インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 今話で義姉弟喧嘩は終結。

 ちなみにサブタイトルの電姉はユイの事。本作だと実姉は千冬、義姉は直葉/リーファ、電姉がユイです。出るとしてもサブタイトルくらいですね、本文では義姉で通します。

 あと、今話は後書きほぼ無いです。

 視点はオールユイ。

 文字数は約二万。

 ではどうぞ。



第七十六章 ~義姉の願い、電姉の想い~

 

 唐突に気味が悪いくらい静かになった義弟と、それを見て警戒心を顕わにした義姉の戦いは、苛烈を極めた。

 外周部から落ちて以降、これまで辛い事や哀しい事から目を背けるように自身を攻略に追い立てていた彼の心はボロボロで、本来ならこんな事は幾ら義姉と言えども辞めさせるべきだ。少年の精神力は既に限界を迎えているのだから。

 だが、だからこそと彼女は考えた事も分からなくはなかった。

 限界を迎えたという事は後がもう無い事を意味しており、彼が苦しむ要因の一つとなっている《自己犠牲》の思想を根底から破壊するにはこれ以上無い状態とも言い換えられる。絶望を抱く事が希望を求める事の裏返しであるように、精神的な余裕が無くて焦っている今こそが変革を受け容れられる機会とも言えるのだ。

 私もそれについては思案していて、何時それを行動に移すべきかずっと迷っていた。何しろ自分には彼の過ちを正せるだけの過去や思い出が無い。無いが故に言葉の重みというものが伴わない、よしんば伝わったとしても彼も納得し難くはある筈だ。

 しかし彼女は違う。彼女は彼を拾ってからSAOに囚われる前――――すなわち、自己犠牲に走る前の素の義弟の姿を知っている。その行動がどれだけ誤りなのかを指摘し、自覚させ、正すだけの過去と力を、誤りであると訴えるだけの立場と資格を有している人だった。

 彼女の行動を理解していたから、本来なら止めるべきである私は看過する事にした。

 彼女の行動は、医学的に考えると彼の思考の方向性を変える事に該当するので、《認知行動療法》という名称で言われる事になる。今目の前で行われているものはかなり強引且つ治療行為とはとても言えないものだが、概念としては彼女の行動もある意味治療に値するのだ。

 無論、精神学的、医療的な側面から見れば彼女の行動は早計に過ぎる。医学的に、自身の思考の変革を行うなら鬱病であればおよそ一か月後、統合失調症では半年以上経ってからでなければ適切ではない。変革を受け容れるだけの余裕が無いからだ。精神的な疾患の大半はストレスに耐えるだけの心のエネルギーが枯渇する事によって発症するため、活力を取り戻すまでは基本的に静養を最優先として、そうする事で初めて変革が可能となる。

 つまり、重荷の象徴である最前線から離れてまだ三日しか経っていない今、彼女の行動は適切とは言えない。むしろ彼の心はもっと弱ると言っても過言では無い。

 それでも私は止めようとはしない。止めようか、と悩みはしたが、結局は止めない事を決断した。

 それは、今しか恐らくチャンスが無いから。

 《認知行動療法》、すなわち思考の方向性の変革に値する行動は、実のところアルゴさんやクラインさん達はずっと以前から行っていた。サチさんやアスナさん、ユウキさん達も、例外なく彼の《ビーター》としての振る舞い、すなわち自己犠牲的な行動は度が過ぎているとして、幾度となく諫めて来ていた。かなり控え目ではあるが、リー姉と同じように彼の思考をやんわりと否定し、方向性を変えようとはしていたのだ。アルゴさんはある意味攻略関連で最も関わりがある関係を構築しているので、事ある毎に注意をしていた、時には激して責める事もあった。

 実力行使か否かというだけで、SAO初期の頃から付き合いのあるユウキさん達もリー姉と同じようにキーの行動を責めて、あるいは否定してはいたのだ。

 それでも彼はその行動を変えていない。そうせざるを得ない事情というものもあったが、それでも一人で全てを背負おうとする辺りはやり過ぎで、けれどそれを指摘されても彼は初志を貫徹した。その様を見て誰もが、キーの行動を変える事をほぼ諦めた。

 つまり心が弱っていない状態だと、ほぼ確実にキーの行動を止める事は出来ない。なまじ否定し難い論や問題への解決策を前提としている為に尚更止められない。

 このまま休養をして十分に英気を養ったとすれば、彼はまた《ビーター》や【黒の剣士】として混沌な様となっている《アインクラッド》のプレイヤー達の為に戦おうとするだろう。究極的にはクリアの為に、仮令またボロボロになるとしても。普通ならもう二度とそんな思いをしたくないと思って逃げる筈なのに、キーはまた同じ事をしようとする姿を明確に想起出来る。

 しかし今のキーは精神的にかなり参っている。それは心のエネルギーが枯渇している事を意味するが、同時にこれまでの姿勢を保つ為のエネルギーも枯渇している事でもある。現に自らの意志で『帰りたくない』と言うくらいに。

 加えてオレンジカーソルと転移門のアクティベートデータの消失により《アークソフィア》の圏内転移門しか戻れない影響で最前線へどう足掻いても戻れないため、《ビーター》や【黒の剣士】として振る舞う必要性が無くなっている。これまでずっと演技を続けていたから辞める訳にいかなかったが、どうしても戻るまでに時間が掛かる以上、演技をする必要が無い。だからこそユウキさん達との再会やリー姉達が此処へ来ても彼は素を見せた。基本的に強気な姿勢を常に崩さなかったキーが、だ。

 つまり今のキーは、悪役としての演技/希望の象徴としての振る舞いに対し、敬遠的な感情を抱いている。それはこれまでの思想――――すなわち、《ビーター》や【黒の剣士】としての自己犠牲思想を覆す足掛かりになると言える。

 ただし、英気を養って、演技を続けるだけの余裕を取り戻せば、その足掛かりも無くなってしまうのは明白。『また頑張ろう』と決断してしまったが最後、またボロボロにならなければ変革の機会は訪れない。

 そして次、また同じようにボロボロになる時は、もう手の施しようは無くなっているだろう。

 本来生存している事そのものが奇跡と言っても過言では無い状況なのだ。死を求めた末に犠牲となる事を良しとして、彼はリー姉達の代わりに外周部からそのまま落ちた。こうしてボロボロになっても生きているのは偶然と偶然が重なった奇跡に過ぎない。

 つまり、彼が歩みを止める時は、彼の命脈が途切れる事と同義なのである。

 故に今しかないと私は判断していた。偽悪的な演技を続けるだけの余裕が戻るより前にその思考・思想を変えるよう動かなければ、取り返しのつかない事態へ直結すると。その為には、彼が今まで積み重ねて来た全てを否定出来る人物が動かなければならないと。

 

 だからこそ、私はリー姉の行動を止めようとせず、眼前で繰り広げられる熾烈極まる応酬を自身の眼に焼き付けていた。

 

 弧を描いて振るわれる長刀は、弾かれたと思えば即座に軌道を修正され別の方向から振るわれる。少年がそれを後ろに下がって躱せば、振り抜いた長刀を後ろに引いて突き出す構えを取り、一息の内に鋭い刺突を繰り出して追撃。間一髪で黒剣を翳し、刃に滑らせる事で顔への直撃を防ぐ。

