インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷です。
何とか時間を工面出来たので、切りのいい百話を投稿しようと思い立っての投稿。何時もと時間が違うのは気にしてはいけない、イイネ?
今話の視点は前半ユウキ、後半リーファ。
文字数は約二万。
ではどうぞ。
『≒』:ニアイコール。直結では無いが、意味合いとして近い場合に使われる事がある。多く使われるのは端数切り上げで数字を省いた時。
例)『3.333……≒3.3』など。
――――本物とは、偽物/贋作等の元となった原典の事を指す。
――――では『人間』ではどうだろう。
――――仮に外見も言動も記憶も感情もある時点まで同一で、ある時点から別個の存在として分岐した者がいるとして。
――――途中から記憶が違い、浮かべる感情が違い、立場が違う時点で。
――――その者は既に、『偽物』では無く、ある種の『本物』と言えるのではないだろうか。
時は夜。
遺跡塔のエリアボスを討伐した事で進めた未踏の新エリア【鮮海入江グレスリーフ】は、暗い蒼穹に浮かぶ満ちた月の光により、青白く照らされていた。
潮のせいか虫の鳴き声などは一切聴こえないが、波打つ音が心を安らがせてくれる。
「うぁー……んー……」
砂浜までせり上がって来る波がギリギリ膝下程度で収まるラインで腰を下ろし、足が濡れる感触も波音と同様に楽しむ。
ここは《圏外》故に当然モンスターも徘徊しているのだが、《索敵》スキルは常にオンにしているし、仲間と分担して警戒しているので、休憩する程度に気を抜く余裕はまだある。
アンノウンの襲撃に関しては現状どうしようも無いので半ば諦めている。
砂浜に居る種類は爬虫類型亜人リザードマンに酷似した水棲型亜人シャークマンと、毒々しい緑や瑞々しい赤色の甲殻を持つ蟹型モンスター、それと空中を泳ぐかのようなエイに近いモンスターだ。新エリアで踏み込む最初のフィールドだからかそれぞれのレベルは110に届くか否かとやや低めな値である。それも気を抜く余裕を持てる理由の一つだった。
そこまで考え、苦笑を洩らす。
「自分より高レベルなのに、ね……」
自分のレベルより10以上も上の敵がゴロゴロいる場所で気を抜く余裕があるなんて土台おかしな話だ。体力は《アインクラッド》のMobより平均して倍あるし、高レベルな分だけ能力も高いのだから油断なんて死に直結するものなのに。
それだけここ数日は気を張り過ぎていたという事か。
思い返すと、こうして自然を気を抜いて眺めるなんて事をしたのは一年以上前の事のような気がした。ともすればSAOにログインしたての頃以来かもしれない。
これまで様々な街や村、フィールドの光景を見て感動を抱く事は勿論あったが、何時も気を張っていた。姉を護る身として、《攻略組》としての思考が先に立っていた。だから美しい景色をそのまま味わい楽しむ事は無いに等しかったように思う。
今それが出来ているのは、姉がおらず、《攻略組》としての責務から一時的に解放されているからか。
――――此処でなら他よりは休めそう。
思考に浮かぶのは幼い少年の事。
精神的に追い詰められ、一時は死に意味を持たせ求める程に狂っていた彼は、人の手によって作られた命の義姉の思いやりで庇護される状況にあった。攻略の事も、手に掛けて来た人達や背負っていた重責の事も、一旦忘れて休ませようと彼女はしていた。
自分やレイン達がこちらに来ていない、あるいはあの時再会していなければ、今も樹海のどこかで休んでいたかもしれない。
その可能性を考えれば再会しない方が良かったかもと思ってしまうが、ケイタや《笑う棺桶》の事、《ホロウ・エリア》の真実の事を含めれば、あの時出会えてよかったとも思う。
再会出来ていなかった時の事を考えるとゾッとする。
「……複雑だなぁ……」
砂浜に両手を突き、空を仰ぐ。
彼と再会出来たのは初のホロウ・ミッションを素早くクリア出来たから。そしてそれを可能としたのは、森の中で遭遇した黒コート、すなわち“アンノウン”の存在があったから。あの時追い駆けていなければ未だ森の中を彷徨っている可能性は否めない。
だからこそ複雑な心境になる。
アンノウンはキリトを襲い、一撃で気絶させた後、拉致紛いの逃走劇をしてみせた。
しかし実際は遺跡塔の最奥へ案内する為に動いていたとしか思えない行動だった。それを踏まえれば、樹海の中であった時もアンノウンは敢えて再会出来るよう誘導していたのではないかと考えられるのだ。
アンノウンの意図は分からないが、結果的に助かった事は事実。
しかし意図と目的が分からないからこそ素直に感謝の念を抱けない。なまじ慕情を向ける少年を一時的にと言えども害されたのだから心中穏やかな訳が無い。と言ってもあのリーファですら赤子の手を捻るかのように軽くあしらわれたのだ、自分程度の実力では敵わないのは明白だから今は泣き寝入りするしかない。
だから余計に複雑だ。
彼を害した事に対する敵意。結果的に助かった事への感謝。圧倒的な実力に対する嫉妬心と悔しさ。己の無力さへの怒り。様々な感情が綯交ぜになっている。とてもではないが一言では言い表せない心境だ。
そんな心境では休めないと思ったから、皆が野営をしている場所からやや海浜寄りに離れた場所に居る。まぁ、離れていると言っても、あまり離れすぎるとそれはそれで問題なので、精々が十メートル程なのだが。
――――ちなみに、この新エリアの探索も多少は既に済ませている。
《ホロウ・エリア》でほぼ初と言えるくらい穏やかな環境のグレスリーフの印象を簡潔に言い表すなら、絶海の孤島が適切だ。
浮遊遺跡群から大地へ向けて掛かる橋と道中にある幾つもの孤島を経由して孤島の砂浜に降り立った自分達が見たのは、幅広い砂丘と波に打たれて削られたと思しき洞穴、巨大な円柱の塔、そして打ち捨てられたボロボロの小舟数隻。座礁したと思しきそれらは打ち上げられて随分経っている設定なのか水苔が生していた。
その砂浜から北へ歩けば円柱塔に、北東へ歩けば熱帯雨林が如き大自然へ、東へ歩けば海水が足首を濡らす洞穴へと進めた。大自然へ進める獣道の近くには遺跡も存在しており、そこか円柱塔の片方からエリア攻略の手掛かりを得られるのだろうと推測されている。
しかし円柱塔へ入ろうにも、海水が道中の道を水没させてしまっていた。キリトが泳いで渡ろうとしたものの水に足を踏み入れた途端全身が痺れたようだったので不可能と断念する。
となれば次は遺跡となり、夕食までの僅かな時間でマッピングだけでも済ませようと中へ入ったまでは良かったのだが、地価の洞窟へと続いた階段を下りてすぐのところで壊せない岩が通せんぼしており、それ以上先の探索が出来ない状態だった。壊せない岩と言っても【不死属性】が付与されたものでは無く、条件を満たしていない故に壊せなくなっているものなので、別の場所で壊せるアイテムを手に入れる必要があると判明し、そこで自分達は引き上げる。
