インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 今話はタイトルから分かる通り、回想であの方が登場致します、これであの方が本作ではどのような人格者なのかある程度分かるかと。

 あと、義姉というのはもう一つ今話で意味を持ちます……お話的に、やっぱりあんまり進んでいなくて、まだ闘技場に辿り着いていません。次話以降に漸く入る予定ですのでご容赦頂きたい。

 ではどうぞ。オールリーファ視点です。




第十八章 ~実姉と義姉~

 

 

 チチチ、と杉林に棲む小鳥達の鳴き声に釣られ、微睡みに浸っていたあたしはぱっちりと目を覚ました。

 

「すぅ……すぅ……」

「和人……?」

 

 目を覚ましてすぐ視界に入って来たのは、柔らかな表情で気持ちよさそうに寝息を立てている義弟の顔だった。健康そうな色の肌はふっくらしていて、何となく左の人差し指で突けばぷにぷにと弾力を感じられて、これが夢では無いのだと認識した。

 

「……ああ、そうだった……SAOの中だったっけ、ここ……」

 

 和人の事を認識して、それで漸く頭が覚醒したようでここがどこだったかを思い出す。あたしはALOをプレイしていたのに、二週間前に何故か唐突にこのデスゲームの世界に移動してしまっていたのだ。二週間も放浪した末に義弟の和人……この世界ではキリトと名乗っているこの子に会えたのは、不幸中の幸いと言えた。

 それにしても、昨日はキリトにとって驚きの連続だったらしい。あたしは勿論、いきなり空からシノンさんが振ってきた上に記憶喪失になっているし、ホームに戻る途中でハイディングしていたストレアさんと名前が分からない女の子も拾うしで、たった一日で一気に同居する人が四人も増えたのだからそれも仕方がないだろう。更に全員対面の仕方が普通では無かったのだから。

 昨日はヒースクリフさんとアスナさんを交えて夕食を摂った。様々なこの世界の情報や和人のこれまでの話を数多くしてくれて、とても楽しい時間だったと言えよう。その最中にあたし、シノンさんの身の振り方も考えて、一先ずは和人の元に身を寄せる事になった。

 和人はこの世界でも命を狙われる程に迫害されていて、一緒に居ると巻き込まれる可能性がある事から最初は渋っていたが、それでも最終的には一時同居する事で決まった。この子自身、誰かと一緒に過ごしたいという欲はあったようなので、渋ってはいたものの言う程嫌がってはいなかったのが決め手となった。

 ストレアさんに関しても和人は最初渋っていた。それはハイディングしていた理由が悪戯心からのものでは無く、誅殺隊に居場所を教える為の斥候かと思っていたからだ。後に謝罪と隠れていた理由を説明されたので、ある程度は警戒を解き、一先ず気絶したまま目覚めない子が目を覚ますまでは一緒にこの家で過ごす事になった。

 そんな訳で一夜を過ごした訳だが、人数的には和人、あたし、シノンさん、ストレアさん、女の子の五人なので一部屋に一人ずつ宛がわれる計算となる。

 それなのにどうして和人があたしと一緒に寝ているかと言えば、アスナさんがお泊りしたいと言い出した事に端を発した。親しい人と一緒に過ごしたいという願望があったらしく、ちょくちょくユウキさん達の元にはお泊りしていたのだが、和人の家では無かったのでこの機会にと思ったらしい。それに翌日に闘技場へ行くつもりでいる事を知って、それならあたしやシノンさんも観戦したいと言って、それなら一緒に行った方が良いという事だったのだ。有体に言えば、いちいち自分のホームに戻ってここまで来るのが面倒だったらしい。

 流石にぶっちゃけた理由に苦笑していた和人は、それでも了承した。それで和人はあたしと一緒の部屋で一時的に寝る事にし、アスナさん、シノンさん、ストレアさん、女の子の四人が残る四部屋を使う事になったのだ。

 和人はほぼファッションと無縁な生活を送っていたので着替えをどうしようかと迷っていたが、アスナさんの協力もあってシノンさんとストレアさんの着替えは用意出来たので、その点でとても感謝していたのは記憶に新しい。あたしはALOの頃に使っていたオフ時の服があったので、それを寝巻に使っている。首回りと肩口が大きく露出しているゆったりとした翡翠色の服だ。

 そして和人の寝間着は……替えの黒いシャツとズボンだった。その上からコートを羽織り、指貫手袋と鋲付きブーツ、二刀を装備すれば戦闘服になる。つまり彼は戦闘装備と普段着を一緒にしていたのだ。聞けば理由は、ストレージを圧迫しないから、らしい。後は別に気にしていなかったからだった。

 その理由も最前線で戦い続けて来た経歴を考えるととやかく言えないのだが、姉としては内心で頭を抱えざるを得なかった。

 別に興味が無いというのはいい、あまり興味を持ってもお金の使い方が荒くなってしまうし物で溢れ返って収拾が付かなくなるから、その辺は別に構わない。しかし普段着と戦闘服を一緒くたにしてしまう辺りは直さなければと思った。この調子だと、極論現実に帰ってから外着も普段着もジャージ姿になりかねなかったからだ。実際あたしは休みの日だと割と赤いジャージ姿が多いので、変にそれで影響を受けてしまわないかと危惧しているのだ。もう既に手遅れだった場合、あたしの責任になる。

 こういうのは何だが、和人は余人が求めるだろう綺麗な容姿をしている。服の下は傷だらけなので何とも言えないが、それらが無かったならきっと陶磁器のようにさらさらとした肌触りをしていた事は間違いない。拾った頃よりも遥かに肌の色も健康的な色になっているし、髪もとても綺麗で、まるで女の子のようなプロポーションなのだ。正直男の子として生まれて来たのがおかしいと思うくらい、遺伝子レベルで美少女の姿だった。何気に男の子である事を残念に思う事は多い。

 流石に本人には傷付くので言わないが、それくらい綺麗なのだ。だから少しお洒落すれば一気に化けるに違いないと確信していた。ユウキさん達に贈られたらしい昨日着ていた衣服も、今の黒い服や昨日の黒尽くめ姿と比べるとガラリと印象が変わっていて、同じポニーテールにしただけでも明るく感じた。

