インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
視点:キリト、けもの、キリト
字数:約一万四千
あと一話分続きます()
泥の侵入を拒み閉じた瞼。
それを貫くように、光が瞬いた。眩い光が閉じられた視界を照らす。脳裏を叩き、理性を溶かし、精神を破壊せんと流れ込む泥が押し返された。体内に入り込んだそれすらも吹き飛ばされる。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
眼下には、大地の果てまで埋め尽くし揺蕩う深紅の海。漆黒の太陽から無限に供給される呪いの泥。その中心で、こちらを見て、驚愕を露わにする瓜二つのけもの。
「――ばかな」
けものが、動揺しながら言った。
大地に降り立つ。ばしゃっ、と
視界を闇が覆い、怨念が脳髄に印刷される。
泥を介し、俺の体――具象化された心象そのものに侵入し、一瞬の内に叩き込まれる濃縮された死の想念。防ぐ術は無い。そも、呪いは躱すものであり、防ぐものではないからだ。
躱すか。
耐えるか。
――俺は、後者を選んでいた。
死に誘う強迫観念を叩き付けて来る
自身に光の粒子を集めるイメージを練る。
それだけで、泥に囚われた時と同じ眩い光が生まれ、瞼を貫いた。
非常に眩しいが、失明はしない。これは自分を害する類のものではないからだ。その輝きは俺が生み出したものであり、それを強くしているのはこの世界に残っていた仲間達の――
「そんなバカな?!」
――怒号が轟いた。
発生源は分かり切っている。困惑と驚愕を憤怒に塗り替えた
イメージを脳裏で続けながら、閉じていた瞼を開いて視線を向ける。昏い怒りを露わにした
いつ斬り掛かって来てもおかしくない臨戦態勢。
返答次第では一瞬後に斬られていると予想し、こちらも両手に剣を握る。右手に黒、左手に――
こちらの左手の剣を見て、ヤツはいっそう顔を歪めた。
歪められた貌は、怒りから困惑の色が強くなった。不可解なものを見るように眉根を寄せる。
「オリジナル、お前……あの呪いを全身で浴びていて尚、心象でそれを呼び出せるのか……!」
「――お前には不可能だろうな。お前は、これを捨てたんだから」
そう言って、左手に握る
この剣は、“ともだち”の間柄になった鍛冶師リズベットが、自身の想いと世界解放の願いを込めて鍛え上げた誓いの剣。仲間を想う自分が持つ分には抵抗は無い――クリアした後という意味では抵抗はある――が、その仲間、それも必ず守ると誓った
仮に自分が同じ状況に陥ったなら、『この剣を握る資格は無い』と自ら断じ、捨てる筈だ。
――だから、ホロウは須郷を捕えるまでの間、エリュシデータは握っても、ダークリパルサーは握らなかった。
エリュシデータには第一層の頃から手にして戦った剣の魂が受け継がれている。コペルを始め、数多くの人を殺めた数多の剣。剣を取った理由が二度と叶わないものと知って複雑になったとしても、使う分にはホロウも躊躇いは無かっただろう。
しかしダークリパルサーだけは別なのだ。
エリュシデータ――ひいては、それまで受け継がれた剣達の源流には、人を殺めた過去がある。殺める程の覚悟があった。
ダークリパルサーはその逆だ。人を護る誓いと想いだけが込められている。
黒が《ビーター》の象徴であるならば、二刀を以て希望と見られた【黒の剣士】を構成する、《ビーター》と最も大きな違いとなる翠は、その存在だけでヤツを傷付けるものになる。
自身が持つ資格が無いと断じているものを、自身と同一存在のオリジナルが持っているという事実は、なによりもヤツの根幹に響く。
ヤツは、理想の道半ばで折れ、復讐鬼に堕ちた者だから。
「――いや、それがあるからと言ってお前の不利は変わらない」
