インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷です。
今話は前半ユイ、後半クロエ視点。
文字数は約一万二千。
ではどうぞ。
キリトとリーファの戦闘はおよそ十五分続いた。
一般的には短く感じる、しかし試合としては長いだろう時間の中で、二人は熾烈な戦いを繰り広げた。
空中戦闘に移行してから少年は召喚武器《ⅩⅢ》を併用し、二刀を以て義姉であるシルフの剣士を攻め立てるも、彼女は巧みにそれを捌き、反撃を入れる。少年もさるもので、義姉の反撃を片方の剣で弾き、対応していた。そのため十五分間どちらも一撃もクリーンヒットは無し。
時間切れを知らせる
何故か、リーファがキリトに肩を貸した状態で。
キリトは疲労したのだろうが、空都の闘技場で猛威を振るって尚元気有り余る様子を見せていた彼が、まさか彼女との一戦にそこまで消耗するとは思えない。スヴァルトが実装される前にも幾度か訓練として刃を交えていたが、その時には疲労している様子が無かった。むしろ何らかのクエストに向かう前にスパーリングとして空き時間にしていたくらい。
寝不足だとしてもあそこまで疲労はしないだろう。偽物が出たせいで半拘束され、解放されたのが日を跨いだ後でも、現在時刻は午前九時半な訳で、朝食諸々を済ませる事を前提に考えても五、六時間の睡眠は取れている。
それは自分よりも、《攻略組》として長らく一緒に戦って来た面々の方が分かっているようで、物凄く怪訝そうで――同時に、心配そうな面持ちで二人を迎え入れていた。
大地に降り立った途端、キリトはゆっくりと片膝立ちにしゃがみ込む。
どうして座らないのだろうと純粋に気になったが、空気を読んで黙る。
「ねぇ、キリトはどうしたの? なんかすごく気分悪そうなんだけど」
「いえ、あたしにも分からなくて。終わった途端いきなりこんな状態になりましたから……」
ユウキが問うも、リーファも困惑気味の表情で頭を振った。彼女でも分からないという事は発作だとか持病だとかの類では無いらしい。
ボス戦後の状態に近いなぁ、と彼の背中を擦りながらユウキが言う。
「糖分不足、だと思う……」
「糖分不足……? 低血糖ってこと? キリト、あなたまさか朝食を抜いてるの?」
「食べたよ……でも、朝食で取った分でも賄えないくらい、消費が激しかったんだと思う。俺の戦い方は脳を酷使するから……」
彼の言葉を聞いて、納得を抱く。
一拍の内に幾度も斬撃を放つ反応速度は勿論、《剣技連携》や《ⅩⅢ》といった一秒未満の時間内に無数の並列思考を行うなら、脳への負担はかなり大きい。その脳のエネルギー源は糖分、それもブドウ糖限定。それの
キリカと接していると分かるが、『彼』は食べ物での好き嫌いは無く、出されれば何でも食べるし、薦められればそれを選ぶ人間だ。つまり誰かが薦めない限り糖分の多いデザート類をほぼ口にしない。糖を分解する膵臓の細胞が悪かったりインスリンの感受性の影響で糖分解効率が悪かったりしない限り、血糖値はほぼ正常値を示しているだろう。
そんな彼が極端に短時間に脳を酷使すれば低血糖状態になり、眩暈や頭痛を覚えてもおかしくない。酷ければ手の震え、最悪意識昏倒から死亡するケースまで存在する。
今まで幾度も刃を交えていながら今日いきなり起きた点は気になるところ。
だが、それは今は良い。
体調が心配になり、義弟と、彼の背中を擦る義姉とユウキに近付く。彼の前でしゃがみ、額に手を当てた。
――MHCPからピクシーとして新生した経緯を持つ自分やストレア、そして更に特殊なキリカには、他のピクシーには無い特殊機能を幾つも持ち合わせている。
その中に肉体接触したプレイヤーのバイタルを使用しているVRハードから採取するという機能がある。《SAO事件》中は無効化されていたが、てんかん発作などの失神を来した時に自動ログアウトする機構は《ナーヴギア》にも備わっており、《アミュスフィア》になってもそれは変わっていない。多くの者が勘違いしているがあれらの差異はバッテリーパックの有無とそれに伴う性能差のみである。
