マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ (XXPLUS)
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マミさん、もう何も恐くなくなる
第一話 マミさん、窮地の魔法少女を救助する


 ――私の戦い方は、間違っているのだろうか。

 

 今まで何度も考えた疑問をぼんやりと思いながら、少女は掌に座したソウルジェムの反応を伺う。

 魔女の結界を示す反応はある。が、まだ遠い。

 

「はやく見つけて、倒さなくちゃ」

 

 晩秋の郊外。

 まだ日は高い時間ではあるものの、空気は澄んで、そして冷たい。

 少女の出で立ちは、見滝原中学の制服――柔らかなクリーム色のブレザーとミニのプリーツスカート――の上から防寒用の灰色のPコート、手には小さな通学鞄。

 その年頃にしては自己主張の激しい乳房が目立つが、豪奢にロールした黄金の髪と落ち着いた優しげな瞳もあり、全体としては上品な印象を与える。

 今日が土曜日であることから、学校は午前で終わり、その帰りだ。

 少女の名前は巴マミ。

 見滝原中学校の二年生であり、魔女を狩る魔法少女。

 彼女の掌の上で明滅している卵形のソウルジェムが、魔法少女の変身の為のキーであると同時に、魔女を探すソナーにもなっている。

 魔法少女とは、たった一度の奇跡を対価に、一生を魔女との戦いに捧げる運命を背負った存在。

 魔女との戦いでは膨大な魔力を消費し、魔力の消費はソウルジェムを濁らせる。

 濁りを取り除く唯一無二の手段が、グリーフシードによる浄化だ。

 グリーフシードとは、魔女が残す残滓。魔法少女が魔女を討伐した時、稀に入手することができる。

 つまり、魔法少女となった者は、失った魔力を補充するためにも魔女を狩りグリーフシードを奪う必要がある。

 

 魔女すなわちグリーフシードとの関わり方で、巴マミは自分の行いが間違っていないのか、と考えていた。

 魔女は、複数の使い魔を従えている。

 この使い魔が、魔女の支配領域から抜け出してはぐれの使い魔となり、はぐれの使い魔が幾人かの犠牲者を得ることで、新たな魔女となる。

 犠牲者を出さないため、こういったはぐれの使い魔を率先して狩る。それが巴マミの関わり方だ。

 だが、過去に言葉をかわした魔法少女は、例外なくこの行いを否定した。

 

 曰く、使い魔を倒してもグリーフシードは手に入らないから無駄だ。

 曰く、あなたに使い魔を倒されると、魔女が生まれなくて困る。

 曰く、あなたの行いは人を助けるという点では立派だけど、他の魔法少女を兵糧責めにしてるようなもの。

 曰く、――――

 

 その理屈は分かるし、自分のせいでグリーフシードに困る魔法少女がいるなら、それは申し訳ないと少女も思う。

 

「でも」

 

 魔女や使い魔の犠牲者は、ひとりでも減らしたい。

 それが、自分が生きている意味だと思う。

 いつもの結論に彼女は至る。

 だが、それを肯定してくれる存在は、未だいなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ソウルジェムの中で明滅する光が、明らかな指向性を示した。

 それは、魔女ないし使い魔が、ジェムの光が指す方向にいることを示している。

 反応からすると、かなり近い。

 

「となると、この工場の中ね……」

 

 背丈より頭二つ高いコンクリートの壁の前で、マミは足を止めた。

 壁の向こうには幾つかの建物が見える。建物に飾られたマークは、この敷地が世界的なシェアを誇る自動車会社の工場であることを示している。

 左右を見やるが、壁沿いの歩道を何人かが歩いているだけで、工場への入り口らしきものは見当たらない。

 壁に沿って回れば遠からず入口はあるのだろうが、できればまっすぐにジェムの反応がある方向へ向かいたいと彼女は思った。

 

「失礼します」

 

 呟くと、マミは少しだけ体を沈めた。

 同時に、魔法により自らの存在を希薄化させる。

 これで、マミの存在は普通の人には認識されない。石ころや枯葉が特に意識されないのと同じように。

 短い気合の声を発し、マミの身体が大きくジャンプする。

 余裕をもって眼前の壁を飛び越えると、跳躍の頂点で二度、三度と軽やかに身体を回転させる。

 着地したところは、柔らかな土の上。だが、衝撃を完全に殺しているのか、土には足跡すらつかない。

 周りには、記念植樹を示す板が添えられた大きな樹木が幾つかそびえて、木陰を広く作りだしている。

 その木陰に設置された青色のベンチには、グレーの社服を着た若者がふたり腰を下ろし、いきなり壁を飛び越えて現れた巴マミを気にするでもなく、飲み物を片手に話し込んでいる。

 巴マミは、彼女を認識できていない若者に会釈をすると、さらに歩を進める。

 幾つかの建物が碁盤状に並ぶ敷地は、土曜日のためか人影は少ない。

 進みながら観察すると、ほぼ無人のオフィスらしき建物と、多くの人の気配がする工場とが混在しているようだ。

 ソウルジェムの光が徐々に強くなる。そして、示す方向に上向きの角度がついてくる。

 

「……あの建物ね」

 

 左前方にある白塗りの五階建ての建物。三階以下は工場らしく人の気配がする。四階より上はオフィスなのだろう、人の気配は感じられない。

 ジェムが示す角度から推定し、この建物の四階か五階に魔女がいるはずだとマミは判断した。

 もう目と鼻の先。

 だが、歩み寄ったその建物の入口は、セキュリティカードをスキャンさせないと開かないドアになっていた。

 彼女は魔法で存在感を希薄にさせているだけで、実体はそこにある。幽霊のようにドアをすり抜けたりすることはできない。

 

「困ったわね」

 

 誰かが通るのを待って便乗する手もあるが、おそらく建物内部でも要所要所、特に三階と四階の間でセキュリティ認証は必要になるだろう。その度に人が通るのを待つのは現実的ではなさそうだ。

 

「直接上から、お邪魔しましょうか」

 

 見上げると、四階にも五階にも、大人の背丈ほどもある引き違いのガラス窓が壁一面に並んでいる。

 そのうちの適当な窓に狙いを絞ると、巴マミは助走もなしに大きく跳ねた。

 ふわり、と重力を感じさせない動きで、彼女の身体が四階の高さまで舞い上がる。

 そして、事もなげにガラス窓の下枠に静かに降り立つ。

 幅一〇センチ程度の下枠に、まるで地面に立っているかのように平然と立ち、髪をなびかせる風にも体幹を揺るがせにはしない。人間離れした跳躍力にバランス感覚だ。

 ガラス窓を通して建物の中を見やる。そこは、やはり無人のオフィスだった。

 消灯されており、どの机も片付いている。建物に入り込んだ魔女に魅入られて人がいなくなったわけではなく、もともと人がいなかったのだろうと見てとれる。おそらくは土曜日は休みなのだろう。

 

 マミは窓の下枠に立ったまま、胸元の赤いリボンをほどく。

 ほどかれた赤いリボンは、つまんでいるマミの指先を支点に風にたなびく。それをしばらく眺めると、ふっとその指を離す。

 指から放たれたリボンは、風にさらわれ弧を描いて舞い上がる。

 が、弧の頂点に達すると、意思を持っているかのように風を無視した動きを示す。空中を泳ぐかのように蛇行し、ガラス窓の隙間から建物の中に侵入した。

 そして侵入したリボンはさらに空中を泳ぐと窓のロックレバーに引っかかり――

 

「ちょっと泥棒みたい、よね」

 

 小さな金属音を響かせ、ロックはリボンによって外された。

 

「お邪魔しまぁす」

 

 オフィスに入ると、窓を静かに閉めて施錠する。

 そして、暗いオフィスの中で、改めて掌中のソウルジェムの反応をマミは確かめる。上下の角度はない。つまり、この階層で正解なのだろうとマミは判断する。

 小さく頷いたマミは、ジェムの導きに従って歩を進める。

 電源の切られたオフィスの自動ドアを手で押し開け、底冷えのするコンクリート剥き出しの通路に靴音を響かせる。

 そして、数分の後。

 

「あった」

 

 通路の片隅に、魔女の結界が明滅していた。

 なにもない虚空に、タペストリーよろしく縦に輝く魔方陣があった。

 大きさはマンホールをふたまわり大きくした程度。魔方陣の内側には魔女固有の模様が浮かんでいる。

 その模様が、水に滲むインクのように、不規則に形を変えていた。

 

「結界が歪んでる……誰かいるのかしら……?」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 魔女の結界。

 それは、魔女が身を潜め、獲物を取り込むための巣。本来は魔女に魅入られ招き入れられた犠牲者しか入ることはできない。

 だが、魔法少女は結界をこじ開けて侵入することができる。

 こじ開ける方法は簡単だ。

 魔法少女の魔力と、魔女の魔力は、位相が反転した関係にある。

 そのため、魔女の結界に魔法少女の魔力を干渉させると、一時的に結界を中和し、侵入することが可能となる。

 巴マミは魔力を右の手に集める。

 黄色の儚げな燐光が、手の周囲にふたつみっつと浮かび上がる。

 小さく弱々しい印象を与える手を、結界にそっとかざす。すると、燐光は結界中央の模様に触れ、スパークの様なまぶしい光を生じさせた。

 そして、結界に描かれた魔女固有の模様が左右に大きく引き裂かれる。引き裂かれた模様は、魔方陣の外枠まで広がり固定される。こうして結界はこじ開けられた。

 

 巴マミは、魔力の衝突によって発生した結界の綻びから、内部に入り込む。

 ここからは、魔女の巣。現世から隔離された異世界であり、敵地である。

 先程まで居たオフィスビルの面影は全くない。壁も、床も、天井も、精神に異常をきたした者が、無軌道にコラージュアートを繰り返したような悪趣味な模様に彩られている。

 変わったのは景観だけではない。天井の高さも先程までと異なり、ゆうに一〇メートルはある。

 通路も幅は狭くなり、さらには左右に曲がり上下にうねっている。

 

「さて……そろそろ変身しておきましょうか」

 

 歌うように呟いた言葉を合図に、掌のソウルジェムは激しく光を放つ。その光が臨界へと達したとき、おびただしい数の赤と黄のリボンが巴マミに向かって溢れた。

 ジェムから溢れ出したリボンは、巴マミの身体を包み込み、その在りようをリボンから衣裳へと変えてゆく。

 上半身にからみついたリボンは、オフホワイトのブラウス。

 腰にからみついたリボンは、ダークイエローのスカート。

 胴にからみついたリボンは、焦げ茶色のコルセット。

 脚にからみついたリボンは、ダークブラウンのニーソックス。

 腕にからみついたリボンは、オフホワイトのアームカバー。

 手にからみついたリボンは、漆黒の指ぬきグローブ。

 足にからみついたリボンは、黒と黄のロングブーツ。

 頭にからみついたリボンは、純白の髪飾りと黒の帽子。

 首にからみついたライトイエローのリボンは、そのままネクタイのように締まり胸元を飾る。

 最後に、側頭部にからみついたリボンがソウルジェムを引き寄せた後に、自らを花を模した髪飾りへと形を変えた。

 

 魔法少女への変身を終えると、巴マミは足音を殺して通路を駆けた。

 マミは思考する。

 魔女の結界が歪んでいたことから、恐らく、魔法少女の先客がいる。

 その先客が、大過なく魔女を倒すなら問題はない。

 むしろ余計なトラブルを避けるため、その場合はこちらを気取られないようにしたいくらいだ。

 だが、もし劣勢な場合は、一刻も早く救援しないといけない。

 救援の結果が感謝であることは稀だが、構わない。

 自分が駆けつけることで人の命が繋がるなら。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ここまでに、五匹の使い魔を魔弾で撃ち抜き、三匹の使い魔を銃床で打ち倒した。

 巴マミは、倒した使い魔の姿に見覚えがあった。

 細長い凧に、角と手が生えたような異形。

 数ヶ月前に倒した、巨大な斧を持つ牛頭の魔女。その使い魔だ。

 魔法少女にとって、同じ魔女と戦うことはそう珍しいことではない。

 魔女は無数の使い魔を支配下に置き、結界内で飼う。

 ある程度育った使い魔は、結界を出て、はぐれの使い魔となる。

 はぐれの使い魔は幾人かの犠牲者を喰うことで、親と同じ魔女へと成長する。

 魔女を倒せば、結界内の使い魔は全て消え失せるが、既にはぐれとなっている使い魔は魔女を倒しても消えたりはしない。

 そのため、倒したはずの魔女と三度、四度と戦うこともある。

 巴マミは早足で駆けながら、この結界の魔女に関する記憶を手繰り、牛の魔女、とお手製のノートに書き記した内容を思い出す。

 『魔女の本体は斧』『斧を持つ牛頭の巨人は倒しても再構成される』『使い魔は布状であり、拘束しようとしてくるので注意』

 

「あとは…」

 

 さらに記憶の奥を探ろうとした時に、視界が開けた。

 

 そこは、大きなすり鉢状の、ローマ時代のコロッセオを想起させる構造をしていた。

 たった今駆けてきた通路は、何十段とある観客席の中ほどに出ていた。

 マミは通路から飛び出すことはせず、陰に隠れるようにする。そして物陰から僅かに顔を覗かせると、瞳だけを動かして周囲を見渡す。

 観客席はかなり急な角度をもって、下へと向かっている。

 その先、すり鉢の底は、学校のプールが丸ごと入りそうな大きさの平坦な石畳、ここがコロッセオとすればまさに戦う舞台に相当するのだろう。

 見やると、そこには機敏に動き回る魔法少女と、斧を振り上げ間合いを詰める牛頭の魔女がいた。

 魔女は記憶にある通りの姿。対して魔法少女はマミにとって初めて見る姿だった。

 大身槍を構えた小柄な少女。

 槍を繰り出すたびに、栗色のポニーテールが獅子舞よろしく踊っている。

 落ち着いた赤色の装束は上半身はタイトだが、腰から下はドレスのようにボリュームがあり、動きに合わせて傘のように広がる。

 魔女はやはり、記憶にある牛の魔女そのものだ。

 牛の角を宿した単眼の頭部、逆三角形の巨躯、そして両手に携えた醜く捻くれた両刃の大斧。

 先端の斧頭には身体と同じ単眼があり、ぎろりと魔法少女を睨んでいる。

 その斧が、巨体に似合わぬ速度で振り下ろされる。

 魔法少女は槍で受け止める。だが、衝撃を殺し切れず後ろに跳ね飛ばされた。

 

 

 跳ね飛ばされた魔法少女は、槍の穂先を石畳に突き刺して体勢を整える。

 

「ほんっと馬鹿力なヤツだな!」

 

 吐き捨てると、魔力を集中させて彼女固有の魔法を発動させる。

 幻惑の魔法。

 その効果により彼女の横に、もうひとりの彼女が現れ出でた。

 

「さぁ、どっちが本物かなっ!」

 

 ふたりの槍の魔法少女が、左右に分かれて牛の魔女との距離を詰める。

 牛の魔女は、右、左と見比べるが、もともと思考する能力もないのか、僅かの逡巡もなく左の魔法少女に走り寄り、斧を振り下ろす。

 

「きゃ」

 

 陰から眺めていた巴マミは、全く回避も防御をしない魔法少女の所作から、狙われた方が幻であることを理解はしていた。しかしそれでも斧で

 

両断される姿を見て短い悲鳴を漏らした。

 

「残念! そっちはハズレだよッ!」

 

 その間に牛の魔女の背後に走り寄った魔法少女は、魔女の頭部に向かって大身槍を一閃、単眼ごと頭を貫く。

 ぐちゃ、といった眼球の潰れる音。

 魔女は耳に障る甲高い断末魔をあげた。

 それが蝉の声のようにしばらく続き、不意に止む。

 そしてようやく、牛の魔女は前のめりに倒れ込んだ。重量を感じさせる音が響き、石畳にあった塵がぶわっと舞い上がる。

 

「よし、今度こそ倒したよッ!」

 

 大身槍を片手でくるくると回してから両の肩に担ぐ。そして満面の笑みをたたえると、動かなくなった牛の魔女の頭に片足を乗せて魔法少女は勝ち鬨をあげた。

 魔法少女は、油断のあまり見落としていた。

 魔女の眷属である凧状の使い魔が、依然として活動を停止していないことを。

 それどころか、彼女の足元に複数の使い魔が忍び寄っていたことを。

 

「あっ!」

 

 気付いた時には遅かった。

 使い魔は、その細長い身体を魔法少女の片足に巻き付け、空中に吊り上げる。

 少女は罵声をあげつつ両手を暴れさせるが、五体、六体と使い魔がまとわりつき、ついには全身を拘束される。

 さらに少女の瞳は、絶望的な光景を捉えた。

 頭部を貫かれ倒れていた牛の魔女が、ゆっくりと立ち上がり、斧を拾い上げる。

 潰されていた単眼が、時間が巻き戻されたかのように再生していく。

 やがて単眼は完全に再生する。

 魔女はその単眼で魔法少女を睨むと、魔女は斧を振り上げ――

 

 

 事ここに及んで、巴マミは参戦を決意した。

 ただ、過去に何度か揉めた経験から、後から来て獲物を奪うような真似はしたくはないとも考えていた。彼女――拘束されている魔法少女――の窮地を救えれば、巴マミの目的は達せられるのだから、魔女を仕留める必要はない。

 巴マミは、生成した巨大マスケットの照準を、魔女が持つ斧――マミの記憶にある急所――ではなく魔女の胴体にあわせた。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 凛とした叫びとともに放たれた魔弾は、狙い過たず牛の魔女の胴体を捉え、吹き飛ばした。

 魔女の身体が四散する。手にしていた斧もその勢いで大きく飛ばされ、乾いた音を立てて石畳の上を転がった。

 さらに複数のマスケットから魔弾を放つと、それを追うように自身も捕らわれている魔法少女へ向けて跳躍する。

 

 

 石畳の舞台に巴マミが着地したのと、魔弾に射抜かれた使い魔が息絶えるのはほぼ同時だった。

 使い魔の束縛から解放され、落下する魔法少女を巴マミが両腕で受け止める。

 

「危なかったわね、大丈夫?」

 

 目立つ傷に治癒魔法を施しながら、ゆっくりと魔法少女を石畳に降ろす。

 

「ありがとう、あんた、魔法少女……?」

 

 槍の魔法少女の問いに、巴マミは微笑んで首肯する。

 

「でも、挨拶はあと。今は魔女を倒しましょう」

 

 そして、手短に牛の魔女について伝える。

 本体は斧であること。それゆえに、身体の方はいくら倒しても復活すること。

 その説明の通り、四散していた魔女の身体は再生を始めており、既に巨躯を成しつつあった。

 

「動きは私が抑えるわ。あなたはその間に斧を破壊してくれる?」

「わかった」

 

 ふたりの魔法少女は、それぞれの武器――マスケットと大身槍――を手に、完全に復活した牛の魔女に対峙する。

 耳障りな哄笑を上げる魔女に向けて、先に駆けたのは巴マミ。

 遅れまいと槍の魔法少女も続く。

 

 先程の彼女の戦い振りと負っていた傷から、巴マミは槍の魔法少女の戦闘力を高くは見積もっていなかった。

 であるならば、彼女に接近戦を任せて後方からの射撃に徹するという、双方の武器から導かれる戦闘スタイルは彼女の負担になる可能性が高い。

 自分が牛の魔女の攻撃を引き付けた方が良いとマミは判断した、故に先に駆けた。

 

 心臓が一度、二度脈打つまでの時間で、巴マミは斧の攻撃圏に入る。

 刹那。

 巴マミは斧の予測軌道を避けるように半身に捻りつつ、魔女の巨躯に向けて跳んだ。

 真っ向から振り下ろされた斧は、巴マミの髪を数本を断ち、引き起こした旋風で彼女の衣装を揺らし、そして石畳を穿つ。

 切断された髪が石畳に落ちるよりも早く、巴マミは魔女の肩に飛び乗った。

 そして、マスケットを魔女の側頭部に押し当てる。

 乾いた発射音が響いた。

 痛みの色が混ざった哄笑をあげ、魔女の身体が揺らぐ。

 巴マミは、魔女の肩を足場にして上に跳ぶ。軽く跳んだように見えるが、魔女の斧が届かない程の高さに達していた。

 頂点で一回転し、足を下に向けた姿勢で落ちる。

 落ちながら、スカートの裾を両手で持ち上げ、六つのマスケットを空中に生成、滞空させる。

 マミが音もなく魔女の背中側に着地したタイミングで、魔女は振り返りながら斧を力任せに横に払った。

 が、その閃撃は空を切った。淑女の挨拶を思わせる優雅な動作でスカートを掴みつつ上半身を沈めた巴マミの頭の上を。魔女を狙い、下向きから水平へと向きを変えたマスケットの間隙を。

 何一つ刃に捉えることなく、斧はただ太刀風をのみ引き起こして虚しく旋回した。

 

「ティーロ!」

 

 六つのマスケットから、魔女の両手、両足、頭、胴に向けて魔弾が放たれた。

 大振りにたたらを踏むようにしていた魔女。そんな魔女に回避を行う余裕などなく、全ての魔弾が狙った通りに着弾する。

 着弾した魔弾は、魔女の体躯を貫くことを選ばず、表皮にめり込んだ状態でその在りようを本来の姿であるリボンへ変えた。

 めり込んだ魔弾を種とすれば、湧出するリボンはしなやかに伸びる茎。

 噴水のように湧き上がるリボンは、魔女の身体を幾重にも縛り上げ、拘束した。

 

「今よ!」

「応っ!」

 

 巴マミの声に応え、魔法少女が槍を大きく振るう。

 裂帛の気合いを込めた魔法少女の大身槍の一撃は、斧頭に位置する単眼――マミの語った魔女の急所――を貫いた。

 ずしりとした手応えを杏子は感じた。それを肯定するように、魔女が絶叫する。

 その叫びが弱くなるにつれ、魔女の巨体は崩れ、使い魔は地に墜ちてゆく。

 最後に、魔女の本体である斧が、雪が溶けるかのように消え去った。

 

「や……やったぁ!」

「お見事ね」

 

 兎を思わせる動きで跳ねまわり快哉を上げる少女の足元が、徐々に石畳からコンクリートへと変化していく。主を失った結界が、その役割を終えたのだ。

 

 

 巴マミが変身を解き、大身槍の魔法少女もそれに倣った。

 

「あらためて初めまして。私は巴マミ。見滝原の魔法少女よ」

「あたしは佐倉杏子。隣の風見野で魔法少女やってるんだ」

 

 一礼すると、佐倉杏子は林檎のように染まった頬を指でかきながら続けた。

 

「さっきは本当に助かったよ、ありがと。あんたが来てくれなきゃどうなってたか……」

「どういたしまして」

 

 マミは微笑むと床に落ちたグリーフシードを拾い、佐倉杏子に差し出す。

 その行為に困惑した佐倉杏子は、視線を落とすとここにいる理由を語った。

 先ほどの牛の魔女が、自身が初めて戦った魔女であること。

 その際、取り逃がしてしまい、とても悔しかったこと。

 偶然、痕跡を見つけて、見滝原まで追いかけてきたこと。

 

「他人の縄張りまで乗り込むのは行儀が悪いと思ったんだけどさ……自分が逃がした魔女で犠牲者が出るのは、どうしても嫌だったんだ」

 

 だから、他人の縄張りのグリーフシードを貰う権利はないし、貰うわけにはいかない、と伝えた。

 テリトリーを越えてでも魔女を追いかける熱心さ、グリーフシードの権利を二の次に考える態度。それは、巴マミに共感をおぼえさせるに充分なものだった。

 

 ――この魔法少女は、純粋に皆を魔女と使い魔から守ろうとしている。

 

 首を横に振る。巴マミの縦にロールした髪が、かぶりを振るのに合わせて左右に揺れた。

 

「あなたが見つけて、あなたがとどめを刺したんだもの。あなたが受け取るべきものよ」

 

 それに、と続ける。

 

「大事なのは魔女の犠牲者を減らすことなんだもの。魔法少女どうしで縄張り争いなんて本当ならすべきことではないと思うの。だから、気にしないで」

「そういってもらえると、少し気が楽になるよ、でも……」

 

 固辞しようとする杏子に一歩詰め寄ると、マミは指輪型になっていたソウルジェムを卵形に戻す。

 

「じゃぁ……ふたりで倒した成果だし、はんぶんこにしましょう。佐倉さんもソウルジェムを出して?」

「いいの?」

 

 微笑みで応えるマミにつられて杏子も破顔すると、ソウルジェムを取り出す。

 本来は真紅の色をした彼女のソウルジェムだが、今は濁った血の色をしていた。

 魔法少女の魔力の源であるソウルジェムは、魔力を使うごとに少しずつ穢れて、その色を濁らせていく。

 やがて穢れが溜まり漆黒に染まると、魔法少女は二度と魔法を使えなくなる。

 そうなる前に、魔女を狩りグリーフシードを奪う必要がある。

 グリーフシードには、ソウルジェムの穢れを吸い取り、浄化する能力があるからだ。

 ふたりの濁ったソウルジェム、それぞれが掌中に収めたジェムがこつんと当たらんばかりに近くに寄せられる。

 その横に、先の魔女が落としたグリーフシードを置く。

 すると、ふたりのソウルジェムの表面に浮かぶくすんだ汚れが、つむじ風に巻かれる枯葉の様にグリーフシードに吸い取られていった。

 

「ありがとう」

 

 一片の汚れなく浄化された自らのソウルジェムを指輪に戻すと、杏子は右の掌をショートパンツで何度か拭ってから差し出す。

 握手に応じながら、マミはおずおずと切り出した。

 

「佐倉さん、今日はまだお時間大丈夫かしら……?」

「大丈夫だけど、何か……?」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 折角だし親睦を深めたい、そして戦い方や魔女の情報交換もしたい、というマミの申し出を杏子は快諾した。

 道中は、最初こそふたりとも口数が少なかったが、他人との距離感が近い杏子のおかげもあり、マミのマンションが見える頃には笑い声が聞こえるようになっていた。

 

「そう、佐倉さんは魔法少女になってまだ間もないのね。それなのに、あんなに戦えるなんてすごいわ」

 

 カードをかざしてロックを解除すると、マミは玄関のドアを引く。

 褒められた杏子は、照れ笑いを浮かべて頭を掻き、まだまだだと謙遜する。

 

『うん、杏子はまだまだ学ぶべきことが多いね』

 

 と、ふたりの脳裏に、声変わり前の少年を思わせる声が響いた。

 

『おかえり、マミ、杏子』

 

 声の主は、玄関を入ってすぐの下駄箱の上に鎮座していた。

 アルビノの猫からひげを取り除き、ぴんと立った耳から一対の触腕を伸ばした小動物。それが声の主の姿だ。まるでおとぎ話から抜け出した妖精のような外見をしている。

 

「キュゥべえ、来ていたのね」

 

 マミは靴を脱ぎながら、慣れた仕草で小動物の頭を撫でた。

 キュゥべえ、と呼ばれたこの小動物は、魔法少女の契約を司る、魔法少女の導き手。

 

「なんだよキュゥべえ、誉めてくれてもいいじゃん」

 

 まだまだと評された杏子は、今日は魔女を倒したんだからと付け足し、アヒルのくちばしのように口を変形させて不満を表した。

 

『そうだね、おめでとう。 ついに宿願を果たしたね』

「あ、キュゥべえ、これよろしくね」

 

 マミは制服のポケットから先ほどのグリーフシードを取り出すと、ペットに玩具を投げて渡すように放った。

 キュゥべえはそれを受け止めると、背中の穴から嚥下する。咀嚼するような仕草を経て、げっぷのような音を漏らした。穢れを吸い取り、魔法少女にとっては用無しとなったグリーフシードの処理。それもキュゥべえが受け持つ役割のひとつ。

 

 

 私の部屋とは大違いだなぁ、というのがマミの部屋に通された佐倉杏子が抱いた第一印象だった。

 部屋のグレード――広さや家具の豪華さ――という意味でも、綺麗さ――整頓や掃除の度合い――という意味でも。

 もっとも、後者については杏子は全自動で部屋を散らかしていく妹というハンデを抱えているので、やむを得ない面もある。

 リビングでソファに腰を下ろした杏子は、手に一冊、膝に二冊のルーズリーフ・ノートを抱えていた。

 お菓子を焼く間に目を通しておいて、と渡された三冊のルーズリーフは、表紙にそれぞれ 「魔女の記録」「戦術研究」「魔法研究」と題されていた。

 杏子は、「研究」という頭が痛くなりそうなタイトルを避け、魔女の記録に目を通す。

 そこには、簡単な魔女のスケッチと、繰り出してくる攻撃の注意や避け方、こちらから攻撃する際の狙い目、結界や使い魔の特徴、などが整った文字で記されていた。

 

「あ、さっきの……」

 

 ページを繰ると、先ほど戦った牛の魔女の記載があった。スケッチはあまり似ていないが、本体が斧であることや、身体は倒しても復活すること、使い魔が拘束してくること、などが第三者にも伝わるように細やかに記述されている。

 

「そうなの。昔倒したことがあって。だから本体が斧って知ってたのよ」

 

 キッチンで鼻歌混じりに料理をしながら、マミが顔だけ居間に向ける。

 

「同じ魔女と戦うこともあるんだね」

『そうだね。結界から出て行った使い魔は、親に相当する魔女を倒しても消えないからね。その使い魔が育てば、同じ魔女になるんだ』

 

 タンスの上で丸くなっているキュゥべえが、尻尾だけ動かして杏子に答える。 

 

「だから、魔法少女同士で魔女のデータを共有できるといいんだけど……」

『だからってウィキペディアに書くのはどうかと思うよ、マミ』

「なんかすぐ消されちゃうのよね。最近は書くことも出来なくなったし、魔女の仕業かしら……」

 

 肩を落とすマミの背中に、杏子は「違うと思う」と呟いた。

 

 

 

 三カット目のピーチパイを平らげると、杏子は超美味しいと感想を繰り返した。

 

「ありがとう、お口に合って良かったわ」

 

 マミは顔を綻ばせると、膝立ちの姿勢で紅茶のおかわりを杏子のカップに注ぐ。差し込む夕日が、ティーポットから零れる紅茶を赤く染めていた。

 

「助けてもらった上にケーキまでご馳走になっちゃって、なんだか図々しいよね」

「ううん。招待したのは私なんだから気にしないで」

 

 自分のカップにも紅茶を注ぎながら、魔法少女の子と一緒にお茶できてとても嬉しい、と続ける。

 

「あたしの方こそ、今日はマミさんと会えて良かったよ」

 

 四カット目を杏子の皿に載せるマミ。杏子は軽く頭を下げると、ティーカップを口元に運び、唇を湿らせる。

 

「その、マミさんはなんていうか、すごくカッコいいよね。戦いは強いし、頼りになるし、研究熱心だし、心構えもしっかりしてるし」

 

 パイを切る杏子のフォークが勢い余って食器にあたり、甲高い音を発する。その音で杏子の言葉が一瞬途切れた。

 杏子は芝居がかった咳払いをすると、パイを口に放り込み、喉を鳴らして飲み込む。

 

「お願いっていうか……図々しいついでっていうのもなんだけど」

 

 頬を紅潮させ、彼女にしては珍しく言い淀む。が、それも一瞬。彼女は意を決したように目を瞑ると一息にまくしたてた。

 

「あたしをマミさんの弟子にしてもらえないかな?」

 

 何かしら、と小首を傾げて聞いていたマミは、予想外の言葉に目を白黒させてしばし言葉を失った。

 

「ダメかな……?」

 

 テーブルに身を乗り出し、すがるような視線で覗き込む杏子。

 

「……で、弟子……?」

 

 声が裏返った。マミは慌てて紅茶を口に含み、息を整える。

 

「マミさんはどこをとってもあたしの理想なんだ。だからさ、まだ半人前のあたしを鍛えてくれないかな?」

 

 弟子ってなんだっけ……。弟で子だから弟? でも私達は女の子だから弟にはなれないよね。いやいやそうじゃなくて師匠と弟子の弟子よね。英語だとマスターと弟子。弟子は英語でなんていうんだっけ。いやいや英語は今はどうでもいいよね。ええと、要するに……と、かなり支離滅裂な思考がマミの頭を占め、表情も呆けたものになった。

 

「ダメかな?」

 

 さらに顔を近づけ、繰り返す杏子。

 マミにしては珍しく、ティーカップを置く際にかちゃりと音を鳴らした。

 

「ええと、弟子っていうのはちょっと大袈裟かなって思うんだけれど……」

 

 小さく咳払いし、続ける。

 

「ずっと前から、私も魔法少女の友達がいてくれたらなって、魔法少女として付き合っていけるひとがいたらなって、思っていたの」

「それって」

「ええ、私の方こそ、これからも一緒に戦ってもらえると嬉しいわ。もちろん、魔法少女の先輩として、教えられることはいくらでも」

「ありがとう、マミさん!」

 

 喜びのあまり立ち上がろうとした杏子が、膝をテーブルにあててティーカップを躍らせた。

 

「だ、大丈夫? 佐倉さん」

「う、うん、大丈夫、ごめん」

 

 その二人を見て、キュゥべえは考えていた。

 

 ――巴マミがいれば佐倉杏子が無駄死にする可能性は減りそうだ。ただ巴マミのメンタルが補強されるのは歓迎できかねる事態だね。理想を言えば、佐倉杏子が無駄死にしない程度に育ってから、マミと袂を分かってもらいたいところかな。

 

「じゃぁ、早速だけど、今日の反省会を始めましょう」

 

 戸棚から新しいルーズリーフを持ち出し、表紙にマジックで『反省会日誌 巴マミ』と書くと、ルーズリーフとマジックを杏子に渡す。

 よろしくお願いします! と答えながら、マミの名の横に大きな字で佐倉杏子、と書き記した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 夜のニュースを横目に髪をとかす巴マミは、頬の筋肉が緩むのを抑えられなかった。

 魔法少女の友達が、しかも人々を守ることを優先して考えるような友達が出来たことが、嬉しくてたまらないのだった。

 

『上機嫌だね、マミ』

「そうね」

 

 視線をくれず、しかし弾むような声でキュゥべえに応える。

 

「魔法少女になって、今日が一番幸せな日かも」

『それは良かった。でも、油断だけは禁物だよ』

「うん、わかってる」

 

 緩み切った顔からは本当に理解しているのかようとして知れないが、キュゥべえは警句を唱えただけで満足したのかベッドのわきで丸くなった。

 なお、マミの表情筋は週明けまで緩みっぱなしで、学校の友人からは「すっごく嬉しそうだけど、彼氏でも出来た?」とからかわれる羽目になるのだった。



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第二話 マミさん、魔法少女の家へお呼ばれする

 かなり気の早いクリスマスの飾りが溢れる、見滝原の繁華街。

 巴マミと佐倉杏子は、目抜き通りのふたつ隣を走るうらぶれた通りを、ソウルジェムを掌に浮かべて歩いていた。

 

「ん……反応、強くなったわね」

 

 口元まで隠すマフラーの下から、くぐもった声で巴マミが告げる。

 

「さて問題です。この反応は魔女でしょうか? 使い魔でしょうか?」

 

 ふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、杏子へ問いかける。

 問われた杏子は、唸りを漏らして自らのソウルジェムを凝視する。

 その様子を楽しそうに眺めると、マミはカウントダウンを始めて時間制限をほのめかした。

 

「えーい、使い魔!」

「わ、正解。どうしてそう思ったの?」

 

 デフォルメされた熊が描かれた手袋で小さく拍手するマミ。

 

「なんとなく」

「……もう、佐倉さんったら」

「ほら、あたし直観派だからさ」

 

 おどけて言うと、チョッキを翻してその場で回って見せる杏子。

 厚着のマミとは対照的に、ショートパンツに薄手のセーター、その上にチョッキだけという出で立ちだ。

 

「学校の勉強でも答えだけだと点数もらえないでしょ。……でも、直感も大事よね」

「それにしてもマミさんの魔女探索は効率いいよね。ひとりだったときは、こんなに早く探し当てられなかったよ」

 

 それを受けて、マミは探索のノウハウを歩きながら伝えていく。そしてひとしきりの説明を終えると、首を傾げて杏子に問うた。

 

「これ、渡したノートに書いてたはずよ?」

 

 ちゃんと読んでる? と疑うマミの視線に、杏子は、読んでるけど記憶は苦手だからと、しどろもどろに弁解する。

 

「人間社会への影響や被害を未然に防ぐためにも、魔女や使い魔の早期発見はとても重要なの」

「うん、わかる」

「じゃ、帰ったら復習ね」

 

 真剣な眼差しで頷く杏子の態度に満足すると、結界に向けてマミはさらに足を速めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 魔女の結界に比べれば、使い魔の結界は狭い傾向がある。

 この使い魔の結界もそうだ。

 三本のエスカレーターが歪み、交差しながら上に向かうだけの、単純な道中。

 数十メートル登ったエスカレーターの終点である結界最深部は、学校の教室程度の大きさの広間。広間は、木の枝を格子状に組んだ釣鐘状の壁で囲まれ、鳥籠を模した空間となっていた。

 

 その広間の中央に、蜂を思わせる使い魔がいた。

 ペットボトルのように湾曲した黒い胴体に、一対の触角を生やした細長い頭を浮かべ、背中では黄と黒のストライプに彩られた二対の羽根をせわしなく動かしている。

 初めて見る使い魔ね、とマミが杏子に告げる。

 

「あたしが突っ込むから、マミさん援護してもらっていいかな?」

 

 杏子の提案に、マミは思考を巡らせる。

 

 ――初見の使い魔とはいっても、魔法少女がはぐれの使い魔単体に後れを取ることは考えにくい。

 ――だから、この場合は逃げられることだけを注意すればいいわよね。

 ――その点、近接戦闘が得意な佐倉さんが突っ込んで、私が射撃で逃走を阻む、という戦い方は悪くはない。

 

 マミはコクリと頷く。

 

「でも、くれぐれも注意してね」

「任せて!」

 

 叫ぶや、大身槍を片手に突撃する杏子。

 使い魔は、意味をなさない金切り声をあげながら上昇する。

 させない、とばかりにマスケットから放たれた魔弾が使い魔の羽根をひとつ射抜いた。

 二対の羽根のうちひとつを射抜かれた使い魔は飛翔力のバランスを失い、きりもみ状に墜ちる。

 墜落する使い魔は側壁に激突。壁に半身を埋める形で動きを止めた。そこを――

 

「いただき!」

 

 腰だめに大身槍を構え、壁面で蠢く使い魔に致命の一撃を与えるべく、杏子は跳んだ。

 獲った、と杏子が勝利を確信したそのとき。

 杏子の真下の床がぐらりと盛り上がる。

 盛り上がったそれは、一本の茎の先端に牙を生やした二枚貝を頂く、食虫植物を思わせる異形の使い魔の姿を瞬時にして成した。

 杏子を丸ごと飲み込めるほどの巨大な顎。それを大きく広げて、使い魔は真下から杏子に襲いかかる。

 真下という死角からの攻撃に、杏子の反応が遅れた。空中で身をひねろうとするが――

 

「危ないっ!」

 

 マスケットから三連、五連と魔弾が放たれる。

 しかし、僅かに遅かった。

 魔弾が着弾する寸前に、使い魔の牙が魔法少女に届いた。身をひねり避けようとする杏子の脚に喰らいつくようにして。

 肉が潰れ、骨が軋む嫌な音、それは三本の牙が太腿を貫通した音。

 杏子の脚から噴水のように鮮血が迸る。

 少女の悲鳴。

 遅れて着弾したマミの魔弾が、使い魔を射抜く。

 杏子の悲鳴に食虫植物の使い魔の悲鳴が重なる。

 使い魔は、被弾の苦痛に茎を鞭のようにしならせる。その挙動で、杏子の太腿にめり込んでいた牙が抜け、杏子は壁面へ投げ捨てられ――

 

「佐倉さん!」

 

 投げ捨てられた杏子は、背中から壁面に激突する。その衝撃に、壁面を成す枝が鈍い音を響かせて外側に傾ぐ。

 枝はわずかの間、杏子の身体を支えたが、すぐに力尽きた。めきめきと音を立てて、枝が外へと折れ落ちる。

 マミの名を呼ぶ杏子は、枝の支えを失い、鳥籠の外の空間に放り出された。

 マミは駆けた。

 使い魔を一顧だにせず、杏子が投げ出された方へと駆ける。隙だらけだったが、幸い、蜂の使い魔も食虫植物の使い魔も、魔弾を受けて苦しみ、攻撃を仕掛けられる状態ではなかった。

 壁面へたどり着くと、間に合ってと祈りつつ、開いた穴からリボンを下に向けて投げる様に放つ。

 

 恐らく、あと一月の経験を積んだ杏子なら、痛みを無効化し、落ち着いて中空に足場を作って落下を免れていただろう。

 だが、まだ充分な経験を持たない今の杏子には、それを行うことは難しかった。

 痛みと落下の恐怖で錯乱した杏子の脳裏に、父、母、妹の笑顔が浮かんでは消える。

 父さん、母さん、ごめんなさい、と死を意識した杏子が呟く。その時、杏子の手を強く掴むものがあった。

 マミだ。

 正確にはマミのリボンが、杏子の手首を掴んだ。続いて胴に、そして脚にとリボンが巻き付いて彼女の体躯を支えた。

 遅れてマミ自身が、デンドロビウムの花冠で形成した足場を幾度となく虚空に生み出しては、それを蹴って駆け降りてくる。

 

「良かった……」

 

 マミは杏子がリボンで宙吊りになっていることを確認すると、足場を数回横方向に蹴り減速する。

 そして、リボンで包まれた杏子のすぐ下に、ラフレシアほどの大きさの花冠を形成する。

 そこに降り立つと、ゆっくりと杏子を降ろして強く抱き締めた。

 オフホワイトのブラウスが、杏子の太腿から零れる鮮血で朱に染められていく。

 

「ごめんなさい。使い魔の結界に別の使い魔がいるなんて想像もしてなくて反応が遅れて。本当にごめんなさい」

 

 治癒魔法が杏子の傷を塞ぐまでの間、湿った声の謝罪は何度も何度も繰り返された。

 まだ頭の芯に霞がかかったような杏子は、それを聞きながら、マミさんのこんな声も、表情も、初めてだなと、ぼんやり思った。

 

 

 

「マミさん、ごめん、あたしのミスで」

 

 ようやく落ち着いた杏子が、傷口に当てられたマミの手を上から押さえる。

 温かい。

 治癒魔法の波動のみならず、杏子を優しい気持ちにさせる温かさがそこにあった。

 

「そんなことないわ。私が悪かったの」

 

 使い魔の結界には、他に使い魔はいないと思い込んだこと。

 援護が遅れ、使い魔の攻撃を防ぐことが出来なかったこと。

 どちらも、十分に回避できたはずのミスだとマミは思った。

 生きていてくれて良かった、そんな感情を伴ってマミの瞳からこぼれた滴が、杏子の手に落ちた時。

 結界が歪み、二人はもといた通りに現れた。

 

 

「結界を解いて、逃げた……ってこと?」

 

 普段着に戻った二人は結界のあった路地裏にいた。

 

「そうね。こうなると追うのは困難だけど、逆に結界を張ってないという事は、犠牲者が出ることもないと思うわ」

 

 だから、みんなへの被害を防ぐという意味では、目的は達成ね、とマミは微笑む。

 もちろん、使い魔を倒し被害の芽を断ったわけではなく、先送りしたに過ぎない、それは杏子も理解している。

 

「あたしさえミスしなけりゃ逃がさなかったのに……ごめん」

 

 マミはかぶりを振ると「私のミスなの」と漏らし、杏子のショートパンツから伸びる脚に視線を落とす。

 

「それより、ケガは大丈夫? 痛くない?」

「うん、大丈夫。マミさんの治癒魔法はすごいね」

 

 その場で、駆けるように膝を上下させる杏子に、良かったぁと破願すると、マミは手袋で目元を拭った。

 

「今日は早いけど切り上げましょうか」

「え、もう?」

 

 めっきり日が暮れるのも早くなったが、まだ日は傾いてもいない時間だ。

 

「えぇ、今日はお互い反省することもたっぷりあるし……それに美味しいお茶が手に入ったの」

 

 あと、佐倉さんの名前になぞらえて、アプリコットパイの準備もしてあるの、と微笑む。

 自分のミスで失敗したのに、責めるどころか、慮ってくれるマミに、杏子は心の中で呟いた。

 

 ――なんだかマミさん、あたしの本当のお姉さんみたいだな。

 

 知らず、ぎゅっとマミの腕に抱きついた。

 

 ――気丈に振る舞っていても、やっぱり怖いよね……。

 

 杏子の仕草が、先程の戦いで感じた恐怖から来るものだと判断し、マミは共感をおぼえた。

 私も何度怖くて泣いたことだろう……。マミはそんな過去を思い出しながら、空いた手で杏子の髪を撫で擦った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日の日曜日。

 まだ霜の降りている時間から見滝原にやってきた杏子は、河川敷でマミに稽古をつけてもらっていた。

 一二戦〇勝。

 それが杏子の通算戦績。

 間もなく、一三戦〇勝になる。

 

「ぁぅ……」

 

 嘆息とも嗚咽ともつかない声を、リボンで拘束されて逆さ吊りになった魔法少女が漏らす。

 

「動きは良くなってるから落ち込む必要はないわよ、佐倉さん。それに、私も先輩なんだからそうそう負けません」

 

 立てた人指し指を左右に振り、得意げに胸を張るマミ。

 

「マミさんのリボンずるいよ! 本数制限なしだし、手で操らなくてもいいし、なんか卑怯だよ!」

 

 卑怯、という言葉に左右に揺れていたマミの指がぴたりと止まる。

 そして、意地の悪い笑みを浮かべると、リボンを操って逆さ吊りになった杏子を自身の目の前まで運ぶ。それはスケールこそ違えど、仔猫が首を咥えられて運ばれる様に似ていた。

 

「あらあら、実戦の時にもそんな言い訳するつもりかしら。魔女が卑怯だからこの攻撃は止めまーすって、言ってくれると思ってるの?」

 

 さらに一歩進み、顔が触れる程に距離を縮めると、杏子の耳に囁く。

 

「それに私のリボンが卑怯だって言うなら、佐倉さんの幻惑魔法だって卑怯なんじゃないかしら?」

「あぅぅ……」

 

 口喧嘩では、杏子の五戦〇勝だった。

 

「でも、せめてもう少し手加減してくれたっていいよね? 一度くらい勝ちたいよ!」

 

 じたばたと暴れる杏子のモーメントを受けて、リボンが振り子のように揺れる。

 

「うーん……。そうしてもいいんだけど、それじゃ訓練にならなくないかしら?」

 

 目の前を右に左に揺れる杏子を瞳で追いながら、マミは小首を傾げる。

 

「けーちー」

「しょうのない佐倉さんね。いいわ、リボンでの拘束はなし。それでやりましょう」

「ほんと?」

「ええ。卑怯だなんて言われちゃうと、ちょっと気分も悪いもの」

 

 片手を差し出して杏子の頬を受け止め、振り子状の動きを止める。そして、器用にリボンを操作して静かに彼女の身体を大地に下ろす。

 数分ぶり自らの足で大地に立った杏子は、感触を確かめるように足踏みを繰り返してから、念を押すようにマミに詰め寄った。

 

「じゃぁ、リボンはなしね!」

「う、うん、そう言ってるじゃない」

 

 杏子の勢いに気圧されるように、上半身を後ろに反らす。杏子は飛びかからんばかりの勢いで迫り、マミはさらに数歩後ずさる。

 

「まぁ、佐倉さんは……今の調子なら拘束魔法ありでも、すぐにいい勝負になるわよ」

 

 リップサービスでなく、マミはそう思う。

 

「佐倉さんには十分な素質があるもの。その上、成長が本当に早いわ」

 

 自分が杏子程度の経験しか持たない頃、どれだけ満足に戦えただろうか。まだマスケットを使うことも出来なかった頃だ。

 それに比べると、杏子の大身槍による攻撃と幻影による防御は、ずいぶん優れているとマミは思う。

 だが、客観的に見るとこの比較はいささか公平さを欠いている。

 独学で技量を磨くしかなかったマミに比べ、杏子には巴マミという指導者がいる。

 結果的に成長が早くても、それはマミの言うように素質のみに依存しているものではないだろう。

 

「不得手な治癒魔法をカバーできさえすれば、右に出るものはいない魔法少女に成長すると思う」

「そ、そう?」

 

 ベタ誉め、と言ってもいい評価を受けて、杏子の声が上ずった。

 

「そうよ、だから自信を持って。佐倉さんとふたりなら、きっとワルプルギスの夜だって倒せるわ」

 

 マミは、小さくガッツポーズをして、頑張って、と声をかけた。

 

「うん、頑張る! 絶対一緒に倒そうね!」

 

 噂に聞く最強最悪の魔女、ワルプルギスの夜の名を前にしても、佐倉杏子はいささかも怯むことなく怪気炎をあげた。

 マミはさして深い意味があってワルプルギスを引き合いに出したわけではなかったが、意気を高揚させている杏子を見て微笑むと、指切りを促すように小指を差し出した。

 

「じゃぁ、それまでにしっかり訓練して一人前になること」

 

 意気込んで頷く杏子は、短く「はい!」と応えた。

 

 

 しかし、残念ながら現時点の杏子はマミの敵たりえない。

 彼女の踏み込み、払い、突き、いずれも迅く強く、そして重い。

 単純な撃ち込みとしては、厳しく評価しても「優」を付けられるだろう。

 だが、目配せや身体の重心の移動で、次に何をするかが手に取るようにマミには分かってしまう。

 このことを伝えるべきだろうか、ともマミは思うが、すぐに否定する。

 

 杏子が倒すべき魔女や使い魔は、目配せも重心の移動も読むことはしない。指摘することで、変に意識させて杏子の本来の動きを抑制する結果になっては逆効果。

 そして、もしこれらの挙動を読むような敵――魔法少女――が現れたなら。

 

 ――その時は、私が矢面に立って佐倉さんを守ればいいわ。

 

 マミはそう判断した。

 後に杏子が戦う魔法少女が、そのマミ自身であることなど想像の埒外にあった。

 

 結局、午前中の模擬戦は、杏子の通算戦績一六戦〇勝で幕を閉じた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 手早く作ったパスタでお昼を済ませると、ふたりは再び河川敷に移動した。

 

「じゃぁ、午後は魔法の練習をしましょう」

 

 魔法は、魔法少女の心の在りようが鍵になる。

 心の中でいかに強く願い、リアルにイメージできるかに、その成否や強弱がかかっている。

 

「つまり、佐倉さんが自分の分身がもっといるんだって強く信じて魔法を使えば、もっと分身を作れると思うの」

 

 何度も頷き、マミの講釈に聞き入る杏子。

 

「例えば、このリボン」

 

 マミの鈴を転がすような声に答えて、地面に一輪の花が咲き、そこからリボンが上に伸びる。

 

「マスケットなんだーって念じると……」

 

 指が、銃を描くように空を切る。

 それにあわせて、リボンが絡まり、その形をマスケットへと変えていく。

 

「ね? この通り」

 

 えい、と指で突っつくと、マスケットはリボンに戻り、マミの手首に巻きついた。

 

 

 

「見てマミさん、三人に増えた!」

 

 本物を含めて四体の佐倉杏子が、思い思いに、Vサインや万歳、ガッツポーズで喜びを表す。

 そのうち、Vサインをしている杏子だけが、長く伸びた影を河川敷にさらしていた。

 

「いい感じね。ただ、影のあるなしでどれが本当の佐倉さんか分かっちゃうかも」

 

 いかに本能的な動きを繰り返す魔女といえども、それ程度の知性はあってもおかしくはない、とマミは思う。

 

「たくさんの分身に影を作るのは大変と思うから、本当の佐倉さんの影を幻惑魔法で消しちゃうのがいいかもね」

「わかった。やってみる!」

 

 マミのアドバイスを受けて行った次の幻惑魔法は、果たして、全ての佐倉杏子が影を持たなかった。

 

「すごいわ佐倉さん、もうどれが本物か見分けがつかないわね」

 

 軽い軽い、と勝ち誇る声がサラウンドで響く。

 

「絶好調ね。じゃぁ、次は四人に挑戦してみましょうか」

「オッケィ!」

 

 瞳を閉じ、腰を落とすと、低い声を漏らして気合を溜める。

 格闘技の演武よろしく、右の拳をゆっくりと腰だめに引いた。

 杏子の集中する様を見て、マミは満足げに二度、三度と頷く。

 

「たぁッ!」

 

 裂帛、と表現して差し支えない声とともに、勢いよく拳を前に突き出す。

 それと同時に、杏子の右に、左に、分身が次々と現れる。

 一、二、三……と呟きながら指さしで分身を数えると、マミは大声で叫んだ。

 

「すごい! 一気にふたりも増えたわ!」

「あたしが本気を出せば、こんなもんさ」

 

 本物を含めて六体の杏子が、異口同音に勝ち誇る。

 

「うん! この短期間でここまで魔法の使い方がうまくなるなんて、本当に佐倉さんの才能はすごいわ」

「ほ、本当?」

「ええ! この調子で鍛えていけば、ロッソ・ファンタズマは無敵の魔法技になるわ!」

 

 マミのその言葉に、有頂天になって飛び跳ねていた杏子の動きが、ぴたりと止まる。

 

「ロッソなんとか……?」

「ロッソ・ファンタズマ。紅い幽霊という意味よ。佐倉さんにピッタリの名前だと思うけど、お気に召さなかったかしら……?」

 

 杏子のリアクションを、技名の説明を求めていると勘違いしたマミが、とうとうと語る。

 最後に、一所懸命考えたんだけど……と自信なさげに付け加えた。

 

「気に入る、気に入らない、っていう問題じゃなくて……」

 

 恐らく善意からと思われるマミの申し出に、おずおずといった様子で杏子は異を唱える。

 

「その、前から思ってたんだけどさ、戦いの最中に技名を叫んで必殺技っていうのは、どうなのかな……?」

「えっと、なにが?」

 

 小首を傾げ、杏子の言葉を聞くマミ。

 

「なんか、ふざけてるっていうか……真剣さが足りないっていうか……」

 

 ふざけてる。真剣さが足りない。の言葉につれて、マミの笑顔が冷たいものへと変化していく。

 

「あらぁ……佐倉さん、先輩のやり方にダメ出ししちゃうんだ? ふぅーん……」

 

 粘りつくような声と雰囲気。普段とまったく異なるマミの態度に威圧された杏子が、必死に違う違うと否定する。

 だが、芝居半分のマミは、その弁明を受け流すとさらに続けた。

 

「いいえ、聞く耳もちません。佐倉さんがそういうつもりなら、私にも考えがあるわ」

 

 そこで一旦言葉を切ると、杏子の顔に人差し指を突きつけて宣言する。

 

「罰として、次の戦いであなたにロッソ・ファンタズマって叫んでもらいます」

 

 日が暮れて訓練が終わるまでの間、杏子は何度も何度も説得しマミの翻意を促したのだが。

 語尾に音符が付くような口調で、マミはその説得を何度も何度も押し返した。

 口喧嘩は六戦――いや、これは口喧嘩でなく、いじめに分類すべきだろう。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 河川敷からマミの部屋までの帰途、 ところでと前置きして、杏子は問うた。

 

「マミさんはどうして魔法少女をやってるの?」

「どうして?」

 

 問い返す言葉にあまり意味はないが、杏子の返答も「なんとなく」という要領を得ないものだった。

 少し間を開けて、杏子が理由を伝える。

 

「マミさんほどの知識と技術を得るまでには、相当長い期間の努力と習練が必要なんじゃないかと思って。それだけの強いモチベーションをどうやって維持してるのかな、って」

 

 聞いちゃまずかったかな、と続ける杏子。

 

「ううん、ちょうどいいわ、あなたには言っておこうと思ってたし……」

 

 うつむき気味にかぶりを振ると、顔をあげて遠くを見つめる。

 視界の端で、小さな隼が輪を描いて飛んでいるのを目で追うと、ゆっくりと語り始めた。

 

「契約したのは、半年ちょっと前よ」

 

 家族と一緒に、酷い交通事故に巻き込まれたこと。

 死にかけていたところに、キュゥべえが現れて、とっさに『命を繋ぐ』という祈りで契約したこと。

 

「両親も同じ車に乗っていたのに、あのときの私ったら、自分のことだけ祈っちゃったの」

 

 天を仰ぎ、唇を噛む。

 

「両親を亡くして、とても悲しくて辛かったわ」

 

 魔法少女になってからも、怖くて泣いてばかりだった、との言葉に、杏子はただ黙って耳を傾けていた。

 マミは、「だけど」と目尻を拭い、笑顔を作る。

 

「あるとき私はこう思うようにしたの」

 

 大切な人を失うことが、こんなに悲しくて辛いなら。

 自分に、魔女と戦う力が与えられて、そんな不幸を減らすことが出来るなら。

 パパとママを救えなかった罪滅ぼし、ってわけじゃないけど、と呟いてマフラーをほどき、口元を露わにした。

 

「私は誓ったの。魔法少女の力でみんあを助けてみせるって。もう、こんな思いは誰にもさせたくないから」

 

 ぎゅ、と胸の前で両手を握り合わせるマミの姿は、杏子には神前で祈る父の姿と重なって見えた。

 

「そんな想いが、こうして今の私に繋がってるんだと思うの」

「……そうだったんだ」

「今まで私の戦い方を受け容れてくれる人はいなかったから……佐倉さんが友達になってくれてとっても嬉しいわ」

 

 これからもよろしくね、と微笑むマミに、杏子は少し考え込む素振りを見せた。

 

「佐倉さん、どうかしたかしら?」

 

 杏子は、言葉を慎重に選ぶように、一言ずつ、ゆっくりと吐き出す。

 

「……マミさんは、あたしのこと、いつも友達って言ってくれるよね?」

 

 杏子は足元の小石を軽く蹴る。

 蹴られた小石は、道から外れると斜面をころころと転がっていった。遠くで、ぽちゃりと水音がする。

 

「あたしにとってのマミさんは、友達っていうのとはちょっと違うっていうか……」

「どういう、こと?」

 

 肺の深いところから息を絞り出すようにマミが問うが、杏子は両手を頭の後ろで組むと、一息にまくしたてた。

 

「えーっと、変な意味じゃなくてさ。その、ううん、やめとく!」

 

 気恥ずかしくて、友達じゃなくて本当のお姉さんみたいに思ってる、とは言えなかった。

 杏子は、気持ちを誤魔化すように少し駆けると、「そうだ」と振り返った。

 

「マミさん、これから良かったら家に来ない?」

 

 家に誘って家族に紹介すれば、言葉で言わなくても友達よりも大切だって伝わるよね、という杏子の思い込みは、残念ながらマミには伝わらなかった。

 この日、マミは今まで以上に『理想的な』魔法少女であろうと決意した。

 友達としてではなく、魔法少女として強くなるために自分と一緒にいる杏子を、出来るだけ長く手元に置くために。

 誰よりも強く、品が良く、優しく、優雅で……自分を偽ってでも、無理をしてでも、そうあろうと己に誓った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「モモ、食事のときは動き回ってはダメだよ。きちんと椅子に座って食べなさい」

 

 食卓の周りを元気よく走り回る幼女に、上座に座る壮年の男性――杏子の父――が優しく諭す。

 白い詰め襟のシャツに黒色のスーツといった、牧師によくある出で立ち。かもしだす落ち着いた雰囲気も含めて、見るものに聖職者そのものといった印象を与える。

 

「はーい」

 

 モモと呼ばれた幼女は素直に聞き分けると、自分用の背の高い椅子に、よいしょと登る。

 その動作に合わせて、杏子と同じ髪型の栗毛が左右に揺れた。

 

「この子はお客様が来ると、いつもはしゃぐんだよ。落ち着かなくてすまないね」

 

 椅子に座ったモモの頭を撫でてやると、杏子の父はマミに軽く頭を下げる。

 

「いえ、賑やかで温かくて、とっても楽しいです」

 

 心の底から、マミはそう思う。

 家族を失ってからというもの、マミにとって食事は一人で淡々ととるものであり、楽しむものではなかった。

 皆で食卓を囲む幸せを噛み締めて陶然としているマミだったが、その隙を狙うように、マミの皿に一本のフォークが伸びた。

 

「えびふらい、もーらった」

「あら」

 

 対面からモモが短い手を伸ばして、マミの皿のエビフライをフォークで串刺しにしていた。

 

「あー、こらモモ! それはマミさんの分! ひとのものを盗っちゃだめでしょ!」

「えー、だってモモ、えびふらい大好きなんだもん」

 

 姉の言葉に意味の通らない反論をすると、妹は大きく口をあけてエビフライを放り込もうとする。

 

「モモ、人のものを盗ってはだめだよ。返しなさい」

「はーい」

 

 父の言葉に、モモは動きを止めると、素直にマミの皿にエビフライを戻そうとする。

 

「いいのよモモちゃん、それ、食べて」

「いいの?」

 

 モモは、父の顔とマミの顔を交互に見て許可を求める。

 

「ご馳走たくさん頂いて、もう私はおなかいっぱいなの」

 

 マミの言葉と、赦しを与えるように頷く父を見て、モモは大きい声でマミにお礼をいうと、エビフライを口に運んだ。

 

「おいしい!」

「もう、まったくモモは……ごめんね、マミさん」

 

 妹の野放図な行いに杏子がフォローを入れるが、そもそもマミは全く気にしていなかった。

 

「ううん。こんな賑やかで温かい食事は本当に久しぶり。とても懐かしいわ……」

 

 それが偽らざる今の心境だった。

 

 

「巴さん、コーヒーで良かったかしら」

 

 大きなお盆にコーヒーとジュースを乗せて、台所から上品そうな女性――杏子の母――が入ってきた。

 

「ありがとうございます。こんな楽しいお食事に同席させて頂いて、本当に感謝しています」

 

 目を閉じて深く頭を下げる。

 見よう見まねで、同じように頭を下げるモモを見て、食卓に笑いが溢れた。

 ひとしきり笑うと、コーヒーカップを口元に運び、唇を湿らせて母が口を開く。

 

「でも杏子、先に言っておいてくれれば、もっと豪華な食事にしたのに……」

「いつも通りの方がいいの。ヘンに豪華な食事だと、マミさんだって来づらくなっちゃうでしょ」

 

 これからも頻繁に来て欲しいから、と言外に匂わせて、杏子がマミを横目で見る。

 友達じゃなくて家族みたいに思ってるって、分かって欲しい、という願いを込めて。

 

「こんなに明るくて楽しい食事は久しぶりで……。今日は本当に幸せな気持ちです。佐倉さん、呼んでくれて本当にありがとう」

 

 香りを楽しむようにカップを口元で泳がせると、マミは遠い目をした。

 

「喜んでもらえて良かった。我が家もお客様を招くのはずいぶん久しぶりのことでね。きちんとおもてなしできるかと家内と心配していたんだよ」

「そうなんですか?」

 

 深く頷くと、父は静かに語り始めた。

 

「ああ。私は神の教えを皆に伝える仕事をしていてね。しかし、私の伝える神の教えは世間にはなかなか受け入れてもらえなかった。つい最近のことなんだよ、人々が私の話に耳を傾けてくれるようになったのは。……それまで、家族には本当に辛い思いをさせてしまっていたんだ」

 

 そのバスバリトンの声には、苦労をかけた家族への贖罪の色が込められていた。

 先程まで騒がしかったモモも、行儀よく静かに耳を傾けている。

 

「あれは秋のある日のことだよ。それまで私の話を聞こうともしなかった人々が、突然に教会に押し寄せてね。私の話を聞きたいと、言ってくれたんだ」

「自分を信じ、幸せの種を蒔き続けてきたのが、やっと花開いたんだって、私は主人に言ってるの」

 

 母の感想は、いかにも聖職者の妻らしい、希望と信心に満ちたものだった。

 

「……そうですか」

 

 奇跡のような話だと、マミは思った。

 そして奇跡を成す方法があることを、彼女は知っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「長々とお邪魔してすみませんでした、本当に楽しかったです」

 

 玄関まで送りに来てくれた杏子の家族に、マミは深々と頭を下げる。

 

「マミおねえちゃん、またきてね!」

「巴さん、杏子とこれからも仲良くしてやってください。それにモモもこう言っています、ぜひまた来てくださいね」

「ええ、毎日でも来て欲しいくらいだわ。だって、杏子がお友達を連れてくるなんて初めてのことなんですもの」

 

 ブーツに足を通していた杏子は、母の言葉に声を荒げた。

 

「母さんっ! なんでそんなこと言うの!」

「本当のことじゃないの」

 

 何をいまさら、という表情を見せる母に、杏子は噛みつかんばかりに言った。

 

「本当でも言っちゃダメなことってあるじゃん、恥ずかしいよ!」

 

 顔を真っ赤にした杏子に、父と母が笑いをこぼす。つられてモモも。そして控えめにマミも笑みを浮かべた。

 

 

 

 駅まで送ると家族に告げて、杏子はマミと一緒に家を出た。

 隣町程度だと、電車やバスを利用するよりも、魔法少女の身体能力で直線的に移動した方が速い。杏子はいつもそうしているのだが。

 

「今日は、ゆっくり帰りたい気分……かな」

 

 と、マミは呟いた。部屋に戻ると、いや、見滝原に戻ると、いつもの日常に引き戻される気がしたから。

 杏子には理由は分からなかったが、駅まで案内するのも悪くないと思い、少し遠回りになるが山茶花で賑わう遊歩道を選んで歩いた。

 道すがら、また来て欲しいと繰り返す杏子に、マミは「今度はお土産用意して伺わないとね」と微笑む。

 

「モモちゃん、人懐っこくていい子よね」

「モモは、外面だけはいいからね……」

 

 大袈裟に溜め息をつくと、妹への不満をまくしたてる。

 

「あたしには酷いもんだよ。なんかあったら全あたし私のせいにしてさ。最後は『杏子の妹になんて生まれてくるんじゃなかったー』って言うんだよ」

「あらあら、ひどいわね」

 

 同調してみせるマミだが、表情も声も明るく、そう思ってはいないのは明らかだった。 

 

「ほんとだよー。好き放題いってくれちゃってさ」

 

 唇を尖らせる杏子だが、こちらも既に目は笑っている。

 

「でも、佐倉さんは許しちゃうんでしょ?」

「まぁ、お姉さんだしね……」

「えらいえらい」

 

 子供をあやすように頭を撫でる。ひとしきり撫でると、マミは顔から笑みを消した。

 

「佐倉さん、あなたが魔法少女になった願いって……」

 

 杏子は、やっぱ分かるよね、と苦笑すると、言葉を続けた。

 

「……裕福になりたいとか願ったわけじゃないんだ。ただ、『父さんの話をみんなが聞いてくれますように』…ってさ」

 

 そこまで語ると、杏子は過去の情景を思い浮かべながら、マミに語って聞かせた。

 今の時代に即した新しい信仰が、人々のために必要だと語る父。

 父の言葉に耳を傾けることなく、教会を去る信者達。

 父の言葉を邪まなものと断じ、戒規処分とした本部。

 語る言葉を否定するだけじゃない、父そのものを神に成り代わろうとする悪魔だと罵る者までいた。

 

「だって悔しいじゃないか。みんな話を聞きもせずに、父さんの教えを否定するなんて……」

 

 父の教え自体は正しいのに、と杏子は憤る。

 

「……そう、あなたはお父様のために」

「誰かのために願い事をするって、ダメなのかな……?」

 

 マミの言葉に否定の色を感じた杏子が問う。

 

「ううん、そんなことない。立派な願いよ。ただ、私はね、一度しかない願い事だから、それが佐倉さん自身の願いを叶えて、幸せにしてくれるものだったら、もっと素敵だなって思うの……」

 

 冬の星座が輝く空を見上げ、星の瞬きを見つめる。

 

「魔法少女の使命は危険を伴うし、自分の日常を犠牲にしなくちゃならないこともあるわ。それが、自分の願い事の対価だと思えば我慢もできるけれど、そうでないとしたら……」 

 

 命の危険もあれば時間の制約もある、それでいて他人には決して認められることのない魔法少女としての活動。

 マミは自らの命を繋ぐという自分自身の願いで魔法少女になり、また願い事を両親に向けれなかった後悔を持ち、半ば義務感に追い責められるように戦っている。

 そこにあるのは諦観にも近い。だからこそ、割り切ることもできる。

 

「それならあたしは大丈夫だよ」  

 

 迷いなく断言すると、杏子も星空を見上げた。

 

「みんなの幸せのために頑張ってる父さんを、小さい頃からずっと見てきた。あたしも、父さんの影響かな、みんなに幸せになってもらいたいって願ってた。その願いの第一歩が、父さんを幸せにすることだったんじゃないかな」

 

 マミと同じ星を見つめている、そんな確信が杏子にはあった。これからもずっと、そうありたいと思った。

 

「うん、そうだよ。みんなの幸せを守る、それがあたしの願いなんだ」

「そう……あなたなら大丈夫よね」

「これであたしもマミさんと戦う理由は同じだよね」

「えっ?」

 

 虚を突かれ、マミの声は少し高くなる。

 言われてみると、確かに同じ理由に違いない……だけど、とマミは思う。

 

 ――私は魔法少女になったから、皆の幸せを守りたいと思った。でも、佐倉さんは違う。皆の幸せを守るために魔法少女になったんだ。

 

「ううん。佐倉さんの方が、私よりずっと立派だわ」

 

 そんなマミの情動を知らない杏子は、突然のことにマミの顔を見つめる。

 

「佐倉さん、私、佐倉さんと知り合えて本当に良かったと思うわ」

 

 空を見上げたまま、マミがさらに言葉を連ねた。

 

「え、えっと、もちろん、あたしもそうだよ!」

 

 突然の大声に、少し前を歩いていた婦人が怪訝な表情を浮かべて振り向いたが、杏子は気にも留めずに続けた。

 

「マミさん、あらためてこれからもよろしく!」

「……ええ、こちらこそ」

 

 その時、二人の脳裏に直接声が届いた。

 

『マミ、杏子! グリーフシードだ! 魔女が孵化しかけている。急いで向かって!』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 エキセントリックな色彩に染められた鉄柵が、大地に空にと縦横無尽に存在する空間。

 そんな異常な空間の果てに、マミと杏子は魔女の居る最深部へ辿り着いた。

 結界の主は、豚の体躯に鶏の頭と翼を据えた、唾液とともに哄笑を撒き散らす、杏子曰く「悪趣味な魔女」だ。

 マミも同意する。見てくれも醜悪だし、手入れのされていない家畜小屋のような臭いは我慢できないと愚痴のようにこぼす。

 

「さっさと片付けよう、マミさん!」

「そうね、臭いがうつらないうちに」

 

 軽口を叩きつつマスケットで照準し、トリガーを引く。

 銃身に刻まれた施条により回転を与えられた魔弾が、吸い込まれるように魔女の豚腹に命中する。が、肉に一瞬埋まると、その弾力で跳ね返された。

 

「うそっ!」

 

 お返しとばかりに、魔女は飛べない翼をはばたかせると猛然と突進攻撃をしかけてくる。

 巨体に似合わず、迅い。

 マミはとっさにマスケットを盾にして受けるが、ちょっとしたトラック程もある巨躯の突進の衝撃は殺し切れず、大きく吹き飛ばされる。

 土煙をあげて二度、三度と跳ねると、手から伸ばしたリボンを鉄柵に巻き付けて制動した。

 

「油断しちゃったわね……」

 

 全身に付いた汚れを手で払いつつ立ち上がる。そこに大きく旋回した魔女が勢いをそのままに再度突進してくる。

 

「そう何度も、くらうものですか!」

 

 リボンを上空に漂う鉄柵に巻き付かせ、真上へ跳躍して魔女の二度目の突進を躱す。

 

「あたしに任せて!」

 

 杏子の叫びが響き渡る。

 既に生み出されていた幻影が、魔女を包囲するように様々な方向から槍を構えて突進する。

 魔女は十を超える杏子のうち、一体に狙いを定めて突進するが、やはり無作為に選んではそうそう本体には当たらない。

 幻影が攻撃を受けている隙に、魔女の背中に飛び乗った杏子は、足元の弛んだ肉を槍の穂先で薙ぐ。

 魔弾が弾かれるなら刺突よりも斬撃で、との杏子の判断は奏功した。

 大身槍によって背の肉が深く切り裂かれると、魔女が悲鳴をあげ体躯を揺する。

 その振動により、肉の裂け目から黄白色に濁った体液が迸る。

 刺激臭がした。

 危険を感じ、背から飛び降りる杏子だが、一瞬早く飛び散った体液が葡萄酒色のスカートに付着する。

 邪悪な体液は、嫌な臭いと灰色の煙をあげて衣裳を溶かし始める。

 杏子は被害が広がらないよう、自らの槍でスカートを断ち、汚濁の付着した箇所を切り落とす。

 と、地に落ちた布きれが、地面ごと泡を噴いて溶け崩れていく。

 接近戦はリスクが大きすぎる、そう判断した杏子は幻影を囮に距離を取ると叫んだ。

 

「マミさん、背中の切り口を狙ってみて!」

 

 幾つかの鉄柵をリボンで結んで上空に形成した足場で、巨大マスケットを構築しつつ機を待っていたマミが応える。

 

「わかったわ!」

 

 杏子の幻影が魔女を巧みに足止めしている間に、照準を魔女の背の、だらしなく開いた裂け目に合わせる。

 裂け目から溢れた体液は、魔女の肉すら溶かし始めていた。

 これは近接殺しよね……と呟きながら、マミは引鉄を引く。そして響き渡る魔女の哄笑をかき消すように、澄んだ声で叫んだ。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 

 魔女は、自らの体液で完全に溶け去るその瞬間まで、狂気に満ちた笑いを発し続けていた。

 魔女の嘴までが崩れ、静寂が訪れるのと同時、魔女の結界が歪み始める。

 刹那、全てが弾け――ふたりは、結界に入る前にいた小さな事務所の前に立っていた。

 微かな臭気と、足元に転がるグリーフシード以外に、魔女の痕跡を示すものはない。

 

「やったね、マミさん!」

 

 快哉をあげる杏子だが、それを眺めるマミの瞳は不満そうだ。

 

「そうね、お見事だったわ。分身も十を超えていたし……ただ」

 

 おうむ返しに「ただ?」と首を傾げる杏子。

 

「約束したよね? ロッソ・ファンタズマって叫ぶって」

「約束……したっけ?」

 

 とぼけようとする杏子に、マミは体を押し付け、間近で彼女の表情を観察するよう覗き込む。

 勢いに気圧された杏子は、約束を違えた僅かながらの後ろめたさもあり、マミを直視できず顔を背けてしまった。

 

「しました」

 

 一音節ずつ区切るように強調して言うと、杏子の両頬を手で押さえて向き直らせる。

 

「しょうがない。約束を守らない後輩には、もっと酷い罰を受けてもらいます」

「な、なに?」

 

 あ、やっぱり罰的なものって理解してるんだ、と杏子は思ったが、まぜっかえせる雰囲気ではなかったので言葉を飲み込む。

 

「今後、ロッソ・ファンタズマを使う時は、毎回、ずっと、必殺技名を叫んでもらいます」

「……どうしても?」

「どうしても」

 

 これも一音節ずつ。

 翻意を諦めた杏子は力なく頷くと、「わかりました」と呟いた。

 

「あ、ちなみに――」

 

 何がそんなに嬉しいのか、と杏子が心の中で毒づきたくなる程に幸せそうな笑みを浮かべると、マミは指を立てて宣言した。

 

「今度約束を破った場合は、魔女との戦いの前に、ふたりで名乗り口上をあげるようにします」

 

 いや、さすがにそれは不謹慎というか、ふざけすぎだろうと杏子は思うが、口に出さない程度の自制心はわきまえている。

 

 ――こういうときのマミさんは下手に逆らうと危ない。

 

 そもそも冗談だろうから、そんな指摘はちょっと空気が読めてないだろうし、と甘く考える杏子だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ピュエラ・マギ・アンジェリ・ドゥエットがチーム名で、私がカリーノ・リモーネ、佐倉さんがカリーノ・ロッソ。うん、いい名前よね」

 

 マミが電車のシートで沈思熟考してその名前に決め、メモ帳にペンを走らせた時、車内放送が告げた。

 電車が、見滝原駅を発車することを。

 

「あとはポーズよね……」

 

 だが、考え事に熱中しているマミが乗り過ごしたことに気付くのは、さらに二駅ほど過ぎた後だった。

 



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第三話 マミさん、杏子の様子を訝しむ

 聖誕祭まで二週間あまりとなった土曜日。

 

 見滝原の駅前や目抜き通りはもとより、住宅街にもずいぶん賑やかなイルミネーションが目立つようになっていた。

 マミと杏子はソウルジェムを携えてパトロールをしているが、陽気な雰囲気に魔女も遠慮しているのか、今日は反応が全くない。

 それもあって、パトロール半分、散歩半分な感じで、ふたりは歩いていた。

 

 通りに飾られている大きなクリスマスツリーの前で歩を止めると、信者でもないのに現金だよね。と杏子はこぼす。

 しかしそう言う杏子の表情は明るく、街がクリスマス一色に染まることが満更でもないことが見てとれた。

 

「あ、そうだ、マミさん、クリスマスの礼拝にも出てみない?」

 

 来る人の半分近くは信者さんじゃないから、気にしないで大丈夫、と言葉を連ねる。

 

「そうなのね。ちょっと興味はあるわ」

「モモも喜ぶしさ、ぜひ来てよ」

 

 モモの名前を出すと口説けると理解しているのか、杏子は妹をダシにしてマミを誘おうとする。

 

「んー、でもイブは彼氏と……」

「いるの?」

 

 年相応にそういった話に興味があるのだろう、目を輝かせて迫る杏子に苦笑すると、いるわけないじゃない、と返す。

 

「佐倉さんだって、そんな時間ないでしょ」

「だよね」

「なので、イブはお邪魔させて頂くわね」

 

 その言葉に、満面の笑みを浮かべると、大歓迎だよ、と両手を合わせた。

 

「ふふ、可愛い後輩とイブなんて楽しみね」

 

 両の手袋を口元にあて、深呼吸するように白い息を吐き出すと、マミも微笑んだ。

 

「あ、そうだ。モモちゃんといえば、今日はちょっと早めにパトロール切り上げていいかしら?」

 

 

 

 

「お土産なんて気を遣わなくてもいいのに」

 

 今日は杏子の家を訪ねる予定になっているから、一旦マンションに戻ってお土産にお菓子を焼きたい、とのマミの意見を受けて、ふたりはパトロールを切り上げていた。

 テーブルで紅茶を味わう――正確には味はあまり分からないのだが――杏子が、キッチンでてきぱきと動くマミに声をかける。

 

「でも、モモ喜ぶよ、あいつ甘いもの大好きでさ」

「佐倉さんもでしょ。ハーフホールを一人でペロリじゃない」

 

 食べっぷりが良くて作り甲斐があるわよ、とマミは笑みを漏らす。

 残りのハーフホールを誰が食べているのかについて、杏子は明確な答えを持っていたが、とりあえず黙っておくことにした。

 

「マミさんの作ってくれる料理も、お菓子も、紅茶も、すごく美味しいよね」

 

 お世辞でなく、杏子はそう思う。

 主婦歴の長い母と比べても、好みの差はあれど完成度の点では負けていないし、なにより優しい味がする。

 

「子供の頃から、得意だったの?」

 

 何気ない杏子の問いに、マミは唇に指をあてがうと、んーと考え込む素振りをしてみせた。

 

「紅茶は父の、お料理――特にお菓子作りは、母の趣味だったの。だから小さい頃から、近くで見てきたわ」

 

 まだ小学校に入る前から、マミはキッチンで何かを作る両親にまとわりついていた。

 今にして思えばずいぶん邪魔になったんだろうなと思うが、両親は決して邪険にせず、優しく抱き締めてくれた。

 愛されていたことを実感する。そして、両親にはもう返せなくなってしまった愛情を、せめて皆の幸せを守ることで、と考える。

 

「でも、本格的に練習したのは、事故の後かな……。少しでも両親を傍に感じられる気がして」

「ごめん、悪いことを」

「ううん。私が勝手に話しただけ。それに佐倉さんが食べてくれて嬉しいのよ」

 

 オーブンからパイを取り出して調理台に置き、左手のミトンを外す。

 

「誰かが食べてくれるって、それだけで作り甲斐があるし」

 

 そこで言葉を切ると、ブラウスの裾をもちあげて、露出したお腹の肌を指でつまんで見せる。

 

「ひとりで食べると、ちょっとね……」

「えー、全然大丈夫だよ。マミさんスタイルいいじゃん」

 

 ちょっとはこっちにも譲って欲しいくらいだよ、と内心で独りごちる。

 

「そう? でも一年前から体重二キロも増えたのよねぇ。身長はほとんど伸びてないのに……」

 

 深い溜め息をつくマミだったが、杏子には、どこが増えたのか容易に想像できた。

 でもイラッとするから言わない。と杏子は独語し「気のせいじゃないかなぁ」とだけ応えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「マミおねえちゃん、これ、おいしい!」

 

 先ほどまで食卓を彩っていたのは先週より明らかに豪勢な夕飯。今はその食器は下げられ、テーブルの上にはマミが作ってきたピーチパイと桃のタルトが並び、甘い香りが鼻孔をくすぐっていた。

 ぷすり、と一口サイズに小分けにされたピーチパイをフォークで刺すと、口元にお弁当を付けたモモがマミに笑いかける。

 

「気に入ってもらえて良かったわ。いっぱい作ってきたからどんどん食べてね」

 

 半ば無責任に勧めるマミに、杏子が口をはさむ。 

 

「モモ、夕飯も食べたんだから、ほどほどにするんだよ」

「あまいものは、べつばらだもん!」

 

 どこで覚えたのか、モモはそんな言葉で姉の忠言を跳ねのけると、パイをもぐもぐと頬張る。

 

「よほど巴さんのお菓子が気に入ったんだね。でもモモ、食べ過ぎてお腹を壊さないようにするんだよ」

「はーい」

 

 喉を鳴らして飲み込むと、父の言葉には素直に返事をする。

 同じことを言っているのに父さんにだけ、とこぼす杏子。しかし口でそう言いつつも、ハンカチでモモの口元を拭ってあげる様に、マミは「お姉ちゃんって偉いわね」と眩しいものを見るような表情を浮かべて呟いた。

 だが、耳ざとくマミの呟きを聞きつけたモモが「えらくないよー」と否定すると、マミの表情は苦笑に変わっていた。

 

 

 

 

 七分咲き、といったところだろうか。

 帰り道、遊歩道の山茶花は、淡い紅色の花を誇らしげにたたえ、ふたりの目を楽しませていた。

 もう少し経てば、ともに植えられている蝋梅の香りも楽しめるのだろうが、こちらはまだ蕾が膨らみ始めたところだ。

 

「すっかりマミさんに懐いてたね」

「モモちゃんのお口に合ったようで、本当に良かったわ」

 

 今日のお菓子は、普段ふたりで食べているものより、卵黄やクリームの分量を増やして「子供向け」にしてあった。その甲斐があったと、マミは微笑んだ。

 

「次は、クリームチーズのパウンドケーキでも食べてもらおうかしら」

「あ、じゃぁ明日にでも味見するよ!」

「もう、味見じゃなくって、佐倉さんが食べたいだけなんじゃないの?」

 

 正しく本音をつかれた杏子は、視線を宙に泳がせて話題を変えた。

 

「ここしばらく、魔女も使い魔も大人しくていいね」

「そうね。早く可愛い後輩がロッソ・ファンタズマって叫ぶところを見たいんだけど」

 

 この話題もダメだ、と肩を落とし、次の話題を探す。

 

「ねぇマミさん、ここんところ、あたしのこと『後輩』って言うよね」

「え、だ、だめだった?」

 

 杏子としては少し他人行儀じゃないかと言いたかったのだが、言葉の意図を真逆に受け取ったマミが、裏返り気味の声をあげる。

 

「佐倉さん友達じゃないって言ったから、じゃぁ後輩なのかなって……」

 

 その言葉を受けて、杏子は「んー」と考え込む。

 

「……佐倉さん?」

 

 マミとしては友達と言いたいが、それを否定されたので先輩後輩の間柄でと思っていた。それまで否定されては、どういった関係と考えれば良いのだろうかと途方に暮れてしまう。

 

「やっぱ言わないと伝わらないよね」

 

 歩を止めると、マミの方に向き直って瞳を閉じる。

 そして、大きく息を吸うと意を決したように瞳を見開き、息継ぎもせずに早口でまくしたてた。

 

「あたしはマミさんのこと、友達以上の人って思ってる。勝手だけど、お姉さんって思ってるんだ」

 

 判決を待つ被告のように、瞳を閉じ、こうべを垂れてマミの反応を待つ。

 マミの性格を考えると、すげない態度を取られることはないだろうが――。

 風が三度吹き抜けるまでそのまま待ったが、反応はなかった。

 

「だから、友達じゃないって言ったんだ」

 

 杏子は、覚悟を決めて言葉を連ねると、おそるおそる瞼を上げ、マミの顔を見ようとするが――。

 突然に身体を前のめりに引き寄せられ、マミの胸に顔を埋める形で抱き締められた。

 

「マミ、さん……?」

「……ありがとう」

 

 それだけ呟くと、マミは杏子を抱く腕にさらに力を込めた。

 マミは後悔していた。

 自分は、杏子と仲良くなりたいと思いながら、杏子の言葉の意味も分かろうとせず、距離を取ろうとしていた。

 拒否され、傷つくのを恐れていたから。

 自分は傷つかないように壁を作って、誰からも否定されないような理想を演じようとしようだなんて――誰とも分かり合えるはずがなかった。

 大きな喜びと少しの慚愧の念がこもった滴が、瞳から零れる。

 顔をあげようとする杏子。マミはあごを彼女の頭の上に乗せて押さえると、もう一度ありがとうと呟いた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日の未明。

 穏やかな気分で眠りについていた杏子は、邪悪な魔力の波動を感じて目を覚ました。

 壁掛け時計に目を凝らす――まだ夜明けまでは三時間足らずはある。

 

『杏子! 大変だ!』

 

 杏子の脳裏に少年の声が響く。キュゥべえの声だ。

 少女は、二段ベッドの下側で寝息をたてている妹を起こさないよう、猫の様に物音ひとつ立てず二段ベッドの上側から降りる。

 

『めちゃくちゃ近いね。この反応は魔女?』

 

 寝乱れた妹の掛け布団を直しながら、声ではなく思念でキュゥべえと会話する。

 

『そのようだ。魔女の接吻を受けた人達が今、結界に入っていった。急いで来てくれ!』

 

 魔女の接吻とは、魔女に魅入られた犠牲者の身体に現れる証であり、その模様は結界のそれと同じくする。

 魅入られた犠牲者は、魔女の意のままに操られ、暴行、自殺、殺人などの凶行に及ぶ。

 結界に入っていった、ということは、魔女は犠牲者を自ら喰らうつもりなのだろう。

 杏子は、現地にいるであろうキュゥべえに「わかった」とテレパシーで告げる。

 壁にかけている紺色のウィンドブレイカーを取ると、寝間着の上から羽織り、テラスへ続く窓をそっと開けた。

 冷たい風が入り込み、まとめられていない赤髪が闇にたなびく。

 

「ん……」

 

 奥のベッドから、むずがるような妹の声がした。

 杏子は素早くテラスに出る。後ろ手に窓を閉め、妹に向けて寒がらせた謝罪を呟く。

 手を後頭部にかざすと、燐光が踊り、髪がいつものようにポニーテールに束ねられた。

 

 父の教会は、杏子の自宅の右側に隣接して存在している。

 テラスは自宅正面側なので、右を見れば教会の入り口が視界に入る。見やると、入口の門がだらしなく開け放たれていた。

 怒りの表情を浮かべ、杏子はテラスから身を踊らせた。

 

 

 

「キュゥべえ!」

 

 声に出して呼びかけつつ、魔法少女姿の杏子が教会の扉口をくぐり側廊を走ってくる。

 採光塔から入る僅かな月明かりしかないが、魔法少女には十分な明るさだ。

 

『ここだよ、杏子!』 

 

 キュゥべえに言われるまでもなかった。翼廊に浮かぶ禍々しい結界は見逃しようがない程に自己主張している。

 

「なんてとこに結界作ってくれるんだよ!」

 

 父の大切な信仰の場所をと憤ると、右の手に魔力を集中させる。それに従い、深紅の燐光が蛍のように手の周りを泳ぐ。

 

『一人で大丈夫かい、杏子?』

「不安がないと言うと嘘になるけど、やるしかないよね」

『マミを呼びに行ってこようか?』

「いや、大丈夫」

 

 マミさんとの共闘続きで、ひとりきりでの魔女退治はしばらく出来ていない。けれど、マミさんが行ってくれる訓練のおかげで、過去のあたしとは比べ物にならない戦闘力があるはずだ――杏子はそう確信すると、結界に近寄り、手をそっと伸ばす。

 掌と結界が触れ、軽金属が燃え尽きるような眩しい光が発生した。

 その光は、壁面のステンドグラスの模様を浮かび上がらせ、隣接して位置する家屋の窓をも朱の色に染め上げる。

 

 

 

 結界の奥に、魔女に魅入られた一団がいた。

 そのほとんどが、見覚えのある顔であることを杏子は認めた。

 毎週の礼拝で、熱心に通ってくれている信者たちだ。

 いつも熱心に父の教えに耳を傾けていた紳士。モモと杏子に果物を頻繁に差し入れてくれた老婦人。礼拝の歌で綺麗な声を聴かせてくれた女学生。

 

「私たちには神様の教えなんて必要なかったんだ」

「そんなものに頼らなくても、簡単に幸せになれる方法があるんだから」

 

 彼らは口々に信仰への怨嗟の声をあげると、聖書を破り、その紙片を床にばらまいていく。さらには紳士が灯油缶を傾け、紙片に油を浸み込ませていった。

 

「なんてことを……」

 

 聖書を傷つけるという行為に、杏子は身体が震えるほどの怒りを覚える。が、彼らは魅入られた被害者なんだ、と自分に言い聞かせて心を鎮ませた。

 悪いのは彼らではない、全ては魔女の――

 

『杏子、火をつける気だ!』

 

 キュゥべえに指摘されるまでもなく、杏子も気付いていた。

 老婦人が、今の時代には珍しい軸木の頭部に赤い火薬を宿したマッチを、箱の側面に擦らせようとしていることに。

 マッチに火がつき、下に落ちれば、油を充分に蓄えた紙片は激しく燃え上がり、その上に立つ信者たちを焼き尽くしてしまうだろう。

 

「させるもんか!」

 

 杏子は幻惑魔法を使い、老婦人の手中のマッチと箱を、チョコ菓子とその箱に『上書き』した。

 次いで、床に散乱する油に湿った紙片を、シロップに濡れたパンケーキへと『上書き』する。

 あくまで幻惑魔法で視覚を騙しただけで、実際にそこにあるものは何ひとつ変化していない。

 だが、老婦人がその見せかけの変化に気を取られた隙に、疾風の如き勢いで走り寄った杏子が老婦人からマッチを奪う。

 

「あたしはマミさんみたいに、優しく止めてあげられないからね!」

 

 叫ぶと、手刀で魅入られた人々の首筋を叩き、気絶させていく。

 

 ――眠りの魔法、きちんと練習しとけば良かったな。

 

 幾度となく一緒に祈りを捧げた信者たち。彼らの苦悶の表情を見ると、杏子はそう後悔する。

 今度、マミさんにお願いしてしっかり教えてもらおう、と内心で決意したところに、上から急降下し襲いかかる影があった。

 微かな物音さえない一撃だったが、殺気を感じたのか、それとも空気の振動を知覚したのか、後方に跳ぶ杏子。

 一瞬の後、先程まで杏子の居た場所に、真上から土色の嘴が突き刺さった。

 

「お出ましかい、魔女め! 覚悟は出来てるんだよな?」

 

 杏子を襲った魔女の姿は、人と同じ程度の背丈を持つシマフクロウのようなものだった。

 野生のフクロウに数倍する体躯に、血の様な紅い瞳、頭には丸笠帽子をちょこんと乗せたその姿は、どこかユーモラスささえ感じさせる。

 

「あたしの父さんの大切な教会を、ふざけた呪いで汚しやがって、絶対にタダじゃすまさねぇ!」

 

 杏子の怒号を気にする風もなく、魔女は嘴を引き抜くとちょこんと床に座る。

 そして、フクロウが行うように首から上をゆっくりと回転させながら、下卑た哄笑を響かせる。

 魔女の顔の回転は、床に倒れる信者たちを捉えたところでピタリと止まった。

 犠牲者を喰らうことを優先したのか、翼を広げると音もなく羽ばたき、宙に舞いあがると信者達へ向けて滑空を――

 

「させるか!」

 

 約二メートルと、杏子の得物は槍としては短い部類に入る。しかし、それ故に投擲には向いている。

 空気をつんざき、杏子の投げ放った大身槍が飛ぶ。それは魔女の翼を射抜き、魔女を地に叩き落とした。

 地に墜ちた魔女はキィキィキィキィと耳を覆いたくなるような甲高い声を撒き散らし、槍に貫かれた翼を二度、三度と暴れさせる。

 床に翼が打ちつけられるたびに、羽根がはらりと落ちた。

 そして、翼から抜け落ちた羽根の一葉一葉が、使い魔――封筒に小さな翼を生やした存在――に変異し、杏子に向かって突進した。

 

「ザコがッ!」

 

 杏子は新たな大身槍を掌中に生み出す。そしてそれを風車にように回転させ、迫りくる使い魔を片っ端から弾き落とした。

 ひとしきり弾き落として使い魔の攻撃が止むと、杏子は大きく息を吸って叫んだ。

 

「必殺! ロッソ・ファンタズマ!」

 

 きちんと叫んだよマミさん、と心の中で呟くと、訓練でのマミの言葉を思い出す。

 

『佐倉さんは、ロッソ・ファンタズマを回避、囮に使っているけど、攻撃にも使うととっても強いと思うわよ』

 

 生み出された十を超える幻影が四方へ散る。

 

『だって、幾つもの幻影が同時に攻撃してきたら、どう避けていいか、どれを防御すればいいか、分からないでしょ?』

 

 幾つかは使い魔の攻撃により消滅するが、残った幻影が魔女を囲み、大身槍を構える。

 

『ちなみに、タイミングを合わせた同時攻撃は、なにか決め台詞を叫ぶといいわよ』

 

 最後のマミの言葉はあくまで提案なので、杏子は敬して無視することにした。

 

「くらえ!」

 

 タイミングを合わせて複数の槍撃が、前、横、後ろ、さらに上からも魔女に襲い掛かる。 

 魔女は正面の槍を本物と思ったのか、それとも他を見る余裕もなかったのか、身体を右に跳ねて避けようとする。

 杏子にとっては幸運、魔女にとっては不運にも、右から槍を突き刺す杏子こそが本体であった。

 魔女は自ら大身槍に吸い込まれるように動き、その胴を深く刺し貫かれる。

 鈍い音と、重い手応え。

 

「父さんの教会も、家族も、みんなあたしが守ってみせるんだからっ!」 

 

 叫びとともに両腕に力を込めると、魔女の肉を引き裂いて槍が上方向へ滑る。槍はそのまま背中方向へ抜け、魔女の翼を根元から斬り落とした。

 地に墜ちた翼にある風切りの羽根が使い魔になろうとする――が、本体から切り離されているために魔力が及ばないのか、変異半ばで動きを止めて果てる。

 

『とどめだ、杏子!』

「分かってる!」

 

 柄を長く持ち大上段に構える。月明かりを受けた穂先がぎらんと輝く。

 

「消え失せろ!」

 

 叫びとともに振り下ろされた槍が、遠心力を得て槍頭の刃を魔女の頭部にめり込ませる。

 硬いものが砕ける手応えを、杏子は槍を握る手に感じた。

 振り抜き、魔女を両断したあとも、その感触は杏子の手に残る。

 その嫌な感触が消える頃、魔女は溶ける様にその姿を消していった。

 

 

 

 

 

「厄介なものを残しやがって……」

 

 結界が消えた後に残ったものは、教会の床に倒れる信者たち。散乱する油に濡れた紙片。そしてグリーフシード。

 杏子はしゃがみこむと、うつ伏せになっている紳士の頭を傾けて首筋を確認する。

 魔女の接吻は既にない。

 彼らは大丈夫だと判断すると、杏子は聖書の紙片を拾い集め始めた。

 

 とりあえず、紙片を片付けたら、信者たちはこのままで大丈夫だろう。日の出の頃には父さんが来て気付くはずだ。多少は騒ぎになるだろうけど、他に手はないし、と紙片を束ねながら考える。

 その時、杏子に呼びかける声があった。

 父だ。

 結界をこじ開ける際の光で目を覚ました父が、扉口に立ち杏子と信者たちを凝視していた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 父と杏子の介抱で、信者たちはまもなく意識を取り戻した。

 信者たちは口々に、夢に天使が現れて教会へ導かれた、と熱に浮かされたように語った。

 それは素晴らしい兆しですね、皆さんの信仰が天に届いたのかもしれません、と父は語り、信者たちは夜中に教会を訪れた非礼を詫びると帰途についた。

 

「――さて、杏子。何をしていたのか話してもらえるね?」

 

 ふたりは、身廊の椅子に向かい合って腰を下ろしていた。

 

「何から話せばいいのか……長くなってもいい?」

 

 父は、柔和な笑みを浮かべて頷いた。

 

「えっと、まずあたしは、魔法少女、なんだ。さっきの姿が、魔法少女の衣裳」

「魔法少女?」

 

 おうむ返す。当然の反応だと杏子は思う。

 いきなり魔法少女と言われても、なにかの冗談としか思えないだろう。

 

「魔法少女は、祈りから生まれる存在で、魔女と戦うための戦士なんだ」

「魔女?」

「魔女は、呪いから生まれる存在で、罪のない人を毒牙にかけるんだ。さっきの信者さんも、魔女に魅入られていたの」

 

 父は、子供の作り話としか思えないが、と前置きした上で、どうしてお前が魔法少女なんだ、と問うた。

 

「魔法少女は……魔法の妖精に選ばれて、魔女と戦う運命を背負うんだ。あたしは妖精に選ばれて、魔法少女になったの」

「……確かに、先ほどのお前が見せた、変身、とでも言うのか。あれは魔法か手品の類いとしか思えないな」

「手品じゃないよ。あたしが不器用なの知ってるでしょ」

「お前が嘘をつくような子ではないと信じてはいるが――」

 

 しかし、とかぶりを振る。

 悪魔と契約を結び災厄を撒き散らす魔女と、聖霊に遣わされ魔女を祓う魔法少女、とでも言うのか? と父は呟く。

 

「にわかには信じられん……」

 

 娘を信じたい感情と、荒唐無稽さに否定しようとする理性がせめぎあい、父は肺腑の空気全てを吐き出す様な深い息を吐いた。

 そんな父の態度を無理もない、と思う杏子。彼女は、言葉を紡がずにただ待った。

 

 

 

 

「仮に事実だとして、杏子、お前がそのような危険なことをする必要があるのか」

 

 お前にもしものことがあったら私たちがどんなに悲しむか、想像できないお前でもあるまい、と語る父の声には、心から娘を想う愛情が溢れていた。

 

「たとえ聖霊の導きだとしても、身を殉じるにはお前はまだ幼い」

「だけど……あたしは契約して魔法少女になったから、戦わないといけないんだ」

「契約? 契約とはどういうことかね、杏子」

「魔法少女は、契約を結んで祈りをひとつ叶えてもらうかわりに、魔女と戦う義務を負うの」

 

 父は思った。何かを願い、その代償に何かを捧げる契約……まるで悪魔との契約ではないか。杏子は、悪魔に謀られ、騙されているのではないのか? もし、そうだとすれば、どうすれば杏子を救えるのか。

 

「杏子、お前の叶えてもらった祈りとはなんなのだ?」

 

 聖霊による導きなのか、悪魔による誘いなのか、それを判断するために、事細やかに把握する必要がある。そう考えた父が、祈るかの様に顔の前で両の手を合わせて問う。

 

「あたしの、祈り…………」

 

 言い淀む杏子に、叱責の声が飛ぶ。人に言えないようなことなのか、と。

 勿論、そんなことはなく、正しい祈りだという確信が杏子にはあった。

 堂々と言おう、と心の中で呟くと、杏子は父の目を見て語った。

 

「あたしは……父さんの言う事を、みんなが聞いてくれるように、祈ったの」

 

 

 

 

 

 最初、父は戸惑いの色を見せた。

 そして、過去を振り返り、ある日を境に自分の教えが受け入れられたことを思い出す。

 長い厳冬の苦難に耐えて種をまき続けた行いが、やっと実ったのだと妻と喜んだあの日を思い出す。

 

 ――それを、この子はなにものかが与えた恩恵に過ぎないというのか?

 ――教えを受け入れてくれた信者は、なにものかに心を惑わされていた犠牲者に過ぎないというのか?

 ――なぜ、誇らしげにそんなことを語るのか?

 

「お前は、人々の、そして私の信仰を踏みにじりたいのか?」

「え……」

「人心を惑わして賛同もしていない教えに従わせ……そして私の信じる教えを空しきものにするのが……お前の祈りなのか?」

「何を言ってるの、父さん……?」

 

 そんなわけない、と否定する杏子の言葉など耳に届かないかのように、父は神に祈りを捧げた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「佐倉さん、具合良くないの? ここ数日、顔色がすぐれないみたいだけど……」

 

 ふたりは、複数のデパートをつなぐ、それ自体が公園のような立体歩道を、ソウルジェムを掌に浮かべて歩く。

 物心ついた頃から毎年流れている定番のクリスマスソングが、そこかしこのスピーカーから流れていた。

 

「そう? 平気だよ」

 

 ふたりの間には、距離があった。

 いつもは、少しふらつくだけで肌が触れ合うような距離で歩いていた杏子が、今は手を伸ばしてようやく触れることができる程度の距離にいる。

 物理的な距離が心の距離を表しているように、マミには思える。

 

「……何かあったなら、相談して欲しいな」

 

 その言葉を最後に、ふたりは黙ったまま歩を進める。

 

 

 

 悲恋を歌うクリスマスソングが終わり、しばしの静寂が訪れると、杏子は歩道の下を通る車を目で追いながら、呟いた。

 

「マミさんは……魔法少女になったのが原因で仲の良かった人と衝突したことってある……?」

 

 口を開いてくれた杏子に微笑み、歩道の脇のベンチに腰を下ろすと、マミは「そうね……」と首を傾げた。

 そして、座ろうとしない杏子の手を引き、隣に座らせる。

 

「衝突っていうのとは違うけど、すれ違いならあった、かな」

 

 マミの言葉に被るように、次のクリスマスソングのイントロが流れる。恋人とのすれ違いを歌った古い歌謡曲だ。

 

「私たち、魔女との戦いの毎日だから、友だちと遊ぶような時間もないでしょ? それに、魔法少女のことを普通の人に相談できるはずもないし……どうしたって、友だちとの関わりも疎遠になってきていると思う……」

 

 魔法少女になってすぐの頃は、遊びに誘われることも多かったが、断り続けていたせいで最近は誘われることも少ない。

 今でも友人付き合いをしている子はいるが、どうしても表面的な付き合いになってしまっている。

 しょうがないことと理解はしているが、寂しくないと言えば嘘になるのだろう。

 

「……けど、今の生き方に後悔はないわ。大切な仲間だってできたもの」

 

 これが杏子の問いの答えになればいいな、と微笑む。だが、それを受けた杏子は感情を表には出さず、静かな声を漏らした。

 

「マミさん、前に言ってたよね。『誰かが魔女に取り憑かれて死んでしまったら、きっと悲しむ人がいる』って」

「え、ええ……」

 

 以前、杏子に問われてマミが語った内容だった。

 誰かが魔女に取り憑かれて死んでしまったら、きっと悲しむ人がいる。だから、そんな思いは誰にもさせたくない、と。

 

「でもさ、あたしたちが取り憑かれた人の命を救ったとして、それが必ずしも幸せな結果になるとは言えないんじゃないかな」

「……どういうこと?」

「たとえばさ、魔女に取り憑かれてた人が、狂ったようなことをして自殺しようとしてたとする。そこを身近な人に見られてたとしたら、助けたって幸せになんてなれないんじゃないかな」

 

 マミはその状況を想像する。

 魔女や使い魔の存在を知っている自分ならともかく、知らない人にとっては、その行動は自発的なものと映るのだろう。

 一時の気の迷い、錯乱、そういった事情は慮るかもしれないが、恐らくは――

 

「あたしたちに救われたとしても、身近な人はきっと普段と同じ目では見てくれないよね。そんなので、幸せになんてなれるのかな」

 

 杏子の言う通り、好奇の目、憐憫の目、嫌悪の目……そういったネガティブなイメージで見られるのではないだろうか、とマミも結論した。

 

「もし幸せになれないんだとしたら、誰にも気付かれず魔女に殺されて悲しまれるのと、命は助かっても周囲からヘンな目で見られながら生きていくの、どっちの方がマシなのかな」

 

 マミには、息を吐き出す杏子が涙をこらえているように見えた。

 

「結局みんなが嫌な思いをするなら、あたしたち魔法少女は……本当に人を救えているのかな」

 

 『みんな』……助けた人、助けられた人、見ていた人。それらが全て嫌な思いをする……そんな不幸なことが、杏子にあったのだろうか? 杏子の言葉からそう類推したマミは、ゆっくりと口を開いた。

 

「……それは誰かのこと? もしかしてご家族が魔女に……」

「そうじゃないんだ。たとえ話だよ」

 

 杏子は言下に否定する。

 そして、吐き出したことで気が楽になったのか、表情を僅かに和らげた。

 

「ただ、マミさんさっき言ったよね、魔法少女のことを普通の人には相談できないって。それと同じ。魔女の存在を知らない普通の人たちにこっちの事情を理解させるのはムリなのかなって」

「佐倉さんの言うとおり、難しいことだと思うわ……確かに、救うことでそんな風に不幸になるケースもあると思う。でも、本当に救われることの方がずっと多いわ。起こりうる結果を言い訳にして、はじめから救うべきじゃないという考え方には賛成できないわ」

 

 杏子は目を伏せ、こちらを直視するマミの視線を避けた。構わず、マミは続ける。

 

「相手の都合も考えず救うだなんて、偽善なのかもしれない。ううん、きっと偽善なんだと思う、私は、私が生きる目標、意味が欲しくてやっているだけだしね」

「そんなこと……」

「でも偽善でも、私がしたいんだから構わないと思うの。人から非難されることじゃないし」

 

 マミには、他の魔法少女に偽善だと詰られた経験があった。その時はずいぶん悩みもしたが、時間をかけて考えて、自分の中で答えを出すに至った。

 

「佐倉さんは、みんなの幸せを守ることが願いなのよね。……立派過ぎる願いだから、少しの悪い結果で、心を痛めてるんだと思う。でも、その少しの悪い結果以上に、たくさんのみんなの幸せを守っているのよ」

 

 杏子にも、自分で答えを出す時間が必要なのだろう、とマミは思う。自分も、杏子も、人間である以上完全ではありえない。だから、自分の悪いところや欠点と向き合って、折り合いをつけていかないといけない、と。

 

「足を止めるのは悪いことじゃないわ。自分が納得いくまで、考えるといいと思う。もちろん、私でよければ何でも相談に乗るわ」

 

 杏子の返事は、力ないものだったが、今はそれでいい。 

 マミは信じている。杏子が出す答えなら、間違ったものであるはずがない、と。

 杏子が結論を出すまでの間、魔法少女としても人間としても支えてあげたい、それが自分の役割なのだと思う。 

 そんなことを考えていると、掌中のソウルジェムが瞬いた。

 

「あ、魔女の反応ね」

 

 立ち上がったマミは、まだ椅子に座ったままの杏子に声をかける。

 

「佐倉さん、辛いなら今日は私ひとりで……」

「ううん。私も戦う」

 

 マミの言葉を遮ると、杏子も立ち上がる。

 戦わなきゃ、いけないんだ。そう心の中で繰り返しながら。



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第四話 マミさん、浮いたり沈んだりする

「先生のお加減はいかがですか?」

 

 自宅の玄関前で、杏子は信者に声をかけられた。

 ここ数日、教会の門は閉ざされ、牧会も礼拝も行なわれていない。

 信者たちには、父の具合が悪いという説明をしている。そのため、この信者も心配して教会まで来ていたのだろう。

 

「ご心配をおかけしてすみません。ちょっと酷い風邪をひいたみたいで。皆様にうつすといけませんので……」

 

 よそ行きの言葉で口早に答えると、挨拶もそこそこに玄関へ逃げ込む。

 後ろ手で鍵をかけて帰宅の挨拶をすると、二階からモモが挨拶を返しながら降りてきた。

 

「父さん、どう?」

「ずっとおへや」

「そう……。あ、これマミさんからモモにって」

 

 お菓子の入った手提げ袋を見ると、モモは顔を綻ばせた。

 

「わーい。食べていい?」

「いいけど、食べ過ぎちゃダメだよ。夕飯食べれなくなるからね」

「うん!」

 

 

 ダイニングキッチンには、この時間は夕飯の準備をしているはずの母の姿はなかった。

 モモによると、信者たちの家に行っているらしい。おそらくはお詫びと説明に回っているのだろう。

 夕飯は遅くなりそうだし少し食べ過ぎても大丈夫かな、と妹のことを思うと、皿の上にチョコレートクリームのタルトを並べる。

 そして飲み物は何にするか問うと、妹は元気よくオレンジジュースを指定した。

 

「モモ、チョコタルトにオレンジジュースはいくらなんでも甘すぎるんじゃないの?」

「だいじょうぶ、べつばらだから」

 

 はいはい、と呆れ顔で返すと、紙パックのジュースを小さめのグラスに注いで渡す。自分のコップには牛乳を注ぐと、戸棚からフォークを二本取り出す――が、食器を渡す前に、モモはタルトを手で持つと美味しそうに頬張っていた。

 

「もうモモ、ぱらぱら落ちてるよ!」

 

 杏子は、ウェットティッシュでモモの首から胸にかけてこぼれ落ちたビスケットの破片を拭き取り、フォークを押し付ける。

 

「ちゃんとフォークで食べなさい」

「はーい」

 

 元気よく返事を返したモモは、フォークを使って器用にタルトを切り分け、大きく開けた口へそれを放り込もうとした。

 その時、声がした。

 

「モモ、そのようなものを食べてはいけません」

 

 声の主は、片手にウィスキーのボトルを持った父だ。杏子とモモの賑やかな声を聞きつけ、二階から降りてきたのだろう。

 深酒しているのか、おぼつかない足取りだった。立っていることさえ怪しく、ふらついて冷蔵庫に背を預け、赤ら顔でモモと杏子を見やる。

 

「はーい」

 

 モモは素直に返事をすると、父の言葉に従い切り分けたタルトを皿に戻した。

 

「なんでだよ! これはマミさんがモモにって作ってくれたもんだよ!」

「巴さんも、お前に惑わされた哀れな犠牲者なのか? それともお前の魔女仲間なのか?」

「何いってんだよ! マミさんは、父さんと同じで、みんなの幸せを守りたいって、それだけ考えて、自分の生活も犠牲にして頑張ってるの! 今日だって、魔女を倒して自殺しそうになってた人を助けたんだよ! なんでそんな言い方するの!」

「みんなの幸せ、か」

 

 その言葉に嘲笑めいた声を響かせると、父は顔を歪めた。

 

「モモ、そのお菓子を杏子に投げなさい」

「なっ……!」

 

 何を馬鹿なことを言うのか。モモは幼いとはいえ食べ物を粗末にするような子供ではない。父は気が触れてしまったのか、と杏子の思考が巡った頃。

 

「はーい」

 

 モモの元気な返事とともに投げられたタルトが、杏子の胸にぶつかった。

 

「モモ……? モモ! 食べ物を粗末にしたらダメだろ! マミさんが折角モモのために」

 

 べとり、と上着にチョコクリームを残し、タルトが床に落ちて砕ける。

 モモは自分が何をしたのか理解していない様子で、自分のフォークを見つめていた。

 

「杏子、モモを責めるのは筋違いだ」

 

 ウィスキーをボトルから直接飲み下すと、父は姉妹を見比べる様に眺める。そして、酒臭い息を吐きながら、

 

「お前が悪魔と交わした契約の対価だろう? 私の言う事を、モモも母さんも一言の文句も言わず聞いてくれるよ。こんな呪い……なにが奇跡か。古のミダース王の呪いもかくやではないか!」

「違うよ! あたしはただ父さんの話を皆が聞くようにって!」

 

 正気を取り戻したモモが、父と姉の諍いを目の当たりにして、しゃくりあげるような声をあげる。

 杏子はそんなモモの頭を撫で、コップを手に持たせ、そのまま手を上から優しく握る。

 

「モモ、ジュース持って部屋に戻ってな」

 

 家族の揉め事が心配なのか、鼻声でぐずっていたモモだが、父に部屋に戻るように言われると、嗚咽など最初からしていなかったかのように「はーい」と答えて椅子から立つ。

 

「家族すら、既に対等に言葉を交わせる存在ではないのだ。杏子、お前は何が憎くてこのような呪いを……」

 

 そんな言葉を背に、モモは階段を軽やかに上がっていった。

 モモの背中を見送りながら杏子は口をつぐんでいたが、姉妹部屋の扉が開き、そして閉まる音がすると父に向き直った。

 

「……ねぇ父さん、さっきも信者の人が来てたよ。みんな父さんの言葉を待ってる。いつまでもこんな……」

「なにが信者か」

 

 感情を発散するかのように、拳で机を激しく叩く。

 

「全てはお前が生み出した呪いではないか。私の言葉を聞きたいと集まった者たちは、信仰ゆえに集まったのではない。ただお前の、魔女の力に惑わされただけの哀れな犠牲者だ。それをぬけぬけと信者などと」

 

 そう言われると、確かに信仰のためでなく、奇跡の力で信者達は足を運んでいたのかもしれない、と杏子は思う。

 

 ――だけど、

 

 だけど、ならどうすれば良かったのか。奇跡など祈らず、地道に説いて回れば良かったのか。いや、それはもう十分にやって、どうしようもなかった、だから奇跡にすがった。奇跡にすがらず、世間から拒絶され異端視されても、一家で信仰に殉じるべきだったのか。

「じゃぁ……」と口を開きかけた杏子を遮り、父が続ける。

 

「そうして惑わせた人々をお前はどうするつもりなのだ? お前が契約を交わした悪魔への生贄に捧げるつもりなのか? 私の娘が、杏子が、悪魔に魂を売るなどと……」

「だから……ッ! お願いだから分かってよ! 魔女と魔法少女は違うんだ! 魔法少女は誰も傷付けたりしない! 悪い魔女からみんなを守って戦ってるんだ!」

 

 魔女を倒し人々の幸せを守っている魔法少女が、何故に悪魔と契約したなどと揶揄されねばならないのか。杏子には納得がいくはずもない。思わず声を荒げたが、二階にいる妹が驚かないかと心配して声のトーンを下げた。

 

「お願い父さん、あたしの話をきちんと聞いて……あたしは……」

「……杏子、お前は最初から、私の教えなど人々に受け入れられなくて当たり前だと思っていたのだろう? 誰ひとり救えない無意味な世迷いごとだと、そう思っていたのだろう? だからこそ、そのような契約をかわし、人心を惑わした……。ははっ、お前が悪いんじゃない。全ては私の責任なんだ。娘にすらそのように見下される、私の不甲斐なさが招いたことだ」

「違うよ、父さん……。あたしは父さんの言葉、ずっと……」

「何が違うというのかね? お前たち魔法少女の力で皆を幸せにする? 自殺しそうになっていた人を助けた? 笑わせるな! お前のしていることは、信仰などなくとも魔法の力で人々を幸せに出来ると、信仰を蔑ろにしているだけだと何故わからん! そのような所業を嬉々として語るお前を……魔女と呼ばずしてなんと呼ぶのか」

 

 嗚咽するように言葉を絞り出すと、父は酒をあおり、顔を歪めて笑った。

 その声が、魔女の哄笑と重なって聞こえ、杏子は言葉を失った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ただいま、と白い息を吐き出して挨拶しても返事はない。

 寒い玄関、暗い部屋、もう半年以上もひとりで暮らし、慣れたはずのことなのに、巴マミはひどく寂寥感をおぼえていた。

 センサーに手をかざすと、照明が柔らかい光を投げかけてくる。

 空調機も動きだし、暖かい空気が部屋や廊下の空気孔から自己主張しすぎない程度に流れてくる。

 そんな光よりも眩しく、暖気よりも心が安らいだ友達――いや、妹が、数日姿を見せていないからだ。

 

「今日も、佐倉さん来なかったわ……大丈夫かしら」

 

 最後に会ったあの日、悩みを抱えていることはマミにも分かっていた。

 

「佐倉さんなら大丈夫、と信じて見送ったけれど、正しかったのかしら」

 

 巴マミは、冷凍のドリアをレンジに入れると、視線も向けずにスイッチを手早く押す。

 料理をする気にならなかった。流しには幾つかの食器も、洗う気にならず水に埋もれたままになっている。

 

「一緒に食べてくれる人がいないと、こんなにも張り合いがないんだったっけ。ついこの間まで、これが普通だったのにな」

 

 食事を済ませ、水没した食器の数を増やした後も、マミは学業の、そして魔法少女としての復習もする気にならず、ベッドで横になっていた。

 

「元気付けてあげられるか分からないけど、電話してみようかな」

 

 脚でクロールでもするようにベッドを数度蹴り付けた後、仰向けに寝返る。その姿勢のまま枕元のスマートフォンに手を伸ばす。

 でも、迷惑かも……との心の中の逡巡に応えるかのように、スマートフォンは掌中からこぼれ、フローリングの床にパタンと音を立てて落ちた。

 

「あらら……」

 

 電話、かけない方がいいのかしら、と心の中で理由を探しながら、ベッドが乱れるのも構わずに尺取虫のように体を枕の方向へ滑らせて、片手を床に伸ばす。

 指に、冷たい金属が触れる感触。

 あったあったと呟きつつスマートフォンを引き上げると、顔の前に持ってくる。

 

「あら」

 

 落ちたショックか、スマートフォンの電源が入っていた。大きな画面に、部屋の本棚から天井にかけてが斜めに映っている。

 カメラモード。過去何度か偶然にカメラモードになったが、いまだマミは通常モードへの戻し方を明確には知らない。

 神様が電話をかけるなと言っているのかもしれない、とまた心の中で理由をつける。

 白魚と形容してもなんら問題ない細くしなやかな指先で、タッチパネルやスイッチを様々に操作する――が、画面はいつまでも天井が映ったままだ。

 スマートフォンと格闘しているうちに、バスルームからお湯が溜まった旨を伝える電子音が響いてきた。

 

「しょうがない、とりあえずお風呂っと」

 

 

 

 芯から十二分に温まった、とバスタオルで水滴を拭きながら巴マミは思った。

 それも道理で、普段から入浴時間の長いマミだが、今日はいつもの倍ほどの時間を湯船で過ごした。

 理由は――特にない、とマミは思っている。

 淡い桃色のバスタオルを身躰に巻くと、三面鏡のついたドレッサーの前に腰を下ろす。

 まだ夜の九時を迎えようかという時間なのに、眠気がするのは長湯でのぼせたせいだろうか。

 

「でも、髪だけはお手入れしておかないと、明日が大変だから」

 

 そう呟くと閉じようとする瞼を持ち上げ、椿油を数滴、髪にもみ込ませていく。

 中程から毛先まで、ゆっくり何往復かさせると、そのまま肘にも油を馴染ませる。

 

「うん、いい感じ」

 

 後はドライヤーで、と手に取ったところで、ベッドから静かな音楽が流れてきた。スマートフォンの着信を示すクラシックだ。

 マミはドライヤーをドレッサーに置くと、ベッドへ向かう――が、着信音は僅かに数フレーズで途絶えた。

 

「こんな時間にセールスメールかぁ……」

 

 スマートフォンの画面には、過剰な記号で飾ったタイトルのメール着信が示されていた。

 商品は秋摘みの茶葉なので、おそらく以前に利用したショップからのものだろうが、マミとしては落胆を禁じ得ない。

 

「あ、でも」

 

 このメールのおかげで、スマートフォンは通常メニューに戻っていた。カメラモードからの復帰は自力ではきっと無理だったろうから、これはこれでラッキーなのかもしれない。

 

 ――これはきっと電話をかけなさいという神様のお告げね。

 

 巴マミは矢継ぎ早にストップ&ゴーを告げてくる傍迷惑な神に感謝すると、ベッドに腰を下ろし『杏子ちゃん』と表示されている番号へダイヤルした。

 

 

 

「もしもし。こんばんわ、巴です」

 

 長めの呼び出し音の後に出た杏子の声は、やはり彼女にしては元気のないものだった。マミは、場違いにならない程度にと控えめに、明るい声で挨拶をした。

 

「マミさん、どうかしたの?」

「んー、しばらく会ってなかったから、声を聴きたいなって」

 

 杏子は、張りのない声ながらも同意すると、しばらく見滝原に行っていないことを詫びた。

 時間は大丈夫か確認すると、マミは魔法処女としての話題を避けて普通の少女のような会話を始める。

 

 髪が半乾きになるまで他愛もない雑談をしていると、少しずつ杏子の声が明るくなっていくのが感じられた。

 ただ、明後日に迫ったクリスマスイブのことは、どちらも触れないようにしているのが分かった。

 それでも電話をして良かった、とマミは表情を和らげると、おずおずと本題を切り出す。

 

「佐倉さん、悩みがあるなら、話してみて。話すだけでも、けっこう気は楽になるから……」

 

 言葉は帰ってこず、スマートフォンの向こうから息を飲むような雰囲気が伝わってくる。

 返事を待とうかとも考えたが、マミは言葉を連ねた。

 

「電話で言いにくければ、今から風見野まで行ってもいいし」

 

 本当は「行ってもいい」ではなく「行きたい」なのだが、遠慮……いや、マミの中の臆病な部分が、それは躊躇させた。

 電話越しに、笑うような吐息が聞こえる。それに続けて、杏子の声が届いた。

 

「ありがとう。……マミさんが本当のお姉さんだったら良かったのに」

「本当のお姉さんじゃないかもしれないけど、本当のお姉さんと思ってくれると嬉しいかな」

「ありがとう。でも、これはあたしの問題だから、あたしで解決しなきゃいけないと思う」

 

 問題。その言葉は「悩み」よりも深刻な印象をマミに与えた。

 さらに踏み込むべきかどうか逡巡する。が、やはりと言うべきか、マミは杏子を信じるという言い訳で保留することにした。

 

「そっか。わかった。でも辛くなったらいつでも話してね」

「うん」

「佐倉さんの悩みが晴れて、また一緒に戦えるのを楽しみにしてる」

「うん、あたしもだよ」

 

 今日は、お話しできただけで満足しよう。杏子は何かトラブルがあるだけで、それが解決すれば以前のように戻れることが分かっただけで十分。そう思い、少し温かい気分に浸っていると、くしゅん、と小さなくしゃみがこぼれた。

 

「大丈夫?」

「うん、ちょっとお風呂上りだったから、湯冷めしちゃったかも」

「気をつけないと、最近寒いから」

「大丈夫、もし風邪をひいても、治癒魔法であっという間よ」

「もう、マミさんいつも魔法は私利私欲に使っちゃだめっていってるじゃない」

「私が風邪だとパトロールもできないから、これは私利私欲じゃなくてみんなのためよ?」

「はいはい」

「冗談はこれくらいにして、そろそろ失礼して着替えるわね。ほんとに風邪ひいちゃう」

「うん。あ、電話ありがとう、落ち着いた気がする」

「そう、良かったわ。それじゃ、またね」

 

 通話終了、をタップすると、ベッドに腰かけたまま伸びをして、そのまま後ろに倒れ込む。

 このまま眠ろうかとも思ったが、ふと流しにたまった食器が気になって跳ね起きる。

 

 いつ佐倉さんが来てもいいように洗っておかないと、と電話一本で上向く単純な想いに駆られて。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 マミにはそう言ったものの、佐倉杏子には解決の糸口さえ掴めていなかった。

 毎日説得は続けているものの、父は聞く耳を持たず荒れる一方で、最近は母へ暴力を振るう事すらある。

 時間が解決してくれることを祈ったが、残念ながらその兆候は今までのところ見られない。

 いっそ魔法でどうにかできないのか、とも思うが、人の心を魔法で操作するなどそれこそ魔女の所業だと打ち消す。

 

 ――あれ、じゃぁ私の祈った奇跡ってやっぱり魔女の所業なの?

 ――ううん、違う。私が祈ったのは切っ掛けであって、信者の人の心を操作することまでは祈ってない……。

 

 うわの空で授業を受けながら、そんなことを考えていた杏子は、今日の最後の授業の終了を告げるチャイムが鳴っても気付くこともなく、頬杖をついたまま窓の外に浮かぶ黒雲をなんとなしに目で追っていた。

 話しかけてくるような友人はいない。

 それは杏子の性格や言動に起因するものではなく、『胡散臭い新興宗教』の子と思われ、友人付き合いをしてはいけないと同級生に親が指示していることによる。

 魔法少女になってから友人と疎遠になった巴マミと違い、佐倉杏子は幼い頃から友人がいなかった。

 それでも彼女はそれを苦とは思わなかった。

 皆の幸せを祈る立派な父とそれを辛抱強く支える母がいつも傍にいて、小さいながらも優しい妹がいてくれることが、十分すぎるほどの支えになっていたからだ。

 気がつくと、いつの間にか始まっていたショートホームルームも終わっていた。

 クラス委員の号令に合わせて反射的に席を立ち、教壇に立つ年配の担任教師に向かって頭を下げる。身体に染み付いた動作だけあって、心ここにあらずと言えども体は淀みなく動く。

 

「はい、さようなら」

 

 それが杏子の聞いた、担任教師の最後の言葉だった。

 

 

 

 心臓を鷲掴みにされる、という表現では控えめに過ぎる程の衝撃を、帰宅した杏子は受けた。

 頭が理解を拒み、ただ立ち尽くす。

 リビングで首を吊り、命を投げ捨てた母と妹の前で。

 涙どころか声も出ず、膝をつき変わり果てたふたりを見上げることしかできなかった。

 実際は数分だったのだろうが、杏子の主観では数時間にも思える静寂の後、背後から父の声がした。

 

「お前の呪いはすごいな杏子。母さんもモモも、私が死になさいと言えば一言の反論もせずああなったよ」

 

 酒臭い息が届く。

 首筋に寒いものを感じ、杏子は短い悲鳴をあげた。

 それで金縛りが解けたかのように振り向くと、酒によるものか、それとも既に正気を失っているのか、血走った目で母とモモを見つめる父の姿を認めた。

 

「杏子、お前もそこで首を吊りなさい」

 

 目線を杏子に落とすと、父は口角を上げてそう命じた。

 

 ――父さんは何を言っているの? 

 

 やはり、頭が理解を拒む。

 

「お前には効かないのか、ははッ、やはりお前は魔女だな!」

 

 得心したかのように頷くと、父は杏子の襟首を掴み、無理矢理に自分の方へ上半身を向けさせた。

 

「おい貴様、杏子の魂はどうした? もう喰ってしまったのか?」

 

 言葉を紡ぐことすらできず放心する杏子。父はその胸元を首を絞めるように掴み、力任せに自らの目の高さまで持ち上げた。

 そして瞳に浮かぶ血走った筋が一本一本確認できるほどに顔を近づけると、泣くように叫んだ。

 

「返してくれ! 優しくて思いやりのある、私の自慢の杏子を、返してくれ!」

 

 襟首が強く絞められ、息がつまる。

 

 ――私、父さんに殺されるの?

 

「魔女め、今、焼き殺してやる……逃げるなよ」

 

 乱暴に投げ捨てられる杏子。背が柱に強く当たるが、痛みを感じる余裕もなく、ただ新鮮な空気を求めて大きく口を開いた。

 父は棚に置かれている聖書を手に取ると、あろうことか破り始めた。

 一枚、二枚……途中から、面倒だとばかりに十数枚を一息に破っては捨てる。

 そして床に散った紙片に、ウイスキーを垂らす。

 

「あ……」

 

 その姿が、魔女に魅入られた信者と重なって見えた。

 杏子は力なく立ち上がると、よろける足取りで父へと向かった。

 

 ――父さん、魔女に魅入られてるんだ。私が助けなきゃ。

 

 高笑いを上げる父は、近寄る杏子に気付くと彼女の髪の毛を乱暴に掴んだ。そして引き寄せると、きつい臭いのするウイスキーを彼女の頭にこぼしていく。

 杏子はそれに構わず、片手を伸ばして父の詰襟のシャツを引っ張る。

 千切れたボタンが床に跳ねて乾いた音がした。

 

 ――どうして、ないの?

 

 露わになった父の首筋には、魔女の接吻はなかった。

 つまり、父は魔女に操られているわけではなく、父の意思で行動しているということになる。

 父の高笑いが、杏子には魔女の哄笑に重なって聞こえる。

 魔女の様な狂った笑い声をあげる父が、母と妹を殺めた。

 

 ――なんだ、魔女も人間も変わらないんじゃないか……。 

 

 

 

 

 

 燃え上がる父を背に、家を飛び出した杏子。

 どこをどう走ったのか彼女は覚えていないが、マミを送る時に決まって使っていた遊歩道にいた。

 酒精に濡れた髪。燃えた痕のあるセーラー服。そして生気のない瞳。

 尋常ではない様子の杏子に、道行く人は振り返り奇異の視線を送る。

 そんな視線にも構うことなく、杏子は遊歩道でぼんやりと、木々の隙間の狭い空から舞い降りる雪を眺めていた。

 

『杏子、いいところにいた。グリーフシードから魔女が孵ったんだ』

 

 声と同時、足元に姿を現したキュゥべえを、杏子は氷の様な瞳で見つめる。

 

「あんた、なんだって父さんにあんな力を」

『突然どうしたんだい? 君の祈りは≪みんなが父さんの言うことを聞くように≫だよね。ボクの知る限り、それはふたつの意味がある言葉だよね。お話を聞くことと、言うことに従うことと。その両方を叶えたんだけど、まずかったかい?』

 

 悪びれる風もなく答えると、言葉を連ねる。

 

『それより魔女だ。今なら孵化したてで与し易いはずだよ。キミの魔法少女の力を見せるんだ』

「……こんな力、もう要らない」

 

 杏子は、卵形のソウルジェムを取り出すと、割れよとばかりに強く、強く握り締めた。

 

「奇跡の力なんかに頼ったあたしがバカだったんだ。家族みんなを滅茶苦茶にしただけで、本当に大事だったもの何一つ守れない力なんて……ない方がマシだよ」

 

 指の腹が真っ赤になるまで力を込めても、ソウルジェムにはヒビさえ入らない。ガラスのように見えて、驚くほど頑丈に出来ている。

 

「父さんの言ったとおりだ。あたしのやっていたことは魔女と変わらないのかもね……。キュゥべえ。あたしが魔女を狩るのやめたら、あたしもみんなと一緒に死ねる?」

『ボクとしてはそれはお勧めできない。キミにはまだ出来ることがあるはずだよ』

「冗談に決まってんじゃん」

 

 杏子は髪から頬に垂れるウイスキーを拭くようにして、瞳から溢れるものも同時に拭いさった。自分の言葉が半ば以上本気のものであることを、自覚しながら。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 対峙した魔女は、先日マミとペアで倒した鶏頭に豚の体躯を持つ魔女だった。

 一撃は重いものの、単純な突進のみで一度避ければ次の攻撃まで相応の間が空く。ロッソ・ファンタズマとの相性で言えば最高に近い。

 自壊にすら至る腐食性の体液は脅威だが、これも斬り結んだ際に跳ねてくる分を避ければ、自滅に追い込む武器にもなる。

 

 マミとの反省会で、十分に攻略法は考えた。

 だが――

 何度目かの突進攻撃を受け、杏子は困惑していた。

 ロッソ・ファンタズマが使えない。いや、扱い方を思い出せない。

 それのみならず、手足が鉛にでもなったかのように重く、いつも通りの動きさえできない。

 

「くそッ!」

 

 イメージの中では、完全に回避する自分が描ける。その動きは自分にとってさほど難しいものではない。なのに、回避できない。

 巨躯に跳ね飛ばされ、肩口から地面に強くぶつかる。

 さらに突進を受け、空気の抜けたゴム鞠のように鈍くバウンドする。

 

 

 幾度の攻撃を受けただろうか。

 既に左肩と右脚の骨は砕け、片目は血にまみれ開けることも出来ない。

 仰向けに倒れる杏子を見下ろし、鶏頭の魔女がゆっくりと歩を進める。

 勝利を確信したのか、醜い顔に喜色を浮かべ、哄笑に鶏冠を揺らす。

 もういいや。そんな諦観に似た思いが杏子の心に浮かぶ。

 

 ――もう父さんも、母さんも、モモもいないんだ。全部失くした。ここで死んだ方がマシなんじゃないかな。

 

 そう観念すると、気が楽になるのを感じた。

 穏やかな笑みさえ口元に見せて、彼女は魔女の攻撃を待つ。

 

『また一緒に戦えるのを楽しみにしてる』

 

 魔女の足が杏子を踏み潰さんと振り下ろされる。その時、マミの言葉を思い出した。

 

「――――ッ!」

 

 まだ、あたしは独りじゃない、そう思うと四肢に力が蘇った。

 身体の動く部分の全てを使って横に転がる。同時に、轟音をたてて杏子の今まで居た場所に魔女の蹄がめり込んだ。

 横たわる杏子の頭上に、魔女の腹部が無防備にさらされる。

 拳みっつ分ほどもめり込んだ足。それを抜く暇を与えず、杏子は下から魔女の腹を薙いだ。

 肉が裂け、汚らしい体液が溢れる。

 この程度の傷では、魔女の自滅は望めない。仮に自滅に至るとしても相当の時間を要する。それまでに魔女はろくに動けない杏子を踏み潰すだろう。

 これが最後の勝機と判断した杏子は、体液を浴びることも厭わず、魔女の腹肉へ大身槍を深く突き刺した。

 大身槍の穂先全てが肉に捻り込まれる。

 細くなった柄の部分までめり込むことで、大身の穂が栓になって堰き止めていた体液がシャワーのように吹き出した。

 杏子は突き刺した槍を手放すと、新たな大身槍を生み出し風車よろしく回転させ、体液を散らす――無論、滝のように降り注ぐ汚濁を全て散らすことは叶わない。

 だが風車で体液を散らしたことは奏功した。

 飛散した黄白色の体液が魔女の目に突き刺さり、激昂した魔女が暴れることでさらに体液が溢れ出し、結果自壊を速める。

 魔法で大身槍を回転させたまま空中に固定すると、飛沫を避けるべく片足で地を蹴り後方に飛びすさった。槍三本分ほどの距離を滑るように飛び、そこでもはや次の大身槍を生み出すことすらできず地に伏す。

 

 ――もう、動けない。

 

 腐食性の体液に身を焼かれる痛み。それに苛まれながら仰向けに倒れる杏子の目に、半ば自壊しながら突進してくる魔女が映った。

 避ける力は、彼女には残っていなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『これは厄介なことになったね、杏子。魔法が使えなくなってしまったんだろう?』

 

 ボロ雑巾のように横たわる杏子に、キュゥべえが語りかける。

 既に結界は解け、杏子の衣裳はセーラー服に戻っていた。

 魔法少女の衣裳についた体液は変身解除で消えたが、皮膚に達していた体液が厚手のセーラー服を内側から溶かし、虫食いのように穴を穿っている。

 

『使えない……? どうして?』

 

 口を動かすことさえ辛く、テレパシーで隣に座り見下ろしてくる白い異形に応える。

 

『だって、キミが要らないと言ったじゃないか』

 

 明るい声で淡々と告げる。

 キュゥべえは自称、感情がない。そのため、どのような深刻な場面であろうと、場違いな明るい声を崩さない。

 

『キミたち魔法少女の魔法は、願いと強く結びついている。キミの場合は幻惑魔法だね。しかし、キミは自らの願いを心の中で否定してしまった。それはすなわち、魔法の否定にもつながる。これは非常に大きなハンディキャップとなってしまうよ、杏子』

 

 魔女の体液は時間で効果がなくなるのか、焼かれた肌に雪が舞い降りても、すぐには溶けなくなっていた。

 痛さと寒さで身が引き裂かれるような痛みを杏子は感じる。だが――身体の辛さは我慢できた。

 

『……ははっ、そっか。もうあたしには、最初の願いすら残ってないのか。父さんと家族……みんなを守りたくて魔法少女になったはずなのに、なんでこうなっちまうんだよ……』

 

 ゆっくり閉じられる瞼に、雪が一片舞い降り、そして溶けた。



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第五話 マミさん、三行半を叩きつけられる

 巴マミは、その日も見滝原駅前を中心にパトロールしていた。

 

 ソウルジェムの反応を伺いながら歩き、思考する。学校は今日で終業式だったので、しばらくは時間にも余裕がある。こっそり風見野に様子を見に行くのもいいかもしれない。魔法少女にならずに、魔法で気配を消して近付けば、佐倉さんなら気付かないかも、などと失礼なことに考えが及んだ時。

 駅前の巨大モニターが告げるニュースに、足が止まった。

 

『遺体で見つかったのは、佐倉――――』

 

 振り返り、モニターへ目を凝らす。

 モニターには、見覚えのある杏子の家が半ば焼失した姿で映っていた。白昼の心中劇、とのキャプションが画面端に踊っている。

 

「佐倉……さん?」

 

『――現場の状況から、警察は無理心中を図った可能性が高いとみて捜査を続けています』

 

 

 

 私が間違っていたんだ。

 佐倉さんが拒んでも、無理矢理にでも押しかけなきゃいけなかったんだ。

 私がいたって、事態は変わらなかったかもしれない。

 それでも、一緒に悩んで、一緒に苦しんであげることはできたんだ。

 私は、弱くてずるい子だったんだ。拒絶されるのが怖くて、佐倉さんを信じるみたいな都合のいい理由をつけて、距離をとってたんだ。

 

 自責の念がマミの思考を占める。

 ニュースを見て、即座に変身した彼女は、可能な限りの速度で風見野を目指した。

 比喩ではなく、風そのものの速力で、佐倉杏子の家に到着した。

 かなりの時間燃えたのだろう、一階の過半は焼失している。二階も杏子姉妹の部屋を含め一部が焼け落ちていた。

 既に消火は終わっており、敷地内には幾人かの警察官が検分している姿が見えた。

 

『マミ!』

 

 変身を解き、警察官に事情を聞こうと思ったところに、キュゥべえの声が届いた。

 

『キュゥべえ?』

『杏子が大変だ。すまないが早く来てくれ!』

 

 頷くと、瞳を閉じてキュゥべえの位置を探る。そして居場所を特定すると、マミは再び風となった。

 

 

 

 廃工場の敷地の一角、伸び放題になった雑草の中に埋もれるように、佐倉杏子は倒れていた。

 倒れてからかなりの時間が経っているのだろう、杏子の上に雪がうっすらと層を成している。

 寒さによるものか、失血によるものか、唇は色を失っていた。

 

「佐倉さん!」

 

 マミは杏子の名を呼びながら積もった雪を手で払い、そして露わになった傷に息を飲む。

 ところどころ焼けただれたような肌、あらぬ方向に曲がった脚。

 もう一度少女の名を悲鳴のような声で呼ぶと、自身のダウンベストを脱いで杏子の身体にかぶせる。

 その上から覆い被さるように体を重ね、治癒魔法に全神経を集中する。

 手から手、脚から脚、胸から胸、頬と頬、接している全ての箇所から、オレンジイエローの癒しの魔力が、目で見えるほどに強く溢れた。

 

『大丈夫そうかい? マミ』

「大丈夫、佐倉さんは私が絶対に助けるから」

 

 

 日が暮れるまでの時が過ぎた。上着を脱いだ背中に雪が積もってなお、マミは治癒魔法を全力で使い続けた。

 その甲斐あって、肌の傷も折れた骨も殆ど回復し、唇にも薄い桜の色が戻っていた。

 さらに小一時間、杏子の身体を温めるように微弱な治癒魔法を使い続けていると、杏子の瞳がうっすらと開いた。

 

「マミ……さん……?」

 

 唇が、杏子のものとは思えない弱々しい声を紡ぐ。

 その声に応えるように、マミは杏子を強く抱き締めた。

 

「ごめんね。ひとりで辛かったでしょ。ほんとは、すぐにでも駆けつけてあげなくちゃいけなかったのにね……」

 

 マミの目尻から零れた涙が、杏子の頬を伝う。

 水滴の温かさが杏子には心地よかった。

 

「……ぜんぶ……全部あたしのせいなんだ、あたしがみんなを……」

 

 告解――彼女の信仰に従えば罪の告白と呼ぶべきか――するかの様に、佐倉杏子は彼女の身に起こった出来事をマミに語った。

 マミは告解を受け入れる聖職者のように、ときに頷き、ときに微笑み、杏子の言葉を聞いた。

 そして杏子は語り終えると、張り詰めていたものが切れるかのように気を失った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 柔らかなベッドの上で、杏子は意識を取り戻した。

 薄暗い部屋だったが、すぐに目は慣れる。

 目に入るのは、自宅のものではない薄桃色のふんわりした布団、自分のものではないオレンジイエローの寝間着。視線を上げると自宅のものでない壁時計がもうすぐ日付が変わることを示していた。

 ふと、かぐわしい匂いが鼻腔ををくすぐっているのに気付く。

 その匂いで思い出したかのように、お腹が音をあげて空腹を主張した。

 杏子は苦笑した。

 両親やモモを亡くして、そのまま死んでもいいと思っていたのに、それでもお腹は空くのかと思うと苦笑を抑えられなかった。

 その時、扉が開いた。 

 お腹の音を聞きつけたわけではないだろうが、マミが扉の隙間から顔を覗かせる。

 そして杏子が上半身を起こしているのを見ると、「気がついたのね、良かったぁ」と満面の笑みを浮かべた。

 

「ちょっと待っててね」

 

 そう言い残すと、ぱたぱたとスリッパの足音を立てて台所に走る。

 いつ起きてもいいようにと、お鍋に温めておいたポタージュをマグカップに注ぎ、お手製のクルトンを多めに入れる。

 それだけ準備すると踵を返し、杏子のいる部屋へ向かった。

 

 

 空いている片手で扉を引くと、身体を入れて肩で扉を押さえる。そして自由になった手で照明のダイアルを回す。

 部屋の主だけあって、片手にカップスープを持っていても一連の動作は手慣れたものだった。ダイアルの回転に応じて、天井の照明が眩しくない程度の光を降らせる。

 

「はい、とりあえずこれで温まって。ご飯は食べれそう?」

 

 両手でマグカップを受け取ると、顔をカップに近づけるようにしてポタージュを口に含む。

 飲み下すと、身体の中が温かくなるのを感じる。

 ほっと一息つくと、マミに視線を向けて首肯した。

 

「じゃぁ急いで作るからちょっと待っててね。大丈夫、いつ目が覚めてもいいように下ごしらえはしてあるの」

 

 偉いでしょ、誉めて、と胸を張る。

 もちろん本当に誉めて欲しいわけではなく、自分が誉めて欲しくてやったことだからそんなに気にしないで欲しいという彼女なりの気遣いだろう。

 

 

 

 キッチンで料理――バンバンジーとコールスロー――を手際良く作っていると、背後に人の気配を感じた。

 

「あら、待ちきれなかった? もうすぐだから、テーブルで待っててもらっていいかしら?」

 

 マミが振り返ると、無造作に後ろで束ねた金髪が揺れて背中を叩く。

 

「ベッドで食べるっていうのは、ちょっとあれかなって」

「気にしなくていいのに。私はよくベッドで紅茶飲んだりしてるし」

 

 冗談か本気か分からない言葉に、杏子は苦笑いするとリビングへ下がった。マミの言葉が冗談でなく本当のことと知るのは、もうしばらく先の話になる。

 マミは鼻歌まじりにササミの上に調味料で軽く味を付けたトマトを並べ、コールスローにレモンで溶いた柚子胡椒を和える。

 何度か、鼻歌はちょっと不謹慎かもと思って止めるのだが、料理をしていると無意識に鼻歌が出てしまうのだった。

 

「よし、できた」

 

 おぼんに皿を並べ、白湯と野菜ジュースを載せると満足げに微笑み、足をリビングへ向ける。

 

 

「お待たせ、夜遅いからカロリー控えめなのにしてみたの」

 

 食事は二皿、お酒で蒸したササミにトマトとキュウリを和えて白胡麻で味を調えたものと、ツナ、キャベツ、人参をマヨネーズと柚子胡椒で和えたもの――それが二人分で四皿、テーブルに並べられる。

 

「マミさんも食べるの?」

 

 こんな時間に、という意味で杏子が問う。

 既に日付が変わって二十分が経過しようとしている。食事を摂るにはいささか、いやかなり遅い時間だ。

 

「お、お夜食かな……?」

 

 問われたマミは苦笑いを浮かべて首を傾げる。

 実際のところ、マミも夕飯がまだだったのだが――

 そんなマミを見て、杏子は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 

「なによー」

「なんでも」

 

 じゃれあう様に言葉を交わすと、少し気が楽になることを杏子は自覚した。

 家族を失っても、こんなに本当の姉みたいに優しくしてくれる人がいる。そのことを嬉しく思う。

 だが同時に、もう他人の為に戦おうとは思えない自分には、この人の傍にいる資格はないとも思っていた。

 そんな風に沈思していると、箸が止まっていたのか、マミが心配そうに語りかける。

 

「苦手なものだった……?」

 

 その指摘で我に返り、慌ててかぶりを振る。

 乱暴に箸を動かして、ササミを口に運ぶと「おいしい」と応えた。

 

「良かった。足りなかったら他にも何か作るから、遠慮なく言ってね」

 

 口いっぱいに頬張りながら、了解の意を頷いて示す。

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 目の前で合掌すると、瞳を閉じて小さくお辞儀する。

 取り立てて意識しての所作ではなく、無意識に行ってしまう食後のルーチン。

 

「はい、おそまつさまでした」

 

 佐倉家の両親のしっかりした躾が垣間見えるその光景を、マミは微笑ましく思いつつ、定型句を返した。

 食器の音をほとんど鳴らさずにおぼんに載せ、よいしょと立ち上がると、思い出したかのように杏子に問う。

 

「あ、お風呂はいる元気はありそう? 一応体はタオルで拭いたけど、はいれるなら温まった方がいいと思う」

「んー……」

 

 果断の彼女には珍しく、言葉を濁す。

 タオルで拭いてくれたとはいえまだ汚れているだろうし、マミの提案に応じたい気持ちはあるのだが、刺激された満腹中枢は容赦なく隣の睡眠中枢を刺激していて、湯船で寝かねないくらいに眠い。

 

「眠いなら、明日の朝に入る?」

 

 杏子は、首を縦に振って応えた。 

 

 

 

 

 だが、いざベッドに入ると、睡眠中枢は仕事を放棄し、杏子は瞬きもせずに見慣れない天井を見つめていた。

 照明はオフ直前の明度で、かろうじて枕を並べて眠るマミの輪郭が分かる程度。壁時計は針に夜光塗料が塗ってあるのか、闇の中に長針と短針を浮かび上がらせている。時刻は、午前2時を回っていた。

 今までのこと、これからのこと、そういったことが頭の中を嵐のように行き交い、杏子は厳しい視線を天井にぶつける。

 ふと、杏子の手を掴む柔らかいものがあった。

 

「眠れない……? 目を閉じて、静かに横になってるだけでも、楽になるわよ」

 

 マミも眠れなかったのか、瞳を閉じたまま杏子に語りかける。

 

「うん」

 

 短く静かに応えると、杏子は言われるがままに瞼を下ろした。

 しかし、目を閉じると瞼の裏に、思い出したくもない光景が甦ってくる。そんな光景から逃れるように、マミの手を強く握り返す。

 マミも手を優しく握り返すと、小声で少し調子の外れた歌を、さえずるように口にした。

 

「それは……?」

「昔、母さんがよく歌ってくれた子守唄。って、佐倉さんは子守唄って年齢じゃないわよね」

「最後まで歌ってもらっていい?」

「ええ、もちろん」

 

 

 

 

「佐倉さん」

 

 最後まで歌い終えると、顔を杏子の方に向けて囁いた。

 

「私も両親を亡くした時、一週間は泣いてばかりだったわ。だから佐倉さんも、我慢せずに、ね」

 

 その言葉からしばらくして、杏子の目尻からすっと一筋の涙が零れた。

 一度涙が溢れると歯止めが効かず、押し殺そうとしても嗚咽の声が漏れてしまう。

 

「マミさん……」

「ん……」

 

 杏子は、マミに覆い被さるように身体を動かすと、柔らかな胸に顔を埋めた。

 堰を切ったように泣きじゃくる杏子の頭を、マミの手が幼子をあやす様に優しく撫でさする。

 乳房の柔らかさと響いてくる鼓動の音を心地良いと感じながら、杏子は滂沱の如く涙を流した。

 マミは彼女が泣き疲れて寝息をたてるまで、彼女を慈しむ様に髪の流れに沿って撫で続けていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 この部屋にいてもいい、というマミの申し出を固辞して、杏子が風見野に帰ってから、三日。

 薄暗いクリプト――教会の地下室――に籠り、自分の考えを確認した。

 それは心の傷を抉る様な行いだったが、彼女は目を逸らすことなく思考を重ねた。

 

 風見野に戻った時から、概ね考えは定まっていた。

 自分の身勝手な「幸せ」の押し付けが、結果的に家族を不幸にしたこと。

 魔女に魅入られるまでもなく、人は狂気に走り自らを滅ぼすこと。

 魔法少女として他人を助けるなんて「幸せ」の押し付けに他ならないし、助けたところで自滅するというのなら、他人なんて助ける意味があるのだろうか。

 他人のために戦えば、また他人を傷つけることになるんじゃないだろうか。

 他人のために戦いたくない。いや、他人のために戦うのが怖い。

 その考えに待ったをかけていたのが、巴マミの存在だ。

 誰よりも優しく、思いやりに溢れた正義の魔法少女――それは巴マミが無理をして築いた虚像に過ぎないのだが――、師であり姉と慕う彼女は、他人を救うために力を使う気はない、という自分の考えを受け容れないだろう。

 

 巴マミと袂を分かつのは嫌だった。

 肉親を失った自分にとって、最後の家族に等しい存在。

 彼女と一緒にいるために、自分を偽って他人のために戦うのも、悪くはないかもしれない、何度もそう考えた。

 だが、まどろむ度に夢に現れる父が、そんな杏子の考えを罵った。曰く、お前の力は魔女の力だ、そんな力が他人の為になろうはずもない、と。

 それに、今の自分は幻惑の魔法を失い、基本的な戦闘能力までも低下している。

 そんなことで自分を疎む巴マミとは思えないが――無様な戦いを晒すのはひどく嫌だった。杏子自身は自覚していないが、マミ以上の才能と評してくれたことを裏切るようで、後ろめたかったのかもしれない。

 いや、無様を晒すだけならまだいい、最悪の場合、自分の力不足でマミが命を落とすことすらある。パートナーとして戦うのはそういうことだ。

 三日の時間を費やしても、巴マミと袂を分かつ決心も、自分の心を偽り続ける決心もつかなかった。

 

 ――マミさんに会ってみよう。ゆっくり相談してみよう。

 

 定まらない考えのまま、杏子は見滝原に向かった。

 

 

 

 

 佐倉杏子にとって間が悪いことに、巴マミと合流するやいなや使い魔の反応が現れ、戦いへと雪崩れ込んだ。

 久方ぶりのマミとの共闘、しかし杏子の動きは精彩を欠いていた。

 避ける動作も、大身槍を撃ち込む動作も、本来の彼女のものと比べてワンテンポ以上遅れていた。

 その遅れは明確な結果となって、彼女の体躯に幾つかの傷痕を残した。

 そして彼女の槍は、使い魔への有効な打撃を与えるに至らなかった。

 それでも本来ならロッソ・ファンタズマで回避も命中もリカバリーできるのだが、今の彼女はもう幻惑魔法を使うことは出来ない。

 マスケットの銃撃で使い魔を倒し、結界から解放されて駅前の立体通路に戻ると、マミは責める口調にならないよう気を遣いながら問うた。

 

「調子、もどらない? 色んなことがあったし、しょうがないこととは思うけど……でも、戦いにはあなたの命がかかってるの。どんなときでも集中して戦わないと危ないわ」

 

 返事をしようとしない杏子に近づき、彼女の傷口に手を添える。

 

「さっきは相手が使い魔だったし、この程度の怪我ですんだけど……あなたのロッソ・ファンタズマがあれば、こんな怪我だってしなくてすんだはずよ」

 

 マミの掌に浮かぶオレンジ色の光が、杏子の怪我をゆっくりと癒し、傷口を塞いでいく。

 癒されていく身体を他人事のようにぼんやりと眺めながら、杏子は思っていた。

 やはり、今の自分では巴マミのパートナーとして力不足だ。たとえ自分を誤魔化して共闘を続けてたとしても、こんな風に足を引っ張って迷惑をかけていては――いずれ嫌われたり疎んじられるよりは、いっそ別れた方がいい、と。

 

「ロッソ・ファンタズマね……。はッ、あんなもんなくったって、魔女くらい倒せんだよ」

 

 決して本意とは言えない言葉だが、口を開いた杏子は止まらなかった。 

 

「そうだ、丁度いいや。マミさ……あんたにさ、言っておきたかったことがあるんだ。今後はさ、使い魔は放っておいて魔女だけを倒そうよ。使い魔は魔女に育ってから、美味しく倒せばいいさ。育つ前の使い魔との戦いなんて、無駄に魔力を消耗するだけだろ?」

「佐倉、さん……?」

 

 マミは困惑した。

 自分は魔法少女となった結果、人の幸せを守るようになった、いわば後付けの善意だとマミは思っている。それに対して、杏子は人の幸せを守るために魔法少女となった。後付けでも何でもない本当の善意であり、自分よりも遥かに素晴らしい存在だ、と。

 肉親の不幸で取り乱しているのだろうか? だとしたら自分に出来ることは、何だろうか――考えても答えは得られなかったが、マミは口を開いた。

 

「佐倉さん、使い魔だって人を襲うのよ。放っておいたら犠牲になる人がいるわ。私たちが、みんなを守らなくちゃ……」

「知るかよ! みんなみんなって、誰も彼も全部守るなんてできるワケないだろ? 知ってるかい? 魔女に取り憑かれるまでもなくさ、人間ってやつは勝手に自分から死んじまうんだよ! そんな奴らのために力を使うなんてあたしはイヤだね。使い魔に好きに喰わせて、グリーフシードの元にしちまえばいいんだよ!」

「ダメよ。自分が見逃したせいで犠牲者が出るなんて、どんなに辛いことか。あなたをそんな気持ちにさせたくない」

「なんだよそれ! あんたにそんな経験があんのかよ?」

 

 そうだ、と認めるには、マミの中の虚栄心が邪魔をした。杏子の前では、理想の魔法少女でいたかったからだ。口ごもるマミの態度を否定ととった杏子が、言葉を連ねる。

 

「ないんだよね? あんたのさ、そうやって理屈だけでなんでも分かった気になって、理想を押し付けてくるの、いい加減窮屈なんだよね」

「……佐倉さん、ご家族のこと……私にも気持ちは分かる。だけどそんな風に……」

「また理屈だけで分かったつもりかい! 事故で家族を失ったあんたと、自分のせいで家族が死んだあたしじゃ全然違うだろ! あんた前に言ってたよね、願いは自分のためにするべきだって。あぁ、その通りだよ。徹頭徹尾自分のために願うべきだった。そうすりゃどんな結果になろうが、傷つくのはあたしひとりですんだんんだ! 能天気にあたしの都合を周りに押し付けて、みんなを傷付けた! ざまぁないよ、全部あたしの願いのせいなんだからな! あんただって、ホラ見たことかって思ってんだろ?」

 

 治癒を終えた後も腕に添えられていたマミの両手を煩わしげに払うと、顔を伏せているマミを見下ろす。

 

「……佐倉さん、そんな……こと」

「もう決めたんだ。もう二度と他人のために魔法は使わない。この力は自分のためだけに使う。そうすれば、あたしだけの責任で済むからね」

 

 コンクリートに片膝をついて下を向いたままのマミの表情は杏子からは覗えない。しかし、肩が小刻みに震えているのは決して怒りのためではないだろう。

 

「……分かっただろ? あたしはもう他人のためになんて戦えない。あんたとは違うんだ。あんたとは、ここまでだよ」

 

 喧嘩別れみたいな形になってしまったことに後悔はあるが、これで良かった、とも杏子は思う。

 

 ――きっと、話せば話すほど、マミさんはあたしの事情を慮り、譲歩に譲歩を重ねるだろう。そうなるときっとあたしも甘えてしまう。そうしたらあたしだけじゃなく、マミさんまでダメになってしまう。

 

 じゃぁね、と呟き去ろうとする杏子の腕を、マミが片膝をついたままの姿勢で手を伸ばして掴んだ。

 ただ掴むだけでなく、意思のこもった強い力だった。

 

「ダメよ。あなたは、あなただけはそんな生き方を選んじゃダメ。あなたの優しさも、素直さも、私はぜんぶ知ってる。今は辛くても、あなたは立ち直れるひとよ。あなたが家族に誤解されて苦しんでいた時、私は駆けつけてあげられなかった――今度こそ、あなたをひとりにさせやしないわ」

「だったら……!」

 

 杏子は、ソウルジェムを握ると再び魔法少女の衣裳をまとった。変身の際に発生した衝撃で、マミは短い悲鳴をあげて後ろに倒れる。

 

「力尽くってヤツで、いかせてもらうよ……!」

 

 大身槍を倒れているマミの鼻先に突き付けると、傲然と言い放った。そして変身を促すように、一旦槍を引く。

 

「……わかったわ。それであなたの気が済むのなら、私も力尽くで、あなたを止めてみせるわ!」

 

 巴マミも魔法少女へと姿を変えると、目尻を拭き毅然とした表情を見せた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 二度、三度と跳躍し、開けた場所に舞い降りると、マミから動いた。

 地面からリボンを立ち上らせ、まだ宙にいる杏子に拘束を仕掛ける。杏子は大身槍を横に一閃させると、リボンをことごとく両断した。

 千切られたリボンがしばし風に舞い、やがて霧散する。

 

「いつまでも、あんたの拘束魔法が通用すると思わないことだね!」

 

 吠えると、宙に生み出した魔方陣を蹴ってマミに向けて突進する。やはり本来の動きには劣るが、意志の力だろうか、先の使い魔との戦いよりは数段鋭い動きになっていた。

 

「……お見事と言ってあげたいところだけれど。攻撃する時は闇雲に正面から向かうなって、あれだけ教えたのにまだ分かってないのね」

 

 金属音が響いた。マミのマスケットが銃身で杏子の槍を受け止めた音だ。

 マミの細腕のどこにこれほどの膂力があるのか、彼女はマスケットを片腕で振るい杏子の身体ごと弾き返してみせた。

 そして八挺のマスケットを自身の左右に生み出すと、指揮者のように手を横に振って一斉に魔弾を放つ。

 手で構えて照準した射撃と比べて、空中に固定したマスケットからの射撃は照準精度が低く、魔法少女相手には牽制程度にしかならない。だが、それで十分だった。牽制射撃を回避するため横に跳んだ杏子を、手にしたマスケットが正確に射抜く。

 

「痛ッ!」

 

 右の上腕部を過たず捉えた魔弾は杏子の肉を裂いた。撃たれた少女は大丈夫、骨には至っていない、そう呟いて自分を鼓舞すると魔法で痛みを消して地に降りる。

 

 

 

 やはり、マミには杏子の動きは手に取るように、先の先まで見えた。

 目配せ、筋肉の張り、身体の重心の移動。どれもが雄弁に杏子が次に取る動きを教えてくれる。

 せめてロッソ・ファンタズマで注意を逸らせれば――いや、それでも無理だっただろう。ロッソ・ファンタズマは、手数が少なく一撃が重い相手には必勝の魔法だ。だが、被弾すれば消えるその性質から、手数の多いマミのような戦い方を天敵とする。

 

「こんなつもりで教えなかったわけじゃないんだけどな」

 

 訓練で指摘しなかったことを卑怯なことのように感じ、申し訳ない気持ちでマミは呟く。

 

 

 

 

 マミの射撃は狙って撃っている、というよりは、杏子の動く先に銃弾を置いておくような動きになっていた。

 ここまで読み尽くしているからこそ、致命の一撃を避け、戦闘能力だけを削ぐような攻撃が可能なのであるが――

 

 ――早く参ったって言って。すぐ癒してあげるから。

 

 魔弾を放つマミも、射抜く度に我が身を切られるような痛みを感じていた。

 急所を外しているといっても、腕や脚を多くの魔弾で撃たれた杏子は、消し切れぬ痛みに全身が沼に沈み込むような感覚を覚えている。

 間合いを詰めるべき脚も、槍を振るうべき腕も、水の中で動かしているかのように重い。

 

 ――畜生!