それを理解しているのだろうヤツは、憎々しげにこちらに向けていた睨み顔をぐいっと強気な笑みに無理矢理変えた。勝利を確信する貌をして、無理にでも無視しようとしているのだ。
「四日間の不眠不休、加えてセブンに対するあれほど瞋恚を燃やし、脳を酷使している。お前がどんな武器を持ち出そうが、俺に勝てはしない」
ヤツの言葉は、全て真実だ。
七色博士から話を聞く前――大型アップデートがされた時点から攻略の為にロキルートに入り、翌日まで地下世界ヨツンヘイムで巨人たちと戦闘。レインをロキルートに入れた後は、二日に渡って《三刃騎士団》を押し留めている。それが三日間の事だ。
いまで徹夜四日目。加えて、休みなしで戦い続けているため、ヤツの言うとおり脳が酷使され過ぎて悲鳴を上げている。
脳髄は、まるで芯から歪んだ鉄棒のように軋みを上げている。
脈打つ心臓は早鐘を打ったようだし、脳全体が鼓動しているかのように拍動している。
視界はやや霞んでいる。剣はまだ振るえるだろうが、正直万全には程遠い。数十合は打ち合えるだろうが――ホロウと廃棄孔の集合体であるヤツと、ヤツが持っている攻撃手段やシステム、瞋恚、なによりも今も影響を与えて来る呪いの泥を前に、何時間と渡り合う程の余力は無い。百合も交えられまい。
――しかし、それがどうした。
「勝てはしない、だと? ひどい勘違いだ」
「勘違い……?」
こちらの言葉に、ヤツは訝しむ声を発した。
――瞬間、強く踏み込み、距離をゼロへと詰める。
なっ、と短い声を上げて瞠目するヤツだが、しかし
黒と翠の刃が、黒と白の刃と交錯する。
ぎぎ、と火花が散った。
強く押し出すように力を振り絞りながら、眼前に迫った白髪赤眼のけものを見据え、口を開く。
「全てを
「ぐ――?!」
強く言い切って剣を振り抜く。
弾かれ後退するけものを強く睨み、自身にあるモノをイメージする。
――ぎし、と頭蓋の奥が軋んだ。
俺の脳が悲鳴を上げている音だ。泥の影響を拒む為のイメージを常に展開し、会話、相手の出方その他諸々の予測に加え、二刀の維持にも脳の演算処理を回している。そこに多大なイメージ処理を加えるとなれば、悲鳴を上げるのもむべなるかなと言えよう。
本来であれば、それをやめるべきだが――俺は敢えて『もうやめろ』という体の叫びを無視した。
瞼は閉じない。瞋恚による無から有の発生は、前兆として発光のプロセスが挟まっている。いや、実際光る訳ではないのだが、黒の太陽と真紅の海に満たされたこの世界に於いては、瞋恚現象の僅かな発声すらも光源になり得る薄暗さがある。だから
「――!」
そら来た。
予測した通り、ヤツは距離を詰めてきた。
こちらの体は既に死に
だからヤツが現れた初撃で一殺しておきたかったが――仮定の話は無意味だと、思考を切る。
眼前に飛来する六本の風の槍。コンマ秒単位の時間差で飛来してくるそれらは、ひとつひとつ対処しようとしても間に合わないだろう。全力で応じれば六槍は凌げるが、突貫してくる本体や他の武装で穿たれる。
――故に。
まともな対処をする、という選択肢を除外する。
「――
文言を結びとして、想起を終える。眼前に一枚の壁――否、《盾》が現れた。
俺の記憶から選び出し、光を伴って具象化したそれは、かつて聖騎士と呼ばれた男が使っていたシステム的に剣と盾で一つの装備と判定される十字の盾【リベレイター】。
本来なら盾だけの運用など不可能だが、これは俺が一年以上見てきて、記憶に焼き付けた聖騎士の装備を想起し、システムに読み取らせ、具象化させた再現武装。故に元々の制限は存在しない。これが縛られているのはSAOのシステムではないからだ。
当然これの防御力値、耐久値も度外視されている。
この盾の防御力を決定するのは只一つ。リベレイターを具象化させた、俺の想像力の強さ――すなわち、瞋恚の強さだけ。思い込みではなく、確信に至る程の強い想像で漸く反映されるそれ。