 少し服装を変えただけでそうなるのだから、むしろ和人はもう少しお洒落をしても良いと思うのだ……強制はしないが、もう少しして騒動が落ち着けばお忍びで一緒にショッピングをしたいなと思っている。現実では和人自身が興味を持たなかったし、大人が大勢いる商店街には行きたがらなかったから、その機会が今まで無かった。この世界でなら多少は大丈夫かなと思っている。生活必需品を買いに来る者達で溢れ返っているという事は無さそうだし。

 まぁ、一先ず今日は闘技場で死なない死闘を繰り広げる予定らしいから、直近で出来るとしても午後になるだろうと思っている。

 それにしても……

 

「本当、何であたし、この世界に来ちゃったんだろう……?」

 

 和人に逢えたという一点は心の底から嬉しいし、この子もその点に関しては本当に喜んでくれているので、完全に悪い事でも無いとは思っている。

 だが如何せん、お気楽に喜ぶ訳にもいかない事であるのも事実。何せ別のゲームをプレイしていたプレイヤーが外部から巻き込まれたというのは一大事どころか最早異常事態で、ゲームシステムの方に異常がみられるという事でもあるのだ。つまり今後の攻略中、何らかの障害が起こる事も否めないのである。

 最悪、攻略の途中、誰かのHPがいきなり全損したり、回線切断したりという可能性もある訳で……

 

「……でも、妙な事はそれだけじゃない……」

 

 首謀者らしき茅場晶彦が何故かログアウトしていない状況にある中、更に不可解だった事は、デスゲームになった筈なのに現実に出た死者が少ないという事だった。《ナーヴギア》を外された方は本当にマイクロウェーブによって脳が振動され、原子や分子の振動によって熱され、電子レンジのような原理で破壊されたというのは知っている。

 それは実際、あたしがこの目で見たからだ。

 和人はデスゲーム開始から二日後の夕方、一度病院に搬送された。その搬送先では最初複数人が一度に寝泊まりする大部屋が選ばれた、その部屋の中はデスゲームに囚われた子供や大人が合計で三人先に入っていた。

 その中で、恐らく大して年が変わらない男の子の親が何か喚き散らしながら《ナーヴギア》に手を掛け、医師や看護師達が止めるのも無視して取り外そうとし……首下のハーネスが外れた瞬間、バジッ!!! と一際大きな電流が流れ、部屋の中が明るく照らされた。

 一瞬遅れて煙が上がり……肉が焦げる臭いが、消毒液の匂いに満ちていた病室に漂った。それとほぼ同時に心臓が止まった事を知らせる音が断続的に機械から知らされ……その子が死んだのだと、あたしは理解して震え、親も理解した瞬間に泣き崩れた。

 それがあたしの知る、人が死ぬ瞬間だった。

 しかし奇妙な事は、その現象が《ナーヴギア》を外された者にしか見られていない事だ。それ以外、和人を含めた今も昏睡状態に陥っているSAOプレイヤー達は、現実ではまだ一人も亡くなっていないのである。

 それにも関わらず内部では既に三千人は亡くなっている……この矛盾は何だろうかと、昨夜の夕食時に話してみた。

 

『……もしかすると、ゲームクリアと同時に死亡する設定なのかも知れない。それまでプレイヤーの意識はどこか別の区画に移されているんじゃないかな……茅場晶彦も囚われているかも知れないなら別の誰かがしたのかも……』

 

 あたしが相談した後、少し悩む素振りを見せながら和人はそう言った。何故茅場晶彦も囚われているのなら別の誰かもなのかと、あたしは更に問うた。最悪デスゲームだとしても、本当に死人が出るデスゲームに変えた狂人なら自分が死ぬ可能性すら厭わないでログインする事も考えられるのではないかと、そう考えたからだ。

 しかし和人はそれに、横へ首を振った。

 

『雑誌を読んで、この世界を生きて来て思ったけど、このSAOは基本的にフェアネスが貫かれてるんだ。勿論ユニークスキルといったフェアネス外のものも存在するけど……ここまで現実に即した設定がされていて、現実と思ってしまうくらいに再現された世界を作った茅場が、本当にデスゲームなんてするかとも今は思うんだ。最初は本当に茅場がしたものかと思ってたけど、リーファの話を聞くと、そんな風にも思える……もしかすると、茅場晶彦もまた被害者の一人なのかも知れない』

『……この世界を作った人と、デスゲームに変えた人物は別だって、キリト君はそう思うの? じゃああの宣言をしたのは……』

『あのがらんどうのGMアバターは、確かに自身が《茅場晶彦》であると名乗った……けれど今の俺達のような現実の顔でなかったアレを操っていた人間が、本当に《茅場晶彦》であったという確証を俺達は持たない、それこそアイツの名乗りだけが手掛かり……余りにも情報が不足していて、リーファの話を考慮に入れると、茅場晶彦による犯行と考えるのはむしろ早計だったのかも知れない』

『……君は、茅場晶彦による犯行ではない可能性を、信じるのかね?』

『……』

 

 ヒースクリフさんの問いに、和人は一瞬押し黙った。目を伏せ、静かに顔を俯け……しかしすぐに顔を上げた。真っ直ぐと、ヒースクリフさんを見上げた。

 

『正直分からないというのが本音……だけど、俺はこのデスゲームを作ったのが、茅場晶彦でない事を信じたい。デスゲームじゃないベータテストをしていても思った……この仮想世界はとても綺麗だって。俺が俺自身で居られて、《織斑一夏》でない自由な自分自身で居られるこの世界が好きだから……そして《アインクラッド》が好きだからこそ、俺は茅場晶彦を信じたい。あのキャッチコピーが、仮想世界もまたプレイヤーにとっての現実であるという意味だと、デスゲーム化するという宣言で無い事を信じたい』

『……そう、かね』

『ああ……もしプレイヤーとして茅場晶彦が居るなら、一度話してみたいとも思う。本当にこの世界をデスゲームに変えたのか、そうでないのかも。そしてこの城の事で色々と話したい。仮想世界の、VRMMOの先についても話したい……本当にデスゲームに変えた犯人でないなら、VRMMOの立て直しもお願いしたいくらい、俺はこの世界が好きなんだ。だからこそ、この仮想世界の、《アインクラッド》の生みの親である茅場晶彦を信じたいんだ』

『……そうか』

『ああ』

 

 明るい笑みを浮かべながら虚空を見詰め、自身の願いを語る和人を、ヒースクリフさんは何とも言えない表情で聞いていた。嬉しそうで、哀しそうで、笑みを浮かべているようで泣きそうな、そんな複雑な表情……それが和人の心優しい人格への憧憬なのか、純粋さに感情を揺らぶられたからなのかは分からない。