残るは北東の大自然と東の地底洞窟。
孤島の広さは正確には分からないが、これまでの経験からして間違いなく浮遊城より広いと推測されたので、効率を考えて必然的に地底洞窟を探索する事になる。
地底洞窟は道が曲がりくねってこそいたものの基本的に一本道だったのでマッピングを頼りに迷う事無く最奥へ辿り着く。そこで《グランド・ホロウミッション》が発生し、ネームドモンスターの三つ首の海竜《サーペント》と戦闘になるも、別人格シロの協力で基本常に全力全開となったキリトが始終圧倒し、ほぼ完封勝ちになる。地下迷宮の時の対死神戦での事を思い返せば、仮に彼が疲労していたとしても頼もしさが半端ではない強さである。
海竜を倒した時点で足首まで濡らしていた海水が引いたので、砂浜へ戻ってみれば全体的に潮が引いた。勿論円柱塔へ続く水没していた道も通れるようになった。
およそ二時間弱でダンジョンを一つ分攻略した自分達は、そこで夕食を摂り、その日の探索は終える事にした。
そして現在に至る。
「あと一日、か……」
視界端に映る時刻を見て、確認の意味も込めて独白を洩らす。
その言葉には自覚出来るくらいの残念に思う色があった。
自分がこちらに居られるのはあと一日、つまり明日の夕方までとなる。明後日からは浮遊城の最前線へと戻り攻略に参加しなければならない。そうなれば恐らく第七十六層のボス攻略までは《ホロウ・エリア》には行けないくらい忙しくなるだろう。
明後日から己に降り掛かる忙殺の日々を思うと気分が落ち込みそうである。
――――一方、リーファに落ち込んでいる様子は、少なくとも表面上では見られなかった。
「もっと速く、鋭く、精密にッ! 飛翔出来る優位性を意識して動きなさい!」
むしろ熱血指導として現れている感まである。
今この海浜では、妖精が舞う世界ALOに於いて空中戦に最も優れた種族《シルフ》であり、その中でも最優らしいリーファの指導の下、キリトが空中戦闘の猛特訓をしていた。
自分が近場とは言え波打ち際まで離れているのも、邪魔にならないため、且つ彼がすぐ駆け付けられる状態だからだ。《索敵》スキルを完全習得している自分が不意打ちを喰らうとなればアンノウンのような例外くらいなのであまり気に掛けてはいない。アンノウンに関しては半ば諦めの境地だし、それ以外に関してはこれまで通りにすればいいのだから気負う事が無いのだ。
だから義姉が主催する熱血指導を傍観出来る訳だ。
体だけ後ろに向き直らせてその光景を眺める。
「……どこまで成長するのかな、キリトは……」
キリトは《ⅩⅢ》の六槍が有する《風》の力を使い、己の周囲に風を巻き起こし、空を飛翔している。『自分は風の力で空を飛べるのだ』という強いイメージが現在進行形で引き起こしているそれは、表面上だけ考えれば強力無比な能力だ。
しかし、当然ながら欠点も存在する。
戦闘とは、ただ剣を振るえばいいだけでは無い。彼我の距離と間合いから考えられる無数の未来を推測し、どれが来るかを予測し、それに対処出来るよう警戒し、備え、そして行動に移るという一連の流れを幾度となく繰り返さなければならない行為だ。実力者ともなればその過程の殆どを経験と勘で省略し、条件反射的に行えてしまうが、敵も実力者となればそうもいかない。
キリトは一人で戦い続けて来た経緯から誰よりも経験を積み、勘を養っているので、反射的な対応をかなりの頻度で取れる。実力者との対峙の経験も豊富だ。
何より『あらゆる武器の扱いに精通している』という点が強みである。自身が扱う武器の事だ、敵も同じ武器であれば対応のし易さが段違いなのは明白。つまり彼はその範囲が広い。仮令実力者であっても生半な攻めでは彼の守りを崩せない。
事実SAOでも次元違いの剣腕を誇るリーファをして、彼の攻撃の隙を突く形でしか剣戟を当てられていない。あの冷静でなかった状態ですら彼女にそうまでさせた事を考えればどれだけキリトの技量が図抜けているかは分かるというもの。
確かにリーファは恐ろしく強いが、それは比較対象がおかしいだけであって、キリトもまた恐ろしく強いのだ。そうでなければ最前線で戦う自分達が彼を『強い』とは思わない。
余談だが、あの義姉弟の間では『殺し合いとなればキリトが勝ち、試合となればリーファが勝つ』という結論が共通見解らしい。
とは言え才能は壊滅的と彼を溺愛する義姉にすら評されている彼だ、流石に常に飛んでいたも同然なALO出身のリーファに空中戦闘のノウハウで敵う筈もない。踏んだ場数に差があり過ぎるからだ。
そんな彼女は、そのノウハウの伝授をする事を決めたようだった。
慣れない事で思考が挟まり、その分だけ隙を晒すから、反射的に行えるようになるまで先達として特訓を施しているという訳である。
彼がリーファを尊敬している理由には、ひょっとしたら技術の伝授に躊躇いが無いその在り方もあるのかもしれない。後進を育てる事に余念がなく常に全力な人が師匠ならそりゃあ尊敬もする。
無論、自分が居ない間の生存率を高めようという意図も、同程度存在しているとは思う。
ちなみに溺愛する義弟に激痛を覚えさせる立場の妖精剣士は、承知の上だからか割と容赦なく翡翠色の長刀を振るっていたりする。お陰で彼の小柄な体はそこかしこに赤い切り傷が刻まれている。
仲間内での《圏外》での戦闘など本来ならご法度だが、今はキリトがオレンジになっているため、リーファの攻撃が当たっても彼女に弊害は無い。強いて言うならキリトが激痛を覚える事が難点なのだが本人がそれを承知の上で鍛練をしているので問題にはなり得ない。
頭上を押さえられ不利な状況をもとのもしない実力に感嘆を抱くべきか、容赦なく剣を振るう様に畏怖を抱けばいいのか、些か判断に迷う光景である。
個人的には万が一の事を考えると心臓に悪いので《圏外》ではあまりしないで欲しいのだが。
「――――ん?」
やや不安を抱きつつ義姉弟の鍛錬風景を見物していると、常時展開状態の《索敵》スキルの感知範囲内に動的反応が引っ掛かり、独特の感覚が脳に送られてくる。
幾度となくその感覚を味わった為、その反応がどの方向からのものかすぐに見当が付いた。
自分達は《ホロウ・エリア》中心部から見て北西にある遺跡群から南下し、この【鮮海入江グレスリーフ】に辿り着いた訳だ。ほぼ入り口に留まっている状態なのでこのエリアの中だと北に陣取っている配置になる。
現在位置から北は海が広がり、天空に遺跡群があり、西も東も砂浜と海が広がるばかり。