――眼前に出現した十字の盾に、ヤツの六槍が連続して激突した。
それからも連続で攻撃を受け留める盾は、微動だにせず浮遊を続けた。
当然だ。あの盾は聖騎士ヒースクリフが使い続けた装備。《神聖剣》による恩恵もあったとは言え、ボスを相手にすらただの一度も防御を破られなかった鉄壁伝説の象徴だ。それを間近でまざまざと見せつけられてきたのだ。ヒースクリフのあの盾ならば――と、そう強い確信を抱いている俺が再現した盾が、敗れる筈も無い。
しかしながら、欠点が無い訳ではない。
瞋恚、ひいては自分の想像を基点に具象化しているものは、その想像が終わった時点で具象化も終わってしまう。意識が外れれば消えてしまうのだ。
脳が限界を迎えている俺が盾を出していられたのは、二秒がいいところだった。
実のところ、リベレイターそのものは浮遊城最終戦後に回収しているため、《ⅩⅢ》に登録した状態で手元にある。だからそれを出して、瞋恚を纏わせれば、ヤツの負を纏った攻撃を凌げた。
わざわざ負担の大きい具象化を利用したのは、負の瞋恚を防ぐ為ではない。
武器を召喚する手軽さこそ《ⅩⅢ》が何枚も上手だが、回収にすら想像の指示が必要なので手間がある。その点、具象化の再現武装は想像を止めれば勝手に消える。その特性を利用した。
加えて――術者本人以外には、それが《ⅩⅢ》による召喚武装か、瞋恚による再現武装かは見分けられない筈だ。
その隙を突いてエリュシデータで斬り掛かる。視界の外から割り込んできた悪魔の羽を模した曲剣に遮られ、弾かれた。
構わずダークリパルサーで薙ぐ。これも不発。一手分の時間を使い立て直したヤツ自身の剣で
反撃に、黒の片刃剣が喉を狙って突き込まれる。
右脚を半歩分外側にずらし、皮一枚で回避。往なされたダークリパルサーを握る手を返し、逆戻しのように薙ぐ――――が、腹に蹴りを入れられた。距離が開く。
「「――――!」」
ただ黙って距離を開けるつもりは、俺にもヤツにも無かった。
互いに突き付けるのは紫光を装填する二丁のボウガン。一射目の引き金が同時に引かれ、軌道上で衝突。四散した。その時には二射、三射と続けて引き金を引いているが、同じ射数の矢でなくとも、何れかの射が相殺を起こしている。
紫の発光が世界を淡く照らした。
――きりきりと、小さな
遠くから届くそれを、俺は無視し、踏み込んだ
***
――それは、埒外の応酬だった。
相手の姿に変化はない。呪いに塗れた泥に踏み込んで尚堕ちない様は強靭な精神の顕れと言えるが、それは根性論で済む話。
埒外なのは――未だ、生きている事だった。
徹夜が数日重なっている事は問題では無い。極限状態でも戦えるよう調整された身だ、集中する時と抜く時とでメリハリを付ければ出来ない事では無い。しかしそれは脳を酷使し且つ疲労を無視して無理を続けるというもの。それは脳へのダメージとなる。第二の試練を超え、第三の試練に挑んだヤツは、およそ五日に渡って昼夜問わず不眠不休の戦闘を続けていた。ならば相応のダメージが残っている筈だ。
脳は生命活動を司る人体の最重要器官。そこに深刻なダメージが齎されれば、肉体の動作には支障が出るだろうし、意識にも何らかの影響がある筈。
――しかし、眼前に迫る敵はこちらに焦点を定めて離さない。
刹那の間すらこちらから意識を外さず、果敢に攻め込んでくる。握る武器を剣、槍、刀、弓矢と瞬時に切り替え、即応する姿は、今にも死にそうなほど疲弊している人間とは思えない勇猛さがあった。
「く――!」
歯噛みしながら、振るわれる刃を片刃剣で往なす。
往なした剣は軽かった。込められた想いではなく、それを振るう腕力の方が足りていない。手加減している訳でない事は目を見れば分かる。鬼気迫る面貌とこちらを斬る事だけを考えている――いや、ともすれば思考すら捨てた気迫を前に、加減をしているなんて予想は愚の骨頂だ。
