰からも相手にされなくなる。

 おかげで背景化はさらに進み、もはやクラスメイトからは動く書き割りの扱いである。

 

 虐められていないだけ、完全に無視されないだけ、まだましな方だ。いつも自身にそう言い聞かせて、正太は学校生活をやり過ごしていた。

 今日もそうやって一日を過ごし、唯一安らげる場所である我が家へと、ため息を吐きながらの帰宅の真っ最中である。

 

 正太は軽く頭を降って陰鬱な思考を追い出すと、大きく息を吸って深呼吸をした。若葉の匂いがしそうな五月の空気が胸一杯に広がる。ついで空を見上げれば、綿雲が点々と浮かぶ気持ちのいい青空だ。

 

 そうだ、家に帰ったら居間でひなたぼっこをしながら、お気に入りの本を読もう。そのまま昼寝をしてしまうのもいいかもしれない。ちょうど、今帰宅したところで誰も家にはいない。父は仕事、母はパートタイム、妹は部活。家にいるのは、五匹のメダカと観葉植物だけである。少々自堕落なことをしても咎める人間はいないのだ。

 平日夕方の過ごしかたを考えながら、正太は先ほどよりも軽くなった足取りで帰路を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 自宅のドアノブを回して、玄関へ足を踏み入れる。玄関先には、いつも通り家族の靴は一つもない。これから数時間は、我が家である間島アパート一〇三号室には自分一人だ。いつものように帰宅の挨拶が口をついて出る。

 

 「ただいま~」

 

 家に誰もいない以上、当然ながら返答の声はない。廊下の奥の居間を見ても、誰の姿もありはしない。当人も返答を求めて言ったわけではない。ただの習慣である。

 踵を擦り合わせるようにして靴を脱ぐ。みっともない上靴を傷めるから母や妹にやめるよう注意されているが、誰もいないこの時間くらいは別にいいだろう。

 

 足で投げるように靴を脱いで、左手側の子供部屋へと直行する。鞄をベッドに投げ置いて、制服から普段着に着替え、ようやく正太は一息をついた。

 慣れたといえども制服は少し苦しい。特に腹の出ている自分にとって、ベルト必須の制服はきついものがある。このダボダボした、特に腹周りの緩い普段着に着替えると、家に帰ったという実感を強く感じる。

 大きく伸びをして、辛い学校生活で強ばった体をほぐした。毎日毎日縮こまっているせいで、どうにもこうにも体が堅くなりがちだ。上半身を大ききよじると、背骨が軽快な音を立てる。こうして一通り体をほぐしたら、これからはお楽しみの時間である。

 

 正太は趣味の本を集めた本棚を眺めて、これから数時間つきあう小説を選び出す。

 いつものSFもいいし、さっくりとライトノベルを楽しむのも悪くない。じっくりとハイファンタジーを読み込むもよし。たまには趣向を変えて、現代文学を味わってみるのもいいだろう。

 右へ左へ目移りを繰り返しながらタイトルを追うと、東南アジアの曼荼羅のような背表紙が目に留まった。それは「薙刀使いが主人公の和風ファンタジーシリーズ」の児童文学だった。

 ファンタジーというと大半の作品が中世ヨーロッパの中で、東アジアの幻想世界を元としたこの作品は非常に新鮮で、思わず少ない小遣いをはたいて、シリーズ全部をまとめ買いしてしまったものだ。しかも、買うときに一般書籍のコーナーを探し回っていたせいで、見つけるまで二時間近くかかってしまった覚えがある。もっとも、その内一時間は、目に留まった作品の立ち読みに費やされたのだが。

 

 ――そうだ、児童文学もありだな。今日はそれにしよう。

 

 胸の内でそう決めるが早いが、さっき見つけた和風ファンタジーシリーズに加え、ついでに手近な所にあった児童文学の分厚いハードカバーを手にとり、小脇に抱える。いざ鎌倉ならぬ、いざ居間へと体重に反して軽い足取りで、暖かな五月の陽光に照らされた、食堂をかねる居間へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 宇城家は四人家族であり、あとはメダカが五匹と観葉植物があるだけである。そして今の時間帯は自分を除く家族三人が、それぞれの用事で外へ出ているはずだ。

 正太は現状について自問自答した。別にどこもおかしくはない。いつものとおりなら、それで間違いはないはずだ。

 

 では、居間のテレビと低い机の正面にあるソファーの、その端からニョッキリと突き出た、生っ白いふくらはぎは一体全体誰のものだろう。

 そのふくらはぎは高級な白魚を感じさせる真珠色に照り、ハウス栽培の白ネギの様に形よく細く、それでいて国産地鶏のもも肉めいてしなやかな弾力を感じさせる。おそらく人間のふくらはぎなのに、えらく美味しそうに見える。きっとさっぱりとした淡泊な味わいと、顎に心地よい素敵な歯ごたえをしていることだろう。

 

 我が家に居る以上このふくらはぎは我が家の者に違いない。まずこれを前提とする。

 宇城家においてふくらはぎを持つのは正太を含む、家族四人である。よって観葉植物とメダカ五匹は容疑からはずれる。

 続いて父のふくらはぎならば、すね毛が充分以上にあるはずであり、目の前に見える白くてスベスベしたふくらはぎとは、全くの別物であることがわかる。

 同様に、目の前に見えるふくらはぎにはたるみが全くなく、同時にしなやかな弾力を感じさせることから、母のふくらはぎでないこともわかる。

 となれば残るは、自分か妹のふくらはぎということになり、自分はここにいる以上、妹のふくらはぎ以外あり得ないということになる。

 

 つまり、あのソファーには我が妹である宇城清子が、ぐーすかと寝転がっているはずなのだ。

 しかし、いつもに比べて妙に帰るのが早い。今日はクラブに行かずに直で帰ってきたのだろうか。それにしても早い。小学校は中学校より早く授業が終わるんだったっけ。

 無駄に洗練された無駄な思考を無駄に回転させながら、早帰りをした妹の寝顔を覗いてやろうと、正太はソファーへと近づいた。

 

 そしてソファーをのぞき込むと、目を四、五回瞬かせ、さらに三回目をこすった。

 

 目の前にあるのは、まるで液体の黒曜石のように広がる黒い長髪。黒い絹のような髪は、指の間から流れ落ちそうなほど滑らかで軽い。

 髪の下の肌は、夜の間に深々と降りつもった深雪か、夜の天の河に似た白である。しかも、陶磁器や大理石を思わせる硬質な滑らかさを帯びながら、その奥に生命の桜色と柔らかな弾力を帯びている。

 紅梅花のような唇は、薄いながらも朱を塗ったように赤く、肌の白の中で寒椿の如く、凛と浮き立つ。その様は、幽玄のように幻想的な美を感じさせる。

 瞳は閉じられて様とは知れぬものの、長く柔らかに伸びた睫と、白紙に引いた墨一線のような切れ長の瞼が、開いたときの麗しさを伝えている。

 顔の各品は、最初からそう考えて作られたとしか、言いようのない配置に収まり、その姿の幼さ・肌の白・唇の赤を併せて、人形にも似た非人間的な美しさを表している。だが、肌の奥の薄桃色が、唇の間から漏れる吐息が、それが完成しきって凍り付いた美へ、生命の熱を与えている。

 

 詰まるところ、目の前のソファーには、幼いながらもとんでもない美人さんが、すやすやと気持ちよさそうに寝ているのである。

 

 正太は無駄に洗練された無駄な思考を先ほどよりも無駄に高速で回転させる。

 問題はこの娘さんが、自分の妹とは似ても似つかないことだ。何せ妹は、とても悲しいことに自分と似た顔をしている。つまりはお世辞にも、美人とか美しいとかそういう形容詞を使える顔ではない、と言うことだ。もし使いたいなら、その前に「不」「非」だの否定語をしっかりつける必要があるだろう。

 

 先の思考より、我が家の人間ならば、ここに寝転がっているのは妹でなければならない。しかし、ここに寝転がっているのは、どうみても妹ではない。

 つまり、ここに寝転がっているのは、我が家とは何の関係もない誰とも知らない誰かさんである。

 

 ――どこのどいつだこの美人さんは!? 



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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その二)

 正太の目の前では、一人の女の子が死んだように眠っている。とりあえず、口周りの髪が呼吸にあわせて揺れていることから、死んでいるわけではなさそうだ。美睡とでも言うのだろうか。女の子は五月の薫風を浴びて、心地よい眠りに浸っている。

 正太は持ってきた小説を机の上に放り出すと、テレビの側から改めて、ソファーの上の顔をじっくり眺める。だが、その容貌は記憶にいっさい引っかからない。ただただ、すさまじい美人だとわかるだけである。

 見た感じは、正太の妹より年下の小学校三~四年生くらいだろう。その年で、顔の印象が「かわいい」より「美しい」と出てくるあたり、何とも末恐ろしいものがある。自分と同じ人類とは考えづらいほどの美貌である。格好は肩を覆った若草色のワンピースだけで、アクセサリーの一つもないが、その麗しさに一切の不備はない。むしろ、下手なアクセサリーなど、彼女の優美を損なうだけだろう。

 

 しかし、一体どうやって我が家に入り込んだのだろう。正太が疑問を感じながらぐるりと周囲を見渡すと、庭に面した窓が子供一人分くらい開いているのが見えた。しかもその周りには、見覚えのない子供靴が脱ぎ散らかされている。

 

 ――あれだ。母さん、居間の窓締め忘れたっぽい

 

 このアパートの宇城家のある一〇三号室は、一階の庭付きである。そのため庭を囲う垣根を越えさえすれば、庭の側から簡単に進入できるのだ。

 おそらくこの女の子は窓が開いているのに気づいて、ちょっとした冒険のつもりで入ってきたのだろう。そしてテレビ正面のちょうど日向になったソファーを見つけ、五月の陽気に誘われてちょいと昼寝と洒落込んだ。そして、帰宅した正太に発見されたというわけだ。

 渋柿を口一杯に頬張ったような顔をした正太は、深いため息をついて呟いた。

 

 「どーしたもんかね」

 

 しかし、ぼやいたところでどうにかなるものでもない。となれば、どうにかするためにも、とりあえず女の子と事情を話すほかはないだろう。

 

 正太はそこまで考えると

 息を吸い込み、

 口を開いて、

 言葉に詰まった。

 

 正太の声帯を急停止させたのは、持病に等しいコミュニケーション障害だった。正太は他人と話すとき、十分に覚悟を決め会話だけに集中して、ようやく実務的な話ができる。昔色々あってそうでもしないと、他人とまともに話せなくなってしまったのだ。だが、今回は急な事態が続いたせいか、初対面の人間と話そうとしているにも関わらず、そのことが頭からすっぽりと抜けていた。

 これは拙いと考えるものの、頭の中はあっという間に漂白され、まともな思考は遙か彼方へ飛び去ってしまう。ただ頭の中で「何を?」という言葉だけが、ねずみ車のように空回る。焦りが焦りを呼び、何かを言おうと口を開くものの、視線はカーテンレールの辺りをさまよい、声にならない唸り声ばかりが口から漏れていた。思考は白一色に染まり、「何を?」という言葉と「まずい」という感情だけが、沸騰したお湯のようにブクブクと沸き立っている。

 きっとこの時、正太の顔色を見ている人間がいれば、ずいぶんと笑えるものを見れたに違いない。何せ、人間の顔が赤、青、白、そして土気色へと変色する所など、そうはお目にかかれない。宴会に出れば大盛り上がり間違いなしの百面相だ。無論、出る予定の宴会などどこにもないが。

 

 「んーーんぅーー」

 

 そして正太の頭の中が混乱と混沌でグツグツに煮詰められている一方、ソファーで寝こけている女の子が、悩ましい声で寝言を呟いた。いや、寝言ではない。彼女の瞼がゆっくりとではあるが、見開かれていく。

 その僅かに開いた瞼の隙間からは、濡れた烏羽玉の瞳が覗いている。寝起きのためか、その目は僅かに開くばかりで、視線は未だ夢の世界に焦点を合わせていた。

 さらに彼女は、半ば寝ぼけた視線で周囲を見渡すと、他人の家だというのに何の慎みも感じさせない自然な様子で、気持ちよさそうな大欠伸をした。口を限界まで大きく開けて欠伸をする様は、よく実って裂けたザクロを思わせる。

 

 「いぃぃぃっなぁぁぁぁっ」

 

 そして寝起きの犬と同じ声が、喉の辺りから漏れる。彼女は緩やかに身を起こし、起きたばかりの猫と同じようにしなやかな伸びをした。同時にパキパキと背筋の間接一つ一つが伸びる音が響き、髪が彼女を薄衣の柔らかさで覆った。

 

 ここまで来て、ようやく正太は再起動を果たした。正太のさほど性能が高くない脳味噌が、とりあえず現状に対処するため、無限ループを一時中断したのだ。

 煮えたぎっていた頭は、知恵熱でも起こしそうなくらいに熱くなっている。正太は強く頭を振って熱を振り払い、焦燥感と疑問の残滓をはじき出す。そして目の前の問題、すなわち「何処の誰とも知れない美人の女の子」に向き直った。

 

 

 

 

 

 

 「君は何処の誰さんですか? 名前を教えてください」

 

 正太はまず質問をすることにした。

 知らない人が家にいたらまず一一〇番をすべきだろうが、知らない子供ならばこう聞くのが道理だろう。だが女の子は右へ左へと、視線をふらつかせるだけで反応はない。話を聞く気がないのだろうか? 

 

 「あなたは誰ですか?」

 

 先ほどより強い様子で質問する。が、やはりこちらの言葉を聞いている様子はない。視線が虚空をさまよっている。どうやら未だ夢の国から帰ってきていないらしい。

 

 「あなた様はどちら様でしょうか?」

 

 皮肉と苛つきを少々こめた三度目の質問。ようやく寝ぼけ眼の女の子は夢の国から帰ってきたらしく、こちらに視線を向けた。

 彼女は黒真珠の目をパチクリと瞬かせる。その目には疑問がありありと浮かんでおり、とてもじゃないが現状を理解しているように見えない。

 

 ――外見がいいからって何でも許されるわけでもねぇぞコラ

 

 「おまえ、誰だ?」

 

 はっきりとした苛立ちを込めて、正太は叩きつけるように四度目の問いをぶつける。その声音に驚いたのか、女の子はビクリと体をふるわせると、慌てた様子でソファーの前の低い机に手を伸ばした。改めて見てみると、机の上にはウサギを模したポシェットがポツンと置いてある。サイズはB四の用紙程度で、色は実験動物のウサギを思わせる白だ。

 彼女はそれを手に取ると、その中から小振りなノートを取りだした。ピンク色の表紙とページを強化紙のリングでまとめてある、そこらの文具屋で売っているような特徴のない代物だ。唯一の特徴として表紙には、おそらくは彼女の母親が書いたのだろう、「お話」と流麗な丸文字のタイトルがあった。

 

 正太の顔に何とも表現しがたい表情が浮かぶ。無理矢理に表現するなら、「トーストにジャムのつもりで塗ったのが味噌で、しかも口一杯に頬張ってからそれにようやく気付いた」ような顔だ。

 確かにこのくらいの女の子は、自分で創作したお話を書くことも、それを親しい相手に見せることもあるだろう。しかし、他人の家に侵入した後、その家人にそれを見せても悪い効果しかない気がするのだが。

 

 非常に複雑な顔をして固まる正太に、彼女はノートの表紙を開いて見せた。そこには表紙と同じ筆跡で、こんなことが書かれていた。

 

 『私の名前は”向井 蓮乃”といいます。

 私は人の言葉を聞いたり喋ったりすることができません。

 何かお話がある場合は、このノートに書いて伝えてください。

 私のお家は、K県Y市実木区戸小三〇三ー二間島アパート一〇四号室です。

 私のお母さんの電話番号は、〇九〇―*$%―YZABCです』

 

 正太の表情がさらに形容しがたいものに変わった。先ほど同様に表現するなら「味噌が入っているはずのジャム瓶のラベルを見直したら、茶色絵の具と書いてあった」と言った所だろう。

 予想を右斜め四五度で綺麗にかわす現実を見せられて、正太は唸った。

 

 「う~~む。どーしたもんかね、これ」



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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その三)

 額を押さえ頭を抱える正太の前で、女の子(表記の通りなら向井蓮乃)は、何というか、よく言えば自信に満ちあふれた、「してやったり」といわんばかりの笑みを浮かべている。俗に言うドヤ顔である。

 その顔を見ていると、何だか怒ることすらバカバカしくなってくる。正太の脳裏に、ネズミの死体を枕元に置いて、自慢げに鳴く猫の姿が浮かび、呆れのこもったため息がもれた。

 住所の表記を見るに、どうやら隣の部屋の住人らしい。最近越してきたことは知っていたが、子供がいるとは知らなかった。

 正太は向井蓮乃の手からノートを取り、手近なとこに置いてあったボールペンで確認のための質問を書いた。

 

 『君の名前は向井蓮乃で、隣の一〇四号室から来た?』

 

 その文を見た向井蓮乃は、首を大きく縦に振った。とりあえず、筆談なら話が通じるらしい。ひとまずはそれがわかっただけでも行幸である。さらに幸いなことに、一般的なものなら漢字も読めるようだ。ひらがなオンリーの文章は、書く側読む側ともに辛い。

 向井蓮乃の行動を確認した正太は、続けて机の上のノートにぺンを走らせた。おそらく、庭の垣根を乗り越えて開いている窓から入ったのだろうが、確認はしなければなるまい。

 

 『どうやって部屋に入ったの?』

 

 それに対する回答として、蓮乃は正太の手からノートを取ると、有名なネズミのシルエットのペンを、ウサギ型ポーチから取り出し、さらさらと一文を書いた。

 

 『窓が開いてたから植木の間を通ってきたの』

 

 自分が求める回答から微妙にズレているような気もするが、とりあえずの答えは得られたようだ。この子は読むだけではなく、難しい漢字を書くことも出来るらしい。漢字書取テストの成績の悪い自分には、実に羨ましい限りだ。

 さて次に問題になるのは、「この子をどうするか」ということである。「他人の家の娘さんを善意で預かっていました。勝手に」なんて話は、ミレニアム前ならいざ知らず、二〇五〇年代現在では「豚が空を飛んでいます」くらいの説得力しかない。当然すべきことは、ノートに書いてある電話番号に連絡を入れることだろう。お隣さんは日中仕事らしいし。

 

 『君のお母さんに電話します』

 

 向井蓮乃の顔に、ずいぶんな表情が浮かんだ。頬を膨らませ唇を尖らせた、「私、不満です」と書いてあるような顔だ。今にもブーイングの声を上げそうなその顔を見て、正太の額に縦皺が増えた。

 顔立ちに似合わず、いやこの顔立ちだからこそ、随分なわがまま娘のようだ。正太のただでさえ細い目が、内心の苛つきを受けてさらに細まる。

 

 『文句は聞きません』

 

 正太はそれだけ書き殴ったノートを、蓮乃の眼前に突きつける。続けてノートを掴んだまま立ち上がり、テレビ横の電話へと歩きだそうとした。

 その後ろから蓮乃が急ぎ足でついてくる。そしてノートを取り返そうと手を伸ばすが、それを察知した正太はノートを掴んだ手を上げて、蓮乃の手を避けた。

 

 苛立ちからか、蓮乃の頬が先ほど以上に膨れあがる。それを横目で見る正太の脳裏には、正月の焼き餅が浮かんでいた。

 これ以上つきまとわれるのは面倒と、正太はノートを持つ手を自分の頭上に伸ばした。蓮乃はノートを取り返そうと、正太の服の裾を掴み、背伸びして手を伸ばす。だが、正太の方が身長が高いせいで少しだけ届かない。思い通りにならない状況に、さらにしかめっ面になる蓮乃。

 正太はそんな蓮乃を無視するように、電話器のあるテレビ台横に足を進めた。ノートを持った手を伸ばしたまま壁につけて、蓮乃の手から届かない高さに固定する。そのまま首で受話器を挟みながら、ノートに書かれた番号へとダイヤルした。

 

 一回、二回、三回

 

 呼び出し音が受話器から流れるが、電話が取られる様子はない。

 蓮乃は背伸びをやめて、ノートに向けて跳ぼうとする。その頭を、正太が空いた手で押さえつけた。蓮乃の口から潰れたカエルのような、変な音がでる。

 

 四回、五回、六回

 

 押さえつけられるのに怒ったのか、蓮乃は強く正太を睨みつけると、正太の手に爪を立ててつねった。

 結構痛かったので、正太は平手で蓮乃の頭を軽くひっぱたく。正太の手のひらと蓮乃の頭がフィットして、込めた力の割にはずいぶんといい音が鳴った。ひっぱたかれて驚いた蓮乃は、一回転しそうな勢いで豪快にしりもちをつく。つねられた正太の手は、赤く腫れてヒリヒリと痛む。

 まだ電話は取られない。

 

 七回、八回、九回

 

 しりもちをついたのが痛かったのか、はたまた叩かれたのに驚いたのか。蓮乃の両目にじんわりと涙が浮かぶ。正太の顔に焦りが生じた。

 

 泣かせるのはさすがに拙い。そもそも電話をかけた時点でノートを持っている意味もないのだ。返してしまった方が後腐れもない。

 これだけ電話を鳴らしても、電話に出ないところをみるに、電話を出れるような状況ではないのか、電話の呼び出し音に気がついていないのか、そのどちらかだろう。これ以上、電話をかけ続ける必要もない。後でもう一度かけ直せばいい。リダイヤルすればノートをみる必要もない。

 

 そんなことを正太が考えている間に、蓮乃の顔がクシャリと歪む。子供が泣き出す寸前の表情だ。慌てて正太は受話器を置くと、蓮乃の前にノートを差し出した。目の前に突き出されたノートをひったくるようにつかむと、蓮乃はもう奪われないように、抱き潰しそうな勢いでノートを両手で抱え込んだ。

 TV正面右手のソファーから顔だけ出した蓮乃は、涙を湛えた目で正太を睨みつける。親の仇、いやノート誘拐の主犯格だと言わんばかりの目つきだ。実際ノートを取り上げたのは正太なので返す言葉もない。

 

 当然だがずいぶん嫌われたらしい。蓮乃の母親への電話が通じなかった以上、蓮乃には早急に一〇四号室へお帰り願いたいのだが、とても話が通じる状態には見えない。いくら苛立つようなことをしたとはいえ、ここまで怒らせてしまったのは失敗だった。

 だが、自ら帰っていただかなければ、さほど高くもない自分の社会的立場が大暴落だ。自分だけが被害を被るなら泣き言をわめき散らして泣き寝入りすればすむ話だが、実際は家族も巻き込む羽目になると言うことは、以前にイヤと言うほど実感している。万に一つでも家族に被害が及ぶようなことは、本当に御免被る。

 

 そこまで一息に考えると、改めて正太は蓮乃と向き合った。結論は一つ。無理にでも説得する他はない。そして電話脇のボックスメモにボールペンで一言書き込んではがし、蓮乃の目の前につきだした。

 

 『自分の家に帰ってくれない?』

 

 『やだ』

 

 蓮乃の返事は迅速で明確だった。見開き二ページまるまる使ったとっても元気のよろしい拒絶である。内容が内容でなければ、花丸をあげたくなるくらいだ。

 あまりの早さに正太の額の皺が増える。取り付く島などどこにも見えない。大海原にいきなり投げ出された気分である。まあ、怒らせるようなことをしたのは自分だし、仕方ない。子供だし、甘いものでもやれば話を聞くだろう。

 正太は色々と甘い考えのもと、もう一枚メモを蓮乃の前にぶら下げた。

 

 『後で甘いもの買ってやるから、家に帰ってくれ』

 

 『いや』

 

 これまた間髪入れずに拒否が打ち返される。早い、早すぎる。先読みでもしていなければ、不可能なほどの返答の早さだ。実際、蓮乃は正太が書くより先に、否定文を書きこんでいる。

 正太の胸からムカつきと苛立ちの混合物がせり上がる。そいつを口の中で噛み潰し、深呼吸と一緒に吐き出した。

 腹を立ててもどうにもならない。それどころか、よりこいつが意固地になるのは目に見えている。できる限り丁寧に、分かりやすく筋の通った文章をメモに書き込むのだ。それでも正太の感情が文章からにじみ出ているのか、文面はどこか皮肉げだ。

 

 『私にいるとあなたはいやな気持ちになるのでしょう。私にとってもあなたがいるのは迷惑です。なのでお互いのために、帰っていただけないでしょうか』

 

 蓮乃からの返答は文字ですらなかった。もう文字を書くのも、おまえの顔を見るのもごめんだと言わんばかりに、頬を膨らませたままそっぽを向く。

 その顔を見た瞬間、正太のさほど大きくもない堪忍袋の緒に切れ目が走った。

 

 ――何様のつもりだこのガキャァ!  そもそも手前が勝手に我が家に入ってきたのが原因じゃねぇか! 

 

 正太の額の端に青筋が浮かび、こめかみが脈打つ。耳の中で轟々と血の流れる音が響く。噴火寸前の火山のように、腹の底から煮え立つ溶岩がせり上がって来る気がした。

 だが、正太はわずかに残った理性を総動員して怒りを押さえにかかった。天井を仰ぎ、肺の底が抜けたかのような深呼吸を繰り返す。自制の糸をチリチリと焦がす感情のマグマを、腹の底から必死に掻い出した。

 感情のままに行動すればどういう結果を招くかは、泣きたくなるくらい、いや実際泣きわめいて覚えた。二の舞は一度で十分だ。三の舞ともなれば十五分となって容量オーバーしてしまう。

 

 一、二、三、四度目の深呼吸でようやく頭が冷えてきた。頭を軽く振るうと、改めて蓮乃に向き直る。

 目の前の相手の様子に気がついたのか、さっきのような「問答無用で返答不要」と顔に書いてある態度は、身を潜めている。ただし当然といえば当然だが、不機嫌は直っていないらしい。実際、正太を見る目はじっとりとした半目である。

 人形めいた美貌と相まって、一部の奇矯な趣味人なら舌を垂らして喜びそうだ。ただし正太にはそんな趣味も余裕もないので、蓮乃の表情は「現在、不機嫌」以上の意味はない。

 

 どうやら優しく諭してやるのは無理なようだ。ならば力で押し通るまで。甘い(? )言葉で足りなければ、暴力もまた必要なのだ。さすがに手は挙げられないので、言葉で少々脅すだけだが。正太は一つ息を吸い込むと、息を止めてブロックメモに書き殴った。

 

 『これ以上ガタガタぬかすなら首ねっこつかんでとなりの庭へ叩き込むぞ、クソガキ』

 

 たっぷりと感情と脅しが載った一文である。少々感情と力がこもりすぎたせいで、メモの所々に穴があいてしまっているが、むしろ怒りを込めて刻みつけたように感じさせる。少々ドスを利かせすぎたか、と正太が思ってしまうほどの仕上がりだった。

 さすがに驚いたのか、蓮乃は目を丸くして文章に目をやり、その表情が目まぐるしく変わる。初めは不快そうなしかめっ面、次はなにやら考え込む顔、最後は頭の上に電球がついたような表情に。そして蓮乃はいそいそと正太へノートを差し出すと、表紙から二ページ目をめくって見せた。

 そこには、表紙や住所と同じ筆跡で二行ほどの短い文が書かれていた。

 

 『変なことをされそうだったりされたりしたら、できるだけ大きな声を上げなさい。誰かが声に気づいてくれます。』

 

 端的に言うならば、変質者に襲われたときの対処方を書いた警告文である。表紙と同じ筆跡ということは蓮乃の親が書いたのだろう。

 これを見せた意味は明白である。つまり蓮乃はこう言っているのだ。『もしそういう事するんだったら、大声で叫ぶぞ。おまえは変質者扱いだ』と。

 思わずまじまじと蓮乃の顔を見る正太。蓮乃の鼻の穴がぷくりと広がるところまでよく見えた。先のドヤ顔以上にこの上なく勝ち誇った表情をしている。まるで顔全体に「私の勝ちだすごいだろう」と書いてあるようだ。

 

 その子供らしい妙な万能感あふれる顔を見ていると、正太の中で煮えたぎっていた怒りが、音を立てて抜けていくように感じた。思わず正太は深々とため息を吐く。怒りと一緒に、やる気とか根気とか他色々な物が消えて失せてしまったらしい。

 なんだかひどく疲れた。もはや何もかもが面倒くさい。それに、親御さんへの連絡は電話をまたかければいい話だ。

 

 正太はTV正面のソファーに尻を落とすと、持ってきた小説を手に取りめくり始めた。とりあえず目の前のことは横に置いて、小説を楽しむことにしたのだ。

 よけいなことは考えない。特に右手ソファーに鎮座している、我が家の異物のことは特に。

 正太はそう決めて手に取った本のページをめくる。一ページ一ページを読み進めるごとに、よけいな雑念が消え失せてゆく。そして中央アジアを思わせる幻想世界と、女槍使いの活躍へ完全に没頭しようとする瞬間、ふと視線が自分に向いているのに気がついた。

 

 宇城家の異物である蓮乃が正太の右横に腰を下ろして、正太の方を身を乗り出すように、じぃっと見ている。いつの間にやらTV右手のソファーから、正太の座るソファーまで移動したらしい。

 見つめる蓮乃は視線で穴があきそうなくらい集中している。思わず正太の方も見返してしまう。おかげで、物語に没頭するための集中はすべて吹き飛んでしまった。

 ようやくいい感じになっていたのに台無しだ。ぶり返した苛つきを込めながら、蓮乃を睨む正太。すると正太は蓮乃の視線が微妙に自分からずれているのに気がついた。どうやら手元に視線は向かっているようだ。

 手元の本を右にスッと動かすと、それに併せて蓮乃の視線も右へと動く。左にツィッとずらしてみると、それに併せて蓮乃の視線も左へずれる。

 

 本を右に移動。視線も右に移動。

 もう一度右に。視線ももう一度右に。

 さらに右、と見せかけ左に。視線は右に、とすぐに追いかけ左へ。

 

 なんだかおもしろくなってきた。そう感じた正太は今度は左に動かそうとして、蓮乃に腕を捕まれた。正太は目を丸くする。

 そこまで読みたいのだろうか。いじり回したんだし、一冊くらいいいか。半ば怒る気力を失っていた正太は、そう考えて手元の本を閉じて差しだそうとした。

 だが、蓮乃の手は放れない。苛つきや怒りより困惑を覚える。こいつは何を見てる? 

 

 蓮乃の視線を追うと、手の中の本よりやや下の正太の右手首にたどり着いた。そこには正太の数少ない印象的な「特徴」がある。たしかに、珍しいといえば珍しい。日本人でこんな「特徴」を持っている奴は結構限られる。

 ただ、日本に帰化した元外人さんは持っている人が多いから、単に目にするだけならそう難しくもない。それに、自分の「特徴」と同じ物を見たいなら、役所にでも行けば見本の一つくらい見れるだろう。そこまで注視するものだろうか。正太の胸中に疑問符がプカリと浮かぶ。

 

 その疑問符は、目の前に突き出された蓮乃の右手首で氷解することとなった。そこには正太と同じ「特徴」……つまりは電子ペーパー画面のついた赤銀色の「腕輪」があった。思わぬ不意打ちに、正太は蓮乃の顔をマジマジと見つめる。その眼前に、子供っぽい丸文字が書き込まれたノートが突き出された。そのノートには、正太の脳裏を埋め尽くしている言葉とほぼ同じことが書かれていた。

 

 すなわち『あなたは魔法使いなの?』と。



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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その四)

 正式名称:特殊能力

 略称:特能

 俗称:魔法

 

 このけったいな代物が、小説やおとぎ話の中から現実にでてきたのは、二〇一〇年代の後半あたりからだった。 

 

 映像記録で一番古いものは、二〇一X年五月七日に収録されたドイツのローカルTV番組だ。番組内容は視聴者参加型で、素人がやった芸をプロが批評するという、そう珍しくもないものだった。その日はプロのマジシャンが素人手品に点数をつけていた。

 そこにひょっこり出てきたある青年は、人の丈ほどもある巨大な水の玉を自由に操って見せた。ギャラリーも司会者もすごい手品だと拍手を送る中、プロのマジシャン達だけは皆、血の気の引いた真っ青な顔でその光景を見つめていた。彼らはプロだった。だから、手品で「できること」「できないこと」は正確に理解していた。そして、彼らの目の前で生じている光景は、手品やマジックでは決して「できないこと」だったのだ。

 

 こうしてなんとも皮肉なことに世界初の魔法(マジック)は、奇術(マジック)として紹介されたのだ。

 これで終わりなら世界は平和だっただろう。だが、そうはならなかった。これ以後、世界中でこういうことのできる連中が次々現れ始め、犯罪に使ったりテロに使ったりして、世界中がしっちゃかめっちゃかになっていった。いつしか、こういうことは「魔法」と呼ばれるようになり、こういうことのできる連中は「魔法使い」と呼ばれるようになった。

 政府はこんな訳のわからんものなんぞ認めてたまるかと「特殊能力」「特殊能力保有者」と名付け、どうにか管理・制御しようといろんな方法を取った。

 

 その結果の一つが、正太・蓮乃両人の腕にはまっている、正式名称「特殊能力確認用携帯機器」、俗称「腕輪」である。つまり、彼らの腕についている「腕輪」は、彼らが「特殊能力保有者」=「魔法使い」であることを表しているのだ。

 

 

 

 

 

 定期検査で知らされて以来「特徴」……すなわち「腕輪」とそれが示す「魔法使い」であるということと付き合ってきた。だが、魔法使いが集まる「訓練所」と「月検診」以外で、日本人の魔法使いを見たのは初めてだ。正太の目の前にいる蓮乃は、目を輝かせながら自分と正太の「腕輪」を見比べている。

 きっと自分と同じようにその珍しさに驚いているのだろう。そう思って蓮乃を正太が見やると、その通り興味に目を輝かせて正太の「腕輪」を見ている。そうしていると蓮乃は、「おー」だの「む~」だの妙な感嘆の声を上げながら、ペタペタと正太の右手に触り始めた。

 いくら子供といえども、体をこうも気安く触られるのは、気恥ずかしいものがある。美人で異性とくれば余計だ。そう感じた正太は、蓮乃の手をつかむとぐいと横にそらす。

 それに不満げな顔を浮かべる蓮乃。しかしすぐに表情を変えると、なにやらノートに書き込み始めた。この短い時間であるが蓮乃とつきあった正太の脳裏に直感的な予感が一瞬浮かび、わずかに表情がひきつる。またろくでもないことするんじゃねぇかこいつ。

 そしてその直後に顔の前に突き出されたノートにはこう書かれていた。

 

 『あなたの魔法を教えて』

 

 別段おかしい質問ではない。ありがたいことに嫌な予感ははずれたようだ。自分にとっては色々と思い出したくもない、実に最悪な昔の記憶と直結している魔法ではある。だが、法に反しているわけでもないし、教えてみせるくらいならさほど問題はないだろう。

 そう考えて手元のメモにささっと魔法の公式名称を書き込んで見せた。

 

 『熱量操作』

 

 それを見た蓮乃の上に、疑問符が浮かぶのが見て取れた。やっぱり公式名称はわかりづらかったのだろうか。そう考える正太の頭にかつての魔法に恥ずかしい二つ名をつけて呼んで喜んでいた頃の名前が浮かぶ。その瞬間、正太は、胃の腑から食道を逆流する胃液の感触を覚えた。

 

 ――あれは恥だ、俺の恥だ、家族の迷惑だ!  そんな代物口に出すわけにはいかん! 

 

 唇を噛みしめて何かに耐える正太。その様子を見てさらに疑問符の数を増やす蓮乃。何とも表現しがたい光景がそこにあった。

 しかしそこは我慢の足りない子供のこと。いい加減焦れてしまったのか、正太の差し出したメモをひったくると、そこに頭の上に浮かんでいるものを書きたした。

 

 『熱量操作?』

 

 確かに名前だけではわかりにくかったかもしれない。しかし、細かい説明を理解するには最低でも小学校高学年並の知識は必要だろう。さて、どう伝えたものか。

 正太はしばらく思案した後、メモの端っこに書き足した。

 

 『体の熱を操作する魔法』

 

 ぽんと手を叩き大仰に頷いて、蓮乃が理解を示す。どこか動物のようなその動作を見て、時々やっている公共(コモ)ネットの自然科学チャンネル「ワールドワイドウォッチャー」で、アフリカかなんかの猿がやっていた動作に似ていると、正太には思えた。

 そして、正太への返信を書こうと蓮乃はノートに筆を走らせる。だが、途中まで書いたところで筆が止まった。不思議に思った正太が上から覗くと

 

 『私の魔法は』

 

 で言葉が切れている。正太が顔を戻して蓮乃の顔を見てみると、両目がぐるぐる回転しそうな勢いで、めまぐるしく動いている。口元と頬もひくひくと痙攣するように、表情未満の何かしらを浮かべようとしては、形にならずに失敗を繰り返す。

 おそらくではあるが、自分の魔法を忘れたのではないか。よく口に出ないものなら、記憶からあっさり離れるものだ。そして口にでないものを呼ぶときは「あれ」「これ」「それ」とかの代名詞になるものだ。実際、父と母の会話もだいたいそれだ。

 そんなことを正太が考えながら、たっぷり三十秒ほど経過した後、ようやく蓮乃はノートに何事か書き殴って、正太の前に出した。そこにはさっきの二ページ一単語の『やだ』並に元気のいい文字でこう書かれていた。

 

 『これ!』

 

 どうやら、この娘は説明を放棄したらしい。「こ」に縦線でも引いて「ど」に書き換えてやろうか。そう考えた正太の耳に『音』が響いた。

 

 

 

 

 

 

 「……IIIIIIiiiiiiiaaaaaaaaaaaAAAAAAAAAAA」

 

 

 それは『音』だった。その音は蓮乃の口から出ているにも関わらず、声とはまた別物だった。もしも正太に音楽的素養があるのならば、喉を楽器として使う声楽に近い発声法をしていることに気がついたかもしれない。だが、正太にそんな素養はあるはずもなく、ただ驚くほど美しい音を、蓮乃が喉で奏でている事くらいしかわからなかった。日本語でもなく、英語でもなく、どんな言葉でもない、ただ音。

 それは、正太にいつか読んだ小説の描写を思い起こさせた。魔法の水晶の塔の中、少女が忘れられた言葉で古い古い呪い歌を歌う。それはそこにいる全員にとって理解できぬ言葉であり、それはただの音となにも変わらない。だが、それ故にその音はひたすらに純粋で、そしてその歌はいつしか水晶の塔を震わせて、ついにはその歌と同じくらい古い古い仕組みを動かすのだ。

 そして目の前の蓮乃が音を奏でるにつれて、誰も腰掛けていないソファー、目の前の机、その上にあったメモや小説本までもが浮かび上がる。蓮乃の発する音にあわせて日常の諸々が重力から解き放たれる姿は、正太から現実感を失わせる光景で……

 

 ……そして蓮乃の腕についた「腕輪」から鳴り響く甲高い電子音が、退出しかけた現実感を正太の頭に叩き込んだ。

 

 「ちょっおま!  なにやって!  やめ!  すぐにやめろ!  今すぐに!」

 

 正太は即座に立ち上がると、机とソファーをつかんで床に押しつける。唐突な正太の行動に驚いたのか、蓮乃は目を丸くして音を止めた。それと同時に、正太の腕力と抗していた浮力も失われ、机の上で浮いていたハードカバー小説がひときわ大きな音を立てて床に落ちた。途端に「腕輪」が耳を刺すような電子音を止める。

 それを確認した正太は大きく息を吐いた。やっぱりろくでもないことしやがった。ノートやペンを浮かべる程度ならば法的制限はないものの、合計すれば二〇キロ以上ある机とソファーを浮かせるとなると、どう考えても三級以上の魔法だ。おもいっきり「特殊能力違法使用」。下手をしなくてもアパートの前にパトカーが止まるぞこれ。

 

 「何考えてんだおまえ!  大きな魔法は許可なしで使っちゃいかんこと知らねえのか!?」

 

 正太は蓮乃へと掴みかかり、声を荒げて怒鳴りつける。が、そこまで叫んだところで、蓮乃がこっちの言葉を理解できないことを思い出した。正太は小さく舌打ちして、ペンと一緒に床に落ちたメモを拾おうと背を屈める。

 その背中になにやらしゃくりあげるような声が聞こえた。嫌な予感を感じて視線をあげると、想像の通り小さめの目に涙をいっぱいに蓄えて、顔をくしゃくしゃに歪めた蓮乃の姿があった。

 

 ――あ、泣くなこれ。

 

 そう考えた途端、涙が柔らかな頬を伝ってこぼれだした。喘息の発作のように何度も何度も息を飲んでしゃくりあげる。ヒッヒッと切れ切れの呼吸音が喉から漏れ出ている。

 不幸中の幸いか、大声を上げて泣くタイプではないらしい。もしそうだったら近隣住民の通報で、今日の夕飯は警察署で済ますことになっただろう。そうでなかったからといって、なにか事態が好転したわけでもないが。

 

 泣きじゃくる蓮乃を前に正太は頭を抱えた。頭をかきむしりながら、ひたすら何か手はないかと考える。

 まず、先の反応、特に帰ってもらうための説得時の様子から、蓮乃は意固地になったらテコでも動かないだろうと判断できる。それに「怒った理由」を納得してもらう必要がある。そうしなければ、また同じことをやりかねないからだ。

 だが、泣きわめいている子供になにを言ったところで、「馬耳東風」か「馬の耳に念仏」だろう。というより、「泣く子と地頭には勝てぬ」を地でいく羽目になる。

 

 結局、正太は泣き止むまで待つことにした。正太は、顔をこすって泣きじゃくる蓮乃の前に腰を下ろした。何時だったか、自分もこんな風に泣いたっけな。そんな、取り留めのないことを思い浮かべながら、蓮乃の涙が収まるまでその泣き顔をぼんやりと見つめていると、ため息と一緒にグチが漏れた。

 

 「ほんっとどーしたもんだろ、これ」

 

 

 

 

 

 

 蓮乃が泣き止むまでゆうに一〇分はかかった。おかげで、落ちたペンや本を全て拾い、机とソファーを置き直す時間は十分にあった。ソファーの上で蓮乃はまだえづくような声を上げて、時々鼻をすすっている。泣いている間に何度となく目を擦ったおかげで、蓮乃の目の周りは真っ赤に色づいていた。袖口も、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。

 蓮乃が泣いている間に濡らして絞っておいたハンカチを、正太は蓮乃に手渡した。蓮乃はおずおずとハンカチをつかむと、顔をヤスリ掛けするようにごしごしと拭き始めた。ずいぶんと力を込めて顔を拭っている。あの様子じゃ、拭き終わるころには顔全体が日本猿みたいに真っ赤になることだろう。

 

 ハンカチで顔を拭っている間にも、ソファーの上の蓮乃はチラチラと正太に視線を送る。そこに、さっきまでの傍若無人な様子はない。文字通りに小さくなっている。さっきまでの態度は、こっちがあくまで叱るに留めたことと直接手出しをしなかったことから、反抗してもいい相手と考えていたのだろう。頭を軽くひっぱたいたことは、とりあえず除いておこう。

 今は、おそらく怯えているのだ。まあ、無理もない。小さい子供が、たぶん倍くらいの年の人間から怒鳴られたのだ。その上、怒鳴り言葉の内容を理解することができない、と来たもんだ。自分の外見を考慮に入れれば、でっかい人型の化け物に吠えられたのとそう違いはないだろう。そりゃビビるし、子供なら普通は泣く。

 その様子を見て、頭をかきながら正太はぼやいた。

 

 「どーしたもんかね」

 

 とりあえず、「怒った理由」を理解してもらうためにも、話を聞いてもらわなければ、言葉通り話にならない。そのためにも、ある程度機嫌を直してもらわないと困る。

 正太はしばらく唸ると、勢いよく立ち上がり庭の反対側にある台所へと歩きだした。蓮乃は赤く腫れた目のまま、不安そうに正太の行動を見つめている。台所へと至った正太は、ぶつくさと「好物だってのに」などとぼやきながら、冷蔵庫を開けてなにやら取り出した。

 

 正太の手の上には小皿があり、その上に薄黄色い小振りな大福のようなものが、ラップをかけられて複数乗っている。打ち粉をかけられた大福の表面は滑らかで、白い打ち粉が中身の薄黄色と合わさって、水彩画じみた淡い色合いを見せている。

 正太は引っ剥がしたラップをゴミ箱に放り込んで、皿を片手に蓮乃の前までやってくる。そして自由な片手で本とノートをどかすと、なにやら書き殴ったメモと一緒に皿を机の上に置いた。どこか怯えるように、同時に不思議そうに蓮乃は正太を見やる。その蓮乃へ、正太はメモをつきだした。メモにはシンプルにこう書かれていた。

 

 『食え』

 

 身も蓋もない一文である。二度三度と蓮乃の視線がメモと正太の仏頂面を往復する。焦れた正太は黄色い大福を一つ手に取ると、大きく口を開けてわずか一口で口の中に納めた。先ほど口に出したように正太の好物らしく、厳めしい顔をしていた表情が和らぐ。そして、正太が皿を蓮乃の前へと押し出すと、蓮乃はおずおずと大福を手に取り、小さく口を開けてかぶりついた。

 途端に蓮乃は形良い目を丸くして白黒させる。よほど口にあったのか、蓮乃は大急ぎで大福の残りを口の中にねじ込んだ。ねじ込んだ拍子に力を加えすぎたのか、口の横から黄色い粘液が溢れだし、口元にべっとりとへばりつく。だが、蓮乃はそれを気にした様子もなく、次の大福へと手を伸ばす。その一心不乱な様子を見て「泣いた烏がもう笑う」と正太は苦笑を浮かべた。

 

 正太が持ってきたのは、本来は自身のおやつだった「カスタード大福」だった。食糧事情が安定化して久しい昨今でも、海外に素材の多くを求める洋菓子は手に入りづらく、ケーキなどはせいぜいがハレの日のごちそうでしか食べられない。

 だがこの和洋折衷のお菓子は、和菓子由来の求肥(餅)はもちろんとして、内包されているカスタードクリームも、セルロース還元糖類・プラントスターチ・植物性脂肪・合成鶏卵など、国内で安価に手に入る食材から成っている。そのため、気軽に買える安価な洋風菓子として、多くの人間から強い支持を受けているのだ。

 そして宇城家も例に漏れずこの大福のファンであり、両親のどちらかが毎度のように買ってくる、宇城家定番のおやつでもあった。

 

 余談であるが、このお菓子を食べるときはよく冷やして、できる限り一口で一つを食べてしまうことが推奨されている。その理由は蓮乃の顔を見ればよくわかる。餡がカスタードクリームのため、下手にかじると中身が吹き出すのだ。そのため、その味わいからくる人気と同時に、服が汚れるとして悪評も意外にあったりする。

 

 甘いものを存分に食べた蓮乃は「ほふぅ」と甘い息を吐き、小さな体を柔らかなソファーに沈み込ませた。その顔に浮かぶのは満足げにとろけた笑みで、もう少し年を得れば表情だけで並みいる異性を虜にできる代物だ。しかし、正太はその表情にいっさい頓着する様子を見せない。

 なにせ、口周りをカスタードでベタベタにした子供相手では、懸想しようにも難しい。正太は鼻から下を黄色く塗りあげた蓮乃の顔と、机と皿にこぼれたカスタードを見やる。そして苦笑混じりのため息をつくと、濡らした台拭きとタオルを流しから取りに立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 台拭きで机を拭き終えた正太が、濡らしたタオルを差し出すと、蓮乃はさっきのハンカチ同様に顔を力強く拭いてゆく。おかげで蓮乃の顔からカスタードの黄色は失せたものの、代わりに先ほどと併せて、顔全体が熟れたリンゴじみた赤一色になってしまった。その有様に正太は思わず苦笑を深くする。

 そうして赤く色づいた顔に正太が視線をやると、ついと蓮乃は視線をそらした。いぶかしむ様に正太が目を細めると、蓮乃の視線は天井の方向へ飛向こうへ飛びすさり、指先は難曲に挑戦するピアノ奏者の様に膝を叩いている。宙を泳ぐ視線と複雑なステップを踏む指先。一時たりとも落ち着かないその様子を見て、ようやく正太は蓮乃が非常に気まずくて困っていることに気がついた。

 

 考えてみれば当然のことだ。お菓子を与えられたとはいえ、怒られたことも泣いたこともなくなったわけではない。むしろ落ち着いてしまったせいで、どう対応して良いのか混乱していることだろう。

 正太自身にも似たような覚えがあった。母親に叱られた後なんかは特にそうだ。何を言っていいのか、何をいったらまた叱られるのか、どうしていいのかわからなくなるのだ。その時は結局、しばらく後に母がいつも通りの対応をしてくれて、ようやくこちらもいつも通りに戻れた。問題は目の前にいる蓮乃に対して、いつも通りの対応というものが存在しないことだ。なにせいつも通りも何も、本日初めてお会いした相手なのだから当然である。

 どーしたもんかと顎をかきつつ頭を捻る。思考にふける正太の視線が、右へ左へ宙を舞う。気まずい気分の蓮乃の視線も壁から天井、机へと泳ぎ回る。何とも言い難い沈黙が二人の間に流れた。

 

 沈黙を破ったのは、ペンがメモの上を走る音だった。紙をペン先が擦る音が二人の間に響く。それは直ぐに止まり、再び沈黙が周囲を満たした。ただ、先ほどのような気まずい沈黙とは別物だ。二人が二人とも、互いの間の机に置かれたメモに視線を注いでいたからだ。机の上のメモはハードカバーの小説の横に置かれ、端的な文でこう書かれていた。

 

 『読みたきゃ読め。あと落ち着いたら言え』

 

 先ほどの『食え』同様に、身も蓋もない内容である。これだけで、誰がメモを書いたがわかる。そしてメモを書いた側である正太は、ちらりとメモを渡した側の蓮乃に目を向ける。蓮乃の視線は、身も蓋もないメモと分厚いハードカバーの間を往復していた。

 どうやら興味を持ってもらえたらしい。正太はほっと胸をなで下ろした。気まずいときには、何らかの作業をするのが一番だ。それが集中を要するものならなお良い。余計なことを考えず・考えさせないなら、自然と気まずさは消え失せる。結局、意識してしまうから気まずいのだ。意識せずにいられるなら、何の問題もなくなる。いや、問題が解決したわけではないが、とりあえず問題についてウジウジ悩むことだけは止められる。

 そして蓮乃がハードカバーを抱えたのを確認すると、正太も自分が読む予定だった、「薙刀使いの和風ファンタジー児童文学」へと手を伸ばした。



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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その五)

 ……彼女は裂帛の気合いとともに薙刀を突き出した。男もまた地を震わすような雄叫びと共に長巻を突き出す。刹那の間、互いの刀身が篝火を写し白く光った。交差は一瞬、彼女の刃は男の肩を、男の刃は彼女の頬を切り裂く。

 実力は互角、しかし互いの人生が反応を分けた。受けた傷に怯みたたらを踏んだ男と、受けた傷を無視して踏み込んだ彼女。その才能と実力からまともに傷を負ったことがない男と、血と泥に塗れながらも地を這うようにして生きてきた彼女。男が嘲笑った傷だらけの人生がその僅かな、しかし致命的な差を生んだのだ。彼女は傷も痛みも無視して薙刀を振るう。その薙刀は深々と男の肩を切り裂き、男の手から長巻が滑り落ちた。もはや男に長巻は握れない。勝負はあった。

 だが彼女は薙刀を構えたまま、ゆっくりと男へと足を踏みだす。その両目には身を焦がさんばかりの憎悪と怒りが、暗く黒く燃え上がっていた。自分たちの苦しみを食らい、悲しみを貪り、嘆きを飲み干してきた男に、彼女はとどめの一撃を加えんと歩を進める。そして足下でのたうつ男の呻きも命乞いも復讐の炎にくべる薪とし、彼女は殺意を込めて薙刀を降りあげた。

 その瞬間だった……

 

 

 ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん

 

 

 どこか間の抜けた掛け時計の時報をきっかけに、正太は読みふけっていた小説から顔を上げた。少々集中しすぎていたらしく、首を回すと小枝を折ったような軽い音が連続して響く。同時に首の筋が延び、心地よい苦痛が肩を引っ張り、思わず一つ息を吐く。そして机の向こうに目をやると、膝丈の机に突っ伏したような姿勢のまま、一心不乱に小説を読みふける蓮乃の姿があった。

 自分が読ませた小説は随分と性にあったらしい。今の蓮乃の世界は、あの小説で完結しているに違いない。もはや、怒られて気まずい思いをしたことどころか、今自分がいるのが他人の家である事実すら頭にあるか疑わしいほどだ。メモの内容もきれいさっぱり忘れていることだろう。

 

 正太は苦みの混じった笑みを浮かべながら、その有様を眺める。どうやら気まずい思いはもうせずにすんでいるようだ。あれだけ小説にのめり込んでいるのだ。おそらく気持ちも落ち着いてもいることだろう。さてそうなれば、そろそろ読書の時間を終えてもらって「怒った理由」の説明をしなければなるまい。

 一息にそう考えると、正太は蓮乃の肩を軽く揺すった。揺すられた蓮乃は、いぶかしそうに正太に顔を向ける。

 

 最初はキョトンとした、何処にいるのかもよくわかっていないような顔。

 その次は、自分のお楽しみを邪魔されて随分と不満そうに眉根を寄せた顔。

 続いて「あ」とでも言いそうな、今の状況そのほかを思い出した顔。

 そして最後に、泣きじゃくった自分の有様が記憶から浮かんできたのか少々居心地の悪そうな顔。

 

 ――「百花繚乱」というか、「千差万別」というか。ああ、そうだ「百面相」ってやつだ

 

 目まぐるしく次々に変わる蓮乃の表情を見て、正太はそれを表す適当な言葉を。頭の中から探り出した。それにしても、コロコロ・クルクルと、瞬く間に蓮乃の表情は変わるものだ。本来の意味である宴会芸の百面相も、やろうと思えばできそうなくらいだ。次から次へと表情が変わる蓮乃の顔に、思わずこみ上げてきた笑いの衝動を正太は口の中でかみ殺す。

 さて、いつまでもそうしているわけにはいかない。蓮乃になぜ自分が怒られたのかを、正しく理解してもらう必要がある。なにせまた至近でやられた場合、下手すれば自分も一緒に取り調べを受ける羽目になりかねないし、使い方のよくわかっていない魔法を振り回されれば、こっちも怪我をしかねない。

 正太はメモにペンを走らせると、蓮乃の座っているソファーの方へと座り直した。

 

 

 

 

 

 

 『どうして怒ったかわかるか?』

 

 正太が突き出したメモの一文を眺めた蓮乃はゆっくりと首を横に振った。首を動かす度に、柔らかな黒髪がふわりと舞う。

 できれば聞きたくなかった回答を頂き、天井を仰いで目を閉じる正太。子供の魔法使いには真っ先に教えるべきことだろうと、顔も知らない蓮乃の母親へ口の内で不満をこぼした。

 

 『国が決めたところでしか大きな魔法は使っちゃいけないのにお前が使ったからだ』

 

 とりあえずのつもりで、正太はメモに一文を書き加える。なぜ使ってはいけないか。その一番簡単な回答だ。取り合えず落第しないくらいの点数はもらえるだろう。

 無論、花丸満点にはほど遠い。理由を語っていない以上、理解できるのはよっぽど頭の良い人間だけだからだ。そして、正太の目の前に座る蓮乃は、よっぽど頭がいいわけではないようだった。

 

 『なんで?』

 

 なんで使っちゃだめなの? 蓮乃は首を傾げて疑問を書く。当然の疑問である。

 どうやって説明したものかと正太は唸った。自分もガキといえばガキだが、相手は子供だ。できるだけ簡単かつ理解しやすい言葉で伝えばなるまい。

 

 『たとえば、俺の魔法を他人に使えば怪我させることができる』

 

 正太の魔法は「熱量操作」。自分の体内にある熱量(カロリー)を操ることができる。たとえば、それを一点に集中させれば、触れただけで相手を大火傷させることも可能だ。当然自分も大火傷確定ではあるが、とりあえず可能であることに違いはない。

 

 『でも、普通の人はそんなことはできない』

 

 ふんふんと蓮乃は相づちがわりに首を振る。

 

 『つまり、魔法を使える人は普通の人に一方的に攻撃できる』

 

 内心歯がゆい思いをしながら正太は筆を進める。あまりに極端な言い方だ。魔法の使えない普通の人であろうとも、やろうと思えばどうとでもできるものだ。実際、魔法使いをただの人間が、集団リンチで殺害した例など枚挙に暇がない。だが、それでも魔法という「力」が、魔法使いである自分達だけにあることは事実なのだ。

 

 『そんなことしないもん』

 

 文章を読んだ蓮乃が、文句ありげな表情を浮かべる。正太は大きく首を縦に振り、同意と共感を示す。そりゃあこんなこと言われ、いや書かれてそう思わない奴は少ないだろう。しかし、だ。

 

 『お前さんはしないだろう。でもやっている奴はいるんだ。そしてやるかもしれんと思っている奴もな』

 

 魔法は老若男女を差別せず、突然使えるようになる。それを人を傷つけることに躊躇いのない奴が手にすれば、一体全体どうなるか。ずいぶんと簡単に想像できることだろう。

 無論、これは刃物や銃器など他のものでも十分にあり得ることだ。しかし、魔法は唐突に理由もなく手に入る上、魔法使いであるか否かの判別がえらく難しい。その上、能動型の魔法なら、引き金は自分の意志だ。殺意をそのまま殺人に変換できる。

 例えばテロリスト、例えば犯罪者。そういった人間がそれを手にした結果は、数えきれない数の特殊犯罪と魔法テロ、そして目を背けたくなる数の被害者によって示されている。

 

 「銃」に置き換えればもう少し分かりやすいだろうか。唐突に誰かの元へ、「見えない」「弾切れのない」「自分以外触れられない」短機関銃が手にはいるのだ。それを使って、テロリストが、犯罪者が人を傷つけたとなれば、持っていない人は当然不安になる。

 

 もしかしたら、隣の奴は持っているんじゃないか。

 もしかしたら、持っているあいつも犯罪に使うんじゃないか。

 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら――

 

 疑心と恐怖はたやすく狂気を招く。

 

 「この間、魔法使いの連中に怪我をさせちまった」

 「あいつ等は恨んでいるだろう」

 「あいつ等は攻撃の準備をしているはずだ」

 「もう行動を始めているかもしれない」

 「やられる前にあいつらをやっちまうしかない」

 

 こんな恐怖の想像力が多くの虐殺の原因だ。だから政府は「銃を持っている証明書」=「腕輪」を作り、「勝手に銃を撃ってはいけない法律」=「特殊能力の使用に関する法律」を作ったのだ。

 これは、普通の人の為だけの法律ではない。魔法使いのための法律でもあるのだ。例えば「腕輪」はそれをつけた人間が「政府に管理された魔法使い」であることを示している。すなわち、これは「何か問題を起こしたときは政府が処罰する」と同時に「何か被害を受けたときは政府が保護してくれる」ことも意味しているのだ。

 普通の人が不安にならないように。魔法使いが安全であるように。

 

 『だから、勝手に魔法を使っちゃいけないんだ』

 

 蓮乃は大きくうなずく。どうやらわかってもらえたらしい。正太は大きく安堵の息をこぼした。

 

 『でもなんで魔法使いだけなの?』

 

 ――こいつやっぱり判ってねぇ。

 

 

 

 

 

 

 最終的に蓮乃が正太の説明を理解しきるまでに、追加でオキアミ煎餅二袋、ラムネ二瓶が必要だった。

 口の周りにアミセンの欠片を付けた蓮乃が、最後の一ページ前まで文字で埋まったノートを閉じて、「ほふぅ」と満足そうな息をはく。一方、基本的な常識を理解させるだけで、買い置きの菓子をずいぶんと食われてしまったと、正太は苦虫を噛み潰した。しかしそれだけ食わせた効果はあったようで、蓮乃の表情には泣かれた後のような怯えや気後れを感じさせるものはない。ある意味、状況は振り出しに戻ったといえる。

 「さて」と小さく呟くと、正太はソファーから勢いをつけて腰を上げた。いい加減、親御さんに電話連絡をせねばなるまい。子供の相手に、常識の説明に、とずいぶん疲れた。さっさと済ませて自分だけの時間を取り戻そう。

 

 そう決めると正太はメモを掴み、TV横の電話機の前へと足を進めた。今度はさ流石に蓮乃が追いかけてくる様子はない。リダイヤルボタンを押して先ほどの番号を呼び出すと、外線ボタンを押し電話をかける。先ほどとは異なって、三度の呼び出し音の後に電話をとる音が受話器から聞こえた。

 

 『はい、もしもし。向井ですが、どちら様でしょうか?』

 

 鈴を転がすような涼やかな声、とでも表現すべきだろうか。耳に心地よいさらりとした女性の声が響く。蓮乃の顔立ちを考えれば、その母親が随分と素晴らしい外観をしているだろうことは、正太にも簡単に予想できた。きっとこの声に違わない美しい顔をしていることだろう。少しドギマギとしながら、慌てて正太は電話に答える。

 

 「あ、俺、いや私は宇城正太というものです。向井蓮乃ちゃんのお母さんですか?」

 

 『は、蓮乃に何かありましたか!?』

 

 蓮乃の名前を出した瞬間、声の調子が途端に変わった。今までの声が清流の湧き水なら、今度の声は急斜面の鉄砲水だ。

 

 「あ、いえ、その、ええと」

 

 先とは違う意味でドギマギする正太。患っているコミュニケーション障害も相まって、まともな言葉がでてこない。そんな正太を後目に、電話の向こうはますますヒートアップしていく。

 

 『蓮乃はどうなんですか!?  蓮乃に何があったんですか!?』

 

 立て板に水というか崖から滝というか、ダム決壊の勢いで蓮乃の母は喋り倒す。濁流じみた言葉の怒濤に、正太はもう溺死寸前だ。

 

 『そちらは何処になりますか!?  すぐにそちらに向かいます!』

 

 これ以上聞いていてはダメだと、正太は受話器を耳から外して深呼吸をする。ゆっくりと胸一杯に空気を吸い込んで、緩やかに全て吐き出す。これを二度三度と繰り返すと、頭を満たしていた困惑と混乱が段々と解れていった。ある程度頭が落ち着いたあたりで、正太は再び受話器を耳に近づけた。

 

 『答えてくださいお願いします!』

 

 聞こえてきたのは、電話向こうの絶叫だった。ようやく落ち着いたはずの混乱が、急激にぶり返しかける。それをさほど多くない精神力で無理矢理押さえ込み、電話向こうへと正太もまた絶叫した。

 

 「お、落ち着いてください!  蓮乃ちゃんは元気です!」

 

 『元気ってどんな状態なんですか!?』

 

 「我が家の買い置きのお菓子一通り食べちまうくらいには元気です!」

 

 なんとも言い難い沈黙が電話線を通して、お互いの間に漂った。

 

 『え、ええと、とにかく蓮乃は無事なんですね?』

 

 改めて電話の向こうがしゃべり始めるが、流石に興奮が取れたのか、さっきよりはいくらか落ち着いた様子だ。電話向こうの混乱が収まったおかげか、正太のパニックも随分と落ち着いた。

 

 「はい、怪我も病気も何もありません。蓮乃ちゃんは今、ええっと心ゆくまでお菓子を食べてご満悦の顔ですね。ここから見る限り、大丈夫そうに見えます」

 

 さすがに「蓮乃ちゃんの頭をひっぱたいた上、目が赤くなるまで泣かせました」とは言えない。なので正太は嘘にならない程度の当たり障りのない言葉を選んで、適当な具合にお茶を濁した。

 

 『よかった……何かあったらと思って……』

 

 受話器を通じて安堵の声が漏れ聞こえた。その声が耳に届いた正太の脳裏に蓮乃の泣き顔が浮かび、えも言われぬ座りの悪さが尻の辺りからこみ上げてきた。背筋を這い登るバツの悪さを頭を振って振り落とすと、正太は電話先へ意識を向け直した。

 

 「……つまりですね、私が帰ってみたら部屋に蓮乃ちゃんがいまして。それで話を聞いたら庭から入ってきてしまったそうなので、それをお母さんに連絡しようと思いまして」

 

 『わかりました。うちの蓮乃がご迷惑をかけまして、誠に申し訳ございません。こんなことが二度と無いように、よく言って聴かせますので』

 

 とりあえずではあるが、今回の事情と自宅の住所ほかを正太は電話先へと連絡する。やはり、耳に心地いい素晴らしい声である。聞いているだけで思わず心臓が高鳴りそうだ。無論、落ち着いた状態という前提でだ。落ち着いていないと、自分の心臓は別の意味で高鳴ってしまう。

 

 「い、いえ、そんなに迷惑をかけられたわけでもありませんし」

 

 『いえ、こういったことはしっかりとしておきませんいと。帰宅は午後五時半頃になりますので、済みませんがその時間辺りまで続けて蓮乃をお願いできないでしょうか』

 

 「わかりました。お母さんが帰宅されるまで、改めて蓮乃ちゃんをお預かりいたします。それでは失礼しました」

 

 そう告げて正太は受話器を下ろした。ふと壁にかかった時計に目をやると、たったの数分しか過ぎていない。電話相手のテンションがえらく激しい上下動をかましていたので、長いこと話していた気分になってしまったらしい。

 

 「ふぅ」

 

 正太は張り詰めていた気持ちを、ため息という形で吐き出した。そしてブロックメモを一枚はがし、「蓮乃母と話が済んだこと」「蓮乃母の帰宅が午後五時半頃になること」を書き込む。振り返ってソファーの方へ視線をやると、蓮乃は上機嫌そうにリズムを取りつつ、机の裏を足で蹴りあげている。お菓子もたっぷり食べて随分とご機嫌だ。そんな蓮乃の肩を突っつき、振り返った顔の前で正太はメモを揺らした。

 メモの文面を目で追う蓮乃の顔から、スッと色が抜けた。蓮乃母の帰宅についての一文を見た途端だった。正太が驚愕に目を見開くより早く、蓮乃の表情は瞬く間にしおれていく。今まで子供子供していた蓮乃の表情が、うって変わって人形じみた硬質の、かつ絶望感たっぷりのそれへと成り果ててしまったのだ。

 あまりの急変に正太の表情もひきつり、思わず天井を仰ぐ。しかし当然ながら、天井の何処にも「絶望した子供への緊急対応マニュアル」は書かれていない。強ばった顔の正太の呟きは無意味に居間に広がって消えた。

 

 「ど、どーしたもんだろ……」



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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その六)

 宇城家長女にして第二子である”宇城清子”はようやく着いた自宅の前で背筋を捻った。小学校が終わり、放課後も終わり、そして一番面倒な同級生からの相談事も終わった。パキペキと小枝を折るような軽い音と共に、凝ってしまった背中の筋肉が伸ばされていく。

 

 「ん~~~」

 

 一日の疲れを実感する瞬間だ。自宅の前とは言え、公共の場でやるべき行動ではないのだが、習慣となってしまったこれを清子はやめられそうにないなと感じていた。

 下ろしていたランドセルを抱えなおすと、自宅のドアを開ける。このあとは宿題やって、夕飯食べて、テレビ見て、風呂に入って、そして寝るだけ。他人の相談に頭を悩ませる必要もない、気楽な家族だけの時間だ。

 

 「たっだいま~」

 

 いつもの調子で帰宅の挨拶をし、靴を脱いで揃えて上がる。そして、いつものように居間で本を読んでいるだろう兄、宇城正太の返事が届いた。ただし返事の調子は、いつもと随分違ったが。

 

 「お、お帰り……」

 

 疲れたような、弱りきったような様子の正太の声。それを聞いた清子は訝しむように眉根を寄せる。

 はてさて、兄から帰ってきた挨拶は随分と気分の落ち込んだものだった。兄は「前の一件」のような大失敗を、またやらかしてしまったのだろうか? あれだけ反省と後悔をしたのだからそれはないと信じたい。というか、そうであってくれないと困る。

 では何か。一番ありそうなのは「兄は何かしらの小さな失敗をやらかして、それを自分の中で針小棒大にふくらませた挙句、そいつでどっぷりと落ち込んでみせている」という一人上手な真似をやからしている可能性だ。

 

 ――熱くなりやすい質のくせに、あれ以来無闇矢鱈と考え込むようになっちゃったからねぇ

 

 清子は兄をそう評すると、一番可能性の高そうなそれをとりあえずの仮説として、居間へと足を踏み入れた。まずは、マイナス思考のスパイラルに陥っているであろう兄を、さっさと引き上げてやらねばなるまい。家族に辛気臭い顔をされていると、こっちまで気が滅入ってしまう。

 

 「兄ちゃん学校で何かあったの?  話くらいなら聞くけど……」

 

 居間に一歩を踏み込んだ清子の前には、想像を超えたものがあった。

 

 まず目に入るのは顔を手で覆って、悩んで落ち込んでいることを全身で表現している兄の姿。コレはいい、予想していたのとそう違いはない。

 

 続いて、テーブルの上に散らばっているハードカバーとお菓子の袋。珍しいといえば珍しい。以前こんなふうに夕食前に沢山お菓子を食べて、母にこっぴどく叱られたことがあった。それ以来、兄は夕食後に少しだけ食べるようにしているのだ。まあ、これも兄が珍しく言いつけを破ったとすれば、別段おかしい話ではない。

 

 最後に兄の向かいのソファーで、膝に顔をうずめている子供の姿だ。ソファーにかかった髪の長さと、薄緑の肩ありワンピース姿から見るに、女の子で間違いないだろう。

 これは予想外で大問題だ。宇城家に私より小さい女の子はいない。となれば、この子は外からやってきたということになる。だが、母はパートに出るときは、窓と扉の鍵は一通りかけるようにしている。

 つまり、誰かが鍵を開けるか壊すかしない限り、この子供が我が家にいることはないはずなのだ。そして壊された様子の鍵は、見る限りどこにもない。ということは、誰かが内側から鍵を開けたと言うことで、その誰かは目の前にいる兄しかいない。

 

 これらを総合すると、「この子を家に招き入れたのは兄である」ということになる。さらに目の前の子供は落ち込んでいるを通り越して、絶望しているようにしか見えない。これはまずい、色々とまずい。

 

 清子の脳裏に「未成年略取」「児童誘拐」「特別少年院」などの、不穏極まりない文字が浮かび上がり、ぐるぐると回る。

 だが、不正は正さなければならない。清子は迷いを吐き出すように深く息を吸って吐くと、決意を秘めた顔で正太の肩を叩いた。

 

 「兄ちゃん、警察には一緒に行ってあげるから、だから……」

 

 「違う!」

 

 正太の悲しい絶叫が響いた。

 

 

 

 

 

 

 宇城家の居間には、正太、清子、蓮乃の三人。ランドセルを子供部屋に投げ込んでから急いで居間に戻った清子の目の前には、テレビの前で突っ立ったまま頭を抱える正太と、ソファーの上に腰を下ろして膝を抱える蓮乃がいる。正直なところ清子としても、どっちかをやって現実から目を背けたいのが本音だ。だが、ここで自分が空想に逃げ出したところで何にもならない。清子は萎える気力を奮い立たせて、正太に現状を確認する。

 

 「え~っと、まずこの蓮乃ちゃんが空いてた窓から勝手に入ってきたと。それでこのソファーで寝ていたら兄ちゃんが帰ってきた。それで、何やかんやあって親御さんに電話連絡して、それを蓮乃ちゃんに話した。それとも書いて見せたかな? そしたら途端にこんな様子になったと」

 

 「だいたいそんな感じだ」

 

 正太は大きく何度も頷いて肯定を示す。清子は小さく嘆息した。母親が帰ってくるって言うだけでこの有様、一体全体どういう親子関係なんだろうか。虐待とかネグレクトとかの話は流石に御免だ。それになにより考えるべきことがある。赤く腫れた蓮乃の目尻を見ながら、清子は問いかけた。

 

 「何やかんやの内訳は後で聞くとして、これからどーすんの?」

 

 そう聞かれた正太は先ほどと同じ様に、頭を抱えて困惑と混乱を体言する姿勢に戻る。どうしようもこうしようもないから、こうやっていたのだ。

 

 「……どーしたもんだろ」

 

 「そんなこと私に聞かれても困るよ」

 

 清子は間髪入れずに返して肩をすくめた。そもそもこの事態と清子は、何の関係もないのだ。この問題をどうこうするのは当事者である正太の役割であり、アドバイスくらいならともかく、無報酬で積極的に解決をするほど清子に余裕はない。

 

 「そりゃぁ、そうだよなぁ」

 

 正太の頭がもう一段と落ちた。先ほどは蓮乃の涙を食い物でどうにかできたが、今度の落ち込みようには効果がない。あと思いつく手段としては、「清子に任せる」くらいしか正太の引き出しには残っていなかった。

 別段、清子が子供好きというわけではないことは、正太も知っている。だが、「頭をひっぱたき」「怒鳴りつけて泣かせ」「何かしらの地雷を踏み抜いた」正太が蓮乃の対応をするよりも、まだ何の関係もない清子がする方が幾らかマシなのは明白である。

 しかし正太が尋ねるその前に、清子から「NO!」が示された。これ以上ごねるわけにも行かない。以前の騒動であれだけ迷惑をかけたのに、さらにかけるなんてことは出来やしないし、したくない。

 

 「どーしたもんなんだよ、ほんっとこれ」

 

 八方手詰まり逃げ場無し。頭をどれだけ抱えたところで、事態を解決するナイスアイディアが飛び出てくるわけでもない。正太は頭を抱えて床にしゃがみこんだ。

 正太は頭を抱えて床に沈み込み、蓮乃は膝に顔を埋めている。実に混沌とした光景だ。清子もまた、してもいない頭痛を感じそうになる。もうこうなったら、「やりたくない」なんて贅沢は言えないだろう。

 清子は深く息を吸うと、正太に聞こえるようにわざとらしく、先ほどよりも数段深いため息を長々とついた。その顔には、苦笑と文句と諦めを足して三で割ったような表情が浮かんでいる。

 

 「あーもー、しょうがないなぁ。カスタード大福、箱入りの奴でやってあげましょう」

 

 正太の顔が先の蓮乃の逆回しのように輝いた。

 

 「わかった、四個入りの奴だな!」

 

 「八個入りの奴でね」

 

 そして、清子の言葉に先の蓮乃のように暗くなった。カスタード大福は単品一五〇円。安くとも四、五〇〇円はするケーキ類に比べれば格段に安いものの、小中学生にカスタード大福箱詰め八個入り(税込み一〇四〇円)を買うのは少々つらい。

 

 「せ、せめて六個入りで」

 

 ひきつった顔と震える声で正太は交渉を試みる。六個入り(八四〇円)なら一〇〇〇円以内に収まるため、財布の中だけで何とかなる。だが八個入りともなると、とっておきの貯金箱を割る必要性がでてくるのだ。しかし正太の示した妥協案に対しても、清子の表情に変化はなく決断にも変わりはなかった。

 

 「だめ、八個入り」

 

 にべもなく断られた正太は縋るように清子を見るが、清子の視線には一切のぶれはない。交渉戦の敗北を示すように、カクリと正太の首が落ちる。正太の脳裏には財布から足を生やした硬貨が逃げだし、貯金箱から羽を生やした千円札が飛び去っていく姿が映っていた。

 

 「……わかった、八個入りだな」

 

 空の向こうへ地の果てへと、去ってゆく小遣い達に悲しい別れを告げながら、落ち込んだ声で正太は条件を飲み込んだ。

 

 「おっけー、交渉成立ってことで~」

 

 手をひらひらと降りながら答えると、清子はランドセルを開けてゴソゴソと中身を探り、メモになにやら書き込む。好物のお菓子が手に入ると楽しげな様子の清子を見ながら、正太は俺が買うんだから一つくらいは俺が食ってやると、悲壮な決意を固めていた。実のところ清子が八個入りにこだわっていたのは、「家族四人が二つずつ食べられるから」であり、正太の決意は的外れだったりするのだが。

 お目当てのものを見つけた清子は、腹に一物ありと書かれた笑いを浮かべながら、膝を抱えた蓮乃の前に立った。顔を少しだけ上げて、蓮乃は見覚えのない、しかしさっきまでの相手にどことなく似た顔を、落ち込んだ目で不思議そうに見上げる。そんな蓮乃の前に清子は手を突き出すと、不思議そうにそれを見る蓮乃の眼前で、両の掌を素早く打ち合わせた。

 

 パァン! 

 

 破裂音にも似た柏手の音が居間に響いた。相撲で言うところの「ねこだまし」である。これは相手の虚を突き思考の空白を作る技であり、実際に蓮乃の頭の中は真っ白になった。渦巻いていた不安や恐れはきれいサッパリ吹き飛んで、驚きに目を白黒させている。それをやった清子は、さっきランドセルから取り出した紙束を、一枚のメモと共に蓮乃の目の前で揺らす。そのメモにはこう書かれていた。

 

 『ババ抜き、やらない?』

 

 

 

 

 

 

 ババ抜きが始まってしばらくが経過した。TV前の三つのソファーに三人それぞれが座り、中央の机の上ではペアになった捨て札が、小さな山を作っている。

 

 「む~~~ぬ~~」

 

 正太が目の前に広げた七枚の手札の前で、悩み混じりのうなり声とも文句付けの渋り声ともつかない音を蓮乃が喉からあげている。

 正太はそんな蓮乃をみながら、一枚のカードを残り六枚の手札より上に引き出した。まるで「このカードが特別ですよ」といっているようだ。余りに初歩的なブラフである。清子あたりなら鼻で笑って、正太の手札から取りたいカードを取るだろう。しかし、慣れていない蓮乃への効果は大きかった。突き出されたカードに目を丸くし、残りの手札との間を視線が何度も往復する。その表情はポーカーフェイスの反対で、つまり焦りの感情が丸出しだ。

 覚悟を決めたのか、蓮乃は硬い表情で飛び出した一枚に手を伸ばす。そんな蓮乃にイタズラ心が刺激された正太は、隣のカードも手札より上に引き出した。

 

 「んぅ~~!」

 

 それをみた蓮乃は、焦りと混乱と怒りを足して三で割ったような声を上げる。いや、手を振り回して抗議しているところをみるに、怒りの割合が多いかもしれない。そんな蓮乃の有様を見て、正太は底意地悪くニヤニヤと笑う。さっきまで迷惑かけられ通しだったのだから、少しくらいはいいだろう。

 それを見る清子はじっとりとした視線と、呆れ混じりの声で正太をたしなめる。

 

 「兄ちゃん?」

 

 「おお、悪い悪い」

 

 いくら意向返しが楽しくとも、ゲームを止めるのはよいとはいえない。そう思った正太が蓮乃に視線を向けなおした。

 瞬間、正太の目の前を素早く白い手が走った。驚く間もなく一枚のカードが正太の手札から抜かれている。カードを抜き取った小さな手の持ち主を見ると、何と言うか「してやったり!」と言いそうな自慢げな表情だ。「ムフーッ」とでも表現すべき鼻息も漏れている。どうやら蓮乃は怒っていながら、同時に隙をうかがっていたようだ。

 こいつは意外と強かだ。正太は認識を改め、キツい目つきをいつもより鋭くする。おかげで悪い意味で特徴的な顔立ちが、いつもの三割り増しで怖くなっている。具体的には夜中に交番を通りかかったら、有無を言わさず職務質問を頂けそうなくらいだ。

 

 一方、清子はそんな二人を見て呆れ混じりの忍び笑いをこぼした。素早く取ろうが悩んで取ろうが、当然カードに違いはない。それをよくもまぁ、ああも真剣にやれるものだ。幼い蓮乃ちゃんは当然としても、兄も兄で子供っぽい。

 

 そうこうしているうちに、蓮乃は正太の手札から引いたカードでそろった二枚を場に捨てる。蓮乃の手札は残り五枚。

 続いて蓮乃の手札へ清子が手を伸ばす。正太の行動を真似たのか、真ん中の一枚だけが手札から突き出ている。それをした蓮乃は鼻息荒く自信満々の表情だ。それを見た正太は口を一文字に結んで、喉から漏れそうな笑い声を押し留めるのに必死だ。

 しかし清子は先の蓮乃と違い、気にすることなく手札の端からカードを抜く。目に見えて蓮乃が肩を落とした。肩を落として落ち込むその様を見て、正太の肩が笑いを堪えて震えている。

 清子はそんな二人を見ると、本日何度目かわからない呆れと苦笑の混じったため息をこぼした。



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第一話、正太と蓮乃が出会う話(その七)

 古いことわざにもあるが、楽しい時間は早くすぎるものだ。五度目のババ抜きが終わったとき、時計の針は一七時一五分を指していた。電話越しに正太が聞いた、蓮乃の母親が帰宅する時間まであと一五分。もう一勝負といくには少々時間が足りない。

 ババ抜きに熱中していた二人に比べて幾らか頭が冷めていた清子は、時計の指す時間を確認すると、トランプの小山をまとめて箱にしまった。

 清子がトランプを箱にしまうのを見て、正太はようやく時間になったことに気付いた。長時間前かがみでババ抜きをしていたせいか、背筋が少々痛い。正太は両手を組むと手のひらを上に向けて大きく伸びをした。逆にのけぞって背筋を伸ばし、さらに両手を振るって体を捻る。声とも唸りとも付かない、豚の声のような低く重い音が口から漏れた。

 一方、蓮乃は清子がトランプをしまうのを不思議そうに、そして不満そうに見ていた。顔を見るに「まだまだ遊び足りない」と書いてある。だが、もう時間がきてしまったのだ。清子が蓮乃に見えるように時計を指さす。キョトンとした表情の蓮乃はそれを見て、ようやく何でババ抜きを始めることになったかを思い出した。

 

 途端に蓮乃は日中の朝顔もかくやの、しおれきった顔になり果てる。表情は握りしめた紙のようにクシャクシャに潰れ、二つの目からは涙がにじんだ。

 その様を見て正太が清子に目配せをするも、清子は静かに首を左右に振った。蓮乃のご機嫌取りに清子がやったことは、蓮乃母の帰宅という目の前の事実からゲームで目を逸らさせるということだ。あと一五分で蓮乃母が帰宅する以上同じことはやれないし、やったところでほとんど意味はない。後はこの萎びた表情の蓮乃をそのままに蓮乃母の帰宅を待つことだ。だが……

 

 正太はかつての自分が同じような表情をして、べしょべしょ泣きながら鼻をすすっていたことを思い出していた。

 自分が「前の一件」をやらかして、周り中が正義面で楽しそうに自分を打ち据えていた時の話だ。あの時は、ひたすらに情けなくて辛くて死にたくてたまらなかった。無尽蔵だと思いこんでいた意志の力は、あっと言う間に底をつき、鋼鉄製だと勘違いしていた反骨心は、割り箸より簡単にへし折れた。できたことと言えば、自分への言い訳とゴメンナサイを口の中でモゴモゴと噛んで、布団を頭からかぶることだけだった。

 目の前の蓮乃の顔からは、そんな不愉快極まりない記憶が思い起こされて仕方なかった。蓮乃が浮かべる「人生全てが嫌になって泣きじゃくっている」ような表情が、胸中からかつての情景を引きずり出していたのだ。別に目の前の蓮乃が、その時のことに関わっているわけではない。思い出すだけで嫌になるような思い出を、蓮乃の表情から思い出すだけだ。だが、意識の端に上るだけで、腹の底から本日のランチがこみ上げてくるような過去を、喜んで想起したいと思いはしない。

 

 正太は歯ぎしりと共に頭を掻きむしった。塗れた陶器を擦り合わせたような音と、猫が柱で爪を研ぐような音が、頭蓋の中で響いた。さらに、それだけでは足りぬと罵声を口の中で吐き捨てる。眉間に皺を寄せ歯を剥いたその顔は、牙で敵を抉り殺さんとするイノシシのそれだ。当社比五割り増しの凶相になった兄の顔を見て、清子が顔をひきつらせて困惑の声を上げた。

 

 「えっと、兄ちゃん……?」

 

 兄の突然の異様に惑乱する妹を置いて、正太は机の上のメモをはぎ取ると、石盤に刻むように文字を書き殴った。無駄に力が入りすぎたのか、メモの下の机が悲鳴のような音を立てる。そしてメモを書き終えると、刑事ドラマの逮捕状よろしく、蓮乃の眼前にメモを突きつけた。

 しゃくりあげながら顔を上げた蓮乃はメモに目をやる。泣き顔も涙も止まる衝撃に、その目は大きく開かれた。さらに赤く染まるのも無視して二度三度と目を擦って涙を払うと、メモを見直して恐る恐る正太の顔を見つめる。正太は「これから人を殺しにいきます」というより、「ついさっき殺して食ってきました」と書いてあるような獣面、いや渋面で首を縦に振った。

 それをみた蓮乃は正太からメモを奪い取ると、両手で握りしめて掻き抱いた。まるで手放した瞬間に、それが蒸発して消えてしまうといわんばかりの動きだ。

 

 唐突に、玄関から客人の訪問を知らせるチャイムが響いた。この時間、このタイミングで来るのは蓮乃の母ただ一人しかいないだろう。

 二人の有様を見て困惑することしきりであった清子は、好都合と言わんばかりに玄関へと足早に駆けていった。異形の表情をしている兄と、なぜかそれに希望を見いだしている蓮乃ちゃんという、異様な空間に居続けるのは居心地が悪い。

 

 背後の二人と行儀が悪いのを無視して、清子は靴をつっかけると、鍵をはずしてドアノブを回す。そして扉を開き、扉の先を見て、胸の内に苦い息を吐いた。

 清子は人生が不公平だということは多少は知っているつもりだ。少なくとも自分が美人とよばれる存在からほど遠い位置にいることは分かっているし、顔がいいだけでは得られないだろう、『気の通じあう友人』という幸運を持ち合わせていることも、理解している。

 それでもここまで差があると愚痴の一つもぼやきたくなる。共産主義者になるつもりはないが、彼らの気持ちが否応なしに理解できてしまった。蓮乃の顔を見たときも思ったが、富が偏在しているように美もまた偏在しているのだ。

 

 「失礼します。ここは宇城さんのお宅でよろしいでしょうか?」

 

 開いたドアの先に居たのは同性でもハッとする、いや嫉妬するほどの美人がいた。

 まず感じるのは、ピンと張りつめて触れたら崩れてしまいそうな、氷細工の冷たい儚さと、ガラス細工の硬質な脆さ。

 整った顔立ちは親子らしく蓮乃とよく似ているが、子供特有の無邪気さの代わりに、疲れきったような陰性の色気が醸し出されている。

 さらには絹の糸を思わせるボブカットの黒髪に、大理石の白さと滑らかさを持つ肌。

 ベージュ色のスーツに包まれたシルエットは、すっきりと細いながら、出るところと引っ込むところはしっかりメリハリが利いている。

 

 清子にとっては、存在そのものがある種のいじめに思えた。自身を省みてみれば、月面もかくやのクレーターだらけの頬に、前衛芸術風にねじ曲がった天然パーマ。そしてなにより、兄同様に母から引き継いだ横幅の広さと、父から頂いた骨太な肉体。数え上げればキリがないほど多く、比べれば月とスッポン以上の開きだ。

 だが、愚痴を吐こうが文句を付けようが、自分の慰め以外何にもなりはしない。ニュートンの法則にだって書いてある。「力が作用しない限り物体は状態を維持する」……つまりは「物事は何もしなければそのまんま」ということを。だったら、どうにもならない外見の話はとりあえず置いといて、今やるべきことをやるべきだ。

 

 そして今やるべきことは、お客への応対だ。

 

 「はい、宇城です。向井蓮乃ちゃんのお母さんですか?」

 

 

 

 

 

 

 蓮乃の母は”向井睦美”と名乗った。透明感のある涼やかな彼女の声に、コンプレックス的な何かを大いに刺激されつつ、清子は玄関口で話すのも何ですからと、家の中へと招こうとする。

 が、やんわりと断られ、結局正太と蓮乃の二人を呼ぶことになった。足早に歩いてきた二人は、どことなく緊張したような面持ちだ。蓮乃ちゃんが緊張するのはさっきまでの反応を見るにわからなくもないが、なぜ兄まで緊張しているのだろうか。清子が小首を傾げていると、睦美は蓮乃と話すためか、合成皮革製の肩掛けバックからノートとペンを取りだした。

 そして蓮乃との会話のためにペンを走らせようとして、蓮乃の顔、特に目元に視線が止まった。清子が帰ってくるまで大泣きし、ババ抜きの後も涙を流していた蓮乃の目は、周りが濃い赤に染まっていたのだ。蓮乃の赤く腫れた目を見る睦美の表情は、徐々に硬い色を帯びていく。

 端から見る正太にも、睦美の表情がひきつっていくのが見て取れた。きっと自分の表情も、同じ様にひきつっていることだろう。なにせ、蓮乃を泣かした張本人であり、嘘は言わなかったといえ、電話ではその事実を半ば意図的に抜かしてしまったのだ。

 血の気の引いた顔の正太は、目のあった清子に縋るような視線でSOSを送る。ようやく兄の緊張の意味が分かった清子は、言い訳の一つくらい用意しておいてくれないかなと、胸の内で小さく嘆息する。そして青い顔の正太を助けるべく、助け船を出航させた。

 

 「睦美さん、でいいですか? 私は宇城正太の妹の宇城清子です。えっと、蓮乃ちゃんの目の件ですよね。何があったっていうと、さっき蓮乃ちゃんが泣いちゃったんですよ。兄ちゃ、じゃなくて兄の顔に驚いてしまって」

 

 睦美は硬い表情のまま、目の前の正太の顔を眺める。視線にさらされた正太はさらに顔をひきつらせて体を堅くする。そんなひきつった正太の顔は、歯を剥いた豚の顔によく似ていた。

 睦美の表情から堅い色が薄れていく。どうやら彼女は納得したらしい。それと同時に、正太の表情がずしりと落ち込む。当然である。目の前の女性、それもすこぶる付きの美人に「子供が泣き出してもなんらおかしくない顔」だと、納得されてしまったのだ。そして、その暗くひきつった表情は見慣れた清子からみても、子供が泣き出してもなんらおかしくない顔であった。

 睦美の顔からは、警戒の色が抜けきっていないが、少なくとも敵意や蔑意は見られない。正太の顔からもひきつりが抜け、凶相三割引ぐらいに落ち着いたものになる。その様子を見て、清子は内心で一つ息を吐いた。ともかく一応の問題は解決したようだ。

 

 「……どうもすみません。すこし心配し過ぎていたみたいです」

 

 「いえいえ。こちらも誤解させるようなこと、いや顔をしていますから、しょうがないかと」

 

 睦美は静かに頭を下げた。手のひらを横に振り、謝罪は必要ないと清子は示す。

 ついでと叩き込まれた清子の容赦のない追撃に、正太はさらに肩を落とす。ちょっと言い過ぎたかと清子は思ったが、こんな面倒ごとに巻き込んだ罰だと考えることにして、気落ちした兄の様子を意図的に無視した。そんな二人の様子がツボに入ったのか、睦美はクスリと小さな笑いをこぼした。

 

 

 

 

 

 

 蓮乃と睦美の二人が一〇四号室の扉に消えたことを確認し、清子は一〇三号室の扉を閉めて鍵のつまみを回した。これで面倒ごとは一通り終わった。清子は疲労をにじませた深い息を肺の底から吐き出す。

 振り向いて玄関の土間に目をやると、蓮乃が睦美へと今日の出来事を報告していた、つい先ほどの光景が脳裏に思い出された。子供が母親に今日一日の出来事を報告する、一般的に微笑ましい姿だ。だが、清子が見る蓮乃の表情はどこか硬いように見えた。

 

 清子から見て、蓮乃の睦美に対する反応はあまりに極端なものだった。親の帰宅を告げられただけで大泣きするなど、虐待でもない限りあり得ない話だ。だが、見た限り睦美の蓮乃に対する態度は、異常なものには見えない。それとも他人である自分たちの前だったから、こうやって真っ当な態度を取っていたのだけなのか。家に帰れば蓮乃ちゃんを気が晴れるまで叩き続けるような、酷いことをする人なのだろうか。

 正直、その手のことには関わりたくない、と言うのが清子の本音だった。ワイドショー愛好家で詮索狂いなオバハンでもあるまいし、誰が好き好んで隣家の家庭事情に首を突っ込むのか。ろくでもない目を見るのが目に見えているだろう。

 だが、その心配ももう必要ない。二人は一〇四号室へと帰宅した。これで終わりだ。今後、隣近所ということで顔を合わせて挨拶することはあるだろうが、それ以上のことはないだろう。さすがに隣の部屋から傷だらけの蓮乃ちゃんが飛び出すようなことがあったら、警察に通報するだろうけれど。

 

 ――一つ気になるのは……

 

 そこまで思考を進めた清子が後ろを振り返る。そこには感情の読み辛い仏頂面の正太が、天井に視線をさまよわせていた。清子の容赦ない口撃にパンチドランカーにでもなったのか、正太の視線はどこか虚ろに宙をうごめいている。頑なな表情と相まって、まとう空気は仏閣の鬼瓦を思わせる。

 正太の様子を見る清子の目が細まった。先の兄の様子は流石におかしいものがあったし、そんな兄のメモを受け取った蓮乃ちゃんの反応も、また極端だった。一体全体なにを書いて渡したのだろうか。責任もなにもないのに、大言壮語な口約束をまき散らされたらたまらない。あのメモが感情論由来の極端な行動でないことを願うばかりだ。

 「前の一件」でそのことは学んだと思っているが、その「前の一件」のおかげで信じきるのは少々難しい。兄を疑うようで気が引けるが、確認は必要だろう。

 

 「あのさ、兄ちゃん。さっき蓮乃ちゃんにメモ渡してたみたいだけど、何書いたの?」

 

 「『次に来る時は親御さんに許可貰ってから来い』って書いた」

 

 表情と同じようなぶっきらぼうな返答を聞いて、清子は頭を抱えてうずくまりたくなった。さっきから考えていた悪い想像が的中してしまったのだ。

 この愚兄は一体全体何を考えているんだろうか。それとも何も考えていないんだろうか。「前の一件」から何にも学んでない。考えなしの善意気取りがどんな騒動を巻き起こしたのか、身を持って解ったんじゃなかったのか。これじゃあ、明日以降も蓮乃ちゃんがやってきて、それに続いて睦美さんがやってきて、下手をしなくても隣家の家庭問題に巻き込まれて……

 

 そこまで考えたところで、清子はハタと気がついた。親御さんの許可を取るということは、当然蓮乃ちゃんの母である睦美さんから許しを得るということだ。さっき聞いた兄の話によれば睦美さんは電話で蓮乃ちゃんの名前が出ただけで、極端な反応を返している。

 さて、隣近所の家とは言え、蓮乃ちゃんが他人の家に遊びに行くことを睦美さんは許すだろうか? 今までの様子からしてそれは考えづらい。むしろ今回の顛末をみて、蓮乃ちゃんを外に出すことをより拒むようになってもおかしくないだろう。少なくとも睦美さんがOKを出すならば、納得するまで話し合った後になるはずだ。となれば……

 

 「もしかしてそれ、睦美さんの性格を考慮に入れて言ったの?」

 

 清子が確認の言葉を口にする。正太は仏頂面のまま首を縦に振って肯定を示した。

 つまるところ、あのメモの文面は「無責任極まりない、自称:善意の賜物」ではなく「相手を安心させるための目眩まし」という訳だ。清子は安堵の籠もった息を深く吐いた。さすがに前と同じ失敗を喜んでやらかした、という訳ではないようだ。

 

 「兄ちゃんも多少は解るようになったんだねぇ」

 

 知り合いの子供の成長をみた大人のように、しみじみと清子がつぶやく。随分と上からの言葉であるが当人に自覚はないようだ。

 

 「…………まあ、な」

 

 それに対して随分と間を空けてから、正太は唾を吐き捨てるように小さく言葉を発した。安堵した様子の清子とは裏腹に、正太の内心には自己嫌悪がコールタールのようにへばりついている。

 たしかに以前の自分よりはずいぶんマシな行動だ。前のままなら、責任も権利もないくせにヒーローよろしく臭い台詞を吐きながらクチバシを突っ込んでいたに違いない。清子のいうように自分もいくらかは成長できたのだろう。

 

 だからといって正太の気分が良くなる理由はどこにもなかった。自分の都合を優先して子供を、それも自分と同じように泣いていた相手を騙したのだ。とてもじゃないが良い気はしない。

 そもそも叶わないことが半ば確定している約束なんてせずに、妹同様に相手を無視すれば良かっただけの話なのだ。それをいちいち空手形を渡して自己満足のための慰めをするあたり、自分に自分で反吐が出そうになる。

 渋い顔の正太は、ズボンに入れっぱなしだったポケットティッシュから一枚取ると、苦いものを痰と一緒に吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 『……福健連邦首相は新しいアメリカ大使着任へ向けた大規模なセレモニーを発表……米国との同盟関係を改めて中華諸国にアピール……』

 

 「ごちそうさまでした」

 

 ニュースキャスターの声を背景に、夕食を終えた正太は食器をバランスよく重ねた。キャスターの隣に座った中華諸国コメンテーターの言によれば、東アジアの情勢は安定に向かっているらしい。

 

 いつも通りに、重ねた食器を流しに置いて、

 いつも通りに、テレビでも見ながら時間を過ごして、

 いつも通りに、いつもの番組が終わったら宿題に手を着けて、

 いつも通りに、キリのいいところで風呂に入って、

 いつも通りに、そのまま布団にくるまって寝る。

 それで今日もおしまい。また明日だ。

 

 今日は色々あった。でも、これで終わり。日はまた昇って、いつもと変わらない、変わりようのない、変えられない明日が待っている。

 流しに食器を置きながら、正太は後ろを振り返る。一足先に食器を片づけ終えて、ソファーで午後の新聞を斜め読みしている父。先の自分同様に、運びやすく食器を積み重ねてる妹。料理の残った大皿や常備菜の小鉢を、盆に並べて台所へと持ち帰ろうとしている母。

 明日も昨日と変わらず、あんまり楽しくない一日だろう。でも元気な家族がいることも変わりない。それでいいのだ。いや、「元気な家族がいること」、それがいいのだ。

 まんざら嘘でもない言い訳で心を慰めると、正太は父の隣に腰を下ろした。片づけの合間にニュースは終わり、テレビは明日の天気予報を映している。

 

 予報は曇り。しかし、夕方付近から晴れるそうだ。



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第二話、正太が蓮乃を叱る話(その一)

 今日も今日とて全く持って楽しくない学校生活を終え、”宇城正太”は毎日変わらぬいつもの通学路を朝とは逆向きに歩いていた。

 昨日と変わって本日の空は、コンクリ色の曇り空。日差しがないくせに、空気は晩春の生温さと初夏の暑さを足して二で割ったような、何とも言い難い温度を帯びている。おかげで汗っかきの正太の肌は、にじみ出る汗でどことなくべた付いていた。

 

 そんな正太の鼻先に、五月らしく黒黄文様の迷彩揚羽蝶(メイサイアゲハチョウ)がヒラヒラと舞っている。カラタチの植木に止まり、葉っぱ色に変わった翅をぼんやり見ていると「もう五月なんだな」と取り留めのない思考が頭をよぎった。

 代わり映えのしない毎日がすぎ、こうして中学を卒業して、高校を卒業して、進学するか就職するかして、歳とってもどうせ一人で、そんで勝手に死ぬんだろうな。後ろ向きに漸進している意味もない思考が、ラムネの泡みたいにぷかりと浮かんだ。

 

 ――そう変化のない毎日がずっと続いて……

 

 そこまで考えたところで、おもいっきり振った父の缶ビールよろしく、昨日の光景が脳裏へと噴き上がってきた。そのなかでも色々とお世話になった、というかお世話をした”向井蓮乃”のドヤ顔と泣き顔が、頭の中でデカデカとその存在を主張している。そのむやみやたらとビックサイズなイメージに、正太の顔に苦虫を噛み締めてしまった表情が浮かんだ。

 

 大きなため息とともにイメージを吐き出すと、何度か頭を振ってイメージの残りを振り飛ばした。

 確かに昨日は色々あった。その上自分は、あの娘にメモを渡すという余計なことをした。だがおそらく、今後会うことはないだろう。何せ母親の様子を鑑みるに否定されて反対されて、それでお終いとなるのが見て取れる。昨日の一件は驚くべき事だろうが、これっきりでそれっきりの事なのだ。

 

 さっさと家に帰ろう。そして小説読んで忘れよう。いろんな気持ちをため息一つに押し込んで、いやな感情をまとめて吐き出す。それから体を大きく伸ばすと、正太は家路を行く足取りをいくらか速めた。

 

 

 

 

 

 

 これっきりでそれっきりの事、そのはずだった。だが、目の前の光景はきっぱりとその考えを否定している。

 

 正太が立つのは我が家である間島アパート一〇三号室のある通路。その一〇三号室のドアの前には、体育座りをした見覚えのある顔立ちの女の子がいる。これが妹である宇城清子なら、早いお帰りを笑ってやって鍵を開ければすむ話だが、問題はそれが妹でも家族の誰かでもなく、つい昨日にそれはもう色々とあった、向井蓮乃その人であるということだった。

 

 ――あんだけ極端な反応したくせに、こんなにあっさり許可出したの!? 睦美さん!

 

 それとも実は初孫できた爺さん婆さんよろしく、実は蓮乃にダダ甘だったりするのだろうか。正太はあまりの混乱に顔半分だけを器用にひくつかせ、蓮乃の母である”向井睦美”に向けて内心で大いに文句を上げた。

 いや、あの蓮乃の極端な反応も、睦美さんの過保護が理由なら頷けなくもない。たしか過保護も行き過ぎれば、ある種の虐待になるって話も聞いたこともある。過保護を嫌がったと考えれば、別段おかしくはないのかもしれない。

 

 事態の想定外さから、明後日の方向へ思考が羽ばたき始めた正太。そんな一人上手を続けている正太に気が付いたのか、パステルカラーのワンピースをまとった蓮乃が、抱えた両膝から顔をひょいと上げる。

 その顔に浮かぶのは、感情が抜けたような遠くを見るような、どこか某漠とした表情。蓮乃の年に似合わない美貌と相まって、宗教画の天使じみた印象を見せていた。しかし、オーバークロック状態でフリーズしている正太を見つけると、途端に蓮乃の表情はまさに子供な元気いっぱいの笑顔に変った。勢いをつけて体育座りから立ち上がると、蓮乃は元気よく右手を振り回す。

 

 「みー! むーなーっ!」

 

 正太の知る言語体系から直上方向に離脱した声が耳朶をたたき、正太の思考を強制終了させる。正太が蓮乃の方へと視線を向けると二人の視線が交差して、蓮乃の振る手は速度三割り増し、笑顔は陽光を存分に浴びた向日葵のそれに変わった。それを見た正太の脳裏に、飼い主の帰宅にちぎれんばかりに尻尾を振る柴犬の姿が浮かぶ。

 ひきつり気味の顔に「コーラガムのつもりでゴーヤガムを噛みしめた」ような、疑問と違和感と苦さと渋さが入り交じった微妙な表情を張り付けながら、正太は蓮乃の側へと近づいてゆく。

 

 「お前、睦美さんから許可をもらえたのか?」

 

 予想外の混乱故か、蓮乃が障害故にこちらの声を聞き取れないのも忘れて、正太は口頭で質問を投げかける。不可思議そうに首を捻った蓮乃は、何を察したのかウサギ型ポシェットに手を突っ込むと、昨日と同じ「お話」と書かれたノートを差し出した。当然その表情は、「よくわかったでしょう!」といわんばかりに得意顔だ。

 混乱続く正太はこれまた口頭で礼を言うと残り少ない白紙のページを開いて、ようやく正気に戻ったのか手元にペンがないことに気が付いた。

 そこにさらに得意げな顔の蓮乃がシャープペンを正太に突きつけた。小鼻がプクリと膨らみ、「完璧」と書かれた得意満面の笑みである。ただし、ペン先を人に向けるのはあまり褒められたことではない。

 いい加減に混乱から立ち直った正太は、蓮乃へ向けて頷くと受け取ったペンで、最後のページに蓮乃にいうべき礼と疑問を書き付けた。

 

 『ノートとペンありがとう。助かった。ところで、お母さんから家に来ても良いって言われたのか?』

 

 お礼の書かれたページを見た蓮乃は、「ムフゥ」と非常に満足げな息を漏らす。お礼を言われたことに大満足して他が目に入らないのか、文面後半に対する反応は見られない。

 おいこら、と思わず正太は声を上げそうになるが、目の前の娘っ子は人の言葉が聞き取れないのだ。先と同じミスをするのも馬鹿馬鹿しいので、文面後半に下線を引き、ペン先でそこを叩いて言いたいことを強調する。それを見てようやく気が付いた蓮乃は、正太からノートを受け取るとさらりと回答を書き上げた。

 

 『後で話すから大丈夫』

 

 ――回答になってねぇ

 

 正太の顔に形容しがたい、しかし誰がどう見ても「非常に悪い」と言わざるを得ない色合いが浮かぶ。どう考えても大問題である。昨日の睦美の様子から察するに、帰宅後にこんな事を聞かされたなら、正太は警察署でカツ丼を食う羽目になり、蓮乃は家の柱に縄で括り付けられるであろうことは明白だ。

 にもかかわらず、蓮乃の顔にそのことを気にした様子は一片たりとも表れてはいなかった。有るのは常と変わらぬ、考え無しの無邪気さと根拠のない自信を一:一でミックスジュースにした子供そのものの表情だ。

 蓮乃が実は未世出の天才子役で平静を演じているのでもない限り、昨日の様子から自分が何をしているのか、その自覚が全くないのだろうと推察ができる。それとも、実は他人に迷惑をかけることをほんの僅かも気にかけない、希代のクソガキだったりするのだろうか。あながち間違いでもあるまい。

 

 頭を抱えて泣きたい気分を、ため息とともに吐き出した。昨日も思ったが、顔がいいからって許される限度を超えていやしないか。何にせよ蓮乃の母である睦美さんに連絡をせざるを得まい。カツ丼は食いたくあるが、娑婆で食べる最後の食事にする気はないのだから。

 そう胸の内で決めた正太は、蓮乃からもう一度ノートを受け取る。最後のページに『電話するからここで待て』と蓮乃に書き渡し、TV脇の電話へと向かうべくドアを開く。

 

 ――睦美さんに連絡した後は、蓮乃は正座で説教だ。足がしびれて泣き顔になるまで、いや、なっても無視してさらに小一時間は小言をぶつけてやる。

 

 想像の蓮乃をイジメつつ正太は、奥の居間にある電話機へと足を進めた。言葉を聞き取れない蓮乃への説教は文章となるだろうことや、そこまでやったら腱鞘炎で自分の方がダメージが大きいだろうことは頭の隅に蹴り込んで置く。現実に向き合うのはもう少し後にしたい。昨日今日と色々と有りすぎたせいか、正直なところ頭痛がしそうな気分だ。

 

 そのせいだろうか。

 

 受話器を取った自分の後ろで、最後まで文字で埋まったノートを替えるべく蓮乃が自宅へ戻ったことに、正太は気が付くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 ただでさえ季節にそぐわない生温い気温のせいで、正太の肌は汗にぬめっていた。だというのに、電話先のパニックじみた反応のおかげで、受話器を握る手に脂汗と冷や汗が追加される始末だった。

 

 『本当に、本当に申し訳ありません! 蓮乃によくよく言って聞かせますので、帰宅までの間ご迷惑をおかけします!』

 

 睦美は自分のあまりの勢いに、自分の日本語がおかしくなっていることにも気がついていないようだ。しかし、それを聞く側の正太も、その勢いのせいで日本語のおかしいことにまで気が回らない。

 

 「い、いえ、お気になさらず。では、昨日同様に蓮乃ちゃんは睦美さんが帰られるまでの間、預からせていただきます。それでは失礼します」

 

 昨日同様に崖に鉄砲水で謝り倒す睦美に、半ば辟易しながらも蓮乃のことを伝え終えた正太は、受話器を置いて首を大きく回した。小枝を折るような軽い音が連続して響き、脳を小突かれたような軽いしびれが頭にしみた。

 素敵な美人の声を聞くことは大歓迎だが、こうもコミュニケーションに難があるとさすがに辛いものがある。いや、そもそも自分の方にもコミュニケーション能力に問題が多々あるのだ。人のことが言えたためしではない。

 さてどうにか許可は得れたわけだし、昨日同様蓮乃の相手をしてやるか。そう考えて振り返った正太は玄関へと視線をやる。しかし、そこには見覚えのある長い黒髪はなく、開いたドアの向こうには蓮乃が背中を預けていた鋳鉄の柵が有るだけだった。

 

 「ッァ!?」

 

 声にならない疑問の声をあげて、正太は玄関へと駆け出した。しかし、玄関どころか自宅前の通路を端から端まで眺めても、蓮乃の姿は見られない。正太の顔が驚愕の形に強ばった。蓮乃は何処に! ?

 アクセルを踏み込みすぎて正太の思考が強烈にホイールスピンする。だが、正太は頭を強く振って混乱を振り払い、さらに暴走気味な思考を深呼吸で急停止させた。蓮乃の行動を考えて、蓮乃をとっ捕まえなければならない。正太は昨日の蓮乃の行動を一から思い返した。

 

 ――まずあいつは…………居間のソファーで勝手に寝てた。

 

 表情同様に強ばっていた正太の体から、緊張が音を立てて抜けていった。

 恐らくは昨日同様に勝手に家に入ったに違いない。きっと昨日我が家に入ったから、今日も大丈夫だとかあの娘は考えてんだろう。居間に姿はなかったから、子供部屋に本でも取りに行ったのだろう。よし、頭を小突いてたっぷりお説教に決定だ。

 座った目の正太は開け放した扉を閉めると、靴を脱ぎ捨て居間の方へと歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 子供部屋を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の眉間にシワが寄った。

 ――他人の家の中で探検でも始めたのか。

 

 寝室を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太のこめかみに青筋が立った。

 ――まさか台所でお菓子を漁っているのか。

 

 台所を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太はすぐ見つかると自分に言い聞かせた。

 ――トイレにでも行ったんだ。

 

 風呂と便所を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の顔に冷や汗がにじんだ。

 ――入れ違いになったんだ、そうだ、そのはずだ。

 

 もう一度家中を探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の呼吸が目に見えて荒くなった。 

 ――どこだ、どこにいる。

 

 再度家中を隅から隅まで探す。蓮乃の姿は見られない。

 正太の顔から血の気が音を立てて引いていく。

 ――どうしよう、どこにもいない。

 

 「どうしよう」

 

 正太の口から言葉が漏れ落ちた。何の役にも立たない疑問符混じりの混乱思考で、正太の頭がギチギチに満ちてゆく。

 預かるといった子供を、承った数秒後に見失う。失態どころの話ではない。時代が時代なら切腹ものである。自分はそれをやらかした、やらかしてしまったのだ。

 

 「どうしよう」

 

 何も考え付かない。

 

 「どうしよう」

 

 何も考え付けない。

 

 「どうしよう」

 

 頭が真っ白に塗りつぶされる。

 

 「どうしよう」

 

 「どうしよう」

 

 「どうしよう」

 

 「どうし…………いい加減にしろこん畜生が!」

 

 大金星を狙い土俵場に踏み入る相撲取りのように、正太は力強く頬を張る。頬の痛みと衝撃が、脳をパンクさせていた無意味な思考を弾き出した。

 混乱している場合ではない。急ぎ蓮乃を捜さなくてはならないのだ。正太は近くで子供の行きそうな場所を、おぼろげな記憶から選び出してゆく。

 

 ――おもちゃ屋はすぐにいける距離じゃない、電気屋も同じ。ほかには何だ、何がある?

 

 ――公園が近いな。それと、ケーキ屋は俺の足でも歩いていける。和菓子屋はその向かいだ

 

 捜索する場所を「公園」「ケーキ屋」「和菓子屋」の三つに定め、清子宛に現状を電話横のメモに残す。そして、ポケットの中の鍵を確かめると、正太は駆け足で自宅から飛び出した。



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第二話、正太が蓮乃を叱る話(その二)

 

 

 「……ゼーッ……ゼーッ……ゼーッ」

 

 さほど遠くないと言え、そこそこの距離を走り回ったせいで正太の息はひどく荒れていた。

 意外なようだが正太は元来運動は得意な方だ。体型に似合わない運動性は希少な魔法と相まって、小学校時代の正太の鼻を天狗よろしく伸ばしていた。

 だがここ数年の運動不足と体重の増加は、肉体から持久力の三文字を奪い去っていた。それに加えて体型が少々ふくよかにすぎることもあり、正直きつくて堪らないというのが現在の正太の本音であった。火で炙ったヤスリを、一呼吸ごとに呼吸器官にかけられている気分だ。さらにコップ一杯どころか洗面器いっぱいの汗が、制服の肌着をグショグショに濡らしている。推測だが、ワイシャツどころかその上のブレザーまで汗で湿っていることだろう。明日の朝は着る物がなくてさぞかし困るに違いない。

 それでも、無理に息を吐いて、無茶に息を吸い、酸素を求める体を無視して呼吸を何とか整える。

 

 公園で遊ぶ子供達を一通り確かめ(パトロール中の警官から睨まれた)、ケーキ屋と和菓子屋のある通りで一軒ずつ確認し(店の人からは不審人物を見る目で見られた)、正太は蓮乃を捜し回ったがその姿を捕らえることはなかった。

 あとは、少々距離のある電気屋とおもちゃ屋まで足を延ばしてみるくらいしか、蓮乃の居所に想像がつかない。だがしかし、自転車でも一〇分はかかる電気屋とさらに移動時間に一〇分を追加するおもちゃ屋に、徒歩で行くのはさすがに体力の限界を超えている。

 その上、我が家にある自転車は共用のママチャリ一台限りで、この時間は母がパートの出勤に使用しているのだ。さらに言うなら自転車で三〇分かかる母のパート先へ自転車を取りに行くのは、ナンセンスを通り越してジョークの領域に達していると言ってもいいだろう。

 

 つまりは自己の体力的な側面から考察するに、このまますごすごと自宅へ帰還し、絶望的な心地で睦美さんに「蓮乃ちゃんが行方不明です」との一報を連絡するほかないということだ。

 

 ――嫌な手段を使わない限りは、だけど

 

 右手にはまる、赤銀色の「腕輪」に視線をやり、正太は感度調整ねじが最低を示しているのを確認した。電子音の警笛をならしながら町を走り回るのは、とりあえずしないですみそうだ。

 

 嫌な手段と言っても、別段法に反しているというわけではない。使い方如何では法に触れる部分もあろうが、気を付ければさほど心配はない。

 ただ、単に自分の心理的にこんな手段に頼るのは、「便所で見つけたカマドウマを直火で炙って熱々でいただく」ぐらい嫌だと感じているだけだ。昆虫食を否定するつもりはないが、自分個人としてはとてもじゃないが許容できない。それくらい「それ」を行うのは心底嫌だ。

 だが、ほかに方法がないならやるしかない。「それ」をやらずに蓮乃を見つけ出せないより、「それ」やって蓮乃を見つけた方がマシなのだから。

 正太はいろんな感情のこもったため息を深く深く吐くと、深く深く息を吸い、そのまま深呼吸を繰り返し始めた。

 

 

 

 

 

 

 訳の解らないものの代名詞である「魔法」だが、さすがに四〇年以上つきあえば、人類もある程度のことは判ってくる。たとえば、受動的な「(勝手に)使われる魔法」と能動的な「(自ら)使う魔法」におおざっぱに分類できる、みたいなことが。

 その分類でいくならば「それ」、すなわち正太の魔法「熱量操作」は、能動的な「使う魔法」だ。

 

 ではどうやって使うのか?

 

 正太は殊更大仰に大きく息を吸い、できる限り時間をかけて息を吐いた。まるで炉に風を送るフイゴのように、深い深い深呼吸をする。そして想像する。イメージする。

 ヘソの下の腹の底、中国拳法で言う丹田の辺りをイメージする。そこに溶岩がある。沸々と泡を立てて煮えたぎるマグマがある。それは自分の生命が持つ熱量(カロリー)そのものだ。

 

 実際はそんなものは「ない」。あるのは大小の腸と腎臓くらいだ。でもそこに「ある」と明確にイメージする。大道芸のパントマイムのように、その温度を、その熱を、その重量を、強く強く想像する。

 そして溶岩がポンプで吸い上げられる。ポンプは胸の内で脈打つ心臓だ。心臓が血液を循環させるように、溶岩を吸い上げて体の隅々へと流し込んでゆく。心臓から胴体へ、胴体から四肢へ、四肢から指先へ。煌々と赤熱する溶岩流が細い流れになって、動脈を通る赤い血潮のように細胞一つ一つに流し込まれてゆく。全身が煮えたぎり、燃え上がり、茹だっていく。

 

 イメージに伴って深呼吸のリズムが速まってゆく。始めは体中に染み渡るような深い呼吸。しかし今は全力疾走した後のような、荒く短いテンポで息が肺を出入りする。それに併せて、心拍もまた運動後のような一六ビートを刻んでいる。

 

 火山から吹き上がる溶岩に触れたように、流し込まれた細胞は赤々と燃え上がる。細胞が熱膨張を起こして膨れ上がり、灼熱するエネルギーが細胞膜から溢れ出て、隣の細胞をも赤熱させる。

 筋繊維の一本、皮膚の一枚、骨の一片に至るまで、内から流し込まれた生命の熱に沸騰している。まるで自分は巨大な炉心だ。流し込まれた熱量(カロリー)を燃やして、無尽蔵のエネルギーを生み出す、怪物的なエンジンだ。きっと水をかけたら湯気が昇るどころか、水蒸気爆発を起こすに違いない。

 

 全身余すところなく熱量(カロリー)が注ぎ込まれたのを感じ、正太は無理矢理息を止めて荒い呼吸を急停止させる。さらに余剰の熱を排出するように、深く深く息を吸って吐く。吐息は紙をかざしたなら、火が点きそうなほどの熱を帯びている、そんな気がする。実際はどうとかは気にしない、気にしている余裕もない。まるで全身が内側から炙られている感じだ。

 実際、正太の全身は内から来る高熱に紅潮して熱気を放っている。もしも、冬場なら湯気と陽炎が立つ様をみれただろう。

 

 体内を空冷するために、もう一度深呼吸して肺の中に外気を取り込む。肺の血管を通して冷気が体内を通り抜け、熱い風呂の後でアイスキャンディーをかじった時のような、鮮烈な爽快感が神経を走った。それと同時に脳の随まで満ちていた熱がようやく逃げだし、風呂の中のように靄のかかった意識が急速に澄んでゆく。頭を何度か振って熱の残滓を投げ捨てると、ようやく準備が整った。

 

 魔法を使ったのはずいぶんと久しぶりだった。「前の一件」以来、半ばトラウマじみて魔法から遠ざかっていたのだが、ありがたいことに魔法を使用する感覚は忘れてはいなかったようだ。うまく規模を調節できたかはあまり自信がなかったのだが、「腕輪」が電子音で文句を付けていないあたり、どうやら望み通り法的使用限度の四級規模で収まったらしい。

 だが、久しぶりに使用した魔法に酔って、いつまでもじっとしているわけには行かない。正直あまり使いたくない魔法を使ったのは、あくまで未だ見つからない蓮乃を捜し出し、家に連れてかえって、足がしびれて泣き出すまで正座でお説教してやる為なのだ。

 

 正太は体を丸めて、クラウチングスタートじみた体勢を作る。それとも獲物を狙う猫科の猛獣の姿勢か、矢をつがえて引き絞った石弓の構えか。そして引き金を引き絞るように、全身に満ちる熱量(カロリー)を両足に流し込み、地面を力強く踏みしめて目的地へ向けて駆けだした。

 

 

 

 

 

 

 街路樹が並ぶ並木道の中、全身の肌を真っ赤に紅潮させた正太が、イノシシが跳ねるように走っている。正太の視界の中では、等間隔で立つ寡婦銀杏(ヤモメミイチョウ)の木々が、飛ぶ勢いで後ろへ遠ざかってゆく。まるで自転車を全力で漕いでいる時のように、風景が勢いよく流れ去る。

 事実、正太は自転車とさほど変わらない速度で、歩道を駆け抜けている。全身に満ちあふれる熱量(カロリー)が、短距離走の速度を長距離走の距離で発揮させているのだ。さらに外気に奪われて消費されてゆく熱は、止まること無い心臓が丹田から補給し続けており、正太から一切の疲労を取り去ってくれる。今の正太ならオリンピック候補のマラソン選手とも張り合えるだろう。もっとも、魔法使いがスポーツや武道の公式試合に出場することは、法律で明確に禁じられているのだが。

 

 とは言っても無限にこれができるわけではない。自分のイメージの中で腹の底に蓄えられていた煮えたぎる熱量(カロリー)は、ずいぶんとその量を減らしている。自分の魔法は「熱量操作」、操作する熱量(カロリー)がなくなってしまえばできることはない。

 というより、熱量(カロリー)が尽きれば命に関わりかねない。自分が操作する熱量(カロリー)は人間が持つエネルギーそのもの。それは体温であり、血液であり、脂肪であり、それらの原動力となるものだ。それを使いきることは、冬山登山で食料を切らしたのと変わらない。冥界めがけて一直線で転がり落ちることとなる。一つ間違えれば、凍死と餓死の二重死因という世にも珍しい死に様となるだろう。

 

 事実、正太にはそれをやらかしかけて救急車で病院に連れて行かれた記憶がある。その時、応急処置をしてくれた救急隊員曰く、低体温症と栄養失調を足して二を掛けたような状態だったらしい。その時の正太は、電気あんかを抱きしめて三重毛布にくるまれながら、高カロリー栄養点滴の応急処置を受けていた。その時、正太の感覚は、凍るような全身の冷たさと、胃袋が焼け付くような飢餓感を訴えていた。

 だから実際に使用できる熱量(カロリー)は、イメージの中の溶岩量よりも少々少な目に見積もる必要がある。それを考えれば、正太としても無駄な時間をかけるわけにはいかない。

 

 頭の中で地図を広げ、正太の現在位置と目指すおもちゃ屋・電気屋の位置を比較する。まだ、半分も行ってはいない。未だ遠い目的地への距離と、量を減らす一方の丹田の残り熱量(カロリー)が、正太を焦燥感で炙る。急く気持ちがさらに熱量(カロリー)を浪費して、足を無駄に早回そうとする。

 だが諺にもあるとおり、こう言うときは「急がば回れ」だ。ありがたいことに、いつもなら突然現れては脳味噌を埋め尽くす混乱思考も、脳の髄まで注がれた熱量(カロリー)が存在を許さない。注ぎ込まれた熱量(カロリー)のせいで極端に集中した脳味噌は、「目的地への到着と蓮乃の探索」の妨害になる思考を締め出してくれる。

 それでも残る余計な思考を熱の籠もった深呼吸で吐き出すと、正太は丹田から消費分の熱量(カロリー)を汲み上げて、火照る全身へと再度注ぎ込んだ。速度を速めることも遅れることもせず、常に一定速度で走り続ける。

 

 目指す場所はまだ遠い。要する熱量(カロリー)もまた多い。急がず、焦らず、されども遅れず。

 

 

 

 

 

 

 昨日の天気予報通り、夕方近くになって雲間が広がり太陽が姿をかいま見せ始めた頃、ようやく正太は自宅のある間島アパートにたどり着いた。

 首をうなだれてアスファルトで視界を満たしながら歩く帰路は、永遠と思えるほどに遠く感じさせる。さらに言うなら腹の底の熱量(カロリー)は空っ欠近く、足に鉛を詰め込んでいるようだ。気分も同様に鉛を呑んだが如くの、最低値まで沈んでいる。

 正太の横に蓮乃の姿はない。正太が「一人で」帰路についていることを考えればなにがあったか、いや、なにが「なかった」かは明白だろう。結局、おもちゃ屋にも電気屋にも蓮乃は居なかったのだ。

 一通り店の中を廻り、店員に蓮乃の特長を伝えた。さらに帰りには、再び公園と和菓子屋とケーキ屋に寄って、不信人物扱いしてくる店員に尋ね聞いた。それだけ行っても、あの娘っ子の影も形も掴めなかった。

 

 もはや正太が思いつく限りの万策は尽きた。後は、自宅に帰って、気分が進まないどころか逆走しそうな睦美さんへの電話連絡をこなし、後は近くの交番へいって迷子届けを出……せない。それは親しかできない。つまり、蓮乃が帰ってくることを信じながら、漫然と家で待ち続ける他はない。

 今からアパート前の車道で横たわり、大型トラックあたりに平たくしてもらえば楽になれるのだろう。しかし、そうしてしまえば、今まで自分のために家計を費やしてきた両親に申し訳が立たない。でも、やっぱりそこらのビルから頭を下にして飛び降りれば、もう両親に面倒がかかることも……

 

 今や正太の思考は後ろ向きに全力疾走だ。「死ねば楽」「死ねば迷惑」の間でメトロノームじみた往復運動をひたすらに繰り返している。それに当てられたのか、自宅の一〇三号室に向かう姿もまた、千鳥足めいて左右に揺れていた。

 正太はつま先に視線を合わせたまま、錠前に鍵を差し込んだ。鏡を見たとしても、うつむいた顔を見ることはできないが、どんな表情かは誰でも簡単に予想できる。きっと人生が終わったことを自覚した幽霊のような表情であるに違いない。

 頭はうなだれて体が停止したまま、手だけが独立してドアノブを回し扉を開ける。

 

 ――電話を、電話を睦美さんへ掛けなきゃいけない。

 

 連絡したらパニックに陥ることは明白だろう。別段驚くべきことでもない。何せ自分の娘が行方不明なのだ。預からせていただくと言ったのにこの体たらく。目の前で割腹自殺したら少しはましになるだろうか。

 マイナス方向に思考を空転させながら、正太は震える手で靴を脱いだ。もはや前を見る気力すらない。つま先と床に視線を落としながら電話機のある居間へと歩を進める。そこで正太は前方からの音に気が付いた。恐らくは帰宅した清子だろう。

 ああ、清子にも事情を話さないといけない。きっと散々に言われるだろう。きっと軽蔑されて二度と口も聞いてもらえないに違わない。

 

 確かに呼吸しているにも関わらず、死人より悪い色の顔を正太は廊下の先へとゆっくりと向けた。そして居間の様子を視線に納めると、どん底へと直下降していた思考は「家族一同からの勘当宣言」だの「家庭に迷惑のかからない自殺方法候補」だの余計な思考を巻き込んで、ガードレールの下へとダイブして虚空へと消えていった。

 呆然と見つめる正太の視線の先にあるのは、開け放たれた居間の窓と放り出された子供靴。ソファー前のガラス机に、栓の抜かれたラムネ瓶と口の開いたアミセンの袋。そして、それらをおやつに摘みながら母が置き忘れただろう雑誌を楽しげに読んでいる、「蓮乃の」長い黒髪だった。



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第二話、正太が蓮乃を叱る話(その三)

 正太の堪忍袋はさほど懐の深いものではない。それでも「前の一件」以来多くを反省し、感情的な行動を嫌うようになったため、大抵のことなら深呼吸一つでそこそこ冷静に考えられるようになった。昨日とて感情にまかせて蓮乃をぶん殴るようなことはしなかった。電話時のあれは軽くはたいただけであり、また蓮乃に怒鳴りつけたのも感情的と言うよりとっさの部分が大きい。

 

 しかし、それにも限度というものがある。

 

 正太は感情の見えない無表情で居間を眺める。視線の中央は、ソファーから飛び出た蓮乃の後頭部に、がっちりと固定されている。背後からでは表情は見えないが、時折アミセンを摘みラムネ瓶に口を付ける様を見れば、楽しい時間を過ごしていただろうことは簡単に予想できる。

 それを確認した正太は、視線を胸の辺りで開いた掌へ移した。占い師が手相を読むように数秒ほど手のシワを注視すると、手の中の空気を握りつぶして堅く拳を形作る。そして正太は居間へと向かい歩きだした。その目はいつもとは真逆に大きく見開かれている。色のない表情の中で、血走った目だけが異常なほどに目立っている。

 居間に着いた正太の視線は、近づいてきた正太に気づきもしない蓮乃の後頭部に標準を合わせていた。アミセンをかじり雑誌の上に欠片をこぼす蓮乃の姿を、正太は無色の顔と真円の両目でじぃっと眺める。玄関口からずっと拳は握られたままだ。

 さらに正太は蓮乃に近づく。ソファーに腰掛ける蓮乃の体に正太の影が重なり、雑誌のカラーページに薄い影をこぼす。そこでようやく何かに気が付いたのか、蓮乃は雑誌から目を離し影の元へと振り向いた。そして正太の姿を目にすると想像通りの笑顔で、意味もなく元気よく手を振りあげる。

 

 「もーなーっ!」

 

 余人には理解不能な言語を用いて、蓮乃は正太に向けた帰宅の挨拶らしきものをする。だが、正太の表情は無色なままで蓮乃の挨拶(?)に対する反応は見られない。

 正太からの反応がないことに、不可思議そうに首を傾げる蓮乃。それに数秒遅れて、ようやく正太は手をゆっくりと、ことさらゆっくりと振り上げた。当然、拳は握られたままで。

 

 「ムフ~ッ」

 

 正太の反応に、蓮乃はいつも通りのドヤ顔を浮かべて満足げに頷く。そして挨拶が終わったからもういいだろうと、ガラス机の上の雑誌に向き直る。向き直った拍子に、黒い絹糸の髪がさらさらと背もたれの上を流れた。異相となるほどかっ開いた正太の眼に、ソファーの背もたれと蓮乃の柔らかな黒髪、そのまた真ん中の小さなつむじが写る。

 

 そして正太は、そのつむじめがけて、勢いよく握った拳を振り下ろす。

 宇城家の居間に、酷く鈍くて水っぽい、柔らかな物で堅い物を殴ったような音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 二昔前のテレビドラマは学園物が多かったそうだ。再々々放送あたりで見たのだろうか、名前はとうに忘れてしまったが「不良生徒を更生させようとする熱血教師の奮闘物語」を正太もいつだったか見た覚えがある。その中で、熱血教師は何度か不良生徒達の頭を殴り付けて、その度にこう言っていた。

 

 『殴られて痛いだろう。だが殴った俺も痛いんだ!』

 

 当時の正太はその台詞をバカじゃあないかと思っていた。殴られた側ではなく殴った側が、つまりは攻撃した側が痛いなんてことあるはずがない。そう思ってバカにしていた。

 清子との喧嘩では母の鉄拳が怖くて、大抵口げんかで終わっていた。「前の一件」の時は一方的に殴られるばかりで、殴り返す気力もなかった。だから他人の頭を思い切り殴りつけた実感など、知る由もなかった。

 だが、実際にやってみてようやく解った。

 

 殴った側も痛い。

 

 考えてみればこれまた当たり前の話だ。人体で最も重要な器官である脳を守るため、頭部は堅牢な頭蓋骨で形作られている。それをよりにもよって、非常に繊細なマニピュレーターである「手」で殴り付けるのだ。格闘技や武術のような、人を殴る専門の訓練を受けていても、頭を殴れば指の骨折を起こす場合もある。

 つまりは素人が人の頭を力強く殴り付ければ、それは当然痛いに決まっているのだ。

 

 痛みを振り落とすように殴り付けた手を振って、呆然と自分を見る蓮乃を横目に見ながら、正太はそんなどうでもいいことをぼんやりと考えていた。

 人間が殴られたとき真っ先に来るのは痛みではない。心理的な「衝撃」だ。暴力沙汰に慣れていない者は、殴られたという事実そのものへのショックで、身動き一つとれなくなってしまう。「魔法」という力があってもそれは変わらない。普通の人間たちに魔法使いがリンチされることがある理由の一つだ。

 では衝撃の次に来るのが「痛み」かと言えばそうではない。次にやってくるのは殴られたという事実に対する「認識」だ。ここで人はようやく、自分が殴られたということを認識して理解するのだ。

 

 呆然と書かれた蓮乃の表情が、正太の目の前で、震えと共に段々と形を変えていった。まるで夜が明けた後の月下美人の様で、表情が萎れて潰れてゆく。そしてようやく「衝撃」が覚めて、自分が思いっ切り強く殴られたのだと「認識」した蓮乃の両目に、透明な涙が音もなく溜まる。そしてそれはあっと言う間に表面張力の限界を超えた。

 

 「ヒッ……ズズッ……ヒッヒッ……」

 

 柔らかな大理石の頬を伝って、雑誌の上に涙が滴り落ちてゆく。表面加工された滑らかな上質紙は皺まみれになりながら滴る涙を必死で弾こうとする。だが、次から次へと落ちてくる涙の軍勢についには押し負けて、開いた「本物以上!? 合成食品の精進料理」特集ページはふやけて膨れ上がっている。

 昨日と変わらず、蓮乃は息を呑むように泣いている。鼻を啜り顔を擦り、それでも止まらない涙に繰り返し繰り返し息を呑んでは、また涙をこぼしている。涙に溺れて喘ぎながら、何度も大口を開いて切れ切れの荒い呼吸を繰り返す。

 

 蓮乃は幼いが、年に見合わないほど美人である。その美貌が涙に崩れる様はある種の痛々しさすら帯びていた。

 だが、それを悼む様子も厭う様子も正太には見られない。眼球全てが露出したかと思わせるほどに開ききった両目で、じぃっと蓮乃の泣き顔を見ているだけだ。その顔には一切の表情が揮発して、何の色合いも浮かんではいない。複眼に見えるほど開いた両の目と併せて、感情というものを持ち合わせた試しのない、百足や蜘蛛のような虫けらのようにも見える。

 

 美麗な顔を崩し、両目を歪めて泣きじゃくる蓮乃。複眼じみた両目でそれを見つめ、厳めしい顔を能面じみた無表情で覆った正太。この異様な光景は、蓮乃が泣き止む半時間後までそのままだった。

 

 

 

 

 

 

 ようやく涙が止まった蓮乃の両目は、昨日以上に赤々と腫れ上がっている。京都の舞妓が白塗りの顔に紅をさしたと同様に、雪のように白い肌の中で目元の赤がくっきりと存在を主張していた。もはやなにを言おうと、昨日のように睦美を誤魔化すことはできまい。先に書いた舞妓以上の地層じみた厚塗りで白粉を塗りでもしない限り、その瞼の赤腫れは誰であろう見逃しようがないほどに明らかだ。

 表情もまた昨日以上に厳しい。威嚇する子犬のように歯を剥き、正太への敵意を示している。三〇分近く泣いていたためか息も荒く、表情と相まってまるで飛びかかる寸前の猫のようだ。

 

 「フーッ、フーッ、フーッ」

 

 一方、それを見る正太の目に変化はない。蓮乃に拳骨を落とす前から、その表情は一切の感情の色が消え失せた能面のそれだ。その上、その眼はカメラ用の無機レンズの如くに巨大化したままで、今の内面を伺い知ることはできない。

 蓮乃の隣のソファーに腰を下ろした正太は、能面を変えることなく、ガラス机に置かれていたノートにボールペンを走らせた。

 

 『何で叩いたか、わかるか?』

 

 メモの返答は動物じみたうなり声だった。「荒い息で」「歯を剥いて」「うなり声」のスリーポイントで獣らしさが一〇〇〇倍である。もっとも、美麗と表される外観と子供らしい体格のおかげで、実際は子犬か子猫のようにしか見えないのだが。

 

 「ウゥ~~ッ」

 

 『おまえが約束を破って、その上泥棒をしたからだ』

 

 そんな蓮乃の返答に頓着することなく、正太はさらに蓮乃が自宅から持ってきたノートへ文字を刻む。

 蓮乃は子犬のほえ声と威嚇を足して二で割ったような声を上げると、ポーチから出したペンでノートの文をグシャグシャに塗りつぶす。文字が文字と読めなくなるくらいに、大豆由来の黒インクで覆うと、その横に荒い殴り書きで否定の言葉を刻みつけた。

 

 『してない!』

 

 正太は視線だけを蓮乃へ向けると、否定の文を二重線で訂正し、否定の否定をさらりと書いた。

 

 『いいや、した』

 

 それに蓮乃が先の繰り返しと、文を塗りつぶして否定の否定の否定を荒々しく殴り書く。

 

 『してない!』

 

 それに正太が二重線を引いて否定の否定の否定の否定を……

 

 『した』

 

 『してない!』

 

 『した』

 

 『してない!』

 

 やったやらないの文がノートのページを塗りつぶし、文の浸食はついに三ページ目に達しようとしている。誰がどう見ても完全な水掛け論である。いや、感情をぶつけ合っているだけであり、どこにも「論」と呼べるものは存在しない。水掛け論ですらない。水がないだけに不毛極まりない話だ。

 そして不毛な言い争いが止まるのは、どちらかが暴力を振るったときか、言い逃れようのない証拠を前にしたときである。

 

 『じゃあ、そのアミセンとラムネは何だ?』

 

 正太は、ガラス机の端にまとめられたオキアミ煎餅とラムネ瓶を指さし、指先で机を軽く叩く。文を読んだ蓮乃から威嚇の表情が薄れ、一瞬不可思議そうな色合いが浮かぶ。その色合いはすぐに不満と敵意に塗りつぶされた。

 

 『昨日、食べて良いって言った!』

 

 事実、「昨日は」長い話を聞かせる為にお菓子を蓮乃に食べさせた。長い、それでいてさほど楽しくもないだろう話を聞いてくれたご褒美として食べさせたのだ。無論、正太としては「毎日おやつを食べに来い」などの言った覚えはない。なるほど、それをこう曲解したのか。

 正太の指先がソファー前のガラス机の上で一定のリズムを刻みだした。爪先で刺すように、心拍と同じリズムで繰り返し机を叩く。

 

 「ほぉーう、そーかそーか。昨日食べて良いって言ったからかぁ」

 

 蓮乃が聞き取れないことを理解していながら、あえて正太は言葉を口にする。さらに見開いた両目を意図して糸の如くに細める。止めに唇の両端を九〇度近くまでつり上げた。

 例え日本語の一切判らない不法移民であろうと、正太が何を示したか一発で理解できるだろう。そして一発で理性の糸が千切れ落ちるだろう。

 その声と顔には、揶揄と皮肉と諧謔とついでに蔑意と悪意が意図的に込められていた。それも例え言葉の解らない蓮乃でも込めたものが解るくらいにあからさまに。

 

 『悪いことしたのはそっちだから、あやまれ!』

 

 当然、蓮乃はそれに反応した。敵を前にした子犬のようにキャンキャンと吠え猛る。だが、正太はそれに反応することなくペンを滑らせた。

 

 『例えば、お前が睦美さんに「半分あげる」って言って、おやつを分けたとする』

 

 先ほど以上に蓮乃は不可解な顔になる。正太が何を書いているのか、いや何を伝えたいのかがよく解らないのだ。

 

 『次の日、お前がとっておいたケーキを半分睦美さんが食べてしまった』

 『お前にとってそれは怒るようなことじゃなくて、当然のことなんだな?』

 

 そこで正太は軽く平手でガラス机の天板を叩いた。軽くとはいえ平手で板を叩けば、そこそこ大きな音がする。想像もしてなかった音に蓮乃は体を震わせて、半ば反射的に正太の顔へ視線を向けた。正太も蓮乃へ目を向けている。

 二人の視線がかち合い、そして蓮乃は息を飲んで目を反らした。能面を切り欠いたように細めた眼から放たれる、凍り付くほど静かで耳鳴るほど冷たい眼光が、レーザーのように蓮乃の心を恐怖で射抜いたのだ。

 

 『だって前の日にお前が「半分あげる」って言ったもんな』

 『もし「そう」ならもうなんにも言わない。ちゃんとお前に謝る』

 

 正太は視線を蓮乃に合わせたまま、さらに文を紡いでゆく。蓮乃はうつむいて正太の文字だけに視線を合わせている。あの目でまた見られるかと思うと、恐くて顔を上げられない。だが、標的を見定めた猛獣のように正太の視線は蓮乃から離れることはない。

 

 『確認するぞ』

 『お前は前の日に「おやつを半分あげる」って言ったら、その後ずーーーーっと半分あげるんだよな? 毎日毎日半分あげるんだよな? 何せ、前の日に「そう」言ったなら次の日だって』

 『「そう」するのが当然なんだから』

 

 そこまで書いた正太は、蓮乃の頭を両手でつかんで無理矢理顔を上げさせる。正太の能面が突きつけられ、レーザーの眼差しで蓮乃を突き刺す。

 

 「つまり、だ」

 「例えお前にとって嫌なことでも、前の日にそう言ったならずっと守るんだな?」

 

 先ほどと同様に意図的に口から言葉を出す。先ほど以上の怒りを込めて、腹に力を入れた野太い声で蓮乃に言葉をたたきつける。

 さらに正太は目をかっ開き歯を剥くと、蓮乃の眼前一cmまで自分の顔を接近させた。昨日、睦美に「子供が泣き出してもおかしくない顔立ち」だと納得された正太の面が、蓮乃の視界一杯に広がる。

 蓮乃は喘ぐような荒い呼吸をしながら、半ば呆然とした表情で正太を見つめる。精神の許容限界を超えた恐怖で、泣き止んだはずの両目に新しい涙が膨れ上がってゆく。

 だが、正太の能面、いや鬼面と化した顔に情けはない。

 

 「答えろ」

 

 正太が口頭で回答を要求する。蓮乃は答えない。いや、答えられない。大理石の頬を水晶色の涙が幾筋も伝い、顎の先から滴り落ちてゆく。

 すっと正太の顔が蓮乃の視界から離れた。同時に首を固定していた太い手も離れ、ノートを涙の爆撃から避難させる。とたんに重力があることを思い出したかのように、カクリと蓮乃の顔が下を向いた。

 

 『例えお前にとって嫌なことでも、前の日にそういったならずっと守るんだよな?』

 

 そして正太は、もう一度、今度は言葉ではなく文章として紙に刻んだ。正太が何を言いたいか、それを蓮乃が正しく理解できるように、解らないなどと言い訳できないように、文章という形で突きつける。

 

 『さあ、答えろ』

 

 もう一度、要求を繰り返す。

 

 『さあ』

 

 ガラス机を向いた蓮乃の目からこぼれだした涙は、拭かれた机にもう一度水たまりを作り始めた。もし雑誌を机に残して置いたなら、今頃はぐずぐずに溶け崩れていることだろう。一部の涙は大渋滞の両目を迂回して、鼻孔から外へと飛び出してゆく。涙と鼻水の連合軍は机上の水たまり領を着々と広げていった。

 肩を震わせ息を飲み、鼻をすすり上げては顔をこすり、蓮乃は声もなく泣きじゃくる。だが、それでもまだ足りぬと言わんばかりに、正太は強く机を叩いた。誰であろうと体を硬直させるような巨大な音で、蓮乃は風邪のようにビクリと体を震わせる。

 

 『泣くな、答えろ』

 

 正太は涙に逃げることを許さない。

 

 『例え何であれ、前の日にそう言ったならずっと守るのか? そうじゃないのか?』

 

 容赦なく返答を求める。

 

 『答えろ』

 

 赤一色に腫れた目をさらにこすりながら、蓮乃は小さく小さく首を横に振った。

 

 『それは「そうじゃない」という意味でいいんだな?』

 

 今度は縦に小さく振る。よく見ていなければ、見逃してしまいそうなほど小さく。

 

 『改めて聞くぞ。俺はお前にお菓子を食べていいと「今日」言ったか?』

 

 首を横に。

 

 『つまりお前は俺から「食べていいよ」と言われていないのに食べたんだな?』

 

 肯定の縦。

 

 『じゃあお前は何をしなきゃならないんだ?』

 

 水たまりに涙を追加しながら、蓮乃は米粒より小さい掠れた文字で、ノートの隅に返答を書き付けた。

 

 『あやまる』

 

 正太は「よし」と口の中で小さくつぶやくと、今まで睨みつける用に大きく開いていた目を、常の細さへ戻した。

 

 『何をして謝っているんだ?』

 

 一応ではあるが、判っているだろうことを確認する。もしもこれを理解できていないなら元の木阿弥。否、それ以上に悪い。何も理解できてないまま謝罪するようになれば、反省も自省もやらなくなる。その行き着く果ては、特殊刑務所での「犯罪傾向の脳外科的治療行為」だ。

 

 『勝手におやつを食べたから』

 

 蓮乃の返答に満足したように、正太は小さく首肯した。ちゃんとこの娘は原因を理解している。問題はないようだ。

 

 『そうだ。なら何を言わなきゃいけない?』

 

 新しいページを正太が開いた。未だ涙の止まらない目を擦りながら、その一番上に蓮乃は初めて謝罪の言葉を書いた。

 

 『ごめんなさい』

 

 それを見た正太はようやく顔を緩め、鬼面でも能面でもなく人面へと表情を戻した。その顔にはありありと安堵の色が浮かんでいる。

 一方、蓮乃は変わらずうつむいたまま、ノートの罫線と机の傷を数えている。その表情を見ることはできないが、未だ机へ降り続く涙の雨がどんな顔をしているか容易に想像させた。

 

 蓮乃の様子を見て取った正太は考え込むように何度か顎をさすると、両手で蓮乃の頭をつかみぐいと持ち上げた。先の恐怖を思い出したのか、蓮乃はまぶたを強く閉じて目を瞑る。閉じるまぶたに押されて、逃げ場のない涙が勢いよくこぼれ出た。何も見たくないと目を閉じた暗闇の中、見えるのはまぶたの裏で踊る極彩色の影だけ。蓮乃自身の荒い呼吸の音が頭に響く。

 その時、蓮乃の背に何かが触れた。子供が初めて動物に触れたときのように、恐る恐る触れたと思うと距離を取る。おっかなびっくりしながらも繰り返し繰り返し、何かは背中に触れてきた。それは何度か背中に触れるうちにその動きを変えた。肩口から背筋を通り中程で離れる。背中を撫でているのだ。

 

 そこでようやく蓮乃は背中を撫でている物が、正太の手だと気がついた。ざらついた感触の角張って節くれ立った手が不器用に、それでいて出来るだけ優しく、怯える子犬を落ち着かせるように、自分の背中を撫でている。

 蓮乃はゆっくりと目を開く。まぶたの隙間に残った涙で微妙に歪んだ視界の中、先ほどまで怯えていた厳つい顔が九〇度右にあった。でも、今は恐ろしい表情をしていない。心配しているような、困っているような、疲れているような顔だった。その顔は蓮乃と目を合わせると、安心したように、安心したことを伝えるように、大きく繰り返し頷いて、蓮乃の背へと左手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 台所の食器棚の下は、家族共用のお菓子スペースになっている。昨日、蓮乃に半分近く買い置きの菓子を食われたが、まだ少しは、ほんの少しは余裕はある。

 個人的には昨日食いそびれたアミセンを食いたいところだが、蓮乃は昨日も今日もアミセンを食ったし、買い置き分はもう無くなっている。ならば、今日はチップスでいいだろう。

 そう考えた正太は、ガサゴソと紙の擦れる音を立てながら目当てのお菓子を引き出した。正太の手に摘まれた狐色の油紙袋には、「デンプンチップス:コンソメ味」のカラー印字がでかでかと存在を主張している。紙袋を摘まんだ手で食器棚の観音開き戸を開き、大きめの平皿を逆の手で掴み出すと、行儀悪く肘と足で食器棚の上下を閉めた。

 

 ソファーに座る蓮乃は、赤く充血した腫れぼったい目で、ぼんやりと虚空を眺めている。正太は蓮乃の前のガラス机に無地の皿を置くと、「馬鈴薯澱粉三〇%使用!」の飾り文字が目立つ紙袋を開けて、皿の上に流し出した。

 蓮乃は皿に盛られた薄黄色の薄っぺらいチップに視線をやって、それから正太に涙で真っ赤な目を向けた。蓮乃は正太におずおずと許可を求める。

 

 『食べていいの?』

 

 『ああ、「今日は」食べていいぞ』

 

 ゆっくりと大仰に首を縦に振り、正太は肯定を示す。書かれた文章にはちょっぴり毒が入っていて、蓮乃の顔に恨めしそうな色が微かに浮かぶ。

 だが、それも一枚目のチップを口にするまでのこと。さくりと軽い音が響くや否や、蓮乃は昨日のカスタード大福の時と同じくらいに目を丸くして、次の一枚に手を伸ばした。

 さくさくと繰り返し軽い音が響いて、皿の上の小山がその高さを減らしてゆく。どの年代からも愛される定番のコンソメ味に、どうやら蓮乃は食べるのを、やめられないとまらない状態となったようだ。

 

 そんな蓮乃をぼんやり見ながら、正太は安堵と疲れの混ざったため息を一つ吐いて、口の中にチップスを一枚放り込む。たとえ材料がブイヨンから調味酵母に変わっても、昔変わらぬコンソメ味が口中に広がった。慣れ親しんだ味にほっとしながら、次の一枚に手を伸ばす。その手の下を、調味粉だらけになった蓮乃の手が、素早く通り抜けていった。その手を見て正太の頭に疑問符がぷかりと浮かぶ。そういえばこいつどこからアミセン出したんだろうか。

 

 ――ああ、今日食べようと思って母さんに買ってきてくれるように、頼んだの忘れてた。

 

 疑問は蓮乃が次の一枚を口に差し込むより早く自己解決した。おそらく、母は雑誌と一緒に購入したアミセンを帰宅後にしまうつもりでテーブルの上にでも置いておいた。それを発見した蓮乃がさっきの理屈に従って、雑誌読みつつラムネ飲んでアミセンを摘むこととしたのだろう。それを思い浮かべると、連鎖的にさっきまでのことが思い浮かぶ。それと同時に頭の裏側から染み出してきたような強い疲れが正太の脳味噌を包み込んだ。

 

 『お手拭き持ってくる』

 

 汚れていない手でメモを書き残すと、グシャグシャになった雑誌を掴む。口にチップスを詰め込む作業に夢中の蓮乃を残し、正太は洗面台へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 洗面台の前、コップに蓄えた水で顔を洗う。涙でふやけた雑誌は洗面台下のゴミ箱に放り込んだ。洗面所に行きがてら、台所から持ってきたお手拭きはタオルかけに引っかけてある。

 顔を洗って頭がシャッキリとしたところで、指を組んで腕を思いきり延ばした。肩と背の筋肉と緊張がほぐれてゆくのを感じる。さらに、腕を十字に組んで二の腕の筋をのばしながら、正太はさっきの一件を思い返す。

 

 ――怖い顔や怒った顔を「してみせる」のは結構難しいもんだなぁ

 

 実の所、正太は蓮乃に怒っていたわけではない。

 

 無論、怒りの感情が一切ないかといえば嘘になる。事実、奈落の底に落ち込んで帰ってきた正太が蓮乃を見た瞬間、正太の堪忍袋の緒は焼け飛んだ。「人が散々走り回って探し回って見つからなくって、ご家族に腹切る思いで連絡しようと帰ってきたら、雑誌読んでラムネ飲んでアミセン食ってご満悦たぁ、どういうこったこのクソガキふざけんじゃねぇぞ」という気分で蓮乃の頭を殴りつけた。

 それでも、拳骨落として半時間も泣き顔を眺めていれば、いい加減頭も冷めてくる。後は謝らせて反省させてそれでお仕舞い、本でも読んでゆったりしようと考えていた。

 だがしかし、蓮乃は謝罪以前反省以前に、自分が何をしたかを全く理解していなかった。だから正太は「蓮乃に怒る」のではなく「蓮乃を叱る」こととしたのだ。

 

 正太自身が他人を叱ったことは、幼い頃の妹を除けば全くと言っていいほどない。そもそも正太自身、自分が他人を叱れるような偉い人間だとは思っていない。それでも叱らなければならないなら、他人の方法を参考とするのが一番だ。

 すぐに思いつくのは母親同様に拳骨の雨を降らせて、自分のしでかしたことを物理的に理解させる方法だ。しかし、昨日の蓮乃の意固地さ加減を考えるに、拳骨を落とすやり方では効果は薄いか逆効果だ。ならばと、正太は物理的な暴力を一切用いない父のやり口を参考にすることとした。

 

 父は自分や妹を叱るとき、母のように拳骨を振るわない。かといって優しく諭したり情に訴えたりもしない。将棋のように「詰める」のだ。しかもそこに容赦はない。なにせ母は「泣くまで拳骨」だが、父は「泣いても説教」だ。

 発言の矛盾をつき言質を取って、あえて自分たちに理解できる形で論理を積み上げてゆく。逃げ口上は言う前に潰され、泣き言は理屈と道理で解体される。ついには、泣きながらやらかした悪行を理解させられて、「自分の意志」で謝罪させられる。偉大な兄弟も青ざめるだろうその徹底ぶりは、自分も妹も母に拳骨をもらうより父の説教を恐れるほどだ。正直、中学二年にもなって父の説教はまだ怖い。

 

 しかしながら正太には、父親同様の論理制圧をするだけの「脳」力はない。だから、その代わりに父より数段怖い顔立ちで、蓮乃を脅しつけて理解させることにした。

 結果から見て、多少効なりとも果はあっただろうと正太は思っている。少なくともそう信じたい。一応、謝らせることもできたのだから。にしても蓮乃の奴、あんだけ泣くってやっぱり怖い顔なのかそうなのか。そもそも何で自分はそこまで蓮乃の面倒をみてやっているのだろうか。自分で自分がよくわからない。

 

 「あ」

 

 顔をタオルで拭いつつ先ほどのことを思い返していた正太は、唐突に声を上げて頭足類のような目を大きく見開いた。

 

 ――そういえば約束破ったこと叱るの忘れてた。

 

 蓮乃を叱るべきだと考えた事柄は「勝手に菓子を食べたこと」と「『待っているように』という約束を破ったこと」、その二つだ。前者は自ら謝るまで叱りつけたが、後者は話の頭に上らせただけでそれ以後最後まで出すのを忘れていた。

 

 どうしたもんかと首をひねりながら、濡らしたお手拭きを絞り、居間へと向かう。一度蓮乃を叱った以上、二度三度と叱りなおすのは筋が通らない。蓮乃にしても、チップスを出された時点でもう終わったと考えていることだろう。実際、正太もそれで仕舞いだと考えて皿を出したのだから。だからといって、約束を破ったことをお咎めなしで放っておくのもなにか違う。

 一応、口頭で話すだけでもやっておくか。そう決めた正太が居間に足を踏み入れた。その目に入ったのは、空っぽになった皿と、行儀悪くも満足げに指を舐める蓮乃。

 

 ――ちょっとくらいは残せよ。

 

 昨日今日で昨月の総数を超えただろうため息の数に、もう一つ追加された。せめてもの救いは袋の中にまだチップスが残っていることだ。なんだか色んなものが脱力した正太は、首を落とし顔を手で覆った。



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第二話、正太が蓮乃を叱る話(その四)

 ……舞台の上、月明かりの元。瞬き一つ二つの間に恐るべき数の槍戟が振るわれる。その上、振るわれた技の全てが必死の鋭さと必殺の迅さを備えている。にもかかわらず、それは美しかった。演舞などではない。その全ての技が殺意を帯びて、その全ての動きが敵を討つためのものだ。だが、そこには間違いのない美があった。突き・振るい・攻める薙刀に、反らし・弾き・防ぐ薙刀が応じ、刹那の間に攻守が巡る。それはまるで相手の一挙一動に互いに答えあう即興の舞曲だ。お互いの技前があまりにも近しいが故に起きた奇跡のような一戦。もはやこれは武闘でありながら舞踏であった。

 養父の影が薙刀を鋭く突き出す。彼女の薙刀は絡めるように上へと弾き、跳ね返るように上段からの切り込みをかける。影は薙刀を回して石突きを跳ね上げ、彼女の薙刀を横にそらす。それと同時に手の中で前後を逆とした薙刀を滑らせて、石突きを岩を砕かん勢いで顔めがけて突きだした。彼女は流れる水の動きで影の横へと踏み込んで石突きをかわすと、さらに水面に反射した陽光のような目を眩ます一閃をふるう。だが、影は体を落として刃をかわすと同時に、風車のように薙刀を回転させる。対して彼女は大きく後ろへと跳びすさり、致命の円弧から逃れる。互いの距離は離れ、双方が薙刀を構えなおした。

 その瞬間、ため息とも感嘆の声ともとれる音が辺りに響いた。それを眺める者は全て、瞬きをしてなるものかと目をかっ開き、息する間も惜しいと呼吸を止めていたのだ。それほどまでに濃密な戦いだった。

 しかし彼女は強い違和感を覚えていた……

 

 そこまで一気に読んだ正太は、潜水から上がった海女のように一つ深い息を吐いた。小説の文字列を追うのに疲れた目をゆっくりと揉む。時計を見上げれば、そろそろ清子が帰宅する時間だ。蓮乃はどうしているかと横目で見ると、机の上に開いたハードカバーに、顔を突っ込ませるように背中を丸めて熱中している。昨日とあいも変わらずの有様に、正太は微苦笑を頬に浮かべた。こりゃ清子が帰ってきたら笑われそうだな。

 

 「たっだいま~」

 

 「噂をすれば影」と、清子の帰宅の挨拶が居間まで届いた。ついでにソファーの背もたれの頂点を軸に背筋を伸ばしつつ、正太はそっくり返るようにして玄関の方へと目を向ける。見えるのは悲しいことに自分によく似たいつもの妹の姿だ。教科書満載のランドセルを下ろし、清子もまた体を捻って筋を伸ばしている。

 

 「おかえんなさい」

 

 正太はそっくり返った体勢のまま行儀悪く、逆さの清子へ挨拶する。正太の挨拶にようやく気がついたのか、蓮乃は小説に沈めていた顔を跳ね上げた。読書時の脳波は睡眠に似ると言うが、確かに蓮乃は自分の居場所を見失っている風に見えた。目覚ましに叩き起こされた直後と同様に、キョロキョロと周囲を見渡し、五感を通して現状と現在を脳味噌にアップデートしていく。

 

 ――私はソファーの上、手にはハードカバーの小説、部屋はお隣さん、九〇度横には怖い顔、廊下の先にはトランプの顔。ああ、そっか!

