氷な彼女。。。 (わた雨)
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彼女は氷のように美しかった。。。
―――彼女という僕の持論―――
―――Q:彼女はまるで氷のような女性だ。
この一文から、女性はどのような性格をしていることが分かるか。
あくまで僕の持論なのだが。
大抵の人間は、女性の性格を『氷』のようだと直喩するとき、その意味は『言動や態度が冷たい』という風に解釈するだろう。
勿論、その答えは、間違ってなどいない。むしろ的確に言い当てていると言えるだろう。
だがしかし、僕は『氷のような』の示す女性の性格は、それだけではないと思っている。
というか、それだけではない! と断言出来るほど、僕はこの持論に自信がある。
―――僕のA:不器用だけれど、そこが素敵な女性。
くだらない回答――と思う人が大勢いることは間違いないだろう。まぁ、実際、くだらないが。
なにしろ、そんな僕の彼女こそ、その『氷のような女性』なのだ。
僕にとっては、『氷な彼女』である。
……僕のこの持論は、結局、自分の恋人を肯定する、ただの自慢や言い訳にしか聞こえないかもしれない。
しかし、それでも僕は、この持論を全面に主張し続けよう。
氷のような女性がいかに素晴らしい人だということを、皆に知らしめたい。
今から語るエピソードは、氷な女性と僕のただのデートの一日の回想。
僕はこれで『氷のような女性』の一般論に、革命を起こしてみせよう。
やべ、ちょっと言い過ぎたかな……。
また、怒られるかも。
不味い。遅刻だ。
僕は、手袋でもかじかむ指先をひたすら我慢しながら、大急ぎで待ち合わせ場所へと向かう。
いや、違う。
『待ち合わせ』なんて選択肢は、僕らにはない。いつでも、僕は待たせ、彼女は待っているのだ。きっと今頃、暖かい部屋で大判の文庫本のページでもめくっているに違いない。そりゃあもう、のうのうと。
そう。僕は今、彼女の家に迎えに行くところなのだ。
何とか時間ぎりぎりに玄関先に辿り着き、インターホンを押すことができた。
それにしても、何時見ても大きくて立派な家だ。白を基調としたヨーロッパ風の外観で、テラスと広い庭まで付いている。これだけでも、良い家柄だということが分かるが、はたして中は一体どうなっているんやら。
未だに入れてもらったことはない。
切れた白い息を整えながら、そんなことを考えているうちに、インターホンのスピーカーから、声が聞こえてきた。
聞き覚えのある女性の声だった。
「はいはい。そのうち出ますのでそれくらいお待ちを」
「なにその『気が向いたら』みたいな言い回し……。今出てきてよ」
……相変わらずの自己中心的な性格。絶対に彼女だ。断言できる。
「寒いから、嫌です」
「こっちのほうが寒い思いしてるんだよっっっ!!」
彼女は、冷たい口調で僕をいじめる。
僕はその言葉にかっと熱くなって訴える。体は寒いままだが。雪国の冬の朝の寒さは人の常識を超えていると言っても過言ではない。
君は自分さえ良ければそれでいいという人間の典型か。いいか。僕を凍えさせているのは君なんだぞ。僕が凍死したら加害者は君だ。このかじかんだ人差し指を噛みちぎってでも、最後の力を振り絞ってダイイングメッセージを残してやるっ。
……いけないいけない。あまりの寒さから、僕は愚かにも自分の彼女を憎んでしまっていた。反省反省。
寒さによるきんきんとした頭痛で思考回路が乱れてきたところで、玄関のドアがゆっくり開いた。閉まった。
「いやいやいや、閉めないでくれっ!」
僕がそう叫ぶと、ドアがまた開き、爪の先ほどの隙間を残して止まった。そして、彼女の声が聞こえた。
「あ、いえ。思っていたよりもずっと寒くて……。こんな寒いなかに人を待たせていたことに気づいて、罪悪感に襲われてしまいました。わたくしは今更どのような顔をして出られましょう? 只今、自己嫌悪中です。ぅぅぅ……」
「どんな顔しててもいいからっ! そんなことを思っているのなら、まず凍えている僕をどうにかしてくれっ!」
まだそれだけで取り返しがつくよ!? 諦めないで!!
というか、絶対、僕をいじめて楽しんでいるだけだろ君はっ!
ドアのむこうで嘲笑している君の顔がはっきりと浮かぶよ!
やっとドアがしっかりと開く。今度はさすがに閉じない。
そうして、開いたドアから出てきたのは、やはり彼女だった。
腰の辺りまである、キューティクルの光る黒髪。前髪は右分け。雪の結晶をあしらった季節感溢れるヘアピン。
落ち着いた印象を与える深い瞳。
すっきりとした顔立ちと、色の薄い唇。
スレンダーな体型で、身長は女性としては高めなほう。
家柄通りの、美しい容姿をした女性だ。
服装は──おしゃれに無頓着な僕はうまく説明することができないので、大雑把に言うと──首まですっぽりの真っ赤なセーターに、下は青色にチェック柄のロングスカートだった。
彼女は、僕を上は顔から下は靴までひととおり眺め見ると、言った。
「あら、岸さんだったのですか」
「なっ……! もしや、君は僕だからというわけでもなく、誰にでも先ほどまでの対応の仕方をしていたというのか!?」
だとしたら大問題だぞ!? 君の家柄的に、お偉い方々が訪問してくる場合もあるだろうに……! それでは両親の教育方針を疑われるぞ……。
「ああ、それなら心配には及びません。私は、馬鹿にして良い人間と、そうでない人間をしっかり区別することが出来ますから」
「馬鹿にって……。ちなみに? 区別する方法って?」
彼女は、不敵な微笑みを見せると、首に人差し指を当てた。
「声です」
「だろうね!」
僕は苦笑いで声を上げた。
インターホンだもんねっ! ちょっと考えればわかるよ!
というか、馬鹿にして良い声て。
声の可笑しなお偉方もいらっしゃる可能性はなきにしもあらずだよ。
「ちなみに言うと、そんな声の持ち主には、わたくしは今まで生きてきて一人にしか出会っていませんよ」
「確信犯がいたよおまわりさんっ!」
─────
さて、紹介が申し遅れた。僕の名前は
そして、僕の目の前にいるこの女性こそ、僕の彼女である
彼女はとある有名な出版社の、テレビにも出演する名物社長の娘であり、それに端麗な容姿も重なって学校でもかなりの有名人だ。しかし、他人にあまり心を開かず、冷たい言動が目立つ性格であるため、友達は少なめらしい。そうして、冷たく周囲に流されない性格を見せる彼女には、ある渾名がつけられた。
『氷女様』。
『こおりおんなさま』ではない。こう書いて、『ひめさま』と読む。
言葉の響きは悪くないが……意味が良くない。完全にからかい目的だ。
しかし、以前は、僕もその渾名で呼んでいた。付き合いを始めてから、そう呼ぶのを止めたのは、彼女が持っているのは氷の『本質』の方であって、皆が考えている氷の女性の印象とは異なっていたからだ。
ちなみに、姫花ちゃんと付き合い始めてから、僕にも渾名がついていた。
最初は『騎士様』だったのだが、そんなの似合わないとか、ただの駄洒落にしてはたいそう過ぎるとか言われたあげく、最終的に……。
……『執事』に落ち着いたのだった。
─────
取り敢えず、僕は玄関の中には入れてもらうことが出来た。決して暖かいとは言えないが、風がないだけありがたい。
玄関とはいえ、初めて、彼女の家の中に入ったことになるのだが、その光景は僕の期待を裏切らなかった。
壁には金色の薔薇の花の模様がいくつも散らばっており、カーペットは我が家のものよりつやつやしている気がする。やっぱり質が違うのかな?
