瞼の奥に感じる柔らかな薄明かりに、トグサは目を覚ました。案の定、真っ先に襲ってくるのは腰と背中の鈍い痛み。アパートを借りられたのは良かったものの、つい先日まで空室だった部屋には当然ながら家具などの類はなく、やむを得ず寝袋で仮眠を取った結果がこの有様だった。流石にフローリングの上で寝るというのは、生身の体には中々堪えるものがあったようだ。
昨日から武田邸の監視を続けているバトーとトグサ。交代で仮眠を取りながら夜間も監視に当たったものの、得られた情報は少なかった。
基本的に屋敷には人の出入りはほとんどなく、昨日も玄関のドアが開いたのは家政婦が郵便受けに入った新聞を取りに来た時の一度きりだった。その上、持ち込んだ電波傍受用の高感度アンテナを使っても、屋敷の通信を傍受することはできなかった。不自然な電磁ノイズが頻繁に観測されることを考えると、屋内からの通信を遮断するために6課が局所的な電波妨害を行っているのはほぼ確実だった。
「起きるの遅えぞ、もう家政婦がゴミ出し始めてるだろうが」
カーテンの先から突き出した高倍率望遠鏡を覗きながら、バトーが文句を言った。片手にはサイボーグ用のサンドイッチが握られ、大きく口を開けてはムシャムシャと頬張っている。よくあんな物を食えるなあ、とトグサはそれを見ながら常々思っていた。まあ、サイボーグでも人間であることには変わりはない以上、栄養は取らなければならない。それに、サイボーグにとって食事は栄養を取得する
代わって望遠鏡を覗いてみると、紺色のエプロンをつけた昨日の同じ家政婦がせっせと大きなゴミ袋を両手に抱え、歩道を歩いている姿が目に入る。袋をやや引き摺りながら運んでいくあの様子から考えると、彼女はほぼ生身と考えて良さそうだ。やがて、ゴミを出し終えた彼女は、ゆっくりと元来た道を戻っていく。
少々金を出せば掃除・洗濯・炊事といった大半の家事をこなせるアンドロイドが手に入る世の中で、わざわざ人を雇っているのは珍しい話だった。やはり、武田氏は少し古いタイプの人間なのかもしれない。
「見た限りでは彼女まで尾行する要員はなしか。でもまあ、監視はされているだろうな」
そう呟くトグサ。マイクロテクノロジーが発達した今の御時世、どこにセボットが紛れていてもおかしくはない。それに、セボットに限らずマイクロチップをポケット等に忍ばせておくだけでも、位置情報や音声を取得することは容易だった。彼女が怪しい人間と接触したら、すぐにそれは6課にも筒抜けになってしまうだろう。
正門を抜けた彼女は、やがて玄関のドアを開けると家の中に入る。隙間から一瞬だけ家の中の様子が見えたものの、当然ながら特段の異状は見受けられない。
「武田氏の姿は見えたか?」
「いや、何も。窓の方も相変わらずレースのカーテンが張られていて、中の様子は全く分からない。旦那の方は?」
「熱探知だと3階に2人。1階にさっき入っていった家政婦の1人だ。普通に考えれば3階の2人のうちのどっちかが武田って爺さんで、もう1人が6課ってとこか。まあ、もっといるだろうがな」
バトーがカメラの熱赤外映像を見ながらそう答える。基本的に、こういった任務ではツーマンセルすなわち2人一組以上での行動がセオリーだ。今回のように対象者の軟禁も兼ねるような任務ならば、フォーマンセルでも何ら不思議ではない。
だとすると、残る人員は建物内かその周辺にいる可能性が濃厚だろう。バトーの見立てでは建物内に少なくともあと1人、昨日見つけたバンにも1人か2人はいるはずだった。先ほどの熱探知では反応は1人分しか出ていないが、熱赤外映像で探れるのはあくまで窓や薄い壁の後ろのみ。建物の奥や、反対側にいる人間は見つけることはできないのだ。
「はあ。ここまでくると武田氏も哀れに感じるな。襲撃されて殺されかけた上に軟禁とは」
「ふ、どうせ現役時代にろくでもないことでもしたんだろ。でなきゃ、こんな目には合わないさ」
トグサの言葉に、バトーが薄笑いを浮かべながらそう言った。
「でも、今までは軟禁なんて受けずに普通に暮らしていたのに、何で今さら6課に目を付けられたんだ?」