よってプレイヤーの血圧、脈拍、体温などが危険値に達すると自動ログアウトシークエンスが作動するプログラムは最初からインストールされている。
今回はそのプログラムからデータを拝借し、キリトのバイタルを把握した。
――血圧:80/45
――脈拍:46回/分
――体温:35.8℃
体温はまだ正常範囲内にある。だが低血圧と徐脈を同時に併発しており、かつ本人の証言から察するに、間違いなく低血糖状態にある。
「血圧と脈拍が低すぎです。キー、今すぐにログアウトし、糖分を補給して下さい。最悪死に至ります」
「……ぅ」
立とうとして、ぐらりと彼の体がふらついた。前に居た私は咄嗟に彼の体を抱き抱える。ちょうど胸に顔が当たるが今はそれに頓着出来る状態になかった。
こうしている今でも徐々に血圧と脈拍は下がっていく。体温も低下している。
立とうとしている少年の手と脚はかたかたと震え、見れば顔も真っ青。どうやら手を振り、メニューを呼び出す事もままならなくなったようだ。
これでは自動切断されるのも時間の問題――
「ぁ――」
何か、言おうとしたのだろう。
しかし何か言う前に、がくりと彼の体から力が抜け、アバターの上に《Disconection》のシステムメッセージが表示される。
「……自動切断されました」
「え、ちょ……ヤバくなるの、速過ぎない? あっという間だったじゃない……?」
呆気に取られた顔でリズベットが言う。
「それだけ我慢していたのか、朝食の糖分で補えない速さだったせいか……とにかく、至急博士の方に連絡をしないと……」
「もう連絡済みだよ。こっちで対応するってさ」
「そう、ですか……ありがとうございます、ストレア」
「どういたしまして」
彼のバイタル面の世話をしている女性への連絡は、ストレアが手早く連絡を済ませてくれていた。フットワークの軽い博士の事だ、連絡を受けてすぐ動いてくれているだろう。
やや引っ掛かるのは、今の彼女は動ける身にあるのかという事。指名手配云々ではなく、《ユーミル》に務め、ALOの運営を行っている立場的に。ゴールデンウィークと言えどALOの運営は休んでいないのは明らかであり、《ユーミル》の実質的な代表取締役である以上彼女も休みを取れない筈だ。恐らくは彼女が引き取ったというクロエという女性に任せたのだろうと推察する。
一先ず現実側でもすぐ動いてくれる事に安堵した私は、力なく凭れ掛かって来る少年の躰を横抱きに抱き上げる。筋力値はそこまで高くないのに異様に軽く感じた。
「あ、えっと、ユイさん、どこに行くんですか?」
義弟を抱えて歩き出してすぐ、水色の小竜を肩に載せた
「このまま放置はアレですから、リー姉のホームに寝かせようかと」
どこでもログアウト出来るALOは、ログアウトしてから暫くはアバターがフィールドに残ったままになる。これは負けそうになった時にログアウトして無効にするという行為を防止する為の措置であり、SAOでもベータ時代は適用されていたシステムだ。しかも敵Mobからターゲットにされやすいという特徴もある。やられると普通にデスペナルティを受ける上、通常時に較べて武具ドロップ率が高い。
しかし《圏内》コードの無い中立域と言えど宿屋の一室はシステム的保護の対象圏内であり、ログアウト後はすぐにアバターが消失する。これはホームでも同じ。
そのためリーファが持つホームにアバターを置いておくつもりだった。キリトが復帰してから借りたホームなので豪邸級のそれには幾つも部屋があり、彼も一時的に間借りしていた。自分とストレア、キリカも。当然そのホームに入る合鍵コードは受け取っているので家主が居なくても入るのは自由である。
その予定を話すと、なるほどです、と彼女は頷いた。
ちなみにSAO時代では『ちゃん呼び』だった彼女は、長らく大人形態を取ったせいか『さん呼び』になっていた。