 

 ここまで手加減されて、それでもあたしは勝てないのか。と、杏子は自らの不甲斐なさに歯軋りした。

 頼むよ神様、今日だけでいい。今一瞬だけ、マミさんを越えさせてくれ。マミさんに迷惑をかけたくないんだ――との思考。だがその思考が、激痛で一瞬にして消し飛んだ。

 魔弾が右の小指を、根元から弾き飛ばしたからだ。

 

「もう降参なさい? これ以上あなたを傷つけたくないわ。……お願い、いつもの優しい佐倉さんに戻って」

 

 圧倒的に優勢な立場にいるはずのマミの声は、しかし威圧ではなく哀願の色が濃く出ていた。

 

「あいにくだけど、《優しくて思いやりのある杏子》はもういないんだとさ!」

 

 敢えて父の言葉を反芻することで決意を新たにする。

 

「……それにさ、手加減のつもりかしんないけど、殺す気のないなまくら弾であたしに勝てると思ってんのかよ!」

 

 鼓舞するために叫ぶと、地を蹴り間合いを詰める――が、負傷の影響か、体勢を崩す。

 倒れこみそうになるところを、脚でさらに地を蹴り、槍をも杖のように使い姿勢を制御する。

 その不規則な動きが、マミの動きを掣肘した。

 

 ――だめ。下手に撃てば、佐倉さんを。

 

 その逡巡が、杏子の槍をマミに届かせた。

 穂先がマミの胸元のリボンとホックを引き千切り、露わになった首筋に横一線に血が滲む。

 残心よろしく槍を振りぬいた姿勢。杏子はその姿勢のまま荒い息を整え、そして告げた。

 

「次はリボンだけじゃなく、その首をもらうよ。……終わりでいいね?」

 

 虚勢だということは、マミには理解できた。

 今の一撃は、マミの躊躇いに乗じたものに過ぎない。いや、それすらもマミが先読みに全てを任せていたところに、杏子の体幹が崩れたことによって偶々に転がり込んだものにすぎない。

 油断、というものとは少し違うが、完全に読めているという驕りがマミにあったことは否めない。

 その驕りを消し、マミが先読み半分、実動からの反応半分に動けば、二度と有効打は入らないだろう。

 

「悪いけど、終わるわけにはいかないわ。あなたを、妹をひとりにするなんて、私にはできないもの」

 

 妹と、そう呼んでくれることは嬉しかった。だからこそ、迷惑をかけたくない。そんな思いが、杏子の口を開かせる。

 

「妹? はッ! なに寝惚けたこと言ってんだ。それはあんたに取り入るためにいっただけだよ。あんたと私は、師匠と弟子だろ? もうあんたから学ぶものはない。弟子が去るには充分な理由だろ?」

 

 乾いた音が響く。

 マスケットがマミの手を離れ、地に落ちた音だ。

 地に落ちたマスケットは、戦意の喪失を表すかのように元の姿――黄と赤のリボン――へと戻る。螺旋状に絡み合っていた黄と赤のリボンは力なく解け、風に煽られて霧散していく。

 マミは、自分の背筋を支えていた気持ちが折れたことを自覚した。

 

「ごめんなさい、私、あなたのこと、本当の妹のように思ってて……」

 

 顔を歪め、肺腑を絞るような声で伝える。

 

「引きとめてごめんなさい……勘違いしちゃってて、ほんとごめんね」

 

 涙を堪えるので精一杯で声色や表情まで御する余裕がないマミ。彼女は震える声で告げると、幽鬼のように力ない所作で杏子に歩み寄り、治癒魔法を使う。

 

「傷、回復だけさせて。佐倉さん、治癒魔法は苦手でしょ」

「あ、あぁ……ありがとう」

 

 マミは杏子の全身に刻まれた傷の一つ一つに、治癒の魔力を注ぎ込み、癒していく。しかしその効果は、本来のマミの治癒魔法よりも幾分劣っているように感じられた。

 

 ――少しでも長くいたいという私の我儘が、治癒魔法の効き目に表れているのかしら……。

 

 魔法の効力は心の在りように強い影響を受ける。マミがそんな風に解釈するのも無理はなかったが、正鵠を得てはいなかった。

 

「ごめんね、酷いことして……」

 

 魔法の力で、ゆっくりと再生する小指を見つめ、心が潰れるような後悔を覚える。

 

 ――どうして佐倉さんを傷つけてまで戦っていたのかしら……。仮に佐倉さんの戦闘力を奪って勝利したとして、それで佐倉さんが納得するとでも思っていたの? 話し合いが決裂したなら、年長者の私が折れれば良かっただけなのに……。

 

 さすがにそれは内罰的すぎる考えだった。そもそも佐倉杏子が仕掛けた戦いで、巴マミは応戦したに過ぎないのだから。

 治癒を受ける杏子は無言を貫いていたが、ある程度回復すると、マミから離れた。

 

「もう大丈夫、あとは自分でする。ありがと。……じゃぁ、世話になったね」

「私は、佐倉さんのこと、今でも妹のように思ってるから。何かあったら、すぐに飛んでいきます。気軽に呼んでね」

 

 その言葉には返事をせず、佐倉杏子は風見野へ向けて歩き出した。

 

 

 

 振り返ることなく歩き去る杏子の姿が見えなくなると、マミは微笑みを見せた。悲しくないわけではないが、諦めの心境になると客観的に受け止められ――いや、心が自分のことと認識することを拒絶しているだけかもしれない。

 

「……ダメだなぁ、私ったら、どうしてこうなのかな」

 

 笑顔のまま、涙が一筋、頬を伝い落ちる。

 

「また……ひとりぼっちになっちゃったな」

 

 いつの間にか現れたキュゥべえがマミの身体を肩まで駆け上がると、慰めるかのようにマミの頬に頬を擦りつける。

 

「ありがとう、キュゥべえ」

『今回は残念だったね。だが、いずれまた道が交わることもあるだろう。これに挫けずに頑張って欲しい』

「うん……」

 

 佐倉さんのことは私事。魔法少女としての使命は公事。引きずらないというわけにはいかないだろうけど、気持ちを切り替えて戦わなくちゃ。またいつか共に戦えるその日に胸を張って会えるように、強くて、優雅で、正義感があって、どこに出しても恥ずかしくないような魔法少女でいられるように頑張ろう。

 マミはそう考えて自らの心を奮い立たせた。

 

「キュゥべえ、あなたの立場で問題ない範囲でいいから、佐倉さんのこと、時々教えてくれないかしら」

『特定の魔法少女の利益や不利益になることはできないルールなんだが……いいよ、他ならぬマミの頼みだしね』

 

 応える声にマミは感謝した。そのものが持つ思惑を知る術は、彼女にはなかったから。



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第六話 マミさん、霊的世界で邂逅する

 カツン、カツンと。

 金属が剥き出しになったキャットウォークを、黒のニーハイブーツで靴音を響かせながら歩くひとりの少女がいた。

 レモン色のセーターの上から羽織った縞模様のポンチョが、歩に合わせて裾を揺らす。

 ニットキャップ、マフラー、手袋は白で統一され、彼女の黄金色の髪を明るく浮き上がらせる。

 彼女の名は巴マミ。見滝原を守り戦う魔法少女。

 

 午前中に初詣を済ませ、午後は新年に浮かれた雰囲気の溢れる繁華街をパトロールしていた彼女は、魔女の反応を追い、拡張工事中で立ち入りが禁止されているショッピングモールに辿り着いていた。

 工事機械や資材が散乱するフロアを見降ろし、幅一メートルにも満たない高架通路をソウルジェムの瞬きに従って進む。

 やがて、彼女は魔女の結界に行き着いた。

 

「……ここね」

 

 魔力を操り結界をこじ開けると、魔法少女へと変身して侵入する。騙し絵のように入り組んだおびただしい数のエスカレーターを、マスケットを携えて進む。

 似た結界を見たことがある、とのマミの思考を肯定するかのように、見覚えのある使い魔が数匹視界に入った。

 湾曲した胴体に触角と羽を生やした使い魔――佐倉杏子と追いかけ、取り逃がした使い魔だ。あれが成長して、魔女になったのだろうか? それとも、ここの魔女があの使い魔の親なのだろうか? そんな疑問をマミは思う。

 しかし、どちらであろうと行うことは変わらない。マミはマスケットを次々と生み出し、視界に入った使い魔を淡々と蹴散らしていく。

 

「あっちの使い魔はいないわね……」

 

 あっちと称したのは、佐倉杏子に痛撃を喰らわせた、貝状の顎を持つ食虫植物に似た使い魔のこと。

 魔女が複数の種類の使い魔を使役することは珍しくないが、はぐれの使い魔の結界に他の使い魔がいることは初めてだった。この結界でも、伏兵に気を付ける必要があることを肝に銘じておく必要がある、と巴マミは自戒した。

 奥と思われる方角へ歩を進める。

 結界に入って三〇分は過ぎただろうか、依然として遭遇した使い魔は、蜂タイプのみだ。

 

 

 

 辿り着いた最深部は、体育館がまるまる入りそうな程に広大で丸い板状のステージだった。

 床には六角形の模様が幾何学状に並び、ボードゲームのタイルを想像させる。

 中央に、蜂の使い魔を従えた魔女が浮いていた。

 魔女の姿は、使い魔をそのまま大きくしたような印象を受ける。異なるのは翼が三対六枚に増えていることと、明確な頭部が存在すること、そして臀部に毒針を思わせる突起物があること。

 使い魔はざっと見て三〇といったところか。多くはあるが、はぐれにすらなれない使い魔はマミにとってはものの数ではない。

 マミの右腕が弧を描いて振り上げられると、周囲にマスケットが生成され浮遊する。その数は使い魔に数倍した。

 マスケットの無数の銃口が、マミの視線とシンクロする――

 

「無限の魔弾よ、私に道を拓いて……パロットラ・マギカ・エドゥ・インフィニータ!」

 

 天を指していた腕が振り下ろされると同時、全てのマスケットが魔弾を放つ。

 無限と冠された技名に相応しい数の魔弾が撃ち出される。

 夥しい数の魔弾は、点を射抜くという射撃の命題を逸脱した。魔弾によって形成された『壁』は勢いよく進み、奔流のごとく敵の群れを押し潰す。

 悲鳴なのか哄笑なのか分からない声が、そこかしこで響いた。

 そして、魔弾の壁が過ぎ去った後には、魔女しか残っていなかった。

 その魔女も数発の魔弾を受けて地に墜ち、苦痛にあえぐかの様に羽をひくつかせている。

 

「擬態……じゃなくって、本当に弱っているようね。ずいぶんと弱い魔女だこと」

 

 そんな感想を抱きつつも油断はしない。

 リボンを数本飛ばして魔女を拘束した上で、大砲型のマスケットの生成を行う――彼女のソロ戦闘における必勝ルーチンと言っていい。

 生み出されたのは、長さにして五メートル、口径にして一メートル、ライフリングの溝すらマミの拳ほどもはあろうかという巨大なマスケット。それを抱きかかえるように保持すると、拘束され蓑虫のように転がる魔女に照準する。

 完全に拘束された魔女とそれを一撃で葬りさる巨砲、この条件が揃っても、彼女は決して油断はしていなかった。もう一種類の使い魔の可能性を考慮し、どのようなタイミングで現れようと、対処できるように身構えていた。

 

 だが、結界自体がその姿を変えることは、想像の埒外にあった。

 ティロ・フィナーレの射出の瞬間、マミの足元が波打つように大きく揺れた。

 

「なっ、なんなのっ?」

 

 大きめの地震に匹敵する揺れの中で、しかし大砲型マスケットの銃口は過たず魔女を捉え続けた。

 

「かまうものですか。ティロ・フィナーレ!」

 

 巨大な魔弾を魔女に向けて放つや、マミは不穏な動きを見せる足元を嫌い、垂直にジャンプする。

 そして空中に浮かべた小さな花冠につま先で降り立つ。

 花冠に立つマミは魔弾の行方を目で追う。

 

 震動していた床がさらに変化を示した。

 床に並んだ六角形の模様のそれぞれから、緑の柱が天に向けて勢いよく伸びる。

 ひとつひとつがマミの身長ほどの径を持つ巨大な柱。魔弾は弾道上にある全ての柱をへし折ったが、徐々にその軌道を逸らされ、魔女を撃つには至らなかった。

 

「結界の形を変えて防御したの……? いえ、あの魔女とは別の魔力が影響しているわね……」

 

 そこかしこから柱が立ち伸びた。

 柱は校舎ほどの高さまで育つと、中程から幾つもの細長い蔓を垂れさせる。その蔓の先には、杏子に痛撃を与えたあの食虫植物の使い魔の姿があった。

 マミの付近に生えた柱から、蔓が一斉に伸びる。

 それぞれの先端に据えられた食虫植物の使い魔が、牙を唸らせてマミに迫る。 

 

「ムダだわ」

 

 囁く様な声で呟くと、マミの周囲を螺旋を描いてリボンが走り、ドーム状の防護壁を形成した。

 絶対防御と名付けられたリボンのシールドは、使い魔の牙を寄せ付けない。リボンの強度自体はそれほどのものではないが、絶えず高速で螺旋運動を続けることで、近寄るものを弾き砕く。

 防護壁の中で一息つくと、周囲に視線を巡らせる。

 

「あれね……あれが二匹目の魔女」

 

 リボンに拘束されて蠢く蜂の魔女の横に、新たな魔女はいた。

 陸亀のような丸い甲殻に覆われた巨体。

 その巨体を短い四肢で支え、首のあるべき箇所には花を生やしている。

 花弁の一枚一枚が畳一枚はあろうかという巨大な花だ。この魔女が新たな結界の主にして、食虫植物の使い魔の主なのだろう。

 

「それじゃ、倒しちゃいましょうか!」

 

 絶対防御を解放すると同時に、紫電のごとき勢いで駆け出す。

 遅れて数十の使い魔が上空から襲いかかるが、マミの速力には追いつけなかった。使い魔の牙は、マミの影を捉え、地を噛むに留まる。

 ある程度駆けたマミは、振り返って牙を地に食い込ませている使い魔たちに矢継ぎ早に魔弾を浴びせ殲滅する。

 そのさなか襲い来る使い魔は、あるものはリボンで拘束し、あるものはマスケットで殴り返し、またあるものはマスケットで射抜き撃ち落とす。

 ティロ・フィナーレの態勢に入れるかと思案するが、まだ食虫植物の使い魔は多く健在なのを視認すると、足を止める必要がある巨大マスケットの生成は危険だと判断する。

 

 次にリボンをロープのように使い、林立する柱から柱へ、サーカスの空中ブランコのように舞いながら高度を上げていく。

 マミの軌跡を追いかけた使い魔の何体かは、柱に自らの蔦を絡ませて行動不能になったが、多くは依然として追いすがる。

 柱の天辺まで登り詰めたマミは、そこから身を宙に躍らせた。

 そして、重力に従い落下しながら抱きかかえる形で巨大マスケットを作り始める。落下中ならば、足を止めずに巨大マスケットを生み出せるとの判断。

 させじと使い魔が攻撃を繰り出すが、自由落下中のマミはリボンを柱に結えることで左右方向のモーメントを加え、落下軌道を変化させることで器用に避ける。

 半ばまで落下したところで大型のマスケットが完成する。

 マミは空中で甲殻を背負った魔女に照準した。それと同時、使い魔が一匹、斜め上から迫る。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 構わず魔弾を放ったマミは、射撃の反動を利して後方に跳んで使い魔の攻撃を回避する。そして近くにそびえる柱にリボンを投げ、ロープのようにして柱に取りついた。

 柱から魔女を見下ろすと、ちょうど魔弾が魔女に届こうとしていた。

 陸亀に似た姿に相応しく鈍重な動きで避けようとする魔女、その頭部から胸部にかけてを魔弾が貫いていく。

 断末魔をあげることもなく、魔女は絶命した。

 

 主を失ったことで林立していた柱と食虫植物の使い魔は霧散し、拘束された蜂の魔女と元の結界のみが残る。

 マミは悠々と次の大型マスケットを作り、拘束された魔女に止めを刺した。

 

「最近は佐倉さんに隠れて楽にティロ・フィナーレの準備してたから、ひとりでやると結構大変ね……」

 

 マミがそうであるように、佐倉杏子も自分の援護を前提とした戦いを繰り返していた。しかも杏子の場合魔法少女になってすぐにマミとコンビを組んだこともあって、単独での狩りの経験は少ない。

 単独での狩りを半年以上行っていた自分でさえコンビを組んでいた時の癖や甘えが抜けきらないのに、彼女は大丈夫だろうか、とマミは思案する。いや、信じよう、とマミは結論した。彼女は得手不得手の落差こそ激しかったが、総合的な実力は自分に比肩する。それにロッソ・ファンタズマは魔女を相手にする限り無敵の魔法技と言っていい――そのロッソ・ファンタズマが失われていることなど、マミは想像だにしなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 新学期を迎えて数日が経過したある日の夜遅く。

 食事も入浴も済ませ、パジャマ姿で勉強をしていたマミのもとに、切羽詰まったキュゥべえの声が届いた。

 

『マミ、佐倉杏子がまずい事になった』

『キュゥべえ! いったい、どうしたの?』

『昨日から、立ち上がる事さえできないんだ。全身の傷が酷くて』

 

 手からこぼれたシャープペンシルが机を転がり足元に落下するが、拾い上げることもせずに瞳を閉じてテレパシーに集中する。

 

『何があったの?』

『とりたてて何が、というわけではないよ。これまで累積して受けてきた傷が、ついに身体機能を維持する限界値を超えたんだろうね。キミも知っての通り、もともと佐倉杏子は回復魔法は得意ではなかったんだが……キミと別れてからは、使えない、と表現して問題ないような状態になった。佐倉杏子は言っていた。他人を傷つける事しかできない自分には、癒す資格も癒される資格もないと』

『それで、佐倉さんは今どこに?』

『キミも行ったことがあるんじゃないのかい。佐倉杏子の教会だよ』

 

 いつの間にか足元に現れていたキュゥべえが、猫がじゃれるかの様にシャープペンシルを手で転がしている。

 

「教えてくれてありがとう、キュゥべえ」

 

 着替える時間も惜しい、そう判断したマミはパジャマの上から黒のベンチコートを羽織ると魔法少女に変身する。そしてキュゥべえを両手で抱きかかえた

 

 

『どうしたんだい? 変身なんかして』

「急ぎましょう」

 

 それだけ応えると、マミはベランダから身を躍らせた。

 

 

 

 

 

 黄色いテープで入口を封鎖されている佐倉杏子の家。その隣に位置する教会の庭に着地すると、マミは歩幅も広く扉口をくぐり、教会内を歩く。

 

『そこの祭壇から地下室に入れる。そこだよ』

「わかったわ」

 

 キュゥべえの指示に頷いて応えると、重々しい扉を開けて地下へ向かう階段へと歩を進めた。

 階段は石造りになっていて、微かな苔の臭いが鼻につく。ここ数日誰も使っていないのか、埃がうっすらと積もっている。

 

「もっと早く……」

 

 教えてくれれば良かったのに、と言いかけて口を噤む。本来、他の魔法少女の動向をキュゥべえは語らない。今知らせてくれただけでも感謝すべきだと考え直す。

 

『すまない』

 

 言葉を汲んだキュゥべえが耳をぺたんと伏せて応える。マミはそんなキュゥべえの態度に慌てて「ううん、無理言ってごめんなさい」と否定した。

 僅か十段程度で階段は終わり、飾り気のない両開きの扉があった。踊り場すらなく階段の突き当りが唐突に扉になった構造で、一種地下牢のような印象を与える。

 

「佐倉さん、入るわね」

 

 一応声をかけてから扉を押し開く。と、冷蔵庫のような冷気が中から溢れてくる。魔法少女に変身していても寒いと感じる程だから、相当のものだ。

 

『こっちだ』

 

 マミの腕から飛び降りると、キュゥべえは案内するように先を歩く。もっとも、二区画しかない上に、灯りが一箇所しかついていないので案内の必要もないのだが。

 アーチ状のくぐり戸の先の区画の片隅に、佐倉杏子はいた。普段着のまま、毛布一枚にくるまって倒れるように横になっていた。

 

「佐倉さん!」

 

 この冷気の中なのに汗が酷い。それに、キュゥべえのいう通り大小問わず傷だらけのようだった。マミは膝を折ると覆いかぶさるようにして治癒魔法に集中する。

 杏子の胸にあてたマミの頬、そこから微かに感じられる鼓動だけが、彼女の生存を感じさせてくれた。

 毛布からはみ出ている右手をぎゅっと握る。小指が赤子のもののように短いことに気付いた。

 

「佐倉さん……!」

 

 マミが不十分ながらも治癒した時のままの指を見て息を飲む。物をグリップする際に小指は重要だ。こんな小指では、十分に力を込めて槍を握ることさえ難しかったに違いない。自分のせいで杏子が苦戦を強いられたのかと思うと、マミは胸が張り裂けそうになった。

 マミは、魔力が尽きても構わないと決意すると、さらに力を込めて治癒魔法を使った。

 

 

 

 だが。

 三十分が過ぎても、小指はおろか、些細な傷ですら癒されることはなかった。

 

「傷が治らない……どうして!」

『佐倉杏子の精神が、治癒を拒んでいるのかもしれないね』

 

 魔法は心の在りように強く影響を受ける。

 佐倉杏子は自らの願いを否定したことで、幻惑の魔法を失った。それと同じように、佐倉杏子は治癒を受けることを否定しているのだろうとキュゥべえは語った。

 さらに治癒魔法を強くする。オレンジイエローの癒しの魔力で包まれたマミの身体が、黄金色に輝いた。

 その光に刺激されたのか、佐倉杏子の瞼が微かに持ち上げらる。

 彼女は焦点の合っていない瞳でマミを見つめる。

 治癒に必死なマミはそれに気付かず、ひたすら魔力を込めていたため、突然の声に驚いた。

 

「あれ……マミさん……?」

 

 熱に浮かされて夢と現実の区別もついていない、そのような声だった。

 

「佐倉さん?」

「ゆめ……?」

「佐倉さん、私が治癒するから、拒まないで! このままじゃ佐倉さんが……」

 

 マミの声が届いているのかいないのか、杏子は儚げな笑みを浮かべると、再び瞳を閉じる。その笑顔は、死を受け入れた諦めの表情のように、マミには感じられた。

 何度も諦めずに呼びかけるマミの声にも反応を示さず、苦しげな呼吸を続ける。

 

「だめ! 佐倉さん! ……キュゥべえ、なんとかできないの?」

『ボクになんとかできたら、キミを呼びにいくわけがないじゃないか』

 

 切羽詰まったマミの声とは対照的に、落ち着き払った声で返す。

 

「そんな……佐倉さん……!」

 

 伝わってくる杏子の心音が、もう感じられないほど弱く、遅くなっている。

 それはまるで、唯一の心残りであったマミを見ることで、彼女が死を甘受したかのようだった。

 

「起きて。あなたを看取りたくてきたんじゃない……」

『残念だね。マミ、諦めて治癒魔法をやめたらどうだい。このままだと魔力を使い切ってしまうよ』 

 

 魔力を使い切っての結末は感情の相転移を伴うそれに比べて効率が悪い、出来れば避けたいんだよね、とキュゥべえは心の中で呟く。

 そして、杏子の紫に染まった唇を眺めつつ、『魔力を使い切っての結末も、杏子みたいな死に方に比べればマシではあるけどね。杏子、君には本当にがっかりだよ』と心の中で毒づいた。

 キュゥべえの忠告をマミは聞き入れず、なおも癒しの魔法を使い続ける。先ほどまで鮮やな橙色だった髪飾りのソウルジェムは、今や黒雲が広がるように暗い色に侵され始めていた。

 

『マミ、杏子と心中するつもりかい? 杏子はそんなことは望んでないと思うよ』

「いや……」

『やれやれ、キミと杏子、ふたりともいなくなったら誰が魔女からみんなを守るんだい?』

 

 キュゥべえの指摘は正しくマミの急所を衝いたが、それでも治癒魔法をやめることはせず、嗚咽を漏らしながら杏子をかき抱く。

 

「なくしたく……ないよぅ……」

『そんなに杏子が大事なら、どうしてボクが呼びに行く前に連絡を取ろうとしなかったんだい?』

「……そうだよね、本当にいつもいつも……どうして私ってこうなのかな……」

 

 光を失っていくマミのソウルジェムを血の色の瞳で眺めていると、ふとキュゥべえに考えが浮かんだ。

 

『駄目元になるが……キミたち魔法少女にとってソウルジェムは何より大切なものだ。マミのソウルジェムを杏子のものに接触させてみれば、なんらかの反応は得られるかもしれないね』

 

 藁にもすがるというのはこの事だろうか、キュゥべえの提案を聞いたマミは、考えるより早く行動に移した。杏子の指輪形態のソウルジェムを抜き取ると、自らの髪飾りにコツンとあてがう。

 

「佐倉さん! お願いだから返事をして!」

 

 キュゥべえとしても確信や前例があったわけではなかった。いや、むしろ仮初めの希望を与えて、出来るだけ情動を引き出そうと考えてさえいた。

 そんなキュゥべえの見込みを大きく裏切る事態が起こる。

 ソウルジェムを接触させていた巴マミが、意識を失うように倒れ伏した。

 

『マミ? どうしたんだいマミ?』

 

 覗き込むと、瞳孔が開き、呼吸もしていなかった。キュゥべえの知る限り、ソウルジェムを肉体から遠く引き離した時に起きる現象に似ている。

 

『ふむ……。裏目に出てしまったかもしれないね』

 

 尻尾でマミの頬を叩きながら、キュゥべえは独語した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 茫洋たる、という言葉が適切なほどに果てのない液体の中に、巴マミはいた。

 かろうじて浮力と重力から天地の判断はつくが、上を見ても水面は見えない。下を見ても底は見えない。周りを見てもただ澄んだコバルト色の液体がどこまでも続いている。

 上からは光さえ差していないが、不思議と暗くは感じなかった。

 

「佐倉さ……」

 

 言葉を発そうとすると、口腔から空気が泡となって逃げ、しゃぼん玉のように上へ向かう。その代わりに液体が口内に押し寄せ、マミは思わず瞳を閉じ、両手で口元を押さえる――が、既に口腔から気道まで、液体の侵入を許していた。

 しかし、それに続く現象、即ち窒息は訪れず、それどころか恐る恐る呼吸を試みると不自由なく息ができた。

 理解はできないけれど、そういうものなんだ、と巴マミは受け止めた。 

 

「佐倉さーん!」

 

 先ほどとは違い、肺腑まで液体に満たされていても声は出た。そして音は空気中を伝うように、液体の中を伝った。

 何度か叫ぶが、返事はなかった。

 徐々に叫ぶ声は小さくなり、瞳は潤んでいった。

 

「佐倉さん……」

 

 瞳に溜まっていた涙が、真珠のように丸い滴となってマミの身体を離れ、瞳の前にたゆたう。

 そんな滴が十を数えた頃、マミは自分を呼ぶ声を聞いた気がした。言葉として聞き取れない程の微かな、本当に微かな音だったが、マミを突き動かすには十分な根拠だった。

 目尻に溢れる涙を指で払うと、身体を翻し、両の脚で液体を蹴り下方へと泳いだ。

 

 体感で一時間は泳いだだろうか、液体の中に、うっすらと色のついた泡が混ざり始めた。

 あるものは薄桃色の、あるものは翡翠色の、あるものは乳白色の。

 あるものは米粒ほどの大きさの、あるものは拳ほどの大きさの、あるものは身体がすっぽり入りそうな大きさの。

 それらの泡が身体のそばを通る度に微かな声が、そして泡が身体に触れる度にはっきり聞き取れる声が聞こえた。

 

『主は、良き心をお救いくださります』

『挨拶は後。今は魔女を倒しましょう』

『杏子のばかー』

『ふたりで倒した成果だし、はんぶんこにしましょう』

『うん、杏子はまだまだ学ぶべきことが多いね』

『たしか裏庭に野イチゴがなっているのを見かけたから』

『あんな話じゃ、本当に苦しんでいる人々を救うことができない……そう思ってね』

『杏子の妹になんか生まれてくるんじゃなかったー』

『泣いちゃダメだぞ。泣くと幸せが逃げていっちゃうからね』

『今日の夕飯はエビフライだから、いい子にして待っててね』

 

 マミの声、杏子の家族の声、キュゥべえの声、杏子自身の声。泡に触れるとその声を発した時の状況まで映像を見せられているかのように脳裏に浮かんだ。

 ソウルジェムを介して彼女の記憶や心といったものに入り込んでいるのだろうか、とマミは考えた。

 普段からテレパシーを使える魔法少女同士なら、何かの切っ掛けでもっと深い感応が出来ても不思議ではない。

 そうだとすれば、潜ることで記憶や心が見えてきたのなら、もっと深く潜れば彼女と意志を疎通させることも叶うかもしれない。

 

「キュゥべえの言う通り、佐倉さんの心が治癒を拒んでいるなら、絶対に翻意させないと」

 

 決意してさらに潜ると、暗い色の泡が増えてきた。そういった泡は、負の感情を伴う声と記憶をマミに見せる。

 家族と喧嘩した記憶、飼い犬を亡くした記憶、妹に十分な食べ物を与えられなかった記憶、父が戒規処分を受けた記憶。

 そうした記憶を見せた泡は、寒々しい青色や焦げ茶色をしていた。マミは下方を見やり――

 

「真っ黒の泡があんなに……」

 

 漆黒の泡が沈殿するかのように蠢く光景に息を呑み、想起する。どれほどの悲しみや不幸があったのかと。

 これ以上進んで、奥底に留めておきたいはずの記憶を覗き見てもいいものだろうか、と逡巡する。その時、マミの眼前を数えきれないほどの鎖が音を立てて走る。

 赤と黒に彩られた、大人の顔程もある大きさの菱形の金属板。それを連ねた鎖は、様々な角度で交差しあい、マミの行く手を阻むように二重三重の壁を成した。

 

『ごめんマミさん、これ以上は行かせられないよ』

 

 声が響いた。マミは鎖の壁で拒絶されたことよりも、記憶の残滓でない生きた杏子の意志に触れることができたことによる喜びで顔を綻ばせる。

 

「佐倉さん、私の話を聞いて。キュゥべえが言っていたんだけど、佐倉さんが治癒魔法を心の中で拒んでいるから、あなたの傷を癒せないの。お願い、私の治癒を受け入れて……!」

 

 暫しの静寂の後、杏子の声が応える。

 

『いいんだ……。あたしは、誰も彼も、マミさんも家族も、傷つけることしかできなかったから……。癒される資格なんてないんだ』

「馬鹿なこと言わないで! 死んでいいはずなんてないでしょう! それに佐倉さんは、ご家族のために奇跡を祈って、みんなの幸せのために戦っていたじゃない! 傷つけてばかりなんかじゃないわ!」

 

 鎖の壁の向こうに、魔法少女姿の杏子の姿が見えた。距離があるため小指ほどの大きさにしか見えないが、寂しげな表情がマミにははっきりと見えた。その杏子が、漆黒の泡の中に埋もれるように沈んでいく。

 

『何もかもが怖いんだ……。家族のために祈った事が、結局家族を傷つけた。人のために力を使えば、また人を傷つけるんじゃないかって。それに、眩惑魔法を失ったあたしじゃ、マミさんに迷惑かけるし、最悪あたしのせいで命に関わる。そう思ってマミさんから離れようと思ったんだけど、結局それでも傷つけてしまったよね。そんなあたしだから、このままマミさんにこれ以上迷惑かけずに消えていけるなら、それもいいかなって……』

 

 マミは手で鎖を握ると動かそうとする。が、鎖のような外見とは裏腹に僅かな弛みすら許さず、大樹のように微動だにしない。さらに力を込めると、鎖の鋭利な部分が掌に刺さり、傷口から鮮血が滴となってこぼれる。

 

「佐倉さん! お願いだからそんなこと言わないで……!」

 

 鎖と鎖の間には、腕程度は十分通せそうな隙間がある。ここからリボンを通せば、と考えたマミは黄色のリボンを繰り出すが、隙間を潜ろうとしたところで見えない障壁のようなものがリボンを弾いた。疎に見える鎖の網目だが、鎖がない部分にも何らかの力場が働いているようだ。

 どうにかして鎖をどかせるしかない、そう判断したマミが肩から鎖に体当たりをしても、マスケットで殴っても、硬質化したリボンを剣の様に使い斬っても、鎖はびくともしなかった。マミにはその鎖の堅牢さが、杏子が心に築いた壁の強さに感じられた。 

 

 その時だった。小指の爪ほどの大きさの土色の泡が、意志を持っているかのように泳ぎ、とある鎖と鎖の間を器用に抜けていった。それは、手本を見せてマミを導いているかのように見えた。少なくとも、マミにはそう思えた。

 胸元のリボンを解き、泡が潜り抜けた隙間を狙い通す。果たして、不可視の障壁は効果を顕さず、黄色のリボンが鎖の壁の向こう側へ伸びていく。

 リボンは、土色の泡をかすめて下へ、杏子のもとへと泳ぐ。泡を追い抜くとき、マミはリボン越しにモモの声を聴いた気がした。

 

「――ありがとう」

 

 

 

 既に杏子の姿は漆黒の泡の中に埋もれ、視認できなくなっていた。

 リボンは杏子を追い、蠢く泡の群れに突入してゆく。その瞬間、マミの脳裏に杏子の記憶――本人が触れたくないであろう諸々の記憶――が雪崩のように押し寄せてくる。

 父の誤解、その懊悩、何もできない無力感、家族を喪った絶望、己の行いがその原因となった悔恨、魔法を喪失したこと、そして、マミのためと思いつつ、マミを傷つけたことへの慚愧の念。

 

「……ごめんなさい、佐倉さんの気持ちが分かるだなんて偉そうに言って……こんなにも苦しかったのね……」

 

 深く反省する、が、だからこそ杏子を助け出して謝らなければならないと自らを奮起させ、リボンを持つ手に力を込める。

 やがて、杏子の手首をリボンがしっかりと掴んだ。リボンを通して杏子の体温を感じると、マミは力の限りでリボンを手繰り寄せる。

 漆黒の沈殿はヘドロの様にも見え、相応の抵抗があるかと予想していたのだが、拍子抜けするほどあっさりと杏子の身体は泡の中から引き揚げられた。

 

「佐倉さん、お願い。けがを治して、また私と一緒にいて」

 

 鎖の壁を挟んで相対する位置まで引き寄せられた杏子は、視線を伏せて消え入りそうな声を発した。

 

「マミさん、姉と思ってないとか言ってごめんなさい」

「そんなこと気にしてない。……もちろん、その時はショックだったけど、佐倉さんの気持ち、今度こそよく分かったから。それに、私はひとりっこだけど、佐倉さんなら分かるでしょう? 姉妹喧嘩でなにを言われたって、お姉ちゃんは許すものだって」

「え……」

 

 マミの言葉を理解すると、杏子は顔を綻ばせた。そういえば、よくモモは『杏子の妹になんて生まれてくるんじゃなかったー』『杏子なんてお姉ちゃんじゃない』とか言っていたな、と妹の顔を思い出す。

 

 ――あたし、モモと一緒の事をマミさんにしてたんだ……。

 

 本当に子供みたいだな、と思うと苦笑しか出てこなかった。いや、妹の感情に任せての放言と比べると、相手のことを思っての言葉なので、そっくり同じというわけではないのだろうが、杏子にとってはその差はたいしたことではなかった。

 

「私ね、マミさんに迷惑をかけたくなくって。でもバカだから、心にもない事まで言っちゃって……」

「だから気にしてないの。それよりも、けが治して、これからも一緒にいてくれると嬉しいな」

 

 杏子が両の手を胸の前に回し、リボンを握りしめる。俯き気味に瞳を閉じるその姿は、祈りを捧げる敬虔な修道女を思わせた。

 

「あたし、一緒にいていいの? 迷惑かけない?」

「迷惑くらいいくらでもかけなさい。ひとに迷惑をかけない人なんていないわよ」

「嫌いにならない?」

「もしなったら、そのたびに仲直りしましょう」

「あたしが足引っ張って、マミさんにもしものことが……」

「先輩の実力をなめてるの? あとでたっぷり思い知らせてあげようかしら」

 

 今度は苦笑ではなく晴れやかな笑みを浮かべると、からかうような口振りで杏子は告げた。 

 

「あたしも子供みたいだけど、マミさんも子供みたい」

「あら」

 

 不平を漏らそうとマミが口を開いたところで、世界に異変が生じた。

 全ての鎖に無数の亀裂が走り、高い音をたてて砕け散った。飛散した破片が明るい色の泡と化して浮上していく。その泡は例外なく、マミとの訓練、共闘、そしてささやかな交流の記憶をたたえていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 意識を取り戻したマミの治癒魔法は効果を顕し、佐倉杏子の傷は瞬く間に癒されていく。

 血色を失っていた杏子の頬に、ほんのりとした朱の色が差す。それと引き換えるように、マミのソウルジェムはオレンジの光を失い、黒く濁っていった。

 やがて、杏子が瞼を上げる頃、マミはその姿をパジャマにコートを羽織っただけのものへと変化させる。既に魔法少女への変身を維持する魔力も枯渇していた。その様子を見て、キュゥべえは独りごちる。

 

 ――無理もない。戦闘よりも遥かに多量の魔力を消費していたからね。まぁ無駄死によりはマシではあるか……。

 

「マミさん?」

「良かった……。もう大丈夫ね?」

「うん、えぇと……ありがとう」

『ふたりともずいぶん素直になったんだね』

 

 事情を解さないキュゥべえの言葉に、顔を見合わせてくすくす笑う。キュゥべえに感情があれば疎外感を感じるところだろうが、幸いにして彼にはそういったものを感じる情緒はなかった。ないからこそ、常に論理的に最適解を選び出せる、というのがキュゥべえ側の言い分だが。

 

『まぁ、なによりだよ。それよりマミ、魔力を使いすぎたね』

 

 その言い分に相応しく、現実的な指摘を行う。その指摘を受けて、ふたりの視線が毛布の上に転がるマミのソウルジェムに集まった。

 もとは温かくも鮮やかなオレンジイエローの光をたたえていたそれは、魔力の酷使の果てに墨を落としたような黒に染まっていた。マミは、落ち着いた声で呟く。

 

「覚悟の上だし、しょうがないわね」

 

 魔力を使い切った魔法少女は二度と戦えない、とキュゥべえからは聞いていた。

 マミの理解としては、魔法を使えなくなってしまうか、あるいはマミの場合は、命を繋ぐ奇跡の代価に魔法少女として戦っている以上、魔法を使えなくなるイコール死もありうると考えていた。

 どちらにしろ、佐倉杏子の救命と引き換えになら悔いはなかった。

 

『ここまで穢れてしまっては、もう魔法少女としては――』

 

 続くキュゥべえの言葉は、杏子がポケットから取り出したグリーフシードをマミのソウルジェムに接触させたことで中断された。

 グリーフシードが、ソウルジェムの穢れを身代わりとして吸い上げ、瞬く間にソウルジェムは温かな光を取り戻した。

 

「マミさん、別れた後にあたしの分だってキュゥべえに持ってこさせたでしょ。それだよ」

 

 穢れを吸い込んだグリーフシードをキュゥべえに与えつつ、杏子が頬を指で掻いて照れ臭そうにしてみせる。

 

「半分だけとか言ってたけど、どう見ても全部だったし……。使ってないから、たくさんあるよ」

「助かったわ、本当にありがとう」

「いや、もともとマミさんのだし、そもそもあたしのために魔力を……」

 

 深々と頭を下げるマミに、慌ててしどろもどろに応える杏子だった。

 

 

 

「それにしても、酷い有様ね……。埃だらけだし、この毛布もぜんぜん干してないでしょう」

 

 くたびれた白熱電球の不安定な光の下でも、寝床のすぐ傍に埃が層を成していること、毛布が黒ずんでいることが見てとれた。毛布に触れてみると、汗のためだろうか、わずかに湿り気を帯びているし、襟周りは手の感触でわかるほどに汚れが溜まっている。

 

「そもそも、真冬なのにこんな毛布一枚だけで……」

 

 嘆息すると、厚手のコートを脱いで毛布の上からかぶせ、ぽんぽんと掌で軽く叩く。先ほどまでは治癒魔法による温かさで感じなかったが、それが去ると酷く寒い。

 

「とりあえず寝ちゃいなさい。明日になったら掃除とかしてあげるから」

 

 こくりと頷く杏子を見て慈しむような表情を浮かべると、立ち上がって壁の電気スイッチに手を伸ばす。その動作で、マミの髪からシャンプーの香りが広がり、杏子の鼻腔をくすぐる。

 

「電気消しちゃう?」

「マミさんは?」

「治ったとはいえ心配だものね、今晩はずっと付き添ってあげるわよ」

 

 答えないのは消して欲しくないのだろうと判断して腰を下ろすと、マミの手を杏子が掴み、引き寄せるような仕草をした。その要求するところを察したマミは、嬰児を見るように微笑むと「甘えん坊さんね」と呟き、手を握ったまま身体を横にして毛布に潜り込む。

 マミの胸に顔を埋める杏子は、ずいぶんと久しぶりに、安らかな気持ちで眠りについたのだった。

 

 

 

 

「もしもし? おはようございます、二年の巴です。朝のお忙しい時間にお手数をおかけしますが、田浪先生はいらっしゃいますか? はい、お願いします。………………あ、先生ですか? 巴です。申し訳ないのですが、本日はお休みを頂きたくてお電話を……。え、いえ、大丈夫です。ちょっと、個人的な都合で……。はい、お気遣いありがとうございます。はい、明日は伺います」

 

 スマートフォンで通話するマミの声で、杏子は目を覚ました。寒さを感じて、上半身を起こしているマミの腰に両手を回し、太ももに頬を押し付ける。

 

「おはよう、お寝坊さん」 

 

 通話を終えたマミが、杏子の髪を梳くように頭を撫でながら微笑む。おはよう、とまだ眠そうな声で返すと、杏子は二度寝を決め込むが――「おはようございまーす」と芝居がかった調子で歌うように告げたマミが耳たぶを引っ張ると、悲鳴をあげて飛び起きた。

 

「佐倉さんも学校に連絡する?」

 

 耳を押さえて涙目を見せる杏子にスマートフォンを差し出すが、杏子はかぶりを振って「あたしはいい……」と応えた。三学期に入って一度も学校と連絡を取っていないし、今後も行くつもりはなかったからだ。

 態度からそれを察したマミは、学校には行かないとダメですよ、と耳たぶを引っ張ろうとしたが、今度は杏子にガードされて「むむ」と唸った。

 

 

 

 朝食――スナック菓子とペットボトルのお茶という組み合わせを朝食とすることにマミは難色を示したが、食材もキッチンもない以上どうしようもなかった――を頂きながら、マミと杏子は今後の事を相談した。相談というよりは、マミの一方的な提案であったが。

 

「まずは、佐倉杏子さん個人としての今後ね。私の部屋にいらっしゃい。もちろんここは佐倉さんの大切な教会だから、週に一回くらいふたりできて、お掃除やお手入れをしないとね。あと、学校は見滝原に転校しましょう。手続きは私がするから」

 

 転出届け、転入届け、転居届け、電気・ガス・水道の手続き、転校手続き、そういった諸々を含めて一日あれば、というのがマミの目算だったが、大きく外れることになる。まさか昨年末の痛ましい事件に関する後始末を何も行わずに身を隠していたとは、マミも想像だにしていなかったからだ。

 結果、警察や消防への届け出や事情聴衆も行う必要があり、マミの登校は教師への連絡に反して三日後となるのだった。

 

「あとは魔法少女としての今後ね。前みたいに一緒に戦いましょう。佐倉さんが使い魔と戦いたくないのなら、魔女だけ戦ってくれればいいわ。使い魔なんて私ひとりでも十分だしね」

「うん。……マミさん、知ってるよね、あたしもう幻惑魔法……」

 

 マミは指をすっと突き出して杏子の唇に軽く当てると、遮るように言った。

 

「全部分かってるから……」

 

 辛いことを敢えて口にしなくてもいい、との意図だが、それを察した杏子は「でも、夢の中じゃなくて、はっきりと口にしておきたいんだ」と応えると、過去の事を、心情を交えて赤裸々に語って聞かせた。

 時々言葉に詰まったり嗚咽を漏らす杏子を、マミは急かすでも留めるでもなく、ただ笑顔を見せて静かに聞いている。

 言葉を紡ぎながら杏子は、マミの笑顔を全ての罪を赦し、全ての咎人を包み込む聖人の笑顔みたいだなと感じていた。



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第七話 マミさん、もう何も恐くなくなる

 どっぷりと日が暮れるまで警察署で事情を聴かれ、初日は終わった。

 無理心中と思われる家族ののうち、行方不明だった最後のひとりが二〇日ぶりに姿を現したのだから色々とあるのだろうが、同じような質問や確認を繰り返すことに杏子は正直うんざりしたし、翌日も来てほしいという要求に至っては、公権力に協力的なマミでさえ「ちょっとしつこくないかしら……」と表情を曇らせた。

 

 その後は、マミの強い要望もあって見滝原へ移動することになった。

 食事やお風呂をしっかりとりたいという理由に加えて、未だにパジャマにコートという出で立ちなのだから早く着替えたいと思うのも無理はないことだろう。十四歳時点のマミは、コートさえ羽織れば下に何を着ていても見えなくて便利、と開き直るほどの胆力はなかった。もっとも、生涯そんな胆力など持たない方が人間としては正しいのだろうが……。

 

 

 

 とりあえずお風呂そして夕飯、と仕事帰りのサラリーマンのような優先順位で片付けた後、マミは食器を洗い、杏子はリビングでテレビを見ていた。毒にも薬にもならないバラエティ番組から流れる、情感のこもっていない笑い声を背中で聞きながら、マミは部屋割りについて提案する。

 

「佐倉さんは私の部屋を使って。私はそこのロフトを使おうかな」

「ロフト?」

「うん」

「あたしがそっちにするよ、マミさんの部屋を取るなんて悪いし」

「んー、でも私キッチンやリビングにいることがほとんどだし、佐倉さんがロフトだとプライベートゼロになっちゃうわよ」

 

 とのマミの弁だが、もともと杏子は姉妹で一部屋だったのでさしてプライベートには拘泥しない。そもそも論として、神出鬼没を旨とする猫に似た友人がいる時点で、プライベートはないに等しい。

 

「ま、キュゥべえはいても気にしないけどね。犬猫が部屋にいるからって気にする人はいないし」

『犬猫扱いは心外だな。犬猫と違ってボクはキミのプライベートを暴露できるんだよ、杏子』

 

 噂をすれば影がさす、を体現するように姿を見せたキュゥべえは『もちろんそんな無意味なことはしないが』と断った上で、彼の思うところの本題を切り出す。

 

『杏子、キミはマミと同居するようだけど、風見野の縄張りはどうするつもりだい?』

「どうしよう、マミさん」

 

 振られたマミは、上品な色合いのリネンタオルで手を拭くと、まだ湿った指先を唇にあてて考える素振りを見せる。

 

「風見野を引き継げそうなひとはいるのかしら?」

『いや。候補はいるにはいるが、まだ契約もしていない段階だ』

「それじゃ、選択肢はないわね……、ちょっと大変だけど、両方みないと。曜日でパトロールする場所を分けるとかかしら……」

『そうだね。そうしてもらえるとありがたい』

 

 用件だけを済ませて姿を消そうとしたキュゥべえだったが、マミが温めてから冷ましたミルクを平皿に入れて運んでくるのを確認すると、居住まいを正して待つことにした。

 

「キュゥべえはミルク好きよね」

『ボクに好きという感情はないが……この飲み物は栄養が豊富だね』

 

 以前に冷ましていない状態で与えられた時は熱くて飲めず、何が面白いのか巴マミが「やっぱり猫舌なのね」と嬉しそうにしていたことをキュゥべえは記憶していた。

 

『それに丁度いい温度だ。熱いと飲みにくいからね』

「キュゥべえ、やっぱ猫舌なんだ」

 

 巴マミと同じことを顔を綻ばせて言う佐倉杏子を見て、キミたちはワケがわからないよ、とキュゥべえは独語した。

 

 

 

 

 風見野の中学校に在学証明書を取りに行くことを杏子が嫌がったこと以外は、つつがなく手続きは完了した。

 それから一週間。

 佐倉杏子も見滝原中学に登校することになるが、見滝原の制服は当然ながら間に合わず、さりとて風見野で使用していたセーラー服は魔女の溶解液でボロボロになっていた。

 それを口実に自主休講を希望する杏子だったが、マミの「指導」を受けてしぶしぶ登校に同意する。幸い、マミには替えの制服が数着あり、それを借りての登校となった。

 

「サイズ、ちょうどいいね」

 

 とは見栄を張った杏子の言葉だが、実際に背丈とウェストは少し大きい程度で「ちょうどいい」と称しても嘘でない範囲ではあった。

 それに、校則では登下校時は「華美でなければ」の但し書きがつくもののダッフルコートやPコート、パーカーの着用が認められており、多少はサイズが合わなくても隠すことができる。

 マミから借りたグレーのPコートは、マミが普段登下校に使用しているだけあって文句なしに「華美でない」ものだ。

 その代わりにマミが羽織っているものは、明るいオレンジのダッフルコートと、少々校則をはみ出しそうなものになっている。

 先生方には信頼度の貯金をしてあるから、この程度は見逃してもらえる、とはマミの弁だが、自分のせいでマミが叱られるようなことはないだろうかと杏子は登校中、気が気ではなかった。

 

「おはようございます」

 

 校門に立つ、いかにも学校の風紀を一手に担っているという風格の教師に挨拶をする。

 角刈りのその教師が、マミの服装を何ら咎めることなく挨拶を返すのを見て、杏子はようやく安堵した。それと同時に「さすがマミさん」とよく分からない理由で感心する。

 

 

 

 

 

 

「初日はどうだった?」

 

 帰り道でマミに問われた杏子は「お弁当おいしかった」とズレた返答をしてマミを苦笑させた後、「特に問題なかったと思う」と告げる。

 授業内容はこの数日スパルタ気味の予習を受けたおかげで既知の範疇だったし、教師や級友との受け答えも大過なく行えた。

 うんうん、と満足気に頷くマミの、じゃぁ帰ったら復習を兼ねて理解度テストをしましょうか、という言葉を聞いた杏子は、

 

「マミさん、お姉さんじゃなくてお母さんだ……」

 

 小声でこぼすと、話を逸らす様に続ける。

 

「それより、このままパトロールに行こうよ!」

 

 その提案は快く受け入れられたが、結局のところ理解度テストはパトロールを終えて帰宅した後、マミが夕飯を作っている間に実施されることになる。

 意外と高得点をマークした杏子に、マミは機嫌を良くしてお菓子作りの腕を振るった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 数日が経った。

 そろそろ気の早い商店がチョコレートの特設コーナーを設け始める季節。お気に入りのブリュッセル発のチョコレートメーカーも、この季節はアソート物以外に製菓用の割れチョコを販売するので、大人買いをするのがこの時期の巴家の恒例行事になっていた。

 

「そ、そんなに買うの……?」

 

 杏子が驚くのも無理はなかった。

 巴マミが買い物カゴに入れたのは、千グラムの袋入りのものを八袋。板チョコにすれば百五十枚近い量になる。

 一年をかけてお菓子作りに使うのだから、けっして多すぎるというわけではないのだが、杏子の目にはそうは映らなかった。

 

「このまま食べるわけじゃないし、もちろんいっぺんに食べるわけでもないですからね?」

 

 製菓用のはそのまま食べてもイマイチだから、と付け加えるあたり、少なくともそのまま食べた経験があることが伺えるが、佐倉杏子はそこは気付かない振りをして流す。

 

「そのまま食べるのはこっち」

 

 マミは可愛らしいリボンのついたオレンジ色の箱を嬉しそうに胸の前に掲げてみせると、オレンジピールのチョコですごく美味しいから、あとで頂きましょう、と満面の笑みを浮かべる。

 

「せめてパトロール終わってから買えば良かったんじゃ……」

「だーめ。売り切れたらどうするの?」

 

 どうするの、と問われても杏子は答えに窮してしまう。

 売り切れたら売り切れたでいいじゃん、というのが杏子の偽らざる本音だが、ここまで嬉しそうな姿を見せられるとそうも言いにくい。結果、「それは困るね」と感情のこもっていない言葉を返すに留まる。

 

「あら、食べたあともそんなそっけない態度でいられるのかしら」

 

 悪戯っぽく笑うマミの言葉の通り、帰宅してチョコレートを食べた杏子は態度を改めることになるのだが――それはここでは措く。

 

 

 

 チョコレートブランドのロゴが入った赤い手提げ袋を幾つも揺らしながら、器用にソウルジェムを掲げてパトロールをするふたりの姿が、夕陽に照らされて長い影を作る。

 マミは本来のグレーのPコート、杏子は購入したてのネイビーのPコートで、マミのものより丈が短く、活動的な印象を与える。

 このPコートに限らず、生活費から服飾費まで全てマミに負担してもらうことを心苦しく思った杏子は、そのことを相談したのだが、マミに「両親の遺産と保険金だから気にしないで。どうせ社会に出たら、残った分は寄付するつもりだから」と諭された。

 マミ曰く、「今は子供だからありがたく使わせてもらっているけど、大人になったら自分の力で生きていかないと、ね」ということらしい。

 それを聞いたときは、立派だと思う気持ちが半分、勿体ないと思う気持ちが半分だったが、改めて考えると、自分に負担を感じさせないための言葉だったのかもしれない、と杏子は思う。

 

「あ……」

 

 マミのソウルジェムが反応を示した。

 ジェムに浮かぶオレンジの光は弱く、瞬きの間隔も長いことから、かなりの距離があることが伺える。

 このことは、突然結界が現れたわけではなく、マミたちが移動することで既存の結界を探知範囲に捉えたことを意味する。つまり、既に結界に囚われた犠牲者がいる可能性も高い。その認識から、ふたりは足を速めた。

 少し遅れて、杏子のソウルジェムも反応を見せる。

 移動した距離を鑑みると、マミの探知距離に比べれば杏子のそれは百メートル程度劣ることになる。僅かな距離ではあるが、実際にパトロールを行うとこの差が大きな効率の差となって跳ね返ってくる。

 

「使い魔、ね……」

 

 マミはソウルジェムの挙動から、結界の主を断定した。そして横を歩く杏子に顔を向けると小さな声で告げる。

 

「無理はしないでいいわよ、佐倉さんのしたいように……」

 

 杏子が使い魔と戦うことを躊躇う理由を、マミは理解していた。

 以前に、言葉で聞いたことでもあるし、また直接的に記憶を見たことでもあるが、佐倉杏子は自分の願いや魔法が家族を傷つけ、巴マミも傷つけたことを悔いていた。

 その経緯から、自分の力を他人のために使用することは、結局他人を傷つけることになるのではないか、と恐れている。自分の都合で、自分のために、と限定して力を振るえばそういった過ちは繰り返さないだろうというのが彼女の理屈だが――

 

「うん……ごめんね、マミさん」

「ううん。気にしないで」

 

 視線を落として応える杏子に、マミは明るい声で返す。

 身体の傷はどんなに酷くてもすぐに癒える――ましてや治癒の魔法を操る魔法少女ならなおのことだ――が、心の傷は長い時をかけて癒すしかない。

 しかも、身体の傷と違い心の傷は塞がったかどうか見てとることはできない。無理強いは論外として、焦ったり、軽々に考えることも努めて避けねばならない。そうマミは肝に銘じている。

 

「それじゃ、悪いけど荷物お願いしていいかしら?」

 

 頷く杏子にチョコレートの手提げ袋と通学鞄を手渡すと、マミはウィンクして駆け出した。

 

「倒したら連絡するから、合流しましょう。いってきます!」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 三月に入った。

 まだ朝に吐く息は白くコートは手放せないが、寒緋桜や馬酔木がその花で通学路を彩り、早春の訪れを誇示していた。

 杏子には、この景色がとても華やいで見えた。理由は簡単で、学年末テストが先日終わったからだ。「普段から勉強しておけば、テストだからって慌てずに済むでしょう?」とマミが以前言ったように、テストだからといってとりたてて気を張って勉強したわけではないが、それでも解放感は大きい。

 並んで通学路を歩いていると、マミが杏子に語りかけた。

 

「今日は、学校に戻るのは予定だと四時半だから、佐倉さんは先に家に帰ってて」

 

 渋滞で遅れる可能性もあるから、と付け加える。今日は二年生は時期外れの遠足だ。行き先は、貸切バスで片道一時間強の距離にある大型の水族館。

 

「私がいないからって怠けたりしないで、宿題と復習を済ませておくのよ?」

「はーい」

 

 両手を頭の後ろに回し、形だけの返事をする杏子は、マミさんがいないなら久しぶりにジャンクフードを堪能しつつテレビ見てよう、と青写真を描いていた。

 同居してからというもの、身体に悪いからとジャンクフードはほとんど食べさせてもらえない。美味しいケーキや紅茶を作ってもらえるとはいえ、ジャンクフードはジャンクフードで恋しく感じていた。

 

「ポテチ系は小袋一個、炭酸とかのジュースはコップ一杯までね」

「あれ、テレパシー漏れてた?」

「テレパシーは出てないけど、顔に出てました」

 

 杏子の考えを読んだように指摘したマミは、控えめな声で笑う。対照的に杏子は肩を落とした。言われなければ、スナック菓子の大袋を丸ごと食べようと思っていたのだが、言い付けられた以上は従わざるをえない。

 その様を見て仏心を出したマミは、「もう……じゃぁ、夕飯に差し支えない範囲でなら、好きに食べていいわよ」と大幅に譲歩し、杏子は顔を輝かせて「うん!」と応えた。

 そして、マミの気が変わらないうちに話を逸らそうとするかのように、遠足の話題に切り替える。

 

「それにしてもマミさんはいいなぁ、あたしもジンベイザメに餌あげてみたい」

「一年生は毎年耐寒登山だからね……でも佐倉さんなら体力あるしぜんぜん平気だったでしょう?」

 

 一か月ほど前に行われた一年生の遠足は、こちらもバスで片道一時間強の位置にある標高千メートル程の山地に登るという、なかなか前時代的なものだった。希望者と脱落者はロープウェイで山頂まで移動はできるが、杏子は当然徒歩で山頂を制覇した。

 

「あれはあれで楽しかったけどね。猪やテンも見れたし」

「うそっ。大丈夫だったの?」

「見たといっても、向こうの斜面にいるのが見えたって感じ。さすがに人の近くには来ないよ」

 

 その言葉に胸を撫で下ろすマミを見て、杏子は不思議そうに「猪なんて魔女より弱いじゃない」と素直な感想を漏らす。

 

「それはそうかもしれないけど……猪怖がらないって女子としてどうかしら」

「怖くもないのに怖がるフリしてたら、ぶりっ子じゃない」

「んー、そうねぇ……」

 

 結局、どちらの対応が女子として正しいか、という議題については学校に着くまで結論は出なかった。つまりそれは、杏子の話題逸らしは申し分なく成功したことを意味する。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ――やっばーい!

 

 内心で叫びながら、巴マミは疾駆していた。

 友人とお昼をとった後、水族館を見学している最中にソウルジェムが反応を見せた。当然のようにマミは集団を抜け出して魔女退治に向かっていたのだが、不案内な土地のために予想以上に移動に時間がかかってしまった。

 ジンベイザメを含む午後のプログラムに参加できなかったことも残念だったが、それ以上にバスの出発時刻が間近に迫っていることが切実な問題だ。水族館のプログラムは不在でもさして問題はないが、バスの点呼でいないとさすがに不味い。

 

 ――帰るだけなら変身して移動すればなんとかなるけど……バスにいないと大騒ぎになるわよね。

 

 腕時計を見やると、予定出発時刻まであと一分を切っている。出発まで一分なので、点呼は始まっている時間だ。

 

 ――なんだか最近先生への信頼度貯金がどんどん削れていってる気がするわ……。

 

 

「木場さーん、桜井さーん、島田さーん、涼宮さーん」

 

 合間合間に呼ばれた生徒の返事を交えて、教師の声が響く。おとなしい返事、ハキハキした返事、不機嫌そうな返事、それぞれに性格の表れた返事を受けながら、教師の点呼はついにタ行に及んだ。

 

「小鳥遊さーん、巴さーん」

 

 そこで、返事がないために教師の声が止まる。一拍おいて、語尾を上げて再度マミの名を呼ぶ。首を動かして周りを見渡し、マミの姿を探しながら、三度「ともえさーん」と大声をあげると同時。

 

「は、はーい!」

 

 バスが並ぶ駐車場の入口から、マミが手を振りながら姿を現す。息を切らしているのは演技ではなく、魔法による強化を遮断しているためだ。

 おぼつかない足取りで教師の前にたどり着くと、上半身を屈めて肩で息をする。

 どうしたのですか、と尋ねる教師に、

 

「ごめんなさい、他の学校に間違ってついていっちゃいました」

 

 マミがあらかじめ用意しておいた言い訳を告げると、級友達から笑い声が漏れた。つられて教師まで破顔する。

 

 ――私、こういうキャラじゃないんだけどな……。

 

 マミは心の中で抗議しつつ、この街の少女ひとりを魔女から救えた満足感から頬を緩めたのだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ちょうど同時刻。

 授業を終えた佐倉杏子は下校をしていた。

 マミと一緒に帰宅するのは楽しいのだが、それでも久しぶりにひとりで帰るのは新鮮で解放感がある。

 その解放感を買い食いという形で存分に味わいながら、普段は通らない池沿いの並木道を歩いていた。

 いつもと違う帰路に深い意味はない。単純にいつもの帰路を大きく逸れて老婆の開く駄菓子屋に寄っていただけだ。

 

 シャクッ。

 

 小気味良い音をたてて一本十円のコーンパフ棒が半ばで噛み折られる。

 普段食べるマミの料理やお菓子と違って、無駄に濃い味付けで雑味に満ちているが、育ちざかりの身体はこういったジャンクな味わいも求める。

 スクールバッグと並んで揺れているビニール袋には、このお菓子があと八本、それぞれ違うフレーバーのものが入っている。その他には、小粒なチョコレートが五個、自分で練って作るお菓子がひとつ、あとヨーグルトの名を冠したペースト状の何かがふたつ。

 これを見ればマミは深い溜息をつくだろうが、夕飯に差し支えない範囲という抽象的な指定をしたマミの落ち度だった。

 当の本人は約束をしっかり守っているという認識で、ひとかけの罪悪感さえなく四本目のコーンパフを喉に流し込む。心の中で「この味はあたり」「これは六十点」等と寸評を披露しながら歩いていると、不意にソウルジェムが反応を示した。

 お菓子を求めて遠回りになったことが、結果的にパトロールになった形だな、と我田引水な理屈で満足気に頷き、ソウルジェムを掌中に取り出す。

 

 シャクッ。

 

 五本目を三〇点と評すると、歩く速度を速めた。

 

 

 

 

 

「あ……」

 

 多少右往左往した後、自然公園の片隅に結界を発見した杏子は、落胆の声を漏らした。

 魔力の波動から、使い魔の結界と判断したからだ。

 

 ――……帰ろう。

 

 小粒のチョコレートの包み紙を剥がして口腔に放り込むと、チョコごと中のアーモンドを噛み砕きながら杏子は踵を返す。

 

 ――結界に近寄るまで、魔女か使い魔か判別できないのは不便だなぁ。

 

 今更ながらにそう考える。

 まじめに判別する練習しなきゃな、と足元の小石を蹴飛ばすと、飛んだ小石がこちらを向いて歩いてくる子供の靴に当たった。

 

「あっ、ごめんよ」

 

 モモと同じ年頃の子供は、謝罪する杏子の声に反応を示さない。

 足を引きずるような生気のない動きで子供は歩み、杏子と交差した。

 交差する時に横目で見ると、子供の首筋には魔女の接吻があった。

 振り向き、子供の動きを目で追う杏子。

 数歩、おぼつかない足取りで歩むと、子供は結界の中にかき消える。

 その姿を見送る佐倉杏子の胸中には、年端もいかない子供を救いたいという想いが確かにあった。だが、彼女はその想いに自ら蓋を被せる。

 

 ――あたしが助けても、あの子を傷つける結果になるんだ。

 

 佐倉杏子は、他人のために祈ったことが不幸を招いたと理解している。

 その理解は正しいのかもしれない。

 しかし、それはあくまで幸せをお仕着せにされた他人が不幸になる、という意味合いであって、佐倉杏子自身が不幸になる要因ではない。

 佐倉杏子自身の不幸は、彼女の願いの本質が「家族との幸せな生活」であったことに対して、その手段としての「父の信仰が認められること」を願ったことにあった。

 手段が本質を助けていた時は良かったが、やがて手段と本質は齟齬を見せ破綻した。

 願いの本質を祈らなかったことが招いた破滅なのだが、彼女は手段に問題があった、と考えてしまった。

 そのために、他人のために力を振るうという、手段として祈ったものを忌避するに至った。

 その思い込みは、杏子の中で澱のように蓄積され、もはや容易には拭えなくなっていた。杏子はその思い込みで自分に言い訳し、感情に蓋をすると、結界から遠ざかる方向に歩き出す。

 

 ――マミさん、このことを知ったら、怒るかな。

 

 重い足取りで歩きながら、思考を巡らせる。

 

 ――たぶん、マミさんは怒らないし、責めもしないだろうな。ただ、とても悲しむだろう。

 

「悲しませたくはないな……」

 

 思考が言葉となって漏れた。

 

 ――マミさんの悲しむ顔を見たくないから戦う、それでいいんじゃないかな。

 

 他人のためでなく、当のマミのためでさえなく、そうした方が杏子の気分が良いから自分のために戦う。

 屁理屈、詭弁の類なのだろうが、そもそも彼女の中で、答は既に――教会の地下室でマミに助けられた時に――出ていた。あとは自分を説得する理由付けがあればそれで良かった。

 そう思うとマミの「私は自分の自己満足のために正義の味方をしてるだけで、偉くなんてないわよ」という言葉が理解できる気がした。知らず、杏子の口元が綻ぶ。

 まるで、マミが行うように、殊更に芝居がかった動作で杏子は振り返る。

 そして、マミのするように、舞うように腕を廻し、ソウルジェムを前に突き出すと、その姿を魔法少女へと変えた。

 願いの本質である「家族――巴マミとの幸せな生活」をひたすら肯定することにした杏子に、もはや迷いはなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「そこの坊や、これ以上進むと命の保証はないよ」

 

 結界に侵入し、すぐに子供に追いついた杏子は、後ろから声をかける。

 話しかけられた子供は、振り向くことすらなく奥へと歩を進めようとする。

 先ほどの顛末から、そうなるだろうなと想定していた杏子は、子供に駆け寄ると手刀を子供の首に打ち込む。

 

「ごめんな。優しく止めれるほど器用じゃないんだ」

 

 マミさんなら、リボンで拘束するなり、睡眠魔法を使うなりで上手に子供を止められるのだろうけど――そう思うと、罪悪感がわく。

 先程の使い魔と魔女の判別にしても、睡眠魔法にしても、杏子は決してサボっているわけではないのだが、優先順位として魔女との戦いに直接役立つことをまず学ぼうとしていた。そのため、まだそういった知識、搦め手には疎かった――もちろん、杏子生来の攻めを好む性格によるものもあるが。

 意識を失って倒れこんだ子供の手に、杏子は八本目のコーンパフを握らせた。最後にとっておいたお気に入りのフレーバーだ。

 

「これあげるから、勘弁な」

 

 十円の慰謝料を掌に押し付けられた子供を見下ろすと、なんにせよ救えて良かった、と微笑みを浮かべた。

 

 

 

 結界の最深部に辿り着いた杏子は、大きく成長した使い魔と対峙した。

 その使い魔は掛け値なしに大きく、身の丈にして杏子の倍、横幅にして杏子の三倍はある。かなりの数を犠牲にしてここまで成長していると思われるその体躯は、魔女へと孵る寸前であることを示唆していた。

 

「……これなら魔女か使い魔か、わかんなくてもしょうがないよね」

 

 誰に言うでもなく弁解を口にすると、大身槍を極端な下段に構えた。

 穂先を下向きにしつつも前に突き出す槍術や剣術に見られる下段の構えとは異なり、槍をほぼ地に対して垂直に立てる、薙刀術の下段に近い構えだ。槍の利点の多くを殺してしまう構えだが、回避を重視しカウンターを繰り出すことに特化している。

 

 マミというパートナーを失い、ロッソ・ファンタズマという切り札を失い、その上に治癒魔法まで失って戦った厳しい経験は、彼女に長足の進歩をもたらしていた。

 過去の戦いは、言葉は悪いが大味なものであった。自分に攻撃が来れば大きく避け、幻影に攻撃が逸れればそれに乗じて攻める、言ってしまえばそれだけだった。

 だが、全てを失うことで、魔女の攻撃を最小の動作で避け、的確に反撃を叩き込む技術が必要になった。

 魔女の攻撃は全て自分を狙い、些細な傷ですら生死に関わる環境。その環境下で、佐倉杏子の戦いは洗練された。

 魔女の突進を半歩動くことで避け、すれ違いざまに大身槍で薙ぐ。

 魔女の打撃を弾き返すのでなく槍で流し、その勢いを利して石突きで叩く。

 決してこれまでのマミの指導が無為だったわけではない。マミが鍛え教えた技が、厳しい冬を越すことでようやく結実したのだ。

 結果。文字通り、傷一つ受けることなく杏子は勝利した。これが格闘ゲームなら今頃杏子の頭上には『Perfect』の文字が躍っているはずだ。

 しかし完全勝利を飾った杏子は、主を失って崩れていく結界を見つめながらも驕ることなく、魔女の判別や睡眠魔法をしっかり修行しようと兜の緒を締めなおしていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 どうせお菓子を一杯食べたんでしょうから軽めのものにするわね、と杏子をドキリとさせる一言を放つと、マミは夕飯の準備にかかった。

 

「そ、それほどでも、食べてないよ」

 

 動揺のためか、しどろもどろに日本語としておかしい言葉を杏子が返すが、その反応がなにより雄弁に杏子の所業を物語っている。それを受けたマミの「今日だけ特別だからね」との声がキッチンから届く。

 あるものは櫛切りに、あるものは短冊切りに、あるものはダイス切りに。手際よく包丁を動かしながら、食材の名前を列挙する歌を即興で口ずさむマミ。

 杏子はマミの書いた魔法ノートに目を通しながら、キッチンから聞こえる歌に耳を傾ける――即興なのにうまく続くものだなと感心していたが、よく聞くと繋ぎに困ると「ごはん、ごはん」で誤魔化しているようだった。

 

 やがて、睡眠魔法や拘束魔法のページに入ると、マミの歌が耳に入らないくらいに集中して貪るように読む。

 いつの間にやらキッチンからリビングに来ていたマミが、杏子の肩口から覗き込むように顔を寄せても、杏子は気も付かずにノートに意識を傾けていた。

 

「すごい集中力ね」

 

 その言葉でようやくマミに気付くと、先程と同じくしどろもどろに言葉を紡ぐ。

 

「悪戯を見咎められたわけじゃないんだから、そんなびっくりしなくても」

 

 口元をミトンをはめた手でおさえて微笑むと、マミは「どうして急に睡眠魔法に興味を?」と疑問をぶつける。

 マミの記憶では、杏子はこういった間接的な魔法にはあまり熱心ではなかった。それだけに突然の行動にギャップを覚えた。

 もちろん、理由の如何に関わらずやる気を出してくれることは歓迎ではあるので、本人が渋るようなら無理に聞き出そうとは思っていない。

 

「んっと、どこから話せばいいかな……」

 

 杏子が小首を傾げ、何か字でも書くかのように指先をノートの上に滑らせる。伏せるような事でもないのだから、包み隠さず話すつもりではあるが、言葉の通りどこからどう話せばいいか思考する。

 そして、長くなっても最初から――買い食いのことは省略して――話そうと決め、「えと、今日ね……」と語り始めた時に、キッチンから陶器がぶつかり合う音と、蒸気が噴き出す音が聞こえてきた。

 

「やだっ、お鍋ふいちゃう!」

 

 スリッパの音をたててキッチンに走るマミの背中を、話の腰を折られた杏子は苦笑して見送った。

 

 

 

 湯気のわきたつミルクスープパスタをテーブルに並べながら、「さっきの話、食べながら聞かせてちょうだいね」と話しかけるマミに杏子は頷いて応える。

 あれだけ駄菓子を食べたというのに、ミルクと野菜の渾然一体とした香りが鼻腔をくすぐると食欲が鎌首をもたげてくるのが不思議だ。嗅覚のみならず、色とりどりの野菜――大根、キャベツ、玉ねぎ、マッシュルーム、スライスガーリック、白菜、白ねぎ、ブロッコリー、エリンギ、アスパラ――が視覚からも食欲を刺激する。

 ただ、色彩という点では大きなウェイトを占めそうな人参は入っていない。

 それというのも、杏子が自ら明言したことこそないが、人参が苦手であろうことを態度からマミは察していたからだ。

 食卓に人参を出せば食べてはくれるのだが、目を閉じて、ほとんど噛まずに飲み込むように食べる――そんな姿を見るのは忍びなく、マミは料理に人参を使うことを控えている。

 嫌いだ、食べれないと我儘を言うより、そういう健気な姿勢を見せる方がマミには「効く」のだろう。

 いただきますの挨拶を唱和すると、片方は音を立てず、片方は僅かにフォークと食器の触れる音をさせて食事を進める。

 ある程度空腹を満たし、フォークの動きが緩慢になった頃を見計らって、杏子は先ほどの話を切り出した。

 

 

 

「……と、いうわけで、結界に入っちゃった子供を止めるのに気絶させるしかなかったから、ちょっと可哀そうだったなって」

 

 適度に相槌を入れながら聞き役に徹していたマミは、一段落したのを確認すると口を開いた。

 

「そうなんだ……ひとりで大丈夫だった? 佐倉さんは強いから平気とは思うし、結界に入ってった子がいるなら私を待つわけにもいかないのは分かるけど、ちょっと心配だわ」

「あ、うん……使い魔だったから、楽勝だったよ」

 

 杏子がひとりで戦ったということから、当然魔女が相手と思い込んでいたマミは、その言葉に目をぱちくりとさせる。

 

「えっと、佐倉さん、使い魔?」

 

 日本語に不慣れな外国人のようなマミの言葉だが、問うている意味は杏子には通じた。

 

「あたしもこれからは一緒に戦うね、使い魔も」

 

 言葉は静かだったが、マミをみつめる瞳には強い意志が宿っていた。それを見てマミは、本当にいいの? という確認は余計だと理解した。その代わりに、笑みを見せて力強く伝えた。

 

「嬉しいわ。おかえりなさい、佐倉さん」

「うん、ただいま」

 

 よーし、と言って伸びをするように両腕を上げると、マミは席を立った。

 

「じゃぁ、お祝いにとっておきのチーズでケーキでも焼こうかなー」

 

 そして、杏子を悪戯っぽく見つめて続ける。

 

「佐倉さん、まだ食べれる?」

 

 それを受けた杏子は、駄菓子と夕飯で膨れたお腹を撫でさすり、唸り声と視線でギブアップを表現した。

 

「食べれないなら、私ひとりで食べようかなー」

「お祝いは明日にしない? 今日はパトロールもまだだし」

「でも、お祝いはその日にしないと……」

 

 困った困ったとこぼしつつ会心の笑顔を見せるマミに、「マミさん案外意地悪だよね……」と杏子は肩を落としてみせた。

 

 

 

 結局ケーキは翌日に持ち越しになった。

 マミは食器を洗いながら――ちなみに、杏子はゴミ出しやお風呂掃除を担当しているので、何もしていないわけではない――、ふと考える。

 自分の力を他人のために使うと他人を傷つけてしまうという虞り、その気持ちの整理が出来たのなら幻惑魔法ももしかすると使えるのかも、と。だが、非常にナイーブな問題であることもあって心の裡に留めおく。

 マミの推量は正しかった。

 祈りについての強い悔恨は未だ杏子の中に強く残るものの、祈った事実そのものを否定する気持ちは薄れている。切っ掛けさえあれば、この時点で幻惑魔法を再び使うことも充分に可能だったろう。

 

 しかし、彼女が再びロッソ・ファンタズマを使うのは、半年以上後のこととなる。

 

 

第一部 マミさん、もう何も恐くなくなる   完



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マミさん、魔法少女の使命にめざめる
第八話 マミさん、パッとしない少年を助ける


少し、過去の話になります。マミさんが中学二年生の春の話です。
五話程度の予定です。


 ガソリンの臭い。ゴムの焼ける臭い。傷口から溢れる血の臭い。

 口腔を埋め尽くす血液の鉄の味。視界を染める血液の赤。

 息ができないのは気道を満たす血液のせいか、充満する黒煙のせいか。恐らくはその両方。

 車の前部座席は原型を留めていない。ひしゃげた鉄塊がトリガーを押し込み、クラクションがけたたましい音をいつまでも鳴り響かせる。

 

 地獄というものが本当にあるのなら、今の状況こそがそれに相応しいだろう。

 その地獄は、乗用車同士の正面唐突という一瞬の事故で現出した。

 

 朦朧とする意識の中、一筋の蜘蛛の糸が垂らされた。それを手繰り操るのは、少女の視界の端に映った猫に似た白い生き物。

 それは口を開くこともせず、直接言葉を脳に届けてきた。

 

『ボクと契約して、魔法少女になってよ!』

 

 少女はすがるように手を伸ばし、かすれた声で告げた。

 

「助けて」

 

 

 

 

 このひと月ほどで何度も何度も繰り返し見た悪夢。

 これも何度も何度ものことであるが、その夢のため少女は夜半に覚醒した。

 深海から力ずくで海面へ引き上げられるような、穏やかさの欠片もない目覚め。

 額に鉛でも注入されたかのような鈍い痛みと裏腹に、意識だけははっきりしている。

 寝相は悪くないと少女は思っていたが、布団や寝間着の有様を見るに、それは思い上がりだったのかもしれない。

 薄闇の中、瞳を開き見慣れた天井の模様を眺める。

 

 ――どうしてなんだろう。

 

 悪夢の内容を、反芻するかのように思う。

 ひと月ほど前に、少女の家族を襲った交通事故。そこで少女は、猫に似た生物と契約して命をながらえた。

 

 ――どうして私は「助けて」なんて自分勝手なことを願ったんだろう。

 

 瞳から溢れた悔恨の涙が、目尻から頬を伝い落ちて寝具を濡らす。

 

 ――私たちみんなを助けて、といえばパパとママも助かったのに。

 ――事故をなかったことにして、といえばパパとママどころか相手の人も助かったのに。

 

「ごめんなさい」

 

 力ない声が、少女の唇から漏れる。

 一度漏れた言葉は、何度も繰り返されるが、やがて涙で声にならなくなる。

 利己的な願いの罰として、こうして不安で寄る辺ない夜を過ごさないといけないのだとしたら「許して」と口にする資格すらない、と彼女は自分を縛る。

 

「あの時、死ぬべき……だったのかな」

 

 気分が沈むと、いつも考えてしまうことだった。いや、正確には、気分が沈んでいない時などなかった、あの事故以降は。

 奇跡によって生命をつないだといっても、今の自分に何が残っているというのだろうか。

 押し殺した声で泣く彼女。それを赤い目で見つめる白い生き物は、暗闇の中いかなる感情もその面に見せなかった。

 

 

 

 

 カーテン越しに届く朝日が、まだ湿り気の残る少女の頬を乾かす。

 目尻に涙が固まって違和感があるが、少女は意志の力で瞳を開けると、布団の中で大きく伸びをする。

 目覚ましが軽快な曲を奏で始めた。一音節も終わらないうちに、少女の伸ばした手がアラームを止める。目覚ましの鳴る時間より僅かに早く起きるのは彼女の習慣のようなものだ。

 

「おはよう」

 

 鈴を転がすような声で独りごちる。日によっては猫に似た生物が挨拶を返すが、今日はないようだった。

 時刻は朝六時。家を出る時間が八時なので、時間はあるように思えるが意外とそうでもない。

 お弁当作りとそのついでの朝食の準備に四〇十分程度(ゴミ出しのある日は品数が減り三〇分に短縮される)、髪のお手入れに二〇分程度、洗顔と歯磨きに二〇分程度、朝食と片付けに二〇分程度、出かける支度に一五分程度、朝の星占いの確認に五分程度。

 よどみなく朝の雑事を済ませても、猶予は一〇分あるかどうかというのが毎日の常だった。だが、その忙しさを嫌うのではなく、何かをしている方が気が楽でいい、と少女は思っていた。

 ちなみに、今日は順調に進んだので新聞の文化面にまで目を通す余裕があった。

 

 

 

 時間通りに家を出ると、少女は通学路を歩く。

 少女の名前は巴マミ。

 美しさと愛らしさが同居しているが、まだ中学二年生になって間がないという年齢もあって、天秤にかければ愛らしさに傾く。

 もっとも、美しさも平均的な女子と天秤にかければ大きく傾くだけのものがあるので、彼女の美しさと愛らしさを秤にかけるには、かなりに頑丈な天秤が必要になることだろう。

 特に愛らしさが表れているのは瞳だろうか。大きく丸い瞳は、内面を現すように目尻が下がり穏やかな印象を見る者に与える。夜半目が覚めたこともあり寝不足気味なはずなのだが、腫れぼったさは欠片もなく、瑞々しいまでの若さをたたえている。

 その瞳が、通学路の少し先を歩く一人の男性を捉えた。

 

「おはようございます、田浪先生」

 

 静かだがよく通る声で、マミが男の背後から挨拶をする。呼ばれた男は足を止めて振り返ると、マミの姿を認め挨拶を返した。

 肩まで伸ばした長髪と、長身痩躯と表現してもなお痩せ過ぎている身体が特徴的なその男、田浪先生とマミに呼ばれた彼は担任教師だった。前世紀のミュージックシーンをリスペクトしているらしく、生活指導の教諭の再三再四の指摘にも関わらず髪を切ることを拒んでいた。といっても頑固という性質からは対極に位置し、常に生徒目線で接することから生徒たちからは好かれている。

 マミも彼に良い印象を持っているが、それ以上に先月の事故の際にさまざまに骨を折ってもらった恩があった。彼が後見人、保証人になってくれなければ、マミがどんなに希望しても見滝原にひとりで残ることは叶わなかっただろう。

 少し小走りに先生のところまで駆けると、マミは足を緩めて並んで歩く。

 

「うまくやってるか? なんかあったら何でも言ってこいよ」

 

 威厳というものを投げ捨てたその態度は、マミに親しみをおぼえさせる。

 

「大丈夫です。ご飯は美味しく炊けるようになりました」

「まだそこか」

「はい、なにぶん初めてのことばかりですから」

「料理が教えられそうな先生は、うちの学校にはいないしなぁ……」

 

 女性教諭が聞けば目を剥いて怒りそうなことをこぼしながら、あごの剃り残しを指の腹で撫でる。

 

「そんなことはないと思いますけど……でも、けっこうレシピが充実しているので楽しんでやれてます」

 

 半分は嘘である。

 独学で楽しんでいるのは事実だが、料理をしながら母の遺したレシピ集へ不平不満をこぼしていることを、彼女の同居人である白い猫――のような生き物はよく知っていた。

 もっともその不平不満も「適量っていくらなのよ?」とか「充分に火が通るまでって何分なのよ~」といった、不満に感じる方に問題があると思われるものなのだが。

 

「そのうちに、会心の一品ができたら食わせてくれ」

「はい、そのときは毒見をお願いしますね」

 

 花のように顔を綻ばせると、前を向いたまま話題を変えた。

 

「先生、その髪って願掛けかなにかなんですか?」

「ん、そんな大層なわけじゃないんだが。そもそも巴の方がそのロールとかせば長いだろう」

 

 指摘された通り、左右におさげにして縦巻きにカールさせているマミの髪をほどけば、腰上まど届くのだが。

 

「ナチュラルに女子と髪の長さを比べる時点でおかしいですよ」

「そうか? まぁ就職が決まったら切るくらいかなぁ」

 

 昔に流行ったフォークソングにかけた台詞で、その程度の軽いファッションと伝えたかったのだが、当然マミには通じない。それどころか何故教師が就職と言い出すのか、と軽く混乱していた。

 

 

 

 

 校門をくぐる頃には、五名程度の生徒が会話の輪に加わっていた。

 田浪は職員用の玄関に向かい、マミをはじめとする生徒たちは連れ立って昇降口に回った。

 一限目の教科について、たわいもない会話をしながらそれぞれの下駄箱から上履きを取り出していると、巴マミは上履きの履き口に白い封筒が添えられていることに気付いた。

 過去に何度か経験していることもあり、すぐにその正体に思い至ったマミは短い驚きの声を漏らす。

 

「どうかしたの、巴さん?」

 

 きゃ、と発した後に硬直したように靴箱を眺めるマミの姿を見て、同級生が尋ねる。

 

「な、なんでもない。中にバッタがいたから、驚いちゃって」

 

 手をバタバタとあおがせて空想上のバッタを追い出すと「もう入って来ちゃだめだよ」と優しく諭す。

 うん、完璧に誤魔化せた、と自画自賛したマミだったが、手で起こした風のせいで、白い封筒が靴箱を飛び出した。

 手紙はそのまま、マミの足元にはらりと落ちる。

 

「あ」

 

 マミと同級生の声が重なる。

 僅かに硬直したマミだったが、すぐにしゃがみこみ、流れるような動作で手紙をカバンの中にしまう。急いでいても折り曲げたり乱雑に扱ったりしないのは性格的なものだろうか。

 

「おっきいバッタね、巴さん?」

「ね、そうよね……?」

 

 ふたりは目を合わせ、片やいたずらっぽい笑みを、片や泣きそうな笑みを浮かべた。

 

「もちろんみんなには黙ってるわよ、巴さん」

 

 幸いにして、目撃者はその女子生徒一人だったので、週末のクレープ一枚を約束することで口止めには事足りた。

 

 

 

 

 手紙の主は、一年生の時に飼育委員を一緒に勤めた醍醐という同級生だった。

 委員の活動を見る限り、おっとり気味だが真面目で面倒見がよく、好感を持てる性格。容姿、運動、学力はいずれも平均的なものであったが、性格が良いことを考えると長所がないというより欠点がないと観るべきだろう。

 二年生になってクラスが別れたが、接する機会がなくなって自分の気持ちに気付いた、とのありきたりな手紙だった。

 魔法少女になっていなければ、返事はどうなっただろうか、とマミは思う。だが魔法少女となった今では、返事は決まっている。

 

「お手紙読みました。ありがとうございます」

 

 放課後、昨年お世話をしていた鳥小屋での待ち合わせを指定されたマミは、到着するや頭を下げた。

 

「本当にごめんなさい。私、誰ともお付き合いする気はないんです」

 

 一日中、なんと返答しようか思索した甲斐もなく平凡な言葉を伝えると、相手の反応を待つ。昨年、委員を通じて得た印象では、これで充分納得してくれる「物分りのいい」人だったはず、と内心思うが――

 

「あはは……そうか。残念だけど分かったよ。巴さん、直接伝えてくれてありがとう」

 

 果たして、彼は頭を掻きながらあっさりと引き下がる。スムーズな返答はマミの返事を半ば予想していたことをうかがわせるが、それでもショックの色は隠しきれていなかった。

 かける言葉が思いつかなかったマミは、ぺこりと会釈すると踵を返した。

 

 

 

 

 

 三日が過ぎた。

 クラスが違うこともあって醍醐と学校で顔を合わせることもなく、マミは安堵していた。

 無理にでも避けたいというほどではないが、やはりどのような顔をすればいいのか分からなくもあり、会わないで済むならそれに越したことはないと思う。

 そんな彼との再会は、魔女の結界の中であった。

 パトロール中に魔女の結界を訪れた巴マミは、使い魔に手を引かれ夢遊病患者のように歩く醍醐の姿を認めた。

 彼の手を引き歩いているのは、幼稚園児ほどの背丈のブリキの兵隊。

 黒の長帽子に赤い上着を着た姿は、ロンドンの近衛兵を思わせる。

 前傾姿勢で駆け寄ると、右手に握ったリボンを硬質化させた擬似ソードを振り下ろし、使い魔を幹竹割りに両断する。 

 

「大丈夫?」

 

 引かれていた手を失い尻餅をついた醍醐に、マミが手を伸ばし声をかける。その際に首筋に視線を巡らせ、魔女の接吻を確認した。

 魔法少女としての経験が少ないマミには、今の使い魔も、この接吻の模様も初見のものだ。

 焦点の合わない目でマミの手を見つめていた醍醐だが、マミの手がさらに伸びて彼の額を指先で押し、軽い癒しの魔力を流し込むとようやく正気を取り戻した。

 

「……巴さん?」

「はい」

 

 マミの優しい笑顔には、相手を落ち着かせる効果があった。特に醍醐相手には効果もひとしおだ。今の今まで正気を失っていた彼も、恐慌を来たすことなく言葉を交わすことができた。

 

「まずいところ見られちゃった。事情は後で話すけど、とりあえずひとつだけ。クラスのみんなには、内緒にしてね」

 

 唇の前に立てた人差し指を運び、「話さないでね」のジェスチャーを示してウィンクする。

 そして、醍醐の返事を待たずに振り返り、いつの間にか前方にたたずんでいる魔女に厳しい視線をぶつける。

 下部が半円に欠けた大理石のブロック、いわゆるメガネ橋と形容されるもの。それが五つ、縦に積み上がり連なっている。そんな魔女の外形だった。

 ひとつのブロックは小さなコンビニエンスストア程度の大きさ。

 それが五段重ねともなると、見上げると首が痛むほどの高さ。だが巨大な魔女の体躯には、移動器官、攻撃器官といったものは見受けられない。

 

 ――……強そう。

 

 巨大さに気圧され、背中を冷たい汗が流れる。

 魔法少女は魔女を狩る存在。白い猫――キュゥべえがそう伝える通り、戦闘能力は魔法少女に分がある。あるのだが、なにぶん彼女は魔法少女になりたての見習いであり、また生来の性格も争いには向いていない。

 前回の魔女には肩口に痛撃を受けた。少しでも位置が逸れていれば、首か心臓に致命傷を受けていた可能性もある。そう想像して自らの死を身近に感じ、嗚咽を漏らしたこともあった。

 今日の無事を担保するものなど、少女にはなにもない。

 

 ――それでも、私は戦わなきゃ。

 

「ナストロ・スパーダ!」

 

 自らを鼓舞するように、透明感のある声で武器の名である《リボンの剣》を叫ぶ。彼女の意志と声に呼応するかのように、彼女の背丈に倍する

 

長さのリボンが掌中から屹立した。

 紙の薄さをもって硬質化したリボンには、刃物に等しい切れ味がある。また幅広の面で叩くことで、鈍器に似た使い方も可能ではある。もっとも後者の場合は、軽量なのが災いして充分な威力は望めないが……。

 

 ――人心を弄び蝕む魔女よ、この魔法少女マミが、永久の安息の旅をあなたに捧げます!

 

 けっこう頑張って考えた口上だったが、知り合いが背後にいると思うと口にするのは憚られた。結果、心の中でのみ凛とした声で叫ぶ。

 彼女は決してふざけているわけではない。

 戦いとは恐怖を伴うものだ。

 恐怖を糊塗するため、未開の地の部族は踊りにより、異教の信徒は歌により、そして近代の兵士は薬物により精神の高揚をなす。

 たったひとりで戦う年端もいかない少女が、声も身振りもなく恐怖を克服するなど不可能事なのだ。

 故に彼女は幼い頃に憧れたテレビ番組の中の『魔法少女』に倣って自らを励まし、恐怖を糊塗している。

 

 小手調べというわけではないだろうが、魔女自らは動かず、ブリキの兵隊数体を行進させてよこした。ブリキの姿に相応しく、鈍重な行進だった。

 

「巴さん」

「大丈夫。負けるもんですか」

 

 背後から届いた震えた声に、落ち着いた声で応える。それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 その言葉も終わらぬうちに、マミが駆けた。いや、駆けるというよりは跳ぶ、だろうか。一歩で五メートルを超える距離を跳ねる、しかも速く、低く。

 瞬く間にマミと使い魔の集団が交錯し、大鎌を振るうかの如きマミの横薙ぎ一閃。抗うすべもなく使い魔集団が倒れ伏す。

 

「やった、巴さん!」

 

 快哉をあげる醍醐の視界から、マミが消えた。

 上だ。一回の跳躍で民家の屋根の高さほどまで上昇している。

 そして上昇した先で魔法の花を大輪に咲かせ、それを足場にして続けて跳ぶ。

 数度跳躍を繰り返すと、彼女は魔女の頭頂に届いた。決然たる視線を魔女に叩き付け、リボンの剣を構える――

 

「ペンタグランマ・タイアーレ!」

 

 彼女の声が《五芒の斬撃》と響き渡った。そして、空中に浮かべた花冠を足場に、魔女の頂点から左下方へ一気に斬り下ろしながら跳ぶ。

 次いで右上へ、左上へ、右下へ、最後に再び頂点へと。

 彼女の動きに合わせて一辺一〇メートルはあろうかという五芒の星を剣跡が描く。それだけの距離を一息に薙ぎながら舞う身体能力は特筆に価するだろう。

 だが、あまり――いや、今回に関しては全く五芒星状の軌跡に意味はない。

 一応巴マミの考えでは、頭部・両腕・両脚の五部位を同時に破壊する必殺の一撃なのだが、この魔女がそうであるように、ヒト型以外の形態をとる魔女が圧倒的に多く、実際は急所狙いでも何でもない単なる五連撃になっている(それはそれで強力ではあるのだが)。

 

 軌跡にこそ意味はないが、切れ味鋭いリボンの刃での連撃は確実にダメージを与えている。

 魔女は斬られた箇所から白煙をあげ、苦悶の呻きを漏らした。

 五芒の頂点に浮かぶ花冠に降り立ったマミは、魔女を見下ろすと両手に剣を堅く握り、さらに上へと跳んだ。

 

「フィナーレ!」

 

 頂点から一直線に下へ、五芒星を縦に真っ二つにする軌跡でリボンの剣が魔女を斬り裂く。

 中央を両断された魔女は、武道の有段者に手刀で割られた平積み瓦よろしく、内側へ沈み落ちるようにその体躯を崩していく。

 その様を見やりながらマミは大きく息を吐く。

 

 ――良かった……、弱い魔女で。

 

 胸を撫で下ろしながら、魔女の最期を見届ける――とどめを確信していても、魔女から視線を外す勇気は彼女にはなかった。

 今にも魔女が立ち上がってその牙を向けてくる、そんな怯えからくる想像を振り払うことが出来ずに、彼女は結界が解けるまで魔女のあったところを見つめ続けた。

 

 

 

 

 

「怪我とか痛いところはない? あれば遠慮なく言ってね」

 

 魔法少女の装束――近世の竜騎兵を連想させるクラシカルなもの――を解除し、薄桃色のジャケットに、萌黄色のストールを胸の前で花の形に結んだ私服に替えたマミが微笑む。

 

「う、うん。大丈夫。それより今のは……」

「それは……ちょっと長くなるから、座れるところ行きましょうか」

 

 醍醐が大きく首肯するのを確認すると、マミはほど近い自然公園に向けて歩を進める。が、結局は公園に着くまでに、歩きながら醍醐の質問攻めにあった。

 魔法少女のこと、魔女のこと、要点はぼかしつつではあるが、マミは丁寧に説明を続けた。

 

「突拍子もない話で、信じられないとは思うけど……」

 

 ようやく辿り着いた自然公園のベンチに腰を下ろしながら、苦笑気味にマミが漏らす。

 

「いや、信じるよ。何よりこの目で見たんだし」

「それで、こうやって毎日放課後はパトロールをしているの」

「危なくはないの?」

「危険だけど、それが魔法少女になった私の役目だから」

 

 ベンチに浅く腰を下ろした醍醐は、遠くを真剣な眼差しで見つめると、しばし考え込むように沈黙する。

 夕方の肌寒い風が何度もロールした髪を揺さぶった後、長い静寂を嫌ってマミが続けた。

 

「それに、大切なことだし。街のみんなのために」

「僕にも手伝わせてもらえないかな」

「危険だから、それはだめ」

 

 沈思熟考と形容できるだけの時間をかけてなした醍醐の決断を、マミは言下に否定した。

 

「気持ちは嬉しいけど、こんな危険なことに、ひとを巻き込めない」

「僕を巻き込めないほど危険ってことなら、なおさらひとりでなんてダメだよ。それに、戦いとは別に女の子のひとり歩きは危ないし、僕、裏道とかもある程度分かるから!」

 

 ――ひとり歩きは、魔法で私の姿をで見咎められなくするから問題ないんだけど……。

 

 と心の中で苦笑するマミをよそに、醍醐は次々と言葉を連ねる。その熱意に気圧されるように、マミは小さく頷いた。

 

「分かったわ。ホントは私も、ひとりだと心細かったの」

 

 巴マミは、魔法少女としても人間としてもまだ幼く、心では支えになるものを欲し続けていた。

 そのため、それが危険な判断であるという事実から目を逸らして応えた。目を逸らしたところで、やがて直面することが明らかなのにも気づかない振りをして。



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第九話 マミさん、マスケットにチャレンジする

 連休前の最後の授業を終えたふたりは、私服に着替えてから繁華街から少し外れたところにある小さな公園で待ち合わせた。

 

「ようやくゴールデンウィークね」

 

 薄手のセーターの胸元を、赤い花のアクセサリーで飾ったマミが笑う。

 下は動きやすさを優先してジーンズスタイルだ。醍醐と行動をともにするようになってからを境にジーンズスタイルに変わっているので、本人は意識していなくても警戒――言葉が悪ければ緊張、があるのだろう。

 

「そうだね、これで朝寝坊できるよ」

「あら。休みだからってお寝坊はだめよ。ゴールデンウィーク中は早朝パトロールでもしましょうか?」

 

 それなら頑張って起きるよ、と真面目な顔で宣言する醍醐に、控えめな笑いを漏らすとマミが言葉を続けた。

 

「冗談よ。そもそも朝早くなんて人も少ないし、魔女も活発には活動しないと思うわ」

「そっか、魔女も朝は寝てるんだね」

「そういう意味じゃないけど……」

 

 冗談か天然か判断に苦しむ醍醐の言葉に、マミの笑いが少し大きくなった。

 

「とりあえず、パトロール始めましょう」

 

 首肯した醍醐を伴って、マミは繁華街へ足を向けた。

 

 

 

 

 

「ま、なんにせよ休みは助かるね。一度家に帰ってから着替えてって手順いらなくて楽だし」

「そうね」

 

 卵形のソウルジェムを掌に浮かべ、反応を伺いながら繁華街を歩く。

 連休前の週末とあって、街には普段よりも人が多い。

 

「面倒かもしれないけど、学校からだとみんなに見られちゃうし……。魔法少女のことは秘密にしないとだから」

 

 マミの手から伸びたリボンを掴んだ醍醐が、マミの後を歩く。

 その姿だけ見ると、散歩されているペットのようだ。

 勿論そういうわけではなく、マミの使っている≪存在の希薄化≫の魔法の影響を受けないためには、マミと接触している必要があるからだ。このリボンを離せば、醍醐はマミを認識できなくなる。

 

「あ、そうか、同級生に一緒にいるのを見られると巴さん迷惑だよね」

「そうだけど、そういう意味じゃなくって……。魔法少女は、いつ命を落としてもおかしくないの。ある日私が命を落としたとき、あなたが一緒にいたってなったら、あなたが疑われちゃう」

 

 淡々と、だが不吉なことを告げるマミに、醍醐が言葉を荒げた。

 

「そんな縁起でもないこと、言わないでよ」

 

 周りの人々からは醍醐も認識されていないので反応はないが、そうでなければ皆が視線を醍醐に向けていたことだろう。

 それくらいに感情を露わにした大きな声だった。

 

「ごめんね。でも、戦うってそういうことなの。幸い、私は両親も亡くして、悲しむ人もいないし……」

「嫌だよ。そんな風に言わないでよ。巴さんがいなくなったら悲しむ奴いるだろ。俺はすごい悲しいし、みんなだって悲しむよ」

 

 俺、という一人称を醍醐が使うのは初めてだな、とマミは思った。それはつまり、それだけ思いのままに喋っているのだろう。

 

「ごめん、言葉きつくなった」

 

 だから、醍醐の語気が荒くなったことをマミは悪くは捉えてなどおらず、謝罪の言葉など必要なかった。それよりも、無遠慮に死を仄めかした自分が悪かった、と反省する。

 

「ううん。そんな風にいってくれるのは嬉しい。ありがとう」

 

 その笑顔を、優しげと表現するのか寂しげと表現するのか、醍醐には判断がつかなかった。ただ、なんでもいいから力になりたい、と強く思った。

 

 ――巴さんが命を落とすようなことがあったら、僕もそこで死ぬよ。

 

 そう思ったが、言えば確実にマミを困らせることになるので口には出さない。そんな事情を知らないマミは、押し黙ってしまった醍醐が意気消沈したのかと思い、明るい声で告げた。

 

「大丈夫。そうそう負けるもんですか。私はみんなを守る魔法少女なんだから」

 

 その明るさが無理をしているように感じられて、醍醐は胸に痛みをおぼえた。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

「美味しくない……」

 

 お昼用の肉じゃがを口にしたマミが、難しい顔をして呟く。

 

「残念だけど、まだまだ人に食べてもらえるレベルじゃないわね」

 

 捨てて作り直したい衝動に駆られるが、食べ物を粗末にしてはならないという父母の教えに従い、眉間に皺を寄せながら食べる。

 母がいれば灰汁の取り方や調味料の分量、味の馴染ませ方などを教えてくれたのだろうが――。

 

「面倒がらずに、教えてもらっておけば良かったわ……あ、キュゥべえ、食べる?」

『頂くよ。ただボクには美味しいと感じる感情はないから、評価寸評は期待しないでほしい』

「そっか。じゃぁ不味いとも感じない?」

『そうだね』

 

 それはそれで便利だなぁと思いながら、キュゥべえ用に平皿に肉じゃがをよそって差し出す。

 

「召し上がれ」

 

 と、偉そうに言える味じゃないけど……と思うが、言われたキュゥべえは勢いよく肉と野菜を食べ進める。

 味を感じないと自称しているとはいえ、勢いよく食する様を見ていると料理した者としては満足感をおぼえる。

 いや、今の出来からすると味を感じないでいてくれるのは非常にありがたい。

 芯の残るじゃがいもを噛み砕きながら、マミはそんなことを考えていた。

 

 

 

 

 バロック様式の荘厳な建物を誇る見滝原の大学附属図書館は、蔵書数三〇〇万を超える。

 勿論それだけの蔵書が展示されているわけではなく、殆どは端末で検索しリクエストしたうえで窓口で受け取ることになる。

 幾つかの戦術書を受け取ったマミは、パーティションごとに区切られた閲覧テーブルに向かう。

 隣のパーティションには、これも幾つかの本を受け取った醍醐が腰を下ろしている。

 

「巴さんのリボンって、けっこう色々自由にできるんだよね?」

「ええ、長さやサイズは調整できるし、剣にしているみたいに硬度を持たせたりもできるわ。ワイヤー状にして使うこともできるけど、武器にするには私の魔力だとちょっと辛かったかな」

 

 漢語で書かれた戦術書に視線を落としたままマミが応える。そして、どうかした? という視線を醍醐に向ける。

 

「やっぱりさ、飛び道具の方が巴さん安全だと思うんだ。弓とかスリングとかをリボンで作って戦えないかな」

「なるほど、さすが男の子ね。いいかも。簡単な構造のものじゃないと難しいと思うけど……」

「じゃぁ、資料になりそうな本探してくるね」

 

 提案が受け入れられた醍醐が欣喜雀躍といった様子で立ち上がると、検索端末に向けて歩き出す。その背に向けて、マミが言葉を投げた。

 

「あ……でも、弓以外でお願いね。弓は私にはちょっと厳しいと思うから」

「わかった、弓は狙うのが厳しいってよく聞くもんね」

 

 厳しいの意味が通じていなかったが、まぁその方がいいかな、とマミは思い、訂正をすることはせずに手元の本に視線を戻した。

 

 

 

 

 スリング、スタッフスリング、スリングショット、スローイングナイフ、ブーメラン、投槍といったものを候補に絞ったふたりは、参考になる部分をコピーすると図書館を出て河川敷へ足を運んだ。

 

「かっこいいのは、断然スタッフスリングよね」

 

 独自の美的感覚を披露するマミに、困ったような笑顔で醍醐は同意する。それが一番ダサい気がする、という本音は、マミの笑顔を曇らせる危険を冒してまで主張する必要はないと判断した。

 

「さっそく作ってみちゃいました」

 

 リボンで作り上げたスタッフスリング。それを抱き締めるように構えてポーズを取るマミ。

 肩口程度までの長さのスタッフには、白銀色で花の模様がレリーフされている。その先端部分に黄と赤の縞模様のリボンがUの字に結われ、投石機構となっていた。

 武器本来の姿が木の杖に布を張っただけのシンプルな形状とあって、リボンでの生成も一瞬のようだった。

 

「うん、似合うね」

 

 醍醐も今度は気持ちを偽らずに感想を述べれた。きっと聖女が羊飼いをしたらこんな感じなのだろうと思うほどの、美しさと淑やかさに心の中で溜め息を漏らす。

 

「ありがとう。でも、問題は命中精度と撃つスピードよね」

 

 その言葉の通り、試し撃ちを行った結果は両方とも芳しくなかった。

 射程距離自体は考えていたよりも長いのだが、狙ったところに投げるのは非常に難しい。また、次の弾を装填して、振り回して、狙いを定めて放つという一連の動作には一〇秒近い時間を要し、とても実戦的とは言えなかった。

 続けて試した他の武器にしても、命中精度、連射性が充分でなく、魔女との戦いで有効に活用できるとは考えにくいものだった。

 

「そうすると銃なんか良さそうだけど、難しいのかな」

「構造が簡単なら、出来るかもだけど……」

「そっか。とりあえず今日選んだのはダメそうだね。時間を無駄にさせてごめん」

「そんな。まじめに考えてくれてありがとう。嬉しいです」

 

 そして、再びスタッフスリングを掌中に生み出すと、構えてみせて言った。

 

「今日、魔女がいたらこれ試しちゃうね」

 

 

 

 パトロール中、マミの姿が突然醍醐の前から消えた。

 いや、実際には醍醐の少し前にマミはいる。醍醐がうっかりとリボンを落としてしまったため、醍醐までマミの存在を希薄化する魔法の影響を受け、認識できなくなったのだ。

 

「巴さん?」

 

 いつもの調子でマミの名を呼ぶが、いつもと異なり醍醐の存在は希薄化されていない。そのため、突然声をあげた醍醐に周囲の人々が怪訝そうな顔を向ける。

 マミは周囲の注目を受けてあたふたしている醍醐を見て、笑うように短い息を吐き出すと、地に落ちたリボンを拾い上げ醍醐の手にあてがう。そしてその上から両手でぎゅっと押さえた。

 その柔らかな感触に驚きの声をあげる醍醐だが、今度はマミに触れているため、周囲の人々に聞きとがめられることはなかった。

 

「リボンを離すと、醍醐くんからも私が見えなくなっちゃうから、気をつけてね」

「うん、ごめん。うっかりしていた」

「次から気をつけてくれれば、それでいいの」

「それにしても、すごいね。全然見えなくなるんだ」

「正確には、見えてるんだけど意識が向かなくなるらしいわ。失認っていうんだっけ……? だから歩いてる人も、何かある、って思って避けてくれるのよ」

「便利だね……あ」

「悪用のお手伝いはしませんからね?」

 

 先回りして言うマミに、違うよと苦笑して応える醍醐だったが、「遅刻してもこっそり入れるね」というのは悪用になるんだろうなと思って心の中にしまっておいた。

 

「そうだ、醍醐くん、パトロール終わったらクレープおごってくれない?」

「いいけど、どうしたの?」

「ふふ、醍醐くんのせいで友達にクレープおごらされちゃったから、そのお返し」

「僕のせいで?」

 

 話が見えず、首を傾げる醍醐に、マミはくすくすと笑みを浮かべて宣言した。

 

「詳しい話は、おごってもらった後でね」

 

 そして、奢った後に話――ラブレターを見とがめた友人への口止め料として、クレープ一枚をおごらされたこと――を聞いた醍醐は、それは僕のせいじゃないんじゃないかなぁ……と苦笑してみせた。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 飛発、火縄(マッチロック)、ホイールロック、フリントロック、パーカッションロック、その他諸々の資料を抱えた醍醐が姿を現したのは翌日のことだった。

 昨日の今日でよくもこれだけ集めたものだと感心するほどに膨大な数のコピー。

 付箋が針鼠のように飛び出していることから、彼が頑張って熟読したのだろうと伺える。

 

「ちょっと、ここで目を通せる量じゃないわね……」

 

 待ち合わせに利用している小さな公園で、ショルダーバッグに収まりきらない程の資料を前に、マミは小首を傾げた。

 

「パトロールは遅めにすることにして、先に私の部屋にいってこれ読みましょうか」

「いいの?」

「おもてなしの準備はないから、期待しないでね」

 

 と、釘を刺しておいたマミだったが、マミの部屋で紅茶を口にした醍醐は絶賛した。もちろん醍醐にとってマミの淹れた飲み物ならそれだけで価値あるものだが、それを抜きにしても今まで飲んだことのない豊かな味だった。

 

「ふふ、紅茶だけね。お料理はまだ全然なの」

 

 謙遜に聞こえるような口調で掛け値なしの事実を告げながら、資料に目を通していく。

 そのうち、とある頁でマミの資料を繰る手が止まった。

 

「あ、これ……」

「フリントロックのマスケットだね」

「子供の頃に読んだ絵本に出ていて、好きだったの」

「そうなんだ。詳しい構造はポストイットのところにあると思うよ」

 

 

 

 

 

「さ、さすが銃ね……。頭痛くなりそう……」

 

 用意された資料は、図面も多く客観的に見て分かりやすいものだったが、それでも馴染みのないマミには呪文が並んでいるように感じられた。

 醍醐にしても一夜漬けなので上手い解説はできない。

 

「マスケットのページだけ持って、河川敷でも行ってチャレンジしてみる?」

「そうね。案ずるより産むが易しっていうものね」

 

 そのままパトロールに回れるように、最低限の資料だけを手持ちにして、いつも魔法の練習を行っている河川敷に向かう。

 そこでマミは、写真やイラストを参考にして、リボンからマスケットを作り出す。

 この機構はどう動くのか、などと相談をしながらであったため、最初の一挺は小一時間ほどを要した。

 そして、水面へ向けて行われた試射は、残念ながら不発だった。

 

「リボンで作った火打石だから、火花が出ないのかな?」

「んー、そもそも魔法だから、そこはスタイルさえ整っていればいいと思うのよね。要はイマジネーションの問題かしら?」

 

 明るい灰色の銃身に茨を模した銀のレリーフを刻んだマスケットは、見た目こそ完璧であったが、動作を充分に把握できていないためか、実際の射撃は行えなかった。

 

「このフリズンっていう部分の挙動がピンとこないのよね……」

 

 難しい顔でマスケットを見つめた後に、でも、見た目はかっこいいよね、と顔を綻ばせて慈しむように銃身を撫でさする。

 幼いころに憧れたマスケットを、自分の魔法で外見だけとはいえ再現出来てご満悦のようだった。

 

「そうだね、芸術品みたいだよ」

「似合う?」

 

 銃を片手に、くるりと回ってポーズをつけて見せる。そのバレエのような軽快な動きの最中でも、一瞬たりとも銃口を人に向けないのは、いかにも彼女らしい。いくら不能不発のマスケットとはいえ、万一のことは起こりうるのだから。

 

「あ、そうだ」

 

 マミはマスケットに魔力を込めて変形を促す。銃床を細くして柄に、引き金部分を護拳に、さらには銃身を細く鋭角的な刃に。

 その姿は、マスケットをベースにした瀟洒な剣に見えた。

 

「今日はこれで戦っちゃおうかしら」

「それ、パトロールの間ずっと持ち歩くの?」

「まさかぁ」

 

 他人からは認識されないので持ち歩くことに問題があるわけではないが、片手にソウルジェム、片手にマスケット剣では動きが不自由にすぎる。

 マミはベレー帽を外すと、そこに刺し込むようにマスケット剣を押しつける。

 すると、手品のように底の浅い帽子の中に、マミの背丈ほどもある銃剣が飲み込まれていく。

 

「リボンで作ったものなら、こうやって持ち歩けるの」

 

 完全にマスケット剣を飲み込んだ帽子を、マジシャンが手品の前に行うように表を裏をと振って見せた後、ちょこんと頭の上に乗せる。

 

「魔法みたいだね」

「そうよ?」

 

 醍醐のいまさらな感想に、マミは口元を押さえて笑いを漏らした。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 ゴールデンウィークの間、マミのお気に入りのマスケット剣は、魔女一体、はぐれの使い魔二体を屠った。

 また、試射しては不発で剣に作り替えられたマスケットは、計五振りに達していた。

 そして、数日が経過した水曜日。

 待ち合わせ場所に現れた醍醐は、ちょっとしたキャビネットほどの木箱を背負っていた。

 

「なに、それ?」

「巴さんの参考になるんじゃないかなと思って」

 

 重量はそれほどでもないらしく、さほど苦労せず背中から降ろしてみせた醍醐は、その木箱の中から一挺のマスケットを取り出した。

 それは、ⅩⅢ年型シャルルヴィルと呼ばれるマスケットの名銃を模したレプリカだった。

 

「本物?」

「いや、そうじゃないけど、構造自体は本物と変わらないらしいよ。だから銃身は埋め潰されてるんだけどね」

 

 クルミ材の銃床に、要所要所で真鍮の補強が施された銃身、その直下には込め矢が収められている。コックやフリズンの射撃機構は白銀色に輝き、総体としてそれは武骨な武器というより繊細な芸術品に見えた。

 

「かっこいい……」

 

 陶然とした表情を浮かべるマミ。そのマミに見惚れていた醍醐だったが、ふと我に返りマミを促す。眺めるために持ってきたわけではなく、マミの魔法の役に立てばと思ってのことなのだから。

 

「試しに動かしてみてよ」

 

 首肯したマミがコックを半ばまで引き上げる。フリズンを動かして火皿を露出させる。本来ならここで火皿に点火薬を注ぐが、今回はその手真似だけをしてみせて、再び閉じる。

 

「銃身埋められてるし、弾と装薬の充填はパスするね」

 

 そのため、込め矢を使う工程も略する形になるが、一応銃身下部から込め矢を引き抜き、銃身の脇をかすめるように前後させる。

 

「すごいね、手順おぼえてるんだ」

「だって、この一週間で何度読んだことか……嫌でもおぼえちゃうわよ。それに、おぼえてないと魔法で使うなんて無理よ」

 

 苦笑を漏らすと、芝居がかった所作で込め矢を筒に戻す。そしてコックを最大まで引き上げ――

 

「準備完了、です」

 

 所要時間にして一分弱。確認を兼ねて丁寧に行ったせいもあるが、個人レベルでの戦闘における充填は現実的ではないと考えていいだろう。

 

「いよいよだね」

「ええ、うまく仕組みを把握できるといいのだけれど……」

 

 呟きながら膝撃ちの姿勢を取る。肩に銃床を押しつけ、照星を五〇メートルほど先にあるドラム缶に合わせる。そして照星を照門へ導き……。

 

「いきます!」

 

 透き通った叫びとともに、トリガーが引かれる。

 ツーフィンガーほどもある乳白色の硝石。それを抱いたコックが打ち下ろされ、フリズンに勢いよく激突して火花を生み出す。

 衝撃は大きく、マスケットを構えていたマミの腕が下方向に揺らぎ、銃口が地面を叩くほどだ。

 それほどの激突の勢いによってフリズンは押し退けられ、その下に隠されていた火皿が瞬間姿を現す。

 火花が火皿に飲み込まれるや、フリズンはバネの力により元の位置に戻り、火皿は再び蓋をされて姿を隠す。

 本来は、火皿に盛られている点火薬に着火し、その炎によって銃身に詰められた装薬が炸裂、弾丸を射出するという流れになる。

 

「へぇ……思ったより、乱暴なのね」

「大丈夫? 腕痛くなかった?」

「女の子としては『いたぁーい』って言いたいところだけど、魔法少女だもん、大丈夫」

 

 安心させるように微笑むと、マスケットを抱え上げ、コックとフリズンの部分を手で動かして挙動を確かめる。

 コックの挙動、勢い、フリズンの挙動、固さ、バネ……念入りにひとつひとつ手と指で確認する。

 

「分解してみる?」

「いいの? 壊れちゃうかも」

「いいよ、そのために買ったんだし」

「ありがとう。外で分解すると部品なくしちゃいそうだし、うちに行きましょうか?」

 

 

 

 

 たぶん、撃てそうな気がする。

 部屋なので試射はできないが、マスケットを作った際の手応えからマミはそう感じていた。

 分解して内部構造まで熟知できたおかげか、一挺の生成に一分とかからなく、調子に乗ったマミは二〇挺ほどを作り出して部屋に並べた。

 

「作り出すのにそれなりに時間がかかるし、事前に作っておいて取り出して使うといいかも」

 

 たくさん作ってしまったことを正当化するために考えた理由だったが、醍醐がその案に食いついた。

 

「いいね。足利義輝みたいでかっこいいよ」

「足利義輝? って室町幕府の?」

「そうそう。剣聖って言われるほどの将軍なんだけど、その最期が、畳に刺した沢山の刀を次々と使って戦ったんだって」

「かっこいいけど……最期って、縁起でもなくない?」

 

 誤魔化すような笑みを浮かべる醍醐に、マミは大袈裟な溜め息をついてみせる。だが、頭の中に描いた想像図――無数のマスケットを林のように立たせ、その中に立つ自分――が予想以上に好みにはまっていて、思わず頬を緩めた。

 ふと視線を上に向けると、壁時計が六時を示しているのが見えた。今からパトロールに出ると夕飯が遅くなりそうなので、先に食事をした方がいいかな、と考える。

 

「醍醐くんのおかげでマスケットもうまく作れるようになったし、お礼に夕飯でもご馳走しましょうか? 味は保証できないけど……」

「味なんて気にしないよ! って、これじゃかえって失礼かな……」

「ううん、助かるわ」

 

 苦笑すると、マミは醍醐にテレビのリモコンを押し付けてキッチンへ立った。あんまり上手下手が出ない料理って何があったかなぁ、と内心で考えながら。

 

 

 

 

「うん、おいしいよ」

 

 クリームシチューと野菜ライスコロッケは、マミにしては上手に出来たと言ってよかった。

 味見をしたマミは、これならそんなに不味くないかも……と微妙な自信を持って食卓に並べたが、醍醐の食べっぷりはマミを充分に安堵させるものだった。

 

「無理しないで。私まだお料理初めて一月ちょっとしか経ってないから、へたっぴで……」

「無理なんかしてないよ。何杯でも食べれそうだよ」

 

 実際に、醍醐は掛け値なしに美味しいと感じていた。マミが作ったという事実が評価を甘くしていることもさることながら、彼の実母がシチューなら固形の素を充分に溶かしきらない程の料理下手であることが大きな要因だった。

 

「ふふ、やっぱり食べてくれる人がいるっていいわね。ひとりで作って食べてると、味気なくて」

 

 ひとりで、という言葉から、醍醐は巴マミの両親が亡くなっていることを改めて意識したが、それを言葉にすることはしなかった。彼女が水を向けたのかも知れないが、無遠慮に立ち入っていい話題とは思えなかったからだ。

 巴マミのほうも、両親につながる発言を「あっ」と内心で思っていた。彼が敢えてそこに触れずに流してくれたことに心の中で感謝する。

 今、両親の話をしたら泣き顔を見せてしまうかもしれない、それは避けたかった。彼の前では、強い魔法少女でいないと、不安を与えてしまうから。

 

 最近こそ、夜中にベッドの中で泣く回数も減りつつあるが、元来にして彼女は涙もろい。両親がいたころは些細なことで大粒の涙をこぼし、母から泣き虫マミと呼ばれたものだった。

 

「い、いつでも食べるから! ……って、それは厚かましいか」

「そう? じゃぁ時々味見役お願いしようかしら」

 

 学校での印象より幾分明るく活発な様子を見せる醍醐に、マミは気持ちが安らぐのを感じていた。一緒にいると落ち着く、という心境には届いていないが、少なくとも警戒の対象ではなくなっていた。

 

 

 

 

 ゆったりとした気持ちで食事を終え、日課のパトロールに出る。

 部屋を出る際に、遅いから帰ってもいいわよ、と言うマミに、遅いからこそ一緒に行かないと、と醍醐は譲らなかった。

 

「ありがとう」

 

 目を伏せて謝意を伝えたマミは、玄関でもう一度目を伏せて、その手を伸ばした。

 

「リボンだと、前みたいに落とすと困るでしょ……?」

 

 以前、醍醐がリボンを落として、マミを認識できなくなったことを指している。とはいえ、その場合もマミからは醍醐は見えるわけで、さして問題ではないのだが……。

 

「て、手と手なら、うっかり離れることもないから」

 

 言ったマミより醍醐の方が顔を赤くしたのだが、お互い顔を直視することはできず、それを互いに確認することはできなかった。

 なお、その夜のパトロールでマスケットは充分に威力を発揮し、魔女を一匹仕留めたことを蛇足ながら記しておく。



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第一〇話 マミさん、いろいろと葛藤する

 巴マミは不機嫌だった。

 理不尽な理由だと、自分でも分かっている。それでも、態度が少し棘っぽくなるのを止められなかった。

 

「待ってよ、巴さん」

「だめ。魔女の反応なのよ。ついてこれないなら置いていきます」

 

 小走りに駆けるマミが振り返らずに告げる。

 当然ながら魔法少女の全力疾走には遥かに及ばない速力に加減しているのだが、魔力による身体強化のない醍醐にはかなりのスピードだ。

 つないだ手が危うく離れそうになる。

 

「頑張るよ」

 

 今日の巴さん、いつもより少し機嫌悪いのかな、と思う醍醐だったが、心当たりはなかった。

 

「ええ、頑張って」

 

 それにしても、走りにくそうな服装なのによくこれだけ速く走れるな、とマミの後ろ姿を見ながら考える。

 ラッセルレースとチュールレースを重ね合わせたミント色のドレスは膝下まであり、一歩ごとに繰り出せる距離は僅か。

 また、肩には花柄のホワイトボレロを羽織っており、腕の振りも充分には行えない。胸元にはオレンジイエローのコサージュ……は走るのには影響はないだろうか。

 この服装が不機嫌の原因なのだが――

 端的に原因を示すと、次のマミの心の声になる。

 

 ――褒めてとまではいわないけど、一言くらいなにか言ってくれてもいいのに!

 

 今日、身を飾っているのは、いつも普段着に着ているものより、二段ほど上等なものだ。両親にレストランやコンサートなどに連れて行かれるときに着ていたよそ行きもので、自分から望んで袖を通すのは初めてのことになる。

 加えて、薄い色ではあるが、唇に紅もつけたのだが。

 

 ――見え透いたお世辞でもいいのに、気が利かないんだから!

 

 マミも自覚している通り、なんとも理不尽な理由だ。

 しかし醍醐の方も朴念仁で気付いていない――というわけではなく、息を飲むほどに驚いたのだが、なんと言っていいか分からなかった、というのが真相なので、どちらが悪いとはなかなか言い切れない。いや、そもそも悪いという問題ではない。

 

「あったわ」

 

 居酒屋と居酒屋の間にある狭い路地。その行き止まり。

 ゴミを入れたポリ袋が散乱する一角に魔女の結界を認めると、マミはようやく立ち止まった。

 足を止めたことで一気に疲れが出たのか、醍醐は身をかがめて短く浅い息をつく。

 その様子に、自分の態度が身勝手に過ぎたと省みたマミは、軽い癒しの波動をつないだ手を通じて送り込んだ。

 

「少しは楽になるかしら?」

「ありがとう。気を遣わせてごめん」

 

 自分に落ち度があると思っているマミは、醍醐の言葉になんと返してよいか分からず、曖昧に頷くに留めた。そして静寂を嫌うかのように魔法少女へと変身し、結界の入り口をこじあける。

 

 

 

 

 

 マミは魔法のマスケットを手に、醍醐はマミから預けられたマスケット剣を手に、結界を進む。

 マスケット剣にはマミの魔力が充填されており、斬ったりしなくても近付けるだけで使い魔程度にならダメージを与えて追い払うことが出来る。そのため、護身用に醍醐に預けるのが常になっていた。

 もちろんあくまで護身用で、積極的に攻撃に用いることはマミから固く禁じられている。

 

「見たことのない結界だね」

 

 凍った水、としか表現できない床を踏みしめて歩く醍醐が口を開いた。

 凍結した湖のように平坦な氷ではなく、激しく波打つ海が瞬間的に固められたかのような起伏のある氷だった。

 そのような荒れた自然を思わせる床とは不釣り合いに、左右の壁はコンクリート。大きな窓が並ぶ様は学校の廊下を思わせる。右側には大きな窓、左側には小さな窓が並んでいるが、どちらもその向こうには何も見えず、星のない夜空のような様相を呈している。

 

「そうね。どんな相手か分からないわね」

 

 怖い、という言葉は飲み込む。魔法少女であるマミが怯えをみせては、醍醐はどれほど不安に思うだろうか。

 そう思うと醍醐の前では、マミは強い魔法少女でいなければならない、巴マミはそう信じていた。

 機嫌の悪さは消えつつあったが、身勝手な自分への嫌悪から道中のマミは極端に口数が少なかった。

 醍醐はというと自分が何か悪いことをしたかと萎縮し、こちらも言葉が出ない。

 居心地の悪い時間だった。

 だから、結界の深部に達し魔女と対峙した時、マミには安堵する気持ちがあった。

 

「醍醐くん、そこで見ててね」

 

 そう告げて、醍醐の周りをリボンのドームで覆う。同行する醍醐の安全のために新しく会得した魔法技で、高速回転を行うリボンで対象を幾重にも囲うことで強靭な防御壁を形成する。

 

「頑張って、巴さん!」

 

 大きなスケートリンク程もある結界最深部、その一隅に現出したリボンのドームの中から醍醐が声をかける。

 床は相変わらず凍結した波で、空中には人の頭程もある雪の結晶が幾つも浮かんでいる。

 そしてその空間の中央には魔女がいた。

 魔女の身の丈は四メートルほど。体躯は二個の氷の玉で構成されており、大きめの下の氷玉には、モップのようなものが二本。あたかも手のように刺されている。

 小さめの上の氷玉には、バケツが頂点に逆さに置かれ、ボールのようなものが二つ、目の位置に。そして黒い棒が横一文字に、口の位置にあった。

 

 魔女の強さと見た目に相関性はない、そのことを知っているマミは雪だるまを思わせる滑稽な魔女の姿にも表情を緩めず、先手を取るべくマスケットを構える。

 

 パン、と軽い音を立てて魔弾が放たれた。

 標的としてはあまりに大きく鈍重な魔女、その胸に吸い込まれるように魔弾は着弾し、魔女の氷の身体に蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。

 それを開戦の合図としたかのように、魔女がモップの手を回転させて、雪玉をマミに向かって投擲する。

 ソフトボールサイズの雪玉が十を超える数、高速で飛来するが――

 

「季節外れの雪合戦に、つきあう気分じゃないわ」

 

 手にしたマスケットの銃身で、銃床で、迫り来る雪玉を次々と叩き落とすと、マミは不敵に口の端を歪めた。

 そして、帽子を片手で持ち上げると、くるりと身体の周りを一周させる。

 帽子から産み落とされるかのように、軌跡に沿って二〇のマスケットが等間隔で出現した。

 現れたマスケットは、まるで氷に刺さったかのように直立し、持ち主の手に握られることを待ちわびる。

 

「それに、今日はなんとなく虫の居所が悪いの」

 

 マミの右腕と左腕は独立した器官のように動き、次々とマスケットを拾い上げ、撃っては捨てる。

 その早業は、二〇のマスケットを撃ち尽くすまでに一〇秒も必要とはしなかった。

 そして放たれた全ての魔弾は魔女の胴体に集弾され、次々と亀裂を生じさせる。

 亀裂がある程度育ったところで、自重に耐え切れなくなったのか、魔女の身体は無数の氷片に分かたれて崩れ落ちた。小気味良い崩壊音が響き、節煙が舞い上がる。

 

 ――やった? ……いえ、結界が解けない。まだね。

 

 マミの推察の通りだった。

 雪煙の中で魔女の頭部を構成するパーツ――バケツ、ボール、棒が浮かび上がり、そこを起点に新たな氷の身体が結晶化されていく様を、マミは見た。

 

 ――そこが本体ね。じゃぁ次はそこを撃ち抜かせてもらうわ。

 

 再度帽子を手に取り、残り三〇ほどのマスケットを周囲に展開する。

 白銀のマスケットの林の中に立ち、再び魔弾を魔女に浴びせかけようとするマミ。

 そのマミの姿を、一瞬にして影が覆った。

 影の主は、マミの頭上に突如として現れた巨大な氷の塊だ。

 小さなトラックを思わせるサイズのそれは、現れるやその自重を活かして急激に落下する。

 影が差したことに反応したマミは、上を視認することもなく横っ飛びに跳ねる。

 その反応は賞賛に値するものであったが、頭上の至近距離に出現し、猛然と落下する氷塊を完全に避けることはかなわなかった。

 

「――ッ!」

 

 左脚は太腿部より下、そして右脚は足首より下が、避けきれずに氷の塊に押し潰される。

 骨が粉々に砕ける音。肉が押し潰される音。それらが振動としてマミの全身を伝った。

 痛覚は二割程度に抑えているが、それでも悲鳴を飲み込むのにすさまじい精神力を必要とする。

 

「巴さん!」

 

 醍醐の声に応える余裕もなく、マミはありったけのリボンをマニュピレータハンドのように操って氷塊を持ち上げ、下敷きになった身体をひきずり出す。

 

 ――判断ミスだわ。避けるんじゃなくて耐えるべきだった。

 

 両足ともに使いものになりそうもない。治癒を全力でしても五分以上かかるだろう。

 魔女がそれだけの間、待ってくれるはずもない。

 マミの頭脳は、それらの要素から死をはじきだした。

 

「ごめん、醍醐くん、逃げて!」

 

 醍醐が逃げれるようリボンのドームを解き、叫ぶ。

 

「来た道を戻れば大丈夫、入り口はまだ開いているはずよ!」

 

 見たところ魔女は鈍重だ。加えて使い魔も見当たらない。走って逃げれば、きっと醍醐は逃げ切れるだろう。

 醍醐まで犠牲にすることなく済む、そう思いマミは胸を撫で下ろした。

 そして、改めて死を覚悟する。

 

 ――ここまで……ね。私、ここで死ぬのね、やっと。

 ――やっと?

 

 自らの心境に、マミは違和感をおぼえた。あんなに戦うことが怖くて辛いと思っていたのは、死ぬのが嫌だからではなかったのか――

 

 ――あぁ、そっか。これで怖がることも、悲しむことも終わるんだ。もう泣かなくていいんだ。だから。

 

 マミの中で、死を恐れる心を、死を受容する心が凌駕した。

 四肢の力が抜け、表情も穏やかなものになる。

 死という解放を待ち望むように、微笑さえ浮かべて魔女の次の一撃を待つ。また雪玉を投げてくるか、それとも氷塊を落としてくるか、いずれにせよ回避も防御も放棄したマミの命を刈り取っていくだろう。

 

 

 

 

 投擲されたマスケット剣は、不恰好に回転しながら弧を描き、魔女のバケツに当たった。マスケット剣に充填されていた魔力がスパークし、瞬間、魔女が苦痛の声をあげる。

 

「こら、雪だるま! こっちだ!」

 

 投擲を行った醍醐は、ことさらに大きな身振りで自らの存在を誇示し、大声をあげた。

 

「巴さん、落ち着いて治癒を! 僕が時間を稼ぐから!」

 

 その醍醐の行動に、マミは絶望に近い感情をおぼえた。このままでは間違いなく、醍醐が死んでしまう。

 自分が死ぬのは魔法少女としての義務と納得もできるが、醍醐には死ぬ理由は何もない――自分のせいで殺してしまうに等しいではないか。

 

「だめよ!」

 

 バケツへの一撃で怒りをおぼえたか、それとも単純に新鮮な獲物に興味を持ったか、魔女は醍醐に向けて雪玉を投げ始める。

 二発、三発と避けた醍醐だが、次の一発を右肩に受けて吹き飛ばされた。

 氷上を滑るように転がり、波の形の氷に背中をぶつけて止まった醍醐は、右肩が異常に熱を持っていることを自覚した。痛みもひどいが、熱さが勝る。おそらくは骨が折れているのだろう、と判断する。

 

「でもさ……足が動けば囮にはなれるよ」

 

 立ち上がり、動く方の腕で雪玉を拾い投げ返そうとするが、数メートルと飛ばずに落ちる。当然だ、意志力で補うには彼の身体は傷付きすぎている。

 

「お願い、だめ! 逃げて! お願いだから!」

 

 自らの死がイコールで醍醐の死とつながってしまった以上、このまま死を受け入れることは許されない。マミは全力で足を癒そうとしているが――

 

 ――だめ、このままじゃ五分はかかる。間に合わない……!

 

 未使用のマスケットは全て氷塊に押し潰されてしまった。新たに作る手もあるが、それも一挺に一分近くかかるため、やはり間に合わないだろう。

 

 ――……今一瞬だけでも動ければ。

 

 動いた結果身体が潰れようが、今が凌げればそれでいい。

 マミは機能を失った大腿部にマスケットを添え、リボンで幾重にもテーピングする。

 そして骨は諦めて、筋肉だけを治癒させると痛覚を完全遮断した。

 

 

 走るというよりは、そこかしこに屹立する氷の柱にリボンを巻き付け、遠心力を利用して、ロープアクションの要領で動く。

 そうやって魔女との距離を詰めたマミは、魔女の頭部と胴体をつなぐ窪みにリボンを絡ませ、リボンを収縮させると魔女の肩口に取りついた。

 そして、帽子の中に残っていたかつての失敗作――マスケット剣を取り出し、バケツを幾度となく斬り付ける。

 斬りつけるたびに、魔力の衝突がまばゆい光と鈍い音をあげる。

 魔女は両手のモップを回転させて唸り声をあげるが、直線的なモップでは肩口に取りついているマミに打撃を加えることはできない。

 

 ――絶対に、倒し切る……!

 

 マミの覚悟に応えるように、魔力を帯びたマスケット剣がオレンジイエローの眩い輝きを放った。

 だが、その輝きは、一瞬にして巨大な影に飲み込まれる。

 

「巴さん、上に!」

 

 マミの上空に、先ほどに数倍する大きさの氷塊が現れ、影を落としていた。既にそれは落下を開始し、マミの華奢な身体を捕らえようとしている。

 マミは、先ほどと同じく、上方へ視線を向けることなく、己のなすべきことに集中する。

 瞬間、氷塊が魔女とマミを飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 氷塊の周囲に雪煙があがり、全てを包み込む。雪煙は晴れることなく、いつまでもマミと魔女を醍醐の視界から隠した。

 

「巴さん……」

 

 緊張の糸が切れた醍醐が、膝から崩れ落ちる。

 と、氷の床がゼリーのように蠢動し、やがて消えていくのを感じた。

 氷塊の衝撃で自滅した魔女――主を失った結界が、その姿を崩壊させているのだ。

 

 同じ様を、圧力にひしゃげたリボンのドームの中で、巴マミも見ていた。

 もともとテントほどの空間を維持していたドームは、氷塊に押し潰されて今や寝袋のようなサイズにまで変形していた。

 あと少し押し潰されていれば、マミの生命もなかっただろう。

 

 ――今の攻撃は避けずに耐える、あとでノートに書かないと……。

 

 状況に不釣り合いなほど日常的なことを考えているのは、おそらくは思考が麻痺状態にあるためか。あるいは痛覚を完全に遮断しているために、現実感が喪失してしまっているのかもしれない。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 醍醐が意識を取り戻した時、肩の熱さは治まっていた。その代わりに、治癒魔法の温もりが肩を中心に全身を包んでいた。

 

「良かった、気が付いた」

 

 一時間ばかり治癒をし続けて、ようやくだった。

 マミ自身の骨折なら数分で癒せることから考えると、普通の人間への治癒は効果がずいぶんと制限されるようだ。

 醍醐への治癒だけで、先ほどの魔女が落としたグリーフシードを使い切ってしまうほどの魔力消費があった。

 

 ――でも、良かった。普通の人には効かないんじゃなかった……。

 

 醍醐が瞳を開けると、目の前にマミの顔があった。

 マミの双眸から溢れた安堵の涙が醍醐の頬を叩く。その涙はまるで醍醐本人の涙であるかのように醍醐の頬を伝って落ちる。

 それは治癒魔法の温かさとはまた異なる、心地良い温かさを彼に伝えた。

 

「天使かと思ったよ……今日の巴さん、すごく綺麗だよね」

 

 意識が朦朧としているために、気恥ずかしさを感じることなく素直に口にすることができた。

 

「ばか、こんな時になに言ってるのよ」

「だって、今日ずっと言いたかったから」

「……だったら、さっさと言いなさいよ、ばか」

「ごめん、恥ずかしくて」

「ばか」

 

 なんだか何を言っても馬鹿と返される気がして、醍醐は苦笑した。そして、少し余裕が出来たのか、マミの姿を見て両足の有様に気付いた。

 

「僕はいいから、先に巴さんのケガを」

「大丈夫、私は魔法で痛みを弱くできるから。それに、私のために頑張ってくれた怪我だもの、何より先に治さないと」

「僕は男だから我慢できるよ。いや、そもそももう痛くないし。それにほら、レディファーストっていうし」

「ばか」

 

 

 

 傷を癒した後、公園に移動したふたりはベンチに腰を下ろした。

 既に日は沈み、街灯には羽虫が体当たりを繰り返し、周期的な音をたてている。そんなかすかな音がはっきり聞こえるほど、他の音がなかった。

 

「……もう、やめよう?」

 

 手をつないで黙ったままにいたふたりだったが、ようやくマミが口を開いた。

 

「ごめん、無茶だったのは分かってる。でも」

「ううん、助けてくれたのは感謝してる。でも、もうやめましょう。私は魔法少女だから、危険は承知のうえだけど、醍醐くんが命を危険にさらすことはないもの」

「それだって嫌だよ」

「え?」

「巴さんが命を危険にさらすのだって嫌だよ」

 

 醍醐が手を強く握る。マミはしばらく逡巡した後、握り返した。

 

「私ね、本当は事故で死んでたの。それを、魔法少女として戦うって使命と引き換えに、助けてもらったの。だから、どんなに危険でも戦わなきゃならないの」

 

 街灯に頭から激突し続けていた羽虫が、ついに力を失ってマミの足元に落ちてきた。

 しばらくは足掻く様に羽を動かしていたが、やがて息絶えたか動かなくなる。

 静かに眺めていたマミは片手で土を掬って羽虫を埋めてあげると、醍醐に向きなおって言った。

 

「今日はもう遅いわ。明日、ゆっくりお話しましょう」

「明日、ちゃんと来てくれるよね」

「もう、どうしてそんな心配するの? 来なくなるなら、こんな危ない目にあった醍醐くんの方だと思うわよ」

 

 そういって笑うマミの笑顔は、いつも通りに見えた。それが逆に不安に感じられた醍醐は、表情を強張らせる。

 

「じゃぁ、指きりしましょう?」

 

 マミが差し出した小指は、公園の安っぽい灯りのせいか、醍醐にはとても白く脆そうに見えた。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 翌日。

 やはりというか、マミと醍醐の話は平行線だった。ベンチに腰掛け正面を見つめるふたりの視線が、平行を保っているのと同じように。

 パトロールは同行しても、魔女の結界へは入って欲しくないというマミと、結界まで入ると譲らない醍醐。

 醍醐を危険な目にあわせたくない、というマミの主張は理解できたが、醍醐にはひとつ分からないことがあった、それは――

 

「巴さん自身、どうしたいと思ってるの。どうすべき、じゃなくてさ」

「…………軽蔑されるかもしれないけど」

 

 まだ灯りがともっていない街灯を見上げて、マミは口を開いた。

 

「私は、ほんとは両親と一緒に事故で死ぬはずだったのに、自分だけを助けてって身勝手なお願いをして、魔法少女として戦う運命と引き換えに助けてもらったの。こんなこと、誰にも言えないし言っても分かってくれるはずもない。本当の意味でひとりぼっちだったの。すごく寂しくて心細くて辛かったわ。偶然に巻き込む形だけど、醍醐くんが事情を理解してくれて、傍にいてくれて、とても救われたの」

 

 そこで言葉を区切ると、醍醐の方に身体を向かせると、詫びるように視線を落とした。

 

「だから、このまま醍醐くんに一緒にいて欲しい。危険なのは間違いないのに、ひどいよね」

「危険なのは覚悟の上だから、構わないよ。一緒に行こう」

「うん……」

 

 しかし、マミは考えていた。もし醍醐にもしものことがあったら、どうすればいいのだろうと。

 

 

 どうすればいいのか。答なんてあるわけがなかった。

 だから、魔女の波動を感知した時、マミは醍醐に告げた。

 

「醍醐くん、いつもの公園で待ってて」

 

 そして、握っていた手を離し、醍醐の世界からかき消えた。自分の名を呼ぶ声に耳をふさぎ、マミはひとりで結界へ急いだ。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

「くそ、僕にはどうして一緒に戦える力がないんだ!」

 

 公園の木に拳を打ち付けるのは、これで何度目だろうか。拳の皮はめくれ、血が溢れていた。それでも醍醐は、拳を繰り返し叩き付けた。

 己の無力さを呪い、そして自らを傷付けることでそんな己を罰するかのように。

 

「やめて」

 

 醍醐の拳を、白く柔らかい手が包んだ。その瞬間、醍醐の世界に巴マミが現れる。巴マミは醍醐の拳を包んだ手に癒しの魔力を込めると、頭をぺこりと下げた。

 

「さっきは……約束を破ってごめんなさい」

「それは……済んだことだけど、いいよ、とは言えないよ。どうしてなんだい、巴さん」

 

 マミの指から流れ込んだ癒しの力で、醍醐の拳から傷が消えていく。身体の傷は、こんなにも簡単に癒えるのに、とマミは下を向いたまま唇を噛んだ。

 

「怖かったから」

「だったらなおさら、一緒にいた方が怖くないじゃないか」

「私が死ぬのは……怖いけど、でも、本当は事故で死んでいた命だから、しょうがないと思うの。でも、醍醐くんは違う。本当はね、一緒に死ぬのは怖いけど、そんなに嫌じゃないの。ただ、醍醐くんだけが死んで、私だけ生き残ったらと思うと、本当に怖い……」

 

 家族を失った時と同じような悲しみを、また味わうことに耐えれるのか、と問われると否だろう。

 だからといって、失う前に関係を断てばいいのか、というとそれも否だ。巴マミは袋小路の中で震えることしかできなかった。

 

「どうすればいいのか、わからない。ごめんね。醍醐くんと約束したとおり、あのまま一緒に行きたかったんだけど、醍醐くんが危険な目にあうと思うと、どうしても怖くて」

 

 醍醐は口を挟まず、促すように頷いてみせる。

 

「ごめんなさい、自分勝手なことばかりで。どうしたらいいかわからないの、このまま消えてしまいたい」

 

 魔法少女として戦い果てるまで、存在を薄くして誰とも関わらず生きる。そうすれば誰も巻き込まず、また自分も傷付かないのではないかとマミは思う。だが、それは果たして生きているといえるのだろうか。

 

「巴さんは僕を危険にさらすっていうけど、それは違うよ。僕が自分からそうしてるんだ。巻き込まれてるんじゃない。僕が一緒にいたいからそうするんだ」

 

 醍醐がマミの肩に腕を回すと、マミは醍醐の胸に身体を預けた。

 

「約束して。この間みたいな無茶はしないこと。私が逃げてといったら逃げること」

「……うん、それは約束する」

「うん、私も約束する。これからは一人で行ったりしない。一緒にいてください」



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第一一話 マミさん、パトロールを満喫する

 カレンダーに丸がついているのは、今週、六月第一週の土曜日。

 その日は醍醐の誕生日であり、巴家で夕飯を食べる約束をしていた。

 まさに今日がその日であり、巴マミは幼いころに憧れたヒロインが歌っていた『ご飯の歌』を口ずさみながら、食事の準備をしていた。

 この一週間、毎日夕飯に同じものを作っていただけに、手順はもとより勘所も心得たもので、淀みなく動く両手から、次々に彩りも味も優れた料理が生み出されていった。

 ただ、調子に乗ったのか、あまりに多くの皿をテーブルに並べてしまい、それを見た醍醐に呆れた声で「いったい何人でパーティするつもりなんだい?」と問われることになる。いや、問われる前からマミも自覚しており、この時点で「作り過ぎちゃった……」と呟く。

 思慮深いように思えるマミだが、それは後天的に得た性質で、もともとは調子に乗りやすく浮かれっぽい部分があった。

 

「ちょっと減らした方がいいかしら……」

 

 もう少し経験を積んだマミならばふたり分に見合うだけのものを厳選しただろうが、ようやく上手に作れるようになったばかりのマミとしては、どれも自信作で下げるには惜しかった。

 

 ――……確か中国では、食べきれないくらい出すのがおもてなしのマナーって聞いたことがあるわ。

 

 中華料理が一品も並んでいないのに、中国のマナーを持ち出すのもどうかと思わないでもなかったが、マミはとりあえずその理屈で納得することにした。

 

 ――残ったらキュゥべえが食べてくれるし。

 

 そう白猫の妖精に思い至ったところで、あっと呟き、部屋のソファーで寝転がる白猫に視線を向けた。

 

「キュゥべえは醍醐くんからは見えないのよね?」

『そうだね。テレパシーも通じないし、基本ボクは魔法少女か、その素質がある者としかコンタクトできない』

「じゃぁ、キュゥべえがお皿の料理食べたらどういう風に見えるのかな?」

『それはどういう意味だい?』

「お料理だけ突然消えていったら、お化けみたいで面白くないかしら」

 

 キュゥべえは返答の必要はないと判断して、ソファーの上で背を向ける形で丸くなり、尻尾を二、三度振って返事に代えた。

 

「もぅ、ひどくない?」

 

 憮然とした口調だが、マミの目は笑っていた。

 

 

 

 

 

「巴さん、いったい何人でパーティするつもりなんだい?」

 

 部屋に通された醍醐は、テーブルの上に溢れんばかりに並ぶ料理を見て、呆れた声をあげた。うっかりテーブルに足をぶつけでもしたら、大災害が起きそうな勢いだ。

 

「あれもこれも作りたいなって思ってたら……ちょっと作り過ぎちゃって」

「ちょっと、なのかな……見たことないけど、満漢全席ってこんなのじゃないの?」

「もちろん、残していいから」

「……いや、食べるよ。せっかく作ってくれたんだから」

 

 悲壮な決意を顔に浮かべ、醍醐は宣言する。

 

「無理しないでね。あ、魔法で消化促進とかできないのかしら」

「僕が倒れたらお願いするよ」

 

 微笑んで席に着こうとする醍醐に、マミは酷な言葉を投げつけた。

 

「ごめんなさい、まだ全部揃ってないから、もうちょっと待ってもらえる?」

「いや……もう充分じゃないかな?」

「ほんとごめんなさい、今作ってるのが一番の自信作なの、だから」

 

 醍醐の受け取るところによると、巴マミは待たせることを悪いと詫びているのであって、料理がさらに追加されることを詫びているようではないようだった。そのズレっぷりに苦笑を漏らすと、まぁ、一晩お腹が痛いくらいは我慢しようかな、と覚悟した。

 

 

 

 

 

「そういえばさ」

 

 アボカドとチーズを生ハムで巻いたものを口に運びながら、醍醐が言った。

 既にテーブルの上の料理は七割方片付いている。醍醐が頑張ったのも大きいが、キュゥべえも負けず劣らず食べていた。

 

『料理が減っているのも認識できないみたいだね』

 

 キュゥべえが告げたとおり、醍醐は目の前の皿がいつのまにか空になっていることに違和感も感じていないようだった。もしかしてキュゥべえが平らげた分まで私が食べたと思われてるの……? とマミは危惧し、ささやかな不在証明としてキッチンへの往復頻度を増やしていた。

 

「人に集まるところが、魔女がでやすくて危ないんだよね?」

「ええ、そうよ。だから繁華街のパトロールが多めでしょ」

 

 用もないのにキッチンに来ていたマミが、手持ち無沙汰に冷蔵庫を開けて中身を見つつ応える。

 

「だったらさ、遊園地とか危なくないかな」

「えっ……そ、そうかもね」

「今度パトロール行ってみない?」

「そ、そうね。そのうちパトロールに行ってみましょうか」

 

 意味もなくクリームやバターの容器を並べ替え、ミルクの瓶を揺らして中身を見る。フレンチトースト用に卵黄入りのシュガーミルクに浸しているバゲットの入ったタッパを揺すって波立たせては、浸り具合を見る。

 あくまで『見る』であり、確認をしているわけではない。

 

 ――遊園地かぁ……なんだか普通の中学生みたい。ずっとこんな風に平和に暮らせればいいのにな。

 

 緩んだ表情でシュガーミルクを眺めるマミは、そんな夢のようなことを考えていた。

 

 

 

 

 

『ねぇ、キュゥべえ』

 

 大きめのタッパを揺する手を止め、リビングで醍醐と並んで食事をしているキュゥべえにテレパシーを飛ばす。

 

『なんだい、マミ』

『もしも、私が戦うのをやめたらどうなるの?』

『戦うのが嫌になったのかい?』

『嫌というのとは違うけど……怖いとは思うわ』

『魔法少女は生きているだけで魔力を使い穢れていく。だから定期的にグリーフシードで浄化する必要があるんだ』

『そう……よね』

『ただ、今みたいに毎日頑張る必要はないと思うよ。魔法をハデに使わなければ、グリーフシードも月に一個もあれば浄化は間に合うだろうしね。あまり根をつめすぎて、精神的に参ってしまう方が困る。キミはもう少し、気楽に構えた方がいいかもね』

『そっか。ところで、今日のご飯はおいしい?』

『……前も言ったと思うがボクは味は分からない。だけど妙に固い部分や柔らかい部分がなくなって、食べやすくはなったね』

 

 そんなキュゥべえの評価、いや評価放棄を以前はありがたく感じていたものだが、今日は物足りなく感じてしまう。

 醍醐のように惜しみなく賞賛してくれる人がいると、そう思うのも当然のことなのだろう。

 席に戻ったマミに、醍醐は過剰ともいえる賞賛の言葉を浴びせた。日常的な語彙を逸脱した言葉まで飛び出すあたり、前もって用意していた言葉なのだろうなとマミは思い、それが微笑ましく感じられた。

 

「美味しそうに食べてくれてありがとう」

 

 美味しく、と言えるだけの自信はマミにはまだなかった。一週間作り続けただけに、不味くはないと彼女も自負しているが……。

 確かめるように一品を箸で摘まむと口へ運ぶ。

 うん、美味しい――但し、マミの味覚では、だ。醍醐の味覚ではどうか、自信は持てない。

 

「お口に合わないようなら、無理しないでね」

「いや、美味しいよ。それに万が一僕の口に合わなければ、口の方を合わせるよ」

 

 どこかで聞いてきたような台詞だな、とマミはまた可笑しく思う。

 だがその可笑しさは不快でも滑稽でもなく、自分のために言葉を準備してきてくれたであろう事実に好意を感じた。

 マミはそんな感情は面には出さず、紅茶を口元に運び唇を湿らせるだけで戻すと、澄ました態度で問う。

 

「醍醐くん、明日はお暇?」

 

 冷製ポタージュを口腔で味わっていた醍醐は、喉を鳴らして飲み下すと頷いてみせた。

 

「じゃぁ、遊園地いってみる?」

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 三段積みの重箱にぎゅうぎゅう詰めと言って差し支えない程の料理を盛り込みながら、マミは額の汗を拭った。

 父母マミの三人で食べる時でさえここまで詰め込んでいなかったのだが、今のマミではあれもこれも食べて欲しいという気持ちが勝ちすぎて、どうしても量を作り過ぎてしまう。

 

「残ったら私とキュゥべえの夕飯にすればいいしね」

 

 キュゥべえに感情があればうんざりした表情を見せて文句の一つもこぼしたかもしれない。しかし幸いにして彼には感情がなく、特に抗議されることもなくマミの発言はスルーされた。

 一夜明けての日曜日、マミは昼食代わりにお弁当に詰める料理をつまみながら、キッチンでてきぱきと動いていた。

 あまり出先で食べたらみっともないという女性的な見栄から、昼食を多めに食べる。

 その見栄の結果、醍醐がまた苦労するのだが、そこまではマミの想像は思い至らない。

 

「休憩用に美味しい飲み物もあった方がいいわよね」

 

 食事用のお茶の入った水筒に花柄のカバーをかぶせながら、ぽつりと呟く。

 

「冷たいのはだめだから、暖かいのか生温いので美味しいのというと……」

 

 冷たいのは行楽には良くないと母が言っていた記憶がマミにはあった。

 理由は知らなくとも、母の遺した言葉は金科玉条としてマミの中に存在しており、不可侵の教えとなっている。

 

「あ……」

 

 そういえば、家族で行楽にでかけた時に飲んだバナナミルクセーキが美味しかったなと記憶から掘り起こすと、キッチンの収納ラックに仕舞われた母の料理ノートからそのページを探す。

 ルーズリーフ五冊に及ぶ量だが、整頓が行き届いているので探すのはさして困難ではない。

 マミが魔女のこと、戦術のこと、魔法のことを詳しくノートに書き残すのは、母の影響なのだろうと思わせるだけの、しっかりしたレシピノートだった。

 

「ふむふむ、メープルシロップを適量にバニラエッセンスを数滴ね」

 

 最近では『適量』や『充分な時間』などの記載にも、不平を抱くこともなくなった。その代わりに、アレンジを利かせすぎて味見の際に涙目になることもしばしばだが……。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 ジェットコースターで短い悲鳴をあげ、ミラーハウスで驚いて飛び退いたために頭を打ち、観覧車で「これなら怖くないね」と安堵の息をつく。

 マミが行ったのなら愛らしいと表現できるのだろうが、醍醐が行うと情けないと表現すべきだろう。ただ、あばたもえくぼというものか、マミにとっては微笑ましいと感じられていた。

 

「次、あれ乗らない?」

 

 できるだけ刺激の少ない乗り物、という観点でマミが選んだのはコーヒーカップだった。

 コーヒーカップもそれなりに身体への負担はあるのだが、ジェットコースターをものともしないマミには「楽な乗り物」と映っている。

 

「うん、乗ろう乗ろう」

 

 応える醍醐はコーヒーカップの怖さを把握していたが、マミが乗りたいのだろうと勘違いをしていた。そのため、乗らないという選択肢は彼の頭の中には現れなかった。

 

 ――これ、何が楽しいんだろう?

 

 回転するコーヒーカップの中で醍醐は思うが、横に座るマミが楽しそうにハンドルを回しているのを見ると、その疑問を口にすることは躊躇われる。

 

 ――まぁ、楽しそうな巴さんの顔が見れるだけで、充分乗る価値はあるのかな。

 

 ステージ中央の巨大なティーポットを軸にした個々のカップの周回運動。

 それにマミと醍醐の握るハンドルから生み出されるカップの回転運動が加わって、三半規管へなかなかのダメージを与えてくる。

 乗っている間はともかく、降りたらまっすぐ歩けるだろうか? と醍醐は危ぶむ。

 まぁ、そうなったらベンチでしばらく休ませてもらおう、と考える醍醐だが、何故か想像の中で膝枕をしてもらっている図を描いて赤面した。

 

「大丈夫?」

 

 その様子に、カップ酔いでもしたのかと心配したマミがハンドルを操作する手を止める。

 

「ぜ、ぜんぜん平気だよ、ほら!」

 

 虚勢を張った醍醐は、カップ中央の位置するハンドルを力任せに回転させた。

 ぎゅるるる、とばかりにハンドルが回り、一息遅れてコーヒーカップが高速で回転を始める。

 

「きゃ」

 

 急激な遠心力の増加に、マミがバランスを崩して、上半身を醍醐に預けるようにぶつかってくる。

 

「大丈夫、巴さん? ごめん、回しすぎたよ」

「だ、だいじょうぶ。こっちこそごめんね」

 

 図らずもマミを腕に抱く形になった醍醐は、先ほどまで不快だと思っていた回転運動に感謝する。

 

 ――あぁ、なるほど、これはいい乗り物だ。

 

 見下ろすとすぐ下にはマミの胸の谷間、そこに視線が釘付けにならないようにするのにかなりの精神力を必要とした。

 邪念を振り払うようにかぶりを振ると、醍醐はコーヒーカップという乗り物の真髄を見切った――ような気がした。

 

 

 

 

「醍醐くんは、なにか乗りたいものとか、入りたいものはないの?」

 

 ベンチで長めの休憩をとった後、マミが園内地図を広げて聞くと醍醐は長考に入った。

 そう問われても、遊園地に馴染みなどない醍醐としては、地図に並んだ名前を見てもどれが良いとは言いにくい。

 とはいえマミは恐らく自分の希望するアトラクションばかりに乗っていることに遠慮して、自分に水を向けてきたのだろう。

 そう思うと「どれでもいい」はいかにも愛想がない返事だ。

 

 ――ここは巴さんが内心乗りたがってるのを選んで、私と同じ趣味なんだ~と内申点を稼ぐところだね、内心だけに。

 

 仮にテレパシーで思考が漏れていたら自殺したくなるようなことを考えながら、地図に目を走らせる。

 そして、マミが好みそうな可愛らしい名前のアトラクションを見つけると、そこを指でさした。

 

「これなんてどうかな」

「あ、ちょっと気になってたの、それ」

 

 チューチューキャットとの名を冠したアトラクションは、地図の端の方、池や木々の絵が描かれた一隅にあった。

 名前からして、動物関連の何かだろうと類推され、飼育委員を務めていたマミの興味を引くに違いない、と醍醐は思った。マミの反応も思った通り悪くなく、醍醐は自分を自分で誉めてやりたい気持ちになった。

 

 

 

「ねぇ、醍醐くん」

 

 デフォルメされた猫を模した二人乗りのビークル、その左側座席で金属音をたてながらシートベルトとハーネスを装着するマミが心配そうな顔で右側に座る醍醐に語りかける。

 

「これ、ジェットコースターより安全装置? 保安器具? がすごくない?」

 

 六点式シートベルトの上から、上半身をすっぽり覆うU字状のハーネスを肩口から降ろして金具で固定する。

 ハーネスだけで、しかも金具固定でなく押し込み式だったジェットコースターに比べると、ずいぶんと念が入っている。

 

「そ、そうだね、これだけすごいと、きっと安全なんだろうね……」 

 

 既に嫌な予感しかしなかったが、自分で選んだ以上いまさら引くのも男らしくない……とヘンに覚悟を決めた醍醐は、ひきつった笑みを浮かべると親指を立ててみせる。

 しかしその予感に反して、猫型ビークルは自転車を思わせるのんびりとしたスピードを保った。

 群れ泳ぐ魚の姿まで見える澄み切った池の上を、若葉が生い茂り気持ちの良い涼しさを感じさせる木々の間を、あくまで緩やかに走り、ふたりに景観を楽しませてくれた。

 

 枝にとまる小鳥の名前を言い当てたり、立ちならぶ樹木の名前を教えあったりしているうちに、五分ほどが経過した。

 ちょうど醍醐が、当たりのアトラクションだったと胸を撫で下ろした頃、3D映像と思われるカートゥーン調のネズミが、ビークルの前に現れた。

 そのネズミはビークルを挑発するように尻尾を振ると、一目散に駆けて逃げ、あっというまに小さくなる。

 ビークルは汽笛のような音をあげると、ネズミを追ってゆっくりと加速を始める。あぁ、やっぱりと醍醐は思った。やっぱりこうなるんだ、と。

 

 

 あるときは地面を這うように走り、あるときは立ち木にぶつかりそうなくらい近くを巻き、あるときは直角に曲がって逃げるネズミを追い急カーブを描く。

 ビークルの動きは、ジェットコースターよりも強い衝撃を醍醐に与えたが、醍醐は悲鳴を意志の力で抑え込むことに成功していた。

 

「すっごいね」

 

 ジェットコースターではケロッとしていたマミも、緊張した声を漏らす。その声に応える余裕などあるはずもない醍醐は、ビークルの前を疾走するネズミの映像を凝視して意識をそこだけに集中し、恐怖を感じないよう――特に悲鳴を漏らさないように努めていた。

 と、ネズミが口にくわえていたチーズを落とし、それを追って真下へ走る。

 猫型ビークルはネズミの軌跡を軸として、小さい半径で螺旋を描きながら落ちるかのように駆けていく。

 

「きゃ」

 

 マミが先に声をあげたことで、醍醐は内心で大きく安堵の息をつく。これで自分が悲鳴を上げても、男として申し訳は立つとの後ろ向きな考えではあるが……。

 勢い余って――もちろんアトラクション的には予定通りではあるのだが――ビークルが池の水面を叩き、大きく水飛沫をあげる。飛び跳ねた水飛沫の大部分はビークルの天板で防がれるが、一部が隙間からマミと醍醐にまで至った。

 

「大丈夫、巴さん?」

「あは、だいじょうぶ。うふ、あはは!」

 

 恐慌のあまり、おかしくなったのだろうかと醍醐が訝しむほど、マミが堰を切ったように笑い出した。

 花柄のシフォンワンピースと、緩く巻いたレースのショールに水飛沫がかかったが、マミは気にした様子もなく、「楽しいね!」と声を弾ませた。

 恐怖を感じると逃避行動として躁状態になる場合もあると聞いたことがあったが、それだろうか? 醍醐はそう考えると、マミの恐怖を和らげるために、左腕を少し動かして手を握った。

 果たして、マミは醍醐の手を強く握り返し、それで落ち着いたのか、ビークルが池を越えて森に入る頃には、笑いは収まった。

 

「あ!」

 

 笑いで身体を揺らしすぎたせいか、それとも元々の結びが弱かったのか、マミのショールが風にさらわれて後方に飛んだ。醍醐は手を伸ばそうとするが、そもそもハーネスで肩まで固定されていてはロクに腕を動かせず、ショールを掴むことはかなわなかった。

 

「これ終わったら探そう」

「そうね、一緒に探しましょう」

 

 そういった後、マミは片手で首を絞める真似をして「どこかに引っかかって、首がぎゅーってならなくて良かったわ」とおどけてみせた。

 

 

 

 

「あー、面白かったー」

 

 満足そうな笑みを浮かべるマミを見ていると、醍醐は温かい気持ちになる。だが、さりとて自分が選んだアトラクションでショールを紛失させてしまったのは心苦しい。そういった事情からなんとも微妙な表情を浮かべて、醍醐は木立の中を歩く。

 

「この辺だったよね、飛んだの」

 

 既に傾き始めている太陽が、木々の隙間から柔らかな木洩れ日を届かせる。

 醍醐は手でひさしを作ると目を凝らしてマミのショールを探す。競争しているわけではないのだが、マミより早く見つけたい、という思いがあった。

 その思いが天に届いたのか、さして時間をかけずに醍醐はショールを発見した。

 立ち並ぶ樹木のひとつ、その天辺に近い枝に引っ掛かり、鯉のぼりよろしく布を泳がせているショール。それを認めた醍醐は、「あった。任せて」と短く伝えると、返事も待たずに木に登り始めた、

 

「あ……」

 

 登らなくても、リボンで取れるんだけどな……と思ったマミだったが、既に登り始めた醍醐を止めるのも申し訳なく思い、「お願いね」と伝える。

 ショールの引っ掛かっている枝は校舎の四階程度の高さがあるが、万が一醍醐が落ちてもリボンで受け止めれば怪我なく済ませられるはず、とマミは考え、いつでもリボンを出せるように心の準備をした。

 そうして緊張状態で待機するマミの頭に、突然テレパシーが届いた。

 テレパシーの主はキュゥべえ。

 

『マミ、君のマンション付近で結界が発生した、魔女かもしれない』

 

 マミの視線は一時も逸れることなく醍醐を追っている。いま、ようやく七割程度を登ったところだろうか。

 

『ん……後で……いえ、明日でいいかしら?』

『それは、構わないが……いいのかい?』

 

 グリーフシードをみすみす逃していいのか、という意味のキュゥべえの問いだったが、マミは倒さずに放置していいのか、という意味に受け取った。そのため、胸の奥に小さな針が刺さったような痛みを感じながら、マミは謝罪を口にする。

 

『せっかく教えてくれたのに、ごめんね、キュゥべえ』 

『いや。そもそも毎日パトロールや魔女狩りをする方が普通ではないからね。熱心な魔法少女でも一日おきくらいだよ』

 

 そしてテレパシーは完全に途絶えた。

 それはキュゥべえにとっては他意のない自然な行いだったのだが、マミは自分が責められているような居心地の悪さをおぼえた。

 そんな気持ちを吹き飛ばすかのように。

 

「取れたよ!」

 

 明るい醍醐の声が樹上から響いた。その声でマミは笑顔を取り戻すと、手を振って喜びを表した。



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第一二話 マミさん、魔法少女の使命にめざめる

 木立でのショール救出劇を演じたふたりは、そこからほど近い池の畔で夕飯にした。

 格好良いと思ったのか、「弁当を使う」と表現した醍醐だったが、マミには「何それ、時代劇?」と笑いを提供するだけに終わり、カッコイイどころか受け狙いと思われたようだった。まぁ、いつものことと表現していいだろう。

 

「食べたら、もうちょっとアトラクションに乗って帰りましょうか」

 

 綺麗に並べられた重箱を箸でつつきながらマミが言うと、醍醐は『食後だからお手柔らかなもので』という条件付きで同意した。

 

「んー。お手柔らかっていうと、さっきのチューチューなんとか?」

「だめだよ!」

「あは、もう日も暮れるし、水浴びると寒いものね」

 

 そういう問題じゃないんだけど、と思いながら、醍醐はふとコーヒーカップでの出来事を思い出し「コーヒーカップ……」と呟く。その声を拾ったマミは「うん、それなら食後でも大丈夫よね」と微笑みながら、半分くらいまで減った醍醐のカップにお茶を注いだ。

 

「でも、またなの? 気に入ったのね」

「あー、せっかくだし、今日乗ってないのにしようか」

「あら、気に入ったのならいいわよ?」

 

 マミの純粋な反応を目の当たりにすると、醍醐は自分の考えを恥ずかしく感じ、強く否定した。

 その心の動きを知る由もないマミは、自分が「また」といったせいかと、シュンとしてしまう。

 お互いに少しばつが悪く感じ、言葉が途切れた。

 醍醐は何か提案しないといけない、と意気込んで園内地図に目を走らせ、地図の枠外に書かれているスケジュールに気が付いた。

 

「八時からアクア・イリュージョンだって。最後はこれにしない?」

「あ、それ人気みたいよね。うん、それを締めにしましょう。それまでは……ええと、一時間とちょっとね」

 

 アクア・イリュージョンはこの遊園地の名前にもなっているアトラクションで、メインゲートすぐの噴水で数時間おきに光と音楽を伴う噴水ショーを二〇分ほど行うものだ。

 昼のうちは子供、家族向けの明るい音楽と派手な演出、夜になるとカップル向けの静かな音楽と儚げな演出を行っている。

 

「一時間あれば三つくらい乗れるかな?」

 

 何かいいアトラクションはないかと再び地図に視線を落とした醍醐に、マミが待ったをかける。

 

「ちょっと早いけど、食べ終わったら場所取りにいって待っておかない?」

 

 時間ぎりぎりに行って後ろの方で立ち見になるのも困るし、と続けるマミだったが、それが理由の全てではないことは醍醐にでも察しがついた。

 

「ありがとう、そうしようか」

 

 だから醍醐は素直にありがとうと言えたし、言われたマミも自然に受けた。

 とはいえ、残り時間一時間強の半分近くは、お弁当との格闘に消費されることになり、もとよりアトラクションに乗る余裕はほとんどなかったのだが……。

 

 

 

 

 

 噴水前のステージに着いた時、まだ座席はほとんど埋まっていなかったが、マミと醍醐は前列ではなく中列の左端に席を取った。

 六月といえど夜ともなると少し肌寒くなり、マミはルーズに巻いていたショールをマフラーのように巻き直す。

 ショーの開幕まで二〇分ほどあった。しかし、とりとめもない会話をしているとすぐに時間は過ぎた。

 そして、ショーが始まってからの時間は、さらに早く過ぎた。

 

 赤や青やオレンジ、ピンクの光は、様々に形を変えて舞い上がる噴水を染める。

 また逆に飛沫をあげて舞う水は、数多の色の光を散乱し光彩を描く。

 静かなクラッシックは自己主張しすぎることなく、主役の光と水の奔流を盛り立てる。

 マミは溜め息さえこぼしながら、幻想的な光景に見入っていた。

 

「こんなに綺麗なのなら、毎回見てれば良かったね」

 

 ショーは二時間から三時間のインターバルをもって一日中催されている。見ようと思えば、今日だけでも数回見れたはずだ。ライトアップの映える夜間ステージが白眉なのは間違いないが、昼下がりや夕暮れのステージも異なった趣きで楽しませてくれるだろう。

 

「本当ね……」

「またパトロールに来て、見ようよ」

「そうね……でも次はパトロールじゃなくて、遊びに来たいかな……」

 

 今日も遊びじゃないのかな、と醍醐は思うのだが、マミにとっては遊びにくるのと、パトロールを名目に遊ぶのとでは、真珠と硝子玉ほどの違いがあった。

 だが機微は分からなくても、マミにとって意味があることだと推し量る程度はできる。だから、余計なことは言わずに肯定するにとどめた。

 

「そうしよう」

「うん、そうしましょう」

 

 マミは醍醐がそのあたりの機微を理解してくれたものと思い、顔を綻ばせた。そのマミの受け取りようは厳密には正しくないが、しかし決して的外れでもないだろう。

 

 ある時は夜空を飾る花火のように。ある時は氷上を舞うフィギュアスケートの選手のように。ある時は野原を駆ける小動物のように。ある時は国境を越えて人々を魅了する流星群のように。ある時は一糸乱れず行進する儀仗兵のように。ある時は虚空を光と熱で満たそうとするスターバースト銀河のように。ある時はその質量で全てを砕く大瀑布のように。

 そして最後は、清流で儚い生命を全うする蛍のように一抹の物悲しさを残して、幻想的なショーは終わりを告げた。

 

「良かったー」

 

 まるで今まで呼吸をするのを忘れていたかのように、大きく息を吐く。

 高揚のためか熱気のためか、額にうっすらと汗が滲み、黄金色の前髪が幾筋か張り付いていた。マミはポシェットからハンカチを取り出すと髪を浮かせながら汗を拭った。

 その仕草に艶っぽさを感じた醍醐は、少し鼓動が大きくなるのを感じながら、倣うように自らの額に浮いた汗を手で拭う。

 拭う手で醍醐の視界が妨げられ、マミの姿が隠れた。

 

「もぅ」

 

 その遮蔽の向こうから、マミが責めるような声をあげた。

 そして、ゆっくり身体を寄せると、ハンカチを持った手を伸ばして醍醐の額にあてがう。

 

「だめよ。手で拭いちゃ」

「ごめん、一応持ってきてはいたんだけど、つい」

 

 ジーンズの後ろポケットに小さく折りたたんだハンカチが入ってはいるのだが、横着をして実際に使うことはほとんどなかった。

 額を拭うマミのハンカチから、かぐわしい芳香が醍醐の鼻腔に届く。醍醐はそれを吸うのはいけないことのように感じられ、息を止めて、ついでに瞳まで閉じてマミに拭われるに任せた。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 幸せな気持ちだった。

 駅で醍醐と別れたマミは、幸せな気持ちで家路を歩いていた。あいにくの曇天で月も星も見えないが、雲の上で輝く星々を感じられるような、そんな気分だった。

 

 ――最低限のグリーフシードを確保する程度に魔法少女としての活動頻度を落とせば、こうやって遊べるし、戦う機会が減れば醍醐くんの危険も当然小さくなるわよね。

 

 自分の考えに首肯してみせながら、街灯に照らされた遊歩道を歩く。厚底のローファーが砂利を踏む感触が心地良い。

 

「さて、帰ったら洗い物だー」

 

 重箱や水筒だけではない。出かける寸前まで料理していたのでキッチンは戦場の様相を呈しており、完全に片づけるのに小一時間はかかるだろう。それを面倒ではなくやり甲斐がある、と感じる精神状態にマミはあった。

 

 

 

 

 

 自宅マンションの周辺に人だかりを認めると、巴マミは嫌な予感をおぼえた。

 幾つかのグループに分かれるように群れている中から、同じフロアに住む見知った主婦達の集団を見つけ、駆けよって声をかける。

 

「こんばんは。どうかしたんですか?」

 

 ぺこりと頭を下げるマミに会釈で応えると、婦人達は声を潜めて伝えた。

 

「十五階の佐上さん、一家で飛び降りだそうよ。怖いわねぇ」

「お子さん、まだ七つでしょう? 可愛い盛りなのにねぇ」

「小さいおかげか、お子さんだけ助かったみたいだけど……良かったと言っていいのか、ねぇ」

「え……」

 

 聞くと、飛び降りは三〇分ほど前のことらしかった。既に飛び降りた三人は救急車により運び出されているが、その時点で息があったのは子供ひとりだけであり、ひどく泣き叫んでいたという。

 

「大丈夫? マミちゃん、顔が真っ青よ」

「あ、いえ。大丈夫です。お話ありがとうございました」

 

 頭を下げると足早に立ち去り、エレベータに乗りドアを閉める。

 その後ろ姿を見送りながら主婦達は「あの娘、佐上さんのご家族と付き合いあったんだっけ?」と的の外れた話をしていた。

 

 

 

 

 上昇を始めたエレベータの中でソウルジェムを取り出すと、反応を確かめる。

 

 ――近い。真上ね。

 

 マミの部屋があるフロアを素通りして、エレベータは最上階へ向かう。反応は依然上を指し示している。

 マンションに魔女の結界がある。そのマンションで一家の飛び降り自殺があった。

 偶々かもしれない。偶然に同じとき、同じ場所で、親子が心中をはかり、魔女が活動を開始しただけかもしれない――そんな都合のいい話を信じられる人間性とは、対極の位置にマミはあった。

 最上階に着いても、まだ反応は上を示していた。マミは屋上に続く階段を登り、両開きのの扉を引く。

 

『マミ、明日にするんじゃなかったのかい?』

 

 いつの間にか足元にキュゥべえがいた。彼の問いかけにマミは応える言葉を持たず、黙殺することしかできなかった。

 

『まぁ、やる気なのはいいことだ。結界はすぐそこだよ』

 

 魔法少女の姿に変身したマミの背中に、キュゥべえが明るい声をかけた。

 

 

 

 引き裂く様に結界を破り、足音を殺すこともせず通路を歩く。

 向かってくる使い魔は胸を撃ち抜き、逃げる使い魔は背を射抜いた。

 

『マミ、少し動きが雑だ、気を付けた方がいい』

 

 キュゥべえに視線を向けることもせず、小さく頷くだけで応える。が、その返答も空しくマミの行動は変わらない。乱暴に使い魔を倒し、乱暴に歩を進める。油断――ではないが、結果的には同じものだろう。

 怒りではらわたが煮えくり返る、という状態をマミは生まれて初めて感じていた。

 だが、その怒りの矛先をどこに向ければいいのかは分からなかった。魔女に向け、全ての咎を魔女に押し付けて断罪すれば、この怒りは霧散する――マミには、とてもそうは思えなかった。

 やがて、マミは結界の深部に到達した。

 そこに魔女はいた。マミと戦い、マミのノートに唯一記載されないことになる魔女。

 

 マミは数多のマスケットを並べると、矢継ぎ早に魔弾を放つ。

 その魔女は弱かった。マスケットの集中砲火の前に、あっさりと崩れ落ちた。

 マミは崩れ落ちた魔女に歩み寄ると、魔女の頭部にマスケットを押し付けて魔弾を放つ。脳漿のようなものが魔女の頭から飛散しマミの身体にもかかるが、意に介さずにマスケットの銃床で魔女の頭を散々に殴る。

 

 結界が消え、魔女の姿が溶けてなくなった後も、コンクリートの床に銃床を叩きつけ続ける。転がるグリーフシードに目もくれず、マミは一心不乱に殴打を続けた。

 どれだけ殴っただろうか、遂に銃床が音を立てて砕け散った。破片は飛び散った先でリボンへと姿を変える。

 

「ごめんなさい……」

 

 銃床を失い、半分ほどの長さになったマスケットを杖のようにしてへたり込むと、マミはぽろぽろと大粒の涙を落とし始めた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 繰り返すほど、言葉が安くなっていく気がした。それでも、他に紡ぐ言葉をマミは持たなかった。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 部屋に戻り、いつもの倍以上の時間をかけてシャワーを浴びたマミは、テレビのニュースで飛び降り事件の報道を見た。ニュースによると、子供だけは一命を取り留めたとのことだった。

 良かった、と言えるのだろうかとマミは疑問に思う。

 一三歳の自分でさえ、両親を亡くし一人で生きていくのは辛く寂しい。死んでいた方が楽だったと思うことも一度や二度じゃない。そんな想いを、七歳の子供に受け止められるのだろうか。

 そう思うと、気が付けば涙が溢れていた。

 

『別にその事件が魔女の仕業と決まったわけじゃないだろう』

 

 キュゥべえの言葉も慰めにはならない。マミは既に自分のせいだと心に定めていたのだから。

 呆然とテレビの前に座るマミは、放送プログラムが終了し耳障りな試験放送が始まるまで、そのままの姿でいた。

 

『マミ、大丈夫かい?』

 

 幾度目かの呼びかけにも反応はなく、マミの目はモニターに映る縦縞模様を見つめていた。

 壊れたのだろうか、とキュゥべえは思う。

 人間は大きな情動――悲嘆や喫驚を電流に例えることがある(実際にシナプスに電流が流れるわけではあるが)。

 人は年輪を重ねるにつれ、その電流を通す神経が太くなったり、あるいは並列に発達したりで、情動の電流に焼かれることなく耐えうるようになっていく。

 巴マミは、生来にして繊細な神経を持っている。それに加えて、いまだ幼い。

 そんな彼女の神経は、先の事故で両親を亡くしたこと、さらにはそれを自分の祈りが誤ったせいと己に責を帰していることから、ほとんどが焼き切れていた。

 醍醐との交流で、少しずつその神経が蘇りつつあり、夜にひとり泣く頻度も減じてきていたことから、もう大丈夫だろうとキュゥべえは判断していたのだが――

 

「キュゥべえ」

 

 視線も身体も動かさず、ただ唇だけを動かして、マミが声を発した。

 

「魔法で、記憶って変えられるの?」

『都合よく改竄するのなら、それは魔法ではなく奇跡の領分だね』

「例えば、私の記憶から、パパとママを消すことは?」

『存在そのものを忘れさせるということなら可能だと思うが、両親を助けられなかったことは、そんなにキミにとって重荷なのかい?』

「ううん、そうじゃないの」

『今日の事なら……キミが気に病む必要はない。というか病んではいけないね。どんなに日常を犠牲にしても守れる範囲、時間は限定されるんだ。いちいちその手で拾い上げれなかったものに責任を感じていたら、キミがもたないよ』

「うん、分かってる」

『まぁ、都合よく改竄するわけでなく、存在そのものを忘れさせるなら、催眠魔法と失認魔法の応用で可能だと思うよ。幸い、マミの催眠魔法はかなりの高レベルだしね』

「うん、ありがとう」

 

 テレビを消すつもりだったのだろう、リモコンに手を伸ばそうと上半身をテーブルに預けたマミは、その姿勢のまま意識を失うように眠りに落ちた。

 キュゥべえは毛布を咥えて持ってくると、器用にテレビを消してから、マミの肩に毛布を被せてあげた。そして、その横で丸くなった。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 翌日、鳥の囀りで目覚めたマミは『毛布ありがとう』とテレパシーを飛ばすと、いつも通りの支度を始めた。

 そして、いつも通りに登校し、いつも通りに過ごした。

 教師も級友も、その様子に一切の違和感を抱かない、見事ないつも通りの振る舞いだった。

 

「何かあったの、巴さん?」

 

 だから、放課後に公園で落ち合った醍醐にそう指摘された時に、マミは驚くよりも感謝をおぼえた。だが、包み隠さず話すことは出来なかった。

 自らの失態を晒すことを躊躇ったというよりは、事の顛末を話すことで、醍醐が一時的にでも責を感じて心を痛めることを避けるために。

 

「ちょっとね……。でも大丈夫、今日も頑張ってパトロールしましょう」

 

 その返答に当然ながら醍醐は引っかかるものを感じるが、追及することはしなかった。

 巴マミは魔法少女であるという事情を抜きにしても、複雑な環境にいる。彼女が話したくないことは聞くべきではないという信念が醍醐にはあった。

 

「僕で良ければ、出来る範囲で力になるから。出来ない範囲なら、力になるよう努力するし」

 

 醍醐らしい物言いに、マミは笑みを漏らすとつないだ手を強く握った。

 

 

 

 

 

「今日は平和で良かったね。パトロール的には空振りなのかもしれないけど……」

 

 今まで巡った箇所の全てを回るような念入りなパトロールを終えて公園へ戻った醍醐が、まさに沈もうとしている夕日を見つめて呟いた。

 

「そうね。平和が一番だわ」

 

 夕日に照らされたマミの黄金の髪が輝いているように醍醐には見える。それがあまりに美しくて、ぼんやりと眺めているとマミがその視線に気づいて頬を朱に染めた。

 

「やだ、昨日お手入れせずに寝ちゃったから、髪……荒れてるのに」

「あ、ごめん、でも、そんなことないと思うよ。燃えるようで、とっても綺麗だよ」

「燃えてるんだ……微妙な誉め言葉ね」

 

 マミの言葉にあたふたと狼狽する醍醐を見て、マミは微笑んだ。そして、意を決したように表情を引き締めると呟く。

 

「醍醐くん、私ね、魔法少女なんだよ」

「え。うん、知ってるけど……?」

「だからね、こんな魔法も使えるの」

 

 つないでいる手から、マミは催眠の魔法を送り込んだ。効果はすぐに表れ、醍醐は倒れ込むように眠りに落ちる。

 マミは醍醐の前面にまわって、彼の身体を包み込むように受け止めると、いつものベンチに座らせた。

 

 ――ごめんね、醍醐くん。

 

 背もたれに力なく寄りかかる醍醐に顔を近づけると、そっと唇を重ねた。

 乾いた唇と乾いた唇を触れさせるだけの幼い接吻だったが、マミにはそれが精一杯であり、また、それで十分だと感じていた。

 

 ――昨日のことで分かったの。私は、もっと頑張らなきゃいけないって。でも、そうすると戦う頻度も上がるし、危険も増える。

 

「この上、あなたまで亡くなったら。そう考えると怖くてしょうがないの」

 

 本当は今日、パトロールの前にこうしようとマミは考えていた。

 しかし、決心がつかず、最後のパトロールと言い訳して先送りにしてしまった。

 そして、出来るだけ時間をかけて、パトロールをしていたのだが、ようやく心を決めた。

 

「お願い、私のことは忘れてね」

 

 キュゥべえに教えてもらった通りに、醍醐の心の中にある巴マミを引き抜いた。

 これで彼は、もう何も覚えていない。

 もう話しかけてくれることも、笑いかけてくれることもない。

 マミは目尻に熱いものを感じた。

 ゆっくりと一度だけ頷くと、マミはつむじ風の様に跳び、木々や電柱を足場に家へと戻った。

 こぼれた涙は、誰に見咎められることもなく、風に飛ばされ虚空に消えていった。

 

 ――いつか。いつか奇跡の対価を払い終えて、魔法少女でなくなる日が来たら。会わせる顔なんてないけど、全部話して、心から謝らせて欲しいです。

 

 

 

 

 夕陽が沈みきり、周囲に夜のとばりが下りた頃に醍醐は目を覚ました。

 

「あ、あれ、僕、どうして?」

 

 果たして、マミの魔法は奏功し、醍醐はマミに関する記憶を失っていた。

 何故この時間に、このような場所にいるのか、全く分からず茫然とする。

 ふと、醍醐の頬を涙が伝った。

 その理由を理解することもできず、醍醐は心を乱したが、どうしても理由に思い至ることはできなかった。

 ただ、心の中にとても大きな空洞ができていることを漠然と感じながら、彼はしばらくその場で涙を流した。

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 昨日、今朝と溜めてしまった洗い物をしながら、マミは心が軽くなっているのを感じていた。

 だが、それなのに涙が溢れるのを止められなかった。

 自分の感情が何処にあるのか分からずに混乱をおぼえる――切り捨てることや諦めることで一時的な安寧を得ることは、彼女にとって初めての経験だった。

 

『彼の記憶を消したかったのかい』

 

 リビングのソファで丸くなっているキュゥべえがテレパシーを送ってきたことで懊悩は止められた。マミは目尻を慌てて拭うと、涙声にならないよう気をつけて応える。

 

「ええ。人の記憶を消すだなんて、許されないことだわ。きっと私は天国へは行けないわね……」

『キミたちの宗教観はともかくとして……後悔するくらいなら、どうして』

「このまま巻き込んでいたら、いつかあの人は命を落とすわ。それだけはいや」

 

 そこで言葉を区切ると、自嘲めいた笑みを浮かべて吐き捨てるように声を出した。

 

「あの人のためじゃないの。私のためなの。もう大切な人が死ぬのを見るのは、絶対にいや。それに、私は余計なことに時間を使う余裕はないの。キュゥべえが言うように、私の手で拾える命は限りがあるけど、だからこそ拾える範囲は絶対に守りたい。昨日の様な後悔だけはしたくない。自己満足だけど、そうしたいの。笑っちゃうよね、今さら」

『確かに自己満足だね。でも、魔女を倒してくれるのは助かるし、キミの気の済むようにすればいいんじゃないかな』

 

 いつの間にかソファから飛び降りたキュゥべえは、とことこと歩を進めキッチンへ入ってきていた。

 彼は跳躍して流しの上に乗ると、感情のない声で続けた。

 

『あと、ボクには笑うって感情はないからね。笑っちゃうと言われても分からないよ』

「……そうだったわね」

 

 キュゥべえの指摘に、マミは声を殺して笑った。それを受けて、キュゥべえも『アハハ』と笑う。大根役者という名札があれば胸につけてあげたくなるような、見事なまでにわざとらしい笑いだった。

 

「へんな笑い方ね」

 

 マミの笑いのトーンが一段高くなった。キュゥべえなりに元気づけようとしてくれているのかな、と思うと心が温かくなるように感じ、また涙が溢れた。

 

「……心配かけてたらごめんなさい。人前では泣かないようにするから」

『いや、ボクはいいんだがキミのメンタルが心配だ。あまり内罰的すぎるといつか限界が来るよ』

「大丈夫」

 

 突然、マミが両手を伸ばしてキュゥべえを引き寄せた。そして強く胸におしつけて抱き締める。洗い物で濡れた手だったが、キュゥべえは不平は言わずにされるがままに任せた。

 

「私にはこんなに可愛いパートナーがいるもの。……キュゥべえは、魔女との戦いで死んだりしないわよね?」

『ボクにはキミたちの死生観で言うところの死はないね、安心してくれていい』

 

 淡々と応えるキュゥべえは、心の中では異なることを考えていた。

 

 ――もう少し彼に依存したところで彼を殺せば、いい感じに絶望してくれそうだったんだが。先に手を打たれてしまったようだね。

 

 マミはそんなキュゥべえの内心を知る由もなく、強く、強く抱き締めていた。感謝の気持ちを込めて――

 

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 ふた月近い時が流れた。

 夏休みを間近に控え、盆地気味な見滝原の気温は殺人的に上昇していた。

 今マミがいる河川敷は川が近いだけに僅かにマシではあるが、それでも額に汗が噴き出すのは止められないほどの陽気、いや、熱気だった。

 滴となって頬から顎へ流れてゆく汗を拭うこともせず、魔法少女姿のマミは魔法の練習を行っていた。

 

「えいっ」

 

 澄んだ声とともに右手を横に薙ぐと、腕の軌跡にマスケットが五つ生み出される。

 事前に作っておいたものを呼び出しているのではなく、瞬間的に生成しているものだ。時間にして一秒とかかっていない。

 

『すごい上達振りだね。もう前もって銃を作っておく必要もないんじゃないのかい?』

「そうね」

 

 生み出したマスケットを帽子の『中』に収納しながら、マミは寂しげに笑った。必要はないかもしれないけど、この戦い方はふたりで考えたものだから――

 

「でも、この戦い方は、ずっと続けようと思うの」

『まぁ、準備していて損するわけでもないしね。いいんじゃないか』

 

 魔力が自然回復しないものである以上、前もって作っておくことは戦闘時の時間の短縮にはなっても魔力の節約にはならない。だがそれはキュゥべえが指摘するまでもなく、マミも理解していることだった。

 

「私って、けっこう形から入るから……」

『その通りだね』

 

 自分から言っておいて理不尽なことだが、同意したキュゥべえにマミは頬をふくらませて非難した。

 キュゥべえはワケが分からないと思いながらも、反論はせずに尻尾を振って応えた。

 

 

 

 一学期最終日の朝、昇降口で下駄箱から上履きを取り出していると、マミは下駄箱の狭い空間の中に白い封筒が斜めに置かれていることに気付いた。

 溜め息を吐く。

 面倒とまでは思わないが、好意を寄せてくれる人を拒絶するのは気が重い作業だ。最近は学校でも他人と距離を取り、極力目立たないようにしているのだが、それでもマミの容姿は耳目を集めてしまう。

 手を伸ばし、封筒を下駄箱の中で反転させ、署名を見る――そこには、見覚えのある筆跡で、醍醐の名が刻まれていた。

 

「……うそ」

 

 記憶が戻ったのだろうか、と思うがすぐに否定する。

 もしそうなら手紙を渡すようなことはせずに直接話しかけてくるだろう、と。

 化粧室に飛び込んだマミは個室で手紙に目を通し、文面からも記憶が戻っていないことを確信した。

 涙が溢れそうになるのを意志の力で抑え込むと、マミは教室に向かう。

 幸い今日はロングホームルームだけなので、長い間感情を抑える必要はなかった。

 

 放課後に指定の場所で醍醐にあったマミは、会釈をするとそのままの姿勢で涙をこぼした。

 そして、嗚咽交じりの声で醍醐に付き合えない旨を伝える。

 醍醐は、泣くほど困らせてしまったのかと思い、しどろもどろに謝罪の言葉を口にするのだが、そういった醍醐の以前と変わらない人間性に触れて、マミはさらに落涙する。

 

「謝らないで。困ってるんじゃないの、嬉しいの」

 

 その言葉に醍醐は顔を輝かせるが、マミはぬか喜びさせないようにすぐに言葉を続ける。

 

「本当に、嬉しい。でも、ごめんなさい、私は、誰ともお付き合いできないの。本当にごめんなさい」

 

 有無を言わさぬマミの態度に、醍醐は力なく頷き、そのうえでマミの身を気遣った。だがマミはうまく応えることが出来ずにいたのだった。

 

 

 

 

 ――変な子だと思われちゃったよね。

 

 昼食を作りながら、マミは今日の出来事を反芻していた。嬉しい気持ちと悲しい気持ちが複雑に入り混じっていたが、どちらかというと悲しみの方が大きい。

 正確には、今日の出来事については嬉しさの方が大きいのだが、今日の出来事によって心に埋めていた悲しみが掘り起こされた形だ。

 出来上がった昼食を食卓に運び、独り呟く。

 

「美味しく作れるようになったのに……もう、食べてくれる人もいないのね」

『ボクでよければ食べようか、マミ』

 

 いつの間にかキュゥべえが、スリッパを履いたマミの足元に現れてテレパシーでマミの独語に応える。

 

「キュゥべえ、いたのね。じゃぁ、食べてもらおうかしら」

 

 慌てて目尻を拭うと、無理に笑顔を作ってマミは言う。その瞳の色はキュゥべえにそっくりだったが、キュゥべえはそれについては言及を控えた。

 

「今日は、茸とチキンのピラフにトマトサラダよ」

 

 キュゥべえの分は食べやすい平皿に盛って別に用意した。普通の皿でも問題ないとキュゥべえは主張するが、食べ方が犬猫そのものなので、マミとしてはやはり相応の食器の方が良いと思ってしまう。

 

『うん、きっと美味しいと表現できるだろうね』

「何それ、変な言い回しね」

 

 半分ほど平らげた時点でキュゥべえが述べた感想に、マミが苦笑まじりに返した。

 自分で食べているのに、やけに客観的な感想であることがマミにはおかしく感じられた。

 

『すまない、ボクには美味しいという感情がないからね。キミたちが美味しいと賞賛するときのデータと比べての判断しかできない』

「そんなデータがあったのね。じゃぁ、へたっぴな間は比較しないでくれてたのね。ありがとう」

『あの頃はデータが不十分だっただけだよ』

 

 素っ気なく返し、残る料理を貪るように食べるキュゥべえの姿に、マミは感情の萌芽を見た気がして微笑ましく思った。

 そして、キュゥべえとなら、この先も戦い続けていける、戦い続けていこうと、強く決意した。

 

 

 

第二部 マミさん、魔法少女の使命にめざめる  完



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マミさん、ワルプルギスの夜を迎える
第一三話 マミさん、後進を育成する


 伸ばした手から放たれた魔力の波動が、魔女の結界に一筋の孔を穿つ。

 掌中に生まれたオレンジイエローの燐光。その一つ一つが意志を持つかのように、魔方陣を成す結界の中央に生じた亀裂に取りつき、そして裂孔を広げるために魔方陣の外周へ羽ばたく。

 充分に亀裂が広がり、結界の不可侵性を破壊したことを確認すると、マミは左右に並ぶふたりの魔法少女とひとりの少女に声をかけた。

 

「さぁ、行くわよ、杏子ちゃん、美樹さん、鹿目さん」

 

 美樹と呼ばれた少女が、青髪に青いコスチュームをまとった魔法少女。

 ビスチェドレスにアームガード、レッグガードに外套をなびかせ剣を構えるその姿は、彼女のボーイッシュな凛々しい容姿と相まって中世の騎士を彷彿とさせる。

 鹿目と呼ばれた少女が、ピンクの髪に見滝原中学校の制服を着た少女。

 クリーム色のブレザーから浮かび上がるように存在を主張する胸元の赤いリボン、そして短めのツインテールを飾るやはり赤色のリボン、ふたつのリボンが目立った。目尻の下がった瞳からは強い意志の光が見え、彼女の優しさと強さと表している。

 

 この二名が、先日キュゥべえによって見出された魔法少女の素質を持つ少女であり、美樹は既に魔法少女としての契約を済ませていた。

 鹿目は契約は行っておらず、魔法少女の活動がどういうものか理解するために、見学としてついてきている。

 

 

 

 中に入ると、結界のあった場所――今にも崩れそうな廃屋からは想像できないような抜けるような青空が広がっていた。

 校庭を模した地上部から、わた雲の浮かぶ空へ無数のロープが伸びる。

 ロープの一本一本には、万国旗の旗のようにセーラーの上着が並び飾られ、賑やかな印象を見るものに与えた。

 

「セーラー服の魔女の結界ね」

 

 委員長の魔女、という呼称を知る由もない彼女たちは、この魔女を外観からそう名付けていた。

 伸び行くロープは上空の一点に収束し、蜘蛛の巣よろしく放射状のテリトリーを形成しているのが見てとれる。そのテリトリーの中心に、魔女

は鎮座していた。

 紺のセーラー服を着て仰向けに倒れた首なしの巨大死体、それがセーラー服の魔女の大雑把な外観だ。

 蜘蛛の巣に似た住まいに違わず、二対の腕と一対の脚を昆虫のように広げて巨躯を維持している。脚が蜘蛛の前脚、複腕が後脚に相当する姿勢。

 結界の構造そのものが厄介な魔女だが、本体の戦闘能力は低い。接近さえ出来れば巴マミ、佐倉杏子はもちろん、経験の浅い美樹さやかでも容易に単独撃破が可能な相手だ。

 

「こ、こんな細いロープを伝って行くんですか?」

 

 ロープの径はペットボトルのキャップ程度しかない。

 ほんの数日前まで普通の少女だった美樹さやかには、その上を伝って行くなど曲芸の類いとしか思えなかった。ましてやそれを足場に戦うなど考えただけで眩暈がする。

 見学だけの鹿目まどかも、自分が登るわけでもないのに足を震わせている。

 

「大丈夫。落ちそうになったらリボンでサポートするわ」

「なんだよ、この程度で恐がってちゃ魔女となんて戦えねーぞ?」

 

 ふたりの先輩魔法少女から方向性の異なる叱咤激励を受けて、美樹さやかは口をへの字に結ぶと「何てことないですよ、こんなの!」と虚勢を張ってみせた。

 いつの間にかリボンが織りなす防御壁――絶対防御――の内側にいた鹿目まどかからの応援を受け、三人はそれぞれロープに飛び移ると、地上と変わらない様子で駆け始める。

 意外と見た目より楽だな、と思ったさやかが足元を見やると、ロープの幅を拡張するかのように、ロープの左右に黄色のリボンが沿って走っているのが見えた。

 こちらを見守るかのように後方を走るマミに視線を向けると、マミは親指を立ててウィンクを返す。安心して、という先輩の声が聞こえた気がして、さやかは笑みを浮かべる。

 

 

 

 

 地上で応援する鹿目まどかの声。それが微かにしか聞き取れなくなる距離まで駆け上がった頃、遅まきながら侵入者に気付いた魔女が、排除のための行動を開始した。

 スカートから伸びた両脚を、昆虫が前脚を持ち上げて威嚇するかのように動かす。

 ひるがえったスカートの内部から無数の使い魔が現れ出でた。それらは、下方を走る魔法少女に向けて落ちていく。

 あるものは下半身のみの女生徒、あるものは上半身のみの教師。

 魔女の狂気性を体現したかのような奇怪な形状の使い魔が、篠突く雨よろしく魔法少女に降りかかる。

 ロープという限定された足場で、頭上からの攻撃に抗する方法は限られるが――。

 

「使い魔は任せて、気にせずに走って!」

 

 その言葉で赤い魔法少女は躊躇いなく、青い魔法少女は一瞬の逡巡を見せた後に、前だけを見て駆ける。

 声の主である遅れて駆けていた黄の魔法少女は、魔法の力で周囲に小さな花冠を幾つか浮かばせると、それを足場に二段、三段と跳ぶ。

 そして、そこからさらに背面跳びの姿勢で宙に舞った――優雅に、可憐に。

 

「ダンツァ・デル・マジックブレッド!」

 

 コルセットからマスケットが全方位に溢れ出るように次々と生まれ、射撃をしては消える。

 ≪魔弾の舞踏≫をもってしても全ての使い魔を撃ち落すことはできないが、少なくとも佐倉杏子と美樹さやかの行く手を阻むものはことごとく撃ち落した。

 援護射撃を終えたマミは、軽やかな動作で宙に浮く花へと舞い降りようとする。

 そこに『下から見てると、蜘蛛がちっちゃい子供たくさん生み出してるみたいです』という鹿目まどかのどうでもいいテレパシーが届いた。それによって、自身の苦手なカマキリの卵の孵化を連想したマミは、危うく足を踏み外しかけ、たたらを踏む。

 幸い、先を行く二名にも、地上の一名にも、失態は見咎められていなかった。

 マミは胸を撫で下ろすと澄んだ声で先を行く二名に号令する。その行動には多分に照れ隠しの要素が含まれていた。

 

「さぁ、とどめをお願い!」

「さやか、どっちが倒すか勝負な!」

「う、うっさい! 気が散るから余計なこと言うな!」

 

 片や余裕綽々で、片やちらちらと足元を確認しつつロープの上を駆けながら、魔女を指呼の間に捉えた。

 ここまでは足並みを揃え、有事にはさやかのフォローに回れるようにしていた杏子だが、ここに至り速力を上げる。

 

「新人に花を持たせてやるほど、人間出来てないんでね!」

 

 杏子が槍を構え、魔女のスカートの中に突入した。

 青空から一転、光を遮る天幕の中に入った杏子は、しかし一瞬で瞳を闇に慣らさせる。

 杏子の目は、スカートの裏地にびっしりと張り付いている使い魔の姿を認めた。数は――数えることが難しいほどだ。

 それらの使い魔が、侵入者である杏子に向けて、一斉に襲いかかった。

 

「上等!」

 

 パキン、と板チョコが割れるような軽い音をたてて、大身槍がその柄を幾つかのパーツへと分割されていく。

 パーツ同士は伸縮可能な鎖によって連結され、多節棍を思わせる構造をなしていた。

 

「たあぁッ!」

 

 気合の声とともに杏子が多節棍と化した槍を振り回すと、それは鞭のようにしなり、大きな渦を作った。

 マミとの模擬戦で、懐に入られると弱いという欠点を指摘された杏子が、それを克服するために施した改良。近接時には槍を短いパーツ単位に分割し、多節棍のように運用できるようにとしたものだ。

 だがそれは懐に入られた場合の克服のみならず、連結している鎖を伸ばして突くことで遠距離への対応、同様に鎖を伸ばして風車にように扱うことで広範囲制圧の適用も可能にしていた。

 杏子はひとしきり伸ばした槍を回転させて使い魔を蹴散らすと、スカートの奥に潜む魔女の頭部に向けて、槍を投擲する態勢に入る。

 その杏子をかすめて、二本の剣が風切り音を立てて飛翔した。

 闇なお煌めく純白の刃と黄金の護拳。

 それは、美樹さやかの操るサーベルだった。

 反った片刃に片側に突き出た護拳と、およそ投擲には向かない形状。しかし操者の技量故か、サーベルは見事に直線軌道を描き、魔女の眉間に吸い込まれていった。

 断末魔――なのだろう、一際大きい湿った笑い声をあげると、魔女はその痕跡の全てを、空に溶かし消え去ってゆく。

 唯一、グリーフシードのみを残して。

 

 

 

 

 魔女が消えたことで、足場となっていたロープも消えた。

 遥か高空でその身を投げ出された魔法少女たちは、あるものは地面と垂直に魔方陣を次々と生み出し、それを蹴ることで速度を殺しながら落下し、あるものは大輪の花を足場にゆっくりと舞い降り、あるものは他者のリボンに支えられて地に降りた。

 

「さやかちゃん、やったね!」

 

 とどめを刺した魔法少女に駆け寄ったまどかは、試合終了後のマネージャーのように甲斐甲斐しくハンドタオルで彼女の汗を拭う。

 その様を眩しげに見つめていたマミは、髪飾りのソウルジェムに手をかざし変身を解除した。

 

「お見事だったわ、美樹さん。本番に強いタイプなのね、頼もしいわ」

「いやー、それほどでも。これでマミさんの一番弟子は、今日からあたしですかねー」

 

 その言葉に苦笑したマミが「そうかもね」と返すと、少し離れた場所にいた杏子が露骨に不機嫌そうな表情を浮かべた。

 杏子としては、遅れて突入する美樹さやかの為にわざわざ使い魔を殲滅したのであって、本来なら最低限の相手だけして魔女を攻撃し倒していた。

 もちろん自分で勝手にやったことではあるし、感謝など求めていないが、マミの一番弟子とまで言われると面白くはない。――ただ、花を持たせるつもりまではなく、その程度のフォローはしても魔女の首は自分が取れる、とさやかを甘く見ていた部分は否めない。

 

『一番弟子は杏子ちゃんだから』

 

 囁くようなテレパシーを受けて途端に機嫌をなおした杏子は、「まぁ、新人にしては良く頑張ったじゃん」と上からの目線で戦いぶりを評した。

 

 

 

 

「あっ、もうこんな時間だ、マミさん、杏子、今日はここで失礼しますね!」

 

 腕時計で時間を確認すると、さやかは一方的に宣言した。幼馴染の入院している病院の面会時間が迫っていたからだ。

 マミは、魔法少女は私生活を全て犠牲にして戦わなければならない、という強迫観念に囚われている。

 そんな彼女から見ると、美樹さやかは、私生活と魔法少女をうまく折り合いをつけてこなしている、非常に平衡感覚に優れた存在に見えた。

 なお、実際にはマミは学業は犠牲にするどころか、注力して行っている。

 つまり彼女の強迫観念は、正確には彼女の思う「正しいこと」以外を切り捨てなければならない、となる。――おそらく両親を救えず、自分だけが生命を繋げたことで、自分には「余計なことを謳歌する」資格はない、と心のどこかで思っているのだろう。

 

「まどか、また明日!」

 

 またね、と応えるまどかの声を背中で聞いて、さやかはその姿を雑踏に消した。

 

「騒々しい奴だなぁ」

「昔からそうなんです。元気なのがさやかちゃんの良いところだから」

 

 杏子の半ば毒突くような言葉を中和するように、まどかが笑みを浮かべる。

 

「鹿目さんも、ここでパトロール抜けて行ってもいいのよ」

「いえ、わたしはもうすこしお供します。あっちは、わたしがいるとお邪魔だと思いますし」

 

 えへへ、と悪戯っぽく笑うまどかに応じて、マミも「そうね」と忍び笑いを漏らした。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「一日で二体も魔女を倒せるなんて、今日は大当たりですね!」

 

 リボンの防護壁に守られて発言する内容としては、いささか無責任なものだったが、聞くものにそう思わせないのは彼女の人柄によるものだろうか。

 勝利を疑うことなく信じているまどかの言葉に、あとで危ないことをしているという自覚だけは促しておこうと思いつつ、マミは大砲規模のマスケットを支え、巴里の凱旋門を思わせる魔女に照準した。

 

「杏子ちゃん、今回は私が頂くわよ!」

 

 前線で沸いて出る使い魔を逐一倒していた杏子は不平の声をあげるが、「いいじゃない、たまには」と言われると不承不承ながら魔女の正面から退く。実際ここしばらくマミはフォローに徹していたので、この技の発声を聞くのも久しぶりだった。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 轟!

