わするばかりの恋にしあらねば (なんじょ)
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1

 ――藍の色をしたその瞳はいつも、ここではない何処かを見つめているようにとらえどころがなく。

 ――いずれ跡形もなく消え失せてしまうのではと、らしくもなく不安に駆られ。

 ――そうして、私は過ちを犯したのだ。

 

* * *

 

 夜も更け、騒々しかった街中がようやく寝静まる頃。

 海の方から鳴り響いた船の汽笛は、しじまに吸い込まれて消えていく。

「……今日のところは何も無いようですね。街は静かなものです」

 窓辺に立って彼方を眺めていた女が、ふと口を開いた。

 先ほどから書き物に集中していた九葉が顔を上げると、特務隊の制服に身を包んだモノノフが、静かに窓を閉めるところだった。

 そのようだな、と最後の署名を終えた書類を片付け、九葉も腰を上げる。

「だがこのところ、鬼の動きが予想以上に活発化している。おそらく近日中に、異変は起きるだろう。その時に我らが対処できるように、ゆめゆめ油断するな」

「分かっていますよ、軍師九葉。そう念を押されると、逆に不安になります」

 言葉とは裏腹に、からからと笑う様には緊張感がない。変に気負って失敗するよりはいいが、気を抜きすぎではないか、と呆れてしまう。

 九葉は彼女に歩み寄ると、その肩を軽く押して、扉の方へ向けさせた。

「重々理解しているというのなら、今日はもう休め。明日は周辺の哨戒任務のはずだろう」

「あなたは? まだ休まないのですか」

 ちらり、とその視線が向いた先では、これから手を付けようと思っていた報告書の束が机の上に鎮座している。致し方あるまい、と九葉は肩をすくめた。

「徹夜は慣れている。お前に今更気遣われるまでもない。私を労わるのなら、鬼を一匹でも多く狩ってくるのだな」

「そろそろ夜更かしも辛いお年頃でしょうに、頑張りますねあなたは」

「煩い、いいからさっさと自分の部屋に帰らんか」

 彼女から年の事を言われると、大人げないと思いつつ苛立ちを覚える。できればそういう事を言わないでほしいと思っているのを自覚して、情けなくなる。

 その苛立ちのせいか、つい力を込めて彼女を部屋の外へ押し出してしまったが、

「!」

 不意に彼女が振り返りざま、かすめるように唇を重ねてきたので、一瞬硬直してしまった。相手は凍り付いた九葉を、小悪魔めいた憎らしくも可愛らしい表情で見上げた後、

「ではおやすみなさい、九葉。あまり無理をしないでくださいね」

 にっこりほほ笑んで歩み去っていった。

「…………」

 その後ろ姿を見送った九葉は、周りに人の目がなかったか確認してから、我知らずため息を漏らしてしまった。

 ……これだから、嫌なのだ。良い歳をして年下の女に翻弄されるなど、みっともないにもほどがある。

 

* * *

 

 九葉と彼女の出会いは、今から数年前に遡る。

 今も当時も九葉は己の配下たる特務隊を率いて、鬼との戦を続けて各地を転戦していた。

 人目を避けてひそかに戦い続けるさなか、とある幽谷に入り込んだ際、その場で行き倒れている彼女を見つけて保護した。

 彼女の来歴は、分からない。

 身元が分かるようなものは何も身に着けていなかったし、本人は記憶の大半を失っていた上、一体何があったのか、体の内も外もずたずたに傷ついて、虫の息だった。

 それを手当てして何とか回復する頃に唯一、自分はモノノフだったと言ったことだけが、身分を証する手がかりだった。

 半信半疑でその力を試してみた九葉は、すぐその異能に驚くことになる。

 彼女は普通一人一つしか宿せないミタマを、その身に複数宿す事が出来た。

 更にその戦闘技術は目を瞠るものがあり、粗末な装備であっても大型鬼を圧倒するほどの力量を備えていたのだ。

 これは使える。

 九葉は拾い物をモノノフとし、配下の特務隊に組み込んだ。そして相手もまた、その期待に応えた。

『鬼を討つ。私がすべきことは、それだけです』

 瀕死の状態からようやく生きかえった折、彼女はそう告げた。

 その目的以外はどうでもいいとさえ言いきる彼女にとって、九葉の思惑は都合が良かったのだろう。新人モノノフは精鋭ぞろいの特務隊の中でめきめきと頭角を現し、やがてその筆頭にまで成り上がった。

 今や、モノノフで彼女の名を知らぬ者はいない。

 あまりにも突出した才と数限りない武功をさして、皆は英雄と呼びたたえるようになった。

 そうして勇名をとどろかせるようになった彼女は、しかし今も昔も驕ることなく、己の任に忠実であり、九葉に対してもゆるぎない信頼を寄せてくれている――否、信頼といっては足りない。

 今に至ってそれは、愛情とも言うべきものに、変わってしまっている。

(私が、悪いのだろう)

 と九葉は後悔している。

 えこひいきをしたつもりはないが、秀でた才の部下を得た事に喜び、九葉は何くれと目をかけた。

 用心深く人と距離を置きたがる自分にしては、彼女に対してはかなり馴れ馴れしく接してしまったように思う。

 そのせいなのか、ある日二人きりになった時、ふと妙な雰囲気になり――気づいた時には、彼女と口づけを交わしていたのだ。

 九葉はすぐさまそれを無かった事にしようとしたが、しかし以来、彼女は憚ることなく、悪戯めいたちょっかいを出してくるようになった。

(気の迷いにもほどがある)

 こんな関係は不適切で、元に戻さなければと思う。

 だが、九葉とて男だ。

 手塩にかけて育ててきた部下から無邪気に好かれること自体は不快でもなく、思い切って突き放す事が出来ず、心中葛藤がつきない。

(あやつが鬼を討つ以外の生きる目的を見つける事自体は、いい)

 記憶を失った天涯孤独の身、女一人で生きていくには、この世界は非情に過ぎる。

 いつ果てるとも知れない鬼との凄惨な戦いの中でのみ生きるよりも、人の世で寄り添える相手を見つけ、生きがいとするのなら、それもよしと思う。

(だが、その相手がよりによって私では)

 とても甲斐などない、と思う。

 いくつか正確に分からないが、彼女はおそらくまだ三十にも届かぬ年で、四十を迎えた自分とは随分年の差があるだろう。器量よしの彼女なら、同じ年頃の適切な相手はいくらでもいるはずだ。

 それに九葉自身が、寄り添う人間を必要としていない。

(私の行く道に、付き添いは不要だ)

 どれほどの犠牲を出そうと、どれほどの非難を浴びようと、九葉は鬼と戦い続けると決めている。

(私がなすべきは鬼を討ち、人の世を取り戻す事。それ以外の些末事に関わっているいとまはない)

 人並みの幸せなど望んではいない。鬼を討つ鬼に、そんなものは必要ない。

 ましてや、これまで何人も犠牲を強いて己だけ生き延びてきた九葉に、どうして人を愛する事など許されよう。

 ゆえに九葉は、決断を下す事にした。

 

* * *

 

「……転属……ですか?」

 茫然とした声が返ってくる。その顔を見るに堪えず、九葉は手元に視線を落したまま話を続けた。

「そうだ。この横浜での任をもって、お前を特務隊から外す事にした。次の任については、霊山に帰ってから話すことになるだろうが……」

「……何故です? 私が何か、不手際をしましたか?」

 九葉の言葉をさえぎって、彼女が机にだんと手をついた。戸惑いと憤りを含んだその声が耳に刺さる。九葉は顔を背け、

「いいや、お前は十二分にやってくれている。ただ、この任務でお前の役割が終わった、というだけの事だ」

 淡々と告げる。机につかれた手が、ぎゅっと拳を形作った。納得できません、と震え声。

「私を拾ってモノノフにしたのはあなたでしょう、九葉。なぜ急に放り出すような真似をするんです」

「放り出すわけではない。次の場所でも不足なきよう手を配ろう」

「次の場所なんて……私の居場所は、ここだけだと思っているのに」

 九葉、と名を呼ばれて、つい顔を上げ、そして後悔した。彼女は碧眼を潤ませ、今にも泣き出しそうな顔で九葉を見つめている。

「……、」

 何か言おうとして、しかし言葉は喉につかえて出てこない。だが、彼女がすがるように伸ばしてきた手が自分の手に触れた時、九葉はびくっと反射的に身を引いてしまった。

「っ……、九葉……」

 それで、悟ったのだろう。彼女は息を飲み、それから不意に身をひるがえして背を向けた。

「……分かりました。あなたが決めた事なら従います」

 凛とした声で答え、そのままツカツカと出口へと歩を進めた。その背中は一切を拒絶するように強張り、震えている。

「……っ」

 思わず、口を開く。名を呼ぼうと、喉が動く。

 だがそれを果たす前に、彼女は扉を開けて出て行ってしまった。バタン、と無慈悲な音が部屋の中に響き、九葉をその場に釘付けにする。

(――これで良かったのだ)

 いつの間にか椅子から腰を上げていた九葉は、凍り付いたように扉を凝視しながら思う。

(私の傍にいては、お前の為にならぬ。お前はもっと、自由に生きるべきだ)

 言い聞かせるように繰り返すのは、彼女の為ではなく、自分の為だ。自分の選択が誤っていないのだと、思いたいからだ。

 九葉は机の上で拳を握りしめ、歯を食いしばった。

(今はこんな事に思い煩っている時ではない。鬼に、備えなければ)

 未曽有の危機が迫っているのだから、そちらに意識を集中せねば。そう気持ちを切り替えるべく、どさりと座り込んで、たまった書類に視線を投げかける。ため息をついて、再度筆を手にしたところで、

 バタン!!

 突然扉が勢いよく開き、先ほど立ち去ったばかりの部下がドカドカと足音荒く入室してきた。

「な、何事だ?」

 まさか戻ってくるとは思わなかったので、口ごもりながら立ち上がる九葉。対して彼女は、

「転属せよとのご命令を受けたので、宿舎を変えます。長らくお世話になりました軍師九葉、今日を限りにさようなら!!」

 目にいっぱい涙をためているくせに、大声で勢いよく宣言した。その手にはまとめた手荷物一切合切を抱えており、出て行こうとしているのは本気らしいのが見て取れる。待て、と九葉は慌てて駆け寄った。

「話を聞いていなかったのか、転属はここの任務が終わってからだと言っただろう」

「任務はこなします、場所を変えたいだけですっ」

「特務隊は所定の位置に配置するよう決まっている、お前だけ単独行動を許すわけにはゆかぬ」

「どこで何をするかは全部頭に入っています、皆の足手まといになったりしません、ただっ」

 大きくかぶりをふった時、瞳から涙の珠が落ちる。流れ落ちる涙をぬぐいもせず、

「……ただ、今だけでも、あなたの居ないところに行かせてください……」

 消え入るような小声で囁く。その言葉が耳に届いた瞬間、

「……っ」

 九葉は何も考える余地もないまま、彼女の手をつかみ――その体を自分の腕の中へと引きよせていた。

 

* * *

 

 頭が、おかしくなっている。

 こんな時にこんな事を、この相手にしてはいけないと理性は盛んに警鐘を鳴らしているというのに、自分はそれに逆らおうとしている。

「……本当に、良いのか」

 恐る恐る問いを発したのは、灯りを落とした部屋の中、互いの呼吸を奪い合うような口づけを重ねた後。

 かすれた声で問いかけると、彼女は乱れた呼吸を整えるように唾をのみ込み、

「……何がです」

 小さく呟いた。その瞳が潤んでいるのは、先ほどの涙とは異なる理由からだ。白い頬はほんのり赤く染まり、唇は口づけの跡を残して艶やかに輝いている。

 今まで見た事のない、女の顔。

 それに触れる事が恐ろしく思えて、九葉は今一歩踏み出せずにいた。

(私の居ないところへ、行くな)

 反射的にそう考えて彼女を抱きしめ、気づけば二人して床の上にいる。自分のなしたこととはいえ俄かには信じがたく、九葉自身が事態についていけていなかった。

 ましてや彼女にしてみれば、青天の霹靂と言うものだろう。ゆえに、問いかけずにはいられない。

「嫌がるものを無理強いする趣味はない。まして今は危急の時だ、このような……遊興に割いている時間も、ない」

「……遊びなんですか? これは」

 湿った藍の瞳が九葉の目を間近から覗き込む。その唇から漏れた吐息が顔に触れて、九葉は瞬きをした。応と言うわけがなく、かといって否とも即答しがたく、言葉に詰まる。

「……お前が嫌なのであれば、私は」

 かろうじて吐き出すと、彼女はふ、と笑った。

「私の答えは決まっています。今更言うまでもありませんけど」

 こちん、と九葉の額に自身の額を当てると、優しく問いかけてくる。

「……あなたは、九葉? あなたは――私を欲しいと思ってくれている?」

「っ……」

 今度こそ二の句が告げられず、九葉は奥歯を噛んだ。

 それは、本当に今更。そうでなければ、そもそもこんな暴挙に出ていない。

「……後悔を……することになるかもしれん」

 そっと、柔らかな頬に触れる。長い黒髪が指に絡まり、下に撫でおろしていくと、するりとほどけて肩の上に落ちた。九葉の素直な不安の露呈に、彼女はふっと目を細め、彼の手を包んだ。大丈夫と囁きながら、その掌に唇を寄せる。

「大丈夫、九葉。後悔なんて、しないから」

 ……だから、あなたと共にいさせて、と。

 優しく、柔らかく語りかける彼女の言葉に、最後の理性が解かされる。

「――っ」

 九葉はその名を、恐れるように、愛おしむように口にして、彼女と共に床の上に身を横たえた。

 

 

 そうして、忘れられぬ一夜を過ごした後。

 横浜の地はオオマガドキによって、跡形もなく壊滅し――九葉は大勢の部下と、唯一無二の存在たる彼女を、失ったのだった。

 



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2

 時は下り、オオマガドキより十年後――

 

* * *

 

 マホロバの里はその日、つつがなく節分を迎えていた。

 一時は人の世が壊れようかというほど追いつめられた過去を持つ人々は、季節折々の行事にことのほか重きを置いている。

 今をもって鬼の襲撃に怯え、明日にも命を落とすやもしれぬ日々の中でこそ、日常の生活が大切なのだと、皆骨身に染みている。

 それ故に、朝日が昇ってから後、そこかしこで節分の挨拶が交わされ、里は和やかな空気に満たされている――のだが。

 

* * *

 

 ガタタッ!

 研究所に足を踏み入れようとしたまさにその瞬間、カラクリ隊の隊長は突然、足から崩れ落ちた。

 彼女の帰りを待っていた仲間達は驚き、

「おい、どうした!?」

「大丈夫ですか、どこか怪我をしたのですか?」

 慌ててその周りに集まって口々に声をかける。当の本人はしばらくうずくまった後に顔を上げて、

「ああ……大丈夫。何て言うか……その、心臓が、ちょっと苦しかっただけだから」

 へら、と情けない表情で笑ってみせた。そのわきに膝をついた博士は問答無用で彼女の腕を取り、脈をはかって、その額に手を当てる。

「貧血か、心臓病か、不整脈か? 動悸はするか、吐き気はあるか?」

「いや、博士、本当にもう平気だから。ちょっと、緊張しすぎてただけだと思う」

「何だよ、あのオッサンがよっぽどおっかなかったのか? しっぽ巻いて逃げるなんざ、らしくねぇな」

 後ろから覗き込む焔が混ぜっ返すと、彼女は博士を優しく押しとどめながら、かぶりを振った。

「別にもめたわけではないんだけど……ここまで来たら、急に気が抜けてしまったみたい」

「少し休んでいくか? 様子を見て、必要なら薬を用意するが」

「ありがとう、博士。でも問題ないよ、それより軍師九葉の話をさせてほしい」

「お前が良いのなら聞くが……では、どうだったんだ。話は出来たんだろう?」

 立ち上がるのを手伝ってやりながら博士が問いかけると、彼女はようやくいつもの落ち着いた表情に戻り、かつての上役との再会について語った――すなわち、二重の記憶喪失について。

 

* * *

 

 博士と次の仕事について話した後、隊長は風に当たりたいと研究所を出て行く。

「おい待てよ、俺も行く」

 時継は何とはなしに気にかかり、丘の草を踏み分けてその後についていった。

「ふう……ここの風は気持ちいいな」

 崖の前に設置された柵に両手をつき、隊長が一人ごちる。その長い髪がふわりと風になびくのを見上げて、時継は声をかけた。

「おい、本当に大丈夫か? 博士にちゃんと診てもらった方がいいんじゃないか」

 しかし相手はいいや、と首を横に振る。

「問題ないよ。さっきも言ったけど、もう痛みも何もないから大丈夫」

「確かに、顔色は普通だが……記憶喪失の件がよっぽどきいたのか」

 ようやく自分の過去を知る人間と出会えて、失った記憶の手がかりが得られると思ったのに、実は元から記憶喪失だった……なんて、衝撃を受けないわけがない。

 博士は今この時が大事だと言っていたし、時継も同感だが、本人にしてみればそう簡単に割り切れるものではあるまい。と思ったのだが、

「いや、それは別に。確かに少しは分かることがあれば、と思ったけれど、無いなら無いで構わない。無理に取り戻そうとは考えていないよ」

 隊長が至極あっさり応えたので、時継はへっ、と声を漏らしてしまった。

「無いなら無いで構わないって……何も思い出せなくて不安じゃないのか? 自分のことがさっぱり分からないなんて、俺ならぞっとしないぜ」

 時継は人の体こそ失ったが、カラクリの身に宿る心は、人であった時となんら変わりない。

 これまで生きてきて、自分が何をしてきたか何を経験してきたかをちゃんと覚えているし、それは現在にも影響を与えている。

 記憶は楽しい事ばかりではなく、後悔するような思い出も抱えてはいるが、もしそれらを全部失ってただのカラクリになってしまったらと思うと、無い肝が冷える思いがする。

「そうかな。私はあまり不安には思っていないな。もちろん少し心もとない気はするけれど……でも、自分が何をすべきかは分かっているから」

 隊長は体を反転して、柵に寄りかかった。

「お前がすべき事ってのは、何だ?」

 記憶を取り戻す以上に、隊長にとって大事なこととは何だろう。何気なく問いかけた時継は、しかしその後、すぐに後悔することになる。

「……」

 隊長はすぐに答えず、まつげを伏せた。さらりと髪が肩から滑り落ち、白い顔を黒く縁取り、まるでそこだけ切り取られたかのように浮き上がった。

 不意に、まつげの影が落ちる藍色の瞳が焦点を失い、どこか遠くを見るような眼差しになる。ふわふわと頼りのない視線を時継の方へ向け、

「――鬼を討つ。私がなすべきはそれだけだ。他の事はどうでもいい」

 隊長は微笑んだ。瞬間、

(……っ!)

 全身総毛立つ、そんな錯覚を覚えて、時継は言葉を失った。

(こいつは――)

 隊長は微笑を浮かべている。

 だがその表情はうつろで何の感情も見えず、端正に整っているからこそ作り物めいて、生気がない。

 陶器のように透き通る白い肌もあいまって、頭のてっぺんから指先まで繊細に丹念に作りこまれた精緻な人形が、生きた人間を模しているかのような、強烈な違和感に襲われる。

 それはまるで、人型から魂が抜け落ちたかのような不自然さ――

(……また、かよ)

 とっさに時継は笠をぐっと押し下げて、視線を遮った。

 寒気を感じるような心地のまま、低い声で話を続ける。

「……そういうが、お前が覚えてないだけで、大事な記憶を忘れちまってる可能性だってあるだろ?

