朱里は事務所から歩いて数分の場所にある、喫茶店「モンデンキント」の扉を開いた。朱里がここに来た理由は事務所で話すよりは落ち着いていられると思ったからだった。
扉についた鈴がカランカランと音を立てる。
「いらっしゃ…おや、朱里さんではありませんか」
「久しぶりです、ジョセフさん」
髭を生やした老人が入って来たお客に顔を向けると、嬉しそうな顔をする。朱里もこの人に会うのは久しぶりだ。
ジョセフ真月。コーヒーショップ「モンデンキント」の店長で、50代とは思えないほどの引き締まった体と凛々しい顔をしている男だ。
彼が経営する「モンデンキント」は木造平屋の、席も数個しかない小さな喫茶店だ。
ただ、朱里はこの雰囲気が好きだった。落ち着いた雰囲気の店がなんとも良い空気を生み出し、出されるコーヒーも安いうえに上手いと評判で、都内の隠れた名スポットとなっている。
朱里もこの店の常連客で、何度か通っている内にすっかり名前を憶えられてしまった。
「…今日はお友達もご一緒ですか?」
ジョセフは朱里の後ろにいる千早の姿を見つけ、驚いたような声を上げる。朱里が初めて他人をこの店に連れてきたのだ、驚くのは無理もない。
「…まあ、そうですね。奥の席に行ってもいいですか?」
「ええ、どこでもいいですよ。どうせこんな天気じゃお客さんも来ませんしね」
一応、ジョセフの許可を貰う。傘を脇にある傘立てに突っ込み、一番奥の席まで歩を進める。
「こうしてちゃんと話すのは初めてですね、千早さん」
「…そうね」
「…」
…会話が途切れてしまった。あまりにも会話が弾まない。
(…どういう人か分かんないんだよな、この人)
朱里は千早がどういう人間なのか…ということがよく分からない。なぜなら千早は他人と積極的に絡まない人間だからだ。故に彼女がどういう人間なのか…それを観察しても、その情報があまりにも少なすぎるため分からないという結論に至った。
そもそもそんな人間がどうして自分と話し合いの場を設けたのか…それが不思議でならないのだ。
(…とりあえずは仲を深めておきたいんだよな。この人、歌に関してはあずささんや貴音さんよりも上だから)
とりあえず分かる情報は、いつも事務所の端っこで他人と混じらずにイヤホンで音楽を聞いていることと、レッスンの時の態度は真面目…というのか、一人だけ取り組む姿勢が違う気がすることだけだ。何というのか…彼女は『夢』や『目標』などではなく『責任』や『使命感』によって突き動かされている、そんな感じがするのだ。
歌の実力は恐らくは事務所一。だがその性格の厄介さも事務所一。自分が前に言った「実力が高い奴ほど絡みづらい性格」をそのまま体現したような人物なのだ。
「…なんか頼みますか?」
「ええ」
千早の同意を確認し、朱里はテーブルにあるベルを鳴らした。
結局、ウエイトレスが頼んだ注文を持ってくるまで、この硬直状態は続くことになる。
※
如月千早という人物を一言で表すならば、「孤高」という言葉が一番似合うであろう。
恐らく事務所のメンバーの中では誰よりも実力が高く、それを高めるためには何を犠牲にしようとためらわない。千早にとって失って困るのは歌のみ。それ以外の物は失ったって自分には何の影響もない。
非常に生真面目な性格で、何事にも厳しい性格の少女であった。
…だが、その性格が故に、どこか融通が利かない少女でもあった。学校で所属している合唱部でもその性格が故に他の部員と対立してしまっており、その対立が原因で部活動に参加しておらず、実質的に退部扱いになっていた。
そんな性格な彼女は事務所でも浮いた存在であり、誰もが彼女を腫れもののように接していた。