「――ねぇ、ユイちゃん」
今度は
彼女の表情はやや険しかった。それは私を責めるものでも、キリトに怒りを抱いているものでもない、複雑な感情を持ったもの。
「キリトは……その子は、何時もこんな感じなの?」
その問いで、何故その表情をしているのかを察する。
予想していたよりもキリトが無茶をしているように見えて不安と危惧を同時に抱いたのだ。しかし彼が自分で決めた事であり、頭ごなしに怒り辛いから、感情を抑えている。
――良い母だ。
そう思った。今まで電話で声だけの会話だったのに、顔も見ないで娘として受け容れてくれた人に、更に敬意を抱く。
そんな女性に、私は微笑んだ。
自分の表情は見えないけれど……きっと、哀しみのそれになっているだろう。
「今回のこれは流石に例外ですが、SAOの
「……そう。まぁ、今回は点滴をしていなかったせいだと思うけど……」
「……点滴、ですか?」
「血糖値が低いからって糖分多めの点滴処方を度々していたの。それでも低血糖になる事があったらしいわ」
「頻繁に疲労や頭痛を訴える割に回復が速いと気になってたんですが、そういう事だったんですか……」
日々の攻略疲れが蓄積したという割に回復が速いと疑念に思った事はある。義母の話のように、度々低血糖になっていて、その度に糖分補給の点滴をしたから回復が速かったとすれば、最速の反応速度による戦闘スタイルでの消耗とそれに見合わない回復速度にも辻褄が合う。
思えば七十五層闘技場や《圏内事件》後の数日間の昏睡は低血糖によるものだったのかもしれない。
そう納得を抱いた後、空都の転移門で合流する約束をし、移動する。
【スヴァルト・アールヴヘイム】に人が流れているとは言え、流石に実装から四日も経てばある程度戻って来る訳で、街中にはそれなりのプレイヤーの姿がある。やはり大型連休という事でログインしている人間は多い。
その中を歩けば知名度も相俟って無暗に注目を浴びるので、《索敵》スキルを発動しながら空を飛び、目的の場所へと向かう。
数分で辿り着いたのは、央都の中でも端の方に位置している人通りの少ない地域。雑貨屋、武具店、宿屋など主要な施設が揃っているメインストリートから外れているせいか、整然とした光景なのにどこか寂れて見えるやや細めの道を突き進んだ先に、義姉が購入したプレイヤーホームがあった。
真白い石材をふんだんに使う傾向にある央都の中で異彩を放つ木造の建造物。外見は邸宅そのもの。正面から見れば然程大きくは見えないが――それでも横は30メートルある――何より恐ろしいのは奥行きであり、なんと中庭をぐるりと囲うロの字型の邸宅である。吹き抜けの中庭を持つ学校の校舎を家にしたようだ、というのがアスナの言である。これまで見て来た進学校のパンフレットの中に酷似したものがあったらしい。
一体どれほど掛かったのかは怖くて誰も訊けていない。基本的にホームの値段は間取りの広さ、何階建てか、施設内オプションの充実ぶりで左右されるのだが、この邸宅はプレイヤーホームとしてはほぼトップクラスなので、間違いなく一千万ユルド以上掛かっている。この弟にしてあの姉ありとはこの事と言えよう。
そんな家の敷地には、豪邸と言わんばかりの厳めしい門が一つ。これを潜らない限り敷地内に足を踏み入れる事が出来ない。システム的に塀より上は遮られているからだ。
持っている合鍵を門の鍵穴に差し込み、捻る。がしゃん、と音を立てて鍵が開いた。鉄柵型の門を押して門を潜り、少し歩いて玄関に到達。縦の持ち手を握り、重厚な木製の扉を引いて中に入る。
玄関ホール端の階段で各人に宛がわれている部屋が並ぶ二階に上がった後、長い廊下にズラリと並ぶ扉の内、最も階段に近いものに向かう。扉を開けて中に入った後、設置されているベッドに寝かせ、布団を被せた。
システム圏内で、更に宿と同等の扱いを受けている場所に落ち着かせたので、あと五分と要さず彼のアバターは消失し、完全にログアウト状態に移行するだろう。
