インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 今話はオールユウキ視点。もうユウキが主人公兼キリトを堕として正妻でいいんじゃないかなと思って来た今日この頃です、ホントユウキ視点多い(汗)

 それはともかく、今話で漸く《ホロウ・エリア》から脱出します、ラストで。それまでずっと管理区での会話シーン。

 文字数は約二万六千。

 ではどうぞ。



第六十九章 ~一時の別れ~

 ユイちゃんの悪魔的発言によって酷く取り乱してしまった後、キリトが必死に落ち着かせようとしてくれたので、十分ほど掛けてボクは落ち着きを取り戻した。

 それからボク達は彼女の口から驚くべき真実の数々を告げられた。

 まずユイちゃんが、本当はプレイヤーでは無く高性能なAIを積んだNPCである事を知った。

 正式名称は《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》の試作一号、コードネームは《MHCP001-Yui》。

 人の手から離れても尚稼働し続ける完全自律システム【カーディナル・システム】ですら手に余るプレイヤーの精神に起因するトラブルを、システムで解決出来るよう作られた試作プログラムの一人と言ったのだ。

 コードネームから察するに他にも複数存在するようだが、彼女も流石に全ての把握は出来ていないらしく、現在どんな状態にあるかまでは知らないようだ。

 NPCだと言われた時最初は信じ難かった。何しろキリトに向ける表情や言葉はリーファと同じく義姉としての愛情に溢れていて、とてもプレイヤーの表情や感情データから学び、模倣しているのだとは思えなかったのだ。キリトと同じようにレーティングを無視してログインした子供の一人だと言われた方がまだ信じられるくらいだ。

 しかし彼女が、あのデスゲーム宣言の時に現れたがらんどうの赤ローブアバターと同じように左手を振る事でメニューを出した事で、プレイヤーとは違うのだと悟ってしまった。人の手から離れている現状でGMに相当する権限を有する者は、デスゲーム化の黒幕でなければ消去法でシステムが遣わせた存在くらいしか無いからだ。

 それでもまだ信じ難かったが、メニューウィンドウに表示されている名前の部分が教えられたコードネーム表記だったから、信じざるを得なかった。無論、彼女の頭上にあるカーソルの色がNPC特有のものだったから、というのもある。

 そして疑問なのは、何故ユイちゃんが此処に居たのかという事

 彼女の正体を知った後、シンカーを助けに行ったあの日、ボク達を返した後に地下迷宮最奥の小部屋で何があったのか語られた。だから彼女が【カーディナル・システム】によって抹消された事も知った。

 彼が首から提げていたネックレスが彼女のデータの一部を切り取ったものであり、本来なら完全再現は出来ないくらい断片的でしかなかった事も教えてもらった。

 だからこそ、消された筈の彼女が此処に存在している理由が分からなかった。

 それについて彼女は、《アインクラッド》内で唯一《オブジェクト・イレイサー》を行使出来るレベルのGM権限を有しているAIだったから、【ホロウ・エリア管理区】にて操作を行うスタッフとして復元されたのだろう、と語った。仮定形なのは彼女本人もよく分かっていないから。

 キリトは第一層外周部から落ちている最中に意識が飛んで、気付けば此処に居て、彼女に看病されていた。それから三日間、ボク達が飛ばされた樹海エリアを散策していたという。

 ボク達が強制転移で訪れる事になった樹海は正式名称【深緑樹海セルベンティス】と言い、《ホロウ・エリア》という巨大な大規模試験場にあるエリアの内の一つ。

 マップを見せてもらった限りエリアは他に四つ存在するようだった。厳密に言えばこの管理区エリア含めて全部で六つのエリアが存在する。

 そしてキリトに案内してもらったあの球体の内部は正式名称【ホロウ・エリア管理区】と言う。その名の通り此処にあるシステムコンソールで様々な操作を実行する場所らしい。《圏内》エリアだが、《高位テストプレイヤー権限》を有する者にしか出入りが出来ない特殊区域であるためか、オレンジに反応するガーディアンは居ないようだった。

 石と鉄で出来た百層からなる天空の浮遊城《アインクラッド》と異なり、様々な環境が存在する不思議な大地《ホロウ・エリア》の目的は、大まかに二つあるらしい。

 一つは《アインクラッド》の全てのデータを観測、集積し、蓄積する事。

 あの浮遊城のモンスターのデータや装備のスペック、プレイヤーの行動の全てを《ホロウ・エリア》の中核に存在するデータ集積エリアに溜め込んでいるという。ボクが戦ったホロウ・デッドニング・リーパーやフィリア達が散々見て来たモンスターのグラフィックも、元は《アインクラッド》に実装されていたデータの流用で、パラメータやスキルが異なる存在らしい。細かな部分は違うようだ。

 もう一つは大規模試験場という名が示す通り、様々なプログラムやデータを自動で組み上げ、その数値の妥当性を検証によって測り、修正を施してアップデートする項目へとする事。

 一つ目の観測と集積によって修正の必要性ありと判断したデータは、こちらで修正後のデータを検証した後、アップデートする項目の一つに追加されるらしい。

 極論、本来ならゲームを運営する人間が人力で行うアップデートやデバックを、全て【カーディナル・システム】だけで行うという事だ。この《ホロウ・エリア》はその為のエリアという訳である。

 ただ、修正データは勝手にシステムが検証し、何時でも《アインクラッド》に反映出来る状態にするものの、アップデートだけは人力で行うように設定されているという。

 推測ではあるが、その人力の部分にユイちゃんが絡んで来ているようだった。

 一年半もの間、一秒たりとも休まず稼働を続けているSAOサーバーはかなりガタが来ており、リーファやシノン、神童といった別のゲームをプレイしていた人までハードを誤認して巻き込んでしまう程、エラー修正機能は重度の機能不全を起こしていた。メモリー容量がパンク寸前というのもあって回路がショートしかけていたのだ。

 本来なら定期メンテナンスと称して一時的にゲームの運営を休止し、その間に見つかったバグの修正やメモリ容量の解放をするのだが、それをする者が外部に居ないし、仮にしたらSAOプレイヤー達は一斉に死んでしまう。

 だからゲームは続行したまま、内部のシステムコンソールから手動で不要なデータファイルを消去したり、整理したりする事で、余分に喰っているメモリ容量を解放しなければならない。

 しかしデスゲーム化によって人の手を離れている現状でそれが出来る者はプレイヤーには居ない。

 よって【カーディナル・システム】は苦肉の策として、自ら消去した存在であるユイちゃんを【ホロウ・エリア管理区】で作業をするスタッフNPCとして復元し、メンテナンスをさせたのではないか、という推測が立ったようだ。

 メモリ解放やバグの修正など、やる事が多過ぎて中々骨が折れました、とは彼女の弁である。

 とは言え彼女はシステムの下でしか動けないAIだ。彼女の行動や思考は全て限界まで酷使されている【カーディナル・システム】へ更なる負荷を掛けるのではないか、とキリトはすぐ考えた。

 しかしそうでないからこそユイちゃんが選ばれていた。

 本来ならNPCは【カーディナル・システム】によって全て――プログラムされている挙動の読み込みや指令なども――動かされているが、人工知能を積んでいるNPCの場合、プログラムの存在はシステムが認めなければならないものの、どう動くかは人工知能を積んだNPC単体で思考される。そのため彼女はどれだけ思考しようと自身のプログラムに負荷を掛けるだけで、アバターを動かさない限り【カーディナル・システム】には影響しない。プレイヤーにGM権限が無い現状では持って来いの逸材であった訳だ。

 そんな事情があって【ホロウ・エリア管理区】のスタッフの役割を新たに担いつつ完全復活した彼女は、一先ず与えられた役割をこなしていきながら、《アインクラッド》から集積されるデータの中でもプレイヤーログを参照し、同時にMHCPの機能も用いて一人のプレイヤーを観察していた。

 そのプレイヤーとは言わずもがな、彼女の義弟キリトだ。

 キリトの目の前から消えたあの日から、キリトが外周部から落ちる瞬間まで、彼女は自身に与えられた仕事をこなしつつ、自分が消えた後どうなったかが非常に心配だったから義弟の行動を毎日見続けていたというのだ。MHCPの職務面でも必要性を感じて――必要と判断しても接触は出来ないが――メンタル面のモニタリングもしていたらしい。