「それは分からん。考えられるのは脅迫でも受けて怖気付いたってとこだろうな。見本市では実際に殺されかけてる訳だし。それで今さら懺悔づいて、隠してた何らかの情報を明らかにしようとして、結果6課に目を付けられたんだろ」
「なるほど」
バトーの推測に納得するトグサ。確かに彼の予想が正しければ、今までの出来事の辻褄は合うだろう。武田氏も70を過ぎた歳で、普通に考えれば老い先は長くないと言わざるを得ない。そんな中で、死期を悟って考えを改めるというのは、あり得る話だからだ。もっとも、その”何らかの情報”というのが、どのようなものなのかを明らかにしなければならないが。
「話は変わるが、武田氏と連絡を取る手段は何か浮かんだか?」
「いや、ダメだ。固定回線、電脳通信ともに見張られている上に、屋敷に電波妨害が掛かっている可能性も考えると、盗聴器も使えない…。正直、突破口はあるのか?」
やや苛立ちの混じった声で、トグサはそう答える。それこそが、一番の懸案事項となっていることだった。いかにして、軟禁下に置かれている武田氏と接触するか。こうしてただただ監視を続けているだけでは、事態はいつまで経っても進展することはないのだ。
「確かにそうだな。回線が張られているんじゃ、迂闊に手は出せねえし。どこかに抜け穴でもあれば楽なんだがな」
冗談交じりでそう漏らしたバトーの言葉に、彼は苦笑いを浮かべる。言うまでもなく、そんなに都合よく抜け穴が存在するはずはなかった。何せ、相手は公安6課だ。普段から工作活動に長けている彼らともなると、文字通り抜け目のない監視体制を築いていると思われる。
だが、抜け穴という言葉を聞いた彼の頭に、一つあることが思い浮かんだ。
トンネル攻撃である。武田邸内のネットに接続されたデバイスのどれか一つさえ押さえられれば、それを起点に外部とトンネルを結ぶことが可能となる。暗号化された通信であれば、通信内容を傍受されたとしてもその内容が筒抜けになることはないのだ。
ただ、一つ問題なのがどのようにしてトンネルを掘り進めるかということだった。固定回線も6課が監視していることも踏まえると、正面から攻撃を仕掛けると確実に探知されることになる。外から強引にこじ開けるような方法では、密かにトンネルを掘ることは不可能に近いのだ。
ならば、どうすればよいだろう。深々と考え込むトグサ。真っ先に思い浮かぶのが、外側からではなく内側からトンネルを掘るという方法だった。外部からのアクセスに比べれば、内部からの通信なら傍受にさえ気をつければ弾かれる心配は少ない。
もっとも、屋敷内に協力者もいない今の状況でどうやって内部の端末を操作し、トンネルを掘るかが問題だが。気づかれないよう内部のデバイスにアクセスすることが出来ない以上、トンネル作戦も机上の空論に過ぎなかった。
やはり、トンネルを掘るなんてことは素人考えだったかもしれない。しかし、諦めかけた彼の頭に浮かんできたのは、見慣れた青い思考戦車の姿だった。
「旦那。タチコマを使えば、屋敷の敷地内に忍び込ませて内部のデバイスにアクセスできるんじゃないか。屋根に張り付かせれば、屋内の無線ネットにはアクセスできるだろうし」
トグサの言葉に、少しの間考え込むバトー。やがて、彼が考えていることを薄々察したのか、軽く頷くと落ち着いた口調で話し始める。
「タチコマか?まあ、確かにあいつは光学迷彩で姿を隠せるから、屋敷の屋根に張り付いても気づかれる心配はねえだろうな。けどよ、問題なのが電波妨害だ。屋根に張り付いても屋内のネットに無事にアクセスできる保証はないぜ。有線のネットにしろ、都合良くケーブルにありつけるか分からない以上無理だ」
バトーの反論はもっともだった。姿を隠して敷地内に忍び込んでも、そこから宅内のネットにアクセスする方法がどうしても思い浮かばない。ここに来て、八方塞がりに近い状態だった。厳しい面持ちのまま、押し黙ってしまう2人。
そんな中、不意にタチコマの声が電通を通じて彼らの脳内に響く。
《聞いてましたよバトーさん!それならボクに任せてください》
《任せるって、お前、何かいい考えでも思いついたのか?》
《えっへん!アンテナですよ。テレビアンテナのケーブルを通じて屋敷内のテレビにウイルスを流し込めば、大半の機能は掌握できるので、そこからトンネルが掘れるかもしれません》