ベッド端に腰掛け、微動だにせず横になる少年の頬に手を伸ばす。
「まったく……
そこがかわいいところですけど、と苦笑する。
ゆっくりと陶磁器の如く白い肌を撫でる。柔らかな感触を楽しむのは久しいが、嬉しいとは思っていない。楽しむならもっと和気藹々とした時が良かった。あるいは、ピクシーの大きさで、全身で感じた時か。
「あなたは……何を、考えているんでしょうね……」
デスゲームから脱した今、バイタルを把握する権限はあっても、MHCPとしての機能をALOのシステムが許さないため、彼の思考や精神状態を把握出来ないでいる。それがこれほどもどかしく感じるとは思わなかった。
人の悪感情を受けなくなったのは、良い事だと思う。
しかし今、私はそれを求めている。この子が何を考え行動しているか分からないから。
……いや、違う。
本当は、分かっている。楔となる人が一人でも居る限り彼の
その行動こそが、今回の状態悪化を引き起こしたに違いない。
実装前は引き起こさなかった低血糖症状。極めて短時間、かつ極端なバイタルの下がり様から、よほど脳を酷使した事が窺える。それほどまでの変化が何かあったのだ。
そしてその変化の理由こそ、彼を全力足らしめる原因だ。
遊びであるALOで、最悪死にかねない体調まで追い込まなければならないほ何かが起きようとしている。契機としてはスヴァルト実装、彼の言動的には《三刃騎士団》か【歌姫】か。
でも、それはなに?
ALOの運営は篠ノ之束博士と茅場晶彦博士の両名が全力で当たっており、更にコピーとは言え【カーディナル・システム】を用いている事から、ハッキングに対しては異様な硬さを誇っている。デスゲーム中に何十人ものハッカーが挑んでは学習しより強固になっているファイアウォールの前に敗れ去ったと聞く。故に、仮令最高峰の機材を揃えたとしても、七色・アルシャービン博士がALOにログインしているプレイヤーに干渉するなど事実上不可能に等しい。
SAOの場合、開発陣営中枢に食い込んでいた須郷伸之が脳破壊シークエンスのプログラムと《ナーヴギア》の自動切断機能無効化のプログラムを人知れず組み込み、ファイアウォール適用内にしていたからどうしようもなかっただけ。
ALOでは前提条件からしてあり得ない。須郷のように人の記憶、精神の改竄などをしようにも、《アミュスフィア》だと
当然、キリトだってそれは知っている筈。ともすれば須郷の研究文書を粗方読み尽した彼の方が七色博士より詳しいかもしれない。
だから、警戒なら、まだ分かる。
しかしここまで体調を追い込むほどになると、最早警戒では済まないのではないだろうか。
「……キー……」
AI特有の高速演算で幾通りの仮説を立てるが、どれも決定打に欠け、核心を抱けない。間違いなく彼は私達を護ろうと動いている筈なのに道理に合わない環境がそれらを棄却する。
なら、これから何かが起きるというのか。
《ナーヴギア》より研究的資質に劣る《アミュスフィア》を使い、更にSAOと違ってオープンワールド状態のALOで、一体なにが出来るのか。
「あなたは、きっと答えを出したんでしょうね……」
だから動いている。まだ何も起こっていない段階で、起き得る事態を回避するために。
なら――
「どうして、手伝わせてくれないんですか……!」
彼の頼みとあらばすぐに力を貸す人は何人もいる。実力的にも、支援的にも、恐らくALO内ではトップクラスの即戦力ばかり。
監視なら、私達が請け負う。
【歌姫】についてなら半クラスタ化しつつ、それでも義理を優先するクラインが率先して調べてくれるだろう。
研究についてなら、それらしい研究文書や方針、インタビューでの受け答えをみんなで探って来る。
知恵を貸してほしければ幾らでも貸す。労力だって、惜しむつもりは無い。
――一人で出来る事は少ないんだと、そう学ばされ、変わった筈なのに。
きっと百層ボスを倒した後に何かがあったんだろう。