 ずっと見ていたという彼女にちょっとだけ恐怖を覚えたのは内緒だ。心配だからというその気持ちはボクも痛いほど共感出来るが、流石に四六時中ずっと見続けるような事はしない。多分怖がられるか、物凄く警戒されてしまうだろうから。

 ちなみに、キリトと行動を共にしていた頃のユイちゃんにカーソルが無かった事も、それなりの理由があった。

 きっとバグか何かなのだろうと思って誰も突っ込まなかったのだが、事実は違った。

 彼女はデスゲーム開始の日、何者かから【カーディナル・システム】を介してプレイヤーへの接触を禁じられた。つまりこのSAOサーバー内にデータとして存在はしているものの実装はされていない未実装データの扱いを受けていたのだ。カーソルが無かったのもシステム的な恩恵を正しくは得ていないイレギュラーな存在だったから。

 だった、と言うのにも理由がある。今の彼女の頭上にはしっかりとカーソルとHPゲージが表示されているのである。

 それらの色はシステムに正式に規定されているNPCである事を示していた。本来ならMHCPという役割を担っている彼女はこの世界に居ない存在だから前述したようにカーソル表示は無い筈なのである。

 【ホロウ・エリア管理区】のスタッフNPCの役割を担っていると言えど、厳密には削除された時点のデータをそのまま復元されているユイちゃんは、どちらかと言えばMHCPとしての役割が優先されるNPCだ。スタッフとしての役割はそのおまけのようなものなのである。

 そんな彼女にカーソルがあるのは、GM権限を使ってユイちゃんがある事をしたからだった。

 プレイヤーのカーソルはグリーンないし犯罪者を示すオレンジ色で、NPCはイエロー表示が基本だ。

 ただしクエストによってはNPCも戦闘に参加する事がある。大抵は護衛系のクエストだが、そういう戦闘に参加するタイプのNPCはHPゲージがイネーブルーとなる。プレイヤーはこれを《有効化》と呼んでおり、クエストに於いて重要なファクターNPCと見る。生死によって報酬やクエストの内容が変化するためかなり重要な指針の一つだ。

 彼女は正にそのイネーブルー表示になっていた。

 聞けば、プレイヤーと同じ戦う力を得る為にこの場所にあるシステムコンソール――再現《アインクラッド》を投影している黒机――を操作して、キリトの補助を受けながら自身のデータ形式を一部書き換えたらしい。プレイヤーが傍に居たからこそ、MHCPである自身のデータとプレイヤーのデータの違いを把握出来て、書き換えられたと彼女は言った。

 今のユイちゃんは正式に【カーディナル・システム】に認められたMHCPであると同時、戦闘参加型NPCとしての能力も併せ持っているという訳だ。しかも参照したデータはキリトのものなので、プレイヤーと遜色ない装備やスキルの行使だけでなく、装備による補正を除いた基本パラメータすら今は彼と同等らしい。

 彼女が自身も戦闘に参加出来るようにした理由は単純明快、キリトと行動を共にする為だった。

 とは言え、彼女も戦闘が出来るようになったと言っても、今まで戦闘経験皆無だったからキリトの足手纏いになるのは明白だ。

 一部預託されているGM権限を使ってどれだけステータスを高くしようと、どれだけ高性能な武具を装備しようと、技術が伴わなければ粗が出てしまう。

 その全てを満たしていた神童も殺意を全開にしたキリトの手によって斬られている。装備やステータスでキリトより勝っていて、常人より遥かに技術と才能があっても、経験と努力を基盤とした技術で補われていたから神童は敗れた。

 無論、彼の経験と努力の密度が尋常では無いからで、ボクと同程度だったら負けていたとは思う。強さを貪欲に求め、誇りを持って剣を振るってきたからこそ彼は勝利を掴んだのだ。積み重ねて来た時間と経験が、彼に自信と誇りを持たせた。

 それを考えれば、どれだけ自己強化を施してもボス級モンスターと遭遇すればキリトより先にやられるのは目に見えているし、彼女もそれは理解しているようだった。

 だからこそ、ボク達を驚かせる時に見せたように、ネックレスへ出入り出来るようにしたのだという。

 既に教えてもらったように、彼が首から提げているネックレスはユイちゃんが消去される際、その対象として指定されていたプログラムの一部を切り取り、それからアイテムとして半ば無理にオブジェクト化した代物。

 とても綺麗な雫を象ったそれは、見た目とは裏腹に装備品としての最低限の防御性能すら有していない。何しろ例外なく装備品全てに規定されているパラメータ項目の設定を全部《null》のままでオブジェクト化したから、ステータス加算項目にゼロ以外の数値が入る筈も無かった。

 むしろ綺麗なネックレスの形になった事すら奇跡だとユイちゃんは語った。半ばダメ元で実行したキリト本人もこれには驚いたらしい。

 その経緯があるネックレスだが、ユイちゃんはこの管理区にあるコンソールを操作して、大半のプレイヤーがスロットを無駄に埋めるゴミアイテムと言うだろうネックレスにとある機能を持たせた。

 それが指定したNPC――この場合は《MHCP001-Yui》――をデータとして格納する機能。

 参考にしたのは彼が装備しているらしい鎧系防具【フォースフィールド・マテリアライト】という魔導宝石。

 それは非装備時には綺麗な翡翠色の宝石の形状をしているが、装備した時には細かな粒子となって装備者の体を包み込み、不可視の障壁を張って全属性ダメージを半減するという。鎧系防具なので基本防御力も非常に高く、レアアイテム故にそこらの鎧より性能も上という優れ物。

 何時それを入手したのかは知らないが、その魔導宝石を装備していたから鎧を装備しなかったのだなと納得した。

 そしてミソは、粒子となって分解されて不可視になるもののしっかり装備している事になる点。

 つまりデータとしては存在している魔導宝石は、性能や本質の部分は変わる事無く、外見だけ変わっている。

 そこでユイちゃんは自身のプログラムの内、思考や記憶、言語機能などを司るソフト面はそのままに、アバターというハード面のデータ変換を行えるように改良を施した。魔導宝石と同じ原理だ。

 それからネックレスには特定IDのNPCを格納出来る特殊な性能を付与する。外見を除いて全ての値が《Null》だからこそ出来た事である。

 そうしてボク達に見せたネックレスからの出入りが実現した。自分が足手纏いになる戦いだと思ったり、キリトに言われた時はネックレスに入って援護する役割に徹しているという。

 声も、現実の肉体で喉と声帯を動かす為に発生られる電気信号を読み取り、こちらで発声した時のデータと照合し、音声データとしてキリトの脳内で直接やり取り出来るようにしているため、肉声として出す必要は無いらしい。さっきボク達を驚かせるために何か話していた風な事を言っていたが、それはこういうカラクリだったようだ。

 

 ――――と、分かりやすいようとても噛み砕いて説明してもらったのだが、正直に言えばボク、レイン、フィリア、ルクスの四人は殆ど碌に理解出来ていなかった。

 

 HIVキャリアである事を隠しながらも比較的健やか且つ腕白に生きて来たボクは、情報化社会の時代でありながらそこまで機械に触れて来なかった。SAOにログインする前はパソコンのキーボードも人差し指で押すくらいだったし、そもそも日常的には触れなかった。無論、小学校や中学の授業、調べ作業で利用する事はあったが、日常的に使わなければ技術として習得出来る筈も無い。

 SAOにてホロキーボードを打つようになってからはブラインドタッチが出来るようになったが、根っこの部分では機械全般苦手なままである。

 だからシステムどうこう、プログラムどうこう言われても、正直完璧に理解する事は難しかった。

 その点、実は製作者だったヒースクリフさんと論を競える程の博覧強記ぶりを見せるキリトには、感嘆の思いが湧くばかりだ。

 恐らくリーファの家に引き取られてから暫くして再会したという篠ノ之博士からISについて学んでいる間に知らず知らずの内に強くなったのだろうが、どう考えても歳の割に理解力があるから、《圏内事件》発生直後の話し合いでは何度も驚いたものである。システムの穴を突くシステム外スキルを幾つも構築出来た最たる理由だろう。

 ボクもSAOのシステムは生死に直結するからいやでも理解を深める事になったが、逆に言えば自分や護りたい人達の生死には拘わらない部分にはとことん疎い。

 現にクラディールの件をアスナから教えられるまでSAOで『そういうコト』が出来ると知らなかったのだ。流石にヒースクリフさんとキリトの次くらいにシステムに関して造詣が深く、またキリトと情報統制を行っていたアルゴは知っていたようだが。