 

 ようやっと五W一Hの内、「何時(When)」「何処(Where)」「何故(Why)」「誰(Who)」の四Wを理解した蓮乃は、廊下の先の清子へと顔を向け、腕を突き上げ元気よく挨拶する。

 

 「いーっ、むーなーっ」

 

 「えっと、その、なんで蓮乃ちゃん家にいんの?」

 

 そして自分語での挨拶を終えると、蓮乃は再び物語へと飛び込んでゆく。蓮乃の顔を見た清子の顔が理解不能な困惑色に染まった。

 昨日の約束で「許可を貰わなければ宇城家にはこれない」はずだ。昨日見た限り、蓮乃の母である睦美はすぐさま許可を出すような人間に思えない。ならば、ここにいる蓮乃は一体全体何なんだ。

 

 「あー話せば長、くはないな、うん。説明するからランドセル置いてきな」

 

 上下逆で顎を掻きながら返答した正太に、清子はひきつった顔でわかったと答えた。ランドセルの肩掛けベルトを二本まとめてひっ掴み、子供部屋へと歩いてゆく。その後ろ姿を見やりながら、正太は未だそっくり返ったまま、どう話したものかと首を捻った。

 

 

 

 

 

 

 子供部屋に荷物をおいて体格以外身を軽くした清子は、正太と直角のソファーに腰を下ろした。正太の対面かつ清子の隣には、蓮乃がハードカバーに突っ伏しながら読んでいる。

 

 「それで結局なにがあったの?」

 

 「大ざっぱにまとめると、

その一:蓮乃が家の前で待っていた

その二:しょうがないので睦美さんに連絡して許しもらった

その三:そしたらどこにも蓮乃がいない

その四:大急ぎで蓮乃を探し回った

その五:見つからないので睦美さんに連絡すべく家に戻った

その六:蓮乃が家でラムネ飲みのアミセン摘みので雑誌読んでた

その七:蓮乃をぶん殴って叱りつけた

その八:二人で本読んでいたら清子が帰ってきた

という感じだったな」

 

 靴の中の小石を見る目で蓮乃へ視線をやりながら、清子は正太へ促した。指折り数えながら、正太は今日あったことを並べ立てる。

 清子は渋柿をかじった表情で、昨日の約束について正太に聞く。昨日、蓮乃の帰り際に正太が「許可貰ってからこい」という約束を書いたメモを渡したのだ。

 

 「昨日の約束は?」

 

 「『後で許可貰うから大丈夫』だとさ」

 

 清子の言葉に応えて、正太は蓮乃を親指で指さした。蓮乃を見る目は、同じ所で粗相を繰り返す子犬へのそれだ。清子は正太の発言を否定するように、顔を覆って頭を振る。声もどこか掠れている。

 

 「それ、ぜんぜん大丈夫じゃない」

 

 「ああ、全くもって大丈夫じゃない。だから、睦美さんに連絡して許可を貰ったよ」

 

 清子同様に正太も額を覆って、泥水のようなため息をついた。顔を覆う手をはずすと、清子は気になっていた言葉について問うた。

 

 「叱ったってのは?」

 

 先に聞いたことを思い返す範囲では、ぶん殴られるような粗相なのかどうか判別がつかない。あまり考えたい話ではないが、散々探し回った兄の堪忍袋が緩んでいて思わず蓮乃ちゃんに拳骨の雨を降らせたとなれば、さすがに問題と言わざるを得ない。

 

 「他人ん家の食い物勝手に飲み食いしてて、それが罪悪とも思ってないんで、ぶん殴って叱りつけた」

 

 正太の返答に清子は内心胸をなで下ろしていた。道理と言えば間違いなく道理だ。これは叱りつける必要があるだろう。それも自覚のない相手となれば、時に体罰を振るう必要も出てくる。

 実の所を言えば、清子の懸念はあながち間違いというわけでもない。間違いなく正太は、蓮乃を感情のままに殴りつけている。さらに言うならば、清子の安堵もまた間違いでない。正太は蓮乃を叱りつけて「なにが悪いのか」「どうして悪かったのか」を理解させている。この違いは二人の認識の差に起因している。清子は「叱りつける『中で』拳骨を振るった」と考えており、実際には正太は「拳骨『の後で』叱りつけた」と答えているのだ。

 

 「蓮乃ちゃん、それで自分がなにやったかわかったの?」

 

 「一応、『なにが悪かったか』を蓮乃自身に確認とったから、間違いはない、と思う」

 

 叱りつけた目的が達成できたかを清子は訊ねた。目的に達さなければ、多くの事柄は意味を失う。そこら辺はきっかりしてもらわなければ困る。

 対して頭をかきつつ先を思い出しつつの、正太の言葉はやや曖昧なものだった。「前の一件」からか、正太は自信というものを持ちづらいのだ。

 

 「なら、大丈夫かなぁ」

 

 兄に自信がないのはいつも通りなので、清子は話した内容から吟味する。どうやら問題はなさそうだ。

 安堵を含んだ息を吐き、清子は改めて蓮乃へと目を向ける。二人のやりとりも何のその、蓮乃は物語の世界を満喫している真っ最中のようで、清子からは流れる黒髪しか見ることができない。

 

 ――ほんっとにこの子は……

 

 ついと蓮乃から視線を外すと、同じく蓮乃に視線を向けていた正太と思いもかけず目が合った。お互いに苦笑を浮かべる二人は、自分の事柄なのに気も向けない蓮乃のマイペースっぷりに深い深いため息をついたのだった。

 

 

 

 

 

 

 正太と清子も子供部屋からお気に入りの小説を持ってきて、約一時間が経過した。掛け時計の気の抜ける時報の音に、蓮乃がふと顔を上げた。前かがみの姿勢でずいぶんな時間を過ごしていたせいか背中が凝った様子で、猫めいた延びをして背筋を伸ばしている。伸ばした拍子に蓮乃の口から、人の声と猫の鳴き声をごった煮にしたような音が漏れた。

 

 「ん~ぅな~ぁ~」

 

 その声に気がついた正太は「動物かこいつは」とでも言いたげな視線で蓮乃を眺めている。すると、蓮乃が正太の方へと顔を向けた。何の用だと正太が見返す。対して蓮乃はなにやら小首を傾げている。妙な顔をした二人のお見合いが十秒ほど続いた後、蓮乃はポーチから取りだしたノートに質問を書き付けた。

 

 『名前は何て言うの?』

 

 それを見た正太は、バツ悪げに頭を指で掻く。考えてみれば昨日今日とも蓮乃に自己紹介をした覚えはない。もっとも蓮乃の側もしてくれた覚えはないのだが。せいぜいが、ノートの一ページ目に乗っている著:睦美さん(推測)の自己紹介文を読んだだけだ。

 

 「あ~~~、そういや言ってなかったなぁ」

 

 本から顔を上げていた清子が、言い訳るような正太の声に、文句混じりの攻める視線を向けようとして、自分もまた名前を伝えていないことに気がついた。

 

 ――ま~た自分を棚に置いて、人様にご指摘するとこだった。あたしもぜんぜん人のこといえないなぁ

 

 途端に胸の内で自分自身への悪感情が膨れ上がる。額を押さえるようにして、清子は口から漏れそうな自己嫌悪を押さえ込んだ。代わりに口からは、むやみやたらとずしりと重いため息が漏れ出す。

 そんな清子の様子に気がつくことなく、正太は蓮乃からノートを受け取ると、改めて自己紹介の文を書きつづった。読みやすいように、名前にはルビもふってある。

 

 『俺の名前は、宇城正太(うきせいた)な』

 

 清子も続いて女の子らしい丸文字で、ノートに姓名を書き込む。

 

 『あたしは、宇城清子(うきせいこ)ね。わかってると思うけど兄ちゃんの妹』

 

 蓮乃は二人の名前を妙な声を上げながら読むと、一人一人を指さしながらノートに確認の名前を刻んだ。

 

 『清子』『正太』

 

 それを見てうんうんとうなずく清子とは対照的に、正太の顔は渋い色でしかめられている。元々の凶悪なご面相と相まって、交渉が荒事になる寸前のヤクザ者みたいにも見える。そして正太は腰元からピストル型の手を抜いて、人差し指で蓮乃の額を突っついた。

 

 「ぬぁぅ」

 

 思わずのけぞった蓮乃の口から尻尾を摘まれた猫のような、微妙な声が漏れた。どうやら蓮乃の口からは、妙な音しかでないらしい。

 

 『人を指さすんじゃない。それと年上を呼び捨てにするもんじゃない』

 

 どうやら正太は蓮乃の呼び方と行動に不満があるらしい。子供相手に少々器が小さかないかと、清子から白くて冷たい視線が走る。それを正太は意図的に無視する。子供相手だからこそ躾はとても大事なのだ。が、泳ぐ視線とひくつく口角が、降雪のごとき清子の視線を無視できてないことを証明している。

 一方、そう言われた蓮乃はどう答えたものかと首を捻った。首は先に名前を聞いたとき以上の角度に捻られている。そして捻られる首と一緒に宇城家の居間を半回転しかけた蓮乃の視界が、ノートとその上の文字列を再びとらえた。脳天に白熱電球が暖色で灯り、蓮乃は丸めた手で平手を打った。なお、宇城家は冷光色の有機EL灯を使用している。

 いそいそとノートになにやら書き込む蓮乃。書かれたのは「正太」「清子」の呼び名と矢印。今度は指を指さずに、ノートに書かれた矢印で二人を指している。

 

 『兄ちゃん』『姉ちゃん』

 

 どうやら、清子が書き付けた自己紹介文から思いついたのだろう。蓮乃は当然のどや顔である。満足の仕上がりなのか、小鼻がぷくりと膨らんで「んふぅ」とご満悦な息が漏れている。宇城家兄弟は思わず顔を見合わせて、先同様の、しかしずいぶんと柔らかな暖かい苦笑を浮かべた。

 

 「なんだか、妹ができたみたいだね」

 

 「こっちとしては一人で十分なんだがな」

 

 苦笑は変わらないまま、じゃれついてくる子犬への視線を清子は蓮乃へと向ける。一方、正太は照れたような仏頂面だ。もっとも元々の凶相で、照れで現れる愛嬌がどこか彼方へ行ってしまっているが。

 そんな正太の照れ隠しの返答に、清子は嫌みな笑みを浮かべた。

 

 「そうだネ、あたし一人でも持て余しているもんネェ」

 

 「……その言い方止めてくれ」

 

 顔は似合っていないものの小悪魔じみた清子の言に、正太は嘆息とともに首を落とす。

 白旗代わりの挙手を見て、清子はくすくすと笑みを漏らした。それに当てられたのか、蓮乃もけらけらと明るく笑い出す。もう降参と両手をあげた正太も、疲れたような笑いをこぼした。雲の隙間を通った太陽光が三人を照らす。天気予報通り、曇り空から日が射してきた。

 

 現在時刻一五:四五。楽しい時間はもうしばらく。



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第三話、三人でTVを診る話(その一)

 ”宇城正太”が自宅のある間島アパートの前に立ったとき、ちょうど羊雲から太陽が顔を覗かせた。本日の空模様は一昨日と同じ晴れ模様。日差しの眩しさからか、正太は睨み殺すような視線を太陽へと向ける。別段、正太がお天道様にガンつけしているわけではない。さほど信心深い方ではないが、罰当たりなことを好んでする人間でもない。ただ単に正太のご面相が悪いだけである。

 ニキビ跡の多い凸凹な顔と形の悪い団子鼻。やぶ睨みに足すことの三白眼の細目で、常に眉間にしわを寄せている。少なくとも女性から人気の出る顔立ちではない。夜中に顔を合わせたならば、きっと黄色く「ない」悲鳴を大いに上げていただけるだろう。

 

 そんな顔立ちの不自由な正太は、アパートの敷地に足を踏み入れるとすぐさま自宅のある一階通路に視線を走らせた。顔立ちからは犯罪後で警察の追っ手を気にしているように見えるが、そうではない。むしろ、待ち伏せを警戒しているのだ。

 誰もいないことを確認すると小さく嘆息して、正太は自宅である一〇三号室の前へと足早に歩を進める。歩きながらポケットを探り、クレーターのような凸凹のある鍵を探り出す。正太は見たことはないが、父の話によれば一昔前はギザギザの刻みの入った鍵が一般的だったそうだ。玄関扉の前につくと、条件反射のようになにも考えることなくドアノブ下にある錠前に鍵を差し込み、扉を開いた。

 

 「ただいま~」

 

 誰もいない家の中に向けて、条件反射じみた挨拶を正太は投げ込む。当然、誰もいないのだから返答もない。しかし、正太は耳をそばだてるように返答を待った。そして、答える声がないことに安心したように、一つ息を吐いた。

 この後は、いつもならば子供部屋に向かい、窮屈な制服を脱ぎ捨てて気楽な普段着へと着替えていることだろう。だが、先ほどからいつもと異なる行動を繰り返す正太は、これまた常と異なり庭に面する居間の方へと足を向けた。

 

 居間につくや否や、正太は庭に正対するソファーへと周り何かを検分し始めた。ソファーのクッションをひっくり返すのは序の口で、束ねたカーテンを開いてみたり、テーブルの下を覗いてみたり、仕舞にはキッチンの調理器置き場の開きまで確かめる始末だった。妹である”宇城清子”あたりなら、「顔だけじゃなくて頭までおかしくなったの?」と言いそうなほどの徹底ぶりだ。数分ほどそうして誰もいないことを確認した正太は、安堵を込めた深い深いため息をついた。

 

 正太が妙な行動をとっていた理由は一つ。昨日一昨日に色々あった事柄の、その原因である”向井蓮乃”が宇城家にいないことを確かめるためであった。昨日はよく叱りつけておいたがあの娘っ子のことだから、こちらの想像の斜め後方四五度を、ロケット推進ですっ飛んでいったとしてもおかしくはない。

 蓮乃への警戒のあまり正太もまたすっ飛んだ行動を展開していたが、ようやく蓮乃がいないことに確信が持てたのか、鞄を床に、腰をソファーに下ろした。そして伸びをしようと両腕を組んで体を捻り……そいつと視線があった。

 

 そいつは、ガラス向こうの庭、隣家との境の植木列から顔を突き出していた。

 そいつは、とても見覚えのある、整った顔ときれいな髪をしていた。

 そいつは、昨日一昨日と騒動を起こしてくださった御仁だった。

 そいつは、正太と視線が合うと、なにがうれしいのか頭上の太陽と同じような笑顔を浮かべた。

 そいつは、いうまでもなく「向井蓮乃」だった。

 

 ――なんでまたここにいる!?

 

 正太は無言で頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 

 『二度あることは三度ある』

 

 昔からあることわざだ。しかし二度言いつけて尚、同じことをやらかす奴はどう言えばいいのだろうか。確かに一昨日も昨日も「お母さんから許可貰ってこい」と言ったはずだ。それだけならここにいることは別段おかしくはないだろうが、蓮乃の母親である”向井睦美”さんは許可を出すような性格ではない。少なくとも正太からはそう見える人物だ。

 それなのに正太の目の前で、陽光に似た薄黄色のワンピースをまとった蓮乃は、「にへー」とでもいう弛んだ表情で笑っている。昨日一昨日同様に、我が家である宇城家の居間でそうしているのだ。ワンピースの色以外何一つとして違いがない。

 側頭部をガリガリと削り落とすように掻きながら、正太は苦い顔で蓮乃に言葉をぶつけた。蓮乃が言葉を聞き取れないことはわかっている。それでも言わずにはいれなかった。

 

 「あ~~の~~なぁ~~、許可なきゃくんなって昨日も一昨日も言っただろうに何でまた来たんだよオイ!」

 

 聞き取れないなりに何かを察したのだろう。窓際で突っ立ったままの蓮乃は、肩に掛けたウサギのポーチからペンとノートを取り出した。面倒そうに眉根を寄せた正太は、手を突きだしてノートとペンを受け取ろうとする。しかし、その手は空を掴むばかりで何も乗せられてはいない。不可思議そうに眉間のしわを増やした正太は、蓮乃の顔へと視線を向けた。

 だが、正太の目には蓮乃の顔は写らなかった。代わりにあったのは、顔を隠すように開かれたノート。そこにはただ一文、こうあった。

 

 『許可もらった』

 

 その一文を見て、正太はいぶかし気に首を捻った。前にあるように、睦美は簡単に許可を出す人間ではない。少なくとも正太にはそうとしか見えなかった。実際、蓮乃が昨日宇城家に来た時は、許可を貰わずに来てしまった。当人は『後で許可をもらう』とかほざいていたが。

 それなのに昨日一昨日の今日にこれだ。正直言って信用するのは難しいものがある。許可に疑いを抱いた正太は、蓮乃が顔の前に構えているノートとペンを取ると頭の中の疑問を書き付けた。

 

 『本当に許可をもらえたんだな?』

 

 蓮乃は差し出されたノートを引ったくるように受け取ると、短い返答を殴り書いた。その表情は宝石のように硬質で透明な色合いを帯びている。

 

 『もらった』

 

 再び正太の顔の前に開いたノートが突き出された。答えもさっきと同様だ。短い回答を眺めながら、正太は目を糸のように細めた。

 正太は他人の心理を察するのが非常に苦手だ。以前はできると思いこんでいたこともあるが、「前の一件」でそんな下らない過信は打ち壊された。だから、目の前にあるものでしか判断はしないと、そう決めている。

 蓮乃の硬い表情は、「嘘を隠している」様にも見えるし、「嘘だと思われたくない」と考えている様にも見える。正太にはその判別がつかない。

 

 『改めて聞くぞ。おまえは、睦美さんから「今日、うちに来てもいい」という許可をもらえたんだな?』

 

 だから、蓮乃に聞くことにした。

 以前、「ものを考えてから口を開け」と酒を飲んだ父に言われた。曰く、「発言も行動の一つであり、口から出した言葉には責任が伴う」のだと。だから、正太は「蓮乃が自分の意志で答えた」のならばそのまま信じることに決めた。

 

 正太は蓮乃の顔を見つめながら、質問の書かれたノートを手渡した。ノートを見た蓮乃は、正太の強い視線に答えるように、堅い顔のまま小さく肯いた。蓮乃の頭が縦に動いたのを見て、正太もまた一つ首肯する。正太は頭を掻き、無意識の緊張をため息と一緒に吐き出した。

 

 ――これ以上、蓮乃を疑うのは筋が通らんな。あと母さんが帰ってきたら、今後はきっちり窓の鍵かけるように言っとこ。

 

 『本もってくる。あと靴は玄関に置いとけよ』

 

 正太はノートに一文を追加すると、自分と蓮乃が読む小説を見繕うべく居間から足を踏み出した。だから、窓際で蓮乃が何かを堪えるように靴下のつま先をじぃっと見つめる姿を、正太が目にすることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 「だから、今日もまた蓮乃ちゃんがいるって言う訳ね」

 

 一通りの事情を兄である正太から聞いた、清子はこの三日で格段に増えたため息をもらした。母の遺伝子から押しつけられた大きめの臀部を窓際のソファーに埋めて、父から受け継がされた広めの額を支えるように手を当てる。

 

 「ほんとに許可貰ったのかなぁ」

 

 蓮乃が正太に伝えた「睦美からの許可」に、清子の口から疑問の声がこぼれる。蓮乃と睦美に関して、清子も昨日一昨日とある程度の関わりがあった。そのため清子もまた、睦美が簡単に許可を出したということを信用しきれていないのだ。

 

 「疑ってもしょうがないだろ」

 

 自身もまた抱いているその疑問を、頭から削り落とすように頭を強く掻きながら、対角線上のソファーに腰を下ろした正太が答えた。何はともあれ、蓮乃に確認はしたのだ。これ以上疑ったところで、何の利にもなりはしない。だが、「へ」の字にひん曲がった口が示すように、正直に言えば正太もまた信じきれてはいない。

 

 蓮乃の母である向井睦美は、清子にしてみれば自分の隣にいると言うだけである種のいじめになりうるくらいの、正太にしてみれば自分の隣にいると言うだけで行動が挙動不審になるくらいの、それはそれはずいぶんな美人さんだ。蓮乃の母親だけあってその美貌は蓮乃以上のものを持っている。

 しかしながら、蓮乃と睦美はその中身が大きく異なる。単に子供と大人と言うだけではない。基本的に天真爛漫でどことなく緩んだ印象の蓮乃と異なり、睦美は常に張りつめて追いつめられているような雰囲気を周囲に発散している。通常ならばそんな風に感じられると言うだけで、しっかりと大人な対応ができるのだが、蓮乃がらみの事柄だとそれが極端に助長されてしまう。

 一昨日と昨日に、母である睦美に蓮乃の件で正太が連絡をしたときは正にそうだった。涼やかな山奥の清流のようだった睦美の声が、蓮乃の名前を出した瞬間から鉄砲水もかくやのパニックじみた勢いに変わるのだ。おそらくではあるが、その時の睦美は実際にパニック状態になっていたように正太には思えた。

 そんな睦美が隣家とはいえ、他人の家に出入りしてもいい許可を蓮乃に出す。それも昨日一昨日と蓮乃が勝手に入り込んだ宇城家に行く許しを与える、というのは多少なりとも睦美と接触した宇城兄妹には考えづらいことであった。

 

 一方、悩む宇城兄妹を後目に、蓮乃は昨日一昨日と読みふけっているハードカバーの児童小説に今日もまた夢中だった。レモン色のワンピースから突き出た柔らかに白い両足が調子よくカーペットを叩き、蓮乃のご機嫌具合を伝えてくれている。

 昨日一昨日は姿勢が悪いながらもまだテーブルで本を読んでいた。しかし本日はさらに行儀悪く、床で寝ころびながらページをめくっている。流石に昨日たっぷりと正太に叱られただけあって、勝手にお菓子を食べるような真似はしていないが、何というかもう、二人が同じタイミングで頭を抱えてため息を吐くくらいのリラックスっぷりである。

 お気楽蝶々で極楽蜻蛉な蓮乃を横目で見ながら、正太と清子の二人は出涸らし後の茶殻を口一杯に噛みしめたような渋面で互いの顔を見合わせた。

 

 「で、どーすんの?やっぱり睦美さんに連絡取る?」

 

 改めて清子が正太に問いかけた。蓮乃が得た許可に対する疑問はまだ消えてはいない。無駄かもしれないが、睦美に確認を取ることは無意味ではないだろう。

 

 「一応蓮乃に確認したし必要ないだろ。これ以上疑うのも蓮乃に悪いし」

 

 しかし、正太にしてみれば、確かに「許可を得た」と答えた蓮乃をこれ以上疑うのは正直言って嫌だった。それに自分が(少なくとも表面上は)納得した事柄を、妹である清子にほじくり返されるのもいい気はしない。

 

 「そういえばそうだけど」

 

 確かに清子にとっても、蓮乃に対して「貴方を信用していません」と言っているようで気分がよろしくない。それに考えてみれば、兄が蓮乃に確認を取っている以上、蓮乃が許可をもらったと嘘をついていたとしても、少なくとも自分たちが責任を負う羽目にはならないだろう。だから問題はない、はずだ。それでいい、はずなのだ。

 清子は繰り返し言い聞かせるように自分を納得させる。それでも、どことなく納得し切れていない様子で、絡みやすい天然パーマの髪を手で漉いていた。

 幸福そうに読書に熱中する蓮乃と、噛みきれない物を噛み続けている表情で黙りこくる二人。音色の異なる沈黙が、午後の日差しに照らされた居間を満たしていく。

 

 「どーしたもんかね」

 

 沈黙に耐え兼ねたように常の口癖を意味もなくぼやいて、正太が体重を背もたれに預けた。ギシギシとソファーが文句をあげるのを無視して、背筋と両手を伸ばす。

 

 「神経衰弱でもやる?」

 

 強化紙箱に入ったトランプを手で弄びながら清子が答えた。一昨日は三人でババ抜きを大いに楽しんだ。特に正太と蓮乃が。おそらく今日も要るだろう思って、清子は子供部屋から取ってきておいたのだ。

 

 「あれ神経が衰弱しちまうからいやだ」

 

 だが、せっかくの清子の提案に、苦虫を舐めたような表情の正太が文句を付けた。自分の記憶力に自信のない正太にとって、神経衰弱はその名のとおりの結果を生むはめになる。さすがに蓮乃や清子の前で好き好んで格好悪い真似をしたくはない。

 

 「あたしの方が物覚えいいもんネ」

 

 子供のイチャモンじみた文句を、清子が嫌みな笑みで打ち返す。実のところ、正太の張子じみた意地っ張りを、妹である清子はとうの昔に看過していたりする。

 

 「……兄貴をあんまりいじめるんじゃありません」

 

 頬杖をついて唇を尖らせ、憮然とする正太。正太は今まで口達者な清子に口喧嘩で勝てた試しがない。こうやって降伏文章込みの文句を、捨て台詞代わりに投げ捨てるくらいが関の山だ。

 

 「兄貴がいじめられるようなことをするんじゃありません」

 

 しかし、正太の投げ捨てたボールを軽く受け止めて、清子はあっさりと投げ返した。三振ストライクでバッターアウト。反論の言葉も見つからない正太は、小説を読み終わりそうな蓮乃の方へと言い訳るように視線を逸らした。

 

 「じゃあ、大貧民にする?」

 

 ほんと子供っぽいなと胸の内で苦笑いしながら、清子は話題を本題に巻き戻す。ぐるりと視線を戻した正太は、有名なトランプゲームの一つである「大貧民」のルールを思い出しながら答えた。

 

 「蓮乃は大貧民知ってんのか?」

 

 昨日一昨日と蓮乃・清子・正太の三人で「ババ抜き」を遊んだ。しかしながら、始めの内はルールを知らない蓮乃に教えるためにやっていたようなもので、実際にゲームになり始めたのは一昨日も後半からだった。

 

 「知らなかったら教えればいいじゃない」

 

 逆に言うなら、一昨日はルールを知らない蓮乃にやり方を教えて、昨日一昨日とババ抜きを楽しむことができたのだ。大貧民でそれができない道理はないだろう。

 

 「そーすっか」

 

 清子の言うことももっともだ。本日のお楽しみは大貧民に決定して、読書中の蓮乃へと目を向ける。

 蓮乃を見やると、ハードカバーの裏表紙に両手を重ねて何かを感じいるように両目を閉じていた。ちょうどエピローグを読み終えて余韻に浸っているようで、その姿は涼やかで透明な美貌と相まって、祭神より信託を受ける巫女のようにも見える。

 正太はその整った顔をぼんやりと眺めながら、考え込むように目を細めた。この三日間何度と無く見る羽目になった蓮乃の顔だが、何度見たとしても「綺麗だ」という感想が外れることはなかった。

 

 ――なんでこんなんが俺に懐いているんだろうか?

 

 自惚れで思いこみかもしれないがと、自嘲を込めた言い訳を腹の底で呟きつつも、正太は脳裏に疑問を浮かべた。

 正太にとって蓮乃はため息と頭痛と、そして疑問の代名詞のようなものだった。あれだけの美観を持ち合わせているならば、それを利用してどうとでも生きれるに違いない。少なくとも「豚を二足歩行にしてサイズを圧縮したような外観」の自分と顔を合わせる必要性などどこにもないだろう。それでもそうするのは子供だからだろうか。動物園でイノシシの檻でも見るつもりで、我が家に入り浸っているのだろうか。

 少なくとも吐き気と嫌悪感を堪えながら、宇城家に顔を出している訳ではないだろう。それだけの演技力があるならあんなガキ臭い行動は避けるだろうし、そもそもそこまでして自分たちに顔を合わせる必要などない。にもかかわらず蓮乃は、この三日間毎日宇城家やってきているのだ。

 全く持って不可解だ。華厳の滝に紐無しバンジーを考えたくなるくらい不可解だ。

 

 だから、考えてもしょうがない。後頭部の辺りに浮んだ疑問を、正太は脳内ゴミ箱に放り込んで削除ボタンを押した。結局のところ「色々あるんだろう」の一言ですむ話だ。来る必要がなくなれば、蓮乃が我が家に来ることもなくなるだろう。

 

 そう、そのうち来なくなる。

 

 口一杯に頬張った白米の中に、砂粒一粒が混じっていたような違和感。無視できないほどではないし、邪魔になるほどでもない。それでも、その存在を確かに感じ取れる。口の中で粒を転がすようにして、正太はそれが何かを探り当てようととする。

 

 「ほぉ~」

 

 だが、その試みは当事者である蓮乃の声によって中断させられた。正太がぼんやりと考え込んでいるうちに、清子が蓮乃へ大貧民の説明をしていたらしい。対面に座る二人の間には、開かれたノートと並んだトランプが置かれている。床に並べられたトランプの順番とノートに書かれた数字を見るに、どうやら基本ルールである各札の強さを教えていたようだ。

 

 大貧民のルールは至ってシンプルだ。

 一:「場にある札より強い札を手札から出す。できなければ次に回す」

 二:「誰も出せなくなったら場の札をゲームから除いて、最後の札を出した人間が好きな札を場に出す」

 三:「これを繰り返し、先に手札を使いきった人間が勝者となる」

 基本的にはこれだけだ。

 

 今回は初心者の蓮乃を交えてゲームをする関係上、ローカルルールほぼ無しの基本ルール中心だから、おそらく、ババ抜き同様に二~三回ゲームをやれば蓮乃も問題なく遊べるようになるだろう。

 ならば、今回は徹底的に負かして昨日一昨日の鬱憤晴らしでもしてやろうじゃぁないか。正太は器の小さい下劣な笑みを浮かべてほくそ笑む。

 清子は正太の表情を見て、また程度の小さいことを企んでいるなと内心呆れながら、ノートを閉じて蓮乃への説明を終えた。



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第三話、三人でTVを診る話(その二)

 大貧民において札の強弱は基本的に、「ジョーカー」を筆頭として、「二」→「A(一)」→「K(一三)」→「Q(一二)」→「J(一一)」→「一〇」→…と続き、最も弱いのが「三」となる。

 勝者は順に「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」と呼ばれ、これがゲーム名の由来になっている。また次のゲームを始めるとき「大富豪」は「大貧民」から二枚の、「富豪」は「貧民」から一枚の強い札を奪い、弱い札を押しつけることができる。強者が弱者を搾取して勝ち続けられる辺り、大貧民というゲームは実に資本主義的であると言えよう。

 が、ローカルルールは敗者にも機会を与えてみせる。もしも「大貧民」がいの一番にあがることができたなら、その時点でゲームは終了し、順位がすべてひっくり返る。つまり「大富豪」は「大貧民」と、「富豪」は「貧民」と立場が逆転するのだ。これを「大革命」または「下克上」という。

 

 そして正太は今まさに、「大富豪」から蹴落とされる寸前の崖っぷちにいた。

 

 「んぬぁぅ」

 

 硬直した正太の口から、蓮乃よろしく言語化できない言葉が漏れた。硬直していなければソファーの上で頭を抱えて悶えていただろう。そのくらいどうにもならない感情がこもったうなり声であった。

 目の前の低いテーブルの「場」には、蓮乃が出した「J」の札が鎮座している。正太の手札は「一〇」と「三」が一枚ずつで、何度手札を見直そうと出せる札は全くのゼロだ。

 一方、対面側に座る清子の手札は五枚で、はす向かいのソファーに腰掛ける蓮乃は場に出された「J」と手の中にもう一枚。

 場の「J」の二枚下には、さっきの番で正太が『誤って』場に出した「八」の札が沈んでいる。正太は「八切り」の癖で、つい「八」を出してしまったのだ。

 

 ――ああ、「八切り」と「イレブンバック」ありだったら「八」で場が流れた後に「一〇」出して、蓮乃の「J」の後に「三」出して勝利を決めていたのに

 

 脂汗でぐっしょりと湿った手をズボンで拭いながら、やくたいもない「もしも」を想像し、正太は現実逃避を計る。しかし、どう足掻こうが妄想で過去を変えることはできない。ゲーム前に『「下克上」以外のローカルルール無し』と決めたのはよりにもよって正太だったのだから。

 それに「もしも」正太の妄想通りに、「八切り」と「イレブンバック」のローカルルールありだとしても、相手がいる以上思い通りに動かないのが世の常である。正太の負けはすでに決まっていたと言えるだろう。

 なお、「八切り」は「八」の札を場に出すことで強制的に場をリセットする、「イレブンバック」は「J」の札を出してから場が終わるまで強さの上下が逆転するローカルルールだ。

 

 「むふふふ~」

 

 対面する正太の苦悩を見て、蓮乃は自信満々な笑みを深める。ゲームが始まって数十分、一方的に負けてきた蓮乃にようやく勝利の女神が微笑んでくれるようだ。何で正太が「八」を出したのかいまいちよく判ってないが、おかげで勝利の方程式は出来上がっている。なお、蓮乃はまだ「方程式」を習っていない。

 

 「はぁ~」

 

 一方、清子は対照的な二人の顔色とは九〇度異なる冷めた表情でゲームを傍観していた。清子も楽しんでいないわけではないが、周囲がのめり込んでいると逆に冷めてしまう質なのだ。学校生活ではこの性格に大いに助けられつつも、この性質のせいで友達の輪から微妙に外されている。痛し痒しと言ったところだ。

 

 一秒ごとに笑みを深める蓮乃と眉間のしわを深める正太。もはや覚悟を決めねばなるまい。白装束をまとって腹に短刀を当てた武士のように、正太は絞り出すような声と共にノートの端に震える文字を書き込んだ。

 

 「……『パス』」

 

 そして始めに決めた通り、順番に従って蓮乃へとターンが回ってくる。待ち望んだ瞬間に大輪の花のごとき満面の笑みを浮かべ、最後の手札「九」が場に叩きつけられた。

 この瞬間、蓮乃の勝利と正太の転落が決定された。蓮乃の顔が初めての勝利の味に甘く溶け崩れる。

 

 「はい、これで兄ちゃん大貧民ね。蓮乃ちゃんが大富豪であたしは変わらず平民と」

 

 清子がどこか疲れたような面倒くさそうな口調で敗北の事実を正太へと告げる。言葉を聞くと同時に正太は床へと突っ伏した。力無く開いた手から、汗で湿った「一〇」「三」の札がこぼれ落ちる。

 

 「こんちくしょぉぉぅ……」

 

 正太の口から情けない悪態が漏れ落ちた。それを見る清子の目は冷ややかを通り越し、八甲田山の吹雪と化している。さほど高くない兄の威厳は清子の中で、地に落ちてそのまま土に潜る勢いで下降しつつあった。

 

 「なぉぉ~もぃっ! そぉうにぃ!」

 

 一方の蓮乃はというと、当人を含めて地球上の誰一人として理解できない言語で、勝利の雄叫びならぬ雌叫びをあげている。そちらに視線を向けた清子は、エイリアンのどつき漫才を見ているかのような、理解不能を体現した表情を浮かべた。

 

 ――蓮乃ちゃんも兄ちゃんも、正直これはないなぁ

 

 呆れ果てた顔の清子は、二人のあまりの有様に肺の空気すべてを吐き出すような深いため息をついた。

 年下とは言え蓮乃は自分とそこまで年が離れていないだろうし、兄はそもそも二つ年上だ。それがこうもまた、頭の中が何歳なのか確かめたくなるような熱中ぶりを晒しているのだ。特に兄は中学二年のはずなのだが、この様はいったい何なんだと文句を付けたくなるレベルだった。

 普段は情けないところが少々……いや、多少……否、多々あるけれど、少なくとも年齢相応の行動はとれていたはずだ。それが、兄が蓮乃と遊ぶ度に精神年齢が引き下がっている気がしてしかたがない。蓮乃ちゃんの本当の魔法は、他人の知性を下落させる怪電波だったりするんじゃあないか。それじゃあ自分の知能も低下していたりするのか。

 

 やくたいも証拠もない無意味な想像が、清子の頭の中でねずみ車のようにぐるぐる回る。

 そうやって無駄な思考を無為に高速に無闇やたらと回している間に、正太が札を配り始めた。札を切るのも配るのも敗者である大貧民の役割であり、それにに成り下がった正太が口をへの字にしながら一枚ずつ投げ渡している。

 一通り配り終われば、楽しい楽しい交換の時間だ。蓮乃は非情に、いや非常に楽しげな表情で手札の内から弱い札二枚を正太へと押しつける。口一杯に苦虫を噛みしめた顔の正太が、それと引き替えに手札最強の二枚を蓮乃へと差し出した。

 

 満足げな顔の蓮乃と眉間にしわを寄せた正太、そしてそれらを呆れた顔でみやる清子。三人でトランプをしているときによく見られる光景だった。

 最初は慣れていない蓮乃が負け倒しているのだが、その内妙な勘の良さを発揮して勝ち始め、正太のよくやるポカミスにつけ込んで大勝を奪い取る。その横で清子は天秤の支点よろしく中堅所を維持し続けながら、熱中しきっている二人を醒めた目で傍観している。

 そんなこんながここ三日毎度のように起きているわけで、いい加減冷静になれよと突っ込みたくなる清子であった。

 

 札の交換も終わり親も決まってさて次のラウンドを始めようと言うところで、ふと正太が思いついたようにつぶやいた。

 

 「あのさ、テレビでも見ないか?」

 

 兄の器が少々サイズ不足であることは知っていたが、こんなトランプゲーム一つの負けを糊塗するためにそこまでするのか。今や、清子の中で兄の威厳はマリアナ海溝の底へと達し、清子の視線は遙か北極のブリザードへと変わりつつあった。

 

 「そんなに大貧民になったのがいやだったの?」

 

 言葉に刺はないが、氷柱のごとき表情と視線が正太に清子の意志を分かりやすく叩きつける。真意を読まれて狼狽したのか、はたまた想定外の反応に驚愕したのか、あわてた様子で正太は返答を返した。

 

 「い、いやそういうんじゃなくて、単にトランプばっかりやってんのもどうかと思ってさ。ここ三日トランプと読書しかしてないし。それにこれ終わったらだから、終わっただから、ね!」

 

 身振り手振りを交えつつ必死の弁明を続ける正太。なにを話しているのだろうと不思議そうな顔で正太を見上げる蓮乃を横目に、清子は正太の発言を吟味する。

 確かにここ三日は「トランプして」「読書して」「トランプして」「読書して」、とひたすらの繰り返しだ。芸がないといえば芸がないし、清子自身いい加減飽きが来始めているのもまた事実である。そうするきっかけとなった蓮乃に別段飽きた様子はないが、一緒に遊ぶ自分たちが嫌々やっていたのでは楽しい気分にはなりづらいだろう。お隣の教育方針は知らないが、蓮乃に聞けばいいだけの話だ。

 

 こうしてざっと検討した所、トランプゲームからTV視聴に移行してもさほど問題はないと結論がでた。まだ狼狽から抜けきっていないのか視線を四方にさ迷わせた正太へと、清子はどこか投げやりなもしくは傍観者のような態度で返答を放り返した。

 

 「まぁ、蓮乃ちゃんと兄ちゃんがそれでいいんなら、あたしは別にそれでいいよ」

 

 まるで自分が決めたことではないと言わんばかりの清子の態度に気づくことなく、言い出しっぺの正太は話をまとめに入った。

 

 「じゃあ、これ終わったらテレビ見るってことで」

 

 「そういえば、兄ちゃんの最終成績は「大貧民」ってことでいいのかナ?」

 

 清子は「了解」と片手をあげて軽く返し、そしてついでに兄をおちょくっておくこととした。容赦のない清子の嫌みが正太のさほど強くもないハートを直撃し、正太の分厚い唇から断末魔めいた異次元の言葉が漏れる。それを考えないようにしていたのに。

 

 「ぉぅぬぁ」

 

 そのまま正太は、蓮乃へと説明しようと開いたノートへと突っ伏した。話を聞こう、否、読もうとノートへ視線を向けていた蓮乃は、正太の奇妙な行動と異常な声に小首を傾げてオウム返した。

 

 「ぉぅねぉ?」

 

 「んぐぅっ!」

 

 蓮乃の姿を見た清子もまた、それに応えるように奇天烈な声をあげて背中を丸めた。急に変なことやり出した清子を見て、蓮乃は逆向きに首を傾げる。姉ちゃんも兄ちゃんも急にどうしたんだろう。不思議がる蓮乃の首は、カッチコッチと呼吸のリズムで左右に揺れる。

 僅かに首を上げた拍子にそれを目にしてしまった清子の気管支から、摩訶不思議な笑いが一気に駆け上がってくる。清子は口を押さえて体を丸め無理矢理こらえるが、それでも肩も背中もおこりの勢いで震え出し、顔は引き吊った時の兄以上に形が歪んだ。

 

 ――は、反則! これ犯罪級だよ!

 

 その光景はネット動画の「赤ちゃんの声に首を傾げる豆柴子犬」の姿そのものだった。以前に清子が友達から見せてもらった時は、それを見ながら友達と「カワイイ!」「カワイイ!」と笑い合っていたのだが、実物の威力は想像を遙かに凌駕していた。元々外観が非常によろしい上に、行動一つ一つがえらい動物くさい子供である蓮乃がそれをやるのだから、さあ大変だ。

 テーブルに突っ伏してぴくりとも動かない正太と、体を丸め震わせて笑いの発作に必死で耐える清子。そしてその光景を当事者である蓮乃ただ一人が、不思議そうに首を傾げて眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 金銭的な問題と両親の教育方針から、一〇三号室の宇城家にはTVは居間の一台しかない。さらに言うなら、TVを見ていいのは夜の九時までで、それ以降は居間から子供部屋のベットへと蹴り出されてしまう。だが、実は何時「から」見ていいかに関しては、両親から何も言われていなかったりするのだ。

 それでも母の帰宅時までTVを見ているといい顔をされない上、両親の教育の成果か二人ともTVより読書が好きということもあり、見たい番組がやっていない限り、正太も清子も平日の日中は大抵TVを見ていない。

 

 向かい合わせのソファーに尻を据えた正太と清子の二人は、そう言うこともあって結構新鮮な気分でTVの電源を入れた。一方、いち早くTVと対面するソファーに陣取った蓮乃は、興味津々の様子で身を乗り出すように画面に食いついている。当人曰く親の方針であまりTVを見たことがないそうだ。

 

 電源ボタンを光らせた厚みのないTVに、汎用情報家電OS「SmartLife 三.二」の起動画面がアニメーション調で表示される。現在において、TVなど情報家電OSはこの「SmartLife」系列がシェアの大半を占め、かつてPC界を席巻した「Vinlows」系列同様に業界の基準となっている。

 足の着いた文字が走る楽しげな起動画面は一秒とかからずに消えて、各チャンネルの画像と検索エンジンが表示されているだけの味も素っ気もないホーム画面に切り替わった。

 正太が父から聞いた話によれば、昔のTVは固定されたチャンネルが流す番組を無線放送で見る代物だったそうだ。だが、混乱期に通信法が大きく改訂され、民間電波放送が無線帯域から叩き出された結果、現在は無数のチャンネルから選ぶ有線ネットTVが一般的となった。電話の隣にTVがあるのもそのためである。なお、現在の一般向け電波放送は、一部のラジオと日放(日本放送協会)のニュース放送くらいだったりする。

 

 「おぉ~~」

 

 正太と清子には見慣れた光景ではあるが、蓮乃にはずいぶんと珍しいもののようで、目を見開いて感嘆の声を上げている。

 さっき蓮乃から聞いた話によれば、向井家ではチャイルドロック機能により特定の時間に特定のチャンネルしか見られないように設定されているらしく、こうやって無数のチャンネルから好きな番組を選ぶのは初めてだそうだ。もっとも、チャイルドロックをかけていない宇城家であっても、一八歳以上向けの成人チャンネルにはアクセスできないよう設定されている。

 

 低いテーブルの上に置いたリモコンをいじって個人ページに移動すると、登録されたチャンネルの最新情報がずらりと並んでいる。ざっと上から見てみるが、一部のニュースチャンネルぐらいしか更新されておらず、昨晩とほとんど変わりがない。どれもこれも見た覚えのある番組ばかりで、正直見たいと思えるものが一つもない。リモコンをいじくる正太は、さてどうしたものかと首を捻った。

 

 『たくさんあるね!』

 

 だが、蓮乃にとってはどれもこれも見たことのない、新鮮極まりないものばかりだったようで、目を輝かせながらTVにかぶりついている。期待でほんのりと桜色に上気した蓮乃の顔を横目で見ながら、胸の内で正太はつぶやいた。

 

 ――こりゃつまらない番組を見せた日にゃ、期待との落差ですねちまいかねんな

 

 いつもの登録チャンネルでは埒があかず、正太はおすすめ番組を順繰りに当たり始めた。しかし、蓮乃の膨らみきった期待にかなう代物はそうそう見あたらない。

 いっそ、以前に視聴しておもしろかった番組を当たってみるか。自分たちは先を知っていても、蓮乃は知らないから楽しめるだろう。

 もう自分たちが楽しむことをあきらめて、ホストよろしく蓮乃を楽しませることに集中しようかと正太が考え始めた時、清子があるチャンネルの番組を指さした。

 

 「兄ちゃん、これなんかいいんじゃない?」

 

 指さされたのは、編みぐるみらしい人形が書き割りの野原をかけずり回る画像だ。タイトルを読むに「日放教育チャンネル」の「動画人形劇シリーズ」のようだ。ありがたいことに日放は月極め制度を取っているため、月額二千円を支払う限り過去の番組の視聴にも料金がかからない。中小学生のお財布にありがたい制度だ。

 これが正太が毎週見ている「東栄特撮チャンネル」の「装甲ライダーシリーズ」だったら、最新話と第一話を除けば二~三〇〇円/話の割合で口座から引き落とされる。一見さほどでもないように見えるが、シリーズものをまとめて見た日には、正太の小遣いがあっと言う間に溶けてなくなる羽目になる。

 

 清子が指さした「動画人形劇シリーズ」のページを開き、ずらりと並んだタイトルを上から下まで正太・清子・蓮乃の三人で眺めてゆく。一六世紀パリの近衛銃士隊を題材にした歴史もの「人形活劇ダルタニアン物語」や、火山活動により漂流してしまった吉里吉里島のユーモラスな騒動を描く「吉里吉里島漂流記」などなど。子供向けだろうと思い込んでいた正太と清子も関心の声を上げるような作品がずらりと並んでいる。「子供向けと子供騙しは違う」ということを実感しながら画面をスクロールしてゆくと、唐突に蓮乃が身を乗り出して正太の眼前にノートを突き出した。

 

 『兄ちゃん、わたしこれ見たい!』

 

 ――「兄ちゃん」!? 、ってそういえば昨日決めたんだっけ

 

 蓮乃からの呼び名に一瞬惑乱したものの、すぐに正太は思い出す。こうして実際に呼ばれてみると、妹である清子以外に「兄ちゃん」と言われるのは、何とも言えず尻と背中がこそばゆい感触がする。改めて別の方がよかったかと、正太は他の呼び方を頭の中で順に並べてみた。

 

 「正太」 ……無し。これはすでに拒否してる。

 

 「宇城兄」 ……微妙。提案してみる価値はあるか?

 

 「清子でない方」 ……問題外。俺は清子の付属物ではない。

 

 「お兄ちゃん」 ……これはイカン。なんというか、これはマズイ。

 

 最後の呼び方を脳裏に思い浮かべた瞬間、なにやらドドメ色とピンク色をごった煮にした「何か」が正太の中から急速浮上してくるような錯覚を覚えた。平手で強く額を叩いて、無理矢理に錯覚を叩き出す。

 そうして改めて目を向けた蓮乃は、コンクリートジャングルの背景に佇む二匹の犬人形の画像を指差している。その画像の隣には昭和の映画を思わせる古臭く力強く、そして荒々しいフォントでタイトルがこう刻まれていた。

 

 『ノラとクロの物語 ~野良犬達の狂想曲(カプリッツォ)~』



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第三話、三人でTVを診る話(その三)

 ……血にまみれた冷たい「ウィンナー」の屍を、「クロ」と「サクラ」は約束通りに墓へと埋めていました。夕闇が現れ始めた頃、ようやく「ウィンナー」のお墓に最後の土をかぶせ終わりました。それを終えた「サクラ」の目に涙がにじみます。

 

 『チワワやコーギー、ダックスフント。あたしは警察犬を辞めてから、そんな一匹で生きれないような犬たちを助けてきたんだ。ずっとそう思ってた』

 

 「クロ」は目を閉じたまま、静かに「サクラ」の独白に耳を傾けます。

 

 『でも実際は違った。助けられたことで、この子は苦しんでいた。でもあたしはそれに気がつけずに、良いことをしていると、ずっと、ずっと思いこんできただけだったんだ!』

 

 「サクラ」の鼻を大粒の涙が伝い落ちました。

 

 『なあ「クロ」、あたしはどうすればよかったんだろうなぁ』

 

 「クロ」は「サクラ」の言葉に答えません。答える言葉がないからです。そして言葉で答えるものでもないからです。「クロ」は空を仰ぐと長い長い遠吠えをしました。それは「ウィンナー」の死を悼み、その魂が天国へと行くようにと祈る、鎮魂の遠吠えでした。その遠吠えは一つではありません。「サクラ」もまた「ウィンナー」を思い偲び、遠吠えを響かせました。

 その時です。二匹の耳がピン、と立ち上がりました。「クロ」と「サクラ」の他に遠吠えをあげている犬がいるのです。それは、また一つ、また一つと数を増やして行きます。それは「サクラ」の群から聞こえてきました。気が付けば辺りは「ウィンナー」への鎮魂の遠吠えで満ちあふれていました。

 「サクラ」の右腕である「キクマル」だけではありません。いつもはいがみ合っている「アイブル」と「モベット」も、「サクラ」に文句ばかり言う「モンペ」も、みんな「ウィンナー」の魂が天国へたどり着けるように遠吠えを響かせていたのです。「サクラ」の目からもう一粒、涙がこぼれました。

 遠吠えを終えた「クロ」は「サクラ」へと向き直りました。

 

 『あんたはあんたの群とあるべきだ。俺は俺の群に行く』

 

 頷いた「サクラ」を見届けた「クロ」は、自分の群へ、そして親友の「ノラ」の元へと向かって駆け出しました。その背中を「サクラ」の声が後押しします。

 

 『「ピーマン」を「ウィンナー」と同じ所に送ってやっておくれ! きっとそれが二匹の望みだから!』

 

 その声に答えるように一声吠えると、「クロ」は一段と足を速めて駆けて行きました……

 

 

 居間のTV画面は、己の群と親友「ノラ」の元へとひた走る「クロ」の人形をパノラマで写している。その姿に併せて徐々に盛り上がる字幕とナレーション、そして音楽は物語が佳境へと向かいつつあることを伝えていた。

 だが、正太と清子の顔色は硬い。引き吊っているとすらいえる表情だ。この作品が面白くないわけではない。むしろ、最近見たドラマや映画の中でも一二を争う位の代物だと言える。二人だけ、もしくは宇城家だけで見たならば大満足出来ただろう。

 

 問題は一つ。子供向けの「動画人形劇シリーズ」のくせに、どう考えてもストーリーが昭和のヤクザ映画のそれだからだった。

 

 己が群を、意地を、面子を守るため抗争を繰り返す野良犬達に、その姿を嘲り遊興にふける飼い犬達。さらに命がけの抗争を低俗な娯楽として知らせ回る鳥達に、町の覇権を奪わんと暗躍する野良猫達。野良犬を任侠者、飼い犬を高等遊民、鳥はパパラッチ、そして野良猫は海外マフィアと置き換えれば、それだけでヤクザものが一本が出来上がりそうな仕上がりだった。

 その上出てくるキャラクター達も一癖二癖どころではない。例えば、今弔われた「ウィンナー」という雌のミニチュア・ダックスフントは、「かつては飼い犬だったが、野良犬と恋に落ちて飼い主から捨てられた挙げ句、力不足から産み落とした子犬達を飢え死にさせてしまい、自分の無力さに絶望している」という設定だったりする。他にも敵役の大型雑種犬「ピーマン」は「子犬時代に飢えから兄妹で殺し合い、その肉を食らって生き延びたため、同族以外を口に出来なくなってしまった」と回想シーンで語られている。

 

 ――これ子供に見せていいの!?

 

 二人の胸中にほぼ同じ疑問が浮かぶのも当然のことであった。繰り返して言うが、ストーリーが面白くないわけではない。問題は、この血で血を洗う抗争の殺伐極まりないお話が、公共放送である「日放教育チャンネル」、その中でも子供向けの「動画人形劇シリーズ」で放映されていることなのだ。

 

 むしろこう言ったものは、人間の役者で映画として放映した方がいいのではないだろうか? 正太の脳裏に疑問が生じる。

 だがしかし、ストーリーは(ヤクザものではあるが)王道でよくできているものの、これといった人を引き寄せる特徴が、別の言い方をするなら「花」がないという点もある。もしも、正太の考えの通りに人間の役者で映画にしたならば、せいぜいが埋もれた名作扱いで十分な視聴者数も次回作分の予算も得られなかっただろう。

 変わらぬ人気の古典映画や雨後の竹の子のように現れる新作映画、個人制作映画でも技術の発展で馬鹿にならない作品もある。さらには現代のネットTVは、かつてと比べれば破格の安さで大抵の映画を視聴できる。この中で、人気を得てランキングを駆け上がるのは至難の業と言えるだろう。それを考えるにスタッフや監督は、あえて、子供向けとされる「日放教育チャンネル」「動画人形劇シリーズ」で、この作品を世に放ったのではないか。

 

 正太が思考を空回りさせる一方、この作品を選択した蓮乃はというと、「サクラ」と「クロ」の不器用な愛情、そして「ウィンナー」の悲しき愛の行方と死に様に感動しているのか、鼻を鳴らして両目に涙を滲ませている。

 それに気づいた清子がポケットに突っ込んでおいたハンカチを渡すと、蓮乃は顔全体を擦るようにして涙を拭った。

 その様を目にした正太は、その光景に引きずられるように昨日一昨日のことを思い返した。自分が泣かしてしまった時も、こんな風に顔を拭いていた。この調子だと番組を見終わる頃には、顔がニホンザルと同じ色合いになっていることだろう。

 頭をハタかれては目を潤ませ、怒鳴られては涙をこぼし、拳骨を頂いては泣きじゃくる。そして今度はTVの人形劇に感動してハンカチを濡らしている。この娘っ子はずいぶんと涙もろい。というより、感情が表に出やすい質なのだろうか。泣いたと思えばすぐ笑い、頬を膨らませたと思えば得意顔で鼻を鳴らす。ことわざで「泣いたカラスがもう笑う」と言うが、この娘はまさにそれだ。

 

 正太の空転中の思考は、場面転換とともに始まった「ピーマン」と「ノラ」の群の戦いに急停止を余儀なくされた。

 他の犬の三倍はある人形が、「ノラ」の仲間の人形をちぎっては投げちぎっては投げ飛ばす。投げ飛ばされた犬達に動く様子はない。死んだということなのだろうか。一方、主役の「ノラ」はただ一匹「ピーマン」の猛攻を避け続ける。それでも、幾度となく「ピーマン」の牙が体をかすめ、流血や消耗をナレーションと字幕がやけに克明に説明する。

 それに合わせ、蓮乃は腕を風車よろしくグルグルと振り回して「ノラ」を応援し始めた。

 

 「らぬぁ、かなぇーっ!」

 

 たぶん応援した始めたのだと思う。正太にも清子にも、蓮乃がなんといっているかはまっっったくわからないのだが。

 蓮乃の応援を知る由もなく、画面の中の人形達の死闘は続く。もはや残りわずかとなった群の仲間に下がるよう命じると、「ノラ」は「ピーマン」とただ一匹向き合った。背水の陣を引いた「ノラ」にもはや後はない。だがそれでも、この怪物に食われた仲間のためにも引くわけにはいかない。覚悟を固めた「ノラ」が牙を剥く。

 

 その時だった。高らかに響くメインテーマと共に、夕日を背にした「クロ」が画面に姿を現したのは。その名の通りに夜の色合いをした体を逆光の中に際だたせ、両目を黄金色に輝かせた「クロ」は、短く、けれども力強く吼えた。そして、定位置である「ノラ」の隣へと陣取ると、親愛の意味かお互いの肩を軽くぶつけ合う。

 

 『待たせてすまなかったな』

 

 『遅いぞ、バカタレ』

 

 

 

 

 

 

 

 夕日が「クロ」を「ノラ」を、そして「ピーマン」をオレンジ色に染めてゆく。物語は最高潮に達しつつあった。

 

 ほう、と清子は小さく息を吐いた。自分もずいぶんと熱中していたらしい。中々に引き込まれる良作だ。蓮乃をこれじゃ笑えないな、そう思って苦笑を口の端に浮かべる。すると、テーブルの向こうからなにやらブツブツと念仏を呟くような声が聞こえてきた。

 

 「……そうだ、そう、おまえ達が「ピーマン」を「ウィンナー」の元に送ってやるんだ。それが必要なんだ」

 

 念仏の音源は正太だった。何かを確かめるように小さく何度も繰り返して頷いている。どうやら、蓮乃同様に正太も一緒に熱中して応援までしていたらしい。

 

 「兄ちゃん?」

 

 「あ、いや、ええとその」

 

 呆れの混じった声を清子が投げかけると、焦りを含んだ返答が正太から返ってきた。正太の視線は左右に泳いで、自身の狼狽を大いに分かりやすく表現している。そうして正太がワタワタと慌てふためきながら身振り手振りで言い訳を取り繕っていると、その横腹が唐突に突っつかれた。

 そちらに目を向けると、真珠色の細い指先とその持ち主である蓮乃がいる。その蓮乃は中に黒玉が入っているのかと誤解しそうになるくらいに、その両目をキラキラと輝かせていた。

 その顔に何とも微妙な表情を浮かべて見ていた正太は、何か「ピン」と来たのかノートに文を書き付けた。

 

 『一緒に応援しようってことか?』

 

 「んっ! 」

 

 蓮乃は上半身全部で頷いて、元気一杯に肯定を示した。それを見た正太の顔はさらに表現しがたい色合いに染まった。恐る恐る視線を清子の方へと向けると、清子は優しい顔で正太に頷いた。それも、「だだをこねすぎて玩具売場で転げ回ったあげく頭を打って涙目の子供」を見るような、慈しみと呆れの混ざった「アホの子」をみる目をしながら。

 

 「……やれば?」

 

 兄としてのプライド、プライドを優先する愚行の結果、蓮乃に合わせてやりたい親(?)心、そしてなによりこの番組を大いに楽しんでいる自分自身。それら他諸々が正太の中でごちゃごちゃに煮詰まり、口から蝦蟇の脂を圧搾機で絞るが如き怪音が漏れ出した。

 

 「ぬぁぅぅ」

 

 そのアホくさい兄の葛藤を目の端に追いやりながら、TVの方へと清子は再び顔を向けなおした。画面の中では、タイトルコールと主題歌の演奏が終わり、「ピーマン」と「ノラ」「クロ」の対決を主題とした一話が始まろうとしていた。二人のせいで気が削がれちゃったなと、やくたいもない文句を口の中で転がしながら、清子は頬杖ついて人形活劇を眺める。モニターの中、夕日を背景に三つの影が近づいてはまた離れる。

 

 その視界の端っこでは、結局応援することを決めた正太が、蓮乃と一緒になって「ノラ」「クロ」コンビに声援を送っている。

 この様子を見るに、さっき考えていた「兄は年相応の行動は最低限できる」という事柄の方が間違いだったように思える。考えてみれば、「前の一件」とて兄のガキ臭い行動が元と言えば元なのだ。本質的には、兄はどうしようもなく「子供」なのかもしれない。

 正太に対して非常に失礼な思考を、つらつらと進める清子の脳裏に疑問がよぎった。

 

 ――なぜ、その「子供」な本質が家族の前ではなく、蓮乃と遊ぶときのみ現れるのだろうか?

 

 兄が家族を信頼していないのか? ……正直言って考え難い。兄の家族(両親とおそらく自分)に対する信頼は、年代を考えれば少々異常な部分があると思えるほどに強いものだ。この考えは間違いだろう。

 

 蓮乃ちゃんを家族以上に信頼しているのか? ……昨日今日、いや昨日一昨日の付き合いでしかない蓮乃ちゃんを、そこまで信頼するとは思いづらい。そもそも、兄より精神的な意味でも年下で、兄以上に子供子供している蓮乃ちゃんに、たとえ兄といえども自分を預けるとは思えない。実際、ガキ臭さ全開であるものの、蓮乃ちゃんへの兄の態度は年長のものだ。

 

 ではなぜ? ……なにかあるのだろう。蓮乃ちゃんと兄の間に自分が思いもつかない精神的な繋がりのようなものが。はたまた、兄の内面になにか蓮乃ちゃんを特別視させるような何かが。せいぜいありそうなこととしたら、「前の一件」関係の何かだろうか。

 

 ちらりと正太に目を向けてみるが、清子の視線に気が付きもしない。展開に興奮してるのか兄の頬は紅潮し目が輝いている。

 正直、自分と同じような顔でああ言う表情されるとゲンナリするものがある。その上、隣で似たような表情をしている蓮乃ちゃんとつい比べてしまい、さらに気分がゲンナリする。かたや満月を思わせる涼やかな顔立ちに、かたやスッポンどころかカミツキガメの甲羅の如き凹凸注意の面構え。兄と同じような遺伝子を持つ自分もまた、ワニガメ甲羅の凸凹顔なのだから、二重三重にゲンナリだ。

 こっちも一緒に高揚できれば気にならないのだろうが、自分以外がノリに乗っていると逆に醒めてしまう質なのだから、こう言うときは辛くなる。と言うより、この質が役に立ったことはあまりなかったりする。なにせ、皆が楽しんでいればいるほど、そこから距離を取ってしまうようなものなのだから当然だ。精々、周囲のクラスメイト(主に男子)が勢いに任せて大バカやろうとしているのをいち早く察せたことくらいだろう。

 もっとも、それに対してやったことと言えばその場を離れただけなのだが。なにせ、勢いに乗っている面々に苦言を申せば反感をダース単位で買うのは明白だし、半端にブレーキをかけてそいつ等が問題を起こせば「なぜ止めなかった!?」と詰問される羽目になりかねない。だから兄やら蓮乃ちゃんやら、そういったバカやっている人間は遠くで離れて見るのが一番安ぜ……

 

 そこまで考えて清子は醒めた、いや覚めた。

 

 ――あ~~~もう、やだやだやだやだやだなぁ。まぁっったこんなこと考えてるよ、ほんっともうやんなるなぁ

 

 他人の批判と嘲笑に酔っている自分から、目が覚めたのだ。コールタール色をしているだろう自分のハラワタを全部絞り出す勢いで、清子はヘドロ臭の重いため息を吐き出す。今の自分の顔色もきっと、コールタールかヘドロとよく似た色合いをしていることだろう。苦い肝を噛みしめたような感覚が口中に広がる。

 清子は額に手を当てたまま二度三度と頭を降って、少しでも頭骸の中に巣くった自己嫌悪を振り落とそうとする。だがしかし、脳髄にしがみついたそれは簡単には離れてくれない。

 繰り返し繰り返し、清子は何度も何度も頭を振っては長い息を吐く。それでも蜘蛛の巣が絡み付いたように、内臓と脳髄にへばりついた清子自身への嫌悪感は、離れる様子を全く見せない。口を押さえて俯いたその顔には、まるで吐き気を堪えるような表情が浮かんでいる。いや事実、清子は胃の腑からこみ上げる物を感じていた。

 唇を強く噛んで目を強くつむり、食道を逆走しようとする昼飯の残骸を息を止めて押さえ込む。接着剤でくっつけるように堅く閉じたまぶたの端から、涙が一粒こぼれ落ちた。頬を伝うそれを感じた清子は、口を押さえていない右手の指で拭おうとする。

 

 が、それよりも僅かに早く、柔らかな、そして少し湿った感触の布が清子の頬を撫でた。布は、涙の珠もその跡もぬぐい去って頬から離れた。清子は目を見開き、視線で頬を拭った物を探す。それは、心配そうな表情を浮かべた蓮乃の手に握られた、見覚えのあるハンカチだった。見覚えがあるのは当然だ。それは自分のハンカチで、さっき蓮乃に手渡して彼女の涙を拭ったのだから。

 

 『姉ちゃん、大丈夫?』

 

 「どーしたよ、お前? 調子悪いのか?」

 

 心配の上に不安をかけた顔で蓮乃がノートを差し出した。その真後ろの正太から、蓮乃の顔と同じような色合いの声が放られる。表情も蓮乃とそう違わないだろう。

 

 「あ~、うん、ちょっぴりね」

 

 二人にこれ以上心配させまいと、清子は吐き気と自己嫌悪を一息で飲み下し、ばつ悪げな表情を代わりに浮かべた。いや、正直なところ本気でばつが悪い。二人が大いに楽しんでいる横で、上から目線の批判に酔いしれた挙げ句、自己嫌悪で一人上手に落ち込んでしまっていたのだ。せっかくの楽しい時間だと言うのに、陶酔混じりの自己嫌悪を放射して、二人に心配をかけさせてしまった。ああ、余計にあたしが嫌いになる。

 

 「ちょっと待ってろ」

 

 無理に作った清子の表情に気づく様子もなく、正太は何かを取りにソファーから腰を上げ、台所に足を向けた。

 冷蔵庫から「豆乳」と書かれた紙パックを取り出すと、マグカップへとクリーム色の液体を注ぎ入れ、電子レンジにかける。ジリジリとつぶやく電子レンジの稼働音を背景に、調味料の瓶の並びから「粉飴」と表記された小瓶をつかんだ。そこで正太は台所を見渡す。いつもの場所にスプーンが見当たらない。「スプーン、スプーン」と答えるはずのない呼び出しをかけつつ、引き出しを開けて中を覗く。

 そしてスプーンを捜し当てると同時に、甲高い「チン」の音で電子レンジがカップを暖め終わったことを告げた。流しの横に取り出したマグカップを置くと、粉飴の小瓶から白い粉を一匙放り込んだ。一匙の粉飴は溶けたのか見えなくなったのか、白い液体の中にあっと言う間に消え失せた。

 

 正太が取っ手を握るマグカップからは、暖められたこともあり特有の臭いが沸き立って、その中身を見るまでもなく教えてくれる。居間へと向かう正太はこぼさないように注意しながら歩を進めるが、バランス感覚には全く持って自身がないので、出来るだけゆったりと、かつ上下動を減らして歩く。おかげで端から見ると、ロボットの歩く姿そのものだ。もっともショーモデルか個人制作を除けば、ほぼ全ての商用ロボットは二足歩行をしないのだが。

 

 正太の視線の先には、調子の悪そうな清子と、何とも言いがたい顔で正太の持っているカップをにらみつけている蓮乃がいる。蓮乃としては正太の行動が非常に気になってはいるのだが、調子の悪そうな清子を放っておけず、腰を浮かせては下ろすという無意味極まりない上下動を繰り返していたりする。

 そんな蓮乃を「腕立て伏せを始めた子猫」を見るような目で見ながら、正太は真ん中の低いテーブルにカップを置いた。

 

 「心の不調は体の不調。そしてその逆もまた真なり、だ」

 

 つまり正太曰く、体調をよくすれば気分も回復すると言うことだ。テーブル上のカップに並々と注がれたクリーム色を見ながら、清子が正太へ問いかけた。

 

 「ねぇ兄ちゃん」

 

 「なんだ」

 

 清子が指でクリーム色の水面に触れると、水面にしわが寄った。そのまましわをつまみ上げると、滴を落としながら膜が垂れ下がる。

 

 「湯葉張っているんだけど」

 

 「人の作ってきた物に文句言うなよ」

 

 せっかく持ってきた粉末乾燥水飴入りのホット豆乳に文句を付けられて、正太は憮然とした表情を浮かべる。ただし、清子の指摘も間違いというわけではない。湯葉が張っている豆乳は飲みづらい上、口にべったりと湯葉が張り付き見目の悪いことこの上ないのだ。せめて箸か楊枝か何かで湯葉を取とってくれればよかったのだが。兄のこーいう所が、詰めが甘いというか、気が利かないというか……

 

 あ、また批判してる。腹の底から沸沸と沸き上がる自己嫌悪の感触。だが、清子は大きく深呼吸して、自己嫌悪に浸りそうになる自分を戒める。まずはこの豆乳飲んで調子を戻そう。あたしを嫌うのは後でもできるから

 

 「兄ちゃん、ありがとね」

 

 「おう」

 

 マグカップを持ってきてくれた正太に改めて礼を言うと、清子は舌を焦がしながら甘い豆乳をすする。予想通りに口にへばりついた湯葉を指でこそぎ落し、行儀悪く舌でなめ取った。

 牛乳に比べ格段に癖のあるこの味が嫌いな人は少なくないが、清子は結構好きだったりする。それに、納豆しかり塩辛しかり、癖のあるものほど慣れると病みつきになるものだ。実際、父は日々の晩酌にアミの塩辛を欠かさない。ぼんやりと意味のないことを考えつつ、ちびちびと熱い豆乳を舐めていると、ふとこちらを見つめる蓮乃と視線があった。

 

 烏の濡れ羽色した黒髪に、朝日に照る新雪の肌。紅一点の唇は寒椿の紅色で、切れ長の目蓋から覗く瞳は黒玉のよう。人の外観を司る神様がいるとしたら、清子としてはマウントと取ってしこたまぶん殴りたくなるくらいに綺麗な子だ。だが、その美貌に浮かぶ表情は、犬か猫の類かと言わんばかりの愛玩動物そのまんまだったりするのが、ある意味すごい話である。

 そして今、その顔には「興味津々」という文字がでかでかと書かれていたりする。机に両手をついて、机から体を乗り出しの清子の手元をのぞき込む蓮乃。何ともわかりやすい限り。清子の顔に優しい味の苦笑が浮かぶ。

 

 『飲む?』

 

 『うん!』

 

 きらきらと好奇心に瞳を輝かせながら、マグカップを清子から受け取った蓮乃は「むふぅ」と満足げな息をもらした。

 口を付けてまずは一舐め。予想より熱かったのか、蓮乃は顔をしかめてマグカップを口から離した。口の中で豆乳を冷ましながら味を確かめる。考え込む表情で、一、二、三秒。

 もう一口。もう一度、舌の上で転がして味を再確認する。

 さらに一口。もう確認はいらないようだ。一瞬の躊躇もなく豆乳を口の中にそそぎ込んだ。

 蓮乃は豆乳の味を気に入ったのかグイグイと飲み進める。小さな唇周りに湯葉で出来た白い髭が生えるが、時々無遠慮に舌で舐め落とすだけで、蓮乃に気にした様子はない。蓮乃は夢中でカップを傾ける。

 気がつけば、カップのほぼ全部が蓮乃の喉を通っていた。とてもおいしいものが飲めたと、「ホフゥ」と満足げな息が漏れる。そして、底に残った最後の一滴を飲もうとカップを一八〇度傾けようとして、苦みを増した清子の苦笑が目に留まった。

 

 ――そう言えば、私はなんでこれを飲んでいるんだっけ?

 

 清子に焦点を合わせていた蓮乃の瞳が、つぃとずれた。視線はそのまま同じ色の苦笑を張り付けた正太の顔に止まり、さらにずれた。

 蓮乃の口の端がひくひくと痙攣し、視線は宙を泳ぎ回る。おそらく内心では「やっちゃった」の一単語が連呼されていることだろう。何せ、調子の悪そうな清子のために正太が持ってきたホット豆乳を、別段調子が悪くも何ともない蓮乃が一滴残らず飲み干してしまったのだ。決まりが悪くて仕方がないに違いない。

 視線を合わせられず頭を下げた蓮乃は、ものすごくばつの悪そうな表情を浮かべたまま、おずおずと差し出すようにマグカップを清子の前へ置いた。もし子犬なら耳を畳んで尻尾を巻いてるだろう蓮乃の姿に、正太は思わず苦笑いと愉快の笑みを一緒にこぼした。

 

 「もう一杯持ってくるか?」

 

 「おねがい」

 

 清子は微苦笑しながら、カップを掴み上げた正太に注文を返した。「自分」は好きに慣れそうにないけど、少なくとも今の気分は悪くないな。そう思いながら。



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第三話、三人でTVを診る話(その四)

 結局、正太はホット豆乳を三人分作ることとなり、そいつをチビチビ飲みながら三人は番組の続きを視聴していた。

 

 画面上では、最後の一騎打ちを終えて生き絶えた「ノラ」へ、「クロ」が回想とともに鎮魂の遠吠えを繰り返している。

 物語は佳境を通り、終局を越えて、閉幕に入りつつあった。画面の端っこに映る時計をみれば五時少し手前で、三時間近くTVにかじりついていた事になる。長くかかるのを考慮して、途中からおもしろそうなエピソードのつまみ食いに切り替えたのだが、それでもこれだけ時間を使ってしまっていた。もっとも不満というわけではない。ストーリーの大筋だけをつまみながらも、結局最後まで見てしまったのだから言わずもがなだ。

 

 「ノラ」の遺言に従い町を出るべく、夕日に向かって駆ける「クロ」を背景に、画面の上から白抜きのスタッフロールが流れ落ちる。それをぼんやりと眺めていると、下から現れた「おわり」の文字と日放のロゴマークが、TVの時間の終了を告げていた。

 三人は背中一面にへばりついた凝りを落とすように、両手を組んで頭上にのばす。そしてそのまま腹周りの筋をのばすべく、同じタイミングでメトロノームよろしく上半身を揺らし始めた。

 

 「ん~、んっ! ん~、んっ!」

 

 蓮乃の口から漏れる音で拍子を取り、右へ左へと体を曲げる。十秒後、脳味噌の動いていなかった正太と清子は正気に帰り、恥ずかしさのあまり真っ赤になった顔を押さえ、痙攣じみて震える羽目になった。

 それから数分が経ち、いい加減恥ずかしさも落ち着いて真っ赤になった顔色もある程度肌色に近づいてきた。二人はお互いの顔を見合わせ、自嘲を込めて苦めの笑みをこぼした。

 

 『おもしろかったね!』

 

 二人の様子に一片たりとも頓着する様子のない蓮乃が、力強い大きな文字で冷めやらぬ興奮を表したノートを掲げた。ノートと同じことが顔に書かれた蓮乃は疑いなど全くない瞳で正太を見つめる。さっきより苦み控えめの苦笑を蓮乃に向けて、正太は首を縦に振った。清子に視線を向けると、彼女も小さく頷いて肯定を示した。

 事実、この作品は久方ぶりの大当たりだった。これを機に昭和のヤクザ映画が見たくなるくらいだ。「機関銃無頼漢」とか「任侠無き闘い」とか見てみようかな。でも、小遣いは足りるだろうか?

 

 正太が毎月の小遣いと財布の中身と貯金箱の蓄積具合を暗算し始めた一方、蓮乃は正太の顔を見つめると、なにやら思いついた顔をしてノートにペンを滑らせ始めた。

 貯金箱の切り崩しなしかつ無理のない範囲なら月二本くらいかなと、正太が頭の中で数字をこねくり回していると、九〇度横から服の裾が引っ張られた。清子は正太の真向かいで、そっちにいるのは蓮乃しかいない。それに当然そんなことをするのは一人しかいないわけで、向けた視線の先には想像通り蓮乃がいた。ただし表情は想像とは異なり、なんというか「悪戯を思いついて今それを実行するところです」と書いているような顔をしている。元々の美麗な顔立ちを相まって、正太には小悪魔そのもののように見える。

 

 ――こいつ、またまたなにかやらかすんじゃぁなかろうか?

 

 その顔を見て正太の背中に冷たい汗が流れ落ちた。ここ三日ばかりの付き合いではあるが、この娘っ子が思いつきで何かをやらかすと、大抵ろくな結果にならないことを正太は知っている。具体的に言うと、初日にやらかした「無許可大規模魔法使用」や二日目の「ノートを取りに帰って行方不明」だ。

 いやな予感に満ちた正太の目には、蓮乃の背後で揺れる悪魔のしっぽと山羊の角の幻がかいま見えた。

 

 頬を引き吊らせた正太の眼前に、蓮乃の手で大きく開いたノートが突き出された。正太は少し仰け反りながら、ノートに刻まれた文章を目で追う。いや、文章ではない。一ページの大半を埋めるのは、愛くるしくデフォルメされたブルドッグの絵とマンガチックな肖像画だ。蓮乃に絵の才能があるのか、はたまたお絵かきの習慣があるのか、犬の絵はブルドックの特徴を捕らえていて中々に上手に見える。人間の絵が巧いかどうかは、モデルの判らない正太には理解できなかった。

 よく見ればその二つの絵は「=」で結ばれ、絵の下には小さく名前が書かれている。ブルドックの絵には『トラバサミ』、人物の絵には…………『兄ちゃん』。

 

 「オイ」

 

 蓮乃が言葉を聞き取れないことを半ば忘れて、反射的に正太はツッコミを入れていた。『トラバサミ』と書かれたブルドッグが何なのかはとっさには思い出せない。たしか番組に出てきた「クロ」の仲間の一匹だろうか。

 が、とりあえず蓮乃の中でブルドックと自分と同一視されていることは理解できる。己の顔立ちがよろしいなどと思い上がりを超越したことを思ったことはないが、だからといって牛攻め闘犬と同一視されて喜ぶ道理はない。

 

 正太の顔は先とはまた異なる理由で引き吊っている。だが、正太の言葉をどう受け取ったのか、蓮乃は「=」を二重丸で囲んで「おんなじ」であることを自信ありげな顔で強調する。それを見た正太の頬は、引っ張りすぎで切れる寸前の糸のように小刻みに震えている。

 そんな正太とノートを横合いから見比べていた清子は、思わず笑いの息をこぼした。不運なことにそれは「最後の藁」であり、正太のさほど強くもない堪忍袋の底に大穴を開けてしまった。

 

 「オイ、笑うな」

 

 怒れる正太は突き出されたノートを押し除けると、真向かいの清子に向けて身を乗り出した。さらに目を剥き歯を剥いて鬼面獣面を作り、清子に挑みかかるように顔を近づける。

 だが清子に怯える様子はない。毎度見慣れた厳つい顔を少々強面に仕上げたところで、ビビりあがって腰が抜けるなんてことはあり得ない。そもそも、兄は見当違いの事で怒っているのだから尚更だ。

 

 「そういう意味じゃなくてさ。ほら、蓮乃ちゃんに理由聞いてごらんよ」

 

 「へ?」

 

 予想外の言葉に呆けた表情を浮かべた正太が、蓮乃の方へと首を向ける。間の抜けた顔の正太を見た蓮乃は、おそらく根拠の無い自信に満ちた表情で、机に置いたノートになにやら文章を箇条書きし始めた。

 

 『兄ちゃんとトラバサミが似てるとこ

 ・本が好きなとこ

 ・怒るときは怖いとこ

 ・でもいつもは優しいとこ

 ・顔』

 

 「オイ」

 

 結局、顔は理由の一つなのか。しかし、一応は褒められているようなものだし、怒るのも何か筋が違うような気がする。文句や不満や気恥ずかしさなどなど、色々なものを溜息に込めると、正太は深々と息を吐いた。その顔は苦虫をボウル一杯かき込んだような、とてもゲンナリした表情を浮かべている。

 こうやって箇条書きされてようやく思い出した。ブルドッグの「トラバサミ」は主役「クロ」の群の一員で、ご意見番みたいな役柄だったはずだ。読書好きの寡黙な働き者で、闘いでも真っ先に突撃し一度噛みついたら「虎挟み」の如くに決して離さない。ついでに言うと、怒ると容赦がなくて非常に怖い。そんなキャラクターだった。

 

 「子供の言うことなんだからさ、もう少し大目にみなよ」

 

 渋柿を口一杯に頬張った顔をしてる正太に、ケラケラと軽い笑いをこぼしながら清子が宥めに入る。

 不満はあるもののどうにも座りが悪い。正太はソファーに腰を落とすと、文句ありげな顔でテーブルに頬杖を付いた。

 そんな二人を眺める蓮乃は、すねた顔を浮かべた正太と喉の奥で笑う清子の裾を、二人同時についついと引っ張った。引っ張られた方向へと向き直った二人の目の前に、再び開かれたノートが突き出される。ただし開かれたページには絵ではなく文章が書かれていた。

 

 『姉ちゃんはパグの「キクマル」だと思う』

 

 蓮乃の書いた文章を読んで、正太は記憶の中から「キクマル」の名前を引っ張りだした。

 たしか「キクマル」は「サクラ」の群で副官を務めていた雌のパグだ。涙もろく感傷的で理想主義の傾向の強い「サクラ」に対し、現実主義かつ実用主義で沈着冷静な「キクマル」は群に不可欠な人材ならぬ「犬」材だった。どの犬よりも「サクラ」の理想を理解し、群を支える「キクマル」を「サクラ」は誰よりも信頼してた。またその冷静さ冷酷さ故に、どの群にも深くは馴染めなかった「キクマル」を受け入れた「サクラ」を、「キクマル」もまた強く慕っていた。

 まあ、似てるといえば似てると言えなくもない。具体的にいうと、「サクラ」の理想論に対する容赦ないツッコミや、ぶちぶち文句をボヤきながらも結局は手助けするところとかが似てる。

 

 正太がつらつらと考えていると、蓮乃もまた似たようなことをノートに書き連ねている。自分について解説されているのがこそばゆいのか、清子はくすぐったさを我慢するような顔を浮かべていた。

 そして蓮乃は最後に(非常に余計な)一文を書き加えた。

 

 『あと、太ってるとこ』

 

 空気が凍った。

 

 そういえばキャラ付けなのか、「キクマル」はずいぶんと食い意地が張っている犬でもあったなぁ。半ば現実逃避で正太は無為な思考を進める。だが正太の思考の逃避行は、当人である清子の呼びかけによって中止させられた。

 

 「兄ちゃん」

 

 「なんだ」

 

  ひきつったような顔で正太はとりあえず返答する。清子はスマイリーマークも青ざめるような満面の笑みを浮かべた。

 

 「子供に躾って必要だよね!」

 

 その一言で正太の顔に疲労と頭痛を混ぜたような表情が浮かぶ。そして深く息を吸い、長いため息を付いた。ボケる清子とツッコむ正太。いつもと立場が一八〇度逆転している。

 

 「子供のやることだから、大目に見るんじゃなかったのか?」

 

 

 「わかってる。冗談よ、じょーだん」

 

 正太の顔と声は呆れたような色合いを帯びていた。文句ありげな顔をした清子は、蠅を散らすように手を顔の前で振った。

 表情と言動が見事に矛盾した清子の様子に、正太は小さく嘆息した。そして頬杖を止めると、不意に蓮乃へと向き直る。

 

 『そういうおまえは何なんだ?』

 

 『「サクラ」!』

 

 正太の手でノートに書き込まれた質問に、蓮乃は自信満々で答えた。 

 「サクラ」は主人公の片割れである「クロ」側の群を率いる雌シェパードで、物語における「クロ」のパートナーでもある。理想主義で潔癖なところもあるが、同時に愛情深く強い信念を持ち、弱い犬たちを守り率いる女傑なのだ。言うなれば「ノラとクロの物語」のヒロインの一人とも言えるだろう。

 

 そんな「サクラ」と自分が似ている、いや同じだとこの娘っ子は言っているのだ。そんな蓮乃は得意満面のドヤ顔で、自分の発言に一片の疑いもなさそうである。

 正太と清子の二人は一瞬視線を交わした。言いたいことが解るわけではない。しかし何をするかは判っている。伊達に生まれてから今の今まで家族として一緒に過ごしてきたわけではない。正太と清子はノートに同時に書き込んだ。

 

 『いや、おまえは柴犬の「風車」だな』

 

 『それか秋田犬の「ハチ」かもしれないね』

 

 「風車」は雌の柴犬の子犬だ。判りやすくアホの子で、自分のしっぽを追いかけるのが趣味でライフワーク。グルグル回っている様子から名前が付いたと番組のページに紹介されていた。

 もう一方の「ハチ」は雌の秋田犬。悪い奴ではないが基本的に間が抜けており、何かと「うっかり」をやらかすのが特徴である。

 詰まるところ、二人は蓮乃を「アホの子」「間抜けのうっかりさん」と表しているのだ。

 

 数秒ほど蓮乃の時が止まる。そして再起動と同時に、蓮乃の頬は焼き餅よろしく見事に膨れ上がった。その様子を見て大きな声で笑い出す二人。蓮乃の頬はさらに膨れる。

 

 『私あんなにバカじゃないもん!』

 

 ノートに刻みつけた反論も二人の笑いを増幅する効果しかない。膨れ上がった蓮乃の頬は、焼きすぎて破裂寸前の炙り餅だ。よく見れば目の端には涙がこんもりと小山を作っている。

 いい加減それを見咎めた清子は、正太に目配せして伝えようとする。だが蓮乃を指さして笑うのに忙しい正太に、気が付く様子はない。腹を押さえて体を折って、さらなる爆笑の準備を進めている。その有様をみて清子は顔をしかめる。いい加減にしなさいと、机の下で延びきった正太の爪先を、踵で踏みつけさらに捻り込む。

 

 「アダッ!」

 

 笑い転げる寸前の正太を、突如爪先を踏みつけられるような激痛(正太視点)が襲った。思わず痛みの声を上げて両足を引っ込ませる。位置関係的にも人間関係的にもやる奴は一人しかいない。やられた正太はやっただろう清子を睨みつける。が、清子はじっとりとした文句ありげな目で睨み返すと、蓮乃の方へと指を指した。

 一方の蓮乃は何が起きたか解らないと書いた顔でキョトンとしている。突然始まった夫婦ならぬ兄妹漫才に驚きを隠せない様子だ。だが、その目にはさっき流す予定だった涙がまだ溜まったままだった。

 蓮乃の顔を見ていい加減に事態を把握したようで、正太はばつ悪げ且つ不満ありげに清子を見やった。

 

 ――確かに蓮乃の涙を見逃したのは悪いが、それとなく伝えてくれるだけで良かったんじゃないか?

 

 正太は鬼瓦が拗ねた顔を清子に向けるが、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ清子は涼しい顔だ。なにせそれとなく伝えようとしたのに、全く気付きもしなかったのは正太の方なのだから。清子の素知らぬ態度に、正太は演技臭い大仰なため息を聞こえよがしについた。それを受けて、清子の眉が苛立ちからかわずかに上がる。

 すわ、家庭内冷戦勃発か? だが、二人の間にかかる鉄製カーテンは蓮乃の好奇心で輝く瞳によって除去された。二人を見つめる蓮乃の表情には、「ワクワクドキドキ」と刻まれている。二人の兄妹漫才がずいぶんと気に入ったらしい。

 無邪気極まりない蓮乃の視線にさらされて、正太と清子はお互いの顔を見合わせた。

 

 「……いい加減にしよっか」

 

 「……そーだな」

 

 次は何が起こるのか期待に胸膨らませる蓮乃を横目に、やる気や負けん気の削がれた二人はデタントに合意した。

 

 

 

 

 

 

 番組を見終え、(意図したものではないが)兄妹漫才を終えて、気づけばもう午後五:三〇の一〇分前。楽しい時間はいい加減終わり、残すは後始末と帰宅の時間だ。

 蓮乃は時間に気がついたのか、ノートやらペンやら手荷物をポーチに詰め込み始める。正太も小説をまとめて部屋へ持ち帰り、清子はカップを台所の洗い場へと持っていった。

 本をしまい終えた正太が居間に戻ると、一通り詰め込み終えたのか蓮乃がウサギ型ポーチのジッパーを閉じる所だった。正太は壁際に突っ立ってその様子を見ながら、今日は調子良さそうだなとぼんやり思った。

 昨日一昨日は帰宅の時間となると、こっちがびっくりするほど落ち込んでいた。それでいて親御さんである睦美さんが顔を見せると、途端に元気な様子を見せる。まるでスイッチを切り替えたか、何かしたかのように唐突にだ。理由は知らないし知る気もない。気にならないと言えば嘘になるが、清子の言うとおり他人様の家庭の事情に口を出せる道理も権利もどこにもない。それに自分たちがそれを知る必要性もどこにもないのだ。

 

 正太がぼけーっと蓮乃を眺めながら思考を進めていると、当の蓮乃が正太の方へと駆け寄ってきた。なんだなんだと蓮乃を見やる正太の前で、蓮乃はノートを広げて文章を見せた。

 

 『今日はもう帰るね。楽しかった! さよなら!』

 

 『おう、さよなら』

 

 どうやら帰宅の挨拶のようだ。蓮乃が手渡したペンを受け取り、正太も文の下に返答を書き込んだ。

 正太の文を見て蓮乃は満足げに頷くと、今度は片づけ終わって手持ちぶさたな清子の方へと駆け出した。

 

 『今日はもう帰るね。楽しかった! さよなら!』

 

 『うん、さよならね』

 

 正太の時と同じ文章を掲げて、さっさと清子とも帰りの挨拶をすませると、正太の前を横切って蓮乃は玄関へと駆けてゆく。その姿を清子が追って、同じように玄関へと向かった。

 蓮乃が出た後、玄関の鍵を掛けるのは清子に頼んでいいだろう。そう考えた正太は、壁に背を預けたまま清子が戻ってくるのを待とうとした。途端に耳に軽い足音が届いた。それも遠ざかるのではなく、近づいてくる足音が聞こえる。

 ちょっと早かないかと、正太の頭の隅に疑問が浮かんだ。疑問は直ぐに解消された。目の前を「蓮乃」が横切ったのだ。

 

 「え」

 

 予想外の光景に、正太の口から惚けた驚きの声が漏れる。目を丸くした正太に気づくことなく、蓮乃は庭に面した居間の窓を開くと縁側に腰を下ろす。さらに玄関から持ってきた靴を庭に置いて履き始めた。いそいそと靴に足をねじ込む蓮乃を半ば呆然と見つめる正太。

 

 ――え、なんで庭から?

 

 その横へと清子が急ぎ足でやってきた。正太と同様に、その顔には驚きの色が浮かんでいる。

 

 「蓮乃ちゃんは?」

 

 右足を靴に入れ終えて左足を突っ込み始めた蓮乃を、正太は声も出せずに指さす。それを見た清子は惚けたままの正太を後目に、テレビ横のメモとペンを掴むと蓮乃へ歩み寄った。

 蓮乃の後ろに付いた清子は、蓮乃の肩を軽く揺すった。厳しい表情に反して丁寧で優しげな揺すり方だ。肩を揺する感触に、蓮乃は振り返らずに反り返って清子に顔を向ける。それに合わせて長い黒髪が床に流れた。

 

 「ぬ~ぅ?」

 

 何を言っているのかは全く解らないが、とりあえず不思議がっていることだけは解る声を上げる蓮乃。その顔の前に短い質問を書いたメモを清子がぶら下げた。

 

 『どうして玄関から帰らないの?』

 

 それを見た蓮乃は、まず反っくり返った体を一八〇度ロールさせてメモに書かれた文に上下を合わせた。

 それからジッとメモと文面を眺めると、ウサギ型ポーチから引っ張りだしたペンでメモになにやら書き付けた。

 そして勢いを付けて縁側から庭へと立ち上がると、大きく手を振って宇城家一〇三号室と向井家一〇四号室を区分ける植木の間へ姿を消してしまった。

 

 この間わずか五秒足らず。正太と清子が何か反応する時間もなかった。呆気にとられたまま、窓の前で立ち尽くす二人。開いた窓から五月の薫風が流れ込み、二人の髪をわずかに揺らした。

 

 「……清子、メモ見せてくれ」

 

 たっぷり三〇秒はたっただろうか。先に呆けていた分、一足先に正気に返った正太が、清子にメモを見せるように促す。

 

 「あ、うん」

 

 その言葉でようやく我に返った清子が急いでメモの文面を表にした。短い質問の答えはさらに短かった。それを返答と呼ぶならの話だが。

 

 『またね!』

 

 二人は返答でない返答に頭を抱えて困惑した。蓮乃の行動に二人とも違和感を感じていたが、もうこれは違和感どころの話ではない。そもそも質問に答えていないのだから。

 

 「これ、どーしたもんだろ」

 

 「私に聞かれても困るよ」

 

 二人の間にもう一度、風が緩やかに吹き抜ける。穏やかで心地よいはずの五月の風は、ずいぶんと寒々しく感じられた。



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第四話、正太と休日の話(その一)

 ベッドの上、布団の中、目が覚める。仰向けになった視線の先には、消えたままの有機EL平板灯。

 そろそろ起きなきゃいけないかなと思いながらも、ふかふかほかほかの布団から体を出す気になれない。朝食後の二度寝ほど怠惰で素晴らしいものはない。こうして布団にくるまっているとよくわかる。さらに素敵なのは明日も休みだと言うことだ。本日土曜日、週末サイコー。

 

 現在午前九時過ぎ、寝ぼけた頭の”宇城正太”は布団の中で無意味に週末を賞賛していた。先からの思考の通り、本日は土曜で学校は休みである。おかげで、朝食の後に再び布団に潜り込み惰眠を貪るという、平日においては絶対不可能な自堕落極まりない時間を正太は過ごしているのだ。

 そうだ、このまま午前は無駄に寝て過ごすこととしよう。そして午前を無駄に消費したことを後悔しながら昼食をとるという、贅沢極まりない悔恨に浸るのだ。その後は図書館でも行こうか。まあ、いいや。寝よう。

 正太は睡魔からの誘惑に二つ返事で答えると、布団を頭からかぶり眠りを迎え入れる準備に入った。

 

 「正太、いい加減起きなさい」

 

 だが怠惰の悪魔と魂の売買契約交渉をしていた正太の思考は、母である”宇城昭子”の声により中断を余儀なくされた。頭を覆った布団を除けてみれば、子供部屋の入り口から呆れたような母の顔が見える。子供たちに受け継がれた横幅の広い体を割烹着でくるみ、休みの日と言えど惰眠を貪り尽くして満足そうな息子の姿にしかめっ面を浮かべている。

 

 「あ~い」

 

 面倒くさいと言外に聞こえる返事を返し、正太はどっこいしょとオッサン臭いかけ声と共にベッドから起きあがった。それから二度寝の素晴らしさについて口の中だけでボヤきながら、自堕落に低速再生の速度で寝間着を着替え出す。それを見た母は洗濯物の詰まった洗濯かごを抱え直すと、廊下から居間へと歩きだす。そうして視界から外れる母の背中を見ながら、正太は起きた拍子にクチャクチャになった布団へと目をやった。

 ついさっきまでぬくい布団の中にいたせいで、朝の空気が少々寒く感じる。柔らかな布団の隙間から睡魔が手招きするのが見えるようだ。もう一度布団へダイブすべきか迷うが、先と異なり今は母から起きるように言われている。これに逆らうのはさすがに気分が悪い。

 起きることを胸の内で決定すると、正太は睡魔を追い出すために腕を組んで天井へと伸ばした。小枝が折れるような軽い音が間接から体内へ響く。体を前後左右へ曲げてさらに捻り、過剰な睡眠で強ばった全身をほぐしてゆく。

 

 「ぃいいぃぃぁぁぁああぁ」

 

 体中の筋が伸び、正太の口から絞殺寸前の鶏のような声が漏れる。体の筋が伸びる度に、弛みきった意識の糸も引き張られるように感じる。薄らぼやけて霞のかかった頭の中が澄み切ってゆく。

 一通り体を伸ばし終えた正太は、全身の力を抜きゴロリとベッドの上に横たわる。今度は口から幸せと心地よさを混ぜたため息が漏れた。

 ああ、心地いい。布団にくるまって惰眠を貪るのもすばらしいが、こうして全身を伸ばして頭をシャッキリとさせるのもまたいいものだ。さて、あとは一杯のお茶が怖い。着替え終えたら麦茶でも飲もう。

 タンスから着替えを出そうと、正太が勢いをつけてベッドから立ち上がる。その拍子に尻の下の合板が短い悲鳴を上げて軋んだ。

 

 ――ダイエットを考えるべきだろうか?

 

 

 

 

 

 

 着替え終えて居間に出てみると、テレビの向かいのソファーに腰掛けた父、”宇城 明弘”が電子新聞を広げていた。正太はなんともなしに新聞の文面を目で追う。

 

 電子ペーパーの上で踊る見出しは風雲急を告げる中華諸国情勢を伝えている。どうやら、南京臨時政府が一方的に北京自由政権との条約を破棄して、戦争の準備を始めたらしい。つい先日にニュースチャンネルのアナリストが「中華諸国は安定に向かう」とか言っていた覚えがあるが、大いに予想を外したようだ。

 正太は大陸の情勢をどうでも良さげに考えながら、麦茶を取りに台所へと足を進めた。冷蔵庫の中から出した麦茶のボトルはよく冷えている。麦茶のボトルを片手に、戸棚から出したグラス二杯を逆の手に摘み上げて居間へと戻った。

 

 居間へ戻ると父が広げる新聞は、映す文面を新方式の三Dディスプレイへと移していた。

 記事によれば、現在開発中のガス投影方式三Dディスプレイは、既に実用化されている両眼視差方式や偏光眼鏡方式に比べて、特別な道具無しかつ目に優しい点で優れているらしい。だが、電離発光ガスやレーザー投影装置のおかげでコストが高騰し、未だ実用化は遠いとされてきた。それに対して東柴ケミカルが開発した新型電離発光ガスは、従来の半分以下のコストで生産が可能とのこと。これにより飽和状態の三Dディスプレイ市場に大きな一石が投じられることとなる、そうだ。

 

 まあ、未だに二Dディスプレイで満足している我が家には何の関係もない話だ。

 正太は台所から持ってきた麦茶入りのグラスを片手に、父の九〇度横のソファーに腰を落とす。二杯のグラスを背の低いテーブルに置いて、片方ずつボトルから麦茶を注いだ。コポコポと麦茶が泡立ち、香ばしい臭いがテーブルから漂いだした。

 麦茶は母が朝方に淹れてからさほど時間がたっていない。おかげで、こうして小人大麦(コビトオオムギ)の香りを楽しみながらおいしい一杯を楽しめるのだ。

 

 一方のグラスを父の方へと差し出すと、正太はもう一杯のグラスを掴んだ。グラスの表面は大いに汗をかいていて、掴めば手のひらがぐっしょりと濡れて非常に冷たい。そして、きりりと冷えたグラスを口元へと持ってくると、躊躇することなくがぶりとやった。鼻を抜ける香ばしい香りと共に喉をよーく冷えた麦茶が滑り落ちていく。

 ああ、たまらない。特に休日の午前に飲む麦茶は格別のような気がする。特に登校時間を気にせずに楽しめるのが素敵だ。

 

 「正太、ちょっとお願いがあるんだけど今大丈夫?」

 

 そうして正太がぼんやりと時間を過ごしていると、庭の方から母の声がかかった。声の方へと目をやると、物干し竿にかかった洗濯物が五月の風に緩やかに揺れている。本日は快晴、絶好の洗濯日和である。

 

 「別にいいけど何?」

 

 中身が空になったグラスへと、ボトルから残りの麦茶を流し込みながら正太が答える。時間がたって麦茶はちょっとぬるくなってる。

 

 「ちょっと庭の雑草が増えてきたから草むしりお願い」

 

 改めて庭を見ると、すねの半ばくらいまで雑草が生い茂っていた。ここまで育つと、硬い葉で肌を刻まれかれないので突っかけやサンダルだけで庭を歩くのが難しい。しかしそれだけ育った雑草ならば、草むしりもまた相応に手間になる。

 何故に休日に面倒くさい作業をやらねばならんのか。それが正太の正直な本音だ。しかし、時間のある休日だからこそ面倒な作業をやらねばならんのだ。

 それに家族は相互扶養であるべきだと正太は考えている。父に母に妹にと世話になりっぱなしな現状、最低限の恩返しはしなければなるまい。ましてや「前の一件」でどれだけ迷惑をかけたというのか。その罪滅ぼしも必要だ。

 

 「あいよ。後でなんか冷たいものちょうだい」

 

 「豆乳でいい?」

 

 覚悟と根性を入れて怠惰の誘惑を蹴り飛ばし、正太はよっこいしょと爺臭いかけ声とともに立ち上がる。テキトーな返事を返して、と正太は軽く答えると作業用のジャージへ着替えに子供部屋へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 青々と育った剣のような雑草の葉を、軍手で握りしめて園芸用スコップで根っこを掘り返す。掘り返した雑草は油紙のゴミ袋に入れておく。こいつは後でまとめて捨てる予定だ。単純に引きちぎるだけならもう少し楽だが、そうすると数日経たないうちに残った根から再生してしまう。だから、地下茎や根っこまで掘り返して捨てる必要がある。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 もっともこれを徹底的にやったとしても、どこからともなく風に乗ってやってくる雑草の種が庭一面を緑色に染め上げるのだが。それについて考えていると徒労感がひどいので、あまり考えないようにしている。皮肉にも、この草むしり単純作業は単調極まりなく「ものを考えない」ことに非常に適していたりする。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 雑草を握る軍手には生草の青臭い汁が染み着いて、中の手のひらまで青臭くなりそうだ。というより、さっき軍手を外して嗅いでみたら手から雑草の臭いが漂ってきていた。作業の後、石鹸でよーく洗うつもりではあるが、ちゃんと臭いは落ちるのだろうか?

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 草むしりは改めて考える必要もなく手間だ。人間が芝刈り機や刈払機を発明したのは当然のことだろう。できるならば、家庭用の安上がりな刈払機が欲しい。我が家の家計を見るに非常に難しいというのはよくわかるが、それでも燦々と照りつける太陽の下で草をむしっていると機械動力が欲しくなる。五月といえども嘗めてかかるべきではなかった。太り気味の体がまるでグリルの中のポークステーキだ。脂の代わりに脂汗が垂れ流れて、Tシャツがずぶ濡れてしまっている。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 魔法がこの世に出てきて以来、魔法で改造された珍妙な生物たちもたくさん増えた。自在に毛色を変えるチェシャ猫に、妖精そっくりに整形された人擬熊蜂(ヒトモドキクマバチ)などなどいろんな奴らが出てきている。きっとこの雑草たちもその一つなのだ。だから抜いても抜いてもまた生えてきやがる、こん畜生が。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 もう考える事がなくなってきた。というより、考えることが億劫だ。なんか世界のすべてが、雑草とゴミ袋、スコップと太陽でできている気がしてくる。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 いや気のせいなんかじゃないのか? 実際、今目の前にあるのは雑草で、手に掴んでいるのはスコップとゴミ袋で、頭上にあるのは太陽だ。

 ……やっぱり世界の全てじゃないか!

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 そうか、草むしりか! そうだ、草むしりだ!

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 わかったぞ! わかったぞ! わかっ「なーうっ!」

 

 初夏の太陽に炙られて脳が煮えてる正太は、草むしりという概念と一体化しつつあった。だが、左後方斜め四五度からの声に一時停止させられた。声の元へと振り向くと、ここ数日の間で嫌と言うほど見覚えができた顔が植木の間から突き出されている。

 

 「もーなー!」

 

 いつも通り結局何が言いたいの「しか」解らない挨拶をする”向井蓮乃”。さらさらと流れるような黒髪に葉っぱを沢山くっつけて、ご機嫌な様子で植木の隙間から整った顔をつきだして右手を振っている。

 いかん、幻覚が見えだしたあげく、幻聴まで聞こえてる。俺は疲れているんだ、少し休なければ。草むしりと世界の真理については後でじっくり考えよう。

 目の前の光景を幻と否定しつつ、茹だった頭を冷やすため正太は縁側を越えて居間へと戻ろうとする。

 

 「な~ぅ? いぅに~~!」

 

 自分の挨拶に反応しないどころか、無視したあげくに部屋へと戻ろうとする正太に、蓮乃は疑問と怒りの声(らしきもの)をぶつける。だが、それに反応したのは正太ではなく宇城家の居間でくつろぐ正太の両親の方であった。

 

 「なんだなんだ」

 

 「誰の声?」

 

 どたどたと鈍い足音をたてて正太の両親が縁側にやってきた。さすがにさっきの声で相手が人間であると気が付くのは難しかったようだ。

 そして植木の隙間から顔を覗かせた不満顔の蓮乃と、窓の隙間から顔を覗かせた驚き顔の両親。双方の視線が交わった。知らない顔の美少女に両親は思わず顔を見合わせる。

 

 「ええっと、どちら様かしら?」

 

 宇城家を代表して母が蓮乃に質問する。正太は両親の反応でようやく蓮乃が現実であることを認めた。

 

 ――あ、蓮乃は幻覚じゃないのか。



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第四話、正太と休日の話(その二)

 頬骨の張った顎をさすりながら、父は細目をさらに細めてしげしげと蓮乃を眺めている。その横でふっくらと肉付きよい頬を撫でながら、母はこれまた興味深そうな表情で蓮乃を見つめている。

 

 「この子が正太や清子が話していた向井さんとこの蓮乃ちゃんか」

 

 「清子が言ってたとおり美人さんねぇ」

 

 かたや骨ばった細身の父に、かたや肉々しい太めの母と、正太の両親は実に対照的な外観だ。顔立ちもそれぞれ、骨の直線で作られた厳めしい父と、肉の曲線で描かれた和やかな母と、好対照をなしている。ついでに言うなら、鳥の巣のようにボリュームのある母の髪と、頭皮の肌色が透けて見える父の髪もまた対比が際だっている。

 共通していることと言えば、二人とも細目をさらに細めている事と、蓮乃を見つめる目はどちらも優しげな色合いをしている事くらいだろう。

 

 「なーもー!」

 

 一方、初めて顔を合わせる宇城夫妻に興味津々で興奮気味なのか、植木の隙間から身を乗り出して大きく腕を振るう蓮乃。『向井蓮乃です! 初めまして!』と挨拶の書かれたノートを、おまえは飛ぶのかと正太に聞かれそうなほどにバタバタと上下させている。鼻息も荒く頬も濃い目の桃色で、ついでにさっきから宇城夫妻に見せているノートの文字も乱れ気味だ。

 もう正太には、ブンブンと力強く振るわれるその腕が犬の尻尾にしか見えない。実は「霊長目ヒト科じゃなくて食肉目イヌ科でした」っていわれても納得できそうな気がする。

 

 「はぁ~、どーしたもんだろ」

 

 そして当の正太はというと、なにやら疲れた顔で三人を傍観していた。母が持ってきた冷たい豆乳をがぶりとやりながら、頭痛が痛そうな顔で両親と蓮乃の様子を眺めている。

 草むしりを休憩できたのはありがたいが、本当にもうどーしたもんなんだろうか、これ。今、蓮乃に何かやらかされるのはほんとに困る。両親の前で大馬鹿やられるのはさすがに御免被りたい。

 そもそも蓮乃のことを夕食時に話題に上らせて、両親に話したのは我が妹である”宇城清子”なのだ。多少自分も蓮乃の話をしたとはいえ、両親が蓮乃のことに興味を持ったのは清子のせいではなかろうか。だとしたならば、こういった面倒は清子が真っ先に対応すべきなのだ。それなのにあいつは友達とウィンドウショッピングに出かけている。これは重大な問題だ。帰ってきたらグチグチ小言をいってやる。今決めた、そう決めた。

 現状に対する内心の文句を、今居ない清子にぶつけて現実から全力で逃避する正太。だが目の前の光景はそれを許してはくれない。

 

 『でね、兄ちゃんね、そんでね、すごいんだよ!』

 

 「ほうほう」

 

 「そうねぇ」

 

 何せ宇城夫妻に話している(書いて見せている)蓮乃の話の半分くらいは、正太の事柄なのだ。こうして正太が現実逃避を続けている間にも、蓮乃はなにやら正太に関する事を勝手気ままに話し倒していたりする。ということは、蓮乃という珍妙なフィルタを通した正太の行動が、両親へと垂れ流され続けているという事なのだ。

 何がすごいのか当人以外誰も知らないが、蓮乃は文章に加えて手足を回し、身振り手振りでそのすごさを伝えようとしている。それに父は興味深そうに相づちを打ち、母は感心したように同意を返している。

 興奮気味の子供のたわいない話をのんびりと聞く両親の姿と、実にほのぼのとした昼前の家庭の情景である。ただし、正太の気が付かない間に、父の目には剣呑な光が浮かび、母の目は生暖かい色合いを帯びつつあった。後もう少しすれば、「父による情け容赦なしのお説教大会+母によるフォローという名の精神的介錯」という、正太にとっての致命的なタッグ戦が始まることだろう。

 

 しかし運命は正太に味方したらしい……見方によるが。

 

 「蓮乃? 蓮乃! どこにいるの!?」

 

 「落ち着いているならば」清流のように涼やかで鈴のように心地いい声が、宇城家のある一〇三号室庭に響いた。無論、現在は落ち着きなど遙か彼方であり、実際のところは、濁流のように恐慌気味で割れ鐘のように不安定な声があたりに響いている。それは蓮乃同様にここ数日で正太が聞き覚えることになった声だ。蓮乃の頭上、植木の隙間に正太が目をやれば、その声の発振源がすぐに目に入る。

 蓮乃によく似た顔立ちに張りつめたような表情を張り付けて、ベージュ色のブラウスと細身で黒いロングスカートを身にまとった美人さんが、蓮乃の名前を呼んでいた。蓮乃の母親である”向井睦美”がキョロキョロと蓮乃の姿を探し回っているのだ。

 

 そして、その声が響くやいなや宇城夫妻との会話の途中にも関わらず、蓮乃はくるりと振り返って宇城家の庭から向井家へと姿を消した。あまりに唐突な行動に正太の両親は半ば唖然とした表情を浮かべている。一方、驚きはないものの不可解そうに正太は眉をひそめた。

 蓮乃がお隣に帰るときはいつもこうだ。睦美さんの帰宅する一七:三〇頃になると、会話中であろうと遊んでいる最中であろうと蓮乃は庭の方から飛ぶように直帰してしまう。何度かちゃんと玄関から挨拶して帰るように言い含めているが、蓮乃はなぜだかこれだけは拒否するのだ。蓮乃は道理と理屈を持って説明すれば大体のことは理解できる子なのだが、理解や納得以前の段階で拒んでいるようにも感じられる。正直に言って訳が分からない。

 

 「一体全体どーしたもんなんだろうな」

 

 蓮乃の行動由来の不快な不可解さを削り落とすように、正太は頭をガリガリと掻いてへの字口をきつくした。そうして正太がしかめっ面で怖さ五割り増しの顔を蓮乃が去った植木の隙間へと向けていると、後ろの両親から声がかかった。

 

 「正太、蓮乃ちゃんどうしたの?」

 

 「あーえっと、その」

 

 両親の方へと向き直った正太は、無意味な文言を唱えながら青空に視線をさまよわせる。どうしたのかと言われた所で、正太自身にも説明しがたいのだ。せいぜい解ることと言えば、今までにも蓮乃の異様な行動があったと言うことと、向井家母子に何かがあるという推測くらいだ。

 だが、正太の両親は隣近所のゴシップを嗜好品にするような人間ではない。むしろ、そう言ったものに嫌悪感を覚える良識ある人間である。そんな二人にお隣の家庭がどうだの教育がどうだのと下らない推測を話したところで、頂けるのは冷たい視線と容赦ない拳骨、そして泣きベソをかきたくなるようなお説教ぐらいだろう。

 頭を掻きつつ何を言えばいいかと正太は繰り返し首をひねる。その様子を見て母も、蓮乃がなにやら難しい事情を抱えているのかもしれないと見当がついた。

 

 「まぁ、言いづらい事なら言わなくてもいいけど、あんまり人に迷惑はかけないようにね。子供を泣かすような事はしちゃだめよ」

 

 「……重々承知しております」

 

 「前の一件」もあり、そう言ったことには気を使っているつもりではある。だが所詮「つもり」は「つもり」でしかないのか、正太は母からの言葉で胸のあたりに五寸釘を突き刺された気分を味わった。そうか、やっぱり信用されてないのかな。それに蓮乃の奴、俺に泣かされたことまで伝えていやがったのか、あんにゃろうめ。

 正太は母からの言葉を拡大解釈して一人上手に落ち込んだあげく、責任の一部を蓮乃へと転嫁し始めるという、無駄に器用な芸当をやってみせている。そうやって脳味噌を空転させながら、青空を泳がせていた視線を雑草の抜けた地面で這いまわらせていると、母の右隣で腕を組む父から声が投げかけられた。

 

 「なあ正太、蓮乃ちゃんに拳骨落としたってのは本当か?」

 

 「あ、ああ、うん」

 

 父からの剃刀の眼光に晒されて、思わず正太はどもった。何せ一番他人に聞かれたくないような話を一番聞いてほしくない父親に、当事者である蓮乃が話してしまっているのだ。最悪説教耐久三時間コースで決定。明日が日曜なので一切の容赦はないだろう。ああさらば我が愛しき週末よ、と無為な思考を急加速して最悪な未来予想図を描き終えると、正太は胸の内で頭を抱えた。

 

 「蓮乃ちゃんからどうしてそうしたかは聞いた。別に間違ったことをやったとは思わんが、よそ様の子だ。もう少し気を使った方がいい」

 

 「う、うん、わかった、気をつけるよ」

 

 内心の驚きを見開いた両目で表現しつつ、正太は父の言葉に応えた。正直言って父の言葉は意外だった。蓮乃はいいようにレッテル貼った「宇城正太」の行動を思うようにフィルターかけて両親へとたれ流していたものだと思っていた。だが父の言葉を聞く限り、蓮乃は「叱りはされたが理由あっての行いだった」という真っ当な形で先日のお説教を両親へ伝えていたという事になる。

 あの時、確かに叱りつけたのは自分なりに考えがあったからだったが、蓮乃の頭をぶん殴ったのは九割方感情が理由だった。握った拳を振りおろしたときは実際何一つとして考えてはいなかった。

 

 顎を手のひらでさすりながら、正太はばつ悪げな据わりの悪い表情を蓮乃が出入りした植木の隙間へ向けた。第二次性徴からさほどたっていないせいか髭はなく、手のひらの感触は滑らかである。

 今更ではあるが、さすがに悪いことをしてしまったかもしれない。正直に言って少々後ろめたいものもある。さりとて今更謝罪しても意味がないだろう。それどころか、叱りつけた内容を変に誤解されるのもあり得るかもしれない。もしも「悪いことをしたから拳骨もらった、叱られた」という現在の理解を、「正太から謝罪があった=あれは悪いことではなかった」とでも蓮乃が誤解したら、非常によろしくない。主に蓮乃の教育的な意味で。

 深々と息を吐き目を閉じて、正太は今までの自分の行動を一つ一つ思い浮かべるとそれぞれ自戒した。具体的には、出会って初日に怒鳴って泣かせたことや二日目に殴りつけたことなどに。

 

 今後はもう少し注意して行動しよう。特に拳骨みたいな体罰は特に気をつけなくては。蓮乃が来なくなったら困るし…………困る?

 自身の脳裏に浮かんだ一語に正太は呆けた。え、いや何が困るの? あいつが家に来なくなったところで何も違いないだろ? 我が家に蓮乃が来るようになったのはものの数日だぞ。それで困るってなんだ。いやほんと何が困るんだ。むしろ人のおやつ勝手に食う奴がへって、ってもう勝手に食わないように言いつけたんだっけ。ああそれなら安心、じゃなくて、ええと。

 抜けるような青空に視線をクロールさせながら、正太は全力全開で混乱していた。ひきつった顔から豆乳臭い脂汗がだらだらと流れ落ちる。正太はもはや自分が何を考えているのか何に悩んでいるのかすら解らなくなりつつあった。

 

 「ああっ、もう、こん畜生が!」

 

 理解できない自分の脳内を罵りつつ、正太は頭をかきむしりながら虚空へと叫ぶ。それを聞き咎めた両親の視線は冷たかった。

 

 「どうしたのかい正太、『また』頭がおかしくなったの?」

 

 「そう言う言動は『いい加減に』したほうがいいぞ」

 

 「……何でもないです、すみません。草むしり続けますんで」

 

 両親からのコンビネーションブローに正太の精神はノックアウト寸前でグロッキー状態だ。容赦なく刺された五寸釘の群で心が針山ならぬ釘山になっている気がしてくる。

 もう何がなんだか解らないが、少なくともいい気分ではない。それにまだまだ雑草は生い茂っている。休日とはいえこれ以上、無駄な時間は過ごしたくない。何せ本日は図書館で好きな小説の新刊を読む予定なのだ。予定を決めたのは今この瞬間に他ならないが。

 朝方のベッドの中とは真逆の感想を胸中に浮かべると、正太は内蔵を吐き戻すようなため息を吐いてスコップとゴミ袋を掴んだ。



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第四話、正太と休日の話(その三)

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 ああ、面倒くさい。父さんはパチンコに、母さんは買い物に行っちゃってるし、こんなこと安請け合いしなきゃよかったよ。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 でも請け負った以上はやることやらなけりゃなぁ。信用なんかしてもらえないし。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 それにあれだけのことを「前の一件」じゃしちまったんだし、これくらいやらないと。さっきも色々言われちゃったしなぁ。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 あん時は本当に家族には迷惑かけちゃったもんなぁ。父さん母さんはともかく、清子の奴は恨んでるかもな。俺のせいであいつまで転校する羽目になったんだし。

 

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 葉っぱを掴んで根っこを掘ってゴミ袋に放り込む。

 

 今更だけど謝ったほうがいいんだろうか。でも今更だし、むしろ蒸し返されたことでいやな気分になるかもしれ「なーおー!」

 

 聞き覚えのある、というよりさっき聞いたばかりの声に正太はネガティブ全開の思考を中断した。お隣さんの娘さんである蓮乃と、本日二度目のエンカンウントである。

 

 「なんだよ」

 

 しかし、先までマイナス思考に眈溺していたせいか、その口調はずいぶんとぶっきらぼうかつ刺々しい。さっきと同じ植木の隙間に顔を向けると、正太の不機嫌そうな様子に驚いた顔を浮かべる蓮乃が目に入った。草むしりのために腰を落とした正太と、植木の隙間を抜けるために中腰の蓮乃は、ちょうど同じ目の高さだ。

 父譲りの細目を糸のように細めて正太は蓮乃を見やる。一方の蓮乃は、驚きに加えてどこか怯えを含んだような目を正太に向けた。二人の視線がかち合い、何ともいいがたい数秒の沈黙がお互いの間に流れる。

 この沈黙に先に耐えられなくなったのは正太の方だった。能面の仏頂面を維持できずに仮想的なガムを噛むように口をもごもごと動かすと、握っていたゴミ袋とスコップを地面に投げ出した。

 正太の目から、蓮乃は「不機嫌な主人の様子に何か自分がやらかしたのではないかと不安がる子犬」の様に見えてしまっていた。まるで自分が罪のない子犬をいじめているような謎の罪悪感にかられた正太は、それに耐えきれなくなったのだ。

 

 「あーもぅ」

 

 性懲りもなく我が家にやってくる身勝手な蓮乃か、はたまたいちいちそれに応じる甘い自分か、それともその両方か。呆れたような諦めたような文句の声を口からこぼし、正太は頭を掻きつつ逆の手を差し出した。

 

 「ほら、ノートとペン」

 

 「ん!」

 

 促すように正太が一声かけると、表情を明るくした蓮乃は会話用ノートをボールペンと一緒に差し出した。ボールペンをノックして芯を繰り出しつつ一番新しいページを開くと、ここ数日で否応なしに見覚えた蓮乃の筆跡と併せて三種類の文字が目に入った。まず覚えがあるのは、その外観通りに角張った父の字と丸みのある母の文字。生まれてこの方一四年来の家族付き合いであり、さすがに見間違えることはほぼない。となれば、残る一種類のやや乱雑な筆跡が、蓮乃の母である睦美さんという事となる。

 改めて見直すと、ノートの一ページ目の「蓮乃の障害と連絡先」を書いた筆跡と同じものである事がわかった。もっとも、改めて見直さないとわからないくらいには文字が乱れていたりする。その乱れた文字を読むに、「勝手に動き回っていた事に対する叱責」と「障害のある親子向け相談会が午後からあるので準備をすること」が蓮乃に向けて書かれている。

 

 こうしてみると睦美さんは結構厳しいことを蓮乃に言っているようだ。前に考えていた「だだ甘いせいで蓮乃に忌避されている睦美さん」は間違いだったようだ。しかし、こうした叱責みたいな「鞭」と宇城家への訪問許可のような「飴」を使い分けられるなら、もっと蓮乃が睦美さんによい反応を返しても良さそうなものだが、実際は蓮乃はどこか睦美さんを恐れているようにも思える。

 文面に目を通しながら、正太は疑問に一人首をひねる。そして首を地面とだいたい水平にした正太の裾を、蓮乃がグイグイと引っ張った。首を曲げたまま蓮乃を見ると、ふくれっ面には「不満」の二文字がデカデカと記されている。会話をするつもりで渡したノートを熟読されては堪らないと、催促のつもりで裾を引いたのだろう。

 

 『すまんすまん、で何用だ?』

 

 さっと謝罪と疑問を書いて蓮乃にノートを帰す。だが、常と違いその顔の不満色は消えてはいない。アヒルの嘴のように唇を尖らせたまま、蓮乃は何事かをノートに記すと正太へ突き返した。

 

 『他人のノートを勝手に見るの、よくないと思う』

 

 その一文を見た正太の頬がひくつく。雨の日の植え込みのようなじっとりとした蓮乃の半目に晒されて、たじろいだ正太は視線を逸らした。

 確かに勝手に見たのは問題あることかもしれないが、不可抗力というか仕様がないというか、別段何か意図あってみたわけでもないし。正太の胸中に渦巻く言い訳が、思わず口からこぼれ落ちる。

 

 「いや、しかしな、しょうがないんじゃ……」

 

 音声を聞き取ることができない蓮乃は、当然あいも変わらず文句をぶーたれた顔で正太を睨みつけている。視線を逸らす正太と睨みつける蓮乃。たっぷり三〇秒は経っただろうか、根負けしたのはまたも正太の方であった。

 

 『すみませんでした』

 

 ノートに改めて謝罪を書いて蓮乃へと渡す。それを見た蓮乃は「むふぅ」と満足げな息をもらし、ようやく文句たらたらな表情を改めたのだった。その顔を見ながら正太もまた一つ息をもらした。その吐息は蓮乃ほどではないが、先の草むしり前と異なり多少は明るいものだった。

 こいつと顔を合わせていると一人で落ち込んでいるのが馬鹿馬鹿しくなってくるな。おかげで幾らかは気晴らしができたし、多少はやる気もでてきた。まあ、確かに意図せずとも勝手にノートを読んだのはよろしくなかった。以後は気をつけるとしよう。さて、草むしりの続きといこう。最低限、やることをしなくてはなるまい。

 正太は厳めしい顔に苦笑を浮かべると、地面に放って置いたゴミ袋と園芸用スコップを拾い上げた。「つづきつづき」と口の中で呟きながら、足下の雑草を握り根を掘り返す。想像以上に根が深い。雑草の種類によっては根の欠片からでも生え直す草もある。慎重に根を掘りだしてゆく。そして掘り返した雑草の土を軽く払うと、ゴミ袋の中に放り込もうとして、「真横の」蓮乃の視線に気がついた。

 

 ――真横?

 

 視線の方を見直すと、さっきまで身を乗り出していた植木の隙間を乗り越えて、隙間の前で正太の行動をじぃっと見ている蓮乃の姿が目に入った。

 

 「オイ」

 

 正太の半ば反射的なツッコミにきょとんとした表情で見つめ返す蓮乃。その細い腕の中に抱えられたノートをペンと一緒に摘み上げると、正太は文句を書き殴った。

 

 『我が家に来て良いとの許可は書かれてなかったぞ』

 

 蓮乃と出会った初日と二日目をのぞけば、蓮乃は母親である睦美から許可を得て宇城家に遊びに来ている「はず」である。蓮乃に毎回その旨は確認をとっている。しかし、先ほど目を通したノートの文面には許可を意味するような文は一つもなかった。しかし、実際に宇城家の住む一〇三号室の庭にこうして蓮乃は乗り込んできている。

 大雨洪水警報が出た後の河川敷のようなじっとりを通り越した目で、ノートを返した正太は蓮乃を睨みつける。この視線のせいでただでさえ獣じみた顔が、当社比六割り増しの怖さである。一方の蓮乃の視線は植木に空に地面に壁と、上下左右四方八方を三〇ノットで航海中であった。思い切り動揺しているのが誰でも見て取れるほどの焦りっぷりである。もはや二人の立場は完全に逆転していた。

 視線が未だ宙をクロールしている蓮乃は、返されたノートの『他人のノートを勝手に見るの、よくないと思う』の一文を下線を引いて強調した。無論、ごまかしであることは正太にもよくわかる。対して正太は、渡されたノートに蓮乃を睨みつけたまま返答を追記した。

 

 『見ちまった物はもうしょうがないだろう。それに最低限謝罪はしたぞ』

 

 今更過去は帰られないし、そもそも自分は謝罪して蓮乃はそれを受け入れたのだ。これ以上この件でどうこう言われるのは筋が通らない。ノートとペンを返すついでに正太は目を細めて視線の収束率と貫通力を上げる。

 

 『せいいがたんない』

 

 「おい」

 

 正太、本日二度目の反射ツッコミである。思わず正太の眉根のしわが三つも増えた。眼前で大きく開かれたノートには、ひらがなのみの短文が刻まれている。急いだせいか文字もずいぶん乱れているようだ。痛くもないはずの頭が、頭痛を訴えだしたような気がし始めた。

 蓮乃の言う、いや書く「せいい」とはおそらく誠意のことだろう。この辛子蓮根娘はどーいうとこでそんな言葉覚えてきたんだ。いや、重要なのはそれじゃない。何か話がずれてきている気がする。そもそも俺と蓮乃は何の話をしていたんだっけ?

 頭痛の幻痛に痛む頭蓋を振って、正太は記憶の中から答えを振り出そうとする。右、左、右、左、前、後、前、後、グルリと捻る。

 

 ――ああそうだ、思い出した。我が家に蓮乃が行く許可を睦美さんが出していないという話だ。

 

 正太はようやく出てきた答えを吟味しながら、広げたノートで衝立よろしく顔を隠した蓮乃を見据える。当然その目に見えるのは『せいいがたんない』の一文ではあるが、未だ視線を泳がしているであろう蓮乃の顔は、想像力に自信のない正太でも簡単に脳裏に浮かべることができた。

 さて、どーしたもんだろうか。蓮乃がこんなことを書いたのは十中八九話題そらしだろう。この娘っ子はそんなに我が家に来たいのか。よっぽど暇か、娯楽がないのか、はたまた別個に理由があるのか。どっちにせよ保護者の許可を得ていないにも関わらず、余所様の子を預かるわけにはいかんだろう。先日の睦美さんの様子を鑑みるに、警察呼ばれても不思議じゃない。本物の豚カツ丼は食ってみたいが、取調室で頂くのは御免被る。

 

 結論は出た。蓮乃にはお帰り願おう。蓮乃が顔の前に掲げたノートを引っこ抜くようにして奪い取ると、ついでに握ったペンも利き手から抜き取る。「あ~!」「ぬ~」だの蓮乃が上げる声を無視して、正太はノートにペンを滑らした。

 

 『お母さんから許可貰ってないのに、我が家にお前さんを置いとくわけにはいけません。隣のお家にお帰んなさい』

 

 「ウゥ~」

 

 犬か貴様は。食肉類めいた唸り声を上げる蓮乃を呆れた目で眺めながら、正太は蓮乃の肩に手を当てる。そしてクルリと一八〇度逆を向かせると、そのまま植木の隙間に押し込んだ。

 

 「ほら帰った帰った、俺にゃまだ草むしりの続きがあんの」

 

 「ぬぁ~! みぅに~~!」

 

 押し込まれそうになった蓮乃は周りの植木にしがみついて抵抗する。おかげで細い植木の枝が限界を超えてしなっている。後少しで音を立てて折れることだろう。想像以上の抵抗ぶりに、正太は渋柿を頬張った表情を浮かべた。

 こりゃ困った。多少の抵抗は想像していたが、予想より激しい暴れっぷりだ。このままだとご近所様の通報で警察のご厄介になりかねない。カツ丼食いたし留置所怖し。どーしたもんだろうか。

 正太はここ数日の記憶をひっくり返して何かないかと探し回った。視線を宙にやりながら頭の中の引き出しを引きだしてはまた仕舞う。そうして正太が脳内で記憶と格闘している間、現実で抵抗している蓮乃はというと、歯を剥いて鼻にしわを寄せながら「ウーウー」声を上げて唸っている。まるで進入者か嫌いな奴を見つけた時の柴の番犬である。

 その有様に目をやった正太は、実に何とも言い難い表情を浮かべる羽目になった。強いて言うならば「道路に飛び出しかけている野良猫を捕まえたら思いっきり引っかかれた」時のような表情だ。だが、そんな蓮乃を見ていたのが奏功したのか、初日の蓮乃と妹のやりとりを思い返すことができた。そうだ、これでいこう。

 

 そのためにはまず手を離さなければならない。蓮乃の両肩を押していた手を離し、一二歩正太は後ずさった。すわここが正念場と蓮乃は「ふんすっ」と気合いを入れて足を踏み出そうとする。

 その瞬間、蓮乃の目の前で正太は両手を素早く、そして力強く叩いた。

 

 パァン!

 

 破裂音にも似た柏手の音が辺りに響いた。相撲で言うところの猫だましである。蓮乃と初めて出会った日、落ち込んで自分の世界に浸りきってしまった蓮乃を現実に呼び戻すため、清子がこいつを食らわせたのだ。そのときと同様に目を白黒させた蓮乃は、思わず体の緊張をゆるめてしまっている。その隙に正太はここぞと肩をつかんで一〇四号室へと押しやった。猫だましの衝撃で反応の遅れた蓮乃はそれにあらがえない。蓮乃が気が付いたときには、もうその足は一〇四号室の庭を踏んでいた。

 

 「うぅ~~にぃぃ~~!」

 

 お前は犬か、それとも鹿か、はたまたウニか? 不意をやられて言いようにされた蓮乃が何かずれたような雄叫び、否、雌叫びを朗々と上げる。それを聞いた正太の表情はげんなりと崩れ、体からは先と同じく力が抜けた。ただし今度は、ついでにやる気的な何かも音を立てて抜けていった気がする。

 気分が萎えた顔の正太は改めて蓮乃へと視線をやった。視線の先の蓮乃は非常に分かりやすく地団太を踏んで悔しがっている。両手を振り回し声を上げて地面を踏むその様は、人類やめて類人猿にでも成り下がったのかとでも言いたくなる有様だった。この間討論番組で見た過激な「子供は人間の一歩手前」という発言も、不満を全身で表現する蓮乃の様子を見るにさほどの間違いではないような気がしてくる。

 その姿を見てさらに萎えた気分を、正太は大仰なため息として吐き出した。そして全身から抜け出たやる気を、深呼吸で再吸収する。まだ雑草は残っているのだ、草むしりを再開せねばならない。それに蓮乃という名の問題は「物理的にいなくなり」そうだ。

 

 腕を振り回す蓮乃の背中に薄く影がのっかった。そろそろ太陽は中天に達しようとしており、ほぼ真上から日光は降り注いでいる。この状態で影はほぼ足下にしか現れない。つまり影が乗るということは、真後ろかつ至近距離に影の元がいると言うことだ。

 

 「蓮乃、貴女なにをしているの?」

 

 真後ろから声をかけられてようやく自分を覆う影に気が付いた蓮乃は、おそるおそる振り返る。その視線の先には、太陽を背にした向井睦美が仁王立っていた。その顔は逆光で塗りつぶされて見えない。だがその声音から、そのシルエットから、溢れ出る感情が目に見えるようだ。

 今、蓮乃が居るのは一〇四号室の庭であり、そこの家主は母親である睦美さんだ。その上本日は日曜。睦美さんの仕事が何なのかは知らないが、休日である可能性は少なくない。そんなとこで大声上げて地団太踏んでいたなら、どうなるかなど想像しなくてもよくわかる。

 至近距離のライオンに気づいてしまったシマウマのような蓮乃をみ見ながら、正太はスコップとゴミ袋を拾いなおした。睦美が全身から放つ気配で、知らず知らずの内に正太の掌に汗がにじむ。正太は草むしりの道具を握ったまま、逆光の中の睦美へと頭を下げた。

 

 「こんにちは」

 

 「こんにちは。度々申し訳ありませんが、家の蓮乃がまたご迷惑をおかけしていましたか?」

 

 声をかけた正太へと睦美は改めて相対した。その声色は落ち着いているように聞こえるが、全身から放つ気配は真逆の色合いを帯びていた。その雰囲気に当てられた正太は無意識のうちに息を飲み込んでいた。

 

 「あ、ええと」

 

 「ご迷惑をおかけしたみたいですね」

 

 この人もまともに話を聞いちゃいない。正太の頬がひきつる。落ち着いているように見えるが、おそらく他人の話を聞ける心境ではないのだろう。それは困る。非常に、困る。

 以前正太は、純粋な目でビラを配る魔法使い至上主義者(通称、主義者)の集団に捕まりかけたことがあった。「魔法使いは人類の進化だ」とか「新たなる夜明けのために同志となろう」とかキラキラした目で一方的に演説をかます彼らに正太はドン引きし、官憲にしょっぴかれるのを見てようやく安堵の息をもらした覚えがある。人の話を聞かない人が、どれだけ面倒で迷惑か実地で思い知らされたのだ。

 もっとも、それだけの経験をしておきながら結局「前の一件」を起こしたことを考えるに、自分は経験からも学べない愚者未満なのだろう。正太は胸の内で一人自嘲した。

 だが、正太が一人過去を反省している間にも、睦美は一人話を勝手に進めていた。

 

 『蓮乃、お隣の宇城さんに迷惑をかけちゃだめってあれほど言ったのに、まだわからないの?』

 

 睦美が突き出したノートを前に、蓮乃は無言で俯く。突き出したノートを握る睦美の手は、緊張を堪えるように小刻みに震えていた。

 

 「蓮乃?」

 

 睦美の声はわずかにトーンをあげた。常ならば誰も気にしないほどわずかに。だが一瞬、その声に正太は決壊寸前のダムを幻視した。

 

 「待ってください!」

 

 半ば反射的に正太は制止の声を上げていた。その声に睦美のみならず蓮乃もまた顔を上げる。その表情は驚きの色が強い。

 

 ――え、俺何言ってんの!?

 

 そして一番驚いているのは声を発した当人だった。何か考えがあったわけでも、睦美を説得できるような話があるわけでもないのだ。ただ単に、とっさに口走ってしまっただけだった。少なくとも正太自身には、その理由など見当もつかない。

 だが口を出してしまった以上、逃げ出すわけにもいかない。言葉に魂が宿るかどうかは知らないが、少なくとも口にした責任は宿るのだ。正太はそう父から教わった。そういうこともあって正太は身振り手振りを交えて必死の言い訳を試みる。

 

 「なにか?」

 

 「ええっとですね、蓮乃ちゃんは別段我が家に迷惑をかけているわけではありませんでして、その」

 

 矛先が変わったせいで多少は落ち着いたのか、睦美から放たれていた先のような破裂寸前の印象は薄らいだ。だが、いくら導火線の火を消したからといって爆弾が爆弾であることに変わりはない。

 

 「……ですから自分の両親も嫌がっているわけではぜんぜんないですし、自分も妹も蓮乃ちゃんが来ることを楽しみにしていると言いますか……」

 

 「宇城君が話していることと、ノートに書いてあることはずいぶん話が違うみたいですが」

 

 さっきまで蓮乃の眼前に突きつけられていたノートを、今度は正太の目の前に突きつける。開かれたページには、正太の筆跡でかかれた『勝手に我が家に来るんじゃねぇやぃ』の一文があった。

 確かに蓮乃が宇城家に来ることを拒むような文を正太は少なからずノートに書き込んでいた。無論、それは蓮乃が勝手に一〇三号室の中に入ろうとするからであって、しっかり連絡を取って許可をもらってやってくるならそこまで文句を言うつもりはない。しかし、この一文だけを見るならば「正太は蓮乃に来て欲しくないと思っている」と見えてしまうのは確かだ。

 正太のひきつった顔に脂汗が吹き出た。

 

 「そ、それはですね、えっとその」

 

 「それに先日は蓮乃は叱られるようなことをしでかしましたね?」

 

 宇城家にやってくるようになってから二日目に、蓮乃は叱りつけられるようなことをやらかした。(第二話参照)そのことと叱りつけたことは、当日の内に口頭で睦美さんへと伝えた。その時睦美さんは多少興奮した様子を見せていたが、最終的に納得して貰えたはずだった。そのはずだった。

 

 「た、確かにそうですが、蓮乃ちゃんもちゃんと反省しているようですし」

 

 「でも、蓮乃が迷惑をおかけしたことに何も変わりませんよ!」

 

 気がつけば睦美は落ち着いた様子をかなぐり捨てて、声を張り上げて正太に詰め寄っている。さらに視線は定まらず、瞳は目の前の正太を映していない。その目はまるで現実を映すことを止めているように正太には見えた。

 そもそもノートの文を読みとる限り、蓮乃が一〇三号室に来ることを拒んでいるのは目の前の正太である。だが、その正太が「蓮乃が来ることを楽しみにしている」などと喋って蓮乃のフォローに回っているのだ。睦美の発言の前提条件である、「蓮乃が宇城家に迷惑をかけている」を当人である正太が否定している以上、睦美の言動は既に破綻していると言ってもいいだろう。文句を言うなら正太の変節漢の方にこそ言うべきだ。

 にもかかわらず、睦美は大声を張り上げて「蓮乃の迷惑」を必死で言い募る。睦美の精神という破裂寸前の風船に、幾つもの亀裂が入り始めた。正太にはそう感じられた。

 

 強ばった顔の正太は睦美の有様を見て、胸の内で諦めと後悔を吐いた。こりゃもう自分の手に負えない。でも両親はいないしなぁ。ああ止めときゃよかった。もういいや、俺がサンドバックにでもなりゃ睦美さんも多少は気が晴れるだろうし、蓮乃への当たりも幾らか柔らかくもなるだろ。もうそれでいいやぁ。

 意識を手放すようにして、正太は青空の向こうへと精神を飛ばす。ああ、いい天気だなぁ。

 

 「何で嘘までついて、この子に関わろうとするんですか!? まさか、この子に何かよからぬ考えでも……」

 

 「いえ、主に睦美さんにです」

 

 そのせいだろうか、正太の口から意図せずに本音の一片がこぼれ落ちた。

 想像外の一言を聞いたせいか、睦美は言葉を発しようとした半開きの口のまま呆けた表情を浮かべている。

 

 ――ほんと何言ってんの俺ぇ!?

 

 一方、自分の口走ったことを理解した正太は人生を後悔しつつ、この世に生まれて以来最も速く思考を空転させていた。

 確かに自分は睦美さんに、その、なんだ、あまり好ましくない考えを、少々、ほんの少し、わずかばかり抱いたことは無くもないとは言えなくもない。だからって何でよりにもよってこんな時に漏らしてんだ。あー、明日から変質者扱いだこりゃ。もし父さん母さんに伝わった日には、家族大会議開催決定だよほんと。あーもうこうなりゃ皿を食らわば毒までだ、いや逆か。どーでもいいや、死んでこよう。

 実にダメな方向に決意を固めた正太は、新種の薬物でもキメたような目をして睦美へと向き直った。

 

 「これ以上は勘弁してください、睦美さん。あなたは美人すぎるんですよ」

 

 「ええっと、その、えっと」

 

 詰め寄る正太と後ずさる睦美。二人の立場は完全にひっくり返っていた。ついでに言うなら、現実から目を背ける正太と目の前の相手にどん引きする睦美という点も逆転している。

 

 「いいですか、こう至近距離でやられると思春期のいろんな物が暴発しそうなんです!」

 

 「は、はぁ」

 

 身振り手振りを交えて狂気の言動を正太は続ける。自分の発言に自家中毒でも起こし始めたのか、演説調に声を張り上げて睦美へと詰め寄りだしている

 

 「そもそも思春期男子の脳味噌なんかどどめ色とショッキングピンクの市松模様なんですよ! そこになんですか、モデル並の美人でスタイルグンバツって! 一〇代の下半身にどれだけ悪影響かお分かりですか!?」

 

 「わかりました、わかりましたからもういい加減にしてください!」

 

 午後三時のネットショッピング司会者か、はたまた閉店間際のスーパーの売り子か、最高にハイな正太のマシンガントークは止まる様子を見せない。恐慌状態の睦美は必死に正太を押さえにかかるが焼け石に水だ。頭のネジが全て吹っ飛んだ正太の剣幕に睦美はもはや為す術もない。

 だが天は彼女を見放してはいなかった。

 

 「いーーえまだまだ続かせ「ぬー!」」

 

 気を違えた正太の独演場に、場違いで不機嫌な声が響く。声の発信源は己の斜め下四五度。「つまんない、いいかげんかまえ」と書かれた顔をした蓮乃が、正太の服の裾を摘んで引っ張っていた。

 

 「ぬ~!」

 

 具体的に言うと、眉根を寄せて頬を膨らませ唇を尖らせた蓮乃が、蓮乃語で繰り返し不満をぶーたれている。正太と睦美の二人とも、半ば呆然とした顔で蓮乃へと視線を向けた。二人の視線が集まったことで多少は納得したのか、不満の声を止めて満足そうに蓮乃が頷く。興奮しきっていたところでの蓮乃の奇襲に、どこか呆けような表情でお互いの顔を見合わせる。二人は奇しくも全く同じ事を考えていた。

 

 ――さて、自分たちは何をしていたのだろうか?

 

 正気に返った二人の表情は「口一杯に渋柿と梅干しを詰め込んだ」有様に激変した。加えて二人が二人とも後ろを向くと両手で顔を覆いうなだれる。正太も睦美も異常な行動をとるがある意味当たり前でもある。

 なにせ、正太からしてみれば「無関係(に近い)お隣の家庭の事情に自ら首を突っ込んだあげく、投げ出して暴走して自爆して果てた」わけである。逆に睦美からすれば「子供相手に自己矛盾だらけの言動で詰め寄って、さらに子供の反論(になっていないが)の剣幕に良いように振り回され、娘に正気に戻された」状況なのだ。二人とも「穴が無くとも自分で掘って埋まりたい」心境なのは想像に難くないだろう。

 両手で顔を覆って地面と対面したままの二人と、「わけがわかんない」と刻まれた顔で不可思議そうな不満顔で見つめる蓮乃。一〇三号室の庭には先日の正太・清子・蓮乃の三人のような、異様で異常な空間が構成されていた。

 

 そしてこの異常事態からいち早く立ち直ったのは正太の方だった。意志の力で顔から手を無理矢理引き剥がすと、恥辱が溢れでた震えを噛み潰しながら、背中の睦美へと向き返った。

 

 「ええっと、その、ご迷惑をおかけしました」

 

 正直なところ何を言っていいのか解らないが、それでも迷惑をかけたことには変わりない。となればできるのは謝罪しかない。恥辱をすすぎ落とすように正太は深々と頭を下げた。

 

 「い、いえ、こちらこそ本当にご迷惑を」

 

 正太に遅れること数秒ほどで睦美もまた立ち直った。仮にも大人である自分が何という有様なのだろう。「恥」死的な情けなさに紅潮する頬を無視して、睦美もまた正太同様に頭を下げる。

 

 「本当にすみません」

 

 「こちらこそ申し訳ありません」

 

 はコメツキバッタのようにペコペコと頭を下げ合う二人。何かがかみ合ったのかはたまた何かが通じあったのか、全くの同時に二人の頭が下げられる。その拍子にしゃがみ込む蓮乃の顔が目に入った。「わけのわからなさ」と「つまんなさ」にむくれてふくれっ面を浮かべた蓮乃を、二人は改めてその存在に気づいたように見つめる。今度は睦美の反応が先んじた。

 

 「と、とにかく、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきませんので、失礼します!」

 

 一声叫ぶように別れの挨拶を告げるや否や、睦美は半ば無理矢理蓮乃の手をひっ掴むと向きを翻した。力が入りすぎたのか抗議の声を上げようとする蓮乃を無視して、正太が「あっ」と言う間もなく一〇四号室へと姿を消した。

 睦美が見せた想像外の速度に、正太は某漠とした視線を呆然とした表情でさまよわせる。そしてそのまま崩れ落ちるようにしゃがみ込むと、足下に落ちたままのスコップとゴミ袋を掴んだ。五月の柔らかな日差しといえど延々と浴び続けたせいで、正太の頭は湯立ちそうなほどの熱を帯びている。しかしそれを気にする様子もなく、否、気に出来るほどの気力もない様子で、足下に残った雑草に手を伸ばした。

 青々と延びた葉っぱを掴んで、スコップで根っこを掘って、半ば雑草で埋まったゴミ袋に放り込む。皐月の薫風が正太の頬を優しくなでる。正太は能面じみた無表情のまま顔を上げると、遠く青空に浮かぶ羊雲を眺めながら言葉をこぼした。

 

 「あ~~~~~~~~~、死にてぇ」



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第四話、正太と休日の話(その四)

 天井から冷たい白光が人工大理石の吹き抜けを照らしている。その光は清潔で明るいが、同時に無機質で素っ気ない印象を与える。公共機関であるこの「図成町公民館」には、ある意味よく似合っていると言えるだろう。

 そして、その受付前の長椅子の上に腰掛けて背もたれにもたれ掛かった向井蓮乃は、頭上の蛍光灯を見ながら人生において何の役にも立たなそうなことをぼんやりと考えていた。

 

 けいこうとお、KEIKOTO、蛍光灯。えっと「蛍光」で「蛍の光」、そんで「灯」は「照明」とか「明かり」とかの意味だから、「蛍の光の照明」って意味だよね。図鑑で見た蛍はもっと緑色に光っていたけど、蛍光灯は蛍っぽくない。どーして蛍光灯は蛍光灯なんだろう?

 「蛍光灯」という単語がゲシュタルト崩壊を起こしそうな疑問を頭の中でこねくり回しながら、蓮乃はつまらなそうに延びをした。形のいい小さな口から妙な長音が漏れ出す。

 

 「いにぁ~~~」

 

 その声に周りの客が迷惑そうな表情を浮かべた。そして蓮乃の方へ視線を向けると、皆揃って「自分の尻尾を噛もうとグルグル回る子犬」を見かけたような生暖かな苦笑へと表情を変えた。公共の場で声を上げているとはいえ、幼い子供のやることだ。その上、「ドの付く美少女」かつ「行動は子猫のそれ」とくれば怒る気も失せよう。

 ただし、それでも数人の客は不審そうに眉をひそめている。休日真っ最中の日曜の公民館に、蓮乃のような子供がいるのが少々珍しいのだ。さらに言うなら(客たちは当然知らないが)普段外出をしない蓮乃が公民館にいるのはさらに珍しい。正しくは、睦美が外出を許してくれていない。

 そんな蓮乃がここにいるのは、当然睦美がつれてきたからであり、本日公民館にて行われる「障害のある親子向け相談会」に二人で出席していたのだ。そして相談会が終わった今、睦美は区の児童相談員と面談中で、退屈した蓮乃は児童待機所から抜け出して受付前へ逃げ出した。

 

 しかし、逃げ出した先でも退屈から逃げきることは出来ず、蓮乃は生あくびを整った顔に浮かべていた。どうしようか、部屋に戻ろうかな? でも部屋にあるの小さい子向けの絵本とか積み木とかだし、戻ってもあんまり楽しくないな。それにあそこの子は喋れないってバカにするから嫌い。けど、ここでボーっとしてるのもつまんない。これからどうしようかな。

 蓮乃は靴を脱ぎ、長椅子の上で膝を抱えた。長い黒髪が柔らかな紗のように両足を包む。その視線は受付後ろに掲げられたゴッホ作「ひまわり」のコピーに向けられていた。

 

 蓮乃は小さな頭の中から関連する記憶をひっくり返す。あの絵、なんて言うんだろう? どっかで見たことあるようなないような。小説かな、テレビかな、それとも雑誌かな? お母さんに聞いたら教えてくれるかな。でも、お母さん機嫌悪いとすごく怒るしすぐ泣くし、やだなぁ。それに『どうして?』なんて聞いても『あとで』とかで、あんまり教えてくれないしなぁ。兄ちゃんや姉ちゃんなら教えてくれるかな?

 蓮乃は吹き抜けの虚空に、豚と鬼瓦と人を足して三で割ったような正太の顔を思い浮かべる。その顔は「渋柿だとわかっているがこれしかないのでしょうがなく頬張った」表情を浮かべている。蓮乃と一緒の時は大抵これなおかげで、蓮乃内の正太像はこの柿渋顔にデフォルト設定されていたりする。正太から言わせれば「お前みたいなガキンチョ台風の世話見てりゃ嫌でもこうなる」と文句をこぼすとこだろう。

 

 苦虫を追加した顔で睨む正太のイメージを蓮乃はぼんやりと想像する。その脳裏に一〇〇WLED電球が瞬いた。教えてくれそうな気がする! この間怒ったときも『どうして』か教えてくれたし。じゃあ家に帰ったら「兄ちゃん家で」、『なんで蛍光灯が蛍光灯なのか』とか『あの絵何なのか』とか聞いてみようっと!

 自分の中での決定項を前提とした予定を蓮乃はズラズラと並べててゆく。正太が此処にいたならば、宇城家へ侵入を予定する蓮乃の頭をヒグマよろしく掴み込んで、ベソをかくまで長い長いお説教をしてくれたことだろう。だが、蓮乃が此処にいない正太の憤怒を考慮することはなく、身勝手な未来予想図を当然のこととした蓮乃の顔には満足げな色が浮んでいる。そして長椅子の上から足を下ろした蓮乃は、花柄の靴下に包まれた両足を振り子にしながら、母である睦美の帰還を待つことに決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 頭上からEL天井灯の冷光が合成木板の机を照らしている。二階層分はある吹き抜けの解放感溢れる受付前とは異なり、この個室の天井は圧迫感すら感じるほどに低い。

 いや、実の所を言えばそこまで低い天井ではない。少なくとも、近くの部屋や廊下、お手洗いなどと比較しても特筆するほど低いわけではない。ただ、目前のお堅い女性相談員から心理的な逃げ場を失いつつある睦美が、そう感じているだけの話なのだ。

 

 「ですから、向井様が蓮乃ちゃんのことを大事に考えているなら、もっと一緒の時間をとるべきだと申し上げているわけです」

 

 微妙にサイズが合っていないのか、相談員は細縁の銀フレーム眼鏡を繰り返し押し上げる。ガラスレンズの裏から睦美へと向けられる視線は、鋭く冷たい。真面目と堅物の合金を理想という金槌で鍛造したようなこの若い女性相談員にとって、子供をないがしろにする(ように見える)睦美の行動は、とてもじゃないが受け入れられないものだった。そんな彼女から針じみた視線を向けられた睦美は肩をすくめて縮こまり、叱られた犬のように視線だけを相手へと向ける。

 

 「で、ですが」

 

 「旦那様を亡くされた向井様が、ご自身の万一の不幸を気にされるのは非常によくわかります。しかしながら、それを理由にすれば蓮乃ちゃんに寂しい思いをさせていいというわけではありません」

 

 うなだれた睦美は力ない反論をこぼそうとした。睦美が日々前野製作所の事務員として朝から夕まで働き、休日はスーパーでレジ打ちをしているのは、万一があった時の蓮乃のためであって、蓮乃をないがしろにしているわけではないのだ。だが、相談員の容赦ない正論は、反論を放たれる前に押しつぶしてみせた。

 

 「それは……わかっています」

 

 「わかっているのならば、なぜその時間を作ろうとしないのですか!?」

 

 睦美の絞り出すような返答に、相談員は臓腑をえぐるナイフの質問を突き出す。睦美は答えに窮して、うつむくことしかできない。その様子が頭に来たのか、それとも自分の言葉に当てられたのか、彼女の堪忍袋に加わる圧力と脳味噌の温度は劇的な上昇を見せていた。

 

 「それは、その」

 

 「いいですか、向井様のお宅へ私どもの調査員が三度、間島アパートの一〇四号室に伺っております。その内、蓮乃ちゃんが一人でお留守番をしていたのが、三度! つまり全てです! それも午前、午後、夕方全て!」

 

 腹の底から煮え立っている相談員の様子に、睦美は言葉を返せない。あえぐような相づちもどきをこぼすのが精一杯だ。

 

 「あの、その」

 

 「あなたの行動はネグレクトと判断されてもおかしくないんですよ!」

 

 ネグレクト、すなわち蓮乃への対応は「放置」という形を取った虐待であると、相談員は口にした。その言葉に、睦美は半ば呆けた表情で絶句し、喘ぐ口を震える手で覆う。その手は元々の白磁の肌も相まって死人めいて色を失い、その唇は血の気を失い冬場のそれのように青ざめきっていた。

 

 「……ッ!?」

 

 「……すみません、少々語気が荒くなってしまいました」

 

 その様子を見て興奮しきった相談員の頭から、高温の血が引いてゆく。たとえ相手に問題があるとしても、相談員である自分が熱くなっていい道理はないのだ。深々と頭を下げた彼女は、これまた深々と息を吐いた。そして自分の中から興奮の残滓を吐き出してゆく。冷静に、冷静に。

 

 「障害と特能を合わせ持つ以上、通常の小学校に通学することが難しいことは理解しております。だからこそ蓮乃ちゃんには、より多くお母様と過ごす時間が必要なのです」

 

 特能すなわち魔法を持つ子供は、その魔法故に過信したり暴走したり極端に走ることが少なくない。また、障害を持つ子供は程度にもよるものの普通の学校に通うならばサポートは必須である。なら両方を合わせ持つ蓮乃は、相談員の言う通り普通の小学校に通学することが難しいと言える。

 

 「そして可能ならば外で様々な出来事に触れさせて、十分な情操教育を施すべきです。障害と特能を合わせ持つからこそ、多くの事柄を体験させて、蓮乃ちゃんの成長を促す必要があるのです」

 

 「は、はい」

 

 だからこそ、彼女は親子の触れ合いを持って蓮乃に心の教育を施すべきだと、そう考えている。それなのに目の前の睦美は、ひたすら縮こまって恐縮しているだけで反省する様子は見られない。少なくとも彼女の目にはそう見えた。

 いくらか冷めたはずの頭に再び熱が上る。本当にこの人は反省しているのだろうか? 単に頭を下げればいいとでも思っているのだろうか? 一人の子供の人生がかかっていることなのに。

 その思いは睦美にとっては余りに厳しい言葉となって、彼女の口から放たれた。

 

 「今回は厳重注意に留めておきますが、これ以上このようなことが続くようならば、最悪の場合は向井様に保護者として不適格であるとの判断を下さなければなりません! そのことは重々注意しておいてください!」

 

 「そ……そんな!」

 

 相談員の言葉の意味は明白だった。「(最悪の場合ではあるが)親権の剥奪もあり得る」、彼女はそう告げているのだ。只でさえ血の気のない睦美の顔が蒼白を通り越して白く染まった、いや色を失った。

 

 「無論、今後睦美様が蓮乃ちゃんと過ごす時間を十分に取られるのなら、そんなことは決してありません。これはあくまでも最悪の、万一の場合の想定ですから。しかしながら、よくよく承知しておいてください」

 

 睦美の様子を見て流石に言い過ぎてしまったと思ったのだろうか。「よほどのことがない限り」という意味合いのことを相談員は付け加えた。

 しかし、睦美にそれをまともに聞ける余裕はない。青ざめて震える唇から、絞り出すような声で返事を返すのが手一杯だった。

 

 「…………わかりました。どうもありがとうございました」

 

 返事と共に深くお辞儀をした睦美の表情を、相談員は見ることはなかった。もしも、その顔を見ることができたならば、しばらく後のことは少し違ったのかもしれない。けれど、彼女が見ることはなかった。なかったのだった。



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第四話、正太と休日の話(その五)

 五月晴れという言葉があるとおり、五月の天気は基本的に晴れ模様だ。ついでに言うなら初夏という言葉の通り、五月は夏の入り口でもある。つまり図書館から帰宅中の正太がなにを言いたいかというと、まだ五月だってぇのに何でこんなに暑いんだこん畜生が、ということだったりする。燦々と燃える太陽のおかげで、サイズの合わない野球帽にねじ込まれた正太の頭は、まるで蒸籠で蒸される小龍包だ。こんなに暑いのならかぶらない方がましだった。

 

 ふと正太は、小龍包という言葉に思いを馳せる。そういえば小龍包なんて一度も食ったことないなぁ。我が家はそんなに金がないから本物の豚肉使った中華料理なんてそうそう食えないしなぁ。でも一生に一遍くらいは満干全席フルコースで頂いてみたいもんだなぁ。

 小龍包という単語をきっかけに、湯立ちかけた脳味噌が北京・上海・四川・広東ほか正太が中華料理(だと正太が思っているもの)を無駄に高精度かつ高彩度で脳裏に映し出してゆく。湯気の立つエビチリに肉のゴロゴロ入った酢豚、鳥骨出汁が香る白湯ラーメンにさっぱりと歯切れよい杏仁豆腐。それも合成食品で作ったモドキじゃない、全部本物の中華料理だ。

 

 自分の想像で生唾を飲み込んだ正太は、腹の空き具合を確かめるように太い腹周りをさすった。あー畜生、料理描写の出てくる小説なんて読むんじゃなかった。昼飯食ってから二時間もたってないのに腹が減ってきたぞこん畜生。よし決めた! 今日は帰ったら、とりあえずラムネの大瓶飲んで、さらに焦がし醤油味の(デンプン)チップス摘んで、加えて図書館で借りた新作を読んでやろう。それも床に寝っ転がりながらだ! そう本日は自堕落日和に決定されたのだ!