 それから刃を滑る長刀をすぐに弾いて袈裟掛けに少年は斬り掛かるが、女性も然るもので弾かれた長刀を黒剣の側面に振るって軌道を逸らす。その最中に距離を詰め、長刀を片手持ちにして空いた左手で掌底を放つ。掌底は鳩尾へ綺麗に突き込まれた。

 少年は苦悶の声を洩らしながら苦し紛れに手首を返し、黒剣を右斬り上げに振るう。

 女性は苦し紛れの反撃を半歩分下がって綺麗に回避。鼻先を掠る様に剣の切っ先が過ぎた瞬間、体の左側に引いていた長刀を腰溜めに構えて突進。両手で握る柄の先端を突き込んで剣を振るい終えた少年の胸を強かに打ち、怯ませ、間髪入れず長刀を逆風に振り上げる。体の捻転力全てが伝えられた一撃は少年の顎を綺麗に打ち上げ、その華奢な体を宙へ放った。

 少年の様子が変わっても、長刀を軽やかに鋭く振るう女性の戦い方は依然として変わらなかった。

 少年の剣を的確に防ぎ、弾き、隙を突く。始終一切がそれだけである。ソードスキルといったSAO特有の派手さは無いが、しかし長い時間をかけて実直に磨き上げられた剣腕は見る者を魅了するものがあり、二人の勝負を見守る面々の誰もが感嘆の溜息を洩らしてしまうほど彼女の剣は完成されていた。基礎を詰めに詰めた剣は装飾など一切無く、だからこそ手練れの剣士である少年を追い詰める。ただただ堅実な剣腕に隙は無かった。

 彼女が持っている長刀ジョワイユーズの刃渡りはクラインさんが持つSAOでのレア武器の一つ《刀》と同等の長さを持っている。《片手剣》にしては刃渡りや柄の長さが長い代物なのだ。

 しかしALOでは《片手剣》でカテゴライズされていたせいか、SAOに迷い込んだ際にそのまま反映されたので、彼女はそれを両手で振るってもシステムの恩恵を得られない。

 つまり彼女は完全に、経験と努力で磨かれた実力だけで勝負をしている事になる。武器と一撃の重さ、使い手の力、そして攻撃の速さの全てで少年が優っているにも拘わらず拮抗出来ているという事は、完全に実力だけで為される巧さで競り合っているという事になる。

 少年も決して弱いわけでは無いし、ましてやこの世界に囚われているプレイヤーの中でもダントツでトップに輝ける技術はある。数々のシステム外スキルを理論から作り上げ、それを実践出来る腕は本物だ。

 様子が変わってから左手には《ⅩⅢ》に登録されている投剣やピックが指の間に挟まれ度々投げられているし、距離を取った時にはエネルギーボウガンや炎のチャクラムを始めとして遠距離攻撃を絨毯爆撃の如く放っている、近距離では不意を突くように武器を召喚して攻撃する事もしばしば。

 それでも彼が押されていた。

 《ⅩⅢ》という反則的な武装をフルに使っても、まるで暗殺者のように死角から攻撃したり投剣を投げて牽制したり工夫を凝らした攻撃を仕掛けても、それでも義姉は一撃たりとも受けていない。複数本投げられた投剣は全て長刀の剣圧で叩き落され、死角を突く形の攻撃すらも思考を読んでいるかのように綺麗に全戟躱し、雨霰と降り注ぐ剣弾すらも彼女の剣閃が全て弾く。

 それだけ二人の間には隔絶とした差があるのだ、《技術》という経験と努力でしか成長しない絶望的な差が。どれだけ義弟が命を賭した戦いで急成長するとしても、時間を賭けなければ練達しないもので差が付いているのでは埋められる筈も無かった。

 戦う畑が違うという事だろう。最も得意としている分野が異なっていて、その相性が少年にとって不利になっている。

 少年がこの世界で戦うにあたって、勿論技術も大事だと思っただろうが、何よりもシステムアシストを受ける戦い方を研究した。システムにプレイヤーは抗えない、だからそれを味方に付ければ同じ条件にならなければ基本的に競り合いは勝てる。ソードスキルを通常攻撃で相殺出来ないように。その抜け道として攻撃の軌道を逸らす技術も生まれているので、彼に技術が無い訳では無い事は明白。

 つまり少年は《仮想世界》やシステムアシストという特有の特性を利用した戦い方を研究して最も強くなったが、妖精は全て自分の技術だけで剣を振るう戦い方を磨いて来た。それが今、二人が衝突した事で露わになっているだけなのである。

 

「隙だらけよッ!」

 

 その結果として珍しいと思うくらい一方的に少年は攻撃されている。宙へ放られるくらい一方的だが、義姉はそれでも一切手を抜く様子を見せず追撃する。

 彼女は突いては剣尖が突き立った反動で引いて構え直し、また突いては反動で引いて構え直すという動作を連続で繰り返し、一呼吸の内に都合四度の刺突を放った。それぞれの剣尖が喉元、鳩尾、顔面、胸の中心へと神速を以て突き込まれ、強かに体を打つ。

 刺突の反動で再度引き戻された長刀は、四度の刺突で僅かに浮き上がった少年を更に掬い上げるように右斬り上げに刃を閃かせた。強烈な斬閃は彼女の狙い通りに少年を大きく仰け反らせ、空中に縛り付ける。

 

「は……ァァァァァァァああああああああああああああああッ!!!!!!」

 

 そして義姉は、振り抜いた長刀を裂帛の怒声と共に、大上段から振り下ろす。

 彼女の眼の高さまで浮かされていた少年を左右に割る軌道で長刀は振るわれ、強烈な衝撃を発生させながら体に激突。紫色のパネルに阻まれるも発生した衝撃は少年を思い切り吹っ飛ばし、床を転がった。

 そのまま少年は脱力し、ぐったりとうつ伏せに身を横たえる。

 

「……勝負あり、か?」

 

 起き上がる様子が見られないからか、クラインさんがどこか期待したように/恐れを滲ませて呟く。

 それに、リー姉は答えない。

 否、応える余裕も無いと言った方が正しいのか。彼女は油断なく正眼に長刀を構えたまま一瞬たりともキーから目を離さない。表情は険しく、口元は新一文字に引き結ばれている。力無く横たわる義弟がまだ『参った』と一言も口にしていないから気を抜いていないのだ。

 ――――と、そこで、警戒を顕わに動かなかったリー姉が動いた。

 彼女は長刀を構えたまま一歩一歩静かに義弟へと近寄る。油断したところを突かれないよう警戒しつつ近付いている彼女に彼も気付いている筈だが、しかし無反応のまま。攻撃する素振りは一切見られない。

 どういう事なのだろうと一同は訝しむ。リー姉も疑念を表情に浮かべるが、それも近付くにつれて無くなった。

 とうとうキーの真横まで近付いたが、しかし彼は動かない。うつ伏せに倒れているので意識があるのか、目は開いているのか分からない状態は不安を煽る。

 しかし彼女はそれを押しのけ――――長刀を上段から振り下ろした。圏内コードに阻まれなければ首を綺麗に一撃で落とすだろうその軌道は、彼に限ってはその衝撃で意識を持っていかれてもおかしくないくらい真っ直ぐなもの。剣速も申し分ない美しい一閃。