故にプレイヤーだろうとモンスターだろうと、基本的に闖入者は南からしか現れない。遺跡群から来るなら話は別だが、高さが異なれば《索敵》スキルで送られる感覚もそれに準じるため、判別はすぐに付く。
送られて来た反応は、高度はほぼ同じで、南の方角からだった。
数は一つ。反応の種類はプレイヤーのものだ。マップで確認すればオレンジ、つまり経緯はどうあれシステム的に犯罪者の判定を受けている者である。
「キリト、どうしたの?」
「……プレイヤーがこっちに来てる、オレンジだ」
「プレイヤー……?!」
その反応は自分と同じく《索敵》スキルを完全習得しているキリトも受け取っていたようで、義姉との鍛練を中断し、砂浜に下りた状態でエリュシデータを手に臨戦態勢を取っていた。《ホロウ・エリア》に居る殆どのプレイヤーは彼の《ⅩⅢ》を知らない故に切り札となり得ると判断したのだろう。
同じく完全習得しているユイちゃん、レインやフィリア、キリトの使い魔である小竜ナンにリーファも、それぞれが南を向いて警戒を始める。
警戒を始めて間もなく、闇を切り裂く銀光が閃いた。
飛来した銀は投剣だった。全長30センチ程の投げナイフが高速で投げられたのだ。
標的はキリトだった。いきなり斬り合う事が無いよう剣を背中の鞘に納めていた彼は、しかし特に慌てる事も無く、飛来した投剣を左手で掴み取る。掴む場所は刃だったので掌が切れて痛い筈だが、表情に苦悶は浮かんでいない。
手で持つ場所を刃から投剣の柄に直した彼は、反対の手を背中の剣の柄に掛ける。
「いきなりご挨拶だな。そっちがその気ならこっちも相応の手段を取らせてもらうが」
やや威圧を伴った言葉。言外での降伏勧告であり、宣戦布告だ。
その返答として返されたのは、言葉では無く、刃。それも虚空を引き裂き飛んでくる百に及ぼうかという程の数の剣弾だった。
雨となって迫る剣弾の光景に、それまで余裕を崩さなかった少年が瞠目し、まさかと呻く。
それからの彼の行動は速かった。ナイフを夜の帳に沈む森へ投げると同時、久方ぶりに見る気がする紫光のボウガンが両手に握られ、ガシャリと音を立てながら正面へ構えられた。間を置かず、秒間数回の射出音が上がる。
更に彼の頭上に同数の剣や槍が召喚され、降り迫る剣弾の雨と相殺する軌道で飛翔する。武器がぶつかり合い、断続的に金属質な音が響き渡る。中空で衝突した武器達は力を喪い、重力に引かれて砂の大地に突き立つ。間を置かず、放たれた剣弾達は全てが蒼い粒子へと掻き消えた。
無論、剣弾は未だ留まる事を知らないように降り注ぎ続けている。
そしてこちらを害そうとする剣弾の全てを黒尽くめの少年は相殺し切っていた。
故に状況は膠着する。彼と敵の戦力が現状拮抗しているが故に、現状維持は出来るものの、現状打破は出来ない状態に陥っていた。
先に集中を切らした方が敗北するというジリ貧の状況だ。
「まだだ……ッ!!!」
状況の不利を恐らくこの場の誰よりも把握している彼が放つ闘気に、鋭さと重みが増した。代わりに涼やかな剣気は失せる。
直後、中空から射出される剣弾の数が一気に増えた。倍では無い、三倍でも済まない、優に五倍は超えているだろう数の武器は、天に輝く月の光を暗雲の如く隠し切る。
地上の闇が深まり、視界は不明瞭となった。
《索敵》スキルの暗視効果のお陰で暗さが増しても見えない事は無いが、天から放たれる敵の剣弾までは自分には見えていない。しかし彼には見えているのだろう、敵の剣弾を相殺している音は未だ止まらず、こちらに攻撃が通る音は一度も耳朶を打たないままだ。
そこで彼は敵を牽制し続けていたボウガンを宙に浮かし、半自動的に紫光の矢を射出する状態にした後、空いた両手に別の武器を取り出した。
左手には長大な黒き洋弓を。
右手には細長い蒼き細剣を。
彼はすぐに細剣を弓に番えて弦を引く。ギギギ、と金属が軋むような音と共に弦は後方へ引き伸ばされ、湾曲した弓がやや撓む。
同時、細剣の刀身から螺旋に渦巻く流水が発生した。
ごうっ、と足元の砂が吹き上げられる。流水の勢いで風が生じているのだ。その風圧は螺旋の勢いから想像されるもの以上で、皆揃って大地に膝を突き、堪える程に強い。
「――――アクアリウムッ!!!」
数瞬の溜めを挟んだ後、剣が放たれた。
細剣を軸に切っ先から螺旋状に水が展開された広範囲をカバーするそれは、無数の剣弾を巻き込みながら五十メートル以上先の森に一瞬で着弾。轟音と共に、空間が鳴動する程の大爆発が起こった。
大地の砂は海へと吹き飛び、局所的な砂嵐に耐えるべく全員がその場に蹲る。
爆風と砂嵐が収まって数瞬後、土砂降りに等しい豪雨が数秒降り注ぐ。先の攻撃に使われ爆発で打ち上げられた水が降って来たのだろう。皆揃って仲良く濡れ鼠になった。
髪は濡れそぼって服や肌に張り付き、纏っている衣服もまた同様。地面が砂なものだからべとべとに張り付いているのがまた気持ち悪かった。
――――それに意識を割き続けられる状況では無いのだが。
あれだけの数の剣弾を放ち続けるともなれば、敵は間違いなく《ⅩⅢ》を有している者に限られる。現状《ⅩⅢ》を持っていると分かっているのはキリト、ユイちゃん、シノンだが、故人を含めれば、シノンが持つそれの元の所有者である【白の剣士】アキトも含まれる。
そして《ホロウ・エリア》は、PoHやケイタが居たように《アインクラッド》での死者が居る場所。
まず間違いなく、今攻撃してきた敵はアキトである。
それが分かっているから人格がシロに切り替わり、まず間違いなく死んだと思える過剰攻撃を放ったのだと思う。キリトが幾ら聡明で、義理の姉に諭された後でも、いきなり割り切れるとは思い難い。割り切っているにしても、心情としては複雑だろう。まぁ、自分達を攻撃されたから容赦を捨ててシロに代わったのかもしれないが。
どうあれ敵がアキトであるなら自分も黙って事の推移を見続ける義理は無い。キリトは嫌がるかもしれないが、アキトは結果的には今後の攻略に関する事で大きな問題を起こした張本人なのだ、想い人を苦しめる存在である事以外にも責めたい事は個人的にも山ほどあるのである。
故に何時でも斬り結べるよう立ち上がり、腰の剣を抜いて顔を上げた。
そして、思いがけぬ敵の姿を認め、身を凍らせる。
「な……キリトが、もう一人……っ?」
先ほどの爆発を受け、距離を取り続けていては不利と判断したのか姿を現した敵は、カーソルの色も含め、完全に【黒の剣士】の姿をしていた。闘技場のホロウや【白の剣士】のような『似ている』では無い。少し前で弓と呼び戻した細剣を手に持っている少年と全くの瓜二つなのだ。
悪い夢か、と思った。
てっきり【白の剣士】アキトが攻撃してきていると思っていたばかりに、まさか想い人と瓜二つの存在が出て来るとは思っていなかったのだ。
――――そうか、あの時言っていた《ホロウデータ》って、これの事か……!