 しかしそんな表情になる気持ちも分からないでも無かった。あたしも、まさかここまで茅場晶彦の事を信じているとは思っていなかったからだ。シノンさんも、一緒にこの世界を生きていたアスナさんも信じられないような顔になっていたし、ストレアさんも呆気に取られていた……暫しの沈黙の後、キリトらしいなと、短時間しか一緒に居ないシノンさん達ですらもが言って笑った。

 和人は《キリト》というプレイヤーであっても、彼らしさを残したまま成長していたのだ。純粋で、心優しい人格者だった……酷い状況にあっても人の事を心配出来るからこその成長なのだと思う。

 その心があるから、きっと和人は強いのだろう。同世代、大人よりも遥かに強い剣士として、この世界に君臨しているのだろう。

 たとえ、かつての家族の背中を、この世界に居ない者達の幻影を追い求めていたとしても……

 

「……《織斑》、か……」

 

 ぽつりと、沈んだ気持ちで呟く。

 オリムラ。この子の姉になって、この子の過去を知ってからは耳にしたくも無い四文字からなる苗字は、今もこの子を縛り続ける見えない鎖に、傷付け続ける棘になっている。

 一応和人と束さんからある程度の事情は教えてもらっているので、織斑千冬個人に対する悪感情は少ないと言っていい。全くないとは言い切れないが、親に捨てられた一家を支える為に中学時代からバイトに走り回り、高校に進学して以降もその生活を続け、更には束さんのIS開発に協力し、日本代表としての訓練を続けていたから、家族を顧みられなかったのだ。それだけの忙しさがあって、織斑家はどうにか存続出来ていたという。

 その事情があったから、最初に較べてあたしが彼女に向ける悪感情は小さくなっている……それでも、少しは褒めてあげるとか、怪我しているのに気付いてあげるとかしなさいよと思っているので、無くなる事は恐らく永遠に来ないだろう。

 織斑千冬は一度だけ、デスゲームが始まってから一週間が経ったある日に和人の病室を訪れた事がある。その時は個室に移されていた。

 和人の病室の前で、入ろうか入るまいか悩む素振りを見せている黒いスーツ姿の女性を見て誰か悟ったあたしは、即座に病室の入り口を塞いだ。その時のあたしは、とにかく和人を護ろうとする想いで一杯だったのだ。

 この人を病室に入れたが最後、和人が織斑家に戻る事になってしまうのでは……そう考えてしまったのである。あの時のあたしはとにかく情緒不安定だったから、そんな事を考えてしまったのだ。

 

『お、お前は?』

『和人の……あなたの元弟の家族になった、義理の姉、桐ヶ谷直葉です……』

『そ、そう、か……』

 

 最初の挨拶は、年下のあたしが圧倒して始まった。世界最強を相手に無謀だとか、失礼だとか喚く人間が居たとしても、あたしはその時だけは絶対に引く訳にはいかないと胸中で繰り返し叫んでいた。もし実力行使で来られたらこちらも抵抗してやると息巻いていたくらいだ。

 

『それで、何の用ですか。ここはあなたが来る場所じゃない』

『……あいつの、一夏の、見舞いに……』

 

 口を軽く噛みながら絞り出された答えに、あたしはぎりっと歯を食い縛った。

 

『あの子は……織斑一夏じゃ、あなたの付属品なんかじゃない!!!』

『ッ?!』

『あの子はずっと見て欲しがっていた、ずっと家族を求めていた! ずっとずっと一人で頑張っていて……それなのに、どれだけ頑張っていても周囲には虐げられて、兄には見捨てられて、あなたはあの子の助けに来なかったのに、それなのにまだ姉面をするというの?! ふざけるなッ!!!』

 

 一夏。その名前が嫌いという訳じゃ無い……ただ、目の前の女性があの子の名前を口にする事、それが心の底から気に入らなかった。

 今のあの子の家族は桐ヶ谷家、あの子の姉はあたしだという自負と、あの子を護ろうと、愛そうと手を尽くしてきた過去があるだけに、デスゲームに巻き込ませてしまった罪悪感から目の前の女性と自分が同族であると思えてしまって、あたしはこの人とは違うと否定したかったから、その場が病院であるにも関わらずあたしは怒鳴ってしまった。幸いにも人が居なかったので、誰にも聞かれていなかったのだが。

 同族嫌悪だったのだ、この時怒鳴ったのは。護ると誓っていたのに護れなかった……自責の念に駆られていたあたしは、目の前に憎悪の対象が居るのを良い事に、怒鳴り散らしていた。

 

『わ、私は、知らされていなかったんだ……政府の連中が、黙っていて……』

 

 年下のあたしに怯えるように、叱られた子供のように顔を歪め、泣きそうな顔になりながら織斑千冬はそう答えた。

 勿論、その事は和人を拾ってから数ヵ月が経過した頃に家を訪れた束さんから教えられていたから知っていた、知らされなかったなら仕方が無いという気持ちもあるにはある。あたしだってデスゲーム化の事を知らなかったのだから。

 しかし、頭で理解していても、感情の方で納得出来ていなかった。

 

『だとしても、あなたはずっとあの子を見ていなかった事に変わりは無い! たとえどれだけ忙しかったとしても……テストで百点を取ったのなら頑張ったねって……取れてなくても、次は頑張れば取れるって励ますとか、褒めるとか、してあげればよかったじゃないの……してあげていれば、あの子はあそこまで追い詰められなかった!!! 怪我に対してももっと気に掛けてあげていれば、あの子はあれほどまで傷付かなかった!!! もっと家族を見ていれば、あなたも弟を喪う事は無かったのよ!!! 護衛を付けるとかの対応もしていれば少しは変わったかも知れないじゃない!!! あなたは自分の名前の大きさを、もっと理解しておくべきだった!!!』

『う……ぅ……っ!』

 

 責められて織斑千冬は涙を浮かべていた、下の弟が攫われてそのまま行方不明と知ってから漸く見れていなかったのだと自覚したのだろう。そして責めているあたしもまた、何時しか涙を流していた。それは温かいものではなく、氷の様に冷たい涙で、流していてとても辛い気持ちになっていた。