 その決着に相応しい斬閃は、しかし弧を描く最中に止められた。刃を阻んだのは彼が手にしたままの黒い魔剣。うつ伏せに倒れている彼は足音と気配だけで位置を把握し、風を切る音でどこから刃が迫り来るかを察知し、視覚に頼る事なく適確に止めて見せた。

 

「うー……う、ウゥ……ッ!」

 

 雰囲気が変わってからこれまで不気味なくらい沈黙を保っていたキーが怨嗟に等しい声音を発しつつ、長刀の刃をジワリジワリと押しのけて上体を起こしていき、膝立ちになった途端刃を刀身に滑らせて薙ぎ払いを放った。

 彼女も起き上がり様に攻撃してくるとは察していたようで、滑らかに後方へ飛び退く。

 

「アアアッ!!!」

「ッ……?!」

 

 飛び退いたリー姉が着地する寸前、剣を振り切っていたキーがその反動を無視して駆け出し、ライトグリーンの輝きを剣に纏わせながら袈裟掛けに斬り掛かった。《ソニックリープ》だ。

 何のスイッチが入って半狂乱に陥っていても自然に放てるようになるまで染みついた動作がシステムに引っ掛かり、対応するスキルを発動させたようだ。

 それが彼の意図するものでは無い事は明白だった。普段なら無駄の一寸たりとも無い綺麗な動作も今は足や体幹の重心がブレたせいで崩れてしまっていて、最高速に達せていないから。相対する剣士はその動きをしっかり目で捉え切っていた。

 とは言えそれでも奇襲は奇襲、彼女もこのタイミングで無理に追撃を仕掛けて来るとは想定していなかったようでギョッと瞠目はしていた。驚きながらも滑らかに長刀を振るって《ソニックリープ》の軌道を逸らしたのは流石の反応である。

 予測していなかった追撃を綺麗に捌いた事で、ソードスキルを使用した後に必ず課される技後硬直でキーは動けなくなって隙だらけとなる。

 その大きな隙を彼女が逃す筈も無く、裂帛の気合を伴った呼気と共に神速の打ち下ろしを頭部へ放つ。ガァン、と雷が落ちたような音と衝撃波が発生し、その勢いで少年は床へ頭から叩きつけられた。

 

「が、ァ――――アアアアアアアアアアアアッ!!!」

「な……」

 

 この世界で痛覚を再現されている唯一のプレイヤーであるキーは、例え圏内コードに護られていようと衝撃波を受けた時にも痛みは受ける。痛覚を不快な衝撃に置換しているコードが適用されていない為だ。

 だからコードが発動しようがしなかろうが関係無く発生する衝撃を受ければ普通に痛みを受ける。

 そして仮想世界の痛覚は、現実のそれと違って軽減出来ない。現実であれば皮膚や筋肉繊維、骨の強度、部位によって同じ衝撃でも痛みは不均一で、場所によっては軽く済む事もあるかもしれないが、仮想世界では全てが均一。

 更に再現された痛覚は時間と共に減衰しない。発生したダメージの大きさに比例した長さが設定されていて、その時間が過ぎるまで、痛みが無くなる事は勿論、少しでも和らぐ事は無い。

 故に、今のようによろめくどころか一撃で叩き伏せられる程の衝撃を受ければ、あまりの痛みにもんどりうったり気絶したりしても何らおかしくない。頭部への攻撃と床への激突というダブルパンチを一瞬の内に受けたのだからそうなる方が普通なのだ。

 

 だというのに、キーはタイムラグも無しに起き上がった。

 

 ほんの一瞬だけ間が開いたようにも思えるが、恐らくそれは痛みや衝撃によって一時的に途絶えただけ。もしかしたら意識を喪ったのかもしれないが、それでも一瞬で戻ったのだ、大人ですら動きを止めるだろう状態に陥っても動くとは凄まじい執念である。

 いや、最早妄執と言っても差し支えないかもしれない。

 過去に彼が抱いたモノ全てを喪うまいと目の前の《敵》目掛けて我武者羅に行く姿は胸の奥に疼痛を覚えさせる。何故だか今の彼は神童と戦っている最中の狂乱と違い、怒り狂っていると言うよりは慟哭しているように思えたからだ。

 ずっと独りぼっちで戦って来た孤独の仔犬が精一杯他者を威嚇する様を想起してしまった。もう終わってしまっているモノを護り抜く為に、自分では絶対敵わない存在に立ち向かおうとしているイメージが浮かぶ。

 そんなイメージを浮かべている間も戦いは動きを見せる。

 片手剣では敵わないと考えたか、刃を弾かれ僅かに距離が開いた瞬間右手には黒剣から金色の刃を持つ大鎌が握られていて、瞬きした時には既に大きく左薙ぎに振り抜かれていた。リー姉は長刀を翳して刀身に滑らせるようにして対応したようだが、表情の硬さを見るにどうもタイミングとしてはかなりシビアだったらしい。

 それでも流れるような動きで距離を詰め、お返しとばかりに勢いを付けた左膝蹴りを放つ。どごっ、と膝を突き込まれた鈍い音を響かせてキーが吹っ飛ぶ。

 ――――が、彼は即座に空中で態勢を整えて大鎌を消し、左手に長大な黒鋼造りの洋弓を握り締めた。右手は弦に掛けられ、弾かれると共に細長い光が生成される。弦が限界まで弾かれたと同時に木製に見える矢がその姿を見せた。

 一秒未満で弓矢を番えた彼は、次の瞬間には一秒間に幾本もの矢を射始めた。矢の形成は時間制では無く弦の弾きに依存するようで、どれだけ雑に弦を弾いたところで限界までしているのであれば問題無いらしい。

 恐ろしい事は連射速度は途轍もないにも関わらず、放たれる矢の全てが適確にリー姉を狙っている事。

 そして、それを遥かに超える恐怖は、秒間五本を超える速度――つまりはコンマ二秒に一、二本――で迫り来る全ての矢を躱すか斬り落とすかで対処しているリー姉だった。流石に円を描くように走って真正面から突っ込むなどはしていないが、先読みして放たれる矢にすら反応しているのを見ると軽く人間辞めていると思えてしまう。

 キーは装備とレベル、つまりはシステムアシストに頼っている強さの側面が強いが、リー姉は絶対的なレベル差と装備の性能差を覆す技量を見せ付けている。SAOとしての強者はキーである事は明白だが、では《剣士》や《武人》としての強者がどちらかと聞かれればリー姉一択なのは間違いなかった。恐らく全SAOプレイヤーでもトップレベルである。

 そうやって矢を射続ける彼を中心として円を描くように動いていたリー姉は、ふと何を考えたのか真っ向から突っ込み始めた。

 最初はギョッとさせられたが、次に疑問を覚えたのはキーの矢が当たっていない事。と言うよりもまるで矢の方が避けているような錯覚を覚えた――――実際は、リー姉の姿を彼が見失っただけだったようだが。無手で戦っている時に見せたものと同じ事をしたのだろう。

 ものの二秒ほどでゼロ距離にまで迫られたところで漸くキーは気付いた。その時にはもう矢を番えても、弓の長大さのせいで狙いを定められない状況にある。

 

「アァッ!!!」

 