流石はタチコマだった。確かに、近年のテレビはネットに負けないよう高付加価値化を狙い、高画質の放送を受信し膨大な量のデータを処理できる。端末としての処理能力としては申し分ないだろう。その上、受信機器のファームウェアアップデートは放送電波を介して行われるため、ケーブルからアップデートファイルに偽装したウイルスを送り込めば、彼の言うようにテレビを踏み台にトンネルを掘ることができる可能性は高い。
まだ素直に喜ぶわけにもいかないものの、ようやく希望の光が見えてきた。流石のバトーも思わず表情が綻ぶ。
《お前にしちゃ、なかなかの発想じゃねえか。見直したぜ》
《えへへ、バトーさんにそんなこと言われたら、何だか照れちゃうなぁ…》
バトーに褒められてすっかり照れるタチコマ。問題は課長の許可を得られるかどうかだろうか。タチコマを使えば光学迷彩で姿を隠せるとはいえ、どのみちハイリスクであることには変わりはないのだ。6課が相手だということも考えると、作戦に当たっては相当用心しなければならないだろう。
でも、これで突破口は見つかった。後は屋敷に本当に武田氏がいるのか確認し、6課の警備態勢を徹底的に調べ上げるだけだ。それさえできれば、タチコマによる潜入作戦はいよいよ現実味を帯びてくる。
ちょうどその時、屋敷で動きがあった。
どこからともなく正門の前に現れたのは、ジャケットを羽織った2人組の男。彼らはそのまま門を抜けると、何食わぬ顔で玄関へと入っていく。屋敷からやや離れた十字路の手前に停められているグレーのセダンを見ると、それに乗って来たのだということは容易に想像がついた。
「屋内の人間の動きは?」
「1階の東側から1人出てきた。やっぱり奥の方にいたんだな。で、そのまま今入ってきたうちの1人と代わったぜ。3階の方も同じだ」
やがて、再び玄関が開くと同じような身なりをした2人組が出てきた。正門を抜けると、一人は呑気に欠伸をしながら、坂道になっている道路を降りていく。その先には先に入っていった2人が乗ってきたと思われるグレーのセダン。彼らはそれに乗り込むと、間もなく発進させて住宅街を去っていく。しばらくの間、トグサはセダンの行方を望遠鏡で追っていたが、やがて幹線道路に出たところで追跡を打ち切った。
「交代要員ってとこか。だいぶ暇してるようだな」
欠伸をしていたところを彼も見ていたのか、バトーは再び薄ら笑いを浮かべながらそう言った。考えてみれば、一日中こうして屋敷の中に籠もって監視任務に当たる訳だから、いくら6課の課員といえども退屈で仕方のないのかもしれない。まして、見本市以降は今日に至るまで襲撃を受けていないのも踏まえると尚更だろう。
だが、これで6課の警備状況も把握できた。屋敷の中にいるのは、おそらく2名で間違いはない。後はキーマンとなる武田氏らしき姿があるかどうかだ。
「武田氏と思われる人影は?」
「3階の西側の部屋で、交代中も座ったままの人影が見えた。体格も一致している。順当に考えれば、そいつで違いはねえな」
これで準備は整った。もっとも、あくまで熱赤外映像のシルエットだけで顔を確認したわけではないので断言はできないものの、それ以外の人間の動きから消去法的に絞り込むと間違いはない。
トグサは大きく息を吸い込むと、課長に電通をつなげた。
口々に文句を言う男たちが玄関を抜け、食堂に入ってくる。最初のうちは機嫌が悪かった彼らも、暖房の効いた温かい室内とほのかに漂うカレーの美味しそうな匂いに思わず表情が緩んだ。やがて、カウンターを通して配膳係から各々が食事を受け取り、テーブルにつくと食べ始める。その中には、サイトーの姿もあった。
これで潜入は3日目になっていた。最初のうちはすぐに何らかの怪しい兆候が見られるのではないかと警戒していたのだが、思いのほかそういったものは見られなかった。何事もなくネジの加工といった職業訓練を行い、1日また1日と時間が過ぎていく。朝礼の時間に流れるおかしな音楽と、祈りの時間というのが少々気になるところではあるものの、特段の異状は見受けられない。