 

「う、うーん……正直、色々と予想外な事が多過ぎて理解が追い付かないなぁ……」

 

 なので、ボクは全ての説明が終わった後、正直に思った事を告げた。

 実際よく分かっていない。ある程度話は分かったが、なら説明してみろと言われたら言葉に詰まる。認識は出来たが理解は出来ていないという中途半端なレベルだろう。

 そんな様子にユイちゃんは微苦笑を浮かべた。

 

「一発で理解する方が珍しいでしょうし、仕方ないですよ……とにかく、私はこの【ホロウ・エリア管理区】でアップデートを実行するスタッフであり、そしてキーのネックレスに出入り可能な戦闘補助NPC兼メンタルケアを務める専属のMHCPであると理解して頂ければ、それで充分です」

 

 色々と初めて知った事が多過ぎて困惑しているボク達に、彼女は数十分掛けて語った内容を端的に纏め、にこやかに言った。

 その内容が、聞く人が聞けば度肝を抜く程のものであると彼女は分かっているのか、いないのか。

 少なくとも一プレイヤーに特別な感情を抱き、肩入れする程に自律した思考を有するAINPCが異端に過ぎるのは、そういう研究の造詣に深くない自分でも分かる事だ。

 それにボク達はキリトやユイちゃんと関係が深いからまだいいが、なまじNPCでありながら自律して戦闘を行える事が他のプレイヤーに知られたら、あまり良くない事が起きそうである。

 とは言え、キリトはカーソルをグリーンに戻しても《アインクラッド》に戻らないだろうから、義姉である彼女も来る事は無く、そんな事態にも発展しないだろう。

 今し方本人が言ったように、彼女はキリトのメンタルケアを専属として務めている。

 MHCP達は何者かによってプレイヤーへの接触を禁じられていたが、彼女は積み重なったエラーによって自らブレイクスルーを起こした。そして彼女は、自らの意志でキリトの精神的な支えになっている。

 長々とネックレスへ出入り出来るようにした原理を語られたが、何故そこまでの手間をしてまでそうしたのかだけは、未だに語られていない。ゲージの色を戦闘可能なイネーブルーへと変えた事は語られたが、語っていない理由も存在しているに違いなかった。

 恐らく彼女も不安なのだ。瞳から光を喪ったキリトを独りにする事が。だから出来るだけ一緒に居れるようネックレスに改良を施した。

 けれど力になれず、護られるだけというのは嫌だから、自身のステータスをキリトのものと同一にした。

 彼女は【カーディナル・システム】が苦肉の策として特例で復元された【ホロウ・エリア管理区】スタッフNPC。その存在意義が喪われる――――つまり、ゲームクリアのその瞬間まで、彼女はこのエリアのスタッフNPCとしての職務に縛られる事になる。他のMHCPがブレイクスルーを起こすないしGM権限を有するNPCが一体でも《アインクラッド》から消去されない限り、彼女は設定されたHPゲージが何度全損しようが復活するのだ。

 だが、自らの命を代償にする事を覚悟してまでリーファとシノンを救い出したキリトが、むざむざ自らの義姉が殺される瞬間を黙って見ているなんてあり得ないし、護られる事を良しとする筈も無い。むしろ彼女護る為に自らを犠牲にする事の方が可能性としてはより高い。

 だから彼女は《ホロウ・エリア》を散策する時にそうならないよう、不得手なのを承知の上で戦う力を自らに宿し、同時にキリトが自身を気にせず戦えるよう――――そして情報的に支援出来るよう、ネックレスに改良を施した。

 まったく、義姉の鑑とはこの事か。リーファが知れば嫉妬する事間違いなしな程の献身ぶりである。

 事実自分はその献身ぶりに感服したし、同時にそこまでの事が出来る彼女に嫉妬を抱きもした。

 出来るものなら【絶剣】という二つ名と《攻略組》幹部という立場を投げ捨てて、キリトを労り、癒す事だけに没頭したい。彼の専属MHCPである義姉という強大なライバルは居るが、少年を想う心は彼に向けている慕情よりも優先されている。共に居ても手を取り合いこそすれいがみ合う事は無い筈だ。

 だがそれは出来ない。それではキリトに一抹の不安を、そして悔恨を残させてしまうに違いないから。

 それに自分には大切な姉がいる。彼女を見捨てる事など出来はしない。

 自分の恋路を取るか。肉親の情を取るか。

 

 ――――少なくとも、今は肉親の情の方がより重い。

 

 姉を切り捨てキリトを選ぶ時は、もしかしたら一生来ないかもしれない。キリトと姉のどちらかしか取れないなら、きっと自分は、姉を取るだろう。

 それで彼と結ばれたいと思うのは烏滸がましいかもしれないがそれでいい。かつて肉親に捨てられたキリトは、きっとボクが肉親を切り捨てて自身を選んだ時、喜ばないだろうから。あるいは責めてくるだろう、『捨てられた人の気持ちを考えろ』と。

 『二兎を追う者は一兎をも得ず』という諺がある。姉とキリトの両方を得たいと思っているボクは、この諺が真実であるなら、きっと姉しか得られないのだろう。

 だがボクは欲深だ。早く訪れる死の定めから解放されてから生きる事、逃げずに戦う事に執着しているボクは、欲しいと思ったものは出来るだけ手に入れようとする主義だ。無論無理強いはしない。

 だが不可能でないなら――――ボクは、姉を喪う事無く、キリトと結ばれたいのだ。この想いを成就させたい。

 そして、この想いの成就はこの世界でするべき事では無い。まだまだ未来、遥か先の事だ。

 急いては事を仕損じるとも言う。まずはこの世界から生還する。その為にも、今はこの《ホロウ・エリア》に残りたいという欲は封じ込めて、ゲームクリアを目指して攻略を頑張らなければ。

 この世界から生還した時、姉を護る責務からボクは解放される。そうすればキリトに想いを告げる事に――勿論学業も忘れないが――集中すればいい。その時は姉も好敵手になるかもしれないが、その時はその時だ。姉妹だからという事でひょっとしたら共同戦線を張るかもしれないけど。

 今はとにかく、キリトに憂いを残させずに休んでもらって、ボク達はこの世界から生還する為の攻略に集中するべきだ。

 

「そっか……じゃあ、キリトはこっちでも、一人じゃないんだね」

 

 《ホロウ・エリア》に何時また来られるか分からない以上、長い間キリトを一人にしてしまうのではないのかと懸念していたが、杞憂に終わった。彼の事をとても大切に想っている二人目の義姉が一緒に居るのだ。彼を支える役割を担う者としてこれ以上最適な人選は無い。

 だからボクは心底安堵していた。

 

「はい。キーの事は、任せて下さい」

 

 そして、その安堵を一人の少年を想う者同士だからか理解したらしい少女は、柔らかく微笑んで、誇らしげにそう宣言する。

 ただ非力なだけでは無く、ただ従うだけだけでは無く、一人の少年の事を真に想って支える為に動ける少女のその言葉に安堵を更に深いものにする。

 隣に居るのが自分では無い事は悔しいし、羨ましいとも思う。妬ましいとも思う。

 けれど彼の心を癒し、支えるのであれば、義姉として受け容れられたユイちゃんの方がボクより遥かに適任である事は明白だった。

 ボクにはボクの役割があり、やらなければならない事がある。《攻略組》の一員として戦い、この世界を終焉へと導くという、《ビーター》/【黒の剣士】から託された重大な役割があるのだ。それを忘れる訳にも、ましてや絶望してもいないのに逃げる訳にもいかない。

 その役割を果たす為に、名残惜しいがボクは別れを告げ、《アインクラッド》に帰らなければならない。

 

「ねぇ、キリト君。せめて……せめて、リーファちゃんやシノンちゃん達には顔を見せてあげたらどうかな……」

 

 レインが控えめにそう言った。

 彼女達は自分達がキリトを死なせる原因となってしまった、止められなかったと、激しい自己嫌悪と自責感に苛まれている。それから解放させられるのは、彼女達が犠牲にしてしまったと思っているキリトしか居ないのだ。

 リーファ達の事について多少話はしたから、子供達の面倒を見て、そしてキリトとの関係をある程度知っているからこそ、レインはそう提案したのだろう。

 それを受けて、キリトは眉根を寄せ、表情を暗くした。

 