 だが彼は思考を捨てていた。捨てていたからこそ、獣に等しい直感を以て対応して見せた。

 《ⅩⅢ》が有する最大の特徴は慣れさえすれば換装の手間がかからない事にある。

 ISと同じく強固なイメージを練り上げる事で手に持つ武器と登録している武器とを一瞬の内に取り換えられて、それこそ経験を生かして臨機応変に動ける。そこに多大な経験によって磨き上げられた直感が合わさればちょっとやそっとの攻撃では崩されない鉄壁の防御が完成される。

 それを証明するようにキーは弓を光に散らせたと同時に踏み込み、ゼロ距離まで迫った妖精に左拳を放つ。

 

「く……っ!」

 

 間一髪、彼女は長刀から左手を離し、払いのけるように振るう事で軌道を逸らす事に成功。そのまま勢いを利用した鋭い突き込みが放たれ、痛烈なまでに彼の鼻頭を強打した。

 ガッ、と獣もかくやの呻きを上げて思い切り仰け反った彼は、衝撃波の余波によって僅かに体が浮き上がった。バク転をするように後方へ倒れ込むのを利用して《体術》スキルの《弦月》を放ったが、彼の右脚が淡いオレンジ色の輝きを纏った時点で攻撃を予測した妖精は足を止めていたため空振りに終わった。

 バク転から着地した少年は右手に長年使い込んで来た剣の魂を受け継ぐ黒剣を握り、後ろ手に構える。

 対する妖精は腰の鞘に長刀を納め泰然とした姿で構える。

 

 ――――次で決まる。

 

 それは戦いの経験がこの場に居る誰よりも浅い自分でも直感的に理解出来た事。

 大切な義姉に真っ向から今までの全てを否定されていて、その《否定》を否定する為に戦っているのに一切敵わない事にキーは焦燥に駆られている。負ければ今までの全てを否定されるのだから必死になるのも当然。自分が磨き上げて来た力と技術、絶対的なレベル差と装備の性能差をものともしない義姉の剣腕に、いよいよ彼は追い詰められていた。

 後ろ手に剣を構えている彼が前傾姿勢を取っている事から突進系の攻撃を繰り出す事は明白。更に追い詰められているこの状況に於いてまさか読まれやすいソードスキルを放つとは思えない。自身を圧倒する程の強さを持つ相手に放つと言えば、やはり現状彼にとって最速にして最強の一瞬九閃しか無いだろう。未だ一度も破られていないのだから。

 対する妖精は左手で鞘を支えて鍔代わりの拵えを親指で押して鯉口を切り、右手は僅かに刃を覗かせる愛刀の柄に軽く掛けられている。柄に較べると手はやや下がり気味ではあるものの、この正念場となる戦いでそれを見せるという事は、彼女も全力を出すつもりなのだろう。

 恐らくは速さ勝負になる。

 キーは高ステータスによる超神速の移動速度にほぼ同時に放たれる九つの攻撃が強力だ。単純ではあるが、だからこそ強い。何しろ防御も回避も実質不可能。真っ向から相殺するしか手が無いのだ。

 そしてその手をリー姉は有している。

 相殺は、『全く同じ速さで同じ順に同じ攻撃をぶつける』か、あるいは『相手の攻撃よりも早く攻撃を当てて発動させない』か。どちらが彼女にとって現実的かは言うまでも無く後者。前者を行うにはまだ三撃足りないし、反撃を入れるにはもう一撃必要だからだ。まだ不可能な連撃に勝負を掛けるよりは、一撃に全てを懸けて速さを極めた方が勝率はまだ高い――――と、彼女なら考える筈だ。抜刀術の為に納刀した事は私の予想を裏付けるのに十分過ぎる。

 

 距離を開け、しかし間近で睨み合うに等しい緊迫感に満ちた一瞬の間を置いて、両者は同時に地を蹴った。

 

 片方は目視不可能な突進を。

 

 片方は目視不可能な抜刀を。

 

 言葉も無く、ただ眼前の《敵》を殺す事にだけ意識を集中させた両者が交わり――――轟音と爆風と共に、勝者と敗者が決定した。

 

 地に足を着ける者は金髪の妖精。抜刀術によって放たれた斬閃は超神速の域に達し、黒尽くめの少年の初撃より刹那速く斬撃を届かせ、その一撃で空へと吹っ飛ばしたのだ。轟音は長刀が彼の体を強打した音で、爆風は空へ吹っ飛ばした時の余波だった。モニタリングしている最中に聞いた岩石落下イベントの轟音に勝るとも劣らない大きさがその威力の程を感じさせる。

 突進の慣性を交叉法と共に無力化された上で吹っ飛ばされた彼は高さ五メートルの空中まで吹っ飛ばされ、すぐに放物線を描きながら頭から床へ落下した。

 

「が、は……ァッ……」

 

 地面に激突した際には呻きを発したが、それも辛うじてといった程度。どちらかと言うと仮想の空気を求めて呼吸をした際にえづいてしまった様に見て取れる。

 一拍遅れ、彼の手から零れ落ちた黒剣がクルクルと回って床に落ち、虚しい金属音を響かせて横たわる。突き刺さらなかったのはここの床が圏内コードによって守られた破壊不能オブジェクトのものだからだろう。

 その音が響いた後、落下の衝撃で顔を苦悶に歪めていた彼はそちらを横目で見て、次に近付いて来る女性を見て、最後に虚空を見上げて深く息を吐く。

 

「連撃での速さなら勝てないけれど、初撃の速さは経験と動体視力がものを言う……痛覚を再現されている以上今の一撃で全身動かせない筈。あなたの負けよ」

「……言われなくても、そんな事は分かってる。指も一本たりとも動かせないからな」

 

 冷たく振る舞う義姉の宣言に、敗者である少年は普段に無いぞんざいな言葉で応じる。それでも理性ある会話が出来る辺り今の一撃で頭に上った血が下がったらしい。

 

「ああ、まったく、圏内戦闘だからどちらかの死で終わる戦いで無いとは言えまさかここまで一方的だなんて。リアルに居た頃から思っていたけど、ホント出鱈目に強いな。純粋な剣技だけなら今まで見て来た誰よりも強い……本当、妬ましい。才能じゃなく経験がものを言う技術だけで圧倒して来たところが、尚更に」

 

 彼はどこか忌々しそうに、しかし隠し切れない羨望と尊敬の念を表情に浮かべながら言った。

 

「物心付いた頃から続けている剣道や武道の経験があるからね。たった二年三年で完璧に追い越されるほどあたしも軟な鍛練を積んでる訳じゃないわ……というか、さっきのは何なの。雰囲気が変わって恐ろしく強くなったかと思えば、むしろ弱くなった印象があるけど。」

「そうだな……噛み合ってないからだと思う。何も考えず本能のまま殺そうとする暗示と、強固且つ詳細なイメージを求められる《ⅩⅢ》は相反している。前者が本能的であるなら後者は理性的だから」

「暗示……それは、ひょっとして……」

「恐らくは想像している通り、連れて行かれた先で俺に求められた役割は《生体兵器》。兵器に感情も思考も無駄だから、ただ命令に忠実に動く駒となるよう暗示を俺は掛けられた。『殺戮』という一点に於いては何にも勝る存在になるよう俺は作り上げられたという訳だよ……だからこそ、思考も感情も放棄した駒として戦おうとしたからこそ、逆にある意味で弱体化した」