脳裏に思い返されるのは、キリトとユイちゃんに再会する前の事。アンノウンと初めて遭遇する寸前にアナウンスが言っていた、未だ意味を完全に理解出来ていなかった単語の一つ。
闘技場のホロウや七十五層と《ホロウ・エリア》のリーパー達の事から、SAOに於ける《ホロウ》とは《オリジナル》の鏡ないし影のような存在であると自分は考えている。当たらずとも遠からずと言えると思えるくらいには自信がある。
死者がこちらに居るルールはともあれ、恐らく《アインクラッド》と《ホロウ・エリア》は、互いにコインの表と裏の関係なのだ。光あれば影があるような、そんな関係。
《アインクラッド》には生きた人間が動かすプレイヤーが居て、《ホロウ・エリア》はそれらのログデータから学習、反映されたAIによって動かされるホロウのアバターが居る。そして《アインクラッド》で死亡したプレイヤーの意識はそのままホロウのアバターに移される。
もしこの推論が当たっているとすれば、《アインクラッド》で死んだプレイヤーに関しては同一個体は存在しない反面、未だ生きているプレイヤーであればホロウアバターが存在し続ける事になる。だとすれば目の前にキリトが二人存在する事も決しておかしい話では無くなる訳だ。
ドッペルゲンガーのように同一存在が居れば片方がシステム的に消されると思うが、多分アバターの型番が違うのだと思う。パソコンのフォルダ名さえ別にしてしまえば中身のデータが同じでも存在出来るように別個の存在として扱われているのだろう。
先に考えた推論ではこちらのキリトが死なない限りあちらのキリトも消滅しない事になる。
だから同じプレイヤーが二人居る異常事態が成立してしまっている。
プレイヤー名が同じ時点で削除対象になりそうなものだが、そこはそれ、最近のシステムバグの件から【カーディナル・システム】のエラー修正はあまり信用出来ないレベルまで機能不全を起こしている事からも今更である。
「カエせ……!」
右手に魂を受け継ぎ続ける黒剣を、左手に“ともだち”から贈られた翡翠剣を握り締める少年が、血を吐くように掠れた声を発した。
その瞳は闇に鎖され、憎しみに満ちていた。
昏い闇を湛えた眼は、ただ真っ直ぐと、眼前に立つ瓜二つの少年に向けられている。
「オレの、スベて、カエせェ……ッ!」
それが全てとばかりに、少年は言った。
涙すら浮かべずの、慟哭に等しい叫び。それはむしろ聞く者の方が涙を浮かべる程に痛々しいものだった。幼さがあるからこそより心に痛烈に響く。
恐らくはホロウであろうキリトは、オリジナルのキリトの居場所/仲間/立場の全てを妬み、取り返そうとしているのだ。ホロウの記憶がどうなっているかは分からないが、ひょっとしたらある程度まではオリジナルの記憶ないし心情をログで再現されているのかもしれない。
そう思えるだけの真に迫った感情が、ホロウの彼にはあった。
最初から見ていなければどちらが本物でホロウなのか分からなくなってしまいそうな程に、ホロウの彼は人間味に溢れていた。
「……もし、意図してこうなっているなら、これを考えた奴は最低最悪な性根をしているよ」
事態の背景に思考を回している間に両手の武器を眼前の自分と同じものに持ち替えたキリトが、やや溜め息混じりに構えながら言う。
「――――ここまで中身が近いとなれば、最早別の人間だろ……ッ!」
本物であるキリトもまた、血を吐くように吐き捨てた。
装備や容姿も同じで、詳細までは分からないが記憶や心情までほぼ同じとなれば、違うのは互いの立場。ホロウのキリトからすれば、本物の彼は謂わば、己が血道を捧げて手に入れた全てを奪った存在だ。
だからこそ殺し合う運命にある。
だが、そこまで来れば、ただ立場が違うだけと言えども両者は別個の存在と言えるだろう。
ただ単純に闘技場のホロウのような『明確な偽物』であれば、自分達も剣は鈍らせない。それは外側だけ取り繕ったガワだけの存在だからだ。
だが今目の前で憎悪を滾らせる少年は、ホロウと言えども、抱いている感情は本物だ。感情が本物なら、それは誰かの偽物たり得ない。
極論『居場所を奪われた』という分かれ道がある時点で、その人物は別の人間と言える。
謂わば彼らは、互いが互いの『もしも』の存在なのだ。自分ではある、だが他人だ。自分にとって相手は偽物だ、しかし自分からすれば自分こそが本物になる。
きっとキリトは、だからこそこれを意図した者がいたなら、その人の性根を最低最悪と評した。下手に元の人間に近付けたからこそ人権を無視した外道の所業になっているから。
ユイちゃんのように最初からAIとして作られていて、誰でも無いユニークな存在/人格として完成しているのであれば、それはまた別の話になる。誰かに似せた存在だからこそ人権無視に等しい事になっているのだ。
だからと言ってホロウの彼に憐憫を抱く訳にはいかない。《キリト》という存在に対する感情と、オリジナルとホロウという個に対するそれぞれの感情は、また別なのだから。
ここでオリジナルのキリトの事を優先しなければ今までの言動を全て裏切る結果となる。
しかし……
――――あんなに苦しそうなキリトを、幾らホロウと言えど斬り付けるのは、流石に……!