 まどかを包むドームをさらに一回り大きくした規模の大砲型マスケットが巨大な魔弾を撃ち出す。

 そして魔弾が着弾した地点から、まばゆい光が広がっていく。

 魔女はその光に飲み込まれるようにして消滅していった。

 

 

 

 

 杏子の魔法で眠りに落ちている婦人の首筋から、魔女の接吻が消えていることを確かめると、彼女たちはその場をあとにした。

 

「やっぱり魔法少女っていいなぁ……わたしも魔法少女になれば、みんなの役に立てるかな」

 

 人助けによほど感銘を受けたのか、鹿目まどかはうっとりとした表情でそんなことを言う。

 だが、そんなまどかの言葉に、杏子は鋭い声で返した。

 

「よくよく考えなよ。奇跡っていや聞こえはいいけど、要は世の中に対して無理を通すってことだ。どんなに巧くやったって、歪みは出ちまうもんだ。特にその奇跡に関わる人が多ければ多いほどね」

「鹿目さんの魔法少女としての素質はすごいわ。私や杏子ちゃんよりもずっと強い魔法少女になれるくらい。だからこそ、よく考えないとね。素質がすごいってことは、願いもすごいことを頼めるってことだし、すごい願いなら、それだけ歪みも大きい……からね」

 

 こちらは優しい口調で教え諭す様に伝えるが、言い方が異なるだけで内容自体は大差ない。

 

「そういうものなんですか……?」

 

 彼女の認識としては、奇跡は(利己的なものでさえなければ)素晴らしいもので、歪みを生むといわれても要領を得ない。また、魔法少女としての生き方も、他人の生命を守る立派なものと理解していた。

 

「そうね……。たとえば鹿目さんが『カッコイイ彼氏が欲しい』と祈ったとして、鹿目さんにとっては幸せかもしれないけど、その男性を好きな人やその男性と付き合ってる人がいたら? それに、その人自身の本来の気持ちが別にあったとしたら?」

「いや、それは祈らないですけど……たぶん」

 

 的を外したマミのたとえを笑顔で躱しながら、フォローのつもりなのか最後に一言たぶん、と付け足すまどか。

 

「あたしの勝手な言い分だけど、ならなくて済むならならないで欲しい。のっぴきならない事情があってやむをえずってことならしょうがないけど、魔法少女になんて、ならずにいるのが一番幸せだよ」

 

 そこで一度言葉を切ると、「さやかの奴、さんざん言って聞かせたのに!」と吠える。

 

「なってしまったものはしょうがないわ。美樹さんを責めては駄目よ、杏子ちゃん」

 

 たしなめるマミに同調するように微笑むと、まどかはマミの目を覗き込むようにして問う。

 

「……マミさんも、わたしは魔法少女にならない方がいいと思いますか?」

「私は、鹿目さんがどう思うかが全てと思うけど……魔法少女としての生き方は辛い部分が多いわ。杏子ちゃんのいう通り、ならずに済むならそれが一番とは思うわね。すぐ決めないといけないわけじゃないんだし、しばらく悩めばいいじゃない。それで、そのままなる機会がなければ、それでいいんだし」

 

 マミはこれまで、契約には慎重になる必要がある旨の発言を幾度となく繰り返してきたが、直接的に「なるな」と言ったことはなかった。

 それだけに、魔法少女になることを後押ししてくれるのではないか、と期待して水を向けたのだが、意に沿う回答ではなく鹿目まどかは肩を落とす。

 

「ほむらちゃんにも止められたし、みんなわたしが魔法少女になるのは反対なんですね……」

「まどかだから、じゃねーよ。誰にだって、勧めたりはしない。そうだよね、マミさん?」

 

 力強く頷くマミを見ると、まどかは自分の中で何かがまた少し萎縮するのを感じた。

 もともと、キュゥべえに勧誘を受け、マミや杏子の活動を見て、魔法少女への憧れを抱いたのだが、願い事が決まらずに足踏みをしているうちに親友の美樹さやかが魔法少女へなってしまった。

 そして新人である美樹さやかをマミと杏子が指導をしているのを見て、自分まで魔法少女になると、マミと杏子が大変だろうという遠慮が生まれ、魔法少女になる機会を逸してしまっていた。

 

 ――みんな止めるし、わたしなんかが魔法少女にならない方がいいのかな。さやかちゃんみたいに、正義感が強くて運動神経もいい子じゃないとダメなのかな。

 

 

 

 

 

 

 

「今朝になって先生が退院の許可をお出しになったので、午後にはお帰りになりましたよ」

 

 まどか評するところの正義感が強くて運動神経のいい美樹さやかは、お見舞いに来た相手が既に退院している旨を告げられていた。

 

「そう……ですか。……無事退院できて良かったです、本当にお世話になりました」

 

 幾度となく面会に訪れることで、既に顔見知りの関係になっていた看護師に深々と頭を下げると、さやかは時計を見る。

 

 ――もうパトロールに合流するには遅いし、今日は退院のお祝いでも見繕って帰ろうかな。

 

 退院と入れ違いになったことは残念だが、今朝決まったことならしょうがない、とさやかは自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 

「マミさんは、事故にあった時に、その、契約したんですよね?」

 

 既に日は沈んだものの、まだ明るさの残る黄昏時、パトロールを終えた少女たちは帰途にあった。

 桃色の髪の少女は、言葉を選ぶように一言ずつ区切りながら、横を歩く黄金の髪の少女に問いかけた。

 

「えぇ。選択の余地がなかったわ……。もし鹿目さんみたいに、ゆっくり考えることができる状況なら、契約していたかしらね……」

 

 問われた少女の表情ははっきりと見えなかったが、まどかには、寂しげな笑顔に思えた。

 聞くべきではなかったかな、と反省しつつ、マミを挟んで逆側を歩く赤毛の少女に同様の問いを投げかける。

 

「杏子ちゃんは、どうして契約したの?」

「前も言ったじゃん。絶世の美女にしてくださいってお願いしたの」

 

 こちらは声の調子は明るかった――が、まどかには、それが空元気のように感じられた。

 

「あら、願い叶ってないじゃない。キュゥべえに文句言わないと……」

 

 マミの軽口は、下腹部へ杏子の拳が捻じ込まれたことで最後まで正常に発声することはできなかった。

 最後に言おうとした「ね」の部分が、いわゆる腹パンの影響で、濁音や半濁音がついた不自然な音で発せられる。

 

「いったぁい……。本気で殴らなくてもいいじゃない……今晩にんじん料理にするわよ」

「いや、それは困るけど……」

 

 ささいな反撃にあたふたと慌て始める杏子の姿に、マミとまどかは声を揃えて笑った。

 

 

 

 

『マミさんマミさん、杏子ちゃんの願い事って嘘ですよね』

 

 しばらく歩いていると、まどかがマミだけにテレパシーを届けた。

 

『そうね……でも、出来れば騙されておいてもらえないかしら』

『はい、それはもちろん』

『ところで、どうして嘘って思ったの? やっぱり本当だともっと美人になってるはずだって?』

「ち、違いますよっ!」

 

 マミの言葉に、まどかはテレパシーを忘れて声に出して叫んでしまう。

 突然まどかが大声をあげた、としか受け取れない杏子は「どうしたー、まどか?」と何気なく聞くのだが、杏子の内緒話をしていただけに当の本人の質問に慌ててまどかは声を裏返した。

 

「なな、なんでもないよ? 本当だよ?」

 

 あまりにも不自然な態度にマミは笑いを堪えられず、口元を押さえてクスクスと笑いを漏らす。

 

「まどか、いちいち『本当だよ』とか言うとかえって嘘くせーぞ」

 

 追い打ちに言葉を返せず口をぱくぱくとさせるまどかを見て、マミは助け舟を入れた。

 

「それはそうと、杏子ちゃん言葉遣いどうしてそうなのかしら。家ではもう少しおとなしい言葉遣いなのに」

 

 もとより疑念を持って質問していたわけではない杏子は、その程度の横槍でまどかへの追及をやめてマミの言葉に反応した。

 マミのフォローに『ありがとう、マミさん』とテレパシーを飛ばすまどか。

 一方、言葉遣いを咎められた杏子は「んー」と考え込む素振りを見せた後、

 

「どっちかというと、マミさんには丁寧に話してるだけで、こっちが素かなぁ」

「まぁ、私には心を開いてくれてないのね……」

 

 話を逸らすために、ことさらにショックを受けたように振舞うマミは、涙を拭うように指を目尻にあててから顔をそむける。

 

「そういう意味じゃないよ! なんというか、マミさんのことを尊敬してるというか……。ホントに」

「杏子ちゃん、いちいちホントにとかいうと嘘っぽいよ?」

 

 その言葉に、マミは『あっ』と思うが、幸いにして杏子は同様のやり取りをしていた先の話を蒸す返すことはなかった。

 自分が言った言葉の相似形の揶揄に、「うるせーよ、まどか!」と杏子は噛みつかんばかりに言うが、言われたまどかは「きゃー助けてマミさんー」と半ばふざけながらマミの背中に隠れる。

 

「またそういう言葉遣いを……」

 

 嘆息し責める視線を向けるマミに、杏子は子供のように「えー。でも今のはまどかが……」と唇を尖らせた。

 

「お黙りなさい、鹿目さん、くらいでいいじゃない」

 

 テレビに出てくる嫌味なお嬢様を思わせる口調で例を演じてみせるマミに、「うわ、そっちの方が心にクルかもです」とまどかが感想を述べる

 

。その正直な感想に、マミは軽くショックを受けて口を閉ざした。

 

「でもまどかって、あたしには遠慮ないよな」

「そう? なんか、昔からの友達みたいで話しやすくって。嫌なら変えるけど」

「いや、いいよ。あたしも遠慮しないし」

 

 悄然とするマミをよそに、遠慮のない――ある意味で心を許しあった会話をするふたりに、マミは「いいなぁ……」と小声で漏らした。

 それを聞きとがめたまどかが意識を向けると、マミが疎外感を訴える瞳でふたりの会話を見ていることに気付く。

 最近やったスマートフォンのゲームに例えると、巴マミが仲間になりたそうにこちらを見ている、かな? と失礼なことを一瞬考えた後、元気な声でフォローを入れる。

 

「マミさんは、友達っていうんじゃなくて、憧れの先輩ですから!」

 

 まどかの言葉に今度は杏子が、自分もまどかくらい思ったことを言えれば、マミさんと行き違いも少なかったんだろうなと、苦い感情をおぼえて笑みをこぼした。ふとマミを見ると、同様に苦笑している、そんなマミと目が合った。

 

 ――同じことを考えてたんだ、と確認すると、ふたりはさらに苦笑いを浮かべた。

 

「なんか、マミさんと杏子ちゃん、目と目で通じ合ってるみたいで、いいですね。そういうの」

「まぁ、一緒に暮らして結構経つし」

「そうね、家族みたいなものだから」

 

 一歩踏み込んだマミの言葉に、お、おぅと応える杏子の頬に朱が差す。杏子にとって幸いなことに、日没後時間を経たことでようやくながら周りも暗くなっており、それを見咎められることはなかった。

 マミとまどか、どちらに見咎められても、からかわれることは必至だっただろうから。



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第一四話 マミさん、求心力の欠如を露わにする

 巡り合せというものが、悪かったのだろう。

 

 早朝の登校時。仲良しトリオである鹿目まどか、志筑仁美との待ち合わせ場所に向かって歩いていた美樹さやかは、松葉杖をついて歩く上条恭介を遠くに見つけた。

 恭介の周りには数名の男子生徒がいて、何やら歓談している様子だ。

 その会話内容を、前後を通して聞いていれば、さしてショックを受けるような内容ではないことは、さやかも理解できたはずだ。

 しかし、さかやが耳にしたのは、男子生徒の他愛のない揶揄に恭介が照れ隠しに返した「さやかはそんなじゃないって、女性と意識したこともないよ」の言葉だけだった。

 雁渡しの風に煽られた髪を押さえると、さやかは気付かれないように、もと来た道を引き返した。

 

 

 

 

 悪いことは重なる。

 放課後、美樹さやかは親友の志筑仁美から、「恋の相談」を受けていた。

 仁美も、かねてより上条恭介に秘かに懸想していたこと、上条恭介と幼馴染みであるさやかに遠慮する気持ちがあったこと、献身的に見舞いに通っていたさやかには上条恭介に受け入れられる資格があると思っていること、それでもなお、自分の気持ちに嘘をつかずにおこうと決意したこと。

 茶化すような言葉を返すさやかを遮るように、仁美は宣言した。

 

「私、明日の放課後に上条君に告白します。丸一日だけお待ちしますわ。さやかさんは後悔なさらないよう決めてください。上条くんに気持ちを伝えるべきかどうか」

 明確な返事を告げることも出来ず、さやかは逃げ出す様にその場を去った。

 

 ――……これで良しですわ。頑張ってください、さやかさん。

 

 仁美の恭介への恋心は嘘ではない。

 しかし、彼女はさやかから恭介を奪うつもりもなく、また奪えるとも思っていなかった。

 

 そもそも仁美は上条恭介に好意を示したことなどなく、恭介にしてみれば好意を告げられても青天の霹靂としか言えないだろう。

 仁美もそれは自覚していた。

 親友の美樹さやかと同じ人に好意を抱いてしまった事実に苦しみ、その好意を表に出さないように気を遣っていたのだから。

 それを今になって美樹さやかに告げたのは、自らの恋心にけじめをつけると同時に、親友の恋を後押しし、祝福したいと考えていたに過ぎない。

 目算としては、さやかが上条恭介とうまくいく目が八割、さやか、仁美揃って玉砕する目が二割程度と、仁美は思っていたのだが――結果として美樹さやかを追い詰めることになるのは、皮肉というほかはなかった。

 

 

 

 逃げ出したさやかは、繁華街を彷徨いながら、自問自答を繰り返していた。

 

 ――あたしは魔法少女なのに、恭介との恋愛に時間を割く余裕なんてあるの? マミさんたちが戦ってくれるから、あたしはサボってもいい? ……そんなのいいわけないじゃん。

 

 マミも杏子も、何度も何度もそれは言っていた。さやかとまどかを魔法少女にしたくないのか、と思うほどに。

 美樹さやかは、その忠告を押し退けて魔法少女になった。

 それなのだから、自分にありふれた幸せを求める権利はない、そう美樹さやかは思う。

 

 ――魔法少女になったら、そういう当たり前のことを諦める必要があるって、何度も諭された上でなったんだから……。

 

 上条恭介の快復の見込みがないと診断された怪我を奇跡で癒し、魔法少女として戦う生き方を選んだ以上、恋愛など諦めなければならない。

 良いも悪いもなく、仕方のないこと。そう考える。

 

 ――…………いや、違う。これって言い訳だ。

 

 前世紀から続くような、くたびれたディスクショップが交差点の右手に見えた。

 信号待ちのさやかは、視線をその店の古ぼけた看板に向ける。

 レコードという今はほとんど売られていないメディアの名を記した看板。

 この店に、さやかは掘り出し物のレアディスクを探して何度か入店したことがあった。

 掘り出し物を見つけることで、上条恭介を元気づけたかったからだ。

 元気づけたかった。本当にそうなんだろうか、と美樹さやかは思考した。

 犬が獲物を咥えてくるように、歓心を買いたかっただけではないだろうか。

 奇跡を願ったのも、同じように歓心を買いたかっただけなのではないだろうか。

 そして褒美をもらう犬のように、上条恭介に認め、褒めてもらいたかったのではないだろうか。

 ただただ、褒美を期待して舌を出し、物欲しそうな目で主人を見つめる犬、それと同じに。

 

 ――そもそもあたしには勇気がないんだ。

 

 信号が青に変わった。

 周りの人々が一斉に歩き出すが、さやかは一歩が踏み出せず、ただ信号を見上げた。

 

 ――なにかしてあげて、恭介のリアクションを待つだけなんだ。恭介に拒絶されるのが怖いから。

 

 美樹さやか自身、自分の考えを意外と感じていた。自身の性格など深く考えたことはなく、漠然と男勝りで活発な自分を信じていたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。

 

 ――だったら今のままの関係でいいのに……。

 

 自分から歩み寄る勇気がなくとも、幼馴染としての立ち位置が既にある。

 この上条との関係は、中からか外からか、新たな要因が加えられない限り永続するはずだと思っていた。

 それで充分に幸せだったのに。

 なのに――

 

 ――仁美はどうして今のままのあたしたちを壊そうとするの?

 ――仁美はあたしが憎いの?

 

 志筑仁美に直接問えば困った笑顔とともにノーの答えが得られるのだろうが、美樹さやかの思考は迷走を始めていた。

 結局、一歩も進めないまま、信号は黄色に変わり、やがて赤になった。

 

 

 

 

 

 気が付くと、仁美と別れて一時間強が経過していた。マミ、杏子との約束の時間も、既に一五分ほど過ぎている。

 

「行かなきゃ」

 

 心は千々に乱れたままだが――むしろ、そうだからこそルーチンワークであるパトロールに没頭したいと思った。

 携帯電話でまどかを経由して遅れる旨を仲間に告げると、合流場所へと足を向ける。

 

 

 

 

 

 双方向のオートウォークが流れる地下街。

 さやかは流れる歩道の片側を、彼女にしては狭い歩幅で歩いていた。

 顔は前を向いていたが、視覚情報を脳がほとんど処理していないのか、何を見て何を映しているのかは、意識の埒外にあった。

 そんな状態でも、見知った顔が視野に入れば認識してしまうのか、さやかは対向するオートウォークに、こちらに向かってくる志筑仁美の存在を認めた。

 

 とっさに視線を落としたさやかは、自分の靴のつま先を見つめる。

 さりげない仕草、とは本人も思っていない。

 だが不自然でも挙動不審でも、今は仁美と視線を交わす気にはなれないし、今の顔を見られたくはなかった。

 志筑仁美も同じなのか、会釈する様子も声をかけることもないまま、ふたりはすれ違う。

 

 ――仁美……?

 

 さやかの知る仁美は多少のトラブルを抱えた相手であっても、会えば挨拶は欠かさない。

 人物像から離れた彼女の振る舞い。それに違和感をおぼえたさやかが振り返ると、彼女の首筋に緑色の痣があるのが見えた。

 長方形の枠の中に幾何学的な模様を持つそれは、魔女に魅入られたとこを示す魔女の接吻。

 

 ――仁美!

 

 思わずオートウォークを逆走しようとするが、後ろを埋める人ごみに押しとどめられ断念する。

 やむをえず、前へ進みオートウォークを渡り終えてから反転し、仁美を追って駆ける。

 

 その顔は、先ほどまでの懊悩に満ちたものではなく、使命感に引き締まったものだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 オートウォークが全長百メートル程もあったことが一点。

 また急いで渡りきるために前へ進もうとしたさやかだったが、人が多く思うように急げなかったことが一点。

 そして地下街は人でごった返していたことが一点。

 

 そういった要因のために、オートウォークを降りた美樹さやかは、志筑仁美を再び見つけることはできなかった。

 しかし、全くの無駄足というわけでもなく、やみくもに地下街を走っているうちに、ソウルジェムに魔女の結界を発見した。

 

 ――仁美は一直線にここに向かったんだろうし、もう結界内にいると思うべきだよね……。

 

 マミにテレパシーでの接触を試みるが、距離があるのか反応は得られなかった。ならばと携帯電話を取り出し、まどかに手短に事情を話して一方的に通話を切る。

 

 ――あたしがやらなくちゃ!

 

 美樹さやかは、ここに至って単独での魔女退治を決意した。

 魔力による封印を破り、結界内部に侵入する。

 そして、ソウルジェムから力を解き放ち、魔法少女へとその姿を変えていった。

 

 年齢相応以上に膨らんだ健康的な胸部の曲線。それを惜しみなく強調するハーフカップ型のビスチェ。

 アシンメトリなスカートは、活動的な彼女の性格を表す様に腰へと切れ上がり、パンツルックにほど近い程度まで太腿を露出させる。

 そうした衣裳を恥じらうかのように、純白のマントが彼女の肢体を覆い隠す。

 それは、彼女の内面を表すかのように矛盾したコスチュームだった。

 

 

 

 結界は重力がない、もしくは極めて小さいのか、スカートもマントも動きに合わせて水中にあるかのように揺らめく。

 片手でスカートの裾を押さえると、美樹さやかはそのしなやかに伸びた脚で地を蹴り壁を蹴り、泳ぐように先へ進んだ。親友の名を呼ばわりながら。

 

 

 

 使い魔と思われる異形がいた。

 その異形は人の腰程までの大きさのパペット人形を思わせる姿。天使を模したと思われる大きな翼を背中に一枚だけ生やし、同じく天使の輪を模したと思われる金色の冠を頭に浮かべていた。

 それら異形が四匹、単翼を震わせて舞うようにして、気を失った志筑仁美を運んでいた。

 

「仁美!」

 

 さやかの声に、使い魔は能面を思わせる無表情な顔を見合わせると「やばい!」とでも言うかのように翼を強くはばたかせ、遁走を始める。

 だが、小人のようなサイズ、しかも片翼とあっては充分な速度は得られない。さやかはたやすく逃亡する使い魔をサーベルの殺傷範囲に捉える。

 力任せの剣戟が四度閃く、ただそれだけで使い魔は殲滅された。

 

 異形による支えを失った仁美は、それまでの慣性で前へと流れる――さやかは彼女を追い越して身体を振り返らせると、受け止めるように仁美を胸に抱いた。

 さやかは慣性に任せて緩やかに流れながら、何度か小声で仁美の名を呼ぶ。

 しかし、さやかの呼びかけもむなしく、彼女の瑞々しい果実を思わせる唇はピクリともしなかった。

 

 と、スポットライトのような照明が上から当たり、ふたりの影を床に描いた。

 

 続けざまに様々な角度からライトが当たり、描かれたふたりの影は光に飲み込まれるように徐々に消えてなくなる。

 流されるうちに、ふたりは結界の最深部、即ち魔女の住処へと辿り着いていた。

 スポットライトの源、吹き抜けの上方から、この地の主たる魔女が降りてくる。左右に使い魔をはべらせて。

 五〇インチはあろうかという大型のモニター、それが魔女の姿だった。

 一般的な薄型のモニターではなく、前世紀に使われたブラウン管を思わせる、奥行きのあるモニターだ。その側面からは束ねた黒髪を翼のように生やし、上下になびかせている。

 

 鈍重そう、それが美樹さやかの抱いた第一印象だった。

 先ほどは使い魔が四匹がかりで仁美を運んでいたのに、なお遅かった。

 それが今は僅か二匹で、仁美よりはるかに重そうな魔女を支えているのだから、機敏な動きが出来るとは思えない。

 

 そう考えたさやかは、仁美を胸に抱いたまま戦うことを決めた。

 結界に無造作に放り出すよりは、その方が安全との判断をしたのだ。

 ぎゅっと仁美を左手で抱き寄せ、さらにその上から匿うようにマントで覆い、魔女と相対する。

 

 異形の使い魔二匹が、魔女に顔を近づけ、耳打ちするように何かを囁くと、魔女の正面――緩やかにカーブした漆黒のモニター部――に、次々と見知らぬ文字が躍る。さやかにはその文字は読み取れないが、激昂しているのであろうとは感じ取れた。

 

「うっさい! こっちも怒ってるって!」

 

 気迫負けしないよう、さやかが怒号をあげる。そして、右手に構えたサーベルを乱暴に投げる。

 やはり、魔女の動作は緩慢だった。

 飛翔するサーベルに対してろくに回避も行えず、直撃をモニターに受ける。

 黒いモニターに突き刺さったサーベルを起点にして、蜘蛛の巣の如くヒビが広がった。

 そのヒビから、この魔女にとって血液のようなものだろうか、電気がスパークをあげて溢れ漏れる。

 

 だが、手傷を負ってからの魔女の動きは敏捷だった。

 使い魔の支えを振り払い、側面から生やしたツインテールをなびかせて一目散に逃げる。そのスピードはさやかの全力に勝るとも劣らないものだ――これが魔女本来の動きで、今までは横着をして使い魔に運ばせていたのだろう。

 ひたすらに逃げる魔女を追うさやか。

 背後から追いかける位置関係のため、彼女は魔女のモニター部を覗き見ることはできなかった。

 そのモニターには目まぐるしく、上条恭介、鹿目まどか、志筑仁美、巴マミ、佐倉杏子、それらの人物の姿が映し出されていた。それはつまり、この魔女が持つ能力――相手の記憶や心を読む――が美樹さやかを捕らえつつあることを意味していた。

 

 

 

「いい加減、諦めてお縄につけってーの!」

 

 一方的な追跡劇は、いつの間にか生命を懸けた戦いから安全圏から弓を射るような狩猟へと、さやかの認識を変質させていた。

 そのため、投じた剣に必中の気迫はなく、魔女は振り返りざまに側面から伸ばした髪をしならせて、サーベルを易々と弾いた。

 続けて、不首尾に終わったさやかの攻撃を、なじる声が響く。

 

『どこを狙って投げてるの? 本当に、いつまでも成長しない人ね……』

 

 幾筋かのヒビが入った魔女のモニターに、巴マミの顔が映し出される。

 その顔には、軽蔑の色がありありと浮かんでいた。

 

『しょうがないですよマミさん。さやかちゃんは上条君のことで頭がいっぱいなんだから』

 

 ヒビによってモニターは幾つかのエリアに分割されていた。

 そのうちの一つに、鹿目まどかが映り意地の悪い表情を見せる。

 

『まいったなぁ。さやかはそんなじゃないって、女性と意識したこともないよ。だいたい、あいつは男勝りって限度を超えてるよ。男そのものだよ』

 

 やはり分割されたエリアに上条恭介が映り、苦笑を浮かべて告げた。

 それを受けてマミとまどかも、さやかを揶揄するように笑う。

 

 ――え?

 

 さやかは画面に映し出される彼女らの言葉に、自らの手と足が硬直するのを感じた。

 あまりに彼女らにふさわしくない嘲りの言葉。しかし、その言葉のすべてはさやか本人の心から読みとったものであったため、心が否定しきれない。

 加えて、くたびれたテレビのように不規則に明滅する光が、催眠のような効果を与えつつあった。

 

『私、上条恭介君のこと、お慕いしてましたの』

 

 上条恭介が映る領域のすぐ隣に、志筑仁美が映る。彼女はヒビによって築かれた境界線を乗り越えるように手を伸ばすと、上条恭介の顎をたおやかな指で撫でさすった。

 

『上条くんには、私のようなお淑やかな女性が相応しいと思いますの。ですので、さやかさんから、上条くんを奪ってしまおうと思っていますの』

『そうだね。さやかちゃんには上条君は勿体ないし。さやかちゃんには魔法少女として戦ってもらって、わたしたちは青春を楽しんじゃおう!』

 

 ふたりを祝福するように、モニターの中のまどかが拍手をしてみせる。だが、その瞳は決して笑わず、汚物を見るような視線をさやかに向けている。

 

「仁美……?」

 

 さやかは、自らの腕の中で気を失っている志筑仁美を覗き込む。そこには、モニターに映る仁美とは異なる、いつもの穏やかな彼女が寝息をたてていた。

 大丈夫、こんなのは魔女のまやかしだ。そう思った刹那。

 

『どうせあなたは告白する勇気さえないのでしょう? 無様に逃げればよろしいのですわ』

 

 腕に抱く仁美が目を見開き、歯をむき出しに告げた――――かに見えたが、次の瞬間にはもとの愛らしい寝顔に戻っていた。魔女の見せる幻惑か、それとも美樹さやかの抱く根源的な恐怖が見せた幻か、それは彼女にも分からなかった。

 

『男の人に夢中で魔法少女の活動を疎かにするなんて、見損なったわ、美樹さん』

『軽々しく契約したと思ったら今度は男ってか。舐めんのも大概にしろよ、お前』

 

 いつのまにか手で触れることができる距離まで接近していた魔女が、モニターをさやかの顔に近づける。そこには新たに杏子が、マミの隣に映し出されており、ふたりが口々にさやかを責める。

 

「黙れ……まどかやマミさんはそんなこと言う人じゃない……」

『そりゃ、面と向かって言うわけないよ、あはは』

『ほんと馬鹿ね、美樹さん。悪口は隠れて言うのが楽しいんじゃないの』

『面と向かって言うのも顔殴るみたいでいいんだけどさ、隠れて言うのはボディブローみたいで、これはこれでいいよな』

『さやかさんがお見舞いに行った後、まどかさんとふたりでいつもさやかさんのこと、お話してましたのよ』

『お話っていうか、悪口大会だよね』

 

 えへへ、と彼女独特のイントネーションを再現して笑うと、モニターの中の彼女は楽しげに肩を揺らした。その仕草は、美樹さやかのよく知る鹿目まどかのものだった。

 そして、魔女の攻撃なのだろうか、美樹さやかは頭が割れるような痛みをおぼえた。

 額に汗がにじみ、身体がくの字に曲がる。そんなさやかを覗き込むようにモニターを近づけると、魔女は映像を見せ続けた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『もうさ、あたしなんて生きてる意味ないよね?』

 

 美樹さやかの目前に迫ったモニターに、顔をくしゃくしゃにした美樹さやかが大きく映る。それを焦点の合わない瞳で見つめる美樹さやかは、おうむ返しに呟く。

 

「生きてる意味、ないよね……」

 

『そうだよ。死んじゃえばいいんだよ、さやかちゃん』

「死んじゃえば、いいか……」

 

『あとのことはご心配なく。さやかさんの分まで、私と上条君で幸せになりますから』

 

 画面に映る美樹さやかが、剣を喉にあてがう。画面外の美樹さやか――現実の美樹さやかも、鏡に映った像に従うかのように、剣を喉にあてがう。

 虫を潰すような音をたてて切っ先が皮膚を破り、赤い液体が滲んだ。

 魔女の精神攻撃を受け自失状態のさやかが、さらに力を込めようとした時に、さやかの腕を掴むものがあった。

 細く、暖かい手だった。

 さやかの胸に抱かれている志筑仁美が意識を失ったまま、美樹さやかの自傷行為を押し留めるように剣を持つさやかの腕をぎゅっと掴んでいた。

 その僅かな刺激で、さやかは我に返った。

 そして腕の中で聖女のような穏やかな寝顔を見せる仁美を見やり――

 

「あたしの大切な人たちを汚すなッ!」

 

 怒号とともに振るわれた剣が、魔女のモニターを深く貫いた。

 完全に「堕ちた」と思い油断していたのか、魔女は避ける動作すら取れずに攻撃を受ける。

 さやかは、さらに怒りに任せて、刺し、斬り、突き、払い、裂く。

 精神攻撃に特化した魔女は、物理的な攻撃には極めて弱かった。

 さやかの怒りが収まる前に、攻撃に耐え切れずグリーフシードを残して昇天する。いや、魔女の場合は地獄に堕ちると言うべきだろうか。

 

 

 

 結界が消失し、現実世界に戻った美樹さやかは、腕の中で寝息をたてている志筑仁美をゆっくりと地面に寝かせた。首筋にあった魔女の接吻は、痕跡すら残さず消えている。

 

 ――良かった。仁美、無事だね。

 

 さやかが顔を綻ばせて仁美を見つめていると、不意に仁美が瞳を見開き、憎々しい表情を見せて先ほどまでの暴言を繰り返した。――いや、仁美はそのようなことは行っていない。美樹さやかが見た幻だ。あるいは、いまだに魔女の精神への干渉が残っているのだろうか。

 胃液が逆流するのを感じ、さやかは手で口元を抑え、えづくように咳を漏らした。

 

 ――……そうだ、仁美はあたしと恭介の関係を壊そうと……。

 

『上条くんには、私のようなお淑やかな女性が相応しいと思いますの』

 

 先ほどまでの言葉が、脳裏に響いた。それは志筑仁美の言葉ではなく、魔女の言葉である。美樹さやかもそのことは理解はしていたのだが、助けなければ、こんな想いをすることも……と考えてしまった。

 

「ええい!」

 

 邪心を吐き出すように、大きく叫ぶと頭をぶんぶんと振る。

 

 ――魔女の見せた偽の仁美に惑わされてどうする! 仁美がどんな奴か、あたしはよく知ってるでしょ!

 

 だが、倒れている仁美の顔を見ると、自分にないものを沢山持っている仁美を思うと、妬みに似た感情が鎌首をもたげるのを御しきれなかった。

 彼女の人当たりの良さを表すような優しげな瞳、桜色の瑞々しい唇、女性らしい起伏に富んだ身体。外見だけではない、明晰な頭脳とそれを鼻にかけない性格、育ちの良さがにじみ出る優雅な立ち居振る舞い。

 どれも美樹さやかにはなく、自分は一方的に劣ったものだ――と美樹さやかは思い込んでいる。視点を少しずらせば、美樹さやかにしかない美徳も多いのだが……。

 

「最低だな、あたし……」

 

 巴マミたちが駆け付けるまで、さやかは呆けるようにその場に佇んでいた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ひとりで倒したのね、大したものだわ」

 

 マミの賞賛も、美樹さやかには遠くの世界の言葉に聞こえた。

 

「勝てたからいいけどさ、まだ見習いなんだから無理すんじゃねーぞ? 怪我してからじゃ遅いんだからな」

 

 杏子の警句も、やはり現実感を伴わなかった。

 

「杏子ちゃん。だって仁美ちゃんが危なかったんだもん、しょうがないよ」

 

 取り持つようにまどかが言葉を紡ぐ。

 仁美は、杏子の使った睡眠の魔法で深く眠っている――さすがに、自分達が魔法少女であることを伝えるわけにはいかないので、すぐに目覚めないようにとの処置だ。

 

「どうかしたの、さやかちゃん?」

 

 ろくに返事も返さない親友の様子に心配したまどかが、さやかの肩を揺する。その動作で現実に引き戻された美樹さやかは、目を伏せるを小さく伝えた。

 

「マミさん、あたし、これからは独りで戦う」

「……どうしたの?」

 

 あまりに突然の、そして予想外のさやかの言葉に、マミは目を丸くした。

 

「私は、マミさんや杏子みたいな正義の味方にはなれなかった。一緒に戦う資格なんてないんだ」

 

 身体中の空気を吐き出すように息継ぎもせずまくしたてると、穏やかに眠る志筑仁美の顔を見つめる。

 

「仁美を、助けなきゃよかったって! 思ったんだ!」

「さやかちゃん……」

 

 大きく息をする美樹さやかの肩を掴み、まどかが慰めるような、戸惑うような声を漏らす。それ以上の言葉に詰まったまどかに代わり、マミが続けた。

 

「……どう思うかより、どう行動するかが大事よ。あなたは立派に彼女を助けたわ。危険を顧みずにひとりで。それが全てじゃないかしら」

「つーかさ、いつも心の中が曇りなく綺麗ですって奴なんて胡散臭いだけだぞ。気にしすぎじゃねーのか?」

「そ、そうだよ。わたしなんて宿題忘れた時とか、先生消えちゃえばいいのにーって思っちゃうし」

 

 さやかは、かけられた言葉に応えるかわりに、肩に置かれたまどかの小さな手をそっと払い除けた。

 

「美樹さん、あなたが私たちと一緒に戦うのが嫌になったのなら、私には引き留める権利はない。でも、もしそうじゃなくて、意地だとかプライドだとか、そういうもので袂を分かつというのなら、考え直して欲しい」

「あたしもさ、昔、色々あったんだ。さやか、大事なのはどうすべきかじゃなくて、あんたがどうしたいか、だよ」

 

 それぞれが、精一杯に引き留めようとしてくれている、それはさやかにも理解できた。しかしそれを受け入れるには、心の整理が全く追いついていなかった。

 だから、今は拒絶するしかなかった。

 

「ふたりともありがとう、しばらく、ひとりで考えさせてもらっていいかな」

 

 マミと杏子が頷くのを見届けると、さやかは足早に去っていく。さやかとマミ、杏子の双方に視線を交互に向け、おどおどとしている鹿目まどかの背を、マミが押した。

 

「鹿目さん、行ってあげて」

「さやかに付いててやんな。なに、時間が解決してくれるよ」

 

 杏子のそれは経験からくるアドバイスだったが、この場合は適切ではなかった。解決を委ねるには、残された時間は短すぎたのだから――

 

 

 

 

 

「さやかちゃん、どうして?」

 

 さやかに追いついたまどかは、疾駆して乱れた息を整えることもせずに聞いた。

 どうして、とは何を問うているのかと、さやかは考える。

 どうして仁美を助けなければ良かったと思ったのか?

 どうしてマミさんたちと別行動を取るのか?

 

「だって、仁美の方がずっと可愛いじゃん」

 

 どちらの問いかけであっても答えになっていないことは、さやかも自覚していた。ただ、どちらの問いかけであっても、理由の根源はそこにあった。

 

「仁美の方が、恭介にふさわしいじゃん!」

「そんなこと、ないよ」

 

 さやかの一足飛びな回答を過不足なく理解することはまどかにはできなかったが、ある程度察することはできた。

 そして、そういう問題に疎いまどかには気の利いた言葉をかけてあげることはできなかったが、決意をすることはできた。自分だけは、何があってもさやかちゃんの味方でいよう、と。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日。

 クラスの雑務を終えて集合場所に向かったマミは、ひとり立つ杏子を見つけた。

 

「美樹さんは?」

 

 その問いに、杏子は視線を落とし、首を横に振って応えた。

 

「そう……」

「まどかには、何かあったら連絡するようには言ってあるよ」

「なら安心ね。じゃ、今日は久しぶりに杏子ちゃんとふたりでパトロールしましょうか」

 

 言葉とは裏腹に不安を隠しきれない表情で告げると、マミはもう一年近くともに戦っているパートナーの手をひいて歩き始める。

 

 

 

 

 結局、まどかからの連絡はなかった。

 魔女や使い魔と遭遇することもなくパトロールを終え、自宅に戻ったふたりにのもとに、キュゥべえが訪れた。

 マミは渡りに船とキュゥべえに美樹さやかの状況を尋ねたが、キュゥべえの目的はそもそもそれを告げることにあった。魔法少女たちが接触してしまわないように――

 

『美樹さやかなら今はひとりで頑張ってるよ。キミたちと一緒だと甘えも出るしね。それに、美樹さやかの為にもひとりでいる時間は大切と思うよ』

 

 信頼するキュゥべえの言葉にマミは同意すると、さやかへの伝言を頼んだ。

 

「キュウべぇ、美樹さんに伝えておいてもらえる? いつでも帰ってきてって」

 

 マミは後にこの日の出来事を思い出す度に、何故、帰ってきて、ではなくすぐに迎えにいってあげなかったのか、と身を焦がすような悔恨に苛まれるのだった。そうすれば、間に合ったかも知れなかったのに、と……。

 

『わかった。伝えておくよ』

 

 空約束をすると、キュゥべえは姿を消した。



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第一五話 マミさん、後輩を救うべく奮闘してる

 美樹さやかは、再び志筑仁美の呼び出しを受けていた。理由は――来れば分かりますわ、の一点張りだった。

 昨日、志筑仁美が提示した丸一日の猶予は、既に数時間前に過ぎていた。

 それを思えば、約束の時間が過ぎたことと、もう仁美も遠慮せず上条恭介に好意を伝えることの、改めての宣言なのかなと美樹さやかは思う。

 

 当然ながら、気乗りのする呼び出しではなかった。

 だから呼び出しの時刻を五分ほど過ぎて、ようやく約束の場所、噴水公園の入り口へ到着したのだが、そこから遠くに上条恭介と志筑仁美を認めて、足を止めた。

 そして、素早く木陰に身を隠した。幸い、見咎められてはいないようだった。

 

 

 

 

「どうしたの、志筑さん?」

 

 上条恭介も、美樹さやかと同様に理由を伏せたまま呼び出しを受けていた。

 時間より少し早く指定場所に訪れた恭介は、同じく時間より早く来ていた仁美とふたりきりで、要領を得ないまま待機を強いられていた。

 女性の前ということもあって態度や言葉に棘を持たせないように自制できているが、このまま時間が経つと自信はなかった。

 

「もう少し、待っていただけますか?」

 

 何度目かの言葉だ。同じ言葉を繰り返しながら、志筑仁美は何かを探すように視線をめぐらせる。

 

 ――さやかさん、どうしましたの? 本当によろしいのですの?

 

 育ちの良さから態度には出さないが、仁美もまた一向に現れないさやかを思い焦燥感に苛まれていた。本来は、ここでさやかと恭介を引き合わせて、告白させようという腹積もりであったのだが……。

 

 ――このままお見えにならないようですと、私、泥棒猫になってしまいますわよ?

 

 そう考えて、すぐに心の中で苦笑する。

 

 ――まぁ……泥棒猫未遂が関の山でしょうけど。

 

 これは、志筑仁美の自己評価が低いというわけではなく、志筑仁美の美樹さやかへの評価が高いというべきだろう。そして今回に限っては、その評価は正鵠を得ていた。

 当初の約束の時刻から三〇分が過ぎた。さやかを待つという目的のある仁美はともかく、理由も知らされず待たされる恭介のストレスはいかばかりか。それでも面に出さない恭介は、充分に紳士と呼んでいいだろう。

 さすがにこれ以上は、と志筑仁美も覚悟を決めた。

 大きく息を吸い、ゆっくり吐き出して心を落ち着ける。それを数度繰り返すと、仁美は恭介の瞳を直視して想いを告げた。

 

 

 

 

 

「ごめん、志筑さん。僕、他に好きな人がいるんだ」

 

 申し訳なさそうに頭を下げる恭介を遮って、仁美が明るい声を返す。

 

「いいえ。はっきり仰って下さって感謝しますわ」

 

 半ば以上予測していたことなので、ショックはなかった。仁美は少しはしたないと思ったが、好奇心に負けて口を開く。

 

「えっと、差し支えなければ……といいますか、ええと……さやかさん、でしょうか?」

 

 恭介の表情と顔色の変化だけで、仁美には理解できた。その理解の後に、ぎこちない動作で首肯する恭介を微笑んで眺めると、仁美は思考した。

 

 ――あらあら……。さやかさんのお祝いパーティを開かないとですわね。じゃぁ、親友の為に、もう一肌脱いでおきましょうか。

 

 その親友が先ほどまで遠巻きに様子を伺っていて、そして今はふたりの関係を誤解して走り去っていることなど知らない仁美は、能天気に善意を振りかざした。

 

「それで、上条君はさやかさんに気持ちを伝えるつもりですの?」

 

 土足で踏み込まれた恭介は、しかし不快感はおぼえなかった。照れるように頬を指で撫でると、えぇと、と前置きした上で応える。

 

「今さらなんだよね……さやかとはずっと友達みたいな付き合いだったから」

「そういう関係こそ、どちらかが勇気を出さないとずっとそのままですわよ。私が好きになった方は、告白も出来ないような意気地なしではないと、私、信じておりますわ」

「あはは……志筑さんとまともに話すのは初めてだけど、思っていたよりもくだけた人なんだね」

 

 暗に――いや、明確に恭介からの告白を推してくる仁美に、恭介ははぐらかす意味で話を逸らした。その意図は仁美にも理解できていたが、恭介の思惑に逆らわず話を逸れるに任せた。

 

「親しくない方はお堅いお嬢様と思ってらっしゃるようですけど……もしそうなら、さやかさんやまどかさんの友人は務まりませんわ」

「それはそうだね」

 

 ひとしきり声を揃えて笑うと、仁美は頭を下げて帰る旨を伝える。

 

「それでは、失礼いたしますわ」

「うん、また学校で」

 

 仁美の帰る方向は知らないが、同じ方向だった場合を考えて恭介は少し公園で時間を潰すことにした。

 仁美の後ろ姿を見送りながら、恭介は仁美に言われた言葉を思い返していた。

 

「ずっとこのままじゃ……ダメだよな」

 

 視界から仁美が消えたころに、恭介は右の拳を握りしめて呟いた。ちょうどその頃、仁美は自分の瞳が熱くなっていることを自覚した。

 

「あら……」

 

 半ば以上予測していたことなので、ショックはなかった――と自身は思っていたのだが、気がつけば涙が頬を伝っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日、意を決して登校した恭介だったが、あいにくと美樹さやかの姿はなかった。

 その次の日も、さらに次の日も、会うことはおろか、携帯電話で連絡を取ることさえできなかった。あるいは自宅を訪ねれば出会えたのかもしれないが、気心の知れた仲とはいえ、女子の家を訪ねることに抵抗があった。

 

「風邪でもこじらせたのかなぁ」

 

 呑気に首を傾げる恭介をよそに、同じ頃美樹さやかは使い魔の結界の中にいた。

 

 

 

 

「ぶぅぅぅぅぅん!」

 

 使い魔は変声期前の少年を思わせる声で、エンジンの爆音を模した叫びをあげる。

 幼い声にふさわしく、使い魔は幼稚園児程度の背丈の子供に見える。

 だが、普通の子供ではない。髪も肌も服も、クレヨンで雑に塗られたような派手な色合いで、この世ならざるものであることを主張していた。その下半身は、やはり同様の彩色を施された飛行機――本物の飛行機ではなく、子供がペダルをこいで動かすような玩具だが――に埋もれている。

 

「ぶるるるぅん!」

 

 本来は陸上を這うことしかできない玩具の飛行機でも、自然の摂理に抗う存在故か、空中を自在に飛翔する。

 そして使い魔は両手から、ソフトボールのような球体を投下してきた。

 

 さやかは咄嗟にマントを翻して身を庇う。カーテンよろしく高速で横に走る純白のマントでボールを弾こうという腹積もりだが――

 マントに触れる直前、ボールは閃熱を発し、マント越しにさやかの肉を灼いた。

 

「――!」

 

 マントを支えていた腕に激痛が走る。

 さやかは後方に跳んで態勢を立て直すと、マントを背中に戻し腕の傷を確認する。左の肘から手首にかけてが焼けただれ、ところどころに水泡が浮かぶ有様だ。火傷の深度としては深めのⅡ度といったところか。

 

「ぶぅぅん!」

 

 傷付いたさやかを追いかけて飛行機が迫り、体当たりを仕掛けてくる。

 さやかは横に転がって突撃を躱しながら、癒しの魔法を左腕に集中させる。と、時間を遡行するように腕の傷が消えていき、さやかの腕は攻撃を受ける前の状態を取り戻した。

 美樹さやかは、他者を癒す奇跡を祈り魔法少女になった。それが故に彼女の固有魔法は治癒であり、魔法少女になって間もない現時点でさえ、その効力は一年以上の時間をかけて練り上げた巴マミの治癒魔法をも凌駕している。

 

「ばあああぁん!」

 

 無邪気な声に明確な悪意を込めて、使い魔は再びボールを投下してきた。だが同じ攻撃を無為に受けるほど彼女は愚かではない。手にしたサーベルを投擲し、ボールを空中で迎撃、四散させる。

 そして、新しく作り出したサーベルを両手持ちで構えると、上空を旋回する使い魔に向けて跳躍する。

 それを避けようと使い魔は大きく横に逸れる。さやかは虚空に魔方陣を出現させると、片足で魔方陣をを蹴り自身の身体を横に飛ばして使い魔を追った。

 本来の速さは使い魔も負けていなかったが、旋回のため速度を落としていたことが災いし、力技でベクトルを変えトップスピードを維持したままのさやかに追いつかれる。

 白刃が煌めいた。

 さくり、と抵抗なくサーベルが使い魔の頭部を薙ぐ。

 

「びぇぇぇぇぇん!」

 

 乳幼児がむずかるような、情に訴える声をあげる。

 しかし、さやかは眉ひとつ動かさずにとどめとばかりに胴を貫いた。

 

 

 

 

『やぁ、頑張っているようだね、さやか』

 

 結界が晴れ、現実世界の路地裏に戻った頃、キュゥべえの声が届いた。遅れて、変身を解いたさやかの足元に白猫に似たその姿が現れる。

 

『魔法少女になって間もないのに、たいした活躍だよ』

 

 さやかはキュゥべえに一瞥をくれると、言葉を返さずに歩き出した。

 手にソウルジェムを携え、パトロールを続行するつもりだ。

 

『どうしたんだい。いつも元気なキミらしくないじゃないか』

「マミさんたちとのこと、聞いてたんでしょ?」

 

 追いすがるキュゥべえに、振り返らずに言葉だけを返す。

 

『聞いていたよ。何が問題なのか分からない。君は志筑仁美を助けた。素晴らしいことじゃないか』

 

 喉を鳴らすような仕草を見せながらキュゥべえは語りかけるが、さやかはそれ以上は応えない。

 そのまま、静寂を保って歩を進める。信号をふたつ越えたあたりでキュゥべえが続けた。

 

『そうだなぁ。それでもキミが自分を許せず、正義の魔法少女として名誉挽回したいと思うなら、魔女や使い魔をたくさん倒すしかないんじゃないかな』

「そうすれば、またマミさんや杏子と一緒に戦えるかな」

『もちろん、彼女たちもキミを見直すに違いないよ』

 

 名誉挽回、見直す、と現状のさやかを否定する言葉を散りばめながら、キュゥべえはさやかの思い込みに太鼓判を押した。そして、それ以上の深入りを避けるように、先ほどから何度も届いていた呼びかけを今さらに伝えた。

 

『おっと、まどかからテレパシーだね、合流するかい?』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 傷を受ける――癒す。

 傷を受ける――癒す。

 影の魔女――エルザマリアの執拗な攻撃に、美樹さやかは攻勢に出ることもできず、ただ傷を創り、癒す行為を繰り返していた。

 それほどに激しい攻撃だった。

 常に十を超える触手状の使い魔が、様々な角度から突撃を仕掛けてくる。躱しながらサーベルでふたつに薙いでも、影絵のような使い魔はプラナリアよろしく別たれた先でふたつの使い魔になる。

 魔女本体を攻撃しなければ、と思うものの、雨の様な使い魔の攻撃に動くこともままならない。

 使い魔一匹の攻撃なら、難なく躱しながら魔女に接近できるだろう。

 使い魔三匹の攻撃なら、多少の手傷を覚悟すれば魔女まで駆けれる。

 だが、十を超える数ではどうか。こうして近寄ることを行わず防御に専念しても、次々と傷が創られていく。移動すれば当然防御は疎かになる、そもそも生きて近付けるかどうか。

 埒が明かない、いや、魔力の消耗を考えると緩慢に敗北に近づいている、と美樹さやかは判断する。

 

 ――それよりはッ!

 

 心の中で痛覚遮断ダイアルを目いっぱいに回し込む。

 痛覚を最小化することは、即ち危険に対して鈍感になることを示し、戦いにおいては決して有利とはいえないが、今は選択の余地はなかった。

 攻撃を受けながら傷を癒し、魔女との間合いを詰めるしかない。

 さやかは決意するとサーベルを腰にためて構え、一気に駆けた。

 最小限度の防御だけを行い、速力を優先。

 頭を狙う使い魔の攻撃を、僅かに身体をずらすことで肩口で受ける。

 胸を貫こうとする攻撃を、サーベルで上腕に流す。

 首を噛み砕こうとする使い魔の顎に、自ら片腕を呉れてやり急所を守る。

 受けた傷はいずれも深かったが、彼女の治癒魔法はかすり傷を治すかのようにそれらを癒した。

 さやかの判断は奏功したと言っていいだろう。さやかが指呼の間に迫っても、影の魔女は祈りを捧げる姿勢を崩さず、無防備な背中を晒していた。

 もらった、とばかりにサーベルをかざして美樹さやかが跳ぶ。その刹那、魔女の背中が盛り上がり――

 

「――!」

 

 さやかは反射的に己の手前に魔方陣を生み、それを蹴って後方へ跳んだ。それと同時、魔女の背中を食い破って数十の触手が奔流のように迸る。

 後方へ跳んだことでカウンターでの直撃は避けたものの、空中で触手の攻撃を受けて背中から地に墜ちる。

 動きが止まったさやかに、魔女の触手と使い魔が好機とばかりに攻撃を集中させた。それは、瀕死の――あるいは絶命した獲物を集団でついばむハイエナの群れのような凄惨な責めだった。

 瞬く間に美樹さやかが毀される。

 下腹が食い荒らされ、はらわたが溢れ出る。

 四肢がいびつな角度で曲がり、骨が肉を突き破る。

 首の動脈が噛み千切られ、鮮血が零れる。

 痛覚を遮断していなければ幾度となくショック死していただろうと思われる状態で、しかしさやかの魔法はその全ての傷痕を着実に癒していた。そして、非現実的な光景を眺めるさやかの精神は冷えていった。

 

 ――なんだ、死なないんじゃん。

 

 はらわたが意志を持つかのように下腹部に戻り、骨が肉の中へ還る。

 

 ――ていうか、化け物じゃん、これじゃ。

 

 肉が傷痕を埋めていく。何もなかったかのような、柔らかで瑞々しい肌に。

 触手が、使い魔が繰り返しさやかを毀そうとするが、それ以上の速さで身体は修復された。何度も何度も毀される経験だけを、さやかに残して。

 さやかの口元が歪んだ。そしてくぐもった笑い声が漏れる。

 

 ――いつまで人の身体に好き放題やってくれてんだ、うざい。

 

 酷薄な笑みをその顔に貼りつかせると、攻撃をされるがままに、ゆらりと立ち上がる。

 そして、倒れ込むように身体を前傾させると駆けた。

 肉が削げる――癒す。

 骨が砕ける――癒す。

 眼球が爆ぜる――癒す。

 臓物が破裂する――癒す。

 さやかの口から哄笑が溢れた。最初からこうやれば良かった、自分は狩人で魔女は獲物でしかないんだ、そう思うと嗤いを堪えられない。そんなさやかの驕りに報いを与えるかのように、彼女の左胸を魔女の触手が貫いた。

 

 心臓が、潰れる――さやかの目が見開き、左の乳房の膨らみの根元を貫く触手を見やる。

 潰れた心臓はもはや身体に血液を送れない。

 血液がなければ人の身体は動かない――それがどうした、とばかりに魔力が働く。

 心臓がよみがえり、欠乏した血液を再生する。致命の一撃だったが、治癒の魔法はそれすらも癒した。

 

 いかなる感情を込めてか、さやかの哄笑が大きくなった。

 なおも駆けて魔女に接触すると、サーベルで滅多刺しにする。抵抗する魔女の攻撃を全て受けて、しかし意に介することなく五月雨に斬る。

 やがて、魔女はグリーフシードを残して、その痕跡を消した。

 

 

 

 結界が消え、月明かりが照らす現実世界に戻ったさやかは、倒れそうになったところを結界外で待っていた鹿目まどかに抱きとめられた。

 

「さやかちゃん!」

『お見事だね、さやか。連戦連勝じゃないか』

 

 まどかの足元に鎮座するキュゥべえが、ふたりに聞こえるように労いのテレパシーを飛ばす。さやかは半ば眠るような力のない瞳でキュゥべえを見やると、ゆっくりと口を開いた。

 

「ねぇキュウべぇ、どれだけ倒せば、いいのかな……」

『それを決めるのはボクじゃないよ。ただ、キミの頑張りはボクからも伝えておくよ』

「ありがと……」

『礼には及ばないよ。魔法少女に付き従い導くのがボクの役目だ。キミのようにひたむきに頑張る魔法少女と一緒にいられて光栄なくらいさ』

 

 明るい声で応えると、キュゥべえは煙のようにかき消えた。もちろん、さやかの頑張りをマミと杏子に伝えに行ったわけではない。

 まどかは、自分にもたれかかり放心しているさやかを見つめる。目立った外傷はないが、とてつもなく疲弊している雰囲気が感じられた。それをまどかは、精神的なものと受け取った。

 

「さやかちゃん、こんなになるまで戦って……無理しちゃだめだよ……」

「無理しなきゃ勝てないんだ」

「でも、これじゃ勝っても……」

 

 さやかは、先ほど行った戦い方が誉められたものではないことを自覚していた。それだけに、まどかの言葉が自分を責めているように感じられ、苛立ちをおぼえた。

 実際は結界の外で待っていたまどかには、さやかの戦い方を知る由もなく、責めることすらできないのだが。

 

 ――好きであんな戦い方をしてると思ってんの?

 

「だったらあんたが戦ってよ」

 

 親友を非難する言葉が、口から漏れた。

 

「あんた、あたしどころかマミさんや杏子より才能あるんでしょ。なのに街を守って戦うのは人に押し付けて自分は高みの見物?」

「さやかちゃん……」

 

 苛立ち任せの言葉だったが、それは鹿目まどかの負い目を突くと同時に、まどかに美樹さやかの疲弊を正しく伝えた。

 

 ――そうだ。マミさんたちに迷惑かけるかもだとか、わたしじゃ無理だとか、どうでもいいんだ。さやかちゃんが苦しいんだから、一緒に苦しんであげれば。

 

 鹿目まどかは、美樹さやかとの過去を思い出していた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 最初にふたりが会ったのは、幼稚園の頃だった。

 当時の鹿目まどかは問題児だった。年齢を鑑みても過剰なまでの甘えん坊で、母が手を握ってあげなければお昼寝も出来ないという有様だった。

 当然ながら幼稚園には母はおらず、まどかはお昼寝の時間はぐずったり、大泣きしたりで先生を困らせていた。

 先生が手を握ってくれることもあったが、母でなくては不安なのか効果はほとんどなかった。

 

 ある時、隣のクラスの美樹さやかが、まどかのクラスにやってきた。

 さやかは、まどかとは異なり正統派の問題児で、暴れたり悪戯をしたりで先生を困らせていた。

 この日も、お昼寝の時間に自分のクラスを抜け出して、冒険気分でベランダを伝ってまどかのいるクラスにやってきたのだった。

 クラスの隅でぐずっている鹿目まどかに興味を抱き、とてとてと近寄った美樹さやかは、まどかの頬を仔猫の肉球を思わせる柔らかな手で軽く叩いた。叩かれる度にぐずる声を大きくしたまどかは、やがて涙をこぼすと大声で泣き喚いた。

 さやかには悪意はなく、まどかの頬のお餅の様な感触が気に入って叩いていたのだが、まどかが大声で泣き出したことで、何故か自分も悲しくなった。まどかに続いて、さやかも大声で泣き出した。

 並んでふたりで大声で泣いたが、いつもの事と先生はなかなか現れなかった。

 

 大きな鳩時計の秒針がゆうに十回以上廻ってから現れた先生は、泣き疲れたらしい鹿目まどかと美樹さやかが手をつないで仲良さそうにお昼寝をしている光景に頬を緩めた。

 翌日から、さやかはお昼寝の時間になるとやってきて、まどかの手を握ってお昼寝をするようになった。不思議とさやかと手をつなぐとまどかも安心するようで、ぐずることはめっきりなくなった。

 先生がさやかの越境を黙認したことで、卒園までまどかはお昼寝の時間にぐずることはなくなった。

 

 

 ――そういえば、どうしてさやかちゃんがいると、安心して眠れたんだろう。

 

 

 

 

 そういった経緯で友達になったふたりは、小学校にあがってからも毎日のように一緒にいた。

 まだ低学年の頃の初夏。

 仁美も加えて三人で仲良しトリオを結成していたまどか達は、プール開きの日を指折り数えて楽しみに待っていた。待っていたのだが、寝坊して慌ただしく家を出たまどかは、水着を忘れてきてしまったのだった。

 情けない声でその事を告げるまどかに、さやかと仁美は「またか」という表情で苦笑いを見せた。

 

 意気消沈してプールサイドの木陰で見学しようとするまどかの横に、普段着のさやかが現れた。

 

「やー、あたしもさ、水着忘れてたわー」

 

 そういって手櫛で髪をくしゃくしゃにして笑うと、まどかの横に座り込む。あっけに取られて言葉を紡げないまどかの頭に手を回すと、まどかの髪までくしゃくしゃにする。

 

「もう、さやかちゃん」

「あたしもまどかのこと馬鹿にできないねー」

「……ほんとだよっ」

 

 反撃とばかりにまどかもさやかの髪を狙うが、体格も良く反射神経も優れているさやかの防御に手が届かない。

 

「むー」

 

 しばらく挑戦していたまどかだが、悔しそうな声を漏らして諦めたように手を戻すと、プールの方に向きなおして「ごめんね……」と呟いた。その声がちょうど終わる頃、水着姿の仁美が水滴を垂らしながらふたりの傍にやってきた。

 

「ちょ、ちょっと風邪っぽいので、先生に見学の許可を頂きましたわ」

 

 明後日の方向を見て告げる仁美に、さやかは破願して返した。

 

「その顔色で何が風邪なのよー。サボリだなー」

 

 その指摘に、風邪といっても通用する程度に顔を赤らめると、仁美も顔を綻ばせた。

 

「さやかさんこそ、朝プールバッグを嬉しそうに抱えてましたわよね?」

「ふたりともゴメンね……」

 

 視線を落とすまどかを励ますかのように、さやかがまたまどかの髪をくしゃくしゃにする。つられて、隣に腰を下ろした仁美も反対側からまどかの髪を弄ぶ。仁美のまだ湿った指で髪が濡れるが、まどかには気にならなかった。

 

「じゃぁ来週、三人でプール開きだね」

「私はシャワー浴びただけですから、セーフですわよね……?」

「うん、セーフだよ仁美ちゃん」

 

 ――さやかちゃんも仁美ちゃんも、優しかったなぁ。

 

 

 

 他にも、ガキ大将がまどかをいじめた時――正確には、幼い愛情表現だったのだろうが――に、本気で立ち向かってくれたこともあった。

 女子としては体格の良かったさやかでもガキ大将には勝てなかったが、ガキ大将が呆れてしまうまで、いつまでもいつまでも諦めずに戦ってくれた。

 

 ――わたしは、ただ怖くて見てるだけだったんだっけ。

 

 

 

 母が記念日に買ってくれたオモチャの指輪。

 幼い鹿目まどかはそれを大切にしていたのだが、三人で小川遊びをしているときに、紛失してしまった。日が暮れるまで三人で探したのだが、小さな指輪は出てこなかった。

 

「もう、あきらめて帰ろう?」

 

 と言いだしたのは当のまどかだった。夏とはいえ、日暮れの遅い時間まで小川に浸かりっぱなしで、友人たちの身体が心配だったからだ。友人ふたりはすぐには首を縦に振らなかったが、暗くて探すのが不可能、という時間になってようやく諦めてくれた。

 

 翌日、三人の中で一番体の弱いまどかは、風邪をひいていた。

 その日のお昼前に、さやかが家を訪ねてきた。

 

「やー、やっと見つかったよー」

 

 満面の笑みで告げ、ベッドに横になっているまどかに指輪を差し出した。聞けば、朝早くから探しに行って、ようやく見つかったのだという。

 涼しくてちょうど良かったと笑うさやかに、まどかは言葉が詰まり満足にお礼も言えなかった。

 小川で石にでも当たったのか、リングの部分が少し欠けていたが、それさえも誇らしいものに見えた。

 そうしてさやかが見舞いがてら部屋にいると、仁美も訪ねてきた。

 

「たぶん、同じものだと思うのですが……」

 

 おずおずと、彼女は真新しい指輪を差し出した。まどかに見せてもらった記憶を頼りに、見滝原のお店を回って見つけてきたのだという。それは確かにまどかが失くした指輪とまったく同じものだった。しかし、さやかが見つけてきた指輪をまどかの指に認めて――、

 

「あ、あら。それじゃぁこれは不要ですわよね……」

「ううん」

 

 指輪を片付けようとする仁美を、ベッドから手を伸ばしてまどかは制した。

 

「両方つけたいから、もらってもいい?」

「え? ええ、もちろんですわ」

 

 笑うと、まどかは隣に指に真新しい指輪をはめた。そして照明にかざすようにして、ふたつの指輪を輝かせる。

 

「ふたりとも、ほんとにありがとう」

 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ――なんか、思い出すとわたしが迷惑かけてばっかり……な気がする。

 

 まどかの顔に苦笑が浮かんだ。状況に相応しくない表情の変化にさやかが怪訝な顔を見せると同時、まどかは静かな声で宣言した。

 

「わたし、なる。さやかちゃんと一緒に戦う」



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第一六話 マミさん、駆けつける

「わたし、なる。さやかちゃんと一緒に戦う」

 

 顔に浮かんでいた苦笑を消すと、落ち着いた静かな声で、ゆっくりとまどかが告げた。

 

「あんた、本気なの?」

「うん」

 

 さやかの問いに首肯すると、まどかは言葉を続けた。

 

「今までごめんなさい。魔法少女の生き方は辛いってマミさんや杏子ちゃんに教えてもらっていたのに、その辛い生き方をさやかちゃんだけにさせちゃって」

 

 穏やかな表情だった。そして温かい声だった。

 

「わたしも魔法少女になる。それで、辛いのははんぶんこにしよ。ううん、マミさんと杏子ちゃんもいるから、よんぶんのいちだね」

「じゃぁ今すぐ契約してよ」

 

 表情からも口調からも、まどかが軽い気持ちで言っているわけではないと美樹さやかは理解していたが、それでもなお、彼女は親友を嘲るように言った。そんな風に振る舞いたくないと、心の中で悲鳴をあげながら。もしかすると、まどかが「やっぱり無理」と折れることをどこかで期待していたのかもしれない。

 

 ――ううん、きっと折れる。まどかは勢いで言ってるだけだもん。まどかにそんな勇気があるはずない。

 

「うん。キュゥべえ、まだいるんでしょ? 出てきて」

 

 だが、まどかは折れず、契約の遂行者の名を呼ばわる。果たして、前触れもなくふたりの足元にキュゥべえが現れた。

 

『願い事は決まったのかい、まどか』

 

 いかなる感情も浮かべない赤い瞳で桃色の髪の少女を見つめると、彼女の意志を確かめる。

 その瞳の色は、先ほど見た心臓から零れる血の色を思い出させ、さやかは胃液が喉元まで這い上がってくるのを感じた。ごくり、と喉を鳴らして胃液を抑えつけると、視線をキュゥべえからまどかに向ける。

 キュゥべえとさやかに凝視されたまどかは、先ほどまで見せていた穏やかな表情を崩して、困ったような、悩むような、微妙な笑みを見せた。もちろん、つい先ほどまで魔法少女になることを決意していなかったのだから、願い事など決まっていなかった。

 

 ――どうしよう、前にいってた億万長者? 素敵な彼氏? 絶世の美女? 満漢全席? ううん、お金は自分の身の丈にあっただけあればそれでいい。彼氏は奇跡じゃなくて、わたし自身に魅力を感じて好きって言ってくれる人がいい。絶世の美女なんて突然なっても周りが驚くだけだし。満漢全席は……一度食べてみたいかも。じゃなくて!

 

 当然のように考えはまとまるはずもなく、まどかは助けを求めるように親友の顔を見た。

 

「わたしの願いは……さやかちゃん、何がいいかな?」

「なんであたしに振るのよ」

「えへへ……まだ決めてなかったから……」

 

 ――ほら、やっぱり。

 

 さやかは自分の思い描いた展開になったことに安堵していた。まどかが契約しなくて良かった、と。

 だが、深呼吸をするまどかは、さやかの想像とは逆に覚悟を決めていた。さやかとマミたちのそもそものボタンの掛け違えは、さやかが仁美を助けなければ良かったと思ってしまったこと。その原因は、恭介を巡ってのことだと、さやかの話からまどかにも想像できた。

 

 ――杏子ちゃんは怒るだろうけど、さやかちゃんがこんなに苦しむのは見ていられないよ。今はそれしか考えられないし、きっとこれを願うのが、正解なんだよね。

 

「キュゥべえ、わたしの願いは、さやかちゃんと上条くんが仲良く……」

 

 まどかの言葉が途切れた。さやかの柔らかい掌が、まどかの口を強く塞いだからだ。

 

「さやかちゃん?」

 

 濁音まじりのくぐもった声でまどかが言うが、さやかの耳には届いていなかった。

 

 ――あたしには、こんなに大切な親友がいたんだ。それをあたしは……。

 

「ごめん、まどか。ほんとごめん。やっぱり契約なんてしなくていい。しないで欲しい」

「さやかちゃん……」

 

 口元から離れたさやかの手が、まどかの頬を撫で、髪を弄んだ。

 

 ――この柔らかい肌も、艶やかな髪も、本当のものだ。壊れて魔法で作り直したあたしの身体とは違う。これは壊しちゃいけないんだ。

 

 桃色の髪を手櫛でくしゃくしゃにすると、さやかは満足したように手を離した。

 そして、足元に転がるグリーフシードを無造作に拾い上げて、暗灰色に濁ったソウルジェムを浄化する。インディブルーといった色にまで回復したソウルジェムを眺め、さやかは泣きそうな笑みを見せて優しく囁いた。

 

「もう遅いし、まどかは帰りなよ。あたしはもう一回りして帰るから」

 

 まどかの返事を待たず、さやかは跳躍した。

 二度、三度と跳躍を繰り返すと、さやかの姿はまどかの視界から消える。ふたりの会話が終わるのを待っていたのか、黙っていたキュゥべえがまどかに語りかける。

 

『契約は、もういいのかい?』

「わたし、さやかちゃんになるなって言われて、ほっとしたの。……なんて卑怯な子なんだろう、わたし」

『それが何故卑怯なのか、ボクには理解できないが……。キミがそう思うなら、いま契約してしまえばいいんじゃないのかい? 今なら、さやかを追いかけることも可能だよ』

「キュゥべえは、自分の仕事に熱心で、えらいよね」

 

 それきり、まどかは口を噤んだ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「親友にまで辛くあたって、試すような真似までして、あたし本当に最低だ」

 

 思考を声にするが、存在の希薄化の影響下にある音は、誰に聞きとがめられることもなく雑踏に消える。

 今のさやかを認識できる存在は、魔法少女とキュゥべえと魔女と使い魔だけだ。その存在のうち、後者――魔女と使い魔――の住処を美樹さやかは発見した。

 発見した、という表現は厳密には適切ではない。キュゥべえの誘導があったからだ。そして、その誘導の大元は、魔女の結界を発見し、その情報をキュゥべえに寄越したマミと杏子であった。

 

 マミと杏子は、使い魔とさやかでは荷が重いと思われる強力な魔女――ここ数日では、お菓子の魔女が該当する――のみを排除し、それ以外の魔女はすぐには倒さず、キュゥべえを介してさやかに情報を伝えていた。もっとも、さやかの到着が遅くなるようなら被害が出る前に駆除はしていたが。

 さやかの魔力が枯渇しないように、とのマミと杏子の配慮だったのだが、自傷行為に等しい戦いを繰り返すさやかには、決して良い影響は与えなかった。

 

「最低なあたしでも、みんなを守る剣としてなら、存在価値はあるよね。この世界にいてもいいよね」

 

 肺腑から絞り出すような生温かい息を吐くと、さやかは結界の入り口を乱暴に破壊した。

 

 

 

 豚の体躯に鶏の頭と翼を据えた魔女に、さやかは対峙していた。

 耳を塞ぎたくなるような甲高い哄笑を唾液とともに撒き散らしていたその魔女は、今は耳を塞ぎたくなるような悲哀に満ちた喚声を撒き散らかしていた。

 四つあった脚のうち、三つは根元から切り落とされ、一つは機能を失う程に切り刻まれていた。一対の翼はともに半ばで折れ、胴にも、首にも、頭にも、無数の刀傷を創っていた。

 魔女の傷痕から噴出した黄白色の体液は、無造作に立つ美樹さやかの全身にまとわりつき、その肌と髪を焼き溶かしていた。

 

「……」

 

 汚らしい体液が皮膚を溶かし、その下にある肉を焼く――それを治癒の魔法が瞬く間に癒す。

 治っては溶ける、治っては溶ける。出来の悪いカートゥーンのような有様に、さやかは口の端を歪めた。

 やがて、魔女の悲鳴は途絶え、結界が蜃気楼のように歪み始める。魔女の体液も、時間とともにその力を弱め、腐食と治癒の均衡は治癒に傾いた。

 

「魔女を倒したよ。あはは……マミさんたち、見直してくれるかな?」

 

 転がるグリーフシードを摘まみ上げると、漆黒の中に紫の光を宿したような色のソウルジェムに、コツンと接触させる。ソウルジェムの穢れが黒い霧となってグリーフシードに吸い取られていく様を見つめながら、さやかは脳裏に直接響く声を聞いた。

 

『結局キミはいつもそうだね』

 

 声の主は、足元に現れたキュゥべえだ。

 

『上条恭介に振り向いてもらうという見返りを求めて奇跡を願い、マミや杏子に認めてもらうという見返りを求めて魔女を倒す。あまつさえ自分のために鹿目まどかに魔法少女になれと言う』

 

 空っぽだったグリーフシードが、ソウルジェムから吸い上げた穢れで漆黒に染まっていく。墨汁で満ちた硝子細工のように、それは見えた。

 

『マミや杏子と別れたのだって反省したからじゃない。自分に罰を与えて罪悪感を軽くしたかっただけだろう。その行いでマミや杏子がどれだけ心を痛めるか考えもせずね。キミたちの言葉だと、悲劇のヒロイン気取りっていうんだっけ?』

 

 穢れを吸われたソウルジェムは、しかし輝きを取り戻すことはなかった。底冷えのする紫の光が時々漏れ出でるが、その在り様は正しく一個の黒曜石だった。

 

『キミには、ひとのために純粋に何かをするということはできないのかい? 巴マミも佐倉杏子も、犠牲者を出さないことを願って魔女や使い魔と戦っている。キミは魔女や使い魔と戦う時、犠牲者のことを考えたことはあるのかい?』

 

 戸惑い気味に「ある」という形にさやかの唇が動いた。が、それは声となって紡がれることはなかった。そんなさやかの所作を無視して、キュゥべえは言葉を連ねる。

 

『あるわけないよね。キミはいつも自分のためにしかその力を振ってこなかった。そんな魔法少女が、いまさらマミや杏子に受け入れられるはずもない』

「そんなこと……」

『そうかい? だったらどうして、腕が治った上条恭介を素直に祝福してあげないんだい? 見返りが欲しかったからだよね。それが得られなくて不満なんだろう? 上条恭介のために奇跡を起こした、なのに自分に振り向いてくれない。巴マミと佐倉杏子に自分を認めてもらうために、魔女を倒した、なのに認めてもらえない。自分、自分、自分、自分、ほんとうに自分のことばかりだよ。そしてそれが叶わなければ親友まで傷付ける。キミは、それでいいと思っているのかい』

「……うるさい」

 

 追いすがる声を振り払うようにさやかが振るったサーベルが、キュゥべえの胴を裂いた。それは絶命に追いやるほどの斬撃ではなかったが、彼は意図をもって自らの身体を崩壊させた。

 傷口からこれ見よがしに血の色の体液を溢れ出させ、穴の開いた紙風船が萎むかのように身体を変形させる。そして泥が雨に流されるように、変形した身体を溶けさせていった。

 

「あ……」

『やれやれ、今度はボクに八つ当たりかい』

 

 崩れゆくキュゥべえを横目に、新たなキュゥべえが姿を現して美樹さやかを詰った。

 

『キミの周りにいると誰もが不幸になるようだ。ボクも行くよ。命が幾つあっても足りやしない。君の周りにいようなんて思う人はいないだろうね。美樹さやか』

「まっ……て……」

『さぁ、私たちも行きましょう、杏子ちゃん、鹿目さん』

『そうだな。八つ当たりされたくねーし』

『昔っから乱暴だよねぇさやかちゃんは。そんなんだから上条くんにも嫌われるんだよ』

 

 かつてハコの魔女に受けた精神汚染がまだ残っていたのか、それとも純粋な幻聴か、美樹さやかはキュゥべえのみならず仲間の詰る声も耳にしていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『マミ、杏子、大変だ! 美樹さやかが不味いことになった』

 

 自らがそう誘導したことなどおくびにも出さず、キュゥべえはふたりに告げた。さやかの魔女化を目の当たりにすることで、ふたりが連鎖的に絶望することを期待しながら。

 つまり、さやかの魔女化はもはや止められない。その確信がキュゥべえにはあった。

 

 

 先ほどまで魔女の結界があった廃ビルの一室に、美樹さやかはあった。

 だらしなく両脚を投げだし、背中を薄汚れたセメントの壁に預けている。瓦礫が散乱する床には半乾きの吐しゃ物が広がり、すえた臭いが充満していた。

 美樹さやかは口元に残る吐しゃ物を拭うこともせず、焦点の定まらない瞳を天井で明滅する裸電球に向けたまま、その一室にあった。

 マミと杏子がキュゥべえの案内で部屋に入ってきても、一瞥をくれることもなく、糸の切れた人形のように天井を見つめていた。

 さやかが反応を示したのは、何度も名前を呼ばれ、何度も肩を揺すられた後だった。

 

「マミさん……杏子……」

 

 ようやくふたりの存在を認識したさやかは、怯えるように頭を抱えて身体を丸めると、謝罪の言葉をひたすらに口走った。

 どうしたの、と優しく尋ねるマミの声が、さやかには慇懃無礼にあげつらう嘲笑に聞こえた。

 落ち着けよ、と心配そうに顔を覗き込む杏子の声が、さやかには口汚く罵る怒号に聞こえた。

 ガタガタと身を震わせながら呪文のように謝罪の言葉を連ねるさやかの口から、胃液が溢れ出た。既に胃の中にあったものは吐き出されており、胃液だけが喀血よろしく飛び散る。

 それに怯むことなく顔を寄せると、マミは治癒魔法をさやかに使った。もちろん、さやかの方が治癒魔法は得手であることも、既に外傷らしきものが残っていないこともマミは理解しているが――

 

「何か、辛いことがあったのね」

 

 治癒魔法には、傷を癒すだけでなく精神を落ち着かせる効果もあると、マミは信じていた。魔女に魅入られた犠牲者や、気を失った人に治癒魔法をかけることで正気を取り戻させた経験が何度もあったから。

 果たして、耳元でささやかれたマミの声は、嘲笑や怒号に塗りかえられることなく美樹さやかに届いた。

 

「ごめんなさい、私、美樹さんの苦しみを誰よりも分かってあげなくちゃいけなかったのに。私も、昔そうやってひとりで全部かかえこんで……。杏子ちゃんがいてくれて、自分はひとりじゃなくなったからって、昔のことを忘れて、美樹さんの苦しみを思い遣ることも出来なかったの。本当にごめんなさい。来るのが遅くなってごめんなさい」

 

 ややあって、さやかは懺悔するように言葉を紡いだ。それは、やはり思い込みと幻影に囚われた言葉だった。

 

「……私は、マミさんや杏子みたいな正義の味方にはなれなかった。一緒に戦う資格なんてないんだ」

「資格なんていらないわ。私たちが美樹さんと一緒に戦いたい、それじゃダメ?」

 

 いまだ力の抜けたままのさやかを抱き締めると、さやかの言葉に重ねるようにマミは伝えた。そして、しばらくさやかの反応を待ち、反応がないことを確認してから言葉を続ける。

 

「美樹さんは、私と杏子ちゃんのこと、強いと思ってるのでしょうね。でも、そんなことないの。私も杏子ちゃんも弱くて、だからふたりで支えあって今日までこうしてきたの。ひとりだととっくに……。だから美樹さんだけ、ひとりで立とうとする必要なんてないの。私と杏子ちゃんと美樹さん、これからは三人で支えあいましょう」

 

 杏子もマミの言葉を肯定するように頷くと、背中の方からさやかの身体に腕を回した。

 

「……ありがとう。でもあたし、もう戦えない」

 

 そう呟くと、さやかは掌にソウルジェムを浮かべてみせた。

 かつて瑞々しいアクアブルーをたたえていたそれは、今は黒く濁り果てていた。黒曜石の上から更に墨を塗りたくったような、絶望的なまでの黒い色がそこにあった。

 

「大丈夫。こんなこともあろうかって、ね」

 

 マミは歌うような明るい声で言うと、取り出したグリーフシードをさやかのソウルジェムに近づけた。ここ最近では一番の大物から奪ったグリーフシードであり、穢れを吸い取る力は充分と思われた。

 ソウルジェムに近づいたグリーフシードは、目に見えない渦潮のようなものを発生させると、ソウルジェムから穢れを奪い取りその空洞の胴部に蓄えてゆく。瞬く間にソウルジェムは光を取り戻し、グリーフシードは引き換えに闇に染まる。

 アクアブルーとまではいかないものの、青と表現できる色を取り戻したソウルジェムを見つめ、満足気な笑顔を見せるマミと杏子。だが、その笑顔が次の瞬間には崩れた。

 

「どうして!」

 

 青を取り戻したソウルジェムが、一瞬で再び黒に染まる。絶望的なまでに深い黒に。

 

「ダメなんだ。魔力を使って濁ってるんじゃないんだ。あたしの心が濁っているんだ」

「どうしてよ! 美樹さんの心が濁ってるっていうなら私だって同じじゃないの! しっかりして美樹さん!」

 

 一瞬でもソウルジェムが浄化されたことで、美樹さやかの意識ははっきりしていた。だから、幻に囚われることなく声を聴くことも、幻を怖れることなく言葉を紡ぐこともできた。

 

「マミさん、杏子、来てくれてありがとう。まどかに伝えてもらえないかな。酷いこと言ってごめん、許して欲しい、あんたは魔法少女には絶対になっちゃダメだよって」

「いやよ! 美樹さんが自分で伝えればいいことじゃない!」

「なに弱気になってんだよ、さやか! 魔法が使えなくなったって、どうにでもなるって!」

 

 だが、さやかにはソウルジェムが濁り切った末路がどうなるか、即ち自分がどうなるか、本能的に理解できていた。そして、その末路が今や遅しと顎を広げ自分を飲み込もうとしていることも。

 

「そうできれば、いいんだけどね……。なんかさ、諦めがつくと、結構、晴れ晴れとするもんだね。飾ったり取り繕ったりする必要がないのって、こんなに楽なんだ。もっと早く、こんな気持ちになれていれば、良かったんだよね」

 

 その言葉の通りに穏やかな笑顔を見せるさやかだが、笑顔に似つかわしくない大粒の涙が、瞳からとめどなく溢れていた。

 

「美樹さん……」

「さよなら、ありがとう」

 

 

 

 かつて瑞々しいアクアブルーをたたえていたソウルジェムは、今や黒く濁り果てていた。

 ソウルジェムの張り出した部分が、あたかも内部が真空状態になったかのように、内側へと吸い込まれ、ひしゃげていく。

 鈍い金属音が幾度となく響き、卵型だったそれが捻じれた一本の棒のように変化した時。

 高い音を発して、その上下から針が伸び、ひしゃげていた棒状の部分が風船のように張り出した。

 それは、見慣れた形だった。

 魔女の源、グリーフシードの形だった。

 

 

 先ほどまで魔女の結界があった廃ビルの一室に、美樹さやかはあった。

 今はもうない。

 そこにはかって美樹さやかであったものの抜け殻と、美樹さやかであったものの成れの果てがあった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 時を数時間遡る。

 夕闇の迫る成田国際空港に、エミレーツ航空5096便が到着していた。

 5096便、すなわちドバイ発のボーイング777型を下りる黒髪の少女は、感情の起伏を忘れ去って久しいその顔に、ほんの僅かの笑み――口の端を歪めるだけのもの――を浮かべた。

 そして、心の中で呟いた。

 

 ――今度こそ倒してみせるわ。ワルプルギス。



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第一七話 マミさん、ただただ微笑む

『それは美樹さやかの抜け殻に過ぎない。キミたち魔法少女の魂はソウルジェムにある。そして美樹さやかのソウルジェムはグリーフシードへと孵った』

 

 突如現れた魔女の結界から、美樹さやかの身体を抱えて撤退したマミと杏子は、自室でキュゥべえの声を聞いた。

 美樹さやかの身体をロフトのベッドに横にし、濡れたタオルで顔や腕を拭う。そうしている時にその声を聞いた。

 

『それが魔法少女の宿命だ。穢れなき希望とともに産まれた幼い魔法少女は、やがて現実を知り希望を手放し絶望に沈み、長じては穢れに染まり魔女となる』

「キュゥべえ? ……なにを……?」

『美樹さやかは魔女となった。残念だが、その抜け殻をどうこうしても意味はないよ』

「おい、姿を見せろよ、キュゥべえ!」

『キミがもう少し落ち着いたら考えるよ、杏子』

「キュゥべえ、美樹さんを助ける方法は?」

『現実的な答えとしては、ないね』

 

 それを最後に、キュゥべえの声は絶えた。現時点で伝えるべきことは伝えた、そう言わんばかりの態度だ。その突き放した態度は、魔法少女の精神――特にキュゥべえを深く信頼し拠り所としていたマミの精神を鋭く抉っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ――そう、≪今回≫もこうなったのね。どこまでも愚かな人。

 

 コンサート会場を思わせる結界の中で、黒髪の少女は、美樹さやかであったものの成れの果てと対峙していた。

 人としての姿を失い、人魚を模した魔女となった美樹さやかを見つめる少女の瞳は氷点下の様に冷たく凍てついていた。それ故に、いかなる感情の動きも瞳に映ることはなかった。

 

 ――まどかを巻き込まなかったことだけは誉めてあげるわ。

 

 見滝原に戻った彼女は、まず鹿目まどかの安否を確認していた。鹿目まどかは美樹さやかをひどく心配していたが、最悪の結果になったことは把握していないようだった。そして――もっとも重要なことだが――まどかは魔法少女になってはいなかった。

 

 ――≪今回≫は私個人の最大火力でワルプルギスの夜を倒せるか、のトライアルが主目的。だけど、上手く事が運べば――。

 

 静止した時の中で、彼女は美樹さやかであったものの足元に、手元に、胸元に、喉元に、時限式の爆弾を設置していく。いかなる感情も面に浮かべることはなく、ただ路傍の草を摘むような淡々とした作業。

 設置を終えて距離を取ると、左手に備えた盾に内蔵した砂時計を作動させる。カチリと歯車が回る音とともに、静止していた時間が流れを取り戻す。

 その時の流れに押され、僅かな時差さえなく全ての爆弾が一斉に炸裂した。

 美樹さやかであったものの頭が、喉が、肩が、腕が、胸が、腹が、手が、腰が、太腿が、爆発により一瞬で炭化し、蒸発する。

 

 爆発の余波で彼女の濡れ羽色の髪がたなびく様に乱れる。京人形を思わせる絹のように白く艶ややかな頬を暴れた髪が叩く。彼女は白く細い指で梳くように髪を抑えると、地に墜ちたグリーフシードを切れ長の目でみつめた。

 彼女の容姿、所作、それらを総合して表現するなら、美しいという形容詞以外は適切でないだろう。ただ、それは彫刻の美しさであった。爆発により蒸散する≪美樹さやか≫を眉ひとつ動かさず見つめ、かつての同族を葬る痛痒など露ほども感じないその心に、人としての温かさは宿ってはいなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 まどかを巻き込むことに最初は難色を示したマミだが、他に代案があるわけでもなく、杏子の案――まどかを連れていって、さやかに呼びかけてみよう――に最終的には同意した。

 同意した時のマミの態度は快く、と言ってよい。無論、内心では鹿目まどかに事実を伝えること、巻き込むことに強い抵抗をおぼえているが、ここで不承不承といった態度を取っては、杏子ひとりに責任を押し付ける形になってしまう、そう考えてマミは努めて明るい態度を作った。

 だが、結果的には無駄な努力だった。

 

 

 窓際に立つ黒髪の闖入者は、ひとつのグリーフシードをふたりの前に投げてよこした。そして、感情の読み取れない声で告げる。

 

「これはあなたたちが持つべきでしょう。あなたたちにあげるわ。美樹さやかの形見よ」

 

 黒髪の少女が得意とする時間操作の魔法を使うまでもなく、時が凍りついた。

 投げられたグリーフシードを前に、巴マミも佐倉杏子も息をすることさえ忘れたように固まる。巴マミの豪奢な髪だけが、開け放たれた窓から入る僅かな風に揺れて、この場に時の流れがあることを示していた。

 

「キュゥべえに何を吹き込まれたかしらないけど、魔女になったらもう二度と人へは戻れない。呪いを振りまき犠牲者を生む前に狩ってやるのが、せめてもの優しさよ」

 

 優しさを語るにはあまりに酷薄な物言いに、杏子が激発した。椅子から立ち上がると次の瞬間には窓際に達し、少女の胸元を掴み力任せに持ち上げて吠える。

 

「てめぇ、勝手なこと言ってんじゃねぇよ!」

 

 首を絞められる形になった少女はそれでも無表情のまま、持ち上げられた状態から杏子を冷たく見下ろした。

 

「あなたはチェスをする時全ての駒を守ろうとするのかしら? 捨て駒を怖れてゲームには勝てないわ」

「はぁ? 誰が駒だってんだ! 何がゲームだってんだ!」

「この場合は美樹さやかが駒ね。もちろん私も、あなたもそうよ」

「てめぇ……!」

「やめて杏子ちゃん。争ってもしょうがないわ」

 

 黒髪の少女を絞め殺さんばかりの勢いで杏子がさらに両腕に力を込めた時、いつの間にか窓際に来ていたマミが杏子の腕をそっと抑えて制した。

 マミは落ち着かせるように杏子を見つめた後、視線をゆっくりと黒髪の少女に向ける。

 

「暁美さん、美樹さんをチェスの捨て駒と言ったわね。指し手はあなたなのかしら?」

 

 そして、争ってもしょうがない、そう制した人物とは思えないほど、剣呑な雰囲気をまとわせて尋ねた。今の今まで殺気を放っていた杏子が、逆にマミを押しとどめようかと考えるほどに。

 

「……ものの例えよ。指し手なんていないわ。美樹さやかは美樹さやかの意思で魔法少女になり、そして破滅した。それだけよ」

 

 杏子の手から解放された暁美ほむらは視線を逸らして応えた。そして逸らした視線の先に、美樹さやかの身体を認めると言葉を続ける。

 

「美樹さやかの魂は死んだわ。いくら抜け殻があっても、それこそ奇跡でもなければ……」

 

 とりたてて深い意味がある言葉ではなかったが、その言葉を聞いた杏子が反射的に呟いた。

 

「奇跡……そうだ、まどかにさやかのことを祈ってもらえば」

 

 今度は、その言葉を聞いた暁美ほむらが激発した。先ほどと鏡写しの様に、杏子の胸元を掴み、力任せに吊り上げる。

 

「浅慮にも程があるわ、佐倉杏子」

 

 彼女がこの部屋を訪れて初めて見せた感情だった。彼女の灰色の世界は、良きにつけ悪しきにつけ鹿目まどかが関係した時にのみ色を見せる。この場合は非常に暗い色――怨嗟や憎悪といった色が、彼女の世界に満ちた。

 

「確かにまどかの素質なら死者の蘇生も叶うでしょう。≪過去≫に前例もあるわ。でも、魔法少女は魔女となる。咲いた花が風に散るのと同じように、成った実が地に引かれ落ちるのと同じようにね。魔法少女となった以上、魔女となるか、その前に死ぬか、どちらかしかないわ。その上で佐倉杏子、あなたはまどかにその運命を背負わせて、美樹さやかに再びこの運命をなぞらせようというの?」

 

 言い捨てるように吐き出すと、その勢いのまま杏子を床に叩き付ける。そして、杏子の呼吸が整うのを待ってから、マミと杏子に交互に視線を向けて宣言する。

 

「理解できたわね? だから、まどかにはこの事は伏せておいてほしい。少なくとも、しばらくは」

「分かったわ。そもそもこんなこと、私だって伝えたくはない……」

 

 そのマミの湿り気を帯びた言葉に怯懦と惰弱を感じ取り、暁美ほむらは心の中でマミを面罵した。

 彼女が唾棄すべきと信じる闇。

 世界の本質を知ろうともしない怠惰、真実の重みに耐えられない怯懦、憐憫の情に溺れ成すべき責務を放り去る惰弱、そしてそれらの愚かさを省みようともしない驕慢。

 それがかつて自らが持っていた闇であることなど忘却の彼方にあるかのように、いや、かつて自らが持っていて、克服した――と、彼女は信じている――闇であるがゆえに、彼女は他者がそれを持つことを許せなかった。

 

「あたしだって、好き好んでまどかを悲しませたくはないよ」

 

 杏子の同意を確認すると、暁美ほむらは挨拶さえすることなく去っていった。

 

 

 

 

 

 美樹さやかを――方法は思いつきもしないが――助ける。その想いが、巴マミの精神の崩壊を水際で押しとどめていた。

 その想いが水泡に帰した今、巴マミの精神は衝撃を受けた硝子細工のように粉微塵に砕けていた。

 

「シャワーを先に浴びていいかしら」

 

 今後の話をしようとする杏子を制して、マミは静かに言った。マミはさやかの胃液を浴びているので、タオルで拭いたとはいえシャワーで流したいと思うのも当然だろう、と杏子は頷いて応える。

 

「飲み物用意しとくね。あたし紅茶は下手だからホットミルクでも」

「ありがとう、おねがい」

 

 任せて、と返した杏子は、キッチンに向かうとマグカップにミルクを注ぎ、慣れない手付きで湯煎にする。入れ過ぎにならない範囲で、バニラエッセンスと砂糖を加える杏子は、自分の好みよりもマミの好みを優先させていた。

 だが、そのホットミルクをマミが口にすることはなかった。

 

 

 

 

 ――魔女は魔法少女の成れの果て……。

 

 頭からシャワーを浴びながら、深く信頼していたパートナーであるキュゥべえが告げた事実をマミは反芻する。

 そして、考える。

 街のみんなを守るために、魔女を倒すことは正しいとマミは信じてきた。だが、魔女が魔法少女の成れの果ての姿ならば。

 

 ――私がしてきたことって、人殺しなの……?

 

 彼女が今までに倒した魔女は、ゆうに五〇を超える。

 その屍を糧としてソウルジェムを維持し、今まで生きてきたのならば。

 

 ――私は、ひとを犠牲にして、生きているの……?

 

 そして、暁美ほむらが指摘したように、いつかは魔女になるのが運命ならば。

 

 ――こんな罪深い行いで命をつないで、その果てに魔女となって災いをもたらすの? なんて無意味で無様な生き方なの……。

 

 佐倉杏子と出会ってからは、心の奥底に沈められていた思考が、毒蛇のようにその鎌首をもたげた。

 

 ――やっぱり、あのときに私は死ぬべきだったんだわ。

 

 濡れた黄金の髪をひどく重たいと感じながら、暁美ほむらの言葉を思い出す。『魔法少女となった以上、魔女となるか、その前に死ぬか――』

 巴マミの精神は衝撃を受けた硝子細工のように粉微塵に砕けていた。

 だからといって、同様に心に傷を受けている佐倉杏子をひとり残して死を選ぶのは自分勝手の謗りを免れない。しかし、彼女はそんな風に他人を思い遣る余裕さえ失っていた。

 

 

 

 

 銃声が響いた。

 佐倉杏子は、猫科の動物を思わせる反応でキッチンを飛び出す。湯煎していた鍋がキッチンに落ちてけたたましい音がするが、振り返ることもせずにバスルームへ走った。

 銃声を聞く前から、佐倉杏子には嫌な予感はあった。彼女は巴マミの精神が限界まで疲弊していることを理解していた。しかし、それと同時に佐倉杏子は信じていた。自分を置いて巴マミが安易な選択をするはずはないと。そう信じることで、嫌な予感を否定していた。

 

 バスルームのドアを開けると、タイルの床に落ちたシャワーヘッドから迸る温水が杏子の足を叩いた。

 そして、シャワーヘッドの横にうつ伏せに倒れる血塗れのマミを認めた杏子は、彼女の名を何度も呼びながら、彼女の裸体にすがる様に取りついた。

 鼓動はなかった。

 杏子はマミの身体を仰向けにすると、傷を確認する。探すまでもなく一目瞭然だった。左の豊かな乳房の付け根に刻まれた銃創。そこから、杏子のソウルジェムよりも鮮やかな紅色の血が溢れ、タイルを赤く染めている。

 杏子は治癒魔法を銃創に集中させ、心の中で何度も彼女の信じる神にマミの無事を祈った。

 

 ――お願いだよ、もうこれ以上あたしの家族を奪わないでよ……!

 

 シャワーヘッドから放たれる温水が、タイルを染めた鮮血を流しつくすまで、ひたすらに彼女は祈った。

 しかし、彼女の神がその敬虔な祈りに応えることはなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『最悪の結末だね』

 

 物言わぬマミを抱き締め、いまだに迸るシャワーの飛沫を受けている杏子に、バスルーム入り口に現れたキュゥべえが話しかけた。

 

『キミたち魔法少女の魂、本質はソウルジェムだ。心臓が破れようと死にはしない』

 

 その言葉は、マミの生存をほのめかすようにも取れる。しかし、そんな希望を杏子が抱くよりも早く、キュゥべえは言葉を連ねる。

 

『だが、死んだと思い込むことで、事実上死に至る魔法少女もまた多い。戦いで頭部や心臓が破壊された時、自らを死んだと認識したソウルジェムは、そのまま活動を止める』

 

 杏子はマミを見つめる。濡れた金髪が張り付く頬は柔らかく、閉じた瞳は眠っているようにしか見えない。既に血は洗い流され、銃創も治癒で塞がれた肌は、陶器の様につややかで生命力にあふれている。

 

『巴マミはそのケースのようだね。残念だよ、魔女になることなく死ぬなんて』

 

 瞬間、召喚された大身槍がキュゥべえの鼻先に突きつけられる。キュゥべえの話す内容も、明るい声も、そして今まで騙していたことも、全てが杏子の感情を逆撫でていた。

 

『ボクに怒りを向けるのはお門違いだ。マミは自分で自分の胸を撃って死んだんだろう? ボクだって被害者だ、勝手に死なれたら奇跡の貸し倒れだよ』

「てめぇは、もう何も喋るな」

 

 やれやれ、といった態度で首を振ると、キュゥべえは現れた時と同様に音もなくその姿を消す。

 あとに残った杏子は、シャワーの飛沫が一定のリズムで奏でる音を聞きながら、いつまでもマミの身体を抱き締めていた。

 

 

 

 その日は、明け方から激しい雨が窓を叩いていた。

 ベッドに横たわるマミの身体に覆いかぶさるような姿勢でいる杏子は、マミの乳房に顔を埋めて独りごちた。

 

「マミさん、あたし治癒魔法うまくなったでしょ。傷ひとつ残ってないよ。頑張ったんだよ」

 

 その言葉の通り、マミの身体から銃創は痕跡ひとつ残さず消えている。

 豊穣の女神を思わせる熟した乳房は、指で撫でると上質の絹のような手触りを杏子におぼえさせた。指に力を込めると、張りのある乳房は柔らかく歪み、指を包み込むようにしてくる。それは、体温と鼓動がないことを除けば、完璧な肉体だった。

 甘えるように、弄ぶように、人形のようなマミの身体にまとわりついているうちに時間は過ぎる。空腹も渇きもおぼえることなく、涙を流すことも懊悩にとらわれることもなく、杏子はいつまでもそうして蠢いていた。

 

 

 

 

 

 日暮れの頃、インターホンが鳴った。

 静寂を破って響く電子音に杏子の動きが一瞬止まるが、すぐに何もなかったかのように頬をマミの乳房に押し付ける。

 さらに間隔をあけて二度、インターホンが鳴った後に、玄関の方からかすかな声が届いた。

 

「マミさーん、杏子ちゃーん」

 

 控えめにふたりの名を呼ばわるその声は、ベッドルームに届くころにはカーペットに針を落としたような小さな音になっていた。杏子の蠢動が引き起こすシーツの衣擦れの音に容易にかき消されるような、頼りなく儚い音だった。

 

「マミさん、まどかが来てるよ、ほら、起きて。出迎えて、お茶淹れてあげて」

 

 その音を聞き取った杏子は、瞼を閉ざしたままのマミの頬を撫でると、生者に話しかけるように言葉を紡いだ。だが、そこにあるのは巴マミの肉体でしかなく、言葉を返すべき彼女の意識はそこにはなかった。

 

「いらっしゃいって笑って。召し上がれってお茶とお菓子を出して」

 

 反応を示さないマミに焦れるように、杏子が続ける。そして、返事を促すようにマミの肩を揺らし、首筋を噛む。

 数瞬の後、杏子の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。

 

「どうして何も言ってくれないの……」

 

 

 

 

 

 

「ふたりともいない……。さやかちゃんもいないし、どうしたのかな……」

 

 お気に入りのピンクの傘をさしながら、鹿目まどかは巴マミと記された表札の前で溜め息をついた。

 開放廊下様式のマンションのため、横殴りの雨が傘を叩く。その音は激しく、鹿目まどかの声も溜め息も押し流してしまうようだった。

 時間にして一〇分程度、インターホンを押し、遠慮がちに声をあげていた鹿目まどかだが、やがてがっくりと肩を落とすとその場を後にする。

 

「仁美ちゃんと上条くんに、なんて言おう……」

 

 その姿を見つめる目があった。

 ひとつは向かいのマンションの屋上に鎮座するキュゥべえ。この世の法則を逸脱したその身体は、大粒の雨を無数に受けてなお濡れることなく渇き、その血の色に染まった瞳は遠く離れた鹿目まどかの一挙手一投足を捉えていた。

 

『鹿目まどかのことは佐倉杏子の末路が決まってからでいいだろうね。今、下手に手を出して万が一にでも佐倉杏子が立ち直るようなことがあっては困る。なに、もういつでも契約は出来るだろう』

 

 そう呟くと、猫が眠るようにその場で丸くなってみせた。雨はやはり、彼を濡らすことはなかった。

 

 

 

 もうひとつは地上から見上げる暁美ほむら。病的なまでに白い肌と理想美とされる濡れ羽色の髪を大粒の雨に蹂躙されるに任せ、感情の窺い知れない昏い瞳で鹿目まどかの行いを見つめていた。

 

「巴マミ、佐倉杏子……」

 

 交わした約束を果たそうとしない巴マミと佐倉杏子への呪詛を吐くと、彼女は巴マミの部屋へ向けて歩を進めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「何故まどかに応対しないの? まどかには美樹さやかは健在と伝えると約束したはずよ。巴マミのことも同様に伝えて。まどかを不安定にさせないで」

 

 再び訪れた暁美ほむらは、巴マミの遺体にも何ら感情の動きを見せず、佐倉杏子に言葉を叩き付けた。

 開け放たれたテラスへ通じる窓から風雨が飛び込み、暁美ほむらの髪と服からしたたり落ちる水滴はベッドルームのカーペットを濡らしたが、それを気にする人間はその場にはいなかった。

 雹のような暁美ほむらの言葉を受けて、佐倉杏子は焦点の定まらない、夢を見ているような瞳をほむらに向けた。そして、しばらく無言を通したが、痺れを切らしたほむらがベッドへ近寄り杏子の頬を叩くと、ようやく口を開いた。

 

「そうすればマミさんは起きてくれる? 朝ご飯作ってくれる? 勉強みてくれる? 叱ってくれる? 笑ってくれる?」

「無理よ。死人は喋らない、笑わない、動かない。……あなたのせいではないわ。美樹さやかは魔法少女になった以上破滅しかなかった。巴マミも魔法少女の真実を知った以上こうなるしかなかった。むしろあなたを巻き込まなかっただけ僥倖と言えるわ」

 

 吐き捨てるようなほむらの言葉に、徐々に杏子の顔が歪んだ。

 

「マミさんのことも、さやかのことも、知らないくせに……」

 

 ベッドの横で片膝をつく暁美ほむらの胸を、拳で叩く。赤子が駄々をこねるような力ない殴打を、暁美ほむらは避けるでも止めるでもなく、叩かれるに任せた。

 

「確かに《今回》は知らないわ。私ひとりの火力を極大にすることに時間を費やしたのだから。でも《過去》の統計から、分かるのよ」

 

 今回の時間軸において、暁美ほむらは退院後の数日を鹿目まどかへの忠告、マミや杏子への牽制に使用した後、考えうる最大火力を求めて国外を巡っていた。日本に戻ったのは昨日のことだった。

 

「あなたは強いわ、佐倉杏子。ここから立ち直って、ワルプルギスの夜との戦いに駒を進める。そう確信しているわ」

 

 ワルプルギスの夜、という単語に、杏子の殴打が止まった。

 

『佐倉さんとふたりなら、きっとワルプルギスの夜だって倒せるわ』

 

 一年近く前にマミと交わした言葉を思い出す。杏子の脳裏にその時の情景が鮮やかに甦る。マミと約束したことだ、ふたりで戦おうと――ならば、マミ抜きで戦うなど。

 

「ぜったい、いや」

「そう、残念だわ」

 

 佐倉杏子がここまで精神的に脆いとは、とほむらは臍を噛む気持ちだった。

 暁美ほむらの知る佐倉杏子は常に精神的に非常に強い存在だった。《今回》ここまで脆いのは、巴マミの悪影響に違いない。そう断じると、ほむらはベッドに横たわるマミの裸体に汚物を見るような目で一瞥をくれた。

 

 ――あなたの弱さは罪よ、巴マミ。

 

 心の中で呪詛を投げつけると、暁美ほむらはその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

『キミは佐倉杏子を煽りに行ったのかい?』

 

 テラスから身を躍らせ、地上に下りた暁美ほむらを待っていたかのようにキュゥべえが姿を現す。

 キュゥべえにとって、暁美ほむらはイレギュラーだった。突如として現れた魔法少女、魔法少女としての能力を誰から与えられたのか、どのような能力を持っているのか、目的は何か、全てが未知の存在。彼女を包んでいるそのベールを一枚でも剥がせればと、彼は言葉を投げかけた。

 

「いいえ。立ち直らせようとしたのだけどね」

『キミはボクたち以上に感情に無頓着だね。感情のないボクたちでも、過去のデータからこう話せばこう反応するくらいは推定してるんだけどね』

「それは私も同じよ」

『そうかい。それで、佐倉杏子には袖にされたわけだが、キミの目的は果たせそうなのかい?』

「心配は無用よ。私ひとりでなんら問題はないわ」

『想定外の事態じゃないのかい?』

 

 降り注ぐ雨を仰ぎ見るように顔を上向けると、瞳だけをキュゥべえに向けて、彼女は呟いた。

 

「雨にかみあらい風にくしけずる――この程度の状況、今さらのことよ」

 

 さらに言葉を連ねるキュゥべえを無視して、暁美ほむらは夕闇の中に消える。幾百回と浴びた山茶花梅雨の水滴が彼女を打つが、もはや痛みも冷えも彼女にはもたらさなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「待ちなさい、まどか」

 

 名を呼ばわる声に、鹿目まどかはピンクの傘を傾けて振り返る。大粒の雨が大地を叩く音の中でも、それはよく通る澄んだ声だった。

 

「……ほむらちゃん?」

 

 濡れそぼった服は肌に吸いつき、水を吸った黒髪は背中にしがみつく様に張り付いていた。そんな暁美ほむらの姿に、まどかは小走りに駆けよって傘をかざす。

 

「えっと……お久しぶり?」

「そうね、少し見滝原を離れていたから」

「大丈夫? 風邪、ひいちゃわない?」

 

 心配そうに覗き込むまどかに、ほむらは素っ気なく大丈夫と応えると本題を切り出した。

 

「あと数日で大型の魔女が来るわ。巴マミ、佐倉杏子、美樹さやかも今はそのために余裕がないの」

「それでみんな連絡が取れないの……?」

 

 瞳を閉じて頷くと、ほむらのあごから水滴が落ちる。と、ほむらの額を柔らかいものが拭った。

 

「ほむらちゃん、魔法少女だから平気なんだろうけど……」

 

 まどかの清潔感のある空色のハンカチが、ほむらの額を、頬を、あごを拭う。すぐに水を吸って重くなったハンカチを、まどかは傘をさしたまま器用に絞ると続けて喉や耳を拭った。

 

「……ありがとう」

「こんなことしかできないけど……あ、そうだ、ほむらちゃんの家までこのまま送ってあげる」

「ありがとう、でも結構よ。さっきも言った通り大型の魔女が来るの。災害の形を取ってね。まどか、あなたはその災害が去るまで、決して外に出てはだめ」

「ほむらちゃんや、さやかちゃん、マミさん、杏子ちゃんが頑張ってくれるの?」

「えぇ……それが魔法少女の使命だから」

「じゃぁ、安心だね」

「えぇ、安心よ」

 

 言葉とは裏腹に不安げな表情を見せるまどかを、抱き締めて安堵させてやりたいと暁美ほむらは思った。

 しかし、雨に打たれひどく濡れそぼった自分の有様を顧みると、それはとても許されないことだと理解した。そして、自嘲の笑みを浮かべた。汚れた手で、今さら何を掴もうというのか……、と。

 自分の手は、何かを掴むためにあるのではない、ただ鹿目まどかの未来を切り開くためだけにある――暁美ほむらは、決心をあらたにしていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 夜が明けても、まだ空は涙を零し続けていた。

 天は誰のために泣いているのだろうか。巴マミか、美樹さやかか、佐倉杏子か、暁美ほむらか。それとも、間もなく訪れる災厄を予感して怯え泣いているのだろうか。

 その理由の如何を問わず、天の涙を止める存在があった。

 涙をもたらした原因を取り除くのでもなければ、涙ぐんだ心を慰撫するわけでもなく、力尽くで涙を虚空に留め置く。

 暁美ほむらの固有魔法である≪時間停止≫。

 彼女の能力によって静止した世界の中で、彼女は数日のうちに訪れる災厄への迎撃準備を整えていた。

 その絶後の能力は、累計四三二〇〇分の時間を押し留めることを可能とする。

 さらに固有魔法の常として、魔力消費は軽微だ。巴マミの当意即妙の万能性を誇るリボンも、美樹さやかの過剰なまでの治癒魔法も、その優れた能力に反して魔力消費は控えめである――そして、佐倉杏子の幻惑魔法も。

 

 

 

 

「マミさん、トーストと牛乳でいい? きちんとしたものは作れなくて……」

「うん、ありがとう、杏子ちゃん」

 

 リビングのテーブルに座るマミが、明るい声で応えた。その声を聞いて杏子は微笑むと、トーストにマーガリンとママレードを塗り、瓶入りの牛乳をコップに注ぐ。

 

「牛乳は温める?」

「ううん、そのままで」

「はーい」

 

 聞くまでもなくマミの朝食の好みは理解しているが、確認のために行った問い。それにマミは、杏子の知る通りの答えを返した。杏子の知る通りの声、杏子の知る通りの笑顔、杏子の知る通りの仕草、そこには杏子の知る巴マミの姿があった。

 淡いブルーのトーストプレートと、切り株を模したコースターに載せたグラスを二つずつテーブルに並べ、蜂蜜を容れたディスペンサーを置く。どれも駅前のデパートで、ふたりで選んだものだった。

 

「いただきます」

 

 唱和する声が響いた。杏子はトーストを口元に運ぶと、頬張る様にかぶりついた。美味しい、と自画自賛する。マミのようにフライパンで焼くような本格的なものではなくトースターで焼いたものだが、ナイフで厚切りに切ったおかげで表面は程よくでこぼこしていて食感が心地好い。

 勢いよく食べる杏子と対照的に、マミはトーストにも牛乳にも口をつけず、杏子の食べっぷりを柔和な笑みを浮かべて眺めていた。

 

 結局、杏子がトーストを平らげ牛乳を飲み干すまで、マミが食事を口にすることはなかった。

 正確には、マミは食事を口にすることはできない。

 何故なら彼女は佐倉杏子の幻惑魔法が作り出した幻影だから。美樹さやかが苛まれたような、錯乱の結果生み出され自分だけに見える幻影ではなく、魔力によって形成された万人がその存在を知覚できる幻影――ファンタズマだった。

 

「マミさん、食欲ないの?」

「そうね……せっかく作ってくれたのに、ごめんなさい」

「ううん、あたしが食べるから大丈夫だよ」

「ありがとう、でも、お腹壊さないでね?」

 

 自ら作り出した幻影とおままごとに等しい会話をすると、杏子はマミのプレートからトーストを奪い、幸せそうにかぶりつく。杏子にとって、もう現実には何ら価値がなかった――いや、杏子にとっては、こちらこそが幸せな現実だった。

 

 

 

 

 

 

 雨はあがり、月が出ていた。

 長雨で傷んだ大地を癒すように、燐光のような月光と星の光が降り注ぐ。

 だが、それらの光もこの部屋に届くことはなかったし、この部屋を癒すことはなかった。

 光を吸収するような瘴気が、癒しを拒むような瘴気が、部屋を包んでいたからだ。

 その部屋の中で、佐倉杏子は眠気を堪えるようなとろんとした目でマミを見つめていた。

 

「眠いの?」

 

 マミは猫を撫でるような声で問う。その顔は、今日一日絶えず微笑みが張り付いていて、まるで他の表情を失くしてしまったかのようだった。それも道理ではあった、幻影を操る佐倉杏子は、巴マミの微笑み以外の顔――悲しむ顔も苦しむ顔も、思い出したくなかったのだから。

 

「……うん」

「じゃぁ、ベッドに行かないと。立てる?」

 

 力なく頷いた杏子は、マミに促されるままに寝室へ歩く。

 照明の灯されていない寝室は、白い闇のような世界を築いていた。その薄闇の中にうっすらと浮かび上がるベッドに吸い込まれるように杏子は近づき、そこにあるものと閨を共にした。

 

 

 

 

 明け方から再び降り始めた豪雨が硝子を叩く音も、時ならぬ強風が窓を揺らす音も、ふたりだけの世界にいる杏子の耳には届かなかった。

 だから、杏子が目覚めたのは外界からの刺激によるものではなく、眠ることに倦んでのことだったのだろう。

 

「おはよう、杏子ちゃん」

 

 艶のある甘えかかるような声で、杏子の目覚めをマミが迎えた。

 

「おはよう、マミさん。……もうこんな時間。起こしてくれればいいのに」

「ごめんね、とっても気持ちよさそうな寝顔だったから」

 

 微笑んで応えるのはマミの幻影だ。幻影は操り手である杏子の意思がないと何も出来ない。つまり、杏子が眠っている間に幻影が何かを自発的にすることはありえない。幻影のマミに起こせといっても、それは無理難題だ。

 だが杏子にはすでにその道理は理解できていなかった。そもそも、幻影であることを認めておらず、本物のマミと信じ込もうとしていた。

 

「でも、なんだかまだ眠いや……」

 

 倦むほどに寝た杏子が感じるそれは眠気ではなく、この世界を倦み現実逃避しているが故の気怠さであったが、どちらであっても彼女にとっては大差なかった。

 

「あらあら。熱でもあるのかしら? 二度寝しちゃう?」

「そうしていい?」

「もちろん。疲れたときは休んでいいのよ」

 

 冷たくなったマミの身体に抱きつくと、杏子は鼻を鳴らして甘えた。

 

「無理しないで、ゆっくり休みましょう、杏子ちゃん」

 

 ――そうだよ、あたしは一年以上街を守って戦い続けてきたんだ。マミさんに至ってはそれよりも半年以上長く。もう充分だろ? どうせあたしにもマミさんにも、守るべき肉親もいないんだ。ゆっくり休ませてもらったっていいだろ?

 

 眠るように、杏子の意識の光が途絶えた。そしてそれに従い、幻影のマミもその姿を散らした。

 冷たくなったマミの枕元に置かれたソウルジェムは、本来のオレンジイエローの輝きを失い暗黒色に染まり、その横に並べられたソウルジェムは、本来の真紅の輝きを失い烏羽色へと堕ちていた。



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第一八話 マミさん、幼女と戯れる

 巴マミは夢を見ていた。

 きっと夢だろうと、巴マミ自身は思っていた。

 見覚えのない砂浜に、もういないはずの両親とビーチパラソルの下でくつろぐ自分。

 すぐ隣のビーチパラソルには、これももういないはずの、佐倉杏子の両親と妹。日に焼けた砂浜に他に人影はなく、広がる青い海にも何者もいない。

 

 マミは自らの格好を把握する。ホルターネックタイプの黒のビキニトップス。下半身は黒のビキニショーツの上から、黒を基調に黄色の縦ラインが入ったトレンカ。それと淡い黄色のパーカータイプのラッシュガードを上に羽織っている。

 ちょうど一昨年の夏に家族で海に来たときの水着だ。髪もその時と同じく、ストレートに下ろされている。

 ビキニは上下ともに飾り布のないシンプルなもの。一昨年時点で年齢不相応に育った乳房をできるだけ目立たないように、という意図で選んだ水着だったが、結果的にはそのシンプルさが彼女の魅力を引き出す形になっていた。

 

 マミのすぐ横で、面識のないはずのマミの両親と杏子の両親が歓談している。

 途切れ途切れに聞こえてくる話の内容が、自分を肴にしているものだと理解したマミは、居心地の悪さを感じてパラソルの下を抜け出た。大人の会話が理解できず退屈していたであろうモモが、その後を追う。

 

「マミおねえちゃーん」

 

 とてとて、と危なっかしい足取りで駆けてくるのはワンピースの水着を着たモモだ。振り返ったマミはモモの姿を認めると足を止めて彼女を待った。

 

「おーいつーいたっ」

 

 倒れ込むように飛びついてくるモモを両腕で受け止めると、自分の目線の高さまでモモの身体を持ち上げて顔を綻ばせた。

 

「追いつかれちゃったー」

「おねえちゃん、あそんでー」

「うん、遊ぼっかー」

 

 屈託のないモモの態度と笑顔が心地好く、マミは心の中を涼風が吹き抜けていくような感覚をおぼえていた。知らず、選ぶ言葉や語尾がモモに引っ張られて幼くなる。

 

「なにして遊ぶー?」

 

 マミの問いかけにモモは「んーと」とたっぷり一分は繰り返した後「おえかき!」と宣言した。

 

「おえかきとゆーとー」

 

 モモを抱きかかえたまま波打ち際へ向かったマミは、折よく打ち上げられていた手頃な枯れ枝を拾い上げる。そして鼻歌まじりに枯れ枝を適当な長さに手折ってモモに持たせた。

 マミの腕の中から飛び降りるようにして砂浜に立ったモモは、濡れた砂をキャンパスに色々な作品をマミに披露した。

 

「これはねー、ねこさんー…………これは、ちょうちょー」

「次は私が当ててみちゃうわね。これは……おくるま?」

「ぶぶー、しょうぼうしゃー」

「あら、間違えちゃったー」

「あとね、これはあいあいがさー」

「わ、モモちゃんそんなの知ってるんだ。すごいねー」

 

 てっぺんにハートを頂いた傘の下に、たどたどしい字でモモとマミの名が刻まれる。きっとそれくらいしか書ける名前がなかったんだろうなと納得しつつ、それでも少し声を弾ませるマミ。

 

「あらあら、モモちゃんは私のお嫁さんになってくれるの?」

「ちがうよー。マミおねえちゃんがモモのおよめさんになるのー」

「そうなんだー。もらってくれる人がいるなんて、嬉しいなー」

 

 顔を見合わせて笑っていると、午後になって満ちてきた波が相合傘を少し欠けさせる。白い泡を生んでは消しながら、幾たびも波が押し寄せて、少しずつ傘を欠けさせてゆく。

 

「波、きれいねー」

「うん!」

「次はなにしよー?」

 

 マミの問いかけにモモは「んーと」と相合傘が完全に消えるまで繰り返した後「すいかわりー!」と宣言した。

 

 

 

 都合よく用意されていた西瓜を砂浜に置き、これも都合よく用意されていた木の棒をマミは両手に持った。そして黄色のリボンを生み出すと、瞳を覆うように顔に巻いて目隠しとした。

 

「じゃぁモモちゃん、案内よろしくねー」

「はーい」

 

 モモの舌足らずな誘導に従ってマミが砂浜をゆっくりと歩くと、砂がきゅ、きゅと小動物の鳴き声のような音をさせた。時折爽やかな風が吹き、マミの黄金の髪を持ち上げては散らす。

 心地好い、とマミは思った。目隠しで少し暑苦しく感じるが、この風が滲みかけた汗をひっこめてくれる。

 

「えい!」

「はずれー。ばつげーむ、じゅっかいぐるぐるー」

「えー、五回じゃだめ?」

「だめー」

 

 その場で回転することで、それまでの位置情報をリセットするのかな、と西瓜割りの経験のないマミは想像する。そして、小さく溜め息をつくと「わかりました」と応える。

 諦めたマミがフィギュアスケートのスピンのようにその場で旋回をして見せると、モモは手を叩いて喜んだ。

 このスピンが見たいからというわけではないのだろうが、実に十回以上モモの誘導は失敗し、その度にマミは砂上でスピンを披露した。

 

「モモちゃん、まじめに誘導してくれてるー?」

「してるよー」

「ほんとかなー?」

「ほんとー」

 

 その言葉が嘘でないことを証明するかのように――または指摘されたのでようやく真面目に誘導したのかもしれないが、次のマミの一撃は見事に西瓜を捉えた。ずしりとした鈍い手触りと、ぱかんといった間の抜けた音が、西瓜が割れたことをマミに伝える。

 

「あったりー」

「ふふ、ようやくね」

 

 熱気のせいというよりはスピンを何度も行ったために噴き出した汗を手の甲で拭い、次いでリボンの目隠しをほどく。

 

 

 

 目を開いたマミが見たのは、頭部を砕かれて横たわる女性たち――かつて倒した魔女の特徴を色濃く見せる少女たち――だった。

 まるで、リボンの目隠しが視覚のみならず嗅覚、聴覚まで遮断していたかのように、鉄くさい血の臭い、彼女らが漏らす怨嗟の呻きが、突然にマミに届いた。

 一瞬マミの思考が麻痺する。

 しかし、明晰な彼女の頭脳は、次の瞬間には事実を把握してしまう。

 

 ――そうだ、この光景は私の生きてきた道そのものなんだ。

 

 街のみんなを守る、悪い魔女を倒す、そんな聞こえのいいお題目で目隠しをして、魔法少女がなんなのか、魔女がなんなのか、知ろうともしないで目と耳を閉ざして。その結果、善意をかさに人を殺めて、その屍の上で……。

 

「おねえちゃん!」

 

 モモの呼ぶ声で、マミはその幻視から解放された。胃液を逆流させる嫌な臭いも、神経を鷲掴みにするような呪いの声も、瞬時に消え去った。それらが消え去ったからといって、マミの心が晴れやかになるわけではないが――

 

「おねえちゃん、どうしたのー?」

 

 モモの明るい声が、マミの心を軽くする。マミは一度頭を振って幻を追い出すと、顔を綻ばせて応えた。

 

「なんでもないよー」

 

 

 

 

 

 

 パラソルに戻り、いびつに砕けた西瓜を綺麗に切り分けると、ふたりは西瓜を手に並んで座った。

 

「モモちゃん、種はここね」

「はーい」

 

 マミが差し出したタッパに、モモは器用に種だけを吐き出す。そして、種をスプーンで取り除いているマミを不思議そうに見て、どうして口からペペって出さないのかと問いかける。

 

「んー、私、それへたっぴーだから」

 

 適当な言い訳で納得するモモをよそにスプーンで果肉をえぐるマミだったが、丸くえぐられた部分にたまった果汁に先ほどの血を連想し、口元を抑えた。甘く水っぽいはずの西瓜の香りが、嫌な鉄の臭いのように感じられる。

 マミの口から嗚咽が漏れ、瞳から涙が溢れた。

 

「どうしたのー?」

 

 心配そうに覗き込むモモの顔が視界いっぱいに広がり、マミを現実に引き戻した。西瓜とモモの甘い香りが鼻腔をくすぐるのを実感すると、マミは目尻を拭いモモの頭を撫でた。

 

「なんでもないの」

「ないちゃダメなんだよ。しあわせがにげてくって、杏子いってたもん」

「そか、そうだよね」

 

 頷きながら、マミは自問していた。逃げていくような幸せが、魔法少女になってからの私にあるんだろうか、と。

 

 ――ううん、ある。いま目の前に。杏子ちゃんやモモちゃんと逢えたのは、とっても幸せなことだわ。

 

 マミは、もう一度モモの頭を撫でると、西瓜の果実を口に含んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「モモねー、あそこいきたいー」

 

 西瓜を平らげてげっぷを漏らしたモモが指差したのは、沖合いに見えるテニスの審判席のような監視塔だった。

 波打ち際から二〇メートルほどだろうか、マミで足が届くか微妙なところだろう。

 

「危ないから、浮き輪してならいいよー」

「うん、するー」

 

 マミはいつの間にか持っていた幼児用の腕輪型浮き輪を両手に持つと、すぼめた唇を空気孔にあてがう。そして瞳を伏せると、音を漏らすこともなく息を吹き込んだ。

 マミの形のいい乳房が上下する度に、浮き輪は膨らんでいく。充分に膨らませた後に手触りで張りを確認すると、マミはモモの両腕に浮き輪を通した。派手な赤色にキャラクターのイラストが入ったもので、モモはキャラクターの名前を連呼して喜ぶ。

 

「モモちゃんは泳ぎは得意?」

「とくいー」

「おー、すごいねー」

 

 マミもパーカーとトレンカを脱ぎ捨てて黒のビキニだけの姿になると、準備体操よろしく大きく伸びをする。

 

「じゃぁ、手をつないで行きましょうかー」

「はーい」

 

 足の届くマミが沖を背にして後ろ向きに歩き、モモを片手でエスコートをする。そうしているだけで、七割程度の距離まで至った。

 できるだけ波を抑えるように、マミは片腕を横に広げて背と腕を堤のようにするが、やはり充分ではなく、時折波がモモの顔を洗う。だがモモは水に慣れているのか、顔に波を受けても平然とし、うまく息を止めて水を飲まないようにしているようだった。

 マミが誉める言葉を口にすると、嬉しそうに笑顔を作ってみせる。

 そのうちに足が届かなくなると、マミは少し身体を後ろに傾けた姿勢で立ち泳ぎに切り替える。水面から隆起するように浮かぶ乳房に、モモは興味を持ったのか、水を手ですくってかける。その飛沫が顔にかかるのも構わず、マミは微笑みを浮かべてモモを眺めていた。

 

 

 

 

 

「とうちゃーく。登れるかな?」

 

 スライダー部分のない滑り台といった構造の監視塔に取りつくと、マミは足を水面下の鉄パイプに乗せて一息をついた。波を受けるパイプの錆び具合から、もう数センチ水位は上がるのだと類推できる。

 水面から高さ二メートル程度にあるシートまで、スチール製のはしごで登る形になっている。監視塔の役割上、使用者は大人を想定しており、一段一段の段差は大きめだ。

 難しければ背負って登ろうかとマミが提案すると、モモは喜んでマミの背中にしがみついた。

 

「ぎゅーってしてねー」

「はーい」

 

 口でぎゅーっと言いながら、モモが短い四肢をマミの身体に絡ませる。言葉の割に力が弱いことに苦笑すると、マミは片手をモモの抑えに回してはしごをゆっくりと登った。

 一段登るごとに、マミの黄金色の髪や白魚のような指先、黒のショーツの横結びの紐から水滴が落ちては水面に波紋を作る。

 生まれた波紋は円状に広がり、魔方陣のような模様を描くと波に打ち消されていく。

 七度、魔方陣が波に飲み込まれた後に、ふたりは監視塔のてっぺんまで辿り着いた。座席は大人の男性が余裕を持って座れるサイズのものであり、マミとモモは並んで腰をおろす。

 

 

 遠くに見える島や船を指差して、あれは何々と自慢気味に説明するモモの言葉に、マミはその都度大きく頷いて感心する。

 指差し確認をひとしきり行うと満足したのか、モモはマミに身体を預けるようにして、うとうとと船を漕ぎ始めた。

 マミは少し身体を開いてモモを抱く様にし、背中を鉄パイプに預けて自らも瞼を閉じる。

 暖かい陽光に、濡れた肌を優しく撫でる風、子守唄の様に一定のリズムで音を刻む波、どれもがマミを穏やかな気持ちにさせた。

 そしていつの間にか、マミもまどろむように浅い眠りへ誘われていった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 まどろみの中で甘い夢を見ていたマミは、モモの悲鳴で現実に引き戻された。

 気付くと、隣にいるはずのモモの姿がない。監視塔のシートから腰を浮かし周囲を伺うと、少し離れたところに、モモがしていた赤い浮き輪が波間に漂っているのが見えた。

 

「モモちゃん!」

 

 声に出して呼ぶと、マミの脳裏に再びモモの助けを呼ぶ声が届いた。

 次の瞬間、マミは身体を監視塔から躍らせる。舞った身体はきれいな伸びの姿勢で着水し、水面に飛沫をあげた。

 深い。

 先ほどはせいぜい水深二メートルといったところだったが、今は底が見えない。

 マミは浮き輪が浮いていた方向を目指して潜水しつつ、周囲に目を走らせる。

 

 ――いた!

 

 遥か下方に、助けを求めるように手を伸ばすモモの姿を認めたマミは、揃えた脚を一枚のヒレのようにしならせて水を蹴る。ひと蹴りごとに彼女の身体は勢いを増し、モモとの距離を詰めた。豪奢な黄金色の髪を広げ、肉感的な身体をさらして水中を駆けるその姿は、さながら神話に語られるセイレーンのようだ。

 

「マミおねえちゃん、たすけて!」

 

 はっきりした声がマミの脳裏に響いた。

 マミが手を伸ばすと、モモはそれをしっかりと掴み返す。その柔らかな手応えにマミの心が一瞬弛緩するが、すぐに引き締めなおす。

 

 ――まだ気を抜いちゃだめ、ここから水面までモモちゃんを連れて行ってあげないと!

 

 幼い少女を片手に、マミは浮上すべく水を蹴る。

 ひと蹴り、ひと蹴りと加速する。その度に、モモの声に怯えの色が濃くなり、やがて絶叫のようになる。

 

「たすけて! たすけて!」

 

 大丈夫、と表情で伝えるべく振り返ったマミは、視界に映るものに息を飲んだ。

 モモを掴む≪枯れ枝のようなしわがれた腕≫、水に広がる≪色も脂気も失った屑糸のような髪≫、自らの身体を包む≪古ぼけた灰色の長衣≫、これではまるで――

 刹那、雷が落ちたかのような衝撃とともに、マミの認識する上下が反転する。すなわち、モモを深部へと引きずり込むように泳いでいることを彼女は認識する。

 これではまるで――

 

 ――魔女が獲物を引き込んでるみたいじゃない……。

 

 マミが、至った思考に絶望するよりも早く、声が轟いた。

 

「モモ!」

 

 つんざくような声だ。マミは声の主を視界の端に認めた。

 

 ――あぁ、杏子ちゃん来てくれたんだ。良かった、これでモモちゃんは大丈夫ね。

 

 満足げに笑うと、マミはモモの手を離した。そして、感謝の言葉を紡ぎ、海底まで沈み散るべく全身の力を抜いた。

 

 ――モモちゃん、最後に遊んでくれてありがとうね。

 

「マミさんも! しっかりしてよ!」

 

 沈んでいこうとするマミの手を杏子が乱暴に掴む。そして、マミとモモのふたりを引っ張ったまま、水面まで浮上した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 モモを監視塔のシートに座らせると、マミと杏子ははしご状のパイプのうち、波が来るたびに見え隠れする位置にあるものを選んで腰をかけた。

 水に濡れたため、マミの黄金色の髪も、杏子の茜色の髪も、背中に張り付く様に広がっている。

 マミは髪を一束、手に取って確かめる。そこには見慣れた艶のある黄金色の髪が陽光を受けて煌めいていた。支え持つ手も柔らかく瑞々しい。

 だが、先ほどマミが見た自分の姿は、確かに違っていた。

 

「私、魔女になってモモちゃんを……」

 

 ぽつり、と漏らした言葉に、杏子が怪訝な顔を見せる。

 

「杏子ちゃんからは、そう見えなかったの……?」

「そんな色っぽい水着着た魔女なんていねーよ」

「あら」

 

 指摘され、思わず両腕で胸を隠す。黒でシンプルなラインの水着は、巨乳を目立たせないってファッション誌で読んだんだけど、おかしいなとマミは首を傾げるが、それよりも問題なのは。

 

「杏子ちゃん、喋り方が乱暴よ」

 

 杏子をひるませて主導権を奪ったマミは、まじまじと杏子を見つめると破顔した。

 

「そういう杏子ちゃんは、ずいぶん派手な格好ね」

「笑わないでよ……。気が付いたらこんなだったんだから」

 

 苦笑しながら両手を広げ、衣裳を見せびらかすようにしてみせる杏子。赤やオレンジの飾り布をふんだんに散りばめた派手なワンピースに、頭には雉の尾羽根を二本ばかり触覚の様に伸ばした頭巾を載せている。背中には扇子程度の大きさの三角旗が四本、翼の様にたなびいていた。

 

「魔法少女としては、ちょっと動きにくそうね」

「やめてよ、こんなので戦うなんて嫌すぎるよ」

「いいじゃない、漫画によくある強化フォームみたいで」

「ないから。絶対ないから」

 

 いつまでも笑うことをやめないマミに焦れて、杏子は海水を掌ですくってマミに浴びせると、真剣な表情をみせた。

 

「マミさん、銃で胸を撃って……おぼえてる?」

 

 その言葉に、マミは笑みを消し沈痛な面持ちを見せて首肯する。

 

「マミさん! あたしを置いていかないでよ! あたしにはもうマミさんしかいないんだよ!」

「こら杏子ー! マミおねえちゃんをいじめちゃだめー!」

 

 声を荒げた杏子に、上の座席に座るモモが浮き輪を投げつけた。投げられた浮き輪は、屋台の輪投げよろしく杏子の頭の羽根飾りにはまり込む。

 

「違うのよモモちゃん。私が杏子ちゃんをいじめてたの……」

「そうなの?」

「ええ。だから、少し杏子ちゃんとふたりでお話させてね」

「うん、わかったー」

 

 見上げて寂しげな表情で伝えるマミに、モモは納得したのか、興味をなくした様子で視線を空に向けると、座席から投げ出した足を揺すって遊び始めた。それを見届けると、マミは居住まいを正して杏子に向き直し、頭を下げた。

 

「杏子ちゃん、勝手なことをして本当にごめんなさい。私、耐えられなかったの。自分がこの先魔女になって人を不幸にすることも、今まで魔女と思って倒してきたのが、私達と同じ魔法少女だったことも」

「うん……」

「私のしたことは悪いことだと思う。自分勝手に逃げただけだと思う。でも、他にどうすればいいか分からないの」

 

 マミの思考は袋小路に捕らわれていた。

 そもそも彼女は自らを罪深い存在と考えていた。

 父母を助けずに己の救命のみを祈ったこと。己の無力さから魔女の犠牲者を生み出してしまったこと。そんな罪深い自分の存在理由、存在意義として、技量を磨き魔女や使い魔を殲滅し、犠牲者を減らすことを掲げていた。

 だが、その行為そのものが元魔法少女の殺戮に他ならず、さらには自分の末路は魔女となり人に害を成すとなると、存在理由そのものが間違いではないのか。

 彼女にはそれ以外の結論は見えなかった。

 

「マミさん、マミさんが言ってるのは、人はいつか死ぬ、だから自殺しようって言ってるようなもんだよ。いつかは魔女になるかもしれない、だからって今全てを捨ててどうするの? 魔法少女としてのマミさんは、今までに何人の命を救った? 何人に希望を運んだ? これからどれだけの命を救う? 希望を運ぶ? それを捨てて逃げるの?」

「私は……両親を見殺しにした罪から逃げたくて正義の味方の振りをしていただけよ。誰ひとり救えてなんていないわ」

 

 マミのそれは正しく視野狭窄であり、本来ならは別の角度から光を照らし蒙を啓くことが求められるのであろうが、杏子はそうしなかった。ただ、激しい光をぶつけた。

 

「ふざけんなよおい……! あんた、いつも自分のこと後回しにして、他人のために戦ってたじゃないか! 振りでもなんでも、あんたは正真正銘正義の味方だよ! 今までも! これからも! ……それに、あんたが誰ひとり救えてないなんてウソだね。少なくともあたしは救われたよ、マミさんに!」

 

 大声で叩き付けるように言葉を紡ぐ杏子の様子に、モモが上から視線を向けるが、今回はちゃちゃを入れることはせずにじっとふたりを見つめた。

 

「でも、私は今までたくさんの魔女を倒してきたわ……それは、魔法少女を殺してきたのと……」

「マミさん……もしも、もしもだよ。マミさんが魔女になったとしたら、どうしたい? ずっと犠牲者を生み続けたい?」

「そんなわけない。犠牲者が出ないうちに、早く殺して欲しいわ」

「あたしだってそう思う。だったらさ、マミさんがしてきたことは、魔法少女を殺すことじゃなくて、魔女になってしまった魔法少女を救うことなんじゃないのかな」

「……でも、命を断っているのは同じよ。詭弁に聞こえるわ」

「詭弁でもいいだろ! マミさん、あんたは私の家族なんだ! 理屈や道理はどうでもいい、死なないでくれよ!」

 

 感情を爆発させた杏子の双眸から涙が溢れていた。それは海面に落ち、小さな波紋を次々と生じさせる。やや遅れて、少し離れた場所にも同じような波紋が生じる。

 

「わかった……ごめんね。……でも、怖い。いつ魔女になるのかと思うと、私怖いの。だったらいっそ」

「マミさん、昔の聖職者の言葉にこんなのがあるんだ。『たとえ明日世界がなくなるとしても、今日林檎の木を植えよう』って。あたし達がいつか魔女になるんだとしても、それまでは精一杯みんなを守って生きていくべきなんじゃないかな」

「うん、わかる。でも怖いの……いつか、なにも分からなくなって、人を犠牲にして。そんなの嫌。そんなの嫌なの……」

 

 自らが口にした未来を想像したのか、マミの身体が悪寒に苛まれるように震える。杏子の言葉は正論であろうが……いや、正論だからこそ誰でも受け容れられるわけではない。

 正しくあろうとするマミと、恐怖に怯え逃げ出したいマミとでは、後者の方に天秤が傾いていた。

 杏子は、マミの肩を掴むと自分の方へ引き寄せた。そして彼女の身体の震えを抑えるように、両手で肩を抱いた。久方ぶりにマミの鼓動を肌越しに感じて、杏子は安堵の息をつく。そして、表情を引き締めた。

 

「約束する。もしそうなったら、必ずあたしが止める」

「そんな……そんなことになったら杏子ちゃん、ひとりきりになった上に、私を殺したっていうことまで背負って。今ひとりになるよりももっと、もっと辛いのよ」

「分かってるつもりだよ。でも、今マミさんを失うのは絶対にいやだよ」

 

 杏子の腕に抱かれたマミは、身体を強く押し付けると、小さな声でありがとうと呟いた。

 納得したわけではなかった。内罰と視野狭窄による自己犠牲への逃避は彼女の習い性となっていて、今さら容易に払拭できるものではない。それでも、マミは自分の我儘で杏子を悲しませることだけはやめようと強く想った。

 

「おはなし、おわったー?」

 

 ややあって上からかけられたモモの声に、マミと杏子の背が驚きで反った。それは逢瀬を見咎められた初心な男女のような反応だった。先に落ち着いたマミが、朱の差した頬を上向けて「うん、おわったよー」と応える。

 

「なかなおり、できたー?」

「うん、だいじょうぶ」

「ていうか仲直りもなにも、ケンカなんかしてないよ、モモ」

「よかったー、じゃぁモモはもういくね」

 

 んしょ、と座席で立ち上がると、モモは無造作に監視塔から飛び降りる。見ていたマミと杏子が慌てて受け止めようとするが、ふたりの手が僅かに届かない高さで、モモの身体は宙に止まる。

 

「杏子もマミおねえちゃんも、モモのぶんまでしあわせになってね」

 

 邪気のない笑顔を見せると、モモはハチドリが滞空するように、ゆっくりとふたりに近づいてくる。そしてふたりの額に手をかざす。すると、マミは全身の中にある老廃物のような不要な何かが、額に集まって熱を放つのを感じた。杏子も同様だ。

 

「いらないの、もらっていくね」

 

 そして、マミは額に集まっていた熱いものが、すっと抜けていくように感じた。冬の寒い日に湯船に浸かるような心地好さだ。

 同時刻、現実のふたりの枕元にあるソウルジェムに変化が生じていた。

 ひとつは春の柔らかな日差しを思わせる暖かなオレンジイエローの輝きを、ひとつは魔物を焼き尽くす炎を思わせる峻烈なルビーレッドの輝きを。それぞれのソウルジェムが本来持っていた色を取り戻し、誇示するようにらんらんと光を放ち、ふたりの寝顔を照らした。

 

「マミおねえちゃん、杏子と、ずっとなかよくしてあげてね」

 

 モモはマミにだけ聞こえるように囁くと、大きな声で「ばいばーい」と伝える。ふたりが返事をするより早く、モモの身体は幻の様に透けて消えていった。

 モモの消えたところをふたりは数分の間、金縛りにあったように見つめ続けていた。やがて、その金縛りを解くかのように杏子が呵呵として笑った。

 

「あいつ、マミさんのこと本当に好きだったから、心配で来てくれたのかもね」

 

 その言葉を、マミは頭を振って否定した。確信のようなものが、マミの中にはあった。

 

「いいえ、杏子ちゃんのことが心配だったのよ」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 明け方から続いていた激しい風雨は、その魔女の到来を讃える前奏曲。

 時折天に閃き轟音を運ぶ雷光は、その魔女の到来を讃える招詩。

 堰を切る勢いで荒れ狂う濁流は、その魔女の到来を讃える頌栄。

 やがて、雲間からその魔女は姿を現した。

 見滝原市郊外の工業団地の空を割って、ワルプルギスの夜と呼ばれる魔女は現れた。

 大劇場がそのまま載せれるほどの巨大な歯車が空高く浮遊する。

 その歯車を基部に、そこから頭蓋を持たない人型の魔女が逆さまに吊り下げられている。

 紫色のドレスをまとった魔女は基部の大きさに相応しい巨躯だ。

 

 それを待ち受けるように、工業団地と市街地を分ける川のほとりで、黒髪の少女は立ち尽くしていた。

 魔女を遠くに見つめる黒髪の少女は、整った眉に、見開いた瞳に、固く結んだ唇に、決意の色を浮かべている。

 彼女は風に乱れる黒髪をそのままに、ゆっくりと右の手を左腕に備えた盾にあてがう、その時だ。

 

「あれがワルプルギスの夜ね、暁美さん」

 

 背後からかけられた声に、暁美ほむらは上半身を開いて視線を後方へ向けた。そして、その先にふたりの魔法少女を認めて息を飲んだ。

 

「巴マミ、佐倉杏子……」

「なんだよ、そんな驚いて。ワルプルギスの夜が来てるのに、あたしとマミさんが戦わないわけないだろ」

「意外だわ。あなたたちが真実を知って平気でいられるなんて」

 

 大身槍に身体を預けて不敵な笑みを浮かべる杏子に、ほむらは唇だけを動かして伝える。その言葉には、マミが応えた。

 

「平気……じゃないわよ。私ひとりなら折れちゃってた。杏子ちゃんが支えてくれたおかげよ」

「そう。興味深い事実ね」

 

 全く興味を引かれた様子もなく応える。そして、それ以上の問答は無用と判断したのか、開いていた身体を戻し、前を向く。

 

「暁美さん、この戦いは協力してもらえると思っていいのかしら」

「結果的にはそうなるかもね。ただ、私の計算どおりに事が進めば、あなたたちの出番はないわ」

 

 独力で倒す、前を向いたままそう応え、再び右の掌を盾に重ねる。

 カチリ、と歯車の音がして、時が止まる。

 暁美ほむらの戦いが始まった。



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第一九話 マミさん、ワルプルギスの夜を迎える

 ――この大嵐が、ほむらちゃんの言っていた災害……大型の魔女なのかな……。

 

 ブルーシートに座った鹿目まどかは不安げな表情を浮かべた。

 朝方に発令された避難指示に従い、家族で近隣の体育館へ避難したのは小一時間前。

 キャンプ気分の弟はもとより、尋常の災害と捉えている両親に比べても、鹿目まどかの心は遥かに乱れていた。

 鋼線入りの頑丈な窓が強風に震える。閉じられた両開きの入り口が、何者かがこじ開けようと暴れているかのように振動する。それらの様子に、避難所そのものが大きな悪意に責め苛まれているように思えて、まどかは怖気を感じた。

 

 ――さやかちゃん、マミさん、杏子ちゃん、ほむらちゃん……。

 

 戦いに向かったと信じる魔法少女たちの無事を祈り、両の手を胸の前で組み合わせた。

 祈る対象としての明確な神を持たない彼女は、心の中にある漠然とした神のイメージに魔法少女たちの無事を祈る。その態度は、厳粛にして真摯。世界宗教の信徒が朝な夕なに行う礼拝と比較しても見劣りはしないものだった。

 その祈りが、中断された。

 

 いや、彼女の意識としては中断されていない。その祈りの半ばで時が止まり、ひとりの少女のためだけの時間が現出したに過ぎないのだから。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 暁美ほむらは、≪今回≫の持ち時間のみならず≪過去≫の持ち時間をも調査に費やして得たデータから、考えうる限りの火力増強を行ってワルプルギスの夜に備えていた。

 時間停止の魔法を行使した暁美ほむらは、その最大火力を叩き込むべく行動を開始する。≪過去≫に鹿目まどか、巴マミと協力して、相討ち気味にワルプルギスの夜を倒した経験を基に組み立てた殲滅プログラムに従って。

 

 

 滑腔式の無反動砲を自らの周囲に乱立させる。数にして一〇〇近い。それを矢継ぎ早に肩に構え、照準して放つ。

 ≪過去≫のワルプルギス戦において、初手として巴マミが行ったマスケットによる連続射撃を想定したものだ。

 時間を停止させたまま、対戦車用の擲弾発射器を三〇ほど準備し、次々と発射する。

 先の無反動砲に比べれば威力も弾速も劣るものだが、巴マミの援護として鹿目まどかが行う魔弓での通常攻撃を想定している。

 かつての経験では、この初手で魔女の外装に相応の痛撃を与えていたのだが――

 

 

 数秒だけ、世界は時を刻むことを許された。

 時間停止中に撃ちだされた無数の砲弾が、無数の後方噴射を生み出して軌道を描き、魔女の側面に次々と着弾する。

 だが、魔女の外装に目立った変化はない。

 砲弾は炸裂し、魔女の外装に衝撃と高熱を与えているのだが、そこにはヒビもキズも、窪みさえも生み出されはしない。

 数センチの戦車装甲を貫くことは、暁美ほむらの放った炸薬弾には容易なことだ。翻って、マミのマスケットには容易なことではないだろう。

 しかし、そのパワーバランスとは真逆の結果が目の前に現れていた。魔女の外装に与える被害は、明らかに≪今回≫の炸裂弾よりも≪過去≫におけるマスケットの方が大きいのだ。

 やはり、と暁美ほむらは考える。しかし、だからといって彼女の行うべきことが変わるわけではない。

 

 

 

 

 再び時が堰き止められる。

 側面への集中的な被弾により、体勢を崩しつつある魔女を暁美ほむらは視界に捉えた。

 

 彼女の殲滅プログラムを実行するには、魔女の浮遊高度が高い。魔女の体を引きずり下ろしつつ、工業団地と市街地をつなぐ大橋の傍へ追い込む必要があった。

 ほむらは魔女を見上げる――そして、魔女を引きずり下ろすために必要な衝撃、当てるべき個所と角度を目算する。

 下向きの衝撃を加えるべく、撃ち下ろしの迫撃砲を数多に並べ、手にした照準計算盤を用いて筆算を行う。魔女の座標、此方の座標、風位風速の情報から、有翼弾を命中させるべき場所――魔女の左側面上部に着弾させるための、正しい砲身の位置、角度が割り出される。

 

 一定の間隔をおいて次々と――時間停止の影響下にあるので、現実世界では同時射撃だが――迫撃砲弾が打ち上げられた。

 ≪過去≫のワルプルギス戦において、魔女の機動力を奪う効果をあげた巴マミの≪無限の魔弾≫を想定した攻撃だ。

 

 

 

 

 滞空していた雨粒が再び大地を叩き始める。

 舞い上がった砲弾は、頂点に達すると山なりに落下軌道を描く。

 暁美ほむらの計算に間違いはなかった。砲弾は狙い過たず、魔女の左側面上部に集中、滝を思わせる激しさで着弾すると次々に炸裂音と閃熱を轟かせた。

 魔女が哄笑する。

 それは『痛い』という悲鳴か、『ぬるい』という揶揄か。

 魔女の巨体がその哄笑を続けながら、着弾の衝撃に圧されて左下方に流れていく。大橋の付近まで魔女が達した時、その高度は既にビルに並ぶほどに低下していた。

 その様に満足気に頷くと、暁美ほむらは手元の起爆スイッチを操作した。

 

 

 大橋の付近に屹立する巨大送電塔の基部に仕掛けられた爆薬が、スイッチの指示に従って爆発する。倒壊方向を計算して設置された爆薬は、その狙い通りの方向へ送電塔を傾けさせていった。

 傾き、倒れていく送電塔はそれ自体がひとつの大きな破城槌となる。

 破城槌は自重を活かした重い一撃をワルプルギスの夜に与え、魔女の巨体を地の高さへと引きずり下ろす。

 さらに送電塔に繋がれていた無数の送電線はその動作で引きちぎられ、電流をスパークさせたままワルプルギスの夜の身体にまとわりついた。送電線は魔女の体躯の至るところに絡みつき、電磁鞭となって魔女を拘束する。

 ≪過去≫において、機動力を奪った魔女を不充分ながらも拘束した巴マミのリボン、≪レガーレ・ヴァスタアリア≫の役割だ。

 

 

 

 

 大橋の下で轟音をたてて荒れ狂っていた濁流が、凍ったかのように停止した。

 音は伝播せず、風は吹かない世界で、暁美ほむらは暖気を済ませておいたタンクローリーに乗り込む。

 河川敷から堤防を駆けあがって舗装路へ、そこから大橋へ走り、大橋のアーチをジャンプ台として使用し、タンクローリー自体を一個の砲弾として魔女へ投擲した。

 投擲軌道の頂点で、暁美ほむらはタンクローリーを脱した。ほむらとの接触を失ったタンクローリーは空中で静止し、時の解放を待つ。

 まだ時間は動かない。操縦席から飛び降りたほむらは、着水すると川底を目指して泳ぐ。

 川底では六連のチューブ型ミサイルキャニスターを備えた大型トラックが主人の到着を待ち侘びていた。暁美ほむらの操縦を得て、それは川底から大橋へ至り、地に落ち送電線に縛られた魔女と正対する。

 本来は複雑な管制系を有し一〇〇キロメートルを超える射程を持つ兵装であるが、この距離ならばもはや弾道計算は必要としない。目視のままに六本の対艦誘導ミサイルがキャニスターから発射された。

 ≪過去≫のワルプルギス戦において、戦いの趨勢を決定づけた巴マミのティロ・フィナーレと鹿目まどかの魔力を込めた一矢を想定した攻撃だ。

 

 

 時間停止が解除されると、タンクローリーと対艦誘導ミサイルが地に墜ちたワルプルギスの身体に正面からブチ当たった。

 至近の距離のため対艦ミサイルはアーミングを解除されておらず、爆発することは許されない。故にミサイルは二〇〇キログラムを超える弾頭を穂とした巨大な槍となって魔女の胴体に突き刺さる。

 土手っ腹に杭を打ち付けられた逆さ吊りの吸血鬼――それを一〇倍サイズに引き延ばしたような様相だ。

 満載されたガソリンごとにタンクローリーが魔女に激突炎上し、魔女の表皮に僅かばかりのキズをつける。その爆発から引き剥がされるように、六本の巨大槍に魔女の身体は後方へ運ばれた。

 暁美ほむらの狙い通り、魔女の巨躯は後方数キロメートルにある地雷原設置点へ一息に飛んだ。

 そのタイミングで、自爆を促す指令が六本の対艦ミサイルに届く。一本で戦闘用艦船を中破せしめるに足る火力を持ったミサイル。それらが六つ、次々に爆発し、魔女の腹部に炎熱に彩られた大輪の花を咲かせた。

 ようやく、魔女の外装に大きなヒビが入った――本来ならマスケットと弓の通常攻撃で与えられていた程度のキズでしかない。ティロ・フィナーレや魔力を込めた一矢が与える深い穿孔とは、比べるべくもなかった。

 

 

 

 

 与える傷は浅いものの、状況自体は暁美ほむらの組み立てた通りに推移していた。

 対艦誘導ミサイルの爆発を受けた魔女は、地雷を設置したすり鉢状の縦穴へとその巨躯を沈めていた。そこは正しく毒蛇の群れが棲む巣穴だった。

 ほむらの指揮に従い、縦穴の壁面に設置された一〇万個を超える指向性地雷が爆炸する。

 穴の底から始まって、徐々に上へ向かって爆炸が広がっていく。

 モンロー効果と呼ばれる爆発威力に指向性を持たせる効果によって、全ての地雷の爆発威力が縦穴の中心線に集束される。地雷表面より射出される無数の鉄球もその中心線へ一極集中し、破壊威力を底上げした。

 轟音と閃光と爆煙の中、居合の達人が巻き藁を断つように鋭く、ワルプルギスの片腕が根元から爆切される。もしワルプルギスが正確に縦穴中央に落ち込んでいれば、胴を薙ぎ、仕留めることができたかもしれない。

 ≪過去≫のワルプルギス戦における、ティロ・フィナーレと魔力を込めた一矢で魔女を撃墜してからの、三人による集中攻撃を想定した攻めだが、想定通りの威力を見せたと言っていいだろう。

 

 

 

 追い打ちをかけるべく、暁美ほむらは縦穴へ走る。魔女に態勢を立て直す暇を与えないため、時間を停止して駆けた。

 暁美ほむらの身体能力は、もちろん常人を遥かに凌駕するが、魔法少女としては見劣りする。例えば、巴マミや佐倉杏子は、その場から飛び上がるだけで一〇メートルの高さに飛び上がることも可能だが、暁美ほむらの場合は六メートルがせいぜいだ。

 だが、それでも不足はなかった、彼女は停止した時間の中で無制限に動けるのだから。

 

 

 縦穴に囚われた疲弊した魔女にとどめを刺すべく、暁美ほむらは先の冷戦の鬼子を持ち出す。

 今はなきソビエト社会主義共和国連邦に対するヨーロッパ防衛のために、ライン川防衛線の死守を目的として米軍により開発された戦術核――今日的に使われる戦術核より遥かに矮小で、今日ではミニ・ニュークに分類されるべきだが――を、縦穴の手前一キロメートル地点に展開する。

 そして照準計算を行うと、五発の戦術核を迫撃砲の様に打ち上げた。一発あたりの核出力は二〇トン相当。一般的な戦術核のキロトンには遠く及ばないが、魔女を斃すには充分な火力、そう暁美ほむらは信じていた。

 

 

 

 時間停止が解除された。

 計算通りの弾道で、核の迫撃砲弾は縦穴に吸い込まれていく。

 それらは、縦穴の底で疲弊し横たわる魔女の至近で炸裂した。

 瞬間、これまでのどの攻撃も比較にならないような強烈な爆発が魔女を襲う。

 一瞬遅れて、縦穴から垂直に光と熱が迸り、遥か上空の黒雲を散らした。さらに三秒遅れて暁美ほむらのもとへ爆音が届き、周囲のすべてをビリビリと振動させた。

 ≪過去≫のワルプルギス戦における三人の全魔力を込めた追い込みを再現した攻撃だ。

 充分な手応えを感じた暁美ほむらは、縦穴からもうもうと立ち上る爆煙に向けて歩き出す。油断という感情は彼女にはない。よって、無造作に歩いているように見えても周囲への警戒は怠っていなかった。

 しかし、それでも避けられないほどに苛烈な攻撃が、爆煙の中から放たれた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 マミの、そして杏子の認識としては、「あなた達の出番はないわ」と暁美ほむらが口にした次の瞬間、大量の兵器がワルプルギスを蹂躙し始めたように映る。

 

「なんだよ、これは」

「すごいわね……」

 

 とびとびのビデオ画像の様に、様々な兵器が途中のコマを省略されてワルプルギスの巨躯に命中する。マミと杏子の実時間としては三〇秒程度であろうか。その間にワルプルギスは対艦ミサイルで遥か後方へ運ばれ、その先で夥しい爆炸に焼かれ、ついには戦術核の洗礼を受けた。

 

「とりあえず行くわよ、杏子ちゃん!」

「そうだね!」

 

 ふたりはそれぞれの武器を手に駆けた。

 熱で溶け崩れたアーチの横を、破城槌として振るわれ横倒しとなった送電塔の横を。そしてその先で地に伏した傷だらけの暁美ほむらを認めると、駆け寄って治癒の魔法を使う。

 

「暁美さん、大丈夫?」

 

 意識を取り戻したほむらは、マミの手を振り払うと前方、即ち縦穴に視線を向ける。

 そして、見た。

 いまだ立ち込める黒煙の中に隠れるようにして、ワルプルギスの夜の基部である巨大な歯車がゆっくりと上昇していることを。

 歯車から逆さ吊りになっていた魔女の巨躯は、両手を失い、胸から腹をえぐられている。無傷ではない、むしろ人にてらせば致命傷と言える。

 それでも、その有様でも魔女は哄笑を浴びせてきた。徒労だと嘲笑うかのように。

 

「あぁ……」

 

 暁美ほむらが嗚咽を漏らす。

 今回の攻撃は、彼女にとって満点と言ってよかった。持ち時間のほぼ全てを費やして得た最高の火力を、入念に組み立てたプログラムの通りに叩き込んだ。その結果が、この程度なのかと思うと、彼女の四肢から力がすうっと抜けていった。

 よろめくようにした暁美ほむらを、横に立つ魔法少女が支える。

 

「充分ダメージは与えているわよ、暁美さん」

「空から引きずり下ろしてくれたのはありがたいしな、見てな、きっちりお灸を据えてきてやるよ」

「うん。暁美さんは傷を治しておいて。行くわよ、杏子ちゃん!」

 

 ふたりは微笑むと、瓦礫の転がる大通りを馳せる。距離を詰めても魔女からの攻撃はない。上昇することを優先しているのか、あるいは敵として認識もされていないのか、とマミは訝しむ。

 

「じゃぁ、引っぱたいてこっち向かせようかしらね」

 

 走りながらマミが腕を横に薙ぐと、二〇挺のマスケットが空に浮かぶ。続いて人差し指を立てて腕を前に突き出すと、滞空していたマスケットが一斉に魔弾を放った。

 ぱん、ぱぱんと先ほどまで暁美ほむらが使用していた兵器に比べれば牧歌的とさえ言える発砲音が響く。だが軽い音に似合わず威力は高い。魔女の顔面に着弾した魔弾は、おしろいを塗ったかのように白い魔女の頬を深くえぐった。

 魔女には頭蓋がなく、そのため瞳もなかった。

 だがマミは、魔女の視線が己の肢体に絡みつくような悪寒を感じた。彼女はその本能に従って、とっさに身を翻す。

 直後、マミがいた空間に虹色の炎が現出した。それはワルプルギスの口腔から放たれた炎であったが、まるで光線のように、一筋の炎として瞬間的に現れた。

 虹色の炎に焼かれたアスファルトコンクリートが泡を立てて溶融し、沼のように広がっていく。

 

「杏子ちゃん、上へ!」

 

 炎の速さ、威力ともに脅威と判断したマミは、魔女上部に接敵し口腔からの炎を無効化するべく提案する。

 幾つかの≪過去≫において、ワルプルギスの夜と正面から撃ち合い、その末に致命傷を受けた事実がマミにはあった。

 もちろん、今のマミはそのような事実を知らないが、佐倉杏子と切磋琢磨した経験が彼女を≪過去≫よりも強くしているのだろうか、同じ轍は踏まなかった。

 

「その前に!」

 

 マミの指示に杏子が否やを返す。近づく際の安全を担保する魔法が彼女にはあったからだ。

 

「必殺! ロッソ・ファンタズマ!」

 

 一年前の約束をようやく果たせる、との感慨があったのだろうか、叫んだ彼女の口元が緩んだ。それとも単純に、技の名前を叫ぶことへの照れだろうか。ともあれ、彼女の発声に従い杏子の幻影が一〇ほど周囲に生まれる。

 

「マミさんも!」

 

 続いて四体のマミの幻影が生まれ出でる。

 杏子が幻惑魔法を再び使えるようになったこと、そして技名を叫んだことに言葉を返したかったマミだが、突然のことにうまく言語化できず「わ、わ」と漏らす。結局、言葉にすることは諦め、親指を立てて杏子に微笑むにとどめた。

 数多の魔方陣と花冠が空中に描かれ、それを足場にマミと杏子が駆け上がる。

 その途中に幾つかのファンタズマが炎に焼かれ消えるが、本物のマミ、杏子は攻撃を受けることなく、ワルプルギスの夜上部の巨大歯車まで到達、そこに舞い降りた。

 

 

 

 

 

 

 ワルプルギスの歯車機構は、大きく二つの歯車から成っていた。

 ひとつは劇場ほどの面積を持つ外輪歯車、その厚さも五メートルはあろうかという巨大さだ。

 もうひとつはその巨大歯車中心部に位置する太陽歯車。面積は民家程度、厚さは外輪歯車からはみ出している部分だけで五メートル以上あり、歯車というよりはシャフトといった趣きだ。

 外輪歯車に降り立つや否や、杏子に斬りかかる者があった。

 杏子は反射的に手にした大身槍で攻撃を受け止め、膂力をもって弾き返す。弾き返された方は空中で一回転し、ふわりと音もなく着地した。

 それは、片手に短刀を携え、片手にクロスボウを携えた女性のようだった。

 ようだ、というのは、その者の全身が衣服も含めて一様に影のように染められていて、詳細は見て取れないからだ。

 蒼黒く染められた影の中に、幾つもの光点が偏在して輝いている。それは、銀河の一部をテクスチャーとして彼女に張り付けたようにも見えた。

 彼女が動くと、長い髪とエプロンドレスのようなフォルムのゆったりした服がひらめき、その表面に描かれた銀河もまた流れる。

 

「使い魔……?」

「ずいぶんと大勢でお出迎えね……」

 

 杏子を襲った使い魔の周辺に、同様に表面を銀河の影で覆った使い魔が三〇ばかり姿を見せていた。それぞれに刺突剣や日本刀、斧槍などの武器を携え、影一色に塗り潰された顔をマミと杏子に向けている。

 

「まぁ、いくら数がいようがあたしとマミさんの敵じゃないよ」

 

 先ほどの一撃の鋭さと重さから察するに、楽観できる相手ではないと杏子は認識していたが、敢えて軽口を叩きつつ、ファンタズマを作り出す。マミも心の裡では同様に考えていたが、優雅な笑みを崩さずに応えた。

 

「そうね。杏子ちゃんとふたりなら、きっとやれるわ」

 

 先ほどのの短刀の使い魔が突出した。

 クロスボウで牽制するように弾膜を張りつつ、短刀を上段に構えて跳躍、杏子を狙って斬りつける。

 狙われた杏子は本体でなくファンタズマであった。使い魔の短刀は虚像を切り裂き、そしていささかも勢いを減じることなく床を叩いた。金属が金属を打つ音が響き、使い魔は体勢を崩す。

 そこを逃さず、使い魔の上下左右から、複数の杏子が槍を構えて攻撃を仕掛けた。なにしろ敵は数が多い、一撃で確実にしとめるべく、杏子は全力を乗せた突きを放つ。だが。

 

「くそ、素早い!」

 

 短刀の使い魔と杏子達の間に割り込んだ小柄な使い魔が、手にした傘状の武器を広げて、大盾よろしく杏子たちの攻撃を受け止めた。

 槍を受け止められ動きの止まった杏子の集団に向けて、空中に跳んだ別の使い魔が攻撃する。背にした銀河模様のマントを広げて、そこから無数の光弾を投射した。

 杏子と幻影全てを押し潰すような密度で放たれた光弾は、しかし空中で全て四散した。巴マミの魔弾が、全ての光弾を射抜いたからだ。

 

「ありがと、マミさん!」

「数を減らさないとね!」

 

 マミは胸元のリボンをほどくと、そのリボンを変形させて大砲規模のマスケットを作り出す。照準の必要もほとんどない、前方のどこに撃っても使い魔のどれかには命中すると思われる敵の密度だった。

 

「ティロ……!」

 

 が、マスケットが火を噴く前に、短い刀を両手に持った使い魔が一足飛びに間合いを詰め、マスケットに斬撃を叩き込んだ。斬撃に耐え切れず大砲型マスケットは本来の姿であるリボンへと還される。

 しかしそれで終わりはしなかった。分解されたリボンは獲物を狙う蛇のように動き、二刀流の使い魔の両の下腕を手錠のように拘束した。

 

「もらったわ!」

 

 四挺のマスケットがマミの肩口に並ぶ。マスケットの出現と同時に撃鉄が唸り、魔弾が放たれた。

 だが、二刀流の使い魔は拘束された両の下腕を起点に、逆立ちするかのように身体を持ち上げて銃弾を回避した。

 

「うそっ!」

 

 器用すぎない? と悲鳴のように呟きつつ、追撃のためのマスケットを浮かべる。それと同時、日本刀の使い魔がマミと二刀流の使い魔の間に飛び込み、拘束しているリボンを一刀のもとに両断した。

 

「もう!」

 

 マミは魔法少女になった当初はマスケットを作り出すことは出来ず、リボンで接近戦を行っていた。

 その経験から接近戦も不得意ではないが、やはり彼女の本分は遠距離戦にある。有利な距離を確保するべく後方へジャンプするマミ。そのマミをカバーするように、周囲にマミの幻影が並び、使い魔の攻撃を惑わせる。

 

「全員拘束できればいいんだけど、そうはいかないわよね……」

「一体ずつなら余裕ありそうだけど、複数は厳しいね」

 

 こちらも一時後方退避した杏子が、マミと肩を並べる。

 

「杏子ちゃん、昔言ったこと覚えてる?」

 

 牽制の魔弾を撒き散らしながら、唐突に語りかけるマミ。杏子は多節棍状態にした槍を鞭のようにしならせ、使い魔の投擲した手裏剣状の小刀を弾き返しながら小首を傾げる。

 

「私たちなら、ワルプルギスの夜だって倒せるって!」

「……ああ、覚えてるよ!」

 

 魔法少女の能力は、精神の在りようが大きく影響する。かつて自分に癒される資格はないと思い込んだ杏子が治癒魔法を使うことも受けることもできなくなったように、あるいはかつて幻惑の魔法を呪った杏子がロッソ・ファンタズマを失ったように。

 この時、大きく高揚した杏子の精神は、実に三〇を超えるファンタズマを出現させることに成功した。さらに、空間そのものを幻惑の魔法で支配する。

 

「ファンタズマを全力回避させて使い魔をできるだけ引き付ける! マミさんはティロ・フィナーレを!」

「わかったわ!」

 

 生み出された幻影の杏子とマミが、それぞれに使い魔に接敵し囮となる。さすがに回避に専念させても幾つかは被弾し、消滅する。だが消滅する速度を上回るペースで、杏子は幻影を作り出してけしかける。

 その間、マミは後方に離れ、かつてない規模のマスケットを練り上げていた。形成はいまだ半ばだが、路線バスを中空にくり抜いて砲身としたような規格外のサイズだ。

 巨大マスケットの形成を阻止すべく、遠距離武器を持つ使い魔が攻撃をマミに集中させる。長銃、弩弓、投擲弾、和弓、二丁拳銃。様々な攻撃が様々な角度から、マミという一点を目指して集弾された。

 巨大マスケットを練り上げることに神経を集中しているマミは、その弾幕を避けることも防御することもできず――――蜃気楼のように掻き消えた。

 ティロ・フィナーレ級のマスケットの生成には足を止める必要がある。そのため、大砲を準備している間がマミの戦闘スタイルにおいて最も危険な時間となる。

 それをカバーするため、杏子は即興で幻惑魔法をアレンジして幻影のカーテンでマミを覆い、マミも杏子の幻影を信頼してその陰で大砲の生成に集中していた。

 魔女の攻撃が集中したのは、杏子が生み出したファンタズマのマミに過ぎなかった。

 

 ――ありがとう、杏子ちゃん。

 

 杏子が幻惑魔法で作り出したカーテンに囲まれ、使い魔たちの視界から秘匿されているマミが感謝の言葉を呟く。掻き消えたファンタズマの巨大マスケットには及ばないものの、幻影の小部屋の中でマミが練り上げたマスケットも充分に巨大だ。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 叫びとともに、砲身長七メートル、砲口径一メートルを越えるマスケットが榴弾状の魔弾を放った。

 使い魔たちにすれば、いきなり幻惑のカーテン――彼女たちには実在の風景と認識されていたはずだが――がひび割れ、そこから魔弾が飛来したに等しい。

 飛来した凶悪な砲撃は、傘盾の使い魔をまず襲った。

 傘盾の使い魔は突如にして襲いかかった凶弾を受け止めようと傘を開き大盾にするものの、抵抗することかなわず大盾もろともに魔弾に飲み込まれる。さらに魔弾は止まらず、その射線後方に位置する使い魔を二匹葬り去った。

 

 魔弾が飛び去った後に金属音が響いた。

 三つのグリーフシードが、それぞれ使い魔の消えた跡に落ちる。それは、即ち今相対している敵が使い魔ではないことを示す。

 

「そういえば魔女の集合体だってキュゥべえが言ってたわね。道理で手強いわけね」

 

 杏子も幻影によるフェイントを駆使して、大身槍で日本刀の使い魔――改め魔女の胸を深々と貫いた。突き刺したままの槍を上へ振り抜き、魔女の上半身を両断する。

 

「じゃぁ、こいつら全部グリーフシードってことだね。はっ、ご馳走じゃないか!」

 

 日本刀の魔女がグリーフシードを残して消滅する。

 

「……まったくね!」

 

 槍を振り抜いた杏子を襲おうとする魔女をマスケットで牽制し、マミは妹の軽口に応えて口の端を歪めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 マミが九、杏子が三。ここまでの彼女たちの討伐数だ。

 戦果はマミに偏っているが、これは杏子がティロ・フィナーレの準備のフォローに回っているためで、活躍の度合いとしては同程度と言っていい。

 ここまでは順調に推移していた。

 

 だが、徐々にファンタズマの生存時間が短くなっていった。

 近接系の魔女は単独での突出を控え、射撃系の技を持つ魔女が弾を散らしてファンタズマの排除を優先したからだ。

 その結果、マミと杏子は守勢に回る時間が多くなり、攻勢に出た際も突出を控えた魔女の連携で有効打を阻まれた。

 数を減らしたとはいえ、まだ魔女は二〇ほども残っている。

 用意していたグリーフシードに加えてこの場でも調達できるので、魔力を惜しむ必要がないのは幸いではあるが、いまだ魔女は半分以上残っている、しかも戦い方が巧みになってきているとあって、ふたりの顔には焦燥の色が見てとれた。

 精神的な疲弊の影響か、ファンタズマの数も一五程度が限界になってきている。

 

 二丁拳銃の魔女と弩弓の魔女が、ばらまくような連射で弾幕を張る。

 弾幕の前に多くのファンタズマは消し去られ、不運なことに杏子本人も肩に被弾した。被弾しても消えないことでソレが本物の杏子だと判断した魔女が追撃を仕掛ける。

 外輪歯車に降り立った直後に攻撃を仕掛けてきたエプロンドレスの魔女が、短刀を中段に構えて突撃した。カウンターで葬るべく、杏子は槍を地面に垂直に立てて構え、魔女の攻撃を迎える。

 短刀の魔女と杏子が双方の武器の殺傷圏内に入る。

 魔女は短刀を突くように、杏子は大身槍を下から薙ぐようにして振るう――その瞬間、短刀の魔女の背中から二刀流の魔女が飛び出した。

 予想していなかった至近からの新手に、槍を繰り出す杏子の動きが一瞬鈍った。

 その隙を逃さず、魔女の短刀が大身槍に絡まるように動き、そして一息に上へ振り抜かれ、大身槍を弾き飛ばした。

 

「杏子ちゃんっ!」

 

 既に発射されていたマミの魔弾が、短刀を振り抜いた魔女の側面を捉えた。腕、頭、胸、腹、腰にと着弾し、魔女をグリーフシードへと変える。

 マミには、黒く塗られ表情の見えない魔女の顔が、散り際に嗤うように歪むのを見た――自身の命を杏子と交換することに満足したかのように。

 二刀流の魔女が、その刃を加速させる。短刀の魔女の命と引き換えにされた杏子の命が、摘み取られようとしていた。

 マミが魔弾を放つ。杏子が後ろに倒れ込み、刃の回避を試みる。

 が、それらよりも早く、魔女の刃が杏子の首を捉える――

 

 ――ダメだ、やられるっ! ごめんマミさん!

