一行さんの「写真の一枚すらない」カタガキナオミにとってWizの履歴が持つ意味は大きかったのではないかと勝手に思って書きました。
一部、スピンオフ『ANOTHER WORLD』第一話の内容を含みます。ネタバレにご注意ください。
1
鞄の奥底からサブ機を取り出す。もう十年以上も前の機種だ。そろそろバッテリーの持ちがヤバくなってきてはいるが、まだまだ動く。——いや。まだ、動いてもらわねばならない。
今時すっかり見なくなった指紋認証でロック解除すると、一昔前のウィジェットが並ぶホーム画面が現れる。サービス終了して久しい5G時代のアイコン達。そのうちのひとつをタップする。すぐにカラフルな画面が立ち上がる。今ではもうほとんど使われなくなったメッセージアプリ、Wizのスクリーン。
そこに表示される文字列は、今でも一字一句正確に諳んじることができる。忘れられるわけがない。だけど今日もまた、そのメッセージを開いてしまう。
「わかりました。では明日、19時に京阪宇治駅で」
タイムスタンプは、二〇二七年七月二日二〇時五七分二四秒。
それが、彼女がくれた最後のメッセージだ。
かつては後悔の念に苛まれてWizを起動できない日々が続いたこともあった。それも大学二年次の秋に終わった。
手のひらのうえでぼんやりと光る画面から、彼女の生きた体温が伝わってくるような気さえする。このWizの一連のトーク履歴が、手元に残る彼女の唯一の「記録」なのだ。これまではそうだった。なにしろ、彼女の写真の一枚すらなかったのだから。
しかし、それと同時に、このメッセージは本来、在ってはならないものでもあるのだ。
このやり取りさえなければ。あの日、京阪宇治駅で、彼女と待ち合わせさえしなければ。
このメッセージを見るたび、恋慕とも悔恨ともつかない相反した感情が胸を締め付ける。
今、なすべきことを、俺はわかっている。
このメッセージが存在しない世界を作り出すこと。
そしてそこから、彼女のすべての記録を取り戻すこと。
それが、俺の悲願だ。
履歴をスクロールする。「最強マニュアル」の作成中に幾度となく参照したトークが目の前を流れていき、次第に俺の脳裏は学び舎の遠い思い出をプレイバックし始める。一番古いメッセージは、そうだ、二〇二七年五月——
2
五月のあの日の情景は、今でもありありと思い出せる。放課後の図書室のカウンター。少し開いた窓から流れ込んでくる初夏の少し淀んだ空気と青葉の匂い。微かに聞こえてくる金管のロングトーンとグラウンドの喧噪。機械音痴の彼女のスマホにどうにかこうにかWizをインストールし、ようやく交換したアドレス。手のなかのスマホがぶるっと震えて、浮遊するバルーンに現れた「Ruri」の四文字を見た瞬間、僕の心も小さく震えた。
彼女からのメッセージはいつも簡素だった。
僕はと言えば舞い上がりすぎて距離感も常識も完全にバグっていて、彼女が貸してくれた本の感想を「読書ノート」のノリで延々と書いて送信してしまい、あとで冷静になって読み返すとあまりの長さにドン引きした。送信してから半日後(彼女は数日に一回しかスマホをチェックしていなかった)、ひとこと「ありがとうございます」というリプライが届いた。
それだけだった。
あああ……やってしまった。その夜は布団の中で自己嫌悪になりながら一人悶々としていたのを覚えている。
翌日の図書委員会で会った彼女は、僕の感想に対して簡単なお礼を述べ、まだスマホに慣れなくて長い文章を入力できないことを詫びた。
……どうやら嫌われたわけではなかったみたいだ。ほっと胸を撫で下ろして、こちらも謝る。
「その……こちらこそ、すみません。いきなりあんなに長いメッセージを送っちゃって。引いたんじゃないかって……」
そっと彼女の顔色を窺う。彼女は表情を変えず真顔で答える。
「もともと文章を読むのは好きですから、何の苦でもありません。それに」