「なら……なら、どうしてそんな事を……」

 

 弱体化する事を分かっていたような口ぶりにリー姉は表情を歪めて問う。一方的に攻撃される事を予想出来ていない筈が無いのだから、何故そうしたのか意図を掴めなかったのだろう。表情がどこか苦痛に歪んでいるように見えるのは、ただ悪戯に義弟を甚振ってしまったと考えているからか。

 この場の誰もが抱いたであろう疑問に、仰向けに横たわる彼は静かに瞑目し、疲労感のある嘆息を洩らした。

 

「俺の事を知ってもらう為。率直に言うと、一対一の戦いで《ⅩⅢ》を使うのはあまり向いていないんだ、特に技術で拮抗しているか格上相手には。何しろ戦いの早さに思考速度が追い付かないから隙が増える……どういう訳か、リー姉の剣は何時まで経っても見切れないし、読めない。だから尚更使えない。《ⅩⅢ》は相手の出方を幾通りも想定した上で漸く使えるもの。たとえ無限の武器と攻撃手段を持っていても、究極の一には敵わない」

 

 この世界で手に入れた力が通用しない事を淡々と告白する彼に、リー姉は微妙な面持ちになる。自分の剣がそこまで彼を追い詰めるものだと思っていなかったのか、あるいは彼がまた自身の力を過小評価していると思ったのか。

 ただ、キーが言わんとする事は理解出来た。

 つまりどれだけ武器を呼び出して射出したところで、究極の一――――すなわち極めた技を持つ相手の前では無力に等しいという事だ。数の暴力という言葉もあるが、それをひっくり返す一騎当千と言われる単独の力がある事も事実。今回の場合、《ⅩⅢ》で幾ら武器を出しても彼女の剣で弾かれ、イメージを続けている間に懐に入られるから通用しないという事なのだろう。

 

「ベータテストを合わせて都合一年と九ヶ月。殆どの武器を扱って来たけど、最も長く扱ったのは《片手剣》。まだ一ヶ月も経っていない《二刀流》や《ⅩⅢ》と較べて見栄えこそしないけど、単独でボスを、数十人のプレイヤーを、数十体のモンスターを相手取った上で生き残って来た。少なくともこれが今の俺の全力だと自信を持って言える。一瞬九閃だって一刀じゃないと上手く放てないからな」

 

 眉間に皺を寄せ、真剣な面持ちでキーは言い切った。過去の実績とその長い時間を共に歩み続けた剣とが今の彼を支えていて、同時にそれを誇りに思っている事が、その姿と言葉から理解出来た。デスゲームになった日からずっと共に居た剣の魂を受け継いでいる黒剣は、紛れも無く彼の全力の象徴なのだ。

 その彼は一刀で戦っていた。雰囲気が変わる前も後も、変わらず一刀で戦っていた。

 つまり彼は最初から、リー姉の言う全力で戦っていたのだ。

 確かに《ⅩⅢ》やユニークスキルといった規格外の力は使っていない、そういう意味では彼は全力とは言えないかもしれない。けれど経験と努力の長さ、密度は、圧倒的に勝っている一刀だ、決して劣るものではない。もし仮に他の力が優っていたのだとすれば、自分よりも強者の存在だと先ほどの発言から分かるので最初から使っていただろう。

 最初から一刀で戦ったという事は、つまりそういう事。

 そしてリー姉は、彼の全力の一刀を全て真っ向から叩き伏せた。ステータスで勝てない筈の力、重さ、速さを全て巧さだけで競り勝った。彼の話では人体実験をしてきた研究所で刷り込まれた暗示を使って、それでも彼は一方的に伸された。

 

「ステータス差すら技術で覆して来られたらもう認めざるを得ない。完敗だ。ホント、手も足も出なかった……――――嗚呼……悔しい、なぁ……」

 

 

 

 ――――それは、この世界に降り立った《Kirito》が真っ向勝負で完璧に敗れた、初めての瞬間。

 

 

 

 彼にとって、《最強》は敗北してはならない存在。特に敗北は自身の無価値化を意味しており、同時に過程はどうあれ結果的に死を意味していた。

 誰よりも強くズルい《ビーター》と誰よりも強く希望を寄せられる【黒の剣士】は《最強》でなければならないと課していた以上、敗北した今、彼はその両方を自発的には名乗れなくなった。

 つまりこの時、最強で在らなければならない責務を背負った『《オリムライチカ》としての《Kirito》』は、今の義理の姉の手によって殺された事になるのだ。無価値化された姿を無理矢理演じようとしても、彼は心の中でその姿を否定してしまうからこそもう二度と同じ姿を演じられない。少なくとも同じ役では。

 今ここに居るのは、ただの《Kirito》だ。《ビーター》の忌み名も、【黒の剣士】の異名からも解放され、《オリムライチカ》の因果からも一時的にと言えど解放された、ただの子供。それを自覚しているのか、今の彼からはもう戦意も覇気も感じられなかった。

 在るのはただ、穢れや気怠さ、暗さが失せた後に残った清涼で無垢な儚さを持つ少年だけ。全ての苦しみと重荷から解放された末に取り残された子供だけ。

 勝利を渇望し、敗北を悔やむ、子供らしい《人間》だった。

 

「――――どうして……」

 

 唐突な敗北を認める宣言に続いて、彼は僅かに震え、掠れた声で言葉を続ける。

 

「何で、俺を見限らなかったんだ。半ば無自覚とは言え《オリムライチカ》として生きて、裏切ってたのに……どうしてそこまで……普通なら、とっくに軽蔑して捨ててもおかしくないのに……」

 

 それは彼女がそこまでして自分に接する理由だった。呆れたなら、失望したなら放っておく筈なのに、どうしてそこまでする必要があるのだ、と。何でと理由を問う。

 その問いに、リー姉は少しまで見せていた怒気を微塵も感じさせず、僅かに恥ずかしげな様子と共にはにかんだ。

 

「どうして、か……逆に聞くけど、あなたはあたしに見限って欲しいの?」

「それは…………違う……」

「うん。あたしもあなたを見限りたくない。勿論外道になったら話は別だけど……あなたはまだ、外道になってない。今まで奪って来た命、その行動に対する責任から逃げようとしたみたいに、ちょっと道を踏み外し掛けてるけどね」

 

 彼は義姉を真っ直ぐ見上げる。彼の双眸は薄く滲んだ水滴に覆われていた。

 

「さっきはあそこまで捲くし立てたけど……正直、あなたが本当に望むのであれば、あたしはあなたを《織斑》へ帰そうと決めてるの」

「「「「「ッ?!」」」」」

 

 その告白は、この場に居る全員の度肝を抜く内容だった。

 あんな男の本性を見てそれでもそう決めているだなんて本気かと思った。何しろ彼女はキーを異性として好き、更には義理の姉として義弟である彼を愛してもいるのだ。そんな地獄のような環境へ戻す事を許容するだなんて誰が予想出来るだろうか。

 彼もまたそれは完全に予想外だったようで言葉を喪って彼女を見上げていたが、そんな彼を見て、でも、とリー姉は続けた。

 