 過去にこだわりすぎるのも問題だが、どうでもいいとまで言ってやるなよ。たとえ忘れたとしても、お前にはお前の、生きてきた人生があるんだから」

 言いながらちらりと見上げると、隊長は顎に手を当て、考え込むように眉根を寄せていた。先刻まで張り付いていた人形の表情は、ぺろりとはがれ落ちるように消え失せ、

「……大事な記憶、ね。まぁそういう事もあるかもしれないか……正直、取り戻せようがなかろうがどっちでもいいけど。

 そういう事をあの人……軍師九葉に聞いたら、何か教えてもらえるかな」

 話し方も普段通りに戻ったので、時継はホッと緊張を緩ませる。

「ああ、そうしてみりゃいいんじゃないか。

 特務隊といや、奴が自分で選んだ精鋭で構成されてたって話だ。大なり小なり、お前とも何かしら関わりがあるだろうから、暇を見て聞いてみるんだな」

「うん……」

 素直に頷いたものの、隊長は再度胸に手を当てて、何やら難しい顔をしている。

「どうした、まだ気分が悪いのか」

 また倒れやしないだろうなと心配になったが、隊長はそうではなく、と心臓の上辺りをさすり、

「……軍師を初めて見た時から、何かこう……落ち着かなくて。さっき胸が痛くなったのも、話してる最中、心臓が飛び出そうな程ドキドキしていたせいじゃないかと思って」

「なんだそりゃ。お前からしたら、軍師九葉はよっぽど苦手な上司だったって事か? 記憶を無くしても体が覚えてて、拒否反応出たのかもしれないな」

「ううん……どうかな。そういう、嫌な感じではなかった……と、思うけど」

 変調の原因に思い当たらないのは、無くした記憶に由来するからなのだろう。

 あやふやに呟き、困惑した様子でしきりに首を傾げる隊長を見上げた時継は、気づかれないようにそっとため息をもらした。

 今の隊長は、普通の人間に見える。先ほど垣間見せた異様な雰囲気は、欠片も見当たらない。

 だが時継は知っていた。

 隊長は時折、ここではない何処かを見るような目をして、何もかも喪失した空っぽな顔を見せる事があるのを。そしてそれがとても恐ろしく、寂しげに見える事を。

(……何でだろうな。俺には時々、お前の方がカラクリみたいに思えるぜ、隊長)

 時継はぎゅっと笠のふちを握りしめ、近衛の宿舎がある方へと顔を向けると、

(軍師九葉。あんたがこいつとどういう関わりを持ってるのか知らないが……欠片でもいい、こいつに人間らしい思い出があった事を、思い出させてやってくれよ)

 血塗れの鬼と呼ばれる男がどれだけ彼女を気にかけてくれるものかと危ぶみながら、声に出さずにそっと祈ったのだった。




主人公は箱舟の戦士設定です。鬼を討つ、その為に時を跳び続けて記憶をなくしていって、やがて鬼を討つためだけの機能になっていく、そんな感じ。
で、リセットされても、九葉さんとの思い出はどこかに残されてる的な。


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3

 異界の空気は冷たく、重い。

 正体不明の霧は、人が一歩異界に足を踏み入れた時からその体を蝕み始め、長く留まれば息をするだけで命を奪う猛毒の瘴気だ。

 ゆえに、耐性のあるモノノフであっても常に行動限界を意識して慎重に行動する必要がある。しかし、今この時、その常識が根底から覆されている。

「本当に瘴気が薄くなっているな。深部にあってこの清浄さ……信じられん」

「異界を浄化するなんて事出来るのね、びっくりしたわ。秋水が聞いたら、どうやってやるのかすっごく知りたがりそう」

 軍師付きの武官二人、相馬と初穂は先ほどから感心しきりで話が尽きない。

 その二人に守られながら異界の出口へと歩を進める九葉もまた、異界の変化を肌身に感じていた。

 紅月を尾行して領域に侵入、その深部へ進むにつれ、濃くなっていく瘴気がまとわりつき、まるで汚泥の中を泳いでいるかのようだった。しかし瘴気の穴とやらが塞がれた後には、清らかな空気が吹き抜け、周囲の瘴気も随分と薄くなっている。

「イツクサの英雄がふらふらと何をしているのかと思えば、よもや異界の浄化をもくろんでいようとはな。なかなか面白い事をしている」

 九葉が感想を述べると、近寄ってきた小鬼を金砕棒の一振りで薙ぎ払った相馬が、息一つ乱さず会話を続ける。

「さっきの話を聞いた限りでは、カラクリ隊の隊長が要になっているようだったな」

「あやつはミタマを複数宿せる特異体質だ。今回はそれが功を奏したようだな」

 それならウタカタでも同じ事が出来そうだと思いながら言うと、そういえば、と初穂が思い出したように九葉に顔を向けた。

「あの隊長さんって、九葉の知り合いなのよね? 私はまだあんまり話をしてないけど、どういう人なの? うちの隊長みたいに、ムスヒの君の力を受け継いでるとか?」

「…………………」

「……?」

 思わず黙り込んでしまう九葉。急に妙な間があいたので、訝し気に首をかしげる初穂。いや、と九葉は視線を背け、

「……詳しくはわからん。私が拾った時、あやつはすでに自身の記憶をほとんど失っていた。元からの異能か、それとも何らかの要因によるものかは知らぬ」

「そういえば、あいつは九葉殿の特務隊にいたんだったな」

 興味がわいたのか、相馬も話に加わってくる。そうだ、と九葉は首肯した。

「相馬、お前ならば聞いた事があるだろう。十年前の当時、あやつはなかなか名の知れたモノノフだった」

 特務隊の筆頭として活躍していた彼女の名は、鬼と戦う者達の間では希望の星のように囁かれていたものだ。相馬は軽く眉根を寄せた後、ああ、と手を打った。

「言われてみれば、確かに小耳にはさんだ事があるな。かなりの剛の者と噂でもちきりだったから、一度手合せしたいものだと思っていた」

「何よ、すっかり忘れてたわけ? 相馬ったら記憶力ないわねー」

 鎖鎌で手すさびに足元の草を刈りながら初穂があきれ顔で言うと、相馬は口を曲げた。

「やかましい。同じ名前だとは思ったが、聞いたのはもう十年も前だぞ。まさか同一人物だとは思わないだろう」

 ――そう、もう十年前の事。

 仲睦まじく口喧嘩を続ける相馬と初穂の後を歩きながら、九葉は考え込んでしまう。

 彼女が鬼門に飲まれ、オオマガドキで世界が変わってしまったあの日から、思っていた以上に時は流れた。

(まさか今頃になって、再会する事になろうとはな。

 ……いずれ来るもの、と思ってはいたが)

 この十年、九葉は待ち続けた。

 横浜の地で見た「あの」戦い、それが意味するものを信じて、待ち続けていた。

 二年前に相馬、初穂と出会い、マホロバで紅月を見た時によもや、と期待が胸をよぎりはしたが、まさか本当に本人が現れるとは。

(いざとなると、驚きしかないな)

 再会した彼女は、格好こそ違えど、十年前鬼門に吸い込まれた時と同じ姿をしていた。

 寸分の狂いもなく、年月になんら影響される事なく、本当にあの日のままだった。

 聞けば、あの場から十年後の今に直接飛ばされたのだ、という。

 鬼は鬼門を用いて過去や未来を超越しているというのが通説なのだから、なるほどそういった事もあろうが、それにしても。

(……十年、か。いささか長かった)

 無意識に自分の顔に触れ、刻まれた皺の多さに思わず顔をしかめる。

(あやつはあの時のままだというのに、私は老けたか)

 これでは彼女が、老けましたねと即座に返したのも無理はなかろう。向こうは一つも年を取っていないのに、こちらは十年余計に年月を重ねてしまった。

(いや、生きている内に出会えただけ、僥倖というものではないか)

 初穂のように数十年単位で未来へ迷い込むような事もある。九葉がまだ寿命があるうちに、偶然にでも再会できたのは奇跡のようなものだ。

(だが、あやつは全てを忘れている)

 その事に思い至ると、胸が重くなったような気がする。

 九葉と彼女が共にいたのは、ほんの数年の間。その短い時間の中で九葉は彼女の才を生かすべく尽力し、彼女もそれに応えてくれた。

 特務隊として戦地を駆け巡り、命を共にして戦った記憶は今、彼女の中にない。そして、

(あの夜の事も……忘れている)

 横浜の地で、鬼門に飲まれて離ればなれになるその前――互いの感情をぶつけ合い、後悔するのではと恐れながら一線を越えてしまった一夜を、彼女はきっと忘却してしまっている。

(そうでなければ、あのような態度を取るはずがない。あの、見知らぬ他人を見るような……)

「っ!」

 不意にずき、と胸に痛みが走り、足が止まる。同時に、

「九葉、危ない!!」

 風を切り裂いて鎖鎌の分銅が目前を奔り、ギャッと醜い悲鳴が耳に飛び込んできた。

 咄嗟に振り向くと、いつの間に忍び寄ってきたのか、ワイラがふっとばされて地面でのたうちまわっている。

「ふんっ!!」

 即座に相馬が駆け寄り、金砕棒を振り下ろしてとどめを刺した。じたばたともがく体が、やがて糸の切れた人形のようにぱたりと沈み込むと、相馬は続いて鬼祓いを始める。

「…………」

 惚けたようにそれを見つめる九葉に、初穂が近づいてきて、ちょっと! と高い声をさらに高くした。

「勝手に一人でふらふらしちゃ駄目じゃない、九葉! いついかなる時も油断大敵ってキミが偉そうに言ってたくせに、自分が気をつけなきゃ!」

 どうやら考えに入り込むあまり、周囲への警戒を怠ってしまったらしい。九葉は瞬きをした後、

「……あぁ。……そうだな、初穂。すまない」

 素直に謝罪を口にしていた。途端初穂が目を見開き、

「く……九葉が……九葉が、謝った!?」

 素っ頓狂な声で驚いたので、相馬がぎょっとして振り返った。

「おい、あまり騒ぐんじゃない。鬼が気づいて寄ってくるだろうが」

「で、でも相馬、今の聞いた? 九葉が私に、すまないっていったのよ、すまないって! こんな事今まで一回だってなかったのに、これも異界が浄化されたせい!?」

「そんな事が異界の浄化と関係あるか! お前はちょっと落ち着け!」

「……良いから戻るぞ、二人とも」

 二人して大騒ぎしてどうする。九葉は気を取り直して、再び出口へと歩き始める。だがその心中は深く沈み、瘴気を飲み込んだかのように苦い。

(……忘れてしまったのなら、都合がいいではないか)

 それを飲み下すように喉を鳴らしながら、思う。

(あやつもいっていた。腹心の部下であったのは、昔の事だと)

 今彼女はマホロバのモノノフ、カラクリ隊の隊長だ。九葉配下の特務隊は全滅し、今はもう跡形もない。

(そうだ、昔の事だ。あれはもはや、ただの元部下(・・・・・・)にすぎぬ)

 ゆえに、己も忘れろ、と。

 彼女と過ごした思い出も、あの夜の事も――全て忘れてしまえと。強く、強く自分に言い聞かせたのだった。

 

 

 

 




片方だけ逢瀬の記憶があるのって厳しいなーと思う。


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4

「……おい、その辛気臭い顔をやめろ。飯がまずくなる」

「え? あ、ごめん」

 神無に注意されたのは、戦の領域を浄化して後、久音の小料理屋で食事をしていた時のことだった。

 任務に同行した焔、紅月、神無と、料理屋で会った椿とで卓を囲んでいたのだが……どうやら知らず知らずのうちに、しかめ面をしていたらしい。

「そういやさっきからずっと、すげー顔してんな。そいつが口に合わねぇんなら、俺が食ってやろうか」

 すかさず焔の箸が風切焼に伸びてきた、と思ったらその隣に座った紅月がずどむ、とやたら重い音を立てながら肘鉄を脇腹に入れる。

「お行儀が悪いですよ、焔」

「……っ!!」

「ところで、確かに元気がないようですね。どこか具合でも悪いのですか」

 声も無く悶絶する被害者をよそに、加害者が平静と尋ねてくる。焔と紅月はこういう事の積み重ねなんだろうな……と思いながら、そこには触れずに答えた。

「そういうわけではないよ。ただ……さっき会った、軍師九葉の様子が気になっていて」

「あら、何かあったの?」

 その場に居合わせなかった椿に、戦の領域での事を説明すると、彼女は眉をひそめて、

「お頭詮議の為なんでしょうけど、人の事こそこそ付け回すなんて、ちょっと気持ち悪いわね」

「まぁ、それは職務で仕方ないところだと思う。気になるのはそこじゃなくて……話をしていた時、軍師が一瞬悲しそうな顔になった気がして、どうしてかなと」

「……悲しそうな、顔だぁ? おい、そんなのいつの話だよ」

 少し復活したらしい焔が、腹をおさえながら異論の声を上げる。あれ、と思わず首をかしげてしまった。

「えっと、私を指して腹心の部下といったでしょう。それに昔の事だと返事した時、そういう顔を……」

「全っ然見た覚えねぇ。最初から最後まで、えらっそうにふんぞり返ってただけじゃねぇか、あのおっさん。テメェ、目おかしくねぇか?」

 ……そこまで言われると、自信が無くなる。

 確かに軍師九葉は常に辺りを払うような威厳のある振る舞いをするが、あの一瞬。今は無関係だと告げた時、さっと顔に影が落ちたように見えた。

 けれどそれはすぐぬぐい去られ、軍師は何事もなかったように紅月へ話しかけたから、見間違いだったかと考えもしたのだが……。

「仮に軍師九葉がそういう反応をしたのなら、十年ぶりの昔なじみに知らん顔をされるのは、やはりいい気分がしなかったんじゃないか」

 ワイラの尻尾焼きを綺麗に平らげた神無がようやく口を開く。

「……そう、なのかな?」

「どうしました?」

 今の自分には過去の記憶がなく、軍師九葉もこの里で出会った人と同じくらいの印象しかない。それ故にぴんと来ないのだが、神無の指摘は的を射てるのかもしれない。

 けれど何となくしっくりこなくて呟いたら、紅月が小首を傾げてこちらへ視線を向ける。いや、と小さくかぶりをふって、

「……特務隊にいた私がどんな人間だったかは分からない。けど多分、物の考え方や信念――自分が何をなすべきかはわきまえていたと思う」

 すう、と頭の芯が冷える。全ての感覚が急速に遠ざかり、きーん、と甲高い音が耳の奥でなり始め、自分の声さえ聞き取りにくくなる。

(まただ)

 時折襲われる、この感覚。己の役割について自覚するたびに、世界中から自分が切り離される感じ。

 確かなものは何もなく、ただ自分だけが取り残されて生きているような錯覚を覚えながら、うつろに言葉を紡ぐ。

「鬼を討つ。私がなすべきはそれだけ、他の事はどうでもいい」

「……あぁ?」

 自分の前に座る焔が、眉をあげて訝しげに唸る。だから、とふわふわした感覚のまま続ける。

「私にとって鬼を討つ使命以外は無意味だし、それは特務隊にいた時も同じだと思う。そんなつまらない人間を、久しぶりに会ったからといって、懐かしむものかな」

 不意にしん、と沈黙が落ちた。

 はっと我に返ると、皆が言葉を失ってこちらを見つめている。

(しまった、何か場違いな事を言ったらしい)

 この感覚に陥る時はいつも、こんな風に周囲から浮いている自分を自覚してしまう。

「ごめん、変な事を……」

 慌てて謝罪の言葉を口にしようとした時、

「おい、隊長。ちょいと」

 焔が二本立てた指をくいくいと曲げて、近くに寄れと示した。

「? なに、ほむ……ぐはっ!!」

 素直に身を乗り出した途端、いきなり眉間に凄まじい打撃を受けて、後ろに大きくのけぞってしまった。勢いそのまま、椅子からがらがらがっしゃんっと転げ落ち、

「あっ……()っ……~~!!!!」

 ついで襲ってきた激痛に、額を手で覆って地面の上で縮こまってしまう。

「ちょ、ちょっと大丈夫!?」

「おい、しっかりしろ」

 ガタガタと立ち上がった椿と神無が急いで自分を助け起こしてくれ、紅月は紅月で、

「焔、突然何をするのです、危ないでしょう!」

 二本指で思い切りこちらの額をはじいた焔を捕まえて、しかりつけている。しかし当の焔はけっ、と悪態をついた。

「そいつがあんまりしょーもねぇ事言うからだ、当然だろ。あーぁ、飯がまずくなった。俺ぁ帰らせてもらうぜ。気分悪ぃわ」

 そう言って紅月の腕を振り払い、さっさと出て行ってしまう。焔、と紅月はさらに追いすがろうとしたが、

「べ、紅月……いいから、待って」

 助けてくれた二人の手を借りてようやく椅子に戻り、彼女を制止する。額がずきずきと痛んで仕方ないが、

「私が、よほど不用意な事を言ったんだろうから。焔が気を悪くしたのなら、申し訳ない。後で謝りに行くよ」

 そう言ってとりなす。

「ですが……、いえ、あなたがそれでいいと言うのなら、構いませんが」

「……打たれたところが赤くなってるな。冷やした方がいいんじゃないか。おい、手ぬぐいを持ってきてくれ」

「はい、今お持ちしますね」

 こちらの額を覗き込んだ神無はそういって、何事かと近づいてきた久音に頼んでいる。そして椿が自分の服についたよごれをパッパッと払いながら、

「もう、焔ったらいきなり乱暴な事するわね。そりゃあちょっとは気持ち分からなくもないけど」

 そんな事を言ったので、え、と声を漏らしてしまった。

 正直なところ、焔がなぜ突然こんな事をしたのか分からない。口調こそ冗談めかしていたが、彼の表情は冷たく、本当に怒っている時の顔をしていた。

「……焔は私の何が、気に入らなかったんだろう」

「…………」

 その答えが分かるのだろうかと思いながら問いかけると、また一瞬沈黙が落ちる。紅月と椿は互いに視線を交わした後、

「……おそらく、ですが。焔が怒ったのは、あなたが自分自身を蔑ろにするような事を言ったからではないでしょうか」

「それに周りの事もどうでもいいなんて言われたら、一緒にいる私たちは何なのって思うわよ」

 口々に告げた。

 自分自身を蔑ろに。周りをどうでもいいと。

「あ……あ、あぁ、そうか。そう、だね」

 そうか、確かに鬼討ち以外は無意味だなどと断じてしまえば、マホロバの皆を否定することになる。今この時、一緒に会話を楽しむ時間さえどうでもいいなどと言われれば、不快に思わないはずがない。

「ごめんなさい、そこまで気が回らなかった。そんなつもりはなかったのに」

「別に、それでもいいんじゃないか」

 けれど、冷えた手ぬぐいをこちらに差し出しながら、神無は肯定を返してくる。何よ神無、と口をとがらせる椿に鋭い視線をやって、

「俺は最強を目指している。何か一つの事を極めようとするのなら、他を切り捨てるのは致し方ない事だろう」

 言葉で切り付けるように言い放った。

 すると紅月が、ひっくり返った皿を戻しながら、穏やかに言う。

「最強であるということは、孤高と必ずしも同一ではありませんよ。誰かと共にあればこそ得られる強さもあります。あなたはまだ、それに気づいていないのかもしれませんが」

「…………」

「そうよそうよ。私だって、そのために一番を目指しているんだから」

「え?」

 手ぬぐいを痛む額に当てて顔を向けると、椿は視線を落とし、

「……私がモノノフになったのも、霊山訓練兵で首席を取ったのも、マホロバで戦い続けてるのも。全部、父さんのためよ」

 淡々とした口調で告げた。

「オオマガドキで母さんが亡くなって、必死の思いで私を守ってくれた父さんを、私も守りたかった。力になりたかった。一番を取って、すごいぞ椿って言ってもらいたかった」

「椿……」

 静かな語りで、かえってその思いが強く感じられる。

 今は亡き主計の優しい笑顔を、椿との掛け合いがいかにも親子らしい暖かさがあった事を思い出し、不意に胸が締め付けられた。思わずその肩に手を置くと、ぱっと顔を上げた椿は少し笑って、

「ねえ、前から聞いてみたかったんだけど、あなたはどうしてモノノフになったの?」

 いきなり問いを投げかけてきた。う、と言葉を詰まらせてしまう。

 どうしてと言われても、何も覚えていない。

 大半が失われた中、かろうじて残された記憶の中で自分はすでにモノノフであり、椿のように明確な志願理由など分からなかった。

 こちらの戸惑いに気づいたのか、椿が慌てて手を振り、

「ごめん、覚えてないのよね。じゃあ質問を変える。あなたは何のために戦ってるの、隊長」

「何の、ため?」

 問いを変えてきたので、さらに困惑してしまった。そうですね、と紅月が頷く。

「戦う姿を見る限り、あなたは大変な努力を重ねて、今の人並み外れた強さを得たはずです。

 一言で鬼と戦うと言っても、それは生半可な覚悟で進める道ではありませんし、何の目的もなく続けられる事ではないでしょう。

 ならば、今は忘れてしまっていても、鬼と戦う事にあなたなりの理由があるのでは?」

「鬼と戦う、理由……」

「…………戦う理由か」

 おうむ返しする自分。何か思うところがあるのか、神無も噛みしめるように呟いている。物思わし気な横顔は、サムライとして生きてきた過酷な人生を思い返しているのだろうか。

(私にはそれがない)