高級そうな壺やら、彫刻品やら、僕にはよくわからない芸術品がいくつもガラスケースの中に並んでいたり、今は明るいので灯っていないが、頭上には小さなシャンデリアなんかも吊り下げられている。きっとこれは玄関用とかで、リビングにはもっと立派なものがあるに違いない。
やっぱり、社長って凄いんだなぁ。本当に金持ちなんだなぁ。そう思った。
「しかし、随分と時間ぎりぎりでしたね。女性を待たせるのは、デートの礼儀としてはありえませんよ?」
準備を済ませた姫花ちゃんが、玄関に現れた。ふわふわしたショートブーツに足を通し、コンコンと爪先で床のタイルを叩く。
「そんなこといわれても……」
僕は、彼女のその言葉を受けて目を逸らす。人の苦労を知らないでよく言うもんだ。
この町の駅から彼女の家までの結構な距離を、全力で走ってきたのだ。
はっきり言って、時間に余裕をもって到着することなど、不可能だった。
今朝になって通達されたのは、こっちの電車の時刻表を考慮しない、情け容赦のない待ち合わせの時間だったのである。
むしろ、ぎりぎりで間にあったことが奇跡的ですらある。
言っておくけど、雪道だよ? 道路凍ってたよ? つるっつるだったよ? 何度か転んだよ?
褒められてもいいくらいの努力だと思う。
しかし、彼女に対するそんな願望など、粉々に打ち砕かれてしまうのがいつもの僕のパターンだ。
「えい」
不意に、そんな声とともに姫花ちゃんが僕の顔に何かを押し当てた。
否、突きぶつけてきた。鼻にクリーンヒット。僕は仰け反る。ひどい痛みが生じる。固いよ痛いよ何すんだよ。
鼻血が出ていないか確認しつつ、僕は姫花ちゃんの表情を窺った。
唐突に僕に暴力を振るった彼女は、晴れやかに微笑んでいた。両手で顔の横に、今さっき鈍器に使った『何か』を持ち上げている。
厚い型紙で形作られた箱で、赤と緑のクリスマスカラーのきらびやかなラッピングが施されていた。黄色のリボンも綺麗に巻かれていて、よりらしい見た目になっている。
ああ、これは、あれか。
「ふふ♪クリスマスプレゼントです♪」
「わぁ、ありがとう! でも、随分早くに渡すんだね」
まさか、朝から渡されるとは思っていなかったので、僕は驚いていた。
姫花ちゃんは後ろで手を組むと、上目遣いで僕を見つめてきた。頬がやや紅潮している。
「寒かったでしょうから、いますぐに身につけてもらおうかなと。開けてみて下さい」
言われた通りに、僕はリボンをほどいて箱を開き、中を覗いた。
「あ、帽子だね。暖かそうなニットだ」
僕は、心の底から喜びに喜んだ。まさか、ここまでもて遊ばれて、体も心も冷えきったところで、こんなに暖かいプレゼントを貰えるとは、思いもしなかったからだ。
ニットの帽子は、サンタクロースの帽子を被ったパンプキンのお化けが口を大きく開けている、可愛らしいデザインだった。
帽子を被ったお化けパンプキンを被るという、マトリョーシカ的なちょっと面白可笑しい見た目になるのが、彼女は気に入ったらしい。
「よく似合っていますよ♪」
と、上機嫌で微笑む姫花ちゃんに、僕は照れ臭くなって、目を逸らして痒くもないうなじを掻いた。非常にユーモラスな帽子だが、嫌いじゃない。
「暖かいよ。良いプレゼントを貰った」
「わたくしには? プレゼントは用意していますか?」
彼女の問いに対して、僕はそのまま照れ笑いを浮かべて言った。
「もちろん。でも、僕みたいな一般庶民のはした金で買えるようなものじゃあ、姫花ちゃんは満足しないと思ってさ」
それを聞いた姫花ちゃんは、怪訝そうな表情で僕を見つめた。口を尖らせて、言う。
「プレゼントは気持ちの問題ですよ? はした金しか持ってない一般庶民なら特に」
「……ですよで止めて欲しかったな」
やっぱり、自分と一般庶民は違うって考えてるんだなぁ。ちょっぴり悲しくなった。
「物がどれだけ安っぽくても、わたくしの心を満たしてくださるのなら、それで十分ですよ」
ああ。
この言葉を貰ったなら、もう心配はいらないな。
僕は人差し指を立てて、それを合図に声の調子を上げて言った。
「姫花ちゃんならそう言うと思った。だから、そういうプレゼントにしました」
物で満たしてあげられないのなら、気持ちで満たしてあげればいい。
なら……。
「いっそのこと、物のことは考えずに、心を溢れるくらい満たしてあげようかなって。最っ高のプレゼントを用意してるよ」
わぁっと、彼女がみるみる表情を輝かせていく。やや興奮混じりに、僕の顔に自らの顔を近づけてきた。
「それは、面白そうですね! 大いに期待しちゃっても、よろしいのでしょうか!」
「もちろん。任せて」
すると突然、彼女が駆け出し、玄関の大きなドアを開け放った。
そして、冷たい冬の風に綺麗な黒髪をなびかせながら、純白の光を背にこちらを振り向く。
「それじゃあ、行きましょう♪」
そう言う彼女の顔は、好奇心や希望に満ち溢れていて、とてもお嬢様とは思えないような麗らかな眩しさを放っていた。
僕は、思った。
彼女は透明で眩しく、純粋な氷のように美しかった、と。。。
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彼女は氷のように滑らかだった。。。
電車に乗って、近い街の中では一番大きな街に辿り着いた。
今僕たちがいるところは、その街のさらに中心部だ。
辺り一面が、人だかりになっており、大いに賑わっている。
まるでお祭り騒ぎ。
今日は、十二月二十四日。クリスマスイヴだ。
あらゆる建物や街路樹にきらびやかな装飾や鮮やかな電飾が施されている。ところどころにサンタの格好をした人が、ビラ配りや人呼びをしており、その側の店を覗くと、クリスマスムードたっぷりな内装で今日にちなんだ品物を並べていた。客でごった返している中、笑顔ではしゃぐ子供たちも沢山いて、それがクリスマスがどのようなイベントなのかを象徴しているようで僕も思わず笑みを溢した。
それにしても、人が多い。
まだ午前中なのに、これほどだとは思っていなかった。
五メートルほどの道幅でも狭く感じ、スムーズに前に進めない。
周囲を目で見渡すと、ふと僕の右側を歩く姫花ちゃんが、少し口を尖らせているのに気づいた。
「……どうしたの? 進みにくいからむっときてる?」
表現を窺いながら、あまり刺激しないように穏やかな声で訊く。
すると、彼女は頷いた。頷くのか。頷かれるのですか……姫。
「人が多すぎます。予想外です」
そう、やや不機嫌な調子で呟いた。僕と目を合わせようとはしてくれない。
でも、どうしようもできないし……僕だって予想外だし……。
そう思って困っていると、もう一言、呟きが耳に入った。
「わたくしはあまり人間が好きではないというのに……」
「それは人間としてどうかと思う……」
思わず突っ込んだ。人間って、君も僕もだよっ。自分を嫌いにならないで。
「地球に最も害を為しているのは人間ですよ。好き勝手自然を壊して、資源を惜しみもなく無駄遣いして、二酸化炭素まで排出するんですよ?」
「二酸化炭素を排出しない動物なんて存在しないんだけどね……。じゃあ、なら、姫花ちゃんは地球に優しいのかい?」
ふっと、鼻で笑う姫花ちゃん。今度は何を言うんやら。
「わたくしは全ての有害ガスを吸収し、酸素に転換して排出しますよ」
「とんだ夢装置だね。ドラ○もんのひみつどうぐみたいだ」
「電気は自身の細胞発電能力で賄えます」
「君は電気鰻か? それとも無限城の雷帝なのか? はたまた、レベル5の超電磁砲なのか?」
おお。まさか、僕的神マイナー漫画と超有名ライトノベルを並ばせる日がくるとは。
「おや? GetBackersの天野銀次と、とある魔術の禁書目録の御坂美琴のことですね?」
「なんか釣れた!? 食いついてきたっ!?」
「それらの作品のキャラクターなら、わたくしはやはり、風鳥院花月と神裂火織が好きですね~♪」
「しかも引きが強い!?」
意外だ……。姫花ちゃんは漫画もライトノベルも読むのか。僕の中のお嬢様像が音を立てて崩れていく。
しかも話が大きく脱線……。
「要はわたくしは地球に優しい生物なのですよ」
「無理矢理まとめ!? しかも結論っ!?」
自分勝手だな~。いつも通りだ。
しかし、そのあとずっと二つの作品の話を延々と語っている彼女を見て、機嫌が良くなったのを確信した僕は、心の中でホッと胸を撫で下ろした。
すっかり彼女は進み具合を気にしなくなっていた。話は弾み、相づちを打ちながら、人だかりのに流されて目的地へと向かう。
向かう先に、高い建物に囲まれるようにして、大きな円形の広場が見える。その中心には、ひときわ目立つ巨大なモミの樹。もといクリスマスツリーがそびえ立っている。
「見えましたねぇ」
「わぁ……すごいね」
なんて、大きくて立派で美しいツリーなんだろう……!