「それはあくまで、本心で戻りたいと願っている場合。つまりあたしとはもう一緒に居たくないと、織斑千冬と織斑秋十の二人と家族として暮らすと決めた場合で、ただ認められるため、あるいは認められたからという理由ならあたしは反対する」

「認められるために……は、ダメ……」

「そう。目的と手段を履き違えてはダメ。あなたにとって、《世界最強》を目指す事は生きる為の手段であり、目標でしょう? 《世界最強》になれば《織斑》として認められると考えて、それを目的に据えたら生きる事が手段になってしまって、だから生きる事を二の次にしてしまう……あたし達を助けるという目的の為に自分の犠牲を手段にする、みたいにね」

「……」

 

 まだ動けないのか、それとも動く気力が無いのか床に寝たままの彼の横に、リーファは座った。倒れたままの幼子の頭を膝に乗せ、やっと見せた慈愛溢れる面持ちで撫でる。

 

「カズト。あなたは一度、これを機に全部リセットするべきよ。《ビーター》も【黒の剣士】も、ただの呼び名としなさい。戦う理由も一度自分のためだけのものを考え出しなさい。もっともっと、もっと自分の我が儘を優先していいの。あなたは自分本位に生きる気持ちで居る方が丁度良いくらい人の世話を焼くからね」

「ただの呼び名……おれだけの、理由……」

「そう。前に話してくれた戦う理由と願い……皆に幸せに生きてもらいたいというその願いの中に、あなた自身はきっと含まれていないんでしょうね、先の言動を考えると」

「……うん」

 

 自身の理解者達の未来が明るい事を願い、その助けとなる為にこのSAOで命を散らす事も覚悟していた。そう、キリトは言外に肯定する。

 その肯定を認め、女性は美しく微苦笑を浮かべる。そして、やっぱりね、と呟いた。

 

「だから、まずはあなた一人の為だけの理由を考えること。あたしや母さん達、ユウキさん達の事は一旦度外視して、本当に自分だけの願いをまずは見つけなさい。《アインクラッド》全体の事も今は後回し、だってオレンジカーソルと転移門障害という『戻れない理由』があるのだから。ただ、そう……――――あなたが生きたいと、死にたくないと心底思えるくらい大事な想いを、まずは見つけ出しなさい」

「大事な、想い……」

「そう。この《ソードアート・オンライン》は、きっとあなたにとって沢山苦しみがあって……けれど、それだけじゃない筈なの。楽しかった事、嬉しかった事も、少なからずはあるでしょう? それをもっと体験したいでも良い。相手の気持ち優先じゃなくて、自分が嬉しいから誰かとずっと一緒に生きていたいでも良い。とにかく、あなたはまずその過ぎた自己犠牲精神と思考を改めなさい。自分を小さく見過ぎて誰かの事ばかり優先するのは謙遜やお人好しを通り過ぎて歪に過ぎているから」

「いびつ……いびつ……」

 

 繰り返し、何なんだろうと不思議そうな面持ちで少年は同じ単語を呟く。

 そのあどけなく、儚い様子に妖精は僅かに目尻に光るものを浮かべながら、微笑みを向けた。

 

「もう一度、あなたは自分一人の為だけの理由を考えなさい。そして何よりもそれを優先して……絶対に、あなたも生きて。じゃないとあたしは哀しい、ユウキさん達も哀しい。誰も、幸せになんてなれない。あなたの願いは、今までのままでは絶対に叶わない。あなたには幸せになる権利があり、そしてあたし達に幸せを贈る為には生きなければならないという義務がある。なら、その権利と義務を使って、幸せに生きなさい。それこそがあたし達の幸せになるのだから。少なくともこの場に集う全員が、あなたの死は願っていない、あなたの生と幸せを願っているの」

「シアワセ……しあ、わ……せ……」

 

 柔らかな声音による懇願に、幼子はまた要点の単語だけを繰り返す。

 既に体力も精神力も限界で底を尽いていて、更には今までの積み重ねを全部無くし、心の支えすらも一度全て外したからか、ふよふよ、ふわふわと幼い子供のような反応を見せていた。これまで背負って来た重責がどんどん彼から離れて行くような、そんな錯覚すら覚えてしまう程に、今までに見た事無いくらい無邪気で、健気な子供としての姿がそこにある。

 それでも、弱々しく、けれど冬の雪解けの中から顔を出す新芽の如く、どこか仄かに暖かなものと力強さを秘めているようにも思える姿は、不安を感じさせないしっかりとしたもの。

 きっと、これが本当の《キリガヤカズト》としての始まりで、新しい彼。

 今までずっと悪役と勇者を使い分け演じ続けて来たせいで見失ってしまった、この中でリー姉だけが知っている無邪気な少年の顔。

 それを見て、ああ、これは確かに惚れるなぁ、と思った。家に引き取ってから一緒に暮らしている内に惹かれたと聞いていたが、この無邪気さと健気さで慕われ続けたら、それは確かに惚れてもおかしくない。人の幸せを願い行動する優しさを持つ少年を喜ばせたいという保護欲と愛情が溢れ出て来る。リー姉も、きっとユウキさん達や私も、その虜になってしまったのだ。

 

「忘れないで。あなたの幸せがあたし達の幸せ、あなたの苦悩があたし達の苦悩……あなたの命は、もうあなた一人のものじゃない。だから、生きて。あたし達の命が喪われる事をあなたが恐れているように、あたし達もまた、あなたの命が喪われる事を恐れてる。お互い様なの……もう、あなただけが一人で背負うなんて事はしないで」

「おれが幸せ……皆も、幸せ…………考えた事、無かった、なぁ……」

 

 リー姉の静かな訴えを聞いて、涙を滲ませながらふにゃりと彼は微笑んだ。心底嬉しそうな顔で。生きる事を望まれていると、求められていると――――ここまで莫迦な事をしてきたのに見捨てられていない事を、純粋に喜んだのだろう。

 ぽろぽろと、少し前に怯え泣いていた時のように――――けれど、あの時よりも遥かに暖かな涙を、笑顔で零していた。

 

「それに、あなたが取ってきた行動は別に間違ってない。自分を犠牲にする事はもうやめて欲しいけど……それのお陰で、あたしとシノンさんはこうして救われている。シリカさんにリズベットさんも、《攻略組》もね。確かに倫理的には問題があるけど、事情と状況を鑑みればどっちが悪かは明白。その場にいた人達は皆分かってる」

「……うん」

「アキトの事は……まだすぐには、踏ん切りなんて付かないと思う。割り切り過ぎるのも問題だから……だから、ゆっくりでいい、気持ちを落ち着けてから整理しなさい。あなたが抱く『殺すべきだったのか』というその迷い自体は間違っていない、出来るだけ殺しなんてするべきじゃないから。でも、『殺した事』やその覚悟を悔いる事は、もうしてはダメ。それは自分が命を奪った人を侮辱する最低な行い……他の手を模索し、自省するのは構わないけど、悔いる事だけはしてはいけないの。罪から逃げる事こそが最も罪深く、どうしようもないくらい傲慢で、愚かな行為なのだから。罪と業を背負う事を覚悟したのなら、それを貫き通しなさい。それが責務であり、せめてもの贖罪よ」

「うん……」

 