ならそれは、本人が気付いていないだけ。
本人は全力で剣を振るっている。その全力が――こちらにとっては、軽い一撃なだけ。故にこちらは無傷だ。
対して、あちらは端々から傷だらけ。致命傷だけは回避や往なしで当てられていないが、四肢の末端を掠った一撃は、本物が想起した赤を流させている。とは言え定量以上で死ぬという事は流石に無い筈だから、それはあくまで視覚的なものでしかなく、どれだけ流させたところで意味など無い。常人なら二の足を踏ませるに十分だが――相手はある意味自分自身の存在だ。常人でない事など、分かり切っている。
仮にヤツが常人であれば、自身の限界が既に訪れ、それを無視し続け、
――その命を燃やす理由が、なんなのかを瞬時に思考し。
「お前――!」
ある筈の無い吐き気と共に、顔を歪ませる。
剣戟を防ぐ。
――こちらの片刃剣が、叩き折られた。
力では無い。腕力や剣圧で言えば、むしろ軽い方だ。そして剣戟の鋭さでもない。であれば、刃が折れたのはそれ以外の理由しか無い。
瞋恚だ。
呪いを背負い、纏い、他者を殺す想念に身を焦がす負の瞋恚に対し、ヤツは真っ向から希望に進む瞋恚を抱き続けている。
未だ見ない未来が、明るいものであると信じ、剣を振っている。
「――――!!!」
無音の絶叫。
どうしようもなく、それが認められないものだった故に上がったそれ。迎撃する刃の圧が増し、闇を噴出させ、敵の輝く刃を蝕み、折った。
戦いが始まって初の致命打。
消防車の放水の如く、胸から大量の赤を噴き出し、ヤツは泥の上を転がった。どぱどぼと鈍い水音が数回立つ。
本物の自己イメージによる一定ラインを超えれば、どれだけ負っている傷も最初から無かったかのように再生する肉体と言えど、いまの一撃は相当に堪えたらしい。赤黒い泥の中に膝を屈し、動かなくなった。
――それでも、ヤツは呪いに呑まれない。
うっすらとだが、血に塗れた痩躯全体を朧な光が覆っているのが見える。呪いの反転意志による防護。おそらく無意識のそれ。
心の底から明るい未来があると信じ、それに向けて歩もうとしている事が見て取れる。
――嗚呼、憎ましい……!
ザワリと、胸中に溢れる黒い感情。
その瞬間、視界を闇が覆い、怨念が脳髄に印刷された。
始まりの刑罰は五種、生命刑、身体刑、自由刑、名誉刑、財産刑、様々な罪と泥と闇と悪意が回り周り続ける刑罰を与えよ『断酒、追放、去勢による人権排除』『肉体を
――――死ね
――死刑懲役禁固拘留罰金
――――死ね死ね死ね死ね死ね死ね
――誤診による事故、隠蔽。益を得る為に犯す。愛を得る為に犯す。得を得る為に犯す。自分の為に■す。窃盗罪横領罪詐欺罪隠蔽罪殺人罪器物犯罪犯罪犯罪私怨による攻撃攻撃攻撃攻撃汚い汚い穢い穢いおまえは穢い償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え償え――
――――死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
――『この世は人でない人に支配されている』罪を正す為の良心を知れ。罪を正す為の刑罰を知れ。人の良性は此処にあり、余りにも多く在り触れるが故にその裁量に気付かない。罪を隠すための暴力を知れ。罪を隠すための権力を知れ。人の悪性は此処にあり、余りにも少なく在り辛いが故に、その存在が浮き彫りになる。百の良性と一の悪性。バランスを取る為に悪性は強く輝き有象無象の良性と拮抗する為強大で凶悪な『悪』として君臨する――
――に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、強姦、放火、侵害、汚い汚い穢い穢いお前は汚い償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え『死んで』償え!!!!!!