早く、近くに行きたい。
早く、下から見上げたい。
早く、バックに写真を撮りたい。
姫花ちゃんと一緒に……!
僕はやっと、デートに浮かれてきたのであった。
どうやら、それは姫花ちゃんも同じ思いのようで、頬がやや桜色に染まっている。そして、僕の顔を覗き込むようにすると、言った。
「手、繋ぎましょうか」
「……え、いいの?」
僕は驚いて目を見開き、口が半開きのままになった。
いつもなら、人にさわられるのを嫌がる彼女が、温もりを求める行為のひとつを自ら申し出るとは……!
すると彼女は、美しい照れ笑いを浮かべて、こう言ったのだった。
「もちろん……わたくしは岸さんの彼女なんですから」
幸せだ……。
――――――
広場を一通り見て回った後、僕たちはデパート内のひとつのテナントに入っていた。
ここもクリスマスムードたっぷり……というより、もはやクリスマスグッズ限定の店になっていた。
主に小物や置物、小さな衣類などを取り扱っていて、とにかく華やかな光景だ。男子が1人で入るような店では決してないだろう。
今は、姫花ちゃんが上機嫌で品物を見ながら「これはどうかしら」とか「岸さん、これ、わたくしに似合いますか?」とか言って、買う物を選別している。僕はそれに付き合って、隣で言われたことを二つ返事で肯定していた。まぁ、否定することがなかっただけだけれど。ツッコミの振りもないし。
しかし……今日は朝以来、随分おとなしいな、と僕は思った。いつもなら、もっといじられるというか、いじめられるのにな。いや、良い意味でね。
まぁ、いい傾向にあると思う。もう、すっかり僕に心を開いてくれているのかもしれない。
一時期の彼女の冷たさは、そりゃあ本物の氷のようだったから。
……現在も、僕と彼女の友達意外には冷たい態度を見せているけど。それでも、前よりは丸くなった。本当に。
とか、思ってたら。
「よお、執事さん」
と背後から声をかけられた。
声に聞き覚えがないので、訝しげな表情で振り返ると、案の定、知らない男子と多分その彼女だった。
「お前もデートか? お務めご苦労様だな」
「いえいえ」
随分癇にさわる口調だ。もう地の文で見た目を表現してあげない。
様子を察するに、同級生で、同じクラスになったことがない男子なのだろう。学年全体に『執事』は知られているので、僕と面識がないやつにからかわれるのは、日常茶飯事だ。
ちらっと姫花ちゃんの様子を窺うと、物凄く冷たく、刺すように鋭い視線で2人を睨み付けていた。
「おー、おっかないおっかない」
「何か用かい?」
僕が、不快な顔でぶっきらぼうにそう言うと、その男子(以後男子A)がにやつきながら答えた。
「いやぁ、可哀想だなって。彼女がいくら綺麗でも氷柱みたいにとがってて冷たいなら、全然幸せじゃないだろうな~ってな」
格好付けたセリフだなぁ。ここは笑えばいいのかな?
…………。
背中に、まるで吹雪が吹き付けてきているかのような、強烈な寒気を感じた。笑えねぇー。
…………?
あれ? 何も言わない。
とにかく、今のうちにこの二人には早々に立ち去ってもらわないと……。
「ああ……そう言えば、友達から君の非常に恥ずかしい性癖エピソードをいくつか聞いたことがあるな。彼女さんに聞かれたくなかったら今すぐに立ち去ることをお薦めするよ」
そう言ってから、僕は嘲笑に近い含み笑いを浮かべた。この顔は得意だ。
まぁ、ただのハッタリなのだが。
すると、意外に効果抜群だったらしく、男子Aは「な……!」と、ぎょっとして目を大きく開いた。そして、そそくさと彼女を連れてこの場から去っていった。捨て台詞で何やら言っていたが、無視無視。あれは虫だ。
繰り返そう。ただのハッタリなのだが。
よっぽど恥ずかしいエピソードをお持ちのようだ。ああいう格好付け男にはそういったものがつきものなのだろう。
ひとつ溜め息をつくと、後ろから肩を叩かれた。細く長い指。姫花ちゃんのだ。
首だけ振り返ると、目が合った。先ほどまでの冷たい視線は消え失せ、若干拗ねたような表情をしていた。そして、
「……なんですかあの逃げっぷり。そんなに恥ずかしい性癖を持っているんですかあの男」
そう訊いてきたので、何食わぬ顔で素直に答える。
「いや、ただのハッタリ」
「その前に……彼とは知り合いなのですか?」
「知らない。あれだれ?」
「そうですか……」
姫花ちゃんの表情が呆れ顔に変わり、僕はホッとした。
さっきの男子Aの言葉を気にしていなければいいのだが……今のところそんな素振りはない。
彼女はまた品物の選別にいそしみ始めたが、上機嫌ではなくなってしまい口数は減ってしまった。
……氷柱……か。
僕は心の中で、小さくそう呟いた。
――――――
ファミレスで軽く昼食をとってから、デパート内を歩く。
僕は、大した量ではないが荷物持ちをさせれている。まぁ、男なら当たり前の役割……か? 僕だけじゃあないよな?
ぽつぽつと会話しながら歩いていると、ふと、視線の先にあるものを捉えた。
四・五才あたりだろうか。小さな男の子が、今にも叫び出しそうに、涙目でおろおろしていたのだ。
あれは……絶対に迷子だ。間違いない。
周囲の人たちは、目もくれずに通り過ぎて行くばかりだ。
「岸さん? 何を見ているんです?」
心配でじっと見ていたら、姫花ちゃんが僕の目線に気付いた。そのまま僕の目線を追って見る。
あっ。やべ。忘れてた。
姫花ちゃん子供嫌いなんだった。
彼女の話を聞かず子供に気を取られるなど、怒られる要因になりかねない。
僕はなんとか言い訳を考え、口に出そうとした。
「あ、い、いや、別に何も……」
……より先に、姫花ちゃんは隣から既に消えていた。
「……え?」
つ、ついに見損なわれてしまったのか!? と思い、僕は取り乱しかけた。そのとき、また視界に入った男の子のところに、スラリとした女性がうずくまっているのが目に入った。赤いセーターに青チェックのロングスカート……?
……まさか?
