インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷です。

 前回アンケートして山田先生登場だと思ったでしょう。申し訳ない、先にこれを挟ませて頂きました。後で前話と順番を変えようかなと思っています。

 今話はオールアスナ視点です。原作七巻の内容が殆どカナー(違いが分かったら凄い)

 文字数は約一万五千。

 ではどうぞ。




第二十章 ~悩める子羊~

 

 

 キリトをリーファの家まで送って行ったユイと合流後、(アスナ)はリーファ、ユイ、ストレア、キリカ、シノン、シリカ、リズベット、ユウキ、ラン、サチ、フィリア、エギル、《風林火山(クライン達六人)》、《月夜の黒猫団(ケイタ達四人)》、《スリーピング・ナイツ(シウネー達五人)》からなる合計二十八人の大所帯で、第二エリア【砂丘峡谷ヴェルグンデ】の攻略に掛かった。

 午前中はフィールド全体とモンスターの生息域の把握。本格的な攻略はお昼休憩を挟んだ後からになっている。

 【スヴァルト・アールヴヘイム】の攻略に本腰が入ったのは、多分今日からだ。

 【浮島草原ヴォークリンデ】の攻略は、その殆どがキリトの手によってキーアイテムの入手と使用が行われており、実は自分達の手であまり進められていない。GWに入る前だった事もあり日中は学業に縛られる。それに反し、自宅から通信教育という形で与えられた課題のみすればいい彼は、日中でもログイン出来る。その差が彼と自分達の攻略速度に関係していた。日中は仕事や学業でログイン出来ない人達も多い《三刃騎士団》と互角の速度になっていたのは、人海戦術の恐ろしさを見るべきか、彼が速過ぎると言うべきか。

 ぼんやりと首を傾げる。

 

「……ねぇ、アスナ。言いたい事があるのだけど、言っていい?」

 

 左隣を歩く()()()が、長弓を下げながら問うてくる。仄かに頬を朱くしている彼女の眼はどこか虚ろだ。

 多分私も同じ目をしてるんだろうなぁ、と考えながら、視線で先を促す。

 

 

 

「――――熱くない?」

 

 

 

 ()()()()()()()()の中、ぽつりと、独り言のように呟かれるその言葉。

 瞬間、場に張り詰めていた緊張が解かれ、決壊する。

 

「――ああ、もう、分かってたけど敢えて言わなかった事なのにぃ!」

 

 一番に痺れを切らしたシノンに続くユウキ。スピード型の前衛として動き回るから余計熱く感じるらしい。仮想体だから動く事で体温が上がるなんて仕組みは無い。発汗は体温を下げる為の機構だが、アバターには再現されていない。

 しかし、人間は錯覚や思い込みで相応の結果を出してしまえる生き物だ。熱い環境の中で、体温を上げる程に激しい運動を続ければ、仮令それが錯覚だと理解していても余計熱く感じるのは自明の理だった。

 探索開始から一時間足らずとは言え、戦闘は幾度かこなしているし、対峙する敵Mobの殆どが炎に関する攻撃をしてくるものばかり。熱波で更に熱気が増す。

 がりがりと、精神を削られていく。

 

「SAOでも思ったけどよ、こういうところまで忠実なのもちと考えものだよなぁ。オリャ(あち)ぃのも(さみ)ぃのも苦手なんだよ」

 

 うへぇ、と刀を担いだまま、クラインがぐったりと俯く。和風甲冑姿の彼は薄手の洋装である私やユウキ、ラン達よりも更に熱い筈だ。何せ空気が抜ける隙間が明らかに少ない。

 そんな刀使いに、お前はまだいいだろ、と斧を背に担ぐエギルが言う。

 

「サラマンダーのお前は火炎耐性が元々高いんだ、俺らに較べりゃマシだろうぜ」

「そうは言ってもよぉ、この環境じゃ雀の涙ってモンだろ……」

「うぅ、熱いよぉー」

 

 ぐでんと茹り始めた男達の傍らで、露出の多い紫紺の大剣使いが呻きを上げる。

 彼女の手には小瓶が握られていた。内容物は翡翠の液体。一個5万ユルドの最高級回復薬(グラン・ポーション)を、HP満タンなのに彼女は飲もうとしていた。

 ぐわしと手首を掴んで制止する。

 

「ストレアさん、それグラポ! というか水筒は?!」

「もう飲み干しちゃった!」

「速っ?!」

 

 街で各人に配っておいた水筒を一時間足らずで飲み干すなんて、と愕然とする。遠足で後先考えずに飲み干し、お弁当の時にベソをかく子供か。しかもポーションで水分補給しようとするなんて。

 朱く火照った顔を見て、かなり限界に近いらしいと察した私は、ああ、もう、と唸った後、腰ベルトから吊るされたストレアの水筒を奪い取り、蓋を開ける。

 そして、手団扇で仰いでいたストレアの義姉に、ずずいと向ける。

 

「ユイちゃん、お水出せないかな?」

「え? 水を出すと言っても、ALOでは、というより元々AIである私では《ⅩⅢ》の自然操作は出来ませんが……」

 

 知ってる筈ですよね? と訝しげに問うてくる彼女。

 

「細剣から溢れ出した水を入れるのは無理かな」

 