 

 

 

 

 時が、その刻みを止めた。

 杏子も、マミも、魔女も、その刃も、全てが彫像のように静止した。

 川は流れない、風は吹かない、その凍った時の中を、ひとり自在に動く者があった。その者は、黒髪をなびかせて外輪歯車に降り立った。

 彼女は視線を巡らせる。そして、事態を把握すると安堵の息を漏らし、豊かな黒髪を片手で弄ぶように跳ね上げた。

 

「間に合ったようね」

 

 それは、場にそぐわない落ち着いた声だった。



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第二〇話 マミさん、舞台装置の魔女を相手に勇戦する

 第三の魔法少女は、小走りに巴マミに近寄り、その肩を掴んだ。

 少女との接触により、巴マミの時間が再び流れ始める。

 目覚めた巴マミは、今にも杏子の首を刎ねようとする二刀流の魔女、後ろに倒れ込もうとしている杏子、ともにありえない姿勢で停止していることを認めると、事態の異常性を理解した。

 

「時間がないので手短に言うわ。私の魔法は時間停止。間接的にでも私と接触している者だけが動ける」

 

 そして、暁美ほむらの短い言葉から、巴マミは状況をほぼ正確に把握した。類いまれな理解力を発揮した彼女は、諒解の意を首肯で示す。

 

「巴マミ、あなたを中継軸にして私と佐倉杏子をリボンで繋げて。触れている程度で充分よ」

 

 二度目の頷き。マミはコルセットを後ろで止めている白いリボンをほどき、それを伸ばして杏子の足首に結わえさせた。また、別の黄色いリボンが暁美ほむらの足首にも絡みつく。マミはそれらのリボンの一端を自らの太腿に巻き付けて、マミを中心にして杏子、ほむらを連結させた。

 ほむらとの接触効果により時の流れを得た杏子が、後ろに倒れ込み尻餅をついた。そして視線を上に向け、刃を突きだした姿勢で硬直している二刀流の魔女の姿を認める。

 

「杏子ちゃん! 良かった……!」

 

 半ば涙声で漏らすマミとは裏腹に、杏子は事態の把握が追いつかず、目を白黒とさせて間の抜けた声で呟いた。

 

「……なに、これ?」

「私が魔法で時間を止めたわ。リボンを介して私と繋がっている限り、あなたたちは自由に動ける。今のうちにそいつらを蹴散らして」

「さっぱり分かんねぇけど、分かったよ!」

 

 新たな大身槍を掌中に生み出しながら立ち上がった杏子が、マミとは異なる方向性の理解力を示して叫んだ。

 彼女は、とりあえず、といった感じで眼前で固まる二刀流の魔女を貫く。と、槍を介して暁美ほむらと繋がった魔女が鋭く刃を振り抜いた。

 止まっていた事実など微塵も感じさせない、鋭い一閃。それは本来ならそこにあった杏子の首を刈り取る一撃だったが、今は虚しく空を切るだけだった。

 魔女は刃が伸びきったタイミングで絶命し、グリーフシードへとその姿を変える。

 

「巴マミ、佐倉杏子。リボンが外れたら貴方たちの時間も止まるわ、注意して」

「杏子ちゃん、今の反応を見るに攻撃を入れたら相手も少し動くわね、反撃に注意していきましょう!」

 

 

 

 

 

 それはもはや戦いの様相を呈していなかった。

 魔女の武器も盾もその役目を果たさず、魔弾と大身槍は易々と魔女の急所を射抜き、貫いていく。

 魔女に許されるのは、射抜かれ、貫かれた直後の僅かな時間に苦痛に悶え断末魔をあげることのみ。 

 

「時間停止だなんてすごい魔法ね。名前はなんていうの?」

「ないわ」

 

 魔弾と大身槍に比べれば彼女が持つ攻撃手段は使い勝手が悪い。

 それを自覚している彼女は後方で時間停止を行使しつつ傍観していた。そして、このふたりに自分の時間停止が加われば、充分な戦力となる、≪これから≫があれば、このふたりを味方にした方が……と考えるが――

 

「そう、あとで名前つけてあげる!」

「……いらないわ」

 

 やはり考え直した方が良さそうね、と呟いた。

 

 

 

 

 

 ちょうど歯車上の魔女を殲滅したタイミングで、暁美ほむらの時間停止はその手持ち時間を使い切る。

 彼女の時間停止能力は使い切りであり、再び使うには盾に内蔵された砂時計をひっくり返す、すなわち別の時間軸へ旅立つ必要があった。

 

「これで時間停止は使い切ったわ」

 

 宣言する暁美ほむらに、発言の意図を魔力枯渇と受け取った佐倉杏子は足元に転がるグリーフシードのひとつを蹴って転がした。

 

「グリーフシードなら幾らでもあるよ」

「いいえ。これは魔力の問題ではなく私の魔法の構造的なもの。もう≪今回≫は時間停止を使うことは出来ないわ」

 

 拾い上げたグリーフシードでソウルジェムを浄化しながら応える。マミと杏子も手近のグリーフシードを拾い、浄化を行う。

 

「そう、でも充分に助かったわ。ありがとう、暁美さん」

「だな。おかげで命拾いしたよ」

 

 ふたりの言葉には応えず、暁美ほむらは鋭い視線を歯車の中央、シャフト状の歯車に向けた。あそこがコアにあたる部分であることは、≪過去≫の戦いで把握していた。

 ただ、おそらく、と但し書きが付く。≪過去≫の戦いでは無数の魔女との戦いはなく、地に落としたワルプルギスに遠距離攻撃を行い歯車を破壊していたからだ。

 無数の魔女という新しい要素があった以上、他にも異なる要素があっても不思議ではない、と暁美ほむらが心の中で整理していた時だ。

 外輪歯車が崩れ始めた。

 歯車表面に刻まれていた幾何学的なラインに沿って、細かい部品単位に分解された歯車が次々と崩落していく。

 魔法少女たちは、魔法で足場を形成して空中に留まり、周囲を見渡す。

 巨大な外輪歯車の全てが、細かい破片となって地上へと降り注ぐ。

 中央の歯車から逆さ吊りになっていた大型の魔女も、同様に細かく千切れ、風にさらわれていく砂のようにその体躯を散らしていった。

 破片の直撃を受けた地上の施設が断続的に爆発し、黒煙をあげる。

 やがて、外輪歯車が全て崩落しきった後、中央のシャフト歯車のみが、ゆっくりとした回転を行いながら空に浮いていた。大型魔女を接続していた石油のパイプラインほどもある鉄柱は半ばで折れ、破断面からは銀色の砂をさらさらと散らす。

 

「あれがコアよ」

 

 その呟きも終わらぬうちに、暁美ほむらの脇腹を一条の炎が貫いた。

 大型魔女が口腔から放っていた虹色の炎と同じ攻撃が、シャフト歯車から放たれたのだ。

 魔法少女が受けた傷は小口径の銃弾で貫かれたような小さなものだったが、表面は炭化し、内臓部も急激な熱により水分の殆どを奪われていた。人間ならば致命の一撃であり、魔法少女である彼女にとっても戦闘能力を奪う痛撃であった。

 足場としていた魔方陣を維持することが出来ず、彼女の身体が宙に投げ出される。

 歯車から炎が続けざまに放たれる。マミは落下する魔法少女を追いかけてリボンを放つが、炎の攻撃にさらされてそれ以上をする余裕はなかった。

 巴マミと佐倉杏子が致命の一撃を受けなかったのは、運の領域に属する部分が大きい。それでもファンタズマと、リボンの紡ぐ≪絶対領域≫がなければ、ふたりとも暁美ほむらと同様に地上に撃ち落とされていた可能性が高いだろう。

 熾烈な攻撃を凌ぎながらも、巴マミは敵を観察していた。

 外輪歯車を失い全容が露わになったシャフト歯車は、大きくふたつのパートに分かれている。

 もともと露出していた上半分は 紡錘状の金属塊。そこから等間隔でフィンのような鏡面の板がせり出していて、全体がゆっくりと時計回りに回転している。

 新たに姿を見せた下半分は、半球状の岩塊。そこには上部のフィンと同じ間隔で銃眼のような細長い穴が開いている。炎はこの穴から放たれているようだ。

 その構造上、歯車より高高度に対しての炎はかなり制限されるだろう、と判断したマミは杏子に上昇の指示を飛ばした。

 おう、と応えた杏子がファンタズマを盾に上方向へ駆ける。マミもファンタズマの支援を受けて空を駆けた。

 果たして、歯車に対して仰角三〇度を超えたあたりで虹色の炎の攻撃は届かなくなった。

 それぞれの足場――花冠と魔方陣で足を止めたふたりは、顔を見合わせる。

 

「一息ってところね」

「ここから狙撃できないかな」

「えぇ、やってみるわ」

 

 歯車は時折炎を放つが、やはり角度が足りないためにふたりには届かず、射線上の黒雲を散らすに留まる。

 無為な炎の攻撃が続いたが、高度を上げることも、傾いて射角を変えることもせず、歯車はただ回転しながら無為に熱線を放つ。そこには外輪歯車で戦った魔女たちにあった連携能力や判断能力は欠片もないように見えた。

 ファンタズマ含めて四人のマミが、それぞれに花冠の上で大砲型マスケットを練り上げる。

 

 地上にほど近い高度で、リボンで作られたマットに横たわった暁美ほむらが霞んだ目で見上げると、空に突如として尖塔が四本出現したように見えた。

 そして、その尖塔たちの先端から膨大な魔力が迸る――その結末を見届けることなく、暁美ほむらは意識を失った。

 

 

 マミが透き通った声でティロ・フィナーレの号令を下すと、マスケットは膨大な魔力を宿した榴弾をその砲身から放った。

 浮遊する歯車の中心を過たず照準した一撃は、しかし歯車に到達することはなかった。空中に浮かび上がった七枚七色の魔力障壁が、一枚ごとに魔弾の威力を半減させ、ついには無力化したからだ。

 現象に対する彼女たちの判断は速い。

 

「……零距離で入れてみましょうか」

「そういうことなら、あたしも槍を」

 

 地上を駆けるのと変わらぬ速度で、ふたりが空を駆ける。魔法少女の接近を怖れるのか、歯車は熱線を次々と放つがやはり射角が足りず、全て彼女たちの遥か下方を過ぎる。さらには念動力のようなものでビルや電柱を飛ばして寄越すが、熱線に比べれば遥かに鈍重な攻撃であり、ふたりには通じなかった。

 

「杏子ちゃん」

「うん」

 

 先ほど魔法障壁が顕現した地点――歯車表面数メートルの手前でふたりは魔力を全身に漲らせる。

 彼女たちの身体から燐光のような魔力の飛沫が間断なく溢れ出で、彼女たちをそれぞれの象徴色――オレンジイエローとルビーレッドの輝きで包み込む。

 彼女たちが魔力障壁に触れると、軽金属を燃やしたような眩い光が一瞬溢れ、そして障壁は砕け散った。魔女の結界の入り口を中和する行為、そのスケールを大きくした現象。それが七回発生し、その後に彼女たちはシャフト歯車の頂点に降り立った。

 杏子が大身槍を突き刺すと歯車表面が抉れ、目で見えるほど濃厚な魔力が血のように流れ出す。

 マミが大型マスケットの生成に集中する傍ら、杏子は槍で刺突を繰り返す。その度に魔力が流れ出し、歯車は力を喪っていく。

 おそらく、この状態は歯車にとって致命的であったのだろう。それ故に、歯車は己を犠牲にしても魔法少女を排除するべく、自爆に近い行動に出た。

 歯車の下半分に存在する全ての銃眼。そこから炎を外へ放つのではなく、己の内部へ向けて暴走させ始める。虹色の炎で自らを焼き、自身の身体もろともに魔法少女を焼くために。

 

 

 

 異常なまでに膨れ上がる熱量に巴マミが気付いたのは、まさに自爆の直前だった。巨大マスケットを練り上げていたリボンをほどくと、そのリボンを≪絶対領域≫として旋回させ、杏子の身体を包み込んだ。

 ≪絶対領域≫の完成と、歯車そのものが火の玉になったのは、ほぼ同時だった。

 歯車内部に炎が満ち、表面の隙間からは熱線として無軌道に溢れ出た。歯車上部を飾っていたフィンは全てが根元から折られ、フィンの欠けた穴からは濁流のように熱線が噴出する。歯車全体が瞬間的に数千度の熱塊となり、そこは炎熱地獄と化した。

 ≪絶対領域≫内部の杏子ですら、数百度の熱に責められた。魔力で全身を防御しなければその命を散らしていただろう。

 炎の洗礼が終わり、周囲の温度が急激に下がると同時、≪絶対領域≫を作っていた黄色のリボンが力を使い切ったかのようにほどける。ほどけたリボンは殉死するかのように儚く溶け 風にさらわれていった。

 そして、消えていくリボンの中から、杏子は無数の破片となって砕け散るオレンジイエローのソウルジェムを見つめていた。

 胸が押し潰され、呻く声すら出ない。

 それは、巴マミの死を意味していた。

 

 

 

 

 歯車頂点に立つ杏子は、全ての魔力を大身槍に注ぎ込む。全ての魔力を魔女に撃ち込み、自爆同然に倒そうとしていた。

 

 ――マミさん、こいつを倒してあたしも逝くよ。

 

 だが、肥大した槍の穂先を歯車に突き刺そうとした時、『ダメよ、杏子ちゃん』という声が彼女の耳に届いた。その声に穂先を止めて、一瞬の逡巡の後、彼女は口を開いた。

 

「うん……ごめん」

 

 そう応えると、魔力を槍からソウルジェムに戻し、空を見上げた。

 焼け焦げた肉が嫌な臭いをさせている。涙腺も焼けたのか涙も出てこなかった。それでも魔力を込めれば身体は充分に動く。ワルプルギスの夜を倒して生きて帰ることを、杏子は先ほどの声に誓った。

 

 

 それらの情動そのものが、魔女にとっては隙でしかなかった。

 先ほど根元から折れ、周囲を浮遊していたフィン。それを反射鏡とした熱線が、杏子の胸を射抜いた。心臓とソウルジェム、ふたつの急所を一撃に射抜かれ、佐倉杏子はその命を散らした。

 

 

 砕け散った黄と赤のソウルジェムから魔力を喰らい、ワルプルギスの夜は外輪歯車と逆さまに吊り下がる巨躯の魔女を再び構成していく。

 外輪歯車には先ほどまでの魔女集団はなく、かわりにふたりの魔女が現れていた。体の表面を銀河模様の影に包まれたその魔女は、それぞれに長銃と槍を携え、お互いを慈しむように寄り添い、肩を並べている。

 巨躯の魔女の、頭蓋を持たない歪な顔が哄笑をあげた。底冷えのする嫌な哄笑を。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 雷が鳴った。

 避難所の不透明なガラス窓を通して光が走る。

 その雷光で、窓際にひとり立つ鹿目まどかの姿が長い影となって延びた。少女の影の横に、先程まで居なかった小動物の影が浮かび上がる。

 

『心配かい、まどか』

 

 この小動物こそが悲劇の繰り手であることを知らない鹿目まどかには、その声に温かさえ感じられた。彼女はすがるような瞳でキュゥべえを見つめ、話しかける。

 

「みんなは、さやかちゃんは?」

『美樹さやかは死んだよ。巴マミと佐倉杏子もね。暁美ほむらも時間の問題だろうね』

 

 悔やみを全く感じさせない明るい声でキュゥべえは告げる。

 実際もし彼に感情があれば、今は明るい気分だったろう。巴マミと佐倉杏子を魔女にすることなく死なせてしまったのは勿体ないが、しかしそれらは鹿目まどかの契約を前にすれば些事に過ぎない。金塊の山を前にして、金貨数枚を散逸させたことを悔いるものはいないのだから。

 

『キミには力がある。キミが魔法少女になれば、きっとみんなを救えるだろう』

「さやかちゃんたちを生き返らせることが出来る?」

『キミの祈りなら造作もないことだろうね。キミならばどんな祈りでも叶えられる。そしてキミならばワルプルギスの夜も倒せる』

 

 悩むまでもなかった。もともと鹿目まどかは美樹さやかのためだけに契約しようとしていたのだから。当のさやかに押し留められ機会を逸していたが、こうなっては是も非もない。

 

「みんなを生き返らせて」

『みんなとは、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子でいいのかい?』

 

 鹿目まどかの首肯を見届けると、キュゥべえは満足そうに頷いて宣言する。

 

『契約は成立だ。キミの祈りはエントロピーを凌駕した』

 

 キュゥべえが指し示すように顎を向ける。まどかがその方向を見ると、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子の三人がブルーシートに横たわっていた。駆け寄ると、三人ともに安らかな寝息をたてている。傷一つない三人の寝顔に胸を撫で下ろすと、まどかはキュゥべえに視線で問うた。

 

『目覚めるまではしばらくかかるだろうね。死んでからの時間にもよるが』

「そか。じゃぁキュゥべえはみんなの傍にいてあげてもらえる?」

『それは構わないが、皆の目覚めを待てばいいんじゃないのかい』

「ううん、今すぐ行く。マミさんたちに会わせる顔なんてないよ」

『どうしてだい? キミはマミたちを救った。感謝されこそすれ――』

 

 鹿目まどかは瞳を閉じて笑った。

 それは自嘲とも諦観とも取れる笑顔だった。結果的に契約を先延ばしにしたから皆を蘇生できた、などと我田引水に自分を慰められるほど、彼女は器用でも不誠実でもなかった。

 

「わたしね、本当はさやかちゃんやマミさん、杏子ちゃんと一緒に魔法少女になって、一緒に苦しんで戦ってこなきゃいけなかったの。でも勇気がなくて出来なかった。それで結局、こうしてみんなのしてきたことを踏みにじるような形になっちゃって……」

『だが――』

「みんなは優しいから、きっとわたしを責めたりはしないと思うけどね」

 

 まどかはマミや杏子のことを思い出して顔を綻ばせる。そして、彼女たちなら何と言うだろうかと想像を巡らせる。契約したことを叱るだろうか、それとも誉めてくれるだろうか。

 まどかには、どちらもはっきりと想像できた。どちらの想像も、彼女の胸を温かくした。

 

「わたし、強いんでしょ? せめてあの魔女を片付けて、みんなを安心させてから――ゆっくり、謝りたい。今謝っても、バタバタしすぎでしょ?」

 

 横たわる魔法少女のひとりひとりの頬を慈しむように撫でさすると、まどかは表情を引き締めた。魔法少女たちの温かさを受け取った掌を、自らの胸に当てて誓うように呟く。

 

「ゆっくり謝って、許してもらったら、それからみんなと一緒に戦っていきたい」

『そうかい。まぁマミも杏子も、勿論さやかも、許すも何もキミを責めないと思うよ』

「そうだね。そうだといいな」

『さぁ鹿目まどか、ワルプルギスの夜を蹴散らしてくるといい。それだけの力がキミには備わっている』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 暁美ほむらは、全身を包む温かい癒しの魔法で目を覚ました。

 

「良かった、ほむらちゃんだけでも無事で」

 

 ほむらの視界の大半を占める桃色の髪の少女が、見る者を穏やかな気持ちにさせる笑顔で語りかけた。

 笑顔の彼女に抱きかかえられる、それは悠久の旅路の中で暁美ほむらが幾度となく夢に見たことであったが――

 

「まど……か……」

 

 漏れ出でた声には嘆きの色しかなかった。

 何故なら暁美ほむらを抱きかかえている者は、少女ではなく魔法少女であったから。鹿目まどかが魔法少女として契約してしまう、それは暁美ほむらにとって何があっても避けねばならない事態であった。

 不可逆の、絶望に至る契約。それを避けるためだけに、数百を超える別れを繰り返し、数百を超える条件を試してきた。≪今回≫も求める結果は得られず、無為に終わったことを、白と桃の可憐な魔法少女衣裳を身にまとった少女の存在が示していた。

 

「ひとりで頑張らせてごめんね、あの化け物は、わたしが倒すから」

 

 力強い笑顔。

 かつての暁美ほむらが憧れ焦がれたその笑顔を、今の暁美ほむらは悲嘆に暮れた気持ちで見上げていた。腕にも、指にも力が入らず、彼女の両腕がだらんと垂れ落ちる。

 

「ああ……また……無駄になったのね……」

「安心して。わたしの、わたしたちの大切なものは……絶対に守ってみせる!」

 

 ほむらの身体をゆっくりと下ろすと、まどかは立ち上がり、上空に浮かぶワルプルギスの夜を毅然とした表情で見つめる。

 まどかの敵意を感じ取ったのか、逆さ吊りの魔女の口腔から虹色の炎が放たれる。だが、熱線はまどかの手前数メートルで不可視の障壁に阻まれて霧散する。

 まどかの手にした杖が淡い光を放つ。

 薔薇の枝を手折ったかのようなその杖は、先端に桃色の蕾を宿していた。魔力の昂ぶりに伴い蕾が花開いていき、やがて大輪の薔薇の花を咲かせる。枝の節々に魔力が集まり、ピンクの結晶が生まれる。その結晶の一つ一つが、ソウルジェムにも匹敵する輝きを誇ってみせた。

 枝が反り、弓の形になる。弓の上下を繋ぐように、薄紅色の弦が張られた。

 左手で弓を構え、右手で弦を引き絞る。

 弓の上部に咲き誇る薔薇の花が、一枚の花びらを散らした。それは舞うようにして鹿目まどかの右手に至り、そこで一本の矢へと姿を変える。

 若枝を削り出したような武骨な矢だった。その矢は、芯から脈動するような桃色の光を漏らしている。

 虹色の炎が二条、煌めいた。しかしそれも、弓を構える鹿目まどかの手前で消失する。

 

「……この手で!」

 

 三条目の炎が魔女の口腔から放たれるのと、引き絞られた弦が解き放たれるのは同時だった。

 炎と矢が正面から激突する。

 熱量の前に、矢がどろりと溶ける。

 炎に焼かれて溶け落ちていく矢。しかしそれは、炎の勝利を意味しなかった。

 若枝の矢は、外装としての物質を溶かして捨て去り、本質である光そのものの姿を見せる。

 光の矢は虹色の炎を裂く。

 炎を裂いて真っ直ぐに飛び、ワルプルギスを貫いた。

 その一矢で。ただの一矢で、ワルプルギスの夜と呼ばれた最悪の魔女は討ち払われた。

 あっけないほどに容易く、その全存在を無へと帰していく。

 それと引き換えに鹿目まどかが苦悶の叫びをあげる。

 一撃で魔力を使い果たしたソウルジェムが、その姿をグリーフシードに変えていき、鹿目まどかの身体を責め苛んでいく。

 

「何……? どうして……? 痛い、助けて……」

「まどか……」

 

 こうべを垂れた暁美ほむらは、苦しむまどかを直視することもなく左腕に備えられた盾を起動させる。

 その一動作で、彼女はこの世界を捨てた。別の可能性を求めて、別の世界へ旅立ったのだ。

 暁美ほむらはこの世界を捨て、そして世界から暁美ほむらという存在は、痕跡さえ残すことなく消え去った。

 もはや誰も――彼女の両親や鹿目まどかさえ――暁美ほむらという存在を記憶していなかった。

 別の世界を選んだ彼女のソウルジェム、そして魂の在り処としての頭蓋、それらが実体を失うように薄れ、消失していく。

 彼女の身体が地に倒れる。

 顎より上部を完全に失ったその顔は、既に誰でもなかった。

 そして、≪救済の魔女≫が、その横で産声をあげていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 目を覚ました巴マミと佐倉杏子は、死の直前の意識に引きずられて臨戦態勢をとった。

 そして周囲の様子に違和感をおぼえ、次に視界に入ったキュゥべえに敵意を向けた。

 

『おはよう、マミ、杏子。気持ちは分かるが、ボクの説明を聞くべきだ。いいかいマミ、杏子。キミたちは一度死んだ』

 

 理解が追いつかないふたりは、間の抜けた表情を見せて首を傾げる。

 

『比喩ではないよ。キミたちはワルプルギスの夜にソウルジェムを砕かれ絶命した』

 

 その言葉に、マミは側頭部のアクセサリーに嵌まったソウルジェムを、杏子は胸元を飾るソウルジェムを、確かめるように手で撫でる。そして、確かにキュゥべえのいう通りの記憶があることを認識する。ふたりは、目と首の動きでキュゥべえの話を促す。

 

『鹿目まどかが、キミたちふたり、そして美樹さやかの蘇生を祈った』

「鹿目さんが……。そういえば、鹿目さんはどこ?」

『一撃で倒したよ、ワルプルギスの夜を』

 

 我がことを誇るかのように明るい声でキュゥべえは告げた。

 

『そしてなったよ。ワルプルギスの夜を凌駕する魔女に』



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第二一話 マミさん、救済の魔女と決戦する

『彼女の力は規格外すぎた。ただの一撃でソウルジェムの全ての力を使い果たしたのさ』

「そんな……」

 

 キュゥべえの言葉によろめき倒れそうになるマミを杏子が支えた。

 それは肉体的な部分だけでなく、精神的な部分においても同じことだ。ともすると軸を失いそうになるマミに叱咤の声をかけるのは、彼女の役目だった。

 

「マミさん、魔女になった魔法少女にしてあげれることはひとつだよ」

「……そうよね」

『無茶だ。まどかはワルプルギスの夜を一撃で倒したんだよ。そのまどかが魔女になったんだ、ワルプルギスの夜よりも強いことくらいキミたちにも分かるだろう?』

 

 キュゥべえが抗弁する。彼の絵図としては、マミも杏子も、そしてさやかも、魔女となったまどかによって滅んでいく世界の中で絶望し、エントロピーを吐き出して魔女と成り果てるべきであり、無為に戦って死なせるなどもってのほかだった。

 

「私は魔法少女だもの。街の皆のために戦うだけだし、勝てると確信できる相手だけを選んで戦うつもりもないわ」

『杏子、キミはそれでいいのかい』

「死ぬのは嫌だけどさ、ここで逃げて生き延びたって、笑って生きていけるとは思えないしな」

 

 もちろん戦って死ねば笑って生きていくなど夢のまた夢――そんなことは先刻承知と笑い飛ばすと、杏子は続けた。

 

「それにさ、どうせ一度死んでまどかにもらった命なんだろ? なら、まどかのために使うさ」

『無駄に命を散らす必要があるとは思えないが……』

「キュゥべえ、どうせならキミたちは99%の確率で負ける、とか言ってくれた方が、勝ちフラグっぽくて嬉しいんだけどな」

 

 まぜっかえすことでキュゥべえを黙らせると、マミはマスケットを、杏子は大身槍を手にして数度振るった。死亡して蘇生されたことが事実なら、身体的魔力的な不調も予想したが、身体は問題なくイメージ通りに動く。魔力も思うように操れるし、残量も充分。

 

「ありがとう、鹿目さん」

 

 コンディションとしては最高と言っていい。それを確かめると、今は亡き桃色の髪の少女に瞑目し感謝する。

 

『さやかを待たないのかい』

 

 まだいたのかお前、という表情で一瞥をくれると、杏子は穏やかな寝息をたてているさやかに視線を落とした。

 

「ん、さやかはまどかとは戦わない方がいいだろ」

「そうね。親友同士で争うのは辛いわ」

『そうか、わかった。ボクも出来る限りの協力はするよ』

 

 そう告げるのは激励でも親切心でもなく、彼は考えを変えたからだ。

 この調子ではどうあってもマミと杏子の戦闘を止めることはできない、ならば万にひとつに懸けて、マミと杏子が勝つことを目指そうと。そうすれば地球は滅びず、まだまだ人類から搾取が出来る――と。

 

 そもそもマミと杏子はワルプルギスの夜を撃破寸前まで追いつめている。

 いかに魔女となったまどかが強力とはいえ、展開次第では勝ち目もなくはないだろう。――ワルプルギスの夜を追い込むにあたって、もうひとりの魔法少女の稀有な能力が重要な役割を果たしていたことは、既にこの世界の住人全ての記憶から欠落していた。

 

「いらねーよ」

 

 一刀両断にする杏子と異なり、マミは態度を決めかねた様子で逡巡する。

 根底に利己的な欲望が流れていたとしても、キュゥべえが命を救ってくれたこと、孤独を癒してくれたこと、挫けそうな時に支えてくれたことは事実であり、単純に憎むことは出来そうになかった。

 

「行くわよ、杏子ちゃん!」

 

 敢えてキュゥべえの存在は無視して、マミは叫んだ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 魔女となった鹿目まどかには、世界の全ての心が掌の上にあるかのように視ることができた。

 ただ視るだけだ。理解をすることは、彼女自身の心が既に人ならざるものへと変質してしまっていたため、不可能だった。

 ある人物の心にフォーカスする。幼馴染への想いは届かず、それどころか親友に幼馴染を奪われようとし、ひどく傷ついた心。

 ある人物の心にフォーカスする。本当は傷ついているのに表面を誤魔化して飾り立てた、臆病で弱々しい心。

 ある人物の心にフォーカスする。深い傷に芯まで抉られ、かさぶたを剥がせば壊れてしまいそうな脆い心。

 ある人物の心にフォーカスする。ある人物の心にフォーカスする。ある人物の心にフォーカスする……。

 

『ミンナ、カアイソウ』

 

 何人の心を覗いても、どの心も傷つき、満たされていなかった。そして、『それでも』とつなげるべき言葉は、彼女には理解できなくなっていた。

 

『ワタシガ、≪救済≫シテアゲナクチャ……』

 

 前世期の怪獣映画のモンスターもかくやといった巨体を震わせると、頭上に球状の結界を作り出す。それは最初は数メートル径のものだったが、瞬く間に膨張し魔女自身の体躯をも上回る。

 結界がさらに成長を続けようとするところに、ふたりの魔法少女が現れた。見滝原の市街地と工業団地を結ぶ大橋を超え、そこから伸びる戦いの傷痕が激しく残る大通りを、魔女に向かって接近するふたりの魔法少女。

 ひとりは長銃を両手で抱き、黄金色の髪をなびかせて駆けるオレンジイエローの魔法少女。ひとりは長槍を両手に構え、ワインレッドの衣裳をコートのようになびかせて馳せるルビーレッドの魔法少女。

 全ての人――魔法少女も含む――は魔女にとって≪救済≫の対象だった。魔女は彼女たちの魂を、自らの作り出した楽園であるところの結界へ誘おうと、ほんの指先で摘まみあげる程度の魔力を込めた。

 

 

 

 魂が吸い上げられる、しかも魔女との距離が縮むごとにより強く。

 その事態に気付いたふたりは、一旦は前進を止めた。距離にして三〇〇メートルはあるが、魔女の威容を視界に収めるには首を上に傾けなければならない。

 

「マミさん、精神に直接攻撃してきているなら、ソウルジェムをガードすればいいはずだよ!」

「わかったわ。魔力障壁をジェムに張りましょう」

 

 今や彼女たちの精神性の全ては、拳ほどの大きさのソウルジェムに宿っている。それならば、精神への干渉はソウルジェムを保護することで遮断できるはず――その杏子の発想は正しかった。但し、干渉する魔力と保護する魔力が同程度ならば、という当然の条件はつく。

 

『ドウシテ、嫌ガルノ?』

 

 悲しいことも辛いことも全部忘れて、自分の作った楽園で幸せに暮らせるのに、と魔女は純粋に疑問に思った。生前のまどかなら、自身が拒むに違いないお仕着せの≪救済≫だが、魔女のまどかにはそれは唯一絶対のものと思われた。

 

『まみサンモ、杏子チャンモ、一緒ニオイデヨ、楽シイコトダケシヨウヨ』

 

 その言葉はマミにも聞こえた。言葉を操る魔女、それはマミの長い戦いの経験の中でも、前例のない存在だった。

 

「鹿目さん、あなた……そうなってまで……」

 

 魔女が少しだけ力を加えた。指先で摘まむ程度の魔力から、五本の指で握りしめる程度の魔力へ。それだけで、ソウルジェムを保護するために築いた障壁が悲鳴をあげる。

 杏子は、障壁を今にも砕かんと押し寄せる魔力に、敵意や害意ではなく温かさを感じていた。それは獲物を安寧に巣へ運ぶための擬態――ではないと、杏子は直感した。これが魔女の本心だと。

 

「まどか、お前……やめろよ! 戦いに来たのに、なんでそんな優しいんだよ!」

『ミンナ、ワタシノ楽園デイツマデモ楽シクスルノ』

 

 杏子の障壁に欠けが生じた。その欠けから侵入したまどかの魔力が、ソウルジェムに到達する。

 ソウルジェムに座する杏子の魂が、優しく撫でられた。すると、杏子の心から、闘志や憤りといった感情が、雪が陽光に溶かされるように薄れていった。魂そのものが浄化されるような現象は、母の胎内にいるかのような幸福感を杏子に与える。

 

 ――なんだよ、こいつ……神様かよ……。

 

 安楽な感情のみを残して他を消し去ろうとする力を前に、杏子は膝を折り、次いで両の掌を地についた。

 

「ごめんなさいね、鹿目さん。あなたの邪魔をするわ。大丈夫? 杏子ちゃん」

 

 その杏子を庇うかのように、マミが杏子の前に立った。そしてオレンジイエローの魔力に輝くリボンを側頭部のソウルジェムから大波のように溢れさせ、ふたりを護るように覆った。

 魔女の干渉から解放された杏子は息を整えると、マミに笑みを返して自らの魔力でソウルジェムをガードする。それを確認したマミは、鳥籠状に展開していたリボンを温かな光をたたえたソウルジェムに引き戻す。

 

「たとえあんたが神様でも、たとえあんたから見て要らない心でも、勝手なことされちゃ困るんだよ!」

 

 吠えた。それは自分を誤魔化すための叫びだった。

 

『ドウシテ……?』

「歓ぶ人たちと共に歓び、泣く人たちと共に泣きなさいってね。あたしはマミさんと一緒に笑うだけじゃなくて、一緒に泣きたいし、つまらないケンカだってしたいんだ。そういうもんだろ!」

『ソウカ、怖インダネ……怖ガラナクテ、イイノニ』

 

 さらに魔女が力を込めた。手で握りしめる程度の魔力から、両腕で抱き締めるような魔力へ。啖呵をきった魔法少女だが、近寄ることも出来ず防御することで精一杯だ。

 苦し紛れに放ったマミの魔弾が、魔女を射抜く軌道で走る。

 しかし、魔弾は水中を走るかのように急激に減速し、魔女に達する前に失速して地に墜ちた。魔女の体躯周辺の魔力が濃すぎて、物理的な抵抗を魔弾に与えているのだ。

 

「ちくしょう、もたないかも……」

 

 魔力の障壁がひび割れ、悲鳴をあげていることが杏子には自覚できた。障壁のサイズをソウルジェムに密着するほどに小さくし、魔力の密度を上げて抵抗するが、いつまでも保つとは思えなかった。

 

「ダメよ杏子ちゃん、先に逝くなんて絶対に許さないわ!」

 

 そういうマミさんこそ、いつもいつも先に逝こうとするくせに、と言い返す余裕すらなかった。訓練によって得手不得手の差は縮まっているものの、杏子の性質は攻撃力や瞬発力にある。間断ない責苦を防御し続けることは、やはり得意ではなかった。

 逆にマミは防御力や持久力に秀でていて、まだ魔女の干渉に対して余裕をもって対処できている。

 

「杏子ちゃん、ソウルジェムをちょうだい!」

 

 意図を読めずにいる杏子に身を寄せると、リボンの鳥籠を作り一時的な安全を確保し、「さぁ、ちょうだい」とばかりに手を広げて伸ばす。胸元の赤いソウルジェムに掴みかからんばかりの勢いだ。

 

「こっちで護るから、攻撃に集中して!」

「強引なんだから、マミさんは!」

 

 自身の胸元からソウルジェムを乱暴に剥ぎ取ると、伸ばしたマミの手に握手をするようにして宝玉を託した。

 

「あたしの命、任せたからね」

「多分、死ぬときは一緒になるわ」

「それはいいね、またマミさんに先に死なれたら堪ったもんじゃないや!」

 

 マミは自らのソウルジェムも花を模したアクセサリから取り外し、杏子のソウルジェムと重ねて左手に持った。

 左手を胸の谷間に強く押し付ける。そしてその上から、押し付けた左手ごとソウルジェムをリボンで身体に強く巻き付けた。魔力障壁とリボンの結界とで、二重にガードする構えだ。

 下部をコルセット、上部をリボンできつく締め上げられた乳房が窮屈そうに上下する。それを眺めながら「またってなんですか」と反論するが、本人も自覚しているのか語気は弱い。

 

「私は引き気味に戦うから、杏子ちゃんは前衛お願い。私から離れすぎないでね、こっちも気を付けるようにはするけど」

 

 片手をリボンで拘束している状態になるが、さして問題はない。マミの戦闘力の殆どはリボンに依存しており、リボンには手ずからの操作は必要がないからだ。マスケットも的が巨大なだけに、浮遊設置からの射撃で全く問題ないだろう。

 

「おうッ! 必殺、ロッソ・ファンタズマ!」

 

 

 

 

 

 

 試みは奏効した。

 二重に護られたソウルジェムは、一〇〇メートルを切る距離まで接近しても魔女の干渉を拒み、近接戦闘が可能な範囲まで近づいた杏子は、手にした大身槍で魔女の体躯を引き裂いた。

 

『痛イヨ、杏子チャン』

 

 だが、得られた反応はそれだけだった。

 裂かれた傷もえぐられた傷も瞬く間に塞がり、魔女にダメージが蓄積された形跡は微塵もない。それでも攻撃を続ける杏子の身体を、ゆっくりと伸ばした魔女の手が捉えた。

 魔女の五本の指が、杏子の身体に絡みつき拘束する。痛みを感じさせない、緩やかな拘束だ。

 

「くっそ! ファンタズマが効いてないのか?」

『ドレガ本物ノ杏子チャンカ、分カラナイワケナイジャナイ』

 

 魔女には心が見れるのだから、心を持たないファンタズマに攪乱されるわけもなかった。

 告げる魔女の声は笑うような響きだったが、それが嘲笑ではなく純粋な笑みであることは杏子にもマミにも理解できた。いまだに魔女は、ふたりに敵意を見せていない。

 

 ――作戦通りソウルジェムは護れた、作戦通り近付けた、でも……っ!

 

 四〇を超えるマスケットの魔弾を、杏子を捉えている魔女の手の甲に集弾させる。魔女の意識が逸れた瞬間に、大身槍を乱舞させて魔女の拘束から逃れた杏子。その杏子へ追い縋る魔女の手をリボンで壁を作り遮る。

 

 ――圧倒的すぎるわ……! ワルプルギスの夜にしたって、一撃ごとに手応えはあったのに!

 

 杏子も同じ気持ちだった。「勝てない」という言葉が喉を這い上がってくるのを必死に抑え込む。

 

「ねぇ、マミさん、ここは一発、いつものアレを」

 

 マミの傍らまで退いた杏子。魔女もそこまでは手を伸ばしてこず、攻め手は魔力干渉だけになる。

 

「アレじゃ分からないわ。一緒に叫んでくれる?」

「分かってるじゃん、その反応は」

「えー、分かんない」

 

 じゃれるような問答を繰り返しながらも、マミの横には大型のマスケットが練り上げられつつある。魔力干渉に責め苛まれながらではあるものの、他の攻撃がないため普段よりも大砲の形成自体は容易かった。

 なまなかな砲撃では無意味――そう考えたマミは、際限なく大砲を練り上げる。そのマスケット砲は、電力送電塔を砲身に転用したような姿にまで育っていた。

 

「必殺……!」

 

 朗々たる声とともに、自由になる右腕を天を指すように大きく振り上げる。そして、杏子に視線を向けてパチリとウィンクをする。一拍おいて静止した腕が勢いよく振り下ろされると同時に、ふたりの声が重なった。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 轟音が耳をつんざき、閃光が視野を奪った。

 魔弾が魔女の体躯を貫いた。

 怪獣を思わせる規模の巨躯、その腹に風穴が開き、その穴を通して向こうの景色が見えた。

 が、それも一瞬。

 風穴は、そのようなものなど最初からなかったかのように、痕ひとつ残さず塞がる。

 

「せめて防御くらいして欲しかったわね……」

『まみサン、ドウシテ酷イコトスルノ』

 

 その声に詰る響きはなく、ただ純粋に理解が及ばないと告げていた。魔女はどこまでも、ふたりに対して害意を示さない。

 

「マミさん、今のを連続で入れれば……!」

 

 自らに言い聞かせるような杏子の声に、マミは頷く。

 

「それしかないわね」

 

 無駄だと思うけど、という枕詞を飲み込んでマミは呟いた。今の攻撃にしても、魔女を傷付けた手応えはなく、凝集している魔女の構成組織を一瞬散らしただけとしか思えなかった。もっと別種のベクトルの攻撃でないと――いや、そもそも倒すという概念が成立する相手なのだろうか。

 

「あたしの魔力もティロ・フィナーレに注ぎ込むよ」

「そんなこと……」

「出来るよ! だってソウルジェムもひっついてるんだし!」

 

 理屈にもなっていない杏子の言葉を、マミは微笑みで迎えた。出来る出来ないで論じる段階ではなくなっている、やるしかないんだ、と決意すると、マミは右手を伸ばして杏子の肩を抱き寄せた。

 抱き寄せられた杏子は短い悲鳴をあげた後、マミに身体を預けるようにしなだれかかる。ソウルジェムだけでなく身体もひっついた方が――という理屈に、両者ともに躊躇いはなかった。

 

「杏子ちゃん、名前はどうする?」

「ん……ロッソ・フィナーレとか?」

「ふふ、それじゃ杏子ちゃんの技みたい……まぁ、いいわ。ロッソ・フィナーレね」

 

 そのようなことが出来るのか、出来たとして魔女に通用するのか。その解を得る機会は失われる。

 ひとりの闖入者によって。

 

 

 

 

 

 

「真打ち登場! さぁ、まどか、このあたしが遥かな眠りの旅を捧げちゃうぞ!」

 

 自己嫌悪や妬み僻み、ありていに言えば絶望に塗れた精神状態であったのが、死亡直前の美樹さやかの筈なのだが――。

 この場に現れた美樹さやかは、そういった感情をどこかに置いてきたかのように、明るい声で叫んだ。

 

『サヤカチャン』

 

 親友の姿を認めた魔女の意識が、さやかの心にフォーカスされる。

 そこにはやはり、負の感情が渦巻いていた。だが、それ以上に強く、鹿目まどかへの愛情や感謝、そして憐憫の情が溢れていた。

 

「美樹さん、ソウルジェムを守って!」

「はいっ!」

 

 魔女がしようとしていることと、その防御方法がさやかには分かった。魔力の障壁を張り、自身の固有魔法であるバンテージでソウルジェムを囲む。マミが行った防御方法に相似した、適切な防御だった。

 魔女の干渉がシャットダウンされる。その様を見て杏子は声を荒げた。

 

「おいさやか、なんでお前そんな器用に……!」

 

 一度は魔女に堕ちた記憶が、すなわち魔法を操る人間である魔法少女から、魔法生命そのものである魔女へ変遷した経験が、さやかに魔法の理解を深めさせ、対処法を教えていた――のだが、彼女自身それを把握してはいなかった。

 

「ダテにあの世は見てねぇぜってとこですかねー」

 

 笑う。彼女の象徴色であるアクアブルーの海を思わせる爽やかな笑みを浮かべると、次に真剣な表情を見せた。

 

「てゆかマミさん、杏子、その節はすみませんでした!」

 

 その節とは、魔女に堕ちたことを意味している。そしてその記憶を、彼女は明確に保持している。

 意識が憎しみや恨みで満たされた汚泥の底に沈み、そこから水上にあたる現実世界を眺めていた。

 彼方におぼろげに見える水面の先の世界。それは水面で光が屈折することと同じように歪み偏向されており、いかなる事象も彼女に憎々しげな印象を与えた。

 暗い底に沈んだ精神は常に周囲を満たす負の感情に責め苛まれ、そこでさやかに出来ることは、歪んだ視界に映るものを呪うことだけだった。

 

 ――あんな状態から、一秒でも早くまどかを助けなきゃ!

 

 さやかが空を飛んだ。マミや杏子が無尽蔵に足場を築いて空中で戦うことも空を飛ぶと称して良いだろうが、さやかはそれと異なり、蝶や鳥が飛ぶようになんの補助も細工もなく身体を宙に舞わせた。

 軌跡に虹色の五線譜を残して、さやかが上昇する。

 

『サヤカチャン、悲シイノモ辛イノモ、全部消シテアゲルネ』

 

 伸ばされた魔女の両の手が、さやかを包んだ。しかし一瞬の後、さやかの無数の斬撃で両手が内側から砕けて消し飛んだ。

 

「あんたは本当にすごいね。あたしは、魔女になったら皆を憎むことしか出来なかった。逆恨みなのにね。なのにあんたは、そんなになっても他人のためって思えるんだ」

 

 散らされた蚊柱がすぐに元通りになるように、魔女の両手が再現される。さやかの斬撃も一時的に魔女の魔力を散らしているだけで、根本的なダメージには至っていない。

 

「そんなあんたに、罪は背負わせない。あんたがひとりの犠牲者だって出さないうちに、あたしが倒してやる!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「美樹さんは強いわね……」

 

 上空を舞うさやかを遠目に眺め、マミが大きく息を吐いて呟いた。

 

「私が美樹さんの立場で、鹿目さんが杏子ちゃんなら、きっと泣いてばかりで一歩も動けない。結局私は弱いままなんだわ……」

 

 マミの独白を聞き、逆ならどうか、と杏子は考える。必ず止めるとマミに約したが、それを迷いなく実行できるとは自分でも思えない。それを思えば美樹さやかの割り切りは異常にさえ見える。

 彼女が口にしたように、あの世を見た――魔女化し、その記憶を残していることで、同じように魔女となってしまった仲間への判断に迷いがないのだろうが、それがない杏子やマミには同じように振舞うことは難しい。

 

「マミさんと会って一年ってとこかな……、マミさんは充分、成長したと思うよ」

「あら……。ふふ、杏子ちゃんの方がお姉さんみたいね」

「まぁ、実際に長女をやってたからさ。お姉ちゃん経験はマミさんより上だよ」

 

 照れ隠しに笑う杏子を穏やかな眼差しで見やると、マミは遥か上空を舞うさやかを援護するようにマスケットを空中に並べた。既にさやかが突撃を行っている以上、重砲支援に偏るのは得策ではない、そう判断したマミは、マスケットによる支援と、杏子の近接による支援の並列に切り替える。

 

「そうね。さぁ、美樹さんを援護しましょう!」

 

 魔女の魔力圧を切り裂くため、針のような形状に変化させた魔弾を連射させる。

 その弾道の間を縫うように、杏子が空へ駆け上がる。

 今や五本、一〇本とその数を増やした魔女の腕をかいくぐりつつ、さやかが杏子を迎え入れるように声をかけた。

 

「お、いつぞやのマミさんチーム再結成ですねー」

「おう、あんときと同じく、マミさんとあたしがフォローするから、思い切りやんな」

「え。いやいや、マミさんはともかく杏子はフォローに回るような殊勝な子じゃなかったでしょー」

「うるせぇよ!」

 

 目にもとまらぬ、という形容が相応しい速さの槍の連撃で、さやかに掴みかからんとしていた魔女の腕を散らすと、杏子は胸を張る。

 

「ほら、フォローしてやっただろうが」

「はいはい、感謝しますよー」

 

 今度はさやかが、微塵斬りにするような斬撃で杏子に迫る腕を散らす。先の杏子が散らした腕と同様、すぐに再現されるため全くダメージを与えているという感触はないが……。

 

 

 

 

 そのような小康状態が五分ほど続いた。

 時折、隙を見て魔女の胴体にも攻撃を入れるが、やはり一時的に傷口を作るだけで、瞬く間に再生していく。そのような状況に魔法少女たちは焦れるが、魔女はより強く焦れているようだった。

 

『サヤカチャン、ドウシテソンナニ逃ゲ回ルノ? ワタシガ要ラナイモノ全部消シテアゲルヨ。ソレデ、ワタシノ結界ノ中デ幸セニ過ゴソウヨ。コンナ現実ヨリ、ソノ方ガミンナ救ワレルヨ』

 

 最初の頃は、迷い込んだ羽虫を保護するような所作でさやかと杏子を掴もうとしていた魔女の腕が、今はそのような気遣いを忘れたように猛然とした勢いで掴みかかってきている。

 だが、それは必ずしも魔法少女に不利には働かなかった。速さこそ上がったものの、正確さを欠いた攻撃は避けるに易く、剣や槍で迎撃する必要が薄くなったことから、ふたりは回避を重視して高度を上げる。

 

「と、届かなくならないように……ね」

 

 後方に控えていたマミも、杏子がソウルジェムの有効圏内から逸脱しないように上空へと向かった。

 

 

 

 

 魔女の巨大な頭部へ辿り着いたさやかは、サーベルでの突いた。突く対象は、自分の身長ほどもある魔女の瞳。

 今までの攻撃と異なり、鈍く重い手応えがあった。その効果を認めるように、まどかの面影を残す魔女の顔が歪む。

 アーモンド形の瞳。そこに剣撃で穿たれた孔から、血液のように粘り気のある魔力が溢れ出る。溢れ出た魔力は意志があるかのように、さやかに向かって迸った。

 とっさにマントで身体を隠すさやかだが、ガスのような特性を持つのか、マントを回り込むようにして魔女の魔力がさやかの四肢に到達する。

 

『ツカマエタ』

 

 不確かな流体として振る舞っていた魔力がにわかに凝固する。凝固した魔力は枷となり、さやかの四肢を拘束した。

 

『悲シイコトモ、寂シイコトモ、全部取リ除イテ、本当ニ幸セナ世界デ一緒ニイヨウ、サヤカチャン』

 

 そして、手足を拘束している枷から、人の腕の形をしたものがせり出し、先端をさやかの臍――ソウルジェムへ伸ばした。先端に備えられた枯れ枝のような指が、ジェムを保護するために巻かれているバンテージをつまむ。

 ぺろり、とバンテージが捲られると保護が弱まり、さやかのソウルジェムに魔女の魔力が干渉を始める。バンテージがほつれた僅かな隙間から侵入した魔力が、さやかのソウルジェムを撫でさする。

 ぬるま湯のプールに仰向けで揺蕩うような、そんな感覚をさやかはおぼえた。

 そして湯の中に、さやかが隠し持っていた悲しみも嘆きも溶けて消えていくように薄れていく。

 

 ――あ……ヤバい。もういいやって思っちゃってる。

 

 ソウルジェムに座する魂の具象化としてのさやかも、現実で魔女に拘束されるさやかも、同じように瞼をおろした。それは母の腕の中で眠る赤子のような、幸せに満ちた顔だった。



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第二二話 マミさん、ワルプルギスの夜を越える

「しっかりしろ、さやか!」

 

 杏子の放った突きが、バンテージを掴んでいる魔女の指を砕いた。続いて、四肢を絡め取っている魔力の枷を乱暴に薙ぎ払う。

 拘束から解放されたことでさやかの身体が落下しようとする。それを片手で抱きとめると、幸せそうな寝顔を見せるさやかの頬を平手で数度叩いた。

 斜め下方にいるマミにまで届くほどの平手の音が鳴り、頬を張られたさやかが瞼を持ち上げる。

 

「ほら、呆けてんじゃねーぞ」

「サンキューだよ、杏子!」

 

 さやかはウィンクを返し、バンテージでソウルジェムの保護を行ってから杏子の腕を抜け出した。魔女は瞳に穿たれた孔を塞ぐことはせず、そこから魔力を溢れ出させ、さやかと杏子へ向かわせる。

 

『ホラ、気持チ良カッタデショウ? ズットコウシテイヨウヨ。辛イコトヤ悲シイコトヲ我慢シテ頑張ル必要ナンテナインダヨ。ワタシガ皆ノタメニ幸セナ世界ヲ作ッテアゲルカラ、ソコデ皆デ楽シク過ゴソウ。ダッテコノ世界ハ、悲シミヤ苦シミバカリノ、間違ッタ世界ナンダカラ。ワタシガ皆ヲ救済シテアゲルノ』

 

 諭すように、誘うように語りかけながら、流体となった魔力を操りふたりを捕らえようとする。

 

『誰モ泣カナイ、誰モ悲シマナイ、ソンナ世界ヲ作ルカラ、サヤカチャンモオイデヨ』

「このバカまどかっ!」

 

 追いすがる魔力の流体を斬撃で散らしながら、魔女の耳に相当する箇所に至ったさやかが、耳元で怒鳴るように声を荒げた。言って伝わると彼女自身思っていないが、自らの親友の身勝手な物言いに、言い返さずにはいられなかった。

 

「あんた、そんなのが本当に救いだと思ってるの? 自覚ないだろうけどさ、魔女になっちゃって、悪い方にに引っ張られてるんだよ!」

『コワガラナイデ……』

 

 やはり耳を貸す素振りもなく、魔女は自らの理論を続けつつ魔法少女を捕らえようと魔力を操る。

 

「怖いも怖くないもあるかっ! つーか、あんたの優しさがそんな風に歪められることが一番怖いわよっ!」

『歪ンデイルノハ、コノ世界ノ方ダヨ。ワタシガ正シク救済シテアゲルノ』

「まどかっ! 聞き分けなよ!」

『悲シミモ苦シミモナクナレバ、本当ニ幸セダヨ。楽園ニイコウヨ』

「さっきちょろっと味わったから、知ってるってば! えぇほんと心地好い体験でしたよ!」

 

 足を止めて叫んでいたさやかに、左右上下から魔力の流体が少女の体を拘束しようと迫る。

 虚をつかれた形になったさやかは、とっさに右側の魔力塊をサーベルで斬り裂いて、包囲を脱するべくその方向に身体を投げ出す。だが、初動が遅かった。逃げきれない、と判断したさやかは、ソウルジェムを守るために、膝を曲げて両腕で抱え赤子のように丸く防御態勢をとった。

 

「バカまどかーっ!」

 

 だが、覚悟していた魔力塊による拘束は訪れなかった。見やると、コーン状に渦巻いている黄色いリボンが、そこかしこで魔力塊を円筒構造の内側に抑え込んでいた。

 

「斬ったり突いたりが効かないのなら、私の絶対領域に閉じ込めちゃいましょうか」

 

 いつの間に近寄ったのか、ふたりのほど近くに立つマミ。

 その声に従い、渦巻くリボンの形状がコーンからアーモンドのように変化し、開口部が閉じる。回転するリボンとリボンの間は相応の間隔があるが、マミの絶対領域は侵入も脱出も許さない。それは流体状の魔力に対しても同様であり、魔法少女を執拗に追いかけていた魔力塊はリボンの檻に閉じ込められた。

 

「マミさん、なんでこんな近くに」

「だって杏子ちゃん無茶苦茶に動くんだもの。近寄らないと不安だわ」

「そ、そう言われても追い立てられてるんだから、しょうがないじゃん……」

 

 詰るような拗ねるようなマミの口調に、反論する杏子はバツの悪い表情を隠せない。

 

『まみサン、杏子チャン、少シ待ッテテネ。先ニサヤカチャンヲ≪救済≫シテアゲルカラ』

「そんなもん、頼んでないっつーの!」

 

 反駁する言葉とともに、青の魔法少女がサーベルを魔女の耳あたりに突き立てる。手応えあり、と感じたさやかは突き刺した剣を螺子よろしく回転させて傷口を広げようとする――のだが、その傷口から新たに溢れ出した魔力塊に追われ、這う這うの体で空を駆け回る。

 

「ばっか、さやか、お前学習しろよ!」

「じゃぁ、どうすればいいってのよー!」

「それにしても、なかなかに手詰まりね……向こうが本気で攻撃してこないからなんとかなっているけど」

 

 幾つかの魔力塊を新たに絶対領域に捕らえながら、マミが自由になる右腕で頬を掻いて溜め息をつく。魔力塊は小規模なのでリボンの檻に隔離できるが、腕での攻撃は回避し続けるしかなく、考えをまとめる余裕もない。

 

『攻撃ナンテスルワケナイヨ、皆ハ楽園ニ連レテイッテアゲルンダカラ』

「こっちは必死に攻撃してるのに、心が広いというかなんというか」

『攻撃ナノ? 撫デラレタ程ニモ感ジナイカラ気ニシナイデイイヨ、エヘヘ』

 

 さやかの言葉に魔女が笑った。

 それは無垢な笑いだったのかもしれない、しかし、魔法少女たちには、魔女の多くがなす哄笑の類に聞こえた。

 

「あーそうですか、サーベルが効かないってんなら、もういいっ!」

 

 無性に腹が立った。そんな理由で、さやかはサーベルを投げ棄て、白の手袋を大きく広げて――魔女の頬を張った。

 頬を張ったといっても、瞳だけで魔法少女の身長ほどもある魔女に対してなので、壁を平手打ちにするようなもの、張ったさやかの方が痛みをおぼえる類いのものだった。だが委細構わず、さやかは平手打ちを繰り返した。

 

『ナ、何スルノ、サヤカチャン』

「うるさい! 目ぇ覚ませっ! バカまどかっ!」

『ヒドイヨ、馬鹿ジャないシ』

「口答えするな! あんたなんかバカの中のバカっ! バカ目まどかで充分よっ!」

『ナニよソレ、バカバカいうホウがバカなんじゃないノ』

 

「お」

「あら」

 

 短い言葉で違和感を表明する杏子とマミだったが、当の美樹さやかは自らが吐く罵詈雑言に煽り立てられるように感情的になり、平手と暴言を繰り返していた。

 

『さやかチャン、ソンナ昂った気持ちも、ワタシガ吸い取ってアゲるから、落ち着イテ』

「だから、それだよ! それがバカだって言ってんの!」

『いいコトだもん、ばかジャないよ』

 

 疲労をおぼえたのか、打つことに飽いたのか、さやかは平手を魔女の頬に押し付けたまま、肩で息をする。

 眺めるマミには、その所作は頬を撫でているようにも見えた。

 

 いつの間にか、魔女の腕による乱雑な攻撃も止んでいた。

 マミと杏子はひとつの花冠の上に寄り添い、さやかの行動を注視する――いつでも、援護攻撃が出来るように。

 

「ねぇ、まどか。悲しみや苦しみを取り除くって言ったけど、それっていいことなのかな。あたしさ、悲しいこと一杯あったけど、その分、まどかがあたしのこと想ってくれて、優しくしてくれて、本当にかけがえのない親友なんだって思えたよ。悲しみも不幸もなくしちゃったら、そういうこともなくなるんじゃないかな」

『いいコトだヨ……。だって、悲シイトみんな辛いデショウ』

「あたしバカで、子供の頃からあんたには何度も迷惑もかけちゃったけど、おかげであんたとは心の底から信頼できるくらい仲良くなれたよね。あたしは、そういうのがなくなる方が辛いと思うよ」

 

 手の動きを止めたことで心まで落ち着いたように、さやかは静かな口調で語りかける、

 そして、その身を魔女の頬に預けるように押し付けた。

 冷たい、とさやかは感じたが、それは嫌な感触ではなかった。

 

「まどか、憶えてないだろうけど、幼稚園の頃さ。あんたお母さんが手握ってくれないと眠れなくて、幼稚園の先生困らせてたよね。先生が手を握ってもダメでさ。あたしが手を握ると、なんでか寝てくれて。あたしさ、なんかまどかの特別なんだなって嬉しかったの憶えてる」

『憶えてる……。今も落ち着クヨ』

「バカのくせに記憶力いいなー」

『ばかジャないし』

「ねぇ、まどか、いくらあんたがいいコトだって思ったとしても、罪は罪だよ」

『つみ?』

「そうだよ。悲しみや苦しみを取り除くっていっても、その人は死んじゃうわけだし。まどかにそんなことさせたくないよ」

『あレ……そっか、そウだよね、なんでワタシ、そんなことワスれテいたんだろ』

「まどかはすごいね。魔女になっても、そうやって優しさを持ってる。あたしなんて……」

『さやかちゃン、わたしを止めようとしてくれテたんだね』

「止めようっていうと言葉が綺麗すぎるよね。殺そうとしてたんだよ」

 

 その言葉を肯定するように、さやかの右手にサーベルが静かに生み出される。

 手にしたサーベルは持ち主の性格を表すように、鞘という装具を持たない。

 そしてブレードを走る鎬は青い水の色に染まり、寄せては引く波のかたちをした刃紋も微かな青を示し、持ち主の属性を示す。

 さやかが柄を握る手に力を込めると、鈴が鳴るような音が刀身から響いた。

 

『そっか、しょうウガないよね……』

 

 得心したように応える魔女に微笑むと、さやかは上半身を捻って斜め下方を見た。

 テーブルほどもあるマリーゴールドの花冠に立ち、こちらを見るふたりの魔法少女と視線が交錯する。

 見上げる少女たちの瞳には焦慮と憂慮の色が、見下ろす少女の瞳には平静と自負の色が見てとれた。

 

「マミさん、杏子、聞こえてた?」

「ええ……」

 

 その瞳の色が示す通りの語勢で、魔法少女たちが言葉を交わす。

 

「じゃ、そういうわけなんで……あたしでダメだったら、ふたりでお願いします」

「……分かったわ、安心して任せて。気の済むようにやりなさい」

 

 応えるマミは警戒を解いていなかった。魔女がソウルジェムに干渉し魂を吸い上げようとする力は依然健在だからだ。

 たとえ魔女本人が死を受け入れ害意をなくしたとしても、その悪意に満ちた生態は変わらないのではないか。

 いや、そもそも最初から魔女の意思などに意味はなく、魂を吸い上げる装置としての存在なのではないか――

 そのマミの予測は、半ば当たる。

 

 魔女の額に当たる部分に移動した美樹さやかは、抱きつく様に身体を押し付けると、ソウルジェムを保護していたバンテージをサーベルで裁った。

 純白のバンテージが、数条の帯となってふわりと風に舞う。

 それと同時に、剥き出しになったさやかのソウルジェムに魔女の魔力干渉が行われた。

 

『だめだよ、そんな近くで無防備にしちゃ、さやかちゃんの魂が吸い上げられちゃうよ』

「いいよ。但し、悲しみを消すとかそういうのはなしね」

『さやかちゃん、どうしたの? わたしを倒してくれるんじゃなかったの』

 

 悲鳴のように魔女――まどかが叫ぶ。さやかへの魔力干渉を止めたいのに止める術がない、その事実に半狂乱のような声をあげるが、対する美樹さやかは落ち着いていた。

 

「それはやめ。さ、まどか、あたしをまどかの世界に連れてって。そこでふたりで眠ろう。ふたりでなら、魔女にだって克てるさ」

『さやかちゃん……』

「但し、ふたりっきりだかんね。他の人は連れてっちゃだめだぞ?」

『……出来るか分からないけど、約束するよ。他の人は連れていかない』

「ははっ、頼りない子だな、まどかは。ま、あんたらしいか……。どこにいったって、あんたとなら天国みたいなもんだよ」

 

 ひとしきり笑うと、さやかは臍に埋まったソウルジェムを片手で取り出す。

 

「ほら」

 

 魂を取り込みやすいようにと、ソウルジェムを身体から浮かび上がらせ、胸の前で抱えてみせる。その宝玉は、朝露に濡れた果実を思わせる、瑞々しい輝きをたたえていた。

 掌中で一片の曇りなく輝くソウルジェムを見つめると、さやかは幸せそうに呟いた。

 

「こんな綺麗な色になったの、あたし初めて見たわ。まどかのおかげだよ」

『うん、綺麗だね……』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 雲の上に、さやかはいた。

 ふかふかのベッドを思わせる感触の白雲の上で、四肢を伸ばして俯せていた。

 手足がじーんと痺れて立てそうにない。首も痺れて、顔を横にすることすらできない。

 

『いらっしゃい、さやかちゃん』

 

 俯せた状態で瞳だけ動かすと、赤いパンプスが見えた。足首に小さな赤いリボンをあしらえた可愛らしいパンプスから、白いソックスが伸びている。

 

「まどか? 身体が痺れて動けないんだけど……」

『んー、わたしの結界だと、悲しみや苦しみを引きずっている人は、全身が痺れて動けないみたいなの』

 

 ふふっとまどかが笑うと、さやかの視界にピンクとホワイトのフリルスカートと、そこから伸びる白を基調にしたビスチェが入った。まどかが膝を下ろし、脚を崩したからだ。

 次に、まどかが上半身をさやかの方に傾ける。さやかはつむじの辺りに何かが触れるのを感じた。柔らかな感触から、彼女の手か頬だろうと思う。

 

『だから――さやかちゃんの悲しみと苦しみ、わたしが失くしてあげる』

「なな、なによいきなりっ! まどか、あんたまだっ!」

 

 恐慌と表現していいようなトーンでまくし立てるさやかに、まどかは鈴を転がすような笑いで応える。笑いにあわせて、視界の中のまどかの身体も揺れた。

 

『違うよ。わたし、みんなの心を見ることが出来るの。覗き見だからこれっきりにするけど、さやかちゃんのためだから、きっと神様も許してくれると思う』

 

 そして、まどかは返事を待たずに、さやかにふたりの人物の心を見せた。

 

『これが上条くんの心』

 

 さやかを想い、心配している少年の心と、

 

『こっちが仁美ちゃんの心』

 

 さやかを想い、心配している少女の心を。

 ふたりの心が、温かさとなってさやかの心に伝播する。その温かさに、春の日差しに雪が溶かされるように、彼女の心にあったわだかまりが消えていく。

 

「はは……、バカだな恭介も仁美も。あたしのことなんて心配して……こんなに…………」

 

 それ以上言葉を紡ぐことは、彼女にはできなかった。ただ咽び泣く声を漏らし、いつの間にか動くようになった手で目尻を押さえる。拭っても拭っても涙は溢れてきたが、やがて心の染みが全て溶けだし流れきったのか、最後に熱いひとしずくを零れさせて止んだ。

 それでも泣き濡らした顔を見せたくないのか、俯せたままでさやかは呟いた。

 

「まどか、ありがとう。これで本当に、思い残すことはないや」

『やっぱりこのふたりの心でそうなっちゃったね、さやかちゃん、単純』

「はは……、そうだね、単純だ」

『単純なくらいが、ちょうどいいよ』

 

 頭の上から聞こえていた声が、いつのまにか同じ高さの横方向から届いた。さやかは瞳だけを動かし、右を見る。そこには、仰向けに寝転んだまどかが、顔をこちらに向けて微笑んでいた。

 

「なにその格好。あんた自分でスケッチに描いたのまんまじゃん」

 

 馬鹿にしたように笑うさやかに、『可愛いもん』と口を尖らせて抗議すると、まどかは片手をゆっくりとさやかの方に伸ばした。応えて、さやかも手を伸ばし、指と指を絡めた。

 

『天国なんて作らなくても、さやかちゃんがいるここが、天国なんだよね』

「まどか、ずっとひとりにしてごめん」

『ううん、さやかちゃんも大変だったんだから。それに最後にさやかちゃんとおしゃべりできて嬉しい』

「最後じゃないよ、私もずっと一緒にいるから」

『そっか。良いことじゃないのかもしれないけど、良かった……』

 

 どちらからともなく、瞼をおろした。次いで、青色の髪の少女を俯せたまま、桃色の髪の少女は仰向けたまま、四肢を弛緩させる。

 ほどけそうになる手をぎゅっと繋ぎなおすと、それを最後に、ふたりは動かなくなった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 地上に降り、杏子と並んで魔女を見上げていたマミが、ぽつりと呟く。

 

「魔力の干渉がなくなったわ」

 

 それでも魔力の防御は緩めないし、リボンのガードも継続させたままだ。自分だけの魂ならともかく、横に立つ赤髪の少女の魂も預かっている以上、万が一にも油断をすることはできない。

 

 ――でも、終わったのでしょうね。

 

 根拠も何もない、多分に願望を含んだ感想であったが、マミはそう思った。

 隣に佇む少女はさらに楽観したのか、大身槍を消し去ると両の腕を頭の後ろで重ねた。その仕草に一房に束ねられた赤髪が馬の尾のように揺れる。

 

「さやかの奴、うまくやったみたいだね」

「そう……なのかしら」

 

 マミも杏子に倣い、右手に携えていたマスケットをリボンへ還す。そして右手を側頭部へあてがい、花を象ったアクセサリを指で弄ぶ。ソウルジェムを欠いたアクセサリは、所在無げにしているように彼女には感じられた。

 

 

 

 それから数分の後、ようやくマミはソウルジェムの防御を解いた。

 魔女は、魔力干渉を含む一切の行動を停止し、物言わぬ巨像としてふたりの眼前にあった。

 

「美樹さんの言葉通り、眠ったのね」

 

 それが永続的なものなのか、マミには分からない。時間で覚めるものかもしれないし、外部からの刺激で覚めるのかもしれない。しかし、今それを思い悩んでも仕方がないとマミは結論した。もしその日が来たら、どうせ死力を尽くす以外に出来ることはないのだから。

 

「眠った、か……。ドーミション、ってやつなのかな」

 

 マミから手渡された真紅のソウルジェムを胸元に収めながら、誰に言うともなく呟いた。正教会において聖女が眠りに落ちたことを示す教義であり、大祭に数えられる名を。

 

「それは……?」

「異端の教えかな。あたしにとっては……」

 

 くくっと笑う。それは、いまだに教条的な信仰に沿おうしている自分に対する嘲笑でもあった。

 

「でもさ、目の前で見せられたら信じたくもなっちゃうよね」

 

 残念ながら、杏子の自己完結した説明ではマミが理解することは適わなかったが、信仰に関するものであることは想像できた。杏子の心の強さは、信仰という寄る辺があることに起因するのだろうか、と考えたマミは杏子の想いとは幾分ずれた言葉を漏らす。

 

「何かを信じるって素敵よね」

「そうかもね。マミさんも宗派はともかく信仰してみたら?」

「確かに……いざって時に聖書からの引用とか、かっこいいものね」

 

 どういう「いざ」だよ、と内心で突っ込みながら、杏子は再び「そうかもね」と応えた。言葉は同じでも、響きがずいぶんと投げやりになっていたが……。

 

「人を襲うこともなく眠る優しい魔女、か。私もいつか魔女になる時は、ああなりたいわ」

「マミさん、縁起でもないこと言わないでよ」

「ふふ、ごめんなさい」

 

 だが、そう返しながらも杏子も内心で首肯していた。マミが魔女になる時は自分が倒してでも止めると約したが、青髪の少女と桃髪の少女のように、倒すのでなく止めれたらどんなに良いだろうかと思いながら。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ワルプルギスに端を発する暴風雨は霧散したが、救済の魔女(マミと杏子は微睡みの魔女と呼ぶことにした)の存在による竜巻は、依然として見滝原の工業団地に留まっていた。

 ただ、眠りに落ちているためか、竜巻は本来救済の魔女が持つ力から想定される規模には遠く及ばないものだった。

 数週間が経っても勢力を弱めない竜巻に、学会は新種の竜巻としての名称を与え、政府は見滝原工業団地に立入禁止区域としての扱いを与えた。

 鹿目まどかと美樹さやかは暴風雨による行方不明者として処理され、その訃報を受けた志筑仁美は教室で、上条恭介は自室で慟哭した。前者の現場に居合わせた佐倉杏子は多少の居心地の悪さをおぼえながらも、さりとて慰める術も持ち合わせておらず瞑目するしかなかった。

 

 

 ふたりの告別式への参列を終え、マンションに戻ったマミと杏子は久方ぶりにキュゥべえの出迎えを受けた。

 そろそろキミたちの怒りも収まったんじゃないかと思って、と伝えるキュゥべえ。ふたりは異口同音に「収まりかけていたけど、キュゥべえの顔を見たらぶり返した」と応えると、マミは手で、杏子は脱いだ靴の底で、キュゥべえの頭を叩いた。

 

『酷いな。ボクがいないとグリーフシードの処理が出来なくて困るんじゃないのかい』

「そうね。それにキュゥべえの存在は私たちにとって必要悪だものね」

『悪とはまた酷いな。せめてワクチンとでも呼んでよ』

 

 怪訝な顔をする杏子に、マミは説明する。

 

「魔女という、放っておくと人類を滅ぼす癌細胞は、既に世界中、私たち人類の全身に転移しているわ。この癌の進行を遅らせることができるのは、私たち魔法少女だけよ。どんなにひどい副作用があっても、私たち人類はキュゥべえと魔法少女システムを受け入れるしかないわ」

 

 納得できない、という表情の杏子に、マミは微笑んで言葉を連ねる。

 

「杏子ちゃんの反応がほんとうよ。私はなんだかんだでキュゥべえに恩もあるし、少し贔屓目に見てしまっているのかもね」

『いやいや、マミが正論だよ。これからも仲良くやっていこう、マミ、杏子』

「まぁ……マミさんがいいなら……」

 

 辞書において不承不承という項目に挿絵を設けるなら、今の杏子がまさにそれだろう。マミの言う理屈も分からなくはなかったが、感情が全面的に拒絶していた。

 

「ひとつ、条件があるのだけれど」

『なんだい、マミ』

「時々、殴らせてね」

『理不尽な要求だ、ワケが分からないよ』

「だって、あなたの顔見てると時々イラッとしそうなんだもん。ストレスは美容の大敵よ」

『……優しくしてね?』

 

 時々、という言葉を撤回しようかしらと思いながら、マミは眉のあたりを指で押さえて、早速のイラッとした気持ちを落ち着かせようとする。眉間に皺ができそうで嫌だなぁ、と内心で思いながら。

 

 

 

第三章 マミさん、ワルプルギスの夜を迎える   完



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番外編 魔法少女の契約事情
夜宵かおり、魔法少女の契約をする


登場するオリジナル魔法少女の契約に関する番外編です。
本編に対して不可欠ではありませんので、お時間が許す方だけ読んで頂ければと思います。
■ ■ ■ ■ ■ ■


 記念日というのは、毎日のようにある。

 例えば今日一二月一三日は、彼女にとって誕生日だ。まだ年輪を重ねることに喜びを感じる年頃の彼女にとって、誕生記念日と言っていい。彼女、夜宵かおりの一四回目の誕生記念日には、幾つかのイベントが控えていた。

 

 

 

「起立」

 

 桜色の小振りな唇が開き、金髪の少女が透き通るような声で号令を発する。あわせて、生徒達が椅子を下げる音を鳴らして立ち上がる。

 

「注目、礼」

 

 声の主が率先してお辞儀をすると、少し癖のある黄金色の髪が頬を撫でるように前に垂れる。遅れて、生徒達も頭を下げ「ありがとうございました」と声を揃える。生徒は女子しかいないこともあって、唱和する声は若々しく高かった。

 立礼を受けた教諭が、最近通り魔が出没しているので気を付けるようにと物騒なコメントを返すと、それを受けて号令を発していた少女が「着席」と唱える。その言葉を合図とするかのように、教室が放課後特有の雑然とした空気に包まれた。

 

 ふう、と号令を発していた少女、夜宵かおりが伸びをする。その仕草で彼女の豊かな乳房がブレザーの前合わせを押し開いて主張するが、男性の目がないこともあって彼女は気にしない。繰り返される彼女の伸びにあわせて、緩くウェーブした黄金色の髪が二度三度と腰のあたりを叩く。その豊かなボリュームとは裏腹に金髪は軽やかに舞い、重量を感じさせない。

 

 ――さて、テニス部の練習に行きませんと。

 

 スクールバッグを机の上に置くと、引き出しの中身をバッグに入れる。押し込むのではなく、整然と揃えて入れる所作に、彼女の几帳面な性格が見てとれた。

 教科書を、筆箱をと次々に掴む彼女の指はしなやかで長い、が、もっとも特徴的なのはその色だった。小麦色、という表現をいささかはみ出しそうな色は、赤道直下の国々に紛れ込んでも違和感がなさそうだ。

 大きめのスクールバッグは、まるで不可視のパーティションが設置されているかのように、きれいに区分けされていた。教科書のエリア、お弁当箱のエリア、筆箱のエリア、簡単なお薬のエリア、ソーイングセットのエリア、簡単なお化粧道具のエリア、お菓子のエリア、折り畳み傘のエリア、部活用着替えのエリア。

 さっと視線を走らせて異常がないことを確認すると、彼女は満足気に頷いた。その所作で前髪が揺れた。かなり急な角度で斜めに切り揃えられた前髪だ。右側はおでこを見せ、左側は眉毛を隠している。髪型に頓着しない彼女だが、この前髪だけは気に入っていて、小学生の頃から貫いている。

 小気味良い金属音を響かせてバッグを閉めると、んしょ、と微妙に年寄臭い声をあげて肩にかける。そして部活に向かうべく歩を進めようとしたところで、不意に声がした。

 

「あっ、あのっ、夜宵さんっ」

「はい、なにかしら、奈津さん」

 

 声をかけてきたのは、同じクラスの奈津だった。クラス委員の夜宵だからすぐに名前と顔が一致したが、恐らくクラスの半分程度は、すぐには難しいのではないか、というくらいに目立たない少女。成績も普通、運動も普通、容姿も一般的な趣向で言えば普通、そして引っ込み思案と、ステルス性の限界に挑戦していると言われても信じてしまいそうな少女だ。

 

「あっ、あのっ!」

「はい」

 

 落ち着かせようとかおりは柔和な笑みを投げかけるが、残念ながら奈津は視線を伏せており、その効果はなかった。

 

「あのっ!」

 

 壊れたレコード状態の奈津だが、幸いお嬢様学校なので冷やかすような輩はいなかった。もっとも、教室に残っている二〇名ほどは、カバンを整理しているふり、机を片付けているふりなどをしつつ、礼儀正しく聞き耳をたてている。

 少し困った顔をしたかおりは、彼女の肩をぽんぽんと叩くと、彼女にだけ聞こえる声で「落ち着いて」と呟いた。

 

「はっ、はいっ!」

「えっと、わたくしにご用ですのよね?」

「はっ、はいっ!」

 

 かおりのボディタッチ&囁きによってレコード針の飛ぶ位置が少しずれたようだ。残念ながら事態の改善にはまったく至っていないが……。

 机の上にスクールバッグを置きなおすと、かおりは椅子に腰を下ろした。そして、既に主が下校済みの隣の席に、奈津を座るよう促す。内心、早く部活に行きたいなと思うかおりだったが、表情には出さず優しく語りかけた。

 

「奈津さん、深呼吸してみましょうか。はい、すぅ~」

 

 かおりに一拍遅れて、奈津も深呼吸を行う。数度繰り返すと落ち着きを取り戻したのか、睨むような眼差しでかおりを見つめる。そして、ばっと頭を下げて、

 

「お誕生日、おめでとうございます!」

「あら、ご存じでしたのね。ありがとうございます」

「こっ、これっ!」

 

 床を見つめたまま、両手だけを突き出してかおりに封筒を突きつける。

 

「お誕生日プレゼントですっ、受け取ってくださいっ!」

 

 受け取ってもいいものか、とかおりが思案していると、彼女は「すっ、捨ててもいいですからっ!」と突拍子もないことを口走り始める。エンドレスに「こっ、これっ!」と言われ続けるよりは、と自らを慰めるとかおりは封筒を両手で受け取る。

 

「ありがとうございます。奈津さんのお誕生日には、何かお返ししますね」

「いっ、いえっ! お構いなくっ!」

「開けてもよろしいのかしら?」

「いっ、いえっ! 出来ましたら後でっ!」

「はい。そのようにいたしますね」

 

 微笑むと、スクールバッグを開けて大きめの教科書の間に封筒を挟み込む。そして、アプリコット味ののど飴をふたつ取り出すと、ひとつを口に放り込み、彼女にひとつを勧める。

 

「大きな声でしたし、喉かわいちゃったんじゃありませんか?」

「いっ、いただきますっ!」

 

 鬼軍曹に煙草を勧められた新兵のような、敬礼でもしそうな勢いで応える奈津の手に飴を握らせると、「後で開けるのを楽しみにして、部活頑張ってきますね」と囁いて、衣擦れの音さえさせない優雅な動きで立ち上がる。

 

「はいっ、頑張ってきてくださいっ!」

 

 言葉でなく笑顔で応えると、かおりは視線をぐるりとさせて教室を一望する。

 

「はい、皆さんも部活に向かうなり家路を急ぐなりいたしましょう」

 

 柏手を打つようにして音を鳴らす。すると、耳をそばだてていた少女たちが慌てて席を立った。彼女たちが三三五五と帰っていく様を見送ると、かおりは未だ隣の席に座っている奈津に会釈をして、テニス部室へ向かった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 急行は停まるが、特急は停まらない、そんな微妙な発展度合いの駅から徒歩で一〇分ほどの距離に、夜宵かおりの家はあった。帰りは坂道を登ることになるが、道中の大半は目抜き通りであり、立ち並ぶ商店を眺めながら歩くとあっという間だ。既に日は暮れていたが、商店街は昼のように明るい。

 ハンバーグハウスの角を曲がって商店街を抜け、次の交差点を左折すると、左手に鋭角的なフォルムが特徴の白い屋敷が見える。かおりの父の友人のデザイナーが設計したもので、近所の子供から『ノッポトゲ』と呼ばれるほど特徴的な外観だが、居住性は良く考えられている。夜宵かおりはこの屋敷に、現在は母とふたりで暮らしていた。エンジニアの父はマレーシアに単身赴任中だ。

 

「ただいま帰りましたー」

 

 学校で話すよりも幼い調子でかおりが帰宅の挨拶をすると、リビングの方から迎える声が唱和した。そしてすぐに、「あなた、サプライズはどうしたんですか」「すまん、つい」と小さな声が届く。

 

「パパ?」

 

 学校指定の黒いローファーを脱ぎながら声を投げるが、小声が聞こえるだけで明確な返事はなかった。

 途切れ途切れに聞こえる声からすると、かおりの父は娘の誕生日にこっそり帰国して驚かそうとしていたようだが、うっかり帰宅の挨拶に応えてしまってにっちもさっちも行かなくなっていて、もう諦めなさいと諭す妻に、なんとかならないかと唸っているようだった。

 

 ――今さら聞こえなかったふりをするのも、わざとらしいですわよね……。

 

 脱いだ靴を揃えながら、かおりは考える。

 Pコートを脱ぎながら、かおりは考える――ローストビーフの美味しそうな匂いが届いてきた。

 スクールバッグからお弁当箱を取り出しながら、かおりは考える――いつもはキッチンまで行ってから出すのだが、時間を稼ぐために今日は玄関で取り出している。

 結局、娘も父もどうしようかと悩んでいるうちに、かおりはリビングにたどり着き、「あらパパ」「お、おう。おかえり」と四ヶ月ぶりの再会イベントをぐだぐだなまま迎えることになった。

 

 

 

 

 かおりは一度自室に行き、父から誕生日プレゼントとして手渡されたマレーシアの衣裳をベッドに広げた。

 マレー系のものらしく、派手な暖色の長袖長ズボンに、その上から着るのであろう淡い色のプルオーバーと膝丈のスカート、ここまではかおりにも理解できたのだが、妙に長いショールと幾つもあるブローチが分からなかった。

 

 ――……実の父親よりクラスメイトの方が私の好みを理解なさっているとは。

 

 衣裳の横には、奈津から貰った封筒も置いてあった。こちらの中身はピアノリサイタルのチケット二枚、かおりの好きな奏者で、演目もラヴェル、フォーレ、ショパン主体の彼女の好みに合うものだった。

 ただこちらはこちらで、「良ければ、私を誘って頂けると嬉しいです」という悩ましいメッセージが添えられている。読んだ瞬間、かおりには「よっ、良ければっ! わっ、私をっ!」という声で再生されて聞こえ、笑みを抑えられなかった。

 

 ――来週末ですわね。この服で行ったら奈津さん驚くでしょうね。

 

 想像して苦笑を漏らしながら、ブレザー、スカート、ブラウスの順で脱ぎ、ハンガーに吊るす。そして、ベッドに並べた衣裳に手を伸ばすが――

 

 ――汗は大丈夫かしら?

 

 学校にはシャワールームも完備されており、部活上がりに汗は流してはいたが、真新しい衣裳を前に躊躇する。手首を顔に近づけて鼻をひくつかせても、嫌な臭いは感じられない、それでも念のため、とかおりは思った。

 

 ――デザインや色はともかく、素材は高級っぽいですものね……。

 

 そのまま伝えれば父親が泣き出しそうなことを考えると、部屋着を身に着け、部屋を飛び出した。階段をリズミカルに下りながら「ママー、パパのお土産着る前にシャワー浴びるねー」と告げる。

 

「はい、ヒジャブの巻き方は分かる?」

「ショールみたいな布? さっぱりー」

「じゃぁ、お風呂あがったらお部屋いって手伝いますね」

「はーい、お願いしまーす」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 親猫に首筋を噛まれた仔猫のように、かおりはみじろぎひとつせずに母親に全てを任せた。

 カシミヤで編まれたヒジャブが、頭頂から始まり、耳、後頭部、肩、胸と巻き付けられ、顔以外の部分を布で隠していく。要所要所をブローチで留めると、完成を伝えるかのように母親は彼女の両肩を叩いた。

 

「はい、出来ましたよ。かおり、似合うわね」

 

 かおりは、鏡に映った自分の顔を見て、観光地にあるパネルの丸板から顔を出しているような印象を持った。だが、そういった間抜けな言葉をそのまま述べて両親を落胆させるのも本意ではないので、なんとか誉める言葉を紡ぎだす。

 

「小顔に見えますね。いいかも」

「かおりは目鼻立ちがはっきりしているから、こういうのも似合うわね」

 

 母親だけあって、娘の自尊心をくすぐりつつ持ち上げる。かおりもそう言われれば悪い気はせず、エキゾチックでいいかも、と思いつつあったのだが、リビングで父親が浴びせた「かおりは色が黒いし似合うな。マレーシアに連れて行っても違和感なさそうだ」との言葉で急速に心が冷えた。

 

「パパ、それひどくない?」

「どうしてだ? 健康的でいいじゃないか」

 

 かおりが見せたのはじゃれる程度の怒気だったが、久方ぶりに愛娘と会う父親にはその理由が分からず、傍目にも滑稽なほどたじろいだ。やれやれといった感じで、母親がフォローを入れる。

 

「ママも学生時代はかおりくらい焼けてたわよ」

「うそー」

「嘘なもんですか。ねぇ、あなた」

「あ、あぁ。高校時代の母さんは陸上部のエースで朝な夕なに練習してたからな。健康的で魅力的だったよ」

「あら、過去形なんですね」

 

 助け船じゃなかったのかよ、と泣きそうな表情を見せる父親を抑えて、かおりが感じ入ったような声を漏らした。

 

「そうなんだ。今はすごく白いのに」

 

 母親の肌は、ロシアか北欧の血が入っていると言っても信じてしまうくらいに白く美しい。その血を継いでいる自分も、同じように美しくなれるのかな、と思ったかおりに母親が太鼓判を押す。

 

「かおりも地肌は白いでしょう? 大丈夫よ。大人になって紫外線に注意すれば、すぐにママみたいになりますよ」

「そうだ、ヒジャブ巻いてれば顔も焼けにくいぞ」

「あなたは少し黙ってましょうか?」

「理不尽だな……」

 

 パパの物言いの方がよほど理不尽ですわ、と心の中で呟きつつ、かおりは手を伸ばし、派手な色の袖から除く小麦色の手を見つめる。そして、母の白い肌をチラっと見やると肩を落とした。

 

「テニス辞めようかなぁ……」

「あらあら、重症ね」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 楽しい時間は、とは良く言ったもので、久しぶりに会う父親に甘えっぱなし(一部怒りモード)だったかおりにとって、金曜土曜はあっという間に過ぎ去っていく。

 そして迎えた日曜日、ディフライトで出国する父を見送りに、かおりと母は国際空港まで同行していた。かおりの姿は父の土産そのまま……というわけではないが、プルオーバーとスカートは着用しており、またヒジャブはショール代わりに肩に巻いている。父は娘がプレゼントを着て見送りに来てくれたことに、いたく感激していた。

 ゲートに消えた父を見送った後、「パパって単純よね」とかおりが背伸びした感想を述べると、母は「パパは、じゃなくて男は、よ」と訂正して微笑んでみせた。

 

 

 国際空港からの帰り、折角だからと風見野の中心部で電車を降りたふたりは、遅めの昼食をイタリアンレストランでとっていた。

 見送りの際に、今度ふたりでマレーシアに来てはどうかと父に勧められたかおりは、よほど楽しみなのかフォークとナイフを動かしながら母に語りかけては、「かおり、食事中にはしたないですよ」とたしなめられる。

 食事が一段落つくと、母があらためて話題にあげた。

 

「チャイニーズニューイヤーかハリラヤがお父さんも連休でいいんだけど、かおりの学校の都合次第よねぇ」

「大丈夫、休むから」

 

 躊躇なく応えるかおりに、母は苦笑すると「じゃぁ、直前のテストで成績良ければ、学校休めるようにお父さんを説得してあげますね」と条件を提示する。

 

「はーい。学年五位以内くらいでいい?」

「はいはい、充分ですよ。あとテニス部を辞めないともっといいわね」

 

 かおりの通っている女子高は母親の母校でもあるので、母にも学年五位がどれほど優秀かはよく分かる。もっともかおりにとっては、安全マージンを設けたうえでの目標設定なのだが。

 

「テニスは辞めませんよ」

 

 はにかむと、ハーブティーで桜色の唇を湿らせる。小麦色の肌の中に浮かぶ唇は、それ自体が一個の生命を持っているかのように蠱惑的に光る。

 

「いつかママみたいになれるだけで、充分だから」

 

 

 

 

 食事を終えたふたりは、中心街でショッピングをしていた。地元の駅前商店街よりも二回りばかり規模が大きい風見野の中心街は、色々と地元にはないショップがあり、かおりはあちらこちらと目移りをさせている。

 

「ママ、ちょっとあのお店見てきていい?」

 

 これで何件目だろうか。だが母は嫌な顔ひとつせず「はいはい、待っているから見てらっしゃい」とかおりを送り出す。笑顔で一礼すると、かおりはファンシーショップに吸い込まれていった。いかにも楽しげな娘の後姿を見送ることは、それだけで母にとって幸せなことだが、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。

 

 ――さっき入ったお店と何か違うのかしら……?

 

 かおりに言わせると、同じファンシーショップでもメーカーが違えば魚屋と八百屋くらい違うのだが、母にはせいぜい青いコンビニと緑のコンビニくらいにしか差はないように見えた。そして、自分の子供時代、両親が家庭用ゲーム機はなんでも同じ名前で呼んでいたことを思い出すと、自分が年寄りの仲間入りをし始めていることを自覚して苦笑気味に顔を綻ばせた。

 その笑顔が、突然の苦痛に歪んだ。

 姿の見えない何者かに、刃物で太腿を斬られたのだった。

 

 

 

 

 

 ――……何か表が騒がしいですわね。

 

 幾つかのグッズをカゴにいれてレジに並んでいたかおりは、遠くに聞こえる喧騒に胸騒ぎをおぼえた。普段はうっかり使いすぎないようにと現金で支払っているのだが、クレジットで手早く決算すると足早に店を出る。

 遠巻きに見つめる群衆。脚を押さえて倒れている母。血だまりとまではいかないが、脚を染める血液。それがかおりが見たものだった。かおりは、手にした荷物をその場に落とし、失語症になったかのように無言で母のもとに駆け寄った。

 

「かおり、大丈夫、心配ないから……」

 

 かおりは、自身を認めた母の途切れ途切れの声に応えることもできず、出血部――太腿の外側を見る。一〇センチ程度の裂傷があり、そこから黒ずんだ血が、滲むように流れ出ていた。

 座学では、対処法は学んでいた。

 出血の色から静脈性出血であることは判断できるはずだし、その場合は直接圧迫による止血が効果的なはずだ。だが、その通りに動けるような冷静さを今のかおりに求めるのは酷に過ぎた。

 それでも、出来る範囲で身体を動かす。

 彼女はポケットから取り出したハンカチを出血口にあて、肩に巻いていたヒジャブを外して包帯のようにぐるぐると巻きつける。そして、群衆の中にいる一人の女学生を指差すと、

 

「すみません! そこのネイビーのPコートの方、救急車を呼んで頂けませんか!」

「え? あ、はい!」

 

 救急車が到着するまでの八分が、かおりにはこの週末全部よりも遥かに長い時間に感じられた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 救急病院のベンチで、所在無げに壁時計を見ているかおりに、ゆっくりと歩み寄った看護師が微笑んで口を開いた。

 

「大丈夫ですよ」

 

 その看護師の言葉が、かおりには天上から響く女神の声に聞こえた。

 

「すぐ止血されていたので、出血量もそこまでではありませんでしたし。もう縫合も終わりましたので、あと三〇分もすれば病室に戻れると思います」

「ありがとうございます」

「神経もぜんぜん大丈夫です。ただ筋肉が傷付いているので、二週間くらい入院して頂くことになるかも。まぁ、そのあたりは先生の判断になるので、話半分でお願いします。ご家族へのご連絡は?」

「父はちょうど今朝日本を立ったばかりで……向こうに着くのが、こちらの時間で八時くらいになります。連絡を取れるのは、九時以降でしょうか」

 

 ちら、と視線を壁の時計に向けると、針は午後六時を示していた。まだ父は機上の人だ。

 

 ――それに、パパに連絡するのはもう少し見通しがはっきりしてからの方がいいでしょうね。

 

 駆け付けられない状況で、詳細はまだだけど……と連絡を受けたら、どれほど心を乱すか。ただでさえ心配性のパパなのに、とかおりは狼狽する父の反応を想像して、心の中だけで苦笑する。

 

「それにしても、最近物騒ですよね。通り魔だなんて」

「……はい、ニュースでも見ていましたのに、被害にあうまで他人事のように考えていた自分が恥ずかしいです」

 

 母の無事が保証されたこの段になって、ようやくかおりの心に犯罪者への怒りがわいてくる。もっとも、姿を見ることさえ出来ておらず、その怒りを振り下ろす先はないのだが……。

 

「不幸中の幸いといいますか、今のところ人命に係わる被害は出ていませんし、早く犯人を捕まえて欲しいものです」

「はい、出来れば一発張り倒したいです」

 

 ぶん、と平手で空を叩く。そんなかおりの様子を見て意気消沈するよりはずっと良いと思った看護師は、柔和な笑みを浮かべて手を差し伸べた。

 

「じゃぁ、病室にご案内しますね」

 

 

 

 

 

 案内されたのは四人部屋だったが、みっつのベッドは空きであり、実質的にひとり部屋となっていた。案内した看護師が、泊まるなら空きベッドを使っても良いことを告げると、かおりは是非と応える。また、血痕のついた洋服を洗濯しようかという提案にも甘えることにした。なので、病室に運ばれてきた母は、患者用パジャマを着たかおりの姿に、あらあらと笑いとも呆れとも受け取れる反応を示した。

 

「ママ、大丈夫?」

 

 母をベッドに寝かせると、看護師は一礼して退室した。かおりはベッドの脇にある椅子に座り、母の顔を覗き込む。

 

「えぇ。心配かけてごめんね、かおり。しばらく入院しないといけないみたいだけど、家のこと大丈夫?」

「大丈夫。家庭科は優だもん」

「それは筆記試験でしょう……。楽だからってインスタントラーメンとかお菓子ばかり食べちゃダメですよ」

「そっ、そんなことしませんわ!」

 

 図星をつかれて、思わず他所行きの口調で応えると頬を紅潮させる。そして「栄養も考えるようにするから、ママは安心して」と付け加えた。料理の出来ないかおりにとっては空約束だったが、この約束は級友数名の自発的な弁当提供――夕飯分、翌日の朝食分を含む――によって守られることになる(級友が疑問に思うまでの数日はパンばかりだったが)。

 不都合な話題から話を逸らしたくて、かおりは言葉を連ねる。

 

「ママ、警察への連絡はどうすればいいの?」

「それはもうやって下さっているから、かおりは気にしなくていいわよ」

「パパへは?」

「ママからしておきますよ。かおりから『ママが怪我して入院! 詳しくはわかんないけど!』なんて電話したら、パパ腰ぬかしちゃうわ」

「はーい。あ、ママ、ちょっと笑って。できれば元気に」

「なにかしら?」

 

 きょとんとした様子で笑顔を浮かべる母に、かおりはバッグから取り出したスマートフォンのレンズを向ける。そしてカメラマンよろしく、表情が硬いだのもっと自然にだの、細かい注文を飛ばした。母はやれやれといった様子で、娘の指示に従う。

 やがて満足いく写真が撮れたのか、かおりは頷いて携帯端末をバッグに戻した。

 

「明日にでも、パパに画像メールで送っておくね。電話だけだと心配しそうだし」

「それはいいわね。ところで明日と言えば、学校はどうするの?」

「えーと、朝に一回家に戻って、午後から出ようかな? ママが寂しければ一日中ついててあげるけど?」

「あら、今から帰って明日朝から学校に行っていいのよ?」

「あー、お洋服洗濯してもらってるから、残念だけどそれは無理かも。残念ー」

 

 かおりのわざとらしい物言いに、ふたりは顔を見合わせて笑みを浮かべた。お互いに相手に精神的な余裕があることを確認した安堵の笑みだ。そして、時計の針が八時近いことを確認すると、母は娘に食堂か売店で夕飯をとることを勧めた。

 

「うん。ママは? 何か買ってくる?」

「ママは点滴も受けたし。口汚し程度にお菓子でも買ってきてもらえるかしら」

「和? 洋?」

「もし選べるようなら、和菓子の方をお願い」

「了解。あとちょっと誤用かも?」

 

 ウィンクすると、かおりは上着を掴んで病室を出ていく。母は「あら」と応えて、首を傾げながら娘を見送った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 夕飯を終え、乾かした洋服を看護師から受け取ったかおりは、消灯の時間まで母と談笑していたが、灯りが消えると「早く寝ないと、なかなか治らないよ」と母を急かした。その態度には母はいつもと逆だと内心で苦笑するが、そのことには触れずに「はい、わかりましたよ」と返して起こしていた上半身を横にする。

 

「おやすみなさい、ママ」

 

 母に掛け布団をかけると、かおりは目を細めて言った。そして、隣のベッドにもぐりこみ、布団を頭までかぶって狸寝入りを決め込んだ。狸寝入りはしばらく続いたが、母の寝息が聞こえてくると、かおりも安心して意識を徐々に途切れさせていった。

 

 

 

 一時間か、それとも二時間が経った頃だろうか、かおりは物音に目を覚ました。そして眼前の光景に、急速に意識を覚醒させる。

 天上灯に照らされた母の布団が血に塗れていた。

 おそらくは母がナースコールをしたのだろう、駆け付けた看護師が真剣な表情で母の傷口を両手で押さえている。その表情はかおりには焦燥と狼狽の色が濃く出ているように見えた。

 母は汗を滲ませて歯を食いしばっている。瞳を閉じているので、かおりが目覚めたことにも気付いていないようだ。

 

「ママ、大丈夫?」

 

 その言葉にかおりが起きたことを認めた母が、無理に口角を上げて、途切れ途切れに応えた。

 

「起こしちゃったのね、ごめんね。傷口が開いちゃったみたいで……かおりは気にしないで、寝てていいのよ」

「でもママ、血が……看護婦さん、どうしたんですか!」

「非吸収系の縫合糸が溶けて、傷が開いたみたいです……今、手術の準備をしています」

 

 止血をしようと圧迫している看護師が、戸惑った口調で応えた。ナイロンの縫合糸が人体に分解されるなど、ありえない現象だ。いや、吸収系の縫合糸であっても、このように急速には分解されない、まるで――

 

『魔力を感じる。断定はできないが、魔女の呪いかもしれないね』

 

 かおりの心に直接語りかけてくる声があった。かおりにとって聞き覚えのある声だ。

 奇跡と引き換えに魔法少女となるように、何度も接触してきた生物。「そのような神頼みで叶う願いなど、わたくしには必要ありませんわ」と拒否するうちに、姿を見せなくなっていたのだが。

 

『やぁ、かおり。久しぶり――四ヶ月ぶりかい?』

「……キュゥ」

『声は出さなくていいよ。頭で思ってくれれば伝わる』

『魔力って? 呪いってどういうこと?』

『ふさがり縫合した傷が開く。それも溶けないはずの糸が溶けて。尋常の範囲で、起こりうる事態なのかい? それに、キミのお母さんの傷口からは、さっきも言ったように魔力を感じる。自然に治癒する類のものとは思えないね』

 

 奇跡でもなければ、と言外に匂わせたキュゥべえの言葉を、かおりはすぐに理解する。そして、即座に決意する。仮にそれがキュゥべえの絵図通りのことだとしても、かおりには他の選択はありえなかった。

 

『……キュゥべえ、まだ、わたくしには契約する資格はありますの?』

『もちろんだ。気が変わったのかい?』

 

 

 

 

 頷くかおりを、キュゥべえはロビーに誘導した。

 契約の際に悲鳴をあげるだろうから、病室では母を心配させると説明されれば、かおりに断る理由はなかった。非常灯の光しかないロビーは薄い赤に照らされ、その中を歩くキュゥべえは全身が血に塗れているようにも見える。そして赤い瞳は、より禍々しく血の色に染められていた。

 血の色の瞳でかおりを凝視すると、その生き物は告げる。

 

『さぁ、夜宵かおり――その魂を代価にして、キミは何を願う?』

「ママの――いえ、これが呪いというのなら、この呪いに苦しんでいる全ての人を癒すことはできますか?」

『未来永劫というのは無理だろうね、今この瞬間にという話ならば可能だろう。だが、たった一度の奇跡を他人のために使っていいのかい?』

「今までわたくしを慈しみ導いて下さったママのために祈るのでしたら、何も惜しくありませんわ。ただ一度の奇跡のみならず、この命も魂も捧げましょう」

 

 かおりの意思を確かめると、ひと呼吸をおいてキュゥべえが高らかに宣言する。

 

『おめでとう、かおり。キミの祈りはエントロピーを凌駕した』

 

 キュゥべえは耳から生やした一対の触腕を、かおりの下腹を掴むかのように伸ばす。かおりはその腕に恐怖をおぼえ、瞳を閉じて身を強張らせる。

 触腕が身体に迫るにつれ、パジャマのボタンがひとりでに外れ、下着のホックがとび、髪をアップにまとめていたヘアバンドまでもが千切れ、黄金色の髪が重力を感じさせない動きで翻った。

 キュゥべえの触腕が押しているわけでもないのに、ボタンが外れたパジャマの裾が大きく広がっていき、衣服自体が意志を持っているかのように袖口から抜け落ちる。

 続けて下着も落ち、夜の冷気を受けて露わになった乳房が硬くなる。だが隠したいというかおりの意志に反して、両腕はぴくりとも動かなかった。

 刹那、内臓を鷲掴みにされるような不快な痛みがかおりを襲った。

 露わになった下腹部、その小麦色の肌の中へ、キュゥべえの触腕が水面に棹さすかのように潜り込んで来たのだ。

 キュゥべえの事前の警告がなければ泣き叫んでいたかもしれない、しかしかおりは、呻くような声を漏らしたのみで耐えた。耐えきってみせたかおりに、キュゥべえが穏やかな声で告げた。

 

『さあ、受け取るといい。それがキミの運命だ』

 

 瞳を開いた彼女の眼前には、蒼銀の色に輝く卵形の宝玉――ソウルジェムが主の手に取られることを待ち望んで虚空に浮いていた。



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千尋早苗、魔法少女の契約をする

 なにか明確なきっかけがあったわけではなかった。

 少なくとも、千尋早苗には原因として思い至る出来事はなかった。

 しかし事実として、ある日――夏休み明け第二週の火曜日、今から二週間ほど前――を境に早苗は特定のクラスメイト数名から、いじめを受けていた。この種の問題によくある、当初は些細な意地悪だった、というケースではなく、その日から突然に苛烈ないじめを受けた。

 女生徒同士のものであることから、暴力的ないじめではなかったが、それは決して暴力を伴ういじめよりマシということを意味しなかった。

 早苗の性格――思慮深く、控えめで、誰にでも分け隔てなく優しく接する性格は、間違いなく美徳に分類して良いものだったが、この場合は悪い方向に作用した。正当性のないいじめに激発するどころか、自分に落ち度があったのだろうかと内罰的な思索にすら陥ってしまったのだから。

 それはやがて、自分にはこういう落ち度があるからいじめられてもしょうがないんだ、という歪んだ精神安定をもたらしていた。いや、地髪が少し茶色いだとか、授業で発言して目立っただとかが、教師に提出するノートに落書きされたり、昼食の飲み物に羽虫を入れられる理由にはなるはずもないのだが……。

 

 それでも、学校でのことはまだ我慢できた。時間も場所も限られていたし、級友の目はあっても大人、特に両親やご近所さんの目はなかったからだ。両親に心労をかけることだけは避けたいと、早苗は考えていた。

 だから、最近になって放課後に街へ連れて行かれるようになったのはたまらなく嫌だった。

 もちろん一緒に遊ぶというわけではなく、早苗を嬲って彼女たちだけが遊ぶのだ。

 今日は、援助交際というものもさせられそうになった。さすがにこれは彼女たちも冗談だったようで、早苗が泣きながら走り去ると、追いかけることはせず腹を抱えて笑っていた。

 近くの公園で時間を潰して、泣いた形跡を消し去ってから家路につく早苗は、このまま次の日が来なければいいのに、と思っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 早苗の願いもむなしく朝は訪れた。

 ベッドの中で目覚ましを止める早苗は、この世の終わりが来たような暗い顔をしていたが、洗面所の鏡の前で身だしなみを確かめる早苗は穏やかな笑みを浮かべていた。それくらいの演技は、両親に心配させないことと、家庭という安寧の場所にいじめの影を持ち込ませないことを考えると、易いものだった。

 鏡の中の早苗は、悩みなく微笑む中学一年生の少女だった。

 栗色の髪は前は眉で、横と後ろは襟首で綺麗に切り揃えられ、充分なキューティクルがあることを誇示するかのように鮮やかな縞模様を描いている。ブラシで梳くたびに、縞模様が川に浮かんだ月のように上下に揺れる。早苗は少しブラシに引っ掛かりがあることが気になったが、理由は考えないことにした。

 若者向けの洗顔ソープで洗った肌は、しみひとつ、そばかすひとつなく、乳幼児のようだ。そこに浮かぶのは小動物を思わせる丸い瞳と薄めの唇。どちらのパーツも、子供っぽく思えて早苗は好きではなかった。特に唇は、肉厚の方が女性らしくて良いのにと思う。

 伸びをする。伸びをしても指の先まで鏡に映る程度の身長だった。濃紺のセーラー服に着られている風にも見えて、やはり子供っぽいと早苗は感じる。

 

「今日も頑張ろう」

 

 華やかな笑顔に明るい声で、彼女は自分に言い聞かせた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 教室に他のクラスの生徒が入ってくると、それだけで目立つものだ。

 ましてやその少女は、同年代の平均身長を頭ひとつ上回り、少年と見紛うような精悍な顔つきをしていた。いや、顔だけではなく、程よく筋肉のついた四肢、引き締まった胴など、肉体的なパーツ全てが少年を思わせるものだ。勢い、昼休みに入ったばかりで弛緩したクラスの耳目が彼女の一身に集まる。

 集中した視線など意に介さず、彼女は長い四肢を大きく振って歩く。

 大きな歩幅での動きだが、ナチュラルショートボブに整えられた髪はほとんど揺れない。外に跳ねた髪がわずかに女性らしさを感じさせるが、その容姿、所作はどちらかというと少年のそれだった。

 彼女の足が止まる。そして、彼女は上半身を前に傾けて、両の手を机にばんと叩き付けた。千尋早苗の机に。

 鞄からお弁当を取り出そうとしていた早苗は、心神喪失したかのように固まった。クラスのざわめきも、いつの間にか収まっている。

 

「あんたが千尋だよね?」

 

 彼女の口から、容姿に相応しい変声期前の少年を思わせるソプラノの声が紡がれる。

 不機嫌そうな声だと、早苗は思った。ちらと目だけを動かして見上げると、表情も何かに憤ったように不機嫌そうだった。

 

「は、はい」

 

 長い時間をおいて、早苗が応える。その間、早苗の机の脚をつま先でコンコンとしていたのは、癖なのか意図的なのか。

 

「悪いんだけどさ、放課後部室棟に来てもらえない? バレー部のとこ」

 

 ちらと見上げた早苗の目を厳しく睨む。早苗はその威圧に一瞬たりとも抗えず瞳を伏せる。

 

 ――なんで……?

 

 この背の高い少女を、早苗は見知ってはいた。

 名前までは知らないが、隣のクラスと合同で行う体育や家庭科の授業で姿を見かけては、かっこいい人だなと思っていた。しかし、一言も交わしたことはないし、接点はないはずだった。

 返事をしない早苗に焦れて、再度少女が机に手を叩きつける。その音で反射的に顔をあげた早苗は、不機嫌そうに睨みつける少女と目があい、その迫力に再び俯く。

 

「放課後、わかった? ホームルーム終わったらダッシュでね」

「ええと……」

「返事は?」

 

 少女は噛みつくような勢いで早苗を促す。

 

「……はい」

 

 早苗の返事を確かめると、少女は踵を返し、颯爽と教室を出て行った。生徒たちは押し黙ったまま彼女を視線で見送り、そして彼女が視界から消えると再びざわめきが起こった。

 

 

 

 

 

「今の梢だよね。あんた、あいつの知り合い?」

 

 いつの間にか早苗の机を囲むように、いじめを行う三人の少女が立っていた。グループのリーダー格のポニーテールの少女が、腕を組んだ姿勢で尋ねる。口をへの字に結んでいるが、いつものことなので機嫌はそこからは伺えない。

 

 ――梢さんって名前なんだ。怖そうな人だったな……。

 

 ふるふる、と首を横に振って早苗は否定する。じゃぁ何の用で、と前髪の一部を緑に染めた少女が尋ねる――いや、詰問する。

 

「放課後、部活棟に来るようにって言われました……」

 

 ポニーテールの少女に視線を向けて応える。視界の端に、いじめに遭うまでは友達づきあいをしていた数名の少女が映った。彼女たちは心配そうな顔でこちらを見ているが、早苗は気付かないフリをした。どんな拍子で、彼女たちまで巻き込まれてしまうか分かったものではないのだから、と。

 

「まぁ、先約が梢なら放課後はしょうがないか。今日はその分、昼休みのうちに可愛がってやるよ」

 

 結構です、と言えればどんなに楽なのだろうか、と早苗は思う。しかしそれを実行する心の力が早苗には欠けていた。彼女は心を閉ざすと、三人の少女のいじめに耐える態勢に入った。

 

 

 

 

 予鈴が鳴った。

 早苗は安堵の息を内心でつく。本当にしたら、どのような揚げ足を取られるか分かったものではない。逆に三人グループは、もう時間かと露骨に表情に出す。ポニーテールの少女は、憎らしげに壁掛け時計を睨むと先ほどの長身の少女を真似るように掌で机を叩いた。大きな音が響き、クラスの耳目が集まる。

 

「そうそう、何やったかしらないけど、梢の呼び出しだからね、覚悟しておいた方がいいよ」

 

 意地悪い笑みを浮かべて、捨て台詞のように告げると彼女たちは去った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 考えれば考えるほど、想像は悪い方向にしか行かなかった。

 だから、無駄に考えるのをやめた――などと開き直れればいいのだが、それも出来ず、早苗は午後の授業を悶々として過ごした。

 蛍光ペンで無茶苦茶にアンダーラインが引かれた教科書が少し目に痛い。早苗自身が引いたラインは赤のボールペンのものなので、黄色、桃色、緑色の蛍光色のラインがいかに縦横にあろうと要点が紛れることはないのは幸いだ。

 

 ――もし、殴られるような流れなら、周りから目立つ顔や手足は許して下さいって言わないと……。

 

 様々な想像に、こうしようああしようと考えを巡らせる早苗だが、いざその場になると何も言えないことは、早苗自身がいちばん自覚していた。

 

 

 

 

 昇降口から校門まで、幅一〇メートル程の煉瓦道が続く。

 煉瓦道の右手には体育館があり、中からは早くも運動部員の賑やかな声が聞こえてくる。

 体育館を過ぎると校門まで数メートル、ここで右に曲がって体育館とフェンスの間の小路を進むと、少し先に二階建ての部活棟がある。

 

「おっ、来たね」

 

 早苗がバレー部の部屋を探そうとするよりも早く、梢がドアから出てきて声をかけた。上は黒の長袖シャツ、下は黒の短パン姿で、すらっと伸びた脚が強調されている。

 カモシカみたいってこういうのを言うのかなぁ、とぼんやりと考えながら、少しぎこちない動作で立礼をする早苗。警戒感があふれる少女の様子に梢は苦笑すると、手の甲を見せて二度三度と上下に振る。

 

「呼び出しといて悪いんだけどさ、用事なくなっちまったんだ。だから帰っていいよ」

 

 そう告げる梢に、早苗はなんと応えていいか分からず、お辞儀をして踵を返した。

 校門の手前まで歩んで振り返ると、部活棟の前で腕を組んでこちらを見ている梢と目があった。梢は腕組みを解くと、右手をひらひらとはためかせる。早苗は再びお辞儀をすると、足早に校門をくぐった。

 

 ――怖い用事じゃなくて良かった……。

 

 小さな胸に両手を当てて深呼吸。そして今さらながらに、もし怖い用事だったらと思い、膝ががくがくとしてくる。

 その日、久方ぶりに早苗は静かな放課後を送った。それはとても心が落ち着く、素敵な時間だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「悪いんだけど、今日もツラ貸してよ?」

 

 翌日の昼休みも梢にそう言われた早苗は、おずおずと頷いた。梢の言葉には明らかな怒気がはらまれている。

 

 ――やっぱりなにか、私が悪いことをしたのかな?

 

 思い当たる節はなかった。

 午後のクラスは授業そっちのけで、過去に梢となにか関わりがあったか思索していたのだが、何一つ接点は見出せなかった。

 だから、部活棟に向かう早苗は、昨日ほどは怯えていなかった。そして、梢の態度は、早苗の結論を肯定するものだった。

 

「悪い、今日もさ、帰ってもらえるかな」

 

 少し照れたような素振りを見せるジュンに、早苗は彼女の善意を確信した。

 

「もしあいつらが何か言うようなら、あたしの名前出していいから」

「ありがとう、ございます」

 

 昨日と違って、しどろもどろながらにお礼を言うと、早苗は小走りに家路を急いだ。心の中で、何度もお礼を繰り返しながら。

 

 

 

 

 次の日も、昼休みに怖い顔をした梢が早苗を呼び出すために教室を訪れた。

 その来訪を心待ちにしていた早苗だが、いじめグループの手前、怯えた風を装う。ジュンも怒った風を装っているので、ちょっとしたお芝居のようだと早苗は思った。

 

 ――お芝居だとしたら、梢さんは私を助けてくれる王子様役だね。

 

 授業中に心の中で王子様、と繰り返し呟くと、心臓がどきどきして、頬が明るく染まった。

 

 

 

 放課後、三日続けてとあって、さすがにいぶかしんだポニーテールが詳しい事情を聞きに来たが「梢さんに何も言うなっていわれてるの」と告げるだけで渋々と引き下がった。ポニーテールの態度に、王子様の名前ってすごいんだなぁと改めて思う早苗だった。

 部活棟にいた梢は、今日は黒のユニフォームではなく、濃紺のセーラー服のままだった。

 

「あー、今日もなんだけど、用事はないんだ」

 

 照れ笑いを浮かべる梢に、心臓がまたどきどきした。眩しいものを見るような瞳で早苗は長身の少女を見つめて「はい」と穏やかな声で返した。

 

「えっとさ、今日は部活休みなんだ。良ければ一緒に帰らない?」

「はい!」

 

 そう応えた早苗は、にわかに睡魔に襲われ、たたらを踏んだ。あわや倒れそうになる早苗を、梢が受け止める。

 梢の胸に顔を埋める形で抱き締められた早苗は、しばしの後に意識を取り戻す。「大丈夫?」と頭上から届く声に無言で頷くと、梢の均整の取れた身体に強く抱きついた。大好き、と心の中で呟いて。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 虎の威を借るようで少しみっともないと早苗自身も思うが、早苗は梢と行動をともにすることで、ポニーテールグループのいじめから解放された。

 ところ構わず腕や腰に抱きついてくる早苗に迷惑な顔ひとつ見せず、梢は保護者、あるいはボーイフレンドのように振舞っていた。

 中学生という年齢もあって女生徒同士のスキンシップは珍しいものではないが、片や宝塚から抜け出してきたような長身痩躯の梢、もう片方は小学校から越境してきたような早苗とあって注目を集めた。

 

 

 最近は、バレー部の練習が終わるまで早苗が時間を潰して、ふたりで帰ることが日課になっていた。

 時間の潰し方としては、体育館に入って二階の観覧席から練習を眺めるか、体育館の外に座り込んで、下窓から練習を覗き見るか――どちらにしても、体育館周りにいることになる。どちらにいても、時々梢が視線を向けて、親指を立てたりピースサインを送ってきたりしてくれるのが嬉しかった。

 一度、体育館の外で待っている時に、ポニーテールグループが何をしているのかと威圧気味に言ってきたこともあったが、梢を待っていると告げると、それ以上は何も言ってこなかった。

 

 

 

 

 十月も下旬に差し掛かる。

 部活を終えての帰路では既に日は沈み、僅かな残照が空をほの赤く染めていた。

 

「千尋さ、アイツらはおとなしくしてる?」

「はい!」

「そっか、それは良かった。ただ……」

 

 眉間に皺を作り口ごもる梢のそれは、見る人が見れば芝居と映るのだろう。だが早苗にとっては、焦慮に苦しむ王子様にしか見えない。

 

「どうかした?」

 

 小動物を思わせる丸い瞳を、さらに丸くして梢の顔を見上げる。

 

「あたしさ、バレー部で遠征もあるし合宿もあるしで、いつも一緒にいれるわけじゃないからさ、それが心配で」

「私は、大丈夫だよ。梢さんに心配かけるようなことにはならない、きっと」

「だといいんだけど……心配でね。いっそバレー部を辞めようかな……」

「だめ、そんなの!」

 

 早苗はバレーボールのことは詳しく分からないが、練習を見学――半ば覗き見だが――しているだけでも、彼女のスパイクの強力さ、ブロックの的確さは見てとれた。期待の一年生レギュラーとして扱われているのも、贔屓目を抜きにしても当然と思う。そんな彼女が自分のためにコートを捨てるのは、早苗には受け入れられることではなかった。

 

「ごめん、話が飛躍しすぎた」

「私がもっと強ければいいのに」

 

 せめて、心だけでも強くならないと。何を言われてもしっかり言い返せるように……。そう心の中で独語し、眦を決して見上げる早苗の頭を、梢は掌で包むように撫でる。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「おまたせ、千尋」

 

 金曜日と土曜日だけ開放される体育館二階の観覧席で、梢の入り待ちをしていた早苗は、突然の背後からの声にビクンと身体を震わせた。

 

「梢さん、練習は?」

「退部届だしてきたよ」

 

 練習着ではなくセーラー服に身を包んだ梢が、照れ笑いを浮かべて応える。そして、「やっぱり心配だからね」と続けた。

 ダメだよ、と小さな声で反対する早苗の両肩を手で押すと、あれよあれよという間に階段を降り、出口まで押し運ぶ。大人と子供ほども体格差がある上に、梢は運動で鍛えているので、早苗は足を止めることさえ出来なかった。

 

「出したものはしょうがないよ、どっか寄って帰ろ!」

 

 体育館の扉をくぐった梢は、明るい声で言った。早苗はなおも反対の声をあげたが、梢は意に介さず、早苗の小さな身体を校門の外まで押し出す。

 

 

 

 

「いやー、日が出てる時間に帰るのって久しぶり」

 

 遊歩道を歩く梢は満足気に微笑んで、弾んだ声を出す。だが、その声を受ける早苗は先ほどから俯き、考え込むような表情を見せていた。

 

「千尋、お腹空いてない?」

「え? うん、特には」

「そっか、じゃぁ軽くお好み焼きでも食べて帰ろうか」

「えっ?」

「ほら、行くよ!」

 

 という強引な流れでフードコートに連行された早苗は、おやつサイズの豚玉を四苦八苦しながら、梢の「千尋、嫌なら嫌ってはっきり言わないとダメだよ」という説教まで受けていた。

 ただ、その説教は的を外していた。確かに早苗は間食をとりたいと思う腹具合ではなかったが、梢と寄り道すること自体は大歓迎だったのだから。

 もちろん、そう主張することは気恥ずかしくてできない。結果として早苗ははにかんだ笑みで浮かべ、梢の言を肯定するように頷いた。

 そして、話を逸らすように「梢さんは、いつからバレーを?」と尋ね、すぐに失言に気付いて口元を押さえる。

 

「ん、小学校の低学年からかな。親父がバレー好きで、その影響でね」

 

 梢は気にした素振りも見せず、順調に通常サイズのお好み焼きを食べ進みながら応える。

 

「それであんなに上手だったんだね。ごめんね、私のせいで」

「別に千尋のせいじゃないし……。もう、この話は禁止!」

 

 気落ちした態度を見せる早苗を黙らせるように、カットしたお好み焼きを彼女の口に押し込む。少し乱暴だったためか、早苗の上下の唇にソースが付着した。

 

「おいしい?」

 

 梢の問いに早苗は言葉を返せない。小さな口いっぱいにお好み焼きを含んだため、喋ることはおろか噛むことさえままならないからだ。目をぱちくりとさせて、ゆっくりとあごを上下させる早苗。

 たっぷりと時間をかけて口の中のものを食道に送り込むと、早苗はようやく「おいしい」と呟いた。

 ふう、と一息つく早苗に、梢が右手を伸ばす。

 

「ごめん、汚しちゃった。あたし大雑把でさ」

 

 唇にソースをつけたことを梢が言っている、と早苗が理解したのは、梢の指が早苗の唇を拭ったあとだった。中指で下唇を、人差し指で上唇を拭うと、梢は二本の指を自らの口元に運び、舌を覗かせて甘みのあるソースを舐めとった。

 

「うん、おいしいね」

「それ、ソースだけだよ」

 

 遠慮がちに笑い、早苗はお返しとばかりに自前の豚玉を一片、箸で摘まみあげると彼女の口に押し付けた。だが、梢は顔をそむけるようにして、「あたしベジタリアンだからそれはちょっと」と抗弁してみせる。

 

「うそつき、いつもからあげクン食べてるくせに」

「そうそう、そういう風に笑わないと」

 

 花が綻ぶように破願した早苗を満足気にみつめると、梢は大きく口を開けて箸先の豚玉に喰らいついた。早苗に比べるとかなり早いペースであごを動かし、喉を鳴らすようして嚥下する。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 色々な店を回り、ショッピングモールを後にする頃には、すっかり日は暮れていた。

 久しぶりにのんびりできたと声を弾ませて語る梢に、早苗も明るい声で同意する。だが、梢の何気ない一言で、早苗は気持ちを沈ませる。

 

「たまには、こういうのもいいよね」

 

 ――たまに……じゃなくなっちゃったんだよね、私のせいで……。

 

 その様子に気付かないのか、梢は色々な話題で語りかけるが、早苗は生返事を繰り返すだけだった。彼女の思考は、自分のせいであること、強くなりたいということ、その二点をひたすらに彷徨っていた。

 

 ――何があっても負けないくらい、強くなりたい……。

 

 早苗の思考に、返す声があった。

 

『その気持ちは本当かい、千尋早苗。もし本当なら、ボクが力になれる』

 

 声の主は、夕闇の中、街路樹の影から姿を現した。一見すると猫を想起させる姿だが、よく見ると目も口も尻尾も猫とは異なる。何より、耳と思われる器官から、一対の触腕が伸びていた。

 

「キュゥべえ、あんたなんでここに!」

 

 早苗が反応するより早く、梢が現れた異形に反応を示した。早苗を庇うように身体を彼女の前に滑り込ませると、赤目の異形と対峙する。

 

『キミの友人にこんな素質のある娘がいるとは驚きだよ』

 

 キュゥべえと呼ばれた異形は口を動かすこともなく語りかけると、梢の背後から顔を覗かせる早苗に視線を向けて続ける。

 

『千尋早苗、ボクと契約して魔法少女になってよ』

「キュゥべえ!」

『キミも常々、一緒に戦うパートナーが欲しいと言ってなかったかい。ちょうどいいじゃないか』

「それとこれとは……別だよ」

「えっと、あの、何なんでしょうか……? この猫ちゃんは梢さんの知り合い……?」

 

 梢と会話が成立していることから、とりあえずの危険はないだろうと判断した早苗がようやく口を開く。だが、その瞳は当然ながら当惑と不審の色に染まっていた。もっとも、キュゥべえにとっては慣れた反応だ。

 

『すまない、説明が出来ていなかったね。千尋早苗、ボクは、キミの願いごとをなんでもひとつ叶えてあげられる。そして、その願いと引き換えに魔法少女となって、魔女と戦って欲しいんだ』

 

 口を開かない、瞬きもしない。出来の悪い玩具を思わせる能面の異形は、相手に言葉をさしはさむ余地を与えずに言葉を連ねる。

 

『魔法少女とは、魔法を操り魔女と戦うことを使命とする戦士だ。もちろん、常人には遠く及ばない力を持てる。強くなれるなんてものじゃないよ。願い事とは別に、強くなりたいというキミの望みは自動的に叶えられる』

 

 聞きなれない単語を確認するようにオウム返す少女に、キュゥべえは立て板に水とばかりに返す。

 有史以前より勧誘活動を続けてきた彼にとって、魔法少女候補とのファーストコンタクトにおける問答などは飽きるほど繰り返したルーチンワークに過ぎず、感情があれば欠伸を漏らす程度には退屈な内容だ。

 

『願いから産まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから産まれた存在なんだ。魔法少女が希望を振りまくように、魔女は絶望を撒き散らす。しかもその姿は、普通の人間には見えないからタチが悪い。不安や猜疑心、過剰な怒りや憎しみ、そういう災いの種を世界にもたらしているんだ』

「……強く、なれるんですね?」

『もちろん強さは相対的なものだが……。そうだね、キミたち人類をネズミとすると、魔法少女はライオンだ。どんなに強いネズミも、最弱のライオンにさえ手も足も出ないだろうね』

「だけど魔女だって弱くはない。それに、魔女との戦いはいつ終わるかも分からないんだよ」

『そうだね。だからキミは一緒に戦うパートナーが欲しかったんだよね』

 

 その一言で、梢はあっけなく引き下がる。思い悩むような表情を作って振り返ると、早苗と目を合わせ、そして避けた。

 

 ――強くなれる……梢さんのパートナーとして戦える……。

 

 それは、早苗にとってたまらなく魅力的なことだった。しかも、梢が既に同じ道を歩んでいる。未知の世界に踏み込むという恐怖はその事実で大きく薄れ、むしろ梢とふたりだけの道を歩めるという期待にさえなっていた。

 

「いいよ……。私を魔法少女にして。お願い、します……」

『素晴らしい決断だ。早苗、じゃぁキミの願いを言うがいい。その願いと引き換えに、キミは魔法少女へと生まれ変わる。さぁ、千尋早苗――その魂を代価にして、キミは何を願う?』

 

 その問いに早苗は戸惑う。力を得ることと梢のパートナーとなることを目的に魔法少女になることを決断していたため、願いという観点がすっぽり抜け落ちていたからだ。

 

『なんだっていいよ。金銀財宝、ノーベル賞クラスの知能、プロスポーツ選手クラスの運動神経、キミの好きに望むといい』

 

 キュゥべえが例示するが、それらの願いを選ぶ少女はほとんどいないことを彼は知っていた。まだ幼い少女たちにとって、例示された願いはあまりに即物的であるが故に忌避される傾向があった。また、幼少期の全能感に浸った少女たちにとっては、例示された願いは少女たちの信じる自身の能力からすれば、願う必要もなく実力で叶えられるべきことであり、願う対象ではなかった。

 早苗がどう判断したかは彼女の表情からは読み取れないが、やはり例示された願いを選びはしない。

 

「私は梢さんに救われたけど、きっとあの人たちはまた同じようなことを別の人にすると思う。でも、私の受けた苦しみが分かれば、もうそんなことをしようって思わないと思うの。……だから、私の受けた苦しみを、彼女たち三人に返して。それが私の願いです」

 

 訥々と言葉を紡ぐ早苗を目を細めて見つめると、梢は背中を押すように早苗の言葉を肯定する。

 

「千尋は優しいんだね。せっかくの奇跡を、自分のために使わないなんて」

『おめでとう、早苗。キミの祈りはエントロピーを凌駕した』

 

 はにかむような表情を見せる早苗を尻目に、キュゥべえは契約を進める。

 耳から生やした一対の触腕を、早苗の下腹部に向けて伸ばす。触腕の接近につれセーラー服のサイドファスナーがひとりでに開き、その隙間からキュゥべえの触腕が入り込み、早苗の素肌に触れる。

 そして、触れられた部分の肌が液体に変化したかのように波紋を広げる。波紋の中心で、キュゥべえの触腕が少女の体内へ侵入した。

 悲鳴が響く。しかし、その声は余人に聞きとがめられることはなかった。

 早苗の襟元を飾る紫紺のスカーフが解け、するりと落ちる。膝をつく早苗の足元に折り重なるように落ちたそれは、血溜まりのようにも見えた。もちろん、キュゥべえの侵入は出血を伴ってはいないが。

 早苗の魂を鷲掴みにし、触腕が乱暴に引き抜かれる。

 侵入するときよりも鈍く激しい痛みに、彼女は息を吸うことも吐くことも出来ず、ただ身体を痙攣させた。

 遠ざかりそうな意識を引き留めてくれたのは、肩を抱く梢の温かさだった。それを頼みに痛みを耐えた早苗は、乱れた衣服を手で押さえながら力ない笑顔を梢に向けた。

 

「大丈夫かい、千尋」

 

 その問いに大きく頷いて答えると、彼女は、自らの身体に魔力が満ちていくことを自覚した。溢れてくる力に満足気に首肯する。

 

「これで、もう私は大丈夫……なんだよね。だから梢さんは、安心して部活に戻って」

 

 微笑む早苗を、梢が強く抱きしめた。

 男女が行うような熱い抱擁を前に、いつソウルジェムを渡そうかと、キュゥべえは少し困っていた。



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毬屋しおん、魔法少女の契約をする・前編

 毬屋しおんは、脱走の常習犯だった。

 今日も、昼食とお昼の点滴を済ませた後、看護師の目を盗んで病院を抜け出していた。

 

「シャバはいいね~」

 

 白い息とともに何処かで聞きかじった言葉を漏らすと、街路樹の木漏れ日を受けて大きく伸びをする。

 パジャマの上にコートを羽織っただけの格好はそれなりに耳目を集めるが、衣裳の『中身』はそれ以上に特徴的だった。

 くるぶしに届くほどの長く、豊かな髪は枝毛一つなく、光の加減によって濡れ羽色とも翠碧色ともとれる鮮やかな色に輝く。その黒髪が、伸びの動きを受けてふわりと舞いあがった。

 髪の下からときおり覗く首筋は病的なほどに白く、アルビノといっても通用するだろう。ただ、その真っ白い顔に浮かぶどんぐり型の垂れた瞳は、意志の強そうな黒色に輝いていて、彼女がアルビノでないことを示している。

 

「空気がおいし~」

 

 薄い桜色の小さな唇は厚みをほとんど感じさせない。その唇があどけなく開いて、午後の温かな空気を大きく吸い込んだ。

 一三〇センチそこそこしかない背丈と、三〇キロあるかないかという体重は、どちらも彼女の一二という年齢を差し引いても小さく、儚げな日本人形といった印象を周囲に与える。

 

『今日もうまく抜け出したみたいだね、しおん』

 

 街路樹の枝の上から、猫に似た生き物が姿を見せる。

 こちらは白い身体に赤い目と、アルビノを思わせる配色だ。

 猫に似た生き物の名はキュゥべえ。彼はしおんの瞳にのみ映る存在だ。と、いってもしおんの空想の産物というわけではない、彼は魔法少女を護り導く存在としてこの世に遣わされた生き物で、魔法少女とその候補生にしか認識することができないのだ。

 

「お、キュゥべえ、おっはよ~」

『既にこんにちはの時間だよ、しおん』

 

 きゅぷ、と鳴いて枝からしおんの肩に飛び降りる。その衝撃でバランスを失ったしおんは二度、三度とたたらを踏んだ後、大きく尻餅をつく。キュゥべえは倒彼女がれる間際にぴょんと飛び上がり、あたり一面に広がったしおんの黒髪の上に悠々と着地した。

 

『しおん、キミは少し非力すぎないかい』

「謝りもせずにその言い草か~、ちょっとムっとするかも~」

『いや、これは失礼した。痛くなかったかい』

「んなわけないじゃんさ~」

 

 尻餅をついたままのしおんは、起き上がるどころか、逆に上半身を後ろに逸らし路面に背をあずけた。そして伸びをするように身体をくねらせると、悪戯っぽい表情でキュゥべえを見つめる。

 

『それもそうだ。愚問だったね』

 

 毬屋しおんは、先天性の無痛無汗症を患っていた。

 彼女は生まれてからずっと、痛みも、熱も、冷たさも知らずに育ってきた。痛みだけではない、触覚のない彼女は、撫でられる心地良さも抱き締められる温かさも知ることができない。

 

『契約してくれれば、そんな疾患はすぐにでも治せるんだが……』

「ふむ~」

 

 何度となく繰り返した問答。答はいつもノーだ。

 魔法少女になることに抵抗があるわけではなく、理由は別にある。生まれてからずっと痛覚を知らずに生きてきた彼女には、今さら痛覚のある世界など想像できないし、痛覚のある世界に恐怖を感じていた。

 

「そんなに不便じゃないしな~」

 

 彼女の主治医も、両親も、看護師も、それを彼女の強がり、意地と受け取るが、彼女は心の底からそう信じている。

 幼いころは自分にはない痛覚という概念にひどく憧れたこともあったが、無い物ねだりだと理解できるだけの聡明さが彼女にはあったし、そう納得して生きているうちに、憧れより恐怖が勝った。

 もっとも今も痛覚への興味は彼女の心に溢れているが……。

 

『無理強いはしないよ。他の奇跡を願ってくれてもいいしね』

「平々凡々な少女に、なかなか人生と引き換えにする願いなんて思いつかないよ~」

『いいじゃないか。どうせその疾患だと長くは生きられないんだろう? 契約した方がお得だよ』

「なんてデリカシーのない奴なんだ、お前は~」

 

 しおんは、寝ころんだままキュゥべえを抱き寄せると、握った拳を彼の側頭部にぐりぐりと押し付ける。ちなみに加減を知ることが出来ない彼女のスキンシップは結構強烈だ。もし対象がキュゥべえでなく本物の猫なら、悲鳴をあげて彼女の手に噛みついていただろう。実際、過去何度も野良猫とのスキンシップで彼女は噛みつきや引っ掻きの被害を受けている。

 

「まぁ、いいけどね~。事実だし。それにさ~」

 

 しおんは、口元に手首を運ぶと、がぶりと歯を立てた。血管が透けて見える白無垢の肌に、小さな歯型がくっきりと刻まれる。彼女は色素の薄い舌を覗かせると、唾の音を響かせて歯形を嘗める。

 

「身体の痛みがないのは生まれた時からなんだけどさ、最近は心の痛みっていうのもなくなってきた、ような気がするんだよね」

『それは、まるでボクのようだね』

「白まんじゅうめ、一緒にするな~」

『色はキミも似たようなものじゃないか』

「わたし、ぷにぷにじゃないし~」

 

 キュゥべえの頬を指でつまんで引っ張る。キュゥべえの肌はシリコンゴムのような感触で、まんじゅうというよりは水羊羹のような印象なのだが、彼女にはその触覚情報を得る術はない。

 

『ところでしおん、いつまでここでこうしているつもりだい? 病院の近くで目立つとすぐに連れ戻されてしまうよ』

「あ、そうだね~」

 

 キュゥべえに促されて、ようやく彼女は立ち上がる。

 吐く息の白さは気温が相応に低いことを示しているが、パジャマにコートだけのしおんは寒暖を感じることもない。

 だからといって彼女が寒暖に強いというわけではもちろんなく、特に暑さは天敵に等しい。発汗能力のない彼女は、涼しくても軽度の運動で容易くオーバーヒートしてしまうし、暑ければ座っているだけでそうなってしまう。

 

「それじゃ今日も、≪痛い≫って気持ちの勉強に行こうかな~」

 

 故に、彼女はゆっくりと歩く。流れる景色を、すれ違う人を、耳に届く喧噪を、猥雑な臭いを楽しみながら。彼女にとって病院の外は異国だった。彼女の知らない痛みを知り、彼女が決して流せない汗を流す、彼女とは異なる人種の住まう国。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 夕方、勉強を終えたしおんは病室に戻った。

 十六畳ほどもある個室は、常に最適な室温湿度に制御されていて、発汗や皮膚血管の収縮による体温制御を行えない彼女でも快適に過ごせるようになっている。

 病室には豪邸の客間に似合いそうなサイドボードやテーブルが並び、そこにはアンティークドールや豪奢な食器が並んでいる。

 そんな中に午前中にはなかったものがあった、サイドボードの上に飾られているシンビジウムの花束だ。

 しおんの視線が花束に引かれる。柔らかなアイボリーのシンビジウムを主役に、黄色、オレンジ、ピンクの花が周囲を飾った花束は品良く美しく、しおんの琴線に触れた。

 

「午後にお母さまが届けてくださったんですよ」

 

 看護学校を出たばかりの若い女性がしおんの視線から先回りをする。それを聞いたしおんは、面白くもなさそうに顔をしかめて低い声で応えた。

 

「ママが、じゃないよ。お花屋さんがだよ」

 

 せめて店頭で束ねる花を選ぶことくらいしていれば、母がと言ってもいいだろうが、あの女のしていることは、花屋に口座上のお金を渡して一切合切を任せているに過ぎない。もう何ヶ月母の顔を見ていないだろうか、としおんは内心で嘆息する。もっとも、会いたいというわけでもないのだが……。

 

「しおんちゃんのご両親はお忙しいですしねぇ。しょうがないですよ」

「そうは言っても……わたしだって寂しいよ~」

 

 泣き真似をして、看護師の細い腰に抱きつく。職業柄か母性本能に富んだ看護師は、あやすように彼女のつむじを撫でるが――

 

「ぃたッ!」

 

 加減を知らないしおんに太腿の肉をつねられて悲鳴をあげる。その反応にしおんは破願し、看護師から離れると大きく頷いてみせた。

 

「いい反応~。痛いとそうなるのね~」

「もう、しおんちゃん……!」

 

 泣きぼくろのある瞳に涙を滲ませ、看護師はしおんをきっと見つめる。抗議の意味で強い表情と視線にしているつもりなのだが、生まれてこの方一度も喧嘩をしたことのない彼女のそれは、傍目には必死で涙をこらえているようにしか見えない。

 

「ごめんね、痛いっていうの、いまだによく分からなくて~」

「だからって、私で試さないでください……」

「う~ん、時々はね! よろしく~」

 

 涙目で抗議する看護師に軽口で返すと、しおんはクィーンサイズのベッドに倒れ込む。綿あめのようにふかふかのベッドで、しおんが体重をかけて飛び込んでも怪我をする虞はない。それでも看護師は心配なのか、足早に近寄り彼女の関節などの様子を目で確認する。

 

「あまり乱暴にしちゃダメですよ。人間の身体って、思っているより脆いものなんですから」

「はぁ~い。ねぇ、お風呂はいりた~い」

「もう入るの? 夕飯の後の方が良くないかしら」

「今日は外に出て汚れたし~」

「……脱走したことをあけすけに言わないで下さいね」

「まゆみのお風呂気持ちいいし~。遅番の人に変わる前に入りた~い」

 

 ベッドの上で全身を弛緩させているしおんから、靴下、コート、パジャマと剥ぎ取りながら看護師は「仰せのままに」と芝居ぶって応える。汗をかけない彼女の衣服はほとんど汚れも臭いもなく、また身体も入浴前というのに芳しい香りがした。

 

 

 

 

 

 

「頭、おとなしくしてくださいね」

 

 タイルの上、両足を投げ出してぺたんと座り込んだしおん。その背中側から身体を洗ってあげていた看護師は、しおんの頭突きを乳房の下側に受けて抗議の声をあげた。痛みを感じるような乱暴な頭突きではないが、突かれる度に乳房が揺れて肩に負担がかかる。

 

「まゆみのおっぱいが大きいのが悪い~」

「そんな無茶苦茶な……」

「だいたい、ナースで水着つけないのまゆみだけだよ~。自慢だな? 自慢に違いない~」

「なんで私がしおんちゃん相手に自慢しないといけないんですか……」

「え、なになに~。自慢しちゃう相手が他にいるの~?」

「大人をからかうんじゃありません……って、小突いても意味なかったですね」

 

 たしなめる様にしおんの頭をげんこつをコツンとあわせた後、顔を綻ばせる。もともと垂れ気味の瞳が笑うとさらに垂れて、目元のほくろとあいまって、とても優しい表情になる。確かに小突かれてもしおんには感じられないのだが、彼女はいつも大げさな所作と言葉でのフォローで、しおんにも充分に伝わるようにしている。そのおかげでしおんは、彼女といるときは触覚があるかのように話をすることができた。

 

「今日は髪は洗う日ですか?」

「違うんだけど~。洗ってもらってもいい~?」

「はい、もちろんいいですよ」

 

 

 

 

「しおんちゃんは、宝石みたいですね」

 

 棒立ちになったしおんの、タイル床に届きそうな髪先にトリートメントをしみ込ませながら、まゆみがうっとりとした声を漏らした。

 

「なにそれ~?」

「だって髪もこんなにサラサラで綺麗ですし、肌も透き通るようで、シミひとつなくて」

「でも、おっぱいないよ~?」

「それは、もう少しすれば大きくなりますから……」

 

 乳房に拘泥するのは幼児性の表れと看護師には見えた。しおんは幼いころから病院へ隔離され、親の手を離れて何不自由ない生活をしてきたと聞いている。それだけに母親に甘えることもできず、いまだに母性を求めているのだろうな、と弓槻まゆみは推し量ると、自分で良ければ出来るだけ甘えさせてあげよう、と結論した。

 髪先の保護を終えると、まゆみは掌を重ねてでシャンプーを泡立てる。しおんは目にシャンプーが入っても何一つアラームは出せないのだから、ここから先は特に慎重にしないといけない。

 

「少し、首を後ろに倒してくださいね」

「は~い」

 

 言われるままに、おとがいを上向けたしおんに、まゆみは泡立てたシャンプーをそっと押し当て、地肌に馴染ませていく。

 充分になじんだ頃合いで、指の腹でマッサージするように頭皮を揉む。触覚がないはずのしおんが、目を細めて気持ち良さそうにしてみせるのは、きっと触れている個所を通じて、彼女の優しさが伝わってくるからだろう。

 時間をかけて洗髪を終えると、一般的にシャンプーに推奨される温度――体温程度よりも遥かに低いぬるま湯ですすぎを行う。

 

「ぼーっとしたり、気分が悪くなってきたら、教えてくださいね」

「大丈夫だよ~。まゆみも痛いことあったらいってね~」

「痛っ!」

 

 おとなしくシャワーを浴びているように見えたしおんだが、後ろ手にまゆみの腿肉を捻りあげる。短い悲鳴をあげたまゆみをからかうように、しおんは首をさらに後ろに傾けてまゆみを見上げる。

 

「あ、痛かった~?」

「……痛いことあったら言ってねっていいながら、わざと痛くするのはどうかと思いますよ」

「わ、反撃はダメだよ~。わたし患者なんだから~」

 

 髪を梳いていた手をしおんの肩口にあてがい、指で肌をつまみあげるような仕草をみせるまゆみに、しおんがわざとらしい悲鳴をあげる。それを見ると、まゆみは表情を崩して、しおんの肩から腕を撫でさする。

 

「こんなこと言うのは不謹慎ですけど、ちょっと憧れちゃいますね、痛くないのって」

「便利だよ~。ただ、ひとりで生活できないのは不便かな~」

「そうですね、お部屋もお風呂もしっかり温度管理しないといけませんし、そこは大変ですよね」

「お手数をおかけしております~」

「いえいえ」

 

 間延びした口調で大人びた物言いをするしおんに苦笑で応えると、蛇口をぎゅっと閉め、手慣れた動きでしおんの長い黒髪をタオルで包んでいく。そして、その上から撫でるような優しい力で、少しだけタオルを押し当てる。

 

「まゆみは、痛いの嫌なの~?」

「そりゃぁ、痛いの好きな人はいないと思いますよ」

「じゃ~、入れ替わっちゃう?」

「ふふ、そうですね。そんなことができれば、それもいいかもですね」

「もしそうなったら、わたしがお風呂いれてあげるよ~」

「はい、ぜひ」

 

 たわいない仮定の言葉を熱心に語るしおんの様子に、一二という年齢相応の幼さを感じたまゆみは微笑みを浮かべると――髪のためにはあまり良くないことであるが――タオルを両手でごしごしとした。

 されるがままになっているしおんの表情は、親猫に毛繕いされる仔猫のそれに近かった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 毬屋しおんの症状は、軽度の知的障害を伴うことが多いのだが、彼女に関してはそれは当てはまらなかった。

 もし通学していれば年齢的には中学一年生にあたる彼女だが、パソコンを使用しての学習により既に中学三年分のカリキュラムを終え、数学と物理については高校で習う範囲まで理解の翼を広げている。

 今日も昼食後の時間を、ノートパソコンでの学習にあてていた。退屈だ、飽いた、そういった心の苦痛も感じないかのように、粛々と問題を解き、答を確認していく。

 

『最近は外に出ないんだね』

「お、おひさ~。まゆみがね、あんまり脱走するなって言うからさ~」

 

 窓も入り口も閉め切っているよういうのに、キュゥべえはいつの間にかしおんの足元に姿を見せていた。そして口を動かさずに、思考だけをしおんに送り込む。

 

『キミが人の言うことを素直に聞くとは珍しいね』

「まゆみは特別だからね~。っていうか、ひとを天邪鬼みたいに言うな~」

『それは失礼した。しかし、そういった学問の勉強もいいが、痛みの勉強はいいのかい』

 

 二次不等式を解いていた彼女の手が止まる。

 とん、とんと同じキーを指が叩き、意味を為さない文字列がモニターに綴られる。しばらくそれを繰り返した後、はっと我に返るとバックスペースを連打した。

 

「そうなんだけどさ~。最近は学ぶものがなくて~」

『それは、充分に学び切ったということかい?』

「違う~」

 

 ノートパソコンの小さいキーと比べてもなお細いしおんの指先が、今度は正確にキーを叩く。モニター上に器用に括弧に括られた式が幾つも並び、それをもとにしおんの頭脳が正解を導く。その回答を入力し、エンターキーが押下されると、モニターに花丸が表示された。

 

『ふむ。教材のレベルアップが必要なのかもね』 

「レベルアップか~」

 

 気分屋な彼女は、その言葉でふと思い立ち、学習プログラムを立ち下げた。そして、しばらくご無沙汰していた経験値稼ぎをしようかとゲームプログラムを走らせてコントローラをノートパソコンに接続した。

 

「明後日の金曜はまゆみ、お休みだから~、その日に行こっか~」

『わかった。それじゃ、明後日に』

「あい~」

 

 モニターに映し出されたメニューから、データのロードを選択する。モニターが暗転し、魔騎士の≪しおん≫、聖騎士の≪まゆみ≫、踊り子の≪No_Name≫、祈祷師の≪ああああ≫のパーティメンバー四人がデフォルメの効いたドット絵で現れる。

 

「よ~し、冬山越えできるまでレベルあげるぞ~」

 

 以前投げ出した長征イベントの名を叫び、気合を入れると、しおんはコントローラを両手で握りしめた。前は七連戦だか八連戦の四戦目でギブだったので、レベル少し上げればクリアできるだろう、と見通しを立てる。

 

 

 

 

 

 

「聖騎士なんですか。かっこいいですね」

 

 夜勤の時間になってしおんの病室を訪れた弓槻まゆみは、翼飾りのついた兜をかぶり、片手剣と凧盾で華麗に戦う自分の名前を冠した騎士を覗き込んだモニターの中に見て、満足気に頷いた。

 

「うちのエースだよ~」

 

 ステータスアップアイテムも、一品ものの装備も全部≪まゆみ≫に回しているのだから当然なのだが、そんな事情を知らない(そもそもゲームに疎いので聞いても分からない)まゆみは、その言葉にも我がことのように手を叩いて喜ぶ。

 

「それは嬉しいですけど、そろそろ電源プチってしましょうね」

「え~」

「もう。ここは消灯免除されてますけど、本当ならとっくに消灯時間なんですから……」

「え~」

「夜更かしすると折角の綺麗な肌が荒れちゃいますよ」

 

 不承不承ながらも頷いたしおんは、「でも、セーブするところまでは進めていいよね?」と見苦しくも粘ってみせたが、

 

「ダメです」

 

 と笑顔で却下されると、諦めてノートパソコンをシャットダウンさせた。

 

 

 

 

 

「ずっとゲームしてて、お風呂まだなんだよね~」

 

 折りたたんだノートパソコンをサイドボードの引き出しに押し込むと、しおんは思い出したように言った。夕飯もまだだったが、食欲がないこともあってそちらは言及しない。

 その言葉を聞いたまゆみは、眉をひそめてみせると彼女にしては低めの声で「……あまり生活態度が乱れるようなら、厳しくしちゃいますよ」と告げた。しおんが夕飯、お風呂ともに済ませていないことは引継ぎで聞いていたし、注意しようと思っていたことなので、しおんが話を振ってくれたことは渡りに船と言える。

 

「反省します~。ね、だからお風呂~」

「今からですか? まぁ、身体つねったり、胸を触ったりしないならいいですよ」

「それじゃ意味ないよ~」

「しおんちゃんは何しにお風呂入るんですか……」

 

 問答しつつも、お互いに着地点は見えている。しおんが脱がせやすいようにベッドに腰掛けて両手両足を伸ばすと、まゆみは甲斐甲斐しく彼女の部屋着を脱がせては几帳面に折りたたむ。その間にもリモコンで、バスタブにぬるま湯をためるよう指示を飛ばす。

 

「髪はどうします?」

「今日は遅いし、いいや~」

「はい。じゃぁ、まとめちゃいますね」

 

 ナース服のポケットから取り出したヘアクリップで、器用にしおんの長髪をつむじを中心に巻き上げていく。

 そうこうしているうちに、しおんは舟をこぎ始め、やがてベッドに背中から倒れ込んで寝息をたて始めた。

 

「あらあら、気分屋さんなんだから」

 

 寝顔だけ見てると、本当に天使みたい、とまゆみは微笑む。もっとも、動き喋くると天使というよりは小悪魔に近くなるのだが。

 しおんの部屋なら、裸で床に寝ても体調を崩すようなことはないはずだが、まゆみはパジャマをしおんに着せてあげると、薄手の布団を彼女にかけた。触覚がないというのは、こういう時は目覚めさせてしまう心配が少なくて便利だ。まゆみは布団を軽めにぽん、ぽんと叩くと寝顔に語りかけた。

 

「いい夢を見てね。おやすみなさい」



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毬屋しおん、魔法少女の契約をする・後編

 夕飯のオムライスの最後の一口をしおんが飲み下すのを確認すると、対面に腰を下ろしていた看護師が口を開いた。

 

「しおんちゃん」

 

 真面目な顔で、まゆみが話しかける。本人は厳しい表情のつもりなのだが、泣きぼくろに飾られた垂れ気味の大きい瞳は、どうしても迫力に欠けた。

 

「最近、このあたりに通り魔がでるそうなの。だから、外に出ちゃ駄目ですよ」

「通り魔~?」

「はい。なんだかね、針みたいなので刺したり、刃物で切ったり、いろいろ被害が出ているそうなの」

 

 しおんの口元に付いたケチャップをウェットティッシュで拭き取り、頬についたご飯粒を指先で拭ってしおんの口に押し込む。指をすぐ引き戻すと、甘噛みしようとしたしおんは歯をかちんと鳴らした。

 

「ていうか、わたし外出禁止だし~」

「そうですね。それを素直に守ってくれると嬉しいんですけど……」

 

 嘆息。そして、デザートのショートケーキの包みを剥がすと、フォークと揃えてテーブルに並べる。

 

「とにかく、犯人が捕まるまで外出禁止。約束できますよね?」

「大丈夫だよ~」

 

 まゆみの真剣さとは対極にあるような暢気な表情でしおんはフォークを掴む。そして、笑顔のまま突然に左の手首を刺した。

 刺された傷から、血が溢れる。

 フォークを抜くと何事もなかったかのように、血に濡れたフォークでショートケーキの先端を切り落とした。

 

「ね。わたし、痛くないんだから平気~」

「ばかっ」

 

 呆気にとられて反応ができなかったまゆみが、しおんの言葉で金縛りが解けたように素早くしおんの腕を取った。彼女は手持ちのガーゼで止血しながら傷の具合を看る。幸い動脈にも静脈にも傷は至っておらず、大事になることはなさそうだと判断して胸を撫で下ろした。

 

「痛くなくても、身体は傷つくんです。お願いですから、こんなことは二度としないで」

 

 彼女は泣きそうな声で言った。本当は叱るような声で言いたかったのだが、どうしても自分を御しきれなかった。

 しおんは自由な右手でショートケーキを口腔に放り込むと、彼女にしては神妙な面持ちで応えた。

 

「大げさだとは思うけど……。心配かけたことは謝るよ~」

「心配かけたことじゃありません。自分を傷付けたことがダメなんです」

 

 もちろん、心配もあまりかけないで下さいね、と付け加える。

 数分で出血は止まった。まゆみは傷口を洗浄するとビニール製のシートをあてがい、柔軟性の高い包帯でしおんの手首をぐるぐるに巻く。大げさと不平を言うしおんを視線で黙らせて、ようやく彼女は笑った。

 

「指切り。もう自分を傷付けないって」

「わかったよ~」

 

 差し出された小指に自分の小指を絡めると、しおんも釣られて笑うが、次のまゆみの言葉で笑みは霧散した。

 

「怪我治るまで、お風呂はなし。いいわよね?」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「どれくらい痛いのかな~」

 

 消灯した部屋でひとりベッドに横になった彼女は、虚空に向けて語りかけた。果たして、音としての波を伴わない声が返ってくる。

 

『なにがだい』

「これ~」

 

 その怪異な現象に慣れ切った様子のしおんは、言葉とともに左腕を突き上げてみせた。手首に巻かれた包帯が、薄闇の中でも白く存在を主張する。

 

『ふむ、それか。キミも変わったことをするものだね』

「えへへ~」

『なにか嬉しそうだね』

 

 その言葉には応えず、しおんは左の手首を何度も撫でさすりながら笑みを浮かべる。放っておくといつまでもそうしそうだったので、キュゥべえは話を進めた。

 

『その傷を試すのはいつにするかい?』

「ん~。明日まゆみ夜勤だから、明日のお昼にしよっか~?」

『承知した。では明日』

「キュゥべえはさ、どうしてわたしにこんなに構うの?」

 

 用件を済まして消えようとするキュゥべえの声を、しおんの質問が引き戻した。キュゥべえは、面白くもなさそうな調子でテレパシーを返す。

 

『ボクの目的は常に一つだよ、しおん。キミとの契約だ』

「魔法少女の~?」

『そうだ。キミが痛みについて理解を深めて、受け入れる気になれば、その疾患を治すという奇跡で契約するのではないかと思ってね』

「なるほど~。熱心だね~」

 

 聞きようによっては揶揄するような声でしおんが感想を述べていると、病室のドアがノックされ、年配の看護師が顔を覗かせた。

 

「毬屋さん、話し声がしてましたけど、どうかしましたか?」

「なんでもないです、寝言で~す」

「あらそう? 睡眠しっかりとらないと、病気も治りませんよ」

 

 看護師はたしなめる口調で告げると、静かにドアを閉じる。あまり長時間ドアを開けると部屋の温湿度に悪影響があるからだが、その所作はそういった理由以上に酷薄な印象をしおんに与えた。

 

「は~い」

 

 明るい声で返事をしたしおんは、次の瞬間に顔を醜く歪ませた。遺伝子異常による疾患に、睡眠がなんの効果があるというのか。子供相手と思ってお為ごかしを言う大人がひどくしおんの癇に障った。まゆみは一度もそんなことは言わないのに、とお気に入りの看護師を引き合いに出して先の看護師を批判し、溜飲を下げる。

 しおんが次にキュゥべえに呼びかけた時には、もはや彼の声は返ってこなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 次の日の夜。

 包帯をほどこうとするまゆみは、微かに血の臭いを感じたが、手首の傷口からだろうと思い気にはしなかった。それよりも、包帯をほどくことを嫌がるしおんの説得の方に意識を取られる。

 

「どうしてそんなに嫌がるんですか? 傷の具合をみて消毒するだけよ」

「だって~」

 

 怪我した左手を背中側に隠して、むずがるように頭を振る。

 

「傷口見たくないの? もしそうなら、目を瞑ってていいんですよ」

「そうじゃないけど~」

「もう、どうしたんですか。いつもみたいに言いたいことハッキリ言っちゃいましょう?」

「え~、いつも遠慮して気を遣ってるよ~」

「はいはい、ありがとうございます。じゃぁ、気を遣って左手見せてくださいね」

「そう言われると~」

 

 不承不承といった様子で左手を差し出し、力を抜いて看護師に預ける。まゆみは誉めるように少女の頭をひと撫ですると、緩く留められた包帯をほどいて少女の傷口を露わにした。フォークで刺した痕は、肉が盛り上がり傷口はふさがろうとしている。

 

「もう塞がりかけてる。若いってすごいね」

 

 汗をかかない彼女だけに、シート交換も傷口洗浄も不要ではないかと思えるほどに汚れていなかったが、やっておいて良いことはあっても悪いことはないのだから、と彼女は考えて、ビニールのシートを剥がし、傷口を洗浄する。

 

「また巻いてくれる~?」

「変なことを言いますね、しおんちゃんが嫌がっても巻くに決まってるじゃないですか。……そんなことで嫌がってたんですか?」

 

 まゆみがくすりと笑みを漏らすと、しおんは頬を紅くして否定する。その態度が何よりの返事になることも理解せずに、否定の言葉を連ねるしおんに、まゆみは新しいシートを傷口に添えながら言う。

 

「包帯なんて、巻かずに済む方がいいんですから……。巻かなくて良くなったら喜んでくださいね」

 

 諭すような、あやすような看護師の言葉に返事をするしおんの声は、いつもより元気がなかった。

 だが、次の言葉で元気を取り戻した。

 

「お風呂入ってないですよね。身体、蒸しタオルで拭きましょうか?」

 

 

 

 

 

 

 部屋着を脱がせていると、再び血の臭いを感じた。それを勘違いしたまゆみは、しおんに率直に聞いた。

 

「しおんちゃん、女の子になりました?」

「え~。わたしはずっと女の子だよ~?」

「そういう意味じゃなくってね」

 

 しおんのキュロットスカートを下ろすと、白く細い腿に顔を寄せる。そして下着が汚れていないことと、血の臭いがしないことをを確認すると、しゃがんだままの姿勢でしおんの顔を見上げた。幸い、しおんの胸部には下からの視線を遮蔽する効果は全くない。

 

「……うん、私の勘違いでした」

「あ。まだだよ~」

 

 まゆみの言わんとするところを諒解したしおんが、手振りを交えて慌てて否定する。

 

「しおんちゃん小柄だし、もう少し先になるかもですね」

 

 他意のない言葉だったが、そう告げるまゆみの視線が自分の胸を見ているという被害妄想にとらわれた少女は、足の甲でまゆみの乳房を、リフティングするかのように軽く蹴り上げる。

 

「おっきいからって自慢して~」

「もう。自慢なんてしてないです。蹴っちゃダメですよ」

 

 毅然とした表情のつもりで抗議するまゆみだが、泣きぼくろのある大きな垂れ目の上に、上目遣いで見上げるような形では、涙を堪えているようにしか見えなかった。

 それを見たしおんが素直に感想を言うと、彼女は頬をふくらませて「泣いてません」と告げる。それは少女にはますます泣き顔のように見えたのだが、当人は怒りを露わにしたつもりなのだった。

 

 

 

 

 

「私、汗っかきなんですよね。しおんちゃんと足して半分にできたら、ちょうどいいのにね」

 

 しおんの腿をマッサージもかねて蒸したタオルで拭きながら、美容師や整体師がそうするように戯れ言を漏らして聞かせる。マッサージを受けたしおんの柔肌が淡い桜色に染まっていき、それが心地良いのか目を細めたしおんが応える。

 

「まゆみ、汗そんなかいてたっけ~?」

「このお部屋は過ごしやすいですからそんなには。でもお風呂だとけっこう汗だくですよ」

「へぇ~。怪我なおってお風呂入ったら、味見させて~」

「汗をですか?」

 

 こくこく、と首を縦に振るしおんを呆れたように見つめると、まゆみは深く溜め息をついて応えた。

 

「それはばっちいので、代わりに生理食塩水を差し上げますね」

「え~」

「え~、じゃありません……。しおんちゃんは私をなんだと思ってるんですか。あっ、いいです言わなくて。どうせろくでもないこと言うんだから」

「じゃ~、ご想像にお任せしま~す」

「はいはい。……もうすぐ零時ですね。ちゃちゃっと終わらせて寝ちゃいましょう。しっかり寝ないと、大きくなれないですよ」

 

 意趣返しというわけでもないのだろうが、彼女の視線は僅かばかりの膨らみも見せないしおんの胸に注がれていた。そして、自慢するなと非難する少女の声に、彼女は否定せずに少し意地の悪い微笑みで返した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 一週間ほどが経ち、しおんの手首の傷はすっかりふさがり、痕もほとんどなくなっていた。

 包帯をほどいたまゆみは、それを確認すると我が事のように喜び、ベッドに腰掛けたしおんにおめでとうと告げたが、もともと不機嫌だったしおんは機嫌を直すどころか頬を膨らませた。

 不機嫌だった理由は単純で、しおんの次の言葉に集約される。

 

「まゆみ、今日遅番だよね~? ずいぶんこっち来るの遅くない~?」

 

 時計は午後七時を示している。遅番は午後三時からであり、しおんの指摘の通り遅いと言える。

 まゆみを含む数名の看護師はしおんの世話を主業務としているので、通常はシフト開始直後からしおんの病室に顔を出す。とはいえ、それは多額の寄付金への返礼のようなもので、しおん自身にそれほど手がかかるわけではない。

 実際のところ、しおんに気に入られているまゆみは病室で過ごす時間が長いが、他のしおん専属の看護師は一般の入院患者の世話や、手術の手伝いをしている時間が長いし、しおん自身がそれに不満を漏らしたこともない。

 

「あ、ごめんね。今日はオペのお手伝いに入ってたの」

「ダメだよ~。まゆみはわたし専属なんだから~」

「まぁ、確かにそうなんですけど、たまには普通のナースのお仕事もしないと、忘れちゃいますから……。私がダメなナースになっちゃうと、しおんちゃんも困るでしょ? 点滴とか、変なところ刺しちゃうかもですよ」

「むむ、じゃぁ、たまになら許す~」

「はい、ありがとうね」

 

 ほどいた包帯を丸めると、ベッド脇のテーブルの上にぽんと無造作に置く。取り上げられた玩具を見つめるような瞳で、名残惜しそうにしているしおんの手を取り、痕がうっすらと見えるだけの絹のような手首を確かめてから、まゆみは視線をあげた。

 

「完全に治ったし、もう包帯はいらないですね」

「え~。まだ痛い~」

「もう、そんなわけないじゃないですか……」

 

 二重の意味でありえない事象を主張するしおんの額を指で小突いてたしなめると、看護師は呆れ声を漏らす。

 

「……けが、治っちゃうと寂しいね~」

「えっ、そこは喜んでくださいよ」

「まだ包帯巻いてていい~?」

 

 返事を待たずに、しおんは腰を浮かせ、手を伸ばして丸められた包帯を掴もうとする。が、しおんの手が届く前に看護師が包帯をひょいと持ち上げた。意地悪や悪戯心ではなく、しおんの悪戯に見える行動を止めようとしたのだが、止められた少女はむずかるような声をあげる。

 

「手首が寂しいですか? じゃぁ今度、かわりにミサンガでも作ってあげましょうか?」

「ほんと~?」

「ふふ、得意なんですよ。模様のリクエストがあれば言ってくださいね」

 

 学生時代に取った杵柄を頼りに請け合うまゆみに、しおんは真剣な表情で考え込む。模様を考えているのだろうが、そもそもミサンガについて知識があるわけでもないので、どういった模様があるのか想像さえつかない。

 

「急かさないので、ゆっくり考えてください。とりあえず、晩ご飯の準備してきますね」

「明日にでもネットで調べてみる~」

 

 包帯をテーブルに戻して、しおん専用の夕飯を準備するために病室を出ていく。彼女は、病室に戻った時に包帯を置いて出たことを軽く後悔することになる。毛糸玉でじゃれる仔猫のように、じゃれたしおんが全身に包帯を絡めていたのだから……。

 

 

 

 

 まゆみの怒りを鎮めるために、ご飯一粒さえ残さずに食べたしおんが小さくげっぷをすると、看護師がハンカチで彼女の口元を拭った。目論見通り包帯をワヤにしたことへの怒りは霧散したようで、先ほどまで寄せられていた看護師の眉間の皺は綺麗に消えていた。

 ただ、完全にご機嫌快復とまでは至らないようで、しおんの完食を誉めた後にわざとらしく付け加えた。

 

「まだ手首痛いんでしたっけ? じゃぁお風呂はやめておきましょうか」

「え~、痛くないよ~。ていうか、わたしが痛いって分かるわけないじゃん~」

「さっきこの口がいいました~」

 

 しおんの口腔に左右の人差し指を侵入させると、それぞれを横に引っ張る。痛みを感じないだけに力加減に気を遣うが、看護師にしてみれば慣れたものだ。菱形に歪んだ口から、しおんが声をあげる。

 

「いっへないよ~」

「いいました~」

 

 そのやり取りを数度繰り返すと、看護師はやれやれといった体で折れる。我がままにかけては、しおんの方が一枚も二枚も上手なのだから最初から張り合う気もなかったのだが、しおんの奇矯な声が面白くてつい粘ってしまった。

 

「まゆみも意地っ張りなんだから~」

「はいはい、すみませんでした。じゃ、お風呂はいりますか?」

 

 その問いに、満面の笑みで少女は応えた。邪気も雑味もない、天使のような笑顔だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 消灯した部屋でひとりベッドに横になったしおんは、薄闇の中で左腕を天上へ向けた。少し腕を捻り、手首が見えるようにする。昨日までは純の包帯が手首を飾っていたが、今はもうない。傷痕も認められず、怪我の痕跡を示すものはなにひとつなかった。

 寂しいと、彼女は感じた。

 自分が他人につけた傷も、こうやって跡形もなくなってしまうのか、と嘆息する。

 

「あ~」

 

 そうだ、と小さく呟くと、彼女は心の声でキュゥべえを呼ぶ。すると、元からそこにいたかのように彼はベッドの上に居た。猫が丸くなるような姿勢で、布団の上に眠り居た。

 瞳も開けず、口も動かさず、彼は心の声を返した。

 

『やぁ、しおん。呼んだかい』

「呼んだよ~。喜べキュゥべえ、願い事決まったよ~」

『それは朗報だ。ずいぶん待たされたが、決心してくれて嬉しいよ』

 

 キュゥべえの尻尾が揺れるように動き、赤い色の目が開いた。そして重さを感じさせない動きでしおんの枕元に歩み寄る。いや、綿飴のように柔らかい寝具が形を僅かに変えることさえしない以上、本当に重さがないのだろう。

 

『さぁ、毬屋しおん――その魂を代価にして、キミは何を願う?』

「わたしが他人につけた傷は、未来永劫治らないようにして~」

『……その願いはキミにとってなにか意味があるのかい』

 

 問い質すのは善意からでも親切心からでもなく、彼女にとって充分な満足感を得る望みであるかを確かめるためだ。願いによって幸福感を得れば得るほど、後に絶望した際の落差は大きくなる。そのため、あまりにも無意味な祈りならば、彼女に再考を促そうとキュゥべえは考えていた。

 

「だってさ~、ず~っと治らない、ず~っと痛いんでしょ~。ず~っとわたしのこと憎んでいてくれるなんて、最高じゃない~?」

『その願いはキミの魂を懸けるに値するのかい?』

 

 しおんは、キュゥべえに視線を向けると口の端を歪ませた――いや、口そのものも、瞳も、頬も、全てを醜く歪ませた。その表情を見て、キュゥべえは翻意を促す価値も意味もないことを理解し、契約を進める。

 

『おめでとう、しおん。キミの祈りはエントロピーを凌駕した』

 

 契約の成就と同時、風見野界隈で複数の人間の傷口が開いた。小は猫に引っ掛かれた程度の傷から、大は血管を切り裂くほどの傷まで、数多の閉じていた傷口が開き、苦痛と出血と、人によっては生命の危機までをももたらしていた。

 

 ――ふむ、これはうまく運べば連鎖できそうだね。

 

 キュゥべえは他の事象に意識を飛ばしながらも、慣れた手つきで契約の手続きを進めていく。

 少女の上体を起こさせると、パジャマの裾をめくり上げ、触腕をしおんの腹部に突き刺す。

 そして、内臓をまさぐる様に、こねる様に触腕を動かす。

 白い肌と白い触腕には境目は見えず、傍目にはしおんとキュゥべえが一体化しているように見えた。

 

『痛くないのかい』

 

 平静そのものといった態度のしおんに違和感を覚え、キュゥべえが問う。

 彼の今までの経験では殆どの少女は悲鳴をあげ、どんなに気丈な娘でも、身体に直接侵入される不快感と魂を鷲掴みにされる嫌悪感で唇を噛み締め、声を押し殺していたものだが――

 

「あはは。わたしが≪痛い≫なんて言うわけないじゃない~」

『そういうものか。キミの無痛症は身体だけではないんだったね』

「そうだよ~。前も言ったじゃん~」

 

 腹部にキュゥべえの触腕を招き入れたままの状態で、しおんは楽しげに足をばたつかせた。純粋に会話に興じている、そんな態度だ。

 

『話半分に聞いていたよ。……さて、出来た。受け取るといい。それがキミの運命だ』

 

 告げると、突き刺した時のビデオを逆回転させたような動きでキュゥべえの触腕がしおんの腹部から抜け出てくる。やがて、触腕の先端部までが抜け出てくると、ちゅぷん、と腹部の肉が液体にでもなったかのように波紋が広がった。

 突き刺した時と異なり、抜け出てきたキュゥべえの触腕は先端に拳ほどの大きさの乳白色に輝く宝玉を握っていた。これがキュゥべえの言う、しおんの運命なのだろう。

 受け取るといいという言葉の通り、キュゥべえの手から離れた宝玉は持ち主であるしおんを目指してゆっくりと浮かび上がる。

 

「……」

 

 迎え入れるようにしおんが左手を伸ばすと、宝玉はそちらに向けて進み、掌に納まった。

 生まれたばかりの宝玉は火傷しそうな熱を持っていたが、しおんにとってはそれは無いに等しく、涼しげな表情で宝玉を握りしめる。と、キュゥべえの触腕がしたのと同様、宝玉がしおんの掌に沈むように入り込んでいった。

 

「お~」

 

 他人事のような感嘆の声をしおんが漏らしている間に、宝玉はしおんの身体の中を泳ぎ、左手首の内側、ちょうど傷があったところへ辿り着いた。そして、そこを終の住まいと定めたかのように根を張った。

 

『キミは今から、魔法少女しおんだ』



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梢ジュン、魔法少女の契約をする

「義父との縁を切ってくれ」

『おめでとう、ジュン。キミの祈りはエントロピーを凌駕した』

 

 

 願いが義父の絶命ではなく絶縁であったことから、一切の流血はなく彼女の望みは叶えられた。

 彼女の義父は様々な不祥事の張本人として社会的に抹殺され、彼女の前からその姿を消した。

 可哀想、などとは彼女は思わなかった。あの男が自分と実母にしてきた仕打ちを思えば、生ぬるいとさえ思う。

 

 彼女は、幼い頃から素直で明るい性格だった。その善性は今も失われていないが、二年に及ぶ肉体的、精神的、そして性的な虐待は彼女の性質を大きく歪めていた。

 表面的には優等生だが、裏では男子とでも殴り合いの喧嘩をする、それが小学校高学年での彼女の姿であり、彼女の恵まれた体躯はその凶暴な学生生活を肯定した。

 

 

 

 中学校に入っても、彼女の性質は変わらなかった。

 逞しく健やかなな幹を持ちながらも、塗りたくられた泥に汚されている、それが彼女という存在だった。

 そのような彼女なので、魔法を私利私欲のために使うことに忌避感はなく、犯罪に片足を突っ込む程度のことは日常茶飯事だった。その反面、同級生を相手にすることは馬鹿らしくなり、学校では随分とおとなしくなった。

 彼女と同じ小学校出身のものは過去の素行から依然彼女を怖れたが、そうでないものにとっては彼女はスポーツの得意な明るいクラスメイトだった。

 

 

 スポーツ、特にバレーボールは彼女には実父の形見に等しいものであり、魔法少女の多忙な生活の中でも練習は欠かさなかった。部活が終わってからパトロールが日課。魔法を濫用することから魔力の消耗も激しく、パトロールの頻度を落とすわけにはいかなかった。

 面倒くさい。それが彼女の気持ちだ。

 戦うことは嫌いではないが、パトロールは退屈なうえに時間がかかる。さりとて、グリーフシードの確保は必要不可欠であり、疎かにするわけにもいかない。魔女を探してくれる舎弟でもいればいいのだが、一般人にはその役目は務まらない。

 夏休みも終わったある日に、キュゥべえが成した報告は彼女にとって福音と言えた。

 

『キミの学校で、もうひとり魔法少女候補を見つけたんだ』

 

 彼女はその名を問うた。フルネームで返ってきた答えは聞き覚えがあるものではなく、彼女は小首を傾げる。

 

『この娘だ』

 

 テレパシーの要領で、魔法少女候補の像が彼女の脳裏に送り込まれる。それは栗色の髪を襟首でボブカットに揃えた、幼さの残る少女だった。

 

「あぁ、見たことはあるよ。あんまり印象に残ってないけど……」

 

 ちっちゃい子だな、と体育の授業で見かけて思った記憶があった。その身体的特徴がなければ、きっと記憶には残らなかっただろう。体育で見かけたということは、隣のクラスだろうかと少女は推測する。

 

「ねぇ、キュゥべえ。ちょっとその娘の勧誘は待ってくんない?」

『どうかしたのかい』

「せっかくだし、あたしの手駒にしたいんだ」

 

 

 

 

 

 彼女の隣のクラス、つまり魔法少女候補の千尋早苗のいるクラスには、彼女の小学校時代の旧友がいた。実態に即して表現すると、小学校時代の子分とするべきだろうか。

 彼女はかつての子分に、千尋早苗をいじめるように命令した。どのように、いつまで、などの細かい指示はない。どんな遣り口でも好きにすればいいし、やめさせる時期は後で判断すればいいと考えているからだ。

 

 ――自殺だけは困るけど、それはキュゥべえに見張らせておけばいいか。

 

 その程度の認識しか彼女にはなかった。だから彼女の企みが奏功したのは運が良かったのだろう。場合によってはいくらでも最悪のケースに至っていたはずだ。

 

 

 二週間ほどが経過した。

 憔悴した早苗は、少し助け舟を出すと面白いほど簡単に彼女を信用した。一週間もそれを繰り返すと、仔猫が母猫に見せるような懐き方を示し、彼女を親友と認識しているようだった。

 その上で、いつも守れるか分からないと虞を吐露し、部活を辞めてでも守りたいと仄めかすと、早苗は彼女に心配をかけたくないと力を欲した。

 あとはキュゥべえと協力して一芝居うてば簡単なことだった。早苗は躊躇いなく契約を決意し、セピアブルーのソウルジェムを持つ魔法少女となった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 早苗契約の翌日の土曜日、ふたりは風見野の町をソウルジェムを片手に歩いていた。魔女の結界探し、いわゆるパトロールだ。

 天候は少し気の早いインディアンサマーといったところで、濃紺のセーラー服だけでも汗ばむような陽気だ。長身の少女、梢ジュンは歩きながら、空いた片手でセーラーの胸当てを前後に振るように動かし、風を送り込む。ちょっとはしたないよ、との早苗の指摘に、

 

「大丈夫、どうせ周りからはあたしらは見えないんだからさ。千尋もしなよ、気持ちいいよ」

 

 軽く笑いながら、掌で早苗の背中をぽん、ぽんと叩く。

 

「う、うん……」

 

 おずおずと、早苗が真似て胸元を振る。

 確かに少し風が入ってくるが、それよりも羞恥で体温が上がる方が勝ってしまい、あまり気持ち良くなかった。ぎこちなく腕を動かしながら頬を上気させる早苗をからかうように、ジュンが明るい声を漏らす。

 

「誰にも見えないってのに、なに照れてんのよ、千尋」

「そ、そうだけど……」

 

 梢さんが見てるじゃない、と続く言葉は飲み込む。言えば一層からかわれるだろうし、そもそも言うような勇気は持ち合わせていない。胸当てを動かす手を、徐々にスローダウンさせてさりげなく停止させると、早苗は話題を変えた。

 

「それにしても暑いね。こんなだとクラブ大変だったんじゃない?」

「そうだね。この時期だと冷房も入れてもらえないし、真夏よりキツイくらいだよ」

「そうなんだ。あっ、退部のことは平気だった?」

「あぁ、昨日の今日でまだ部長が止めててくれたみたいで、お咎めなしだったよ。頭叩かれたくらい」

 

 実際には退部届は出しておらず、甥っ子を預かっているが母が夜勤に出るので早く帰って面倒をみないといけない、と嘘をついて休んだだけだ。しかし、さも退部届を出したうえで復帰したような話を、ジュンは淀みなく語って聞かせる。

 

「良かったぁ」

 

 花が綻ぶような笑顔を早苗が見せる。その笑顔を見ても、ジュンの胸中に僅かの痛痒も生まれることはなく、むしろ疑う素振りも見せない彼女に安堵をおぼえていた。

 

「それにしても、今日も反応ないなぁ」

 

 掌中で淡い光をたたえるコバルトグリーンのソウルジェムに視線を落とし、ジュンが呟く。肘を直角に曲げて胸の前に掲げる感じだが、横で並ぶ早苗には少し視線を持ち上げる必要があった。

 

「けっこう、いないものなんだね」

「そりゃまぁ、ウジャウジャいたら困るしね。毎日一時間くらいこうやって街中を歩いてるけど、週に多くて二匹ってとこかなぁ。正直だるいよ。今日は土曜だからいいけど、平日は部活の後だから時間も遅くなるしね」

「そっか、クラブ終わると五時回るくらいだもんね」

 

 自分が何か役に立てればな、と早苗は思うが、昨日契約を行ったばかりの自分に何が出来るのだろうかと心の中で溜め息をつく。

 そんな考えを頭の中に遊ばせながら、掌中のセピアブルーに輝くソウルジェムをちらと見た。宝玉の中にぼんやりと灯る光が、風に揺られた炎のように特定方向へ流れている。

 

「あ、あれ。梢さん、これ」

 

 言葉に合わせ、腕を伸ばし梢の首のあたりまでソウルジェムを持ち上げる。早苗のソウルジェムの中に結界の反応を示す動きを認めたジュンは、自分のソウルジェムと見比べて賞賛の声をあげた。

 

「すごいね、あたしのは反応してないのに。千尋の方が探知得意なんだね」

 

 誉められ慣れていないのか、早苗は瞳を伏せて、はにかむような笑いで応える。

 

「じゃ、追跡の実践練習だね。といっても、その光が傾く方向に進むだけなんだけど。あたしは何も言わずについていくね」

「うん、やってみる」

 

 

 

 

 人間としての常識にとらわれ過ぎて無駄に迂回ルートを選んでしまうことを除けば、追跡は上首尾に終わった。時計の長い針が四半周するよりも早く魔女の結界に辿り着いたふたりは、ソウルジェムの力を解放し、魔法少女となった。

 長身の魔法少女は、お伽噺の魔法使いを思わせる漆黒のローブで全身を覆う。せっかくのモデル体型が隠れてしまうことから早苗には不評だが、ジュン自身は気に入っている。特に燕尾服のように二つに割れた背中が、激しいアクションにあわせて揺れるのが好みだ。

 なお、彼女のコバルトグリーンのソウルジェムは、ローブの下に隠れているのか立ち姿からはうかがえない。

 

 もうひとりの魔法少女は、身体の線が強く出る桃色のレオタードに身を包んでいる。が、羊毛を思わせる毛並みが乳房や腰を覆い隠しているので、彼女のコンプレックスを強く刺激することはなかった。手

 と足には彼女の体躯には不釣り合いに巨大なグローブとブーツが備わっていて、カートゥーンのキャラクターのような雰囲気をかもしだしている。

 側頭部からは水牛の双角に似た装飾が迫り出す。但し、角と異なり先端は尖っておらず、龍が珠を握るようにして輝く珠を飾っていた。右には彼女のセピアブルーのソウルジェム、左にはコバルトグリーンの水晶球を。

 

 

 昨日少し訓練したとはいえ、早苗にとって魔女との戦いは非日常の出来事であり、自信も覚悟も決定的に不足していた。

 だから結界内を歩く際も、カルガモの親子のようにジュンの後をぴったりとついて進んだ。そんな早苗の様子にジュンは「無理して怪我するよりはいいよ」と笑った。

 魔女との戦闘においても、早苗の出る幕はなかった。ジュンの固有魔法は絶対切断であり、武器である鎌が触れているモノをひとつ、硬さや厚さによらず切断することが出来る。

 丸太のような魔女の腕を切断魔法で切り落とし、大樹を思わせる魔女の胴を切断魔法で両断すると、魔女はグリーフシードを残してかき消えた。

 

「千尋の攻撃も、魔女の注意を引いてくれるから充分助かったよ」

 

 初陣であることを差し引いてもロクに活躍のできなかった早苗に、ジュンは彼女の小さな肩を叩いて告げた。

 千尋早苗の武器は魔力により生成される浮遊機雷。機雷を投擲したり魔力誘導することで戦うのだが、弾速も遅く牽制程度の役目が精一杯だった。固有魔法も魔女を相手にするには使い勝手が悪く、今回は使用するに至っていない。

 しかし、彼女に活躍したいという願望はなく、武器にも固有魔法にもさしたる不満はなかった。彼女の願望は梢ジュンの役に立ちたい、であり、その願望からすれば探知能力に優れていて、今日のパトロールで貢献できたことこそが本意だ。

 もっと、貢献したい――そう彼女が思うのは自然なことなのだろう。

 ジュンの言葉をフォローと受け取った彼女は屈託のない笑みを浮かべ、瞳をしばたたかせた。教師に褒められるよりも、両親に認められるよりも嬉しく、自然と頬が上気していた。そして、先ほどから思っていたことを口にした。

 

「ねぇ、梢さん。梢さんがクラブやってる間に、私が魔女を探しておこうか?」

 

 いつもはぽん、ぽんと言葉を返してくるジュンが口を噤んだ。その様子に「危ないからダメ」と否定されるかと勘違いした早苗は、矢継ぎ早に言葉を連ねて、自らの献身を認めさせようとする。

 

「ほら、そうすれば梢さんクラブ終わってすぐ戦えるし。私、どうせクラブ終わるまで練習眺めてるだけだったし、それくらいならひとりで魔女探しした方がいいんじゃないかなって。幸い、探知ならそこそこ得意みたいだし……。戦いがうまく出来ない分、そっちで役に立てたらなって。それに……」

 

 ジュンが黙って変身を解いた。慌てた様子で、早苗も倣う。そのため、早苗の長口上が途絶え、ひとときの静寂が訪れた。もともと口下手な早苗は言葉を続ける機会を逸して、裁可を仰ぐように長身の少女を見上げる。

 

「絶対にひとりで戦わないこと。守れる?」

 

 早苗の性格からすれば、ひとりで戦ってグリーフシードをジュンに渡そうとしかねない。だがそれは、ジュンにとってふたつの点で望ましいことではなかった。

 ひとつは、魔女相手に魔法を使い鎌を振るい、大立ち回りをすることはジュンにとってはストレス発散であり、その機会を減じることは歓迎できないこと。もうひとつは早苗が危険であること。善意からではない。せっかく手に入れた駒を無為に危険に晒すなどと馬鹿げているではないか、との考えからだ。

 だが、言われた早苗にとっては理由は推し量るものでしかなく、善意からのものだと結論するのも無理はなかった。

 

「うん、守れるよ。ありがとう」

「ケータイにメール入れといてくれれば。だいたいの場所が分かれば、近く来てテレパシー飛ばせばいいしね」

「うん、そうする」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 週が明けて月曜日。朝のホームルームで、担任の新卒女性教師は沈んだ声で告げた。

 早苗をいじめていた少女たち三名が、先週の金曜日の放課後に死亡したことを。

 それを聞いて、早苗は足が震えることを止められなかった。薄い唇は冬の海にでも浸かったかのように色を失い、瞳も耳も機能を失ったかのごとく、何が見えているか、何が聞こえているかを脳に伝えることを放棄した。

 経験の浅い教師は、そんな早苗の様子に気付くこともなく必要なことを話し終えると、不確かな足取りで教室を後にした。

 

 教師が去ると、喧騒が教室を包む。故人の人間性に起因するのか、その内容は身近なものの死を悼むというよりは、ゴシップを楽しむ傾向が強かった。そしてゴシップという点では、動機を疑われてもおかしくない早苗だったが、彼女たちがそれぞれの自室で亡くなっていたことから事件性はないと思われること、そして早苗を揶揄することで梢ジュンの不興を買うおそれがあることから、彼女に話しかけようとする者はいない。

 そんな空気を破って、ひとりの女生徒が早苗の席に近づくと、身をかがめて囁いた。

 

「千尋さん、きっとあの人たちは天罰だよ……。なんにせよ、良かったね」

 

 話しかけてきた女生徒は二ヶ月弱前までは友人であった。いじめがあってからは、早苗が彼女を巻き込まないようにと距離を取っていたために疎遠になっていた。女生徒もそんな状態に忸怩たる思いを抱いていたが、さりとて一歩を踏み出す勇気も持てず今に至ったのだ。

 

「良くないよ……。死ぬなんて……そんなに……」

 

 彼女に応える早苗の声は、うわごとのようだった。

 

 

 

 

 

「私、とんでもないことしちゃった……」

 

 昼休みの校庭、木陰のベンチで小さなお弁当箱を膝に、早苗はジュンにすがるような視線を向けた。

 彼女が魔法少女になる際に願った奇跡。自分の受けたいじめの苦しみを、そのまま三人のいじめグループに返すというものの結果として、三人は命を落とした。二週間以上に渡って受けた苦しみを一息に圧縮した痛みは、彼女たちの精神を容易く焼き切り、無残な死を与えたのだった。

 

「千尋が気に病むことじゃないよ。それだけのことを、あいつらがしたってことだし。千尋は、こらしめて反省してほしかったんだろ?」

「でも」

 

 本意はどうあれ、自分が願った奇跡で彼女たちは命を失った。それは殺したことと同じではないかと早苗には思えた。だからといって、償う方法も詫びる方法も思いつかず、朝から思考は堂々巡りを繰り返していた。

 

「もし、それが罪っていうなら、千尋が魔法少女になったきっかけはあたしにもあるんだし、あたしも同罪だよ。だから、そんなに悲しまないで」

 

 ふたつめのサンドイッチの最後の一片を、器用にトマトを抜き取ってから口に放り込むと、全く箸のついていない早苗のお弁当箱を視線を落とす。

 

「それより食べなよ。ぜんぜん食べてないんじゃ、お母さん心配するよ」

「うん……」

 

 返事をするものの、箸は一向に動かない。もともと食の細い彼女だが、今日は食道に詰め物でもされたように感じる。乾いた口腔を潤す冷たいお茶でさえも、喉につかえそうだ。

 

「梢さん、食べてくれない?」

「んー、そりゃ、千尋の小さいお弁当くらいならまだ食べられるけど、それじゃせっかく作ってくれた千尋のお母さんが可哀想だよ」

「残すよりは……」

「食べないと、おっきくなれないぞ?」

「うん……」

 

 なだめる態度にも、おどける態度にも反応を示さない早苗に、ジュンは芝居がかった仕草で嘆息する。幼くして実父を亡くし、母の手ひとつで育てられたに等しい彼女にとって、母が手ずからこしらえた弁当を無為にするのは、他家の話といえども受け入れたくないことだった。

 

「よし千尋、ちょっとお弁当を横に置いてみて」

 

 元気――というより生気さえない様子で小さく頷き、彼女はハンカチの包みごと、お弁当箱を膝から降ろした。置いたよ、と瞳で伝えるように見上げる早苗。

 薄ぼんやりとしていた早苗は、梢ジュンの顔が近づき、唇が重ねられるまで、なんら反応を示せなかった。

 唇が重ねられ、温かさを感じてようやく事態を把握した早苗は、驚きのあまり両手を動かそうとする。だが、ジュンの手で強く抑え込まれると、万力で挟まれたかのように身動きが取れなかった。

 やがて口の端から唾液がこぼれ落ち、首筋を伝ってセーラーの胸当ての下に隠れる頃には、早苗は抵抗の意思を失っていた。唇が離れ、両手の拘束を解かれた後も、早苗は言葉なく、口を半開きにして放心していた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 二ヶ月が過ぎた。

 級友を自らの願いで死に追いやったという罪の意識から、千尋早苗は逃避するようにジュンを求めた。

 身体を重ね情を交えるうちに、それぞれの心の在り様は互いに影響を与え、僅かずつ変わっていった。

 早苗の善性に触れることで、ジュンの精神を汚していた穢れは拭い落とされ、幼い頃の素直さ、明るさが開花した。魔女を見つけ出し、狩るための猟犬、駒として見ていた早苗を、いつからか愛しさを込めた瞳で見つめるようにまでなっていた。

 

 それと引き換えるように、早苗のジュンへの感情は、憧憬から依存へと変質していった。ジュンから拭い取った穢れを自身が受けたかのように、彼女の思慮深く控えめな性格、誰にでも優しく接する性格はその姿を潜め、自分とジュンのふたり以外への排他的で攻撃性のある感情が表に出るようになっていった。

 

 

 

 クリスマスの迫ったその日、放課後に単独でパトロールを行っていた早苗は魔女の結界を発見した。

 ふたりの過去の決め事通りに携帯メールで連絡を取り、ふたりの過去の決め事通りに早苗は結界の前で主人を待った。ジュンは部活が終わってからふたりでパトロールをする形にしないかと言っているのだが、早苗は頑として譲らなかった。

 どんな魔女だろうか、グリーフシードは出るだろうか、と早苗は結界の前で考えながら、ジュンとお揃いのマフラーを巻き直す。

 暖をとるようにマフラーを頬に押し付け、幸せそうな表情で瞑目した。軽い忘我状態にあった彼女を現実に引き戻したのは、冷たいコンクリートの床を叩くローファーの靴底の音だった。

 

「誰?」

 

 険のある声で誰何する。返答内容はどうでもよかった。存在の希薄化を行っている早苗の声に応えれば魔法少女であり、応えなければ魅入られた犠牲者か、たまたま迷い込んだ一般人なのだろうと判断できる。

 

「あら……わたくしが見えるということは、お仲間……でしょうか?」

 

 果たして、その少女は応えた。緊張を微塵も感じさせない所作で歩を進め、薄闇の中でなお輝くような黄金色の長髪を揺らして会釈した。豪奢な銀の刺繍が入った真珠色のブレザーは、近隣のお嬢様学校のものだと早苗は知っていた。

 

「ここはひとが来るから」

 

 占有権を主張するように立ちはだかる早苗。彼女は性格的に所有権や独占権というものに無頓着であったが――こと、ジュンと共有すべきと思っているものについては、人が変わったように余人を拒む。だが、その意図は彼女には通じていなかった。

 

「え? ひとというと……魅入られた方でしょうか? あなたはここで何を?」

「仲間が来るの」

 

 新たに呆れの色を交ぜてセーラー服の少女が告げる。寄り目にして考える素振りを見せたブレザーの少女は、ややあってから分かった、といった風に広げた掌をぽんと合わせた。

 

「なるほど、あなたが結界を発見して、お仲間の魔法少女の合流を待っているのですわね」

 

 腕を組んだポーズで鷹揚に頷く早苗は、言外に「分かったらさっさと立ち去れ」といったオーラを漂わせる……のだが、オーラの主が小学生然とした早苗ということもあって、ブレザーの少女は小首を傾げるだけで受け流した。

 

「わたくしも一緒に待たせてもらってよろしいでしょうか?」

 

 良いワケないじゃん、と返すことは彼女の性格では難しかった。

 それでもノーの返事を態度で示すのだが、黄金色の髪の少女は、小麦色というよりは焦げ茶に近い色の頬をほんのりと火照らせて微笑んだ――つまり、完全にスルーした。

 

「わたくし、まだビギナーでして、共に戦う仲間がいればなぁと思っておりましたの。ほら、よく言うじゃありませんか。ひとりよりふたりがいい、ふたりより三人がいい、と」

 

 言い終わると、ブレザーの少女は桜色の唇をほころばせ、上体を屈めて視線を早苗の高さに合わせて一礼した。

 

「わたくし、夜宵かおりと申します。よろしくお願いしますね」

 

 苦手なタイプだな、と千尋早苗は思ったが、すぐに苦笑する。――そもそも、ほとんどの人が私にとっては苦手なタイプだな、と考えながら。



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マミさん、魔法少女と敵対する
第二三話 マミさん、魔法少女と敵対する


 見滝原市郊外工業団地。

 東西二キロメートル、南北五キロメートルに及ぶこの区画は、立ち入り禁止区域となっていた。

 昨年晩秋の暴風雨以降、当該地区で恒常的に大規模な竜巻が発生しているため、政府により制定されたのだ。それにより企業が受けた損害は数百億円単位であり、補償により国家が被った損害はそれに数倍した。

 

 もちろん継続して発生する竜巻などというものはメカニズム上ありえないのだが、事実として存在していることから、アカデミズムの分野では新分類のエヴァーラスティング・スパウトとして学会を賑やかし、ゴシップの分野では某国の気象兵器や某宗教団体の陰謀としてテレビや雑誌を賑やかした。

 

 

 

 

「HAARPよね、HAARP」

 

 もう三〇年以上前から、オカルト雑誌に名前だけは何度も取り上げられてきた高層大気研究施設の名を挙げて、メガネの少女が巴マミに声をかけた。

 オカルトの世界では、その施設が発射する電磁波で地震が起こる、異常気象が起こる、精神攻撃が起こる、一貫性が感じられないが、とにかく様々な事象を引き起こすとされている。

 六限目の授業が終わり、ホームルームを待つだけの教室。

 生徒たちの喧騒を逃れるように窓際に立って竜巻を眺めていた巴マミは、呆れたような笑みを浮かべると窓際の席に座る少女に視線を向けた。

 

「またそれ? でも、そんなのがあるなら東京とかにしないかなって思うんだけど……?」

「警告よ、きっと」 

 

 竜巻の正体である≪微睡みの魔女≫。その様子を見張るという目的もあって、市街地と工業団地(現在は立ち入り禁止区域)を分ける川のほとりに校舎を構える見滝原第一高校に巴マミが進学したのが二ヶ月ほど前。

 頻繁に窓辺で竜巻を見つめるマミに興味を持ったメガネの少女が声をかけたのが、一ヶ月ほど前になる。

 

 巴マミは中学生の頃の習い性で、話しかけてきた少女から距離を取ろうとしたのだが、あいにくと空気を読む能力に欠けるメガネの少女、森林りんごはそんなマミの態度におかまいなくグイグイと接近してきた。

 それが幸いしたのか、ふたりは充分に友人と呼べる関係を築きつつあった。

 

「警告って誰が誰に……。それに、それならこんな新興工業団地じゃなくて霞ヶ関とか新宿とか狙わないかしら?」

「マミ、ただの陰謀論に理詰めで反論しない!」

 

 身も蓋もない言葉でマミの反論を遮る。

 気迫負けした風を装ったマミが舌を出して「はーい」と返すと、窓から一陣の風が舞い込み、縦にロールされた黄金色の髪を持ち上げた。気持ち良さげに目を細めるマミは、同性の森林から見ても艶っぽく魅力的に映る。

 見惚れていた森林の手元から、吹き込んだ風が数枚のルーズリーフを散らした。

 ルーズリーフに書かれている内容は黒魔術に関するもので、マミ含め級友には理解できないものだ。だからといって見られても問題ないと開き直れるはずもなく、森林りんごは慌てた様子で紙片を拾い集める。

 善意からマミや近くの席の男子も数枚のルーズリーフを拾い彼女に手渡すと、顔を赤らめて小声で礼を言った。

 

「く、黒魔術とか真面目にやってる美人電波娘ですので……」

 

 三つ編みにそばかすといった構成要素で美人を自称するのはやや苦しいが、羞恥から火照った頬や潤んだ瞳は年齢相応には可愛らしい。

 ただ、可憐と美貌の調和をテーマに古今東西の神々が造形コンテストを開き、堂々優勝に輝いた被造物が彼女です、といっても通用しそうなマミが横にいるので、どうしても見劣りしてしまう。

 