続く彼女のことばに、僕ははっとさせられる。耳がかあっと熱くなる。
「本が好きな人が熱く語る文章は、読んでいて楽しいものです」
そんなふうに始まった僕らのWiz交換は、実際にはそれほど頻繁ではなかった。そしてそれはまた、ひどく非対称でアンバランスなものだった。
数日に一回程度、本を貸し借りしたタイミングで、僕が感想を長文で送りつけ、彼女は簡素なメッセージを寄越す。僕のほうは調子に乗ったエスカレートと自己嫌悪を繰り返していたけど、彼女の短いメッセージには本への愛情がにじみ出ていて、それがとても愛おしくてこっそりスクショを撮ったりした。いざ彼女を前にすると言いたいことの十分の一も言えなくなるから、それがさらに僕をWizに向かわせた。とはいえこちらも本の感想以上の何かを書きたい気持ちとそれはやめろという気持ちが拮抗して、書いては消し、書いては消しを繰り返し、書き上げるのに一時間以上かかってしまうこともざらだった。
そんなやりとりが六、七回続いた。SFが好きなことは直接カミングアウトしてはいなかったけど、多分貸した本の傾向からうすうすバレていただろうと思う。
彼女のほうは、カウンター当番の時に本の感想を直接伝えてくれることも結構あった。やっぱり一言二言だったけど、自分の好きな本を誰かが読んで感想を伝えてくれるのはこんなに嬉しいことなんだと初めて知った。
こちらも話し下手なりに会話を続けていくと、Wizでは伝わらないような彼女の人となりやものの考え方が少しずつ分かってきた。彼女のことをもっともっと知りたくなった。どんな本を読んできたのか。週末は何をしているのか。今日はどんな嬉しいことや悲しいことがあったのか。彼女も決して饒舌ではなかったから、本の話題から先に進むのは容易ではなかった。それでも彼女との会話は何だかとても楽しくて、彼女との間に共通項が見つかると無性に嬉しくなった。
共通の話題をもっと増やしたくなって、次に僕が貸し借りの対象に選んだのは近未来の京都を舞台にしたSF小説だった。彼女の家の近所も、昨日一緒にリヤカーを引いて歩いた鴨川の周辺も登場する。これならあの感覚、自分自身が物語の一部になれたみたいな気分をきっと味わってもらえるに違いない。それにこの作品のアイディアとか文体を僕はすごく気に入っていて、そんな久しぶりの「大当たり」をそろそろストレートで投げてみて彼女の反応を見てみたかった。好きなシーンやフレーズの話で盛り上がる会話をあれこれ妄想して、僕の心は躍った。
今日の放課後は図書委員全員で彼女の家から大量の古本を運び出すことになっている。明後日の古本市に提供するためだ。集合場所の図書室に向かう途中で彼女の後ろ姿を発見し、呼び止める。
「あの、一行さん。今週の本を持ってきました」
振り返った彼女に、満を持して今回の本を手渡す。とっておきの自信作だ。
「ありがとうございます」
いつもと変わらぬ調子で彼女は本を受け取り、小首をかしげてパラパラとページをめくってみたりしている。
「その、またSFなんですけど京都が舞台なんです。僕らの知ってる場所がたくさん出て——」
言いかけた矢先、図書委員長や先輩達が目の前を横切って図書室に入っていった。またあとで、と彼女に目配せして僕らもあわてて中に入った。
そして。
その本の感想を僕が彼女から受け取る機会はついになかったんだ。
3
事件が起こったのはその日の深夜だった。
翌朝、知らせを受けて向かった校舎裏にはもう人だかりができていて、人垣の合間から紙の焦げたにおいがした。本が燃えたといってもほんの一部だろうという淡い期待は、昨日までは古本の山であった真っ黒な物体を見た瞬間に完全に打ち砕かれた。人混みの中に、彼女の後ろ姿が見えた。呆然と立ち尽くす彼女の周囲は完全に時が止まっていて、とても声をかけられる雰囲気ではなかった。授業中も、図書委員長から古本市中止の連絡が告げられたときも、彼女の横顔を斜め後ろからストーカーみたいに窺うことしかできなかった。堀川蛸薬師のバス停に一人で佇む彼女を見つけて、逡巡しているうちにバスがやって来て、彼女を乗せて走り去った。そうしてそのまま僕ものこのこと家に帰ってきてしまった。