 脳裏に浮かぶのは、かつてSAOの《セルムブルグ》に構えていたホームで彼にご飯を振る舞う時の事。あの時、調薬作業をマニュアルで行っていた彼は、製作に必要な水を細剣から出して代用していた。当時は自然属性の操作を任意で行えていなかったので、逆説的に細剣から水を溢れ出す事と、溢れ出た水を何らかに用いる事は可能という結論に行き着く。

 そう説明すると、やってみましょうと頷き、水色の細剣を取り出し、切っ先を水筒の上に置いた。そこから水が噴き出し――予想通り、水は水筒の中に納まり続ける。

 魔法で出した水は攻撃や防御などの役目を終えるか時間経過で自然消滅する。しかし《ⅩⅢ》の細剣で出した水は残り続けるようだ。

 SAOの頃から思っていたが、やはり《ⅩⅢ》は謎が多い。出自は勿論システム的な扱いも他の武具やALOの魔法より異質だ。

 ――その疑念を隅へ追いやり、水で満タンになった水筒を、ずいとストレアへ差し出す。

 

「ストレアさん、はいこれ」

「わぁ、アスナ、ありがとー♪」

 

 飲もうとしていたグラポを仕舞い、ストレアは手早く水筒を手に取り、傾ける。ごくごくと一気飲みの音が聞こえた。ぷはぁっ、と飲み終えた時の水筒は早くも空だ。ユイが再び細剣から水を出し補充を始める。

 

「あー、生き返った! アスナにはお礼にぎゅーってしてあげるね!」

「へ……わひゃ?!」

 

 ぎゅー! と言いながら、抱き付いて来るストレア。硬い鎧を纏っていて尚主張してくる豊満な肢体が密着される。

 

「ちょ、ちょっと、ストレアさん、離れて! 尚更熱くなるよ! だいたい何でお礼に抱き着くの?!」

「え、だってアスナは抱き付かれると嬉しくなるんじゃないの?」

「待って、どこ情報なのそれは……!」

 

 見た目は完全に大人の女性なのに言動がどこか子供っぽいから予想を付けられない。無垢というのか、知識でそうだから実行する、思ったから行動するなど、直情的な言動が多すぎる。

 パラメータ的に抗えないので口だけで抵抗していると、ぐわし、とストレアの首元の鎧を掴み、ひっぺがしてくれる人が現れた。

 水筒を片手に、呆れと疲れを綯交ぜにした表情のユイだった。

 

「ストレア、人に迷惑を掛けてはならないと何度言ったら分かるのですか」

「えー……だって抱き付くと喜ぶって、SAO時代のデータでそう出てたし……」

「ちょ、痴女みたいに言わないでくれるかな?!」

「いや流石にそうは思ってないけどね?」

 

 顔が熱くなるのを自覚する。確かにキリトやシノンといった面々と抱擁する時はあったし、そういう時に喜びが無かったと言えば嘘になるが、だからと言って無作為に突然抱き付くような性癖は無い。完全な誤解だった。

 

「でもさ、アスナの顔、ちょっと笑ってるよー? ホントはアタシに抱き疲れて嬉しかったんでしょー?」

「そ、そんな事は……!」

 

 かぁっ、とまた顔が熱くなる。

 

「……はぁ」

 

 そこで、ユイが溜息を吐いた。水筒を持っていない方の手が上げられる。するとストレアの頭上に蒼い壁――氷を司る大盾が現れた。ヒヤリとした冷気を感じる。

 へ、とストレアの間の抜けた声が上がる。

 

「少し、頭を冷やしなさい」

 

 そう言って、にこりと満面の笑みを浮かべたユイは、手を振り下ろす。

 するとキンキンに冷えた氷を纏う盾が落ちて来て――

 

 ――直後、ぴにゃああああああああっ、という猫のような叫びが上がった。

 

 *

 

 すみませんでした、と頻りにユイから謝られながら攻略を進めた私達は、夕食という事で各々ログアウトする流れとなった。ユウキやクライン達はリズベットを引き()()()武具のメンテナンスに向かった。ユイ達はリーファのホームへ。シウネー達はチェックインしたままの宿へ。《月夜の黒猫団》はサチとアイテム補充に向かい、それからログアウトする流れになっている。

 私は先にログアウトしないと時間的にマズいので、いち早く抜けた。

 

「俺は店があるからここまでだ。また明日な」

「はい、近い内にまたみんなで行くので奥さんによろしくお伝えください」

「おう。昼間ならGW中限定サービスがあるから是非来いよ。じゃ、おつかれ」

「お疲れ様です」

 

 昼は喫茶店で奥さんに任せられるエギルも、夜は酒場として稼ぎ時になるためここまで。軽く挨拶して別れ、金冠の雄鶏亭の部屋に入る。

 洋式に幻想感を与えた内装を歩き、天蓋付きの豪華なベッドに横になる。左手を振ってメニューを呼び出し、最下段に位置する《ログアウト》ボタンをタップ。

 光に包まれる視界。遠くなる五感。

 

 ――虹の光輪が見えた。

 

 直後、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ゆっくりと現実の瞼を持ち上げる。薄暗い部屋の天井に両目の焦点が合うよりも早く、肌に纏わりつく湿った暖気を知覚する。エアコンを除湿設定でセットしていたのだが、何時の間にか暖房設定に切り替わっている。またか、と溜息を吐く。