僕は、恐る恐る近づいた。
「どうしたの?」
「ママ……どこ……わからなく……なっちゃったよぉ」
「じゃあ、お姉ちゃんについておいで、絶対にママが来るところに連れて行ってあげる」
「……!! ほんとう!?」
そこで見たものは、もはや氷柱のつの字もない、優しさに満ち溢れた女性の姿だった。
いや、もう氷の一片すら残っていない温かい光景だった。
「でも、その代わりに絶対に泣かないで頂戴ね? い~い? 絶・対! よ……!」
「は、はぃ……!」
いや、氷ではあった。
相変わらずの、冷たさは健在だった。
子供を威圧しちゃ駄目だぞぅ……。
取り敢えず、男の子は迷子センターに連れていくことにした。男の子は僕がおんぶして、出来るだけ早く向かった。というより、姫花ちゃんが歩くスピードを男の子に合わせないので、そうするしかなかったのだが。
迷子センターにつくと、係員の方が、すぐにアナウンスで母親を呼んでくれた。
母親は安心して男の子の名前を呼び、抱き締めた。男の子は嬉し泣きを溢したが、すると姫花ちゃんが「泣かない!」と一喝し、男の子は泣くのを止めて気をつけをした。
他人の子供をしつけるなよ……。と、心の中で僕は苦笑いした。
最後、親子と別れる際、男の子が手を振ってくれたのに対して、彼女も胸の少し上で小さく手を振っていた。表情を窺うと、微笑を浮かべていて、僕は驚いた。
今日はどうやら、僕がよく見ているいつもの彼女より、さらに本当の彼女だということらしい。
道を戻り、訊くタイミングができたので先ほどの疑問を口にしてみた。
「そういえば、どうしてあの男子に悪口言われても黙っていたの? いつもなら頭フル回転で言い返すのに」
言うと、姫花ちゃんはそっぽを向いた。ん……この場合は、気を悪くさせたか、恥ずかしがっているかのどっちかだ。前者の可能性の方が高いが。
「……るんです」
「へ?」
姫花ちゃんが何か呟いたが、蚊の鳴くような声だったのでうまく聞き取れなかった。
なので、もう一度はっきり言って欲しいと頼むと、いきなりこちらを向いた。
「で、ですからっ! 今日は……決めてるんですっ!」
睨まれて身を強張らせる僕。やっぱり気を悪くさせてしまったのかな? それでも、ゆっくり身構えながら僕は訊いた。
「な、何を決めているんだい?」
彼女はまた目を逸らす。やや、口を尖らせて、声を小さくして言った。
「……岸さんの前では……可愛くいよう……って」
…………!!
照れてたの!?
って、可愛過ぎるよその台詞っ!!
僕は予想外の返答に、どぎまぎして変な顔になってしまう。直んない……恥ずいぞわわわ。
「じゃ、じゃあ、子供が嫌いなのに、男の子を助けたのも……?」
僕がそう訊くと、姫花ちゃんはうって変わって顔をしかめ、呆れたように言った。目を疑うほど切り替えが早い。
「それはただの勘違いですよ……。わたくしは子供が嫌いなのではなく、苦手なだけですっ」
「は……はぁ」
そして、途端に早足になって、僕より前にいってしまった。
どうやら、彼女にとって嫌いと苦手は違うものらしい。
それと、彼女にとって、今日はとても大切な日なんだということを、僕は思い知った。
急に、姫花ちゃんが振り返って、後ろ歩きのまま僕を指差した。
「言ったでしょう? わたくしは岸さん、あなたの彼女なんですよ? しっかり自覚して意識していてくださいな」
そう言ってまた、前へ向き直った。顔が見えなくなるその瞬間に、微笑みを浮かべているのに、僕は気付いた。
……ああ。
氷柱は鋭い。でもそれは形がそうさせているのであって、氷そのものの性質ではないのだ。氷自体の触感は……。
僕は思った。
彼女は氷のように滑らかであった、と。。。
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彼女は氷のように弱かった?
姫花ちゃんは、強い。
心が、強い。
芯が、強い。
人に何か悪口を言われても澄まして軽く受け流したり、落ち着いた冷たい声のまま何倍にもして言い返したり、とにかく僕の助けなど全く必要とはしないのだ。
しかし、もしそれが全て強がりだったとしたら。弱さを見せないために意地になっているだけなのだとしたら。
僕は助けてあげられるのだろうか?
力になってあげられるのだろうか?
支えてあげられるのだろうか?
たまに、そんなことを考えてしまう。
なんせ氷という物質は、固い。固い物質は、脆いのだ。弱いのだ。
簡単に壊れるし削れる。かき氷がいい例だろう。
彼女が本当に、氷の本質ばかりもっているというなら……。
その可能性は、極めて大きいのではないか……?
気になって仕方がない。
姫花ちゃんは今日も、変わらず強かったのだから。
ただ、あの一時は、はたしてどうだったのだろう?
初めて弱さを見せてくれた……のだろうか?
─────
鮮やかで美しい青に囲まれたトンネル。多くの命あるものたちが、弧を成して僕たちの頭上を飛び交っている。
群れで隊列を成し、あるいは単体で力強くとばして、自分たちの命の輝きを惜しみもなく僕たちに見せつけている。
壮大で、壮麗で、壮烈。本物の自然に生きるものたちの命の素晴らしさに、僕たち独自の社会を生きる人間の小ささを感じてしまう。
そして、そんな素晴らしい光景を目の前にして、僕の彼女、姫花ちゃんはこう言うのだった。
「どれも美味しそうですね。わたくしは鯖の味噌煮が大好物なんですよ」
…………。
「姫花ちゃんさ……。いや、良いんだよ? これを見て、なお食べることを考えられるふてぶてしさは、本当に凄いとは思う」
僕はひとつ呼吸を置き、やがて顔を真上に向けて諭すように言う。
「でも、こんなに綺麗な命の輝きを放っている彼らを、敬おうという気持ちは起きないのかい? 謙遜しようとは思わないのかい?」
それを聞いた彼女は、首を傾げた。傾げるのか。傾げなさるのか。
でも、反応して首を傾げてくれたということは、考えてくれてもいるのかも知れない。
どうか、伝わってくれっ!
「……あ、鰯の梅煮も好きですね」
「全然理解してもらえなかった!」
もういいやっ!
鰯の梅煮は僕も好きだ!唾が出てきた!
やっぱり人間は愚かでした! そして僕たちはその人間でした! すみませんねお魚さん!
そう。僕たちは今、水族館に訪れているのだった。
─────
トンネルを抜けると、そこは雪国……じゃなくて、見上げるほど巨大な水槽で囲まれた、広い空間でした。
さっきのトンネルと比べると、魚の大きさも段違いだ。エイとかサメとかいるよ。
いつも水族館に来ると、つい思ってしまうのだが……。食物ピラミッドはどうなっているんだろう? ちゃんと共生できる組み合わせで水槽に入れているのだろうか?
絶対にタコとかアナゴとか危ないだろ。肉食なのに。
ふと、気付いた。隣に姫花ちゃんがいない。
水槽を意識から外し、周囲を見渡すと、水槽の前のベンチに座って、こちらを手招きしている彼女を見つけた。
「少し歩き疲れました。休みましょう。あ、いや、一緒に休みなさい」
「なんで提案を命令に直したの……?」
ひとつ会話を挟み、僕は隣に腰かけた。
正面に広がる水槽は、遠目に見たよりさらに迫力が増し、普段よくみる魚さえ、巨魚にみえるほどだ。
「青色が眩しいね」
僕がそう言うと、姫花ちゃんはすっと目蓋を閉じた。横顔が綺麗で、ついつい見とれてしまった。やがて、目蓋の代わりに唇が開かれた。
「青もブルーです」
…………?
言葉の意図が掴めない。僕の頭が残念なつくりだからだろうか……?
だって、まさか今突然ブルーな気持ちになったとかいう意味合いではないだろうし。ついさっきまで楽しくデートしていたのにそれだったらびっくりだ。目玉飛び出るよ。ばりに。
彼女は閉じた目蓋を開こうとしない。目の前の青を見たくないからだろうか。と思っていたら、すっと開いた。
なにか決心したかのような、強い瞳を携えた目を、水槽に向ける。
一体何を話そうというのだろうか。
僕は緊張しながら、それを待つ。
やがて、彼女は言葉を溢した。
「せっかく、こんなに大きな水槽が目の前にあるのですから、お魚のお話をしましょう」
至って普通の、会話の振りだった。
緊張して損した気分を味わってしまう。僕は溜め息をつきながら言った。
「さっきからしてるような気がするけど……」
姫花ちゃんが、横目で僕を一瞥した。ピンと伸びた背筋は僕の座高よりも高く、若干見下されいる感じがする。
「いいじゃないですか。それでは岸さん。鮪って、泳ぎ続けなければ死んでしまうんですよ」
「目の前の水槽に鮪なんて見当たらないぞ……?」
「ですから、鮪は泳ぎながら眠るんです」
いきなりの豆知識披露。僕は戸惑いを覚えてしまう。どうしちゃったのだろう。
でもそれ……。
「悪いけど、それってもはや一般常識の範疇じゃないか?」
「いちいち突っ掛かりますね。私のこと、嫌いなんですか?」
えっ!?