 彼女は恐らく現実でも説いた教えをまた伝える。なまじ今の彼には実体験があるからそれを交えながら、より理解が深まるように。この一年半以上の戦いの中で積み重ねて来たもの全てがひっくり返され、一度真っ新にされた彼は、その基盤を整えようとしている師の教えに素直に耳を傾けていた。

 師は、こうしろああしろとは言わず、絶対ダメな事だけを要点を絞って重点的に語った。

 良い点を挙げて褒め、悪い点は改善点と共に批評を下すその様は、さっきと違ってとても慈愛に満ちた姉であり、弟子を教え導く偉大な師そのもの。シノンさんやルクスさんに物事を教えているキーの姿と重なった。彼女がキーの理想の師の姿である事は明白だった。

 

「そして、あなたは自分の行いで救った人へ目を向けなさい」

「すくった、人……」

「あたしやシノンさんだけじゃない。七十五層のレイドで一緒に戦った人達は、誰もがあなたへの認識を改めたって聞いてる……あなたは、アキトを殺したという悪い点ばかり見ていて、それしか無いと思っていたようだけど、そんな事は無いの。あなたのお陰で救われた人もキチンと居る……そうじゃなかったら、ユウキさん達があなたに信頼と信用を寄せる筈が無いでしょう?」

 

 不安そうに、キーは頭を撫でる義姉から、こちらに首を回して確認して来た。それに、あの《聖竜連合》の幹部ですらもが全く同時に、全員が大きく頷く。彼はこれを見て目元を震わせた。

 

「そして自分の為だけの願いを、戦う理由を見付けなさい。子供はもっと我が儘を言って甘えるべきなのだから……本当に、今までよく頑張って来たのだから、もう――――オリムライチカは、安心して休みなさい」

 

 そう、暖かな微笑みでリー姉は締め括る。

 キーは暫く静かに涙を流しながら沈黙を保ち――――暫くして、眠りに就いた。すぅ、すぅ、と規則的で穏やかな寝息は、彼の心境を表しているかのように安心感があると分かるものだった。

 

 *

 

 リー姉が予想を遥かに絶する怒りを以てキーの誤りを指摘し、それを正し――――否、誤りの根幹から根こそぎ崩し、思考そのものを完全にリセットさせた後、流石に戦闘だけでなく言葉攻めに対する精神的な疲労に耐えかねたようで、さっきまで殴り合い――一方的にいなされていた――の大喧嘩をした相手である彼女に撫でられている内に彼は眠りに落ちた。

 その後、ヒースクリフこと私の父親に当たる茅場晶彦やユウキさん達は、眠るキーを起こさないよう幾らか私やルクスさんと対話してから《アインクラッド》へと戻っていった。

 すやすやと、私と一緒に昼寝をしている時よりも遥かに居心地良さそうに、安心していると分かる柔らかくて明るい表情で眠る彼を見てほっとする。

 

「……幸せそうに寝ていますね」

 

 さっきまであれだけ怯え泣き、それから怒りを抱いて殴り掛かっていたキーは、無意識にも《織斑秋十》の事をまだ家族と思っていた。リー姉の事もそう思っていただろうけれど、その相反する思考を抱えたまま居たから、あんなに苦しんでいた。

 リー姉の義弟という意識だけになっていれば、あの神童を手に掛けた事であそこまで傷付きはしなかった。

 それはキーも理解していたのだと思う。それでもそう割り切れなかったから矛盾を抱えてしまって、ずっと苦悩し、どんどん悪い方にばかり考えを進ませてしまった。今まで良かれと思ってしてきた全ての行動をも否定する程までに。

 その思考を、姉と慕うリー姉に真っ向から完全に否定された。何もかも背負うのは間違っていると。あなたは《オリムライチカ》と《キリガヤカズト》のどちらなのかと。

 今まで自分の思考・思想・覚悟を支えていた根幹を一気に喪ったのは確かだ。けれど今のキーの寝顔は、そんな事を察せないくらい明るくて、無邪気なものだ。

 目を逸らしていた矛盾を突かれ、それを煽る事で余裕を失くさせ、勝負へと出ざるを得なくした事によって、今のキーはもう今までとは違う。《ビーター》や《織斑一夏》として疎まれ蔑まれる事を目的とした振る舞いも、【黒の剣士】として勝手に向けられた期待に応えようと死力を尽くそうとする憐れな剣士でも無い、ただの子供なのだ。

 リー姉の言葉を借りるなら、『《オリムライチカ》としての《Kirito》』は、彼女に完全敗北を喫した時点で死んだ。

 忌み名の《ビーター》と異名の【黒の剣士】は、それぞれ名前に籠められた意図や意思が違うけれど、そのどちらもただの一度の敗北が許されないという点で共通している。どちらも《オリムライチカ》という出来損ない、すなわち敗北が死を意味する戦いの中に居る者の証だったからだ。

 そして彼は、誰かに殺される事でこそ、その役割を終える事が出来ると考えていた。

 恐らく、だが……きっとだからこそ、リー姉は彼を完全に負かしたのだと思う。言い逃れ出来ないようにする為に。余裕を失くさせ、最初から全力で来させる為に幾度も彼女らしくない挑発を繰り返した。彼が積み重ねて来たものが誤りであるからこそ根幹を崩す必要があって、だから強く強く彼の行動・思考を責めて、揺らがせた。

 その末に、キーは漸く解放された。

 まだ本格的にではないけれど、彼が今回の件で自分のせいと責める事は恐らくもう無いだろう。今後またあるかもしれないけど、その度に、きっとリー姉は叱責を飛ばすのだろう。『自分の責任を勝手に背負うな』、『何様のつもりだ』と。

 それらの言葉は、むしろ良かれと思って思考・行動してきたキーにとっては青天の霹靂、驚天動地に等しい衝撃的なものだった筈だ。更にそれを言ったのはキーが最も慕い気を許しているリー姉。響かない筈が無い。

 きっとそれを理解していたから、ディアベルさんの制止も無視して強く、本当に酷なくらい強い言葉で責め続けた。今までの行動が正しかったのかと――――間違いだったのだ、あるいは絶対正しかったと判断していない迷っている状態だったからこそ、強く否定を繰り返した。あなたが取って来た行動は間違っていない、絶対正しい答えなんて無い、そして選択した行動を決して悔いるなと。

 大きな後悔と絶望に苛まれ続けていた彼の心は、リー姉の全力の訴えもあって、幾らか回復した。ただ安らかに寝続けるだけしか出来ない自分よりも遥かに効果が出ていて少しむっとしてしまう。まぁ、下手すると精神崩壊を起こしていたリスクを考えると、些かリー姉が取った行動は軽率に過ぎたのではと思わなくも無いが。

 けれど、キーは自我を保った。流石に疲れたから眠ってしまっているけど、これまでの全てから解放された途端に襲って来た安心感に身を委ねているのだろう。

 その穏やかな寝顔を見ているだけで幸せな気持ちになって、リー姉に膝枕されている彼の頬を人差し指で突く。ぷに、と本当に男の子かと思うくらい柔らかな弾力が、指先を押し返してきた。

 

「ふみゅ……?」

 

 くすぐったかったからか、それとも呼吸がし辛くなったからか、彼は寝ぼけた声を洩らして身動ぎした。指を離すと、すぐに刺激が無くなったからかまた一定のリズムを刻む寝息を立て始める。

 

『きゅ……きゅぅ……』

 