 過去は遠く、ほんの欠片しか残されていない。

 自分自身が何者なのかさえあやふやなのに、戦う理由など求められて分かるはずもない。

「……ねぇ、隊長」

 黙り込んでしまった自分に、椿が優しく声をかけて、膝の上に置いた手をそっと握った。私ね、と微笑みながら続ける。

「里に来て間もなくて、近衛でも何でもないあなたが一番に名乗りを上げて、私と一緒にアマツミツツカと戦ってくれた事、とても嬉しかった。

 あなたにとってあれはただの鬼退治だったのかもしれない。それでも、嬉しかったのよ」

「……椿」

 ぽんぽん、と励ますように手の甲を叩いて、椿の手が離れる。紅月も大きくうなずき、

「あなたが思っている以上に、マホロバの皆はあなたを気にかけています。そんな風に人から信頼を寄せられているのだから、自分の事はどうでもいいなどと、言ってはいけませんよ。それは、皆の信頼を裏切っているようなものなのですから」

「…………」

「……俺も帰る」

 がたん、と神無が腰を上げた。見上げると彼はふっと顔を背け、

「……お前についていけば、面白い事が色々ある。あまりふぬけた面を見せるな。特に食事中はな」

 言い捨てて出て行ってしまう。

「もう、他に言いようがないのかしら、神無ったら。焔もそうだけど、男連中は乱暴すぎるわよ」

 ぷりぷりと怒る椿に、それも彼らの優しさなのでしょう、と笑いかける紅月。また楽し気に談笑を始める彼女たちを、

「…………」

 自分はただ、黙って見ている事しか出来なかった。

 

* * *

 

 食事を終えて仲間と別れ、家に戻ると夜になっていた。

 装備を解き、寝巻に着替え、寝床を整えて横になる。

 普段なら三つと数える間も無く眠りに落ちるのだが、今日はどうしてかなかなか寝付けない。いや、どうしてかというと、

「……まだ痛い……」

 焔に弾かれた眉間が、まだずきずきと痛みを放っているのだ。仕方なく起きて、水に浸した手ぬぐいをしぼって、額に乗せる。

「ああ……少し、楽になったかな」

 寝床で上体を起こし、手ぬぐいで覆った視界は真っ暗で、何も見えない。痛みが少しずつ引いていくのを感じながら、先の会話を反芻する。

(私が鬼と戦う理由、か)

 そんな事は、考えていなかった。

 鬼を倒すという命題だけが自分の中で大黒柱のように屹立しているから、それの理由を求めもいなかった。

 だが、言われてみれば、なぜ自分はこうまで鬼討ちに固執しているのだろう。

 力があるから、向いているから。それはあるだろう。モノノフ以外の職についている自分など、想像もつかない。

 戦う技は体の芯にまで刻み込まれていて、鬼と戦っている時は自分でも意識しないような動きをしている時があって、多分戦うこと自体も好きなのだろう。

 けれど、それだけなのだろうか。

(私も、椿のように……鬼と戦う理由があるのだろうか)

「……っ!」

 そう思った途端、頭にずきりと痛みが走って息を飲んだ。手ぬぐいをおさえ込んでしばらく身じろぎもしないでいると、やがて痛みが潮のように引いていく。

(駄目だ、思い出せない)

 これまで何度か記憶を取り戻せないか試みてみたが、大抵こうやって断念している。博士によれば、ある日突然蘇る事があるかもしれないから諦める事はないということだが……。

(いい、とりあえず今日は寝よう。頭が回らない)

 太いため息をつき、手ぬぐいを乗せたまま横になる。朝になればこの痛みも楽になっているだろうと期待して目を閉じ、やがて訪れる睡魔に身をゆだね――

 

「……!!?」

 不意に、飛び起きた。

 寝入ってから大分時間が経ったのか、少し開けた障子の隙間から、うっすら朝焼けが見える。まだ目覚めるには早い明け方、普段ならもう少し寝ているはずなのに、

「な――!」

 思わず叫びそうになったので慌てて口を手で押さえ、ばくばくと跳ねる心臓の音を聞きながら、荒れる呼吸を何とか飲みこもうとする。まさか、何かの間違いだと今見た夢の内容を思い返し、

「……~~~!!」

 そのせいでカーッと頭に血が上ってくらくらしてきた。

(な、な、なんなの、何なの今のは!!)

 信じられない。ありえない。だが、頭の片隅では冷静に受け止めている自分がいる。

 すなわち、それはお前の記憶なのだと。

 すなわち、実際にあった過去の事実なのだと。

「…………ほ、本当に?」

 疑問に答えてくれる相手はいない――今、この場には。

 まだ落ち着かない鼓動に胸をおさえながら、顔を上げる。その目に、部屋の隅にひっそりと置かれた文机が入った。




眉間は急所なので、デコピンされるとものすごく痛いらしい。


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5

 さらさらと涼やかに、透き通った川の流れは続く。心を安らげるような清らかな音の中で、けれど先ほどからどうしてもそわそわしてしまう。

(……ど、どうしよう。やっぱり帰るべきかな。いや、こちらから呼び出しておいて、すっぽかすなんて失礼よね。けど、とても冷静に話せる気がしない……)

 思考は同じところをぐるぐる回り、一向に落ち着く気配がない。

 川べりを行ったり来たりしていたら、それを気にかけたサムライにどうかしたのかと声をかけられてしまったので、とりあえずじっと立ってはいるが、本当に帰りたい。

(でも、今逃げ出したところで、どうせ気になって他の事が手につかなくなりそうだから、聞かない訳にはいかないし……ああ、でも、でも、でも……)

「……待たせたな」

「!!」

 頭を抱えたくなる心境で考え込んでいたところに聞きなれた声がかかったので、思わずびくっと飛びあがってしまった。

 おそるおそる振り返ると、待ち人――軍師九葉が緩やかな坂を下ってこちらへ歩いてくるところだった。

(……き、来てしまった)

 これでもうどうしようもなくなった。今すぐ脱兎のごとく逃げ出そうとする足を精一杯踏ん張り、

「ぐ、軍師九葉。お忙しい中、お時間を取らせてすみません」

 緊張のあまり、固い口調で応じる。自分の前で歩を止めた軍師は軽く眉を上げ、

「……わざわざ手紙で呼びだすくらいだ、よほどの事と見たが……用件は何だ?」

 さっそく切り込んできたので、う、と言葉に詰まり、視線を泳がせてしまう。

 彼が来るまでにどう話そうか散々悩んだくせに、いざ目の前にすると、喉に引っかかったように何も出てこなくなってしまった。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 不自然な沈黙を、清流と木々の葉擦れ、鳥の澄んだ鳴き声が埋めていく。その間がしばらく続いた後、

「…………用件は何だ、と聞いているのだが。呼び出しておいて、お前はなぜ黙り込んでいる」

 いい加減焦れたらしい軍師が、苛立ちを声に乗せ、重ねて問いかけてきた。

 す、すみません、と謝りつつ、まだ顔が見られない。

 さっきから心臓が爆発しそうな勢いで飛び跳ねている、これはマホロバで軍師九葉と初めて会った時からの事だが、いつもより更に鼓動が早くて息が詰まりそうだ。

(お、落ち着け私。ま、まずは当たり障りのないところから、話を始めよう)

「あ、あの、ですね。あなたにお聞きしたい事があるんです。その、特務隊について、教えて頂けないかと思って」

「……特務隊?」

 訝し気に声が低くなる。これまで過去について尋ねる事はほとんど無く、無関係だという態度をとっていた元部下からの要望としては、奇妙に響いたのかもしれない。

 一瞬話してはくれないかと思ったが、短い間を置いた後、軍師九葉はさらに歩を進め、自分と並ぶ位置に立った。

 川面に向かって語り掛けるように、静かな声音で話し始める。

「……特務隊は、まだ表の世界に鬼の存在が知られていなかった頃、秘密裡に鬼と戦うために私が選り抜いたモノノフで作った部隊だ。

 隠密行動ゆえ小部隊ではあったが皆が皆、一騎当千といっていいモノノフ達ばかりだった」

 その中でも、と相手がこちらへわずかに体をずらす。思わず顔を上げると、軍師九葉は自分に向けてじっと視線を注ぎながら、

「お前はとびきり優れたモノノフだった。

 表立っての戦いを避けねばならぬ故、人知れず命を落としたモノノフは数多い。だが、お前は誰よりも先んだって戦線に立ち、鬼を狩り、どれほどの怪我を負おうとも、数多の戦から必ず生きて帰ってきた。

 故に、皆がお前を英雄と呼んだ。

 いつ果てる事のない戦いの中でお前という存在に勇気を得て、共に鬼討つ使命に燃え、死に瀕してさえ、お前に希望を見た。

 ……隊の性質上、特務隊は馴れ合いを善しとしなかったが、それでも多くの者達が、お前に未来を託して逝った」

 横浜でもそうだった、と語る表情は影がさして、やはり悲しそうに見える。

 それは戦の領域で見たものと同じで、やはり見間違いではなかったのだと確信する一方、胸が急に締め付けられるように痛んだ。

(……ごめんなさい)

 謝罪を口にしようとして、やめる。

 今の自分に特務隊の記憶はない。自分に事後を託した隊員たちの事も、おぼろげにしか覚えていない。

 それが申し訳ないと心から思うのだが、謝ったところで何の意味があるのか。

 横浜の最前線まで出向き、皆の死にざまを見聞きしながら、ひとり生き抜いたこの人の前で、中身のない謝罪など、侮辱といってもいいのではないか。

(私は彼ら一人一人を覚えてはいない。でも……覚えていない事を理由に、彼らの思いを無かった事にしてはいけないのだろう)

 紅月が言っていた事を思い出す。あなたが思っている以上に、皆はあなたを気にかけているのだと。

 それは現在のマホロバしかり、過去の特務隊しかり。

 周りの人々の思いはその時々で、自分と言うあやふやな存在をその場にしっかりと結び付けてくれている。それ故に今、自分はこうしてここに立っているのだと、改めて思う。ゆえに、

「……ありがとうございます、軍師九葉」

 自然と漏れたのは、感謝の言葉だった。

「私は、自分がなすべきことをなすだけ。それはきっと今も昔も変わりません。でも、先に亡くなっていった彼らの分も、戦い続けなければならないのだと、思います」

 正直に言って、後を託されたと言われても実感はない。自分は本当にほとんどの事を忘れてしまっているから。けれど今、それを惜しく思う。

(思い出したい)

 使命さえあれば他はどうでもいいと考えていたのに、切に思う。

(私が誰と、どんな風に生き、どんな風に戦い続けてきたのか、知りたい)

「……そうだな。千年続く鬼との戦で多くの者達が命を落とし、我々はその屍の上に生きている。

 彼らの死を無駄にしないためには、鬼を討ち、人の世を取り戻す戦いを続けなければならない。亡くした命に報いなければ、流した血の意味を失ってしまう」

 淡々と語る軍師の言葉が、体にしみ入るようだ。目を伏せて悲しげに、けれど決意を込めて語るその表情に視線を引き寄せられて、見入ってしまう。そして、

(思い、出したい)

 さらに強く思った。

(私はこの人と、どんな時を過ごしたのか。どんな思いで、共にいたのか)

「……九葉」

 そう思ったら、名を呼んでいた。過去の追憶から引き戻された、というように九葉がこちらへふわりと視線を向ける。その眼差しを真っ向から見つめて、

「私は、あなたとつき合っていたのですか」

 何のてらいもなく、するりと質問を口にした。途端、

「……ぐっ!?」

 九葉が突然息を飲み、一歩後ずさった。沈痛な面持ちは焦りのものに塗り替えられ、思い切りあからさまに顔を背けられる。ごほっ、と咳払いを一つして、

「……何か、思い出したのか」

 落ち着こうとして、明らかに動揺している声音で逆に問い返してきた。その様子に、あっこれは本当に、本当なのだと確信した瞬間、

(う……は、恥ずかしい)

 とても顔が見ていられなくなって、自分も明後日のほうを向いてしまった。その、と口ごもりながら応える。

「あの、昨日急に、思い出したんです。えっと……その。よ…………よ、横浜での事、を」

「……どこまで思い出した」

「どっ……こまで、というほどでは! こ、細かい事は全然。ただ……えっと、その、わ、私とあなたが、……そ、そういう雰囲気だったのを……何となく……」

「そう、か。…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 また、長い沈黙が落ちる――先ほどよりもさらに気まずい沈黙が。

(……ど……どうしよう……やっぱり言うべきじゃなかった気がする……!!)

 夢うつつに思い出した記憶は曖昧で、確かな事は分からない。けれど自分は九葉と、明らかに親密な雰囲気だった。

 ――視界に映る九葉は見た事のない、熱を帯びた瞳で自分を見つめ、名を呼び、優しく触れてきた。

 ――そして夢の中の自分は、生きてきて初めてなのではないかと思うほどの多幸感に包み込まれていた。

 ――九葉、と呼び返す声も、本当に自分のものか驚くような愛情に満ち満ちていた。

(いやだ、部分的に戻ってくるの、やめてほしい!)

 頬に手を当てると、汗をかくほど熱くなっている。多分耳まで真っ赤になっているだろう、これは見られたら恥ずかしくて死ぬ、そんな事を考えて両手で顔を覆っていると、

「……確かに」

 長いしじまを破って、九葉が口を開いた。

「確かに、私とお前は……関係を持ったことが、ある」

「!」

 改めて認められると、恥ずかしさがいや増してしまう。

 ……いや、この場合より恥ずかしいのは九葉の方だろう。こちらがほとんど覚えていない一夜の事を、わざわざ説明しなくてはならないのだから。

(も、もしかしたら今、九葉も赤面しているかもしれない)

 と思ったが、顔を見る勇気はない。その時、

「だが、それはもはや昔の事だ」

 九葉の声が冷静さを取り戻した。つい、指の隙間からちらりと視線を向けると、九葉は川に顔の向きを固定したまま続ける。

「私にとっては十年も前の事。お前にとっては、失われた記憶の一部にすぎぬ。

 今更それを掘り起こしたところで、何の意味がある。無用の悶着を引き起こすだけだろう」

「そ……、れは。……そう、ですが」

 頭から冷水をかけられたかのように、動揺が押し流されて、体の力が抜ける。

 確かにその通りだ。いくら過去に互いを思いあうような事があったとしても、自分はまだ実感できていないし、九葉は九葉で十年の時を過ごしてしまっている。

 心を通い合わせたとしても、それはもはや昔の事。それは本当に、その通りなのだ。だが、

「……私は」

 夢の中で九葉が触れた頬に手を当てたまま、小さく呟く。

「私は、確かな事は忘れてしまっています。なぜ、あなたとああなったのか、思い出せない」

「…………」

「でも……でも、これだけは間違いないと思う。私は、過去の私は、あなたの事を愛していた」

「!」

 鋭く息を飲む音がする。視界の隅で袂が揺れたのは、九葉がこちらへ体を向けたからだろう。けれど目を合わせる勇気はないまま、続ける。

「あなたと共にいられる事を、私は心から望んでいた。あなたに名を呼ばれるだけで、あなたに見つめられるだけで、これ以上ないと言うほどの幸せを感じていた」

 短い夢の逢瀬でさえ、かつての自分はあふれんばかりの歓喜に満ちていた。あれほどの喜びを一人の人に対して抱けるものかと思うほどに。

(私は九葉を愛していた)

 それもまた、記憶を失ったとしても、無かったものとしてはいけない事実だ。九葉が今いったように、失われたもの故に無意味だと切り捨ててはいけないのだと、思う。

 だから、と震える声で、問いかける。

「九葉、教えて下さい。……あなたは、私の事を、どう思っていたのか」

「………………――」

 間を置いた後、九葉が小声で漏らした言葉は聞こえなかった。

 聞きのがしてしまったかと、顔を上げる。と、口を半ば開いたまま、凍り付いた九葉と目が合う。

 彼は瞬きし、視線を落とし、何かを振り払うように小さくかぶりを振った後、言った。

 

 ――今のお前には、関わりのないことだ、と。



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6

 その女は、いつも一人だった。

 傍から見ていれば、彼女には仲間がいた。寝食を共にし、命を懸けた任務へ挑み、背を預ける友がいた。

 だが、彼女は一人だった。

 どれほど皆に好かれ慕われ囲まれていようと、彼女はいつも此処ではない場所を見るような遠い目をしていて、一人心を何処かへ飛ばしていた。それが空しく寂しげに見えてならなかった。

 そんな孤独な女が、どんな気まぐれか、自分におかしなことを告げた。

 ――私はあなたの生き方を尊敬しています、九葉。

 それは立て続けに起きた鬼討ちの任務を片付けた後、心身共に疲れ果てて、やっと休息を得た日。

 ふらりと執務室へやってきた彼女は、特に何をするでもなくぼんやりと座り込んでいたが、不意に口を開いたと思ったらそんな妙な事を言う。

 ――それは皮肉か? 味方殺し、霊山君の腰ぎんちゃく、汚職の根源と誹謗中傷を雨霰と受けるこの身の何を尊敬するというのだ。

 久方ぶりに戻った霊山は相も変わらず伏魔殿で、望む望まずを問わず、孤軍奮闘する軍師九葉は鼻つまみ者だ。

 私利私欲に目がくらんだ連中を弾劾した返しに、散々浴びせられた罵声を思い出して辟易し、口を曲げる彼に、彼女はだって、と静かに続ける。

 ――九葉、あなたは救える命を救い、失った命を背負って他を活かす為、常に邁進し続けている。そのゆるぎない信念に、多くの者達が生かされてきている。

 ――鬼を討つ。私がなすべきはそれだけで、他に何もない。この手は奪うばかりで、何も生み出す事が出来ない。

 ――それが、今は少し悲しいように思えるのです。私にも、あなたのような強さがあったらよかったのに。

 彼女が淡々とした、それでいて寂しげな述懐を、まるで自分の事は何もかも諦めたような微笑を浮かべて言ったので、

(そんな事はない)

 と、応えてやりたかった。

 鬼と戦う事そのものが、人の世を救う端的で最善の方法であり、彼女はその一番槍に他ならない。

 彼女が自ら傷つく事を厭わず、強大な鬼であっても立ち向かい、結果どれだけの人々を救ったか。

 どんな劣勢に置かれようと怯みもせず、戦い続けるその姿に、同じモノノフ達がどれほど勇気づけられたか。

 そして何より、

(この私が、どれほどお前の存在に助けられている事か)

 特務隊の隊員として、時に理不尽にさえ思えるような任務を下しても、彼女は不平一つ言わなかった。常に彼の策を信じ、そのために戦い、そして生きて帰ってきた。

 ゆえに彼女は、九葉にとっても英雄だった――否、それだけではなかった。

 「九葉」と彼女が呼ぶ声を、「ただいま戻りました」と任務から帰還して発するその一声を、いつの間にか心地よく聞くようになっていた。

 拾った当初は半死半生、ようやく回復しても無表情で人間味の無かった彼女が初めて笑った時、自分で戸惑いを覚えるほどに安堵した。

 任務の報酬にと与えた新しい装備品を、感謝の面もちで受け取り、大事に手入れをして使っている姿を見て、微笑ましく思っていた。だから、

(お前は、鬼討ち以外に何もない人間ではない)

 そう伝えてやりたかった。

 何もないなどと言ってくれるな、一途に己の道を突き進むその姿にこそ、惹かれてやまないのだからと言い掛け、これではまるで口説いているようだと怯んだ時。

 ――時々あなたがまぶしくて、羨ましくも思います。九葉、私もあなたのようになりたかった……

 不意に藍色の瞳が焦点を失い、それまで宿っていた輝きが消え失せた。

 魂が抜け出た人形のごとく虚ろな表情になり、その輪郭が不意にぼやけたような錯覚さえ覚えた。

(消えてしまう)

 何の脈絡もなくそう思い、ここに留めておかねばと焦った。

(私はまだ、お前に何も伝えていない)

 まだ、言わなければならない事が山ほどあると、そう思ったので。

 手を伸ばし、無防備に自分を見上げる彼女に触れ――気づいた時には、柔らかい唇に己の唇を重ねていた。

 

『あなたは、九葉? あなたは――私を欲しいと思ってくれている?』

 

 ……そして、横浜でのあの夜。

 灯りのない閨の中、ひそやかに囁かれた問いの答えは、口に出来なかった。

 そんなものは愚問に過ぎなかった。

 自分はもう、とうの昔に彼女という存在を欲し、自分のものにしてしまいたいと願っていた。

 自分は彼女の保護者だから。

 年が親子ほどにも離れているから。

 上司と部下だから。

 彼女がそんな関係を望んでいないから。

 そんな理由をいくつも掲げて、己の欲を心の奥底にしまい込み、存在さえ忘れたふりをして、自身を律していなければいけないと思っていた。

(後悔を、するかもしれない)