「……でも、オレンジカーソルをどうにかしない限り、俺は《アインクラッド》に戻れない」

 

 確かに、今の《アインクラッド》でマトモに機能している転移門は第七十六層の主街区《アークソフィア》のものだけで、それ以外のものは一切機能しなくなっている。せめて第七十六層にも、これまでと同じく圏外転移門があったら話は別だったのだが、製作者の茅場晶彦ことヒースクリフさんは一つだけと断言しているから、現状キリトが戻る事は出来ない。

 戻るなら、オレンジカーソルをどうにかしないといけないのだ。

 

「曲がりなりにも《ソードアート・オンライン》のサーバー内でグリーンとオレンジのカーソルシステムが適用されてるんだから、こっちにも《アインクラッド》と同様に逆説的にカーソルをオレンジからグリーンに戻す方法もある筈なんだよね……」

「でもわたしとフィリアちゃんとで樹海は全部回ったけど教会らしきとこは無かったよ」

「……俺も」

 

 カルマ回復クエストは掲示板から受けられる通常のクエストと異なる。

 NPCから受けるという部分で言えば以前シノンが受けていたクエストに近いが、カルマ回復クエストは扱いそのものが特殊だ。

 カルマとは、直訳すれば《業》という意味になる。カーソルの色がオレンジになったのは《罪業》を背負ったからであり、カルマ回復クエストはその名の通り、《罪業》を贖罪行為によって洗い流すものなのだ。

 オレンジになった事が無いので噂程度にしか知らないが、その内容は特定数のモンスター討伐やボスモンスター討伐、アイテムの収集など多岐に渡っており、基本的に面倒ものが大半らしい。更に立地がかなり悪い上にそこまで行くのに時間が掛かるという。

 そのカルマ回復クエストは《圏外》にある教会や碑文、聖樹といった懺悔する場所にいる神父や祭壇から受注するという、つまり神聖な建築物がある場所でしか受けられない特徴が、各階層で共通している。

 フィリアやレインは三日掛けて樹海を隅から隅まで歩き回ったが、そんな建物は見た覚えが無いと言う。勿論キリトも。

 神殿の何処かに隠し扉とかがあって、そこが教会の祭壇だったとすれば見逃した可能性は否めないが、キリトがそれを見逃しているとは思えない。神殿の何処かにそういう隠し扉があるのかもしれないが、そういうものを見つけたり、ある場所に当たりを付けたりなど勘を働かせるのはフィリア達よりキリトの方が上手だろう。

 だが、それはあくまで樹海エリアでのみの話だ。

 

「そういえばさ、ボクはこっちに来たばかりだからよくは知らないんだけど、こっちって樹海エリアしかないの?」

「樹海エリアだけでも第一層より広いんだけどね……わたし達で確認した限り、西に空に浮かぶ遺跡エリア、南に紫色の禍々しい森のエリアがあったよ。大神殿と回廊神殿の内部は幾つか見てないとこがあるかも……」

「私が知り得るデータの中に、樹海エリアでそれらしい場所があるという情報はありませんね……」

「となると、別のエリアなのかもしれないね……西と南がそれなら、南西とかにもあと一つか二つくらいエリアがあってもよさそうだよ」

 

 レインの考察に、確かに、と頷きながらマップを見る。

 広大なフィールド全域の内、北東に位置する樹海エリアは明るく表記されていて、それ以外は薄暗くなっている。その内、レイン達の話では西に浮遊遺跡群、南に禍々しい森のエリアが広がっている。その広さは分からないものの南西にあと一つ二つエリアがあってもおかしくはない。

 つまりあと三つか四つは他にエリアがある訳で、そのどこかにカルマ回復クエストを受けられる場所があるかもしれない訳だ。

 

「でも、そうだとしても別のエリアに行くなら進行不能オブジェクトをどけないと……」

「ああ、そういえばそんな事も言ってたね……」

「うん。正直それで手詰まり感があってね……」

 

 すっかり忘れていたが、そういえばそんなものがあると言っていた覚えがある。

 他のエリアへ行く為にはその進行不能オブジェクトをどかせる為のギミックを発見して、どうにかして解除しなければならないという事らしい。既にレイン達が探索している場所も含めて再度見直すとなるとそれなりに時間が掛かりそうだった。

 それで諦めるつもりは毛頭ない。リーファ達の元気がないとこちらも気分が沈んでくるし、あんな様子を見て放っておける筈も無い。

 それに、今はキリトの事を中心に話しているが、出逢ったばかりとは言えルクスもオレンジだから同じ状況に置かれているのだ。敵対していたならともかく特にそんな訳でも無いのに気軽に見捨てる事など出来る筈も無い。彼女もどうにかして《アインクラッド》へ帰れるよう、どうにかしなければと、ボクは考えていた。

 

「あの……」

「「「「「ん?」」」」」

 

 あーだこーだと話し合っていると、小さな声でキリトが割り込んで来た。何時になく弱々しく、どこか申し訳無さそうな面持ちをしながら小さく挙手をする彼に、ボク達は揃って顔を向ける。

 それで尚更身を縮こまらせつつ、キリトは口を開いた。

 

 

 

「その……悪いんだけど、俺は……帰りたく、ない」

 

 

 

 申し訳無さそうに、僅かに目を伏せながらキリトは言った。

 

「キリト君……それは、どうして……」

 

 さっきまで会話が絶えなかった空間が静まり返り、五人の視線が黒い少年に集中する中、最も早く口を開いたのはボクの隣に居るレインだった。彼女は哀しそうに眉を寄せ、気遣うような眼でキリトを見ていた。

 

「リーファちゃんと、お義姉さんとまた逢えるんだよ……? それなのに、何で……逢いたくない、の?」

「……」

 

 どこか責めるようにレインは言う。しかしキリトはそれに応えようとはせず、顔を俯けて黙り込む。

 答えたくないからか、あるいは答える訳にはいかない事情があるからか……

 

「……ねぇ、キリト」

 

 ルクスはともかく、キリトがどれだけ必死に戦って来たかを知っているレインやフィリアが困惑している中、ボクは静かに名前を呼んだ。それにキリトは、僅かに顔を持ち上げる。

 

「答えたくなかったら、それでもいいよ……――――疲れちゃった……?」

「ッ……」

 

 一拍開けて、半ば確信めいたものを抱きながら端的に問いを投げる。

 その一言に、キリトは僅かに肩を一瞬、僅かに震わせた。

 

「……そっか」

 

 それが百の言葉に勝る明確な答えである事は火を見るより明らかだった。

 さっき自主的に休む事を決めたと思って喜んでいたが、それが到底的外れであり、むしろ休むのが必要なほどまで疲れさせてしまっている事がどれだけ愚かな事か理解したボクの声は、自ずと沈んでいた。

 

「……失望、した……?」

 

 その短い反応に、意外過ぎる事にもキリトは僅かに怯える素振りを見せながら、そう問うて来た。今まで見て来たキリトの様子からは想像もつかないくらい弱々しい――――しかし年相応にも思える、小さな問い掛け。

 たった一言に集約された怯えと恐怖の問いに、ボクは一度ゆっくりと瞑目した。

 

「……失望なんて、する筈が無いよ。する権利もボクには無い」

 

 瞑目したまま、怯えた様子で何時ぞや引き起こした恐慌の原因であった事を短く問われたボクは、それに否定を返した。

 失望なんて出来る筈が無い。ましてや彼は今まで誰よりも頑張って来た者。他の誰かが失望して悪罵を投げたとしても、ボクは決して失望なんてしない。彼に較べれば頑張っていると言えない自分がそんな事を出来る筈も無い。

 

「正直に言えば、キリトを《アインクラッド》へ帰す事が本当に正しいのか疑問にも思ってるんだ。そりゃあキリトに最前線へ戻って来て欲しいとは思ってる。《攻略組》の安定、ゲームクリアへの確実性を期すなら、キミを連れ帰った方がより確実なのは明白だからね……」

 

 そこで、でも、と言葉を一度区切った。閉じていた瞼を持ち上げ、しっかりとキリトの顔を自分の眼で見る。

 

「攻略組は、キリトを、誰よりも幼いキミを頼り過ぎだと、ボクやアスナ達は常々思ってた。信頼を寄せて、信用して……キリトが居るから大丈夫だ、【黒の剣士】が負ける筈が無い、そう思って安心していた。事実キミが参加した戦いに敗北は一度も無い」