 実にみみっちい決意を固めた正太は、空手の左手を降りあげて無意味な気合いを自分に入れた。その拍子に逆の右手にぶら下げられた布袋が振り回されて、中身が中へと飛び出しかけた。

 

 「うぉっとっとと」

 

 バランスを崩しかけながらも正太は中身の保護を試みる。中には図成町図書館で借りた読書予定の小説が詰まっているのだ。汚したりしたら容赦ないペナルティーが下されてしまう。

 新聞も電子化されて久しい昨今、図書館の書籍もとうの昔に電子情報化されている。今や図書を借りるのに図書館に行く必要すらない。公共(コモ)ネットを通じて図書館のサイトに移動すれば、そこで図書データへのアクセス権を借りることが出来るのだ。それでも正太のような実物本好みは少なくなく、税金の無駄と罵られながら図書館は実物本を貸し出している。そういった事情もあって、実物本への汚損・紛失のペナルティーは、定価での買い取りに加えて三ヶ月の貸し出し禁止と中々に厳しい。

 さらに言うなら完全な趣味の品となった実物本は決して安くない。金のない中学生である正太にとって、図書館は新作の生命線だ。図書館無しでは、小遣いが入るまで読み尽くした家の書籍をまた読み直すしかなくなってしまう。いや、正太としてはそれはそれで味があるのだが、やっぱり新作は読みたい。

 そういうわけで、正太は飛び出しかけたハードカバーの小説を片足立ちになりながら布袋ごとつかみ直した。

 

 「危ない危ない」

 

 小説に地面の汚れが絡みつくのを避けた正太は、危機一髪と冷や汗と脂汗を一緒に拭う。ついでに頭皮を蒸し上げている野球帽を外して、蒸れに蒸れた頭を帽子で扇ぎだした。五月の日差しが髪の毛を焦がし不快指数を増大させるが、それよりも頭をくるんだ汗の蒸気が吹き飛ばされるのが心地いい。飽和水蒸気量の汗を含んだ空気が、皐月の薫風と入れ替わってゆく。

 

 こりゃ家に帰ったらキンキンに冷やしたラムネが必須だな。そうだ、三時のおやつはチップスじゃなくてアイスキャンディーにしよう! キンキンに冷たくしたラムネにキリっと冷えたアイスキャンディー。こりゃ腹を冷やし過ぎて下しちゃうかもしれないなぁ。

 先日父が買ってきたアイスキャンディーがまだ残っているのかもわからないくせに、正太は随分と気の早いことを夢想する。一人上手な想像に感極まったのか、煮込み過ぎたカボチャのように相好を崩した。

 上機嫌に日差しの中を練り歩く正太。その脳内では「オレンジ味」「ブドウ味」「練乳味」「メロン味」など各種フレーバーのアイスキャンディーが浮かんではまた消えている。氷菓に満ちた頭の中とは裏腹に、その顔はカレーのジャガイモめいて妄想に煮くずれていた。

 

 だが信号に差し掛かったところで唐突に、その眼差しと脳内は同じ氷点下四度の低温を帯びた。眉の間には日本アルプス級のシワが寄り、口は出涸らしを噛みしめたような苦々しい「への字」に歪む。そして冷凍庫並に冷めた視線の先には、とてもとても見覚えのある整った顔が、両手を振り回して自己アピールに心血を注いでいた。

 

 「なぁーーーもぉーーーーっ!」

 

 宇城正太、向井蓮乃と本日三度目のエンカウントである。

 蓮乃との一日あたり遭遇回数の最高記録を更新した正太は、「げんなり」とくっきり書かれた表情で、信号の向こうの蓮乃を見つめた。そんな正太が気付いたことに気付いたのか、蓮乃の両腕はさらなる高速で回転しだした。

 

 「にぃーーーーー!」

 

 ついでに雄叫びならぬ雌叫びを上げて、蓮乃は甲高い声で自己主張を続ける。テンション上昇一方のその様を見て、正太の気分は真逆の方向に突っ走っていた。

 別段自分は蓮乃のことを嫌っているわけではない。しかしながら、あの活力過剰暴走娘の相手をするのは随分なエネルギーを要するのだ。それが日に二度三度目ともなれば流石に疲労困憊になるのはしょうがない。そう、しょうがないのだ。

 何に対して言い訳ているのか当人すらわからないが、正太は胸の内でひたすら弁明を続ける。そんな正太を後目に、いやある意味注目しつつ蓮乃は信号の切り替わりと同時に飛び出しかけ……引き戻された。後ろから強く腕を引っ張られたのだ。バランスを崩しかけた蓮乃は、複雑にたたらを踏んで平衡を何とか維持した。

 蓮乃には自分の腕を引っ張る人間なんて一人しか思いつかない。「いいところだったのに」と不平と怒りを発散する蓮乃が振り返ると、視線の先には痣が残りそうなくらい強く自分の腕を握りしめた睦美の姿がそこにあった。

 

 「ぬぅー!」

 

 どこぞの世紀末覇王よろしく眉にしわ寄せ、蓮乃は母親へ向けて不満を表現する。もっとも日本人形じみた外観の美少女が唇を尖らせながらやっても、「かわいい」以外の印象は与えられなさそうだ。あとはせいぜい「あざとい」ぐらいだろうか。

 だが、睦美にそのどちらの印象も受けた様子は見られなかった。ただ能面じみた虚ろな表情のまま信号向こうの正太へと顔を向ける。その顔を見た瞬間、蓮乃に対する疲労感も借りた本への期待感も、正太の中から消えて失せた。思わず正太は呼吸を止めていた。

 

 光を重ね過ぎれば無色の「白光」になるように、

 

 色を重ね過ぎれば無彩の「黒色」になるように、

 

 睦美の顔は感情を煮詰めきって焦げ付いた、あまりに激烈な無表情を浮かべていたのだ。

 そして睦美は凍り付いた正太へと深くお辞儀をすると、蓮乃を引きずるようにして曲がり角へと姿を消した。正太は半ば呆然としたまま、信号が再び赤へ変わりもう一度青になるのを見ていた。

 

 「……どーしたもんなんだよ、一体全体」

 

 凍り付いた全身を内から溶かすように、正太は頭を振りながら初夏の空気を繰り返し深呼吸する。だが、何度頭を振っても睦美が見せた「焼け野原のような無表情」は正太の脳裏にこびりついたまま離れようとしなかった。

 

 

 

 

 

 

 自宅である間島アパート一〇四号室のある戸小と、区役所のある図成町はそう遠い距離ではない。子供の足でもせいぜいが二~三〇分という所だろう。大人が早足で歩けばさらに時間は縮まる。

 それでも、移動中強く握られたまま引き摺り回された蓮乃の二の腕には、真っ赤な痣が残ってしまっていた。

 

 「う~」

 

 一〇四号室の居間に腰を下ろした蓮乃は、腕を振っては繰り返しさする。赤い手形となった痣と痺れる痛みを取ろうとしているのだ。しかし、一〇分以上握られっぱなしだった二の腕は、一向に様子を変えようとしない。さらに道中では腕を引っ張られ続けていたため肩も痛みを訴えている。我慢できないほどではないが非常に不快である。蓮乃はその原因である睦美へと顔を向ける。当然その顔には不満と文句が満載されていた。

 

 「む~~に~~」

 

 じっとりした半目の間には皺山脈が築かれており、現在の不機嫌をこの上なく分かりやすく表現している。が、表情だけで全てが伝わるわけではない。なので、蓮乃はウサギ型のバックからノートを取り出すと、表情に過積載された不平と文句を文章へと移設した。

 

 『お母さん、腕が痛かった! それに兄ちゃんと話そうとしてたのに何で引っ張ったの!?』

 

 蓮乃としては腕が痛い以外に、正太と話そうとしたところを連れ帰られたのがご不満のようだ。そして蓮乃はすっくと立ち上がると、照明も付けぬまま廊下に立ちすくんだ睦美の眼前にノートを突き出す。しかし、睦美の反応はない。まるで津波直前の引き潮のように静かだ。

 

 『お母さん聞いてるの!?』

 

 正しく言えば、「聞く」ではなく「読む」なのだが、興奮している蓮乃に気がつく様子はない。そして睦美の雰囲気にも気がつく様子はない。

 

 「まーっ!」

 

 不機嫌度向上中の蓮乃はさらに声を荒げて睦美へのアピールを繰り返した。それでも睦美は動かない。ただ床を見つめてうつむいた小刻みに震えているだけだ。

 

 「ゔゔゔゔゔ~~~~」

 

 蓮乃の口から文句を通り越して、飛びかかる寸前の野犬ような唸り声が漏れ出始めた。さらに(目の前にいるが)親の仇と言わんばかりにフローリングの床を踏みし抱き始める。もはや蓮乃のご機嫌は、蓮乃史上ワースト一位を更新しつつある。地団太を踏んでいるのは、アピールではなく苛立ちの表現でしかないだろう。

 目の前で繰り広げられる娘の奇行が、いい加減目障りだったのだろうか。岩戸の前で天鈿女命(アマノウズメノミコト)に踊り狂われた天照大御神(アマテラスノオオミカミ)のように、ゆっくりと睦美は顔を上げる。無反応だった睦美が反応して、いくらか怒りが収まったのか蓮乃の声は襲撃寸前の野生動物から不満げな子供程度に戻った。

 

 「む~~、ぅ?」

 

 だがその声も途絶えた。蓮乃は今更になって睦美の様相が異様であることに気が付いた。蓮乃は見上げるようにして血の気の失せて青ざめた、それでいて血の色の中身が弾けそうな睦美の表情を見る。

 

 ――お母さんの顔はなぜ青ざめているのだろうか?

 

 続いて痙攣したように震える睦美の足に視線をやった。

 

 ――お母さんの体はなぜ震えているのだろうか?

 

 そして鞭のように振りかざされた睦美の右手を呆けた表情で眺めていた。

 

 ――お母さんの手はなぜ振り上げられているのだろうか?

 

 後半秒しないうちにその手が振り下ろされて、蓮乃の頬を打ち据えるだろう。少なくとも二人を横から眺めていたなら誰でもそう思うような状況だった。

 だが、振り上げられた手は突如として力を失い、風の止んだ吹き流しのように垂れ下がった。先の蓮乃以上に呆然とした表情で、睦美は自分の手と蓮乃の顔を繰り返し見やる。一〇秒の後、瘧(おこり)を起こしたと錯覚するほどに睦美の体が震え出した。その顔はついさっきまでの決壊寸前のダムに似たそれとは異なり、ダム決壊の瞬間を眺める職員を思わせる「現実に打ちのめされて呆然とした」表情であった。

 

 してはならないことをやってしまった。

 

 取り返しの付かない失敗をしてしまった。

 

 睦美の表情はそう物語っていた。

 

 「あっ……」

 

 睦美の無表情というダムにひびが入り、感情の濁流が両目と唇から溢れだした。両の目からは涙が滴り、口からは嗚咽がこぼれる。抑えるように両手で顔を覆うが、溢れる感情は収まる様子を見せない。息を呑むように荒い呼吸を繰り返しながら、声を上げて睦美は泣きじゃくった。

 それを見ていた蓮乃の目尻にも涙が山を築き始めた。程なくして涙の鉄砲水が蓮乃の頬を伝わり落ちる。目の前で涙を流し嗚咽をあげる母の姿に、訳も分からずに悲しくなった蓮乃は声を上げて泣き出した。

 生まれたばかりの赤ん坊はただひたすらに泣き叫ぶ。それは人間の持つもっとも根源的な精神の発露であり、言葉も知らず体も動かない乳幼児にが唯一持つコミュニケーションの手段だ。だから、感情が飽和して溢れだした睦美も、混乱の極地で何も出来なくなってしまった蓮乃も、赤子のように泣きじゃくる以外に出来ることはなかった。

 

 涙と嗚咽の親子二重奏が一〇四号室の居間に響く。午後の日差しに照らされた部屋の中は、驚くほど濃い影に半ば塗りつぶされていた。

 

 

 

 

 

 

 まんじりともせずベッドの上で寝っ転り、ただひたすら天井を眺める。視線の先の有機EL板照明が目に眩しい。正太は目を細めて手でひさしを付けた。

 子供部屋の扉からは、父が居間で見ているネットテレビの音が漏れ聞こえてくる。夜九時のニュースによれば、北京自由政権と南京臨時政府の戦闘は一進一退の膠着状況と化したそうだ。このままだと近隣国家による横やりで、中東やアフリカよろしく紛争状態が常態となるかもしれない、らしい。

 聞くともなしに中華諸国の情勢を聞き流しながら、正太は図書館からの帰りに顔を合わせた向井親子のことを思い返した。

 

 「一体全体どーしたもんなんだろなぁ」

 

 あの時に見た、否、見てしまった睦美の無表情。「表情」が「無い」から「無表情」と言うものの、あの顔は虚ろや乏しいと表現できるものではなかった。

 まるで色を塗り重ね過ぎて真っ黒にひび割れたキャンパス、光を重ねすぎて真っ白に焼け付いたスクリーン。それとも噴火寸前の火山のような、台風直前の凪のような、「堪えて耐えて我慢して、何かが弾ける一瞬前」を思わせる無表情だった。

 きっと「なんか」あったのだろう。「なんか」が何か知らないが。そして、その「なんか」が腹の底から溢れだしかけたから、あんな顔をしていたのだろうか。

 

 「あーもー、こんちくしょうが」

 

 何がなんだかよくわからん。訳の分からない状況に文句が漏れた。正太は頭を抱えて意味もなくベッドの上を転がる。ベッドは朝方と同じくギシギシと文句を立てた。

 

 「どしたの?」

 

 正太が漏らした文句か、はたまたベットが立てた文句か、それともその両方に気がついたのか。部屋の反対側でベッドに腰掛け読書中だった清子がふと顔を上げて、正太の方へと視線をやった。

 

 「いや、あ~その、なんだ」

 

 正太は歯切れ悪く答えになっていない返答を返した。視線も空中三回転半ひねりのウルトラCをやっている。何せお隣の家庭の事情に関する話である。今日の天気よろしく、気軽に話せる話題ではない。

 

 「事情があるなら聞かないけど?」

 

 「いや、聞いてくれ。ただし他言無用で頼む」

 

  兄の様子に何かを察した清子は、好奇心を抑えて正太に尋ねる。しばらく正太は渋い顔で顎をさすっていたが、意を決したように口を開いた。

 

 「心配しなくても人様に言い辛い話を、スピーカーみたいに放送する趣味はないよ」

 

 「それなら安心だな」

 

 清子はその人柄故か、同年代の女子たちの相談(という名の愚痴聞き)を受ける事が多い。噂話とゴシップが大好物の思春期女子の中で相談を任せられる事自体が、清子の口の堅さを証明していると言えるだろう。

 

 それを了解している正太は、清子へと事情を話し出した。口にするのは、主に草むしり中の会話と図書館帰りの睦美の印象についだ。無論、草むしり中に口走った余計な内容はおくびも出していない。そして、一通りの話を聴き終えた清子は、唇に指を当てて話の中身を吟味する。

 

 「ん~~~~判断に困るね、これ。そもそもが兄ちゃんの印象でしかないわけだし」

 

 「まぁそういわれればその通りなんだが」

 

 清子の言うとおり結局のところ、この話の大本は「正太がそう感じた、考えた」がほとんどだ。確たる証拠はどこにもない。だったらどうすべきか。

 

 「いっそ蓮乃ちゃんに聞いてみたら。睦美さんは無理だとしても、蓮乃ちゃんなら問題ないんじゃない?」

 

 「でも人様の家庭の事情を聞き出すってのも、なぁ」

 

 清子の躊躇無く本丸を攻める発想に、正太が渋柿をかじった顔で答えた。他人様の事情をゴシップめいた話の種にすることは、「してはならぬ事」と両親から強く躾られている。この件を蓮乃から聞き出すのは、どう考えてもパパラッチの行いだ。趣味がいいとは到底言えない。

 

 「じゃあ聞かなきゃいいじゃない」

 

 前言をあっさり翻して、清子は身も蓋もない返答を投げ返した。先に清子が言ったように、この話は正太の印象でしかないのだ。何か頼まれた訳ではないし、何らかの被害を受ける訳でもない。確かめる必要性もまたどこにもない。

 

 「その通りではあるんだが」

 

 「結局さ、『兄ちゃんが気になる』のが全てでしょ。それに関してお隣さんから何かがあったわけでもないし」

 

 頭を抱えた正太に、清子は手心無く追撃をかけた。清子の言うとおり、全ては正太の印象に過ぎず、向井家から何かあったわけではない。強いて言うなら毎日のようにやってくる蓮乃くらいだ。

 正太は頭を抱えたまま、喉の奥から豚のような唸り声をあげる。言われるとおり「自分の印象」でしかないのは確かだ。そうだからと無視する気になれないなら、出来る方法で確かめて自分で判断するしかない。

 正太は抱える手を離すと頭を大きく振り回して、首の筋をのばした。パキパキと音を立てて間接液に気泡が生まれる。

 

 「そうしてみるかね」

 

 「そうしてみたら?」

 

 正太の答えへ清子は打てば響くように軽く返す。そしてこれで話はお終いと全身を伸ばして凝りをほぐした。そのまま反動を付けて清子はベットから飛び降りる。

 

 「先お風呂もらうね~」

 

 子供部屋を後にする清子に、「おう」と返して正太はベッドに寝転がった。居間から漏れるテレビの音を聞けば、ニュースはいつの間にかに終わり、天気予報に変わっていた。梅雨前線は沖縄を過ぎ、そう遠くないうちに本州へと上陸する予定だそうだ。

 窓のない部屋の壁を見つめながら、正太は明日の天気と蓮乃の様子をぼんやりと考えていた。



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第五話、三人でお菓子づくりの話(その一)

 分厚い積層雲に蓋をされて、空はずいぶんと暗い。それに合わせたように、帰宅中の”宇城正太”の表情も沈んだ色合いだった。正太の中学校生活がうまくいってないのは以前からであり、別にそれが原因というわけではない。むしろ、家路を進み自宅のある間島アパートへ近づくにつれて、顔色が悪くなっている。原因は帰宅先に、より正確に言うならばお隣の一〇四号室の住人にあるのだ。

 

 「はぁ」

 

 無駄に重い息を吐きながら、正太は爪先を見つめて鉛のような大根足を動かす。薄暗い顔のまま考えるのは、その顔の原因である一〇四号室の住人、すなわち”向井蓮乃”と”向井睦美”の親子のことだった。

 つい昨日(第四話参照)、正太は睦美の異様を目撃した。異様といっても、年に似合わないトンチキなコスプレをしていたわけではない。ただ、睦美のまとった雰囲気が、浮かべた表情が、あまりに異常だっただけだ。とても尋常とは言えない睦美の様子は、夜になっても正太の脳裏から離れてくれなかった。

 清子に相談はしてみたものの「気になるなら聞けばいいし、それが嫌なら聞かなければいい」とばっさり切られてしまった正太は、頭を抱えつつも本日帰宅後に蓮乃に事情を尋ねることとしたのだった。

 

 「どーしたもんかねぇ」

 

 曇天に向けていつもの口癖をぼやく正太。どう考えても簡単な仕事ではない。人様の家庭の事情と思わしき事柄を、その家人に失礼にならないよう質問しなければならないのだ。”前の一件”で色々あって、コミュニケーション障害気味となった正太に、それは余りに過酷な行いであった。正太は蓮乃に対してならば、何とかまともなコミュニケーションをとれるが、それはあくまで日常的な事柄に関してだ。それが”前の一件”以前であったとしても難しい質問をするとなれば、気も重くなろうものだった。

 

 「聞くっきゃないんかねぇ」

 

 だが、いくら困難な理由を並べ立てようと「なさねばならぬ」のだ、どちらの意味でも。それが嫌なら清子の言うとおり聞かなければいい。気になるのは結局自分の感情と印象でしかないのだから。

 曇り空の下、正太は腕をぐるりと回して気分を入れ替えると、帰宅の足を少し速めた。

 

 

 

 

 

 

 ……少年の前に立ちはだかった男は、下劣な笑みを浮かべ脅しをかけるように刀の背で掌を叩いた。

 

 「鬼ごっこは終わりかい、おにいちゃん。ちょいと待ってな。直ぐに獣肉(ももんじ)よろしく八つに捌いてやっからよ」

 

 表情同様、言動も下劣だな。少年は胸の内で独り語ちると、着物の袂から一枚の札を取り出した。札に朱墨で書かれていたのは曼陀羅に並べられた梵字であった。

 それを目にした男は卑しい笑みを引っ込めて刀を構える。男は少なくとも少年が呪いを生業にしていることを聞いていた。それが札を出したとくれば、何かしらの妖術でこっちを欺きにくるだろうことは確実だ。よけいなことをしでかす前に、首と胴を泣き別れにする必要があった。

 だが、男の考えは水飴よりも甘かった。本当に呪い屋を相手取るならば、気が付かない内に一撃を持って即死させなければならない。わずかにでも気が付かれたなら、致命の呪いを両手の数より頂く羽目になるのだから。

 男は札をつかんだ手に気をやりながら、擦り足で間合いを計る。一方の少年に変わった様子はない。袂から出した朱墨の札を扇子よろしく扇いでいるだけだ。

 だが、男の目は何か違和感を訴えていた。男は視線の中心を少年から札へと無意識に移す。原因はあっさりと明らかになった。

 

 (札が増えた!?)

 

 そう、少年は「二枚」の札で扇いでいたのだ。男は思わず目を見張り、札を注視する。それを見た少年の口の端が、笑みの形につり上がった。これを待っていたのだ。札の数を増やしたのは、単なる手妻の類にすぎない。本当の呪いはこれからだ。

 少年は二枚の札を眼前に突き出すと、札を押さえる指を横に滑らせた。札は倍の四枚に数を変える。

 

 「二枚が四枚」

 

 さらに指を滑らせて数をさらに増やす。

 

 「四枚が八枚」

 

 「……八枚」

 

 今度は左右の手を重ねてまた開く。当然、札の数は倍だ。

 

 「八枚が十六」

 

 「は、八枚が十六」

 

 自身の自覚のないうちに、男の口は少年の言葉を繰り返す。

 

 「十六が三十二」

 

 「十六が三十二」

 

 気が付けば二人の声は唱和を始めていた。髄の髄まで呪いが染み入った証拠である。

 

 「「三十二が六十四」」

 

 それを聞いた少年は笑みを深めて、両手の札を空に投げた。ひらりひらりと朱墨の曼荼羅が月光に舞う。男は一心不乱に札を数え続けている。

 

 「六十四が百二十八。百二十八が二百五十よ、いや二百五十六。二百五十六が五百……」

 

 男の頭の中は宙に舞う札で満ち溢れ、もはや何を目的としていたかすら思い出せない。倍に倍にと増える数字をただひたすらに数えるだけだ。もう、正気に戻ることはないだろう。死ぬまで数を数えているに違いない。

 

 これぞ、夢路庵の呪術が一つ「重ね数えの術」である。

 

 少年は術中に堕ち、生ける倍数器となった男の様を一瞥した。そして地面に落ちた札を拾い集めながら、これからのことを思案し始める。

 さあて、この下らない下品な男を寄越した生臭坊主共はどうしてやろうか。釈迦如来に化けた狐狸を送って自裁させてやろうか。いや、女を犯し酒を食らい、現世で天狗道を突っ走っているあいつらが腹を切るなどありえぬ話だ。なら、二つに分けて滅びるまで殺し合わせようか。経典の始め一字の読み方あたりで殺し合わせるといいだろう。無為な一字で死に絶える様は、あの聖人気取りで錦をまとった乞食坊主共にふさわしい。それがいいな、そうしてやろう。

 札を拾い終えた少年は、暗い笑みを浮かべながら山道を急ぐ。少年が気が付くことはなかったが、その表情は先の男のそれとよく似ていた。人を呪わば穴二つ……

 

 

 

 

 

 

 「ふぅ」

 

 どのくらい経ったろうか。物語の海に潜水していた正太は、一息つこうと分厚い本から顔を上げる。手元に置いた氷水のコップは、結露でぐっしょりと濡れていた。

 家の鍵を開けて、玄関で靴を脱ぎ捨て、子供部屋で部屋着に着替え、好みの小説を抱えて居間へと向かう。あとはソファーに腰掛けて小説を読みつつ時間を過ごすのが、正太にとっていつも通りの帰宅後の過ごし方だ。最近はここに、蓮乃のお相手が追加されていたりする。

 今日はその蓮乃にこそ用事があるわけで、始めのうち正太は小説の文字を追いながらも、時折扉の方と庭の方へと視線をやっては手元に戻していた。しかしながら正太の趣味は読書であり、自覚のないまま扉と庭へ視線を送る間隔が延びていき、そしてさほど時間の経たない内に、正太は小説の世界へと没頭していたのであった。

 

 そういえば、今は何時だ。ふと視線を壁の時計に向ければ、清子の平均帰宅時間が近い。もう蓮乃が顔を見せてもいい頃だが、今日はやけに遅いようだ。やっぱり昨日、蓮乃と睦美の間で何かあったのだろうか?

 顎を掻きながら、正太はしかめっ面を浮かべる。これからそれについて、蓮乃に質問をしなければならないのだ。さて、どう聞くべきだろうか。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 考えを指で空に箇条書きながら、正太は思考を進めてゆく。

 一.自分の目的は何か……昨日の睦美さんの様子の異常、その原因を知ること。

 二.目的の何が問題か……聞かれたくないことを聞かれるであろう睦美さんの怒り、蓮乃からの軽蔑、デリカシーのない行いに対する両親からの評価。

 三.解決策は何か……あくまで「心配して」という形を取る。質問はできるだけ平易かつ穏当なものにする。蓮乃が拒んだ場合はそれ以上踏み込まず、十分に謝罪する。

 四.策をどう実行するか……どうしよう?

 

 正太は顎を掻く手を強めて渋面を濃くする。少々強く掻きすぎたのか、顎の下が少しばかりひりついた。

 結局これが一番の問題なのだ。いくら柔らかい表現と適正な質問を考えたところで、聞けなければ意味がない。しかしながら、「前の一件」から自分は「他人と意識的に喋るとなると頭が真っ白になる」と言う、奇癖というか悪癖を抱えているのだ。ありがたいことに蓮乃と話すときは、この悪い癖が姿を見せたことはない。だが、この手のデリケートな質問を考えながらするとなれば、たとえ相手が蓮乃であっても発症は必死だろう。やっぱり聞くの止めるべきだろうか?

 顎を掻く手を後頭部へ移して、正太は頭を抱える。ちらりと時計に視線をやると、さっき見たときから長針が六〇度ほど動いていた。もう蓮乃が一〇三号室に何時来てもおかしくないだろう。正太は頭を掻きむしり、「あー」だの「うー」だの蓮乃じみた意味のない焦りの声をこぼす。それでも考えはまとまらず時間だけが無為に過ぎてゆく。

 考えすぎで頭が火照る。知恵熱まで出てきたようだ。ジリジリと神経を焦がす焦燥感に駆られた正太は、分離したドレッシングのようにまとまらない思考をまとめるためか、抱えた頭をひたすら上下させ始めた。

 

 「あーもー、どーすんだよ、どーすんだよこれ」

 

 無論、メタルよろしくヘッドバギングを繰り返したところで考えがまとまるはずもなく、最低高度で正太の頭蓋は唐突に停止した。そのまま正太は頭を抱え込み吐き気をこらえる。頭を散々上下に揺すれば三半規管もそれだけ揺すられる訳で、結果吐き気を生ずるのは当然のことであった。

 吐き気と焦りとその他諸々を、深いため息で吐き出す正太。ついでに考える気力も吐き出したのか、投げやり気味の思考が脳裏を占める。

 

 ――もういいや、蓮乃相手なら何とかなんだろ。出たとこ勝負でいこう。

 

 出たとこ勝負どころか、悪い癖が出た時点で試合終了なのだが、吐き気と知恵熱で脳味噌を煮崩した正太にその自覚はなかった。そのまま正太はヘドバンを終えた頭を抱えた体制でじっと休んでいた。

 しばらくして、脳髄から吐き気が抜けて知恵熱が冷めた。正太は、ゆっくりと頭を上げて首を回した。頸椎が小気味いい音を立て、神経が衝撃で痺れる。「首を悪くする」と母や妹からたしなめられることは少なくないが、それでも固まった首筋をほぐすのは心地いいものだった。

 

 そしてぐるりと首を回し終えた正太は、お隣一〇四号室との垣根に見覚えのあるワンピースを見いだした。どうやら噂の御仁がお出ましのようだ。待ち人である蓮乃の顔を拝もうと、正太はソファーから立ち上がる。

 視線の先にいる蓮乃は、いつも通りの黒髪ロングをなびかせて、いつも通りにレモン色のワンピースを身にまとって、そしていつも通りな元気過剰接種な表情をして…………いない?

 

 蓮乃の視線は斜め下の地面に固定され、未亡人のベールの様にうなだれた首を長い黒髪が覆っている。手動除草済みの大地を見つめる瞳は、西洋陶器人形(ビクスドール)の硝子目めいて寂しげに透明だ。そして黒髪の隙間から覗く顔は、哀切という言葉を凍り付かせた生き人形のそれをしていた。

 正太の知る限り、蓮乃は「活動的な明るい表情」がデフォルトである。不機嫌そうに「ウ~ゥ~」唸ったり、ドヤ顔で「ムフ~ッ」と得意げな顔をしたり、「フンスッ」とVの字眉で気合いを入れたりと、その表情は様々に色を変える。

 だが、少なくとも「不活発な暗い表情」を見せたことは数えるほどしかない。正太の記憶にあるのは出会った初日(第一話参照)ぐらいだ。だが、今目の前にいる蓮乃はその絶滅危惧種じみて珍しい、「落ち込みきった真っ暗な表情」を浮かべていたのだった。

 

 あまりに異様な蓮乃を見て正太の顔がひきつる。やっぱり昨日のことがなんかあるのか? なんかあるからあんな顔をしているんだろう。とてもじゃないがあの蓮乃を見るに、よけいな質問なんかできそうにない。したら最後、警察を呼ばれることになりかねん。ならばどうする?

 

 「とりあえず慰めてからだな」

 

 これからの行動方針を意図的に口にすると、正太は居間の窓を開けた。



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第五話、三人でお菓子づくりの話(その二)

 正太がラムネのビー玉を押し込むと、軽い空気音と共に炭酸ガスがきめ細やかな泡をまとって溢れ出た。南国色のビンにラムネの泡が滴り、下敷きの付近に吸い込まれた。急いでコップに注ぐと、人工的にさわやかで甘い芳香が周囲に満ちる。

 正太は胸一杯に工業生産のレモン香を吸い込んだ。夏場の暑いときなんか、この臭いと炭酸の弾ける音だけで汗が引くような気がする。自然志向の人間からは文句を付けられるかもしれないが、自分としてはこの臭いがとても好きだ。そもそもレモンの取れない日本でレモネードを作ろうとしたのがラムネなんだから、自然主義なら炭酸水にレモン絞って砂糖入れてレモネードを作ればいいのだ。

 下らないことを考えつつ、正太はラムネを二つのコップに注ぐ。一つはもちろん正太の分、もう一つは目の前で俯いたままの蓮乃の分である。

 

 「ほれ」

 

 約六割五分ほどをラムネで満たしたコップを滑らせて、ソファーに体を沈ませた蓮乃の前に押し出す。ほんの少しだけ顔を上げてテーブルの上のコップに目をやるが、蓮乃は手を伸ばさない。その様子を見て小さく嘆息すると、電話横から持ってきておいたメモに同じく持ってきたボールペンで『飲め』と書き込んでコップの横に付き出した。それを読んだ蓮乃がおずおずとコップに手を出したのを見て、正太はもう一つ息を吐いた。

 蓮乃が落ち込んでいるとどうにも調子が狂う。いつもは日本晴れ脳天気娘も、今日の日和は雨模様らしい。事情を聞くに聞けんが聞かぬ訳にもいかないわけで、意味のない文言がどこかばつ悪げな正太の口から漏れ落ちる。

 

 「あーその、なんだ」

 

 蓮乃は障害の関係上、言葉を聞き取ることはできない。なので正太は頭を掻きながら、メモにペンを走らせた。

 

 『なんかあったのか? 話せるなら話してくれ』

 

 さっき箇条書きにした一.から三.を満たすものの、相手への配慮と婉曲表現にやや欠けた文章だ。それでも正太のさほど大きくもない器の残量から考えると、できる限りのことをしたと言えなくもない。

 だが、蓮乃の返答はなかった。ちらりとメモに目をやってそのまま俯くだけだった。静寂と沈黙が居間を満たした。窓の外からわずかに人の声が漏れ聞こえるが、部屋の中にはメダカの水槽で稼働中のブロワーと、残りの炭酸を吐くラムネしか音を出すものはない。

 

 後頭部を掻きむしる手を強めながら、正太は渋面を深くした。爪を立てて掻くせいで、頭皮が削れてフケが落ちる。こんなことをしていれば、ただでさえ暗い正太の毛髪の未来が暗黒に包まれてしまうだろう。もっとも反射率的な意味ではずいぶんと明るくなりそうだが。

 正太は頭を掻く手を一度止めて頬杖を突き、下を向く蓮乃へと顔を向けなおした。とりあえず自分の将来の頭部については一時置いといて、目の前の蓮乃のことを考えねばなるまい。蓮乃は自分が書いたメモの文面を見ている。その上で何も書かない以上、「なんか」について話す気がない、と判断すべきだろう。少なくとも「なんでもない」ということはあるまい。そうならば、そう書けばいいだけの話なのだから。

 代名詞だらけで自分以外解らないような思考をつらつらと進め、正太は身も蓋もない結論に達した。

 

 ――つまり、聞いたところで無駄か。

 

 さて、どうしたもんか。話す気になるまで放っておくのがいいだろうか。正太はむやみやたらと長いため息を吐くと、上体を起こして左右にひねった。先の首のように脊椎内の間接液でぱきりぱきりと気泡が生まれる。同時に伸びる背筋に心地よさを味わいながら、正太は長い息を吸う。さらに続けて指を組んで肩と腕を伸ばすと、固くなった体から強ばりと凝りが絞り出されるのを感じた。

 一方蓮乃は、何が気になるのかちらりちらりと正太の挙動に視線だけを向けている。叱られた子供のように上目遣いでおそるおそる正太の様子を観察している。だが、正太の視線が向けられると、途端にバネ仕掛けのように目線は下向きに舞い戻ってしまう。

 その様を見ながら正太はラムネを口にした。しゅわしゅわと爆ぜる炭酸が舌を刺し、続いて果糖の甘みが口中に広がる。ともすれば喧嘩し出す二つの感覚を柑橘の風味がまとめあげ、炭酸水はするりと喉を通り抜けた。しかし、好物であるラムネの味も喉越しも無意識のまま正太の脳裏をすり抜けてゆく。代わりに正太の脳内に居座っているのは、下を向いたままちびちびラムネをすする蓮乃の顔立ちについての、益体も無い感想だった。

 

 ――ほんっとにこいつ、顔立ちは整ってんなぁ

 

 母親である睦美の顔を見れば解るように、蓮乃の顔は日本中の同年代と見比べても最上位に入り込めるだけのものを持っている。いつもは元気一杯の百面相に気を取られて、BGMの様に顔立ち自体が強い印象を与えることは少ない。

 しかしこうしてその表情を大人しくさせると、本来の美麗衆目な目鼻立ちが存在感を発揮し出すのだ。そしてその顔は、女性の外観に対する審美眼のない正太から見ても、美を売りにする業界で食っていける水準であった。いや、素のまま生のままそのまんまでこれだけのものを持っているのだ。メイクアーティストやプロ写真家による底上げなしで対等と思えることを鑑みれば、その上を行っていると言えなくもない。

 ある種の公にし難い趣味をお持ちの方なら、この顔を見ただけで涎が止まらなくなるだろう。

 

 そう言えば、と正太はコップをテーブルに戻しつつふと気が付いたことを脳裏に浮かべる。そんな素敵な外観をお持ちの蓮乃に対して、何で俺はあんだけぞんざいに扱えるのだろうか。いやまあ、そこまで無茶なことをしているつもりはないが。というか無礼なことをしているのは主に蓮乃の方だろう。

 口周りに残ったラムネの滴を行儀悪く舐め取りながら、正太は理由を考える。答えはあっさりと出た。

 

 慣れだ。

 

 「美人は三日、ブスは三年で慣れる」というが、蓮乃と顔を付き合わせるようになってからゆうに三日以上が経過している。顔立ちにショックとインパクトを受ける時期は等の昔に過ぎていた。

 ただ、「三日たっても美人は美人、三年たってもブスはブス」であり、蓮乃の顔立ちが整っていることを否定するつもりはないが。それと、先に考えていたように、蓮乃の場合顔立ちよりも表情のインパクトの方が強い。だから外観を気にしないで対応できるのだ。少なくとも自分としてはそう考えられる。

 しかしながら、その性格だからモデル業やアイドル業で食っていくのは非常に難しいと言えるだろう。なにせ自分の浅薄な知識によれば芸能業界とは「阿片窟と魔窟を足して倍にした所」であり、「ドブの汚泥を排泄物で煮詰めて汚染物質を隠し味に入れた多粘性の何か」が満ち溢れているのだ。このお気楽極楽道楽娘が、その業界の闇を泳ぎきるのはほぼ確実に不可能だろう。

 

 業界の人が聞けば整形が必要なレベルまで殴りつけられそうな、非常に偏った考えのもと正太は思考を進める。燃費の悪い脳味噌に燃料の糖分を注ぐべく、正太はもう一口がぶりとラムネをあおる。残りコップ一/三程度のラムネはあっと言う間に食道を通り抜け、空のコップがテーブルの上に戻った。そして空っぽになったコップに、正太は音を立ててラムネを注ぐ。膨れ上がった真っ白い泡が表面張力と一瞬の綱引きの後、コップの中にすごすごと引き下がった。

 ちらりと蓮乃に目をやると、さっきよりも勢いよくラムネを口の中に注いでいる。甘いものを飲んで幾らか気分も回復したようだ。ありがたいことである。ただ、こちらが目を向けていることに気が付くとあっと言う間に、元の下向きに戻るのは少々閉口する。

 

 顔を戻した拍子に、重力を忘れたように長い黒髪がふわりと舞った。烏の濡れ羽色の髪が、紗(うすぎぬ)の如くに顔を覆う。天井からの有機EL灯が髪を照らして、テーブルには半透明の影が映っている。それを見て正太の取り留めのない思考が、締め損ねた半端な蛇口のようにだらだらと流れ落ちる。

 そう言えば清子の奴が蓮乃の髪をいじりながら「反則だ」とぼやいていた。「風に乗るくらい柔らかくて軽いのに、首の一振りで寝癖が取れるくらいしなやかで、そのくせ腰があるなんて卑怯」なんて言ってたか。

 我らが母から自分たちは天然パーマのくせっ毛を受け継いでいるが、女子である清子にはそれが悩みの種らしい。だから蓮乃の髪をいじくりながら、羨ましさと妬ましさをやり切れなさでくるんだような顔をしていることが時々あった。

 その点、男子は楽だ。スポーツ刈りにすれば、くせっ毛だろうが天然パーマだろうが何の関係もなくなるのだから。それに父の頭部をみるに短くしておいて損はない。遺伝子がその実力を発揮すれば、丸刈りか坊主頭以外の選択肢を失ってしまうのだから。

 

 下らないことを考えながら、さらに正太はコップの中のラムネをあける。気がつけばラムネはコップの半分を下回っていた。正太は飲んだラムネを補充すべく瓶を傾けるが、注ぎ口からわずかに滴るだけだった。ラムネは瓶一本で三〇〇ml程度。二人で飲めばあっと言う間に空っぽだ。

 口の中で小さく舌打ちすると正太はソファーから立ち上がった。まだなんか飲み物残ってただろうか。それにラムネばかり飲んでると口の中が甘ったるくなってくる。いい加減塩っ辛いものもほしい。それとなんか食わせれば蓮乃の機嫌ももう少しましになるだろう。

 

 ラムネ以上に甘い希望的観測を前提に、残り少なくなったラムネをくぴくぴと飲む蓮乃を置いて、正太は居間と直結している台所へと歩きだした。そして、空っぽになったラムネ瓶を蓋とビー玉と瓶本体に分解して流しに放り込むと、飲み物とおやつを求めてお菓子置き場にしている開きをのぞき込む。その視線の先には「なにもない」という事実だけがあった。

 形而上学的な「不在の存在」についての思索はさておき、思い返せば先日蓮乃に宇城家のお菓子を半分以上食いつくされてから、補充をまともにしていない。その状態で蓮乃が遊びに来る度にお菓子を毎度出していたのだ。それでお菓子が残ってる方がおかしい。空虚な空間を眺めながら、正太は一つため息を吐いた。最近、ずいぶんとため息が増えた。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 いつもの口癖をぼやき顎に手を当てて、おやつの不在という現実について正太は苦い表情を浮かべた。これが母か妹ならば上新粉やらデンプン粉やらからぱぱっと素甘の一つくらい作って見せるのだろうが、生憎自分は食う専門で「料理のさしすせそ」もまともに知らぬど素人だ。塩と醤油のどっちが「し」だ? 「せ」は背油だっけ?

 さらにお菓子づくりが趣味の妹が言うには「お菓子づくりは化学実験の一種」とのことだ。曰く「正確な計量と正確な時間、正しい温度に正しい手順が必須」とのことである。となれば、「目分量」「勘」「大ざっぱ」「適当」「バカ舌」のロイヤルストレートフラッシュをキメた自分が手を出すのは不可能に等しい。下手をすれば台所で大惨事を起こしておいて、焦げた砂糖ができあがりました、なんて落ちが待っていたとしてもおかしくない。

 

 してどうしたものか。空っぽの開きを前に、和式便器で踏ん張る体勢の正太は、首を捻ってアイディアを捻りだそうとする。だが便秘一週間目の朝の如く、腹の底からはなにも出てくる様子はない。ホットケーキミックスや懐中汁粉でもあれば自分でも何とかできなくもないが、そんな都合のいいものは我が家にはない。強いて言うならば非常用の持ち出し袋に保存食が入っているが、それを日常のおやつに使ったら両親からの非情なるお仕置きが待っているのは確実だ。

 何とかして何とかしようと、正太は首ならず上半身まで捻り出す。やっぱり現状突破の発想が出てくる気配はない。体を捻りすぎたせいで片足が浮き上がり、四股を踏む姿勢へと変化する。その拍子にバランスを崩したのか台所の床に転がると、シンクの下に頭をぶつけた。勢いが無いからさほどでもないが、少々痛い。

 

 もうこうなったらしょうがない、無いものは無いのだ。正太は体勢を仰向けに変えると、天井の有機EL灯を見ながら結論づけた。頭を捻ってなんにも出てこない以上、いい加減諦めるしかあるまい。都合のいい解決策が、窓の向こうから飛んでくるわけでもないのだから。蓮乃にはお菓子がないことを話して、粉飴たっぷり入れて甘くした豆乳で我慢してもらうか。

 お菓子の不在に一応の決着をつけた正太は腹筋の力で上体を起こすと、フローリングに手を突いて立ち上がった。そしてそのまま粉飴の瓶を手にとって、豆乳を出すべく冷蔵庫の取っ手に手をかけた。その時だった。

 

 「たっだいま~~~」

 

 さほど長くない正太の人生の内、六/七ほど聞き覚えのある声が聞こえてきた。どうやら、都合のいい解決策は飛んでこなかったが、歩いて帰宅してきたらしい。さてさて、「噂をすれば影が差す」というが、頭に浮かべていただけでそいつが来た場合は何というのだろうか。

 どうにも都合がいいタイミングに苦笑しながら、正太は妹である”宇城清子”へ挨拶を返した。

 

 「あーーー、おかえんなさい」

 

 

 

 

 

 

 荷物をおいて居間にやってきた清子は、静かに周囲を見渡した。清子の目に見えるのは、テレビ横のソファーに向かいで座った正太と蓮乃の姿だ。正太はどこか憮然としたような表情で空のテーブルに頬杖を付き、所在なさげな様子の蓮乃は豆乳を舐めるように飲んでいる。清子の姿に気がついたのか、何か安堵したような様子の正太は「おかえり」と軽く手をあげて帰宅の挨拶を返した。一方の蓮乃はというと、ちらりと清子に目を向けると「んっ」と小さく返事をしただけで、下を向いて豆乳を飲む作業に戻ってしまう。

 二人の様子を見た清子は何か考え込むように目を細めて口を手で覆った。それから三〇秒ほど経って、考えのまとまった様子の清子は口を開いた。

 

 「つまり、蓮乃ちゃんが落ち込んでるのでお菓子を上げたいけれどお菓子がないと」

 

 開口一番状況を把握しきった清子の台詞に、正太は目を丸くした。

 

 「オイ、俺まだ何も言ってねぇぞ」

 

 「周り見ればだいたい解るよ」

 

 何でもないことのように清子はさらりと答える。ただ、正太は気づかないが清子の口元に、自慢げな笑みがほんのわずかだが浮かんでいる。

 

 先ほど居間にやってきたばかりの清子が周囲を見渡して気付いたのは、

 一.いつも元気が溢れている蓮乃ちゃんが妙に大人しい

 二.兄と蓮乃ちゃんの二人がお菓子を食べずにジュースばかり舐めている

 三.ここ数日お菓子をよく食べたが補充した覚えがない、の三点だ。

 

 蓮乃ちゃんと出会った初日にすごく落ち込んでいたことがあったので、そのときの様子から一.は「何かあって気分を落とした」状態であると想像できる。そして、その時に兄は「お菓子とジュースで」蓮乃ちゃんのご機嫌をとったので、今回も同じようにするだろうと予想できた。なのに二.の事実があるわけで、それに三.を加えれば現在の状態を推察するのはさほど難しくないのだ。

 

 「まぁ判ってるんなら話が早いや。ちょっとなんかお菓子作ってくれないか?」

 

 首を何度も縦に動かし一頻り感心した様子を見せた正太は、まるで「ちょっと近くのスーパーに買い物に行ってくれないか」とでも言うように清子にお菓子作りを依頼した。清子はお菓子作りを趣味としているわけで、簡単なものならば、一時間少々もあれば作るのは難しくないだろう。

 

 「あのさ、お菓子作るのだって相応の時間と手間がかかるんだけど。それとも何? 兄ちゃんがスーパーでお菓子買ってくるのは、そんなに難しくて大変なことなの?」

 

 しかし正太の気軽な言葉を聞いた瞬間、清子の視線は冬の雨のようなじっとりと冷たい色彩を帯びた。この世には質量保存の法則があり、魔法でも使わない限りポケットを叩いたところでビスケットは増えたりしない。増やしたければ必要な材料を持ってきてもう一枚焼き上げる必要があるが、当然それには相応のコストがかかる。それにもかかわらず気安く頼んでしまったおかげで、清子内の正太への評価は、紐無しバンジーよろしく急降下真っ最中であった。

 

 「いや、そーいう訳じゃなくてさ」

 

 色々鈍い正太といえどもさすがに清子の機嫌がフリーフォールしているのに気が付いたのか、言い訳る様に両手を付きだし反論を試みた。

 

 「おあしがないのは言い訳にならないよ」

 

 清子は最近の正太の懐がずいぶんと涼しいことを知っていた。確かに自宅にある材料で家族の一員である自分がお菓子を作るならば、「兄にかかる」コストはほぼゼロとなるだろう。だが先ほど口にしたように、お菓子作りをする自分は時間と手間をそれなりにかけなければならない。その分の労働コストは一体どこの誰が払ってくれるのだろうか。目の前にいる兄か?

 

 「……それもあるけどそれだけじゃない」

 

 冷たいジト目で睨む清子の発言を認めつつも、正太は反論を続けた。自分の財布の中身がうら寂しいのは清子の言うとおり事実だ。しかし、お菓子が要るのは蓮乃の落ち込みっぷりを何とかするためである。あわよくばと思わなかったと言えば嘘になるが、ちゃんとした理由もほかにあるのだ。

 

 「お菓子づくりの手伝いをさ、蓮乃にやらせてくれないか?」

 

 正太が発した予想外の言葉に清子は目を丸くする。下手な考えなら門前払いのつもりだったが、以外や以外に結構いけるかもしれない。清子の中で急降下爆撃している正太の評価がわずかに機首をあげた。

 

 「蓮乃ちゃんに?」

 

 「そうだ。おやつ食わせるのも効果がないわけじゃないと思うけど、そっちの方が気分転換になるだろうと思う」

 

 真剣な表情で正太は詳細を話す。思いがけなかった正太の真っ当な考えに、清子は顎の下に手を当てて考え込む姿勢に入った。

 確かに単にお菓子を食べさせるよりも、ご機嫌回復の効果がありそうだ。受動的にぼんやりと甘いものを口にするよりも、能動的に手を動かして作業する方が気が紛れるだろう。それに自分で作ったお菓子ならば喜びもひとしおだ。事実、自分はそれが好きでお菓子作りをやっているのだから。

 

 「なら、いいかな」

 

 納得した清子は正太のアイディアに頷いた。

 

 「でも、働かざるもの食うべからず。兄ちゃんも手伝ってよ」

 

 「え」



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第五話、三人でお菓子づくりの話(その三)

 「さて」と口の中で小さく呟くと、割烹着に着替え書く物も書いた清子は後ろを振り返った。視界の先には、自分も手伝うことになんだか納得していないような顔の正太と、いつもの元気花丸一〇〇点満点とはいかないものの八〇点の及第点くらいには機嫌を回復させた蓮乃の姿が見える。

 居間の真ん中の正太は似合わないエプロンをかけて、隣の蓮乃は清子同様に割烹着姿だ。但し、二人とも微妙にサイズが合っていない。

 

 まず正太のエプロンは小学校の家庭科で作ったものだから、左右に腹がはみ出てしまっている。正太は「成長期(故にまだ身長は伸びると言い張っている)だからしょうがない」と言い訳るだろうが、清子から言わせれば単なる食いすぎ太りすぎである。

 一方の蓮乃はというと、正太とは真逆で割烹着が大きすぎる。何せ貸したのが母の割烹着のため、裾を床に引きずりかけている有様だ。手首を隠していた袖口は、清子が二の腕まで腕捲りして固定してあげたので、調理に支障はでないはずである。

 

 こんなんで大丈夫かなと心中に不安が顔をもたげてくるが、だからこそ蓮乃用にしっかりと作り方のメモも書いたのだと、清子は自分を納得させる。蓮乃ちゃんは色々と幼い部分があるが、基本的に「言えば判ってくれる」物分かりのいい子だ。説明さえ間違えなければ心配ないだろう。兄はその都度突っ込みを入れればいい。何か間違えたのならちゃんと言ってくる。

 それに、二人とも初心者だから作るのが簡単な「ビスケット」にしたのだ。「化学実験の産物」と言われる西洋菓子の中でもビスケットはことさら簡単でかつ失敗しにくく、初めての菓子作りには非常に適している。さらに言うならば、魔法発現による混乱後に値上がりしたままの海外産原材料なしでも、それなり以上の物ができるためお財布にもとても優しい。

 

 「説明するから二人とも集まって」

 

 いろいろと書き込んだメモを掴んで台所へと進みながら、清子は二人に呼びかける。だが言葉を聞き取ることのできない蓮乃は、清子の呼びかけに不可思議そうな顔をするばかり。なので苦笑を浮かべた正太は、清子の言葉を書き込んだメモをキョトンとした表情の蓮乃に見せた。ポンと手を叩き、ようやく理解の色を見せた蓮乃は、割烹着の端を両手に持って正太共々清子の後を追った。

 

 宇城家の台所は二列型のシステムキッチンで、そう大きいものではない。片列が「冷蔵庫」「コンロ」「水道とシンク」これだけで埋まってしまう程度だ。逆側は食器棚を筆頭とする収納スペースで全て埋まっている。

 もっとも、狭い狭いというが一人で料理する分にはさほど問題はない。それに居間とつながっているので配膳が楽というメリットもある。時に清子が手伝いをすることもあるが、基本的に宇城兄妹の母が一人で使っている台所だ。それに併せて必要な物は置かれているから、大きく移動することなく料理に必要な作業のできる、適当な大きさといえるだろう。そう、一人で作業するならば。

 

 問題は清子、正太、蓮乃の「三人」が台所にいると言うことだ。台所に三人が集まるとさすがに狭い。先に書いたように、宇城家では基本的に台所は一人で使っている。三人もの人間が集まることはほぼない。その上、正太と清子はその母から平均より広い横幅を受け継いでいる。こうなれば絶対的に細い蓮乃ですら、かなりの圧迫感を感じざるを得ない。

 

 「やっぱ三人でやると無理あるな。よし、ここは俺が引こう!」

 

 一番最後に台所に入った正太は、押しつけがましく居間でグータラしてテレビ見る言い訳を口にした。発案者のくせにやる気のない正太の妄想(≠構想)では、お菓子作りに興じる清子と蓮乃を横目に眺めながら豆乳をすすって小説を読んでいる予定であった。

 

 「言い訳はいいから手伝って」

 

 しかし、年齢と同じだけ兄の様を見てきた清子がそんな怠惰を許すはずもなく、先手を打たれて正太は不承不承手伝いをすることとなったのだ。故に清子がそんな稚拙な言い訳を許すはずもない。台所の奥に陣取る清子に間髪入れずに返されて、冷蔵庫の前で正太は静かにうなだれた。

 

 「じゃ、説明するから蓮乃ちゃんにこのメモ読ませてあげて」

 

 清子は、蓮乃への説明用にメモを使い、正太へは口頭で説明するつもりである。蓮乃の頭上を通すように清子が差し出したメモを、正太はうなだれたまま受け取ると、蓮乃が見やすいようにコンロの狭いスペースに置く。それを身を乗り出して蓮乃が読む。その左横から正太もまたメモをのぞき込んだ。その様子を確認した清子は正太向けの説明を始めるべく口を開いた。当然ではあるが、口にする説明はメモに書かれたそれと違いはない。

 

 「ビスケットの材料は

 ・デンプン粉(合成グルテン添加)

 ・合成卵液

 ・ショートニング(植物油脂)

 ・粉末水飴

 の四つね」

 

 本来のレシピなら、デンプン粉ではなく小麦粉、合成卵液ではなく鶏卵、ショートニングではなくバター、粉飴ではなく砂糖を使う。しかしそれらは海外輸入品でも国産品でも決して安くはない。それにビスケットはこれでも問題がない。元々が非常にシンプルなお菓子であるため、多少のアレンジでもたやすく受け入れる度量があるのだ。

 

 「作り方は簡単。

 その一.粉を全て篩にかける

 その二.材料をボウルに入れる

 その三.粘土みたいにまとまるまでこねる

 その四.三〇分冷蔵庫で寝かす

 その五.薄くのばして型を抜く

 その六.一時間寝かす

 その七.一七〇℃に余熱しておいたオーブンに入れる

 その八.一三分焼き上げる

 これで出来上がり」

 

 正太と蓮乃というお菓子作り初心者がいるため、清子はレシピを意図的に細かく説明した。が、実際のところ話した内容を圧縮すれば「材料をこねて成形、適当に寝かしてオーブンで焼く」だけですむ。このビスケット作りで失敗するには、不器用さなどとは違うまた別の能力が必要だろう。

 清子の説明を聞き終えた正太は、蓮乃の方へと目を向けた。視線の先の蓮乃は、頭の中に焼き付けるようにじぃっと説明のかかれたメモを見つめている。見た限りは大丈夫そうだ。が、自分もこいつもお菓子作りは素人だ。確認は必要だろう。

 正太は蓮乃の肩をちょいちょいとつつくと、蓮乃の読むメモの端にペンで付け加えた。

 

 『一応確認するぞ。指でなぞった所を読み終えたら、頷いてくれ』

 

 蓮乃の頭上から弧を描くように腕を突き出すと、正太は一文を指でなぞる。正太の指に遅れて蓮乃の視線が文字を追った。なぞり終えた正太は蓮乃の顔を見る。蓮乃は「解った」と言うように、小さく首を縦に振って答えた。二人はこれを全文にわたって繰り返す。

 正太は「作り方その五」をなぞりながら小さく息を吐いた。思っていたより面倒だ。しかし必要なことである。いくら作り方が簡単とはいえ、やり方を理解せずに始めれば高い確率で失敗する。ましてや自分はお菓子づくりは初めてだ。小さな山であったとしても、初めての登山でルートを調べず勝手気ままに進めば、確実に遭難するだろう。

 それに蓮乃も初めてなのだ。だったら成功させてやりたいと思うのが人情というも。なら、ちょっとの苦労くらいは我慢すべきだろう。

 

 ようやく確認を終えた正太は、最後に蓮乃に向けて一文を追加する。その『解ったか?』の文字を見た蓮乃は、「ん!」と言葉になっていないが明確な返答を返した。それを聞いた清子は一つ頷くと、手を叩いてお菓子作り開始を告げた。パンッと軽い音が周囲に響いた。

 

 「じゃあ、始めよっか。蓮乃ちゃんは器出して。兄ちゃんは下からボウルと電子秤をお願い。私は材料出すから」

 

 「んっ!」

 

 「おう」

 

 返事も軽く、清子の指示の通りに二人が動き出した。もちろん、蓮乃には正太が文字に起こした指示を見せている。

 正太はシンク向かいの床近い開き戸から、ボウルを出そうとしている。が、お目当てのガラスボウルが見あたらない。眉根を寄せて首をひねるが、端から端を見ても目にはいるのは鍋とフライパンだけ。記憶が確かなら…………いや、記憶は確かじゃない。

 正太は自分の脳内フォルダを漁るが、出てくるのはピントが外れてぼやけた記憶ばかり。どうやら忘れてしまったらしい。しゃがみ込んだままの正太は、顎に手を当て逆向きに首をひねった。さてどーしたもんか。

 

 一方、蓮乃は小走りでコンロと反対側の食器棚へと駆け寄ると、開き戸を勢いよく開けはなった。蝶番が悲鳴をあげて、開き戸自体からも衝突音が響く。収納の寿命が縮まりそうな音を耳にして、冷蔵庫から卵パックを出していた清子は思わず声を上げていた。

 

 「蓮乃ちゃん、もっと優しく!」

 

 言われた内容は解らずとも、さすがに何をして言われたのかは理解できる。ビクリと震えた蓮乃は叱られた犬の顔で縮こまって、そっと壊れ物を扱うように開き戸を閉めた。その様子を横目で見ていた正太は「そうじゃないだろ」と口の中で呟いた。蓮乃の様子を見るに「開き戸を開けて怒られた」としか理解していないんじゃなかろうか。こりゃフォローも必要かな。正太は頭を掻くと、ボウル探しをいったん諦めて食器棚の方へと足を向けた。

 開き戸を閉めた蓮乃は、その前で呆けたようにじっとしている。開き戸を開けて怒られたのだから開けてはいけない。しかし、開き戸を開けなければ食器は取り出せない。

 

 矛盾のジレンマに蓮乃の脳内で食器棚がぐるぐる大回転だ。そんなネズミ車よろしく空転している蓮乃の目の前に、中腰の正太はメモをぶら下げた。さらにピラピラとメモをはためかせて、その文字に注目させる。

 

 『開き戸は静かに開けるべし』

 

 蓮乃の瞳が広がって目の前のメモにピントがあった。文を目にした蓮乃は小さく首を縦に振る。そして開き戸の取っ手に手をかけると、恐る恐る開き戸を開いていく。ちらりと清子に目をやると、答えるように清子もまた首肯した。どうやらそれでいいらしい。ほっと小さく安堵の息をもらすと、蓮乃は開いた食器棚から四杯の器を取り出した。小分け用のボウル代わりだ。

 蓮乃の表情を見てもう大丈夫かとあたりをつけた正太は、腰の後ろに手を当てて背筋をのばす様に上体を持ち上げる。その拍子にショートニングのカップや紙製の卵パックを用意している清子と目があった。清子は苦笑と申し訳なさを足した表情で、合掌ならぬ片掌をして正太のフォローに礼を示した。

 

 「礼はいいけどボウルどこか知らない?」

 

 蓮乃のフォローがうまくいった以上、現在正太に必要なことはそっちである。結局、床近くの開きにはボウルの姿がなかったのだ。正太の不確かな記憶によれば、少なくともボウルを処分したことはないはずだ。なら当然どこかにあるはずで、宇城家でそれを知っている可能性があるのは、毎日料理をしている宇城兄妹の母と、お菓子作りで少なからず台所に立った経験のある清子であった。

 

 「食器棚の下の開きにあるよ」

 

 そして正太の想像通りにボウルの在処を知っていた清子は、あっさりとボウルの所在地を答えた。

 言われてようやく正太の脳内フォルダからお目当ての記憶が浮かび上がる。今更すぎるが大抵はこんな物だ。無くした物は代わりを買った後に見つかって、勉強したときに限って小テストの問題は簡単なのだ。つまりは「マーフィーさんの言うとおり」という事だ。清子に礼を言う正太の顔に、しかめっ面のような疲れたような表情が浮ぶ。

 しかしまあ、それが人生というものなのだろう。思春期真っ盛りのくせに悟った振りの思考を浮かべ、正太は食器棚から器を取り出す蓮乃が退くのを待つことにした。

 

 

 

 

 

 

 ――私と兄ちゃんと蓮乃ちゃんの三人分だから、全部一.五倍でいいかな。あっと、兄ちゃん甘くないの好きだから、粉飴五〇gぐらいに減らしたほうが良いかも。でも蓮乃ちゃんは甘いの好きみたいだし、どうだろう?

 

 色々なことを同時並列で考えながら、清子はコンロとシンクの間に置かれた電子秤の上に一匙、また一匙とデンプン粉を盛ってゆく。薄っすらと黄色い薄紙の上に真っ白なデンプン粉が山を作り、それにあわせて電子秤の小さな電子ペーパー画面がくるくると数字を変えてゆく。シンク横の電子秤の上に必要な量を盛り、画面が求める数を示した所で清子はデンプン粉の入った瓶のふたを締めた。

 デンプン粉は元々吸水性がありその上粒子が細かいので、放っておくと空気中の水分を吸収してネトネトの固まりになってしまう。一応、瓶の中に多孔質吸湿材を入れているが気休め程度だ。パウダーソルトやパウダーシュガーと違い、加熱して水分をとることができない以上、一番いいのはとにかく外気に触れさせないことだ。

 薄紙の両端を摘んで、デンプン粉の小さな山をこぼさないように器へと注ぐ。音にならないような小さな音とともに、デンプン粉は蓮乃が出してくれた小さめの器に収まった。これで一通り材料は用意できたはずと、清子は材料を収めた器を指折り数える。

 

 お菓子作りは一人なら一人なりに気楽ではあるが、みんなでやるなら人数分楽しく感じるものだ。でもそれだけに、全員が気分良く楽しめるようにしなければ、下手したら人数分苦痛が増してしまう。

 そう考えるとさっきの自分の行動はあまりよいものとはいえないだろう。思わずといえど少々声を荒げてしまった。兄のフォローで事なきを得たと言え、大声を上げる必要はなかった。蓮乃ちゃんは言えばちゃんと理解してくれる子なのだ。気をつけなきゃいけない。器用にも表情にも出さずに清子は内心で反省と落ち込みを済ませる。

 

 「デンプン粉よし、ショートニングもよし、卵液もよし、粉飴は……あ」

 

 だからだろうか。珍しく、清子は粉飴を忘れるというミスをしていた。蓮乃が出してくれた四つの器のうち、薄緑で唐草模様の器だけが空のままだった。「あちゃぁ」と情けない声を上げた清子は、額に手を当てて渋面を作った。関係ないこと考えてポカミスするとは、自分でも少々恥ずかしい。

 

 「そこの瓶から粉飴とってくれない?」

 

 清子は冷蔵庫横で手持ち無沙汰にしている二人へ呼びかけて、コンロ脇に三つ並んだ瓶を指さす。冷蔵庫とコンロの境にある瓶は、全部真っ白い粉末で満ちていて傍目からは違いが見えない。扱いに慣れた清子だけが、左から順に「デンプン粉」「粉末食塩」「粉飴」であることを知っている。

 清子の声を聞いた蓮乃は、隣の正太を促すようにじぃっと見つめた。「前の一件」も相まって、正太は他人の考えを推し量るのは大の苦手だ。それでも、ここ暫く顔面を付き合わせている娘っ子を推察することは、不完全ながらも不可能ではなかったようで、正太はペンを手に取った。

 

 『コンロ脇の瓶から粉飴とってくれとさ』

 

 「んっ!」

 

 正太に書いてもらったメモをみて、腕を降り上げて蓮乃は元気よく答える。三人もいると実に狭い台所の中で、思い切り降り上げられた腕に正太が迷惑そうな顔をする。だが、気づいた様子もない蓮乃はお構いなしに「真ん中の瓶」を手に取った。

 

 「なっ!」

 

 そのまま蓮乃は得意げな表情で清子に瓶を手渡す。小鼻がぷっくり膨らんで、実に分かりやすいドヤ顔だ。

 清子は礼を言う代わりに、笑顔で頷いて瓶を受け取った。後は必要な分を電子量りで計量し、唐草文様の器に入れるだけだ。これくらいなら蓮乃ちゃんにやらせてもいいかもしれない。

 

 「蓮乃ちゃんに粉飴の計量やってもらうから、翻訳お願いできる?」

 

 清子からの呼びかけを聞いた正太は、冷蔵庫に貼られたチラシを眺める作業を止めて「わかった」と答えると、メモにペンを走らせた。そして必要な文を書き終えた正太は、蓮乃の肩をちょいちょいとつついた。清子に材料を渡した後、器に入った材料の見物にふけっていた蓮乃は、反っくり返るように振り返る。

 

 『粉飴五〇gを計ってくれ』

 

 「まっ!」

 

 上下逆の視界の中、目の前に突きつけられたメモに当然の顔で蓮乃は大きく頷いた。それを見た清子は小さく笑いをこぼすと、木製のスプーンを瓶と一緒に手渡し、シンク横のスペースを空けた。

 蓋を開けた瓶からスプーンで白い粉を掬い、シンク横のスペースに置かれた電子秤の上に落とす。当然その上には薄紙が乗せてあり、真っ白な粉末が小さな山を作っている。ただ、お菓子作りに慣れた清子と違い経験のない蓮乃は、多少ではあるが薄紙からはみ出して電子秤の周りに白い粉をこぼしてしまっていた。よく見れば薄紙の上の小山もずいぶんといびつな形をしている。

 

 「む~」

 

 清子の作業のようにうまくは行かず、蓮乃は唇を尖らせて不満を露わにする。ついでに頬もまるまる膨らませた蓮乃の顔を見ながら、清子は苦笑を顔に浮かべた。

 結局の所、こう言ったものは慣れなのだ。才能ある人ならばものの数回でコツを掴んでしまうだろうが、自分のようにそうでないなら数をこなして慣れるほかに道はない。それに初めての一回目から完璧にこなせてしまうなら、今の今まで何回となく失敗してきた自分の立つ瀬がなくなってしまうだろう。それは困る、実に困る。

 

 そうこうしている内に、蓮乃がそろりそろりと薄紙をつまみ上げて器の上にもってきていた。どうやら清子が考え事をしている間に蓮乃は必要量を計り終えたようだ。

 そのまま粉を落とさないように慎重に薄紙を傾けると、さらさらと聞こえないほど小さい音をたてながら、粉末が唐草模様の器へと流れ落ちてゆく。薄紙の上からから器の中へと粉の小山が移った。今度はこぼさずにできたようで、得意げな笑顔がほころんだ表情に浮かんだ。

 

 「むふ~」

 

 鼻息も荒く自慢げな顔で蓮乃は清子を見つめる。その顔から言外に要求を察した清子は、笑みを浮かべて頷くと髪を梳くようにして優しく蓮乃の頭をなでた。

 自慢げにきりっとした表情が途端に緩み、「にへ~」とでも聞こえてきそうな蕩けた笑みに崩れ落ちた。まるで、「飼い主に誉められた柴の子犬が、ちぎれんばかりに尾を振ってる」様そのものだ。蓮乃の背後でバタバタと振り回されてる丸まった尻尾が目に見える。存在しないはずのものを幻視した清子はくすくすと笑いをこぼすと、もう少し強めに蓮乃の頭をなで回した。蓮乃の笑みが目に見えて深まり、表情はトースト上のマーガリンより溶けている。

 そんな春の日溜まりのような幸福そのものの光景に、茶々を入れる無粋物が一人。ただ一人蚊帳の外で眺めていた正太が実にイヤミな表情を浮かべて、からかうように冷やかしを投げかけた。

 

 「へぃ、清子さん。お菓子は作らなくていいんですかい?」

 

 恥ずかしい所を見られた照れが半分、いい所を邪魔された不満が半分の憮然とした表情を清子は浮かべた。

 

 「いいじゃない、ちょっとくらい。それに兄ちゃん、いきなりなに?」

 

 「なに、いつもの仕返しでございます」

 

 清子からの文句混じりの質問を、正太は間髪入れずに弾丸ライナーで打ち返した。毎度、毎度、いじり倒され小馬鹿にされている正太も、たまには反撃の一発くらいお見舞いしてみせることだってある。

 

 「へぇ、よく言うネェ。ノリノリで特撮の主役を声上げて応援していた兄ちゃんは、ほんと言うことが違うんだネェ」

 

 しかしながら勇気を出して虎の尾を踏みつけたところで、正太が成れるのは勇者ではなく虎の晩飯がせいぜいなのだが。当然ながら「口」撃力は清子の方が遙か高みにいるわけであり、反撃のクロスカウンターでノックダウン寸前だ。

 

 「オ、オイ! それは反則だぞ!」

 

 清子からの舌鋒鋭い一撃で、余裕ぶっていた正太はあっさりと馬脚を現した。わたわたと慌てふためく姿には、さっきのような大物を装った平静さはどこにもない。所詮、ルール無用何でもありの論戦を、女子相手にやろうということが無謀にすぎる。そもそも口べたでコミュ障気味な正太が、女子グループ内の潤滑材をやってのけている清子に口げんかで勝てる要素などほとんどないのだ。

 

 一方、ただ一人話題から取り残されている蓮乃はというと、おたおたと情けなくうろたえている正太をじっとりとした細目で見つめていた。何せ、蓮乃は二人のおしゃべりを聞き取ることができない。その上、気持ちよく撫でられていたのに急に蚊帳の外に追い出されたおかげで、その整った顔にはでかでかと「不機嫌です」と刻まれている。蓮乃にとって気に入らないことは多々あるが、その中で一番を挙げるのならば「放って置かれる」ことに他ならない。

 だから「ぬ~」と口から不満を垂れているものの、正太からの反応はなかった。さらに不機嫌の文字を深める蓮乃は、いい加減業を煮やしたのか狼狽に手一杯な正太の袖を引っ張った。袖をグイグイと引っ張られてようやく蓮乃の存在を思い出した正太の眼前に、蓮乃からの質問が突きつけられる。

 

 『兄ちゃんは姉ちゃんとなに話してたの?』

 

 『蓮乃、人には誰しも一つや二つ聞かれたくないことがあるんだ。だから聞くな』

 

 正太は突きつけられたノートの一文に拒否の一文を蓮乃へと突き返した。その顔は「渋柿と青汁のカクテルをジョッキで一気飲みさせられた」有様だ。「知る権利」があるというなら「知られ(たく)ない権利」があったっていいじゃないか。いい年(一四歳)の自分がノリノリで装甲ライダーの主人公を応援していたことなど、他人様に知られたいことではない。嘲われるのも馬鹿にされるのも御免被りたいし、清子みたいにイジリのネタにされるのもノーサンキューだ。

 

 「ぬ~~む~」

 

 そんな正太の無駄に力のこもった拒絶に、蓮乃は眉根を寄せてぶーたれる。知りたいから聞いたのだ。返答を拒まれてうれしいはずがない。口からは不満と不機嫌を表明する音が漏れだしている。

 

 そして二人を岡目八目と横合いからのぞいていた清子は、あまりの馬鹿馬鹿しいやりとりにけらけらと声を上げて笑いだした。まるでコントか小芝居だ。しかも厳めしくも情けない顔の正太と可愛らしくも不満げな表情の蓮乃が、実に好対象をしている。これは大通りでうまいことやれば、お捻りを少々頂けるかもしれない。もっとも、許可なしで大道芸をしてしまうと官憲に肩を叩かれて、お捻りよりも高い罰金を支払う羽目になりかねないのだが。

 笑い転げる清子とぶすくれてしかめっ面を浮かべる蓮乃の二人を眺めて、結局俺はイジられ役かと正太は深いため息をついたのだった。



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第五話、三人でお菓子づくりの話(その四)

 必要量を計り終えた材料は粉物を篩にかけてから、全てボウルに投入し粘土状にまとまるまでこねる。最初は黄色い粘液に粉化粧をした外観の混合物も、繰り返しヘラで刷り込むように混ぜ合わせると、綺麗なカスタード色したビスケットの元へと姿を変えていく。そして冷蔵庫で冷やし固めた後は、平たく伸ばして好きな形に型をぬき、もっぺん冷やしてオーブンシートを上に敷いたバットに並べる。あとは一七〇℃に暖めておいたオーブンへ。

 

 お菓子作りは順調に行程を消化してゆく。元々、ビスケット作りは簡単なのだ。そうそう間違えるものではない。

 

 一般家庭にしてはやや大きいコンロ下のオーブンに生地を並べたバットを入れると、清子はタイマーをセットした。これから一三分待てばビスケットは出来上がり。そこからはお楽しみのおやつタイムだ。

 宇城兄妹の母である”宇城昭子”は料理を趣味としており、その関係で業務用一歩手前の大型オーブンが一〇三号室の台所に置かれている。母の影響からかお菓子づくりを趣味とするようになった清子も、このオーブンは大いに活用させてもらっていた。

 程なくしてデンプンと合成卵液の焼ける甘い匂いが台所に立ちこめ始める。お菓子が焼きあがるまでの待ち遠しくも心地いい時間が流れてゆく。三人は素朴で甘やかな香りに表情を崩した。しかしまだやるべきことは残っている。

 二人を正気に戻すべく、清子は両手を打ち合わせ呼びかけた。

 

 「じゃ、兄ちゃん、蓮乃ちゃん。後かたづけ始めようか」

 

 「えー、『後』かたづけだし後にしようぜ」

 

 清子の宣言を聞いた正太は、驚きと面倒くささを足して二で割ったしかめ顔に変えた。今いい気分なんだから後回しにしてくれと言外に含ませて文句を付ける。が、清子はにべもなく正論で切り捨てた。

 

 「面倒だからって言い訳しないで。早めにやっといた方が汚れもよく落ちるし、面倒も少ないよ。それにお菓子食べていい気分な所で『さてやろう』って気分になる?」

 

 清子の正論に容赦の二文字はない。反論の言葉を失った正太は、深く嘆息すると首を縦に振った。グウの音もでないくらい正しい。

 

 「それじゃあ始めましょ。粉物入れた器はひとまとめにしていいから、ショートニングや卵液入れた器と分けておいて」

 

 二人へ指示を出した清子は、話は終わりと腕まくりをして、洗い物を始めるためにシンクへ向かう。その横で仏頂面で答えた正太は、蓮乃に清子からの指示を書いて見せていた。メモに書かれた文字を視線で追いながら、蓮乃はふんふんと鼻息荒く何度も頷いてみせる。

 文句たらたらな正太とは正反対に蓮乃はずいぶんとやる気満々なご様子だ。二人ともお菓子作りをするのは初めてだが、今まで何度となく清子がお菓子作りをするのを見てきた正太とは異なり、蓮乃は見るのもやるのも未経験だ。例えそれが面倒くさい洗い物であろうとも、それが新しい経験である蓮乃にとっては、新鮮で興味をそそる仕事に他ならない。

 

 正太がメモの最後に確認の一文を記し、それに蓮乃が首肯で答えた。それを確認した正太は、メモをポケットに突っ込んで一番大きなボウルを手に取った。仮にもこの面子の中で唯一の男手である。ならば一番重く大きいボウルを片づけるのは自分の役割だろう。

 自分はずいぶんな面倒くさがりではあるが、家族である清子に「やれ」と言われた以上、いい加減なことができるはずがない。「前」にあれだけ迷惑をかけておきながら、この後に及んで手を抜くようなら見放されても文句は言えまい。だからやるのだ。

 

 そうして屁理屈をこねくり回して気合いを入れた正太が、油物とボウルをシンクにまとめている間、蓮乃はそれ以外の粉物関係をコンロの隙間に集めていた。デンプン粉を入れた器、粉飴を入れた器、それと電子秤。使った道具を崩れないよう慎重に重ねてゆく。粉だらけの器や薄紙を取り扱ったせいだろうか、気がつけば蓮乃の両手の指は真っ白だ。そんなことは気にせずに蓮乃は重ねた道具をおっかなびっくり持ち上げようとする。

 が、あっさりと油物をシンクに入れ終えた正太に取り上げられた。蓮乃は「やりたかったのに」とぶすくれた顔で文句を訴えるが、正太は意に介さない。何せ、積み上げられた道具はぐらぐらと不安定に揺れ動き、端から見ててえらく危なっかしい。それを洗い物の経験もなさそうな蓮乃が持つのだ。とてもじゃないが放っておく気にはなれない。

 

 器を持っていかれて手持ちぶさたになった蓮乃はコンロに背を預けると、特に考えることなく指に付いた白い粉末を舐めた。正太か清子が見ていたら、しかめっ面か苦笑の顔で「行儀が悪い」とたしなめられることだろう。だが別に構いはしない。私は機嫌が悪いのだ。

 そんな子供らしい身勝手なことを考えつつ蓮乃は指をしゃぶる。しょっぱい。

 

 ――しょっぱい?

 

 蓮乃の口中に広がるのはデンプンの無味や粉飴の甘味ではなく、舌を刺すような塩味だ。今回作ったビスケットの材料は「デンプン粉」「合成卵液」「ショートニング」「粉末水飴」の四つ。当然塩は使っていないし、塩化ナトリウムや塩化カリウムが添加されているものも一つもない。なら、なぜ塩味がする?

 目を丸く見開いた蓮乃は、おそるおそる別の指をなめる。こちらもまた塩味だ。間違いない。だれかが何かを間違えて、塩をビスケットに入れてしまったのだ。そうでもなければ塩味がするはずがない。じゃあ、「誰が」「何を」間違えた? 姉ちゃんか、兄ちゃんか、それとも私か。

 

 ひたすらに思考を空転させる蓮乃は、指を口に入れたまま凍り付いている。その姿は端から見ているとずいぶんと間抜けなものだが、当人にはそんなことを気にしている余裕はない。

 しかし、当たり前だがそんなことをしているなら周りの人間は不審に思うもので、不可解そうに額のしわを増やした正太が蓮乃の形良い顔をのぞき込んだ。考えに考え込んだ蓮乃が正太に気がつく様子はない。眉根の皺を深めた正太は、続けてその眼前で手のひらを振る。

 が、二度三度と上下させるも蓮乃に反応はなかった。苛立ちでしわ山脈が成層圏を突破した正太は、もはや最終手段と蓮乃の肩をつかむ。そしてそのまま激しく前後に動かしだした。古い玩具のアメリカンクラッカーのように、一拍遅れて蓮乃の頭がガクガクと前後する。

 

 「うなぁ!」

 

 さすがに蓮乃もいい加減気がついたらしく、衝撃に目を丸くして正太の手をはねのけた。蓮乃としては重要なことを考え込んでいたところに妙なことをされたという認識な訳で、当然正太を見つめるその表情は険しい。

 

 『なんかあるのか』

 

 『なんでもない』

 

 なので反感を抱いた蓮乃は、伝えるべき事ではなく単なる拒否を即座にノートに書き込んでしまっていた。

 「とても機嫌悪いです」と書かれた顔で、言外に文句ありありな一文を正太に書いて見せた蓮乃。それを見た正太は、胸から溢れ出そうなため息を力一杯かみ殺した。「なんか」あるから聞いているんだがなぁ。こう書かれた以上、少なくとも「なんか」を口にすることはあるまい。言いたいことがあるならきっと言うだろう。

 自分の聞き方、やり口、タイミングが不味かったことに気が付かずに、正太はあっさりと質問を諦めた。本日初めて蓮乃と顔を付き合わせた時点で、昨日から気にしていた疑問を諦めたこともあり、正太としてはこの手の疑問は解けないものだと決めつけていた。

 

 そんな諦めて不満を足して二で割った正太の様子に気が付くこともなく、うつむいた蓮乃は改めて検分のつもりで指に付いた粉を舐めとっていた。指に舌をつけては何かを探るように虚空に視線をさまよわせる。必死で考え込んでいるようだが答えは出ていないらしく、その表情には焦りの色が見える。

 その姿を見た正太は目を細めた。好意や慈しみの類ではない。眉根が寄っているのがその証拠だ。当然、胸中の感想も「ばっちいな」と毒入りだ。いくら顔が良くても行動がこれじゃあな。子供と言えども最低限のマナーくらいは守ってほしいものだ。

 自分の行動を棚に置き忘れたまま、正太は一方的に蓮乃への辛口批評を続ける。先の返答のこともあり、蓮乃を見る視線はずいぶんと刺々しい。その一方、批評されている側の蓮乃はひたすらに焦りの色を濃くしながら考え込んでいた。

 

 ――えっとえっとええっと、ビスケットに入れる粉にさわったのは姉ちゃんと私だけだったはず。うん、姉ちゃんが材料一通りそろえて計ってた。私は姉ちゃんが揃え忘れた粉飴を計ってお皿に入れた。じゃあ塩が入ったのは何時?

 

 蓮乃はもう一度、指先を舌に当てた。さっきから変わらない塩味がする。他には何の味もしない。味がしない、無味だ。つまり甘味がない。つまり粉飴の味がしていない。つまり粉飴ではなく塩が入っている。そして粉飴を瓶から出して計ったのは自分だ。

 

 ――私?

 

 焦りの紅潮からショックの蒼白へと蓮乃の顔色が変わっていく。そう、蓮乃は粉飴を計ってなどいなかった。蓮乃は粉飴の入った瓶ではなく、塩の入った瓶から中身を出して三〇g計量していた。

 蓮乃をフォローするなら、粉飴は純粋な麦芽糖であり外観は真っ白な粉末で、同じく純白の粉末塩と非常によく似ている。だが、今現在オーブンで粉飴の代わりに塩の入ったビスケットが焼けている以上、何の慰めにもならないのが現実だ。

 顔色を寒色に染めながら、蓮乃は繰り返し時計とオーブンに目をやった。後、一〇分弱でビスケットは焼きあがる、それもお菓子には不適格な塩辛いだろうビスケットが。私のせいだ、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう…………

 もはや蓮乃の頭の中は「どうしよう」の一言で塗りつぶされて、何一つ考えることができない。

 

 「オイオイ、ほんとにどーしたよ?」

 

 心配そうに顔をしかめた正太が、わなわなと真っ青な顔で震える蓮乃の肩を叩いた。『何でもない』と文字に起こしておきながら、突然青い顔でわななきだしたのだ。これで心配にならないなら、そいつに端から一片の情も抱いていないと言うことだろう。少なくとも正太は毎日のように顔を合わせていた相手を、躊躇なく見捨てられるような人間ではなかった。さすがに先の苛立ちを、こんな状態の蓮乃にぶつける気にはなれない。

 肩を叩かれてようやく正太の存在に気がついたように、ゆっくりと蓮乃は顔を上げた。焦点が合っていない目で、定まらない眼差しを正太の方へと向けようとする。あまりといえばあまりな蓮乃の様子に、正太の顔がひきつった。何処をどう見ても蓮乃は大丈夫そうには見えない。

 

 「あ………え……ぅ……」

 

 言いたいが言えない。何を言って良いのか解らない。そもそも言葉を発することもできないのに、文字にすることも思いつかない。混乱して惑乱した蓮乃の頭の中は、混沌として混迷として、ぐっちゃんぐっちゃんでごっちゃごちゃだった。端的に言うなら蓮乃は大いにパニクっていた。

 とてもじゃないが大丈夫じゃなさそうだ。とりあえず事情を聞くより落ち着かせる方が先だろう。蓮乃の様子を見て取った正太は、落ち着くよう言葉をかけるべくポケットに突っ込んだメモとペンを探りだした。

 

 「なんかあったの?」

 

 台所の一角が異様な空気に包まれているのを察したのか、清子は妙な様子の二人に呼びかけた。ボウルと器四つは一通り洗い終わって水切り中。シンクに流していた水道の蛇口も締めて、今はタオルで濡れた手を拭いている所だ。

 清子からは、心配に焦りを上乗せしたような顔でメモにペンを走らせる正太と、その横で釣り上げられた魚のように喘いでいる蓮乃が見える。あまり心地いい状況ではなさそうだ。

 両手から水気を取るのもそこそこに、清子は二人のそばに近づく。岡目八目とはいうが、端から見てても判らないものは判らない。

 

 まともに話せる状況になさそうな蓮乃はひとまず置いといて、清子は多少なりとも事情がわかっていそうな正太へと視線を向けた。だが正太も首を捻るばかりで、事情が判らないらしい。だが、二人して首を捻っていてもしょうがない。まずは蓮乃を落ち着かせるのが上策だろう。

 口を開け閉めするのをやめて青い顔で俯いた蓮乃の前に、清子は中腰で顔の高さを合わせた。縋るような怯えるような瞳で蓮乃は清子を見上げる。

 

 ――姉ちゃんが作ってくれたのに私がやっちゃったんだ。どうしよう、私のせいだ。

 

 その途端、感極まった蓮乃の両目に涙の珠が膨らんだ。それを見た清子は正太同様顔をひきつらせる。だが、「あっ」と言う間もなく、涙の珠は表面張力の限界を突破して柔らかな蓮乃の頬を伝い落ちだした。

 

 「……ッヒ……ズズ……ヒッ」

 

 繰り返し息を飲みながら、肩をふるわせて蓮乃は涙をこぼす。鼻からも涙が漏れるのか手の甲で何度も目を擦った。それでも蓮乃の涙腺は緩んだままで、一向に止まる気配を見せようとしない。

 

 「ほんとにもう、どーしちゃったの」

 

 「オイオイオイオイ、どーしたんだよ」

 

 慌てふためく二人を後目に、しゃくりあげる蓮乃はいつまでも泣き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 極論をいうなら例え台所で人が死んでいようとオーブンの動作には別段問題がないわけで。だから、蓮乃が泣きじゃくっていようともビスケットは焼き上がる。

 

 オーブンを開けると、クッキングペーパーのしかれたバットの上には、こんがりときつね色に焼き上がったビスケットが等間隔で並んでいる。香ばしくどこか懐かしい香りを漂わせているビスケットを、清子は菜箸で摘むと行儀悪くかじった。予想通り、塩が利いている。

 そのままビスケットを二つに割ると、隣の正太へかじってない半分を渡した。同じくビスケットをかじる正太は、言語化しにくい微妙な表情を浮かべる。強いていうなら、「格好悪い訳じゃないんだけど欲しかったロボットと違うロボットをクリスマスプレゼントにサンタからもらった子供」のような顔だ。何というか「コレジャナイ」感がすごい。

 そして「コレジャナイ」ロボットならぬ、「コレジャナイ」ビスケットの原因はというと、居間のソファーで膝を抱えてべそをかいていた。台所の端から顔を出せば、テレビの真ん前で涙に浸かる蓮乃が見て取れる。凹みきった蓮乃のあまりの惨状に、宇城兄妹は顔を見合わせた。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 「どーしようか」

 

 さすがにこんな状態の蓮乃を怒るつもりはない。落ち着いてから多少注意するくらいでいいだろう。ここまで落ち込んだ子供をさらに追いつめてもいいことはない。問題は目前の涙の塩味ビスケットだ。

 

 「作り直すか?」

 

 バットに並べられたビスケットへ視線を移しながら、しょっぱい顔の正太が提案を挙げる。もったいないが失敗作を後生大事に抱えていたところで意味はない。だったら使い終わった薄紙同様、ゴミ袋にまとめて捨てるべきだ。それにどの材料も自分たちの小遣いで何とかなる範囲だし、事情を話して材料を補填すれば、母さんもわかってくれるだろう。

 時計に目をやれば短針は四時を少し過ぎたところを指している。ちょっと急ぐ必要はあるが、まだ時間はある。やって損はない。

 

 だが正太の提案に清子は答えず、なんだか考え込んだ顔をしている。思案顔のまま自分の歯形のついたビスケット半分をもう一口かじる。

 

 「いけるかもしんない」

 

 何かを確かめた様子の清子は、もう一回ビスケットをかじると「うん、いける」と小さく頷いた。なにが「いける」のか隣の正太には何にもわからないが、清子はなにやら納得した様子だ。清子の様子に疑問符を浮かべる正太を後目に、清子は台所を出ると体育座りでぐずっている蓮乃へ近づいた。

 

 『蓮乃ちゃん、悪い事したと思ってる?』

 

 清子の見せたメモに涙で潤んだ目だけ向けた蓮乃は、小さく小さく頷いた。

 

 『じゃあ手伝ってくれない?』

 

 『なにを?』

 

 清子の持つメモを受け取り、蓮乃はゴマ粒のような文字で疑問を書き込んだ。

 

 『しょっぱいビスケットをおいしく食べる準備』

 

 清子の言葉に、蓮乃は涙も忘れて首を傾げる。ビスケットは素朴な甘さが美味しいものだ。それを自分がしょっぱくしてしまった。前提からして甘いものを、塩味にしてどう美味しくするのだろう?

 理由は一切不明ながらやる気満々で腕まくりする清子に、正太は微妙についてこれてない。微妙な顔の微妙さ加減を深める正太を放り出したまま、清子は要り用になるものを指折り数える。

 

 「えっと合成チーズと酵母肉、豆腐と胡椒と七味唐辛子、ほかにカレー粉と……」

 

 「一体全体何作るんだ?」

 

 いい加減何をするのか教えてくれと、言外に込めて正太が問いかけた。口に出した材料名もクッキーやビスケットからは程遠い。清子が考えていることなど清子以外誰も知らないし、当然正太にも判らない。正太としては訳の分からないまま付き合わされるのは御免被りたい。

 

 「付け合わせ」

 

 だが清子の返答は正太の疑問を深めるばかりだった。



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第五話、三人でお菓子づくりの話(その五)

 まずは、冷凍庫の片隅で凍り付いていたお中元の明太子、正太がスーパーまでひとっ走りして買ってきた絹ごし豆腐、鰹節風味の顆粒出汁、宇城家の定番ポン酢醤油。これらを混ぜて明太子とお豆腐のディップ

 続けて、同じく絹ごし豆腐・朝の味噌汁用白みそ・昨年母が漬けたしそ梅を和えて、粉飴・サラダ油・食酢で味を調えた、豆腐としそ梅ディップ。

 さらに、缶入りのカレー粉と顆粒スープの素をマヨネーズ風ソースと豆乳であえたカレーディップ。

 最後に、アナログチーズとショートニング、粉飴、ケーキシロップをよく混ぜて、甘めのクリームチーズ風ディップ

 各種ディップに加えて、合成タンパクの整形ハムとアナログチーズ、七味唐辛子、胡椒、ジャムをお好みで。飲み物は豆乳とラムネをご用意。

 

 居間に鎮座する宇城家の食卓に、幾多の付け合わせがずらりと並んだ。その真ん中には、さっき作った塩味のビスケットが大皿に積まれて小さな山を作っている。

 テーブルの半分を占める皿の軍団に、正太は顔をひきつらせた。食事とおやつは大好きだが、ここまでされると乾いた笑みしか浮かんでこない。

 

 「なあ清子、これもうおやつじゃなくて軽食じゃねぇ?」

 

 「うん、ちょっと作りすぎたかもしんない」

 

 大皿に積み上げられたしょっぱめのビスケットを眺めながら、清子は苦笑いを浮かべた。いい考えが浮かんだのでついついノってしまった挙げ句がこの有様である。どう考えても作り過ぎた。全部食べたら夕食は確実に入らないだろう。

 炭酸の泡のようにふつふつと浮かぶネガティブ思考を、清子は首を振って振り払う。まぁ、冷蔵庫で保存してちびちび頂けばさほど問題はないと思う。父の晩酌のアテにしてもよさそうだし。それになにより、蓮乃ちゃんがご機嫌になったのだから一番の懸念事項は解決しているといえる。

 

 清子が視線を横へとやると、目をまん丸に見開いてテーブル上に並べられた軽食を見つめる蓮乃の姿があった。未知の味への期待と自分が手伝った食事へのちょっぴりの不安、そして何より「自分もこんなことができるのだ」という満足感に両目をキラキラと輝かせている。例え心配性の睦美さんと言えども、この表情を見て落ち込んでいるとは考えないだろう。

 蓮乃の様子に安堵のこもった息を吐くと、清子は合図に両方の手のひらを打ち合わせた。

 

 「じゃ、おやつにしますか」

 

 ビスケットもその付け合わせも眺めるもんじゃない。食べるものである。いつまで眺めていたところで、おなかが膨れるわけでもない。せっかく作ったのだから美味しい内に味わうのが食べ物への礼儀と言うものだ。

 三人は思い思いの席に腰を下ろした。正太はテレビを背にして、蓮乃は正太の向かいに、清子は二人と直角の椅子へ。それぞれの前にはクラッカーの取り皿ととりあえず豆乳の注がれたコップが鎮座している。清子と正太は両手をあわせ、蓮乃もまねして合掌する。居間に三人分の挨拶が響いた。蓮乃のそれはよく判らないが

 

 「いただきます!」

 

 「いただきます!」

 

 「いななきまう!」

 

 食前の挨拶が済めば後は食事の時間だ。ビスケットの一枚をつまみ、その上に豆腐としそ梅ディップを一匙乗せる。そのままかぶりつけばざくりとビスケットは崩れ、でんぷんの素朴な甘みとともにまろやかな酸味が口中に広がる。鼻に抜ける紫蘇と梅の香りがこれまた心地よい。実にうまい。

 

 「うん、いけるなこれ」

 

 指についたビスケットの粉を取り皿にはたき落としながら、正太は感想をこぼした。

 正太の中の固定観念では「ビスケット=甘い」となっていたが「ビスケット≠甘い」でも何の問題もないようだ。いやそれどころか、「甘くないビスケット」は甘いビスケットに比べてより多くの食材と組み合わせることができるように思える。先に「おやつではなく軽食」と表現していたが、意図せずに的を射ていたらしい。おやつだけで終わらせるのがもったいないくらいだ。

 ハムとチーズを乗っけたビスケットを頬張る清子にそんなことを話したら、別の意味で驚かれてしまった。

 

 「知らないの? 甘くないビスケットをクラッカーって言うんだよ」

 

 そんなことは今初めて知った。言われてみれば確かに、ビスケットもクッキーもクラッカーも全て「小麦粉と油と砂糖もしくは塩を練って焼いたもの」であることに違いはない。さらに言うなら、ビスケットはフランス語の「ビスキュイ(二度焼きパン)」を語源としているのだが、これは今で言うカンパンのことを意味するそうだ。つまりビスケットはそもそも甘いものではなかった。そう考えるならば、甘くないビスケットをクラッカーと呼ぶことも別段おかしい話ではない。

 清子の言葉に納得した正太は静かに頷くと、カレーディップをつけた塩味ビスケット改めクラッカーを口の中に放り込んだ。これもなかなか。加えて麦茶のコップをあおる。とても良い気分だ。

 

 「そういえばさ、お菓子もう無いって言ってたけどどうする?」

 

 「そりゃ、買ってくるしかないだろう。空から降ってくるわけでもあるまいし」

 

 思い出したような清子が問いかけに、正太は当たり前のことを無意味に捻って答えた。確かに無いなら買うしかない。能動的に市販のお菓子を得たいなら、他に方法はないだろう。犯罪に手を染めるなら別だが、高々数百円のおやつのために留置所生活は御免被る。

 

 「それなら面倒なくていいんだけどね」

 

 「それはそれで面倒じゃないか? 取り合いになってもおかしくないし」

 

 返答を聞いた清子は小さく笑って正太を揶揄する。

 

 「お菓子だけに?」

 

 正太の口が「へ」の字に曲がった。頬杖を付いて憮然とした顔を正太は浮かべる。意図して駄洒落を口にしたわけではない。不機嫌そうに顔をしかめる正太を笑いながら、清子は頬杖は行儀が悪いと注意した。

 

 どうでもいい雑学や雑談を話しながら和気藹々と軽食は進む。やっぱり甘いものよりそうでない方が好みなのか、正太が食べるのは辛口のディップがほとんどだ。一方、どっちもいける派の清子はえり好みせず一通りを口に納めている。それに、どれもこれも自分が中心で作ったものだから、どれであろうと美味しく感じるものでもある。そして蓮乃はと言うと、ネズミのごとくに頬を膨れさせて文字通りクラッカーを頬張っていた。口の中に詰め込まれているのは、子供らしく甘いクリームチーズ風ディップとカレーディップの二種類だった。しかし意外にも三:七とカレーの割合が多かったりする。

 小動物そのまんまな蓮乃の有様を見て、正太は喉の奥から気持ちの悪い笑い声をこぼした。口にクラッカーを詰め込む作業に大忙しの蓮乃の肩をつつくと、半笑いの顔で一応の心配事を書いたメモを見せた。

 

 『夕飯入んなくなるぞ』

 

 『ちゃんと夕ご飯食べるから大丈夫』

 

 正太の警告に蓮乃は全く信用のおけない答えを返す。口一杯にクラッカーを押し込んだその様を見て、蓮乃の言葉を信用できる人間はそうはいない。正太もその一人であり、蓮乃へと不信の意味を込めた不審な視線を向けた。正太の白い目を無視して、蓮乃は口に詰めたクラッカーをもぎゅもぎゅとかみ砕くと、コップの豆乳で一気に流し込んだ。端から見ていると本当に味わって食べているのか考えたくなる食べ方だ。

 ゆっくり味わって食べろと言いたい所だが、その前に言わなければならないことを思い出した。まあ、正しくは「言う」ではなく「書く」だが。これからすることを思い少しばかり目を細くした正太は、案の定行儀悪くゲップをこぼしている蓮乃の肩を揺すった。

 

 『蓮乃、ちょっといいか。さっきの件で一つ、お説教がある』

 

 「蓮乃ちゃんが塩と間違えたことならもう終わったじゃん。蒸し返すことないよ」

 

 正太が蓮乃に見せたメモに、横からのぞいていた清子が渋い顔でツッコミを入れる。

 清子の言うとおり三〇分以上今更の話である。それに主に被害を受けた清子がもう良しとしているからには、正太がくちばしを差し込む話ではない。さらに言うなら問題が発覚したときに言うべき事柄だ。どう考えても遅すぎる。

 

 「いや、そっちじゃなくてな」

 

 正太は顔の前で手を振って、清子の言葉を否定した。予想外の返答に清子は首を傾げる。さらにもう終わったはずの事を蒸し返す一文に蓮乃も首を傾けた。疑問符を浮かべる二人に正太は、追加でメモを書いて見せた。

 

 『俺がお説教することはな、蓮乃が失敗したのを「話さなかったこと」についてだ』

 

 納得した顔で手を打った清子と不可解そうに眉根を寄せた蓮乃。正太の言葉に二人は対照的な反応を返した。

 

 

 

 

 

 

 プレゼンテーションはまず結論を第一に示す。後々から示されると、話し初めの頃の内容が何を伝えたいのか解らなくなりがちだからだ。それを知ってか知らずか、正太は一番初めにお説教の結論を書いたメモを蓮乃の前に突き出した。

 

 『俺が言いたいのは、「何か失敗したならそれについて書いてくれ」ってことだ。文字にしてもらわなきゃ、こっちは何にもわからんのだ』

 

 人間は他人の心を推し量ることができる。だがそれは「推し量る」という言葉通りに「当て推量」にすぎない。たとえ頭蓋をこじ開けて脳味噌に電極を刺したとしても、魔法でもなければ考えていることが解るものではない。普通の人間には、ただ相手が僅かに示す「表情」「目線」「身動き」「癖」などなどの行動から推察するのが関の山だ。当然、思考を推理する側の「能力」「知識」「経験」などによって結果は異なってしまう。

 だから、もし本当に相手に判ってほしいのならば、文字にするなり口にするなり外部へと出力する必要がある、と正太は考えている。他人の機微を察するのが壊滅的に苦手な正太としては、そこの所をはっきりとして理解して欲しいのだ。

 

 『だって兄ちゃん変な事するし、いっぺんしか聞かなかったし』

 

 蓮乃も自分が文字にしなかったことを理解しているのか、目線をそらしてノートに正太への文句を書き込んだ。実際、先の正太の行動は良いものとは言い難い。確かに気づかせるためとはいえ、思いっきり揺さぶったのは事実だ。それに一回聞いただけで諦めてしまったことも言い訳できない。

 

 『人聞きの悪いこと言うな』

 

 しかし言い方というものがあるだろうに。こんなことを書かれては、お巡りさんに肩を叩かれてしまう。自分と蓮乃の外観を鑑みれば倍率ドンで大当たり、今日の夕飯はカツ丼で決まりだ。テーブルの上に出したノートを見ながら、頭痛が痛そうな顔で正太は額を押さえた。

 

 『変に揺さぶったことについては謝る。すまなかった。それからちゃんと聞かなかったことも悪かった』

 

 それでもまずは自分から謝るべきだ。間違えたならちゃんと自ら頭を下げる。両親から躾られた大事なことだ。テーブルに差し出された謝罪文を見て、蓮乃は納得の表情で深々と頷く。

 

 『やっぱり兄ちゃんが悪い』

 

 『けどお前も失敗したこと言わなかっただろ』

 

 そして自分が謝ったなら、蓮乃にも謝ってもらわないといかん。蓮乃が言わなかったのは確かなのだ。正太は間髪入れずにカウンターを返した。

 

 『で、でも、あの時はもうオーブンにビスケット入れてちゃったから』

 

 図星を突かれたのか蓮乃の顔色が変わった。視線は左右に平泳ぎ、口を開こうとして閉じるの繰り返し。よっぽど焦ったのか、正太でも解るくらい狼狽が顔に出ている。その上、ノートの文字も崩れて書き損じも目立つ始末だ。

 

 『確かにその通りだ。けどな例えどうにもできないとしても、言うと言わないじゃ全然違うんだ』

 

 正太は蓮乃の言葉に頷きつつも否定を返した。蓮乃の書くとおり、蓮乃が塩と粉飴を間違えた時点でオーブンにビスケットは入れられてしまっていた。だがその時点で知らされていれば、何らかの対応はできただろう。例え対応できなかったとしても、知っていたのと知っていなかったのでは失敗の受け取り方が違ってくるのだ。

 しかし、正太のメモを読んだ蓮乃に納得の色は見られなかった。正太の返答にも、納得し切れていない様子で唇を尖らせている。すねた顔でそっぽを向く蓮乃に、正太は豚のと同じ唸り声をこぼした。どうしたものかと顎をさすり首をひねる。とりあえず思いつく範囲で一番いいのは、卑近な例で実感させることくらいか。勝手に題材にしてすいませんと胸の内で謝罪しながら、正太はペンを持ち直した。

 

 『例えば、睦美さんが仕事とかどうしても外せない用事があって出かけたとする。その時、なにも言わなかったたら不安になるだろ? それと大体同じだ』

 

 蓮乃にとってもっとも近しい人は母親である睦美さんを置いて他にあるまい。これならば自分に当てはめて多少なりとも理解できるだろう。正太は捕らぬ狸の皮算用で蓮乃の理解度を算出する。だが、蓮乃の返答は正太の思考の斜め上をかっとんでいった。

 

 『お母さんいつもなんにも言わない』

 

 ――なにやってんですか睦美さん

 

 思わず正太は天井を仰いだ。正太は向井睦美のことを「神経質で張りつめた印象を受ける人ではあるが、同時に真面目で細やかな方だ」と思っていた。だからそういった連絡はきっちりやっている人なのだと考えていたが、実のところそういうわけではないらしい。これじゃあ睦美さんを題材にしても、蓮乃への説得効果はなさそうだ。

 ならばどうする、どーしたもんか。「あー」だの「うー」だの蓮乃めいて呻く正太。頭を捻って体も捻ってどうにかこうにかアイディアを絞りだそうとする。親御さんである睦美さんはダメだった。しかし近くの人間で例を挙げるのが一番理解しやすいのは事実だ。他に近しい人といえば、俺か清子かその辺りか。

 とりあえず一番後腐れなさそうな自分を題材にして、正太は文を捻り出した。

 

 『じゃあこうしよう。お前さんが我が家に遊びに来た。でも俺はその日学校行事で遅くまで帰ってこない。これを前もって言っていなかったら、当然お前さんは待ちぼうけを食らう羽目になる。とてもじゃないが良い気分じゃないと思うぞ』

 

 自分で書いていて何だが、かなり解り易くできたような気がする。正太は顔に出さずに文章を自画自賛した。実際、正太が帰宅するまで蓮乃が待ち惚けていたことはあるのだ。正太に気が付くまでの蓮乃の顔は、大抵が無色透明な無表情やつまらなそうな退屈顔。少なくとも良い機嫌や上機嫌とは言い難い表情をしているのがほとんどだ。

 だがやっぱり蓮乃の答えは正太の予想を大いに外してくるものだった。

 

 『そうだけど、今日のこととは違うと思う。だって、ほっといたってビスケットは焼きあがるし、それに手が粉だらけで書くに書けなかったから』

 

 ――あーいえばこーいうんだな、このガキは

 

 苛つきが正太の脳内で音を立てて膨れ上がった。それはコメカミに浮かぶ青筋という形で表現される。サイズを増した苛つきに脳味噌から押し出されて、気が付けば端的で単純な考えなしの反論がメモに書き込まれていた。

 

 『いや、同じだよ』

 

 『違う』

 

 そして蓮乃のノートにも同じく考えのない反発、もとい反論が刻まれる。それを書き込む蓮乃の唇はとんがりすぎてアヒル顔だ。

 

 『同じだ』

 

 『違う』

 

 『同じ』

 

 『違う』

 

 繰り返される水掛け論に正太の苛つきは膨れ上がる一方だ。苛つきのバロメータなのか血圧が上がるに従って、正太の両目は徐々に見開かれてゆく。一方、蓮乃の心境も同じなのか、眉の間には小さな山脈が日本アルプスを作っている。ついにイライラが頂点に達したのか、正太はメモを抉りかねない筆圧で長文を書き殴ると、メモをテーブルに叩きつけた。

 

 『じゃあお前、失敗を先に知らされるのと、後々になって告げられるのどっちがマシだ? 少なくとも俺は前者の方がいい。なにせ多少は覚悟できるし、対策もとれるからな』

 

 正太の書いた文章には、先までほんの耳掻き一杯程度は残っていた諭す気持ちももはやない。ただ自分の思う正しさをぶつけるだけの荒々しい文体を向かいの蓮乃へと突きつける。正太は興奮しているのか、蓮乃をにらみ付ける顔は真っ赤に色づいている。

 

 『対策なんてできなかったもん』

 

 そんな「おまえの事情なんぞ知らん」と言外に記されている文章を押しつけられれば、人間は反抗心を抱くものだ。ましてや押しつけられたのが色々幼い部分の多い蓮乃と来れば反発必須である。

 

 『いーや。もしも、もう少し早く告げられていれば付け合わせももう少し早く作り始められたはずだ』

 

 蓮乃の感情的な反発に、同じく感情的な正太の意見が投げつけられる。正太もかなり脳天が茹だっているようで、希望的観測が混じる「もしも」やら「はず」やらを語りだしていた。当然ではあるが付け合わせを思いついたのも作ったのも清子な訳で、本当にそうなったのかを正太が解る由もない。これについて、多少なりとも信憑性を持って答えられるのは、清子だけである。

 

 「清子、蓮乃に解るようにいってやってくれ」

 

 なので脳味噌がとてもよく煮えている正太は、直角方向の清子へ自分の弁護をするようにとメモとペンを渡そうとした。しかし清子は掌を立ててそれを拒否する。

 

 「いい加減落ち着きなよ兄ちゃん」

 

 清子には喧嘩と不和の種をばらまく趣味はない。それにこんなことで蓮乃ちゃんと兄が仲を悪くするのも、楽しい時間を不意にするのも余りに馬鹿馬鹿しい。

 確かに先の兄のお説教に多少の理はあるが、冷静に理解できるように言い含めてこそだ。双方の頭から湯気が立っている現状ではどんな正論であれ、いや正論だからこそ火に油を注ぐに違いない。頭蓋骨の内側からグツグツと音が聞こえそうな兄に肩入れしたところで、自分にも兄にもましてや蓮乃ちゃんにも得にはならないだろう。まずは冷静になってもらわなくては。

 

 「俺は冷静「てんで見えないよ」

 

 正太の全く信用できない発言に被せて、清子は間髪入れずに突っ込みを入れた。妹である自分より年下の蓮乃相手に意固地になっている様をみて、「兄は冷静だ」とは口が裂けてもいえない。

 突っ込まれた側の正太も、清子の台詞に思うところがあったのだろう。口をヘの字にひん曲げながらも、一応は清子の言葉に耳を傾ける。

 

 「まずは深呼吸、深呼吸」

 

 清子に言われるがまま、正太は大きく息を吸って吐いた。続けて吸って吐く。繰り返し吸って吐く。三度も深呼吸を繰り返すと熱暴走していた脳味噌も空冷されて、いくらか正太に冷静さが戻ってきた。確かにさっきまでの自分は、蓮乃相手にずいぶんと感情的になっていた。

 正太はもう一度深く息を吸って長い息を吐き出す。そして頭を強く振ると、改めてメモにペンを走らせた。

 

 『俺も意固地になりすぎた。すまん』

 

 まず正太が書いたのは謝罪の一文だった。続けて正太は蓮乃へと深く頭を下げる。こうして多少なりとも客観的に自分を省みれば、言われている通りに熱くなりすぎていることがよく解る。とてもじゃないが年上が年少の子供にとる態度とは言えない。ならば年かさの人間として、やったことに自省しなくてはならないだろう。

 正太の真っ正面からの謝罪に多少は気が晴れたのか、蓮乃のアヒル顔はなりを潜めた。だがそれでも不満がまだあるのか、両の目はじっとりと湿っぽく細められたままだった。

 

 『確かにおまえの言った通り、対策は取れんかったかもしれん。結局、俺が言っていたのは終わった後の話なのだから、言ったところでしょうがない。それにちゃんと聞かなかった俺が、どうこう言って良い話じゃない』

 

 後知恵なら何とでも言えるが、その場その時その状況になってみなければ、どの判断が適切かなど分かりはしない。転ばぬ先に「杖を手渡された」ならともかく、転んだ後に「杖を使えばよかった」など言うべきではない。その時にちゃんと聞かなかった自分がそれを言うとなれば、失礼千万といっても差し支えはない。

 一方、蓮乃は正太の差し出す文章を読みながら、両手で頬杖を付いている。正直言って人の話を聞く態度ではない。だが正太から視線をはずしていないあたり、多少の聞く気はあるようだが。

 そんな蓮乃を九〇度横の清子は、指で頬杖を突っついて注意した。他人の話を聞くならば最低限とるべき態度というものがある。蓮乃の態度は余りに悪い。突っつかれた蓮乃は顔のむっつり具合をさらに深めるものの、清子の注意に従っておとなしく両手を膝の上に移した。

 

 『それと、さっき俺を例を挙げた時にお前答えたよな、「そうだ」って』

 

 正太は二人のやりとりに気づくことなく文を進める。伝えるべき言葉をいかに平易な文章にするかで、容量一杯一杯なのだろう。

 そんな様子の正太を睨み付けたまま、蓮乃はわずかに頷いて質問に答えた。確かに待ち惚けを食らうのはイヤなことだ。お母さんのおかげでイヤになるくらいよく知っている。だから「そうなる前にちゃんと教えるべきだ」という意見には納得できた。

 

 『俺が言いたかったのはそれなんだよ。ちゃんと伝えなきゃ、伝えてもらえなかった側は不安になるし、後から聞かされればイヤな気分になることもある。そういうことが続けば、最後には相手を信用できなくなってしまう。だから何かあったらちゃんと伝えてほしいんだ』

 

 しばらくの間、食卓に無言の空白が浮かんだ。それから二十は数えただろうか。蓮乃はのそのそとノートにペンを滑らせた。

 

 『わかった』

 

 書いたのは小さな文字で短く書かれた返答の一文だった。不満を押し込めて納得の外観だけを整えた、文章と言うには短すぎる文句。だがそれでも正太の謝罪に蓮乃は承知を示した。

 最低限の(いやそれ未満かもしれないが)納得を見せた蓮乃の様子に、正太は素潜り後の海女のような深い息を吐いた。さらに椅子に深く腰掛け直すと、背もたれに押しつけるように背筋を伸ばした。

 「怒る」ことより「叱る」ことは疲れるが、「叱る」ことより「諭す」ことは輪をかけて難しい。これをやってのける教職の方々や世間の親御さん、なにより我が家の両親には本当に頭が下がる思いだ。

 

 「じゃあこれでお説教終わりってことで」

 

 パンと軽い音がテーブル上を走った。端で二人の様子を眺めていた清子が、終幕の合図よろしく文字通り「手を打った」のだ。話も終わったようで区切りも良いようだし、ここらで一つ終わりにして貰おうと、清子は合図を出した。

 今回のように、真っ当な道理に基づく落ち着いて理性的なものだとしても、清子はお説教を聞きながら軽食を美味しく頂く気にはなれない。人が叱られていると言うのは、当人のみならず周囲にもストレスを振りまいてしまうものだ。今回のお説教は必要なことだが、だからと言って至近でやられて気持ちのいいものではない。「いい加減にお説教を終わらせて気分良く軽食を再開したい」というのが清子の本音だった。

 「それもそうだな」と相づちを打った正太は、蓮乃が解るようにメモに書き込んだ。

 

 『ここらで一区切りとしようか』

 

 「……ん」

 

 蓮乃もいい加減疲れたのだろう。小さく首を縦に振って、表情は不満げながらも同意を示したのだった。



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第五話、三人でお菓子づくりの話(その六)

 軽食を再開し、三人はそれぞれクラッカーを口に放り込む作業に戻った。だが、さっきのような和気藹々とした雰囲気はそこにない。三人の間には据わりの悪い沈黙が存在感を主張していた。三人が三人とも何も言わず何も喋らず、ただ黙々とクラッカーを頬張っている。蓮乃はえらく不機嫌そうに、清子はとても呆れ返った様子で、そして正太は酷く居心地悪げに。

 清子が考えていたように誰かを叱ると言うことは、周囲に悪い空気を振りまいているのと変わらない。叱った正太も、叱られた蓮乃も、それを見ていた清子も、振りまかれたストレス元をたっぷりと吸い込んで、イヤーな雰囲気を味わう羽目になっていた。

 

 「あ~、その、なんだ…………やっぱいいや」

 

 重苦しい沈黙に堪り兼ねたのか、正太は何かを言おうと口を開くが、食卓の上の沈黙に押し込められて何も言えずに口を閉じた。端から見れば酸素不足の金魚のように、正太は無意味な口の開閉を繰り返す。

 「前の一件」以来、他人とのコミュニケーションに難のある正太にとって、この状況は正直つらい。何せ、コミュ障気味なおかげで自力での状況改善がほぼ不可能だ。何を言えばいいのか何も解らない。

 自分ではもはやどうにもならぬと、正太は助け船を求めて清子へと視線を向ける。兄のひきつった顔を見て、清子は大仰にため息をはいた。ほんとに手の掛かる兄ちゃんだこと。

 

 「兄ちゃん意外と小さい子の相手できるんだね」

 

 当たり障りのない会話として清子が選んだのは先の感想だった。それに清子自身、正太が蓮乃の相手を結構やれていることをそこそこ意外に感じているのは事実だった。少なくとも清子の記憶を探る限り、正太が幼い子供の取り扱いに長けているという覚えはない。

 

 「いったい誰がおまえの世話したと思ってる」

 

 「父さんと母さん」

 

 「おっしゃるとおりです」

 

 夫婦漫才ならぬ兄妹漫才を続ける二人。多少は緊張がほぐれたのか、気の軽い様子で正太は会話に参加する。やっぱり家族ってありがたい。

 いくらか気も晴れた正太はクラッカーに手を伸ばした。が、少々数が少ない。初めは大皿に山と積まれていたはずだが、皿上の敷地面積は半分を切っている。いつの間に食べてしまったのだろうか。自分もそこそこは口に入れたはずだが、そこまで食べた覚えはないぞ。だとするならば……

 正太は兄妹漫才の相方である清子へと目を向ける。清子は不機嫌そうに表情をゆがめて、顔を左右に振った。兄同様の大食らいと思われるのはさすがに心外だ。母の血を引くこの体が少々、いや多少、いいや幾らか横に広いことは確かだが、兄のように毎食お代わり付けてサイズ拡大の努力をしているわけではない。だとするならば……

 

 二人は顔を見合わせると、そろってもう一人へと視線を向けた。視線の先には、頬一杯にクラッカーを詰め込んでハムスターになっている蓮乃の顔があった。どうやらこいつも原因らしい。もぎゅもぎゅと擬音が鳴りそうな蓮乃の様に、右記兄妹は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

 

 『さっきも聞いたが、夕飯本当に食べれるのか?』

 

 先と同じく食いすぎを警告するメモを正太が差し出すが、蓮乃はプイと横を向く。どうやら叱られたこともあり、今は正太と話したくないらしい。唇も再びとんがっている。煎茶の出し殻をかみしめたような渋い顔で、正太は自分の額を叩いた。

 

 「聞くに聞けん(危険)な赤信号、ってなところかねぇ」

 

 そして正太は自作の下手な地口を呟いた。齢一四ながら中二病通り越して高二病気味の正太は、こういった古い冗句を格好付けに使うのが大好きだ。実際、正太は内心でしてやったりな顔をしている。

 

 「ヘェ、おもしろいこと言うネ。後でメモにでも書いておこうかナ」

 

 そして、人生始まって以来正太と顔を突っつき併せてきた清子は、そんな正太の格好付けを容易く見抜いていたりする。そんなわけで、清子は小悪魔から小を取った顔で、正太の格好付けを揶揄するのである。

 

 「待て待て待て待て待ってくれ」

 

 脂汗を流して慌てた様子で、正太は嘲う清子へと待ったをかけた。正太とて自分の格好付けが端から見て、格好良いものではないと知っている。そんな自分を客観的に見せつけられてはたまったものではない。穴を掘って中に入って生き埋めになりたくなるくらい恥ずかしい。

 そんな正太を皮肉る清子からすれば、「そんだけ恥ずかしいならやめればいいのに」と言いたいところだ。

 

 「そういえばまだカスタード大福買ってもらってなかったっけナァ」

 

 「イヤ、ちょっと、タイミングが、その」

 

 先日、蓮乃関係で正太は清子に頼みごと(第一話参照)をした。その時、清子から「カスタード大福八個箱入り(一〇二四円)」をお代として求められたのだが、正太がそれを買ったという話を清子が聞いた覚えはなかった。

 視線を泳がし正太は口ごもる。しまった、確かそういえばそんなこともあった。実のところ正太はきれいサッパリ、カスタード大福のことを忘れていたのだ。わたわたと見えない糸を手繰る正太を見ながら、清子は苦笑と揶揄と嘲笑と、ついでに飼い主がバカ犬を眺める顔を全部足した、えらく微妙な表情を浮かべた。まったくもう、うちの兄ってやつは。

 

 「明日の買い物で買ってきたら許してあげる」

 

 それで済むなら安いもんだ。正太はとり急いで首をガクガクと上下に動かした。バイブレーションの入った正太の様を見て、清子の表情に呆れの色が加わった。ついでに小さく嘆息もする。まあ、これだけ言っておけば忘れることもないだろう。そもそも自分としてもそこまで求めているわけでもない。単に兄を少々いじり倒して面白がっていただけなのだ。

 一方、正太もまた安堵の息を一つ吐いた。とりあえず何とかなった。後は、明日ちゃんとカスタード大福を買ってくればこれ以上イビられることも無かろう。父の説教は容赦がなくて辛いが、妹の揶揄は痛いところを付いてくるので辛い。ついでに言うと母の拳骨は物理的に痛くて辛い。母の慈悲無き鉄拳を思い出して正太は顔をしかめた。

 何にせよ、明日は近くのスーパー「ビックバスケット」でお買い物である。買うのは足りないお菓子と頼まれた大福と、おそらく母か父か両方からか買い物を頼まれるだろうからそれも含める。まとめれば結構な分量になりそうだ。でっかい紙袋に余りはあっただろうか。紙袋を確認しようと椅子から立った正太は、その拍子にふと思いついた。

 

 ――蓮乃の奴も連れていけば、ちょっとは機嫌も直るかもしれんな

 

 蓮乃は説教前と変わらず、好きなディップをべったり付けたクラッカーを、文字通りに頬張っている。頬に詰め込めるだけ詰め込んだその様は、リスかネズミかハムスターかとにかく囓歯類の仲間にしか見えない。だが説教前と異なり、その表情には大きな文字で「私は非常に機嫌が悪いです」と書かれている。

 くちばし宜しく唇を尖らせ、犬みたいに唸り声をあげる。ダンゴムシめいて背筋を曲げて、ネコのように周囲を睨めあげる。この様を見てご機嫌だと表する者がいるならば、そいつは眼科に行った方がいいだろう。そのくらい分かりやすく蓮乃は不愉快を表明していた。

 

 「む~~~~ぬ~~~」

 

 見ての通り蓮乃は不機嫌そのものである。その原因でもある正太としては、さすがにこのまま放っておくのは少々気分が悪い。放って置いても何か極端に悪いことが起きるわけではないのだが、その、何だ、何というか、気が引ける。まあ何にせよ、近くで顔見知りが不機嫌不愉快不満足という顔をしていれば、こちらもまたいい気分とは到底いかないものだ。ちょっとした行動でそれが晴れるならばやらないよりやった方がいいに決まっている。うん、そうだ。

 

 何かに言い訳るように自分に言い聞かせると、正太はメモとペンを手に取った。明日の買い物に付き合わせてやれば多少なりとも不機嫌を緩和できるかもしれない。混乱期前の昔から、女性のストレス解消と言えばショッピングと相場は決まっている。

 でも、自分に女性の気持ちなど分かるのだろうか? 突然、正太の胸の内に不安が浮かび上がった。存在を主張する不安は自己不信を携えて正太のペンにブレーキをかける。

 本当にたったこれだけで機嫌が直るのか? 連れていくのは雑誌で今話題の甘味所でもなければ、最新ファッションを発信しているブティックでもない。ただの近所のスーパーマーケットなのだ。むしろ不満を膨らませてより不愉快な気分にさせてしまうかもしれないぞ。だったら……

 

 正太は頭を繰り返し振って不安を脳味噌から弾き飛ばすと、減速したペンに意志の力でアクセルをかける。

 いかんいかん。マイナス思考のループに嵌まっている。こういう時はまず行動だ。聞かずに考えてもしょうがない。とりあえず聞くだけ聞いてみよう。後は答え如何で判断すればいい。付いてくるか決めるのは蓮乃なのだ。それこそ相手の気持ちなど判るわけ無いのだから。

 

 「あー、蓮乃」

 

 メモに書くべきことを書いた正太は、蓮乃に呼びかけた。蓮乃は言葉を聞き取れないが、顔を向けて声をかけられれば、少なくとも自分を呼んでいるくらいのことは理解できる。自分を呼ぶ声を聞いた蓮乃は切れ長いジト目で睨み上げるように正太を見つめた。その眼前に正太が書いたばかりのメモが眼前で揺らされる。

 

 『明日、お菓子を買いにスーパーに行くけど、おまえも来るか?』

 

 湿っぽい半目だった蓮乃の瞳が、玉のようにまん丸に変わった。驚いた正太が思わず体を引くより速く、蓮乃はメモを引ったくる。驚きの余り身動きできない正太を後目に、奪い取ったメモを上から下まで四・五回見直すと、蓮乃は音が聞こえてきそうな勢いで首を上下に振り回した。当然、表情は満面の笑みだ。

 

 「ぅんっ!」

 

 「お、おう」

 

 正太が意外に感じるほど蓮乃は乗り気だった。全身全霊で「行く!」と表現している蓮乃に、予想もしていなかった正太は思いっ切り気圧されている。

 こいつはこんなことで喜ぶのか? 睦美さんと行ったこと無かったりするのか? まあ何にせよ、喜んでもらえて何よりだ。それでいい。

 安堵の表情を浮かべた正太は、蓮乃を見つめる目を細めた。機嫌を直したのはすばらしいことだが、それでも言うべきことは言わねばなるまい。何度も言うが取調室でカツ丼を食べる気はないのだから。

 

 正太は新しいメモを取り出すと、書くべきことをそこに書きこむ。そこに書かれていたのは、蓮乃の母である『睦美さんの許しを貰ってくること』との一文だった。目の前に差し出された一文に、蓮乃の顔はさっきの不機嫌に逆再生される。折角のいい気分に水を差された心境なのだろう。それでも「買い物」は魅力的なのか、しばらくたって蓮乃は渋々と了解を示す文を書いた。

 

 『わかった』

 

 一応は納得して見せた蓮乃に正太は安堵の息をもらした。とりあえずはこれで大丈夫かね。後は睦美さんから許可もらえるかどうかだが、まあ近頃は家に来る許可もあっさり出しているみたいだし、そう心配することはないだろう。後のことは明日の問題、今は今日の問題に、すなわち目の前のクラッカーに取り組むべきだ。

 面倒の元である蓮乃のご機嫌が回復したためか、さほど深く考えることなく正太は結論を出した。ちと考え込みすぎて疲れたな。甘い物が欲しい。消費したブドウ糖を補給すべく甘いクリームチーズ風ディップに手を伸ばす。

 が、それが入っているはずの器は空だった。器を手に取ったまま、正太は蓮乃の方へと視線を向ける。正太の白い目に耐えかねたように、蓮乃は無言で顔をそらした。

 

 『蓮乃、俺の目を見ろ。目を見て答えろ。何かいうべきことがあるだろう?』

 

 顔をそらせないように蓮乃の頭に手をやって、正太はメモを突きつける。一応、完全に頭に血が上っていないのか目は細めたままだ。しかし蓮乃の視線は定まらず、壁と天井と机の上をさまよっている。それでも一応答える気はあるようで、ノートを見ないままページの端っこに小さい文字で斜め下の返答を記した。

 

 『ちょっと少なかった』

 

 『そういう問題じゃない。一言くらい周りに言ってしかるべきだろ』

 

 間髪入れずに返答が打ち返された、いでにお説教も引き連れて。周囲のことを考える、それがマナーという物である。蓮乃の行動が少々それに欠けるものだったのは事実だ。

 

 『おいしかったんだもん』

 

 『だ・か・ら、そういう問題じゃないって言ってんだろうが!』

 

 蓮乃の返答でない返答に正太のボルテージは急上昇だ。おかげでメモには峡谷を思わせる深い跡が文字とともに刻まれて、特に文頭の三文字はメモを貫き机に跡を残している。後で両親に見つかったら、正太はどんな目に遭うことだろうか。

 ついでに正太のまぶたが六〇度から九〇度へと開いて、血走った白目が露わになっていく。なお、最大角度は一五〇度であり、先日こいつを体験した(第二話参照)蓮乃は大いにベソをかく羽目になった。

 

 「まあまあ二人とも、そこらへんにしておいたら?」

 

 アホくさい二人のやりとりに半笑いの清子が仲裁に入った。このまま二人のコントを眺めていてもいいのだが、こんなことでさっきのような面倒を生じさせるのは余りに馬鹿馬鹿しい。それにディップが空になるくらい食べたのだ。もういい加減にしないと全員夕飯が入らなくなる。

 清子の声にまず正太が右手を挙げて答えた。自分の阿呆さ加減に気が付いたのか、自己嫌悪でずいぶんゲンナリした顔だ。そして正太にメモを見せられて、叱られなくてほっとした顔の蓮乃がそれに続いた。

 

 「へーい……っとそうだそうだ」

 

 何かを思い出したのか、正太はメモを取るとささっと一文を書いて蓮乃に渡した。明日も当然学校があるので、連れていくのは帰宅してからになる。さっきのお説教で口にしておきながら待ち惚けを食わせるのは、アホくさいにもほどがあるというものだ。

 

 『俺が帰宅してからだから、買い物に行くのは三時ぐらいな』

 

 「んっ!」

 

 メモの文を呼んだ蓮乃は、大きな声で答えるのであった。



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第六話、二人が買い物にいく話(その一)

 初夏だというのに気の早い蝉が鳴き出してもおかしくない陽気の正午過ぎ。脳天を直射日光に炙られながら”宇城正太”は自宅である間島アパート一〇三号室の扉の前に立った。

 濃い藍色の通学鞄を肩にたすき掛けて同色の制服を身にまとったその様は、格好だけなら普遍的な中学生のイメージそのものだ。しかし、厳つく骨ばった顔立ちと相撲部屋に行けそうな横幅が、「普遍的」という言葉を遙か彼方に投げ捨ててしまっている。中学生らしいこの格好よりも、恰幅と顔立ちを生かしてスーツや着流しの方がよっぽど似合う。もっとも似合うといっても、得られる印象は「やくざ者の若頭」か「マフィアの幹部」あたりで決まりだろうが。

 

 頭上近くから差す日差しは強く、正太の頭蓋骨を赤外線で焦がしている。まだ日は高く、足下の影も小さい。

 何せ、まだ午後過ぎて直ぐなのだ。帰宅途中で見た時計の表示は一三時前を指していた。今日は予想よりも格段に早く授業が終わった。近くの学校で爆弾テロが出たためだ。幸いにも不発だったため死傷者はなかったが、犯人はまだ捕まっていない。ということもあり、本日は午後の授業は急遽取りやめ、昼食後はそのまま集団下校と相成ったのだ。

 

 普段やっていないことをやると疲れる。それが独りぼっちを際だたせる集団下校だとなおさらだ。しかし「集団」下校なのに「独り」ぼっちを感じるとはこれ如何に。

 首筋に凝りを感じた正太は首を軽く曲げる。が、音は鳴らずに筋が延びた。さらに追加で二三度曲げるが、やっぱり何の音もしない。

 まあ、これはこれで気持ちがいいし、なにより体に悪くない。胸の内でそう呟き自分を納得させると、両手で勢いを付けて腰を捻った。

 

 その瞬間だった。小枝を折るような、とは言い難い生木をへし折るような、バキンという音と衝撃が脊髄を走った。

 

 「ぬぅっ!」

 

 脳天まで突き抜けるインパクトに、正太は思わず鞄を地面に落として扉に手を突く。イヤーな感じの痺れが脊椎を中心に体中を走り回って、神経に直接電流を流された気分だ。脂汗と冷や汗の混合物が、さほど暑くもないのに額に流れた。

 正太は衝撃の爆心地である腰上三〇cmを拳で押さえ、妹と母からのお小言の意味を噛みしめた。特に妹である”宇城清子”からは、小姑よろしく「間接を鳴らすな」と何度となくお説教を頂いている。今この瞬間、その意味が文字通り痛いほど理解できた。

 腰に右手を当て左手を扉につけたまま、正太は痛みと痺れが引くまでじっと待つ。格好も含めて反省しながら深呼吸を何度か繰り返すと、いくらか痛みが引いてきた。まだ痺れが抜けきったわけではないが、十分我慢できる程度だ。

 

 正太は幸先の悪さに不安を感じつつ、痛みが引いた安堵を含めてため息を吐き出した。何せ、イの一番に爆弾テロだ。本日は先行きの雲行きがずいぶん怪しい。もっともテロの爆弾が不発なあたり、逆に運がいいのかもしれないが。

 爆弾テロを思い出したあたりで、正太は芋蔓式に集団下校中の同級生の噂話を思い出した。なお、正太が噂を聞かされたのではなく、近くで同級生が噂しているのを小耳に挟んだだけである。学校に正太の友人はいない。今、現在一人もいない。

 

 同級生の噂によれば、犯人は不法移民の赤色テロリストらしい。声明文で「日帝に搾取される人民よ立ち上がれ」とか「日帝小魔に鉄槌を下す、これは革命の号砲だ」とか謳っていたそうな。

 ただし、この話はあくまで中高生の噂話であり、信憑性などは無きに等しい。少なくとも正太は今の今まで「日帝小魔」なんて言い方を聞いた覚えはない。おそらく意味は「日本人の子供の魔法使い」のような意味だろうが、向こうの文法でも間違っていそうだ。

 そもそも正太の通う公立戸小中学校には確かに「日本人の子供の魔法使い」が通っているが、その大半は『帰化民の子供』、つまり元外国人だ。自分のような「日本民族の子供の魔法使い」は戸小中内では一番少数である。彼らはしっかりと法手続きをとって帰化した日本国民ではあるが、外人が想像するステレオタイプな日本人ではないし日本民族とも別物だ。

 

 感電にも似た痛みを誤魔化そうとどうでもいい思考をグルグル回しつつ、正太は鍵を通学鞄から取り出して鍵穴に差し込む。腰の痺れが取れないせいか、正太はまだ反省状態のままだ。ジンジンと唸る腰を平手でさすりながら逆の手で鍵を回す。金属が噛み合う音と共にロックが外れて扉が開いた。

 

 もし本当に不法移民のテロリストなら、他人様の国に勝手に住み着いてそんな馬鹿なこと叫び散らせるあたり、そいつには脳味噌の代わりに腐った豆板醤でも詰まっているのだろう。実際、爆弾の火薬は配合を間違えて火を付けても爆発しない代物だったそうで、頭のお粗末さ具合が伺える。

 まあ、その発酵脳味噌殿のおかげで午後いっぱい自由時間となったのだ。感謝の意を込めて、早急に警察に御用となって本国に送還されるように祈っておこう。そういえば、日本に不法移民していた人間が本国に送還された場合、「いい思いをしていた」と嫉妬されて酷い目に遭わされるのが常のことだそうだ。すごくどうでもいい話だが。

 

 上方から下らない、口の端にも上らない、実に無為極まりない思考が無闇に回る。しかし無為な思考は考えても無意味だから無駄なのだ。だから、これ以上頭を空転させても時間の浪費でしかない。腰の痛みも引いたことだ。ここらで動くこととしよう。

 家の中に入るため、足下の鞄を持とうと正太は腰を曲げる。途端に脊椎を走る感電感が強まった。

 

 「ほぉっ!」

 

 妙な声が口から飛び出る。腰の衝撃で反省ポーズを続けている現状、足下の鞄を持とうとすると腰に何か妙な負荷をかけるようだ。きつい。

 仕方ないのでそれは諦めて、正太は鞄の取っ手を掴むと下手投げで玄関から投げ込んだ。カーリングの石のように廊下を鞄が滑ってゆく。特にブラシはかけていないが、母が綺麗に掃除してくれてるおかげで、廊下は氷面の滑らかさだ。滑走中の鞄は居間の入り口前で、横戸の溝に引っかかりピタリと止まった。こいつの回収は後にしよう。まだ蓮乃に言った時間まで余裕があるし、取りあえず横になってジッとしていたい。

 

 扉に向けて反省ポーズをしながら、正太はにじり歩きの擦り足で玄関横の壁に移る。あまりの激痛と不快感に、今までの人生を反省したくなる。反省していない方の手でドアノブを掴むと、痛みを堪えて扉を開いた。そのまま玄関の壁に手をやりながら、行儀悪く踵を擦るようにして靴を脱ぎ捨てる。いつもなら母と妹にねちねちお説教を頂くところだが、今回ばかりは勘弁して頂きたい。

 正太は壁に手を伝って子供部屋へとゆっくり向かう。足を上げ下げすると腰も一緒に動いて痺れるので、擦り足でことさら時間をかけて移動してゆく。痺れを少しでも押さえるため深く深く深呼吸を繰り返し、できる限り上下動を押さえて動く。まるで、ナメクジかカタツムリにでもなった気分だ。

 ただ、最近は跳ねるナメクジや飛ぶカタツムリが出てきたそうだから、この表現も正しくなくなってきたかもしれない。いや、あーいうのは特殊生物だし特例扱いでいいだろう。そーいうのが一般的になったらそれこそ環境系テロリストの叫ぶ「生態系の危機」だ。庭の手入れやってたらナメクジが群をなして跳んできたなんぞ、さすがに勘弁願いたい光景である。

 

 無為な思考を止めようと決めたのに、無駄な思索は留まることを知らず正太の脳味噌を埋めてゆく。「前の一件」以来、考える余裕があると無駄に考えてしまうのだ。一番いいのは何も考えずに書物に熱中することだが、あいにく好物の小説は子供部屋の書棚に入っている。結局、痛いのを我慢して子供部屋に向かうしかない。

 まともに歩くため上体を起こそうとするが、神経を走る激痛信号の前に正太の姿勢はバネ仕掛けで元に戻ってしまう。

 こんな調子で大丈夫だろうか。正太の口から盛大なため息が漏れた。何せ今日は昨日約束したとおり、お隣の”向井蓮乃”とスーパーでお菓子を買う予定なのだ。その上、「スーパーに行くなら買ってきて」と母からはでんぷん米だの鶏卵だのを買うように頼まれている。それに加えて清子からは先日の手伝いの代金(第一話参照)として、カスタード大福を買ってこいと言い付けられていたりする。

 となれば当然だが、片道一〇分の道のりを大荷物を抱えて歩かなければならないわけで、腰が曲がらぬままでは苦行にもほどがある。最悪断るしかないかもしれない。きっとあいつ泣くだろうなぁ。

 

 正太の脳裏に蓮乃の泣き顔が二つ三つと浮かび上がる。蓮乃は明るく元気な子ではあるが、同時に感情の起伏が激しく大いに泣き虫でもある。さらに言うなら子供らしく、わがままで意固地な部分もあった。正太の記憶にある限り、なぜか蓮乃はスーパーに買い物に行くのをずいぶん楽しみにしていた。それが関わりないところで中止になったならば、いったいどれだけ泣きわめくやら。少なくとも自分が吐き出すため息の数は、当社比十倍を下るまい。

 最悪の、それでいてあり得そうな可能性を想像し、正太はもう一つおまけにため息をこぼした。

 

 

 

 

 

 

 宇城家が住む間島アパートはボロい、というほどでもないがそこそこ年季が入っている。通路の鉄柵には錆が浮いているし、建物の塗装も所々剥げが目立つ。もっともそのおかげでさほど給料の多くない正太の父でも、子供部屋と庭付きの部屋を借りることができたのだが。

 

 そういうこともあり、正太等の子供部屋も内装が少々くたびれている。具体的に言うと、ベッドに横になった正太が見つめる目の前の壁は、本来の白ではなく黄色味を帯びている。

 そんな檸檬色というには汚らしい壁紙を眺めながら、正太は腰を労りつつ静かに黄ばみの数を数えていた。しばらく子供部屋で休んでいたらいい加減腰もよくなってきたようで、少なくとも痺れや痛みは感じない。どうやら一時的なものだったらしい。少なくとも最悪の事態だけは避けられそうだ。

 安堵を込めた長い息を吐くと、正太は腰に負担をかけないようにそろりそろりと体を起こした。いつもなら思う存分延びをして身体の凝りをほぐすところだが、ついさっき腰をいわしたばかりである。さすがに我慢だ。もっぺんやらかしたら確実に最悪の事態となることは簡単に想像できる。

 ベッドに腰掛けたまま見下ろせば、制服のワイシャツとズボンがしわにまみれてしまっている。後々母にぶちぶち文句を言われそうだが、最低限上着とネクタイ、それとベルトは外したので、勘弁して欲しいところだ。

 

 正太はいつも通りにハンガーに脱いだ制服一式をかける。いつもならばこの後は、ゆるゆるな家着に体を突っ込んで、居間でごろ寝しつつ本を読むところだ。しかし本日は出かける予定があるので、家着ではなく特徴のない単色緑の木綿パンツと、キリル文字が描かれた灰色のTシャツを身にまとった。締め付けるものはベッドにはいる前に外したとは言え、やっぱり制服を脱ぐと張っていた気分がいい具合に緩んでくる。

 後はベルトを締めて買い物袋と財布を持てば準備完了である。時計をみればそろそろ三時近い。蓮乃に告げた集合時間は三時だから、あいつも準備していることだろう。

 正太は蓮乃を探すべく庭に向かい、居間に踏み込んだあたりで違和感に気づいて足を止めた。

 

 ――なんで俺は庭に向かっているんだ。

 

 本来、余所様の家に出入りするならば玄関からが当たり前だ。それなのに、正太と清子が何度注意しても蓮乃は庭から出入りを繰り返している。最近(とは言っても数日程度だが)は二人もあきらめて一言二言口にするだけになってしまっている。

 だが、だからといって自分まで同じレベルに落ちる必要はどこにもない。悪い意味で慣れてしまっているが、おかしいのは蓮乃の方なのだ。近頃は蓮乃に毒されてしまったのか、どうにも自分の行動が幼い気がする。蓮乃同様のガキンチョになってはいけないのだ。気を付けねばなるまい。

 ただし、清子あたりからすれば「兄ちゃんがガキっぽいのは蓮乃ちゃんが来る前からだよ」の一言で一刀両断されるのは間違いなかったりする。

 正太はいかんいかんと頭を振って気を引き締めなおした。今度は間違いなく蓮乃を玄関から連れ出して、ついでに説教をお見舞いしてやろう。今度こそ間違いなく玄関へと向かうべく正太は踵を返す。その背中に居間の窓の向こうから、ずいぶんと聞き覚えてしまった声が投げかけられた。

 

 「なぁーーっ!」

 

 覚えのある発音を耳にした正太の顔は、途端にゲンナリという文字を体言した形に変わった。世界中探してもこんな言語で喋る奴は一人しかいないだろう。少なくとも自分は一人しか知らない。それにしても、こいつはやっぱりそっちからやってくるのか。

 正太は改めて一言叱っておこうと胸の内で決めると、仏頂尊と張り合えそうな仏頂面で振り返る。その視線の先には全く持って予想と違わず、準備万端スタンバイ状態の蓮乃がいた。庭の垣根の隙間から顔を覗かせて、宇城家の居間をのぞき込んでいる。正太と目が合うと気づかれたのが嬉しいのか満面の笑みを顔に浮かべて、大きな声で挨拶らしき声を上げた

 

 「まーーーもっ!」



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第六話、二人が買い物にいく話(その二)

 「なっ!」

 

 居間の窓を開いた先には、当然と言わんばかりのドヤ顔をする蓮乃がいた。「んふ~」とか聞こえてきそうな鼻息荒い顔で正太を見つめる蓮乃は、右腕を振り上げてご挨拶だ。

 一方、渋い顔の正太は居間の上から、庭の蓮乃の全身を眺める。よそ行き用のお出かけ装備だろうか。蓮乃の姿はいつも通りのそれとは違う。基本装備のウサギポーチと水玉ワンピースに加えて、何故かクリーム色のパナマ帽を被り、ビーチサンダルを五本指靴下で履いていた。

 その格好は、センス〇%ほぼ確定の正太から見てもずいぶんとチグハグに見えた。思わず「何かおかしくねぇ?」とツッコミを入れたくなる組み合わせだ。ポーチとワンピースのいつもの格好に加えて、五月の日差しを防ぐ帽子につっかけやすいビーチサンダル、多少なりとも歩くだろうから靴下も。発想としてと色々おかしいが、まあ、何とかそれに至ったのはわからなくもない。問題は全体の調和が一切合切とれていない点だ。

 

 ウサギのポーチは赤目白毛のジャパニーズホワイト種をモチーフにしたいつも通りの代物で、水玉ワンピースは女の子らしいパステルカラーなピンクに白地の玉がちりばめられている。蓮乃の顔立ちは「かわいい」より「綺麗」と表されるが、くるくる変わる明るい表情を考慮に入れるなら十分似合う組み合わせといえる。

 

 そんな雰囲気に「かわいい? 女の子らしい? んなもん知るか!」と言わんばかりの違和感をぶち込むのが、頭と足下の取り合わせだった。

 まず頭上のパナマ帽は少し暗いクリーム色。おそらくは母親である”向井睦美”こと睦美さんの物だろう、大人びて落ち着いた色彩だ。

 蓮乃の年齢を考えると、年に見合わない大人ぶった代物にしか見えない。生来の整った顔立ちを考量するなら、ぎりぎりいけるかもしれない程度だ。ほとんど不可能としか思えないが、取り澄ましたお澄まし顔を蓮乃が維持し続けられるならば、似合わないこともないだろう。常の百面相が出てくれば、一発退場レッドカード間違いなしだが。

 

 続けて、足先につっかけられているのはキャラものビーチサンダル。これが女の子向けアニメのプリントだったり、無地のおとなしいサンダルならばほかのパーツと問題なく調和していたことだろう。

 しかし、鼻緒に描かれたキャラクター、どう見ても「男の子向けの五人組特撮ヒーローシリーズ」で、しかも四・五年前に放映していた古いやつだ。自分も視聴していたからよくわかる。確証がないが、バザーや青空市で安く売られていたやつをつっかけ用に買ってきたのだろう。底地のすり減りと、全体の古び具合で想像がつく。それで外出しようと考えるこいつはどういう神経をしているんだ。というか、いつもの子供靴はどうしたんだ。

 

 極めつけは両足をくるんだ五本指靴下だ。指が密着しないので水虫になりにくいとお父さん方に評判で、我が家の大黒柱もこいつを履いている。それでも足がよく臭うので、毎晩の氷酢酸は欠かせない。

 何でまた蓮乃はこれを履いているのか。正しい年齢は知らないが、どう見ても水虫に悩まされる年ではあるまいに。それにつま先で布が余っているのを見るに、蓮乃の物ではないだろう。自分が知る限りでは、お隣一〇四号室は蓮乃と睦美さんの二人暮らしのはずだ。つまり消去法によりこれの持ち主は睦美さんと言うことになる。睦美さん、よりにもよってこんなん履いているんですか。正直に言って知りたくなかったです。

 

 『膝下の父、首下の姉、足裏の弟の三人が三つ巴の大喧嘩して、頭上の母は素知らぬ顔で居座っている』

 

 蓮乃の格好を総評するならそんなところだろう。一家勢揃いで家族喧嘩の真っ最中だ。家庭崩壊待ったなしである。

 おそらくは、いや確実に睦美さんではなく蓮乃が選んだのだろう。この素っ頓狂で脳味噌ヒマワリ畑な娘っ子ならこんな発想をしてもおかしくはない。というよりこいつ以外こんな格好をしそうな、いや、している奴を自分は知らない。

 

 そして最大の問題は「それが問題でない」ことだ。もしも今の蓮乃を後ろから見る者がいれば、そのセンスのなさに失笑どころか大爆笑するだろう。しかし、蓮乃が振り返るや否やその評価を一八〇度転換することになるに違いない。自分のように蓮乃の外観を見慣れているならばともかく、初めて目にする人間ならばほぼ確実にその顔立ちへと視線が向くだろう。そうなれば、蓮乃の珍妙な格好になど目が行くこともなくなる。『終わりよければ全てよし』ならぬ『顔立ちよければ全てよし』だ。所詮顔か、顔なのか、そうなのか。

 

 無意味極まりない思考を全力で空転させる正太の顔は、呆れ四割、諦め三割、疲れ二割、その他一割の形容しがたい表情を浮かべている。一方、それをのぞき込む蓮乃の顔は、空前絶後のドヤ顔から疑問符を頭上に浮かべた訝しげな色合いに変わりつつあった。窓を開けてから正太の反応がないのが気になるようだ。

 

 もう少しこう、どうにかならんものか。正太は乏しいセンスを回して蓮乃が似合いそうな外観を無理矢理想像する。たとえば帽子を麦わら帽子にサンダルをヒール有りの奴にして、その親父臭い靴下を脱げば「夏の海辺のお嬢様スタンダードスタイル」になるのに、こいつは何でこれを選ぶのか。蓮乃だからか。

 発想が貧困で想像が貧弱な正太では、そんなベッタベタのテンプレートを思いつくのがやっとだった。清子が聞いたら半笑いを浮かべながら「もう少し考えなよ」といわれるだろう。はたまた失笑をこぼしつつ「まあ兄ちゃんだしネェ」と慰められて終わりか。どちらにせよ、清子に正太の野暮天さ加減が嘲われることだけは確かだ。

 いい加減空回りに疲れたのか、正太は意識の歯車を噛み合わせ、改めて目の前の蓮乃へと視線を向けた。さっきから正太が一人相撲に興じていたせいで、放って置かれた蓮乃の顔には不満げな表情がありありと見える。

 

 「む~~」

 

 ついでに声で不機嫌を表明してくる蓮乃。ある意味、実に解りやすい。しかしながら蓮乃の目の前にいる正太は人心に疎い男子であり、他人の心境を正しく斟酌するような高度な芸当は到底不可能であった。事実、正太の脳裏に浮かんでいるのは、「不機嫌の原因はやっぱり格好の関係か?」という的外れにもほどがある想像だ。

 

 不機嫌そうな蓮乃の顔を眺めていると、正太は以前に読んだ小説のワンシーンを思い出した。

 正太は読書が主な趣味であり、その中でも特に読むことが多いのが、ある意味年相応なことに思春期向けの「ライトノベル」である。そしてライトノベルと言えばたいていの作品に恋愛描写が埋め込まれている。なにせその方が売れるのだから編集が入れさせない道理がない。

 しかし、その内容はピンからキリまで千差万別、「惚れ込んだヒロインを主人公が、何話何冊と費やしてようやく振り向かせる」ような作品から、「主人公の活躍をみた次の瞬間に、ヒロインが目を潤ませて頬を染めている」ような作品まで、十人十色な恋愛模様が描かれている。

 そして正太が思い出したのは、良く言えば定番、悪く言えば特色のないラブコメディ作品の、これまたどの作品にもありそうな一コマであった。

 

 

 

 

 

 

 ……ヒロインから「買い物につき合え」と言われ、渋々出かける主人公。デートのつもりのヒロインは何時間もかけて選んだ、お洒落な服をまとっている。しかし典型的ラブコメ主人公がそんなことに気がつくはずもなく、あっさりスルー。おかげでヒロインは大いにぶすくれて、翌日から学校での会話も全くなくなってしまったのだった……

 

 このシーンを読んだ時、不可思議に感じた正太はちょうど近くにいた清子に質問をした。

 ・何故、お洒落したことを言いもしなかったのにヒロインは怒っているのか?

 ・そのことを話して尚、無視されたなら怒りを覚えるのは道理だが、一切合切伝えてもいないのに勝手にキレるのは無茶苦茶じゃないか?

 

 清子は「あくまで自分の感覚だけど」と前置きをした上でこう答えた。

 ・がんばってお洒落した自分の努力を認めて欲しい

 ・言わなくてもわかることで”自分を見ていてくれている”ことを確かめたい

 ・綺麗になった自分に気が付いて欲しい、誉めて欲しい

 ・他多数

 

 それを聞いた正太は戦慄した。これほどまでに女子とは七面倒くさい生き物だったのかと。そして女子とは一生理解できない生物なのだと確信した。

 なお、それを口に出したところ、菩薩の顔をした清子に「じゃあ兄ちゃんは生涯確実にモテないネ」と慈悲無く烙印を押されたのであった。

 

 

 

 

 

 

 たしか、そんなことが以前あった。蓮乃を眺める正太はそんなことを思い返していた。もしかして、目前の蓮乃が異様ななりをしているのは、蓮乃なりのお洒落なんじゃなかろ…………お洒落? これが?

 

 正太は思わず天井を仰いだ。正太の薄っぺらい美的感覚が混乱の極みに達する。これほどの困惑はパリコレクションの最新モードをテレビで見たとき以来だった。

 無数に変色する極彩色の水玉で指の先からつま先まで覆い尽くした全身タイツのモデルや、下着と水着の合いの子の上に投網を布代わりにしましたと言わんばかりの網模様を纏ったモデルなどなど、珍妙と言う言葉では足りない姿のモデル達。

 そんな町中でみたら警察を呼びたくなるような格好をしたモデルたちが、テレビ画面の中で悠々と花道を歩いていた。正太の常識と良識とその他諸々を試験しているようなファッションが当然の様に誉め称えられている光景に、正太は自分の視力とテレビの故障、己の正気を疑った。

 

 あのモデルたちはなにを考えてあれを着ていたのだろうか。いや、モデルはそれを着ろと言われて着ているだけだ。問題はそれを描いたデザイナーの方だ。そうなると蓮乃の服はあくまで市販品だから、問題は……やっぱりある。この組み合わせを考えたのは紛れもなくコイツだろうから言い訳ができそうにない。

 

 明後日の方向へジェット推進でかっ飛ぶ思考を、正太は頭を振って無理矢理初心に立ち返らせる。ただし、初めの時点で大きく間違えていることに、当人が気がつく様子はない。なお正太の知らぬことではあるが、パリコレで発表されるファッションはコンセプトモデルで、実際に販売されるものは一般的な衣装である。

 

 ま、まあ、とにかくこの格好は当人なりに考えた結果じゃなかろうか。それを頭ごなしに否定されれば腹の一つは立とうものだ。多少なりともオブラートに包んで、少しくらいは誉めて遣らねば角が立ってもおかしくない。コイツに泣かれたらエライ面倒なことになるのは、ここ数日で嫌になるほど(実際嫌だが)体感している。

 それに結局の所、先にも考えたように蓮乃は顔の方が目立つからさほど問題にはならないだろうと予想できる。『肌の白いの七難隠す』とは言うが『顔が良いのは野暮天隠す』と言った所だろうか。それもこの格好のセンスも七難のうちか?

 とりあえず蓮乃を誉めることにした正太は、テレビ横に常備してあるメモとペンを取ろうと体をひるがえした。蓮乃は音を聞くことはできても、生まれ付きの障害で言葉を聞き取ることができない。なので何かを正しく伝えたいならば文字にしてやる必要があるのだ。誉めるならぼんやりとしか解らない身振り手振りよりも、しっかりと伝わる文字の方がいいに決まっている。

 

 「んっ!」

 

 何やら蓮乃が元気のいい声を上げた。声の方へと振り返ると突き出されたノートとペン、そして「よくわかっているでしょう!」と書かれたドヤ顔が目に入った。いいタイミングだ、実際気が利いている。蓮乃には聞き取れないだろうが「ありがとな」と声をかけて、正太はシャープペンシルと「お話」と書かれたノートを受け取った。

 

 『ノートとペン、ありがとう。それと』

 

 そこまで書いた所でペンが止まった。正太の額を一滴の冷や汗が伝い落ちる。

 

 ――この格好をどうやって誉める!?

 

 これを誉めれば嘘をつくことになる。本音としては、「ダセェ」の一言で切り捨てたい。しかし誉めねば蓮乃が拗ねるだろう。多少なりとも考えた格好を否定されれば角が立つのは当然だ。二律背反、まさにジレンマだ。正太は今、(本当にどうでもいい)岐路に立たされていた。

 急にペンを止めた正太に蓮乃は不可思議そうな表情を浮かべる。加えて隠し味に不満と心配を少々入れた顔で蓮乃は眉根を寄せた。さっきから兄ちゃんなんだかおかしい。

 何せ蓮乃の格好をみるなり凍り付いて、一人相撲で何やら悩んだ後、ようやくペンを持ったと思ったら、再び機能停止という案配だ。蓮乃でなくとも「なにがどうした」と言いたくなる。

 

 そんな蓮乃の気持ちに一切合切気がつくことなく、便秘三日目での便所のごとくに正太は一人唸っている。ちょいとした嘘で誉めてやればいいだけの話なのだが、正太は軽く嘘がつけるようなタマではない。良きにつけ悪しきにつけ不器用な人間なのだ。それに両親から「意味もなく嘘をつくな」と教育を受けている。正太は尊敬する親の教えに逆らいたくはなかった。

 これがフン詰まりなら最悪下剤を飲めばいいだけの話だが、アイディアをひりだしてくれる通じ薬なんぞどこにもなかった。魔法のせいで無駄に有機化学の発達した現代でも、バカにつける薬は見あたらない。

 

 しかし『窮すれば通ず』という諺もあるように、人間追いつめられれば何とかしてしまうもの。正太の脳裏に一〇〇WLED電球が光った。どうやら嘘は付かずにすみそうだ。正太は意志力を総動員して凍り付いた利き腕を動かす。

 

 『それと、ワンピースとポーチがよく似合っていてるぞ』

 

 嘘は書いていない、決して嘘は書いていない。ワンピースとポーチが似合っているのは本当だ。他は一切似合っていないが、その二つは似合っている。自分の目から見ても、それだけなら可愛く見える。自分に必死に言い聞かせ、ながら正太はノートを蓮乃に向けて突き出した。

 蓮乃は身を乗り出すようにノートをのぞき込んむ。そしてそのまま十秒ほど、一時停止ボタンを押したように文字を眺める。ノートに書かれた文字を見るその顔には、呆けたような透明な色が浮かんでいる。以前、一〇三号室前で正太を待っていた時のような、非人間的な硝子細工の美しさを帯びた表情だ。

 

 ようやく読み終えたのか、蓮乃はゼンマイ仕掛けのようにことさらゆったりと顔を上げる。陶器人形を思わせる整った無表情が正太と向き合った。大理石の頬に水晶玉の眼、黒絹の髪に辰砂の唇。いつもの無駄にパワフルな百面相の下には、芸術作品として展覧会に出せる外観が眠っている。

 毎度のことながら、本当に自然の創作物なのか疑いたくなる顔立ちだ。正太の貧弱な観察力では、その人形顔の裏でどんな思考が回っているのか想像も付かない。

 

 数秒の沈黙。実は自分はピュグマリオンと同じ様に、人形を相手に一人相撲を取っているんじゃなかろうか。やくたいもない想像が正太の脳裏をよぎった。

 それを否定するように、はたまた生き物であることを思い出したように、蓮乃の眼が瞬く。次の瞬間、蓮乃の無表情が煮込みすぎたカボチャのようにグズグズに溶け出した。

 

 「えへへへへへへ」

 

 だらしなく蓮乃の唇と頬がゆるむ。大理石の頬が餅のように伸び、水晶玉の眼はやに下がった瞼に沈んだ。蓮乃はワンピースの裾を摘むと、なにが楽しいのかネジを巻かれたゼンマイ人形みたいにグルグルと回り出す。黒絹の髪が動きにあわせふわりと舞って、辰砂の唇から喜び以外読みとれない無意味な言葉がこぼれだした。

 

 「にへへへえへへへぇ」

 

 女神像の硬質な美貌から急転直下で溶け崩れたマーガリンに変わった蓮乃の有様に、正太も顎を外して埴輪顔だ。

 

 ――え、なにこれ、こいつこんなんでこんなに喜ぶの?

 

 正太からしてみれば誉め言葉が便秘気味だったとはいえ、さっき文字にしたのは単なるお世辞でしかない。これが清子相手なら「はいはいありがと」であっさり流されるか、「なんかまずったの?」と裏を勘ぐられるかそのあたりだろう。

 しかし目の前の蓮乃はと言うと、「一部上場一流企業勤めのイケメンにプロポーズを決められた三十路女子」か、はたまた「サッカー部エースの美形キャプテンに告白された地味目影薄娘」の有様か。何にせよ「あり得ないと思っていた、でも心底望んでいた場面の主役になった」かの如き状態である。

 

 なお、本当に清子に同じようなことを言った場合「……バカにしてるの?」と腹の底から蔑まれること請け合いだったりする。

 なにせ、正太が口にしたお世辞は「ワンピースとポーチが似合っている」であり、ワンピースとポーチは常の蓮乃が身につけているもので、今日特別にした格好ではない。つまり正太の誉め言葉は「『いつもの格好が』似合っている」とも受け取れてしまう。逆を見れば「今の格好は似合っていない」と言っているのと等しいのだ。

 これは怒る、普通は怒る。しかし蓮乃は喜んでいる。

 

 埴輪立像と同じ顔をしたまま、正太は思考を巡らせる。以前にも考えたことがあるが、蓮乃は美貌だけで飯を食っていけるだけの外観を持っている。さらに加えて「面白桃色百面相」「脳内御花畑が百花繚乱」と少々小馬鹿にしてはいるが、非常に明るく周りを和ませる人当たりのいい性格と表情をしている。ならば周囲の人間がそれを理由にチヤホヤしてきたのは間違いないだろうし、チヤホヤされるのに慣れきっていたとしてもなにもおかしくはない。むしろその方が普通だ。

 それなのにこんなお世辞未満の誉め言葉擬きで有頂天に達するとは、完全に想像の斜め下をロケット噴射で吹っ飛んでいる。さらに正太は脳内引き出しを片端からひっくり返して、今までの蓮乃とのやりとりを思い返す。

 そう言えば昨日のお菓子づくり(第五話参照)の中でも、清子に誉められ撫でられて蓮乃は雑煮の餅みたいにとろけていた。考え直してみればかなり異様な話だ。それ以前の蓮乃を前提とするならば、せいぜいが薄っぺらい胸を張って『私、すごい!』とでも書いて終わりだろう。

 それなのにまるで「誕生日のプレゼントに、欲しくて欲しくてたまらなかったぬいぐるみをもらった」かのように喜んでいる。これやそれや程度で心の底から喜ぶくらい、こいつの沸点は低いのか? それとも何か事情があるのだろうか。

 正太はその理由を探ろうとさほど多くない脳細胞をフル稼働させる。しかし知識と経験と才能とセンスと根気そのほか諸々が足りない正太如きでは、蓮乃の内訳など想像することもできなかった。素焼きの埴輪を顔面に張り付けている正太は、埴輪らしくその目は節穴であったのだ。

 

 ――もういいや。自分にゃとてもじゃないが理解不能だ。

 

 考えたって判んねぇだろうと思考を放棄した正太は埴輪顔を取りやめて頭を振るった。五月の日差しに照らされて、脳内ともどもメリーゴーラウンドよろしく回っている蓮乃を見ていると、いろいろ悩む自分の様が実に馬鹿らしくなってきた。端から見れば頓珍漢極まりない格好だが、何にせよ蓮乃は喜んでいるのだ。これ以上気にしても得にはならない。もうこれでいいだろう。

 「いろいろ」を込めたため息をはいた正太は、改めて蓮乃へと視線をやった。パンケーキの上の蕩けたバターにケーキシロップをかけた表情で、ひさしの下の蓮乃が回っている。その脳天気な様を眺めていると、正太の顔に思わず苦笑と微笑が同時に浮かぶ。ほらまたくるりとまわって……突っかけた?