泥を介し、体を介し、自分の根幹たる人格プログラムに濃縮された死の想念が瞬時に叩き込まれた。
自分の存在が薄くなり、
人は善悪表裏一体の生き物だ。
しかし己の悪性を直視し、それを容認する度量の持ち主は稀有だ。これを受けて正気で居られるとすれば、受けた負以上の希望を抱いて我武者羅に邁進しているか、あるいはその負すらも背負う覚悟を持った王者だけ。だから
――それを。
それを、ヤツは耐え抜いた。剰え、浮遊城での戦いを終えたというのに、誓いを込めた剣を取っている。
もし俺がヤツならば、浮遊城からの解放を誓ったその剣は使わなかっただろう。しかしヤツは使っている。ならば逆説的にヤツにとっての《浮遊城の戦い》は続いていて、いまこの戦いは、その延長戦にあるという事だ。
暴走した少女セブンに対し使わなかった剣を使っているという事は、そういう事だ。
そして、その剣を振るうという事は、つまり――――
「っ……お前は、まだそんなものの為に戦うのか!」
膝を立て、呼吸を整える原典に言う。
「誰にも感謝されず、あろう事か、救っている人間に裏切られ、大切なものを踏みにじられて――それでも尚、まだそんなものの為に! お前は!!!」
――
赤と黒の泥に彩られ、闇の太陽に支配された天地が変動する。
再現されたのは天城のテラス。第一層外周部。《黒鉄宮》を抜けた先に広がる、雲海を一望できる処刑場。かつて幾度となく自身が落とされた場所であり、大切な存在を殺され掛けた場所。
救い護った人々により、明確に身内を傷付けられた罪業。
戦いに疲れ、心を折り、死を受け入れ、生への執着を完全に捨てる原因となった原点。
それを表すように、ボロ布を被せられた柔肌を露わにする
――男達の七割が、頭上から落とされた矢により絶命する。
直後、
キバオウの手により、苦し紛れにも二人を外周部から放り投げられ。
手を伸ばしても、届かなかったその瞬間も。
――それが決定打だった。
最初から向けられていた殺意。それが自身の理解者達に向けられる事を恐れ、敢えて距離を取り振る舞っていたのに、こちらの対策を超えてリズベットとシリカが狙われ、そしてリーファとシノンが狙われた。
「これがヒトだ、これがヒトの本性だ! どれだけ善を謳おうが抑えようのない悪性がヒトの本質だ!」
感情を込めて叫ぶ。
――AIに、生の感情などある筈も無いというのに。
人であった頃に叫んだ時より、複雑なものを込めているように思えるものだった。
「ヒトに裏切られ、見捨てられ、傷付けられて。それでも、自分さえ裏切らなければ何時か報われると信じた結末がコレだと、忘れた訳じゃないだろう!」
石畳を踏み締め、走る。距離を詰め、両手に握った一対の片刃剣を交差させて振り下ろす。
「――ぁあ゛ッ!!!」
ヤツは迅速に対応した。膝を突いたままで、両手に握る黒と翠の両刃剣を交差し、翳す。二本の片刃剣が、二本の両刃剣と衝突した。
互いの顔の
「――ヒトは、ヒトを犠牲にして生きるケダモノの総称だ」
圧力を掛けて均衡を保ちながら、そう言う。
それは本心だ。
そして、自分達が分かたれる前――二人を救うために外周部を飛び降りた時より前に悟っていた事でもある。この認識は呪いに身を浸した自分のものだけではない。眼前に居る原典も、同じものを抱いているのだ。
何故なら、この認識は浮遊城よりも以前に構築されたものである故に。
「オリジナル、いまのお前がハッキリと思い出せるかは知らん。だが俺はAIになってから全ての記憶が鮮明に蘇るようになったから、まるで昨日の事のように思い出せる。一面に充満していた――あの、死の匂いを」
「――」
目が眇められた。
ヤツの意識が得物からこちらに移ったのを見て、剣を弾く。仰け反った相手に追撃を叩き込む――が、反撃の蹴りを脇腹に入れられた。