 床に横たわり、頬を上気させ潤んだ瞳で自分を見上げる彼女を見下ろし、理性が溶けていくのを感じながらそれでもなお恐れていた。

 彼女を手に入れてしまう事が、恐ろしい。否、手に入れた彼女を失う事が、恐ろしい (・・・・・・・・・・・・・・・・・)

(私はいずれ、お前をも殺してしまうのではないか)

 どれほど彼女に心を砕こうと、もし今、犠牲を覚悟して兵を戦地へ送らねばならない事態になったら、自分はきっと彼女を死地へ向かわせてしまう。

『っ……く、よう……九葉……っ』

 しなやかな腕を背に回してしがみつき、健気に自分の名を呼ぶ女を、愛しいと――この世の何よりも愛しいと思いながら、

(私はきっと、お前を失ってしまう)

 それでもなお、人の世と彼女の命を秤にかけた時、決して彼女を選ばないであろう己の業に、九葉は絶望せずにはいられなかった。

 彼女の名を呼び、唇に触れ、汗のにじんだ滑らかな肌を撫で、このまま一つに溶けてしまえばいいと思うほど深く身を重ねて、それまで生きてきた中でも至上の幸福に満たされ……

 ――そこで、目が覚めた。

 

* * *

 

 ちゅん、ちゅん、と小鳥の鳴き声が聞こえる。

 す、と目を開くと、障子を通して差し込む光はうすぼんやりと明るく、夜が明けた事を示していた。

「…………」

 天井の格子をしばし凝然と見上げた後、

「…………ふーーーーーーーーーーーー…………」

 漏れ出たのは、長い長い溜息だった。ぐったりと体が重たいのは、あんな夢を見てしまったからだろうか。手を持ち上げて目を覆い、

(……私は、阿呆か。己で今更と言っておきながら)

 自分がいかに彼女を愛しく思っていたかを再確認するような夢を見てしまうなど、愚かしいにもほどがある。

 大体、もう十年が経っているのに、どうしてこうも記憶が鮮明なのか。あるいは現在の彼女が、わざわざ想起させるような事を言ってきたからなのか。

(……微に入り細に入り、思い出してどうする)

 ゆっくり体を起こし、寝乱れた髪をかき上げながら、もう一度太く息を吐く。

 自分と一夜を共にしたことを思い出したといっても、どうやら部分的にしか覚えていないらしい彼女の代わりとでもいうように、九葉の夢は最後の夜の思い出をあまりにも生々しく、細かいところまで再現してしまっていた。

 おかげでもう目が覚めたというのに、まだ名残が残っているような妙な感じがして、大層気持ちが落ち着かない。

 彼女が鬼門に飲まれてから、ずいぶん時が流れた。

 十年は思いが薄れるのに十分な長さであるし、オオマガドキ以降は個人の感情に拘泥する余裕など一切なかった。正直、彼女を思い出さずにいた時期もあった。

 だというのに、再会して然程の時が過ぎぬうちに、こうも心が揺り動かされるとは。

「……未練がましいにも程があるな」

 夢の残滓を振り払いながら、一人ぽつりと呟く。

 自分はまだ、彼女への思いが断ちきれずにいる。あんな形で別れ、それでもいつか再会するかもしれないと希望を抱き続けた結果がこの体たらくなのだろう。

 だが、彼女は違う。

(あやつはもう特務隊配下ではない。マホロバの、カラクリ使いだ)

 記憶をほとんど失った彼女は、この地で新たな人生を歩み始めている。出会ったばかりの頃の無気力さは垣間見えるが、良い仲間に恵まれ、少しずつ心を開いてきているようなのは、見て取れた。

(ならば、昔の事などわざわざ持ち出す必要はない)

 過去に九葉と何があったとしても、今の彼女にはもはや関わりのないことだ。

 蘇った記憶のせいで過去の感情を今の気持ちと混同し、九葉へ思いを寄せるような勘違いをさせてはいけない。

(私も老いた。十年前でもいかがなものかと思うほど年が離れていたものを、この上おいぼれの相手をさせるわけにもいくまい)

 幸い彼女の周りには近い年頃の若者がごろごろしているし、和気あいあいとやっているようだから、いずれ誰かと恋仲になるような事もあるだろう。

(……ゆえに、カラクリ使いの隊長よ。私のことなど、忘れろ)

 しかし心中で呟いたと同時に、

 

 ――今のお前には、関わりのないことだ。

 

 九葉の言葉を聞いて、藍色の目を瞠って絶句した彼女の顔を思い出し、胸がずきりと痛んだ。

 あ、と何かを言おうとして口を開いた彼女の表情がくしゃりと歪み、今にも泣き出しそうになって、思わず手を伸ばしかけたのを思い出してしまう。

(……本当に、未練がましいことだ)

 こんな事になるのなら、いっそ再会しない方が、彼女の為だったのかもしれない。

 口の中に何か苦いものが広がるような思いで歯噛みしながら、九葉は布団を払いのけた。今はとりあえず、凍り付くほど冷たい水を浴びて、昔の夢に酔っている己の目を覚ますべきだ。




実は主人公にぞっこんすぎる九葉さんw


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番外

10年前、九葉さんにキスされて戸惑う主人公を特務隊の女子が煽ったり、息吹が恋愛指南したり、いざ本番に臨んだりする話。


 普段は何があっても落ち着いて対応する彼女が、その日に限っては、

・火にかけたやかんをひっくり返す

・こぼしたお湯を慌てて拭こうとしてやけどする

・やけどした事を忘れてその手で武器を握って痛みに悶絶する

 というおっちょこちょいを連続でやらかしたので、さすがに気になって、何かあったのか問いかけた。すると彼女は眉をひそめ、

「その……えっと。ある人に、急に……く、口づけをされたのだけれど、それが頭から離れなくて」

 ……えっ、何て!? 口づけ!!!? 誰に? 特務隊の誰か!!!?

「それは、……ごめんなさい、言えない」

 言えないってなんで!

「ちょっと、障りがあって……」

 障りって……はっ。まさか、不倫……

「ち、違う違う。ただその、立場のある人だから、変な話をしたくないとおもって」

 それってもしかして無理やりされたの?と詰め寄る。

「……無理やりというか、急にというか……普通に話をしていたら、なぜかそんな事に」

 どんな話をしてたら急に接吻されるというのか。謎すぎるけれど、とりあえず気になる事を先に聞く。それであなたはどう思ったの? 嫌じゃなかった?

「……嫌……では……なかったと、思う。驚きはしたけど」

 じゃあその人の事、気になってるとか。

「気になってるって?」

 だから、好きなのかどうかってこと!

「す……、す、……好き。あれ、そうなのか、な?」

 だってされて嫌じゃなかったんでしょ? いつも人とそれとなく距離とって、触られるの避けてるあなたが。

「そ、そうだったかな。……うん……まぁ、そういわれれば……あの人に、触られるのは、嫌じゃない、かも」

 じゃあ結構、大分好きなんじゃない?

「……うん。そうかも」

 ……驚いた。いつも穏やかに笑っていて、そつなく誰ともうまくやっていくけど、あまり打ち解けないこの子に、そんな人がいるとは。

 彼女が好きになった相手に興味がわいてきて、更に聞く。それで、口づけされた後はどうしたの?

「……部屋を追い出された」

 は?

「だから、仕事があるから出ていきなさいと。さっきのは何かと聞いても、何の意味もない、忘れろと」

 ……はぁぁぁぁぁ!? 何その男、自分からしておいてどういう言い草!?

「あの人がそういうのなら無意味で忘れるべき事なんだろうと思ったけど……でも、気が付くと思い返してしまって、色々な事が手がつかなくなって」

 そりゃそうでしょう。少なくとも彼女が覚えてる限りではまず間違いなく、初めての接吻だろうから。それを忘れろなんて無理に決まっている。

「でも、あの人が……」

 その男の都合なんてどうでもよろしい。あなたはどうしたいの?

「どう……? というのは」

 だから、相手が自分に好意を持っている、かもしれなくて。自分も相手を憎からず思ってる。単純に好き同士なら、じゃあお付き合いしましょうってなるけど、あなたはそうしたいのかって事。

「お付き合い、とは」

 男女のお付き合いの他に何があるの。

「……私は、ただ。あの人の役に立てれば、それでいいけれど。お付き合いとは具体的に何をするの」

 それは……とか、……とか、……とか?

「っ! な、ま、待って、そんなことまで考えてはいない!」

 だって、その人と、そういう恋人っぽいことしたくないの?

「…………そ、想像つかない……」

 じゃあ、もう一度口づけされたら、嬉しい? 嫌?

「それは…………。…………………………………………う、嬉しい、気がする」

 よし、ならしよう。

「は?」

 前々から思ってたけど、あなた綺麗なのに色気のある話なさすぎ。そんな気になってる人がいるのなら、これを機に恋愛経験つむべき。若い身空で恋も知らずに鬼退治に打ち込むなんてそんなのありえないから。

「あ、ありえないと言われても……そんな、何をどうすればいいのかなんて、分からないし……」

 大丈夫、こう見えて私色々知ってるし、本もたくさん持ってるから教えてあげる。あなたは任務をするつもりで真剣に取り組みなさい。

「に、任務ってそんな大げさな……」

 いいからちゃんと勉強して、その自分勝手男を自分に夢中にさせてやるのよ。乙女の唇を奪った代償は、命を秤にかけてもいいくらい重いんだからね。

 

================================

 

 世の中には様々な戦いがあるものだと、思い知らされた気がする。

「……世の女性は、こんなに手を尽くして意中の男性を落とそうとするのね……何だか凄い……」

 特務隊の仲間が寄越してきた書物の類に目を通していたら、自然とそんな感想が漏れた。

 女性は、凄い。

 己の思いを叶えるために、化粧から服装から性格から何から磨き上げ、相手の男性を研究し尽くし、こういう性格ならこれが決め手! と事細かな攻略方法まで研究している。

 下手をすれば、鬼相手よりも詳細なのではないかこれは。

「身近だからこそ、より一層深く研究したがるものなのかな……」

 深い。男女交際は実に奥深い。といっても、いくら書物を読み漁ったところで、自分がうまくできるかは全く自信がない。

(何しろお相手が……九葉だし、なぁ)

 恋愛指南が想定する相手は、大体同年代、少し年下、少し年上くらいが定番のようで、自分と九葉に置き換えてみると、多分それよりも年の差があるように思える。

 四十の男性となれば、しかも公私の別なく、時間のほとんど全てを鬼討ちとそれに関わる策を打つのに割いているような人となれば、指南書に出てくる恋に浮かれた軟弱な男子とは違いすぎる。

 どうしたものか。これではいくら知識を詰め込んだところで、何の活用も出来ない。

 

 ……というような事を同僚に相談したら。

「よっ、あんたが助けを求めてる恋する乙女かい? 俺は息吹、よろしくな」

「この人調子はいいけど、恋愛ごとに関しては結構的を射た事言うから、練習台にちょうどいいと思うの。好きに使ってやってちょうだい」

「……はぁ。よろしくお願いします」

 とある里で知り合ったという男友達を紹介してくれた。

 名は息吹。はちみつのような色の髪をした、背が高く整った顔立ちの青年で、やたら明るい。お調子者と同僚が評したのは確かにその通りで、ではさっそく指南をとなったら、

「おっと、その前に大事なことを言っておくぜ。俺は確かに恋愛の専門家、男心の機微や逢瀬の作法なんかは教えられるがな。これはあくまで練習であって、あんたは間違っても惚れちゃいけないぜ? 何しろ俺にはカナデt「あ、間違っても惚れないので、早く始めてください」

 と言うふうに、何だか少し勘違いしてる系の人だったので。

 

 ……とはいえ、息吹の指導は確かに適切で分かりやすかった。

 書物で得た知識をどんなふうに実践すればいいのか、出来る範囲で実地で教えてくれたし、手ほどきと称して不埒な真似を仕掛けてくるような事も無かった。

 私が思いを寄せる相手がどんな性格かを聞き出して、最初の口づけを無かったことにしたくないのなら、自分から積極的にしていった方がいいとも助言をしてくれた。

「どうやら奴さん、うっかり手を出したのを後悔してるみたいだからな。次はそうしないように相当注意をしてるはずだ。そうなるとまず、向こうから二度とちょっかいかけてこないだろう」

「ふむふむ」

「それならいっそ、こっちから攻めていけばいい。世の中には女が男に迫るなんてはしたないと言う向きもあるけどな、俺はそうは思わない。好きなら、手に入れたいなら、どんどん行くべきだ。

 言ってしまえば鬼討ちと同じだな。逃げていく鬼を逃したくないなら、自分から突っ込んでいくだろ?」

「なるほど。確かに」

 私が戦いしか知らないせいか、息吹はよく鬼討ちの例を出してくれるので、分かりやすくて助かる。九葉を鬼と例えるのは失礼かもしれないが。

 深く納得して息吹の説明を紙に書きとっていたら、それにしても、と息吹が首を傾げた。

「聞けば聞くほど、あんたの相手は相当な難物だな。どうやら年もかなり離れてるみたいだし、何だってその男に惚れちまったんだ?

 あんたは結構有名人だし、見た目もいい。その気になればいくらでも選び放題だろうに」

「…………」

 息吹の問いに、私も首を傾ける。

 九葉が私に好意を持ってくれているらしい、それ自体も謎だけれど、私も九葉を、なぜこんなにも気にかけているか、自分で不思議に思っていた。改めて問われ、しばし黙考に陥った後、ゆるゆると答える。

「……息吹は、経験した事がある? 自分の世界が、まるごと全部変わってしまったかのような経験が」

「ん?」

「私は、あるの。二回。

 最初は、あの人に出会って、命を救われた時」

 記憶もなく、なぜ自分が死にかけているのかも分からないまま息も絶え絶えだった私を、九葉は何の見返りも求めず助けてくれた。

 一見は恐ろしく思えるほど威厳に満ちた態度を取りながら、その実すみずみまで気配りの行き届いた世話をしてもらって、こんなに親切な人がいるものかと驚いたほどに、九葉は優しい。

「そして、二回目は……あの、口づけをされた時」

 優しい九葉の傍にいると、不思議と心が落ち着いた。彼の指図には、危険があっても必ず人の為になる理由があったから、躊躇いなく己の力を投じて満足していた。自分が九葉の部下である事に、誇りを持つようになっていた。

 けれどそれは今、形を変えてしまっている。

 自分を見つめる九葉の目が、常の冷静さを失って、どこか恐れるように、それでいて熱を帯びていて、視線をそらせなかった。

 自分の足元がなくなり、ふわふわと宙を浮いているように心もとなく不安だったあの時、九葉の唇が触れて、息遣いとぬくもりと少しかさついた感触を感じて、一瞬息がつまりそうなほど心臓が跳ね上がった。

 思い出せば今もなお、胸がどきどきと弾んで止まない。あの瞬間から、九葉の目に自分がどう映っているのか、九葉という存在が気になって、気になって仕方ない。

「……あの人は、何もなかった私の世界を変えてくれた。あの人の為なら、私は何でも出来る。他の人では駄目、あの人でなければ、意味がない」

 自分の言葉を噛みしめるように、一言一言ゆっくり紡ぎだす。

 と、黙って聞いていた息吹がふ、と笑みほころんで、

「……そうか。あんたにそこまで想ってもらえるなんて、幸運な奴だな、そいつは」

 不意に私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。

「分かるよ。俺も、カナデに会った時そうだった。あいつの為なら、俺は命をかけても惜しくない。お互い、いい相手に出会えたみたいだな」

「……うん。そうだね」

「よし、そういう事ならなおさら、そいつを口説き落としてモノにしなきゃな。なぁに、恋の事ならこの息吹様に任せておけって」

「うん、よろしくお願いします。……あと、今度カナデにも会わせてほしい。息吹がそんなに惚れこんでいるのがどんな人なのか、知りたい」

「おっ、いいぜ。一応カナデには言ってあるけど、あんたとこんな事してるって嫉妬されたら厄介だしな……あ、いやいやこっちの話。じゃあ続きをだな……」

 

 その後カナデと、同僚も含めて恋の手ほどきは続き、かなり踏み込んだ内容まで指南されて、皆は本当にこんな事までしてるのかと汗をかく始末だったが、何とか全て修了した。

 息吹たちの太鼓判も貰いはしたが……その結果がどうなったのかは、また別の話。

 

================================

 

「後悔なんて、しないから。……だから、あなたと共にいさせて」

 頬を包む大きな手に唇を寄せて、小さな声で囁きかけると、九葉は耐えかねたように顔を歪ませた。私の名を呼びながら、そっと床に横たわらせて、その上に乗ってくる。

(き、来た。とうとう、この時が来てしまった)

 期待と不安とで胸が張り裂けそうなほど跳ね続けている。

 九葉に口づけをされてからこの日まで、皆に教えてもらった恋の手管を精一杯活用して、ようやく九葉が応じてくれた。転属を命じられた時は嫌われてしまったと絶望に目の前が真っ暗になったけれど、

(そのすぐ後にこうなるのだから、九葉、私あなたがよく分からない)

 よく分からないけれど、とにかくこれで思いは叶ったとみていいのだろう。後は、同僚やカナデがあけすけに教えてくれた閨の作法を実行すればいいのだが、

(さ、さすがにこればかりは出来るかどうか。大体、九葉だって慣れているとも思えないし)

 そう思うのは、あれこれと話し合っていた時に、息吹と同僚がこういったからだ。

『聞いてる限りじゃその御仁、人間関係下手そうだな。もしかしたら女性絡みもそんなに経験ないんじゃないか?』

『そうよね、何か不器用でそんな感じがする。まぁくよ……ごほん、そのお相手は仕事忙しそうだし、そんな暇なさそう』

『くよ?』

『何でもない何でもない』

 ……さんざん相談した同僚には相手が誰かばれていた気がするけど、まぁそれは置いておいて。

(この人が息吹とカナデみたいに、女の人と一緒にいるのなんて、想像がつかない)

 そう思って見上げると、上着を脱いで脇に置いた九葉が、

「あまり、見るな。……お前の目を見ていると、おかしな気分になる」

 ぼそりと呟いて顔を近づけてきた。どきりと息を飲むと、また唇を重ねられる。

「……」

「ん……」

 九葉の口づけは、優しい。

 さっき、突然抱き寄せられてされた時は息を奪うように深くて、眩暈がするほどだったけれど、今は壊れ物を扱うように優しく、何度か角度を変えて唇をなぞっては、少し離れてまた触れる。

(……何か……想像よりは、慣れているような気が、する)

 間断なく与えられる口づけにくらくらしながら、頭の片隅で思う。

 女性に慣れていないのなら、口づけ一つとっても、もっとぎこちないのでは。それに、唇を重ねながら九葉の手がするする動いていて、気づけば特務隊の制服が脱がされていて、襦袢姿にされているし、九葉もそうなっている。

「な……慣れてませんか、九葉」

 唇が離れた束の間、自分が無防備な姿になってる事に気づいたら途端に恥ずかしくなって、思わずそんな事を口走ってしまった。再び顔を重ねようとしていた九葉は動きを止めると、眉を上げる。

「……今この場で、わざわざ聞くべき事がそれなのか?」

「だ、だって……あなたは何と言うか、女性の気配なんて何もないから、こういう事は、慣れてないんじゃないかと思って……たんですけど」

「…………。慣れてはいないが、経験がないと言った覚えはない」

 う……と、いうことは、九葉は過去に、他の人とこうした事があるのか。そう思ったら胸がぎゅっと痛くなって、思わず顔をしかめてしまう。と、九葉が浅くため息をついた。

「昔の事など、掘り起こしても埒がなかろう。大体それを言えば、お前はどうなる」

「わたし?」

「そうだ。お前こそ、ずいぶん積極的に私を誘っていたのだから、よほど手慣れていると思ったが」

「そ、それはその」

 あなたを口説き落とすために勉強したからです、とはさすがに言えなくて、顔を背けてしまう。

「わ、私はあなたと出会う以前の記憶がありませんから、どうだったかなんて分かりません。多分、そんな奔放な性格だったとは思えませんけど」

「……」

 短い間を挟んだ後、九葉は低く笑った。何事かと視線を戻して、どきりとする。九葉は底光りする瞳で私を見下ろし、そうだな、と呟く。

「この際、お前に昔の記憶がないのは幸いだな。おかげで、他の男と比べられる事を避けられる」

「ほ、他の人と比べる?」

「――私にも、男としての矜持というものがあるのでな。良い歳をしてお前を抱いてから、若い男と比べて大した事がないなどと嘲笑われてはかなわん」

「そ、そんな、他と比べるなんてこと、ひゃっ」

 仮に記憶があってもそんな事するはずがない、と抗弁しようとした時、九葉の手が突然、私の足のくるぶしからひざ裏までを撫で上げたので、悲鳴が出てしまった。ぎょっとして見上げると、

「無駄話の時間は終わりだ。こうなったからには覚悟するがいい。安易に男を煽るとどうなるのか、その身でしっかり味わっておくのだな」

 鬼討ちで己の策が上手くいったときのように会心の笑み。

 傍から見れば、何とも凄みのある笑顔で九葉が私を見下ろし――そうして、忘れようにも忘れられない一夜が、始まってしまったのだった。






九葉さんは若いころもててたんじゃないかと思う!