 

 頭の中が雲の上をスキップしている当人に自覚はなさそうだが、時々突っかけてはたたらを踏んでいる。文字にするなら「くるりくるり」の途中に「くるとっと」が混ざっている感じだ。

 正太の眉根が寄せてあがる。居間の縁側周りは母が毎日掃除をしていて、ひっかけて転ぶような小石の類はないはずだ。そもそも何かにぶつかって転びかけたなら何らかの音がしていいはずだし、回転ごとにバランスを崩すのも妙な話だ。

 常の細目を糸より細めて正太は蓮乃を見つめる。元々の人相の悪さも相まって、他人が見たら即座に警察官が呼ばれそうな光景だ。だが当の正太は犯罪寸前の有様に気がつくことなく蓮乃への凝視を続ける。

 

 くるりくるりのくるとっと。こいつ三回転に一回は靴下を踏んでいやがる。こうして回る蓮乃をよくよく見れば、靴下の爪先を踏んでいるのが正太の目に入る。どうやらサイズの合わない靴下を無理して履いたのが原因のようだ。ビロビロと先の余った靴下を逆の足で踏むもんで、そのつど重心を崩してたたらを踏んでいる。縁側とはいえ庭の上で靴下を踏みつけるものだから、爪先は焦茶色に汚れてしまっていた。

 靴下の爪先が伸びているだけならともかく、泥と埃に汚れてしまっているのはさすがの正太でもいただけない。この状態で公共の場に出るのは、さすがに問題ありと言わざるを得ないだろう。見た目も悪けりゃ衛生にも悪い。ついでにセンスも悪くて評判も悪い。怪我の危険もあるし、こいつは外には出せそうもない。

 靴下を履き代えるように言わなきゃならんな。ついでにサンダルからいつもの靴に履き代えるように言っておこう。そう胸の内で決定すると、雲上をスキップする心地の蓮乃を呼び戻すべく正太は肩を揺さぶった。



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第六話、二人が買い物にいく話(その三)

 蓮乃の一時帰宅より数分後。行儀悪く食卓に頬杖を突いた正太は、不機嫌と書かれたしかめ顔で居間の窓を眺めていた。無駄に横広い体を包むのは、抹茶色の木綿パンツとキリル文字プリントの灰色Tシャツという、地味を体現したような組み合わせだ。なお、Tシャツのキリル文字は「カニ」を意味している。

 蓮乃の格好を酷評していた正太だが、今の格好を見てその資格があると納得できる人はそう多くないだろう。何せ、上も下も安売りバーゲンで買ったもので、その上自分で選んだのではなく母が買ってきた服を適当に合わせただけの雑っぷりである。一応これでも正太なりにお気に入りを選んだのだが、お気に入りでこの程度というあたりセンスの程度が伺える。

 

 正太の目線の先で、宇城家一〇三号室と向井家一〇四号室を分ける垣根が五月の薫風に揺れている。心地よい初夏の日差しを存分に浴びて垣根の植木は新緑に輝いているように見える。その光景をぼんやりと網膜に映しながら、正太は先ほどの蓮乃の帰宅を思い浮かべた。

 『靴と靴下を履き替えてこい』と告げられた蓮乃は、いつも通りに「垣根の隙間から」一〇四号室へと帰宅した。蓮乃が来るまでは「玄関から帰れ」と言おう言おうと思ってはいたのだが、結局正太は言いそびれてしまった。蓮乃のあまりに素っ頓狂な格好に衝撃を受けて、正太の頭からその事がすっぽ抜けてしまっていたのだ。

 蓮乃がやらかしたときに言わなかったくせに、帰ってきてから叱るのも今更だしなぁ。だからといって放っておくのもなぁ。口元をへの字に曲げたまま、正太は歳に見合わない大人びたことを考える。ひん曲がった唇から機嫌を損ねた豚を思わせるうなり声をあげて、発展途上のシナプス網に火を付ける。何とかして筋の通った形で蓮乃に玄関から帰るように言いつけられないものか。

 

 だが所詮正太は一四のガキでしかなく、考えも子供の背伸びや付け焼き刃の類でしかない。結局、考えの煮詰まった正太は両手で頭を抱えると、天井を仰いで敗北宣言を口にした。

 

 「あーもーくっそ、こんちくしょう」

 

 きっとこれが尊敬する両親なら、ベストな回答を知っていることだろう。年齢以上に頭のいい清子ならば、少なくとも自分よりマシな答えを出せるだろう。しかし、他人の心というものが全く持って解らない自分にはあまりにも荷が重い話だ。もし「前の一件」以前の考えなしのノータリンだった頃ならば、愚か者らしく、相手の気持ちなど全く考えず自信満々かつテキトーに、上から目線で蓮乃を怒鳴りつけていたはずだ。

 だが、愚者らしく「前の一件」で泣くほど痛い目を見てようやく学んだのだ、「自分は人様の腹の内など一片たりとも判っていない」ということを。そんな自分が現行犯でもないのにお隣さんの娘である蓮乃を叱りつけるなど、余りに大それた話だ。自分ごときがやるなど失礼極まりないことだろう。

 考えていることが斜め下にズレてきていることも気がつかず、正太は自分で自分を貶しつつマイナス思考のスパイラルへと落ちてゆく。ついでに頭を食卓の上に落とし、正太は首だけ曲げて顔を庭の方へと向けた。天気はきれいに五月晴れ、庭の草木は新緑に萌え上がっている。のどかな皐月の光景と無駄に暗い己の有様を鑑みて、正太は泥のようなため息を吐いた。

 

 いい加減にしよう。一人上手に、ネガティブ思考していたところで、何の意味も得もない。それに年下の子供相手に、落ち込んだ顔を見せて喜ぶ趣味はない。どうせするならまともな顔だ。上体を起こして姿勢を正すと、正太は気分を入れ替えるべく、繰り返し大きく息を吸って吐いた。おかげで無意味なマイナス思考が多少抜ける。

 さらに気分を一新するべく正太は椅子から立ち上がると、居間の隣の台所へと向かった。気分が落ち込んだときは何か口に入れるに限る。どう考えてもデブ一直線なこの方法が、正太にとって一番のストレス解消法だったりする。こんなんで痩せるなど夢のまた夢、宝くじに当たる方がまだ確率が高い。自分の体型に文句があるなら、母の遺伝子にいちゃもんを付けるより、これに代わるストレス解消法を見つける方が遙かに有効だろう。

 

 台所に着いた正太は調整豆乳でも飲もうかと冷蔵庫に手をかけた。冷蔵庫の平たい扉はクリップボードの代わりに、些事と指示の書かれたメモで埋め尽くされている。母の字で書かれた数々のメモは、主に見る人間が母だけだからか「日選カタ五月終り予定」「蒼穹振込一万七千」「切手補充¥一〇〇×S一」などなど暗号文と見間違えそうなくらい端的だ。

 紙パックを取り出して扉を閉じた正太は取り出したコップに豆乳を注ぎながら、冷蔵庫の一面を覆うメモのウロコ文様を見ることなしに眺めていた。なみなみと豆乳の注がれたコップを口へと運び、一口目をのどの奥に流し込もうとした瞬間一枚のメモが正太の目に留まった。無数のメモ書き暗号が並ぶ中、ただその一枚に母の字で「正太へ」の一文が入っていたのだ。「母さんから自分宛のメモって何かあったっけ?」と内心首を傾げつつ、正太はメモの文面に目を通す。

 

 でんぷん米「かがやき四二」五kg、零余子芋(ムカゴイモ)・皮無し玉葱(カワナシタマネギ)各五個ずつ、酵母肉五〇〇g、ベルモントカレー中辛・甘口一箱ずつ等々、ズラズラと書かれた品名と個数。末尾には「お金は買い物かごの財布から出してください」の一文も添えられている。どこをどうみても買い物メモである。

 ああ、そういえばそうだった。頼まれて買い物にいくんだから、何を買うかのメモは必須だったんだ。大事なことを忘れていたと、正太は小さく舌打ちを響かせる。カスタード大福とお菓子の補充くらいしか正太の頭には残っていなかった。これでスーパーに行ったなら、帰ってきた後に油っ気がなくなるまでこってり絞り上げられていたことだろう。あまり楽しい想像ではない。

 

 やっちまったと後悔の渋面を作った正太は、額を覆って落ち込む代わりにコップをあおって一息で豆乳を飲み干した。失敗前に見つかったのだ、何か問題が起きたわけではない。「ヒヤリ」「ハッと」は事故や過失につながる道ではあるが、「危なかった」で終わらせずに次に生かせれば、事故の効果的な予防になる。これも下らない落ち込み癖を発揮するより、忘れないためにはどうすればいいかを、考えた方が何倍も有意義だ。

 豆乳最後の一滴を舌の上に落とした正太は、そこまで考えて気分を改めメモを見直す。材料を見るに今夜はカレーだ。好物だからこいつはうれしい。渋顔をカレーのイモよろしく煮崩して正太は頷く。だがそこで、ふと気がついた。

 

 ――この量だと帰りは両手一杯に紙袋を吊す羽目にならないか?

 

 さほど量のない酵母肉やベルモントのカレールーはともかくとして、ムカゴイモとタマネギは結構な体積をとるだろうし、でんぷん米五kgは確実に片手がふさがる。それに加えて補充用のお菓子数袋に箱入りカスタード大福まである。さらに言うなら、これを両手に持った上で蓮乃のお相手をしつつ家まで連れて帰らなければいけないわけで……

 

 「うっわめんどくせぇ」

 

 思わず本音が口から漏れた。言い出しっぺが自分とはいえ流石にこれは面倒くさい。基本的に蓮乃との会話はほぼすべて筆談であり、つまり可能なら両手が最低でも片手が空いていなければ会話ができない。にもかかわらず、買ったものを持てばほぼ確実に両手が塞がってしまう。つまり、会話不可能な状態であのゼンマイ過剰巻き気味女子を相手取らなければならないわけだ。

 せめて我が家最速の移動手段である自転車(車齢一〇年のママチャリ)が使えれば多少は楽になるのだが、母がパートの職場への移動に使用しているから今現在家にない。それにパートの職場は自転車片道三〇分の距離にある。そろそろいい歳の(否定してるが)母にその距離を歩けとは流石に言えない。

 他の手としてはリュックサックを用意するという手段も、あるにはもある。だが、旅行の時以外使わないそれの置き場は母しか知らない。探したとしても蓮乃が来る前に見つかることはないだろう。家中をひっくり返して、蓮乃のご機嫌を押し下げたあげく母の血圧を押し上げるのが精々だ。

 

 さらに加えて今日は徒歩の蓮乃がいるわけで、もしも自転車があっても正太は自転車を押して歩くしかない。これじゃやっぱり両手が塞がってしまう。まさに八方塞がりというわけだ。

 法に反していいのなら自転車二人乗りという手もあるにはあるが、そんなことをしたらお巡りさんの目に留まって免停を頂いてもおかしくない。そんなことになったら、油どころか血の一滴も残さずに両親から絞り尽くされかねないだろう。

 管理社会が浸透したこの時代、いろんな自由は許可制・免許制になっており、自転車免許こと「軽車両運転免許」もその一つだ。かつては好きな時に乗れて好きな所へ行ける、小回りの利く簡便な移動手段として重宝されていたのだが、現在は免許が必須である。免許の取得自体は難しいものではなく、一〇歳から簡単な講習と実技で簡単に手に入れられる。

 しかし、元々自転車事故の増加を切っ掛けに作られたものだけあって、事故原因になる「酒気帯び運転」「傘持ち運転」「二人乗り」のような危険運転への罰則は厳しいのだ。

 

 「どーしたもんかね」

 

 将棋で「王手詰み」をかけられた心境の正太はやるせなさそうな顔でため息をつくと、いつもの口癖をぼやきつつもう一杯豆乳を飲むべく冷蔵庫を再度開いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 太陽は天頂を越したが、日差しの強さがピークを迎えつつある午後早く。先ほどと同様に、正太は居間で食卓に頬杖をついて庭の方を眺めていた。机の上には使い古した強化紙製の買い物袋四枚を、折り畳んで帆布袋に押し込んである。

 これで買い物に足りるかどうかは不安だが、まあ最悪スーパーで紙袋を買えばいいだろう。買い物メモと財布と鍵はポケットの中に放り込んだ。カスタード大福の分は別枠で自分の財布を入れてある。蓮乃用にメモとペンも用意している。忘れ物はないはずだ。あと要るのは、お隣さんの娘っ子だけ。「出入りは玄関から」って言いそびれてしまったから、ほぼ間違いなく庭から来るだろう。

 『噂をすれば影が差す』というが、誰かを思い浮かべているとそいつを見かけることは多いものだ。今回もその例に漏れず、正太の視線の先にある植木の垣根がふるえるように揺れ動いた。当然そこから飛び出すのは猫でも犬でもないが、中身はある意味それそっくりな見覚えのある長い髪だ。

 

 「まーーー!」

 

 いつもの通り何を言っているのか全く解らない歓声を上げ、元気一杯に右手を振り上げご挨拶。正太が答えるように小さく手を振ると、飼い主に誉められた子犬のしっぽよろしく蓮乃は右手をぶんぶん振り回す。活力気力その他諸々あふれ気味の蓮乃の様子に、正太は優しげな苦笑を漏らした。

 さてさて蓮乃の奴は言われたとおり格好を変えただろうか。薄桃色のワンピースと白兎ポーチはそのままに、頭上のパナマ帽も相変わらず。膝から下は自分に言われたとおりに、普通の白靴下とビーチサンダルに履き替えて……ってビーチサンダル?

 

 正太の眉間にしわが寄った。改めて蓮乃を見直すと、確かに靴下は大きすぎる五本指ではなくサイズのあった普通の奴に代わっているのだが、その下の履き物は特撮ヒーローがプリントされたビーチサンダルのままである。

 眉間同様のしわが正太の顔に寄って不機嫌を示す渋い面を作る。このままいくと自分の顔でしわがデフォルトになりそうで怖い。覚えが正しければ、自分は蓮乃に『靴と靴下を履き替えてこい』と書いて見せたはずだ。靴下を普通の奴に履き替えてきた以上、知らなかったというわけはあるまい。なら一体どういうことだ。

 正太はでかいケツを椅子から持ち上げると、庭に面した窓際へと足を運んだ。当然、蓮乃との会話用にメモとペンは欠かさない。蓮乃のおかげで用意したメモとペンがすぐに役立つわけだ。まあ、元々蓮乃用に用意したものだから何にもおかしくはないのだが。

 

 『靴に履き代えろっていったろ?』

 

 正太は疑問をメモに刻んで蓮乃に突きつけた。さて、何と叱るべきか。胸の内で一人ごこる。だが、蓮乃からの返答球は正太の予想の頭上を越えて大暴投だった。

 

 『お母さんが洗っちゃってる』

 

 口の脇にひきつったしわが寄り、正太は思わず内心で頭を抱えた。昨日(第五話参照)、蓮乃に「睦美さんに買い物に行く許可を貰うように」と伝えておいた。蓮乃がこうしてここにいる以上、睦美さんに話が行っているはずであり、普通なら靴を洗うような買い物の邪魔になることはしないはずだ。それなのに蓮乃の言が正しいならば履き物が洗濯されてしまっていたのだ。

 

 ――蓮乃から話聞いていなかった訳じゃあるまいし、睦美さんいったいなにやっているんですかぁ!?

 

 思えばそもそも靴を洗っていたから蓮乃はビーチサンダルを履いていたわけなのである。それが判っていたなら先に書いて置いてくれよ、頼むから。文句を視線に込めて睨みつけるが、素知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるのか、はたまた気がついてもいないのか、蓮乃はニコニコマークで笑っている。蓮乃の変わらぬ笑顔に気力が失せたのか、正太は敗北宣言代わりのため息をもう一つ追加でこぼした。

 

 『履き替える前に判っていたなら、はじめっから言ってくれ』

 

 「ん」

 

 正太の言葉を解ったのか解ったふりなのか解らないが、蓮乃は首を縦に振った。今更言ってもしょうがない。靴が無いから蓮乃はビーチサンダルを履いているのだ。叱ったところで靴が出てくるわけでもない。この話はこれでいいだろう。これで終いだ。

 蓮乃のいる庭の方から視線をはずして壁に掛けられた時計を見やれば、そろそろ午後二時半ば。自分も一応準備はできた。忘れ物がないかも確認した。蓮乃の方は言うまでもなし。準備万端の蓮乃を待たせるのも悪いし、ちょいと三時には早いが予定を少々早めるか。

 

 気分転換もかねて予定を早めることを決めると、それを告げるべく正太はメモとペンを手にした。



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第六話、二人が買い物にいく話(その四)

 本日の日照量最大値をマークする太陽光に頭を焦がされつつ、正太と蓮乃は目的地であるスーパーマーケット「ビックバスケット」への道を歩いていた。

 帽子をかぶるべきだったか、それとも家を出る時間をずらすべきだったか。どちらにせよ頭が暑い、いや熱い。スポーツ刈りの頭では、髪の機能である「頭部の保護」を発揮するに至らず、その隙間から差す直射日光に頭皮を炙られて正太は色々と後悔しつつあった。

 一方の蓮乃はというといつも以上に元気過剰だ。ノタノタ歩く正太を中心に衛星軌道を巡っている。満月よろしく自転を加えて錐揉み回転しながら正太の方へと笑顔を向ける。蓮乃の髪質は軽いのか、蓮乃が回る度に濡れ羽色の髪が宙を舞って一瞬の薄衣を織る。

 

 「おーひのとーててー♪なりらもなたくーらたー♪」

 

 加えて何が楽しいのか歌詞以外は完璧な歌を口ずさみながら、色白の細い手を振り回し、蓮乃は正太と歩いている。とりあえず隣にいてはくれるものの、蓮乃は歩調を合わせるという言葉を知らないようで、好き勝手なペースで正太の周りを動き回っている。おかげで正太は蓮乃を追い抜かないように、蓮乃に置いていかれないように、その都度歩幅を調節する羽目になっていた。

 正直言って面倒くさいったらありゃしない。けれども蓮乃はえらく楽しそうで、正太にはそれを指摘するのはどうにも野暮に思えて仕方がなかった。

 

 ほんっとこいつは元気一杯だこと。思う存分両手を振り回し回転する蓮乃の様子を眺めながら、先より控えめな苦笑を浮かべた正太はため息を鼻でつくと、胸の内で皮肉混じりな一言をぼやいた。

 こうして自分はスーパーまでの往路だけでひいこら言ってるのに、かたや蓮乃は一緒に歩くだけではなく回って踊るだけの余裕があるわけだ。まあ、子供は体力配分を間違えやすいものだから、しばらく経ったらヘトヘトの蓮乃の手を引っ張る羽目になっているかもしれない。それとも自分が運動不足なだけだろうか。

 正太が視線を下へと向ければ、でっぷりと突き出した腹周りが見える。裸になっても上から自分の逸物が見えないくらいには、贅肉で膨れ上がっている。実を言えば体育の授業は結構好きだし、保健体育の成績もそう悪いものではなかったりする。外観から勘違いされがちだが、小学校の頃はクラスで言えば中の上くらいは運動が得意だった。

 それでもこの腹では言い訳の仕様もない。実際、中学入学以来体育の授業以外でまともに運動した覚えがない。久方ぶりに「訓練場」に行ってみるべきだろうか。でも最後に顔を出したのは「前の一件」直前のバカ丸出し絶頂期だったしなぁ。はっきり言って知り合った人と顔を合わせるのに気後れしているのが現状だ。

 

 どーしたもんか。正太は意味もなく後頭部を掻きむしり、考えるだけ無駄なことを考える。結局の所、正太の勇気とコミュニケーションの問題なのだ。悩んだところで畳水練に机上の空論。為さねば成らぬ、為せば成る。

 ふと目をやれば蓮乃は回転運動に満足したのか、正太の隣に停止している。テンション青天井な蓮乃へと正太は視線を向けた。蓮乃の元気は底なしなのか、正太の目からその顔に疲れの色は全く見えない。

 

 やっぱりこいつは子供なんだな。やくたいもない感想が正太の脳裏にぼんやりと浮かぶ。そんでもってやっぱり美人だ。ぶん回す手は雪のように白い肌にほの赤い薄桃色の爪。指の長さも掌のサイズも黄金比で、手首から先だけでもモデルになれそうだ。

 きっと蓮乃は学校でも人気者なんだろうな。脳髄を煮込む暑さを誤魔化すように、正太は無為に想像を膨らませる。美人でかわいい上に良くも悪くも元気一杯。これだけでもクラスで一番モテるだろう。その上、ちゃんと教えたことは一発で理解して、いい意味で子供っぽく素直で天真爛漫。これで先生たちからも大人気だ。これだけあって人に好かれない方が可笑しい。とても口には出せないが、本音を言うと羨ましい。

 一方、自分を鑑みてみれば、通学先の公立戸小中学校では相も変わらずぼっちな身。なんでこんなんなっちゃたんだろう。理由なんぞ考えなくても解る。「前の一件」以来、家族以外とまともに人付き合いができなくなったからだ。顔を合わせてまともに雑談ができるのは家族のみ。いや、蓮乃もなぜか除外される。こっちの理由は知らない。多少考えたが結局解らなかった。解らないなら解らないでもいいだろう。それでうまく行っているのだ。

 

 「よふどーかおうー♪てきびーぼーひさーみばー♪」

 

 蓮乃のことを考えたついでに当人の方へと視線を向ける。相も変わらず底抜けの笑顔で、よく解らない歌を気持ちよさそうに歌っている。音程もリズムも合っているのだが、当人が言葉をしゃべれないせいで何を歌っているのか全く解らない。メロディに聞き覚えはあるので、おそらくどこかで聴いたはずの曲だと思う。確か古いアニメーションのメインテーマだった記憶がある。

 日本語を知らない外人が歌う歌謡曲は、きっとこんな感じになるんじゃなかろうか。ブランコより激しく腕を振り回し歌声を響かせる蓮乃を見ながら、正太の脳裏に疑問が浮かび上がった。

 

 ――そういえばこいつはどこの小学校に通っているんだ?

 

 こんだけ話題になりそうな奴が通っているのだ。同級生から毎日山ほど相談を持ち込まれる清子なら多少は知っていそうなものだが、清子から蓮乃に関してその手の話を聞かされた覚えはない。別段タブーにするような話題でもないだろうから、蓮乃の通学先を単純に知らないのだろう。

 他にそれについて知っていそうなのは、親御さんの睦美さんくらいだ。蓮乃の母親である睦美さんが知らないはずもないだろうが、睦美さんはそんなこと話すようなタイプではない。となれば、蓮乃本人から聞き出すほかはあるまい。

 どうでも良いことをやけに緻密に考えながら、質問を書くべくメモとペンを取り出す。正太はどうやら無駄なことほど力の入るタイプのようだ。ある意味、社会生活に向いていない種類の人間とも言える。そんな正太の問いかけに対する蓮乃の返答は、正太にとって斜め上四五度方向に予想外であった。

 

 『学校はいってないよ?』

 

 学校入ってない? 学校は行ってない? いや、どちらでも同じだ。先に蓮乃が書いたように、小学校へ通学していないという意味だ。しかしそれなら、義務教育とかはどうしているんだ?。

 魔法発現による混乱以来、学校制度に多少の変更が加えられているが「小中高大」基本の流れは変わっていない。中高一貫校が増えたとは言え、義務教育は小学校と中学校で変化なしだ。そして中学生である正太から見て、蓮乃はどう見ても二個下の清子より年下だ。なら年を考えれば蓮乃は小学校に行ってなければおかしいことになる。さてどーいうことだ? 不可解と書かれた表情を浮かべ、正太は顎に手を当てて考え込む。

 

 『勉強はしてる!』

 

 そんな正太の表情をどう解釈したのか、むっとした蓮乃は頓珍漢な返答を書いて見せた。しかし、蓮乃の的外れな答えに正太は珍しくピンときた。常に錆び付いているような正太の勘が偶発的に働いたのだ。

 

 『もしかして通信教育ってやつか?』

 

 『それ!』

 

 考えてみれば蓮乃は「魔法使い+障害者」の二倍掛けだ。一般の小学校に入学するのが難しいということは十分にあり得る。探せば専門の学校があるかもしれないが、決してその数は多くないだろう。母子家庭で県外の学校に通い続けるのも通学のために引っ越すのも楽なことではないに違いない。結果、蓮乃は公の補助を受けての通信教育を受けているというわけだ。言われてみれば何も可笑しくはない。よくよく納得できる話と言える。

 理解と納得を得た正太は静かに頷いた。こいつもこいつで色々あるんだな。十人十色、人に歴史あり。幼かろうが平凡だろうが、それぞれの人生にはそれぞれの過去がある。そしてそれぞれの過去がそれぞれの人となりを作るのだ。

 

 そこまで考えたところで正太は蓮乃の顔を見てふと思った。もしかしてこいつが異様なくらい子供子供しているのは、学校に行っていないせいじゃないか?

 人様の成長について一席ぶれるほどの知識は持ち合わせていないが、直感としてはあり得そうな気がしてならない。歳の割に人間が出来過ぎているように見える清子とは真逆に、蓮乃には年齢を鑑みても子供っぽすぎる所が多々見受けられる。こうして繋いだ手を勢いよく振り回して元気一杯に歌声を響かせている様は(あまりに失礼な物言いではあるが)幼稚園児のそれと重なって見える。自分が想定している歳は清子より二つ三つ下の九~一〇歳だが、行動だけで見るならばもう四~五年分歳を下げても違和感があまり感じられないのだ。

 

 さて、学校は文字通り「学問を習う」所ではあるが、また同時に「社会生活を学ぶ」場所でもある。生まれたときから顔見知った家族から離れ、見ず知らずとまでは行かないまでも、深くは知らない同級生たちや先生方と同じ時間を過ごす。自分の不満を先んじて解決してくれる親とは違い、先生方は手助けこそしてくれるもののおんぶにだっこはしてくれない。同級生たちは言わずもがなだ。

 そうして子供たちは、幾つもの事を学校生活を通して学ぶ。学べることは色々だ。「人生は思い通りにならない」という事、「人様は親のように我が儘を聞いてくれない」という事、「集団から爪弾きにされるのがいかに辛いか」という事。そして何より「周囲は自分を評価して番号付けしている」という事。

 

 そして蓮乃はというと、そういった周囲の視線に非常に疎い。何かあれば気持ちのままに泣き笑い、何かをするにも全身全霊をブン回す。出力調整は基本MAX―〇の二進法のみ。適量? 適切? んなモン自分のしったこっちゃないらしい。

 少しでも周りの評判や視線を気にするならばこうはいかない。右に倣えの日本人にとって、周囲の目は最も強いブレーキである。お天道様は見て無くとも周りの誰かは見ているのだ。それを無視して動けるのはよほどの大人物か、相当の恥知らずか、考えなしの子供くらいしかいない。蓮乃は『自分のせいでお菓子作りに失敗した』と申し訳なくて泣くくらいだから、少なくとも恥知らずではなさそうだ。しかし、蓮乃が未来の大人物か、ただひたすらのガキンチョか、それともその両方か。

 そこまで考えたところで、正太は視線を空へと動かした。綿飴とも羊とも言い難い形の積雲が一つプカリと浮かんでいる。それを見ながら正太の顔に小さな自嘲の笑みが浮ぶ。

 

 ――だがしかし、見る目のない自分には区別が付かない。

 

 清子あたりだったらなんて言うだろうか。自分の意見を容赦なく否定して「兄ちゃんホント見る目無いネ」と笑われてこき下ろされるか。それとも、逆に珍しいことに肯定して「兄ちゃんもたまにはモノが見えるんだネェ」と笑い混じりに感心されるか。どっちにせよこんな事を話題にした時点で笑われることは確定だな。

 ため息と併せて正太は自嘲の苦い笑みを濃くする。ああ空が青い。それに、そもそも学校に通っている自分自身が「前の一件」であのザマなのだ。自分はどうかと聞かれれば、反論どころかグウの音も出ない。自分はどうこう言える立場じゃない。他人様の人生なのだ。自分がくちばしを突っ込めるようなことでもない。たかだか十四の、それも色々と足りない子供が、お隣の娘さんの人生をどう論じるつもりなのか。玄人面して自分探しのアドバイスでもするつもりか? 笑えない話だ、お話にもならない。

 

 「?」

 

 自嘲を顔に浮かべてため息を付く正太に気がついたのか、蓮乃は疑問と心配をごたまぜこぜにした顔で見つめてくる。他人様に心配をかけさせるのはよろしいことではない。ましてや年下相手ならなおさらだ。それでも、毎度毎度こんな調子だからイヤになる。時々、いや結構な頻度で、自分が嫌いだ。

 正太はそんな自己嫌悪を腹の底に沈めると、『まあ、ちょっとな』と言葉を濁した。

 

 

 

 

 

 

 無駄話や考え事をしていると道中というのは以外と早く過ぎるもので、そうこうしている内に目的地が近づいてきたようだ。二人の視界に道並ぶ建物の列から一際大きく飛び出す看板が目に入る。建物自体はそう大きいものではないが、垂直記号のように突き出た看板は実によく目立った。そしてその看板にはポップアート調に書かれた「BigBasket」という文字がバスケットの絵の中に並べられている。

 スーパー「ビッグバスケット」。駅近くのビル一階を占める大総グループの大型食料量販店であり、周辺地域商店街を軒並み青ざめさせた大型スーパーであり、ついでに言うと宇城家の基本的な食料供給源の一つでもある。

 

 「ふなぁーーー!」

 

 目的地が見えたせいか、蓮乃のご機嫌は最高潮だ。頬をほんのりと紅潮させ、両目は星が飛び出そうなほどにきらきらと輝いている。このまま行けば正太を置いてビッグバスケットに突撃を仕掛けかねないだろう。そう感じた正太は、繋いだ手を軽く引っ張ってアクセル全開の蓮乃にブレーキをかける。犬の散歩の要領である。

 

 「うーにー!」

 

 「いいところなのに」と少々不満げに蓮乃は抗議の声を上げる。だが正太は頓着しない。蓮乃を楽しませるだけに来たわけではないのだ。まず買い物リストにある買うべき物を買う。そうせずに「後で後で」と後回しにしていたらついつい忘れてしまうかもしれないし、そうなれば帰宅後には母の拳骨と妹のお小言がタッグを組んで待ちかまえている事となる。それはちょいと御免こうむる。

 そんな正太の態度に蓮乃は唇を尖らせるものの、ビッグバスケットの入り口前に近づくにつれて、所狭しと並べられた商品に目を奪われてゆく。

 

 まず目に付くのは生鮮食品。木箱入りの野菜が段をなし、季節の果物が周囲を飾りたてる。大根、長ネギ、キャベツに人参。苺、甘夏、ビワにサクランボ。変わり種にはナッツビーンやグレープメロンなどの遺伝子を徹底的に弄くられた特殊生物も売られている。当然であるが合法なものだ。

 各種お菓子も数多い。各種フレーバーのデンプンチップスの紙袋に、生体樹脂ボトルの清涼飲料水。山と積まれた袋入りのあめ玉に、ずらりと並ぶラムネの瓶。アミセン、炒り豆、揚げ餅そのほか諸々バラエティパックが隙間を埋める。

 そして商品を紹介するポップアップには、これまたポップな書体で値段と税と紹介が書かれている。なかには人間を抽象化したポンチ絵が商品を紹介している物もある。絵心のある従業員が書いたのか結構可愛らしくて上手だ。

 

 両目をまん丸にして商品を眺める蓮乃をさておき、正太は買い物袋から取り出した買うものリストを見直した。ざっと見た限り、店頭販売されている商品にお目当ての品は見あたらない。残念なことに本日の目玉商品として安売りされている訳ではないようだ。なら店内で探すほかあるまい。

 正太は入り口のガラス戸に手をかけた。が、入り口に手をかけた正太の肘を引っ張るモノがあった。正太はそんなモノを一つしか知らない。目を向ければ肘を摘む小さな手。摘んだ手からその付け根の方へと視線を動かす。当然そこには蓮乃以外に居ないわけで、正太の目には商品をじぃっと見つめる蓮乃が写った。

 

 「オイ、何だよいったい」

 

 胸中でため息を付きながら、正太は蓮乃へと呼びかける。蓮乃は言葉を聞き取ることが出来ないが、音を聞くことは何の問題もない。呼びかけに答えたのか蓮乃は正太の方へと顔を向けた。何かを訴えるような不満げなふくれっ面をしている。ついでに肘をもう一回引っ張った。

 いい加減正太にも見当がついた。どうやら蓮乃は店頭販売の商品に随分と心引かれているらしい。こんなことにここまで執着しているあたり、やっぱり蓮乃の内面は自分の理解の外にあるようだ。しかし、先のとおりここで時間を潰して目的を忘れてしまったならば元も子も何もない。ここに置いていくという方法もあるにはあるが、余所様の子供を預かっておきながらそんな無責任な事をするわけにも行かない。

 追加でさらに一回、正太の肘がぐいと引っ張られた。蓮乃の顔は不満げな色を濃くし、膨れた頬がさらに膨らむ。このまま放って置いたらどでかい癇癪を爆発させかねない。それに今居るのはスーパーの出入り口だ。どう考えても他の客の邪魔である。

 さて、この梃子でも動かなそうな意固地拗らす固持娘を、一体全体どう動かしたものか。餌が歯の間に引っかかってとれない豚の顔で、正太はしばし悩む。腹を空かした豚めいたうなり声を上げつつ、新しいメモを手に取った。

 

 『中にも色々あるぞ』

 

 とりあえず正太はスーパーの中に連れて行くことにした。蓮乃が出入り口前に陣取ってしまっているのは、店頭に置かれている商品が気になるからだろう。だったら店内にも色々な商品が置かれているのを示せばいい。当然ではあるが店の中の品数の方が多いのだ。

 しかし、蓮乃は正太の摘んだメモを見ながら迷った顔を浮かべている。眉の間に小さなシワ山脈を築き上げ、商品とメモとを視線が行きつつ戻りつつ往復している。これで動くかと思いきや、もう一押しが必要なようだ。一応、案はあるがやっていいものか多少迷う。さすがに甘やかしすぎかもしれない。でもまあ、自分の財布から出すんだし、喜ぶだろうし別にいいか。

 

 『一個だけならお菓子買ってもいいぞ』

 

 蓮乃は目を丸くして驚き、メモと正太を何度も見直す。正太は静かに一度頷いた。蓮乃の目が獲物を前にした餓狼のそれに変わった。もっとも顔が顔なので餌を待つ柴の子犬にしか見えないが。

 一応は動く気になっただろう蓮乃を確認して、正太は一つ息を吐いた。延々歩かせ店まで連れてきながら、ウィンドウショッピングでハイ終わりとはさすがに御無体だろう。蓮乃がスーパーでの買い物を楽しみにしていたのは、そういった理由もあってのことだと想像できる。自分だって母の買い物に付き合ったなら、ちょっとくらいは期待する。財布の余裕はあんまりないが、菓子の一つくらいなら何とかならなくもない。しかし……

 

 ――ちょっと甘すぎるだろうか?

 

 正太はわずかに疑問を覚えるものの、「まあいいか」とあっさりと流した。だが正太の行動は、隣近所の子供に対しては他人から見ても甘やかしすぎると言えそうなものだった。初孫相手の爺婆より幾らかましと言ったレベルだろう。しかし正太がそれに気が付く様子はない。自分への問いかけもまた、甘やかしへの言い訳と理由付けと大差ない。それはまるで意図的に意識から外しているようにも見えた。



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第六話、二人が買い物にいく話(その五)

ビッグバスケットの内装はさほど特殊なものではない。入ってすぐ目の前にはレジが一列に並び、左右には特徴のないエスカレーターと階段がそれぞれ設置されている。エスカレーターと階段の後ろにあるワゴンには、ぽつぽつと残る目玉商品の隙間から、幾つものポップが突き出ていた。書かれている文字によれば、「本日限りの大特価」で「お一人様二袋まで積め放題」の「特別感謝セール商品」だったらしい。きっと九時の開店時点では山と積まれてその偉容を示していたのだろう。しかし、そこには「兵どもが夢の後」と虚無が寂しくあるだけだった。

 何せ、「本日限り」「積め放題」「セール」といった単語を見た女性は、赤い布を振られた闘牛以上に興奮するものだ。例え富士山のように積み上げられた商品でも一溜まりもあるまい。その結果が不毛の地ならぬ不毛のワゴンと化した目の前の惨状である。

 正太はセールを前にした女性は戦闘力が倍になると実体験込みで知っている。各家庭のオカンともなればさらに倍率ドン。もしも、正太ごときがその地獄絵図に手を出したら最後、骨のかけらも残さずに粉砕・爆砕・大喝采となり果てるに違いない。いや、正太如きひとえに安売りの前の塵に同じ。喝采どころか声すら挙げてもらえないだろうと軽く想像できた。

 

 あんまり楽しくない想像を頭を振って振り払うと、正太は向かいの壁へと視線を向ける。目玉商品の向かい壁には小さな植木鉢や花瓶に入れられて色とりどりの花が置かれていた。おそらくは贈答用とちょっとした観賞用だろう。薔薇や菊、百合や椿などなどオーソドックスな品揃えに加えて、変わり種としてはサボテンやチューリップなどがある。

 その他には、外の野菜たちと同じくこちらにも遺伝子改造された花も存在を主張している。月光で光る望月夕顔(モチヅキユウガオ)、見る角度により色合いを変える玉虫蘭(タマムシラン)。直接口に入るものではないためか、野菜より特殊生物の割合が多いようだ。色鮮やかな花が目を楽しませてくれる。

 そんな光景になにやら興味を引かれるのか、蓮乃は小さな花畑となっている向かい壁に視線をぴったりと合わせていた。スーパーでの買い物に随分と心引かれていた蓮乃のことだから、こんな風景を見るのも初めてなのだろう。さっきから、初めて散歩に連れ出した子犬を思わせる、辺り全てに興味津々な様子を見せている。

 しかしながら正太はちらりと横目をやっただけで、その横を興味なさげに通り過ぎた。家事にも庭の園芸にも関わっていない正太には、トマトの苗だろうが蘭が半額だろうがさほど魅力はない。後々母に話せば何かしら言われるかもしれないが、向こうから依頼も指示も受けていないのだ。現場の判断を要求するなら自由になる予算を用意してからにして頂きたい。渡された金銭にさほど余裕はないのだ。

 

 だから、『あれ見たい!』と声を挙げる蓮乃を引きずるようにして正太はその場を離れる。加えて、むずがる蓮乃へと一言二言書いて見せて今は花売場に行かないことをアピールした。やることがあるのだ。いちいちこいつの要求に構ってなんぞいられない。

 一方、引きずられる蓮乃の表情は不満千万と訴えている。中に「色々」あると説得されたのに、その「色々」にさわれもしないのは契約違反だ、不公平だ、不合理だ。おかげでとってもご不満だ。顔にそう書いてある。ついでに文字にも書いてある。

 

 『なんでだめなの!?』

 

 『先に用事済ませるから』

 

 もしも蓮乃のわがままを優先して頼まれ事を失念してしまったら、後が怖くたまらない。妹も母も理由もなく人を締め上げるような、御無体な真似をする人間ではない。しかし理由あらば、躊躇なく人を締め上げる御仁でもあるのだ。正太は小さく身震いをする。

 しかしこのニトロ搭載逆噴射ロケット娘がこんな言い訳で納得するとは思えない。実際蓮乃は納得していない様子で、フグの威嚇よろしく頬を膨らませている。蓮乃の膨れ顔を見ながら、正太は「秋刀魚のワタをジョッキで一気飲みした」ような苦々しい顔で考え込んだ。

 さて、どーしたものか。と言うか、連れてきた人間の言うことをちょっとくらい聞けよ。胸中で蓮乃への文句を散々ぼやきつつ、正太は九〇度ほど首と頭を捻る。そのまま耳に入った水を出す要領で頭を繰り返し振るって、アイディアを振り出そうと試み始めた。フグの威嚇よろしく頬を膨らまして裾を引っ張る蓮乃と、壊れたメトロノームよろしく無駄にリズムよく首を痙攣させる正太。しばし、二人の間に異様な時間が流れる。

 一〇秒ほど経っただろうか。正太の頭から思いつきが零れ出た。

 

 ――とりあえず菓子売場に連れて行けば幾らか機嫌も直るだろう。

 

 貧相な想像力を駆使しても、ようやく出てきたのはこの程度の発送でしかなかった。さすがの正太でも「さすがにコレはないか」と考える様な代物だ。

 しかし、他に思いついた考えもない。正太の「す」入りな脳味噌ではこの程度を思いつくのが限界らしい。仕様がないからこれで行く他はない。それに菓子売場なら、清子からの頼まれ物である「カスタード大福箱入り八個」も売っているだろう。どーせ買わねばならんのだから、自分の買い物を先に済ませてしまっても問題は無かろう。

 とりあえず正太は『お菓子売場に行くぞ』と蓮乃に書いて見せた。正太を見つめる蓮乃の顔には、微妙に信じ切れていなさそうな複雑な表情が浮ぶ。少々信用を失ってしまったようだ。信用と信頼は爪で集めて箕でこぼすもの。しばらくは信用してもらえなさそうだ。

 正太は鼻からため息混じりの長い息を吹き出すと、蓮乃の手を引いて菓子売場へと足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 目玉商品の島を突っ切った先、酒やジュースなど各種飲料の冷蔵庫から九〇度横。インスタントや缶詰の列の裏っ側に、子供の目的地「お菓子売場」の棚がある。ただし、お菓子売場はさほど大きいスペースではない。棚の列の約半分は、お父さん方の晩酌のお供である安いおつまみで占められている。一部のおつまみは子供のおやつになったりもするが、少なくとも甘い物は肴の棚に置かれていない。どうやらビックバスケットでは特売品を除くお菓子の売れ行きはあまり良くないようだ。

 

 それでも棚に詰め込まれた数々のお菓子は、蓮乃のような子供の目を捕らえて離さない。実際、棚中に詰め込まれたお菓子の軍勢に蓮乃の視線は釘付けだ。

 まず目に付くはデンプンチップスの紙袋。コンソメ、醤油、塩、バーベキュー、唐辛子、梅などなど、各種フレーバーのチップスが棚の間に鎮座している。その下には、少し値が張るが旧来のポテトチップスもちゃんとある。

 今が我が世と棚の下半分を埋めるのは、量も種類も多い駄菓子だ。麩菓子、あめ玉、おかき、煎餅、フーセンガム、粉末ジュース、ラムネ。元々が自然食品ではなく安価な科学合成材料を元としていただけあって、そのほとんどが現代の材料コスト変化にもたやすく対応してみせた。その上駄菓子と言えば、「人工甘味料」「合成酢」「加水分解アミノ酸」などの調味料を大量にぶち込んだ、舌が痺れる単純きわまりない味である。おかげで多少の味の変化など全く問題にならなかった。

 一方、冬の時代を体感しているだろう代替チョコレートは、子供の目に映らない棚の上段且つ隅っこにほんのわずかな数が並んでいる。混乱前のカカオが安価且つ大量に手に入った時代と比べれば、大きな声では言いづらいが人気のあるとはとうてい言えない。

 カカオビーン由来の疑似ココアと植物油脂から作られたそれに対して、当時の味を知る人間曰く「青臭くて渋い」「苦いだけでコクも香りもない」と散々な評価をされているのだ。盛者必衰というが、二昔前のチョコレートの人気を鑑みればあまりにも寒い現実である。贈答用の高級品に足場を移すことの出来た一部を除けば、そのほとんどは見る影もなく落ちぶれてしまっていた。

 

 そんな祇園精舎の鐘の声が幻聴する代替チョコレートを、渋い顔の正太は指さした。そして「これじゃあない」と胸の内で呟くと、その隣へと指を滑らす。これでもない。この中に探している菓子はあるはずなんだが。

 クリーム系のお菓子は全て同じ段に置かれている。棚の最上段一つ下だけで全部入るくらい、種類も数も少ないのだ。クリームや油脂を使用した菓子類は、かつての全盛期と比べて売り上げを大きく落としている。結局品質が上がらなかったためか、日本人の味覚が古来のそれに回帰したのか、はたまた単に牛乳のコストが上がったせいか。

 まあ、そう言うのは社会学の学者さんや製菓会社の研究者さんが考えることであって、自分が考えることではない。自分がやるべき事は一つ、清子に頼まれた「カスタード大福箱入り八個」を探し出して購入することだ。そうしないと後で清子にどれだけ絞り上げられることだろうか。もしそうなったならば、我が妹に容赦の二文字はあるまい。正太は「その時」を想像して小さく身震いする。それに約束した以上、それを守るのが筋と言うもの。「前の一件」もそうだがいろいろと迷惑をかけてしまっているのだ。このくらいはしっかりやらねば。

 自分にそう言い聞かせると、正太は再び端から菓子の確認を始めた。ミルク風チョコレート、クランチチョコ抹茶味、ヘルシークリームパイ、ショートチョコスティック……

 

 やっぱりここには見当らない。確か以前にビックバスケットで買ったはずなのだがどこにも無い。ほかにお菓子売場がない以上、ここに無ければ置いていないと言うことになる。売り上げが上がらないから、取り扱いを止めたのだろうか。

 しかし自分の記憶にある限り、カスタード大福は売れ筋商品の一つだった。国内産の材料を中心に代替材料を最小限にしたカスタード大福は、他のクリーム系菓子に比べて低価格で高品質な菓子だ。それ故に油脂と甘味のコンビネーションに飢えた人間にとっては、真っ先に手が伸びる商品でもある。それの取り扱いを止めるくらいに売り上げが落ちたとは少々考えづらい。それとも自分が知らないだけで、大規模な食品偽造事件でもあったのか?

 一人正太は首を捻る。思い返すも心当たりなしだ、何処にあるのかさっぱりわからん。それに、こうも繰り返し脳裏に浮かべるとどうにも味が思い浮かんでしょうがない。どうにも探し回っていたら何だか食いたくなってきた。

 

 ――そうだ、見つけて購入したら、いの一番で自分が食べるとしよう。

 

 買ってくるのは自分だし、金を出すのもまた自分だ。それくらいは許されてしかるべきだろう。記憶の味を思い出して正太は無駄に厳つい相貌を緩める。おお、あのずっしりと舌に絡みつくような甘み! 鼻を抜けるバニラの香りと口中に広がるコクが堪らないんだ。冷蔵庫の中から取り出してよーく冷えた奴にかぶりつくと…………まて、なんか引っかかったぞ。

 正太の脳をわずかにチグハグな感覚が引っかいた。想像の中で何かに対して違和感が感じ取ったらしい。正体を探るべく正太は脳内ビデオファイルの逆再生を試みる。

 

 「冷えた奴にかぶりつくと……」   いや、その前だ。

 

 「鼻を抜けるバニラの香りと」    いや、その後。

 

 「冷蔵庫の中から中からとりだして」 これだこれ!

 

 ああそうだった。そう言えばそうだった。カスタード大福は要冷蔵の生菓子だったんだ。安堵と納得がない交ぜになった感覚が正太の頭蓋の中で広がる。きっとアルキメデスもこんな気持ちで素っ裸のまま走ったに違いない。

 考えてみれば当たり前の話だ。こんな常温のところに置いていたら、あっというまにカスタードがミント仕立てにお色直ししてしまう。そんなもん食ったら最後、胃腸がスースーするくらい雪隠詰めとなるだろう。

 それにそもそもカスタード大福は冷やしておかないと、食べた拍子に黄色い粘液が周りに飛び散ってしまう。正直に言って見栄えが良くない。非常に良くない。なので冷蔵庫で良く冷やし、中身のカスタードを固めておくのが普通なのだ。

 こうして記憶を改めて参照すれば、カスタード大福を冷蔵庫に入れなければならない必然性がボロボロと音を立てて出てくる。自分は一体全体何やっていたんだか。正太は自分のこめかみを軽く小突いた。思ったより痛い。

 

 さて、当然ではあるがカスタード大福を買うためには、冷蔵生菓子が入っている冷蔵庫の所まで移動しなければならない。しかし正太には二つに分裂して別々に行動するような、器用で異様な魔法は使えない。世界中探せばそんな自己存在の実存に疑いそうな魔法使いもいるかもしれないが、少なくともそれは正太ではない。そうなると自分の足下で、目を皿にしてお菓子を睨みつけている娘っ子をどうにかしなければなるまい。

 正太は腰の辺りに見える小さなつむじに視線を下げた。正太の位置から見えるのは艶やかな長い黒髪と、パステルピンクのワンピースの背中だけだ。それでも菓子袋を引っ掴んでは元に戻す動きの端々から、しゃがんだ蓮乃の異様な集中ぶりは見て取れる。おそらくは、蓮乃に伝えた「一個だけ」を選び出すために、つむじの中身を最大速度で回転させているところなのだろう。知恵熱を出さないか心配である。

 

 色々悩んでいるだろう蓮乃の後頭部を眺めながら、正太もまた難儀な表情を浮かべた。こうも真剣に蓮乃が悩んでいると、冷蔵庫の所まで蓮乃を連れていくべきかどうか悩む。下手に連れて行こうとしても、蛸のようにしがみついて離れない蓮乃が苦労なく想像できてしまう。だからといって親御さんから預かった子供を放り出し、私事を優先で済ませるなんぞ言語道断。自分の親にも向こうの親にも申し訳が立たない。

 ならば、まずはここで菓子を選ばせるべきだ。正太は一人静かに首肯した。早めに用事は済ませた方がいいとしても、一分一秒を争うような事柄ではないのだ。自分の用事も忘れないように注意するならばさほど問題はない。昔の人もことわざで伝えている。「急いては事を仕損じる」「急がば回れ」「注意一秒怪我一生」……いや、最後は違うか。

 

 結論を出した正太は首を横に振ると改めて、真下でお菓子選びに心血を注ぐ蓮乃へと目を向ける。向けられた蓮乃はというと、デンプンチップスの黄色い紙袋とポテトチップスの青い紙袋を片手ずつ持って、二つの間で視線を行き来させていた。デンプンチップスとポテトチップスの紙袋にはそれぞれおいしそうな商品の写真(画像はイメージです)とともに、「レモン塩味」「ソルト&ビネガー」とポップな字体で記されている。右に左に、左に右に。不定期に向きを変えるつむじが、それぞれのお菓子に向ける迷いの感情を表現していた。

 そう言えば甘くないクッキーやコンソメ味のチップスも喜んで食べていたし、もしかしたら蓮乃の奴はしょっぱい物も好きなのかもしれないな。繰り返し動く蓮乃の頭頂部を正太は視線で追いながら、正太はぼんやりと考えていた。蓮乃はというと、どちらにしようか随分と悩み込んでいるらしい。

 そうやって蓮乃のおつむりをしばらく見ていると、蓮乃は紙袋を二つとも棚に戻し、今度は胡椒煎餅の袋を手に取った。その袋に正太は見覚えがあった。これは胡椒が利いててスパイシーで結構いけるやつだ。食べ過ぎると口の中が痛痒くて困るのが難だが旨い。しかし蓮乃はそれもまた棚へと戻した。蓮乃のお悩みは正太の想像よりも少々深いようだ。

 つづいて掴んだのはおかきのバラエティパック。正太の眉がひそめられる。正太の父が頂き物でもらってきたが、家族からは不評だったものだ。量は多いが質の方はちょっと考え物で、消費するのに時間がかかった。その隣の割れ煎餅の方が形は悪いが味はいいぞ。

 そんな正太の脳内アドバイスを横に、蓮乃は棚の下へとさらに手を伸ばした。それを見た正太の顔がゆがむ。何せ蓮乃の腕に抱えられているのは、大袋入りのハッカのど飴だ。おまえそんなもん買ってどうすんだ。そんな癖の強いもの舐めてたら消費にどれだけかかるやら。「夏」が来る前に「飽き」が来ちまうぞ。

 腹の中で下手な洒落をぼやきながら、正太は難しい顔で目の前の棚を睨みつける。何のかんのいっても宇城家では茶菓子や駄菓子を買うことは少なくないので、この棚のお菓子の大半には見覚えがある。自分の経験からアドバイスをすべきだろうか。けれど選ぶのは蓮乃な訳で、自分が横から口を出していいものか。しかし、この調子じゃ選んでレジまで持ってく頃には日が暮れるてしまう。お菓子選んで夕飯に遅れましたなんて、笑うに笑えない。

 

 時間を気にする正太は一人渋い色を顔に浮かべる。が、それに目も向けずに蓮乃は食い入るように菓子の群を見つめていた。なにせ「買ってやる」と言われたのはたったの一個だ。こんな機会はそうそうないのだから、十分に満足と納得ができる物でなくてはあまりにもったいない。

 そう考えている蓮乃はさっきから「これは!」という一品を探すべく、お菓子棚の上から下まで漁っている。しかし、悩んで悩んで悩み抜いても納得のいく品物はまだ出てこない。

 

 「ぬ~~むぅ」

 

 蓮乃の喉から思わず動物じみたうなり声が漏れる。その顔も正露丸をかみ砕いた時と同じく額にシワが寄っている。だが、いくら不平の声をあげても答えが天から降ってくるわけではない。アイディアは自分の中から出てくるものであり、外から持って来たアイディアをそのまま使用すれば「盗作」「著作権法違反」と言われるのだ。

 

 いい加減悩みっぱなしで頭が疲れて、しゃがみっぱなしで足が疲れた蓮乃は、行儀も悪く人造大理石の床に座り込んだ。お尻と足がひんやりして気持ちいい。当然それを見る正太の目つきは険しくなる。何やっとるんだ貴様は。

 尻と一緒に頭も冷えたのか、ふと蓮乃は気が付いた。そういえば後ろに兄ちゃんがいるのだ。自分より年上の正太なら(都合良く)求める答えを知っているはず。人から渡されたアイディアならば原案者扱いで法的問題はクリアできるのだ。

 そう考えた蓮乃は、棚に手をかけバネ仕掛けの勢いで立ち上がった。その動きに合わせて長い黒髪とワンピースの裾が一瞬、重力を忘れて宙を舞った。一つ間違えればワンピースの下を周囲に晒すことになるが、蓮乃がそれを気にする様子はない。そのまま背中を反らせて傍若無人に延びをする。さらに腰をツイストさせて腹直筋のストレッチをしつつ、ようやく正太の存在を思い出したように蓮乃は正太の方へと振り返った。

 

 「なもっ!」

 

 挨拶は忘れてはいけない。人と人とを結ぶものは挨拶だ。古事記には書いていないが、お母さんがそう言っていた……と思う。我ながら良い挨拶が出来た。蓮乃は満足の笑みを浮かべ鼻息を吹き出す。

 ただし、蓮乃の言葉を理解できるものは一人もいない。当人に気にする様子は一欠片もないが、蓮乃含めてだれ一人理解できない。そう言う障害の持ち主なのだ。

 

 そして挨拶された正太はというと、疲れた顔で「おう」と面倒そうに蓮乃の挨拶に答えた。蓮乃が何を言いたいのはてんで解らないが、何かを伝えたいから挨拶(らしきこと)をしているのだ。答えないのは流石に失礼だろう。

 しかし、こうも散々待たされた後にこんな感じの対応されると、頭痛が痛くなりそうだ。ああ、今外に出たら青空が青いに違いない。優れているとは言いづらい顔色で、正太はひきつり気味な笑みを浮かべる。

 蓮乃がそれに気が付く様子はなく、満面の笑みは小揺るぎもしない。蓮乃の浮かべるヒマワリスマイルに、正太はドブのように深いため息を排気した。ノギスで面の皮の厚みを測りたいところだが、きっと純粋に気が付いていないだけだ。本当に面の皮が厚いなら、あんなに簡単に泣きべそかいたりはしないはずだ。それを出来るくらい泣き真似と嘘泣きが巧いなら……いや、考えるまい。

 

 「で、なんだ?」

 

 蓮乃が理解できないことは判っているが、正太は口頭で呼びかけた。必要なら書取用のノートを出すだろう。そう考えた正太の想像通り、蓮乃はポーチに手を突っ込むと正太の方へとノートとペンを差し出した。差し出されたノートにはただ一文。

 

 『兄ちゃんならどれにする?』

 

 文を読んだ正太の眉間のしわが深まる。なんじゃこりゃ。いや、さっきから選び悩んでいたお菓子に関することだろうが、何でまた俺に聞くのか?

 正太は同年代はもとより、自分より下の年代とも付き合いがない。だから、蓮乃のような年の子供が好むお菓子など知る由もない。唯一参考になりそうなのは妹である清子だが、当人曰く「同年代から外れた趣味をしている」そうだから当てにはならない。それに加えて正太の目から見る限り、蓮乃は同じ年代の子供と比べて幼い様に見える。外観の話ではない、内面の話だ。そうなるとよけい解らない。どーしたもんだろ。

 

 イノシシが食中りを起こした感じの唸り声を上げて、正太は顔色を渋に染める。そんな正太の顔を蓮乃はなにやら期待混じりの表情でじぃっと見つめていた。純粋な視線に負けたのか、頬をひくつかせる正太の視線が自由形で泳ぎ始めた。視線は棚の上から下へと泳ぎ回り、棚の端で華麗なターンを決める。

 こりゃまずい。なんとかせんと期待を裏切ってしまうぞ。自分でもよくわからない焦りに支配された正太の視線は、見事なシンクロナイズドスイミングを決めつつ菓子から菓子へと泳ぎ回る。と、そこである紙袋に正太の視線は固定された。これだ、これなら何とか言い訳できる。

 すぐさま正太は手を伸ばし、目的のお菓子が入った紙袋をつかみ取った。蓮乃は正太の横に立ち、手の中をのぞき込む。その表面には渋い筆文字で「オキアミ煎餅」「徳用」「醤油味」と印字されている。そう、正太が選んだのは安くて量の多い「徳用アミセンの詰め合わせ」だった。袋の印字を読んだ蓮乃の頭上に疑問符が浮かぶ。

 兄ちゃんはこんなんがいいのだろうか。もっとこう、面白いお菓子か納得できるおやつを選ぶものだと思ってたのに。勝手な期待を寄せて一方的に失望している蓮乃は、唇を尖らせて少しばかり不満気な表情を浮かべる。

 その顔を見る正太の表情にもまた疑問符が浮き出ていた。何でこいつ文句ありげな顔してるんだ? まあいい、納得させられるだけの言い訳は用意してある。なにせ言い訳になるからこれを選んだのだ。正太は首を傾げる蓮乃へと向き直ると、蓮乃の抱えるノートをペンと一緒に受け取った。

 

 『独り占めするより家族みんなで食べた方がおいしいだろう?』

 

 正太の書いた一文を読み、正太から手渡された紙袋を抱える蓮乃は、「きょとん」と書いてある顔で正太を見上げる。蓮乃が狐に摘まれたような顔で見つめる先の正太は、何故かやり遂げたようなドヤ顔をしていた。まるでトリュフを見つけたブタのようだ。少なくとも、蓮乃から見える正太の顔には迷いの色は見当たらない。この言い訳もとい返答に自画自賛しているらしい。実際、理屈そのものは真っ当と言える。

 なお、こんな殊勝な考えは正太が自力で見いだしたのではない。両親からの受け売りであり、つまり両親の教えをそのまま口から垂れ流しているとも言える。だからこそ、筋の通った話をすることが出来たとも言えるが。

 しかし蓮乃はというと、納得したようなしていないような複雑な顔をしていた。具体的に表現するならば、「ちょっとした臨時収入があったのでどう使おうか悩んでいて、友人にどうしようかと話したら皆に奢ればいいと言われ、そりゃ皆喜んでくれるだろうけど自分のために使いたいしドケチ扱いされるのも嫌だし買いたいものもあるし、教えてラ○フカード!」みたいな顔をしている。

 「家族と一緒に食べるとおいしい」それはよくわかる。でも「好きなものを沢山食べたい」そういう気持ちもまた蓮乃の中にあるのだ。二律背反のジレンマに蓮乃の顔がへちゃむくれる。そしてその気持ちは言葉とはならず声となって口から漏れた。

 

 「ん~~~ぬぁうな~~うぅ」

 

 手の中の紙袋を睨みつけながら、選ぶに選べない蓮乃は悩みの鳴き声を上げる。遊星からの生物Xあたりが出しそうな声をこぼす蓮乃の顔は、苦虫を噛み潰した苦々しい表情だ。全く決まっていないキメ顔で悦に浸っていた正太だが、蓮乃の声に正気に返ったのか蓮乃へと向き直った。見苦しいドヤ顔を取りやめた正太から見える蓮乃の顔は、柴犬が便秘気味になった様に切ない。他人の心境を読みとる能力が最低レベルの正太でも、蓮乃がなにやら悩みを抱えていることくらいは解る。おそらくは自分の言い訳では納得し切れていないのだろう。それにしても随分な顔してんなこいつ。

 さてどーしたもんか。頭を掻きむしり「あー」だの「うー」だのうなり声を挙げながら正太は考え込む。その顔は、蓮乃同様にフン詰まりで力んでいるブルドッグのそれだ。ただし力みを込めて顔を歪めても、良案が排泄される様子はない。

 

 『おまえも好きな奴の方がいいと思うぞ。自分も喜んでみんなも喜ぶのが一番だ』

 

 結局正太は両親由来の無難な台詞で誤魔化すことに決めた。正太的には苦渋の決断だったのか、「結局フンが出ないまま散歩の帰路についたブルドッグ」の酷い顔で文字を書き込んでいる。したり顔で書いて見せた言葉が通用しなかったのが正太としては「痛恨の至り」らしい。

 しかし、ある意味においてはさっきまで得意顔をしつつ上から目線で垂れ流していたご高説とそう違いはない。どちらも両親譲りの借り物であり人様の教訓話なのだ。「正太のものでない」という点から見るならば同じものと言える。

 

 そのためだろうか。正太の想像とは異なり、蓮乃の整った顔に理解と納得の色が浮かんでいた。そう、大事なのは自分もお母さんも納得できるお菓子を探すことなのだ。時間はかかる、けど覚悟は出来てる!

 「むふーー!」と荒い鼻息を吹いた蓮乃は、覚悟を決めた表情で正太にお徳用の紙袋を押しつける。再度吟味に入った蓮乃と手の中の紙袋を交互に見ながら正太は呟いた。

 

 「……俺が買うのは一個だけだぞ」

 

 なお、正太の表情が筆舌にしがたい微妙極まりないものだったことは、言うまでもないことだろう。



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第六話、二人が買い物にいく話(その六)

 結局蓮乃が選んだのは「お徳用香味醤油ゴマ煎餅」のどでかい紙袋だった。やっぱり蓮乃はしょっぱいお菓子が好きらしく、ルンルン気分のほくほく顔で醤油ゴマ煎餅の特大紙袋を抱えている。その様を見ながら正太もまた、「ご機嫌な顔しやがって」と苦笑をこぼした。

 さて蓮乃のご機嫌取りという目的を果たしたわけだし、なすべきをなさなくてはならない。つまりは頼まれた買い物を済まさなくてはならないのだ。さもなければ帰宅後に母と妹の宇城家最強のタッグの手で、油の一滴も出ないくらいに絞り上げられてしまうのだから。その時を想像し無駄に顔を強くする正太はさっさと売場へ向かうべく、棚の間を抜けて足を進めた。

 一方、にへにへと笑う蓮乃は正太の後をついて回っていた。「後に付いている」だけなら「貞淑な婦人のよう」と表現できるかもしれない。だが、実際は「にへへへー」と聞こえてきそうなふやけた顔のおかげで、刷り込みされたアヒルの雛にしか見えなかった。

 

 綿菓子のように甘く柔らかに笑う美少女、いや美幼女。

 体毛を逆立てた猪めいて厳つい相貌の少年、いや醜男。

 

 童話「美女と野獣」を思わせる異様な取り合わせである。幸い、まだ人も少ない三時過ぎなので視線の針山にならずにすんでいる。それでも夕方のラッシュに備える従業員や、少し早めの夕食買い出しに売場を回る買い物客から、正太と蓮乃のコンビは周囲の視線を二人占めしていた。

 おかげで針のむしろに正座している心地の正太は、せむし男の体で背中を丸めた。素敵なくらいに居心地が悪い。「前の一件」のせいで他人とのコミュニケーションのみならず、周囲から目立つのも大の苦手になった正太にとっては、現状は苦痛の一言である。

 もし正太一人で来ていたならば、あっという間に頼まれ物をひっつかんで会計を済ますや否や、すぐさまビッグバスケットから逃げ出していただろう。しかしながら現状は一緒に行進中の蓮乃が居るわけで、しっぽ巻いてトンズラこくわけにも行かない。コンチクショウ、連れてくるんじゃなかった。

 今までの人生と「前の一件」と蓮乃を連れてきたことをまとめて後悔しつつ、同年代の中でも低い背を丸めて正太は壁際の通路を進んだ。豆乳製品の冷蔵庫から冷気がほのかに漂う。冷蔵庫特有の何ともいえない臭いを感じながら正太はバックからメモを取り出し、改めて目を通した。いい加減気分を切り替えよう。買わなきゃならない物は何だっけ。

 

 ――でんぷん米五kg、零余子芋(ムカゴイモ)と皮無玉葱(カワナシタマネギ)を五個ずつ、酵母肉五〇〇g、ベルモントカレー中辛・甘口一箱ずつ等々

 

 メモに書かれた商品を頭の中でシミュレートしながら正太は顎に手を当てる。正太が考え込むときの癖だ。どうせ持たなければならないならば、重い米や野菜のたぐいは後回しにしたい。新鮮でないと困る肉類も、持ち歩く時間を短くすべきだから後の方に。となればまずは多少荒く取り扱っても大丈夫そうなカレールウからだな。考えをまとめた正太は小さく頷くとぐるりと首を回して、カレールウを売っているだろう「調味料」売場の看板を探す……あった。

 

 となれば次は、脳内お花畑で遊んでいる真っ最中の娘っ子をどうにかする番だ。正太が蓮乃の方へと振り返ると、締まりのない表情で大事そうに大きな紙袋を両手で抱える蓮乃の姿が目に入る。

 蓮乃は言葉を聞き取れないし喋ることもできない、そういう障害を持っている。なので基本は筆談である。しかし、伝えることが有るからといって両手が塞がっている現状でノートを取り出させるのは、少しばかり難しそうだ。だからといって他人の、それも女子のポーチに手を突っ込むのは躊躇われる。まあ、蓮乃なら問題ないかもしれないが「親しき仲にも礼儀あり」とも言うし、一応止めておこう。

 数秒ほど考え込んだ正太は、蓮乃の肩を手のひらで軽く叩いた。微妙にこの世から外れた所に居た精神が戻ってきたのか、切れ長い目の焦点が正太に合わされた。蓮乃が注目したことを確認し、正太は目的の方向へと指をさして向かう場所を伝えようとする。理解しているのかいないのか、蓮乃はふわふわとした顔のまま首を縦に振った。一応、首肯したんだしきっと付いてくるだろう。自分にそう言い聞かせて無理矢理ながらも納得させると正太は足を動かした。

 

 壁際の冷蔵庫には豆乳を筆頭に、各種プロセスチーズや大豆油マーガリン、ヨーグルトもどきの醸しおぼろ豆腐と言った豆乳製品が並ぶ。牛乳がそこそこお高くなった現在、乳製品より基本的に安い豆乳製品は代用品としてニッチを占めている。

 もっとも主原料である「救荒蔓大豆」の関係で味は代用品の枠から出れず、乳製品は高級品として新しい立ち位置を得ているのだが。そしてそのまま少し歩くと、豆乳製品から大豆全般の加工品へと冷蔵庫の中身が変化してゆく。豆腐、厚揚げ、納豆、味噌、生醤油。台所でよく見かける日本家庭の主戦力だ。

 

 ふと、エプロン姿の店員が正太の視界に入った。同時に袖口が背後に引っ張られる。振り返れば店員を食い入るように見つめる蓮乃の姿。はて、何が気に止まったのだろうか?

 蓮乃の好みの顔立ちは知らないが、正太の目から見て視界の先の店員は別に極端なイケメンには見えない。極端な顔立ちというなら、むしろ正太と蓮乃の方が忘れ難い顔かたちをしていると言えるだろう。ただし、正太は負の意味であり、蓮乃は正の意味ではあるが。

 細い目をさらに細めて正太は店員を注視する。ついでに眉根が寄せられて、おかげで強い顔がさらに怖くなっている。そこでようやく正太は気が付いた。店員はテーブルに容器を並べている。何のことはない、試食の紙容器を並べていただけだ。よく見れば瓶詰めらしき小瓶も見える。どうやら蓮乃はそれに気が付いて足を止めたようだ。蓮乃の奴はメシ相手ならずいぶんと勘働きが良いらしい。試食の載ったテーブルを一心不乱に見つめる蓮乃を見ながら、正太は鼻から太い息を漏らした。

 どーせ『あれ食べたい!』って言うんだろうし、先んじておいて損はないかね。預かっている子供に極端なもの食わせたら、どっちの意味でもマズいだろうし。蓮乃の考えを代弁した気分になっている正太は一人勝手にそう決め込むと、じぃっという擬音がでそうな様子で試食を見据える蓮乃を後目に、足早く店員の方へと歩み寄った。

 

 「新発売のオキアミ塩辛の試食です、お一つどうですか?」

 

 歩み寄る正太の存在に気が付いた店員は四角い紙器を差し出した。そこには海老に似た小さな甲殻類が小いさな山を作っている。赤茶色いそれから独特の発酵臭がぷぅんと漂って来る。癖のある臭いが正太の鼻孔をくすぐり、口の中に唾がわき始める。

 

 魔法発現による混乱期以降、遺伝子改造された異常な生物群とそれを利用したテロリズムのおかげで、海洋輸送のコストは上昇の一途をたどっている。それに従って食品輸入価格は右肩上がりを続けており、今や舶来品=高級品のイメージが当たり前となるに至っている。

 当然、輸入品である各種加工食品の原材料価格も跳ね上がっており、国産合成食品が一般化するまで家庭の大黒柱の晩酌は日毎に寂しくなるばかりであった。

 そんな中、手に入りやすく、なかなかに旨く、何より安い「オキアミ塩辛」は、世のお父さんたちの強い味方として家庭経済と仕事終わりの一杯を支えて来たのだ。食糧問題が解決した現在においてもその人気は衰えることなく、オキアミといえば塩辛と言われるほどである。余談ではあるが、そのおかげで成形オキアミの売れ行きは一向に上がらず、ほとんどが家畜用飼料として消費されていたりする。

 宇城家の大黒柱も例に漏れず、オキアミ塩辛をアテにして緑茶割りのデンプン焼酎をあおるのがいつもの晩酌スタイルである。そのため正太もご相伴に預かってオキアミ塩辛を頂くことは少なくない。おかげで齢十四にしては珍しいことに、正太はオキアミ塩辛が好物だったりする。

 

 「あ、じゃあ一つ」

 

 一言断りを入れて紙スプーンと一緒に紙器を受け取ると、正太はオキアミ塩辛を頬張った。プチプチと小さなアミが潰れる触感と共に、口中に複雑な味わいが満ちあふれる。発酵によって生じた芳醇なうま味成分が正太の味蕾を存分に刺激し、反射反応によって分泌された唾液が口いっぱいにそれを広げていった。ああ、ご飯がほしい。どんぶり飯にこいつを振りかけて、一気にかき込めばきっと堪えられないだろうに。

 恍惚の表情で塩辛を味わう正太に商機を見いだしたのか、店員はささやくように購入を勧めた。

 

 「今夜の晩酌にどうですか? ご飯のお供にも抜群ですよ」

 

 催眠にかけられた様な表情で正太は値札を見る。元々「安くて旨い」を売りにしていただけあって、正太の小遣いでも十分に手が届く値段だ。しかし、今日は箱入りカスタード大福を自費で購入する予定であり、財布の中に余裕はない。その上、蓮乃のご機嫌取りのために醤油ゴマ煎餅を買ってしまったのだ。今や懐は晩秋の北海道のように冷えている。その上、カスタード大福を購入すれば財布の中は真冬のオホーツクと同じ具合。瓶入り塩辛を買う余裕などどこにもない。でも塩辛は旨そうだ、というより実際旨かった。

 只でさえゴツい顔に厳めしい表情を浮かべながら正太は悩む。塩辛喰いたし妹怖し、さてどーしたもんだろか。こんな理由で大福買いそびれましたなんて言った日にゃ一体どんな目に遭うことやら。しかしながらどんぶり飯に塩辛の至福を諦めるのは心苦しい。くっそ、こんな所に試食があるからいけないんだ。こんな誘惑さえなければ何も考えずに大福と頼まれ物買って帰宅できたものを。

 無駄に悩む正太はついに試食に責任を転嫁し出した。そんな正太の裾を引っ張る手が一つ。懊悩を一時中断し、正太は手の方へと視線を向ける。視線の先には不機嫌と書かれた表情をした蓮乃の顔があった。形良い眉をハの字に変えて、アヒルよろしく唇を付きだしている。一〇〇人中九〇人ぐらいは「機嫌が悪い」と表現しそうな顔をしている。残りの一〇人は「とても機嫌が悪い」と表現するだろう。

 

 ――あ、やっべ

 

 塩辛を味わうことに夢中で蓮乃のことはきれいさっぱり忘れていた。正太の表情が強ばり、こめかみに脂汗が滴る。醤油ゴマ煎餅を買ってどうにか機嫌をとったのだ。このままでは元の木阿弥、不機嫌極まりない反抗心旺盛なお子ちゃまを連れ歩く羽目になってしまう。そうなったらどう考えてもコントロールが効かない。暴走して大騒動を起こす蓮乃の姿が正太の脳裏によぎる。この場合の責任は当然自分に帰結する訳で。こいつは非常にまずい。

 

 「お嬢ちゃんもどうかな、おいしいよ?」

 

 それを止めたのは店員が差し出した紙器だった。不機嫌顔を取りやめると、蓮乃は好奇心を体現した表情で紙器を受け取る。機嫌が悪いのはどこへ行ったやら、先までの文句と不満はワクワクと書かれた顔のどこにも見あたらなかった。正太は胸の内で親指を突き出す。店員さん、ナイスフォローです。

 受け取った紙器に顔を近づけると、蓮乃はすんすんと子犬みたいに鼻を鳴らして臭いを嗅ぐ。知らない臭い。でも、醤油か味噌な感じがする。それよりキツいしクサいけど。それと瓶に書いてある「オキアミ」って何だろうか。「塩辛」もよくわかんない。どーしたもんだろ? まあいいや、食べてみようっと。

 結論がでないという結論しかでなかった蓮乃は、取りあえずということでオキアミ塩辛を口の中に放り込んだ。

 

 「○×△□~~~!?」

 

 次の瞬間、蓮乃の口腔内で磯臭さが炸裂した。余人に知るもののいない言語で蓮乃は悶絶を表現する。磯遊びをした人間なら理解できるだろう強烈な磯のかほりが鼻を突き抜けたのだ。液質になるまで醸された海草の臭い、フナムシがたかった腐りかけの魚の臭い。ナマモノの臭い、生き物の臭い、腐敗の臭い、発酵の臭い。それら全てを合わせた臭いが蓮乃の嗅覚神経をブン殴った。

 もっとも磯溜まりの現物に比べればずいぶんとマイルドな香りだ。当たり前だが市販の食品なのだから、「くさや」や「シュールストレミング」のような特殊例をのぞけば、万人向けの落ち着いた食べやすい仕上がりになるのが基本である。それでも一切合切そんなもんを食った経験のない、そして海で磯遊びをした経験もない蓮乃にとっては、オキアミ塩辛初体験は余りに激烈なものだった。

 

 「お嬢ちゃんにはちょっと早かったかな?」

 

 口を押さえて悶える蓮乃へと苦笑を浮かべた店員は水の入った紙コップを差し出す。おそらく、紙コップは現状の蓮乃同様にオキアミ塩辛がダメな人向けなのだろう。それをひったくると死にそうな顔の蓮乃は一息で飲み干した。その顔は苦虫を噛み潰したという表現では、少々足りないくらいに酷い表情だ。口の中の激臭を揮発させようと舌を出しつつ口を広げて、ついでに両の目に涙を滲ませている。

 なんてものを食わすんだと、蓮乃は非難がましい涙目を店員に向ける。

しかし店員は少しばかり苦笑を深めただけで、蓮乃の涙混じりの視線を意に返す様子はない。店員から見れば子供がちょっと衝撃的な初体験をしたと言うだけなのだろう。実際その通りなのだから、そうだとしか言いようがない。

 

 そりゃあ、当人の苦難がどれほどのものかなど、端から見ている人間にはわかりはしない。だが、そもそも先に食べた正太に何も聞かず、躊躇もなしに試食を口にした時点で、蓮乃が店員に文句を付けるのはお門違いも甚だしい。試食は蓮乃が望んで口にした以上、蓮乃の自己責任なのだから。

 そんなことを考えながら正太は紙器を備え付けのゴミ袋に放り込むと、もう一杯の紙コップを受け取り蓮乃へと手渡した。他人の気持ちなんぞよくわからんが、蓮乃がベーベー言ってるのは見て取れる。必死の形相で舌を出している蓮乃は、礼も言わずに紙コップを受け取ると大急ぎで口の中に注ぎ込んだ。二杯も水を飲んでいくらか落ち着いたのか、蓮乃はベロを体内に格納した。それでもまだつらいのか、目尻の涙と眉間のしわが存在を主張している。

 

 「少しばかり娘さんの口には早かったみたいですねぇ」

 

 瓶詰めから塩辛を新しい紙器に移しつつ、店員は少々ばつ悪げな表情を浮かべる。幾多のモンスターお客に応対してきたであろう店員でも、流石にこうも強烈な反応を返されると多少は罪悪感を感じるようだ。その上、その外観が目を引きつけて止まない美少女とくれば、感じる後ろめたさも小さくはないだろう。

 

 (俺、十四なんだけど……)

 

 ただ正太としては蓮乃の父親扱いされた方を問題にしたい気分だ。いくら顔立ちが怖くて厳ついからといって、蓮乃くらい大きい子供のいる年齢にされては堪らない。蓮乃は大体十歳かそこらだから、正太は三十路あたりに見られているということだろう。倍以上老けてみられるってどう言うことだ。いつも寄ってる眉間のしわをいつも以上に深くして、正太は拳を握りしめた。

 

 「あっ、はい……」

 

 だが、それでも口に出せないあたりが正太である。顔は店員の着けるエプロンのロゴと対面していて、視線は床面を滑ってモップがけしている。なにせ「前の一件」以来、正太はコミュニケーション障害気味なのである。なぜか蓮乃相手ならなんとでもなるのだが、人様相手だとこの様だ。事務的な話なら何とかなるものの、それ以上の雑談や会話になると大いにボロが出てしまう。恥ずかしいやら情けないやら、入る穴をスコップ持って掘りたい気分だ。

 一人落ち込みうつむき加減の正太に、娘の割にはずいぶんとしょぼくれた親父さんだなとでも思ったのか、店員は小さく息を吐いた。これ以上会話にならない会話を続けていても商売にならないと判断したのだろう。塩辛を新しい紙器に移し終えた店員は会話を切り上げると、声を上げて呼び込みに移った。

 

 「今夜の晩酌晩ご飯に、病みつきになる味! 李屋のオキアミ塩辛は如何でしょうか~~!」

 

 他人に愛想を尽かされる(ように感じる)この瞬間、自分が本当にイヤになる瞬間だ。臓腑が鉛に変わったような不快感の中、肩を落とした正太はノソノソと形容できる鈍さで歩き出した。調子が悪かろうが気分が落ち込んでいようが、買うべきものは買わねばならんのだ。それが約束と言うものだし、只でさえ迷惑をかけた家族の信頼をこれ以上裏切るようなことはしたくない。重りを引きずるカタツムリの心境で正太は足を進める。

 そんな正太の内心が顔にでていたのか、口から磯の後味が消えて調子の戻った蓮乃は、不思議顔でノートを突き出した。

 

 『どーしたの? おなかが痛いの?』

 

 おなかよりも心が痛い。もしも家族相手なら事情を話して泣き言を聞いてもらう所だろう。しかし、子供相手に泣き言漏らして慰めてもらおうとするのは年上としていかがなものか。男の子たるもの痩せ我慢も時には必要だ。正太は表情筋を活を入れて無理矢理厳めしい表情を作ると、蓮乃のノートに書き込んだ。

 

 『ちょっと腹痛気味みたいだ。さっきの塩辛が少しばかり腹にキツかったかもしれん』

 

 確かに酷い目にあったと蓮乃も頷く。何せあまりの臭いのあまり空えずく羽目になったのだ。今後一切、あのオキアミとやらが使用されている食品に手を出さないと、蓮乃は一人胸の内で誓う。もっとも色々な加工食品の原材料にオキアミは使用されている。蓮乃が今抱えている醤油ゴマ煎餅の調味液にも使われているのだからその誓いは不可能に等しいのだが、当人に気が付く様子はない。

 ただ正太の気分が良くなさそうなのはしっかり気付いたようで、『少し休んだら?』と背中のつもりで腰をさすりつつ、心配顔を浮かべている。帰宅直後に腰をイわした正太にとっては、仮病の腹痛よりもある意味ありがたい。けれど腰は調子を戻したし、気分が悪いのは文字通り気の持ちようだ。正太は心配する蓮乃を片手で制すると、取りあえずカレーを買いに調味料売場へ足を進めた。



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第六話、二人が買い物にいく話(その七)

 それから十分ほど後、生体樹脂含浸セルロース繊維で出来た弾力ある籠を二つ抱え、正太はレジの少し前に立っていた。籠の中には予定していた買い物品と、蓮乃の「醤油ゴマ煎餅の特大紙袋」が入っている。

 抱えた袋で前が見辛いのか、蓮乃が二・三度他人にぶつかりかけたので、正太が取り上げて籠に移したのだ。一応ではあるが説得した上で籠に移したので、蓮乃が大泣きしたり癇癪を爆発させたりするような事態は回避できている。もっともだからといってご機嫌な顔をしているわけはないが。

 

 ――でんぷん米「かがやき四二」五kgよし、零余子芋(ムカゴイモ)・皮無玉葱(カワナシタマネギ)各五個ずつよし、酵母肉五〇〇gよし、ベルモントカレー中辛・甘口両方よし。

 

 正太は籠の中の商品を取り上げると、メモの文面を見比べている。メモと現物を確かめて買い忘れがないかチェックしているのだ。最後に蓮乃の「醤油ゴマ煎餅」の特大紙袋と清子から頼まれた「カスタード大福(八個入り)」の箱を指さして、一通り指さし確認を終えた。

 こうして改めて確認すると野菜と米がずしりと重い。バランスをとれるよう左右に分散させて持ってはいるが、両手が微妙にしびれを感じるほどである。こいつを抱えて家路につくのかと考えると気分も一緒にずっしりだ。まあ、ものの十数分だから耐えられないほどではない。で、問題は……。

 

 正太は視線を横へと向ける。そこには憮然としたとんがり唇の蓮乃の顔があった。正太を見つめる瞳も半眼で、微妙に眉根も寄っている。先にも書いたように蓮乃は、不機嫌と言うほどではないがご機嫌とは言えない。今のところは騒動を起こす気はないようで、機嫌はよくなさそうだが一応正太に付いてきている。

 だが、現在蓮乃の気分は降下角度で低空飛行中である。なぜかというと、蓮乃のお願いを正太が無碍に断り続けているからだ。

 

 『持たせて』

 

 目の前に突き出されるノートの要求に、当然と言った様子で正太の首が横に振られる。眉根の皺山脈が高低差を増し、唇がアヒルよろしくさらに延びた。さっきからこの娘は籠を引っ張っては「自分にも持たせろ」とねだるのだ。

 多少なりとも体力のある正太でもしびれを感じる重さの籠を、肉の足りない棒きれ娘に持たせるなんぞ、無茶無謀もいいところである。籠の中身より遙かに軽い「醤油ゴマ煎餅の特大紙袋」を持って人に何度かぶつかりかけていたのに、何をいうのかこの過信満々なソーメン娘は。コシを鍛えて出直してきなさい。

 なお、蓮乃がぶつかりかけたのは前が見辛いのが主な理由で、重さと特に関係はない。ただの正太の思いこみである。だからといって蓮乃に数kgの籠を気軽に持てるような腕力はないから、正太の思考も間違いというわけではない。問題はそれをちゃんと伝えないことである。筆談必須の蓮乃を相手に、両手が塞がっている正太にそれを要求するのは少々酷な話ではあるが。

 

 メモとの照らし合わせを終えた正太は、痺れる腕を休ませようと棚の柱に寄りかかると籠を床へと下ろした。両手に五kg強の重りを引っかけたまま、買い物品とメモのチェックは少しばかりキツいものがあった。軽く腕を振って電撃感を腕から振り捨てると、強ばった腕に血が通う感触と共に指の先まで熱が通っていくのを感じる。ああ、心地いい。でもこれからこいつらを持って家まで歩かなきゃならないわけで。ああ、面倒くさい。

 鼻を鳴らす豚の不満顔を作りながら、正太は繰り返し手を振って遠心力で血を指の先端まで送り届ける。腕に通う血と薄らいでいく痺れ、そしてこれからの家路で正太の頭は一杯である。

 

 だから、足下の籠へと手を伸ばす蓮乃のことにはこれっぽっちも気が付いていなかった。蓮乃はそろりそろりと手を伸ばし、籠の取っ手をつかむ。あとちょっと、もうすこし……届いた!

 コの字型をした二つの取っ手をしかと握りしめると、これまたそろりそろりと床を滑らし自分の方へと引き寄せてゆく。筋肉の強ばりが予想以上だったのか腕のストレッチを始めた正太を横目に、蓮乃はついに荷物の詰まった籠を手にした。「むふ~」と一人満足げな息を漏らすと、さっきから狙っていたことを実行すべく取っ手を掴む手に力を込めた。

 

 「ん~~~~!」

 

 籠が僅かに浮いたが、それで終いであった。そこからはわずかに左右に揺らすのが精一杯で、それ以上動く様子は全くない。一応、力は込められている。具体的に言うと蓮乃の顔が真っ赤で、真っ直ぐ延びた両手がプルプルと小刻みに振動している。元々運動になれていない蓮乃には文字通り荷が重いようだ。

 子犬の威嚇めいた文句(の音)を漏らし、蓮乃は足下へと籠を置き直す。うまく行かない、重すぎるのだ。さてどうしたものだろうか。唇を尖らせる代わりに頬を膨らませ、しかめ顔を浮かべて蓮乃は考え込む。

 とりあえず全力でやってみよう。子供らしく答えになっていない回答を自信満々で提出すると、蓮乃は力強く籠の取っ手を両手で掴みなおした。

 

 「なぁっ……もっ!」

 

 蓮乃は胸一杯に息を吸うと、腰を痛めそうな前のめり体制から、背筋力を総動員して籠を膝丈まで持ち上げにかかった。だが先より高々一〇センチ足らずしか上昇していない。これでは足りない、持ち運べない。もっとパワーを!

 

 「…………なぁぁぁぁぁーーーーーっ!」

 

 全身全霊、全力全開! 蓮乃は込められる限りの力を込めて雄叫びと共に籠を引き上げる。細い腕を震わせて、細い腰を深く落とし、細い足で精一杯踏ん張りを利かせる。徐々に徐々に、ほんの少しずつだが籠と床の距離が開いてゆく。膝丈、太股、骨盤、へそ、鳩尾。そしてついに籠は胸元まで持ち上がった!

 と、同時に重心が両足の支える範囲から飛び出した。仰け反った体勢のまま、足の裏が床から離れるのを感じる。蓮乃の血の気と一緒に重力が消えた。

 

 「っ!」

 

 声を上げる暇もない。三半規管が自由落下を訴え、小脳が耐衝撃体勢を整えろと神経パルスの警告を絶叫する。だが、ただでさえ受け身の訓練を受けたわけでもない蓮乃が、両手が塞がった状態で対応できるはずもない。

 物理法則に従って重力加速度×滞空時間=速度で、後頭部が床へと接近する。ひとたび激突すればタッパーに入れた豆腐同様に、蓮乃の脳味噌は和え物に最適な下拵え済みの代物になってしまうだろう。例えそうならなくとも、身長分の位置エネルギーは転倒時に運動エネルギーへと変換され、蓮乃の細い頸椎を容易くへし折るに違いない。哀れなことにこの少々頭脳が残念気味で幼く美麗衆目な少女は、ここで短い生を終える……ことには特にならなかった。

 

 「あっぶねぇなぁ、何やってんだコンチクショウ」

 

 なぜならば、後ろにまわっていた正太が倒れかけた蓮乃の肩を支えたからだ。

 正太は比較されたステゴザウルスが訴訟を考えるほどに鈍い。だが、流石に真横で大声で気合いを入れつつ籠を持ち上げようとする蓮乃の姿には気が付いていた。しかし、さっきから何度言っても止めようとしない、ブレーキ未搭載な道路交通法違反娘は、ここで止めたところで同じことを繰り返すだけだとも想像できる。ならば敢えて安全な範囲で自発的に大ポカをやらかせて、一度痛い目を見て学んでもらおう。バカは痛い目を実感しなければ治るまい。「前」の自分もそうだったように。

 そう考えた正太は後ろにまわって保険をかけた上で、何も言わずに蓮乃の好きにさせることとした。そして正太の想像通り『バランスってなあに? おいしい?』と言わんばかりの蓮乃は、力一杯籠を持ち上げようとして重心を崩し倒れかけたのだった。

 その結果は、正太の両手の間で少し青ざめた顔色をした、しかし怪我の一切無い蓮乃の姿だった。それとおまけに帰宅後にやらかした腰痛が少々ぶり返したが、まあ蓮乃に傷一つ内なら些細なことだ。

 

 内心安堵の息を漏らした正太は、片方の手で腰をさすりつつ蓮乃が握ったままの籠を奪い取る。転びかけたのがショックだったのか、さしたる抵抗もなく籠は正太の手に収まった。さっきと変わらず籠はずしりと重い。キロ単位の重さがわずかに正太の腰椎を疼かせる。変な持ち方するとまた腰が悲鳴を上げそうだ。こいつを考えなしで持ち上げようとするあたり一体全体何を考えているんだ。多分何にも考えていないんだろう。

 正太はドスの利いた眼差しで蓮乃を睨みつけた。睨みつけられた蓮乃は、呆けたような表情でぼんやりと正太の顔を見つめる。数瞬の間が二人の間を流れた。それを破ったのは正太の人差し指だった。

 

 「オイ」

 

 「ふなぁっ!?」

 

 正太の呼びかけと同時に、人差し指が蓮乃の額を突っついた。居眠りしている所を叩き起こされたように、バネ仕掛けで蓮乃の上半身が跳ねる。意識がようやく覚醒し混乱の最中にある蓮乃の目の前に、正太の手が差し出された。条件反射めいて蓮乃は手を見つめる。突き出された手と、それに摘まれたメモに水晶体が焦点を合わせ、蓮乃の網膜に文が映る。

 

 『「ごめんなさい」と「ありがとう」はどうした?』

 

 「?」

 

 文字の意味は解る、しかし文の意味は解らない。唐突な文章に蓮乃は小首を傾げた。理解できてない不思議顔の蓮乃に、こめかみに血管を浮き立たせつつ正太は文字を連ねる。

 

 『「危ないことしてごめんなさい」と「助けてくれてありがとう」だ。さっき徳用の煎餅買った時には「ありがとう」をちゃんと書けただろうが』

 

 半ば意図的にポカをやらかせたのは、あくまで痛い目を見せて何が良いか悪いか理解させるためなのだ。失敗を自覚できないミスでは、成長の役に立つはずがない。大事なのは失敗に対する「理解」だ。そのためには、謝罪と感謝は必要不可欠である。もしも、自分が同じことをやらかして「ごめんなさい」も「ありがとう」も忘れたら、頭蓋骨矯正処置を母が拳骨で行ってくださるに違いない。それだけ重要なことなのだ。

 しかし、十四の正太が山ほど痛い目を見てようやく解った事柄を、箱入り娘で十歳かそこらの蓮乃が全て理解できるはずもない。その上、伝えようとしていた言葉を「言え」と命じられるのは、もっとも人をムカつかせる方法の一つだ。燃料が大量投入された蓮乃の反抗心は爆発的に膨れ上がり、ついでに蓮乃のほっぺも膨れ上がった。となれば当然、ガキンチョ丸出しの意固地さ加減で蓮乃は論点のずれた反論を文字にする。

 

 『でも兄ちゃん、持つのがなんでダメか言わなかったもん』

 

 ――ふざけてんのかこのクソガキ。頭からフードプロセッサーにぶち込んで、蓮華の香るミートパテにして朝飯のパンに塗ったくってやろうか。

 

 どう見てもいちゃもん付けの文句言いにしか見えない見当違いの反論に、正太の角膜血管が充血して膨れ上がる。生来の強面と血走った目とひん剥いた歯が、まともな人間なら即座に顔を背けるような面構えを形作った。これが犬なら主人が手を離した瞬間に相手の腹を噛み破るだろう。そう思わせる異形の形相だ。

 だが正太は自分の手綱を握り直した。今現在、蓮乃は睦美さんから許可を取って預かっている。許可は信頼合ってこその話なのだ。それを裏切るような、家族に顔向け出来ない人間になりたくない。それに感情のまま拳を振るうなど年上として恥ずべきことだ。

 深呼吸だ、深呼吸の必要がある。正太は肺の隅々まで空気を吸い込み、横隔膜を緩めて全て吐き出した。憤怒の熱気が吐く息と共に体の内から抜けてゆく。一回、二回、三回、よし落ち着いた。最後にだめ押しでもう一回深呼吸をすると、正太は改めてペンを手に取った。

 

 『両手が塞がっていたからだが、確かに言わなかったのは悪かった。すまん』

 

 「……ん」

 

 人生の年長に必要なのは誠実さだと、正太はそう信じている。だから素直に謝罪を書いて頭を下げた。蓮乃にしてみれば「ただ拒否されていた」だけで、「なぜ」「どうして」は一言も告げられていないのだ。それで「相手の事情を考慮し」「なぜ拒否されているのかを考え」「自分の欲求を抑える」ことを十歳の子供に求めるのは少々期待が過ぎるだろう。しかし……

 

 『だからといっておまえがした危ないことがお咎めなしになるわけじゃないぞ。改めて聞くぞ、「ごめんなさい」と「ありがとう」は?』

 

 正太は先とは違った真摯な表情で、少なくともそう信じている顔で、蓮乃をじぃっと見つめる。一直線な視線と自分の行いに罪悪感を刺激されたのか、蓮乃はばつ悪げに視線をさまよわせる。だが正太の目は容赦なく蓮乃を見つめる。しばらくの後、いい加減観念したのか蓮乃は米粒のような小さな字でノートの隅に言葉を書いた。

 

 『危ないことをしてごめんなさい。助けてくれてありがとう』

 

 「よし」

 

 蓮乃はちゃんと謝罪と感謝が出来た。これで心配はないだろう。微妙に表情が不満げなのが気になるが、一応は謝罪と感謝を言葉にしたのだ。これ以上は必要ないだろう。正太は確認の意味を込めて静かに頷く。

 その隣で蓮乃は、籠の木繊維を白い指先で撫でさすりながら随分と微妙な顔をしている。まるで「粗相をした所を見つけられた猫」「お叱りでおやつを取り上げられた犬」のような、「自分が悪いのは解ったけど正直なところやっぱり未練たらたら」な表情だ。当人的にはやっぱり籠を持ち上げて運んでみたいらしい。他人からしてみれば何故そこまで拘るのかさっぱりだが、蓮乃からしてみれば譲れない一線があるのだろう、たぶん。

 

 蓮乃は繰り返し籠の端を摘んでは自分の腕に触れる。力がたくさんあって軽々と籠を持ち上げられたなら良かったのに。そうすれば兄ちゃんに叱られることもなかったろうし、そもそも転びかけるようなこともないだろうに。

 でも現実は籠を持ち上げるのに腕の力じゃ全然足りなくて、全身の力で無理矢理持ち上げたら勢い余ってすってんころりん。兄ちゃんが支えてくれなかったらスーパーの床とごっつんこだ。やらかしたらさぞかし痛かっただろう。ああ、ホントに力がたくさんあれば良かったのに。せめて、兄ちゃんの半分くらいでも……半分? そうだ、半分なら何とかなるかも! それに転びかけても安全だし、これならきっと大丈夫!

 

 蓮乃の脳内で六〇WLED電球が明かりを灯した。なにやら思いついた顔した蓮乃は、何かを確信したように「むん!」と鼻息荒く気合いを入れる。

 気合いたっぷりなその顔を見た正太は、「ま~たろくでもないことか」と思いっきりげんなりした。蓮乃とはここ五、六日程度の短い付き合いではあるが、正太の記憶にある限りこの手のステキな思いつきでロクな結果になった覚えがない。加えて言うならばその手の思いつきに、イの一番で付き合わされるのはこの宇城正太であり、その被害を受けるのもその後始末をするのも正太が一番多いのだ。この常時乱数機動娘は今度は何をやらかすのだろうか。

 正太の気持ちを知ってか知らずか、どちらにせよ行動に変わりはないだろうが、蓮乃はたぎる思いのままノートにペンを走らせる。

 

 『籠の取っ手は二つ有るから、二人で半分こすると安全!』

 

 不可解と書かれた顔の正太はとっくりと文字を眺めた。はて、こいつは何を言いたいのだろうか。「籠の取っ手は二つ有る」それは確かだ。「だから二人で半分こすると安全」とは如何に。二つある取っ手を半分こする、つまり一人一つずつ持つってことだろうか。それじゃぁ、むしろ不安定になって危険じゃなかろうか。俺一人で籠を持つのが一番安全だろうに、何を言っているんだこいつは。

 不可解顔の皺をさらに深めて首を傾げる正太。それを見て「わかってくれない」と不満顔になる蓮乃。さっきとは真逆の光景だ。ニブチンな正太に蓮乃の両目はさらに細まり頬はさらに膨らむ。その「不満」の二文字がでっかく書かれた蓮乃の顔を眺めて、正太の脳裏にようやく閃きが浮かんだ。

 

 ――あ、こいつまだ籠を持ちたいのか。

 

 蓮乃自身、一人で籠を持つのは危険に過ぎるとさっき転びかけたからよくわかる。しかし、籠を持ちたい気持ちに変わりはない。ならばと考えたのが『取っ手を二人で半分こ』という一見不可解な一文だったのだ。確かに蓮乃一人で持つよりも格段に安全だろうし、「籠を持ちたい」という欲求にも折り合いがつけられる。もしも蓮乃がバランスを崩したとしても、横幅の広い正太がクッションになるか籠を掴んだ手で支えられるので、怪我もさっきよりはし辛くなるだろう。

 さてどーしたもんかね。正太は不可思議顔をしかめ面に変えて顎をさする。自分一人で持つのが一番安全ではあるが、蓮乃の気持ちを全く汲まないというのも、ちょっとアレだ。こっちが叱った内容に対して蓮乃なりの対策を持ってきているんだし、これを否定するようでは蓮乃がこっちの叱責に耳を貸さなくなりかねん。ここは蓮乃の要求を聞き入れるべきだろう。

 だがしかし、正直言って恥ずかしい。いや、それをすべきだと考えたのだ。ならば武士に二言なし、まず塊より始めよ、男は黙ってサッポ○ビール。最後は違うか? まあいいや。

 

 胸の内で一応の納得をすませた正太は、指を器用に使って片手の籠の取っ手を二つから一つに持ち替えた。さらに小指に握っていない方の取っ手を引っかけると、蓮乃へと籠ごと差し出した。四、五秒の間の後、不満と書かれていた蓮乃の顔から、真夏の日差しを受けた向日葵のように笑顔の大輪が咲いた、思いっきり咲いた。

 

 「な~~う~~~~!」

 

 「大声上げんなよ」

 

 恥ずかしいだろという一言を飲み込み、正太は代わりにため息を付く。喜びすぎだろ、この娘っ子は。こんなちょっとしたことでも、まるで万願成就の時が来たと言わんばかりの喜び方をする。よほど喜びの沸点が低いらしい。もっとも怒りや悲しみの沸点も随分と低いので、ある意味バランスがとれているとも言える。何というか、全般的に感情のアップダウンが激しい傾向があるようだ。そんなだから相手してると実に疲れる、本当に疲れる。

 そんな疲れた顔の正太を後目に、蓮乃はテンション天昇なご機嫌で反対側の取っ手をぎゅぅと掴んだ。「むふー」と満ち足りた息を吐き、大満足の表情で頷く蓮乃。二人の間でバランスをとった籠は、とっ捕まえられたリトルグレイみたいにぶら下がる。そして「よけいな仕事が増えた」と嘆く連邦政府官僚のような表情の正太と、「エイリアンがこの手に!」と興奮するMIBメンバーのような顔の蓮乃はレジに向けて歩き出した。

 

 ――レジのおばちゃん、「あらあらまあまあ」って顔でこっち見るの止めてください、お願いします。



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第六話、二人が買い物にいく話(その八)

 帰宅の道は短いが長い。前者は距離的な意味で、後者は心理的な意味で。なぜならば、両手に吊した中身たっぷりな紙袋と買い物袋が物理的に重く、片側の紙袋を介した先のフワついた笑顔の娘っ子が気分的に重いからだ。いや、蓮乃の存在が心理的負担になっているわけではない。ただ、蓮乃のおかげで当社比十倍な周囲のなまあたたか~い視線が正太の気持ちをずっしりとさせているだけだ。

 うわぁ、あの女子高校生ニヤニヤしながらこっち見てるよ。お母さん、子供の指さすの止めさせてください。ああもう、こんちくしょう。

 

 正太の気分に合わせたように空は満天の曇り空。ビックバスケットに入ったときは晴れ晴れとした青空だったのに、出るときには分厚い積層雲が一面の空を覆い隠していた。朝の天気予報は杞憂ではすまないらしく、鉛色の雲は故事の如くに今にも落ちてきてしまいそうだ。家に着くまで持てばいいのだが。

 心持ちも足取りもずっしりと重い正太は、肩を落として気分を落としながら歩みを進める。背中を丸め周囲の視線にビクビクと反応するその様は、罪を犯して逃走真っ最中の犯罪者を思わせる。おかげで取っ手を握る紙袋がついさっきかっぱらってきた盗品にしか見えない。これだけならば、善意の市民の通報を受けたお巡りさんに両肩を捕まれて、警察署でじっくりお話をするはめになるだろう。

 そこで印象を変えてくれるのが片方の紙袋で取っ手を分け合っている蓮乃の存在だ。絹綿めいてふわふわと笑っている蓮乃のおかげで、正太の犯罪者臭さが程良く緩和されている。空模様とは真逆に「人生は素晴らしい」「なるようになるさ」と語っているかのように微笑む蓮乃は、正太のイメージを犯行直後の犯罪者から顔の悪いダメ親父に変えてくれる。

 まあ、御年十四の正太にとっては全く持ってうれしくないのだが。それに周囲からの視線が「犯罪者へのそれ」から「ダメ親父へのそれ」に変わったところで、正太からしてみれば「毒劇物を糖衣錠にして飲みやすくした」程度の感覚でしかない。どっちにしたところで「前の一件」で対人恐怖症もどきな正太にとっては、周囲の視線で針山になるのは苦痛でしかないのだ。

 だからといってこの場から逃げ出すわけにも行かないのが辛いところである。正直ため息を吐きたい心境ではあるが、隣で笑っている娘っ子の顔を曇らせるのもなんだ。ため息の代わりに泣き出しそうな空を仰いでしかめ面を浮かべるだけに留め、正太は帰宅の足を速めた。

 

 足取りが如何に重くとも足踏みをせず足を進める限り、目的地には少しずつではあるが近づくものだ。正太の体感としては随分と長い、蓮乃的にはちょっと短い十数分を過ごし、正太と蓮乃は間島アパートの近くに達した。

 あと少し、あと少しで楽しい時間もお終いだ。蓮乃は「まだ遊び足りない」と未練ありげな視線を向けるも、正太はそれに気がつけるほど鋭くはない。それに、気づいたとしても「いい加減にしろ」とにべもなく断るだろう。体力的より気分的な意味で、正太はとても疲れているのだ。

 そんな正太にとって都合のいいことに、間島アパートの敷地出入り口近くに見覚えのある人影が見えた。二人の視線の先にあるのは蓮乃の母親である睦美の姿だ。だが、少しばかり様子がおかしい。何かを探し求めるように視線をせわしなく左右に散らしている。

 

 「あ、睦美さんどーも!」

 

 しかしながら、正太は僅かな違和感を覚えただけで、何も気にすることなく睦美へと声をかけた。自分としちゃありがたい限りだが、随分とお早いお帰りだこと。いつもなら五時半と相場が決まっているのにどういう風の吹き回しか。まあ仕事が速めに終わったんだろう。というか、職に就いている人間がそれ以外で早引きする理由なんぞ思い当たらない。

 繰り返しになるが、正太は比べられたカタツムリが弁護士引き連れて直談判しに来るくらい鈍い。だから脳裏に浮かんだ疑問を、さほど考えることなく勝手な想像と仮説で埋めてしまった。

 

 正太の声に気がついた睦美は二人の方へと視線を向けた。睦美はじぃっと正太を見、蓮乃を見る。正太の無意識に何かがふと浮かんで、捕まえる間もなく消えた。何だ、何か今あったような?

 だが、心中の影を捕まえる間もなく正太の片手にかかる重量が増した。重さを増したのは紙袋の取っ手一つだけを掴んだ手の方。紙袋を介して蓮乃とつながっている方だった。

 と、なれば下手人は蓮乃しかいない。正太は内心面倒を感じながら蓮乃の方へと顔を向ける。どーせ『まだ五時半になってない』って駄々をこねるんだろう。想像に過ぎんが確信は大ありだ。今までの経緯からして、蓮乃はしっかりと道理を通した説明の上でならば、素直にこちらの言うことを聞く。逆に言えばそれ無しでは、早々言うこと聞いてはくれない。訳の分からない蓮乃理論を並べ立て、頑強かつ意固地に抵抗するのだ。

 ほら、子供の理屈で意地を張って頬を膨らませる蓮乃の顔が…………ない。

 

 「オイ、蓮乃どうした?」

 

 正太の視界に入ったのは蓮乃のつむじと垂れた髪、下がった肩。それだけだった。追記することがあるとすれば、落ちた肩はおこりを思わせる病的な震え方をしていたくらいだ。鈍い正太からしても異常であることは一目で見て取れた。

 尋常な様子ではない。とにかく母である睦美さんに伝えねば。出入り口付近にいた睦美へと声をかけるべく正太は顔を上げた。だが声をかけるまでもなく、睦美は二人めがけて駆け寄ってくる。その顔を見た瞬間、睦美もまた尋常な様子ではないのがよくわかった。

 青ざめたを通り越して土気色を漂白したような顔色に、異様な輝きを帯びた目が強烈に存在を主張している。整った顔立ち、白すぎる肌、固定された目が相まって、もはや怨念の生き人形としか思えない。美人が怒ると怖いと言うが、これほどまでとは知らなかった。お岩さんに恨まれた伊右衛門も、さぞかし生きた心地がしなかったことだろう。

 二人の目の前に駆け寄った睦美は血走った目で正太と蓮乃を見つめてくる。正気と思わせてくれない視線は、小刻みに揺れて二人の間を揺らめいてている。睦美が息を吸った。間違いなく強烈なのが来る。来た。

 

 「何で蓮乃が……家の子がここにいるんですかっ!?」

 

 なんでって言われましても、買い物に連れて行ったからとしか答えようがないです。睦美の絶叫めいた非難の声に顔をひきつらせつつ、正太は胸の内で返答を返す。第一声で鼻っ柱に右ストレートをたたき込まれた気分だ。急展開の衝撃に脳味噌がオーバーフローを起こしている。頭の中がパニック一色に漂白される。叩きつけられたインパクトに両手から紙袋が滑り落ちた。一時停止ボタンを押したが如くに凍り付く正太を後目に、ヒステリックに喚く睦美は一方的に温度を上げてゆく。

 

 「家から勝手に出ていいなんて一言も言ってないのに家にいなくて! 誘拐とか役所の人が連れて行ったりしたのかって本当に心配して! それなのに!」

 

 金切り声に近い早口で、文句なのか心配なのか非難なのかよくわからない言葉を睦美は綴る。それを聞かされる正太は、マシンガントークに打ちのめされてグロッキー状態だ。脳味噌は完全にハングアップし、意識は遙かお空の彼方。隣で震える蓮乃のことを考える余裕なんぞ一ミリもない。

 

 「何で勝手に外へ連れて行ったりしたんですかっ!」

 

 ――「勝手に」って、あなたが許可出したんじゃないんですかぁ!?

 

 半ば反射的なツッコミが正太の脳髄をセーフモードに切り替えさせた。口から飛び出しかかったエクトプラズムを深呼吸と一緒に吸い込み直す。脳味噌に酸素と霊気もとい冷気が行き渡り、不完全ではあるもののある程度思考が回り出した。

 ここで意識を失ったらお仕舞いだ。凍死寸前の登山者が体温維持のため歩き続けるように、正太はとにかく思考を回転させる。とりあえず今解ることは、睦美さんが狂乱と言えるほど怒り狂っているくらいだ。発言の内容を鑑みるに、蓮乃を連れ出したことについて怒り心頭のご様子らしい。加えて言うなら、睦美さんは「俺が」「勝手に」蓮乃を連れ出したとお考えだ。しかし蓮乃から今日の買い物については伝わって…………待て。

 

 高速で空転する正太の脳髄に、違和感の小石が挟まった。こんだけ「勝手に」言っているんだ、睦美さんは今日出かける旨を知らないんじゃ無かろうか。だとしたら蓮乃の奴がちゃんと伝えて無かったのか。蓮乃は睦美さんの姿を見た途端に妙な反応をし出した。これが睦美さんを見たことにより、伝え忘れたことに思い至ったのだとしたら? ……十分あり得る話だ。と言うか他に答えが見あたらないし、考えつける余裕もない。とりあえず、と枕詞を添えた上で正太は行動に移すことに決めた。もう一度深呼吸の後、興奮のあまり血の気が引いた睦美に向けて口を開く。

 

 「睦美さん、自分は昨日蓮乃ちゃんに「睦美さんから出かける許可をもらってくる」よう伝えました。この話は伝わっていませんか?」

 

 「そんなことは聞いていませんし、そもそも許可を出すはずもありません! すぐに解るような嘘を付かないでください!」

 

 間髪入れず絶叫めいた返答が投げ返された。嘘を付いた覚えはないが、睦美さんが話を知らないことは確からしい。驚き桃の木粉山椒だ。地口になっていない地口を腹の底で漏らしつつ、正太はいい加減思い出したように俯いたままの蓮乃へと視線を向ける。やはり目に入るのは頭頂部と黒髪と肩だけだ。いや、足元を見れば水たまりとすら呼べないサイズの地面のしみも目に入る。

 もしかして泣いてんのか。そりゃ自分のミスで母親が怒髪天をぶち抜いているのだ。蓮乃ぐらいの年ならば泣きたい心境になってもおかしくはない。ただ、一人矢面に残されたあげく、おそらくは蓮乃の涙で誤解を加速させた睦美さんの相手をするのは俺だ。こっちだって泣きたい気分なんだぞ。

 

 吐き出しそうになる愚痴と文句を無理矢理飲み干すと、正太は深く深く深呼吸をした。とにかく冷静に、冷静に。一緒にパニクったらどうにもならなくなっちまう。幸いというか何というか、目の前で睦美さんが大いにパニクってくれているおかげで、多少なりとも冷静さを維持しやすい。

 これでこっちまでパニックに巻き込まれたらどうしようもない。美人親子と見た目不審者。警官は法に従うはずだが、心象は確実に外観によるだろう。一緒くたに半狂乱になっちまったら留置所素泊まり確定だ。五月といえどコンクリ剥き出しの床は冷たかろう。そいつはさすがに御免被る。

 いくらか気分も心拍も落ち着いたことを確認し、正太はメモとペンを手に取った。正太の行動になにを思ったのか青筋を立てた睦美はなにやら口を開こうとする。だが機先を制した正太は「ちょっと待ってください」と待ったをかけて荒ぶる睦美を押しとどめると、俯いたままの蓮乃の肩を叩いた。

 

 『蓮乃、ノート貸してくれ』

 

 蓮乃との会話は障害の関係で基本的に筆談である。そして筆談に使っているのは正太が自宅から持ち出すメモを除けば、蓮乃が持つ「お話」と書かれたノートが主力だ。当然、ノートには今までの会話が書き込まれている。昨日の会話もだ。ならばそれを見せれば誤解はあっさり晴れるのだ。少なくとも正太が勝手に蓮乃を連れだしたという誤解は。

 しかし蓮乃はむずがるようにポーチを抱きしめた。その中にノートがあるのだ。誤解を解こうとしているところに、蓮乃の誤解を深めそうなこの仕打ち。正太の顔がおおいに引き吊る。

 

 『蓮乃。叱られるのがイヤなのはよくわかる、俺だってイヤだ。けどな、何か失敗したときはしっかり叱られて、なにを間違えたのか理解するのが大事なんだ。叱られたくないから「後で後で」ってやっていると、すごく大変なことになるんだぞ』

 

 メモにペンを走らせ正太は蓮乃の説得にかかる。文字からすれば優しく諭しているようにも思えるが、正太にしてみれば必死の行為だ。実際こめかみには脂汗が浮いている。

 何せここで誤解が加速すれば、パトカー呼ばれて手鎖留置所。仕舞いの果てには「特殊能力保有者専門学校」こと通称「特学」にたたき込まれる羽目になりかねない。その上「前」の時には幸運にも行かずにすんだ特学に行くとなれば、周囲の視線は純白より白く漂白されるに違いない。そうなれば残された家族は冷たい視線でできた針のむしろで日々を過ごすか、二度目の引っ越しをしなければならないだろう。

 何の恩義も返せてないのに、そんなのは御免だ。ただでさえ「前の一件」であれだけ迷惑をかけたのだから。

 

 だが蓮乃はポシェットをさらに強く抱きしめるだけだった。言葉は届かず万事休す。死角の睦美の気配が強まった気がした。こめかみから脂汗が滴り落ちる。メモの文字が手汗で滲んだ。

 ああ、これから死の宣告が告げられるのだ。走馬燈めいて家族の顔が正太の脳裏に浮かぶ。今まで厄介かけてすみません、そしてごめんなさい。面倒をさらにおかけします。胸の内で正太は家族へと今までの、そしてこれからの迷惑を謝罪する。だがしかし、後ろからの声は正太の想像とは異なった。

 

 「蓮乃、ノートを見せなさい」

 

 蓮乃は障害の関係で言葉を聞き取ることができない。それでも睦美から発せられた異様なまでに落ち着いた声に、涙目の顔を上げた。先の狂乱を嵐とすれば、まるで凪の様に大人しい。

 だが、「嵐の前の静けさ」という言葉があるように、大嵐の前には海は凪ぐものだ。睦美の声は表面張力の限界まで注がれたニトログリセリンを思わせた。一見したところは静かでも、ほんのちょっとのショックで致命的な爆発を起こすだろう。振り返れない、振り返りたくない。緊張に耐えかねたのか、知らず知らずの内に正太の呼吸も荒くなる。

 

 「蓮乃?」

 

 声音は静かだ。だがその下には溶岩が沸々と煮えたぎっている。意図せず正太はつばを飲んだ。蓮乃の態度にじれたのか、正太の横を通り睦美は蓮乃の斜め前へ出た。横顔は能面のそれだ。ただしその下には爆薬が詰められている。もはや問答は無用と、睦美の白い手が伸びた。

 

 「っあ!」

 

 驚くほどあっさりとポーチは蓮乃の手を放れた。いくらたおやかな女性の腕力であろうと幼女の力よりは格段に強い。仮にも主婦業をやっている睦美と、箱入り生活な蓮乃では両手の筋力が違うのだ。

 睦美は奪ったポーチから会話用ノートを引きずり出し、指先でこするようにしてページをめくる。くだんのページに至ったのだろう、ページを手繰る手が凍り付いた様に止まった。睦美から発される雰囲気に飲まれたのか、思わず正太は荒い息を潜める。蓮乃は言うまでもなく、俯いたままで身じろぎ一つしない。数秒間、三人の時が止まった。

 

 「……蓮乃?」

 

 時間を解凍したのは、先と同じ睦美の問いかけだった。声もまた先と変わらぬ静かなもの。だが、雰囲気は似て非なる。強いて表現するならば、「ニトロに火のついたマッチが投げ込まれるのを眺めている」ような、破滅的な状況が止めようもなく起きかかっていることを痛烈に確信させた。

 そしてそれが生じたのはわずか一瞬の後だった。

 

 パンッ!

 

 柏手を打ったような、しかしそれよりも大きい破裂音が周囲に響いた。音源は両の掌ではなく、睦美の手と蓮乃の頬。睦美が蓮乃を打ったのだ。理由も言わず、訳も告げずに。

 睦美から平手打ちされた蓮乃は地面に視線を向けたまま、ただ呆然の顔をしている。そっと触れた頬はジンジンと痺れ、十を数えないうちにひりつく痛みが自己主張を始めた。正太にお叱りの拳骨をもらったときと同様、「打たれたという事実」の衝撃に蓮乃はただ打ちのめされて、茫漠とした無色の表情を顔に浮かべることしかできない。

 一方、蓮乃の頬を張った睦美の視線は、彼女の心境のように不安定に震えて定まらない。平手打ちをした手も、破断点から水が吹き出して振動する配管の様にわなわなと細かく震えている。

 

 「……何で嘘をついたの!? 何で勝手に家から出たの!?」

 

 そして声は水門が破れたダムのように、感情がうねり溢れる激しいものだった。絶叫に近い睦美の怒鳴り声に、気圧された正太はたたらを踏んで二・三歩下がる。鬼気迫る形相で睦美は蓮乃の肩をつかむ。美人は怒ると怖いというが、元来の美貌と狂気じみた様子が相まって鬼も退く水準だ。完全に圧倒される正太の脳裏に「鬼子母神」という単語が一瞬浮かんだ。

 そばで見ているだけの正太ですらこの様相だ。真っ正面からこの怒気をぶつけられる蓮乃の心境はいかほどか。おそらく泣いてわめく余裕もないのだろう。茫然自失という言葉そのままの表情で、サンドバックもかくやに睦美の怒声で一方的に打ちのめされることしかできない。

 

 「何で…………何でお母さんの言うことを聞けないのよぉっ!?」

 

 茫然自失で反応のない蓮乃に業を煮やしたのか、睦美は再び手を振り上げる。

 これはいけない。このままじゃ拙い。危機感じみた感覚に突き動かされ、自身にも理由はわからないが「制止しなくては」と正太は声を出していた。

 

 「あ、あの~」

 

 出た声はこの様だったが。さらに言うなら、視線は微妙に睦美を外れて周囲をさ迷い、顔も睦美ではなく斜め右下の辺りに向けられている。この様を見たのが平時の正太でも、無様の一言しか出てこないだろう有様であった。

 

 まあ、睦美の雰囲気に完全に圧倒されていたのを考慮するならば、多少は仕方のない話かもしれない。加えてここ数年、長年暮らした家族と最近出会った蓮乃を除けば、他人様とまともなコミュニケーションをとった覚えがまるでない。これらを鑑みれば、正太にしてはよく頑張ったといえるだろう。他人を制止するという目的に、全く持って不十分である点に目をつぶればの話だが。

 それでも多少の効果はあったようで、ようやく存在を思い出したように睦美は正太へと視線を向ける。大理石のマスクめいた顔から発せられる視線の奥には、わずかながら正気の色がちらついている。

 

 「その、ええと、あの、ひっぱたくのはちょっと……」

 

 ここぞと正太は睦美へと声をかける。かける言葉は笑える様だが、コミュ障気味な正太にしてみれば勇気とか気力とか根性とか、そのほか諸々を込めている。正太の情けない、それでも色々振り絞った台詞に何かを感じたのか、睦美は振るった手と蓮乃の顔を繰り返し見やった。赤く腫れた蓮乃の頬と自分の手、叩かれた娘の顔と叩いた己の掌。自分のした、そしてしようとしたことを確かめるように、二度、三度、四度。唐突に睦美の瞳に光が戻った。

 

 「ご、ごめんなさい! 娘の嘘のせいでご迷惑をお掛けしたあげく、勝手な疑いをかけてしまって!」

 

 遅刻に気がついた学生もかくやで表情を変えた睦美は、これまた上司に遅刻を報告する新入社員を思わせる勢いで繰り返し頭を下げる。米搗きバッタの勢いでお辞儀を連発する睦美に正太の方が唖然とする始末だ。

 

 「すみません! 本当にご迷惑をお掛けしてすみません! これで失礼します!」

 

 水飲み鳥の様相で頭部を上下させる睦美は蓮乃の腕をつかむと、呆然とした正太を後目に引きずるようにしてアパートの敷地内へと去ってゆく。引きずられる蓮乃は声も上げずに下を向くばかり。濁流のような状況に振り回されてその気力もないのだろうか。抵抗はもとより反応する様子もない。

 いや、蓮乃が正太へ視線を向けた。ここ数日で何度となく見た切れ長の瞳は、溢れる涙で満ちている。涙の玉をこぼす目が、縋るように正太を見た。あるいは助けを求めるように、救いを求めるように。そんな気がした。でも正太は中途半端に手を伸ばしただけだった。声にならない声が正太の口からわずかに漏れた。

 

 「あっ……」

 

 文字通り「あっ」という間に、正太は間島アパート敷地入り口前に一人取り残された。まるで夢か幻の如く二人は姿を消した。別に消えて無くなったわけじゃない。単に自宅へ帰っただけだ。だから、何か言いたいことがあるなら追いかけてインターホンを鳴らせばいい。けれども正太はアパート前から一歩も動かなかった。

 

 ――どんな声をかければいいのかわからなかったから?

 

 ――余所様の家庭のことだから口出し難かったから?

 

 ――何故に? どうして?

 

 自分でも解らない疑問が脳味噌の中でぐるぐる回る。空転する正太の脳髄を冷やすように、ぽつりと頭に雨の滴が落ちた。僅かに顔を上げれば、空から降る雨粒が目に入る。予報では五時半過ぎからと聞いていたが、曇天の空はすでに泣き始めている。何の気無しに足下を見ればビックバスケットの文字が印字された紙袋に、滴が当たって弾けるのが見える。文字が印字された紙袋からはみ出た徳用煎餅の袋へと水の滴が流れ落ちた。

 半ば茫然自失の体で正太はぼんやりと紙袋を眺める。撥水処理のされた紙袋だから多少の防滴能力はあるが、雨にさらされればそう長くは持たないだろう。徐々に強まる雨に濡れながら、納豆よりぐちゃぐちゃにかき混ぜられた思考を無理矢理絞り出した。

 

 「一体全体何がどーしたっていうんだよ……」

 

 雨足は段々と勢いを増している。予報によれば雨はしばらく続くらしい。



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第七話、昨日の話(その一)

 雨が降っている。

 

 さほど強くはないが、さりとて弱いともいえない中途半端な雨足だ。「しとしと」と「ざあざあ」を足して二で割れば比較的近いだろう。そのくらいの雨が一昨日の夕方から降ったり止んだりだ。

 強くもなく弱くもない雨の音を背景に”宇城正太”は、自宅である間島アパート一〇三号室の居間でぼんやりとテレビを眺めていた。表情もぼんやりとして捕らえ所のない微妙なものだ。ついでに心境もぼんやりしている。存在もぼんやりしていることだろう。

 時刻は午後三時半。「二週間前ならば」いつもと変わらない静かな放課後だ。あと二、三〇分もすれば妹である”宇城清子”が帰ってきて、一〇三号室はちょっとばかり賑やかになるだろう。そして六時頃になれば両親が帰宅して、家族一同で夕飯食べて、居間でテレビ見て、子供部屋で宿題やって、風呂入って、便所行って、寝る。それでまた明日だ。

 

 だがここ二週間は違った。放課後に帰宅してみれば、大抵あの小憎たらしいくらい整った顔で脳天気な笑顔をした”向井蓮乃”がいた。おかげで否応なしに正太の放課後は、笑えるくらいうるさくて頭を抱えるくらい賑やかになった。仏頂面の正太、笑いをこらえる清子、そして理由もなくドヤ顔の蓮乃。そんなのがここ二週間ほどの毎日だった。

 そんな蓮乃は昨日は来なかった。今日も来ない。明日もきっと来ないだろう。確証はないがそう思う。おかげで放課後は二週間前と同じだ。先日みたく静かに本でも読みながら、もしくは今日みたくボケっとテレビでも見ながら、家族が帰宅するまでを過ごす。前と変わらない、いつも通りの時間。そう、いつも通り。

 

 ――なら、なんでこんなにテレビが面白くないのだろうか

 

 ソファーの背もたれに預けた体重を前に戻し、頭の重量を頬杖で支える。見ているのは今週見そびれていた装甲ライダーの最新話だ。きっと清子に笑われるだろうから大きな声では言いづらいが、二週間前は興奮して楽しんでいた。だが、今は不思議と楽しめない。

 目の前のテレビでは、近代的な鎧を着込み隙間から緑の燐光を放つ正義の戦士が、傷口から赤光を漏らす異形の怪物を追いつめている。戦士は本部へ必殺技の使用許可を要請した。後は必殺の跳び蹴りで怪物は爆発四散。一件落着、事件解決、エンドロールだ。しかし正太はそれを見ることもなくリモコンをいじった。「SmartLife」のロゴと「シャットダウン中です」の文字が流れ、画面が真っ黒に染まった。

 別に今週の番組の出来が悪くて見てられないわけではない。つまらないとは違う。まるで脳味噌の表面を映像が滑り落ちるようだ。風邪っ引きで寝込んだ時にも似た感覚を覚える。意識が朦朧として、ものを考えようとしても考えられないあの感じ。もしくは、考える気力もないのに誤動作する脳味噌が、余計な思考や想起を止められない。そんな感じだ。特に布団の中で熱にうなされながら見る夢に似ている。ついでにいうならそうやって見せられる夢は大抵が薬物中毒者めいた極彩色の悪夢だ。

 そして正太が繰り返し思い出す光景は、サイケディリックの悪い夢ではないが気分的にはそう変わらない物だった。

 

 ――般若ばりの激情から豹変した睦美さんが蓮乃の手を引っ張ってゆく。こちらを振り返る蓮乃の瞳には涙がこぼれそうなくらい溜まり、まるで「助けて」と訴えかけるように見える。でも自分がしたことは中途半端に手を伸ばしただけ。届かせるほど覚悟を決めた訳でもなく、手を下ろすほど結論を出した訳でもない、どっちつかずな形の手。何もできず何もせず、固まったままの自分を置いて、そのまま二人はドアの向こうへ消えた。

 

 一昨日の、低気圧が泣き出す寸前の光景だった。この直後から降り出した雨は今日もまだ止んでいない。天気予報によれば後二・三日は降るらしい。初夏にしては珍しいくらいの長雨だ。窓向こうに目を向ければ、一〇三号室の小さな庭は雨で煙って滲んでいた。時折道を通るトラックのヘッドライトが結露に濡れた窓を白く染める。

 

 『知り合いが連れて行かれる前で、根性無しのヘタレが何もできないまま固まってた』

 

 結局の所、あの時のことを文字にすればたったこれだけだ。「前の一件」で幾らかマシになったと思いこんでいたが、全くもって変わりなし。自分はクズでバカでマヌケで、どうしようもないダメ人間のままだった。

 いや、それは表現としておかしい。「どうしようもない」のだから、マシになるはずがない。つまり自分は変化無しで、価値無しで、意味無しだ。ああ、死んだほうがいいな。

 

 あまりの己の醜態に、正太は自嘲を通り越した乾ききった笑みを浮かべる。頭痛が痛くて堪らない気分だ。もう考えるのを止めたい。でも思考は空転して止まらない。考える気力もないのに、暴走する脳味噌が余計な思考を止めてくれない。胡乱な目をした正太は、体重をソファーの背もたれに移した。自暴自棄な心持ちで天井を仰ぐと、シミの見える天井はいつもと変わりなく煤けている。みんないつもどおりだ。そうでないのは、グチャグチャな自分の心境だけだ。

 もういいや、どうでもいいや。諦めないことを諦めて、正太は自滅的な想起に思考を委ねた。グルグルと空転する脳味噌は、楽しくもなければ面白くもないかつての記憶を巻き戻してゆく。

 

 誰もいない部屋の隅で過ごした文化祭。

 

 声を張り上げる振りだけした体育祭。

 

 何か変わるのかと益体もなく期待した中学入学。

 

 刑務所から出所した気分だった小学校卒業。

 

 拷問部屋から独房へ移された心境の転校。

 

 そして、全てがひっくり返った「前の一件」。

 

 自分にとって最悪で最低で最凶な一件だった、なにより自分のクソさ加減を思い知らされたという意味で。思い出すのもイヤになる、というかイヤだ。しかし制御不能な脳髄は不快感を覚える正太を無視するように、人生上最大級の出来事を再生し始めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 自分の魔法について知ったのは小学四年の定期検診の日だった。保険の先生が検診記録を見るなり難しい顔をして、どこかに電話をかけていたのを覚えている。その後は別の部屋に移されて、母と役所の人が来るまでずいぶんと待たされた。午後の授業が吹っ飛ぶのはうれしかったが、なにが起こるかわからずに結構な不安も覚えていた。

 

 「この結果を見るに……お子さんは特殊能力保有者のようです」

 

 役所の人と一緒にやってきた医者の先生に、母と一緒に告げられて最初のうちは呆けていた。正式名称「特殊能力保有者」、俗称「魔法使い」。アニメやニュースの中の存在だと言われていきなり理解するのは難しい。もっとも、少しばかり道を歩いてみれば魔法使いの腕輪をつけた人間は棒に当たった犬より簡単に見つかる。単に自分があまり周りを見ていなかっただけだ。

 次いでこみ上げてきたのは興奮だった。まるで自分が特別な何かになったようで猛烈に鼻息を荒くしていた。病院で詳細な検査がどうこうと母に説明をしながら、苦い顔で見る先生の視線に気づかずに。頭痛を覚えたかのようにこめかみに掌を当てた母の姿もまともに見ずに。自制心の無い子供に足すことの魔法。ろくな結果にならないことは幾多の若年層特殊犯罪が証明している。

 確かに特別と言えば特別だろう。魔法使いは全人類の内五%ほどしかいないのだ。ついでにいうと日本人は全人口の二%未満だ。だから、「日本人であることよりは特別でない」程度に特別だ。だが幼い自分は、全知全能とさほど変わらないレベルの特別を感じていた。解りやすく言えばスーパーマンになった心地だった。

 

 しかしスーパーマンはその力を人のために生かす慈しみに溢れた心と、決して悪に屈しない強靱な信念を持つからこそヒーローなのだ。そして自分は一片たりとも理解していなかった。魔法というスーパーな力を持っていながら、自分は成人(マン)ではなく子供(ボーイ)だったのだ。「子供だから」と言えばその通りだったのかもしれない。少なくともこの時点まではその言い訳は利いただろう。この時点までならば。

 

 

 

 

 

 

 魔法が使えることが判ってから、自分の学校生活は大きく変わった。当時、属していた小学校には自分以外の魔法使いはいなかった。帰化外国人の子息を積極的に受け入れている学校ならばともかく、日本人でほぼ全員な地方の小学校なら魔法使いがいる方が珍しい。だから、恩賜上野動物園に贈られたパンダのように周りの注目の的だった。

 無論、パンダと違って見た目が可愛くもなんともない自分が、そう長い間注目を集められるはずもない。代わりに人目を引きつけたのはやっぱり魔法だった。

 

 自分の魔法は熱量操作。熱量(カロリー)を操作して肉体を活性化することが出来る。見た目の派手さは全くないが、使えば運動能力は跳ね上がる。加えて無意識に使用していた時とは違い、自覚的に使用すればできることは桁違いに増えるのだ。

 まるで子供にコンピューターを渡した時のように面白全部でいじりにいじり倒して、大人が驚くほど短い時間で魔法の使い方を考え出していった。

 

 全身に熱量を流し込み運動能力を増強する「熱量加給」

 下半身に熱量を集中させての「熱量加給・下肢増強」

 下肢増量の上半身バージョン「熱量加給・上肢増強」

 試験には不許可だが集中力上昇「熱量加給・脳力増強」

 そして奥の手・必殺技の熱量加給強化版「熱量過給」

 

 ほかにも掌に高熱を帯びさせる火傷前提の「熱量充填」、冬場に最適人間ストーブ「熱量放射」などなど。子供特有の無駄に柔軟な発想力で、次々に生み出される新しい魔法の使用法は、放っておけば急速に下降するだろう自分への注目度を下支えしていた。

 注目というのは麻薬と同じだ。初めは戸惑いと恥ずかしさでさほど喜べないだろうが、一度その味を覚えればもう手放せない。もっと注目してほしい、自分を見てほしい、関心が欲しい、興味が欲しい。注目を得るための行動は過激化の一途をたどる。危険を伴おうと大人から睨みつけられようと、周囲の視線を得られれば何のその。俺を見てくれ、もっと見てくれ。見てくれ悪いが、もっと見てくれ。

 

 だからだろうか。自分は周りの視線の色合いが変わっていることに気がつかなかった。思い返してみれば十分に予兆はあったのだ。多少なりとも話をする数少ないクラスメイトからの忠告。猿回しの猿めいた自分への先生からのお小言。そして何度となく学校の様子を聞く親の様子。程度の差はあれど皆気がついていたのだ。そしてある人はそれとなく、またある人はかなり直接に自分へとそれを伝えていた。

 だが人気者という立場に正体を失った自分は、馬(鹿)の耳に念仏と大事なことを聞き流していた。そして自分は、トイチで複利で暴利な代償をすぐに支払う羽目になったのだ。



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第七話、昨日の話(その二)

 惚れた腫れたに好いた嫌った。男と女の色恋沙汰は古今東西、古代の各種神話から現代のラブソングまで、どこにもいつでもあるものだ。人類が有性生殖をする生き物である以上、遡ればおそらく種の始まりからあるだろう。男三人顔を合わせれば女の話が、女三人席を連ねれば男の話が始まる。異性が席を連ねれば、大なり小なりその手の話は口に上るものだ。誰とけっこんしたいだの誰にちゅーしただのと、幼稚園児からすら聞こえてくる。

 当然、小学生だって噂の話題は大抵それだ。半端に色気付く思春期の始まりとくれば盛り上がりも一際だろう。自分が小学五年生になった時でもそれに違いはなかった。誰が誰に告白したとか誰が誰にラブレター渡したとか、クラスのそこらでそんな話題が耳に入る。無論、自分がその中に入ることはなかったが。

 

 そして、その中でよく名前を耳にするクラスメイトの女子がいた。その子は背の順に並べば真ん中より前の方で、外観は整っている方だが極端にというわけではない。雑誌やテレビの基準でいえば十人並みに二・三足した程度だろう。センスも基本親が買ってきた服を着ているとなれば想像は付く。だが彼女はクラスの中心だった。

 彼女は自称「サバサバ系」とは違う本当におおらかでさばけた性格をしていた。昔ながらの表現を使えば「竹を割ったような」という言葉のよく似合う、すっきりとして一本筋の通った気持ちのいい人間だった。外観や媚びで異性に「だけ」人気ある女性は、まま見ることがある。しかし、彼女は希有なことに異性・同性を問わず皆を魅了してみせた。無論、外観とて悪いものではない。それ以上に、彼女の心根が皆の心を惹きつけた。彼女の魅力は外観ではなくその心にこそあったのだ。

 

 そんな姿に自分は周囲同様に憧れ混じりの恋愛感情もどきを彼女に抱いていた。それが変質を遂げ始めたのは「俺を見てくれ」と注目に酔い狂い、それが泥酔へと変わってからだった。

 始めは皆からの視線やたまの賞賛がひたすらに嬉しかった。だが何であれ良くも悪くも慣れる。例え有頂天の幸福であろうと、例え奈落の底の不幸であろうと、人は順応し適応しついには当たり前の日常へと変えてしまう。無数の人目を浴び続ける内、自分はそれを当たり前と勘違いを始めてしまった。気が付けば「俺を見てくれ」という欲求は、熟成発酵腐敗の挙げ句「自分は特別」の思いこみへと成り果てていた。すなわち、当時の自分からは一足早く思春期性万能妄想症候群こと通称「中二病」が香ばしいにほいを放っていたのだった。

 

 他人の鼻につくくらい「特別な自分」を鼻にかけ、周囲が鼻白む様を鼻で笑って鼻高々と、鼻持ちならない鼻息荒い鼻つまみ者。それが当時の自分だった。

 そんな奴が周りから好かれるはずもなく、あっという間に周囲の視線の質は変わった。動物園のパンダを見る目から、ゴミ捨て場のゴキブリを見る目へになった。居るだけ迷惑、視界に入るだけで怖気が走る、会話なんぞ以ての外。この時点で虐められなかったのはただの偶然に過ぎない。あと今しばらくの猶予があれば、きっと別件由来の虐めが始まっていたことだろう。だが自分はそれより先に事をしでかした。

 

 

 

 

 

 

 あれは小学校五年の五月半ばで、酷く雨が強い日だった。台風が来るような季節でもなかったくせに、「台風以上の大雨が関東一円に降り注いでいる」とテレビの中で日放の報道員がびしょ濡れになりながら叫んでいたことをよく覚えている。おかげで小学校も昼近くで休校が決定し、大雨がさらに強まらない内に帰宅と相成ったのだった。

 「もっと早く登校前に休校にしてくれれば家でのんびりできたのに」と他人に聞こえるように大きな声で愚痴りつつ、下駄箱から長靴を取り出し帰宅の準備をする。近くのクラスメイトからは返答の代わりに道ばたのゴミを見るかのような胡乱気な視線が投げかけられた。しかし、自分が気がつくことはなかった。それに気が付けるようならこんな状態にはなってはいない。

 

 長靴に両足を納めて合羽に袖を通し、その上で傘を差す。この完全防備でなおランドセルが濡れるほどに激しい雨が降る中の帰路だった。隣の車道ではグレアでぼやけたランプを灯す自動車が駆けてゆく。いつもなら鼻につく甘い排気ガスの臭いも、降りしきる雨に散らされて全く気にならない。

 自動車が水たまりを通り抜ける度に水が跳ねて嵩を減らすが、一〇秒と経たない内に土砂降りの雨が満杯を越えて補充する。飛び散る水も降り注ぐ雨に紛れて雨合羽を濡らすのがどちらなのか見分けもつかない。いつもの通学路は土砂降りの雨で煙りに煙り、先を見るのも目を凝らさなければならない。風がないのがせめてもの救いだが、それでも傘を少し傾ければ半身に雨の水玉模様が三倍速で描かれる。これで転けたら一大事と、眉根を寄せて目を細めつま先で探りながら足を進めた。

 

 だからだろう。気になるあの子の差す花柄オレンジの傘に気がついたのは随分近づいてからだった。帰宅の向きが同じ事は知っていたが、かち合ったのはこれが初めてだ。一緒に帰ろうとしたことはあったが、彼女を囲む女子に阻まれそれは成らなかった。

 でも今視線の先にあるのは橙色の傘の花が一輪だけ。いつやる? 今でしょ! そう考えた自分は彼女へ向けて足を速めた。気持ちの悪いことに一方的に運命めいた何かを感じてすらいた。

 無論そんなモノはこの世どころかあの世の果てまで探したとても見あたらない。お釈迦様の手の平にだって乗っていない。精々が自分の脳内に妄想という形で存在するくらいだ。しかし、それは逆にいうならば自分の脳内では確かな現実だったということでもある。だから自分の足取りに迷いはなかった。実に気色の悪い話である。

 長靴を滴る水の玉を蹴り飛ばしつつ、足並みを速め傘との距離を詰める。向こうの歩調はそのままで変わりなし。どうやら彼女はこちらに気づいていないようだ。なら後ろから声をかけるよりも、肩を叩いて驚かした方がおもしろい。無粋にもほどがあることを考えながら、自分は蜜柑と同じ色の傘を追いかける。そして後数十mというところで、不意に傘は向きを変えて曲がり角へと姿を消した。

 

 随分前のことだから細かくは覚えていないが、この時自分は眉間にしわを寄せて考え込んでいた記憶がある。

 自分の通学路ならこのまま直進だから、ここから曲がった先は記憶にない。しかしこの雨の中、普段は行かぬ道で見失えば夕飯までに見つけるのは不可能に近い。例え重度の中二病に罹患していても、腹が減るのに違いはないのだ。いくら格好付けても育ち盛りの思春期に食事抜きは実に堪える。

 さらに母は思春期めいた「ババア」呼ばわりにダース単位の拳骨で応えるお人である。「女の子の傘を追っかけて夕飯に間に合いませんでした」となれば、食事抜きと拳骨のダブルコンボを決めてくださるに違いない。

 そうわかっていたならさっさと諦めればいいものを、頭の悪い万能感に推されるまま「すぐに追いつく」と高をくくり、自分は角を曲がった。角の先には見覚えのない光景と、見覚えのあるオレンジの傘が一輪。橙の傘は角を曲がる前より遠い数十m先で揺れている。それを自分は犯人を尾行するドラマの刑事の心地で追いかけ始めた。端から見れば精々が人参をぶら下げられた豚のそれだろうが、当時の心境としてはそれだけ浮かれていたのだ。

 

 ガードレールも運転標識も何もかもが降りしきる雨で霞む視界の中、ただ一つくっきりと鮮やかに存在を主張する傘の花が一輪、夕日の色に咲いている。それだけを目印に、自分はひたすら彼女を追いかける。気づけば、走る車の音も降り注ぐ雨音も舞台のBGMに変わり、電柱も歩行者信号も背景の書き割りに成り下がった。世界にあるのは自分と、傘と、彼女だけ。早足気味の足並みをさらに速め、少しずつ少しずつ二人の距離を縮めてゆく。あと一〇m……七m……四m……一m……手が届く!

 

 その瞬間、トラックのヘッドライトが視界を白一色に塗りつぶし、クラクションが鼓膜を貫いた。

 

 先にも触れたが、そのときの自分は一人上手に舞い上がり、運命めいたなにかを妄想していた。当然それだけ舞い上がっていれば視界もその分狭くなるわけで、目にはオレンジの傘とその持ち手以外何一つ入っていなかった。加えていうなら、土砂降りの大雨は視界の大半を霞ませて辺りの様子もおぼろげにしか見通せなかった。だから、自分と彼女が信号のない交差点の途中にいたことにも、トラックが横方向から近づいていることにも全く持って気が付いていなかったのだ。

 自分にとっては唐突なトラックの接近に、視界同様頭の中は真っ白に漂白された。何かを考える暇もない。脳裏に浮かぶのは、言葉どころか映像にすらならない危険のイメージ。それは一瞬すらかからずに「オレンジの傘」と結びついた。

 

 ――危ない!

 

 イメージが言葉になるより早く、体は動いてくれた。自分の傘を投げ出し、彼女の居た位置へ全力で全身をぶちかます。返ってきたのは考えていたよりもずっと軽い手応えで、「結構体重軽いんだ」と緊急事態にも関わらずやくたいもない感想が浮かんで消えた。トラックが制動をかけたのか、クラクションに加えて急ブレーキの音が耳を刺した。

 同時に体は車道と正面衝突を果たした。全身に衝撃が走り、一拍おいて熱に似た痛みが脊椎を駆け抜けた。いかに水で濡れて摩擦係数を下げようと、アスファルトは天然、いや人工の大ヤスリだ。身体を堅い地面に打ち付けた痺れる痛みと、擦れた皮膚が服との間で摺り下ろされるひりつく痛みが二人三脚でやってくる。痺れと熱さと痛みを兼用した感覚がジンジンと神経を炙った。まるで赤熱する鋼鉄製の蟻が肌の上を這い回っているように思えた。

 痛みを誤魔化すようにコンチクショウと悪態を付きながら体を起こした。傘を投げ出した上に地面を転げたおかげで、レインコートの隙間から雨がしみ入ってきた。冷たい雨がいやな感じに体温を奪っていくが、熱を帯びて火照る傷にはむしろ心地いいぐらいだった。

 辺りを見渡せば、停車したトラックのヘッドライトで照らされて全てがくっきりと浮かび上がっていた。上下逆で雨が溜まりつつある自分の傘、横断歩道より一〇mほど前で止まったトラック、駆け出すように車を降りるドライバー。

 

 そして、投げ出されたオレンジの傘と…………地面にうずくまる彼女の姿。耳の奥で血の気が引く音が聞こえた。

 

 突き飛ばした時は思考より早く動いたくせに、身体は間接に接着剤を流し込まれたように固まった。まるで全身が鉛に変わったようだ。彼女を介抱しなくちゃと思考だけは空転するが、足が踏み出される様子は一向にない。身動き一つとれないままで呼吸だけがバカみたいに速くなる。

 視点はアスファルトの上の彼女に固定されたままだ。トラックを降りて駆け寄る二人の人影も目に入らない。身体を丸めた彼女は動かない。自分が突き飛ばしたから動かない。自分のせいか? 自分のせいだ。ヘッドライトに照らされて辺りは真昼のように明るいはずなのに、目の前が真っ暗になった気がした。

 自分に向けて呼びかける声も耳に入らない。動かない彼女に駆け寄る人の姿も目に入らない。焦れた運転手に肩を揺さぶられ、ようやく視線が彼女からはずれた。瞳孔が絞られて焦点が肩に手をやるドライバーに移る。

 

 「坊主、大丈夫か!? 頭打ってないか!?」

 

 さぞかし惚けた表情をしていたのだろう。髭面のトラック運転手は、真面目に自分の頭を心配していた。理由はともかく、確かにその時の自分の様子はおかしかった。なにせ地面にダイブを果たして立ち上がって以降、ワナワナと震えるだけで身動き一つしないのだ。運転手の方が心配するのも無理もない。

 そうじゃない、彼女が大変なんだ。それを伝えようとしても唇は震えるだけで、言葉を発してはくれなかった。涙がこぼれたのか頬の上を生暖かい液体が伝う。すぐに降りしきる雨に混じって熱は消えた。

 

 「おい! こっちの子は怪我してるぞ! 手ぇ貸してくれ!」

 

 彼女に駆け寄ったもう一人の運転手から、焦りを帯びた声が飛ぶ。肩を支えられ助け起こされた彼女の顔には、流れ出す血と降り注ぐ雨が奇妙なマーブル模様を描いていた。痛みを堪えているのか、いつもは快活な表情を浮かべる顔をゆがめ、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返している。右の目と生え際の中間辺り、ややこめかみよりから血が流れていた。強い雨に流されて僅かの間、彼女の傷の形が見えた。五百円玉程度の大きさに肉が抉れて、その下の骨まで見えそうだ。

 間違いない、自分が突き飛ばしたからだ。トラックは彼女にぶつかる前に停止した。怪我なんかするはずはなかった。自分があの子に怪我をさせた。それも女子の顔に傷を付けて。意識が遠くなる気がした。いっそそのまま気を失えればよかった。でも気は確かなままだった。

 誰かが通報したのか、遠くサイレンの音が聞こえてきた。それはようやく事態が収束を迎えた合図のように響いた。だが実際は序章の終わりを告げる鐘の音でしかなかった。



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第七話、昨日の話(その三)

 『光より速く進むものはない。ただし悪い噂だけは例外だ』

 

 「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」を出した英国人作家の言葉にもあるように、驚くべき早さで話は伝わった。ただし、情報は正確ではない。悪意を持って改変された上で伝播していった。

 初めの内は「宇城がクラスメイトに怪我させようと突き飛ばした」と比較的事実に近しかった。しかし、十人を回らない内に「宇城がクラスメイトの頭をつかんで叩きつけた」に変わり、仕舞いには「宇城がクラスメイトへ棒で殴りつけた」と人物以外一つも合っていない話になっていた。

 しかし、これを聞いた同級生は当然のように信じた。だってその方が面白いから。当時の自分は多くの同級生に嫌われていた。そんな奴が悪者になるのはとても楽しい。なにせ、正義の名の下、良心の呵責なく好き放題いたぶれる。これを嫌がる人間はそうはいない。自制心や公共の概念が発達途上である子供となればなおさらだ。

 

 自分の口から細かい事情を聞いた両親は、自分と一緒に彼女に頭を下げてくれた。申し訳なくてボロボロ泣いた。この程度で許してもらえるとは思えなかった。けれど彼女は許した。許してくれた。「すぐに治るし、痕も残らないそうだから」と朗らかに笑って。

 

 だが、他の子供たちにとってそんなことはどうでもよろしい。あの子が許した? それがどうした。重要なのは、自分たちが悪と認定したかどうかだ。そして悪は断罪すべきだ。だってその方が楽しいから。

 かくして楽しい楽しい虐めの毎日が始まった。まずは小手調べ。持ち物隠し、机への落書き、そこら中から聞こえる陰口。

 オードブルが出された後はちょいと気合いを入れて、便所の上から泥水ぶちまけ、上履き入れには生ゴミたっぷり、ものを盗んでの追わせ回し。

 メインディッシュは暴力児童の拳がうなる。校舎裏でのサンドバック、階段上から突き飛ばし。見えないところで振るわれる暴力は日常の一ページとなった。

 

 日々のいじめに家族が気がついていたかどうかは定かではない。後のことを考えれば、おそらく気づいていたのだろう。当時は他人を見れる状況ではなかったからわからなかったが、何度となく学校のことを聞かれたような記憶もある。

 それに思い返すだけで胸がむかつくが、当時は帰宅後はよく布団の中で泣きじゃくっていた。辛い、苦しい、キツい、死にたい。えづき混じりの泣き言を布団の中で吐き散らし、毎晩枕を涙で湿らせる。悔し涙で濡れた枕に、我が家の家事全般を担当している母が気づいていなかったとは考えづらい。

 

 そんな我が家の状況とは一切合切関係なく、嵐のごときいじめは指数関数的にその勢いを増していった。注目は麻薬と同じといったが、虐めもまた同じような傾向を備えている。さらなる刺激を求めてエスカレートする一方だ。無論、先生に見つかるようなヘマはしない。楽しい時間が中断されてしまう。

 それに、見つかったところで右往左往するだけの大人たちになにができる。精々クラス会かそこらだろう。殊勝な様子で反省の色を見せれば片が付く。無論、面倒事の後は思う存分虐め倒してストレス解消だ。

 そう考えていただろう虐めっ子たちの想定外はただ一つ。事態に気づいた後の先生方の行動が、驚くほどに迅速であったことだった。虐め開始時点からわずか一月、自分は生活指導室に呼び出された。

 

 両親から聞いた話によれば、かつての時代「山」と言えば「川」というように、「虐め」といえば「放置と隠蔽」と揶揄されるほど日本の学校は虐め問題に消極的かつ日和見であったらしい。だが米国で起きた虐め被害者の魔法使い生徒による報復大量殺人事件、それに恐怖した国内の虐めっ子による集団リンチ殺人事件をきっかけとし、虐め問題、特に魔法使い関連のそれにおいて日本教育界は世界でも有数の即応体制をとるようになった。

 自分の場合でもそれは同じだった。呼び出された日はあの雨の日から一月強、担任が母からの連絡で状況を理解してからわずか十日後だったのだ。

 

 正直、その時の自分は虐めのせいで頭の中が一杯一杯で呼び出された理由を想像できるような余裕など無かった。せいぜい脳裏に浮かぶのは「これが告げ口と見られた場合どの程度殴りつけられる数が増えるのか」ぐらいのことが関の山。そんな自分的には重要な、他人的にはどうでも良いことを、霞む頭で薄ぼんやりと考えながら生活指導室へと向かっていた。

 「失礼します」と聞き取りづらい声をかけ、精神的な死に体をナメクジみたいに引きずりながら引き戸を開ける。そして半死半生な顔をわずかに持ち上げると、死んだ目を大いに見開いた。目に入る光景は、ぼやけた脳味噌を一時的とはいえ覚醒させるだけのインパクトを有していた。

 まず目にはいるのはクラス担任と副担任の先生、続けて魔法使い児童向けの定期心理検診でお世話になっているスクールカウンセラー。あまり顔を合わせたことはないが学年主任と生活指導の先生方、とどめに授業参観でもないのに両親の顔がそこにあった。

 胡乱な目を白黒させて混乱している自分をよそに、学年主任の先生が両親と小さく頷きあうと、自分の方へと向き合った。当時から他人の心情を察するのは致命的にド下手な自分ではあるが、少なくとも学年主任の先生の顔に一切の迷いがないことは見て取れた。

 

 「君は虐められているんだね?」

 

 開口一番、先生から投げかけられたのは率直な確認の言葉だった。質問ではなく疑問でもなく、確信を持った確認の声だ。

 自分の口から返答は出なかった。代わりに目から涙がこぼれ落ちた。恥ずかしくて情けなくて辛くて家族にも言えなかった。しかし先生方と両親は、クソガキの薄っぺらな秘密などとうの昔にお見通しだったのだ。

 

 それは最後の合図であり、承認の記名と同じだった。なにせ自分が生活指導室に呼び出された時点で、必要の手続き他一通りの準備がそろっていたのだ。最後に自分に事実確認して準備は終わり。あとは実行あるのみ。あれよあれよと事は進み、何が何だか解らないうちに転校の手続きは終わっていた。

 夜逃げ同然、というのは言い過ぎにしても別れの会もなにもなしに自分は別の小学校へと所属を変えた。虐めっ子たちとはそれっきりだ。報復とか敵討ちとかするだけの気力はない。顔を会わせたくないし、声を交わしたいなんて一欠片も思わない。正直に言って「無かったこと」にしてしまいたいのが本音だった。

 

 そんなことよりもずっと気にかかっているのは、引っ越し費用やらなにやらで家計に無視できない負担をかけたこと。そして妹の清子のことだった。特に後者はのどに引っかかった小骨のように、未だにその存在を何かある度に苦痛を伴って主張する。

 虐めの次の標的としないため、清子一人を小学校に残すわけにはいかなかった。そこらへん抜かりないことに先生方は清子の転校手続きも終えていたが、それはつまり現状の友人たちとの関係が断ち切られることを意味していた。詳細は知らないが自分以上に人間のできている妹のことだ。少なくない数の友達がいただろう。親友、級友、悪友、盟友。全部捨て去る羽目になったのだ。

 それは全部、自分のせいに他ならない。清子は何も言わなかった。どうやって謝ればいいのだろうか。未だ皆目見当も付かない。

 

 その後の事は別段語ることはない。何もなかったというわけではないが、ずっと下を向いて他人に怯えてるガキの数年間など、聞く意味も語る価値もないということだ。

 転校先で虐めはなかった。正しく言えば、虐め「も」なかった。転校しても転校先と打ち解けられなかったのだ。生徒の転校後の事情まで気にするほど小学校教諭は暇ではない。無論、転校先の先生方は色々と気を配ってくださった。

 だが、いくら手をさしのべられても握り返せないなら立ち上がりようもないわけである。つまり、自分はコミュ障という名前をした虐めの後遺症から一歩も抜け出せないままだった。そんな虐めの影に怯えてまともにコミュニケーションもとれない奴と、仲良くするような奇特な御仁はいらっしゃらなかったわけで。結局、卒業までぼっちのまんまで何もなかった。

 高校デビューならぬ中学デビューを考えたこともあった。けれどもどうすれば受け入れてもらえるのか、どうやれば認めてくれるのか。何一つとして解らないまま、何もしないで日は過ぎてゆく。これで転校の時と何が変わるのか。実際、期待しただけで何も変わりはしなかった。

 結局誰とも打ち解けられず、中学生一年目は「動く背景」「歩く書き割り」。その程度が関の山。体育祭ではただひたすら目立たないよう、周りにあわせて声を張り上げる振りだけした。誰ともしゃべらない奴の人手を求める人などいないから、文化祭は一人で人っ子一人こない部屋の隅でいじけていた。

 

 そして、そんなくだらない有様の繰り返しの果てにようやく今に至る。

 

 

 

 

 

 

 地獄巡りならぬ過去巡りからの帰還は、死体が起きあがるよりも苦痛に満ちていた。空えずきをする感覚で息を吐くと、正太は死人が墓から這い出るような心地で上体を起こした。電源の切れた黒一色のテレビ画面を眺めつつ、頭を抱えた正太は改めて最近の現状を省みる。

 最近までの現状は変わりようもない日常が繰り返される変わらない日々だった。それだけならば尊いのかもしれないが、実際のところはろくでもない毎日が恒常的に反復されるだけ。虐めがないだけ、家族がいる分、まだまだましだ。そんな風に己を慰めていた。きっとこんな様子で歳をとって死ぬのだろう。そんな風に先を諦めていた。

 

 そんな中、蓮乃という名前の変化は唐突に我が家にやってきた。驚きと怒りと面倒とため息を巻き起こし、それ以上の苦笑と愉快と喜びと楽しみをばらまいていた。蓮乃と出会ってから高々二週間程度だが、その二週間は痛烈なほど鮮やかだった。

 時には一緒になって慌ててみたり、時には同じテレビを見て自分のことのように様に笑ったりした。時には蓮乃のアホくさいやりとりに苦笑混じりのため息を吐いたり、時にはそうやって面倒くさがりながらいちいち面倒を見る様を清子に笑われもした。だが、蓮乃はもう我が家に来ないだろう。確証はないが確信はしている。今までの睦美さんを見ていれば想像はつく。

 

 蓮乃が居なくなったところで何も変わらない。今まで通りに戻るだけだ。そういって強がろうとしても蓮乃と過ごした二週間ばかりをなぞるだけで、気分はどん底まであっという間に落ちてゆく。少しでも先日の光景を思い返すだけで、なぜ何もしなかったのかと後悔ばかりが降り積もる。

 なんでそうしなかったのか、どうしてこうしなかったのか。正太は再び記憶を遡ろうとする自分にブレーキをかけようとするものの、過去巡りで消耗しきった精神にそんな余力がありはしない。後悔は加速するばかりだ。何で自分は蓮乃に出会ってしまったのだろう。何で自分は蓮乃の相手をしてしまったのだろう。ある種哲学的なレベルまで悔恨の念は行き着き始めた。

 

 ――そう、どうして自分は一々蓮乃の世話をしていたのだろうか。

 

 今更ながら正太の脳裏に疑問が浮かぶ。面倒に関わりたくないなら、睦美さんに即座に伝えて隣の一〇四号室に送り返せばよかったのだ。さすがの蓮乃でも毎度のように送り返されていたのなら、一〇三号室にやってくることはなくなっていただろう。なのに面倒だ面倒だと言いながら、自分のことのように蓮乃の相手をしていた。幼い頃に清子を相手取っていたときのように、一々世話をしていたのだ。まるで妹のように。

 真っ黒なテレビの液晶画面に映る自分の顔を見ながら、正太は自分の言葉を噛みしめ直した。それは不正確だろう。正しく言うなら「幼い頃の妹の様に」だ。少なくとも今、清子に手をかけられることはない。むしろ、自分の方が世話をかけている始末だ。最低でもいじめの以前でなければ清子の面倒を見た覚えはない。

 それ以降は、いやその最中こそ特にひたすら面倒と厄介をかけ通した。唐突かつ予期せぬ級友との別れ。おそらくはあっただろう自分由来のいじめ。一方的に押しつけられた新天地での学校生活。言うまでもなく全て自分が原因だ、コンチクショウ。

 それだけじゃない。父にも母にも迷惑をかけ通しだ。転校、引っ越し、転職。金勘定には詳しくないが、さほどの余裕もない我が家にとってどれだけの負担になったことか。こうやって振り返ってみれば罪悪感と後ろめたさが降り積もるばかり。返せるなら返したい。金でというなら貯金を全てはたいてもいい。体でというなら腕の一本ですむならすぐにでも。でもそんなことは家族の誰も求めていない。そりゃ当然、家族だからだ。

 それに金も体も全て両親家族の贈り物で頂き物。扶養家族のご身分でどこから何をひねり出すのか。尻からひり出したものでさえ、元をたどれば親が材料買ってきて親が作ってくれた料理に行き着く。借金を質に入れサラ金で利息を返す堂々巡りの行き着く果ては弁済不可能な多重債務者。しかしながら迷惑と罪咎の自己破産はどこの法でも認められていないのだ。

 

 正太は腐敗臭を放つ気持ちを吐き出すように重苦しいため息をはいた。しかし何度ため息をついても、内蔵が腐り果てたような心地は晴れてくれない。足りない脳味噌で考えすぎたのか、抱えた頭は溶けた鉛を注がれたように重く熱っぽい。まるでいじめ当時の気分だ。ずっとこんな気持ちを抱えていくのだろうか。おそらくきっとそうだろう。両親にも妹にも何も返していないのだ。返済なしで借金チャラなど、徳政令でも無い限り不可能だ。そして心の負債に徳政令も自己破産も存在しない。

 ああ、こんちくしょうめ。こんなことばっか考えているから清子の奴に「陰気で暗い」だの「脳味噌がフリーズしてる」だの笑われるんだ。最近はこんなことを考えずにすんでいたのに。蓮乃と顔を合わせるようになって以来だ。

 

 そう、蓮乃が来てからだ。なぜ一々蓮乃の世話をしていたのか。ぐるりと思考が一周する。もしや「そうだから」なのか?