距離を取る。あちらも距離を取り、そのままこちらの出方を探り始めた。そのフリをしているだけで、実際は僅かな休息を得る為なのかもしれないが、それでも構わない。ヤツが未だに生きている物理的な理由は定かではないが、手にする二振りの両刃剣が健在なのは、こちらの負に比肩する瞋恚を燃やしているからに他ならない。
その根幹には心がある。
なら、まずはそれを折る。
そのために、言葉を費やす暇があるなら少しでも多く言葉を紡ぐ。織斑一夏の言葉は、桐ヶ谷和人を傷付け得るのだから。
――世界が変容する。
俺の脳裏に浮かぶ鮮明な
一言で表現するなら、それは“屠殺場”だった。
血錆の浮いた床と壁。鋼鉄の檻には、黒ずんだボロ布に包まれたヒトガタの何かが横たわっている。限りある果てのどこもかしこもその在り様。
『『『『『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――』』』』』
左右に並んだ檻の中からは、怨嗟の叫びが木霊している。
――それは、生者を怨む呪詛の
意味など無い。脈絡を得ない無意味な音の羅列は、だからこそ、本能が諸に現れる。紡がれる音は怨嗟の呪文。かつては救いを求める声だったそれらは、いまは他者を憎み恨み呪う詠へと
「……これは……」
「記憶にある光景と違う、か? それは当然だ。別たれる前の俺達が浮かべていたものと違うのはデスゲームに溜め込まれたヒトの悪性を背負っているからだ。死にゆく彼らは生を求めていたが……生きるヒトは、他者の死を求めていた。これはそれを凝縮した世界だよ」
俺が抱く心象、呪いに感化された影響で出した世界はあくまで個人的なものでしかない。しかし――かつてここに入れられた経緯、その施設が作られていたという事実は、紛れもない真実だ。
ヒトの醜い欲望が作り出したこの屠殺場の存在こそがヒトの悪性を証明している。
そこに居た人達の具現が上げる声が、生を望んだものであろうと、他者の死を望むものであろうと、そんな事は些細な問題。
重要なのは“織斑一夏がこの経験をした”という事実。
「堕ちる所まで堕ちたとはこの事だろうさ。ヒトを、友人を、学校という社会を、そして――肉親を信じた果てに、俺達はこの
滲むように、世界が僅かに変容した。
監獄が並ぶ回廊から、一辺三十メートルほどの正方形の部屋の中で、自分達と変わりない年齢の子が兇器を手に殺し合う風景。ひとりひとりの容貌すら克明になっているのもAIにより曖昧さが排されたが故のものか。
――その中で、一際小さな子供が、別の子供を殺していた。
俺だった。
肉親に捨てられ、碌に知らない人間から実験動物扱いを受けて、生き残っていくにつれ人体実験を受け続けて、徐々に感情を殺していく様が再現される。
手にした短刀を、どこの誰とも知れない子供の胸に突き立てて、絶命させる。
その背後から襲い掛かった子供を避けて、生まれた隙を突いて短刀を逆手に持ち、頸動脈を素早く斬り、絶命させる。
「辿り着いてから、拾われるまでの間。俺達はいったい幾つの命を奪った事か……」
その答えは、AIになる前から分かっていた。
182人。
それが、研究員を含めず、純粋な同じ境遇の
「――そして、デスゲームを終えるまでの間に、どれだけの命を奪った事か!」
あの外周部から落ちた時点で俺達が人を殺した数は、872人。それからは俺とヤツで存在が分かたれたので、最終的な数に差が生まれているだろうが、概算にすればほぼ変わらない筈だ。
凡そ900人の命を殺めていた事になる。
「最終的にお前が試練全てを突破した事で最初期の犠牲者以外の死者は無かったが……だが……!」
手に掛けたほぼ全員が、他者を傷付け、殺めていた者達だった。たった一万人足らずのほぼ一割。世界人口六十億の内、実に六億のヒトが他者を殺す事に躊躇が無い計算になる。無論年齢や地域によって差異はあるだろうし、デスゲームという異常事態を現実に当て嵌めるのはナンセンスではある。
だが、論点は、そこじゃない。