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7

 命は、いつも自分の前を通り過ぎて行った。見送ったのがどれほどの数だったか、もう思い出せない。

 命は過ぎ去る。それは当たり前で、何の感慨もわかない、当然の理。

 ゆえに、時の彼方へ消えていく命の奔流の中で、自分はただ鬼を討ち続けた。

 その事に疑問を抱いた事は無かった。

 己に与えられた役目はそれのみだったから、悩む事など何もなかった。

 何もなかった――はずなのに。

 

* * *

 

「……ん……」

 ずきり、と頭が痛んで、目が覚めた。ぼやけた視界を瞬きしてはっきりさせてから、のそりと体を持ち上げる。

「……ここ、は……」

 頭痛に顔をしかめながらゆっくり周囲を見渡すと、そこは自分の家だった。装備を外し、寝床で横になっているが、寝た覚えがない。

(私は……どうして家に……)

 また記憶を失ったのだろうか、と思ったらひやりと寒気を感じた。

 ただでさえ以前を覚えていないのに、この上マホロバの事まで忘れてしまったらと思うと、ぞっとする。

(何か、夢を見ていたような気もするけど……)

 それも覚えていない。胸にうつろな風が吹きすさぶような、そんな残滓だけが残っているのが気持ち悪い。そう思いながら胸をさすっていると、

「……おい、生きてるか」

 がらりと戸を開けて、博士が土間へ入ってきた。こちらの顔を見て、安堵した様子でほっと表情を和らげる。

「どうやら無事みたいだな」

「博士? ……それに、皆も」

 彼女に続いて、椿、神無、時継、焔、グウェン、八雲、真鶴に刀也まで家の中へ次々と入ってきて、一気に人の密度が増す。何事かと目を瞬く自分の前で、時継がやれやれ、と笠を押し上げた。

「おい隊長、何があったのか、覚えてるか?」

「いや……えっと……そう、確かカシリを倒しにいった……ような」

「ような、じゃねぇよ。あの後ぶっ倒れて起きねえから、博士を連れてきたんだぜ。ったく、心配かけさせやがって」

「目が覚めたのね、良かった」

「人騒がせな奴だ」

「ほんと命知らずな奴だな。ちったぁ大人しくしてろよ、ったく」

 皆が口々に心配と安心の入り混じった声をかけてきたので、ようやく何があったのか思い出し始めた。

 そうだ、人を鬼に変えるというカシリを紅月たちと一緒に倒した。

 そして鬼の死ぬ間際に放つ鱗粉が、紅月に覆いかぶさりそうになっていたから、咄嗟に彼女を突き飛ばして……その後はどうなったのか覚えていなかったので、どうなったのかと問いかけたら、椿が感嘆交じりに教えてくれた。

「鬼になりかけたあなたを、紅月が鬼の手で元に戻したのよ。ほとんど奇跡みたいなものだわ」

「そう、だったんだ……」

 自分もため息を漏らして、手の甲につけた鬼の手をまじまじと見つめる。

 思念を実体化する鬼の手は、人を鬼に変えるという現象さえ変えてしまうのか、凄い。

 過去の経験を悔いた故の紅月の発想も飛びぬけているが、これを作り出した博士も、本人が言う通り天才だ。

「そういえば肝心の紅月はどうした」

「考えたい事があるとかでな、一人でどっか行っちまった。

 動けるようなら会いにいってやりな、隊長。あいつはお前の為に、逃げたいのを我慢して踏みとどまったんだからな」

 勇者に敬意を表してやれ、という時継の言葉に、頷いて立ち上がる。体の方は特に問題なく、頭痛も話している内に消えたようだ。

「じゃあ今探してくるよ」

「ああ、それもいいが、軍師九葉から岩屋戸へ招集がかかっている」

「!」

 下履きを履こうと土間に腰を下ろした時、博士がそういったので、思わず体が強張る。

「お頭候補の発表をするらしいんでな。お前は紅月と一緒に来い。私たちは先に行っているぞ」

「……うん、わかった。すぐに行くよ」

 

 ――答えた声は、平静を保てただろうか。

 ――皆を見回して笑いかけた顔は、変ではなかっただろうか。

 

 そう思いながら、家を出て里の中をゆっくりと歩き出す。

(……紅月は、どこにいるんだろう)

 お役目所か。近衛やサムライの陣所ではないだろう。一人で考え事をするのなら、人気のない場所――そうだ、カラクリ研究所はどうだろうか。

 そう思って足をそちらへ向けた時、

「……おっ、思いのほか元気そうだな、カラクリ使いの隊長」

 不意に声がかけられた。振り返ると、岩屋戸の階段を下りてまっすぐこちらへ、百鬼隊隊長の相馬がやってくるところだった。目が合うと人懐っこく笑って、

「鬼にやられて寝込んだと聞いたから、どんなものかと思ったが、その顔色なら大丈夫そうだな」

「あ……は、はい。もう問題ありません。ご心配をおかけしたようで」

「おいおい、そう堅苦しいのはよせ。一緒に遺跡を巡った仲だろう、遠慮はするな」

「は、いや、うん、分かった。……ありがとう、相馬。お頭詮議で忙しいさなかだろうに」

 イツクサの英雄と誉れ高い相馬が、わざわざ気にかけてくれたのは嬉しく有難い。お礼を言うと、いやなに、と相馬は腰に手を当てた。

「もう聞いたかもしれないが、これから岩屋戸でお頭候補の発表がある。

 九葉殿がお前にもぜひ顔を出してほしいようだったから、気を利かせて様子を見に来ただけだ」

「……九葉が……?」

 名前を口にすると、胸がずきっと痛む。

 顔をしかめそうになるのを何とかこらえて、あの、と相馬に問いかける。

「……九葉が私の様子を見て来いと命じたわけではなく?」

「ん? ああ、口に出してそうとは言わなかった。

 が、お前がカシリを討った後、危うく鬼になりかけて、助かったのはいいものの倒れて目を覚まさないと報告を受けた後は、ずいぶん落ち着きを失っていたな。

 お頭詮議の準備で手が離せなかったが、それがなければ自分で見舞いに来ていただろうさ」

 あんなにそわそわした軍師はなかなか見られない、と面白そうに笑う相馬。けれど、彼がそんな嘘をつく理由などないとは思ったが、

(……本当に?)

 疑念がさっと胸をよぎって、息苦しくなった。

(だって、九葉はあれから私を避けている)

 自分と九葉が過去に関係を持っていた事を問いただした時から、ずっと。

 ……あれから様々な事件が起きた。

 サムライの刀也と近衛の八雲が、かぐやの提案によって居住区を統合するために和解をしようとしたが、近衛の一人が発砲。刀也を庇った真鶴が撃たれて重傷を負い、里の中は内乱状態に陥った。

 争いの原因となっているかぐやをカラクリ隊の自分たちが狂言誘拐し、一時内乱が落ち着いたかと思えばゴウエンマの襲撃。

 これを撃退するも、今度は新たに霊山軍師の識と禁軍の雷蔵が現れ、焔が禁軍兵殺害の疑いで捕縛される。

 それが誤解と解決した後、グウェンの因縁や紅月のお頭殺しにまつわる鬼退治など、騒動は次から次へとやってきて、自分も落ち着く暇がなかったのだが――

(その間、九葉は一度も私を目を合わせていない)

 話をする機会は、何度もあった。

 焔が捕まった時や、原因となった鬼を倒して里に戻った時、九葉は助け舟を出してくれた。カラクリ隊と軍師九葉が手を組む協定を結ぶ際も、普通に話もしてくれた。

 それでも、九葉が頑なに視線を合わせない事で、壁を感じずにはいられなかった。

(あの人にとって、横浜でのことは触れてほしくない過去なのだろう)

 そう思う他ない。そうでなければ、あれほどよそよそしくされるいわれがない。

(それも当然かもしれない。ただの部下なら再会を喜ぶだけで済んだだろうけど、あんな……事になっていた相手では……しかも、そうなった理由も、私は全部思い出していない)

 半端に昔の記憶を持ち合わせた相手とでは、さぞや話しにくかろう。それは分かる。九葉の気持ちも察せられる。――が。

「……なぁ、一つ聞いてもいいか?」

「え? あ、うん、何? 相馬」

 黙り込んでしまった私を、顎に手を当ててじっと見つめていた相馬が、ふと口を開いた。しまった、話している最中の相手に失礼な事をと慌てて答えると、

「俺の勘違いなら聞き流してほしいんだが……お前は、九葉殿と何か特別な関係なのか?」

「ぐっ!?」

 いきなり的の中央を射られて、思わず声を詰まらせてしまった。

 咄嗟に否定しようとしたが、それより早く顔がカーッと熱くなって、多分隠しようもないくらいに赤面してしまう。

「なるほど。その様子だと、当たってるようだな」

「う……いや、その……な、何でそんな事を、思ったの……」

 昔の事は誰にも話していないし、この里で再会して後、関係を疑われるほど九葉と懇意にしているような振る舞いをした覚えはない。

 どうしてと問いかけると、相馬はあっさり言った。

「いや、九葉殿の態度を見ていて、何となくな」

「く、九葉の? な、何かおかしな事をしていた……はず、ないよね」

 あの九葉が、よもや昔の汚点を悟られるような失態をおかすはずもない。そう思ったのだが、相馬が着目したのはそういったことではないらしく、

「おかしいと言えば、おかしいかもしれんな。

 お前は気づかなかったのかもしれないが、お前と話をしている時の九葉殿は、他と様子が違う。

 俺があの人と行動を共にするようになったのはこの二年くらいだが、九葉殿が他人に対してあれほど物柔らかに話をするのは、初めて見た」

 などと言う。

「そ、そう、かな……? 私は、覚えていないから……九葉が普段どうなのか、分からない、かも」

「昔を覚えていなくても、この里でのふるまいを見ていれば明らかだと思うがな。

 それに、俺たちだけでいる時にお前の話をしていると、九葉殿はいつも誇らしげで楽しそうだからな。よほど、お前を大事に思っているんだろう」

「…………」

 九葉が、誇らしげに私の事を。

 そう言われたら、胸がぎゅっと締め付けられて、息が苦しくなる。

(……嬉しい)

 素直に思ったのは、喜びだ。あの人がそんな風に自分を思ってくれているなんて、嬉しい以外にない。

 先刻心の中によどんだ疑惑が一瞬で吹き散らされ、体の隅々まで、喜びの感情で満たされたような、そんな錯覚さえ覚える。

(きっと、昔もこうだった)

 と思う。

 過去に特務隊で戦っていた時もきっと、自分は九葉に認められる事を、何よりも至上としていただろう。あの人に褒めてもらえる事を、何よりも喜びとしていただろう。

 そうでなければ今、息もつけないほどの歓喜に包まれるはずがない。

(……でも)

 それも、長くは続かない。でも、と声に出して呟く。

「……それは、私が元部下だったから。

 特務隊のモノノフは九葉が自分で選んで育てた部下だから、思い入れがあって……唯一の生き残りの私を、気にかけてくれているのだと、思う」

 自分が覚えていなくても、九葉にしてみれば手塩に育てた部下――まして十年前に失ったものと思っていた部下がこうして生きていて、戦い続けているとなれば、それだけで喜ばしい事なのではなかろうか。

(そしてもうそれ以上の思いは、きっとない)

 横浜での一夜は彼にとって、もはや遠い過去の事。今更思い返すほどでもない、さして重要でもない出来事だろう。だからきっと、それにこだわってしまう自分との間には、壁を築かなければならないのだ。

(私の思いは、九葉にとって迷惑なんだ)

 そう考えたら、いきなり目が熱くなって、涙が出そうになったから焦って瞬きをした。だ、だから、と続ける。

「私と九葉は特別な関係でも何でもないから。そんなのは、相馬の思い過ごしだよ、きっと」

「……」

 相馬は軽く首を傾げた。それから、

「お前は、九葉殿を好きなのか」

 また唐突に確信を衝いてきたから、ごほっとせき込んでしまった。

「な、何でっ……」

「何でも何も、今のお前を見てそうと気づかない奴は、相当鈍いと思うが……そうなんだな?」

「………………く、九葉には言わないで」

 言い逃れをしようにも、やたら鋭いこの人には無理だと察したので、懇願の口調で言う。

 ただでさえ、昔の事を持ち出して九葉に煙たがられているというのに、この上、今も好意を持っている事を知られたくない。相馬はのんきにハハッと笑った。

「鬼討ちの時は無謀と言っていいほど勇敢なのに、九葉殿にはずいぶん弱気だな。いつもの調子はどうした」

「それとこれとは、全然話が違うでしょう……私は、九葉にこれ以上、迷惑をかけたくないよ」

「迷惑か? 十年ぶりに再会した元部下に、個人的にも慕われていると知ったら、普通嬉しいと思うがな」

「……九葉が、そんな個人的な感情で応じるような人でない事は、あなただって分かっているでしょう」

 公私の別もなく鬼討ちに打ち込む九葉が、言い寄ってきた女性にほだされるなんて、想像もつかないしありえない。そういうと相馬も、まぁそれはそうか、と納得顔で頷く。

「あの人はそういうところが固いからな……とはいえ」

 相馬はこちらを見下ろして、唇の端を上げた。

「お前は、九葉殿へ迷惑をかけてもいいと思うぞ」

「え?」

「さっきも言ったが、十年ぶりの再会なんだろう? 鬼門に飲まれて時を跳んで、その先で生きていた九葉殿にまためぐり合うなんて、強運にもほどがある。それは多分、お前と九葉殿が、他にはない強い絆で結ばれている証なんだと思う」

 俺はな、と相馬はふっと顔を背けた。その眼差しが不意に遠くを、マホロバの里の景色を通り越して、東の方へと向けられる。

「人と人を結び付ける絆がどれほど大切なものか、知っている。それがどれほど人を強くし、勇気づけるものなのかを知っている。

 ……そして、それが簡単に失われてしまう事も、な」

「!」

 再びこちらを向いた相馬は、微笑んでいる。けれどその笑みにいつもの快活さはなく、影が落ちてどこか寂しげに見えた。

「俺たちはモノノフだ。鬼と戦い続けるさだめにある。それを誇りに思いこそすれ、恐ろしいとは思わない。

 だが、その戦いの中で、命は簡単に失われる。絆は簡単に奪われてしまう。

 今こうして話している俺も、明日は鬼にやられて死んでしまうかもしれない。お前や初穂のように、時の迷い子となって現在から切り離されてしまうかもしれない。それは誰にも予測できない、避けられないことだ。――だからこそ」

「わっ」

 相馬がぽん、と突然頭に手を置いてきたので、思わず身を竦ませてしまう。相馬は唇の端を上げていつものように、不敵な笑みを浮かべた。

「だからこそ、今出来る事を、悔いのないように全力でやる。俺はそう心に決めているから、迷いはない。

 ……お前もそうしろ、カラクリ使いの隊長」

「相馬……」

「お前はもう十年、九葉殿と離ればなれになった。また次いつ、別れが訪れるか分からない。

 だから、九葉殿に迷惑がかかるからなんて言い訳をして、逃げるな。九葉殿が好きなら、全力でぶつかっていけ。それでもし砕けたとしても、俺が屍を拾ってやる」

「……いや、そんな縁起でもないことを言わないでほしい」

 いい話をされてちょっとじーんとしていたのに、ここは嘘でも、上手くいくかもしれないっていうところでは!? 思わず苦情を申し立てると、相馬はハハハ、と軽やかに笑い声をあげた。

「なに、案ずる事はないさ。九葉殿はああ見えて、押しに弱いところがあるからな。お前がもし思いを叶えたいのなら、戦略はただ一つ――押して、押して、押しまくれ!」

「う、うわぁ……あなたならではの戦略だなぁ……」

 常に自信満々の相馬なら、恋愛ごとでも押して押して押しまくって、それでうまくいきそうな気がするけれど、自分にそれが出来るかどうか。

 思わずひきつった顔で呟くと、相馬はぽん、と軽く頭を後ろに押して、

「戦況はお前が思っているほど悪くはない、と俺は見ているからな。お前にその気があるのなら応援するぞ。

 ……オオマガドキ以降、あの人は多くを背負い、もがきながら懸命に生きている。失った命を元に戻す事は誰にもできんが……九葉殿が血を流し続ける傷を癒してやる奴が、もうそろそろ現れてもいいころだ」

 

 ――それはもしかしたら、お前にしかできない事かもしれない。

 

 最後にそう言い残して、相馬は岩屋戸へと戻っていった。

 その後ろ姿を見送った私は、ややあって、そうだ紅月を見つけなければ、と研究所へ続く丘を登り始める。ゆっくりと歩を進めながら、涼やかに吹き抜けていく風を頬に受けながら、思う。

(……私は、後悔をしたくない)

 相馬の言う通りだ。

 九葉への思いを抱えたまま、もし今死んでしまったら。いずこかへ知らぬ時と場所へ、跳んでしまったら。マホロバでの記憶を失ってしまったら。

 自分はきっと、後悔する。

 覚えていなくても、きっといつか思い出し、心から悔やむだろう――九葉へ思いを告げずに終わらせてしまった事を。

(迷惑かもしれない。嫌われるかもしれない)

 鬼との戦では感じた事のない恐れに身がすくむ。それでも、

(それでも、九葉。私は、あなたが好きです)

 そう告げてしまわない事には、死んでも死にきれないだろう。

(……決めた。今度九葉と話す機会を得たら、言おう)

 九葉がどれほど自分を避けようと、逃げられないようにして、話を聞いてもらおう。結果何を言われても構わないから、思いを告げてしまおう。

 そう決意して、丘を登り切ったところで紅月の姿を見つけ、声をかけ……

 

 その決意は、けれど果たされはしなかった。そのすぐ後、九葉暗殺――その被疑者として禁軍に追われる身となってしまったがゆえに。




相馬はああ見えて大人なので、色々見抜いてる気がします。


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8

『――では、もうお体はよろしいのですね、軍師九葉』

 頭の中に響くのは、心からの安堵がこもった柔らかな声。こちらの状況は折々に知らせていたのだが、日々緊迫していく情勢に気が気ではなかったのだろう。九葉は案ずるな、と声に出して応じた。

「私の怪我は大したことはない、かすり傷だ。

 それよりもこの里に今、鬼の軍勢が押し寄せようとしている。識と禁軍の動きは封じているが、陰陽方がどこに間諜を放っているか知れたものではない。霊山で妙な動きがあるようならば知らせよ、念話官」

『はい、承知しております。どうぞ御身お気をつけて。……』

 そこで千里眼による念話が終わるかと思いきや、妙な間が残る。

 どうした、と問いかけを発すると、相手はやや躊躇うように息を飲んだ後、

『……彼女は、どうしていますか。また、無理をしてはいないでしょうか』

 恐る恐る尋ねてきた。彼女が誰を指しているかは言うまでもない。

 九葉は低く笑って、

「あれの無理は日常茶飯事だろう。……昔と変わらぬ。今も先頭に立って戦い続けている」

『彼女の優秀さは承知していますが、事態が事態です。マホロバの里での混乱に続けて鬼の侵攻、いくら彼女でも体がもたないのでは』

「確かにあれは無茶をするが、それが過ぎた時は、共に戦う者達が殴ってでも連れ戻すだろう。

 案ずるな、念話官。此度の戦、あれは必ず帰還する。……私はそう信じている」

 確信をこめて告げると、くすくす、と鈴を振るような笑い声がくすぐったく響く。

『あなたはお変わりになられましたね、軍師九葉。以前はそう思っていらしても、決して口に出されなかったのに』

 ……どうやら、自分はらしくない事を口にしたらしい。いささか恥じて、

「ともかくお前は霊山での役目を続けよ。私はこちらの指揮に――」

 戻らねばならん、と言いかけたその時、

「軍師九葉、入るぞ」

 ばたん、と何の前触れもなく戸を開けて、ずかずかと博士が部屋の中へ入ってきた。

 ふっと念話官の気配がかき消えたので、九葉は不機嫌顔で小柄な女性を睨み付ける。

「……入室を許可した覚えはないぞ」

「わざわざ許可をもらうまでもない。ここをどこだと思っているんだ、私の研究所だぞ?