 

 誤解されないよう言葉を選びながら、懊悩と共に言う。

 《ビーター》の忌み名を名乗る事になったのは人々が協力し合うようにする為だった。

 であれば、【黒の剣士】という肯定的な二つ名は、自分の【絶剣】やアスナの【閃光】を聞いた時のユリエールのように、安心感を抱かせる事を狙ったものの筈だ。本人は二つ名の由来を知らなかったらしいが、その意図を持って利用した事もある筈だ。あるいは、呼ばれるようになった由来や経緯は知らないだけで、そうなるように仕向けてはいたのかもしれない。

 それを踏まえれば、ボク達が抱いた安心感というのも、頼りにしていたというのも、全てはキリトが狙ったものだと言える。そういう意味で言えばその企みは見事成功と言えるだろう。

 

「それが意図したものだったなら成功と言えるよ……でも、それはキリトの負担を大きくしていった」

 

 期待に次ぐ期待、希望で在り続ける為の戦い、最強である事への努力、そしてそれらへのプレッシャーやストレスは並大抵のものでは無かった筈だ。常に最前線をソロで戦う事を強いられ、その上で他の追随を許さない速度を以て情報を集める仕事をこなし続けて来た。

 複数人でパーティーを組んで攻略をしても疲労はかなりあるのに、それを常に一人で、全ての役割をこなしてきたのだ。

 明らかに彼一人の負担は大き過ぎるものだった。それもまだ年端も行かない、小学生の子供。

 疲れない方がどうかしている。

 

「今のシステム障害と七十六層の現状から、今キミが《アインクラッド》へ戻ればまず確実に負担は今まで以上のものになる……それなのにキミをあっちに帰すのは本当に正しいのかとボクは思うんだ」

 

 弱音をほぼ吐かないキリトが、漸く絞り出した『疲れた』という一言。そして自ら戦いに赴く事を拒否した事実。

 それはきっと、ボクが同じように戦いから身を引く事の何倍も、何十倍も重い意味を持っている。決して無視をしてはならない言葉なのだ。

 

「攻略組は今までキリトのお陰で存続出来ていたと言っても過言じゃない。ゲームクリアという誰もが求めてる報酬を得るべく戦って来たボク達は、ずっとキミに支えられていて……それを当然だと思ってる節もあった。キリトを虐げてる人達も、アスナ達も……当然、ボクも」

「……」

 

 こちらの言葉に何を想っているのかは分からないが、キリトは無言で、真剣に話に耳を傾けてくれていた。何時か見た光が喪われた黒い瞳は、しっかりとボクを見ている。

 その瞳を見ている間、ずっと胸の奥が痛みに疼く。

 ああ、ここまで追い詰めてしまったんだなと、そう悟らざるを得なかった。支える筈だったのに、支えるどころかボク達は知らない内にどんどん追い詰めていたのだ、と。

 

「今まで戦いから身を引く事を許さなかったキミが何をきっかけにしてそれを良しとしたのか、ボクは訊かない。キリトにだけ負担を強いた一人であるボクはきっとそれを問う資格を持たない」

 

 キリトを支えると第一層ボス戦の日に決めて、そしてそれを漸く伝える事が出来た約一年後のあの日から何度かボクは、彼を落ち着かせようとしてきた。それを考えれば支える事は出来ていたのだろう。

 だが、支えられていたとしても、負担を強いていた事には変わりない。

 例えそれはキリトが勝手にした事であったとしてもボクが彼に護られていた事実に変わりは無く、支えていた事実は彼に強いていた負担を和らげるものにはなり得ない。そもそも年下の子をここまで酷使させた時点で言い訳なんて出来る筈も無い。

 だから彼が疲れた事を理由に身を引くとしても、それを容認こそすれ、否認など出来る筈も無いのだ。

 

「確かにボク達はキリトのお陰でここまで生き延びて来た。キミが居なくなってからの三日間、《攻略組》はシステム障害の事もあって酷く不安定で、そして攻略もままならない状況に置かれてる。何度キミが居たらと思ったか知れない。キリトの力を、ボク達は確かに欲してる」

 

 《アークソフィア》に来てしまったおよそ三千人のプレイヤー達の混乱を沈めるのに費やした事もあって、今日漸く攻略に乗り出して、すぐに躓いた。その短時間でもキリトが居てくれればと思った。

 それだけでなく、システム障害の事を知ってからすぐ動いた彼の智略は、今や《攻略組》の中核と言える円卓に集っていた誰もが求めるものとなっている。彼に対して批判的な者の集まりである《聖竜連合》、その幹部である者ですらリンド含めて認め始めてきた。《血盟騎士団》も、《アインクラッド解放軍》もだ。

 常に見下されて来たキリトは、ここに来て漸く認められ始めたのだ。

 

「けど、キミが『疲れた』と、『帰りたくない』と言ったんだ……それを無視して連れて帰るなんて、ボクには出来ない」

 

 きっとキリトが期待に応えれば、彼の評価はもっと上がって、《出来損ない》という評価を覆す事も可能だろう。なまじ神童があの様だったのだ、実際に見たボス攻略メンバーが批評を下せば覆すのも不可能では無い筈だ。

 しかし、それは別の意味でキリトの負担になる。

 もしも攻略が失敗すれば、また《出来損ない》の烙印を押されるだろう。

 

 ――――まぐれだったのだ。

 

 ――――偶然だったのだ。

 

 ――――《出来損ない》に出来る筈が無かったんだ。

 

 ――――俺達に期待させやがって。

 

 ――――どうせズルでもしてたんだろうさ。

 

 そう言ってキリトを罵り、詰るのは目に見えている。脳裏には彼を詰る無数の男女の姿と声を明瞭に思い浮かべる事が出来るくらい、その未来は容易に想像が付いてしまっていた。

 そうして一度得た人心が離れていくのを彼は酷く怖がっている。今怯えているのも、究極的にはボクが失望して彼から離れると思っているからなのは明白だ。

 そうならないように、期待に応えようとキリトは今まで以上に頑張ろうとするだろう。今までで既に頑張り過ぎで、背負い過ぎだったのに、もっと上をと求めて死力を尽くそうとするだろう。

 それは《失望》という感情を恐れて、ただ目的を達するためだけに戦う人形に過ぎない。そこにキリトの意志が殆ど存在していない以上、それは半ば、生きながらにして死んでいると言えるのではないだろうか。あるいは《Kirito》というプレイヤーとして生きていない、と。

 キリトは人間だ。かつては《織斑一夏》という名であり、今はリーファの義弟として新たに名を戴いた、幼子だ。

 断じて攻略のための人形でも道具でも無いし、誰かの操り人形でも無い。

 人間だから感情がある。精神がある。疲労もするだろう。

 そんな彼が漸く『疲れた』と言った、戦場へ『帰りたくない』と言った。そして戦いから身を引こうと言うのだ。

 《織斑千冬》の偶像を追い求め、このデスゲームから少しでも多くの人が生き延びる事を目指して、まるで何かに取り憑かれたように『皆の為』と言って、休む事すら良しとせず戦い続けて来たキリトが、自らの意志で身を引こうとしているのだ。

 それを認めない筈が無い。常々背負い過ぎだと、休んでと思っていたのだ。これを逃す手などあるものか。

 

「ボク達はキリトに頼り過ぎていた。そしてキミはボク達の為と言って今まで頑張って来た……頑張り過ぎなくらい、必死に戦って来たんだ。キミが自分の意志で休みたいと思ったなら、帰りたくないと思ったなら、ボクから言える事は何も無いよ」

 

 言える筈が無いのだ。同じ事をしたなら一日と経たず命を落とす事を、なまじ最前線を戦って来た者の一人としてその難しさを理解しているからこそ――――そして、一人で戦う事の心細さと困難さを知らないからこそ、『疲れた』と言った少年に『戦え』と無情に告げる事など。

 七十五度に渡る強大な敵との、孤独の死闘。

 無限回続く人々やモンスターに命を狙われる、孤独の日々。

 そして二度に渡って繰り広げられた肉親との訣別、続けての死闘。

 他にも大小無数様々な戦いを生き抜いて来た彼に、そんな事を告げられる筈も無い。この心に宿った尊敬の念、戦う事を決めた固い覚悟に対する畏怖、そしてこの少年に抱いた暖かな慕情があるのに、死地へ赴けなど言える筈も無い。