なまじオリジナルの彼の心情が再現されているからこその躊躇。真に迫った、生の感情だからこそ、ホロウに対して敵意を抱けない。
自分達からすれば殺意を漲らせるホロウは倒さなければならない敵だ。オリジナルの彼は、自分達の希望であり、愛する存在だから。
しかし、だからこそホロウであっても、元に近いキリトを傷付ける事に躊躇いを抱く。
嗚呼、これは確かに、キリトの言う通りだ。これを意図してした人が居るのであればその人の性根は最低最悪だろう。なまじ闘技場のホロウの事があるから余計確信犯の可能性が高い。
「カエせ……! カエせェェェェえええええええええええええッ!!!」
誰もが真に近いキリトに困惑していると、痺れを切らしたか、怨嗟の怒号を轟かせながらホロウが地を蹴った。眼前に居る別の自分しか見えていないのか、こちらを一瞥する事も無い。
その必死な形相と言動に、ズキリと胸の裡が疼く。
その時、黒尽くめの少年達の間に割って入る影が一つ。
「キリト――――」
長い金髪に緑衣をはためかせるその人物は彼らの義姉リーファ。
彼女は左手で豪速で迫るホロウのキリトの右手首を、右手でシャツの胸元を、流れるような動きで引っ掴んだ。
「少し、頭を――――」
彼女は突進の勢いを殺す事無く、むしろ利用してまで背中に担ぐ形に移行し――――
「冷やしなさいッ!!!」
ズドンッ、と砂浜にクレーターが出来る程の力を以て、ホロウの義弟を背負い投げで地面に叩き付けた。
割り込まれた時点で瞠目していたホロウの彼は、唖然とした表情のまま一秒後には地面に叩き付けられていた。遅れて呻き声が上がる。仮想の肺から空気を無理矢理叩き出されせいか、ケホ、ケホ、と咳き込んでいた。
「えっと……あの、リー姉……?」
今から殺し合いをするというところで水を差された形になるキリトが困惑も露わに義姉に声を掛ける。
「ちょっと黙ってなさい」
「あっ、はい」
しかし威圧と真剣さを感じさせながらの言葉に、彼は一も二も無く口を閉じた。
***
「ん……ここなら落ち着いて話せるわね」
背負い投げで義弟同士の殺し合いを始まる前に阻止したあたしは、もう一人のキリトと話し合う為に砂浜を歩いていた。
グレスリーフの浜辺は端から端まで歩くのに片道で十五分は必要なくらい広い。
夜という事もあり、落ち着いて話すなら打ってつけと言えた。
まぁ、それも襲撃への対策をしっかりしていれば、の話であるが。あたしと行動を共にしていたキリトを始め、皆もこのもう一人のキリトと二人きりになるのはかなり反対意見もあったが、結局はあたしの我が儘として押し切ってしまった。
あたしの事をよく分かっているキリトも早々に折れ、今では絶対《笑う棺桶》などの襲撃があたしに無いよう全力で警戒に当たってまでいる。
管理区の修練場で話すのも意見として挙がっていたが、場の雰囲気ではこちらの方が落ち着くので、その点でも我が儘を聞いてもらってしまった。今度お礼をしなければ。
「ぅ……うぅ……」
そんな大きいとは言えないが借りを幾つか作ってまで場を整えたあたしに委縮しているのか、もう一人のキリト――ユイちゃん曰くキリトのホロウ――はあたしに手を引かれてされるがままになっている。
年相応の幼さと、それに不似合いな怯えの姿が同居していて、あたしの内心は複雑だ。多分多少は表情にも表れているだろう。
ふぅ、と一度息を吐き、それから深く息を吸い込む。
「キリト、あたしの眼を見なさい」
彼に向き直り、膝を追って目の高さを合わせて、言う。怯えの色を湛えていた彼はあたしに敵意が無い事は分かっているのか、恐る恐ると見返してきた。
一先ず第一段階は突破出来たので、笑みを浮かべてよしと頷く。
やはり人間、重要な話をする時は互いの目を見合わなければ始まらない。想いが伝わる事も無いのだ。
「少しは頭も冷えた?」
「ん……その……ごめんなさい……」
ばつが悪そうに顔を背けて言うホロウのキリト。
あたしは彼の謝罪に苦笑を浮かべた。
「その謝罪は多分襲撃した事なんでしょうけど、謝るならあたしじゃなく、もう一人のあなたにね……複雑だとは、思うけど」
「……」
今は周囲の警戒に当たっているキリトの事を言えば、分かりやすいくらい表情に憎しみや嫉妬の色が浮かんだ。それでも当たり散らそうとしない辺りは流石の聡明さである。
この年の子であれば、自分が求めていた全てを奪われた時には八つ当たりくらいしてもおかしくない。物の分別がついているのは話し合いをするにあたって円滑に進むから良いが、今回ばかりはやはり微妙な気持ちにさせられる。
少しは心の叫びを出したいから、分かっていながら敢えて彼の話題を出したのだが、これはやはり根気強く構える必要がありそうだ。
……嫌われる覚悟も、しておく必要がある。
「――――ね、キリト。あなたが思っている事、さっき何故いきなり襲って来たのか、話してくれる? あなた自身から知りたいの」
「……分かった」
やや間を置いたが、それでも素直に了承してくれた事に安堵を抱く。
断られる可能性もあった。
流石にここで断られたら、後はもうオリジナルのキリト本人と対面させた状態で訊くしか無い。最悪嫌われる事も覚悟で力尽くで従わせる事も視野に入れていた。
訊かないという選択肢は無い。曲がりなりにも大切な義弟に殺意を向けたのだ、それがホロウという別のキリトと言えど特別扱いはしない。
贔屓は差別を生み、差別は他者との争いの種になる。
赤の他人とであれば差を生むのは当然だが、立場が等しいなら、あたしは両者を等しく扱うと決めている故に、常に正当な判断を心掛ける必要がある。
ホロウのキリトは、立場こそ義弟だ、だからそういう意味では接し方は等しくする。現にこうして慮る姿勢はあちらとこちらのキリトに差は作っていない。
でも敵として一度立ちはだかり、未だその立場は変わっていない故に、敵味方の扱いを変える訳にはいかなかった。味方のあの子を守る事を優先するが故に、今はまだ味方と言えないキリトからは話を聞かなければならない。
だから自発的に話してくれるのはとても助かる事だった。誰も好き好んで義弟を虐めたいとは思わないだろう。どこまで同じかは分からないが、こうして接していても本物と間違いそうになるほど真に迫った人物なのだ、少なくともあたしは虐めたくない。
別人と分かってはいるが、理性と感情は別物なのだ。