 そこで、耳朶を打つ小さな音に意識が向いた。

 そういえば今日は小雨が降っていたのだったか、と微かな雨音を頼りに思い出す。ベッド右側の大きな窓に目を向ければ、茜色に照らされたガラスの外側に張り付く無数の小粒と、それに乱反射した沈みゆく陽光。

 無味乾燥な鈍色の建造物を下敷きして広がる光景に、ふと目を奪われる。

 

「……いけない、急がないと」

 

 数秒外を眺めた後、ベッドの上で体を起こす。

 傍らのサイドチェストに埋め込まれた統合環境コントローラーに指を伸ばし、タッチパネルの自動ボタンに一度触れる。それだけで軽いモーター音と共に二か所の窓のカーテンが締まり、エアコンは除湿設定に戻される。うぉん、と音を立てて変わった風は、やや涼しいそれだ。うん、と一つ頷く。

 そこでぱ、ぱ、と数泊遅れて天井のLEDライトパネルがややオレンジがかった光を灯した。

 一つのボタンで複数の機器が動き出すそれは、レクト家電部門が開発した最新のパッケージング・インテリア技術である。入院中に何時の間にか自室がリフォームされていて、その際に導入された代物だった。

 レクト製品限定ではあるが、数種類の機械設定を登録し、ボタン一つで纏めて起動できるこれは、面倒くさがりな人やリモコンの多さに辟易とする人には最適なのだろうが、自分はそうは思わなかった。ウィンドウ一つで部屋中のものを操作出来るのは、VRワールドでは当たり前の事なのだが、それが現実世界に出現すると、どこかうすら寒いものを感じてしまうからだ。壁や床のいたるところに張り巡らされたセンサー類の無機質な視線をどうしても肌の表面に錯覚してしまう。

 そう感じてしまうのは、SAO時代で生じたトラウマ的体験故か。

 あるいは、二年にも及ぶ戦いの中で築いた友たちとの、長い共同生活の経験故か。

 それとも、記憶の遥か彼方にしまい込まれていた、母方の祖父母の家を思い出すからか。

 ――小さく溜息を吐いて、ピンクの兎スリッパに足を突っ込む。

 子供の頃、偶に遊びに行った母方の祖父母は、既に鬼籍に入り、家を取り壊されてしまって久しい。思い出の品は無く、あるのはただ想い出のみ。郷愁に駆られても、これを晴らす方法は既に無いのだ。

 心の中でそう自戒しながら立ち上がる。途端、微かな立ちくらみに覆われ、じっと俯く。ずしりと全身を引き寄せる現実世界の重力を強く意識する。

 無論、仮想世界の中でも、同じだけの重力感覚はシミュレートされている。しかしVRワールドに於ける《アスナ》は何時でも軽やかに地を蹴り、体を魂を解き放てる屈強な戦士だ。現実世界の重力というのは単なる物理的な力では無い。慣性、加速など、物理的現象が数多く含まれている。

 物理的なもの以外を伴っている錯覚もある訳だが。

 何もかも投げ出して、再びベッドに倒れ込んでしまいたい誘惑に駆られるが、もう夕食の時間だ。一分でも遅れれば母親の小言の種が一つ追加されてしまう。

 重い脚を引き摺るようにしてクローゼットの前に移動すると、手を伸ばすまでも無く、扉が折り畳まれながら左右にスライドした。ゆったりとしたフリースの上下を脱ぎ、一纏めにして隅に寄せる。シミ一つない白のブラウスと、ダークチェリーのロングスカートに着替え、隣のドレッサーのスツールに腰を下ろす。またも自動で展開された三面鏡と上部のライトに照らされながら、フルダイブと着替えで乱れた髪を整える。

 正直なところ、今着替えた服は時期的にやや熱く感じるのだが、母親は自分に貞淑な女性として在って欲しいらしく、用意される服の大抵がこのようなものになっていた。薄手の服にすれば電気代も安くなるのに、と考えてしまう。

 ブラシで髪を整えた後、自身の座った姿を見る。

 

「……まるで、人形みたい」

 

 鏡に映る自分は、『貞淑な女性』を目指す母親の着せ替え人形のようだった。

 

 *

 

 自分の部屋から薄暗い廊下に一歩出ると、ドアを閉める直前に、背後で照明が勝手に落ちる。

 半円を描く広い階段を織り、一階ホールに出ると、ハウスキーパーの女性が丁度玄関のドアを開けようとしているところだった。夕食の用意を済ませ、帰宅するところなのだろう。

 

「お疲れ様です、佐田さん。遅くまで毎日ありがとうございます」

 

 四十代前半の小柄な女性に向かってぺこりと頭を下げると、彼女は滅相も無い、という風に目を丸くし、首を振り、更には深々と一礼した。

 

「と、とんでもないです、お嬢様。これが仕事ですから」

 

 彼女が雇われたのはデスゲームが解放された頃。以前に家の事をある程度してくれるハウスキーパーは、高齢のため変わらざるを得ず、これを機にと佐田(さだ)明代(あきよ)と交代したのだ。と言っても彼女は前任の娘なのでウチとは割と顔見知りなのだが。

 明日奈でいい、と言っても無駄なのは、昔から思い知っていた。

 