だが1月前。新たなアイドル候補生が2人、この765プロに所属することになった。姉は金髪、妹が茶髪の姉妹だった。
結局、ウエイトレスが頼んだ注文を持ってくるまで、この膠着状態は続くことになる。
初対面、千早の感想はそうだった。あんなチャラチャラした姉妹、どうせあの合唱部と同じような不真面目な人たちに違いない。…自分よりも年下なのにスタイルがいいし。
千早の予想通り、その一人、星井美希はまさにそんな人物だった。実力はあるが性格はルーズでおおざっぱ。事務所でもソファを占拠して寝てばかり。妹の前では張り切っている姿を見せるが、そんな姿勢ではとてもプロの世界ではやっていけないだろう。私たちは部活をやっている訳ではないのに。
(所詮は才能の上で胡坐をかく子…か。合唱部で何人も見てきたようなタイプね)
…ところが、もう一人の少女、星井朱里は違った。
美希と同等かそれ以上の才能を持ちながらも、決して驕らず、常に向上を心がけて行動している少女。彼女の実力は、1カ月前までずぶの素人とは思えないほどの伸びっぷりだった。…このままいけばいずれ自分をも超える存在になるかもしれない。
千早は自分と同じような姿勢で取り組む朱里に、どこか親近感を覚えていた。それは孤独であるが故の寂しさもあったのかもしれない。
(…彼女なら私のことを分かってくれるかもしれない)
そして今日、偶々朱里が事務所を出て行こうとする瞬間に遭遇した。自分の横を通り過ぎようとする姿が視界に入る。
…気がつくと、千早は反射的に朱里の手を掴んでいた。
「朱里さん。…少し、いいかしら?」
…ただ、まずかったのは、彼女の癖で高圧的且つ下手くそな喋り方をしてしまい、朱里にあらぬ誤解をかけてしまったことだった。
※
「…へえ、クラシックが好きなんですか」
「ええ。ロックなんかも好きなんだけれど、やっぱりクラシックが一番音楽らしいって気がするから」
「あー、なんとなく分かりますよ。クラシックって歌詞が入っていませんけど、良い曲って分かりますもんね。うちの姉さんもよく聞いてますし」
「…朱里さんのお姉さん?美希のこと?」
「…ああ、違います。美希姉さんの上にもう一人姉がいるんですよ。今、大学生なんですけど、集中したいときに聞くらしくて」
数分後、朱里は何とか千早とのコミュニケーションを成立させることに成功した。どこかぎこちなさは感じるものの、会話のキャッチボールは何とか出来ている。
(質問を音楽方面から攻めて行ったのは正解だったな。こんなに上手くいくとは…)
千早と話していていくうちに、なんとなく彼女がどういう人間なのかが分かった。
…この人はアイドルを始める前の自分とどこか似ているのだ。他者に関わって欲しくないが故にガードを固くする。だが、その固いガードを潜り抜けて、ペースを掴みさえすればもうこっちの物。
その為には千早を釣り上げる餌…彼女が惹かれるような話題が必要だった。朱里はいつも彼女が聞いている音楽関連の話題が無難だと読んだ。恐らく千早は歌に対する興味が大きいため、それらの話題でまずは掴み、それをきっかけでどんどん話題を広げていけばいい。
そして朱里は注文したコーヒーが来た瞬間、千早にこの質問をぶつけた。
「…千早さんはさ、どんな音楽が好きなの?」
…作戦は大成功だった。音楽という大好物の餌に食いついた千早は、今までの苦労が嘘みたいに簡単に会話をするようになった。
…ただ、彼女の家族の話題になると、千早は触れられたくないような言い方ではぐらかすので、それらが上がるような会話はしなかったが。
(…決して話が通じない人じゃないんだな。単に口下手なだけなのか?)