自分が来た時から既にここに住んでいる入居者たちにも怪しまれない範囲内で話を聞いてはみたのだが、特に気になるような噂も立ってはいなかった。あらかじめ聞いていた話とは違い、意外とまともな宗教団体なのかもしれない。もっとも、そうと決めるにはまだ早過ぎるが。
「隣いいですか?」
声のした方に顔を向けると、痩せ型の細長い体格の男が立っていた。同じ部屋の佐藤という男だ。極度の小心者で、初日から自分の部屋で起こった喧嘩騒ぎに怯え切っていたのは彼だったはずだ。
「ああ、構わないぜ」
サイトーはやや食器をずらしてテーブルを開ける。彼は軽く頭を下げると、自分の食器を置いてカレーを食べ始めた。暫くの間、何も話すことなく黙々と食事を続ける2人。だが、半分ほどカレーがなくなったところで気まずくなったのか、おもむろに佐藤が口を開く。
「おたくは、どちらから?」
「札幌からだ。その前は東京。職を探して転々としている」
「はあ、大変ですねえ。私も札幌に来る前は東京にいました。どこもめっきり仕事が減っちゃいましたからね」
溜め息混じりにそう言った佐藤。戦後の復興も一段落し、以前は老若男女問わず誰でも身分の確認なしに雇うほどに深刻な人手不足だったのが、ここ最近は落ち着いてきたとメディアが伝えていた。彼もそのあおりを受けて職を失い、勧誘を受けてこの辺境の地まではるばる来ざるを得なかったのだろう。
サイトーの答えに、話せそうだと思ったのか、佐藤はカレーを口に運びながら再び喋りだす。もっとも、まだ緊張が抜けきれないのか、その目線はしばしば泳いでいたが。
「その顔、あなたも自衛軍に?」
「ああ、そうだが。それが?」
「…いえ。私も戦時中は普通科にいたので。ただ、帰還してからちょっと調子が悪くなっちゃって、このザマですよ。女房には逃げられるし、年金はろくに出ないし。あ、すみません…。」
つい愚痴ばかりを話してしまったことに、彼は深々と頭を下げた。サイトーは「構わない」と全く意に介していない様子で手を横に振る。正直なところ、彼も元軍人だったのはサイトーにとっても少々驚きだった。
ただ、ここにいる他の人間たちを見ても、体格と風貌からして明らかにその道の職業に就いていたと思しき者も多々いた。彼のように一見しても分からないような人間も一定数いることも考えると、札幌で聞いた退役軍人ばかりを集めているという話はあながち嘘ではなかったらしい。
しかしそれだけではこの組織を”クロ”だと決めつけるには不十分だ。意図的に退役軍人ばかりを集めているにしろ、軍人救済を目的とする運営方針なのだと説明されれば何も反論はできない。道警の潜入捜査官に仕掛けられていたようなウイルスに繋がる、決定的な証拠がなければ、9課といっても踏み込むわけにはいかないのだ。
サイトーが思考に耽っていたその時、食堂に突如として怒号が響き渡った。振り返ると、初日に喧嘩騒ぎを起こした同じ部屋の強面男__石原が、隣の席に座っていたと思しき大柄の男と睨み合っている。
「このハゲ、やんのかコラァッ!」
男の怒声が響く。周りからは「行け、やっちまえ!」と焚きつけるような声も聞こえてきていた。サイトーは立ち上がると、たちまち集まってきた野次馬たちの隙間からその様子を遠巻きに見つめる。一方、同じく食事を取っていた佐藤はテーブルにうずくまり、震えてしまっていた。
最初に手を出したのは大柄の男の方だった。遠心力を活かした力強い右フックが、石原という男に目掛けて打ち込まれる。だが、誰もが間違いなくフックが直撃したと思った瞬間、彼は素早く身を引いて既の所で攻撃を避けた。ブンという風を切る音が、サイトーの耳にも聞こえる。
あまりに一瞬の出来事に、大柄の男は何が起こったのか理解できなかったようだ。放たれたフックが虚しく風を切った後、僅かに流れる沈黙の間。しかし、すぐに躱されたことに気づいた男は、野獣のような叫び声を上げて再び石原に殴り掛かる。しかも、今度は間合いを詰めて至近距離から顔面にフックを食らわせようとしていた。
今度ばかりは躱すのは無理ではないか。その場の誰もが思う中、石原はあろうことかそれをやってのけた。瞬時に身をかがめて最初の一撃を芸術的な動きで避けると、2発目を繰り出す相手の腕をすり抜けてその顎に強烈なアッパーを叩き込む。その一連の動作には全くと言っていいほど無駄がなく、洗練されていた。