いやいやいやいや! そんなことないよ! 何でそれだけでそうなる(?)。
「え、いや、すみませんでした!?」
「……岸さんは、どうなんですか? 鮪ではありませんか?」
僕が……鮪だって?
「ま、まさか!? 僕は受けだけじゃないよ!?」
「怒ります……」
「え、宣げ……イデデデ……何でもありませんっすみませんでしたっっっ!!」
静かに告げられ、思い切り耳をつままれる僕。
ああ、なんか、姫花ちゃんがいつもの意地悪さを取り戻してしまったような気がするっ!
今日は可愛くいるんじゃなかったの!?
「まったく……」
「で、なんで僕が鮪なんだって?」
今度は姫花ちゃんが、溜め息をつきながら、言った。
「岸さんは、目を瞑ったまま泳いでいて、出逢うべき人に出逢わないで、擦れ違っているのではないのですか、と」
「う……ん? いまいちよく解らないな」
出逢うべき人って誰だ?
僕が、一体何を見落としているって?
考えていると、彼女がぬっと身を乗り出してきた。顔と顔との距離が一気に詰められた。
「私より良い人なんていくらでもいるのに、損な日々を送っているのではないですかと言っているんです」
「ああ、成る程」
―――納得。
―――でも、納得できない。
今まで君は、幾度となく周囲にそんなことを言われても、澄ました顔で振り払って来たじゃないか……?
唇に右人差し指を当て、斜め上を見上げて考える仕草をすると、やがて彼女は呟いた。
「あなたが鮪だったら、私はあれですね。……大きな魚にくっついて泳ぐ魚ですかね」
コバンザメ……だっけ? 他の魚や鯨にくっついて泳ぐことで、外敵に襲われるのを防ぐ魚。違うか? おこぼれをもらうんだっけ?
取り敢えず、姫花ちゃんが言いたいことは大体理解した。僕は少し考えて、自分の意見を口にした。
「……僕は、姫花ちゃんはそんな卑しい魚だとは思わないな。それと、僕を鮪に例えるのは止めてくれ。虫酸が走る」
「どうしてです?」
きょとんとして首を傾げる彼女に、僕は苦笑いを浮かべて答える。
「僕は鮪が嫌いなんだ。特に赤身がね。血の味が強くて気持ち悪い」
姫花ちゃんが「あら」と意外そうな声を漏らした。僕は、迷いなく言葉を続ける。
「それに、常に泳ぎ続けるっていうのも、僕とは正反対の性質だ。僕は、やらなくていいことならやらない、怠惰的な性格なんだよ」
と、ここまで言って、ふと自分で思った。
「ダメ人間、ですか」
みなまで言わないでっ! 悲しい!
僕は頭の後ろで指を組み、深くベンチの背もたれに落ち着くと、自嘲気味な口調で言った。
「僕が自身を魚に例えるなら……
姫花ちゃんが『ほうほう』と納得したように頷く。しかし、まだ何か疑問でもあるのか、こう言った。
「そうですか。それは確かに納得できますね。では、あなたが鮃なら、それに対して私は何になるのですか?」
姫花ちゃんを魚に例えること自体、恐怖イベントのような気がしてならない。冷や汗をかきながら、慎重に言葉を選び、僕は言う。
「なんでもいい。取り敢えず、大きな魚。僕は、食い意地を張って大きな魚にかぶりついて、そのまま引き摺られているんだよ」
「そんなの、すぐに離してしまえばいいではありませんか」
う~ん。試されている。
正念場だ。
しかし、なぜこんな回りくどいやり取りをしなければならないのだろう。いつも正直な……オーバーな言い方をすれば、愚直ともいえる彼女が……。
確かに、僕は彼女に告白された側であって、自分から好きなったわけではない。
しかし、僕は彼女といままで付き合ってきて、後悔したことなど一度もない。
好きになられて、好きになった。
それに間違いはない。有り得ない。
今日の男子Aの悪口を今さら気にしているのかどうか分からないけど、この関係を疑っているのなら、思い違いも甚だしい。
僕は、会話の流れに身を任せるようにして、自分の偽り無き気持ちを、出来るだけ自然に伝えようと心がけた。
表情も穏やかに、声も何も不自然がないように。
「ところがしかし、そのかぶりついた魚が、あまりにも美味くて美味くて、ずっとやみつきになってしまい、離れたくないんだよ」
―――うわっ!
何も考えないで自然に言ったら、何か気持ちの悪い言葉になった!
僕は心の中で頭を抱えた。
……どうか伝わってくれっ!
そう願うと、意外にも届いたのか、彼女は柔らかな表情を浮かべた。
「あらら。一転して、嬉しいことを言ってくれますね」
……ん。ちょっと馬鹿にされてる。
ここでちゃんと言わなければ、きっと話を終わられてしまう、と僕は思い、魚に関係ない文章を頭の中から捻りだし、口にした。
「僕にとって姫花ちゃんは、そういう存在なんだよ。僕は、関わりたくない人間には、あからさまにそういう態度をとってしまう人間だ。だから、別れる心配とか、浮気の心配なんか、要らない」
一旦ひと呼吸おき、僕は笑顔になって言う。
「僕には、かぶりつくための口がひとつしかないからね」
最後はやっぱり魚にした。彼女も、ぷっと小さく吹き出した。
僕は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
「さて、変な話もこのくらいにして、次へ進もうか。イルカにラッコにペンギン! 魚より、可愛い動物のほうが好きでしょ?」
姫花ちゃんは頷き、上品に手を重ねてきた。
「そうですね。私はカピバラが大好きです」
「僕の予想の斜め上を行った……!」
水族館にカピバラいるかなぁ? 修学旅行のときの大阪の水族館にはいたけど。
「ふふふっ♪」
立ち上がったとたんに、姫花ちゃんが上機嫌に微笑んだ。
「どうかしたの?」
「思わぬ共通点が見つかって、少し嬉しくなっただけですよ」
共通点……?
「私も、鮪の赤身は大嫌いなんです」
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僕の隣にいるのは、とっても氷な僕の彼女。。。
たっぷり遊んで回り、やっとプレゼントを渡す時がきた。いや、『渡す』では適した表現とは言えないが……。まあ取り敢えず、プレゼントだから、渡すで。
日は完全に沈み、完全に夜となった世界で、僕たちは車に乗っていた。
正確に言えばタクシーだが。兄から借りたタクシー代……お年玉で返さなくては……。
終電の時間は過ぎてしまっていたので、足がこれしかないのだった。
当然、このことについては、姫花ちゃんと前日のうちに打ち合わせ済みだったから、何も問題はないが。
姫花ちゃんはお嬢様だが、別に家のきまりに厳しいところはない。むしろ、放任主義に近いのだという。
彼氏と過ごすから、夜遅くなるとか、そんなことでは、怒られはしないらしい。まぁ、外泊は禁止されているようだが、それは僕もだ。いとこの家は例外だが。
やがて、姫花ちゃんの住む町に辿り着くと、横からつんつんと肩をつつかれた。「なに?」と、僕は彼女の方に首を回した。
「岸さんは、このままこの町の親戚のところに泊まるんですよね?」
「うん、いとこん家にね」
答えると、彼女はそわそわと、瞳をさかんに左右に動かし始めた。
僕はすぐにその理由がわかったので、彼女に微笑みかけ、言った。
「プレゼントでしょ? 大丈夫♪ それは今から見せるから。この町でね」
「この町で……?」
訝しげに、彼女は首を傾げた。予想通りのいい反応だ。
「まさか……ドッキリ!?」
「そんなまさか。それは君の得意分野だろうに」
「実はそれがドッキリ?」
「ドッキリが得意というドッキリ……僕はドッキリに……ややこしいなぁ」
笑う。笑い合う。
今日は、ずいぶんと彼女は声を出して笑らってくれる。クリスマスイブ万歳だ。
僕は正面に向き直り、力強く凛々しい声で、彼女に言った。
「取り敢えず、この町で、君に見せたいものがあるんだ」
──────
姫花ちゃんを連れてやってきたのは、大きな公園だった。少し小高い場所にあり、周りは森に囲まれている。
幸いにも雪は降っておらず、風もすっかり止んでいる。乾いた冷たい空気だけが、辺りを包んでいた。
「この公園なら、家も遠くないですし、何度も来たことがありますが……?」
「いいから、こっちこっち」
僕は彼女と手を繋いで牽引する。
そして、公園を囲んでいる、暗い闇の森の中へ足を進めた。
「絶対に手を離さないでね」
「……は、はいっ」
姫花ちゃんが緊張しているのが、いまの声でわかった。いいぞ。そうなるほど、感動は大きくなる。
真っ直ぐ森の中を進む、進む。
やや上りになっているが、疲れるほどではない。と思っていたら、彼女の息が切れてきた。
今日、ずっと歩きっぱなしだったから……仕方無いか。
「……?」
「おんぶしたげる」
「……お願いします」
まだまだ進む。
まだまだ進む。
まだまだ進む。
そろそろ着く。
「…………!」
十分は歩いただろうか。
僕らは拓けた場所に出た。
───「どう? 凄いでしょ」───
───「……ええ。とても……」───
僕らが辿り着いたゴールに待っていたのは──
──まるで境界線のない、満点の星空と、町の夜景だった。
ここは、昔はスキージャンプ場として使われていた場所だ。
かなり高いところにあるというわけではなく、あの町がひときわ低い土地に作られているのだ。
小さい町というわけでもなく、向こうの山肌に沿って頂上まで続いているので、前方に限りなく広がっているように見える。
そして、それより広いのは、町の天井に広がる星空。
境界線が見えないので、まるで空にもうひとつ町があり、向かい合っているかのような幻想的な景色となっている。
都合が良すぎるくらいの快晴で、僕の今まで見てきたものより、更に美しい景色に仕上がっていた。
──これが、僕が贈れるものの中で、最も人の心を満たすことができるプレゼントだ。
姫花ちゃんは、言葉を失っていた。
沢山難しい小説を読んできた彼女でも、この景色を表現する言葉を見つけられないらしい。
むかし、僕もそうだったように……。
ここに立った二人は、しばらく何も口にすることができなかった。
どのくらい時間が経っただろうか?