 それとも、見られてはまずい事でもしていたのか」

 そういうのは道理で、九葉がいるのは研究所の一角、医務室の寝台の上だ。

 博士が戻ってくるまでの間に念話官と会話を終わらせておくつもりでいたのだが、思ったよりも早く帰ってきてしまったらしい。

「それは失礼した。では、早々に手当を済ませてもらおうか。

 お前がどうしてもというから来たが、私にはこうしている時間も惜しい」

 言いながら着物をはだけて、博士の手当てを施された個所をあらわにする。

 ふん、と博士は鼻を鳴らして近づいてくると、包帯に手をかけてほどき始めた。

 やがて灯りの元にさらされた傷跡は、まだ赤黒く生々しい穴となっているが、血は完全に止まっている。

「……ふむ、とりあえず経過は良好か。弾丸が貫通していたのが幸いだな」

 子細に看ながら博士は頷き、消毒薬と新しい包帯を手元に引き寄せる。

「それにしても、良く生きながらえたものだな。私が手当てしてから後、放置されていたというのに」

 というのは狙撃後、川に落ちた九葉が博士に保護され、応急手当てをなされた後すぐ、識によって彼女は仲間ともども捕縛されてしまったからだ。

 九葉は医務室の奥に隠れていたので見つかることはなかったが、その後しばらくは一人で怪我の痛みや高熱に耐えねばならなかった。

 ふ、と九葉は口の端を皮肉にあげる。

「こうした時の対処方法は心得ている。自慢ではないが、命を狙われたのは、これが初めてではないのでな」

「本当に自慢にならないな……。まぁ、その権高な性格では、方々に敵を作って休まる事もないだろうな。自業自得ではある」

「……お前は何を怒っている? 棘のある物言いだな」

 元々愛想のいい女ではないが、今日はやけに攻撃的な口調だ。

 わざと九葉を怒らせようとしているかのような言い回しが気になって問いかけると、博士はハンッ、と口を曲げた。

「別にお前には怒ってなどいないさ。ただ、さっき私の助手から聞き捨てならない事を報告されたんでな」

「お前の助手……というと」

 咄嗟に自分の元部下の事かと思ったが、

「時継さ。ようやく里に戻ってきたから、逃げている最中何があったのか話を聞いた」

 あの妙なカラクリ人形の方らしい。包帯を巻きながら続けるには、

「――グウェンが私の助手たちを逃がした後、奴らは鉱山を抜けて武の領域へ逃げようとした。ところがそこで、助手二号のほうが、空間転移しかけたそうだ」

 という。何、と九葉は眉を上げた。

 無事帰還した相馬たちから事の次第は報告を受けていたが、彼女たちが合流する以前の話は耳にしていない。

「それは、ミタマによって瘴気の穴の場所を示されたからではないのか」

 異界を浄化する際、その領域に関わるミタマによって瘴気の発生場所を知らされるらしいが、その際に必ず彼女は空間を飛ばされるという。

 今回の逃亡劇の最中にも、カラクリ隊の隊長と百鬼隊は異界を浄化し、そこに反撃の拠点を作ったと聞いている。

 では、鉱山での空間転移もそれゆえではないのかと問いかけたのだが、違う、と博士は首を横に振った。

「……そもそもマホロバを脱出した時点で、あいつはまだ武の領域に関わるミタマを宿していなかった。ミタマを持っていないのであれば、それに誘導される事もない。

 鉱山での空間転移は、異界の浄化とは異なる要因で発生したと私は思っている。聞いた限りでは、この世界との結びつきが弱くなった為に、時の彼方へはじき出されかけたんだろうな」

「…………再び彷徨者になりかけた、ということか?」

 声だけは平静を保って問いかけたが、ぞ、と背中を寒気が駆け上がる。知らぬうちに彼女がまた消えていたかもしれないと思うと、眩暈すらしかけた。なぜ、と疑問が口をついて出る。

「なぜ、そんな事が起きた。これまでもたびたび起きていたというのか」

「いいや。あいつの存在が不安定だったのはマホロバに来た当初だけで、後はミタマの誘導による空間移動だけだった。どうして起きたのかは……おそらく」

 小さな体で動きながら包帯を巻く博士が、背中側に回って低く応じた。

「かつての上司が暗殺されたかもしれない。その恐怖に打ちのめされて、世界との結びつきの一切を手放しかけたのだろうさ」

「……何だと?」

 耳を疑う。何の冗談かと振り返ろうとしたが、

「痛っ……!」

 いきなり包帯がぎりりっときつくしまったので、思わず声を漏らしてしまった。ぎゅうぎゅうと締め付けながら、全く遺憾な事だ、と博士は続けた。

「あいつがマホロバに来てからこっち、次から次へと起こる事件を皆で乗り越えて、確かな絆を結んで仲間として共に戦ってきたというのに、あいつはそれを全部投げ捨てようとした。

 私とて人間だ、助手二号としてそれなりに可愛がってきたというのに、こんな仕打ちを受けて、不機嫌にならない訳がないだろう。

 かといってあいつを責めるのも筋違いというものだ。あいつはあいつなりにマホロバの里を大事に思っているから、体を張って戦っているのだしな。

 そうとなればっ、この怒りの矛先をっ、向ける場所がないというものだろうっ」

「……いい加減に、せんか!」

 背中を足蹴にされてまで力任せに締められてたまりかね、九葉は室内に響き渡るような声で喝破した。ぶわっと風にあおられた博士は、鼻を鳴らして力を緩め、

「そういうわけだ、軍師九葉。危うく助手二号を失いそうになったこの私からすれば、まっとうな怒りだろう?」

「……八つ当たりではないか」

 堂々と胸を張る彼女にあきれ果て、ずきずきと痛む傷を抑えて呻く。そして先の言をもう一度反芻すると、九葉は顔をしかめてしまった。

『鬼との戦いの中で、情に溺れて退く事はならぬ』 

 昔、特務隊の者は皆心得ていた。

 己の命を粗末にせず、死ぬのならば一匹でも多くの鬼を狩って死ぬと。たとえ指揮官である九葉が戦いのさなかで命を落としたとしても、その屍を乗り越えて戦えと。

 入隊時に骨の髄まで刻み込まれたその勅命を、隊員たちは最後まで守って死んでいった。

「愚かな。私が死んだところで、あれがこの地を手放す事はないというのに」

 ゆえにそう呟いていた。

 影の部隊として鬼と戦い続ける存在から、日の光の元を歩き、気の置けない仲間たちと和やかな日常を営む生活。

 人として望ましい暮らしを手に入れる事が叶うだろう、マホロバの地に流れ着いたのは、彼女にとって幸運だった。

(今度は鬼を狩るだけではなく、幸せであれるような生き方をしてほしい)

 それはこの十年、彼女にそうさせてやりたかったとひそかに抱き続けていた悔い。もはや叶う事はないと諦めていた願いだった。が――

「……軍師九葉は、殊の外阿呆なんだな」

 心底あきれ果てたと言いたげな嘆息が降ってきた。顔を上げると、九葉の前に立った博士が腰に手を当て、

「私の助手がこの世界から消えかけた原因が、何をしゃーしゃーと他人事のように語っているんだ。軍師九葉、あいつが自分に対してどんな思いを抱いているのか、分かってないのか?」

「…………それは、気の迷いだ」

 彼女は九葉を恋い慕った特務隊時代の気持ちを今も同じと勘違いし、思い込んでいるだけだ。そう答えたのだが、

「この阿呆め」

 眉をつりあげて、博士がびしっと指を突きつけてくる。

「気の迷いだけで、この世の結びつきを全て失いかけるほど、自失するものか。

 十年の時を跳んで、記憶も無くして、それでも尚お前の事だけは覚えていて、この世界の何よりも、九葉と言う男が大事だと、自分の存在をかけて証明した――それほどの思いを、お前は愚かと切り捨てるのか」

「……っ」

 息を飲むほどずきりと痛んだのは傷か、胸か。

 ぐ、と喉を詰まらせる九葉に、博士は心底気に入らないと言いたげな視線を投げる。

「私は、お前とあいつがどんな関係なのかは知らないし、興味もない。だからお前たちの痴話げんかに巻き込むな」

「……痴話げんかなどしていない」

「嘘をつけ。あいつはお前の一挙一動にいちいち反応するし、このところはお前がつれない素振りをするからいまいち元気がないし、そうすると周りの連中がどうしたこうしたと騒いで、やかましい事この上ないぞ」

「これだけ日々騒動が起きているのだ。あれの様子がおかしいのがなぜ私のせいだと言い切れる」

「そんなものは見ていれば分かる」

「…………では、好きに解釈するがいい。

 識の件が片付き、お頭詮議が終われば、私はこの地を去る。仮に私があれの煩いの種となっているのならば、それで沈静化するだろう」

 腕を組んだ博士に自信満々に言い切られ、九葉はこれは議論にならないと諦め、服を着なおした。

 博士の言う事は少なからず真実を言い当てていたが、九葉がいずれ彼女と別れる事になるのは間違いない。 そうなれば過去の思い出を無かった事に出来るだろう。だが博士はばん、と床を蹴った。

「だからどうしてそうなる! お前がいなくなれば、またあいつがいつ時の迷い子になるか、わかったもんじゃないだろう。

 軍師九葉、私は好いてもいない者を受け入れろと無理難題を言っているわけじゃない。お前だってあいつの事を憎からず思っているくせに、変な建前をごちゃごちゃ並べて、むやみに傷つけるのはやめろ、大迷惑だ」

「勝手な事を抜かすな。私がいつ、あれを憎からず思っている、などと言った」

 問答にいい加減苛立ちを覚え、九葉は寝台から腰を上げた。手当てはもう済んでいる。これ以上無益な口論で時間を浪費している場合ではないし、元部下との事をあれこれ詮索されるのは御免だ。そのままずかずかと出口へ歩み寄ったが、

「勝手な事とはよく言う。寝込んでうなされている時、何度も助手の名を呼んでいたくせに」

「!!」

 背中にかけられた言葉に、思わず勢いよく振り返ってしまった。不機嫌そうに口を曲げた博士と視線が合うと、相手は目を丸くした後、ほほう、とにんまり笑みを形作る。

「軍師九葉が赤面するとはこれまた、何とも珍しいものを見たな」

「……嘘をつくな。私がそんな事を言うはずがない」

 さっと顔を背けて反論したが、博士はわざわざ回り込んで、

「嘘なものか。繰り返し繰り返し、名前を口にするものだから、よっぽどあいつを呼んでくるかと思ったくらいだ。その前に禁軍が乗り込んできたから、叶わずじまいだったがな」

 こちらの顔を拝んでやろうというように背伸びをして覗きこんでくる。九葉は咄嗟に右手で顔を隠し、

「…………失礼する」

 博士を押しやって、早足に研究所を立ち去った。外に出れば涼しい夜風が頬を撫でたが、顔はまだ熱い。

(……私とした事が、不覚をとった)

 本当にうわごとで名を口にしていたか分からないが、あんな風に博士の言葉に反応してしまった時点で、己の気持ちを露呈したのと同じだ。

(魔女め、口軽く吹聴しなければよいが)

 この事を彼女に伝えられてはより一層困った事になる。今からでも口止めをすべきか、いや大人しくきくようにも思えぬと迷って足を止めた時、丘の端に立つ人影に気づいた。

 柵に手をかけて寄り掛かり、まっすぐに前方――今や鬼の大群がひしめく闇を見据える瞳は、藍色。研究所の灯りを弾いて光を滑らせる長い黒髪が風になびいた。

 精緻な人形のように整った横顔は美しく、しなやかに伸びた手足は今、夜に溶け込む黒を基調とした装備に覆われている。

(モノノフ……影装、だと)

 十年ぶりに目にしたその装束に、息を飲む。それはかつて、横浜防衛戦を最後に姿を消したはずのものだった。それはかつて、己が率いた特務隊の者達が身に着けていたものに他ならなかった。

 なぜ。なぜ、それが今ここにあるのか。

 咄嗟に問いが口をついて出そうになった時、足元でぱきりと枝が折れ、影装の女がこちらを振り返り――

「九葉! お体は大丈夫ですか?」

「……お前か」

 そこで初めて、九葉はそれが元部下であり、カラクリ使いの隊長であることに気づいたのだった。



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9

「あなたの姿が見えないと思ってたら、研究所に来てたんですね、九葉。博士にご用ですか」

 こちらの動揺など知る由もなく、彼女は屈託なく問いかけてくる。間を置いた後、九葉はああ、と歩み寄った。

「……あれが治療をさせろ、としつこいのでな」

「それは当然でしょう。撃たれて間がないのに、あなたはあちこち動き回るから。それでは治るものも治りませんよ」

「お前まで説教をせずともよい。自分の体は自分がよく分かっている」

 応えながら近くで見下ろしてみれば、やはり間違えようもない。

 顔を隠す兜は身に着けていないが、彼女がまとっているのはモノノフ影装――特務隊の制服だ。じ、と見つめているとその視線に気づいたのか、

「あ、どうです? おろしたてなんです、似合ってますか?」

「……なぜ、それを着ている」

 つい発した問いかけの声は、意図せず低くなる。まるで叱責するような声音を訝しく思ったのか、彼女は軽く首を傾げ、

「ええと、私が覚えている限りでは、これが一番しっくり来る装備だと思ったんです。

 マホロバに来た時に着ていたものはボロボロで処分されちゃったので、記憶を頼りに説明して、清麿さん……あ、鍛冶屋さんです、清麿さんに作ってもらったんです。

 これ、特務隊の制服ですよね? どのくらい本物と似てますか、九葉」

 そういって彼女は腕を広げて、くるりとその場で回って見せる。

 その仕草も、楽しそうな笑顔も、姿格好も、身に着けた武器も……すべて以前のまま。突然時間が逆戻りしたかのように思えて、眩暈がする。

「……その清麿という者は、腕が立つようだな。本物と遜色ない出来栄えだ」

 それを堪え、強いて平静を装って言う。それならよかった、と彼女は再び正面へと向き直った。

 藍色の瞳が見据えるのは先ほどと同じ、巫女の結界の向こうにいる鬼の大軍勢。その奥を見通すように目を細め、

「それにあの鬼、シンラゴウが私を見逃さないように、正装して出迎えてあげないと。この格好なら、きっと向こうも分かるでしょうね」

「お前にしては珍しく、随分と好戦的だな」

 彼女はどんな任務にも進んで臨んだが、いつも淡々と冷静に戦うだけだった。

 体を動かすこと自体は好んでいたようだが、相馬のように戦いそのものを喜んでいたわけでもなく、鬼を好敵手のように語った事もない。と、彼女は小さく笑った。

「だって、十年前の鬼との戦いに決着をつけるのなら、これほどふさわしい衣装はないでしょう?

 ……あの時は角を一本落としただけで逃がしてしまって、結局横浜を守り切れなかった」

 でも、今度は違う。

 そう呟いて、柵を握る手に力をこめた彼女の瞳に、光が宿る。人形のようにうつろだったのが嘘のように、生き生きとした光が。

「今度は逃がさない。必ず倒して、皆を、マホロバを守る。――そう決めたんです」

 

 ……不意に、甦る。

『例えどれほどの激戦になっても。九葉、私は必ずあなたを、あなたが守りたい全てを守ります。――そう決めました』

 一夜を共にしたあの日、彼女が口にした誓いを。

 自分を見つめる瞳が、今のそれと同じように、力強く輝いていた事を。

 

 その言葉が終わるか終わらないかの内に、九葉は柵を握る彼女の手を掴んでいた。

「え、く、九葉? なに……」

 突然の事に驚いて勢いよくこちらを向いた彼女が、柳眉を寄せる。

「九葉、具合が悪いんですか? 顔色が良くないですよ」

 なるほど、そうかもしれない。血の気が引いて、指先まで冷たくなっているから、顔も青ざめているのかもしれない。

 だが、それに構っている場合ではない。九葉は彼女の手を握りしめた。

 自分のそれよりも小さく細く、それでいて、これまでの戦いを物語るように固く擦り切れた掌。指先の一本一本を確かめるようになぞると、その温もりがじんわりと伝わってくる。

 その熱は、彼女が生きている証。彼女が今まさにここにいるのだと言う証だと思うと、胸が締め付けられるように感じられる。

 けれど、それはほとんど奇跡のようなものだ。

 自分が彼女に出会ったのも、十年の時を経て再会を果たしたのも、こうして向かい合い、言葉を交わし合う事が出来るのも――本当に、万の一つの偶然でしかない。

「あ、あの、九葉……ちょっと、手を……」

「――お前は、どうなのだ。体調に変わりはないか」

 無言で手を撫でまわす元上司を不気味に思ったのか、彼女がぐっと腕を引きかけたので、それを留めて問いかける。相手はえ、と目を瞬いた後、

「特に、変わりはありません。ちゃんと仮眠を取りましたから、鬼を迎え撃つ準備は万全ですよ」

 平然と答えたが、それが真実でない事を彼は知っている。

「空間転移。……それが今すぐ起きぬと、言い切れるか」

「え」

「つい最近も、転移しかけたのだろう。クロガネ鉱山での事、聞き及んでいるぞ」

「! 何でそれを……ああ、時継……誰にも言わないでって言ったのに」

 がっくりと肩を落とす。しかしすぐ気を取り直したように背筋を伸ばした。

「確かに鉱山で転移しそうになりましたけど、もう大丈夫です。

 近辺の領域にある穴はもう無いだろうって博士が言ってましたから、少なくともこの戦いのさなかに跳ぶようなことは無いかと」

「だが、完全に無いとは言い切れぬ」

「九よ、痛っ……!」

 彼女が顔が歪むほど、握る手に力がこもる。そんな顔をさせたくはない、手を離さねばと思う一方で、苛立ちが募っていくのを感じる。

 なぜ彼女は、こうも能天気に、空間転移は無いと言い切れるのか。

 どうして彼女は、鉱山での転移の原因を語らないのか――目の前にいるその元凶を、責めないのか。

「……莫迦者」

 声が震える。考える間もなく、握った手を引いて、彼女を抱き寄せていた。わ、と足をもつれさせて胸に飛び込んできた体を腕の中に閉じ込める。

「えっ……く、く、九葉、な、何ですか!?」

 突然の抱擁に彼女の声がひっくり返った。咄嗟に身を離そうとするのを、腕を絡ませるようにして、動きを封じる。

 久方ぶりに身近く感じる人の体温、温もり。さらりと揺れる黒髪から漂う甘い香り、鍛え抜かれ、しなやかで柔らかい体。

(まるで十年前の再現のようだ。お前の姿かたちも何もかも。そして、鬼の侵攻が迫る中、こうしてお前を抱くのも)

 彼女は変わらない。自分も、彼女への思いは変わらない。こうして再会し触れ合える事は歓びに他ならない。

 だが、ここまで十年前と同じ状況が揃ってしまった事に、九葉は恐れを感じずにはいられなかった。

「九葉……あの、どうして、そんなに震えているんですか」

 自分を離そうとしない元上司に戸惑っているのか、彼女が着物に顔をうずめたまま呟く。莫迦者、ともう一度罵って呻いた。

「……お前はまた、消えてしまうのではないか」

「!」

「十年前のあの日、お前は私の目の前で鬼門に飲まれた。いずれこうして再会する事を期待しないでもなかったが……大半は、諦めていた。

 お前はあの時、死んだも同然なのだと。もはや二度と会う事は叶わぬのだと。……そう、思っていた」

「……九葉」

「今また同じ事が起きぬと、なぜ言える。

 あの時のように鬼が鬼門を開き、お前を飲みこんでしまわぬか。

 お前自身が世界との結びつきを失い、いずこかの時へ跳ばされてしまわぬか。それを思うと、私は」

 恐ろしい。心の底から、恐ろしいと思う。

(恐怖など、もはや慣れ親しんだものと思っていた)

 オオマガドキ以降、人々は己を血塗れの鬼と呼んで忌み嫌い、悪夢は繰り返し己を苛み責めた。博士に告げた通り、命を狙われた事も一度や二度ではない。

 ゆえに九葉はとうに、いつ命を落としても悔いのないようにと覚悟を決めていた。

 覚悟を決めてしまえば、人々から向けられる悪意も、悪夢がもたらす恐怖も、全て受け入れ受け流す事が出来た。もはや恐れの気持ちなど無意味と切り捨てさえした。

 だが――今は、恐ろしい。

(もう一度お前を失えば、私は狂うやもしれん)