「俺達が手に掛けたのは、ほぼ全員が他者を食い物にしていた者ばかり。過激な報復を以て抑止力としたにも関わらずおよそ900人が目に余るほどだった。そして、俺達に《織斑一夏》というだけで敵愾心を向けてきたのは、優に千人を超えていた……たった一万人の集団で、一割を優に超えていたんだぞ」
そして、と
「その一割余りのニンゲンが、俺達の関係者というだけで他者の命を危ぶめた! リズベット達も、リーファ達も! アキトはオレンジを先導してレイド一つ分を全滅させ、須郷は自身の栄誉の為に一万の人を犠牲にする事を良しとして!」
――世界が、戻る。
元の黒の太陽と泥の心象に戻った。整然とした思考回路を以てしても、構築された激情を支えきれなくなっていた。これが微かに残った“人らしさ”なのかは分からない。
分からないまま、言葉を続けていた。
「《織斑一夏》に直に会った事も無い人間が風評を鵜呑みにして貶めて、実際に見ても才能だけで見下して、力を見ても正当に評価せず、関係者というだけで諸共貶める――――そんな連中を、どうしてお前は守ろうとするッ!!!」
語気が荒くなる。
構築される激情は止まるところを知らない。ただこの身を焦がす衝動のままに剣を振りかぶり、力任せに叩き付ける。ヤツは二振りの剣で応じるが、往なし切れず体勢を崩した。
「護る価値など無い。護ったところで、俺達が護ろうとする全てを傷付け、貶め、奪い去るだけだ! 自ら敵を生かしたところで何になる!」
体幹を揺らがせたヤツに追撃を叩き込む。ギリギリで二振りの両刃剣が振るわれるも、こちらの軌道を微塵も逸らせず弾かれた。
片刃が鋭く肉を切る。
ざぐっ、と生々しい音が立ち、手にその感触が伝わった。
「――いいや、何にもならない。ただお前の自尊心が満たされるだけ。何の助けにもならず、何の救いにもならない無価値な行動だ!」
――黒の片刃剣を振り上げる。
「そして、それが己の全てを喪う事に繋がる。甘さの極致、無駄の究極、それを自覚していないのに“誰かの為に”と醜悪な様を晒し
怨嗟の怒声と共に振り下ろす。
翡翠の両刃剣が横合いから振るわれるが――やはり、無意味。かぁんと軽い音と共に弾かれた。手から飛んでいかないのはヤツの意地が為す技か。
――それも、無意味に終わる。
黒の刃は、深々と胸の中心を貫いた。白の刃も、黒の刃の隣に突き立てる。ごぽりとヤツが血を吐いたが、それも無視して根元まで突き込む。
「――ああ、そうだ、“誰かの為に”という想いが綺麗だったから憧れた!」
二本の片刃剣から手を離し、新たに魔の曲剣を手にし、振るう。黒の両刃剣に阻まれるも軽く弾いてまた突き込む。
「自分が殺し、あるいは近くで殺され、死にゆく名も知らない彼らの声を聞いていた俺は、一人の青年の声を契機に立ち返った! “今度こそは、救える者は救おう”と! “殺める事なく救おう”と!」
水の細剣を取り出し、脇腹に突き込む。
「――それが、最初の時点で破綻している事に気付く事無く、ただ強迫観念に突き動かされ、走り続けた!」
雷の刀を握り、脊椎を穿つ軌道で背面から突き込む。
「だが、それは偽善だ。人を殺して成り立つ人助けでは誰も救えない。そもそも、救うために誰かを犠牲にしているのでは、誰を救うべきかも定まらない――――!」
風の六槍を四方から突き入れ、身動きを取れなくする。そこに両手斧の金色の大鎌、両手棍の分厚い十手、星を象った鍔の片手棍を叩き込み、氷の大楯で押し潰す。
頭上から、紫の光を無数に降らせる。
――氷が砕かれ、薄白い靄が立った。
その中で、数々の武器に鏖殺されながら原形を留めているヒトガタを認め、顔を歪める。
未だ心折れないなどと、あり得るのか。そんな疑問が頭を擡げるがすぐに思考を捨てる。足りないのであれば叩き込むだけだ。
「故に、その理想は破綻している。自分よりも他人が大事だという思想、誰もが幸福に生きていてほしいという願いなど、空想のお伽噺だ」
「――――」
答えは無い。