たった独りの三ヵ月。ゲームクリアから実際に彼が覚醒するまでのこの期間について、殆どの仲間は脳を酷使したせいで覚醒するまで時間が掛かっていると説明されているが、彼の義姉である自分、リーファ、ストレア、ほぼ同一存在のキリカ、そして義母である翠は実際はSAOサーバー内で彼が戦い続けている事を知っている。
第百層で自身以外を喪って、それでもクリアした後の彼が、一体どうして残る事になったかは、本人が固く口を噤んでいるから分かっていない。
これではまるで逆戻りだ。
せめて死ぬつもりなんて無いようにと、そう強く願いながら横になり、彼のアバターが光に散るまで抱き締め続けた。
***
ピー、ピーと不快な警告音が部屋に響く。
寝具に横たわる少年に繋げられた幾つものコードと機器の内、バイタル面の計測を担うものがそれを上げていた。画面に映る数字の中で赤く明滅する数値。それは現在の血糖を示すもの。正常値よりも遥かに下回っており、それを皮切りに血圧や脈拍まで赤く明滅する危険値まで低下し始めている。
低血糖症状だ。
束様から備えておくよう言われ、更識邸内に特別に用意された一室にて読書で時間を潰しつつ、彼のバイタルを観察していた。詳しい事情は知らない。彼女は、多分一回は低血糖で死にかけると語り、その時の対応を伝え、出社した。
引き受けない選択肢など無く、言われたように待機していたのだが――
「いったいどんなプレイをしているのか……」
フルダイブしてから一時間足らずで低血糖症状を引き起こすほど脳を酷使するなど尋常では無い。
眉を顰めるのを自覚しながら、言われた通りに動く。傍らの机に置いていた二つの内、一つを取る。
一つは注射器。容れられている液体は血糖値を上げる効果を持つホルモンと糖分を多量に含んだ皮下静脈注射用超濃縮保水液。低血糖症状を改善させるために天災が持つ頭脳と技術を集めて作られた彼専用のもの。当然だが、医薬学会の基準など優に脱しており、違法薬物に該当する。注射も本来なら看護師資格を持っていなければ違法なのだが、バレなければ犯罪では無い。
アルコールを含ませた脱脂綿で右肘周囲を消毒し、上腕動脈の拍動を探り当て、そこに注射器を刺す。ゆっくりと保水液を入れる。空になった注射器は専用の袋に入れ、間違いが起きないよう机の上に置く。
使用済み注射器と代わるように、今度は先程取らなかったもう一つのモノを取る。
それは腕輪。見た目が機械的で、現代若者風に言うなら‘ロック’、古風に言うなら無骨なそれは、携帯用のバイタル計測器兼無針注射器。常に彼のバイタルを計測し、正常値を大きく下回り死の危険性が生じた場合、即時対応出来るよう発明された天災特製の代物。今回は低血糖症状に陥る事を予見した彼女により、先の注射器と同じ内容物を入れている。高血糖の人にはインスリンを、高血圧の人には降圧剤など、症状に応じて内容物を変えれば医療現場に革新を齎す代物なので、発表すれば普通に特許申請ものだろうが、彼女はそうするつもりが無く未だ世間に秘匿したまだだ。当然ながらこれも諸々の基準外のものである。
その重さ一キロ近い腕輪を彼の左手首に装着する。先の注射が功を奏したか、すぐに血糖値は正常値下限へと戻り、他も立て直してきているので、すぐに腕輪内の液体が無針注射される事はない。
常人であればその上下だけでも昏倒もの。
だが、《アミュスフィア》の自動切断機能でログアウトしたのだろう彼は、すぐに意識を覚醒させた。ゆっくりと起き上がり、寝台の端に腰掛ける。
「大丈夫ですか?」
「……ああ。死にかけたけど、大丈夫」
死にかけたこと自体大丈夫ではないのだが……
内心で溜息を吐く。
「だいぶ無茶をしますね。一時間足らずで極度の低血糖症状を起こすなんて」
「リー姉と摸擬戦していたんだ」
「……それだけですか?」
「ああ」
低血糖になる程だからどんな激戦かと思えば、答えは対人戦一つのみときた。この答えに違和感を覚えた私はまた眉を顰めてしまう。これは違うと瞬時に思った。
