転生しても戦争だった ~数多の転生者が歴史を紡ぎ、あるいは歴史に紡がれてしまう話~ 作:ガンスリンガー中年
1943年4月1日
日本なら新年度の始まりなこの日、要塞都市化したノブゴロドに新顔が続々と到着していた。
「お初にお目にかかります中将閣下! 方面軍付筆頭書記官を拝命いたしました”ゲオルギウス・ジレンコフ”と申します!」
そう国防式敬礼をしたのは、以前ちょっとだけ名前が出た、バルバロッサ作戦の最中にスモレンスク近辺で捕虜になった元旅団付政治委員で、当時は准将相当だったらしい。
ジレンコフは42年にクルスに指名スカウト?ヘッドハンティング?をされ、思想チェックの後のサンクトペテルブルグ冬宮殿にて事務方の研修を受け、事務能力の高さと吞み込みの早さを披露。
晴れて、ジレンコフの希望である「軍属であっても軍人ではない文民統制官」という地位で、ノブゴロドに着任していた。
「着任を歓迎するよ。ジレンコフ書記官」
そう歓迎するヴァトゥーチン。
それはそうだろう。
データがすべて電子化される前の時代の軍隊は、別名”紙戦争”と呼ばれるほど書類を使う。平時でもそうなのに有事ともなれば猶更だ。
事務能力の高い人材はどれほどいても困らないし、それが事務処理関係の統括をやれるくらい優秀なら猶更だろう。
事務の得手不得手で戦争の勝敗が決まるのか?というと……史実のウーデットが事務能力が壊滅的で、しかもさぼり癖があり仕事を溜め込み、そのおかげで新型機の開発が遅れ戦争後半のドイツ窮地に陥った一因であったと書くとわかりやすいだろうか?
実際、モルヒネ野郎ことゲーリングも事務能力ダメダメ男だ。
なのでこの2人、名誉職に近い人寄せパンダの副総督(ゲーリング)と、とりあえず鹵獲機を飛ばして性能評価をする部門の空軍名誉職(ウーデット)と実権の無い部署に回されていた。ドイツにおいて「書類仕事の出来ない将官」は、国家の存亡にかかわる為に実権のある役職に就くことはない。
事務処理の遅延で敗戦など、ヒトラーとしても冗談ではないだろう。
故にゲーリングは、総統の代行として友好国の重鎮やら上流階級やら企業やらが開催するあちこちのパーティーに顔を出して愛想をふりまく華やかな今の役職が派手好きな性格と嚙み合って心から気に入っていた。
しかも総統直々に『会議よりもパーティー出席を優先せよ。君の人気と人脈と外交能力を活用しないのは国家の損失というものだ』と言われているのも彼の自尊心をいたく刺激していた。物は言いようであり、今生のヒトラー(転生者)は、こう言う部分も実に如才ない。
体よく会議に出席拒否されてるとか言ってはいけない。
ウーデットはとりあえず飛行機を飛ばせれば幸せっぽいので。
「早速で悪いが、君以外にも本日付で着任の者、到着した装備も多くてね。直ぐに”店開き”してもらえるか?」
「かしこまりました、中将。書類を一通り確認次第、作業を開始いたします」
若手特有の良い意味の素直さに、ヴァトゥーチンは相好を崩した。
ヴァトゥーチン自体もギリ20世紀生まれでまだ40歳になってそう時間は立っておらず軍の将軍の中では若手、実は1910年生まれのジレンコフとは10歳もになってしまうのはご愛敬だ。
ちなみに上官のサンクトペテルブルグ
「その様子だと、大公殿下の下で随分としごかれたようだな?」
するとジレンコフはきょとんとしてから、
「ああ、枢機卿猊下のことでしたね。すいません。周囲では枢機卿猊下と呼ぶ者の方が多かったもので」
「そうなのかね? 軍人としては大公殿下の方がしっくりくるが」
それはまあ、立ち位置によりけりだろう。
「それもわかります。君主という意味では大公殿下という方がより正式でしょうし。ただ、サンクトペテルブルグ正教信徒ではやっぱり枢機卿猊下と呼ぶ方が多いですよね? 何しろ、四大聖堂主教連名での死後、公式に『サンクトペテルブルグの守護聖人』確定ですから」
クルスには残念ながら、クリスマス演説の翌日に行われた定例長老会……サンクトペテルブルグ四大聖堂主教会議満場一致での決定である。
生前守護聖人化する話もあったが、どうにかクルス本人が阻止したようだが……
『死んだ後なら是非もなし、か』
と妥協したようだ。
「ああ、そういえばそうだったな」
「ウラソフ司令官とかも枢機卿猊下ですし」
「大将はその、いや、まあ信仰の自由が保障されているのがサンクトペテルブルグだったな」
(決して悪い人間ではないし、確かに有能なのだが……濃い、いや重いのだよな。大公殿下に関する個人崇拝が)
実は自分も方向性が違うだけで重さでは大差ないことに気づいていないヴァトゥーチンであった。
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「俺は今、猛烈に感動している……!」