意外にも朱里からの千早に対する評価は悪くなかった。必要最低限だけどちゃんとコミュニケーションはとれている。どこか怖そうな見た目と態度だけで勝手に自分が変なイメージを抱いていただけかもしれない。
と、ここで千早がある質問をしてきた。
「朱里さんは…どうして歌を歌うの?」
…随分と変な質問が来たものだ。思わず、眉を潜める。
「…?そんなの面白いからに決まっているじゃないですか」
朱里はさも当然であるように千早に言い放った。歌だけじゃない、ダンスや周りとの交流、それら全てが面白い。これほど心揺さぶられるものなど、死んだように生きていた以前には見つけたことがなかった。
そして朱里も質問を返す。
「千早さんは面白いから歌っているんじゃないんですか?」
「…私には、歌しかないから」
千早はどこか寂しげ…というか、彼女が時折見せる使命感が混じっているような声で呟いた。
「ふうん…」
朱里はそう言うと、コーヒーを啜った。
(…歌に人生を捧げる覚悟があるってことか?でも歌しかないって…いくらなんでも言い過ぎの気が…)
それに、まだ千早は未成年だ。未来への可能性とかがまだまだ十分にある齢。新しい何かを始めるのには十分すぎるほどの時間があるだろうに。それに彼女の魅力は決して歌だけじゃない。
一つの事にそれほど熱中できる性格、自分を高みまで追い込むストイックさ。これらはあらゆる物事に生かせる強力な武器になるのに。
(…まずいな。なんか変な空気になった)
ここで朱里は話題を切り替えることにした。
「…千早さんはどうしてアイドルになったんですか?」
「私は…一人でも大勢の人に聞いてもらいたいから」
「?どういうことですか?」
回答の意味が良く分からなかった。
「私は元々、歌手志望でアイドルを始めたのよ。アイドルであれば多くの人に見てもらえるから…」
…へえ、アイドルじゃなくて歌手志望でね。変わった志望動機だな。…というか、あずささんの動機と比べたら、かなりマシなんだろうけど。
(…ってことは、色々な仕事の話も聞けるかも。今までレッスンばかりで周りに聞く余裕なんてなかったし)
千早も確か、春香と同時期に入った子で、仕事も事務所内の子と比べると結構多いはず。その証拠に、マジックボードには春香と千早の名前が入っていることが多い。仕事もそれなりの場数を踏んでいるはずだ。
「じゃあ…次は千早さんが普段している仕事の話を聞かせてくれませんか?」
「…?どうしてそんなこと聞くの?」
「気になるからですよ。千早さんがどんな仕事をしているのか」
そう言うと、朱里はニッコリ笑った。
外は雨の激しさが増していたが、2人の周りはどこか暖かい雰囲気が生まれていた。
※
(駆け出しのアイドルはまあ…そんな仕事内容なのか)
朱里は千早が現在している仕事を詳しく聞いた。まあ、その内容は…小さなライブの前座など、小さな仕事ではあったが。
「他にはないんですか?歌以外の仕事で」
「…ごめんなさい。私、これくらいしかやったことがなくて」
「…あ、そうなんですか。こっちこそすいません」
…?でも、それじゃ、マジックボードの内容とつじつまが合わない。それなりの場数を踏んでいるということは、それなりの種類の仕事をこなしているんじゃないのか?…歌うだけがアイドルじゃない、グラビアとか色々な仕事はないのだろうか?
その疑問をぶつけると、千早の返答は早かった。
「…私、歌以外の仕事は興味ないから」
…千早はあっさりそう言った。確かに千早の性格を考えれば、そういう仕事は苦手かもしれないけれども。
(…実力はあるんだけど、どこか頑固なんだよなぁ。歌だけじゃどうやっても売れないのに。特にウチの場合…)
顔を売るというのがアイドルの大きな仕事の一つだ。多くのアイドルがテレビやラジオに出る理由の一つは知名度を広めるということだし、他のアイドルも自分を知ってもらう為に仕事をしている。その地道な行動がそうやってファンを増やしていくのだ。
特に765プロは駆け出しの事務所。大手の事務所とは違い、資金面でのゴリ押しが不可能ともなると、まずは多くの人に知ってもらうことが何より重要になってくる。…それを千早は自らの手で狭めてしまっているのだ。確かに彼女の性格上、歌以外の仕事は苦手かもしれないが、それでも全くやらないというのはあまりにももったいない話だ。…何故なら彼女は自分を多くの人に知ってもらうという可能性の芽を自ら潰しているのだから。
(彼女が犠牲にしているのは2つある。一つは多くの人に知ってもらうという『可能性』。そしてもう一つは…)
「あの…少し話して、いいですか?」
「…ええ」
一応、千早の確認を取る。
「これ、大学に通っている姉さんの話なんですけど…。大学って結構、色んな講義を自分が好きなように受けることが出来るんですよ。例えば文系なのに進級に関係ない電気系の講義も取れるし、理系なのに必要ない哲学の講義とかね」