「父さん達はもう帰ってます?」

「彰三様は本日は会食のためお帰りになられないと昼過ぎに連絡が。奥様と浩一郎様はダイニングにいらっしゃいますよ」

「え……会食で、帰れないの?」

「ええ。詳細は伏せられていましたので、私には何とも……」

 

 GWなので多忙な兄が戻っている事は予想出来ていたが、父の方が引っ掛かった。会食で夜遅く帰る事はあっても帰らない事は出張の時くらいなもの。そういう時は数日前から知らされるから困惑はしない。会食も同じ。

 つまり今日、いきなり、突発的に帰れなくなったのだろう。

 ほぼ引退気味とは言え、未だレクトのCEOとして活動している立場なので、そうなる事もあり得なくはないのかな、と納得する。

 

「そう……ありがとう。引き留めてごめんなさい」

 

 礼を言って会釈すると、佐田は再び深く腰を折り、想いドアを開けてそそくさと帰って行った。

 彼女には確か中学生と小学生の子供がいる。家は同じ世田谷区内だが、今から買い物をして帰宅すると、七時は回ってしまうだろう。食べ盛りの子供には辛い時間だ。それを考慮して母親に作り置きを談判した事もあるが、一顧だにされなかった事が思い出される。

 三つものドアロックが掛かる金属音を尻目に、踵を返し、ホールを横切り、重厚なオーク材のドアを押し開いてダイニングルームに入る。

 

「――遅いわよ。五分前にはテーブルに着くようになさい」

 

 入った途端、静かだがぴんと張った声が耳朶を叩いた。

 ちらりと壁の時計を見ると、六時半ちょうどである。

 だがその事は指摘しない。五分前行動は社会人の基本、と口を酸っぱくして以前から言われていたため、反抗する気も起きなかった。ごめんなさい、と低い声で呟きながら、スリッパで毛足の長いカーペットを踏み、テーブルへと歩み寄る。視線は伏せたまま背もたれの高い椅子へと腰を下ろす。

 二十畳はあろうかというダイニングルームの中央に八脚の椅子を備えた長いテーブルが設えられてある。その北東の角から二番目が明日奈の席と決まっていた。左隣が兄・浩一郎の椅子であり、東端が父・彰三の椅子である。

 隣の兄を盗み見れば、穏やかな――どこか成長し、髪を切ったとある少年を想起させる――兄がにこりと微笑んだ。喋らないのは母の叱責を警戒しての事だろう。

 そして自身の左斜め向かい――兄の正面――の椅子に、母・京子が座視、お気に入りのシェリー酒のグラスを片手に、経済学の原書に視線を落としていた。

 母は、女性としてはかなりの長身だ。痩躯だがしっかりした骨格のため華奢というイメージは無い。艶やかなダークブラウンに染められた髪を左右に等しく分け、肩上の線でぴしりと切り揃えている。顔立ちは整っているが、鋭い微量と顎のライン、そして口元に刻まれた短く深いしわが冷厳な印象を拭いがたく他者に与えている。

 彼女の威圧は中々のものだが、それはきっと本人がそう望んで得たものなのだろう。鋭い舌鋒と辣腕の政治力で大学内部のライバル達を蹴落とし、昨年四十九歳にして教授の座に就いた人物なのだ。努力の鬼、と言えば自分は二番目に彼女を思い浮かべる。

 ――そこで、京子は顔を上げないまま、ぱたん、とハードカバーを閉じた。

 ナプキンを広げ、膝に置く。机上のナイフとフォークを取り上げたところでちらりと兄と自分に視線を投げて来る。

 今度は自分が視線を伏せ、いただきます、と呟いてスプーンを手に取った。

 

 ――しばらく、銀器が立てるかすかな音だけがダイニングに響いた。

 

 ブルーチーズ入りのグリーンサラダ、そら豆のポタージュ、白身魚のグリルにハーブのソース、全粒粉のパン、エトセトラ……といったメニューだ。毎日の食事は全て母が栄養学的に――衰弱した自分の体調を戻そうと奮起し――計算し、決めたものだが、勿論調理したのは彼女ではない。

 いつからだったか。母親が食卓に居ると、どうしても緊張感に満ちたものになってしまっていた。いつからこんな食卓になってしまったのだろう、と考えながら手を動かし続ける。

 

「明日奈」

 

 機械的に食事を続け、味を楽しむ事もなく意識が記憶にある温かな食卓へと彷徨いそうになった時、母の声が意識を引き戻した。

 視線を上げる。母の眼は、やや非難の色を帯びていた。

 

「またあの機械を使って遊んでいたの?」

「……うん」

「あんなものを使わなくても、今通っているあそこでも会えるでしょう。以前宿題をやるためと言って使っていたけど、ちゃんと自分の手でやらないと勉強にならないわ」

 

 手と言っても、勉強で使うのは脳な訳で、フルダイブ中であっても自分自身でやっている事には変わりないだろう。そう口から出そうになったが、言った所で京子に理解されないのは既に分かっていた。

 

「だいたいね、あなたには遊んでいる余裕なんてないのよ。それを分かっているの?」

 

 鋭い舌鋒が飛んでくる。

 

「他の子より二年も遅れている。二年分余計に勉強するのは当たり前のことなのよ」

「……勉強はちゃんとしているわ。まだ学期末テストは来てないけど、カリキュラム内容はお母さんにも見せているでしょう? 中高大学一貫のあそこのカリキュラムは短大相当って聞いてるわ」