だから別人と分かっていても義弟が苦しんでいるように思えて心苦しくなりながらも、どうにか表情を取り繕い、ホロウのキリトから話を聞いていく。
――――結論から言うと、ホロウのキリトはやはりキリトと完全同一という訳では無い。
まず彼の記憶について。
これはあたしもSAOに最初期から居た訳では無いので完全には分からないが、少なくともキリト本人やアスナさん達から話に聞いた《ビーター》や【黒の剣士】、ボス戦、《月夜の黒猫団》に関する事は憶えていた。あたしが《桐ヶ谷直葉》である事も、剣道の全国大会で二連覇を果たしている事も、ALOについてもだ。
しかしここ最近でオリジナルのキリトが編み出した《ⅩⅢ》の属性攻撃の他、あたしが話したALOの魔法については知らなかった。此処が《ホロウ・エリア》という場所という事は勿論、ユイちゃんの姿やシノンさん、あたしのステータス、エリアボスに関する話は全て初耳のようだった。
その辺を詰めて過去と現在の話を絞っていくと、どうもこのキリト、外周部から落ちた時を境に記憶が分かれているらしい。
ちなみにALOの魔法について軽く話し、再現してもらおうとしたが、彼は自然属性だけを操る事は出来なかった。ユイちゃんと同じなので、これも彼がホロウというAIである証左になる。
つまり戦闘能力や記憶は基本的に《アインクラッド》の外周部から落ちた時点という事。この時点でほぼエリアボスを単独撃破可能だが、オリジナルのキリトがそこから成長しているので、『もしも管理区に転移しなかったら』な歴史のキリトと考えれば分かりやすいだろう。そういう意味でも彼を偽物とは思えない。
次に訊いたのは、彼が外周部からこちらへ移って来た後の事。
彼は高所落下の途中で転移した記憶が《アインクラッド》側の最後で、それ以降はこの島にずっと閉じ籠っていたらしい。正確には動こうとしたが進行不可オブジェクトのせいでエリアを跨げなかったからのようだ。
結果あの日から今日までこの島を散策し続けていた。
ホロウのキリトも最初から意識を保っていた訳では無いので、高所落下時点より以前のホロウがグレスリーフにやって来ていて、オリジナルのキリトがこちらへ転移したと同時にホロウの意識やステータスが上書きされたと考えれば、辛うじてこの島に居た辻褄は合う。
そうして数日を一人で過ごしていれば、今日の昼、浮遊遺跡群の方で二匹の巨竜が暴れているのが見えた。もしかしたらこちらに来るかもと思い砂浜を訪れたものの、姿が見えず散策して回っていて、漸くさっき見付けた。
そして自分と瓜二つの存在が義理の姉と鍛練をしているのを見てしまって、感情が昂った。それから感情の赴くままにハイディングが解除された事も無視して攻撃を仕掛けたのだという。
「……そういう事だったのね……」
一通り話を聞いたあたしは、多分傍から見ても分かるくらい沈痛な面持ちをしていると思う。
予想は出来ていたのだ。もし見た目が同じ別の人間が、本来あたしが居る居場所を奪っていたなら、同じ行動を取ったと思う。この子が感情的になれる直情さ、言い代えれば無鉄砲な部分があるものの素直な部分もあるからこうして対話が出来ているが、あたしなら多分キリトに止められても力尽くで突破し、もう一人の自分を斬殺していたに違いない。
そう考えるとこの子、幾らあたしが止めたからとは言え本当によく理性的に会話に応じてくれたと思う。
――――もしかしたら、自分がホロウという偽物って気付いてたのかも……
オリジナルに当たるあたしやユウキさん達には分からない何かしらの齟齬や差異があって、この子は自分の正体に近いものを察している可能性は十分存在する。それだけ《桐ヶ谷和人》という義弟は聡明という事だ。多少色眼鏡が入っている点は否めないが、大人に匹敵するだけの見識と冷静さがある事は周知の事実である。
自分が本物では無いという可能性を思い浮かべていたなら、こうして対話に応じてくれた事も、言外に『あなたは偽物だ』と言っているような事を口にしても激昂しない点に納得がいく。
「――――ごめんなさい……あたしには、どうしようもないよ……!」
己のアイデンティティを崩して余りある事実に直面し、それを飲み下し、こうして対話に応じるだけの冷静さを取り戻した義弟に謝罪する。
他に死んでいないプレイヤーのホロウを見ていないから何とも言えないが、もし他の死んでいないプレイヤーのホロウもこのキリトのように本人と大差ない状態だとすると、それはつまり記憶や感情をデータ化してAIに刻み込んだという事になる訳だ。この予想が当たっているならオーバーテクノロジーにも程がある。
そうでなくとも、電子工学系の知識は勿論技術に関しても一切ない門外漢である身だ。そんなあたしがどうにか出来る筈もない。
束さんや茅場晶彦ならどうにか出来るかもしれない。
でも、彼に残されている道は二つの一つ。彼ら彼女らの力を借りてユイちゃんのようにAIとして生きるか――――彼のデータをオリジナルの脳に上書きする/オリジナルのキリトを殺すか。
前者は、彼は人間として生きられない。かつて人間として生き、そして別の自分が生きる世界を見続けるという苦行を受ける事になる。
後者は元の場所に戻るようになる。だが脳のデータを読み取るだけでも危険なのに上書きするとなれば、失敗する可能性の方が極めて高いだろう。何しろ現代医学や科学でも全容を明かせていないブラックボックスに等しい人間の大脳だ、それにスキャニングを掛けるなど自殺に等しい。故に戻る可能性よりも死ぬ可能性の方が高い選択だ。
どちらにせよホロウであろうこの子は苦しむ結果になる。
AIとして寿命/死の無い生を生きる生き地獄と、人間として死を受ける可能性が高い選択。どちらを選んでも、彼にとっては地獄でしかない。
本来なら、その苦しみを和らげ、共に背負う事が姉としての責務だろう。
でもこの選択肢であたしが出来る事は絶無と言っても過言では無い。技術的な部分に頼る側面が多大なのに、あたしは完全な門外漢なのだ、想うだけではどうしようもない現実を前にあたしは無力である。
実際、こればかりは仕方ないのかもしれない。この子の心情という意味では無い、存在の根幹に関われないのは、ある意味当然の事だから。
――――嗚呼、でも、胸中に哀しみが渦巻くように、何も出来ない己の不甲斐なさと無力さが、歯痒くて、悔しくて堪らない……!