「ぐおッッ!?」
男は殴られた衝撃で頭を上に向けたまま、よろめいて後ろに倒れ掛かる。だが、ギリギリの所で踏ん張ったらしく、転倒することはなかった。ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、口から血を吐き捨てた男。間もなく、懐から銀光りするバタフライナイフを取り出す。
一瞬でその場の空気が張り詰めた。集まった野次馬の何人かは、一歩また一歩と後ずさりをする。それでも、ナイフを向けられた石原が怯むことはなかった。
順手に握ったナイフを振り回して襲い掛かってくる男に、彼は大きく横っ飛びをしてテーブルを乗り越えると、そのままそれを持ち上げて勢いよく相手側にひっくり返す。上に乗っていた幾つかのカレーが宙を舞い、辺りにぶち撒けられた。僅かに相手が怯んだ隙を見逃さなかった彼は、間髪開けずにその場の椅子を掴むと相手に殴り掛かり、握っていたナイフを弾き飛ばした。
激痛に顔を顰めながらも懸命にナイフを拾い直そうとする男だったが、彼がそれを見逃すはずもない。テーブルを乗り越えるや否や相手の体に強烈な回し蹴りを叩き込み、吹き飛ばされた男は隣のテーブルに激突する。もはや起き上がることも出来ず、男は押し倒されたテーブルの傍で倒れたまま、弱々しい呻き声を上げる。
だが、近づいていった彼は容赦せず再び男の体に鋭い蹴りを叩き込んだ。最初はくぐもった悲鳴を上げていた男だったが、何度も執拗に蹴り飛ばされるうちにいつの間にかぐったりし、黙り込んでしまう。
「お、おい、そこまでにしとけよ…な?」
あまりの様子に見かねた周りの何人かが声を掛けるも、彼は全く聞く耳を持たない。無抵抗の男の体に、次々と打ち込まれる蹴り。その場には絶えず鈍く生々しい音が響き、野次馬の中には目を背ける者もいた。一通り相手を痛めつけた所で、石原は止めとばかりに相手の顔面を踏み付けようと右足を大きく上げる。
「そこまでにしなさい」
突如、背後から聞こえる声。振り返ったサイトーの先にいたのは、大きめの丸型眼鏡を掛けた小柄の男だった。歳は50~60といったところだろうか。肩まで伸びた長い髪が印象的で、研究者を思わせるような独特の風貌だった。これまで潜入してきた中では、見た覚えのない人間だ。
邪魔をされた石原は腹を立てたのか、無言のままこの男を鋭く睨みつける。殺意を帯びた、突き刺すような視線だった。だが、それにもこの眼鏡男は全く動じない。余程、肝っ玉が据わっているのだろう。間もなく、彼の後ろから現れたのは黒装束の一団。まるで忍者よろしく黒いマスクで顔を隠し、素顔を見ることはできないものの、その立ち振舞いからサイトーは即座に彼らがただ者ではないことを見抜いた。
「チッ…」
あからさまに舌打ちをする石原。彼も同様にサイトーと同じことを察したのだろう。渋々両手を上げて、抵抗する意思のないことを伝える。
「君には、ちょっと”指導”が必要だね」
眼鏡男はそう言うと、黒装束の一団に命じて石原を取り押さえさせ、食堂の外へと連行する。すぐに後を追おうとするサイトーだったが、黒装束の2人が室内に留まり出入り口を塞いだため、迂闊に行動することはできなかった。諦めた彼は、仕方なくその場に留まる。
「石原さん、どうなるんでしょうか...。」
「さあな。まったく分からん」
ブルブルと震えながら訊いてくる佐藤に、サイトーは素っ気なくそう返す。
彼にとっても、それはもっとも気掛かりなことだった。
変わり種です。
まずは1年ぶりの更新となりましたことをお詫びしたいと思います。
これだけの長い期間、お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
今後についても、投稿ペースの保証はできかねるものの、一度書いた作品ですので何とか最後まで書き上げていきたいと思っています。皆様にはご迷惑ばかりお掛けして申し訳ないですが、最後までお付き合い頂けると幸いです。どうぞ、宜しくお願いします。