いや、そもそもこちらの言葉を聞いているかも既に怪しい。元々ヤツは物理的に死に体だった。そこに呪いをたっぷり込めた瞋恚の連撃を叩き込み、極めつけに呪いを込めた武器を複数突き立てて身動きを取れなくし、その上で言葉で心を責め立てている。
これで
――だが、もう関係無い。
このまま押し切るだけだ。武器を介して瞋恚の楔は撃ち終えた、最早回避は不可能。言葉による責め苦で瞋恚を練った防御も不可能。
「その偽善を抱いてでしか生きられないのであれば、お前はいま此処で、その理想を抱いたまま溺死しろ!」
生きる価値無し。それどころか、その人生に価値は無いと言い捨てて、手を虚空に翳す。
重く、世界が鳴動した。
発生源は黒の太陽。未だ泥が溢れ出る、空にぽっかりと開いた大穴から重い響きを立てて紫と黒に彩られた巨剣が姿を現す。
柄から切っ先まで一色のそれは、禍々しいオーラを放ちながら、切っ先を原典に定めた。
「――自身の
手を振る。
同期して、巨剣が原典目掛けて斜めに飛来した。
***
生きる価値無し。
それどころか、その人生に価値は無いと、
意味合いこそ異なれど、それはかつて自身に粛正を施した義姉と同じ言葉だ。ただ違うのは、彼女が俺を想って過ちを正そうとしているのに対し、ヤツの主張は俺と同じく矛盾を孕んだものである事。
義姉や仲間達を想い、怒りを露わにしているかと思えば。
自身が謂われなき風評で貶められている現状に怒り、憎しみを露わにし。
敵――おそらくアキトや須郷の事――を生かす判断に対する怒りを見せ。
これまで自身が取って来た行動や矛盾した思想と言動に対する怒りを言い放った。
ひとつひとつを見れば誰もが頷くだろう。しかし、それは全て一人のニンゲンが抱いたものであり、矛盾を孕んだものである。
アキトへの憎しみを抱いて袂を別ったホロウと、全てを憎む廃棄孔とが混ざり合った事で、それが露わになったのだろう。
無論、義姉から矯正を受けていないのも大きな理由の筈だ。そしてその事態をヤツは知らないか、知っていても敢えて無視している。いや、廃棄孔と融合しているのなら、それを知らない筈がない。
既に論理的な思考は喪われている。
いまはただ、
――そちらの方が、ぐっとくるものがあった。
ヤツの言い分は非常によく分かる。真実自分自身のものだけでないとは言え、ヤツが口にした言葉はほぼ全て俺に理解と共感、納得を抱かせるものだった。何故ならホロウは“粛正を受けなかった俺”であり、その憎しみなどは“廃棄孔が抱いているモノ”だからだ。
今の俺は、廃棄孔と融合していながら復讐を二の次にしているだけの存在。
故に廃棄孔――ひいては、織斑一夏が抱いていた恨みや憎しみは、この身に未だ残っている。だから自分もヤツと同じ存在に堕ちる可能性が残っている。
「――――っ」
だが、負けるわけにはいかない。
数多の刃に貫かれ、凍り付いた体を動かし、どうにか視線を上に向ける。天に翳された手がちょうど下ろされ、空にある黒い太陽から紫の巨剣が落ちるところだった。
――アレこそ、ヤツが呑み込まれた負の根幹。
SAOに生きた全てのプレイヤーから零れ落ちた感情の内の、負だけが凝縮された悪性情報。
言うなれば、
果てまで広がる泥の比では無い負の圧迫感が総身を襲う。これまでとはまったく違うモノだと、本能が全力で警鐘を鳴らす。アレに呑まれればどれだけ耐えようが関係ない。耐えるための心から溶かし、折り、そして腐らせ、変容させるだろう。
「っ……
体の内と外から負を流し込まれ、脳裏に印刷された地獄が焼き付く中でも、瞋恚を練る。
全身が沸騰するように熱く、しかし寒く感じる。脳髄の奥が一際大きく揺らぐ――が、また無視して、思考回路を回す。
未だ命はあり、肉体は生きている。
ならば届く。
否、届かせる。壊れている細胞があるなら、壊れていない細胞で代償し、補うまでの事。あるもの全てが壊れれば、無いものから総動員して作り上げるだけの事。
全てを費やしていないのなら、いま此処で全てをつまびらかに解明し、最奥へと手を届かせるだけ――――!
――瞬間、ぶつん、と視界が暗転した。