 織斑一夏。桐ヶ谷和人。別の名を持ちながら同一人物であるあの子を想う、織斑の血族としての実姉と桐ヶ谷の心で繋がった義姉であるあたし達は、病室の前で泣き続けていた。織斑の姉は自責の念に押し潰され掛けて、あたしはデスゲームに巻き込んでしまった事と織斑の姉を責める事で自身も責めているような錯覚に陥っている事で。

 

『もう、帰って……あの子が戻るって言わない限り、あなたの実弟《織斑一夏》じゃなくて、あたしの義弟《桐ヶ谷和人》なの……』

 

 顔を背け、振り返って病室の扉を開ける。そして中に入ると、織斑の姉は拒絶するかのように少しずつ、ゆっくりと閉めていく。

 

『……分かった。もう、二度と見舞いには来ない…………あいつが目覚めて、お前が良いと判断したら……私が見舞いに来ていた事を、伝えてくれ……あいつを、よろしく頼む……』

『言われなくても、そのつもりよ……!』

『そうか…………では、な』

 

 僅かに安堵したような声音の別れの言葉を最後に、ぴしゃりとスライド式の扉が閉まった。防音が施されている病室内に外からの音は入って来なくなる。

 暫く扉の前で立ち尽くしていたあたしは、それから和人の病床の横に移動し、来客用のパイプ椅子に座って、彼の小さな手を両手で軽く握り込んだ。たった一週間でも多少肉が落ちて来た彼の手は、あたしよりも二回りは小さくなっていた。

 

『……ごめんなさい……』

 

 ふと、あたしは謝罪の言葉を口にしていた。一旦収まっていた涙がまた溢れ、さっきよりも膨大な量が流れ落ちていっていた。

 謝罪は織斑千冬に対してだった。この子の姉になったからこそ分かる、あの人もまた、行動に移せていなかっただけで大切に想っていた事を。それで別の家族の弟と言われてショックを受けない筈が無かったのだ……ただの八つ当たりになってしまっていた事、勝手に姉を名乗った事に対する、この場には居ない人物への謝罪だった。

 同時に和人に対してでもあった。穿って考えれば、あたしは本来この子が一緒に過ごすべき家族の元へ帰る機会を勝手に失わせてしまった……あたしの弟として生きるよう強制してしまったという意味にもなるのだ。あたしは和人を、『桐ヶ谷直葉の義弟』という役割の人形にしてしまったのではないかと、そう考えてしまったのである。特にその時は和人が何も言えない状況にあったから、あたしの思考を否定してくれる人物が居なかった事もあって、その翌日は体調を崩して学校を休んでしまう程にずっと泣き続けていた。

 正直に言うと、今もあたしはこの子を人形にしてしまわないかと自分自身に恐く思う事がある。深い愛情が何時しか固執となってこの子を縛りはしないかと、それを恐れているのだ。

 護るという愛情と、縛り付けるという固執は違う。けれど境界線が曖昧だから、何時しかあたしの護りたいという愛情が変貌してしまわないか恐く思ってしまう……多分和人は、あたしがこんな事を考え、自分自身に恐怖しているなどと知らないだろうし、知ったとしても拒絶せず、むしろ嬉しいと言って受け入れるだろう。

 そしてあたしは、和人にだけはこの悩みを明かせない。もしも受け入れられてしまったら、一度でも許容されてしまえば、あたしの歯止めが利かなくなりそうだったから。あたしはあくまで義姉なのであり、和人の人生の伴侶では無いのだ……伴侶だとしても、この思考は相当危ないものだと思うが。

 だからこそ、あたしはこの子が過去に打ち克てるその時まで……この子を《護る》と、そのための愛情を注ぐと、誓ったのだ。

 打ち克てた後の事は、和人次第だ。織斑家に戻るのなら戻っても良い、桐ヶ谷家に居続けたいのならそれでもいい……何れ訪れるであろう二者択一の選択が迫るその時まで、あたしはこの子の姉として支え、護るのだ……

 

「だから……生きて、現実に帰ろう……絶対に……」

 

 未だ眠り続ける和人を優しく抱き締め、呟いた。胸中は晴れやかでは無く、どこか曇ったものが蟠っていた。

 

 *

 

「ん、ぅ……」

 

 あたしが目を覚ましてからおよそ十分後の午前六時になった時、ふと和人が身じろぎし、うっすらと瞼を持ち上げた。ぱちぱちと何度か瞬きをした彼は、その黒い瞳にあたしの《リーファ》としての顔を映し、焦点を合わせる。

 

「……りーねぇ……おはよ……」

「うん、おはよう……あと、今は名前で呼んで欲しいかな」

「ぁふ……ん……すぐねぇ、おはよ……」

 

 フラフラ、ゆらゆらと頭を軽く揺らす和人は、まだ眠そうでもキチンと名前を呼んでくれた。それに嬉しくなってにこりと笑みを浮かべ、頭を撫でると、気持ちよさそうに頭を軽く押し付けて来る。さらさらとした黒の長髪の触り心地も丁度良いし、これはやはりクセになる撫で心地だった。

 また数分そのままだったが、暫くしてから頭が起きて来た和人は恥ずかし気に顔を朱くしながら、朝食を作って来ると言って部屋を出て行った。他の皆にも一応朝食が午前六時過ぎである事は伝えられているので、恐らく声を掛けて行ってから下階で作るのだろうと思う。着替えようと思っていたので、先に出てくれたのは助かった。

 この世界での衣服着脱はウィンドウ操作一つで可能だが、装備中の服を外して別の服を装備するまでは下着姿だったり、ものによっては裸にもなるので、基本的に異性が同じ部屋に居る間の装備着脱は御法度になっている。もしもそういう事をしてしまったら誘っているのだと捉えられるから危険だと、あたしの知り合いから厳重注意を受けている。まぁ、和人が襲って来るとも思えないが、恥ずかしい事には変わりないので、助かる思いだった。恐らくあの子はその辺まで考えていないだろうが。

 手早くウィンドウを操作して装備を普段着の服から緑衣に変えた後、あたしは部屋を出て、一階に降りた。とん、とんと軽やかに階段を下りていくと、その途中でカレーの良い匂いが漂って来て、思わず鼻をひくつかせてしまう。

 リビングに下りれば、台の上であくせくと料理をしているキリトの姿が見えた。三角巾を被った黒いエプロン姿で、髪を一つ括りにしているその姿は、見る人が見れば幼妻と思うのではないだろうか。