その翌日のカウンター当番は朝から気が重かった。何を話せばいいかわからない。この状況で本の話をできるほど僕もメンタルは強くない。
「……雨、多いですね」
「……」
梅雨特有の息苦しい空気がカウンターを包み込んでいる。
「嫌いってわけでもないですけど、持ってる本が濡れちゃうのは、嫌だなあって」
「……そうですか」
彼女の返答には何の感情もなかった。もはや絶望すらなかった。無だった。
頭の中で次に言うべき言葉をシミュレートする。却下する。それを何回か繰り返す。その間、沈黙が続く。音もなく膨張し続ける居たたまれなさがついに閾値を超えて、これ以上会話を続けることを僕はそっと断念した。
本来なら今頃は、古本市が開催されていたはずの時間帯だ。他の生徒達も気を遣っているのか、図書室はいつもより閑散としていて当番の仕事もほとんどない。読みかけの本を開く。読み始めてみる。だめだ、内容がまったく頭に入ってこない。活字の上を目が滑る。そっと本を閉じる。
隣に座る彼女を正視できないまま、長い長い時間が過ぎて、当番が終わった。彼女と僕は無言でパソコンを立ち下げ、日誌に記入し、ゴミを捨て、戸締まりをする。いつもは名残惜しいバス停までの短い道のりを、僕らは黙って傘を差して歩いた。
別れ際に何かひとこと声をかけなければ、と思った。けど、僕の口から絞り出されたのは。
「あ……。お疲れ様……でした」
そんな月並みな言葉だった。それがやっとだった。言ってから自分を恥じた。
彼女の唇がかすかに動いたような気がしたけど、声は雨音にかき消されたのか何も聞こえなかった。
勉強机の前に座る。窓を叩く雨は夜になって激しさを増していた。力なく歩く彼女の姿を、光の消えた瞳を何度も反芻する。彼女の苦しみが心に流れ込んできて、自分も息が詰まりそうになる。
今、彼女は打ちのめされている。失意のどん底にある。
それだけは僕にもわかる。
でも今日の僕は、まるで何もできなかった。話し下手でコミュ障という側面を否応なしに自覚させられただけの一日だった。情けなかった。不甲斐なかった。
机の上に置かれたスマホに目をやる。
今日、会話を半ば諦めた頃から、うすうす考えていたことがあった。
話すのが無理だとしても、Wizなら。あるいは。
もともと「話す」より「書く」のが得意なほうだ。文章なら、送信前に何度でも書き直すことだってできる。このまま何もしないわけにはいかない。せめて、Wizで。
スマホに手を伸ばしてWizを起動する。すぐにカラフルな画面が立ち上がる。「一行さん、」と入力する。何か。何か慰めの言葉をかけなければ。こんな時こそ、いつも僕を助けてくれる彼女の力になれれば。彼女を助けたい。少しでも彼女の心を楽にしたい。たくさんの言葉を尽くしてでも、彼女を救いたい。
なのに。
言葉が出てこない。
本の感想ならいつも止まらないのに。言葉が溢れ出てくるのに。こんな時に限って、なんと書いたらいいかまるでわからない。必死で語彙をたぐり寄せようとする。だけど僕の手は虚空を掴む。「今回のことは本当に」ようやくここまで書いて、やっぱり全部消す。だめだ。本当に……「残念」? そんなことを書いてどうする? 馬鹿じゃないのか。だいたい、僕が彼女を助ける? 彼女の力になるだって? 何様のつもりだ。むしろ迷惑だ。僕は空っぽの人間だ。こういう時になんの言葉も出てこない、ただの子供だ。