 死んだと思っていた少年が生きていたのだ。死地に赴いて欲しいと、誰が言えるだろう。

 ――――本音を言えば、肩を並べて剣を取り戦う事を望んでいるのも事実だ。

 キリトの人間性に恋心を抱いた一人の《女》である自分は、同時に彼の剣に惚れ込んだ剣士でもある。この力を彼の隣で振るい、背中を護り合う関係になりたいと思っていたし、その関係にならなくとも共に肩を並べて戦いとは常々思っていた。

 常に何歩も先を歩いている少年の力になりたい。

 姉を護る為の力として強さを磨きながらも、自分はその願いも抱いて、この一年半の間戦い続けて来たのだ。義弟を想うリーファの想念には負ける部分もあるだろうが、彼の力にならんとするべく磨き上げて来た剣腕とその覚悟の固さは、勝る事は無くとも劣りもしないと自負している。

 だがそれは自分の勝手な願望だ。相手の都合や感情を無視してまで叶えたいものではない。むしろ彼が望まない限り、自分の願望は正しい意味では叶わない。

 彼が休みたいと言って戦いから身を引くのであれば、それが一時的であれ、恒久的であれ、ボクは笑ってそれを受け容れよう。むしろその選択を尊び、喜ぼう。

 攻略から身を引く身勝手さに罪悪感を覚えただろうし、万が一の事を考えて、深く懊悩もしただろう。

 しかしその末に彼は休む事を決めたのだ。今まで戦いから身を引く事を良しとしなかった彼が自らその決断を下したのだ。

 常々休んで欲しいと思っていた自分としては、それを喜びこそすれ、嘆きはしない。七十五層も攻略組を引っ張り上げてくれたのだ。十分過ぎるくらい下地を整え、骨子を盤石なものにしてくれた。

 ゲームクリアまで休んだとしても文句を言えないくらい、頑張り過ぎなくらい、彼は頑張ってくれていた。

 

「今までありがとう、キリト。ボク達は大丈夫だから、今度こそ、ゆっくりと休んで……本当に、お疲れ様」

 

 微笑みを口元に浮かべ、黒い幼子の頭を優しく撫でながら、万感の想いを籠めた言葉で締め括る。此処には居ない姉やアスナ、サチ、クライン達の分も代弁するつもりで、そして何よりもボク自身の想いを伝えるべく、優しく伝える。

 何も気にせず、心ゆくまま休んでいいんだよ、と。

 まるで呪いのように戦いへ赴こうとしていた彼から、その呪いと、責任感から解放するように。

 

「ぅ……ぁ、あ……!」

 

 途端、怯えと恐怖に染められていたキリトの表情が崩れ、昏い瞳が浮かんできた雫で潤む。それはすぐに決壊して頬に幾つもの筋を描くように零れ、頬から顎へ伝って、大粒の滴がぽたぽたと零れ落ちる。

 眼はやはり昏いまま。その涙も、喜びよりは罪悪感や悲しみといったもので流れているように見えてしまって、胸が締め付けられた。

 キリトにとっても戦いから身を引く決断は心苦しいのだろう。深い懊悩の末に出した決断が本当に正しいのかと、自問自答を繰り返していたのだろう。

 もしかしたら彼は責めて欲しかったのかもしれない。もう戦わないと言った事を、【黒の剣士】として多くの期待を掛けられているのにそれを裏切る決断を、共に戦って来た一人であるボクに糾弾して欲しいと、そう願っていたのかもしれない。

 だがボクはそれを喜んで受け容れた。アスナ達の意見を聞いてはいないが、既に死んだ者とされているキリトの力があったらとは思いつつも前に進もうとしているから、もう大丈夫だと思って、勝手ながら《攻略組》全体の意見として受け容れた。

 それが彼には苦しかったのだろう。

 彼の性格を考えれば、今も生きているのだから《アインクラッド》に何が何でも戻って攻略を進めようとする筈だが、それが無いという事は本当に疲れ切ってしまったのだ。

 巻き込まれてしまった義姉を現実へ帰そうと奮起していたのだから、それも相俟って罪悪感は凄まじいものとなっている筈だ。見方を変えれば、キリトは大切な義姉を見捨てたとも言えるのだから。

 それが神童のような人間だったなら見捨てたと思うだろう。

 だがキリトはここまでよく頑張って来た、背負い過ぎなのに義姉リーファの事も背負おうとしていた。この世界で生きる知識と場所を提供して、殺されそうになった所でどのような方法でか第一層へと戻り、シノン共々救い出した。

 そんな彼だから、見捨てたとは思わない。その罪悪感を間違っているとは言わないが、それでキリトが涙を流す事を、きっとリーファは喜ばない。無論ボクも同じだ。

 キリトが《アインクラッド》に帰りたくないなら、リーファ達を《ホロウ・エリア》に連れて来ればいいだろう。

 

「泣き虫だなぁ、キリトは……」

 

 微笑みを微苦笑に変えたボクは、そう言って頭を撫でていた少年を抱き寄せ、背中に腕を回して掻き抱く。そこまで大きいとは言えない腕の中では華奢な少年が泣きじゃくっていて、抱き締めた時に毎度抱いていた暖かな気持ちが胸中に広がった。

 キリトを大切に想う気持ちと愛しいと思う慕情とが混ざり合って、とくん、と胸の奥をときめかせる。

 大好きな少年を抱き締めている事に喜びを覚えているのもそうだが、弱いところを自ら晒し頼ってくれている事が何よりも嬉しいのだ。その弱さも愛しいと思えてしまう。欠点すらも大切に想えてしまうくらい恋は盲目と言うが、それは真実のようだ。

 今までなら何日も会わない事が普通だったのに、三日会わなかっただけでボクは随分と変わっていた。死んだと思っていたのに生きていたからだろう。

 

 ――――そこで、戦う事にだけ目を向けていたキリトが身を引くと知って、一時封じ込めていた欲が、頭を擡げた。

 

 かつて羞恥を抑え込んで挑戦し、知り合いの情報屋のせいで敢え無く失敗、轟沈した、あの時の欲だ。

 戦いから意識を外したからこそ、少しでもこちらに目を向けて欲しい。

 とは言え、流石に今の彼に告白なんて馬鹿な真似は出来ない。それは彼の心を理解していない者がする事だ。そんな真似はしたくない。

 ボクはキリトの事が好きだ。愛している、とまでは流石に思い出が少ないから言えないが、それでも異性として好いているとは誇りを持って断言出来る。妄想の中では既に家庭まで築いていたのだ、その未来を受け容れ、望んでいる事は明らかだ。

 だからボクは、この想いを伝えられる日が来る事を切に願い、今伝えたい欲を悟られないよう抑え込みながら、腕の中で泣きじゃくる幼子を抱き締める。

 言葉でなくとも、少しでもこの想いが体から伝わればと祈りながら。

 暖かな気持ちが、少しでも彼の心に伝わればと願いながら。

 成長しない体である事を恨めしく思った事はあるが、この時ほど、心臓の音までは再現されていないこの仮想の肉体を恨めしく思った事は無かった。再現されていたなら、顔が火照っているのを自覚出来るくらい早まった鼓動と体の熱で、この想いが想い人に伝わっていたかもしれないのに。

 脳裏でそう考え、ボクはユイちゃん達の視線に籠められているものを理解する余裕も無いくらい意識を傾けながら、幼子が落ち着くまで優しく抱き締め続けた。

 

「誰も離れなんてしないから、もう泣かないで……」

 

 

 

 ――――大きな喜びの中にある一抹の哀しさが、閉じた瞼から一滴の滴を零させた。

 

 

 

 *

 

「……じゃあ、そろそろボク達は《アインクラッド》に帰るよ」

「ん……」

 

 名残惜しく思いながらキリトを見て言えば、彼もまた寂しそうな面持ちで、こちらを見上げて来ていた。やはり瞳は昏いままだが、表情が分かるからかあまり気にならなかった。

 

「わたし達も帰るけど、別に《攻略組》って訳じゃ無いからちょくちょくこっちに来るよ。その時はよろしくね、ルクスちゃん!」

「え、けどそれは悪い気が……こっちは知っての通り危険なんだよ?」

「トレジャーハンターとしては、未知の領域の探索は宝物庫同然なんだよね。それに……困ってる人を見て見ぬふりするなんて、したくないからね。ただでさえモンスターが強くて危険なんだからオレンジ解消の方法を見つけるにも人手はあった方がいいでしょ?」