 

「コック長、朝の料理は何?」

「昨日釣って来た魚でシーフードカレー!」

「朝からカレー……ああ、でもあっさりとしてるのね」

 

 自慢げに笑う和人の返答にあたしも微笑む。アスナさんから、実は昨日の釣果はゼロで坊主だったという事は聞いているが、今それを指摘する必要も無いので黙っておく事にした。見栄を張りたいからわざわざ村に立ち寄って魚を購入したのだと教えられては、どうにか頑張って見栄を張ろうとするその努力を無為には出来ない。

 心の中で可愛いなぁと呟きつつ、あたしは料理が出来るまでソファに座って待つ事にした。時間にしておよそ十五分で出来上がるらしく、その間にも彼は他に付け合わせにサラダやら何やらを用意していく。現実でなら手伝えるのだけど、生憎と《料理》スキルを上げていないあたしでは碌に手伝えないため、待つしかない。

 アスナさん曰く、戦闘では殆ど役に立たない趣味系スキルの《料理》スキルを上げているらしいが、少し前に漸く完全習得したアスナさんやユウキさん達ですら、和人の料理の腕には敵わないらしい。何でもこの世界で最高峰の味を誇るS級食材にすら、あり合わせの料理が味で匹敵する程なのだという……確かに昨日のお昼に食べたサンドイッチや夕食のビーフシチューも、VRMMO特有の淡白なものでは無く、しっかりと現実のように味付けがされたものだった。恐らく調味料を揃えているのだろう。

 少なくともALOでの主食で調味料の類が使用された事は殆ど無かった。何故なら、調味料という細かな味の調整は、味覚パラメータの解析が困難を極めていてあまり進んでいないらしかったからだ。なので見た目と実際の味が微妙に異なるというのは仮想世界の料理の特徴で、痛い目に遭う事など茶飯事だった。

 それなのにあの子はしっかりと現実に即した味を再現し、食材のランクなど無視した料理を完成させている……それはつまり、しっかりと調味料を作成しているという事である。醤油や塩などを彼は作っているのだろう。

 ……何となく、そう考えると、本当に作っているのかどうか知りたくなってしまった。本当ならこういう他者が持っていない物を訊くのはスキルの詮索と同様にマナー違反なのだが、もしかしたらという期待も込めている。

 

「ねぇ、和人、訊きたい事があるんだけど良い?」

「んー? 何、訊きたい事って?」

「あなた、もしかして調味料とか自作してたりするの? お醤油とか塩とか味醂とか、あとサンドイッチに使ってたソースとか」

「ああ、うん、自作してるよ」

 

 ソファに座って、背もたれに頭を預けながら行儀悪い姿勢で問うと、彼はあり合わせの料理を作っていたため振り向きはしなかったが肯定を返してきた。

 内心で、マジか、と義弟の料理に対する熱心さに驚きと称賛を贈る。

 

「最初は矢鱈味気無かったから、どうしても作りたくなって……大体デスゲーム開始から三ヵ月が経った頃だったかなー、色々と素材が集まってたからストレージを軽くするつもりで配合してたら偶然出来たんだよ」

「へ、へー……そうなんだ」

 

 偶然出来た……軽い口調で言われたが、実際考えるとこの仮想世界の料理に一石を投じる程の大発明であると、この子は理解しているのだろうかと頬を引き攣らせてしまった。

 今まで味気なかった料理が一変し、現実のそれと同等かそれ以上の味を作り上げるのだから、その調味料を売りに出すだけでもとんでもない儲けになるだろう……アスナさんの反応から、恐らく売りに出していない事は想像がついているので、尚更あたしはそう思った。

 無論、何かしら考えがあっての事だとは思うので、口には出さないが。

 

「案外ポーション系の素材を使ったなぁ。攻略がそれなりに進むとポーションを初めとした回復アイテムの素材は需要もあって市場で流通してたから、供給も十分にされてて、それで買い取ってもらうよりは配合に使った方が良いかなと思って適当にやったら出来て……いやぁ、それから《料理》スキルの仕様に拍車が掛かったよ。どの素材を使うかでどんな味になるかを全部メモに書き留めて、配合を繰り返して……一番スキル値が上がったのはあの時じゃないかな?」

 

 アスナさんが他の人から又聞きした話によると、今年に入った時には既に《料理》スキルが完全習得されていたらしいので、それだけ上がりが大きかったという事なのだと思う。アスナさんも色々と現実の調味料を再現しようと悪戦苦闘しているが、未だに醤油すらも出来ない事を嘆いていた……この事実を知ったら、あの人は凄く落ち込むんじゃないかなと思っていたりする。

 案外夕食の時に食べたサラダに掛けられていたドレッシングで、既にショックを受けているかも知れないが……

 

「おはよう、キリト、リーファ。二人とも早いわね……私はまだ眠いわよ……ぁふ……」

「あ、おはようございます、シノンさん」

 

 和人と話している間にどうやら目を覚ましたらしいシノンさんが、胸当てを外した格好で一階に下りて来た。眠そうに欠伸を噛み殺しながら挨拶され、それに挨拶を返す。

 

「朝食は……カレー、かしら? 朝からカレーなの?」

「シーフードカレーらしいですよ」

「ああ……なるほど、多少アッサリはしてるわね」

「あたしと同じ事を言ってますねー」

「そうなの?」

 

 丸っきりさっきのあたしと同じ事を言っていると笑いながら告げれば、彼女は不思議そうにあたしを見て来たので、こくりと頷いておいた。まぁ、朝からカレーかと思ってしまうのも仕方がないだろう。

 男子ならともかく、女子にカレーは少々胃にキツイ……まぁ、この世界では実際の胃では無いし、現実の肉体に栄養は一切入っていないのだが、やはり好みの問題だ。

 

「おっはよー! 三人とも早いねぇ!」

「キリト君、リーファちゃん、シノのん、おはよう。私達が一番遅かったかぁ……やっぱり六時起きっていうのは慣れてないからキツイねぇ」

 

 シノンさんが来てほぼすぐ後に、続くようにしてストレアさんとアスナさんが一緒にリビングに入って来た。どうやら二人ともあまり早起きでは無いらしい。確かに、剣道を初めとした武道を嗜んでいないと思われる三人には、慣れていないのなら六時起きはちょっと辛いだろうなとは思う。