奥歯を食い縛り、苦しみに耐える。
この子がいっそガワだけの偽物であったなら、あたしもこの苦しみは抱かなかった。なまじ本物と相違ない――――否、同名異人とすら言える程に人間らしい苦悩と感情を抱いている故に、あたしはこの少年を偽物などとは思えなくなっている。
あたしにとって、もうこの子はキリトのホロウなどでは無い、もう一人の義弟に等しい存在だ。
そもそもからして、あたしはこの子が敵であるとは、実際のところ全く思っていない。立場上味方のオリジナルの義弟を優先しているだけだ。
この子が敵意や殺意を向けていたのはオリジナルのキリトだけで、周囲に居たあたしやユウキさん達には敵意なんて一欠片も向けていなかった。剣弾は雨のように降り注ぐ形になっていたが、その実剣弾の切っ先矛先は全て彼にだけ向けられていた。だから彼も容易に相殺出来ていたのだ。仮にあたし達も攻撃範囲に入っていれば一撃も逃さず全て相殺し切るなど到底不可能だっただろう。
同名の、もう一人の義弟。
過去が同じという事は、あたしがこの子に向ける愛情も分かれた時点までは同一という事になる。そして分かれて以降の事を聞けば、オリジナルの義弟とはまた違った感情を抱く。
抱く感情、その一つは憐憫。誰よりも苦しく、理不尽な境遇に落とされた事に、傲慢にも不憫に想い、だからこそ護らなければという意識と愛しさが強くなる。
他に抱く感情は、感嘆。自らの存在に勘付いていて、一時は我を忘れるも冷静さを取り戻し、その事実を受け容れ対話している事に対する、自我の頑強さへの畏怖だ。義弟であり、同時に大切な教え子でもある子の精神の屈強さには目を瞠るばかり。
そして等量に抱く、悲哀と憤怒。義弟が生きていた事に対する喜びも束の間、ほぼ同一存在の別の義弟がどう足掻いても人としての幸福を得られない状況に貶められた事に対する、二つの感情。一つは義弟の境遇に、一つはそうした黒幕に。
「ごめんなさい……!」
再度の謝罪と共に、眼前に存在する華奢な体を掻き抱く。
オリジナルのキリトの事は勿論、あたしは他のSAOプレイヤー達の目的を考えれば、この世界のクリアは絶対だ。そしてそれは、この世界に息づくAIを殺す事も意味する。
あたしが現実へ還ると共に、ホロウのこの子は消滅するという事だ。
その事実に思い至っても、あたしは勿論、他の皆も歩みを止める事は無いだろう。これはあくまで一個人の私情だ、一人の私情で多くの人を犠牲にする事など出来はしない。
それに、その選択をすればあたしは自らの手で、もう一人の義弟を見殺しにする事になる。
――――なるほど……確かに、最低最悪だ……!
《キリト》という少年と親しい者達からすれば、この所感は共通したものとなるだろう。片方を取ればもう片方が絶対に死ぬのだから。
以前ユイちゃんが消滅する際にキリトがしたように、《ナーヴギア》のローカルメモリーにデータを保存する操作を行えるなら話は別だ。
しかしそれはGM権限でコンソールを動かす必要があり、それはエラー修正機能が低下している【カーディナル・システム】と言えども見逃せないのか必ず邪魔が入る。最悪、今度こそユイちゃんは消滅し、復活しない。
仮にそれをするにしても、そもそもAIとして生きる/人としての生を諦める決断をこの子がする必要がある。
これまで実姉の背中を追い駆け続け、必死になって現実への帰還を夢見て戦い抜いて来た彼からすれば、その選択は己の全てを否定するに等しい。誰にとってもそうだとは思うが、こと彼の場合は今までの苦しみ全てが報われない事になるのだ。それではあまりにも救われなさ過ぎる。
どちらにせよ、あたしだって死にたくなくて他の人達とクリアを目指すから、結果的にホロウのキリトを殺す事になる。
それを踏まえた再度の謝罪だった。
「――――謝らなくて良いよ、直姉」
悲観的で、悲嘆に満ちた思考を止めたのは、謝罪を断る義弟の言葉だった。
抱き締める義弟から頭を離し、彼の顔を覗き込む。その瞳と表情から真意を読み取ろうとする。
しかし読み取れたのは、寂寥と諦観という表情だけ。瞳はやはり闇に鎖されたままで真意を読み取る事など到底出来なかった。
「和人、それは一体、どういう意味……?」
「直姉が謝る必要はない。直姉は悪くないし……謝られても、苦しいだけだから……」
泣きそうに表情を歪めて言う少年。
まさか伝わっていないのかと、あたしは先の謝罪の意味を伝えた。この世界から生還するつもりでいるあたしは、つまりあなたを見殺しにするつもりなのだ、と。ユイちゃんの時のようにローカルメモリーに保存すれば生き残れるが、AIとして生きるという事は、今までの全てを否定するに等しいのだと。
「うん、分かってる。でも、さ――――どうしようもないから」
懺悔するように告白した返しは、諦観に染まり切った言葉だった。
「オリジナルには『返せ』って叫んでたけど……皆と一緒に居る別の自分を見た時点で、もう察してた、『ああ、自分は偽物なんだな』って」
やはり、この子は勘付いていたらしい。決め手はどうやら一緒にいたあたし達だったようだ。
「無意味だって分かってた。非生産的、非合理だとも理解してた……でも、今まで自分に有った全てを別の自分が持ってると思うと、自分を抑えられなかった。姉も、仲間も、ともだちも、全て取られてると思ったら我慢出来なかった」
「それは……仕方、ないよ」
自分のものを取られれば誰だって怒る。それが大事なものであれば、尚更だ。この子が奪われたと思ったものは掛け替えのない程に大きく、大切なものに違いなくて、あたしが想像出来る絶望より更に深いだろう。
その思考を読んだのか、彼は弱弱しく笑みを浮かべた。
「そう、仕方ないんだ、どうしようもない。あっちは本物で、俺は偽物だから」
「それは……ッ」
咄嗟に『違う』と言い掛け、止まる。
あたしからすれば別人でも、《桐ヶ谷和人》という個人で考えればデータのこの子が確かに扱いとしては偽物になると、自分でも理解していたから。それを否定する根拠も理屈もあたしは持っていない。
AIである以上この子は今後永遠に偽物という立場にどう足掻いても甘んじる事になる。
それをあたしだけでなく、この子も理解しているからこその言葉である事を察し、言葉は続けられなかった。
「ん……その反応で大体察せたから嬉しいよ。偽物でも俺の事、弟として想ってくれてるって分かった――――ありがとう、直姉。偽物でも、変わらず愛してくれて」
「う……ぁ、ううぅぅぅ……っ!」
自分としては当然の感情に、本当に嬉しそうな――――哀しみの混じった笑みで礼を言われた途端、あたしの眼には大粒の滴が浮かび、頬を伝い始めた。
お礼を言われるつもりでしている訳では無いのだ。
家族なら、家族としての愛情をを向けるのは当然の事なのだ。
――――それにお礼を言われても……こんなのは、嬉しくもなんともない……!
――――ただただ悲痛さと哀しさが増すだけだ……!