「いまさら照れなくてもリンリンの趣味はみんな知ってるよ?」

「そのリンリンというのもどうかとー」

 

 森林りんごの「林りん」の部分を取ってのニックネームだ。イタリア語が入っていないことから命名者はマミでないことが伺える。

 森林本人はこのニックネームを受け入れているのだが、思い出したように不平を漏らすことが稀にあった。

 

「えー、パンダみたいで可愛いよ、リンリンって」

「パンダってより、人形劇三国志を連想するんだけど」

 

 回収したルーズリーフをクリアファイルに片付けながら、森林りんご=リンリンはよく分からない感想を述べる。彼女がよく分からないことを言うのはいつものことなので、マミはいちいち問い質すことはせずに、リンリンの席を離れ再び窓際に寄った。

 窓際に寄ると校庭の花の香りがかすかに届いた。マミは息を大きく吸い込んで、花の香りを楽しむ。

 マミの様々な感情のこもった瞳には、魔女の虚像としての竜巻は映らない。工業団地の建築物の彼方に、微動だにすることなく佇む≪微睡みの魔女≫の巨躯、その実像が映っている。

 ただ、ニュースの映像などで件の竜巻を見たことはある。

 一本の柱となって地上から天空へと伸びる、ねじれもなく、回転も穏やかな竜巻をモニターで見たマミは、それが≪微睡みの魔女≫の心根を表しているように思えて温かな気持ちになったものだった。

 

「マミはその竜巻好きよねぇ。将来天文学者にでもなりたいの?」

「そうじゃないけど……神秘的じゃない?」

 

 休眠状態にある≪微睡みの魔女≫に変化がないか見張ってます、と返すわけにもいかずに適当な理由を挙げたマミは、嘘をついた居心地の悪さを誤魔化すように前髪を指で梳いた。

 

「神秘的とは乙女チックな。さすがマミね。まぁその竜巻は、世界に三七九四ある謎の中でも結構ランクが上なのは確かよね」

「そんなにあるんだ……把握するだけで大変ね」

「そうよ。日々変化する謎を追いかけて、たゆまぬ努力が必要なのです」

「……日々変化するのに数が決まってるの?」

 

 片や窓から外を眺めながら、片や文房具をスクールバッグに押し込みながら、視線を合わせることもなく会話するその様は、そうあるのが自然と思わせる雰囲気があった。だから、別にリンリンが言葉に詰まったからといって居心地が悪いなどと感じることはなく、いつまででも静寂を楽しんでいられる関係ではあった。

 しばしの沈黙の後、マミがフォローというよりは追い打ちの意図を込めて、じゃれるような雰囲気で呟く。

 

「あ、ごめん。理詰めNGな話題だったのね」

「そうよ、気をつけてよね、マミ」

「はーい」

 

 歌うような声で返すマミの表情が一変した。

 市街地と工業団地を繋ぐ大橋――簡単なバリケードで通行止めとなっている――の上に人影を認めたからだ。魔力により視覚を強化し、人影へと目を凝らす。

 三人の少女が見えた。

 少女たちは会話をしながら、大橋を工業団地方向へ向けて進みつつある。

 それぞれが絵本かテレビから抜け出してきたような奇矯な衣裳に身を包んでいて、そのうちふたりは現代の日本では所持が許されない大鎌と弩弓を手にしていた。その出で立ちから、マミは彼女たちを魔法少女と判断する。

 

「ごめんリンリン、ホームルーム代返しといて」

 

 窓の外を凝視したまま告げる。

 突然の、前例のない依頼に、メガネの少女は呆けたような表情を見せた。

 彼女が本気か冗談かと訝しんでいるうちに、マミは自分の机のサイドフックにかけられたスクールバッグを持ち上げて、改めてリンリンに近寄って囁いた。

 

「よろしくねっ」

「え~、絶対ばれるでしょー」

「黒魔術で切り抜けてっ」

「私のはファッション黒魔術だからー!」

 

 ウィンクで反論を封殺すると、マミは足早に教室を出た。そしてメールを一通打つと、認識を希薄化させて廊下を駆ける。

 コルセットとスカートが一体化したような極端なハイウェストスカートと、前から見るとアームガードと表現してもいいような極端なショートジャケットで構成された制服。

 ブラウスは純白で、灰色のジャケットとスカートに囲まれた乳房だけが強調されているようにも見える。

 少なくとも見滝原や風見野では他に類を見ない制服で、これを着ていると一目で見滝原第一高校の生徒と分かってしまう。

 敵対する可能性のある魔法少女とコンタクトするのに、そのような正体の分かる服装でいるのは不利益でしかない。

 階段を飛び降りながら、マミは身を包む衣裳を制服から艶やかな魔法少女のそれへと変化させる。

 衣裳の変化に伴い、マミの精神も女学生から戦士へと変わり、眼差しが鋭さを増す。

 数歩で三階から一階へ降り、さらに数歩で学舎を抜け出でて校門をくぐる。

 市街地と工業団地を分かつ河川の上空に、ジニアの花冠を幾つか作り出し、それを足場として対岸へ渡る。

 長らく人が訪れることもなく、砂埃の溜まったアスファルトに着地すると、振り返って川を挟んで立つ校舎へ視線を向ける。

 三階の教室に目を凝らすと、ちょうど新卒の女性教諭が教壇に立つところだった。メガネの友人は、この距離からでも挙動不審な様子が見て取れる。

 

「ホームルーム出欠ないんだけど……リンリン、パニくってる」

 

 くすりと笑うと、マミは大橋へと急いだ。

 先ほど視認した魔法少女たちは大橋を歩いて渡っていたので、この速力ならば先回りできるはずだ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 四車線の自動車用道路を持ち、さらのその外側に歩行者用の広い通路を持つ大橋に、突風が吹いた。

 路面に無数に転がるコンクリート片が音を立てて転がり、降着していた砂塵が巻き上げられる。

 歩行者用の通路を天蓋状に覆うアーチ構造、その支柱となる高欄塔に転がった小石が当たり、乾いた音が響く。

 三人の魔法少女のうち、先頭を歩いていたひとりは手をかざして砂塵を防ぎ、後ろを歩いていたふたりのうち、長身の少女はつばの広い高帽子を目深にした上で、もうひとりの背の低い少女を自身のローブで庇った。

 彼女たちが砂塵を避けて目を逸らした一瞬の間。その間に、巴マミは彼女たちの一〇メートルほど前に姿を現した。

 彼女たちが気付くよりも早く、腕を組んで立つマミは落ち着いた声で語りかける。

 

「どちらに向かう気かしら? この先は立ち入り禁止地区よ」

 

 マミの問いかけに応えるのは、先頭に立つ少女だ。

 萌黄色のゆったりとしたエプロンドレスをまとい、頭にはキャビンアテンダントを思わせるベレー帽をちょこんと乗せている。

 右手首には蒼銀に輝く弩弓が固定されており、ちょっとした芸術品としても通用しそうな流麗なフォルムを誇っている。

 

「わたくしたちは、この先にいる魔女を倒すために風見野から参りました」

 

 まだ突風の影響でなびいている黄金色の長髪を品のある仕草で抑え、健康的な肌の色の少女はよく通る声でゆっくりと言った。

 

「見滝原はわたくしたちの縄張りではありませんが……魔女を放置している状態を看過できませんわ」

 

 後ろに立つふたりの少女は、彼女をリーダーと認めているのか口を挟むことも前へ進むこともせず、ただ待っている。面倒事を押し付けているだけなのかもしれないが……。

 

「まぁ……魔法少女が立ち入り禁止地区に来る目的なんてそれくらいよね。……でも、やめておきなさい。あなたたちの手に負えるものではないわ」

「魔女を放置することを良しとしろと仰るの? 確かに今はおとなしくしていますわ。でも明日この魔女が犠牲者を求めて動き出さない保証がどこにありますの?」

 

 僅かに少女の声が高くなった。

 そんな少女の挙動を、感情を殺せない幼さと否定するのではなく、好感の持てる純粋さとマミは肯定した。

 

「それなら、あなたたちの攻撃がこの魔女を刺激して動き出させてしまう可能性もあるわ」

「その前……いえ、動き出してからでも仕留めれば良いことですわ」

「それはその通りかもね。だけど、あなたたちでは無理。私たちでも手も足もでないくらいなのよ」

「あなたの立場からはそれで筋は通っているのかもしれませんが、わたくしたちから見ればその理屈は不完全ですわ」

「でしょうね」

 

 マミが勝てなかったからといって、彼女たちが勝てないとはならない。マミと彼女たちの力関係が定まらなければ。

 実際は彼女たちがマミより強かったとしても、究極の魔女である≪微睡みの魔女≫を倒すことは不可能だろうが。ともかく、今この場で闖入者たちを納得させるために、マミは力量を示す必要があった。

 

「確かめたければ、かかってきていいわよ」

 

 組んだ腕を崩さず、あごを動かして挑発するように口の端を吊り上げる。ただ戦って勝つだけではなく、圧倒的な差を示さなければとマミは考えていた。そして、その自負を許されるだけの能力を彼女は持っていた。

 

「……わかりましたわ。怪我なさっても知りませんわよ」

 

 リーダー格の少女がストレートロングの金髪を片手で大きく払う。

 その仕草で扇の形に広がった絹糸のような髪の背後、ふたりの魔法少女が砂利を踏みしめる音を立てて一歩下がった。だが、一対一を期そうとするその動きに、マミが待ったをかけた。

 

「まとめておいでなさい。そうじゃないと納得できないでしょう」

「ふざけないでくださいっ! 三人相手にあなたひとりでなにを……!」

「三人まとめて倒してあげるって言ってるの。飲み込みの悪い子ね」

 

 マミの傲然とした物言いに、エプロンドレスの少女がギリ、と音を立てて歯噛みした。大きな垂れた瞳、小ぶりな桜色の唇をたたえた端正な顔が屈辱に歪み、怒りのために頬が上気した。

 しかし彼女が激発する前に、ふたりの魔法少女が動いた。

 

「んじゃ、お言葉に甘えっかね」

 

 後ろに立つ長身の少女が、大鎌を横に構える。童話に出てくる悪い魔女を思わせる漆黒のローブがその動作で揺れ、高帽子が沈み込むように目深になった。

 

「う、うんっ」

 

 背の低い少女は、ドッジボールほどの機雷を生み出して両手に掴んだ。両手には野球のグローブをふたまわり大きくしたサイズのグローブがはまっており、両足の巨大なブーツとあわせて、カートゥーンのキャラクターを思わせる雰囲気をかもしだしていた。

 

「かおり、向こうがああ言ってんだし、三人でやろうよ」

 

 かおりと呼ばれた少女は、瞬間的に感情を制御することで表情を穏やかなものに戻してから、半身をひねって後方の仲間に視線を向けた。

 そして見る者の心を温かくする笑みを浮かべて、鳥が囀るような声で告げる。

 

「分かりましたわ、あのお方に少しお灸を据えてさしあげましょう……千尋さんっ!」

「はいっ!」

 

 千尋と呼ばれた少女が身体の周りにふたつ、みっつと浮遊機雷を作り出す。ひとつひとつがドッジボールサイズのそれらは、持ち主が投げるまでもなく、魔力誘導によってマミに向かってゆるやかに飛翔する。

 機雷の着弾にタイミングを合わせて、かおりが弩弓から矢継ぎ早にボルトを放つ。それらは全てがマミに集弾される。

 マミは動かない――ようにかおりには見えた。それは、予想外の事態に対処を思いつかず硬直する猫といった印象を与えた。そして、着弾の寸前、その印象を否定するようにマミが笑った。

 

 しかしその笑顔は、一瞬の後に機雷の着弾による爆煙にかき消される。

 さらに続けて着弾した後続の機雷の炸裂音が連なる。そして、爆発で生み出された黒煙に吸い込まれるようにクロスボウから射出されたボルトが消えていく。

 彼女たちには、マミが成す術なく被弾し、爆炎に沈んだように見えた。

 もちろん、事実は異なる。

 数多の機雷とボルト、それらが着弾する刹那、マミは≪絶対領域≫と呼ばれるリボンの防御壁を展開していた。絶対の名を冠する不壊の盾に阻まれ、機雷はむなしく爆散し、ボルトは地に墜ちた。

 だが、魔法少女たちからはその推移は見えていなかった、それ故に痛打を与えたと思ったのだが――黒煙の中から、マミの涼しい声が届いた。

 

「躊躇なく攻撃してきたのはお見事ね。でも、追撃がないのはどういうことかしら? 相手を倒したことをしっかり確認するまでは、手を緩めてはダメよ」

 

 砂を含んだ突風が黒煙を取り除いた時、そこには既に≪絶対領域≫を解除したマミが、腕を組んだままに立っていた。

 

「かおりと早苗の攻撃を……魔法でも使ったのかよ!」

「あら」

 

 揶揄するような響きのマミの言葉は、魔法少女たちの神経を逆撫でた。挑発することで本気を引き出し、それを凌駕することで諦めさせようとの意図だが、マミ自身にも多少楽しんでいる部分があるのは否めない。

 

「魔法少女だもの、魔法は使うに決まってるじゃない」

「そういう意味じゃないっての!」

 

 大鎌を構え、長身の魔法少女が駆けた。同時に弩弓を構えた魔法少女――かおりも駆ける。

 

「モード、スプレッドニードル」

 

 走りながらエプロンドレスの魔法少女が呟くと、弩弓に装填されているボルトの形状が変化した。

 一本の太いボルトは、バーベキューに用いる鉄串のように細いニードル六本へと分割される。それらニードルは尾を揃えたまま、尖った先端部を扇状に広げる。散弾式の射撃武装だ。

 

 ふたりの魔法少女は、四車線の道幅を活かして左右に大きく散る。

 そして弧を描く軌道でマミの左右から挟みこむように間合いを詰めた。慣れた動きだ。即興ではなく、彼女たちの定番の連携なのだろう。傍目には軽やかな動きだが、巻き上げられる砂塵の激しさがその鋭さを物語る。

 

 先に到達したのは大鎌の魔法少女だった。大振りな横薙ぎを、マミの首を狩る軌跡で唸らせる。

 僅かに遅れて白兵戦の距離にまで接近した弩弓の少女が、右腕を伸ばし弩弓をマミのわき腹に突きつけるようにして六本のニードルを射出した。

 

「惜しいわね」

 

 だが、いずれの攻撃にもマミには届かなかった。

 地上から屹立した一本のリボンが、柱となり大鎌を受け止める。そしてマミのわき腹を守るように生まれ出でた黄色い大輪の花が、盾となり六本のニードルを弾き返した。

 

「そうでもないよ。こっちも魔法を使えるんでね」

 

 口の端を歪めて大鎌の少女がなにごとかを唱える。すると、鋼鉄の強度を誇るマミのリボンが大鎌によってするりと裂かれた。

 リボンの防御に信をおいていたマミは、意外な成り行きに内心では動揺した。しかし表情には出さず、身体を後ろに反らせて大鎌を回避する。

 前髪が数本持っていかれ、マミの視界をはらりと舞う。

 

 ――お手入れ、頑張ってるのに、もう……。

 

「もういっちょ!」

 

 返す刃が態勢の崩れたマミを狙って迫る。

 マミは表情を変えず優雅な――彼女たちから見ると小馬鹿にした――笑みをたたえたまま、頭上に赤い花を一輪作り出した。

 花冠は現れるや即座に花弁を散らし、散った花弁はひらりと舞って落下する。

 マミの鼻先へと零れ落ちた花弁のひとつが空中でぴたりと静止。ピンポイントのシールドとなって迫りくる大鎌を受け止めた。

 

「……切断魔法。でも、どうしていったんリボンに触れて止められてから切断したのかしら? 最初から切断能力を与えておけば、速度を落とすことなく私を攻撃できたはず。つまり、触れてからでないと切断できない。さらにいえば……」

 

 大鎌の少女が再び短い言葉を唱えた。赤い花弁はその呪文に抗せず両断される。

 が、続いて舞い落ちてきた別の花弁が、やはり空中に制止して再び大鎌を受け止めた。

 

「触れたものひとつ、それだけが対象なのね。じゃぁ二重三重の防御を作れば、なんてことないわよね」

 

 大鎌の軌跡に立ちはだかるように、さらにみっつの花弁が空中に並び静止した。

 大鎌の少女は舌打ちをすると、さらなる切断魔法の行使を諦め、鎌を引く。

 マミは悠然と態勢を整え、ふっくらとした下の唇を湿らせるように舌で舐める。

 

「それとそちらのショットガン。接射ほどダメージがある……と思ったのでしょうけど、あまりに近いと防ぐのも容易いわよ」

「チューターを頼んだおぼえはありませんわよ……!」

「あら、だってただ追い返すのは忍びないもの。少しはお土産を持たせないとね」

「防戦一方で追い返せると思って?」

「ん……後ろ、見てみて」

 

 だが、ふたりの魔法少女はマミから視線を外さない。戦闘力の底が全く見えないマミから視線を外すことは、彼女たちの本能が拒絶した。

 その態度を怯懦でなく慎重と受け取ったマミは賞賛の声をあげる。

 

「うかつに振り向かないのは偉いけど、そういう駆け引きじゃなくて本当に後ろ見て欲しいんだけどな」

 

 そして、マミの言葉に被るようにして彼女たちの後方から悲鳴があがった。機雷を操る背の低い魔法少女のものだ。

 悲鳴に反応して大鎌を操る長身の少女が、そして少し遅れて弩弓を操る少女が半身を開き後ろを見る。

 少女たちの視線の先では、背の低い少女がリボンに拘束され、その身体を空中に持ち上げられていた。両腕を胴と一体化するほどに強くリボンで締め上げられ、両脚を一本の棒に見えるほどに激しく縛られた少女は、骨が軋むような苦痛に再び悲鳴をあげた。

 

「早苗!」

「千尋さん!」

 

 ふたりの魔法少女がそれぞれの呼び方で拘束された少女の名を呼んだ。そして大鎌の少女が駆けよろうと完全に身体を翻し、燕尾服のように先の割れたローブの後姿をマミに晒した時――

 

「ふふ、ダメよ、戦ってる時に目を逸らしちゃ」

 

 彼女たちの注意が後方に向いたタイミングで、新たなリボンが生み出された。

 彼女たちの足元に発生したリボンは、瞬く間に彼女たちの両脚を捕らえ、空中へ逆さ吊りに持ち上げる。持ち上げられながらの不安定な体勢ながら、かおりが弩弓をマミに向けようとする――その動きに先んじて、リボンが両腕をも拘束した。

 先の千尋早苗と同じく、両腕を胴に巻き付け、両脚を太腿の肉が歪むほどに縛り上げる。

 

「騙したのかよ!」

「卑怯ですわ!」

 

 ミノムシさながらに宙吊りになった状態で、抗議の声をあげるふたりの魔法少女。

 マミは得意げな表情でその声を柳に風と受け流し、ようやく腕組みを解くと先ほど攻撃を受けた前髪を慰めるように指で弄んだ。

 

「戦いの場の嘘は武略っていうのよ? 怪我はさせないから勘弁して欲しいわ」

 

 悪戯っぽく告げると、一挺だけマスケットを生成し、それを横に向けた。

 照準は大橋の側部に一定間隔で立ち並び、アーチを支える高欄塔だ。高さ一〇メートルを超える高欄塔は塗装がところどころ剥げ、露出した地金は錆びついている。

 

「あなたたちに銃口を向けたくないのよ」

 

 マミの白く細い指がトリガーを引くと、軽い炸裂音をたてて魔弾が放たれる。

 ほぼ同時、高欄塔の基部が地面に落とされた西瓜のように弾け跳び、根元は橋の外へと崩れ落ち、天辺はアーチを支えることをやめて橋の内側へと傾いだ。

 ゆっくりと傾き始めた高欄塔は、スローモーションを思わせる動きでマミのすぐ後ろにその身を横たえる。

 衝撃に大橋が揺れ、おびただしい砂埃が舞い上がった。

 

「諦めてもえらえないかしら。あなたたちを攻撃したくはないわ。それに、例えあなたたちが私より強かったとしても、あの魔女には手も足も出ないと思うの」

 

 マミは埃と振動が収まるのを待って口を開いた。

 

「それほどの魔女だと仰るのですか?」

「ええ。悔しいけれど、大人と子供だったわ。もしあの魔女が目覚めたら、世界は終わりかもね」

 

 拘束されたままのかおりは、瞑目すると思考を巡らせた。それほどに危険な魔女を、目覚めないことにかけて放置することを是として良いものか、と。

 だが、目の前の手練れの魔法少女の言葉を信じるならば、自分たちでは倒せない――少なくとも、今の戦力では。

 倒せるという成算なく魔女を刺激するのは、確かに慎むべきなのだろう。

 そう結論した金髪の魔法少女は、観念したように呟いた。

 

「分かりました。諦めますわ……いましめを解いてくださいますか」

「理解してくれて感謝するわ」

 

 ほっとした雰囲気をまとわせてマミが応える。

 怪我のひとつもさせずに彼女たちの理解を得たことで、マミは心の底から安堵していた。

 そこに、初めて油断が生じた。

 拘束を解かれたかおりが、落下する途中で魔方陣を生みだし、それを蹴って下方へ跳んだ。

 鋭角的な軌跡で地に向かうかおりは、一息の間にマミの眼前に着地する。

 そして彼女は、マミの豊かな乳房に弩弓を突きつけた。

 急激な着地で舞った砂埃の中で不敵に笑う。

 

「諦めると言いましたが……これは武略、ですわよね」

「あら……意趣返しされちゃったかしら」

 

 のんびりとした口調のマミは、視線を横に向けて目配せした。――大丈夫だから、とその目は虚空に向けて語っていた。

 そのマミの仕草に多少の違和感はおぼえたものの、かおりは最初から決めていた通りに弩弓を下ろして破願する。

 

「冗談ですわ。約束は守ります」

 

 あなたと違って――という言葉が隠されている気がしたのはマミの被害妄想ではないだろう。

 

「梢さん、千尋さん、帰りましょう」

 

 拘束解除からの落下で尻餅をつき、埃まみれになった千尋早苗と、甲斐甲斐しくその埃をはたいて落としている梢ジュン。

 その両名に呼びかけ、かおりは踵を返した。腰を叩くほどに伸びた黄金色の髪が花開くように舞う。その様は髪のひとつひとつが、空気より軽いようにさえ思わせた。

 

「失礼しますわ、巴マミ――」

 

 少女の去り際の言葉に、私、名乗ったっけ、とマミは小首を傾げた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「最後、ひやっとしたよ」

 

 マミから数メートル離れた空間から声がした。声の出所には人影も何もなかったが、マミは驚いた様子もなく、そちら――先ほど目配せした場所に視線を向ける。

 

「ありがとう、杏子ちゃん」

「いつでもフォローに入れるようにしてたけど……無用だったね」

「そんなことないわ。おかげで強気でいられたもの」

 

 声の出所一帯の空間が歪み、その中から大身槍を携えた赤髪の魔法少女、佐倉杏子が姿を見せる。

 自身の周囲に風景の幻影を作り出し、自身の移動に合わせてその幻影も移動させる。さながら不可視のクロークをまとうようにして行動する幻惑魔法のひとつの極みだ。

 

「ファンタズマ・マンテーロ、すごい冴えね。あの子たち全く気付いてなかったわよ」

 

 自らが命名した≪亡霊の外套≫の効果を褒め称えながら、頭部の羽根飾りを外して、掃くように身体についた砂埃を落としてゆく。

 

「マミさんが目立ってたからね……とりあえず移動しない? 埃がすごいよ」

「そうね、早く帰ってシャワー浴びましょう。パトロールはそのあと」

 

 水に濡れた猫のように首をふるわせて砂埃を落とす杏子は、白い歯を覗かせて、にぃっと笑った。人懐っこい犬を思わせる温かい笑みだ。その動物的な印象に違わず、彼女が日々の生活に求めるものは大きく分けてみっつ、食事、睡眠、遊びだ。

 

「じゃぁ夕飯も先にしようよ、髪乾いてからパトロールの方がいいし」

「分かったわ、じゃぁシャワーと夕飯と宿題、予習復習の後、深夜パトロールね」

 

 マミが勉強に言及したことで、杏子は表情を曇らせて恨みがましい視線をマミに向けた。それは、学生の多くが母親に『ちょうどやろうと思っていたのに、言われたからやる気がなくなった』と嘘を告げる時の表情に似ていた。

 

「あら、不満ならお風呂掃除とトイレ掃除もつけちゃう?」

 

 だが、こういった勝負で杏子が勝ったことは今までに一度たりともなかった。純粋な戦闘力に関してはマミを凌駕するに至った彼女だが、日常生活ではひとつ年上の姉に手も足も出ないままだった。



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第二四話 マミさん、夕飯を作る

 風見野の魔法少女たちの行動開始時刻は、おおむね遅い。

 リーダー格の夜宵かおり、すなわちエプロンドレスの魔法少女は放課後にテニス部の練習。

 長身痩躯の梢ジュン、すなわち高帽子に黒ローブの魔法少女はバレーボール部の練習。

 幼い容姿の千尋早苗、すなわち手足の末端が肥大したシルエットの魔法少女は図書委員の仕事。

 それぞれがそれぞれに属するものがあるからだ。

 水曜日のみ部活も委員会もないため、先日見滝原に乗り込んだ時のように午後三時くらいから動けるが、他の平日はそれぞれの部活、委員が終わってから合流するため、午後六時前後からの活動となる。

 

 合流場所は、かおりの通う私立の女子中学校と、ジュンと早苗の通う公立中学校のほぼ中間に位置する風見野で二番目に大きいターミナル駅。

 彼女たちのテリトリーの中では最大規模の繁華街である上に、目抜き通りを僅かにふたつ外れればいかがわしい花街、みっつ外れれば胡散臭い門構えの商店と由緒正しい寺社が並んでいて、人間の負のエネルギーには不自由しない。

 目抜き通りに交差する細い路地にまで車両が通行しており、路肩には違法駐車が鈴なりに。そして路地には蟻が蠢く様にして歩行者が歩く。歩行者は車両など目に入らないかのように、自儘に道路を横断している。

 よく言えば活気のある、悪く言えば猥雑とした街だ。

 近年、計画的に開発された見滝原にはないタイプの街で、誇れることではないが、魔女の発生率は群を抜いて高かった。

 

 夜宵かおりは、この街が嫌いではなかった。

 魔女が出るからではない。魔法少女になる以前から、それなりの頻度でこの街に足を運んでいた。幾つか彼女の趣味に合致する店舗があるからだが、基本的にそれらの店はすべて目抜き通りに位置しており、裏通りへ足を運ぶことは稀だった――魔法少女になる前は。

 

 

 

 その日、目抜き通りからふたつ外れた通りで結界を発見したのは午後七時を少し回ったところだった。

 この街を嫌いではないかおりだが、ボディソープの香りの漂うこの通りは例外で、少女らしい潔癖さで嫌悪の情を抱いていた。だから、

 

「こんなところで被害に遭うような人は自業自得だよ……倒さなくてもいいんじゃない」

 

 という早苗の言葉に内心では頷く部分もあった。しかしリーダーとして返す言葉は異なる。

 

「そうはいっても、放っておくと魔女は移動しますし、被害にあう方もメインストリートから誘導された方もいらっしゃるでしょう。倒す必要はありますわ」

「自業自得ってのは早苗の言う通りかもだけど、あたしらだってグリーフシードが必要だしね」

 

 道義としても実益としても、倒さないという選択肢はない。早苗もそれは理解できているので、これ以上異を唱えることはせず、身を包む衣裳を濃紺のセーラー服から魔法少女のものへと変化させた。

 手足を肥大化したグローブとブーツで覆い、平坦な胸部をレオタードで隠した姿に。

 レオタードを羊毛が包み、ボブカットの栗色の髪の脇から一対の湾曲した角が生まれる。その姿は、羊をデフォルメしたキャラクターを思わせた。

 

「お、やる気だね、早苗」

 

 いち早く魔法少女となった早苗に声をかけると、長身の少女も濃紺のセーラー服を魔法少女の衣裳へと変える。

 中性的なナチュラルショートボブの黒髪に漆黒の高帽子を深くかぶり、切れ長の瞳をつばで隠す。

 そして長い手足を漆黒のローブですっぽりと包んだ。大鎌を持つ姿は、西欧の童話で悪役を演じる年老いた魔女を思わせる。

 

「では、参りましょう」

 

 最後にかおりが、真珠色のブレザーと深緑のスカートから、魔法少女の衣裳へと変わった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 同時刻、マミたちは既にパトロールを終えてマンションへと帰っていた。

 いつも通りの日常として、マミはキッチンで夕飯の支度、杏子はリビングでテレビを眺めている。同居人というよりは、母親と娘のような関係だ。

 鼻歌まじりに料理を進めるマミをよそに、杏子は画面に映る東南アジアの史跡を興味なさげに見やっていた。

 なんとか朝の何代目の治世に築かれた……等というレポーターのコメントを聞き流しながら、ときおり映るきらびやかな寺院や異国情緒あふれる民族衣装をぼんやりと見つめる。

 綺麗だな、と多少の感慨をおぼえていた杏子だが、キッチンから漂ってきた筍を混ぜ込んだご飯の炊ける匂いと、ヒラスズキを塩焼きにする匂いに興味の全てを持っていかれた。

 食事中にテレビを見ないようにというマミの方針に従い、テレビの電源を落とすと配膳の手伝いにキッチンへ足を運んだ。キッチンとリビングを仕切るストリングカーテンを持ち上げるように片方に寄せる。

 ストリング同士が触れるさざ波のような音を背中で聞いたマミは、淀みなく手を動かしながら杏子に声をかける。

 

「あら、手伝ってくれるの? 助かるわ」

「うん、運ぶよ」

 

 そしてつまみ食いするよ、ということは、伝えなくてもマミには分かっていた。焼き魚を乗せた平皿の横に、つまみ食いしやすいように骨を除いて小片に切り分けたものを追加する。

 

「あと茶碗蒸しだけだから、そっちのお皿運んでもらえる?」

「はーい」

 

 どちらが杏子のものかは食器の模様で分かる……が、それ以上に盛り方で一目瞭然だった。ご飯もおかずも、マミのものの三割増しくらいの量がある。もっとも、それだけ盛っても杏子はおかわりを食べるのだが。

 

 

 

 

 

 柔らかいイカに似た感触だな、と筍を噛んだ杏子は思った。

 杏子の好みとしてはもう少し歯応えがあってシャキッとしていた方がいいのだが、その代わりに噛むごとに筍にしみ込んだ旨みが滲み出し、三度噛む頃には口の中が幸せに満たされていた。ひと噛み目の食感にやや下がった口角が、現金なものでにっこりと持ち上がる。

 ひと噛み目の杏子の表情を見とがめたマミが、箸を止めると心配そうな声を漏らした。

 

「おいしくなかった?」

「ううん、美味しいよ。ニンジンも入ってないしね」

「ふふ、そのぶん彩りが寂しいけどね」

 

 その言葉通り、炊き込みご飯の具材は筍、鶏肉、油揚げと決定的に彩りが不足していた。せめてもの……とのことで三つ葉と、花をかたどった桃色の小さなカマボコで飾ってはいるが、マミが求める水準には達していない。

 

「ふたりで食べるんだから、美味しければ見た目なんてどうでもいいよ」

「そうかしら……。でも、そう言ってもらえると、ちょっと助かっちゃう」

 

 悪戯っぽく言うと、マミは箸の先端にちょこんとご飯を乗せて、左手に持ったお椀から口へと運ぶ。

 そういえば、と杏子はその所作を見て思い出した。先日洗い物を手伝ったとき、マミの箸がほとんど汚れていないことに気付いて、その理由を問うたのだが、マミからは「特に変わったことはしていないけど……杏子ちゃんの場合は、いっぺんにお箸で取りすぎてるのかも。少し減らすといいかもね、その方がゆっくり食べれるし」と返ってきたのだった。

 よし、試してみようと杏子がほぐした魚の身をほんの少しだけ箸先に乗せる。いつもの半分どころではない慎ましさだ。口に運び、二度、三度と咀嚼する。

 

 味があまり感じられないし、そもそも食べた気がしない。

 それが杏子の感想だが、とりあえず今日はこの食べ方をしてみよう、と決意を固めた。

 もちろん対面に座るマミには、杏子のそんな挙動はよく見てとれたが、変に意識させてせっかくの良い試みを中断させてはいけない、と別の話題を口にした。

 

「そういえば杏子ちゃん、一昨日のあの子たち、風見野から来たって言ってたけど、知ってる子?」

「んなわけないじゃん。あたしがこっちに来る時、風見野に魔法少女がいなくなるからって、しばらくマミさんと風見野も面倒みたでしょ」

「そっか、じゃぁ、あの後に契約しちゃった子たちなのね……」

「そう、なるね……あ、これ美味しい!」

「ふふ、同じものばかり取っちゃだめよ。順番にね」

『ボクの分はあるのかい?』

 

 会話に割り込むテレパシーがふたりに届いたのと同時に、テーブルの下からキュゥべえが姿を見せる。

 杏子が露骨に嫌な顔を、マミが控えめに嫌な顔をしてみせるが、キュゥべえは意に介さずに歩を進め、マミの膝の上に腰を下ろした。

 

「あら、キュゥべえ。お魚の時によく来る気がするけど、やっぱりお魚が好きなの?」

『ボクは猫じゃないよ。そもそも好悪の感情もないしね。そろそろ穢れを吸い込んだグリーフシードがたまったんじゃないかと思ってね』

「廃品回収みたいな子ね。でもご明察よ、幾つかあるわ。キュゥべえのご飯持ってくるから、ちょっと待っててね」

 

 膝に乗ったキュゥべえを叩き落とすように立ち上がると、マミはキッチンへ向かう。叩き落とされて頬で床を舐めるキュゥべえを、テーブルの向こうから足を伸ばした杏子が蹴った。

 

『キミたちはずいぶん乱暴になったね、昔はあんなに素直だったのに』

「そうだキュゥべえ、一昨日に風見野から魔法少女が三人来たんだけど、あの子たちのこと知ってる?」

『知らないわけがないじゃないか』

 

 与えられた打撃を気にした素振りもなく、キュゥべえは居住まいを正すと彼女たちのことを話し始めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 結界から排出された風見野の魔法少女三人は、変身を解いて通りの片隅にいた。

 夜宵かおりが手にしたグリーフシードを、三人のソウルジェム――蒼銀のもの、コバルトグリーンのもの、セピアブルーのもの――のちょうど中間位置に運ぶ。

 すると、グリーフシードの中央に重力が発生しているかのように、ソウルジェムに宿った穢れが吸い上げらていった。

 吸い上げられた穢れは、渦を巻くようにして緩やかに回転しながらグリーフシードへ近づいていく。それは、ブラックホールに引かれる星間物質が形成する降着円盤のようにも見えた。

 やがて、全ての穢れはグリーフシードに吸収され、三人のソウルジェムがそれぞれの色の輝きを煌めかせる。

 

「はい、浄化完了。まだ七割方は使えそうですわ。今回のグリーフシードは、千尋さんですわね」

「はーい」

 

 彼女たちは、戦闘前に個人持ちのグリーフシードで浄化し、戦闘後に確保したグリーフシードで全員のソウルジェムを浄化していた。浄化後に残量のあるグリーフシードは、順番に個人に渡していく。今回は千尋早苗がその順番だった。

 卒業証書でも貰うような勢いで、セーラー服姿の早苗が恭しく両手を伸ばす。

 

「無駄遣いしちゃダメだよ、早苗」

 

 膝まである濃紺のスカートで受け取ったグリーフシードを拭き清める早苗は、ジュンの言葉に笑顔で首肯する。

 既に日が沈んで久しく、照明も控えめな通りであるため、どんぐりのように丸い目だけがやけに目立った。

 

「そうですわね。順調ではありますけど、いつ魔女が見つからなくなったり、見つけられてもグリーフシードを落とさなくなったりするか分かりませんものね。常に余裕はもたせておきませんと」

「お小遣い帳につけてるから、大丈夫だよ」

 

 真顔でそう告げる早苗に、かおりとジュンが破願する。その反応に得心がいかず、えっえっとふたりの顔を交互に見やる早苗の頭を、ジュンが女性にしては大きな手でぽんぽんと叩いた。

 

「早苗もそういうノリいけるんだね」

「……誉められてるの?」

「ふふ。少なくとも梢さんには好評のようですわよ、千尋さん」

 

 笑いをかみ殺すように口元を手で押さえたかおりの言葉に、早苗は半ば満足そうな、半ば理解できない風な表情を見せていたが、やがて、もういいやとばかりに話題を切り替えた。

 

「ね、今日ジュンちゃんのお母さん夜勤だよね? お家いっていい?」

 

 梢ジュンは実父と幼い頃に死別しており、義父とも数年前に別離していることから、実母とのふたり暮らしである。ジュンの母は看護師であり、四班三交代制勤務のため、週に二日程度は夜勤勤務が入る。

 いつが夜勤か、という話をわざわざジュンからしたことはないが、夜勤の日は昼食が弁当でなくパンであることから、早苗はおおよその周期を把握していた。

 

「そうだね、ちょうど週末だしいいね。かおりも来る?」

「そうですわね。仲間同士たまには親睦を……」

 

 そこまで言葉を紡いで、かおりは早苗から自分に向けて放たれる非常に指向性の強いオーラに気付いて言いよどむ。

 そのオーラは、魔女が放つ呪いよりもおぞましいようにかおりには感じられた。ブレザーの下に隠された彼女の褐色の肌が粟立つ。彼女の逆鱗を刺激しつつあることを察したかおりは、訂正の言葉を重ねた。

 

「や、やっぱりこのまま帰宅しますわ。用事がありましたの」

 

 そう伝えると、早苗の放っていたオーラはすぅっと消え、朗らかな声で「そうなんだ、残念だね」と告げる。ただ、夜宵かおりにはその目が笑っていないような気がしてならなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 扉がだらしなく開けられたクローゼットには、部屋主のセーラー服と、訪問者のシャツワンピースとが並んで掛けられていた。

 インディゴで染められたデニムのシャツワンピースは千尋早苗のものだ。彼女はいったん帰宅し、私服に着替えてから、いつものように家族に睡眠魔法をかけてお出かけしていた。

 部屋には他に、ふたりが寝ころぶ大きめのベッドと、あまり使われることのない学習机、少女漫画が過半を占める小さめの本棚くらいしか目立った家具はない。カーテンが地味なことも相まって、男性の部屋のような印象を与える。

 六月の上旬、日中は暖かい日も増えてきているが、深夜二時のこの時間にはまだ冷え込む。だが、そのような冷気をよそに、ベッドの上で身体を重ねるふたりの少女は、肌を汗ばませていた。

 

 先ほどまで行われていた激しい愛情の交歓は終わり、今は余韻に浸るように、長身の少女はもうひとりの少女の重さを楽しんでいた。

 しかし、気だるげに心地良く感じる一方で、心の奥底に深くトゲが刺さっていることをジュンは自覚していた。それは、彼女に対してひどく不誠実な過去を隠していることに起因している。

 ただただ愛おしさだけを乗せた視線を向けてくる少女に対して、過去を懺悔し、清算したいとは思う。しかし、同時にそれは自分の我儘でしかないのではないかと、ジュンはいつものように躊躇う。

 

 そうしているジュンの複雑な表情が、早苗には魅力的だった。早苗の知るジュン――快活で男勝りなスポーツの得意なジュン、細かい気遣いを見せる魔法少女のジュン――と異なる憂いを含んだ雰囲気。普段は一方的に庇われ、護られる立場の早苗だが、この雰囲気のジュンを見ると保護欲が刺激されて、心の奥底が切なくなる。

 ジュンの両脚の間に割り込ませた片脚を少し押し付けて体温を確かめると、鼻にかかった声で名前を呼ぶように囁く。ジュンはそれには応えず、目を細めると早苗の細い肩を引き寄せるようにかき抱いた。

 ちょうどジュンの乳房を覆い隠すように早苗の栗色の髪が広がり、シャンプーの甘い香りが下側の少女の鼻腔をくすぐる。

 

「ねぇ、ジュンちゃん」

 

 乳房と乳房の間に顔を埋めた早苗が再び名前を呼ぶ。肌に密着した早苗の唇から漏れた音が、振動として身体を伝わっていき、ジュンは深い安心感をおぼえた。同様に早苗もジュンの鼓動を振動として感じ、その揺らぎに神経を弛緩させる。

 

「ん……」

「こんど、見滝原にまた行かない?」

「何をしに?」

「魔女」

「あれは、諦めようってかおりが言ってたよ」

「でも、せっかくジュンちゃんがみつけたのに……」

「試合で遠征して偶然見つけただけだし、そんなの気にしなくてもいいよ」

 

 早苗が言葉を紡ぐたびに生じる振動にジュンは安らぎ、ジュンが言葉を返すごとに上下に揺れる胸に早苗は甘えた。言葉を重ねること自体が目的のようであり、両者とも内容に深い意味を求めてはいなかった。

 

「ジュンちゃんの≪絶対切断≫があれば、どんな強い魔女だって関係ないし……それに私だって≪等価反撃≫もあるよ」

 

 早苗が口にした≪絶対切断≫と≪等価反撃≫が、彼女たち固有の得意魔法の名前だ。

 義父との絆を断ち切りたいというジュンの願いを受けて彼女に備わったのが、大鎌で触れた物質を問答無用で両断する≪絶対切断≫。その効力は対象の硬度を問わず、魔女の体躯であろうと魔法少女の呪装魔具であろうと、事もなげにまっぷたつに断つ。

 弱点はマミが指摘した通り、単一の対象しか切断できないことと、大鎌を接触させてから魔法を発動させる必要があることだが、こと魔女退治においてはさしてデメリットにはならない。

 

 自らをいじめた級友に、同じ苦しみを体験して反省して欲しいという早苗の願いを受けて彼女に備わったのが、相手から受けたダメージをそのまま相手に与える≪等価反撃≫。

 稀有な魔法だが難点も多い。まず第一に、直近の攻撃しか返せないこと。つまり畳み掛けるような連撃を受けてから返したとしても、最後に受けた一撃分のダメージしか返せない。

 さらには早苗本人の耐久力の限界もある。仮に彼女が瀕死になるようなダメージを返したとしても、魔法少女に比して膨大な耐久力を誇る魔女には致命傷たりえないだろう。

 

「だけど、リボンのひとも手も足も出なかったって……あのひと、強かったろ?」

「魔法少女相手と魔女相手は違うもん……。魔女相手なら、ジュンちゃんは無敵だよ……」

「どうだろうね……こないだの≪影の魔女≫みたいに、わさわさと触手繰り出されると、切断じゃおいつかないし」

「無敵なの……」

 

 拗ねるような響きで繰り返すと、しどけなく開いた小さな口を乳房に押し当てて甘く噛んだ。痛みとは似て非なる感覚にジュンは身体を小さく震わせながら、掠れた声で囁いた。

 

「早苗がしたいように、すればいいよ」

 

 その言葉が今現在を指しているのか、数日先を指しているのか、早苗には明確には分からなかった。なので、その両方だと都合よく解釈することにした。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 寝物語というものだったのだろうか、その後数日、≪微睡みの魔女≫について早苗が何かを主張することはなかった。

 だから、水曜日の放課後、早苗が今から見滝原に行こうと主張した時、ジュンは言葉に詰まった。まだ六限目の終わりを告げる鐘が鳴りやんで五分と経っておらず、夜宵かおりとの合流時刻まで一五分ほどもある。

 部活動が禁止されている日とあって、昇降口で話すふたりのそばを次々と級友たちが通り過ぎていく。ジュンは級友たちに軽い挨拶を繰り返しつつ言葉を探り、早苗は級友に会釈をしつつ言葉を待った。

 

「なんで今日?」

 

 ようやく返したのは、ネガティブな響きをはらんだ短い言葉だった。

 

「こないだのひとも年齢は近そうだし、早い時間の方が自由になりにくいんじゃないかなって。部活や委員終わってからの時間だと、あっちも時間あるんじゃない?」

「でも先週のこの時間にいたし、この時間で動けるひとなんじゃないかな?」

 

 結局のところ、ふたりにとってマミは『先週初めて遭遇した隣町の魔法少女』でしかなく、マミのタイムスケジュールを類推することなどできない。そのため、それぞれの言葉は推理というよりも願望の要素が多分に含まれていた。

 ≪微睡みの魔女≫討伐に積極的な言葉を続けるのは早苗だ。

 彼女の認識としては、『ジュンがせっかく発見した獲物』であり『巨大さからグリーフシードも大きいのではないかと、発見報告時にジュンが期待していた』ことから、ジュンのために倒すべき獲物となっており、マミの警句も夜宵かおりのリーダーとしての判断も、あまり効力を発揮していなかった。

 

「まぁ、危なくなったら逃げりゃいいか」

 

 幾ばくかの会話の後、恐らくはマミと≪微睡みの魔女≫の双方を指してジュンが呟いた。

 それは魔女の脅威をあまりにも低く見積もった言葉であったが、自重を促すべきかおりはこの場におらず、いるのは魔女の脅威をより低く見積もっている早苗だけだった。

 

 

 

 

 

 

 実際のところ、梢ジュンと千尋早苗によるマミのタイムスケジュール推定は全くの無意味だった。

 いついかなるタイミングであったとしても、彼女らが立ち入り禁止地区に近寄れば、キュゥべえがマミに連絡するように手筈が整えられていたからだ。

 形式上はマミの恫喝と餌付けでキュゥべえが折れた形だが、キュゥべえとしても≪微睡みの魔女≫が目覚めて人類が滅亡するような事態は可能な限り避けたいと考えており、恫喝がなくても同意していたはずだ。

 

 

 キュゥべえからの連絡をマミが受けたのは、六限目の古典の時間もあと五分となった頃だった。

 伊勢物語のあづさ弓の段の講義を受け、悲恋の物語に瞳を潤ませていたところに、『マミ、マミ』と趣の欠片もないテレパシーを受けて、マミは少し気分を害した。

 さらに視線を持ち上げたところで、斜め前の席に座っている友人リンリンの『なんで死んでんの、この女?』と言わんばかりの表情が目に入り、マミはせっかくの情動が醒めていくことを自覚した。

 

『こないだのふたり、梢ジュンと千尋早苗――鎌と機雷の子だね。が、例の大橋に来たよ』

 

 テレパシーに対して意味は為さないのだろうが、マミは頷いて応えた。

 本当なら授業の後に、リンリンに女性としての感受性について徹底討論をしかけたいところだったが――マミは魔法少女としての使命を優先して、自身の存在を希薄化させた上で授業を抜け出した。

 

 

 

 

 ちょうどその頃、夜宵かおりは集合場所――ターミナル駅の外れの廃工場――で、チームメイトの到着を待っていた。

 数年前まで自動車の修理を営んでいた廃工場は、乗用車なら二〇台は収容できる規模の建屋である。

 建屋内の全ての設備機材は失われており、壁を走るエアーや市水、純水の錆びた配管が寒々しい印象を与える。しかし、風雨を避けることは可能であり、建屋の一角にパイプ椅子やブルーシートを持ち込んで簡易秘密基地として利用していた。

 パイプ椅子に浅く腰掛け、背もたれと身体の間にスクールバッグを置いた夜宵かおりは、英単語カードをパラパラとめくり暇を潰していたが、腕時計へ視線を落とす仕草を都合四度くり返した後、耳たぶを指で弄んで呟いた。

 

「妙に遅いですわね……」

 

 梢ジュンは幼い頃からチーム制のスポーツ活動を行っているだけに時間に正確だし、千尋早苗は几帳面な性格から時間前行動を徹底している。そのふたりが揃って連絡もなしに遅れるというのは、過去に例のないことだった。

 メールや通話での連絡も取れない事態に、英単語カードを繰る手が止まりがちになる。

 そして、七度目に腕時計に視線をくれた後、かおりは椅子からそっと腰を浮かせた。椅子の上に開いた英単語カードを置き、余白に蛍光色のペンを走らせる。

 

『入れ違いになったらごめんなさい。少し探しに出ます』



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第二五話 マミさん、無双する

 一週間前、マミが魔弾で倒壊させた高欄塔が、大橋を塞ぐようにその身を横たえさせている。

 といっても、障壁としての用は成していない。

 横たわる高欄塔は直径一メートル程度の柱であり、それを越えていくことは常人にすら容易いことだ。ましてや魔法少女にとっては、小石を跨ぐにも等しい。

 だが、横たわる高欄塔の前で、梢ジュンと千尋早苗は千丈の堤を前にしたように足を止めた。

 いや、止めざるを得なかった。

 高欄塔を背に、巴マミが立ちはだかったからだ。

 その姿は、数キロメートル先に屹立する≪微睡みの魔女≫の相似形のように、ふたりの魔法少女には思えた。

 

「二回目だと、優しくっていうわけにはいかないわよ」

 

 見る者を蕩けさせる朗らかな笑顔で、しかし聞く者の心胆を寒からしめる険のある声でマミが告げる。

 そして、表情を消すと片腕を胸の前で薙ぐように滑らせる。その所作を受けて、マミと侵入者のちょうど中間を一本のリボンが地を這うように走った。

 

「その線を越えるなら、覚悟なさい」

 

 僅かな濁りも含まない透き通った声。そこにはマミの強い意志が表れていた。

 梢ジュン、千尋早苗の魔法少女としての実力がもう少し上であれば、気圧され、退散していたかもしれない。しかし、マミと彼女たちの間に広がる実力差は、彼女たちが脅威を正確に理解することすら困難にしていた。

 故に、彼女たちは安易に歩を進める。

 

「早苗、援護まかせたよ」

「うん!」

 

 マミは敢えて動かずジュンの歩みを見つめていたが、彼女のブーツが大橋を分かつリボンを踏むに至り、静かに口を開いた。

 

「残念、分かってもらえないみたいね」

「そっちこそ、退いてくれるとありがたいんだけどね」

「それはできないわ。ゆっくり話し合いたいところだけど……」

 

 実際のところ、ジュンと早苗に強い動機があるわけではなかった。ジュンは早苗の意見に促されているだけだし、早苗はジュンが≪微睡みの魔女≫を倒したいと思っている、倒すべきだ、という思い込みに駆られているに過ぎない。

 もつれた糸をほどくように、時間をかけて話し合えば、彼女たちには無理に≪微睡みの魔女≫を倒そうとする理由などないのだと理解することができただろう。

 

「あんたがその上から目線やめたらね!」

 

 大鎌の魔法少女、ジュンがマミの配したリボンの境界を越えて走る。

 マミは一瞬だけ憂いを見せるが、すぐに表情を消して両手にマスケットを構える。マスケットの照準はジュン――ではなく、左右の虚空。

 ぱぱん、と軽快な炸裂音がマスケットから響き、遅れてマスケットの射線上で爆音が轟く。

 ジュンの突撃に合わせて、迂回軌道で放たれた浮遊機雷。それを魔弾が迎撃し、空中で爆散させたのだ。

 

「支援なら、もうちょっとタイミング遅い方がいいんじゃなかしら」

 

 撃ち終えたマスケットを捨て、次のマスケットを両の腕に準備する。身体を踊るようにして回転させるマミの動きは、ジュンには隙だらけのように見えた。

 しかし、いざ斬撃を打ち込むと、袈裟斬りは足さばきで避けられ、横薙ぎは身体を反らして躱され、足を払う攻撃は後方倒立回転であしらわれる。

 ならばと踏み込んだ一撃は、マミ自身も踏み込み、鞭のようにしなるハイキックでジュンの手首を蹴っていなした。

 その間も、回り込む軌道で迫る機雷群のことごとくを魔弾で撃ち落とす。

 

「そもそも、当たらなければ切断魔法も意味なんてないのよ。もう少し、基礎的な部分を鍛えるべきね」

「うるせぇっ!」

 

 マミの嬲るような指摘を受けたジュンが吠えた。

 裂帛の気合いもろともに放たれたのは、示現流を思わせる縦一文字の斬撃。空気を裂く音が耳をつんざくような鋭い一撃ではあったが、そこに巧緻さはなかった。

 そして、マミにとって鋭いだけの攻撃を避けるなど容易いことだ。

 半身を後ろにひねって斬撃を避ける。刃とマミの間の距離は一センチメートルとなく、その僅かな空隙を維持したままに身体を躍らせる様は、傍目には示し合わせての演武にすら見える。

 

「ごめんなさいね。二度も怪我をさせないほど、私も人間ができていないの。今日は少し痛い思いをしてもらうわよ」

 

 ひねった身体をそのまま一回転させるマミは、斬撃を躱されてたたらを踏んだジュンの背後を取る形になった。両手のマスケットをそれそれ敵手の右肩、左肩に照準すると躊躇いなく魔弾を放つ。

 ほぼ零距離の射撃、しかも背後からの抜き撃ちとあって、ジュンには回避行動どころか攻撃を認識することすらできなかった。

 魔弾が彼女の肉を抉り、鮮血がほとばしる。

 ダメージとしては軽傷に属するものだが、飛び散った赤い血に早苗が激発した。

 早苗に対して背中を向けているマミに向かい、機雷を放つ。

 

「このっ! よくもジュンちゃんをっ!」

 

 感情の昂りのままに放たれた浮遊機雷は、彼女の制御を容易く逸脱した。予定よりも迅い飛行速度、考えたよりも外に膨らんだ正弦軌道、それらは本来のターゲットであるマミの向こうにいる、ジュンへの着弾を示していた。

 

「あっ! だめぇっ!」

 

 ジュンに向けて機雷が向かっていることを見てとった早苗は、悲鳴をあげて機雷の軌道を捻じ曲げようと魔力を込める。必死の軌道制御は一定の効果を上げ、機雷はジュンの至近で急激に軌道を真下に変え、コンクリートの道路に突っ込んだ。

 

 マミは背から飛来する機雷の気配を察し、既に横に跳んでいた。

 しかし、ジュンは射撃を受けてバランスを崩していたために対応が遅れた。そのため、身体の横三〇センチメートルほどの距離で炸裂した機雷の威力をまともに受けて、横倒しにされるようにその身を路上に転ばせる。

 

「ジュンちゃん!」

 

 早苗がジュンに駆け寄る。マミも戦闘状態にあることを忘れて駆け寄り、その肩を抱き起した。

 

「大丈夫?」

 

 異口同音に駆け寄ったふたりが口を開き、片方はその後に「私のせいで、ごめんなさい」と付け加えた。

 

「大丈夫、気にしないで、早苗」

 

 痛みはあるはずだが、それを表情には出さずに笑顔で応える。

 マミは「起てる?」と問いながら、触れている掌から彼女の肩に治癒を施して、介護するような動きでジュンの身体を引き起こす。

 

 ――あの時、みたいね。

 

 マミは、かつて佐倉杏子と戦った時のことを思い出していた。袂を分かとうとする杏子を止めるための戦いだったが、どんな理由があっても残ったのは大切なひとを傷付けた悔やみだけだった。

 それは既に生々しい痛みではなく、ほろ苦いセピア色の記憶に変わっている。それだけにマミは懐かしむような気持ちに浸り、ふと自嘲めいた笑みを浮かべた。

 

「今だよっ、ジュンちゃん!」

 

 そんなマミの一瞬の虚をついて、早苗がマミを背中から羽交い絞めにした。マミと比べて一回り以上小さい身体を器用にマミの四肢に絡ませ、動きを制限しようとする。

 動きを止めている間に斬れ、という意味なのだろう。だが、大鎌の斬撃はそこまで器用なものではなく、拘束している早苗にも被害が出るのは明らかだった。

 まだふらつく足取りでマミ、そして早苗と向き合うとジュンはゆっくりと口を開いた。

 

「ダメだ、早苗。そんな無茶なことはできない」

「でも!」

「そもそも、その人を倒すのが目的ってわけじゃないんだ。魔女を倒すのが目的だろ。早苗がどうにかなったら、魔女と戦えないよ」

「そうだけど……でもあの魔女はジュンちゃんが……」

 

 ジュンに拒否された早苗の言葉が尻すぼみに小さくなり、最後は聞き取れない程になる。それとは対照的に、ジュンは気持ちを定めたように落ち着いた表情をしてみせた。

 

「話は終わったかしら?」

 

 途切れた会話を引き継いだのはマミだった。マミは新体操の選手を思わせる滑らかな動きで早苗の羽交い絞めから逃れ、背負い投げるように彼女を真上に放り投げた。そして、リボンで彼女の両手両足を拘束する。

 マミの頭上一メートル、十字架に磔にされたような姿勢でリボンに捕らえられた早苗は両手を動かそうと力を込めるが、幾重にも縛られた四肢は微動だにしない。

 

「今の話を聞く限り、話が通じない人ってわけでもなさそうよね。選ばせてあげる。このまま帰るか、大怪我をして帰るか」

「わかった。もう諦めて引き揚げる。だから早苗を解放してくれ、頼む」

 

 マミはすぐには応じず、ジュンの顔を睨むように見つめる。

 嘘やごまかしを射抜くような鋭い視線だが、ジュンはその視線を受け止めて身じろぎひとつせずにいた。彼女の中では魔女と早苗のどちらが優先かはとうに決まっており、先程のやり取りでも再確認したばかりだったのだから。

 

「いいわ。今、解放します」

 

 マミは相対する魔法少女ふたりのうち、ジュンが意思決定権を持っていると判断していた。

 それは正しい洞察であったが、例外が存在した。早苗は『ジュンのため』という思い込みに従うときのみ、普段の彼女からは想像もできないほど意固地になり、また攻撃的にもなるのだった。

 リボンによる拘束が緩められる。その瞬間早苗は、可能な限り多数の機雷を生み出し、その全てをマミに向けて放った。

 

 

 

 

 予想外の行動ではあった。だが、予想外の行動に速やかに対処できないようでは、巴マミはこれまでの二年以上の戦いで生命を落としていただろう。

 巴マミの前面に、複数の黄色のリボンが縦に横にと走り直交する。その数、縦に六本、横に九本。

 一五〇センチメートル×四〇センチメートルの空間に等間隔で展開されたリボン。

 密度としては疎であるものの、間隙を魔力で覆うことで完璧な防御壁となり、雲霞の如く産み落とされた早苗の浮遊機雷の爆発の威力を遮断した。

 ただし、前面のみ。全周囲を防御する《絶対領域》の展開には至らず、マミの身体の前面に防御壁を築いたに過ぎない。そして、浮遊機雷の幾つかは、ヘアピンを思わせる急激な旋回軌道を描き、リボンの壁を避けるようにしてマミに達した。

 

「――――ッ!」

 

 短い悲鳴がマミの口から、長い悲鳴が早苗の口から漏れた。

 マミは左上腕部に直撃を、右大腿部に至近爆発の熱と衝撃を受けた。肩口からブラウスが千切れとび、露わになった柔肌が焼け爛れ、肉の焦げる嫌な臭いがマミの鼻腔をくすぐった。脚の方にも相応のダメージを受けている。

 片膝をつくマミは痛覚を遮断し、痛撃を受けた左上腕部の状況を確認する。

 

 ――動かないわね……筋肉の治癒をしてからじゃないと左腕は使えない。三〇秒ってところかしら……。脚も軽く治癒しないと走ったりは厳しいわね……。

 

 一方、直撃こそないものの、自らの至近でマミの防御壁による爆発の余波を受けた早苗は、上半身の衣裳全てと左のブーツを失い、露出した肌には無数の疵を創っていた。地に落ちると背中を大地に預け、痙攣するように四肢を震わせる。

 

「ジュンちゃん、今だよ……」

「バカっ! 退くよッ!」

 

 早苗に走り寄ると彼女の身体を抱きかかえ、ジュンはマミを一顧だにせずに遁走を開始した。

 

「あっ、待ちなさい! 治癒を!」

 

 ジュンの背中にマミが呼びかけるが、彼女にはその声を情報として認識する余裕はなかった。追いかけようとするマミは、右脚に受けた傷のために平衡を失い、再び片膝をつく。

 

「とりあえず自分のことからね……」

 

 佐倉杏子が到着していなくて良かった、とマミは自らの肩と脚に治癒を施しながら思う。もし先程の場面に彼女がいたら、今頃隣町の魔法少女はどうなっていたことか――。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 治癒を終え、マミはすっくと立ち上がった。

 彼女たちが視界から消えて一分強が経過してたが、マミには追いつけるという自信があった。基礎的な能力の差に加えて、ジュンは早苗を抱きかかえているため、移動速度の減少が見込まれるからだ。そして、マミには追いつきたいと願う理由があった。

 

「治癒が得意な子がいないかもしれないし、行ってあげなきゃ」

 

 自分の言葉に頷き、マミは疾走するべく姿勢を整えた。その時だ。マミの眼前に複数のニードルが着弾し、路面にあった石礫を勢いよく跳ね上げる。

 跳ね上げられた石礫が頬を叩いたが、マミは意に介する風もなく視線を斜め上方に向けて口を開いた。

 

「……あなたは理解を示してくれたと思っていたのだけれど」

 

 ニードルの飛来方向から射撃方向を、着弾したニードル間の距離から射撃距離を読み取ったマミの視線は、違わず大橋のアーチの上に立つ射手、夜宵かおりを捉えていた。

 

「そうですわね。あなたが正しいと感じておりますわ……ですが、あのふたりはわたくしの友人ですの」

 

 アーチに立つ魔法少女は、弓道の残心を思わせる所作で射撃姿勢を整えたまま射抜くような視線を着弾地点――マミの足元に叩き付ける。

 

「そう。やるのね」

「ええ。やりますわ」

 

 

 

 

 

 双方飛び道具、そして以前に戦った経験からは、弾速、射程ともにマミが上。

 であれば、マミとしては距離はあるほど有利、その判断から後ろへ跳んだ。逆にかおりは距離が開いては不利となる。おそらくはかおりは直線的に接近をはかり、アーチからこちらへ跳躍するはず、とマミは考えた。

 だが、経過は異なった。

 かおりはマミと同様に距離を取る方向へと跳び、結果としてマミが望む以上の距離を隔ててふたりは対峙した。

 

「モード、ホーリーレイ」

 

 事態はマミではなく、かおりの望む通りに推移していた。

 かおりの呟きに呼応して、右手に装着されたクロスボウが形状を変化させる。

 前部が手を覆う篭手のように肥大化し、側部も手首全体を包み込むように伸張する。蒼銀だった全体の色が、ホワイトを基調にブルーの縞飾りを施したものへと染めかえられる。

 

「変形した……?」

 

 マミが右手に構えたマスケットから魔弾を放つ。

 牽制の意図で放たれた魔弾は、かおりの顔をかすめるように照準されている。その魔弾の発射を見てから、かおりが右手の『銃』を唸らせた。

 光の矢、そう形容するしかないような純然たる魔力の矢がかおりの右手に宿った銃――ホーリーレイ――から放たれる。こちらも意図的に直撃ラインを外しており、マミの首筋をかすめるような軌跡だ。

 先に、マミの首に一筋の傷がついた。遅れて、かおりの頬に赤い傷のラインが生まれる。

 後に射出された光の矢が、マミの魔弾に先んじて到達したのだ。

 

 ――迅い!

 

 首筋の傷に片手をあてて癒しながら、マミは内心で賞賛した。弾速を、ではない。前回の遭遇で能力の底を隠していた周到さをだ。

 今の一撃がソウルジェムを狙っていたら――その仮定は無意味だ。マミもかおりも、相手の弾道を見切り、防御も回避も必要なしと判断したに過ぎない。もし必要とあれば、双方相手の弾丸を避けていただろう。

 かおりの右手に、可視化されるほどに濃い魔力が集まる。おそらくは装弾行動だろう、とマミは判断する。

 

 ――リロード? 単発……なのかしらね。

 

 マミの推測を肯定するかのように、その後もかおりは射撃と装弾を交互に繰り返す。

 射撃をしては五秒程度装弾し、射撃をしては五秒程度装弾する。

 一定の周期で放たれる光の矢はいかに弾速に優れていようとも避けるに容易い。いや、それ以上に攻撃を当てようという意志がないようにマミには感じ取れた。

 

 ――なるほど、ね。

 

 マミが笑う。かおりには、それはマミが勝利を確信した驕りの笑顔と映った。

 次のかおりの射撃のタイミングで、マミが動いた。

 放たれた光の矢を魔弾で撃ち落とすと、新たなマスケットを掌中に生み出しながら、一直線にかおりに向かって駆ける。光の矢の装弾中に距離を詰める意図――と映るだろう、マミが防御のための魔法を練っていることに気付かなければ。

 

「かかりましたわねっ!」

 

 マミの意図を取り違えたかおりが、二の矢、三の矢を装弾行為なしに放つ。照準は右肩と左肩。

 掛け値なしに光速に近しい矢が飛来する。

 だが、神速を誇る光の矢も、マミを護る様に出現した≪イージスの鏡≫によって跳ね返された。

 

「かかってないわよ。本当に単発なら、あんな露骨にリロード見せるわけないものね」

 

 かおりの右肩と左肩に向けて、跳ね返された光の矢が走る。反射的に利き腕をかばうように身体を捻るが、跳ね返されても弾速はいささかも劣化していない。

 かろうじて右は躱すものの、左肩を狙った矢までは避けきれず、萌黄色のドレスに覆われた左腕の付け根に、光の矢が深々と突き刺さった。

 

「それに、もし単発なら私の接近に、距離を取るなり武器を変えるなりするものでしょう?」

 

 マミが講釈を続けながら距離を詰める。

 左肩の傷を一顧だにせずに銃を構えようとするかおりだが、マミの攻撃が先んじた。

 逆手にマスケットを構えなおし、銃床で殴打する――そのまま魔弾を放つことに比べれば速力、威力ともに劣る、いわゆる手加減の一撃だ。

 かおりは構えようとした右手の銃でマスケットの殴打を受ける。その挙動もマミの予測通りである。

 

「レガーレ!」

 

 マスケットを成していたリボンがほどけ、獲物を襲う猛禽の如き勢いでかおりに襲いかかる。

 腕から始まり、胸、胴、下半身と――またたく間に黄色のリボンは、彼女の全身を拘束した。

 腰に右腕を密接させた姿勢で幾重にも巻き絞るリボンは、彼女の元々細い腰を蜂のように締め上げ、さながらコルセットのようにも見えた。

 

「これで、もう戦えないわよね」

 

 害意がないことを示すために、弛緩した雰囲気を漂わせたマミが諭すような口調で言う。だが、言われた方にも意地というものがあった。

 

「それはどうでしょうね」

 

 言うが早いか、肩を射抜かれ不自由なはずの左腕で腰の短刀を引き抜く。そして、乱暴な動作で腹部の衣裳、さらにはその下の柔肌ごとにリボンを切断した。

 リボンの拘束から解かれた彼女の右腕が流れるように動き、マミのわき腹に銃口を突きつける。

 マミも呆けていたわけではない。こちらも新たに生み出したマスケットの銃口を彼女の太腿に密着させる。

 双方が銃を相手に突きつけ、手詰まりとなる――いわゆるメキシカン・スタンドオフの状態となった。

 

「あら、思い切った悪あがきね。ところで、まだ弾はあるのかしら」

 

 彼女、夜宵かおりの認識では、先ほどの攻撃は、罠に嵌まった巴マミを仕留めるまさに必勝の好機だったはずである。それならば、出し惜しみはせずに全弾を射出するはず、というのがマミの推測であった。

 そして、その推測は当を得ていた。彼女のホーリーレイには既に装弾はなく、突きつけているのは銃口ではなくただの意地だった。

 

「さぁ……お試しになりますか?」

「そうね。お互い急所から外れてるし、それも悪くないけど……」

 

 マミは瞼を下ろした。銃を突きつけあっている状態で行うにはあまりに無防備な所作であり、かおりの考え次第では致命的な一撃を受けかねない行いであったが――マミは相対する少女が、緊張を弛緩させた吐息を漏らす音を聞いて、マスケットを下ろした。

 

「時間稼ぎは、もう充分でしょう?」

 

 囁く巴マミには自信がなかった。勝つ自信が、ではない。彼女に大怪我をさせずに退ける自信が、だ。

 さらに間の悪いことに、杏子がもうすぐに到着する。到着する事自体は良いのだが、彼女がマミの上腕部の怪我――治癒済みなので、正確には衣裳の破られた痕を、だが――を見たら、激昂してかおりに攻撃を仕掛けかねない。そうなると、やはりかおりは大怪我をするだろう。

 

「そうですわね。邪魔をしてすみませんでした」

 

 そういった事情は知る由もないが、かおりにもマミの気持ちは伝わったようで、銃を下ろすと恭しく一礼する。

 

「わたくしがあのふたりを説得してみます、もうこの魔女は諦めるようにと。しばらく時間を頂けませんか」

「ええ、願ってもないことだわ」

 

 会話しながら、傷を治癒し、破れた衣裳を整える。マミの左肩の焼けただれた痕も、かおりの腹部の裂傷も、またたく間にもとの綺麗な肌へとよみがえり、そして再生する衣裳の下へと隠されていく。

 

「ところで、その銃は三発までなのかしら」

「あら、それは秘密ですわ。巴さんも実力をお隠しになっているのですもの」

「そうね、こちらも少しは手の内を見せないとね」

 

 苦笑したマミが右手を横に薙ぐと、その動作に応えるようにマスケットが雲霞の如く生み出される。

 横幅は大橋の四車線を、縦幅は路面からアーチまでの一〇メートルを埋め尽くして、空中に五〇〇を越えるマスケットが浮かび整列した。≪無限の魔弾≫と称されるマミの制圧射撃の業だ。

 その威容を前に、かおりは口腔が乾くことを自覚した。

 

「これでも手も足も出なかった。それくらい強いの。たとえば、私が一〇〇人いたら勝てるかと言えばそれもだめ、そういう足し算でどうこうなる次元じゃないの。なんとか説得をお願いしたいものだわ」

 

 知ってか知らずか、マミは≪微睡みの魔女≫の能力を過剰に伝えていた。万が一にも戦いたくないという想いがその底にあるのだろう。

 マミの言葉を額面通りに受け止めた夜宵かおりは、視界の先に屹立して見える≪微睡みの魔女≫を数秒見つめたのち、深く頷く。

 

「分かりましたわ。そのような魔女が目覚めてはそれこそ一大事ですものね。なんとしてもふたりを説得してみせますわ」

 

 ≪無限の魔弾≫のデモンストレーションが効いたのか、先ほどよりも決然とした表情を見せてかおりが宣言する。そして、マミがその言葉に微笑むの確認すると、踵を返して風見野へ向かった。

 去りゆく夜宵かおりの後ろ姿を眺めているマミの横に、不意に人影が現れる。

 

「ちょっと甘くない?」

 

 不満げな口調で漏らすのは、槍を携えた赤い衣裳の魔法少女、佐倉杏子。

 彼女は、自身の周囲に幻覚の風景を生み出して一種の透明人間となる魔法、ファンタズマ・マンテーロを使用してこの場へ駆けつけていた。必要と判断すれば、透明状態からの不意打ちを容赦なく行っていたはずだ。

 

「ありがとう、見守っていてくれて」

 

 その≪亡霊の外套≫の名付け親が礼を述べると、彼女は口調を一転して軽いものにした。

 

「まぁ、マミさんにフォローが必要とは思えないけど、念のためにね」

 

 犬歯を覗かせて呵呵と笑う杏子を優しい眼差しで見つめていたマミだが、ふと風見野の魔法少女を追おうとしていた理由を思い出して、ぽんと手を打った。

 

「あっ、そうだ。あの子……ちっちゃい方の子、けっこう酷い怪我だったから……もし治癒魔法が得意な人がいないと大変よ。ふたりで行きましょう」

 

 拘束を解くためとはいえ自ら腹部に深い傷を穿ち、直後に一切の影響なく振る舞う、そのような夜宵かおりが治癒魔法を得意としないわけはないのだが、マミはそのことを失念していた。その場面は佐倉杏子も見ていたのだが、彼女もその可能性には思い至らない。

 

「ほんと甘いね、マミさんは」

「そう言っててもついてきてくれる杏子ちゃんは、同じくらい甘いと思うわ」

「マミさんの甘さがうつったからね」

 

 再び犬歯を見せて、杏子が笑った。



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第二六話 マミさん、魔女の結界に侵入する

 風見野ターミナル駅のはずれの廃工場。

 梢ジュンが自宅ではなくこちらに向かったのは、治癒を得意とする夜宵かおりの存在をあてにしてのことであったが、残念ながら金髪の少女の姿は殺風景な廃工場の中にはなかった。

 ブルーシートの上に仰向けに寝かせられた千尋早苗は、荒い息を漏らし、横にいるジュンの手を強く握りしめて吐き捨てる。

 

「かおりのやつ、どこに行ったんだよ……!」

 

 かなり自分勝手な言い草だと自覚しながら、ジュンは得手ではない治癒魔法を懸命に行使していた。

 心の底からの癒しを願う気持ちが魔法にも反映されたのだろうか。日頃の彼女の治癒魔法からは想像できないレベルで効力が発揮され、早苗の全身に及んでいた火傷や裂傷がゆっくり、しかし確実に回復していく。

 

「ジュンちゃん、……ごめんね」

「いいから、変身解いて、楽にして」

 

 促されるままに、衣服としての用をほとんどなしていない魔法少女衣裳を解除し、濃紺のセーラー服、膝まである同じ色のプリーツスカート、紫紺のスカーフといった中学校の制服へと変化させる。創傷部が見えなくなるが、先程までの治癒で主だった傷は癒えており、あとは時間をかければ滞りなく完治すると思われた。

 

「もう安心だね。痛くない?」

 

 慈しみのこもった声色で問うジュンに対し、早苗はようやく痛みなく動かせるようになった身体を捻り、顔を隠すようにした。合わす顔がない、とその仕草は語っているようであった。

 

「ごめんね。ジュンちゃんに機雷あてたり、自爆して足ひっぱったり……。私がしっかりしてれば、ふたりで勝てたのに。本当にごめん、こんなんじゃ私、いない方がマシだよね……」

「そんなことないよ。早苗はいつもいつも、一生懸命頑張ってあたしを助けてくれてるよ。それに、戦うっていう意味だけじゃない。早苗がいるおかげで、あたしは優しい気持ちになれるんだ。だから、そんなこと言わないで」

「そんなに優しくされても……私、なにも恩返しできないよ、そんなのいやだよ……。ずっと助けてもらってばっかりで、ずっとかばってもらってばっかりで…………」

 

 早苗の声は次第に湿り気を帯び、最後には嗚咽となっていた。

 慰撫するように彼女の栗色の髪を梳きながら、ジュンは目を伏せて思案する。彼女を慰めるにはどうすればいいのか、と。

 その想いは、ジュンの心の底を常に流れていた気持ちと重なり、致命的な決断をもたらした。

 

「謝らないといけないのは、あたしの方なんだ」

 

 

 

 

 

 

 朴訥と自らの過去を語るジュンには、まず第一に、今ふたりの間にある嘘を全て拭い去り、真摯な関係を再構築したいという想いがあった。そして、力不足を卑下して消え入りそうな気配さえ漂わせる早苗に、ジュン自身も過ちを犯しており、早苗ひとりが思い詰める必要はないと理解して欲しかった。

 

「嘘ばっかり……どうしてそんな嘘つくの?」

 

 ただ、彼女たちの認識には幾つかの齟齬があった。

 いじめの事実は、ジュンにとっては既に記憶の領域に格納されている出来事だが、早苗にとっては、まだ一年も経っていない出来事であり、表面上はともかく、内面には生々しい傷痕を残していた。

 そして、ジュンにとってはいじめを使嗾したという事実は、早苗との間に広がる嘘の源泉であり清算したい過去であったが、早苗にとっては、傷痕を癒し覆ってくれていたジュンの優しさを根底から揺るがす一突きであった。

 一言で言えば、加害者と被害者の認識の違いとなるのであろうか。

 今となってはジュンは早苗の理解者であり、保護者であり、恋人でもあったが、それでもなお過去の行いはふたりの間に埋めようのない溝を残していた。

 

「本当のことなんだ。ごめん。許してくれとは言わない、許してもらえるように、これから早苗に誠実に向き合いたい」

「嘘……嘘だよ。あぁ、そうだ、これって優しい嘘ってのだね。私が引け目を感じないようにって」

「……ごめん」

 

 しばらく嗚咽を漏らしていた早苗だったが、やがて静かな声で語った。喜怒哀楽のいかなる感情も含まない、冷たい声だった。

 

「……知ってたよ。あの子だちがそう言ってきたから。でも、信じてなんてなかったよ……」

 

 ジュンによっていじめから助けられて程ない頃、いじめを行っていた少女グループが吐き捨てるように告げたことがあった。そもそも梢ジュンが自分たちに命令したことだ、と。その言葉を腹立ちまぎれの虚言と早苗は信じていた。

 

「ずっと騙していてくれたら、良かったのに……」

 

 しかし、ジュン本人の言葉と重なることで虚言と信じ込むことは出来なくなった。それは、早苗を支えていた想いの根底が崩れることを意味した。

 

「ごめんよ、早苗。これからずっと、一生かけてでも償う」

「……ごめんね、もう遅いみたい」

 

 告げる声には、やはり感情の色は見てとれなかった。既に彼女の心が死んでいるためか、それとも自らの末路を自覚したためか。おそらくはその両方――少なくとも後者は間違いない。

 早苗が力なく広げた小さな掌に、ふわりとソウルジェムが浮かび上がる。

 普段はセピアブルー、暗めながらも青空を思わせる色彩をたたえていたジェムは、漆器に墨を垂らしたような闇の色に塗りつぶされていた。その漆黒のソウルジェムが、胎動するかのように脈を打ち始める。

 

「逃げて――」

 

 それが、千尋早苗の発した最後の言葉だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 早苗の掌に浮かんだソウルジェムが、痩せ細り捻じくれていく。

 宝玉のような質感を見せていたセピアブルーの珠は、空気を吸い取られた紙風船のようにくしゃくしゃに縮み、やがて巨大な力で搾り尽くされた『こより』のような一本の紐となった。

 早苗はその様を、自らの生命が奪われていく光景だと理解しつつも、身じろぎひとつすることなく静かな瞳で見つめた。

 そしてジュンは、向こうを向いた早苗の背中に頬を預けながら謝罪の言葉を繰り返していたため、この光景を見ることはなかった。

 

 ジュンが気付いたのは、ソウルジェムがグリーフシードへと孵り、自らと早苗の身体が孵化の衝撃で弾き飛ばされた後だった。

 早苗の身体を庇うように抱き締め、ジュンは薄汚れたコンクリートの床を数メートル転がる。

 

「なんだこれ……大丈夫? 早苗」

 

 古ぼけた工場だけに、何か引火性のものでもあって爆発したのかとジュンは理解しようとしていた。しかし――

 

「早苗……?」

 

 腕の中で眠るようにしている少女が息をしていないこと、先程まで自分たちがいたところに――瘴気に包まれて確とは見えないが――軽トラックほどもある異形が蠢いていること。

 その二点から、ジュンは突如現れた魔女が早苗を殺めた、という理解をした。そして、その理解を否定するように、呼吸を止めた早苗に治癒の魔力を注ぎ込む。

 

「大丈夫、まだ間に合うよ」

 

 心肺停止も、ふたり関係も、まだ回復できる。自らの言葉で自分を信じ込ませ、ひたすらに治癒を施していたジュンだが、不意に背に痛撃を受けた。

 瘴気に覆われていた魔女が、巨躯を露わにして攻撃を仕掛けてきたのだ。

 魔女は、動くことを拒むかのように地に根を下ろし、饅頭を思わせる楕円の体躯を蠢かせる。

 体躯から伸びるものは、ひとつの頭と幾つかの触手のみ。

 伸ばした触手を鞭のようにしならせてジュンの背を打つ、が、その攻撃は威力に乏しく、駄々をこねる嬰児の印象を与える。

 

「取り込み中なのが分からないのかよ! ……てか、お前が早苗をやったんだよな……」

 

 ぎらり、と彼女の瞳が光を宿した。抱き締めていた早苗の身体をそっと床に寝かせると、あやすような優しい口調で呟く。

 

「一撃でぶっ殺して、すぐに戻ってくるから……」

 

 早苗の抜け殻に声をかけ、早苗の成り果てたものに向かって大鎌を構える。

 彼女の思考は麻痺していた。

 早苗が絶命している事実を受け入れられず、眼前の敵を倒せば『ご褒美』として彼女の蘇生が叶うという、根拠のかけらもない思い込みを支えに幽鬼のように立ち上がる。そして、やはり幽鬼のように音もなく空を舞った。

 速さも鋭さもない跳躍だったが、魔女はそれ以上に鈍かった。

 触手による迎撃を受けることなく魔女の至近に降り立ったジュンは、皮膚も体毛も持たない魔女の首筋に大鎌の刃を力なくあてがう。

 威力をもって斬る必要はなかった。

 

「ぶったぎれ……。アダマス・ハルパー」

 

 ジュンの呟きに呼応して、《絶対切断》の魔法が効力を発揮する。

 魔女の腐肉のような首筋に、するりと、なんの抵抗もなく刃が沈んでいく。炎であぶったナイフでバターの塊を抉るように、易々と、深く。

 程なく刃は魔女の首を両断する。ごとり、と音をたてて頭部が床に落ち、首の切断面から赤い体液が溢れてくる。

 

 だが、魔女にとっては首という器官の切断は必ずしも致命傷とはなり得ない。

 床に転がる魔女の頭部をジュンが蹴り飛ばし、横たわる早苗の抜け殻に振り向いたタイミングで、魔女の魔法が発動した。受けた手傷をそのまま相手に返す、千尋早苗が≪等価反撃≫と呼んだ魔法だ。

 ジュンの首に横に一筋、赤い線が走った。

 次の瞬間、その線を境界として、彼女の頭と胴体が分かたれる。

 

 魔法少女はソウルジェムを砕かれない限り死ぬことはない――その事実を知らない彼女の魂は、首が落ちたことで死を受け入れた。死を受容し、意識が途絶えるまでの数秒の間、彼女が瞳に映したものは、鈍重な巨躯を揺すって此方へ迫る魔女の姿だった。

 ごめん、と喋る形にジュンの唇が動いたが、それが音となることは、もはやなかった。

 

 

 

 

 

 魔女の首筋の切断面が泡立った。水平に切り落とされた腐肉、その表面に満ちる赤い体液がマグマのように泡立つ様は、地獄にあると言われる血の池を想起させる。

 やがて、切断面から隆起した液体が凝固して大きな肉球を成した。肉球には、瞳も鼻もなく、口を思わせる裂溝だけが器官として存在した。牙もなければ舌もない、ただの裂け目をゆっくりと開くと、赤い液が上下にだらしなく糸を引く。

 魔女は体躯を前に傾けると、それを口吻として、ジュンの身体を貪り始める。

 肉のすり潰される音、骨の噛み砕かれる音だけが、腐臭の満ちる廃工場に響いていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ふたりを説得する、マミとそう約した夜宵かおりが廃工場に辿り着いた時には、全てが終わっていた。

 梢ジュンであった肉体は僅かに四肢の切れ端を残すのみであり、捕食を終えた魔女は何をするでもなく無貌の顔を俯かせてたたずんでいた。ただ、事実を知らないかおりにとっては『終わっていない』と感じられる事象もあった。

 それは、制服姿の千尋早苗が、傷一つない状態で床に倒れていることだ。

 かおりにとってその身体は、早苗の抜け殻ではなく、気絶している早苗と思われた。幸いにして、魔女から離れた位置だ。

 助けなければならない、駆けつけて守らねば――理性でそう判断した彼女がとった行動は、しかしその場で膝を屈しての嘔吐であった。

 隙だらけの姿で両膝を折り、手で抑えきれない程の吐しゃ物をコンクリートの床にぶちまける。萌黄色の鮮やかな装束に黄ばんだ色の染みが幾つも浮かぶ様を見つめると、彼女は自嘲めいた表情を見せ、

 

「こ……」

 

 小間物屋を開いてしまいましたわ、といつものように澄ました口調で呟こうとしたが、溢れたもので喉がつかえて声にならなかった。それが切っ掛けとなったかのように涙がこぼれた。頬が熱く感じられるような、温度のある涙だ。

 一粒こぼれると、堰を切ったように涙が溢れる。かおりは敵前であることを忘れて、両手と膝をついて嗚咽した。

 

 自失状態の夜宵かおりを現実に引き戻したのは、魔女の一撃だった。

 魔女は伸ばした触手で撫でるように、彼女の肩口を叩いた。がらんとした廃工場を、彼女は数メートル吹き飛ばされて壁にしたたかに身体を打ちつける。無論触手で打たれた肩も肉が裂けていた。

 それらの痛みが、かおりに正気を取り戻させた。

 正確には、身近な人間の死という初めての経験からまだ立ち直ってはいない、が、それ以上に優先すべき事柄が、彼女に平常心をもたらした。

 壁を支えに立ち上がると、視線を早苗に向ける。

 飛ばされたことで魔女を挟むような位置関係になってしまっているが、距離としては一〇メートルもない。

 

「最優先は千尋さん……ですわよね」

 

 呟くと、牽制のつもりで散弾状のニードルを魔女へ放つ。

 肉塊を思わせる魔女は、見た目の通りに鈍重であった。避けようとする動きさえ見せず、巨躯の胸にあたる部分をニードルが貫くに任せた。

 手強くはない、とかおりは判断する。

 先の触手の攻撃も不意を突かれなければ避けるのは難しくないだろうし、そもそも直撃を受けても致命傷には程遠い威力だった。

 攻撃も防御も脅威でない以上、かおりの判断は妥当なものだ。むしろ『弱い』と断じなかっただけ、自分を戒めていると言ってもいいだろう。

 だが、次の瞬間その評価は誤りだと認識せざるをえない出来事が発生する。

 

 かおりの胸に六つ、千枚通しで穿ったような傷が等間隔で生まれる。

 外部からの干渉を受けていないのに突如として創傷が発生する様は、世界宗教でいう聖痕を思わせる。ただ聖痕と異なり、この傷には激しい痛みと出血が伴っていた。

 痛覚を遮断し、刺創痕を治癒しながら、かおりは思考していた。

 傷の種類――鋭利なニードルで貫いたような刺創。

 傷の生まれる場所――魔女に命中した場所と同じ胸部。

 六つの傷が等間隔――スプレッドニードルの本数、および特性。

 まるで受けたダメージをそのまま返すような攻撃だ。彼女の知識の範疇では、そのような攻撃は千尋早苗の使う≪等価反撃≫の魔法でしかなしえない。

 

「……千尋さんの魔法?」

 

 確かめる目的で、散弾式のニードルから通常のボルトへ変化させて魔女の触手を狙い撃つ。

 魔女は回避という選択肢を初めから有していないかのように、クロスボウ・ボルトを触手の根元に近い箇所で受けた。予想が正しければ腕部にダメージが来る、かおりはダメージに備え、両脚に力を込めた。

 着弾から一秒程度の時間が流れる。

 果たして、かおりの右上腕部に創傷が発生した。生じた刺創痕を治癒魔法でケアしながら、夜宵かおりは――経緯はともかく――魔女が千尋早苗の魔法を行使してきていることを確信した。

 

「……厄介ですわね」

 

 かおりは攻撃を控え、散漫に繰り出される触手を躱しながら、早苗のもとへ向かった。

 魔女がなんらかの術で早苗の魔法を奪っているのなら、早苗を覚醒させることで状況を打破できるかもしれない、と願うように想いながら。

 しかし、彼女の手が早苗の躯に届こうとしたところで、世界がその在りようを変えた。

 かおりの周囲の全て、廃工場の床や壁が、油絵に描かれた風景のように変化した。僅かなでこぼこを残すのみで、近くにあるパイプも遠くにあるブレーカーもひとつの平面に落とし込まれる。

 その平面が、剥いた蜜柑の皮を巻き戻すかのように、一定の間隔で千切られては内側、即ち魔女に向かって折り畳まれていく。

 夜宵かおりも、千尋早苗も、そして魔女も、その変異に飲み込まれて現世から姿を消した。

 後には、魔女の結界を示す複雑な文様のみが、虚空に浮かび淡く明滅するのみだった。

 

 

 

 

 次の瞬間、夜宵かおりは見慣れた雰囲気の見知らぬ場所に独りでいた。

 壁も、床も、天井もが精神疾患者が施したような奇怪なコラージュに彩られ、無機物と有機物の境界にあるような質感で見る者の情緒を不安定にさせようとする。

 

「千尋さん……?」

 

 救うべき少女の名を呼ばわった声は、壁に吸い取られるように小さくなって消えていく。周囲を見るが、悪趣味な壁と天井が続くのみで、先程まで指呼の間にあった少女の姿も、また魔女の姿もなかった。

 

「なんだか結界に入ると、無性に闘志がわいてきましたわ」

 

 半ばまでは虚勢であるが、半ばは真実である。魔法少女としての使命感を強く自覚している彼女にとって、結界内部にいることは自身を奮い立たせ、心を静かにさせる効果があった。

 何より、梢ジュンの無残な亡骸を見ないですむのがありがたい。見えないからといって事実が変わるわけではないのだが、人間は表面的に目に見えるものを重視してしまう生き物だ。

 武器を散弾式に戻したかおりは、左右に上下にと捻じくれ分かれて迷路のように続く通路を警戒しながら進む。

 早苗の身を案じれば全力で駆けたいところだが、見通しの悪い通路を無警戒に走るのは危険に過ぎる。

 かおりの警戒態勢は無駄ではなく、曲がり角や障害物の影からの使い魔の襲撃を幾度か退けた。安っぽいマネキンのようなフォルムの使い魔は、常に三体で徒党を組んで襲ってきたが、その程度の数的優位は魔法少女の前ではアドバンテージたりえなかった。

 

「それにしても、ずいぶんとややこしい構造ですわね……」

 

 呟いたのは、結界に取り込まれて一五分が経過した頃だった。

 時折、見晴らしのいい吹き抜け状の場所に出るのだが、そこで上下に視線を向ければ、既に通った場所を僅かに高度と角度を変えて歩いているだけと気付かされる。

 そして、そう気付くと、今進んでいる特徴に乏しい通路が、既に歩んだ場所を逆行しているだけではないのかと疑心が生まれてくる。

 かおりは幾度となく足を止め、時に引き返して道を選び直し、迷路然とした結界をさまよった。

 だが、結果的にはこの時間の浪費は、夜宵かおりにとっては良い方向に作用した。そして、巴マミと佐倉杏子にとっては、悪い方向へと作用することになる。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 僅かに時間を遡る。

 巴マミと佐倉杏子は、隣町の魔法少女が去った方向と彼女たちの魔力の足跡を頼りに風見野を訪れていたが、やはりと言うべきか、彼女たちを見つけ出すことは出来ずにいた。

 

「杏子ちゃん、地元なんだから頑張って」

「地元っつったって、このへんはガラ悪いから行っちゃダメって言われてたからなぁ」

 

 家屋の屋根から屋根へ、重力を感じさせない動きで飛び移りながら、ふたりは言葉を交わす。もちろん高速で移動する魔法少女同士、日常の会話をするような声量の音が届くはずもなく、実態はテレパシーによる思考の交感だ。

 

「魔力を探すんだから、来たことがあるかないかなんて関係ないわよ」

「じゃぁ、地元なのも関係ないじゃん」

「それもそうね」

 

 ふふっと笑う声さえ届くのは、ふたりの間のテレパシーがそれほどに固く結ばれているからなのだろう。マミの蕩けるような笑い声につられて杏子も口元を歪めた。

 と、ふたりの笑みが同時に消えた。

 大気中の魔力が波打つのを感じたからだ。それは強く激しく、そして禍々しい波動だった。街を歩く人々は悪寒や怖気として感じ取ったであろうその波動を、ふたりは的確に理解した。――魔女の結界が生まれた余波であると。

 

「杏子ちゃん!」

「あぁ!」

 

 それだけの会話で『魔女の結界探しを優先して、被害が出る前に魔女を倒しましょう』との意思疎通をする。前述の固く結ばれたテレパシーすら、ふたりには不要のものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 幸いにして結界の場所はふたりの位置から近く、最初からソウルジェムは反応を示していた。立体的な動きを加えつつジェムの反応を見ることで、水平方向のみならず距離も推し量りながら、ふたりはすぐに結界の入り口がある廃工場に辿り着いた。

 廃工場には先ほど行われた惨劇の痕跡は残っておらず、ただ虚空に結界の入り口を示す複雑な文様が浮かんでいた。

 明滅する文様には一切の歪みなく、まだ何人の侵入も許していないことが伺えた。

 

「うん、間に合ったわね」

 

 魔法少女による力尽くの侵入はもとより、魅入られた犠牲者が入ることでも結界の入り口は多少は揺らぐ。それがないということは、結界に囚われた犠牲者はいないと判断していいはずだった。

 

「縄張り荒らしみたいで気が引けるけどね」

「あら、犠牲者を出さないことが最優先だわ」

 

 雑談をしながら、文様に向けて無造作に手を突き出す。それだけで、結界の入り口は中央に一筋の裂け目を作った。裂け目は、魔法少女の手を畏れ避けるかのように左右に広がり、程なくして文様は無残に引き千切られた。

 

「それはあたしたちの考えだからね。まぁ、揉めるようならグリーフシード返せばいいか」

「そうね。それは揉めなくてもお返しした方がいいわ。杏子ちゃんが初めて見滝原に来た時みたいに」

 

 その言葉に、杏子は肩を竦めてみせると先んじて結界へと侵入していった。

 

 

 

 

 

 

 ふたりは結界を駆けた。

 速力は夜宵かおりの五倍以上にもなる。しかし決して無警戒に駆けているわけではない。より長けた感知能力、より優れた反応速度、より柔軟な対応力を持つ彼女たちにとっては、これが充分に警戒しながらの移動なのだ。

 その証拠に、数度に及ぶ使い魔の待ち伏せ、不意打ちも全て未然に退け、場合によっては先手さえ取った。

 速力の差に加え、ふたりは吹き抜け構造となった箇所でショートカットも行い、的確に魔女に向かって進んだ。

 結果として、マミと杏子は夜宵かおりよりも先に結界の最深部に到達し、魔女と対峙することとなった。

 

 結界のあった廃工場をふたつみっつ容れてもまだ余りそうな巨大な広間。

 そこに鎮座する魔女を見て、マミは巨大な赤子という印象を受け、杏子は巨大な蛙という印象を受けた。

 皮膚も産毛も持たない肉の塊に、巨躯に見合わない未発達な四肢を投げ出し、短く太い首の先には、頭部に相当するであろう無貌の肉塊がぶらさげられている。

 

「初めて見る魔女ね」

 

 自室にあるお手製の魔女ノートと寸分違わないものが、マミの記憶の中にはある。それを手繰り確認するが、眼前の魔女に関する記録は見いだせなかった。

 それが一足飛びに産まれたての魔女であることを示すわけではないが、その可能性を想うと胸にちくりとした痛みをおぼえる。

 

「さっさと、楽にしてあげようか」

 

 大身槍を横に構えた杏子が、マミの痛みを取り除く様に明るい声で告げた。

 魔女――とりわけ魔法少女から堕天した産まれたての魔女――を倒すことに躊躇いを感じるのはふたりとも同じであり、それを克服しているのもまた同じである。

 しかし、倒すことを『救いを与えること』を肯定的に理解している杏子と異なり、マミは幾つかの言い訳を以って自分の心を押さえつけているに過ぎず、少なからず痛痒を未だに抱いていた。

 

「えぇ、でも油断はせずにね」

 

 小手調べとして、マミは数十のマスケットを浮かび上がらせた。操者の性格を表すように縦横に規則正しく整列したマスケットは、空中に留まり発射の命令を待つ。

 すっ……とマミの指が魔女の胴体を指すと、マスケットの銃口が一斉にその方向に向けられる。

 かつて、一年ほど前ならば、≪無限の魔弾≫と称していた規模の攻撃だが、今のマミにとっては異なる。この程度では≪無限≫足り得ず、無銘の小技に過ぎない。

 

 

 夜宵かおりが、途中で見つけた千尋早苗の躯を抱きかかえて最深部に到達したのは、ちょうどその時だった。

 瞬時にして状況を理解した彼女は、マミの攻撃を制止すべく声を張り上げた。

 しかし僅かに遅く、その叫びにも近しい声は、乾いた発砲音に重なってかき消されていった。



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第二七話 マミさん、心臓を貫く

 もし、マミとかおりの間に、マミと杏子の間にあるような強固な信頼関係があれば。

 かすかに聞き取れた彼女の叫びに従い、放たれた魔弾は魔女に到達する半ばでリボンへとほどかれていたかもしれない。

 

 

 魔女のだらしなくたるんだ肉を、魔弾が次々に抉り、穿つ。

 ぶしゅ、という濁った音をあげて、穿通痕からピンクの体液が溢れでる。

 肉饅頭のような魔女の巨躯において、魔弾の着弾点は人間ならば何処にあたるのか、それを正確に推し量ることは難しい。

 しかし、一秒ほどの後、その答えは明確な形で与えられた。

 千尋早苗が得意とした≪等価反撃≫の魔法が発動したからだ。

 巴マミの左肩から下腹部へかけて数十の貫通痕が発生し、ひとつひとつの孔から赤い血が迸る。衣裳は無傷のまま、その下の柔肌に傷だけが生みつけられたため、噴き出した血はブラウスとコルセットに受け止められる。オフホワイトの色も、ダークブラウンの色も、真っ赤な血の色に汚された。

 

 即死した――と夜宵かおりは思ったが、いかなる魔法か、マミは身体をよろめかせただけで、膝を屈することさえなく立ち続けた。

 衣裳で堰き止めきれない出血が両の太腿にまで垂れ至り、ニーハイソックスやブーツまでをも赤く汚し、足元に血だまりを作る――それでも、マミは瞳にも口許にも生気と闘志をみなぎらせていた。

 

「攻撃してはいけませんわ!」

 

 二度目の叫びは、マミと杏子の耳にしっかりと届いた。もっとも、彼女の警句がなくても、このような予想外の≪反撃≫を受けた以上はマミも杏子も一旦攻撃を控えて様子を見るという選択をしたはずであるが。

 駆け寄ったかおりは、事情を話すよりもマミを治癒することを優先した。

 既に受けた傷の大部分はマミ自身の治癒魔法で回復していたのだが、衣裳の下に隠れているため、彼女にはそれが分からなかったからだ。

 ただそれでも、衣裳の下には短時間では完治まで持っていけなかった幾つかの傷が残っており、マミはそれらが速やかに癒されていくことを認識した。

 

「ダメかと思いましたわ。命があって何よりです」

「ありがとう、治癒が得意なのね」

 

 誉め言葉に笑みで応えると、かおりは≪等価反撃≫をはじめとする事象についての説明をしようとする。その時に、魔女が動いた。

 魔弾で穿たれた孔から細い触手を生えさせ伸ばすと、それらを鞭のようにして叩き付けてきた。鋭さに欠けた緩慢な動きであり、回避するに易い攻撃であったが、会話を中断させられたかおりは跳び退りながら鼻白んだ表情を見せる。

 

「どういうことだよ!」

 

 続きを促すように杏子が声を荒げた。こちらは上半身の捻りと大身槍の柄による殴打だけで触手の攻撃をしのいでいる。

 

「何か知っているの?」

 

 マミは暢気ともいえる口調で尋ねつつ、新体操の演技を行うようにして、片脚を軸に円を描くように動いては触手の攻撃を躱していた。

 マミと杏子、ふたりの移動を伴わない回避と見比べると、ジャンプして逃れた自分がひどく劣った行動をしているように思え、かおりはぎり、と歯を噛んだ。同時に、自分でもああやって避けるくらいはできる、と心の中で呟く。

 

「その魔女は、魔法少女の魔法を奪うようです。先ほどの魔法はこちらの――」

 

 片手で抱いた千尋早苗を強調するようにして見せると、言葉を続けた。

 

「千尋さんが得意とする反撃の魔法です。相手から受けたダメージをそのまま返す、それが彼女の得意魔法ですわ。彼女を目覚めさせることが出来れば、なんとかなるとは思うのですが……息が、ありませんの」

 

 仲間の死を受け入れることの出来ない彼女は、千尋が覚醒することを前提とした会話をする。呼吸もせず、体温も失われた彼女が目覚めることなどありはしないと理性では分かっていても、認めることを感情が拒んでいた。

 だが、マミと杏子にはここまでの説明で真実に到達していた。

 千尋早苗という魔法少女が堕ちたものが、目の前の魔女であると。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「それで、その反撃というのはすぐに来るのかしら? さっきは一秒程度の間があったけれど」

 

 早苗の覚醒に拘泥し、いかに彼女を救うかと論じようとするかおりを諭し、まずは魔女を倒す方向で意志を統一すると、マミは実際の倒し方について話を進めた。

 

「わたくしが反撃を受けた時もそれくらいのラグがありました。もともとの彼女の魔法は、という意味でしたら、ダメージを受けてから相手を目視して魔法を使うという感じだったはずですわ」

 

 ふたりに倣って、動きを最小限に抑えて回避しようとするかおりだが、時折有効打を受けて身体をよろめかせる。肉体的なダメージはさほどではないが、その度に彼女の自尊心が軋みをあげた。

 

「んじゃ、反撃が来る前に仕留めればいいってことだね」

「そうね。それぞれの最大の技で、タイミングを合わせて一斉に攻撃するっていうかたちにしましょう。えぇと、なんて呼べばいいかしら、あなたは遠距離攻撃よね?」

「夜宵かおりと申します。この状況での最大威力ということでしたら、銃撃になりますわね」

 

 右手首に固定された純白の魔銃――ホーリーレイ――で触手の打撃を受け流しながら、かおりは自慢げな笑みを見せた。回避の動きでは後れを取ったが、攻撃ならば負けはしないとの想いが、その表情を作らせた。

 

「分かったわ。私は巴マミ。私も遠距離からだから、タイミングは杏子ちゃんの突撃に合わせましょう。それでいい、杏子ちゃん?」

 

 応、と返しつつ杏子は槍の穂先で触手を斬り払った。過失ではない。万が一のために、集中攻撃の前に≪反撃≫というものを味わっておきたかったからだ。

 

「あたしは佐倉杏子。言っとくけど並の銃弾よりあたしの突進は速いからね。遅れんじゃないよ」

 

 はたして、露出している杏子の肩にみみず腫れが一筋浮かび上がる。そして次の瞬間、内側から破られるようにして肉は裂け、鮮血が溢れた。

 佐倉杏子の治癒魔法は、マミには及ばないものの魔法少女の一般的な水準は超えている。その治癒の魔法で肩に生じた傷を回復しながら、杏子は感じ入ったような声を漏らした。

 

「なるほど、これはちょっとびっくりだね……」

 

 忠告を無視された、と受け取ったかおりは眉間に皺を寄せる。

 対してマミは、杏子の意図に理解を示した。いかに攻撃を密集し反撃を受ける前に撃破をするつもりといえども、常に作戦通りに進むものではない。

 想定外の事態に備えて《反撃》の魔法がどのようなものか、実際に受けておくことは決して無駄ではない。

 

「突然くるから、防御どころか身構えることも出来ないわよね」

「だね。まぁ、ソウルジェムにさえ返されなければ、どうにかできそうだよ」

 

 にぃ、と笑うと彼女は右に左に大きく跳ね、動くたびに分身を生み出した。≪ロッソ・ファンタズマ≫と名付けられた幻惑の魔法だ。

 

「さて、どこを攻めるか」

 

 二〇を越える佐倉杏子が、同じ表情――戦いを楽しむ好戦的な笑み――で呟く。

それに対し、歴戦の盟友である巴マミは正確に本物の佐倉杏子を見抜き、そちらに視線を向けて応えた。

 

「さっき私が撃ったところは肩からお腹にかけてだから、杏子ちゃんのソウルジェムに干渉することはなさそうね」

「了解、その辺狙っていくよ」

 

 気合の声を杏子たちが上げた。

 最大の攻撃、佐倉杏子の場合は大身槍をさらに巨大化させたものがそれにあたる。しかし、槍の変形にはしばし足を止める必要があり、その間の一時しのぎとしてロッソ・ファンタズマを展開したのだ。

 杏子たちが手に携えた武器が、気合に応えて変形を始める。

 大身槍の穂が、中心を走る鎬を境にアギトを開くようにして分かたれていく。

 分かたれた穂は二個の鋭い刃となり、柄の先端にある口金の左右に迫り出すと、クワガタの双角のように位置取りした。

 そして、穂が動くことで剥き出しになった口金から、ぶぉん! と激しい音を伴って真紅の魔力が迸った。

 最初は花火を思わせる無軌道な迸りを見せた魔力は、すぐに収束し、一本のルビーレッドのニードルとなる。径にして半メートル、長にして二メートルの巨大なニードルに。

 魔力のニードルを中心に、左右を双角で固めた三叉槍、それが《アパシュナウト・トリデンティ》、鋭利なる海神槍と呼ばれる杏子の決戦兵装だ。――そう呼ぶのは今のところ、ひとりだけだが。

 槍の変形中に何体かのファンタズマは触手の攻撃を受けて消失したが、目論見通り本体は無傷。

 

「準備はいいかい、マミさん、かおり!」

 

 それには応えず、マミはちら、と視線をかおりに向け、彼女のソウルジェムの装着部位を確認する。

 ちょこんと頭にかぶさった帽子の中央に蒼銀のソウルジェム、それを認めると彼女の瞳を見つめるようにして告げた。

 

「夜宵さん、どこを撃つかは任せるけど、頭だけは避けてもらえる?」

「え? えぇ、構いませんが」

「ありがとう、理由は後で説明するわね。……さて、杏子ちゃん、オーケィよ!」

「おうッ!」

 

 叫び、そして数多のファンタズマを霧散させる。

 突撃に際しロッソ・ファンタズマを使わないのは魔女の攻撃を侮っているから――ではない。タイミングを合わせての攻撃である以上、銃撃を行うふたりは杏子の突撃の瞬間を把握する必要がある。

 しかし、マミはともかく夜宵かおりは、分身だらけの中から本物の杏子を見分けられない。そのため、雲霞のごとくファンタズマがいる状況では、本当の突撃のタイミングが把握できないだろう、と考えてのことだ。

 タイミングを合わせるための杏子の気遣いだが、結果としては無意味だった。

 約束事を反故にする者がいたからだ。

 

 

 

「モード、フローズン・シューター……」

 

 夜宵かおりが囁くや、瞬時に右腕に装着した魔銃が氷に包まれた。

 瞬間的な氷結の影響か、内部に気泡を多く残した白く濁った氷。

 白い氷は空気中の水分を奪いながら、魔銃の先端と末端から樹氷のように伸びていく。

 魔銃の前方には銃身のような細い氷が、後方には銃床のような幅広の氷が形成される。本来は純白の中にも蒼の飾りを見せていた手甲型の魔銃は、今や白無垢の長銃の様相を呈していた。

 氷はさらに育ち、かおりの手首から始まり、手を、肘を、二の腕をと徐々に凍らせていった。腕そのものを銃の一部としてしまう、そういった意志を魔銃が持っているようにさえ思える動きだった。

 

「すごい冷気ね……」

 

 数メートル離れていてなお冷凍庫に入ったような寒気を感じ、マミはつぶやいた。

 既にティロ・フィナーレを放つべき大砲は練り上げられ、マミの前面で砲撃のタイミグを待ちわびている。

 突撃の瞬間を見逃さないように視線を杏子に向けているため、夜宵かおりはマミの視界の端にかすかに入っているに過ぎなかった。

 その視界の端で、少女が動いた。

 

 

 

 

 杏子の突撃を待たずして、エプロンドレスに身を包んだ魔法少女が攻撃を開始する。

 

「コンプレス・アーツ……リリース!」

 

 氷の長銃が、主人の叫びに応え氷点下の魔弾を撃ちだした。

 射撃の衝撃に耐え切れず、魔銃と右腕を覆う堅氷に細かい亀裂が無数に走る。亀裂は表面を覆う氷のみならず、その下の皮膚と肉までをも裂いた。

 

「なッ!」

 

 突撃の機会を伺っていた杏子は、突如として放たれた魔弾に声を荒げた。

 しかし、彼女は百戦錬磨の魔法少女だった。すぐに為すべきことを諒解し、魔弾を追うように突撃を開始する。

 そして、巴マミもまた百戦錬磨だった。杏子の攻撃とタイミングを合わせるべく、魔女の腹部に照準し、焦ることなく機を待った。

 

 

 

 

 大気の絶縁を破り駆け抜ける稲妻のように、杏子は疾駆した。

 迅くそして鋭く、ジグザグの軌道で触手を躱しながら、氷の魔弾に追いつかんばかりの速力で。

 だが、わずかに及ばず氷の魔弾が先んじて魔女の腹に到着した。

 途端、着弾点から氷が広がる。澄んだ水に墨汁を落としたような勢いで。

 放射状に広がる氷は横方向のみならず厚さ方向にも層を成すように成長し、ぺきぺき、ぱきぱきと氷の重なる音を響かせた。

 音が止むまで一秒とかからなかった。その僅かな時間で、魔女の巨躯全てを覆うように氷は成長した――瞬間、杏子の神槍≪アパシュナウト・トリデンティ≫が堅氷を割って魔女の腹肉に突き刺さる。

 槍穂で創られた双角が深く、そして魔力の凝集した中央のニードルがより深く、肉を穿ち魔女の体内に侵入した。

 

「弾けろッ!」

 

 杏子が叫ぶと、魔力のニードルが魔女の体内で膨れ上がる。

 瞬間的に数倍の体積にまで膨張すると、膨らみすぎた風船がそうするように幾万の針となって爆散した。個々の針は魔女の体内を食い荒らすかのように進み、進んだ先で蓄えた魔力を解放させて爆発を起こす。

 魔女の体躯が、封を開けた炭酸飲料のようにそこかしこで爆ぜる。

 苦痛に呻き身悶える魔女、しかし彼女はすぐにその苦痛から解放される。

 苦しみから解放する一撃が届いたからだ。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 杏子が神槍を引き抜いた刹那、その穿通痕に狙い過たず、膨大な魔力を伴った魔弾が着弾する。

 技名の通りに戦いの幕引きを告げる一撃。それは瞬時にして魔女の体躯の過半をえぐり消し飛ばした。

 残る部位も杏子の《アパシュナウト・トリデンティ》が放った魔力針の爆散効果により、程なく焼け尽きる。

 

 そして、結界は崩壊を始めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 廃工場に惨劇の痕跡を示すものはひとつだけだった。

 夜宵かおりが左腕に抱く、千尋早苗の亡骸だ。右腕は≪フローズン・シューター≫の冷気により凍りつき、さらには射撃の衝撃のためにひび割れ、深い裂け目を幾つも作っており、彼女を抱ける状態ではない。

 そんな自らの右腕に治癒を施すこともなく、かおりは得意とする治癒魔法を彼女の亡き骸に注ぐ。

 だが、いくら治癒魔法を使っても一向に回復の兆しは見られなかった。

 やがて、夜宵かおりはようやく仲間の死を受け入れたのか、大粒の涙を零し始める。千尋早苗が彼女の腕からすりぬけ、コンクリートの床にどさりと落ち、そして仰向けになった。

 

「どうして、こんな、傷ひとつないのに……?」

 

 それは問いではなく独白であったが、マミが受けて答えた。

 

「さっきの頭以外を狙って欲しい、という話にもつながるのだけれど……私たち魔法少女の魂は、ソウルジェムに封じられているの。……だから、身体の方は魂のない人形のようなもの。ソウルジェムさえ砕かれなければ、私たちは死なないわ」

 

 俯いて涙を零すかおりは、マミの声にも反応を示さない。一拍おいてマミは続ける。

 

「逆に、ソウルジェムを破壊されれば、身体は無傷でも命を落とすわ。そちらの方、ソウルジェムが見当たらないから、おそらくは……」

 

 やはりかおりは反応しない。マミと杏子は言葉を重ねず、ゆっくりと彼女が落ち着くのを待った。

 窓の外から聞こえる横断歩道の音楽が、五度は繰り返されただろうか。

 やがて涙を零し尽くしたのか、彼女はかぶりを振ると、充血した瞳でマミを睨みつけるようにして言った。激発と称してもいい口調だった。

 

「そんな突拍子もない話を、信じろとおっしゃいますの?」

 

 それはマミも予想していた反応だった。

 突拍子もない、というのは控えめな表現と言っていいだろう。己の魂が既に身体から抜き取られ、一個の宝石に封じ込められているなど、悪夢や悲劇と言っても過言ではない。――もっとも、マミと杏子が秘しているソウルジェムに関する真に絶望的な事柄に比べれば、大したことはないのだが。

 

「ええ、信じて。これが証拠よ」

 

 マミの優しく響く声は、かおりの精神を落ち着かせた。

 そのため、激情と平静の狭間で、一時的にかおりは空白状態にあり、目の前で起こった事態が把握できなかった。

 マミがマスケットを掌中に生み出し、銃口を左の乳房の付け根――心臓に突きつける。指が躊躇なく引き鉄を引く。銃口から魔弾が撃ちだされる。

 魔弾はオフホワイトのブラウスを千切り、ほの白い柔肌をえぐり、鮮やかな赤色の血と肉を裂き、そして心臓を貫いた。

 

「なッ――!」

 

 先に叫んだのは杏子だった。

 感情の空白状態にあったかおりは理解が追いつかず、杏子より若干遅れて悲鳴をあげる。

 前のめりにマミが崩れ。そして、次の動作を見たかおりの悲鳴は、先のものと異なり恐怖の色が濃かった。

 息絶えたはずのマミが崩れ落ちる半ば、片膝をついて持ちこたえる。そこから緩慢な動作で両腕を動かし、胸にあてがう。両の手からは治癒の暖かい光が溢れだし、時間を巻き戻すように彼女の傷口を癒していく。

 それは夜宵かおりにとっては理解の埒外にある光景であった。そして、人は理解できないものに恐怖を覚える生き物である。

 しかし彼女の心が恐慌に染まる前に、マミが浮かべた優しい笑みが彼女の精神を押しとどめた。

 

「ね? 心臓を撃ち抜いても、死なないの。もちろん痛いし、治癒魔法で癒さないと動けないし、怪我は避けるに越したことはないんだけどね」

 

 こくり、と夜宵かおりが頷く。

 その首肯はマミの言葉を理解したことを示しただけであって、事実として受け入れたことを示すものではない。

 呆けたような、痴れたような雰囲気を漂わせたかおりは、ゆっくりとした動きで左手で短刀を引き抜き、切っ先を左胸にあてがった。

 

「あっ、だめよ! 夜宵さん!」

 

 マミの切羽詰まった制止にきょとんとしてみせると、かおりは素直に短刀を胸から外して問い返した。

 

「何故ですの? わたくしも魔法少女ですから、同様に……」

「それはそうなんだけど……。ただ、やるなら『絶対死なない』って強く信じて欲しいの。今みたいに、確かめるために半信半疑だったりすると、あなたの魂が死を受け入れてしまいかねないわ」

「……?」

「例えばね、この事実を全く知らない魔法少女が心臓を貫かれたとすると、その子は自分を死んだと思うわよね。そうすると、魂も自分を死んだと認識して、そのまま死んじゃうの」

 

 話しながら距離を詰めると、マミは彼女のぼろぼろになった右腕に両の掌を添えて、癒しの魔法を発動させる。氷結していた裂傷が融けることで一時的に血が流れるが、すぐに治まって傷がふさがっていく。

 伝わってくる治癒の波動に表情を和らげながら、しかし詰問するような口調でかおりが続けた。

 

「そのような大事なことを、どうしてあなただけがご存じですの?」

「それは……過去に色々あって……。キュゥべえは、聞かれない限りこのことは話そうとしないし」

「色々、の部分は話して頂けませんの?」

「ごめんなさい……それは……」

 

 言いよどむマミは彼女を直視することを避けるように、まだ痛々しい傷痕の残る彼女の右腕を見つめる。と、彼女自身も治癒魔法を使い始めたのか、傷痕が消え去り、産毛さえほとんどない小麦色の綺麗な肌へと甦っていった。

 傷が癒える間に彼女の心の整理も進んだのか、ようやく彼女は落ち着いた表情を見せた。

 マミへ、そして杏子へと視線を送ると、ゆっくりと口を開く。

 

「わかりましたわ。たった今おふたりには助けて頂きましたし、なにより尊敬する先輩のお言葉ですものね」

 

 その言葉に、マミは少し意外そうな表情を、杏子は露骨に嫌そうな表情をしてみせる。

 ふたりの反応は当然のものと彼女も理解した、彼女にも自覚はあったからだ。

 

「つっかかる後輩とお思いでしたでしょうね」

 

 完全に右腕が回復した彼女は、膝を屈すると横たわる早苗の頬に手を添えた。その所作は、息絶えた少女を慰めるようにも、前に立つふたりの魔法少女に敬意を示すようにも受け取れる。

 

「おふたりのことは、ワルプルギスの夜を倒した英雄とキュゥべえから聞いています。それだけに、立ち入り禁止地区の大型魔女を放置していることに最初は納得がいかず、生意気な態度をとってしまいましたわ。今は事情も分かりましたけど……」

 

 今度は、マミは当惑気味な表情を、杏子は得意げな表情をみせた。

 実際には、ふたりはワルプルギスの夜を倒しておらず、彼女の言いようは事実から乖離している。

 キュゥべえは嘘はつかない。しかし、聞き手のミスリードを誘うように語ることは厭わない。

 どのような意図があってのことかは分からないが、かおりにそう誤解するように語ったのだろう。

 

「キュゥべえの言うことは、話半分に聞いておいてもらった方がいいと思うけど……じゃぁ、早速先輩としてふたつ」

 

 マミは誤解を正すことはしない。自分を良く見せたいから、ではない。自分たちが倒していないと説明すれば、では誰が倒したのかという話になり、それを説明するためには、ソウルジェムの秘された真実にまで話が及びそうだからだ。

 

 ――だから、キュゥべえもそういう風に話したのかしらね。

 

 マミは納得すると、表情を『厳しい先輩』のものにして、膝を屈しているかおりを見下ろした。

 

「まずひとつめ、どうしてタイミングを揃えずに攻撃を始めたの? 場合によっては、あなたの攻撃を反射されて、あなた自身が大怪我をすることになったかもしれないのよ。ううん、あの威力なら死ぬことだってあり得るわ」

「わたくしのフローズンは対象を氷で包み、使い魔程度ならそのまま押し潰し、巨大な魔女でもしばらくは行動を封じるものです。先に着弾させた方が、おふたりの攻撃がより効果的になりますもの。それに、わたくしの友人の仇討ちです、わたくしがリスクを負うのは当たり前ですわ」

 

 返す言葉には躊躇いも逡巡もなく、彼女が心の底から正しい行為と信じていることをうかがわせた。それは彼女がふたりに向けた迷いのない瞳からも察せられる。

 だが、ふたりの返事はかおりの自負に沿うものではなかった。

 

「立派な心がけって誉めてやりたいとこだけどさ、お前の友人はそんなこと望んじゃいないんじゃないの」

「そうね。もちろん虎穴にい入らずんば、ってこともあるのは確かだけど、好んで危険な目にあうのは良くないことだわ。あと杏子ちゃん、お前っていう言い方は乱暴だしやめた方がいいわね」

 

 肩をすくめる杏子を見て、マミは控えめに笑う。

 

「ふふ……それともうひとつは、言いづらいことだけど、亡くなったご友人をどうするか、ね」

「どうとは、どういうことでしょうか?」

「二択だろうね。家族に遺体を返してやるか、あるいは遺体を隠して永遠に行方不明にするか」

 

 そういうことだと諒解するや、梢ジュンの無惨な亡骸がフラッシュバックし、胃液が喉を逆流しようとする。――と、マミが手を伸ばし、かおりの首から胸にかけて軽く治癒の魔力をあてがい、彼女のえずきを止めた。

 治癒魔法にこのような効力もあることをマミは経験から知悉していたが、かおりは初めての体験であり、きょとんとした表情を見せる。そして、唾液を飲み込んで落ち着くと、口を開いた。

 

「梢さんは選択の余地なく後者ですわね……」

「そう……辛かったわね」

 

 彼女の言葉で事態を察したマミが沈んだ声で漏らす。杏子も声こそ出さないが、神妙な面持ちで視線を落とした。

 

「千尋さんは……どちらも残酷ですが……せめて亡き骸を返してあげる方が良いと思いますわ。後者は、いつまでも生きているかもという希望が捨てきれず、ご家族もお辛いでしょう……」

「希望が残るだけマシって考え方もあるよ」

 

 杏子は自らの体験を思い返しているのか、僅かに声を震えさせ、拳をぎゅっと握る。マミも内心では杏子の意見に賛成するが、同時にそれはやはり実体験によるものが大きいのだろう、とも思う。

 マミも杏子も、選択の余地なく前者の苦しみを味わい、何度も泣き、何度も眠れぬ夜を過ごした。それ故に、選ぶことさえできなかった後者を、隣の芝として羨んでしまっている――マミには、そういう風にも思えた。

 結果としてマミは玉虫色の言葉で応える。

 

「どちらの考え方もあると思うわ。短いスパンだと希望があって救われるかもしれないし、長いスパンでみれば夜宵さんが言うように、その希望が辛さや苦しみになっていくこともありえると思う」

「まぁ、かおりの思うようにするのが一番さ」

「少し、独りで考えさせて頂けますか……」

 

 かおりは、重く、そして粘つく言霊をひとつひとつ喉から吐き出すように喋る。

 そう応えるかおりに別れを告げると、マミと杏子は風見野を発った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 マミのマンションにほど近い緑道に、ふたりは舞い降りて変身を解いた。

 マンションのベランダまで飛んで帰っても彼女たちは姿を見とがめられる心配もないのだが、やはりエントランスから歩いて入りたいという情緒的な想いと、緑道を彩る季節の花々の香りを楽しみたいというさらに情緒的な想いから、そうするのが常だった。

 向暑の日は長く、まだ太陽は傾いてもいない。

 それぞれの学校の制服に身を包んだふたりが肩を並べて歩く。マミは凄惨な戦いの残り香を洗い流すように、八重咲きのクチナシの甘い芳香で鼻腔を満たした。

 

「疲れたし、少し休憩してからパトロールに行きましょうか。温かい紅茶と冷たいジュースとどっちがお好み?」

 

 それは杏子が喜ぶはずの話題であったが、彼女の反応は鈍かった、その鈍さにマミが違和感をおぼえる頃、杏子が足を止め、ゆっくりと口を開く。

 

「マミさん、さっきのあれだけど……」

「あれ?」

 

 街路樹の芳香よりなお甘い、とマミの笑顔を杏子は評する。しかし、杏子の心に広がる不満は、その笑顔を前にしても彼女の表情を厳しいものにした。

 杏子は無言のまま、指を鉄砲のかたちにして、自分の左胸に突きつける。そして、射撃を示すように、指を上に跳ね上げた。

 

「証拠を見せるためってのは分かるけど……分かってくれるまで口で説明すればいいじゃない。無事だと分かってても、見てて心臓に悪いよ」

 

 杏子としては赤心からの抗議であり、意見でもあった。それだけに、マミの返しが許せなかった。

 

「心臓だけに?」

 

 

 

 

 

「あぁっ、杏子ちゃん、ローキックはやめて。……ほんと痛い! 魔力込めてない、これ?」



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第二八話 マミさん、家庭訪問する

 毬屋しおんという少女がいた。

 しおんは不治の病に侵されており、ものごころついた時から風見野最大の都市にある総合病院の個室で生活していた。

 病魔に蝕まれた彼女の身体は、一二という年齢を差し引いても小さく、細い。そして肌は太陽に焼かれたことなどないかのように白く、汗など流したことがないようにきめ細やかだ。

 いや、比喩ではなく、彼女は汗を流したことがなかった。

 先天性の無痛無汗症、それが彼女に与えられた運命の名前であった。痛みが感じられないことによる日常生活での危険、発汗機能・血管収縮機能の欠如による体温調節の不能、そういった要因により、成人するまでは生きられないだろうと言われていた。

 しかし、現在の彼女はそういったハンディキャップを補って余りある能力を有していた。

 魔法だ。

 

 

 白い絨毯に覆われた部屋を、くるぶしまで届く黒髪で床を掃くようにして歩く。

 仲の良い看護師がいれば「髪が傷んじゃいますよ」と無理にでも髪をまとめさせるところだが、勤務シフトからすると彼女が病室に訪れるのは数十分ほど先だ。彼女がいないと、しおんは頭髪に限らず全てに無頓着だった。

 いまも袖のボタンはひとつも止められておらず、前開きの寝間着のボタンも半端にしか止められていない。

 もっとも、それで問題はなかった。あられもない姿であってもそれを見る者はいないし、また、見られる値打ちのあるような起伏のある肢体でもない。それに病室は常に適温に管理されており、体温維持としての寝間着の必要性もない。

 

 

 病室とは思えない、物に溢れた部屋だ。

 ベッドの隣には、彼女の体躯に合わせて設えたような小柄な黒檀製のL字机が並び、その横には高級な食器が並べられたサイドボードが続く。部屋が充分に広いため、壁際に寄せず、部屋の中ほどに島のように配されている。

 机に座って背中側には、アンティーク調の加工が施されたワードローブがあり、その横に背の高いキュリオケースが複数並ぶ。しおんの背丈では六段式のキュリオケースの下側三段しか手が届かず、上側の三段は手つかずのままだ。

 ウォルナットの美しい木目を誇るキュリオケースの中には、ビーカーやフラスコが並んでいた。それらのガラス容器には、薄緑の色をした液体が満たされている。

 

 そこに、しおんは手を伸ばして錠剤をひとつ、ひとつと落としていく。

 些事に頓着しない性格のためか、錠剤の着水にあわせて生じる水飛沫が袖と肌を濡らしても、少女は意に介する風もない。

 液体は無臭。また濡れた肌を焼くことも侵すこともないことから、酸やアルカリではない無害なものと思われた。

 しおんは目を細めて、ガラス容器の中に浮かぶ『有害なもの』を見る。容器ごとにひとつ、グリーフシードと呼ばれる魔女の遺物が収められ、薄緑の液体の中で浮き上がるでも沈むでもなく、直立した状態でたゆたっていた。

 

 キュリオケースに飾られたグリーフシードの中心部は例外なく漆黒であり、穢れを限界まで吸い取った状態であることを示している。

 ガラス容器は、一段ごとに四個並べられ、それがキュリオケースふたつに満杯(といっても、下側三段だけだが)とみっつめのキュリオケース最下段にみっつで、あわせて二七。それが彼女が半年ほど前に魔法少女となってから、狩ってきた魔女の数をあらわしている。

 

 

 カタツムリを思わせる緩慢な動作で、しおんはガラス容器に満たされた液体の温度を測り、水素イオン濃度を量る。

 彼女の身体は体温を調節するという当たり前の機能を持っておらず、筋肉に負荷をかけるような行動を続ければ容赦なくオーバーヒートとなる。魔法少女となった今となってはそのような制約はないのだが、身に染みついた所作は簡単には拭えない。

 小一時間ほどが経過し、ようやく全てのガラス容器のチェックが終わろうとする頃、しおんの脳に声が届いた。

 

『しおん、それは何をしているんだい?』

 

 声の主は、いつの間にかベッドの上で寝そべっていた猫に似た生き物、キュゥべえ。彼女と契約を結び、魔法を与えた存在だ。

 

「お、久しぶり~。これはね、昔っからの人類の夢だよ~」

『人類の夢?』

「マクスウェルの悪魔って奴だよ~」

『ふぅん』

 

 キュゥべえに視線を向けることもなく言葉を交わすと、しおんは新しいフラスコをふたつ、キュリオケースに並べていく。キュゥべえもさして興味は引かれなかったのか、それ以上の言葉は求めず、ベッドの上で眠るかのように丸くなった。

 途切れた会話を引き継ぐように、病室のドアがノックされた。とん、ととん、という特徴的なノックだ。

 

「は~い」

 

 ノックの仕方から訪問者を察したしおんの声が少し弾んだ。のんびりとガラス容器をいじくっているうちに、仲の良い看護師の勤務時間になったようだった。

 病室に入った看護師は、挨拶もそこそこにしおんの傍へ歩み寄り、嘆息まじりに彼女の寝間着を整え、髪を束ね始めた。

 しおんは手伝うでも抗うでもなく、彼女のするがままに任せる。

 

「毛先、痛んじゃいますよ。あとで少し切り揃えますか?」

「やだ~」

「じゃぁ、私がいなくてもきちんと髪をまとめること。いいですね?」

 

 看護師は彼女の思うところの厳しい表情でしおんに迫った。しかし、彼女の垂れたアーモンド型の瞳と、目尻を飾るほくろは決定的に迫力に欠け、しおんに柳に風と受け流される。

 

「できない約束はしない主義なの~」

「……簡単にできる約束しかしないようだと、立派な大人になれませんよ?」

 

 しおんの超のつくロングヘアをハーフアップにまとめると、看護師はねじった毛束から幾ばくかの髪を摘まみ出し、適度にルーズに崩していった。そして、完成とばかりに頭頂を撫でると、思い出したように語りかける。

 

「しおんちゃん、私が来る前、何か言ってました? 話し声が聞こえた気がしましたけど」

「なんでもないよ~。ひとりごと~」

「そうですか? 何か話したいことがあるんでしたら、私が話し相手になりますよ」

「いや~。まゆみにはちょっと難しい話題かな~」

「もう、年上に失礼ですよ」

 

 まゆみ、と呼ばれた看護師はしおんの口撃には慣れているのか、気分を害した風もなく嗜めるような優しい口調で応える。

 

「まゆみは栄養がおっぱいに行って、頭には行ってないでしょ~?」

「まぁ、確かに勉強は苦手でしたけれど……」

 

 さらにしおんは彼女の身体的特徴、いわゆる巨乳を揶揄するように言うが、彼女としてはその特徴を不便だとは思ってもコンプレックスと感じたことはなく、悪口の効果はなかった。

 

「んじゃ、マクスウェルの悪魔って分かる~?」

 

 しおんが口にした言葉は、思考実験の一つだ。

 ラプラスの悪魔の論を補強する材料としての、熱力学の不可逆性を否定するための思考実験だが、しおんはこの場合、永久機関の実現という意味で用いている。

 

「また、ゲームの話ですか?」

「やっぱりダメか~」

「あら、違ったの……?」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 梢ジュンと千尋早苗の死を目の当たりにした翌日、かおりはパトロールをする気になれず、部活後まっすぐに帰宅した。

 さらに翌日、やはり魔法少女へと変身する気にはなれず、部活を終えて小一時間もしないうちに、彼女は自宅のリビングにいた。

 彼女が午後六時より前に帰宅することは珍しく、そのことに引っかかりをおぼえた母親が彼女に尋ねた。

 

「ここのところ、帰りが早いのね」

「うん、クラブの後に勉強会をしていたんだけどね、その友達の都合が悪くって」

 

 母と父だけにする言葉遣いで、すらすらと嘘で応える。だが、口から出まかせでついた嘘が真実に微妙にリンクしている気がして、かおりは表情を曇らせた。

 その変化を見逃すほど鈍い母親ではなかったが、彼女は娘を信じていたので、とりたてて追及することはしなかった。

 

「なので、部屋で勉強してくるね」

「夕飯のリクエストがあれば聞きますよ」

 

 ソファを立ち、二階の自室に向かおうとするかおりに、母親はのんびりした口調で声をかける。

 

「お肉以外でお願いしていい?」

 

 娘の返答は彼女の嗜好からすれば意外なものだったが、やはり母親は追求することはせず、「はい」とだけ柔らかく応えた。

 

 

 

 夜宵かおりは、極めて優秀な生徒だ。

 知識欲もあり、また好成績を収めることをゲーム的に楽しむ闘争心もある。何より大きいのは、幼い頃よりの両親の誉める教育で身についた、全能感と自尊心だろう。全能感は自信となり、自尊心は自負となって彼女を支えた。

 そんな彼女は、三〇分もしないうちに宿題を綺麗に片付け、今はずいぶん先の予習を行っている。予習といっても、何度目かの予習であり、彼女にとっては復習のような気分ではあったが。

 半ば諳んじるように教科書を眺めていると、階下から母親が呼ばわる声が届いた。

 ずいぶんと早い食事だなと首を傾げながら、部屋着の彼女は階段を二段飛ばしで、しかし静かに駆け降りる。

 

「ママー、もうご飯出来たの?」

 

 階段のラスト三段を飛ぶと、両脚を揃えて廊下に舞い降りる。絵画が飾られている壁に片手をとん、と押し当てて勢いを削いで、残る片手でふわりと持ち上がった黄金色の髪を抑えた。

 意識は当然のように左方向のダイニングに向いていたので、逆側、つまり玄関方向からの挨拶はかおりの予想外だった。

 

「こんばんは。突然ごめんなさいね」

「と、巴さん?」

 

 玄関に母親と並んで立っているのは、レモンイエローのシフォンブラウスに白のキュロットスカートといった明るく軽い印象の衣裳に身を包んだ巴マミ。

 

「こ、こんばんは。ママ、お客様ならそう言ってよ」

 

 言いましたよ、と母親は返したが、「うそ」のひとことでかおりは切って捨てる。マミの困ったような笑顔は、母親と娘、どちらの言い分にも与しないことを示しているのだろう。

 

「ともかく、私の部屋にいらして下さい。ママ、飲み物お願いね」

 

 はしたないところを見られたという気恥ずかしさから、かおりは性急に話を進めようとする。母親もマミも、かおりの声のトーンや頬の色からそれは察しており、彼女の意に沿うように振る舞おうとするが、ふと思い出したようにマミが立ち止まった。

 

「生ものですのでこちらで失礼しますね。お口に合うか分かりませんが、どうぞ召し上がってください」

 

 手提げの紙袋から、お手製のケーキの入ったケースを取りだして恭しい所作で母親に渡す。

 それを見て、かおりは「紙袋ごと渡さないとはしっかりしていますわね」と内心でマミを誉めた。パパならきっと紙袋ごと「ほら」と押し付けてくるだろう、と遠く海外にいる父親に理不尽で一方的な評価を与えながら。

 

 

 

 

 

「本当に、突然でごめんなさいね」

 

 かおりの部屋に通され、キャラクターもののクッションに腰を下ろしたマミは、改めて前触れなしの来訪を詫びた。

 

「それは気になさらないでください。それで、巴さんはどうしてこちらへ?」

「大した用事ではないのだけれど……」

 

 語尾を濁らせるようにすると、マミはちらと視線をドアへ向けた。間もなく母親が飲み物を持って訪れるだろうから、本題はそれからにしたい、との意思を過不足なく受け取った夜宵かおりは、膝を崩して片手をCDケースの並んだラックへ伸ばす。

 

「何かお聴きになります?」

「そうね、お勧めがあれば」

 

 ラックには手前側にクラシック、奥側に隠れるようにゲームミュージックが並んでいたが、かおりは無難に手前側からチョイスする。指が触れるままに選んだCDがイタリアの著名な作曲家のものであったのは、おそらくは偶然であろう。

 ミニコンポにCDが挿入され、緩やかにメロディが流れ始める。繊細、雅といった言葉で讃えられることの多い楽曲であり、マミは瞳を閉じて弦楽合奏に聴き入る。かおりもそれに倣い、瞳を閉じた。

 やがて、二曲目のアリアも佳境に入る頃、控えめなノックと母親の声が部屋に届いた。そしてかおりの短い返事の後に、静かにドアが開かれる。

 

 

 

 

 

「おもたせで失礼しますわ」

 

 と言ったのは、お盆から紅茶とケーキをテーブルに並べなおす夜宵かおりだ。

 彼女は母親からお盆を受け取ると、すぐにドアを閉めて母親を追い出した。母が余計なことを言いそうな予感がひどくしたからだが、マミの意向を酌むことにもなる、と彼女は自分を正当化していた。

 実際のところ、マミには人払いは必要ではなかった。声を用いることなく意志を交感する術を、彼女たちは持っているのだから。

 かおりの配慮を無にしないようにか、それとも単純に言葉に迷っているのか、マミは無言のままティーカップを口元に運び、唇を湿らせた。

 

「とっても美味しいわね。私、紅茶を淹れるのが趣味なのだけれど、こんなに美味しくはなかなか淹れられないわ」

 

 マミの言葉に促されるように紅茶を一口飲むと、かおりも口を開いた。

 

「母も紅茶が趣味ですの。でも、これは技量というよりは茶葉の力でしょうか。巴さんがいらしたので良い茶葉を使ったのですわね」

「そんなことないわ。良い葉を美味しく淹れるのも腕前だもの」

 

 それは紅茶を淹れ始めた頃のマミの経験――買い置きしてあった父親の上等な茶葉を用いて、香りのない苦いお湯を作った――に基づく言葉である。もっとも、当時のマミは『普通の』腕前を大きく下回っており、かおりの母親に当てはめるのはかえって失礼かもしれないが。

 

「こちらのケーキは手作りでしょうか? 紅茶よりもこちらの方が、素晴らしい技量と思いますわ」

 

 鮮やかな紫色のミニモンブランを口に含んだかおりは、舌の上で紫芋の甘さとココナッツミルクの風味を充分に味わってから、感じ入ったような声を漏らした。

 

「そんなに手間じゃないのよ。でも、気に入ってもらえて嬉しいわ」

「こちらがお芋で、それがかぼちゃで、そちらが栗でしょうか? こちらはなんですの?」

「食べてあててみて? 辛いのとか苦いのはないから」

「望むところですわ」

 

 ゲーム的なものを好むかおりは、マミの言葉のままに橙のモンブラン、黄白色のモンブラン、赤のモンブラン、淡い緑のモンブランと次々に口に運ぶ。

 

「これは人参ですわね。これがバナナで……。苺……。これは……チーズ?」

「チーズと何かなんだけど、わかるかしら?」

 

 謎をかけるように言うと、マミも栗色のミニモンブランをひとつ口に運ぶ。作っている途中に味見をしたときよりも、きめ細やかな甘みが口腔に広がるのを感じた。きっと紅茶との相性だろうと、マミは改めて給された紅茶を賞賛する。

 

「お茶が美味しいと、ケーキも一層美味しくなるのね」

 

 だが、その言葉にかおりは反応を示さなかった。

 外界からの情報を遮断するように瞳を閉じて俯くと、口内に残った薄緑のケーキの味を確かめるように舌を蠢かせる。

 しかし、残念ながらかおりの舌はそこまで鋭敏ではなく、どんなにねぶってもチーズ以外の情報を拾い取ることはできなかった。

 

「んー……緑色ですから……ほうれん草……でしょうか?」

「それも美味しそうね、今度作ってみるわ」

「外れでしたか……」

 

 自信のない……というより当て推量の答えだったとはいえ、不正解であることに彼女は表情を曇らせる。そして、正解を伝えようとするマミを慌てて押しとどめると、

 

「もう少し、もう少し考えさせて頂けませんか」

 

 と、正解を導くアテもない状態であるにも関わらず意地を張った。そういう性格だった。

 

「じゃぁ、それはゆっくり考えてもらうとして。本題に入ろうかしら」

 

 両手を顎の下で組んだマミは、そこまで喋るとテレパシーに切り替えた。

 

『と、改まって言うのも大げさなんだけど……落ち込んでないかなと思って。ご友人のことで』

 

 脳裏に響いたマミの言葉に、驚いたような、狼狽えたような息をかおりは漏らした。

 一瞬だけマミの顔を見ると、再び俯き視線をティーカップに落とす。

 

『よくあること……だなんて言いたくないけど、魔法少女なんてしているとどうしても危険はあるわ。それは夜宵さんも覚悟の上でしょうけど、実際にこうなるとやっぱりショックよね』

 

 かおりが、落ち込んでいないと否定する言葉を探しているうちに、マミが言葉を連ねた。ショックという言葉も否定しようとかおりは思考を働かせるが、やはりマミが先に続ける。

 

『強がったり無理したりする必要はないわ。だって、数少ない魔法少女同士なんだから……ご両親やお友達にも、話せないことだものね』

 

 過度の感情を込めず、淡々と語るマミの言葉はかおりの心に届いた。

 先日より心の平衡を失っていた彼女は、強い自律心によって外面的には平静に日常生活を送っていたが、逆にその自律心のために折れることを許されなかった内面は、ひどく軋みをあげていた。

 

『……ふたりとも、魔法少女になってからの付き合いなのでせいぜい半年といったところです。それでも、どうしようもなく寂しく感じますわ』

 

 マミはテレパシーではなく仕草で応え、続きを促す。

 その所作を受けて、かおりは徐々に、そして途中からは胸中を吐露するようにして言葉を送った。

 

『……魔法少女になったのは、おふたりの方が先で、わたくしが後から合流する形。最初は、いろいろと教えて頂きましたわ。魔法少女として一緒に戦って……。生命を懸けている自覚はあるつもりでしたが、結局のところ、人が命を落とすところを今まで見たことなどありませんでしたし、クラブ活動やゲームのように軽く考えていた部分があったのでしょうね。危険なことをしている、その自覚と覚悟はあるつもりでしたが……本当に、ただの『つもり』でしかなかったようですわ』

 

 告解をするかのように言葉を紡ぐかおりの口内には、既にチーズとスイートバジルのミニモンブランの味は欠片も残っていなかった。マミはひと呼吸おいて、かおりの言葉が途絶えたのを確認してからゆっくりと語った。

 

『……慣れる必要はないし、慣れてはいけないことだと思うけど……。私たちはそういう世界に足を踏み入れてしまっているわ。いざという時に足がすくんでいたら、今度は夜宵さんが命を落としかねない』

『はい……。お強いのですね、巴さんは』

『あら……私のこと、どう思ってるか知らないけど、私は泣き虫で弱虫なのよ』

『うそ』

『ほんと。嘘だと思ってもらえるのは光栄だけどね。……両親を亡くして泣いて、自分のせいで魔女の犠牲者を出して泣いて、大事な人を救えなくて泣いて、本当にいつも泣いてばかり。そんな泣き虫の私でも、これだけは言えるわ。人はどんなに泣いても、また笑うようになれるから、泣きたいときは好きなだけ泣くといいわ。私でよければ、その涙を受け止めて、拭ってあげるくらいのことはできるから』

 

 夜宵かおりは――彼女自身可愛げがないと自覚しているが――本来弱みを見せることを嫌う性格だ。仲間ふたりを喪ったことについても、苦悩を抱えながらも、出来る限り表面上は平静を装い過ごしていた。

 だが、先にマミが弱みを見せたことで、彼女の中の何かが折れた。テレパシーではなく言葉が、桜色の唇から溢れ出た。そしてそれを追うように、大きな瞳に涙が滲んだ。

 

「わたくしがもっと強くふたりを止めていれば……わたくしが巴さんを止めようとせずにすぐ追いかけていれば……あのような結果にはならなかったはずだと、そればかり考えてしまいます」

「しょうがないわ。人は結果を見て行動を選ぶことは出来ないんだもの。良かれと思ったことをするしかないわ」

「巴さんも、そうなんですの?」

「もう、間違ってばかりだわ。その度に自分が嫌いになるけど、自分は自分でしかないんだから、しょうがないわよね……なんて、割り切れてもいないんだけどね。だから、一緒に頑張りましょう」

「はい……」

 

 それ以上言葉にならなかった。かおりは今まで我慢していた分を吐き出すように涙を流し、マミは彼女の傍に行き、彼女の涙を受け止めるように胸で抱いた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 CDの演奏も終わり、部屋には少女のすすり泣く声だけが響いている。

 追加の飲み物を持って二階へ上がってきた母親は、ドア越しにその声を聞いて事情を察するとともに、友人ではなく自分に吐き出して欲しかったなぁと一抹の寂しさをおぼえた。

 とはいえ同じ年頃の友人でないと話せないこともあると母親は理解していたので、必要以上に気に病むことはなかった。

 母親はドア越しに、娘のケアをしてくれている少女に会釈すると飲み物を持ったまま引き返す。

 階段を下りる足音を知覚して、こちらも事情を察したマミは、やはりドア越しに頭を下げた。

 そういったやり取りには全く気が付かずに泣き続けていたかおりだが、やがて落ち着きを取り戻した。泣き腫らした目が恥ずかしいのか、片手を額にあてて瞳を隠すと、マミの膝枕に預けていた顔をあげて伝えた。

 

「すみません……取り乱してしまいましたわ」

「気にしないで。もう大丈夫?」

 

 涙声で話すことに抵抗があるのか、かおりは頷き、そのまま顔をキュロットから伸びるマミの太腿に押し付けた。

 

「パトロールとか、魔女退治、気持ちの整理がつくまで、私が付き添ってもいいし、なんならしばらくは私が風見野をみてもいいのよ」

 

 マミの提案に、かおりは俯いたまま、首を何度も横に振った。駄々をこねる幼児のような仕草だった。

 

「私じゃ頼りないかな?」

 

 頭の振り幅が大きくなった。

 

『いいえ、そうではなくて、巴さんを尊敬しているからこそ、甘えたくないのですわ』

 

 湿ったままの肉声を嫌ったかおりは、テレパシーでマミに応えた。

 

「そう、立派な考え方だわ。でも、私も杏子ちゃんも、数少ない魔法少女の仲間なんだから、いつでも頼ってね」

『はい、ありがとうございます』

 

 

 

 

 それから、三〇分ほどが経った。

 普通の声といつもの表情を取り戻したと判断したかおりは、ようやくマミの温かい太腿から顔をあげた。

 

「あの……顔、変じゃありませんか? ママ……母に心配はかけたくありませんの」

「大丈夫、綺麗な顔よ」

 

 母親は全て理解しているだろうけど、とマミは思ったが、口にはせずに微笑んだ。

 つられたように夜宵かおりも破願する。それは本来、両親にしか見せない類いの笑顔だった。

 

 

 

 

 折りよく部屋を訪れた母親は、娘の表情が明るくなっていることに安堵するとともに、マミに夕飯を勧めた。

 

「それがいいですわ、巴さん、ぜひ食べていってくださいな」

 

 かおりは母親の提案に諸手を挙げて賛成するが、マミは反射的に立ち上がると今にも帰り出しそうな素振りを見せた。

 

「もうそんな時間……遅くまですみません。ご迷惑ですし、今日は失礼しようと思います」

「そう言わないで。もう三人分作っちゃったから」

「父が長期出張なので、いつもふたりで食事なんですの。巴さんがいてくだされば賑やかでいいですわ」

 

 座り込んだままの姿勢でマミのシフォンブラウスの裾を摘まむ様が、幼子が親か先生を引き留めているように見えて、マミは苦笑する。

 

「……すみません、お言葉に甘えます」

 

 応えると、マミはゆっくりと腰を下ろしたが、かおりはレモン色のブラウスから手を離そうとはしなかった。きっと、自覚しての行為ではないのだろう。それだけに、彼女の本心が表れた仕草とも言える。

 

「夜宵さん、だから、裾引っ張らないでもらっていいかしら……」

「かおり、頑張って引き留めた甲斐がありましたね」

 

 からかわれるように言われたかおりは、子供のような自分の振る舞いを自覚して頬を上気させた。

 そして、朱が差した頬を見られないようにと顔を俯かせる。今日はずっと俯いてばかりだな、と思いながら。



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第二九話 マミさん、家庭訪問を受ける

 土曜日の午後、夜宵かおりは風見野南部を訪れていた。

 三人で守っていたテリトリーはひとりとなった今では手に余る広さ。そのためテリトリーの一部を、風見野南部にいるという魔法少女に譲渡するための交渉が目的だ。

 ユニオンジャックが全体に描かれたニット・セータに黒のジーンズ、黒のスニーカーといったカジュアルない装いは、日によく焼けた彼女の肌に似合い活動的な印象を見る者に与える。

 そういった印象を肯定する軽快な動きで駅ビルを出た少女は、怪訝な表情を見せた。

 

「……結界、ですわよね」

 

 ソウルジェムを使ってサーチするまでもなく、結界の反応を感じた。

 そして、トレースを行うべくソウルジェムを取り出して反応を確かめた彼女は、さらに怪訝な表情となった。

 一定の方向を示し、彼女を結界へ導くべき反応が、あちらへこちらへと振れて定まらなかったからだ。その挙動は乱れた磁場の中に方位磁石を置いたようなものだった。

 

「複数の結界……?」

 

 そう判断した彼女は、ソウルジェムの反応の振れを観察し、三か四の結界が感知範囲内にあるのだろうと推論した。

 その仮説を確かめるために、駅ビルに戻って階段や通路を上下左右に移動。ソウルジェムが示す反応の変化を観察する。

 数分の確認で、結界の反応は三と結論できた。

 その中で、最も反応が強い、すなわち最も近いと思われる結界を選んで彼女は向かった。この街を訪れた理由はパトロールではなかったが、目の前に結界があるのに放置するという行動は彼女の選択肢にはなかった。

 

 

 

 

 駅ビルから徒歩で二分程度のペンシルビルに、夜宵かおりは着いた。

 ソウルジェムはこのビルの上層階に結界があることを示している。

 ビル入り口の案内板を見ると、一階と二階は店舗、三階より上は事務所となっていたが、階段を上っていくと三階より上は空きテナントとなっているようだった。

 七階に結界はあった。反応からすると、使い魔の結界と思われる。

 

「それでは、参りますわよ」

 

 萌黄色のゆったりとしたエプロンドレス姿に変身すると、彼女は蒼銀の蛍火を手の周りに浮かび上がらせ、それをぶつけて結界をこじ開ける。

 結界に入る。

 躊躇いが全くないと言えば嘘になるが、マミのカウンセリングで彼女の心的外傷はほぼ癒されていた。

 本来にして夜宵かおりは強い。

 もちろん、巴マミや佐倉杏子と比較すれば心技体の全てにおいて劣るが、それはマミと杏子が極度に優れているだけで、夜宵かおりの劣等を意味するものではない。魔法少女全体で比較すれば、上位二割の≪優秀な魔法少女≫にカテゴライズされるだろう。

 そのような彼女なので、使い魔との戦いにピンチなどあるはずもなく、容易に討伐を終えた。

 

 

 

 

 結界が歪み、現実世界へと排出される。

 ふぅ、と吐いた息は安堵のものだろうか。その吐息がおさまらぬうちに、かおりの背後から声が飛んだ。幼く、間延びした声だった。

 

「ナニやってくれてんの~?」

 

 魔力を感知したかおりは、背後の人物を魔法少女と判断し、言葉を返した。

 

「あぁ、このテリトリーの魔法少女の方ですね。わたくしは夜宵かおり、風見野北部の魔法少女です。テリトリーのことでお願いしたいことがあって伺ったのですが、使い魔の結界がありましたもので退治していたのです。あなたのテリトリーで勝手をしたことはお詫びしますわ」

 

 そこまで喋ってから振り返り、視界に入ったものを見て狼狽した声を漏らす。

 

「あ、あなた、それは……?」

 

 そこにいたのは、ひどく小さく、細い少女だった。

 純白の巫女装束に、白無垢の羽衣のようなものを両肩から上に伸ばしている。さらには肌まで病的に白く、瞳と髪の漆黒だけが、彼女の持つ色彩だった。

 しかし、かおりが問うたのはそのような外見のことではなかった。

 白無垢の少女――毬屋しおん――が両手で抱きかかえている大学生と見受けられる女性、まぶたを閉じて寝息をたてているその女性のことを問うていた。

 

「それ呼ばわりはないだろ~。まだ息あんだからヒトだよ、こいつ~」

 

 催眠魔法で眠らされているのだろう、力なくうな垂れている頭を少女が何度か揺らしても、女性は起きる素振りを見せなかった。

 

「ここの使い魔にエサやろ~と思って来たのにさ。勝手に狩るなよ~」

「えさ……?」

「そそ。いつ現れるか分かんない魔女を待つんじゃなくて、自分で育成しようってハナシだよ~」

 

 俄かには思考がつながらなかった。

 それは理解が難しいからということではなく、彼女の良識が理解することを拒んだからだ。だが、単純な話だけに、理解を拒んでも拒みきれるものではなかった。

 思考がつながると、怒りの感情が膨れ上がり、彼女の体温が数度上昇する。

 

「その方にも、ご家族もいれば友人もいるのです。その方を失うことでどれだけ悲しむ人がいるか! あなたは、人の心の痛みが分からないのですか!」

 

 激発したままの勢いでかおりは言葉を投げつける。が、白い少女はかおりの怒気を理解できていないかのように、気の抜けた声で返した。

 

「うん、分かんない。そういうビョーキなんだ~」

 

 そして、女子大生を左手一本で抱えなおすと、右手を伸ばし、その先に武器――白色の両刃の戦斧――を現出させる。

 

「つかナニ? あんた説教強盗~?」

「話し合いに参ったのですが、人間の言葉が理解できる生き物ではないようですわね」

 

 意図してではなく、激情のために挑発めいた言葉を吐いたかおりは、右手に備わったクロスボウを散弾式に変形させ、臨戦態勢を整える。

 

「うっざ~。何様よアンタ? ひとの縄張りで勝手に暴れて、上から目線で勝手なこと言ってくれちゃってさ~」

「とりあえず、その方を解放なさい」

「やだよ~」

「分かりましたわ。実力で排除します」

「気が合うね~。わたしも今、こいつ殺そうと思ったところだよ~」

 

 ペンシルビルのほど狭いフロアで、ふたりは戦意を剥き出しにして向かい合った。

 武器的には、振り回す必要のある戦斧は狭所での戦闘には向かない。片やクロスボウは、距離を取りにくいという観点では不向きではあるものの、射撃を行うという点では不都合はなく、戦斧に比べれば有利と言っていいだろう。

 しかし、白の魔法少女は自らの前に女子大生を押し出し、小さな身体を完全に覆う盾とした。女子大生ごと射抜くようなことが出来るはずもなく、かおりは奥歯をぎり、と噛む。

 

「ほらほら、こいつごと撃てる~?」

「……下劣なことを!」

「あっはは~! あんた、正義の味方って奴~?」

 

 少女が一歩詰めると、かおりが一歩退く。

 それを数度繰り返すと、かおりの後ろに下がるスペースはなくなった。ワイヤーの入ったガラス窓に背中をあずけた夜宵かおりは、彼女が襲い掛かる瞬間、すなわち盾となっている女性の陰から出てくる瞬間に一撃を加えるべく、機を待った。

 

「……魔法少女の力を得て、志を持たずに振る舞うなら、それは魔女となんら変わりませんわ」

「ご立派~」

 

 白い歯を覗かせて嗤うと、しおんは手にしていた女性を前へ突き飛ばした。そして、その陰に入ったまま距離を詰める。

 突きつけられた女性を受け止めるような形になった夜宵かおり。

 そのかおりを女性の身体もろともに断つべく、戦斧が唸りをあげた。

 衝撃を感じる感覚がしおんにあれば、充分な手応えがあっただろう。しかし彼女は先天的にその感覚を失っており、手応えというものは感じようがなかった。

 それでも、視覚情報から充分な打撃を与えたであろうことは推察できた。

 女性を庇うように身体を入れ替え、自らの無防備な背を差し出すようにしたかおりを、深々と戦斧が斬り裂いたのだから。

 

「バッカじゃないの~」

 

 肉と骨に突き刺さった刃を抉り込むように左右に振りながら、揶揄する声を投げかける。

 

「馬鹿で結構。小狡く生きるよりは幾らかはマシでしょう」

 

 女性を抱いたまま、転がるようにして刃を逃れる。

 女性を脇に寝かせると、かおりは治癒の魔法を使い、自らの背中の傷を急速に回復させていく。その回復スピードにしおんは目を丸くした。

 

「お~、すごい治癒能力だね~」

 

 かおりは言葉を返さず、クロスボウを前に突き出す。そして、スプレッドニードルを放とうとした刹那。

 

「じゃぁ、一気に殺さないとね~」

 

 しおんが両の瞳を閉じるさまを、かおりは見た。

 次の瞬間、自らの腹部に深い裂傷が創られていることを自覚する。痛覚を遮断していてもなお伝わってくる焼けるような痛みに、彼女は片膝をついた。

 

「なにを……?」

 

 片膝をついたまま、傷を確認する。

 わき腹から深く入った傷は、肝臓と膵臓を抉り毀している。痛覚を遮断していなければ気を失っていただろうし、ソウルジェムが本体であるという自覚がなければ、死を受け入れていただろう。

 口腔に溢れる血を無理に飲み下すと、嫌な味と音がした。

 だが、これほどの傷であっても、治癒を固有魔法とする彼女は数秒で動ける程度にはリカバーさせる。

 

「うぜぇ、倒せないイベントキャラかっての~」

 

 しおんという少女は吐く言葉に似あわず慎重派だった。

 彼女の固有魔法――両目を閉じることで、プランク時間(物理学における最小の時間単位と目されているもの)の間に彼女のみが三秒間の行動を可能とするというもの――は一度使うと一分間は再使用ができず、その間は彼女は攻守の切り札を失った状態となる。

 彼女はその時間帯を可能な限り無為に費やそうとする。つまり益体もない言葉を連ねて距離を取り、無理に追撃を行うことはしなかった。

 

 その時間帯に、かおりが動いた。

 牽制の意味合いが強いスプレッドニードルを連射して毬屋しおんを怯ませる。そして、横で眠る女性を抱きかかえると、ガラス窓を破って外へと身を投げた。

 七階という高所だが、魔法少女にとってはさしたるものではない。落下の途中に幾つか魔法で足場を作り、それを横に蹴って速度を殺しながらビルの裏路地に着地する。

 

「あ、待ちなよ~」

 

 暢気ともいえる声をあげて、しおんも窓から身を躍らせる。

 無論かおりに待つつもりはなく、女性を抱きかかえたまま通りへと駆けた。

 人通りのある表通りに出ると、かおりは地面に女性を寝かせ、その場を離れる。かおりとの接触がなくなったことで、女性は余人から認識されるようになった。

 突如としてアスファルトの路面に倒れた女性が表れたことで、通りを歩く人々が騒ぎ出す様を横目で見ると、かおりは満足げに頷く。

 

「これで、おいそれとは手は出せませんでしょう」

 

 女性の身の安全は確保できた、と判断した夜宵かおりは、追ってくる毬屋しおんと戦うべく場所を探す。

 とん、と高く跳躍し周囲に視線を巡らせる。そして、右前方に台地の端に位置するグラウンドを確認すると、そちらに向かった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ふぅん、ここで死にたいの~?」

 

 グラウンドのバッターボックス付近に降り立ったしおん。彼女は、自身の身体をすっぽり隠せるほどの威容を誇る両刃の戦斧を肩に担いで嗤った。

 サードベース近傍に立つかおりは、物騒なしおんの言葉には反応せず、静かに問うた。

 

「ひとつ、確認させてくださいな」

「なに~?」

「関係ない人を犠牲にするようなことはやめて、魔女や使い魔を倒して人を護るつもりはありませんか。もしそうするのでしたら……」

「ババアはしつっこいな~」

「……わかりましたわ。命までは取りませんが、少し痛い目を見てもらいますわよ」

 

 かおりが明確な戦闘の意思を示したことで、ふたりの魔法少女の戦いが始まった。

 

 

 

 

 毬屋しおんの戦いを一言で形容するなら、奇形だろうか。

 人は幼い頃から暮らしの中で、身体の効率的な、そして安全な動かし方を学び覚える。

 それは魔法少女となっても依然として残り、筋力ではなく魔力に依存するはずの身体運動も、学び覚えた動作の延長線上の動きとなる。

 しかし、しおんは幼い頃より、無痛無汗症のため身体を激しく動かすことはできず、運動についてなにも学ばなかった。

 それ故に、魔法少女となった今は、人間の常識に縛られない奇抜な動作を可能とする。効率性も安全性も無視した、目的のみを追求した動作だ。

 関節がどのような方向に捻じれようが気にしない。体幹がどのように揺らごうが気にしない。

 そのようないびつな動きを魔力で実現させる彼女は、ソウルジェムに対して外付けのハードウェアでしかない身体を、通常の魔法少女よりも使いこなしていると言えるのかもしれない。

 

 

 身体全体を一本の鞭のようにしならせて、戦斧で斬りつけてくる。

 しかもその行為は軸足の存在さえ否定し、地を這うようにして距離を詰め、かおりの足元を刈ってきた。

 単純に動きの速度、精度でいえば夜宵かおりが勝っているのだが、一般的な運動行為に沿わない毬屋しおんの動きは予測が難しい。

 かおりは一方的に攻撃を受け、身体のあちこちに傷を創っていた。

 予測不能の動きに加えて、生来痛みを知らない彼女は、被弾しても怯むことすらない。

 スプレッドニードルを撒くように放ち、腕や肩に直撃を与えているものの、しおんの攻撃はいささかも鈍ることはなかった。

 気圧されるようにして、かおりはグラウンドの端に追い込まれる。

 背後の切り立った崖から吹き上がる風が、彼女の黄金の髪を弄ぶように揺らした。

 

「こうなっては……!」

 

 氷漬けにして動きを封じてから畳み掛けるために、フローズン・シューターへの変形を開始させる。

 かおりの右手周囲が氷点下となり、クロスボウの前後左右に氷の追加パーツが迫り出していく。それにつれて、かおり自身の腕にも薄い氷の膜が張り、皮膚を堅く締め付ける。

 だが、フローズン・シューターが完成する前にしおんが動いた。

 

「これ以上キズもらったら治すの面倒なんだよね~」

 

 命の取り合いをしている自覚など欠片も感じさせない声でしおんが言い放つ。

 実際に彼女が気にしているのは、受けた傷を治癒することに要する時間だけだ。あまりに傷を受けては治癒の不得手な彼女は日没までかかっても全快に至らず、病室への帰りが遅くなってしまう。

 

「ちょっとでもキズあると、まゆみがうるさいからさ~」

 

 そう言って、瞳を閉じた。

 次の瞬間、かおりの右肘から先が、戦斧に断たれグラウンドに転がった。

 

「くっそ、なかなかうまく当たらないな~」

 

 頭なり心臓なりに当たれば、とのしおんの斬撃だったが、目を瞑って行うために狙いが正確ではなかった。

 それでもメインウェポンを操る右腕を斬り落とせたのだから、上首尾と言っていいだろう。

 

 いや、上首尾どころではなかった。

 大地に赤い染みを作って転がる右腕を見た夜宵かおりは、魔女に貪り食われた仲間の遺骸の面影をそこに見た。

 そして、恐慌した。

 息が止まり、足がすくんだ。

 

『いざという時、足がすくんでいたら今度は夜宵さんが命を落としかねない』

 

 マミの警句が脳裏に甦るが、金縛りを解くには至らない。

 切断された右肘から血が流れ落ちる。しかし、その痛みすらも感じることを忘れて、かおりは棒立ちした。

 かおりが我を取り戻す前に、勝敗は決した。

 ハンマー投げの選手が行うような両腕を伸ばし切った状態での横薙ぎが、かおりの首を抉る。

 両断するには浅い斬撃、首の断面積の六割ほどを抉ったに過ぎない。

 しかし、命を奪うには充分に深い斬撃。首の半ば以上を抉った一撃は、総頸動脈、内頸静脈、外頸静脈の全てを切断した。

 血しぶきが迸り、返り血でしおんの白無垢の巫女衣裳が朱に染められていく中、かおりは断末魔をあげることすら出来ずに崩れ落ちた。

 

「はい、おしまい~。お疲れ様でした~」

 

 膝をつき、上半身を前のめりに倒したかおりの身体を、しおんが無造作に蹴り飛ばす。

 ごろりと身体が仰向けに転がり、首から広がった血だまりが程なく腰の辺りまで達した。

 そこまで眺めると、しおんは一言「南無~」と呟いて踵を返す。

 もはや横たわる魔法少女を一顧だにすることなく、白無垢の少女は戦場を後にした。

 

 

 

 

 凍りついたかおりの精神がようやく自我を取り戻した時には、総血液の過半は流出し、赤黒い池を成していた。

 萌黄色のエプロンドレスは血を吸ってどす黒く変色し、健康的と謳われた褐色の肌は瑞々しさを失い枯れ枝のようになり果てている。

 彼女が一命を取り留めたのは、ソウルジェムの秘密を知っていたこともあるのだろうが、それ以上に意識の連続性を失っていたことが大きい。

 死んだ、と認識する余裕さえなく閉ざされていた精神は、今ようやく現状を認識するに至った。

 

 ――これで死なないというのは、ちょっとしたゾンビですわね……。

 

 自嘲を込めて呟こうとしたが、喉が切断されているため、息がひゅぅひゅぅと不愉快な音をたてたに過ぎなかった。

 自らの身体――客観的に見れば亡き骸と言っていいだろう――を他人事のように眺めていたかおりは、遅まきながら当事者意識を取り戻し、ゆるゆると治癒を開始した。

 

 首がつながり、腕がつながり、魔力でもって身体を不自由なく動かせるようになるまでに、数分と要さなかった。

 失われた血液を治癒魔法で回復させると、肌に血色が戻り、唇が赤みを帯びてくる。

 魔法少女の思考は脳ではなくソウルジェムで行われている。その理屈からすると、脳への血液供給の有無は思考力には影響がないはずだが、脳に酸素が行き渡ると思考も晴れてくる気がした。

 

 クリアになった思考がもたらすものは、しかし、良いものではなかった。

 彼女の身体をフリーズに追いやった仲間の悲惨な死のことや、たった今自らが喫した死亡寸前の敗北が、再び彼女の身体を縛ろうとする。

 夜宵かおりの身体が完全に縛られる前に、背後から物音がした。

 その音は、グラウンドを使用するために訪れた球児のものであった。

 球児にはかおりの姿はもちろん、彼女が流した血すら認識することはできない。いつもの通りに、日々の練習を行うためにグラウンドを訪れたに過ぎず、一切の違和感もおぼえていない。

 だが、背後で発生した物音に、先程の白い魔法少女――毬屋しおん――の影を感じたかおりは、滑稽なほどに狼狽した。

 振り向いて確認することもせず、座り込んでいた姿勢のまま四つん這いで逃げ出す。

 グラウンドを出る頃にようやく二本の足で立ち、さらに数十秒してから、魔法少女本来の跳躍を伴う機動を取り戻した。

 その頃には、彼女ははっきりと認識していた。自らが毬屋しおんに恐怖していることに。

 それは気位の高い彼女には屈辱的なことで、血色を取り戻した唇が色を失う程に噛み締める。

 しかしその痛みも、恐怖を忘れさせてはくれなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 約三〇分の後、夜宵かおりはマミの部屋にいた。

 キュゥべえの案内によって訪ねた彼女をマミは快く招き入れると、ケーキと紅茶でもてなした。最初は「マミさんを訪ねてきたんだろ?」とリビングに出ることを渋っていた杏子も、紅茶の匂いがしてくるとおずおずと部屋から出てきた。

 

「まずはおふたりにお礼を申し上げますわ。魔法少女の魂がソウルジェムを在処とする――このことを教えて頂いていなければ、今日わたくしは生命を落としていたはずですから」 

「それは……なにがあったの?」

 

 不穏な空気をはらんだかおりの言葉にマミが問いを投げかける。

 つまりは、言葉以外にはそういった要素を覗かせない程、かおりの治癒は完璧であった。しかし、当然のことではあるが治癒の効果は身体にのみしか及ばず、彼女の精神までは癒していない。

 かおりはクッションに預けていた尻を浮かせて一歩下がると、深く頭を下げた。

 

「おふたりのお力を、貸して頂けませんか」

 

 土下座に等しい拝礼を押しとどめると、マミと杏子は続きを促した。

 

 

 

 

 かおりが話している間、幾度か表情を曇らせ、眉をひそめたものの、言葉を挟むことなくマミと杏子は待った。その反応から賛意を得られると思っていたかおりだったが、話を終えた後にマミが示した反応は煮え切らないものだった。

 

「たくさんいるっていう使い魔を倒すことはやぶさかじゃないけど、魔法少女を排除するというのはどうかしら……。夜宵さん、その子を排除したとして、その後どうするの?」

 

 口ごもるかおりに優しい視線を向けると、マミは続けた。あくまで柔らかい物言いで、そこに説得や言いくるめようという色はなかった。

 

「誤解しないでね。その子のしていることを肯定しているつもりはないの。ただ、その子を排除したとして、その後に誰もそこを守る人がいなくなって、逆に被害が増えたら元も子もないわ」

「だけどさマミさん、使い魔を倒さないって程度ならともかく、使い魔に犠牲者を食わせるっていうのは見過ごせないよ」

 

 杏子が示した区分は情緒的なものであり、実際には前者も後者も消極的か積極的かの違いだけで『犠牲を肯定している』という点では同じではある。しかしマミは敢えてそこには言及せずに頷いてみせた。

 

「確かに、わたくしの一方的な話だけで排除というのは性急すぎたかもしれません。おふたりにも一度どのような魔法少女か見て頂いて、判断して頂ければと思いますわ」

「夜宵さんの判断は正しいとは思っているのよ。ただ、もしその子の考えを改められる機会があれば、それに越したことはないと思うの」

 

 無理だ、とかおりは思う。しかし、マミと杏子ならばもしかしたら、とも思えた。結果として、明瞭な言葉は返さず沈思するような表情を見せた。

 

「とりあえずは、使い魔を一掃しに行きましょう。杏子ちゃん、里帰りね」

「里帰りも何も、けっこう教会の掃除に行ってるじゃん」

「あら、じゃぁ杏子ちゃんはお留守番してる?」

「そうは言ってないよ」

 

 面白くないな、と杏子は思った。だが、その理由を捉えることは出来ず、なんとも居心地の悪い気分だった。

 そしてマミは、常に果断を示す杏子がそういった態度を取ることについて、やはり理由に思い至らず、小鳥のように首を傾げるのだった。



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第三〇話 マミさん、流星を操る

 既に複数の結界が存在している以上、いつ犠牲者が取り込まれるともしれず、一刻も早く到着しないといけない。

 そう判断したマミたちは、公共の交通機関ではなく魔法少女としての機動を用いて風見野南まで移動した。

 駅付近に降り立つと、多少のジャンプと移動を行ってソウルジェムの反応を絞り込む。

 

「よっつ……かな、マミさん?」

「いえ、五つね。手分けして倒しましょうか」

 

 短時間の確認で、先ほど夜宵かおりが見つけ出した数を上回る結界を見つけ出すと、マミと杏子は東西に散った。遅れて、かおりが北方向へ向かう。

 

 

『おふたりでしたら大丈夫とは思いますが、危険な相手ですわ。もし遭遇したら』

『ええ、その時はテレパシーで呼びかけるようにしましょう』

『オッケー。……こっち結界に着いた、入るよ』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 床も壁も、折り紙で飾られた結界をマミは進んだ。

 金銀の紙で折られた鶴や風船が、吊るす糸もないのに空中に揺れている。

 過去に一度だけ、経験したことのある結界だった。以来半年以上、同種の結界に遭遇することはなく、この結界に棲む魔女、使い魔は根絶やしに出来たのかと思っていたのだが、どうやら風見野に根を張っていたらしい。その事実にマミは嘆息した。

 

「根絶するのって、難しいものよね……」

 

 結界に入って、五分ほどが過ぎた頃。

 マミは、向こうから――つまり、結界深部方向から歩いてくる人影を認めた。そしてその姿は、かおりから伝え聞いた白い魔法少女そのものであった。

 白い魔法少女が、結界深部から戻ってくる。その事実から推測されるのは、『エサやり』の帰り。そう思考したマミは肌が粟立つような悪寒をおぼえた。

 マミは杏子とかおりにテレパシーを飛ばすと少女に語りかける。攻撃的な態度をとってしまいそうになる自分を抑えることに、いささかの精神力を要しながら。

 

「こんにちは。これからこの結界の使い魔を倒しに行くのだけれど、よければ一緒にどうかしら?」

「あ?」

 

 マミの声でようやくその存在に気付いたのか、白い魔法少女、毬屋しおんは歩みを止めてマミの足から頭まで、舐めるように視線を動かした。 

 

「誰、あんた~? ここの使い魔はわたしが育ててるんだから、余計なことしないでくれるかな~」

「使い魔は育てるものじゃなくて狩るものよ」

「あんたの縄張りではそうすればいいけどさ~、ここわたしの縄張りだから~」

 

 幼い声と口調で返す。しかし幼い言葉とは裏腹にまとう雰囲気は剣呑。だらんと下げた両腕に、真白い戦斧が現れ出でる。

 

「ふふ、じゃぁ魔法少女のあり方について、少しお話が必要かしら」

 

 マミが一歩下がる。そのタイミングで、しおんが動いた。

 両目を瞑り、時間の流れを自分にだけ引き延ばす。そして、数歩を跳ねて両刃の戦斧を三度横に薙ぐ。三度目の横薙ぎで手応えがあった。そこで三秒の持ち時間は切れ、しおんは両目を開く。

 

 一〇メートルほどの距離にいた少女が、次の瞬間には戦斧でマミの腰と太腿の間を斬りつけている。それがマミの知覚できる現象のすべて。

 夜宵かおりから事前に聞いていたとはいえ、理解しかねる出来事だった。

 しかし、頭の理解が追いつかなくても、身体は為すべきことを為す、それが魔法少女として経験を重ねてきた彼女であった。

 マスケットを複数浮かばせ、それを撃つ。

 撃たれた少女は、巨大な両刃を盾として、小さな身体をその後ろに隠した。

 矢継ぎ早に撃たれる魔弾の圧力は、少女を盾ごと後方へ押し運ぶ。さすがは魔法少女の武器というべきか、それだけの集弾を受けても戦斧の刃は砕けることがなかった。

 

「おおう~、滝みたいな射撃だね~」

「滝、ね。なかなかいいネーミングセンスだわ」

 

 幸いにして斬られた傷は浅く、射撃しながら施していた治癒魔法で既に完治に近い状態にある。

 マミは敵手の評するところの滝状射撃をそのままに、新たに複数のマスケットを身体の周りに屹立させる。こちらは浮遊状態からの自動射撃でなく、マミが手ずから撃つためのマスケットだ。

 両腕に一挺ずつマスケットを持ち、軽い火薬音を響かせて魔弾を放つ。その照準は、しおんでなく明後日の方向に見えた。

 

「どこ狙ってんの~?」

 

 嘲る声に、マミは薄い笑みを返す。

 手ずから放つ魔弾は、自動射撃と比べて弾速、精度ともに上回る。そして、今回の射撃はそれだけではなく、特殊な挙動を示した。

 ふたつのマスケットから放たれた魔弾が、双子のように並んで飛翔する。

 僅かに先を飛ぶ魔弾が、空中でリボンへと姿を変えた。

 空中の一点で自らの位置を固定したリボンは、Uの字に窪んで唐竹に割られたパイプのような形状を成した。そして、ヘアピンを思わせる急峻なカーブをその身で描く、

 双子のように飛んでいた後続の魔弾が、リボンの窪みにはまり込んだ。そしてリボンの描いたヘアピン軌道に従い、飛翔軌道を変える。

 空中で軌道を変えた魔弾は、しおんの予測しない方向から襲いかかり、四肢に穴を穿った。

 

「あれ~?」

「パロットラ・マギカ・エドゥ・メテオーラ。縦横無尽に舞う私の≪流星≫、見切れるかしら」

 

 身体を取り囲み林のように屹立したマスケットを、次々と両手で取り上げては新たな≪流星≫を産み落としていく。

 ありとあらゆる方角からの魔弾がしおんを襲う。≪滝≫の圧力の中、自由な回避運動を行うことも出来ず、しおんの身体に次々と銃創痕が穿たれていった。

 

「ふふっ……頑張って耐えるわね。でも、≪流星≫は降り注いで終わりじゃないのよ」

 

 ≪流星≫としてしおんを襲った魔弾が、その先で新たなリボンのレールへと変形する。

 時間が経つにつれ、リボンの密度も魔弾の密度も増えていく。

 レールによる魔弾の軌道変更は一度に留まらず、飛んだ先で次のレールにより軌道を修正され、さらにはまた軌道を変え……いつまでもしおんの周囲を飛翔するようになっていく。

 やがて、しおんを中心に無数の魔弾が竜巻のように旋回を始めた。

 

「パロットラ・マギカ・エドゥ・シークローネ。≪竜巻≫に取り込まれたあなたに、逃げ場はないわ」

「すっごいねぇ~。弱い子は巧緻に走らないといけないから大変だね~」

「減らず口が利けるなんてたいしたものだわ。……ねぇ、魔法少女のあり方について、お話ししない?」

 

 今やしおんは高圧電流の流れる檻に囚われた獣だった。

 滝状射撃を止めるとマミはにこりと微笑む。この段階においても、マミは彼女を説得することを優先事項としていた。

 

「使い魔を育てるようなことをしなくても、魔力は足りるでしょう? もし足らないなら、もっと広い範囲をあなたの縄張りにすればいいし……」

 

 既にマミはマスケットを撃つことも行っていない。

 今までに放たれた魔弾が作る≪竜巻≫は、充分に白い少女を捕らえ拘束できているからだ。

 

「ん~、けっこう魔力使うんだよね~、わたし燃費悪いからさ~」

「魔法は訓練することで効果も上がるし燃費も良くなるわ。あなただって、無関係な人を犠牲にすることは気持ちよくはないでしょう? なにも後ろ暗いところがない魔法少女生活って、今よりもいいと思わない?」

「あんたさ~、知ってる人に雰囲気とか似てて、なんか悪いイメージは持てないんだよね~」

「あら、そう? それは嬉しいわ」

「だからさ、ひとおもいに~」

 

 魔弾の嵐の中で、しおんが瞑目した。

 刹那、彼女だけに三秒の時間が与えられる。

 彼女の魔法は、たった一粒のプランク時間(物理現象における最小の時間単位、10の-44乗秒ほど)を引き延ばして、自分のみが三秒の行動を行う魔法である。

 故に、他の対象は行動を止められているのではなく、正常にプランク時間を過ごしている。その中をしおんだけが三秒という圧倒的な時間を過ごすにすぎない。

 そのため、しおんが触れようが触れるまいが、他の対象の時間経過は影響を受けない――つまり、しおんに触れられたからといって『時間停止』が解けるわけではない。

 

 

 マミの認識としては次の瞬間、左肩から胸までを袈裟斬りにされていた。

 一瞬の間をおいて迸る鮮血は、心臓まで傷が至っていることを示している。

 

「お、ピッタシ命中~」

 

 快哉をあげるしおんは勝利を確信していた。

 しかし、眼前のマミは倒れることをせず、両足で身体を支えている。瞳には強い意志の光を宿しており、総身を覆う魔力はいささかも衰えていない。

 

「心臓まで斬ったと思うんだけど~?」

「そうね……」

 

 治癒を開始する。

 なかなかに深い傷だ。マミの見立てでは、二分前後は治癒に要するだろう。それまでは身体能力は極端に低下する、とマミは判断する。

 

「でもさ、せっかく命拾ったなら、そのまま死んだふりすればいいのに~」

「あら、名案ね。今からそうさせてもらっていいかしら?」

「ど~ぞど~ぞ~」

 

 しおんの時間操作魔法にはみっつの制約があった。

 ひとつは、発動の間はずっと両目を閉じておく必要があること。

 ひとつは、一度の発動で引き延ばせる時間は最大三秒であること。

 そしてもうひとつは、一度発動すると、次回の発動まで最低でも六〇秒の間隔が必要であること。

 彼女は、無為な会話を行うことで、インターバルの六〇秒を稼ごうとしていた。

 

「まぁ、あんたの好きにすればい~んだけどさ。で、さっきの技は私には通じなかったわけだけど、他に奥の手はあるのかな~?」

「見たいの?」

 

 時間を稼いでいるのはマミも同じだった。こちらは治癒魔法を使う時間と、先にテレパシーで呼んだ杏子とかおりが来るまでの時間だ。

 

「さっきの技よりすごいならね~。あれだけの技をマスターするのは大変だったでしょ~。そういう努力の結晶を粉微塵に打ち砕くのって、最高に気持ちいいじゃん~?」

「悪趣味ね……」

「うわ、心外だわ~。そんなこと言われたの初めて~」

 

 しおんの体内時計では既に六〇秒が経過していた。彼女は自分の体内時計の精度には自信があったが、念のため、幾ばくかのマージンを取る。

 そして、数秒程度のマージンを確保した後、吐き捨てた。

 

「イラっとしたから……もう死んじゃえ~」

 

 再び瞑目する。

 その動作がなんらかのトリガーと推測したマミは、とっさに身体を動かした。その僅かの動きが、しおんの斧を首ではなく左腕で受けさせた。

 

「チッ……外したか~」

 

 瞳を開いたしおんが悔しげに漏らす。

 

「とっておき、見たいんじゃなかったの?」

 

 左腕の傷は浅い。とはいえ、そのまま動かすことが出来るほどではない。胸の傷を優先して治癒する都合上、この戦いでの左腕の使用は諦めざるを得ないだろう。

 だが、問題ない。マミが行おうとしている『とっておき』には、両手は必要ないのだから。

 マスケットを構えた右腕を、ゆっくりと天へ向ける。しおんの視線を誘導するかのような芝居がかった動きだ。だが、しおんにとっても時間の浪費は望むところであり、マミの誘いに喜んで乗っていく。

 

「また曲射~? それはもう飽きたんだけど~?」

「いいえ」

 

 マミが微笑み、マスケットが乾いた炸裂音を響かせると、銀色の魔弾が天へ向かい射出される。

 しおんの目もそれを追うが――

 

「私のとっておきは、技じゃなくて、大切な仲間よ」

 

 告げると同時、しおんの腹部を大身槍が貫いた。

 一瞬遅れて、槍を持つ杏子の姿が浮かび上がる。≪亡霊の外套≫を纏い、不可視状態となった杏子が、マミのテレパシーを受けて駆け付けたのだ。

 

「てめぇは殺す……! さっさと死ね!」

 

 杏子の感情の昂ぶりに応え、大身槍の穂が口を開く様にふたつに分かたれる。

 杏子の命令を受けずして≪アパシュナウト・トリデンティ≫への変形を開始しようとしていた。大身の穂が動き、しおんの傷を上と下へ押し広げていく。

 

「マミさん、大丈夫?!」

 

 杏子の問いにマミは笑みで応える。それを見た杏子の表情が一瞬緩むが、すぐに再び激情を露わにする。

 今や槍穂は開き切り、剥き出しとなった柄の先端、口金から魔力のニードルを噴き出そうとしている。その魔力を与えるべく、槍を持つ手に力を込めた。

 

 しおんは自分の能力が差し向かいの勝負で無敵であることと同時に、複数を相手にした時は決して無敵ではないことを理解していた。故に、変化した状況に対してすみやかに能力を逃げに使用する。

 瞳を閉じて時間を引き延ばすと、大身槍から力尽くで身体を引き抜き、結界出口に向かって全速力で逃げた。

 マミと杏子にとっては、槍に射抜かれていたしおんが、次の瞬間にはかき消えたように映る。とはいえ、ふたりとも魔力を感知する能力には長けており、しおんの挙動――ふたりよりも結界入口に近い場所を逃げるように駆けている――はすぐに察した。

 

「杏子ちゃん、追いかけて!」

「いや、それはやめとくよ。マミさん」

 

 ≪アパシュナウト・トリデンティ≫状態の大身槍を通常のかたちに戻しながら、杏子が応えた。

 

「あいつが逃げに徹したんなら追いかけてもいいけど、万が一あたしを撒いて、こんな状態のマミさんを襲ったらどうすんの。今はここでマミさんをカバーするのが正解と思うよ」

「わかったわ。……ありがとう、杏子ちゃん」

「あたしも頼りになるでしょ?」

「もう……いつも頼りにしてますよ」

 

 犬歯を覗かせて、杏子が笑った。

 

 

 

 

 

「それにしても……」

 

 マミの傷口に治癒魔法を行使しながら、杏子が言った。

 

「マミさんにここまで手傷を与えるなんて、なにかあったの?」

「油断しちゃった……って言えたらいいんだけど、私はベストに近い動きをしていたと思うわ」

「マミさんより強いってこと?」

「杏子ちゃんも見たでしょう? 時間か空間をスキップしているような動き。まるで過程を無視して結果だけがそこにあるような……」

 

 それは、杏子も自身で体験していた。

 大身槍で貫いていた相手が、一瞬で槍を外し離れた場所にいた。もしこの動きを攻撃に用いられたら、防御など出来ようはずもない、と杏子にも理解できる。

 

「目を閉じることがトリガーみたい。あと、連続では使えないみたいね。だから、ふたりがかりなら、片方に使わせて一気に畳み掛ければ。その時は、私が囮になるわ」

 

 それはしおんの能力に対する適切な対処である。

 そしてそれだけに、しおん自身も充分に理解し、警戒していることでもある。おそらく、マミと杏子ふたりの姿が同時に視界に入った瞬間に、彼女は逃走に能力を使用するだろう。