やっと、姫花ちゃんが沈黙を破った。
「いつまでおんぶしているんですか」
「あ……! ごめん……」
彼女を降ろす。
降りた彼女は、僕の隣に並び、また景色を見つめだした。
「……わたくしはもう、何にも欲しくありません……」
「はは……そう思っちゃうよね。これ見ちゃうと……」
「……あなたの愛以外は、ですけれど」
彼女はそう言うと、僕の左腕に、自らの右腕を絡ませてきた。
そして、 僕の肩に頭を委ねてきた。
ほうっ、と暖かい気持ちが身体中に巡ってくる。
「……君の口から、愛なんて言葉初めて聞いたよ」
「そりゃあ……初めて口にしたんですもの。でも、こう見えてもわたくし、一番好きな言葉は愛なんですよ。勿体ぶって、今まで言いませんでした。……恥ずかしいですし」
ここで、しばし沈黙。
姫花ちゃんが肩にすり寄ってくる。
白い吐息が、僕の顔にかかり、思わずドキッとし、動悸が激しくなってきた。
「…………」
「…………」
幸せだ……。
きっと、彼女も幸せなのだろう。
「岸さん」
不意に呼ばれ、我に返る。
「あの……わたくしは、岸さんから見ても、やっぱり氷のような女性ですか……?」
そんな問いをする姫花ちゃん。彼女はどんな答えを期待しているのだろうか。しかし、それが何であっても、僕の答えは既に決まっている。
「うん、氷な女性だ」
「そう……ですか」
「でも……全部良い意味での、氷だよ」
「そうなんですか……?」
「確かに冷たいけれど、綺麗で透き通っているし、全然尖ってない滑らかな性格だし、強そうに見えるけど、案外脆いかもしれないそんな一面も見たし……姫花ちゃんは氷だ。氷の本質を持ってる」
「本質……」
「……うん」
「……ふふっ♪ さすが、岸さん。相変わらず非凡です」
「そりゃ……貴女様の執事ですから」
「そうですか……♪」
「暖かいです」と、彼女は言った。僕の腕を抱く力がきゅっと強くなる。
僕は思った。
彼女は氷のように、暖めたら簡単に解けてしまうんだな、と。
「では、最後に……岸執事」
「はい?」
彼女は、今日一番の美しい笑顔で、こう言った。
「辛いものでも食べにいきましょうか」
「仰せのままに……姫」
―――END
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<番外編> 恋無き甘味。。。
「岸さん。チョコレートはたくさん貰えましたか?」
臨時の午前学習だった今日。彼女の家に招待された僕──岸 凛斗は、その道中、そんな質問をされた。
質問の意味ははっきりと理解できる。
今日はバレンタインデーなのだ。
かつて製菓業界が販売促進のために打ち出した『主に女性が、想いを寄せる男性にチョコレートを渡す』というイベントは、日本独自の風習、文化として定着してしまい、現在に至ってもなお健在である。
まぁ、最近はそれも少しずつ変わりつつあり、『友チョコ』とかいう女性の友人同士で渡し合うのが増えてきているらしいが。男性たちにとっては何だか残念なのだろう。
この時期になると、自分は貰えないと分かっていて、開き直って周囲におどけて見せている男子というのは、毎年かなりと言っていいほどよく見かける。
しかし、そんな奴らも、たいてい心の中ではそわそわして浮わついているに違いない。間違いない。だって、人の感情というのは、無意識に周囲の空気に流されてしまうものなのだから。
それに、突然あまり関わったことがない女子から、義理のを渡されるという可能性は、小数点はついてもゼロではないのだ。それだけでも、そわそわする要因には十分になる。
まぁ、結局これも僕の持論なのだが。裏付ける事象は何もない。
ただ、クラスの浮わついた雰囲気を見て、自然とそんなことを思ったのだ。
だがしかし。絶対に親しくない人からは貰えないと確信していて、尚且つ平静としていられる人間というのも、実はいる。
というか、僕だった。
「一個も貰ってないよ」
当たり前だろ? って顔をして、僕は、隣を歩く彼女に向かって、先ほどの質問に答えた。
すると、彼女は、何だか不快そうな表情を浮かべた。何が悪かったのだろうか?
彼女は、残念そうに肩を落として溜め息混じりに、言う。
「わたくしの彼氏は……バレンタインにチョコレートのひとつも貰えないくらい、他人と関わらない、コミュニケーション能力の低い人間なんですね……」
「……別にコミュニケーション能力は低くないよ。僕は」
なんかボロクソ言われた。とっくに慣れているはずなのだが、心にグサグサと突き刺さるような言葉にひどい痛みを感じる。
そう、彼女──水華ヶ美姫花と僕は、付き合っているのだ。
彼女の性格は氷だ。氷の本質のような性格を持っている。それに触れた話は、以前にしているので、省略する。
ちなみに僕は水だ。真水。そう姫花ちゃんに言われた。理由は訊いても答えてくれなかったが、いずれ話して欲しいものだ。
「なら、なぜ友達が少ないのですか。何かやらかして嫌われているとか?」
……こう見えても、僕の彼女なのである。……だよね?
「嫌われてはいないさ。好かれてもいないけど。なんかさ、話が合うっていうか、馬が合う人がいないんだよね」
まぁ、だからと言って自分が良い性格だとは思わないが。
姫花ちゃんは納得がいかないとでも言いたげな顔で、僕をじろじろ見てくる。そして、言葉を続けた。
「それは、岸さんが周囲にも自分にも無関心なだけで、皆さんのことを何も分かっていないからではありませんか?」
「……そもそも、君のことを分かろうともしないで『
僕がそう言うと、彼女はそっぽを向き、黙って口を閉ざした。
ん。何かまずかったかな……?