 ちなみに午前六時起きなんて剣道をしているあたしからすればむしろ遅い方に入る、普段は午前五時起きなのだから。昨日までは色々あって疲れていたからここまでゆっくりしていたのである。和人も最初は辛そうだったが、半年が経つ頃にはそこそこ慣れた様子だった。今も午前五時起きを続けているかは知らない。

 

「さて、出来た!」

「おっ、キリトの朝ご飯が出来たの? 良いタイミングだったみたいだねぇ」

「そうだな。アスナとシノンとストレアは食器をテーブルに並べておいてくれないか? 俺はリーファと一緒に、あの女の子の所に行こうと思う」

「うん、分かった。用意は任されたよ」

 

 アスナさんが食器類の用意を任されたと返し、三人が台所の方に用意されている食器類に近付くのを見送ってから、和人はあたしの手を取って二階へ続く階段を昇り始めた。

 

「ねぇ、何であたしも一緒に行くの? 様子を見るだけなら和人だけでも大丈夫なんじゃない?」

 

 その途中で、あたしは疑問に思っていた事を投げ掛けた。実際起きているかどうかの様子を見るくらいならあたしは必要ないと思うのだ。

 その問いに、和人は少しだけ淡い笑みを浮かべた。

 

「直姉も知っての通り、このSAOの世界に俺くらいの年齢の子供は殆ど居ない……俺の場合はベータテストに当選したからイレギュラーとしても、たった一千人にしか当たらなかったアレにあの女の子も当たったとは思えないし、仮に当たっていたとしても、多分親も一緒にログインしたと思うんだ。仮想世界とは言え初めての世界なら、親が心配するのも仕方が無いし……その点、うちの母さんは情報雑誌の編集者だった分、他の人より色々知っていただけにあまり心配してなかったみたいだけど」

 

 桐ヶ谷翠の職業は情報雑誌の編集者で、勿論その情報の中にはSAOに関する事もある。実はあの母が年齢レーティングを無視してSAOを薦めたのも、SAOがとても楽しく、またハラスメント行為や暴力的な行為も現実ほど酷い事は出来ない――それでも多少は罷り通るのだが――と知っていた為だ。今回はそれが仇になってしまった訳だが。

 

「むしろ思いっきり薦めてたもんね……事件からずっと物凄く悔やんでたよ……」

「誰も分からないから仕方ない事だけど……俺としては、この世界に来られて良かったとも思うよ。アスナ達みたいに俺を……織斑一夏としても受け入れてくれた人が沢山居るから。辛い事も沢山あったけど……」

 

 そこで目を瞑り、何かを思い出すように表情を寂しげなものにした和人は、それを一瞬で改めてあたしをまた見上げて来た。

 

「まぁ、俺の話は一旦置くとして……それで、うちはそんな感じでSAOに対する知識があった訳だけど、多分他の家の親はそうでも無いと思う。だから親と一緒にログインしたと思うけど……第二十二層はアクティブなモンスターがポップしないとは言え、第一層からすれば明らかに上層、未知の領域になる。そんな場所で、しかも圏外の林の中で倒れていたとなると……」

「……もしかして、親は……」

 

 あたしはそこから先を口にしなかったが、和人はこくりと深刻めいた表情で頷いた。それはつまり、恐らく彼女と一緒にログインしたであろう親は、もうこの世界から退場しているという事を意味している。そもそも親が居るのなら、街中ではぐれるのならともかく、あんな圏外の林の中で行き倒れているなんて事態に発展しないのだから、それは容易に想像がつく話だ。

 しかし、その話をあたしがどう関わるのかが分からなかった。

 

「……でも、その話とあたしにどう関係があるの?」

「…………今のあの女の子と、昔の俺が、大体似通った状況にある気がしたから……」

「……!」

 

 キリトが口にした返答に、あたしは一瞬だけ唖然としてしまった。

 確かに、さっきの話を前提に考えれば、和人を拾った時の状況と今のあの女の子の状況は酷く似通っている。家族に捨てられて行き場を失った和人と、家族に先立たれ行き場を失っている女の子……それに気付いた和人は、だからこそあたしを選んだのだ。かつて自身を拾い、姉になったあたしを信じているからこそ、あの女の子も何とか立ち直らせられるのではないかと。恐らくそんな風に考えて、あたしを選んだのだろう。

 この世界で強者であるアスナさんでも、あの女の子を背負っていたストレアさんでも、落ち着いた物腰のシノンさんでも無く……かつて自身を拾った姉のあたしを頼ったのだ。それだけあたしは信頼されているという事だ。

 

「……という事は、妹が出来るという事なのかしら。そうなると和人は……弟かなー……」

 

 責任重大だなと胸中で呟きつつ、あたしは冗談めいた口調で肯定的な問題を提起した。

 実際あの女の子を受け容れた場合は妹になると思うので、和人はあの子の兄か弟のどちらかになる。見た目の身長では女の子の方が高そうだったから、多分和人は弟になるだろう……

 

「……えっと、勝手に頼ったのに、怒らないの……?」

「別に怒らないよ。怒る程の事じゃないし、こういう事で年上の人を頼るのはむしろ当然よ……分かった。あたしに出来る限りの範囲であの子を何とかするわ。和人も力を貸してね」

「勿論! ありがとう、直姉!」

「っ……どういたしまして、和人」

 

 真っ向から満面の笑みでお礼を言われ、思わず怯んでしまった。いきなり屈託なくて、あどけない笑みは反則だろうと胸中で呟く。

 そんな会話をしていて足を止めてしまっていたあたし達は、階下の三人をあまり待たせるのも悪いので、女の子が眠り続けている和人の自室へ急いで向かった。こんこんこんとノックし、扉を開けて中に入れば、昨日はずっとベッドで眠っていた黒髪の少女が横になったまま瞼を持ち上げ、綺麗な黒い瞳をこちらに向けて来た。ぱっちりと目が合う。

 

「あ、起きたのね。よかった……」

「……ぁ、ぅ……?」

 

 ほっと安堵の息を吐きながらゆっくりと近付けば、少女はベッドから上体を起こしてこちらを見て来た。こてんと、あどけなく小首を傾げた。

 それを可愛いと思うが、同時にどこか違和感を覚えた。

 

「……あれ? ちょっと待った。今気づいたけど、その子、カーソルが無い……?」

「え? ……あ、ホントだ」

 