 蓮乃の世話をしていればそんなことを考えなくてすむから。蓮乃に世話を焼いている間は余計なことを考えずに過ごせるから。だから蓮乃を追い返さずに一緒に過ごして、だから幼い頃の「妹のように」世話を焼いて。

 錆び付いた直感がかすれた警告音を発する。それに気づくべきではない、それを知ってはいけない。だが全自動で思考は急回転する。止まらない、止めようもない。先の言葉が結びついた。

 「妹のように世話を焼く」+「妹には世話をかけている」+「家族への罪悪感と後ろめたさ」+「返せるなら返したい」=……

 

 ――つまりあれだ、妹の代わりか。

 

 ようやっと自覚した自分の有様に、呆けた顔の正太は顔を覆って天井を仰いた。つまり自分は清子に感じていた罪悪感を全部蓮乃に押しつけてたのだ。加えてそれを世話することで自分が許されたと勘違いしたがっていたんだ。

 こんちくしょうめ。犬畜生でもこうはするまい。ああ、久方ぶりに本気で死にたくなってきた。クソだクソだと自分を評してきたが、実際の所はそれ未満の産業廃棄物だった。屎尿のたぐいなら土に埋めればいつかは腐って土地を肥やすが、産廃は埋めたら土地を汚染する代物だ。自分も同じ。痛い目あって程良く腐っていい加減人畜無害な堆肥になるかと思ったら、毒物劇物をまき散らす人畜有害極まりない環境汚染の公害原因物質と成り果てていたのだ。

 まるで二段底だ。どん底の下にもう一つ奈落が口を開けていた気分だ。宇城正太という人間の株値は底を打ったと思いこんでいたが、さらなる大暴落が待っていた。証券所では株券の紙吹雪が舞い、投資家たちは紐なしバンジージャンプに精を出すだろう。自分の株など買う人間が居るのかどうか知らないが。

 乾いた笑いがこみ上げて、正太の両目尻が涙で潤んだ。常と変わらぬ天井のシミでさえ、自分を嘲笑っているかに思えてくる。おそらく幻覚だろうが、心境的に否定できない。ほら角の人の顔っぽいシミがニタニタ侮蔑の笑みを浮かべている。正太は天井を見ているのもイヤになってテレビ前のテーブルに顔を伏せた。が、耳に入る雨の落ちる音すら侮蔑の陰口に聞こえてくる始末。本格的に不味いのかもしれないが、このまま死んでしまった方が人類的にはいいのかもしれない。こんちくしょう。

 

 実際はそんなことはないわけで、擬音に文字を当てるように自分が勝手に思いこんでいるだけだ。それに自分が死ねば人類にはプラスかもしれないが、家族にはマイナスだろう。今までかけた費用が帰ってこないのだから。こうしてテーブルに突っ伏した頭を横に向けても目に入る庭の風景には何かあるわけでも……

 

 ……ある。人影が、ある。庭に面した窓の先には、濡れそぼった人影が一つ。端から見れば幽鬼かはたまた妖怪の類か。雨の滴る長い髪はべったりと体に絡みつき、足元を見れば靴の影も形もない青ざめた裸足で泥に半ば埋まっている。元から白い肌は血の気が引いて幽霊のそれと同じ色合いで震えて、白のワンピースだろう服は全身に張り付いて細っこい体型の影を後ろに延ばしている。

 正太には、そのお岩さんか番町皿屋敷のご同類に見覚えがあった。二週間前から見覚えた顔で、数十秒前まで思い描いていた相手だ。自己嫌悪も何もかも忘れ、正太は跳ねるようにソファーから立ち上がると、駆けるように窓へと近づいた。そして窓を開け人影を確かめて、聞こえないと知りながら思わず呟いた。

 

 「蓮乃、お前一体どうしたんだ」

 

 びしょ濡れで青ざめた、どう見ても尋常でない様の向井蓮乃がいた。



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第七話、昨日の話(その四)

 急に勢いを増した雨足と歩調を合わせるように、雷の轟きが雨音に混じり出す。開いた窓から吹き込む雨が、正太の体と居間の床を濡らしている。正太の目の前で突っ立ったまま雨に降られるがままの蓮乃は、ずぶ濡れやびしょ濡れという言葉を通り越し、川に落ちた直後ですと言わんばかりの有様だ。というか、今現在も降りしきる豪雨に浸かっている。とにかく家に上げなくてはなるまい。

 濡れそぼった蓮乃を居間に引っ張り上げるべく正太は手を伸ばした。どこか怯えたような何か恐れるような顔で蓮乃は正太の手を見つめる。その表情を見て、正太の脳裏に一瞬の迷いが浮かんだ。つい先ほどまで正太はヘドロを煮詰めたような自己嫌悪で延々自身を責めていた。そうして自分自身が蓮乃に押しつけ続けていた反吐が出そうな、というか反吐そのものな感情に気がついたのだった。

 これはそれと同じ、風上に置けないどころか風下にも置きたくない押しつけの為じゃないのか。だとしたら、こうやって助けるのも恩着せがましく蓮乃を扱う為じゃないのか。正太の表情が口一杯に苦虫を頬張ってかみ砕いたように歪む。だが正太は即座にそれを振り払った。

 

 ――今はそれどころじゃねぇだろ!

 

 「後」に「悔」いると書いて後悔だ、今は行動あるのみ。それに雨に濡れそぼって震えている子供を放り出して見ろ。母に知られた日には自分が土砂降りの庭に放り出されて震えながら一晩過ごしてもおかしくない。なによりそんなことするような奴が、家族から一片の信頼すら得られると思うのか。見放されて見捨てられても文句はいえんぞ。

 正太は目をつぶって思考を切り替えると、濡れた縁側へと足を踏み出し蓮乃の腕をつかんだ。細い腕に触れた感触は、足裏の縁側の温度とさほど差がない。正太の顔が僅かにひきつった。驚くほど冷たい。一体どれくらい雨の中で立ちすくんでいたんだろうか。急いで体を拭いて、風呂に放り込んで、乾いた服に着替えさせないと。ああ、温かい飲み物と布団かあと何か要るかな。

 何をすべきか思考をぐるぐると回しつつ、正太は蓮乃の手を引っ張っる。しかし、その手に僅かな抵抗を感じた。蓮乃を見れば目を地面に向けてむずがるように握った手に抵抗している。軽く手を引くと子供を歯医者に連れて行く時のように突っ立ったまま肩を引いて抵抗してくる。

 何考えてんだこいつ、今はそれどころじゃないってのに。意を決した正太は、縁側へとさらに踏み込んだ。途端に全身が濡れ鼠へと早変わりだ。家着のジャージがあっという間に色味を変える。はやる気持ちに従って正太は蓮乃の両脇に手を突っ込むと幼児を持ち上げるように引っ張り上げた。

 

 「んなぁ!?」

 

 蓮乃にも予想外だったのか、嫌がると言うより困惑の声を上げる。正太は蓮乃の声を無視しつつ、腰を落として力を込めた。よっこいしょと内心でおっさん臭いかけ声をあげつつ、蓮乃を縁側へと引っ張り上げる。足を床に着けるとき、蓮乃の表情が僅かに曇るのが目に入った。泥汚れを気にしているのかと足下に視線を降ろせば、泥はほとんど付いていない。代わりに赤い汚れが少々。

 赤い汚れに違和感を感じて改めて窓と縁側の境に視線をやれば、雨の飛沫で薄まったといえ赤い滴がいくらか見える。さっき顔をしかめたのはもしかしたら。あまり楽しくない想像が正太の脳裏をよぎった。想像が確かなら歩かせるのはよろしくない。一人得心した正太は先ほどと同様に脇に手を差し込んで蓮乃を持ち上げた。抱き上げられた犬猫よろしくされるがままに運ばれて、蓮乃はソファーに座らせられる。

 あまりよろしいとは思えないが、これは必要なことだからしょうがない。そう何かに言い訳しつつ、蓮乃の足を持ち上げて足裏の様子を見る。いやな予想は当たったらしく、正太のしかめ面が深まった。

 蓮乃の小さく白い柔らかな足の裏には、少々の泥で描かれたまだら模様の他に、鮮血を顔料とした幾筋ものの赤い線が描かれている。その根本からはじわじわと後から後から赤い血が染み出ているのが見て取れる。加えて言うなら出血の根本にはきらきらと輝く小片が僅かに見える。ガラスか何かだろうか。何にせよ応急手当が必要だ。

 

 とりあえず手近なテレビ横のメモを一枚剥がし『座ってろ』と殴り書いて蓮乃が見えるようにソファー前のテーブルにおいた。ぐしょぐしょの蓮乃がソファーに座れば、尻の下が大惨事となるのは容易く想像できるが緊急避難だ。母には勘弁してもらおう。それから急いで両親の寝室に駆け込み、薬箱を引き出す。毛抜きと消毒薬、絆創膏、いやガーゼと包帯も入り用だ。それと温かい飲み物もいるよな。ああ、もういいや全部持って行こう。面倒くさくなって薬箱を抱えると、風呂場からバスタオルをひっつかみ正太は居間に飛び戻る。

 ソファーに腰掛ける蓮乃に変わった様子はない。しかし、雨に降られて全部流れ出たのか、常の青天井の明るさは欠片も見えない。顔のしかめ具合を深めながら眼前に『ふけ』とかかれたメモを突きつけバスタオルを突き出す。しかし蓮乃はなにやらためらった様子で受け取ろうとしない。じれた正太はタオルを無理矢理蓮乃の手に握らせると、替えの服を取りに子供部屋へと向かった。

 

 子供部屋から清子の服を取って戻れば、濡れたままの蓮乃が髪から水気を取っている最中だった。雨に濡れた長い髪を拭く美少女。言葉通りなら絵になる光景だろう。常のノーテンキ青天井な顔が、愁いを帯びた表情に置き換わっている今ならさらに美しいに違いない。

 しかし正太の目は驚きと頭痛を足した奇妙な形にゆがんでいる。正太の記憶にある限り、長い髪を拭くときはタオルで挟み延ばすようにする。家族でテレビを見ているときシャンプーのCMで見た覚えがある。しかし目の前の蓮乃はそれとは全く異なる方法で拭いていた。バスタオルで髪を全体をくるんで雑巾のように握る両手を逆方向に回しているのだ。少なくとも正太の知る日本語体系ではこのやり方を「拭く」と表現しない。「絞る」と言う。

 

 ――こいつは、ホントに。

 

 思わず頭を抱えて天井を仰ぐ正太。しかし、顔に浮かぶのは苦みはあれど幾らか気楽な笑みだった。一通り片づいたら、清子に髪の拭き方を教えるよう話しておこう。気がつけば焦って張りつめていた気持ちが揮発して霧散していた。いつまでもこうしてアホ面晒している場合ではない。正太は頭を振って気持ちを切り替えると、髪を絞る蓮乃の元へと必要物資を抱えて足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 蓮乃の足の下に洗面器を置いて、キッチンで汲んだ水で足裏の汚れを流す。泥と血が流れ落ちた一瞬の後、傷口からぷくりと血の珠が膨らんで流れ出した。まだガラス片が突き刺さったままなのだ。片膝ついて蓮乃の足を持ち上げながら、正太は毛抜きで欠片を一つ一つ抜いてはティッシュに置いてゆく。不幸中の幸いか欠片の数は結構少ない。一通り破片を抜き終えたらもう一度水で流して消毒液で湿らせたガーゼで拭く。

 多少しみたのか蓮乃の顔がゆがんだが、ちょっと我慢しろと言って正太は気にせず続ける。後はガーゼを当てて包帯で巻いてきつめに結んで、ハイ終わり。

 ちょうどキッチンの電子レンジからチンと合図の音が響いた。先に豆乳をカップに注いでレンジに突っ込んでレンジにかけておいたのだ。台所に向かってみれば、レンジの中のカップにはべったり湯葉が膜を張っている。どうやら暖めすぎたらしい。四・五秒考えた後、飲み口が悪くなるだろうからとカップから木製スプーンで湯葉を取り除くと、粉飴を放り込んだホット豆乳をスプーンでかき回しながら居間へと戻った。

 

 ソファーの上の蓮乃はうつむいたまま、どこにも居場所の無さそうな顔で足をぶらつかせている。気分の方はともかく、体の方は調子が戻ったようだ。安堵の息を小さくもらすと、正太は湯気の立つマグカップを蓮乃に手渡した。暖かい豆乳を受け取り、ちびりちびりとすする蓮乃の様子を見ながら、正太はぼんやり考えを巡らす。

 家出でもしたのだろうか。もしそうならある意味自分も原因の一つだし、一緒に頭下げてやるくらいはすべきだろうか。でもやっぱり、それって押しつけじゃないのか。結局自分が蓮乃の世話していい気になりたいだけじゃないのか。だからといってこんなに落ち込んでいるこいつを放り出すのもいい気はしない。一体全体どーしたもんだろう。

 思考がぐるぐると同じ場所を回る。三周くらいしたあたりで正太は一つため息を吐いてメモとペンを手に取った。とりあえず、事情を聞かなきゃ判らん。

 

 『何があったか知らんが、話せることなら話せよ。話したくないんなら話さんでもいいぞ』

 

 さっきとは違い、できる範囲で丁寧に書いたメモを蓮乃の前に差し出した。正しくは「話す」ではなく「書く」なのだが、そこは重要ではないのでどうでもよろしい。豆乳で口元を白くした蓮乃はマグを置くと、差し出されたメモを見た。言葉もなく声もなくじっと見つめる。雨の音をBGMに、二人の間に沈黙が流れる。

 

 「……っひ……ひっ……すん」

 

 決壊は唐突だった。両目に水の珠が膨らむや否や、蓮乃の頬を伝ってぼろぼろと涙が滴り落ちた。鼻からこぼれる洟をすすり、喘ぐように息を吸い、ぐずりぐずりとぐずり泣く。

 泣きじゃくる蓮乃を眺める正太に慌てる様子はない。じっと涙が止まるのを待つ。先も雨の中で泣いていたようだし、暖かい物を口にして気が抜けたのだろう。辛いことがあった後、安心と同時に涙がこぼれてしまうのはよくあることだ。自分も前の虐めの時涙をこぼすのは、大抵が布団にくるまった後だった。

 

 数分の後、ようやっと涙腺に停止信号が入ったらしく、蓮乃の涙が止まった。それでもまだ鼻水は止まらないらしく、鼻を繰り返しすすっている。それを見かねて正太はティッシュを差し出した。差し出されたティッシュを受け取り、あまり耳に心地よくない音を立てて洟をかむ。

 そして涙で赤く腫れた目をこすりながら蓮乃はペンを手に取った。さて何を書くのだろうか。家出の理由か、睦美さんへの愚痴か、はたまた豆乳もう一杯か。 だが泣き顔の蓮乃が殴り書いた一文は、正太の想像全ての斜め上を第一宇宙速度でかっとんで行った。

 

 『お母さんの子やめる、兄ちゃんとこの子になる』



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第七話、昨日の話(その五)

 ことの始まりは正太の想像した通り、母親である睦美が異様な様子で蓮乃を連れて帰ってからだった。

 

 謝り倒しながら蓮乃を引き連れて正太の前から去った後、一〇四号室に入ってから睦美は様子は一変した。掴んでいた蓮乃の手を離すと、ぶつぶつとなにやら口走りながら靴を脱ぐ。蓮乃も睦美を追ってキャラもののビーチサンダルを脱ぎ捨てると玄関を上がる。蓮乃は睦美の少し後をうつむいた様子でついて行った。さすがの蓮乃も雷落とされて、頬を張られればしょげ返る。ましてや今回は蓮乃の側に落ち度があり、さらに異様なほどの睦美の怒りもあって、いつもとは比べものにならないくらいの暗い顔だ。

 その暗い顔の端をちらりと上げて睦美に向ける。目線の先の睦美に浮かぶ表情は能面めいて、その目は嵐がくる前の凪を思わせる。正太の目の前で蓮乃に怒鳴りつけた時と何も違わない。どう考えても尋常の様子ではない。

 

 蓮乃は音を聞き取れても言葉は聞き取れない。そういう障害の持ち主だからだ。だからいつもなら睦美は必要なことを文字にして伝えているのだが、今はそれをしてくれない。おかげで何をつぶやいているのか蓮乃には全くわからない。理解できるのはせいぜい「お母さんが大声を出していた」「お母さんがひっぱたいた」「お母さんがなんか言ってる」くらいだ。総合したところで、「なんかよくわからないけどお母さんはとても怒っている」が関の山。

 しかし、どうしてこうなったか蓮乃には一つだけ心当たりがあった。買い物に出かけることを睦美に黙って、正太に嘘をついていたことだ。お母さんはお話用ノートを呼んで怒った。きっとこのことに気がついたんだろう。

 

 正太は何かと蓮乃をアホの子扱いするが、実際のところ頭が悪いわけではない。正太の想像から斜め上に思考が吹っ飛んでいるだけだ。だから、「睦美が自分を外に出したがっていない」ということも、「お隣へ再び行くのを許さない」ということも、そして「正太の求める許可は確実に出してもらえないだろう」ことまでちゃんと判っていた。

 それでも蓮乃は隣へ行きたかった。いろんなお菓子を食べさせてもらえるとか、テレビが好きに見れるとか色々あるがそれだけじゃない。無論それも大きいが、一番大きいのは「誰かいるから」だった。それも、自分を見てくれて、自分と話してくれて、自分と遊んでくれる「誰か」だ。「誰か」、いや正太は怒ることも拳骨を落とすこともあった。でも、怒る理由も拳骨のわけも自分に伝えてくれた。そしてその後も、自分と一緒にいてくれたのだ。

 睦美が出かけている間、蓮乃は一人だ。「自分と一緒でなければ外に出ては行けない」と睦美にきつく言い含めれられている。ひとりぼっちの寂しさはとうの昔に慣れていた。一人遊びも得意だった。だが慣れたからといって孤独感が消え失せるわけでもない。そしてお隣には自分にかまってくれる正太と清子がいる。一人っきりには戻りたくない。だから、睦美に黙って正太に嘘をつき一緒に買い物へと出かけたのだ。

 

 しばらくたって睦美は呟くのをやめた。狂気じみた呟きの代わりに重苦しい静寂が深々と部屋に満ちる。沈黙に耐えきれなくなったのか蓮乃は再び睦美へと目をやるが、張りつめた能面の睦美は押し黙ったままで様子に変化は見られない。蓮乃は何か言おうと口を開くが、音にもできずに噛み潰すことしか出なかった。

 膝を抱え壁に背を預けた蓮乃は深いため息を吐いて一人考え込む。お母さんが怒るのはわかる。でもここまで怒るとは思わなかった。原因はやっぱり自分が黙ってたせいだろうか。でも話したって買い物に行くのを許してはくれない。なら黙ってなきゃ、兄ちゃんとこには行けないのだ。それなのに何でぶつんだろう。

 

 睦美の様子にしおれていた蓮乃も時間経過で回復したようで、反抗心の芽に反感という肥料をたっぷり注がれ、むくむくと向かっ腹が立ち上がってゆく。元々、ゼンマイ過剰巻きでテンション暴走気味と正太が表する蓮乃である。子供らしくちょっとしたことで気持ちが折れるが立ち直るのも少しで十分。多少落ち込んでいたところで、少し間が空けばあっという間に調子を取り戻すのだ。

 加えて、最近の睦美の様子には蓮乃にとって腹に据えかねるものがあった。自分の話を読んでいるようで読んでいない。それ以前にまともに話もせずに布団に入ってしまうことも多い。そのくせ、何かというと大きな声を上げて叱りつける。さっきなんか自分をひっぱたいた。以前から似たようなことはあったが、最近異様に増えたのだ。おかげで堪忍袋が膨らんで腹が立ってしかたない。

 おかげでアヒルよろしく唇を尖らせた文句顔と、リスめいて頬を膨らませたふくれっ面が、整った蓮乃の顔面に交互に出入りしている。なので二種類の表情で不満を表示している蓮乃は、堪忍袋を立ち上がった向かっ腹から取り出して、文章にしたためることにした。

 

 『お母さんに聞きたいこと

・さっき私をたたいた理由

・兄ちゃんとこに行っちゃいけない理由

・最近話をしてくれない理由

・テレビが一時間だけな理由

・お菓子が三日に一回な理由』

 

 ノートに必要なことを書き終えた蓮乃は、なにに満足したのか「むふぅ」と一つ息を吐く。実際なんか満足したようで、顔にはうっすらドヤ顔が浮かび小鼻がぷくりと膨らんでいる。正太が見たら頭痛が痛そうな顔で頭を抱ること請け合いだろう。だが現在の一〇四号室に正太のように突っ込みを入れる人間はどこにもいない。だからアクセルペダルベタ踏み暴走特急娘に、ブレーキをかけてくれる人間もいやしないのだ。

 それでも今までの正太の突っ込みに多少の意味はあったのか、書き終えると同時に睦美に突きつけるような真似はせず、蓮乃は確認するようにもう一度文章に目を通す。誤字なし、脱字なし、理由よし。あとは……。

 

 『ちゃんと書いて!』

 

 蓮乃はさらなる一文を書き加え、さらに大きな丸と下線で強調した。これは大事なことなのだ。お母さんは『蓮乃には難しいことだから』とか『大人のことだから』とか何かとごまかすことが多い。それじゃ当然なにがなんだかわからない。そう、言わなきゃわからない。兄ちゃんから教わったことだ。

 最後の精査を終えて、納得の表情で頷く。後はお母さんに見せるだけだ。顔を上げて周囲を見渡せば、椅子に腰掛けた能面顔の睦美が見えた。壁の一点をにらみ続けるその姿は、まるで視線で壁を貫こうとしているようにも、はたまた壁を越えて隣の一〇三号室にいるかもしれない正太を、眼光で焼き殺そうとしているようにも見える。とりあえず蓮乃の目から見てもご機嫌斜めなのは確かなようだ。

 どうしようかな。睦美の様を見て、整った眉の間に皺が寄る。睦美の発する雰囲気は流石の蓮乃でも躊躇を覚えるほど。加えてさっきのことを鑑みれば、及び腰にもなろうものだ。しかし蓮乃は大きく深呼吸すると、ノートをつかんだ。見せなきゃわかってもらえない。やっぱりお母さんにわかってもらいたい。だから見せよう。そう、決めたのだ。

 

 「なーも、なーも」

 

 蓮乃は睦美に近づき、声を上げて呼びかける。発する声に特に意味はない。単なる注意喚起だ。声をかけられた睦美は首から上だけを動かして蓮乃を見た。ぞくりと蓮乃の背中が粟立った。蓮乃を見つめる目は、まるでガラス玉の奥で溶岩を煮つめているように見える。

 その目を見て蓮乃は、三人で一緒に見たワールドワイドウォッチャー(WWW)という字幕付きテレビ番組を思い出した。そのときはちょうど火山の特集をやっていた。火山噴火というものは基本的に一度では終わらない。その奥深くで溜まりに溜まったマグマの熱量を吐き出し終えるまで、二度三度どころか十や二十、細かいものを含めれば百を越す噴火が起こりえる。テレビの中で火山学者がそう語っていた。

 

 もしかしたらまたお母さんすごく怒るんじゃないかな。蓮乃の腰が僅かに引ける。だが勇気を出さねばなにも始まらない。勇気を出してお隣に忍び込んだから兄ちゃんや姉ちゃんと会えたのだ。

 正太がずいぶん複雑な表情を浮かべそうな決意をし蓮乃は、一つ深呼吸して気持ちを整えるとノートを睦美に突き出した。睦美は意外なほど優しげな手つきでノートを受け取ると静かに目を通した。先の重苦しい静けさとは違う、緊張感をはらんだ張りつめた静寂が部屋を覆った。一〇秒ほどの沈黙が満ちる。

 唐突に睦美の肩が震えた。続いてノートが叩きつけられた衝撃で食卓が震えた。同時に睦美の口から飛び出した大音声に空間が震えた。

 

 「あなたはっ…………あなたは反省もできないのっ!?」

 

 衝撃音と大声で蓮乃が跳ねた。怒るかもしれないと多少の予想はしていたが想定どころではない大噴火だ。障害の関係で怒鳴っている以上のことが理解できない蓮乃でも、洒落にならないくらい怒り狂っているのがよくわかる。破局噴火級の怒気を吹き出しながら、睦美は色んな感情が煮詰まった金切り声を張り上げる。

 

 「なんで怒られたのかもわからないのっ!? どれだけお母さんに! 周りに! 迷惑をかけたと思っているのよぉっ!?」

 

 自身の許容量を遙かに越えた情報量に蓮乃は溺れ死に寸前だ。酸素を求めて金魚よろしく口をぱくつかせるが、必要酸素量にはとうてい足りない。限界を超えた入力に蓮乃の脳味噌は緊急冷却を実行、両目から冷却水代わりの涙がこぼれだした。

 

 「何で泣くのよっ!」

 

 しかしそれすら睦美の苛立ちを刺激するのみで、さらなる大音量で手のひらをテーブルに叩きつける。精神衝撃のおかわりに蓮乃の精神は機能停止状態だ。緊急冷却ですら足りない現状に、もはやこれまでと悟った蓮乃の脳髄は全入力系統を遮断、事態の収拾に白旗を揚げた。具体的に言うと蓮乃は顔を覆って全力で泣き出した。涙混じりの鼻水を流し、元から声は上げられないが声にならない声を絞り出し、嗚咽と空えずきの合いの子を喉からこぼす。

 蓮乃の様を見て噴火に冷や水がかけられたのか、さらに声を張り上げようと開けた口を閉じて罵声を噛み潰した。睦美の顔に浮かぶのは後悔を焦燥で炒め過ぎて炭にしたような表情だ。顔を歪めて黙ったまま立ち上がり、食事の準備のため台所へ向かう睦美。顔を覆って泣いている蓮乃は、当然睦美の表情を見ていない。だから、睦美の両目に滴が溜まっていることに気がつかなかった。

 

 

 

 

 

 

 その日の夜も次の日も一〇四号室は静かなものだった。追っ手をまこうと海中に息を潜める潜水艦内のように、音を立てることが罪悪のような空気に満ちあふれ、二人とも口を開くことはほとんどない。響く音の大半は衣擦れの音、足音、扉の開閉音が精々でBGMに雨音と車の音があるだけだ。

 それらの環境音を聞くともなしに聞きながら、蓮乃は居間のテーブルで黙々とノートに向かう。その耳に鍵の開く音が届いた。顔を上げて廊下の先を見れば、ゆっくりと開く扉が目に入る。どうやら睦美が帰ってきたらしい。蓮乃は通信教育の算数ドリルを閉じるとテーブルの端に追いやった。

 ドリルはまだ一/三ぐらい残っているけどここで一度休みにしよう。テキストをやり終えたタイミングでちょうどよかった。その日のテキストをやっていないと睦美にあれこれ言われるのだ。昨日の今日とくればさらにあれこれ怒鳴るに違いない。むしろそれを警戒して、というか恐れて蓮乃は普段なら後回しにする勉強をやっていたのだ。

 

 蓮乃は常の習慣で元気よく挨拶しようと息を吸い込み、そのタイミングで昨日の睦美の異様が脳裏に浮かんだ。思わず息を止めて中途半端に持ち上げた腕共々硬直した。おかげで「お帰り」代わりの一声になり損ねた吐息が、声帯の下辺りでさっさと出せとせっついている。

 挨拶しても大丈夫かな。お母さん怒んないかな。声をかけていいものか迷う蓮乃。だが、止まった息は待ってはくれない。待てば待つほど苦しくなる。呼吸してないのだから酸素が足りなくなるのは当然の話だ。結局息苦しさに負けるように、発酵不足のパンのような潰れた挨拶が口からこぼれた。

 

 「ぬぁー……も?」

 

 そのタイミングで睦美の手に握られた大きい紙袋が目に入った。睦美が仕事帰りに食材を買ってくることは少なくない。しかし、それは蓮乃が片手で持てるサイズの紙袋に入っているのが普通で、両手で抱えられる取っ手付きの紙袋を使うことはまれだ。ましてや帰り道にあるスーパー「耶麻陀商店」の名前ではなく、DIYショップ「ワークハンズ」のロゴが印字されている紙袋となれば蓮乃の記憶にある限り、今まで一度もなかったことだった。

 思いもかけない疑問の誕生に、下向き放物線で力なく打ち出された挨拶の声がさらなる急下降で床に激突する。床の上で転がる蓮乃の挨拶を一顧だにせず、睦美は無言のまま廊下を早足で進んでゆく。紙袋をテーブルの上に置くとガチャリと鈍い金属音が響いた。

 何が入っているのかわからないが軽いものではなさそうだ。疑問が膨れて脳を圧迫している蓮乃に頓着もせず、睦美は中身を一つ一つテーブルの上に取り出していく。南京錠にダイアル錠、チェーンロックと錠前の品評会かと勘違いしそうな品ぞろえと数である。加えてワイヤーも準備されている。取り付け用のネジ回しも用意済みだ。

 

 これなあに? テーブルに並べられた品々を目の当たりにして、蓮乃の中で風船よろしく疑問が膨らむ。錠と鎖は鍵をかけるのに使うものだ。それはわかる。でもどこに鍵をつけるのだろう。扉の鍵が壊れたことはないし、窓の錠も古びているがまだまだ現役だ。風呂場の扉はがたついているけどこんなにたくさんは必要ない。それにワイヤーなんてどこに使うんだろう。

 小首を傾げて疑問を転がす蓮乃を後目に、無言の睦美は侵入防止用の追加鍵を工具と一緒につかむと部屋の窓辺へと近づいた。そしてそのまま泥棒対策の鍵を取り付けにかかる。とりあえずテーブルに疑問を仮置きした蓮乃は窓際で取り付け作業中の睦美の後ろに近づくと、疑問解決のため声をかけようと口を開いた。照明が作った蓮乃の影が射したのか睦美は無言で振り返り、蓮乃を見た。

 

 昨日今日と蓮乃は睦美の目を直に見たのは一度しかない。昨日は怒られる直前に見たきりで、後は俯いてめそめそ泣いていたので直接見ることはなかった。今日は目を見る以前にまともに会話もしていない。それに昨日のことがあったからどうにも目を合わせ辛かった。そして今日、初めて目を見た。

 苛ついた目。血走った目。怒り狂った目。表現は多々あれど、少なくともその目は幼い娘に向けるものではなかった。息と一緒に蓮乃は声を飲み干した。何も言おうとしない蓮乃を一瞥すると、睦美も何も言わず作業に戻った。後ろから洟と涙をすする音が聞こえてきても、何も言わずに作業を続けた。

 

 

 

 

 

 

 椅子の上で膝を抱えて窓を眺める。窓向こうの庭では止まない雨が地面を泥に変えている。それはまさに蓮乃の心境そのものだった。だが蓮乃はそれを見ていない。蓮乃はひたすらに窓を見ている。だが、いくら眺めても窓が開くわけでもない。求めようと開かれんのだ。その理由は蓮乃の視線より窓半分上下にある。窓枠に付けられた追加の鍵だ。窓の真ん中に最初から付いている半月錠のほか、窓枠に上と下に一つずつ。しかも半月錠と違って開け閉めには専用の鍵が必須の構造になっている。

 先日に睦美が取り付けたこの鍵のおかげで、蓮乃は睦美の許可なしに庭に出ることもままならない。それだけではない。一〇四号室の各所に錠前が取り付けられ、鍵がかけられている。台所にも風呂にも、ましてや玄関にも追加の鍵が設置されている。トイレと居間。現状、蓮乃の行動範囲はこれのみだ。流石に蓮乃も『これじゃ外に行けない』と睦美に文句をぶつけたが、帰ってきたのは『一人で行っていいなんて言ったことはない』『前と何も変わらない』と取り付くにべもなんもなしだった。

 確かに二週間前と変わらない。だが「外に出れるが出てはいけない」と「外に出れないし出てもいけない」は違う。全く持って別物だ。具体的には蓮乃にかかる心理的な負担が段違いだ。さらに加えて家の中ですら自由に動けないとなれば気分が落ち込むこと請け合いである。

 実際、テーブルの上に放り出されたテキストは今日の予定の半分も進んでいない。きっと怒られるだろう。蓮乃の脳裏に睦美の様子がよぎる。実際、テキストをやり終えられなかった昨日は怒られた。ものすごく怒られた。でも筆記用具にもテキストにも手は伸びないままだ。

 

 すべてを無視するように蓮乃はただ、ただひたすらに窓を眺める。まるで囚人が鉄格子から空を見るように、その窓の外に自由の世界があるかのように。稲妻が近くに落ちたのか、稲光が窓の外をモノクロに塗りつぶした。数瞬遅れてつんざくような雷鳴が響きわたる。雷の残響が未だ唸る中、蓮乃は目を伏せた。生っ白い膝小僧に和毛が少々。見慣れた自分の体だ。何かを考え込むようにじぃと見る。虎が喉を鳴らすように雷雲が轟く。

 唐突な落雷で世界が色を失う。蓮乃は伏せた目を上げ、膝を抱えた手を離した。握りしめるようにきつく抱えていたせいか、膝とすねの間には赤い跡が残っている。じんじんと痛むそれを気にすることもなく蓮乃は跳ねるように椅子から降りた。赤く色づく膝下一〇センチが、痺れと痛みの合いの子で存在を主張する。蓮乃はそれを平手で叩いて宥めると、先のため息のように深い息を吐いた。だが、ため息とは漏れる声の色が違う、吐かれる息の色が違う。なにより外を見据える目の色が違う。そして蓮乃は息を肺の奥まで入れ直すと、声帯を震わせ音としか表現しようのない声を吐き出した。

 

 「LuiiiiiiNaaaa……」

 

 先まで座っていた椅子が淡い光を帯びる。その光景は蓮乃と正太が初めて出会った日と同じであった。帯びた光は蓮乃の魔法における特徴であり、口からこぼれる音は魔法の媒質だ。蓮乃の魔法は「音声操作念動」、声を媒介に対象に念動力を加え自在に操る。そして魔法の見えざる手に捕まれた椅子は重力を忘れたように浮かび上がり、宙を走り窓へと向かう。

 

 ガラスが砕け散る音は、豪雨に紛れて一〇四号室の中だけに響いた。



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第七話、昨日の話(その六)

 「ぬ~ぅぅ」

 

 涙で湿ったノートを前に正太は絞首刑に処された豚めいた唸り声を絞り出した。テーブル越しには鼻と目元を真っ赤にした蓮乃の姿がある。事情を書いている間も洟をすすり涙をこぼして、それをティッシュで何とかしていたのだが、おかげで丁の字に顔が赤くなってしまっていた。元の肌が白いせいでまるで歌舞伎の隈取りだ。

 最近知ったが朱墨の隈取りは善玉側の印だそうだ。遠目で暗い舞台の上でも誰が誰だかわかるようにされた工夫だそうな。いいや、今はそんな話をしている場合じゃない。

 無関係の雑学へと逃避しようとする自我をひっつかまえて、正太は改めて蓮乃へと向き直る。蓮乃の事情は一応理解できた。家出との想像はしていたが、家中施錠された挙げ句、ガラスをぶち破って逃げ出すとは想像の衛星軌道をかっ飛んでいる話だった。

 

 そんで、これどーしたもんだろうか。盗んだバイクで走り出すの二節手前くらいまで蓮乃が追いつめられているということはわかった。そしてそこまで追いつめるほどに睦美さんのネジが吹っ飛んでいることも認識できた。

 だが、それをどうすればいい? 向井家の話は向井家の話なのだ。トートロジーじゃないが余所様他人様向井家様のお話であって、我が家宇城家の話ではない。それなのに関係者面して首を突っ込めばどうなるか。少なくともみんなにっこりハッピーエンドとなるとは到底思えない。身勝手な行動が何を招くか。痛いほどに痛い思いをして理解させられた。自分勝手なことはできない。なら蓮乃を隣につれてかえってトゥルーエンド。それでお終い問題なし、そのはずだ。

 

 「ぬぐぁぅ」

 

 しかし、正太の顔に浮かぶ苦い表情は大問題が大ありだと物語っていた。山盛りの苦虫をつまみにジョッキで青汁飲まされた顔で、正太は額に手を当て頭を抱える。自分を頼ってきた知り合いをそう気軽に見捨てられるはずもない。ここ二週間少々とは言え、顔を突き合わせて色々やってれば大なり小なり情も湧く。それに、そんな理由で見捨てるような奴なら、家族にも見捨てられてもおかしくない。どーしたもんか。

 正太は二律背反の現実から目を逸らすべく思考を斜め上にぶん投げる。そもそも他に行く先はなかったのか。なんでよりによって我が家に来るんだこいつは。他にも頼れる人間はいるだろう。区役所の担当職員とか、かかりつけの医者とか、学校の先生とか。そこまで考えたところで思考と一緒に斜め上に投げ上げた視線を下ろすと、おずおずと見上げる不安げな蓮乃の顔が目に入った。

 

 その表情を見て何かに気が付いたのか、正太は先日の会話を思い出した。そう言えば蓮乃は学校に通っていないのだ。それに今までの睦美さんの言動から一人で病院や役所に行ったことがあるとは思えない。ましてやこの大雨だ。着の身着のまま裸足のまんまで、傘も持たずに土砂降りの雨の中、知らぬ道を記憶便りで進むなんぞ大人でも嫌がる。それを鑑みれば隣の一〇三号室を目指すのは道理だろう。

 とりあえず蓮乃の事情は理解できた。だからそれで、これどーしたもんなんだ。正太は再度頭を抱えた。お隣の家庭の事情に首突っ込むわけにもいかんし、だからと言って蓮乃を見捨てることもできない。結局全部ふりだしに戻る。つまり結論は出ないままだ。どーしたもんか、どーしたもんだろ。

 悩みのあまり脳内でツイストダンスを始めつつ、難産の豚のような唸り声を上げる正太。天の配剤か、はたまた神の気まぐれか。その耳に聞き覚えのある、というか毎日聞いている妹の声が響いた。

 

 「兄ちゃん、たっだいま~。随分な雨だし、今年は早めに梅雨が来たのかなぁ」

 

 

 

 

 

 

 「事情は解ったけどさぁ……」

 

 正太の口から蓮乃の事情を聞いた清子の顔は、深煎りベトナムコーヒーブラック一気飲みとなった。正太同様に清子もまた途方に暮れる以外やりようがない。清子がちらりと視線を向けた先の蓮乃は、ソファーの上で膝を抱えて縮こまっている。

 

 「気持ちは分かるけど、もうどうしようもないじゃん。精々、役所に連絡入れるのが関の山でしょ」

 

 「それはわかるが……」

 

 俯く蓮乃から目をそらし、ため息の代わりに否定の言葉をはく清子。蓮乃ちゃんの話も兄のジレンマも聞いたし、自分とてこの子を見捨てるような選択肢を積極的にとりたいとは思わない。それでも、無理なものは無理なのだ。所詮、自分も兄もただの子供、できることなど高が知れている。

 しかし、目の前の正太の顔には納得しきれんと浮き彫りされているのが見て取れた。口から漏れる相づちにも不満と否定の色がありありと浮かんでいる。

 

 「お隣の家庭の事情なんて、私らの手に負える問題じゃないよ。できる人に連絡する以外ないじゃない」

 

 納得し切れていない兄を無理ににでも納得させるべく、清子とは言葉を畳みかける。兄とて判っているはずだし、判っているからこそ二律背反にのたうち回っているのだ。清子の言葉に正太は、口に苦い良薬をどんぶり一杯流し込んだような渋い顔で頷いた。清子の表情にも苦い物が混じっている。だが、どうしようもないのだ。

 

 「そーするしかないか」

 

 「そーるしかないでしょ」

 

 とりあえずは納得してもらえたようだ。そう思い、清子は一つ息を吐いた。さてこれからどうしたもんか。父さん母さんに事情話して案の一つでもいただくべきか。清子はこれからについて思索を回す。

 

 「でもなぁ……」

 

 だが、脳味噌回転中の清子の耳に届いた正太の声で、清子の表情が負の方向へと歪んだ。ようやく納得したかと思ったところにこれである。清子の堪忍袋は同年代よりもいくらか懐が深いが、それでも限度というものはある。ましてや相談という名目の愚痴こぼしと文句吐きに来た同級生と違って、態度を隠す必要のある相手ではない。そう言うこともあり、不機嫌を隠さない態度で清子は言葉を投げつけた。

 

 「あのさ、兄ちゃん。そりゃ蓮乃ちゃんを見捨てるようで心苦しいのは解るよ、私だって気分良くないし。けど、ぶっちゃけた話、私らになにができるの? できることあるのなら言ってみてよ」

 

 「お、おう」

 

 清子の態度にいささかビビりながら正太は対案を探して脳味噌をひっくり返した。兄の威厳もへったくれもないが、今はそれどころではないので意図的に考えないようにする。頭の中からとりだした少ない選択肢を一つずつ数えて思索し、あーでもないこーでもないとこねくり回していく。だが穏便かつ自分たちにできる方法でその上正太が思いつけることなど合ってないようなものである。結局、正太の代案は正太自身が疑問符を付けざるを得ない代物でしかなかった。

 

 「睦美さんと話を付ける?」

 

 「本気で言ってんの?」

 

 当然、清子に電光石火で一刀両断されて仕舞いである。にべも愛想も素っ気もない返答に一撃必殺されてぐうの音も出ない。ロードマップも必要用件も、そもそも最終的な着地地点も解らずに行き当たりばったりでできるはずもないのだ。正太自身もそれは判っていた。

 

 「……正直、現実味は薄いと思う」

 

 「でしょ? なら身勝手なことはしないでさ、大人の人に任せようよ」

 

 だが、清子の再びの説得に正太は雄弁な沈黙をもって返した。何が言いたいのかは明白だ。正太の声高な無言に、清子の細い目がさらに細まる。それが示す感情は言うまでもない。顔にもそれが見て取れたし声からも聞き取れる。

 清子のご機嫌から一八〇度逆方向の声を聞いて、蓮乃はさらに首を竦ませた。蓮乃は言葉が聞き取れないが、音が聞こえないわけではない。言うなれば蓮乃にとっての言葉とは、よく知らない外国語のようなものだ。何を言っているのか言いたいのかさっぱりだ。

 しかし、たとえ初めて聞く外語でしゃべくる外人であろうとも、機嫌の善し悪しくらいならわかる人間はいるだろう。蓮乃も他人の機微がわからないわけではない。先日の正太とのやりとりは、単に正太の機嫌を気にしていないだけである。

 だからこそ二人の雰囲気が急速に悪化していくのは蓮乃にもよく判った。そしておそらく自分が原因であろうと言うことも判った。あれだけ拭いたのに、また両目から涙が滲んだのも判った。

 

 「……あのさぁ」

 

 清子は正太のことが別段嫌いではない。家族として相応の情愛は抱いている。少なくともそのつもりだ。しかし、それを考慮に入れても「前の一件」、つまり正太の虐めの件には思うところがあった。

 誰かを銃で撃ったなら、当然罪は撃った人間にある。まず真っ先に裁かれるのはそいつだ。しかし銃を売った人間にも責任がないわけではない。無論それは撃った人間の罪よりも軽い。だが決して売った人間は無関係でも無責任でもないのだ。

 

 兄の虐めで自分は巻き込まれた立場だった。突然よそよそしくなる級友たちに、攻撃的な態度を取り出す仲良しグループ。態度が実際の攻撃に変わるまでそう時間はかからなかった。それはさほど長い時間ではなかったとは言え、そのときまでの短い人生ではトップクラスの苦痛だった。加えて虐め解決のため転校を余儀なくされたのは間違いなくショックだった。

 それらすべての原因が兄の身勝手な行動にあると解ったとき、負の感情を抱かなかったと言えば嘘になる。だが当然の話、兄も自分とそう変わらない年の子供であった。布団の中で縮こまって泣き崩れている姿を見てそれが理解できた。十分以上に打ちのめされた兄を言葉で責め立てたところで何になるのだろうか。気持ちが晴れることすらないだろう。少なくとも自分や兄を虐めた連中のように、他人をいたぶって悦に浸る下劣な趣味はない。

 今までのことすべてを納得しきれる訳ではない。でもすべてがマイナスだったわけでもない。合計で見れば赤字だろうが、それでも得る物はあったし、得た人もいる。まとめて言うなら、終わったことだ。そう考えて兄に何も言わなかった。

 

 だが、だがしかし。同じバカが繰り返されるのをよしと言えるほど、自分はお人好しでもないのだ。

 

 「ねぇ、なにふざけてんの? 自分で勝手に解決して褒められたいの?あんな目にあっても、家族みんなに迷惑かけてもまだわかんないの!?」

 

 「わかってる!」

 

 清子は説得と言うより叱責の体で言葉を投げつける。口から発射された内容は質問ですらない。尋問とか詰問とか呼ばれる類のものだ。言葉で打ち据えられる正太の返答も半ば絶叫めいていた。正太の打ち返した言葉で清子の血圧がさらに上がる。

 突然の大声に、横で聞いていた蓮乃の肩がさらに竦む。やっぱり自分のせいだ、どうしよう。だが当事者とは言え蚊帳の外の蓮乃にできることはなく、現実全てに蓋するように膝に顔を埋めるのが手一杯だった。

 

 「わかっているならなんでグチグチ言うのよ! なに、私の方から折れて欲しいわけ!? 自分で責任とりたくないから!? ふざけないでよ!」

 

 「わかってる、わかってるよ! 自分が頭の悪い考えしてることくらい!」

 

 正太とて学習はする。だからウジウジ悩んでいたのだ。手を出すべきではない、しかし蓮乃を突き放せない。清子の言葉に間違いはない。でも、どれだけ理屈を並べても、正太はこの娘っ子を見捨てる決定はできなかった。それが前のバカを踏襲することでも、過去の轍を踏むことでも、見放すという選択肢は選べない。そうなればもう、答えは一つしかなかった。

 

 「そう言うんだったら!」

 

 「でも、蓮乃が今頼れる人間は俺らしか居ないんだぞ!」

 

 もしかしたら蓮乃には自分の知らない頼る先があるのかもしれない。単にその頼る先が今いないから一〇三号室へ来たのかもしれない。もしそうなら自分の行動は清子の言うとおり、自尊心を満たすための身勝手な独り善がりに他ならないだろう。

 だがしかし。その頼る先は今ここにいないのだ。そして蓮乃は心身共に、その頼りの先に一人で向かえるような状態ではない。ガラスを破るほどに追いつめられて、割ったガラス片で素足を傷つけて。ようやく人心地がついた途端に涙をこぼすほどに限界だった。だから一番近いここへ、隣の一〇三号室へ来たのだ。そして今ここで頼れるのは自分たちだけだ。それなのに突き放したらどうなるか。

 

 かつて自分は虐めにあった。それ自体は確かに自業自得ではあるが、振るわれた精神的・肉体的暴力は、そこまでされる謂われを考えたくなる代物だった。当然、張り子めいた芯のない自分の精神で耐えられるようなものではなく、処刑場に行く心地で登校し下校時には縮こまって逃げ帰る毎日だった。

 子供の世界は驚くほど狭い。「塾」や「スポーツクラブ」がある子供もいるが、家庭と学校の二つが基本だ。だから学校で虐められた自分は、毎日家庭へと逃げ帰っていた。

 そう、学校が終われば虐めっ子の目を盗み、唯一の安息の地である「家」に逃げ帰れるのだ。そうして当時の自分は家族に泣きつけた。もっとも実際は、中途半端なプライドが泣きつくのを邪魔して結局枕を涙でぬらす毎日だったが。

 

 だが蓮乃は障害と魔法の合わせ技からか、学校に通っていないと聞いた。今までの睦美さんとのやりとりをみる限り、塾やスポーツクラブに通っているとは思えない。そうなれば、蓮乃の世界はほぼ全て「家」で出来上がっているということになる。

 しかし、蓮乃はその「家」から逃げ出した。そしてここへ来たのだ。もし、自分たちが見捨てるならば、蓮乃はどこに行けばいい? どこに逃げることができる? その先が無いならば、この先どうなるか。それに目をつぶれないなら無理でも無茶でもするしかないのだ。

 

 「……おまえさんの言うとおり、バカは百も承知だし身勝手以外のなにもんでもない。でも蓮乃の奴を見放すことはできんよ」

 

 結論は出た。正太は膝の間の暗闇に顔を伏せる蓮乃へと視線をやる。その目には大いに迷いと不安があった。それでも諦めを示すものは一片もなかった。

 それを見た清子の顔には苦味を通り越して苦痛をこらえるような表情が浮かんでいた。よくわかった。三つ子の魂百までというが兄のこれはまさにそれだ。羹(あつもの)に懲りたと思ったら、煮えたぎるスープを一気飲みするとは恐れ入る。筋金入りのバカさ加減にいい加減愛想も尽きようものだ。

 

 「わかった、わかったよ! 勝手にしてよ! お隣さん説得するのも、父さん母さんへの説明も、やったことの責任とるのも、後のこと全部自分でやってよ! あたしなんにもするつもりないからね!」

 

 絶叫混じりの最後通牒を叩きつけた清子は、肩を怒らせ居間から去っていった。その後ろ姿を乾いた笑みを浮かべながら正太は見つめる。家族に嫌われたくないと見捨てない選択をした結果、その家族に見捨てられるとは、まさに本末転倒としか言いようがない。バカここに極まれり。浮かぶ笑みにコーヒー味の苦い色が混じる。

 何かを諦めたような納得したよう、投げやりでどこかさっぱりとした表情をしながら、正太は深く息を吐いた。ため息を聞き取ったのか、蓮乃の不安げな声が正太の耳に届いた。

 

 「なぁー……」

 

 目を向ければ赤く腫れた目に声音同様の色を浮かべながら正太を見つめる蓮乃の顔があった。何が言いたいのかは判らないが、正太でも心配そうな表情を浮かべているのは見て取れる。仮にも見放せんと啖呵を切って見せたのに、不安にさせとくわけにもいかんだろう。正太はテレビ横のメモを手に取ると、読みやすいようできるだけ丁寧に書いて見せた。

 

 『気にすんなとは言えんが、少なくともおまえさんのせいじゃないよ』

 

 だが蓮乃の胸中に浮かぶ暗雲は、窓の外同様に晴れる様子を見せなかった。

 

 

 

 

 

 

 ――油紙じゃちと厳しいかね

 

 割れ窓を塞いだ跡を眺めつつ、雨合羽姿の正太は胸の内で小さくこぼした。段ボールをガムテープで割れたガラス板に張り付けて、その上から油紙シートを張って雨よけにしている。その出来映えは「雑」の一言だ。一目でわかる。

 今にも落ちそうに不安定に見える、斜めに張り付けられた段ボール。それを無理矢理に固定しようと、放射状に留められたガムテープは長さがちぐはぐで、まるで子供の書いた適当な太陽の絵だ。せめて隙間を埋めようと油紙シートの切れ端がこれまたぐちゃぐちゃに張り付けられている。ろくでもない出来映えを覆い隠そうと上から油紙シートが張られているが、微妙に長さが足りないせいで下から中身が見え隠れしている。

 全般的にエントロピーが過剰で丁寧とは正反対な代物だ。よく見れば隙間から漏れ入る水しぶきで段ボールの所々に雨染みが見えている。別に手を抜いたわけではない。不器用極まりない正太と心身共にグロッキーな蓮乃では、これが精一杯だったというだけだ。できれば生体樹脂のシートを使用したかったが、維持管理に手間がかかる生体樹脂を一般家庭の宇城家が常備しているはずもない。あれは雑に扱って放っておくと腐るのだ。安いくせに雑には扱えない。変な話だ。

 

 思考の空回る乾いた音を幻聴しつつ、雨風にはためく油紙に正太は追加のガムテープを張り付けた。蓮乃が軟禁脱出のために投げつけた椅子のお陰で一〇四号室の居間は台風一過の有様だったのだ。なにせ、窓に開いた大穴から吹き込む雨で居間半分がびしょっり濡れており、庭にまき散らされたガラスの欠片は足を動かす度に靴の下でジャリジャリと声を上げる。さらに周囲に散乱しているガラス片は、居間から漏れる電灯を浴びて白く存在を主張し、そのど真ん中に複雑骨折した元椅子がねじくれながら横倒れていた。

 最初その様を見たとき、正太は回れ右して一〇三号室に帰ろうかと本気で思った。だが結論を出した以上、逃げ出すことは出来ない。それに部屋の惨状をそのままにして置くわけにも行かない。被害状況を保持するのは警察の捜査だけだ。そう考えて気合いを入れ直すと、大急ぎで一〇三号室から油紙シートに段ボール、ガムテープと雨合羽ほか必要と思われるものをひっ抱えて飛び戻り作業を始め、今に至るというわけだ。

 

 空転中の思考にブレーキをかけると、正太は改めて周囲の現状を見る。未だ足下はジャリジャリぼやいているが、先に比べればずいぶんトーンは下がった。割れ窓を塞いだ段ボールには所々に雨染みが見えるが、今すぐ浸水するほどではない。張り付けられるだけガムテープを張り付けて、目に見える範囲で固定できていない場所はなくなった。それでもいくらか隙間は見えるが、素人仕事で出来ることはこのあたりが限度だろう。

 自分の中で区切りをつけて、正太は疲れを追い出そうと両手を組んで筋を伸ばす。濡れた手から水滴が雨合羽の中に手首を伝わってしたたり落ちてきた。初夏といえども連日の雨はずいぶん冷たい。雨中で作業を続けて体も冷えてきた。風呂と乾いたタオルが恋しい気分だ。それにいい加減疲れた。こっちも正直休みたい。とりあえずここまでとしよう。

 

 疲れた気分をため息に乗せて吐き出すと、残った窓を通して部屋内を覗く。とりあえず見える範囲は一通り拭き終えて居間の中もある程度綺麗になっている。床はフローリングのお陰で濡れた跡は残っていない。ただ、濡れた雑誌や本は諦めてもらうしかないだろう。そればっかりはどうにも出来ない。

 部屋の中を眺めるついでに、壁にもたれ掛かって手持ちぶたさにしている蓮乃の姿が見えた。途中までは手伝っていたのだが、蓮乃の精神力はガス欠のようで作業もずいぶん滞りがちだった。なにせこれから家中に錠前と鎖を取り付けるほど惑乱している母親を説得するのだ。しかもついさっき窓を破って逃げたばかり。どう見積もっても気分よく作業する心地にはならんだろうと、正太は部屋内で休むよう言いつけたのだ。

 

 蓮乃の様子を横目に見つつ、正太は居間へとあがった。雨合羽の長さが足りなかったのと濡れた地面を踏みながらの作業で、靴下もじっとり湿っている。脱ぎ捨てて足を楽にしたいが人様の家で靴下を脱ぎ散らかすの少々はばかられる。

 視線の先の蓮乃はというと、いくらか休んだお陰でさっきよりはいくらかマシに見える。宇城家を訪ねてきた時は生き人形と死人の合いの子めいた顔だったが、居間の表情には確かに血の気が通っている。一〇三号室で腹に入れた暖かいものが多少なりとも効いてきたのかもしれない。少なくとも表面的には大丈夫そうだ。 

 

 問題は睦美さんの帰宅後だろう。部屋と窓を片づけるのは一仕事だったが、まだまだ大事な仕事が残っている。そう、睦美さんを説得するという大仕事だ。自宅と変わりない天井を仰ぎ、正太はゴツい顔に苦み走った表情を浮かべる。

 正直言って気が重い。なにせ、ロードマップもマニュアルもなしでどうすればいいかも判らない。完全に出たとこ勝負のアドリブ演奏だ。その場のノリで動くとろくなことにならないのは前の一件で思い知った。なのにそれをしなければならないあたり、なんとも皮肉が効いているようだ。

 天井と向き合う苦い顔にシニカルな笑みが混じった。いや、むしろ自業自得だろう。清子の小言に耳を貸さず、前車の轍を踏み抜くような真似をしたのだ。なら前の二の舞をする羽目になるのはある意味当然だ。ただし今度は家族の手を振り切った以上、助け船はやってこない。二の舞だろうと三の舞だろうと踊りきらねば明日はない。やるしかないのだ。

 

 天井から視線を九〇度戻し、正太は頬を張って気合いを入れ直す。柏手に似た破裂音と共に、鋭い痛みが泡のように浮かんで消える。不安と心配でうすらぼやけていた意識を痛みを軸にして締め直す。これから現実と対峙して少しでもマシな結果を導き出さんといかんのだ、逃避している暇はない。「よし!」と声を上げて、腹の底に力を入れる。丹田で煮えたぎる熱量のイメージが沸き立った気がした。そこまでしたところで、蓮乃がじっと見ているのに気がついた。そういや声も上げていたな。言葉が聞き取れないとはいえ、至近で知り合いが頬を張って声を上げてれば気にもなろう。張った頬が痛み以外の理由で熱く感じる。正太は何とも気恥ずかしくなってついと視線を横にずらした。

 

 視線の先には一〇四号室の扉がある。見慣れた一〇三号室の扉と特に変わりない。壁の時計は午後五時半の手前を示している。常の睦美の帰宅時刻にそろそろ達する。時間が近づくに連れて、焦りと不安が心音のボリュームを上げリズムを早めてく。それを抑えるように正太は深呼吸を繰り返した。その姿を蓮乃は不安げな色を帯びた視線で見つめる。

 

 

 

 

 

 

 時計の表示は午後五時半を越した。いつ睦美が帰ってきてもおかしくない。一〇四号室の空気が徐々に張りつめていく。二人の心臓と胃の腑がキリキリと幻痛を訴える。

 さっさと帰宅してくれ。いっそ帰ってこないでくれ。相反する二つの主張が、交互に脳内に浮かんでは消えていく。不安と緊張が腹の底でない交ぜになり、全部終わらせてくれという懇願に近い感情が煮えてくる。

 

 錠前が開く音は唐突だった。ガチャリとボルトが音を立てて扉の中へと動く。跳ねるように扉を注視する蓮乃と正太。

 

 その視線の先で扉が開く。



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第八話、親子の話(その一)

 時刻は午後五時半過ぎ。段ボールと油紙で不器用に繕った割れ窓の向こうでは、未だに勢いを弱めることなく雨が降り注いでいる。その反対側の居間で”宇城正太”と”向井蓮乃”の二人が固唾を飲んで一〇四号室の扉を見つめる。扉の錠が開く音が聞こえたのだ。

 

 ここ一〇四号室の住人は娘の蓮乃と母親の”向井睦美”の二人だけ。そして鍵を持っているのは睦美ただ一人だ。それ以前に蓮乃は正太の隣にいる。なら扉の向こうにいるのは睦美にほかならない。蓮乃をこの一〇四号室に軟禁したその人に。そして正太は睦美を何とかして説得しなければならない。そのつもりでこの部屋に来たのだ。しかし、どうすればいいのかは未だ皆目見当もついていない。行き当たりばったりでよい結果が出た試しがないことは以前の一件でよく知っている。それでもやらねばならない。

 胸の内で気合いを入れ直し、正太は深く息を吸って吐く。もう一度。だが、腹の底で粘り着く泥のような不安は吐き出せそうにない。その不安が伝わったのか正太を見る蓮乃の表情に暗い色がよぎった。安心させようと正太は下手な笑顔を浮かべて空元気で頷いてみせる。形だけでも多少は効果があったのか、蓮乃の顔に浮かぶ心配の色味が薄れた。正太の下っ腹に凝った不安の泥も幾らか薄まる。

 

 鍵でもしまっていたのか、十秒ほどの間の後にドアノブが回った。立て付けが悪いらしく悲鳴を上げながら扉が開く。開いた扉の向こうに見える姿は、予想通りに向井睦美その人だ。見覚えのあるスーツ姿に記憶通りのパンプス。

 しかし、その顔は正太の記憶よりも格段に堅く暗い色合いをしている。見た覚えのない表情ではあるが、正太にさほどの驚きは無かった。予想通りとは言わないが、ある程度の想像はできたからだ。数日前の買い物帰りの様や、蓮乃から聞いた尋常でない行動、なにより娘である蓮乃を軟禁したという事実。これだけのことがあって、平然とした顔をしていたらそちらの方が格段に怖い。

 睦美はふと俯き気味の顔を上げ、居間の様子を眺めると繰り返し目を瞬かせた。本来は蓮乃一人で居るべき場所に、余計な正太が追加されている。その上、焦点を遠ざけてみれば居間の窓にはどでかい穴とそれをつたなく塞いだ跡が見える。これで驚くなといわれても無理な話だ。おかげで重苦しい雰囲気も薄れたようで、その顔には鳩が豆鉄砲で狙撃されたような表情が浮かんでいた。不意を食らってきょとんと呆けた顔は、天真爛漫天衣無縫ないつもの蓮乃とよく似ていて、やはり親子であるのが見て取れる。

 

 だが、不意打ちは長くは続かない。数秒もしない内に睦美の表情の温度が急降下し、纏う雰囲気はぐつぐつと煮え立ち始める。居間の空気が張りつめて肌が粟立つ。

 このままいけば大爆発で先日の二の舞だ。正太は以前の轍を踏む覚悟をしてきたが、だからといって黙って同じミスを繰り返す趣味はない。しかしながら、現時点の睦美は危険物第五類と第三類を掛け合わせたような状態である。つまり衝撃を与えれば即点火、火を消そうと水で冷ませばなおのこと燃え上がるのだ。これが甘酸っぱい恋なら少女小説の一つにもなりそうなものだが、現実の味わいは遙かに辛酸っぱいトムヤンクンだ。それはそれで味があるのだが、お子さま味覚の正太には少々早い。

 

 ならば対策は一つ、主導権をこちらで握るのだ。正太は小さく息を吸って発するべき言葉を選ぶ。主導権を握られて振り回される役柄ではあるが、妹である”宇城清子”との口喧嘩でその重要性は嫌というほど学ばされた。実際にもう嫌だ主導権よこせといったが聞いてもらえず、徹底的な口撃でぐうの音も出ないほど、けちょんけちょんにされた記憶もある。

 会話の主導権を握られて一方的にまくし立てられれば、正太の力量ではまともな反論もできずに沈黙せざるを得ない。次から次へと押し立てられる正論の前に、まな板上の鯉よろしく口をぱくつかせて喘ぎながら三枚おろしになるのを待つばかり。たとえ後々で理論の穴を見つけても負け犬の遠吠えと同じ。口喧嘩で負けた後では何の意味もないのだ。

 そして主導権をとるために必要なのはとにかく先手をとること。正太はそう理解している。故に言葉のイクサはアイサツの段階から始まっているのだ。正太は睦美に先んじて頭を下げた。

 

 「こ、こんにちは。ご無沙汰しています」

 

 「こんにちは……どうして正太君が家にいるんですか?」

 

 まずは軽いジャブの応酬から。一見正太が先手をとった上、睦美は質問を放って相手に主導権を譲ったように見える。だがこの段階で彼我の技量差は如実に現れていた。

 

 「えっとですね」

 

 「まさか家の蓮乃がまたご迷惑をおかけしましたか?窓の穴はそれですか?」

 

 容易く誘いにのってしまい返答に余計な時間を回す正太。その隙をつき睦美は正太の返答を待たずに質問の速射をかける。あえて質問を投げかけることで相手の行動を封じる睦美の巧打が光る。睦美がポイントを先取した。

 

 「あのその、えっと」

 

 「ガラスの欠片も庭に飛んでいるし、たぶん後ろの窓ガラスも蓮乃が割ったものでしょう。迷惑をおかけしたようで申し訳ありません」

 

 当初の想定に反して正太は完全に飲まれつつあった。仮にも一児の母として社会の荒波に洗われてきた身、多少覚悟を決めたとはいえ半分程度の年齢の子供に負けるはずもなかったのか。ましてやコミュ障気味の正太が十分な準備もせず挑んだとくれば、勝率はアマガエルがハブに喧嘩を売るより低くなるのは確かだろう。意外と冷静なんだなと、半ば現実逃避の思考をとばす正太。既にこの時点で負けている。

 だがそれでも引くわけには行かない。正太は丹田に力を込めて雨雲の向こうへ飛び去ろうとする正気を力一杯引き戻す。清子の正論相手に啖呵切って飛び出してきたのだ。口にした言葉の責任は取らねばならない。

 

 「蓮乃には私から必要な躾をしておきますので、正太君はお家に帰ってかまいません」

 

 「いえ、その、そーいう訳にはいかないんです」

 

 それに鈍い正太でも睦美の様子にいい加減気づく。これは冷静と言わない。「嵐の前の静けさ」や「津波前の引き潮」と表される状態だ。つい先日も味わったばかりだからよく覚えている。睦美の言葉を鵜呑みにして言われるがままに帰宅すれば蓮乃がどんな目に遭うことやら。先日までが軟禁ならば、本日からは硬禁もとい拘禁となるに違いない。

 口にした言葉には責任が伴う。それに言葉の裏側を読みとれるほど、自分の頭は良くない。だから正太は言葉をそのまま信じるべきだと考えているが、今日ばかりはその「べき」をべきっとへし折るべきである。

 下らん冗句で無理矢理神経を鎮めると、正太はケツの穴を引き締めて口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 緊張と不安で跳ね踊る心臓が、正太の胸の中で一六ビートを刻んでいる。耳の奥で轟々と響く血流の音は、速すぎる心拍で一連なりのメロディに聞こえる。緊張由来の唾液不足で粘つく口を無理矢理回し、正太は睦美に向けて蓮乃の苦境と苦痛を訴えた。

 

 「もうご存じだとは思いますが、蓮乃ちゃんは我が家の一〇三号室に『逃げ込んで』きました。雨でびしょ濡れの青ざめた顔で、素足の裏にガラスの欠片で切り傷をつくって。もう耐えられないと我が家に逃げ込んできたんです」

 

 「それは我が家の話です。正太君には何の関係もありません」

 

 だが睦美の返答にはにべも素っ気もない。あるのは、冷静な声音の後ろに隠れた煮えたぎる感情の渦だ。その証拠に睦美の声のオクターブが一つあがった。つまり導火線に火がついたということだ。小説か映画で言うならばタイマーのカウントが始まったところだろう。さあ正念場の大一番だ。丹田の底が煮えたぎる。冷たい汗が正太のこめかみを伝った。

 

 「いいえ、無関係ではないんです。知らなかったとは言え、蓮乃ちゃんを買い物に連れだしたのは俺です。そもそも俺は蓮乃ちゃんが我が家に遊びに来ることを止めもしませんでした。なにより、蓮乃ちゃんは我が家に逃げ込んできました。だから……」

 

 「だからなんですか」

 

 正太は小さく息をのんだ。導火線が縮むのがわかる。整った能面の下では爆発寸前のマグマ溜まりが煮えたぎっているのだろう。起爆までのカウントが始まった。睦美の焦熱を感じ取ったのか、壁際で縮こまった蓮乃からの怯えた視線が二人の間を揺れ動く。

 

 「俺は無関係ではありません。ここにいるだけの理由と関係があります」

 

 「家の蓮乃が宇城君のお宅にご迷惑をかけたことは理解しています。けれども蓮乃のことは我が家のことです。改めて言います。宇城君とは無関係です」

 

 睦美は正太の反論を即座に切って捨てる。関わりたい正太と関わらせる気もない睦美。話は平行線を突っ走っている。

 だが、それでも。腹の底に力を込めて正太は急ハンドルを切った。ここで終わりにしてしまうなら何のために清子に啖呵を切ったのか。覚悟を決めて唾を吐いたのだ。だからそれを飲まねばなるまい。それ以前に蓮乃を見捨てるようならば両親に顔向けなんかできやしないだろう。

 

 「俺も改めて言います、関係はあります。少なくとも俺たちに蓮乃ちゃんが助けを求めてきたのは事実です。頼ってきた子供を見放すわけには行きません」

 

 「……あなたがそうやって甘やかすから蓮乃が勝手をするんでしょう?」

 

 睦美の口調が色合いを変えた。導火線より雷管に火が移ったのだ。睦美のまとう空気が引火性を帯びる。正太を睨む視線だけで焼き豚が仕上がりそうだ。焼けるような雰囲気と辛い現実から目を背けるように、視線の端で蓮乃が顔を伏せる。

 

 「俺だってそうですけど、蓮乃ちゃんはまだ子供なんです。年を考えれば人に甘えたがってもなにも不思議ではありません。甘やかしていると睦美さんは言いますが、決して無茶な甘え方も道理にかなわない我が儘もさせてません。必要な分、必要なだけさせているつもりです!」

 

 正太は未だ気がついていない。自分が口にする言葉の意味を、余所の子供が他人の親に子育てについて説教するという異常を。いや気づいていないのではなく正太は意図的に気づかない。

 なぜなら、そうしなければ足を止めた自転車よろしく倒れてしまうからだ。頭の中を興奮と熱狂で満たして初めて、正太は怒れる睦美の前になんとか立っていられる。もしも氷水でもぶちまけて頭を覚ましたならば、コミュ障気味の正太なんぞ茶漬けにされた煎餅よりもたやすく押し潰れてしまうに違いない。だから自分の言葉に酔うことで恐怖を意識の向こうに押しやって、泥酔気味の正太はさらに熱を帯びた声を連ねるのだ。

 マイクとスピーカーの起こすハウリングめいて、自滅的なフィードバックループは加速していく。何かの異常を感じ取ったのか、蓮乃は不安げな顔を持ち上げた。視線の先の正太は、赤く着色された焼豚よろしく顔を真っ赤に染めて血圧を上げ続けている。

 

 「それに、誰だって家の中に閉じこめられ続ければ、逃げ出したくなるものでしょう!?それで逃げ出すな、言うこと聞けって命じる方がむちゃくちゃですよ!」

 

 自己反応熱で煮えたぎる頭の中、正太はこれは言わなければならないことだと確信していた言葉を口にした。睦美のやったことは軟禁で監禁で拘禁で、つまり一種の犯罪だ。それから目をそらしておいて、元鞘に戻ってハッピーエンドとはとうてい行くまい。たとえ目をつぶって飲み込んだとしても、のどに刺さった魚の骨よりも存在を主張し続けるその事実は、いつか肉を引き裂いて喉から血を吹き出させるだろう。たとええづくほどに苦しくても、のどの奥に居座るそいつを目の前に引きずり出さねばいかんのだ。

 

 「これじゃ蓮乃ちゃんを虐待しているのとなにも変わりませんよ!?」

 

 もう一度言う。正太は一切気づいていない。喉に刺さって血を吹かせるような代物を相手の耳に押し込んだならどうなるか。たとえそれが伝える義務と必要のある言葉だとしても、投げつけられた側がそれをどう受け取るかは全くの別問題だ。ましてや不用意に相手のはらわたに手を突っ込めば、二次感染で患者を死なせかねない。だから手術前には可能な限りの消毒滅菌が必要なのだ。

 そんな正太の軽率な撃鉄に叩かれてついに睦美は火を噴いた。雷管から火薬に伝播した爆轟は、激情という弾丸の尻を超音速で蹴り上げる。

 

 「無関係のあなたに何がわかるって言うのッ!?この子の障害も何もよく知らないくせに!!」

 

 絶叫が正太の鼓膜をぶっ叩き、平手が正太の頬をぶっ叩いた。スナップが利いて腰の入った鋭い一撃だ。想像より数倍は痛い。目の前で星がちらつき世界が瞬いている。ぐわんぐわんと擬音をたてて揺れる視界の中で、目の前の睦美が二重にぶれて見える。

 何がなんだかさっぱりわからん。六〇度ほど西を向いた正太の頭の中で衝撃と疑問が飽和する。ぶっ叩かれたインパクトで魂が半分ほど飛び出たらしく、驚くほど動揺が無く冷静だ。

 とりあえず理解できることは、自分が睦美さんに思いっきり掌底入り平手打ちをもらったということだ。聴きたくないだろうことを口にした以上、怒らせるかもしれんとは考えていたが、流石に平手打ちフルスイングは完全に想定外だった。なにせ「大人」がそんな「子供」じみたことをするはずがないから。

 

 だから「大人」が子供の前で涙をこぼすなんてことはあり得ない。そのはずだった。けれど正太の目の前で、今確かに睦美の両目からは膨れ上がった涙の滴が形を崩しながらこぼれ落ちた。



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第八話、親子の話(その二)

 平手打ちを振り抜いた姿勢のまま、睦美の瞼に涙の大粒が膨れ上がる。それはたやすく表面張力の限界を超えると、重力に従って睦美の頬を滑り落ちた。感情もまた表面張力の限界を超えた睦美の荒い呼吸を聞きながら、正太はあまりの衝撃に硬直した仏頂面で脳細胞を高速空転させる。ひっぱたかれた拍子に脳味噌の回路が変な風につながったのか、脳髄は常の数百倍の速度で堂々巡りを繰り返し、表現不可能な量の感情が正太の顔面で飽和して青ざめた能面顔を作る。

 

 大人が泣く。

 正太にとってそれはあり得ない光景だった。無論、大人だからといって全員が全員とも社会人として振る舞うわけではないと頭ではわかっている。だが前のいじめの一件を通して正太の脳味噌には、穴だらけの錦の美旗をぶん回し楽しみ全部で他人を踏みにじる「身勝手な子供」と、筋道と戦略を立てて現実との折り合いをつけて問題を解決する「真っ当な大人」の姿が刻みつけられていた

 だから、正太が抱く大人へのイメージは、感情を露わにするような子供めいた姿を見せることはない。故に正太にとって大人とは「子供と違い理性と良識を常に体現し続ける存在」だった。泣きわめいて泣きじゃくるのは子供だけ。プライベートの中ならともかく、公の場や他人様の前で涙をこぼす「大人」はいない。そう思いこみ続けていた。

 

 だが今、目の前の大人は、蓮乃の母親は、向井睦美は、感情のままに涙をこぼしベソをかき頬を濡らしている。それを見た正太の脳内では、先の一撃に匹敵する衝撃が走り抜けた。睦美の平手打ちは物理的な衝撃だったが、睦美の涙は精神的に衝撃だった。

 当たり前の話、いやそれ以前の話だ。「大人」の前に、母親である前に、自分の目の前にいるのは一人の人間なのだ。逆鱗を逆撫でされて神経をヤスリ掛けされれば、苦痛も怒りも覚えるだろう。限界突破の睦美さんがそれを繰り返されればどうなるか想像もつこう。

 にもかかわらず、証拠も担保もなく無意識に「大人なら感情に支配されることはないだろう」と結論づけて自分は行動に移した。別の言い方をするならば「どれだけ傷に塩を刷り込もうとも、大人なら感情に振り回されることなく道理と理屈にかなった判断をするはず」という身勝手な子供の甘えきった妄念であるとも言える。

 甘いを通り越して糖蜜シロップ煮込みにアイシングと粉砂糖を振りかけた自分の思考に、正太は墓穴に入ってそのまま埋まりたくなった。きっと頭を抱えたならば、スポンジ生地めいてスカスカの脳味噌から、味覚が麻痺する甘さのサッカリン飽和水溶液がにじみ出るに違いない。

 

 そこまでわかるなら、なんでそんなバカなことを自分はしでかしたのか。そもそも自分は何をしたかったんだ?

 脳内で展開される無闇矢鱈な内省は哲学的な領域に入り込みつつあった。血流不足で白面になりつつあった青白い能面顔に正太は深呼吸して無理矢理酸素を送る。

 だがカラカラと音を立てて回る脳味噌は止まる様子を一向に見せてはくれない。自己嫌悪回路は暴走したまま崖に向かって一直線。自己嫌悪が自己批判を呼びよせて、自己中毒で自己破産しそうだ。実に自業自得な事故になるだろう。どーしたもんか。何にせよ、このままじゃまずい。落ち着け、落ち着くんだ。

 

 「お、落ち着いてください、自分も落ち着きますから!」

 

 「言いたい放題言ってふざけないで!あなたは……」

 

 一人上手に混乱する正太は、斜め上四五度な言動で暴走する自分と睦美を抑えようとする。だが、その正太の耳を絶叫じみた睦美の言葉が打ち据えた。

 それは感情のままに叫んだただの暴言だったのかもしれない。

 それは筋道の通らない支離滅裂な妄言だったのかもしれない。

 だが、それは確かに正太の自覚していなかった一面を正確に射抜いて見せた。

 

 「あなたはヒーローを気取りたいだけでしょう!!」

 

 一度目の平手打ちは正太の肉体に、二度目の涙は正太の精神に、三度目の言葉は正太の心髄に響いた。心臓を打ち抜かれた正太の胸中に自嘲を通り越した絶望混じりの諦観が浮かぶ。確かに仰るとおりだ。言い訳のしようもなかった。自分は、ヒーローのように睦美を論破して事態を解決することを無責任に求めていたのだ。

 暴走する自己嫌悪回路が決壊点を超え溢れ出す。正論唄ってヒーロー気取って、他人様いじめて追いつめて。自分は何をしたかったのだ。そうやって一方的に論破したら相手が泣いて非を認めるとでも?ましてや、言葉の暴力でぶん殴られて蓮乃に改めて母親として接してくれる保証がどこにあると?考えておかねばならないことだった。

 でも、自分は何も考えていなかった。コンチクショウ。やっぱり自分はどうしようもなくクソらしい。自分の有様を糾弾する現実と、目の前の睦美から視線を逸らす正太。

 偶然、その目にもう一度顔を上げた蓮乃の姿が目に入った。洟と涙をすすり上げ、睦美以上に泣きじゃくっている蓮乃の顔。縋ることのできる者のいない、怯え竦んだ子供の顔。

 

 ここにきた理由を思い出させるにはそれで十分だった。

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと息を吸い静かに長く吐き出す。一、二、三度。脳の髄まで酸素が染み込んだのを確認し、正太は脳味噌の歯車をかみ合わせた。雑な仕上がりのギアが、脳内で軋みの音をたてながら緩やかに回り出した。

 自分がクソであるかゴミであるかなどどうでもいい。なにが重要だ?何が肝要だ?必要なのは事態の解決だ。放っておけぬと啖呵を切って、清子の言葉を振り切ったのは蓮乃を助けるためだったはずだ。

 歯を食いしばり、絶望の淵から転落しそうな精神を土俵際で必死にこらえる。向井蓮乃の母親は向井睦美しかいない。蓮乃の人生に責任を負えるのも睦美しかいない。必要なのは論破でもなければ勝利でもない。親子の和解と関係の改善だ。

 なら必要なものは、すべきことは何だ。意を決して目を閉じた正太は静かに床に膝を突く。そしてそのまま倒れ込むように地面に両掌をつけた。「o」「r」「z」のアルファベット三文字で書いたような意気消沈そのものの姿だ。しかし正太の意志が崩れ落ちた訳ではない。それを示すように正太はもう一つの意味を込めて床に頭蓋をたたきつけた。日本全国共通の全面的伝統謝罪体勢、すなわち「土下座」である。

 

 「仰るとおりです。睦美さんがどんな苦労をされてきたか、どんな努力をされてきたか、自分は知りません。何より睦美さんと蓮乃ちゃんとの間で何があったか俺は何も知りません。ですから、何があったのかお話をしてください」

 

 勢いよく床にたたきつけた額が痺れるような痛みを訴える。さらに腹の底から情けなさと惨めさごたまぜになりながら沸き上がってくる。それをまとめて口の奥で噛み潰すと、苦虫より苦い味が口中に広がった。それでも正太は、フローリングに頭をすり付けて睦美の言葉を請い願う。

 何も知らなかった、何も考えていなかった。なら、知らなければならない。そして考えなければならない。そのためには、安いプライドなんかバナナと一緒に叩き売れ。それで答えが買えりゃ儲けものだ。話してもらわなきゃわからないし、伝えてくれなきゃ伝わらない。だから二人の話を聞かなきゃならない。

 

 「い……いきなり何!?貴方には関係のないことでしょう!話す事なんて一つもありません!」

 

 正太の土下座に不意をつかれたのか、睦美から吹き出す感情の鉄砲水が一瞬だけ勢いを減じた。次の瞬間にはその噴射圧力を取り戻すが、そこに機を見いだしたのかさらに正太は畳みかける。

 

 「その通りです。無関係な自分になんか話さなくてもかまいません。でも蓮乃ちゃんには、何があったか教えてあげてください」

 

 言葉を一度切ると同時にバネ仕掛けの勢いで顔を上げ、正太は睦美の目を直視する。その双眸に一切のブレはない。存在全部を叩き込まんばかりの視線に、狂乱していたはずの睦美が気圧された。睦美の感情の濁流は正太の勢いに海嘯となって押し返されている。

 

 「……っ!」

 

 「それを一番知りたい人は、一番知らなきゃいけない人は蓮乃ちゃんなんです。だから、貴方にどんなことがあったのか、どんなことをされてきたのか、どんなことを考えてきたのか。蓮乃ちゃんに話して書いて伝えてあげてください!」

 

 自分が事実を知ろうと知るまいとそこに意味はない。今の目的は二人の和解だ。ならば何をすべきか為すべきかは、もうわかっている。もう一度、床と頭蓋の間で鈍い音が響いた。頭を床に叩きつけた姿勢のまま正太は強く強く請い願う。

 

 「お願いします!!」

 

 背中が見える角度で床板に額を押しつける正太の背に、小さな影がかかる。影の主は部屋の壁際で、震えて泣いて顔を伏せて目を瞑っていたはずの蓮乃だった。それを示すように正太と睦美の二人を見やる目は、腫れぼったく赤に染まっている。

 にも関わらず、なぜか正太の側にやってきた蓮乃はなにか迷うする様子を見せつつも、おっかなびっくり正太の凸凹の多いに背筋そっと手を当てる。それからそのまま、おそるおそるな様子ではあるが、心配混じりの優しい手つきで正太の背中をさすり始めた。顔には心配と不安と怯えを鍋に入れてかき混ぜた表情を浮かべつつ、繰り返し繰り返し正太の背中を撫でさする。

 

 「蓮乃……?」

 

 睦美からの声で、びくりと蓮乃の肩に一瞬震えが走った。ちらりちらりと様子を伺うように正太の背中と睦美の顔を視線が繰り返し往復する。それでも蓮乃は手を止めはしない。泣きじゃくる幼子をあやす母のように……とはいかずとも、生まれて間もない弟妹を不器用に泣きやませようとする、幼い姉のように蓮乃は正太の背を撫で続ける。

 

 生まれつきの障害のある蓮乃には、他人が口から発する言葉を聞き取ることができない。全部が全部、知りもしない外国語のように、禽獣の吠え声のように、ただの音の連なりとしてしか理解できないのだ。だから当然、蓮乃は正太と睦美の話を全く理解できていなかった。わかったことはせいぜいが「二人が怒鳴り合っていたこと」「母親が正太の顔をひっぱたいたこと」そして「正太が膝を突き床に頭をすり付けていること」くらいであった。

 だからだろう、蓮乃の目には「よくわからないけど兄ちゃんがお母さんにひっ叩かれて倒れた」ように見えていた。それを見た蓮乃は、とにかく兄ちゃんが大変だと心配に突き動かされるように近寄ったのだ。意図したことと言うより思わずの行動であり、近寄ってどうしようとは考えていなかった。正太が気がかりなのは事実だが、どうすればいいのかてんでわからなかった。

 だからずっと昔にここじゃない所にいたとき、おなかが痛かったときに母がやってくれたように、正太の背中を撫でさすることにしたのだ。きっと痛いだろうし辛いだろうし苦しいだろう。そう思うから、蓮乃は手のひらを何度も往復させ時折ぽんぽんと軽く叩く。何度も、何度も、繰り返し。

 

 その光景を睦美は理解不能の体で呆然と眺める。蓮乃は事の当事者で且つ話の中心人物であったが、同時に場の傍観者でしかなかった。睦美もまた蓮乃を理由に感情を炸裂させつつも、蓮乃自身のことは半ば意識から締め出していた。

 そこで唐突に蓮乃が舞台に現れた挙げ句、心配顔で正太を撫でさすっている。正太相手に感情を炸裂させたが故に、睦美の心はずいぶん脆くなっていた。そこに正太の土下座でタガが緩められて、止めにこれだ。もはや何がなんだかわからないと書かれた顔で二人を見ている。

 僅かに顔を上げた正太にもその表情は見て取れた。後一押し、後一押しあれば終わるだろう。ラクダの背には十分に荷物が乗っている。背骨をへし折るには追加の藁一本があればいい。常に機能停止しているような正太の直感も囁いている。潮目が変わった。ここが天王山、勝負所、土俵際。何でもいい、とにかく「ここ」だ。ここを逃せば先はない。もう一度、勢いよく額を床に叩きつけると正太は繰り返し請い願った。

 

 「蓮乃ちゃんに話をしてあげてください!お願いします!」

 

 しかし、僅かに視線がぶれるだけで睦美に変化は見られない。何にだって人間は慣れる。衝撃的であればあるほど陳腐化もまた早かった。一発ネタで食っていける芸人は少ないのだ。実際、土下座はもう無意味だろう。後一押しだというのに、その一押しが足らない。

 何か、何か無いのか?睦美さんを説得できる、いや訴えかけるものなら何でもいい!正太は必死で脳味噌をかき回すものの、少ない知恵を絞り尽くしてしまったのか、滓のような発想しか出てこない。

 もう手詰まりなのか?ここで終わりなのか?粘性の絶望が正太の胸中にひたひたと迫る。しかし、最後の藁は意外なところから降ってきた。

 

 「なーも……」

 

 それは蓮乃の声だった。お母さん、兄ちゃんをいじめないで。事情も状況も何一つわからない。だからこそ、何のてらいもない純粋な心配の声。その声で睦美の表情から色が消えた。以前の感情のマグマを覆った能面めいた無表情ではない。魂が抜けたように喜怒哀楽の全部が無色だ。その虚脱しきった透明な顔に、一滴の涙が流れ落ちる。

 

 ――私は何をしているんだろう。

 

 自分の子供のために余所の子供が土下座して懇願して、自分の子供は心配顔でその子に寄り添っている。一方の自分は、自分の子供を閉じこめた挙げ句、余所の子供に感情のままに怒鳴り散らしてわめき散らして、あまつさえ手を上げている。私はいったい何をしているんだろう。いったい何がしたかったんだろう。

 激情の熱量が抜けきった睦美の心中に、深い深い後悔が浮かび上がる。胸の奥から沸き上がる情動に従って睦美は顔を覆い肩を震わせた。



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第八話、親子の話(その三)

 破れ窓の向こう側から染み入る雨音にくるまれて、睦美は一人悔恨と後悔に沈んでいる。直上からの人工照明に浮き彫りされたその姿は、博物館に展示された嘆きの彫刻を思わせた。その姿へと視線を向けながら、正太は心境共々ゆっくりと立ち上がった。そのまま手近なメモとペンを手に取ると、兄ちゃんもお母さんも大丈夫なのと心配の顔で見つめる蓮乃に一文を書いてみせる。

 

 『蓮乃、俺は問題ないし睦美さんは気が抜けちまっているだけだ。どっちにせよ大丈夫だ』

 

 正太の言葉に少しばかり安心できたのか、蓮乃の口から安堵の息が小さくもれた。強ばっていた表情も少しばかり柔らかく緩む。それを見て正太もまた胸の内で安心の吐息をこぼした。

 

 『なあ、蓮乃。お前さんには納得しがたいかもしれんが、どうやら睦美さんにはこんなことした相応の事情ってものがあるみたいだ』

 

 しかし、続けての正太の言葉に蓮乃は形容し難い表情を浮かべる。内実を読みとれるわけではないが、眉根に寄せた皺と膨れ上がった頬が不快感を表明しているのは正太にも理解できる。それだけのことをされてきたのだから、そんな顔になるのも当然といえば当然だ。

 

 『そりゃあ、訳もわからず閉じこめられて理由もなく叱られて、そう簡単に認められんのはお前の顔からよくわかる』

 

 「ゔ~」

 

 蓮乃からは文句の鳴き声も聞こえてくるが『酷いことしたお母さんは大嫌い』で終わりにしては、清子に切った啖呵も睦美にした土下座もなんの意味もない。なにより蓮乃と睦美の問題は何一つ解決しないままだ。だからこそ、二人に互いの話をさせなくてはならないのだ。正太はメモに一筆を追加する。

 

 『だったらその訳と理由を今、睦美さんに聞いてみないか?』

 

 メモの文章を前に、蓮乃の顔にきょとんと書かれた空白が浮かぶ。どうやら想像もしていなかったらしい。赤く腫れた目を丸くした蓮乃が正太の顔を改めるように見つめる。蓮乃の視線に正太は静かに首肯した。

 蓮乃が宇城家である一〇三号室へと逃げ出した理由は多々あるが、その内の一つは「わからなかったから」であるのは間違いない。正太が知った蓮乃からの話でも睦美が激情のままに荒れ狂っていたことは知り得た。それと同時に睦美が何故そうなったのかを蓮乃が一切わからなかったこともまた理解できた。

 未知や無知は多くの人間にとって強烈なストレスだ。だからこそそれを解決することに血道を上げる研究者という人種がいるのだが、それ故に辛苦を与えられ続けながらもその理由すら未知のままとなれば、その苦痛は計り知れないものとなる。障害のために母親の言葉の意味もわからないままに怒鳴り散らされ閉じ込められ、ついに多少仲がいいだけの正太の家に逃げ出した蓮乃はまさにそれだった。

 もしもの話だが蓮乃が睦美さんの事情を多少なりとも知ることができれば、少なくとも蓮乃の心境は何かしら違ったのではないのだろうか。正太はそう考える。

 

 『それと一緒に睦美さんにお前さんが何があったかどんな気持ちだったかを書いて伝えるんだ』

 

 しかし蓮乃が知るだけでは片手落ちだ。例え理由を解した蓮乃が我慢の道を選んだとしても、そんな一方的な状態は決して長続きしないだろう。結局は蓮乃が爆発するタイミングと規模が変化するだけにすぎない。睦美さんもまた、蓮乃の心情を知る必要があるのだ。

 そのためには互いの話を、二人の話をしなければならない。聞かなければ自分がわからない。伝えなければ相手がわからない。正太はそう両親から習ったし、実体験込みで理解している。

 

 『何を書けばいいの?』

 

 『お前さんが今までどんな我慢をしたか、どんな気持ちだったか。そいつを一つ残らず書くんだ。もちろん全部書くんだぞ。書いて見せなきゃわからんのだ。少なくとも俺はわからん』

 

 追記の一筆を見て乗り気になったのか、正太から受け取ったメモに蓮乃が質問を書き込んだ。ペンを握る手にも文字を見つめる瞳にも怯えの色はどこにも見えない。赤っ鼻と腫れぼったい目を除けば完全に調子が戻ったらしい。蓮乃の回復に内心安堵の息を吐き、正太は返答の文章を綴る。

 伝えるべきは「蓮乃がどう感じたか」だ。善きにつけ悪しきにつけというが、主に悪しきにつけ睦美さんは蓮乃の意志を無視してきた。なぜなら蓮乃の気持ちは睦美さんにはわからないし、想像しかできないからだ。加えて言うなら理由は知らないが、睦美さんは蓮乃の事情を想像できなくなるほどに気持ちに余裕がなかった。

 言うなれば決壊寸前まで雨水を蓄えたダムが先日までの睦美さんの心だった。それが今回の件で決壊して鉄砲水が噴き出した。さらに自分の土下座と蓮乃の声で底が抜けた。おかげで中は空っ欠で、だからこそ蓮乃の言葉を注ぎ入れる余地が生まれている。

 

 『兄ちゃんも一緒に』

 

 『書くのはお前さんだ。お前でなきゃならない。お前の言葉で伝えるんだ』

 

 蓮乃の言葉に正太は小さく首を振って拒否を伝える。あくまで最終目標は蓮乃と睦美さんの和解である。睦美さんに一刀両断されたように、無関係の自分が出しゃばるべきではない。繰り返しになるが必要なのは蓮乃と睦美さん、二人の話であり自分の話ではないのだから。

 正太の拒否の言葉に蓮乃は眉を下げ不安げな表情を浮かべる。睦美相手にうまくできる自信が出てこないのだろう。そう察した正太は、自信なさげに目を伏した蓮乃の肩を軽く叩くと、歯を剥いてニィと笑って見せた。

正太の無駄に迫力の多い笑顔に不安の気が薄れたのか、蓮乃の眉が水平に戻る。さらに正太が安心しろと小さく頷くと、蓮乃の眉頭はわずかに上向いた。

 そして、二人は睦美の方へと向き直った。

 

 

 

 

 

 

 先ほどまで正太と睦美の感情的な口論で満ちていた一〇四号室の居間は、現在、勢いを弱めた春雨だけをBGMに、どこか水気を帯びた沈黙に包まれている。その真ん中で、睦美は未だに自分の内側に落ち込んでいた。それでも落ち込んだ気持ちもいくらかは落ち着いてきたのか、肩の震えは数を減らしている。

 元々の美貌に憂いが追加されて「悲嘆にくれる美女」とか題名になるだろう絵になる光景だ。だがいつまでも眺めているわけには行かない。時間制限があるわけではないが、放って置いていいわけでもない。正太は蓮乃の肩を軽く叩いて促した。それに答えて頷くと、少し硬い表情の蓮乃は小さく息を吸った。

 

 「なーも」

 

 文字にすれば先の声と全くの同じだが、声色は少しばかり別種の心配を含んでいる。まだなにやら思うところがあるのか、雨垂れの音よりはいくらか強いがさほど大きくもない声だ。そのせいか、蓮乃の呼び声に対して睦美からの反応はない。よほど深く内面に沈み込んでしまったらしく、蓮乃の声でも浮かび上がる様子は見えない。

 諺にあるように女心は秋の空に例えるものだが、ならば子供の機嫌は春の嵐に例えられるだろう。すなわち、ちょっとしたことで一気に崩れ、なおかつあっという間に調子を戻すものだ。そして正太の目の間の蓮乃は、子供らしく睦美の無反応に機嫌を直滑降させている。表情も先ほどと同様の、言葉にし難く、それでいて不機嫌が一目に分かる代物だった。

 

 「なーーもっ!」

 

 再びの呼びかけからも斜めに傾いだご機嫌がくっきりと聞いて取れる。声量を上げての傾注コールにも、やはり睦美からの返礼はない。膨れ上がった頬を突き出されたアヒル唇に変換し、蓮乃はぶぅと不満の音を漏らす。埒が明かぬと焦れたのか、わかりやすく眉根に皺を寄せたむっとした顔で、睦美のそばへと近寄るとその服の裾を繰り返し引っ張った。

 いい加減気が付いたのか、はたまた無視しきれなくなったのか。涙に濡らした手を下ろし、睦美は赤く腫れた目で娘を見やる。新雪の色合いをした肌、満天の星空を思わせる髪、腫れぼったい瞼の下は黒玉の眼。相対する二人の顔を見て、正太は改めて親子なのだと気づかされる。

 

 「なうっ!」

 

 もっとも、その整って似通った顔立ちに浮かべる表情は、天と地あるいは月と太陽の差があるが。涙腫れした瞼を除けば、「ふんっ」と鼻息荒くご不満顔で睦美を見据える蓮乃は、どっからどう見ても完全無欠で平常通りのコメディ調だ。顔立ちはよろしいのにこんな表情するから蓮乃は蓮乃なんだな。身も蓋も益体もない感想が、正太の胸中に泡と浮かんでは消えた。

 対して震える吐息をこぼしながら、憂いに満ちた瞳で蓮乃を見つめる睦美の様は、愁嘆場のシリアス一辺倒。その瞳には憂いのみならず涙もまた満ちている。そして膨れ上がった涙の粒はあっという間に満ちあふれた。睦美の二度目の涙に、蓮乃と正太の顔には困惑の色が走る。しかし二人の様子に気が付くこともなく、もしくは気が付くほどの余裕もなく、睦美は感極まった様子で蓮乃を強く抱きしめた。

 

 「ごめんね、蓮乃……本当にごめんね、ごめんねぇ」

 

 睦美は感情が溢れるままに両手で蓮乃を掻き抱き、涙混じりの謝罪を繰り返す。言葉を聞き取れない蓮乃に言葉を繰り返すあたり、当人も吐き出した思いの勢いのまま自身が何を言っているのかよく分かっていないのだろう。それでも力一杯抱きしめる睦美の熱と声音に、言葉を聞き取れないなりに気持ちを感じ取ったのか、蓮乃の両目が熱く潤み始めた。

 

 「なぁぅ……」

 

 涙を湛えた蓮乃もまた睦美を抱きしめ返す。その拍子に両目から滴がこぼれ落ちた。そのまま滴は川となって陶磁器の頬を流れ落ちる。まさに春の嵐、いや泣いた烏の逆版か。蓮乃も睦美さんもやっぱり親子らしく変なところが似ているもんだ。泣き声の二重奏を背景に正太はそう一人心地に浸る。

 こうも泣き声を聴いているとこっちの方まで効きそうだ。もらい泣きを堪えようと思わず目頭を押さえて天井を仰ぐ。事態が解決したとは言い難いが、どうやら感情の決着はついたらしい。親子の涙雨が降りしきる中、正太は二人の雨上がりを待つことにした。

 

 

 

 

 

 

 ふと気が付けば外の雨は止んだらしく、沈む直前の夕日が雲の隙間にぼやけて見える。破れていない窓の向こうは、雲間から差し込む紅色と宵の空の藍色で、鮮やかなグラデーションに染まっている。もっとも一〇四号室の居間を照らすのは天井の有機EL照明からの白けた昼光色で、視界良好だが味も素っ気も風情もない。

 むしろ、その方がいいのかも知れない。正太は一人胸の内でそうこぼす。親子の仲を取り持つ大事な筆談の真っ只中。雰囲気重視で読みづらくなっては元も子もない。それに無味乾燥な光源など気にならないほど、部屋の空気には二人の思いが染み入っている。吐く息一つ、筆の音一つに万感が籠もっているように正太には思えた。

 

 正太の視線の先、蓮乃と睦美は互いに顔を付き合わせる形で床に腰を下ろしていた。二人の間に置かれた一冊のノートには、言葉で記された蓮乃の思いが、軽やかな筆音と共に刻み込まれている真っ最中だ。

 一生懸命に文字を描く蓮乃の表情はどこか軽やかで楽しげだ。それを見つめる睦美の顔も真剣に張りつめているようでありながら、同時に楽しげな印象を感じさせる。久方ぶりの親子の会話だ。楽しくないわけがないだろう。

 二人の熱心な姿を見て、壁に背を預けた正太の顔に安堵の笑みが浮かぶ。とにかくここまで持ってこれた。自分がやらかした事についてはしばらく横に置いておこう。何にせよ後一歩だ。正太は気合いを入れ直すように腹の底から息を吐くと、改めて二人と間のノートに目を凝らした。

 蓮乃がノートにペンを滑らせる度、思いを込めた一文字一文字が描かれて、睦美の胸に思いの丈が刻まれる。

 

 ――大声で怒られて嫌だったこと、外に行きたいのを我慢したこと、閉じ込められて辛かったこと。

 ――姉ちゃんと一緒にクッキー作って本当にウキウキしたこと、買い物にスーパーへ向かう道のりが凄くワクワクしたこと、初めて兄ちゃん家に忍び込むときとてもドキドキしたこと。

 ――知りたかったこと、聞けなかったこと。

 ――伝えたかったこと、言えなかったこと。

 ――楽しかったこと、嬉しかったこと、面白かったこと。

 

 吐き出したかった蓮乃の本音、あふれ出た蓮乃の思い、話したくて仕方の無い蓮乃の気持ち。

 その全てが無数に綴られたノートを睦美が繰り返し繰り返し読み直す。そしてその隅っこに、詫びの言葉をそっと加えた。

 

 『蓮乃はたくさんたくさん我慢してきたのね。あなたに辛い思いをさせてごめんなさい』

 

 『でもね、お母さん、あたしね』

 

 それを見た蓮乃は勢い込んでペンを走らせる。さっきまで欲しかった言葉だ。でも今、欲しいのはそれじゃない。それよりなにより伝えたい。

 ふとペン先をノートから離した蓮乃は、深く息を吸って吐く。一瞬の静寂が夕日と共に部屋を染め上げた。再びノートの上に先をつけたペンは力強く滑らかに、それでいて軽やかに紙面を踊る。

 

 『兄ちゃんや姉ちゃんに出会ってすごく楽しかった!』

 

 蓮乃は書き終えると同時に顔を上げて正太と睦美の二人を見やる。その顔は窓の外とは半日ずれた、水平線から昇る朝日の色合いをしていた。「むふぅ」と満足げに吹き出す鼻息からは、きっと太陽の香りがするのだろう。小気味よいドヤ顔と満面の笑みを二乗掛けした蓮乃を見ながら、こみ上げてきた衝動に任せるままに正太はのどの奥で小さく笑った。睦美も絡まり合った糸が解れるように表情を柔らかく緩める。

 

 『蓮乃が楽しそうで本当によかった』

 

 「気が利くでしょう!」と言わんばかりの顔と共に差し出されるペンを受け取り、睦美も自身の気持ちを書き込む。自分の言葉足らずに歯噛みする思いだ。もっと伝えてあげたい、もっと話してあげたい。今までやってやれなかった分全部、償って余るくらいに。

 それを読んだ蓮乃もまた同じ思いを抱いていたのだろうか。睦美からペンを受け取ると一気呵成にペン先を走らせた。

 

 『お母さんも楽しいことはあった?それともお母さんもたくさん大変だったの?』

 

 息を詰めて走らせていたペンを一度止める。「ふんす!」と気合いたっぷりな息を吐き、意を決した視線で真っ直ぐに睦美を見つめる。

 

 『あたしにも何があったか教えて!「言わなきゃわかんない」って兄ちゃん言ってた!』

 

 睦美の目がまあるく見開かれた。正太の脳裏で蓮乃のびっくり顔がその表情と重なる。そのままびっくり顔は横スライドして、壁際の正太の方へと視線を向けた。視線の圧力に押し負けたのか正太は思わず窓の方へと目をそらした。

 何でこっち見るんですか。いや、確かにそういうこと言いましたけど。やっぱり拙かったのだろうか、子供が子供を諭すなんてやるべきではなかったのかと宵の空に向けて反省を始める正太。おかげで自分を圧した睦美の視線が、その内面と同じ色合いをしていることに気がつく様子はない。

 

 蓮乃そっくりに見開いた目を細く伏せ、睦美は胸の底からわき上がる後悔を見つめた。自分が教えなければいけないことだった。自分が伝えなければいけないことだった。でも私は欠片も実践できていなかった。何も言わずに何も書かずに、何でわかってくれないのと感情のままに当たり散らすばかりだ。どこが母親でどこが大人だ。なんて情けない。

 もしも一人だけだったら、睦美は後悔に流されるまま先と同じく自己嫌悪の深海に沈んでいだろう。しかし、ここには自分の娘である蓮乃と娘を助けてくれた正太がいる。睦美は唇を噛むと頭を振るって悔恨を追い出した。

 

 『お母さんも色々あったの』

 

 蓮乃は耳を澄ます代わりにじっと睦美を見つめる。安心の意味を込めて静かに睦美は微笑んだ。

 

 『大丈夫よ、ちゃんと全部話してあげるから』

 

 窓から視線を戻した正太はノートの文面を見てふと気がついた。このまま居たら向井家の家庭の事情という奴を覗き見する羽目になるのでは?そいつはよくない。とてもよくない。ご近所のプライバシーを暴き立てて、井戸端会議で報道するのが生き甲斐の詮索好きなオバハンじゃあるまいし。好き好んでそんなご無体なことをしたいとは思わん。

 三白眼で睨みつける、というかガン飛ばしそのものでノートを見つめる正太に違和感を感じたのか、向井家親子は疑問混じりの視線を向けてきた。愛想笑いと苦笑を混ぜた顔の正太は、否定の意味を込めて平手を顔の前で左右に振る。

 

 「すみません、すぐに席を外しますんで」

 

 「……いえ、居てください。お願いします」

 

 しかし睦美から帰ってきたのは滞在要求だった。正太の顔面が便秘に悩む鬼瓦よろしく奇妙に歪む。当人が良いと言っているんだし居るべきか。でも他人様の家庭の事情の内訳知ってもしょうがない気が。そもそもお昼のワイドショーよろしく余所様の人生を見せつけられて何が楽しいのか。それに中坊一匹居て何の役に立つ?一体全体、どーしたもんだろ。

 ここに居るべきか、席を外すべきか。それが問題だ。相撲取りが演じたハムレットのごとき見るに耐えない様で悩みをこねくり回す正太。だが、その悩みは突然鳴ったチャイムの音で終わりを告げた。



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第八話、親子の話(その四)

 唐突に響きわたったチャイムの音に、家人の長である睦美は腰を上げた。『少しだけ待っててね』とノートに一言書き加えると、客を待たすわけにはいかないと玄関に小走りで向かう。確かに向井家の大事なところではあるが、それはドア向こうの客人には関係はない。急いで突っかけ代わりのサンダルに足を突っ込み、ドアの取っ手を捻る。

 

 「こんばんは。お忙しいところ失礼します」

 

 開いた扉の向こうには、骨に皮を張って作ったような薄髪の男性に、風船に肉を詰めて作ったようなパーマ気味の女性。目礼をする二人の名前は”宇城明弘”と”宇城昭子”。すなわち宇城正太の両親であった。

 

 「え」

 

 発想も想像もしていなかった両親の登場に、正太の口から顎と声が落ちた。二人は驚愕の余り凍結中の正太へ一瞬視線をやると、堅い顔で改めて睦美へと頭を下げる。

 

 「家の正太がご厄介になっているようで申し訳ありません」

 

 なんで、なぜ、どうして?疑問符が意識のスタートボタンを押すや否や、後れを取り戻そうとニトロを注ぎ込まれた時間感覚が急加速する。それにあわせるように、思い出したくもない記憶が自動的に再生されていく。血液を全て鉛に変えられたかのように停止する身体に対して、脳裏で閃光のように最低の過去が明滅を始めた。

 

 ――雨に濡れたオレンジの傘

 ――頭から血を流している思い人

 ――聞こえるように呟かれる陰口

 ――頭上からぶちまけられた泥水

 ――校舎裏のサッカーボール体験

 ――重苦しい顔で満ちた生活指導室

 ――そして心痛そのものの表情をした両親

 

 あの日の両親と目の前の二人が完全に一致する。正太の顔色は赤青白そして土気色と百面相の装いを見せた。とてもじゃないが蓮乃を笑えやしない。俺は何をやったんだ?俺は何をやらかしたんだ?白く染まった正太の脳裏に清子の言葉が瞬く。

 

 『あんな目にあっても、家族みんなに迷惑かけてもまだわかんないの!?』

 

 前の一件で自分勝手の代償をたっぷり味わい、いい加減に学んだはずだった。それでも蓮乃を放っておけず、無関係でもよかった隣の家庭事情に首を突っ込んだ。その実、自分に酔って独り善がりにヒーロー気取って、挙げ句の果てが目の前の両親。学んだつもりで何も学ばず、二の舞演じて轍踏んで、同じ様の繰り返しか。

 

 「と、父さん、えっと、あの、母さん、その」

 

 とにかく何か言わなければ。でも何を言えば?言葉にならない声をこぼしながら、正太はパニックに溺れる意識を回そうと必死で試みる。だが混乱の大嵐にもがく正太を父は重い声で切って捨てた。

 

 「正太、話は清子から聞いた。先に家に戻っていなさい」

 

 「えぁ、あ………………はぃ」

 

 ただの一言で打ちのめされた正太は、まともに言葉も返せずにうなだれた。首肯代わりに肩を落とし血の気の失せた顔を床に落とせば、フローリングの木目すら自分を嘲う顔に見える。

 

 「なーう……」

 

 その耳に気遣わしげな蓮乃の声が届いた。顔を向ければ心配と書かれた表情の蓮乃がこっちを見つめている。蓮乃の目には落とした肩にうなだれた首、顔を落とす前の表情が見えた。さらに耳には絞り出したような声と喘ぐような息が響く。どれからもこれからも正太の具合は格段に悪く感じられた。きっと母である睦美にひっ叩かれた時よりも調子が悪いに違いない。自分も母に叩かれたときは地面の底まで気分が落ち込んだのだ。きっと兄ちゃんもすごくやな気分だろう。

 

 目に映った不安げな蓮乃の顔が、正太のちっぽけな矜持を蹴り上げた。大失敗をやらかしたのか、大失策をしでかしたのか、自分が何をしてしまったのかはまだわからない。それでも蓮乃を助けたくて動いたのは確かだったはずだ。その裏側に何があったにせよ、こいつを不安がらせていいはずも無いだろう。なにより助けにきた相手に心配されてちゃ世話がない。

 青ざめ震える唇をつり上げ、根の合わぬ歯を剥いて見せる。意地と気合いとやせ我慢を総動員して、正太はひきつった笑みを蓮乃へ返した。空元気でも元気の内、作り笑いでも笑顔の一つ。無理矢理に浮かべた笑みでも多少の効果はあったのか、蓮乃から滲む不安の色が多少は薄まった。

 それを見た正太は残りの気力を総ざらいして背筋を伸ばし胸を張る。ヒーロー気取りで首突っ込んだのは確かに事実だ。だったら最後の最後まできっちり格好付けて見せるのが最低限の義務だろう。丸まりそうになる背中を腹筋を締めて堪えながら、正太は最後まで意地と胸を張って一〇四号室の扉を抜けた。

 

 

 

 

 

 

 夕日は地平線の下へと姿を消し、既に夜の帳が空を覆っている。点灯したばかりの街灯を背中に、一〇三号室の扉を後ろ手に閉めると、正太は上がり口の床に両膝をついた。痺れを伴う衝撃が膝間接から大腿骨を勢いよく駆け抜けていく。衝撃由来の膝蓋反射で意図せず正座を作るも、正太は重力に身を任せるままにイスラム式礼拝の体勢に崩れ落ちた。

 蓮乃の前では格好悪いところ見せられんと破裂寸前まで気を張って、正太はドアを閉める所まで格好付けて見せた。つまり、逆に言えば蓮乃の居ないところではガスの抜けた風船の様となるわけで。事実、ここ数時間の消耗で正太の気力活力精神力の悉くがガス欠状態。とどめの両親登場で精神自体もスクラップのそれだった。

 ゾンビより生気のない正太は、死体の様でしばらく床の上で充電を試みる。しかし腹の底の熱量は既に底をついている。燃料タンクの中身が増える様子は全くない。どうしようもないしょうがないと、しょうもない気分でものぐさに足首だけ動かして靴を脱ぎ捨てる。そして正太は尺取り虫の要領で前進を始めた。

 尺取り虫は廊下を通り過ぎて居間へと至り、部屋の真ん中で表裏をひっくり返すと、そのまま天井のシミを数える重労働を始めた。脳味噌を振り絞って脳味噌を使いつぶそうとする自己矛盾な作業に従事する。そうでもしなければわき上がる不安と自己嫌悪に潰されそうだからだ。

 そうして虚ろな目で単位面積当たりのシミを計算する正太を、妹である清子は椅子に腰掛けたまま絶対零度の視線で睨みつけていた。石地蔵の仏頂面に明王の憤怒相を滲ませたながら、憤り五割苛立ち四割そのほか一割の皮肉を投げつける。

 

 「勝手にした結果は随分だったみたいね」

 

 清子からしてみれば正太は自分の言葉も聞かず前の失敗からも学ばず、ヒーロー気取りでお隣の家庭問題に首突っ込んだ大バカ野郎である。その結果で精神的にぶちのめされて死にかけているというなら、自業自得としか言いようがない。だが、清子の顔に浮かぶのは嫌う相手の失敗を喜ぶ、暗い優越感と冷ややかな侮蔑ではなかった。

 腹立たしげに細められた目の上にはしわの寄った眉根が座り、苦り切った口元は見事なへの字に歪んでいる。誰が見ても一目瞭然のしかめ顔であり、どこか苦痛にも似た苛つきの表情が正太を睨みつけている。

 天井を見つめる作業に大忙しの正太にそんな清子の表情が見えるはずもなく、エクトプラズムと一緒に疲れ切った返事を口から漏らした。

 

 「……まぁな」

 

 ガス抜けした過発酵パンよろしく平たくなった正太と、発酵不足な固パン擬きな清子。居間の空気は弛緩と緊張の微妙なグラデーションを描く。ヤジロベエめいた不安定な安定が、二人の間に奇妙な静寂を保った。それはしばらく維持された後、唐突な清子の声で破れた。

 

 「あたしは謝んないからね」

 

 清子が吐き捨てた謝罪の反対が、不意に正太の耳に飛び込んだ。その声に疲れ切った脳味噌は違和感を覚える。正太は謝罪にもその反対にも覚えがない。自分がするなら別だし、それを要求されるならわかる。少なくとも自分は、清子の助言と小言を無視して突撃したのだから。しかし、清子が口にしたのは詫びの否定だった。

 

 「……何のこと?」

 

 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。自分で調べるのが一番だが、知らないままにしておくより万倍マシだ。それに今の脳味噌で清子の内心を言い当てるなど、フルマラソンを完走するより難しい。先より随分と間が空いて、そっぽを向いた清子の口から解答がこぼれ出た。

 

 「父さんと母さんに話したこと」

 

 清子は確かに「もう何も関係する気はない、勝手にしろ」と切って捨てたが、それでも家族相手には捨てるに捨てれぬものがあるわけで、実際帰宅後の両親に事細かく事情を説明していた。

 両親に事情を伝えれば当然、向井家にお邪魔するだろう。なにせ自分が叱咤したように余所の家庭のことであり、現在進行形で兄は勝手に首を突っ込んでいるのだ。兄の行動が上手くいくかどうか別にしても、話をせずにすますわけにはいかない。扶養家族の責任は保護者が取るものなのだ。前の一件で兄が一番気に病んでいたことは両親に迷惑をかけたことだった。その割には今回もやらかしているが。

 そして両親が姿を現せばどうなるか。半死人というか七割五分死んでいる兄が証明している。こうなることを想像しなかった訳ではない。最初は阿呆な兄にはいい薬だと考えていたが、結局自分も口に苦い罪悪感を味わう羽目になった。

 

 「……悪いの俺だし、別にいいよ」

 

 罪悪感と後悔と苛立ちと怒りの入り交じった、複雑きわまりない清子の返答に、正太は気のない様子で気の抜けた返事を投げ返した。正太からしてみれば間違っていたのは紛れもなく自分の方だ。確かに結果としては偶然と向井家親子の絆に恵まれて、どうにかこうにか奇跡じみた結果を指の先にひっかけられた。

 だがそれは文字通り結果論にすぎない。清子の叱責は的を射ていたし、妹の怒りはもっともだ。ほんの一つボタンを掛け違えていれば、ほんの一歩踏み込み方を間違えていれば、見るも無惨な結果を招いたに違いない。自分はその一・二歩手前まで足を踏み入れていた。単に自分は幸運だっただけだ。

 

 正太の肯定に清子の胃の腑の底が罪悪感と嫌悪感で疼く。求めたはずの返答はさらに気分を悪くしただけだった。渋面に苦色を加えて、眉根のしわをさらに深める。さらに何かを口にしようと唇を開いて、すぐに閉じた。

 もういい。何を言おうと何を聞こうとひたすらに嫌気が増すだけだ。言葉になる前のあやふやなイメージが舌の上で落雁めいて崩れる。それは後味まで落雁に似てどこか粉っぽく喉に引っかかった。吐き気にも似た不快感を手で押さえると、清子は勢いよく席を立った。

 

 「トイレいってくる」

 

 誰ともない宣言とともに、清子は居間を後にする。その背中へあいよと返答になってない声を返し、正太は天井のシミを一から数え直し始めた。

 

 

 

 

 

 

 どれだけ時間が過ぎたのだろうか。窓の外は夜闇に塗りつぶされて久しい。とりあえず、宇城家の平均的な夕食の時間はとうに過ぎているだろう。天井のシミを三度数え終えて個数どころか正確な位置関係まで記憶してしまった正太は、疲れ切った脳味噌にムチ打ってやることないかと絞り出そうとする。

 空白の時間はよろしくない。小人閑居して不善をなす。人間、暇になればなるほど余計なことを考える。賢人ならば哲学のように進歩につながったりするが、自分のような愚人は自己嫌悪と自己批判ばかり。後ろ向きに突撃ススメで崖に向かって一直線。こうして気づけば自滅思考にどっぷり浸かり、自縄自縛で自爆しそうだ。

 乾いた笑みを浮かべて、喉の奥で痙攣するように己を嗤う。漏れ出す失笑は嘲笑に、嘲笑は哄笑にと三段高笑いの要領で、笑い声は無意味に音量を上げていく。しかし、それは扉の開く音に急停止した。

 

 耳に響いた「ただいま」の声に、正太の冷笑が凍り付いた。自嘲の化粧で繕おうと、自身も騙せぬ三文詐欺師。冷たい現実見据えてみれば、震えてはがれた地金が見える。油の切れた首間接を捻れば、玄関口には両親が見える。両親と正太の視線が交差するが、正太はすぐに目線をそらした。顔を背けた正太に父からの重い声が投げかけられる。

 

 「正太、清子を呼んでくるから椅子に座って待っていなさい」

 

 口の中で半分噛み潰されて聞き取りづらい「はい」を返し、正太はもそもそと椅子に腰掛ける。その姿を一瞥もせず、父は清子を呼びに居間を出た。一方、母は茶の用意でもするのか台所に入る。

 不安と心配に胃袋の底をヤスリ掛けされている心地で正太は二人をじっと待つ。祭りの前が一番楽しいと言われるように、叱責前の待機時間ほど神経を痛めつけるものはない。何を言われるのだろうか、何を叱られるのだろうか。拳骨は何発いただくのか、説教は何時間続くのか。

 いっそ、台所の母に麺棒かフライパンあたりでタコ殴りしてもらった方が楽じゃないか。死ぬほど痛いだろうがそれで最後ならマシな気がする。もしかしたら最後を飛び越えて最期に行ってしまうかもしれないが、それはそれでもう苦痛を感じることはないだろう。

 じれる気持ちに脳味噌まで焦げ付き始めたのか、正太の思考は本末転倒な方向へとかっとび始めた。割腹は伝統的な謝罪スタイルだが、介錯人がいないと死ぬほどつらい。どっちにせよ死ぬけど。ギロチン台はスピーディなエンターテイメントだけど、用意が大変だ。ああ、どうしたら楽に死ねるのか。

 

 「これ、とりあえず飲みなさい」

 

 ぐるぐると冥府の方角に転がっていく頭を止めたのは、軽い音と共に正太の目の前に置かれたマグカップだった。中身の豆乳からは独特の臭いと一緒に湯気がふわりと立ち上っては消えていく。顔を上げれてみれば、堅い色をした丸い母の顔が目に入った。台所でやっていたのはこれの用意だったようだ。

 

 「……いただきます」

 

 返答を兼ねた挨拶を返して、正太はマグカップに口を付けた。いつもの味が適温で口の中に広がる。喉を鳴らして頬張った豆乳を飲み干すと、食道から胃袋へと温みの固まりがとろけながら落ちていく。思わず口から熱を帯びた吐息が漏れる。体中に広がっていく熱で、ようやく全身が冷え切っていたことに気がついた。考えてみれば帰宅以降、何もまともに口にしてはいなかった。吐息と共に肩を動かせば、乗っかった疲労の重さがずしりと身に染みる。凍えて、飢えて、疲れ切っていたのだ。緊張と衝撃のあまり認識すらしていなかった。

 半端に胃に物を入れたせいか、強烈な空腹感が腹の底をひっかいてくる。胃袋の求めに逆らわず、正太はマグカップの残りを勢いよく喉に流し込んだ。暖かな豆乳が胃を満たすにつれて、気がつかない間に強ばりきっていた全身が弛緩していく。胃袋から血管を通して伝わる熱に、筋繊維の一本一本がほぐれていく。豆乳の白髭も拭わずに空っぽになったマグカップを食卓に戻すと、満足の色が混ざった長く深い息を吐き出した。

 強ばっていた正太の身体が緩むのを見て、母の表情も柔らかさを取り戻した。ゆるんだ緊張の糸の間から、心配をかけていたんだなという気持ちがうすぼんやりと浮かび上がる。外から見てみれば、老人並に丸まった背中に、気力の一切が昇華したフリーズドライ顔。両肩は外れて地面にめり込みかねないほど落ちていた。百人が百人とも「元気がない」としか言えない様だった。これを見て心配しない親はいないだろう。居るとしたらもう親ではない。

 いくらか薄らいだとはいえ心配の色が見える母を、もう少し安心させる意味を込めて、正太は空のカップを高めに掲げた。

 

 「母さん、お代わりできる?」

 

 「はいはい。でもその前に顔を拭いなさいよ」

 

 苦笑と共にカップを受け取ると母は軽い歩調で台所へと帰っていく。上唇を指で拭うと指に黄みのかかったおぼろ豆腐擬きがくっついた。品無く白い指先を舐ると、湯葉のなり損ないが口の中で柔らかく溶ける。

 ほんとに腹減ったなぁ。改めて正太は空腹を自覚する。説教はどのくらいになるのだろうか。早めに終わってすぐに夕食になってくれるとありがたいんだが、やらかしたことがやらかしたことだし流石に無理だろうな。

 正太がため息を吐こうとしたところで、目の前に豆乳の注がれたカップがずいと突き出された。お代わりを予想して用意していたのだろうが、随分と早い。驚きを込めて母を見ると、正太にも遺伝した細目がじっとりと細められている。行儀が悪いと非難する目だ。ばつ悪げに肩をすくめて二杯目の豆乳に口を付けようとする。しかし、それとタイミングを合わせたように居間に姿を現した木石顔の父と仏頂面の清子を見て、正太は不満げに、そして不安げにカップを机へ戻した。



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第八話、親子の話(その五)

 静寂の満ちた宇城家の居間にはコチリコチリと壁掛け時計の音だけが響いている。常ならば一家団らんの食事時ではあるが、食卓には暖かな夕食の雰囲気は微塵もない。何せ、これから始まるのは和やかな夕餉ではなく、厳しい厳しいお説教の時間なのだ。

 正太の胃の腑の底がジグジグと不安と胃酸で焼けている。腹に豆乳を入れて尚この痛みだ。空きっ腹だったら泣きたくなるくらい痛かっただろう。だからといって泣きたい心地に違いはないが。

 様子を伺うように視線をあげれば、むっつりと顔を堅くした父が食卓の真向かいに見える。その隣には心配げな色味を帯びた様相の母が座る。さらに正太の隣には強ばった表情に苛立ちを混ぜた清子が腰を下ろしている。全員の前には湯気を上げるお茶入りの湯飲みが置かれているのに、体感温度は下がる一方だ。

 しんと張りつめた空気の中、骨ばった顔をさらに厳めしくすると、父は重々しく口を開いた。

 

 「正太、今日お前が何をしたかわかっているか?」

 

 「はい」

 

 自分がやらかしたことについては一応理解しているつもりだ。「つもり」でしかないかもしれないが、少なくとも清子に叩きつけられた言葉くらいは覚えている。

 

 「なら、何をしたのか自分の口で話しなさい」

 

 「はい。ええっと、隣の向井さんの蓮乃ちゃんが我が家にやってきて……」

 

 正太は今日の騒動を一つ一つ解きほぐしていく。

 事の始まりは蓮乃の亡命からだった。事情を聞いた清子に責められ、それでも蓮乃を見捨てられず突撃隣の家庭事情をやらかした。加えて言うなら、その裏にヒーロー気取りを隠した上でなんの策なく首をねじ込んだ。

 向井家では蓮乃が割った窓の補修の後、帰宅後の睦美さん相手に話し合いと言う名の神経ヤスリ掛け作業に精を出し、終いには怒髪天をついた睦美さんからフック気味の掌底をたたき込まれた。そこでようやく気づいた自分が猛省して土下座して、親子二人の絆のおかげで家庭崩壊に至ることなく話に区切りがついたのだ。

 話している正太の顔から徐々に血の気が引いて、顔色に青が加えられていく。さらに色が引かれて白になるまでそう時間はかからないだろう。最後には土気色が追加されるに違いない。実際、話し終えた正太の顔色は健康的という言葉から遠く離れた色合いだった。

 

 「……大体、こんなところ、です」

 

 「何が悪かったのか、わかっているか?」

 

 絞り出した締めの言葉に、父からの質問が間髪入れずに叩きつけられる。空気の重圧に押しつぶされて半ば下を向いた顔から、正太はもそもそと歯切れ悪く答えた。

 

 「何の考えもなく、無関係のお隣の家庭の事情に首を突っ込んだことです」

 

 「確かにそれもある。だが、それだけか?」

 

 どうやら父のお気に召す答えではないらしい。だが脳味噌の引き出しを適当に開いてみたものの、適当と思える答えが見つかる様子はない。心の棚を総ざらいして見れば何かしら出てくるかもしれないが、それより今の父を待たせる方が解答できないよりマズそうだ。

 

 「すみません。それ以上は思いつかないです」

 

 結局、正太は真っ正面から謝ることにした。亀が首をすくめるようにして父の顔を見ながら頭を下げる。どんな叱責がやってくるのか。それとも母の拳骨か。しかしその頭上に落とされたのは、叱責より拳骨より衝撃的な言葉だった。

 

 「正直に言えば、正太がしようとしたこと、そのものについては叱るつもりはない。むしろ誉めるつもりだ」

 

 「へ?」

 

 思いもかけない台詞に正太の口から感嘆符がこぼれた。ちゃんと耳を傾けろと父はカミソリの視線で一睨みする。慌てて間の抜けた顔を引き締める正太。ばつ悪げに周囲に視線を泳がせると母の顔が視界に入った。事前に言い含められていたのかその顔には驚きの色はない。代わりに苦笑に似た柔らかい呆れが浮かんでいる。さらに居心地悪く正太は視線をテーブルの木目にずらす。

 そのせいで正太の目に入らなかったが、隣の清子も浮かべるのは驚愕の表情だけではなかった。清子の表情には深く沈む重い色があるだけだ。自分の言葉が遠回しに非難されているようなものだ。心地いいとは言い難いだろう。

 

 「他人の家庭の事情が原因とは言え、泣いて助けを求めた子供を助けようとすることは誉めこそすれど叱るような事ではない」

 

 そこで言葉を切って母が淹れた煎茶を口に含むと、父は口から太い息を吐いた。

 

 「助けてほしいからこそ蓮乃ちゃんは我が家にやってきた。そこで突き放さず最後までつきあって見せたことは素晴らしいと思うぞ」

 

 父は張った頬骨の上の口角を少し上げた。分かりづらいことこの上ないが、どうやら表情を緩めたらしい。

 

 「実際、あの後の向井さんとの話し合いで正太を擁護する言葉がいくつもあった。蓮乃ちゃんからも『兄ちゃんは悪いことしてない』『兄ちゃんを怒らないで』って書いてあったな」

 

 父から知らされた事実に正太の頭がさらに下がって、顔はテーブルと直面する。父としてはフォローのつもりだったのかもしれないが、正太としては追加でベコベコに凹まされた心境であった。助けようとした人に助けられている自分が情けなかった。痛みを堪えるように奥歯を強く噛みしめる。否、確かに正太は痛みを堪えている。恥の痛み、惨めさの痛み、情けなさの痛みに。

 

 「しかし、さっきお前自身で口にしたようにやり口に大きな問題があった。一つは『考えなしに行動したこと』だ」

 

 「はい」

 

 そこに休憩時間は終わりだと言わんばかりに、父からのお叱りの言葉がストレートに投げつけられた。それもアバラをへし折る一五〇km越えのデッドボールだ。正太自身もわかっていることだけになおのこと胸に突き刺さる。痛みの追加で胸が一杯になったかのようだ。

 

 「清子の言葉を振り切って蓮乃ちゃんを理由に向井さんの家庭へ乗り込んだ。このとき、お前はどうやって向井さんを説得するか考えていたのか?」

 

 「……いいえ」

 

 事実、そのときの自分は考えなしだった。言い訳のしようもない。正太は噛めない臍を噛み潰す心境で歯を食いしばる。考えていたのは、考えなしの即興でどうやって説得するかだけだった。

 

 「先に言ったようにお前の行動自体にケチを付けるつもりはない。蓮乃ちゃんを救おうと動いたことは立派だった。だが、だったら最低限『どう救うか』を考えるべきだった」

 

 「はい」

 

 そのことは嫌と言うほどわかっている。だが自分でそう言うのと他人からそれを言われるのには雲泥の差があった。文字通りの第三者視点は自分がやらかした事の次第をもう一度反芻させてくれる。口中に胃液と記憶の酸っぱい味が満ちた。

 

 「そしてもう一つは『清子の言葉を聞かずに一人で突っ走った』ことだ」

 

 完全に不意打ちの一言に清子は思わず顔を上げた。父は説教に力を込めるあまり、自分が何を口にしているか判らなくなってるんじゃないかと失礼な考えが脳裏を過ぎる。

 相応の叱咤はなされたとは言え、父は蓮乃ちゃんを救おうとした兄の行動を賞賛した。逆を言うなら、兄の行動を止めようとした清子の言葉を非難したようなものだ。なのにその言葉を正太を叱責する理由にする。これは明らかに矛盾してはいないだろうか。

 しかし父の目には熱狂の色はない。刃物のように鋭くはあるものの、その視線は至って落ち着いた温度だ。少なくとも平常の体でそのことを口にしていることは間違いない。ならば何故?

 頭が疑問符で埋め尽くされた清子を一瞥し、父は言葉を続けた。

 

 「清子が何と言って制止しようとしたか覚えているか?」

 

 「……『自分たちの手に負える問題じゃない。できる人に連絡すべきだ』」

 

 正太は脳内の引き出しを漁って求めるものを引きずり出した。父は口角を少し上げて頷く。どうやら今回は正解だったらしい。その言葉を聴いて疑問符が感嘆符に変わったのか、隣の清子の顔色が混乱と疑問から驚愕と理解に一変した。

 

 「そうだ。事実、最後は私と母さんが出張ることになった。お前一人で全てができた訳じゃない」

 

 それでもいいところまでやってみせたみたいだがなと、父は慰めの一言を付け加える。が、それでも正太の堅い表情を緩められはしないようで、素焼きめいたひび割れの向こうには父の言葉に打ちのめされた心境が透けて見えている。

 

 「例えばだ。今回結果的にそうなったように、清子に頼んで父さん母さんへの事情の説明と各所への連絡をしてもらってからでも、遅くはなかった。他にも向井さんを担当しているだろう、区の職員の方の連絡先を蓮乃ちゃんから聞き出すという方法もあった」

 

 正太は視線を落とし、父から投げつけられる説教を頭頂部で受け止める。説教を聞く体勢としてはあまりよろしい代物ではないが、父はあまり気にはしていない。大事なのは体の姿勢ではなく心の姿勢だ。今までの反応から頭を下げてやり過ごしている訳ではないとわかっている。

 

 「無論、今言っていることは後知恵でしかない。しかし、清子の言葉を元に大人を頼ることを選択できれば、十分思いつけただろうことには間違いない」

 

 「はい」

 

 苦痛を堪える顔で正太は静かに首肯した。父の言葉に異論はない。自分自身でもやり口のまずさは理解していた。しかしどうすればいいかは結局わからずに、出たとこ勝負でチップを賭けた。

 清子の言葉の正しさも頭では理解できていた。だがすべきと思うことを非難された感情的な反発もあり、前と同じ事をやらかしているという引け目もあり、清子の話を省みて柔軟に受け入れるということはできてなかった。

 

 こうして今日を振り返りながら改めて思う。本当に清子の言うとおり、自分の手に負える問題では無かった。抱えきれなくなった自分が無惨で無情な結果になったところで、自業自得もいいところだろう。

 だが、そのせいで向井家親子の間に致命的な亀裂が入っていたとしたら。一つ二つ間違えただけでそうなっていただろう。想像するだに背筋が冷える。それは決してあり得ない想像ではなかった。むしろ十分以上に可能性のある「もしも」だったのだ。

 

 目を伏せて静かに内省する正太を見ながら、父はもう一度煎茶で口を湿らせると視線を正太の隣へと向けた。当然そこにいるのは清子だ。急に見つめられて居心地悪そうにする清子を見つめたまま父は口を開いた。

 

 「次に清子。お前も一つ悪かった点がある。わかるか?」

 

 「っ!……蓮乃ちゃんを見捨てるような話をしたことです」

 

 唐突に矛先が当事者である兄から自分へと移ったことに目を丸くする清子。それでも絞り出すように父へと答えを返す。自分が説教の対象になるとは考えていなかったが、考えてみれば何もおかしくはない。父が蓮乃ちゃんを救おうとした兄の動機と行動を賞賛するならば、それを非難した自分は叱責されるのは当然だ。

 

 「それは違うな」

 

 「え?」

 

 だがその当然はあっさりと否定された。清子三度目の驚愕。説教が始まってから驚きっぱなしである。

 

 「清子は家のことを考えてそう口にしたんだろう?賞賛はできないが、少なくともそのことを非難をするつもりもない」

 

 引き吊った表情で頬をひくつかせる清子。数十の表情が同じ顔面で綱引きをしている気分だ。もうどういう顔をすればいいのかわからない。自分のやったことを否定されて、直接の当事者でもないのにお説教が始まって、最後にどんでん返しと言わんばかりに自分の言動の否定をもう一度否定される。正太よりいくらか容量が大きく要領がよろしい清子でも流石に脳味噌がパンク気味だ。

 

 「清子の判断も間違ってはいなかったが、伝え方を間違っていた。確かに正太が以前の二の舞をやらかそうとしているように見えただろう。だが、誰であれバカだなんだと言われれば反感を覚えるものだぞ」

 

 清子の心情を斟酌したのか、はたまた混乱と困惑で張りつめた表情に気がついたのか、父はその詳細を言葉にした。

 表情筋の綱引きがゆるみ、清子の表情に次第に納得の色が染みていく。思い返してみれば自分も自分で随分と感情的に兄とやり合っていた。罵声レベルの非難を大声でぶつけた覚えもある。それだけ言われて反発を覚えないとは考え難い。

 もっとも以前の兄であれば、一方的に言われるがままにサンドバッグだったかもしれないが。清子の脳裏にかつての正太が浮かぶ。布団にくるまり肩を震わす、いじめに心を折られた兄の姿だ。そう考えると蓮乃ちゃんと関わって随分と兄も変わったものだ。いや、むしろいじめ以前の元々に戻ったのかもしれない。そう言えば記憶にある幼い兄はよく快活に笑っていた。

 

 「正太に必要だったのは目標を立てておくことと、人の話を聞いて周囲の協力を得ること。清子に必要だったのは感情的にならずに、話を聞かせることだった」

 

 煎茶の残りを一気にあおった父は長い息を吐くと本日の説教のまとめに入った。

 

 「まとめれば、二人とも動機と行動は間違っていなかったが、やり口を間違ったということだ。次はよくよく考えて同じ失敗はするなよ」

 

 「「はい」」

 

 納得の表情をしている兄妹の顔を眺め、これでお説教はお終いと父は湯飲み片手に静かに立ち上がる。台所に湯飲みを洗いにいく父の背中を見て、隣で座っていた母は安堵の表情を浮かべた。

 少なくとも正太は気がついていないようだが、宇城家には「子供を叱る際に一方が感情的になったらもう一方が静める」という不文律がある。感情的に叱ってしまえば子供は怯えて竦むだけ。親の機嫌をとろうと手一杯になって、反省も学習もできなくなる。だから、母の頭が煮えれば父が抑えに入り、父が腹を立てれば母が宥めにかかる。

 

 本日の正太のことを清子から聞いて、父は随分と不機嫌そうにしていた。自分の子供が問題を起こしたと聞いて楽しい気持ちになる親は少ない。ましてや正太は以前のいじめ前の前科がある。両親共にまたかと思う気持ちがなかったわけではない。

 それでも感情のままに怒鳴りつけてしまえば、前のいじめでただでさえ縮こまっている正太をさらに畏縮させるだけだ。幸い父は最初から最後まで理性的に叱ることができた。それに正太のやったことを是々非々と叱るだけに終わらせずにすんだ。そのせいで割を食った清子へのフォローも問題なくすませられた。

 

 母は改めて正太と清子を見る。二人とも頭ごなしに叱られた釈然としない悄然の顔ではなく、反省のこもった得心の表情をしている。説教をした意味は相応にあったということだろう。

 

 「あの、父さん。向井さんの方はどうなったの?」

 

 母の安心に気づく様子もなく堅い顔の正太は父へ質問を投げかける。流石に本日のやらかしもあって気まずい心境らしく、その視線は聞きづらそうに宙を泳いでいる。

 

 「ああ、向井さんとの話はまとまったからお前が気にしなくていい」

 

 しかし、にべもなく素っ気もなく父は話を切った。子供のやらかしを大人が後始末したその後に子供がしゃしゃり出るような事はない。

 

 「いや、でも、俺がやらかしちゃったことだから、なんかしら俺がなんかしらするべきじゃないかなって……」

 

 それでもと正太は食らいつく。正太としては自分と無関係の所で決着済みですと言われても、納得も承知も出来ようものではない。腹の底でジグジグ存在を主張する罪悪感の虫が収まらないのだ。

 

 「お前の謝罪が要るならそう言うし、そうだとしても謝罪以外は求めんよ。子供に責任はとれん」

 

 だが、そんな事情なんぞ父親が知ったことではない。ましてや子供に何をさせようと言うのか。大人と子供を分けるものは多々あるが、責任と義務はその内の二つだ。そして父である宇城明弘は大人であり、宇城正太は子供でしかない。言うとおり、子供に責任はとれない。

 父の言葉に無言でうつむく正太。その肩を軽くたたくと父は居間から退場した。母も食事の支度のために台所へと席を立つ。続けて清子も無言で居間を後にした。ただ一人食卓に残った正太は黙りでテーブルの年輪を見つめいた。しばらくの間、そうしていた。



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第八話、親子の話(その六)

 空はよく晴れている。

 

 上を見れば低気圧一過の底抜け青天井。雲一つ見あたらない快晴の空から、初夏の太陽が思う存分輝いている。一方、それに照り焼きにされている正太の心境はそれとは真逆の黒こげ気味だった。昨日のお説教以降、釈然としない気持ちが胸の内でもやもやと煙を上げている。家を出る前も、登校時も、授業中も、こうして帰宅途中でも煙たい気分で胸の中が一杯だ。

 一つ息を吸って吐く。雨上がりの湿った空気が肺一杯に染み込んでいく。しかし腹の底で燻る感情に鎮火の気配は見られない。もう一つ追加で深呼吸し、水気がべっとりと湿るため息を漏らす。ガラスに吐きかけたら結露が滴り落ちるだろう。水分と苛立たしさが吐く息に飽和している。

 

 正太はどうにもならない心地を諦めつつ、自宅のディンプルキーを鍵穴に差し込みぐるりと回した。特に抵抗なく錠前は回り、軋む音一つなく扉は開いた。抵抗だらけでキーキー鳴ってる自分の心情とは大違いだ。乾いた自嘲を着火材代わりに投げ込んでも、自己嫌悪の火の粉が舞うだけでまた音を立てて燻り出す。

 

 「ただいま」

 

 誰もいない自宅に帰宅の挨拶が空しく響く。空気すらもどこか空々しい。いや、いつもと何も変わらない。変わったのは自分の心持ちだけだ。

 挨拶の習慣の後は家族に文句を言われないよう手で丁寧に靴を脱ぎ、逆さの向きにそろえて置く。昨日散々っぱら叱り飛ばされた後だ。ちょっとしたことで追加のお小言は勘弁願う。

 後はいつもと何も変わらない。子供部屋に直行し、鞄を置いて制服から普段着に着替え一息ついた。そうしたら好きな本を抱えてゆったり読書もよし、TVを起動して好みの番組を眺めるもよし、たまには埃をかぶったコントローラーを引っ張り出してTVゲームをするもよしだ。

 

 しかし今はどれもする心境ではない。何も持たず何もせず、ただただぼんやりとソファーに腰を下ろす。何とは無しに庭を眺めながら、胃袋を底から燻し続ける感情をじっと見つめた。

 父から叱られた内容は自分自身もっともだと感じている。清子の言葉は正しかったし、自分とて文句はない。事の全ては終わったことだ。今更自分が口を出す事柄ではない。それでも肺腑の底からぶすぶすと不完全燃焼な気分がわき上がっている。何に納得できないのか、何が気に入らないのか。自分でもさっぱりわからない。

 正太は煤けた嘆息をもらすと背を伸ばした。考えてもしょうがないのだろう。だが朝からそう言い聞かせても、今の今まで気持ちは雨模様のままだ。こうして窓から指す日差しに当たっても晴れる様子はない。

 

 そして植木の隙間から顔を出した、ピーカン脳天気日本晴れ娘を見ても変わりはなかった。

 

 「なーうっ!」

 

 何がそんなに楽しいのか蓮乃は初夏の太陽と同じく朗らかに笑っている。どうやら昨日の大嵐な気持ちはきれいさっぱり吹き飛んだようで、晴れ上がった青空同様その顔には一片の曇りもない。もやもやっとした煙い心地と肌にべたつく湿った気持ちが入り交じりって、鼻からスモッグが吹き出そうな正太の心境とは大違いだ。

 お気楽そうで羨ましいかぎりと、正太は妬み嫉みをたっぷり込めて皮肉な笑みを浮かべようとする。しかし端から見る限り豚が奥歯を剥いた様にしか見えない。実際蓮乃も正太の表情が意味するものを読めないようで、お天道様の笑顔を一時間分傾げている。

 やるだけ無駄らしいと気づいた正太は、表情を常の仏頂面に戻す。そもそも子供相手に何をやっているんだか。自分も子供ではあるがガキ臭い真似は控えるべきだろう。ただでさえ昨日は格好が付かない様だったのだから。ましてや、昨日の大事で助けを求めた蓮乃に対して、身勝手に手を突っ込んだ自分が八つ当たりなど格好悪いにもほどがあるだろう。

 正太はしかめ顔を浮かべわき上がる自己嫌悪を堪える。

 

 「なぁーもぉー!!」

 

 そうやって表情を変えるだけで窓を開かない正太に焦れたのか、傾注!ともう一度声をかけるも正太に動きはない。蓮乃からしてみれば、正太は自分を見つけておきながら、ソファーから立ち上がろうともしないのだ。不満で頬が膨らみ唇が尖る。憤りに突き動かされるままに隣人の庭であることを一顧だにせず蓮乃は窓際に近づいた。

 が、そこで蓮乃の表情が驚きにも似た気づきの色に変わった。なんだなんだと思わず視線を向ける正太にかまわず、姿勢を正すと拳でコツコツとガラス面を三度叩く。それから間を空けてもう三度。

 他人の家を訪ねるならばまずノック。親しき仲にも礼儀あり。それがマナーと言うものだ。例えガラスの向こうに尋ね人が居ようとも、目の前の家人が頭痛が痛い顔をしていようとも。

 

 蓮乃のやらかす常識を斜め上に超越したシュールな行動に、正太は青空が青いなと現実逃避したくなった。ついでに体内でぶすぶすとぶすくれる感情も逃避したのか、いくらか胃の腑の重量感が軽くなった。

 そう言えば前にも似たようなことがあったなと、正太は記憶の引き出しを開いてみる。焦って苛ついてカッカとしていた所に、蓮乃の無礼講で破天荒な行動で、緊張を解かれ気勢を削がれておまけに毒気を抜かれてしまった。こいつと顔を合わせるといつもこうだ。苦悩して懊悩して煩悩しているとこにやってきて、くよくよ悩んでいじいじ迷っているのがあっという間に馬鹿馬鹿しくなってしまう。

 しかめ面を苦笑に変えた正太は、蓮乃のノックに応じて居間の窓を開く。

 

 「よう」

 

 「なっ!」

 

 庭の蓮乃は腕を振り上げ元気よくご挨拶。居間の正太も軽く手を上げて答える。

 が、そこで二人の間に空白の時間が訪れた。昨日の大騒動もその後の説教の煮染めも記憶に新しい。色々とやらかした正太の身の上としては、正直言って少々気まずい。お小言やら大ポカやらで一度日常を崩してしまうと、リズムを取り戻すのに苦労する。しかも、ムカデの足の説話にあるとおり、無意識の作業ほど下手に意識するとますます出来なくなるものだ。自分はいつもこいつと何を話していたんだっけ。

 

 そうして自縄自縛に一人固まる正太を気にした様子もなく、蓮乃はウサギを象ったポシェットから三つ折りの便せんを取り出した。表題には流麗な丸文字で『正太君へ』と書かれている。脳味噌を強制再起動し無限ループから抜け出した正太は、見覚えあるが思い出せない筆跡に内心首を傾げた。最近見たはずなんだがどうにも思い出せん。どーしたもんだろ。

 ポシェットの口からわずかに見えた蓮乃会話用ノートがふと目に入る。そう言えば会話用ノートの序文とタイトルも似たような文字だったな。加えて言うなら蓮乃が手紙を受け取るような相手というと正太の知る範囲では一人しかいない。

 

 「んっ!」

 

 手紙をいつもながらの自信満々したり顔で差し出す蓮乃。常の身長差に足すことの居間と庭の段差で、手紙はローマ式敬礼気味に突き出されている。手紙を受け取り開けば予想通り、その末尾に『向井睦美』の署名があった。しかして何故手紙。電話も電子メールも一般化して久しい現代では、手書きの手紙なんぞ趣味ぐらいでしか扱わない。それか、どうしても自分の言葉で伝えたいことがある場合ぐらいだ。

 昨日のことについてだろうか?それしかないだろう。軽くなった胃の腑が鉛の重さを思い出した。下っ腹を突き破って、地面に衝突しそうな胃袋の重量感を正太は歯を食いしばって堪える。

 蓮乃の前でこれ以上無様を見せたくはない。昨日の事だけで十分以上だ。正太は無理矢理に表情筋を引き絞り、石仏めいた仏頂面で固定する。常の顔に見せかけられるかわからんが、泣きべそかいた残念面よりはマシだろう。

 正太は沈み込む臓腑に浮力を足すべく深呼吸をすると、意を決して手紙を開いた。

 

 

 

 

 

 

 『拝啓 宇城正太様

 

 どうもこんにちは。本当なら私の口から直接伝えるべきですが、仕事と役所の関係で会えるのはしばらく後になってしまうので、こうして手紙という形で失礼します。

 まず正太君にありがとうを言わせてください。あなたが蓮乃の側にいてくれたおかげで、蓮乃は寂しい思いをせずに素敵な時間を沢山過ごすことができました。あの子のノートを読むだけで、正太君と清子ちゃんと出会ってからがどれだけ楽しい日々だったのか、蓮乃が笑顔で説明してくれるようでした。

 それと、私の意図しない所で蓮乃が正太君のお家に何度もお邪魔してしまったことは後ほど改めて謝らせていただきます。勝手にやってしまったことだけれども、そのことで蓮乃を責めないでやってください。あの子が一人で過ごす時間をどれだけ辛く感じていたか、そして正太君のお家で三人でいる時間をどれだけ待ち遠しく思っていたか、それに気づけなかった私に責任はあります。

 

 昨日、正太君がお家に帰った後、ご両親からお話を伺いました。正太君は清子ちゃんの忠告を振り切って、自分のやることを間違いと考えて、それでも蓮乃の涙に答えてくれたのですね。

 改めてお礼を言わせてください。あなたのお陰で私は蓮乃と決定的な仲違いをすることなく、自分の間違いに気がつくことが出来ました。先にも書いたように蓮乃の助けを呼ぶ声に応じてくれたのも、私の剣幕に怯え竦んでしまった蓮乃の側にいてくれたのも正太君でした。

 私たち親子の今があるのは間違いなく正太君のお陰です。あなたが身を挺してくれたから、私は自分のやったことから目を背けて母親であることから逃げ出さずに済みました。あなたが手を差し伸べてくれたから、蓮乃は母親に失望して心を閉ざさずに済みました。

 その行動が危険をはらんでいたとしても、あなたの行動無しに今を迎えられることはありませんでした。自分のやったことを間違いの一言で切り捨てないでください。決して蓮乃を放り出していたような私が言えることではないけれど。

 

 最後にもう一度。あなたのお陰で、蓮乃も私も親子であり続けることができました。

 本当にありがとうございました。

 

 敬具 向井睦美』

 

 

 

 

 

 

 手紙の文字が油性のインクで書かれていたのが幸いだった。そうであったら文章はあっという間に塗れて滲んで解読不能になっていただろう。しかし滲みで読めなくなる前に雫で手紙に大穴が開いてしまいそうだ。

 それでも正太は震える両手から手紙を離せなかった。手紙を開く両手の間にぽたりぽたりと繰り返し水滴が落ちる。どれだけ強く歯を食いしばっても、喉から漏れる嗚咽を止めることが出来ない。どれだけ強く瞼をつむっても、両目から漏れる涙滴を止めることも出来ない。荒い呼吸とともに繰り返し息をのみ、頬を伝う涙とともに洟が顎から滴る。

 

 前の一件ではヒーロー気取って自分がやらかしたことで色んな人に迷惑をかけた。だから非難されるのも否定されるのも当然だった。そんな自分をあの子も家族も許してくれた。自分は相手にも家族にも恵まれた。

 でも、許してもらいたかったんじゃない。もちろん責めてもらいたかったんでもない。あの時、自分は助けようとしたんだ。あの子の助けになりたかったんだ。

 だから「ありがとう」って、ずっと言って欲しかったんだ。ずっとその言葉を求めていた。迷惑をかけたんじゃなくて救いになったと知りたかった。

 

 今、ようやく判った。

 今、その言葉を貰えたから。

 今、二人の助けになれたとわかったから。

 

 止めどなく溢れる涙とともに声に出来ない言葉が胸の内から吹き出していく。正太はそれを堪えることなく、泣き声として吐き出した。洟も涙も声も溢れ出るまま、今までの鬱屈全てを押し流そうと泣きじゃくる。

 

 「…………っっっっっ!!!?」

 

 当然、それを見る蓮乃は困惑を超えて恐慌の状態にあった。何せ手紙を見せたら兄ちゃんが大声上げて大泣きし始めたのだ。なんかおかしな事やっちゃったのだろうか、それともお母さんが手紙で酷いことを言ったのだろうか。もう何がなんだかわからない。

 グチャグチャに歪んだ思考と同じく、顔をクシャクシャに歪めた蓮乃の両目に涙の玉が膨らむ。どうやら正太の慟哭が空気感染したらしく、我慢の間もなく柔らかな頬を涙の粒が滴り落ちた。

 

 息を飲むように抑えたすすり泣きと遠慮なく声を上げる号泣の二重奏が、一〇四号室の居間から響き出す。正太の溜めに溜めた鬱積はまだまだ備蓄がたっぷりある。涙と共に現在大量放出中だが、終わりは喉と涙腺が枯れた後だろう。それにつられる蓮乃にも今しばらく泣きやむ様子はなさそうだ。

 

 葉陰に隠れた庭のカタツムリだけが二人の演奏を聴いていた。



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エピローグ、二人の話

 ここ数日の雨模様から一転して、間島アパート一〇三号室の窓からは吸い込まれそうに澄んだ青空が見える。街ゆく人々の多くも抜けるような晴天を笑顔と共に仰いでいる。しかし、自宅である一〇三号室の居間で”宇城正太”は床方向へと俯いたまま両手で顔を覆っていた。一方、開いた大窓の向こうで庭に立つ”向井蓮乃”は、正太の異様に不可思議と書かれた顔で小首を傾げている。

 つい先ほどまで奏でられていた正太と蓮乃の涙声デュエットは、涙腺の限界と共に終わりを告げた。同時に両目から流れ落ちるばかりだった理性も正太の脳に再び貯留され始めた。そして正太は年下の異性である蓮乃の目の前で、突っ立ったまま思う存分声を上げて泣きわめいていたことにようやく思い至ったのであった。

 

 ――だれかスコップください

 

 正太の心境としては正直言って墓穴を掘って埋まりたい気分だった。拳骨落として説教したり、一緒にお菓子を作ったり買い物連れて行ってやったりしたガキンチョの真っ正面で、大人ぶって面倒見ていた気分の自分が鼻水垂らして泣きわめいたのだ。両掌で隠れた顔は節分の鬼もかくやの真っ赤っかである。元々の強い顔立ちも相まって、今の正太は完全に昔話の赤鬼の面だった。もっとも憎まれ役を買って出て人間との間を取り持ってくれる親切な青鬼の姿はどこにもないが。

 古く侍は腹を切って死ぬことで名誉を守り恥を雪いだという。自分もそれに習ってみるべきではなかろうか。しかし我が家の刃物で割腹自殺可能なサイズは台所の万能包丁のみだ。そんなもので切腹したら最期、介錯は母の拳骨になるに違いない。介錯のために実に痛い拳骨をもらう矛盾に頭を抱えたい気分だ。しかし両手は顔を覆うのに忙しくて頭を抱えていられない。どーしたものか。

 

 一方、目の前の正太を見やる蓮乃にはそんな正太の気持ちなど知る由もない。なので正太を見つめる蓮乃の首は六〇度ほど傾げられたままだ。尻の据わりが悪いどころか空中空気椅子な正太に比べて、蓮乃の方はそこまで居心地が悪い訳ではない。何せ蓮乃自身が正太の目の前で複数回大泣きして見せてしまっているのだ。今回はもらい泣きしてしまって多少ばつは悪いけれども、今更特にどうという事もない蓮乃は平気の平左な顔で正太を眺めている。

 どーしたもんだろ。兄ちゃん固まっちゃった。無視されたと感じたのか、蓮乃は整った顔をむぅと可愛くしかめた。蓮乃からしてみれば急に泣き出した理由なり返答なり反応の一つも欲しいところだ。ところが、正太は画面がブルースクリーンならぬ顔面がレッドスクリーンな状態である。蓮乃が正太の眼前で手を振ってみるものの、顔を覆ったまま凍り付いた正太に再起動の様子はない。蓮乃の唇がもう少し不機嫌そうに尖り、それからほっぺたがいくらか膨らんだ。

 

 ふと五月の爽やかな風が一〇三号室の庭を吹き抜け、サァと音を立てて背の高い雑草を吹き流した。風の音に気づいた蓮乃が風の流れる先を眺めると、青い空に独りぼっちの積雲がぽかりと浮かんでいる。

 

 ――なんか雲が綿飴みたい。綿飴。ぬいぐるみ。羊。羊頭狗肉。羊肉。美味しいのかな?

 

 独自設計でオンリーワンな蓮乃の精神回路が斜め上な連想を浮かべる。蓮乃が食べたことのある肉類は代用肉を除けば鳥だけだ。やや高価な豚や牛、一般的でない羊や犬のそれを口にした覚えはない。

 母である”向井睦美”はそのことを済まないと思っていたのか、『いつかおいしいお肉を食べさせて上げる』と言われた覚えがある。それはそれとして食べたいが、蓮乃としてはそれより親子水入らずの食事をしたい。昨日もそうだったが、親の心子知らずで子の心親知らずだ。まだ蓮乃は親知らずが生えていないが。

 

 ――あ、そうだ!

 

 そこで昨日のことに思い当たった蓮乃は、何かに気がついたように口に手を当て表情を変えた。そうだ、兄ちゃんにお礼を言わなきゃいけないんだった。昨日はいろいろしてもらったのに何にも言えないまま兄ちゃん帰っちゃったから、今日はちゃんとお礼を言おうと決めていたんだ。大事なことを思い出し、蓮乃は急いでペンとノートを取り出す。そのまま2ページ使って勢いよくペンを走らせた。

 書き上げた文章の出来にむふぅと満足げな鼻息を吹き出した蓮乃は、手紙をつかむ正太の腕を繰り返し引っ張り自分の存在をアピールする。ようやっと脳味噌の再起動に成功した正太は、セーフモードな機能不足の面構えで胡乱気に蓮乃を見やる。

 途端に目に入るのは目元を赤くした、しかし平素の元気な表情の蓮乃だ。なんでこいつはこうもむやみやたらと気力が噴き零れ気味なのか。人前で泣いて恥ずかしいとか思わんのか。いや、先日には多少そういう反応もあった。つまりは慣れか。変なもんに慣れてるな、こいつ。

 恥辱感を蓮乃に押しつけたり思考を明後日の方向にとばしたりと、無駄に脳味噌を空転させる正太。だからと言って、蓮乃の前で泣きわめいてしまって身の置き所が無いことが変わるわけでもないのだが。

 そんな正太の内心などつゆ知らず、茫洋とした顔の前に蓮乃は広げたノートをつきだした。

 

 『兄ちゃんのおかげで、あたしお母さんと仲直りできたの。だから、兄ちゃん、ありがとう!』

 

 さらさらと、もう一度五月の薫風が吹いた。風の音を背景に二人の間に静寂も流れる。呆けたような正太は元気よいお礼の書かれたノートをみる。その向こうの笑みで満ちた蓮乃をみる。じっと蓮乃の言葉と笑顔を見る。ただ、ひたすら見る。

 水が流れるようにその顔が柔らかな笑みに変わった。正太はそのまま表情に似合った優しい手つきで、頭一つ低い蓮乃の頭に手を乗せる。そして掌中の球をさするように蓮乃のまあるい頭を撫で始めた。

 

 おつむりと同じく両目をまあるく見開いた蓮乃を置いてけぼりにしつつ、滑らかな黒髪を梳くようにまんまるな頭蓋を磨くように撫でさする。慈しみと愛おしさを存分に込めて繰り返し繰り返し、感謝と喜びの思いを注いで何度も何度も。

 

 「へへ、えへへへへ」

 

 そうして自分をなで続ける正太の手を、蓮乃も何時しか心地よく正太の手を受け入れていた。優しげな正太の手に合わせて、蓮乃の表情もとろりと融ける。トーストの上のマーガリンか、鍋の中のお餅か。表情と同じく蓮乃の気持ちも柔らかく緩んでいく。最初はびっくり仰天だったけど、兄ちゃんの手にいやな感じは全然しない。むしろ気持ちよくて心地よくてなんだか気分がふわふわする。ずっと前にお母さんにしてもらったことがあった気がする。

 

 だが、蓮乃の法悦な時間は正太が手を離して唐突に終わりを告げた。名残惜しげな顔を浮かべて抗議する蓮乃。元々の顔形がよろしいだけに、ある種の趣味な方々の琴線を大いに刺激するだろう。しかし正太にその手の趣味はない。正太は年上のグラマラスな美人が好みだ。少なくとも今のところは。

 蓮乃の頭を離れた正太の手は滑らかに白い頬にそっと触れると、蓮乃が握ったままになっていたノートをチョイチョイと引っ張る。正太の貸してくれという真意が伝わったのか、微妙に不満を残した顔で蓮乃はノートとペンを差し出した。差し出された筆記用具を受け取ると、正太はいつもより少し大きめの文字で一文を記した。

 

 『こちらこそありがとうな』

 

 正太が開いたノートの文を見て、蓮乃は再び首を傾げる。自分が助けを求めて助けてくれたのが兄ちゃんで、お母さんと仲直りさせてくれたのも兄ちゃんだ。だから兄ちゃんにお礼を言わなきゃならないのはよくわかる。でも兄ちゃんになんかお礼言われるようなことあったっけ?