 杏子には≪亡霊の外套≫を纏った状態でいてもらい、自分がひとりでしおんを引き付けるしかない――それが、マミの結論であり、覚悟だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 治癒を終えたふたりは、深部へ向かい使い魔を倒した。そして、結界から排出されたところで夜宵かおりと合流する。

 

「申し訳ありません、連絡を受けた時がちょうど結界に入ってかなり経っていたので、進むか退くか悩んでしまいまして……。結局進んだのですが、最深部まで意外と距離があり、遅くなってしまいましたわ」

 

 脱いだ帽子を両手で握りしめて頭を下げると、適度に熟した乳房がエプロンドレスの下で揺れ動いた。

 

「ううん、充分早く駆けつけてくれたと思うわ。気にしないで」

 

 既に身体の傷はもとよりブラウスの千切れも完璧に治したマミが応えると、「ま、あたしが早すぎただけだしな」と杏子も付け足す。

 

「それに、夜宵さんの話を聞いていたのに甘く見てしまっていたわ。ひとりで動くのはやめて、三人で一緒にいましょう」

 

 首肯するかおりは自分が最初からそう提案すべきだったと悔いていた。ただ、そうするのは白い魔法少女をことさらに恐れているようで、彼女の自尊心が待ったをかけたのだった。

 

 ――助けを求めている時点でカッコつけてもしょうがないですのに……ほんとバカでしたわ。

 

 唇を噛んでいるかおりを、まだ遅れたことに囚われているのかと誤解したマミが、彼女の手から帽子を奪い、彼女の黄金の髪の上に被せて表情を緩めた。

 

「さて、次の結界に行きましょうか。その間に、あの子の能力について考えましょう」

 

 

 

 

 

 駅周辺で感知できた残りの結界へ向かいながら、そして結界の中を進みながら、マミは戦いから得られた推論を述べた。

 ひとつは、彼女の能力は時間か空間のいずれかをスキップしていること。但しインパクトの瞬間も知覚出来なかったことから、時間の可能性が高い。

 ひとつは、彼女の能力は使用時に両目を瞑る必要があると思われること。

 ひとつは、彼女の能力は連続しては使用できず、一分強程度のインターバルが必要と思われること。

 

「つまり、能力を使わせた後がチャンスね。多少のダメージがあっても、そこで押し込みたいわね」

「そういうことでしたらお任せください。どんな怪我であっても、たちどころに癒してみせますわ」

「頼もしいわ。杏子ちゃんは、姿を消しておいてドカーンかしらね」

「ん……マミさんやかおりを囮にしてるみたいで気が引けるけど……」

「そうはいっても、私や夜宵さんは姿消せないし……それに治癒も得意だから、適材適所と割り切って」

 

 納得できない様子の杏子だったが、彼女とて理屈ではマミの言うことが正しいと分かっている。≪亡霊の外套≫を修得したせいで、かえってマミに負担を強いている気がして内心では納得できないものがあるが……。

 

「そんな深刻な顔しないで。場合によっては私を幻影で隠してもらって、杏子ちゃんに囮をしてもらうこともあるんだから」

 

 マミの言葉は杏子へのフォローの意味合いがほとんどだったが、偶然にも数日後に訪れる状況を言い表していた。

 

 

 

 

 

 

 同時刻、駅から西へ数キロメートルの距離にある自然公園。

 公園に立つ広葉樹が傾いだ。それは、そのまま平衡を失い、重く低い音とおびただしい砂埃をあげて横倒しに折れる。

 

「畜生、畜生、畜生!」

 

 今や切り株となった広葉樹の傍で戦斧を構えるしおんが、呪詛を紡ぐかのような表情で吐き捨てる。

 既にみっつの切り株を生んだしおんだが、怒りはおさまらず、次の樹木へ向かい斧を振るう。

 

「あの赤いのと黄色いの、絶対に殺してやる!」

 

 赤と黄色と呼んだ魔法少女――杏子とマミふたりのウェストを足しても半分にも及ばない径の広葉樹に、純白の斧が深く突き刺さる。彼女の視界では、その幹は杏子の、そしてマミの身体へと変換されて映っていた。

 激しく動くと充分に治癒しきれていない腹部の傷が開くが、痛覚のない彼女はそれに気付くこともなく、憑かれたように戦斧を振るい続けた。

 とはいえ、いまマミたちを探して襲いかかることはしない。

 複数を相手にすることは、彼女にとって能力的に禁忌であるからだ。いまは樹木に投影したマミと杏子の蜂腰を断ち、溜飲を下げることしかできなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日の日曜日は明け方から小雨がぱらついていた。

 午後の早い時間から電車で移動したマミ、杏子、かおりは、昨日よりも索敵範囲を広げて、風見野南のパトロールを行う。

 

「予想通り、ちょっと離れたところはろくに魔女退治もしていないみたいね」

 

 駅前のように複数の反応が知覚範囲に密集するような事態こそないものの、定期的にパトロールを行っている見滝原に比べると、結界の密度は異常と言えるレベルだった。

 

「かおり、魔力は大丈夫かい? 厳しいようなら、今日倒す分のは全部持ってっていいよ。あたしとマミさんはストックあるから」

「ありがとうございます。ですが、わたくしも多少の蓄えはありますので大丈夫ですわ」

 

 今一つ打ち解けた感じのなかったふたりが歩み寄る姿勢を見せていることに、マミは満足気に頷く。かおりが杏子を直視せず明後日の方向を向いているのは些細な問題――というより、≪亡霊の外套≫をまとった杏子を見つけ出すことが出来ていないだけだ。

 

「今日は白いの、出てきませんわね」

「昨日、杏子ちゃんがかなりの手傷を負わせたし、動けないのか警戒してるのか……」

「あと一秒あれば、確実にとどめ入ったんだけどなぁ」

「ん……出来ればそういう物騒な結末じゃなくて、考え方を改めさせたいのだけれど」

 

 それが不可能に近いことはマミも承知しているが、杏子とかおりが相手を倒すことしか考えていない以上、自分だけは平和的な解決を諦めてはいけない、と思う。

 

「マミさんの考えはわかるけど、マミさんに酷いことをした分はきっちり返させてもらうよ」

「それは昨日の一撃で充分じゃないかしら……」

 

 杏子本人があと一秒で致命の一撃になったと評価するほどの痛撃だ、一命を取り留めているマミの借りを返す――という意味では充分に過ぎると思える。しかし杏子は言下に否定した。

 

「マミさんを傷付けたら、最低でも三倍返しだよ」

「魔法少女の生命を奪うのは、最後の最後にしたいわ」

 

 姿の見えぬ杏子であるが、語気から表情も容易に想像できる。交戦的な笑みを浮かべ、白い歯を覗かせているのだろう。

 

 

 

 

 

 パトロールを行うマミとかおりを、物陰から見つめる少女がいた。

 白い魔法少女――毬屋しおんだ。

 昨日の借りを返したいと思っているのは杏子のみではない、彼女も同じ想いを抱えていた。しかし、マミとかおりが並んで移動している様を見ると(実際は杏子も一緒だが)、彼女のとれる行動は隠れ、観察することしかない。

 

「二匹まとめては分が悪いよ~。ばらけたタイミングで一匹ずつやるしかないね~」

 

 最も借りを返さなければいけない赤い魔法少女がいないことがひっかかったが、元来些事に拘泥しない性格のしおんはそれ以上考えることはせず、並んでいるマミとかおりのうち、マミにフォーカスする。

 

「あの黄色いの、赤いのからマミって呼ばれてたよね~。そうすっと、見滝原のマミかな~。黒いのは風見野北って言ってたし~、平日の昼間なら、黒いのしかいないかな~? ……てゆか、あの黒いのなんで生きてんの?」

 

 黒というのは、かおりの肌の色に起因する呼び名だろう。彼女が聞けば、せめて衣裳からとって萌黄色と呼びなさいな、と抗議するところだろうが、マミと横並びになると、なまじ髪の色が近いだけに肌の色がポジとネガのように映える。

 明日にするか、と結論すると、しおんは踵を返した。

 

「昨日、遅くなって怒られたからね~。今日ははやく戻らないと~」

 

 生を受けてからずっと小さな病室で過ごしてきた彼女にとって、そこが唯一の世界であり、その外の出来事は非現実の領域に属するものであった。



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第三一話 マミさん、風見野へ急ぐ

 魔女は、一度結界を形成した後はずっと結界を維持し続ける、というわけではない。

 魔法少女に追われて結界を放棄して逃げる場合もあるが、それはむしろレアケースであって、そのことを指しているわけではない。

 基本的に結界を形成している状態は、魔女にとっては獲物を求める狩猟形態であり、魔女の生存時間のうち二割から三割程度の時間に過ぎない。

 

「だから、今日頑張ってパトロールしたからって、明日しなくていいってわけじゃないの」

 

 日曜日のお昼から夕方にかけて風見野南の広域を巡り、魔女を七、使い魔を一三倒したが、マミは満足していなかった。

 帰りの電車の中で、翌日も風見野南部のパトロールを行おうという提案を行う。杏子もかおりも異論はない。もっとも、杏子とかおりの場合は、白い魔法少女――毬屋しおんを排除することが主目的ではあるが。

 

 ――この件が落ち着くまでは、夜宵さんをひとりで行動させない方がいいわね。

 

 こちらが風見野南部を訪れ、白い魔法少女をあぶり出そうとしている以上、白い魔法少女が逆に風見野北部へ来ることも考えられる。

 四人掛けのボックス席の向かいに座る夜宵かおりに視線を向けると、彼女の通常のパトロールに対してもフォローがあった方がいいだろうとマミは結論した。

 風見野南部のパトロール、夜宵かおりのテリトリー(南部を除く風見野全域)のパトロール、見滝原のパトロール、全てを行うのは大変ではあるが、妥協をした末に後悔することを、マミは過去の経験からなによりも恐れていた。

 

「このあと、夜宵さんの縄張りのパトロールよね? そっちも一緒に行くわ」

「えっ、でも、巴さんも佐倉さんも、見滝原のパトロールがあるのでは……?」

「あるけど、そっちはあたしとマミさんで手分けしてやればすぐだよ」

 

 多分、結界はないだろうし、と杏子は続ける。

 毎日丹念にパトロールを行っているだけあって、見滝原の結界発生頻度はかなり低い。それでもゼロにならないのは、彼女たちがパトロールできない時間に結界を展開する魔女や使い魔がいることに起因する。

 

「見滝原まではさっきの子も来ないと思うけど、風見野だと不安だもの。できるだけ一緒にいた方がいいわ」

「分かりましたわ。正直なところ、ひとりでは色々と不安がありました、お言葉に甘えますわ」

 

 気位の高い夜宵かおりではあったが、巴マミと佐倉杏子に対しては見栄を張ることは少なくなっていた。幾度かに渡って力量の差を見せつけられたことも大きいが、決定打となったのはやはり巴マミの訪問によるケアだろう。

 

 

 

 

 

 風見野北部のターミナル駅で下車したマミたちは、パトロールを開始する。

 かおりを先頭に、少し後ろを並んで歩くマミと杏子。マミは小声で隣に立つ少女に語りかけた。

 

「杏子ちゃん、ファンタズマ・マンテーロって、サイズはある程度自由になるのよね?」

「身体の周りにテキトーな大きさの幻影を張ってるだけだからね。融通は利くよ」

「明日南に行ったときだけど、夜宵さんを一緒に隠すことは出来るかしら? どうも私と夜宵さんのふたりが目に見えてると、警戒して出てこない気がするのよね」

「……出来ると思うけど、抱きつくレベルで密着しないとだから、したくないなぁ。マミさんとならいいけど」

「んー……さすがに、夜宵さんひとりで囮してっていうのは、年長者としても先輩としても言えないわ」

 

 そりゃそうだよね、と同意しつつ杏子は薄手のカーディガンを脱いで腰に結わえる。ぎゅっと結び目を締めてから、指を潜り込ませて緩めると、杏子は前を歩くかおりの髪が揺れる様を目で追いながら呟いた。

 

「まぁ、そんな無理して誘い出さなくても、魔女を狩っていけば干上がって出てくるんじゃない?」

「それだと、手遅れにならないか心配だわ……」

 

 魔力の供給を枯渇させることで動くことを強制することはできるかもしれないが、タイミングによっては完全に魔力を失い、魔法少女でなくなってしまう可能性もある。マミの言う手遅れはこのことを指しているが、杏子の解釈は異なっていた。

 

「使い魔も一掃しておけば、そのへんの人に手を出すこともないだろうしさ」

 

 思考に優劣はない。それを前提としたうえで、マミと杏子の思考には差異があった。魔法少女の魔女化をなによりも忌避するマミと、一般人の被害を優先して考える杏子。

 思考に優劣がないとはいえ、相性というものはある。この場合、互いに見落としがちなところを補い合えるふたりの関係は、相性が良いといっていいのだろう。

 

 

 

 

 

 風見野北部のパトロールも、見滝原のパトロールも、結界を発見することなく終わった。

 それはつまり、風見野北部、見滝原ともにパトロールが行き届いた清浄状態に近いことを意味しているので、マミも杏子も結果に不満を持つことはない。

 お昼から、どっぷりと日が暮れた夜半までパトロールし続けていたことも、体力的、精神的にさほどの負荷ではない。

 しかし、時間的なしわ寄せは厳しく、帰宅した杏子は手つかずの宿題に悲鳴をあげた。

 

「もう、だから金曜日のうちにすませておけば良かったのに。でも、今回はしょうがないし、私がみてあげるわ」

 

 簡単な食事を用意したマミは、杏子を呼ぶために彼女の部屋を訪れ、泣き出しそうな顔で机に向かっている彼女を見てそう言った。現金なもので、杏子の顔がにわかに明るくなる。

 

「えーっと、基本は杏子ちゃんがやるのよ?」

 

 苦笑いを浮かべたマミが釘を刺すが、杏子はいささかも動じず生返事を繰り返す。その邪気のない笑顔を見ていると、マミは今日ばかりは私がやってあげてもいいかな、と苦笑いを微笑みに変えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日、夜宵かおりは四限目の授業を受けていた。

 私語ひとつない教室に、女性教諭の英文を読みあげる声が、詩歌を詠むようなリズムをもって響く。

 流暢にすぎて生徒の過半は聞き取れていないが、実践的な英会話を耳に慣れさせる目的の授業であり、カナダ国籍を持つ教諭はあえて生徒の理解を待たずに先へと進む。

 

 夜宵かおりの通う学校は、エスカレータ式の一貫教育を行うため、中学三年生の彼女たちも受験生というわけではない。そのため、受験を意識した科目は少ない。

 俗にいうお嬢様学校というものだ。

 制服もお嬢様学校に相応しく、夏服のワンピースは天蚕のシルク、冬服のブレザーはビキューナ混紡のウールで織られ、ともに銀糸で校章をかたどった豪奢な刺繍が施されている。

 六月後半の現在は衣替えの移行期間も終わり、かおりをはじめ全ての生徒が、チューリップの花のように広がった半袖が特徴的な萌黄色のワンピースを着用している。

 敷地は等間隔に並ぶ煉瓦造りの柱と、柱と柱の間をつなぐ鉄筋コンクリート製の白いパネルで覆われている。パネルには様々な花や鳥、蝶をかたどった孔が設けられており、塀という排他的な存在ながら柔らかい印象を見る者に与える。

 また、煉瓦の柱の上には中に向けたもの、外に向けたものと多数のアルミミラーが設置され、フェンスの内側から校外の様子を見てとれるように工夫されていた。

 しかしながら、その塀は高さはせいぜい二メートルと、侵入者を阻むには心許なかった。いや、この場合は二メートルが五メートルでも同じだっただろうか。侵入者が魔法少女であったのだから。

 

 

 

 とん、と重量を感じさせない動きで、塀を飛び越えた毬屋しおんが着地する。

 細く小さな体躯そのものよりも、くるぶしまで伸びた濡れ羽色の髪、纏った厚手の小袖や袷仕立ての白袴の方が重みがあるように見えるほどだ。

 彼女は塀の近くの木立ちを抜けると、鼻歌まじりに校庭へ向かう。競技用のトラックがみっつは入る大きさの校庭では、今年入学したばかりの一年生が体操着に身を包んで体育の授業を受けていた。

 生徒たちも指導教諭も、戦斧を携え校庭を歩いてくる毬屋しおんに気付かない。

 球技に熱中していることが理由ではない、彼女は魔法で存在を希薄化させ、一般人に認識されないようにしているからだ。

 

「さて、三校目~。当たるといいな~」

 

 駄菓子屋の籤を引くように気安い調子で呟くと、彼女は校庭の端でやる気なさげに佇んでいる女子生徒に視線を向けた。

 特にその女子生徒を選んだ理由はない――封を開けたキノコ型チョコレート菓子の、どのキノコから食べるかをいちいち選ばないのと同じように。

 

 

 

 

 

 夜宵かおりの耳に届いていた女性教諭の詠うような声が、遠くから響いてきた悲鳴でかき消される。

 ひとりの悲鳴ではない。金切り声、絶叫、叫喚、啼泣、叫泣、そういったものがないまぜになった悲鳴の合唱が、校庭側の窓から届いた。

 尋常でない声に女性教諭が窓際に駆け寄り、そして目に映った光景に悲鳴をあげて崩れ落ちる。

 その様子に、生徒たちも立ち上がり窓側へと詰め寄る。普段なら周りの生徒を制止する役割の夜宵かおりも、前に立つ生徒を押し退けるようにして窓へと顔を近づけた。

 かおりの目には、毬屋しおんが両刃斧で体操着姿の生徒たちを襲う様が映った。そしてしおんを認識できない女子生徒たちの目には、校庭にいる下級生たちが突然に腕を斬られ、腹を裂かれる異様な光景が映る。

 襲撃者の存在が見えず、カマイタチに襲われたかのような状況におかれた下級生たちは、一部が傷付いた同級生をフォローしようと行動するものの、大部分は逃げ惑うことさえできず、腰を抜かしたようにしている。

 そんな彼女たちを、嬲るように不可視の斧が淡々と襲っていった。

 

 かおりの精神は当然のように怒り、義憤に駆られた。

 しかし彼女の肉体、ことに両脚は、周囲にいる女子生徒たちと変わらぬ反応を示した。すなわち、小刻みに震え、立つことすらままならなかった。

 目に映る光景、耳に届く悲鳴、それらは脳裏に残る敗北の記憶を呼び覚まし、かおりの肉体にそういった反応をさせた。

 

「このっ!」

 

 かおりは崩れ落ちそうになる両脚を平手で叩き、次いで頬も叩いた。

 そして、マミの言葉を反芻する。『いざという時、足がすくんでいたら今度は夜宵さんが命を落としかねない』と――

 

「これは怯えではなく、武者震い……ですわ」

 

 行動と言葉で無理矢理に恐怖を糊塗すると、彼女は存在の希薄化を行う。その上でスクールバッグから携帯電話を取り出し、時折震える指でタッチパネルを叩いた。

 おそらくはマミも授業中であろうが、それを考慮するとかなりの早さで応答の声が返ってきた。

 

「はい、巴です。どうかしたの、夜宵さん?」

 

 マミの声を聞き、かおりは自らの心拍数が落ち着いていくことを自覚しながら、短く、早く状況を伝える。

 

「分かったわ、杏子ちゃんとふたりで一五分……いえ、一〇分以内に行くわ。ごめんなさい、少し待ってね」

「はい、お待ちしておりますわ」

 

 そう応えて通話を終了させるかおりだが、マミたちの到着を待つつもりはなかった。

 単独で白い魔法少女に勝てるという自信はない、むしろ負ける可能性の方が高い。それでも、同じ学び舎に通う仲間を好きにさせておくことは、かおりの義侠心が是としなかった。

 

「最悪、巴さんと佐倉さんがいらっしゃるまでの時間稼ぎでもいいのですわ」

 

 マミとの短い通話で、彼女は平静を取り戻していた。故にこの決断は自棄によるものではなく、彼女の瞳は静かな、しかし強い意志の光をたたえていた。

 そして、彼女は窓から身を躍らせる。

 落下のさなか、萌黄色の上品なワンピースが、魔法の光に包まれて同色のエプロンドレスへと装いを変える。変身と同時に放ったクロスボウボルトの一射は、彼女の着地のタイミングで白い魔法少女、毬屋しおんの肩口を射抜いた。

 着地するや、五〇メートルほど離れた位置にいるしおんへ向けて大声をあげる。

 

「おやめなさいっ!」

「おっ、ここで当たりか~。三校目で当たるとは、日頃の行いの賜物かね~」

 

 肩に刺さったボルトを気にもせず、しおんが笑う。

 しおんはマミたちとは別の論理で、不死の身体を持つ魔法少女であった。

 生来痛覚を持たないしおんは、痛み、怪我といったものを視覚以外では認識できない。

 もし、生身であるならば、視認は出来なくても受けた傷は相応しいダメージ――行動能力の低下や死亡――をもたらす。

 しかし魔法少女となった彼女は、どのような傷を受けても魔力によって身体を動かせる。

 そして、遅れて傷を認識したソウルジェムは、こう結論する。――たいした傷じゃなかったんだ~、と。

 そのため、外傷によって死亡することは、毬屋しおんという魔法少女にはなかった。

 

「三校、ですって……?」

「そうだよ~。この時間なら黄色と赤いのはいないかと思って、あんたを探してたんだよ~」

「ほかの学校でも、このようなことを行ったというのですか!」

「だって暴れないと、あんたガクブルして出てこないかもしんないじゃん~。安心しなよ、死ぬような怪我はさせてないよ~。貴重な餌だもんね~」

「なんてひどいことを……」

「そう深刻になんなくても、運が悪くても一生病院暮らし程度だよ~。病院暮らしも悪くないよ~。ソースはわたし~」

「あなたは、更生を望める人間ではありませんわね。今日ここで命を絶ってさしあげますわ」

 

 すっ……と右腕を前に突き出し、装着したクロスボウからボルトを撃ち出す。先の奇襲とは異なり、ボルトは振り回された戦斧に阻まれ地に落ちた。

 

「……場所を変えますわよ」

「やだ。ここで戦う~」

 

 意地の悪い笑みを浮かべてノーを返したしおんは、近くにいる女子生徒に眠りの魔法をかけると抱きかかえて、即興の盾とした。

 両刃の斧は大きく、前に押し立てれば小さなしおんの身体全てを覆う盾となりえるが、それを採らずに女子生徒の盾を選んだのは、かおりへの精神的な揺さぶりが大きい。

 

「……犬畜生にも劣りますわね」

「口の悪いババアだな~」

 

 女子生徒を盾としたしおんは、ゆっくりと間合いを詰める。

 先の風見野南での戦闘のように、接近戦間合いまで近寄ったうえで、女子生徒を押し付けてもろともに斬るつもりなのだろう。

 

「モード、ホーリーレイ」

 

 しおんの目論見はかおりの諒解するところでもある。

 光の矢の速力ならば、女子生徒の盾で受ける暇を与えずに射抜ける、そう判断したかおりは、接近される前に撃ち抜くべく、右腕の武器を白と青の魔銃へと変形させた。

 

「おっ、なんかゴツくなったね~」

「えぇ、今日は手加減抜きですわ」

「いやいや、前回手加減してるようには見えなかったよ~?」

 

 光の矢が撃ち出された。

 顔を狙った矢を、しおんは右手に持った斧を動かして受けた。女子生徒で受けなかったのは、人質でもある彼女を慮ってのこと――では勿論ない。可能ならば女子生徒に直撃させて、かおりの動揺を誘いたいところであった。だが、光の矢の速さに、人質を射線に捻じ込ませることもできなかったのである。

 

「はっや~。すごい速さだね~」

 

 かおりは応えず、ホーリーレイの装弾行為を見せつける。

 単発とミスリードさせるフェイクはマミには通用しなかったが、頭の悪そうな白い魔法少女になら通じると踏んでのことだ。

 しかし、この行為は、フェイクの間にしおんの接近を許すという問題も有していた。

 

「でも真っすぐしか飛ばないなら、銃口さえ見てれば問題ないね~」

 

 装弾行為を完了したかおりは再び光の矢を放つ。

 距離としては一射目の半分程度まで近づいていたため、着弾までの時間は短く、防御はより困難になるはずだが、頭部を狙った光の矢をしおんは言葉の通り易々と戦斧で防いだ。

 ホーリーレイに再び魔力が注がれる。はたして、しおんはかおりの狙い通りの誤解をした。

 

「いくら速くても、真っすぐなうえに単発じゃダメだよね~」

「わたくしのホーリーレイは光の矢、そうたやすく避けれると思わないことですわね」

 

 毬屋しおんとしては、女子生徒を人質代わりに戦えるという理由で戦場の変更を拒んだのだが、それは同時に、夜宵かおりに対して細部まで熟知した場所で戦うというアドバンテージを献上したことにもなる。

 しおんの顔に向けられていた銃口がすっ……と左に動いた。

 その挙動に、しおんは一瞬だけ怪訝な顔を見せるが、それ以上深く考えることはしなかった。せいぜいが、銃口を振って狙いを紛らわせたいといったところだろう、と結論する。

 光の矢が放たれた。

 それは銃口の向きが示す通り、しおんの身体を照準していなかった。彼女は口の端を歪めると身体をかすめて飛ぶ光の矢を見送る。

 

「どこ狙っ……」

 

 しおんが放とうとした嘲りの言葉は、左肘に突き刺さった光の矢によって途中で妨げられた。

 

「光ですのよ? いくらでも反射いたしますわ」

 

 今度はかおりが口元を歪める番だった。

 敷地を囲む塀の上にに複数設置されたアルミミラー。それを反射鏡として四回、五回と軌道を変えた光の矢は、ビリヤードさながらに校庭を舞い、しおんの左肘を射抜いた。

 盾として抱きかかえられていた女子生徒がどさりと土の上に落ちる。

 

「命中して浮かれてんの~? チャージ忘れてるよっ!」

 

 かおりとしおん、彼我の距離は既に一〇メートル程度となっていた。かおりの武器が装弾されていない、と判断したしおんは、手放した人質に拘泥せず、一気に距離を詰めようと駆ける。

 だが、装弾されていないというのはかおりのフェイクに過ぎない。

 

「……忘れているのではありませんわ」

 

 ホーリーレイから二の矢、三の矢が放たれる。装弾なしと見て接近速度を優先していたしおんは、飛来する光の矢に対して回避行動も防御行動も取れず――

 

 

 

 白い魔法少女の姿がかおりの視界から消えた。それと僅かな時差すらもなく、かおりの右腕が上腕部半ばで両断される。

 断ち切られた右腕は、血しぶきをあげて宙を舞い、薄褐色の校庭の土を鮮血で暗い赤色に染めていく。

 かおりの視界の右端に、戦斧を振り抜いた姿勢の白い魔法少女がいた。彼女は自らの腐った性根を余すところなく表したいびつな笑みを浮かべる。

 

「はい、逆転~。武器がなくなっちゃ、どうしようもないよね~」

「逆転、ね。劣勢だった自覚はおありのようですわね」

「いちいちうっさいな~、小姑かお前は~」

 

 夜宵かおりは、戦闘を継続しながら右腕を治癒することは現実的ではないと諦め、左手で腰の短刀を引き抜く。刃渡りにして二〇センチにも満たないそれは、しおんの巨大な戦斧を相手にするにはあまりに頼りなく見えた。

 

 その印象の通り、かおりは防戦一方となる。

 無軌道に襲いかかる純白の大斧を受けるたびに、左腕が大きく揺さぶられて防御ががら空きになる。それでも有効打を受けていないのはかおりの力量によるもの――ではない。

 しおんが短刀を狙って斬撃を叩き込んでいるからだ。嬲る意図が八割、残りは時間操作能力の回復を待つためといったところだろう。

 

「ほらほら~。ボディが甘いぜ~」

 

 右からの斬撃で短刀が左へ、左からの斬撃で右へ、大きく跳ねる。もはや攻撃を捌くのではなく、いいように弄ばれている状況だ。

 

 ――何分くらい稼げたのでしょうか……。巴さんが到着するまでは頑張りたかったのですが……。

 

 そして、夜宵かおりの意識は既に敗北を認めつつあった。

 そもそもにして、彼女は無意識に敗北を前提にしていた。最初から、勝つことではなくマミが到着するまでの中継ぎを目的としていることからも明らかである。

 右腕を失って以降の劣勢も多分に意識の持ちようによるところが大きい。魔力によって肉体を制御する魔法少女にとって、利き腕も逆の腕も大差はない。

 しかし彼女は、左腕でしのぎ切るのは難しい、と自ら思い込んだ。そのために、彼女の左腕は魔法を持たない人間がそうであるように、利き腕に対して劣った動きしかできなくなった。

 ふと、救急車のサイレンが届いた。

 その音は本来的には事態の収拾になんら寄与しない。だが、かおりの心は、その音は救いをもたらすものと響いた。

 つまり、彼女の精神は緩んだ。

 

 左手首から先が、斧の斬撃で断ち切られた。

 

「あら~、まだまだ遊ぼうと思ってたのに~。がっかりだよ~」

 

 地に墜ちたかおりの左手を、白塗りの浅沓が踏む。

 しおんが足に力を込めると、骨の折れる音が響き、踏まれた指があらぬ方向へとへし折られていった。

 

「ま、壊れたおもちゃはすぐ片付けるタチなんで~。さくさくっと終わらせるよ~」

 

 無意識下では負けを認めているかおりだが、表に出る態度は異なった。嘲る笑みを浮かべると、傲岸とした口調で言い放つ。

 

「両手を奪ったくらいで勝ったつもりですか? こちらの牙はまだ折れておりませんわよ」

「泣いて命乞いでもすれば可愛げがあるのにね~」

 

 かおりの挑発の効果か、しおんは前言を翻し嬲るような攻撃を続けた。これに関しては、かおりの意図通りと言える。

 もちろん、嬲るとはいっても傷を与えることを手控えているわけではない。繰り返される斬撃の中、やがて右足が膝から断ち切られ、かおりは立つことすらかなわなくなる。

 斧の柄でしたたかに叩かれ、かおりは仰向けに転がった。

 既に時間操作能力の回復しているしおんは、余裕を持ってかおりに近寄り、下腹部を踏みつける。

 

「痛い? 痛い~?」

「うるさいですわね。人間は意志の力で痛みだってねじ伏せられるのですわよ」

「へぇ。いちいち意志の力ってのが要るんだ~?」

 

 戦斧の刃を、かおりのふたつの乳房の間に押し付けると、鋸をひくようにして前後に動かす。

 エプロンドレスが縦に両断され、肉に喰い込んだ刃が骨を削る音が響いた。痛覚のほとんどを遮断していても、生理的な嫌悪感を喚起させる音が精神に痛みを与える。

 

「それにしても、こんだけやってんのによく死なないね~」

「そうですわね。もし何も知らないままのわたくしなら、きっと死んでいたのでしょうね」

「次は首をもらうよ~。それでも生きてたりしないだろうね~?」

「あら。この間、首を斬っても死ななかったの、もうお忘れですか?」

「面白いね、あんた。持って帰ってずっと飼いたいよ~」

「わたくしを飼い慣らすなど、よほど高潔な方でないと無理ですわね」

 

 脳裏に巴マミの姿が浮かび、かおりは苦笑するとともに頬を赤らめた。そして、瞳を閉じると瞼の裏側に映るマミに告げる。

 

 ――精一杯頑張りましたわ。時間も稼げました、もう……。

 

 だが、イメージの中に存在するマミは優しい言葉をかけなかった。

 

『もう? もう、何かしら? 頑張ったんだから負けてもいい、そんな風に考えているなら軽蔑するわ』

 

 それはもちろんテレパシーの類いではなく、夜宵かおりの心の中だけに存在する巴マミの反応であった。けれど、かおりにとってはマミの直の言葉に思えた。

 かおりの苦笑が不敵な笑いへと変わる。一連の変遷を見てしおんは「きもいんだけど~」と吐き捨てた。

 しかし、しおんの嘲りの言葉も、かおりには届かなかった。かおりの脳――あるいは魂は、思考に集中していたからだ。

 

 

 

 夜宵かおりは思考を巡らせる。

 魔法少女はソウルジェムが本体で、身体はソウルジェムが支配するパーツに過ぎない、と聞いた。

 であるならば、ソウルジェムのコントロールはどこまで及ぶのか。

 ソウルジェムと接触している部分――自分の場合は帽子にはまったソウルジェムから繋がっている部分、この状況だと頭、胴、左足だけなのか。

 

 いや、違うはず。

 巴マミはソウルジェムから一〇〇メートル程度までは身体のコントロールが可能と言っていた。ソウルジェムと接触している、繋がっていることは必須条件ではない。

 ならば、切断された手足も遠隔で支配できるのではないのか。

 

 かおりの推論は正鵠を得ていた。

 試しに、切り落とされた右腕の小指を動かす様をイメージすると、それに従うように指が動きを見せた。

 

 ――いけますわね。

 

 

 

 かおりにとって僥倖はふたつあった。

 ひとつは、しおんが斬り落とされたかおりの四肢をいたぶるかのように蹴り飛ばしたこと。

 その際に不自然さを感じさせないように腕を操り、ホーリーレイの照準をしおんに向けた。

 もうひとつは、しおんが勝利を確信し、周囲を警戒することなくかおりを嬲り始めたことだ。

 斧頭にある鋭い錐がかおりの頬に押し付けられる。

 

「死に化粧っていうの? してあげようか~」

 

 錐は頬に浅い傷をつけながら、弧を描くようにして口元へ辿り着く。刻まれた傷から鮮血が滲み、口の端から頬まで赤い線が連なった。

 

「口裂け女って奴~?」

「なんですの、それは」

「昔の都市伝説だよ~」

「あいにくと、そういう低俗なものに興味はありませんの」

 

 かおりの揶揄を受けて、逆側の頬にあてがわれたていた錐に力が込められた。錐が頬の肉を貫いて口腔に侵入する。金属製の錐と奥歯が擦れる嫌な音が響いた。

 

「へぇ~。けっこう面白いのに~」

 

 口腔に溢れる血を舌で舐めとると、唾を吐くようにしてしおんの顔めがけて飛ばした。

 吐き出された血糊はしおんの頬に届き、病的な白さを見せる彼女の顔の左半分を朱の色に染めながら、どろりと垂れる。

 

「少しは健康的な頬の色になりましてよ」

 

 そして、不敵な笑みを浮かべる。――このやり取りの間に、ホーリーレイはフローズンシューターへの変形を遂げていた。

 

「うぜぇ。死ね」

 

 激発した感情のままに双刃の戦斧を大きく振り上げる。

 四肢を失ったかおりを警戒する必要もないと判断するのも無理はないのだが、それが致命的な隙となった。

 

「凍てつきなさいっ! フローズンシュート!」

 

 発射の反動で、凍りついた右腕が後ろに跳ぶ。幾度か地面にバウンドするうち、腕を覆う氷の表面に亀裂が走り、五度目のバウンドで腕ごと粉微塵に砕け散った。

 その犠牲を払った一撃は、狙い過たず斧を振りかざすしおんの脇腹に刺さった。

 

 

 もし、しおんに痛覚があれば、着弾と同時に時間を停め、凌ぐことができたかもしれない。

 だが、彼女には痛みを感じる心はなかった。それ故に自身を覆わんとする氷の存在に気付いたのは、下半身と片腕が完全に堅氷に埋もれた後だった。

 慌てて瞳を閉じ、時を刻む針を止める――が、無駄だった。

 既に身体の過半を氷河のごとく堅牢な氷に捕らわれた状態にあった彼女は、僅か三秒の時間停止では、状況を好転させることはできなかった。

 無為な三秒が過ぎ去り、堰き止められた時が再び動き出した時、彼女は海底に深く沈み水圧に潰される紙風船よろしく全身を肉厚の氷に押し潰される。

 

 そして、しおんは断末魔をあげることすらなく絶命した。

 

 

 

 

「勝ちましたのね……、今度こそ、もう、いいですわよね……」 

 

 温かな湧き水で満ちた泉にゆっくりと沈むこむようにして、彼女の意識は弛緩していく。

 徹夜明けのように瞼が重い――もっとも、魔法少女になってからは眠気を除去する魔法のおかげで、そういった感覚とは無縁だったが。

 

「これで軽蔑されずにすみましたわね……」

 

 ようやく、彼女は苦味も嘲りも強がりも含まない、純粋な笑みを浮かべた。



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第三二話 マミさん、魔女を蹴散らす

 魔法少女の運命に関係する者にしか知覚できない血痕や肉片が校庭に飛び散っていた。

そして、量的にはそれと同等以上の、一般人にも知覚できる血痕が同じく校庭の表面を赤く染めていた。

 前者はほぼ夜宵かおりのもので、後者はしおんに斬られた一六人の被害者のものだ。

 被害者は全て止血され、救急車で病院へと運ばれた。

 余人にはしおんの姿は認識できない。そのため、生徒たちのうち証言ができるほど気丈なものは『突然に傷が発生したように見えた』と異口同音に答えた(大部分は泣き喚いたり嘔吐したりで、証言することなど不可能だった)。

 授業はすぐに中断され、集団下校を行うこととなる。

 しかし、クラスを取りまとめて指揮すべき夜宵かおりの姿は教室にはなかった。

 

 

 

 

 マミと杏子には、血痕が魔法少女のものかそうでないものか、見分けることはできない。

 それでも、マミの膝の上に頭をのせた夜宵かおりの惨状を見るに、多くがかおりのものであることは推測できた。

 

「遅くなってごめんなさい」

 

 マミは連絡を受けてから八分強で到着している。遅いとの表現は適切ではなかったが、彼女は自分を責めた。もう少し早く到着していれば、と。

 そして言われた夜宵かおりは首を横に動かした。

 彼女は極度の衰弱で時間間隔が希薄になっていたため、マミの到着が早いのか遅いのかわかっていなかったが、それは問題ではなかった。実際に遅参であろうがマミを責める気などなかったし、そもそも詫びるべきは待てという指示を無視した自分自身だと思っていたからだ。

 

「マミさん、右腕が見当たんないよ」

 

 飛び散った左手と右足を運んできた杏子が告げた。魔法で無から再生することも出来るが、切れた四肢があるなら接続して治癒した方が楽だ。

 

「右腕は、フローズンで粉々になりましたわ」

「そう……ごめんね、独りで戦わせて」

「詫びるより、誉めてくださった方が嬉しいですわ」

「そうね。よく頑張ったわ」

 

 こんなになるまで、という言葉は飲み込んだ。賞賛のつもりの言葉でも、受け取り方は相手によるのだから。

 

「あたしとマミさんも手伝うから、身体治そうか」

「すみません、お手数かけますわ」

 

 

 

 

 

「本当にわたくし達、もう人間じゃないんですのね……トカゲみたいですわ」

 

 三者の魔力を受けて、肩口から失われていたかおりの右腕が徐々に再生していく。

 欠損箇所にまばゆい光が集まり、それが凝集して血肉となっていく様を見つめながら、他人事のようにかおりは呟いた。

 

「あ、もしかして、再生の時に、スタイル良くしたり美人にしたりできるんじゃありませんの?」

 

 軽口を叩く余裕がある、と示すための言葉だ。彼女自身の本音としては、そのようなことが可能であってもする気はないが……。

 

「夜宵さんは充分にスタイルいいし可愛いでしょう」

「い、いえっ、巴さんには遠く及びませんわ」

 

 否定するかおりの頬に朱が差す――全身の血液を多量に失った状態でも、魔法少女の身体はこういった変化を可能とするらしい。マミとかおりのやりとりに疎外感を感じたのか、杏子が混ぜっかえした。

 

「あたしにも遠く及ばねーよ」

「佐倉さんにはワンパンで勝てるレベルと思いますわ」

「は? 自分でそんなこと言うなんてどういう神経してんだ?」

「そっくりお返ししてよろしいでしょうか。でも、ご安心ください、美醜の基準なんて地域や時代でいかようにも変わりますわ。過去か未来のどこかには佐倉さんの方が美しいと言われる場所もあるでしょうから」

「どう安心しろってんだよ、それ」

 

 ふたりとも本気ではないのだろうが、放っておくと険悪な雰囲気になりそうだなと、マミが話題を変えようとする。既に手首まで再生した右腕を見やり、感じ入るような口調で漏らした。

 

「すごい治癒のスピード。夜宵さん、治癒魔法得意なのね」

 

 マミの魔法であるオレンジイエローの癒しも、杏子の魔法であるルビーレッドの癒しも、魔法少女の一般的な水準を遥かに超える治癒効果をみせていたが、夜宵かおりのメタリックブルーの癒しは、ふたりの癒し以上の効力を発揮している。

 それは、治癒に準ずる魔法が夜宵かおりの契約に由来する固有魔法であるからだ。

 

「ええ、母の怪我を治すことで契約しましたので、そのようになっているみたいですわ」

「そうなの、立派な願いね」

「もし失礼でなければ、巴さんがどのような願いで契約したのか、教えていただけませんか」

 

 指先まで再生した右手で口元を覆うようにして、かおりは問うた。目も伏せる。奇跡の願いとは即ちその人物の根源的な欲求であり、安易に聞いて良い事柄ではないと、彼女も理解しているのだろう。

 本来にして夜宵かおりは、他人の心の聖域を気安く覗こうとする人間ではない。

 好奇心を抑え込むなど彼女の自制心からすれば造作もないことであるし、そもそも他人の心を知りたいと思うこと自体が過去にないことだ。

 今回に限って生じたこの希求がなにに由来するのか、彼女は明確に自覚することはできなかった。

 

「私は……事故に遭ったときに、自分だけが生き延びるっていう、とても利己的な願いをしてしまったから……」

「利己的ではありませんわ、自分の命を守るのは当然のことですもの」

「でも、事故に遭ったひと全てを救うって願いも願えたはずと、今でも後悔するわ」

「それは机上の空論ですわ。わたくしなど、以前の戦いで腕を斬られただけで何も考えられなくなってしまいましたわ。魔法少女にしてそうなのです、普通の少女ならば、生命にかかわる事故に遭ったのでしたら、そんな判断ができる状態ではないでしょう」

「そうね……ありがとう」

 

 かおりの慰撫に表面上の理解を示すと、マミは表情を和らげた。

 もちろん、同様のことは杏子からも過去に幾度となく言われており、かおりの言葉が改めてマミの負担を軽くすることはなかったのだが。

 杏子もマミの態度の意味は分かっていたが、それでもやはり面白くはなかった。彼女は、再び混ぜっかえす。

 

「あたしの契約内容も教えてやろうか?」

「いえ、佐倉さんには聞いておりませんわ」

「私は杏子ちゃんの願いは知ってるもの」

「いや、そこは聞こうよ、ふたりとも……」

「はいはい、どうぞ存分にお話しください。できれば砂場に穴でも掘ってそこでお話し頂ければ嬉しいですわ。必要でしたら案内しましょうか? 防音がよろしければ視聴覚室にも案内しますわよ」

「いらねーよ」

 

 憮然とした口調の杏子だが、目は笑っていた。その瞳が、突然に険しいものになる。

 杏子だけではない、マミとかおりも表情を厳しくする。

 大気中の魔力が、波打ったからだ。

 つい先日、千尋早苗が近距離で魔女となり結界を構築した時の魔力震動に似ている、が、それよりも大きく緩やかであった。

 千尋早苗のそれを至近で自動車のタイヤが破裂したものとすれば、これは彼方にそびえる巨大な活火山の鳴動にも思える。

 

「大物だね……」

「そうね。一体、何が……」

『ボクから事情を説明するよ』

 

 マミと杏子の言葉を継いだのは、尻尾をくねらせて木陰にたたずむ一匹のいきものだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 時を僅かに遡る。

 フローズンシューターの生み出した堅氷の圧により、毬屋しおんのソウルジェムが砕けたまさにその時、しおんの病室に保管されていたグリーフシードのひとつが膨張した。

 肥大化したグリーフシードは容器を砕き、ガラス容器にたたえられていた液体がキュリオケースの戸に棚にと飛散する。

 このタイミングは偶然であったのか、それとも持ち主であるしおんを失ったことで、何らかの抑圧から解放された帰結なのか、あるいは、別の何者かの思惑によるものなのか。

 しおんが、自らの穢れを吸い上げさせたグリーフシードたち。

 彼女はそれをキュゥべえに処理させることなく、病室に保管していた。穢れを十分に吸ったグリーフシードは再び魔女になる『危険性』がある――彼女にとってそれは『可能性』だった。

 自らの穢れを処理させ、魔女として孵れば倒して再び穢れを吸わせる。しおんは、そんな永久機関を夢想していた。

 まさに、それが現実となった。

 

 

 最初に、ひとつのグリーフシードが孵った。

 産まれた魔女が放つ瘴気が、周りのグリーフシードに影響を与え、孵化を促した。

 あとはその連鎖だった。しおんが蓄えた二七のグリーフシードは、瞬く間に二七の魔女と化した。

 

 

『こういったケースは過去に例がない。近距離で連鎖的に生まれた魔女たちは、自他の境界もない状態で混ざり合い、単一の結界を築いた。彼女たちは二七の魔女であると同時にひとつの魔女。≪渾沌の魔女≫とでも呼ぶべきだろうね。恐らくはその魔力は足し算ではなく……』

「場所は?」

 

 キュゥべえの長広舌を遮ってマミが問う。

 感情を持たないので当然のことではあるが、キュゥべえは嫌な顔ひとつ見せずにそれに応じ、風見野南の都市名と結界の発生地である病院名を告げた。

 

「じゃ、行こうかマミさん」

「わたくしも参ります」

「あなたは残りなさい。いくら治癒したとはいえあんなになったのよ、まだ充分には動けないはずだわ」

 

 その言葉は的を外している。魔法少女にとって身体は魔力で制御するデバイスに過ぎない。治癒が完了しており、制御する魔力に不足がなければ問題なく動ける、いや、動かせるはずだ。

 だが、尊敬する巴マミの言葉を受け入れることで、夜宵かおりの魂は、今現在は充分に動けない状態であると思い込んだ。そのために彼女の身体はよろめき、片膝を地につけた。

 

「大丈夫だって。しょせん結界を張る程度の魔女、あたしとマミさんの敵じゃない」

「そうね。ワルプルギス未満なのは間違いないわね」

「……申し訳ありません」

「ううん。夜宵さんはもう充分頑張ったもの。あとは私たちに任せて」

 

 逡巡するように目を伏せたかおりは、ひと呼吸の後、微笑んで顔を上げた。

 

「分かりましたわ。佐倉さん、帰ってきたら魔法少女になった理由を聞いてあげますわよ」

 

 言葉では応えず、笑みを返すとマミと杏子は跳んだ。跳んだ先に魔法で足場を作り、さらに跳ぶ。それを何度か繰り返すと、魔法で強化されている夜宵かおりの視力でも捉えられない程の距離となった。

 

 ふたりの消えた方向を瞬きもせずに見つめている少女に、白いいきものが話しかける。少女は、視線を僅かに動かすこともせずに応えた。

 

『留守番か、キミはそれでいいのかい』

「あのおふたりでしたら、心配はいりませんわ。佐倉さんが仰っていたように、結界を張る必要がある魔女です。ワルプルギスの夜を倒したおふたりが後れを取ることはありませんもの」

『それはどうだろうね。確かに結界を張っている。しかしそれは必要だから張っているのだろうか。さっきも言ったように、あの魔女は通常の魔女の集合体だ。個々の魔女がかつて結界を張っていたから、その習性のままに結界を張っている可能性もあるんじゃないかな。そうだとすれば、結界を張っているという事実は魔女の力量を必ずしも示すものではないよね』

 

 キュゥべえの誘導に促されるままに、かおりはマミと杏子を追いかけようとする。が、マミの言葉は彼女にとって非常に大きく、マミの指摘の通りに身体は正常に動かない。

 その結果、彼女は前のめりに倒れ込んだ。口腔に砂埃が入り込み、咳き込んだかおりを、キュゥべえは冷ややかな目で見つめる。

 

『その様子ではキミは無理そうだね。ボクはふたりを追いかけるよ』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 キュゥべえが名を告げた病院――結界の発生地へ、マミと杏子が辿り着くことはなかった。

 総合病院の手前数百メートルの地点で、彼女たちは正面から迫る≪壁≫を見た。左右に果ては見えず、上にも果ては見えない≪壁≫だ。

 歩くような速度で迫る≪壁≫は、地面から垂直に噴出する魔力を帯びた粒子で構成されていた。

 マミと杏子は≪壁≫との衝突に備え、前面に魔力を集中させて突っ込んだ。

 

 

 しかし、予測していたような衝撃は発生しなかった。

 薄い暗幕をくぐり抜けるような微かな違和感だけを残し、ふたりの身体は≪壁≫の向こう側に抜けた。

 抜けた先には、先程まであった青空とビル街はなかった。

 曇天の空の下に、建造物はおろか植物さえ見えない、赤土が剥き出しになった何もない大地が広がっていた。

 今まさに≪壁≫を抜けて侵入したのだから、背後には≪壁≫があって然るべきなのだが、マミがちらと視線を後ろに向けると≪壁≫はなく、荒野がどこまでも広がっている様が見てとれた。

 そして、視線を上に向けると黒雲の中に、禍々しい魔力を放射する球体が太陽よろしく鈍く輝いていた。

 

「マミさん、ここは」

「えぇ、そうみたいね」

 

 ふたりは諒解した。先ほどの≪壁≫は結界の外壁であり、既にふたりは結界の内部にあることを。

 そう判断したふたりは、再度視線を巡らせる。幸いにして、結界に取り込まれた犠牲者は見当たらない。魔女や使い魔の姿も見えず、進むべき指針となる構造物もないが、ふたりは直感的に直進することを選んでいた。

 

 

 

 

 

 結界に入って、ゆうに五分は駆けた。

 その間、犠牲者や使い魔、魔女といった動くものは一切おらず、風景にも変化は見られなかった。

 

「だだっ広い結界だな、魔女はいないのか?」

 

 杏子の言葉が呼び水となったように、高空にたなびく黒雲の中に無数の煌めきが生まれる。

 高度にして五〇〇メートルほどに存在する層積雲、そこで生じた煌めきは雨粒のような密度と速度で地上へと降り注いだ。

 煌めきの正体は、≪委員長の魔女≫の使い魔が履いたスケート靴の刃の照り返しだ。その刃が狙うは、ふたりの魔法少女。

 

「パロットラ・マギカ・エドゥ・インフィニータ!」

 

 上空を見上げるマミの周囲に、天へ銃口を向けた大量のマスケットが生み出され浮遊する。古代ギリシャの方陣を思わせるマスケットの群れは、召喚主の意志に従い次々と白煙と炸裂音をあげた。

 そして放たれた≪無限の魔弾≫は、大瀑布の如き勢いで落下してくる使い魔のことごとくを爆散させる。

 

「尋常な数じゃなかったね」

「そうね。魔女数匹分の使い魔ってところかしら」

「でもさ、あたしたち相手に数で攻めても、無駄だよね」

「ふふ、そうかもね。それより、上に向かいましょうか」

 

 使い魔の落下軌道から上空を敵地と判断したマミが垂直に跳ぶ。

 遅れずに杏子が追い、互いに背中をカバーするように寄り添って螺旋を描く様に駆け上がる。伝承にある比翼の鳥というものが実在するのならば、このように翔ぶのだろうか。

 魔力の足場を蹴ること数十回、ふたりは層積雲に到達する。

 黒雲により視界が制限されることをきらった杏子が、居合切りを思わせる鋭さで大身槍を一閃させて雲を斬り裂いた。

 

「お見事。まさに雲散霧消ね」

「魔女もこんな感じでやっつけちゃおうか」

「頼りにしてるわ」

 

 黒雲が千切れ飛んだ後の空には、禍々しい魔力をたたえた漆黒の球体のみが浮かんでいた。

 ふたりの斜め上、垂直距離にして二〇〇メートル、水平距離にして五〇〇メートルほどの位置にある球体は、その距離をもってなお夕焼けの太陽のような巨大さを示している。

 闇色の太陽の表面に変化が生じた。表面の一部が盛り上がり、プロミネンスを思わせる勢いで一本の長大な異形が迸り出る

 

 異形は《お菓子の魔女》だ。

 顎を広げ一直線に突っ込んでくる《お菓子の魔女》は、その質量、速力ともにリニア式の高速鉄道を想起させる。

 だが、練達の魔法少女であるマミと杏子にとって、速いだけの突進など避けるに易い。

 ふたりは左右に散り、魔女の体当たりを躱す。躱すだけではない、杏子は槍の穂先を寝かせた状態で魔女の突進軌道に固定した。

 穂先が魔女の牙と衝突し、甲高い音が響く。

 この衝突は槍が勝った。

 次の瞬間には、牙を砕いた穂先が、敵の突進の勢いを利して魔女の細長い胴体を上下二枚に下ろしていく。

 

「一丁あがりっと!」

 

 得意げな笑みを見せる杏子は、上下に二分され地に落ちていく《お菓子の魔女》に一瞥をくれた。そして視線を先――いまだに《お菓子の魔女》の尾がつながる、闇色の太陽へと向けた。

 

「これが二七か。油断するつもりはないけど、いけるね、マミさん」

「気が早いわね。……次、来るわよ」

 

 太陽から新たにふたつの魔女が姿を現す。

 ブラウン管型の旧式モニターに羽を生やした姿の《ハコの魔女》、巨大なシャレコウベから一本の足を伸ばした姿の《趣の魔女》。それぞれが黒髪のようなものを後方へなびかせており、それはヘソの緒よろしく闇色の太陽へとつながっている。

 精神攻撃を得意とする《ハコの魔女》とマミ、トリッキーな攻撃を得意とする《趣の魔女》と杏子、それぞれが速度を落とすことなく交差した。

 だが、精神攻撃もトリッキーな攻撃も、それを行うに足る時間があればこそ、だ。マミも杏子も、そのような巧遅に属する攻撃を許しはしない。

 交差の一瞬で攻防は終結し、その天秤は魔法少女側に完全に傾く。

 《ハコの魔女》はモニターを蜘蛛の巣状に砕かれ、《趣の魔女》は落ちくぼんだ眼窩に備えた一対の仮面を貫かれ、力を失い落下していく。闇色の太陽へと伸びた黒髪を、煙のようにたなびかせながら。

 

「どうよ!」

「融合だの渾沌だのキュゥべえに脅かされたけど、個々の魔女の強さは変わらないみたいね」

 

 闇色の太陽から幾筋ものワイヤーが放射状に伸びる。

 それはちょうど、太陽、マミ、杏子を同じ平面に落とし込むような角度で広がり、即席の床となるレイヤーを形作った。

 等間隔に夏物のセーラー服を吊るしたワイヤー。それを足場に、ワイヤーの所有者である《委員長の魔女》が現れる。

 その数は五。横一列に並んだ《委員長の魔女》は六肢を蜘蛛のように蠢かせて歩を進めた。

 マミの眉が、ひそめられる様に歪んだ。

 同じ魔女をこれだけ倒している以上、夜宵かおりから聞いたように、使い魔の養殖が行われていたのだろう。そしてその過程で犠牲になった人の数を想い、マミは唇を噛んだ。

 睨みつけるような視線を魔女の群れに向けると、マミは両腕を伸ばして跳躍する。竜巻を思わせる勢いでくるりと舞うと、マミの上下左右に、無数のマスケットが銀幕ほどの広さをもって整列した。

 

「パロットラ・マギカ・エドゥ・インフィニータ!」

 

 マミの歌うような詠唱に応えて、おびただしい数の魔弾が放たれる。

 《委員長の魔女》一体につき、四〇〇を超える魔弾が相対した。

 マスケットの白煙が霧散する頃には、≪委員長の魔女≫の集団は、六肢の力を失いワイヤーを握ることも出来ず落下していく。

 

 既にふたりの意識は≪委員長の魔女≫を離れ前方へと向いている。

 主である≪委員長の魔女≫を失っても依然として残るワイヤー。その上を跳ぶように駆ける魔法少女の視界に、新手が映った。

 モーターサイクルを一〇台ばかり潰して、その残骸を獣のかたちに組み立てたような姿を見せるのは≪銀の魔女≫だ。魔女の外見にたがわぬ重量に、ワイヤーが軋みをあげて沈み込む。

 

「この魔女、まだいたのね……」

 

 独りごちるマミは、潤みを帯びた目で魔女を見つめる。

 魔法少女になりたての頃、≪銀の魔女≫を倒すことが出来ず、結果として犠牲者を出してしまった苦い記憶が彼女の胸を締め付けた。過去の苦い記憶は、しかし乾いて風化しておらず、今なお湿った傷痕として彼女を責め苛む。

 巴マミは信じている。生命はかけがえがなく、自らの過失で失った生命はどのように償おうとも償いきれるものではないと。だからこそ、償い続けなければいけないと。

 

 ――この魔女が消えたからって、私の罪が消えるわけじゃないのにね。

 

 それでも、≪銀の魔女≫をこの世から根絶すれば、少しは償える気がしていた。そして、事実として一年以上、≪銀の魔女≫を見ることはなかったのだが――

 

「たあぁぁぁぁっ!」

 

 化鳥の如き気合を発し、杏子が跳んだ。

 大上段に構えた槍が、小気味良い音を立てて幾つもの分節へと分かたれていく。分かたれるだけではない、いかなる魔法か、大身槍はその柄を分かつたびに長さを増していった。

 身の丈に十倍する槍を、鞭のようにしならせて振り下ろす。振り下ろした勢いで分節を繋ぐ鎖が伸び、さらにその全長は増していく。

 穂先は言うに及ばず、柄の半ばの時点で槍の速度は音速を超えている。その速度は、なだらかな曲線を描く柄の部分にさえ、刃と見紛う切れ味を与えた。

 

 ざくり、と大包丁が骨付き肉を斬り落とすような音が響いた。

 それは鋼の強度を誇る≪銀の魔女≫の巨躯が、ただの一撃で両断された音だった。奇妙なのは、槍が命中した箇所から半メートルばかりずれて切断面が走ったことだが……。

 

「マミさんばかりに、獲物は取らせないよ!」

「もう、競争してるんじゃないんだから」

 

 伸びきった槍を引き戻すべく、上体を反らし腕を後ろに振る。

 その刹那だった。

 下方から伸びた液状の触手が、杏子の両の上腕を捕らえた。

 触手は、虚空下方に浮かぶ≪趣の魔女≫の両の眼窩から迸り出ている。

あP仮面を貫かれた傷痕、そこから溢れ出る赤黒い血液をゲル状に束ねた触手は、あたかもカメレオンの舌のように伸び、杏子の上腕部にぐるりと巻きついていた。

 酸性と毒性を併せ持つ≪趣の魔女≫の血液触手が、杏子の皮膚と肉を焦がしながら締めつける。

 

 そして、音もなく、杏子の両腕は肩口から切断された。

 切断された腕は、風に煽られる紫煙のように霧散していったが、その様子をマミが見ることはなかった。

 彼女の視界を、≪ハコの魔女≫のモニターが遮ったからだ。

 

 先ほど蜂の巣状に砕いたモニターには傷ひとつなく、新品のように輝いていた。そこには、彼女の精神から読み汲んだ様々な画像が浮かぶ。

 マミが≪銀の魔女≫を倒せなかったせいで、不幸になった親子。マミが願いを誤ったせいで、救うことができなかった両親。マミがパトロールを怠ったせいで、犠牲になった人々。マミが魔女と使い魔を狩りすぎたせいで、魔力を維持できなくなった魔法少女たち。

 モニターに浮かんでは消えるそれらの像が、マミの精神を抉るべく辛辣な言葉を発していく。マミの心の奥底から拾いあげたそれらの言葉は、正確にマミの悔恨を射抜いた。

 

「ごめんね……」

 

 視線を逸らすように瞳を伏せると、マミは小さな声で漏らした。

 しかし、それは彼女の心が折れたことを意味しなかった。

 

 ≪ハコの魔女≫の周辺を埋め尽くすように、ムラサキツユクサの小さな花々が開いていく。

 咲き誇るひとつひとつの花弁から、蚕が絹糸を吐くかのように細く鋭い、ピアノ線のようなリボンが噴出する。マミが普段使いにする柔らかく幅広の包み込むようなリボンではなく、鋭利で斬り裂くためのリボンだ。

 

「あらためてあなたに見せられなくても、私、いつも思い出して、いつも後悔しているの……だから効かないわ、ごめんね」 

 

 極細のリボンががんじがらめに≪ハコの魔女≫の体躯を絡め取った。

 魔女の体表に沈み込むように、じりじりとリボンが喰い込んでいく。

 

「なんて、嘘……。やっぱり、ちょっと辛いわね」

 

 告げる言葉がトリガーとなったかのように、リボンが一気に魔女を斬り刻む。

 ≪ハコの魔女≫の体躯は、指先に乗るほどの細かいキューブへと微塵に斬られ、空中に散らばった。

 

 四散する≪ハコの魔女≫の残骸の向こうに、杏子の姿があった。

 無傷な佐倉杏子の姿が。

 彼女は、両の腕で大きく伸びた槍を突き出し、下方に浮遊する≪趣の魔女≫の頭蓋を貫いていた。

 

「杏子ちゃん!」

「お、マミさんも見抜けてなかった? あたしの幻惑も冴えてきたもんだね」

 

 奥歯を見せて笑うと、魔女の体躯にめり込んだ穂先を≪アパシュナウト・トリデンティ≫と称される巨大な三叉槍に変形させ、魔女を内側から爆散させるように粉々に砕く。

 佐倉杏子は、結界に入った時点から、≪ロッソ・ファンタズマ≫で創り出した幻影を身代わりとし、自身は≪幻影の外套≫で姿を隠していた。そして幻影の隣に位置し、幻影が行った攻撃を全て本体で再現していた。

 

「多分そうだろうとは思っていたけど、自信はなかったから……おどろいちゃったわ。でも、それより」

「だね。アイツら、倒したはずだよね?」

 

 疑問への答えは、視線を下に落とすとすぐに見てとれた。

 闇色の太陽と接続されている箇所――≪ハコの魔女≫や≪趣の魔女≫は黒髪、≪お菓子の魔女≫は尻尾、≪委員長の魔女≫はワイヤー、≪銀の魔女≫は黒煙、それらを通じて魔力が供給され、再生を促していた。

 

 既に≪お菓子の魔女≫、≪委員長の魔女≫、≪銀の魔女≫はおおよその再生を果たし、たった今微塵に砕かれた≪ハコの魔女≫と≪趣の魔女≫も細胞分裂を思わせる動きを見せて再生を始めている。

 

「ふうん、あの黒いのが本命ってわけね」

「あれがソウルジェムで、魔女は身体って感じ?」

「もう、いやな言い方だわ……とりあえずっ」

 

 マミが右腕を薙ぐ。その動作に呼応してマスケットが生み落とされ、それぞれが魔弾を速やかに放つ。狙いは、魔女と球体を繋ぐ黒髪や尻尾だ。

 ざしゅり、と鈍い音を残して魔女たちを闇色の太陽と結ぶ命綱が切断される。だが、再生はいささかも速度を減じることなく継続された。

 

「ん……止まらないわね」

「他になんか繋がってるのかな」

『いや、物理的な繋がりではないね。おそらくは霊的世界で結びついている。物理的に切断しても無意味だ』

 

 キュゥべえのテレパシーがふたりに届いた。届いた方向に視線を向けると、少し後方のワイヤーを暢気な様子で歩くキュゥべえが見える。

 

「あら、キュゥべえ。こっちにもいたのね」

『ボクも結界に巻き込まれてしまってね。展開したのちに更に広がる結界というのは、初めての経験だ』

「街は大丈夫なのか?」

『結界に巻き込まれるのはボクや魔法少女、魔法少女候補などの魔法に関わる者だけだ。普通の人間は魔女に魅入られるか、使い魔にかどわかされるかでなければ、結界には入り込まないよ』

「それは良かったわ」

 

 マミは会話しながら、下方から急上昇してきた≪お菓子の魔女≫の突撃を闘牛士を思わせる動きで避ける。獲物を捕らえ損ねた《お菓子の魔女》の牙と牙が勢いよくぶつかり合い、甲高い金属音を響かせた。

 微かに口の端を歪めると、無詠唱無挙動でマスケットを一息に産み落とす。マスケットは、≪お菓子の魔女≫の長い胴体の真横に、ぴたりと銃口を突き付けた形で列をなして築かれた。

 そして魔女が身体をくねらせて避けようとする猶予さえ与えず、乾いた炸裂音が響く。

 蛇のような≪お菓子の魔女≫の体躯の中央線を側面から射抜いた数多の魔弾は、魔女の身体を上下に分割し、その息の根を止めた。

 

「繋がりを断ちきれないなら、もとを断てばいいわよね」

 

 力を失い落下する≪お菓子の魔女≫に一瞥もくれることなく、マミは闇色の太陽へと駆ける。遅れることなく、その周囲を十重二十重に杏子が固める。

 

「魔女はあたしがやるから、マミさんはあれを!」

「助かるわ」

「お安い御用ってね!」

 

 マミの周囲で杏子たちが唱和する。しかし、杏子の実体はそれらにはなく、透明となった上でマミの僅か前方を護るように駆けている。杏子の魔力波動に慣れ親しんでいるマミでようやく知覚できるレベルだ、魔女たちには見破るどころか、違和感を覚えることすらできないだろう。

 事実、新手として現れた魔女たちは幻覚に惑わされ、その牙で、その爪で空しく虚像を切り裂き、マミたちとすれ違う。

 そして、ひとたび交差してしまえば、踵を返して追いかけてもマミと杏子の速力は追撃を許さない。偶然にマミの方向を狙った魔女は、虚空から出現した大身槍の一閃で頭と胴を切断されて地に墜ちた。

 駆けながら、マミは大砲型のマスケットを作り出す。自走砲として併走するタイプであり、足を止めることなく形成することが可能だ。

 

「照準は足を止めてしなよ! 後ろはあたしがやるからさ!」

「ええ、お願い!」

 

 すれ違い、後方に置き去りにした一〇を超える魔女が、スピードを緩めたマミを襲おうと津波のように群がる。

 その魔女たちの前に、≪亡霊の外套≫を脱ぎ捨てた杏子が姿を現した。

 視界を埋め尽くすほどの魔女の群れを前に、彼女は怯むことなく不敵に笑った。

 

「あんたら、ここで通行止めだよ!」

 

 そして、彼女は正しく津波を弾き返す堤となった。

 二〇メートル級の長大な槍をしならせて風車のように振るう。それは魔女という犠牲者を飲み込む死の渦巻きであった。

 近寄る魔女はあるものは体躯を八つ裂きにされ、あるものは頭蓋を打ち砕かれ、次々と死に誘われていった。

 

 一方マミは、意識を完全に前に向けていた。大砲型マスケットの照準を闇色の太陽の中心に合わせ、なお目を凝らす。

 

「――そこね!」

 

 ほの暗い太陽の中に、人間の胎児を思わせる物体があった。

 それが≪渾沌の魔女≫の本体であると直感的に判断したマミは、照準を胎児の頭部に合わせる。

 赤子を撃つように思えてトリガーを引く指が躊躇う――その甘さを彼女は技の名を叫ぶことでかき消した。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 音吐朗朗たる発声に大砲型マスケットの炸裂音が重なる。

 巨き魔弾の射出により空気が圧され、マミのロールした髪が仰天した猫の尻尾のようにピンと天に伸びた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 太陽が爆ぜ、雨のように飛沫が舞った。

 胎児の形をした≪渾沌の魔女≫はティロ・フィナーレの直撃を受け、産毛しかない頭部は爆散し、未発達な四肢も千切れ飛んだ。

 後方に迫っていた一四の魔女も、杏子の巻き起こした死の旋風に捕らえられ、屍と成り果てている。

 

 

 結界が崩壊しはじめないこと、≪委員長の魔女≫の張ったワイヤーが健在なこと、この二点からいまだ戦闘状態にあることは明白だった。

 ふたりはそれを、わずかに残っている数体の魔女によるものと考え、それらを倒せば事態は収束すると考えた。

 

 

 しかし、事実は異なった。

 いまだ残っている数体の魔女、≪渾沌の魔女≫からすれば枝葉末節に過ぎないはずのそれらが、無惨に散らばった胎児型の≪渾沌の魔女≫に、そして屍をさらす他の魔女たちに、魔力を送り込み再生を促していた。

 

 胎児の腹部が風船のように膨らんだ。

 その膨らんだ肉の下で蠢くようにして、頭部と四肢が形を成していく。

 最後に、空気が抜けていくように腹肉が縮み、胎児のかたちとなった。

 

「あの赤子の様なものからだけでなく、双方向に魔力を供給しあっている……?」

「助けあう魔女ってことかい。笑えねぇな」

 

 無造作に杏子が横薙ぎに槍を振った。

 鞭のように蛇行して伸びる大身槍は、再生途上にある魔女の幾つかを斬り裂き、そして満足したかのように杏子の手元へと収縮しつつ戻る。

 

「だったら、とことんまで叩き潰してやるよ」

「そうね。再生には少なからず魔力を費やしているはずよ。倒し続ければ、いつかは向こうの魔力も尽きるはずだわ」

『マミの推論はおそらく正しい。しかし、ダメだね』

「あ? どういうことだよ」

『結界が広がっているとさっき言ったよね。外にいるボクが観測したところによると、結界の広がる速度は加速度的に増している。今のペースで広がり続ければ、≪渾沌の魔女≫の結界は三分後には見滝原工業団地へ到達する』

「それは、鹿目さんに……」

『魔法少女が攻撃する、なんて事態とは比較にならない影響を《微睡みの魔女》に与えるだろうね。目覚める確率は高いと思うよ』

「マジかよ……」

 

 杏子が呆けたように声を漏らす。多節構造を取りつつも、鋼の芯が通っているかのように振る舞っていた槍が、こうべを垂れるように穂先を下に落とした。マミの言葉がなければ、杏子は手から槍をこぼしていたかもしれない。

 

「そうなると、全部の魔女をいっぺんに、それもソッコーで倒さないとね」

 

 杏子にウィンクを飛ばすと、マミは続けた。

 

「私がやるわ。準備する間、頼めるかしら」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ここ、どこですの……?」

 

 その頃、膨張を続ける結界に捕らえられ、夜宵かおりも結界内部に入り込んでいた。

 が、大勢には影響しないことであり、詳細は省く。



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第三三話 マミさん、見滝原へ帰る

「そうね、少し上におっきい雲の幻影でも作ってもらえるかしら。そこで準備するわ」

 

 具体的に何をすればいいかと杏子に問われたマミは、そう答えると返事を待たずに跳躍した。魔法で創った手のひらほどの花を足場に、二度三度と跳ねる。

 

『おっきいって?』

『うちのマンションくらい!』

『……マジですか』

 

 幾度目かのとどめを≪趣きの魔女≫に刺しながら、杏子はワイヤーの上で眩惑の魔法に力を込めた。すると、彼女の躰全体を包むようにルビーレッドの輝きが溢れ出で、躰から離れると蛍のように舞い踊る。

 

「いけっ! ロッソ・ファンタズマ!」

 

 気合の声に吹き飛ばされるように、紅の蛍火があちらこちらへと散った。

 上へ散った多くは幻惑の雲を為し、水平へ散った幾つかはマミと杏子の幻影を為す。

 雲の中にマミがかき消えると同時、マミのファンタズマが複数生み出される。子供騙しだが効果はあったらしく、上空へとマミを追う魔女はいなかった。

 

『できるだけ急いでよ、マミさん』

『えぇ、その間よろしくね』

 

 

 

 幻影の雲の内側で、マミは大砲型マスケットの生成を急いだ。

 ひとつ作っては次へ、さらに次へと大砲を空中に設置させる。

 その最中、髪や肌に湿気を感じてマミは猫のように首を振った。前髪を梳いた手を見つめると、指先が濡れて光っている。

 

「すごい冴えね」

 

 杏子の幻惑魔法はますます成長を遂げ、視覚と聴覚のみならず触覚、嗅覚を惑わすに至っていた。さすがに攻防を行うというわけにはいかないが、攻撃を加えた者に手応えがあったと誤解させる程度の質感は持ち得ている。

 

 

 僅か数十秒の間で、魔女は幾度となくマミを毀し、杏子を潰した。

 もちろんその全ては幻影であるが、実物そのものの姿と多少の存在感を持つファンタズマに魔女は疑問を挟むことはせず、幻惑をひとり倒すたびに口角を歪め哄笑を漏らした。

 

 耳障りな声だ、と姿を隠した杏子は思う。

 魔法少女であった頃に持っていたはずの明るさも優しさも見られない濁り切った声。そんな汚泥のような声で汚された杏子の耳を洗い流すように、涼やかな声が届いた。

 

『杏子ちゃん、そろそろ雲を消してもらえる?』

『了解。カウントするよ、スリー……』

 

 杏子のカウントダウンの間に、マミは大きく息を吸い込み、表情を引き締める。

 幻影が消えた瞬間に、存在する魔女全てに照準を合わせなければならない。

 それは練達の魔法少女であるマミにとっても容易なことではなかった。

 

 人間はしょせんひとつの脳とふたつの手しか持たない生き物であり、その延長線上にある魔法少女も例外ではない。

 普段から多数の魔弾を操るマミであるが、それは単一照準射撃(全てのマスケットが単一目標を照準する)または単一方向射撃(全てのマスケットが同じ角度で射線をとる)であり、全ての魔弾を同時に操ることはなかった。

 

 もちろん、ひとつを撃っては次を撃ち、という形で次々に多目標を撃つことは可能であり、その手法でも通常なら充分に効果的なのだが、今回はそれでは間に合わない。

 

 ――頑張らなきゃ。

 

 幻影の雲がはらんだ霧のような水分と、額に生まれた汗がひとつになり、まぶたをかすめて滑り落ちる。

 その瞬間、杏子の唱えていたカウントはゼロを刻み、マミの周囲を護っていた幻影は解除された。

 

 

 

 

 

 雲が消えうせた空に、白銀に輝く要塞が出現した。

 二八の大砲型マスケットが環状に並び、中央にマミが浮かぶ。

 指揮者たるマミの制御を受け、二八の大砲はそれぞれが独立して砲塔を蠢かせる。

 

 薄目を開けて半ば眠るような表情のマミは、まぶたの裏に明滅する魔女たちの魔力波動をトレースする。

 この空間の全てを意識化に置き、さらに多数の目標を追いかけて大砲を操作する――許容を超えて流れ込む情報量に脳の処理能力が悲鳴をあげる。

 さながら目隠しチェスを多面指しで行うようなものだ。いや、チェスならば限定された盤面で、限定された挙動の駒を、一手ずつ交互に行うだけだが、この場合は全天球状の広大な空間で、無軌道に動く魔女たちを、リアルタイムで捕捉し続けなければならない。

 

 目隠しをしての多面指しは棋士に莫大な負担をかける。旧ソビエト連邦においては法律で禁じられていたほどだ。

 それを二八面、黙々と指し切ったマミは、全ての魔女を詰み――チェックメイトへと追いやった。

 時間にしてそれは一秒未満の出来事であり、魔女たちが空中要塞の存在に気付いて行動を起こす前に、二八の砲が唸りをあげた。

 

「ティロ・フィナーレ・エドゥ・インフィニータ!」

 

 瞳を見開いたマミの声とともに轟音が響いた。

 大砲群のあげる白煙が、雲と見紛うような層を成した。

 その即席の雲をつんざいて、真球の魔弾がほとばしり、流星のように駆ける。

 

 ≪銀の魔女≫の胴体を、≪お菓子の魔女≫の頭蓋を、そして胎児のかたちをとる≪渾沌の魔女≫の肥大した頭部を。

 それぞれの急所を貫いた魔弾は、力を使い果たしたかのように鮮やかなオレンジイエローのリボンへとほどけ、ゆっくりと地へ落ちていく。

 

 

 

 脳が過負荷に耐えかねたのか、あるいは緊張の糸が切れたのか。

 魔弾がそうであったように、マミも全身の力を失って倒れるように落下した。その姿が白煙雲から零れ落ちるころには、四肢の力は抜けて仰向けになっていた。

 そこを――

 

「大丈夫?」

 

 ワイヤーを足場にした杏子が、両の腕でマミをがっしりと受け止める。そして視線を落として眠るようなマミの顔を覗き込んだ。

 

 少しの間をおいて。

 眩しい朝日に目をしばたたかせるように、マミのまぶたが数度上下した。

 極度の精神的疲労でぼんやりとしていた視界に、ゆっくりと杏子の顔が像を結ぶ。

 

「だいじょうぶ。ちょっと疲れちゃっただけ」

「お疲れさま。しばらく、こうしてなよ」

『残念だけど、まだゆっくりはできないみたいだよ』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 先ほど、闇色の太陽ごと≪渾沌の魔女≫を葬ったティロ・フィナーレは、その一撃に魔力を集中して構築した、いわば≪ティロ・フィナーレ・グランデ≫とも言えるものだった。

 

 しかし、二八の魔女を同時砲撃した≪ティロ・フィナーレ・エドゥ・インフィニータ≫は、一発一発はただの――それでも凡百の魔法少女にとっては全魔力を込めた必殺の一撃にも相当するが――ティロ・フィナーレであり、≪渾沌の魔女≫を仕留めるにはわずかに力不足であった。

 

 半死半生、といった状態で大地を甞める≪渾沌の魔女≫だが、生か死かで切り分ければ間違いなく生に属する。

 そして生に属する魔女は、死に属する他の魔女たちに対して魔力の供給を行うことができた。

 

『いや、むしろもうゆっくりしてもいいのかもしれないね。外のボクが観測したところ、あと十数秒で結界は見滝原工業地帯に到達する。残念だけど、間に合わなかったね』

「嘘だろ……」

『ボクはウソはつかない。それに、《微睡みの魔女》を目覚めさせたくないという点ではキミたちと考えは一致している。本当に残念だよ』

 

 

 

 

 杏子の周りに、小さな花が咲いた。

 花はそれ自体がリボン細工であったかのように、はらりとほどけて幅広のリボンとなり、マミの手足に絡まる。

 そして杏子の腕からマミの身体を奪い、ゆっくりと空中に立たせた。

 

「鹿目さんはまだ目覚めてはいないのでしょう? だったら、間に合わないなんて決めつけるべきじゃないわ」

 

 少し紫がかった色の唇が動き、温かな言葉を漏らす。

 

「あの魔女だけは私のティロ・フィナーレ一発じゃ倒し切れないみたい。杏子ちゃん、あなたなら一撃で倒せるはず。私が他の魔女を全て撃ち抜くから、あの魔女を同じタイミングでお願い」

 

 無理だよ、という台詞を杏子は飲み込んだ。リボンを支えに立っているような状態で、また同じことをやってみせるなんて。

 しかし、杏子は知っていた、それが巴マミという魔法少女だと。

 

「私は大丈夫、だから」

 

 おう、と応えると、杏子は先程と全く同じに、幻影の雲と多数のファンタズマを生む。

 マミは満足気に微笑むと、リボンに吊り上げられるようにして雲の中へと姿を隠した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 見滝原立ち入り禁止地区にほど近い見滝原第一高校を、魔力の壁が通過した。

 霊感の鋭い生徒たちは、背筋に冷たいものを感じて身を震わせた。その中には、マミがリンリンと呼ぶ少女も含まれている。

 

「あれ、マミ……?」

 

 悪寒と同時に温かいものを感じ、リンリンは声を漏らした。早退すると告げて消えた親友の気配がそこにある気がしたからだ。

 席を立ち、窓際へ歩く。マミが普段行うことを真似るように。

 

 もし彼女に魔法少女としての素質があれば、校舎を、木々を、フェンスを、そして真上からの陽光を反射させてきらめく川を、それらを越えて進みつつある魔力の壁――≪渾沌の魔女≫の結界の蠢きを知覚することができたことであろう。

 もちろん彼女にそのような素質はない。彼女の視認する世界には、いつもと同じ景色が窓の外に広がっている。

 

 いや、ひとつだけ違いがあった。

 常ならば天に向かって真っ直ぐに屹立している永久の竜巻が、左右にうねる様にしている。

 

「あー、マミがいたら喜びそうなのになー」

 

 マミが純粋に竜巻に興味を持っていると思っている彼女は、常ならぬ様子の竜巻を親友にも見せてあげたいと残念がる。

 

「あっ、そうだ」

 

 かしわ手を打つように掌を合わせると、ポケットから携帯電話を取り出して動画撮影を始める。

 彼女の瞳にも、携帯電話のレンズにも、魔力の壁が川を越えたあたりで何かに堰き止められるように微動だにしなくなる様子は映らなかった。

 

 もし彼女に魔法少女としての素質があれば――押し寄せる魔力の壁に白刃を合わせ、鍔迫り合いよろしく押し返すひとりの青い衣裳の少女の姿が見えたのだろう。

 押し寄せる壁の圧力を示すかのように、少女の足は地にめり込み、少女の短めの髪と白いマントは後方に激しくたなびいていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『朗報だ。マミ、杏子、≪渾沌の魔女≫の結界が見滝原工業団地直前で止まった』

「止まった?」

 

 ≪渾沌の魔女≫のすぐ近く、数歩踏み込めば斬りかかれる位置で身を潜めている杏子が素っ頓狂な声を漏らす。

 その声に反応し、胎児の姿をした魔女が両の瞳をぎろりと動かした。

 見つかったか、と杏子が身構える。全身の筋肉を緊張させたその姿は、獲物に飛び掛かる寸前の虎のように見えた。

 

 だが、≪渾沌の魔女≫をもってしても杏子の幻惑魔法を見破ることはできなかった。魔女は瞳をゆっくりと元の方向――ファンタズマの杏子とマミが数多舞う正面――へと戻し、本当の杏子が潜む場所への興味を失った。

 

「きっと、鹿目さんと美樹さんが頑張ってくれているのね」

 

 おぼつかない動きで大砲型マスケットを作り続けるマミが呟いた。

 仮にそうであるならば、目覚めさせないという目的は既に潰えているということになるのだが、意識が朦朧としたマミにはそう感じられた。

 

『理由は分からないが、事実として≪渾沌の魔女≫の結界は膨張を停止している。これは好機と言えるだろうね』

『杏子ちゃん、カウントお願い』

『わかった、行くよ』

 

 マミとキュゥべえにのみ届くテレパシーで、杏子がカウントダウンを行う。

 先ほどと異なり、今回は杏子自身も幻影解除と同時に敵首魁である≪渾沌の魔女≫を葬らなければならない。その事実はプレッシャーとなるのだろうが、それでも杏子は不敵な笑みを浮かべた。

 

 姿を隠した杏子から放たれる闘気に、≪渾沌の魔女≫が怖気るように視線を泳がせる――が、やはり≪亡霊の外套≫を見破ることは出来ない。

 しかし、何かあるのかとしきりに眼球を動かすその様子から、一方的な奇襲は難しいと結論した杏子は、さらに口の端を歪めた。

 

「……上等!」

 

 

 

 

 カウントがゼロを刻んだ。

 黒雲が消え、マミの操る空中要塞が露わになる。

 同時、≪渾沌の魔女≫をぐるりと取り囲むように、大身槍を構えた杏子たちが円を描いて走る。

 

「さて、本物はどれでしょうっと!」

 

 嘲るような杏子の問いに、敵は行動で応えた。

 胸部から、そして腹部から、≪お菓子の魔女≫をかたどった触腕を幾つも伸ばすと、むずがるように体躯を捻らせて周囲全てを薙ぎ払う。

 その死をはらんだ旋風に、全ての杏子たちが無惨に斬り裂かれ、紫煙と消える。

 

「おいおい、コマンド総当たりは反則だろ」

 

 揶揄する声は上から響く。

 胎児の頭部上空に、両の手で大身槍を握りしめた杏子が依然として姿を消したままでいた。

 

「ま、選択肢の中に正解がないってのは、あたしも反則かね」

 

 そして、遥か頭上にそびえる要塞が光った。

 二七のティロ・フィナーレが、やはり二七の魔女をめがけて彗星の如く駆けた。

 それに合わせて、杏子の最大火力が≪渾沌の魔女≫の頭部から串を打つように深々と突き刺さる。

 

「吼えろッ! トリデンティ!」

 

 顎を広げた三叉槍が、魔女の肉を貪り喰う。喰った空隙を埋めるように魔力が迸り、さらに魔女の体躯を侵していく。

 ティロ・フィナーレの着弾を示す轟音と、アパシュナウト・トリデンティの爆散を示す炸裂音が重なり、それを≪渾沌の魔女≫の断末魔が上書きした。

 

 

 

 杏子は槍を手放すと、≪渾沌の魔女≫の最期を見届けることなく天へ駆けのぼった。

 先程と同じく、精根を使い果たしたマミが落下すると考え、そのキャッチを何より優先すべく、視線を上に向けて跳躍を繰り返す。

 

「心配してくれたのね? ありがとう、でも大丈夫よ」

 

 雲が散り、要塞が消えた青空に、リボンにしなだれかかるようにして浮くマミが、下方から迫る杏子へ微笑んだ。

 その微笑みに安堵した杏子が、大きく息を吐くときに、周囲に変化が生じた。

 

 

 

 空に亀裂が走った。

 錆びた鐘が鳴るような鈍い音とともに、亀裂は縦横に伸び、隙間からまばゆい光が漏れる。

 

「今度こそ、終わったわね」

 

 結界が崩壊する様を眺めつつ呟くマミは、ようやく緊張の糸を緩めることができた。そのため、リボンを持つ手から力が抜け、ふらりと身体が傾ぐが――

 

「やっぱり大丈夫じゃないじゃん。無理しないでよ、マミさん」

 

 マミを受け止めるようにして抱いた杏子が、どこか嬉しげな調子で言った。

 

「ごめんね、助かるわ。――それでキュゥべえ、鹿目さんは?」

『特に動きはないね。まだ断定はできないが、目覚めてはいないんじゃないかな』

「そう、良かったわ。結界が解けたら、自分の目で確かめに行かないとね」

「その前に、ちょっと休憩して体調整えないとだよ」

「あら、心配性ね。どっちがお姉さんだか分からないわ」

「あたしの方が、お姉さん歴は長いからね」

 

 自慢げな杏子の表情は、彼女の胸に顔を埋めたマミには見えなかった。だが声のトーンで、それは類推できた。 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 見滝原に帰還したふたりは、遠目に魔女が依然として微睡んでいることを確認し、ひとまずは胸を撫で下ろした。

 さらに、そのまま立ち入り禁止区域へ向かい、大橋を渡って魔女に近づく。

 

「大丈夫みたいだね」

 

 近付いてみても、魂を奪おうとするような魔女のプレッシャーは感じられなかった。魔女が目覚めていれば、近くにいるだけで魂を吸い上げようとする力が加わるはず、つまりは――

 

「そうね、休眠状態にあるとみて間違いなさそうね……良かったわ」

 

 半年ほど前に戦った時のままの姿で佇んでいる魔女を見上げ、呟く。マミの瞳は、敵を見るそれではなく懐かしい知己を見るように穏やかだった。

 それは佐倉杏子も同じであった。友を見るようにして魔女を眺める。

 

「いつかは、目覚めるのかな」

 

 ぽつりと呟く杏子の言葉に、マミは応える言葉を持たなかった。

 だから、何も言わずに杏子に肩を寄せた。そのまま、無言の時間が流れる。

 やがて、杏子が口を開いた。彼女の声と振動が、マミに伝わる。

 

「目覚めたら、戦わなきゃいけないのかな」

「そうね……犠牲者が出るようなら。それが魔法少女の使命だもの」

「そう、だよね」

「戦いたくない?」

「マミさんは、戦いたいの?」

「仲良くできたら、いいわよね」

 

 それは、そんなことは不可能だから戦うしかない、と言っているのか、それとも言葉通りの意味なのか、杏子には分からなかった。しかし、はぐらかされた、とは思わなかった。

 

「そうだね」

「そうね」

 

 控えめな笑い声が漏れた。

 触れ合う肩と肩がほとんど揺れないような、静かな笑い。

 

「でも――」

 

 と、マミがなにやら表情を引き締めて告げようとしたとき、杏子のお腹がくぅ、と鳴った。

 その音を聞いて、マミは再び顔を綻ばせた。

 

「……お昼ごはん、まだだったわね」

 

 言おうとしていた言葉ではなかったが、もう、いいかなとマミは思っていた。

 そして杏子は、腹の虫が鳴ったというのに恥ずかしがる様子もなく、「うん」とだけ応えた。

 

「帰ってごはん、いただきましょうか」

「うん」

 

 少し、声が弾んでいた。その様子にマミはまた木の花の咲くように笑い、そして笑顔のまま言った。

 

「鹿目さん、美樹さん、それじゃ、また来るわね」

「またな、まどか、さやか」

 

 倣って杏子も告げた。

 返事はない。

 もちろん返事を期待しての挨拶ではなく、彼女たちの心の区切りのためのものである。

 ふたりは満足した表情で一度お互いを見ると、大橋へ向けて歩き始める。

 

 ふと、背後で、かすかに笑うような声が聞こえたような気がして、マミは振り返る。

 振り返り見やると、そこにはやはり、物言わぬ魔女が微睡んでいるだけであった。杏子が反応を示していないことからも、幻聴であったと結論し、マミは再び前を向く。

 そして、歩く。

 澱のように溜まった路上の砂に、確かな足跡を残して。

 

 マミの歩く道が、鹿目まどかと交差するまで、まだ、しばしの時を必要としていた。

 

 

 

 

第四部 マミさん、魔法少女と敵対する   完

 



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マミさん、温泉旅行に行く
第三四話 マミさん、杏子と戦う


 右手に備えた弩型の射撃武装スプレッドニードルから、ニードルが続けざまに放たれる。

 放たれたニードルは扇状に拡散して飛翔する。

 夜宵かおりの左右から斬り込んできていたふたりの佐倉杏子が、薄く貧しい胸を貫通するようにニードルを受けた。被弾した佐倉杏子たちは微かな煙を残してかき消える。

 ふたりの佐倉杏子が霧消したと同時、新たな佐倉杏子が夜宵かおりの背後に現出し、大身槍の穂先を彼女の首筋に撫でるようにあてがった。

 気軽に肩でも叩くような、気負いのない動作。それはふたりの間に存在する絶対的な力量差を示していた。

 首筋に冷たい金属の感触をおぼえた夜宵かおりは、一瞬だけ顔をゆがめるが、すぐに観念したように両手を挙げる――せめて潔く負けたい、というのが、彼女のせめてもの自尊心だった。

 

「そこまでね」

 

 距離をおいて眺めていた巴マミが静かに告げる。審判役のマミの言葉に、かおりは唇を軽く噛んで地面を見つめた。

 一方の杏子は、槍を引き戻して肩に担ぐとひょうひょうとした声で言った。

 

「アリアリであたしとやんのは、ちょっと無理があんだろ」

「飛車角落ちで良い勝負をしても、意味がありませんわ」

 

 いや、ナシナシでもあたしの圧勝だろ――と杏子は思う。そして思うに足るだけの実力を彼女は持っていたが、弱者をなぶる趣味は持ってはおらず、微妙な笑みを浮かべるに留める。

 

「杏子ちゃんのロッソ・ファンタズマとファンタズマ・マンテーロは、ずっと一緒にいる私でも惑わされるくらいだもの。見極められなくても仕方がないと思うわ」

 

 歩み寄ってきたマミが、模擬戦での事故を避けるため預かっていたソウルジェムをふたりに返しながら、慰撫するような声色で言う。

 

「悔しいですわ……」

「だけどさ、かおりも充分強いだろ。あたしやマミさんに勝てなくても、そんな気にしなくていいんじゃねーの」

「そう、それ! その明らかに格下を慰める態度がさらに悔しいですわ!」

「面倒くさい奴だなぁ」

 

 槍を両肩に担いで遊ぶように揺らしながら、呆れたという感情をストレートに表情に出す。

 

「向上心があるのは立派なことだけれど……何でもありの杏子ちゃんには私も十回やって二回勝てるかどうかくらいだから……」

「でも、通算ではマミさんが勝ち越してるよ」

「一年以上前のまで計算に入れればね。ここ数ヶ月は全然よ」

「全然ってことはないよ。なんなら、今やってみる?」

「いいけれど……杏子ちゃん、夜宵さんの前だからって、私に花を持たそうとしなくていいですからね?」

「あ、あたしがそんな気が利くわけないじゃん」

「どうかしら」

 

 じゃれあうような視線をからませながら、ふたりはソウルジェムを第三者――夜宵かおりに預ける。マミは手ずから、杏子は放り投げて。

 山なりの軌道で飛ぶ真紅のソウルジェムを、彼女は――

 

「あ、キャッチ失敗しましたわ」

 

 と、口にすると同時に叩き落とした。

 

「いやいやいや、お前今落とす前にキャッチ失敗って言ったよな?」

「気のせいですわ」

「なんだか、好きな子に意地悪する小学生みたいね」

「きもいこと言わないでよ」

「こちらの台詞ですわ」

 

 そして、夜宵かおりは、好きな子はこちらですよ、とばかりに預かったオレンジイエローのソウルジェムを指の腹で撫でる。その所作を見たわけではなかったが、マミは背筋に悪寒を感じてぶるっと身を震わせた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「アリアリで行くよ」

「ええ。でないと意味がないものね」

「合図しましょうか? これを投げますので、落ちたらスタートで」

 

 中間距離で相対したマミと杏子の間に入るように、かおりが歩み出る。そして、今にも投げださんばかりに構えられた腕には――

 

「なんでナチュラルにあたしのソウルジェム投げようとしてんだよ!」

「あら……小石と間違えましたわ」

 

 マミは、心の底からの溜め息をひとつ吐くと、身を屈めて小石を拾い、

 

「もう。分かりました、私が合図します。いい、杏子ちゃん? 私が小石をひとつ落とします。杏子ちゃんは小石が私の手を離れたら動いていいわよ。私は小石が下に落ちたら動きます」

「オッケー」

 

 それはマミが不利ではないか、と外野のかおりが異議を唱えようとするも、先んじてマミが小石を落下させた。

 小石がマミの指から離れる様を見て、杏子は短く「ファンタズマッ!」と叫んだ。十を超える幻影を生じさせ、まだルール上身動きのできないマミに対して全方位から攻撃を仕掛ける。

 

「パロットラ・マギカ・エドゥ・インフィニータ!」

 

 小石が地面を叩くと同時、マミは死角をなくすように背後にのけぞると、針鼠のようにマスケットを乱立させる。そして無限の魔弾を放ち、接近する杏子の幻影群を撃ち落としていく。

 

「――そこねッ!」

 

 魔法少女の全ての行動は、魔力の発生を伴っている。無論、行動内容によって発生する魔力の多寡は異なり、それに応じて知覚の難易度も変わる。

 ファンタズマ・マンテーロで身を隠し、マミの背後に接近していた杏子だが、攻撃するために大身槍に魔力を込めたことで、マミに居場所を知られてしまった。マミはのけぞった身体をそのままに、背後に向けて手とマスケットを伸ばして一射する。

 

「当たりだけどッ!」

 

 滑り込むように身を低くして魔弾の一撃を躱しつつ、杏子は大身槍を横に薙ぐ。狙いは不安定な姿勢になっているマミの両脚だが――

 マミが手にしていたマスケットがほどけ、リボンの姿を取る。そしてそのリボンが、スプリングよろしく跳ねてマミの身体を宙に持ち上げた。

 滑り込む杏子の上を、背面飛びの要領でマミが飛び越える。その瞬間、杏子の顔には焦りが、マミの顔には笑みが浮かんでいた。

 

「ごめんなさいねッ!」

 

 リボンによる加速をつけて落下したマミは、まだ態勢の整っていない杏子をローキックで蹴り飛ばす。地面を二度、三度と転がった杏子が槍を支えに起き上がるが、そちらの――幻影の杏子を見ているのは夜宵かおりだけだった。

 マミは吹き飛んだ杏子には目もくれず、目前の何もない空間を再び手にしたマスケットの銃床で薙いだ。と、銃床が虚空から伸びた大身槍に受け止められる。

 

「マミさんは騙せないね」

 

 改めて言葉にするまでもなく、杏子はそれを重々承知している。それでも幻惑魔法を使っているのは、演武としての意味合いが大きい。つまり、夜宵かおりにマミがいかに幻惑魔法を捌くか、実演して見せているのだ。

 

「家族を騙す気? 悪い子だわ」

「家族の間でも秘密はあるじゃん?」

 

 槍と押し合いを演じていたマスケットが、ふっとリボンへ解け、その先にいる杏子を拘束しようとする――が、一閃した槍に微塵に斬りおとされる。

 そして、小細工を排した戦いが始まった。

 

 

 

 円を基本とする動きで杏子の刺突を躱しつつ、射撃を撃ちこんでいくマミ。

 線を基本とする動きでマミの魔弾を叩き落としつつ、刺突と斬撃を繰り返す杏子。

 決定打どころか有効打さえない状態で、演武の如き戦いは続いた。

 しかし、この膠着の時間を、マミは無為に過ごしていたわけではなかった。

 

 突きを繰り出そうとしていた杏子が、不自然な姿勢で動きを止めた。

 右手首に違和感をおぼえたからだ。

 引き戻して見ると、右の手首に線状の深い傷がはいり、鮮血が溢れている。

 

「あっぶな」

「よく止めたわね、すごい反射神経だわ」

 

 戦いの中、マミは極度に細く、そして強くしたリボンをワイヤーのように張り巡らせていた。

 それはいわば黄金の蜘蛛の巣。黄金色のワイヤーで築かれた網は、獲物が不用意に飛びこめば容赦なく切り刻む。

 

「こういう技は、底意地の悪さが見えちゃうよ」

「あら、ファンタズマの方がひどいと思うけど……」

「そうかもねッ!」

 

 左の手を突き出し、そしてマミの目の前で開く。手の中にあったのは、ファンタズマで生み出した光の幻影。

 太陽を直視したと同等のショックを受けたマミの視覚が、一時的に機能を停止する。

 

「うまい使い方ね、お見事だわ。……でも、私は杏子ちゃんの相手をする時は魔力を見てるから……あんまり意味ないかも」

 

 ホワイトアウトした視野の中で、杏子のルビーレッドの魔力波動が蠢く。かおりには茫とした存在としてさえ捉えられないが、マミにはその魔力がひとの形を取り、手足を動かす様まで知覚できる。

 だが――

 

 ――杏子ちゃんがふたり?

 

 魔力波動がふたつに分かれ、それぞれが杏子本人としか思えない実在感をもって、マミの左右を取った。ファンタズマの薄い実在感と異なる、本物のみが持つ重厚な存在感。それが同時にふたつあるという事態にわずかにマミは逡巡する。

 が、歴戦の魔法少女であるマミは、理解できない状況にも適切に行動する。

 絶対領域。高速回転するリボンで己を包み込み、不壊の盾とする絶対の防御陣を展開し、杏子の攻撃を受け止めた。

 

「絶対領域を使わされちゃったか。ファンタズマに本体と見紛うような魔力を宿らせたのかしら。どっちが本物か、分からなかったわ」

「うん。実のところ、あたしにも分からないんだ。どっちも本物……って感じ」

「新魔法?」

「なのかなぁ」

「後で名前考えましょうか」

「いいけど、叫ぶかどうかは別だからねッ」

 

 視力を取り戻したマミの視界に、苦笑いを見せる杏子が映った。

 

 

 

 右の魔力波動が僅かに強い。

 それを理由に右が本物と判断したマミは、滞空したマスケット群の銃口をそちらに向けた。

 しかし、数多の銃口に見つめられた杏子は避けようとする素振りすら見せない。幻影故か、幻影と思わせるブラフか、それとも撃たれてからでも回避できるという自信があるのか。

 

 ――杏子ちゃんの性格だとブラフはないわよね……。つまり、どっちにしたって外れ、かしら。でも、幻影を消しておくのも無意味じゃないわよね。

 

 マミがマスケット群の引き鉄を心の中で引こうとする。

 刹那、ふたりの杏子の魔力が揺らぎ、左側の杏子がより強い魔力波動を示した。そして、その変動はとどまることなく、振り子が揺れるように右、左と入れ替わりに自分こそが本体であると主張した。

 

 ――ファンタズマの魔力を変動させている……だけじゃなくて、本体の魔力も変動しているの?

 

 接敵までの短い時間で、マミが思考できるのはそこまでだった。それでも、どう戦うかの指針を決めるには充分な結論だ。本物が見抜けないなら、全てを本物と想定して戦うしかない。

 

 

 

 

 それは、実質二対一の戦いだった。

 数的に劣勢でありながら杏子に決定的な踏み込みを許さないマミを讃えるべきか。

 マミの雨のような射撃を前に、二体ともに被弾を避け続ける杏子を讃えるべきか。

 どちらの動きも自らから見て遥か高みにあり、夜宵かおりには甲乙を判断することができない。ただ、実時間で三〇秒にも満たない攻防が、かおりの体感時間としては四、五分にも及ぶ激しい殺陣に感じられた。

 

「ファンタズマってそんな器用に避けれたんだっけ?」

「いや、ファンタズマじゃないから、これ」

「じゃぁ何かしら」

「んー、あたしにネーミングセンスを求めないでよ」

「それは私にネーミングを白紙委任するって意味よね」

「しなくても勝手に名前つけるじゃん……」

 

 だが、杏子の回避動作も一分を過ぎる頃にはかなり精度が落ち、マミの魔弾を躱しきれなくなった。

 マスケットから放たれた白銀の魔弾が、ひとつ、またひとつと杏子の幻影を捉える。

 

 

 

 

 さすがにおかしい、とマミは思い始めていた。

 虚実の秤を小刻みに揺らす杏子の技に、マミの攻撃はことごとく虚像を裂いた。

 それが五回繰り返された段階で、マミはこれが偶然ではなく必然の事象――即ち、なんらかのミスリードを杏子が誘い、自分はそれに乗っている、と判断した。

 そこからは、敢えて真贋を看破することはせず、ランダムに攻撃を行った。

 そして、一三回。ランダムアタックは全て虚像に吸い込まれた。

 

 ――確率的にありえないわよね……私の意識をこっそり操ったり欺いたりしてるのかしら?

 

 無論、打開策はある。

 二体同時に攻撃すればいい。インフィニータによる一斉射撃でもいいし、より正確な並行照準射撃も、対象がふたつならさして負担ではない。

 それをしないのは、杏子の新魔法をより深く理解し、可能ならばブラッシュアップすべきところを提案してあげたいと思っているからだ。

 負けが込んでいる側の考えることではないが、マミにとってはいまだに――そしておそらく永遠に――杏子は教え子であった。

 

 

 

 

 かなり負担がかかる魔法なのだろうか。

 杏子の動きは時が経つにつれて目に見えて悪くなった。最初の頃は虚像が消えた瞬間には次のふたつ身を操っていたが、マミが違和感をおぼえる頃にはコンマ数秒のラグが生まれていたし、幻影の動き自体も精彩を欠いていた。

 

 そして、今――勝負の決する直前には、数秒の間が空くようになっていた。

 その数秒の間のうちに、マミのマスケットの銃口が杏子の喉元に突きつけられ、マミの鋭い視線が杏子の瞳に突きつけられた。

 杏子は、オーバーヒートした機械が排熱するような熱い吐息を漏らすと、あっけらかんとした調子で「まいった」と告げ、携えていた槍を霧散させた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 杏子の消耗が激しいことから、訓練を早めに切り上げた三人はマミのマンションへ移動した。

 土曜日午後の訓練は毎週のことなので、焼き菓子は朝のうちに準備してある。マミは紅茶を淹れると、お気に入りの野イチゴ柄のティーカップに注ぎ、リビングのテーブルへ並べた。

 焼き菓子と紅茶の香りで早速元気を取り戻した杏子と、それをからかう夜宵かおり。他愛のないやりとりを微笑んで眺めていたマミは、彼女たちがヒートアップしそうなタイミングを見計らって、ぱん、と掌をあわせた。

 

「それじゃ、頂きましょうか。杏子ちゃんも元気になったみたいだし、さっきの魔法のお話もしたいわね」

「おうっ。……食べながらでいい?」

「ふふ、食べる方を優先していいわよ」

 

 許しを得た杏子は焼き菓子が並べられたバスケットに手を伸ばし、無造作に指に触れたスコーンを拾い上げた。鶏卵ほどの大きさのスコーンを、指で千切ることもせず口腔に放り込む。

 杏子の食べっぷりに目を細めて微笑んだマミは、バスケットから同じものを掴み、取り皿の上でそっと左右に千切る。生地が少し伸び、溶けるような様を見せると、香ばしい匂いがマミの鼻腔をくすぐった。

 

「チョコレートとキャラメルが入っているのですね、美味しいですわ」

 

 倣って同じものを手にしたかおりは、両手で掲げるようにして口許に運ぶと、リスを思わせる仕草でひとかけを食べて言った。

 

「お口に合って良かったわ。ガレットとビスケットも召し上がってね」

「は、はいっ、頂きますっ」

「キョドんなよ、かおり」

「はっ? 誰がキョドっているのですか!」

「夜宵かおりさんですよ、っと」

 

 明後日の方向に視線を向けたまま、杏子はビスケットを口に投げ入れた。その態度にかおりはさらにエキサイトし、指を銃のかたちにすると杏子の顔に向けた。

 

「まったく。巴さんがいなければ、表に引っ張り出しているところですわ」

「いや、表って……勝負ならついてるだろ。まだやりたいのか?」

 

 ぐぐぐ、と言葉にならない声を漏らす。体温が上昇しているのか、手にしたスコーンのチョコレートチャンクが、指先に触れて液状になっていった。

 

「杏子ちゃん、同じ魔法少女同士、仲良くしないとダメよ」

「つっかかってくんのはかおりだし」

「どこをどう見ればそうなるのですか!」

「どっちが悪いかはあまり問題ではないわ。たとえ相手が悪くても自分から一歩譲るような協調性を、ふたりには持って欲しいのだけれど」

「そういうのは苦手かなぁ」

 

 杏子の言葉にかおりは嘲るような笑みを浮かべると、溶けたチョコレートで汚れた指先をハンカチで拭ってから得意げに宣言した。

 

「分かりましたわ。ここは年上のわたくしが折れましょう」

「ちょっと待てよ、同い年じゃん」

「あら、わたくし五月生まれなのですけれど、佐倉さんは何月のお生まれですか?」

「誕生日の早い遅いで年上気取りかよ、小学生みたいだな」

「小が……っ! 失礼にもほどがありますわ」

 

 ぱんっ、と大きめの音が、勢いよく重なったマミの掌から生まれた。そして、いつも見せる温かな笑みとは異なる、雪の結晶をまとわせたような笑みを見せる。

 

「いい加減にしないと、二杯目からはローゼルティーになっちゃうわよ?」

 

 苦手とする酸味のきついハーブティーの名に杏子は、普段と違うマミの様子にかおりは、そろそろ彼女の感情が分水嶺を越えそうなことを察し、どちらからともなくトーンを落としていく。

 そして訪れたささやかな静寂、それを嫌って、杏子は先程使った新しい魔法についての説明を始めた。まじめな話、と察した夜宵かおりも横槍を入れることはせず、居住まいを正して耳を傾けた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「んーとね、どっちが本物っていうんじゃなくて、どっちも本物候補って感じで……。相手に攻撃当てられたら、じゃぁそっちが偽物だった、とか、あたしの攻撃が当たったら、じゃぁそっちが本物だった、とか。状況に応じて本物が変わるみたいな」

 

 一通りの説明の最後を締めくくると、話の途中で注がれた二杯目の紅茶――幸い、酸っぱいハーブティーではない――で喉を潤し、杏子は視線を宙に泳がせた。自分でも、要領を得ない説明だったな、と省みていると、マミが呟いた。

 

「シュレディンガーの猫みたいなものかしら」

「名前付けるの早いね」

「いや、これは一般的な言葉よ」

「量子論を揶揄した言葉ですわよね。確かに佐倉さんの仰りようは、波動関数的にどちらの佐倉さんも本物の可能性をはらんでいて、攻撃の成功や回避の失敗といったことを観測行為として、どちらが本物かという結果に収縮していると受け取れなくはないですね」

「……?」

 

 耳慣れない言葉に、杏子は頭上に疑問符を浮かべて首を傾げる。そして、――あたしより説明ヘタだな、こいつ――と少しばかり勝ち誇った気分を味わう。

 一方のマミは単語自体に馴染みはなくとも、おおよその意味は理解できた。何故そのような理論に基づく魔法を杏子が考えたのか、という疑問を持ったマミは、この魔法の習得の背景を問う。

 

「杏子ちゃんは、どうしてこの魔法を思いついたの?」

「マミさんが本物と思ってる方、そっちが撃たれた時、【はずれ】って出たら面白いかなって思って」

「……発端はともかくとして、すごい魔法ね」

「先ほどの戦いからすると、収縮する事実は当然ながら佐倉さんに都合のいい方なので、ありていにいえば、攻撃を受けた佐倉さんは全て偽物で、攻撃を当てた佐倉さんは全て本物、ということになりますね」

「うん。そうでもなければ、あんなに外ればかりを引くことはありえないものね。それで、魔力の消耗はどう?」

「ファンタズマの延長だから、あんまり消費はしないよ。ただ、ファンタズマみたいに一杯出すのは無理だね。二体でも頭が痛くなるよ」

「それはそうよね。パラレルで照準を合わせるだけでもすごく疲れるもの。杏子ちゃんの場合は、攻撃・回避・移動、なにからなにまでふたり分をパラレルで行っているのだものね」

「マミさん、こういうの得意だよね。今度コツとか教えてよ」

 

 実際のところ、マミが並行照準を行うことはめったにない。普段は単一目標への集中射撃か、単一方向への一斉射撃を行い、照準作業的にはシングルオペレーションとなっている。マミが得意だと杏子が思っているのは、マミが高速でシングルオペレーションを繰り返す様をパラレルオペレーションと誤解しているからだろう。

 

「得意じゃないわよ……。でも、一緒に練習しましょうか。ふふ、この魔法が杏子ちゃんに加われば、もう十回に二回どころか、一回も勝てなくなりそうね」

 

 勝てなくなるという事実を嬉しげに語るマミに、かおりは奇妙なものを感じた。

 彼女の価値観に照らせば、それは控えめに言っても悔しいことであるし、率直に言えば屈辱的ですらある。そのことを問うと、マミは一瞬きょとんとしたあとに答えた。

 

「そうね。仲間が強くなるのは嬉しいことよ。もちろん勝てなくなるのは、少し寂しいけど。もう教えてあげられることもないのかなって」

 

 常に目標であり、教えを授ける存在でなければならない――などという強迫観念は、既にマミの中にはない。それでも、やはり一抹の寂しさをおぼえ、表情が憂いを帯びたものになる。

 

「でも、マミさん相手に使えるようになるのはかなり先じゃないかな。今日だって、その気になればすぐに潰せたよね」

「さぁ、どうかしら……あ、名前、考えないとね」

「神は賽を投げない、と言いますが、佐倉さんはイカサマサイコロを振ってるわけですわね。イカサマ・キョーコなんてどうでしょうか」

「悪意全開のネーミングはやめろよ」

「いえいえ、それは誤解ですわ」

「悪意はともかく、日本語は論外だわ」

 

 先程までの柔和な態度はなりを潜め、取りつく島もないという言葉を具現化したようなマミの姿。なんらかのスイッチが入ったことを察したかおりは、今はふざけて良い場面ではないと理解した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 新魔法の名前の候補は幾つか挙がり、一旦マミが預かることとなった。といっても、ほとんどがマミの考えた名前であり、その上最終決定もマミが行うのだから、マミの独断による命名と表現して差し支えないだろう。

 

「ところで、なのですが……」

 

 小一時間にも及んだ命名サミットが一時閉廷となったタイミングで、夜宵かおりが本日何度か切り出そうとしては機会を逸していた話をするべく、小さく挙手をした。

 

「ところで、もうすぐ夏休みですわよね」

「そうね。普段よりもしっかりパトロールしないと」

「それもそうなのですが……。その、旅行でもどうかなと思いまして」

「旅行?」

 

 おうむ返すマミと杏子に、かおりは事情の説明を行う。突拍子もない話であることと、距離感を考えてない話であることを自覚している彼女は、知らずに早口になっていた。

 

「ええと、父の勤めている会社の保養施設が隣の県にあって、そこを予約していたのですが、父が帰国できなくなったもので、折角ですしおふたりをお誘いしようかと思いまして……。今月の二九日から三一日の二泊三日を予定しています」

 

 軽い緊張で口腔の乾きをおぼえたかおりは、ティーカップに手を伸ばし、そして空っぽであることを重みで察してソーサーに戻した。返事を待つ身が、酷く居たたまれなく感じる。

 

「あら、ごめんなさい。おかわり淹れてくるわね」

 

 かおりの仕草でカップが空であることを知ったマミが腰を上げる。いつもはホストとして紅茶の減り具合には注意しているのだが、杏子の新魔法のかっこいい名前を考えることに集中するあまり、完全に失念してしまっていた。

 

「すみません、お願いします」

 

 かおりとしては紅茶のおかわりよりも、旅行の返事を早くしてほしいところだったが、そう応えるしかなかった。ストリングカーテンの向こうに消えるマミの背中に、縋るような視線を向けるかおり。そのかおりの意識の外から、上機嫌な杏子の声が届いた。

 

「いいねいいね、たまには息抜きしないとね」

「あ、佐倉さんもそうお思いですか。息抜きは大事ですわよね」

 

 マミを将とすれば杏子は馬、その馬が乗り気な様子を見せたことで、かおりの声も弾んだ。弾んだ勢いのまま、訪れる予定の町のアピールをセールスを思わせる口調で続ける。

 曰く、温泉があるだの、曰く、お祭りがあるだの、曰く、美味しい地元の食べ物があるだのと。

 要素をひとつ告げるごとに、杏子の頷きが大きくなった。これはいける――と夜宵かおりは思ったが、新しい紅茶を載せたトレーを持って戻ったマミの言葉は乗り気ではなかった。

 

「旅行ねぇ。楽しそうだけど、二日も街を空けるのはどうかしら……」

「あ……」

 

 完全に見落としていた……というより、問題と思っていなかったことを指摘され、かおりは言葉を失った。

 過去を振り返れば、彼女は魔法少女仲間を戦いの中で失い、しばらくの間逃避するかのように魔法少女としての務めを放棄した。

 また、相手が一般人を殺める邪悪な魔法少女であり、さらに相手が殺意を向けてきたというエクスキューズはあれど、魔法少女を自らの手で殺害し、やはりしばらくの間は魔法少女となることから逃げていた。

 つまり彼女の認識では、毎日のパトロールは必要欠くべからざる日課というものではなく、感情の浮沈によって途切れさせてしまえるようなものだった。

 その認識の違いを恥と感じ、視線を落としたかおりに代わって、杏子が説得を試みる。

 

「でもさ、マミさん。そんなこと言ってると、修学旅行とかも行けないよ」

「それは、ふたり揃ってじゃないじゃない。残った方がお留守番できるもの。去年の私の修学旅行のとき、杏子ちゃんがしっかり街を守ってくれたように」

「そう言われればそうだけど……」

「ずいぶん乗り気なのね。そういうことなら、杏子ちゃんと夜宵さんで行ってきて、私が留守番でもいいわよ」

 

 俯いたままのかおりの顔がひきつるのを、杏子は横目で見た。ふたりの関係性からすると、いい気味だと思ってもおかしくないところだが、かおりのあまりのお通夜っぷりに、杏子は同情を禁じ得なかった。

 

「いや、それはちょっとほら、あたしとかおりって喧嘩しがちだしさ」 

「あら、だったらなおのこと、旅行で親睦を深めるべきだと思うけど」

「でもさ、予約って三人分なんだろうし、ちょうど三人でいいんじゃないかなーと思うんだけど。かおりだっていつも世話になってるマミさんに来て欲しいだろうし。なぁ、かおり」

「…………はい……」

 

 かなりの間をおいて、死にそうな声、ないしはオーガスのオープニングのイントロのような声でかおりが応える。

 その声をあまりに気の毒に思ったのか、マミも態度を軟化させていき、その後の話し合いで、前日のパトロールをしっかりすることと旅行後すぐ念入りにパトロールすることを条件に話はまとまった。



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第三五話 マミさん、旅行にでかける

 見滝原から信州方面に向かう新幹線は旧来よりあるものの、数年前に北陸まで延長されたことで運転本数、運行形態が増え、利便性を増していた。

 その新幹線に一時間弱揺られてから在来線に乗り換え、二時間ほど経つと目的の駅に到着する。

 全国的に有名な神社や湖沼を擁する高原避暑地の玄関口にあたる駅としては三番ホームまでしかないこじんまりとした造りだが、一日の乗降者数は風見野の主要駅にも匹敵する。ただ、平日の正午前とあって乗降客も少なく、少女たちは余裕を持って閑散としたホームに降りた。

 それを待っていたかのように一陣の風が舞い、マミのロールした髪とミルク色の肩紐付きワンピースの裾を翻させる。さらにはリボンで飾られたストローハットを空高く舞い上げさせた。

 

「きゃっ」

 

 短く叫んで裾を押さえるマミとかおりを横目に、さらわれるものはポニーテールしかない杏子は突風を意に介する様子もない。先程まで電車の座席で船を漕いでいたためか、まだ眠気が色濃く残る表情のまま、瞳だけを動かしてストローハットを目で追う。

 ホームに走る電線の高さまで帽子が飛ばされたあたりで、マニッシュなパンツスタイルに身を包んだ杏子がジャンプ一番、ストローハットのつばを掴んだ。そして猫科の動物のように音もなく着地すると、片手で埃を払ってからマミに差し出す。

 

「あ、ありがとう」

 

 礼を言いつつ視線を周りに走らせる。杏子が行ってみせたジャンプは人間の身体能力の範疇にはあるものの、極めて上限に近いものだ。プロのバスケットボールプレイヤーに匹敵するような跳躍を、余人に見とがめられていないかとマミは気が気でない。

 幸い、家族連れの子供がひとり目を丸くしているくらいで、他には目撃した人はいないようだった。

 ほっと胸を撫で下ろすマミとは対照的に、夜宵かおりは表情を険しくした。マミの帽子を先に取られたことを悔しがっているのだ。

 

「あれくらい、わたくしでも届きましたわ」

「いや、そりゃ届くだろ。変な奴だな」

 

 魔法少女の身体能力からすれば、先ほどの行動など少し手を伸ばしたようなものだ。それをことさらに「私もできる」と主張するかおりの感覚が、杏子には理解できない。

 

「それにしても、肌寒いくらいね」

 

 帽子をかぶりなおしたマミが、芝居がかった仕草で耳朶を手で覆った。もちろん耳を守る必要があるような寒さではなく、少し雲行きの怪しくなりそうな空気を変えるためのものだ。

 

「そうですわね。上に一枚羽織っておけば良かったですわ」

 

 ネクタイ付きのブラウスにハイウェストのタイトスカートを穿いた出で立ちのかおりも、マミに倣って耳に手を当てる。

 

「そっかな。涼しくていいじゃん」

「ふふ、そうね。避暑地なんだから涼しくないとね」

 

 燕が一羽、ホーム軒下の巣に滑るように入っていく様が見えた。見滝原ではもう燕の子育てはほぼ完了し、河川敷などで集団でねぐらをとっている姿が見られる。それを思えば少しノンビリしすぎているのではないだろうかと、マミは少し心配をした。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 駅前の小洒落たイタリアンカフェで昼食をとり、マーケットで夕飯用の食材を買い込む。

 かおりの予約した保養施設は別荘のようなもので、管理人はいるものの滞在中の身の周りは自分たちでケアする必要がある。提携している旅館に食事を頼むことはできるが、彼女たちはそうしなかった。

 

「でもさ、マミさんの料理はおいしいんだけど、いつも食べてるから旅行って気分がイマイチしないんだよね。かおり、なんか作ってよ」

「わっ、わたくしですか?」

 

 手押しカートに好き勝手に食材を入れる杏子は、当然ながらどのような料理を作るかのヴィジョンはなく、食べたいものを手当たり次第に選んでいるだけだ。その様子から、マミと杏子の間で献立についての青写真があるのだろうと判断し、まさか自分に振られるとは思ってもいなかったかおりが素っ頓狂な声をあげた。

 

「あら、私のお料理では不足なのね、ショックだわ……。でも、そういうことなら夜宵さんにお願いしちゃおうかしら」

「わっ、わたくしですか?」

「二回も言わなくていいじゃん。マミさんはプロ級だけどさ、かおりも料理うまそうだよな」

「それほどでもありませんわ。嗜みとして少しできる程度です」

 

 女子力においては杏子にさえ劣る事実から全力で目を逸らし、豊かな胸の前で両手を組むと少女は得意げに答えた。

 

「マミさんはフランスとかイタリアのイメージあるけど、かおりはロシア料理あたりか?」

 

 私は和食と普通の洋食がほとんどだけど……、と内心でマミが異を唱える。が、せっかく杏子とかおりが友好的な会話をしているのだからとスルーを選んだ。

 

「そうですわね、ロシア料理や北欧料理を少々……」

 

 彼女の母が居合わせていたら、夜食によく食べてる電子レンジで温めるだけのピロシキのことかしら、と首を傾げていただろうが、幸いにしてマミも杏子も疑うことを知らなかった。

 

「それは楽しみね。夜宵さん、一品ずつ分担しましょうか」

「い、いえ、わたくし、今日は巴さんの作られる食事を頂きたいですわ」

「んー、それじゃ今日は私が作って、明日は夜宵さんが作る?」

 

 面倒事を先延ばしにするのは夜宵かおりの流儀ではなかったが、今回に限っては飛びついた。欣喜雀躍といった様子で両手をぱんと叩き、そうしましょうそうしましょうと繰り返す。

 

「じゃぁ、明日の分の食材は夜宵さんが選んで入れてね。杏子ちゃんの入れたのだと、とんでもないメニューにしかならないから」

「はい、頑張りますわ!」

 

 返事は良かった。

 しかし、夜宵かおりにもメニューを想定する能力はなく、杏子と大差のない無軌道な食材選びとなっていたのだった。マミはふたりが手押しカートに入れる食材を眺めつつ、二晩で食べきれるのかしらと首を傾げた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ミドルティーンの彼女たちに疲れという概念はないのかもしれない。荷物を宿に置くと、ひと休みすらすることなく観光に繰り出した。

 英国式の庭園、ロープウェイ、標高一五〇〇メートルを誇る大湿原。

 杏子は訪れる場所ごとに大袈裟に喜び、その様子に事前に観光メニューを組んだかおりも満足そうな笑みを浮かべた。そういった和やかな雰囲気のままに観光は終わる。

 本来ならば彼女たちの若さをもってしても疲労をおぼえるほどの強行軍だったが、そこは魔法少女、無尽蔵の体力で夕飯後には縁日の夜店めぐりにまで足を運んだ。

 

 

 

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 杏子が叫び、古ぼけた空気銃のトリガーを引く。だが、放たれたコルク弾は狙いを大きく外れ、標的の背後に垂れる夜店の天幕に、ぱすんと音を立てて吸い込まれた。

 的を大きく外した一射だったが、屋台の店主は「惜しかったねぇ」と愛想を言うと同時に杏子の元気っぷりを誉める。店主の言葉に揶揄する響きは全くなかったが、マミは頬を上気させると杏子の浴衣の袖を引っ張った。

 

「杏子ちゃん、そんなに大声ださなくても……恥ずかしいわよ」

「えー。いっつもマミさんがしてることじゃん」

「してないもん……少なくとも、人前では」

 

 ふたりのやり取りを横目に、夜宵かおりが空気銃からコルク弾を放った。銃床を肩に乗せた、いかにも素人然とした構えであったが、銃弾は狙い通りに飛翔し、白猫のマスコット人形の額を直撃した。

 

「あーっ、あたしの狙ってたのが」

「ふふん、これが本職の腕前ですわ。あ、景品には興味ありませんので、よければ差し上げますわよ」

「マジか! サンキューな、かおり!」

「い、いえ……」

 

 純粋な善意のみを動機としていなかったかおりは、彼女の屈託ない喜びように気後れするものを感じて言葉を濁す。

 もっとも、杏子にはそういった機微は分からなかった。店主、かおり、杏子のリレーを経て陶器製の白猫を受け取ると、杏子はマミとかおりに見せびらかすようにして快哉をあげる。

 そのタイミングで、大地が揺れた。

 立ち歩いていると気付かない程度の微細な揺れが数秒続いた後、夜店に多数飾られた電球が振り子のように踊るほどの揺れが来た。

 身体能力強化を意図的にオフにしている彼女たちは、両足に力を入れてもたたらを踏むように二歩、三歩と動き、それぞれを支えとするように身体を掴んだ。

 

「大丈夫?」

 

 年下のふたりに問いかけながら、周囲に視線を巡らせる。

 そして屋台の倒壊や怪我人の発生がないことを確認し、ふぅと息を吐き出した。吐息に合わせ、ロールした髪が前に傾ぐ。

 

「けっこう揺れましたわよね。このあたりはフォッサマグナが通ってますし……。それに関東大震災からこっち、一世紀も大きな地震もなくてエネルギー溜め込んでそうです。怖いですわね」

「そういえば、最近このあたり地震が多いってニュースで言ってたわよ」

「そんなこと言うと余計怖いじゃん、やめてよ、ふたりとも」

「あら、地震が怖いだなんて、意外と可愛いところがあるのですわね」

 

 その言葉に憮然とした顔を見せた杏子だったが、マミが同意してクスクスと控えめに笑うと、つられて笑顔を見せた。

 周りを見やると、地震直後こそ驚き慌てた声があったものの、今や泣き声や怒号といったものはなく、笑い話すものやスマートホンでの地震情報を肴にしているものばかりだ。先程の射的の店主は、配置が崩れた景品を雛壇に整列させる作業を始めながら、客寄せの口上をあげている。

 

「よし、かおり、次はあのタヌキの置物な!」

「えええ、またですの? まぁ、構いませんけれど……」

 

 頼られるのが嬉しいのか、まんざらでもない表情をかおりが見せ、その表情を見てマミがまた控えめに笑った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 縁日からの帰途、何の気なしにソウルジェムを弄んだマミは、オレンジイエローの煌びやかな水晶の中に炎が揺らめくような輝き――結界の反応を捉えた。

 この地にも魔法少女がいることをキュゥべえから聞いていたマミには、積極的に魔女を狩ろうという意志はなかった。しかし、気付いてしまった以上放置するという選択肢もまたなかった。

 

「ふたりは先に帰って。休んでてもいいわよ」

 

 せっかく旅行を楽しんでいる年下の少女たちをおもんばかっての言葉だったが、仮にこの地の魔法少女と邂逅した場合、自分ひとりの方が穏便に収めることができるだろうという、明言しにくい理由も含まれている。

 

「行くよ。決まってんじゃん」

「ええ、魔女ごとき巴さんおひとりで何の心配もありませんが、ここの魔法少女とトラブルになる可能性もありますもの」

「いや、かおりは帰ってもいいぞ。足手まといだし、トラブル起こしそうな性格だし」

「佐倉さんこそでしょうに!」

 

 ふたりともですわ、と夜宵かおりの口調をまねて心の中だけで呟くと、漏れそうになる溜め息をねじ伏せていつもの笑顔を作った。

 それに、とも思う。それに、このふたりだけを先に帰らせたら、一体どんな空気になってしまうのだろうか、と。――案外なごやかな空気になるのかも、と先ほどの射的でのやりとりを思い出し、マミは今度は自然に微笑んだ。

 

「分かったわ。じゃぁ、ふたりともついてきてきてもらえる?」

 

 「おう」と「はい」、それぞれ異なる言葉で先を争うように返事をしたふたりは、ソウルジェムを取り出すとやはり先を争うように結界へと向かった。

 

 

 

 

 

 ソウルジェムの導きに従い、幾つかの居酒屋が並ぶ通りに辿り着いた。

 そして、その通りの薄暗がりに浮かんだ結界に侵入した三人は、最深部で魔女と戦うひとりの魔法少女を目撃した。

 

 既に戦いは終盤らしく、魔女は建設重機を思わせる巨体のあちらこちらに傷を創り、濁った色の体液を噴き出していた。

 一方の魔法少女は、戯画的な花を連想させる膨らんだスカートにも、つぼみの形を模したショルダーガードにも、傷はおろか汚れすらなく、ここまでワンサイドゲームであったことが覗える。

 その証左として、愛らしさと純朴さをたたえた少女の顔には、ほころんだ花のような微笑がはりついていた。

 

『やぁ、マミ、キミたちも来たのかい』

 

 マミたちに気付いたキュゥべえが、緊張感のない口調で語りかける。

 そのテレパシーに戦闘中の魔法少女の意識が一瞬逸れた隙を、魔女は見逃さなかった。

 巨躯をダンプカーよろしく突進させると、魔法少女を撥ね飛ばす。

 薄桃色の衣裳が魔女の体液で汚れ、深緑のソードが右手からこぼれ落ち、そして身体は宙を舞った。

 かなりの距離をオーバーランして制動した魔女は、振り返ると物干し竿ほどもあるニードルを、ちょうど放物線軌道の頂点で宙に浮く少女へ向けて次々と放った。

 

「ああっ! 愛衣ちゃん大ピンチ!」

 

 しかし、少女は危機感のない声で叫んだ。

 そんな言葉すら吐く余裕があるのも当然だ、魔法少女にとって空中にいるということはなんら機動の妨げにならない。空間に任意の足場を形成し、それを蹴っていくらでも回避できるのだから。

 だが、彼女のとった行動は『それ』ではなかった。

 

「――だと思った? 天使の羽根はないけどねっ!」

 

 少し垂れ気味なアーモンド形の両の瞳、その片方を瞬かせると、彼女の身体がかき消えた。

 そして同時に、遥か空間を隔てた魔女の懐に彼女が現れる。

 彼女の固有魔法、ウィンクをトリガーとして発動する空間跳躍。

 自らの武器が獲物を射抜くことを確信してニードルの軌跡を目で追っていた魔女は、自らの腹の下に突然現れ出でた彼女の存在に気付かない――いや、気付いた、彼女の声で。

 

「とどめっ! PETソード!」

 

 八片の花びらが連なった形状の彼女のスカート。

 その花びらと花びらの間に、芯のように備えられた八本のペットボトル。

 そこから、黒のキャップ、黒のラベル、黒の飲料、全てが黒で統一されたものを引き抜くと、キャップを親指でぐるりと回転させ、飛ばす。その直後、開けられた飲み口から液体が迸る。液体は一メートルばかり伸びると、そこで鋳型で固められでもしたかのように微動だにしなくなり、剣の姿を形作った。

 剣のそこかしこで、断続的に小爆発が生じる。炭酸飲料を源として形成したソード固有の、無限炸裂能力だ。

 

「行ってッ! コーク・ゼロ!」

 

 気付いた魔女が反応するより早く、愛衣が右手の炭酸剣で胴を薙いだ。

 魔女の巨躯に対してソードは短い。薙いだ傷は、人間で言えばせいぜい皮と脂肪を裂いた程度だろう。だが、傷口に付着した液体が小爆発を繰り返し、身体を毀していく。

 

「戦いに使用したジュースは、このあとキュゥべえが美味しく頂きました!」

 

 快哉をあげると、ソードを少し後ろに引き、左の掌を支えるように刀身部分にあてがう。

 そして、左の掌の上を滑らせるようにして、ソードの刺突を魔女の腹部に叩き込んだ。刀身を深々と魔女の身体に押し込んだところで手を離し、駄目押しとばかりにペットボトルの尻をローファーの厚底で蹴り込む。

 

 腹部に永続的な爆発物を捻じ込まれた魔女は、苦悶の声をあげて丸太のような両手を乱暴に振るい、口からニードルを吐き出すが――

 

「どっきんハートになんとかショットっ!」

 

 ぱちぱちと瞳を瞬かせる度に、少女の身体が違う場所へと誘われる。

 魔女の無軌道な攻撃も、それ以上に無軌道な彼女の移動を捉えることは出来なかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「マミさんみたいな子だな」

「えっ?」

 

 ずいぶんと騒がしい子だなぁ、と無意識に「私と違って」と評していたマミは、杏子の感想に素っ頓狂な声をあげ、訝しむように杏子の顔をみつめる。

 

「まぁ、悪い人ではなさそうですわね。頭は悪そうですけど」

「その評価って、私っぽいの?」

 

 くるり、と首を大きく動かし、今度は左側に位置するかおりをみつめた。覗き込むように凝視されたかおりが両手をひらひらと左右に泳がせると、エプロンドレスのゆったりした袖も揺れる。

 

「め、滅相もないですわ。巴さんは別格です」

「そうそう、もっとスゴイよなぁ」

「誤解を招く言い方はやめてくださいっ! 良い意味で申し上げましたっ!」

 

 意地の悪い笑いをこぼす杏子に、声を荒げて反論するかおり。当のマミは、軽い自失状態でふたりの言い合いも耳に入っていなかったが、第三者――愛衣という魔法少女――の声が届くと我を取り戻した。

 

「キュゥべえー、さっき誰か来たって言ってなかった?」

 

 刀を鞘に納めるような仕草でペットボトルをスカートに添えつけると、魔女の崩壊していく様から目を逸らして振り向いた。物陰にいる三人の方向を正確に見ていることから、マミたちに気付いたうえでの言葉だろう。

 マミは物陰から歩み出ると、敵意のないことを示す柔らかい表情をみせて口を開いた。

 

「突然押しかけてごめんなさいね。私は巴マ――」

 

 マミの挨拶は、結界が崩壊を始めたことで中断を余儀なくされた。タイミングの悪さに額に手をあてて天を仰ぎ、ひび割れていく空を見つめながら、今日はなんかダメな日だわ、とマミは独りごちた。

 

 

 

 

 

 

 

「私のバトル見てたの? しょうしいなぁ……」

 

 飲み屋通りを離れて駅前のペデストリアンデッキに移動し、自己紹介を経てマミから事情の説明を受けた愛衣は、大きめのウィンドブレーカーの袖口にすっぽり覆われた両手で口元を隠した。

 

『この土地の言葉で、恥ずかしい、くらいの意味だよ。もし言葉の問題で意思の疎通に支障をきたすようなら、テレパシーにすれば大丈夫だ』

 

 意味を取りかねているマミたちの様子に、キュゥべえが助け舟を入れる。

 

『ああん、ごめんなさい。テレパシーの方がいいでしょうか?』

「いえ、大丈夫よ。普通に話して。もし分からなかったら、その都度教えてもらえるかしら」

「はいっ」

 

 横一列に綺麗に揃えられた前髪と、襟足で整えられた後ろ髪が首肯の動作で空気をはらむように浮いた。ボブカットというよりはおかっぱ頭と呼ぶ方が相応しい野暮ったさの感じられる髪型は、純朴さがうかがえる少女の顔に似合っている。

 

「それで、皆さんはいつまでここに?」

 

 人見愛衣と名乗った少女の癖なのか、会話しながらも指で顎を撫でたり頬を掻いたり髪を弄んだり、落ち着きなく右手を動かしている。その仕草はリスのようで、マミは微笑ましいものを眺めるようにしていた。

 

「今日と明日泊まって、明後日に帰る予定よ」

「それじゃ、厚かましいんですけど、明日の夕方に魔女退治を手伝って頂けませんか。私ひとりだと倒せない魔女がいて……」

「今からではなく?」

「うん、遅くなるとお母さんが心配するから」

「でも、魔女がいるなら一刻も早く倒すべきではないかしら? ほんの少し先送りにしたために被害が出ると、辛いわよ」

「あ、その点は大丈夫です。外に出て人に悪さすることはできないから……たぶん」

「たぶん?」

「えっと、魔女の結界を囲むように別の結界があって、魔女はそこから出てこれないんです。その結界自体は、もうずっと昔からあるものなので、破られることはないんじゃないかと思うんです」

 

 マミの言葉に非難の響きを感じたのか、愛衣は指先で耳たぶを摘まみながら、少し早口で応えた。

 

『ボクから補足すると、その結界は造られてから三〇〇年以上が経過している。愛衣が言うように、今日明日に破られるという類いのものではないだろうね。ともすると、永劫にそこに閉じ込めておいて倒す必要もないんじゃないかと思うくらいだ』

「確かにキュゥべえの言うとおりかもしれませんわね。害がないのなら放置しても問題はない気がしますわ」

 

 かおりがキュゥべえの言葉に同調する。マミや杏子と異なり、魔法少女システムの全貌を知らないかおりは、キュゥべえに対して悪感情を抱いておらず、それどころか彼の論理性を好意的に受け取っている。

 そんなかおりを、マミと愛衣が言下に否定した。

 

「ダメよ、魔女は倒さなきゃ。その結界が永遠に機能する保証もないのだし」

「あいつは倒さなきゃいけないんですっ!」

 

 そして愛衣は、言葉が強すぎたかと目でかおりに詫びた。

 

「まぁ、かおりは放置派ってことで、あたしらだけでやってもいいんじゃない。かおりは夕飯作って待ってりゃいいよ」

「意地の悪い言い方はやめてくださいな。魔女を倒すという行為自体には、左袒するにやぶさかではありませんわ」

「サタン? ……あの、それはそちらの土地の言葉ですか?」

『いや、風見野の言葉ではないね。喜んで協力する、を回りくどく言っているだけだ。やっぱりキミたちはテレパシーを使った方がいいんじゃないのかい』

 

 キュゥべえの説明に、へぇーっと素直に感心したのは愛衣だけだった。マミは苦笑を浮かべ、杏子は直接的に苦言を呈する。

 

「あのさかおり、難しい言葉使って喜ぶのは中二までにしとけよ。あたしらはもう中三だぜ?」

「あ、私は中二です。皆さんは先輩なんですね」

「精神年齢的には後輩かもだけどな」

「それは佐倉さんのことですわよね?」

 

 ふたりともですわ、とマミは再び心の中だけで呟き、やっぱりひとりで来た方が良かったかもしれないと軽く悔いていた。



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第三六話 マミさん、山奥の結界に向かう

 マミと杏子の勝負は、圧勝という形で杏子に軍配が上がった。

 お互い初心者ではあるものの、クラスマッチでは種目に関わらずエース格を務める杏子に対して、運動はソツなくこなす程度のマミでは荷が勝ち過ぎていたのだ。

 テニスの勝負。

 鋭い打球を繰り出す杏子に対して、マミはロブで返すのがやっと。ロブといっても戦術的な意味のあるものではなく、かろうじて前に返しただけといった感じの山なりの緩い球だ。

 

「これは巴さんが弱いのではなく、佐倉さんが強いというべきですわね」

 

 午前の柔らかい日差しを手のひらで遮りながら、審判台から降りたかおりは足元に転がってきたボールを拾い上げた。

 彼女の所属するテニス部のユニフォーム――ミニのスカートからアンダースコートがちらちらと覗くが、三年も同じユニフォームで過ごしていると、さすがに恥ずかしいとは思わなくなっていた。

 

「よしっ、次はかおりとやるか!」

「あら、わたくし、こう見えても県大会では確実にベストフォーに入る腕ですのよ?」

「ふふん、かおりが県内ベストフォーなら、あたしは魔法少女でナンバーワンだな」

「わけの分からないことを……初心者相手にスコンク負けを味わわせる趣味はないのですけども。あっ、そうですわ。そちら、巴さんと佐倉さんのダブルスでよろしいですわよ」

「ちょっと待てよっ!」

 

 コート脇に転がったボールを拾い集めていたマミが、杏子の怒号に驚いて目を瞬かせた。そして経緯を見守るようにネット際で言葉を交わすふたりを見つめる。

 標高の高いこの地方の午前中、涼しいとはいえ、テニスの試合を終えたばかりで発汗も激しく、薄手のシャツは雨に濡れたように肌に張り付いていた。

 

「マミさんとダブルスなんて、あたしがシングルでやるより弱くなるだろ!」

「そんなことはないと思いますわよ。……でも、もしそうお思いでしたら、わたくしが巴さんと組みましょうか?」

 

 体を開くようにしてマミの方を向き、かおりが猫招きよろしく手を上下させた。招かれたマミは、困ったような笑みを浮かべてネット際へ歩を進める。

 

「もう、私抜きで勝手に決めないで。私は審判してるから、ふたりで試合したら?」

「そう仰らずに。先ほどの雪辱戦をいたしましょう、巴さん」

 

 ウィンクするかおりに、マミは内心で雪辱なんてどうでもいいのになぁ、と嘆息した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ラリーはわたくしに任せてください。巴さんはサーブ、リターンしたらネット際に出て頂けますか。チャンスボールが来たらスマッシュなりボレーなりを」

「あんまり期待しないでね?」

「先ほどのプレイは、経験がないにしては充分なものでしたわよ。ただ佐倉さんがちょっとした中級者並みのプレイでしたので、分が悪かったですわね」

 

 トスは行わず杏子からサーブ。マミがバックサイド、かおりがフォアサイドに入る。

 一応杏子側は内側のサイドライン、マミ側は外側のサイドラインまでと決めたが、審判もいない以上厳密な判定は難しい。判断に悩むときは杏子有利な判定でいいだろうとマミもかおりも思っている。

 

「サーブはまずかおりの方に、その後は交互に入れればいいんだよね?」

 

 コートの端から端へも良く通る声が響いた。応えるかおりは、口元に両手を添えて発声する。

 

「そうですわね。でも、多少は違っても構いませんわよ。そんなに厳密にルールを適用するつもりはありませんし」

「そうしてもらえると助かるね。あたし細かいルール知らないし」

 

 右手で数度ボールをバウンドさせた後、ラケットを構える。そしてボールを緩やかにトスすると――

 

「ただ、手加減は無用に願うぜッ!」

 

 身体全体をしならせた豪快なフォームから、鋭いサーブを放つ。初心者ならリターンすることも困難だろう、そう考えれば、まがりなりにもラリーに持ち込んでいたマミのプレイは、かおりの評価通り充分なものと言える。

 

「もとより、そのつもりですわ」

 

 微笑む余裕すらみせて、かおりがリターンする。リターンエースを狙うことも難しくはないが、彼女の目的はそこにはなかった。

 

「巴さん、前へッ」

 

 スピンを加えた打球を、杏子にとって打ちやすいコースで返す。チャンスボール。そう思った杏子は、サイドを狙って強打を返した。

 しかし、ボールに加えられていたスピンが、杏子の返球のコースを狂わせる。結果として、ボールはスライスし、ネット際に詰めたマミの前に吸い込まれるように飛び込んでいった。

 

「えいっ」

 

 両手で握ったラケットを合わせるとボールは鋭角を描いて走り、ネットを越えると杏子側のクレイコートを叩いた。そしてそのままサイドラインを越え、転々とフェンスへと向かう。

 

「お見事ですわ」

「そんな、たまたまだわ」

「たまたまかどうかは、これからのプレイで判断させて頂きますわ」

「次は私がリターンね。頑張るわ」

 

 ボレーを決めてベースラインへ歩いてきたマミは、小さくガッツポーズをしてみせた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 一方的なゲーム展開に気が引けるのか、マミは遠慮気味にポーチを決めた。それが決勝点となり、三人の変則的な試合は幕を閉じる。

 

「マミさんも結構やるじゃん」

 

 何とか拾おうと横っ飛びに飛び、そしてコートを舐めた杏子は、立ち上がると悔しさを微塵も感じさせない表情で笑った。

 

「二対一だもの。それに、ずっと前にいて打てる時に打つだけよ、たいしたことはしていないわ」

「いやぁ、けっこう鋭いボレーだったよ」

 

 ジャージについた土をはらい、ネット際へと歩を進める杏子が言うと、同様にネット際へと歩いてきたかおりが続ける。

 

「そうですわね。巴さんは前衛向きなのかもしれませんわね」

「うんうん、ボレーかっこいいよな。かおりはいつもあんな地味なテニスなのか?」

「地味とは失礼な仰り様ですこと。わたくしはサーブアンドボレーが好きで、普段はそうなのですが、県大会などの部としての勝敗がかかっているときは先程のようにベースライナーとして戦いますわね」

「へぇ、じゃぁ次はサーブアンドボレーっていうのでやろうよ」

「あら? 佐倉さんは先程、巴さんと組んだら弱くなると仰りましたよね。そうであるならば、巴さんと組んだわたくしに負けた以上、やるまでもないのではありませんか? わたくしとシングルで戦いたいのでしたら、取り消して頂きませんと」

「なんでマミさんじゃなくて、お前が根に持ってんだよ」

「何故と問われても……尊敬する方を誹謗されたら、不快に感じるのが当たり前ではないでしょうか」

「夜宵さん、杏子ちゃんのはただの冗談だからいいのよ。でも、時間的に今からもう一試合は厳しいかも」

 

 マミの声につられて、杏子とかおりが視線を手首の腕時計に落とす。そして両者ともに落胆した表情を見せた。

 

「片付けて、シャワーを浴びてとなると、タイムリミットですわね」

 

 昼食を予約している高原牧場へ向かうシャトルバス。その発車時刻を間近に控えて、これ以上のプレイは困難と判断したかおりは、ネットを支えるポールに近づき、固定治具を慣れた手つきで解除していく。

 

「んー、バス諦めてさ、変身して直行するとか」

「そんなの風情がなくていやだわ」

 

 逆側のポールに向かったマミが、ネットの固定が外れたことを確認すると、ハンドルを回してネットを巻き上げる。両手を後頭部に回した杏子は、「ちぇ」とつまらなさそうに呟きながらもそれ以上の抗弁はせず、おっとり刀で片付けの手伝いを始めた。

 

「テニスなら帰ってからでもできるじゃない」

「そこまでしたいワケじゃないけどさ」

「じゃぁ、気持ちを切り替えて、牧場を楽しみましょう」

「そうだねぇ」

 

 ホルスタインなら毎日身近に過ごしてるから改めて見なくても、という軽口を呟いた杏子は、その報いとしてデコピンを受け、額を赤くした。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 バスに小一時間揺られて辿り着いたのは、海抜で一〇〇〇メートルを超える高地に位置する牧場施設。

 純粋な牧場というよりは、乳牛との触れ合いやレストランでの食事を楽しむことに力点が置かれたアミューズメントパークである。

 

『ホルスタイン・フリーシアン種は日本における畜牛の代表的な存在です。国内の乳牛の九割以上がホルスタイン・フリーシアン種と言われています。一頭当たりの年間産乳量が他種の二倍近いことに加え、温厚な性質と寒さに強い体質から、非常に牧畜に向いており、当牧場でも……』

「マミさん、寒さに強かった?」

 

 記念館のエントランス、乳牛五種のパネルの前でガイドのアナウンスを聞く。その様子もそれぞれに異なっていた。

 マミは声に集中するように瞳を閉じ、時折頷きながら、かおりはスマートホンを片手に、メモ帳アプリに要点を書き込みながら。そして杏子は、マミを横目で見ながら。

 薄目を開けたマミは、にやにやとした笑みを浮かべる杏子を軽く小突くと再び瞑目する。

 

『エアーシャー種は原産地がスコットランドということもあり、非常に厳しい自然環境でも育つ強い乳牛種です。乳脂肪率はホルスタイン・フリーシアン種と並んで乳牛の中では低めですが、蛋白質の含有率が高く、チーズ、バターなどの用途に向いています。当牧場では……』

 

 

「立ちながら眠るなんて、杏子ちゃん器用ね……」

「あはは、だって説明長いしさ、退屈で」

 

 アナウンスを終え、乳牛との触れ合いコーナーへ移動する際に、動こうとしない杏子の肩を揺すると彼女は膝を崩した。寝惚けた瞳で見上げる姿に苦笑すると、マミは杏子の手を取って立たせる。

 

「ほら、楽しみにしていた牛さんとの触れ合いコーナーよ」

「知的好奇心を持っていれば退屈など感じることもないでしょうに、嘆かわしいことですわ」

「かおりはいちいちトゲがあるな。マミさんみたいに温厚な性質と寒さに強い体質を持ってくださーい」

「杏子ちゃんも、それいい加減にしないと怒るわよ?」

「ホルスタインが怒った?!」

「もう、しつっこいんだから……」

 

 頬を膨らませて不満を表すマミ。その傍らで難しい顔をしていたかおりは、マミの言葉に口元を押さえ、肩を震わせた。そしてひとしきり笑った後に呼吸を落ち着けると、潤んだ瞳で告げた。

 

「巴さん、モウ、だなんて……」

「もう、夜宵さんまで」

「また……」

「ヘンなとこがツボに入る奴だな」

「ほらほら、移動しますよ移動。杏子ちゃんも夜宵さんも、置いていきますよ」

 

 羊飼いが家畜を追い立てるように、マミは杏子とかおりを急かした。この様子からも察せられるように、彼女たちの普段の関係性は、正しくマミを羊飼い、杏子とかおりを羊としたものだ。しかし、威厳が足りない羊飼いにままあるように、悪戯な羊に翻弄されることも多かった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 背に乗りたい、という杏子の希望は当然ながら叶えられず、触れ合いコーナーは幕を閉じた。

 その後は併設されたカフェレストランで、牧場採れたての食材を使った昼食を、たっぷり一時間ほどかけて摂った。

 最後に五種類の乳牛のミルクからできたソフトクリームを食べ比べ、一食当たりの摂取カロリーを大いにオーバーしたという軽い悔恨をおぼえて席を立つ。そして向かうのは、帰りのシャトルバスではなく、牧場の外れに立つモミの巨木。

 

 昨日、別れ際の会話で、マミの可能な限り早く魔女退治に赴きたいという意向と、既に予約を入れている観光オプションと、愛衣の都合の兼ね合いを考え、導き出された合流箇所がそこであり、合流時間が今だった。

 時間より五分ほど早く訪れたマミたちを、人見愛衣は敬礼でもしそうな直立不動の姿勢で迎えた。そして深々と頭を下げると、少しイントネーションの外れた言葉を発した。

 

「この度はご足労いただきまして誠にありがとうございます」

 

 たっぷり一〇秒は下げた頭をそのままにする愛衣。マミが声をかけなければ、そのままいつまでも礼を続けていたかもしれない。

 

「えぇと、そうかしこまらずに、普通にしてね」

 

 マミに促されて顔をあげると、頬を指で撫でさすり、はにかむような表情を見せた。

 

「すみません、じゃぁ普通にしますね。んと、私の住んでいる村が、ここから近い山にあります。あ、近いと言っても、都会の人の感覚だとかなり遠いかもしれないです、歩いて小一時間なので。それで、その山の隣の山に魔女がいます。いますというか、閉じ込められています」

「お、じゃぁ愛衣の家にも寄っていこうよ」

「構わないですけど、何もない村ですよ。それに居心地も良くないですし……」

 

 親指と人差し指でこねるように耳朶を弄ぶ。その仕草は濁すような語尾と相まって、誤魔化すような印象を見る者に与えた。

 

「突然お邪魔するなんて失礼よ。それに、魔女退治が最優先です」

 

 杏子を窘めるマミの口調は、同時に愛衣を安堵させた。指を耳たぶに押し当てたまま首肯してマミに賛意を示すと、彼女は目的地についての説明を始める。

 

「魔女の山へは私たちの足だと、急げば一〇分もあれば着くと思います。姥捨って、嫌な名前で私たちは呼んでいます。たぶん、ずっと長い間、年老いた人を魔女への生け贄として置き去りにしていたんじゃないかな」

「生け贄……というと、魔女の存在を土地の人は知っていたの?」

「えぇ、魔女の存在は≪山神さま≫として、私たちの村では知られていました。つい最近まで、数年に一度、子供を生贄に捧げるっていう風習もあったんです」

「そんな風習があるのでしたら、いくら結界に閉じ込められているとはいえ捨て置けませんわね」

 

 昨日の放置しても問題ないという失言を悔いているかおりは、大きく頷く。名誉挽回、との思いを込めたのだが――

 

「あ、大丈夫です。もうそんな風習はなくなりましたから」

 

 いつのまにか指を耳朶から眉間に移し、片目を指で隠すようにした愛衣がかおりの失地回復を阻止した。いや、そもそも失地、失言と思い込んでいるのは当の夜宵かおりだけなのだが……。

 

「それが愛衣の奇跡なのか?」

「はい、よく分かりましたね……鋭いです」

「だってさ、そういう風習って簡単にはなくならないだろ。特に年寄り連中が多いと」

「あはは……。その通りですね」

「そう、素晴らしい祈りね。たとえ魔女を倒したとしても、風習はなくならないもの。人見さんの祈りは多くの人を救ったのだと思うわ」

 

 マミは全く意識していなかったが、言外に先程の風習と討伐を関連付けて考えた夜宵かおりを否定した。そしてそれを感じ取った夜宵かおりは、さらにシュンとなる。

 その一方で、誉められた愛衣は頬をぽうっと紅く染め、その上気を静めるように手のひら全体で押し包んだ。

 

「そんな風に言われたら、しょうしくらしいですよぅ」

 

 マミたちには馴染みのない言葉ではあったが、愛衣の態度と昨日の経験でおおよその意味合いは推測できた。問い返すような無粋はせずに、マミは話を進める。

 

「魔女についての情報は何かあるのかしら」

「はい、私が魔法少女になって間もない頃、一度結界に入って戦ったことがありますから。勝てなくて逃げ出したんですけど、その時の話で良ければ」

「助かるわ。移動しながら聞かせてもらえるかしら」

「はい。皆さん、もう移動しちゃって平気ですか? ここの牧場でやり残しはないですね?」

 

 杏子がもうひとつだけジャージーのソフトクリームを食べたいと主張したが、主にカロリー的な理由でマミとかおりには黙殺された。唯一愛衣だけが「あ、美味しいですよね、ここの」と同意したが、それ以上その話題を広げる者はいなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 魔法少女になる前の自分なら、へたり込んで泣きべそをかいていたかもしれない。

 マミがそう思うほどに過酷な道程だった。そもそも「道」という表現は相応しくないとさえ思える。腰近くまで下草が密に繁り、土肌はまばらにしか見えない。今日は雨も降っておらず、さらに時間はお昼過ぎというのに、濃い霧が煙るほどに気温は低く、湿度は高い。

 

「着きましたよ。この山のてっぺんがそうです」

 

 しかし、魔法少女の姿である彼女たちにとっては舗装された遊歩道に等しく、息切れひとつさせることなく踏破した。

 

「いやぁ、この山って言われてもさ、どこからどこまでがひとつの山なのか、さっぱりだよ」

「あはは……ですよね。まぁでも、ここからが禁足地になっているんです。結界はもっと上ですので、まだ警戒はしないで大丈夫ですけど」

 

 

 

 

 

 暢気と言える彼女の口調が厳しくなったのは、山の八合目を越えたあたりだった。

 

「分かりますよね? ここからが魔女を封じ込めている結界の内部です」

 

 促されるまでもなく、ソウルジェムが魔女の結界に反応を示したことで、彼女たちは緩めていた緊張の糸を引き締めている。

 

「反応から察するに、魔女の結界まで二〇〇メートルといったところね。じゃぁ、人見さんから聞いた話をまとめるわね、移動しながら聞いて」

 

 一同が頷くのを横目で確認し、マミが続ける。

 

「魔女の外見は、上半身が女性で下半身が蛇。大きさは頭の高さで五メートル程度。上半身下半身ともに鱗があって、生半可な攻撃は弾く。主な攻撃は尻尾による殴打、それとナイフのような爪による引っ掻き。背後にテレポートした人見さんに対して、振り返らずに尻尾で攻撃したことから、視覚以外の感知能力があると思われる」

「ファンタズマは音も魔力も匂いもあるから、通用するとは思うけどね」

「そうね、そう思うわ。……続けるわね、戦闘時に人見さんがひどい眩暈と脱力感をおぼえたことから、無色無臭のガスなどの神経や精神に作用する攻撃を行っている可能性があり。それと……」

 

 マミが言葉を切った。前方に浮かぶ魔女の結界から、いまマミが説明していた魔女が身を現そうとしていたからだ。

 虚空に浮かぶ結界の紋様。その紋様を突き破るように、鱗に覆われた青白い二本の腕が伸びた。

 腕は紋様の外周部を掴み、それを横に押し広げるように力を込める。

 力をかけられた結界が横に歪み、そして魔女は膂力をもって自らの身体を持ち上げ、上半身を紋様から現した。

 粘性を持った液体のように、紋様が魔女の体躯にまとわりついて引き延ばされる。そして蛇身である下半身が結界を抜けると同時に、まとわりついていた紋様が剥がれ、再び円形の紋様へと戻った。

 

 

 

 

 

「わたくしたちを生け贄と思って、さらいに来たのでしょうか?」

 

 右手の弩弓を照準しながら呟くかおりには応えず、マミは自らに倍する巨躯を持つ魔女を見上げた。

 彼我の距離は二〇メートル程度。魔法少女と魔女にとっては一挙手一投足の間合いだ。

 それを理解している杏子も愛衣も、それぞれに大身槍とペットボトルの剣を構え、左右に展開を始める。

 

「接敵せずに倒せればベストよね。まずは私と夜宵さんが撃つから、ふたりは接近は待ってもらえる?」

「了解です。いざとなったらこの剣、一〇メートルくらいにはなりますので、それで斬ります」

「分かったわ。杏子ちゃんも、戦うときは念のため槍を伸ばしましょうか」

「おう」

 

 短く応えた杏子は、大身槍の柄に複数の切れ目を生じさせ、鞭状に垂らしてみせた。柄の切れ目は鎖でつながれており、その鎖が伸縮することでちょっとした射撃武器に匹敵する間合いを有する。

 マミは満足気に頷くと、四挺のマスケットを肩の上に浮かせ、一挺を両手で構えた。手ずから操るマスケットの照準に連動して、浮遊するマスケットたちも銃口を追随させる。

 

「行くわよッ!」

 

 叫び、引き鉄にかけた指を引き絞る。引き鉄を引かれたマスケットはもとより、肩口に浮かぶ四挺のマスケットも同時に射撃した。さらには夜宵かおりも遠隔操作されたように、クロスボウボルトを同じタイミングで撃ち放つ。

 魔弾とボルトを目で追う杏子と愛衣は、間合いと緊張を保ったまま警戒姿勢を維持する。攻撃にも防御にも、そして射手の護衛にも回れるように位置取りつつ――

 杏子が動いた。

 着弾した魔弾とボルトが、魔女の鱗を抉って体液を飛散させた。そして、魔女が苦悶の声をあげて身体を蠢かせた。そこで好機と判断し、踏み込みつつ鞭状の槍を横に払った。

 それは、槍を薙ぐというよりは、居合いの達人が剣を抜き放ったかのような所作だった。大身槍が横に一閃し、軌跡上にあるものが上下に分かたれていく。槍の攻撃を受け止めようとした魔女の爪を皮切りに、下腕、上腕、そして胴体の全てを。

 ひときわ大きく苦悶の叫びを残すと、蛇身の魔女は強酸性の薬液に溶かされるかのようにして身体を崩壊させていった。

 

 鈍く光るグリーフシードを残して。



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第三七話 マミさん、重さを量る

 それぞれが違和感をおぼえてはいたが、その内容は人によって異なっていた。

 違和感が異なるがゆえに、取った行動もまた異なる。

 

 夜宵かおりは、体の向きを愛衣の方へ向け、厳しい視線を叩きつけた。

 

「あなたの話とずいぶん違いますが、どういうことですの?」

「んー、そうだよね。こんなに簡単に倒せる相手じゃなかったはずなんだけど……」

「何か目的があって、わたくしたちをここに連れてきたのではないでしょうね?」

 

 弩弓を突きつけんばかりの剣幕をみせるかおりに、愛衣は困惑し、言葉に詰まっていた。

 

「いや、それはいくらなんでも早計なんじゃねーの」

 

 かおりにも愛衣にも視線を向けずに、杏子は言った。そして杏子と同じ方向、虚空に浮かぶ結界の紋様を見つめていたマミが続ける。 

 

「結界が残っているわ。つまり今倒した魔女は、結界の主ではないわね」

「使い魔ということですの?」

「いえ、グリーフシードを落としていますし、魔女なのは間違いないと思います。私が戦った魔女は、別にいるんでしょうか」

「そうね。人見さんから聞いていたよりもひとまわり小さかったし、別の個体かもしれないわ。まぁ、結界に入ってみれば分かることよね」

 

 リボンを伸ばしてグリーフシードを掴み、愛衣に渡す。グリーフシードの所有権が愛衣にあることに、杏子もかおりも異存はない。敢えて言えば、愛衣自身に異存、というよりは遠慮があることになるか。

 

「愛衣んトコの魔女だしな。愛衣が持つのが自然だろ」

「なんかその言い方だと、魔女が私のペットか何かみたいで嫌なんですけど」

「あのような凶暴で可愛くもないペットはごめんですわよね。キュゥべえのように可愛らしいならともかく」

「ですよね。キュゥべえ可愛いですよね」

「可愛い、ねぇ」

「まぁ、見た目はね……」

 

 黄色い声を交わすふたりには聞こえないように呟くと、マミと杏子は結界に向けて歩を進める。そして慣れた手際で結界をこじ開け――

 

「ほら、置いてくぞ」

 

 マミに続いて身体の半ばまで結界に侵入させた杏子の言葉に、かおりはハッとして後を追おうと大きく足を踏み出す。だが愛衣は焦った様子もなく、片目を瞑り、一瞬の後に開いた。その動作で彼女の固有魔法である空間跳躍、≪ウィンク・ウィング≫が発動する。

 彼女の身体はテレポートし、杏子にひっつくほどの距離に出現する。ぎゅっと杏子の手を握り、白い歯を見せて悪戯っぽく愛衣は笑った。

 

「えへへ、私を置いてくなんてできないですよ」

「おう、じゃぁかおりだけ置いてくか」

「ちょっと、お待ちくださいな!」

 

 ふたりを飲み込みかすかな波紋を浮かべる結界に向けて呼ばわり、かおりは駆けた。それを出迎えるように、結界からマミが顔だけを出す。

 

「慌てなくて大丈夫よ、私が殿軍を務めるから。さ、夜宵さんも入って」

 

 この場合は慌てる夜宵かおりよりも、慌てさせる佐倉杏子が悪い。魔女の結界内において無意味に急かすのは、ちょっと緊張感に欠けるのではないだろうか。そう思ったマミは、あとで杏子にお説教しようと心に決めながら、結界から手を伸ばしてかおりを迎えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 武家屋敷を思わせる古風な結界の中には、複数の魔女がいた。

 大きさに多少の個体差はあれど、全て結界入口で倒した魔女と同じく蛇身の魔女であった。

 広大な結界の中に、魔女はぽつりぽつりといたが、中には数匹が狭いエリアに存在していることもあった。そのエリアを掃討したあと、愛衣は伸ばしていた液体の剣をペットボトルに収納しながら独りごちた。

 

「魔女同士って、一緒にいてケンカしないんでしょうか」

 

 回答を求めての言葉ではなかったが、愛衣の傷を癒すために近くに寄っていたマミが応えた。

 

「先日も、魔女が複数群れているのと戦ったわ。魔女から見ると魔女は仲間なのかもね」

「へぇ~。もっと血に飢えたケダモノみたいに、周りにいるもの全部を攻撃するのかと思ってました」

「それで間違ってねぇだろ。あたしら人間には見境なく襲いかかってくるんだから」

 

 ひゅん、と杏子が槍を横に払う。直後、大身槍の穂先についていた魔女の体液が床を叩く音が響いた。

 

「でも、意外です。魔女同士なら仲良くできるんですね」

「そうね、もし世界が魔女だけのものになったら、それはそれで平和なのかもしれないわね」

 

 少し寂しげに微笑むマミを見て、かおりは胸にざわめくものを感じた。その理由までは理解できなかったが、生じた不安を否定するために強く言葉を放つ。

 

「縁起でもありませんしお話にもなりませんわ。魔女に世界を譲り渡すほど、わたくしたち魔法少女は甘くも弱くもありませんもの」

「お、珍しくかおりがいいことを言ったな」

「珍しくではなく、いつものことながら、と言って欲しいですわね」

「そうだな、かおりはいつものことながら――」

 

 杏子が手首の動きだけで槍を上へとしならせる。

 柱が複雑に組み合わされた造りの天井。そこから蛇型の使い魔が一匹、夜宵かおりの首筋を狙って落下してきた、その迎撃のために。

 

「隙だらけだよな」

 

 だが、槍が蛇を貫くよりも先に、魔弾が使い魔の体躯を砕いた。

 

「ふふ、もう少し注意した方がいいわね。使い魔は魔力も微弱で感知しにくいけど、侮っていいわけじゃないもの」

「うう……面目次第もありませんわ」

「私も気付いていませんでした、おふたりとも、すごいですね」

 

 その言葉が嘘だということは、マミと杏子には分かっていた。愛衣の親指は既にペットボトルのキャップを弾いており、明らかに迎撃を行おうとしていたのだから。

 ただ、善意からの嘘を喝破するつもりはふたりにはなく、適当な相づちをもって応えた。

 ひとり嘘に気付かないかおりだけが、愛衣に同類意識を持っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 最深部にいた蛇身の魔女は、愛衣の事前情報よりもさらに巨大であり、さらに強力であった。

 しかし、マミと杏子に敵する水準にはなかった。凡百の魔法少女が使い魔を相手にするように、早く、容易く、危なげなく、マミたちは魔女を打ち破った。

 結界が崩壊を開始する。

 それは戦いの収束を意味し、魔法少女たちは思い思いに緊張の糸をほどきながら、結界の崩れていく様を眺める。

 さなか、夜宵かおりが口をひらいた。

 

「その、人見さん、疑うようなことを言ってすみませんでしたわ」

「えっ、私、疑われてたんですかっ?」

「えっ、お気付きでなかったんですの?」

 

 相変わらずの愛衣の人の好さ、そしてかおりの察しの悪さに、マミが口の端を控えめに歪める。ちょうどそのタイミングで、ガラスの割れるような音が鳴り響き、魔法少女たちは現実世界へと排出された。

 

 

 

 

 

 

「さすがに、こんなたくさん私だけ頂くわけにはいかないですよぅ」

「いやー、ほんと大漁だな」

 

 夏草の茂る傍らに並べられたグリーフシードは、ざっと数えても二〇を超えている。魔法少女一年分、という名目で景品になってもおかしくない量だ。

 

「私たちは消耗した魔力の補給程度で充分よ。残りは人見さんのものにするべきだわ」

「うん、そんなもんでいいんじゃないか。愛衣もこれで夏休みサボれるな」

「えー、パトロールはしっかり続けますよぅ、それが私たちの使命じゃないですか」

 

 夜宵かおりは黙っていた。どう喋れば印象が良いだろうかと考え、そしてそのまま考えがまとまらずに発言の機会を失っていたのだ。

 結局、この場でかおりが行ったのは、こくこくと首を縦に揺らすことと、連絡先のアドレスを伝えることだけだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 宿舎に戻ったかおりには、さらに難題が待ち受けていた。三人分の夕飯をつくるという難題が。いや、クリアする方法が全くないのだから、難題の前に無理をつけた方が適切だろうか。

 素直にギブアップするか、逃げるか、選択肢はおおむね二つであろうが、彼女は後者を選択した。

 リビングのソファでくつろぐマミと杏子に、おずおずといった様子で彼女は切りだす。

 

「申し訳ありません、わたくし、ちょっと眩暈と頭痛が……」

 

 いちいち言葉にあわせて瞳と額を手で撫でさする。それはある意味で「元気です、仮病です」と言っているようなものであったが……。

 

「あら、そういえば魔女を倒した辺りからずいぶん口数も減っていたものね。気が付かなくてごめんなさい」

「魔法で治してやろっか?」

「い、いえ。このようなことで魔力を使うのも勿体ないですし、少し横になれば充分ですわ」

「旅行ではしゃいでたところに魔女退治までして、ちょっと疲れちゃったのかもね。部屋で休んだ方がいいわ。杏子ちゃん、私が料理当番でいいかしら?」

「オーケーだよ、けっこうお腹すいたから、できれば早めがいいかな」

「分かったわ。小一時間もあればできると思うから、少し待っててね。夜宵さん、部屋まで連れていってあげましょうか」

 

 かおりの返事を待たずに、マミは立ちあがる。そして夜宵かおりの肩に腕を回して彼女の身体を支えた。マミの柔らかい躰を肌で感じて、はからずもかおりの頬が本当に熱があるかのように紅潮する。

 

「お大事にな、かおりー」

 

 座ったまま、片脚を揺らしてスリッパをぱたぱたと鳴らす杏子は軽い調子で言った。その軽さが今はありがたいと、かおりにしては珍しく杏子に感謝していた。

 

 

 

 

 

 

「夜宵さん、もしかしてお料理苦手?」

 

 部屋へ向かう廊下で、マミが小声で問うた。肩を借りたままのかおりは、顔を逸らして二度ほど小さく頷く。

 

「意外だけど……でも、お買い物の様子がちょっとヘンだとは思ってたわ」

「すみません……」

 

 合わせる顔がないとばかりに顔をさらに逸らす。料理ができないことだけでも恥ずかしいのに、さらには見栄をはって嘘をついていたことまで露見しまった。自尊心の高い彼女としては、そのまま消え去ってしまいたい気分だ。

 

「ううん、あんな風に期待されたら言いだしにくいもの。杏子ちゃんには黙っておくし、気にしないでね」

「はい……」

「もう、こんなことでクヨクヨしないで。人には得意不得意があるんだから」

「はい……」

「小一時間もあればお料理できると思うから、それくらいに体調良くなったって出てきてもらえるかしら?」

「はい……本当にすみません、ご迷惑をおかけして」

「ううん。私、お料理好きだからぜんぜん平気よ」

 

 彼女を元気付けようと破顔するマミだったが、夜宵かおりの精神状態は日中からの空回りもあり最悪に近かった。重油の沼の底に沈んだような彼女を引き上げるには、マミの笑顔だけではトルクが不足していた。

 しかし、トルク不足は、部屋の前まで着いたときのひとことで、容易にリカバーされた。

 

「もし良ければ、今度お料理教えましょうか?」

「えっ、本当でしょうか」

 

 仮病の演技を抜きにしても――そもそも、マミに看破されてからは演技ではなく本気で落ち込んでいた――半死人状態であったかおりだが、突然に声を弾ませた。

 現金なもので、「わたくし、料理が出来なくて良かったですわ」とまで歌うように告げる。その様子に悪戯心を刺激されたのか、マミは最後に、

 

「でも、北欧料理はできませんからね」

 

 と人の悪い笑みを浮かべて言うと、彼女の背をぽんと叩いて部屋に押し込んだ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「露天風呂がありますので、皆で入りませんか!」

 

 湿り気を全く感じさせない声色。それは杏子でさえ、急に元気になりすぎじゃないか、と訝しむほどだった。

 

「ご飯食べて元気が出てきたみたいね、良かったわ」

 

 事情を知るマミからすると、もう少し自然な演技をした方が……と思わないでもなかったが、ふさぎ込むよりはよほど良いと微笑んだ。

 

「はい、もう元気ですわ。ですので、露天風呂に!」

「元気ならさ、デザートでも作ってくれよ」

「えええ、……えっと、そう! 今日はカロリーオーバーですから、ダメですわ!」

「そんなの気にしてなかったじゃん」

「ダメと言ったらダメですわ。帰ったらあらためてご馳走してさしあげますから、今日は我慢なさいな」

 

 ――早めにお料理レクチャーしてあげた方がいいかしらね……。

 

 懲りずに安請け合いをする彼女を見て、半ば呆れる気持ちでマミは独りごちる。幸い、杏子はかおりの口約束に喜んでおり、マミの呟きが聞きとがめられることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、杏子ちゃん、お湯で流してから入るのよ?」

 

 制止の言葉より早く、温泉に駆け寄った杏子。ざぶんと飛沫を飛ばして彼女の身体がお湯に飲み込まれる。

 あーあ、と顔を手で覆うマミの姿を、ちらちらと横目で見やりつつ、上機嫌な声でかおりが言った。

 

「まぁまぁ、貸し切りですし問題ありませんわ。それより巴さん、わたくしたちも入りましょう」

「そうね、そうしましょうか」

 

 温泉に近付き、掛け湯を頂くために膝を崩すと、巻いていたバスタオルを外す。その姿を見て、かおりが口を開いた。

 

「あの、どうして水着を?」

「え、プール入るかもって夜宵さんが言ってたから、持ってきたんだけど?」

「持ってくるのはともかく、いま着ているのはどうしてでしょうか?」

「え、修学旅行とかでも着たけど?」

「……そうなのですね……」

 

 悲嘆に暮れた様子のかおり。それを見て、何か悪いことをした気になったマミだったが、何がどう悪いのかは理解できなかった。そしてかおりにとっては幸いなことに、理解する時間は与えられず、杏子の悪戯にふたりの思考は中断された。

 

「ほら、掛け湯とかいいからさっさと入ろーぜ」

 

 あたしが掛けてやるよ、とばかりに杏子がお湯を両手でスプラッシュさせ、ふたりの躰を濡らしていったからだ。

 

 

 

 

 

 

「かおりって、地肌はけっこう白いんだな」

「そんなにまじまじと見ないでくださいな」

 

 見られるのを避けるように首筋まで白濁した温泉に浸かり、非難がましい口調で言う。ただ、自分を棚に上げているということは彼女も自覚しており、言葉には力がなかった。

 

「いいじゃん、減るもんじゃなし」

「それはそうですけど……でも、やっぱり減りますわ」

 

 口まで沈め、喋るごとにぶくぶくと泡を作る。

 

「飲んじゃだめよ、こういうところのお湯ってけっこう酸性がきつかったりするから」

「はいっ。あ、でも、ちょっと飲んでもいいかもしれませんわ……」

「腹こわすぞー、かおり育ち良さそうだし、そういうの弱そうじゃん」

「別に育ちは……わたくしの家は普通の中流家庭ですわよ」

「そうなのか?」

「はい」

「んー、でも、夜宵さんの通っている学校って、有名なお嬢様学校よね?」

「それはそうですわね、うちには不釣合いなのですが……。ええと、母も同じ学校の卒業生でして、母の実家はそれなりに裕福なのです。それで母方の祖父が資金援助するからわたくしを同じ学校に入れろと」

「孫に行かせたいくらい良い学校なのね」

「はい、わたくしもそう思います。ただ、他の生徒の皆さんは裕福な家庭の方が多く、少しギャップを感じてしまいますわね」

「かおりも充分お嬢様っぽいけどな」

「それは、ちょっと作っている部分もありますので」

「そういえば、お母様には普通に話していたものね」

「んだよ、あたしらの前でまで作らなくてもいいじゃん」

「そう仰られても、いまさらそう突然に態度を変えるのも……」

「いいじゃん」

「そうね。夜宵さんの楽な方でいいとは思うけど、普通にしてくれた方がちょっと嬉しいかな」

「えっと、じゃぁ、巴さん、率直に申し上げますけど……」

「なにかしら」

「少し胸を触らせていただけませんか?」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ほら、やっぱり作った方がいいじゃないですかー」

「作るってそういう意味じゃなくて! 口調のことよ口調の!」

「って、冗談はさておいてですわ」

「いや、冗談じゃねーだろ……」

「触るのではなく、重さを量らせて頂きたいのですが、いかがでしょうか?」

「それはドア・イン・ザ・フェイスのようなものかしら……」

「そのような姑息な目論見は神に誓って一切ございませんわ」

「そもそも、その……胸の重さなんて量れるの?」

「もちろん正確に、というわけではありませんわ。そうですわね、この桶にお湯をすりきり一杯まで入れた時の重さをAとします。その後、巴さんに胸を桶に浸けて頂ければ、当然胸の体積分のお湯がこぼれますわよね。しかる後に桶の重さBを量り、AとBの差分をとれば体積が分かります。古代ギリシア人曰くユリーカ! ですわね」

「どうでもいいことに凄い情熱傾けてんな、お前」

「さて、乳房を構成するものは主に乳腺、脂肪、靭帯です。乳腺の比重は約1.04グラム、脂肪の比重は約0.92グラム、靭帯は正確にはわからないのですが、乳腺と同程度か少し重い程度でしょう」

「う、うん……」

「また、乳房の中での割合は、脂肪が九割、他が一割なので、先ほどの比重を加味して考えますと、体積に0.932を乗じればおよその重さになるかと思いますわ」

「お、おう……」

「さぁ、巴さん、こちらの桶にその乳房を浸してくださいまし」

「…………」

「なんか可哀想だしやってあげたら、マミさん」

「もう、ひとごとだと思って適当に言わないで……」

「ええ、可哀想ですし犬に噛まれたとお思いになって!」

 

 

 

 

 この後、しばらくの間、ティロ・フィナーレは二二三六グラム砲と杏子とかおりから悪ふざけ気味に呼ばれることになる。

 そう呼ばれる度に、マミはきっぱり断るべきだったと強く後悔するのだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 帰りの新幹線。

 駅前で見つけたご当地プリクラを三人で撮ることに成功した夜宵かおりは、手帳に挟み込んだプリントシートを飽きることなく眺めていた。

 

「そんなの風見野でも撮れるだろ」

 

 とは杏子の弁だが、夜宵かおりは無言で否定する。

 今までの関係は、友誼と呼べるものであったかもしれないが、あくまで魔法少女としてのものであり、今回、初めて普通の少女として接することができたと、彼女は思っていた。

 手帳に挟まれた小さなプリクラシートは、その証のようで、とても大切なものに思える。

 

「まぁ、いいんだけどさ。それより、あたしだけ新魔法見せたんじゃ不公平じゃん? 帰ったらマミさんとかおりの新魔法も見せてよ」

「自分から見せておいて不公平はないんじゃないかしら。でも、見たいというなら練習中の魔法でもお披露目しましょうか」

 

 杏子とかおりを並んで座らせ、自身はひとつ後ろの席に座っていたマミが、腰を浮かせて前の席を覗き込むようにする。

 

「わたくしは特に新しい魔法は考えておりませんわ」

「なんだよ、かおりは秘密主義かよ。まぁいいや、じゃぁマミさん今週末見せてよ」

「今週末までに、夏休みの宿題半分片付けたらね」

 

 不満げな顔を見せる杏子に、かおりはそっと耳打ちした。

 

「わたくしも巴さんの魔法見たいですし、宿題手伝ってもよろしいですわよ」

 

 杏子にも多少はプライドというものがあるのか、一瞬思案するような表情を見せた。しかしすぐに、神妙な表情で頷いた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 そして、夜宵かおりの積極的な協力もあって杏子の宿題は完遂され、次の週末にはマミの新魔法の発表会が催された。

 毎週行っている練習や手合せを消化した後、河川敷の開けた場所に集まり、マミが口を開く。

 

「マスケットにしろティロ・フィナーレにしろ、弾丸はリボンを丸めて作っているのね。だから途中でほどけてメテオーラのレールになったり、レガーレの起点になったりできるのだけど……。でも、やっぱり弾丸を火薬で撃ち出すっていう機構である以上、弾速にも限界があるわ」

「そうでしょうか? 巴さんの魔弾の速度に問題があるとは思えませんわ」

「あら、夜宵さんがそう言っちゃう? 夜宵さんの光の矢に弾速で負けたことも、理由のひとつなんだけど……」

「そんな。連射速度も違う上に、巴さんは複数の魔弾を一度に操るではありませんか、マシンガンとライフルを比べるようなものですわ」

「まぁいいじゃん。今より強くなるのに理由はなくてもいいだろ」

「そうね。……いま練習しているのは、弾丸じゃなくて魔力を継続的に撃ち出すもの、レーザーとかビームみたいな感じね」

 

 拾い上げた枯れ枝で、地面にイラストを描きながらマミが解説を続ける。

 

「だからマスケットの機構は使えないわ。YAGレーザーの構造を参考にして、新しいタイプのティロ・フィナーレを作っているの」

 

 自身の構造への理解を再確認する意味も含めて、マミは滔々とレーザー機構の説明を行うが、一分ともたずに杏子が根を上げる。

 

「とにかく、やってみてよ」

 

 遮られて苦笑するものの、気分を害した様子はマミにはなかった。もちろん彼女は感情を安易に表に出す人間ではないが、この場合はそうではない。家族の遠慮ない言葉に腹を立てる者がいないように、マミが杏子の言葉に立腹することはなかった。

 

「わかったわ。作るのに五分くらい要るから、その間ふたりで練習でもしててもらえる?」

「五分……戦闘時と考えると、なかなかに長いですわね」

「だから練習中。まだ実戦では使えないわね」

「必要とあらば、あたしが時間稼ぎすりゃいいじゃん。必要ないと思うけど」

「うん、必要に迫られてるわけじゃないのだけれど。カードは多い方がいいものね」

「んじゃ、マミさんが準備してる間に軽く揉んでやるか。来いよ、かおり」

 

 槍を肩に担いだ杏子は、犬歯を見せて笑う。応えて、かおりも笑みを見せる。

 笑うという行為には様々な意味があるが、この場合は前者が快意をあらわす不随意のスマイルであり、後者は挑発をあらわす随意のラフであった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 五本目の勝負をふたりが始めようとするタイミングで、マミが新しいティロ・フィナーレの完成を告げた。

 片や四連敗で受けた傷を自前の治癒魔法でケアしながら、片や汚れてさえいない魔法少女の装束を風に揺らしながら、ふたりの魔法少女がマミに近寄る。

 マミの傍らには、普段のティロ・フィナーレを一回り小さくした砲が、華奢な三脚に支えられて屹立していた。

 昼前の陽光を受けた白銀色の砲は鏡のように光り、その身に魔法少女三人の姿を映している――その中のひとり、巴マミがすっと手を伸ばし鏡面に触れた。

 

「これがティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータよ」

「練習中なのにしっかり名前はあるんだね」

「え、当然じゃない?」

「ま、まぁ当然ですわよね……」

「お前さ、なんでも追従すりゃいいってもんじゃねーぞ?」

「……それより巴さん、さっそく撃ってみてくださいな」

 

 促されたマミが頷き、砲身に添えた手から魔力を供給する。砲身に刻まれた幾何学的な線溝から、最初は淡く、そして徐々に強い光が漏れ、魔法少女たちの顔を照らしていく。

 

「試射は……空にしましょうか。飛行機も鳥さんもいないし迷惑にはならないわよね」

「よし、じゃぁ的代わりのファンタズマ出すよ」

 

 手品師が指を弾くような気軽さで、杏子は七つの魔女の幻影を遥か頭上に生み出す。但し、それらは遠目にも偽者であるのがはっきりと見て取れる、粗悪なダンボール人形のようなものであった。

 

「ひどい的ですわね」

「慣れてないモンはうまくは出せないんだよ、いいじゃん、分かるんだから」

「ええ、充分だわ」

 

 直上に浮かぶ銀の魔女、を模したオブジェクトを視線で捕らえると、マミは愛犬にするように優しく砲身を撫でた。

 

「お願いね、ヴェルシオーネ・イリミタータ」

 

 静かに語り掛ける。応えるように砲身が低く唸り、線溝から漏れる光を強くする。それが極まった瞬間に、一筋の光が天に向けて放たれた。

 発せられた魔力の膨大さとは裏腹に、無音に近いそれは、一瞬で雲を穿ち、その途中にある魔女のオブジェクトを蒸散させた。

 

「さぁ、行くわよ」

 

 ステップを踏むようなマミの指揮にあわせて砲身が動く。一筋の光条はそれにつれて踊るように動き、雲海に裂け目を走らせつつふたつめの魔女を破壊した。

 さらに砲身は身を傾がせ身を捻り、縦横無尽に光条を走らせて次々と魔女のオブジェクトを撃破していく。

 

「よーし、ティロ・フィナーレ!」

 

 最後のオブジェクトに向けて、号令とともに残った魔力の全てが放たれる。

 それは先ほどまでのか細い光条とは異なり、光の奔流となって遥か彼方の雲に大きな空洞を生じさせた。

 

 

 

「すっげぇじゃん」

「はい、お見事ですわ」

「実戦には使えないけどね」

 

 実用できないものを褒められて、マミは苦笑した。とはいえ、形にはなってきており、あと二ヶ月もすれば、それなりのスピードで繰り出せるようにできる自信はある。その自信に裏打ちされた謙遜であった。

 

「いや、さっきも言ったけど時間ならあたしが稼ぐし。でもさ、魔力はどうなの? 見た感じ消費すごそうだけど」

「魔力を増幅して撃ちだしてるから、そんなには使わないの。今ので普通のティロ・フィナーレ一回分ってところかしら」

「へぇ、いいじゃん」

「いいですわね。レーザーを参考にしているということは、前装式のマスケットとは違い連射可能なのでしょうか?」

「あ、それは試したことなかったわね。次の機会に試してみましょうか」

 