検索ボックスに「友達 励ます 例文」と入れかけて、自分のあまりのみっともなさに失笑が漏れる。そこそこ本を読んできてこのざまだ。自分自身の言葉で誰かを励ますことすらできない。マニュアルどおりのことしかできない。いや、それ以下だ。入学当初に買った『決断力』の本さえまるで役立てられなかった。たとえ未来のすべてが記された最強のマニュアルがあったって僕は何もできないだろう。借りてきた言葉だけを並べて悦に入ることしかできない人間だ。薄っぺらい言葉をかけたところで、余計彼女を苦しませるだけだ。
僕じゃ彼女を救えない。
何をやってたんだろう。ちょっと仲良くなったくらいで舞い上がって。すっかり彼女の理解者になったつもりで。調子に乗ってWizのやり取りなんかして。あんな自分語りの長文を毎回送りつけたりなんかして。そんなもの、誰も望んでいやしない。彼女は義理で付き合ってくれていただけだ。今頃気づいたのか。僕は。
かすかに震える指でトーク履歴をスクロールする。文字のみっちり詰まった長文の吹き出しがいくつも画面を流れていく。身勝手すぎた自分語りの醜悪さに思わず目を背ける。
なのに。
長文の海の中に浮かぶいくつかの文字列が目に留まる。借りた本の感想の断片。目を背けていたはずなのに、それが見えた途端、僕の脳は否応なしに鮮やかなイメージをふたたび描き出してしまう。これまで、彼女が貸してくれた本の作品世界。刃が閃く江戸初期の吉原や、板きれに乗って漕ぎ出す大海原や、遥か未来の月面都市で、繰り広げられる息をもつかせぬ冒険活劇。それらの喚起する想像力はあまりに強大で、ほんの一瞬だけ僕は悲しそうな彼女のことも情けない自分のことも忘れて、その光景のただ中にひとり放り出される。言葉とイメージが怒濤のように溢れ出て、色とりどりの結晶になり、光の渦になって、世界そのものを書き換えようとする。その奔流に僕の無力感は押し流される。その瞬間、僕はようやく把握する。
あんな長文を自分に書かせたのは。
衝動的にあれだけの言葉を溢れ出させたのは。
彼女が貸してくれた本の力だ。彼女の人生の一部分を確実に形作ってきた沢山の本の持つ力だ。
僕は思い出す。図書室のカウンターでページを繰る彼女の横顔を思い出す。読書中、彼女はまるで周りが見えなくなる。この世界の一切を忘れて、物語に没頭する。つらいことも悲しいことも忘れて。たった今、僕がほんの一瞬だけ、この世界の不条理から解き放たれたように。
——
僕じゃ彼女を救えない。
だけど、本なら。
本なら。
きっと。
図書館はもう閉まってる時間だけど、大垣書店の四条店か本店ならまだ開いているはずだ。立ち上がる。鞄を引っ掴む。いったん閉じてしまいかけたスマホを、思い直して再度取り出す。Wizを起動する。もう一度だけ、ダメ押しのように、履歴をスクロールする。彼女から借りた本の情報を必死で頭に叩き込む。僕の好きな本を勝手に押しつけるんじゃなくて。彼女が絶対に好きそうな本を。あるいは、趣味とはちょっと違うかもだけどきっと没頭してくれそうな本を。
彼女を救う本を。
4
Wizのトーク履歴が復活しているのは宇治川花火大会の前日。つまり、勢いで告白してしまったあとだ。告白したらしたで、やっぱりWizに何と書いたらよいかわからず、書いては消してそのまま数日放置してしまうという痛恨のミスを俺は犯した。
だからそれ以降の履歴は、待ち合わせの時間や場所の確認のための、たった一往復の会話だけだ。
完全に浮かれている自分の書き込みは何度見ても馬鹿丸出しだが、それ以上に、本の感想だらけだった履歴のなかで唐突に始まって終わるそのやり取りはあまりに異質だった。
それは本来、この世に存在してはならない会話だった。絶対に、だ。
「明日の待ち合わせ、やっぱりJR宇治駅じゃなくて京阪の宇治駅前にしましょう。その方がお互いにアクセスしやすそうですし、会場にも近いので。集合時間は昼に話したとおり19時で。楽しみにしています!」
「わかりました。では明日、19時に京阪宇治駅で」
この会話さえなければ。
この時点で予定を変更していれば。