「…?」
千早は「何言っているんだ?」というような視線を朱里に向けた。仕事の話をしていたのに、急に大学の講義の話をするのだ、無理もないだろう。
しかし朱里はそんな千早の視線を無視し、話を進める。
「でも不思議なことに、全く関係ないように思える講義の内容が、違う講義に活かされている事って多いらしいんですよね。そういう違う所で得た知識が更なる知識の探求とか色々なことに役に立っていくらしくて…」
…一応、姉の名義で話してはいるが、これは朱里自身、1周目の大学生活で体験している事だった。世の中、違う立場から得た知識や体験が他の所で活かされたりするということが意外にも多いのだ。
例えば自分が受けていた『中国語』で得た、中国の経済環境の知識が『経済学』のレポート制作に役に立ったりしたし、同年受けた『哲学』で習った歴史背景から見た思想などは『日本史』を全く違う視点から見ることも出来た。
…その知識は残念ながら就活に活かされることはなかったが、違う視点から物事を見ることの重要さは十分に分かっていた。
(それに昨日、久々にそれを体験したからな…)
先日のカラオケでのボイスレッスン。『レッスン』だけでは得られないコツや技術を自分は得ていた。これも違う視点から見た知識と言えるであろう。
『普段とは違う体験や知識』。これもまた、あらゆる物事に繋がる大切なものだった。
「だから、その、何て言うんでしょうか。歌の仕事じゃ得られない『何か』が他の仕事にもあると思うんですよ。歌う時に必要な表現の仕方や幅とか…歌の仕事とは違う経験も意外に役に立ったりするんじゃないかなって」
朱里の話は続いていく。
「千早さんも歌以外の仕事は、興味ないからと言って何でも避けてしまうのは勿体ないんじゃないかな…って思うんですよ。それに、千早さんは歌しかないって言いましたけど、そんなことないですよ?クールな所も私は凄く魅力的だと思いますし」
千早はどこか困惑しているような顔をしていた。…いきなりこんなこと言われるなんて思っていなかったかもしれない。
「…まあ、まだ仕事もやっていない後輩の戯言なんで、忘れてもかまいません。…でも、歌以外で得た知識や経験とかって、きっと無駄にはならないんじゃないですかね?」
そう言うと朱里は言葉を切り、壁にかかってある時計を見た。…時刻は6時ちょっと過ぎ、そろそろここを出ないと不味いか。
朱里はテーブルの端にある領収書を取り、レジへと向かう。
「後輩の話に付き合ってくれたお礼です。コーヒー代くらい奢りますよ」
レジの呼び鈴を鳴らし、千早の分の金額も払う。そして立てかけておいた傘を持ち、ドアを開けた。…外はさっきよりも雨の激しさが増していた。
「それでは、今日はお疲れ様でした。色々話を聞けて、楽しかったです」
振り返ってそう言うと、朱里は店を出た。
※
(高槻さんと同じ学年…なのよね?朱里さんは…)
朱里が帰った後、千早は困惑していた。何故なら朱里との会話は、年下どころか年上と会話している雰囲気がしたからだ。確かに同年代の子と比べると、大人っぽい所があるが…何だか違う気がする。大学の話もまるで実体験を話している感じがしたし。
(…私にも姉がいたら、あんな感じになったのかしら)
コトっと何かが机に置かれる音がして、千早は顔を上げ、辺りを見回す。
…すると、自分の横には店長のジョセフが立っていた。その手にはケーキの乗った皿があった。
「あの…私、頼んではいないんですが…」
するとジョセフは悪戯する子のような顔をした。…何だか社長と同じような雰囲気がする人だ。
「ふふっ、サービスですよ。朱里さんのお友達ですから、これくらいはしなくては。勿論、お金は頂きませんからご安心を」
「…はあ」
まるでドラマみたいだ。千早はぼんやりと思った。…店側のサービスならば、一応貰っておこう。お金を払わないで食べるなんて、何か変な気分だけれども。
千早はフォークを持ち、ケーキを切り、口に運んだ。
(あ…おいしい)
ケーキは千早の好みにあった味だった。思わず、頬が緩む。
「ご馳走様でした」
あっという間にケーキを食べ終わった千早は、ジョセフに挨拶をし、そのまま店を出た。雨は強くなっており、傘を差しても足元が濡れる。が、千早のそんなこと気にしなかった。
…何故なら、千早の心にはある一言が棘のように刺さっていたからだ。
『歌う時に必要な表現の仕方や幅とか…歌の仕事とは違う経験も意外に役に立ったりするんじゃないかな』
…千早がその言葉の意味に気付くのは、それから少し後の話である。
急いで投稿しようと焦るばかり、めちゃくちゃな内容に仕上げてしまったことをお詫び申し上げます。
これからは投稿をゆっくり目になるかもしれません、ご了承くださいませ。