「確かに見ましたけど、あんな底辺の学校のカリキュラムなんてあてになりません」

「な……底辺って……」

 

 あまりの言い草に手に力が籠る。それを煽る意図はないだろうが、母は息を吐いた。

 

「政府が率先して新設したあそこは、確かに技術的には最先端をいくものが組み込まれていたわ。けれど人材が良くない。定年退職で解雇された教師はいいにしても、新人も居るし、何より学校としての歴史が無さ過ぎる。『最新』というのは聞こえがいいけど、要は積み重ねが無いのよ。教師の経験も無い、歴史の積み重ねも無い学校のカリキュラムの何を信じられると言うの?」

「……っ」

 

 それは、確かにそうだった。

 あの帰還者学校はデスゲームに囚われた学生身分のセーフティネット。セーフティネットというのは、つまり最後の砦に等しく、彼女が教授として教鞭を振るう大学などに較べれば質は天と地ほどの差がある。学校の技術は最先端でも、教師陣が築き上げる質が伴っていない事で彼女は不信感を抱いているようだった。

 それでもあそこに自分を入学させたのは、現状それが一番だったから。

 ――表向きセーフティネットとして働いている学校は、暗黙の了解として、サバイバーの監視施設に等しくなっている。

 全員とは言えないが、あのデスゲームで精神を患ったり、狂気に駆られた者は少なくない。一度はあの少年すらも長らく狂気に堕ちた。そういった者達が問題を起こさないよう監視し、起きた場合はすぐ介入出来るよう政府直轄の学校に入学させたのが、事の真相だ。

 元の学校に戻るには勉強面、環境面の他に、政府の意思を跳ねのける程の一手が必要になる。

 そう言う意味では、件の神童はやはり怪しいと言えるのだろう。

 

「いやいや、母さん、それは底辺じゃなくてスタートラインって言わないかな」

 

 ――そこで、反論する声。

 隣に座る兄が見るに見かねてか味方をしてくれていた。視線を向けると、やはりにこりと笑うばかり。端から見ると頼りなさげだろうそれが今はとても頼り強く見えた。

 

「物は言いようよ。それに、スタートラインと言っても、それにこの子を付き合わせる義理はありません」

 

 しかし京子はそれを一蹴した。

 シェリー酒を傾けた彼女の舌の速度は更に上がっていく。

 

「いい、明日奈。二学期からは学校の他に家庭教師を付けるわ。最近流行ってるネット越しのじゃなくて、ちゃんと家に来てもらって、マンツーマンの態勢で教えてもらいます」

「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな急に言われても困るよ」

「まだ二学期まで三ヵ月あるでしょう、急な話ではありません。まだ家庭教師の募集もしていませんしね。そして、これを見てちょうだい」

 

 京子は有無を言わせぬ口調でこちらの講義を遮ると、テーブルから薄型のタブレット端末を取り上げた。眉を顰めながらも差し出されたそれを受け取り、画面に目を走らせる。

 最上にはデカデカと【――高等学園第二学期編入試験概要】とある。

 

「なに、これ……」

「お母さんのお友達が理事をしている高校の、()()()への編入試験を、無理言って受けられるようにしてもらったのよ。あんな急拵えのところじゃなくて、ちゃんとした由緒ある高校です。そこは単位制だから、あなたなら後期だけで卒業試験を満たせるわ。そうすれば来年からは大学に進学出来るのよ」

「――――」

 

 思わず閉口して京子の顔を見詰めた。端末をテーブルの上に戻し、右手を小さく上げ、尚も言い募ろうとする母の言葉を遮る。

 彼女はさっき、確かに『三年次』と口にした。

 デスゲームに囚われた当時、私は進学校入試を目前に控えた中学三年だった。あれから二年囚われ、解放された時は学年にすると高校二年生。年を越し、生還者学校に入学した今は、本来なら高校三年だっただろう。

 つまり彼女は残りの三ヵ月で三年分のブランクを埋め、大学への卒業試験をもぎ取れと言っているのだ。

 

「ま、待って、困るよ、そんなこと勝手に決められても。だいたい来年には大学って、流石に無茶よ。二年も囚われてたから中学の基礎からやり直しているんだよ? 生還してからの勉強で高校入学相当に漸く戻したのに、あと三ヵ月で大学受験相当まで延ばすって、幾らなんでも無茶だわ。商業系や専門系の違いもあって、それを視野に入れた高校の三年間なのに、それをすっ飛ばすなんてとても論理的じゃないわよ」

 

 理屈は、分からないでも無い。一年でも留年していればマイナス点となり進学に響き、母が望む最先端の大学への入学が厳しくなるからだろう。

 それに、と遮られる前に言葉を続ける。

 

「わたし、今の学校が好きなんだよ。いい先生も沢山いるし、勉強はあそこでもちゃんと出来る。カリキュラムがああなのであって自由選択の授業で短大レベルを求める事は態勢的に可能なの。転校なんて必要ないわ」

 

 どうにかそこまで言い切ると、京子はグラスをテーブルに置き、これみよがしな溜息を吐いた。瞼を閉じ、左手の指先でそっとこめかみを押さえながら、椅子の背もたれに体を預ける。この間の取り方も京子流の、己の優位を相手に意識させ続ける為のテクニックだ。