 既に砲身は幾百ものリボンへと解かれ、風に煽られるままに少女たちの頬や髪を撫でていた。その感触をしばらく楽しむと、マミはぽん、と手を打って全てのリボンを消し去る。

 

「さて、それじゃ引きあげましょうか」

「おう。かおり、今日はなんか作ってくれよ」

「あー……すみません、今日はちょっと調子が……」

 

 魔法少女の運命は自業自得だと言う向きもある。

 一理ある。奇跡という甘い砂糖菓子に群がった少女に、過酷な運命が課せられるのは、そうであるかもしれない。しかし、年端もいかない少女に、契約がもたらす代償を正確に理解し、自己の責任において決断しろというのは、過酷すぎるのではないだろうか。

 ともあれ、今現在夜宵かおりが立たされている苦境は、正しく自業自得であった。

 

 

 

第五部 マミさん、温泉旅行に行く   完



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マミさんの、魔法の国が消えていく
第三八話 マミさんの、魔法の国が消えていく


「こいつで、とどめだッ!」

 

 影の魔女から放たれた無数の触腕。

 横殴りの五月雨のように襲い来るそれをミリ単位で見切りながら、突進をしかける杏子。

 身体のわずかに横を高速で通過する触腕の群れは、衣裳の裾を斬り、髪を僅かに断ち、そして杏子の頬に一筋の裂傷を創る。

 

 頬の傷から、鮮血が舞った――だが、それだけだ。

 それ以上の打撃を与えることはかなわず、懐に魔法少女の侵入を許した魔女には、もはや抗う術はなかった。

 突進の勢いをそのままに乗せた大身槍の一撃が、魔女の体躯を串刺しにする。

 魔女の断末魔、それと同時。

 大身槍が消えた。

 

 それだけでなく、杏子の着ていた魔法少女の衣裳が消え、変身前に着ていたタンクトップにキュロットといった涼しげな普段着に戻る。後方で援護していたマミの衣裳も、同様に普段着へと変化していた。

 遅れて、結界の崩壊を示す鳴動が始まる。

 崩れゆく結界の中で、杏子は両膝をついていた。

 左の頬の傷が生み出す激痛に耐えかね、両膝をついた。うずくまるようにして肘もつく。

 影の魔女はグリーフシードを落としたのか、それを確認する余裕もなかった。――いや、確認する能力は失われていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 理由は、分からない。

 事実として、魔法少女としての力は失われた。魔法も使えないし、ソウルジェムも見当たらない。

 

 いつもなら、リング型のソウルジェムがはまっていた指を目の前でひらひらと動かす。手術を受けている家族を待つ、その所在なさを追い払うように。

 マミは、病院のロビーにいた。

 治癒魔法が使えないことで一時的にパニックになったが、すぐにマミは状況を認識し、杏子を抱き上げて病院へ走った。

 魔法少女にとっては取るに足らないかすり傷でも、普通の少女にとっては激痛を伴う大怪我。

 幸い、総合病院は結界の近くにあり、そしてすぐに縫合手術が行われた。

 

「杏子ちゃん……」

 

 堅い長椅子に腰を下ろしたマミは、もはや何度目か数えきれない溜め息をついた。

 生命に別状がないことは理解していても、後遺症はないのか、顔に傷は残らないのか、不安は幾らでもわいてきては、彼女の心を曇らせていく。

 そもそも、魔力の喪失は一時的なことなのか、そうでないのか。一時的なものであれば、魔力が戻ってから傷などいくらでも治せるのだが……。

 

「やだ……」

 

 頭を小さく振る。そんな時に、看護士がマミに声をかけ、手術の終了を告げた。成否ではなく終了を告げたことに他意はなく、失敗の可能性などないに等しい手術であるからだが、それでもマミは問い返した。

 

「ごめんなさい、伝え方が悪かったわね。もちろん成功よ。今夜は麻酔の影響もあるから入院してもらいますけど、問題がなければ明日にでも退院できるわよ。あとは抜糸のときに、また一日二日入院ですね」

「今日は会えないんでしょうか?」

「うーん、面会時間は過ぎてるし……。それに、まだ麻酔が効いてると思うわよ」

「それでも、一目見るだけでも結構ですので」

「んー、じゃぁ、五分だけね」

 

 泣きぼくろが特徴的な看護士は、最初からそうするつもりであったかのように、あっさりと折れた。

 

 

 

 

 

 

 午後十時。

 身体にまとわりつくような不愉快な蒸し暑さを我慢しながら、マミは家路を急いでいた。

 麻酔の影響で寝息をたてる杏子をたっぷり十分以上見つめてから、看護士に促されて病院を出たのは一五分ほど前。

 

「明日は、着替えとか用意して持って行ってあげなくっちゃ」

 

 病院のある中心街からマミのマンションまでは、比較的明るい道ばかりであったが、それでも深夜のひとり歩き。普通の少女となったマミには心細い道程であった。

 そのためか、独り言が増えた。

 

「もしかしたら退院は明後日になるかもしれないから、ちょっと多めに持って行った方がいいわよね。果物とかは食べられるのかしら?」

 

 花の香りが漂う緑道を歩く。街灯と街路樹が作る不規則な影が、街路樹の葉のかすれが起こすささやかな音が、マミの心に少しの恐れをもたらして口数を増やさせる。

 

「ご飯が食べられないと……点滴だけじゃ杏子ちゃん足りないだろうから、すりおろした果物とかもいいかもね」

 

 蒸し暑さから来るものだけではない、嫌な汗がマミの肌を濡らしていく。魔法をなくしてしまうことがこんなに心細いなんて、と僅かに思い、そして頭を振ると、ことさらに明るい声を出した。

 

「なんだかちょっとしたピクニックみたい……って、楽しんじゃいけないわよね」

 

 ようやくマンションの前に着いた時、レモンイエローのブラウスは汗を吸って肌にはりついていた。部屋に入り衣服を脱ぐときに、マミはその重さに驚いたほどだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日。

 左の頬に大きな絆創膏をつけたベッド上の杏子は、登山用のリュックサックを持って病室に訪れたマミに驚き、そしてリュックサックから出てくる色々なものを眺めるにつれ、驚いた顔を呆れた顔に変化させていった。

 

「マミさん、遠足にでも行くつもりだったの?」

「だって、何が必要か分からないじゃない。多すぎても問題ないけど、足らないと困るし……」

 

 杏子は呵呵と笑おうとし、傷が痛んだのか慌てて頬を手で覆う。

 

「大丈夫?」

「あー、うん。急に動かすとちょっと痛むみたいだね」

「ごめんね」

 

 突然に目を伏せて謝罪するマミに、杏子は意図が飲み込めずきょとんとして問い返す。

 

「私がしっかり援護できていれば、そんな傷、負わなくてすんだのに」

「何言ってんだか。これはあたしが横着してしっかり避けなかっただけだよ。普通に避けて攻撃してれば良かったんだけどね……」

「魔法で治せればいいのだけれど」

「なんで使えないんだろうね。ソウルジェムもないし、痛覚も抑えられないし、これじゃまるで普通の女の子に戻りますってやつだよね」

「そうね。そうなのかもね」

 

 それにしても、と考える。理由が判然としないのは、なんとも居心地が悪い。

 良い理由であれ悪い理由であれ、理由があることは精神の安定につながるが、それがないことはやはり不安をもたらす。

 

「キュゥべえがいればいいのだけれど」

「こんな時に姿くらましやがって。ほんと迷惑な奴だよね」

「ふふ……、そうね」

 

 いや、ここにいるんだが、キミたちが知覚できないだけだよ、と杏子のベッドの脇にいるキュゥべえが応えたが、その言葉の通り、マミにも杏子にも伝わることはなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「マミさん、別に、普通のご飯でも大丈夫だって」

 

 退院してから三日。頬の傷をおもんばかってか、毎食がグラタンや茶碗蒸し、素麺といった強く噛む必要のないものばかりであった。それに飽き気味の杏子が、本日の夕飯として並べられたスープカレーを見て、肩を竦めて言った。

 

「でも……お医者様も柔らかいものの方がいいって仰っていたもの。大丈夫、栄養のバランスは考えてあるから」

「栄養じゃなくて満足感のバランスがねー」

「デザートたくさんつけるから、ね?」

「アイス?」

「え、果物のつもりだったけど……しょうがないわね」

 

 もともとマミは杏子に対して甘い部分があったが、彼女が怪我をしたことで拍車がかかっていた。食事を終えると彼女の言うがままにデザートを用意し、仲良く食べながら、口を開いた。

 

「明日はどうしましょうか。宿題も終わらせてあるし、けっこう自由時間あるわよね」

「できれば、風見野の教会を掃除しに行きたい、かな」

「うん、オッケ。そうしましょ。一ヶ月くらい行ってなかったものね」

 

 幅広のスプーンでラムレーズンのアイスすくいながら、マミと杏子はどちらからともなく微笑む。美味しいものを食べると笑顔になる、というが、この場合は異なる理由からだった。

 

 

 

 

 

 

 明けて翌日。

 朝の早い時間から電車で移動したマミと杏子だったが、教会周りの掃除と草むしりはかなりの時間を要し、日が天辺に近づく時間になっても、まだ半分程度しか終わっていなかった。

 

「あ、あちい……」

 

 マミはストローハット、杏子はサンバイザーで一応の対策はしているものの、焼け石に水。玉のような大粒の汗が額やうなじを滑り、ほつれた髪を肌にはりつけていく。

 

「杏子ちゃんは木陰で休んでた方がいいかも。あまり汗かくのは怪我にも良くないでしょ」

 

 肩にかけたタオルで額を拭いながら、マミが杏子に促す。杏子も同様にタオルで首筋を拭きながら返した。

 

「絆創膏があるから大丈夫じゃないかなぁ」

「ダメです」

「でも、マミさんひとりじゃ草むしり終わんないよ?」

「頑張ります」

 

 不意に、杏子が破顔した。頬が少し痛んだが、表情には出さずに笑いを続ける。

 

「マミさん、ときどき意固地だよね」

「え、そうかしら……?」

「自覚ないんだ」

「自覚もなにも……杏子ちゃんのカン違いじゃない?」

「まぁ、それでもいいけど。そんじゃ少し休んで、教会の中を掃除してこようかな」

「そうね、それがいいわ」

 

 立ち上がり伸びをすると、ずっと屈んだ姿勢で負荷がかかっていた膝が解放されたような心地良さがあった。それに気を良くした杏子は、歩幅を広く取って教会へと向かう。

 だが、窓も扉も閉められたままの教会は、灼熱地獄そのものだった。彼女は一歩教会に踏み込むと、

 

「外より暑いじゃん……」

 

 と呟き、傍にある長椅子にへたり込むようにして腰を下ろした。幸いにして木製の長椅子は直射日光の洗礼を浴びておらず、ひんやりとしていた。

 

 

 

 

 

 

 扉と窓を開けっぱなしにしていたおかげで、昼食をとるためにマミが教会に入る頃には、室温は外と変わらない程度に落ち着いていた。それでも、一歩踏み込んだマミは「あっついわね……」とこぼして、長袖Tシャツの胸の部分をつまんでぱたぱたと空気を送り込む。

 

「はしたないなー」

 

 はたきを片手に持った杏子がその様子を見とがめて、からかうような口調で言う。いつもの逆のパターンに、指摘されたマミは頬を赤らめてしどろもどろとなった。

 

「あら、ごめんなさい、つい……」

「まぁ、マミさんは汗かきそうだしね」

「もう、意地悪なこと言うわね。それより、お昼にしましょうか」

「いいね、しようしよう」

 

 

 

 

 

 

 教会の一隅の机の上にバスケットと飲み物を広げ、マミと杏子は隣り合って座っていた。

 

「やっぱりバスケットだと、柔らかいものばかりってわけにはいかないね」

 

 甘いソースのまぶされたカツサンドを口いっぱいに頬張り、ご満悦といった様子で杏子が微笑む。柔らかめのパンで、耳を落として作っているものの、具材の全てを柔らかいものに統一することはできなかったようで、最近の食事から外されていた揚げ物もはさまれている。

 

「あー、それが狙いだったの?」

「どうかなー」

 

 続いて苺、蜜柑、バナナを薄くスライスし、生クリームを絡ませたフルーツサンドを口に運ぶ。食事向きのものもデザート向きのものも、順番お構いなしで食べる杏子のワイルドさに感嘆しつつ、マミはウェットティッシュで口元を拭った。

 

「まぁ、いいわ。そろそろ硬いの増やしていこうと思っていたし」

「そうなの?」

「でなければ、こんなお弁当作らないわよ」

 

 悪戯っぽく告げて、花が綻ぶよう笑うマミを見ると、つられて杏子も声を出して笑う――頬は動いたはずだが、不思議と痛みは感じなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 日が傾く頃に、ようやく掃除と草むしりは終わり、マミと杏子は地下室を使って掃除用の服から普段着に着替えた。その間、ふたりとも意識してかせずか、お互いの左手をちらちらと見やった。かつてそこにあったものが、今はないことを確かめるように。

 

「いつもならパトロールの時間だね」

「そうね……。心配?」

「多少は……ね」

「考えてもしょうがないわ。私たちには魔法少女の力はないんだもの」

 

 性格的に、マミは自分よりもよほど心配しているだろうと杏子は思っていたが、応えるマミの様子はその推測を否定していた。マミは続ける。

 

「もしかしたら、私たちは充分戦ったから、神様がもういいよって許してくれたのかも」

「んと……マミさんはそれでいいの?」

「うーん。いいも悪いもないんじゃないかしら? 事実そうなっているんだし」

「そっか」

 

 腰を下ろし、スニーカーの紐を結ぶ杏子の背後から、マミは抱き締めるように身体をかぶせた。そして、瞳を閉じると静かな声で囁く。

 

「杏子ちゃんは、優しいのね」

「そうでもないと思うけど」

 

 杏子は手を止め、しかし振り返ることはせず、そのままの姿勢で返す。

 

「ううん、立派」

「たぶんだけど、もしあたしが立派なのなら、それはマミさんが立派だからだと思う」

「なにそれ」

「マミさん」

「なぁに」

「あったかい」

「あったかいね」

 

 蝉の声が響いていたが、ふたりは静寂の中にいた。お互いに身じろぎひとつせず、互いの体温を確かめながら。

 魔法少女でなくなった理由はいまだ得られず、今の自分たちの置かれた状況が分からない不安はあった。それでも、彼女たちは、このままでいられれば良いなと願っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 映画にボーリングにカラオケと、同世代の少女たちが行うような遊びは縁遠かった。

 魔法少女としての使命を最優先に考えるマミは、そういった娯楽に時間を浪費することを良しとせず、学業と家事といった「正しい」こと以外の時間の全てを魔法少女の活動に捧げていたからだ。

 その反動なのか、今までできなかった分を取り戻そうとするかのように、連日マミと杏子は街に繰り出し、様々な遊びに興じた。

 恋愛映画を見ては涙し、ボーリングでガーターをとっては笑い、カラオケでは音程を外してふざけあった。

 そして、遊び疲れるまで遊んだ日の夜。

 

 

 

 

 マミは、ベッドの上で右に左にと身体をねじった。寝返りとまではいかない。敷き布団と掛け布団のひんやりとした場所を求めて、身体をうごめかせているだけだ。

 厚手のカーテンからは、ささやかな星明かりだけがうっすらと差し込んでいる。まだまだ夜明けは遠い時刻のようだ。

 マミは生来寝起きが良く、ほとんどの場合目覚まし時計に先んじて起きる。しかし、今日のそれは早起きという言葉はふさわしくない、まだ真夜中だから眠りが浅いと呼ぶべきだろう。

 まぶたを少し持ち上げ、蛍光塗料で光る壁掛け時計を見やる。ぼやけた視界の中で淡く光る長針と短針を確認すると、目覚まし時計が働く時刻までたっぷり三時間はあった。

 重いまぶたといい、朦朧とした意識といい、睡魔の兆しは身体のそこかしこにあるのだが、布団のひんやりした場所を探し蠢くほどに、身体がじんわりと火照っていた。

 

「ん……熱っぽいのかしら……」

 

 呟くも思考は回らず、身体をもぞもぞとさせる。そんな行為を繰り返しているうちに、再びマミの意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 目ざまし時計の音で意識は半ば覚醒したが、身体は鉛のように重く、アラームを止めることもままならなかった。

 少しの時間が過ぎ、音に気付いた杏子がやってくる。彼女が部屋に入ってきたことも、そして目覚ましを止めたことにも気付かず、ベッドの上でマミは蠢く。

 

「マミさん、大丈夫?!」

 

 揺する。それによってマミは瞳を開けた。まだぼんやりとした視界の中に、自身を心配そうに覗き込む杏子の姿が像を結ぶ。

 

「あ……」

 

 なんの言葉を紡ごうとしたのか、マミ自身にも分からなかった。

 マミの遅滞した思考が働くよりも早く、杏子はマミの額に手をあてる。そして小さな声でも届くように、膝を屈して顔を近づけた。

 

「マミさん、熱すごいよ」

「ねつ……?」

「うん、熱。風邪なのかな……」

 

 体温計と薬を取るために杏子が動こうとしたが、マミの言葉がそれを止めた。

 

「手……しばらくこうしてて……ひんやりして気持ちいい」

「あい、お安い御用で」

 

 苦笑を漏らす。普段の凛とした様子はなりを潜め、幼子のように甘えたマミの仕草に、杏子は妹をあやしている気がして既視感をおぼえた。

 喉を撫でられる猫のように目を細め、恍惚とした表情を見せていたマミだが、数分たって杏子が手を浮かせると、むずがるような非難の声をあげた。

 

「あ、だめ……」

「大丈夫」

 

 安心させるために微笑むと、もうひとつの手をマミの額にあてがい、馴染ませるように小さく動かす。そしてマミが気持ち良さそうにする姿を見て、今度は心からの微笑を漏らした。

 

「こっちもう冷たくないでしょ。逆の手でしてあげるよ」

「うん……ありがと……」

「落ち着いたら、ご飯用意するね」

「ん……だいじょうぶ?」

「あんまり期待はしないで欲しいかな」

 

 手が熱を帯びてきたらもう片方と替える、ということを何度か繰り返しているうちに、マミは再び眠りに落ちた。それでも杏子は律儀に同じ動作を繰り返す。

 結局、昼前になってマミが目を覚ますまで、杏子はずっと繰り返していた。辛抱強く、という表現はこの場合適切ではない。マミのあどけない寝顔を眺めながら行う動作は、なんら苦痛をもたらさなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんね、明日から入院なのに」

 

 ベッドに腰掛けたマミは、杏子の作ったすりおろし林檎を匙で口に運ぶ。熱は相変わらずで身体はだるいが、充分に睡眠をとったおかげか、意識ははっきりとしていた。

 

「頑張って今日のうちに治すね」

「頑張らなくていいけど、病気のマミさんを残して入院したくはないから……治ると嬉しいかな」

「うん、任せて」

 

 小さくガッツポーズをとるマミの頭を、杏子があやすように撫でる。

 

「偉い偉い」

「もちろんです」

 

 と、正午を告げる鐘を壁掛け時計が奏でた。マミの食器に入った林檎が八割方なくなっていることを確認して、杏子が口を開く。

 

「風邪薬持ってきていい?」

「え、いいけど、どうして聞くの?」

「朝は、取りに行かなくていいから撫でてろーって言ってたからね」

「えー、そうだっけ?」

「都合の悪いことは覚えてないんだなぁ」

「そ、そうなのかしら……」

 

 匙を口に含み、乳幼児が行うようにねぶるマミは、気恥ずかしさからか耳までを朱に染めていた。杏子はそれ以上からかうことはせず、彼女の頭を強く撫でてから腰を浮かせ、薬を取るためにリビングに向かった。

 杏子の後姿を見送るマミは、ちゅぅっと音をさせて匙を吸い、そして自分の行いの子供っぽさに、当惑したような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

「苦いけど、我慢して飲みなよ?」

「もう、お薬くらい大丈夫よ……」

 

 風邪薬を白湯で流し込むマミは、言った手前もあって平気な顔をしていたが、その実は苦味に渋面を作らんばかりだった。口全体に残る苦さを誤魔化すために湯呑み一杯の白湯を飲み、ふぅ、と小さく息をつく。

 

「また横になってなよ。頭、撫でててあげようか?」

 

 空になった湯呑を受け取りつつ言った杏子は冗談のつもりだったのだが、マミは横になりながら「お願い」と小さく呟いた。

 

「たくさん寝て早く治さなくっちゃだもの」

「弱ってるのかやる気があるのか、よく分かんないね」

「どっちもです」

「どっちもですか」

 

 じゃれあうように言葉を交わし、そして微笑む。小さく静かな笑みは、マミからは風邪の気だるさを、杏子からは頬の痛みを忘れさせていた。

 そんな安らかな時間が、ゆっくりと過ぎる。

 朝に比べるとマミの熱もだいぶ引いており、杏子の手はさして冷たさを供するものではなくなっていたが、それでもマミにはとても気持ちが良く感じられた。手の振れた場所から温かいものが広がり、身体中の弱ったところを癒してくれるような……。

 ずっと瞑目していたマミがそっと目を開けると、そこには慈しみの表情を見せる杏子の顔があった。

 

「魔法は使えないけど……私ね、人の手には、魔法なんてなくても、もともと癒す力があると思うの。子供の頃、怪我した時や熱が出た時、ママが手を当ててくれるだけでずいぶん楽になったもの」

「今、少しは楽になってる?」

「ええ、とっても……」

 

 マミは布団から手を伸ばし、杏子の空いている方の手を掴む。

 

「魔法で治してもらうより、こうやって手を当てていてもらう方が、温かいわ」

「うん、そうだね。そう思うよ。……魔法がない方が、わかることもあるんだね」

 

 蝉の声が響いていたが、ふたりは静寂の中にいた。僅かに触れた手と手、手と額から、互いの体温を確かめながら。

 魔法少女でなくなった理由はいまだ得られず、今の自分たちの置かれた状況が分からない不安はあった。

 それでも、彼女たちは、このままでいられれば良いなと願っていた。



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第三九話 マミさんの、魔法の国がよみがえる

 いつの間にか、杏子まで眠っていた。

 ベッドで静かな寝息をたてるマミに覆いかぶさるように、杏子が上半身をあずけている。

 蝉の声とエアーコンディショナーの静かな駆動音だけが響く部屋は、夕焼けに照らされて赤の色に染められつつあった。

 

 

 

 先に目を覚ましたのは、マミだった。

 目が覚めてすぐに、くぅ、とお腹が鳴る。マミは赤面しながらも、意識や身体の調子から、病魔がほぼ去っていることを認識した。

 すぐに起きて夕飯の支度や明日の入院の準備をしたいところだったが、彼女の上半身に覆いかぶさっている妹の存在がそれを許さなかった。

 彼女を起こすことも、そっと身体を動かすこともはばかられ、マミはそのままの姿勢でいる。手だけ伸ばして、彼女の頭をゆっくりと、髪を梳くように撫で、彼女が目を覚ますまでそれを繰り返す。

 

「風邪をひくなんて、本当に普通の身体になっているのかしら……」

 

 その言葉に応える存在は、マミの認識ではいなかった。

 

 

 

 

 

 

 夕陽に赤く染まっていた部屋が、薄闇になる頃。

 杏子は少しばかりの涎で口元を濡らした状態で、目を覚ました。

 寝起きのいいマミに対して、その対極にある杏子にとっては、目を覚ますことと意識の覚醒はイコールではつながらない。

 だから、おはようと声をかけられても、まだ夢の中にいるような心持ちだった。

 

「おはよう」

 

 時間をおいての二度目の呼びかけに、ようやく杏子の意識がうつつに戻ってくる。しかし、まどろんだ瞳が光を取り戻し、呆けた意識が現状を把握するには、もう少々の時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 現実の世界に戻った杏子は、開口一番謝罪の言葉を口にした。

 

「あー、ごめん……」

「なにが?」

「だって、頭を撫でてるって約束したのに寝ちゃって……」

「ううん、私が眠るまではしててくれたんだもの。充分すぎるわよ」

 

 お返しとばかりに、今はマミが杏子の頭を撫でさすっている。杏子はそれを気持ち良さそうに受け入れ、マミの胸の上で幸せそうな表情を見せていた。

 

「うん……調子はどう?」

「たぶんばっちり。起きて動いてみないと、分からないけどね」

「ほんと? ……良かった」

「うん、おかげさまで、ね。さて、それじゃ夕飯の支度しないとね」

 

 言外にスキンシップの終わりを告げるマミに、杏子はおずおずと彼女の顔を覗き込む。

 

「しばらくこうしてていい?」

「もう、甘えんぼさんね……」

「誰かに似ちゃったかな」

「誰かしら」

 

 spending time。直訳すると時を過ごすとなるのであろうが、その言葉にはそれだけでは納まらない情緒的な意味があった。そしてこの場合は、まさしくそれにあたった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日の抜糸手術は、午前中のうちに行われた。

 昼下がりには麻酔も解け、ベッドに横になった杏子は、遅めの昼食をいただきながら付き添いのマミと談笑に興じていた。

 そこに、看護士を伴って担当医が訪れ、術後の説明を始める。

 

 傷痕を残さないようにと、針数を多くして縫っていたのだが、抉られるような創傷がいけなかったのか。医師は申し訳なさそうに、頬に傷が残ることを告げた。

 それを聞いて、当の本人はあまり気にした風もなかったのだが、マミが泣き出さんばかりに――いや、落涙こそしていないものの、瞳を潤ませている姿は、泣いていると表現すべきかもしれない――担当医に質問を矢継ぎ早に浴びせる。

 といっても、責め立てるような言葉ではなく、時間をかけても痕を消せないのか、なにか痕を小さくするために出来ることはないか、といった内容だ。

 真摯に受け答えする担当医だったが、しばらくすると、杏子が制止した。

 

「マミさん、ありがとう。でも、大丈夫だから。先生も、ありがとうございました」

 

 そして、担当医と看護師が去ると、明るい声と、その声の調子に似合った表情を見せた。

 

「いいよ。傷痕があるなんて、本当に普通の人間に戻ったんだなって実感わくよ」

「……でも、それだったら杏子ちゃんじゃなくって、私に傷がつけば良かったのに」

 

 一方のマミの声はまだ湿っていた。そして表情も、それに倣っている。

 

「だめだよ、あたしなら百均のコップが割れるようなもんだけど、マミさんだとジノリのカップにヒビが入るようなもんだよ」

 

 ジノリのカップは、マミの父母が記念の品として大切にしていたものだ。杏子と知りあった当初、マミはそれらを決して使用せず、食器棚の奥に飾っていた。いつの頃からか、杏子とお茶を楽しむときのペアカップとして普段使いになっていたのだが、そのカップを指して杏子が主張した。

 

「そんなことない」

「まぁ、なんだ。多分あたしは生傷絶えないと思うから、こんなもん気にならないよ」

「おしとやかにしないと。もう来年は高校生なんだから」

 

 やぶ蛇だったかと杏子が舌を出しておどけた表情を見せると、ようやくマミの表情が柔らかいものになった。

 

「なんだかお腹がすいちゃった。杏子ちゃんも病院のご飯じゃ足りないんじゃない? 何か買ってきましょうか?」

「あれだけまくしたてれば、カロリーも使いそうだしね」

「まぜっかえすのなら、何も買ってきませんよ?」

「あー待ってよ、じゃぁ、冷たいものがいいなぁ」

「わかったわ」

 

 マミはポーチを片手に持ち、丸椅子から立ち上がった。そして、ひらひらと手を振ると、速足で病室を後にする。

 その後ろ姿を見送った杏子は、深く息をつくと、寂しそうな表情で視線を落とした。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 杏子ちゃんはしっかりしてるなぁ。自分はもっとしっかりしなくちゃ。

 そんなことを考えながら、マミは駅前の百貨店まで来ていた。歩きなれた地下フロアを巡りながら何を買っていこうかと思案する。

 

「冷たいものっていうと……」

 

 馴染みの店で考えると、果物のジェラートかメロンパン生地のシュークリーム、あとは寒天系の和菓子あたりが候補に思い浮かぶ。

 自分の好みで選ぶとジェラートだが、杏子の好みを考えるとシュークリーム。ただ件のシュークリームは口を大きく開けてかぶりつく感じになる。抜糸直後の杏子に負担にならないだろうかと考える。考えは堂々を巡り、その間にさして広くはない地下フロアを何往復もした。

 

「お医者様は大丈夫だって仰ってたけど、やっぱり心配よね」

 

 よし、決めた、と呟いてくるりと方向転換したマミは、しかしすぐに足を止める。

 

「カロリー大丈夫かしら。パトロールも戦いもしてないから、身体あんまり動かしてないし……」

 

 小首を傾げ、しばしの沈思。そして判断材料にカロリーを加えることで、さらに歩く方向を変えて和菓子の店に向かう。

 ここまでで病室を出てから一時間弱が経過しており、本来ならば杏子に「遅い」と文句を言われることは避けられなかっただろう。しかしながら、そうはならなかった――マミが病室に戻った時、そこに杏子の姿はなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

「おかしいわね、できるだけ歩き回らないようにって看護士さんも仰ってたのに……」

 

 丸椅子に腰かけ、ベッドに手をあてがうと、まだほのかに杏子の温もりが残っていた。さっきまでベッドにいたのだろうと考えたマミは、杏子の行き先をおそらくお手洗いだろうと推測し、彼女の帰りを待った。

 そして、十分程度の時間が過ぎ、「溶けちゃうものにしなくて良かった、かも」とマミがひとりごちた時のこと。

 

 いいようのない胸騒ぎを感じた。

 彼女にまだ魔法少女の持つ感知能力が残っていたのか、それとも人間が本来持つ大切な人との共感能力の発露なのか。いずれにせよ彼女は、大切な家族の身に危険が迫っていることを知覚した。

 

 走り出す。

 乱暴に立ちあがった時に何かが触れたのか、買ってきた和菓子が床に落ちる音が後方でした。しかし、マミが振り返ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 やみくもに走った。

 廊下ですれ違う看護士の「走らないように」という注意も無視し、階段を歩く老人を充分に避けることなく接触気味に追い越して。

 一四階もあるのだからしょうがないのだが、息があがる自分の身体が恨めしかった。

 ようやく杏子の姿を見つけたのは、一三階にある別棟への渡り廊下。

 

「杏子ちゃん!」

 

 医療関係者に見とがめられれば確実に「静かにするように」と注意される声量だったが、杏子はその声にも反応を示さず歩みを続ける。

 幸いにして杏子の歩みは遅く、息を切らしたマミでも容易に追いつくことができた。

 追いついたマミは、彼女の名を呼ばわりつつ、引き留めようと肩を掴む。

 そして、絶句する。

 彼女の首筋に、魔女の接吻を見たからだ。

 肩を掴まれ、緩慢な動作で振り返った杏子は、マミの姿を見ても何の反応も示さず、ただ左の頬を手で隠すように撫でていた。

 その顔は、今にも泣き崩れそうなものに、マミには見えた。

 

「あぁ、そっか……」

 

 決して振り払うような動作を杏子がしたわけではなかったが、マミの手が力なく離れる。彼女の身体を掴む権利がないと、マミが思い込んだからだ。

 

「当たり前よね。女の子なんだもん、気にするよね」

 

 自分に気を遣って、なんでもないように振る舞っていた杏子の思い遣りと、それに全く気付かなかった自分の能天気さに、マミは己を嫌悪した。ともすれば、マミまでもがその虚をつかれ、魔女の接吻を刻まれかねないほどに。

 

「なにが杏子ちゃんはしっかりしてるよ。勝手にそう思って、杏子ちゃんの痛みに気付いてあげられなかっただけじゃない。それとも、ほんとは気付いていたけど、そう思うことで自分だけ楽になりたかったのかしらね」

 

 そんな自嘲をしているうちに、杏子はマミの手の届かない距離まで歩いていた。渡り廊下の中ほどに現れた魔女の結界にその身を呑まれていく。

 

「待って!」

 

 駆けるも、足がもつれて転ぶ。転んだまま手を伸ばすが、全く届かない。

 

「あぁ……」

 

 結界に呑まれ消えた杏子の背中を求めて、立ち上がるとよろめく足取りで駆ける。しかし結界はその入り口を閉ざし、マミの侵入を拒んだ。魔法少女の頃のように手を当ててみても、結界はなんの変化も示さない。

 拳を固め、こつこつと叩いてみる。やはり変化は見られなかった。無力感に苛まれたマミの頬を熱いものが滑り、床をぽつぽつと濡らす。

 

「私に魔法少女の力があれば……」

 

 そこに、声が響いた。

 

『巴マミ、キミは望むなら再び魔法少女の力をその手にできる』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「キュゥべえ……?」

『しばらくぶりだね、マミ。キミが望むのなら、魔法少女の能力を再び与えることができる。もちろん、魔法少女の責務も宿命も同時に再び背負うことになる』

 

 渡り廊下の大きな窓が開いていた。そこに、キュゥべえの姿があった。彼は床へ飛び降りると、落ち着いた様子でマミの元へ歩み寄る。

 杏子を助けるために切実に欲しいと願った魔法少女の力、しかしマミはキュゥべえの問いかけに即答できなかった。

 

 来る日も来る日も魔女との戦いに時間を奪われ、実力が及ばないか、運が足らなければ命を落とす。

 そして実力と運に恵まれてもいつかは魔女となって果てる。

 それが逃れえぬ魔法少女の運命。マミは実力、テリトリーともに恵まれていたので思い至らないが、さらには魔力供給に窮する苦しみも加えられる。

 彼女の明敏な頭脳は瞬時にそれらのイメージを思い描き、結果として彼女の肩は小さく震える。

 

 ――……怖い。

 

 それが偽りのないマミの心境だった。

 キュゥべえに返す言葉を定めることが出来ず、視線を落とすと唇を噛んだ。

 力量に恵まれた彼女とて、一度は舞台装置の魔女を相手に命を落とし、二度三度と生命の危機を迎えている。再び魔法少女となれば、近い将来に死は訪れるのだろう。それは絶望的な未来と彼女には思えた。

 では、と考える。では、今魔法少女としての力と運命を拒否したら、未来はどうなるのか。考えるまでもなく、佐倉杏子は今日ここで命を落とし、巴マミは唯一の家族を失う。そして、杏子を見捨てた後悔を抱いて生きていくのだろう。やはりそれも、絶望的な未来と彼女には思えた。

 

 大粒の涙がこぼれた。

 それは、魔法少女の運命を再び背負うことへの恐怖によるものではなかった。

 その恐怖に怖じけて、たったひとりの家族を救うことにさえ躊躇いをおぼえる自分への嘲りの涙だった。

 

「だめだなぁ、私。ずいぶん強くなったつもりだったけど、ちょっと普通の女の子に戻って過ごしたら、この通り。……私の覚悟なんて、状況に追い立てられて、しょうがなく出来たものでしかなかったのね」

 

 笑顔があった。諦観に至ったのか、彼女の表情も声も、穏やかなものだった。

 

「ごめんね杏子ちゃん。あなたの前では、こんな情けない姿は見せないから」

『……返事はどうだい、マミ』

 

 急かすつもりはないのか、のんびりした口調でキュゥべえが尋ねる。

 

「私は、魔法少女の力と運命を受け入れるわ、キュゥべえ。さぁ、私に力をちょうだい!」

『そうか。ボクとしては魔法少女に戻ることは決してキミのためにはならないと思うが……。』

「はやく!」

『……わかった』

 

 キュゥべえが契約の遂行を告げると、開け放たれた窓から、一陣の突風が吹いた。

 突風はマミを中心にしてつむじ風となる。彼女の足元に次々と咲く花びらをつむじ風が舞い上がらせ、彼女の身体を覆い隠していく。

 花びらのカーテンの中で、マミはその身を魔法少女へと変える。

 太陽と蜂蜜の色をした柔らかいスカート、華奢な腰をさらに締め上げるダークブラウンのコルセット、豊かな乳房を包み込むオフホワイトのブラウス、そして黄金色の髪にふわりと被せられたベレー帽。

 

 つむじ風が爆ぜ、花びらが霧散する。

 マミは風で揺れる髪を押さえることもせず、魔女の結界に掌を押し当てた。

 一刻も早く杏子を助ける、それだけが彼女の心を占める事象であり、他は全て些事。

 乱暴に、魔女の結界の入り口を破った。

 そしてキュゥべえを顧みることなく、結界へと身を躍らせた。

 その姿を見送るキュゥべえは、テレパシーではなく、肉声で呟いた。

 

「ボクはどうして、彼女が魔法少女に戻らない方が幸せだ、なんて思ったんだ……?」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 杏子に追いついたマミは、彼女に催眠魔法を施し、横にさせた上でリボンの絶対領域で包んだ。

 

「すぐ倒してきます。待っててね」

 

 その言葉の通り、使い魔を撃退する時さえ足を止めずに結界の深部へ急いだマミは、すぐに結界の主と相対した。

 ハコの魔女。

 対象の心をスキャンして心的外傷を抉るような虚像を見せる、精神攻撃を得意とする魔女だ。

 魔女は、得意の技をマミに対して仕掛ける。彼女の目の前に自らのモニターを広げ、虚実含んだ様々な映像を見せつける。

 それを受けて、マミは感情の読み取れない表情のまま、呟いた。

 

「そう……あなた、そういう魔女だったわよね。確かに、魔法少女の使命を忘れて安穏に生きようとしていた今の私には、効果的かもね」

 

 黒色の手袋に包まれた手を伸ばし、映像が切り替わるたびに明滅するモニターに触れ、撫でる。

 

「まるで無数の毒針を生やした蔦で、人のこころを絡めとるような……悪意に満ちた嫌な攻撃ね。私の弱いこころなんて、すぐに壊されてしまいそうだわ」

 

 堪えきれないような笑いがマミから漏れる。それは徐々に大きくなり、やがて哄笑へと変わる。傍目には、気が触れてしまったのかと映るが、そうではない。

 

「でも無駄だわ。私の心は今、怒りで燃え滾っている。あなたがどんなに猛毒の蔦を伸ばそうが、私に触れれば一瞬で燃え尽きるわ」

 

 魔女の精神攻撃はマミには届いていなかった。より強い感情――魔女への憎悪、そして自分への嫌悪――で塗り固められた巴マミの精神には、精神的外傷をえぐる攻撃も痛撃を与えることはかなわない。

 

「相手が悪かったわね……とは言わないわ」

 

 空中に四つ浮かんだマスケットが魔弾を放つ。魔女の両翼とモニターを砕き機動力を奪った魔弾は、そのままリボンへと還り魔女の身体を拘束した。

 魔女が抵抗を試み、身動きひとつ出来なくなっていることを自覚する頃、マミの肩口から、下腕から、グローブから、まるで衣裳がほつれるかのように、細くしなやかな糸状のリボンが無数に伸びた。

 波打つように蠢くリボンのワイヤーは、十重二十重に魔女の体躯を絡め取り、そして魔女の身体を切り刻むべく締め上げる。

 

「そういえば、前もあなたをこの技で倒したわね。名前つけたの。聞いてくれる?」

 

 問う。そして答えを待つ時間も与えずに、告げる。

 

「アディオ・アバラッツォ。……さよならよ」

 

 言葉とともに、ワイヤーが魔女の身体に深く沈み込む。それらは、互いに干渉することなく、ただ魔女の肉体を小片へと切り刻む目的に沿って機能した。

 身体を幾千の小片へと微塵に斬られ、ハコの魔女は絶命する。その直前、細切れになったモニターに血塗れの父と母の姿が映った。それをマミが認識するのと同時、魔女はその存在を無に帰した。

 

 ――パパ、ママ、ごめんなさい。きっと天国で会うことは叶わないけれど……。

 

 

 

 

 

 

 グリーフシードを回収したマミは、身体に染みついた流れ作業でソウルジェムの浄化を行おうとする。

 その最中にふとソウルジェムを見やると、先の戦いの時と変わらない輝きを宿していた。前の戦いから約二週間。本来ならば魔法を使わなくても多少の穢れが発生している時期だが――

 

「本当に、ソウルジェムに、魔力に頼らない身体になっていたのね。安心したわ」

 

 それは、杏子が魔法少女に戻ることなく、人生を全うすることができることを保証している。少なくともマミにはそう思えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「あ、やっと起きた?」

 

 病室のベッドで目を覚ました杏子は、木の花の咲くような笑顔を見せるマミの温かな声を聞いた。

 何か手足がだるい、そう杏子は感じたが、表情には出さずに同じように笑った。

 

「ごめん、寝ちゃってた?」

「えぇ、せっかく美味しいもの買ってきたのに」

 

 唇を尖らせるマミの仕草に、僅かに芝居がかったものを感じた杏子。だが、特に理由に心当たりがないこともあり、気のせいだろうと判断して食欲を優先する。

 

「じゃ、早速食べようよ」

「でも、もう夕飯の時間が近いわよ」

「いいじゃん」

「いいのかしら」

「ちゃんとご飯も食べるって」

「まぁ、杏子ちゃんなら大丈夫だとは思うけど……」

 

 既に受け答えしながら、マミはベッド横のテーブルに涼しげな和菓子を並べていた。そして、マミの直近の言葉をゴーサインと受け取った杏子は、手を伸ばして鹿の子を摘まむ。

 

「飲み物はペットボトルのお茶で我慢してね」

 

 並べられるや、流し込むような勢いで杏子がお茶を飲む。少しはたしなめるべきかしら、とマミは思ったが、どうしても頬が緩んでしまい、ただ彼女が食べる様を見つめる。

 

「明日、退院したらお化粧教えてあげる。傷痕、お化粧でけっこう目立たなくできるから、あまり気に病まないでね」

 

 もし、どうしても杏子が気に病むようなら、治癒魔法で傷痕を消すことも考えてはいた。

 

 ――でも、できれば魔法は避けたいわよね。杏子ちゃん、私が魔法少女になってるって気付いちゃうだろうし……。

 

 家族に対して秘密を持つことに抵抗がないわけではなかったが、それ以上に杏子を巻き込みたくない気持ちが強い。

 全てを話して、魔法少女にならないように説得する手段もあるが、杏子の性格を考えるとそれは難しいだろう。

 

「あたしにできるかなぁ」

 

 満更でもなさそうな杏子の反応に、マミは声を弾ませる。

 

「大丈夫。きちんとできるようになるまで、つきっきりで手伝ってあげるから」

「うん、お願い」

 

 そうだ、とマミは思った。

 今までは、名も知らない誰かを護る為にこの身を捧げてきた。

 だけどこれからは、大切な家族を護ることも加わるんだ、きっとやりがいもあるし、頑張れるはずだ、と。



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第四〇話 マミさんの、パッチワーク・ガール

 面会時間の終わりまではまだ余裕があったが、マミは病院を辞した。

 杏子は少し不満そうだったが、「明日、朝早くから来てあげるから」の言葉で一応は納得。もちろん、手作りのお菓子の持参を要求してのことだ。

 

 病院の外に出る。

 真夏のためまだ明るいが、平時なら学校の下校時刻はとうに過ぎている時間。既に日は沈んでいるし、残照もそう長くは続かないだろう。

 マミは足早に駅まで歩き、風見野に向かう電車に乗った。

 電車はすぐに目的の駅に着き、マミはそこから少し歩いて、目的の場所に到達した。すなわち、夜宵かおりの家に。

 

 

 

 

 時間が時間だけに夜宵かおりの部屋に直接ベランダから訪ねても良かったが、玄関から呼び鈴を鳴らした。魔法少女同士ではないのだから、普通の高校生として訪問する必要があると感じたからだ。

 

「こんな時間に、突然ごめんなさい」

 

 インターホンにはかおりの母が出たが、玄関にはかおりが出てきた。彼女の様子からは、喜び勇んでという修飾が付くだろう。マミは夕飯時にさしかかったタイミングの来訪を詫び、頭を下げた。

 

「これ、見滝原で評判のチーズケーキです、よければ召し上がってください」

「あら、今日はお手製じゃありませんのね。少し残念ですわ」

「ごめんなさい、突然思い立って訪ねたので、作る時間がなかったの。少しお話がしたいのだけれど、いいかしら?」

「いえいえ、お手製は今度の楽しみにいたしますわ。どうぞ、あがってください」

 

 かおりは、やはり喜色を露わにしてマミを招き入れる。

 部屋に向かう途中、母に「大事な話だから、しばらくは何も持ってこないでね」と家族向けの口調で告げ、飲み物とお菓子をトレイに載せて自ら運んだ。

 

 

 

 

 

 魔法少女のシステム。

 夜宵かおりは、ソウルジェムが魔法少女の本体であることは知っていたが、それ以上のことは知らなかった。

 それ以上のこと、についてマミは事細やかに説明を施す。目的は、万が一にも彼女が再び魔法少女となる道を選ばないように、であったが――。

 

 マミの話を神妙に聞いていたかおりは、説明が一段落し、マミが魔法少女とならないようにと念を押すと、困ったような笑みを浮かべた。

 そして、左手をそっと目の前にかざし、指にはまったリング型のソウルジェムをマミに見せつけるようにひらめかせた。視認したマミが頭を深く下げる。

 

「ごめんなさい。私がすぐに言っていれば……!」

「いえ、知っていても結局こうしたと思います。クラブの友人を見捨てるなんてできませんもの」

「本当にごめんなさい」

「巴さん、やめてください。謝る必要なんてありませんわ」

「どう償えばいいのか……」

「ですから、わたくしの話を聞いてくださいな。巴さんは悪くありませんし、償う事柄そのものが存在しませんの」

「でも……」

「そうそう、お料理を教えていただく約束でしたわよね。それでチャラということでどうでしょうか?」

 

 彼女の言葉の選択に、ことさらに事態を軽く扱おうという意志をマミは感じ取った。マミ自身は納得がいっていなかったが、気遣いを無碍にすることも気が引けて、ゆっくり頷く。

 

「わかったわ。腕によりをかけて、すぐにお嫁にいけるくらいに鍛えてあげる」

「それは遠回しなプロポーズでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

「ああん、スルーはおやめになってくださいな」

 

 体温を感じさせないほど真顔になったマミが、事務的に淡々と続ける。

 

「……週末に魔法の練習していた時間が空くし、そこで教えてあげますね」

「あら? 魔法の練習はしませんの?」

「えぇ、杏子ちゃんには、私や夜宵さんが魔法少女に戻ったことは伏せておきたいの。だから」

「承知しました。口外しないと誓いますわ」

 

 人差し指を口元にあてがい、秘密を示すゼスチャをする。どこか嬉しそうに見えるのは、杏子の知らない秘密をマミと共有できるからだろうか。

 

「助かるわ」

「……しかし、そのような魔法少女システムにどのような意味が?」

 

 問う。そしてその問いには、部屋のかたすみに現れたキュゥべえが答えた。

 

『それはボクが説明しよう』

 

 魔法少女システムが知れたことにも悪びれもせず、いつもの調子のキュゥべえが、いつもの調子で長広舌をふるう。

 

『もちろん、キミたち魔法少女への悪意や敵意からじゃないよ。端的に言えば、宇宙の延命が目的だ。マミ、キミは宇宙の温度が幾らか知っているかい?』

「確か、マイナス二七〇度くらい……だったかしら」

『そうだ。キミたちが宇宙背景放射とか宇宙黒体輻射とか呼んでいるものだね。では、かおり、宇宙を活動せしめているエネルギーは何か分かるかい?』

「ええと、太陽とかの、恒星のエネルギーでしょうか?」

『なるほど、太陽という恒星の恵みを受けて生活しているキミたちらしい発想だね。確かにそれもある。だけど、主ではないね。主としてはブラックホールだ。ブラックホールに引き寄せられる星間ガスが降着円盤を作り、その摩擦熱がエネルギーとして放出されている。それが宇宙全体の主たるエネルギーだ』

 

 マミもかおりも、興味なさそうな表情を見せるが、それを気にするキュゥべえではない。そもそも気にする、という感情が、彼には欠落しているのだから。

 

『このブラックホールが維持できなくなるのが、宇宙の終わりだ。宇宙の温度がある一定の閾値を下回ると、もう歯止めが利かなくなる。ブラックホールは霧散し、宇宙はエネルギーを得ることができなくなり、全てが終わるだろう。そうならないために、宇宙の温度を維持しなければならない。もし誰も手を打たなければ、宇宙はあと百億年ももたずに寿命を迎えるだろう』

「ひゃく……?」

 

 自身の提示する数字が、魔法少女にどのような印象を与えるか。もちろんそれを気にすることもない。

 

『そこで魔法少女だ』

 

 それどころか、誇らしげな態度で続ける。無論、感情を持たないと標榜する彼らのこと、実際にそう感じているわけではないのだろうが。

 

『ボクたちの文明は、知的生命体の感情を、エネルギーに変換するテクノロジーを発明した。ところがあいにく、当のボクたちが感情というものを持ち合わせていなかった。そこで、この宇宙の様々な異種族を調査し、キミたち人類を見出したんだ。とりわけ最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移だ。ソウルジェムになったキミたちの魂は、燃え尽きてグリーフシードへと変わるその瞬間に膨大なエネルギーを発生させる。それを回収し、宇宙の延命に貢献するのが魔法少女というシステムだよ。どうだい、誇らしいだろう?』

「……なるほど、ドナー登録のようなものですのね。それはご立派なシステムですわ」

『キミは理解できているようだね、素晴らしいよ、かおり』

 

 鷹揚に頷く。皮肉を解さないその様を見て、かおりの心の中の堰が破れた。腕を伸ばしてキュゥべえの首を乱暴に掴むと、床に叩きつける。

 

「どうして旗を振っているあなた方は何もせずに高みの見物ですの? まずあなた方が貢献しなさいな」

 

 すり潰さんばかりに力を込め、キュゥべえの頬を床に押しつける。だが彼には物理的にも精神的にも痛みを感じる心はなく、涼しい声を返す。

 

『できればそうしたいんだが……さっきも言ったように、ボクたちには感情がないからね。無理なものは無理だ』

「夜宵さん、キュゥべえに何を言っても、何をしても無駄なの。感情もない、痛みもない、死ぬこともない。どうしようもない存在なの。心を乱すだけ損――いいえ、心を乱すことがキュゥべえの目的と言ってもいいのかもしれないわ」

『それは誤解だ。まぁ、もう魔法少女になっているキミたちを説得する謂れもない。説明したのは、自らの役割に誇りを持ってほしいからに過ぎないからね。そう受け取ってもらえないなら残念だが、ボクは失礼するよ』

 

 かおりが力を緩めた瞬間に抜け出すと、窓に向かいゆっくりと歩く。そして、一度だけ振り返るとふたりの目を見て、テレパシーを送った。

 

『マミ、かおり、キミたちはもう少し、荒れた宇宙を救う、星の生命を護る、その歓びを知るべきだ』

 

 

 

 

 

 

 キュゥべえが消え、一時的にふたりは言葉を失った。

 キュゥべえの言葉を反芻しているのか、精神を落ち着かせようとしているのか、かおりは瞳を閉じて黙り、マミはそれを邪魔しないように黙った。

 かおりの表情からは感情は読めず、ともすれば居眠りをしているようにも見える。だが、時折指先に力が込められていることから、そうではないことが分かる。

 

「あの……夜宵さん、大丈夫?」

 

 五分が経過した頃、おずおずとマミが話しかけると、彼女はぱちりと瞳を開き、しばたたかせた。

 

「あ、すみません。少し、考えをまとめておりまして」

「そう。どうかしら、落ち着きそう?」

「はい……取り乱してすみませんでした。キュゥべえの勝手な物言いを聞いていると、つい」

「ううん。あの程度で抑えられるなんてすごいと思うわ。私は……」

「巴さん?」

「ううん、なんでもない。ねぇ、夜宵さん、元は魔法少女だった魔女。それを倒す私たちは、許されるのかしら」

 

 誰に許されるのか? とかおりは問い返したかったが、それがはばかられる空気を感じ、口を閉ざして沈思する。

 

「わたくし、思いますの。魔女を放置すれば多くの人が死ぬ。だから――」

「だから、魔女を倒すのは正しい? うん、たしかにその通りよね」

 

 充分に考えてから、しかしありきたりの域を出ない結論を示すかおりの言葉を、マミは遮るようにした。

 

「ねぇ夜宵さん。冷たい方程式とかカルネアデスの舟板とか、そういった寓話はご存じ?」

「はい。おおむね、極限状態での小を捨て大を取るお話ですわよね」

「そう。たくさんの人を助けるのにひとりを切り捨てる。ねぇ夜宵さん、それって正しいと思う?」

「えっ……」

 

 正しいに決まっている、というのが夜宵かおりの偽らざる本音であったが、あらためて問われると返答に窮した。今まで、そのようなことを熟考したことなどなく、正しいと思い込んでいるだけ、と評されても反論できない自分に気付いたからだ。

 答えに惑うかおりに、マミは少しの誤解まじりに促す。

 

「私の意に沿う答えをしようとしてる? そういうの抜きで、夜宵さんの考えを言って欲しいかな」

「理屈としては正しいと思います……、ただ、ほんとうに正しいのかは、わたくしには分かりません」

「じゃぁ、夜宵さんがその選択をしないといけない立場になったらどうする?」

「それは……やはり、大を取ると思いますわ」

「じゃぁ、切り捨てる側に、夜宵さんのご両親が含まれていたら?」

「……分かりません。心情としては、パパとママを選びたいですが……。どちらを選んでも、苦い結果になるのでしょうね」

 

 マミが満足そうに頷く。それを見て、かおりは「正しい」答えを返せたのかと安堵するが、それ自体が誤りであった。なぜなら、マミにも返答の正誤はつけられず、ただ思考することのみを要求していたからだ。

 

「うん、私もそう。きっと悩んで、どっちかを選んで、そして後悔すると思う。もしかしたら、どっちも選べずにどっちも失ってもっと後悔するかも」

「いえ、そんな……巴さんでしたら」

「それでいいと思うの。数学の問題のように、人の命を数字みたいに足し算引き算して答えを迷わずに出すようなら、それこそ冷たい方程式だわ」

 

 かおりには耳の痛い話だった。生来にして明敏な彼女は、だいたいの判断をノータイムで行ってしまう。そこに沈思熟考があるかと言えば――他人の水準に照らせば充分に深い思考を経ているのだが――彼女自身の採点としては否である。

 

「その度に悩んで、自分で判断して、その責任を負うことが大事だと思うの。短絡的な答えを出すのは、思考からも責任からも逃げることだと思うわ」

「はい……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃぁ、今日はお暇するけど……」

 

 夕飯の誘いを固辞したマミは、かおりに見送られて玄関にいた。

 

「さっきの話、きっとショックだったと思う。でも、決して早まった行動はしないで。私で良ければいつでも、何時間でも、話し相手にはなるから」

「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですわ。わたくしにはパパママ、巴さんをはじめ大切な人がいます、決して短慮はしないと約束しますわ。それに、人は必ずいつか死ぬものです。それが早いか遅いかの違いでしかないと思えば」

 

 マミの理解だと、それは異なった。

 魔女になるということは、いつかは死ぬ、という単純な言葉で済むものではない。

 いつかは自我を失い周囲の人間を傷付けてしまう、そういった類いのものだ。しかし、それを指摘して彼女の前向きな思考を邪魔することはマミの本意ではない。結果として、マミは黙って慈母のように頷く。

 

「その……くちはばったいですけれど、巴さんは大丈夫ですの? この事実をずっと背負ってらしたのでしょう」

「優しいのね、ありがとう。さっき言いかけたけどね、私、このことを知って一度は命を断とうとしたの。でも、それがどれだけ周りの人のことを考えない勝手なことか、やってみて気付いたわ。だから、もう大丈夫」

 

 大丈夫、という言葉に相応しく、マミは明るく笑みを見せる。

 しかしかおりには、その言葉も笑顔もどちらも、儚く脆いもののように思えたのだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日、退院した杏子は部屋に入るなり、

 

「あー、久しぶりの我が家だ、いいねー」

 

 と快哉をあげ、マミを苦笑させた。

 

「たった一泊じゃない」

 

 帰りに寄り道して買い込んだ杏子用のコスメ。それを手提げ袋から出してテーブルに並べるマミを横目に、当の本人は冷蔵庫に向かう。

 

「そうなんだけどさ。やっぱり家はいいよね。あ、マミさん、紅茶淹れてよ」

「もう、杏子ちゃんのお化粧用なのに。しょうがないわね」

「買いすぎだって。ほっぺたに塗るのだけでいいのに」

「ダメよ、それじゃバランス取れないもの。それで、お茶のお菓子はどうするの? 待てるなら作りますけど」

 

 ようやくお店の手提げ袋から、化粧品十七点を用途ごとに分けてテーブルに並べ終えたマミ。空になった手提げ袋を折り畳み、キッチンへ向かおうと膝を立てた。

 

「待つ待つ」

「はい。待ってる間おやつはダメですからね。いま冷蔵庫から出したもの戻して?」

「見てたの?」

「見なくても分かります。そのかわり、なんでも作ってあげるから」

「あ、じゃぁ――」

 

 その後、ああでもない、こうでもない、と候補を挙げては別候補で上書きを繰り返す杏子。それを眺めるマミの表情は、穏やかで安らかなものだった。

 

 

 

 

 

 

 夕飯の後、テレビで映画を見ながら、ゆったりした時間を過ごす。

 数年来、自分にはそんな資格はない、とマミが自分を罰し律してきたことだったが、普通の少女に戻ることで自縄自縛はほどかれた。そしてほどかれた日常は、とても居心地の良いものだった。

 

 魔法少女に戻った今、再びそれを甘受する資格はなくなった、とマミは思う。

 しかし、杏子の日常を守るために、少なくとも表面上は日常を演じなければならない、とも思う。

 

 ――これも甘えなのかしらね。

 

 自嘲の笑いは、ちょうど映画がコメディ的なシーンであったことから、不自然にはならなかった。同じタイミングで杏子は破顔し、腹を抱えそうな勢いで笑っている。

 それだけ顔の筋肉を動かしても、痛む様子が一切ないことは、マミを安心させた。担当医師にあらためて心の中で礼を言い、健やかな快復をもたらしてくれた神様にも感謝する。もっとも、特に信仰はないので「かみさま」というあやふやな対象にだが。

 

「マミさん、スコーン焼いて」

「だーめ。もうすぐ寝る時間よ。明日になさい」

「じゃぁ、明日焼いてね」

「はいはい、分かりました。チョコでもキャラメルでも、お好きなもので作ってあげるわよ。だから、映画終わったらもう寝るのよ?」

 

 元気のいい返事をする杏子。その様子に満足したマミは、映画の終わりを待たず、ベッドメイクのために席を立った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「おやすみなさい」

 

 既に寝息をたてている杏子に、あらためてマミは声をかける。そして、深めの催眠魔法を使い彼女の眠りを確たるものとした。

 万一、夜中に目覚めて、マミがいないことに気付かないように。

 

「それじゃ、行ってきます。……パトロールが毎日こんな時間じゃ、お肌荒れちゃいそうだわ。私の方こそ、お化粧ちゃんとしなくっちゃね」

 

 杏子の部屋を出ると、後ろ手でドアを閉める。一拍おくと、少し集中して姿を魔法少女のものへと変化させた。

 姿が変わることで意識も変わるのか、眠気は霧散する。眠気だけではない、彼女にとっての日常も、そして安らぎも霧散していく。そこに残ったのは、街を護るという使命だけだった。

 

 

 

 

 

 

「それにしても、やっぱり深夜の方が魔女や使い魔の活動は活発なのね」

 

 十日程度パトロールを行っていなかったことを考慮しても、ソウルジェムの反応は目を見張るものだった。魔女の反応、使い魔の反応、いずれも複数がマミの探知範囲内で揺らめいている。

 

「今まで夕方から夜までのパトロールだったから、実際は夜中にけっこう被害が出てたのかもね……」

 

 それを自らの落ち度であるとでも受け取るかのように、マミは桜色の唇を噛んだ。しかし、それも束の間のこと。今までがそうであったように、今も、そしてこれからも、後悔の念を押し殺して彼女は微笑む。

 

「今日は徹夜も辞さないわよ。片っ端から片付けてあげるから!」

 

 ひとりで戦うのはいつ以来だろうか。

 ひとりで戦うのは寂しく心細い、それは確かだが――今ひとりであることを嘆くのではなく、ずっとふたりで戦ってこれたことに感謝しないといけない、とマミは思う。彼女の知る魔法少女とは、本来ひとりであるべき存在なのだから。



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第四一話 マミさんの、天使墜落

 マミが魔法少女のちからを取り戻して、一週間が過ぎた。

 

 それはつまり、杏子との日常と深夜の魔法少女活動の二重生活が一週間を過ぎたということであり、彼女の疲れもそれなりに溜まってきていた。

 そのせいか、昼下がりのリビングで米国のホームドラマを見ていると、不意にあくびが出た。

 彼女があくびをすることは稀であり、それゆえに横にいた杏子が「大丈夫?」と問う。

 

「ねっむーい。お昼寝しようかな」

「ちゃんと寝てる? しっかり寝ないとだめだよ」

 

 心配そうな杏子の声に、マミはくすくすと笑うと、テレビでなく彼女の方を向いた。

 

「いつもと逆ね」

「そう? マミさん弱ると甘えんぼじゃん」

 

 一方の杏子はテレビに視線を向けたまま、しかし意識はマミに集中させていた。

 

「いま弱ってませんー。杏子ちゃんは、しっかり眠れてる?」

 

 パリ、とお煎餅を一枚噛み砕きながら、頷く。

 

「なんかさ、最近ぐっすり眠れるんだよね」

 

 当然の返事だった。毎日、マミが催眠魔法を使い、杏子の眠りを深く確かなものにしているのだから。

 だがマミは、そんなことはおくびにも出さず自然に話を続ける。彼女との日常を守るためになら、嘘をつくことも厭わないし、いくらでも役者を演じてみせようと思いながら。

 

「いいことじゃない。いい夢は見れてる?」

「んー、なんか魔法少女だった時のことを夢に見ることが多いかなぁ」

「あら、それは悪夢ね」

「そうでもないよ、そんなに悪くない。少なくともやってる間は楽しいことも多かったよ」

「そっか。嫌な想い出になってないなら、なによりだわ」

「ねぇ、マミさん」

「ん?」

「ずっと、このままだといいね」

「大丈夫、ずっとこのままよ」

 

 このままであれと願うのでなく、このままだと断定するマミに、杏子は僅かな違和感をおぼえた。しかしそれは、魚の小骨が喉に残るようなもので、ご飯を飲み下せば一緒に流れてしまう程度のものだ。この場合は、ご飯の役目はお菓子が担う。

 

「お昼寝する前に、おやつの準備してあげましょうか。なにがいいかしら?」

「この間の、なんていったっけ? パイにミニシューとクリームのっかってたの」

「サントノーレかしら? ちょっと時間かかるけど、待てるならいいわよ」

 

 先週末に、夜宵かおりに対杏子用の切り札として教えたお菓子であり、あまり杏子に食べ慣れさせるのもどうか、と思うのだが――

 

 ――まぁ、週末の魔法訓練もないし、夜宵さんがお菓子を杏子ちゃんに振る舞う機会はそうそうないわよね……。

 

 そう結論し、お菓子を作るために席を立つマミ。その背中に、杏子が気遣う言葉をかけた。

 

「でも、眠いんでしょ? 大変じゃない?」

「あら、優しいのね。大丈夫。お料理すれば目が覚めるから」

「無理しないでね」

「はーい」

 

 杏子に頼られ、気遣われると、自然と笑みがあふれた。今までがそうでなかったというわけではないのだが、両者ともにそれを赤裸々に出すだけの、ゆったりした時間がなかったのかもしれない。

 ずっと、このままに。それはマミにとって願いではなく、誓いであった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 今日もあの子にしっかり教えてあげてね、とかおりの母に言われ、マミは恐縮した。

 

「いえ、夜宵さんのお母様の方が私なんかよりずっと……、なので私が教えるなんて面映ゆいのですが、同世代同士の方が気安くできて最初のうちはいいのかもしれません。味付けの難しい部分は、あとでお母様から教えてあげてください」

「そんな謙遜しなくても、巴さんの味付けに加えるようなものはありませんよ。ただ……」

 

 言葉を切り、顔をマミに近づける。内緒話の体を装ってはいるが、声量は絞っておらず、娘に聞かせるつもりがあることは明白だ。

 

「あの子、想像以上に不器用だから、がっかりしないでね」

「もう、ママ! 余計なことは言わないで、リビングで休んでて!」

 

 紅潮させた頬をふくらませて、かおりは母の背を押してキッチンから追い出そうとする。

 その様子は両親を失ったマミには眩しいものであったが、不思議と胸は痛くならなかった。既に彼女はひとりきりではない。親子の情愛はただ羨むものでなく、微笑ましく見守るものになりつつあった。

 多少の芝居がかったやり取りを経て、かおりの母はキッチンから退散した。マミは柔らかい表情のままに、本日の予定を告げる。

 

「ふふっ、先週はいきなりお菓子作りだったから、今日は基本に戻ってお食事を作りましょう。包丁やお鍋に慣れるつもりで気楽にね」

「はいっ、よろしくお願いいたしますわ!」

 

 

 

 

 

「煮込みハンバーグ、プチトマトの蜂蜜漬け、揚げ出しお餅、お味噌汁……こんなにたくさん作るのでしょうか?」

「えっ、シンプルなくらいじゃないかしら……? とりあえず、練習を兼ねてキャベツを千切りにしておいてもらえる?」

 

 マミからすれば手抜きの部類に入る献立を「こんなに」と称されて、マミは面食らった。かおりの母の名誉のために述べておくと、彼女の母にとってもこの献立はシンプルなものであるし、かおりも母がこの献立を出してきたら時間がなかったのだろうと思うところだ。

 ただ、自分自身が作るとなると、とてつもなく複雑でややこしい献立に思えてしまう。ハンバーグというだけでも未知の領域なのに、それをさらに煮込むとはどれほどの手間暇がかかろうものか、想像だにできない。

 

「まずキャベツですのねっ。承りましたわ、真ん中で真っ二つにすればよろしいのですわよね?」

「よろしくないわよ? 千切りにしてね」

「わたくしの知っているキャベツ検定と異なりますわ……」

 

 

 

 

「玉ねぎの微塵切りも完了いたしましたわ! 次は何を切ればよろしいでしょう?」

「切るの気に入ったのね。でも、次はそれを軽く炒めてもらえるかしら。飴色になる程度で。練習だからフライパンで炒めてもらいますけど、実際はレンジでもオーケーよ」

「承知いたしましたわ」

 

 

 

 

「冷やしたトマトの皮剥き、完了ですわ」

「早いわね。じゃぁ、さっき作った蜂蜜と檸檬の汁に漬け込んで、冷蔵庫に入れてね」

「ええと、分量はどれくらいがよろしいのでしょうか」

「プチトマトからどんどん水分でるから、濃い目でいいわよ。味見してみて?」

 

 マミに促され、かおりは人差し指をポールに潜らせて口元へ運ぶ。そして、ぺろりと舐めると泣きそうな渋面を作った。そのリアクションで味を推定したマミは、ひとつ頷いた。

 

「それくらいでいいわ。それを冷やせば明日には完成。今日はうちで漬け込んだのを持ってきたので、これを頂きましょう」

「料理番組みたいですわ、さすが巴さん!」

 

 まだ酸っぱさを引きずった表情のままのかおりが賞賛する。さすマミ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ふうん、そういう事情だったの」

 

 その日の深夜、穢れを吸い込んだグリーフシードを回収に来たキュゥべえはマミの部屋にいた。一方のマミはパトロールを終え、先程戻ったばかり。睡魔の訪れを感じてはいたが、ちょうどいいとばかりにキュゥべえを質問攻めにしていた。

 

「よくそんな願いを素直に叶えたわね。あなたたちにはデメリットしかないんじゃない?」

『ボクたちにはキミたちの願いを選別する権限はないからね。可能な願いなら、全て叶えるよ』

「へぇ。じゃぁ、あなたたち全てがいなくなることを祈っても受け入れるの?」

『そのようなことを願う少女がいて、その少女が願いを叶えるに足るだけの素質を持っていればね』

「素直に話してくれたことには感謝するわ。少し安心できるもの」

『杏子のことかい?』

 

 首肯するマミはいまだ魔法少女の艶やかな姿。無意識ではあるものの、「敵」の前での武装解除に本能的に抵抗をおぼえているのかもしれない。

 

「今の状態が、間違いなく普通の女の子ってことが分かっただけでも、本当に嬉しいわ。その魔法少女に感謝しないとね」

『本人に伝えておくよ』

「別に伝える必要はないけれど」

 

 肩を竦める。つくづくながらこの生き物は言葉通りにしか受け取らないな、と苦笑を漏らしながら、

 

「皮肉にしか聞こえないでしょうし」

『そうかい? まぁ、そこはこちらで判断するよ』

「それはそうと。今の話だと、魔法少女の数はかなり減ったんでしょう? 他の地域は大丈夫なの?」

『そうだね、見滝原に隣接した市でいうと、唯一風見野にひとりいるだけで、虹望崎(にじぼうざき)にしても奏唄野(かなでの)にしても魔法少女不在だね』

 

 想像よりも悪い状況にマミは嘆息する。そして、変身したままであることを幸いに、そのままベランダへ向かった。

 

『どうかしたのかい』

「全部は無理にしても、できるだけパトロールしてくるわ」

 

 そして、ベランダから身を躍らせ、はるか彼方へ向けて疾駆する。

 彼女がパトロールを終えて再び部屋に戻るとき、既に空は白み始めていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 治癒魔法の応用で、眠気を消去する。

 それで意識は覚醒するし疲労も残らないのだが、本能的なものか、寝床が恋しくはなる。特に今日は一睡もしていないのだから。

 

「お昼寝しようかなぁ」

 

 昼食後に毎日見ているホームドラマを眺めながら、マミが独りごちる。

 

「また? マミさん、最近だらけてない?」

「そんなことないよー」

「その受け答えが既にだらけてるような」

「え、そうかしら……」

 

 実際はだらけているどころか、前年比にして二倍以上働いているのだが、事情を知らない杏子には分かろうはずもない。

 昨夜に至っては、見滝原のみならず、風見野を除く隣接市を全てパトロールし、ある程度の清浄状態に保った。その上で杏子とは普通の日常を送っているのだから、離れ業と表現しても決して大げさではないだろう。

 

「じゃぁ、お昼寝はやめておこうかな。何かお菓子作る?」

 

 自身がだらけていると思われることに強い抵抗があるわけではないが、杏子の手本たらんとするマミには、自身を悪い見本とすることは受け入れられない。頬を軽く両手で張ると立ちあがろうとする。

 

「んー、今日は疲れてそうだしいいよ。あたしが簡単なもの作る」

「あら、本当?」

 

 それを制した杏子が、先んじて立ち上がり宣言した。とはいえ、佐倉杏子の料理スキルは夜宵かおりよりはマシといった程度であり、作れるものなどたかが知れている。そしてそれはマミも重々承知している。

 

「見た目と味には期待しないでよ」

「ふふ、じゃぁ別のものに期待しちゃおうかしら」

「量かな?」

「さぁ」

 

 それぞれが、それぞれに笑う。

 

「じゃ、出来るまでお昼寝してなよ」

 

 それ以上に言葉を重ねる野暮はせず、杏子は一言だけ残して、キッチンに消えていった。

 後姿を見送ったマミは、しばらく幸せそうに微笑んでいた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 そしてさらに数日が過ぎ、夏休みも終盤になろうとしていた。

 魔法での眠気除去に身体が順応したのか、マミはほとんど睡眠をとることなく、しかし健康に毎日を過ごしていた。治癒魔法の効果か、幸いにして肌は荒れていない。

 

「あれ、いつものドラマじゃないのね」

 

 食器の片づけを終え、リビングに入ってきたマミが、テレビを見て言う。

 

「うん。緊急番組に変更だって」

「事件でもあったの?」

「いや、災害。東京で大きい竜巻が発生したんだって」

 

 その時点で、ふたりともに魔女の可能性に思い至ってはいた、

 が、それを口にすることは躊躇われた。ふたりの日常に、もう魔女はかかわることはあってはならない。口の端に乗せることで、途絶えたはずのかかわりが再びよみがえるような恐れが、そこにはあった。

 

「怖いわね」

「怖いね」

 

 それだけ呟き、マミは腰を下ろす。応える杏子の言葉も短い。

 テレビの音だけが響く。

 

 約一時間前に突如発生した竜巻は、歩くようなスピードで移動しつつ、途上にある都市に深刻な打撃を与えている、という。風速も雨量も観測史上有数のものであり、昨年の秋に見滝原を襲ったスーパーセルに比肩するものだと、テレビは語っていた。

 五分ほどが経った。テレビは同じような情報と映像を繰り返し、時折字幕で最新の被害状況を提示していく。

 

「紅茶淹れて」

「うん」

 

 無言を嫌った杏子だが、饒舌にはなれず短く言う。それはマミも同じだった。

 紅茶を淹れるべく立ち上がったマミに声が届く。それは、歓迎されざる声だった。

 

『やぁ、マミ』

『あら、キュゥべえ』

 

 テレパシーで応え、しかし身体はそんな素振りは見せず、キッチンへと向かう。杏子に違和感をおぼえさせないよう、紅茶を淹れ、お菓子を用意し、リビングへ運ぶ動作をいつも通りにこなす。その間、マミとキュゥべえはテレパシーで会話を続けていた。

 

『大型の魔女が誕生した』

『やっぱり、そうなのね』

『被害が広がる前に、倒すべきだ』

『そうね。魔女ならそうしないとね。それが魔法少女の使命だものね』

 

 僅かに、テーブルにティーセットを置く手が震えた。手の震えはカチャっという小さな音を生み出し、杏子はその音に耳をぴくりと動かした。

 

「どうかした? マミさん」

「ううん、ちょっと手が滑っちゃっただけ」

 

 内心を全く反映していない笑顔を見せ、杏子を安心させる。そして、すっと手を伸ばすと、杏子の頬に触れた。

 

「傷痕、ほとんど目立たないわね」

「うん、お化粧のおかげで。ちょっと面倒臭いけどね」

「毎日のことだものね。でも、手は抜けないわよ」

 

 発声を伴う会話と同時にテレパシーによる意思の疎通も行うことは、パラレルオペレーションの訓練を増やしたマミにとってはさしたる負担ではない。だが、直接的な負担とは別に、目の前の会話を蔑ろにしているのではないかという後ろめたさがあった。

 後ろめたさを噛み殺して、マミは続ける。

 

『ねぇキュゥべえ、その魔女は強いの?』

『魔女の力は、もととなった魔法少女の力に依存している部分が大きい。紫野花音の能力が鹿目まどか未満なのは確かだが、ワルプルギスの夜との比較は難しいね。ワルプルギスの夜のもととなった魔法少女を、ボクは知らないからね。しかし、引き起こされている自然現象から類推するに、近いレベルと考えていいんじゃないかな』

『しの、かのん?』

『紫野花音。キミたちを普通の少女に戻すという願いで魔法少女となったものだね。さっき絶望して魔女化した』

『お早い絶望だことで……』

 

「わ」

 

 杏子が素っ頓狂な声をあげた。テレビモニターに、東京を代表する高層建築が崩れ落ちるシーンが映ったからだ。当該地区からの避難は完了しており、人的被害はないとのテロップを見て胸を撫で下ろすが、上昇した心拍数はなかなか落ち着くことはない。

 

「……酷いわね」

 

 ぎゅ、とマミの拳が固められる。その拳を、上から杏子のてのひらが包み込んだ。拳をほどかせるようにゆっくりと撫でさすりながら、彼女は不安そうな表情を隠そうともせず、マミを見つめる。

 

「大丈夫だよね?」

「ええ、大丈夫よ。一晩ぐっすり眠って、起きれば全部終わってるわ、きっと」

「うん。そうだ、お昼寝する?」

 

 マミは、空いた手をリモコンに伸ばしテレビを消す。途端、杏子には静寂が訪れる。しかしマミには静寂は許されず、キュゥべえの声が響いた。

 

『マミ、そろそろ行かないか』

『わかってるわ。それが私の……魔法少女の使命、ですもの。……ううん、本当は、ただの天災であって欲しかったわ』

『強要はしないよ』

『されているつもりもないわ』

 

 棘のある口調のテレパシーでキュゥべえに告げると、杏子を眠りに誘う魔法を使う。

 効果はすぐにあらわれ、彼女はマミの拳に手を重ねたまま、テーブルに突っ伏すように眠りに落ちた。

 手を重ねたまま、マミは残る手で彼女の身体を抱えてベッドへ運ぶ。それは普通の少女の膂力ではなく、あらためてマミに現実を思い知らせて嘆息を誘う。

 そして、彼女をベッドへ寝かせると、頬に手を当てて魔法の力で傷痕をなくしていく。

 

『いいのかい? 魔法少女であることは隠したいのではなかったのかい』

「そうね。でも、相手がワルプルギス級となると、帰ってこれる保証はないわ。できるだけのことを、しておいてあげたいの」

 

 杏子の頬が綺麗に快復するのを見届けるとひとつ頷く。名残惜しそうに彼女の頬を撫でさすり、しかしやがて意を決したように立ちあがった。

 

「あと、手紙書いたら行くわ。見られたくないから、キュゥべえは帰ってもらえる?」

『わかった』

 

 

 自室に戻ると、万年筆を手に取り、杏子への手紙を書く。魔法少女になっていたこと、それを黙っていたことの謝罪と、もしマミが帰れなかった時のために、今後の生活に必要なことを、できるだけ事務的に、感情を込めずに。

 書き終える。熱くなった目頭を指で拭うと、手紙を自室の机の上に置いた。

 催眠魔法による杏子の眠りは、明日の朝まで続く予定だ。首尾よく魔女を倒して戻ることができれば、彼女の目に触れる前に回収すれば良い。

 

「さて、倒しにいきましょうかね」

 

 努めて明るい声で、彼女は言った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 目抜き通りの銀行で、デパートの入り口で、駅の改札で。

 ことあるごとに、監視カメラの前に立ち、目立つように振る舞うマミ。

 それは自身の存在証明のためでなく、杏子の不在証明のためであった。

 万一の際に杏子に嫌疑が及ばないように、充分に彼女の不在証明を成してから、都心へ向かう特急電車に乗り込む。このような状況で都心方面に向かう者はほとんどおらず、電車内は閑散としていた。マミは四人掛けのシートの窓際に座り、いつの間にか合流していたキュゥべえがその隣に陣取る。

 

 静かな車内に、アナウンスが流れた。

 曰く、本日は都心まで運行せず、東京近郊北部のターミナル駅で折り返すのだ、と。

 

「ちょっと走らないといけないわね」

 

 魔女の現在地は、山手線沿線の南西部。魔法少女が駆ければ、ターミナル駅からは三〇分程度だ。

 戦いに備えて、意識を集中させておこう。そう考えたマミは、背筋を伸ばした姿勢で瞑目し、呼吸を整える。

 

 規則的な揺れが数分続き、車内アナウンスとともに停まり、また数分揺れ、車内アナウンスとともに停まる。そういった外部の刺激を完全に排除し、修行僧よろしく瞑想を行っていたマミに、声がかかった。

 

「お隣、よろしいでしょうか?」

 

 そして声の主は、返事を待たずにマミの隣に腰を下ろす。座席に横になっていたキュゥべえを下敷きにして。

 

「あら、キュゥべえいらしたの? 見えませんでしたわ」

「夜宵さん」

「同じ電車でラッキーでしたわ。お供させて頂きますわよ」

 

 ホーム最後尾で待機して、電車に乗っている人物を強化した視力で観察した上で、マミの存在を確認してから同じ電車に乗り込む。そして出会うことを、ラッキーという言葉で表現できるのかは意見の分かれるところであろうが、彼女は迷いもなくそう言った。あるいは「マミさんを見つけられてラッキー」という意味かもしれない。

 ともあれ、偶然を装ったかおりに、マミは少しトーンの低い声で返した。

 

「あなたには、もしもの時に見滝原を任せたかったのだけれど」

「わたくし、待つのは性にあいませんの。それに、もしものことなど有り得ませんわ」

「魔女を甘く見ているのなら、見滝原云々を抜きにしても、あなたを戦わせるわけにはいかないわよ」

「滅相もございません。ですが、ワルプルギスの夜と同程度の魔女でしたら、既に一度退けている巴さんが後れをとることもありませんでしょう」

 

 そういえばキュゥべえはそういう風に説明していたのだった、とマミは思い出す。魔女化の事実を知られた今となっては、ワルプルギスの夜を倒しそして魔女となった少女の話をし、マミ自身が倒したわけではないと真実を告げても問題はないのだが――

 

「まぁ、その気でいた方がいいわよね」

 

 真実を告げることと、それと同時に翻意させることも諦め、マミは窓の外を流れるのどかな景色に視線を泳がせた。

 

「東京に着くまでの暇潰しに、お話をしましょうか。私たちの魔法少女の力がどうしてなくなったか」



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第四二話 マミさんの、トーキョーの戦塵

「むかしむかし……といってもほんのひと月ほど前なんだけど。人々の命を守る使命に邁進する立派な魔法少女がいたそうよ」

「巴さんのような、でしょうか」

 

 静かに揺れる電車の中、四人掛けのシートに隣り合う形で座るマミとかおり。

 窓の外はのどかな田園風景。ほどよく雲が出ており、雲の隙間から柔らかい日差しが降り注いでいる。

 僅か数十キロメートル南下した先では、この世の終わりのような暴風雨が猛威を振るっているとは思えない程に、平和な景色。

 だが、マミは自覚している。自分たちが魔女を倒さなければ、遠からずこの土地も暴風雨に見舞われることを。

 

「あら、そう見える? ねぇ、夜宵さん、私は杏子ちゃんのために、夜宵さんはクラブの仲間のために、魔法少女としての力を欲したわよね。それがもし顔も名前も知らない他人のためでも、同じように思えた?」

「それは……その状況になってみないと」

 

 かおりは言葉を濁す。

 その態度が既に答えとなっていたし、それはマミにも読み取れた――が、追及することはしない。その代わりに、自らのことを語る。

 

「そうね。でも私はその状況になっても、きっとそうは思わない。そもそもね、もし顔も名前も知らない他人のために自分の運命を捧げるような覚悟があれば、キュゥべえの誘いに一も二もなく応じているはずよ。私は数ヶ月キュゥべえを袖にして、自分の命を事故から救うことと引き換えにようやく契約したわ」

「それを言えば、わたくしも半年くらい断って、そして母の命を救うという願いがあって……ですわ」

「結局、そういう利己的な理由で魔法少女になってしまって、なった以上は立派に振る舞いたいと思っていた、その程度の覚悟なのよ。私の場合は、自分だけが助かった後ろめたさもあったし」

「でも、それでも、巴さんは充分に立派だと思いますわ」

「ありがとう。夜宵さんも私から見ると、理想のような魔法少女だわ」

 

 決して世辞ではなく、ふたりとも相互に尊敬の念を抱いている。そしてやはり、尊敬は理解から隔たった感情なのだろう、ふたりとも互いを実態より強いものと取り違え、思い込んでいる。

 もっとも、その思い違いは今の段階ではなんら不利益をもたらすものではない。むしろ戦いに際し、そういった思い込みは助けにすらなる。

 

「キュゥべえに聞いたのだけれど、その立派な魔法少女も、キュゥべえの誘いを数ヶ月以上断っていて、最後は肉親のために契約したそうよ」

 

 言外に、その少女を揶揄しているように話すマミだが、その実一番嘲っているのは自分自身をなのだろう。

 

「ただ、魔法少女になってからは、自分の時間を削って、必死にみんなのために活動していたそうよ。それでね、彼女には妹がいて、その妹もキュゥべえを見ることが出来たの」

「えっと……巴さんと佐倉さんのことを、寓話としているのでは、ないのですよね?」

「違います。それで、その妹は、魔法少女としての姉の活動を知って、とても誇りに思っていたの。自分も魔法少女になりたいといったけど、姉が決して許さなかったそうよ。……魔女のこと、知っていたのかもね。その子は、何かを見たのかキュゥべえに吹き込まれたのか知らないけど、姉以外の身勝手な魔法少女――魔法の力を私利私欲や犯罪に使う人を、憎み軽蔑していたそうよ」

「それはわたくしも軽蔑しますわ」

「うん、その気持ちはわかる。ただ、人を傷付けたり苦しめたりするのは論外だけど、多少の私利私欲なら許してもいいんじゃないかって思う。だって、それ以上に魔女を倒してみんなを助けているんだし……。仮に、私利私欲で魔法を使った人全部から、魔法を取り上げていったら、どうなるか分かるよね?」

「清廉潔白な魔法少女ですか……正直わたくしは自信ありません。知る限り巴さんくらいでしょうか……まぁ、多数派ではないですわね」

「私も取り上げられちゃうわよ。……そうなると、魔女や使い魔はやりたい放題になるわよね。それが今の東京」

 

 えっ、といった表情のかおりを見て、マミは言葉を続けた。

 

「少し話が飛んだわね。ええと、その≪正しい≫魔法少女が亡くなったの。妹の目にはそれが、自分勝手な魔法少女たちの分まで必死に頑張って、どうしようもなく擦り切れて命を落とした。そんな風に見えたそうよ。自分勝手な魔法少女たちに殺されたようなものだって。それでね、妹はキュゥべえに願ったの」

 

 言葉を切り、神に祈るように両手を胸の前で重ね合わせる。その仕草は、夜宵かおりには、件の魔法少女を敬っているようにも、嘲っているようにも映った。

 

「全ての魔法少女を普通の少女に戻してください。そして、他人のために本当に魔法の力を望んだ人にだけ、魔法少女に戻してください」

 

 声色を変えて少し幼い調子で言うと、マミは舌をちろっと出して微笑む。

 

「もちろん、その魔法少女は善意で祈ったのよ。だけど、他人のために魔法少女に再びなりたいって思う人がそんなにいるわけないわよね。結果として彼女の善意が、みんなを不幸にしてしまったわ。彼女も頑張ったけど、魔法少女ひとりで守れる範囲なんてたかが知れてるものね」

 

 マミの理解は必ずしも正鵠を得たものではなかったが、訂正する価値も見いだせず、キュゥべえは夜宵かおりの尻に敷かれたまま、無言でいた。

 

「その現実を受け入れられなくて、にっちもさっちもいかなくなって、ああなっちゃったみたいね」

「可哀想ですわね……」

「本当にね。だからこそ、急いで倒してあげないとね」

 

 そこで初めて訂正する必要を認め、キュゥべえが口を挟んだ。

 

『いやマミ、キミは戦わない方がいいだろうね』

「どうしたの? キュゥべえが私に戦えって言ってきたんじゃない?」

『先ほど、現地の魔法少女が戦いを挑み、それで分かったことなんだが……。花音の願いはキミがさっき言った通りだ。その願いをもとにした魔女の能力は、相対する魔法少女の固有魔法の消去。つまり、かおりなら治癒魔法を消される。厳しいだろうが、戦えなくはない。だがマミ、キミはリボンを消される』

 

 ようやくかおりの下を抜け出したキュゥべえは、ふたりの向かいの座席に移動し、しっぽを丸めた。

 

『かおりの好きなコンピュータゲームで例えると、普通の魔法少女なら特殊能力をひとつ封印されるようなものだ。だがマミにとっては、武器も鎧も根こそぎ剥ぎ取られるようなものだね。戦いにならないよ』

「いや、その、ゲームと言われましても……なんの話でしょうか」

『ん? キミが夜遅くまで遊んでいるものじゃないか。魔法で眠気を取ってまで』

「きゅ、キュゥべえ……?」

「あら、いいじゃないゲーム。私はあまりしないけど、父が遊ぶのをよく後ろで眺めてたわ。杏子ちゃんもゲーム好きよ」

「巴さん、別にわたくしはそんなに好きなわけでは……」

『でも、毎日しているくらいだから、好きなんじゃないのかい?』

「キュゥべえ、わたくしが変身して銃口を突きつけないうちに、お黙りなさい」

『かおり、クロスボウの場合は銃口とは言わないよ』

「いいでしょう、買いましたわ」

 

 指にはめたソウルジェムを目の前にかざし、魔力を集中させて魔法少女へ変わろうとするかおり――を、マミが片手で制する。

 

「夜宵さん……さすがに魔力のムダよ」

「……そうですわね。申し訳ありません」

「眠気をとったり、病気を治したり……そういうのって、誰に迷惑かけるわけでなし、それどころかパトロールの効率にもつながるし、悪いことじゃないと思うわよ。その……私も、してるし……」

 

 最後の方は、顔を赤らめ消え入りそうな声で告げる。その様子にしばし見惚れていたかおりだったが、咳払いを一つして、キュゥべえに返した。

 

「そもそもゲームの眠気を、と表現するのが恣意的ですわ。順番を逆にして、夜八時から零時までゲーム、それから朝四時まで勉強をすれば勉強の眠気扱いになりますの?」

『なるよ』

「うん、なりそうね」

「じゃぁ、明日からそうしますわ……」

「そうね。明日、いっぱい楽しむために今日を頑張りましょう」

 

 

 

 

 

 今日の折り返し運転終着駅となるターミナル駅まであと一〇分との情報が車内の電光掲示板に流れた。

 窓の外はいまだ晴天。しかし魔女との戦いの開始まではもう一時間を切っている。マミは対面の席でのんびりと尻尾を揺らしているキュゥべえに問う。

 

「キュゥべえ、他に情報はないの? 私たちが勝たないと、あなたも困るでしょう?」

『戦う気なのかい?』

「逃げると思うの?」

『それもそうだね、キミはそういう魔法少女だった』

「巴さん、キュゥべえの話を鵜呑みにしてよろしいのですか? 何を考えているか分かったものでは……」

「あら、キュゥべえの情報自体は信用できるわよ。嘘はつかないもの、ね」

 

 と小首を傾げるようにして同意を求めるマミに、キュゥべえは鷹揚に応える。

 

『ボクはキミたちと良好な関係を築きたいと思っているからね。ウソはつかないさ』

「夜宵さんの納得いかない気持ちも分かるけど、敵のことを知っておくことは重要よ」

「はい、敵を知り己を知れば、という言葉もありますものね」

 

 もちろん心からの納得というわけではないのだろうが、マミの言葉に態度の軟化を見せるかおり。だがキュゥべえの返答は、その甲斐のないものだった。

 

『残念だが、これ以上の情報はない。挑んだ魔法少女は、頼りにしてた得意魔法を消されてあっさり死んだしね』

「使えないですわね」

 

 毒づくかおりの横で、マミは瞑目し両手を合わせていた。それを視認し、慌ててかおりも黙祷を行う。無論、キュゥべえはその行いを無意味なものと考えるが、人間の習性としてそういうものだとも理解しており、横槍を入れることはしなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 おそらくは、催眠魔法の後に施した治癒魔法の影響。

 佐倉杏子は眠りから覚めた。

 マミは翌日の朝まで継続するはずの、およそ十数時間の眠りを与えたつもりであったが、その一割にも満たない時間での目覚めだった。

 移動した記憶のないベッドで目覚めたことに違和感をおぼえた彼女。その後、マミの名を呼ばわりつつ家の中を歩き回ったのだが、マミの姿を見出すことができず、嫌な胸騒ぎをおぼえた。

 

「マミさん? ……買い物でも行ってるのかなぁ。それかお昼寝?」

 

 胸騒ぎを打ち消して自分を納得させるかのように、ことさらにのんびりした口調で呟く。そして、先ほどは入り口から覗いただけのマミの部屋へふらりと入り込む。

 

「マミさん、寝てる?」

 

 普段はあまり入ることのないマミの部屋。

 カーテンが閉まっていて薄暗い。照明をつけようとするが、手探りではスイッチがうまく見つけられない。

 そもそもこの部屋使うようになって、まだ半年も経ってないのだから、と杏子は思う。

 

 マミの両親の寝室であったことから、現状を維持したいとの希望で半ば封印されてきた部屋だったが、数ヶ月前にマミは突然この部屋の使用を決めた。その心変わりの理由は杏子には分からなかったが、悪いものではないだろうと当時のマミの表情からは類推できた。

 

「あ、あった」

 

 壁に這わせた指先がスイッチを探りあて、照明が灯る。ベッドに人のふくらみがないことを視認し、多少の落胆をおぼえて照明を消そうとした。その時に、彼女は机の上の手紙を見出した。

 近寄る。そして手紙の宛て名に佐倉杏子とあることを確認する。

 ふたりの物理的にも精神的にも近しい間柄で、わざわざ手紙をしたためることなど過去にはなく、それを見た瞬間に杏子の胸騒ぎはさらに激しくなった。

 紙ずれの音を響かせて封筒から便箋を取り出し、読む。

 

『おはよう杏子ちゃん。気分はどうかしら。傷口は痛まない? 普通の人に治癒魔法使うのずいぶん久しぶりで、加減がうまくできていればいいのだけれど……。

 そうそう、実は、謝らなければならないことがあります。しばらく前から魔法少女に戻っていました。黙っていてごめんなさい。

 それで、杏子ちゃんも気付いてるだろうと思うけど、今東京を襲っている異常気象、魔女の仕業だそうです。

 キュゥべえに確認したところ、ワルプルギスの夜よりは弱い魔女とのことなので、ちょっと倒しに行ってきます。

 もしなかなか戻らなかったら、通帳とかはタンスの下から二段目、印鑑とかは化粧台の下から二番目にに入ってるから、適当に使ってください。

 杏子ちゃんが普通の女の子として生きてくれることが私の願いです。

 万が一、魔法少女に戻りそうになっても、一度はキュゥべえから確認があるはずなので、絶対に断って下さい。

    あなたの家族 マミ』

「なんだよ、これ……」

 

 そして、頬に手を運び、傷痕が消えていることを知った。もとよりマミはこのようなことを冗談で言う人間ではないが、傷痕が消えている事実が、なによりも文面が真実であることを杏子に伝えていた。

 

「マミさん……」

 

 手紙を読み直す。不安が募る。そもそも楽に勝てる相手なら、このような手紙を残す道理がない。

 

「まるで……」

 

 言葉が詰まる。口に出すことで現実になるような気がして。しかし言葉を飲み込んだ分、内心の不安は大きくなる。

 助けたい、と杏子は願った。魔法少女の力をもって、マミを助けたい、と。

 そして――

 

『やぁ、佐倉杏子。久しぶりだね。キミの純粋な願いを受け取ったよ。キミが望むのなら、魔法少女の能力を再び与えることができる。もちろん、魔法少女の責務も宿命も同時に再び背負うことになる』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 電車を降りてから、約三〇分で接敵に至った。

 暴風雨は魔女に近づくほど強く、さらに呼吸をするような緩急をもって襲いかかる。この世の理外にある魔法少女にはさしたる影響はないが、街路樹や街頭はやすやすとへし折られていく。

 

「巴さん、よろしければこの短刀をお使いください」

 

 腰に佩いた刀を抜き、献上するような所作でマミに渡す。キュゥべえの情報通りにリボンが無力化されるとすればマスケットは使えない。それを補うにはあまりにも非力であるが、何もないよりは、と。

 

「ありがとう。私ね、最初からマスケットを作れたわけじゃないの、最初はこういう剣で戦っていたわ」

 

 だから、この短刀でも充分に戦える。そう保証するように微笑み、そして手にした短刀で空を斬ってみせる。

 その、短刀が薙いだ空間の遥か先、高層ビルの狭間を、真球状の肉塊が浮遊していた。

 

 直径にして二〇メートルほどもあるそれは、まさに肉塊であった。

 目もなく、口もなく、手もなく、足もなく。赤子の様な滑らかな肉をただ丸めただけの存在。

 

「もっとも、今のところはリボンも使えるみたいね。キュゥべえの情報だから信用できるとは思うけど、いつも使えないってわけではないみたいね」

 

 肩口に浮かせたマスケットの健在な姿を横目に、マミが呟く。

 

「願わくば、倒すまでずっと使えるままでいて欲しいものですわね」

「そうね。ただ、立ち回りは最悪を考えましょう」

「はいっ」

「どういったタイミング、状況で魔法が消されるかを早めに把握したいわね。夜宵さんも、弱めの治癒魔法をできるだけ常時維持するようにしてもらえる?」

「承りましたわ。魔法を消される瞬間が分かれば、逆にいえばティロ・フィナーレを撃つチャンスもありますものね」

「そういうことね……来たわよっ!」

 

 風がうねる、意志を持って。

 風そのものがカマイタチとなり、そして風が運ぶコンクリート塊や木々が弾丸となって、魔法少女を襲った。

 マミの体術はそういったものを余裕をもってかわしていく。かおりは避けきれずに時おり直撃を受けつつも、防御力と治癒魔法の力でダメージを抑える。

 飛来した街路樹を足場に、八艘飛びを披露しつつ距離を詰めたマミが吼えた。

 

「使えるうちに一気に行くわよ! ティロ・フィナーレ!」

 

 数秒で重砲が生み出され、逆風を裂いて砲弾が飛翔する。それは狙い過たず魔女に着弾し、巨大な魔女の体躯を削り取った。といっても、体積的には僅かだ。人間に例えれば、せいぜいが指を数本撥ねた程度だろう。

 

「やっぱりお堅いわね」

「でも、効いてますわ。繰り返せば!」

 

 追いついたかおりが叫ぶ。

 指を数本撥ねた程度といっても、数度繰り返せば手は吹き飛ばせる。十も繰り返せば腕を飛ばせるだろうし、三〇、五〇と撃ち込めば致命傷にも至ろう。但し、それは対象が反撃も回避もしないカカシであれば――だが。

 

「そうね、相手がそうさせてくれればだけど……」

 

 つぶやき落とされたマミの言葉を、聞いていたかのように。聞いていて、反応を示したかのように。

 肉塊の表面に、幾つもの線状の膨らみが生じた。長さ一メートル程度の膨らみが、表面を埋め尽くすがごとく縦横に、無尽に。

 その膨らみのひとつひとつが、長手方向垂直にこじ開けられるように、じわりじわりと裂けていく。破瓜を思わせる赤い体液が裂け目から滲み、そして溢れ、肉球の表面を糸を引くように滑り落ちる。

 

「何をしようとしてるのかしらっ、ティロ・フィナーレ!」

「させませんわ! ホーリーレイ!」

 

 マミの魔弾が先ほどと同様、魔女の肉を穿ち、線状の膨らみを丸ごとひとつ抉り落とす。溢れていた赤い体液が飛散し、地上にあった建造物――陸橋やビルに付着すると、それを溶かし歪めていった。

 

 ――腐食性の体液、ね。

 

 かおりの光矢はそれほどの威力は見せず、魔女の表皮に針のように立った。しかし、次の瞬間に光矢は振るい落とされる。刺さっていた肉が、ぱっくりと裂け開いたからだ。

 数多の膨らみが開き、その奥にあったものが光る。

 目だった。

 血走り、瞳孔が開いた目。狂人のそれを思わせる目が、肉の裂けた奥にあった。

 ぎろり、と顕現した三〇〇を超える瞳が、魔法少女を睨みつける。と――

 

「消えたわね……!」

 

 マミの肩口に浮遊していたマスケットが消失していた。同時に、夜宵かおりの治癒魔法も効力を失う。

 

「こちらもですわ!」

 

 状況から、生じた魔女の瞳の全て、あるいは幾つかはダミーで幾つかの本命の瞳が、魔法を消去しているのだろうとマミは結論する。いずれが正しいかは、戦いの中で確認するしかない。

 マミは左手に持っていた短刀を右に持ち替え、臆することなくさらに距離を詰める。魔女の攻撃は依然として烈風によるものが全てであり、それはマミに有効打を与えるには至らない。これが攻撃の全てであるならば、リボンを封印されたとしても勝算は充分にある。

 

 ――全てであるならば、だけどね。

 

 一切の器官を持たない魔女の体躯に生まれた瞳が、固有魔法の消去を行うだけの器官と考えるほどマミは楽観的ではない。仮にそうであったとしても、その場合は攻撃を行うための器官が他に発生する可能性を考慮する必要がある。

 しかし、最悪を考慮しつつも、実態の見えない最悪に竦むことはしない。

 飛来するコンクリート塊や折れた街頭を蹴って、あるいは魔法で作った足場を利用して空を駆けるマミは、間をおかず魔女に接敵する。短刀をもって肉を、瞳を切り裂ける距離へ。

 

 刹那。

 直近の目の瞳孔が開き、赤い体液が勢い良く噴射された。水鉄砲よろしく放たれた液体はマミを襲うが、しかし所詮は水鉄砲程度のスピード、マミにとっては児戯に等しい攻撃であった。

 彼女は僅かに身体をひねって水撃を避けると、ひねった勢いのまま短刀を瞳孔に突き刺す。

 じゅく、と傷口から溢れる体液が短剣を侵そうとするが、魔力で守られた武器は侵食を受けることはなかった。マミはとどめとばかりに、左の掌から魔力を放ち、傷口を焼き切る。

 

「地道にやっていきましょうか」

 

 此方の火力が僅かであっても、彼方の火力が通用しないならば、いずれは勝てる。それがマミの言葉の論拠であり、同時にそのような神経を遣う作業をこなしきるだけの精神力が彼女にはあった。

 しかし、もうひとりにはそれは成立しなかった。

 

「くっ!」

 

 烈風に運ばれた乗用車を避けきれず直撃を受ける。

 常人ならば即死してもおかしくない衝撃だが、魔法少女にとってはそうではない。それでもダメージは大きく、そして彼女は治癒魔法の力を失っていた。

 マミは追い風に乗る形で一気にかおりのもとへ駆け寄り、膝をつく彼女に治癒を施す。

 

「申し訳ありません……」

 

 小さく首を振って返しつつ、マミは思考を巡らせる。

 かおりを下がらせて独りで戦うか、それともある程度の被弾を前提に、ふたりで戦うか。

 安定しそうなのは前者だが、かおりが納得するかどうか、そして後者の場合、どの程度までかおりがフォローなしで戦えるか。

 マミが結論を下すより先に、夜宵かおりが口を開いた。

 

「おそらく、あの瞳が魔法を消去しているのですわよね?」

「そうね。全てがそうなのか、ダミーが混ざっているのかは分からないけれど」

「あの瞳は、人間のものを模しているように見えます。構造も人間と同じでしたら、単眼での視界は左右で一八〇度、上下で一三〇度程度のはずですわ。ある程度潰して、魔女の体表に張り付けば充分に死角に入り込めるのではないでしょうか?」

 

 かおりの発言を受けて、マミの脳内で空間シミュレートが行われる。魔女の体躯と、瞳の密度、それと魔法少女ふたりの身長、それらを考慮し、概算ではあるが実現の可能性を認める。

 局所的にでも固有魔法を使用できる領域が得られるならば、ふたりで戦っても問題はない――かなりに夜宵かおりを下に見た判断だが、マミの性格的に最悪を想定するため、そうならざるをえない。

 あとは、魔女が体躯を旋回せさて潰れた視野を補う可能性もあるが、これまでの魔女の行動から機敏な動作は想像しにくい。ゆっくりとした旋回程度なら、充分に対処可能だろう。

 

「いけそうね。もう一度突っ込みましょう。私のあと、ついてこれる?」

「ついていきます」

 

 顔を見合わせ、頷く。と、建築物の破片が突風に乗ってふたりを襲った。

 マミは背面飛びの要領で斜め前へ、かおりは直線的に右へと、跳んで避ける。

 次の飛来物が来る。マミはふわりと躱し、かおりは大きく回避。この時点でマミとかおりの位置には結構な隔たりが生じる。かおりがマミに対し、一〇メートル程度後方になる形だ。

 

「大丈夫?」

「はいっ」

「避けるときは小さく動くと、次がやりやすいわよ」

 

 マミは言葉だけでなく、動きで教えを示す。夜宵かおりの体術では、マミの動きをそのままトレースすることは困難だが、自分なりに解釈して動きをブラッシュアップさせていく。

 

「なんとなく、分かった気がしますわ」

「うん、でも油断はダメよ」

「はいっ」

 

 マミにとっては魔女に近寄るも離れるも容易なことだが、かおりにとっては膝上まである激流の中を歩くような神経を遣う作業だ。それでもマミを倣うことで動きも最適化され、被弾も減っていた。

 程なくして、ふたりは魔女に肉薄する。

 

「何度も治癒、すみませんでした」

「オッケー大丈夫、その分これから働いてもらうわよ」

 

 元気のいい返事をかおりが返す。しかし返事の勢い通りにはいかず、幾度となく瞳から放たれる腐食液の至近弾を浴び、マミの手を煩わせる。それでも萎縮したり、心が折れたりしないのは間違いなく彼女の長所といえる。

 

 

 

 

 七度目の腐食液を受け、エプロンドレスの鮮やかな萌黄色もくすんだ色に変化していた。

 それと引き換えに、ふたりの周囲数メートルの瞳は全て潰されている。足場を魔女の体表すぐ近くに生じさせ、そこに立つことで離れた位置の瞳の視野には入らない、はずだが――。

 

 果たして、マミの肩口にマスケットが浮かび、撃つ。魔弾が魔女の柔肉を小さく穿つ。ダメージはほぼないのであろうが、問題はそこではない。

 

「いけるわね」

 

 マミの言葉にかおりが微笑む。自身の推論が正鵠を失さずにいたことに満足した表情だ。

 

「少し試させてくださいな。モード、フローズンシューター……」

 

 右腕が冷気をまとい、手甲型のホーリーレイを堅氷でもって前後に伸張させ、ライフルの形を成す。極低温の冷気はそれのみならず、夜宵かおりの右腕そのものを凍りづかせ、表面に亀裂を走らせていく。

 フローズンシューターは射撃することで使用者の右腕部に重篤なダメージを生じさせる。マミの治癒魔法に頼らねばならない間は負担を考えて控えていたが、自己治癒ができるのならば遠慮はいらない。この巨大な魔女のどの程度の効果があるのか、試せるうちに試しておこうとの考えだ。

 

「シュートっ!」

 

 ホーリーレイに比して重く、遅い弾が放たれ、そして着弾する。

 着弾した冷凍弾は、瞬間的に対象の表面を氷で覆いつくす。

 覆うために生じる氷の量は、魔力によって多少の変動はあるものの概ね一定。人間程度の大きさのものなら分厚い堅氷で覆い尽くして押し潰すことさえ可能だが、巨象のようなものなら薄い氷を張り巡らせ、数秒の拘束を与えることがせいぜいだ。

 そして、この巨大な魔女に対しては――

 

「一秒も持たず、ですわね」

 

 正確にはコンマ二秒未満。氷の皮膜は一瞬で魔女の巨躯を覆うと、覆った時以上の速さで微塵に砕かれた。そして、それに比肩する速さで右腕の傷を治癒する――治癒魔法に関してはマミをも上回る彼女ならではである。

 もちろん、夜宵かおりの行動の間、マミも呆けているわけではない。

 

「ティロ・フィナーレ!」

 

 ほぼ零距離の射撃。魔女の肉を抉るとともに体液も飛散させるが、近い距離であってもマミはしなやかに回避する。だが、かおりはそうはいかず、帽子にドレスに、さらには髪に飛沫を受けて、じゅっという音とともに刺激臭を漂わせる。

 

「ごめんね」

「いえ! 倒すためには攻撃しませんと! ガンガンやっちゃってくださいな」

 

 右手装備をスプレッドニードルに換装し、マミが穿ったクレータ状の肉穴に追撃を加える。ニードルが体液を滲ませたクレータに突き刺さる、と、そこに一メートル程の線状の膨らみが走る。

 

「――ッ!」

 

 マスケットが肉の膨らみに沿うように五つ、銃口を突きつけて生み出され、即座に魔弾を放つ。その早業は、マスケットが生じるのが早いか、魔弾が命中するのが早いか、という本来的に成立しない疑問さえ生じさせるものであった。

 開きかけた肉の裂け目にくさびを撃ちこむように魔弾が叩き込まれ、その奥にある眼球を射抜き貫く。その結果、眼球は魔法消去の効果を発揮することなく光を失った。

 

「危ないわね。潰したとこから、また目がでてきそうだわ」

「申し訳ありません。わたくしの見込みが甘かったようですわ」

「ううん、それは私もいっしょ。それより、頑張りましょう!」

 

 マミに応えかおりが気炎を上げる。その時だ。

 マミたちの眼前、魔女の体躯に大きな線が生まれる。

 巨大な肉塊をちょうど上下に二等分するように線状の膨らみは走り、半周程度の長さまで育った。そして、膨らみは上と下に裂け始める。

 

「させませんわ!」

 

 叫んだかおりがニードルを構え、それに先んじてマミが大砲を抱く。肉の膨らみが赤い体液を糸引くようにして上下に分かたれる瞬間、ふたりの火砲が放たれた。

 それは肉を抉り、穿つ攻撃であったが、目的である眼球の破壊は成らなかった。

 

 何故なら、その裂け目の奥にあるものは、瞳ではなかったから。

 裂け目は垂直に近い角度まで一気に開いた。その奥にあったものは眼球ではなく、鮫を思わせる環状の列牙。

 そして、これまで鈍重な動きしか見せなかった魔女が、一息に動いた。

 ふたりに覆い被さるようにその巨躯を傾け、開かれた顎で彼女たちを捉える。

 

「なっ!」

 

 夜宵かおりの叫びごと飲み込むように、上から、下から、数多の牙が襲いかかり――彼女たちの身体を、その口腔に飲み込んだ。

 牙と牙が擦れあう嫌な音が響く。

 咀嚼するようにひとしきり口腔を歪ませた後、魔女は満足したように、全ての瞳を細め、やがて閉じた。



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第四三話 マミさんの、神の目の凱歌

 魔女の口腔。

 列状の牙と分泌される腐食性の体液という直接的な脅威に満たされ、腐臭に高湿高温に包まれた、危険で不快極まりない空間。

 その中に、色鮮やかなリボンに包まれた球状の領域があった。

 絶対領域と呼ばれる、マミの防壁魔法。それが築く黄金色の空間が口腔の中に浮かんでいた。

 

「間に合って、というか、近くにいてくれて良かったわ」

 

 マミの口元が綻ぶ。

 とっさに展開した絶対領域だが、効果範囲はせいぜいが数メートル。その範囲内に夜宵かおりがいたことは、両者にとって幸運なことだった。もしそれ以上離れていれば、リボンによってかおりを引き寄せるひと手間が加わり、絶対領域の展開が間に合ったかどうか……そういった微妙なタイミングだった。

 

「もっと引っ付きましょうか?」

 

 冗談か本気か分からない言葉をマミが礼儀正しく無視すると、とりつくろうように言葉を重ねる。

 

「本当に、完璧なガードですのね。巴さんの絶対領域」

「だと、いいのだけれど……」

 

 魔女の口腔は鮫の歯よろしく複数の牙列を備え、それを次々に切り替えてはマミの絶対領域を襲った。

 マミも安穏と受けているわけではない。かおりから見れば金剛不壊の護りに見える防御も、実際は牙を受けたリボンは傷つき疲弊している。マミはそれを高速で新しいリボンへ切り替え、常に万全な状態を保つことに神経を遣っていた。

 

「防御しているだけでは、埒が明かないわね」

 

 マミは、リボンのガードの外に大砲型マスケットを作り出し、砲撃を試みる。しかし、絶対領域の庇護下にない大砲は、生成途中で牙の一撃を受けて砲身を折られてしまった。

 ならばと通常型のマスケットを瞬時に生成し射撃するが、その程度の魔弾では有効な打撃は与えられない。

 

「ほんと埒が明かない……」

 

 そして、そう思っているのは魔女も同様だったのだろう。

 口腔のピンク色の肉の一部に一メートル程度の裂け目が生じた。

 汚らわしい体液を滴らせて開くその裂け目の奥に光るものは――

 

「――ッ!」

 

 見開かれた瞳が固有魔法を消去するのと、マミが反射的に放った魔弾が魔法消去の影響を受け形を失いながらも瞳を射抜くのとは、ほぼ同時だった。

 消された絶対領域を再び展開する刹那の間に、牙はマミの太腿を貫き、かおりの両腕を裂いた。

 

「大丈夫ッ?」

 

 螺旋を描くリボンが侵入していた牙を砕き、再びセーフティゾーンを形成する。さしものマミも治癒に意識を割く余裕はなく、傷口から鮮血が溢れるに任せて意識を防御に集中した。

 

「はい、今、そちらも癒しますわ」

 

 狭い絶対領域の中で、身を寄せ合うようにしているおかげで、治癒魔法はすぐに作用し、太腿の大きい傷をはじめマミの全身が癒されていく。だが、流れ込む癒しの波動の心地良さに頬を緩める余裕はマミにはなかった。

 魔女の口腔の天蓋にあたる肉壁に次々に生まれる瞳。その処理――肉に亀裂が走り、広がり、瞳が開く、そして固有魔法を消す能力を発揮する。その直前に、魔弾で射抜く――に追われ、神経を張り詰めていた。

 

 仮にひとつでも瞳が効力を完全に発揮すれば終わってしまう。

 リボンによって作られた魔弾は瞳を攻撃することはできなくなり、絶対領域を失ったマミとかおりは、瞬く間に全身を牙で貫かれるだろう。

 おそらくはその過程でソウルジェムを砕かれるであろうし、たとえ運良くソウルジェムが砕かれなかったとしても、マミの治癒魔法だけでボロボロになった身体を瞬間的に癒すことは不可能。

 敵だけがこちらを殺す手段を持ち、こちらはただひたすらに対症療法的にそれを凌ぐ。

 精神的に摩耗する作業だが、マミは折れることなく続ける。

 亀裂の出現を見落とさず、爪牙にかからぬよう瞬間的にマスケットを生みだし、裂け目が開き脆弱な瞳が露出する瞬間に魔弾を送り込む。

 

 ――ティロ・フィナーレならともかく、魔弾じゃダメージもろくにないわよね……。

 

「巴さん、わたくしのソウルジェムを預かって頂けませんか」

 

 絶対領域の庇護下で状況を見守っていたかおりが、決然とした表情を見せた。彼女は続ける。

 

「この状況では巴さんの絶対領域しか安全な場所はありませんわ。ですが、ソウルジェムを護って頂ければ、わたくしが外に出て暴れられまわ。もちろん牙でやられるでしょうが、ソウルジェムさえ無事ならわたくしの治癒魔法で」

 

 マミは首を横に振る。その仕草で髪に留まっていた汗が一筋、うなじを流れた。

 

「そんな身体を犠牲にすることが前提の戦い方、賛成できないわ。それに、いつまで絶対領域で耐えられるか分かったものではないわ」

「では他にどうすればよろしいのですか! 大丈夫です、巴さんがわたくしの魂を護って下さると信じれば、身体ごときどうなろうと構いませんわ。それに、絶対領域がもたないというならそれこそ一蓮托生。巴さんと一緒に天国に行けるなら、命を落とすのも悪くありませんわ」

「……無理ね。たぶん、私は天国に行けないもの」

 

 既に絶対領域を構成するリボンは、初期のものと全てが入れ替わっている。いや、正確には全交換を三度行って余りあるほどに入れ替わっている。その過程における魔力の消費は軽微だが、精神の消耗は無視できるものではない。

 

「そんなつれないことを仰らずに」

「そういうつもりじゃないの、本当のことなのだけれど……」

 

 

 油断ではなく、不注意でさえなく。

 コップに注ぎ続けた水がやがて零れるがごとき当然の帰結として、魔女の牙が絶対領域を貫き、マミの肩を裂いた。

 

「このっ!」

 

 スプレッドニードルの接射が侵入した牙を砕き、マミはリボンを操り絶対領域を再構築、再びセーフティゾーンが築かれる。

 かおりはマミの傷を癒しながら、キャビンアテンダントのようなベレー帽からソウルジェムを外し、マミの手に押し付けた。

 

「お願いします」

「……分かったわ」

 

 ぎゅっと、蒼銀のソウルジェムを握りしめる。

 訓練の時にいつもしていることだが、今日ほどマミの手の温かさをソウルジェム越しに感じたことはない、とかおりは目を細めた。そして、覚悟を宿した瞳でマミを見つめる。

 

「五秒後、一瞬だけ絶対領域を解いてくださいますか。そこで外に出ますわ」

 

 首肯するマミ、しかし、状況はその五秒さえ許さず、次の異変が発生する。

 左側方、ピンク色の肉に裂け目が走る。今までの裂け目よりも早く、長い。縦に伸びるそれは、四メートルを超える長さ。

 

 ――大きすぎるっ! 魔弾だけで止めきれるのっ?

 

 出そうになる悲鳴を押し殺して、マミは三〇ほどのマスケットを作り出し、魔弾を撃つ。

 裂け目が走る速度は従来より早かったが、裂け目が開く速度もやはり従来より早かった。結果として、マミの魔弾が届く前に、裂け目は開き切る。

 

 ――間に合わないっ? 目との相討ちならともかく、魔弾だけが消されたらっ!

 

 金属音が響く。魔弾が、金属に弾かれる音。

 

 それは、槍の穂先が魔弾を次々と叩き落とす音だった。

 続いて響く、聞きなれた声。

 

「やめてよマミさん。マミさんに撃たれるなんてごめんだよ」

 

 声の主は、だらしなく開いた肉の裂け目に立っていた。大身槍を構えた佐倉杏子が、彼女の常である不敵な笑みを浮かべて。

 この巨大な裂け目は、彼女の槍の一撃が切り開いたもの。

 咀嚼行為に集中していた魔女は杏子の接近に気付くことなく、彼女の大振りの一撃をその身に受け、内部の口腔まで続く傷を受けたのだった。

 

「キュゥべえから、マミさんが中に喰われてるって聞いてね。とりあえず出れる?」

 

 ダメージからか一時的に蠕動を止めた口腔に入り込むと、杏子は大身槍を垂直に伸ばして穂先と石突きで魔女の両の顎を固定。魔女の咀嚼行為の制限を試みる。

 ちょうどそれが終わると、魔女の口腔が再び動き出した。

 さすがに魔女の力は凄まじい。上下から圧を受ける大身槍は、軋みたわんで悲鳴をあげる。

 それでもマミたちが口腔から逃れる時間は確保できた。彼女たちが裂け目から飛び出した数瞬後に、槍の柄はへし折られ、魔女は口腔を歪ませる――しかし、既に咀嚼すべき対象は魔女の口の中にはいなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 魔女の巨躯に並ぶ数多の瞳は、再び見開かれていた。

 その視線を浴びる魔法少女たちは、それぞれが得意とする魔法を消去される。

 影響が甚大なのは明らかに巴マミ。そして影響が軽微なのは佐倉杏子と言えるだろう。幻惑系の魔法が消去されるが、そもそも彼女の戦闘は幻惑なしでも完成されている。「不便だな」といった言葉で片付けられる程度の影響だ。

 

 だから、マミが最初に行おうとした「地道」な討伐を、杏子ならばよりスムーズに遂行することができる。

 それが性格に合わないのか、それとも他の思惑か。

 杏子は、一旦距離を取った状態で提案した。

 

「マミさん、遠くからがんがん狙撃してよ」

「でも、魔弾そのものがリボンでできているのよ。遠くから撃ったとしても、魔弾が近付いたところで消されてしまうわ」

「あれがあるじゃん、魔弾じゃなくてビームの」

「ヴェルシオーネ・イリミタータ?」

「名前はおぼえてないけどさ。アイツの魔法消すのだって、そんな遠くまでは効かないだろうし、二、三キロ離れて、そこから撃ってよ」

「そうすると……移動で一分、イリミタータの準備に五分。けっこうかかるわよ」

「よゆーよゆー。時間稼ぎしつつ戦っとくよ」

 

 会話を聞きながらも、かおりは烈風とそれが運ぶ弾丸の回避に神経を集中させており、口を挟むことはしなかった。しかし、「最初から接近せずにそうすれば良かったのでは」という疑問が喉まで出かかっていた。

 無事戦いが終わったら聞いてみよう、ベレー帽に戻ったソウルジェムを撫でながらそう考えると、彼女は足を引っ張らないことだけに専念した。

 

 

 

 

 

 烈風の中、フクロウが飛ぶようにしなやかに、ハヤブサが飛ぶように鋭く、マミは駆けた。

 そして、魔女を遠くに見据える位置まで移動すると、高層ビルの屋上に舞い降りる。

 屋上に設けられたヘリポートの中央に着地したマミは、片膝をつき両掌を重ねあわせて足元に力強く叩きつける。

 瞬間、掌を中心におびただしい数のリボンが湧出し、全方位へと津波のように波打ち走った。

 土台としての役割を持つリボンがヘリポート全域に根を張ると、その上に幹たる砲身が築かれていく。

 ティロ・フィナーレに用いるマスケット大砲を数秒で組み上げるに至っているマミだが、その要因としては知識と経験があげられる。マスケットの構造を余すことなく理解し、その上で何千回と作成経験を積んだことで、彼女のマスケット大砲の生成速度は飛躍的に向上していた。

 ひるがえってヴェルシオーネ・イリミタータは、彼女にとって理解の難しいYAGレーザの機構を参考とし、生成経験も両手の指で数えられるほどしかない。

 そのため、ヴェルシオーネ・イリミタータと称する大口径魔力粒子砲の生成には、マスケット大砲の一〇〇倍からの時間を要する。

 

「でも、杏子ちゃんに甘えてばかりはいられないわ。今日ここで、最短で作ってみせる」

 

 二キロ以上の距離を取ってなお、魔女の引き起こすカマイタチは彼女を襲い、巻き上げられたコンクリートの弾丸は彼女を狙った。それらを的確にリボンで防御しつつ、マミはヴェルシオーネ・イリミタータを築いていく。

 

 

 

 

 

 カマイタチも、コンクリートの弾丸も、杏子の影を捉えることさえできなかった。

 踊るように緩急をつたけ動きで魔女を翻弄しつつ、槍の刺突を繰り出していく。既に潰した瞳の数は三〇を超える。もし魔女に体力を示すゲージがあれば、一割は減っているはずだが――

 

「埒が明かねぇな」

 

 吐き捨てる。

 潰しても、新たな裂孔が生じ、新たな瞳が湧く。それは徒労に近い感覚を戦うものに与え、戦意を挫こうとする。あるいは焦れさせて、動きを乱暴なものにさせようとする。

 しかし、どちらも杏子には効果はなかった。彼女の精神力が強靭なこともあるが、なにより彼女には戦いの終結に至るまでの道筋が見えていたからだ。

 

 その道筋を照らす光が、遥か後方に見えた。

 マミがつくりだした大口径魔力粒子砲が、内部で魔力を増幅させている光だ。

 

「かおり、ソウルジェム預かろうか? ティロ・フィナーレが来るぞ」

「結構ですわ! それに、ティロ・フィナーレではなく、ティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータ! 間違えては巴さんに失礼ですわ!」

「はいはい……来るぞっ! 巻き込まれんなよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 細い、糸のような閃光が奔った。

 熱を感じさせないそれは、針が薄絹に突き刺さるかのように、魔女の体躯中心を貫いた。

 

『杏子ちゃん、夜宵さん、離れてねっ!』

 

 警句の後に、閃光が膨張する。

 糸のようだったか細いその身は、天を翔ぶ龍のように雄々しく、針のように真っ直ぐだったその身は、堰を切った濁流のように荒々しく、魔女の体を貫きながらうねり暴れる。

 魔女の巨躯が、光の濁流が暴れるごとに千切れ、蒸散していく。ティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータの熱量は、魔女の体液さえ飛び散ることを許さず煙へと変える。

 

「すっげぇな」

 

 見上げる杏子が呟く。それはマミの攻撃と、魔女の防御双方に向けた言葉であったが、かおりには前者の意味しか理解できなかった。

 もし、かおりに杏子と同等の魔力を感知する能力があれば、魔女が自身の核である巨大な瞳を体躯の最奥に置き、全魔力でもってマミの攻撃を何とか凌ごうとしていることが理解できたであろう。

 その事実は攻撃を行っているマミにも手応えで伝わっており、それ故に次のテレパシーをマミは発する。

 

『杏子ちゃん、そろそろこっちおしまい。とどめお願いね!』

『応っ!』

 

 光の奔流がはじけた。

 太陽のごとき眩さと熱さ、それが消えた後には元の巨躯から見ると非常に小さな――それでも乗用車ほどのサイズだが――眼球のみが残った。

 自身の肉の全てを防壁とし、さらには持てる魔力の全てで防御壁を築いてマミの攻撃に耐えた魔女だったが――そこに地上から跳躍した死告天使が舞い降りた。

 先端が開き、三叉となった杏子の槍。それは疲弊し浮遊することしかできなくなった魔女の核を、容赦も慈悲もなく鋭く貫いた。

 

「お疲れさん、だな」

 

 口の端を歪めると、三叉の中央に位置している魔力によって作られたニードルが魔女の中で爆散した。

 もはや魔女は抗う術を持たない。魔力の爆散に煽られるままに、その身を散らしていった。

 

 

 

 

 

 

 雨がやみ、風が徐々に凪いでいく。

 烈風によって真横に流されていた杏子のポニーテールが本来の位置に収まる頃、マミが合流した。

 

「お疲れさま、杏子ちゃん、夜宵さん」

「すみません、わたくし、お役に立てないばかりか足を引っ張ってしまって……」

「ま、それが理解できるだけ成長したんじゃねーの? 気にすんな、最初からあてにしてないし」

 

 大身槍を両肩で担ぎ、リラックスした姿勢の杏子の軽口に、かおりが吠える。自覚していることでも、いや、自覚していることだけに、杏子には指摘されたくないのだろう。

 

「あなたは見てないでしょう! わたくしが足を引っ張ったところ!」

「見なくても想像つくしー」

 

 マミは口元を手で隠すと、声にならない声を漏らす。それを見とがめたかおりが「巴さんまで!」と叫んだが、それは無視してマミは表情を硬くした。

 

「杏子ちゃん、私の置き手紙見なかったかしら?」

「見た……けど?」

「どうして言いつけを守らないのかしら? 魔法少女にならないようにって書いてあったよね?」

「そ、そう言われても……ほら、押すなよ、押すなよ的なものかと」

「そんなわけないでしょう?」

 

 マミのむすっとした態度に、杏子は心底たじろいだ様子を見せる。足元をふらつかせ、あまつさえ、かおりに助けを求める有り様だ。

 

「な、なぁ、かおり、助かっただろ、あたしが来て」

「どうでしょう?」

 

 肩を叩こうとする杏子をひょいと避け、かおりはマミに寄り添う。そして甘えるように寄りかかると続ける。

 

「巴さんおひとりでも倒せたと思いますし、助かったのかどうかと言われますと……」

「マジかよ。いや、マミさんだけで倒せたとは思うけどさ」

「ですがまぁ、わたくしが足を引っ張った分をチャラにする程度の働きではありましたし、一応は感謝いたしますわ」

「一応かよ」

「一応ですわ」

 

 ふたりのやり取りを仏頂面で眺めていたマミだが、不意に笑いがこみあげてきた。杏子の手前もあり抑えようとするが、口元が綻び、笑う声が溢れる。一度笑いが漏れると、もう歯止めが利かなかった。

 ひとしきり笑うと、ひとつ咳払いをして息を整える。そして目尻を指で拭うと、

 

「しょうがないわね。済んだことだし……それに、本当に助かったわ、ありがとう。私ひとりじゃ危なかったわ」

 

 杏子の表情がぱぁっと明るくなる。それを見て、マミは温かい気持ちになりつつも釘を刺した。

 

「でも、帰ったらお説教はしますからね」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「明日から学校かぁ」

 

 数日が経った。

 八月も末日となったが、夕方のパトロールを控えたこの時間もまだまだ残暑は厳しい。杏子は暑気払いにアイスバーを咥えながら、出かけるための身支度をしている。

 

「そうね、杏子ちゃんも受験生なんだから、二学期からは勉強時間増やさないとね」

 

 既に支度を終え、リビングからぼんやりと外を眺めていたマミが応える。日は傾きはじめてはいるものの、いまだ紅には染まらず、今しばらくの日照時間を約束していた。

 

「えー、あたし成績いいよ?」

 

 言葉の通り、杏子の成績は上位に属する。それも当然ではある。マミという家庭教師が常に生活を共にしているのだから。

 

「ダメよ。他のみんなも頑張るんだから、杏子ちゃんも頑張らないと追い抜かれちゃうわよ」

 

 正しくは、厳しい家庭教師か。さらにはお菓子というアメも使い、その上で生徒から慕われているのだから、家庭教師としては極上の部類に入るだろう。

 

「まぁ、それはいいんだけどさ」

「どうでもよくないわよ?」

「いや、そうじゃなくて……。勉強時間増やすのはいいとして、志望校とか考えないとなって」

「好きなところにすればいいわよ。なんなら夜宵さんのところに編入してもいいし」

「それはない」

 

 支度を終え、リビングへ入ってきた杏子が言下に否定する。マミは杏子の気配を感じてそちらに向きなおすと、ゆっくりと歩を進めた。

 

「したいことがあるなら、普通科じゃなくてもいいし」

「ちょっと考えとく」

「そうね、きちんと考えた方がいいわ。しっかり考えた結果なら、どんな選択でも応援するから」

 

 そして歩み寄ると杏子の首に手を伸ばし、少し乱れていた襟元を整える。アイスバーは既にアイスの部分が完食されて棒切れとなっていた。それを口に咥えた杏子は、されるがままに任せる。

 襟元を皮切りに、袖、裾、ソックスと順番に整えられていた杏子は、棒切れを口から取ると独語した。福音派の父を持った杏子からすると宗派は異なるが、宗派を超えて尊敬している偉人の言葉だ。

 

「神は私たちに成功することを望んではいません。ただ挑戦する事を望んでいるのです、か」

「いい言葉ね、なにか挑戦したいことがあるの?」

「んー」

 

 身だしなみの確認をすべて終えると、マミは合図のように杏子のふくらはぎを軽く叩いた。

 それは「チェック完了」を示すふたりの間の符丁のようなものであり、そのような符丁が存在するということは、これは常のことなのである。常のように杏子の身だしなみは不充分で、常のようにマミのチェックを受けている。

 合図を受けて、杏子はじっとしていることを止める。軽い足取りでリビングの角のゴミ箱まで歩くと、手にした棒切れを入れようとし――その直前で手を止めた。

 

「少し調べてみて、それでも考えが変わらなければ、マミさんに伝えるよ」

 

 マミはその返答に満足する。既に杏子に、うっすらながらとはいえ進路の希望があり、それについて自分の手で調べると言っているのだから、期待した以上の答えといえた。

 これ以上は急かすことになると考えたマミは、一連の会話を打ち切ろうと話題を変える。

 

「はい。じゃぁパトロール、行きましょうか」

「うん、マミさん」

「なにかしら」

「アイス当たったから、帰りにもらっていいよね」

「いいけど、食べるのは明日以降にね。今日の分はいま食べたでしょ」

「でも、帰ってくる間に溶けるよ」

「じゃぁ、いま食べたアイスどうやって持って帰ってきたのよ」

「冬の間に買っておいた」

「昨日買ったの、覚えてますよ」

 

 マミはくすりと、杏子はにやりと笑みを浮かべた。

 

「マミさん細かくない?」

「杏子ちゃんは言い逃れが適当すぎない?」

「平行線だなぁ」

「えっ、そ、そうかしら?」

 

 明らかに自分に理があると思っていたマミは、杏子の言葉に僅かに動揺する。そして、じゃぁ、と前置きして、

 

「今日、結界を先に見つけた方が決めることにしましょう」

 

 と、折衷案を提示するのであった。これもまた、ふたりにとって常のことであった。

 

 

 

 

第六部 マミさんの、魔法の国が消えていく   完



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マミさんの歩く道に祝福がありますように
第四四話 マミさん、キュゥべえとティータイムを楽しむ


 見滝原第一高校の文化祭は、例年十月最後の土曜日に催される。

 今年もスケジュール通りに開催され、つつがなく終了した。

 ほとんどの生徒にとっては良い思い出として記憶されたのだが、ごく僅かにそうでない者も少数ながら存在した。

 たとえば、森林りんご、リンリンと呼ばれる少女がそうであった。

 

 

「マミ、お願い! うちの部活に入って!」

 

 文化祭を終えた翌週の朝、ホームルーム前の教室。

 珍しく早めに登校したリンリンは、常のように時間に余裕を持って登校していた巴マミに両手を合わせて拝むようにしていた。

 

「突然どうしたの? ええと、黒魔術研究会、だっけ?」

 

 スクールバッグから出した教科書とノートを机の上で整理し、時間割り順に並べていたマミは、手を休めて友人の顔を見つめる。小首を傾げる仕草は、同性のリンリンから見ても愛らしい。

 

「部員が少なくて、このままじゃ廃部になっちゃいそうなのよ」

 

 文化祭でアピールすれば、一年生の三人や四人軽く勧誘できるだろうと根拠なく考えていた黒魔術研究会メンバー計二名は、ひとりの入会者も得られなかったことに焦っていた。

 校則では最低メンバー数が規定されている。顧問の教師には、文化祭で勧誘するから……と猶予をもらっていたのだが、現状ではいつ廃部になってもおかしくない。

 

「私ひとり入れば大丈夫なの? そういうことなら、幽霊部員で良ければ籍は入れてもいいけど?」

「できれば時々顔を出して」

「えー、私、黒魔術とか興味ないよ」

「興味なくていいから。机で小説でも読んでてくれれば」

「いや、ダメでしょ。まじめに活動してるひとに悪いもの」

「マミがいてくれれば、男子生徒が釣れると思うんだよね」

「なにそれ。そんなワケないでしょ」

「いやいや、そんなワケあるよ。マミはこないだの文化祭で、ミスコン三部門を総ナメにしたコなんだから」

「……え?」

「あれ、知らなかったの? ミスコン」

「そんなのやってたの?」

 

 驚きで声が半オクターブ上がった。気付いて口元を手で隠し、はにかんで頬を染める。そして耳目を集めていないかと視線を巡らし、杞憂であることを確認してから胸を撫で下ろす。

 

「やってたよー」

「うそ。そんな前時代的なの、学校側が許さないでしょ」

「非公式だからねー」

 

 リンリンと呼ばれる少女の特徴として、自分の求める方向に器用に勘違いすることがあげられる。この場合も、呆れて閉口したマミを、詳しい説明を求める態度と勘違いした。

 早口気味になった彼女は、立て板に水とばかりに説明を披露し、マミはそれを慣れた態度で相槌まじりに聞き流す。

 開催は写真部と生徒会で、学年ごとに何人かを自薦他薦でエントリーし、行事の時に撮っていた写真を掲示して投票をしてもらったのだと、リンリンは言う。

 そして三部門が設けてあって、それぞれでマミが優勝したらしい。

 曰く、ガールフレンド(仮)にしたい女子生徒部門で、ダブルスコアで優勝。

 曰く、ケッコンカッコカリしたい女子生徒部門で、有効投票数の過半数を集め優勝。

 曰く、母になってくれるかもしれなかった女子生徒部門で開票三分で優勝当確。

 

「すごいでしょ」

 

 なぜか自分のことのように誇るリンリンに、まさに自分のことであるマミは対照的な表情をしてみせた。

 

「嬉しくないの? 三部門制覇は長い歴史の中でもほとんどいないらしいよ?」

「最後のってダメな賞じゃないの? おばさんくさいって言われてるみたいで……」

「いやいや、それだけ母性が溢れてるってことだよー。しかも彼女としてもお嫁さんとしてもいいなんて、良妻賢母そのものだよ、マミ。世が世なら性格、容姿、そして家庭的、全て三拍子揃ってるぜって言われてるわよ」

「良妻賢母っていわれても……」

「マミなら立派な良妻賢母になれるよ。引く手あまただし」

「んー……、私はたぶん結婚はできないかなぁ」

「どして」

「だって、いつ死ぬともしれない身だし……」

「……なにそれ、カッコイイ!」

 

 しまった、とマミは思った。うっかり本音を口走ったこともだが、それよりも友人が好みそうな話を振ったことを、だ。友人がそれ以上食いついてこないうちに、慌てて打ち消す。

 

「冗談よー、普通の高校生が死ぬわけないじゃない」

「ですよねー」

 

 あっさりと引き下がったのは、彼女の目的がそこになかったから。今の彼女にとってマミの勧誘が焦眉の急であって、中二病っぽい話で盛り上がっている場合ではなかった。

 

「それはさておいて、入ってよ、部活」

「だから、籍だけならいいよ」

「そうじゃなくてさー」

「顔だすのは勘弁してー」

 

 

 ホームルームが始まる直前まで粘ったリンリンだったが、マミの色よい返事を引き出すことはできなかった。

 それでも、マミが入部するという事実は大きく、数日で何人かの男子生徒が入部し、黒魔術研究会は廃部の危機を逃れることができた。

 その結果に、リンリンは「さすがマミ」とあらためて認識するとともに、ミスコンに推薦した甲斐があったと深く頷いていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 その日の深夜、マミの部屋の窓を叩くものがいた。

 あまりにささやかな音であったため、マミは最初は風に運ばれた砂がガラス窓に当たっているのだろうと思い、勉強を続けていた。

 やがて、音が何度も繰り返されることに訝しんだマミが席を立ち、窓に近寄るとそこにキュゥべえの姿があった。

 

「どうしたの、キュゥべえ?」

 

 窓を開けつつマミが問う。その問いは、どうして訪れたのかという意味ではなく、どうして入ってこずに窓を叩いていたのか、という意味でなされたのだが、キュゥべえは前者で受けとったようだった。

 

「突然すまない、キミと話がしたくてね」

 

 窓から部屋に入ってくる。普段の軽やかな足取りはなく、ともすると倒れそうなくらい不安定な足運びだ。いや、普段と違うという点では、それよりも大きい事象があった。

 

「キュゥべえ……? テレパシーじゃない……?」

「テレパシーで力を使いたくないからね。ボクに残された力は僅かだから」

 

 マミの用意したクッションに倒れ込むように横になる。すぐ横に腰を下ろしたマミが観察すると、普段と違う点は他にもあった。

 いつもはシリコンゴムのように滑らかで、汚れ一つなかった身体が、今は使い古した筆先のように毛羽立ち、荒れていた。

 いつもは床に触れていないのかと思えるほど静かに、なんの痕跡もなく歩いていたのに、今は床に汚れた足跡を残していた。

 

「一体、どうしたの、キュゥべえ……?」

「ボクは感情という疾患を患ってしまってね。インキュベーターとしてのあらゆる権益からシャットアウトされているんだ。最後の力もそう遠からず尽きるだろう」

 

 無言で片手を伸ばすと、マミはキュゥべえの背中を撫でる。そして、治癒の魔法を送り込んだ。

 オレンジイエローの温かい光がキュゥべえの身体を包み込む。目立った効果は見えない。

 

「マミ、どうしたんだ。キミはボクを憎んでいるはずだよ。それはボクも当然のことと受け止めている。だから最後に謝りたいと思ってここに来たんだが」

「確かにインキュベーターは憎いけど、あなたはもう違うのでしょう? だったら、ただの弱っている生き物だもの、助けるのは当然よ」

 

 そこまで言うと、マミはくすりと笑みを漏らした。抑えようとしても溢れてくるような笑いを何度か繰り返す。

 

「何がおかしいんだい?」

「ううん。酷い毛並みに酷い汚れ。捨て猫みたいだわ。あなたも、こうして見ると普通の生き物なんだなって思ったら、おかしくなっちゃって」

「そこらにいる哺乳類と同じに扱われるのは心外だ」

 

 部屋に来た当初よりも、キュゥべえの声に少し張りがあるようにマミは感じた。マミはそれを治癒魔法の効果と信じることにして、さらに魔法を続ける。

 

「はいはい。とりあえず、お風呂いれてあげる。そこらにいる哺乳類みたいに、お湯を怖がったりしないわよね」

「もちろんだ」

「ドライヤーも怖がらないわよね」

「くどいよ、マミ。ボクが怖いのはまんじゅうくらいだ」

「ヘタな冗談ね」

「ダメかい。難しいものだね」

 

 マミが笑いを漏らしているのだから成功したのではないかとキュゥべえは思うのだが、本人がヘタな冗談と指摘している以上、ダメであったのだろうと失望し、耳をぺたんとたたませた。

 その仕草に小動物の姿を重ねたマミは、治癒魔法のオレンジ色の光に染まった頬を緩ませ、目を細める。

 やがて、毛羽立っていた肌が滑らかなものへと回復を見せる。キュゥべえは片耳をぴんと持ち上げた。

 

「エネルギーがなくてテレパシーを使いたくなかったんだが、このままでいいね。声を出した方が話をしている気になるよ」

「そうね。同感だわ」

 

 言外にテレパシーを使えるくらいには回復したとキュゥべえは告げ、マミもそれは諒解した。治癒魔法が彼に回復をもたらしていたことに安堵し、彼の身体を胸に押し付けるようにして抱き上げた。

 

「じゃぁ、お風呂はいりましょうか。杏子ちゃん寝てるから、廊下では静かにね」

「テレパシーにした方がいいかい?」

 

 マミはゆっくりと首を左右に振って応えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ゴシゴシと音が出んばかりに激しく、膝に乗せたキュゥべえをボディスポンジで磨く。

 聞くと、キュゥべえが感情に目覚め、インキュベータの権益から放逐されたのが八月の半ば。ちょうどマミが一度魔法を失い、再契約をした時のキュゥべえが彼にあたるらしい。

 それから二ヶ月以上も経っている。その間に身体にこびりついた汚れは酷く、磨いても磨いてもなかなか綺麗にはならない。

 マミはキュゥべえの身体磨きに熱中していた。汚れが残ることを看過できない性格と、綺麗になっていくことに充足感をおぼえる性格が合わせ技として作用している。

 それだけ激しく扱われたボディスポンジは、汚れを吸い込み、また表面もくたびれてきていた。

 

「スポンジ、ダメになっちゃいそうだわ」

「それはすまないね。浴槽やトイレを洗うようなもので洗ってくれて構わないんだが」

「大丈夫、このスポンジはあなた専用にするから。それにしても遠慮するなんて、可愛いわね」

 

 上半身を前に倒し、太ももと乳房で挟み込むようにしてキュゥべえを抱き締める。愛玩動物にするような無邪気な愛情表現だが、されている方がおずおずと抗議を返した。

 

「マミ、その、胸が当たってるんだが」

「あら、そんなこと気にするの? おませさんな子ね」

 

 顔を綻ばせたマミが上半身を持ち上げる。そのタイミングで、キュゥべえは全身を小刻みに震わせた。濡れた猫が行うような身体中の水分を撥ね飛ばす仕草は、彼の全身を覆っていた泡を周囲に弾き飛ばす。

 

「あっ、こら、泡が跳ねちゃうから」

「ボクをからかった仕返しだよ」

「もう……あっ、そうだ。もうインキュベーターじゃないのなら、名前がいるわよね」

 

 目尻についた泡を指で拭うと、マミはそのまま指を口元にあてて考える仕草をみせた。キュゥべえは仕返しに満足したのか身震いをやめると、マミの膝上で丸まって言った。

 

「イタリア語はいやだよ」

「なんでよー」

「なんででもだよ」

「むー」

 

 何度かシャワーで流し、何度かソープを垂らして泡立ててから、マミは彼に新しい名前を告げた。

 

「じゃぁ、感情をおぼえたキュゥべえで、カンべえにしましょう」

「別に好きに呼んでもらって構わないんだが……もう少しカッコイイ名前はないのかい」

「じゃぁ……」

「イタリア語は却下だよ」

「もー」

 

 マミが笑うと、つられてキュゥべえも笑った。それはマミが初めて聞くキュゥべえの本当の笑い声であった。

 マミは彼の笑い声を聞きながら、とても穏やかな気持ちになっていくことを自覚していた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 お風呂をあがり、マミの髪とカンべぇの体表をドライヤーで乾かすと、マミは紅茶とお菓子を用意した。リビングで頂いては音と匂いで杏子が起きてくるかもしれないので、マミの部屋に運ぶ。

 

「キュ……カンべぇは大人だし、これいけるわよね」

「これ、とはなんだい?」

 

 マミがトレイに載せた小さな容器を持ち上げてみせる。ジャム瓶程度の容器には、氷砂糖とスライスされたオレンジが半透明の溶液に浸されていた。

 

「オレンジキャンディス、氷砂糖をオレンジリキュールで浸けたものよ。ちょっとアルコールが入ってるんだけど、大丈夫なら紅茶に入れちゃう」

「大丈夫とは思うが、ひとつ疑問がある。マミ、キミの家には大人はいないはずだが、なぜアルコールが入っているものがあるんだい」

 

 慣れた手つきでふたを開けると、小さなスプーンでキャンディスのひとかけをカンべぇのカップに静かに沈ませる。それから、隣に座るカンべぇに悪戯っぽい視線を送り、ちろりと舌を出した。

 

「鋭いわね」

「鋭かったのかい?」

「でも、教えてあげない。ヒントは、私も飲みます」

 

 続いてマミのカップにも、キャンディスをひとかけ沈ませる。

 

「それはヒントではなく正解ではないのかい」

「そうかしら?」

 

 杏子が一緒に飲む時は控えているが、深夜の勉強時などはマミひとりでこっそり楽しんでいる。決して意地悪ではないのだが、もしこの事実を杏子が知れば間違いなく「ずるい!」と非難することだろう。

 結局マミは笑顔を返すだけで応えず、カンべぇも追及する気はないようで、氷砂糖が溶けてオレンジの香りが漂ってくるまで、それ以上は何も言わなかった。

 

「それじゃ、お茶をいただきながらお話ししましょうか。何か話があってきたんでしょう?」

「そうだね……」

 

 紅茶をひと舐めして舌を湿らせる。が、カンべぇはうまく言葉を紡げなかった。

 急かすでもなく、穏やかに彼を見つめるマミ。

 やがてマミの手は彼の背を撫で、ついには彼を抱き上げて膝に乗せる。

 

「気軽にね。大丈夫、紅茶を飲みながら不幸になることは難しい、っていう言葉もあるもの」

「なるほど、真理だね。残念ながらインキュベーターとしての共有知識にアクセスできないボクには、誰の言葉か知る由もないが」

「たぶん、アクセスできても分からないかも。パパの言葉だから」

 

 控えめにマミが笑う。カンべぇはともに笑うことはせず、顔をマミの柔らかい腿に押し付けると、小さく呟いた。

 

「そうだね。ボクがここに来た理由は、ボクたちがキミたちにしたことを謝りたいと思ったから……」

「それはいいの。あなたはインキュベーターじゃないのだから、謝ることはないわ」

「いや、しかし、ボクがインキュベーターであったことは事実だ」

「意外とガンコなのね。わかったわ、それじゃぁ罰を与えてあげる」

「わかった、そうしてくれると助かる」

 

 呟き、カンべぇは身を硬くした。両の手をマミの腿にぎゅっと押し付ける――もし彼に爪があれば、マミは悲鳴をあげていただろう。

 怖がるような仕草に、マミは微笑ましく思うと同時に脅かしたようで申し訳なくも思う。

 

「今晩、一緒に寝てくれる? 私、ぬいぐるみ抱いて寝るの好きなの、その代わりをお願い。それで許しちゃう」

「……それは、罰なのかい」

「ええ、私こう見えても寝相悪いから、朝にはどうなってるか分からないわよ」

 

 カンべぇは膝の上から器用に紅茶を舐めると、「お手柔らかに」とだけ応えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 豆球の明かりだけが部屋を照らしていた。

 そのささやかな明かりさえ拒絶するように、マミは掛布団の中に頭まで潜らせていた。赤子のように身体を丸めて胸にカンべぇを抱き締める。

 

「キミにとって有益な情報でも提供できれば良かったんだが、ボクたち個体の記憶容量はかなり少ないんだ。必要ないからね。いつでも共有知識にアクセスすればいかなる情報も手に入るんだから。だから……そこから切り離された今のボクには、あまり知識はないんだ。役に立てなくてすまない」

 

 マミはカンべぇの頭に顎を当てて、弄ぶように軽く力をかける。

 マミの顎と胸と両腕と太腿、全身で包まれた形になったカンべぇは、もし自分たちが胎生なら、親に抱かれこのような感覚を味わうのだろうかと想像した。その想像が温かく幸せだと思える事実に、あらためて感情をおぼえたことは間違いではなかったと思う。

 

「あなたのような子がいると分かっただけで嬉しいわ。来てくれてありがとう。その……あなたみたいな子は、他にもいるの?」

「感情という精神疾患になった事例は少なくはないよ、一世紀にひとりは出るくらいだったはずだ……データを参照できないので、正確な数字ではないが」

「百年にひとり……かぁ。それって充分少ないわよね」

「そうか。そうだね、確かにマミが再び感情をおぼえたインキュベーターに出会う確率は低いだろうね」

「あなたひとりで充分だわ。ずっと一緒にいてね、カンべぇ」

 

 返事はなく、その代わりに寝息のようなものが聞こえた。感情をおぼえても、「ウソをつけない」という縛りは彼の精神にいまだ残っており、それ故に沈黙を以って答えるしかなかったからなのだが、マミはカンべぇが眠りに落ちたものと解釈した。

 

「寝ちゃった?」

 

 マミは呟き、それにも返事がないことを確認すると、自らもゆっくりと夢の世界へ誘われていった。

 

 

 

 

 

 時計の長針がひと回りするほどの時間が過ぎた。

 規則正しい寝息をたてるマミの胸元で、白い生き物がもぞもぞと動いた。掛布団を小さく変形させながら、やがて白い生き物は布団から顔を出す。

 そして、掛布団の下で夢を見ている部屋主へ視線を向けると、

 

「最期にキミに会いに来て良かったよ、マミ。ボクは感情を持ったことを後悔していたんだ。同胞からは切り捨てられた。インキュベーターを嫌っているキミたちの前に出れるはずもない。感情を持ってもそれを発露する場所も交感する相手も持たず、ただ朽ちていくしかないと思っていた。でも、今は感情を持てて幸せだったと、自信を持って言えるよ」

 

 カンべぇは自らの手に視線を落とす。

 マミの治癒魔法により活力を与えられたはずの手には、腐りかけた果実のように黒い斑点が浮かんでいた。それは、彼の身体が遠からず朽ち果てようとしていることを意味する。

 

「キミたち魔法少女の魔力と、ボクたちのエネルギーは少し違うから、キミの魔力ではボクは延命できないんだ。だから、ボクはもうおしまいだ。でも、キミの魔法で痛みが消えてとても楽になったのは本当だよ、ありがとう」

 

 ベッドから飛び降りる。落ちる、という表現が適切な不恰好な降り方のため、相応の音が響いたが、マミが目覚める様子はなかった。

 

「なにかお別れを書き残すべきだろうか……いや、黙って消えた方がいいだろうね」

 

 寂しげな表情でしばらくベッドを見上げていたカンべぇは、「これが未練という感情か」と自嘲気味に呟く。そして、振り払うように頭を振ると、外へ出るべく窓へ向けて歩き出す。

 数歩進み、カンべぇの足が止まった。部屋の一隅を睨みつける。

 

「なんの用だい?」

『キミ個人に用はないよ。ただ、遺骸をそのままにするのはもったいないからね』

 

 薄明りの下にインキュベーターがいた。剣呑な物言いにもかかわらず、彼の言葉には抑揚もなければ示威の色もない。

 

「なるほど。まぁ、亡き骸を残さないですむのはありがたい。好きにするといいよ。だが、場所は選ばせてもらうよ」

『構わないよ』

 

 インキュベーターは痕跡さえ残らずに遺骸を食べるだろう、そういう意味では場所は何処でも良かった。ただ、咀嚼中にマミが目覚めた場合のことを考えると、目の届く範囲は避けたいという想いがカンべぇにはあった。

 

「そんなに遠くまで行く気はない。ついてくるといい」

 

 窓に手をかける、その時にマミの声がした。

 

「カンべぇ……」

 

 呼ばわる声にカンべぇは振り返るが、どうやら寝言のようだった。安心したのか落胆したのか、彼は小さく笑う。

 

『カンべえ?』

「ボクの名前だよ。今日つけてもらった」

『個体名か。それにしても疾患のカンかい。なかなか辛辣な名前だが、キミには相応しいね』

「感情のカンだよ」

『どうだかね』

「そういう意味合いでつけてくれた名前じゃない。怒るよ」

『怒る、か。キミの疾患もかなり酷いようだね。名は体をあらわすとはよく言ったものだ』

「……ボクの名前を馬鹿にするな」

 

 やおら、カンべぇの身体が宙を舞った。インキュベーターに飛びつき、短い手足で殴る蹴るの暴行を加える。

 組み敷かれ、殴られるインキュベーターは抵抗する素振りも見せず、冷ややかに告げた。

 

『暴力とはキミは本当に野蛮な存在になり下がったんだね。でも、ろくにエネルギーの残っていないキミでは何もできないよ』

「野蛮なのはお前らだ。他人の心を踏みにじるような存在が、どうして野蛮でないものか」

『キミも散々してきたことだろうに。ワケがわからないよ』

「分かってる。だからボクが死ぬのは天罰だ。だけど、いつかお前らにも天罰が下る。誓ってもいい」

『……天罰とか誓うとか、聞くに堪えないね。どこまで非科学的になったんだ、キミは』

「黙れっ!」

 

 カンべぇの怒号をかき消すように、乾いた炸裂音が響いた。

 次いで魔弾がインキュベーターの身体のすぐ横に着弾し、爆ぜる音とともに床板を抉った。

 カンべぇが振り返ると、ベッドの上で上半身を起こしたマミが、パジャマ姿のままマスケットを構えていた。マスケットの銃口と火蓋からは白煙が立ち上り、射撃直後であることを示している。

 

「次は当てるわよ。出ていって!」

『状況を見ていなかったのかい? ボクは被害者だと思うんだがね』

「出てって!」

『やれやれ。しょうがない、お暇するとしよう』

 

 銃をつきつけたままの姿勢でキュゥべえを睨みつけていたマミは、彼が消えたことでようやく息を吐き出す。

 マスケットをリボンに還し、ベッドを下りてカンべぇに駆け寄り、彼をかき抱いた。

 

「マミ、ごめん、起こしてしまったね」

「ううん、それより大丈夫?」

「大丈夫だ。それにしても、キミが警告なしで射撃するのは初めて見たね。よくどっちがボクか分かったものだ。適当に撃ったとか言わないでおくれよ」

「分かるわよ」

「そうかい?」

 

 臭いがしただろうかと言わんばかりに、カンべぇは顔を手足の付け根に寄せて鼻をひくつかせる。

 

「ばかね、そうじゃないわよ。だってあなただけ、喋ってるんだもん」

「そうか。喋るという行為は、やはりいいものだね」

 

 彼を抱くマミの手に、ぎゅっと力が込もった。

 少し痛い、とカンべぇは思ったが、抗議することはせず、マミのするままに任せていた。



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第四五話 マミさん、再び大型魔女と対峙する

 カンべぇが真実を告げると、彼を抱く手が一瞬だけ緩み、すぐにより強くなった。

 そして、柔らかな乳房に押し付けられた彼の頭に、温かな滴がこぼれ落ちてきた。ぽとりと落ちては、彼の頭にじんわりと温めていく。

 やがて、数滴の涙が届いたのち、湿った声がした。

 

「嘘よね……?」

「もはやボクはインキュベーターではないが、それでもウソをついてはならないという制約は活きている。残念だけど真実だ」

「助かる方法はないの……?」

「ないよ。しょうがないことなんだ。さっきインキュベーターに言ったけど、天罰なんだと思う」

「そんなのいやよ。せっかくこうして会えたのに……」

「そうだね。感情をおぼえたことに後悔はないが、もっと早くキミに会いにこなかったことには後悔している。まぁ、後の祭りだけどね」

 

 泣く、という機能などないはずのカンべぇの身体だったが、彼は目頭が熱くなる感覚をおぼえていた。泣きたい、とも思った。涙が心の中の濁りを押し流し、汚れを洗い流すものだという認識はインキュベーターの共有知識には含まれてはいないが、教わらずとも彼はそう知った。

 不意に、彼を抱き締める少女が大声をあげた。

 

「キュゥべえ、出てきなさい!」

 

 しかし、魔弾で脅かされ追い出されたのはつい先ほどのこと、キュゥべえは姿を現すことも、声を返すこともしない。

 マミは叫んだ。その声は、脅すような内容とは不釣り合いな色を帯びていた。

 

「出てきなさい! 出てこなければ、今後キュゥべえを見つけ次第撃つわよ!」

『やれやれ、脅迫とはキミらしくもないね。そいつの疾患の悪影響でも受けたのかい?』

 

 テレパシー。次いで、カーテンの陰にインキュベーターの姿が映った。

 

「カンべぇは病気なんかじゃない。でも、今はそれはいいわ。キュゥべえ、この子を助ける方法を教えて!」

『ないね。ボクたちのエネルギーとなる物質はこの星には存在しないからね』

「ふざけないで。こうしてあなたたちインキュベーターが存在している以上、あるはずでしょう!」

『キミたちの文明でも、エネルギーをマイクロウェーブにして伝達することはできるよね。原理は同じだ。ボクたちの場合はそれよりさらに減衰せずに、比較にならない程の広範囲にエネルギーを供給するネットワークを構築している。そこからエネルギーを補充しているんだよ』

「それをカンべえに分けてあげることは出来ないの?」

『ムリだね。そうする意味がないということもあるが、そもそも、そうする権限がボクたちにもない』

「お願い……」

『用件はこれだけかい? 済んだならボクは行くよ。突然撃たれたら困るしね』

「待って」

「マミ、インキュベーターに頼むだけ無駄だよ。もういいんだ」

「……いいわけがないよ」

「いいんだ」

「私、あなたになにもしてあげられない……ごめんなさい」

「なんの。キミのその気持ちだけで充分だ。ボクを受け容れてくれて、本当に感謝している」

 

 マミとカンべぇが言葉を交わす間に、インキュベーターはその姿を消している。

 それは彼らの合理性に起因する行動であったが、カンべぇは消えてくれたことに感謝していた。自らの人生の幕を下ろす場面に、余計なものは立ち会わない方がいいから。

 

「残念だが、そろそろボクの力は尽きる。お別れだ、マミ。キミの腕の中で死ねるとは思ってもみなかった、幸せだよ」

 

 言葉は返ってこず、ただ嗚咽と、そして治癒魔法の光だけが届いた。マミの胸の中から少女を見上げ、カンべぇは続ける。

 

「ありがとう。だけど、魔力がもったいないよ。もういいんだ。ボクの亡き骸はインキュベーターが処理するはずだから、どこにでも放置しておいてくれて構わないよ」

 

 彼は早く死にたいと願った。これ以上彼女の涙も魔力も、自分にはもったいないと思ったから。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 

 二週間が過ぎた。

 十一月も半ばとなり、街路樹も紅葉のピークを過ぎて葉の過半を散らしている。いろいろなものが散っていく季節にさしかかろうとしていた。

 

 マミは毎朝、緑道のとある街路樹の前で足を止め、根元の土くれに手を合わせていた。杏子はその行為の理由を問うたことがあったが、マミは「ちょっとね」と言葉を濁し、寂しげな笑みを浮かべるだけだった。

 それで納得したわけではなかったが、納得したふりをする、程度の感受性は杏子も持ち合わせていた。

 

 

 その日も、マミは瞑目して手を合わせた。

 合わされた白魚のような指を、風に煽られた落ち葉が乾いた音をたてて叩く。

 この時期は山々から吹きおろす風が激しいが、今日はとりわけひどい。街路樹の枝がきしむように揺れては、紅い葉を風に奪われていく。

 

「葉っぱ、今日でなくなっちゃうかもね」

 

 興味なさそうに相づちを打つ杏子。それを横目で見たマミはわずかに苦笑し、そして合掌していた手をほどいた。

 

「お待たせ、じゃ、行きましょ」

 

 足元に置いていたスクールバッグを両手で持ち上げると、マミはゆっくりと歩き出した。

 

 

 

 

 

 ガラスが割れるのではないかと思う程に、突風に叩かれた窓が激しい音をたてて揺れた。

 昼休み、いつものように窓際に来ていたマミは、その音と振動に首をすくめる。

 そして、視線を彼方で微睡む魔女に向ける。

 

 ――大丈夫よね。なにも動きはないもの。ただの強風。鹿目さんは関係ないわ。

 

 朝から激しく感じていた風は、午後に入ってさらに勢いを増していた。

 先ほどのように窓をきしませるような突風が幾度となく吹いている。

 マミがお気に入りの街路樹たちは無事かな、と眉を曇らせたタイミングで、背後から明るい声が届いた。

 

「あ、マミ、注意報から警報に変わったよ。五限目はなしだね、帰れるよ!」

 

 座席でスマートホンをいじっていたリンリンが、喜色を満面にたたえて声をあげる。

 

「そっか。古典の授業なくなっちゃうのは残念ね」

「いや全然」

「知ってます。同意を求めたわけじゃないわよ」

 

 振り返り、笑う。そのシンプルな仕草の中に清楚さと艶やかさを同時に感じたリンリンは、ミスコン後に校内で囁かれている言葉『立てばマミさん座ればマミさん、歩く姿は巴マミ』を思い出し、心の中で肯定した。

 マミがリンリンの机の横を通ると、春の日差しを思わせる芳香がふわりと広がる、そして春の花が綻ぶような温かな声。

 

「じゃぁ、帰る支度しなくちゃね。リンリン一緒に帰る? さすがに今日は部活ないでしょ」

「あ、そうするそうする。四〇秒で支度するから、ちょっと待って」

「それじゃ私が待ってもらう方になっちゃう。ごゆっくりどうぞ」

 

 

 

 

 そうこうしているうちに、校内放送が警報発令に伴う帰宅指示を告げた。担任教諭も教室を訪れ、寄り道せずに帰宅するようにと注意する。

 

「それじゃ、先生、さようなら」

 

 支度を整えたマミとリンリンは教諭に一礼し、教室を後にした。

 教諭の指示に従い、クレープを味わう程度の寄り道に留めて帰宅する。

 自宅に戻ったマミは、キュゥべえの来訪を受けた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 見滝原に先んじること二時間、周辺のどの市よりも早く、風見野に警報が発令されていた。

 それはつまり、風見野の方が見滝原よりも強い暴風に見舞われていたことを意味し、さらに言えば、凶事の中心が風見野にあることを意味していた。

 

 午後には避難勧告を経て避難指示が発令。夜宵かおりは母とともに近隣の小学校に避難していた。

 その避難地点から、郊外へ向けて数キロメートル離れた山中に、それは顕現した。

 天に浮かぶ巨大な歯車。

 そこから逆さに吊るされた巨大な貌無しの魔女。

 かつて見滝原を襲ったワルプルギスの夜と呼ばれる魔女が、そこに浮いていた。

 

 

 

 

 

『マミ、杏子、風見野にワルプルギスの夜が現れた』

 

 そう告げるためにリビングに現れたキュゥべえに、杏子が疑問を呈する。

 

「なんでワルプルギスが現れるんだ? まどかが倒しただろ」

『それはボクが聞きたいくらいだね。魔女が出現する状況というのはふたつしかない。使い魔が育った場合か、魔法少女が魔女となった場合だ。しかし、ワルプルギスの夜は昨年、初めて出現した。だから昨年のワルプルギスの夜は使い魔から育ったということはないはずだ、過去に同一の魔女が存在していないのだから、その時点で使い魔が存在しているはずがないからね』

「そうね」

 

 腕を組んだままのマミが首だけを縦に動かす。

 

『しかし、魔法少女が魔女になったという可能性もまた考えにくい。あの時、見滝原にいた魔法少女はマミ、杏子、キミたちふたりだけだ。鹿目まどかはワルプルギスの夜の出現後に魔法少女となったし、その奇跡で生き返った美樹さやかもまた対象外だろう』

「回りくどいわね、何が言いたいのかしら?」

『そもそも、昨年のワルプルギスの夜にしても何故出現したかが不明なんだ。使い魔が育った可能性はない、魔法少女がなった可能性もない。それ上で今回のワルプルギスの夜だ。何故現れたか、分かるはずもないじゃないか。マミ、杏子、キミたちには何か心当たりはないのかい』

「私たちも突然現れたワルプルギスに、わけもわからず戦いを挑んだのよ。知っているわけがないじゃない。そもそも、キュゥべえが知らない魔法少女なんて、いるわけがないわよね?」

『ボクたちと契約しなければ魔法少女にはなれないからね。その通りのはずだよ』

 

 正確には、六百年ほど昔に例外が発生したことはあったが、それは既に解決され、残滓もふくめて現在への影響は一切ないはずだ、とキュゥべえは続ける。もちろん、マミや杏子に不要な知識を与えるつもりはなく、心の中で、だが。

 

「普通に考えて、去年のワルプルギスに使い魔がいた。その使い魔が潜伏してて、今育った。って感じじゃねーの?」

『そうだね。昨年のワルプルギスの夜が何故現れたのかは分からないが、今回についてはそう考えるのが妥当かもしれない』

「もしそうなら、パトロールが不充分だったということね……。でも、反省はあと。今は戦わないとね」

 

 ――しかし、とキュゥべえは考えていた。

 しかし、結界を必要としない強大な魔女は、過去の例をいくつ紐解いても『使い魔を有さない』。そして、昨年あらわれたワルプルギスの夜も同様に、使い魔の存在は確認できなかった。

 このことから、使い魔が育ったという可能性は考えにくいのではないか。

 だからといって披露すべき別案もなく、キュゥべえは口を噤んだ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「これがワルプルギスの夜……。この距離でもプレッシャーがすごいですわね……」

 

 二キロメートルの距離からワルプルギスの夜を見た夜宵かおりは、ごくりと音をたてて唾を飲み込んだ。

 三か月前に東京で戦った大型魔女と比較しても、桁がひとつ違うように思える。

 しかし、だからこそ退くわけにはいかない。もたらされる災害規模も、東京とは桁がひとつ違うものになるのだろうから。

 

 魔女は悠然と滞空している。

 今のところ、という但し書きはつくが、魔女は特に悪意を撒き散らす素振りもなく、ただ浮いていた。

 その様子からは、夜宵かおりを認識していないように受け取れる。存在を認識していないか、敵として認識していないかは不明だが。

 

「さて、始めましょうか……!」

 

 つぶやき、右手の呪装魔具を遠距離に適したモード、ホーリーレイへと変形させる。

 強大な大型魔女を前にしては、蟷螂の斧と表現して差し支えない武器ではある。しかし、催眠魔法で眠らせてきた母を銃後にしたことで、彼女の闘志も魔力も臨界に達していた。

 それを示すかのように、ホーリーレイがまとった魔力が周囲に作用し、陽炎のように景色を歪ませる。

 だが、そのような魔力の高まりに対してもワルプルギスの夜は注意を払わない。ただ悠然と浮き、自らを中心として暴風を吹きすさばせるのみだった。

 

「六〇〇メートルまで接近。そこからその首、もらい受けますわ」

 

 つぶやききを漏らし、決然たる視線を魔女の首へと叩き付ける。

 彼女は厳しい表情のまま、暴風で薙ぎ倒された樹木が並ぶ山間部を駆けた。

 向かい風は激しく、彼女の髪もドレスも重量を持たないかのように派手にはためく。

 烈風に折られた樹木が弾丸として迫る。それを余裕を持って躱すだけの身体能力を、彼女は持っていた。

 マミの動きを模した優雅な跳躍で、襲い来る弾丸をふわりと舞って避ける。次の瞬間には、杏子の動きを模した直線的な機動で、複数迫る弾丸の間隙を抜ける。

 

 遥かに格上の魔法少女を模倣した動きは、それぞれオリジナルには程遠く、六〇点程度のデキでしかなかった。しかし、状況に応じてふたつの動きを巧みに織り交ぜることで、八〇点程度の回避運動を可能としていた。

 それは、風に運ばれた樹木を避けるには充分な動きだった。被弾することなく彼女の考える有効射程距離まで駆けると、彼女は魔女の首に照準した。

 

「ファイエル……!」

 

 ドイツ語である、と騙されたままに覚えている単語をつぶやき、光の魔弾を三連に撃つ。

 ふわりふわりと空にたゆたうだけの標的を照準することは、彼女にとって難しいことではない。放たれた光矢は狙い過たず魔女の首を捉えた軌道で飛ぶ。

 

 しかし、魔女の首を討つことはなかった。

 魔女を守るように虚空に出現した魔力障壁が、光矢を弾いたからだ。――正確には、常時展開されている魔力障壁が、異物を弾くことで可視化した、となる。

 

 そして、射撃に反応してようやくワルプルギスの夜が攻撃を開始する。

 夜宵かおりの回避運動は、風に運ばれた樹木を避けるには充分な動きだった。けれど、ワルプルギスの夜の敵意ある攻撃を回避するには、拙い動きだった。

 ガイドレーザーを思わせる細い光線が、彼女の胸に届いた。一瞬と表現するのもはばかられるほどの、ごく僅かの時間の後、そのレーザーから炎が噴き出す。

 

 あまりの熱量によってもたらされる破壊は、焼ける音も焦げる臭いも伴わなかった。

 ただ彼女の胸の肉が瞬時に炭化し貫かれた。

 貫かれた箇所はこぶしひとつほどの穴となり、彼女の身体越しに向こうの景色を見せる。

 ひゅう、とその穴を通る風が鳴った。

 遅れて、烈風に折られた大樹が運ばれてきた。

 彼女はそれを避けることはできずに直撃を受ける。飛ばされた彼女の身体は、別の樹木に叩かれ、さらには烈風に運ばれ、彼方へと転がる。

 関節があらぬ方向へ曲がり、肌には無数の疵がついた。

 そこに水の介在はなかったが、それは濁流に流される木の葉そのものだった。駆けた以上の距離を押し流され、ようやく彼女の身体は転がることをやめた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ワルプルギスの夜は、痛撃を受け彼方へ追いやられた魔法少女に興味を失ったのか、追撃は行わなかった。

 僥倖だった。もし追撃があれば、かなりの確率でソウルジェムへ攻撃を受け、魂を散らしていただろうから。

 しかし、魂を散らすことはなくとも、彼女は戦意のほとんどを散らしていた。

 

 優れた治癒魔法で身体を回復させた後も、再び突撃することはせず、躊躇うかのようにその場にとどまる。

 ぞっとした。

 魔法少女の身体は、どんなに壊されても替えが効くパーツに過ぎない。少なくとも強力な治癒魔法を持つ彼女にとってはそうだ。

 しかし、ソウルジェムはそうではない。

 そして、先程の魔女の攻撃は、彼女には防御することも回避することも――もっと言えば知覚することもできなかった。

 それはつまり、もし魔女の攻撃がソウルジェムを狙っていたら、彼女は絶命していたであろうことを意味している。

 

 銃後にいる母を思えば、立ち向かう以外の選択肢はないはずなのだが、それでも彼女は立ちすくんでいた。

 だから、駆け付けたマミが投げかけた次の言葉に素直に従わなかった理由は、意地というよりは虚栄心に属するものだったのであろう。

 

「夜宵さん、大丈夫? あとは私と杏子ちゃんに任せて、あなたは下がっていて」

「あ、あら、いらしたのですね。おふたりが着く前に、カタをつけるつもりだったのですが……。ですが、ここはわたくしの街、わたくしが守らないでどうするのですか」

「相手の力も分からないのか? アイツは強ぇぞ。去年あたしらが戦った時よりも強くなってる。お前じゃ足手まといにしかならねーよ」

「あなたが言った通り、ここはあなたの街。だからこそ、ご家族の近くにいてあげて」

 

 マミが言葉を選んでくれていることと、真意がどこにあるかは、彼女には理解できた。それに、マミと杏子の判断が正しいということも。それでも、悪あがきめいた言葉が彼女の口から漏れる。

 

「足手まとい……なのでしょうか」

「そうは言わないわ。でも、あの魔女が強いのは確かよ。私も杏子ちゃんも、自分の身を守るので精いっぱいになると思うわ」

「あたしらに任せときな。アイツは一度倒してんだ。今度もうまくやるさ」

「夜宵さん、こんな状況で娘の姿が見えなかったら、お母様がどんなに心配するか、わかるでしょう?」

 

 小さく、かおりが頷いた。

 それは、悪い言い方をすれば、体のいい口実に飛びついたと言えるのかもしれない。母のためと自分を納得させることで、彼女は自尊心を満たしたまま逃亡することを選んだ。

 

「わかりましたわ。御武運をお祈りいたします」

「うん、お母様を安心させてあげて」

「でっかいグリーフシード持って帰るから、期待しとけよ」

 

 呵呵と笑う杏子。マミも控えめに笑う。しかしかおりは笑う精神状態にはなれず、もう一度頷くと踵を反した。

 ワルプルギスの夜と二キロメートル以上離れているとはいえ、吹きすさぶ風は激しい。その風に背中を押されるようにして、彼女の姿はすぐに見えなくなる。

 彼女が視界から消えると、ふたりは表情を引き締めた。彼方に浮かぶ魔女へ視線を向ける。

 

「ちょうどいい距離だね」

「そうね。ヴェルシオーネ・イリミタータの射程内だわ」

「前と同じなら、魔力障壁があるはずだよ」

「大丈夫、まとめて撃ち抜いてあげるわ」

 

 言うや、両手の掌を大地に押し付ける。そこから津波のようにリボンが全方位に向けて奔り、大地に根を張った。充分に強い根、すなわち基盤を確保すると、その上にティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータの砲台を築き始める。

 

「一二〇秒、ってところかしらね……」

「けっこう早くなったよね。さすが」

 

 マミの全身がオレンジイエローの輝きに包まれ、砲台を組むリボンも同様の輝きを見せる――その魔力のたかぶりを感じ取ったのか。

 彼方で、ワルプルギスの夜の口腔が煌めいた。

 次の瞬間、一条の熱線が築かれつつあった砲台を貫いた。

 瞬時にマミと杏子は左右に跳ぶ、さらにマミは絶対領域を展開、追撃に備える。

 続けざまに熱線が二度閃き、砲台を基盤もろともに溶かし尽くした。

 その次の熱線は、マミを狙って放たれた。

 絶対領域すら貫いて、炎がマミを襲う。

 しかし、絶対領域も無為に破られているわけではなかった。熱線を受けたリボンは、一瞬の拮抗状態を維持した後に炎を通している。それは流水をティッシュペーパーで受けるような儚い抵抗ではあったが、マミが余裕を持って回避するためには充分な時間稼ぎであった。

 リボンのドームの中で、断続的に走り抜ける熱線を踊るように回避しながら、ヴェルシオーネ・イリミタータのために高めていた魔力をクールダウンさせる。

 マミが魔力のたかぶりを静めると、ワルプルギスの夜の攻撃も止んだ。

 

「すごい反応距離に、射程距離ね……」

「アイツがまとってる魔力で分かってはいたけど、前よりかなり強いね」

「ええ。どうやら魔力でこちらを見つけてるみたいね。魔力を抑えたら攻撃が止んだもの。さて、どうしましょうかね」

「突っ込むとして、避けれそう?」

 

 言外に、自分は回避できると前置きしての質問。そう前置きするだけの実力を、佐倉杏子は有していた。

 

「完璧には無理そうかしら。ソウルジェムを防御しつつ、致命傷を避けて進む感じかしらね」

「……いや、それは危ないよ。あたしが突っ込む。たぶんワルプルギスの攻撃はあたしに来るから、マミさんはここから長距離射撃を」

 

 突然、マミが笑った。

 

「なに?」

「杏子ちゃんも、ずいぶん考えるようになったなって思って」

「えー、前からじゃん」

「そうだったかしら?」

「そうですー。じゃぁ考えついでに、ヴェルシオーネって魔力抑えながら作れる?」

「魔力の多寡は作る時間に直結するわね。たとえばさっきの半分程度に魔力を抑えれば、倍の時間」

「じゃぁ、それで。それなら確実にあたしの方を狙ってくると思う」

「杏子ちゃん、魔力で狙ってくるとしたら、たぶん、ファンタズマは……」

「そうだね。でも、クアンもあるし大丈夫だよ。心配しないで」

 

 そして、親指を弾いて鳴らすような気負いのない所作で、ディスティーノ・クアンティスティコを発動させる。

 杏子の横にもうひとりの杏子が立った。どちらが本物か、という命題をおきざりにした、「都合のいい方が本物」であるふたりの杏子。

 その上でマミをも上回る身体能力を持っている。杏子に攻撃を命中させることは、ワルプルギスの夜をもってしても容易なことではないはずだ。

 

「上の歯車を狙う?」

「いえ、まずは逆さ吊りの魔女の頭部を撃ち抜くわ。炎をどうにかしないと、少なくとも私は厳しいもの」

「了解、んじゃ、行ってくるよ!」

 

 逆風を裂いて、杏子が走った。

 駆けるごとに逆風は強まり、すぐに樹木が混ざりはじめる。

 さらに距離を詰め、先ほど夜宵かおりが熱線を受けた距離まで近寄ると、大きな樹木や石塊までが風に運ばれてくる。

 相対速度にして毎時一五〇キロメートルを超えるそれらを、夕暮れ道で蚊柱を避けるような気安さで回避しつつ、杏子はワルプルギスの夜の注意を引くため、魔力を解放した。

 彼女の身体からルビーレッドの魔力が迸り、駆けるとそれは流星の尾のようにたなびく。

 

 ワルプルギスの夜が、杏子の魔力に反応を示した。

 熱線が一条、二条と走り、大地を溶かす。

 だが、杏子は髪の一本すら炎に焼かれることなく、それらから身を躱していく。

 

「無駄に正確に狙ってりゃ、かえって避けやすいってもんだぜ!」

 

 笑い犬歯を覗かせる余裕さえ見せた彼女は、大身槍に魔力を込めて投擲する。

 彼我の距離は約二〇〇メートル、その距離を大身槍は放物線軌道を描かず一直線に飛ぶ。狙うは、魔女の口蓋――

 

「まぁ、そううまくは行かないか」

 

 迎撃する熱線を真正面から受けた大身槍は、しばらくは熱線を裂いて飛翔したものの、やがて溶けて崩れ落ちた。その事実から、杏子は失望することなく希望を見出す。

 

「あんだけ保つなら、いざとなったら受けれるな」

 

 大身槍が熱線に数秒単位で抗したことを指している。もちろん避けることを優先するにしても、緊急時に受けてしのげることは大きい。新たに掌中に生み出した大身槍を強く握り、彼女はさらに駆けた。

 

 

 

 

 

 

「焦っちゃだめよ、マミ」

 

 自分に言いきかせながら、マミはティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータの砲塔を構築していた。

 杏子とのブリーフィングの通り、魔力はあまり解放せず、時間をかけての構築。

 気が逸る。胸が騒ぐ。

 自らが撃たれるよりも杏子が攻撃を受ける方が、眉を焦がされるようにジリジリする。

 しかし、だからといって魔力を高めて急いで構築しては、危険な囮役をしてくれている杏子の想いを裏切ることになる。

 

「お願い、急いで、イリミタータ」

 

 ささやきに応じ、形成半ばの砲塔が輝きを強める。基盤として展開されているリボンも同様に光を帯び、周辺が黄金の海のような様相を呈した。それは無意識に魔力がたかぶっていることを示し、マミは慌てて魔力を抑える。

 そして、遥か前方で戦う杏子を祈るような瞳で見つめた。

 

 

 

 

 

 



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第四六話 マミさん、ワルプルギスの夜を射抜く

 大身槍を横に薙いだ。

 その一撃で、ワルプルギスの夜の防御障壁が斬り裂かれる。のれんを潜るように障壁を越えて、杏子はさらに肉薄する。

 既に彼我の距離は二五メートル、指呼の間――いや、彼女たち魔法少女にとっては、殺傷圏内とさえ言える。

 

「来やがったか」

 

 杏子がつぶやいた。頭上より迫る、多数の影を認めて。

 右に、左にと杏子が跳ねる。ファンタズマではなく、高速機動で生じた残像。その残像を討つように、刀や槍を手にした少女のかたちをしたものが飛来した。

 去年の戦いで歯車上部にいた銀河のテクスチャをまとった影色の魔女。それが三〇ほど、急降下攻撃をしかけてきた。杏子の巧みな回避に、魔女たちの得物はむなしく土を食む。

 

「ファンタズマ!」

 

 ワルプルギスの夜には通用しないと思われるロッソ・ファンタズマだが、この影色魔女にならばどうか。それを確認するために杏子は分身を展開する。二〇ほどのファンタズマが瞬時に生み落とされるが――

 

「まぁ、そうだろうな」

 

 ファンタズマには一顧だにすることなく、影色魔女は攻撃を杏子本人と量子分身であるクアンに集中させた。

 ワルプルギスの夜が吐き出す熱線と、影色魔女の多角的な攻撃。それらを飄々とかわす杏子には、影色魔女をつぶさに観察する余裕さえあった。

 傘状の大盾を持った魔女、二丁拳銃を構える魔女、エプロンドレスをまといクロスボウと短刀で武装した魔女。

 

 ――どいつもこいつも、去年いた奴らだな。動きそのものも去年と大差ない――お、こいつ改めて見るとかおりに似てるな。

 

 そういう目で見ると、帽子やエプロンドレスのシルエット、右手のクロスボウのかたちなど、共通点が多く見られた。

 

 ――この場にいない魔法少女をコピーでもしてんのか? あたしやマミさんに似たのは……いないみたいだね。

 

 良かった、と口元を歪める。たとえ偽物であろうと、マミに似たものに槍は向けたくはなかったから。

 しかし、遠目に見るマミには杏子のそんな余裕は伝わらず、逸る気持ちを抑えきれない。

 逸る気持ちと抑える気持ち、それらがせめぎあい、彼女のほつれ毛を汗が濡らした。

 

 

 

 長い時間を経て、ようやく砲塔が完成する。

 マミはそれに、ゆっくりと魔力を注ぎ込む。

 従来のティロ・フィナーレより小型の白銀色の砲塔。砲身に刻まれた直線的な線溝から、淡いオレンジイエローの光が溢れだす。

 溢れた光は徐々に強まり、マミの頬をその色に染めていく。

 それは、砲身に込められた魔力のたかぶりを示している。同時に、ワルプルギスの夜の攻撃対象となる可能性も高まるが――

 

「行けッ! アパシュナウト!」

 

 最前線の杏子は、大身槍を決戦状態へと展開し、魔力を惜しみなく放出した。

 三叉となった槍が先端から魔力をほとばしらせ、ルビーレッドの輝きがかがり火のごとく煌々と揺らめく。

 純粋な魔力量ならば砲身内部で増幅を繰り返しているティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータに軍配が上がるのだろうが、至近距離にいるためか、ワルプルギスの夜の攻撃は依然として杏子に集中していた。

 

 

 魔力をたかぶらせて囮を全うする。己の目論見通りの推移に、杏子には微笑みを浮かべる。彼女のよく見せる、好戦的な笑みだ。

 そして彼女の優れた知覚力は、激しい攻撃にさらされながらも、後方で肥大化しつつあるマミの魔力を感じていた。

 故に、合図はいらなかった。

 

「ティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミターッタ!」

 

 細い閃光が走る。

 それは、狙い過たずワルプルギスの夜、逆さ吊りの巨大魔女の首に突き刺さった。

 間をおかず、閃光が膨張する。

 一本の針のようだった閃光はその身を膨張させ、若木の太さへ、大樹の太さへ、さらには千年の樹齢を誇る古樹の太さへと――その成長を阻むため、ワルプルギスの夜が熱線を吐き出した。マミへ、そしてヴェルシオーネ・イリミタータへ向けて。

 

「もちろん、予測済みよ!」

 

 基盤を成していた黄金色のリボン。その幾つかがが鎌首をもたげるように動き、大砲の前面に防御壁を築く。全体を護るドーム状のものでなく、狭い範囲を密にガードする手の平ほどの盾。それが六枚、熱線を防ぐように形成された。

 絶対領域を容易く貫通するほどの熱線、狭く密に守護する防御壁であっても受け止めることはできない。それはプラスチックの板で炎を受け止めるような、はかない抵抗だった。

 一枚、二枚と、黄金色の防御壁は破られていく。六枚あわせても、五秒と保たなかった。

 それでも、白銀の大砲が溜め込んだ魔力の過半を放出するには、充分な時間だった。

 

 六枚すべての防御壁が破られ、ついには熱線が砲塔に届く。暖炉で炙られたチーズのように、砲塔は溶かされて崩れ落ちる。

 しかし防御壁が時間を稼いだ間に放たれた閃光は、刺し違えるように逆さ吊りの魔女に痛撃を加えていた。魔女の首に着弾していた細いレーザーは砲塔が果てる直前に古樹へと至り、広い範囲を薙ぎ払った。

 

 