 

 『なんで?』

 

 『俺はお前さんを助けたけれど、お前さんと睦美さんにも同じくらい助けられたんだよ』

 

 全然わかんない。正太の返答を見ても、蓮乃の頭上に浮かぶ疑問符は数を増やすばかりだ。カッチコッチと緩やかにメトロノームよろしく頭を揺らす。それにつられてハテナマークもゆらゆら揺れる。

 

 「わからんか。そりゃそうだな、言ってないもんな」

 

 全身で不可思議を表現する蓮乃に、正太は苦笑混じりで独り言を呟いた。しかし、蓮乃相手に自分の事情を事細かに話す気にはなれないが。それはすなわち、如何に自分が後ろ向きに引っ込んでいたかを説明するということだからだ。流石に格好悪いにもほどがある。こいつの前で、これ以上格好の付かない真似はしたくない。

 深呼吸ついでに色々こもった息を吐くと、誤魔化しとお礼の気持ちを込めて正太はもう一度蓮乃の頭を撫でた。撫でる手つきにあわせて蓮乃の頭がゆるゆると揺れ動く。窓の外では微風にあわせて背の高い草がサラサラとたなびく。

 

 二人の顔も吹く風も穏やかな雨上がりの五月の午後。風は梅雨の臭いを運んでいた。



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第二章、二人に友達ができる話
第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その一)


 空は全く晴れていない。

 

 ”宇城正太”の心情同様に、空きチャンネルの色合いの曇り空だ。もっとも有線ネット放送が一般化して久しい現在は、日放(日本放送局)以外の無線TVチャンネル全てが空きチャンネルなのだが。

 何にせよ、正太の心境と同じく様に空模様は曇りの模様だ。お天気チャンネルによれば本日は一日中晴れのはずなのだが、どうやら予報を外したらしい。そして正太自身のそこそこ楽しい一日になるだろうと言う予想も外している。正太の後ろで裾を掴んで唸り声を上げている”向井蓮乃”がそれを証明していた。

 

 「うぅ~~っ!」

 

 進化か、退化か、それとも変化か。霊長類から食肉類になったらしい蓮乃は、柴犬よろしく犬歯を剥いて正面の「少年」を威嚇している。自分の整った外観に頓着しないのは蓮乃の好ましい点だと正太は考えているが、物には限度というものがある。このまま放って置いたらワンワン吠え始めそうだ。正太のしかめ面が深まる。

 一方、目の前の「少年」に吠える様子はない。代わりに不定期な苛ついた舌打ちと刺すように睨みつける視線が、どんな声よりもその心情を雄弁に物語っている。天使のように十二分に整った顔立ちも、強烈な敵意で酷く歪んでしまっていた。

 

 ただしその視線の先は蓮乃だが、舌打ちの対象はそうではない。その上の正太へと、敵意の全ては向けられている。正太には顔が歪むほどの悪意を向けられる理由なんぞ、脳味噌の中身をひっくり返しても思いつかない。少なくとも蓮乃とそう変わらない年齢の少年に、自己の存在全てを非難されるような態度を取られる覚えはない。しかし現実問題、真ん前の「少年」は「お前が呼吸しているのが不快極まる」と言わんばかりの反感を正太に向けて噴射している。

 蓮乃は少年へ牙を剥き、「少年」は正太へと舌打ちを繰り返し、その有様を見てますます蓮乃のうなり声はトーンを上げる。一方通行にループする敵意は収まる気配を見せず、一回りごとに空気の重量を増やすばかり。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 ただ一人、中心人物でありながら蚊帳の外の正太は、いつもの口癖を呟くと、現実逃避と現状確認をかねた回想へと意識を脱出させた。

 

 

 

 

 

 

 ――暑い。

 

 五月は春の終わり際であるが、初夏という言葉もある通り夏の始め際でもある。五月の終わりともなれば夏の始まりとほぼ同じだ。故に晴れの日は暑い。昼過ぎとくればさらに暑い。ましてや、体温の高い子供がへばりついているならば、なおのこと暑いに決まっている。

 

 「……暑いし、重い。いい加減退けよ」

 

 正太は背中全体から伝わる体温の原因に向け、うつ伏せのまま文句を投げた。余りに暑くて両手の間に握った小説に集中できない。本音を言うとさほど重くはないが、蓮乃を退かすための方便である。暑さの源である背中の蓮乃がそれを聞き取れないことは解っているが、それでも文句の一つも言いたかった。

 

 今、正太の手の中にあるのは、一月以上待ってようやく図書館から借りられた『殺魔忍』シリーズの最新作なのだ。電子書籍で借りれば一切待たずに読めるが、実物本派の正太としてはどうしても実物を読みたかった。

 そうやって待ちに待った週末の土曜日、待ちに待った小説を抱えて我が家に帰り、キンキンに冷やしたラムネの栓を抜き、デンプンチップス:梅干し味の袋を開けて、さあ最高の時間の始まりだとやろうとした。その時に間も悪くやってきたのが自由軌道ロケット噴射娘だったのだ。

 

 いや、蓮乃の存在自体に正太は文句を言うつもりはない。蓮乃が宇城家に入り浸ることを、正太の両親”宇城昭子”と”宇城昭博”も、蓮乃の母親である”向井睦美”も許している。家主と保護者が許可を出している以上、正太にどうこう言う筋はない。

 しかし、こうして小判ザメよろしくペッタリとくっつかれることには、どうこう言いたくもなる。正太が床に横になってさあお楽しみと新刊を読み始めた所に、蓮乃が突如のし掛かったのだ。棒きれみたいな体型の御ガキ様と言えども異性は異性だ。こうも密着されると色々困る。なにせ暑いし気恥ずかしい。正太としては、先日の一件(第一部参照)以来、蓮乃からのボディコンタクトが異様に増えた気がしてならない。

 

 「や」

 

 先の正太の移動要求に対し、背中の蓮乃は短く端的な否定系を返した。蓮乃は障害の関係で言葉を聞き取ることができない。だから、正太の言葉の意味は解らない。だが、その意味合いだけは性格に読みとって、最近覚えたばかりの単音否定系で返す。蓮乃は再び手の中の文庫本に視線を移した。当然、正太の背中の上で相変わらずに、だ。

 夏一歩手前の五月の陽気と、子供らしく無駄に高い蓮乃の体温が合わさって、正太の全身は茹だるようだ。気恥ずかしさで正太自身の体温まで上がっている気がしてならない。なので正太はいい加減にしろと全身を大きく左右に振った。背中の蓮乃は両手も意識も本に向けていたこともあり、あっさりと転げ落ちる。

 

 「なぁ!?」

 

 縦軸回転で転がり落ちた蓮乃は、驚きの声を上げて抗議する。私はくっつきたいのだ。暑いのは自分も我慢している。なのに落とされるのは納得できない。正太が知ったらチョップを連打しそうな気持ちを胸に、再びのひっつき虫を狙う蓮乃。転がり落ちたままの腹這の体勢で正太へとにじり寄る。

 そんな蓮乃の心情を知る由もない正太としては、これ以上くっつかれるのは勘弁願うのが本音だ。知っていたとしても拒否するだろう。蓮乃から距離を離すべく、正太は投げ出されたボンレスハムの勢いでゴロゴロと転がる。

 

 「む~~」

 

 不満の声を上げながら、蓮乃は狙いを定めた猫よろしく全身を撓ませる。当然狙うは転がり回るボンレスハムこと正太だ。まるまる太ってさぞかし食いでがあるだろう。

 脂身たっぷりのボンレスハムに全身でむしゃぶりつくべく、「や」とも「に」とも付かない雌叫びを上げて蓮乃は飛びかかった。だが、ただのボンレスハムと異なり、宇城正太という名のボーン有りハムは動くのだ。

 

 「ぬぅん!」

 

 「ふぎゃぅ!?」

 

 気合いを入れた正太は、回転速度を上げて蓮乃の着弾位置から離れる。猫がつぶれたような声を上げ、蓮乃はソファーの背中に突っ込んだ。

 かくして蓮乃のボンレスハム襲撃は失敗に終わった。声に込める不満の気持ちを倍にして、蓮乃は自分の狙い通りに行かなかったことに抗議の声を上げる。しかしこの世の悉くは思うとおりに行かぬもの。それを示すかのように腹周り同様、実に太い正太の笑い声が木霊する。

 

 「むぅ~~っ!!」

 

 「ぬはははは!」

 

 正太の妹である”宇城清子”が見たら、頭痛に悶えて頭を抱えそうな光景だ。蓮乃と一緒にいるとなにかしらの箍が外れるのか、一四になる正太の行動も一〇少々の蓮乃と同年代かそれ未満に落ちてしまう。箸が転げても面白い年頃なのか、正太は蓮乃の突撃をかわした勢いのまま転げ回る。

 しかし、正太は忘れていた。宇城家の住まう間島アパート一〇三号室は決して大きくない。ましてその居間にはソファー三つにネットTV、食卓に各自の椅子ほか多数と、様々な什器が置かれている。そこで転げ回るとどうなるか。

 

 「イッダァッ!」

 

 それは言うまでもなく、鈍い音と共に顔面を食卓の足に強打して、のたうち回る正太が証明してくれている。いい気になった鼻っ柱を文字通りへし折られかけた正太は、顔面中心を貫く激痛に悶えた。

 

 「にーなぁ?」

 

 痛みにのたうつ正太へと、蓮乃は当人すら理解不能な独自言語で心配の声をかける。表情も先までの不満色から心配顔に変わっている。しかし両手で鼻を覆って身悶えする正太には届いていない。激痛のあまり頭の中が一杯一杯になっているのだ。

 なので蓮乃は痛みに暴れ狂うボンレスハムに巻き込まれないよう、遠回りに近づくと正太の背をさすった。先と意味合いだけが同じ気遣いの声をかけながら、蓮乃は繰り返し正太の背中を撫でる。

 

 「なー……」

 

 いい加減暴れ回って痛みもある程度引いたのか、正太は転げ回るのを止めて蓮乃の手を受け入れた。「いたいのいたいのとんでいけ!」と真剣な顔でさする蓮乃と、顔を両手で覆ったままそれを無言で受け入れる正太。静かな時間が一〇三号室の居間に流れる。

 しばらくしていい加減痛みが失せた正太は、床に腰と新刊を下ろして筆記用具を手に取ると、蓮乃向けに単文を書いて見せた。

 

 『もう大丈夫だ。ありがとう』

 

 普段から蓮乃と正太は筆談で会話している。音声だけでもお互い声音くらいは理解できるが、正確に伝えたい言葉があるなら文字を用いている。

 なお、言葉を書き込む間も正太の片手は顔を半ば覆ったままだ。痛みではない。妹分の前で痛い痛いと悶えて暴れた恥ずかしさからである。先日大泣きしたばかりだが、だからといってそう慣れるものではない。

 

 それでも正太は感謝の一文を蓮乃に手渡した。いくら恥ずかしかろうが礼は言わねばならない。それが最低限の礼儀というものだし、恩を受けて礼も言えない人間になどなりたくない。なによりそんな醜態では尊敬する両親に顔向けできない。

 メモを受け取った蓮乃は嬉しげなしたり顔で鼻息荒く頷いている。蓮乃は何かとやっては(やらかしては)ドヤ顔を正太に見せつけてくる。正太としては「言いたいことがあるんならちゃんと言え」と、言いたくて仕方ない。というか何度か言っている。

 痛み未満のジンとした痺れが疼く鼻を揉みながら、正太は小さく息をはいた。蓮乃とこうしているのはそこそこ楽しいが、どうにも埒があかないのも事実だ。放って置いたら新刊を読み切れないまま図書館に返す羽目になりかねない。それでは何のために借りたのか解らない。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 常の口癖をぼやくと正太はゆっくりと身を起こした。庭に向いた窓から入る日光が目に痛い。僅かに厳つい顔をしかめて細い目をさらに細める。

 さて、じっくり新刊を読むには何処がいいか。蓮乃のことを抜きにしても、このまま居間で新刊を読むのはいささか辛い。朝方確認した天気予報チャンネルによれば本日は一日中快晴が続くとのこと。燦々と輝く太陽に炙られて、ポークジャーキーになってしまう。

 困った正太は喉に手を当て、意味もなく顎下の贅肉を軽く揉む。だからといって他の部屋で読めないのが辛いところだ。寝床でもある子供部屋での飲食は御法度だし、同じく子供部屋の住人である清子から容赦ないツッコミを食らうことになる。両親の寝室に勝手気ままに侵入すれば、夕食後のデザートに、母からの拳骨一ダースと父からのお説教三アワーを頭蓋にねじ込まれるだろう。あとは風呂場とトイレと物置くらいだ。どれも快適な読書空間とは言い難い。

 

 「う”~む」

 

 豚そのものなうなり声を上げつつ正太は思考を空転させる。さりとてほかに候補が思い当たらないのも事実だ。どーしたもんだろ。

 頬の脂肪を指で揉みながら首を傾げる。ずいぶんと柔らかい。軽く引っ張れば思いの外伸びる。こんなに肉が付いているから、暑さがなおさら辛いのだろう。もう少しダイエットでもすれば違うのかもしれない。運動は嫌いではないし、久方ぶりに少しくらいやってみるのもいいかもしれない。

 一片たりとも問題解決の役に立たない無意味な思索をこねくり回し、ついでにカロリーの詰まった肉をこねくり回す。そんなことをしていれば当然事態は進まず、新刊は一ページたりとも読み進められず、時間ばかりが進むばかり。

 

 「む~う」

 

 放って置かれた蓮乃はドヤ顔するのにも飽きたのか、隣に座って正太の真似をし始めた。整った顔に似合わないしかめ面を浮かべ、正太と同じく顎の下を揉もうとする。しかし蓮乃に贅肉はないので、顎下の皮をいじくるのが精一杯だ。

 そんな蓮乃を、「自覚していなかったアホみたいな口癖を、オウムの声真似で聞かされた飼い主」の顔で正太が見つめる。似顔絵書きでデフォルメされた自分を見るような気分で蓮乃を見つめていると、正太の目に気がついたのか二人の視線が交わった。

 途端に蓮乃の顔が日なたに出したラクトアイスよろしく溶け崩れる。「にへへ~」とでも擬音がつきそうな顔で柔らかく笑う蓮乃を見ながら、正太は胸の内で小さく息を吐いた。いつもながら悩んでいるのがバカバカしくなる。こいつみたいに楽しく生きれたらそれは素晴らしいことなのだろう。

 蓮乃の気の抜けた笑顔に当てられたのか、正太の顔も自覚の無いまま苦笑の形に緩んでいる。そうやって適度に気が抜けたのが奏功したのか、正太の脳裏にLED電球が点灯した。

 

 ――そうだ、図書館行こう

 

 古いCMではないが、正太の胸の内にそんなフレーズが浮かび上がった。図書館は全図書を電子化して久しいが、正太のような物理本派にも扉を開いているのだ。

 続けて顎下の贅肉をいじくりながら正太は自分のアイディアを吟味する。図書館では長時間リラックスして本を読めるように、ソファーやクッション、座敷も用意されている。飲食は流石に特定の場所でしか許されないが、そこには自販機や給水機も設置されている。当然、図書館の中では騒音禁止であり、静かに本を読む環境が整えられている。読み終えたらそのまま新刊を返却して、別の本を借りてもいい。

 考えて見ればそう悪い判断ではない。いや、むしろよい判断と言えるだろう。図書館で過ごす週末はなかなかに魅力的だ。正太は自分の発想に合格点をつけ、納得するように小さく頷いた。

 

 とすると、問題はこいつだな。正太は隣で床に腰を下ろしている蓮乃に目をやった。正太の真似をするのはまだ飽きていないようで、顎に手を当てたまま小刻みに頷いている。

 母親である睦美さんから預けられた以上、放り出していくことは決してできない。清子がいたなら預けていく選択肢もあるが、清子は学内の友人とショッピングを楽しんでいる真っ最中だ。宇城家両親は両親で各々の用事があるそうで、帰宅するのはもう暫く先になる。となれば、図書館に行くのを諦めて家で二人で過ごすか、それとも二人して図書館に行くかの二択となる。しかし蓮乃が外に行きたがるかは未知数だ。

 正太は豚そのものなうなり声をもう一度上げると蓮乃の肩を突っついた。正太の真似を中断して不思議顔の蓮乃は正太を見上げる。胴長短足の正太と違い、身長における足の割合の大きい蓮乃は座るとなおのこと小さい。

 その蓮乃に上向きの手のひらを差し出して、正太は会話用ノート及び筆記具を要求する。「んっ!」と元気よく返すと蓮乃は腰のポーチからノートとペンを差し出した。当然、その表情は「よくわかっているでしょ!」と言わんばかりのドヤ顔だ。

 

 「ありがとな」

 

 聞こえていないのは解っているが、正太は口頭で礼を言った。無論、ノートにも礼を書き込む。親しき仲にも礼儀有り。尊敬する両親から正太にしっかりと仕込まれている。

 「むふ~」とお礼に満足げな笑みをこぼす蓮乃に、正太は礼と質問を書いたノートを差し出した。

 

 『ノートとペンありがとう。で、これから図書館に行こうと思います。蓮乃も行くか?』

 

 『いく!』 

 

 間髪入れずに蓮乃の返答が打ち返された。眼前に突き出された一ページまるまる使った元気いい三文字。どうやら予想通りに行く気満々らしい。吹き出す鼻息も荒く、直ぐにでも立ち上がって玄関へ駆け出しそうだ。正太の顔に微苦笑が浮かぶ。

 しかし勝手に飛び出されても色々困る。なので『少し待ってろ』と書き含めると、正太は電話で睦美に連絡すべく勢いつけて立ち上がった。当然のように蓮乃も一緒に立ち上がる。その額を軽く抑えてもう一度『少し待ってろ』の一文を見せると、正太は玄関口の電話へと向かった。



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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その二)

 ふと、煉瓦敷きの足下が陰った。

 

 歩道を蓮乃と連れ添って歩く正太が空を見上げると、太陽に大きめの積雲がかかっている。雲の隙間から漏れる日光の欠片に目を細める。太陽を覆った雲の周りにも、羊雲というには大きい雲が幾つも浮かんでいる。もはや青空に雲が浮かんでいるというより、雲の隙間に青空が見えると表現した方が正確だ。

 正太が想定していたよりずいぶんと雲が多い。一日晴れると朝のニュースで聞いていたがこれから晴れるのかは怪しいところだ。せっかくの土曜日が曇天とは嘆かわしい。いや、これはこれでいいのかもしれない。少なくとも、日に炙られて暑い思いをしなくて済むのは悪くない。

 休日の心模様を空模様と同じにしたくない正太は、曇天なりの良さを見いだそうと空を仰いだ。想像通り眩しくも暑くもない。五月の陽気と合わせれば、実に過ごしやすい心地いい日和と言える。もっとも、日和と言いつつ日は射していないが。

 

 そうして晴模様な気分の正太の耳に、これまた空模様と違って脳天気な歌声が響いた。

 

 「かっんっぽ♪さっんっと♪あらっしわ~っでんし~♪」

 

 いつも通り歌詞以外完璧ながら、歌詞一つで全部台無しな歌声である。こんな歌声の持ち主を正太はたった一人しか知らない。そしてその一人は今ここにいる。

 目を向ければ予想するまでもなく、大声で歌いながら両手を降って、気持ちよさそうに歩いている蓮乃の姿が見える。曲と同じく元気いっぱいで散歩中だ。空は満面の曇り空だが、蓮乃の頭の中は苦も無く雲無し青天井らしい。周りの通行人も快晴青空太陽娘に当てられたのか、皆笑顔を浮かべている。

 

 「かわい~!」

 

 「あはは! 歌詞めちゃくちゃ~」

 

 「お父さんと似てないけど、可愛い娘さんねぇ」

 

 周囲の声が脳髄に突き刺さった正太は片手で頭を抱えた。正しくは笑われていると表現すべきなのかもしれない。そして自分もその題材に入っているのは何故だ。というか、お父さんって何だ。自分はまだ一4だ。

 しかし通行人にそんな正太の心境が分かるはずもなく、父子前提の言葉が幾つも飛んでくる。曰く「親熊小熊」。また曰く「凸凹親子」。ついでに曰く「子犬と猪」。あまりに容赦のない台詞に、正太は顔を覆って白けた曇り空を仰いだ。

 

 そんなことをしていたからだろうか。正太のつま先が浮き上がった煉瓦の端に引っかかった。次の一歩を踏み出すために体重を掛けかけていたこともあり、正太は大きく体勢を崩した。

 

 「うぉっとっと!」

 

 本来、二足歩行は不安定なものだ。一度両足裏の四角形から離れてしまった重心点は、正のフィードバックに従って加速度的に安定領域から遠ざかっていく。行き着く果ては完全な安定、すなわち地面に横たわる形となるだろう。当然、重力加速度分の落下速度を伴って。

 正太がこの間習ったばかりのニュートンの方程式に従えば「力=質量×加速度」となる。この場合加速度は重力加速度だから一定値なのだが、問題は質量だ。正太は身も蓋もなく言ってしまうならばデブだ。つまり体重が重い。地球上においては重さと質量はほぼ同じもの。だから、正太がずっこけた場合、平均的な中学生男子に比べ倍近い打撃が加わることとなる。

 

 「うぉぉおおぉ!?」

 

 それは実に痛い。正太が自宅の玄関で足を滑らせて、フローリングと熱烈な口づけをしたときは、清子が帰ってくるまでの間ひたすらのたうち回っていたほどだった。それがよく焼き締められた煉瓦ともなれば想像したくもない結果となるだろう。

 そうはなっては困ると、正太は両手を振り回して遠心力で無理矢理バランスを取ろうとする。何歩もたたらを踏んでは左右に傾ぎながら、それでも転けるまいと必死に重心点に追いすがる。

 

 「おおぅ……」

 

 正太の奇矯な踊りの成果は多少はあったのか、ようやく重心を捕まえて正太は安定を手に入れた。端から見ていれば僅かに数秒の間であったが、当の正太にしてみれば、人生でも上位に入るほど神経を使った数秒間であった。おかげで冷や汗と脂汗のカクテルが全身をずぶ濡れにして、過動中の心臓は急な仕事の抗議として胸を内側から叩いている。

 とりあえず心臓を通常シフトに戻すべく正太は深呼吸を繰り返す。心臓は胸骨をリズミカルに蹴飛ばして有給を求めるが、残念なことに正太はあと六六年間は休みをくれてやるつもりはない。繰り返しの深呼吸で贈られてくる新鮮な酸素に誤魔化されてくれたのか、心臓は常のリズムを刻み始めた。

 最後にもう一度、安堵のため息も込めて正太は深呼吸をする。色々と危うかった。足をきちんと上げないと怪我の元になりかねない。でも、意識していないとすぐ摺り足になるんだよな。

 

 太り気味の人間特有の悩みをこねくり回しつつ、正太は元の歩調に戻る。そこでようやく蓮乃の歌声が止まっていることに気がついた。知り合いが転けかけて、バランスを散々っぱら暴れ回っていたのだ。蓮乃と言えども身の危険を感じるだろうし、声を潜めて距離を取るだろう。周囲の目線を気にしてとは思えないが。

 正太が周りを見渡せば、想像通り少し離れた壁際に蓮乃の姿があった。はたくように掌を振って合図すると、蓮乃は小走りで駆け寄ってきた。

 

 『すまんすまん、驚かせて悪かったな』

 

 突っかけるようにして急停止した蓮乃に、正太は謝罪を書いたメモを渡す。頭一つ分は大きい相手が両手振り回して荒ぶっていたのだ。危ないし、怖い思いをさせてしまった。

 だが、手渡されたメモから返ってきたのは、文句の一文でも同意の単語でもなかった。

 

 「んっ!」

 

 かけ声とともに返ってきたのは、差し出された蓮乃の手だった。小さな白い掌を上に向けて、何かを要求するように正太の方へと突き出している。その表情はいつもながらの自信満々なドヤ顔だ。

 正太の顔が二重の意味で不可思議に歪む。意味が全く判らない。このお気楽極楽道楽娘は何を求めているのだろうか。解らないことは聞くに限る。

 

 『どーいう意味だそりゃ? 手をつないで欲しいと?』

 

 蓮乃は大きく首を横に振った。それに合わせて長い黒髪が宙に墨色のラインを描く。肩に掛かった髪が宵闇のように流れ落ちる。

 濡れ羽色の髪が流れる光景を軽く流しながら、正太は蓮乃の返答に考えを巡らした。動作からして何かしら要求しているのは間違いないだろう。会話用ノートと文房具は各々で持っているから、別に自分のものを欲しがる理由はない。蓮乃は意味もなく金銭を求める娘ではないし、食い物飲み物は自分は初めから持ち合わせていない。

 何を望むのか想像もつかないと首を捻る正太。解らないことが解ったらしく、蓮乃は文を加えてノートを差し出した。

 

 『手をつないであげる!』

 

 --同じじゃねぇか。

 

 違うのはどちらに主体があるかくらいか。毎度毎度この独立独行独自路線特急娘は、斜め上4五度の第一宇宙速度で地球圏を離脱していやがる。頭痛が痛い顔で、雲で曇っている空を見上げる正太は、後から後悔しそうな心境だ。

 呆れかえった正太の顔に気づいているのかいないのか、蓮乃はキメ顔で手を差し出したまま正太の反応を待っている。疲れと呆れを半々で混ぜた表情で、じっと蓮乃を見つめる正太。

 放って置いたら日が暮れるまでこのままのような気がする。実際は数分しないで、膨れて拗ねて怒り出すに違いないが。さらにほっといたら、不安がって怖がって、終いには泣き出すかもしれない。流石にそれは色々困る。

 

 「はぁ~~~~、ほれ」

 

 演技じみた大仰なため息をつくと、正太は諦め顔で蓮乃の手を取った。途端に蓮乃の表情が輝かんばかりの満面の笑みに色を変えた。力強く吹き出す鼻息まで満足げだ。

 

 「あっんっこ♪てっんっぽ♪かかしわ~べんい~♪」

 

 蓮乃はつないだ手を思う存分振り回しつつ、大股でリズミカルに散歩を再開する。砂糖多めのコーヒー味な表情で、正太はされるがままに歩調を合わせる。幸せそうで本当に幸せな風景に、歩道を歩く通行人たちはクスクスと優しい笑顔をこぼした。

 

 

 

 

 

 

 満員御礼とは言わないが、土曜日の公園は中々な賑わいを見せている。

 

 互いを往復するボールと一緒にかけ声を投げ合う親子に、ベンチで午後の午睡を満喫する老人。花盛りの雑草をいじり倒す子供たちと、井戸端は無いが輪になっておしゃべりに夢中の奥様方。その背中で夢の世界を旅している幼児もいる。実に平和な日常の風景だ。

 これで空が抜けるような快晴なら完璧なのだが、生憎と青空はどこにも見えない。雲向こうのお天道様の輝きは分厚い席層雲に遮られ、空は完全に陰ってしまっている。

 

 「ほ~!」

 

 だが、蓮乃は常に変わらぬ晴れ模様だ。繋いでない方の手で庇を作り、興味深そうに公園の光景を眺めている。

 その姿を正太は少々意外そうな表情で見ていた。蓮乃にはありふれた公園の風景も珍しく思えるようだ。大抵の子供は幼稚園に通うより先に母親につれられて公園に通うものだが、蓮乃はその例外らしい。

 興味に輝くような蓮乃の表情を見ながら、正太の眉根が皺を作る。蓮乃が障害と魔法の関係で一般的な経験に乏しいとは知っていたが、こんなことまで未経験とは知らなかった。自分を信じて預けてくれた睦美さんのためにも、できるだけ多くを経験させてやらなきゃな。

 

 正太は目を閉じ決意を込めて小さく頷く。その手が軽い力で繰り返し引っ張られた。その原因は予想するまでもない。目を開いて視線を向ければ、正太の想像通りに興味津々な顔で繋いだ手を引く蓮乃の姿だった。だが、今日のところは蓮乃には悪いがご勘弁願おう。

 正太は腕を捻るように自分の手を握る小さな掌を外すと、蓮乃の白い額に手を当てて軽く押し止めた。道中から公園に至るまで繋ぎっぱなしだった手は少々汗ばんでいる。先まで繋いでいた蓮乃の体温と大気との温度差で、掌に強い冷感を覚えた。

 

 公園で遊びたい蓮乃の唇が尖り、眉根が寄って皺ができる。本日は公園で遊びに来たのではなく、図書館で静かな読書を楽しみに来たのだ。公園で遊ぶのはまた今度。

 そう告げるつもりで、正太は親指で目的地を指し示した。親指のが向く先には、煉瓦の壁に色違いの煉瓦で描かれた「となりまち図書館」の文字が見える。隣町の「となりまち図書館」とはこれ如何に。脳裏に浮かんだ下手な洒落を正太は胸の内で笑う。

 

 「あーーーーっ!」

 

 その耳に蓮乃の大声が響いた。驚いた顔の正太は、反射的に蓮乃へと目を向ける。図書館に興味が移るとは想像していたが、こうも極端だとは思わなんだ。

 だが驚き顔を浮かべる蓮乃の視線は、図書館ではなくその下、植木に佇む人影に向けられていた。加えて蓮乃は視線だけではなく、指を人影に突きつけている。蓮乃の人差し指で指差す人は、二人同様の驚き顔を浮かべた少年だ。

 

 正太はこの少年に見覚えがない。記憶を一通りひっくり返しても、欠片すら引っかかる具合はない。蓮乃の知り合いだろうか。だが先の声からして喜ばしい間柄じゃなさそうだ。そうでないなら、後で指さしは失礼だと叱っておこう。

 正太の予想は当たったらしく、瞬く間に蓮乃の顔は嫌悪の色に変わった。眉の間の皺山脈は一気に標高を増し、頬は当社比率一五〇%の膨らみぶりを見せている。

 

 正太は蓮乃へと質問の意図を込めた視線を向ける。蓮乃は躊躇無く感情を表に出す人間だが、こうも嫌悪感全開な素振りをとる姿は始めて見る。少年も蓮乃と似たような気持ちらしく怒ったような表情で駆け寄ってくる。嫌うにしても互いにここまで明確な態度となると理由が想像できない。

 蓮乃は荒々しくポシェットから会話ノートを引きずり出すと、これまた荒々しく書き殴り、正太にノートのページを突き出した。突き出し方まで荒々しい。

 

 『あいつ、やなやつ!』

 

 蓮乃の気持ちはよくわかった。しかし理由はわからない。正太がさらに質問する暇もなく、蓮乃は正太を軸に小走りで一八〇度移動した。駆け込む少年からちょうど正太が盾になる位置関係だ。そのまま蓮乃は正太で全身を隠すと、顔だけ出して歯を剥いて威嚇し始めた。子供が親を盾に嫌いな相手と相対する時の動きだ。だからどうしてだ。あと服が延びるから引っ張るな。

 正太が疑問を解消する暇もなく、少年は二人の数m先まで駆け寄る。僅かに荒い息を整えながら蓮乃を指さし、声変わり前の甲高い大声でわめいた。

 

 「何でお前がここにいるんだよ!」

 

 「う”~~っ!」

 

 眼前の少年の姿に、正太は僅かに表情を堅くした。美人と美形は同種を引き寄せる引力でも発揮しているのか。以前、妹である清子は、蓮乃と睦美の存在に美の不均衡と偏在について文句をぼやいていた。その気持ちが今の正太には痛烈なほど理解できた。

 アメコミのキャラTシャツに膝出しの短パンと子供丸出しの格好に包まれているのは、日本人離れした天使じみた美貌だ。生まれたての薄桃色の肌に、ブロンド二歩手前の淡い栗色の髪。両目は透明感のある薄茶色で、その周りを弧を描いた長い睫毛が覆っている。形の整った各パーツは、柔らかな卵形の輪郭の中で品よく整列している。これで無邪気な笑顔でも浮かべていたら、ある種の女性達は貧血を起こして崩れ落ちるだろう。もっとも今浮かべているのは、邪教徒の儀式を見つけたような蔑みと怒りの表情だが。

 さらに言うなら背丈も正太とそう変わらない。美麗だが幼い顔立ちから察するに、蓮乃とどっこいどっこいの年齢だろう。それで自分の身長に追いついていることについて、正太は神様に小一時間ほど問いつめたくなった。

 

 「えっと、初めまして。どちら様で?」

 

 外観の出来は否応なしに理解できたが、蓮乃との関係は不明なままだ。なので正太はとりあえず、挨拶して尋ねることにした。コミュニケーション障害気味の正太であるが、子供相手の挨拶ぐらいなら何とかこなせる。それに蓮乃にも常々言っていることだが、人間関係の第一歩は挨拶から始まる。正太は両親からそう教わってきた。

 

 「……チッ!あんたに関係ないだろ」

 

 しかし、目の前の少年はそう教わってはいないのかもしれない。耳障りな舌打ちと吐き捨てるような台詞、そして何より正太を蔑みきった表情が、渋い顔の正太にそう想像させた。こうも憎まれる理由が正太には想像がつかない。蓮乃を背中に隠しているのが余程気にくわないのか、敵意を収束した視線で自分を貫かんばかり。

 何でまたこうも嫌われているのか。理解できない少年の憎悪に、正太は天を仰いでぼやいた。

 

 「どーしたもんだろ」



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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その三)

 「どーしたもんだろ」 

 

 いつものぼやきで正太の意識は過去から今へと帰還した。しかし現実に戻ったところで、過去と現状にはさほど変わりはなかったが。

 

 「う”~~に~~!」

 

 「チッ!」

 

 敵意の眼差しで唸り歯を剥く蓮乃に、蔑みの目で舌打ち地面を蹴る少年。そして重くなりすぎて固体と化しつつある空気。先の焼き直しが再び始まった。違いは蓮乃の発する声か。徒労感が正太の表情に混じる。こいつら放っておいたら何時間でもやっていそうだ。実に埒が開かない。さて、どーしたものか。

 顎下の肉を揉みつつ、正太はこれからを思案する。が、不意に背中から後方へ力を加えられて、思考は唐突に中断させられた。意識外のベクトルに思わず正太はたたらを踏む。正太の後ろには一人しか居ないわけで、当然容疑者は一人しかいない。何をするんだという目つきを後ろ斜め下に向ければ、想像通りぐいぐいと服の裾を引っ張る蓮乃がいた。

 

 「服が延びるぞ、急になんだ一体」

 

 「なもっ!」

 

 聞こえないのは理解しながらも、延びるから辞めろと言外に込めつつ正太は声を送る。蓮乃を見れば片手で正太の服の裾を掴みつつ、残りの手で「となりまち図書館」の煉瓦文字を指している。正太の想像とは異なり、蓮乃も埒が開けられそうにないと理解していたらしい。

 正太は顎の贅肉を揉み直しつつ、思案をし直す。少年を放り出すのは多少思うところもあるが、蓮乃とのコミュニケーションに必須な文房具の一つも出さない向こうさんにも問題がある。ペンもノートも用意しないあたり、蓮乃へ嫌がらせでもする目的なんだろうか。なら、さっさと離れるが吉だろう。

 正太が確認の目線をやると、蓮乃は「んっ!」と声を上げて大きく頷く。正太もそれを理解したとの意味を込めて首を縦に振った。言葉もなく二人の意志が交わされる。

 

 「じゃぁ……」

 

 「アンタ、何だよ?」

 

 正太が合図代わりに蓮乃に声をかけようとした瞬間、目の前の少年が声を上げた。声の向かう先は、先から睨みつけている蓮乃ではない。敵意と蔑みをぶつけ続けている正太の方だった。

 ようやくまともにコミュニケーションをする気になったのだろうか。しかし正太が見る限り、友好的な交渉を行う気はなさそうだ。正太に向けた舌打ちと地面蹴りを止めるそぶりはない。それどころかその数がいきなり増えて、目つきの険がさらに増している。全身から発する反感が倍増しているのかと思うほどだ。

 

 --こんな態度の相手と何を話すんだ?

 

 そうやって正太がげんなりした顔で少年を見ていると、手首にはまった赤銀色のブレスレットが光を反射した。正式名称:特殊能力確認用携帯機器こと、魔法使いの象徴である「腕輪」だ。ならばファッション目的で違法な類似品を身につけているのでもない限り、目の前の少年は魔法使いだと言うことになる。

 正太が「訓練所」と「月検診」以外で、日本人の魔法使いを見たのは蓮乃が初めてだった。それから僅か一月で二人目を目にすることとなったわけだ。やっぱり蓮乃は変な引力でも発揮しているんじゃなかろうか。微妙な顔の正太は、奇妙な巡り合わせに珍妙な縁を覚えた。

 

 それと同時に正太には、少年がどうにも悪意満点な理由の一端が理解できた気がした。以前、正太は「魔法は力である」と蓮乃に説明した。例え棒きれ一本と本気の殺意一つで容易くひっくり返せる程度であるとしても、それが力であることに違いはない。少なくとも他人を負の感情だけで大怪我させられるような代物であることは確かである。しかも理由もなく理屈もなく唐突かつ突然に手渡される力だ。それを手にした人間が、自分の特別さに酔いしれることは枚挙に暇がない。

 そして自信と過信で自己中毒、略して自己中になった人間がどうなるか。正太はイヤになるほど知っている。なにせ正太もかつてその一人だったのだから。目の前で悪意過剰積載の目を向けてくる少年に、かつての自分が重なる気がして、正太の表情がさらなるげんなりに彩られる。思わず吐き出す言葉まで、コミュニケーションへのやる気が失せてしまっているほどだ。皮肉なことにそのお陰で、常なら詰まり気味な正太の口は意外と滑らかに動いた。

 

 「なんだよと言われてもな。見ての通り、人間の男としか言いようがない」

 

 「ふざけてんじゃねぇ、デブ野郎! ハダカザルが何様のつもりだよ!」

 

 正太の疲れ切った言葉で堪忍袋が破れたのか、少年が大声上げて怒鳴り散らす。目尻をつり上げ歯を剥き出し、今にも飛びかからんばかりだ。羽でも生えてそうな天使の顔つきのくせに、角が生えてきそうな悪魔の形相をしている。口から出る言葉も悪魔らしく、毒が滴り落ちるような耳に悪い罵声である。

 少年の悪罵を聞いた正太は、咄嗟に蓮乃へと視線をやっていた。脱出を邪魔されてさらに頬を膨らませた蓮乃は、威嚇の表情を崩してはいないが、何を言われたか理解はしていない様子だ。蓮乃は障害のために他人の言葉を聞き取ることができない。だから取り敢えず「やな奴が大声で怒鳴った」としか判っていない。安堵の息を吐いた正太は、蓮乃に悪いが蓮乃が言葉を聞き取れないことを、八百万の神々とお釈迦様に心底感謝したくなった。

 ハダカザルなんて言葉を聞いて欲しくないし、覚えられるなんて以ての外だ。そしてそんな言葉を当たり前のように吐く奴とコミュニケーションをとる気など綺麗さっぱりなくなった。

 

 呆れかえった正太は、少年と同じく「腕輪」のはまった右手を、少年の眼前に突き出して揺らした。その顔には明確に蔑みの色が混じっている。想定外の事実に、少年の目が大きく見開かれた。

 「ハダカザル」とは魔法使い優越主義者(通称:主義者)がよく使う悪罵の一つだ。主義者が魔法を使えない普通の人間に対して使う蔑称で、魔法使いは進化した人間であり、魔法を持ち得ないただの人間は進化できていないサルと同じ、というような意味の罵倒語彙だ。

 それを魔法使いである正太に口にしていた矛盾に気がついた少年の顔に、恥を感じた表情が浮かぶ。やらかしてしまったと少年の視線が虚空を泳いだ。だが、自己中毒が内省と自省へ麻酔作用を及ぼしたようで、即座に怒りの顔に戻る。反省の色を即座に塗りつぶした少年へ、うんざり顔の正太はため息代わりの返答をこぼした。

 

 「ふざけるも何も、そっちがまともに話をする気もないのに、俺たちが一々きっちり答える筋もないだろ」

 

 「いいから答えろ!」

 

 侮蔑混じりの疲れた顔で正太が発した理屈に、少年は怒りの感情を吐き散らして返答を求める。腹立ちを排出すべく正太はことさら大きくため息を吐くと、半眼で少年を見つめた。

 

 「だったら最低限、質問の内容を明確にしてくれ。で、何について聞きたいんだ?」

 

 「そんなのもわかんねぇのかよ? アンタ頭大丈夫か?」

 

 なるほど、目の前の少年は自分たちと話をしたいのでも、質問の答えを聞きたいのでもないようだ。自分にとって都合のいいお話を、相手が自ら口にしてくれるものだと思っているらしい。

 思う存分に軽んじた表情を浮かべる少年を、正太は哀れみ混じりの顔で見つめる。正太を小馬鹿にする目の前の少年は、最早正太にとっては単なる馬鹿にしか見えない。

 

 「ご心配ありがとう。少なくともお前さんよりは大丈夫だよ。話す気がないんならここらで失礼。それじゃあな」

 

 ならば話をしようと考えるだけ時間の無駄だ。そう結論づけた正太は吐き捨てる言葉で話を打ち切る。正太はコミュニケーション障害の気があるが、それは「嫌われたくないと」「つっかえないように」「意識をしてしまって」話すからだ。嫌われても構わない相手にぶつける感情的な言葉ならば、正太の口は問題なく滑らかに回る。

 続いて、未だ威嚇を続ける蓮乃の肩を軽く揺すった。「待ってました!」と書かれた顔で見つめる蓮乃に、正太は了解の意味を込めて頷いてみせる。途端に蓮乃は正太の手を握り、散歩に飛び出す犬の勢いで駆けだした。どうやら蓮乃の方も随分と辟易していたらしい。引っ張られた勢いでもつれそうになる足をどうにか調整しつつ、正太も小走りで蓮乃の速度に合わせる。呆気にとられた少年の横をすり抜け、二人は「となりまち図書館」へと走り出す。

 

 「待てよ、オイ! 何やってんだよ!」

 

 その背中を焦りに焦げ付いた声が追いかけた。正太が首だけ振り返って見てみれば、泡を食った少年が大慌てで走り出すところだった。正太の手を引く蓮乃にも少年の声が聞こえたらしく、少年に向けて上半身だけで振り向く。そして繋いでない手で下まぶたを引き下げて、ついでに血色の良い舌を大きく出した。舌とまぶた裏の赤が、流れる血のごとく白い肌に鮮烈に浮かび上がる。つまり単なるアッカンベーである。

 首を戻してそれを見た正太は渋い顔を浮かべる。確かにこの少年もといクソガキは少なからず腹立つ奴ではある。だが、嫌いな相手だからといって自分から挑発するのは問題ありだ。しかし、自分も自分でクソガキに色々言っているし言える立場ではないのかもしれない。でも、それを良しとして終いにするのは色々と……

 

 「待て、待てって言ってんだろ! 聞こえねぇのかよ!?」

 

 ネズミ車で堂々巡りをする正太の思考を、少年の大声が中断に追い込んだ。意外に距離が近い。振り返ってみれば、先ほどより正太の身長足すことの蓮乃の身長程度は近づかれている。少なく見積もってまだ一〇mはあるが、声が近づいていること考えれば時間の問題でしかない。

 正太を引っ張って疾走中の蓮乃だが、足はさほど速くはない。むしろ遅い。太めな上に運動不足の正太が小走りですむ程度だ。公園が珍しいくらいに外出する機会が少なかったインドア生活なことを鑑みれば、ずいぶんとマシな速度と言える。だからといって、少年より遅いことに違いはない。

 そして追いつかれればどうなるか。少年の今までの態度を思い出せば、ろくな結果とならないことは明白だろう。渋い色の皺が正太の額に増える。正太は少年の魔法を知らない。だが、どんな魔法であれど使い方如何で、他人を傷つけられることは知っている。そして下手をすればクソガキな頭の中身を現実にしようと、少年が違法な水準で魔法を行使する可能性があり得る。それは「特殊能力違法使用」であり明確な犯罪だが、自己中な態度と主義者な思考からして躊躇うとは思えない。

 

 なら、こっちが先手を取るまで。正太は胸の内でそう決めて、小走りの足を緩めた。手を引っ張られる正太が速度を落とせば、当然引っ張る蓮乃のブレーキとなる。急いで脱出したい蓮乃にとって、正太の行動は想定外もいいとこだ。

 

 「にーなーっ!?」

 

 疑問と焦燥らしき声を上げつつ、蓮乃は手を引っ張り正太を急かす。急がなければあのやな奴がやってくるのだ。だから、急いで図書館に行かなきゃいけない。そんな心情を知ってか知らずか、正太は蓮乃の肩を軽く押しとどめる。そして繋いだ手を離すと、蓮乃を背にして向き直った。ちょうど迫ってくる少年から立ちふさがるような位置になる。蓮乃が正太を盾にしていた時と変わらない位置関係。

 異なるのはそれぞれの心境、そして正太の行動だった。先のように何もしないまま盾になるのではなく、正太は膝を突くと蓮乃に向けて自分の背中を叩いて見せた。正太からは見えないが、それを見る蓮乃は困惑を顔に浮かべている。何らかの意図のある行動であることは蓮乃にも理解できる。しかしその意図が判らない。その間にも少年は急いで迫ってくる。

 蓮乃が判っていないことが判ったのか、正太は辺りを急いで見渡す。さっき見た筈だ。お目当ての者はすぐに見つかった。幼児を「背負った」母親の姿。それを指さし、正太はもう一度背中を叩く。

 

 「んっ!」

 

 「何、してんだよ、お前ら!」

 

 今度は意図をしっかりと理解できた蓮乃は、元気良い返答とともに正太の首にしがみついた。正太も両手を背中に回して蓮乃を支える。それとほぼ時を同じくして、ようやっと少年が追いついてきた。今から負ぶわれようとしている蓮乃を見て、荒い息の少年は途切れ途切れに大声を上げる。

 正太からすれば「何してんだ」と言われても、見たままにおんぶしようとしているとしか答えようがない。もっとも少年の態度からして正太には答えるつもりはないし、少年の方も質問を口にしたわけではないようだ。単なる詰問と文句付けだろう。

 

 「くそっ、このっ、やめろよっ!」

 

 そして正太の想像通りに、正太の背中にしがみついた蓮乃を引きずり降ろすべく、少年は横に回ろうとした。全力疾走してきた直後だけあってさほど素早い動きではないが、正太もまた膝を突いているので直ぐに向き直ったりはできない。

 ならばと正太は腹筋に力を込めて急いで立ち上がる。最近何度も腰をいわしているから、ここは慎重に行いたい処だがそんな暇はない。幸い蓮乃は想像より軽いが、年相応の重さはあるようだ。想定より軽すぎるとぎっくり腰の原因になるそうだからこれは助かる。実に有り難い。

 

 立ち上がった正太は、蓮乃の軽さを後ろ手に組んだ両手に感じつつ、横合いから蓮乃を引き下ろそうとする少年に向き直った。少年は蓮乃よりは幾らか足が速いが正太よりは遅い。小走りで蓮乃に合わせていた正太に、全力疾走で何とか追いつけた辺りが証拠だ。蓮乃を背負った分の速度低下を正太は考慮から外しているが、その対策は打ってある。

 未だ蓮乃を引きずり降ろすことを諦めていないようで、少年は繰り返し横に回ろうとする。その度に正太は少年に向き直った。こいつの好きにさせてやるつもりなど一片もない。

 同時に正太は深い呼吸を繰り返し、明確なイメージを形作る。へその下、丹田の位置に、沸々と煮えたぎる溶岩めいた熱量(カロリー)をイメージする。正太の魔法「熱量操作」を使う為の下準備だ。後は心臓で熱量(カロリー)を汲み上げて、必要な場所に流し込むだけ。

 

 「このデブ野郎! これでも食ら……」

 

 そして「特殊能力違法使用」を警告する少年の「腕輪」の電子音を合図に、正太は汲み上げた適正量の熱量(カロリー)を下半身中心に流し込んだ。当然、「腕輪」が反応しない合法使用の範囲に収めている。

 両方の足が送り込まれた血液と熱量で一気に膨れ上がり、ズボンの太股がパンパンに張りつめる。急上昇の体温に対抗して冷却水代わりの汗が吹き出すが、瞬く間にわずかな塩を残して蒸発していく。前のいじめ以前なら「熱量加給・下肢増量」と呼んでいた魔法である。これにより正太は、一〇〇m走の速度でフルマラソンが可能となるのだ。

 続けて両足に流し込まれた熱量(カロリー)が求めるままに、太股とふくらはぎの筋肉に「走れ」と神経電流を送り込んだ。次の瞬間、正太の肉体は瞬時にトップギアに入り、音速飛行の戦闘機の気分で駆けだしていた。吹き飛ぶ汗の蒸気が音速雲(ヴェイパーコーン)、空冷されていく熱が推進噴射(ジェットストリーム)代わりの心地だ。

 

 「待てよ! 待てって言ってるだろ! 畜生!」

 

 少年の声を置き去りに、蓮乃を負ぶった正太は一路「となりまち図書館」向けて疾走する。正太にしがみついた蓮乃の黒髪が残像じみて二人から延びる。その持ち主である蓮乃が振り向くと、少年の姿は前後逆の望遠鏡で見つめたようだった。すでに今日初めて見つけた時の少年の人影より小さい。その姿向けて、蓮乃はもう一度下まぶたの裏と舌全体を見せつけた。

 

 「べーーーっ!」



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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その四)

 公共の施設は得てして冷光色を好んでいる。赤みのかかった電球色は温感を見る人に感じさせるが、正確に物を見る際にはその色合いが邪魔になる。一方、寒々しくも清潔感のある冷光色は物体の色彩をそのままに表すことができる。それ故、正確さを求めるお役所関係は必ずと言っていいほど、かつての蛍光灯と同じ色の冷光色EL灯を利用する。

 しかし、同じ公共施設といえども「正しく」文字を読むことを求める役所と異なり、「心地よく」文字を読むことを是とする図書館は、例外的に暖かみの強い電球色で満ちているのだ。

 

 「ほわぁーーー!」

 

 正太が初めて聞く音声で感嘆を表現する蓮乃の目には、オレンジのかかった電球色で照らされる「となりまち図書館」内部の風景が写っている。

 まずランプをかたどった暖色のEL灯が、木材の落ち着いた色合いと調和して、空気まで安らかに感じるような居心地の良さを醸し出している。空気調和設備も快適で最適な温度に保たれ、くつろぎを決して阻害しない。さらに耳に入るのも、本のページをめくる音、筆記具が紙を擦る音、僅かな話し声と、決して気には留まらない心地よい静寂感に満ちている。

 

 そしてその静寂を大いに破っているのが、蓮乃の感嘆だったりする。読書中の皆様方から冷光色の視線が二人に突き刺さる。クソガキから逃れるために蓮乃を抱え魔法を使っての全力疾走で正太は汗だくだった。加えて、蓮乃の大声のお陰で追加の冷や汗と脂汗が吹き出てくる。こいつはまずい。

 

 「シーッ!」

 

 焦り顔の正太は、立てた指を口にあて、歯を剥いて息を思い切り吹き出す。世界共通だろう「静かに!」の合図だ。ついでに指を立てていない手で、壁に貼られた『図書館ではお静かに!』の注意書きを指さす。唐突な正太の行動に、蓮乃はびっくり顔で静かになった。正太はほっと息を吐く。

 

 「驚かせるんじゃねぇやい」

 

 餌を貰い損ねた豚の面で、ぶすくれた正太は文句の言葉をこぼした。無論、蓮乃が言葉を聞き取れないことを理解している。単なるボヤキの独り言である。だが、それを蓮乃は聞き咎めたようだ。

 

 「しーっ!」

 

 蓮乃は細い指を立てて口に当て、剥いた白い歯の隙間から息を吹き出す。正太の焼き直しな「静かに!」のジェスチャーを、蓮乃は当の正太に向けてやらかした。最も、先の正太の焦り顔とは異なり、蓮乃の表情は楽しげな笑い顔である。正太への意向返しを含んだ真似っこだ。

 それを見て正太が疲れた苦笑をこぼすより先に、視界の端からくすくすと堪え損ねた忍び笑いの声が聞こえた。眼球だけを動かしてみれば、図書館受付で眼鏡の若い女性司書が、口に手を当てて肩を震わしている。ついでにその横では白髪の混じった年かさの男性司書が、その態度を注意を込めた視線で見つめている。先輩だろう男性司書の目つきに気がついたのか、首を竦めた女性司書が正太と蓮乃と男性司書に目礼で謝罪する。

 

 苦笑を深めた正太は詫びは不要と眼前で左右に手を振った。蓮乃も真似して顔前で前後に手刀を振る。当然、何で正太が振っているのかは理解していない。正太が見る限り、蓮乃は謝罪されたことにも気がついていないだろう。正太の苦笑が呆れの色を帯び、忍び笑いの衝動を堪えて女性司書の顔が歪む。周囲を見てみれば、さっきまで冷たい非難の視線を向けていた人々の目が、生暖かい好奇の視線を放っていた。こいつはまずい。

 強烈な居心地の悪さに襲われた正太は、首をすくめながら蓮乃の背中を押して移動を促す。別段拒否する理由もない蓮乃は促されるままに、手足を大きく降って歩き出した。正太は幼児の手押し車を使っている心境で、蓮乃をとなりまち図書館の中央へと誘導していく。そこには長机の両辺にずらりと並んで、フォトスタンド風の検索端末と弁当箱じみたカードリーダーが鎮座していた。

 

 「ほぉ~~、っ! んむ……」

 

 壮観なELディスプレイ端末の列に蓮乃が再度感嘆の声を上げかける。が、先ほどより音を潜めた「静かに!」のジェスチャーで正太に沈黙させられた。感動を邪魔されてすねた顔で唇をとがらせる蓮乃。だが、ふと周囲を見渡すと、何かに気がついたのか正太の裾を繰り返し引っ張った。

 

 『兄ちゃん、本はどこなの?』

 

 読書をしに図書館まできたのに、読書中の人間の手元を除けば、蓮乃の視界の何処にも書籍が存在しないのだ。

 となりまち図書館の内部は、大きく四つのスペースに分かれている。二人の目前にある中央の検索スペース。先ほど笑われてしまった司書のいる北側の受付スペース。一人でじっくり読書したい人向けの個人用ソファーの並んだ東スペース。勉強等の作業も考慮し一人当たりの空間が十分に取られた、大きな長机と椅子の並ぶ西スペース。

 そのどこにも図書の並んだ書棚はない。図書がないのに図書館とはこれ如何に。蓮乃にとっては不可解きわまりない話だ。

 

 『本は端末で探して、受付で受け取るんだよ』

 

 だが、一般常識を持ち合わせている正太にとってそれは当たり前の話である。

 電子書籍全盛の現代において、高価で希少な実物本を書棚に並べている図書館なんぞ、国立図書館でもなければそうそうない。電子タグとゲートを用意すれば盗難対策は出来るが、誰でも手に取れる書棚に陳列していては汚損の可能性は十分にある。それ故、図書館内での読書であっても、登録カードを差し込んで端末で検索し、登録カードを見せて受付で受け取るのだ。

 そこまで会話ノートに書き込もうとしたところで、正太は向井一家が住まう一〇4号室の内部を思い出した。そう言えば、前の時(第一部参照)中に入る羽目になったが、絵本のみならず小説などの実物本が幾つも置いてあった。宇城家同様に向井家も、今時珍しい実物本派閥らしい。そしてそんな環境で育った蓮乃が、実物本が置かれていない図書館に疑問を覚えるのもっともだ。

 だからだろう。正太の書いた文を読んでみても、蓮乃の顔に浮かぶ疑問の色は薄れても消えそうにない。言われただけじゃ納得は出来ないと、顔にくっきり書いてある。つまりは百「文」は一見にしかずということだ。

 

 そう理解した正太は『見てろ』と書いて蓮乃に渡すと、ポケットの財布から登録カードを取り出して端末に相対した。登録カード表面の電子ペーパーには、正太の個人情報と登録番号、そして借りている『殺魔忍』シリーズ最新巻タイトル『漢銃道決死圏』他が記されている。

 その登録カードを持った腕の脇の下から、蓮乃が首を突っ込むように端末をのぞき込む。なんでそこから顔を出すと正太の顔が一瞬渋るが、とりあえず端末が見えるならいいと気にしないことにして、登録カードをカードリーダーに差し込んだ。ついでに受付から向けられている、女性司書の視線も意図的に無視する。そうこうしているうちに『ようこそ!』の文字と共に、公立図書館共通の検索ソフトウェアが起動した。『フリー単語検索』『ジャンル検索』『番号検索』と味も素っ気も愛想もない項目が映し出される。

 とりあえず、『フリー単語検索』から使ってみせるかと手を伸ばすと、蓮乃のへちゃむくれた顔が目に入った。押し潰れたように顔をしかめて、蓮乃は正太にノートを突き出す。

 

 『兄ちゃん汗くさい』

 

 だったら脇の下から顔出すんじゃねぇよ。正太のこめかみに青筋が走る。図書館に入るまで、正太は少年に追いつかれないように、魔法を使い蓮乃を負ぶって全力疾走していた。図書館の空調のお陰である程度汗が引いてきたとは言え、走りに走って汗だくだったのだから汗くさいに決まっている。

 しかし、正太のそんな事情など気にすることなく、蓮乃はへちゃむくれのむくれ成分を増した顔で、臭いを遠ざけようとノートをパタパタ仰ぐ。

 臭いならいい加減退けばいいだろうと思うが、この唯我独尊独立独歩娘を相手するには、こちらが動いた方が手っ取り早い。蓮乃同様の不快顔の正太はそう判断したが早いか、腕を上げると逆の手で蓮乃を押し出した。

 

 「あーっ! っんむ~」

 

 なぜか抗議の声を上げる蓮乃を「静かに!」の手振りで抑えると、正太は自分と端末のスペースに蓮乃を押し込んだ。多少は汗くさいだろうが、脇の下よりいくらかマシだろう。それからバツ悪げに周囲を見渡し、「またか」と書かれた迷惑そうな顔に目礼で謝罪すると、色々こもったため息をこぼした。臭い臭い言っているくせに、なんでまた脇の下にそう拘るんだコイツは。

 一方の蓮乃は無理矢理移動させられたことにぶすくれた表情を浮かべるも、背後に正太の程良く出っ張った皮下脂肪があることに気がつくと、満足げに背中をもたれさせた。蓮乃のさほど重くもない体重をかけられて、正太の腹周りが柔らかく歪む。

 

 「んふー」

 

 そういや最近、蓮乃の奴はやけにボディコンタクトを取りたがるが、その一環なのだろうか? しかしだからといって、臭腺の密集する脇に頭を突っ込むんでおきながら臭いと文句を言い、それでいて引っ剥がそうとするとこれまた不満をぶーたれる。そのくせ人の腹に体重預けてご満悦とはこれ如何に。

 蓮乃の行動を理解不能の体で見つめる正太。だが、とりあえず暴れて大声を上げる可能性はないと理解すると、お得意の思考停止をして端末操作の続きに戻ることにした。

 

 正太が画面の『フリー単語検索』と書かれた項に軽く触れると、五〇音表が整然と並ぶ文字入力画面に移行した。『さつまにん』と打ち込み、漢字変換で文字を『殺魔忍』に変えると『検索』をタッチする。すると、ずらずらと『殺魔忍』シリーズの題名が一覧として現れた。発行順に『彩玉大炎上』『陰勲社襲来』『花魁危機一髪』……と続き、最後に最新巻『漢銃道決死圏』が表示されている。正太は『花魁危機一髪』を選択し、『貸し出し』と『検索終了』の項に触れる。『花魁危機一髪』が新しく記載された登録カードが、軽い音と共にバネ仕掛けで飛び出した。

 

 「ほわっ!?」

 

 正太の腹の上でリラックス体勢だった所に不意を打たれたのか、驚いた蓮乃が背を反らして跳ねた。背部に何もなければそのまま転がり、堅い物があれば後頭部を大いにぶつけていただろう。幸い背後にあったのは正太が一〇年以上かけて育てた皮下脂肪であり、それが柔らかく衝撃を分散してくれたお陰で、蓮乃には怪我も何もない。「ほー」と長く息を吐き、蓮乃はびっくりの心境と心臓を落ち着かせる。

 

 「……っ!?」

 

 一方、その衝撃を鳩尾近くに叩き込まれた正太は、息を詰まらせて目を白黒させている。登録カードが飛び出すのは想定通りだったが、蓮乃の頭が飛び出すのは想定外だった。それが自分の鳩尾に強打を打ち込むのは想像すらしていなかった。しかも息を吐ききったタイミングだから、うめき声一つ吐けやしない。意識外からの奇襲に、息の根を止められた心境である。お陰で横隔膜がしゃくりあげて今にも泣き出しそうだ。

 

 常とは別の意味でひきつった顔の正太は、酔いどれのステップで端末机から離れると、無理矢理の深呼吸で痙攣しかける横隔膜をあやしにかかる。しゃっくり程度で収まればいいが、呼吸困難は勘弁願う。妹分に鳩尾頭突かれ息の根止まってあの世行きなんぞ、死因を書く医者が笑い死んで冥土の道連れを作りかねない。末代まで爆笑確定の死に方は御免被る。

 

 「ヒィ、ヒィ、フゥー。ヒィ、ヒィ、フゥー」

 

 鳩尾を押さえてラマーズ法な呼吸を繰り返し、正太は必死で気息を整える。蓮乃は不可思議と書かれた表情でそれを見つめている。頭蓋を叩き込んだ認識のない蓮乃からすれば、突然離れた正太が妙な呼吸を始めたようにしか見えない。新しい遊びかなんかだろかと、額にしわを作って考え込む。正太からすれば、おまえが原因だろうと殺魔忍の主人公よろしく手刀の一つも落としたい所だが、今はそれどころではない。

 

 「ヒィ、ヒィ、フゥー」

 

 「ヒィ、ヒィ、フゥー?」

 

 青い顔で呼吸を整える正太に合わせて、首を傾げた蓮乃もラマーズ法を真似し出した。元々、ラマーズ法は出産時に痛みを抑えるための呼吸法である。正太がやるより、蓮乃の方がある意味筋は通っている。しかし、おまえがそれをするのはあと十年は先だろうが。いつもの条件反射でツッコミをいれかけて、正太の気管に唾液が飛び込んだ。

 

 「ヴェッホッ! エッボ! グホッ!」

 

 「なーも!」

 

 胸を押さえて咳込む正太を見て、こりゃ大変だと蓮乃が急いで近づき丸まった背中をさする。咳と一緒に飛び出しそうになる色々を手で押さえながら、正太は呼吸器官に無理強いてあえて肺の中身を吐ききった。

 

 「ヒーッ、ヒーッ、ハァー」

 

 吐けるだけ吐けば、あとは吸うだけ。空手の息吹法よろしくあえて気息を吐ききることで、正太は力ずくで呼吸の調子を戻したのだ。脂汗が滲む額を拭い、撫でさする蓮乃の手をのけて大丈夫だと表情で伝える。深呼吸繰り返して、駄々をこねていた横隔膜もようやく大人しくなった。

 正太は脈打つ胸に手を当て考える。往路のたたら踏み、魔法使用の全力疾走、そして今度の呼吸困難。繰り返される過剰業務にいい加減心臓がストを訴えそうだ。深呼吸で騙されてくれるのも限度があろう。この先八十年は付き合ってもらうのだから、もう少し労ってあげるべきか。

 正太の気持ちが伝わったのか、心臓はストを取りやめ平時の運用に戻った。安堵の深呼吸で賞与の酸素を心筋に送っていると、ふと周囲の視線に気が付いた。周りから送られるのは、なま暖かさ半分迷惑半分の中途半端な眼差しだ。強烈な居心地の悪さと据わりの悪さを覚えて、正太は背中をもう一段折り曲げる。

 

 「にーまぁ?」

 

 折り曲げた背中に蓮乃の細い手が添えられた。言葉の意味は判らないが、込められた気持ちはよく判る。さすらんでいいよとその手を優しく退けるが、そもそもの原因は蓮乃である。しかし、当の蓮乃にその自覚は一片もない。

 

 『背中をさすってくれてありがとう。ただし、みぞおちは人間の急所だから、頭をぶつけたりしないように』

 

 なのでそれを自覚してもらうことにした正太は、蓮乃に注意文を書いて渡した。失敗で一番肝要なことは自覚と反省にあると正太は考えている。自覚と反省がなければ、人間は何度でも同じ失敗をやらかすからだ。正太自身がそうだった。それにそう両親からも躾られている。

 手渡された文章を、前半ドヤ顔後半首傾げで眺める蓮乃だが、十秒少々で自分のやらかしに気が付いたのか、理解と後悔と罪悪感の表情となった。所在なく目線を泳がす蓮乃に、正太は白紙のメモを突きつける。指先でメモを叩いて存在を主張する正太に観念したのか、蓮乃は視線を遊泳さながらではあるが、メモに『ごめんなさい』と小さく文字を連ねた。

 

 謝罪の文字を見て正太は「よし」と頷くと、蓮乃の目の間に今度は登録カードを差し出した。それと同時に用意してた二枚目のメモを突き出す。

 

 『次はおまえが検索してみるか?』

 

 「っん!」

 

 メモを目にした瞬間、蓮乃の首が激しく上下する。大声で喜ぶんじゃないかと正太は一瞬危惧したが、蓮乃は器用なことに声を出さないように元気よく答えて見せた。

 安堵する正太から登録カードを受け取ると、即座に端末に向き直りカードをリーダーに差し込む。そのまま躊躇いも淀みもなく、流れるような動きで端末を操作し始めた。

 目を見張る正太を後目に、蓮乃はまるで手慣れているかのように端末を動かしていく。蓮乃が図書館にきたのは今日が初めてである。しかし蓮乃が端末を扱う手つきは、毎度のように図書館に足を運んでいる正太のそれよりも滑らかだった。たった一度、正太が見せただけで使い方を覚えたのだ。それも、覚え忘れや曖昧な部分のない完全な形で。

 クッキー作れば砂糖と塩を間違える、ON/OFFオンリーぶきっちょ娘だと思っていたが、変なところで妙な才能を示すものだ。正太が感心半分唖然半分で蓮乃を眺めていると、あっという間に端末操作を終わらせた蓮乃が振り返って、ノートと一緒に登録カードを突きつけた。ある意味当然の、いつも以上なドヤ顔である。

 

 『すごいでしょう!』

 

 差し出された登録カードの表面には、和風ファンタジー児童文学『防人』シリーズの四作目『神話の防人』のタイトルが電子ペーパーで表示されている。『防人』シリーズは、日本中心にアジアンテイストな幻想世界を描いた児童文学で、宇城家子供部屋の書棚にも最新作まで全て存在している。当然のように蓮乃も一通り読んでおり、時々主人公の薙刀使いの真似をしようと箒を長獲物代わりに振り回しては、正太からお叱りのチョップを頂いたりしている。

 今日はファンタジーな気分らしい蓮乃は、自信満々なしたり顔で言外に「ほめろほめろ」と尻尾を振っている。そのおつむりを正太は優しく撫でる。実際スゴイと正太も思う。図書館の検索端末が万人向けの簡素で簡単な代物だとは言え、初めて触れる人間が見ただけで完璧に使いこなすのは余程のことと言えるだろう。

 くしゃりと絹糸の髪を撫で崩すと、一緒に蓮乃の首もふわりと揺れる。ついでにとろりと笑顔が溶け崩れた。にへへと蓮乃のとろけた笑顔につられたのか、正太の笑みもにひひと柔らかい。小さな頭を正太が一撫でする度にシチューのジャガイモの具合で蓮乃の笑みがさらに煮くずれる。

 このまま続ければ最後には完全な液体になるだろうが、それは困る。とろけきった蓮乃を入れる寸胴鍋の用意はしていない。蓮乃は寸胴体型だが、液化した当人を鍋にする訳にもいかんのだ。

 

 名残惜しく蓮乃の頭から正太が手を離すと、不満と未練が垂れ落ちる顔で蓮乃が見つめてきた。そんな顔されても困ると柔らかな笑みに苦みを足して、正太は平手で蓮乃を抑える。ぶすくれふくれっ面になった蓮乃から登録カードを受け取ると、正太は親指で受付を示した。検索は読みたい本を探すためにやったのだ。実物本を受け取らないなら片手落ちだ。事情を察して膨れ面から空気を抜いた蓮乃は、正太の袖口を引っ張り小走りで受付へと向かう。そう急くなと苦笑を深め、引きずられる正太は蓮乃のペースを調整しつつそれに連れられる。

 

 その光景を恍惚の表情で女性司書が見つめていたが、二人が来ると判って即座に、受付らしい柔和で人畜無害な笑顔に切り替える。隣の男性司書は、まだ女性司書の異貌に気が付いていないようだ。

 幸運にも書物待ちの列に並ぶ人間はなく、正太と蓮乃は登録カードを手渡してすぐさま、検索した二冊を受け取ることができた。

 

 「こちらが『殺魔忍』シリーズの『花魁危機一髪』、『防人』シリーズの『神話の防人』になります」

 

 「どーも、ありがとうございます」

 

 「なーも、ありあとどぜーなす」

 

 女性司書から登録カードと『花魁危機一髪』『神話の防人』の二冊を受け取り、正太と蓮乃は軽く頭を下げると書物待ちの列から離れた。蓮乃の言葉になっていない舌っ足らずな言葉に、女性司書の目が一瞬血走ったが、二人に気づく気配はなかった。

 

 「なーも、なーも」

 

 「ほれ、落とすなよ」

 

 蓮乃のせがむ声に、正太は『神話の防人』を手渡す。満足そうな顔で分厚いハードカバーを抱き留める蓮乃を見て、正太は柔らかな表情で笑った。さて、後はどこで読もうか。やっぱり、ソファーでゆったり読むのがいいだろう。

 正太が蓮乃の肩を軽くたたき、一人用ソファーの並ぶ東スペースを指さす。察した蓮乃は上半身全部で頷くと、正太を置いて小走りで東スペースへと駆け出した。それを見て正太の顔が微妙な具合に変形する。そのまま蓮乃の背中から視点をスライドすると、壁には『図書館ではお静かに!』の警告に加えて、『図書館は運動場ではありません』との注意書きが記されている。サッカーや野球はもとより、図書館内で駆け回るのも許されないだろう。さっきもやらかしたが小走りは是非のどちらだろうか。

 取りあえず追いついてからだと、『花魁危機一髪』を小脇に抱えて正太も早足で蓮乃の後を追う。その蓮乃はくるりと振り返ると、正太を呼ぶように犬の尾っぽよろしく片手をぶんぶんと振った。正太の顔の微妙度合いがさらに深まる。先の注意が利いたのか、少なくとも声を上げる気配はない。しかしながら、大げさなボディランゲージで雄弁に語るのはいかがなものか。

 ついでに蓮乃の表情も実に雄弁である。「一緒に読もう!」と言わなくても判るくらいに、正太の到着を待ちかねている。するとその顔がなにやら驚愕と嫌悪に彩られた。声は無いが「あーーーっ!」とか叫んでいる雰囲気が見て取れる。大仰な指さすジェスチャーからも「ビシッ!」みたいな音響効果がついていそうだ。

 

 そこまで思考を進めた所で、ようやっと気が付いた正太は後ろを振り向いた。蓮乃の視線の先には、汗にまみれて肩で息する年若い男子の姿。戦に望む天の軍団めいたその顔には実に見覚えがあった。主に嫌な意味で。

 正太と蓮乃。お互いの表情が意図せず同じ具合に歪んだ。二人の耳に「少年」の大声が届いた。

 

 「いたっ!」



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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その五)

 蓮乃の鏡写しの体勢で、少年は正太と蓮乃の中間あたりに指を突きつける。ゼイゼイと荒い息を付きながらも、怒りの尽きるそぶりはないようで指さす手は小刻みに揺れている。

 しかし怒りが尽きないのは二人もまた同じだった。図書館に来るまでのやりとりを再生表示するように、燃える怒りの蓮乃は食いしばった歯を見せて威嚇の唸り声をあげる。一方、静かな怒りを覚える正太は、盾になれるように少年と蓮乃の一直線上に身体を差し込んだ。

 随分としつこい。このクソガキはいい加減にできないのだろうか。いや、できないからクソガキなんだろうな。音もなく煮える腹の底で自問自答をしながら、正太は少年が飛びかかる場合に備えて、わずかに腰を落とし膝を矯める。その背中に蓮乃が寄り添うと、横合いから顔を出して真っ白い歯を剥いて見せた。

 

 「ぬ~っ!」

 

 噛みつくぞと脅しの声を絞り出す蓮乃の唇に、正太は本を抱えていない手の一本指を立ててそっと当てる。「静かに!」のジェスチャーに蓮乃は声を落としたが、剥いた歯はそのままだ。ついでに眉根のしわもつり上がった目にも変化はない。蓮乃には声を静めても闘志を鎮めるつもりはない。やな奴相手に、敵意を抑える理由などないからだ。

 そんな敵意全開の蓮乃と同質の戦意を秘める正太向けて、少年は大股で歩み寄る。当然、心情的に歩み寄る態度は全くない。深い呼吸で少年に備えながら、正太は胸の内で嘆息する。魔法使って撒いても粘着を止めないとは恐れ入る。よほど癇に障ったのか、それとも一度受けた屈辱は返さないと死ぬまで納得しないタイプなのか。

 どちらにせよ、ここでどうにかしないと家まで付いて来かねない。丹田の位置にまだ十分に熱量(カロリー)があることを確認し、覚悟を決めた正太は深呼吸して魔法使用の体制を整える。公共施設内で使いたくはないが致し方ない。屋外の害は家に持ち込まないのが当然だ。こんなビービーうるさい害鳥のせいで、家族に迷惑がかかるなど想像もしたくない。

 

 「勝手に逃げ回りやがって! もう容赦しな……」

 

 手の届く距離まで近づき、大声を張り上げる少年。そこに周り中から迷惑と刻まれた白い視線が突き刺さった。図書館は静かに本を読む場所であり、悪意をむき出しにして怒鳴りあう場所ではない。冷たい目線で針山になって、いい加減少年は周囲の視線に気づいたらしい。居場所のない顔で罵声の飛び出る口を噤む。

 これでいい加減に止めてくれれば正太としては楽なのだが、この少年の辞書に反省の二文字がないことを正太は知っていた。図書館に来る前も、正太に思いこみで間違った罵声をぶつけておきながら、一瞬しか省みることなく即座に敵意を噴出させていた。

 今回も同じでばつが悪いと書いてある表情の直後に、お前が悪いと言わんばかりに正太へと殺意を込めて睨みつける。それに応えて、睨む蓮乃の顔に険が追加される。少年を睨み返す正太の目線にも蔑みが加わる。一触即発のニトログリセリンじみた雰囲気が満ちていく。だが、引火性の空気に受付から冷水が浴びせられた。

 

 「図書館は公共の場です。周囲の迷惑になるような行為は慎んでください。それから図書館ではお静かに」

 

 放つ言葉は静かだが、帯びた空気は氷点下だった。図書館は静かに本を読むための公共施設である。その環境を維持管理するも司書の業務の一つだ。仕事を邪魔された怒りは至極当然のものである。隣の女性司書もひどく困った顔をしている。なお、男性司書が声を上げるまで、牙剥く柴の子犬の体で威圧していた蓮乃を、皿のような目で見つめていたのは彼女の秘密である。

 流れる水も凍り付く声に、流石の少年も口を噤む。代わりに激しく床を踏み、不平不満と書かれたふてくされた表情を浮かべた。

 男性司書の言葉に正太も構えを解く。ただし、蓮乃を背中に置いたまま、少年から盾になる位置関係を崩しはしない。落とした腰も撓めた膝もそのままだ。背中の蓮乃もまた警戒を顔に浮かべたまま。

 

 三人は微妙な距離を置いたまま、微妙な時間が経過していく。だが、不意に正太は膝を立て腰を戻した。少年は最低限ではあるが他人の言葉を聞き入れて見せた。公園の時との違いは周囲の視線だ。人の目があるなら、警戒は解けなくとも、戦闘前提にまでしなくてもいいだろう。正太はそう判断したのだ。

 次いで正太は受付に向けて深めに頭を下げる。うるさくして済みません。これ以上そうせざるを得ないなら、外でするようにします。そう意味を込めてだ。正太の意図が通じたのか、司書二人の表情がいくらか和らいだ。

 

 「チッ!」

 

 それを即座に台無しにしてくれたのが、少年の舌打ちの音だった。周囲が聞こえる音量で鳴らしたのは意図的だろうか。受付の二人の顔が強ばる。例え正太の側が迷惑を望まなくても、少年が迷惑を振りまいてくれるだろう。そう思わせてくれるタイミングだった。だからといって正太の側も負けてはいない。それに答える人材は正太の側にもいるのだ。正しくは側ではなく後ろに。

 

 「なうっ!」

 

 少年の敵対的な舌打ちに、器用にも小声で叫んで応えた蓮乃は、シャドーボクシングのつもりかパンチを虚空に連打する。先の正太の注意が効いたのか、声を上げずに正太の背部から身体半分だけ出して、スナップの利いたフック気味の打撃で威嚇している。ただし、やっているのがガキンチョ全開犬コロ娘の蓮乃のため、仮想の猫を相手にネコパンチを応酬している姿にしか見えない。犬のくせに猫とはこれ如何に。なお、猫はネコ目ネコ科に、犬はネコ目イヌ科に属する。

 明後日遙かに越えて一週間前の方向に突っ走る蓮乃に、正太は少年相手の時とは別の意味で大いにげんなりした顔をしている。人がシリアスな態度するといっつもこれだ。こいつはギャグ時空にでも生きているのか。

 一方の少年は、正太相手の顔つきとは違う色合いの表情で蓮乃を見つめている。正太を睨みつけるときの、蔑意と敵意と悪意を煮込んだそれとは、同様に複雑だが随分と毛色が異なる。

 ついでに女性司書は蓮乃を法悦の顔で見つめている。何かが漏れるのか口と鼻を押さえるも、「あぁ……いい……」という喜悦の呟きが漏れている。

 

 三様の顔で蓮乃を見つめる三者の内、真っ先に行動を始めたのは正太だった。背中から身体半分出して傾いだままシャドーネコパンチを続ける蓮乃に触れ、肩を押すようにして東のソファースペースを示す。これ以上こうしていても時間の無駄で周りの迷惑にしかならない。なら、さっさと移動して読書にいく方がいい。少年もといクソガキが邪魔するなら、それを理由に追い出してもらえばいい話だ。

 正太の意図を察したのかは不明だが、蓮乃は無言で雄弁に頷くと正太の誘導通りに東のソファースペースへと歩き出した。その少し後ろを、常に少年と蓮乃の直線に位置取りながら正太がついて行く。少年という危険を認識してか、先とは異なり蓮乃は走り出すことはなく正太と歩調を合わせている。

 ちらりと二人が振り返れば、地団太よろしく床を踏んで苛立ちを表現する少年が見える。急いで駆け出したくても、周囲の目線と正太のガードで動けないようだ。先の司書からの注意のためか声こそあげてはいないが、その代わりと言わんばかりに、床を踏みしめ舌打ちを繰り返しながら歩き出した。周囲の利用者と司書の目は険しくなる一方だ。正太と蓮乃の目は最初から最大で険しい。

 

 平行線状に並んだソファーの一番端に蓮乃を誘導して、背もたれを叩き座るように促す。了解の意味を込めて大袈裟に頷くと、弾性木綿のクッションに尻から飛び乗った。竹繊維材を枠に使ったソファーは、軋み一つ立てずに蓮乃の体重と速度を受け止めた。となりまち図書館の一人用ソファーは綺羅亜麻(キラアマ)リンネルの布張りで、ちょっと高級な代物である。正太の脳裏に税金の無駄遣いという単語が浮かぶが、これからそれに座って読書を楽しむのだから有効活用だと思い直す。

 正太も蓮乃の左隣に腰を下ろすと、これまた軋みもなく正太の随分な体重を、ソファーは弾力豊かに受け止めた。手のひらの触覚が、綺羅亜麻リンネルの肘掛けが実に滑らかに織り上げられているかを教えてくれる。蓮乃も同じ感想を覚えたのか、「ほぉー」と間の抜けた感嘆の声が隣から聞こえてきた。

 

 これで余計な代物がなければ最高の読書を楽しめるのだが、この世はそこまで都合良くはないらしい。正太は背後から舌打ちの音が突き刺さるのを覚えた。振り返るまでもなく誰が舌打ちの発信元であるかはよく判る。そもそも振り返りたくない。振り返ったところで目にするのはろくでもないクソガキの顔で、耳にするのは毒が滴る罵詈雑言。おまけに面倒を再体験する羽目になるだろうからだ。

 なので正太は意図的に背後の存在を無視して、小脇にずっと抱えていた『花魁危機一髪』を膝の上に置いた。短い時間とは言え力を込めるような瞬間が何度もあったせいで、体温が移ってしまったらしくほんのりなま暖かい。もしやと内心危機感を覚えてペラペラとページを一通りめくってみるが、幸い折れ曲がったり折り畳まれたりしたページは存在しなかった。安堵の息を吐いた正太は改めて表紙をめくる。

 シリアスなディストピアと、シリアスな格闘と、シリアスな笑いを、奇妙な文章と奇天烈な世界観で描く。それが『殺魔忍』シリーズの特徴だ。正太もまた単なるギャグ小説だと思って手にとって以来、その根底に流れる骨太な物語にハマって大ファンとなっている。今日もまた幾多の魔忍を屠りさった殺魔忍と奈羅火の大活劇を、存分に味わおうと図書館まで足を延ばしたのだ。

 

 だが、後頭部に刺さる非好意的な視線が、物語への没入を邪魔してくれている。確実に、いや絶対にろくでもない事をやらかす。思う存分に作品に浸りたくとも、イヤーな確信と警戒心が注意を怠るなと警告をかき鳴らしている。

 苦い顔で『花魁危機一髪』を開いて閉じてを繰り返す正太とは対照的に、蓮乃は『神話の防人』を開いて以来、作品世界に夢中のご様子だ。真後ろの少年の存在など忘却の彼方へと消え去って、今や蓮乃はアジアン幻想世界に入ったまま戻ってこない。これで思いこんだら一直線番長ホットロッド娘がしばらく大人しくなるので、常ならば正太はゆったり小説を楽しめる。

 

 だがしかしと、否定の接続詞を口の中で噛みながら、正太は視線を蓮乃の後ろへと向ける。嫌な確信は残念ながら大当たりだった。

 蓮乃の真後ろのソファーから身を乗り出した少年は、蓮乃のつむじに手を伸ばした。夜の色合いをした長い髪に、宗教画のエンジェルと同じ色をした手が近づく。双方の外観の整いぶりを鑑みれば、博物館の展覧会で飾られていても違和感はない。「お手を触れないでください」のテープの向こうで、無数の見物客がたかっている姿が目に浮かぶ。

 けれども身を乗り出した正太は触れるどころか、チョップで二人の間に切り込んだ。図書館なのでシャウトはしないが、敵意を込めて左の手刀を差し込む。蓮乃に触れようと開かれた少年の手が、正太の手に阻まれて震える拳に握りしめられる。拳同様に怒りで震える少年の喉から、声になる寸前の音が漏れた。

 

 「……ッ!」

 

 当然、正太に向けられる視線にも同質の感情が燃えよとばかりに込められている。それに答える正太の視線もまた、温度こそ違えども同じく怒りで染まっている。少年の煮えたぎる怒りと、正太の凍り付く怒りが、互いの間でぶつかり合って相転移を繰り返す。

 

 「ぬ~に~!」

 

 少年の発した音に気が付いた蓮乃も、視線のぶつけ合いに声付きで参加し始めた。その姿は生えかけの牙を剥いた子犬か、はたまた甲高い唸り声で脅しを掛ける子猫か。どちらにせよ、誰が見ても怖くはない。かわいいだけだ。

 

 「次に何かしらやったら、外に放り出してもらうぞ」

 

 「やって見ろよ。つーか他人に頼まないとそんなんも出来ねぇのか」

 

 細い目をさらに細めた剃刀の視線と共に、野太い声音で叩きつけられた正太の脅しは、それを聞く者の大半に鉄槌を思わせる。唾の代わりに毒が満ちた返答と侮蔑を吐き捨てて、少年は応えた。肉食性の類人猿と、蛇毒を持つ天の使いがにらみ合う。空気が張りつめ、双方の表情が険を増す。それに併せて蓮乃も険を増そうと眉根のしわを増やすが、可愛さしか増えない。

 

 いっそ、この返事を理由にこのクソガキを叩き出すべきではなかろうか。クソガキの首根っこを掴んで整った顔を酸欠で青黒く染め直し、図書館の外にオーバースローで投げ捨てる光景が、正太の脳裏に浮かび上がる。それは随分と楽しいかもしれない。しかし、それはいろいろとルール違反だ。具体的には刑法や図書館の規定当たりに抵触する。クソガキが何かしらやらかすというなら、図書館の警備員に任せるべきだ。

 

 正太が物騒な想像で肌を切るような怒りを慰める一方、蓮乃は別件で眉根の皺を深めていた。蓮乃としては始めて来た図書館を楽しみつつ、兄ちゃんと一緒の読書を楽しむ予定だった。そこへ少年こと、やなやつが急にやってきて色々と邪魔してくる。初めてのトイレで踏ん張る柴の子犬よろしく、蓮乃は眉尻を下げて考え込む。

 どーしたもんだろ。正太から感染った口癖を頭の中で繰り返し呟く。蓮乃は音声を持ってはいないが、内的言語は普通に理解している。そうやってぬーぬー悩んでいると、不意にお通じが通り抜けるように、アイディアがするりと飛び出した。そうだ!

 

 LED電球一〇〇Wが蓮乃の頭上で輝いた。ついでに蓮乃の表情もナイスなアイディアを見つけた喜びに輝く。正太は少年とのガン付け合戦に忙しく蓮乃の動きには気づいていない。もしも蓮乃を見ていたら、さぞかし味わい深いげんなり顔をしていただろう。蓮乃の思いつきにイの一番で振り回されるのは、主に正太の役柄なのだ。

 思いつきで勢い込んだ蓮乃は、ソファーの弾力を利用して立ち上がる。正太の体重すら文句一つ上げずに受け止めるソファーは、余計な音を発することはない。なので未だにらみ合いで忙しい二人に気づく気配はない。視線をぶつけ合う二人を後目に、蓮乃は『神話の防人』を抱えたまま正太のソファー目前まで移動すると、向きを変えて尻を正太に向けた。これを正太が察知したなら、行儀が悪いとチョップの一発でも食らわせるだろう。だが錆び付いた正太の直感が働くより早く、蓮乃は膝の上に滑り込んで腰を下ろした。

 

 「んふふ~」

 

 突如として現れた膝の上の重みと熱源に、正太はガン付けを中断して視線をやった。少年と向き合っている時そのままの、泣く子も永遠に黙る面構えで一瞥する。そして視線を少年へと戻しかけ、バネ仕掛けの速度で二度見した。泣いた子の息の根が止まる表情はそこになく、まん丸に開いた目と中途半端に開いた口が驚き具合を示している。

 正太につられて目線を動かした少年も似たような顔をしている。教会に飾られそうな顔立ちと相まって、「受胎告知でヨセフと初夜済みだとマリアから告げられたガブリエル」とでも言えそうな状態だ。唖然とする二人を余所に、蓮乃は正太の腕を引っ張って自分を抱き留める形に巻き付ける。これがシートベルト代わりなのか、安心で満足げな長めの鼻息をこぼすと正太のふくよかすぎる腹部に背中を預けた。



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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その六)

 蓮乃は正太より頭一つほど身長が低いが、身長に対して足の割合は正太と比べものにならないくらい長い。つまり胴長短足の正太に対し、蓮乃は胴短長足であるといえる。そうなると腰掛けた場合、胴の長短が身長のそれに追加されてしまい、蓮乃の体が正太の影にすっぽり収まってしまう。逆に蓮乃の側からすれば、正太の胴体が全身を覆うクッションみたいなものなわけで、体重をかければオイルならぬファットなクッションが体を支えてさぞかし心地いいのだろう。何せ満面のドヤ顔だ。

 

 「むふ~~」

 

 想定外のしあさってを原子ロケットでマッハ飛行する蓮乃を前にして、正太の頭蓋内部からは後ろの少年も両手の小説も全て吹き飛んでしまっていた。おかげでいつものコミュ障の空白とは違う意味で、頭の中が真っ白になった正太は、無駄に高速な無駄な思考を無駄に回転させて現実から全力逃避している。

 だがいくら逃避したところで現実からは逃げ出せない。何せそいつは同じ頭の中にいるのだから。どうしようもない気持ちをため息と苦笑に乗せて吐き出すと、正太もまた背中のクッションに体重を預けた。流石に正太+蓮乃の体重は厳しいのか、ソファーが小さなきしみの呻きをあげる。こいつはよろしくないとは思うものの、だからといって後ろの御仁を考えれば蓮乃をどかすわけにも行かず、正太の苦笑に渋みが混じった。

 

 そこでふと気づいた正太は、少年を確認してやろうと首をそっくり返らせた。先は自分が盾になって邪魔をしていたから、こいつは蓮乃に手を出せなかった。今は自分が鎧になっているようなものである。手の出しようがないと諦めてくれたら楽なんだが。叶わないだろう儚い希望を抱いて少年へと目をやれば、想像以上に強烈な顔をしていた。

 超高速度カメラで銃弾、より正確には弾薬筒が発射される瞬間を、正太はWWWチャンネルの放送で見た覚えがある。銃弾の尻の雷管を針状のボルトが突き刺して点火。その火は内部の炸薬に引火して、薬莢が何倍にも膨れ上がり、弾丸が超音速で飛び出していく。

 今、正太の視線の先にいる少年は、雷管が火を噴いて炸薬が燃え上がっている瞬間そのものな表情を浮かべていた。引き吊りきった表情筋は爆圧にさらされた薬莢、食いしばった歯は飛び出し掛けた弾丸、両目から吹き出す緑の炎は漏れる爆轟だ。

 

 緑の炎? 正太は自分のイメージに内心首を傾げる。別に文字通り少年の両目からバリウム入り炎色反応の緑火が飛び出している訳ではない。少年は魔法使いだし、魔法の種類によってはそういうことがあり得るかもしれないが、少なくとも自分の目には花火みたいな色鮮やかな火を噴いているようには見えない。ただ、そんな印象を受けただけだ。しかし、緑の炎とはどっかで聞いたような……あ。

 

 --ああ、そーいうことか。

 

 上下逆さに少年を見る正太の視線が、生ぬるい熱を帯びた。ナメクジが訴訟を起こす程鈍い正太は、少年の理由にようやく気がついた。今までの蔑みや哀れみとは別種の、自分の尾を追っかけて頭をぶつけた犬を見るような何とも言えない表情が浮かぶ。それを前提に今までの行動を振り返ってみれば、ほとんどの行動に説明が付いてしまう。今までのやらかしも他人事ならば、ある程度大目に見れそうだ。

 だがしかし、と正太の目が少々細まる。正太も蓮乃も当事者であって他人事ではない。正太としても今までのことを良しとするつもりはない。事情があれど理由があれど、口にした言葉に違いはないし、そもそも理由も動機もない行動などこの世にない。理由があることを理由に許したら、イジメ前の自分まで問題で無くなってしまう。さて、どーしたもんだろ。

 

 なま暖かくも鋭い目で少年を見つめながら、無言のまま正太は思考を回転させる。そのひざの上で正太の贅肉クッションに体を沈めた蓮乃は、『神話の防人』を広げてページをめくり出す。正太がそっくり返っているので、いい具合に背もたれになっている。蓮乃は表情まで幸福に緩んで、完全無欠なリラックス状態だ。あとはおやつがあれば完璧だが、図書館でそれを求めるのは我が儘というもの。顔を上げれば壁の注意書きにもこうあるのだ。『図書館は食事をする場所ではありません。飲食は専用のスペースで』と。

 顔を上げたついでに蓮乃は正太の顔を見ようとするが、正太はそっくり返ったままなので見えるはずもない。兄ちゃんはやな奴とにらみ合って近づくなって脅しているんだろう。でも、今はあのやな奴でも手出しできない絶対無敵状態なのだ。だったら別ににらみ合わなくてもいいじゃない。

 鎧とクッション代わりにされた正太の意見も当然聞かず、一方的に結論づけた蓮乃は、両手を背もたれに沿って伸ばした。背もたれである正太に沿って伸ばされた蓮乃の白い両腕は、反り返った正太の頭部横に達するとパーの形でお互いに近づきあう。そうなるとその間にあるものは、蓮乃の小さな両掌に挟まれることになる。きな粉餅じみて少々黄ばんで弛んでいる正太の頬肉が、油脂性の柔らかさで押し潰れた。

 

 「ばにをずう(何をする)」

 

 「なもっ!」

 

 突然顔面を挟み潰された正太は、そっくり返った体勢を元に戻すと不明瞭な発音で問いかけた。問いかけられた蓮乃は自分語で返答すると、そのまま正太の頬をぐにぐにといじり回し始めた。表面も内部も油分たっぷりな正太のほっぺは、油粘土の感触で蓮乃には結構おもしろいようだ。

 一方、いいように頬をいじり倒されている正太としてはあんまり面白いことではない。聞き取れないと判っていても文句を口に出すくらいだ。いっそ自分も蓮乃のほっぺたを揉み倒してやろうか。そんな発想が脳裏をよぎる。だが、それ所でないのが後頭部斜め左後ろに存在している。そんな惚けたことをしていたら、後ろからソファーを振り上げて襲いかかってきてもおかしくない。何せ心の病気なのだ。それも草津で湯治しても治せない重病だ。ならばどーするべきか。こーするべきだ。

 

 一応の答えを出した正太は、蓮乃を抱き留める形になっている両手を解いて、自分の頬肉をこねくり回す蓮乃の両手を引っ剥がした。正太の脂ぎった頬を揉み潰していたので、細い指先はテラテラと光っている。手洗いが必須だなと胸の内でぼやきつつ、蓮乃の背中を軽く押してさっさと立てと促す。

 しかし、好きで正太の膝の上に乗っかった蓮乃としては当然納得できない。ぶすくれて膨れ上がった頬がそれを証明している。さらに手首を器用に回して、逆に両手を掴む正太の両手を掴んでみせると、自分の前で交差させた。安全性をさらに高めた交差式シートベルトの形だ。

 この危険運転暴走娘は何やっとるんだ。薬莢をガスバーナーで炙るような真似をしやがって。背中の爆弾少年は暴発し掛けているんだぞ。正太の顔が虫歯の豚の形に歪んだ。無理矢理力ずくでどうにかする方法もあるが、後方の炸薬に爆発の切っ掛けを与えるようなものだし、何より外聞が悪すぎる。しょうがないか。

 ため息を鼻から勢いよく吹き出すと、正太は蓮乃の両手を力であっさり外し、ポケットから取り出したペンでメモになにやら書き付けた。シートベルト腕を外されて、今度は唇をとがらせた蓮乃に正太は書き付けたメモを手渡す。

 

 『後で好きにしていいから、どいてくれ』

 

 「む~~ぬ」

 

 唇を鈍角に戻した蓮乃は、正太のメモと正太の顔を交互に見やる。こうして兄ちゃんの膝に座っているのはすごく楽しい。どくのは嫌だ。でも、後で好きにできるのなら、少しぐらい我慢してあげようかな。どうしようかな。額のしわを増やして迷いの唸り声をあげた後、頷いた蓮乃は正太の膝から飛び降りた。

 とりあえずは退いてくれた蓮乃に礼の意味を込めて頷くと、正太は上半身だけ捻って背後へと視線を向けた。歯を剥いて拳を震わせる少年の姿にさほど変わりはない。正太の膝から蓮乃が退いたおかげか、顔のひきつり具合がいくらか緩んだようには見える。だが、緩み具合は程度問題で、爆発するのは時間の問題だろう。

 

 なので、次の手を打つべく正太は再び端末へと向かう。当然蓮乃を伴った上で、これまた当然の様についてくる少年からの盾をしながらだ。蓮乃を置いていけばどうなるかは、正太でも想像に難くない。何せ理由が理由のくせに、あんな行動しかとれないクソガキなのだ。

 検索端末まで移動した後、先ほど同様に蓮乃を端末と自分の間に置いて、正太は少年の行動をシャットアウトする。正太の妨害に再び引火点まで温度を上げる少年を横目に、カードに登録された書籍の貸し出し処理を済ませて、蓮乃をつれてすぐさま受付に移る。

 正太は警戒を緩めずに怒髪天をつく少年を牽制する。その横で蓮乃は喧嘩腰なヒヨコの体で少年を監視する。いつ炸裂しても可笑しくないのだから、できる限り手早く済ませなければならない。幸い、借りる必要のある書籍はカードに登録済みであった。というか、何度となくその本にお世話になって登録しておいたからこそ、あっさりと思い出せたのだ。

 

 幸運が重なったのか、書物待ちの列に並ぶ人はほとんどなく、正太はすぐに書籍を受け取れた。心配そうな困ったような顔をしながら、女性司書が重ねた二冊を手渡す。

 

 「大きな音を出すようなことはしないでくださいね」

 

 「あ、ええっと、できる限り、あー、そうします。その、できそうも、ないなら、えー、外に出ます」

 

 訥々と喋る正太としてもそんなことはしたくない。こちらとしても面倒は御免だが、望まなくても向こうからやってくる。だからこの二冊でガツンと一発食らわせてやるのだ。

 受け取ったその二冊を蓮乃が覗き込んだ。さほど厚くはないし、高級そうにも見えない。小説でもないし、雑誌でもない。タイトルの意味は判るけど、何の本かはよく判らない。知らないジャンルだ。

 

 『兄ちゃん、これなに?』

 

 判らないことは人に聞く。母である睦美からも目の前の正太からも、蓮乃はそう教えられている。ましてや正太はちゃんと答えてくれるのだ。しかし、今回は突き出されたノートに『すぐにわかるよ』と笑っただけだった。蓮乃の顔が、遊び足りないパグの面構えにへちゃむくれる。正太はそのおつむりを軽く撫でると、蓮乃同様に二冊を覗き込もうとしては邪魔されて、破裂寸前の少年へと向き直った。

 正太が自分へ来ると予想してなかった少年が、不意をつかれて混乱の表情を一瞬浮かべる。その隙を正太は見逃さなかった。両手に二冊それぞれを持って、タイトルが見えるように少年に突き出した。少年が読みとりやすいようにちゃんと上下も相手側に合わせてある。その表紙にはこうあった。

 

 『恋愛の基本~モテるためではなく好かれるために~』

 

 『元引きこもりが教えるコミュニケーションのイ・ロ・ハ』

 

 端的に言うなら恋愛指南書とコミュニケーション入門書である。想定外や予想外を遙かに越えた二冊に、少年の顔が無色透明な唖然に脱色される。そして数秒の後、愕然と漂白された顔がにじみ出る恥辱の赤色に染め上げられた。

 何を意味しているかはどんな言葉より明白であった。受付の女性司書は生暖かな理解の表情を浮かべ、男性司書は発情期の猫を見る迷惑そうな顔をする。ちょうど書籍を返却しに来た禿頭のご老人は、微笑ましそうに目を細める。正太の後ろに並んだ育ちの良さそうな女子大生は、口に手を当てて「あらあら」とでも口にしそうだ。

 そして少年を見る正太の表情は、衆生の卑小さを許すような御仏の慈しみに満ちている。只一人、蓮乃だけが「やっぱり判んない」とメトロノームのリズムで小首を左右に傾げていた。

 

 詰まるところ蓮乃当人を除く周囲の全員が、少年が蓮乃に懸想していることを承知したのだった。

 

 道化を遙かに飛び越えて晒し者と成り果てた少年は、先ほどとは別の理由で肩を震わせて顔を伏せる。その目尻には涙の玉が膨らみ、今にもこぼれ落ちそうだ。そうやって涙を堪えて俯く少年でも見えるように、正太は顔の正面に二冊を差し出した。

 これは決して嫌みだけではない。無論、嫌みは込めているが。少年の態度は他人に対するものとして、余りにろくでもないものだった。自分もそうだったが、好いた女子に振り返ってほしいならば、最低限取るべき態度というものがある。優勝したいのならまずスタートラインに経つ必要がある。故にこの二冊を読んで学び、相応しい態度を持って蓮乃と相対すべきだ。

 ついでにこれは少年の試金石も兼ねている。拒否するなら赤点だが受け取れれば及第点、礼を言えるなら花丸付き。かつて正太も大ポカをやらかした。しかし、家族と学校はチャンスをくれた。だから、少年にも機会は与えるのだ。

 

 そーいうわけだからさっさと読めと突き出された本を、少年は歯を食いしばり掴み取る。しかし、正太の期待とは裏腹に、少年は感情のまま二冊を振り上げ勢いのまま床へと叩きつけようとする。『恋愛の基本』と『コミュニケーションのイ・ロ・ハ』を借りたのは正太であり、この場合汚損の責任は正太が負うことになる。

 なので正太は、床めがけて少年が手を離す寸前に二冊ともかすめ取って見せた。正太は少年が受け取ってくれることを期待していたが、同時に今までの言動から少年の行動を予期していたのだ。

 階段を数え間違えてバランスを崩すように、書籍をすり取られた少年は想定していた重さのない手を思い切り振り下ろしてたたらを踏んだ。正太の早技に蓮乃は「おー」っと感嘆の声を上げて小さな拍手を送る。『恋愛の基本』を掴む手から親指を突き上げて拍手に答えると、正太は『コミュニケーションのイ・ロ・ハ』を持つ手の親指を壁の注意書きへと向けた。『本は公共物です! 大事に扱いましょう』。親指が指し示す注意書きにはこうあった。

 

 「……ッア!!」

 

 思い人には袖にされ通し、付属物に邪魔され続け、秘めたる内心を暴露された挙げ句、とどめに虚仮にした相手に思いっきり虚仮にされる始末。ついに限界を超えた少年の内側で、感情の炸薬が爆ぜた。爆発した激情の衝撃波で理性が吹き飛んだのか、目の前の二人に飛びかかろうと全身をたわめる。目を血走らせて歯を剥く様は、天使の外観すら霞むほどの獣性に満ちている。

 小脇に二冊を抱えて蓮乃を背中にした正太は、しかめ面で怒り狂う少年へと身構える。テストを拒絶するどころか試験監督に殴りかかるとは、落第越えて留年確定だろう。丹田に熱量(カロリー)のイメージを形作ると同時に、それを全身へと供給する。使う魔法は「熱量加給」。ふん捕まえて図書館から退去させてやると拳とイメージを固める正太へ、血走った目の少年が叫びながら飛びかかろうとする。その瞬間だった。

 

 「しーーーっ!!」

 

 正太の後ろから飛び出した蓮乃が、少年へ向けて「静かに!」のジェスチャーを叩きつけた。立てた右手の人差し指を唇に当て、少年めがけて思いっきり息を吹き出す。静寂を求める身振りの癖に、うるさいくらいの大声だ。ついでに左手の人差し指は壁に貼られた『図書館ではお静かに!』の注意書きを指している。

 

 「おまっ!?」

 

 不意を打たれたのは少年だけではなかった。というより一番驚いたのは正太だった。何せ盾になっていたその後ろから、守ろうとした御仁が目の前に飛び出したのだ。パニックの白一色に塗り潰される脳内から、僅かに残った冷静さらしきものをかき集める。

 とにかく蓮乃を遠ざけて、クソガキを殴り飛ばすんだ!冷静という言葉からほど遠い結論を出した正太は、まずは蓮乃を後ろに引き倒そうとする。その拍子に小脇に抱えた二冊が軽い音ともに床に落ちる。

 

 その時、少年の顔が正太の目に入った。まるで思い切り殴りつけられた直後のような呆然の表情をしていた。連続する衝撃に一周して落ち着いた正太は、引き倒しかけた蓮乃を後ろ支えして立たせると、マジマジと少年の顔を眺める。先ほどまでのケダモノそのものな表情は露と消え去り、羽を失い地に落ちた天使の顔をしている。

 正太はこの様子に見覚えがあった。以前、蓮乃が大いにやらかして一発ぶん殴った時もこんな反応だったのだ。確かに正太は少年をぶちのめすつもりでいた。しかし、まだ手は出していない。何でこんなに打ちのめされた顔をしているのか。

 なら可能性は一つ、蓮乃だ。正太は急に倒されかけてびっくり仰天している蓮乃へと目を向ける。正太の質問の目線に、蓮乃もまた疑問の眼差しで返した。どうやら蓮乃自身も判っていないらしい。

 

 正太にも蓮乃にも判らなかったが、蓮乃のタイミングはあまりに完璧だった。蓮乃が「しーっ!」とやった瞬間、少年の肺は中身を吐ききり、心臓は静脈から血液を吸い上げていた。呼吸と心拍の隙間。脳が酸素を消費し尽くし、次の酸素を求めようとする一瞬。そこを蓮乃の一発がぶん殴ったのだった。

 加えて言うなら、少年は感情を爆発させようとした瞬間でもあった。蓮乃の一撃は華麗なカウンターパンチで、吹きだそうとした彼の激情を逆方向に殴り飛ばした。そして吐き出し口を塞がれたボイラーは、密室内の爆弾に似る。少年も同じだった。

 

 首を傾げる二人を余所に、少年の頬を涙の粒が伝った。暴れ損ねた衝動と叫びそびれた声が少年の内部に反射していた。ウォーターハンマーよろしく激情の圧力波が内側を駆けめぐり、少年の両目から溢れ出たのだ。

 それは即座に滴から流れへと姿を変え、顎の先から地面へと次々に滴り落ちる。止めどなく流れ出る涙は両目だけでは処理しきれない。次から次ぎへと涙管を伝って鼻孔からも涙が溢れ出す。両目を拭い鼻を擦り、涙と洟の処理に少年の両手は大忙しだ。

 頭の中は感情でオーバーフロー、顔の上は落涙でオーバーフロー。僅かな意識は必死に停止信号を送信するものの、飽和状態の脳味噌ではそれを全く処理できない。おかげで過労死寸前の涙腺は、いつ終わるとも知らぬデスマーチに勤しみ続けている。

 涙川の大氾濫に限界を覚えたのか、少年は拭き取りの応急対応を止めると、図書館の出入り口へ向きを変えて走り出した。『図書館は運動場ではありません』の注意書きも今は光学的に目に入らないだろう。涙と洟の滴を足跡代わりに、少年は図書館入り口から飛び出して公園の中へと姿を消した。

 

 その背中が消えたのを確認し、正太は一つ息を吐いた。たぶん自宅にでも逃げ帰るのだろう。心折られた人間が行く先は自分の一番安心できる場所だ。前の自分もそうだった。泣き声を堪えたのは最後の矜持だったのだろうか。その点は以前の自分より優れているな。

 そう一人ごこちている正太の隣で、蓮乃は三度目のアッカンベーをしていた。舌の表とまぶたの裏を見せる蓮乃を、女性司書は何かが極まった法悦の表情で見つめている。ついでに男性司書は恐怖混じりのドン引き顔で彼女を見ている。

 そしてその仕草に気が付いた正太は、苦虫の甘露煮をかじったような実に微妙な顔でため息を吐いた。だから、ムカつく相手とはいえ挑発するのはよろしくないぞ。けど、思いっきり神経逆撫でしてやったのは自分だし、蓮乃にいえる立場でもないよな。しかし、あそこでぐっと堪えて受け取れるならまだ目はあったものを。まあ、当時の自分でも大体同じ結果か。ちっとは大人にならなきゃどうにもならんな。

 腹の底でグチグチ無駄なことを考えながら、正太は落としてしまった二冊を屈んで拾い上げた。軽く手で払って埃を落とす。ペラペラめくって確かめると、幸い傷も折れもないようだ。ほっと安堵の息をこぼした正太は、ライターで照らしてガソリン漏れを探す人を見たような顔で同僚を見つめている男性司書へと、『恋愛の基本』と『コミュニケーションのイ・ロ・ハ』を差し出した。

 

 「借りておいてなんですけど、これ返却でお願いします」

 

 正太の声で我に返った男性司書は、咳で醜態を誤魔化すと渋い顔で二冊を受け取った。二冊に傷や汚れがないことを確かめると、渋い顔を変えずに壁の注意書きを指さす。

 

 「『本は公共物ですので大切にしてください』。汚損した場合には罰則が課せられます。それから『図書館ではお静かに』」

 

 「あいつが受け取ると……いえ、すみません。気をつけます」

 

 男性司書の指摘に言い訳をガムよろしくもごもご噛むが、結局正太は言い訳を取りやめ謝罪した。言い訳した所でなんら得にはならない。それに相手を納得させられるような巧い言い訳は難しい。口八丁は大の苦手だ。

 もう一度頭を下げ、裾を引っ張る蓮乃を連れて正太は受付を離れる。周囲の視線が突き刺さる気がして、正太の口から本日何度目になるか判らないため息が漏れた。



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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その七)

 ベンチに腰掛け見上げる空は、相も変わらず曇り模様だった。空をのっぺりと塗りつぶす積層雲を見るともなしに見上げながら、正太は両手の間の本を手慰みにめくる。何も考えずに書籍のページを弄ぶと、指先を撫でる紙の感触が心地よい。

 正太は先ほどから借り直した『花魁危機一髪』を何度か読もうとしたが、文字が脳味噌の上を滑るようで物語に没頭できなかった。どうにも気が乗らず内容が頭に入ってこない。常ならば実に笑えて読み進める一助となるトンチキ世界観も、ヘンテコ具合が気に障るばかりだ。

 紙が傷むからこの辺にしようとパンと軽い音とともに両手で本を閉じる。その音に気が付いたのか、ベンチの隣で『神話の防人』を読み進めていた蓮乃が顔を上げた。

 作品に入れずぼんやりまんじりとしていた正太とは裏腹に、蓮乃は思う存分に作品世界に浸っていた。それを正太の立てた音で引き上げられて不満顔を浮かべていると思いきや、正太に向ける顔には心配の二文字が透かし彫りされている。自分が思い切り読書を楽しんでいる横で、無闇矢鱈と辛気くさい顔をされれば多少なりとも気にもなる。

 

 正太は余計な心配かけさせたなと空元気で笑ってみせる。世話する相手に世話を焼かれちゃ世話がない。歯を剥いて笑う正太に安心したのか、蓮乃も笑うと物語の世界へと舞い戻った。

 その姿を見て正太も安堵の息を吐く。何のことはない。自分は単に司書から叱られ周りから白い目で見られて、べこべこ凹んでいただけだ。以前の虐めで自尊心が根こそぎ吹っ飛んで、実に凹みやすくなったのは事実だ。だとしても、母親である睦美さんに預けられた蓮乃に、気遣われてちゃ立つ瀬がない。

 いい加減落ち込んだ気持ちを取り除こうと、正太は両手を組んで背中と一緒に反らす。背筋と二の腕が延びる感覚が心地いい。そのまま体を捻れば脇下の筋肉も引き絞られて、これまた気持ちがいい。思わず変な声が出るくらいだ。そうして伸ばした体を緩めると、反作用で口から長い息が漏れた。緊張と解放のカタルシスが実にたまらない。立ち上がって全身くまなくストレッチしてしまおうと腰を上げる。

 

 「むー」

 

 そしたら文句をぶーたれる顔の蓮乃が目に入った。湿っぽい半目でじっとり睨む視線から、微妙な顔の正太は微妙に目を逸らす。読書中の脳波は睡眠時のそれに似るという。実際、布団にくるまり眠りに落ちる迄と同様に、作品に没入するには読み始めてから多少の時間がかかるものだ。そしてうとうと微睡んでいる最中に騒音で叩き起こされれば、大抵の人間は腹を立てる。それは読書においても変わらない。

 折角、物語に入りかけていたところだったのに、隣からの絞り上げられた豚の鳴き声めいた雑音で妨害された蓮乃は大いにご立腹であった。そしてご不満を表現している自身の視線から、目線を外す正太の態度は火に油をそそぎ入れた。なのでぐいぐいと裾を引っ張り、わたしの目を見ろと正太の眼前に自分の顔を突きつける。

 

 「ぬーーーー!」

 

 「……うるさくしてすまんかった」

 

 逃れようがないと観念したのか、正太は視線を戻し目礼で頭を下げる。それで蓮乃的には納得できたらしく、「ぶふー」とか表現できそうな太めの息を鼻から吹き出すと、薄い胸を張って頷いた。おまけにそっくり返って、ノートに随分な許しの一文を書いてみせる。

 

 『許してあげましょう!』

 

 下から手渡された上から目線の蓮乃の言葉に、受け取る正太の顔がひきつった。何でこうも見下されなきゃならんのだ。いや、蓮乃にはそんなつもりもないだろう。単にお姉さんぶっているだけだ。だから怒るのは筋が通らない。だから自分よ、決してキレるな。

 正太は沸点に近づく胸の内を、理屈で抑えて深呼吸で空冷する。変なところで怒りっぽいのは自分の悪癖だ。ちゃんとした大人は感情的にはならないものだ。そして「他人が常に理性的である」といった過度な期待もしないものだ。

 向井家での一件(第一部参照)を思い出しつつ、正太は繰り返しの息吹法で自己制御を試みる。多少は効果があったのか、はたまた単に正太が熱しやすく冷めやすいだけか、とにかくカッカと煮えていた気分は落ち着いてきた。

 最後に肺の底まで空気を入れ換えて、正太は全身に酸素と冷気を送り込む。ようやっと平素の平静に戻れたと、深呼吸ではない安心の息をこぼす。ふと隣を見れば蓮乃も、先の正太同様に体で弧を描いている。

 

 「うぅんっにぃ~」

 

 そして漏らす声も先ほどの正太と同じく変な具合だ。人様にあれだけな事を書いておいて、自分も似たようなことやらかすのか。正太の目が剃刀の厚みに細まる。が、すぐにいつもの細さに戻った。蓮乃が怒ったのは読書の時間を声で邪魔したからだ。自分は本を閉じている。それで腹を立てるのは筋違いだ。あのバカタレなクソガキみたく、ご無体な真似をするような人間でありたくはない。

 かの少年を反面教師兼サンドバッグにして、そこまで思考を回した正太は、思い出したようにペンとメモを手に取った。一つ、判っていないことを思い出したのだ。

 

 『お前さんはさっきのアイツを嫌っているが、あいつはどんな嫌なことをしたんだ?』

 

 正太が判らないのは蓮乃の理由である。少年の今まで取った態度やら行動やらで、蓮乃が好かない人間ではないことは簡単に想像できた。しかし、具体的にどんな行動があったかは知らないままだ。行動如何によっては、少年への対応が変わることもあるだろう。もっとも、今後合うことはそうそうないだろうだが。

 思考を進めつつ質問を書いたメモを差しだそうとして、正太はピタリと手を止めた。興味のままに聞こうとしていたが、考えてみれば蓮乃が思い出すのも嫌な事である可能性もある。やっぱり止めようか。でも気になるしな。

 目線を宙に泳がせた正太は、メモの端に『返答自由』の意味を追記して妥協することした。何があったか関心があるのも事実だが、トラウマ的な記憶を引き出す真似をしたくないのも事実だ。だったら蓮乃に任せるのが一番だろう。

 そう考えて『答えたくないなら別に答えんでもいいぞ』と太股の上で書き込むメモに、人影が差した。ベンチ周りに人はいない。ベンチの上には正太と蓮乃の二人しかいない。ならばと顔を上げてみれば、正太の想像通りに横合いから覗き込む蓮乃である。ただし表情は正太の想像と異なり、牙を剥く柴犬と同類の面構えだ。そのご機嫌は即座にペンを走らせたノートの上からも伺えた。

 

 『月検診の時、あいつが物を投げてきたり、揺さぶってきたり、頭叩いたり、髪引っ張られたり、大声出されたりしたの。すっごく嫌だった。あいつ、ホントにやなやつ!』

 

 月検診は、魔法使い向けに地域で毎月行われる定期検診のことだ。魔法由来の異常な病気や特殊生物の存在もあり、現代では三ヶ月に一度の定期検診が義務づけられている。それに加えて魔法使いは魔法が肉体に妙な影響を及ぼすことが多く、それを調べるために政府主導で始まったと正太は聞いている。例えば「特能知覚」と呼ばれる第6感じみた異常感覚を生じさせることもあるので、月検診は魔法使い全員に義務づけられている。

 つまり別の言い方をするなら、毎月地域の魔法使いが一カ所に集まるということでもある。正太自身もそこで何人か同じ魔法使いの知り合いを作った。前の虐めで転校と引っ越しをしたこともあり、その知り合い全員と縁が切れているが。

 

 嫌な思い出を首を振って振り飛ばすと、正太は顎に手を当てて考え込む。とにかく月検診の場であの少年は蓮乃と出会い、一目惚れか徐々に好いたのかは不明だが、蓮乃へと心引かれたのだろう。

 考えてみれば、いや考えなくとも蓮乃は美人だ。モデルやらタレントやら、外観一つでおまんまが食える位に蓮乃の顔立ちは整っている。常のお天気お日様お天道様な明るすぎる表情の数々で、その顔立ちは昼間の星空よろしく隠れているのだが。それに美麗な顔形を覆い隠す程の青天井ノーテンキな性格も、見方を変えずとも蓮乃の魅力だ。蓮乃にその自覚はないが、恋をした異性は決して少なくないだろう。

 しかし、好かれるだけの理由なくして相手が答えてくれるはずもない。かつての自分もそうだったが、相手のことを考えない一方的かつ身勝手な主張で理解してもらえることなど一片もない。小学生男子並というかそのもののアピールで対象が感じることは、精々が蓮乃の言う所の『やな奴』であるという事だけだ。

 

 少年の理由を想像する正太の顔に浮かぶのは、登山の準備なしで山に分け入り遭難した人間を見る冷めた納得の表情だった。あの少年が嫌われるのもの自業自得で因果応報。人を呪わば穴二つと言うが、人の嫌がる真似をすればそいつが嫌がられるのもまた同じこと。相手に好いて欲しいなら、好かれる努力をするしかない。そして、それを書いた本を感情で拒否した以上、あの少年の可能性はほぼゼロと言える。

 テストは〇点、落第決定、留年確定。追加の一年頑張らないなら、学校辞めて社会に出たら?プライドを優先して差し出した手を撥ね除けた少年へと、正太は冷ややかな表情で冷徹に評価を付ける。その目の前に開いたノートが横合いから突き出された。

 

 『兄ちゃん、あいつはなんで急に大声上げようとしたの?』

 

 顎下の贅肉を揉み延ばしつつ、蓮乃の質問に正太は考え込む。理由は当然知っている。だが腹立たしいクソガキといえども、勝手に話してしまって良いものか。思い出してみれば当の本人のくせして、蓮乃一人だけ何にも判っていなかった。ずっと頭の上の疑問符を首と一緒に揺らしていた。

 そのときの蓮乃と同じ仕草で、正太は首を傾げた。他人様の隠し事を暴き立てて世間一般に振れ回るのは、ちゃんとした大人なら御法度の行いだ。両親も妹もパパラッチやマスコミの真似事は好まない。それに負の感情を通り越して、無関係を求める気持ちが湧いてくるような相手でもある。しかし、事の当事者である蓮乃が何も知らないというのもどうなんだ。ただ一人蚊帳の外というのは決して心地いいものではない。

 どーしたもんだろ。しばらく首を捻った末に、頸椎を痛める寸前で正太は受け取ったノートに言葉を書き込んだ。

 

 『自分に好きな人がいるって周り中にばれたからだよ』

 

 結局、5W一Hの内「Who(誰)」は黙っておくことにした。いくら腹立つ迷惑な御仁の事とはいえ、自分の品格をそのレベルまで落とす必要はない。それにあの少年と蓮乃が今後顔を合わせる可能性は低い。知らなくても問題はあるまい。なお、正しくいえば好きな人がいると自分がバラしたようなものだが、直接口にはしてないし周囲が察しただけだからノーカンノーカンと自分で自分に言い訳しておく。

 

 返された文章を見て蓮乃はなるほどと納得顔でうんうん頷く。それを見た正太の脳裏に、蓮乃にも色恋沙汰が理解できるのかと随分な台詞が浮かんだ。まあ、ドラマを見たり小説を読んだりしているなら、大なり小なり恋愛要素には触れているだろう。人類存続と切っても切れない根源的な欲求である以上、創作全般に惚れた腫れたは存在しているのだ。

 だからといって実感しているかは全く別だろう。正太自身、大抵の恋愛作品と共感できない。一応、前の虐めの引き金になった初恋もどきは経験しているが、少年同様の自己中二病で腐り果てた憧れ混じりの幼い感情でしかなかった。好いた嫌ったは結局よく判っていない。

 その内いつか判るだろう。そう投げ捨てるように結論づけて、正太は手の中の『花魁危機一髪』を弄ぶ。ふと横を見るとノートの上を滑るペン先が目に映った。暗い色合いの表情をした蓮乃が、ノートになにやら書き込んでいる。文字をつづる蓮乃の顔には、嫌悪と怒りに加えてもう一つ別の色が混じっていた。その文字を見て正太は眉をひそめる。

 

 『あいつが好きな人にすっごく嫌われちゃえばいいのに。あんな酷いことする奴なんだから、もっと酷い目に遭えばいいのに』

 

 とてもじゃないが、他人様に向けていい言葉ではない。嫌う理由は蓮乃と少年の両方からよく判ったが、流石にこれは問題だ。さっきも舌出して挑発していたし、こういう態度は見過ごせん。嫌みを叩きつけた自分が言える立場でないかもしれんが、仮にも親御さんから預かった身だ。言うべきは言わねばならんだろう。

 思考のギアを三段とばしで一気にあげて、ここまで考えた正太はメモに勢いよく文を書き込む。息を詰めていたのか、正太の口から深呼吸を兼ねた重いため息がこぼれる。そしてメモの文章を二・三度確認すると、蓮乃の額を傾注と叱責の意味を込めて手刀で軽く叩いた。加減したチョップだったので痛みはない。ただ、想定外の衝撃に蓮乃は驚いて正太を見た。

 

 「なーも?」

 

 『蓮乃、お前は今非常に酷いことを言った、いや書いた。他人の不幸を願うことはとても悪いことだ。謝れとは言わんが、酷いことを書いたことは自覚すべきだぞ』

 

 目の前に差し出されたメモを見る蓮乃の顔に、さらなる負の感情が追加されていく。具体的には不機嫌そうに頬が風船河豚(フウセンフグ)の膨らみを見せた。吹き出す刺々しい気持ちを加えて見れば、針千本(ハリセンボン)の出来上がりだ。そして蓮乃は棘まみれな機嫌をそのままにペンに乗せてノートに刻む。

 

 『酷いことなんて言ってないし書いてない! あいつやな奴だもの!』

 

 ああ、やっぱり理解できてないのか。遺憾ながら想定通りの蓮乃の反応に、正太は腹の底でげんなりな気分をこぼした。まずは自覚させるところからやらねばなるまい。しかし、前みたいに拳骨落として脅しつけるわけにもいかん。諭すしかないか。ああ、めんどくせぇ。不満顔で膨れている蓮乃を眺め、正太はため息一つ。

 

 『まず、あいつが嫌な奴であることには俺も深く同意する。俺もあいつは嫌いだ』

 

 差し出されたメモを見た蓮乃は納得に足すことの不思議顔だ。兄ちゃんもやっぱりそう思っているんだ!なら、何が悪いの?表情で返答を求める蓮乃を片手で制して、正太は文章を続ける。

 

 『それに嫌うってのは、心の働きの一つでしょうがないことだ。そりゃ努力のしようはあるが、無くすことは絶対に出来ない。だからお前があいつを嫌っていることも否定はしない』

 

 『じゃあ何がダメなの!?』

 

 不満の顔に答えろと書いて見せても、正太はまだ回答しない。なので蓮乃は実際にノートに書いて突き出した。それに対して正太はようやく答えになる文を返してみせた。

 

 『誰かを嫌いであることと、誰かの不幸を願うことは全く別々のことだからだ』

 

 どーいうこと?返事を読んだ蓮乃の首が捻られて表情が疑問の意味に戻る。理解できていない蓮乃の顔を見て、正太も何を言うべきかと首を捻った。判ってもらわなきゃならないが、平易な文章はむやみやたらと長くなりがちだ。そいつは手首によろしくない。

 

 『誰かの不幸を願うってことは、そいつが不幸になる様を笑いたいってのと同じことだ』

 

 結局、どう伝えればいいか結論のでなかった正太は、とりあえず解説することにした。小石というには少々大きい、ベンチから見える拳大の石を指さしながらペンを進める。

 

 『例えば、あいつがあんな石でずっこけて怪我をしたとする。あいつは嫌な奴だ。それに変わりはない。しかし、嫌いを理由に怪我を笑うのはおかしいことだ』

 

 『そうだけど、あいつやな奴だもん』

 

 返答を書いた蓮乃を見れば、唇をとがらせて目を反らしている。どうやら理解できたようだが理解したくないらしい。その顔を見ながら正太はため息を一つ追加した。

 何が悪いかは判ったのだろう。でも、認めがたいと。自分が宜しくないと認めるのは、そりゃあ気分が悪いものだ。ましてや相手がろくでもないクソガキならば、なおの事だろう。さて、どーしたもんか。

 首をねじった正太は、筆が渋るのかペン先でメモに触れては放すを繰り返す。ずいぶんと渋い表情を浮かべて、しばらくメモにドットを書き加えていたが、いい加減に意を決したのか正太はペンを動かし始めた。

 

 『俺も言いたくないことだけど、誰かを嘲笑するってことは実はすごく楽しいんだ。それが嫌いな相手と来れば尚更だ』

 

 人間の宜しくない面など好き好んで蓮乃に伝えたいことではない。しかし、理由を伝えるに避けては通れないことならば、下手にぼかしてフィルターをかけるよりは真っ正面から誤解の無いように伝えるべきだ。

 

 『嘲笑うって悪いことじゃないの?』

 

 蓮乃は両目をまん丸に見開いた驚きの顔。正太の唐突な善悪逆転の言葉に混乱しきっている。その通りだと正太は大きく頷く。蓮乃の言うとおりに全くもって悪いことだ。

 見下げた奴だと指さし笑われ、嬉しい人間などこの世にいない。自分の努力も思いも存在も唾を吐かれて玩具にされる、その苦痛は計り知れない。正太には経験があった。

 

 『人間ってのは変なもんでな。良いことだからといって愉快だとは限らないし、悪いことだからって不快とも限らんのだ』

 

 しかし、嘲笑する側においてはその限りではない。相手を貶めれば貶めた分、相対的な優越感を味わえる。相手を蔑んで踏みにじれば、自分が上位の人間になったように錯覚できる。正太には経験があった。

 虐めの引き金を引いたのはたった一度のやらかしだった。だが、銃を用意して弾を込めるどころか撃鉄まで上げておいたのは、周囲を嘲って蔑んだ自分自身に他ならない。そして自業自得で鉛玉並に苦痛な虐めの日々を味わったのもまた自分だ。

 

 『だが、他人を蔑んでいる奴の顔を見ると、驚くくらい卑しい顔をしているもんだ』

 

 嘲笑する側、される側。正太はその両方を知っている。嘲笑するときの人間が外からどう見えるかも知っている。正太はそんな面構えを蓮乃にして欲しくなかった。何せ、見てるこっちが辛くなる。

 

 『だから、俺のわがままだけど、お前さんは誰かを嘲っているより、いつもみたいに朗らかに笑っている方がいい。……そっちの方がずっと美人だしな』

 

 冗談めかした最後の一文を付け加えると、正太は特に考えることなく蓮乃の頬に触れていた。蓮乃は目を細めて心地良さげに正太の指を受け入れる。指先から伝わる大福餅の滑らかさと人肌の温もりが心地よい。

 

 「……ん」

 

 蓮乃の顔に浮かぶのはバターのようにとろけて、蜂蜜のように甘やかで、パンケーキのように柔らかな、なにより三時のおやつのように幸せな笑み。それを見る正太もまた表情を暖かく緩めている。

 そうしてしばらく蓮乃のほっぺたを指の先で撫でていた正太だが、自分のやっていたことにいい加減気づいたのか、手を引っ込めて誤魔化しの咳払いをする。虚空に目線を泳がせて厳つい面を赤らめる正太に対して、整った顔を薄桃色に染めた蓮乃はまっすぐ正太を見つめていた。

 

 『まあ、まとめると、嫌いになるのはよくてもそいつを蔑んじゃならんと言うことだ』

 

 繰り返しの空咳で強引に空気を再設定した正太は、これまた無理矢理話をまとめにかかる。腕白フルスロットルでお子様オーバードライブな蓮乃相手でも、女性という言葉から限りなく遠い正太には、先の空気は居心地が悪かったのだ。

 

 『わかった。そう言うこと書かないようにする。でもやな奴にはどうすればいいの?』

 

 言えば判るのが蓮乃の美点だ。そして一度理解したことを繰り返し誤らないのも大きな長所だろう。しかし逆を言えば言っていないことは、当然了解できないということでもある。例えば、蔑んで嘲って突っかかってくる相手への対応とか。

 

 『そいつは単純明快。顔を合わせて一言「お前が嫌いだ」。それだけでいい。嫌いな奴には嫌いだと、きっちり伝えてやればいいんだ』

 

 ニイッっと目と歯を剥いた不敵な笑みと共に、シンプルな回答が帰ってきた。正太の顔立ちは逆立ちしても出来が悪い。やぶ睨みの細い三白眼に、ニキビ跡の多い凸凹な顔。形の悪いタラコ唇とこれまた形の悪い団子鼻。とどめに父由来の骨ばった輪郭と、母由来のでっぷりした下膨れ。はっきり言って不細工だ。

 だが、厳つい顔に浮かべる太い笑いは、男臭い魅力を見る者に感じさせた。片頬をつり上げて笑ってみせるその顔は、一四歳の容貌というよりも一味も一癖もある任侠の徒を思わせる。それも、ふてぶてしく笑いながら幾つもの鉄火場をくぐり抜けた、年季の入った大親分の面構えだ。

 

 『ただし、当然の話だがあいつがこっちを嫌うってことも頭に入れておけよ。俺たちがあいつを嫌うなら、その逆もあって当然だからな』

 

 裏社会な笑みから堅気な真面目顔に戻して、正太は追加のメモを蓮乃に渡した。身勝手な話だが、甘えで他人を否定しておきながら、そいつから否定されて大いにショックなんてこともあるのだ。そこら辺甘い考えすると他人に厳しく自分に甘くなりかねない。

 

 『誰かを嫌うなら、誰かに嫌われる覚悟だけはしておくことだ。俺たちがあいつを嫌いであるように、誰かが俺たちを嫌いであることだって十分あり得る。というか、俺の場合実際にあったしな』

 

 そして嫌いになるのが仕方ないなら、誰かに自分たちが嫌われることだってあり得る。実を言えば正太にも嫌われる覚えは多々あった。少なくとも転校前の小学校の同級生に、自分を好いている人間はいないだろう。

 

 『でも私、兄ちゃんのこと好きだよ!』

 

 しかし、蓮乃は正太のことを間違いなく好いている。なにせ自分を必ず助けてくれて、自分の側にいつもいてくれて、自分と沢山話をしてくれるのだ。その気持ちを表すのに蓮乃は全くもってやぶさかではない。

 

 「ファッ!? きゅ、急に変なこと言うなよ……」

 

 太陽色した満面の笑みと共に、突きつけられた蓮乃からのストレートな好意は、正太にとって不意打ちもいいところだった。蓮乃が聞き取れないことも忘れて言葉をこぼし、定まらない視線を虚空に泳がせ回る。

 顔を突っつき合わせるようになってから、一ヶ月にも満たない相手に言うことじゃないだろ。自分も変な受け取り方するべきじゃない。こいつのことだ、犬猫がしっぽ振るのとそう変わらん。

 とにかく落ち着けと自分に言い聞かせつつ、一六ビートに急加速した心臓を繰り返しの深呼吸で鎮め、夕焼け色に染まった厳つい顔を繰り返し振って赤みをとばす。

 

 『そう言う話じゃないんだがな。でも、ありがとう』

 

 最後に咳払いで場を仕切り直すと、正太はメモを一枚差し出した。それと一緒に蓮乃の頭に手を乗せる。蓮乃はこうされるのが好きだと知っているからだ。優しく正太が頭を撫でると、蓮乃も優しく微笑んだ。幸福な時間がお互いの間に流れる。二人はしばらくそうしていた。

 なお、帰宅後の正太は自分のやったことを省みて、頭を抱えてのたうち回ることになるのだが、未来予知なんぞ出来ない今の正太に、それを知る由はなかった。



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第一話、二人がやな奴と顔を合わせる話(その八)

 

 

 

 

 

 

 

 男の子は隠れ家が大好きだ。子供時代には秘密基地を隠れて作り、大きくなったらツリーハウスだのログハウスだのを建築し出す。大人でも子供でも家族と暮らす中では、完全な個人空間を持つのは難しいものだ。だから、公立児童養護施設『厚徳園』のある命徳山の中にも、子供たちの秘密基地が当然存在している。

 「人」の字に重なり合った樹木に廃材で壁を作り、多層段ボールや強化油紙で覆って作った簡素極まりない代物だが、子供たちにとっては一国一城に等しい重要物件だ。だから、「隠れ家を大人には絶対に教えない」「隠れ家は共同で使用し、決して独り占めしない」といったルールが定められている。

 これを破った場合、パンツの中に弾け蛞蝓(ハジケナメクジ)をダースで突っ込まれる『ナメクジ爆弾刑』や、鈴鳴き蝉(スズナキゼミ)を詰めた袋で頭を覆う『目覚ましリンリン刑』など、身の毛もよだつ恐るべき刑罰が下されるだろう。

 

 それでも秘密基地の中で膝を抱える、天使じみた顔立ちの少年、もとい”利辺 翔”は一人になりたかった。惚れた相手とその付随物にけちょんけちょんにされて、泣きべそかきながら逃げ帰ってきたことを、厚徳園の皆に知られるなんて死んでも避けたかったのだ。赤く腫れた目は仕方ないとしても、せめて涙の雨が止むまでは秘密基地にいるつもりだった。

 

 「ヒッ……ヒッ……くそぅ……ズズッ……なんで……ヒッ」

 

 だが、利辺の涙が乾くのは随分先になりそうだ。なにせ後から後から涙が溢れて止まらない。ズタズタにされたプライドの隙間から、弾けた感情が堪えようもなく漏れ続けている。

 好きなあの娘はにべもなく、不細工な付随品にやりこめられて、周り中に隠していた気持ちを晒されてしまった。せめて暴れてやろうとした瞬間に、その娘に最後の一発を叩き込まれた。打ちのめされて泣き出して、思わずその場から逃げ出していた。声を上げないように取り繕うのが精一杯だった。

 惨めで情けなくて、余りに格好悪かった。穴に入れるなら穴に入ってしまいたい。厚徳園の皆に、こんな姿を見られたくない。憧れている『兄ちゃん』に見られたら、恥ずかしさの余り死んでしまうかもしれない。

 

 天井にひっかけられた冷光灯のカバーを外すことも忘れて、薄暗い隠れ家の中で利辺は膝を抱えて一人泣き濡れ続ける。その姿を上下逆さの人影が、入り口から興味深そうに眺めていた。入り口からの逆光で顔立ちは判らないが、頭は地面から一〇cmの位置にあり、足は秘密基地を形作る樹木の枝の辺りにある。短い髪もシャツの襟元も、足の方つまり上方に垂れ下がっているのを見るに、単純に樹木に足を引っかけているのとは違うようだ。

 逆さの人影は涙に溺れる利辺をしばらく覗き見ていたが、一向に泣きやむ気配が見えない。なので、天地上下を元に戻すと、秘密基地の入り口を腰を屈めてくぐり抜けた。バランス取りに入り口枠を掴む片手には、赤銀色の『腕輪』、すなわち魔法使いの証である『特殊能力確認用携帯機器』がはまっている。

 

 「よう、邪魔するぜ」

 

 「ピーノ兄ちゃん!?」

 

 人影……”ピーノ・ボナ”は悪戯っぽい笑みと共に片手を上げて、快活に呼びかけた。思いもかけない来訪者に、利辺は涙を流すことも忘れて目を丸くする。呼び方も格好付けたいつもの『兄貴』呼びではなく、昔ながらの『兄ちゃん』だった。

 ピーノは邪魔をすると口にしながらも気を使う様子は全くないようで、水平蹴りかはたまたブレイクダンスじみた動きで足を回すと、簀の子の床にどっかと腰を下ろした。子供たち専用の秘密基地は、背丈のあるピーノにとって随分と手狭なようで、背筋を丸めて窮屈そうに胡座をかいている。ピーノはついでに、頭上の冷光灯のカバーを外した。

 

 青みの強い発光酵素の輝きが秘密基地の中を照らし、ピーノの顔形が露わになる。エキゾチックに整った蠱惑的な顔立ちは、チョコレートのような男というより、美男子の姿を取ったチョコレートと表現できそうだった。

 つまり甘やかで濃厚、苦み走って薫り高い。子供っぽく通俗的でありながら、大人っぽく品よく優美。そして体に悪いと判っていながら、口にするのを止められないほど、魅力的で魅惑的である。

 

 「しっかし、お前にそう呼ばれるのは久しぶりだな。明日は槍か雪が降るかね」

 

 ニヤニヤと意地悪そうに、それでいて嬉しげに笑いながら、ピーノはようやく泣きやんだ弟をしげしげと眺める。その肌はミルクチョコレートの色合いで、髪と瞳はビターチョコレート色に彩られ、歯はホワイトチョコレートと同じく一点のくすみもない。

 

 「ッ! ……何だよ、ピーノの兄貴!」

 

 自分が昔からの幼い呼び方をしていたことに気づいて、利辺は息を詰めると顔を真っ赤に染めて呼び直した。赤く腫れた目元と併せて、利辺の天使顔は赤一色だ。

 ピーノ兄ちゃん、じゃなくピーノの兄貴にこんなカッコ悪いとこ見られるなんて。一番見られたくない人に見られてしまった。利辺は恥入るあまり目を逸らして顔を伏せそうになる。

 だが、それは一番カッコ悪いことだ。だから涙を拭って穴だらけの矜持を無理矢理繕い、やせ我慢で真っ正面からピーノを見つめる。意地で張りつめた顔をする利辺を、ピーノは勇気づけるように面白がるように、愉快そうな笑みを浮かべて見やる。

 

 「いやなに、かわいい弟が盛大に泣いきべそかいてたから何事かと思ってな」

 

 『兄ちゃん』とは呼んでくれないのかと僅かな不満をにじませて、ピーノは気取った素振りで肩をすくめる。その動作一つですら強烈に様になっている。

 彼を見れば、世の男たちは苦々しく表情を固め、世の女たちは甘やかに顔を蕩かすだろう。クランチの歯触りで小気味よく喋り、ウイスキーボンボン並にきついジョークを飛ばす。そして笑顔はどんなガナッシュよりも柔らかく、容易く女の子のハートを溶かしてしまう。

 さらに言うなら、血筋すらカカオ原産の南米とチョコレート発祥の欧州の混血と、頭の先から足の裏までチョコレート。それがピーノ・ボナという少年だった

 

 「泣いてない! っていうか何処で見てたんだよ!」

 

 首筋まで赤く色づけて利辺は判りきった嘘を叫び、さらに話を逸らしにかかる。たとえバレバレであろうとも、男の子である以上これを認めるわけにはいかないのだ。ましてや憧れの兄ちゃん相手に、自分の涙を認めて助けを求めるなどできるはずもない。

 

 「そりゃ入り口からさ。で、どうしたんだ、翔?虐められでもしたか?」

 

 「違う! いや、その、ちょっと、色々あってさ」

 

 だが、ピーノは話題逸らしを軽く受け流し、利辺の本心をいとも容易く射抜いて見せた。一番聞いてほしくないから話題を逸らした訳で、利辺は両手をつきだし空をこね回して、わちゃくちゃと誤魔化しにかかる。

 しかし、そうやって誤魔化そうとする態度そのものが、聞かないでくださいと暗に口にしているのと同じだ。話題同様に逸らした目も言い辛く口隠る言葉も、それを判りやすく示している。

 

 「可愛い可愛い弟のお悩みを、このピーノ兄ちゃんが当ててしんぜよーう」

 

 当然、ピーノがそれに気づかないはずがない。仕掛けられた悪戯に気づいた、悪戯好きの悪童の顔でにんまり笑う。その笑みの意味を理解した利辺の顔が青ざめた。ピーノ兄ちゃ、じゃなくてピーノの兄貴はものすごく勘がいいから、自分の考えを当てられちゃうかもしれない。そうなったらカッコ悪いどころの話ではない。それはイヤだ、すごくイヤだ。

 視線から逃れようと思わず身をよじる弟の心境を知ってか知らずか、ピーノは大仰な仕草で考え込んでみせる。突きつけた指を回す動きも、顎をさする手も、どれもこれも芝居臭い。意図的に浮かべただろう悩みの表情からも、道化の笑みがにじみ出ている。

 

 「ふーむ、そ~だなぁ~。ズバリ、恋煩いと見たっ!」

 

 ピーノは芝居のかかった動きで利辺に指を突きつける。多分、夕食時に配信しているクイズ番組で探せば、似たような演技をしている司会者が見つかるだろう。

 もっとも、ピーノは全く持って司会に向いていないのだが。何せ、整いすぎた外観とキレのある動作、なにより全身から発する艶やかさで、出演者をことごとく食ってしまう。ついでにゲストが女性なら性的な意味でも食ってしまう可能性もある。外観から判るように、ピーノの女性遍歴は三桁に近いのだ。

 

 「ッ!」

 

 パパラッチにワイドショー、週刊誌に井戸端のオバハン。人間とは隠し事を知りたがる生き物だ。それが自然相手なら科学者の好奇心で話は済むが、人間相手ならそうはいかない。真実を暴く探偵は得意満面だろうが、暴かれる犯人役は悲痛な表情で俯くだけ。

 一〇かそこらの幼い利辺ともなれば、滲んだ涙のおまけ付きだ。あの子には道化にされて、付き人には虚仮にされて、周りには笑い物にされて、厚徳園へと逃げ帰ってきたのだ。そのトドメに、憧れの兄貴分に腹の底まで見破られてしまえば、後はもう泣くしかない。

 

 「あ、あーっと、そうだな。ここは恋愛百戦百勝のピーノ兄ちゃんが手を貸そうじゃないか! なーにどんな女の子もピーノ兄ちゃんにかかっちゃ子猫同然! あっという間にベタ惚れで、俺に体をすり寄せてくるぜ!」 

 

 自分が下手をこいたことに気づいて引き吊った顔のピーノが、早口でフォローに入る。悪戯好きで他人をいじり倒して楽しむピーノでも、家族を泣かせて喜ぶ趣味はない。思う存分大声上げて泣きわめこうとした利辺だが、焦ったピーノの顔を見て溜飲が下がったのか、ぼやく声は多少は落ち着いている。

 

 「……兄ちゃんにすり寄せたんじゃ意味ないじゃん」

 

 同じ女性を二日以上連れたことはないピーノだが、あくまでそれはピーノの話だ。振られ虫で泣きべそかいてる利辺が、あの子に好かれなければ意味がない。

 

 「いやいやいや、そのテクをお前に教えてやるってことさ! 俺のテクを使ってみせれば、次の日にはその子とラブラブでイチャイチャな仲になってるぞ!」

 

 利辺の鋭い一言に、突き出した両手を素早く振ってピーノは必死に否定する。だが俯いたままの利辺からは何の返答もない。重苦しい空気が秘密基地の中に満ちる。ピーノの整いきった顔がさらに引き吊り、加熱したホワイトチョコレートよろしく脂汗が流れ落ちる。

 だが、利辺がそれに気づくことはなく、無言で指をいじりながら、俯いたまま一人考え込む。例えピーノの兄貴相手でも、あの子のことは話したくない。でも、ピーノの兄貴ならあの子にくっついてた太った奴なんか格好良くKOして、あの子を恋人にしてみせるんだろう。それに、ピーノの兄貴にはもうバレてる。隠したって意味がない。

 

 「……わかった。ピーノの兄貴、手を貸してくれる?」

 

 決断した利辺は、取り繕い丸出しのピーノの申し出を受けることにした。滲んだ涙を拭った利辺は、顔を上げてピーノをまっすぐ見つめる。どうにか危機は去ったとピーノは安心した様子で息を吐いた。

 

 「おう! 大船どころか宇宙戦艦に乗ったようなもんだぜ!大いに安心しろ!」

 

 ピーノは太陽じみた快活な笑みを浮かべる。見る女性悉くが熱中症になりそうな表情で、胸を叩いて安心を利辺にアピール。道化と言うには少々イケメンすぎるが、滑稽を演じてみせるピーノの姿を見た利辺は笑って頷いた。

 

 「じゃあ厚徳園に帰るか!」

 

 「うんっ!」

 

終わり



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第二話、二人が友達と出会う話(その一)

 命徳山のどこかでカラスが鳴いた。

 

 公立児童養護施設『厚徳園』入り口の前で子供達の帰りを待つ”柳 美野里”は、周囲を見渡し鳴き声の出所を探す。だが、夕闇に染まる命徳山の山中は暗く、闇夜のカラス程ではないが見つけるのは難しそうだ。多少気にかかっただけだと柳はそのまま視線を夕空へと上げた。まだ沈むには時間があるが、太陽は既に赤く染まっている。

 命徳山は山と名が付いているものの実際は単なる丘で、高さは五〇mもない。だが、子供達の遊び場になるくらいの自然は残っている。日が落ちた後、街灯の少ない道を子供だけで上るのは避けて欲しいところだ。それに不法移民が大量に増えた現代、夜の町を子供だけで闊歩するなど危険極まりない。だから、柳は門限を守れと口を酸っぱくして伝えているのだが、遊びたい盛りの子供達で小言を聞く者は少なかった。今も二人が門限を過ぎたのに戻っていない。内一人については柳も半ば諦めているが、もう一人はちゃんと言えば聞く子だ。何かあった可能性もある。

 

 --余り遅いようなら探しに行かなきゃ

 

 小さな背丈に不釣り合いの大きな胸を不安で満たして、心配顔の柳は長いため息を吐いた。その視線の先に夕日に照らされた人影が映った。吸った息を安堵の意味を込めて吐き出すと、愛くるしく丸い両目をつり上げる。門限はとうに過ぎているし、夕食の時間も寸前だ。次がないようにキッチリ叱ってやらないといけない。腰に手を当て怒っていますのポーズを作ると、柳はじっと人影を待つ。

 だが怒りでV字の眉は、驚きのハの字に変わった。待ちわびた人影が二つだったからだ。小柄で子供らしい人影と、背の高い細身のシルエット。小さい影は予想通り”利辺 翔”だったが、一八〇cmはあるもう一つの影は帰宅を諦めていた”ピーノ・ボナ”だった。柳が気づいたことに気づいたのか、ピーノが片手を上げて挨拶の声を投げた。ピーノの挨拶にあわせて利辺も片手を上げる。

 

 「「ただいまー」」

 

 「翔ちゃん、お帰りなさい。……ピーノちゃん! 今までどこで何していたの!」

 

 とりあえず利辺に挨拶を返した柳は、そのまま一気にピーノに詰め寄る。女性にしても背丈の低い柳は、背丈の高いピーノを見上げる形だ。ピーノが見下ろすと、可愛げの強い顔と一緒に豊かな膨らみがちょうど目に入る。女性経験豊富極まりないピーノだが、家族同然に育った相手故かどうにも居心地悪そうに、ビターチョコレート色の目を反らした。

 

 「あー、ちょっと外でぶらぶらしててさ。それよりも柳センセ、晩ご飯なに?」

 

 困った顔のピーノは頭を掻きつつ、言い訳になっていない言い訳と場の流れで誤魔化しにかかる。適当な話でも大抵の女性なら、ピーノの外観と雰囲気を理由になあなあで済ませられる。道を歩いているだけで頻繁に逆ナンされる程の甘いマスクは伊達ではない。だが柳は家族同然に育った相手だ。ナンパで適当に引っかけた相手とは勝手が違う。そう簡単に流されてくれない。

 

 「三日も園に帰らないことを『ちょっと』とは言いません! それにぶらぶらって、何にも答えてないでしょ!」

 

 「腹減ってるからお説教は後でお願いねー。で、夕飯のメニューは?」

 

 言い訳で流されてはくれなかったので、勢いで流しにかかる。具体的には適当な台詞であしらいつつ、かつて命徳寺の山門だった厚徳園入り口をすり抜けた。お説教のために妨害しようとした柳を、ピーノは水が流れるような動きでかわす。ミルクチョコレートの色合いをした肌と相まって、その姿は野生の山猫を思わせる。スポーツ選手が目を見張るだろう滑らかな体捌きだが、ピーノに運動の経験はない。生まれつきのセンスと純粋な才能だけで、これを容易くこなすのがピーノ・ボナだ。

 「待ちなさい!」と声を上げ追いかける柳を後目に、ピーノは利辺を伴って厚徳園の敷地へと足を踏み入れる。元命徳寺の敷地をふんだんに使った、平屋に近い横長の二階建て。それでもまだ余ったスペースには子供達の運動場と遊び場を兼ねて、トラックと遊具が並んでいる。

 ピーノも利辺も物心ついてからずっとここで育った。厚徳園の大半を占める移民の子供達は大抵がそうだ。夕日が照らす運動場でボールを蹴る幼い子供達も、日本民族からほど遠い顔立ちをしている。彼らはピーノの三日ぶりの帰宅に気づいたのか、蹴っていたボールから顔を上げた。

 

 「ピーノ兄ちゃん!?」

 

 「あ、ピーノ兄ちゃんだ!」

 

 「ピーノ兄ちゃんお帰りー!」

 

 「おー、ただいま。みんな元気してたか?」

 

 サッカーに興じていた三人はボールを放り出し、まとわりつくようにピーノの周囲に集まる。利辺もそうだが、厚徳園ではピーノに憧れる子供達は多い。高い背丈、甘いマスク、鋭いセンス、しなやかな動作。軽妙洒脱を体言するピーノはいつでも子供達の人気者だ。

 

 「元気! 元気!」

 

 「俺も元気だよ!」

 

 「ねぇねぇピーノ兄ちゃんは何してたの?」

 

 活力あふれる三人の返答に、ピーノは満足そうに笑って頷く。厚徳園の皆はピーノの家族で、家族が元気なのは嬉しいものだ。憧憬を抱くピーノが喜ぶ様子を見て、三人のテンションもあがる。ピーノの隣に立つ利辺はどこか上から目線な表情で、はしゃぐ三人の様子を眺めている。柔らかな見下しの視線に気づかず、三人の内の一人が利辺へと呼びかけた。

 

 「翔がピーノ兄ちゃんを見つけてきたのか? やっぱ魔法使いはスゲーなぁ」

 

 「まーな」

 

 感嘆と羨望の混じった声に、鼻を擦って自慢げに笑う利辺。天使を思わせる外観と相まって、特殊な趣味をお持ちの女性ならそのまま自宅へ持ち帰りそうな魅力を発している。なお、秘密基地に一人隠れて大泣きしていたことはおくびにも出さない。それを知るピーノの視線が生暖かい色を帯びるが、三人が利辺の目線に気づかないように、利辺もまた生温い視線に気づいていなかった。

 利辺にかけられた言葉から判るように、魔法使いの証である『腕輪』を身につけているのは利辺とピーノの二人だけだ。厚徳園にはもう一人いるのだが、ピーノに憧れ利辺を羨んでいる三人の中にはいない。

 

 広場の真ん中で浮かれ騒ぐ子供達の大声に、ベンチに腰掛けていた女の子二人組が視線を向けた。そのどちらもまた、ピーノ達同様日本人という言葉からは想像できない外観だ。遠くから見れば大体の日本人は縁起よい紅白幕を思い出すだろう。

 一人の髪は夕空より濃い茜色。高周波でうねる赤毛をローポニーにまとめている。もう一人の髪はアルビノを思わせるプラチナブロンド。緩やかに波打つ銀髪は流れるままに肩を覆っている。虹彩の色も大きく違う。赤毛の子が持っているのは抜けるような青空色の瞳だが、銀髪の娘は狼にも似た琥珀色の目をしている。加えて銀髪の少女だけが持つ『腕輪』の存在が、魔法使いとそうでない者の差を表現していた。二人の共通点は性別と、白人種だろう色素の薄い肌だけだった。

 

 「ねぇねぇ舞ちゃん、ピーノお兄ちゃんが帰ってきたよ!」

 

 「そうね、友香ちゃん。ピーノ兄ちゃんお帰りなさい」

 

 一瞬だけ鋭い目で隣を見ると赤毛の”氷川 友香”が立ち上がり、ピーノめがけて子供らしく大きく手を振るう。それに合わせて銀髪の”母井 舞”が隣に立って、大人しく小さく手を振った。年上で大人しい母井と年下で子供っぽい友香と、何から何まで対照的な二人だ。二人の存在を感じたのか、ピーノもベンチの方へ手を振って答える。

 

 「みんな、まだ遊んでいるの? もうすぐ夕飯よ」

 

 いい加減にピーノに追いついた柳が、夕食も近いのに遊びに興じる子供たちへと注意の声を上げた。腰に手を当て皆を指さす、判りやすい叱責のポーズだ。意識せずにこんな動きをするからか、柳は子供達から好かれてはいるがどうにも嘗められがちである。

 

 「柳先生! すぐ片づけるから待って!」

 

 「ねーねー、またチェイサーの話ししてよ!」

 

 「あ! 今日はカレーだ!」

 

 そう言うこともあって、柳のお叱りにすぐさま反応する子供は少数派だったりする。柳の声に首を竦める子もいることはいるが、気にした様子もなくピーノに縋る子も、夕食の臭いに鼻を動かすマイペースな子もいる。十人十色な対応に頭痛を感じたのか、柳は広い額を平手で抑えた。

 

 「お、晩飯はカレーか! 園のカレーも久しぶりだなぁ」

 

 マイペース筆頭のピーノが形良い鼻を動かし、スパイシーな臭いを嗅ぎ取った。大抵の食材なら何をぶち込もうと美味しさを損なわないカレーは、さほど余裕のない厚徳園でも重宝されている。例えスパイスが遺伝子改良された類似香辛料になっても、バターの代わりに植物油脂が当たり前になってもその味わいに変わりはない。職員の大いなる味方にして子供達の大好物なカレーライスは、ミレニアムから半世紀が過ぎた現在でも日本に息づいているのだ。

 

 「……まったくもう、みんな勝手なんだから。あと、園に帰ってこない人の分は用意してませんからね」

 

 「えー? そりゃないぜ」

 

 ため息混じりの柳の言葉に、ピーノの表情に不満が浮かんだ。柳はピーノのいないここ三日の食事でも全員分を必ず用意していたが、当の本人は知る由もない。俺の分なしかよとブツブツぼやきつつ、ピーノは隠していたジュースとお菓子の場所を思い出そうとする。職員が知っているより、子供達の隠し事は遙かに多い。

 夕日が落ちるよりいくらか早く、厚徳園の全員が建物の中に入っていく。辺りには夕飯の臭いが立ちこめていた。



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第二話、二人が友達と出会う話(その二)

 児童養護施設である厚徳園には子供達しか知らない秘密が幾つもある。命徳山の秘密基地を筆頭に、『お菓子とジュースのへそくり』『秘密通信用の暗号落書き』『おもちゃの闇市場』などなど、当の子供達すら総数を知らない程だ。命徳寺時代から使われていない、離れの倉庫もその一つだ。ここは極秘の会議室として使われている。実は厚徳園出身の柳も存在を知っており、時々清掃や片づけをしているから正確には『子供達だけ』とは言い難いのだが、当の子供達は誰も気づいていないので問題はない。

 

 「……で、そんな感じだったんだ」

 

 「ふーむ」

 

 夕食後の自由時間の今、LED電球に照らされる談話室の中央で、相対したピーノと利辺がなにやら話をしていた。話の内容は今日の午後の話だ。お菓子やら雑誌やらが子供らしく散らばっている中、利辺が身振り手振りを交えて、名前も知らない思い人”向井 蓮乃”や、名前を知りたくもない付属物”宇城 正太”とのやりとりを説明している。ピーノは興味深そうに相づちを打ちつつそれを聞く。カッコ悪かったところを可能な限り誤魔化しているのは利辺のご愛敬だろう。

 一通り話し終えた利辺が、大きく息を吐いて足を投げ出した。改めて胡座をかき直したピーノは、癖なのか首後ろに手を当てて考え込む。

 

 「つまり、翔を邪魔しまくったそのデブチンさえいなければ、って訳か」

 

 「うん、それで上手くいくはず……多分……きっと……そうだろうと、思う」

 

 利辺からすれば蓮乃と仲良くなる一番の障害は正太だ。正太からすればまず一番の障害はお前自身だろと言いたくなるが、自分の後頭部を見るのは難しい。自己中二病に罹患しているとなれば尚のことだ。

 そんな利辺だが、一方的に正太に叩きのめされた事を忘れたわけではない。虚仮にしたつもりが、完全に道化にされた記憶はそう簡単に消えてくれない。実際、利辺の顔は自信なく床のクッションと雑誌を向いている。ついでに蓮乃にずっと唸られていたことを思い出し、利辺の表情がさらに落ち込んだ。

 俯き気味の利辺がすがるような視線をピーノへと向ける。百戦錬磨のピーノから教えを請い、思いを寄せるあの子へのアタックを成功させるのだ。

 

 「それで確実だろうと思うんだけど、もっと確実にしたいから、その、兄貴に口説き方とか教えて欲しいんだ」

 

 「口説き方って言ってもなぁ。これと言って特別なことをしているわけじゃないから、しょーじき教えようがないぜ?」

 

 だが、いつもなら快諾するだろうピーノの表情は優れない。困ったような考え込むような顔で首を捻っている。

 ピーノはセンスと才能の固まりで、大抵のことはノリと勢いでこなせてしまう。それは女性関係においても同じ事。ピーノにとっては『これで良さそうだ』と感覚が訴えた行動をとればほぼ正解となる。それを他人に教えろと言われても、二足歩行のやり方を教えるのと同じようなものだ。

 利辺はそれでもと食い下がる。ピーノの手助けなしで正太相手に勝てる自信はない。自分で打つ手がないから恥を忍んで憧れの兄貴に頼み込んだのだ。

 

 「そりゃピーノ兄貴ならそうなるだろうけど、なんかこう声をかけるときの台詞とかさ、ない?」

 

 「ええっと、『ちょっといいかな』とか『今時間ある?』とか、そんな感じだな」

 

 「遊びに誘うときとかは?」

 

 「大抵向こうからは『遊びに行こう』って言われるな」

 

 鳥に飛び方を聞いたところで、魚に泳ぎ方を聞いたところで、人間の手段にはそのまま適用できない。それを使いたいなら重量や形状など前提条件を合わせる必要がある。ピーノの場合ならセンスと外観と才能辺りだろうか。

 利辺の首ががっくりと落ちた。そんなもんないから指導を求めている訳で、それがあったら最初からそれで何とかしている。ピーノが頭を捻って絞り出した答えは、どれもこれも何の役に立たちそうもなかった。

 

 「……兄貴ってさ、役に立つアドバイスないし、実は恋愛下手なの?」

 

 教えを求めておきながら、利辺の目が逆恨みがましく細まる。もっとも恋愛に使えるテクニックを求めて、使えないやり口ばかり返されたのだから恨み言の一言二言は呟きたくもなるだろう。それに利辺を泣かせかけたお詫びにモテのテクを教えると言ったのはピーノの方だ。

 

 「モッテモテの俺に何を言ってるんだ。俺から女の子が途切れたことはないぞ」

 

 不満をたっぷり込めた利辺の指摘をさらりとかわすピーノ。事実、それで幾多の女性をモノにしているのだ。自分が成功した手段を聞かれて、助けにならないと文句を言われても困る。それでも、微妙に目線を反らしているあたり、内心に何のやましさもないという訳ではないようだ。

 実際、過去を省みてみればピーノ自身恋愛にあまり能動的ではない。大抵が女性側から声をかけられて話が始まっている。言われてみれば、恋愛が得意でない可能性があるかもしれないような気がしないでもないけど……いや、『ピン!』と来た娘には声をかけてるし、俺モテるからダイジョブ! ダイジョブダッテ!