 これが出されたら、京子の舌鋒は更に鋭さを増す。夫の彰三ですら家の中では意見対立を極力避けている程である。

 

「……お母さんもね、ちゃんと調べてるのよ」

 

 京子は諭すような口調で話し始めた。

 

「あなたが通っているところはね、教育機関というよりも、矯正施設とか、収容施設とか言った方がいい場所なの。あのデスゲームで精神を患った、あるいはずっと殺し合っていた子供達の監視のために用意された檻なのよ。事故のせいで教育が遅れてしまった生徒の受け皿なんて体の良い事を言ってるけど、本当のところは、将来的に問題を起こすかも知れない子供を一ヵ所に集めて監視しようっていう、ただそれだけの場所なの」

「……知ってるよ、それくらい」

 

 誰よりも危険視されている少年が、それを語っていた。SAOに居る頃から言っていた。

 生還者学校は政府の役人と彼の話し合いの中で案の骨子が出来上がり実現したもの。あの少年が、権力を持つ者と密に話し合って出来た場所だ。監視だけで終わる筈が無い。それなら文字通りの収容施設に軟禁した方が速い。

 そうしなかったのは、SAOに巻き込まれたプレイヤーに罪は無いからだ。

 ――《笑う棺桶》掃討戦に参加した自分だって、人殺しの嫌疑を掛けられかねない。

 そして、それを晴らす証拠が無い。ボス戦の放映以降、彼を中心に映像記録は残されているが、それ以外のプレイヤーのものは一切ない。ログでの反応しか確認できないのだ。プレイヤーの反応が消えたなら、その場にいた他のプレイヤー全員が容疑者になる。殺人快楽の集団を殲滅する為に赴いた人も、仲間を喪った人も、現実に居た人々からすれば全員『殺人容疑者』扱いにさせられる。

 ゲーム内での犯罪すらも不問とされているのは、本当に善良なプレイヤーも護る為の苦肉の策。一つの例外を許してしまえば、他の例も取り上げなければならなくなる。そうなったらキリが無い。

 疑いは、今だってある。ただ『人殺しプレイヤーの断罪』が現実で起きていないから燻っているだけの事。

 その抑止力として存在している生還者学校は、単なるセーフティネットではないのだ。それどころか、自分はあの学校を愛してもいる。政府や文科省の思惑はどうあれ、現場の教師はほぼ全員が志願で赴任してきただけあって実直に生徒と向き合ってくれるし、生徒同士でも無理に過去を隠す必要は無く、心を繋いだ友人達とも共に居られる。そんな環境は、現実世界ではあの学校だけだ。

 

「っ……」

 

 左手にフォークを握ったまま強く唇を噛み、内心を吐露してしまいたい衝動と戦った。

 機会は少なかったが、それでも私だって母さんの言う『ずっと殺し合いをしていた子供』そのものなのだ、と。剣によって命を奪い合う日常の中にずっと暮らしていたのだ、と。

 そして、その日々をほんの僅かにも悔いていないのだ、と……

 ――そんな葛藤に気付く様子もなく、母は早口で話し続ける。

 

「あんなところに通っていてもマトモな進学なんて出来る訳無いわ。ただでさえあの放映のせいで顔が割れているのに、あんなところからの入学申請なんて大学側から突っぱねられるわよ。いい、あなたはもう十八歳なのよ。でも今のところにいたんじゃ、大学に入れるのが何時になるか分かったものじゃない。中学の時のお友達はみんなセンター試験を受けるのよ。少しは焦らないの?」

「進学なんて、一、二年遅れたって大した問題にならないわよ。それに大学に行くだけが進路じゃ……」

「――いけません」

 

 京子は、こちらの言葉をにべもなく否定した。

 

「いいこと。あなたには、能力があるの。それを引き出す為にお母さんとお父さんがどれくらい心を砕いてきたかはあなたも知っているでしょう。なのにあんなおかしなゲームに二年も無駄にさせられて……平凡な子供なら、お母さんだってこんな事言いません。でもあなたはそうじゃないでしょう? 昔から聡明で、勉強も速く進むくらい賢いわ。なのに与えられた才能を十全に活かさず、腐らしてしまうのは罪よ。一流の教育を受ける資格と能力があるならそうすべきです。省庁や企業に入って能力を活かすもよし、大学に残って学究の道に進むもよし、そこまではお母さんも干渉しません。でも高等教育を受ける機会すら放棄する事は許しません」

「――人の生き方は、自分で選び取っていくものだわ」

 

 どうにか、京子の長口上の接ぎ穂に、言葉を割り込ませる。

 聞き捨てならない言葉があった。()()()()()()()

 ――ナイフとフォークを強く握り締める。

 

「先天的な才能なんてものはないわ。ただ、あるように見えているだけ。自分が目指す道を定めて、必死に努力しているだけよ……私も、昔は良い大学に入って、良い就職をする事が人生の全てだと思ってた」

 

 実際、小中学生の将来像なんてそんなものだろう。医者、花屋、理容師なんて職の名前を挙げても、そこに辿り着くまでの紆余曲折までは想像しない。ましてや理想の職種が無かった自分はもっと曖昧だった。

 ただ無難だから、進もうとした。

 ただ望まれたから、進もうと思っていた。

 そうすれば将来は無難に過ごせるから。

 