 今や逆さ吊りの魔女は、首を中心として腕部、胸部、そして頭部を蒸散させ、胴だけの存在と成り果てていた。逆さ吊りの魔女の胴の破断面から、銀色の砂がさらさらと散って落ちていく。

 

 

 

 

「さすがだね!」

 

 快哉をあげた杏子が大身槍を旋回させる。

 熱線の脅威がなくなったことで本来の冴えを得たか、それとも精神の高揚によるものか、鋭さを増した槍はふたりの影色魔女を捉え葬り去った。

 影色魔女を倒す、その事象を観測行為として、ふたりいた杏子がひとりに収束する。

 杏子への数少ない確実な攻撃機会。

 しかし、やはり影色魔女の攻撃は空を切る。動きの速さにおいても緻密さにおいても、杏子は影色魔女をふたまわりは上回っていた。

 そして、マミが前線に到着する。

 

「パロットラ・マギカ・エドゥ・メテオーラ!」

 

 駆け付けると同時、雲霞の如くマスケットを浮かせ、上空へ向けて魔弾を放つ。

 かつては手ずからの射撃でしか為しえなかった≪流星の魔弾≫を、事もなげに浮遊マスケットから繰り出す――その結果として、≪無限の魔弾≫に匹敵するほどの流星が生み出される。

 数多の魔弾を様々な角度から降らせる≪流星の魔弾≫、それは数百人の弓兵による一斉射撃を思わせる密度で戦場を制圧した。

 ふたりの影色魔女は致命傷を負い、さらにふたりの影色魔女はその身をグリーフシードへと変えていく。

 

「お待たせっ」

「あとはここを片付けて、上だね!」

 

 どちらからともなく背中を合わせた。烈風で巻き上げられる異なる色彩の髪が、溶けるように混ざりあう。

 もとより隙などなかったが、こうなっては攻防は無窮自在にして金城鉄壁、天に浮く歯車から降り立った三二の影色魔女を殲滅するためにさして時間は必要としなかった。

 最後の一体――夜宵かおりに似た影色魔女――をパロットラ・マギカ・エドゥ・シークローネ、《竜巻の魔弾》で囲み、そのまま魔弾の旋回半径を狭めていって圧殺する。

 

「去年より、確実に強くなってるわね」

「あたしらの方が、もっと強くなってるけどね」

「そうね、頼もしいわ」

「もっと頼って、後ろで二発目を作ってくれてても良かったんだよ」

「あ、それもそうね……」

 

 心配が勝ちすぎて、初弾で逆さ吊りの魔女の体躯に痛撃を与えると、何も考えずに前線へ走っていたマミ。落ち着いて顧みると、杏子に指摘された行動に利があることが分かる。

 複数の感情を込めてマミは微笑んだ。

 互いに背中をあずけたままにしているため、その笑顔を杏子が見ることはなかったが、空気は伝わった。

 

「司令塔も杏子ちゃんに任せようかしら」

「ムリだよ。マミさんとふたりならともかく、かおりがいたらアイツ絶対あたしの言うこと聞きやしないよ」

「そうかしら。ちゃんとした指示なら従ってくれると思うけど」

「どうだかね」

 

 意に沿わぬ会話を打ち切るように、杏子はおとがいを上げて空を仰いだ。マミも倣う。

 高みに浮く歯車。

 そこから逆さ吊りにされた魔女は、胴の半ばより先を失っている。

 晒された破断面はプラスチック・モデルのように中は空虚で、そこから間断なく銀色の砂粒を降らせている。もっとも、ワルプルギスの夜を中心として発生する烈風のために砂粒は彼方へと散っていき、直下にいるふたりには届かないが。

 

 真下からティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータで中央を射抜けば、それで倒せる。見上げる杏子にはそのように思われた。その旨を口にしようとした瞬間、ワルプルギスの夜が動きを見せる。

 一瞬の動き。ワルプルギスの夜の巨大さを考えると、非現実的なまでに一瞬の動作だった。

 

 

 歯車の表と裏がひっくり返るように、反転した。

 すなわち、逆さ吊りになっていた魔女は歯車の上に正しく立ち、直下より見上げる魔法少女からは歯車に隠れ見えなくなる。

 魔法少女の瞳に映るのは、先ほどまでは天の側にあった歯車表面。

 

「来るッ!」

 

 その動きから杏子が連想したものは、上空からの影色魔女の一斉降下。

 同じ結論に至ったマミはふたりを包むように絶対領域を展開する。

 しかし、予想された魔女の降下はなかった。それ以外の動きもなく、ふたりの魔法少女はワルプルギスの夜の意図が奈辺にあるのか推し量れずに、僅かな空白が生じる。

 

 

 動きは、地上からは見えないところであった。

 今や天の側にある歯車裏面、そこにやはり今や正の位置に立つ魔女の体躯が、瞬く間に再生されていっていた。胸部、腕部、頸部、そして頭部と、一〇秒もかからずに元の姿を取り戻す。

 同時に、マミと杏子が倒したはずの影色魔女三二体も再生されていく。

 

 それらが終わると、ひとつの事象が生じた。

 ワルプルギスの夜を中心とする、今までとは比較にならないほどの烈風の発生。

 

 

 

 

 真上から吹きおろされる激しい烈風は、月か太陽が落ちて来たかのような圧力をもって、魔法少女たちの身体を大地に押し付けた。

 抗するすべはなかった。

 瞬時に膝が砕け、そのまま崩れ落ちた身体は大地にはりつけにされる。

 重力が数千倍になったような圧力。

 先ほどまで吹き荒んでいた烈風など、これに比べればそよ風と言える。

 身体がきしむ、などという過程すら経ずに、彼女たちの全身の骨はことごとくが砕け、眼球は爆ぜ、臓物は例外なく押し潰された。

 ふたりの魔法少女の身体を壊したあとも、風は止むことなく数分ほども荒れ狂う。

 

 

 やがて、烈風は止む。

 烈風が止んだ時には、ワルプルギスの夜の直下にあった山は、もはや原形をとどめていなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 もちろん、ワルプルギスの夜から離れれば烈風は弱まる。

 

 夜宵かおりの住む街は、人里としてはワルプルギスの夜に最も近い位置にあった。距離にして、約七キロメートル。

 七キロメートルの距離を経てかおりの街に到達したとき、烈風の威力は半減以上に衰えていた。

 それでも、ひとの営みを破壊するには充分な力を、その烈風は備えていた。

 

 

 二階建ての駅舎が倒壊した。

 七階建ての駅ビルが、二階部分から崩れて横倒しになった。

 路上に放置されていた自動車両は飛ばされ、家屋に激突して炎上した。

 送電塔が根元からへし折られ、ハンマーのように近隣の民家を叩き潰した。

 

 そして、夜宵かおりが避難していた小学校の体育館は、二階より上の部分を失った。

 失われた部分は、瓦礫となって避難していた住民たちに降り注いだ。

 その時、夜宵かおりは窓際に立ち、マミたちが戦う山の方角を祈るように見つめていた。

 その時、夜宵かおりの母親は、夜宵かおりの施した睡眠魔法による眠りの中にあった。

 

 

 多くの命が瓦礫に圧されて散った。

 その中には、夜宵かおりの母親も含まれていた。

 

 

 

 周りのひとも、周りの状況も目に入らなかった。

 夜宵かおりは母親の身体にすがりつき、ありったけの治癒魔法を流し込む。蒼銀色の魔力が立ちのぼり、陽炎のように揺らぐ。霊感を持たぬひとにさえ、温かな光を感じさせるほどの癒しの力。

 彼女はそれを、四半刻も続けた。

 

 しかし、蘇生はかなわなかった。

 治癒と蘇生は異なる、それは当然のことであったが、今回に関してはそういった魔法の種類によるものが理由ではない。

 夜宵かおりの魔法は、本人も周りも治癒魔法と称しているが、実態は異なる。本来ならば、蘇生を成すことも可能とする魔法である。しかしながら、死者の蘇生を行うに足るだけの魔力を彼女は持たなかった。

 故に蘇生はかなわず、彼女は泣き崩れることしかできなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 禿山、いや、禿げた窪地と成り果てた大地に、マミと杏子はあった。

 彗星が落ちた痕のクレーターのように窪んだ大地、その窪みの中心位置にマミと杏子はあった。

 ふたりとも、意識の連続性は保っていた。

 だが、身体は機能を完全に停止していた。動けるようになるまで、どれほどの時間を要するか、すぐには見当もつかないほどだ。

 だから、ワルプルギスの夜の追撃があれば、防御することも回避することもかなわなかっただろう。

 

 

 視力は失われていたが、魔力で感じられた。

 上空に、ワルプルギスの夜の存在――少なくとも魔力がないことを。

 僅かに残った触覚情報も、風が凪いでいることをふたりに教えた。それと、互いの腕が互いを庇うように、身体の上にあることを。

 治癒を自らに施すのみならず、触れている手を通じて相互に治癒魔法を送り込む。そのため、治癒のスピードは平坦化され、ふたりが身体機能を取り戻していくタイミングはほぼ同時となった。

 幾つかの部位の回復を経て、やがて視力を取り戻したとき、彼女たちの視界には、雲ひとつない青空が広がっていた。

 

「どこかへ、移動したのかしら……?」

 

 ようやく取り戻した声でつぶやく。そして、同じタイミングで声を取り戻した杏子が応えた。

 

「でも、動くような感じはなかったよ。どこへ行くにせよ、あれだけの魔力が動けば、分からないはずはないよ」

「結界を作った波動もなかったわよね。そもそも、ワルプルギスが結界を作るとは思えないけど」

「なんにせよ、攻撃がなくて助かったよ。運が良かったね」

「そう、ね……」

「どこに行ったか、隠れたかしらないけど、回復したら倒さないと」

 

 

 さらに時間を経て、自らの足で立てるようになった。

 まだコンディションは万全ではなく、ワルプルギスの夜と再び戦うには明らかに尚早ではある。

 しかし、だからといってゆっくり治癒していられる精神状態でもない。ワルプルギスの夜を捜索し、そして倒すために、彼女たちは行動を開始しようとする。

 そんなふたりを、テレパシーが止めた。

 

『マミ、杏子、急ぐ必要はない。時間は気にせず回復すればいいよ。いま現在、世界中のどこにもワルプルギスの夜は存在していないからね』

 

 テレパシーの主は、マミの足元にたたずんでいた。

 死力を尽くした魔法少女を労うでもなく、変わり果てた景色を嘆くでもなく、涼しげな顔で。

 

『もちろん、全ての魔女の動向を知ることなどボクにはできない。しかし世界中にボクはいるからね、ワルプルギスの夜がどこかで顕現していれば、いくらなんでも分かるからね』

「じゃぁ、どこに行ったんだよ」

『それはボクも分からない。いなくなったとしか言えないね。印象で語れば、キミたちに追い詰められたワルプルギスの夜が逃走したようにも思えるが……。現れた時と同じだよ。何故現れたのかが分からないのと同様に、何故いなくなったのかも分からない』

「追い払った……なんて言えそうもないわね」

 

 草も木も失い、地形すら変動している大地を見つめ、マミは力なくつぶやく。

 鳥のさえずりも、小川のせせらぎも、羽虫の気配さえ絶えていた。

 

 それでも、今マミが見ている景色は、まだましだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ひとの営みが思う様に壊されていた。

 ワルプルギスの夜の戦闘箇所にもっとも近い街、すなわち夜宵かおりの住む街に到着したマミと杏子は、その惨状に言葉を失った。

 建造物の半数は倒壊し、倒壊を免れたものも無傷とは言えない状況。

 幸い、他の街はワルプルギスの夜との距離がより遠かったことから被害は小さかった。そのため、消防や自衛隊の人員はほぼすべてがこの街に向けられており、各所で様々な救助活動が行われていた。

 

 言葉を、そして表情も失ったマミたちであったが、持てる能力を使い尽力した。

 瓦礫を除去して生き埋めになったままのひとを救け、リボンで密閉空間をつくり酸素を断つことで火災を鎮めた。姿を消したままの行いのため、余人の目には奇跡かなにかに映ったが、災害直後の混乱のなか、騒ぎになることはなかった。

 それを日が暮れるまで繰り返した後、ようやく言葉を吐きだした。

 

「夜宵さんのところに行ってくるわ、杏子ちゃんは先に戻ってて」

「あたしも行くよ。マミさんひとりが背負うことじゃない。それに、いつワルプルギスが現れないとも限らない、一緒にいた方がいいよ」

「そうね、ありがとう……」

 

 

 訪ねた家は無人だった。

 意外なことではない。避難指示が出ていたうえに、街は控えめに言って半壊といった状態なのだから、自宅にいることはないだろうとマミたちも思っていた。

 それでも訪ねたのは、避難場所が分からないことと、家屋の状態を見たかったからだ。

 彼女の家が無事なことを確認して少しだけ気が楽になったふたりは、街角の案内板を頼りに近隣の小中学校を回った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 平手の音が響いた。

 半壊した体育館から講堂へと人々は移動していた、その講堂の入り口で、マミはかおりの詰りにひとことの反論もせずこうべを垂れる。

 

「あなたがたは仰いましたわよね。魔女は自分たちが倒すと。それでこのザマですの?」

「ごめんなさい……」

「あなたがたの言葉に従ったわたくしが馬鹿でしたわ、こんなことなら力及ばずともワルプルギスを……」

「すまないとは思うけどさ。かおりがいたって何も変わりはなかったよ」

「それでも! 自分のできる限りをやっての結果と、やらないでの結果を同列に扱えるはずもないでしょう!」

 

 睨む瞳には涙があふれ、放つ怒号には嗚咽の色が濃く出ていた。

 それは彼女の精神が平衡を失っていることを示唆していたが、だからといって言われっぱなしになる謂れは杏子にはない。

 反駁すべく前のめりになろうとする杏子。それを、マミが肩をつかんで押しとどめた。

 目を伏せたまま首を左右に振り、杏子に沈黙を促す。その上で、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「本当にごめんなさい。自分たちだけでどうにかできるって、うぬぼれていたわ。謝ってすむとは思っていないけど、本当に……ごめんなさい」

「謝っていただいても、母は帰ってはきませんわ!」

 

 それはもはや悲鳴だった。

 そして、その内容に杏子は絶句し、マミは魂が引き裂かれたような沈痛な表情を見せた。

 時間をおいて、ようやく絞りだしたマミの声に、即座に叫びが重なる。

 

「ごめんなさい……できることなら、どんな償いでもするわ」

「では、母を生き返らせてください! あなたがたがママを……!」

「ごめんなさい……」

「できないなら、わたくしの前から消えてください!」

 

 号泣をはじめた夜宵かおりを前に、マミにも杏子にも、紡ぐべき言葉はなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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第四七話 マミさん、ソウルジェムを浄化する

 大規模な震災などと比べれば、被害は非常に局所的なものであった。

 そのため、ライフラインを含めた復旧は早く、家屋が健在なものは自宅での生活を始める迄に、さして時間を必要とはしなかった。

 駅舎及び高架線路に被害があったため、いまだ電車の開通はなっていない。しかし、迂回路線への送迎バスも出ており通勤通学を行うことも可能となっていた。

 もっとも、幹線道路含む道路はひび割れや復旧工事のため、通行止めや車線削減が多く、充分な交通量は確保できていないこともあって、近隣の学校は実質休校状態に近かった。

 

 

 

 マミは、風見野のパトロールを終え、夜宵かおりの家を訪れていた。杏子は「行きたくない」と少し離れた場所で待っている。

 門戸は固く閉められており、マミのテレパシーにも開かれる気配はない。

 塀の外に立つマミは、辛抱強くテレパシーを繰り返して送る。

 

『夜宵さん、こんばんわ、巴です。もし、良ければ応えてもらえると嬉しいわ』

 

 二階にあるかおりの部屋は鎧戸が閉じられている。マミが知る限り、あの日以降は開いていたことはない。

 一階からは明かりが漏れている。彼女の父が帰国しているからだが、やはりマミが知る限り、彼女の気配が自室から出て一階にあったことはない。

 自室にこもって彼女が何をしているのかマミは知らない。

 しかし我が身に照らして考えれば、彼女が嘆き悲しむ姿は容易に想像できた。

 

 

 

 

 三〇分ばかり断続的にテレパシーを送ったが、一切の反応は得られなかった。

 

『風見野は夜宵さんのテリトリーだものね。こちらで入手したグリーフシードは置いていきます。知っているとは思うけど、魔法を使わなくても魔力は少しずつ失われていくの。これ、忘れずに使ってね』

 

 最後にそう告げて、門の前の小さな花壇に今日入手したグリーフシードをそっと置く。既に置かれていた一〇個ばかりのグリーフシードに接触し、小さな金属音が響いた。

 風雨にさらされ、土に汚れたグリーフシードはひどく汚れていた。マミはそれを悲しげな瞳で見つめる。

 

『いくら魔法を使わなくても、そろそろ魔力あぶないと思うの。気をつけて……ね』

 

 先に置いてあったグリーフシードを拾い上げ、ついた汚れを払って落とす。ふっと小さく白い息を吐きかけ、指で拭うと花壇に戻した。

 涙こそ流していなかったが、マミの顔は泣き顔のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 街はずれで待っていた杏子に合流すると、マミは笑顔を作って言った。

 

「おまたせ。遅くなってごめんなさいね」

「どうだったの?」

 

 作った笑顔は長くはもたないものだが、彼女は大切な妹に心配をかけたくない一心で笑みを維持する。

 そして、穏やかな表情のまま首を横に振った。

 

「もう三週間になるわ。このままじゃ、本当にどうなってしまうか……」

「こればっかりはアイツ次第だし、どうしようもないよ。マミさんは、充分以上によくやってあげていると思う」

「ううん。どんなにしても充分なんてことはないわ。だって私は、夜宵さんのお母様を」

「そんなのマミさんのせいじゃないよ」

「だけど……私が前に出ずに、すぐに二発目のイリミタータを撃ち込んでいれば、倒せたかもしれないわ」

「そんなこと言ったら、あたしだって時間を稼ぐような戦い方をせずに、最初っから全力で行けば。だけどさ、あたしもマミさんも精一杯戦ったじゃん。手は抜いてない、全力を尽くした、それでダメだってんなら……あたしたちはスーパーマンでもなけりゃ、街のひとの奴隷でもないんだよ。そこまで何でもかんでも、背負えないよ」

「そうね、でも、なかなか割り切れないわ。……帰りましょうか」

 

 話を打ち切る。

 笑みを作っていられるうちに、という意識が働いてのことだろうか。事実、移動を開始してからはマミは考え込むような難しい顔をしていた。

 月面を飛び跳ねるかのごとき軽やかな移動。しかし、内面は反比例するかのように、重く沈んでいる。

 話しかける言葉が見つからず黙っていた杏子だが、見滝原市に入ったあたりで口を開いた。

 

「もうさ、窓を破って入っていっちゃえばいいんじゃないの」

「杏子ちゃんらしいわね。でも、夜宵さんが受けいれる気持ちになってくれていないと、意味がないと思うわ」

「そう? もしソウルジェム浄化してないようなら無理矢理浄化しちゃえばいいし、それでとりあえずは安心でしょ」

「そうね……たしかにソウルジェムの浄化はなにより大切な問題よね」

「なんなら、あたしがやろうか?」

 

 杏子とて、多少の痛痒はおぼえていた。

 それでも、自分たちは精一杯やったという自負があった。加えて、己の経験を鑑みれば、夜宵かおりの態度は甘えに思えた。それになにより、マミに心労を与え続けて良しとする彼女への憤りがあった。

 

「うん、もしかしたら、お願いするかも」

 

 その返事が遠い間柄の人間にする類いのものに感じられて、杏子は奥歯を噛み締めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 花壇に転がるグリーフシードが、さらにみっつ増えた。

 やはりテレパシーでの呼びかけに応えはない。むなしい時間を三〇分ばかり過ごした後、マミは肩を落として杏子の待つ街はずれへ向かった。

 かおりの家を離れるときに見せていた焦燥した顔は、杏子と合流する頃には普段の、柔和な表情へと塗りかえられている。

 少し暗めの街灯に照らされた街はずれの路地で、お互いの表情もはっきりとは見えなかったが――杏子にはマミの柔和な笑みが仮初めのものであることは、理解できていた。

 

「今日でひと月だね」

「えぇ。きちんと浄化していてくれればいいのだけれど」

「そうだね。でもさ……」

 

 言葉を飲み込む。

 逡巡する。

 そして、心の秤にいろいろなものを載せて傾けて――吐き出すように言った。

 

「死にたいって言うんならさ、死なせてやりゃぁいいんじゃないの」

「杏子ちゃん……?」

「だからさ、死にたがってるんだから、もう放っておけばいいんじゃないの」

「だめよ。どうしたの、そんなひどいこと言うなんて」

「だって! マミさんはもう充分償ってるじゃないか! いや、償う必要なんて最初からないじゃないか!」

 

 吐き出してしまった言葉の熱気に自ら煽られるように、語気は強くなっていった。

 言い過ぎているという自覚はあったが、言葉は既に彼女の制御を離れている。感情の熱が上昇気流をつくり、言葉はそれに乗せられて手の届かないところまで舞い上がっていった。

 

「風見野のパトロールをするのはいいよ。取れたグリーフシードを全部渡すのもいいよ。そんなことは気にしない。だけど、それ以上はあたしたちの知ったことじゃないよ! あいつが生きようが死のうが、あいつの勝手じゃんか! なんでマミさんが責任もたないといけないの!」

「……心配かけてごめんなさい」

「そうじゃないよ! あたしに心配なんていくらでもかけていいよ! そうじゃなくてさ……!」

 

 突如、マミが杏子を抱き寄せた。

 彼女の顔を乳房に埋めるようにして、強く抱き締める。

 言葉を遮られた形になった杏子は、発言を続けようと顔をあげようとした。しかし、マミのおとがいが頭頂に乗せられてそれを封じた。

 顔をあげることはやめて、両手をマミの背中に回す。

 少し間が空いて、頭上から声が降ってきた。

 

「決めた。無理にでも、ソウルジェムの浄化だけはしてくる」

「そうだね。それがいいと思うよ」

 

 しばらく、そのままの姿勢で抱き合っていた。

 やがて、両者の背中に回していた手はほどける。

 マミは、深呼吸するように息をした。

 

「じゃぁ、行ってくるわね。もう少し待っててくれる?」

 

 微笑むマミに、杏子は微笑みで返した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 平日のため夜宵かおりの父は不在のようで、一階に灯りはともっていなかった。

 好都合だと、マミは思う。

 幾つかのグリーフシードを花壇から拾いあげてぎゅっと握りこむと、二階の鎧戸に向かって跳躍した。存在の希薄化を受けているため、姿も音も余人には認識できないが、そもそもにして物音ひとつ立てない静かな動きだった。

 

『夜宵さん、開けて。開けてもらえないなら、無理矢理にでも開けます』

 

 声をかけながら、鎧戸を軽くノックする。

 予測した通りの結果ではあるが、やはり一切のリアクションは返ってはこない。

 三〇秒程度のインターバルを挟んでそれを三度くり返し、反応がないことを確認。マミは小さく嘆息したのち、鎧戸に両手をかける。

 

『ごめんなさい、乱暴にして』

 

 魔法少女にとっての、ちょっとした力が鎧戸に加えられた。

 わずかな、ペットボトルのキャップをねじる程度のほんのわずかな抵抗の後、鎧戸をレールに固定していた金具が弾ける音がする。

 金具による保持を失った鎧戸は、乾いた音をたててスライドした。

 鎧戸が開いた先はガラス窓、そしてだらしなく閉められたカーテン。その奥には、灯りの消えたかおりの部屋があった。

 窓と窓の隙間からリボンが侵入し、マジックハンドのようにくねる。ロックに絡みつき、器用に開錠する。

 

「夜宵さん」

 

 呼ばわりながら、靴を脱いで部屋に入る。こもった空気のためか、水面を潜るような抵抗をおぼえた。魔女の結界に侵入する際と似た抵抗に、マミは背筋に冷たいものを感じる。

 暗い部屋だった。

 灯りはつけずとも、魔法少女の視力ならばすぐに部屋中を認識できた。ベッドにひとの膨らみを認めたマミは、そちらに駆け寄ると顔を近づけて囁く。

 

「夜宵さん、勝手に入ってごめんなさい。お顔、見せてもらえないかしら」

 

 やはり返事はない。

 少しの間待ってから布団をめくる。すると、少し嫌な臭いがした。それが現実のものか、魔法的なものか、マミには分からなかった。

 めくられた布団の下に、胎児のような姿勢で居るかおりを認める。

 瞳は薄く開かれていたが、茫としており焦点を結んでいないように思われた。

 名前を呼ぶが、視線を動かすことさえしない。

 マミは彼女の指からリングのかたちをしたソウルジェムを抜き取った。

 リングから宝石へとかたちを変えた夜宵かおりのソウルジェムは、黒く濁っていた。もとの蒼銀の輝きの面影はなく、錆び果てた酸化銀を思わせる鈍色をたたえていた。もし百分率で濁りを表示できるなら、九〇を超えているはずだ。

 マミが手早くグリーフシードを近付ける。

 化学反応のように、ソウルジェムを侵していた穢れはふわりと浮きあがり、渦を描いてグリーフシードに吸い込まれていく。

 

「良かった、間に合ったわね」

「……なんの御用ですの。よくもわたくしの前に」

 

 ソウルジェムが浄化されたことで意識がはっきりしたのか、彼女は顔だけをマミの方に向け、呪詛めいた言葉を投げつける。

 敵意しか感じられない声音だった。それでも、ともかく生に属する彼女の反応を得たことで、マミは安堵した。

 

「ごめんなさい。このままだと、夜宵さんのソウルジェムが限界を迎えそうだったから。でも、良かっ……」

 

 そこでマミの言葉が途切れた。

 息が止まり、目が見開かれる。

 かつて見た反応が、再現されたからだ。

 美樹さやかのソウルジェムがかつて見せた反応、浄化された直後に再び濁るという反応。美樹さやかが魔女となる直前に起こった現象が、そこにあった。

 

「あぁ……」

 

 マミの四肢から、すうっと力が抜けていった。

 嗚咽を漏らし崩れ落ちるマミだったが、その情動はかおりには理解できなかった。いや、そもそもマミが繰り返し訪ねていた理由、今日侵入した理由、そういった根本の部分から、彼女は理解を拒んでいた。

 

「なんですの? 突然押し入ったかと思えば今度は泣き崩れて。迷惑ですので出ていってくださいませんか。あなたの顔は見たくありませんの」

「夜宵さん、お母さんのこと、本当にごめんなさい。でも、お願い。希望を捨てないで。絶望に負けないで」

「よくも勝手なことが言えますわね。あなたが……」

 

 上半身を起こすと、自分の腰にすがりつくように抱きついているマミを殴打する。力のない、幼子のような打擲だった。

 

「お願い、夜宵さん」

「でしたら、母を生き返らせてください!」

「それは……ごめんなさい……」

「母を返してください!」

「他のことならなんでもするわ。お願いだから」

「……でしたら、母のかわりにあなたが死んでください」

「夜宵さん……」

「天国へ行って、母に詫びてください!」

 

 怒っているのか泣いているのか、声からも表情からも判断できなかった。ただ、どちらであってもそこに意志の光があるとマミには――多分に希望的観測だが、感じられた。

 

「そうしたら、希望を持ってくれる? 前を向いて生きてくれる?」

「えぇ、お約束しますとも」

 

 かおりの腰をかき抱いたままに、すがるように問うマミに、彼女はあしらうように応える。誠意もなにもない、口約束とさえ言えないような態度だったが、その言葉を信じる以外に、マミにできることはなかった。

 

「約束よ、夜宵さん」

 

 悲しげな表情のまま笑顔をつくると、マミはかおりの手をとり、小指を絡めた。そして、指切りをするように上下させる。

 それを面白くもなさそうに見つめるかおりに視線を向け、静かに微笑む。

 

「天国にいけるかは自信ないけれど、もし行けたら、きっとお詫びするわ。約束する」

「はい」

「夜宵さんは元気に頑張ってるってお母様に報告する。だから、本当にお願いね」

 

 幾つか持ってきたグリーフシードを、彼女の手のひらに押し付ける。

 彼女の手にグリーフシードを握らせるように、ぎゅっと両の手で包み込んで彼女の拳を固めさせる。

 そういった所作に並行して、召喚されたマスケットがマミのソウルジェムを照準した。

 

 軽く乾いた炸裂音。

 次いで、陶器が割れるような甲高い音。

 砕け散り、小さな破片となって舞い散るソウルジェムは、灯りのない薄闇の中でもきらきらと輝いてみえた。

 

「約束、忘れないでね……」

 

 それが、夜宵かおりが聞いたマミの最後の言葉だった。気圧され、かおりは何度も首を縦に振った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 杏子が窓から飛び込んできたときも、かおりは状況を正確に把握できていなかった。

 それはある意味で幸いだったのかもしれない。

 

「てめぇ……!」

 

 杏子が首を絞めるようにして、彼女の身体を引きずり揚げた。

 黒く濁ったソウルジェムがこぼれ落ち、杏子の足下に転がる。それを一瞥し、杏子は吠え叫んだ。

 

「あん? 魔女になんならさっさとなれよ! 介錯してやんよ!」

「……約束、しましたから」

 

 喉を締められたまま掠れた声で言うと、彼女は手に握っていたグリーフシードをひとつ落とす。それは床にあるソウルジェムのそばへ転がり、ゆっくりと浄化を行った。

 

「くそッ!」

 

 憎々しげに浄化の様子を見つめた杏子は、叩き付けるように彼女の身体をベッドに投げ捨てた。

 そして、マミの亡き骸を抱え上げる。

 投げ捨てられたまま、金縛りにあったように硬直している少女を蔑みのこもった目で見下ろすと、窓へと大股に歩く。

 半身を窓から外へと乗り出し、振り返って告げる。

 

「マミさんは連れて帰る。二度とあたしの前にツラ出すなよ、殺すからな」

「いま、そうすればよろしいでしょう。いいですわよ、抵抗しませんわよ」

「……お前の抵抗なんか、抵抗になるかよ」

 

 吐き捨てるように言うと、真剣な表情を見せる。次につぶやいた言葉は、一言一句を確かめながら紡ぐかのように、ゆっくりだった。

 

「……あたしは、あたしの感情よりマミさんの想いを優先したい。だから、今はお前を殺さない」

 

 同意を求めるように、両腕で抱いたマミに視線を落とす。

 変身が解け、普段着に戻ったマミは、しかし当然のことながら意志を示すことはない。

 

「帰るよ、マミさん」

 

 凪いだ湖面を思わせる静かな口調だった。

 それ以上の言葉は紡ぐことなく、杏子は窓から身を躍らせる。

 ちょうど雨が降り始めた。降り始めから大粒の雨が降る、ひどい雨だった。

 マミに雨粒がかからないよう、ワインレッドの衣裳を槍で裂いて彼女の身体にかける。

 外傷はひとつもないマミの亡き骸だったが、杏子には、茨の冠に苛まれた擦り傷や、鞭うたれた打ち傷、そしてわき腹を槍で貫かれた刺し傷があるようにも思えた。

 彼女の亡き骸を抱きかかえて歩いた。

 魔法少女としての移動――軽快な跳躍による高速機動――を行うには杏子の心は重く沈んでいたし、公共の交通機関を利用するには、杏子の顔はひどく泣き崩れていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 降り始めた雨が、開けたままの窓から飛び込み、窓際のカーペットを充分に濡らした頃。

 夜宵かおりはようやく身体を動かした。

 床に散らばるキラキラの破片を、手を箒のようにして寄せ集める。尖った部分が肌を刺して血を滲ませたが、痛みは感じなかった。

 花をかたどった外枠のアクセサリー部分は傷ひとつない。アクセサリーの中心に破片をいれて、団子をこねるように手で弄ぶ。

 かすかにオレンジイエローの輝きを残していた破片は、その作業のうちにやがて硝子のような透明なものとなっていった。

 それがマミの魂が失われたことを示す気がして、ようやく彼女は涙を流し始める。

 涙はすぐに嗚咽となり、どうしようもない後悔と自己嫌悪が胸中を占める。

 そして、魔力のムダでしかないと理解しながらも、かき集めたソウルジェムの破片に、彼女の固有魔法を使い続けた。

 そうすることが、罰であるかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四八話 マミさんのいない冬・前編

 マミを失ってからの佐倉杏子は――完璧であろうとした。

 彼女の生来の性格と、精神に刻まれた傷痕からすれば、自堕落に、怠惰に、そして偽悪的に日々を過ごしてもおかしくはなかったが――彼女はそうなろうとする自分を律して、完璧であろうとした。

 マミが教えてくれたこと、求めていたこと、手本となって見せてくれたこと。

 そういったものを、完璧に再現しようとした。

 もし、彼女が自堕落に生き、マミが伝えてくれたものを蔑ろにしたとすれば、それこそが彼女の中でマミが死ぬときだと、彼女はそう信じた。

 心の中にいつまでも元気なマミが居続けるように――彼女は完璧であろうとした。

 

 

 誰に起こされるでもなく朝早く起き、誰に促されるでもなく朝の諸事をこなし、誰と連れ添うこともなく家を発つ。

 学校では今までよりも熱心に授業を受けた。

 放課後はパトロールに明け暮れた。帰宅した後は、食事を作り、洗濯をし、掃除をし、勉強をし、そして寝た。無駄なことはしなかった。

 それを繰り返した。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 二ヶ月が経過した頃、キュゥべえが現れ、杏子にワルプルギスの夜の出現を告げた。

 

「どこだよ。今すぐブッ殺してやる!」

 

 感情をむき出しにして吠える杏子に、キュゥべえはその感情を全く受け止めることなく応える。

 曰く、出現場所は、ドバイ首長国であり、杏子が戦いに向かえる距離ではないこと。

 そもそも、現時点ですでに、ワルプルギスの夜は姿を消してしまっていること。

 姿を消すにあたって、風見野であったように、歯車を軸とする天地の反転と大規模な破壊がもたらされたこと。

 迎撃にあたった現地の魔法少女五名が落命したこと。

 

『キミたちが風見野で戦った際とは異なり、ワルプルギスの夜に有効打を与えることはなかった。それにもかかわらず姿を消したということは、逃げるという行動とは思えないよね』

「じゃぁ、なんだよ」

『わからない。しかし逃げる必要がある状況ではなかったからね』

 

 ワルプルギスの夜の行動理由など、杏子にとって意味のあることではなかった。またキュゥべえにとっては、杏子の見解など興味をひかれるものではなかった。故に、それ以上の問答はなされなかった。

 

 

 

 

 

 そしてそれは、同じ報告を受けた夜宵かおりにとっても同じことだった。

 ようやく日常の生活を取り戻しつつあった彼女は、日課のようにマミの形見――花をかたどったアクセサリーと、砕け散ったソウルジェムの破片――に固有の魔法を行使し、魔力を無駄にしていた。

 

『もしもキミがいずれワルプルギスの夜と戦うつもりなら、魔力は大量にいるだろうね。そうやって浪費するのはやめるべきじゃないのかい?』

 

 キュゥべえの忠告に耳を貸すことなく、形見であるソウルジェムの破片と、それの受け皿として置かれた一枚のプリクラシールに魔力を注ぐ。

 過去にマミ、杏子と旅行に行った際のプリクラシールは、マミの写真としてかおりが持つ唯一のものだった。かつてあった温かな時間を懐かしみ、それを自らの幼く愚かな情動で決定的に失ったことを悔やみ、そして我が身を削ることが贖罪であるかのように、魔力を注いでいた。

 

 毬屋しおんの奇跡――傷の永続化――に抗する夜宵かおりの奇跡は単純な治癒の能力ではなく、潜在的にはソウルジェムの再生も不可能ではなかった。

 しかしながら、夜宵かおりの持つ魔力では、魂の結晶であるソウルジェムを再生させることはかなわない。結果として、彼女はただ魔力を無駄に注いでいた。

 それは、広大無辺な壺に僅かずつ水を注ぐような行い――ではない。それならば、いつかは満ちる。

 彼女の行いは、底の破れた壺に僅かずつ水を注ぎ、無為にこぼれさせているに過ぎない。

 つまり、彼女の持つ魔力では、その壺を満たすことは不可能だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 さらに一ヶ月半が経過した。あと数日で、杏子の高校生活が始まる頃。

 再び杏子のもとにキュゥべえが訪れ、告げた。

 やはり異国の地であるドイツ連邦共和国の名と、今度は七名の魔法少女が犠牲になったことを聞いて、杏子は拳を固く握った。それは命を落とした魔法少女を想っての義憤ではなく、なぜ自らの戦える範囲に現れないのかという私憤であった。

 

「ちくしょうッ!」

 

 拳が壁を打つ。

 壁がわずかにめり込み、リビングとキッチンの間を飾っているストリングカーテンが派手に揺れた。

 

 しかし、いつまでも感情に支配されることはない。彼女は表情を消すと、パトロールに向かう。

 マミさんならそうする、それが彼女の行動原理だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 見滝原第一高校に、杏子は通っていた。

 マミと同じ制服に袖を通し、同じ学び舎の窓から微睡みの魔女を見張る日々。それももう二ヶ月になる。

 微睡みの魔女は、今に至るまで一切の動きを見せたことはない。

 ときどき、本当にときどきのことではあるが、いっそ目覚めればいいのに、という思いが彼女の胸に去来することがある。 

 今の自分なら、戦って倒すことも不可能ではない。倒せれば肩の荷が下りるし、負けてしまっても、やはり肩の荷が下りる――。

 気の迷いだとそのたびに頭を振り、頬を張る。

 

 そんなときは、帰宅すると罪を告白するかのようにマミの亡き骸に祈りを捧げた。

 魔法で維持されている亡き骸は、低めではあるものの体温さえあった。手を握ると今にも握り返してくるような錯覚をおぼえる。マミの手を両手で押し包むようにして、瞑目した。

 亡き骸は何も応えないし、今の杏子は都合のいい幻惑に逃げることもない。

 結果として物音ひとつない静謐な時間が流れ――そして、乱される。

 

『やぁ、杏子』

 

 ワルプルギスの夜の異国での出現を告げるための、キュゥべえの訪問頻度は増えていた。四月の終わりに一度、五月の中旬に一度、六月の上旬に一度。

 そして今、六月の中旬。

 ドイツ連邦共和国に再びワルプルギスの夜が現れて破壊をもたらしたことを伝えると、キュゥべえは推論を語った。

 

『もしかしたら、次はドバイにワルプルギスの夜が現れるかもしれない』

 

 キュゥべえは杏子にそう告げる。

 見滝原、風見野、ドバイ首長国、ドイツ連邦共和国、ポーランド共和国、ウクライナ、ポーランド共和国、ドイツ連邦共和国と、まるで見滝原とウクライナを結ぶ往路と復路のようにワルプルギスの夜の出現場所が推移していることからの類推だと根拠を示したキュゥべえに、杏子は問うた。

 

「じゃぁ、その次は風見野に現れるってことか?」

『あくまで推論だ。次がドバイかどうか次第だね。だけどもしそうなら、キミにとっては幸いだね、杏子』

「そうだな」

 

 マミの手をそっとベッドに戻して立ち上がると、勢いよく右の拳で左の掌を打つ。

 空気の爆ぜる音。

 彼女は、当然のように異国での戦いを経て風見野へ戻ってくることを予測している。

 異国の魔法少女に失礼ではあったが、自分以外の魔法少女がワルプルギスの夜を倒せるとは杏子には思えなかった。そこには、戻ってきて欲しいという願望、自分の手で倒したいという切望が多分にバイアスとして機能している。

 

『もうひとつ、気になる傾向がある。影色の魔女が多数いたよね。あの数が、出現のたびに減少している』

「世界中でさんざん戦ってるんだ、疲弊してるんじゃねぇのか?」

『どうだろうか。正直なところ、ワルプルギスの夜を疲弊させるほどのダメージを与えたのは、キミとマミだけだ。なのに、風見野の次に現れた時は、さして数を減じていなかった。確か、二七だったか』

「とにかく、多かろうが少なかろうが倒すだけだよ」

『そうだね。前回はもはや三体しかいなかった。キミにとってはさしたる相手ではないだろうね。問題はワルプルギスの夜、その本体だけだ』

 

 杏子に返しつつ、キュゥべえは影色魔女の推移について、腑に落ちないものを感じていた。

 彼女に告げた内容は虚偽ではないが、正確でもない。正しくは、戦いで命を落とす魔法少女の数だけ、その時に現れる影色魔女が減じている、だ。加えて、減じている影色魔女は、命を落とす魔法少女の写し鏡のような姿のもの。

 

 ――しかし、どういうことだ。その戦いで死ぬ魔法少女にあわせるように、現れる随伴の魔女が減っている。まるで、誰が死ぬかをあらかじめ知っているかのように。

 

「次、いつ現れるかは?」

『なんらかの規則性があると思われるが、現時点では特定には至っていない。だが、出現間隔が狭まっていることはキミも分かっているよね。次にしてもその次にしても、さして先ではないはずだよ』

 

 その返答は杏子にとって望むところであった。好戦的に彼女の口元が歪む。

 

『杏子、キミはどうしてワルプルギスの夜を倒したいんだい?』

「ヘンなことを聞く奴だな。それが魔法少女の使命だろ? それに――マミさんなら倒そうとする」

『既に二九の魔法少女がワルプルギスの夜との戦いで命を落としている。エントロピーの回収もできずにこんなに魔法少女が落命するのは異常事態だ。ボクはできれば杏子からはエントロピーを回収したいとは思っているよ』

「戦うと死ぬって言いたいのか?」

『可能性の話だよ』

「確かに死んじまうかもしれねぇな。まぁ、それはそれでアリだよ」

 

 呵呵と笑う。

 彼女にとって死はさして忌避すべきものではなくなっていた。少なくとも、マミなら行ったであろうことを行わないことは死よりも忌避すべきものになっていた。

 

『そうかい。まぁ、キミの気がすむようにするといい』

「意外とあっさり引くじゃねぇか」

『既に鹿目まどかから得たエントロピーは、ボクたちのノルマを大幅に上回っているからね。あとは、まぁ余禄みたいなものだ』

「そうかい。ま、せいぜい死なないようにするさ」

『それがいい。キミからもかなりのエントロピーが回収できるはずだしね』

 

 また、呵呵と笑った。

 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 それから一週間と経たずに、ドバイ首長国においてワルプルギスの夜は顕現した。

 影色魔女の随伴はわずかに一体のみ。

 

 前回の顕現の際には三体いた。そして、今回ドバイ首長国での戦いでふたりの魔法少女が命を落とした。

 命を落とした魔法少女は大槍で戦う者と二刀流の剣で戦う者。前回の顕現の際には存在して、今回いなかった影色魔女は、大槍で戦う魔女と二刀流の剣で戦う魔女。

 

 ――なんらかの因果律的なものだろうか。だとすれば、あとひとり魔法少女が死ねば、ワルプルギスの夜による被害は終息する。つまり、ワルプルギスの夜を倒せる、ということだろうか。

 ――幸い、残った随伴の魔女は槍を扱うものではない。杏子がワルプルギスの夜によって死ぬことはない。そう理解していいのだろうね。

 

 原形も留めぬほどに毀された魔法少女の亡き骸のそばで、キュゥべえは思考を巡らせていた。

 もちろん、その思考には死亡した魔法少女への追悼の意というものは欠片すら含まれていない。

 あるのはただ、どのようにすれば得られるエントロピーが最大化されるかという事象のみ。

 

 ――そうなると、杏子にワルプルギスの夜を倒させるのが一番か。

 

 ドバイ共和国で行うその思考を、遠く離れた見滝原のマミの家にいるキュゥべえも共有する。

 そして、杏子に語りかける。

 

『予測通り、ワルプルギスの夜はドバイに出現したよ。次は風見野に出現すると思われるね。今から一週間以内。そしておそらく、影色の魔女の随伴はゼロ、もしくは一匹だ』

「なんだよ、もしくはって」

『これまでの戦闘記録から、戦うごとに随伴の魔女の数は減じている。加えて、前回時点で一匹だったからね。増えるということはないと思う』

 

 ――おそらく、風見野で死者が出るようならゼロ、出ないなら一匹のはずだね。まぁ、そこまで杏子に教える必要はない。

 

 キュゥべえにとって、地球は牧場であり、魔法少女は家畜。その観点からすると、ワルプルギスの夜は牧場を荒らす害獣に他ならない。

 既に充分な利益を得た牧場であり、放棄してしまっても腹は痛まないとはいえ、継続して搾取できるのならばそれに越したことはない。

 佐倉杏子は、害獣を駆除する可能性を秘めた猟犬である。それと同時に家畜でもある。必要以上に知恵をつけることは避けるべきであるし、知恵を与えないことで御しやすくもなるはずだ。

 そういった考えが表情に出ることはキュゥべえにはない。能面のような顔で杏子を見つめ、そして杏子の好戦的な反応に満足する。

 

「ま、どっちでも大差ないな。倒すだけだよ」

『そうだね。キミならばきっと倒せるだろう』

「あたしが死ぬ心配はしなくなったのか?」

『止めても無駄じゃないか』

「はは、その通りだな。よく分かってるじゃねーか」

 

 杏子は最近よく笑うな、とキュゥべえは思った。しかし、その原因まで考えを及ばせるようなことは彼はしない。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 キュゥべえの来訪から、四日後の深夜。

 七ヶ月ほど前のワルプルギスの夜の顕現により、自然の植生はもとより、地形すらえぐりとられた風見野の土地に、杏子はいた。

 激しい雨が頬を叩き、激しい風が髪をさらう。

 彼方からワルプルギスの夜を目視した杏子は、右手に大身槍を作りだし、もとより精悍な表情をさらに引き締めた。

 そして、視線はワルプルギスの夜に向けたままで言った。怒鳴るでもなく、叫ぶでもなく、落ち着いた声で。

 

「帰んな。お前じゃ足手まとい、無駄死にするだけだ。マミさんの想いをムダにすんな」

 

 振り返り、目視していれば、もっと棘のある言葉になっていたかもしれない。

 夜宵かおりは、マミを真似るように、形見である花をかたどったアクセサリーを右側頭部に飾っていたから。それを見れば、杏子は気分を害していたはずだから。

 

「足手まといと言われて引き下がった結果、以前はどうなりました。そもそも、わたくしを見たら殺す、と仰っていませんでしたか?」

「そうだな……。ワルプルギスの前に、お前をやるか」

 

 やはり視線はワルプルギスの夜に向けたまま、腕を横に伸ばし、槍の先端をしならせる。雨粒を弾き飛ばした先端が、ぎらんと輝く。

 かおりは頭を下げた。杏子の視界にその動きは入っていなかったが、彼女は気配で察する。

 

「挑発するような物言い、申し訳ありません。嫌な性格ですわね。巴さんにも、あなたにも、本当に詫びる言葉さえないというのに……」

 

 発する声は湿っていた。

 だからといって杏子の溜飲が下がるわけではなかったが、彼女は巴マミならどうするか、に従う。

 

「ですが、力及ばずとも戦いたいのです。後悔しないためにも、二度とひとのせいにしないためにも」

「一切、助けねぇからな」

「えぇ、それで結構ですわ。むしろあなたの足を引っ張っては、巴さんに顔向けできませんもの」

「あんまりマミさんの名を口にするな」

「……分かりましたわ。ひとつだけお願いがあるとすれば、わたくしの亡き骸は家の庭に置いて欲しいですわね」

「知るかよ。自殺ならよそでやれ」

「むろんそんなつもりはありませんわ。ソウルジェムさえ守れば、わたくしの治癒をもってすればどうにでもなりますもの。万が一の話です」

 

 右手を側頭部にかざし、マミのアクセサリーを撫でさする。そして、半ば習慣となっている行為――アクセサリーへの固有魔法の行使を行う。

 力を貸して欲しいとも、戦いを見守って欲しいとも、マミに対して望む権利などないことは重々理解していたが、それでも無意識の仕草で、マミにすがるようにアクセサリーを撫で続けた。

 

 

 

 

 

 やおら、杏子が駆けはじめる。

 遅れて、かおりが後を追うように駆ける。

 一切助けない、と言った杏子であったが、駆けながら魔力を大きく昂らせる。ワルプルギスの夜の攻撃を、自らに引き寄せるために。

 

 杏子の魔力に誘引されるがままに、ワルプルギスの夜の熱線が杏子に向かって走り、そしてむなしく空を切る。

 烈風は激しいものの矢弾として運ばれる樹木や岩石は乏しい。加えて熱線が杏子に集中していることもあり、回避能力に劣る夜宵かおりも比較的安全に距離を詰めることができている。彼女とワルプルギスの夜との間は、五〇〇メートルほど。

 

「この巨体にフローズンが通用するとは思えませんが……」

 

 つぶやきが終わるころには、呪装魔具は氷の長銃への変形を完了していた。

 射撃、着弾。

 着弾点から根を伸ばすように氷が成長する、が、本来ならば魔女の体表を覆い尽くすはずの堅氷が、成長の半ばで打ち砕かれた。

 

「あんまり近付きすぎんなよ! 狙われんぞ!」

「はい! ですが、攻撃を重視しませんと、また逃げられては!」

 

 ワルプルギスの夜を一〇〇メートルの距離に捉えた杏子が、やはり振り返ることなく叫ぶ。そして、かおりの返答に口元を歪める。

 もとより、長期戦にするつもりはなかった。

 前回の風見野戦のみならず、各国での戦いでも、ワルプルギスの夜は遁走している。今回もそうだと、杏子も予想はしている。

 

 ――今度は、逃がしはしねぇ。

 

 ワルプルギスの夜がマミの直接的な仇ではない。しかし、杏子の心の中ではイコールで結ばれている。そうしないと、彼女の心はもたなかった。

 マミの仇と明確に規定し、それを倒すという目的を持つことで、彼女は心が崩れることを、折れることを押しとどめていた。

 ぎらんと、彼女の瞳が光り、彼女の槍の穂先が光った。

 彼我の距離は三〇メートル。逆さ吊りの魔女の頭部を貫くべく、跳躍する。

 

 不測の事態が起こった。

 なんらかの全力攻撃を行おうとした夜宵かおりの魔力に魅かれ、ワルプルギスの夜の熱線が彼女を襲った。

 一閃、二閃。

 三閃めを放とうとしたところで、大身槍が逆さ吊りの魔女の口腔を貫き、それ以上の熱線の発射を阻止した。

 槍を振るいながらも、後方で夜宵かおりが被弾したことを察知した杏子は、追撃をあきらめて踵を返す。

 

 追い風に乗って一息に駆けつける杏子の姿は、以前の東京の大型魔女戦においてやはり後方で被弾したかおりに駆けつけた、マミの姿と相似していた。だが、先のケースとは大きく異なることがひとつある。

 救助される者の生死だ。

 一撃目の熱線で腹部を貫かれ、くの字に身体を折ったところで、頭の上にちょこんと乗った帽子を、ソウルジェムごと砕かれた。

 

 

 

 駆けつけた杏子は、彼女の絶命を確認した。

 ソウルジェムは微塵に砕かれ、横たわる身体には鼓動もなければ魔力も宿っていない。

 その事実に、あまり感情は動かなかった。喪失感を伴う悼む気持ちも、逆に快哉をあげたくなるような高揚感もなかった。ただ――

 

 ――マミさんのしたことを、ムダにしやがって。

 

 ワルプルギスの夜への憎しみの理由が、またひとつ増えた。

 槍を両手で強く握りしめる。ワルプルギスの夜を睨みつける。

 大身槍で貫いた魔女の口腔が、かたちを取り戻しつつあった。再び口のかたちとなったそれは、歪み、哄笑し、炎を放つ。

 

「当たるかよ!」

 

 レーザーと表現しても良いほどの飛来速度を誇る熱線が放射される。

 稲妻のようにジグザグに駆けては距離を詰める杏子。

 高速の機動と吹き荒ぶ烈風により、花が開くように彼女の裾の長いドレスがはためく。その際に熱線がかすめ、ドレスを焼くことはあったが、彼女の身体を傷つけることはかなわなかった。

 

 

 

 

 

 

 キュゥべえは演算していた。

 この場にいる個体が演算しているわけではない。キュゥべえとしての共有の記憶や知識を蓄えたキュゥべえの集合意識とでもいうべきものが演算していた。

 そして、その結果が出た。

 

 ――今回の情報で、ワルプルギスの夜の出現法則が算出できた。

 ――次は七時間後……ずいぶんとすぐだね。場所はおそらく見滝原だろう。その次は……。

 ――今?

 ――「今」とはどういうことだろうね。じゃぁその次を計算すると……前回のドバイの時間か。時間を遡るような結果だね。

 ――さらに進めると一昨年の見滝原の時間か。そこから反転し、再び同じ間隔を経て今に向かう。振り子のような振る舞いだね。

 

 ――これは……ビッグクランチに至り、再び膨張する宇宙。つまり、振動宇宙へと移行することを示している式に相当するね。

 ――そうか、わかったよ。

 

 得られた結果から、事象を推測する。そして、その事象から引き起こされる事態を推測する。

 ちょうど、この事象によって引き起こされると思われる理論があった。

 タイムパラドックスと呼ばれる理論。彼らの知識の中において、それは空理空論ではなく実学としてカテゴライズされていた。

 

『杏子、ワルプルギスの夜を倒してはいけない!』

 

「なにッ?」

 

 わずかに気が逸れた。

 しかし、それであっても杏子はワルプルギスの夜が放った熱線を、紙一重で回避する。

 だが、今回の熱線は、いつもの熱線ではなかった。

 いつもの熱線を幹として、おびただしい数の炎の枝が放射状に伸びる。

 過冷却状態の導電体中を金属イオンが析出するかのように一見無軌道に、しかし樹枝状のフラクタル構造を描きながら。

 

 伸びた枝が杏子の身体を貫く。ざくり、ざくりと。

 手も、足も、胴も、首も、炎の枝に貫かれ、空中に捕らえられた。その姿は、はやにえにされた獲物のようにも見える。

 握力がなくなり、槍がどさりと落ちる。

 一瞬の後に熱線が消え、炎の枝による支えを失った彼女の身体はぼとりと地に墜ちた。

 彼女の回避能力は、そのような窮地にあっても、ソウルジェムへの直撃を回避していた。

 が、それが限界だった。ソウルジェム以外の箇所を構う余裕はなく、手も足もそこかしこに穴を穿たれていた。

 

 膝や肘で身体を起こすことさえできず、地を舐めることしかできない。

 喉に血があふれ、悪態をつくことすらできない。

 わずかに首をもたげ、ワルプルギスの夜を見やると、下卑た哄笑をくり返し吐き出す口腔に、魔力が満ちつつあった。

 

 ――畜生。

 

 掌中にあらたな大身槍を作りだす。

 これで受けるしかない。

 ろくに動かない腕で熱線を受ける位置に差し込めるか。大身槍が保つのか。

 そんな思考を回す余裕もなく、熱線は放たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四九話 マミさんのいない冬・後編

 放たれた熱線を、武器が受け止めた。

 大身槍ではない。杏子の腕はそこかしこに受けた傷により機能不全状態にあり、熱線の光速に近しい攻撃に槍を差し込めるほどの迅い動きは不可能であった。

 熱線と杏子の間に差し込まれた武器は、蒼銀に彩られた手甲のような形をした射撃武器。

 それは、ホーリーレイと呼ばれる夜宵かおりの呪装魔具だった。

 邪魔をする武器を溶かそうと、熱線が激しい熱気をあげる。武器の表面は緩やかに溶解し、その下にある肌は焼け、数寸先にある杏子の前髪がちりちりと焦げる。

 

「さすがに熱いですわね……。モード・フローズンシューター」

 

 つぶやくと、右手に備えられた武器を氷の長銃へと変形させる。

 とたん、長銃が放つ冷気が熱線を押し返す勢いで周囲を冷却させていく。

 熱線が止む、そして次は夜宵かおりを狙ってあらたな熱線が飛来した。彼女はそれを氷の魔弾で迎撃。空中で霧消させた。

 

「わぁ、強い強い。これがわたくしの本当の実力ですわね」

 

 おどけるように言う彼女を、不自由な身体を捻った杏子が見上げる。外傷はない、が、ソウルジェムは砕かれ喪われていた。

 なぜ生きているのか――そう問うために発声することは喉に満ちた血液が許さず、意味のある言葉とはならない。

 見上げた杏子へ視線を落とし、彼女は柔和な笑みを見せる。

 そして、すっと手を伸ばすと、彼女の得意魔法を傷だらけの魔法少女へと行使する。

 

 だが――夜宵かおりの得意魔法は一切の効力を発揮しなかった。杏子が魔法を拒んでいる。そのように彼女には感じられたが、それは悪化した関係性から来る被害妄想なのかもしれない。

 杏子の代わりに、キュゥべえが問うた。

 

『かおり、キミはソウルジェムを砕かれて死んだはずだ』

「……このままでは死ねない、と、そう念じていたらこうなりましたわ」

 

 ふたたび空中で熱線と激突する氷の魔弾。

 ほとばしる堅氷は熱線を遡上するように伝い凍らせていく。ほどなく逆さ吊りの魔女の吐き出したそれは、熱線ではなく氷柱と化した。

 魔力が普段の十倍にも膨れあがったように感じる――また、威力もその感覚を肯定していた。

 

「わたくしの魂の在処はソウルジェム。それはそうなのでしょう。しかし、わたくしの魂は本来はこの身体に宿っていたものですわ」

『身体に魂を戻したというのかい? そんな馬鹿な、ありえない。既に身体の方には魂を受け入れるだけの座はないはずだよ』

「ええ、その通りなのでしょう……。身体が拒んでいること、自覚しておりますわ」

 

 肉体に拒絶された魂は軋みをあげ、激しい痛みを彼女の精神にもたらしていた。

 歯の神経を全て剥き出しにして、ヤスリで削るかのような痛み。そんな痛みに苛まれ、ともすると正気を失いそうにさえなる。

 それに耐えているのは、彼女の精神力が強い――というわけではない。既に感情の大部分が摩耗してしまっていることと、その痛みを罰として肯定的に受け容れていることによる。

 

「ですが、かりそめに宿るくらいのことはできましてよ。それに、ソウルジェムから身体を遠隔操作するより、身体に魂を同化させて動いた方が迅く強い――当たり前の理屈ですわよね。人馬一体という言葉がありますが、さしずめこれは人魔一体、といったところでしょうか」

『なるほど……。しかし、どう見ても魔力の使い過ぎだ。キミの魔力の総量はさほどではない、そんな戦いは長くはもたないよ』

「ナンセンスなことを。わたくしは既にソウルジェムを失い、魂を無理矢理に身体にまとわせているのですよ。こんな状態が長く続かないことは分かっております。五分か十分か……。その間、魔力がもてばよいのですわ」

『ふむ……しかしだね』

「残り少ない時間であなたと無駄に問答をしているつもりはありませんわ。夜宵かおり畢生の戦い、しかとご覧あそばせ」

 

 ――巴さん、ご覧になってください、とは言う資格はありませんが……ここでワルプルギスをしとめてみせます。

 

 マミを想いながら、髪を飾る花のアクセサリーに手を添える。そして固有魔法を行使する。

 彼女の固有魔法は、傷の永続化という毬屋しおんの奇跡に相対するもので、傷の発生以前まで時間を巻き戻して再生させるというものだった。

 奔流のように溢れ出る魔力は、マミのアクセサリーすなわちソウルジェムの時間を巻き戻し、破壊前の姿へと再生させていく。それを撫でさすった指の感触で悟ったかおりは、一瞬喜色をたたえ、そして寂しく笑う。

 

 ――今さら治っても、もう、宿るべき魂はないのですわね……。そう、何事もあとからどう取り繕おうとも……。

 

 それ以上の感傷を許さないとばかりに、熱線が撃たれた。

 より強大な魔力を狙うというワルプルギスの夜の習性のままに、攻撃は全て夜宵かおりに集中する。

 生前、と表現してよいものだろうか。ソウルジェムから身体を操作していた状態に比べると、運動能力は数倍にも上昇している。それでもなお、熱線の全てを避けきることは容易ではなかった。これを易々と回避していた佐倉杏子、それと同格の巴マミを思えば、あらためて感じる。

 

 ――おふたりとは、ここまでの力量差があったのですわね。

 

 熱線の七割を回避し、残り三割を右手に備えた氷の長銃を盾にしてしのぐ。

 幸いというべきか、ソウルジェムという急所は既になく、さらには彼女の得意とする治癒魔法は膨大な魔力を伴ったことでいかなるダメージも瞬時に治癒する。ある種の不死性に近いものが、彼女にはあった。

 

「佐倉さん、お怪我を治しておいてくださいな。攻撃はわたくしが引きつけます」

 

 言われるまでもなく自前の治癒魔法を行っていた杏子だが、ソウルジェム以外の全てを破壊されたといってもいい惨状、そうそう動ける状態まで回復しそうになかった。

 まだ明瞭に出ない声で「分かってる!」と返し、その返事を受けて夜宵かおりはひとつ頷いた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 フローズンシューターを構成している濁った氷がさらなる成長を遂げる。肩口までを覆い尽くしたそれは、腕そのものを巨大な砲身としたバズーカの様相を呈する。

 

「フローズンシューターの上位となると、スノウ・クィーンってところですわね。あ、いえ、フローズン・フィナーレっていうのも良いですわね」

 

 軽口を叩く夜宵かおりを二条の熱線が襲う。射撃姿勢に入っていた彼女は回避行動を取ることはできず、直撃を受ける。

 しかし、右腕に命中したものはフローズンシューターの冷気が中和し、左脚に命中したものは治癒魔法が瞬時にリカバーした。

 その結果に満足気に口の端を歪めると、余裕を持って照準をあわせる。

 

 ――広がらずに収束なさい!

 

 魔弾に命じ、撃つ。

 魔女のおとがいに着弾した魔弾は、射手の即興の命に従い、狭い範囲にのみ堅氷を作り出して魔女の顔面を氷漬けにした。

 氷の下で、魔女の口腔が紅に染まる。熱線を吐こうとして、堅氷で抑えこまれているのだろう。

 

「これで炎でのオイタはできませんわよ」

 

 彼女の武器がまとっていた氷を砕いて変形した。蒼銀の籠手のかたちをした銃、ホーリーレイへ。

 即座に光の矢を放つ。装弾なしで続けざまに。狙うのは魔女の首。

 射撃の度に、光の矢の煌めきが砕け散った氷に反射し、闇の中そこかしこで光彩を描く。

 撃ち続けられる矢の数が一四を数えるころ、逆さ吊りの魔女の首が千切れ飛んだ。

 氷の塊、といった様相を呈する魔女の頭部が大地に落ち、衝撃が響いた。

 

「今度こそ、素っ首いただきましたわ」

 

 笑う。しかし、逆さ吊りの魔女はワルプルギスの夜の本体ではない、いわばアンコウの擬餌であり、そこを砕いたところで倒すことはできない――そのことを知る杏子が、ようやく取り戻した声で叫ぶ。

 

「かおり、アイツの本体は上の歯車だ!」

「分かりましたわ!」

 

 首の破断面から砂粒をさらさらと散らす逆さ吊りの魔女。戦闘力を失ったかに見えるその姿を一瞥すると、彼女は足場を作りつつ上空へと駆ける。

 それを目で追うキュゥべえがつぶやく。能面のような顔はそのままだったが、口調からは口角を吊り上げているような印象を与えた。

 

『五分か一〇分か、そう言ったね、かおり。残念だけど、そんなにもたないよ』

「!」

 

 キュゥべえの言葉が呪詛であったかのように、夜宵かおりの身体が硬直した。全身が金縛りにあったようにぴくりとも動かなくなる。

 

『ソウルジェムが砕かれたあとに、身体に一時的に魂を定着させる。確かに過去に例のあることなんだ。しかし、歴史に名を残すような魔法少女しか成しえなかったことだからね。キミができるとは驚いたよ。その執着心はたいしたものだ』

 

 空中で硬直した身体は、足場を踏むこともできずに落下する。まるで、ロウで作った翼を溶かし尽くされたかのように――。

 

『歴史に名を残す魔法少女でさえ、その状態はもって五分だったよ。キミならば――あぁ、今で三分一二秒だね、よくもった方だと思うよ』

 

 地に墜ち、したたかに全身を打った。しかし、痛みを感じることはもはやなかった。

 不自然な方向に手足を曲げ、横たわる夜宵かおりの肉体。

 魂が身体から剥離してしまったのだろうか、夜宵かおりの意識は横たわる傷だらけの自分の肉体を、第三者の視点をもって少し上から見ていた。

 同じように傷だらけの身体で、杏子が駆けよってきていた。

 杏子がかおりの上半身を抱きおこす。

 

 ――動かなくて幸いかもしれませんわね。泣く姿も怯える姿も、見せないですみますもの。

 

 その魂のつぶやきを聞きとがめられることがないことも、また幸せなのであろう。夜宵かおりの魂は、ワルプルギスの夜が生み出す烈風に運ばれ、霧散していった。

 彼女の側頭部から、マミのソウルジェムがこぼれ落ち、杏子の太ももを叩いた。本来は暖かくオレンジイエローに輝いていた宝石は、今は何も宿っていないことを表すかのように無色透明だった。

 

『なるほど、あの状態の魔力なら、ソウルジェムの復元も可能だったということだね、だけど――ソウルジェムを復元しても、そこに入るべき魂がなければどうしようもない。マミが死んでもう六ヶ月だ。彼女の魂はとうに霧散しているよ。キミたち風に言うと、天に召されたとでもなるのかな』

「お前はもう……何も喋んな」

 

 立ち上がる。三分の治癒では満身創痍を癒しきることはかなわず、立ち上がる動作もゆらりといったものだ。

 それでも、瞳には強い意志の光が宿っていた。

 右手を突き上げる。槍の柄の半ばを持ち、大地と水平にして掲げる。

 と、頭上に掲げた槍が伸びた。槍穂は右へ、石突きは左へと、手で持った部分を中心にして前後ともに伸長していく。

 右へ伸びた穂先は、彼方に小さく見える岩塊に喰い込み、その進みを止める。

 左へ伸びた石突きも、小高く盛り上がった土に喰い込み、同様に進みを止めた。

 左右ともに伸びを止められた大身槍は、持てあました勢いを内に宿すかのように太くなり、同時に反り返っていく。

 

 それは、上空から見れば、地上に生まれた巨大な弓に見えた。

 さらに、槍穂を石突きを結ぶように鉄鎖が奔り、弦を成した。

 

 深く息を吐き出すと、矢とするべく新たな槍を作り出す。

 それはアパシュナウト・トリデンティと称する三叉槍を、遥かに巨大にしたもの。

 鉄鎖の弦に巨大槍の石突きを乗せ、力の限りで引き絞る。あたかも、ガリバーの弓を小人が引くかのように。

 

 名は付けられるまでもなく、決まっていた。

 巴マミの最大の魔法技がティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータであるのならば、佐倉杏子の最大の魔法技は、名付けられるまでもない。

 

「アパシュナウト・トリデンティ! ヴェルシオーネ・イリミタータッ!」

『ダメだ杏子! ワルプルギスの夜を倒してはいけない!』

「黙ってろ!」

 

 刹那、逆さ吊りの魔女の生首が動いた。

 夜宵かおりに落とされ、地をなめていた生首。覆っていた堅氷は夜宵かおりの魔力が散逸したことで溶け落ちていた。

 地に傾いだままの生首の口が開き、漏らす。嗤う声と、焼けつく熱線を。

 熱線が届き、佐倉杏子の左脚を焼いた。ひざに直撃を受け、そこより下が焼け失せた。

 

 左の脚が焼き切れると同時、引き絞られた鉄鎖の弦が放たれた。撃ち放つというよりは、手放すようにして。

 重力を振り切り宇宙に飛び出さんばかりの勢いで、巨大槍が飛んだ、

 射撃によって弦がびぃぃんと鳴る。その振動も収まらぬうちに、巨大槍は対象を貫いた。

 だが、射出の際の僅かな乱れが、飛翔軌道をかすかにずらさせた。

 シャフト状の中央歯車、すなわちワルプルギスの夜の弱点をを射抜くはずだった巨大槍は、軌道をずらして外輪部の巨大歯車を貫いた。

 そして、本来ならばシャフト歯車に突き刺さり爆炸するはずの巨大槍は、外輪部の巨大歯車の薄板では受け止めることができなかった。

 外輪歯車の薄板を貫いて、さらに彼方へと飛んだ。

 彼方へと、飛び去ってしまった。

 そのため、巨大槍の穂先に蓄えた莫大な魔力を敵の内部で爆炸させることはできず、与えたダメージとしては致命には程遠かった。

 

「なら、次だッ!」

 

 次の大身槍を掌中に生み出し、魔力を込めて巨大化させようとするが――。

 生首の放った次の熱線が、彼女のわき腹を焼き、彼女の身体を吹き飛ばして横倒しにした。

 手からこぼれ落ちた槍が、からからと転がる。

 満身創痍――その言葉すら生ぬるい状態の杏子だが、闘志はいささかも衰えていない。這うようにして大身槍を掴む。身体を引きずって鉄鎖の弦まで近づき、大身槍をつがえる。弦を引き絞ろうとする、その時に歯車が動いた。

 

 天地を逆にするように、くるりと回った。

 その動きは、時の砂が落ち切った砂時計を、くるりとひっくり返すようにも見えた。

 そして、その動きの意味を知る杏子が叫ぶ。

 

「逃げんなよ! 待てよてめぇ、あたしかお前か、どっちか死ぬまでやらせろよ! おい!」

 

 遠吠えのように叫ぶその声を、上下反転したワルプルギスの夜は一顧だにしない。

 その代わりに、尋常ではない烈風をもって応えた。

 

 斜め上から吹き下ろされる魔風は、杏子の身体を軽々と持ち上げた。仮に全身に瑕疵がなく万全の状態であっても、抗することはできなかったであろう。

 目に見えぬ風はしかし確かな質量を持って、津波のように杏子の身体を押し流した。

 

 

 

 時間にして三分程度。

 彼女の身体は、数キロメートルを転がり、川の堤に受け止められるかたちで、そこにあった。

 直下で受けた前回と異なり、衝撃は斜め方向に逃がされていた。そのため、烈風により受けた傷は骨折と裂傷程度。

 瞳も無事だった。見上げた景色は抜けるような青空だった。それが、ワルプルギスの夜が既に消えていることを彼女に伝えた。

 

「ちくしょう……」

 

 だらしなく伸びた両の腕、拳を握りしめると、土くれに混じって柔らかいものが触れた。

 見やると、夜宵かおりの身体がそこにあった。

 声をかけようとすると、変化が生じた。

 杏子に見られることを待っていたかのように、見られて満足したかのように、その身体は風化を思わせるように静かに崩壊し、砂粒のかたまりへと変わっていく。

 既に烈風はやみ、そよ風が吹いていた。それにさらわれるように、彼女だった砂粒が少しずつ散っていく。

 

「……お疲れさん」

 

 それだけ呟くと、杏子はゆっくりと瞳を閉じた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 一掴みの彼女だった砂粒を握りしめた佐倉杏子は、夜宵かおりの家の庭にいた。

 亡き骸は庭に置いてほしい、そう言っていた彼女の遺志を汲んでのことだ。

 

「すまねぇな。ハンパにしか約束はたせなくて」

 

 拳を緩めると、掌中にあった砂粒がはらはらと舞い落ちる。

 ゆっくりと時間をかけて彼女だった砂粒を庭に撒き、からっぽになった掌をぎゅっと握りしめる。

 降り始めた雨に、庭に撒かれた砂粒が溶けるように土に馴染んでいった。雨はやがて強くなり、杏子のポニーテールを濡らし、背中に貼り付けるようにしていく。

 

「じゃぁな」

 

 少し寂しそうな口調でつぶやいた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 激しい雨にうたれて杏子が部屋に戻った時、時刻は深夜の二時を過ぎていた。

 杏子は横たわるマミに、ワルプルギスを討伐しそこねたことを謝罪とともに報告する。そしてリビングに腰をおろすと、キュゥべえに語りかけた。彼の姿は見えなかったが、必要なときはどこにいようとも会話が成立することを、彼女は知っていた。

 

「ワルプルギスを倒すなって言ったよな。どういうことだよ」

 

 果たして、キュゥべえの姿がテーブルの対面に現れる。尻尾をひとしきりくねらせると、彼は答えた。 

 

『ワルプルギスの夜の出現規則が分かったんだよ。おそらく、次の出現が最後になる。場所はこの見滝原だ』

「最後って?」

『次の次、を計算したが、結果は先ほどの風見野での出現時間を示している。次の次の次、はその前のドバイでの出現時間――時間が巻き戻っているかのようにね。宇宙の終末論のひとつにビッグクランチというものがあるが、ワルプルギスの夜の出現規則は、ビッグクランチとそれに伴う振動宇宙――宇宙の巻き戻りを示す式と合致していた』

「次はもう逃げない、ってことか?」

『いや、随伴している魔女が出現のたびに減じている、と言ったよね。逆だったんだ。過去に戻るほど増えている、と表現するべきだったんだ』

「……?」

『つまり、ワルプルギスの夜は未来で生まれ、過去に向かっているんだ。そのさなかで倒した魔法少女を随伴する魔女として捕らえ、その数を増やしていた。それがボクたちには、その戦いで命を落とす魔法少女の分だけ、随伴する魔女が減っている、そういう風に見えていたんだ』

「……よく分からねぇけど、それがなんて倒すなってことになるんだ?」

 

 杏子の問いに連ねるように、声がした。

 声だけでなく、ドアが開く音がした。マミの亡き骸を寝かせていた、彼女の部屋のドアが開く音が。

 

「そうよね。魔女は倒すべき存在。それはなにがあっても変わらないわ……つらいけれど」

 

 

 

 

 

 



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第五〇話 マミさんのいた季節

 割れるような頭痛に苛まれて、マミは目を覚ました。

 

 自分の姿を確認すると、レモンイエローの秋ものブラウスにプリーツスカートといういでたちだった。普段着のままで寝ていたと理解するしかないが、それはマミの普段の行動様式から考えるとありえないことだった。

 自分の居場所を確認すると、自室リビングの三角テーブルに下半身をもぐり込ませる形でうつぶせていた。リビングで寝ていたと理解するしかないが、それはマミの普段の行動様式から考えるとありえないことだった。

 

 計算上はマイナスにマイナスを乗じるとプラスになるものだが、ありえないにありえないを乗じてもそうはならない。そして、彼女の視野にはさらにありえないものが転がっていた。

 

 手をつないで眠るふたりの少女。

 ひとりは先日魔法少女になった美樹さやか。もうひとりは魔法少女候補の鹿目まどか。ふたりの後輩が、静かに寝息をたてていた。

 見滝原中学校の制服は多少動いても乱れないつくりになっているのだが、よほど寝相が悪いのか、美樹さやかの制服はひどく乱れ、おへそが覗いていた。

 鹿目まどかは着衣の乱れこそないものの、口元からよだれを垂らしている。

 

 なぜこのふたりが自室で寝ているのか、マミには心当たりがなかった。

 そして心当たりがないのは、彼女たちの存在だけではなかった。

 

 

 無数の皿。

 皿には漏れなく手つかず、あるいは半端に手のついた料理が盛られていた。

 三角テーブルの上だけにとどまらない。床には足の踏み場もなく、家具の上には皿同士がおしくらまんじゅうをしているかのような状態で、そこかしこにと皿が並べられていた。

 皿はマミのものではない。彼女の持つ食器類は総じて上品で控えめなものだが、並んでいる皿は赤や緑の派手な色に彩られ、中華料理店の食器によく見られる稲妻をイメージした雷紋が描かれていた。

 

 

 まどかが起きているのか寝ぼけているのか判断しかねる仕草で腕を伸ばした。そして指先を匙のように使って餡状の料理をすくい、口元に運び、口の中に咥えた。

 割れるような頭痛に苛まれた、生理的肉体的精神的、色々な方面から。

 たしなめないと、と思うものの身体に力が入らず、上半身を起こすことさえできない。

 

 そうこうしていると、まどかが先に身体を起こし、マミのそばに歩いてきた。足の踏み場もなく並べられた皿の間を、彼女専用の足の踏み場があるかのように器用に、軽やかに。

 

「起きました、マミさん?」

「鹿目さん、起きたも何も、なんなの、これ?」

「シャンパン飲み過ぎちゃいました?」

「シャンパンって?」

 

 お互いの語尾に疑問符がつく、頭の悪そうな会話。

 その後に、まどかはマミの頭――ふたつの縦ロールを作るために左右によせられ、つむじがむき出しになったてっぺんの部分――に手を添えて、えいっと魔力を送り込むようにした。

 そんな、おまじないじみた仕草によるものか、マミの頭痛はゆっくりと治まり、かわりに昨日の記憶がクリアになってきた。

 

「思い出しました?」

 

 満面の笑みを浮かべる鹿目まどかの姿が、視界いっぱいにあった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 たぶん、それは昨日の記憶。

 

 

 見滝原のパトロールを終えたマミは、少し重い足取りで自宅のあるマンションへ向かっていた。

 重い足取りの理由は、先日より別行動を取るようになった後輩魔法少女、美樹さやか。

 こちらから歩み寄りたい、歩み寄らなければいけないという思いはあったが、どうするかの結論を得ることができず、彼女の足取りは重いものになっていた。

 遅れて歩くポニーテールの少女も同じ気持ちらしく、無言のままだった。

 

 

 ドアが閉まり、ふたりを乗せたエレベータが上昇を開始する。

 何か話さないと、とは思うが、同行者を不安な気持ちにさせるようなことしか言えない気がして、言葉が詰まる。

 そうこうしているうちに、エレベータが電子音を響かせ、目的のフロアへの到着を告げた。

 

 コントロールパネルのボタンを押して、同行者を先に降ろさせる。続いて、マミも後ろ手に一階のボタンを押しながら降りる。

 エレベータを降りて少し歩く間に、スクールバッグから自宅のカードキーを取り出しておいて、ドアの前に立つと慣れた手つきでカードをスキャンさせる。

 靴を片付け、廊下を歩く、いつも通りの日常。

 いつもと異なったのは、リビングのドアを開けてからだった。

 

 

 

「マミさん、これ作り過ぎじゃないの?」

 

 同行者が、リビング一杯に広がる料理の山を認めて、呆れたような声で言った。

 

「わ、私、今日はまだご飯作ってないわよ。杏子ちゃんずっと一緒にいたんだから分かってるでしょう?」

「でも、マミさん以外に料理作らないよね」

「私じゃありません! そもそも、私はカーペットの上にじかにお料理置いたりしません!」

「確かに、この行儀の悪さはあたしでも引くわ……」

「えぇ、ちょっとひどいわね……って、そうじゃなくって。キュゥべえ、こんなとんでもないことはあなたの仕業でしょう? 出てらっしゃい」

 

 リビングと廊下を分かつ敷居の前で立ち尽くしたまま、マミがインキュベーターの名を呼ばわる。足の踏み場もろくに見つからず、リビングに立ち入れない状態だ。無理に入ればどうなるか、少し想像してマミは背筋をぶるっとさせた。

 

『ご明察だよ、マミ。だが、ボクから説明するのはどうだろね。もうすぐ本人たちが来るから、直接聞くといい』

 

 いつものように前触れなくマミの足元に現れた白いいきものが、鷹揚な態度でテレパシーを返す。

 しかし返された方の精神は、その鷹揚さに神経を刺激される状態にあった。片膝を崩してしゃがみこむと、両の手で彼の耳から伸びる左右の触腕をそれぞれに掴む。

 そして、両の手を左右に大きく広げた。

 

「ご託はいいから説明なさい」

『マミ! 耳ちぎれるよマミ!』

「あら、これ耳なのね。じゃぁ片方あればなんとかなるわよね?」

『今日のマミ怖いよ。いつもみたいに笑ってマミ。ほら、にっこにっこにー』

「よく考えたら、耳なんて両方なくても生きていけるわね」

『マミィィィ!』

 

 キュゥべえらしくない反応だな、とマミは思ったが、それ以上思考することはなかった。来客を示すインターホンが鳴ったからだ。

 しょうがない、といった感じで触腕から手を離して立ち上がる。インターホンに応答するならリビングだが、そちらにはおいそれとは入れないので玄関に向かった。

 

「はーい」

 

 と応えてドアを開けかけて、あっと振り返り同居人に目線で「リビングのドアを閉めて」と促す。そして、ドアが閉まりリビングの惨状が玄関から見えなくなったことに安堵して、玄関のドアを開いた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 訪問者は、鹿目まどかと美樹さやかのふたりだった。

 美樹さやかはこれまでのいきさつもあってかバツの悪そうな顔をしている。一方の鹿目まどかは悩みなど何もなさそうな満面の笑みを浮かべていた。

 明るい表情をそのまま言語化したような声で、まどかが言った。

 

「こんにちは、マミさん!」

「え、えぇ。こんにちは鹿目さん。どうかしたの?」

「晩ご飯を食べにきました!」

「何を言ってるの?」

「えっと、夕飯を頂きにあがりました!」

「別に丁寧に言いなさいって意味じゃないわよ?」

 

 少し口調に険があると自覚したマミは、意識して頬をゆるめると明るい声を出す。

 

「ごめんなさい、ちょっとゴチャゴチャがあって……少し言葉がきつかったかも」

「ゴチャゴチャ、ですか?」

「えぇ、帰ったら部屋にお料理がいっぱいで。って、これじゃ意味わからないわよね」

「いえ、わかります。わたしの奇跡ですから」

「奇跡?」

「はい」

 

 まどかは笑みをいささかも翳らさずに返す。

 そして明敏な頭脳でおおよそのあらましを推察したマミは、キュゥべえにしたようにまどかの両耳を引っ張ろうかしら、と一瞬だけ思った。

 もちろんそんな思案は実行には移さない。マミはちょっとだけ頬がひきつる感覚をおぼえながら、上級生の声で応える。

 

「くわしく教えてもらっていいかしら」

「はい、もちろんです。あがってもいいですか?」

「あ、そうね。ただ、部屋には入れないと思うけど……」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 廊下で立ったまま説明を聞いていたポニーテールの少女が、興奮した馬のようにそれを揺らした。そして、その興奮がそのまま乗ったような口調で吐き捨てた。

 

「マジかよ。バカだバカだとは思ってたけどここまでとは」

「ひっどーい。さやかちゃんと同じこと言ってるー」

「ちょ、ちょっと私もフォローが思いつかないんだけど……」

「マミさんまで?! さやかちゃんとみんなの仲直りのきっかけを作って誉められるかと思ったら、まさかの総ツッコミが……」

 

 芝居がかった仕草でふらふらとよろめき、廊下の壁にトン、とあたる。そのまま膝を崩して座り込もうとしたところで、マミが彼女を支えた。

 

 影の魔女の結界の中、美樹さやかの自暴自棄と思える戦いを見るに耐えかね、鹿目まどかは契約したという。

 その際に、契約の願いが定まっておらず、まぁいいや的に満漢全席を祈り、そんなものが自宅に出現したら一大事だからと、出現場所をマミの部屋に指定したとのことだった。

 

 バカだとは思っていたけどここまでだとは、とはふたりの魔法少女が異口同音に唱えたことだが、マミは少し異なる。マミの場合は「バカとは思ってもいなかったけど、ほんとはバカだったのね」となる。しかし追い打ちをかけるようなことは本意ではなく、心の裡にとどめておくことにした。

 

「まぁ……それについてはお礼を言うわ。ありがとう、鹿目さん」

「えへへ、どういたしまして。じゃぁ、みんなで食べちゃいましょう!」

 

 ――満漢全席ねぇ。祁門なら中華料理にも合うかしら……?

 

 頭の中で手持ち茶葉の相性を考えていたマミの思考を先回りしたように、まどかが言う。やはり、どこまでも明るく。

 

「飲み物もいっしょにお願いしたんで大丈夫ですよ、マミさん!」

「あー、マミさん、こいつシャンパンって頼んでたから、ふつうのお茶も淹れてもらった方がいいかもですよ」

 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「思い出しました?」

 

 思い出したというより、新たに体験したような鮮明さを感じた。その感覚に少し疑問を覚えつつも、マミは小さく頷く。うつぶせたままの首肯なので、あごがリビングの床をコツンと叩いた。

 

「でも、お料理は昨日みんなで片付けたような気がするのだけれど」

「満漢全席ですから、食べた分だけ追加が出てきているのかも?」

「それは勘弁してほしいわ……」

「さ、起きてください、マミさん。残り、食べちゃいましょ」

「私ってね、けっこうご飯を楽しく頂く方だと思っていたのだけれど、思い上がりだったわ……」

 

 昨日どれほどの量を食べたのかは、ずっしりとした胃の重みが強く主張していた。今日は一日なにも口にしないでも大丈夫じゃないかと思えるのだが、ざっと見た感じ、昨日と同じくらいの料理がリビングに満ちみちている。

 これはもう食事ではなく拷問ではないかと眩暈をおぼえつつ、マミは上半身を起こした。

 

「あ、それよりあなたたち、昨日うちに泊まるってこと、ご家族に連絡はしているの?」

「はい、この週末はマミさんに勉強を教えてもらうから合宿だーって言ってます」

「みぎにおなじー」

 

 へそを覗かせたままのさやかが、寝返りをひとつうってから片手を挙げた。

 

「そういえば、杏子ちゃんは?」

「あ……杏子ちゃんなら、あっち」

 

 まどかが指差す方を見ると、中華皿に埋もれるようにして眠る少女の姿が――正確には、林立する皿の中からポニーテールの髪だけだが――が見えた。こちらはまだ眠っているようで、反応は返さない。

 

 ――さっきお部屋見渡した時、杏子ちゃんいたかしら……。

 

 とはいえ、うつぶせたままの姿勢で、首もろくに動かせず視線を巡らせただけ。見落としていたのだろうと納得する。

 

「さ、食べましょう、マミさん!」

「寝起きでそれはちょっと……」

「そんな甘いこと言ってると、この週末で片付きませんよ!」

「張本人は鹿目さんよね?」

「犯人探しをしてる場合じゃありません!」

 

 それ以上の反論が面倒になったことと、結局は食べ尽くさないと自分のライフスペースが正常に使えないことから、マミは小さく溜め息をついた後に、「はい」と応えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 二八時間が経過した。一昼夜が経過した、と表現してもいい。

 もちろんずっと食べ続けていたわけではなく、料理に汚染されていないマミの寝室でゲームに興じたり、勉強をしたり、眠ったり、それとパトロールに出たりといったことを行いながら過ごした。

 さておき、今はリビングにいた。リビングの三角テーブルには、大皿がひとつだけ。大皿をマミ、まどか、さやかの三人で囲み、時間が止まったかのように固まっていた。

 

「美樹さん、すこし食が進んでないみたいね。最後のお皿、どうぞ」

「いや、なんでですかマミさん。進んでないんだから勧めないでくださいよ」

「ダメだよ、さやかちゃん、ひとりだけ楽しようだなんて」

「楽してないしー! 豹の赤ちゃんあたしひとりで食べたじゃん!」

「ごめん……満漢全席ってこんなゲテモノだなんて知らなかったから」

「ゲテモノといってしまうのもどうかと思うけど、せめて、知らなければ気にせずに食べれたかもしれないのに。ねぇ、キュゥべえ?」

 

 マミが何度目かの触腕ひっぱりで白いいきものを責める。

 いちいち食べる前に、その皿は豹の赤ちゃんだ、その皿は猿の脳みそだ、その皿はオランウータンの唇だと、しなくていい解説を加えてきたいきものは、責められても悪びれる風もなかった。触腕のことで悲鳴をあげていないのは、彼が痛みに慣れたのか、マミが力加減に慣れたのか。

 

『最初に聞いたのはキミたちじゃないか、得体が知れないと食べづらいからって』

「最初に聞いたのって、さやかちゃんだよね?」

「だからなんなのよ」

「最初に聞いたのって、美樹さんよね?」

「だからなんなんですか!」

 

 親友の問いにはくぐもった不愉快そうな声で応えていたさやかが、マミの問いには悲鳴のような叫びをもって応える。立ち上がらんばかりの勢いの彼女をどうどうと制すると、まどかはにっこりと微笑んだ。

 

「さやかちゃん、覚悟を決めよう?」

『犀尾、サイのペニスは淡泊で美味しいとボクの知識にはあるよ。さっさと食べたらどうだい。……あっ、マミやめて、ほんとうにちぎれる』

 

 よく焼けたお餅のように、触腕がにゅいーんと伸びた。もちろん勝手に伸びたわけではなく、マミが力を加減することを放棄したからだ。

 

「あーっ、もう、食べればいいんでしょ食べれば! わかった、わかりました、汚れ役はあたしが引き受けますよーっだ!」

「わかればいいんだよ、さやかちゃん!」

「あんた、その言い草はないんじゃない?」

「美樹さん、あなたひとりに辛い思いはさせないわ。私もひとかけだけ頂いちゃう」

「マミさんも、ひとかけだなんて遠慮せず半分いっちゃってくださいよ!」

『しょうがないな。ボクが食べてあげようかい?』

 

 ひょいと立ち上がると、マミの膝に近寄る。近寄ることで伸びていた触腕がだるんとたるんだ。

 マミの膝に座り、水に濡れた猫のように顔を左右に振ると、掃除機の電源コードが引き込まれるような動きで触腕が収納され、本来の長さになる。

 

「ほんとに大丈夫、キュゥべえ、無理しないでいいのよ?」

「ダメですよマミさん、そんな逃げ道を与えるようなこと言っちゃ! キュゥべえは一度言ったことはやる男です! な、吐いた唾飲まないよな、キュゥべえ!」

「美樹さん、落ち着いて?」

『キミたちは、痛覚制御の応用で味覚制御もできるはずだよ。どうしてそんなに嫌がるんだい?』

「味の問題じゃないのよ、キュゥべえ……」

『じゃぁなんの問題だい、マミ?』

「分かって聞いてるでしょ、キュゥべえ」

 

 収納された触腕が再び引き出され、「痛い痛い」と悲鳴があがる。

 それを聞き、鈴を転がすように笑うマミ。彼女の意識からは、魔法で消されたかのように佐倉杏子の記憶は失われていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 週末が終わり、平日が始まった。

 朝起きたら、白い同居人に「おはよう」と告げる。朝食とお弁当を作り、身だしなみを整え、朝食をとり、見滝原中学校の制服に袖を通し、星占いを確認する。

 袖を通すとき、数ヶ月ぶりのことのように感じて、ずいぶん久しぶりだなぁとマミは思った。そして「週末はさんだくらいで大げさだわ。でも、週末いろいろとすごかったし、しょうがない、かな」と楽しかった週末を思い出して笑った。

 学校に行き授業を受け、放課後に街中をパトロールして巡り、帰宅して三人でささやかなティーパーティをし、そして眠る。

 

 そんな平日を繰り返した。

 一〇日、三〇日と繰り返した。

 それはすぐに日常となった。

 ひとりで目覚め、ひとりで眠る日常だったが、後輩のふたりと密に過ごす日々は、彼女に寂寥を感じさせることはなかった。

 

 魔女との邂逅は、ほとんどなかった。

 グリーフシードの入手もほとんどないことになるが、ソウルジェムは濁りを見せることはなく、問題にはならなかった。

 平穏な日常だった。

 あるとき、マミは柔らかい色のパジャマを着て、枕を抱きしめて言った。

 

「キュゥべえ、魔法少女ってけっこう幸せな生き方なのかもね」

 

 それを聞くいきものは、テレパシーで返すことはなく、尻尾をくねらせて応えた。その仕草は当たり前のことを言うなとたしなめているのか、寝惚けたことを言うなと嘲っているのか。少なくとも、マミには前者の意味しか思い至らなかった。

 

 

 

 

 

 そして、今日、マミは委員長の魔女と対峙していた。

 学校の帰り、まどか、さやかとパトロールをしていたマミは委員長の魔女の結界を見つけ、三人で中に入った。

 大空に蜘蛛の巣状に編まれたロープ。ロープにはセーラー服のブラウスが、万国旗よろしく鈴なりになっている。まるで合宿中の学生が洗濯物を干しているような、牧歌的にも見える光景。

 

 地上からロープを駆け上がりながら、風で揺れる髪を押さえてマミが声をあげる。声量は大きいものの、叫ぶような粗野な印象は全く与えない澄んだ声で。

 

「私と鹿目さんがフォローするわ、美樹さん、突撃をお願いね。あなたひとりに前線を任せるのは心苦しいけれど」

「いえいえ、平気ですってー。むしろひとりの方が、伸びのびやれますって」

 

 ロープは細い。もしカブトムシがロープをつたって歩くなら、上り下りですれ違うことさえできないほどに。

 その細さをものともせず、よく整備されたトラックを走るように軽やかに駆けるさやかは、片手をひらひらとさせて返した。受けたマミが戦闘中にもかかわらず微笑みを漏らすような、おどけた調子だった。

 

「ふふ、そうね。杏子ちゃんがいると、手柄の取り合いになっちゃうものね」

 

 自らの言葉に違和感をおぼえ、「あれ?」とマミが呟く。即座、マミの思考を遮るようにさやかが声を荒げた。

 

「ではではっ、突撃しますっ!」

「フォローは任せてっ、さやかちゃん!」

「そうねっ、フォローするわ!」

 

 応えるまどかの語勢に押されるように、マミも大きめの声を出した。そしてその声に応えるように、仏像の後光よろしくマスケットが彼女の後背に立ち並ぶ。

 

「パロットラ・マギカ・エドゥ・インフィニータ!」

 

 ヘカトンケイルが百本の腕を自在に蠢かせるがごとく、白銀色のマスケットが無軌道に動く。全てのマスケットに共通することはただひとつ、射線の先に使い魔の姿を捉えていることだけだ。

 ぱんぱんぱん、と軽やかで間延びした炸裂音を響かせ、無限の魔弾が射出される。全ての魔弾に共通することは、やはりただひとつ――。

 さやかを襲わんとしていた使い魔たちが、そこかしこで花火のように爆ぜ散った。

 

「うひゃー、すっごいですねぇ、マミさんのインフィニータ」

「美樹さん、油断しないで。魔女のスカートの中に新手がいるわよ!」

「大丈夫ですよー、そこまで深入りしませんからー」

 

 駆けながら、さやかがサーベルを肩の高さに、水平に寝かせて構える。そして左手をサーベルの腹に添えるようにあてがい、左手の指とサーベルの切っ先を照門と照星のかわりにして、委員長の魔女のスカートの奥深くに照準を定める。走ることによる振動を腕を上下させることで打ち消し、継続して照準を合わせ続ける。

 委員長の魔女を指呼の間に捉える。サーベル部を撃ち出してトドメを刺すに充分な距離に。

 発声はなく、短い呼気のみを印として、さやかがトリガーをひく。

 装飾過多な護拳を手元に置き去りにし、刃の部分が飛翔する。

 湾曲した刃、飛行に不向きなウェイトバランス、そういった物理的な事実を魔法でねじまげ、サーベルは大気をつんざいて一直線に駆け抜けた。駆け抜けた先にあったのは、スカートの奥に秘められた委員長の魔女の弱点だった。

 

 さくりと、静かな音がした。

 それはサーベルが、魔女の体躯を貫いた音。魔女の息の根を止めた音。

 間を置かずして、結界が崩壊を始めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「やりましたよ、マミさーん!」

 

 快哉をあげて、さやかがマミの胸に飛びついてきた。

 

「やりましたね、マミさん!」

 

 まどかは、背後から飛びついてきた。

 園児に懐かれる保母のような光景だった。マミの頬が緩む――その温かさにほだされ、先ほどおぼえた違和感が、雪が融けていくように小さくなろうとする。

 あるいは、杏子のこと以外の違和感であれば、そのまま融け消えてしまっていたかもしれない。

 

「よく頑張ったわね、美樹さん」

 

 優しく微笑み、美樹さやかを、そして鹿目まどかをゆっくりと身体から引きはがして、彼女たちに言うというよりは、独りごちるように言葉を漏らした。

 

「でも、おかしいわ。杏子ちゃんがいないもの……」

 

 さやかが目配せをした。それを受けて、まどかはかぶりを振る。言葉はなくとも、まどかにはさやかの言いたいことは分かったし、さやかにはまどかの考えが理解できた。

 

「そうですね……ちょうどいいタイミングです。そろそろ楽しい時間もおしまい、かな。全部お話ししますね」

 

 先ほどまでのひとつ年下の後輩のオーラではなく、気圧されるようなオーラをマミは感じた。しかし、後ずさる必要はなかった。なぜなら彼女の感じたオーラは禍々しいものではなく、神聖で気高いものと思えたから。

 マミが口を開く。全部をおうむ返しにしたいところだったが、とりあえず最初の部分を。

 

「ちょうどいいタイミング?」

「はい。もうすぐ、マミさんの帰る場所ができますから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五一話 マミさんの帰還

「ここは、わたしの結界です」

 

 少しだけ言いにくそうに、しかし屈託なく、まどかは言った。そして両手を伸ばしてマミの頭ごと抱き締めるようにした。

 手のひらを広げて、マミのつむじに添える。

 触れられている部分に穏やかな熱が生じ、全身に沁み入るように行き渡る。それにつれて、マミは記憶を取り戻していった。いや、過去の記憶のみならずマミが現実世界を離れていた間の出来事も、体験したかのように彼女の記憶に刻まれていった。

 

「マミさんはソウルジェムを砕いて……」

 

 先ほどよりも言いにくそうに。実際に言いにくいのだろう、立ち消えるように語尾が小さくなっていった。

 

「……でも、私、少しだけ未来を見ることができるんです。私が見た未来では、マミさんのソウルジェムは復活します。だけど、それはマミさんが亡くなってからずいぶん後のことでした。魂の居場所であるソウルジェムを失ったマミさんの魂は、ソウルジェムの復活を待たずに天に召されちゃいます。だから、ソウルジェムがよみがえっても、そこに既にマミさんの魂はなくって……」

 

 一方のマミは、与えられた記憶を整理するかのように、瞳を閉じて集中していた。

 確かに自身の体験として記憶が刻まれているのだが、それが今自分自身が持つ意識と充分につながっておらず、全てがデジャブを見ているような気分がした。今の意識は、まどかの結界の中で暮らしていたマミが主となっているため、記憶との間に齟齬が発生している。

 

「そこで、しばらくマミさんの魂をわたしの結界に捕らえさせてもらいました。だますようなことをしてごめんなさい」

「今まで見ていた……感じていたのは、鹿目さんが作った記憶?」

「作ったっていうのとはすこし違います。これは、わたしたちが辿ったかもしれなかった記憶、そして、次に辿るかもしれない記憶。ううん、たぶん辿ることになる記憶。ほら、わたし未来を見ることができますから」

 

 まどかの言うことを完全に理解できたわけではなかった。特に最後に言ったことは、概念的な話なのか、それとも何かの喩えなのか、そういったものであり、あまり正確に理解する必要はない部分だろうとマミは受け取った。

 

「その、鹿目さんが言わんとしていることはおおよそ理解できた、と思うわ。でも、どうして? 私は、あなたたちに結局なにもしてあげられなかったし、それに……あなたは魔女なのに」

「なにもしてくれなかった、なんてことはないです。それだけじゃありません、マミさんはわたしたちの希望なんです」

 

 まどかの衣裳も、横に立つさやかの衣裳も、魔法少女のものではなく普段のものへと変わる。

 そして、立っている場所も、先ほどまでの結界跡である繁華街の路地ではなく、マミのリビングへと変わっていた。

 

「わたし、未来が見えるって言いましたよね。だから、分かるんです。近い将来、マミさんはわたしもさやかちゃんも救ってくれるんです。でも、その時わたしたちは、もうお礼を言うことはできないから……。今、伝えますね。ありがとうございます、マミさん」

 

 まどかが頭を下げた。

 そして、しばらくは思案するように黙り込んだマミを優しく見つめていたが、ふっと口を開く。

 

「あっ、言い忘れてました。気をつけてくださいね、マミさん。マミさんの力は、たぶんわたしの影響でとても強くなっちゃっています。だから、今まで通りに魔法を使うと、魔力がもたないかもしれないです」

「魔力が?」

「はい、わたしはそれで一瞬で魔力を使い切って、魔女になってしまいましたから……。できるだけ、力を小出しにしてください。蛇口で、水をちょろちょろ出す感じで、といえば伝わるかな?」

 

 魔女であることを感じさせない庶民的な喩えに、マミの口元が緩んだ。そして、彼女の使命感とささやかな悪戯心が、小さな微笑をともなった問いをなす。

 

「あなたを倒せるほどに?」

「そうですね。いまのマミさんなら、きっと、わたしを含めて、どんな悪い魔女だって倒せちゃいます。マミさん、倒してくれますか?」

「私は魔法少女よ。ひとに仇なす魔女を倒すのが私の使命。あなたは……そうじゃないわ。あなたは優しい魔女だもの」

「ありがとうございます」

 

 巴マミは自覚こそしていなかったが、これまでも鹿目まどか、すなわち微睡みの魔女との戦いを避けようとしていた。勝てるか勝てないか分からない、そういう意味で避けていると彼女自身は思っていたが、実際のところは勝てるか勝てないか思考することをせず、盲目的に「勝てるはずがない」と断定していた。

 そして、倒すに足る力があると認められたことで、マミは自覚した。

 戦うべきでない、戦ってはいけないと言ってきたが、本音は戦いたくない、であると。

 

「……でも、魔女はやっぱりいちゃいけないと思います、マミさん」

 

 寂しく微笑む。

 マミが言葉を選ぶように黙りこくっていると、まどかがマミの背後に回りこんだ。部屋の出口に向かって、マミの背中を押す。

 

「さ、行ってください、マミさん。もうソウルジェムはマミさんの部屋にあります。杏子ちゃんが待ってますよ」

「あ、うん、また会いましょう、鹿目さん、美樹さん」

「はい、ぜひ」

 

 部屋の出口、敷居を一歩踏み越えると、マミの意識が溶けるように薄くなり、そして消えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「ワルプルギスを倒すなって言ったよな。どういうことだよ」

 

 ドアを隔てたリビングから、杏子の声が聞こえた。外は風雨が激しいのか、雨が窓を叩く音と窓が風にきしむ音が激しかったが、杏子の声は明瞭に聞こえた。

 主観においても客観においても、ずいぶんと久しぶりに聞く声だった。喜びと悔恨でマミの胸がかぁっと熱くなる。すぐにでも飛び起きて駆け付けたかったが、まだソウルジェムに馴染んでいないのか、身体が思うように動かせない。

 

『ワルプルギスの夜の出現規則が分かったんだよ。おそらく、次の出現が最後になる。場所はこの見滝原だ』

「最後って?」

『次の次、を計算したが、結果は先ほどの風見野での出現時間を示している。次の次の次、はその前のドバイでの出現時間――時間が巻き戻っているかのようにね。宇宙の終末論のひとつにビッグクランチというものがあるが、ワルプルギスの夜の出現規則はビッグクランチとそれに伴う振動宇宙――宇宙の巻き戻りを示す式と合致していた』

 

 振動宇宙、という言葉に聞き覚えがあった。記憶を紐解くと、友人のリンリンが楽しそうに語っていたことを思い出す。曰く、宇宙は限界まで膨張すると収縮に転じ、限界まで収縮すると膨張に転じて、何度も繰り返している。今の宇宙は五〇回目の宇宙で、私たちには四九回の前世がある――だったか。前世について光の戦士だとか月の王宮だとか熱っぽく語っていたが、そこは聞き流したのであまり覚えていない。

 

 ――キュゥべえが言うものとは言葉が同じだけで、たぶんだいぶオカルトに偏ってるんだろうけど。

 

 くすりと笑う。笑うことができる程度には身体が馴染んできていた。試みると拳に力を込めることも、足を動かすこともできた。

 マミはベッドからゆっくりと下り、ドアへ向けて歩いた。

 

「次はもう逃げない、ってことか?」

『いや、随伴している魔女が出現のたびに減じている、と言ったよね。逆だったんだ。過去に戻るほど増えている、と表現するべきだったんだ』

「……?」

『つまり、ワルプルギスの夜は未来で生まれ、過去に向かっているんだ。そのさなかで倒した魔法少女を随伴する魔女として捕らえ、その数を増やしていた。それがボクたちには、その戦いで命を落とす魔法少女の分だけ、随伴する魔女が減っている、そういう風に見えていたんだ』

「……よく分からねぇけど、それがなんて倒すなってことになるんだ?」

 

 魔女を倒すな、とキュゥべえが示唆するからには、なんらかの理由があるのだろう。おそらくはインキュベーターの利益に直結する利己的な理由が。

 魔女を倒さない、という選択肢にもし正当な理由が与えられるのならば、とマミはわずかに思った。それは彼女の思考の裡に、倒したくない魔女が存在したからだが、彼女は首を振ってその考えを追い払った。

 そして、ドアを開け、自らに言い聞かせるようにして言った。

 

「そうよね。魔女は倒すべき存在。それはなにがあっても変わらないわ……つらいけれど」

 

 

 

 

 

 

 

 マミを視覚情報および聴覚情報として認めた杏子は、まずそれを自らが創り出したファンタズマではないかと疑った。

 歩み寄り、触覚情報として確認する。肩を、頭を、腰をと、最初は遠慮がちに、やがて力強く撫でさする。

 されるがままにしていたマミだったが、杏子の手が乳房を揉みしだくに至って、彼女の頭を軽くチョップした。

 チョップでひるませてからのコンボ、といったかたちで杏子を抱き締め、ぼそりとつぶやく。

 

「ごめんね」

 

 返事ができないくらいに、強く抱き締めた。

 理解がおいついていないのか、杏子は抱き締め返すでもなく、言葉を紡ぐでもなく、呆けたようにしていた。

 マミもなんと話せば――いや、謝れば良いか思案が定まらず、口をつぐむ。激しい雨が窓を叩く音だけが部屋に満ちた。ふたりは、キュゥべえが語りかけるまでそのままだった。

 

『マミ、キミの魂はとうに霧散していたはずだよ。どうやって今この場に現れたんだい?』

 

 ちら、と視線を落とす。見上げるキュゥべえと目が合うが、さして感慨を持つことはなく、静かな声で応えた。

 

「助けてもらったのよ、鹿目さんに」

『まどか? あの微睡みの魔女のことかい?』

「そう、そうね。その鹿目さんよ。微睡みの魔女というよりは、狸寝入りの魔女だけどね」

『ワケがわからない。魔女にキミを助ける道理はない、そもそも魔女にそんな自我も自由意志もないだろう』

「じゃぁ、夢を見ていたのかもね」

 

 まともに取り合うつもりもない。そんなマミの気持ちが透けて見える態度だったが、キュゥべえは鼻白むこともなく、飄々として言った。

 

『話を戻そう。ワルプルギスの夜を倒さないでおくべきだということについて』

 

 理由はどうあれ、マミが生きているという事実はキュゥべえにとっても悪くはないことだ。いずれは魔女となってくれるかもしれないし、また近視眼的に見ても、杏子を説得する材料が増えたと言える。

 

「……そうね。杏子ちゃん、座りましょうか」

 

 こくりと小さく頷き、しかし離れようとしない杏子に、マミの慙愧の念はいや増したのだった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『タイムパラドックスという言葉は聞いたことがあるかい?』

 

 並んで座るマミと杏子の対面に座したキュゥべえが問いかける。そしてきょとんとしたふたりの表情を返事と判断したのか、そのまま続ける。

 

『簡単に言うと、過去であったはずの出来事が改変されることで、現在との間に矛盾が生じることだ。ボクたちの知る限り、そういった場合は矛盾を修正するために世界の改変が発生する』

「世界を改変するって、どういうこと?」

『変えられた過去に合わせて、現在が変わってしまうということだね。本来ワルプルギスの夜は、二年前の秋に鹿目まどかによって倒された。それが今倒されてしまえば、二年前の秋までワルプルギスの夜が時間を遡って辿りつくことはできなくなる。つまり、二年前に見滝原にワルプルギスの夜が現れたという過去はなかったことになってしまう。それだけではないね、この一年にあった出来事もなかったことになる。そうするとどうなるだろうか。今ボクたちがいる現在は、異なったものになってしまうだろう』

「それは、過去のワルプルギスの被害がなくなる、ということ? 良いこととしか思えないけれど」

 

 そもそも、見滝原にワルプルギスの夜が出現するというなら、戦う以外の選択肢はマミにはない。魔女は倒すべき存在というだけではなく、先の風見野であったようなワルプルギスの夜の消失時――キュゥべえの言を信じれば時間遡行時――に発生する大災害を座して待つなど論外に過ぎるから。

 一方のキュゥべえとしては、なんとか倒させないように誘導したいと考えていた。

 

 ――彼女たちをどうにかして翻意させられないものか。もしも鹿目まどかが魔女となった過去がなくなったとしたら――それは宇宙的な損失だ。

 

『だが、過去が変われば今がどう変わるか分からない。マミと杏子がこうして肩を並べて戦うことなどできない今に変わってしまうかもしれないよ』

「それはおかしいわ。私と杏子ちゃんが出会ったのはワルプルギスが見滝原に現れる一年も前よ。キュゥべえの言うタイムパラドックスが起こったとしても、それより過去は変わらないでしょう?」

『それは分からない。時間を大河のようなものとすれば、タイムパラドックスはそこに投げ込まれた石だ。生じた波紋はそのタイミング以降にしか波及しないというわけではなく、それ以前にも影響を与えるだろう。ましてや数百人規模の死者を出したワルプルギスの夜だ、小石ではなく大きな岩が投げ込まれるに等しいだろうね。杏子、経緯はどうあれキミはいまマミとともにいる。この事実を失いたくはないだろう?』

 

 会話はマミに任せ、マミの横で静かにしていた杏子が笑った。嘲りに近い感じで笑うと、キュゥべえに言い返す。

 

「バカいってんじゃねーよ。過去がどう変わろうが、あたしとマミさんは一緒に決まってんだろ」

「そうね。もしも、私たちの出会いがすこし変わったとしても、最終的には家族になれるって、私は信じてるわ」

 

 ダメか、とキュゥべえは思った。彼女たちに、タイムパラドックスによって引き起こされる世界の改変がいかに大きいものか解説したところで、翻意を促すことができるとは思えないし、そもそもこの調子では理解もできないだろう。知らず、尻尾がへたり込むように床に伸びる。

 

 ――いや、次のワルプルギスの夜の滞在時間は三分。それを伏せておけば大丈夫だろう。

 

 そう考えてへたり込んだ尻尾が持ち上がり、ろうそくの炎が揺れるようにくねる。

 出現規則を識るにあたって、彼はワルプルギスの夜が顕現してから時間遡行を行うまでの猶予時間についても法則性を識っていた。それによれば、次の、最後のワルプルギスの夜は、顕現からわずか三分で時間遡行を行う。

 事前にそう分かっているならともかく、知らなければそのような短時間で倒せるものではない。

 

『そうか。まぁ、どちらが倒すかはよくよく考えた方がいいよ。ボクたちが持つ知識によると、タイムパラドックスのひきがねを引いた者だけが、改変前の世界の記憶を引き継ぐらしいからね』

 

 加えて、少しでもかく乱になればと情報を出す。情報自体はキュゥべえたちの共有知識にあるものなので、正確なものではあるはずだ。

 

「そのひとり以外は忘れてしまうのね……」

「ひとりだけ、覚えちまうのか……」

『そういうことだね。ふたりでよく相談することだ』

「ワルプルギスの夜の、次の出現時刻は?」

『最後のワルプルギスの夜……いや、今までの過去で発生したワルプルギスの夜の根源とでもいうべきもの。伝承に倣えば、ワルプルギスの夜の到来を祝い、前夜に煌々とした炎を焚くという。ワルプルギスの夜を迎える暁に燃え上がる炎の名を借りて、バリティニの焔と呼ぶべきだろうね。そいつは今日の朝六時すぎに現れる。もう三時間もないね』

「教えてくれてありがとうね、キュゥべえ。杏子ちゃん、魔力は大丈夫?」

 

 杏子はニッと笑うと、ソウルジェムを持ち上げて見せた。鮮やかなクリムゾンレッドに輝くソウルジェムを。

 マミも自らのソウルジェムを取り出し、乾杯するようにコツンと合わせる。

 

「三時間……、眠るわけにはいかないわよね。お菓子でも作りましょうか」

「あたしも手伝うよ。けっこう上達したから」

「あら、それは楽しみね」

『ボクはいったんお暇するよ。では、三時間後にまた会おう』

 

 

 

 

 キッチンでお菓子作りをしていても、窓が雨に叩かれる音と、風に揺さぶられる音は届いた。

 一年半前の見滝原でのワルプルギスの夜出現時と比べても、半年ほど前の風見野での出現時と比べても、風雨は激しい。その激しさは、次に現れるワルプルギスの夜――キュゥべえの言を借りればバリティニの焔の強さを表しているのだろう。

 しかし、その音を聞くふたりには怯えも不安もなかった。

 

「すごい雨風だね」

「そうね。こんな時間だとみんなの避難も充分にできないし、なんとしても倒さないとね」

「もちろん。任せて、戦いの腕も上達してるから」

「ふふ、お料理もずいぶん上手になってるし、期待できそうね」

 

 お菓子作り自体を練習していたわけではないのだが、普段の料理を行うことで手際が格段に上達していた。そのおかげで、簡単な指示で適切に動いてくれる。マミの贔屓目で見れば、もう自分と遜色ないレベルで動けているように思えた。

 それを嬉しいと思う反面、それほど上達するだけの期間を彼女ひとりで辛い思いをさせたのかと胸が痛む。

 かすかに翳るマミの表情を横目に、杏子がことさらに明るい声で「おいしい」とつまみ食いを働いた。杏子の目論見通りにマミの表情が柔らかくなり、作りかけのお菓子をひとかけ、口に運んだ。

 

「ほんと、美味しいわね」

「……キュゥべえの言ってたことだけどさ。その、倒した人だけが、記憶を持つって」

「ふたりで倒せば、どうかしら」

「ふたりで?」

「えぇ。私がリボンで大砲をつくって、そこから杏子ちゃんの槍を撃ち出して倒すの。これならふたりで倒したことにならないかしら」

「そう……かもね」

 

 応えながらも、杏子はそうはならない気がしていた。

 マミの大砲で撃ち出したにせよ、バリティニの焔を直接的に倒すのは杏子の大身槍。であれば、杏子が倒したことになってしまうのではないだろうか。

 それでもいい、と杏子は考えた。

 世界がどう改変されるにせよ、改変される前の記憶をひとり覚えているということは、とても辛いことだと思ったからだ。辛いことであるならば、自分が受け持てばいいと、そう考えた。

 

「きっとそうだね、そうしよう」

「えぇ、そうしましょう」

 

 そしてマミは真逆のことを考えていた。

 記憶を失ってしまうことこそが辛いことと思い、そちらを自分が受け持てばいい、と。

 

 

 

 

 そうこうしているうちに、色とりどりのお菓子が焼き上がる。

 半ばお菓子作りのレクチャーをしながらであったため、普段より時間がかかり、紅茶含めてすべてがリビングのテーブルに並べられる頃には、時計は五時を刻もうとしていた。

 日の出の時刻は過ぎていたが、分厚い黒雲とそれがもたらす篠突く雨のため、外は暁闇にさえ至っていない。

 マミの許可を得て杏子がつけたテレビが、見滝原に避難警告が発令されたことを伝える。

 

「キュゥべえの言った通りっぽいね」

「あと一時間ね。ゆっくり頂いて、それから出かけましょう。たぶん、あの橋よね」

「一昨年の秋に現れたのはそこだし、そうじゃないかなぁ」

 

 テレビモニターに映る映像は 見滝原各所にいくつか設けられた定点カメラの映像を数十秒単位で切り替えている。どこも天の底が破れたような大雨が大地を叩き、ソフトボールほどもあるミルククラウンを咲かせている。側溝はとうに溢れ、窪んだところは冠水し、そうでないところも膜が張ったように雨水で覆われていた。

 窓が激しく揺れる。まるで顕現を前にしたバリティニの焔が、見えない手で住居を握りつぶそうとしているかのように。それは、見滝原のどの家も例外ではなかった。どの家の住人も異常な風雨に怯えているのだろう、とマミは思う。

 そして、こんな悪天候の上に暗闇の中、避難と言われてもみんな困るだろう、とも思う。

 だから、確実に、迅速に、倒さねばならない。そう決意をあらたにしていると、杏子が口を開いた。

 

「それにしても、これはさすがに食べきれそうもないね。ちょっと作りすぎちゃったかな」

「そうね。満漢全席に比べればたいしたことないとはいえ……」

「満漢全席?」

「あ、ううん、なんでもないの。じゃぁ、冷凍向きのものはとっておく?」

「マミさん、あたしこのオレンジガトー好きなんだ」

 

 テーブルの中央にある四号サイズのホールケーキに視線を落とす。

 柔らかな茶色の生地は純白の粉糖で彩られ、空気の澄んだ冬山を想起させるそれは、ずっしりとしたショコラ生地に小指ほどもあるオレンジピールが散らされたオレンジガトー。粉糖のデコレーションに描かれた猫の足跡は杏子のデザインだ。

 そこまで杏子が考えているかは疑問が残るが、焼き菓子なので冷凍保存にも向いている。

 

「私も好きよ。チョコレートとオレンジピールって、とっても合うわよね」

 

 既に想像の世界で味わったかのように、頬を手のひらで押さえてマミが微笑む。その様を見て、杏子も微笑んだ。

 激しい戦いを前にして。世界が変わるかもしれないというキュゥべえの脅しを受けて。不安がまったくないというわけではないが――少なくとも、昨日よりは前向きでいられる自分を、杏子は自覚する。

 

「これ、取っておこうよ」

「あら、杏子ちゃん、好きなものは最後まで取っておくタイプだった?」

「違うけどね。今日は特別」

「そうね、そうしましょうか。じゃぁ、早速……」

 

 ケーキケースに入れて、ケースごとラップに包むために腰を浮かせかけたマミを、杏子が手を掴んで制した。

 

「ゆっくり食べてからにしようよ。時間がなくなったら、このまま置いて行ってもいいしさ」

「わかったわ。私も、なにがあったかゆっくりお話ししたいし」

「うん、あたしも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五二話 マミさんの新しい世界

 いかなる天体の光も通さないような厚く黒い雲のカーテンが、見滝原を覆っていた。

 

 春とは思えないほどに底冷えし、降り注ぐ大粒の雨はなかば雹となってコンクリートを穿たんばかりに叩く。

 時おり稲光が走って闇を払うが、それも一瞬のこと。雷鳴が耳に届く頃には世界は再び光を失っていた。

 リボンで編んだフード付きの外套を羽織り、見滝原工業団地と市街地をつなぐ橋のたもとの河川敷にたたずむマミと杏子。

 キュゥべえが告げたバリティニの焔の出現時刻は間もなく。

 

「絶対に倒そうね、マミさん」

「えぇ、冷えたガトーショコラも美味しいわよ」

 

 それを最後に軽口はなりを潜め、ふたりは静かにバリティニの焔の出現を待つ。

 その姿、その気迫は、獲物の到来を樹上で静かに待つ虎を思わせる。異なるのは、訪れるものは反撃の牙を持たない哀れな草食動物ではなく、彼女たちを切り刻む爪牙を持った巨大な魔女であること――くらいだ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 万や億では数え切れないほどの――いや、数えるという行為が意味を持たないほどの平行世界が存在する。

 平行世界間移動を行う魔法少女は、それら平行世界のひとつだけに特異点として生まれたわけではなく、全ての平行世界に等しく誕生した。

 それらは、世界間移動の際に見えざる手に導かれるように、定められた時間、定められた場所へと転移していたのだが、億を遥かに超える試行数の中、例外――正確に言えば失敗事例も存在した。

 

 転移した時間が異なっていたが故に、そこには魔法少女を受け入れるべき器がなかった。

 あったのは、魂の座を喪い頭蓋も失くした、亡き骸と呼ぶことさえはばかられる物体だった。

 転移してきた魔法少女の魂は、それに宿ることを余儀なくされた。

 

 

 全身の神経を剥き出しにし塩を塗りこませた上で、刃毀れしたノコギリでひくような名状しがたい激痛。

 魂が宿るべき座がなく、長い旅路をここで無為に終わらされてしまうという徒労感。

 そういったものに苛まれ、彼女の魂は一瞬にして絶望に包まれた。

 

 

 

 

 魔女の誕生を示す魔力震が奔った。

 大橋のたもとから微睡みの魔女の方向へ一五〇〇メートルほど進んだところ、そこが魔女の誕生地点だった。

 

 一五〇〇メートルの距離を経て、魔女の巨大な歯車はなお魔法少女たちの傘として機能している。これまでのワルプルギスの夜と比較しても桁の違う巨大さ。

 そこから逆さ吊りにされた魔女は、基部である歯車に見合うサイズの巨躯をくねらせる。頭蓋を持たないその魔女は、貌に残された数少ない器官である口から哄笑を撒き散らした。

 

「やばッ」

 

 予想していた大橋付近ではなく、彼方、すなわち微睡みの魔女に近い位置に出現したことに杏子が悲鳴めいた声をあげ、フードを跳ね上げる。

 だが、横に立つマミは落ち着いた声で杏子に語りかけた。

 

「大丈夫よ。鹿目さんなら、心配いらないわ」

「そっか、そうだったね」

「……鹿目さんのことは、ワルプルギスの夜を倒してからね」

「分かった。じゃぁ、あたしが突っ込むよ。熱線はこっちで引きつける」

「私も行くわ」

 

 外套は手ずから脱ぐ必要もなく、彼女の意思を受けてリボンへと還りはらりとほどけ落ちる。

 風に舞い彼方へ去ろうとするリボンの一本を、マミが優しく掴んだ。

 

「リハビリも兼ねて、ね」

 

 まどかのアドバイスをもとに、頭の中でイメージする。

 魔力の満ちみちた巨大なタンクをソウルジェムとすれば、そこから引き出される導管の太さが魔法少女の素質。そしてそれを制御する蛇口をいかに操るかが、魔法少女の技量。

 マミの素質は良ではあっても優ではない。たゆまぬ努力で技量を鍛え、蛇口を全開に近いところまで開けるようにし、また、単位魔力あたりの効率を上げることで、優れた戦闘能力を維持していた。

 いまは逆に、魔力を導き出す導管の蛇口を絞り気味にして戦え、とまどかに言われた。

 ほんの少し蛇口を開き、手にしたリボンに魔力を与える。デジタルに測れるものではないが、一割足らずといったところだろうか。

 

 ――わ。

 

 声が出そうになった。

 僅かに与えた魔力で、リボンがマミの予想以上に成長しようとする。慌てて抑え込み、長さ五メートル、幅一メートル程度のブレードにしたが、抑え込まなければどこまで伸びたか想像もつかない。

 

「あたしの槍よりおっきいね。扱える?」

「う、うん……。でも大丈夫、杏子ちゃんと出会う前は、リボンの剣で戦っていたこともあるから」

 

 ――今の程度だと、ソウルジェムは濁らないわね。

 

 花をかたどったアクセサリごとソウルジェムを手に取り、確かめる。ソウルジェムは濁りなく、オレンジイエローの温かい輝きをたたえていた。

 マミの仕草を見て思い出したかのように、杏子が手を伸ばす。彼女の記憶にあるマミは、熱線を完璧には避けきれないはずだから。

 

「ソウルジェム預かっていい?」

「そうね、お願いするわ」

 

 手渡されたソウルジェムを、杏子は自身のソウルジェムと並べて身に着ける。

 

「もし完全に濁ったら、砕いていいから!」

 

 冗談と示すかのようにマミは笑い、そして駆けはじめる。

 杏子も遅れまいとダッシュし、併走すると不平をこぼした。

 

「縁起でもないこと言わないでよ。そうなる前に、あたしがアイツ倒すからさ!」

「心強いわね――来るわッ!」

 

 マミの言葉が終わるのを待たずして、バリティニの焔が吐き出した熱線が走り抜けた。丸太のように太く、コロナのように熱く、光のように速い熱線だったが、ふたりの魔法少女は易々と回避した。

 矢継ぎ早に熱線が繰り出され、半壊した状態で放置されていた建造物を着弾地点の大地ごと蒸散させる。着弾のたびに、月面を思わせるクレーターが刻まれていった。

 

 ――さすがに全てのワルプルギスの根源というだけあって強いわね。キュゥべえが特別扱いするのも頷けるわ。

 

 杏子が高く跳躍した。

 それを狙い、バリティエの焔の首が動いた。対象が跳躍していることで射角が浅く、水平に近くなる。それを見て、マミが叫んだ。

 

「だめッ」

 

 杏子の回避技量には一切の心配は無用だ。マミが叫んだのは彼女を心配してのことではない。

 熱戦の射角が浅くなるため、着弾地点は遥か後方に伸びる。工業団地を越えて、いまだ住民がいる見滝原市街地へ。

 

 熱線が放たれる直前に、マミが跳躍。射線上に身体をねじ込ませた。

 熱線が奔る。それは半秒の間もおかず、マミの肢体を飲み込んだ。

 激しいスパークがほとばしり、一瞬だけ周囲が真昼のように照らされる。そして周囲の闇を払うと引き換えにするように、マミのいた場所が周囲のすべての闇を凝集したような黒煙に包まれる。

 

「マミさんッ!」

「……大丈夫よ」

 

 いまだ残る黒煙の中から、温かい声が響いた。次いで、リボンが旋回し黒煙を散らす。

 ちら、とマミが視線を杏子に向ける。正確には、杏子が胸に飾らせたマミのソウルジェムへ。

 

 ――本気の絶対領域を使うと、ちょっと濁るわね。

 

 温かなオレンジイエローの光の中に、どろりとした濁りが見られた。それは、コップ一杯のオレンジジュースに一滴の墨汁を垂らした程度の濁りであり、現時点では無視できる程度の穢れではある、しかし。

 

 ――何度も防御を繰り返すのは危険ね。根元から断っておきましょうか……ッ!

 

「杏子ちゃん、ちょっとだけ囮お願い、下でね!」

「うん、ごめん!」

 

 巨大ソード状にしていたリボンを小太刀サイズにすると、マミはそれを構えた。

 左腰に添えた刀身を左手で支え、柄を右手で握る。身体をやや前傾させ、あごを起こして視線を数百メートル先に浮かぶ逆さ吊りの魔女の首元に叩きつける。

 居合を思わせる構えのまま、一呼吸だけ深く吸い込む。

 そして、リボンの剣を鋭く抜き放った。

 振り抜きながら、リボンに魔力を与えて伸長を促す。どこまでも長く、細く、だけど硬く。

 

 ざくり。

 

 瞬間的に刀身を数百メートルまで伸ばしたリボンの剣は、たやすく逆さ吊りの魔女の首を両断した。百合の花が根元から縊れ落ちるかのように、魔女の首はごとりと地に墜ちた。

 首が落ちたことで、危険な熱線と不快な哄笑がやむ。

 

 ――これでアレくらい……。本気でティロ・フィナーレを撃ったらダメそうね……。

 

 マミの視線を受けたソウルジェム。その濁りは進行していた。

 先ほどはコップに数滴の墨汁を垂らした程度であったが、今回はコーヒーフレッシュほどの墨汁を注いだようになっている。

 

「でも、もう熱線は来ないし、あとは倒すだけ。杏子ちゃん、ふたりで倒しましょう!」

「応ッ!」

『いや、タイムアップだね』

 

 ひょこり、とキュゥべえが顔を出した。

 

『ボクたちはワルプルギスの夜、つまりバリティニの焔の出現周期のみならず、時間遡行を始めるまでの滞在時間も算出しているんだ。もう間に合わないよ、ほら』

 

 キュゥべえの言葉が合図であったかのように、バリティニの焔が上下逆転するべく旋回を開始する。

 本来の逆さ吊りの魔女の頭の位置を時計盤の六時とすれば、時間遡行を行う際のそれは時計版の零時にあたる。

 早回しの時計のように、逆さ吊りの魔女の巨躯が時計回りに進み――そして、止まった。

 

「だぁーめっ。逃がさないわよ」

 

 マミのリボンだ。

 バリティニの焔は体躯を反転させようとしたのだが、マミのリボンに拘束された。その結果、逆さ吊りの魔女の頭は八時の位置でぴくりとも動かなくなった。

 リボンと言っても、尋常のリボンではない。幅は数十メートル、長さは数百メートルもあるものが、幾重にもバリティニの焔の歯車と逆さ吊りの魔女の体躯に絡みついている。

 魔力の消費も尋常のそれではなく、いまやソウルジェムは漆黒が主であった。漆黒の闇の中に、ちらりちらりとオレンジの光が覗くその様は、ガトーショコラに埋められたオレンジピールが顔を覗かせているかのようだった。

 

「私が大砲を作るから、杏子ちゃんは大きな槍を砲身に!」

「分かった! 待ってろよワルプルギス! 今度こそ引導わたしてやる!」

 

 そして、拘束の維持にもやはり魔力を必要とした。

 漆黒の中にまたたくオレンジイエローの光は、小雨に晒された灯火のごとく、ぽつり、ぽつりと消えていく。

 さらに、バリティニの焔を杏子とともに倒すために射撃兵器を構築するために魔力が消費される。オレンジイエローの灯火は驟雨を前にしたかのように、次々と消えていった。

 

 大型マスケットを基本にして、バリスタに似た弓と弦をあわせもった射撃兵器がマミによって作りだされた。

 杏子によって作り出された長大な三叉槍が弦につがえられる。

 

 技の名前は前もって相談したわけではなかった。

 しかし、相談せずとも技の名前は決まっていた。ふたりが持てる得意の技を併せて放つ以上、ふたりにとって当たり前のことだった。

 

「ティロ・フィナーレ……」

「アパシュナウト・トリデンティ……」

『やめるんだふたりとも! そいつを倒したら何もかも終わってしまうよ!』

 

 キュゥべえが、彼にしては珍しく声を荒げる。

 だが、今さら掣肘などできようはずもなかった。キュゥべえの悲鳴は、ふたりの声にかき消されていく。

 

「ヴェルシオーネ・イリミタータ……」

「デュエット!」

 

 ふたりの唱和にあわせて、引き絞られた弦が風を切る音を響かせ、飛ばされた三叉槍が空気の壁をぶち抜く音を轟かせる。

 マミは、飛翔する三叉槍を目で追うことはせず、横に立つ杏子を見た。

 杏子の胸に飾られたマミにソウルジェム。

 もはや、マミのソウルジェムに暖かい黄色の領域はほとんど――いや、まったく残っていなかった。

 

 

 

 

 しかし、漆黒の染まったわけでもなかった。

 漆黒であった領域は、もともとそうであったように、別の色に置き換えられていた。桜の花びらに春霞をまぶしたような優しい桃色と、穏やかな南洋の海を思わせる水色に。

 

「……助かるわ。なんでもありね、あなたたち」

 

 マミの呟きに、なにか声が返ってきたような気がしたが、それを聞き取ることはできなかった。

 バリティニの焔が絶命したため、過去のワルプルギスの夜に関するすべてが無かったことになった。

 そして、過去が変わったため、現在もそれにあわせて在りようを変えたからだ。

 ――世界の改変が一瞬にしてなされる。

 そこには、感謝の言葉を呟くマミも、それに応えようとする微睡みの魔女もいない。

 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

◆  ◆  ◆  ◆

 

 

 ワルプルギスの夜が倒され、その体躯を雲散霧消させていく。

 それにつれ、降り続いていた雨もやんでいく。そこかしこにできた水溜りに踊る数多の波紋は、潮が引くように急速に絶えていった。

 杏子が見回すと、見滝原工業団地はほとんど被害を受けていない。

 立ち入り禁止区域になり、長きにわたり人の手を離れ、荒れるに任せた過去。そして今まさにワルプルギスの夜によって思う様に破壊されたこと。それらがなかったかのように、整備の行き届いた街並みが広がっている。

 

 杏子は振り返り、マミを見た。マミもこちらを見て、そして微笑んだ。

 杏子は、少しの違和感をおぼえた。いつも通りの優しいマミの笑顔ではあったが、ほんの少しなにかが異なるような気がした。

 そして、杏子の違和感は、マミの言葉で確信に変わった。

 

「やったわね。ふたりが協力してくれたおかげだわ、ありがとう、夜宵さん、佐倉さん」

「あ、あぁ……。お疲れさま、マミさん」

「あら、突然どうしたの? いつも呼び捨てなのにマミさんだなんて。ううん、そう呼んでくれる方が嬉しいけれど」

「巴さんが大活躍なさったから、遅まきながら敬意の念が芽生えたのでしょうか。佐倉さんにも目上の方への敬意があったとは驚きですわね」

 

 なんと言ってよいか分からず、杏子は力なく微笑んだ。普段はマミへ敬意がない、という意味で言っているのだろうが、どこをどうすればそのような関係性が築かれるのか、彼女には想像だにできない。

 

「そうだ。これから鹿目さん、美樹さんとパーティの予定なんだけど、おふたりもどうかしら? 多い方が楽しいと思うし」

「申し訳ありません、わたくし、本日は午後から試合で……。またの機会にお誘いいただければ、嬉しいですわ」

「そう、残念だわ。佐倉さんはどうかしら?」

「あ、あたしもやめとくよ」

 

 反射的に、そう口にした。

 自分のことを佐倉さんと呼び、態度にもよそよそしさがあるマミを見ることが嫌だったのかもしれない。

 

「わかったわ。佐倉さんも、また機会があれば……ね」

「うん、また」

 

 マミの性格からすると、しつこく誘うことはない。そう杏子は理解している。

 それでも、あっさりと諦めてしまうことに一抹の寂しさはおぼえた。そして、その感情は表情に出た。

 表情の変化に気付かないほどマミは鈍感ではなかったが、理由はまったく思い至らず、杏子が去った後に首を傾げてつぶやいた。

 

「佐倉さん、どうかしたのかしら。体の調子、良くなかったのかしら? んー、でも、戦いはすごかったわよねぇ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 マミの前から辞し、風見野に向かう途中、杏子は夜宵かおりをつかまえて聞いた。

 

「なぁ、あたしどこ住んでるか知らないか?」

「は? おかしくなってしまったんですの? まぁいいですわ。以前あなたから、風見野駅前のホテルで暮らしている、と伺った記憶がありますが……」

「そっか、サンキュ」

「本当に大丈夫ですの? なにか問題があるようでしたら、相談に乗るくらいはしますわよ」

「いや、なんでもない。引き止めて悪かった。それじゃ、またな」

 

 軽く笑い、足早に去る。ホテルで暮らしていると聞いても、そのような心当たりはなかった。

 今まで何をしてきたのか、何も分からない。

 記憶喪失になったようなものだろうか。いや、なまじ以前の世界の記憶があるだけに、それとのギャップに歪みが生じてしまう。そして生じた歪みは、彼女の精神を容赦なく削ろうとする。記憶喪失というよりも、間違った記憶を植えつけられた狂人、が正確なのかもしれない。

 

 世界が変わるとキュゥべえが言っていたことの意味を理解した。

 と、足を踏み外して体がよろめく。

 たたらを踏む彼女は自嘲気味に笑った。

 

 ――足を踏み外せばよろめく、当たり前だよな。じゃぁ、今のあたしは何だ。生きてきた過去がなくなったんじゃ、あたしって存在そのものが、踏みしめるべき地面をなくしたようなもんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 足は、自然と教会へ向かった。

 定期的に掃除を行い、庭も建物も清潔に維持されていたはずの教会は、その面影を露ほども残していなかった。

 庭には雑草が伸び放題だった。特にキク科の多年草は杏子の背丈の倍ほどもあり、庭の奥にある教会の姿を人目から隠していた。背の低い下草に至っては文字通り足の踏み場もなく、土の地面が見えない。

 右腕で生い茂る草を薙ぎ、両足で下草を踏み固めながら教会まで歩く。

 背の高い雑草の向こうに見えてきた教会は、窓ガラスは破れ、壁面はツタに覆われていた。

 

「んだよ、荒れ放題じゃねーか。掃除のひとつもしてないのかよ」

 

 責める言葉が指すものが、この世界の自分自身と自覚して、杏子は表情を暗くした。

 

「よっぽど荒んでたみたいだな、こっちのあたしは……」

 

 入り口の扉はひどく重く、開けると軋んだ音がした。

 中に入ると、すえた臭いが鼻を突いた。床にも机にも埃が層をなしており、少し歩くだけでぶわっと舞い上がっては瞳や鼻の粘膜を刺激する。

 窓はおろか採光塔までツタに覆われているため、日中というのに教会は薄暗かった。

 杏子はまっすぐに歩き、地下室へ下りる。

 

「とりあえず、ここで寝るか」

 

 横になる。

 考えないといけないことは山のようにある、それは杏子も自覚していたが、今は何も考えたくなかった。いや、考えられる状態ではなかった。

 季節は春というのに地下室は冷蔵庫の中のような気温。石畳の床は刺すように冷たい。

 

「冷たいな……」

 

 その言葉は、床の冷たさのみを指すものではなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日。

 目覚めた杏子は、見ていた夢を反芻した。

 見滝原第一高校の制服に身を包み、並んで登校しているマミと杏子。

 同じ高校に進学したのだから、そうあって然るべき光景。バリティニの焔を倒したその翌日にでも、そうなるべき光景だった。

 

 ――マミさんは休学扱いだったから、同級生か。マミさんびっくりするだろうな。

 

 くくっと笑い、そして、笑みは消えた。今朝見た夢は、もはや本当に夢の中にしかないものであることを理解したから。そう自覚すると、ひどく寂しかった。

 

 ――だけど、せめて思い出してもらうことはできるかもしれない。あたしとマミさんは一緒にワルプルギスを倒したんだ、だからマミさんにだって記憶があるはずなんだ。

 

 

 

 

 

 

 マミのマンションの前で、木陰に隠れるようにして杏子は彼女を待った。

 春の朝日が木々の隙間からこぼれている。石畳に一晩押しつけられていた杏子の頬は冷たく固かったが、木漏れ日の温かな熱がそれを融かしていくようだった。

 彼女の知るマミの登校時刻はそろそろ。彼女の知るマミの出発時間の日による誤差は、せいぜい二分未満。

 

 ――ありのままを話してみよう、マミさんなら、きっと。

 

 それが根拠も何もない希望的観測でしかないことは、杏子にも分かっていた。

 それでも、それくらいしかすがる術はなかったし、何かにすがらないと頭がおかしくなってしまいそうだった。

 ともすると、自分は既におかしくなっていて、ありもしない過去をあったと思い込んでいるだけではないかと考えてしまう。それは、間違いなく絶望に至る思考であり、彼女はそれを追い払うべく頭をぶんぶんと振る。

 

 しばらく待っていると、からんと控えめな音がして、エントランスの扉が開いた。

 そこから、マミが出てきた。

 

 「――っ」

 

 声をかけようとして、杏子は身体をこわばらせた。

 駆け寄ろうとした足も、伸ばそうとした手も、開こうとした口も、動かなくなった。

 

 マミが、杏子の知らない制服を着ていたからだ。

 女子高校生にしては長めのスカートに、縦にラインの入ったブレザー。杏子は知らないが、見滝原女子短期大学付属高校の制服だ。

 それは、ただ単に見滝原第一高校に通う必要がなくなったマミが、より相応しい高校に進学した、それだけのことだ。

 だが、それだけのことで、自分の知っているマミと、いま小走りに駆けてきたマミが別人なのだと、あらためて杏子は認識した。その認識はいいようのない疎外感を杏子に与えて、彼女を金縛りにした。

 

 結局、声をかけることはできず、木陰に隠れてマミの後ろ姿を見送った。

 マミの姿が視界から消え、しばらく経っても、彼女は硬直していた。

 

「あたしの知ってるマミさんは、もうどこにもいないんだな……」

 

 杏子は深く息を吐いた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 拳が埃まみれの長机を叩き、教会中に打撃音が響いた。

 手加減することすら忘れた一撃は、長机にひどい亀裂を生じさせていた。

 しかし、血は流れない。魔法少女の身体は頑丈にできていて、それほどの打擲をなしても、固めた拳は皮が剥けることさえなかった。

 その代わりに、涙が流れていた。

 

「なんだよ、あたしたちは、いっぱい人を助けたんじゃないのかよ。なんでこんな仕打ち受けなきゃいけないんだよ。贅沢なんて言わない、人並みの幸せだけでいいんだ、神様」

 

 しかし、荒れ果てた教会は祈りを捧げるに適した場所ではないのだろう、彼女の神はその祈りになんの返報ももたらさなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五三話 マミさんの歩く道に幸せがありますように

 数日の間、彼女は過去を――この世界で彼女だけが知っている過去を、何度も回想した。

 懐かしさから。その理由も確かにあるが、それよりも、想い出していないと、忘れてしまいそうで怖かったから。

 

 斧の魔女を追って見滝原を訪れ、マミに助けてもらったことを。

 マミに師事し、魔法少女としての基礎から教えてもらったことを。

 家族を失い、マミとも袂を分かち、孤独な時間を過ごしたことを。

 幻惑魔法も治癒魔法も使えず、傷だらけで身動きすらままならず、そのまま朽ち果てるしかないと思ったことを。

 マミに命を助けてもらったことを。

 それから、マミとともに歩んだ大切な日々のことを。

 

 

 

 

 回想の中で、ひとつひっかかったことがあった。

 命を助けてもらった時、ソウルジェム同士を接触させることで、お互いの心が結びつき、心象世界での意思の疎通がなった。

 それが今一度なされれば、杏子の記憶をひきがねに、マミの記憶も回復する可能性があるのではないだろうか。

 

 地獄の中で、蜘蛛の糸を見つけた気がした。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 インターホンが鳴った。

 部屋着に着替えたばかりのマミは、誰かしら、とつぶやいてインターホンに歩み寄る。

 先ほどまで一緒にパトロールをしていた後輩ふたりが何かの用で来たのかな、とも思ったが、美樹さやかは学習塾に向かうと言っていたし、鹿目まどかも今日は家族で夕飯を食べに行くからとお茶会をパスしたので、その可能性は低いはずだ。ご近所の方が用事で来たのかもと考えて、少し他所向きの声音で応える。

 

「はい、巴です」

「マミさん、少し話をしたいんだけど、いいかな」

「あら、佐倉さん。大歓迎よ。いま開けるからあがって。ふふ、あなたから来てくれるなんて雪でも降りそうね」

 

 インターホン越しの声で佐倉杏子と聞き分けてくれた。そんなささやかな事実を嬉しく思い、少し杏子の声がはずむ。

 

「ありがとう。あと、突然ごめん」

「気にしないで」

 

 スリッパをぱたぱたとさせて玄関まで行くと、マミはドアを開けて彼女を出迎えた。

 マミはレモンイエローの少し大きめのトレーナーを着ていた。それは杏子にとっては見慣れた部屋着であり、自分の知っているマミだと彼女は受け取った。

 

「ご機嫌そうね。さぁ、あがって」

 

 杏子の口元の変化を見逃さず、マミが同じように口元をほころばせる。

 現金なもので、そういったマミの反応に、「やっぱり、マミさんはマミさんだ」と杏子は胸中でひとりごちた。歩んできた過去に多少の相違があっても、人間性はそうそう変わるものではない――そのように思うのは、浮かれているからなのだろう。そしてこのようなささやかなことで浮かれるのは、情緒不安定だからなのだろう。

 

 

 

 

 見慣れたリビングで、見慣れたテーブルを囲んで座る。

 杏子の仕草は自分の部屋にいるかのように自然なものだったが、それを図々しいと思うことはマミにはなかった。むしろ、彼女が部屋にいること、こうやって一緒にテーブルを囲むことこそが自然なことのように思われた。

 だが、あまりに杏子が遠慮なく部屋をキョロキョロと見回すと、

 

「やだ、あんまり見ないでね。恥ずかしいし……」

 

 と、頬を染めて控えめに抗議する。

 杏子は遠慮するように視線を巡らせる速度を落とし、ある一点に視線を向ける。

 

「あっちは?」

「あの部屋? あの部屋は使ってないの……。ほら、私ひとりでしょ。ここと寝室があれば充分だから」

 

 そこが、マミの両親の寝室であることを杏子は知っていた。以前の世界では、いつからかマミが自室として使うようになっていたのだが、この世界ではいまだに封印状態にあるらしい。

 

「そうなんだ。マミさんの部屋は?」

「かわったことを気にするのね。あっちがそうよ。お勉強と寝るときにしか、使わないけどね」

 

 マミが指と視線で部屋を指し示す。そこは、以前の世界では杏子が自室としていた部屋だった。

 

「見てみる?」

「いいの?」

「殺風景な部屋よ。だけど、そのおかげで見られて困ることもないわ」

 

 先に杏子が立ちあがった。見る気まんまんなその様子にくすりと笑うと、マミも立ち上がり案内するように歩く。

 佐倉さんのご期待に沿えるようだといいのだけれど、とはにかみ、ドアノブを静かに回した。

 ドアが開くと自己主張しすぎないフレグランスがふわっと広がるが、杏子はそれを堪能する素振りもなく、足早に部屋に入って視線を巡らせる。

 杏子の視線がベッドで止まった。以前の世界で、杏子が毎日眠っていたベッド。

 カーテンこそ知っているものと異なるが、朝起きると毎日開けた小さな出窓。

 天井のかすかな起伏も、少し明るすぎる照明も、見覚えがあった。

 

「変わらないね……」

 

 感じ入ったように漏らす声には、懐かしさが強く含まれていた。

 

「あら? 佐倉さんがうちに来ていた頃って、この部屋は使ってなかったような気がするんだけど……」

 

 マミの指摘に、杏子は失敗した、という表情を見せた。

 人差し指を下唇に添え、思索する雰囲気のマミは「佐倉さん、もしかして……」と続ける。

 

「ストーカー?」

 

 ヘタな冗談に、杏子は苦笑を漏らす。そして彼女が否定するより早く、照れ隠しのようにマミが自ら否定する。

 

「そんなわけないわよね。もしかして、佐倉さんのお部屋と似てたりするのかしら?」

「そうだね……、あたしが使ってた部屋にそっくりだよ」

「そっか、好みが似ていたりするのかしら、なんだか嬉しいわね」

 

 杏子の視線が特にベッドで止まりがちにあることを見てとったマミは、ベッドに腰を下ろし、横に座るように杏子の手を引く。

 

「佐倉さんとゆっくりお話するの、久しぶりね。二年ぶりくらいかしら……」

「そう、なるのかな」

「昔はいろいろあったわよね。懐かしく思えるわ……」

「ごめん、昔のことは」

「そうよね。ごめんなさい。思い出したくないことも多いわよね」

 

 そうではなかったが、どう伝えて良いものか分からず、杏子は押し黙った。

 

「ところで、佐倉さん」

「うん」

「お風呂ちゃんと入ってる? 髪がずいぶん荒れてるけれど」

「えっと、あぁ、たぶん」

「たぶん?」

 

 問い詰めるような視線。それを懐かしく思った杏子は顔をほころばせた。

 最初、なぜ笑うのか意味が分からないといった感じできょとんとしていたマミも、すぐにつられるように微笑んだ。

 

「準備するから、お風呂はいっていきなさい。お風呂の間に、お菓子作っておくから」

「うん、そうする」

「うん、そうしなさい」

 

 顔を見合わせてふたりは笑った。

 杏子が目尻を指で拭ったが、それは笑い過ぎた故のものだと、マミは思った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 浴槽一杯にためられたお湯に肩までつかると、じんわりとした心地良さが全身にひろがってきた。

 彼女はお湯につかることを快いと感じるような年齢ではなかったが、ここ数日の精神的な孤独と寝起きする地下室の冷たさで、彼女の心はかじかんでいた。それを融かしてくれるように思えた。見覚えのある浴室であることも大きかったのだろう。

 

 両手を桶のようにしてお湯をすくうと、ばしゃばしゃっと何度も顔に浴びせる。

 その音を脱衣所で聞いていたマミは、杏子がはしゃいでいるものと受け取り、声には出さずに笑った。

 

「タオル、ここに掛けておくわね。お菓子作り、けっこうかかると思うから、ゆっくりはいってね」

「うん、ありがと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 リビングの三角テーブルには、チョコレートの焼き菓子、チーズのムース、それとワインとブランデーをメインにしたフルーツゼリーが並べられていた。マミは深い赤色に輝くゼリーを指し、口元をほころばせて言った。懐かしむ想いと出来栄えへの自信が伺える、良い笑顔だった。

 

「おぼえてる? 佐倉さん、以前うちに来た時、これが美味しいって。あの頃よりも、私もお菓子作りの腕をあげてるから、もっと美味しく作れてるって思うの」

「う、うん……」

「忘れちゃった? そうよね、もう二年も経つんだものね」

 

 杏子にとっては、食べた覚えのないお菓子だった。

 もしかするとこの世界のマミは、ずっと前に杏子が美味しいと言ったこのお菓子を、いつかまた食べてもらおうと練習していたのかもしれない。そうだとすれば、覚えていないととれる返事に、マミはかなり落胆したのではないだろうか。

 そんな風に想い、杏子の顔がわずかにかげる。

 

「あの時はアルコールの飛ばし方が足りなくて、少し酔っちゃったんだっけ」

 

 昔を想い、くすくすと笑うマミ。しかしマミの昔話に、あいまいに頷くことしか杏子にはできなかった。

 彼女の記憶には、この世界の過去数年に渡る出来事はないのだから、彼女はこの世界の誰の過去にも共感することはできない。

 そして、彼女が過ごした時間を共有する者はこの世界にはなく、また、この世界の誰ひとりとして、彼女が持つ過去に共感をおぼえることはできない。

 

「美味しくなかった?」

 

 スプーンを持つ手が止まっていることからそう思ったのか、マミが心配そうな声で聞いた。

 杏子が慌てて否定すると、マミはほっとしたように微笑み、そしてゼリーをひとさじ口に含み、うんうんと頷いてみせた。

 

 いま目の前にいるマミは、杏子の知っているマミとさして変わりはしない。優しいし、穏やかだ。杏子が望めば、過去はともかくとして、今から仲良くしていくことはできるだろう。

 しかし、それは友人であり、仲間として。杏子の望むものとは少し異なる。

 

「マミさん、ソウルジェム貸して」

「え?」

「いいから、お願い」

「う、うん。いいけれど……」

 

 卵形のソウルジェムを、おずおずといった様子で差しだすマミと、意志を込めた力強い動きで受け取る杏子。

 杏子は自らのソウルジェムをもう片方の手に持ち、すぅっと息を吸い込む。

 そして、心の中で静かに祈る。

 

 ――神様、せめて、マミさんがあたしの心の中を見れるように。

 

 杏子の真剣な様子に、マミは口をはさむこともはばかられ、ただ見守る。

 やおら、杏子がふたつのソウルジェムを強くぶつけようとした。

 

「きゃっ」

 

 ソウルジェムが傷付くことを想像してか、マミが両の手で瞳を覆い、顔をそむける。

 そして、その想像を肯定するような激しい音が鳴った。

 高く、鋭い音だった。

 それが鳴りやむと、マミは指と指の間から視線を通し、ふたつのソウルジェムを確認する。

 

「だめよ、佐倉さん。ソウルジェムは私たち魔法少女にとって大切なもの。もしも壊れたりしたら、もう二度と魔法少女にはなれないのよ」

 

 少しだけ、とがめるような口調だった。

 杏子は力なく笑うと、沈んだ声で、

 

「そうだね、ごめん」

 

 とだけ応えた。それは、マミが強く言い過ぎてしまったかと省みるほどに、意気消沈した声だった。

 

「そうだ。佐倉さん、なにかお話があって来たのよね。なにかしら? 相談ならなんでも聞いちゃうわよ」

「あ――、うん」

 

 ソウルジェムを接触させて心象世界での邂逅、ひいては記憶の共有をできないかという訪問の目的は潰えた。

 だから、今あらためて問われると、杏子には応える言葉がなかった。

 場を持たせるようにお菓子を口に運び、噛み、飲み込む。

 

「マミさん、お願いがあるんだけど」

 

 ふと、思いついたことがあった。いや、思いつきなどと言えるレベルでさえない、願望のたぐい。

 

「いつもの河川敷で、戦ってもらえないかな。昔の訓練みたいに」

「いつもの……佐倉さんと訓練していた頃の?」

「うん」

「構わないけれど、急にどうしちゃったの? それに、もうそろそろ暗くなるわよ?」

 

 戦えば、想い出すかもしれない。それは正しく願望でしかなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 堤防を登った先の街灯が、もっとも近い明かりだった。

 街灯はくたびれており、数十秒程度の間隔で不規則に明滅している。そもそも点いているときも、本来の明るさには程遠いであろう、ほの暗い明かりがせいぜいであり、河川敷を照らすには力不足だった。

 普通の少女なら、足元の小石を見ることもおぼつかない光量だが、彼女たちにとってはそうではない。肩を並べて歩く魔法少女の、ささいな表情の変化さえ見逃すことはない。

 

「ソウルジェム、外して置いておこうよ。危ないし」

「え、いいけど……どうして?」

 

 しかしこの場合はささいな変化などではなく、目に見えて「きょとん」とした表情をマミがした。

 

「どうしてって……」

 

 一方の杏子は、デキの悪い冗談を聞かされたような表情を見せ、そして少しの間をおいて、真剣な眼差しでソウルジェムを見つめた。

 

 ――マミさんは、ソウルジェムが魔法少女の本体だって知らないんだ。ってことは、魔法少女と魔女の関係だって知らない……。

 

 それはつまり、マミの周りに絶望に落ちる魔法少女、魔力を枯渇させて苦しむ魔法少女などいなかったことを意味する。

 おそらくは平和に、幸せに、魔法少女としての日々を送ってきたのだろう。

 胸が温かくなるような、しかしどこか苦しいような気持ち。いずれの気持ちも表情には出さず、杏子はひょうひょうとした態度で言った。

 

「ほら、ソウルジェムは大切なものだから。万一にも攻撃が当たると危ないよ」

「大切なものだから肌身離さず持っていたい、とも思うけど……でも、佐倉さんがそうしたいならいいわよ」

 

 右側に頭を傾け、両手でソウルジェムを取り外したマミは、隣に立つ杏子にそれを渡して微笑んだ。

 杏子は自分のソウルジェムと重ねるようにして、ふたつのソウルジェムをそっと地面に置いた。

 

「日が暮れていて良かったわ」

「どうして?」

「だって明るいと、ソウルジェムをカラスさんが取っていきそうじゃない? 宝石みたいだもの」

 

 夕闇の中、ポニーテールの少女の影が肩をすくめた。

 

「あ、馬鹿にした。カラスさんって、ガラス玉とか集めるのよ。子供の頃おはじき取られたこともあるし」

「食べ物も取るよ。むかしリンゴ取られた」

「あら、そうなのね。なんでも取るんだ……」

「取り返したけどね」

「……すごいわね、佐倉さん」

 

 話を打ち切るように、槍を構えた。呼応してマミはマスケットを掌中に生み出す。

 

「始めようか」

「分かったわ。久しぶりで少し緊張するわね」

「あの街灯が、次に瞬いたら開始で」

 

 こくりと頷き、距離を取る方向に歩く。五メートルほど離れたところで振り返り、正対した――ところで、街灯が明滅した。 

 瞬間、ふたりの魔法少女の間の距離が零になる。

 マミが後ろに跳ね、それを遥かに上回るスピードで杏子が駆けたからだ。

 槍の後端、石突きで打撃を繰り出す。

 マスケットでそれを受ける。

 槍を旋回させるように、先端で、後端でと打撃を繰り返す。

 受け切れずにマスケットが弾き飛ばされ、無手となったマミは体捌きで回避を試みる。

 数度は避けた、が、何度もは避けきれずに痛撃を喰らい、河川敷の赤土で膝と手のひらを汚す。

 

 杏子が追撃せずにいると、マミは立ち上がり、次のマスケットを右手に生み出す。

 対峙し、そのまま見つめあう――次に街灯が明滅したタイミングで、マミが距離を詰めた。

 足元をすくうようにマスケットを横に薙ぐ。

 ぴょんと跳ねてかわす。槍でも蹴りでもカウンターで繰り出すことはできるが行わない。

 返す刀のように、マスケットで斬り上げる。

 鋭い攻撃ではあったが、杏子の体術はそれ以上だった。マスケットの先端につま先で乗り、斬り上げの勢いを利して跳躍。マミの背後に降り立った。

 マミが振り返るよりも先に、杏子は量子分身を作り出す。

 

「ファンタズマ? そう、また使えるようになったのね、良かったわ」

 

 記憶の呼び水にでもならないかとの想いだったが、マミの反応はその思惑を肯定するものではなかった。

 苦めの笑みを一瞬漏らし、すぐにその表情を消して、ふたりの杏子が槍を繰り出す。

 マスケットで受ける――結果的に、そちらは偽物となった。本物の杏子が槍で払い、マミを横転させる。

 

 

 弱い、と杏子は思った。

 杏子の知るマミより、数段劣る動きだ。遅く、正確さに欠ける動き。先を読む能力も以前のマミに比べるとひどく拙い。

 そして、こんなに弱くても生きていける、それは、きっと幸せなことなのだろう。

 

 

 甘い、とも杏子は思った。

 マミはいまだに一発の魔弾も放ってはいない。殴打に不向きなマスケットでの打撃のみを行い、有効打を与えられない今も魔弾を撃とうともしない。

 そして、こんな甘さ、換言すれば優しさをもって生きている。それは、きっと幸せなことなのだろう。

 

 

 だったら、それでいい。それがいちばんだ。

 そういった想いが杏子の身体を満たした。

 満たしきった想いは、口元から溢れ、笑みのかたちを取る。笑みとともに肺にこもっていた空気が吐き出された。

 それは、この世界に来てはじめての呼気――のような気がした。今まで、息をすることすらできず、ただ張りつめていた。

 

 マミが立ち上がるのを待って、杏子が語りかけた。

 

「最後にするよ」

「あ、甘く見ないで欲しいわ」

「……マミさんを甘く見るわけないよ」

 

 突いた。マミが受けようとした矢先、錯視を利する形で穂先は下方へ滑る。

 ふとももを裂く軌道、マミは脚をわずかに後ろに逃がし、皮一枚を斬らせるようにするが、槍はVの字を描いて跳ね上がり上腕を襲う。

 さらに幾度かのフェイントが繰り返される。マミが目で追えたのは、四度目のフェイントまでだった。それ以上は追いきれず、視界から穂先を失った。

 時おり、ぎらんとした穂先のきらめきが断片的に視界に入る。しかしすぐに消える。

 そして、マミも気付かないうちに、マミの首元のリボンが斬り落とされた。

 斬り落とした刹那に槍はぴたりと動きを止め、マミの首元に突きつけられるかたちとなった。

 

「……まいった。強いわね、佐倉さん。昔は私の弟子だったなんて、嘘みたい」

「嘘じゃないよ。それに……あたしの強さはマミさんに教えてもらったもんだよ」

「え……?」

 

 大身槍を引き戻し、そして大身槍をきらきらした粒子のかたちへ変え、霧散させていく。マミも倣って、マスケットをリボンへと還した。

 

「まどかやさやかは、強くなったの?」

「そうね。もうずいぶん。すぐに私にも追いつくと思うわ」

「そう、良かったね」

 

 たとえ弱くても、甘くても、鹿目まどか、美樹さやかのふたりがいれば、そうそう魔女に後れを取ることもないだろう、と杏子は思う。

 この弱さと甘さを肯定されて生きていける環境こそ、幸せなのだろう。

 

 もちろん、いちばん幸せなのは魔法少女になどなることなく、普通の少女として生活することだ。

 だけど、マミの契約時の状況から考えると、それはありえない。

 だとしたら、こうやって、弱いまま、何も知らずに、魔法少女として生きていける。

 それがいちばんの幸せなのだろう。

 

 ――だったら、いいや。

 

 あたしのわがままで、いまあるマミさんの幸せを壊しちゃだめだ。

 もちろん、寂しい。泣きたくなるくらい寂しい。でも、それと引き替えにマミさんが幸せに生きていけるなら、我慢できる。

 

「マミさん、いま幸せ?」

「と、突然ね? そうね、美樹さんや鹿目さんもいてくれるし……それになにより、こうして佐倉さんと昔みたいに仲良くお話できるし……幸せじゃないかしら」

「良かった、それが一番だよ」

 

 色々な感情が杏子の中にあったが、いちばん大きなものは清々しさだった。

 それをそのまま表した顔を見せ、そのままに表した笑みを浮かべる。

 

「もし、もしもまた、あたしの力が必要になることがあったら、すぐに来るから。遠慮せずに呼んでよ」

「ありがとう。なんだか、佐倉さん雰囲気かわったわね。まるで、一緒に戦っていた頃の佐倉さんみたい」

「あたしはいつでも、マミさんのい……一番弟子だからさ!」

「ふふ。私より強いのに弟子だなんて。でも、頼りにさせてもらうわね」

「うん、そうしてもらえると、あたしも嬉しいよ」

 

 変身を解いて、マミが右手を差し出す。

 その手を迷いなく握り返して、杏子は微笑んだ。迷いのない、晴れ晴れとした笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最終話 マミさんの歩く道に祝福がありますように

 

 

 その日の夜。

 マミにしては珍しいことであるが、勉強中に他事に気を取られた。

 ごそごそとソウルジェムを取り出し、机の上に置く。

 

「佐倉さん、すごくソウルジェムにこだわっていたけど……」

 

 マミにとってソウルジェムは、「変身に必要なとても大切なアイテム」。失えば変身することも、ひいては街を守ることもできなくなる。逆に言えば、それだけの認識だった。

 そういえば、子供の頃に見ていた魔法少女作品だと、一年に一回くらいは変身アイテムを紛失してドタバタするお話があったな、と思考が脱線気味になり、口元が緩む。

 ソウルジェムは大切なものであり、ぞんざいに扱っていいものではない――その理解はもちろんマミにもあるが、それにしても杏子のこだわりは桁がひとつ違うように思えた。

 

「と、思えばぶつけたりするし……」

 

 ふたりのソウルジェムを、割れよとばかりの勢いでぶつけたことを思い出す。

 あの時は本当に割れるかと思って、心臓がばくばくした。思い返すだけでも脈が速くなりそうだ。

 傷でもついていないかしら、とソウルジェムを指で弄ぶ。

 お皿でも洗うかのように、指の腹を押し付けながらくるくると回転させる。

 表面はなめらかで違和感はなかった。擦過傷(スクラッチ)ひび(クラック)はなさそうだとマミが安心したタイミングで、ころりとソウルジェムがこぼれた。

 花をかたどったアクセサリーからこぼれたソウルジェムは、机の上をころころと転がり、そしてカーペットの上に落ちた。

 小さな悲鳴をあげたマミは、ソウルジェムが無傷であることを確かめながら拾い上げ、アクセサリーにはめなおそうとする。

 

「あれ」

 

 アクセサリーの基部、ソウルジェムを受けて置くところに、折りたたまれた小さな紙片が挟まっていた。

 紙片を取り出し、丁寧に広げる。

 

「ん……写真? プリクラかしら? 私と、佐倉さんと、夜宵さん……?」

 

 撮った覚えのないものだった。

 撮った覚えのない写真が、入れた覚えのないソウルジェムに収められている。

 少しの気味の悪さ、なにかを忘れているような居心地の悪さ、そういった感情がわきあがり、マミはまじまじと写真をみつめた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 その日の夜。

 教会の地下室に戻った杏子は、数日ぶりに心が軽かった。

 諦めて気が楽になった、などという後ろ向きなものではない。

 不本意なことも悲しいこともあるとしても、今のありようを受容して、その中に幸せや喜びを見つけた、穏やかで晴れやかな気持ちだった。

 

「腰を据えて、ここで生活していかないとな」

 

 今までは、ここは仮の住まいという意識があった。だが、今は違う。ここを生活の基盤として、新しい道を歩いて行かないといけないと認識している。

 教会はひどく荒れ果てていて一朝一夕に手入れが行き届くものではなかったが、とりあえず一歩を踏み出そうと、彼女は地下室の掃除から始めた。

 

 

 

 

 

 ようやく床に棚にと層を成していた埃がひとところに掃き集められ、まずは最初のめどがついた頃。

 たんたんたんっ、と階段を駆け下りる音がした。

 次いで、ドアが勢いよく開かれる音。

 

「杏子ちゃん!」

 

 張りのある声が、地下室に響いた。

 

「あれ、どうしたの、マミさん。こんな時間に」

「もう一度勝負よ。私の実力、思い知らせてあげるんだから」

「……なに言ってんの?」

 

 呆れ顔を見せる杏子に、マミは同じように呆れ顔を見せる。但しマミの方には、はにかみが強く含まれていた。

 

「察しが悪いわね……杏子ちゃんは」

 

 そう責めるのは酷だ。数時間前の杏子ならすぐに気付いただろうが、今の彼女はその望みを完全に断ち、この世界を前向きに生きていこうと考えていた。そのため、その可能性自体を思考から外していたのだから。

 だが、二度目の「杏子」呼び、しかも強調するような言い方に、彼女はその可能性に思い至った。

 

 言葉を紡ぐよりも早く、身体が動いた。

 弾丸のような勢いでマミに飛びつき、彼女をそのまま押し倒す。衝撃に、掃き集められていた埃がふわっと宙に舞う。

 

「いたっ」

 

 石の床にしたたかに背中を打ちつけ、悲鳴めいた声をあげるマミ。

 

「マミさん、本当にマミさん?」

「あら、偽物の私がいるのかしら? 私はファンタズマは使えないわよ」

「ほんとうに?」

「えぇ。ごめんね、寂しい思いをさせて」

 

 杏子の瞳にマミが微笑む顔が映る。それはすぐに涙で滲み、見えなくなる。

 

「マミさん……マミさん……マミさん……」

 

 涙で視界を失った次は、言葉を失ったかのように同じ単語を繰り返す。それはふたつともマミに伝播し、マミもただ相手の名を呼んだ。

 ふわりと舞い上げられた埃が、ゆっくりと時間をかけて落ちてきた後も、ふたりはしばらくそうしていた。

 やがて――濡れた瞳を袖口でごしごしと拭い、杏子はすっくと立ち上がった。手を引いてマミも立たせる。

 

「よし、じゃぁ行こう、マミさん」

「え、どこへ?」

「戦うんでしょ?」

「それは冗談のつもりだったんだけど……」

「知ってる。なにかきっかけがないと、起き上がれそうになかったから」

 

 もう、と非難するようにつぶやいた後、マミは涙を拭って笑ってみせた。

 

「強くなったのね、杏子ちゃん」

「そうだね。戦ってみる?」

「もう……そういう意味じゃないわ」

 

 杏子も笑った。迷いのない、晴れ晴れとした、そして温かく優しい笑顔だった。

 ひとしきり笑うと、また袖口で目元を拭った。今度は、笑みからこぼれた涙だった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 しばらく、笑ったり泣いたり、抱き合ったり転んだり、話し合ったり黙ったりしていた。

 その中で、今後について話し合うのは、自然なことだった。

 冷たい石の床にシートを敷いただけの地下室で、マミは正座し、杏子もまた正座していた。

 

「もちろん、うちに来るわよね。杏子ちゃんの知っているうちとは……ううん、私の大切な記憶の中にあるうちともずいぶん違うんだけど、一緒に、模様替えしていきましょう」

「うん……」

 

 ためらいがちに拒否するような杏子の態度に、マミが「なにか、ダメかしら……一緒に暮らすのは嫌?」とおずおずと問うた。

 

「イヤじゃないよ。でも、大丈夫なのかな、って」

「大丈夫って、なにが?」

「過去のいきさつとかしがらみとか、あたしはさっぱり分からないんだ。そんな状態で周りは大丈夫かな。迷惑かけたりしないかな」

 

 マミが視線を上に向けてしばし黙る。返答を思案するためだったが、沈黙を嫌った杏子が続けた。

 

「マミさんは、以前の世界のことも、この世界のことも、両方おぼえてるの?」

「うん、さっき思い出したわ。忘れていてごめんなさい。忘れていたことだけじゃなくて、いろいろ謝らないといけないわね……」

「あたしさ、どうだったの?」

「この世界では、杏子ちゃんとはご家族のご不幸のときに別れて、そのあとはあまり……。だから、この世界で杏子ちゃんがどうしていたか、私もよく知らないの」

 

 実際は「あまり」ではなく「まったく」であったが、それをそのまま告げるのは申し訳ない気がして言葉を濁す。そして、それについてもごめんなさいと結び、マミは視線を落とした。

 杏子はそんなマミをおもんばかってか、ことさらに軽く笑った。

 

「たぶん、ろくなもんじゃないと思うから、知らないでいてくれて良かったと思うよ」

「そうは思わないわ。ワルプルギスとの戦いで、見滝原まで救けに来てくれていたんだもの。たとえ世界が違っても、ひとの魂はきっと同じものだから、杏子ちゃんは杏子ちゃんだと思うわ」

「だといいんだけどさ、それにしちゃこの教会の荒れっぷりはね」

「一緒に綺麗にしましょう、それじゃダメ?」

「あー、いや、それは嬉しいよ。ただ、そうじゃなくって……」

「言いたいことは分かるわ。他のひとから見れば、今の杏子ちゃんも昔の杏子ちゃんも同じひとだものね。なのに自分では過去のことは分からない。不安になって当然だわ」

「うん……」

「でも、大丈夫」

 

 笑顔で太鼓判を押す。気休めや慰めではなく、心からそう信じていると思える笑顔だった。

 

「だって、私だけは知ってるもの、なにが本当の杏子ちゃんか。それじゃ足らない?」

「充分だよ。でも、それが原因でマミさんに迷惑をかけるかもしれないじゃん」

「ううん、たとえ何があっても、それは迷惑なんかじゃないわ。私と杏子ちゃんのふたりだけが覚えていることなんだから、ふたりで背負わないとね」

 

 結局、マミに請け負えることは自分がどう思うかだけであり、そして、それで充分なことであった。杏子が納得した笑顔を見せたことで、地下室の気温が一℃ばかり上昇したようにマミには感じられた。

 夜も更けており、空気の弛緩に伴い眠気が首をもたげた。小さめのあくびをすると、今度はマミが真剣な表情で語りかけた。

 

「実は、私もひとつだけ不安があるの」

「マミさんに?」

「うん。あのね、魂はきっとひとつ、同じものよ。でも、心って、魂に記憶が積み重なってかたちづくられていくものだと思うの。今の私は、この世界の記憶も前の世界の記憶もどっちもあるわ。だから、もしかしたら、杏子ちゃんの知っている私と今の私、少しだけ違うところはあるのかもしれないの。もしそれで嫌な思いさせたら、ごめんね」

「大丈夫」

 

 今度は、杏子が笑顔で太鼓判を押した。

 

「そんなことに気を遣ってくれるのは間違いなくあたしの知ってるマミさんだし、それに」

「それに?」

「もし違っても、良くなる方向だよ」

「あら、そうかしら?」

「だって、こっちのマミさんの方が優しいしね。あたしとの戦いで一発の魔弾も撃たなかったじゃない。前の世界のマミさんなら、ぱしゅんぱしゅんって撃ってたよ」

「そ、それは、そうしないと訓練にならないじゃない……」

 

 しどろもどろに抗弁するマミを見て、杏子はまた笑った。

 笑う杏子を見て、マミもまた笑った。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 かつて、女神は祈った。

 全ての魔法少女の笑顔を。祈りは力ある言葉となり、全ての世界、全ての時間に伝播した。

 祈った一点で救済がなされるわけではなく、全ての世界、全ての時間で救済がなされる。

 魔法少女が懸命に生き、そして末期を迎えるときにようやく円環に導かれ、その魔法少女にとっての世界の改変がなされる。

 

 であるならば、それは魔法少女にとっての救済はいつまでもなされない――見方を変えればそうとも言えるし、むしろ救済されないことが幸福であるとさえ言える。

 

 それは、女神の不備ではない。

 女神は、全ての世界を尊重した。全ての世界に生きる全ての魔法少女を尊重した。それが故に、祈りによって改変されたたったひとつの世界に全てを統一することなく、全ての世界、全ての時間に存在する魔法少女をあるがままに肯定した。

 

 おそらく、この世界に生きる巴マミも、今この瞬間に世界が改変され救済されることは望まないだろう。

 いつの日か、彼女も救済されるのか、それともされないのか、それは分からない。分かっていることは、彼女のこれからに、歓びと幸福が――。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 いつの日かの、夕飯のあとのティータイム。

 そういえばさ、と前置きして杏子は問うた。

 

「ワルプルギスのとき、あたしどうして見滝原に?」

 

 幸いというべきか、この世界の過去の杏子は、どの魔法少女誰とも没交渉だった。そのおかげで今マミとともにいても、過去を知る何者かに違和感を持たれることもないし、過去の諍いに起因する厄介な人間関係に巻き込まれることもない。

 そのことは、マミを含む他の魔法少女たちと話をするうちに知ったことだ。それだけに、ワルプルギスの夜に襲われた見滝原に戦いに赴くという行動は、過去の彼女のイメージから乖離して見えた。

 

「私も経緯は詳しくは知らないの。キュゥべえを通じて、杏子ちゃんと夜宵さんが協力に来てくれるって。本当に助かったわ、ありがとう」

「いや、あたしに礼を言われても、身に覚えのないことだからさ……」

 

 礼を要求したように思われるのも不本意で、杏子は頭を掻きつつ続ける。

 

「たださ、聞いた話だと、こっちのあたしがマミさんの手助けに来るような殊勝な奴には思えなくって」

「そんなことはないと思うけど……」

 

 そう思うものの、強く言い切ることもできず、マミの語尾が小さくなる。消え入るような語尾に重ねるように、明るい調子のテレパシーがふたりに届いた。

 

『なんだ、記憶喪失にでもなったのかい、杏子』

 

 良好な関係を維持できていると思っているキュゥべえに対して、杏子の返事はすげない。

 

「まぁ、そんなもんだよ」

『ふむ、そんなものか。まぁいい。ワルプルギスの夜との戦いの時のことなら、杏子、キミがマミを助けに行くと言いだしたんだよ』

「ほんとか? マミさんとは喧嘩別れしてたんじゃないのか?」

『ボクはウソはつかないよ。マミと別れた後も、キミは折にふれてマミのことを気にしていたしね』

 

 キュゥべえが語った事実は杏子にとって吉報と言えるのだろう。喜色が面に出そうになるが――それ以上に喜色を満面にたたえたマミを見て、あえて表情を殺した。殺した表情がうっかり出てこないように、ティーカップを運んで口元を隠す。

 

「やっぱり杏子ちゃんは、優しいのね」

「……記憶にないけどなぁ」

 

 そして喜色に満ち満ちた声音で、うっとりと漏らすマミにもすげなく応えた。

 それが拙い照れ隠しであることはマミには一目でわかる。そのことがさらにマミの喜びを高めた。

 

『記憶がないのは厄介だね。必要になったらボクに確認するといい。必要なことを、一言一句違わずに教えてあげるよ』

「いや、いい。そんなに楽しい記憶じゃなさそうだしな」

『そうかい? 記憶がないとなにかと不便ではないかと思うが……』

「いいのよ」

 

 反論しようとするキュゥべえの額を、白く細いマミの指がたおやかに押さえた。そして誰に言うでもなく、しっとりとした声を漏らす。

 

「だって、これまでより、これからの方が大事だもの」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 と、言っておきながら、なんで早く教えてくれないんだと怒るのは理不尽ではないか。さすがにキュゥべえもそう思った。

 

 半月ばかり経過したある日の昼下がり、キュゥべえは杏子に問うた。今月はモモに会いに施設に行っていないが、いいのかい、と。

 どうやら杏子はそのことも完全に失念していたらしく、キュゥべえの首を絞めんばかりに掴みあげ、興奮したように彼を左右に振り回した。

 

『マミは……そういえばキミは知らないことだったね』

 

 そんなに大切なことならマミから教えてあげればいいじゃないか、と言いかけて訂正する。杏子がかつてマミと袂を分かつにあたって、マミに余計な心配をさせたくはないからとモモが存命の事実は伏せていたし、またキュゥべえに固く口止めもしていた。

 

「本当なのよね……? キュゥべえ」

『ボクはウソはつかない。連絡先を教えるから、自分で確かめてみるといい』

「そうね、そうするわ。杏子ちゃん、私から電話していい?」

 

 杏子の同意を確認すると、マミはスマートホンで教えられた番号に電話する。

 丁寧に、しかし急ぎ気味に事務的な会話を続け、本題を切り出す。

 

「今日、これから伺うことは出来ないでしょうか?」

「夕方の六時半まででしたら。風見野にお住まい? 見滝原ですか、見滝原駅からだと、循環バス(ぐるりん)一本で大丈夫ね。バスで四十分程度よ」

「あの、佐倉モモさんに代わって頂くことはできませんか?」

 

 職員は快諾し、少し待つように告げる。しばしオルゴールの音が流れる。マミはオルゴールのリズムに合わせて、指を遊ばせた。

 実際は一分程度、マミの体感ではもっと長い時間を経て、モモが応答する。マミの名乗りと挨拶を受けて、モモが少しの間をおいて応えた。

 

「マミお姉……巴さんですか? お久しぶりです、懐かしい声が聞けて嬉しいです」

「本当に懐かしいわ、ずっと連絡してなくて、ごめんね」

「いえ、杏子姉から、巴さんとはもう会えないと思えって言われてましたので」

「これから、そちらに伺うわね。杏子ちゃんも一緒に」

「杏子姉も一緒なんですか? 良かった、しばらく連絡がなかったので心配していました」

「うん、代わるわね、ちょっと待って」

 

 肩を寄せて待機していた杏子にスマートホンを差し出すと、彼女は奪うようにしてスマートホンを取り、大きな声を出した。

 

「モモか?」

「モモか、じゃないよ! もう約束の日から十日以上過ぎてるよ、本当に心配だったんだから!」

 

 姉に負けず劣らず、妹も大声で返す。隣にいるマミにも会話内容が細大漏らさず聞き取れるような、よく通る声だった。

 

「そっか、ごめんな。あたし、ちょっと軽い記憶喪失みたいな感じになってて……」

「えーっ! 大丈夫なの、杏子姉?」

「日常には支障ないかな。でも、連絡できなくってごめんな」

「いいよ、事情があるんなら。それより、ほんとうに大丈夫?」

「あぁ、平気平気。これから顔見せに行くからさ、元気なとこをその目で確かめなよ」

「いや、体調的なものじゃないんだし、顔見てどうこうじゃないよー」

 

 しばらくお互いの近況について歓談していた杏子だったが、マミが代わりたそうにしていることに気付き、彼女にスマートホンを渡す。

 マミはそれを受け取ると、少しの前置きのあと、本題を切り出した。

 

「そちらの職員の方の許可も得ないといけないけど……モモちゃん、私の家で一緒に暮らさない?」

「巴さんのお宅でですか? でも、ご迷惑じゃ……」

「モモちゃんも知ってると思うけど、私は両親を亡くしてひとりだから、一緒にいてくれると嬉しいわ。もちろん、杏子ちゃんも一緒よ」

「杏子姉も! 良かった、巴さんと杏子姉、ケンカしてたわけじゃないんですね」

「喧嘩なんてしてないわよ。ただ、私の思い遣りがちょっと足らなかっただけ」

「いえいえっ、杏子姉と巴さんなら、どう考えても杏子姉の方が悪いですから。あっ、でも、たとえ杏子姉の方が悪くても、わたしは杏子姉の味方ですよ!」

「ふふ、そうね。かけがえのない姉妹だものね。……それで、どうかしら? 私の家で」

 

 逡巡しているのか、少し間があいた。マミは瞳を閉じ、口を噤んで、急かさないように穏やかな吐息だけを漏らす。

 

「ご迷惑じゃなければ、そうしたいです……」

「良かった、もちろん大歓迎よ」

 

 やがて、モモがそう応えるとマミは顔を綻ばせた。同じように顔を綻ばせた杏子が、頬をマミに擦り付けるように近づけてして横から話に加わる。

 

「一緒に住むことになったら、姉としていろいろ教えてやるからな。料理も勉強も」

「えー、杏子姉よりは家事全般上手だと思うよ、わたし」

「姉を甘く見るなっての。じゃぁ今度料理勝負するか?」

「審判を巴さんがしてくれるならいいよー」

「なんだよ、その条件は」

「だって、ちゃんとした審判がいないと、杏子姉負けを認めないでしょ」

「はぁ? なんだよそれ。そもそもなんであたしが負ける前提なんだよ、モモ相手に負けるわけないっての」

「ほら、ぜんぜん認める気ない。杏子姉、お料理で負けたくらいで姉の威厳は傷つかないから、意地にならなくていいんだよ」

「だから、なんであたしが負ける前提なんだよ、おかしいだろ」

 

 押し殺した笑いを漏らすマミに杏子が抗議するような視線を向けると、マミは芝居がかった咳払いをひとつした。

 

「マミさんが笑ってるから、この話はまた今度な」

「うん、いーよー」

「じゃぁ、準備してすぐ行くから、待っててね、モモちゃん」

「はい、楽しみに待ってます」

 

 

 

 

 

 

 

 そして、施設を訪れたマミと杏子は、モモと再会する。

 彼女たちにとっては実に二年半ぶりの再会であり、マミと杏子は涙をはらはらと流しては、「モモ」「モモちゃん」と、それしか言えなくなったように繰り返す。

 一方のモモも涙ぐんではいたものの、彼女としては杏子とは一ヵ月半ぶり。彼女は、

 

「二年ちょっとぶりの巴さんはともかく、杏子姉は大袈裟すぎ。可愛い妹にあえなくて、そんなに寂しかったの?」

 

 と少し湿った声で返した。

 だが、その光景を見守っていたキュゥべえは、温かな再会のシーンに相応しくないことをひとりごちていた。

 

『……マミと杏子との接触で、佐倉モモの魔法少女としての素養が大幅に向上した。これはいったい……』

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 時は流れる。

 マミが女子大学のキャンパスに慣れ、杏子が神学校に通い始めた頃、佐倉モモは見滝原中学の制服に袖を通した。

 その容姿は――巴マミの髪型を真似た佐倉杏子、といったところであり、その性格は――少しお転婆になったマミ、あるいは少しお淑やかになった杏子、といったところであった。

 

「マミ姉、また宿酔い? 大学休んじゃダメだからね。杏子姉、お弁当作ってあるから、忘れずに持っていってね。それじゃ、いってきまーす」

「はいはい、いってらっしゃーい」

 

 言いたいことを言って出かけていくモモを玄関まで見送ると、ネグリジェ姿のマミはあくびをかみ殺しながらリビングに戻る。そこで朝食をかきこむ杏子に語りかけた。

 

「しっかりした子よねぇ、モモちゃん」

「まぁ、あたしの妹だからね。マミさん、今日は大学は?」

「二コマ目からだから、あと二時間はゆっくりできるわね。シャワーでも浴びて目を覚まそうかしら」

「それがいいね」

「あ、食器いいわよ、私が片付けるから。制服汚れちゃ大変だもの」

 

 食べ終えて食器を運ぼうとする杏子をマミが制する。

 神学校の制服は白いスーツであり、汚れがひどく目立つ。杏子は頓着しないが、保護者を自任するマミとしては杏子にみっともない格好はさせたくはない。――ちなみに、モモも杏子の保護者気取りである。

 

「ありがと。学校終わったら連絡する」

「うん、私も都合いい時間を連絡するから、一緒にパトロールしましょう。美樹さんや鹿目さんも都合が合うといいのだけれど」

「まどかはともかく、さやかは忙しいみたいだからね」

「音大って大変なのねぇ」

 

 などと会話しているふたりがいる部屋を、マンションの外まで出たモモが見上げる。もちろん彼女は普通の少女であり、遥か高層のマミの部屋まで見る視力は持ちあわせていないが、それでもなんとなく、姉ふたりがのんびりと会話している様子が想像できた。

 

「大丈夫かなぁ、ダラけてないかなぁ」

 

 実際のところマミも杏子も、モモが心配するように不真面目でも自堕落でもない。しかし、一二歳の少女から見上げると、彼女たち大人の生活は、いささか以上に弛んで見えた。

 

 

 

 そんな少女らしい潔癖さと生真面目さを持ったモモが、後に魔法少女となる際になした祈りが、杏子とマミ――のみならず、この世のすべての魔法少女への大いなる福音となり、魔法少女たちに幸福をもたらすのだが――それは佐倉モモの物語であって巴マミの物語ではない。

 

 巴マミの物語としては、このあとも波乱はあれど優しさに包まれて幸せに暮らしたことを記して終わりとしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 完結です。
 ここまで読んでくださった方に、深く感謝いたします。


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