先の注射器と腕輪の二つがそう思わせた。
「束様の様子から察するに、意図的に引き起こしたのでは?」
「……半分は、意図的かも。もう半分は結果的にかな」
やや曖昧な物言いに首を傾げる。普段ハッキリと言う彼にしては少し珍しい。
するとぐったりと床を見ていた彼が、徐に顔を上げ、私を見て来た。その金色の瞳に思わず固まりそうになるが、ぐっとこらえる。
「クロエは、昨夜なにがあったかは聞いているか?」
「昨夜……? いえ、お二人が何かしている程度にしか聞いていませんが」
昨夜《ユーミル》本社から帰宅し、食事や入浴諸々を済ませた後は、翌日のスケジュールを確認し、早々に就寝した。束様は用事があると言い、和人とこの部屋に籠っていた。それくらいしか把握していない。
今朝いちおう聞いたのだが、彼女は何があったかは教えてくれなかった。
ただ物凄く不機嫌そうなのは伝わった。彼女がああまで感情を露わにするとなると、和人関連で相当不快な事があったのだろうとだけ推察している。
そう答えると、和人はそうか、と言い、押し黙った。
「……低血糖を一気に引き起こしたのは、これまでと違って、脳の
「それは分かりますが」
「いや、分かってない。前提からして昨日までとは違う。同じだったら今までリー姉と戦った時にも同様の症状を引き起こす」
言わんとする事は理解出来る。確かにそこは引っ掛かっていた。
「昨日と違うのは、俺の脳そのもの。脳の処理限界を引き上げる為に、ISの量子変換機能を流用し、原子配列から組み換え、弄り、改造した。脳の秒間演算速度を引き上げたから短時間で糖分切れを起こしたんだ」
「……それは……」
かなり省かれた説明だったが、ISについて教授を受けた身故に何をしたのかは、理解出来た――出来て、しまった。なまじ、
『裏』で言えば、それは惨い事であっても、なんらおかしい事では無い。
敵を殺す。
生き残る。
それらの為なら何だってするのが『裏』の人間。
だが、これは……
「低血糖症状を引き起こすのは分かっていた。だから、
立ち上がり、部屋に備え付けられたクローゼットから出した薄手の黒いシャツに病衣から着替えつつ、彼は淡々と己の
その様は
違うのは、
彼は目的のために邁進するが、それも人道からは踏み外れないよう留意し、配慮している。ただ自分自身をそこから除外しているだけ。
「……いったい、何を考えてそんな事を」
「必要だからした。暫くログイン出来ないから、保険を掛けておきたかったんだ」
「保険……?」
「ああ。俺が居ない内にリー姉達がセブンに入れ込んでたら、こっちの思惑は全部水泡に帰す。だから俺の本気具合を感じさせた」
皆は俺の事を理解しているから、と彼は微笑む。
――ふと、背筋が寒くなった。
「俺が七色・アルシャービンと《三刃騎士団》を警戒している事、そして皆に黙って何かしている事を、皆も気付いてる。でもそれがどれくらい本気かまでは分かってない。SAOと違ってALOと《アミュスフィア》だと命の危機と繋がりにくいからだ」
「だから……低血糖にわざと陥るほど本気だと感じさせるために、脳を……?」
「勿論それだけじゃない。というか、メインは純粋に俺の脳の限界を引き上げるためで、
くすりと、笑みを浮かべながらの言葉に、嘘だと悟る。
和人が戦う理由など最初から決まっている。彼の義姉からも教えられた、大切な人を護る為に無茶を厭わないところは治せなかったと哀しげに語っていた。
彼にとって、強くなるのは最終的に居場所を得る為。それは親しい人達と幸せに生きるため。
彼にとって、引き受けた仕事はそれを為す手段の一つ。
彼の行動はほぼ全て『みんなと生きる』という目的一つに捧げられている。メインだとか、オマケだとか、そんなものはない。リカバリー可能なものが彼にとってはオマケ扱い。絶対外せないものがメイン扱いなだけだ。
「……それを、私に教えてよかったんですか。束様や直葉様に言うかもしれませんよ」