 ――その考えを変えたのは、仲間達だ。

 

 望まれない生。敵の多い逆境。己自身が憎しみを溜め込み、殺しに走りたい衝動を、感情を切り離してまで人格分裂を起こした、生来優しい子供。将来を見据えて走り出した彼の背中に、それまでの触れれば砕けそうな儚さは無く、ただ力強い生気が息づいていた。

 そして、彼を支えようとする仲間達。剣の師として彼を鍛える義姉のように、何らかのケツイを秘めて、生きている。

 私にそれは無い。少なくとも、まだ。

 将来どうなるかなんて分かる訳無いし、まだ具体的な想像もついていない。

 けれど、ぼんやりと掴めそうで掴めないイメージはあった。

 それを言語化しようと必死に頭を回転させる。

 

「でも、それだけじゃないって思った。今はまだ答えは出せないけど、本当にやりたい事を見つけられそうなのよ。今の学校には親しい友達がいる。みんなと一緒に、それを見つけていきたいの」

「――でも、それは不確かなものよ。少なくともこの編入試験よりは」

 

 そう言って、タブレット端末に映ったままの編入試験概要をとんとん、と指で突く。

 

「今のあなたはただ友達から離れたくなくて駄々をこねているに過ぎません。自分で選択肢を狭めて、あんなところに通い続けても、何の道も開けないわ。お母さんはね、あなたに惨めな人生を送ってもらいたくないのよ。ちゃんとキャリアを積んで、相応しい人と結婚して、家庭を築いて欲しい一心なの」

「……それで、あんな人との婚約を認めていたの?」

「やめてちょうだい」

 

 デスゲームに囚われている間に進んでいた須郷伸之との婚約について言及すると、彼女は盛大に顔を顰め、煩い羽虫でも払うように左手をパタパタと振った。

 

「あの人の話は聞きたくもないわ……だいたい、あの人を気に入って養子にしようって言いだしたのはお父さんですよ」

 

 京子のうんざりとした言い様に、悔しい事に少しの共感を抱いてしまう。父・彰三は以前から身近な人間をまあり省みない事があり、会社の経営だけに邁進し、CEOを引退気味に退いている今も、国内企業との提携で出張する事はしょっちゅうだ。須郷の開発・経営能力と上昇志向の身を評価し、内面に目を向けていなかったのは自分の不徳だったと、本人も口にしていた。

 須郷伸之が攻撃的な性格を強めていきながら、しかし他者にそれをひた隠しにしようとしていたのは、恐らく周囲から与えられるプレッシャーにあったのだとは思う。そのプレッシャーの中には間違いなく京子の言葉も含まれているだろう。

 その結果、栄誉の二文字を得ようと、暴走を始め、SAOがデスゲームに変貌した訳だ。

 

「――でも母さんだってあの男の事は最終的に認めたよな」

 

 そこで、ずっと黙って食事を続けつつ、視線を送りながら耳をそばだてていた兄が割り込んできた。それは母を責め立てるもの。

 須郷は年下である自分と兄を見下しており、両親が居ない時には性格を隠していなかった。それを幾ら言っても信じようとしなかったので――一応警戒はしていたらしいが――、その点については兄も腹に据えかねるものがあったらしい。なまじレクト内部で顔を合わせるだけその鬱憤は自分以上だろう。

 

「……ええ、まぁ、ね」

「それってさ、要は母さんも須郷のキャリアにばかり目がいってたからだろ?」

 

 ぐさり、とオノマトペが聞こえそうな程に鋭い舌鋒が、カウンターで叩き込まれた。ぐっと押し黙る京子を見て兄は()()()()()続ける。

 

「須郷って人格は酷かったけど、でも実績は凄かったもんな。レクトの子会社であるプログレスで最高責任者やって、VRMMOの二代目を作るんだからさ、当時は茅場の再来とか言われたもんだよ。本人は凄く不快げだったけど、技術の方は僕にも大層自慢してきた。『結城さんの長男は一流大学でのエリートなんだしこれくらい余裕だよね』ってさ」

 

 目に浮かぶようなイヤなやり取りを、やはり表情を変えず続ける兄。

 

「それでさ、大学出てなきゃ低学歴なのかな。逆に大学出てたら高学歴なのかな。正直、僕が務めてる部署、高卒の人も多いんだけどさ、要領良い人もいるし、そういう人の方が重宝されるんだ」

 

 淡々と続けられる言葉。

 そういえば、と兄の歩んだ道を思い出す。浩一郎は母の言う一流大学に進み、好成績を収めて卒業した後、レクトに就職した。就職してからも着実に実績を残し、京子を満足させている。

 つまり兄は、須郷の言葉を借りるなら『エリート』に入る訳だ。

 

「何が言いたいの、浩一郎」

「……母さんさ、明日奈が《ナーヴギア》で囚われてるの見た時、『試験が控えてるのに』って言ってたよな。あんた()()()を何だと思ってるわけ? ――どうせ、自分のキャリアの一部にしか思ってないんだろ」

 

 平坦に言い切る兄。

 一瞬呆気に取られたように京子は目を丸くしたが、すぐに眉間と口元に深く険しい谷を刻んだ。

 