人は過去を変えることはできない。それは因果律に反する行為だ。たくさんのSFを読んできたからこそ、そのことは痛いほどわかっている。
しかし、だ。
「記録の改竄」は、可能だ。
量子記録を改竄して、こんな会話の存在しなかった世界、彼女が花火大会に参加しなかった世界を作り出せれば。そして、その量子記録を取り出すことさえできれば。
もう一度だけ、彼女の笑顔を見ることができれば。
感傷は終わりだ。Wizを閉じ、塗装が剥げたサブ機を再び鞄にしまって、俺は
俺は。
エンターキーを押す。
5
「以上が、明日の段取りだ。なんとしても一行瑠璃を宇治から遠ざけろ」
「わかってます、先生」
ベランダの網戸から流れ込む熱帯夜特有の空気が京都の夏の到来を感じさせる。
ようやくここまで来た。この三ヶ月間、俺と
あいつには、絶対に宇治川花火大会の「う」の字も口に出さないようにきつく口止めしておいた。もちろん花火以外のデートもNGだ。どれだけ調整しても影響は必ず出るから、落雷以外の不幸が彼女を襲う可能性も十分にある。外出したら何が起こるかわからない。家で大人しく読書でもしておいてもらうのが一番安全だ。直実に頼んでわざと分厚い本を無理やり何冊か貸し付けさせた。これらに加えて当日の夜に彼女の家の周囲を見張っていれば万全だろう。
それでもなお、アルタラの自動修復システムが「本来の記録」を修復しようとしてくる可能性は否定できない。その場合に備えた最後の切り札がブラックホールだ。落雷に限らず、あらゆる脅威から彼女を守るもっとも汎用性の高い手段であると同時に、自動修復システムの効力が及ばない
ホワイトボードを模した立体映像をジェスチャーで消去する。最後の作戦会議はこれにて終了だ。もう俺から教えることは何もない。直実も満足げな表情で、入浴しに部屋を出ていった。早速、シャワーの水音が廊下の奥から聞こえてくる。
この部屋もこれで見納めだ。一人取り残され、手持ち無沙汰に本棚を見渡す。一番本を読んでいた時期はたしか高一の頃だった。大学に入ってからは勉強や研究のための本がメインになり、乱読からはめっきり遠くなってしまった。懐かしい背表紙を眺める。意外と内容を覚えている自分に少し驚く。
その時。
ピロン。
Wizの通知音が鳴った。
俺はゆっくりと振り向く。机の上に視線を向ける。置きっぱなしになっていた直実のスマホのバックライトがぼんやりと光っている。ロック画面に「一行さん」と書かれた通知が出ているのが見える。
いやな予感がした。
まさか。
時刻を確認する。
二〇二七年七月二日二〇時五七分二四秒。
——時分秒まで、完全に一致している。記憶してしまうほど何度も見返したタイムスタンプ。
まさか。そんなはずはない。
「あの会話」が、この記録世界で起こるはずがない。これまで手を尽くしてあらゆる可能性を抹殺したはずだ。この世界であんなことがあってはならない。仮にあの会話ではないにしても、今このタイミングでWizの通知が来たこと自体、普通ではない。直実からは何も送っていないのに、彼女から今メッセージが来る理由がまったくない。彼女は自分からWizをくれるタイプではない。
そういえば最近やたらと狐面の異形の者を見かけることが多かった。アルタラの自動修復システムがそのような形で俺達に見えているのだろう。もしや、やつらによって、可能性を徹底的に潰したはずの「宇治川花火大会に行く未来」が再構築されようとしているとでもいうのか。それほどまでに量子誤り訂正機能は強力なのか。システムはそこまでして、彼女の事故の記録を「正史」としようとしているのか。
きっと考えすぎだ。そう頭ではわかっている。俺はあまりにあのタイムスタンプの呪縛に囚われすぎている。それでも何千回と眺めたあのメッセージがまぶたの裏でフラッシュバックする。この身はアバターのはずなのに、仮想の心臓は心拍数を増加させ、仮想の喉はカラカラになる。思い出すのは、あの絶望の文字列だ。二人の未来を奪った、決定的な文字列だ。