「それならそれで構わない。元々皆を七色博士に肩入れさせないのがメイン、こんな迂遠なやり方をしてるのは俺の我儘だ。知られようが知られまいが怒られるのは変わらない。知られたら、それが早まるだけの事」
――知られたところで、支障は無いよ。
余裕の表情で言い切られる。その程度の行動は織り込み済みだと、そう言われた気分になる。
「――怖く、ないのですか。自分が死ぬかもしれない、直葉様達に怒られるかもしれないと」
「怖いよ。嫌われたくない、怒られたくないとは思ってる。死ぬのも怖い。だから束博士やクロエに迷惑を掛けてでも生き永らえてるんじゃないか。今回だって協力を頼んでなかったらそのまま昏睡で死んでたよ」
「……和人を死なせないためにもう協力しないと、そう言われたら?」
その問いは、彼の計画がこちらの協力ありきのハイリスクなものだったから。それに協力しないとなれば、彼も危険だからと諦めるのではと予想した。
「それならそれで構わない。死なないギリギリを見極めながら続行だ」
しかし彼はあくまで辞める気はないらしい。協力を得られなくなっても、怒られ、嫌われる事になっても、止まらない。その覚悟で動いているようだ。
でも、それは矛盾している。
「和人、あなたの願いは『皆と幸せに生きる事』と、そう聞いてます。しかしあなたの行動は、それに反している。人を遠ざけている。死のリスクを背負っている。まるで矛盾しています」
彼女達に事情を話さず、一人で行動する。結果的に彼女達は護られるだろう。しかし理解は得られまい。それでは、彼や彼女らが想う幸せな未来は、得られない。
そう指摘するも、彼は矛盾していない、とハッキリと返す。こちらから視線を切り、扉のレバーに手を掛けた。
「俺の行動は全てその願いに集約されてる。護る事も、生き足掻く事も。死なせないため、生きるために必要なリスクであり、努力であり、過程だ」
「死のリスクを背負ってでもですか」
しつこいくらい問う。せっかくデスゲームから生還したのに、それでは無意味ではないかと抱く疑問が、そうさせた。
「――何の代償も払わず何かを得ようなんて、虫が良すぎるだろう?」
レバーに手を掛けたまま、彼は言った。
――ぞくりと、体が震える。
淡々とした問い掛け。声質や声量は変わっていないのに、震えた。
「あのデスゲームで学んだ事がある」
「……それは……?」
唇が、震える。
声が、震える。
――圧倒されていた。
映像でのみ知っている剣士としての彼。戦う者として成長した少年の圧。ただ話しているだけなのに、圧倒される。
「この世は所詮弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ」
噛み締めるように、謳われる。
ある意味でこの世の真理。
共産的社会。競争社会。そのほか、沢山の国家形態があるが、どのようなものであれより優れた者が上に立つのはこの世の摂理だ。賢ければ順位は上がる。強ければ大会で上に立つ。人間だろうと、野獣だろうと、生きる上では競争は避けて通れない。
実験に次ぐ実験で期待値を上回れなかったせいで処分され掛けた身として、それは本能と経験の双方で理解しているものだった。
数字で上下が決まる厳正な仮想世界であれば、それはより一層克明になる。
デスゲームを終わらせた立役者としては人一倍忸怩たるものを感じていた筈だ。
「何かを得るには、同等の代価を払わなければならない」
等価交換の原則。
現代では金銭で交換される物品が表している。仕事をこなして給料を貰う。そうしてこの世は成り立っていた。つまり、彼が望むものを得るには、相応のリスクを払うべきという事。
「そして――」
――ふと、和人が肩越しに振り返る。
彼の顔は、歪んでいた。不敵な笑みは、歪なものになっていた。
まるで
「
噛み締めるように、そう言った。
それを最後に、彼は部屋から出て行った。
はい、如何だったでしょうか。
――糖分不足でダウンを誰が予想できたか!