「いきなり何を出鱈目な! 私は親として明日奈が生還するのを信じて、その先を案じただけです!」

「だとしても、明日奈の進学にケチ付けるのは違うだろ。明日奈が選択を狭めてるんじゃなくて、母さんの『優秀』の基準で狭めてるじゃないか。大人しかった明日奈がここまで自分で意見したんだ。勉強なら学校でも対応してくれるようだし、時間はまだあるんだから様子見でもいいんじゃないかな」

 

 平行線を辿る兄と母。自分も転校したくないのでここぞとばかりに母を見詰め返すと、険しい表情が更に歪んだ。何事かを怒鳴ろうとした素振りを見せるが、更に眉根を寄せた後、はぁと重い息を吐いて椅子に沈み込む。

 力なくシェリー酒を傾け、グラスを空にした母は、立ち上がって踵を返した。

 

「……編入申し込みの期限は来週中ですから、それまでに必要事項を記入して、三通プリントして書斎のデスクに置いておきなさい」

 

 最後まで京子はこちらを見る事無く、オーク材の扉の向こうに消えた。

 

 *

 

 母が立ち去った後のリビングにて、兄と共に冷めてしまっていた夕食を食べた後、兄妹で片付けていく。普段であれば油は落として水に浸けておくのだが、気が向いたからか揃って皿洗いを始めていた。

 家事をしない母への意趣返しなのかもしれない。

 

「……ありがとう、兄さん」

 

 食べ終わり、皿を片付けていく途中で、小さくお礼を言う。今思うと小学校高学年辺りから兄と顔を合わせる機会が減ったせいで面と向かってお礼を言った記憶がとても薄い。

 隣に立つ兄は、きょとんとした顔を笑みに変えた。

 

「いや、気にしなくていいよ。僕も母さんの言い分にはちょっとイラついてたから。育ててくれたのは純粋に感謝しか無いけど、自分の進路を全部ああしろこうしろ言われるのはいやだろ?」

「う、うん」

「僕の時は出来なかったからなぁ。いや、まぁ、将来性あった訳だし、特になりたいと思う職業も無かったから、これは卑怯かな。父さんの友人と頻繁に顔を合わせてたせいか仕事で話すのは苦じゃなかった。今のところ順風満帆だし……ああ、後はやっておくから、明日奈は先に上がっていいよ。友達、待たせてるんじゃないか?」

「――あ!」

 

 時間を見れば、七時半に差し掛かろうとしていた。

 待ち合わせがそれくらいで、しかも武具のメンテとアイテムの補充をしていないため、早めに入って準備しようと考えていた事を思い出す。

 

「ご、ごめん兄さん、後は任せたよ!」

「ああ、行ってらっしゃい」

 

 手早く手を拭き、兄に手を振ってから階段を上り、自室に入る。

 扉を開けると同時に明かりがついたのも無感動でスルーし、勢いそのままベッドに横になり、《アミュスフィア》を被った後、意識を仮想世界へ飛ばした。

 

 






 はい、如何だったでしょうか。

 原作七巻冒頭にあった母・京子との対話シーンですね。今話ではGW中という事で兄・浩一郎も家に居て、話に割り込んでくるというオリ展開に。あんまり話の流れは変わっていませんが、ちょくちょく前後させたり、抜いたりしています。

 明日奈が原作と違ったのは、『自分の意思で()()()()存在』と出会っているか否かが原因です。

 原作のこの会話は、【絶剣】とデュエルする前です。つまり『ぶつからなければ伝わらない事もある』というユウキの名言を聞いておらず、生き様も知らない状態です。

 本作ではユウキの存在に会っていますが、彼女のその言葉は聞いていません。代わりに逆境真っ盛りのキリトの道程をSAO序盤から見てきています。苦しみながらも困難な道を選ぶ様を見てきて、しかも将来的にIS操縦者になる道を選んだ事を知っている為、印象が強く残っている(政府との交渉は知りませんが)

 そのため明日奈の反抗が原作より若干強い。

 とは言え自身で言ったように『何になりたいか』は分かっていないので、具体的な事を口にできず、京子を納得させられない。

 ――そんなところでGW中という原作と時期が変わったせいで登場した兄・浩一郎。

 原作だと一切登場していない明日奈の発言だけの存在《結城浩一郎》。一流大学卒業、《アミュスフィア》などで隆盛を誇るレクトに入社し、実績を重ねるなどのエリート青年――というのが原作で語られるプロフィール。あと割と明日奈を可愛がってる。和人とも話が合うとか。

 彼なら第一子+長男という立場故に両親からの『期待』という圧が酷く、この場に居たら明日奈に共感したんだろうなぁと思って発言させています。前半空気なのは敢えて黙っていた。浩一郎も押しつけがましいとは言え母の想いは理解しているため、明日奈が意見しなければ静観のままでしたが、珍しく明日奈が反抗して見せたためそれに味方した感じ。なまじ自分が割と苦しい道を進んでいるだけに、自分で選ばせろと言っている訳です。

 あと『キャリア重視』の思考に嫌気がさしていたのもある。

 現実でも普通に居る『キャリア重視』の塊ですよね、京子さん。でも彼女は自身の生い立ちから苦い経験をし、そうなって欲しくないという想いから二人に対して進学校を薦めているため、ただのブランド意識からではないんです(原作七巻ネタバレ)

 なので私は京子さん、結構好きですね。

 自分の親だったら嫌ですが(掌クルー)

 では、次話にてお会いしましょう。


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