 それほどに自分の中で彼女の存在が大きくなっている事にも、おののいている。あの夜危惧した通り、一度手にしてしまった彼女を失う事が恐ろしくてたまらない。

 頭のどこか冷静な部分は、何と心弱い事か、ただの女一人に血塗れの鬼がこのざまかと自嘲しているが、もはや致し方ない。

 目をそらす事も出来ないほど恐れが大きくなってしまったのであれば、あとはもう認めてしまうしかなかろう。

「……どこへも、行くな」

 横浜の時は言えなかった言葉が、自然と口をついて出た。半ば懇願するように囁く。

「お前は私と共におらずともよい。それは私には、血塗れの鬼には分の過ぎた高望みというものだろう。――だが、私の手の届かぬ時の彼方まで行くな」

 彼女がこの世からいなくなってしまう事が、どんなにこいねがっても二度と触れられぬ彼方へ消えてしまう事だけが、どうしても耐えられない。

 たとえこの思いが叶わなくても、せめて同じ時、同じ時代を生きていてほしい。そう願いながら滑らかな黒髪に顔をうずめた時、

「……九葉、苦しいです」

 彼女が静かに言ったので、ハッとした。抱擁に力をこめすぎて、彼女は半ば窒息しそうなほど九葉の肩に顔を押し付ける恰好になっている。

 すまぬ、と腕の力を緩めると、彼女はハァッと大きく息をつき、そして不意に手を伸ばしてきて、こちらの顔をぐいっと引き寄せた。

「!?」

 ぎょっとして硬直する視界いっぱいに、彼女の顔が映った。藍色の瞳には、驚き目を見開く自分が映っていて何とも情けない顔をしている。何を、と問いかけようとするより先に、

「九葉。私は、あなたが好きです」

 頬を染め、九葉の目をまっすぐ見つめながら、彼女が告げた。

「!」

 突然の告白に息を飲むと、彼女は「ああ、やっと言えた」とにっこり笑う。

「ずっと、あなたに言いたくて言いたくて、でも状況が状況だから、機会がつかめなくて。言えてよかった」

「……それは、」

「昔の事だ、無用の悶着を引き起こすなんて、言わないでくださいね、九葉」

 勘違いなのではないかと言おうとしたが、先んじられた。微笑んだまま彼女は言う。

「過去の記憶を思い出した、思い出さないなんて、もう関係ないです。

 昔の私はあなたを愛していた。今の私も、私が知る限り、すべてのあなたを愛してる。勘違いでも何でもなく、絶対の自信を持って言えますよ。

 だから何度でも言わせてください――私はあなたが好きです。あなたを愛してます、九葉」

「…………」

 息が苦しいのは、胸が締め付けられるからか。胸が締め付けられるのは、喜びを覚えているからか。声も出せずにいる九葉に、彼女はこつんと額を合わせて囁く。

「……あなたは、九葉? あなたは私を愛してくれてる? ……私を、欲しいと思ってくれてる?」

「!」

 その台詞に、心臓を刺されたような錯覚を覚えた。

 忘れもしない、あの夜。

 最後の最後まで怖じる自分を後押しするように、彼女が甘く囁きかけた台詞。

 今と同じように額を合わせ、心からの思いを込めて告げられた言葉。

(……ああ、そうか。あの時応えられなかった私が、悪いのか)

 不意におかしさがこみあげてきた。

 こんな事まで十年前の再現がなされている。そして過去の自分はあの時、誤った言葉を選んで、それゆえに彼女と引き離されてしまったのではないか。

(私は素直に己の気持ちを口にしなけれならなかった。こやつの思いを受け止め、私の思いを認めなければならなかったのだ)

 九葉は彼女を見た。

 夜空を思わせる藍色の瞳は星が浮かんでいるかのように輝いて、宝石の如く美しい。

 この瞳に、自分はいつから惹かれていたのか。

 もしかしたら初めて出会った時すでに、こうなる事が決まっていたのだろうか。

(お前を失う事が怖い)

 その恐怖はこの先も消えず、抱え続けていくだろう。

 だがそれでもなお、彼女を欲しいと願うこの思いを受け入れてしまわねば、自分はきっと生きながら死んでいくようなものだ。ゆえに、九葉は彼女の瞳を見つめ、

「……愚問だ。私はお前より十年長く、お前を欲している。昔も今も、変わらず……おそらくはこれからもずっとな」

 低く囁きながら、顔を傾けた。

 彼女の長いまつげが触れるのを感じながら目を閉じ――そして、かつて触れた柔らかな唇に再び、己の唇を重ねる。

「――」

 浅いため息が漏れて、彼女が九葉の名を口にする。九葉も彼女の名を呼び、更に深く重ね合わせた。それはあの時のように、それは互いの呼吸を奪い合うような口づけだった。

「んっ……ふ……は、はっ……」

 しばし貪るように唇を重ねた後、乱れる呼吸を飲みこんで、彼女が顔を離す。視線が合うと頬をほんのり赤らめてはにかみながら、

「……九葉。私は必ず帰ってきます」

 今度は自分から、九葉に軽く口づけた。

「だから、あなたは待っていて下さい。私はマホロバへ、あなたの元へ帰ってきますから」

「……そうか」

 さらり、と長い髪を撫でてから、九葉は抱擁をといて彼女を見下ろす。

 

 彼女が生きて帰る保証など何もない。どれほど望んだところで、現実はたやすく人の希望を裏切る。

 だがそれでも、信じたいと思う。

 彼女の言葉を、その誓いを、信じたいと心から思う。

 

 ゆえに九葉は彼女に優しく微笑みかけた。そして、

「では私はお前をここで待とう、マホロバのカラクリ使い。――汝に英雄の導きあらんことを」

 激励を口にして、戦場へ向かうその背中を心置きなく見送ったのだった。

 



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10

 ――そしてまた、時は流れる。

 

 軍師識によって蘇った災厄の鬼、トキワノオロチを見事討伐してから一か月後。

 二年前の戦役でお頭を失ったマホロバの里において、イツクサの英雄・紅月がその跡を継いだ。その彼女が初めて下した勅令は、対立していたサムライと近衛を解体し、統合する事だった。

 それまでの歴史を顧みれば互いの憎悪は深く、その溝は決して埋まる事はなかろうと目されていた鬼内と外様はしかしこれに同意し、一つの隊として再編成され、新たな歴史を刻むこととなる。

 

 そして記念すべき日の夜、お頭任命式が終了した後の岩屋戸では、里をあげての宴が催される事となった。

 神垣の巫女たるかぐやを上座に、お頭詮議を行った軍師九葉、新たなお頭の紅月が左右を埋め、一段下がって近衛の八雲、サムライの刀也、カラクリ使いの隊長が座す。

 その前には、端も見えぬほどの広間に新討伐隊の隊員全員と里人が祝い膳を前にずらりと並び、開始を今か今かと待ちわびてざわついている。

 それを受けて初めの挨拶を受け持ったのは紅月だった。

「……皆、務めを終えてご苦労様でした。日々の疲れを今日の宴で癒し、新しき友と共に過ごして新たな活力としてください。それでは、乾杯!」

 乾杯、と皆が唱和して空気が揺れる。

 隣近所のものと盃を重ね合わせるもの、一気に干しておかわりをねだるもの、この日の為にと贅を尽くした色鮮やかな膳にさっそく箸をつけるもの。皆が思い思いに語り始め、宴は和やかに始まり――

 

「……何だと、この私の酌が受けられんというのか、カラクリ使い!」

 数刻後、どうしてこうなった。

「い、いや八雲、私はもうそろそろ、酔いが回ってきそうだから……」

 ずいずいと突き出される徳利を何とか押し返そうとするのだが、完全に酔っぱらっているらしい八雲はお構いなしに、

「隊長たるもの、この程度の酒に飲まれてどうする。いいか、お前は今日からこの討伐隊の隊長となったのだ、隊長としてどうあるべきかを常に念頭に置き、それに相応しいふるまいをだな……」

 注いでいるのかこぼしているのか分からない怪しい手つきで猪口に酒をつぎながら、長々と説教をしている。

 先ほどからこの調子でずいぶん飲まされているので、こちらとしてはそろそろ勘弁していただきたいのだが。

(刀也は何処かへ逃げてしまったし、紅月は焔にお説教してるし、かぐやはもう遅いからと途中で下がってしまったし)

 頼みの網の椿はと見れば、何やら神無と向き合って、いやにらみ合って? いるから、また何か勝負でもしているのかもしれない。

 他の面々もそれぞれ楽しそうに過ごしているから、邪魔をするのは忍びない気がする。

(困ったな……もう八雲と私のどちらかが酔いつぶれるまでの勝負にするしかないのかな)

 八雲はもうすっかり酔っているし、こちらもそこまで酒は強くない。このままでいけば遠からず終わりを迎えるだろう、それまでの我慢だと腹をくくったその時、

「……おい、何をしてるんだ? 助手二号」

 ひょい、と背後から博士が顔を覗き込んできた。至近距離に現れたので思わずのけぞり、

「おっと危ねぇ。おいおい、だいぶフラフラしてんじゃねえか。そろそろ仕舞にしたらどうだ」

 その背中を時継が支えてくれる。ありがとう、と振り返って礼を言ったが、頭がくらくらするし、汗をかくほど体が熱くてたまらないし、確かにもう危ない気がする。

「なんだお前たちは、邪魔をするな。私は今、カラクリ使いに隊長としての気構えを……」

「あー分かった分かった、いいから落ち着けよクジャク頭」

「クジャ……!? カラクリ人形がこの私を侮辱するか! そこになおれ時継、今日こそ貴様の性根を叩きなおしてくれる!」

「うぇっ? おいおい冗談よせよヒヨッコ……って、何でこんなところに双刀持ってきてんだよ!?」

「私はかぐや様の近衛、いついかなる時も御身をお守りするのが役目だ!」

「かぐやはもう引っこんでんだろうが、おいちょっとマジでよせって!」

「……バカは放っておいて、だ。大丈夫か、確かにずいぶん酔ってるみたいだな」

 バタバタと暴れはじめた八雲と時継をしり目に、博士が自分の前にあぐらをかいて座る。それに応えて、うん、と火照る顔を扇ぎつつ、

「本当はあんまり飲めないんだけど……この場で、皆の祝い酒を断る訳にも、いかないでしょう」

「ま、それはそうだな。何といっても里の英雄が新部隊の隊長になったんだ。皆、我がことのように嬉しいんだろう。

 もちろん私も助手の出世は嬉しいぞ。今後は研究所の予算増大をよろしく頼む」

「……さすが、抜け目ない。まぁ、出来る範囲で頑張ります」

「何だ、日和見な事を言う奴だな。そこは限界ぎりぎりまでぶんどると宣言してほしいものだ。……ところで」

 水の湯呑を差し出してきた博士が、ふと声を落とした。それを有難く受け取って口をつけると、博士が広間の一角を指さして、

「あっちの方で、軍師九葉を見かけたぞ」

 と言う。ぴくっと反応して上座へ視線を走らせれば、確かに九葉の姿がいつの間にか消えている。

「一人で月見酒を楽しんでいるようだったな。お前も積もる話があるだろう、酔い覚ましも兼ねて行ってみたらどうだ」

「い、……いいのかな、行っても」

 躊躇ってしまったのは、一応曲がりなりにも自分が主賓の一人として開かれた宴で、席をはずすことが失礼でないのか気にかかったからだ。博士は肩をすくませ、

「もう誰もかれもどんちゃん騒ぎで、ただの宴会と化してるんだ。お前がいなくなったところで誰も気にしないさ。

 それにお頭詮議が終われば、軍師はこの里にいる理由がなくなる」

「!」

「その前に話す事は山ほどあるだろう? 四の五の言わずに行ってこい。痴話げんかの一つもしてきていいんだぞ」

「け、けんかはしたくない……けど、ありがとう、博士。行って来るね」

 博士の後押しを受けて、ふらりと立ち上がる。

 確かに今日をおいてほかに、彼と話す機会などもう無いかもしれない。それなら思い残すことのないようにしなければ。

 

 示された方向へ足を運んでみると、人気の少ない濡れ縁の所に一人、九葉が腰を下ろしていた。

 勾欄に軽く寄り掛かるその手元には、黒の盃と徳利がある。どうやら博士の言う通り、手酌で月見と洒落込んでいるらしい。

 騒々しかった宴の場とは一転、岩屋戸のしんとした空気の中、黙然と酒を進めている姿はどこか凛とした雰囲気を漂わせている。

 涼やかな月光がその頭上に柔らかく降り注ぐ中、長く伸びた髪が純白のせいか、九葉はほのかに輝いているようにも見えて、

(綺麗……)

 声をかけようとしたのに、思わず足を止めて見入ってしまう。が、足元で床板がぎしっと鳴ったので、

「……お前か。惚け面で何をしている」

 先に向こうが気づいてしまった。

(う、変な顔してたかな)

 少し恥ずかしい思いをしながら近づき、

「お邪魔してもいいですか、九葉。……お頭詮議のお役目、お疲れさまでした」

 まずは型通りの挨拶をする。

 相手は鷹揚にうなずき、ちらりとこちらの手元へ視線を向けてきた。自分が盃を持っていれば酌の一つでもしようと思ったのかもしれない、慌てて手を振る。

「あっ、お酒はもう結構です、ずいぶん飲まされましたから。これ以上飲んだら、倒れてしまいます」

「そのようだな。……あまり無理はするな。元より酒には弱いだろう」

「そう、なんですか? やっぱり、昔もこうでしたか」

 徳利を挟んで前に座ると、九葉はふっと口元を緩めた。

「ああ、そうだな。お前が特務隊に入って間もないころ、菓子に入った微量の酒で酔いつぶれた事があった。その後少しは飲めるようになったようだが、然程強くはなかったな」

 なるほど、その昔から弱かったのであれば、今も同様なわけだ。今後は酒の付き合いをよく注意しよう。そんな事を思いながら話を続ける。

「お頭詮議が終わって、あなたの務めもこれで完了ですね。この後は……どうするのか、決まっているんですか」

 一瞬九葉の手が止まり、すぐに盃が口元へ運ばれる。

「次の任地はまだ決まっていない。今すぐどうという事はないが、戦力を遊ばせておく余裕もない。いずれどこかへ赴くだろう」

「……西へ東へ、あなたも忙しい人ですね。いい御歳なんですから、少しは落ち着かれたらどうです」

「鬼どもの跳梁を抑える事が出来るのならば、私はいくらでも老骨に鞭打つ。ひとところに安穏としていては、新たな犠牲を生むだけだ」

 淡々と語る言葉は固い信念をひしひしと感じられて、ああやっぱり、と寂しさと同時に納得してしまう。

(この人はマホロバにとどまってはくれない)

 少し、ほんの少し期待していたのだ。

 マホロバで生きていくと決めた時、九葉もまた、自分の傍にいる事を選んではくれないかと。

 決戦を前にしたあの告白と口づけで互いに思いあっている事を確信したから、そんな未来があってもいいのではと、夢想した。

(でも、それはきっと九葉の生き方じゃない)

 オオマガドキで多くの犠牲を強いた、血塗れの鬼。話に聞いているだけでも、九葉が歩んできた道は苦難に満ちている。

 救える命は救え、自分たちに出来る事はそれだけだと無念をにじませる声音で命じる姿は、欠けた記憶の中にまだ残っていた。

 九葉は命を軽んじはしない。それどころかきっと誰よりも、多くの人を救いたいと願っているのではないかと思う――素直に表しはしないが、優しい人だから。

 そんな人が、自らの命令で数多の命を犠牲にしなければならかった事を、どうして悔やまずにいられるだろう。その犠牲を無駄にして、己だけ平穏に暮らしていこうなどと、どうして考えられるだろう。

「……あなたは変わりませんね、九葉」

 頭がふらつくのは酔いのせいか、近い将来訪れる九葉との別れを思ったせいか。

 ぽつりと呟くと、九葉は盃を床に置いて、こちらを見つめてきた。その口元が苦く笑う。

「お前に言われると、皮肉にしか聞こえぬな。老けたと言ったのはどの口だったか」

「それは、見かけの話です。だって仕方ないでしょう、

 少し前まで十年前の姿を記憶していたのに、目の前に現れたのは今のあなたなんですから。九葉だって逆の立場ならそういったでしょう?」

「そのような不用意な事を私が口走ると思うか。

 女に老けたなどと言えば、十倍百倍になって仕返しが来る。それが口だけならまだしも、お前は手も出そうだからな」

「なっ、そんな事しませんよ! ……そりゃ、ちょっとは怒るかもしれませんけど」

 他愛のない会話が、今は楽しい。心から安らぐ、そんな思いがする。

 たぶん自分は、特務隊時代もこうして九葉と軽口を叩いて笑っていたのだろう。

 命をすり減らすようにして生きてきた中で九葉と過ごすひと時はきっと、渇いた心を水で潤すような、大切で大事な時間だったに違いない。

(ずっと、こうしていたい)

 別れに思いをはせるほど、より強くそう願ってしまう。そして九葉もそう思ってくれていたらいいのに、と思う。

 切実な祈りを胸に抱いたまま、表面上はごく普通の態度で、話を続ける。

 内容はどうという事もない。

 マホロバに来てから起きた様々な出来事、仲間の話、鬼との戦の事。静かに耳を傾けてくれている九葉もまたぽつりぽつりと、こちらが望むままに特務隊時代の話を口にする。時にはおぼろげな記憶と合致する話題に行き当たる事もあり、話は尽きない。

 二人だけで静かに語り合う中、吹き渡る夜風が火照った頬を心地よく撫でていく。時々ふと落ちる沈黙も、不思議と居心地が良い。いや、居心地が良すぎた。

「――こら。そこで寝るな」

「あっ……す、すみません」

 注意されてハッと頭を持ち上げる。どうやら気づかない内に居眠りをしてしまったらしい。九葉が眉根を寄せて、

「宴で疲れているのだろう。ここでは体を冷やす、今宵はもう休め」

 そう告げた。

「でも……いえ、分かりました。そうします」

 本当は朝までこうしていたいが、確かに体が重く、体温が上がっているのか汗をうっすらかいている。

 このままでは九葉の前で失態を犯しかねない。名残惜しい気持ちはあったが、仕方なく腰を上げた。

「では九葉、お付き合いありがとうございました。お休み、……っ!」

 ぺこり、と頭を下げた途端、眩暈に襲われて視界が回る。咄嗟に足を踏み出して耐えようとしたが間に合わず、

「!」

「わぷっ」

 そのまま均衡を崩して、あろうことか九葉に倒れ込んでしまった。勢いよく飛び込んだせいで相手の胸に鼻がつぶれるほど顔をぶつけてしまい、くらくらと目が回る。

「わ、う、す、すみませ、くよう」

 失態を恐れた傍から何をやらかしているのか自分は!