「俺は、SAOの、更にこの《ホロウ・エリア》にしか居られないだろうけど、俺に出来る事があるなら力を貸すよ。オリジナルには少し複雑だけど……直姉達が生還して欲しいのは俺も同じ気持ちだから――――俺の命を、どうか上手く使って欲しい」
「ッ……莫迦ァっ!!!」
ホロウのキリトが最後に口にした言葉は、あたしを一発で怒らせた。
彼の心情も多少は察せる。この世界が存在し続ければ生き続けられるが、しかし親しい人達の生還を叶えるなら、自身の生は諦めなければならない。だからこその諦観だと。
でも、そんな自分を道具のように言う自棄に思える態度は、あたしが嫌う言動だった。
嗚咽を洩らし、涙を零していたあたしは、それらを取り繕う事もせず彼の顔を睨め付け、罵倒を口にした。
「そんなっ、そんな事は望んでないっ! あたしはただ、あなたに……幸せに、なって欲しいだけで……っ!」
「――――仕方ないだろ、どうしようもないんだッ!」
口にしていた途切れ途切れの言葉は、悲鳴にも違い怒号がかき消した。
気付けば目の前の少年の顔には怒りの表情が浮かんでいた。他には苛立ちと、哀しみ。光を映さない黒い瞳に涙は無い。
その顔は、拾ったばかりで入院している間に見た、幼子の顔だった。
「俺が生きる事と、直姉達が生きる事はイコールじゃないんだ! 直姉達がクリアしないよう邪魔すればまだ生きられるさ! でも――――それは、《ビーター》としての、【黒の剣士】としての俺を全て否定する選択なんだよ! 何の為に戦って来たか知らない訳じゃないだろう?! ここで諦めなかったら何もかも意味がなくなるんだ! なら諦めるしかないじゃないか!」
怒りと悲しみを綯交ぜに顔で怒号を放つ彼は、正に逆鱗を叩かれた竜、怒髪天を衝く勢いだった。普段怒鳴られてもうろたえないあたしが怯む程に、彼は怒りを抱いていた。
考えてみれば当然か。
あたしが指摘するまでも無く、彼自身がそれを悟っていたのだ、自分が生きる事を諦めなければ今までの全てを否定するのだと。
オリジナルのあの子が己の死に意味を持たせる程だったのだから、それを矯正する以前のこの子が同じ思考を持つのは仕方なかった。それも死ぬ事でしか他者を救えないのであれば尚の事。
オリジナルの方は、まだ救いがあったのだ。彼が死ぬ必要など無かったから。
でもホロウの方は、救いなど無い。この子が死ななければプレイヤーが死ぬ事になるのだから。そしてそれをこの子は望まない。
八方塞がり。つまりは詰みだ。
「……あと、直姉には悪いけど、俺はSAO以降もAIとして生きるつもりは無い」
「……どうして? ユイちゃんも居るのに……」
付け加えられた宣言に、純粋に疑問を呈す。無いかもしれない、とは思っていたけどこの時点で早くも答えを出すとは思っていなかった。
彼はあたしから離れた後、波打つ海へと向き直り、遠い彼方へと目を向けた。
「――――デスゲームだから」
「……?」
ポツリと告げられた言葉。その真意を測る事が出来ず、首を傾げる。
「この世界のクリアと共に、俺は消える。それは確定事項だ。だったらそれまでの間に精一杯生きる……AIだとしても、人間だとしても、全力で生きていれば変わりは無い。つまりこの異常な世界なら俺はまだ人として生きられる。そして、人として終われる――――すぐねぇ」
そこまで言った彼は、顔だけあたしに向けて、微笑みを見せた。
一瞬、その瞳に光が戻る。
「おれは、人として終わりたいんだ」
その言葉を聞いて、あたしは完全に悟った。
もうこの子の決意を覆す事は不可能だと。それくらい追い詰められ、手遅れなどでは済まないところまで思考を飛躍させ、諦めてしまっていると。
あたしがあの子の思想を矯正出来たのは、心の奥底に燻る願いがあったから。未だ望みがあると勘付いていながら目を背けていた願いがあったからこそ、あたしの叱責は有効打となり得た、叱責が彼の願いを掘り返したから。
でもこの子には、その願いすら無い。
本人が完全に諦めているのであれば、もう手の施し様は無い。
医療はあくまで治癒の手助けに過ぎない。完全治癒に至るには、当人の『治す』というやる気が不可欠なのだ。
この子が生きる事を諦めている/死ぬ事を決意している時点で、あたしがどうにか出来る筈も無いのだ。
だから、あたしが口に出来たのは、たった一言のみ。
ごめんなさい、だけだった。
はい、如何だったでしょうか。
久し振りに執筆したので戦闘描写辺りでちょっと勘が鈍った気がしなくもない。
というか、何が何でも義弟絶対生かすウーマンな最強師匠リーファが、精神的にとは言え完全敗北を喫した……?! やっぱキリトのホロウはオリジナルよりも強いんやなって(白目)
まぁ、義姉の義弟溺愛っぷりをしこたま描写出来たので大満足です。溺愛しているからこその苦悩を描写出来る事こそ本物偽物関連のお話ならではと言えますよね(愉悦) しかもどっちか片方を取れば取らなかった方が確実に死ぬという究極の二択(邪笑)
あと原作の《ソウル・トランスレーター》ことSTLならともかく、《ナーヴギア》で記憶とか読み取れる訳無いだろって突っ込みは無しで。本作がISとクロスしてる作品=科学技術超進歩状態&須郷がデスゲーム化や《ナーヴギア》製作に絡んでる事を忘れてはいけない(戒め)
SAOゲーム《ホロウ・フラグメント》のお話を書いている他の作者様方の作品でも結構主人公と主人公のホロウが対面する事はあるんですが、ここまで切実な話は無いんじゃなかろうかと思ったり。
主人公がAIになって、SAOクリアと共に死ぬからその辺で苦悩する作品は過去読んだ覚えがありますが(シリカがヒロインのSAOトリップ物)、あの作品も主人公の事情について明かされたのは取り返しがつかなくなってからでした。まだ取り返しがつく時点で思いっきり悩む展開は多分本作初じゃないかな。
まぁ、AIになった時点で取り返し云々どころでは無いんですが。
ともあれホロウキリトはSAOクリアと共に消滅確定(予定)です。『一人の人間として死ねる』デスゲームだからこそそのまま消滅したいと言っているホロウキリトを止められる術をリーファは持ってないですからね、仕方ないネ(邪笑)
ほら、『テイルズ・オブ・ジアビス』の主人公レプリカルークとオリジナルルーク/アッシュも似た感じだったし! 本作だと関係性が真逆だけど!
ちなみにホロウキリトが最後ら辺で『俺の命を上手く~』と言っているのは、ホロウアバターだと何度やられても復活するからこその思考。PoHの視点辺りでも出していなかったと思いますが、ホロウデータは何度やられても死に戻りします、それを前提にケイタ達をけしかけている。死に戻し無くても言っていた可能性大ですが。
リーファのお説教前の絶望キリトが思い詰め続けて行き着くとこまで行き着けばこうなる訳です。あそこで叱責が無ければ遠からずこうなっていた。ホロウキリトの場合は自分が偽物であると悟ったからこそ一気に進んだのですが。
リーファが悲観的になってるのは、その絶望感を諸に喰らってるから。
――――ホロウキリト、オリジナルキリト含め戦闘での相性は誰とでも最高でも、性格的な相性は全員と最悪そうだなぁ……!
オリジナルキリト含め、親しい人全員がストレスマッハですね(愉悦)
――――さて。
切りのいい百話を投稿した事で、今度こそ長期休載とさせて頂きます。休載する理由は前話の後書きにも書いているように活動報告をご参照ください。
願わくば、休載明けの時に一人でも多くの方が本作を覚えていて下さる事を。
では。