「あ、ありがとう……その、待っているよ、レイン、フィリア」

 

 ルクスの方も打ち解けたようで、レインとフィリアの二人と一時の別れを告げていた。

 出来ればあの二人には《攻略組》に所属して戦って欲しいのだが、孤児院の子供達が来ていたらそちらの世話もしなければならないから無理強いは出来ない。本格的に力を貸して欲しい段階になるまではルクスとキリトのオレンジ解消の方法をこちらで探ってもらう事にしよう。

 

「……ユウキ」

「ん?」

 

 レイン達に視線を向けていると、キリトに声を掛けられたのでそちらに顔を戻す。

 

「……皆に、俺が生きていた事は話すつもり?」

「え? う、うん……そのつもりだけど……あ、黙ってて欲しい?」

「いや、そうじゃない」

 

 生きていたと知られたら攻略に戻らなければならなくなるから言わないで欲しいと思っているのか、と予想して問い掛けるが、しかし彼は首を横に振って否定した。

 なら話す事がどうしたのだろうかと思っていると、彼は徐に右手を振ってメニューウィンドウを呼び出し、幾らかの操作を始める。

 それから程無くして、その手に一本の硬質な剣が握られる。

 エリュシデータよりもより濃く、深淵の闇を思わせる色合いをした鍔と剣身が一体化しているその剣は、以前リズの店を神童が訪れた際に見たあの魔剣だった。リズが第七十六層で店舗を購入する際の資金源としてキリトが購入したと聞いた、現状最強の武器、片手直剣のエリュシオンだ。

 

「はい」

 

 唐突にエリュシオンを取り出した彼の意図が分からず、唖然と見つめていると、彼はなんて事は無いかのような軽さでその剣を両手で支え、差し出してきた。

 

「……えっと……コレの意味は……」

「俺が生きている証拠の品として見せたらいい。エリュシオンを見ているのはユウキとアキ兄を除けばリズとシリカ、シノンだから、信じると思う」

 

 確かに、彼の愛剣であるエリュシデータとダークリパルサーは、神童が色違いの白い剣として、あるいはそっくりそのまま持っていたものだから、それが彼の生存の証とは言い難い。

 此処へ連れて来れば話は早いのだろうが、そこへ漕ぎ付ける為に使えと、そう言っているのだろうと解釈する。

 ただそこで、その剣を素直に受け取っていいものかと自答する。

 

「キリトは《ホロウ・エリア》の方で活動するんでしょ? 《ⅩⅢ》やエリュシデータ、ダークリパルサーがあるとは言え、エリュシオンをボクに貸して大丈夫なの? 多分返すのちょっと遅くなると思うんだけど」

 

 未だ対になる剣が無いのは大体予想が付いているものの、彼はSAOでの戦いを殆ど片手剣で凌いで来た剣士。同等の剣が揃っていなくても十分に戦える実力を持っている。

 そして、あの漆黒と翡翠の二振りは第七十五層到達の時点で些か威力不足の感が否めなかったから、彼の主武装となる片手直剣は恐らくエリュシオンという事になる。《ⅩⅢ》に備わっている片手直剣を使わないのは何かしら理由があるのだと思うが、ともかく使用を避けている彼にとって、片手剣のメインはエリュシオンと見て間違いない。

 この《ホロウ・エリア》は《アインクラッド》よりも純粋にMobのレベルが上なので、エリュシオンを持っていない状態での散策は危険だ。

 出来るだけ早く返却するつもりではいるが、ボクも用事が立て込んでいるから今日中に返すのは難しいかもしれない。その間に別のエリアへ行く為の手段を探すとなれば戦闘が困難になるのは目に見えている。

 

「返さなくていい」

「……」

 

 その意図を持って遠回しにエリュシオンの借り受けを断ろうとしているボクの言葉に、彼は真っ向から予想外に過ぎる答えを返してきた。

 キリトに物欲がかなり薄いというのはLAの殆どをエギルやアルゴを介して流している事に気付いた時から――それこそデスゲーム開始から二ヶ月が経つまでの間に――知っていたが、それでも武器は自分の命を繋げるものだから、強力なものにかなり拘っている事もボクは知っている。第五十層LAのエリュシデータ級の剣を探し求めていた事からもそれは明らかだ。

 それに、メインウェポンとなり得る武器を手放す意味を、まさかキリトが分かっていない筈も無い。彼は確かに幼い子供ではあるが、経験と思考は大人のそれを遥かに凌駕する。

 つまり、エリュシオンを手放す事を良しとするだけの意図があるのだと察して、ボクは目でそれを問い掛ける。

 どうしてか答えて欲しいという意図が伝わったのか、こちらに剣を差し出しながら見上げて来ていた彼は、ふと視線を両手に持っているエリュシオンへと落とした。

 

「俺に戻る意思があっても、無くても、今は帰れない。攻略に向かえない……なら、ならせめて、俺が持ってる強い武器を、攻略で戦う人に託したい」

 

 訥々と、まるで懺悔するように語ったキリトの意図を聞いて、やっぱり、と自分は内心で予想が当たっていた事に溜息を吐いた。

 キリトのその気持ちは素直に嬉しく思う。

 確かに、彼が持っているエリュシオンは攻略組御用達の鍛冶師であるリズが現状最強と豪語する程の性能を誇っている。それを振るえば、キリトが抜けた分を多少補うくらいは十分可能だろう。片手剣の取り回しの良さ、そして攻略組が所持する両手剣を越える攻撃力を併せ持つのは伊達では無い筈だ。

 とは言え……法外とも言える――キチンとした理由があったから実際のところ法外ではないけど――巨額を一人で、しかも一括で、更には自分の為では無くリズや《攻略組》の為を考えて購入した剣を、まるで贖罪の如く差し出す様は、痛々しく映る。本人にそのつもりが無い、あるいは自覚していても度が過ぎていると分かっていない部分が余計にタチ悪い。

 もう少し――――いや、もっと、キリトは我が儘に生きて良いと思うのだが。どちらにせよ《アインクラッド》に戻れないのだから、攻略の事を気に掛けるにしても、自分の武器を譲るまではする必要など無いとボクは思う。

 まぁ、そう諭そうとしたところで彼は絶対に譲ろうとしないだろう。泣きそうな顔でその意図を語られて、剣を差し出されて、それで断るのもボクには無理だ。

 

 ――――……こうやってこちらが引いているから、キリトの自己犠牲も過剰なものになるのかな……やっぱり、完全に善意でわざとじゃないが故の彼の行動はタチが悪い。

 

「……分かったよ。でもキリト、この剣は君が命懸けで稼いだお金で買った剣なんだ、何時かきっと返させてもらうからね」

「え……でも……」

「でも、じゃないよ。本当なら貸してもらうだけでも異例中の異例なんだ……キリトの気持ちは嬉しいけど、その行動が完全に正しい訳じゃないのは、覚えておいて。自分の剣を人に譲るのは……」

 

 

 

 ――――剣士が死ぬ時なのだから。

 

 

 

「……」

 

 その先を言おうとして、けれど口を噤む。

 今のキリトにこれは間違いなく禁句だ。これまで異常なくらい強さに執着し、虚構の現実世界最強の背中を追い求めていたのに、それを無視してまで戦いから身を引いた彼に、この言葉は棘どころではない。

 

「ユウキ……?」

「ん……何でもないよ」

「そう……?」

 

 唐突に口を噤んで難しい顔になった事に疑問を覚えたキリトに名前を呼ばれ、正直に言う訳にもいかず、言葉を濁す。

 それで少し不思議そうにしながらも追及して来ないのは助かると言えばいいのか、指摘する機会を逸したと思った方がいいのか……

 

 ――――こうやって、彼の心を慮って強く言えない事が、本当は彼の為にならない事は分かっているというのに……

 

 胸中で溜め息を吐きながら、しかし彼に悟られないよう臆面に出す事無く、彼が両手で支えているエリュシオンに手を伸ばし、柄を握って持ち上げる。

 

「……重いね、すごく……」

 

 闇そのものとすら思える程に漆黒色に染め抜かれ、同時に硬質且つ鋭利さを見せる鍔と一体化した剣身を持つその剣は、自分が愛用して来たルナティークよりも遥かに物質的な重量があった。