 更にどっと汗が出る勢いで焦りながら慌てて離れようとした時、不意に九葉の腕が動いて腰に回った。そのままぐっと抑え込まれ、

「その有様では、無事に家路を辿れそうにもないな。

 ……私のところで、休んでいくか」

 胸にうずめた顔のすぐそばで、低い囁き声が耳に注ぎ込まれて、一瞬硬直した。

(え。え……え? 休んで、って……えっ!?」

 最後は声に出して驚き、ぱっと顔を上げた。至近距離で目が合った九葉が真面目そのものな表情をしているので聞き間違いかと思い、

「あの、九葉、えっと……それって」

 まさかと思いながら問いを発すると、九葉はわずかに視線をずらし、

「……二度はいわん」

 答えを拒絶しながら、否定はせず、腕の拘束も外さないままだ。その態度が意味するものを察した途端、体が火を噴きそうなほどカッと熱くなってしまった。

(あなたがそんな事を言うなんて)

 予想だにしなかった誘いに、声を失う。

 思いがけず密着したおかげで、服越しに九葉の温もりや鼓動が伝わってくるから、余計に恥ずかしくてたまらない。頬どころか耳まで熱を放つ自分の顔を俯かせて隠しながら、

(で、も……でも、嫌じゃ、ない)

 そう思ってしまうのが我ながら驚いてしまう。いや、驚くようなことではないのか。

(だって私、九葉に好きだと、愛してるとまで言ってしまったんだし)

 あそこまで言われてしまえば、九葉だってそれはその気になるだろうし――自分も期待をしていなかったなどと、言えるはずもない。

(……ああ、そうか。私、待っていたんだ)

 九葉が自分の言葉に応えてくれる事を。ほとんど失ってしまったあの一夜の記憶を、今の九葉が埋めてくれる事を。

 ――ゆえに。

「あの……九葉……」

 そろりと視線を上げると、九葉は答えを待って自分を見つめている。その眼差しを受け止めて、震える声で囁き返す。

 ……連れて行ってください。あなたのところへ、と。

 

* * *

 

「よぉ博士、おはようさん。隊長は……ここにもいねぇか」

「なんだ、時継。二号は来てないぞ」

 お頭任命式のあくる日。いつものように研究所で仕事を始めようとしていた博士は、戻ってきた時継の問いかけに答えた。そうか、と時継は笠を上下させて頭をかく。

「あいつの武器によさそうな素材を見つけたんで、さっそく何か作ってやろうと思ったのに」

「家にいないのか?」

「いねぇな。寝床も上がってるみてぇだから、起きちゃいるとは思うんだがな」

(…………ああ)

 ふと思い出した。昨日の宴会で、軍師九葉と話をしてこいと焚きつけた事を。あの後どうなったかは知らないが――朝になっても家に帰っていないのならば。

「……いずれふらっと帰ってくるだろう。どうせ今日は休みだ、そっちの用事が急ぎでないのなら、待っててやれ」

 色々と察して言うと、まぁ別に俺はいいんだがな、珍しい事もあるもんだと首を傾げ傾げ、時継は再び研究所を出ていく。

 その後ろ姿を見送った博士は、手元の本に視線を戻して、

(これは貸しにしておくからな、隊長。後で倍にして返してもらうぞ)

 不穏な事を考えながら、ふっふっふっと魔女じみた笑いを漏らしたのだった。



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11

 雲一つなく、晴れ渡った空が頭上に広がる心地の良い朝――お頭詮議を終え、次の任務を受諾した軍師九葉と百鬼隊が発つ日がやってきた。

 マホロバの入り口の橋から広場にかけて、馬を引いた百鬼隊の面々が、親しくなった里人やモノノフ達と別れを惜しみ、話尽きぬ様子で楽し気に語らいあっている。

 その様を門近くで眺めていたら、

「彼らが去ると寂しくなりますね。短い間でしたが、ずいぶん助けてもらいました」

 すっと隣に紅月が立って話しかけてきたので、そうだね、と頷く。

 彼らがいなければ、禁軍の暴走を止められず、マホロバの里を蹂躙されていただろう。

 いやそれどころか、識によって封印を解かれたトキワノオロチによって、この時間の全てを無かった事にされていたかもしれない。その野望をくじくために、最後まで共に戦えた事を心から有難いと思う。

「いずれまた、どこかで会えるといいね。今度はもっと穏やかに過ごせれば御の字かな」

 そう応えると、紅月は少し黙った後、

「――あなたは、彼らについていくのでは、と思っていました」

 静かに言った。え、と視線を向けると、至極真面目な顔をしていたので、冗談ではないらしい。そんなこと、と思わず苦笑してしまう。

「嫌だな、私が隊長のお役目を放り出していくような無責任に見えます? お頭」

「……いいえ、まさか。ですが、もしあなたがそれを願うのであれば、やむなしとも考えていました。私はただ、あなたが無理をしていないか心配なのです」

 そういって紅月がとある方向へ視線を向けたので、つられて自分もそちらを見た。目に入ってきたのは――人々に囲まれて何事か話をしている、九葉の姿。

(うーん……何か、バレてるっぽいな……)

 九葉と良い仲になったとは、まだ誰にも話していない。恥じる事ではないと思ってはいるのだが、周りに知れれば九葉が嫌がるだろうかと思って、皆の前ではことさら親し気な振る舞いをする事は控えた。

 しかし勘のいい何人かはすでに察しているようで、折々に二人きりになれるように気を遣われていて、それがまた何となく恥ずかしい。

 紅月もそうと分かっているからこんな事を言い出したのだろう。その気持ちはとても有難いが、もはや決めた事だ。

 思いを通わせてから後、九葉とは幾たびか今後の事を語る時もあった。

 が、お互い同じ場所で生きていけはしないと最初から分かり合っていたし、自分と共にいるようにと相手を説き伏せるような事もしなかった。

 どれだけ言葉を尽くそうとも、自身の考え、生き方を変えられない。

 それが分かっていたから、お互いにただ黙って受け入れるしかなかったのだ。

 無論、寂しさはある。

 紅月が言ったように、彼についていく事も考えはした。

 けれど、記憶を無くし、いつとも知れぬ時間や場所へ流されそうになった自分を今に結び付けてくれたのは、マホロバの里だ。

 素性のしれぬ自分を受け入れ、戦い守る事を許してくれたこの地はもはや、自分にとっての故郷のようなものだ。

 歴史の桎梏を乗り越えたサムライと近衛を統合した新部隊の隊長に据えるほど自分を信頼してくれる皆を捨てていけるほど、自分は薄情になれない。

「紅月、無理なんてしてないよ。

 私はもう、どこにもいかない。マホロバのカラクリ使いとして、隊長として、ここで生きていくと決めたの。

 ――それは、あの人も分かってるから」

 ゆえに穏やかな声音でそう答えると、紅月は柳眉をひそめつつ、

「あなた方がそれで納得しているというのなら、それも良いでしょう。……余計な口出しをして、申し訳ありません」

 微笑んで軽く頭を下げた。そんなとんでもない、と手を振ったところで、

「……ええっ! 九葉、なぜそんな事を言うんだ!?」

 突然素っ頓狂な声が響き渡った。何事かと視線を戻すと、今のはどうやらグウェンが上げた悲鳴らしい。隣にいる椿がまぁまぁと落ち着かせようとしているようだが、金髪の異国人は九葉に何やら詰め寄っている。

「どうやらもめ事のようですね。隊員の暴走を止めるのもあなたの役目ですよ、隊長。さぁ、お行きなさい」

 ふふ、と軽く笑いを漏らして紅月がこちらの背を軽く押す。最後の挨拶をしてこいという計らいなのだろう。有難うと笑い返した後、騒動の元へと足を運んだ。

 通りすがりに百鬼隊の面々とあいさつを交わしながら近づいていくと、

「私はあなたの不興を買ったのか? なぜ今になって私をお払い箱にするなんて言い出すんだ!」

 グウェンが食って掛かる勢いで九葉に問いかけている。対する九葉は常の冷静さを崩す事なく、淡々と言う。

「識が倒れた今、お前の役目は終わった。これから先、マホロバのモノノフとなるのであれば、私の密偵を続ける事もない」

「でも、私は」

「それにお前はビャクエンを倒し、長きにわたる呪いから解き放たれたのだ。……いつまでもびくびくと影にひそむ事もあるまい」

「九葉……」

 それが彼の優しさだと察したのだろう。グウェンはぐっと息を飲み、思い悩むように俯いた後、

「……分かった、そうさせてもらう。ありがとう、九葉。あなたが横浜で救ってくれたから、私は今ここにいられる。

 もしまた何かあったら、遠慮なく私を使ってほしい。あなたが望むのであれば、私はどこへなりとも向かうから」

「追従はいらぬ、と言ったはずだが」

「それでも、それでもだ! 私はイギリス人だが、一宿一飯の恩義は心得ている。いずれきっと、あなたに恩を返してみせる!」

「グウェン、そんな押し売りみたいな言い方しなくても……あ」

 拳を固めて宣言するグウェンに突っ込みを入れた椿がこちらに気づいた。ささっと九葉と自分とに視線を動かした後、

「……ほらグウェン、そろそろ行きましょ。軍師もお忙しいんだから」

「え、……ああ、分かった。では九葉、これで失礼する」

 同時に察したらしいグウェンと共に立ち去って行った。……どうやらあの二人にも気づかれているらしい。

(もしかして里の皆、全員知ってるのかな……)

 そうだとしたら隠してるのも馬鹿馬鹿しい気がする。そんな事を思いながら、土を踏みしめて、九葉の前に立った。自分を見下ろしてくる彼の目を見つめ、

「――お別れですね、九葉」

 静かに言葉を口にすると、九葉の表情がわずかに曇り、

「ああ」

 と短く答えた。そのそっけなさが彼らしいと思いながらも、少し疎ましい気もして、拗ねたくなる。

「本当はもう少し、一緒にいられれば良かったのに」

 周囲を憚って小さく呟く。九葉はいつもの皮肉気な微笑を浮かべ、

「私は霊山軍師、九葉だ。新たな任が下れば、地の果てだろうとどこなりとも赴き、務めを果たす。

 ……それはお前も、分かっているだろう」

 静かな声音で言うので、ええ、と頷くしかない。

 彼を引き止める言葉を、自分は持っていない。

 九葉は鬼と戦い、人の世を取り戻す事にその一生を捧げている。その固い信念の前では、色恋など物の数ではないだろう。

 それに、彼がごく当たり前の恋人のように傍にいて、同じ時を過ごしてくれるなどとは、自分も想像できなかった。

 彼が自分に望んでいるのはそんな事ではない。

 自分への思いを吐露したあの瞬間ですら、九葉は共にいなくてもいい、せめて同じ時代を生きていてほしいとだけ願っていた。

(私がマホロバにいる事、それだけで九葉は満足なんだろうな)

 己の幸福など顧みもせず、ただ一つだけ抱いた願いは、普通の人からすればささやかに過ぎる。

 もっと願っていいのに。もし彼が来いというのなら、自分はやはりその手を取ってしまっただろうにと思うのだが、その選択肢など、はなから存在していない。

 そうであれば――九葉が共にある事を望まないのであれば、自分が選ぶのはただ一つだ。

「……九葉。以前グウェンにした話を、覚えていますか」

 落ちた沈黙を断ち切って問うと、九葉がわずかに目を細めた。唐突に何をと言いたげな視線を受けて続ける。

「正道と外道。私たちは正道を歩み、あなたは一人、暗夜の外道を行くと」

「……ああ。無論、覚えている」

 もちろん忘れるはずもない。この人はきっとずっと昔から、孤独に信念の道を進むと覚悟を決めているのだから。何ももたず身一つで戦いに向かい、誰よりも血を流しながら、それでも突き進んできたのだろうから。

 でも、と言う。

「でも、九葉。あなたの言うその二つの道は、完全に分かたれているのですか?」

「何?」

「進む道に違いがあっても、私は、あなたと同じ事を願っていると思います。鬼を倒し、平和な人の世を取り戻す。その願いに違いはありますか?」

「……無いな」

「であれば。私の道とあなたの道は、必ずしも離れているわけではないのでは? むしろ、背中合わせといっていいほど、近しいものなのではないかと思うのですが、どうです?」

「…………」

 九葉は黙り込んだ。言葉を検分するように目を伏せた後、浅く息を吐く。

「……私に正道は歩めぬ。近しいとも思わぬ。そうであってはならぬとさえ思う。だが、今のお前と同じような事を、以前他の者にも言われたな」

「そうなんですか?」

 それはちょっと残念、と肩を落とす。別れの日を前に散々悩んでたどりついた考えだというのに、すでに誰かが九葉に指摘していたとは。でも、と思い直して顔を上げ、

「それなら九葉、あなたの考えが間違ってるんです。自分で思っているよりずっと、あなたの周りにはたくさんの人がいて、たとえ同じやり方でなくとも、皆同じ方向へ歩んでいるんです」

 そして後ろで手を組み、九葉の顔を覗き込んだ。う、というようにややのけぞる九葉に笑いかけ、

「だから九葉。今度はね、私があなたを待つことにします」

 決然と告げた。九葉は目を瞬き、

「……何だと?」

 困惑を吐き出す。当然そういう反応をするだろうなと思っていたので、少しおかしくなりながら続ける。

「あなたは一つ所にとどまれない。私もここを動けない。

 ――それなら私はここであなたを待ちます。いつまでも待ってます。

 だからあなたは、地の果てまで行こうが何しようが、必ずマホロバへ……私のところへ、帰ってきてください。今日私を置いていくのだから、それだけ約束していってくれませんか」

「………………」

 唖然、と顔に書いてあるかのように、九葉が完全に硬直した。

 どうやら自分の申し出は、軍師にも全く予想のつかないものだったらしい。もしかしたら彼は本当にこのまま別れる決意をしていたのだろうか。

(そんなの、嫌だ)

 記憶を無くしてなお、九葉にまた恋をするほど、自分は彼を求めている。

 もはや魂に刻まれているのではと思うほど九葉を愛しているのに、これが今生の別れになるなど冗談ではない。

 自分が九葉についていくのなら、戦いの中を生き抜く事は造作もないだろう。けれど九葉が身一つで外の世界へ出て行けば、いずれ覚悟の死を迎えるとも限らない。

(それなら私が、九葉の桎梏にもなろう)

 自分がここで九葉の帰りを待っている、その事実は覚悟の死を踏みとどまらせ、生きる糧にもなるのではないか。おこがましくもそう結論付けた挙句にこんな誓約を突きつけているのだから、それは九葉も唖然とするだろう。

(これで断られたら……後はどうしよう)

 そうなれば本当に別離を選ぶしかなくなる。あるいは九葉を拘束して説得するか……などと物騒な案まで浮かび始めたところで、

「……ハッハッハッ……」

 不意に低い笑い声が耳に届いた。え、と九葉を見上げると、軍師は突然上体をそらせ、

「ハーッハッハッハッハッ!!」

 周囲の者がぎょっとして振り返るほどの高笑いを発し始めた。

「ちょ、九葉!? な、何ですか急に!」

 この人は本当におかしな時に笑いだすからぎょっとしてしまう。声をかけると九葉はくつくつ笑って額に手を当てた。

「いやはや、……お前には全く敵わぬと思ってな。こうなっては軍師も形無しだ」

 口に笑みをためたままこちらへ視線を向けると、殊の外優しい声音で告げた。

「――それでは霊山軍師、九葉たるこの私が、お前の名に誓いを立てよう」

 そして持ち上げた右手でこちらの頬に触れ、優しく包み込む。

「どこへ行こうとも、私はお前の元へ戻る。ゆえにお前は、私を待っていろ。私は必ず――お前に会いにゆく」

「……はい、九葉。私も必ず、あなたを待っています」

 自分の手を九葉のそれに重ねて微笑む。

 良かった、自分の選んだ道は間違っていなかった。律儀で一途な九葉ならばこの誓いをきっと守り通してくれることだろう。そう安堵したら、

「あ……でも、十年待たせるのはやめて下さいね。さすがにそんなに待ちたくないです」

 と余計な事を口走ってしまった。途端九葉が手を引いて、

「……お前がどの口でそれを言うか」

 一気に機嫌が急降下して低い声を放つ。いやしかし、

「だ、だって今度十年、間が空いたらさすがに時間かかりすぎじゃないですか!? 今から十年後になったら私おばさんになっちゃうし、九葉だっておじいちゃんじゃないですか!」

 つい力説したら、九葉が一層の顰め面になってしまう。

「……今の時点で私は十分老いぼれている。老人の相手をしたくなくば、今この場で別れるのが最善ではないのか」

「そ、そういう事言わない! 十年経ったらそうだってことで、今のあなたは十分お元気じゃないですか! おとといだって、ってあっ」

 勢い余ってとんでもない事を口走りそうになり、すんでのところで気づいた。慌てて両手で口をふさぐも、顔がカーッと赤くなるのは隠しようもない。それで何を言おうとしたのか察したらしく、

「……朝から何を思い出しているのだ、お前は」

 九葉も気まずげに視線を背けて唸った。「うっ……そ、その、あ、あなたが悪いんじゃないですかっ……」もごもごと手の内側で情けなく反論していたら、

「あー……盛り上がってるところ、邪魔して悪いがな。九葉殿、そろそろ出立の時間だ」

 馬を引いた相馬がくっくっと笑いながら近づいてきた。気がつけば周りの人々も興味津々の表情でこちらを窺っているところを見ると、いつの間にか目立ってしまっていたらしい。

「……そのようだな」

 一つ咳ばらいをした九葉がその馬に騎乗した。こちらはまだ赤面しているが、九葉はすぐいつものすました表情に切り替え、

「では、我らはこれで失礼する。マホロバの里に良き風が吹く事を祈っている」

 別れの挨拶を告げた。

 それを見上げると、やはり心が沈む。明日からもうこの人はいないのだと思うと、胸が痛い。

(だけどいつか必ず、戻ってきてくれる)

 それならば、今この別れも一時の事。そう思ったので、

「あなた方にも、良き風が吹きますように――九葉、行ってらっしゃい」

 別れではなく、次の再会を願う挨拶を笑顔で口にした。九葉は軽く目を瞠り、それから柔らかく微笑むと、

「……ああ、行って来る」

 穏やかに答えて馬首を巡らせると、相馬、初穂を左右に、百鬼隊を背後に従えてマホロバから出立していったのだった。

 

* * *

 

「やれやれ、お前さんたち、まるで新婚夫婦みたいだったぜ。こんな人目のあるところで何やらかすか冷や冷やしたな」

 軍師と百鬼隊が去った後、いつものように研究所へ向かっていると、一緒に歩いていた時継がそんな事を言い出したので、思わず吹き出してしまった。

「な、なにもやらかしたりしませんっ。……でも、次いつ会えるか分からないんだから、少しくらい良いでしょう……」

 これでもうはっきり皆にばれてしまった、恥ずかしいと思いつつ、自分の素直な気持ちを言えるのはなんだか気が楽だ。顔を赤らめながら言うと、時継はまぁな、と笠を持ち上げた。

「しかしあんなまだるっこしい約束をするくらいなら、いっそ祝言でもあげちまえばよかったのに。その方がよっぽど、お互い安心してられるんじゃないか?」

「しゅ、祝言……って、それは……まだ早いんじゃないかな……」

 自分はマホロバに来てからの記憶がほとんどで、人並みの生活を送ることにやっと慣れてきたところだ。

 しかも九葉への恋慕は短い間に燃え上がるように生まれたものだから、今はまだその先まで考える余裕はない。それに、

「多分、九葉の方もそこまで心構え出来ないと思う。あの人も、こういう事、慣れてないみたいだから」

 一人で生きていくと心に決めていた九葉もまた、事態についていけていないのではと思う。

「慣れてないって、年に不足もないだろうに。こんな若い女をたぶらかしておいて、身を固める事も考えてないんだったら、男の風上にもおけねぇ。きちんと責任を取るのが筋ってもんだろ」

「……時継、まじめだよね」

「茶化すな! 俺は一応、お前の事を心配してだな」

「分かってる、分かってる。でも九葉がそういう事言わなかったのは多分、無責任だからじゃないよ。むしろその逆……なんじゃないかな」

「どういうこった?」

 首を傾げる時継に、考えかんがえ語る。

 九葉は基本的に自身の幸福はさておき、相手の事を最優先で考えるきらいがある。それを自分との関係に当てはめてみたらきっと、思考はこうなる――

「将来自分が死んだ後、他の者と何の憂いもなく添い遂げられるように、白無垢はとっておけ、みたいな」

「……なんだそりゃ。くっついたばっかりだってのに、もう死に別れた時の事考えてるのか」

 呆れ声の時継に、思わず自分も苦笑してしまう。

「九葉は私との年の差もずいぶん気にしてるみたいだから、どうしても私の将来について考えてしまうみたい。多分、親子ほども離れてる……んだろうと思うんだけど」

「見た目はそうだな。まぁ、寿命でいったら確かにあっちの方が先に逝きそうだが、そんな事いってりゃ、俺たちだっていつ死ぬか分からねぇんだ。ぐずぐず言ってないで、今やれる事しちまえばいいって思うけどな、俺は」

 研究所にたどりつき、時継が扉を開けながら言う。それに続いて入りながら、肩をすくめた。

「私もそう思う。……けど、再会してからこれまで、あまりにも色んな事がありすぎたから、ちょっとお互い落ち着いて考える時間を置いた方がいいんじゃないかな。私もまだ実感わいていないし、九葉も心の準備が必要でしょう」

「何だ、面倒な話をしてるみたいだな」

 話を聞きつけた博士が振り返る。

「良い歳をして情けない。霊山軍師といったところで、私事には腰砕けじゃないか」

「いや、まぁ、その……お手柔らかに」

 博士は何故か九葉に手厳しい。自分のせいでもあるから、まぁまぁとなだめてから、今日の仕事に取り掛かるとする。

 そうしてマホロバでの日常がまた始まり、穏やかな日々がその後も続き……

 

 ――マホロバの英雄が子を身ごもった、という知らせが中つ国を駆け巡るのは、それから数か月後。それに伴い大騒動が巻き起こる事になるのだが、それはまた別の話である。

 




九葉さん話、完結です!ここまでお読みいただきありがとうございました。
もし楽しんで頂けましたなら、何か感想などいただけると嬉しいです~(^^)

ちなみにタイトルは「我がためは見るかひもなし忘れ草わするばかりの恋にしあらねば」より。
意味は「見る甲斐のない花だ、私の恋は忘れな草を見て忘れてしまえるような恋ではないのだから」
忘れな草の花言葉は「私を忘れないで」で、作品のテーマです。


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