 和人の指摘に、あたしも少女の頭の上を見れば、本来プレイヤーならグリーンやオレンジ、NPCならイエローの角錐型マークが表示される筈なのに空白のままである事に、今更ながらに気が付いた。どうやら昨日は色々とあり過ぎて全員見過ごしてしまっていたらしい。多分ストレアさんも色々と気が動転してしまって見逃していたのだろう。

 まさかあの冷静なヒースクリフさんも見逃すとは……それだけ小さな変化だったのだろう。

 

「……あ、ぅ……?」

 

 あたしが抱いた違和感はこれだろうかと内心で首を傾げていると、ふと、少女が何かを伝えたそうに手を伸ばしてくる。何となく、あたしは少女が座るベッドに腰掛け、頭を撫でながら微笑み掛けた。

 

「初めまして。ずっと寝てたから心配したよ……自分の名前、分かる?」

「なまえ……ゆ、い……ユイ…………それが、名前……」

「ユイちゃんかぁ……可愛くて、良い名前だね」

 

 恐らく感じに直せば優衣か結衣辺りだろう……女の子らしくて良い名前だと思って本心で褒めれば、ほんの少しだけユイちゃんの口元に小さな笑みが浮かんだ。どうやら警戒心はそこまで高くないらしい。

 接してみると分かるが、どこか拾ったばかりの頃の和人を想起させる反応だ……確かに和人よりはあたしの方が慣れているので、適任だったかも知れない。

 

「あたしの名前はリーファ、こっちの子は弟でキリトって言うんだよ」

「……いー、ふぁ……き、いと……」

「んー、惜しい。リーファ、キリトだよ」

「……いーふぁ、きーと……うぅ……」

 

 どうやらラ行を発音出来ないらしい……これは発語疾患というより、応答からして精神年齢の後退が起こっているような気がした。ひょっとすると昔の和人よりも悪いかも知れない。目の前で親が死んでしまったのだとすれば、こうなってしまうのも、年齢からして仕方の無い事かも知れないが……幼いこの子には環境含めて辛すぎる。自己防衛反応として記憶を封じて、精神後退が起こった可能性が大きいかも知れない。

 見た目は十歳前後だが、明らかにやり取りが幼児のそれだったから、あたしはそう頭で考えつつ表情には出さないで、苦笑を浮かべた。

 

「んー、難しかったかな。呼びやすいように呼んでくれていいよ」

「……」

 

 頭を撫でながら微笑みと共に言えば、ユイちゃんは少しだけ考え込むように俯き……

 

「……いーふぁは、いーねぇ……きーとは、きー」

「いーねぇ……リー姉って言うつもりなのかな」

「きー……キリトから取ったのか…………ていうか俺は年下に見られてるんだな。いや、別に良いけどさ……実際俺の方が年下っぽいし……うん」

「……だめ……?」

 

 あたしと和人が一緒に付けられた呼称について思う事を口にしていると、それを嫌に思ったと取ったのか、不安そうにユイちゃんが聞いて来た。慌てて笑みを浮かべ、首を横に振る。

 

「んーん、ダメなんかじゃないよ」

「……! いーねぇ!」

 

 安心させるように微笑みながら肯定すれば、ユイちゃんは嬉しそうにあたしに抱き付いて来た。その小さな体を抱き締め返しながら、あたしは少しばかりの嗚咽を抑え込む。

 この子は、あたしと和人が考えていた以上に心に傷を負っていたらしい……ある意味で和人よりも酷いかも知れない。まるっきり幼児と同じ反応を返していて、あたしの事を姉と見ている事から、もしかしたら親では無く兄弟姉妹と一緒にログインしていて、亡くなったという線もある。一年半が経つ今になってデスゲーム化のストレスでここまでになるとは少々考え辛い……最悪、この子は天涯孤独の身になっているかも知れない。

 その場合、あたしはこの子の姉として受け入れるつもりだ。現実でも引き取るかは母さんと父さんに相談しなければ何とも言えないが、多分受け入れてはくれると思う、父さんは何気に結構な額を稼いでいるから下手に贅沢しなければ大丈夫らしいし。

 

「俺が弟という事は、ユイはユイ姉という事か……新しい家族、かぁ」

「きー!」

「……ん、聞こえてるよ」

 

 和人にも手を伸ばしたユイちゃんに、彼は優しげに微笑みながら伸ばされた手をゆっくり取った。同じくらいの大きさの手が交わされるのを、あたしは小さな少女を抱き締めながら、温かく見守っていた。

 まだユイちゃんが天涯孤独と決まった訳では無いが、家族が見つかるまであたしはこの子の姉として受け入れようと、新たな義妹と義弟のやり取りを見守りながら新たに心に誓った。

 

 *

 

 少しばかり時間を掛け過ぎたあたしはユイちゃんを新たに加え、和人と共に一階へ下りた。少しばかり遅い事に業を煮やして呼びに来ようとしていたシノンさんと丁度鉢合わせし、遅れた理由を察した彼女は、なるほどと一つ頷いて苛立ちを収めてくれた。

 最初こそ初めて顔を合わす三人に怯えを見せたユイちゃんは、しかし優しく自己紹介をするとすぐに心を開き、朗らかな笑みを浮かべてくれた。シーフードカレーも旺盛に食べ、サラダも好き嫌いせずしっかり完食してしまい、意外にも見た目にそぐわず大食いであるらしい事を知った。見ていて気持ちいの良い食べっぷりで、それにはさしもの和人も驚きに瞠目していた。

 ちなみにシーフードカレーはあたし達全員を驚かせた。何せスープカレーになっているかと思いきや、何と彼は偶然の産物で米を作り出していて、それを更に盛って出してきたからだ。ユイちゃんはただ無邪気に食べていたが、あたし達は見て、匂いを嗅いで、味と食感に驚いてをずっと繰り返していた。

 特にアスナさんは完全に絶句していて、負けた……と沈んでいた。未だ調味料を完成させていないだけでなく、日本人なら食べたいと思う米すらも作ってしまっている事を知り、完全にプライドが粉砕されたらしい。

 米もまた調味料と同じく偶然の産物らしく、その精製法は意外なものだったらしい。植物系統の素材アイテムを五種類配合した時の完成品で出来たもので、まるっきり食感も味も米である事に彼自身驚いたという。ちなみに昨日の夕食を作る際に発見したらしかった。