新たに敷設されたサンクトペテルブルグ⇔ノブゴロド鉄道のディーゼル電気機関車に揺られて運ばれた”ブロニスコフ・カミンスキー”は、感動に打ち震えていた。
真新しい階級章は”大佐”。
そう、サンクトペテルブルグに教官職に招聘された『街のチンピラを一端の兵士に仕立てる』ことに定評があるドイツ軍将官”パウロ・ハウサー”中将の厳しく過酷な教導を履修し終え、カミンスキーはついに名実共に”歩兵
少し詳しく話そう。
カミンスキーは友人のコンスタンティヌス・ヴォスコボイニクと共に故郷のブリャンスクで共産パルチザンが婦女暴行も含めた強盗殺人を繰り返すために自警団を立ち上げた。その時はヴォスコボイニクがリーダーで、カミンスキーがサブリーダーだった。
だが、ブリャンスクがドイツ軍に制圧された時に投降。
その活動が一定の評価を受けて、捕虜ではなく『ロシアからの亡命者』という扱いで、自警団の面々や移住を望むその家族共々一度ドイツへ赴き、クルスが統治を始めたレニングラード改めサンクトペテルブルグに移り住んだ。
その後、NSR(ドイツ国家保安情報部)の口添えもあり、元自警団の希望者共々サンクトペテルブルグ
自警団時代からの友人であるヴォスコボイニクは、前線指揮より後方職の方が適性が高いことが判明し、現在はサンクトペテルブルグの軍教導課……要するに未だにハウサーの下で『教官になる為の教導』を受け、4月1日付で副教官に就任したらしい。
直接教導だけでなく、後任の育成にも余念がないハウサーは流石である。
とりあえず、ヴォスコボイニクも史実と違って無事なようで何よりだ。
そんな訳で初めてヴァトゥーチンと会ったときはカミンスキーは初期の士官教育を修了して少佐。その後は実地任務に就き中佐となり、ハウサーからも……
『経験は乏しいが、能力的には歩兵旅団程度は率いれるだろう。訓練でやれることは全部こなした。本当の経験は戦場じゃないと積めん』
という太鼓判を貰いこうしてノブゴロドに着任したのだ。
サンクトペテルブルグ市民軍の慢性的な従軍経験者不足という前提はあるが、参入時期を考えればスピード出世もいいとこだろう。
逆にこれまでが早すぎただけで将官となるには、ハウサーじゃないが相応の経験を積まないと難しいだろうが。
そして、カミンスキーは大佐として”サンクトペテルブルグ市民軍ノブゴロド第1歩兵旅団”、定数一杯の8000名強を率いることとなった。
赤軍は、連隊の集合→師団よりも大隊の集合→旅団という編成を重視する。
そして、ヴァトゥーチンも元赤軍将官らしく旅団編成を基本としており、戦車、重砲、歩兵など各兵科合計20旅団編成という形で統括・指揮するようだ。もっともこれはトハチェフスキーをはじめとする赤軍大粛清の影響で熟練軍人、特に経験ある高級将校が激減して全体練度が低くなり、師団を指揮できる人材が不足した結果、それより難易度の低い旅団規模を戦闘単位とするという苦肉の策だった。
逆に言えば戦意は高くても初陣を経験していない新米が多い今のノブゴロドにも最適な編成だった。
蛇足だが、実は史実でもバルバロッサ作戦で戦争の初期に大敗を決した理由の一つがこの指揮官・司令官不足で、明白な自業自得であった。
そして今生では、その傷口は史実以上の度重なる大敗で広がっていた。
だが、その結果が回り回ってカミンスキーはノブゴロドに20名しかいない旅団長となり、今やノブゴロド方面軍の立派な幹部であった。
別の言い方をしよう。
史実と全く異なる意味と完全装備充足・完全編成の堂々とした軍勢で”カミンスキー旅団”は、颯爽と歴史の表舞台に姿を現したのだった。
自分もウラソフと同類(脳焼かれ組・こんがりロースト派)だということに気づいていないヴァトさんがちょっと可愛い(挨拶
という訳でカミンスキー君だけでなく、前にチラッと名前が出てきた心強い事務系助っ人ジレンコフ君もノブゴロド入りしたみたいです。
専門分野は違いますが、二人とも「粘り強く戦う」のは得意な方ですから、きっと活躍してくれると思います。脳焼かれ組”同志”ですしw
事務仕事できないと実権ある要職にはつけない今生のドイツ軍、「普通の軍隊」なんですよね~。
まあ、まともな詳報を提出できない司令官とか、害悪なだけですしね~。
ヴォスコボイニク元たいちょーは無事に教官職にジョブチェンジするようですし、概ね史実よりは幸運かな~と。
いや、まあこの先の激戦考えると、あんまり幸運と言えない気もするけど。
そして、地味にサンクトペテルブルグに居ついているハウサー教官w
この人、ドイツ国防軍の中将閣下な筈なんですが……実は隠れ脳焼かれ組?
クルスにしては、「今のところ」生前に守護聖人にならなかっただけ頑張った方かも?
次回は、ボトムアップ形式(?)で装備確認でもしていこうかと。
次回もどうかよろしくお願いいたします。