僕はそんな彼女の顔を、覗き込むように、頭を動かした。
すると彼女は、やや頬を紅く染めて、口を尖らせていた。どうやら照れているらしい。
やがて僕の視線に気づいた姫花ちゃんは、その照れをごまかすかのように、軽く咳払いをして、言った。
「しかしですね。それはチョコレートを貰えなかった理由にはなりません。岸さんはどうやら部活などで、後輩にとても人気があるとか、聞きましたよ」
ああ……。確かに。
僕は吹奏楽……愛好会に所属している。部ではない。ちなみにトランペットを担当している。上手くはないが。
吹奏楽愛好会は女子が多い。しかも、同学年が少ない上に、先輩後輩が多いのだ。義理でもチョコレートを貰える確率は、確かに高いはず。
でも、まぁ……。ね。
僕は苦い顔を浮かべた。
「僕には姫花ちゃんがいるって、皆は知ってるから、さ」
僕がそう言うと、今度は彼女が苦笑いを浮かべた。
「……それに、わたくしですもんね……」
……うん。まぁ。否定はできない。
学校の中でとはいえ、有名人の彼氏は、有名人になってしまうのだ。仕方がないことだった。
彼女の評判の悪さというか、冷たい性格というのは、学校中に知れ渡っている。
有名人の御令嬢である彼女は、ちやほやされない為に普段は人との関わりを拒絶してクールに振る舞っている。
しかし、さすがにその彼氏である僕にチョコなど渡して気を引こうとでもしたら、きっとあの手この手で制裁を下しに来るに違いない、とか思われているのだろう。
だから後輩たちも、僕に義理でもチョコをあげられなかったのだろう。
……本当のところを言うと、その話は実際に後輩たちに聞かされたのだが、しっかりと話は着けておいた。その結果、来年はくれるってさ。
とにかく、そんなに彼女を悪く言う奴らに、僕は腹を立てている。
思い違いも甚だしい限りだ。
実際の彼女を見てみろ! むしろ自分以外の女子からチョコを貰っていないのを見て、残念がっているじゃないか!
って、何故?
「まぁ、そうですね。バレンタインデーに限らず、わたくしから岸さんを奪おうとする人がいたら、わたくしはきっと制裁を下すでしょうね」
顎に細い人差し指の先端を当てて、上を見ながら淡々と話す姫花ちゃん。
僕は恐る恐る、「……どんな風に?」と、どうやって制裁を下すつもりなのか訊いてみる。
すると彼女は、悪意に満ちた黒く深い微笑みを浮かべ、言った。
「マグロなどを凍らせる為の業務用冷凍庫で芯まで凍り付かせてから、かき氷にします。人間かき氷ですね♪」
そして舌舐めずり。
……恐ろしくて声も出なかった。ツッコミ失格だ。
「しかし、可能らしいですよ? 人間に限らず、動物とは体を構成する成分の大半が水、水分ですからね」
「だけど……食べたくはないな」
どう味付けしても気持ち悪そうだ。鉄分は豊富っぽいが。
そして姫花ちゃんは、なにやら微笑みながらちらりとこちらを見てきた。
「もし、岸さんがわたくしとは別の女の子に気が行ってしまった場合は、その女の子と同様に岸さんも人間かき氷の該当になります♪」
「や、やだよっ!! 絶対に浮気なんてするものかっ!!」
やばい。とんでもない量の冷や汗が吹き出た。凄いね人体。本当にほとんど水分なんだ。ちょっぴり感動した。
「ふふっ♪ 心配要りません。岸さんのかき氷は、ちゃんと完食して差し上げますよ♪」
「カニバリストなのか君はっっっ!!」
ど、どんどん姫花ちゃんが悪いテンションになっていく……!
自分の彼女が人食い趣味なんて嫌だよ助けて神様……!
僕は肝どころか、内臓の殆どを冷やしてしまっていた。寒い。心が寒い!
すると突然、彼女が悪い顔を止めて正面を向いた。表情は落ち着いていて、いつもの彼女そのものだった。
おお……! 相変わらず、気持ちの切り替え、感情のコントロールが得意だ。
僕はほっと深く息を吐いた。
「……まぁ、あながち冗談ではありませんが……」
「肯定するために落ち着いたのっ!?」
僕は自分の目玉が飛び出るかと思った。
さて、話題を戻そう。
僕は何の躊躇もせず、ストレートに姫花ちゃんに質問した。
「そういえば、何で僕がチョコを貰ってなくて、がっかりしたんだい? 普通、自分の彼氏が他の女の子からチョコ貰ってたら、嫌じゃないか? たとえ義理でもさ」
僕の質問に対し、彼女は「そうでしたね」と呟いてから溜め息をついた。僕が思っているより、がっかりしているらしい。
やがて、姫花ちゃんはその理由を口にした。
「もし岸さんが、他の子からチョコレートをたくさん貰ってきていたら、それを湯煎して生クリームと混ぜて、チョコレートケーキに使えたんですけど……」
僕は自らの耳を疑った。
……え? それってつまり……?
「えぇ、他の子の想いを踏みにじりながら、自分の欲を満たすつもりでしたけど……?」
「なんて残忍で斬新な発想なんだ……!」
僕は、目の前の、素で悪なことを考えている彼女に、戦慄を覚えた。
「踏みにじるのはさすがに冗談ですが」
「実行はするんだねっ!!」
せめて全部冗談であって欲しかった!
「そして自分で食べます」
「僕は!? 僕は後輩たちから貰ったチョコはおろか、君からのも食べられないのかい!?」
君がそこまで非道な人間だとは、僕は思ってはいなかったぞ!?
君はなんだ、悪女か? 悪魔か? 魔王なのか?
「魔王って……岸さん馬鹿ですか?」
「以心伝心!?」
「馬鹿の考えはすぐに分かります」
「君から見たら馬鹿かもしれないけど、一応僕だって成績優秀者だよ」
第四回考査は学年二十位以内だった。数学が良かったらもっと上だったかもしれない。彼女は五位だが。
彼女はふんっと鼻を鳴らした。顎を上げて、少しムッとした顔で見下してくる。
「……なんだか最近、岸さん、わたくしに対していい度胸を働いていますね。慣れきってしまったんでしょうか」
それを聞いた僕は、また苦笑いを浮かべる。なんだか今日は苦笑いが多い日だ。甘いものを貰う日なはずなのに。
「それは多分……姫花ちゃんが変わってきているんだよ。角が取れて来たんじゃないかな」
氷だけに?