《わかりました。では明日、19時に京阪宇治駅で》
やめろ。それだけはやめてくれ。
そんな未来を修復しないでくれ。
このメッセージの発生しない未来だけを、宇治川花火大会に行かない未来だけを、俺はずっと望んできたというのに。
立ちすくむヘタレな俺に代わり、量子記録エンジニアとしての俺は一足先に冷静さを取り戻す。そしてしばし葛藤する。アバターの俺に物理権限はないが、システム権限を使えばあらゆる量子記録情報の「読み出し」だけはできる。だから他人のWizの着信内容も閲覧だけは可能だ。ただ、さすがにあいつのWizを盗み見るようなことはせずにここまでやって来た。プライバシーの問題というよりは、必要がなかったからだ。直実は俺の最強マニュアルに沿ってメッセージを送っていたし、時折報告される彼女の返事も記録にあるとおりの内容だった。
——これまでは。
しかし今、メッセージが来るはずのない状況で通知があった。自動修復システムが彼女をなんとしても事故に遭わせようと強権発動する可能性は否定できない。すでに彼女に何らかの干渉がなされているのかもしれない。例えば彼女の側から花火大会へのお誘いとか、その類いかもしれない。そしてスマホの持ち主は、いまだ風呂から出る気配がない。
常に最悪の事態を想定せよ。それがエンジニアの鉄則だ。リスクの芽は摘んでおくべきだ。
もう、これ以上、後悔はしたくない。
俺は腹を括った。Wizの着信内容を転送して目の前に投影させる。
目に飛び込んできたのは。
予想外に密度の高い文字の群れだった。
「堅書さん、こんばんは。
「スマホでこのような長い文章を書くのは初めてですので、読みにくかったとしたら申し訳ありません。
「古本市の前にお借りした京都のSF小説の感想です。」
その先には合計二十三行の文章が続いていた。画面の三分の二が文字だらけのバルーンで埋まっている。彼女にしては驚異的な長さのメッセージだった。彼女のスマホスキルなら、これだけの分量を書くのにも三、四時間はかかるだろう。
新たな本を直実が大量に貸したので、読みかけだったのを加速して一気に読み切ったのだという。見知った京都各所を駆け回る主人公達の冒険譚に興奮しているのが文面から伝わってくる。宇治川花火大会の話は痕跡すらなく、俺は安堵した。
彼女の感想は
とはいえ、俺にも真っ先に読めるくらいの役得はあっていいだろう。何しろ、こちらは十年も待っていたのだ。それに、あいつが風呂に入っていて良かった。またこんなぐしゃぐしゃの情けない顔を見られるのは癪だからな。
頼むから、今日はもうちょっとだけ長風呂しててくれよ。
そう念じながら、俺は何度も何度も繰り返しその熱量のある長文を読み続けた。
(了)
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[FAQ]
Q. 待ち合わせはJR宇治駅ではないのか。映画にはJR宇治駅のカットがある。
A. 「最強マニュアル」作成時のナオミのメモにあった「京阪で待ち合わせ」という文字列を参考にしています。ただ、映画にJR宇治駅が登場するのは確かなので、実際はそうだったのかもしれません。
Q. 「京都を舞台にしたSF」は具体的にはどの作品か。
A. 特に決めていないので想像にお任せします。ただ、執筆中は2つほど作品を思い浮かべていました。野﨑まど『know』と長谷川京『パンデモニウム・ダラー』です。
Pixivに投稿したものの再掲です。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=18384195
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