脳のエネルギー源はブドウ糖で、物凄く集中するとそれの消費量が供給量を上回り、血糖値が低下し、頭痛や吐き気、眩暈などを呈する低血糖状態になります。キリトは脳を改造し、演算速度を上げたせいで消費量が増大し、たった十五分で燃え尽きた訳ですね。
原作グリームアイズ戦後にキリトが倒れたのって、脳の演算速度の限界をずっと引き出しながら慣れない二刀スキルを全力でブーストするという、極限まで集中を要する事をしていたからだと思うんですよね。ならなんでそうなったのかと思って、糖分不足に。
点滴にはある程度の糖分や塩分が含まれているので、それで回復が通常より速い感じだった訳です。
しかし本作現時点だと当然点滴なんてしてないので、キリトは低血糖になり、ぶっ倒れました。
その倒れる事すらもリーファ達の『心配』や『信頼感』を利用し、セブン達に警戒心を向けさせるもの。
本作の主人公はとても面倒くさいヤツ。何れ愛想尽かされてもおかしくありませんね! それ込みでユウキ達は追い掛けていますが。
ただし読者からは愛想尽かされても文句は言えない。
あぁ、お気に入りが減っていく様が見えるぞぅ……オオォォ……オオオオオォォォ……!(バルバトス断末魔)
――そんなこんなで前半。
以前幻影キリト操作時にユウキ、クラインと纏めて叩きのめしてたのに何故互角? と思った方は、これまでのリーファの戦い方を思い出しましょう。
彼女、他キャラとの混戦時に全力を発揮する時って、決まって他を下げて、単騎で挑むんですよね。更にALOではソロプレイが常。SAOではシノンと組んでたけど、後方支援を任せていたので、基本的に前衛は自分独り。
つまり本作リーファは『キリト以上の前衛ソロ指向』。
キリトより一人だと強い、という意味では無く、集団戦だとキリトより劣りつつ一対一だとキリトと同等という意味です。
元々剣道や剣術は一対一に向いている代物。対複数を得意としている場合、本人の技量と反応速度、一撃で敵を殺す型を持っている事(殲滅速度)が条件な訳で、大概の化け物剣士はどれも卓越しています。
対ボス戦なら仲間と連携出来るリーファは、対人での集団戦闘の経験がリアル・バーチャルどちらも少ない。
――というかリーファの秒間6連撃を仲間との連携で超える事が出来ないから一対一ではソロの方が強い。
なので現状改造キリトとリーファはタイマン互角。
これまでのタイマンで完封されてた事を基準にすると、キリトの覚醒の仕方がえげつない。リーファの技術・経験を、キリトは反応速度だけで真っ向から相殺してる訳ですからね。元々速かった反応速度が脳の改造で更に倍率ドン! 改造ハード使えば更にドン!
誰かとめろ()
尚、どんなに干渉されても、最終的に目的を達せられればいいので、修正は可能。『とある』のアレイスターには程遠いがね……☆
さて。
『暫くログイン出来ない』などと言ったように、一旦視点は現実側に。更識・布仏姉妹の出番ダゾ!
では、次話にてお会いしましょう。
――左手首の腕輪は『GOD EATER2』の黒い腕輪のコンパクトVer.のイメージで。