なっ……、と彼女は言葉を詰まらせる。
そして何やらぶつぶつ呟きながらしばらく歩き、やがて顔を歪めてこう言った。
「……不思議のダンジョンでしくじって、今まで積み上げてきたものが一気になくなった主人公の気持ちですね、まるで」
……ああ。言いたいことは分かるが、なぜそんなのを彼女が知っているのかが謎だ。
「……風来のシレン? それともトルネコの大冒険?」
取り敢えず訊いてみる。
すると彼女は首を横に振った。違うらしい。
「チョコボの不思議なダンジョンです」
「ああ、そっちか」
意外にゲームをたしなむ趣味をお持ちの、お嬢様だった。
「しかもPS1でプレイしています」
「君の家は金持ちじゃないのか!?」
案外、もうレトロなゲームに分類されていると思うよ? 初代プレイステーションって。
よくわからないお家柄だ……。漫画もライトノベルも読んで、さらにゲーム(しかも初代プレステ)とは……。
彼女は溜め息を吐いた。彼女にしては珍しい光景だ。
「どうやらわたくしは、レベルが一に戻ってしまったみたいですね」
「あ、え? 今の状態で、もうデフォルトなの?」
どうやら、全然やりこんでいなかったようだった。
彼女を毒舌から更正させるには、むしろレベルをかなりのマイナス値にまで落とし込まなければならないらしい。
まだまだ、先は長いようだ。というか、不可能なのではないだろうか。
でもやっぱり、彼女はずいぶんと変わったような気がする。表情が穏やかで、毎日がたのしそうだ。
以前なら、もっと冷たい目線を周囲に振り撒いていたのだが、今の彼女はすっかりと暖かみをもった視線で、人を見るようになった。
それに伴い、彼女に対する悪口も、かなり減ったように感じる。本当にいい傾向だと思う。ついでに僕への冷やかしも減ってくれたら、さらにありがたいのだが……。
彼女はふわりと、歩道と車道を分ける縁石に飛び乗った。両手を広げ伸ばし、バランスを保ちながら、軽快な足取りで前へと進む。
そして僕よりどんどん前に行き、やがて縁石が途切れるところで、飛び降りた。そのまま足を止めて、そこからふいに、こちらに正面を向けるように、スカートを翻して旋回した。
「まぁ、でも、そのおかげで今こうやって岸さんと帰路を共にできていると考えると、全く悪い気はしませんね」
そう言って彼女は、僕にしか見せてくれないであろう、最上級の微笑みを浮かべる。
とても優雅で、とても無邪気なその表情に、僕の瞳はたちまち虜になった。
ああ、可愛いな。綺麗だな。
付き合う前と、付き合ってしばらくは、全くそんなことを思わなかったのに。彼女はいつの間にか、僕にそう思わせてしまうほど変わった。
どんな人間でも、恋をすれば変わるんだな、と僕は彼女を見つめてそんなことを思った。
「悪い気どころか、良い気分だよ、僕は」
僕は彼女のいる位置に到達する。彼女はまた僕と歩調を合わせて、歩き始めた。
先ほどの僕の返事に満足したらしく、やたらと上機嫌な表情になっている。
あ、そうだそうだ。うっかり、提起された問題をほったらかしにするところだった。
僕は、上機嫌なまま僕の左手に指を絡めてきた姫花ちゃんに、訊く。
「でさ、姫花ちゃん。結局僕は、君からチョコを貰えるのかな?」
……余談なのだが、普通、歩道をカップルが歩く場合、男性は車道側にこなければならないはずなのだが、今の僕たちの位置はそれとは正反対である。これは、彼女が、、僕を守る側になりたいと、主張してきた結果だ。まぁ、それはあくまで精神的な面でなので、実際危ない場面になったら、真っ先に僕は彼女を庇うけれど。
「差し上げません」
きっぱりと、表情は上機嫌なまま、瞳を閉じて彼女は答えた。
またまた、そんな。
僕は困り笑いを浮かべざるを得ない。
「そんなまさか。今日は、恋する乙女が、チョコでその気持ちを伝える日じゃあ、ないのかい? 姫花ちゃんは、そんな風潮には乗らないと?」
すると彼女は、繋いだ手とは逆の、左手の人差し指を立て、冷静にこう言った。
「何を言っているのですか? 岸さん。わたくしは今、恋なんてしていませんよ?」
……なんだって!?
彼女のその言葉に、僕は驚愕とした。多分僕は今、とてつもなく馬鹿な顔をしているに違いない。僕は焦りに焦り、その言葉の意味を追及する。
「……え? ええ!? じゃあ何の感情をもって、君は僕と付き合っているんだ!?」
姫花ちゃんは不思議そうに首を傾げた。そして当たり前だと言わんばかりの表情で、言った。
「それはもちろん、愛ですけど」
……愛? それって……?
「どっちも同じような気が……」
僕は顔をしかめる。何が何だか、わからなくなってきている。好きってことには変わり無さそうだが……。
姫花ちゃんは、いまだに立てていた人差し指を、空中でくるくると回し始めた。あ、この癖、見覚えがある。彼女が何かを、説明するときの癖だ。
「ふふっ♪ これはあくまでわたくしの持論なのですが……恋と愛は、全く別物なんですよ」
何だかパクられた気が……あ、いえ、なんでも。
「そ、そうなの?」
「はい。そーです」
彼女はくるくると指を回したまま、目線を上に上げて何やら考え始めた。考えながら、それを口にする。
「そうですね……例えばです。わたくしはかつて、確かにあの図書室で、岸さんに恋をしていました。しかし、付き合っている今、わたくしは岸さんを愛しています」
「……何が、違うんだい? わからないなぁ……」
僕は頭を掻く。
からかわれているのだろうか……?
彼女は調子良く、悪戯っぽい笑みを浮かべながら続ける。
「つまりですね。恋は、想うものなんです。一方通行なんですね。両想いでも、互いがそれを理解していなければ、一方通行です」
一方通行……? んん。なんとなく分かってきたかも。
「恋は一方通行……。あ、そうか。なら、愛は……」
姫花ちゃんは、僕が何か掴んだことを悟ったようで、流し目でこちらを見た。うわぁ……色っぽい。僕は思わずどきっとした。
彼女は答え合わせをするように言った。
「そうです。愛は、与えて、与えられるもの。つまり、共有するものなのですよ」
そして彼女は、指のくるくるを逆回転に変え、付け加える。
「わたくしは、自分が恋をしていたことを、岸さんに伝えました。付き合って欲しいと、お願いました。そして、岸さんがYESと答えたその瞬間から、わたくしの恋は、愛に変わったのです!」
「姫花ちゃん。声が大きいよ。場所的に恥ずかしいから抑えて欲しいな……」
現在地は商店街。人も多く、何人も擦れ違っている。ちなみに、彼女の家もこの商店街を抜けてすぐの住宅街の中だ。
僕の言葉はあえなく無視され、彼女はその続きを楽しそうに語る。
「よって、わたくしが言いたいことはですね、岸さん。『恋愛』は『恋を伝えて愛に変えること』の略語だということです♪」
姫花ちゃんが……!
浮かれている……!
僕は初めて、案外彼女にも馬鹿な一面があるのか、と思った。思ってしまった。
もしかしたら、彼女は友達にのろけ話をするようなタイプなのかもしれない。友達が少ない分、余計に。
しかし、今さらまた不機嫌になって貰っても困るので仕方なく乗ってあげることにした。
まぁ、本音を言うと、僕は今、かなり楽しいんだけどね。
「成る程。納得しました。お見事です、我が主君」
大袈裟に、リアクションしてみた。
すると、彼女は、くるくる回していた左手を、自らの頬に当てた。そして目線を少し下に向ける。
「およしなさい。褒められると照れちゃいます……」
少し赤くなっている。本当に照れているらしい。
僕は何だかどきどきしてしまい、ついつい本音を漏らしてしまう。
「照れてる姫花ちゃんが一番可愛いや」
わぁ、何言ってんだ、僕。
ちょー恥ずかしい。
「もう、岸さんったら……。怒りますよ?」
「なんでいきなりマジなトーン!?」
度肝抜かれた!
いきなり刺すようなジト目を送らないでくれっ! 心臓に悪い!
話が少し逸れてしまったが、僕の疑問はまだ完全には拭えていない。
まだ君に反論しなければ気が済まないようだ。
めいっぱい息を吸い込み、僕は落ち着いてしっかりとした口調で彼女に言った。
「でもね、姫花ちゃん。いつかのお言葉を返すようだけれど、それは僕が姫花ちゃんからチョコを貰えない理由にはならないよ?」
そうだそうだ!
愛でもチョコは貰えるはずだっ。
……僕のチョコへの執着は、ここまで異常であっただろうかという疑問はとりあえず置いておこう。
すると、不意に左手に刺されたような痛みが生じた。
見ると、絡み付いている姫花ちゃんの右手の、爪が僕の左手に食い込んでいた。
恐る恐る、目線を上げて、彼女の表情を確認する。
……笑っていた。
……いや、これは怒っている。ムカツキマークが付いた笑顔だ。眩しいっ!
「ごめんなさいでした……」
結局、僕は悪くないのに謝ってしまった。いや、言葉の選択肢は誤ったか……。
姫花ちゃんは、恐ろしい笑顔を止めて、溜め息を吐いた。やれやれといった表情を浮かべている。
「……全く。人の話をちゃんと聞いていましたか? 恋は一方通行。愛は共有するもの、ですよ? よって、わたくしは岸さんには何も差し上げません」
彼女が、絡ませた右手で、僕の左手を引く。引っ張る。
やや早歩きで、僕を牽引する。
そして彼女は、僕を近くの店に連れ込んだ。
彼女はこちらを、振り向き……。
照れ笑いを幸せそうに、僕だけに向けて、こう言ったのだった。
「その代わり……ケーキを作る時間を、食べるひとときを、余さず共有しましょうね♪」
…………。
僕は幸せ過ぎて、何も言葉が返せなくなっていた。
ああ。僕も。
何も欲しいものなんかなくなったよ。
───君の愛以外は、ですけれど。
──────
ちなみに、共有したのは、店で買った大量のチョコの代金もだ。
つまり、割り勘だった。
幸せの対価……ということだろうか?
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