 自分にいろいろ言い聞かせながら、ピーノは話を別方向に逸らしにかかった。

 

 「そーいや、そのお前が好きな子ってのはどんな感じなんだ?」

 

 「ええっと、その、まんま園長先生の部屋にある日本人形みたいな感じな、すごい美人な子でさ。それで、笑うとすっげぇ可愛いんだ。それも綺麗なのと相まって、びっくりするくらいに綺麗なんだ! 月検診で始めて見たとき、もう息が止まるかと思ったくらい凄かった!それでそれで……」

 

 ピーノの話題逸らしにあっさり乗っかり、利辺は思い人について身を乗り出して語り出す。実は乗っかったというよりも、単に好いたあの子について喋りたかったのかもしれない。立て板に水どころか岸壁に大波の勢いで、好きな子について語り倒す姿は、それ以外の考えがあるとは到底見えなかった。

 話を反らせたはいいが利辺の想定以上の勢いにピーノの表情がうんざりの一言に染まる。他人の自慢話と惚気話ほど聞いていてつまらないものはない。それが可愛い弟だとしても聞いて楽しいとは思えない。なので話を反らしたピーノが、反れた話を戻しにかかった。

 

 「あ~~~っと、すっげぇハクい子なんだな、判った判った。そんでその子を落とすためにアドバイスが要るんだっけ?」

 

 「うん、何かいいの、ない?」

 

 途端にダム放水の勢いが、渇水ダムの泥溜まりに変わる。利辺の記憶は本日午後の図書館でのあれこれへと舞い戻った。惚れた相手の目の前で、その付き人相手にいい様にやりこめられ、ついには泣いて逃げ出す羽目になったのだ。その相手に勝てるビジョンは未だに見えない。

 視線と自信を下げた利辺を、ピーノは何やら考え込む顔で眺めている。そして考え込んでいた何やらについて思いついたのか、ピーノの表情が悪ガキの悪戯顔に変わった。下を向いた利辺の耳元に口を寄せて、ココアバターを塗ったかのような唇で二言三言を耳打った。何やらを呟かれた利辺の顔が跳ね上がる。天使じみた綺麗なまん丸の目が四方八方に走り出した。

 

 「え、え、え、え!?」

 

 「どうだ? 少なくとも俺なら上手くいくぜ?」

 

 これならどうだと、自信満々の面構えでピーノが豪語する。だがピーノなら成功する方法が、利辺は使えないと結論づけたばっかりだ。ピーノの兄貴なら適当にやっても成功するだろうが自分には無理だと、自信がない利辺は顔を下に戻してボソボソぼやく。

 

 「いや、でも、それ兄貴だから上手くいくんだし……」

 

 「何言ってんだ、おまえは俺の弟だろ。上手くいかないわけがねぇよ」

 

 心配すんな自信出せとピーノは利辺の肩を叩いて気合いを入れる。僅かに顔を上げる利辺の目の前で、ガキ大将の快活な笑みと共にピーノは力強く親指を立てた。憧れの兄貴からの叱咤激励に、利辺の顔にやる気が現れる。目指す理想からここまで言われて、立ち上がらなくちゃ男が廃る!

 文字通り立ち上がった利辺は、ハルマゲドンに挑む天使の面で拳を握りしめ気合いを入れる。気合い十分の利辺の姿に自分も調子が出たのか、ピーノも立ち上がり掌に拳を打ち付けた。

 

 「そうだ、俺はピーノ兄貴の弟なんだ! できないはずなんかない!」

 

 「そうだ、その意気だ! よし、思い立ったが吉日だ! でも今日は遅いから、明日帰ってきたらすぐ行こう! ……で、その子は何処にいるんだ?」

 

 ピーノがふと気づいて付け加えた一言に、利辺は口を「あ」の形にして呆けた。相手を口説きたいなら、相手の所に行かなければならない。当たり前の話だ。一番重要なことなのに、利辺は一片たりとも考えていなかった。そもそも正太にけちょんけちょんにやりこめられて、蓮乃の居場所を知るも何もなかったりするのだが。

 

 「兄ちゃんどうしよう」

 

 「オイオイオイオイ、名前を知らないくらいならどうにでもなるけどさ、流石の俺でも居場所も分かっていない相手は無理だぜ?」

 

 泣き顔寸前の視線で利辺はピーノに縋りつく。あまりのショックにピーノの呼び方も昔のそれに戻ってしまっている。勢いが乗ったところに水を差されてピーノの口からため息が漏れた。弟の大ポカに、額に手を当て天井を仰ぐ。

 再び顔面が真下を向いた利辺と、天井を見上げ首を捻るピーノ。倉庫の中は沈黙に包まれた。暗礁に乗り上げた事態を海路に戻すべく、ピーノは首と一緒に頭と知恵を絞る。場所として可能性があるのは精々が話にあがった公園と図書館、後は初めて出合った月検診の病院だろうか。どれもこれも確実性に乏しいが、他に手はなさそうだ。

 とりあえずの次善策を決めたピーノは、床に沈み込みそうな利辺へ呼びかけようとする。その時、沈黙を破りノックの音が響いた。

 

 「つかってまーす」

 

 極秘の会議室となっている離れの倉庫だが、極秘だけに使用予定がブッキングすることもままある。そう言う場合はトイレ同様に使用者が優先だ。トイレと違って内側から鍵がかけられないので、ノックがルールとなっている。そしてノックに使用者の返答が返されたら、当然来訪者は侵入できない。だが、ノックの主は躊躇なく無視した。

 

 「わかってまーす。でも、お邪魔しまーす」

 

 明るい声と共に扉が開く。倉庫のLED灯の下でも鮮やかな、茜色の赤毛が真っ先に目に入る。ニコニコという言葉を表情にしたような笑顔の中で、海の色をした両目が底の抜けた光を宿している。扉の向こうにいたのは、帰宅時にベンチに母井と二人で腰掛けていた友香だった。

 

 「友香!? なんで入ってくんだよ! 使ってるって言った……」

 

 「その子にあたし、会ったこと有るよ」

 

 極秘の会議を邪魔された利辺は当然血相を変えて詰め寄る。他人に聞かれたくないから離れの倉庫を使っていたのだ。家族ではあるが部外者にクチバシを突っ込まれる筋合いはない。だが利辺の台詞に、友香は被せ気味のカウンターパンチを返した。

 上がった血の気が引いて、利辺の血相が赤から青に変色する。どう考えても友香の言葉は、二人の会議を聞いていなければ出てこない。繰り返しになるが、他人に聞かれたくないから離れの倉庫を使っていたのだ。それを聞かれてしまっては何のために極秘の会議をしていたのか。もしも言い触らされたら、穴を掘って埋まるしかないだろう。

 それに加えて友香の言いぐさは、利辺の思い人と出合った事があるという意味だ。つまり彼女の居場所を知っているかもしれないということでもある。利辺の知らない所で出合っているのなら、少なくともそこに行けば会える見込みがあると言えるだろう。

 

 「何でそれ知ってるんだよ!?」

 

 秘密を握られた事実と、愛しのあの子に出会える可能性。二重の衝撃に利辺は目を剥いて友香に迫る。だが大声を上げて詰問する利辺に対して、ピーノの顔は冷凍庫に放り込まれたチョコレートの如くに酷く冷めていた。

 

 「そりゃ、月検診で翔が会ったこと有るんだから、友香も会ったことくらい有るだろ」

 

 「ありゃ、バレちゃった」

 

 ちょっとした冗談がバレたと言わんばかりに、悪戯っぽく舌を出す友香。目を除いてテヘペロと誤魔化すように笑うが、それを見るピーノの目は冷たいままだ。ピーノは厚徳園の皆を家族として大事に思っている。だからこそ、家族内で嘘を付き合う様な間柄は御免被る。

 冷えきったピーノの視線とは対照的に、利辺の目線は燃えそうな程の高熱を帯びていた。血走った目付きの利辺は、舌を出す友香に再び詰め寄る。正太に秘めた気持ちを暴露された時同様に、暴発直前の様で今にも飛びかかりそうだ。

 

 「ふざけんな! っていうかやっぱ話を聞いてたのかよ!? 言うなよ、絶対言うなよ! 言ったら魔法使うぞコノヤロウ!」

 

 「落ち着けよ、翔。ここで魔法使ったら警察が飛んできて全部喋る羽目になるぞ」

 

 冷めた顔のままピーノは立ち上がると、暴発寸前な利辺の肩を掴み力ずく座らせる。炸薬に火がついた利辺が無理矢理立ち上がろうとするものの、能力も魅力も腕力もピーノが上だ。結局、突撃を諦めた利辺は不完全燃焼の面で友香を睨みつけた。

 魔法使いの証である『腕輪』には、魔法使用を感知する機能と魔法使用を通報する機能が備わっている。つけたまま設定感度以上の魔法を使用すれば警告の電子音が鳴り響き、それでも魔法を使い続ければ近くの警察署へと通報される仕様だ。当然通報されれば近所の警官が大急ぎで厚徳園へやってきて、利辺は事情全部を話す羽目になる。小学生の恋愛事情で呼び出されたお巡りさんはさぞかし微妙な顔だろう。

 

 「友香も急にどうした。この話は利辺の話で、友香にはマジに関係ないだろ?」

 

 一酸化炭素が吹き出そうな荒い呼吸を繰り返す利辺を押さえ込みつつ、いぶかしげなピーノは友香に問いかける。ピーノが口にしたように、これは利辺の惚れた腫れただ。同じ厚徳園の住人である以上の関係性は友香にはない。そう言う意味ではピーノも同じだが、利辺の内心を言い当てて協力を言い出した分関係はある。

 

 「関係で言うならあたしだって翔くんと大体同じでしょ? あたしもその子に会いたいから、ついて行かせてもらえる?」

 

 ピーノの疑問に友香は肩をすくめて返すとマットに腰を下ろした。普段と違う調子に面食らったのか、鳩が豆鉄砲の代わりにアーモンドチョコレート食らった顔でピーノが見つめる。ピーノの記憶にある普段の友香は、年相応にもっと子供子供していた筈だ。

 

 「なんでお前を連れて行かなきゃならないんだよ!」

 

 だが、頭に血が登り切った利辺は、ピーノの抱いた疑問に全く気付く様子はない。ピーノが首根っこを抑えていなければ、今にも飛びかかって噛みつきそうだ。ピーノの表情にカカオ一〇〇%の苦みが混じる。いつもは兄ちゃん兄ちゃん言って後をついて回る可愛い奴なんだが、恋愛ごとになるとこうも暴走する奴だったとは。

 

 「あたしが勝手に付いてくだけ。それにその子と翔は上手く行ってないんでしょ? それに翔くんが女の子の気持ちが分かってないってのもあるんじゃない?」

 

 前のめりに食ってかかる利辺を、友香は軽く手を振ってあしらう。

冗談めかして小首を傾げた友香の言葉に、急所を突かれた利辺は顔を歪めて下を向く。記憶を遡ってみれば、愛しのあの子は随分とあのデブチンな付属物に親しい様子だった。憧れの兄貴相手ならともかく、あのデブチンに顔立ちで負けている部分はない。ならば他の理由があるはずだ。

 正太が聞いたら納得しつつも殴りかかるだろう思考を、利辺は黙りこくって考え込む。利辺の様子を観察し、一番の反対者は言い負かしたと結論づけた友香は、場の主導権を握っているピーノへと向き直った。

 

 「あたしがついて行ってもいいかな?」

 

 「まあ、それはいいけどさ」

 

 余りにあっさりと出された許可に利辺が顔を跳ね上げた。驚愕に塗りつぶされた表情でピーノを見つめるが、ピーノはそれに気づくことも気にすることもなく言葉を続けた。

 

 「舞と一緒でなくていいのか? 友達だろ?」

 

 ピーノと利辺が帰ってきたときもベンチで一緒だったように、母井と友香はいつも一緒の親友関係だ。風呂も寝るのも遊ぶのも常に二人で、一人の姿など便所に行くとき位しか見たことがない。それどころか、トイレも大抵連れ立っている。正直、ピーノは友香が一人で離れにやってきた時点で意外に感じていた。

 そして友香が見せた表情は意外という言葉を越えていた。子供っぽいニコニコと書かれた笑顔の下から姿を見せたのは、嫌悪の形に大きく歪んだ表情。年以上に大人っぽい母井とは対照的に、年相応に幼い友香は感情豊かだと、厚徳園の皆は認識している。時に喜び、怒り、泣き、笑う。少なくともピーノも利辺もそう思っていた。だが目の前で嫌い厭う顔を見せる友香は、記憶の姿と結びつかない程に年齢不相応の暗く濁った感情を漂わせていた。

 終ぞ見たことのない友香の表情に、ピーノと利辺は驚愕に呆ける。ギョッと書かれた呆然の面を向けている二人に気付いたのか、友香は大急ぎで常の笑顔の下に歪んだ表情を沈めた。だが鎮めきれなかった気持ちが揺れ動く視線から漏れ出てくる。弁明の言葉を口に出そうとするものの、焦りからか声は上手く出てくれず、一度深呼吸してからようやく姿を見せた。

 

 「……友達だからって限度ってものがあるよ。プライベートはプライベート、プライバシーはプライバシー。親しき仲にも礼儀あり。きっちり分けなきゃ、ね?」

 

 遅れが始めに出たせいか、友香の言葉は微妙に早口だ。それに出した言葉もいつもの幼げなそれではない。一〇という歳には相応しくないほど大人びた口調だ。何でもないと言外に言うように、最後の「ね?」を強めて口にする。異常を誤魔化す笑顔の仮面も、少しばかり浮いて見える。

 

 「まあ、いいんじゃない?」

 

 驚いた割にはピーノの返答は淡泊な肯定だった。あどけない印象の強い友香だが、何かと園を留守にする自分の知らない顔があっても可笑しくない。ましてや人間は成長するものだし、思春期女子の変化はなおのこと著しい。想像もしてない面の一つや二つあるかもしれない。それに親友同士とはいえ、巧く行かないこともあるだろう。

 

 「……兄貴がそう言うなら」

 

 一方の利辺も不承不承ではあるが、首を縦に振った。既に秘密の話は聞かれているし、自分の隠したいこともバレている。厚徳園中に言い触らし回されるよりはずっとマシだ。それにさっきの顔は友香にとっても隠しておきたいことだろう。お互いの秘密を握っておけば裏切ることはない、その筈だ。

 二人の返答を聞いた友香の表情に変化はないが、まとう空気には安堵したような雰囲気が醸し出される。どうやら利辺の想像は的を射ていたらしい。

 

 「じゃあ、何処でその子を探すか考えるとするか!」

 

 利辺と友香の様子を確認し、ピーノは話は終わりと両手を打ち鳴らす。三人は額をつきあわせて相談を始めた。



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第二話、二人が友達と出会う話(その三)

 蓮乃がやってくるようになるまで、正太には平日の放課後にTVを見て過ごす習慣はなかった。母の帰宅前までならTVを見ていても特に文句を言われることはないのだが、実物本趣味の両親の影響もあって正太は読書の方を優先していた。

 一方、蓮乃のいる向井家では、TVにチャイルドロックがかけられているので好きな番組が自由に見れない。蓮乃の母親である”向井 睦美”は仕事であまり構ってやれない割には、そこらへんが結構厳しいのだ。正太から見てもやや強迫観念気味な睦美は、母子家庭だからこそちゃんとしなきゃいけない意識が強いらしく、宇城家に入り浸る蓮乃が愚痴るくらいには締め付けが強いそうだ。

 そう言うわけで蓮乃は、宇城家に遊びに来るとき結構な頻度でTV鑑賞を求める。視聴する番組には特に偏り無い様で、面白そうと感じた作品を節操なく見ている。自然科学専門の『WWW(ワールドワイドウォッチャー)』から、正太の好物である特撮シリーズの『装甲ライダー』や『アルティメイト』などなどジャンルが幅広い。

 

 本日も宇城家に遊びに来た蓮乃は、正太にTV鑑賞を要求した。そして現在、宇城家の居間でデンプンチップスを摘みながら優雅に番組を楽しんでいる。TV前のソファーの上でゆったりと「背もたれ」に体重を預けながら視聴するのは、『カラフルガールズ』の最新話だ。これは毎週日曜朝八時半から放映している長寿女の子向けバトルアニメ『ガールズシリーズ』の最新作で、色彩の国『パレッティア』から五色の力を受け取ったヒロインが、時に協力し時に喧嘩しながら友情を深めてと汚濁の王国『ダーティーキングダム』と戦う作品だ。

 蓮乃と一緒にTV前のソファーに腰掛ける正太は、想像以上に激しいバトルシーンに視聴前の過小評価を急上方修正している。女の子向けバトルアニメと聞いて「どーせ、キラキラ光るものを投げ合って終わりだろ」と斜めに見ていたが、そのときの自分を大いに反省せざるを得ない。バトルシーンに一区切りがついて、正太は「ほー」と詰めていた息を吐いた。そのままテーブルのお菓子の皿に手を伸ばそうとして……

 

 「むー! なー!」

 

 ……「上」の蓮乃から抗議の声をぶつけられた。正太には蓮乃の言葉の意味は判らない。だが言いたいことは判った。今いいところだから「リクライニングシート」が動くな、ということだ。正太は嘆息代わりの気のない返答を吐いて、チップスを摘むことなく体勢を戻した。

 

 「へーへー、すんませんでしたー」

 

 「むふー」

 

 正太が体勢を戻して再びご満悦に戻った蓮乃は、「正太の上で」頭をすり付けるように延びをする。膝の上に乗られた挙げ句、胸に頭をすり付けられる正太としては、心地良さそうな蓮乃とは逆に実に居心地が悪い。

 正太の背丈は今現在(必ず大きくなると信じているが)一五〇cmほどで、蓮乃より頭一つ分大きい。加えて胴長短足の正太に対し、蓮乃は身長における足の割合が大きい。なので蓮乃は正太の胸肉に頭を埋める形となっている。

 

 現在、蓮乃と正太はいつも通りソファーの上でTV鑑賞しているが、いつも通りに隣り合って視聴している訳ではない。ソファーに腰掛ける正太の膝に蓮乃が腰掛けて、その状態で蓮乃は背中を預けながらTVを見ているのだ。

 どうしてこんなことになったかというと、先日の図書館での騒動(第二部一話参照)に遡る。自分にちょっかいかけようとする少年もとい利辺から身を守ろうと、今と同じく蓮乃は図書館のソファーで正太をソファーにした。その後、利辺に意向返しと嫌みと試験を兼ねた一発を叩き込むため、正太は嫌がる蓮乃を退かそうとした。正太はその時、蓮乃に『後で何でもしてやるから』と約束して退かしたのだ。斯くして本日も宇城家にやってきた蓮乃は、その約束を盾に正太に肉のクッション、略して肉ッションになれと命じたのであった。

 

 かくして蓮乃は正太の上を満喫し、正太は蓮乃の下で不満を漏らしている。せめてもの救いは蓮乃の体重が非常に軽いくらいだろう。これで妹である”宇城 清子”並に重かったら……その場合は考えたくない。蓮乃に乗っかられてぶすくれている正太は首だけで天井を仰いだ。できるなら全身をソファーの背もたれに投げ出して、思う存分延びをしたい。だが、それをしたら膝の上のお姫様から、独自言語の文句がまたも飛んでくるだろう。正直気恥ずかしいし暑いからんで止めて欲しいんだが、止めてくれないだろうな。何で蓮乃はこうもくっつきたがるんだ?

 先日同様の疑問を胸の中でぼやき、文句代わりのため息を漏らす。当然蓮乃はそんなの知ったこっちゃないと、次のチップスに手を伸ばした。お菓子の皿に積まれていたデンプンチップスのり塩味は、すでに六割方が蓮乃の小さな体に収まっている。いくらノンフライとは言え、でんぷんは人間の燃料であり、十分な熱量(カロリー)を秘めている。

 

 --そんなに食ってると太るぞー……いや、こいつは細っこ過ぎるな。いくらか太った方がいいのかもしれん

 

 正太は胸にもたれ掛かっていい気分の蓮乃へ、食い過ぎだと嫌み混じりの警告の視線をぶつけた。だがそれは、蓮乃が延ばした両手の細さに別種の心配へと姿を変える。搾りたて牛乳を材料にした作りたてのバターのように白い二の腕は、正太の片手に収まりそうなほど細い。正太の贅肉をたっぷりとまとった二の腕とは比べものにならないほどだ。

 正太の記憶をひっくり返してみれば、お菓子中心ではあったが蓮乃は結構な健啖家だ。真珠色の頬をリスかハムスターかと思わせるほどに膨らませ、いそいそとお菓子を詰め込むことに余念がない。蓮乃と出会ってからそう長い時間は経っていないから、まだ太っていないだけかもしれない。だが、それを考慮しても正太には痩せすぎのように思えた。

 もしかして蓮乃は世界中の女性が求めてやまない、いくら食っても太らない体質という奴だったりするのか。母の遺伝子のお陰で自分同様に横幅の広い清子が知ったら、さぞかし強烈に頬をひきつらせることだろう。清子の顔を浮かべて正太は意地悪く笑う。正太が妹のことを嫌っているわけではない。大切に思っているし、尊敬すらしている。だが、口喧嘩の度に毎度毎度ぐうの音も出ないほど一方的にやりこめられるのだから、胸の内で根性の悪い想像くらいしたくもなろう。

 

 そういったどうでもいいことを現実逃避も兼ねて正太が考えているうちに、アニメはED曲を流し始めた。勇気が輝くとか友情が大切とか歌っている映像を無視して、正太は手のリモコンを操作した。途端にTVの画面は登録されたチャンネルの最新情報が並ぶ、個人ページに切り替わる。膝の上から抗議文が来ないあたり、蓮乃もEDは見る気がないらしい。

 蓮乃の望み通り体の角度を変えない操作に苦労しながら、正太は面白そうな番組を探す。宇城家のTVは結構なお年なせいか、リモコンの反応が悪いことが多い。だから、いつもならリモコンの意味がなくなりそうなくらい、センサーに密着させて操作している。しかし、今日は蓮乃が上に乗っているからやりたくてもできない。正太はお前のせいで面倒だという気持ちを視線に乗せて、腹の上で居心地良さそうな蓮乃に向けるも、当人に気付く様子は一切無い。

 しょうがないと蓮乃を意識から外して、正太は登録チャンネル最新情報の中を上から下まで眺める。不意に正太の目がある一点で止まった。最新情報の中に先日図書館で借りた小説の名前と挿し絵を見つけたのだ。『漫画活劇”殺魔忍”PV第一段』と書かれた項目を見ながら思い返してみれば、ファンである『殺魔忍シリーズ』のアニメがやると知って、大喜びでチャンネル登録していた覚えがある。

 

 「おー、もうやるのか!」

 

 「ぬーなーっ!」

 

 思いもかけない喜びに正太は思わず身を乗り出してリモコンを操作する。当然、正太に背もたれる蓮乃から抗議の文句が上がる。意識から外していた蓮乃を再度意識に上らせて、「悪い悪い」と笑って詫びながら正太は体勢を戻した。

 画面は正太が操作したとおりに殺魔忍のアニメーションPVを映し始めている。和楽器を使った軽快なロックをBGMに、文章と挿し絵にしかいいなかったキャラクターが所狭しと動き回る。その姿を大喜びで眺めながら、ふと正太の脳裏に図書館で借りた『殺魔忍シリーズ』最新巻の存在が浮かんだ。そういえば借りている最新巻の『七人の乱破』を読み終えていた。図書館で借りれる本は数が少ないし、また新しい本を借りに図書館に行こうか。でもあのクソガキにまた出合ったら面倒くせぇしな。

 先日のことを思い出し、正太の顔に微妙な渋い表情が浮ぶ。散々っぱら迷惑をかけられた相手だ。少年こと利辺のお陰で、色々な意味で図書館に行きづらくなった。次にあったら締め上げてやろうと決めてはいるが、積極的に合いたいとは全く思わない。柿渋色に染まった正太の面構えを見て、蓮乃は不思議顔を浮かべる。それに気付いた正太は、収れん味の顔から苦笑の表情に切り替えた。

 

 『図書館に行こうと思うが、またあいつに会うかもしれんからどうにも腰が重くてな』

 

 『私は行こうと思う』

 

 正太の文字をしばらく見て、蓮乃は一文を返した。意外な蓮乃の言葉に正太は目を丸くする。ちょっかいかけまくる利辺の標的というか目的は蓮乃だった。先日の図書館以前から嫌な思いをさせられてきたのも蓮乃だ。自分以上に利辺には会いたくないものだと正太は考えていた。だが、蓮乃はふんすっ!と鼻息も荒く文字を綴る。浮かべる表情は決意に堅く、拳も意志を堅く握りしめている。

 

 『ずっと怖がっているのは嫌。ちゃんと「嫌い」って言ってやるもの』

 

 その言葉に正太は図書館から帰宅する前のやりとりを思い出した。嫌いな相手である利辺に、怒りを飛び越えて憎しみ混じりの蔑みを文字にしていた蓮乃を諭した後だった。嫌いな相手でも蔑んじゃいけないと伝える正太に、蓮乃はじゃあどうすればいいのかと聞いた。その時正太は『「お前が嫌いだ」と伝えてやればいい』と答えたのだ。

 

 --ちゃんと言われたことを覚えているんだな

 

 蓮乃の言葉と気合いに、正太は歯を剥いた男臭い顔で笑った。妹分がここまで根性見せているんだ。面倒だ何だと言い訳してちゃ男が廃る。正太は胸に預けられた蓮乃の頭を乱暴に撫でながら頷いて見せる。

 

 『そうだな、ビビっているのはカッコ悪いもんな。背中はちゃんと守ってやるから、きっちり気持ちをぶつけてやれ!』

 

 「んっ!」

 

 蓮乃は元気いっぱいの返事とともに正太の上から跳ね起きた。



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第二話、二人が友達と出会う話(その四)

 まだ空は青色のままだが、太陽は天頂から随分と角度を落としていた。

公園を囲む木々の影は既に長く、合間の暗がりも色濃く見通しが悪い。夏至に近づく五月終盤ではあるが、五時近くともなればそれなりに夕方らしい風合いを見せる。

 そんな図書館前の公園の入り口に、いつも通りのTシャツと木綿パンツの正太と、これまたいつも通りにパステルカラーの袖付きワンピースの蓮乃が並んで立っていた。思い立ったが吉日と、利辺との決着をつけに二人は図書館と公園までやってきたのだ。なので蓮乃は気合い満々で鼻息荒く、それでいて落ち着き無く視線を動かす不安気味の顔をしている。一方の正太は、啖呵を切った割には随分と微妙な表情だった。先日のやりとりから既に数日は経過しているのだ。少年こと利辺が公園にいた理由も二人は知らない。今更会いに行ったとしても利辺に会えるとは、正太には考えづらかった。

 事実、正太は緊張感と面倒くささの混じった表情で辺りを見渡すが、目に入るのは学校帰りとおぼしき少年たちが野球に興じる姿だけだった。記憶の姿を見直せば、目的の人物が蓮乃と同年代の小学生であることは想像が付く。だが、ランドセルを背負った彼らの中には、小憎たらしい天使面はどこにも見当たらなかった。

 蓮乃の気合いに乗せられたとは言え、元々利辺と顔を合わせたくない正太としては、蓮乃には悪いがそれはそれで良かったと思える。小学生相手にビビるつもりは到底無いが、拳骨を出したら捕まる相手と神経を逆なでするイヤミ合戦をするのは、精神衛生上とてもよろしくない。

 

 『どうやら居ないみたいだな。図書館行って帰るか』

 

 「ん」

 

 会えなくてほっとしたような、でもやっぱり残念なような複雑な顔をしているが、蓮乃は素直に頷いた。腰の重い正太を動かすくらいに気持ち十分な蓮乃であったが、同時に鈍感極まりない正太から見ても判るくらいに不安と緊張にいっぱいいっぱいでもあった。いくら正太が後ろ盾に支えてくれるとは言え、嫌悪する相手に真っ向から最後通牒を叩きつけに行くのだいくら気合いを入れたとは言え、緊張するくらいは当然だろう。ましてや主に正太に向けてだったが、感情のままに魔法を使おうとしたり暴れ回ろうとした相手でもある。蓮乃の表情に安堵の色が混じるのも無理はない。

 その顔を見て遅くならない程度に図書館で本でも読んでいくかと予定を立てた正太は、繋いだ手を引いて図書館へと歩き出した。手を引かれた蓮乃も散歩に慣れた子犬よろしく、直ぐに歩調を早めて正太の手を引っ張り出す。その顔には既に図書館での読書の期待に切り替わっている。切り替えが早いのは蓮乃の特長だ。

 なお、二人が手をつないでいるのは別に正太が求めたわけではない。図書館への道の途中、蓮乃が当然の顔で正太の手を握ってきただけである。正太としてはどうにも気恥ずかしい、でも振り解くのもなんだしと無駄に懊悩しながら結局そのままで公園までやってきてしまったのだ。

 緊張の気が抜けた顔の正太を引っ張る様に、小走り気味の蓮乃はとなりまち図書館へと向かう。その耳に、待ち望んでいながらも出会いを拒否したい相手の声が届いた。

 

 「いたっ!」

 

 図書館近くのベンチの横で、聞き覚えのある声に二人が振り返ってみれば、これまた見覚えのある姿が目に入る。ブロンド二歩手前の淡色の髪に、新生児の薄ピンクの肌。透明な薄茶色の瞳は、長く柔らかな睫毛でデコレーションされている。宗教画から飛び出してきたとおぼしき外観を、小学生丸出しの短パンにアメコミTシャツで包んだそいつは、二人の探し人である少年こと利辺 翔に他ならない。ただし顔色は(主に正太への)悪意が全開だった前回と異なり、先ほどまでの蓮乃同様に緊張と不安で張りつめている。

 

 「なうっ!」

 

 ターゲットを発見した蓮乃が臨戦態勢に入った。握った拳をフック気味に振り回し、猫パンチのファイティングポーズを構えている。緊張と不安に揺れる心境を表しているのか、重心は前後にリズムを取っている。

 蓮乃が飛び出さないように半歩前で手で制しつつ、正太も重心を落として即応体勢を形作る。先日は何度と無く飛びかかろうとしてきた相手である。襲ってくるなら即座に盾となり、跳んでくるなら拳骨で迎撃するつもりだ。ただし表情までは即応できなかったらしく、正太は少々困惑した顔を浮かべている。

 

 正太の困惑の原因は予想と当てが外れただけではない。利辺の後ろに二つの知らない顔を見つけたからだ。一五〇cm代の正太より確実に頭一つは背丈の高いチョコレート色の美青年に、南部アメリカ舞台の映画でメインヒロインを張れるだろう赤毛碧眼の美少女。

 コンチクショウ、どいつもこいつも整った顔立ちをしていやがる。蓮乃は美男美女専用の引力でも発揮しているのか。困惑から憮然へと表情を変えて、げんなりした気持ちを胸の内でこぼす正太。だが文句を言ったところで顔が良くなるわけではない。顔立ちのことは心の棚に仮置きして改めて二人を観察する。日本人の想像する肌色からほど遠い焦げ茶色の肌に、染めない限り大和民族には手に入らない茜色の髪。蓮乃と相対している天使顔の少年もそうだが、全員が日本人離れした面構えをしている。帰化外国人の子女の集まりなんだろうかと正太は首を捻った。

 

 魔法と呼ばれるよく判らない力が世に溢れるようになって、一番特をしたのはテロリストと犯罪者と科学者だが、一番割りを食ったのは被差別民族などの虐められていたマイノリティーである。特に魔法を得てしまった少数派は悲惨の一言だった。社会が混乱すれば真っ先に酷い目に遭うのはいつだって弱者だ。加えて社会混乱の原因である魔法を持ち合わせているとなれば、もう目も当てられないことになる。

 そうして恐怖や嫌悪に煽られた多数派の排斥活動もあって、少数派は泣く泣く故郷を離れることとなった。その行き先はアメリカやアジアやあの世等々様々だったが、その一部は日本にもやってきていた。アニメや特撮、当時はまだ一般的だったマンガなどがる日本なら、他国よりはいくらか許容してもらえるのではないかと考えたからだ。社会不安が比較的少ないこともあり、混乱する国よりいくらか魔法使い差別は大人しかったのは事実だ。しかし、それと移民難民を受け入れるかは完全に別問題であり、申請や認定の厳しい日本では多くが違法な移民となってしまった。

 それでも以前と比べれば日本に帰化した外国人、通称:帰化外国人とその子供たちは格段に増大し、白黒黄の肌色に赤金茶黒の髪と学校の教室は色彩豊かになった。そして仕事の増えた先生方の顔色もカラフルになったが、それは別の話である。

 

 正太の思考をよそにガチガチに緊張している利辺は、一六ビートで暴れる心臓を宥めようと深呼吸を繰り返す。あこがれの兄貴の見ている前で、好きな子のハートを射止める大一番だ。カッコ悪いところは見せられない、見せたくない。

 一方、憧れの対象であるピーノは、利辺の緊張を余所に安堵したような疲れたような表情で弟の様子を見ている。ここ数日の間、蓮乃と合ったことのある病院と公園とその周辺で、ピーノ・利辺・友香の三人は蓮乃を探し回っていた。しかし、健康優良児である蓮乃は月検診以外に病院に行く用事がない。次の月検診は六月なので五月の今、蓮乃は当然病院では見つからない。そして図書館は、利辺にまた会いたくない二人の心境もあって足が遠のいていた。なので蓮乃が覚悟を決めてやってきた今日まで、図書館でも発見できなかったのだ。

 そういう事情もあってピーノの内心としては安堵の気持ちで一杯である。利辺には言っていないが実を言うと、いい加減面倒くさくなってた処だった。もし今日見つからなかったら止めようかと考えていたが、見つかったので一安心という処である。

 緊張でパンクしそうな弟に「頑張れよ~」と胸中で適当なエールを送ると、ピーノはその弟の思い人に視線を向ける。蓮乃の顔立ちを見るや否や、ピーノの表情は興味の笑みに形を変えた。

 

 --にしても翔の奴、どんな娘かと思ったら実にマブいというか、強烈にハクいというか、ちっさいくせにすっげぇ美人じゃねぇか。

 

 口笛を吹きそうな勢いでピーノはストリート的な表現で蓮乃の外見を絶賛する。原義通りにハンサムなピーノから見ても、蓮乃の外観は十分に琴線に触れるものだった。ストライクゾーンからは遙かに下回るほど幼すぎるが、それを除けば全部が全部及第点といえる。さすがは俺の弟だ、いいセンスしている。

 自画自賛も込めてピーノは弟の見る目を賞賛する。そうして蓮乃を観ていた黒茶色の目が、不意に蓮乃を庇う正太に向けられ……直ぐに外れた。正太の存在は眼中にも思考の内にもない。誰が道ばたに捨てられた吸い殻を注視しようか。独自のセンスで他人を測るピーノにとって、感性に一片たりとも触れない正太などその程度だ。

 

 そんな目線を向けられた正太の顔は、げんなりという言葉を体言する形に崩れている。なるほど、あのクソガキが連れてだけあってデカいだけの同類か。しかも『腕輪』を付けている点、つまり魔法使いであることまで同じとは。面倒なことに成らなきゃいいんだけど、無理だろうな。

 気分の悪くなる確信を得た正太は、もう一人へ確認の視線を向ける。クソガキ(女)で無いでくれと祈るような心境だ。一人でもあれだけ嫌な気分にさせられた相手が、倍になってやってきたのだ。さすがに三倍は勘弁願いたい。

 正太の祈りが何かしらに通じたのか、目を向けた先の友香はニッコリと書かれた笑みを浮かべて斜め四五度の深いお辞儀を返して見せた。丁寧な態度にほぅと正太は感心の息をこぼした。あの赤毛の子は実に礼儀正しい。ろくでもない朱に交わっても赤くならないのは素晴らしい、髪はもう茜色だけど。

 蓮乃もあんな風に礼儀正しくあって欲しいものだと、正太は一人胸の内にこぼす。しかし、礼儀とは作法であり胸の内とは特に関係はない。『面従腹背』『口に蜜あり腹に剣あり』等々熟語に諺が示すように、一件礼儀正しくも態度とは真逆の内心を持っている人間はいるのだ。事実、ニコニコを張り付けた友香の目は、実験動物を見るような平板な視線で正太と蓮乃を見つめている。陸亀が裁判所に申し立てするほどに鈍い正太は、友香の目つきに全く気づいていない。正太の祈りを聞き遂げた何かしらは、きっと名状しがたい形状で冒涜的な色合いをしているに違いない。

 

 「ぬ~っ!」

 

 「すぅーはぁーすぅーはぁー」

 

 立派な子だと身勝手に賞賛している正太の後ろで、蓮乃はというと唸り声をあげて利辺を威嚇するのに忙しい。対面する利辺も未だ整わない呼吸の調子を調整するので必死の様子だ。

 二人が二人とも自分のことで一杯一杯で相手のことなんか考えていられない。だからようやく気息を整え、覚悟を決めた利辺が吐いた決め台詞も、実に頓珍漢な的外れの代物だった。

 

 「お、お前は俺が好きになる価値がある女だ。ええっと、俺と付き合わなかったら後悔する。だから俺だけを見て、お、俺色に染まれ!!」

 

 --なんじゃそりゃ! 気持ち悪ぅっ!

 

 調子と図と勢いに乗ったかつての自分でも口にしないような台詞に、正太は表情筋全てをガチガチにひきつらせた。悪寒を感じて撫でた二の腕は、鳥肌が総毛立って粟だらけになっている。聞こえていないと知りながらも正太は思わず蓮乃を見ていた。こんな気色悪い口説き文句(?)を聞かされる蓮乃が気分を悪くしないか、正太は本気で心配していた。

 幸いというか当然というか、蓮乃は利辺の口走った妄言の内容を一切理解していない。蓮乃は障害の関係で、音声を聞き取ることができないからだ。やな奴が何かしら言った、きっと私たちを馬鹿にしているんだろう。そのくらいの認識だ。疑わしきを罰する態度であるが、利辺には暴言罵声の前科があるので致し方ない。尚、先日悪罵の標的にされたのは蓮乃でなく正太だが、蓮乃としては以前から自分にちょっかい出してくるやな奴だし、何より兄ちゃんの敵は自分の敵でもあるので問題ない。

 

 やな奴がまたも自分たちに悪口を言ったという誤認を最後の引き金に、唸る蓮乃の覚悟も決まった。最後の確認と蓮乃は振り返り、ひきつり顔の正太の目を見つめる。正太は表情筋を固めたままだったが、蓮乃の気合いで張りつめた顔で理解したのか、小さく頷いてGOサインを出す。正太の顔で誤解を深めた蓮乃は、腰のポーチから会話用ノートを取り出すと利辺への返答の代わりにノートを突き出した。

 

 『私は聞いたり喋ったりすることができません』

 

 蓮乃の親である睦美が書いたその一文は、茹だった利辺の脳味噌に氷水をぶっかけた。自分に見せつけているのかと正太と蓮乃のアイコンタクトに憤っていた利辺は、想像外で想定外の事実に顎を外して半開きの口で呆ける。蓮乃が喋る相手に真っ先に知らせるこの事実を、利辺は今の今まで知らなかった。蓮乃が独自言語で喋る様を見てれば一発で気づきそうなものだが、『恋は盲目』『あばたもえくぼ』全開な利辺は、「日本人に見えるけど外国の子なんだろう」と結論づけて疑いもしなかったのだ。

 

 頭の中も真っ白になった弟の無様に、ため息をこぼしたピーノは頭を抱えて首を振る。焦るあまり教えた口説き文句全部まとめて言ってしまう不手際もさることながら、理解できないからと石になって固まるのも致命的だ。女の子はグイグイ引っ張ってくれる異性を求めている。自分の経験はそれを証明している。石像になって停止する男子なんぞ鼻で笑って願い下げだ。それを期待していた弟がやっている現状には、正直目を背けてしまいたくなる。

 利辺の晒した醜態に、友香はニコニコお面顔を一時取り払って本音と同じ失望の表情に取り替える。利辺のお子さまっぷりは少なからず理解しているつもりだったが、現実はそれを下回っていたらしい。想定外を口にしたいのはこっちの方だ。これじゃ目的を達するのは難しいかもしれない、作戦を変更しないと。

 当事者二人を除くこの場にいる全員は、利辺が蓮乃を口説き落とすのは不可能と結論づけた。蓮乃は口説かれている事実を認識していないし、利辺は成功失敗を認識できる精神状態ではない。

 

 だが、蓮乃のターンはこれで終わったわけではない。続いて呆然とする利辺をそのままに、鼻息荒く蓮乃はページをめくる。目的のページを見つけた蓮乃は、「ふんすっ!」と気合いと緊張を鼻から吹き出した。出かける前に書き込んだそのページは、利辺に突きつけてやるつもりで書き込んだ。今がその時である。

 右ストレートの要領で体重込めて、蓮乃は開いたページを石像の利辺へと叩きつける。余りに勢いをつけすぎてたたらを踏むが、勢いに乗ってる蓮乃はそんなことを気にはしない。私はこれを伝えるためにここまできたのだ!

 

 『私はあなたが嫌い!』

 

 石となった利辺へと言葉のハンマーが振り下ろされた。余りに強烈な一言に、ガチガチに固まった利辺の精神に無数のヒビが走った。数え切れないヒビからにじみ出た感情が涙となって目尻に溜まる。しかし、蓮乃はそれが流れ落ちるのを待ちはしない。ページ一杯に書かれた文句を次から次へと投げつける。ここが正念場、前進制圧あるのみ。

 

 『あなたが投げてきた物が当たって痛かった! あなたが揺さぶってきたから本が全然読めなかった! あなたが大声でなんか叫んでてすごくうるさかった! 髪の毛をグチャグチャにされるのがすごく嫌だった!』

 

 留まること無い怒濤の非難に、ヒビまみれになった精神がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。グロッキー状態の利辺はひたすらに打ちのめされることしかできない。その上、蓮乃の感想はともかくとして、利辺が物を投げたのも揺さぶったのも、大声かけたのも髪の毛いじくったのも、何か何まで全部事実なのだ。反論など出来るはずもなかった。

 物言わぬサンドバックの様に、次々にたたき込まれる言葉の暴力にひたすら打ち据えられる利辺。その姿から正太は思わず左斜め上へと目をそらす。哀れみを覚えたのではない。蓮乃が全力で投げつける文句の中に、正太にも覚えのある行動があったからだ。

 

 --髪の毛グシャグシャにするのは嫌だったのか……

 

 正太が蓮乃を褒めたりご機嫌を捕ったりする際、まあるい頭を力強く撫でくり回すことが多い。力を入れて乱暴に撫でれば、当然蓮乃の長い髪の毛は強く乱れる。蓮乃の黒髪は形状記憶繊維が入っているんじゃないかと思うくらいに復元性があるので、正太は蓮乃の髪を乱すことを今の今まで気にしていなかった。しかし当人がああも嫌だと感じていたならば、これからは撫で方を考えならねばなるまい。少なくとも髪を乱すような真似は二度としない。両親に誓おう。

 今まで嫌な思いさせていてすまんと、正太は胸の内で謝罪の言葉を呟いた。無論、後でしっかり文字にして蓮乃へと謝罪を伝えるつもりだ。尚、蓮乃は常々「言わなきゃ判らんので、言いたいことがあったら言うように」と正太から教えられている。なのに正太に嫌だと伝えていないのは、単に嫌でないからだ。蓮乃は利辺に髪の毛をいじられるのが嫌なのであって、正太にいじられるのは別に嫌ではない。寧ろ嬉しく感じていたりする。

 

 一人上手に反省する正太を後目に、蓮乃の対利辺コンボアタックは〆の一撃に入りつつあった。威嚇時の猫よろしく荒い呼吸を繰り返し、蓮乃は暴走する心拍を酸素加給で落ち着かせる。それでも心臓は全力疾走後のビートを刻み、ノートを握る手に汗が滲む。これで最後なのに。焦る蓮乃の記憶から、不意に正太の言葉が浮かび上がった。

 心はアツアツでも頭はヒンヤリで行けって兄ちゃん言ってた。その時の正太はもう少し漢語表現を使っていたはずだが、いつの間にかに蓮乃が擬態語に翻訳していたらしい。独自言語で翻訳済みの正太の言葉を参考に、蓮乃は体を反らすほどに息を吸い込み、体を丸めて全て吐き出す。全力の空冷で頭が冷えたのか、心臓も平素から幾らか早い程度の鼓動となり、滲んだ汗も引いていく。今だ!

 

 『だから、私はあなたが大っ嫌い!』

 

 蓮乃は利辺を殴りつけるつもりで一気にノートを突き出した。利辺の骨の髄まで蓮乃の本音は響きわたった。それも「ごめんなさい」「お友達でいましょう」等という、オブラートと糖衣錠で包んだ毒薬ではない。『嫌い!』の気持ちを鉄心剥き出しの剛速球で、急所めがけて全力投球だ。言い訳などできようもないほどに蓮乃の拒絶は明確に明言された。

 利辺のハートは蓮乃の一撃に砂と砕けた。初夏の臭いを帯びた風と共に、粉みじんになった利辺の残骸が吹き消える。ピーノは弟の惨状にだめだこりゃと諦観の息を付き、友香は想像以下の結果ねと醒めた目で同年代の家族を見つめていた。



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第二話、二人が友達と出会う話(その五)

 言葉の鉄槌で殴りつけられて塵に帰った利辺に対し、殴りつけた方の蓮乃は気が抜けたのか全身を脱力してノートを下ろした。弛緩した体中から不安と緊張が蒸発していくようだ。残った凝りを長い長い吐息と共に吐き出すと、全身全霊で感情を示した疲労感が鉛の十二単の様に覆い被さっている事にようやく気づいた。すごく短い時間だったのにすごく疲れた。家に帰ってラムネ飲みたい。

 だが、その望みが叶うのはもう少し後らしい。目の前の利辺が涙を滲ませた顔で歯を食いしばり、真っ直ぐ蓮乃を見つめてきたからだ。憧れの兄貴が後ろにいる、家族が背中を見ている。カッコ悪いところをこれ以上見せてたまるか。最後の根性を動力にして、砂と消える心をかき集め、砕けた矜持の欠片をそそぎ込み、意地が主成分のモルタルと涙の水を練り混ぜて、コンクリ仕立てに精神を立て直して見せたのだ。

 弛んだ心身を締め直し、負けじと蓮乃も真ん前から睨みつける。よく見れば蓮乃の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。握る拳もふるふると震え、桜色のほっぺたはいつもの染井吉野ではなく山桜の色合いをしている。目の前のやな奴に全身全霊全力全開で大嫌いの気持ちをぶつけてきたばかりだ。好きか嫌いか種類によらず、思いを伝えるのにはエネルギーがいる。小さな体に蓄えてあった燃料は完全無欠のガス欠だった。

 やせ我慢と意地っ張りと格好付けを総動員して、挫ける心を下支えする利辺。負けん気を予備バッテリー代わりに、電池切れの体を無理矢理動かす蓮乃。今にも弾けそうというか、二人が崩れ落ちそうな張りつめた空気が辺りに流れる。

 

 --十分頑張ったし、手を貸してやるか

 

 何の示し合わせがあったわけでもなく、何かしらを意図したわけでもない。しかしピーノと正太は、全く同じ事を考えて同時に足を踏み出した。利辺と蓮乃はそれぞれの兄貴分の方へと振り向く。その拍子に兄貴分同士の視線が交わる。正太としては負の印象を覚えたとは言え、さほども知らない相手と目があって微妙に居心地が悪い。一方のピーノが正太に向けるのは何の感慨もない無関心に石ころを見る目線だった。条件反射で会釈しようとした正太の顔が奇妙に歪み、ピーノの視線がどうでも良さげに外れる。

 人間は他人を様々な尺度で評価する。外観、行動、礼儀、態度などなど人間の数だけそれぞれの基準を持ち合わせている。そして、ピーノが持つ物差しは自分のセンスにあった。琴線に触れるか否か、家族か否か。家族に対して何も感じない事はないので、大別すれば『感性に触れる人間』『感性に触れない大衆』『共に暮らす家族』の三つだ。そしてピーノにとって、蓮乃は見るべき所のある『人間』であるが、正太は無価値無意味な『大衆』でしかなかった

 他人の心を読みとることが決定的に不得手な正太に、ピーノの価値判断基準が判るわけもない。だが、なんだゴミかと言わんばかりの視線を向けられて気持ちがいい筈もない。瞬間湯沸かしの正太の眉がつり上がり、目線が剣呑な色合いを帯びる。雰囲気に引火性の空気が混じりだす。

 が、ピーノはそれにすら無関心だった。正太が存在していないかのように、利辺と何やら話している。こういう手合いに絡んだところで空回りもいいとこだ。深いため息をはいた正太も相手するだけ無駄な相手と結論づけ、蓮乃へと歩み寄る。

 

 「なーもっ! ぬふーっ!」

 

 「よく頑張った、よくやったな」

 

 疲れた様子の蓮乃だったが、正太が近づくと無邪気なドヤ顔で「私、頑張ったよ!」と気持ちを伝える。言ってることは判らないが言いたいことは何ともなしに判った正太は、優しげな笑顔で頷きながら腰を落として目線をあわせた。常の習慣のままに正太は蓮乃の頭を撫でかける。

 

 --あっと、これ嫌なんだったな

 

 が、条件反射で乱暴に頭を撫でそうになる手を気合いで止めて、正太は蓮乃の頬に優しく触れることにした。あれだけ気合い入れて突きつけた言葉だ。よっぽど嫌に違いない。

 柔らかな曲線を描く薄紅色の頬を、できるだけ穏やかに指先で触れる。蓮乃は「ん~」と鼻歌のような鼻声を上げて、心地よさそうに目を細めている。嫌がっていないことを確認しつつ、正太は指を滑らせる。産毛のない淡紅色の頬は、出来立ての大福餅を思わせる弾力と滑らかさで正太の指先に答えた。

 ふと「これはこれで問題あるのでは?」と思考が正太の脳裏に浮かんだ。幼いとは言え異性の肌に許可も得ずに触れているのだ。相手如何によっては大声で泣かれて親と警察がすっ飛んでくる。でも当人嫌がっていないし、いや髪の毛の件もあるし実は嫌がってたりするかも、しかし短いとは言えつきあいのある相手だし、だけど……

 褒められて撫でられて気持ちよさそうにしている蓮乃とは裏腹に、無為な疑問を空回りさせて堂々巡りで自縄自縛の正太。いつも蓮乃に「言わなきゃ判らん」と諭している当人が独り相撲で懊悩する様は、ブラックジョークと同じ皮肉と滑稽に溢れていた。

 

 「兄ちゃんに色々教えてもらったのに、俺が無茶苦茶にしちゃった……ごめん」

 

 「よく頑張った、カッコつけて見せたな」

 

 内心はどうあれ明るい雰囲気の正太と蓮乃とは対照的に、利辺とピーノはお通夜の空気に包まれていた。当然、死人のオーラを発しているのは滲む涙を拭い続ける利辺だ。思わず兄貴呼びから兄ちゃん呼びになるくらいにグロッキー。根性でへし折れかかった気骨を支えて見せたが、KO寸前九カウントで敗北確定なのは変わらない。情けない一ラウンドノックアウト負けから、ポイントに大差を付けられての判定負けになっただけだ。

 それでも最後の最後で踏ん張って見せたのは中々だった。そうピーノは弟の努力を褒め称え、やるじゃないかと利辺の背中を平手で叩いてみせる。ピーノは『大衆』には何の感心も抱かないが、『家族』に対しては深い愛情を抱いている。その『家族』である利辺がここまで頑張って意地を見せたのだ。ならば手の一つも貸してやるべきだろう。

 

 不安げな視線で見つめる利辺に、ピーノは安心しろとの意味を込めてニンマリと笑ってみせた。軽く手足を伸ばして全身をほぐすと、正太にかまってもらっている最中の蓮乃へと視線を向ける。当然、正太の存在は眼中にない。

 一方、ピーノの後ろで友香も新種の生き物を発見した学者の目で、正太と蓮乃のやりとりを観察している。こちらはしっかり正太も観察の対象だ。友香には利辺やピーノのそれとは違う独自の目的がある。それに合致するかどうかが重要なのだ。だから友香は、ピーノが行動に出ても特に何の反応もしなかった。

 

 「俺はピーノ・ボナって言うんだ。たしか、君は喋れないんだっけ? でも、俺たちは君とおしゃべりしたい。だからノートを貸してくれないかい? できればペンも」

 

 快活と爽やかを体言する空気をまとい、ピーノは慣れた様子で流れるように蓮乃に声を投げかけた。ピーノが口説くのは感性に触れる女の子、つまりその価値のある『人間』だけだ。そしてピーノが声をかけて落ちなかった娘は今の今まで一人もいない。だが、蓮乃はその一人目になりそうだ。

 ピーノから声をかけられた蓮乃は、眉を寄せた『不可解』と書かれた顔で悩んでいる。どれだけ小粋なエスプリを効かそうと、どれだけ甘い声で呼びかけようと、言葉を聞き取れない蓮乃には「なんか言ってる」以上の認識は得られない。なので蓮乃は正太の顔を見つめて発言の内容を求めた。

 正太としては言いたいことがあるなら言えと言いたくて仕方ない。が、正太の目から見ても今日の蓮乃はよく頑張った。多少は大目に見てやろうと、正太は手を出しノートを要求する。蓮乃から差し出されたノートを受け取り、正太は装飾を省いて簡単にまとめて書いて見せた。

 

 『話がしたいからノートとペンを貸せ、とさ』

 

 正太の短文に蓮乃の顔が渋る。やな奴と二度と会いたくないから、勇気を出して「嫌い!」って言いに来たのに、あのチョレート色の人はなんで話せっていうの? あの人が何を話したいのか知らないけど、やな奴の事なら話したくない。嫌な気持ちを込めた表情の蓮乃は、ふるふると首を振って正太に拒否を伝える。

 それくらい自分で言えと正太の顔も渋る。だが、正太は深呼吸一回で容赦することにした。今日の蓮乃は大嫌いな相手と真っ正面からどつきあった様なものと言える。少なからず消耗していることは確かだ。だから正太は正直御免被りたいくらいに苦手な、初対面相手の説得という作業を我慢して受け持つことにした。

 

 「あー、その、なんだ、うちの子は、えーっと、お宅等と話をしたくない、とのことだ」

 

 つっかえつっかえの正太は訥々と蓮乃の拒否を言葉にする。吃りがちの語り口は、立て板に水のピーノとは真逆のそれだ。床にタールを流した方が幾らか滑らかだろう。端から見れば馬鹿にしているのかと思いそうだが、これでも正太は先の蓮乃並に頑張っている。聞き取りづらく伝わりづらい口調とは言え、言葉を発しているのがその証拠だ。

 正太は小学校時代の虐めのせいで他人と話す事に極端な苦手意識を覚えている。そもそも喋ることすら苦痛を覚える始末だ。蓮乃のような例外を除けば、滑らかに意見を伝えるなど不可能に近い。それでも頑張った蓮乃のために、正太もまた頑張ることにした。

 

 「君が我が家の利辺 翔を嫌っているのはよく判った。だが、そいつは翔の気持ちがダイナマイツしちまった結果なんだ。無論、謝罪が要るなら俺も謝るよ」

 

 しかしそんな事情をピーノが知る由もないし、そもそも知ったところで意に介さない。なので当然、正太の言葉など馬耳東風に右から左へ聞き流しつつ、ピーノは蓮乃へと更なる説得を続ける。

 当たり前の顔で自分を無視する相手に、やっぱり無駄だったかと正太は小さく嘆息をこぼした。話している自分でも判る出来の悪さだった。始めから耳を傾けてくれている人間ならともかく、これで端から自分を無視している相手を説得できたらそっちの方が驚きだ。

 自分と相手の両方に眉をしかめながらもとにかく言うべきは言ったと、正太は軽快に喋るピーノを観察する。さっきの話と合わせると、このチョコレート男は”ピーノ・ボナ”で、見た目天使のクソガキは”利辺 翔”と言うらしい。外国人が帰化しても外国名のままなのが常で、その子供も外国名が普通だ。なのに姓名両方とも日本名とは珍しい。日本人の養子にでもなったのだろうか?

 

 小首を傾げても全く可愛くない正太の想像はあながち間違いでもない。公立児童養護施設である厚徳園は、『公立』が付くように市や県や政府が金を出して設立されている。つまり日本が彼らの保護者とも言える。それに厚徳園に住まう子供たちの中には、出身国や民族が判らない子供も少なくない。なので下手に外国名をつけるよりはと、厚徳園では名前のない子供に日本名を付けるのが通例化しているのだ。尚、大抵外泊するとは言え厚徳園に住まうピーノが外国人名なのは、かつていた両親につけられたからである。

 

 「でも、こいつは決して悪い奴じゃない。君の知らない魅力が驚くくらいあるんだ。だからペンとノートを貸して、俺たちの話を聞いてもらえないかい?」

 

 色々と無駄なことを考えている正太の前で、ピーノは蓮乃に向けた言葉を次々に連ねる。先と同じく「なんか話している」とだけ認識した蓮乃は、先の焼き直しで正太を見つめた。見つめる先の正太は眉根を寄せて口を半分だけひん曲げる。

 蓮乃が聞き取れないのは判っているし、話を要約してノートに書くのはやぶさかではない。しかし、こっちを無視する相手を説得するという無理難題は流石にもう御免だ。こっちのエネルギーも無限大ではないのだ。と言うわけで、正太は大ざっぱにピーノの話をまとめると最後に一言を付け加えて蓮乃にノートを手渡した。

 

 『伝えるのは自分でしろよ』

 

 こくりと小さく頷いて、蓮乃は自分の言葉をノートに書き込む。正太が対応している間に蓮乃の呼吸も幾らかは整った。消耗した分もあり万全とは言い難いが、それでも一言伝えるくらいなら何とかなる。

 書くべきを書いたノートを見直し、蓮乃はもう一度頷くとノートを抱えて一歩前に出る。興味津々の顔で見つめるピーノと意地で表情を作る利辺に向けて、深呼吸とともに開いたノートを突き出した。

 

 『私はあなたたちとお話ししたくありません』

 

 取り付く島も引っ付くニベもない蓮乃の反応に、利辺の瞳から再び涙が滲み出す。最後の根性で建て直しただけあって、利辺の気力は既に底を打っている。乾いた雑巾を絞っても水は一滴も出てこやしない。蓮乃からの追加の一言で、傾いたハートを利辺はもう支えられない。最早これまで。

 ついに利辺は蓮乃から目を反らして俯いた。限界を超えた心がとうとう折れたのだ。これはもう戦えないと宣言したに等しい。他人の心理にとにかく疎い正太でも一目でわかる、蓮乃の勝利だ。ただし、それは利辺だけだが。

 正太の視線の先で、もうダメだと泣きべそかいて公園の土を見つめる作業に入った利辺に対し、ピーノは真っ直ぐ蓮乃を見つめて肉食獣の笑みを浮かべている。夜の暇つぶしにしかならない鴨撃ち七面鳥撃ちの類じゃない、気合いを入れなければ撃ち落とせない歯ごたえのある相手だと判った。

 

 「じゃあ、何でなのか教えてもらえないかい?ついでに君の名前も。俺たちに悪いところがあるなら直すから、さ」

 

 大抵の女性なら寧ろ大喜びで身を差し出すだろう猛獣の微笑みだが、蓮乃は眉根に山脈を作るだけだ。三度も同じことを繰り返す前に、ピーノの発言を正太が書いて寄越す。文面を見た蓮乃の皺山脈がさらに高低差を増した。へちゃむくれる蓮乃は、ピーノめがけてさらに踏み込みもう一度同じページを突きつける。

 

 --だ! か! ら! やな奴ともう会いたくないから「嫌い」って言いにきたの! 私は嫌だって言ってるのに、なんで喋れ喋れって言うのこの人! やな奴も嫌いだけど、この人も嫌い!

 

 自分が書いたのは日本語だ。兄ちゃんが聞いて判るのも日本語だし、そもそもさっき日本語で兄ちゃんが話をしたはず。日本語で話をしているこの人が、日本語が判らない訳がない。ちゃんと読めるように大きな文字で書いたし、ちゃんと見えるように近づいてノートを見せた。なのに、なんで、どうして「嫌だ」って話を判ってくれないの!?

 今にもうなり声を上げそうな牙を剥いた子犬の顔つきで、蓮乃は「これを見ろ!」とノートを振ってみせる。だがピーノは判った判ったと首を縦に振り、会話をしようとノートを取り上げようとする。蓮乃はすぐさま正太の後ろに隠れて歯を剥いてみせる。

 自分の意志が伝わらないことに怒り心頭の蓮乃だが、そもそもピーノは蓮乃の話を聞く気がないのだがら、意見が伝わるはずもない。ピーノの目的はコミュニケーションの構築であり、関係の断ち切りを目的とする蓮乃の意見など耳を貸す筈はないのだ。おかげで蓮乃は「意見を交わしたくない」と意見を伝えようとし、ピーノは「意見を交わしたい」がため蓮乃の意見を無視する、という実に不可思議な事態になっている。

 

 猫と小鳥の追っ掛け合いじみたやりとりを繰り広げる集団から一人はずれ、蚊帳の外から岡目八目と友香は蓮乃の様子を観察する。その表情は先までの冷静な研究者のそれから、新発見に驚く科学者の顔に変わっていた。

 甘いマスク、軽妙洒脱な身のこなし、切れ味鋭いセンス、軽快で爽快なトーク。世の男性が欲しがり、世の女性が望むありとあらゆる特質を備えたピーノが今まで言い寄って落ちなかった娘はいなかった。少なくとも友香は本気でピーノを拒否した女性を知らない。表面的に形式だけ拒否しているなら偶に見ることはあるが、それは『嫌よ嫌よも好きの内』『押すなよ、絶対押すなよ!』と同じ。単にもっと推して欲しいが為に勿体ぶっているか、駆け引きを楽しんでいるつもりなだけだ。本当にピーノの誘いを断れるのは、厚徳園の一員かつ職員である柳しか友香は知らない。最も同じ家族である柳をピーノが口説くことはないが。

 だが今、目の前で正太の服の裾を伸ばしながらピーノへ威嚇している蓮乃は、形式的ではない本気の拒絶を全身で示していた。力一杯真っ正面からお断りを主張している蓮乃を、友香は驚きと興味と期待を交えた視線で見つめる。この子は使えるかもしれない。

 

 一方、本気の拒絶をぶつけられているピーノは、むしろ狩猟本能に火がついた様子で獰猛に笑う。ナパーム火炎に放水したのと同じく、火勢は衰えるどころか激しさを増している。これだけ拒否したのだから、簡単に落ちてもらっちゃ困る。今まで自分が声かけて振り向かなかった娘は居なかった。この娘は幼すぎてストライクゾーンの外だが、こうもつれないと俄然その気にさせたくなる。実に腕が鳴る。

 そして闘志マシマシなピーノの横で、絶望マシマシなのが大地を凝視するのに忙しい利辺だ。センス、外観、運動、勉強、人気。あこがれの兄貴であるピーノは思いつく限りの全てで利辺の遙か上をいく。少なくとも利辺はそう信じている。そのピーノが自分の思い人を本気になって落としにきているのだ。利辺の顔に浮かぶのが諦めを通り越した悲観と敗北に染まるのも無理はない。もうお終いだ、ピーノ兄ちゃんにあの子を取られる。

 

 希望全てを奪われて地獄の入り口に投げ込まれた心境の利辺へ、ピーノは振り返っての拝むような苦笑と片手合掌を向ける。謝罪と延長戦の要求を言外に伝える動作に、恨み節たっぷりの表情ながらも利辺は首を縦に振るしかなかった。不満は山ほどあるが憧れの兄貴に何か言える訳もなく、なによりピーノが本気になったら利辺では止めようがないのだ。無論、ピーノは上手くひっかけられたらちゃんと利辺とくっつけてやるつもりである。本気で拒む相手をとろけさせるのが目的であって、幼い蓮乃をベッドに連れ込みたいわけではない。

 

 「つれないなぁ、それじゃ世界が小さくなるだけだぜ。もっと色んな人と会って色んなことを喋って自分の枠を広げないと」

 

 生きながらに死んだ顔の利辺に、あとでご機嫌とってやらなきゃならんなと胸の内で謝罪しつつ、ピーノは蓮乃へと言葉を重ねる。そんな向こう側のやりとりなんか知る由もない蓮乃の頬が、当社比較一五〇%に膨れ上がる。やっと判った、この人は話をしたいんじゃなくて自分だけ好き勝手に喋りたいだけなんだ!

 

 「う”ー! ぬー!」

 

 「おお、やっと返してくれた。はは、かわいい声だな」

 

 不満と文句をどれだけ口にしても、蓮乃の気持ちは当然向こうには伝わらない。聞く耳を持たない相手に蓮乃にできることは、精々が地団駄踏んで少しでも不満を晴らすしかない。それに蓮乃語から気持ちを解してくれるのは母親である睦美とお隣の宇城家の正太と清子くらいだ。蓮乃と無関係の厚徳園出身な上、暴走馬の耳に念仏なピーノが判るはずもない。

 

 『蓮乃、ちょいとノートを貸してくれ』

 

 ただし、この場には宇城家長男である正太がいる。正太はノートを無くした場合に備えて持ってきておいたメモに一言をかいて見せた。嵐の前の凪か、はたまた津波前の引き潮か。正太の纏う空気は静かでありながら爆発性を秘めている。正太のメモに応えて蓮乃は差し出した手にノートを載せた。蓮乃が口にした、もとい文字にした言葉をざっと見直す。その目線はカミソリより細く鋭い。

 正太が端から見ていた通り、そして予想した通り、蓮乃は一度も受け入れるような台詞どころか期待させる言葉も書いてない。というより、そもそも返答していない。始めから最後まで拒絶一択だ。つまり目の前のピーノは蓮乃の意志を無視して、自分の意図を押し通そうとしているということになる。コンチクショウ。ココア野郎め、ふざけてんじゃねぇぞ。

 

 「オイ、こいつはあんた等と話をしたくないって、ハナからケツまで一貫して言ってるんだ。いい加減止めてくんねぇか?」

 

 十字の青筋をこめかみに張り付けた正太は、苛立ちのままに言葉を吐き捨てた。先ほどとは異なり、怒りを帯びた正太の舌は驚くほど滑らかに動いている。

 先にも書いたように正太は他人と、特に初対面の人間と話すのは大の苦手だ。口からでる言葉は詰まりがちで、事務的な会話が限界となる。だがそれは「なにを喋ればいいのか、どう喋れば嫌われずにすむのか」を考えて詰まるからであり、感情的になればなるほど、相手を嫌えば嫌うほど正太の舌はよく回るのだ。

 憤りを大いに込めた台詞に、俯いた利辺が怯えた様子で目線をあげる。前回は一方的に絡んだ挙げ句、徹底的に打ち負かされて泣いて逃げ出した相手だ。すでに利辺には正太に対する苦手意識が染み着いていた。その上、正太は脅迫に適当な野太い声と、恐喝に適切な強面を備えている。幾ら粋がっているとは言え、蓮乃と変わらない歳の利辺には、敗北感を焼き入れた相手の怒声はあまりに恐ろしいものだった。

 表情と声音で叩きつけられる怒りの感情に、利辺は上げた目線を思わず頼みにしている兄貴へと滑らせる。視線を向けた先のピーノは常の飄々とした涼しい顔をしていた。わずかな不快感が混じってはいるが、正太の威圧に対して怯えも竦みも見られない。恐怖を浮かべていた利辺の目が驚愕と改めての尊敬の色に染まった。やっぱり兄貴はすごいや。

 

 だが、もう一人の家族である友香はピーノの表情の意味を正確に捉えていた。恐怖していないのではない。より正しくは「僅かな不快感以外何の感情も」ないのだ。まるで道端に落ちているミミズの死骸を見たような、自分の人生に何の影響もない、単に不快なだけの存在を見る目つきで音源の正太を見つめている。どうやら、翔くんの言ってた付き人は、思い人の女の子と違ってピーノお兄ちゃんのお眼鏡に適わなかったみたい。

 他人を自分のセンスで測るピーノにとって、なんら感性に触れない正太は『有象無象の大衆』『動く書き割り』『風景の一部』でしかない。学芸会で木の役が主役とヒロインの会話にしゃしゃり出てくれば興醒めもいい処。学芸会後の反省会で背景役はつるし上げが決定だ。だから背景は背景らしく黙って後ろで突っ立ってろ。そんな蔑意を込めたドライアイスの視線でピーノは、正太を一瞥するだけだった。

 

 正太は他人の気持ちを察するのが致命的にド下手だが、視線に蔑意が込められているかくらいは感じ取れる。ましてや先日の利辺を軽く越えるほどの悪意であることは即座に理解できた。どうやら利辺とか言うクソガキを大きくしたようなという評価は当たっていたらしい。同レベル所かマイナス方向に振り切れている。

 正しくは悪意でも蔑意でもなく生活圏に入ってきた虫を見るような嫌悪の視線だったが、鈍い正太がその違いに気づくはずもないし、負の感情という点では大体同じだ。正太は善意に悪意を返すようなド外道ではないし、悪意に善意を返す聖人君子でもない。ハンムラビ法典よろしく善意には善意を、悪意には悪意を返す人間だ。

 だからピーノからのドライアイスの視線に、正太はシベリア寒気団の目線で応えた。蓮乃は体温の高い正太の後ろに隠れ、利辺は俯いて凍傷を負いそうな雰囲気に耐えている。氷点下の眼差しがぶつかり合い、場が真冬の色彩を帯びた。



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第二話、二人が友達と出会う話(その六)

 触れれば凍傷を起こす程に冷たい敵意を叩きつける正太と、浴びれば一瞬で凍結確定の寒々しい蔑意を垂れ流すピーノ。二人の間は凍り付き、蓮乃と利辺は対立すら止めて凍る空気に耐えている。永遠に続くかと思える凍れる視線をぶつけ合う冷戦の中で、原因の片割れである正太は実の処かなり焦れていた。

 前の虐め以来内省的な傾向が生まれたとは言え、元々正太は短気で感情的な質だ。一触即発ながらも妙な均衡を保ってしまっている現状は、正太のさほど太くもない神経にヤスリをかけ続けている。蓮乃が側にいるという事実が正太の心理にブレーキをかけていなければ、自ら物理的に均衡を崩しに動いていただろう。

 

 --もういっそぶん殴ってやったほうが格段に早いんじゃないか?

 

 それでも物騒な思考がラムネの泡の様に、正太の脳裏に次々に浮かんでは消える。聞く耳を持たない相手に有効なコミュニケーションはただ一つ、拳骨だ。怒りを込めた鉄拳で聞く気のない耳を殴り抜いてやればよろしい。会話したくないくせに意見を押し通そうとするバカ野郎には、拳で語ってやろうか。わき上がる苛立ちは無意識の反応となって正太の拳を堅く握らせる。

 それをセンスで察知したのか、ピーノは肩幅に足の位置を調節して僅かに膝のバネをたわめた。ピーノは正太を『価値のない大衆』と見ているが、それは琴線に触れるか否かであって、危険性やら暴力性やらとは別問題だ。少なくとも喧嘩慣れしているピーノの直感は、正太の怒りに「備えろ」と訴えていた。必要ならば即座に発動できるよう、魔法のイメージも固めておく。

 ガス過給の風船よろしく破裂寸前に空気が張りつめていく。おそらく後数分せずに、冷たい感情をぶつけ合う冷戦は熱い拳をぶつけ合う熱戦へと変わるだろう。だが凍り付いた場を崩したのは、全員の意識の外からの声だった。

 

 「『初めまして、私は氷川 友香。あなたとお友達になりたいから名前を教えてくれない?』って、そう彼女に伝えて欲しいの、お兄さん」

 

 氷めいた視線を投げ合う正太に声をかけたのは、蚊帳の外で観察していた友香だった。想像もしていなかった人物に声をかけられて、正太は面食らった表情のままマジマジと友香を見つめる。そう言えばこの子も居たんだったと言わんばかりの表情だ。失礼な物言いだがそれは正太の本心でもあった。身内同然の蓮乃、蓮乃の縁切り先のクソガキこと利辺、利辺の後ろ盾で都合のいい目をしたチョコレート野郎。これら三人のことで正太の頭は一杯一杯だったのだ。

 

 「無理かな? お兄さん」

 

 「あ、ああ、わかった」

 

 半ば呆然と見つめる正太を正気に戻したのは、小首を傾げて確認する友香からの第二声だった。意識の間隙を突かれて混乱したまま、正太はガクガクと首を縦に振る。二連続で撃たれた不意に、正太は相づちの要領で反射的に首を縦に振ってしまった。

 正太の返答によかったと笑う友香を見ながら、これでよかったのかと思わず自省する正太。だが、伝えるだけなら特に問題はないはずだ。それに蓮乃が嫌だ言えばそれで終わりだし、それでも粘るならその時は連中と同じ扱いにすればいい。何より頷いておいて今更断るのは筋が通らない。口にしたことは守る。正太は両親からそう教えられている。

 

 なので正太は友香の発言内容をメモにしたため、蓮乃へと手渡した。正太のメモを読む蓮乃の額には再びの皺山脈が隆起している。先ほどとの不機嫌と文句と異なり、悩みと疑問が主な原料だ。蓮乃はやな奴こと利辺ともう関わり合いたくないのが本音だ。それを伝えるために今日は公園まで足を運んだ。それなのにピーノは話せ話せ話をしろと強いてくる。蓮乃としてそれも嫌だ。

 考え込む蓮乃は自分の気持ちを確認するように虚空に向けて頷いてみせる。利辺やピーノに変な誤解をされないよう、ちゃんと正太の方に向き直った上でエア首肯をしている。常ならば『兄ちゃん、私えらいでしょう』とか言い出しそうだが、現在は沈黙思考に忙しいのか正太に色々言い出す様子はない。

 

 ケチャップ色の人、じゃなくて友香ちゃんは私と友達になりたいって言ってる。それは嬉しい、すごく嬉しい。でも友香ちゃんはやな奴と近しいみたい。そしたら友香ちゃんからチョコレート色の人みたいなことを言われるかもしれない。それも嫌だ。どーしたもんだろう。友達を作りたい気持ちとやな奴と関わり御免な気持ちがぶつかって、蓮乃の皺山脈の高低差を更に深める。

 実を言うと蓮乃は友達作りが大の得意だ。美麗衆目な外観、物怖じしない度胸、単純明快な性格、なにより底抜けの明るさ。誰と何処でもあっという間にお友達だ。しかし、蓮乃は友人関係を維持ができた試しがない。なにせ蓮乃は学校に行ってないから、会う機会がほぼ月検診のみとなる。子供の一月は長い。一月も会わなかった相手は大体知り合いのラインに落ちる。だから蓮乃はその場だけの友達しかいなかった。それだけに友香の言葉は純粋に嬉しかった。

 なお、蓮乃的には正太は友人のカテゴリに入っていない。正太専用「兄ちゃん」カテゴリーに入っている。

 

 「う”ーぬー」

 

 喉の奥で犬めいた唸りを上げて悩む蓮乃。その様子を見て、友香もまた何やら考え込む顔を浮かべる。直ぐに結論づけたのか「しょうがないか」と小さく口中で呟くと、悩む蓮乃を眺める正太に向けて呼びかけた。

 

 「お兄さん、あの子にもう一つお願い。『翔くんと遣り取りするの嫌なら間に立つよ』って伝えて」

 

 友香が放った追加の言葉に、正太は意外と書かれた表情に変わる。ついでに横から聞いていた利辺はそれを遙かに越える驚愕で目を剥く。好いたあの子こと蓮乃と仲良くなるため利辺はここまできたのだ。主体は自分であり、ピーノ兄ちゃんは後ろ盾、友香は勝手に付いてくるだけ。そう言う話のはずだった。なのに邪魔されるのは許容できない。打ちひしがれた心境も一時忘れ、利辺は友香に食ってかかる。

 

 「なに言ってんだ友香! それじゃあなんの意味もな……」

 

 「でも、向こうは嫌って言ってるんでしょ?」

 

 だが被せ気味の一言で痛いどころではない急所を突かれ、利辺は一発で撃沈された。思い出した負け犬根性に押しつぶされて再度地面へと目をそらす利辺。その表情から折れ直した心を確認して、友香は正太たちに聞こえないよう側に寄って利辺に耳打った。あえて二人の様子を眺めるピーノには聞こえる程度の声音だ。

 

 「直接お話しできないだけでしょ。時間をかけて少しずつ関係改善すれば十分いけるんじゃない?」

 

 「それはそうかもしれないけど……」

 

 蓮乃をモノにしたいが嫌われている現状では切っ掛けを作ることすら難しい。あえて合間に友香を置くことで、間接的だが関係を作る戦術は全く持って有効だ。ただ一点、利辺に一切いい所無しで話が終わる点にさえ目を瞑れば。

 話は理解したが納得しがたい顔で利辺は頭を振っている。作戦の妥当性は理解できるが、利辺の感情とプライドが実行を拒んでいるのだ。最後の意地で土俵際を堪えて憧れの兄貴から認めてもらったという事実が、その感情に拍車をかけて暴走させる。

 

 感情面からもう一押しが必要と看破した友香は、耳打ちしている利辺から振り返る。視線の先には、首後ろを掻きながら考え込むピーノの姿。ピーノもまた友香の言葉と現状を照らし合わせている。

 自分の手で落としたいのは山々だし、拒否されたままで終わりというのは情けない。だが、妹分の行動を無碍にするのもカッコが悪い。それに利辺とくっつけてやるというのが当初の目的だったはず。ならばそれで手打ちが妥当なところだろう。

 首後ろから手を離したピーノに、タイミングを見計らって友香は声をかける。首後ろに触れるのはピーノが考え込む仕草で、手を離すのはそれが終わった証拠。つまり結論が出たということだ。故あって家族相手にも観察の目を向ける友香は、ピーノの癖をきっちり覚えていた。

 

 「ピーノお兄ちゃんもそれでいい?」

 

 「わかった、そうしてくれ」

 

 友香の予想通りにピーノは首肯する。ほくそ笑む内心を張り付いた笑顔で誤魔化しながら、友香は改めて利辺へと向き直る。同行を申し出た時と同様に、不承不承ながらも利辺はピーノの結論に追随した。

 

 「兄ちゃんがそう言うなら」

 

 一方、結論を出した三人とは異なり、正太が伝えた友香の言葉で蓮乃の首は更に大きく捻られている。悩みの内容は先ほどと同じだ。友香と友達になりたいが、利辺とまた合うのは御免だし、ピーノに強いられるのも嫌だ。

 そこに友香の一言が蓮乃の心境に更なる波紋を呼んでいる。やな奴とは話をしたくない。直に話をするなんて絶対に嫌だ。それをしなくていいのは嬉しい。でも、友香ちゃんの言い方はまるで「直接じゃなきゃ話はする」って言ってるみたいに聞こえる。それもそれで嫌だ。でも友達にはなりたい。友香ちゃんと友達になるのと、やな奴と一切話をしないのはどっちがいいんだろうか。

 利辺が知ったらもう一度砂になって消滅しそうな思索を進める蓮乃だが、天秤は水平のままで一向に答えは出てこない。拮抗状態になってしまった蓮乃は、正太に回答を要求する。

 

 『兄ちゃんはどっちがいいと思う?』

 

 『お前がどうしたいかが重要だ。俺が答えることじゃない』

 

 正太は渋い顔で回答の拒否を返答した。幾ら親御さんから預けられた身の上とは言え、蓮乃の友人関係にくちばしを突っ込むなど御免被る。自分が目指すちゃんとした大人のやることじゃない。なによりヒーロー気取りで人様の人生にあれこれ指図するのは、睦美さん相手にやらかした先日のトラウマを実に刺激してくれる。

 

 『それはそうだけど、どっちがいいのか判んないから兄ちゃんにも考えて欲しい』

 

 だが蓮乃は兄ちゃんの意見も聞きたいと押してくる。自分だけでは判らないから聞いたのだ。尤もと言えば尤もな話だと正太は顎を揉みつつ、蓮乃の返しを考える。

 クソガキこと利辺のことを無視できるなら、自分としては受けてほしい。自分も人のことは全く言えないが、蓮乃の交友関係は狭い。蓮乃の見

識を広げるいい切っ掛けになるかもしれない。だが、蓮乃にちょっかいだそうとした利辺がいる。感情のままに暴走されて、蓮乃に万一があったら目も当てられない。信頼されて蓮乃を預からせてもらっている身だ。それを裏切るような真似をしたくはない。そもそも蓮乃に危険なことがあることは許し難い。それにこの話自体、唐突で急な印象が強い。知り合いが告白しにきた所に同行して、そいつがフられた直後に友達になりたいと持ちかける。端から見れば利辺のフォローとも思える行動だ。しばらく悩んだ末に、正太は結論を出した。

 

 『俺は答えてもいいと思う』

 

 正太の返答に、蓮乃は確認の意を込めてその顔を見つめる。正太は大きく頷いて許可の意志を示した。先日の一件(第一部参照)の時、暴走した睦美さんは危険に触れることを恐れるあまりに蓮乃を軟禁してしまった。安全を理由に狭い世界で終わりにしたら、その時と何一つ変わらない。向こうの友香という子も、利辺の暴発に気を付けているようだし、これを契機に自分の世界を広げて欲しい。

 

 『ただし、友香さんと友達になっても俺はついて行くからな。勘弁しろよ』

 

 「んっ!」

 

 だからといって勝手気ままな放任にする訳には行かない。正太は親御さんである睦美から蓮乃を預かった保護者代理とでも言うべき立場だ。放置と自由は全くの別物、月とすっぽんの差がある。それに正太の判断で後押ししてしまったのだから、その安全は正太が最低限確保する義務がある。先日同様に利辺が爆発してもすぐ対応できるよう必ず側にいると正太は決めていた。

 なお、正太は自分のことを蓮乃のお邪魔虫だと考えていたが、蓮乃の方は願ったり叶ったりであったりする。保護者(代理)の心、子は知らず。その逆もしかり。

 

 

 

 

 

 

 何のかんので時間がたっていたのか、気づけば太陽は随分と地平線に近づいていた。眩しさも落ちたオレンジ色の太陽に照らされて、三対二で向かい合う五人は長い影を伸ばしている。

 その中間地点で対面するのは、やや緊張した面もちながらも隠す気もない喜びと興奮を帯びた蓮乃と、リラックスした様子で一切変化のない楽しげな笑顔の友香だ。喜怒哀楽の「喜」に「楽」と一見同質に見えても、二人のまとう空気は真逆の色合いをしている。

 何かしらの違和感に気づいたのか、正太が僅かに目を細める。だが当の蓮乃はそんなこと気づきもしないし気にもしない。久しぶりにできた友達に単純明快に大喜びだ。

 

 『私は向井 蓮乃です! これからよろしくね!』

 

 まるまる二ページ使って書いたでっかい自己紹介をノートごと差し出しつつ、逆の手で友香の手を握り風切り音がしそうな勢いで振り回す。振り回される友香の顔に浮かんだのは、実験動物を見るような研究者のそれだった。だがそれはほんの一瞬の間。次の瞬間には「楽しい」と書かれた笑顔の下に消える。蓮乃へと返すノートに書いた返答にもそれを示すものはない。冷静な観察の目は、深まる笑顔の下に綺麗に隠されている

 

 『改めまして私は氷川 友香です。これからよろしく、蓮乃ちゃん』

 

 「ぅんっ!」

 

 友香はノートを手渡し、振り回す蓮乃の手に自分の両手を合わせる。新しく結ばれたお互いの絆を示すように、両手で蓮乃の手を包んで握る。蓮乃もすぐさま友香の手を包んで答えると、そのまま大縄跳びの勢いで二人の腕をぐるぐる回し始めた。

 いつもながらのエンジン暴走大爆走っぷりに先の違和感も忘れて正太の顔がひきつった。あのマイウェイ速度超過娘は時と場所を選ばんのか。選ばないからこその蓮乃である。正太はそれを思い知っている。

 一方、ピーノも自分が落とせなかった理由に思い至り脱力した笑みを浮かべる。ああ、あの子はガキンチョ過ぎるのか。そりゃセンスもトークもマスクもなんも関係なしで、嫌なものは嫌で終わるだろう。やる気も一緒に脱力したのか、あの子は翔に任せようと胸の内で決意した。

 利辺はひたすらに楽しげにする二人を見ながら、蓮乃へと恋に惚けた視線を、友香へと嫉妬に焼ける目線を向ける。もしこれが正太にヤキを入れられる前ならば、二人の仲に割り込みをかけていただろう。しかし、友香と交わした約束と正太に刻みつけられた敗北主義にブレーキをかけられ、利辺はただ鬱々とどす黒いものを腹の底で煮詰めるだけだった。

 

 「なーもーっ!」

 

 「あははっ!」

 

 そんな周りの状況などつゆ知らず、大波小波で腕をぶん回し、フォークダンスで腕を軸にぶん回り、蓮乃は勢い任せに踊り狂う。あまりの勢いに、友香の笑顔がひっぺがれて年相応な素の顔が表れるほどだ。すぐさまニコニコをかぶり直して取り繕うものの、本当に楽しんでいる様子が漏れ見える。

 その姿を羨望の緑に燃える瞳で見つめる利辺。笑ましそうに暖かな目で見る正太とピーノ。互いの目が合い、即座にー145℃に急冷される。

 

 雲間から差し込む夕日の色は、鮮やかな茜色へと転じていた。

 

終わり



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第三話、三人でお出かけの話(その一)

 ふと”宇城 正太”が見上げた初夏の空は爽やかに青かった。昼前の日差しが燦々と照りつけ、肌に汗ばむくらいに暖かい。子供たちの遊ぶ声をBGMに、ゲートボールを楽しむ老人集団を背景にしつつ、正太は爽快な青空に反したしかめ面を浮かべる。

 太り気味の身には少々暑苦しいようだ。四角い顔立ちに藪睨みの細目とむやみやたらと厳つい顔立ちは、重苦しい表情と相まって暴力沙汰に関わりある印象を醸し出している。事実、図書館前広場で片隅のベンチに腰掛ける正太の周囲にはほとんど人がいない。しかし、ほとんどと言うことはゼロではない。一人はいる。

 

 同じベンチに座っては立ち上がり、腰掛けては腰を上げる”向井 蓮乃”がそこにいる。ベンチの逆に腰掛ける正太とは存在レベルで一八〇度逆のベクトルを持っていそうな外観だ。整った細面に各品が品よく配置され、濡れ羽色の長髪に日本人形じみた幼い美貌が覆われている。そして秒単位でクルクル変わる表情が、それら全てを明後日の方向へとぶん投げていたりする。近いモノを挙げるなら血統書付きの柴の子犬だろうか。自身の美しさを一片たりとも理解していないが故の底抜けの明るさが全身から溢れている。

 

 おかげで正太単体なら親子連れが即座に回れ右する不必要な威圧感は、現在の空模様と同じ蓮乃の脳天気な雰囲気に程良く中和されていれる。顔と臑に傷を蓄えていると見える正太も、蓮乃と一緒なら昔随分ヤンチャしていた親父さん程度になるだろう。尤も、齢一四の正太にしてみればどっちも御免だと文句を垂れるだろうが。

 ベンチの上で上下運動に勤しむ蓮乃は動作にあわせてちらちらと手首の『腕輪』へ繰り返し視線をやっている。魔法使いの証である『腕輪』の画面で、数十秒ごとに現在時刻を確認しているのだ。正太以来初めて出来た友達である”氷川 友香”との待ち合わせ時間が近づいていることもあり蓮乃は気が気ではない。立って座ってまた立って。落ち着きという言葉を遠く忘れた蓮乃は、まだかまだかと視線で周りを探る。

 本日の蓮乃は友香とここで待ち合わせて一緒に遊ぶ予定をしている。待ち合わせの場所は蓮乃と友香が両方知っている場所ということで「となりまち公園図書館前広場」に、時間は正太と友香の都合で土曜の昼となった。

 

 「気持ちが急くのは判るが、少しは落ち着けって」

 

 頬杖ついた正太がぼんやりと眺めつつぼやくように言葉を投げた。蓮乃は障害の関係で言葉を聞き取ることは出来ない。しかし耳が聞こえないわけではない。なので正太の言葉に込められた感情に従って、唇をとがらせつつ両足を抱えて蓮乃は静止した。ベンチの上に折り畳まれた細い両足の付け根まで、若草色のワンピースの裾から見えそうになる。幸い膝の隙間に落ちたウサギのポーチがしっかり隠してはいるが、正太のしかめ面がますます深まった。まだそういう年でないのは判るが多少は恥じらいを覚えろと言いたくもなる。

 そうして体は動かさずとも周囲と『腕輪』を行き来していた蓮乃の視線が、不意に一点で停止した。表情が不満から驚きに、そして喜びに次々と転じる。撓められたバネの勢いでベンチから飛び降りると、目的の人物めがけモーター過電流の速度で右手を大きく振った。

 

 「なぁーもぉーっ!」

 

 「蓮乃ちゃん、こんにちは!」

 

 待ち人である友香が来たのだ。特徴のない麻布のポーチを肩に掛け、蓮乃と似たような袖付きレモンイエローのワンピースを纏っている。違いは各所に付けられたフリルが蓮乃のワンピースより少女らしさと高級感を発しているあたりか。茜色の三つ編み二つと相まって、米南部豪農のお嬢様とでも言えそうだ。動作一つ一つに漂っている「他人からの見え方」を意識した礼儀正しさがそれに拍車をかけている。

 一方、「他人からの見え方」など部屋の隅の玩具箱でホコリ被ってそうな蓮乃は、犬の尻尾よろしく腕をぶん回してご挨拶。友香もそれに片手をあげて答えると、自分のポシェットからノートを開いて差し出した。蓮乃の目がドングリの形に丸くなる。

 上記のように蓮乃は他人の言葉を聞き取れない。なので常に持ち歩いているノートで筆談をするのだが、正太のように特に親しい人間を除けば相手側が蓮乃用に用意してくれることは全くなかった。しかし、友香は蓮乃に気を利かせたのか会話用のノートを自主的に持ってきてくれたのだ。本当に気が回る子だと正太は驚きと感心を足して二で割った顔で頷いた。

 

 『待たせちゃったかな?』

 

 『待ったけど大丈夫!』

 

 二人の会話を見て、正太の表情に苦みと呆れが追加される。そーいう時は『待ってない』というのが普通だろうに。家の子はいつもながらフリーダムだこと。感情を吐息に乗せて吐き出すと、正太も友香へと片手を上げて挨拶する。

 

 「こんにちは氷川さん。あーっと、お邪魔虫だけど、今日はご一緒させてもらうよ」

 

 「こんにちはお兄さん。あたしは大丈夫ですけど、蓮乃ちゃんは……大丈夫そうですね」

 

 「なーうっ!」

 

 友香が子供であるせいか、はたまた蓮乃がいるせいか、思いの外正太の舌が動く。コミュ障気味の正太にしてみれば有り難い限りだ。友香の質問への返答代わりに正太は蓮乃へと視線を向ける。別の意味で正太の言葉を気にもしていない蓮乃は、全く判っていないままに元気よく頷いてみせる。

 先日の後、蓮乃が友人ができた旨を母親である”向井 睦美”に説明したところ、遊びに行くときは正太について行ってもらうよう言われたのだ。これに関しては正太の両親も了承済みである。

 

 「えっと、もう少し詳しく話すと、蓮乃のお母さんとの取り決めで、ええっと、蓮乃がお出かけの際は俺がついて行くことになったんだ。あー、楽しい話じゃないかもしれないけど、ここは勘弁してくれないか?」

 

 しかし、友香に全面的了解を頂いたわけではない。なので正太は詳細を交えて説得しにかかる。自分のコミュニケーション能力不足というか吃音二歩手前な様に歯噛みしながら、底をつきかけた歯磨き粉よろしく必死で言葉を絞り出す。

 

 「あたしは気にしませんよ」

 

 友香は二重の意味を込めて形良い笑顔を浮かべてみせる。正太自身でも判るつっかえつっかえの訥々な喋りっぷりを、気にする素振りも見せない友香の出来の良さが正太にもよく判った。白人種らしい高い鼻に対して実に腰の低い態度である。事情を聞いてにっこりと笑う友香に正太は感心を込めて思わず頷く。

 そのまま視線をスライドさせた先の蓮乃は、何をするつもりなのかストレッチを始めている。正太は腹の内で二人を比較し、密かに気苦労込みの嘆きを漏らした。こっちが訥々なのに嫌な顔一つしない。氷川さんはほんとよくできた子だ。蓮乃もこんな風に落ち着いて欲しいだが蓮乃だしなぁ。

 ため息をこぼす正太と、鼻息を吹き出す蓮乃。柔らかい笑みを整った顔の上に浮かべて、友香は二人の様子を眺めている。

 

 蓮乃は他人の内心を気にしない。蓮乃自身は余り気にしていないが、言われたらちゃんと気にしようと決めてはいる。だから蓮乃も気づかない。

 

 --蓮乃ちゃんは単純で判りやすいわね。『あいつ』次第だけどこれなら押しつけるのも簡単にいけそう。親の締め付けが厳しいみたいだから、自由を餌にすればコントロールはいいかな。

 

 --でも、そうなるとお目付役のお兄さんがやっかいね。お兄さんの魔法も知りたいところだし、今暫くは様子見。こっちを全く疑ってないみたいだから、お兄さんを動かすのも簡単そうだし。

 

 正太は他人の内心が判らない。正太自身そう思っているし、判ったつもりになってはならないと戒めてもいる。だから正太は気づかない。

 コーカソイド特有の色素のない肌の下に隠した辛辣な評価を正太と蓮乃のどちらも気づかない。面従腹背そのものの態度でニコニコを続ける友香は二人に呼びかけた。

 

 「これから行き先は決まってますか? 決まっていないなら行きたい場所があるんですけど」

 

 

 

 

 

 

 「ねぇどこ行こうか?」

 「今日はよく晴れたね」

 「おなかすいたー」

 「あそこ不味かったな!」

 

 一人一人それぞれ人生のある人間は、無数に集まればただの雑踏となる。一つ一つそれぞれ意味のある会話は、無数に重なればただの騒音となる。図成町の駅前広場は数多の雑踏でごった返して、幾多の騒音に包まれていた。広場のモニュメント前では俺達の歌を聴けとバンドが演奏し、向こう側には端切れと埃を纏った浮浪者が昼寝をして、横では宗教団員が教祖様の教えを純粋な善意で配っている。

 様々な人種年齢の人間がたむろする広場の中、やや毛色の違う三人組がそれぞれの表情で佇んでいた。人の数に圧倒された正太は辟易と書かれた顔を浮かべ、見るもの全てが新しい蓮乃は興味津々と表情を輝かせ、二人をこの場に連れてきた友香は相も変わらぬ笑顔を被っている。

 

 「なーおーっ!」

 

 普段なら周囲の目を集めずにはいられない蓮乃の独自言語も、無数の人が行き交う雑踏と騒音の最中ではさほどの注目も集まらない。それでも愛がどうこう恋がどうこうと声を張り上げているバンドよりも人目を集めるあたりが蓮乃である。そしてその全てを一切気に留めてもいないのも蓮乃である。

 

 『兄ちゃん兄ちゃん、あれ何やってるの!? あの人は何で地面に寝てるの!? あの曲は何!?』

 

 蓮乃は沸き立つ気持ちのままにノートに走り書くと、そいつを正太の渋面な顔面に押しつける。ついでに説明文を読んでも意味する内容が判らない異形のモニュメントの辺りを逆の手でグルグルと指さす。世間知らず丸出しの蓮乃にノートを押しつけられた正太は苦り顔全開で受け取った。

 

 『1.客引き。2.家がないから。3.俺は知らん。たぶんポップス。後、叫ぶな』

 

 適当な返答を書きつつ横目を向けた先のモニュメントは、太陽光に照らされて七色に変色しつつ痙攣じみた奇怪な動きを繰り返している。説明文によれば世界平和と人類融和を意味しているらしいが、どこをどうやればそう読みとれるのか美術が2の正太にはよく判らない。冒涜的な邪神でも召還して世界平和(洗脳)と人類融和(物理)でもするのだろうか。

 眺めていると正気度が減少しそうなモニュメントから焦点を外すと、東日本鉄道図成町駅と浮き彫りされた巨大な看板が目に入る。ついでにグラフティが重ね塗りされ過ぎて何が描かれているのか理解できない鉄橋下も視界に入る。

 

 --どーにもこーいうとこは苦手だな

 

 雑然として猥雑とした空気に思わず身じろぎする正太。コミュニケーション能力が低く新しい物事には後込みする方の正太としては、こういった場所は居心地が悪い。返答を書いたノートを蓮乃へと手渡し、乱雑に賑わう駅前から視線を外す。

 外した視線の先では、駅向こうの遠くで再開発予定地域が原色のスモッグに霞んでいる。スラムと化した再開発予定地域では違法な魔法生物が売り買いされ、危険な魔法物質が使用されていると聞く。まかり間違っても近づきたい場所ではないし、蓮乃を絶対に近づけさせたくない。悪所通いを心配する親御さんの気持ちも良く判る。

 

 「それで、行きたいとこってのはどこなんだい?」 

 

 蓮乃をここに居させたくない気持ち四割、この場から離れたい気持ち三割、行き先への純粋な興味三割で、変わらず笑顔の友香へと正太は行き先を問いかける。正太の具合を観察する友香は青い目で描く笑みの孤を深めて駅とは反対側の商店街奥を指さした。

 

 「商店街の奥で面白い物売ってるお店があるんです。ちょっと歩きますけどすぐそこですよ」

 

 --へぇ、お兄さんは強面に似合わずこういったとこは苦手なんだ

 

 同時に周囲すべてに興味津々な蓮乃へと視線をやり、正太が邪魔なときには興味の差を利用して切り離すかと、内心をおくびにも出さずに腹の底で算盤を弾く。

 当然、二人は友香の内心に欠片も気づかない。友香から話を聞いた正太はどんなところだろうと予想するだけで、正太から話を読ませてもらっている蓮乃はきっと楽しい所だろうと想像するだけだ。

 しかも蓮乃の想像はあちらこちらへと飛び回る。商店街の奥ってどの辺りだろう。あの旗の向こうかな。その旗に書かれている絵は何だろう。近くで見てみよう。

 

 「だったらそろそろお昼だし、行き途中で食事にしないかい? どんな店かは判らないけど、色々見ていたら食べるまで随分かかってしまうだろうし」

 

 そんな感じに興味のままに何処へと走り出しそうな蓮乃の首根っこを捕まえて、正太は親指で広場の時計を指さした。親指の先の時計は、短針も長針も一番上を指しかけている。中天に達した太陽は活力を増して、夏近いことを否応なしに理解させてくれる。

 商店街のアーケードに興味を移していた蓮乃も、一二時目前を示している時計を目にして胃袋の辺りをさすり出す。その有様を横目で眺めながら、楽しそうに装った友香も首を縦に振った。

 

 「まーぬっ!」

 

 「そうですね、行きがてらお昼ご飯にしましょうか」

 

 二人が同意したことを確認して、希望をとりつつ正太は歩き出すよう促す。正太個人としては肉類をガッツリ食いたい。何せ今日の昼飯代は蓮乃の母である睦美から結構な金額(中学生換算)を貰っている。特殊生物の氾濫で海洋輸送が高コストとなった現代では食肉は基本高級品だ。ましてや宇城家では両親の教育方針もあり、肉類を食する機会はかなり少ない。この千載一遇の機会を最大限に利用して思う存分に腹と舌を肥やすのだ。代用肉でもいいんで腹一杯食おう。

 

 「じゃあとりあえず行こう。何か食べたい物とか嫌いなものとかあるかい?」

 

 『美味しいもの食べたい! 嫌いな物はないよ!』

 

 『美味しいものは希望とは言わん。何でもいいと判断する』

 

 食欲にまみれた決意を固める正太からの問いかけに、ドヤ顔で間髪入れずに蓮乃はノートを突き出した。むやみやたらにスピーディーだが中身は殆ど意味がないので正太は適当に処理した。それに幾らか遅れて考える表情で赤い髪をいじる友香から返答が届いた。

 

 「これといって食べたい物はないですね。強いて言うなら洋食かなぁ。あと、嫌いな物もないですからご心配なく」

 

 「判った、洋食ね。じゃあ途中に洋食を食べれる店を見つけたらそこにしようか」

 

 蓮乃の返答の内容が内容というか無いようなので、正太は友香の返答を参考にすることにした。蓮乃にも洋食にする旨を伝え、美味しいからとそれで納得して貰う。蓮乃も蓮乃で美味しいならとあっさり納得する。正太の預かり知らぬ事だが、蓮乃は殆ど外食らしい外食をしたことがない。「外食をする」という事実だけで蓮乃には十分以上に新鮮かつ刺激的なのだ。

 なので道中のんびりと探すつもりの正太や、適当なところでいいと判断している友香と違い、蓮乃は一刻も早く外食をしてみたい気持ちで一杯である。お陰で洋食屋探しにも熱が入る、入りすぎる。辺りをキョロキョロと見渡しては小走りで駆け出し、二人を置いてけぼりにした事に気づいて直ぐに駆け戻る。マイウェイ一方通行に自分のペースでアーケードを行ったりきたり。

 

 「なーも! なーも!」

 

 それだけ走り回った甲斐はあり、洋食を出している店はあっという間に蓮乃が見つけてしまった。ただしショーケースに並んだ料理見本の一番始めには「ブレンドコーヒー」が置かれている。つまりは洋食屋ではなく、喫茶店である。コーヒーカップを象った看板にも『昭和風喫茶店「ノワール」』と店のジャンルが明確に記されている。

 だが蓮乃にとってそんなことはどうでもよろしい。洋食を食えるなら洋食屋と何が違おうか。大声を上げて正太と友香を呼ぶ蓮乃に、げんなり顔の正太と苦笑を浮かべた友香が顔を見合わせた。

 

 「蓮乃ちゃんも呼んでますし、ここにしましょうか」

 

 「……そーだね」

 

 望みであった肉食ガッツリが難しそうな喫茶店に決定して、正太は内心本気でガッカリだった。元々、コーヒーやお茶を楽しむのが喫茶店の目的である。客の要望に応じて軽食も出すが、文字通りに軽い食事の量しか出さない。安くてタップリと飯が食いたきゃ飯屋にいけばいい話なのだ。

 女の子がいるんだし、はじめからボリューム食は無理だったのだ。自分にそう言い聞かせて正太はたっぷり食いたかった気持ちを鳴る腹の底に封じる。

 

 そして視線の先の蓮乃はショーケースにべったりと張り付いている。隣へと目をやればハリウッド映画の子役のように姿勢良く颯爽と歩く友香が見える。氷川さんは間違いなく女子だが、蓮乃がそうなのかは少しばかり疑問だった。ホモ・サピエンスではなく亜種のガキンチョ・サピエンスなのかもしれない。

 ショーケースにひっついた蓮乃を引き剥がしつつ友香の後を追って、正太はシックな印象の喫茶店へと足を踏み入れた。



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第三話、三人でお出かけの話(その二)

 「いらっしゃい」

 

 扉を開くとドアチャイムの音色と共に渋い声の挨拶が届いた。店内は年得て古びた風合いに仕立てられてはいるが、隅々まで掃除が行き届いて清潔な印象を覚える。挨拶の主である初老の店長はカウンターの中で静かにカップを磨いている。背筋をピンと立てコーヒーカップの水気を拭う姿は、重厚な店の雰囲気の中でどっしりと存在感を発揮している。

 その空気に引かれてか、店には様々な年代の客が集う。中学生とおぼしき少年は通ぶって注文したコーヒーの苦さに顔を歪めながら何でもない風を装う。二人組の女性客はチーズケーキとコーヒーのマリアージュを楽しんでいる。ハードカバーの電子書籍をめくりながら文学青年はコーヒーと共に土曜日の昼を過ごす。

 

 それぞれの時間を堪能している姿を横目に、正太・蓮乃・友香の三人は空いている四人席に腰を下ろした。とりあえずと正太は燻木に似せた充電スタンドから電子ペーパー製のメニュー表を取り出す。本日のおすすめコーヒーと軽食・ケーキが乗ったシンプルなメニュー画面を適当にいじって昼のメニューを探してみる。

 代用コーヒーにベトナムコーヒーやインディアンコーヒーなどなどコーヒーの種類は多いが、軽食はトーストにカレーやナポリタンなど喫茶店の定番以上は無いようだ。想像通りに値段が高いし少ないと正太は心の底で文句をぼやいた。正太としては十二分に腹を満たしたいのだが、この値段でそれをすると睦美から渡された昼飯代から足が出る。ここは我慢のしどころだろう。

 

 「ほー」

 

 不満を噛み殺した正太とは対照的に、蓮乃は興味に目を輝かせながら正太の隣からメニューを覗き込んでいる。意外なことに興味深そうにしているのは蓮乃向かいの友香も同じだった。爽やかな調子を崩さない程度にだが、電子ペーパーのメニュー表に目は固定されたままだ。

 偶然に正太の指先が点滅して主張する『本日のおすすめコーヒー!』の文字に触れた。そこに表示された数字に正太の顔が堅くなる。僅か一杯で一人頭の昼食代半分が軽く消える値段だ。もしこれを頼むなら昼食のメニューはかなり考えないといけないだろう。

 

 「どうかしました?」

 

 正太の様相の変化に気が付いたのか、友香はメニュー表に落としていた視線を持ち上げた。小首を傾げて笑顔を浮かべた顔はあどけないが、碧眼は正太の腹の底まで貫くように鋭い。事実、彼女は正太の心中を正しく見抜いている。

 

 --年下の手前で見栄張ったけど、今更になって財布がキツくなってきたみたいね

 

 友香からすれば格好付けるより前にやることあると思うのだが、同じ厚徳園の家族である”利辺 翔”も”ピーノ・ボナ”もまず第一に意地を張りたがる。女子かつ計算高く現実主義な友香には、やせ我慢を美徳とする男子の不条理な性質は理解しがたいものだ。

 呆れを交えた上から見通す目線に晒され、思わず正太は視線をメニューへと逸らして乾いた笑いで誤魔化しにかかる。別段コーヒーを飲むつもりもないし、昼飯代は睦美から貰った分があるし、誤魔化す必要性は全くない。だが思春期の正太は咄嗟の反応でつい格好を付けてしまっていた。

 

 「いや、こーいうとこのコーヒーはやっぱりいい値段しているなぁ、と思ってね、ハハハ」

 

 海洋輸送悪化のおかげで、現代のコーヒーは基本的に高級品となっている。それでも日本人はコーヒーを求めて止まないのか、ロブスタ種を中心にタンポポやらコーヒーナッツビーンやらの代用コーヒーで嵩を増したブレンドコーヒーが各所で盛んとなっている。ブレンドを調整した子供向けの苦くないブレンドコーヒーもあるが、背伸びしたがる年頃の子供は苦みの強いコーヒーを好んで飲みたがる。彼らの基準ではその方が格好いいのだ。

 

 「お兄さんはコーヒーを飲むんですか?」

 

 ごまかしの綻びを貫く友香の突っ込みが鋭角で正太に突き刺さる。トートロジーではないが正太は苦いのは苦手だ。なのでコーヒーは植物乳と砂糖をたっぷりと入れた苦くないものしか飲めない。けど苦いからコーヒーを飲めないというのは、子供の言い訳でないだろうか。どーしたもんだろ。

 中二病特有の「好き嫌いを口にするのは格好悪い」症がぶり返し、正太は針にかかった魚の勢いで目線を泳がす。他人の目を気にしないが為か他人の心理に疎い蓮乃は、二人のやりとりを不思議そうな顔で見つめている。

 

 「あーそうだなぁ。あんまり、沢山は飲まないなぁ、ハハハ」

 

 『あれ? 兄ちゃん苦いから飲めないんじゃなかったっけ?』

 

 そして心理に疎いが故に、他人の気持ちを斟酌せずに言葉の刃を突き立てるのもまた蓮乃だ。必死で誤魔化す取り繕いを快刀乱麻の勢いで一刀両断され、正太の顔は驚愕と不意打ちに固まった。表情が凍り付いても体は動くようで蓮乃のノートを即座に机の下に移動させると、友香に見えないよう体でノートを隠して震える文字で蓮乃を問いつめる。

 

 『お前なぁ! っていうかどこでそれ聞いたんだよ!?』

 

 『姉ちゃん!』

 

 蓮乃によけいな入れ知恵をした下手人は、正太が絶対に勝てない相手である妹の”宇城 清子”だった。兄よりも遙かに巧い論理の組立と、比べものにならないほどよく回る口を持つ清子は、圧倒的な口撃力と防語力で年上の正太を一方的に叩きのめしている。正太には兄妹口喧嘩で勝ち星どころか主導権を握れた覚えすらない。

 清子に完全なる負け犬根性を焼き印されている正太には、家に帰ったらネチネチ文句言ってやると決意するのが関の山だった。しかも内心の奥の方では「多分文句を言えないままで終わるのだろうなぁ」と醒めた予想すら立てる始末。この先も年下の清子に頭が上がる日はきっと来ないのだろう。

 

 「まあ、大人の人でも好き嫌いありますし、苦いのダメな人もいますから」

 

 そして本日は年下の友香に頭が上がらないようだ。幼い友香からの優しく容赦のないフォローに、最早グウの音も出ない正太は頭を抱えて俯くばかり。急いでテーブルの下に隠しはしたが、正太が隠したい真実を書かかれたノートはしっかり友香に見られていた。そうでなくとも正太のええ格好しいなど当然見抜かれている。僅かに残っていた年上の威厳など、窓の外の青空遙か彼方へとすっ飛んでいる。

 

 『私も苦いのダメだから、兄ちゃんと一緒!』

 

 他方、遠慮やら恥じらいやらを青空飛び越え衛星軌道のその向こうへとすっ飛ばしている蓮乃は、唐突に苦手の同意を二人に提示した。しかも浮んでいるのはひどく嬉しげなドヤ顔である。正直な処、どこがどう喜ばしいことなのか正太にはどうにも理解しがたい。

 不得手を誇らしげに言葉にする蓮乃の姿に正太は首を傾げる。だが好機は今しかないと、腹の底まで看破された現状を糊塗すべく、正太は作り笑い顔の早口で二人に昼食を勧めた。

 

 「ま、まぁ俺の好き嫌いはとりあえず棚上げさせてもらうとして、お昼を食べに来たんだから、何かしら頼むとしようよ。俺はこのビーフ風カレーにするけど、皆は何がいい?」

 

 『オムライスがいい!』

 

 「私はサンドイッチのセットで」

 

 蓮乃はメニューの写真を平手で叩いて、べちべちと擬音を立てながら主張する。対して音も立てずにそっと指先でメニューをクリックして表示する友香。性格同様に見事に分かれたなと、コントラストの利いた行動に正太の片頬だけがひきつった感じにつり上がる。

 らしいっちゃぁらしいと内心ぼやき、正太はメニュー表を操作して自分と蓮乃の頼みたい物を選んぶ。友香は先に操作して置いてくれたので操作の必要はなかった。二人に見せて内容の確認をとった上で注文ボタンを押すと、『注文を承りました。しばらくお待ちください』の表示と、コーヒー関係の豆知識が飛び出てきた。

 

 --ふーむ、コーヒー豆だけに豆知識とは、中々に洒落ているじゃないか

 

 余人の大半は寒い駄洒落だと一刀両断するだろうが、世間様の斜め下をいく正太の感性にはピンと来たようだ。ロブスタ種とアラビカ種の違いにつての雑学を眺める正太の横から、自分も読もうと蓮乃が顔を突き出した。コーヒーの知識について見識を深める二人を、時を待つように友香はじっと観察する。そしてタイミングを見計らい、呼吸の間隙をついて声を二人に投げかけた。

 

 「そういえば、蓮乃ちゃんもお兄さんも魔法使いなんですか?」

 

 「あー、そうだよ。蓮乃も俺も魔法が使える」

 

 『私も魔法使いだよ!』

 

 意識の隙を突かれた正太は、考えること無しに反射的に応えていた。それにつられた蓮乃も手首にはまった赤銀色の『腕輪』を見せつける。当然の如くにドヤ顔な蓮乃を、そんなに偉いことでもないだろと呆れた表情で正太は見つめる。当然、その正太の手首にも『腕輪』ははめられている。

 赤銀色の『腕輪』……すなわち、特殊能力確認用携帯機器をつけている以上、正太と蓮乃の二人とも魔法使いである。

 

 『ねぇ、蓮乃ちゃんの魔法はどんなの?』

 

 思春期の子供らしい「魔法に興味津々です」という表情を作り、友香はドヤ顔のまま『腕輪』をいじくる蓮乃に問いかけた。友香自身魔法に興味あるのは事実だ。主に自分の狙いに使えるかどうかが非常に気になる。家族の利辺同様にふんぞり返ってベラベラ喋るかと思ったが、正太の方は不意をついても聞かれたことしか答えなかった。幸い蓮乃は話したがっているようなので、そちらから先ずは聞き出すつもりだ。

 

 友香から投げかけられた問いかけに、蓮乃はノートを取るでもなくまず正太の顔を見た。加えて白紙のページを開き正太へと差し出した。いつも通りの蓮乃の唐突な行動に、正太の顔がめまぐるしく表情を変える。行動の意味が理解できない疑念の色に、そして理解したが故の呆れの色に、最後は行動に対する返答の思慮の色へと移り、正太は顎に手を当てて考え込んだ。

 蓮乃の行動の理由は「魔法のことを友香に教えていいか?」だと正太は理解している。このタイミングで意見を求めた辺り、十中八九間違いはない。正太としては自分のことなんだから俺に判断を仰ぐなといいたいとこだが、今日の正太は母親である睦美から蓮乃の代理保護者を委託されている。そうである以上、正太にも考える義務がある。どーしたもんだろ。

 顎を揉みながら静かに考え込んだ正太は蓮乃をまっすぐ見つめ直すと、結論代わりに小さく首を縦に振りノートを返した。手渡されたノートには結論の詳細が書かれている。

 

 『他人にふれ回る事じゃないが、隠し通すようなことでもない。お前さんの好きでいいさ。俺の時もお前に説明したしな』

 

 「んっ!」

 

 元気よい首肯と共に蓮乃はペンを握りしめる。了解さえもらえれば後は早い。元々話したかった事もあり、蓮乃のペン先はノートを引き裂きそうな勢いで紙面を走り回った。

 

 『私の魔法は、「音声念動」っていうの! どんなのかっていうとね』

 

 蓮乃がノートに綴る言葉は正太も横合いから横目で見ていた。友香に書いて見せる文の中に、悪い意味で見覚えのある文字の並びを正太は見つけた。只でさえむやみやたらと厳つい顔が当社比三割り増しでキツくなる。苦いコーヒーを格好付けて舐めていた学生客が、何の気なしにこちらを見て反射的に顔を背けるほどだ。

 

 蓮乃が正太と初めて顔を合わせたとき、自分の魔法を説明しようと蓮乃は『腕輪』が警告をならす水準で魔法を使って見せた。(第一部第一話参照)警告を無視して魔法を使用し続ければ、警察まで連絡がいって法的措置が実施されることになる。

 その時は初対面にも関わらず、正太は蓮乃を怒鳴りつける羽目になった。そして叱り飛ばされた蓮乃は思いっきり泣きじゃくり、正太もまた泣きたい気分にさせられたりしたのだ。

 

 二度目はごめん被ると正太は色んな意味を込めて蓮乃の名前を呼んだ。人前で大声出すのはゴメンだが、あの時同様いざとなったらやらざるを得まい。すっ飛んできた警察に事情を話して謝罪するよりは幾らかマシだ。氷川さんにかける迷惑も警察呼ぶより、怒鳴り声あげた方が幾らかマシなはず。

 

 「オイ、蓮乃?」

 

 「う~ぬ~……」

 

 『どんなのかっていうとね、声をかけた物を好きに動かせるの』

 

 幸い蓮乃は言葉を聞き取れないながらも、正太が言外に込めた意味を正確に受け取ったらしい。ぶすくれた顔でぶすくれた声を上げながらも、ノートに必要な文字を追記した。やはりそれは当人にとって不本意らしく、背中を丸めて唇を尖らせた不満顔を正太に向けている。なのでおまけに正太へ抗議の文をノートに追加した。

 

 『私、あの時みたいに机を持ち上げたりしない! メニューを浮かせるだけにするつもりだった!』

 

 --やっぱやるつもりだったんじゃねぇかお前

 

 そういう問題じゃねぇだろと思わず突っ込みを入れかけた正太は、ペンを取る寸前に思い留まった。以前、蓮乃が魔法を使った時に正太が怒った一番の理由は「法に触れる規模で許可無く魔法を使った」からだ。逆に言うなら法に触れない範囲ならば、今ここで使用してもさほど問題はない。マナー的には微妙なところだがメニュー表を浮かせるくらいならどうという事はないだろう。ただし、蓮乃は勢い任せなところが非常に多い。最低限、釘は刺しておくべきだ。

 

 『ならいいが、ノリと勢いで人やら机を浮かせたりするなよ』

 

 『そんなことしない!』

 

 「ぬーっ!」

 

 微妙に信頼の足らない半目の正太は、膨れる蓮乃に注意のメモ書きを突きつけた。信用してませんと言外に込めたメモに蓮乃の頬がさらなる膨らみを見せる。蓮乃はフグ科と張り合えそうな勢いで膨れっ面を膨らませ、正太はチベットスナギツネとガン付け合戦が出来るだろうジト目で見つめ返す。

 睨めっこする二人を横目に蓮乃から手渡されたノートの文章を眺めつつ、冷たい色の瞳を細めた友香は冷静に計算を進める。名前からして音声念動は音声がトリガーの念動力に間違いない。純粋な物理操作だから自分の狙いには特に使えないだろう。

 

 --となると、蓮乃ちゃんは『あいつ』に押しつける役割にしか使えないわね

 

 両方は欲張り過ぎだったかなと友香は心中で苦笑を浮かべる。後はお兄さんの魔法だけど、蓮乃ちゃんがこれじゃ期待薄。残りの嘆息を胸中にこぼす友香の耳に、いつもと違う蓮乃の声が届いた。常のピーカン青天井ノー天全開な底抜けに明るい声色ではない。純粋な氷のように透明で、雪の結晶のように儚く消える。普段の様からは想像も付かない音色に友香は思わず視線を向ける。

 

 「Naaaaoooooo……」

 

 声音と言うよりは声楽に似た音と共にメニューが青の燐光を帯びて浮かび上がった。テーブルから一〇cmほど浮き上がったメニューを見つめる友香の顔からは本気の興味がかいま見えている。冷徹な計算と容赦ない評価を隠し持つ友香ですら蓮乃の奏でる歌声に引き込まれている。

 だが、少なからず蓮乃と顔を突っつき会わせている正太にはさほどの効果はない。その歌声に聴き惚れるより、余計なことをしないか蓮乃を監視する方に忙しい。警戒の目線で見つめる正太をご立腹の蓮乃は眉根を寄せて睨み返す。

 だが、なにやら思いついたのか蓮乃の顔に企みありげな悪戯顔が浮かび上がった。なにをやらかす気だと正太のデフコンが急上昇する。睨みつける視線も突き刺すほどに鋭い。

 

 「LuuuuunaaaaAAAA!」

 

 暴走を危険視する正太の心境をよそに蓮乃は声の調子を変える。先ほどまでが凛と引き締まった冬の青空とするならば、夏祭りの夜空にも似た浮き立つような華やかさを思わせる。

 途端に平たいメニュー表が立ち上がり堅さを忘れてグニャグニャと波打つ。それはすぐさま有線放送のBGMと調子を合わせてリズミカルに踊り出した。上の両端を両手の代わりに動かしまわり、下の両端を足の代わりにステップを踏む。ムーンウォークでテーブルの端まで滑っては、華麗な弧を描いてターンを決める。仕舞いにはドラムソロと同じリズムで小粋なタップを刻む始末。

 引き吊りきって呆れ果てた正太へと向き直り、蓮乃はどうだと言わんばかりに太い鼻息を吹き出した。さらに満面のドヤ顔で友香に気持ちを書き込んだノートを差し出す。

 

 「むふーっ!」

 

 『すごいでしょ!』

 

 頭痛が痛い余りに頭蓋骨を割りそうな正太とは反対に、半ば呆然とメニュー表のダンスを見つめる友香の顔に浮かぶのは純粋な笑顔だった。その顔は張り付けた作り笑顔ではない、内から湧き出た本物の驚愕と爽快な笑みが浮かんでいる。すごいすごいと白い肌を興奮の桜色に染め上げて、気づけば全身でリズムを取りながら掌を打ち合わせ手拍子を響かせている。

 蓮乃の音楽と共に踊り狂うメニュー表を見て、頭を抱える正太は何か言いたげに口をへの時に曲げる。だが、今までの表情とは異なる顔で思い切り笑う友香を見て無粋な注意を口にするのは止めることにした。その代わり、カウンターからこちらをじっと見つめる店長にうるさくしてスミマセンとテーブルに頭をすり付ける。止めろというなら直ぐ止めるつもりではあるが、これだけ友香が楽しんでいるのだ。正太は注意を受けるまでは頑張るつもりであった。

 

 そんな正太の頭部上下運動などつゆ知らず、メニュー表は友香の片手で形作った人形をダンスパートナーに、手の甲と平面を寄せ合ってチークダンスを始めていた。こーしてあーしてと手の人形の動きを変えてみれば、蓮乃の操るメニュー表がジャンプにターンにと即座に合わせてみせる。満面の笑みの蓮乃はとても楽しげにメニュー表を踊らせ、自然な笑顔の友香はひどく楽しげにメニュー表と踊る。

 だが楽しい気分は不意に終わりを告げた。友香の青い目が米搗きバッタをしている正太の背中を捕らえてしまったからだ。途端に楽しげな表情は消え去り、「あ」の形に口を広げ、自分のやらかしに呆然とする顔だけが残る。

 やっちゃったと友香の表情が苦く変化するのを見て、蓮乃もようやく水飲み鳥をしている正太に気がついた。ただしこちらは何で正太がそうやっているのかには気づいていないらしく、兄ちゃんどーしたと不思議そうな顔に変えるだけだった。

 

 「あの、その……ごめんなさい」

 

 「なーも?」

 

 二人の声で正太が振り向けば、罪悪感を顔に張り付けた友香と不可思議を顔に書いた蓮乃が自分の背中を見つめていた。反応は違えども二人が二人とも自分の行動に気づいたらしい。

 

 「ついやってしまうことは誰でもあるよ。楽しめたんだから、あんまり気にしなさんな。今日は楽しみにきたんだからそれでいいよ……まあ、もう少し控えめだと嬉しいけど」

 

 自責の念に押された友香は苦く表情を歪めて頭を下げた。緋色のお下げが力なくテーブルに転がる。これまた苦い顔をした正太はそれを手を立てて抑えた。年下の子供に謝らせた居心地の悪さに閉口しつつも、正太は気にするなと手を振って見せる。

 自分が止めなかった以上、正太としてもどうこうは言えないし言わないつもりだ。ただ、蓮乃には罪悪感を少しは持てと言いたい。事実、蓮乃には後ろめたさなど毛頭無いようで、喫茶店で正太が何故ヘドバンしていたのか眉根に皺山脈を作って考え込んでいる。

 自分で考えることは重要だが、一緒に乗ってしまった友香が謝罪を口にしていながら、主犯格の蓮乃がいつまでも考え込んでいるのは宜しくない。なので正太は実行犯であるお前は多少は気にしろと文章を突きつけた。

 

 『喫茶店はお茶と食事を楽しむ場であってダンスの場じゃない。店の人にちゃんと謝って、次からはしないようにすること』

 

 「なもっ!」

 

 自信満々にドヤ顔を浮かべて蓮乃は上半身全部で頷いた。過剰なほどに自負を見せたその姿に、正太は微妙に信用ならなそうな顔を浮かべる。だが、ここらで仕舞いと目を閉じて肯きを返した。

 何かとアホいことをやらかす娘っ子ではあるが、言ったことはちゃんと覚える子でもあるのだ。了解と頷いた以上、疑るのは失礼なだけだろう。

 

 「ご迷惑をおかけしました」

 

 「まーう」

 

 強い目つきで三人を見つめていたカウンターの店長へと、正太と蓮乃は向きを揃えて頭を下げた。テーブル反対側で友香もまた謝罪の意を込めて頭を低くする。ナイスミドルな店長は三人の謝罪を受け入れたのか、最後に三人を強く睨みつけると目線を和らげて肩をすくめて見せた。

 三人がほっと安堵を吐いたそのタイミングで、ちょうど良く店員がお盆にそれぞれの昼食を乗せてやってきた。蓮乃の前にオムライスが、友香の前にサンドイッチセットが、正太の前にカレーは置かれる。保護者と見られた正太には、加えて領収書とお叱りの言葉が置いてかれた。

 

 「店内での特能の使用は他のお客様のご迷惑になりますのでお控えください」

 

 「判りました。ご迷惑おかけして申し訳ありません」

 

 「ぬーなぁ」

 

 「ごめんなさい」

 

 刺された釘を心に留めて正太はもう一度詫びを告げた。それに続けて蓮乃と友香も謝罪の声を上げる。それで納得したのか、気を付けてくださいと言い残して店員は去っていった。

 店員の後ろ姿から視線をはずして二人の方へと向き直れば、友香と蓮乃は陰陽のように真逆の様相をしていた。後ろめたさなど何処吹く風と蓮乃は食べる気満々にスプーンを握り、逆に気落ちした友香は食欲が無さそうにお絞りを弄んでいる。

 

 --さて、どーしたもんだろ

 

 微妙に表情を堅くした正太は常の癖で顎肉を揉みながら考え込む。どうやら氷川さんは思いの外、失敗が尾を引くタイプらしい。落ち込んだままでいさせるわけにも行かないし、どうにかして調子を元に戻させたい。だが、どうやって気分を晴らしてあげるのか。

 頭の中の引き出しを片っ端から開いて見るも、役に立ちそうな答えは出てこない。元々、女の子とは縁のない人生を送ってきた正太である。頭の仕上がりが同年代に比べてシンプルな蓮乃や、人生の九割型を一緒に過ごした清子相手ならともかく、正太には年頃の子を慰める方法なんて知る由もなかった。



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第三話、三人でお出かけの話(その三)

 「あー、その、とりあえず食事にしようか」

 

 落ち込む友香を前に、正太が最後に頼ったのは自分の経験と生物学的事実だった。精神と肉体は表裏一体、すなわち腹が膨れれば気分も治る。食事とはそれそのものが喜びなのだ。そういった言い訳を繰り返した結果が正太の腹周りなのだが、一食で太るわけではないと更なる弁解を重ねながら正太はスプーンを握った。

 

 「いただきます」

 

 「イナナキアス!」

 

 「ええっと、いただきます」

 

 挨拶もそこそこに正太はカレーを掬って口に入れる。合成スパイスの刺激が舌を突き刺し、重いタマネギの旨味が舌にのし掛かる。旨い。中辛にしては思いの外辛くてお冷やを煽るが、すぐさま次のスプーンが延びた。宇城家のカレーは野菜多めだが肉は少なめだ。だからゴロゴロとドデカい代用肉とムカゴ芋が正太には嬉しい。

 正太に続いて待ってましたと即座に反応したのは蓮乃だった。食事の挨拶らしき声を上げるのもそこそこに、オムライスの端をスプーンでえぐり取って口に放り込む。半熟のオムレツが柔らかにとろけて舌を包み、チキンライスが口の中で解れて踊る。味擂を打ち抜く味わいに、蓮乃は思わず顔中を窄めて全ての感覚を舌に集中した。

 多少遅れて食前の挨拶を発した友香もBLTサンドを手にする。食べていいものかと戸惑い覚えて視線をやるが、食事中の二人から返答はない。だが言葉以上に雄弁に、顔中でオムライスの美味しさを表現する蓮乃を見て、安心したようにサンドイッチにかじり付いた。酵母肉の疑似ベーコンはかなり塩辛い味付けで、それだけにさっぱりとしたレタスと酸味の効いたトマトがよく合っている。

 

 有線放送と食事音をBGMにそれぞれに本日の昼飯を楽しむ三人。正太は汗をかきかき一心不乱にカレーを胃袋にそそぎ込む。蓮乃は美味しそうにオムライスを頬張りながらも、視線は二人の食事に向けられている。友香は考え事でもしているのか、サンドイッチを口にしてはいるが上の空気味だ。

 

 「まーも」

 

 「ダメだ。自分の分を食べなさい」

 

 兄ちゃんのカレーも美味しそうだと蓮乃が物欲しそうに声を挙げるが、正太は顔も見ずに首を横に振る。理由は「辛目のカレーを蓮乃が食べられるのか疑問」が半分、「俺の食い物は俺だけの物」が残り半分だ。蓮乃は不服と頬を膨らませるも、頬に詰め込んだオムライスの味わいに不満はあっという間に消えてなくなる。

 二人のやりとりを横目でぼんやり眺めながら、友香は卵のサンドイッチを食べる。蓮乃が障害のせいで音声を理解できないことは知っている。何を聞こうと蓮乃にとっては全く知らない外国語と同じだ。それなのに正太と蓮乃は時に筆談もなしに意志疎通をしてみせる。家族同然に心が通じ合っているという事なのだろうか。

 ゆで卵を潰してマヨネーズで和えたサンドイッチは厚徳園で作ってもらったそれよりも随分と味が濃いめだった。次のサンドイッチの前にお冷やで口の中を洗い流す。厚徳園を思い浮かべれば、脳裏に映るのは翔やピーノや柳と言った厚徳園の面々。家族である彼らとは親しく言葉を交わしているが、誰も友香の心中を知らない。知らせないようにしているから当然だ。『あいつ』にばれないように、『あいつ』が望む私を必死で演じているのだから。

 

 「ああ、そういえばお兄さん。蓮乃ちゃんの魔法は教えて貰いましたけどお兄さんの魔法はどんなのですか?」

 

 自己嫌悪の思考を振り切るように、友香は不意打ちで正太へと疑問を振った。ちょうどカレーの芋を噛む瞬間だった正太は、唐突な問いと芋に残っていた煮込みの熱に目を白黒させる。

 急いで口中と神経をお冷やで水冷すると、適当な文言を探して脳味噌の引き出しを開いた。しかし出てきたのは、蓮乃の説明に使った意味の違う適当な話でしかなかった。判ってもらえるか半信半疑で正太は説明する。

 

 「ええっと『熱量操作』っていう奴で、ご飯食べたりして生み出す熱量(カロリー)を操作するんだ」

 

 「熱量(カロリー)ですか?」

 

 正太の想像通り友香には理解しがたいようで、頭の中身を回しながら首を傾げる。正太自身も判りづらい代物なのだから、友香が判らなくてもしょうがない。正太は内心頷くとスプーンでカレーを掬って見せて口にする。

 

 「そーだな。今こうやって食べてる昼飯だけど、こいつを取らなきゃお腹が空いてそのうち動けなくなる。逆を言えば昼飯が俺たちを動かしているとも言える」

 

 もう一匙を掬うと上には大きめの肉の塊が乗っかっていた。正太はそれを口に放り込み噛みしめる。旨い。

 

 「その体を動かすエネルギーが熱量(カロリー)で、俺はそれを操作して速く走ったり体温を高めたり集中力を底上げしたりできる訳だ。それが俺の魔法『熱量操作』なんだよ」

 

 「そういうものなんですか」

 

 「ほー」

 

 納得したようなしてないような微妙な表情の友香は、これまた理解しているのか曖昧な返答をこぼす。友香自身今の話を正しく理解できたかと言われると微妙なところだ。しかし、その中の一文は友香の興味を強烈に刺激した。友香が狙い、望み、欲し続けて来たことに合致しているように聞こえるのだ。それ故に友香は黙りこくって静かに正太の言葉を吟味する。

 その横で正太の解説を聞いて、もとい読んでいる蓮乃は驚愕と納得を入り混ぜた顔で頷いていた。新しい真実を学んだ学生じみた「なるほど!」と言わんばかりの表情だ。

 

 なお、正太の説明は以前も今回も正確ではない。食料を消化して得られたエネルギーを操縦できたところで、運動能力や集中力を制御できるわけではない。正太の特能、すなわち魔法を調べた医者が「熱量(カロリー)のようなものを操れる」と定義しただけの話だ。

 

 『前に説明しただろ』

 

 始めて聞いたと書かれた発見顔の蓮乃に対して、正太は微妙に不満顔を浮かべている。始めて会った時(第一部第一話)に多少は説明しているのだ。なのに今更の話でようやく判ったという態度を取られると、あのときは何だったんだと言いたくもなる。

 

 『あの時はあんまり詳しくなかった』

 

 しかし、その時は蓮乃が勝手に魔法を使ったり、それを正太が怒鳴りつけたり、それで蓮乃が大泣きしたりしてまともな説明はできていなかった。蓮乃としてはもう少しちゃんと聞きたかったのが本音なのだ。

 言い換えされた正太も思い返してみれば、確かに説明不十分と言われても仕方なかったような気がしてきた。それで判れというのは少々無茶がすぎるかもしれない。無理を言ったことを謝るべきか、できる限り詳細に魔法についてはなすべきか、はたまたその両方か。

 

 「……集中力を底上げできるってことは、自分の頭の中を操れるってことですよね?」

 

 「まあ、そう言えばそうだね」

 

 二人のやりとりを余所に一人考え込んでいた友香が、無駄に悩む正太に向けて問いかけた。刺し貫きそうなほど視線は一点集中で、先とは真剣さの度合いがまるで違う。だが、正太はそれに一欠片も気付かずに軽く答えた。

 

 「それって頭の中が判ったりするんですか?」

 

 「そうだな、魔法を脳味噌に使うときにぼんやり何処が動いているかくらいなら判るけど、流石に何を無意識で考えているとかはわかんないな」

 

 『兄ちゃんそんなこと出来たの?』

 

 頭を捻って魔法を使った記憶を絞り出して正太は答える。普段はそんなこと考えたことも無かった。しかし、考えてみれば確かにそう言ったことも知覚できているのかもしれない。

 正太は魔法を使う時、トリガーとして『腹の底にあるマグマ溜まり』をイメージする。それは正太の熱量(カロリー)の残量と直結している。また、熱量加給で体に熱量(カロリー)を注ぎ込むとき、正太は供給される細胞や臓器を認識している。つまり正太は自分の体内状況を魔法を通じて把握しているのだ。

 だからといって正太にはそれが何の役に立つのか想像もできなかった。夕飯のおかずが増える方向で役に立つなら嬉しいのだが。

 

 それがどうしたと自分の魔法にさほどの興味もない正太に対し、それを聞く蓮乃は新たな発見に驚愕を隠せない。びっくり仰天と同時になんで今の今まで教えてくれなかったと不平も覚える。そもそも蓮乃としては自分には話さなかったくせに友香にあっさり教えたことが何だか気にくわない。これまで魔法を見せたりしてくれなかったことにも不満を覚えている。

 

 『どうして前の時は教えてくれなかったの!?』

 

 『あの時はお前さんと初対面だったし、聞かれてもいないことをべらべらしゃべる趣味はないぞ。まあ、説明不足だったことは済まないと思っているが』

 

 焼き餅的な何かしらを感じたのか、炙り餅の体で頬を膨らませて蓮乃は抗議の声を上げた。しかし蓮乃が明言できない事は、正太にはもっとよく判らない。そんな理由で文句を付けられても困ると正太は表情を歪めながらノートに返答を書いてよこした。一応ではあるが詫びも付け加えておく。

 

 『じゃあ兄ちゃんができることを教えて!』

 

 「私も聞きたいです!」

 

 正太の詫びに即座に蓮乃は乗っかった。聞いていないなら聞くまでの話。思い立ったら即行動が蓮乃の行動原理だ。これに子供特有のまとまりない浮き草じみた思考が加わると大体いつもの蓮乃になる。

 そして蓮乃の後に友香が飛び乗る勢いで続いた。友香にとっては宝くじ一等賞の可能性大なのだ。これこそが一番聞きたかったことだった。狙い通りなら自分を好き勝手にされずに済む。少なくとも好き勝手にされている事を自覚できる。

 

 興味津々と烏羽玉の目を見開いて身を乗り出す蓮乃に、私気になりますと青玉の瞳を細めて顔を近づける友香。女の子二人掛かりに圧されて、ひきつった顔の正太は反射的に後ずさりそうになる。しかし椅子に腰を下ろしている状態では後ずさろうとしても無駄だった。仰け反ろうにも背もたれがある。

 

 「えっと、あー、そのー、なんだ……」

 

 適当な繋ぎ言葉をまき散らしつつ、正太は目を泳がせながら考え込む。正直に言えば余り話したいことではない。魔法でできることを話すとなれば、やらかしまくった小学校時代の記憶を思い出さざるを得ない。なにせ調子と勢いと図に乗ってたその頃にいじくり回したのが、今使える魔法のほぼ全てなのだ。

 しかし正太の目に映る二人は、全身全霊で知りたい聞きたいと伝えている。これを放り出すわけにも行くまい。どーしたもんだろ。

 

 「……じゃあ、全部は答えられないと思うから、聞きたいことをまとめてくれるか?」

 

 「んっ!」

 

 「判りました!」

 

 野放図に問われて思い出したくもない過去を片端から想起するよりは、限定された質問に答える方が幾分かマシ。そう結論づけて正太が返すと、早速と蓮乃と友香は適当な疑問を考えにかかる。

 あーでもないこーでもないと勢い込んで問いを探る二人に、正太の方が問いかけたい気分だ。魔法がきっかけで大いに痛い目にあった正太としては、そんなに自分の魔法が素敵なものだとはとうてい思えなかった。

 しかし、頭を回して記憶を遠心分離してみれば、自業自得で酷い目にあったのは周囲からの関心と感心でいい気になり果てていたのが原因である。つまり、周りの注目を集めていたことは事実なのだ。蓮乃も氷川さんも大体小学生ぐらい。それくらいには自分の魔法でも面白いのかもしれない。

 

 --なら、その内に蓮乃を訓練所に連れて行ってみるか?

 

 いそいそとノートに書きだした二人を見ながら、正太はかつて世話になっていた特能インストラクターの先生を思いだしていた。



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第三話、三人でお出かけの話(その四)

 膨れた胃袋を抱えて店外に出てみれば、昼時が過ぎたためか繁華街の人通りは幾らか減っていた。中点に未だ腰を下ろしている日差しは、暖かいを通り越して些か暑いくらいだ。

 

 降り注ぐ日差しに三白眼を差し向けながら、正太は満腹になった太い腹周りをおやじ臭く撫でる。想像していたよりしっかり腹に溜まったし、味も良くて大満足。唯一の不満は値段だが、昼飯代で足は出なかったんだからよしとしよう。

 正太隣の蓮乃も、その真似をして少し丸くなった自分のお腹をさする。値段を気にする立場ではない蓮乃に一切文句はなかった。美味しかったしお腹いっぱいで大満足だ。

 二人の後に続いた友香もまた満足げな顔をしている。二人と違って食事に対する満足ではない。別にサンドイッチが不味かったわけではないが。大当たりも大当たりを見つけ出せたからだ。これでようやく『あいつ』に対抗する目処が立った。後はお兄さんさえ居れば『あいつ』はもう好き勝手に出来ない。

 ほぅと満足とげっぷの混じった息をもらす三人。不意に友香が正太へと呼びかけた。

 

 「えっと、お昼のお金出さなくて本当によかったんですか」

 

 「最初から三人分預かっているんで、氷川さんは気にしなくていいよ」

 

 正太は気にするなと顔の前で手を振る。昼飯代は蓮乃が友達とのお出かけということで睦美が三人分を出している。当初、正太は自分の分は小遣いで何とかすると断ったものの、ペコペコと強引な睦美の剣幕に押し切られた。

 睦美からしてみれば先日のこと(第一部参照)に加えて、娘の保護者代理を買って出てくれている正太には頭が上がらない。それなのに乏しい小遣いはたいてまで頼んだ仕事をさせるわけにはいかないと、正太の手に無理矢理昼食代を握らせたのだ

 

 「そこまでしていただかなくても……」

 

 『気にしない、気にしない』

 

 困り顔でやんわりと遠慮する友香に、蓮乃が正太の真似で重荷に思うなとアピールする。単なる真似っこだけでは無く蓮乃なりの心配りでもある。その姿に小さな笑いをこぼすと友香は素直に頷いた。

 

 「そこまで言ってくれるなら、有り難くご馳走になります。それでなんですけど、さっき話に挙げた店にそろそろいきませんか?」

 

 「んっ!」

 

 「そうだな、そうしようか」

 

 勢いよく頷いて答えるや否や、蓮乃は二人の手を握り引っ張るように歩き出す。気恥ずかしさと迷惑を微妙な表情で表現して、正太は逆に引っ張り蓮乃を止めた。同時に家の子が済まないと友香に黙礼を一つ。友香はニコニコ顔で頷くだけだ。

 

 『蓮乃、行き先を知ってるのは氷川さんだろ? それに俺じゃないんだから、勝手気ままに引っ張るなよ』

 

 『友香ちゃんごめんね』

 

 『大丈夫よ。気にしない、気にしない』

 

 言われてみれば尤もだと正太の指摘に頷いて蓮乃は友香に謝罪する。いいよいいよと手を振り、蓮乃の台詞を引用して心配無用と笑って受ける。正太も蓮乃も友香自身も気づいていないが、その姿は最初よりも格段に自然だった。

 詫びも終わり、三角形の形で三人は歩き出した。横に並んだ蓮乃と友香が先を行き、二歩後ろに正太が付いている。保護者代理の正太としては二人の状況が見えるこの位置が宜しいのだが、蓮乃的には納得いかないようで正太を並ばせようと引っ張っていた。

 

 「みーむー!」

 

 「やめい」

 

 正太は引く手を外して友香を指さし、一緒に動くように身振りで指示する。折角、友達と休日に遊んでいるんだからそちらを優先すべきである。氷川さんが遊びに誘ってくれたのだからなおのこと。

 だが、蓮乃は正太の意図を理解しながらも首を振って拒否する。二人で遊びに来たのではない。三人で遊びに行ったのだ。それなのに兄ちゃん抜きで遊べとは筋が一切通らない。

 

 「ぬーっ!」

 

 「だからやめろって。服が伸びるってーの」

 

 正太の腕をつかみ直し再度引っ張る蓮乃から、正太は再び腕を外す。その腕を蓮乃がつかみ直し、正太がもう一度腕を外す。リピートボタンでも押したかのような同様の光景を五回ほど繰り返し、段々と周囲の目が集まってくる。集中する視線の圧力と冷たさに圧されて、正太の動作がどんどん鈍る。しかし視線を一切合切気にもとめない蓮乃の速度に変化はない。むしろ手慣れた分掴み直す速度が向上している。

 

 「判った判った! 並んで歩いてやるからいい加減にしろ!」

 

 「なもっ!」

 

 結局、根負けしたのは正太だった。これが筋の通らない身勝手な行動なら正太が譲ることはなく、最後には鉄拳が蓮乃の頭上に降り注いでいただろう。

 しかし、そうでなければ正太は蓮乃にとにかく甘い。蓮乃が話しかければ時間が許す限り耳を傾け、自分の用事はさておいて望めば必ず遊びに付き合ってくれる。正太にその自覚はほとんどないが、だからこそ蓮乃は正太に懐いているのかもしれない。

 

 「うちの子がすまない。懐いてくれるのは嬉しいんだが、もう少し場を弁えてもらいたい処だ」

 

 「気にしないでください。三人一緒でも大丈夫ですよ?」

 

 多分心地よくないだろう友香に向けて、正太は苦笑いと共に片手合掌で勘弁を願った。正太に他人の心中は判らないがそこまで不快でもないのか、友香とクスクスと軽い笑いをこぼす。実際、友香も悪い気分ではなかった。望みが叶うなら人間は結構鷹揚になれるものだ。

 

 --お兄さんは外観と違って結構周囲に気を使うタイプなのね

 

 おかげで友香がつける辛口評価も大辛から中辛くらいには辛さを落としている。お昼を取った喫茶店でのことといい、周囲に気配りを欠かさない正太の意外な細やかさが友香には見て取れた。それに蓮乃も謝らせた辺り筋を通す性格でもあるらしい。突っ走りがちな蓮乃を考えれば、親から預けられるのもよく判る。

 なお正確には、正太が気を使っているのは周囲そのものではなくその目線である。周りの目がなければ、毎度の如くに妹から小言を差し込まれるくらい大ざっぱで適当なのが常の正太だ。ただし蓮乃に対しては自分が手本にならなければとの意識が脊椎に筋骨を通しているが。

 

 「それだけ好かれているって事じゃないですか。私もそうなりたいなぁ」

 

 「なに、蓮乃のことだから、すぐにもっと仲良くなれるよ」

 

 友香の内心に気づくこともなく、友香に合わせて笑いを浮かべながら正太は顎をもむ。どうせ判らないと諦めきっている相手の内心よりも、自分の口が滑らかな方が重要だ。多少は慣れてきたのか蓮乃や家族相手でなくとも思いの外ちゃんと喋れるのはありがたい。いつまでも訥々の木訥だったら格好がつかないことこの上ない。

 胸中で一安心と胸をなで下ろす正太が、友香の腹の底に気づかないのは本当に幸運と言えよう。何せそんな正太の心の底を友香はほぼ正確に見抜いているのだ。蓮乃相手には流暢に話せていながら、友香相手には訥弁が見え隠れしている。慣れと緊張が原因と推測するのは難しくはなかった。ならば今、会話が円滑に進むのは正太が気を許してきたということだろう。友香としては判りやすくて実に助かる。

 

 「なーもっ!」

 

 他方、正太の安心にも友香の計算にも一切頓着しない蓮乃は、歩き出しながら声を上げて二人を呼ぶ。脳天気でお気楽な蓮乃の様に、正太と友香は意図せずに同じタイミングで苦笑を浮かべていた。

 

 --こいつは全く

 

 --蓮乃ちゃんはシンプルね

 

 視界の端に写った同じ表情に顔を見合わせてもう一度笑う。笑い合って足を進めない正太と友香の元へ蓮乃は駆け戻った。二人が反応するより早く、さっさと行こうと二人の片手を掴んで歩き出した。一応、正太に言われたことは覚えているようで、二人を引っ張り回すことはなく歩調を合わせている。

 ただしそれ以外はいつもの蓮乃だ。MIBに捕まった宇宙人か、はたまた親の両手をブランコにする子供か、正太の左手と友香の右手を前後に振り回しながら歩く。足も高く上下に振り上げて、ローマ式なガチョウ歩きだ。周囲の視線を一向に気にしない様は実に蓮乃らしいが、正太としては前からワンピースの中身が見えないか気が気でない。だからといって前に回ってそれを確認したらそれこそ正太が犯罪者で確定だ。

 どーしたもんかと表情をゆがめて考え込む正太。不意に蓮乃向こうの友香がその目に入った。周囲の悪感情を吹き飛ばす蓮乃の底抜けな明るさに、最初の笑顔よりも格段に柔らかい苦笑をこぼしている。踊るメニュー表に手を叩いていた時と同じく、その表情は蓮乃と同年代らしく見えた。

 

 

 

 

 

 

 友香が案内した繁華街奥の面白い店とは、輸入雑貨の百貨店だった。

 

 ロバが背負った「ラ・マンチャ」の看板をくぐって店内にはいると、芸術的な形にディスプレイされたオススメ商品がお客様を出迎える。ブランドバッグはその並びだけで赤から黒へと至るグラデーションを描いている。色とりどりのリキュールの小瓶は虹に準えて七色に並ぶ。日本地図と相関する形に並べられた茶葉。流行の服を着たマネキンは町中の一瞬を切り取った様。

 入り口で手渡されたチラシを片手に、圧倒されて惚けた顔で正太と蓮乃は辺りを見渡す。巨大な店内のあまりの品ぞろえに圧巻されて何を見ればいいのかもよく判らない程だ。取り敢えずと手元のチラシを見れば、看板にも描かれたロバモチーフのイメージキャラクターが商品の説明をしている。

 

 「こりゃあすごいな……」

 

 「なーおー……」

 

 先にも書かれたが、海洋輸送は特殊生物の氾濫で高コストとなっている。そのため基本的に輸入品は航空輸送のコストをペイできる高級品か、一定の需要が見込めるマニア向けの品が数多い。

 この大型雑品百科店「ラ・マンチャ」ではそのマニア向けな品を山ほど集めて、かつ芸術的なディスプレイで耳目を集めることで新しい需要者を創出している。それだけに「冷やかしの客を意図的に増やしている」と揶揄される程に見栄えに気を使った店内は、それ自体がエンターテイメントを成している。つまり見て回るだけで楽しいのだ。

 

 「蓮乃ちゃんもお兄さんも、気に入ってもらえましたか?」

 

 「いや、ほんとに凄いね。どーしたもんか」

 

 「まーぬー」

 

 二人の驚きっぷりに案内した友香は満足に笑みを深める。何でもない風を装ってはいるが、内心得意満面のようで白い頬はほんのりと赤く色づいている。しかし驚いている正太としては、何処から回るにしても数が多すぎて迷ってしまう。さてどこから見たものかと正太は顎に手をやり首をひねった。蓮乃もそれに合わせて顎に手をやり首をひねる。まねっこだ。

 

 「うーむ」

 

 「う~ぬ」

 

 同じ角度で同期した二人の動作を見て、周囲はクスクスと笑いをこぼす。端から見れば無駄にゴツい正太は間の抜けた親熊に、無闇に明るい蓮乃は愛くるしい小熊に見えるのだろう。

 常の正太なら視線の集中砲火に恥ずかしがって縮こまるところだが、今の正太は考え込む余り周りが見えていないようだ。だから蓮乃の真似っこにも気づいていない。なお、蓮乃は他人の目が合ろうと無かろうと気にしない。

 だからこそ二人の動作は脳天気な漫画風味を帯びており、辺りを通るお客の目をかき集めてしまっている。そんな周りにあわせて友香もニコニコ笑う。だが固定された表情と異なりその脳内は高速回転中だ。

 

 --女の子なら服飾関係だけど、蓮乃ちゃんはともかくお兄さんが楽しめない。放って置いても大丈夫だって言うけど、蓮乃ちゃんが嫌がるからやっぱりダメ。男の子が好きそうなものと言えばスポーツ関係だけど、体型が体型だしお兄さんはインドアな可能性もありそう。そうなると二人とも楽しめそうなのは食べ物関係か玩具関係かな?

 

 とりあえず季節のディスプレイ見せて反応を探ってみようと結論づけ、友香は小首を傾げた二人に声を掛けた。

 

 「迷ってるなら、こっちとか見てみませんか?」

 

 迷う二人に向けて友香が指さすのは、入り口近くに大きく置かれた古池のジオラマだった。蛙飛び込む水の音が今にも聞こえてきそうな出来映えをしている。その周囲にも傘に合羽に長靴と梅雨向けの物品がずらりと並ぶ。さらに蛙や紫陽花や柳など梅雨らしいものをモチーフにした置物や小物も並んでいる。

 棚に並んだカタツムリのガラス細工を恐る恐る手に取り、触覚の先まで作られた出来映えに正太は感嘆の声を上げる。

 

 「他のもそうだが、これなんか細かいなぁ」

 

 「ディスプレイは全部専門のデザイナーが用意しているそうですよ」

 

 そりゃ剛毅な話とやっかみ混じりの感心を鼻息に乗せて吐き出す正太。現代では高級品の代名詞である舶来品をこれだけ揃えているのだ。資本規模も大抵の百貨店の上を行くだろう。お金はあるとこにはあるものだ。

 そんな正太と友香の会話を後目に蓮乃はいち早くジオラマの前まで駆け込んだ。ジオラマの出来映えに興奮した様子で手を振って二人を呼ぶ。正太は疲れたような返事と共に、足早に蓮乃の元へと急ぐ。二人の様子を観察しながら友香はその後を追う。

 

 「なーおーっ!」

 

 「はいはい。家の娘さんは元気だこと」

 

 「ほんと元気ですねぇ」

 

 仮にも常識のあるつもりな正太にしてみれば人前で大声を上げたりして恥ずかしいと感じないのかと聞きたくなる。たぶん感じないのだろう。以前にも道を歩く最中、手をつないで思う存分に童謡を熱唱していたのだ。恥を覚えるような気質なら等の昔に止めているだろう。でも俺が恥ずかしいから止めてくれないかな。

 不満げな気持ちをこぼす正太とは反対に友香は旨くいったと満足の表情を笑顔の下に浮かべた。蓮乃はあの様子で十分にラ・マンチャを楽しんで貰えているとよく判る。蓮乃の有様に苦い顔をしているが正太は正太でディスプレイに感心している。花丸満点とはいかないけれど合格点は貰えるかな。

 二人の心境を知ってか知らずかエキサイトな蓮乃は見本の折りたたみ傘から紫陽花柄を手に取ると、考えることなく思いっきり開いた。蓮乃が傘のランナーを力一杯に押し開くと、真金竹の骨格と形状再生繊維がしなやかに形を変える。同時に青色の紫陽花が桃色へと鮮やかに転じた。缶一本程度から上半身程の大きさに広がった折りたたみ傘に、仰天した蓮乃は驚嘆の大声を上げる。

 

 「おーっ!」

 

 「いい加減にしてくれ、恥ずかしい」

 

 正太の小言も右から左と蓮乃は傘の花をクルクルと回す。蛇の目柄ではないが、童謡が聞こえてきそうな様子に周囲の空気が柔らかに和む。回る傘は天井のLED灯を反射して紫陽花の輪郭と隠れた虹模様を輝かせている。

 

 「おお」

 

 反射は雨中での視認性のためだが、デザインに落とし込まれて見事に見栄えと機能が両立されていた。よく出来ていると結局正太も感心の声を漏らしている。その頭上に陰がかかった。見上げてみれば傘の内に描かれた梅雨の青空。見下げてみれば背伸びしながら傘を掲げる笑顔の太陽。

 

 「なーも!」

 

 --相合い傘!

 

 いつもの通り蓮乃の言ってることは判らないが、言いたいことはよく判った。正太の顔が形容し難く歪んだ。只でさえ形の悪い顔立ちがさらに酷いことになっている。その顔だけでは判らないが、居心地悪く動き回る指先といい泳ぎ回る視線といい正太の内心は誰からも見て取れた。

 正太の方としては恥ずかしいんで止めて欲しい。だが、大いに喜んでいる以上邪魔をするのは野暮天に過ぎる。なのでへちゃむくれた居心地悪そうな顔をしながらも、正太は蓮乃の好きにさせていた。蓮乃に甘いと清子に揶揄される所以がまさに此処にあった。

 百二十点満点のとろけた笑みで相合い傘を回す蓮乃に、赤ん坊に乗っかられたブルドックみたいな面構えの正太。蓮乃が子犬だったら千切れんばかりに尻尾を振ってることだろう。周囲の誰からも二人の関係は一目で見て取れた。

 

 当然、二人を見ている友香にもどれだけ蓮乃が正太のことを大好きかよく判る。周囲と同じほっこり顔を浮かべつつ、氷点下の思考を急回転させている。誰にも気づかれないように表情は常に優しい笑顔だ。だから見る目のある人間なら友香の違和感に気づくだろう。幸い、正太も蓮乃も他人の腹の底を見抜く目は持ち合わせていなかったが。

 これだけ蓮乃ちゃんがお兄さんに懐いているなら、蓮乃ちゃんを連れていけば半自動でお兄さんにが付いてくることになる。後は蓮乃ちゃんに気づかれないよう『あいつ』を押しつけて、二人を仲良くさせれば目的は叶う。お兄さんにさえいれば『あいつ』は自由に出来ない。身勝手をしたなら即座にバレて『あいつ』は皆の悪役になる。

 

 --そう、蓮乃ちゃんに『あいつ』を押しつけさえすれば……

 

 全ては狙いの通りに上手く行っている。その筈なのに胸の内に浮かぶ思いは、成功の甘い味とは真逆に酷く苦く感じられた。



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第三話、三人でお出かけの話(その五)

 --外人さんのセンスは良く判らんな

 

 正太はつまみ上げたグミキャンディの紙袋をLED電灯にかざすように眺める。その表面には各種フルーツに人間の目口をそのまま直付けしたイメージキャラクターが描かれていた。日本人である正太の感性からすると『かわいい』『親しみのある』といった感想よりも『気持ちが悪い』『違和感がひどい』といった所感が出てくる。

 何処の国だろうか。書かれている文字が大体アルファベットだから、欧州系であると想像は付く。だが、学校で習った英語とはまるで違っている。そもそも英語にない記号もいくつも書かれている。これでは判らないと言うことしか判らない。絵のセンスも判らない。

 結局、考えることを諦めた正太は肩を竦めるとグミの紙袋を元の場所に戻した。そこには同じ様なお菓子が深海、あるいは地層を模して堆積している。どれにもこれにも日本語は印字されていない。全部高価な外国製だ。

 

 そしてお菓子の大海原もしくは大平原からは数mはある巨大な影が突き上がる。ゴリラとクジラを足したかの様なその姿はまごうこと無き大怪獣だ。海洋生物の滑らかさと類人猿の二足歩行を併せ持つ巨大生物は、これまたお菓子の袋から出来ている。

 こちらは正太にもよく理解できた。よくできたディスプレイだ。デカいと言うことはそれだけで人目を集める。巨体はそれだけで憧憬を誘わずにいられない。圧倒的な大きさはそれだけで人の心をがっちり掴むのだ。ましてやお菓子の怪獣である。幼い男の子なら無条件で惹かれるだろう。

 実際、正太もそうだった。一目見た時点で視線は釘付け。足下でしゃがみ込んだ筈の蓮乃と友香が、何をしているのか全く気にも留まらなかったくらいだ。今も気には留まっていなかったが、思い返した拍子に思い出したので釘を外して目線を下げてみる。

 

 「ぬ~に~」

 

 「私はこっちかな」

 

 蓮乃は常と変わらぬ理解の埒外な声を上げて、友香と一緒にお菓子の袋を見比べているご様子だ。表紙の絵からしてチップスの類だろう。片方はイメージキャラクターがタマネギと一緒にクリームに浸かって、もう一つは蜂蜜の壷にマスタードをそそぎ入れている。どうやら蓮乃は友香が挙げたハニーマスタードフレーバーに決めたらしく、サワークリームオニオン味をお菓子の平原へと戻した。

 正太には蓮乃が抱えるお菓子の袋と同じ絵を見た覚えがあった。記憶の通りに目を上げれば怪獣を構成する袋の一つがクリーム+タマネギの絵をしている。ただし蓮乃が抱えるそれに比べて倍近く大きい。大怪獣は構成するお菓子まで大なのか。それだけではない。お値段までビックサイズでビックリサイズだ。むちゃくちゃ高い。一袋で二千円ってなんなんだ一体。

 思わずわき上がった嫌な予感に、正太は顔半分だけひきつらせて蓮乃を見つめる。蓮乃は個人の小遣いを貰っていない。必要な物があるときは母親である睦美に買ってもらう。そしてこの場には睦美はいないが保護者代理の正太はいる。つまり……

 

 「なーもーぅっ!」

 

 悪い想像は大当たり。イイ笑顔の蓮乃がひきつった顔の正太めがけてイイお値段のお菓子を突き出したのだ。立ち上がった蓮乃が差し出す蜂蜜辛子風味チップスは「(高級な海外由来の)舶来品」「(還元デンプンでなく)ポテトチップス」「(それらがタップリ入った)大袋」と値段を高騰させる三重苦をしていた。当然、今の正太の財布には余りにも高値に過ぎる。無理に購入した日には正太の懐は絶対零度を下回るに違いない。つまり物理的に不可能だ。

 

 「ダメだ、買わん。俺の財布にそこまでの余裕はない」

 

 そういう訳なので厳しい顔をして正太は首を横に振る。買ってくれないのと拗ねた蓮乃は頬をまん丸く膨らませるが、正太は静かに首を振るばかり。トートロジーでは無いが無い物は無いのだ。無い袖は振れない。振れるのは首だけだ。

 お菓子を両手で抱きしめて、蓮乃は色々と込めた視線でじっと正太を見つめる。ひたすらな目線で見つめる。穴が空きそうな目つきで見つめる。それでも正太は厳めしい顔のまま頑として譲らない。曖昧な笑みを浮かべていた友香も流石に無理だと諭しにかかる。

 

 「う~に~」

 

 「蓮乃ちゃん、しょうがないよ」

 

 結局、正太の面構えよりも豚じみた文句を漏らして蓮乃はお菓子の袋を元の場所に戻した。これ見よがしに溜息をはき、ことさらゆっくりと時間をかけてサワークリームオニオンの隣に置く。合間合間、名残惜しげに正太へとチラチラ視線を向けるのを忘れない。

 そんな演技じみた蓮乃の動きに対して、正太もえらく大仰に顔を左右に振って見せる。蓮乃のノリに乗ってはやるが、許可を出すつもりはないのだ。一歩も譲歩を見せない正太の態度に最後にもう一度溜息を吐くと、蓮乃はアヒル風に唇を尖らせる。正太に向ける目も判りやすく湿っぽい半目だった。正太も正太はドスのこもった細目で睨み返した。

 

 --買ってくれたっていいじゃない!