 アスナさんがここぞとばかりにそのレシピ開示を懇願し、あっけらかんとそれに応じてレシピを教え、試しに作っては喜びに沸くといったやり取りをしている内に、時間は何時の間にか八時を回っていた。

 

「さて、と……午前九時に闘技場に行くって連絡してるし、そろそろ向かおうかな。一応実地である程度情報収集もしたいし」

 

 今日の午前中は信頼する情報屋から送られた情報から闘技場の《個人戦》という全三戦からなるボス戦を制覇する予定になっていた。ユイちゃんが目覚めるという思わぬ事があったとは言え、攻略に支障を来す程では無いし、既に主だった面々には連絡が行っているらしいから今から中止するというのも出来ない。故に和人は既に装備を整え、黒尽くめの二刀剣士姿になっていた。

 ちなみに実際の挑戦は午前十時を予定しているらしい。何でも色々とする事があるかららしいが、それが何なのかは具体的には教えてもらえなかった。すぐに分かる、教えたら面白くないから秘密と言われたのである……別に危険な事では無いらしいので、なら良いかと放っている。

 

「アスナは攻略組だから当然として、リーファとシノン、それとストレアも来るんだっけ? となると、ユイ姉はどうしようか……」

「ユイもきーと一緒に行く!」

「あー……うん…………気持ちは嬉しいんだけど、俺と一緒に行動は……せめてリーファと一緒にして欲しいかなぁ……」

「何で?」

「何でって……それは……」

 

 キョトンと純粋に問い掛けたユイちゃんに、和人はぐっと言い淀んでしまう。それも仕方が無い事だろう。どうも記憶が無いらしく、精神後退して幼児レベルの思考になっているユイちゃんに対し、世界や人の悪意を話す訳にもいかないし、仮に話した所で理解されるとも思えない。むしろ怒って抗議に行く可能性すらある。

 となると、ユイちゃんは和人とは離れておかなければならないのだが……そうする為の理由に困った。

 

「うー……」

「ぬ、ぐ……」

「わぁ……キリト君が会話で押されてるの、初めて見るよ……」

「義理とは言え姉だし、更に言えば純粋な子に一方的な言い分は言い辛いものね……」

 

 ユイちゃんが不満げな表情で僅かに背が低い和人を見下ろし続け、それに彼はぐっと押されていた。幾らユイちゃんの為を思っても本人が従わなければどうにも出来ない、かと言って本当の事を明かすのも心情的に難しいとなり、物凄く和人は悩んでいるようだった。ユイちゃんの可愛い睨み顔に勝てる人は果たしているのだろうか……もしも居るなら、きっと血も涙もない冷血漢に違いない。

 まぁ、あたしの場合はこの二人のどちらの睨み顔にも勝てそうにないのだが。

 取り敢えず時間もそこそこ迫ってきている事だし、今後を左右する大事な事だからここはユイちゃんを説得するべきだろう。

 

「ね、ユイちゃん。キリトはとても大切な用事の為に行くんだけど、あたし達と一緒に居るのは少し難しい事なの。だから我慢しよう?」

「むー……うー! やだ! 一緒に行く!」

「……困った事になったな……」

 

 あたしが優しく諭しても、ユイちゃんは不満そうに頬を膨らまし、そして拒絶の言葉を放って和人の手を取った。その言動が純粋なものから来ると理解しているだけに和人も振り解く事が出来ず、困惑と苦悩に表情を歪める。

 あたしも流石に梃子でも意見を変えなさそうな様子にどうしようも出来ず途方に暮れていると、表情を歪めていた和人が、ふとユイちゃんに真剣な面持ちを向けた。

 

「……ユイ姉、お願いだから、出掛けるならリーファと一緒にしてくれ。これはユイ姉の為でもあるんだ」

「……ユイの、ため?」

「ああ。もし俺と一緒に行ったら、これからは一緒に居られなくなるんだ……それでも良いのなら一緒に来ても良いけど」

「やだ! 一緒に居たい!」

「なら、リーファ達と一緒に行ってくれ……どっちにしろ顔を合わせるから」

「うー……」

 

 和人の言い分は半ば脅しであると分かってはいたが、こうでも言わなければ恐らくユイちゃんは頷かなかったと思うのでそれでいいと思った。少し悩む素振りを見せていたユイちゃんも、暫くしてからこくりと頷き、約束と言って彼から離れ、あたしの手を握る。それを見て和人は安堵の息を吐いていた。

 

「ふぅ……じゃあアスナ、皆の案内を頼むな。俺は別の転移門から最前線に行くから闘技場で落ち合おう」

「うん、分かった……道中気を付けてね」

「これでも一応《アインクラッド》最強を自負してるんだ、簡単にはやられないよ」

 

 アスナさんの心配の言葉に不敵な笑みでそう返した後、和人は先にホームから出発した。その後にあたし達も家を出て、南西方面にあるという第二十二層の主街区へと向かう。彼は南東方面にある過疎村から転移して向かう手筈らしい。わざと別々に行動しているのは、彼のホームがこの階層にあると知られない為の処置だという。

 道中でユイちゃんの初々しい底抜けに明るい反応で朗らかな雰囲気になりながら、あたし達は転移門へと一路向かったのだった。

 

 






 はい、如何だったでしょうか。

 千冬は人格的にはまともという設定でした、リズベットのお話の際にそれらしく書いてはいましたが、これで漸く具体的に性格が分かったかと思います。一夏に対して淡白だったのは恐ろしく忙しかったからという設定です……人間、忙しかったら他人を見てられる余裕が無くなりますしね。

 そして直葉が怒鳴ったのは、文中にある通り同族嫌悪です。千冬は一夏が誘拐されたと知らされなかった、直葉はSAOがデスゲーム化すると知らずに薦めてしまった過去があり、知らなかったからと言って済まされる話では無いという意識があるので、あの思考が展開されております。

 色々と物騒な思考回路をしていますが、狂ったりする予定は本編ではありませんのでご安心を……直葉は基本、和人の心の拠り所ですので。

 そしてユイの立場が決定しました。和人の義姉、直葉の義妹という立場に落ち着き、呼び名は《いーねえ》と《きー》になりました。キチンと喋れるようになったら《リー姉》にするつもりです。

 次話では、ある人物との戦闘を予定しております……ボス戦に行けるかはちょっと分かりませんが、戦闘があるのはほぼ確定ですので、楽しみにして頂ければ幸いです。

 では、次話にてお会いしましょう。

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