 無論、その重みには、設定されている重み以外のものも含まれている。

 これが、今までキリトが一人で背負って来た重みの、その一部。強くなる度に、前へ進む度に強い武具を得なければならなかった彼の、その一欠片。

 

「ふぅ……」

 

 右手で持ち、眼前に翳した『死の国』を関する魔剣を眺め、その重みと意味するところを感じ取って、短く息を吐く。この剣には及ばないが、しかし確かに第一線で通用する武器を無数に所有し、扱い、戦わなければならないキリトの事を考えると、本当に凄いと思えてしまう。

 ボクが同じ立場に在ったなら、例え姉の支えが有ったとしてもどこかで潰れている。

 

 ――――そんな彼を支えてきたモノは……

 

 そう思考して、第七十五層での変貌と、変貌したキリトが語った言葉が脳裏を掠める。

 あの白い姿への変貌がどういうものなのかは分からないけれど、あの時のキリトのアバターを動かしていた人格の言葉を信じるなら、『見返したい』とか……あるいは、復讐出来るだけの力を得る事、か。

 他者の為に自己を犠牲にしているのか。

 復讐の為に自己を犠牲にしているのか。

 どちらにせよ、酷い事には変わりない。

 

「……ねぇ、キリト」

「ん……?」

 

 あまりに重いため、愛剣であるバグ化している【ル■テ_■ク】をストレージに仕舞い、代わりに鞘へエリュシオンを収めたボクは、その六割増しの重みを無視して、傍らでじっとこちらを見上げて来ていたキリトに声を掛ける。

 胸の内に、確固たる決意を秘めながら。

 

 ――――ボクは決めた。

 

 誰かの為に犠牲になる事を良しとするその精神を見るのも、誰かへ復讐したいと慟哭を上げる変貌した姿を見るのも、泣きそうになりながら何かを差し出す姿を見るのも嫌だ。

 だから、今まではキリトの心情を慮ってあまり強く言わなかったが、これからは少しずつでも良い、彼の間違いを正していこう。《ビーター》やリーファ達の件など全てが絶対に間違っている訳では無いが、それでも自分の命を顧みないその姿勢は、絶対間違っているのだから。

 まずは、キリトにとって絶対的上位に位置している義姉のリーファを連れて来る。

 あれからずっとキリトを死なせる原因になった事を悔やみ、嘆いている彼女の訴えは、必ずしも自分の身を犠牲にして二人を助け出した行動が――――自己犠牲の行動が正しい訳では無い事を理解させる第一歩になり得る。なまじ自身を受け容れた姉の言葉だ、ボクが百の言葉を重ねるよりも、彼女の一の言葉の方が響くに決まっている。

 次に、キリトが自分の意志で『生きたい』と思うようにする。

 今の彼は大切な人を守れるなら死んでもいいという考えを持っている。それを一緒に生きられないのは嫌だという方向へと変える。ここまで凝り固まった自分を顧みない思考を変えるのはフロアボスと戦うよりも骨が折れるだろうが、その苦労を越えれば想い人が生きるのだと思えば、ボクはむしろ喜んでその苦労を背負おう。

 自身の価値を、キリトが死んだらどれだけ哀しむか――それは量では無く質の方で――分かっていないのも問題だが、それはリーファを始めとした知り合い全員で訴えよう。図らずしも再会した直後にボクは涙を滲ませながら抱き着いたのだ。それくらい哀しかったのだと、それは何人も居るのだと――――キリトはとても大切な存在なのだと理解してもらいやすくなっている筈だ。

 

 

 

 ――――絶対、生きたいと、一緒に居たいとキリトの方から言わせてやる!

 

 

 

「何時かは明言出来ないけど……近い内に、また、来るから」

 

 そう、心の中で固く決意を固め、けれどそれをおくびにも出さないで、再会の約束をする。

 ボクが見たキリトは、寂しそうな表情に何か物欲しそうな感情も滲ませていた。

 もしかして頭を撫でて欲しいのかなと思って手を伸ばし、柔らかな黒髪の上に手を置いて優しく撫でると、彼は気持ち良さそうにしている猫の如く目を細めた。はふぅ、と満足そうにしている辺り、どうやらこれで当たっていたらしい。

 こう見ただけなら、普通に可愛らしい子供なのに……

 

「ありがとう……また」

 

 数秒続けていると、満足したのか仄かに笑みを浮かべた彼は礼と再会の言葉を言って、小さく右手を振った。

 それにボクも笑みを浮かべ、頷く。

 

「うん。またね、キリト……こっちの事は気にしなくていいから、今度こそ、ゆっくり休んで」

 

 闘技場《個人戦》が終わった後に《圏内事件》があり、その調査から外れたと思えばシンカーさん救出の為に地下迷宮にて死闘を繰り広げ、それが終わって彼も休めると思えばオレンジ達と一戦交えていて。

 基本的に彼が休もうとしている時に限って何かしら厄介事が続発していた。

 けれどこの《ホロウ・エリア》は、《アインクラッド》と違ってプレイヤーがほぼ居ない。故に問題など起こる筈も無い、起こす人が居ないのだから。

 だからこちらでなら、キリトも気を揉む以外で疲れるような事はほぼ無いに等しい。専門カウンセラーに等しい義姉ユイちゃんが一緒なのだから問題へ自ら首を突っ込もうとはしない筈だ。

 攻略だけはどうしても気に掛かるだろうが、エリュシオンなんて途轍もない剣を借りたのだ。彼の懸念を晴らすくらいの働きをしなくては自己犠牲精神を改善するなど夢もまた夢。改善させるなら、それが必要無いと、むしろ頼る事が多いと思わせる程でなくてはならない。

 まぁ、あまりに頼らせる事になれば以前みたいに泣き崩れかねないので、その辺の塩梅が難しいが、そこは程々にフォローを挟みつつやっていくしかないだろう。

 

「ん……」

 

 心の底から思っている事を伝えれば、キリトは短く応じながら首肯した。言葉ですらないその応じ方は子供らしい素のキリトのもので、どこか愛らしく、微笑ましさが感じられた。

 転移門へ向き直る前に、最後にとまた彼の頭に手を置いてくりくりと撫でる。不意打ちだった為に最初こそ驚いていた彼はすぐに嬉しそうに目を眇め、ふにゃりと微笑んだ。

 瞳から光を喪っていても、キリトは変わらないと分かってまた安堵を抱きつつ、頭から手を離す。

 それから転移門へと向き直る。

 既に二人は転移門エリアに入ってボクを待っていた。待たせてしまった事に少し悪い事をしたかなと思って手で謝罪しつつ近寄って、自分もエリアへと入り、それからキリト、ユイちゃん、ルクスの三人へと向き直る。

 三人は程度こそ違えどボク達の《アインクラッド》への帰還を祝福するように微笑んでいた。

 

「「「転移、《アークソフィア》」」」

 

 その笑みを受けながら、三人揃って《アインクラッド》で唯一有効化されている街の転移門へと、ボク達は蒼い光に包まれて転移した。

 




 はい、如何だったでしょうか。

 私、どんだけユウキが好きなんでしょうね(今更)

 まぁ、ホロウ・フラグメント編では、ゲームのキリトの立場を本作だとユウキに変えていますからある意味順当ではあるんですが……コレ、むしろキリトが堕とされるんじゃなかろうか? ユウキの包容力があり過ぎる。リアリゼーションとかしてるとギャップが凄い。

 まぁ、原作女性キャラの包容力アップは本作の醍醐味という事で一つ。キリトが物凄い年下だし、女は恋すると変わると言いますしね。

 次話で漸く《アインクラッド》に一時帰還。攻略はまだまだ後になります。その前に色々と片付けないといけない問題があるので。

 ちなみにキリトがエリュシデータやダークリパルサーを渡さなかったのは、アキトが色違いやそっくりなものをホロウ品として持っていたから。

 ダークリパルサーはリズベットが鍛えた証がシステム的にありますが、それなのにほぼ同条件のエリュシオンを渡したのは攻略に役立てて欲しいという思考が原因。第七十五層時点で既に火力不足と言われている二剣がメイン武器で、エリュシオンはそれを打破する武器の一つなのにも拘わらず躊躇なく渡せる辺りがキリトの病み具合を表している……

 こんなスローペースな作品ですが、今後ともどうぞ末永くよろしくお願い致します。

 では、次話にてお会いしましょう。

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