 

 --金はねぇんだ、我が儘言うんじゃねぇやい

 

 真っ正面から睨み合う二人だが、その耳に忍び笑いが聞こえてきた。そういった物を気にする正太が辺りを見渡すと、しかめ顔を突っつき会わせた二人を見て周囲の客がクスクスと笑いを漏らしている。オッサン臭い正太とガキ臭い蓮乃が感情むき出しで威嚇しあう姿は、仲のよい親子のように見えたのだろう。友香も周囲に混じって忍び笑いをこぼしていた。

 周囲からの視線に射竦められた正太は居心地悪そうに首を竦める。周りの視線が如何に優しいものであろうと、今の正太には針のむしろとさほど変わらない。前の虐め以来、注目を集めるのは大の苦手なのだ。

 

 それを見た蓮乃の顔に悪戯を思いついた悪ガキの面構えが浮かぶ。言葉の通りなのだから「めいた」とか「じみた」とかの接尾語はいらない。しかも不運なことに、周りの視線から逃れようとする正太は蓮乃の表情に気づいていない。だから蓮乃が顔に手を伸ばすのにも気づくのが一瞬遅れてしまった。

 

 「なっ!?」

 

 「なっ!!」

 

 頬を平手で押さえてぐいっと顔を近づける蓮乃。驚く正太が反射的に顔を遠ざけようとするのを、蓮乃は逃げるのは許さんと無理矢理近づけ更に睨む。急に近づいた蓮乃の顔に辺りの目線が密度を増した。周囲からの視線の援護射撃で正太は思わず目を逸らす。だが背けた視線の分、正太の首をねじ曲げて蓮乃は無理矢理目を合わせにかかる。

 これぞ必殺の圧力攻撃である。これで兄ちゃんにお菓子を買ってもらうのだ。どうだ買いたくなったかと、鼻と鼻がくっつきかける距離で蓮乃は力ずくで目を合わせる。蓮乃の勢いづいた鼻息が正太の顔にかかってなま暖かい。

 年齢に性別に体格にと、腕力勝負なら勝負にならないくらい正太の力が強い。二人きりなら軽く引っ剥がして拳骨落として終わりだろう。しかし衆人環視な現状がある。蓮乃を強引に引き剥がす姿は余りに外聞が悪すぎる。正太には冷たい視線の十字砲火で四面楚歌になる様が容易く想像できた。

 もっとも周囲を気にするとしても見せ方如何でどうとでもなる。例えば親に見える正太と娘に見える蓮乃の事だから、親が子を叱るようにすれば和やかな光景の一つとして処理されるだろう。単に正太が考え過ぎで人の目を気にし過ぎているだけである。

 

 それでも正太の心情としては打つ手なしに違いない。視線を泳がす度にグイグイ顔の向きを変えられて、視線の空間密度が増すばかり。濃度を増した眼差しの数にコミュ症気味の正太はアップアップだ。もういっそ蓮乃の望み通りにお菓子を買ってしまおうか。そんな現実逃避が脳裏に浮かぶ。正太の白旗が上がりかかっているのに気づいたのか、蓮乃の鼻息が太さをまして悪戯面にドヤ顔が混じり出す。

 

 --こいつ、そういうつもりか

 

 それで蓮乃の狙いは全部バレた。スイッチの入った正太の目つきが変わる。慣れ親しむのと甘えは別物である。それを判らせねばなるまい。代理とはいえ今の保護者は自分なのだ。

 逃走仕様から闘争仕様に顔つきを変えた正太はドヤ顔を決めている蓮乃の顔を掴むと、広い額に自分のそれを打ち付けた。ボーリングの玉同士をぶつけたような鈍い音が互いの頭蓋に響く。痛みと衝撃に蓮乃が表情を変えるより速く、両目を見開き歯を剥いて正太は本気の威嚇を叩き込んだ。

 ほぼゼロ距離で食らわされた正太の威圧に今度は蓮乃が目を逸らして体を引こうとする。だが、圧倒的筋力差で頭を固定された蓮乃は動けない。

 

 「オイ、親しき仲にも礼儀ありだ。やっていいことと悪いことがあるぞ、バカタレ」

 

 「……!」

 

 逃げ場無く叩きつけられたドスの利いた声音と強烈な表情に、正太の怒りをようやっと察したのか蓮乃は俯く。額がぶつかる音とヤクザじみた声に周囲がざわつくが正太は無視する。と言うよりも意識にない。常は周りの目にビビっているくせに、こと激昂すると周りが目に入らなくなるのが正太なのだ。

 

 「あの、お兄さん?」

 

 「後にしてくれ」

 

 だから正太は心顔の友香の言葉もただ一言で退けた。そのまま腰を落として蓮乃と高さを合わせると無言で手を差し出す。言葉もなく蓮乃は差し出した手に会話用ノートを乗せた。無言でそれを受け取った正太は手持ちのペンで一言を書き込むと、俯く蓮乃の目の先に差し出した。

 

 『俺は怒っている。理由は判っているか?』

 

 『……我が儘言ったから?』

 

 下向きの蓮乃が返した一文に、正太の気分も思いっきり下を向く。よりにもよって自分のやらかしに自覚なしである。できるなら拳骨落として説教して終わりにしたいが、人前となると拳骨一発で解決と言うわけにはいかんのだ。それにそもそも二人きりなら今の事態は起きていない。

 どーしたもんかと正太は表情を歪めて頭を抱える。だが行動のないところに解決はない。歪んだ顔を意志力で真面目な形に叩き直すと、正太は蓮乃を邪魔にならなそうな隅っこの方に引っ張っていく。

 その背中を呆気に取られた顔で周り中の客は見つめる。痴話喧嘩めいた仲良し親子のやりとりから一転して、ヤクザの恫喝じみた脅し混じりの怒り声だ。青天の霹靂じみた急転直下な空気の変化に、端から見ていた誰もがどう反応していいのかあぐねている。

 

 それは二人を知っている友香も同じだった。友香は蓮乃が正太を大好きなことも、正太が蓮乃を大事にしていることも理解している。だからこそ正太が蓮乃の行動に本気の怒りを示したことは驚きだった。それが大切な蓮乃であろうと正太は怒るときは怒るのだ。

 それは同時に友香にとって好都合でもあった。『あいつ』がやらかしたなら、正太は決してなあなあで終わらせないということだ。常の友香なら表面上は驚いて見せながら、冷静な頭の中でそう算盤を弾いていただろう。

 しかし今の友香には何故かその発想は思いつかなかった。父親のように真摯な叱責の声を上げる正太に、ただ言葉を失うだけだった。

 

 

 

 

 

 

 基本的にラ・マンチャのディスプレイは碁盤目状に並んでおり、客の死角や袋小路が出来ないように工夫されている。それでも仮置きされたワゴン商品やディスプレイのサイズ、消火器等の消防設備のために、死んだスペースが一時的に生まれることはままある。無論そういった空間が生まれても、天井に張り付けられた視覚素子や重量を感知するスマートフロアは、そこで何が起きているのか決して見逃さないのだが。

 それでも取りあえず人目は凌げると陳列前の商品とお菓子怪獣で出来た物陰に、覚悟を決めて正太は蓮乃を引きずり込んだ。正太は頭一つ分背の低い蓮乃と中腰姿勢で頭のY軸を合わせると、床を見つめる蓮乃の顔を片手で上向かせて目線を合わせる。そして移動中に書き込んだノートをその眼前に突きつけた。

 

 『俺が怒ったのには我が儘言ったのも確かにある。だが一番は、こっちが拒んだ理由も聞かずに周囲を利用して我が儘を押し通そうとしたからだ』

 

 『兄ちゃんにもなんか理由があるの?』

 

 蓮乃の頭上に幾つもの疑問符が浮かぶ。いきなり理由と言われても想像もつかない。そもそも正太が怒っている理由だってよく判っていないのだ。我が儘が理由じゃなけりゃいったいなんなんだ。

 その理由を理解させるのが保護者代理である正太の役柄である。厳つい顔をさらに厳つくして考え込んだ正太は、出来るだけ平易な言葉でノートに書き込んだ。

 

 『どんなものにも理由はあるんだ。ぶっちゃけて言うと俺の財布の中身が少ないのが理由だ。で、お前の我が儘は俺の理由を無視してでも押し通すものなのか?』

 

 実の処、正太は蓮乃が我が儘を言うこと自体にはさほど文句はない。常々蓮乃に「言わなきゃ判らんから、言いたいことがあったらちゃんと言え」と言っているのだ。我が儘だって言いたいことの一つではあるし、言いたいことを我慢しても言いたいことは伝わらない。

 だから要求があるならちゃんと言葉にして欲しい。しかし要求されたからといって必ず要望を通すとは限らないのだ。正太の側にも事情というものがある。蓮乃の欲求を通すだけの都合のいい存在ではない。正太にも相応の利益があるか、最低限納得させるだけの訳がいる。

 なので今回は金がないと言う理由で拒否をした。そして拒否を示した以上、それを覆すだけのものがないのに蓮乃が無理を通していい道理はない。

 

 『理由知らなかったから判んない』

 

 正太の突き出した一文を目にして蓮乃は唇を尖らせて顔を逸らす。理解していないのではない。判った上で拗ねて理屈をこね回しているのだ。それに蓮乃としてはそんな理由は聞いていないのは確かである。

 蓮乃は他人の音声を理解できない。だから正太が文字にしなかった言葉は当然判らない。以心伝心してしまっていることに甘えた正太のミスと言えるだろう。

 

 『なら聞け。「言わなきゃ判らん、聞かなきゃ判らん」っていつも言ってるだろ』

 

 『後半分は言ってなかった気がする』

 

 いつもの負けず嫌いが出たかと歪みかける表情を正太は根性で眉根に封じる。ここで大声出して糾弾すればますます意固地になるだけなのだ。それに思い返してみれば、蓮乃の言うとおり「聞かなきゃ判らん」とは言ってなかったような気もしないでもない。なら、まずは謝罪が必要だろう。

 内心の溜息を太い鼻息に代理させて正太は文字をノートに刻む。ひねて横を向いた蓮乃は目線だけをノートと相対させた。

 

 『そうだな、なら聞かなかったことについてどうこう言うのは筋違いだな。すまなかった』

 

 「ぬー」

 

 自分の言い分が認められたのだと蓮乃が文句を声に乗せて突きつける。兄ちゃんが謝ったから正しいのは私で、だから叱られる筋合いもない。しかし、正太は揺るがない。相応の理由があるから叱るのだ。保護者代理として無責任に甘やかすわけにはいかない。

 

 『だが、我が儘を通していいのか判らないことと、押し通していいことは別問題だ。例えば、俺がお前に聞かずに面倒くさくなったからと勝手に家に帰るようなもんだ。そうしていいのか?』

 

 「う~」

 

 蓮乃としてもそれは嫌だ。正太に帰ってもいいかと聞かれたら『NO!』と答えるだろう。聞かれずに帰られたらもっと嫌だ。立場を変えれば自分がお菓子買って欲しいと我が儘を押し通そうとしたことを、正太が嫌だと感じていたという事になる。

 私は兄ちゃんに嫌な思いをさせていたのだ。自分のやったことがいい加減判った蓮乃は、バツと居心地が悪そうに視線を床に泳がせる。その頭を上から掴んで無理矢理正面を向かせる。目前には端的で強い一文。

 

 『それで言うべき事は?』

 

 理解できたことは重要だ。それ無しでは叱ったのではなく怒鳴っただけと変わらない。しかしもう一つ必要な事がある。それ無くして叱責は終わらない。蓮乃はそれをノートに書いた。

 

 『……我が儘を無理矢理通そうとしてごめんなさい』

 

 ノートに謝罪を書いて頭を下げる蓮乃を見て正太は深く頷いた。これで蓮乃を叱る件に関しては事は済んだ。そしてこれからは別の件に関わらなければならない。まずは楽しい時間を邪魔してしまった友香に対する謝罪の件である。特にさっきは邪険にするような台詞をぶつけてしまった。その分も謝らなければならない。

 

 『よし、これでお仕舞い。そんで俺と一緒に氷川さんにも謝るぞ』

 

 『友香ちゃんに?』

 

 これは私と兄ちゃんの問題じゃないかと小首を傾げる蓮乃に正太は頷いてみせる。せっかく遊びに誘ってくれたのに、蓮乃の叱責で放り出した分の詫び入れをする必要がある。

 だが蓮乃からすればそれは正太が始めたことだ。私の責任じゃないじゃないとフグよろしくブスくれたくもなる。

 

 『それ、兄ちゃんが私を怒ったからじゃないの?』

 

 『そらそうだが、我が儘言ったお前をお咎めなしでよしとする訳にはいかんのだ。実際、言わなきゃ判んなかっただろ?』

 

 「……ん」

 

 俯き気味ではあるが確かに蓮乃が頷いたことを確認し、じゃあ行こうかと振り返った正太は凍り付いた。

 仮置き商品の向こうから、あるいはディスプレイ越しにこちらを見つめる幾つもの目。何が起きているのかと興味半分好奇心半分で何人もが凸凹な二人を観察している。人集りとまでは行かないものの随分な数とそれをかき分ける人の姿に、正太の額から脂汗が吹き出した。

 固まる正太を不思議そうに見つめる蓮乃。正太の視線を辿ってみればただ一人に固定されている。仮置きの商品を乗り越えるその人物は、『ラ・マンチャ』の文字とロバのイメージキャラクターを印刷したジャケットを羽織っている。間違いなくラ・マンチャの店員であろう。

 こちらを見つめる誰かしらが人を呼んだに違いない。正太のヤクザ者じみた面構えと蓮乃の整った顔立ちを考えれば、自動的に美少女(蓮乃)が犯罪者(正太)に襲われているという発想が浮かぶだろう。親子だという勘違いを追加するなら、DV父親とその被害者の娘になるのだろうか。

 

 「済みません、ちょっとよろしいですか?」

 

 「……はい、判りました」

 

 正太はひきつった顔で受け答えしながら、最悪な予感に胸の内で涙をこぼした。



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第三話、三人でお出かけの話(その六)

 ラ・マンチャから繁華街へと足を踏み出すと、燦々と注ぐ午後の日差しが出迎えた。初夏とはいえ午後の、それも夕方近くともなれば暑さはさほどでもなく寧ろ日差しが心地いい位だ。しかしそれとは正反対に正太は暗くて不快に疲れた顔をしている。顔の見栄えが不快なのは以前からだが、今日の外観は表情のおかげで通常の三割り引きになっている。

 

 「っはぁ~」

 

 何故かと言えば、正太が蓮乃を叱りつけた光景がDVか虐待かはたまた児童略取に見えたらしく、周囲のお客が店員を呼んでしまったのだ。なので事情を聞きにきた店員は初めから疑っており、説得に随分な時間がかかった。ついでに周囲からの視線は当然のごとく悉くが冷たく白かった。正太の側に立ってくれたのは当の蓮乃と友香だけだった。

 幸い第三者視点で冷静に見ていた友香がフォローに回ってくれたことと、被害者と目されていた蓮乃が『違う!』と全身全霊で反駁反論してくれたおかげで、最終的に店員は納得してくれた。保護者代理にくせに被保護者に庇われたのは余りに情けなかったが、とにかく一応は何とか終わったのだ。

 

 「なー……」

 

 「お疲れみたいですけど、大丈夫ですか?」

 

 「多少は疲れたかな。まあ、そうでもないよ」

 

 心配顔で見つめる年下二人に正太は男臭く笑って見せる。これ以上、保護者代理として格好の付かない姿を見せるわけには行かない。落ち込んだ気分を誤魔化すように正太は、全身を延ばして筋肉と気持ちの凝りを解していく。体調の不良は精神の不調なのだ。つまり体の調子を整えれば、自ずから心気も整う。実際、少々のストレッチで大分気が晴れた。

 

 体の筋を延ばして調子を取り戻した正太を見て、蓮乃の不安そうな顔も幾らか安らぐ。それに併せて友香もまた表情を和らげた。ただし心配の気持ちでいっぱいの蓮乃と異なり、友香の腹の底では心配以外にも様々な思考が回っている。特に大きいのは先ほどの店員と必死でやりとりする正太の姿だった。

 友香の目から見ても店員と相対している正太はとことん腰が低かった。子供を虐めるろくでなしの親だと一方的に決めつけられても怒る様子も見せず、必死かつ真摯な態度でそれを否定していた。先日友香が初めて蓮乃と顔を合わせた時、ピーノとの一触即発な態度とはまるで違う。もしかして、こちらの方が正太の本質なのだろうか。

 それでも正太は蓮乃相手には驚くほど強い態度で叱っていた。それも周りが思いこんでいたような一方的な怒鳴り散らしの感情論ではない。道理と正論と共感に基づく丁寧な説得だった。思い返してみればピーノの時は『蓮乃の意見が無視された』のが正太を怒らせる一番の要因だった気がする。それらをまとめれば、正太の本音が見えてくる。

 

 --つまり、お兄さんはそれだけ蓮乃ちゃんを大事にしているんだ

 

 なにやらノートで会話している二人の様子を見ながら、友香はそう結論づけた。保護者代理であるが故かは知らないが、正太にとって蓮乃はとにかく大切な人間なのだ。それも単に保護して甘やかす対象なのではなく、責任感を持って面倒を見るべき相手だ。親と間違えられるのも道理だろう。

 ぼんやりと二人を見る友香は、蓮乃の隣に自分の幻影を見た。不意に二人と笑い合っている自分を想像しかけ、友香は笑顔を歪めて首を振る。茜色のお下げが遅れて宙を舞った。違う。そうじゃない。蓮乃ちゃんとお兄さんの二人を使って私は『あいつ』から自由になるんだ。二人とはそれで終わり。それでいいんだ。

 

 「みんな疲れただろうし、余計なことで時間食っちまったから、なんか甘いものでも食べるかい?」

 

 腰を反らして背筋を伸ばしていた正太は、友香の方へ振り返り呼びかける。当然、友香の浮かべていた表情に気づく様子はない。表情を整え直した友香は歪んだ表情を読みとられてないことに内心で安堵の息を吐く。

 正太の発言を読んだ蓮乃は全力で片手を突き上げて大賛成を示した。頷きながら大喜びで飛び跳ねる姿は、友香の変化を察する処か正太への心配すら吹き飛んでいるように見える。見えるだけでちゃんと心配はしているのだろうが、余りの喜びっぷりに嫌みの一言でも言いたくなる正太だった。

 

 「なーっ!」

 

 「そうですね。でも今度は自分の分は自分で払いますから」

 

 一方の友香もあっさりと賛成するが、自分の分は自分で払うと先んじて釘を刺した。貸しを作りすぎると後々の操縦に困る。内容如何では断る理由にされかねない。これ以上、善意を受ける訳には行かない。だからちゃんと自分で払う。これはそのためなのだ。

 友香の胸中の声を聞くのは友香以外にはいない。その友香が気付かなかった以上、理由を言い聞かせるような声音を知るものもいなかった。

 

 「あの店にしようか」

 

 「なうっ!」

 

 「ですね」

 

 二人の返答によし判ったと頷いて正太は、『スイム・ブリーム』と看板を出した手近な鯛焼き店に足を向けた。友香の申し出から心中を読み解くような特技は正太にないし、勝手に他人の心情を想像しないのが正太の信条だ。だから財布の中身が結構厳しいから、情けないけどそういって貰えるとありがたい。それ以上は考えない。

 栄養強化小麦粉の焼ける香ばしい臭いと、小豆餡にクリーム餡と中身が醸し出す甘い香りが店を包んでいる。足を進める度に臭いは一段と強まり口の中に唾がわく。

 

 「すみません、鯛焼き三つください」

 

 「何にします?」

 

 さて何にしようか。正太は顎に手を当てメニューに視線を走らせる。オーソドックスに漉しあんか粒あんか。あるいはちょっと邪道にカスタードや大豆クリーム餡もいい。いっそ軽食を兼ねてハムチーズや高菜ってのも面白そうだ。しかし問題は値段だ。変わり種は基本的にお値段高めなのだ。やっぱりここは一番安くて正当派の漉しあんにするべきか。

 

 「なーもっ!」

 

 財布の中身と相談しながら考える正太より早く、身を乗り出して蓮乃がメニューのカスタードクリーム鯛焼きを指さした。いつも通りに自由人な蓮乃に正太は皮肉を込めて頭痛が痛そうな表情を向ける。だが、脳味噌が快晴な日本晴れ娘には何ら効果がないようだ。抜けるような青空の笑顔を返されて、正太の口からでるのは苦甘いため息一つだけだ。

 

 「カスタード一つと漉し餡一つお願いします。氷川さんは何がいい?」

 

 「えっとチーズ風クリームで」

 

 「毎度ーっ!」

 

 正太が二人分を友香が自分の分を支払うと、店員は慣れた手つきでタネを鯛焼き型に流し込んだ。表面が固まるが早いか、手早く中身を放り込み型を閉じる。熟練の技か型からタネのはみ出しは全くない。出てくるのは胃袋と鼻腔を刺激する香ばしく甘い香りだけだ。

 

 「はい、漉し餡とカスタードとチーズ風クリーム。熱いから注意してね」

 

 「どーも」

 

 軽い礼と共に代表代わりの正太が紙袋を受け取る。紙袋に印字されたロゴは随分と凝ったもので、海草と岩に見立てた屋号の隙間を鯛焼きが軽快に泳ぐ図案だった。水中で鯛焼きは崩れないのか、そもそも泳げるのかとどうでもいいことを考えつつ、正太はそれぞれに紙包みの鯛焼きを手渡していく。

 

 「はい、チーズ風クリームね。そんでほい、カスタード」

 

 「ありがとうございます」

 

 「まっ!」

 

 最後に残った漉し餡の鯛焼きを行儀悪く口に啣えて、正太は包み紙を剥がした。剥がした包み紙は紙袋に突っ込み、後で一纏めに捨てる予定だ。ポイ捨ての害については、父の小言で耳に胼胝ができてそこから蛸が生まれる位には理解させられている。あれは二度三度と経験したい記憶ではない。説教のされすぎで文字通りに耳が痛くなるのだ。

 

 「んっ!」

 

 「あいよ」

 

 ゴミを纏める正太の振り見て我が振り直したのか、蓮乃が自分の鯛焼きの包み紙を差し出した。ただし口に鯛焼きを啣える行儀の悪い部分まで真似するのは如何なものか。まあ、やった自分が言える文句でもないと正太は何も言わずにゴミを受け取り紙袋に放り込んだ。

 

 「んふー」

 

 そして何やらしたり顔で頷く蓮乃を無視し、正太は友香からも包みを受け取り紙袋に入れる。後はこれを有機分解ゴミ箱に投げ入れれば終わりだ。それまで手荷物もなんだしと紙袋はポケットに突っ込み、啣えっぱなしでふやけ始めた鯛焼きを齧った。和菓子特有の砂糖をどっぷり使用した重みある甘味が下にのし掛かる。実にずっしりと甘い。こればかっかり食ってたらきっと体重もずっしりだろう。

 下らない冗句を餡子と一緒に舌の上で転がしていると、正太は不意にじぃっとでも表現できそうな視線を感じとった。視線の先は今味わっている漉し餡の鯛焼き、そして視線の出所は並んで歩く頭一つ分小さい娘っ子だ。鯛焼きを二度焼きしそうな熱視線を蓮乃が正太の食いかけめがけて集中砲火している。どうやら隣の花は赤くて芝生は青くて鯛焼きは旨いらしい。どーしたもんか。

 

 「ほれ」

 

 『ありがとう!』

 

 自分の金で買ったデザートだし多少は大目に見てやろう。鯛焼きより格段に甘いと妹に言われそうな思考の元、正太は鯛焼きの尻尾をちぎって蓮乃へ渡した。ここの鯛焼きは尻尾の先まで中身が詰まっているのが特徴のようだ。受け取る蓮乃は全身でお辞儀をして尻尾を口に入れた。頭を大きく上下させて黒髪が流れる姿は、水飲み鳥になりがちな母である睦美とよく似ていた。

 性格は正反対だけどやっぱり親子だな。やくたいもない感想を浮かべながら、正太は鯛焼きの頭をかじる。やっぱり重量級に甘い。いい加減口中から甘い以外の感覚が失せてきた。ここらで一杯の茶が怖い。苦味を求めて無意識に周囲へと正太は視線を動かす。その眼前に鯛焼きの尻尾が突き出された。

 

 「なーも!」

 

 「どーも」

 

 差出人はやっぱり蓮乃だった。正太から貰った分のお返しだろうか、カスタードの詰まった尻尾を蓮乃が食べろと手渡した。拒否する理由もないので有り難く貰って口に入れる。漉し餡の滑らかでどっしりとした甘味とは違う、カスタードの油性でねっとりとした甘味が舌に広がる。これはこれで旨い。しかしやっぱり茶が怖い。いい加減苦味か酸味か塩味が欲しい。

 口中を塗りつぶした甘みに本気で困ってきた正太の横で、蓮乃はカスタード鯛焼きの頭を半分もぎ取った。脳味噌の代わりに溢れるクリームをこぼしそうになりながらも、何とか地面に落とさずに溢れた分を分離した鯛焼きでからめ取とる。そして何を考えたのか、カスタードをまぶした鯛焼きの頭半分を友香に差し出した。

 

 『お裾分けとさっきのお詫び!』

 

 「ええっと、ありがとね。あとお詫びって?」

 

 とりあえずと鯛焼き二割五分を受け取りながらも、頭上に疑問符を浮かべた友香は意味を理解できてない。その顔に浮かぶ表情も困惑と愛想笑いをごちゃ混ぜにした具体だ。蓮乃の説明文でも理解にはほど遠い。

 

 「さっき俺が蓮乃を叱って空気悪くしちゃったから、そのお詫びだよ。あと、俺もそのことちゃんと謝っていなかったな。済みませんでした」

 

 「い、いえ。別に気にしてませんから……」

 

 だから事情を理解している正太が詳細を言葉にし、ついでに深く腰を曲げて謝罪した。そもそも店員の誤解解いたりなんだりで、ちゃんと氷川さんに謝っていなかった。詫びだの何だの言い始めたのは自分なのだから、今更だが自分も頭を下げるべきなのだ。

 しかし下げられた側の友香は、話を理解はできたものの先以上の混乱に表情を歪めている。言葉の通り、実際に気にも留めていなかったのだ。それなのにこうも大仰に謝られると納得より当惑が先に来る。

 

 --蓮乃ちゃんもお兄さんも、生真面目って言うかバカ真面目って言うか……なんか調子狂うなぁ

 

 適度に距離をとって相手を適当に処理する友香にとっては、一直線に突き進む二人のノリはどうにも苦手だった。真っ直ぐ一本槍に距離を詰められて、ついつい自分のペースを突き崩されてしまう。思わず笑顔を作り忘れて、疲れた息を漏らすくらいだ。

 幸い正太も蓮乃も鯛焼きの味に集中しているようで、友香のお疲れな表情に目を向けることはなかった。正しくは鯛焼きを食べるのに夢中なのは蓮乃一人で正太は別件に頭を悩ましているのだが、友香の顔色に気づかない点に特に違いはない。

 

 それぞれがそれぞれの事情で頭が一杯一杯な中、いつしか喧噪は背景音に変わり沈黙が三人を包んでいた。



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第三話、三人でお出かけの話(その七)

通りの喧噪をBGMに三人は駅に向かって並んで歩いていく。全員が物を口にしているせいか互いに交わす言葉はない。無言が三人の合間を満たしている。そしてその黙りこそが、正太が頭を抱える悩みの種である。

 

 詰まる処、何を話して良いのかさっぱり判らないのだ。

 

 以前の虐め以降、正太は一言でコミュ障である。長い付き合いの家族や何のかんのいってノリの判る蓮乃ならば兎も角、初対面に近い友香相手だと無駄に神経を使って固まってしまう。それでも相手が子供のためか、今はそこそこ滑らかに口が動いてくれている。

 だが、誰もが口を閉じている現状では話が別だ。黙りこくっているからと言って何か悪いわけでもないが、静寂を共有できるほど正太はコミュニケーション能力が高くない。むしろ低い。

 沈黙の重さに耐えきれない正太は脳味噌をこねくり回してウンウン悩む。しかして経験値が決定的に不足しているために上手いこと雑談をする方法が何も思い浮かばない。一体全体どーしたもんか。

 

 --とりあえず蓮乃に振るか

 

 足りない頭の中身をひっくり返して出てきた案は、とりあえずビールの代わりに蓮乃で話題づくりという実に情けない代物だった。そして情けない以外にも問題が一つある。当の蓮乃が何処にも見あたらないのだ。蓮乃に声をかけて話の起点にしようとしても、居ない人間から話を初めてもらえるはずもない。

 あの無重力自由飛行娘は一体全体何処に行きやがった。無言を堪えきれない自分を棚に上げて、苛ついた目つきの正太は辺りを見渡す。妹分はあっさり見つかった。何やらざわつく人だかりに見覚えのある長い黒髪がへばりついている。看板から見るに人だかりの中心は楽器屋の入り口らしい。楽器屋で人だかりと来れば音楽関連と相場は決まっている。

 事実、耳をそばだててみれば思わずリズミを取りそうな軽妙なサックスが聞こえる。どうやら蓮乃はこのサキソフォンに興味津々のようだ。誰かしらのプロが奏でているのだろうか。

 

 楽しむのは良いとして、氷川さんを置いていくなと言ったはずだろうに。友香に待っていてくれと告げて、溜息一つこぼしながら正太は演奏に夢中の蓮乃を突っついた。誰がつついたと疑問半分、今良いとこなのにと不満半分で振り返る蓮乃の前にメモを一枚突きつける。

 

 『氷川さんをほっといて何やってんだ、お前?』

 

 そう言えばそうだった、うっかりしていた、友香ちゃんに悪いことした。メモを読んでびっくり顔から納得顔で反省顔と百面相を演じる蓮乃。表情を見てようやく判ったかと太い鼻息を吹き出す正太。

 

 そんな二人のやりとりを友香は何とも言い難い目つきで見つめている。表情は笑顔だが目付き一つで笑っていないことは丸わかりだ。残りの鯛焼きを口に放り込むとチーズのような風味が広がった。もっとも本物のチーズを食べた記憶は友香にはないが。

 

 --蓮乃ちゃんはずるいなぁ

 

 第三者な友香の目から見ても、蓮乃は思うがままに我が儘に動き回っている。正太に誉めて欲しいとの欲求はあるが、だからといってそのために必死に努力している訳でもない。一応、言われたことはちゃんと聞くがその程度だ。

 なのに蓮乃は皆に好かれる。天真爛漫と天衣無縫を体言した蓮乃を嫌う人はいない。馬鹿みたいに楽しそうな蓮乃と比べると、頑張って演技して笑顔を作る自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 

 『もうちょっとだけ、ダメ?』

 

 『そういう問題じゃない。俺がお前をほっぽりだして勝手してたら嬉しいか?』

 

 夕日色した髪を弄びつつ考え込む友香を余所に二人の話は続いている。予想外の蓮乃の行動で正太の予想通りに話題ができたがてんで嬉しくない。一緒に遊ぼうと呼んだ相手を放置している点が問題なのだ。妹分の我が儘っぷりに正太の胃袋が重くなる。

 それでも例を挙げてみれば、蓮乃はぶぅと膨れた頬で頷いて見せた。頭では判っているが、感情が納得していないのだろう。なら感覚でも理解できる水準で得心いくまで説明するしかない。疲れた顔の正太は長い息を吐き、お説教を兼ねた説明に取りかかろうとした。

 

 普通ならきっちり説明すれば蓮乃は判ってくれる。手間と時間は食うがそれで終わりだった。だが、それは常の蓮乃の話だ。今日の蓮乃は初めての友達とお出かけで思考回路もいつも異常もとい、いつも以上に特別仕様な繋がり方をしている。

 

 --兄ちゃんの言うとおりそれは嬉しくない。でも音楽は聴きたい。どーしたもんだろ

 

 言いたいことは判った。だがこっちにもやりたいことがある。具体的に言うとこの音楽を聴きたいのだ。どーしたものかと首を捻ってひたすら考える。そして蓮乃は自分の欲求と周りの望みを天秤に掛けて……全部まとめて放り出した。

 

 「なーっ! もーっ!」

 

 「ちょっと待てぇ!」

 

 「ちょっとちょっと蓮乃ちゃん!」

 

 みんな一緒に聞けばみんな楽しいはずだと、ニ択問題で第三案をぶち上げて見せた蓮乃は二人の手を握ると途端に駆けだした。唯我独「走」な勢いで二人の手を引っ張って行く先は、当然人だかりの中心で音楽の出所に他ならない。ただし、人だかりというのだからそこには大量に人が集まっている。

 年の割にも細すぎやしないかと正太が心配するくらいに細い蓮乃は、するすると人だかりの隙間に滑り込む。さほど蓮乃と変わらない体型の友香もそれに続いて人と人との合間に体をねじ込んでみせる。しかし背丈の小ささは兎も角、蓮乃二人分並の横幅がある正太が通り抜けられるはずもなかった。

 

 「ぶつかってすみません。家の娘がすみません。ほんとすみません」

 

 --あんのジャイロ未搭載固体ロケット娘が!

 

 最外周のお人に思いっきりぶつかって、迷惑とかかれた目を叩きつけられた正太は引っかかった大人にひたすら頭を下げる。水飲み鳥を繰り返しながら正太はあいつは後で泣くまで説教してやると腹の底で恨み節を唄っていた。

 米搗きバッタな正太を取り残して蓮乃と友香が大人たちをくぐり抜けてみれば、堂々とした女性演奏家がアルトサックスを響かせていた。蜘蛛糸繊維のビロードが敷かれたお立ち台の上で奏でられるジャズソングを蓮乃も友香も知らない。しかしスタンダードナンバーは演奏家を変えて世界中で何度となく演奏されるものだ。蓮乃でもそのメロディーとリズムは知っている。

 

 「~~~♪~~~~~~♪~~~♪」

 

 だから当然と蓮乃は歌い出した。蓮乃に他人の目を気にするという発想はない。そして他人の迷惑という発想は非常によく頭からすっぽ抜ける。楽しそうな音楽が奏でられていて、それが自分も知っている曲で、何だか自分も楽しくなった。それだけで蓮乃が歌い出すには十分な理由なのだ。

 サキソフォンの奏者は飛び入り参加の歌声に強く驚いた表情を浮かべた。単に子供が歌っているだけなら少しばかり顔を綻ばせて終わりだったろう。しかし蓮乃は歌声が天使じみて大変によろしく、その上リズム感までメトロノーム級に非常によろしく、ついでに外観が人形めいてとてもよろしい。一切生かす気はないといえ、プロのアーティストでも驚く才能の固まりなのだ。

 それは場を盛り上げるにももってこいの人材でもある。エンターティナーでもある演奏家は即座にアドリブを聞かせて蓮乃を伴奏に仕立て上げた。サックスと合わせて耳に心地よい透明なソプラノが響きわたる。

 それは二人に遅れてチョップで人だかりをかき分ける正太の耳にも届いた。チョップ連打の速度を急加速して、視線の温度を急低下させながらも遂に正太は中心にたどり着いた。そして全部を見渡した正太は無言で空を仰いだ。

 

 --あいつは何にも考えてねぇ、俺は何にも考えたくねぇ

 

 目に入るのはお立ち台の真ん前に飛び出して、ステップを踏んで手拍子取りながら心地よさそうに音楽を奏でる蓮乃の姿。華やかで透き通った歌声を空と同じ快晴の笑みを浮かべて体中で歌い上げている。とびっきりの美少女が耳に快い美麗な歌声で、満面の笑顔と共に歌い上げているからか、嫌がる人も迷惑がる人も一人もいない。

 それどころか色々計算していたはずの友香ですら、人種レベルで白い肌を興奮で紅潮させて曲を口ずさんでいる。拍子を取って両手を叩く姿は、蓮乃と同年代であることはよくわかる。

 

 友香の内面を知らない正太ではあるが彼女が蓮乃と比べて格段に大人なことは理解している。だから、暴走したときは蓮乃のブレーキとして機能してくれることを内心期待していた。

 だが、今の彼女はアクセルベタ踏みで加速する一方だ。事態の大きさにもう怒ってどうにかなる状態じゃないと確信した正太は、もう今は楽しむしかないとヤケクソの気分で音楽の輪に加わった。

 

 

 

 

 

 --太陽は何であんなに赤いんだろう

 

 現実逃避と何も変わらない思考を暮れる夕空にたれ流し、疲れ切った正太は街灯に背を預けた。精神的な疲労困憊で死にそうな正太とは裏腹に、蓮乃は薄紅に色づいた頬を興奮で上気させている。そんないつも以上に躁状態な蓮乃とお疲れで鬱気味な正太に対して、友香は平時と変わらぬ笑顔を保っている。ただしまとう雰囲気は常のフラットな空気から遠く外れ、重苦しく難しい印象となっている。

 

 蓮乃が乱入したライブショーの後、正太は正月の餅つき大会を超える速度で楽器屋や奏者の方に謝り倒し、興奮冷めやらぬ蓮乃を引きずって帰路に着いたのだ。その際、飛び入り参加の蓮乃と保護者の正太を関係者が引き留めようとしたのだが、これ以上の面倒はごめん被ると正太は上下運動連打で逃げ出している。

 後から考えてみればしっかりと事情聞いてお叱り受けて謝罪した方が良かった気が多々するがもう終わったことは仕方ない。そう思おう。今から誤りに行くのはさすがに辛い。でも後で家に連絡きたらどうしよう。だけど名前や連絡先は告げてないし大丈夫。多分、きっと、そう思う。

 

 荒い呼吸が整う頃にはいい加減現実逃避と自己欺瞞の言い訳もやり終えて、正太も周囲に目をやれるくらいの余裕は出てくる。角度を落とした太陽が示すように、「となりまち公園図書館前広場」の時計は夕方の時間帯を指している。太陽は光量を落としたオレンジに変わり、まだ日は明るいが影は随分と伸びている。子供達の姿もここに集合した昼時よりも随分と少ない。

 

 「腹減ったなー」

 

 ボールを抱えて公園の出口へと歩く少年たちから風に乗って声が届いた。正太は思わずふくよかと言うにしては太い腹周りに手を当てる。飯を腹一杯食って甘いものも口にしたが、あれだけ疲れると何かしら欲しくなる。具体的には水分と休憩が欲しい。疲れた。すごく疲れた。とても疲れた。帰って飯食ってさっさと寝たい。

 その原因はと正太が視線を向けた先の蓮乃は、温度の高い鼻息を繰り返し吹きだし引っ張り出したノートになにやらガシガシと書き込んでいる。多分、睦美さんと帰ってから話すことを先んじて書いているのだろう。文字を綴る顔にも「楽しかった!」と巨大な文字が綴られている。実際、蓮乃はすごく楽しかったしとても楽しかった。帰ってご飯食べてお母さんと沢山お話ししたい気分で一杯だ。

 

 残る友香は笑顔を解いて酷く複雑な表情を夕日に向けている。今日は色々収穫があった。特にお兄さんの魔法は探し続けていたものに限りなく近い。上手くいけば、お兄さんを盾にしつつ『あいつ』に蓮乃ちゃんを押しつけられる。そう、蓮乃ちゃんに『あいつ』を押しつける訳で……

 

 --私、何考えてんだろ。

 

 夕日より濃い色のお下げを握りしめ、青い瞳でオレンジの空を睨みつける。初めからそのつもりだったのだ。何を後悔しているのか。それとも蓮乃ちゃんを慮って『あいつ』の好きにされた方がいいと?

 それが嫌だから『あいつ』の好き勝手を防ぐ手段と、『あいつ』の身勝手の身代わりになる相手を探し続けたのだ。それが手に入った今、下らないマリッジブルー擬きに煩っている暇はない。いい子を演じれば大抵は騙せる。後は実行あるのみ。

 

 三者三様の表情を浮かべつつ、三人は思い思いの動きをする。とにかく疲れた正太はラジオ体操めいたストレッチを始めて全身を解す。友香は青から紺に色を変えた空へと視線を上げ、堅い顔で覚悟を確認するように静かに頷く。蓮乃は先から変わらず楽しかった記憶を勢いに任せてノートに書き写し続ける。

 大体伝えたいことを走り書きと落書きにし終えたのか、筋を延ばす正太に併せて蓮乃も延び始めた。両手が伸びるのが気持ちいい。正太の野太い低音と蓮乃の清廉な高音が不協のようで不協でない和音を響かせる。

 

 「おぉぉぉ~~~ふぅ」

 

 「もぉぉぉ~~~ふー」

 

 周囲に人がいれば息を抜くタイミングまで一緒の二人を見て、柔らかい笑いを大いにこぼすだろう。こんなんやっているから周囲の注目を浴びて恥ずかしい思いをすることになるのだが、蓮乃はもとより正太もびたいち理解していない。

 意識していないシンクロストレッチを終えて周囲に目が向いたのか、友香の様子に気づいた蓮乃は声を投げかけた。随分と難しい表情をしている友香は、蓮乃からは正太同様に酷く疲れているように見えたのだ。

 

 「なーも?」

 

 『大丈夫? 疲れたの?』

 

 不意に蓮乃から突き出されたノートとその表情を見て、ようやく友香は自分がしていた表情の色合いに気がついた。ニコニコ笑顔を浮かべてさえいればそれで納得してくれる扱いやすい相手とはいえ、笑み一つ浮かべられないなら当然不審に思うだろう。本当に疲れているのかもしれない。今日は早めに寝よう。

 

 『大丈夫、ちょっと考え事してただけ』

 

 出来る限り優しげで平時の平気な微笑みを形作る。柔和を表情にしたような笑顔に多少安心できたのか、心配げな蓮乃の表情も幾らか緩んだ。二人の様子はストレッチング体操を終えた正太にも見えた。

 改めて時計を見ればもう五時を過ぎている。もう夕方で、いい加減日も暮れる。蓮乃のエンジンはまだフルスロットルのようだが、自分も氷川さんも燃料切れだ。今日はここらで仕舞いと結論づけた正太は、友香に本日の終わりを告げた。

 

 「氷川さん、今日は一日お疲れさま……じゃなくて楽しめたよ。蓮乃を誘ってくれてありがとう」

 

 「どういたしまして。私もすごく有意義で、すごく楽しめました」

 

 口にした言葉は社交辞令じみていたが、間違いなく友香の本音でもあった。『あいつ』への対抗手段が見つかったのは大きな意義があった。もし蓮乃ちゃんが『あいつ』並のロクデナシだったとしても、休日半日を使ってお釣りがくる言い切れるくらいだ。それに少々不本意ではあるが楽しめたのも事実だ。

 

 『今日はここまで。氷川さんとさよならして、そろそろ家に帰るか』

 

 「んっ!」

 

 これでお開きとの正太の言葉に、蓮乃は上半身全部で頷くと何やら刻んだノートを友香に差し出す。そして、そのまま受け取ろうとした友香の手を握りしめ大波小波とブンブン振り回し始めた。

 

 「なーもーうっ!」

 

 「うん、楽しかったね!」

 

 初めてなら大いに驚くところだが、先日やられたばっかりなので友香も笑面を崩さず冷静に対応している。その光景を苦笑気味に眺めていた正太だが、横合いから目に入ったノートの文面に頭痛が痛そうにげんなりと表情を崩した。

 

 『友香ちゃん、今日はすっごく楽しかった! また明日会おうね!』

 

 --いや、明日は遊ばないから。睦美さんその話聞いてないから。つーか俺疲れているから。

 

 蓮乃が遊びに行く時には、「母である睦美から許可を得て」「正太も遊びに同行する」という取り決めがされている。明日遊ぶ約束をされても睦美の許可はまだ得ていない。それに正太は今日半日頑張ったのだ。明日一日休ませてもらってもいいじゃない。

 これ見よがしにため息をついた正太は、いつまでも握手を振り回していそうな蓮乃の肩をつついて親指で時計を示した。もう時間である。時計の文字盤と正太の顔を見て、蓮乃は大きく頷くと細くて白い手を振り回すのを取りやめた。その間に友香もささっとノートに一文を書いて蓮乃へ手渡す。

 

 『蓮乃ちゃん、明日は無理だけどまた今度会おうね!』

 

 「ぅんっ!」

 

 全力の笑顔を浮かべた蓮乃は全身を使って頷いた。年に見合わぬ文章を読む正太は、まっことよくできた子と子供全開な蓮乃と比べそうになる。他人は他人で余所は余所と口の中で繰り返して、正太は二人を脳内の天秤から心の棚に並べ直した。

 何とか心の平衡を取り戻した正太は、当の蓮乃が差し出した手を握った。小さく細く指が無駄に太くて短い自分のそれに引っかかる。蓮乃の体温が高いのか指先だけでも熱く感じる。

 

 「改めて今日はありがとう。それじゃ、さようなら」

 

 「まーのっ!」

 

 「本当に今日は楽しかったです。蓮乃ちゃん」

 

 手を振る友香へと別れの挨拶を交わして正太と蓮乃は帰路へと付いた。公園の入り口を過ぎてからも、名残惜しいのか蓮乃は何度となく振り返っては繋いでいない方の手を振る。落ちる太陽よりも明るい笑顔を浮かべて犬の尻尾よろしく全力で振り回す。余りにも勢いよくぶん回すので、思わず正太はすっぽ抜けて飛んでいかないかと杞憂を回しかける程だった。

 

 「なーもーっ!」

 

 「じゃーねーっ!」

 

 友香も満面の笑顔を浮かべ大きく手を振って応える。それは互いの姿が視界から外れるまで続いた。二人の姿が見えなくなり友香は腕が痺れるほど振った手を下ろした。

 腕を下ろすにあわせて浮かべていた笑顔は揮発し暗い能面だけが顔に残る。オレンジに満ちる世界の中、茜の髪は夕日にとけ込み白い肌は橙色に塗りつぶされる。瞳だけが空と同じ青より暗い色を帯びてくっきりと浮かび上がった。その視線は紺に染まる空ではなく、黒紅色に照らされた地面に張り付いていた。

 友香は色のない顔でじっと足下を見つめる。徐々に太陽由来の暖色は失われて、青い夜の感触が広場を上書きしていく。不意に友香は口を開いた。

 

 「……蓮乃ちゃんには友達ができる。何かあったらお兄さんが動く。それでいい、それでいいじゃない。全部今更よ」

 

 誰に言い聞かせているのも判らないほど小さく呟き、友香もまた薄暗い宵の口を歩き出した。既に太陽は空の何処にもなく、西の果てに僅かな名残が残るだけだった。

 

 

終わり



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第四話、二人が友達の家に行く話(その一)

 足を止めた”宇城 正太”は長い息を吐き、ごつい額に滲んだ汗を拭った。隣に並んだ”向井 蓮乃”も息を弾ませ、小さな肩を上下させている。

 厚徳園に呼んだ”氷川 友香”からは命徳山という小高い丘の頂上と聞いていたから、ちょっとした坂を上ればすぐ着くものだと思っていた。

 しかし鬱蒼とした雑木林を抜ける九十九折りの坂は、上れども上れども一向に終わる様子はない。毎日こんな坂を上り下りしているのだと思うと、厚徳園の住人達に尊敬の念が浮かんでくる。

 

 「ぬぅぅぅっ」

 

 腰を伸ばして背を反らすと変な声が出てくる。想像外に長い坂道に、足すことの両手荷物で足腰が凝った気分だ。行けども行けども頂上が見えないお陰で徒労感がすごい。

 

 「ぬぅ~~っ!」

 

 正太の真似してそっくり返って腕を振り回す蓮乃も似たような変な声を上げている。こっちは始めて見る雑木林の光景に興奮気味だったから、荒い息ははしゃぎすぎに違いない。

 正太にとっては蓮乃の心と体の疲れより、天敵並に嫌っている二人の方が心配だ。今日は蓮乃の友達である友香から厚徳園にお呼ばれしたわけだが、同じ厚徳園に蛇蝎の如き連中が居るのだ。

 

 質の悪い悪戯とサブイボが立つ格好付けで蓮乃にアプローチをしてくる”利辺 翔”、面白半分兄貴風半分で利辺を後押しする”ピーノ・ボナ”。

 蓮乃は両方に『大嫌い』と思い切りぶつけてやったのだが、利辺こそ一刀両断したものの諦める様子はなかった。ピーノに至っては堪えてすらない始末。

 友香が大丈夫と約束してくれたが、正太はどうしても疑念が拭えない。

 

 その隣で蓮乃もまた微妙な顔をしている。

 友香ちゃんにお呼ばれしたのはすごく嬉しいけど、やなやつらに会うとなると気分が落ち込む。本当に会わずに済むんだろうか。またちょっかい掛けられないだろうか。

 

 「ほれ、下向くな。氷川さんに心配されるぞ?」

 

 「ほなっ!?」

 

 沈み始めた蓮乃の後頭部を正太の平手が軽く叩いた。意識外の一撃に驚いた蓮乃は思わずたたらを踏んで大きくふらつく。幸い正太の助力もあり何とか体勢を整えてほっと一息。

 そのまま吐いた息を吸い込む様に頬を膨らませると、蓮乃はばつ悪げに顎の下を掻く正太に会話用ノートを突きつけた。

 

 『なにするの!?』

 

 『すまんすまん』

 

 蓮乃は障害故に音声のやりとりができないのだ。正太は愛想笑いに片手合掌で軽く謝るが、ふくれっ面の蓮乃はまだご機嫌が斜めっている。

 

 「むー」

 

 『すまんかった』

 

 「ふー」

 

 頭を下げて陳謝した正太の面を見て蓮乃はようやく立てた腹を横にした。ちょっかい掛けた甲斐はあったようで蓮乃の表情から暗い色が薄れた。

 代わりにこちらを見る目に呆れの色が見える気もしたが、正太は空元気も元気のうちと自分を納得させた。

 

 『それで……おお!」

 

 「なー!」

 

 お喋りしながら年季の入った大樹を回ると、不意打ちで重厚な正門が姿を見せた。思わず声を漏らす二人。かつて命徳寺の山門だった入り口の横には、達筆な筆文字で『厚徳園』の縦看板が掛けられている。

 

 「蓮乃ちゃん! お兄さん! こっちですよー!」

 

 児童養護施設にしては非常に厳つい入口に驚く二人に子供特有の甲高い声が届いた。自分達を呼ぶ声の主は縦看板の下で大きく片手を振っている。

 三つ編みに束ねた茜色の髪を踊らせて、色素のない腕を回すその人こそ、二人を呼んだ”氷川 友香”に他ならない。

 

 「なーもーっ!」

 

 「こんにちは!」

 

 さっきまでの心配はどこへやったのか、友達を見つけてテンション急上昇の蓮乃が駆け寄る。

 頭上で腕をぶん回す蓮乃の後頭部を眺める正太はお土産のスコーンを自分が持っていることを感謝した。折角持ってきた物を人に食わせる前に土に食わせるのは御免被る。

 ちゃんと両手の中にスコーン入りの紙袋があることを確認し、正太は猪盲突進な蓮乃の後に続いた。

 

 『今日は来てくれてどうもありがとう!』

 

 『どういたしまして!』

 

 --そこはまず呼んでくれてありがとうじゃないのか?

 

 友香のお礼に元気よく答える蓮乃は小鼻を自慢げにぷっくりと膨らませる。実に蓮乃らしい反応に甘苦い呆れの笑みが正太のごつい顔に浮かぶ。

 友香は正太に向き直ると碧眼を細めて礼儀正しく頭を下げた。今時、サラリーマンでもなければ見ないだろう斜め四五度の綺麗なお辞儀だ。

 

 「お兄さんも今日は来て頂きましてありがとうございます」

 

 「どーも、こちらこそ呼んでくれてありがとう。そこまで畏まらないでいいよ」

 

 「なーも、なーも」

 

 口ではそう言いながらも反射的に会釈を返すのは日本人の遺伝子故か。日本社会的条件反射かそれとも単なる正太の真似っこか、正太の横で蓮乃もぺこりと目礼する。

 

「いえいえ、こちらこそ」

 

 日本民族のDNAを持ち合わせていないとはいえ、お辞儀に返されたお辞儀をさらにお辞儀で返すあたり友香もきっちり日本人である。

 

 「じゃあそろそろ行きましょうか」

 

 「そうしますか」

 

 「なうっ! なーっ!」

 

 正門をくぐる友香に続いて二人も元山門を通り抜ける。初めて友達の家に入る蓮乃は、やなやつ二人の事など綺麗さっぱり忘れて興奮しっぱなし。何から何まで興味深いのか泳ぎ回る目もそぞろだ。

 一方、天敵二人の事を忘れられない正太は警戒を怠ることはない。友香や蓮乃から視線を外す度に、目つきは野生の鋭さを帯びる。

 

 --二人には一応釘を刺したけど今のお兄さんだと過剰反応しそうね。

 

 対称的な二人を眺めながら友香は人の良い笑顔の下で冷静に算じる。利辺とピーノがやらかして二人が帰ってしまったら全てがおじゃんだ。

 だから厚徳園の兄弟が余計なことをしないよう、先手を打って友香は言葉の五寸釘を刺しに刺した。しかし二人絡みだと利辺の知性が劇的に低下する傾向がある。

 兄弟がバカをした場合、二人が厚徳園から足が遠のかないようフォローを入れなければ。ああ面倒くさい。

 

 --皆が私の思い通りに動けばいいのに。

 

 ふと浮かんだ言葉に友香は胸の内で盛大に顔をしかめた。これではまるで『あいつ』と変わらない。怪物から逃れるために怪物になってどうする。

 

 「なーも?」

 

 「どうかしたかい?」

 

 「あ、いえいえ。ちょっと思い出しただけです。それより行きましょう」

 

 そんな胸中が顔に出ていたのか、蓮乃と正太が心配顔でのぞき込む。ほつれた表情をすぐさま笑顔で取り繕うと、友香は中へ中へと二人を促した。

 『あいつ』に共感するなんて反吐が出そうだ。パッチに張り付けた微笑みの下で苦い感情を胸の内で噛み殺しながら。

 

 

 

 

 

 

 大きな扉を抜けてみればそこは学校のグラウンドだった。トンネルを抜けた先の雪国ほどではないが、鬱蒼と生い茂る雑木林の奥に学園的な建物が表れるのは中々にインパクトがある。

 

 「ほーっ!」

 

 「ほー」

 

 友香にとっては見慣れたいつも通りの光景だが、蓮乃と正太の二人にとっては初めての光景だ。山中に隠れた秘密基地な風情に、驚き顔の正太と蓮乃は興味深く辺りを眺めている。

 

 『厚徳園へようこそ!』

 

 驚かせた事が嬉しいのか踊るような足取りで二人の前に回ると、友香は細密な作り笑いに自慢げな色を滲ませて、ホテルマンを思わせる大仰なお辞儀で歓迎を示した。

 

 『おじゃまします!』

 

 「お邪魔します」

 

 蓮乃は長い髪が踊るほど勢いよく九〇度、正太は目礼で三〇度頭を下げてそれに答える。伏せた顔を上げた拍子にグラウンドからの幾つもの視線と目があった。ボール遊びに興じていた男子達がじろじろとこちらを見つめている。

 

 「すっげぇ!」「うっわ、マジで美人だ」「こりゃ、翔もバカになるよ……」

 

 利辺や友香から噂話は聞いていたが、訪ねてきた現物は期待を超えていた。

 蓮乃は美少女といっても何ら差し支えないどころか追加の形容詞を必要とする程の外見である。

 男子のテンションは鰻登りで、高まるボルテージは今にも放電しそうだ。

 

 「おーっ!」

 

 「すごいなこりゃ」

 

 そして子供達から視線の集中砲火を浴びている蓮乃も、その隣の正太も子供達をまじまじと見つめ返している。何せ、子供達全員が髪も肌も目も色とりどりな、列島外のルーツの持ち主なのだ。

 髪は白・黒・赤・茶・金にグラデーションで分かれ、白色人種(コーカソイド)黒色人種(ネグロイド)黄色人種(モンゴロイド)の肌色がリズミカルに並ぶ。瞳の色は青・金・緑・灰・黒・茶と簡単な風景画なら描けそうな色数をしている。

 

 魔法なるものがこの世に現れて以降、日本に移民する外国人は爆発的に増えた。その殆どは様々な理由で差別された魔法使いたちだ。創作にあふれ超常の妄想に親しみのある日本なら、差別にあふれ暴力の行使に親しみのある此処よりまだマシだと踏んだのだ。

 しかし魔法使い差別が弱いことと、移民が生活できるかは全くの別問題である。結果、日本に取り残されたり捨てられたりして親のない子供達も急増し、その受け皿として公的支援を受けた児童養護施設が次々に生まれることとなった。

 厚徳園もまたその一つで、それが外国系日本人が大半を占める理由である。

 

 一応、友香から厚徳園では外人系日本人が大半だと聞いていたが実際に目にしたインパクトは圧倒的だ。カラフルな厚徳園の子供達と、モノトーンな蓮乃と正太はお互いに興味津々と見つめ合う。目線の圧力が釣り合って妙な均衡状態ができた。

 

「何、お見合いしてるの?」

 

 それを横合いから、純粋な興味を装った揶揄の声が蹴り飛ばす。声の出所は視線を遮らないように横に退いていた友香だ。声の裏に込めた皮肉は兎も角、男児達も第三者視点の自分たちに気づいたらしい。

 

 「別に……」「そんなんしてないぞ!」「えっと、あの、その」

 

 彼らはすぐさまカッコつけて興味ない振りを取り繕う。同年代か年下あたりの女子を食い入る様に見つめているなど格好悪いったらありゃしない。

 

 『初めまして、向井蓮乃です! 今日はどーぞよろしく!』

 

 そうした格好付けとは無縁なのが蓮乃である。友香の台詞も純粋に挨拶を促す意味で受け取ったらしい。子供達の前まで駆け寄ると、元気一杯に頭を下げて女の子らしい丸文字でご挨拶。ノートを突き出すと同時に満面のドヤ顔も忘れない。

 

 「う、うん」「あの、はじめまして」「あ……いらっしゃい」

 

 対する男子連中の反応は鈍い。半分は無関心を装っている為だが、残り半分は至近距離の美少女に緊張しきっている為だ。

 テレビやファッション雑誌で一面を飾れる女の子が、目の前で大輪の笑みを浮かべているのだから彼らの衝撃も頷けよう。

 

 もっとも蓮乃自身にその自覚は一切ないので、なんでちゃんと挨拶してくれないんだろうと首を傾げている。

 それを生暖かく哀れみに満ちた三白眼が見つめる。正太も男である。事情は判っていた。

 

 「お邪魔します、宇城 正太です。今日はよろしく」

 

 蓮乃に続き、妹分とそう年の変わらない子供達へと正太は丁寧に頭を下げる。子供相手なら舌も滑らかに動く。蓮乃の目の前で失礼な姿は見せられない。

 

 「どーも」

 

 「よろしく」

 

 「はい」

 

 対する子供達の反応はある意味蓮乃相手とよく似ていた。有り体に言うなら無関心である。ただしこちらは格好付けとは無関係に純粋に興味がない。

 冷めた反応に正太の顔が名状し難く歪むが、ひずんだ気持ちを長い息と共に吐き出した。

 蓮乃の後じゃ仕方ないと結論づけ、正太は案内を頼もうと友香の方へと顔を向ける。なので反対側で大いに膨れる蓮乃と、いきなりの不機嫌に狼狽する子供達には気づかなかった。

 

 「先生を呼ぶのでちょっと待ってくだ……あ」

 

 正太の意をいち早く察した友香の台詞が途中で止まった。友香の視線と方向を合わせれば小走りで駆けてくる小柄な人影が目に入る。ただし動きにあわせて揺れる胸は大柄だ。

 彼女が友香が呼ぼうとしていた先生こと職員の”柳 美野里”である。

 

 「あ、柳せんせー」「柳センセ、ヤッホー!」「友香が友達連れてきたよ!」

 

 柳に気づいた子供達は銘々好き勝手に声をかける。子供達をかき分けるように柳が姿を現す。拍子に豊かな胸が柔らかに変形し弾力的に形を取り戻す。

 

 「ほら通して通して! それに他人をジロジロみない!」

 

 真っ赤な正太は視線を泳がせ弾む胸元から必死で意識を反らす。自然にしたいのに不自然にしかできない、未経験故の過剰反応である。童貞臭全開な正太への感情は差し置き、友香が二人を紹介しにかかった。

 

 「柳先生! この子が話していた向井 蓮乃ちゃんね! こっちはそのお兄さんの宇城 正太さん!」

 

 子供子供した厚徳園向けの態度を取る友香に、正太は赤い顔も忘れて目を見張る。正太が今まで見た友香は外向けの大人びた応対を見せていた。だが、今の友香は内向きの幼げな姿を見せている。

 

 --こっちが素なのか?

 

 正太の内心に気づいたのか、友香は謎めいた笑みを浮かべて立てた一本指を唇に当てる。他の面々から見えないように『秘密』のジェスチャーを見せた友香は、直ぐに無邪気な態度で他の子供たちと応対する。

 

 「この子が蓮乃ちゃんね」

 

 「かわいいでしょ?」

 

 自宅である厚徳園での態度が本来に思えるが、今の様子を見るにそれすら演技か。どっちが素顔かと正太は胸中で首を捻らざるを得ない。

 

 『初めまして! 向井 蓮乃です!』

 

 「ええっと、どうも、宇城 正太です」

 

 だが、蓮乃はさほど気にしていない様子で挨拶のノートを掲げた。蓮乃にとってはどっちであろうとも友達の友香ちゃんなのだ。

 蓮乃の平然とした態度に正太も一度思考を断ち切って、柳に急ぎ頭を下げつつ挨拶を切り出した。

 

 「あっと、多分、氷川さんからお話を聞いていると思いますが、うちの蓮乃は……」

 

 どうにも旨く喋れんと内心顔をしかめつつ正太は言葉を絞り出す。言葉を喋れないし聞き取れないという蓮乃の障害については先んじて話して置かなくてはならない。

 

 「はい、蓮乃ちゃんの事はちゃんと聞いていますよ」

 

 「あ、ああ、ならいいです。今日は、その、よろしくお願いします」

 

 優しげに微笑む柳に再び赤くなった正太がキョドる。言葉遣いが伝法口調で訥々のつっかえつっかえだし、聞き取り辛かったり失礼になっていないだろうか。

 コミュ障の気が出始めたのか、余計な心配が頭の中を煮込み出す。この心配で更に言葉がつかえ心配が増幅される悪循環だ。

 

 『これ! お土産です!』

 

 それを叩き折ってくれるのが、良くも悪くもマイペース爆走な蓮乃である。突き出した会話用ノートと共に、抱えていた正太の腕ごと紙袋を持ち上げた。

 正気に返った正太が言葉が足りていない蓮乃に代わって説明に入る。

 

 「これ、厚徳園の方にって俺、いや僕と蓮乃の親が作ったお菓子です。どうぞ、よかったら皆で食べてください」

 

 差し出された紙袋は『ファッションのとりむら』だが、中身は手作りのスコーンである。

 初めて蓮乃が友達の家にお呼ばれされて何やらスイッチが入ったのか、蓮乃の母親である”向井 睦美”が猛然とスコーンを焼きだし、触発されたのか正太の母の”宇城 昭子”も気合い入れてスコーン作りを始めたのだ。

 その結果、正太が大振りの紙袋一杯に積めたスコーンを両手に抱えて山登りをする羽目になったが。

 

 「あら、どうもありがとうございます」

 

 受け取った柳が大きく頭を下げて、紙袋との間で胸が柔らかくひしゃげる。正太の顔色がさらに赤みを増した。

 

 『すごくおいしいよ!』

 

 自信満々に薄い胸を張ってドヤ顔全開の蓮乃が太鼓判を捺す。宇城家に遊びに行った際に、昭子の手作りお菓子は何度も食べているのだ。

 

 『そういうときは「つまらないものですが」というもんだぞ』

 

 『何で? おばちゃんが作ったスコーンは美味しいからつまらなくないと思うよ!』

 

 鼻息荒い蓮乃に思わずいつもの調子で突っ込む正太。しかしお世辞を理解していない蓮乃が疑問を呈した。美味しいものは美味しいのであってつまらないとは言わないのだ。

 

 『まあ、お前の言うとおりだが、そこは社交辞令の定形句として必要なんだよ』

 

 蓮乃の台詞は道理だが、謙譲語という敬語があるように謙遜する姿勢も日本人的人間関係には必要なことである。

 しかしそんな理由では蓮乃は納得してくれない。理屈になっていない理由に蓮乃の頬が膨れ上がる。

 

 『それはおかしい! 美味しいから皆に食べて欲しいもの。美味しくないものをお土産にするのは違うと思う!』

 

 『お前さんの言うことは間違っていない。でもな』

 

 筋道立たぬと自説を曲げない蓮乃に、正太もまた意固地になって反論する。気がつけば初対面の緊張はどこか遠くへ行ってしまった。

 

 「喧嘩はダメですよ。向井さんも宇城くんも落ち着いて落ち着いて」

 

 「はい、すいません」

 

 「なも」

 

 口げんかとも呼べないような意地の張り合いが始まりかけて柳が二人の間に割って入った。流石に常のアホくさいじゃれ合いで第三者にくってかかるほど頭が煮えてはいない。二人とも素直に頭を下げた。

 

 「じゃあそろそろ行こっか!」

 

 「なうっ!」

 

 建物を指さす友香に大きく頷いて蓮乃は歩き出した。一緒が当然と言わんばかりに正太の袖を掴んで引いている。袖が伸びると文句を言いながらも、顔に浮かぶのは甘苦いココア味の笑みだ。

 

 「はいはい、ついてってやるから袖ひっぱんなよ」

 

 「なーもっ!」

 

 「友香ちゃんの話通り、ホントに仲がいいのね。友香ちゃんとも仲良しで嬉しいわ」

 

 「お菓子だって!」「やったぜ」「なんだろな~」

 

 柔らかな微笑みを浮かべ、柔らかな声音で一人ごこちながら、柔らかな胸を揺らして柳は三人の後を追う。お菓子の単語に大喜びの子供達もその後に続いた。

 



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第四話、二人が友達の家に行く話(その二)

 厚徳園の建物へと小走りで駆け込む蓮乃。走るにあわせて長い黒髪が残像のように流れる。腕を引かれる正太も不格好に歩調を合わせる。少し遅れて茜色のお下げを棚引かせた友香がそれに続いた。

 そんな三人を見つめる視線が二つ。優しく見守りながら後を追う柳でも、好き勝手な速度で子供達でもない。

 

 「ホントに来たんだ!」

 

 「そりゃ友香が嘘つくような理由もないしな」

 

 それは屋根裏部屋の窓から身を乗り出して蓮乃を見つめる利辺と、興奮のあまり今にも窓から飛び出そうな弟を面白そうに眺めるピーノに他ならない。

 この二人こそが蓮乃と正太が厚徳園行きを渋り、未だに頭を悩ませる理由なのだ。

 

 「で、翔は会いに行かないのか?」

 

 「それは……」

 

 チョコレート色の艶やな頬を掻きながらピーノが頬杖を突き直す。小学生男子特有な自意識過剰に足すことの一方的な恋心で蓮乃に完全に嫌われている利辺だが、諦める気は一切ない。

 

 しかし本日は珍しいことに随分と消極的に天使じみた顔を伏せている。その理由は蓮乃を呼ぶ前に友香が刺した太過ぎる大釘である。

 昨日、蓮乃を厚徳園に呼ぶにあたり友香から「二人にちょっかい出したら厚徳園中に全部言いふらすからね」と脅迫されたのだ。

 好きな子に思い切り振られた挙げ句、徹底的にやりこめられたなんて家族に知られた日には、二度と戻らぬ家出を実行しかねない。この年頃の男子にとって身バレは死と同義語なのだ。

 

 「うう~~」

 

 そう言う訳で利辺は食卓に並べられたご馳走を眺める飼い犬のような、恨めし顔で蓮乃のつむじを見つめるだけだ。正太に散々にやりこめられても蓮乃への恋を諦めない利辺だが、手も足も出ない現状では情けない唸り声をあげる事しか出来ない。

 ブロンド二歩手前の淡い栗色の髪を掻きむしり頭部上下運動を繰り返すばかり。弟の惨めな有様にピーノは大仰な溜息を吐くと拳と掌を打ち合わせた。

 

 「男は度胸、女は愛嬌! 何にもしなけりゃ何にも変わらないぜ?」

 

 軽快な音と共に快活に笑い、ピーノは動くに動けない利辺に発破をかける。ピーノが笑むと褐色な肌に純白の歯が浮き上がり、エキゾチックな魅力が吹き出すようだ。

 

 「そりゃそうだけどさ……どうして上手く……でも……なんで……」

 

 大抵の女子が一発で奮起するような応援だが、女の子ではない利辺は迷いながら躊躇う。にっちもさっちも行かない現状に懇願じみた悪態が口から漏れ出ている。これで好いてもらおうなど土台無理な話。哀れみ同情してもらえれば御の字だろう。

 

 「情けねぇなぁ」

 

 弟の惨状にピーノもカカオ99%の苦い表情を浮かべている。面白半分兄貴風半分で背中を押してはいるが、この様では進展ないしつまらないし、恋破れるだけだろう。

 自分のセンスにも「ピン!」と来る娘を選んだのは流石俺の弟だと誉める処だが、ビビって捕まえられなきゃ格好が付かない。

 ましてやその娘はピーノ基準からすれば下の下そのまた下な奴に尻尾を振って愛想を振りまいている始末。だからこそ弟である利辺には蓮乃をぶんどるガッツを見せて欲しい。

 しかし当の弟が竦み上がっていてはどうにもならない。

 

 「さーて、どーすっかねぇ」

 

 ぼやきながら乾いた唇を湿らせる。唇を舐める動作一つですら強烈な艶やかさを帯びている美貌が、小悪魔じみた悪戯な笑みを浮かべた。背中を押してだめなら蹴り飛ばすまで。

 

 「じゃ、あのオデブ君と蓮乃ちゃんが仲良くするのを一人寂しく眺めているか?」

 

 「ッ!」

 

 鬱々と沈み込む利辺のケツを、悪い笑顔を浮かべたピーノが一番強い言葉で蹴り上げる。言葉の針を突き立てられて利辺の顔が跳ね上がった。

 散々っぱらに正太から敗北感を刻み込まれた。その上、恋しい蓮乃からも散々に振られてしまった思い返すだけで利辺の身は縮こまる。

 それでも利辺に諦める気は毛頭ない。どれだけ蓮乃に袖にされても、どれだけ正太に恐怖を叩き込まれても、なお諦めきれない恋なのだ。

 

 「やってやる、やってやるよ!」

 

 立ち向かうだけの勇気も出てこない相手なら、自力で勇気を絞り出すしかない。覚悟と拳を握りしめて、燃えだした利辺は立ち上がる。

 

 「おう、頑張りな! 骨は拾ってやるぜ!」

 

 俺の弟ならこうでなくちゃ。ようやっと火の点いた弟にピーノは満足げに頷いた。

 が、当の利辺の表情が情けなく崩れる。

 

 「ねぇ兄貴。それで相談なんだけど、どうすりゃいいかな?」

 

 「多少は自分で考えろよなぁ」

 

 蓮乃がらみで利辺が考えてうまく行った試しはないのだ。自信もアイディアも出てこない。

 どこまでも情けない弟の姿にピーノは口をへの字に曲げてため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 本来、厚徳園の談話室には机はないが、今日は倉庫から引っ張り出された長机が幾つも平行線を描いている。そして、その全ての中心には大皿に積まれたスコーンが山を作って鎮座している。

 イチゴジャムやマーマレード、大豆クリームにアナクロチーズに取り囲まれたスコーン山を、厚徳園の子供達全員が目を輝かせて見つめている。裏取引やお菓子の闇市があるとは言え、厚徳園では好きなだけオヤツを食べれる機会など殆どない。

 そしてそのほぼ有って無いようなチャンスが今、目の前で文字通り山を成しているのだ。

 

 「ねぇ、ほんとにこれ食べていいの!?」「今日は特別だって!」「食うぞ食うぞ!」

 

 子供達の誰もがお預けを食らった猛犬となって今や遅しと『よし!』の一言を待ち望んでいる。

 

 「みんな注目!」

 

 この場で唯一GOサインを出せる柳が声を上げた。無数の飢えた視線が集中するが彼女は慣れっこである。

 

 --早く終わんねぇかな、これ。

 

 しかし隣に立たされた正太は収束した視線に射すくめられて非常に居心地が悪い。注目を求めてイジメの標的になった身としては、一刻も早くここから逃げたいのが本音だ。

 それでも卑屈な様を見せないのは格好付けて痩せ我慢で意地張っているからである。平気の平左な妹分の前で兄貴面しておきながら格好悪い様は見せられないのだ。

 

 「なもっ!」

 

 実際蓮乃は視線の数など何処吹く風だ。物怖じしない性格と他人の目を気にしない質が相まって、全く持っての自然体である。コミュ障な正太としては妹分が羨ましいやら兄貴分として情けないやら色々と複雑な心境にもなってくる。

 そんな正太の心境など知る由もなく、柳は子供達に向けて声を張り上げた。

 

 「今日は友香ちゃんのお友達の蓮乃ちゃんと、そのお兄さんの宇城さんが皆におやつを持ってきてくれました。皆、お礼を言いましょう!」

 

 「「「ありがとうございます!」」」

 

 「なーもなーも」

 

 柳の合図にあわせて厚徳園の子供達が一斉に頭を下げた。実に気持ちの篭もったお礼の言葉に、少し顔を赤らめた蓮乃は珍しく照れた様子を見せている。

 

 「じゃあ皆、おやつにしましょう」

 

 「「「いただきます!」」」

 

 そして柳の宣言で餓狼の鎖は外された。挨拶が終わるや否や飢えた獣と化した子供たちは我先にとスコーンに手を伸ばす。二つ三つと手に掴むのは当たり前。中にはジャムもクリームもつけずに素のままそのままで口に詰め込んでいる子もいる。

 

 「んぐんぐ!」

 

 瞬く間に子供たちの口の中に消えるスコーン。勢いに触発された蓮乃も挨拶そこそこに急いで口に放り込む。素朴な味わいで幾らでも食べれそうだ。

 しかし口のサイズは有限なので、詰めに詰め込んだ蓮乃の顔はリスかハムスターのそれである。しかもスコーンで一杯一杯になって唾液という唾液が吸い上げられる。お陰で飲み込むに飲み込めない。

 

 「ほれ」

 

 「んくっ、んくっ、んふ~」

 

 そこに珍しく気の利いた正太が豆乳を差し出した。蓮乃はすぐさま受け取ると一息に煽り、長い一息をついた。

 

 「なーも!」

 

 蓮乃は何かしてもらったお礼はちゃんと忘れない。頭を下げる蓮乃に気にすんなと平手を振って返す正太。

 だが、蓮乃のがっつき具合には微妙にしかめっ面だ。我が家ならともかく人様の家で取るべき態度ではない。

 

 『厚徳園の子に持ってきたんだから、あんまりがっつくなよ』

 

 『でもなくなっちゃうよ?』

 

 飢えたる子供達の食欲のままに地殻変動じみた速度でスコーン山は標高を減じている。見る間に背を低くしてもう山と言うよりスコーン丘と呼ぶ方がふさわしい。そう遠くない内に元スコーン平原となるだろう。

 今食べなければもう食えないのは確実だ。だからといって礼儀を忘れて貪欲の化身となるのは違うだろう。数秒考え込んだ正太はメモに筆を滑らした。

 

 『また作ってもらうように睦美さんや母さんにお願いするから、今は落ち着け』

 

 『判った! お願いします!』

 

 何のかんの言って正太は蓮乃にだだ甘なのだ。大きく頷くと共に蓮乃は食べるペースを適度に落とした。

 蓮乃はちゃんと言えばちゃんと聴く子なのだと、正太も蓮乃の素直な態度に首肯する。清子が見たら親バカならぬ兄貴分バカと笑うだろう。

 ほんわかする二人の横から忍び足で近づく影が一つ。影は赤毛で碧眼で女の子だ。厚徳園に紅毛も青目も女子もいるが、三つ取り合わせたのは友香一人だけである。

 

 「今日はどうもありがとうございます」

 

 周りにばれないように声を潜めて礼を言う友香。礼儀正しく頭を下げる友香に正太は軽く笑って応える。

 

 「こっちも楽しみにしていたし、気にしないで。前に会ったときと随分調子が違うんでびっくりしたよ」

 

 「皆には秘密にしてくださいね?」

 

 立てた指を唇に当てて悪戯っぽく笑う姿は、外観もあってアメリカのホームドラマのそれだ。

 

『私こそ今日はどーもありがとう! 皆いい人だね!』

 

 一方、大河ドラマに出てきそうな外観の蓮乃は友香の言葉に上半身全部で大きくお辞儀する。濡羽の髪が蓮乃の後を追い、残像のように流れた。

 一見、社交辞令のようだが純粋極まりない蓮乃の本音だ。そもそも建前もお世辞も蓮乃は理解していない。

 

 『……うん、そうだね』

 

 それを理解しているはずの友香の笑顔は微妙に固く、頷く動作も返答の筆記も妙な間を伴っていた。

 不意に友香の笑みが硬度を増した。彼女の視線を追えば、金目銀髪と珍しい色合いをした女の子が一人。友香以上に大人びて友香よりも堅い笑顔がこちらを見ている。無意識に友香は息と唾を一緒に呑んでいた。

 

 --『あいつ』が来た。

 

 「どーも」

 

 「なーも」

 

 条件反射でお辞儀する正太に、蓮乃もつられて頭を下げる。二人が友香の内心を知る由もない。友香の言うところの『あいつ』……”母井 舞”が冷たく微笑んで応えた。

 

 「どうも、初めまして。母井 舞です。『親友の』友香ちゃんがいつもお世話になってます」

 

 慇懃無礼で冷たい目線が二人に突き刺さる。敵意に疎い蓮乃に気づく様子はないが、氷点下のレーザービームに正太は先とは違った居心地の悪さを覚えた。

 

 --なんか刺々しい雰囲気の子だな。厚徳園に入ってきたのが気にいらんのかね。

 

 当てずっぽうの想像は、正太には珍しく真実の一端を言い当てていた。

 

 『初めまして! 向井 蓮乃です!』

 

 舞の本音にも敵意にも一切合切気づかない蓮乃は、いつもながらの満面の笑みでノートを突き出しご挨拶だ。

 

 『あなたも魔法使い? 私もそうだよ!』

 

 非友好的な態度には気づかずとも、手首にはまった赤銀色の「腕輪」に気づいた蓮乃のテンションは急上昇する。

 

 「……そうなんだ、奇遇ね。私もよ」

 

 蓮乃を冷たい目で眺めていた舞の顔から険が消えた。舞の内面において蓮乃の立ち位置が『敵』から『子供』に成り下がったのだ。

 横目で舞の表情を観察していた友香の表情も緩む。狙い通り、純粋無垢で脳天気な蓮乃を相手に害意を持ち続けることはできなかったようだ。

 このまま蓮乃に舞を押しつけてしまえば問題は全て消え失せる。その筈だ。

 

 「ほら、舞ちゃん! 蓮乃ちゃん喋れないからノートに書いて書いて!」

 

 何かがチクリと胸に刺さる感触から目を背けて、無邪気を装う友香はペンを差しだし二人のお膳立てを進めにかかる。

 

 『改めて私も初めまして。母井 舞です。宜しくね、蓮乃ちゃん』

 

 『よろしくね!』

 

 舞に返事をちゃんと返されて、興奮気味な蓮乃は益々笑顔を深める。ネアカな蓮乃のぺかぺかと光る笑顔につられたのか、舞もまた涼しげな微笑みを浮かべている。

 

『これで友香ちゃんとも、舞ちゃんともお友達だね!』

 

 ピキリと空気に亀裂が走る音が友香には聞こえた。浮かべる微笑が瞬く間に氷の堅さと冷たさを思い出す。

 

 『そうね。でも舞ちゃんと私は親友だから少し違うかな』

 

 ひきつった友香は咄嗟のフォローに入った。反射の速度で書き込んだ文字も乱れている。舞に迎合するのは吐き気をよもおす心境だが背に腹は代えられない。ここで蓮乃が嫌われれば全ては水の泡なのだ。

 しかし友香の内心にも舞の地雷にも蓮乃は気づかずにスキップを続ける。

 

 『そーなんだ、親友かぁ。羨ましいな、私もなれるかな?』

 

 『大丈夫、蓮乃ちゃんなら素敵なお友達ができるよ!』

 

 自覚無く舞の地雷を踏み抜く蓮乃の返事を、友香は必死で逸らしにかかる。

 

 『友香ちゃんと舞ちゃんじゃダメ?』

 

 --何でよりにもよって今そんなこと言うの!?

 

 だが蓮乃は軌道修正してまで雷管を踏み込んだ。もう少し先で、舞と十分に仲良くなった後でなら最高にありがたい台詞だろう。

 しかし今は最悪にありがたくない。よりによってこのタイミングで言うのか。

 

 『ダメ。親友は一人だけよ』

 

 --だから舞が出張ってきちゃうじゃない!

 

 友香の予想通りに氷のナイフじみた台詞を舞が刺し込んできた。言わんこっちゃ無いと頭を抱えたい心境で、友香は無邪気に見える笑みを無理強いて維持する。二人の様相に気づかない蓮乃は首を傾げて正太へと疑問を投げかけた。

 

 『そーいうもんなの?』

 

 『そこは人それぞれだ。母井さんにはそーいうもんじゃないかね』

 

 苦笑いの正太は俺に聞くなよと前置きして一般論で返す。細かい事情も知らずに突っ込んだアドバイスなど出来はしないのだ。

 

 --親友は一人だけでなきゃダメってのはあんまり聞かんな。

 

 正太も内心首を傾げてはいたが口には出さない。他人には他人の事情が有るものだ。

 

 『そーいうもんなんだ。じゃあしょうがないね』

 

 一番信頼している人間からの一応納得できる言葉に、ちょっと不満そうだが蓮乃は意見を引っ込めた。蓮乃が自分の地雷原から離れて舞も表情を和らげる。話題は友香の望み通りに軌道修正されたようだ。

 

 --お兄さん、いい仕事してますね!

 

 友香は作り笑顔の下で安堵の息を大いに吐いた。許されるなら親指を立てて正太を労いたい気分である。

 舞の親友は友香一人だけだとか、蓮乃に変な釘を刺されたのは気に入らないが後で正太を通じて引っこ抜けば済む話だ。

 何とか上手く行った、今はこれでいい。その筈だ。胸に突き刺さる何かを無視して、友香は二人に合わせる笑顔を作った。

 

 『親友は無理だけど、お友達なら大丈夫よ』

 

 『そっか! じゃあ舞ちゃん、これから友達ね! よろしくお願いします!』

 

 『うん、蓮乃ちゃんもよろしくね』

 

 ふんすと鼻息荒く蓮乃は舞の手を握る。舞もまた優しげに微笑み、蓮乃の手を握り返す。

 大輪の向日葵を思わせる青天井な笑顔で蓮乃は握った舞の手をぶんぶんと振る。

 握手を振り回される舞の微笑みは、幼い子供を見守る大人のようであり、またお気に入りの人形を手に入れた子供のよう。

 無邪気な笑みを形作った友香は二人の様子を表向きの表情で見つめる。

 

 三者三様の笑い顔を付き合わせて表面上は和やかに、蓮乃の二人目の友達が出来た。



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第四話、二人が友達の家に行く話(その三)

 「ほふぅ」

 

 一通り食べ終えた蓮乃の口からご満悦の息が漏れた。お菓子食べ放題を前に飢えたるケダモノと化した厚徳園の子供達。彼らに負けず劣らずのスコーンを蓮乃は口にしている。

 

 「結局、よく食ったなお前」

 

 それを見ていた正太は、渋柿でも噛んだような呆れ顔を浮かべている。ホストがゲスト用の菓子で満足するのはどうなのか。まあ厚徳園の子らは喜んでいるしそれで良しとしよう。

 

 「ねぇねぇ!」

 

 そうやって思考を明後日の方向にぶん回している合間に、当の厚徳園の子供達が二人の側へと寄って来ていた。

 耳に聞こえるのは甲高いソプラノの声、目に入るのは色とりどりのパステルカラーの服。カッコつけていた先の男子等と異なり、今度やってきたのは女の子ばかりである。

 

 「蓮乃ちゃんって喋れないってホント!?」「へー!喋れないんだ! じゃあどうやってお話しするの?」「でもさっき喋ってなかったっけ?」「だよね? 間違いかな?」

 

 「なぅ!?」

 

 年頃の娘ほど噂とお喋りを愛する生き物はいない。フルオートで速射される質問の機関銃掃射に蓮乃は目を白黒させるばかり。

 

 「なー!」

 

 四方八方からの質問責めに、驚いた蓮乃は反射的に正太を見上げて助けを要求。蓮乃は友達作りが得意な方で物怖じしない質だがこうも一方的かつ数が多いのは初めてだった。

 それに自分から話しかけての話の主導権を握るのが蓮乃のストロングスタイルだ。他人に良いようにされる経験は少ない。

 

 「あー、すまんが蓮乃に聞きたいことはこのノートに書いてくれ。そうすりゃ伝わるから」

 

 コミュニケーションに難のある正太だが、対象が自分でなければ岡目八目する余裕も出てくる。

 しかし、それはすなわち対象が自分となれば対岸の火事処か尻に火のついた様となるということでもあるのだが。

 

 「ノート? そっか書いてお喋りするんだ!」「そーいや、おじさんって誰?」「お父さんのウキさんだよ! さっき柳先生言ってたじゃん」

 

 女三人寄れば姦しい。子供三人寄れば喧しい。それを併せ持つ女子軍団ともなればコミュ障気味の正太の手に負える相手ではない。

 

 「親子だけど全然似てないねー!」「お母さん似なんじゃない? ほらこの間のドラマでやってたじゃん」「あー、あれね! 主役が格好良かったよね」「ねー!」

 

 誰がおじさんでお父さんだ俺は14だぞと文句を言いたくとも、口を挟む暇すらなく次から次へとクチバシが突っ込まれる。

 

 「どーしたもんだろ」

 

 「なー」

 

 怒濤のお喋りを前に正太も蓮乃もたじたじになってお互いの顔を見合わせるしかない。

 

 「ハイハイ、そこまで。蓮乃ちゃんが困っているわよ」

 

 「そーそー」

 

 そこに赤と銀の助け船がやってきた。横合いから舞と友香が女の子グループの整理にかかったのだ。

 

 「えー、聞きたいことあるのに」「舞、邪魔しないでよ」「蓮乃ちゃんって髪綺麗だねー」

 

 とは言えそれで言うことを聞いてくれるなら職員の柳に苦労はない。舞の眉がぴくりと動き、子供たちの一人の肩に手を当てた。

 一瞬、電流でも流された様に子供の体がピクリと震える。注視してかつ前知識がなければ気づかないような、ほんの一瞬の小さな反応。

 

 「男子が向こうにお菓子の残りあるって言ってたわよ」

 

 「え、ホント!?」

 

 その子は先までの蓮乃への興味が嘘だったかのようにスコーンへと意識を方向転換した。

 

 「あっ、男子だけずるい!」「私も食べる!」

 

 その子につられて他の子供たちも後を追いかけ駆け出した。端から見れば、子供にはよくある興味の急ハンドルに見える姿。

 

 --舞の奴、また魔法を使ったんだ……

 

 しかし張り付た笑顔の下で歯を軋ませる友香だけは舞が何をしたかを正しく見抜いていた。舞の魔法を文字通りに身を持って知っているからだ。

 理由無く唐突にこの世に現れた超能力、俗称「魔法」は世界中をしっちゃかめっちゃかにした。未だ未知の多い超能力と言えども、最大でも短機関銃程度の火力しか持たない。

 

 にも関わらず世界をひっかき回せたのは、老若男女を選ばず唐突に与えられる力だという事と、もう一つ。魔法が起こす現象が荒唐無稽なフィクションと同じ代物で対策の取りようがなかったからだ。

 

 例えば「壁をすり抜ける魔法」を相手にどうやって盗みを防ぐのか。

 例えば「有機物を塩に変える魔法」を相手にどうやって殺人を立証するのか。

 例えば「生物を発火させる魔法」相手にどうやってテロを抑えるのか。

 

 そして「他者の精神を操る」魔法を相手にどうやって心を守るのか。

 

 舞の魔法は『精神方向操作』。接触した他人に干渉し、精神を好きな方向に「引っ張る」ことが出来る。先も肩に触れた女子の精神を「蓮乃」から「お菓子」へと引っ張ったのだ。

 

 『ありがとう!』

 

 「ありがとう、助かったよ」

 

 しかし、それを知る由もない蓮乃と正太からは単に子供たちのあしらいに長けた姿としか見えない。

 

 『皆、蓮乃ちゃんに興味津々なだけだから大目に見てやってね』

 

 『うん、判った!』

 

 元気よく笑顔で首を縦に振る蓮乃に、舞もまた微笑みと共に頷く友香も隣で無邪気な笑みを張り付けて二人を眺める。

 

 --自分の思い通りにならなきゃ直ぐに魔法で頭を弄くるくせに、何が『大目に見てやって』よ……っ!!

 

 だが、友香の胸の内は煮えるようなどす黒い嫌悪感で満ちていた。

 「子供っぽくて明るくてちょっと間の抜けた」友香と「大人びて涼やかで回転の速い」舞は対照的ながらも親友同士だ。周りから見ればそう見えるし、舞も公言してはばからない。

 だが友香の内心のように実際は異なる。舞のお気に入りである友香は、彼女が望むキャラクターを強制させられているのだ。

 もし友香が年齢以上にませた内面を見せれば、すぐさま魔法で年齢以下の振る舞いに矯正されてしまう。

 常に笑顔の仮面を外すこともできず、おバカな姿を演じさせられる日々。気づけば家族である厚徳園の面々すらそれが友香の本来であると思わされている。

 

 そうやって自分の精神を好き放題に引き回す舞を友香は蛇蝎以上に嫌悪していた。だからと言って事を明らかにも出来ない。他人の意に反した魔法使用は紛れもなく犯罪だ。一度、それが表沙汰となれば厚徳園にも火の粉がかかる。

 それは厚徳園と家族を大事に思っている友香には耐え難いことだった。しかし舞の横暴にも耐え難い。

 

 だから自分の代わりとなる蓮乃を見つけてきたのだ。

 

 根っから子供で根っから明るい蓮乃は舞の求める親友像にぴったりだ。そこに舞への抑止力になり得る正太を加えれば問題の大半は解決する。

 それを蓮乃も正太も知りもしないし、求めてもいないということに目を背ければの話だが。

 

 --初めからそのつもりだったのに、何よ今更……。

 

 友香は裏表のない笑顔を浮かべて裏側の自己嫌悪を堪える。その視線の先で、裏も表もない蓮乃は始めから裏しかない舞と幸福そうに笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 「で、翔はどーする?」「前は凝りすぎて失敗したから今度はシンプルにいく」「前のは捻りが足りなかった気がするがな」「あんなので成功するのは兄貴くらいだよ」「あんなのってそりゃどういう意味だ」

 

 あーでもこーでもないと雑談混じりに蓮乃狙いの計画をこねくり回し、利辺とピーノは談話室へと向かっていた。不意にピーノの視線が下がり、利辺の視線が少々あがる。

 目線の先は大皿を洗いに席を外した柳がいた。

 

 「あら、翔ちゃんにピーノちゃん」

 

 「おお、柳センセ」

 

 「ええっと、その、やってきた人は?」

 

 蓮乃への恋煩いを常時発症中な利辺が、目線を泳がせ口ごもりながら言葉足らずに問いかける。

 

 「談話室にいるけど……もしかして二人とも行かなかったの?」

 

 利辺の問いかけへ何の気もなしに柳は答え、同時に気づいた。スコーン食べ放題に引き寄せられて子供達は全員談話室に行っているもんだと思いこんでいたのだが、二人ほど例外がいたらしい。

 

 「ああ、うん、その、用事があって」

 

 「蓮乃ちゃんと宇城くんが持ってきてくれたお菓子はもう食べちゃってるし、どうしましょうか」

 

 太めの眉の根を寄せて柳は考え込む。二人を『自己責任』『弱肉強食』『来なかった方が悪い』の二言三言で片づけるのは簡単だが、家族の内に差や確執を作りたくはない。

 それに蓮乃ちゃんと宇城くんは厚徳園みんなの為にスコーンを持ってきてくれたのだ。食べれない人がいるのは二人ともいい気はしないだろう。

 正太が聞いたら「むしろいい気味です」と答えそうなものだが、来館者二人と眼前二人の確執など知る由もない柳はひたすら好意的に解釈していた。

 

 「そんなんあったのか。こいつは損したな」

 

 童顔をしかめて考え込む柳同様に、スコーンの件を聞いていなかったピーノもまた整った顔立ちを歪めていた。誰にも聞こえないように口の中で舌打ちするピーノの隣で、そんなの聞いていないと利辺は大きな目を丸くする。

 何せ大好きなあの子が手ずから持ってきてくれたお菓子だ。もしかしたら手作りかもしれないのだ。思わず利辺は八つ当たりの文句を柳へとぶちまけかけた。

 

 「えー! 何でモガッ「聞かなかった俺たちが悪いんだし、そいつはしょうがないな」

 

 利辺の口から飛び出しかけた文句をピーノの手が無理矢理押し込み、代わりに柳に答える。

 

 「ピーノちゃん、翔ちゃん、ごめんね。今度はちゃんと伝えるようにするから」

 

 「いいよいいよ。それよか埋め合わせなら、柳センセがデートしてくれた方がうれしいね」

 

 「モガッ! フガッ!」

 

 頭を下げる柳に冗談半分本気半分で返すピーノ。利辺が手の中でバタバタ暴れているが気にしない。

 

 「もう! そういうのは、大人になってからにしなさい!」

 

 「体はじゅーぶん大人だけど?」

 

 「大人をからかわない!」

 

 あーいえばこーいうんだからとぶつぶつ文句を言いながら立ち去る柳の顔は赤い。

 

 --大人になればありってことか?

 

 脈はありそうだと胸の内で確かめつつ、ニヤリと笑うピーノは手を振って柳を見送る。

 姉でもあり母代わりでもある家族から手の中の利辺に目を向ければ、なんか妙にぐったりしている。顔色も紫がかり健康的とは言いづらい。

 年齢不相応に体格のいいピーノの手が口のみならず鼻も塞いだようだ。 急ぎ手を外せば、利辺は痙攣じみた咳と共に必死で酸素を取り込む。

 

 「ガハッ! ゲホッ! ゴホッ! 殺す気!?」

 

 「悪い悪い」

 

 存分に新鮮な空気を吸い込みながら利辺は当然の文句を投げつけるが、飄々と謝るピーノにはさほどの効果は無い模様だ。

 

 「代わりにお菓子持って行かせてやるから勘弁してくれ」

 

 「それ勘弁する理由になんの?」

 

 窒息させられかけた利辺は恨み節なジト目で兄をにらむ。胡散臭いと見つめる薄茶色の目に、真面目くさったピーノが説得にかかった。

 

 「考えても見ろ。皆がお菓子食べ終わった後に手ぶらでのこのこ出て行っても単なる間抜けだぜ」

 

 「まあ、それは確かに」

 

 もとより甘い顔立ちを引き締めるとそれだけで圧倒的な説得力が生まれてくる。イケメンは得である。納得の顔を見せた利辺を更にピーノは押し込む。

 

 「そこで追加のお菓子を持って行けば好感度を狙えるわけだ」

 

 「それは……そうかもしんない」

 

 口八丁手八丁のピーノにかかれば、良くも悪くも年相応に純粋な利辺などあっさり丸め込まれてしまう。

 

 「持ってきた側の蓮乃ちゃんはそう沢山食べてないだろ? そこで好きに食べられるお菓子をたっぷり渡せば、メロメロとは行かないだろうが悪い気はしないはずだ」

 

「うん、それならいけそう!」

 

 息の根を止められかけた事などきれいに忘れて目を輝かせる利辺。蓮乃が満足するまでがっつり食っていたことなど二人は知る由もない。

 

 「お菓子取ってくる!」

 

 「いってらっしゃ~い」

 

 狙い通りに喜んで面倒ごとを引き受けた利辺を、ピーノは軽薄に手のひらを振って見送った。

 

 

 

 

 

 

 「あ、翔だ」「調子でも悪かったの?」「何処行ってたんだ? もうスコーン無いよ」

 

 正太の持ってきたスコーンが子供達の胃袋に収まり、彼らの口から甘ったるい満足の息が漏れる頃、ようやっと両手にお菓子の徳用大袋を抱えた利辺が談話室に到着した。

 腹が満ちたからか、子供達の対応はずいぶんとおざなりだ。

 

 「だから、お菓子持ってきたよ」

 

 「流石翔だぜ!」「いいね!」「サイコー!」

 

 しかしお菓子は別腹である。掌が1秒でひっくり返った。現金というか即物的な他の子供達に不快感を覚えながらも、利辺はお菓子の大袋を手渡そうとする。

 それを柳の手が取り上げた。厚徳園では一日に食べられるお菓子の量は決まっているのだ。

 

 「これ以上は食べ過ぎになるからダメよ」

 

 「そりゃないよ、柳せんせー!」「ちょっとだけ! ちょっとだけでいいから!」「えー! きょーいんのおーぼーだ!」

 

 不満たらたらの子供達がブーブーと文句を垂らすが柳は一歩も引かない。

 

 「ダメ。夕飯入らなくなるでしょ?」

 

 「まーまー、少しくらいいいじゃないの」

 

 その肩を影が滲むように現れたピーノが抱く。

 注目を引く外観に反して、ピーノは人の目に留まらず動き回るのも得意だ。先に入ってきた利辺の大入り袋に気を取られている隙に食堂に滑り込んでいたのだ。

 

 「せっかくの機会だしさ、少しでいいからお願い」

 

 片手合掌で神様仏様柳様と拝みつつ、片目ウィンクも足して柳を圧す。整った外観と気さくな愛嬌が相まって大抵の女性はこれで一発KOだ。

 

 「そう言って食べ始めると最後まで止まらないでしょ。少しもちょっともダメよ」

 

 それでもやっぱり柳は退かない。長いことピーノの面倒を見ている大抵の女性でない柳には効果がないようだ。

 

 「でもさ、蓮乃ちゃんはどうかな? 食べたいんじゃない?」

 

 「なう?」

 

 ならばと話の矛先を即座に切り替える。不意に話題を向けられて、やなやつ二人を睨みつけていた蓮乃が間の抜けた声を上げた。

 同時にピーノはもう一度片目を瞑って合図を送る。

 

 --良いとこちょっとは見せろよ?

 

 ウィンクの信号を送られた利辺は大慌てでメモをポケットから引きずり出す。走り書きのメモの字面はこれまた大慌てでのたくっていた。

 

 『お、おいしいよ。食べる?』

 

 主に悪くも年相応な利辺の考えられる台詞など高が知れている。それでも格好付けなしで蓮乃のために筆談にしたのは、成長の証だろうか。

 ただし言葉を聞き取れない蓮乃にはそれ以前のピーノと柳のやり取りも判らないので、『唐突に話しかけられた』としか理解できていないのだが。

 

 「なーも、なーも」

 

 『あいつらがお菓子持ってきて、柳先生がこれ以上ダメだと言って、そんでお前さんはどうかってあいつらが話を向けてきた』

 

 という訳で現状が判らない蓮乃に正太が説明文を読ませる。

 

 『そーなんだ』

 

 --お菓子は食べたいけどやなやつはいやだな

 

 嫌なことを沢山されて大好きな兄ちゃんを散々に貶されたのだ。お菓子一つで購えるほど蓮乃の利辺に対する悪感情は少なくない。

 しかしお菓子が食べたいのもまた事実だ。なのでここは正太に聞くことにした。

 

 『兄ちゃんは?』

 

 『柳先生に賛成だな。これ以上食うと夕飯がおいしくなくなる』

 

 自分で決めろよと枕詞につけて正太が答える。

 

 『おいしくなくなるの?』

 

 『そりゃお腹一杯の所に無理矢理詰め込むご飯がおいしい筈も無いだろう』

 

 確かにその通りと納得した蓮乃は大きく頷き一文をしたためて利辺に突き出した。

 

『私はいらない』

 

 ビキリとひび割れる音を立てて利辺は固まった。崩壊寸前の石像と化した弟を眺めながら、ピーノは紅い唇を扇情的に舐めて考え込む。

 

 --さあて、どうしたものかな?

 

 惹いても推しても落とせないのは柳を除けば初めての経験だった。それだけについつい利辺の存在を忘れて熱くなってしまう。

 かわいいかわいいダメ弟の恋なのだ。自分が盗っちゃ元も子もない。

 

 そんな蓮乃を落とさせる算段を高速演算中のピーノの横を、銀色の髪が通り過ぎた。

 

 『皆も食べたがっているし、蓮乃ちゃんからもお願いしてもらえない?』

 

 舞はさらさらと書き込んだノートを返すと同時に、滑らかかつ自然な動きで蓮乃の肩に手を当てる。

 一瞬、蓮乃の体が震えていぶかしむように首を振った。舞の動作も蓮乃の反応も余りに小さく、事情を知る友香ぐらいしか気づけない。

 

 --なんかいつもの友香みたいな反応をしたな。

 

 他に気づいたのは、尖ったセンスと直感を持つピーノ。

 

 --なんで急に蓮乃が驚いてるんだ?

 

 そして常に一緒にいて蓮乃を見ている正太だけだった。

 

 『やっぱり食べたい、かな?』

 

 唐突にわき上がったお菓子欲に蓮乃自身も不思議がっている。沢山食べたし、兄ちゃんの話にも納得したのになんでだろう?

 蓮乃の疑問を余所に、舞はそれは規定事項であると押し流しにかかった。

 

 「柳先生、蓮乃ちゃんも食べたいみたいですし、今日は特別と言うことでお願いできませんか?」

 

 「うーん……一つだけよ?」

 

 締めるところは締める方だが、柳は基本的に甘い。それに客である蓮乃相手だと子供達相手のようには強く出れない。

 こういった所が好かれると同時に嘗められる原因になっているが当人に自覚はあまりないようだ。

 

 「やったぜ!」「舞、グッドだ!」「これで勝てる!」

 

 子供達両手を上げて飛び跳ねる勢いで喜ぶ。彼らはお菓子のためなら後先なんか気にしない生き物だ。

 夕食なんぞ幾ら減らしても、夕飯を食べる瞬間まで気にしないだろう。

 

 「なんとかなったぁ」

 

 大喜びする子供達の中で利辺は上手く行ったと一人息を吐く。しかし、その隣でしかめた顔のピーノは賞賛の最中にいる舞へと疑念を吐いた。

 

 「なあ舞、お前なんかやったのか?」

 

 「お願いしただけよ。お菓子食べ損ねるよ?」

 

 しかし舞は当然の顔でさらりとかわす。ピーノの勘は警告を上げているが現状証拠はないし、なにより家族を疑うのは楽しいことではない。

 

 「ねー、ピーノ兄ちゃんはどっちがいいと思う?」

 

 「俺はこっちの方がパンチが効いてて好みだなぁ」

 

 おどけた表情で胡椒煎餅を指さし、子供達とやりとりするピーノ。憮然の顔を腹の底に引っ込めてはいるが、胸の内で警戒のレベルを一つ上げた。

 一方、お客様という事でいち早く油紙にくるまれた胡椒煎餅を受け取った蓮乃はなんだか浮かない顔だ。

 

 『どーした?』

 

 『いらないって言ったのに食べたくなってまた食べたくなくなったの』

 

 訪ねる正太に余人には理解不能な返答を返す。蓮乃言語を解析すれば、急に食欲が現れてまた消えたのが不可解らしい。

 お菓子の存在を見て一時的に別腹が空いたと考えればさほどおかしくはない。先の蓮乃の様も今までそんな経験がなかったならば理屈としては一応通る。

 だがそれにしてはどうにも引っかかるものがある。何度か首を捻っても正太の内から納得できそうな答えは出てこなかった。

 

 『お菓子は別腹って言葉もあるから、お菓子見て食べたくなることもあるだろう』

 

 『そーいうもんなの?』

 

 なら見たままを理屈で解釈する他はない。正太は自分の感覚や直感を信じない。

 

 『ただ、また同じ事があるなら教えてくれ。別の原因かも知れないから』

 

 『判った!』

 

 そして自分の常識も信じない。ならば結論は目で見て耳で聞き、手で触れて確かめるしかない。

 

 『兄ちゃん、あんま食べたくないから食べて』

 

 『半分くらいは食えよ』

 

 蓮乃から突き出された胡椒煎餅を半分に割りながら正太はそう結論づけた。



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第四話、二人が友達の家に行く話(その四)

 惚れた蓮乃をモノにしようとした結果、散々に正太にやりこめられて利辺の心はベッキリ折れた。

 しかし燻ったままで終わりでは決してないのだ。ピーノ兄貴に吹き込まれ、再び火のついた利辺に諦めの二文字はない。

 

 例え正太が再び阻もうとも、例え友香に秘密を触れ回されようとも。例え……好きな蓮乃に一顧だにしてもらえなくとも!

 

 『それでさ、ピーノの兄貴はさっとかわして足払いを一発かましたんだ』

 

 『舞ちゃん、そっちの何味?』

 

 『でさ、這い蹲るそいつ等に言ったんだ。”ここらじゃゴキブリが二足歩行するのか。進化の秘訣を教えてもらえないかい?”ってね』

 

 如何に兄貴分が格好良かったか延々とメモに書き続ける利辺。対して話され続けている方の蓮乃は、時たま胡乱げに睨みつけるだけで利辺の語りを一切無視している。

 

 『山葵味かぁ。そっちも美味しそうだね。半分こしない?』

 

 『当然、そいつらキレて殴りかかってくるけどピーノ兄貴には掠りもしないんだ』

 

 しかも後ろでは友香が他の子供達にヒソヒソと利辺のやらかしと秘密を暴露中。

 やれ「翔くんは蓮乃ちゃんが好きでコナかけたけどあっさり振られた」だの。やれ「腹いせにお兄さんに喧嘩ふっかけて泣きべそかくほどぼろ負けした」やら。

 年頃男子からすれば切腹を希う程の話が飛び交っている。おかげで利辺をみる子供達の視線は、哀れみと軽蔑と見下しを足して三で割らない色をしていた。

 明日から座る椅子には針のむしろが引かれていることだろう。

 

 『で……さ……』

 

 気づけば利辺が綴るメモの文字は間延びした尻切れトンボになっている。震えるペン先の周りにはいくつもの涙染み。

 思い人には路傍の石の如く無視され続け、周囲から犬のフン扱いの視線に曝されて、ついに精神が限界に達したのだろうか。

 眺めるピーノの顔にも諦めと同情でこりゃだめだと書かれている。

 

 『それでさぁ!』

 

 だが、利辺はまだ耐える。涙で滲んだメモを捨て歯を食いしばって新しいメモに文字を刻む。

 正太はその姿を思わず賞賛していた。ここまで非存在されて尚も語りかけようとする根性は相当なものだ。虐めを受けてへし折られていた当時の自分よりは格段に強靱だろう。

 兄貴のピーノも思わずニッコリ。弟の見せたガッツに賛辞の口笛をピィッと送る。

 

 『そいつ等の一人が刃物抜いて脅してみせるけど、兄貴は不適に笑うだけでビビりもしない。どこぞの顔だけ厳つい奴とは大違いでね』

 

 最も、話す内容は結局吾が仏尊しのお国自慢でしかないので、愛しの蓮乃は鼻にもかけない。

 

 「ぬー」

 

 いや、先とは異なり明確な不満の声を上げ不快そうに睨みつけている。

 

 「むー」

 

 目に入れる気も起きずに意識から外していたが、大好きな兄ちゃんを蔑むような台詞を見せられては黙っていられない。

 しかし元来子供っぽい蓮乃が憤怒と敵意を表情で示しても、端から見れば子犬が甲高い声で牙を剥いているようなもの。怯え竦む相手など居やしない。可愛がられるだけだろう。

 

 --こっち向いたぞ!

 

 『まあ、ケンカ百戦錬磨の兄貴と強面だけで生きてきた相手を比べるのは酷かな』

 

 実際、利辺にはご褒美でしかなかった。だから嫌われているのに今回も調子と図に乗ったの利辺は、よせばいいのに蓮乃が反応した正太への侮蔑を増やし始めた。

 運がいいのか悪いのか、止めに入って謝らせてくれる柳はトイレに行ってしまっている。ブレーキを掛けてくれる者はいない。

 

 「むう~っ」

 

 膨れ上がる利辺の自惚れと反比例して蓮乃の機嫌が更なる急降下を始める。自分の大好きな人をバカにされて楽しい筈もない。

 許容できる一線を越え、怒れる蓮乃はついに会話用ノートを開くと握りしめたペンで反論を刻みつけた。

 

 『そんなことない! 兄ちゃんは強いよ!』

 

 ほっぺたを赤く染めながら突きつけられたノートに、天使じみた利辺の口が醜く歪む。無視してた蓮乃を引きずり出せて気分は最高潮だ。

 その周りで蓮乃と利辺の口喧嘩を横から眺める子供たちは、口々に騒ぎ立て好き勝手に批評している。

 

 「ウキさんって強いの?」「さあ? 今日初めて会ったのに知る訳ないじゃん」「だよね」

 「でもピーノ兄ちゃんは強いよね」「うん、この間サマーソルトで人を蹴っ飛ばしてたの見たよ」「すげー! やっぱピーノ兄ちゃんカッコいいなぁ」

 「でも今の翔は格好悪いよね」「だね」「サイテー」「バッカみたい」

 

 オッズはピーノ>正太と、彼らにとって実績あるピーノの方が高い。正太について判っているのが「顔が厳つい」だけなのだから道理だろう。

 なお、周囲からの好意は蓮乃>>>>>>利辺となっている。他人を蔑んで大喜びしている今の利辺を鑑みればこれまた道理だろう。

 

 『兄ちゃんもなんか言って!』

 

 ぷんすかと怒った蓮乃は言われっぱなしを是正すべく正太に参加を要請する。

 しかし当の正太は渋い顔だ。一言二言反論した所で、利辺は嵩に懸かって見下してくるだけだろう。何せ蓮乃の文句すら快感に脳内変換できる御仁なのだ。

 

 それでも何かないかと正太は頭を捻るが、出てきたのは「柳先生が返ってくるまで待つ他なし」と憂鬱な結論でしかなかった。

 それまでは癪に障る得意満面の天使顔を眺めているしかない。もしも利辺の侮蔑先が身内同然の蓮乃だったら、地に頭をすり付けて謝罪するまで殴りつけているところなのだが。

 

 『代々顔だけなんだろうね。親の顔も想像つくよ』

 

 「おい」

 

 だから利辺が身内を貶した瞬間、暴力を振るわない理由は正太から消え失せた。血走った三白眼を見開いて牙じみた犬歯を剥く。人の嗤いは獣の威嚇を源流とするという。それ故にその表情は狂笑によく似ていた。

 

 「俺の面が気にいらんのはお前さんの勝手だがよ、知りもしない他人の親を貶めるのはどういう了見だ。おい?」

 

 「あ、い、え」

 

 瞬時に利辺の胸ぐらを掴んで額が触れ合う距離まで引き寄せる。レーザー兵器並の視線で網膜を焼かれて、ぶり返した恐怖と涙で利辺の目の前が真っ暗になる。

 

 感情の高ぶりが無意識に魔法『熱量操作』を使ったのか、正太の全身は真っ赤に色づき薄い湯気が立っている。魔法使用を検知した腕輪は電子音で注意を促すが誰も気づく様子はない。

 勝手気ままに批評していた子供たちも突然爆発した正太の怒りに言葉を失っている。

 

 「お兄さん、落ち着いて! 落ち着いてください!」

 

 キャラを作り忘れる勢いで必死に制止の台詞を叫ぶのは、子供たちで唯一正太の怒り方を知っている友香である。

 とは言え以前に見たそれよりも遙かに高温のキレっぷりに手を出し倦ねているのが現状だ。

 だから代わりに手を出したのは、この場で一番正太を知る蓮乃であった。

 

 『兄ちゃんやりすぎ!』

 

 顔前にノートを滑り込ませて利辺と正太を物理的に遮断する。布を被せられた猛牛と同じく、憎いあんちくしょうが見えなくなった正太も幾らか落ち着きを取り戻した。

 胸ぐらを掴む手を離すと腰を抜かした利辺がすとんと落ちる。

 

 『お前がそれをいうのか?』

 

 『そこまでしてとは言ってないよ!』

 

 正太からすればけしかけた当人が過剰だと止めるのだ。色々言いたくもなる。納得し難いと憮然の顔にもなるし、腹の底で煮えたぎる怒りはまだ解放を求めている。

 具体的には一発拳骨落としてやれと感情が沸騰しているのだ。クソガキにはきっちり詫びを入れさせない限り到底許す気にはなれない。

 

 だが如何に自分が正しくとも感情的になってしまえば周りは自分を加害者と見るだろう。外観的にも悪党なのはこっちだ。熱くなってたのは確かなのだ。

 まずは深呼吸が必要だ。大きく息を吸い、そして吐こうとする。その瞬間だった。

 

 「翔君には私の方からも言っておきますから、ウキさんもあまり怒らないでやってください」

 

 肩に触れた舞に不意をつかれて吐き出す寸前の息が一瞬止まった。

 

 「あ、ああ、俺も言いすぎたよ。すまなかった」

 

 止まった息を力付くで吐き出してそう返すのが精一杯だ。同時に正太の胸中と感覚に違和感が瞬く。

 

 何かおかしい。自分はクソガキを許す気など無かったはずだ。しかし発した台詞は許して終いにするものだった。咄嗟に口から出ただけか。ならば感じるこのチグハグはなんだ。

 

 突然現れた不連続な感覚を、正太は記憶と共に追いかける。正太が急に黙りこくったので少々心配を覚えたのか、蓮乃がノートを突き出した。

 

 『どーしたの? まだ怒ってるの?』

 

 『怒ってはいるが、話はお終いにしたから気にすんな』内

 

 心の疑問を優先したい正太は軽くあしらって会話用ノートを蓮乃に受け渡す。その瞬間、蓮乃の手と同時に目に入ったものが疑問を解いた。

 

 --腕輪……そうだ、魔法だ。

 

 現れて消えた感覚に近いのは、魔法を使ったときのそれだった。

 正太の魔法は熱量操作。体内の熱量(カロリー)を操作して運動能力や持久力、集中力を一時的に底上げするものだ。そして正太が魔法を使う時は『丹田で煮えたぎる溶岩を心臓で吸い上げて全身に流す』イメージをしている。

 それ故に正太は熱量(カロリー)が体内をどう流れるかをぼんやりとだが知覚しているのだ。

 

 その知覚がほんの一瞬、ねじ曲げられた流れの存在を訴えていた。だが、その場所が判らない。

 何かおかしいのに何がおかしいのか答えられない。間違い探しをしているようなもどかしさだけがある。

 

 正太に判るのは容疑者が舞と言うことだけだ。先の蓮乃の違和感、そして今の正太の違和感。両方とも舞が触れた直後ことだ。確証はなくとも嫌疑をかけるには十分だろう。

 方法は恐らく魔法か。考えてみれば正太は舞の魔法を知らない。それが他人の精神や肉体に操作するものである可能性はある。

 

 --だがしかし……

 

 そこまで急回転していた思考の速度を落とし、正太は舞を見つめる。涼やかに微笑む彼女の顔からは何一つ読みとれない。何でもないと当然の顔をしているばかり。

 厚い面の皮で犯行を隠しているのか、それとも本当に無関係な冤罪被害者なのか。コミュ障な正太には到底測りかねた。

 

 「どうしたの? 何かあったの?」

 

 そこで便所から急いで舞い戻った柳が顔を見せた。急に消えた子供たちの嬌声に押っ取り刀で駆けつけたにしては少々おっとりし過ぎである。

 尤も正太が突如ぶち切れて唐突に治まるまで、ものの一分かかっていない程度なのだから致し方ないだろう。

正太の爆発を浴びた部屋の空気は重苦しい沈黙に押し潰されている。

 なんだなんだと辺りを見渡す柳に、どーしたもんかと正太は口の中で意味のない言葉を転がす。

 

 「ええっとですね、これは「いやね、俺がちょっとシモい話しちゃったら皆ドン引いちゃったみたいでさ」

 

 正太の言葉に被せる形で、黙っていたピーノが突如嘘八百の口八丁で説得に動いた。

 

 「ピーノちゃん何やってるのよ、宇城さんも困ってるでしょ」

 

 「つい口が滑っちゃってさ。ごめんごめん」

 

 バツ悪げに顔だけで笑ってみせるピーノを、腰を落とした利辺は信奉めいた目で見つめる。情けなさと有り難みの混じった涙が滲む。

 

 「折角来ていただいたのに不快な思いをさせてしまってごめんなさいね」

 

 「……お気になさらず」

 

 深く頭を下げる柳を背にして、ピーノが浮かべる表情は正太へと明白なまでに意志を伝えてくる。

 冷たい敵意の視線を乗せた艶やかな笑み。

 可愛がってる弟分をいじめてくれた豚野郎を放って置いてはくれないだろう。

 

 「ほら、宇城さんにもちゃんと謝って」

 

 「いや、すまなかったね。悪い悪い」

 

 正太に向ける口調も声音も表情も謝罪の形を取っていながら、ピーノの目だけは明確に敵意を示していた。

 説得を買って出た訳も恨まれる理由も泣かせた利辺の件に違いない。このまま和やかに終わるとは想像しがたい。

 

 「にしても空気が随分と悪くなっちゃったね。いやー迷惑かけたかけた」

 

 「そう思うならちゃんと反省してちょうだい」

 

 軽薄に非を認めるピーノはむっつり怒る柳の小言に首を竦める。同時に目配せを利辺に投げた。

 

 --今回は庇ってやったが、これ以上失望させてくれるなよ?

 

 次はないと言外に伝える目線に、利辺はバブルヘッドの勢いで首を上下させた。

 兄貴の期待を二度と裏切る訳にはいかない。あの子のハートを穫る他ない。でも、どうやって?

 ピーノの真似しても、積極的に動いてもダメだったのだ。何か悪かったのか、何が悪かったのか。鼻を啜る利辺には未だ判らない。

 

 今後の展望はともかく最低限反省する弟の様子に納得したのか、ピーノは腹立たしい障害物へと向き直る。

 家族には疑われないよう自然な笑顔を見せて、相手には伝わるよう目線に蔑意を込めて。

 

 「じゃあさ、親睦も兼ねて運動でもしないかい?」

 

 親指で指し示す窓の向こうには手作りの背の低いバスケットゴールが鎮座している。鈍い正太でもいい加減気づいた。

 ピーノの狙いは自分の得意とするスポーツの試合に引きずり出し、苛立たしい正太を皆の目前で徹底的に叩きのめすことなのだ。

 正太は腹を立てると同時に大いに呆れた。意向返しにしては何ともガキ臭いやり口だ。大人に見えるのは外観だけで中身はクソガキとそう変わらない。

 きっと頭の中が同じだから仲がよろしいのだろう。なお、この台詞が自身と蓮乃にも綺麗に当てはまるが、その事に正太は一片も気づいていない。

 

 「やらないのかい? 自信がないなら魔法使用可のルールでもいいけど?」

 

 親切ごかした挑発で突っつき回すピーノに氷点下の視線で返した正太は考え込む。

 さてどーしたもんか。挑発に乗れば恐らく1on1のバスケになる。これを選んだ以上完勝して嘲笑できると狙える実力はある筈だ。

 逆に挑発に乗らなければどうなるか。適当な誤魔化しは餌を放るだけだが、皆の前で素直に認めればそれ以上はない。周りの視線が枷となって理不尽な責め様がなくなるからだ。

 

 どう考えても挑発に乗らないのが賢い選択だろう。目の前のチョコレート野郎ことピーノと、クソガキこと利辺に侮られる他に実害はない。

 多少の恥をかいたとしても場を丸く治めるのが大人のやり方だろう。それが度量のある器の大きい人間というものだ。

 そうありたいと常々自分は考えている……その筈だ。

 答えは出ているが正太の口は開かない。むっつり黙りこんだ正太の袖を横合いから蓮乃が引っ張った。

 

 『兄ちゃん、なんかやるの?』

 

 会話が聞き取れないながらも周囲の雰囲気から読み取った蓮乃は期待に満ちた瞳で正太を見つめる。事情が判っているのかいないのか。

 多分、何するか興味津々なだけだろう。気の抜けた長い息を吐いて、正太は蓮乃の頭をくしゃりと撫でた。

 どうやら自分はまだまだ子供で器も随分と小さいようだ。連中にこうも嘗められて、蓮乃にこうも期待されては、やらない訳にはいかないのだから。

 

 「いいよ、やろう」

 

 「そうこなくっちゃ。じゃ、試合中に魔法使ったら相手に三点ってことで」

 

 そこで思い出したようにピーノは付け加えた。

 

 「ああ、それと俺の魔法は『接地面重力作用』な。簡単に言えば壁を走れる魔法だ。」

 

 「俺の魔法は『熱量操作』だ。脂肪を消費して運動能力を上げられる。二つ名とかは無いよ」

 

 「なるほど、魔法にお似合いの体型なことで」

 

 「心配しなくても魔法は使わないよ。無しで十分勝てるからな」

 

 嘲りを込めて妖しくも危険な笑顔で応じるピーノ。獰猛極まりない笑みで応える正太。二人の合間で空気が音を立てて歪んだ。



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第四話、二人が友達の家に行く話(その五)

 --速い!

 

 ボールに触れるや否や褐色の風が駆け抜けた。流れる風を思わせる影がチョコレートの色を伴って滑らかにバスケットへと向かう。

 疾風迅雷と熟語にあるがピーノの動きは正に疾風そのものだった。ネコ科の猛獣じみたしなやかな跳躍と共にボールが放たれてゴールに吸い込まれる。

 音もなくリングを通り抜けたボールには地面に当たる音もない。それより早くピーノが掴み取って見せたからだ。代わりに響くのは子供たちの歓声だった。

 

 「おぉーっ! ピーノ兄ちゃんスゲェ!」「今の見た!? アリウープだ! アリウープだぞ!」「壁走れるのは知ってたけど飛べるなんて知らなかった……」

 

 皆の兄貴が見せたスーパープレイに誰もが興奮を隠せない。熱狂と歓喜以外の顔をしているのはごく少数だ。

 ピーノの独壇場になってしまって客が不快にならないか心配な柳。この後どうやってピーノと利辺を押さえ込むか笑顔の下で考え込む友香。舞もまた正太と蓮乃を見てなにやら考え込んでる様子。

 

 「なーもーっ!」

 

 それと正太の応援に忙しい蓮乃も興奮してるが歓喜はしてない。

 そしてThe Walkめいた跳躍を見せたピーノ自身と、それを厳つい顔で見つめ返す正太の二人は興奮からほど遠い表情をしている。

 片や仏頂面から冷たい視線を発して、一方は軽薄な笑みに嘲笑を忍ばせている。楽しげに呟く声音にも余裕と優越感が滲む。

 

 「これじゃ試合にならないかな?」

 

 「……そうでもないさ」

 

 投げ上げられたバスケットボールを見つめながら、正太は虚空に向けて返事を呟いた。ピーノの蔑笑が深まる。固まるばかりで何も出来ない豚が何を言うか。

 だが野生の猪は一撃で猟犬を殺し、時に狩人を返り討ちにするのだ。ボールに手を伸ばすピーノは次の瞬間にそれを思い知ることになった。

 

 「っ!?」

 

 手の中にあるはずのボールがない。そもそも触れることすら出来なかった。ボールは何処に?

 それは正太の手の内にある。体型は太いが運動能力は高い。停止状態から僅か数歩でトップスピードに入り、ロケットの速度でゴールへ一気に迫る。

 先のピーノが疾風ならば、今の正太は迅雷そのものだ。追いかけるピーノを置き去りに正太は跳ぶ。ピーノのような滞空時間も華麗さもない。

 だがそれを補って余りある速度と力強さが跳躍する全身に満ちていた。

 

 「ふんぬっ!!」

 

 轟音を響かせて叩きつけられるダンクシュート。子供たちはバスケットゴールが折れ曲がるのを生まれて初めて見た。同径の鋼鉄より軽く強い真金竹(マガネダケ)の支柱が悲鳴を上げて変形する。

 強靱なCNT繊維は何とか衝撃に耐え抜いたものの、その軽さが災いし自身の弾性力には耐えきれない。子供たちはバスケットゴールは宙を跳ぶのだと初めて知った。

 

 「あ」「お」「え」

 

 ピーノと違い喝采の声は上がらなかった。否、上げられなかった。

 目で追えない程の瞬発力と、有無を言わさぬ豪腕力。観客の予想をもねじ伏せる一方的なまでのパワープレイに子供たちも言葉を失うばかり。

 

 「なーおーっ!」

 

 叫ぶのは兄ちゃんの活躍に目を輝かせて両手を振り回す蓮乃だけだ。

 撥ね跳んで倒れたゴールを片手で立て直し、正太はピーノへと猛獣じみた笑顔を送った。

 

 「ほら、試合らしくなったろ?」

 

 歯を剥いて笑う獰猛な顔は『これからお前を喰い殺すぞ』と宣言するかの様。

 返事代わりにピーノは猛禽の視線で艶やかに微笑む。正太への返答はこうだ。『その前に刺し殺してやるよ』

 

 試合が再開し、もう一度ボールが投げ上げられる。余計なお喋りも一欠片の油断もない。あるのは殺意じみた対抗心と勝利への強烈な執着心だけ。

 

 「ふっ!」「フッ!」

 

 瞬発力はこっちが上か、先にボールに触れたのは正太の手だ。そのまま腕力にものを言わせて無理押しでボールを抱え込みにかかる。

 だがボールは不細工がお嫌いなようで、するりと正太の手の中から逃げ出した。手引きした下手人は当然ピーノだ。

 

 「っ!」「あらよっと!」

 

 何人もの女性を天国に送ったテクニックはボール相手でも優しくリードする。ボールを奪い返そうと遮二無二に暴れるが、華麗な空中戦はピーノが二枚も三枚も上手だ。

 空中で両手を振り回すだけの正太では軽やかに宙を舞うピーノを捕らえきれない。獲物をくわえた豹のように音もなく着地し、ピーノは流れる体捌きで一足先にゴールへと向かう。

 

 「お先!」「チッ!」

 

 出遅れた正太は即座に砲弾の勢いで飛び出した。噴煙じみた土煙を巻き上げ先行するピーノへ食らいつく。

 

 「せいっ!」「よっ!」

 

 ボールめがけて突貫する正太をするりとかわすピーノ。風に流れる羽毛の軽やかな動きは捕らようにも捕らえきれない。しかし捕らえきれないからといってむざむざ逃がすつもりは毛頭ない。

 

 「ふんっ!」「っと!」

 

 餓えた獣じみて執念深くボールを付け狙い襲いかかる。羽毛に触れるだけの丁寧も器用もなしに暴れ回った処で、舞う一葉を捕らえきれるはずもない。

 

 「このっ!」「あぶなっ!」

 

 しかし虚仮の一念、石の上にも三年。

 暴れ回るその動きは落葉を吹き散らす。諦めを知らない正太の暴れっぷりは、淀みなくステップを踏むピーノでも回避に専念せざるを得ない。

 

 「そらっ!」

 

 それでもバスケットボールの経験はピーノが長ける。がむしゃらな正太の不意をついた柔らかなシュートが流麗に弧を描く。

 

 「ふんぐっ!」

 

 遅れた反応をがむしゃらの無酸素運動で補って、歯を食いしばり腕を振り回す。正太の執念が実ったのか掠めた腕はボールが描くはずだった完璧な軌道を乱した。

 

 だが、ピーノは物理的にも技術的にもその上を行った。軽やかに空を跳んだピーノは弾かれたボールを優しく捕まえてみせた。

 

 「よい、しょっと!」

 

 その上、圧倒的滞空時間にものを言わせて、這いずる正太を後目にそのままリングへとボールを叩きつける。反動でバスケットゴールが小刻みなステップを踏んだ。

 

 「「「ウォォォッ!」」」

 

 興奮しきった性徴前の甲高い声が再び厚徳園の広場を満たした。誉め称える子供達へと手を振って答えると、ピーノは満面の微笑みで慇懃無礼に一礼をしてみせる。

 中指を突き立てる代わりに、プロばりの空中殺法で同じダンクシュートを御贈呈。皮肉の利いた切れ味鋭い意趣返しに正太の猛々しい笑みが深まる。

 

 イジメを受ける前なら心折られて不細工な泣き顔を晒していただろう。蓮乃と会う前なら断って戦う前に逃げていただろう。

 だが今は違う。胸の内に満ちるのは煮えたぎる闘志と燃え上がる戦意だけ。尻尾を丸めるつもりもケツをまくるつもりもない。

 

 「うぉぉぉっ!」

 

 三度投げ上げられるボールを前に正太は吼えた。

 

 

 

 

 

 

 「はーっ、はーっ、はーっ」

 「ゼェッ、ゼェッ、ゼェッ」

 

 荒い息の二重奏が響く。滝のように止めどなく汗は流れ、荒れた呼吸は収まる様子を見せない。

 外観に反して運動が苦手ではない正太だが、最近の運動不足が祟ったのか骨が軋む急加速急停止の連続で膝が震えて止まらない。

 しかしストップ&ゴーで付きまとわれたピーノの体力も底をつき、ふらつく体を抑えられないでいる。

 

 ここまで一進一退の展開が続いている。

 ホワイトボードの得点表示では僅かにピーノが勝っているが、今までもこの程度の点差なら瞬く間にひっくり返されてきた。二人のどちらにも油断はない。

 審判役の子供が持つボールに穴を開けそうな視線が突き刺さる。お陰で少年は随分と居心地悪そうだ。

 

 「ええっと……いくよ! それっ!」

 

 「ぬぅぅっ!」「ぐぅぅっ!」

 

 残り少ないスタミナを気力で補い、苦痛じみた吼え声で投げ上げたボールに飛びつく。最初と比べれば明らかにジャンプの到達点が低い。二人とも限界が近いのだ。

 それでも意地で悲鳴を上げる全身を動かす。

 

 「ぃよし!」

 

 今回、ボールを手にしたのは正太だった。体を丸め込んで不格好にボールを抱え込む。見栄えなどこの際気にしていられない。元々あって無いような格好良さなど勝利のために捨ててしまえ。

 

 「くそっ!」

 

 普段のピーノならこの程度の防御など、するりと抜けてボールを奪い取れただろう。

 しかし、疲れ切った今は正太の隙間を狙い澄ますことができない。できるのは不器用なドリブルで走る正太の後を追いかけることだけ。

 それでも加速力はともかく最高速度も足の長さも上回るピーノが距離を詰める。

 

 互いの残り体力を考えれば、もうダンクを狙える体力はないだろう。正太のシュートが下手なことは試合を通してよく判っている。

 ゴールを外したボールを掠め取り、横合いからシュートを決めるのが上策だ。ゴールを外した瞬間にボールへ飛び込めるよう、歩幅を調整し末脚をため込むピーノ。

 

 だが、正太は跳んだ。

 

 「ふぎぅっ!」「っ!」

 

 悲鳴にしか聞こえない雄叫びを上げながら、ボールを振り上げて正太は跳躍する。見開かれた目は血走り、噛みしめた歯の隙間から泡が漏れる。

 出せる全てを絞り出しての大ジャンプ。それでもぎりぎりボールがバスケットに届くかどうか。いや、届かないか?

 

 「なーっ!」

 

 最後の最後、僅かに聞こえた声が正太の腕を数cm動かした。轟音と共にボールは引っかかることなくリングを抜けた。これで点差はゼロだ。

 可能なら蓮乃にガッツポーズの一つでも見せてやりたい。できれば対戦相手に皮肉の一つでもぶつけてやりたい。

 だが無理矢理で限界突破した無酸素運動の結果、正太には着地に必要な酸素が足りなかった。

 

 「ぬぐぉっ!」

 

 そして昔からの標語の通り、車は急に止まれない。空中では急停止も利かない。そもそも着地も停止も考えずに跳んだのだ。

 盛大な騒音を立てて正太は大地と熱烈な抱擁を交わした。

 

 「なーまっ!?」

 

 正太の強烈なハードランディングに蓮乃は思わず心配の大声を上げる。蓮乃的には正太は絶対味方のスーパーマンだが、それでも三回転半ひねり擬きで地面を跳ね飛ぶ姿は流石に心配をせざるを得ない。

 だけどやっぱり蓮乃の前なら正太はスーパーマンだ。

 

 「大丈夫だ! 心配すんな!」

 

 停止した正太は即座に立ち上がり、無問題と蓮乃へ手を振ってアピールする。擦り傷が焼けるようにひりついて打撲跡が痺れる程痛むが、少なくともやせ我慢で意地を張れる位にダメージは浅い。

 元気一杯だと格好付ける正太の主張に、安心したのか蓮乃は緊張を解いて息を吐いた。

 

 「宇城君、大丈夫!? どこが痛い!?」

 

 しかしながらこの場を預かる柳にしてみればとてもじゃないが安心できない。正太が大地と摩擦熱で熱い一時を味わう姿を見て、柳は焦燥の顔ですぐさま駆け寄った。

 幸い、厚徳園で子供たちの怪我を見てきた経験からさほど重いものではないことはすぐに判った。

 

 「誰か救急箱持ってきて!」

 

 だからといってこのまま試合再開していいような傷でもない。子供の遊びだからと、ここまで無茶するとは想像していなかった。完全に自分のミスだ。

 後悔にほぞを噛みながら甲斐甲斐しく負傷を診る柳の姿に、ピーノの眉根が僅かにつり上がる。幸いそれに気づく者はいなかった。

 

 「大丈夫です! 頑丈なのが取り柄ですから!」

 

 「そういう問題じゃないでしょう? 傷口洗って打ったとこ冷やすから水道まで行くわよ」

 

 男の子はやせ我慢して格好付けたがるものだが、怪我相手に意地を張るものではない。一時は無茶できるかもしれないが、後で利子付きの代償を払う羽目になるのだ。

 

「だから大丈夫です! 最後までやらせてください!」

 

 「ダメです、まずは怪我を治してから。試合はドクターストップです」

 

 止める柳に頼み込む正太だが、柳は頑として首を縦に振らない。正太からすればなんとしても勝ちたい試合だが、柳からすればありふれた日常の一幕だ。負った怪我を押してまでするような事ではない。

 礼儀正しい態度に、年上としての蓮乃への接し方。柳は今まで見た正太ならば納得して引き下がる筈だろうと踏んでいた。

 しかし、正太は柳の想像より遙かにガキだった。

 

 「なら治します! ぬぅぅん!」

 

 子供のワガママじみた宣言と共に、正太の全身が赤く色づく。同時に腕輪が魔法使用をビープ音で訴え出した。

 正太の魔法は『熱量操作』。体内の熱量(カロリー)を動かして基礎能力を底上げし、持久力を引き上げる。そして運動力を活性化できるなら、回復力も活性化できない筈はない。

 丹田の溶岩を細胞に注ぐいつものイメージに加えて、傷口周りに流れ込む熱を調整し細胞に留まらせる想像図を意識下に描く。

 

 残り少ない体力を反映してか脳内に映る下っ腹のマグマは底が見えそうな程大きく嵩を減らしている。故に慎重に無駄なく熱流のイメージを操る。

 擦れてめくれ返った皮膚細胞と毛細血管に熱量を送り、かさぶたの形成と組織の再生を促す。皮膚の下で千切れた血管を迂回し、内部に溢れ出た血液を吸収させる。

 

 脳裏に映し出される余りに鮮明な体内イメージの通り、擦り傷から滲んだ血が見る見る固まって色づき始めた青あざが瞬く間に消え失せた。

 正太の願望じみた予想を魔法が現実に変えたのか、妄言じみた宣言通りに正太は傷を癒して見せた。

 外気を肺一杯に吸い込み、長い息で余った熱量を吐き出す。吐き出す息は冬場でもないのに白く煙り、火傷しそうな程の熱を帯びていた。

 

 「これでいいですよね?」

 

 ズレた自信に満ちた正太の顔は、いつもの蓮乃のドヤ顔にどことなく似ていた。唖然とする柳を無言の抗議と誤解したのか、正太は更に柔軟体操で完調をアピールする。

 膝を曲げ伸ばし、背筋を折り曲げ、腰を捻り戻す。多少痺れる程度で特に痛みはない。動いた拍子にカサブタが剥がれ落ちたが、その下には再生したばかりの濃い桃色の皮膚が張っている。傷一つない。

 

 「ほら、大丈夫です。じゃ、試合再開ということで」

 

 呆然とする柳を取り残し、正太はコートの真ん中に舞い戻る。一本指の上で回していたボールを審判役に手渡し、ピーノは正太に向き直った。

 

 「バカは風邪引かないと聞くが、傷の治りも早いんだな」

 

 「そうバカにしたもんでもないぜ。三点もってけよ、すぐに取り返してやる」

 

 「試合中って話だろ。そんなもんいらねぇよ。バカも休み休み言え」

 

 「バカ言ってろ」

 

 敵意を込めた軽口を叩き合いながら呼吸を整えていく二人。試合再開まで不意をつくような真似はしない。この腹立たしい野郎には真っ正面から勝たねば意味がない。

 体力的にも時間的にも、何より柳的にもこの一回がラストだろう。何せ勢いで押し切っただけで柳は一切納得していない。少なくとも睨みつける視線と堅くひきつった表情はそう訴えている。

 ついでにさっきのダンクで点差は無くなった。つまり次にボールをゴールに入れた側が勝者だ。

 

 「せーの、それっ!」

 

 「ふんっ!」「ぬぅっ!」

 

 そして審判役の少年はボールを投げ上げた。

 

 同時に跳んだつもりだった。だが、先の負傷は完治していなかったのか、あるいは先の回復で残り少ない体力を更にすり減らしてしまったのか、正太はピーノに半瞬出遅れた。

 

 「糞っ!」「よしっ!」

 

 先に触れさえすればテクニックに優れるピーノが当然ボールを確保する。体力十分ならピーノは淀みなくドリブルへつなげて流れるようなシュートで点を稼いだだろう。実際、得点の多くはそうやって重ねたものだ。

 しかし疲労と消耗はピーノから滑らかという形容詞を奪っていた。着地で崩れたバランス、反射的な踏ん張り。ほんの僅かな、しかし常と比べれば余りにも長い停止。

 

 「ふんぐぁ!」「畜生!」

 

 それを見逃す道理はない。猛獣を通り越して怪獣か魔獣じみた声を上げて正太は躍り掛かった。乱れた平衡を取り戻すそうと硬直した体では猪突猛進に対応しきれない。

 豪腕に奪い取られたボールは、荒っぽいドリブルで地面に叩きつけられながら一路ゴールへと向かう。このままダンクシュートで勝利は確定か。

 

 いや、しない。なぜなら接戦を繰り広げ大いに疲労し消耗したのは正太もまた同じなのだ。

 飛ぶかの如く跳ぶ加速力はとうに失われ、ドタドタと不格好に両足を動かすばかりで迫るピーノを振り切れない。それどころか容易く追いつかれつつある。

 

 「寄越せっ!」「御免だ!」

 

 ゴール下で追いついたピーノは正太が不格好にドリブるボールを奪い取りにかかる。疲労のお陰で華麗な技巧が粗雑な素人仕事に落ちぶれたピーノでは、正太が抱え込むボールをかすめ取れない。

 しかし消耗の余り猛獣の剛力が子犬の甘噛みに零落した正太では、ボールをしっかり握り込むだけも難しい。

 

 ハイレベルな一進一退を繰り広げていた二人の争いは、同様に疲弊して低水準な五十歩百歩の比べあいになり果てた。戦いは同じレベルでしか生じないと言うが、奇しくも高低両方で二人は拮抗している。

 

 「意地汚く、抱え込んで、いるんじゃねぇよ! 豚かよ、手前は!? 豚だな、手前は! この、デ豚野郎!!」

 

 「うるっ……せぇ! 取れねえのは……手前が下手クソな……だけだろうが! 豚に食われてろ……クソ色チョコ擬き!」

 

 「ピーノ兄ちゃんうわぁ……」「かっこわるぅ……」「だめだありゃ……」

 

 ついでに口喧嘩も子供のそれと同レベルだ。ゴール下の争いは色んな意味で泥仕合と化していた。

 泥めいた罵声を投げつけあって見苦しく争う二人の醜態を前に子供達の目が加速度的に濁っていく。

 

 「もーなっ! にー!」

 

 言葉を聞き取れない蓮乃はある意味幸いだった。大好きな兄ちゃんがあの様でも純粋に応援できるのだから。

 

 「いい加減に、しろ!」「お前が……してろ!」

 

 戦争の無意味さを教えてくれるように醜くのたうち回る二人。死ぬまで続きそうな見るに耐えない取っ組み合いだが終止符は唐突に打たれた。

 

 「んぐぅっ!」「うぉっ!?」

 

 ピリオドを叩き込んだのは断末魔じみた叫び声と共にボールを強引に奪い返した正太だった。

 ボールを奪われた反動で大きくたたらを踏むピーノを後目に、生まれたての子鹿並に震える手足で正太はシュートの体勢に入った。試合中でゴールに入った正太のシュートはない。

 だがダンクを決めるだけの燃料もどこにもない。残る体力はタンクの底を浚って集めた最後の一滴。ならばこの一発で決めるのだ。

 

 「ぜぇっ!」

 

 疲れに疲れ余計な力を失ったことが功を奏したのか、手から放たれたボールは当の正太が驚くほど綺麗なアーチを形作った。時が止まったように誰もが声無く見つめる中、運動方程式に従って美しい放物線を描く。

 『魔法』でも使わない限り、必ず入ると誰もが確信した。だから誰も予想していなかった。

 

 「せぃっ!」

 

 正太同様に限界な筈のピーノが、シュートの高さに追いついてボールを掴み取って見せる姿を。

 

 「なぁっ!?」「もっ!?」

 

 試合開始のボール争いを越える程の異常な跳躍を前に、正太と蓮乃が共に呆けた声を上げる。

 兎に角ボールを追おうと正太は半ば条件反射で膝に力を込めるが、パンクを思わせる勢いで足から一気に力が抜けた。最後の一滴まで絞りに絞った正太にはもう何も残ってはいなかった。

 

 崩れる正太を後目に空中のピーノは体を捻る。子供達の応援も、正太の雄叫びも、耳障りな電子音も、極限の集中が全ての音を消しさる。

 位置、体勢、重さ、体力、出力。無数の情報が無意識を走り抜け、優れた直感は瞬時に答えを弾き出した。

 

 「ふっ!」

 

 押し出すように放ったシュートは一直線にピーノのゴールへと迫る。それでも消耗しきった肉体が誤差を生じたのか、ボールはリングと衝突してほぼ真上に跳ね上がった。

 ボールの行き先を知るのは幸運の女神のみ。ピーノも正太も声もなく見つめる中、ボールはただ重力加速度に従った。

 

 そして女神は……ピーノ・ボナに微笑んだ。

 

 「うぉぉぉっ!」「やったぞ! 勝ったぞ!」「スッゲー! スッゲー!」

 

 ボールが音もなくバスケットを通り抜け、途端に子供たちの歓呼の声が跳ね上がる。

 途中お見苦しい映像はあったものの、確定シュートの奪取から空中スリーポイントで試合終了と最後はキッチリ締めて見せた。終わりよければ全てよしだ。

 

 全身全霊を使い果たしてその場に腰を落とすピーノ。視線の先で正太は口惜しそうに地面に拳を突き立てている。

 

 --ほんとに何度見てもピンとこない奴だ。

 

 蓮乃ちゃんはさておいて、あいつの事は一切感性に触れない路傍の石だと思っていた。直感は容易く勝てると謳っていた。感覚も一方的な勝利を予言していた。

 しかし蓋を開けてみれば死闘に次ぐ死闘で辛勝もいい処だ。いつも直感に従い感覚に任せて生きてきた。それで必ず正解だった。間違いを示したのは生まれてこのかた初めてだ。

 だが勝ちは勝ちだ。

 

 「アイツ相手に接戦を演じるなんてびっくりしたけどさ、格好良くキメたよね! やっぱ兄ちゃんだよ!」

 

 いの一番に駆け寄った利辺は『兄貴』呼びのカッコ付けも忘れて大はしゃぎで両手を振り回す。バカな子ほどかわいいと言うが言葉通りに愛おしい弟に手を振って応えるピーノ。

 不意に目に入った手首の『腕輪』が表示を変え、電子音が消えた。表示窓をマジマジと眺めるが、映し出される文字は平常を意味している。

 

 つまりそれは異常から平常へと表示を変えたということだ。そして『腕輪』、すなわち特殊能力確認用携帯機器が示す異常とはただ一つ、(違法な)『魔法』使用への警告に他ならない。

 ピーノには『魔法』を使ったつもりも記憶もなかった。だが機械は嘘をつかない。そして無意識に魔法を使ってしまうことはままあることだ。

 

 可能性があるとしたら最後のジャンプかシュートかその両方か。疲労しきった肉体ではあり得ないほどの跳躍に、異様なまでの滞空時間からのロングシュート。どちらでも両方でも可笑しくはない。

 

 『試合中の魔法使用は相手に三点』

 

 自分がそう言った。そう決めた。なら勝ったのはどっちだ?

 

 反則があったなら普通は一度試合を停止する。つまり最後のスリーポイントは無かったことになる。それなら三点贈呈でピーノの負けだ。

 ありとしても正太への三点で点差はゼロのまま。その場合は引き分けとなる。

 

 --どちらにせよ、俺の勝ちじゃない。

 

 そう自覚した瞬間、胸の内にあった熱くも心地いい勝利の残照が瞬く間に冷めた。弟の賞賛も子供たちの歓声も一気に色を失ったかのよう。

 代わりに冷たい敗北感と黒々とした自分への怒りが腹の底から吹き上がり臓腑を凍らせていく。

 レーザーじみて敵意を収束させた視線が肩を落としてうなだれる正太へと突き刺さる。

 

 しかし疲労困憊の正太が反応することない。それよりもと気合いで優しい笑顔を浮かべ、心配げに駆け寄る蓮乃の頭を撫でた。

 

 「なーうー……」

 

 『応援ありがとうな。でもすまん、負けちまった』

 

 正太の力ない言葉に蓮乃は逆に奮起する。兄ちゃんが落ち込んでいるなら私が頑張らなきゃ!

 

 『頑張った! 感動した! 次は勝ってね!』

 

 『ああ、そうするさ』

 

 いつの時代のネタだといつも通りにどこかずれた蓮乃の励ましに苦笑を浮かべながらも気合いを入れ直す正太。その目がピーノの暗く凍った視線とかち合った。

 

 どうやら向こうさんも納得し難い結果のようだ。初めの言い草からすれば楽勝快勝全勝のつもりだったのだから、辛勝は期待はずれもいいとこだろだろう。

 だが、こっちも心境はそう変わらない。だから次は勝つ。

 

 敵意に凍り付いた瞳に戦意に焼ける目線を投げ返す。同じ感情を込めながらも温度の異なる視線が交差する。

 

 「はいそこまで」

 

 平板な柳の声が二人の目を強制的に常温に叩き戻した。

 

 「二人とも、そこに直りなさい」

 

 柳と初対面に近い正太だがこの手の声には覚えがある。粗相した自分を父が容赦なく締め上げるときの声音だ。浮かべる表情もそれと相違ない。

 僅かに目線を動かせば、それが正解だと言わんばかりにひきつって青ざめたピーノの顔。

 土気色のチョコレートと笑ってやりたいところだが、多分自分も屠殺場行きを自覚した豚みたいな顔をしている処だろう。

 

 容赦ない小言の大嵐をやり過ごすべく、二人は肩を竦めてうなだれた。不意にぶつかった互いの視線は、今度は同じ色で同じ温度だった。

 

 「いい、二人とも!? スポーツするなとか運動するなとか言うつもりは全くないけど怪我する為にやってるんじゃないでしょう!? 試合に勝ちたいのは判るけど……

 

 つまり、これから来るお説教への疲弊の色と諦念の温度をしていた。



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第四話、二人が友達の家に行く話(その六)

 「おつかれ~」

 

 誰に聞かせるとも無しに疲労を宣言しながら正太はベッドに飛び込んだ。代えたばかりのシーツは柔らかに冷たく、風呂上がりの肌に心地いい。

 

 「蓮乃ちゃんのお世話、ご苦労さん」

 

 宛先のない言葉に妹の清子が苦笑いで答えた。

 

 「今日は別件で疲れたよ」

 

 「別件? 今日は蓮乃ちゃんのお友達の家に行ったんだっけ?」

 

 「そ」

 

 短音の単音で応じつつ正太は今日を想起する。

 葛折りの坂、スコーン配り、友香の『親友』、クソガキの暴言、チョコレート野郎との接戦、グラウンドに正座してのお説教。

 色々ありすぎて疲労の溜息が出てくる。

 

 「その友達の氷川さんはいい子なんだけどね。以前話したロクでもないのが突っかかってきてさ」

 

 「ああ、あの」

 

 直接会った事はないが清子も話には聞いている。聞いた話よれば、天使じみた外観のおガキ様とその背中を面白全部で押しに押す色黒美形な兄貴分。

 人間は顔じゃないなんてお為ごかしは言うつもりはないが、それでも会いたいとは一片も思えない連中だ。

 

 「そんで、チョコレートっぽい方からバスケの試合挑まれて…………負けた」

 

 「何で受けたのよ」

 

 外観に反して正太は随分と運動ができる方だが、小学校時代の転校以ロクに運動をしていない事を清子は知っている。

 試合を挑む以上相手には勝算と勝機が有ったはずだ。考え無しの条件反射で応じて勝てるとは思えない。

 

 「ここで引いたら男が廃るってやつさ」

 

 「格好付けても結局負けてるじゃない」

 

 寝っ転がったまま肩を竦めるが、清子の台詞にはグウの音ぐらいしか出ない。それでも、と正太は一応反論を試みる。

 

 「一応、一点差の惜敗くらいにはもっていけたんだがね」

 

 「あら、頑張ったじゃないの」

 

 話しぶりからしてボロ負けかと思っていたが、思いの外いい勝負をしていたようだ。しかし正太の顔に浮かんでいるのは、鎬削るいい勝負を終えたというにはほど遠い表情。

 

 「それにしちゃ浮かない顔だけど」

 

 「そりゃ勝てると思ったところで負けたからな」

 

 惜しくも負けるから惜敗だ。惜しくも悔しくもなんともないならそんな呼び方はしない。

 

 「ま、次は勝てるようにしなさいな」

 

 「蓮乃にも言われたよ。言われた以上、次は負けんさ。必ず勝つ」

 

 曇った顔の一枚裏には、ぎらつく熱が滾っていた。前の虐め以来、久しく見なかった気合いの入った兄の表情に清子は表情を緩めた。

 

 「蓮乃ちゃんに格好いいとこ見せてあげなよ」

 

 「おう、今度は……」

 

 

 

 

 

 

 同時刻。宇城兄弟話題の人物であるピーノは、布団にくるまりじっと天井を見上げていた。厚徳園の夜は早い。柳を筆頭とした職員たちがTVも照明も一つ残らず消灯してしまう。

 とは言え、遊びたい盛りの子供たちはそう簡単におねむとは行かず、隣近所の布団の合間でしばらくお喋りは絶えないのだが。

 しかし今日のピーノは酷く静かだった。

 

 「どうしたんだろう?」「なんかあったのかな?」

 

 同じ部屋の子供たちが訝しむ程には異様だ。普段ならば就寝時間後も子供らと一緒に騒いでは職員から叱り飛ばされるのが常だが、本日は就寝時間を過ぎたらさっさと寝に入ってしまったのだ。

 不思議がる弟達の声をBGMにまんじりともせずにピーノは天井を見つめる。その目が映しているのは積層合板の天井板ではなく、辛くも勝利を得た本日の試合であった。

 いや、ピーノの内面においてあれは勝利ではない。引き分けか負けかは判らないが、反則を犯していたのは自分だった。

 

 ピーノはセンスと才能の塊ではあるが負けたことは相応にある。バスケにしても努力と才能を併せ持つ本気のプレーヤーには早々勝てない。

 しかし彼らのように敗北に悔し涙をこぼすようなことはなかった。それは本気にならない遊びだったからか、或いは直感が先んじて敗北を告げていたからか。

 

 それが今、涙こそ無いが胸の内で屈辱の苦い氷が冷たく堅く凝っている。直感の導きに従えば軽く潰せる相手だった。センスの物差しで測れば「論外」の二文字で終わる相手だった。

 それなのに存分に食らいつかれ全く引き離せず、終いには自覚無しの反則行為で負けと何一つ変わらない勝ちを拾う始末。

 

 あんなものが勝ちである筈がない。生まれて初めて得たどうしようもない悔しさ。これを晴らす方法はただ一つ、勝利を於いてほかにない。

 ピーノの口から言葉が決意が滑り出る。それは奇しくも正太と同じタイミングで、正太と同じ台詞だった。

 

 「次は……」

 

 

 

 

 

 

「「言い訳の仕様もないくらい徹底的に負かしてやる」」

 

 

 

 

 

 

 「これでいいの」

 

 抱えた膝の合間に自分にすら聞こえない呟きをこぼす。聞こえてはいけない。すぐ近くで『あいつ』が、舞が眠っているのだから。

 初夏の夜は十二分に暖かい。だから布団の中は暑いぐらいなのに、友香はさらにきつく体を丸める。寒さを堪えるように、或いは痛みに耐えるように。

 

 「全部巧く行ってる」

 

 蓮乃と舞の顔合わせは狙い通りにいった。舞の地雷である『親友』に触れるトラブルはあったが、そこは正太が上手く取りなしてくれた。

 このまま厚徳園に二人を繰り返し呼び寄せて、蓮乃と舞とどんどん仲良くさせる。そうすれば自分はお役御免で解放されるのだ。

 

 「大丈夫」

 

 釘を刺していた筈の利辺が動いたのは想定外だったが、そのお陰でピーノと正太の関係性は改善された。好意の反対は無関心。目も合わせない間柄からいがみ合いう相手となったのなら、それは進歩と言えるだろう。

 少なくとも正太が嫌がって蓮乃も厚徳園に来なくなる最悪のシナリオは避けられた。

 

 「問題なんかない」

 

 舞の求める『親友』に、自分より遙かに蓮乃は理想的だ。子供っぽく明るく素直で、色も姿も舞と綺麗な対照形。蓮乃が舞の『親友』になれば全ての問題は解決する。

 それまでの辛抱だ。そうなればもう舞になにもされなくて済む。でも、『親友』になった蓮乃は?

 

 「これでいいの」

 

 もう一度繰り返して友香は目を閉じた。蓮乃は舞の描く『親友』そのもの。自分のような『調整』なしに舞は満足するはずだ。

 自分はあんな目に遭わされてるのに蓮乃ちゃんは何にもされない。罪悪感と逆恨みと。矛盾する感情が胸中でグルグル回る。

 

 まんじりともできないのに夜はまだ長かった。

 

 

 

 

 

 

 夜更かし大好きな世の子供達とは違い、蓮乃の夜は基本的に短い。早寝早起きな向井家の一人娘は20時過ぎには布団の中で夢の中だ。布団を被って目を閉じれば、次の瞬間にはもう太陽が昇っている。

 毎晩快眠、毎朝爽快。健康優良児童の夜に悩みはない。悩み多い母が時折暗い目をして見つめるほどに。

 

 「にー……なー……」

 

 いつも正太にそうするように掴んだ布団を揉んでこねて抱きしめる。

 

 「にへへへ……」

 

 餅肌の頬を枕にすり付けながら煮餅のようにとろけた笑みを浮かべて寝言を漏らした。正太と一緒にぼた餅を頬張る夢でも見ているのだろうか。美麗衆目に整った顔立ちが台無しな方向に愛くるしい。

 

 蓮乃の幸せな夜はいつも通りに今日も短い。

 

 

 

 

 

 

 家族と再戦の決意を誓う正太。

 

 一人報復の意志を固めるピーノ。

 

 矛盾を抱えて眠れぬ夜を過ごす友香。

 

 暖かな夢に抱かれて幸福に眠る蓮乃。

 

 

 四者四様の夜が、更けてゆく。



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