 キーの腕を枕代わりにしていたナンさんが眠たそうに薄っすらと瞼を開けたものの、主人がまだ眠っているのを見てかまた閉じ、こちらも小さな寝息をリズム良く再び立て始めた。数日ぶりだからか彼から引っ付いて離れそうにない様子は微笑ましい限りだ。

 

「こらユイちゃん、ちょっかい出して起こしたら可哀想だよ」

「ふふ……ごめんなさい、リー姉。ついつい可愛くて」

 

 ちょっかいを出していたら叱られてしまって、素直に謝る。でもちょっかいを出してしまうくらい寝顔が可愛いキーにもちょっと非はあると、割と理不尽な事を言い訳として言ってみた。

 私の言い分を聞いて、金髪緑衣の義理の姉はくすりと苦笑を浮かべる。

 

「それは否定しないけど……いや、まぁ、疲れさせた本人であるあたしが言うのも何だけど、ゆっくり寝かせてあげよう?」

「それは分かってます。もうしません」

 

 ちなみに、ルクスさんは現在《OSS試験場》に籠って鍛錬を行っている。さっきのキーとリー姉のやり取りもそうだが、今のこの場はかなり居心地が悪いからだろう。あるいは義理の姉弟の触れ合いを邪魔したくないと計らってくれたのかもしれない。

 だから今この管理区のエリアに居るのは義理の姉弟三人と一匹に使い魔だけだ。

 

「……そういえばユイちゃん、聞き忘れてたんだけど、何で大人の姿になってるの?」

「リーファさんは《メタモルポーション》の事は知ってるので省きますが、端的に言えば、キーの戦闘方法だけでなく他の皆さんのも参考にする為ですね……あとは……」

 

 そこで、リー姉に膝枕をされ、頭を撫でられて物凄く嬉しそうな寝顔を見せている義弟へと視線を落とす。少し頬が熱くなったように感じた。

 

「その……やっぱり、見た目で年上っぽくしたら、リー姉みたいにキーに甘えられるかもしれないと思いまして……」

「……その様子から察するに、ユイちゃんも同じなんだ」

 

 きっとわかりやすいくらい頬を朱に染めていて、リー姉もキーに恋情を抱いているからだろう、私もまた同じものを抱いている事をすぐに察したようだった。

 隠すような事でも無いから素直に首肯する。

 

「ずっと一人で昏い場所に居て、義務と無権利の板挟みにあり、プレイヤー達の負の感情の影響を受け続けていた私にとって、キーは本当に希望の光でしたからね……AIの身の私でも心や感情があるのだとすれば、これはきっと《恋》なんだと思います」

 

 一緒に居たくて、一緒に居たら楽しくて、ついつい眼で追ってしまって、キーの事を考えるだけで胸の内側がぽかぽかと温かくなって。彼の事を考えるだけで顔や耳、体も熱くなってくる。AIの身だから心臓なんて無いけれど、それでも胸の奥がきゅうっと締め付けられて、苦しくなる。でもその苦しさは嬉しいものなのだ。

 この感情や行動が既にインプットされたものだったのか、それともこの世界のプレイヤー達から知らない間に学習していたかは知らないけれど、とても心地よくて嬉しいものなのは間違いない。

 誰に何と言われようと、どう思われようと、私のこの想いを否定はさせない。勿論キーにだって。

 この想いを否定していいのは私だけ。キーが私を隣に置かない選択をしたとしても、それでも私は彼を支えるべく陰日向を問わず動き続ける。リー姉が言っていたように彼の幸せが私の幸せでもあるのだから。

 

「そっかぁ……じゃあ、ユイちゃんもライバルなんだね」

 

 私の想いの一端を知ったリー姉は、警戒したり嫌な顔をするどころか、むしろ嬉しそうに微笑んだ。

 

「まさか義理の姉になった二人がどっちもぞっこんになるなんてね」

「ふふ、確かにそうですね……それだけキーが魅力的という事で良いのではないでしょうか」

「言えてる。危なっかしくて、ホントに莫迦な部分があって……でも、完璧じゃないからこそ親近感が湧いたり、こういう感情を抱けるんだよね。支えたいって思えちゃう。あたしこの子に会うまで他人には基本無関心だったから自分で自分にビックリだよ」

「そうなんですか?」

 

 リー姉の口から飛び出た事実に少し驚いてしまう。キーのモニタリングをしていた時にも幾度か独り言で『スグ姉』、すなわちリー姉のリアルでの呼び名が口に出ていたし、アスナさん達に語っていた内容も凄く弟想いな姉としてのものばかりだった。

 だから過去とは言え他者に感心が無かったという彼女の姿は想像し難い。

 それはリー姉自身分かっているようで、私の視線を受けて微苦笑を浮かべた。

 

「あたし、物心が付いた頃……そうだね、四歳になるかならないかくらいの頃から、当時まだ存命だった祖父に鍛えられ始めたの。剣道は勿論、柔道に拳法、柔術に古武術、他にも諸々ね……だから腕っぷしもあったし、幸い真面目な性格だったから勉強も欠かさずしてた。お陰であたし、これでも中学では一応文武両道で通ってるんだよ」

「ふむふむ……」

「そんな日々を幼い頃から続けていたある日、八年ほど前にISなんてものが出て世間が大わらわになった。女尊男卑風潮のせいで学校の雰囲気もかなり荒れたし……ISを纏えるからってだけで威張り散らす女子と一緒に居るのは嫌だったし、男子は女子っていうだけで忌避するから、それなら関わり合いにならず剣道に打ち込む事に専念してたの。知り合いの道場への出稽古も祖父が無くなってからやめたし……そんな日々をずっと続けてたから、他人の事を『くだらない』って見てたんだと思う。誰も彼も『女だから』っていう理由であたし自身を見ない上っ面だけの関係なんだと思ってたから」

 

 だからあたし、仲の良い友達なんて一人も居なかったんだ、と彼女は微苦笑と共に言う。

 

「そんなあたしに転機を齎したのが、この子なんだよ。あたしを姉と慕って、忌避せず付いて来てくれて、捻くれず教えを受け取ってくれて……」

 

 そう言って、リー姉は暖かな笑みと共に自身の膝に頭を乗せて眠る義弟を見る。さらりと髪を梳き、時に髪越しに頭を撫でれば、彼は猫のように気持ち良さそうな反応を見せつつ手に頭を押し付ける。

 途中起きているのではとも思ったけど、撫でるのを止めたらまた止まるから完全に眠ったままである事を悟った。

 きっとこの今の状態こそが、リー姉の家に拾われてからSAOに入るまでのキーの素だったのだと思う。リー姉に対してだけは他の人に見せる素と少し趣が違ったように感じていたけど、SAOに入る以前か入った後かで差が付いていたからだろう。これを意識的にしていたかは分からないが、多分違うと私は予想している。

 

「機械とかゲームが苦手なあたしがVRMMOをプレイしようと思えたのも、この子がSAOのベータテストにのめり込んだから。家事以外にあそこまでのめり込んだのは初めて見たからどれだけ美しいんだろうと思ったんだ。丁度中学の男子から誘われていた事もあって……結果、あたしもこの世界の虜になっちゃった……――――それに、こんなに可愛い妹も出来た」

 

 そう言って、すぐ近くに座っていた私の頭に手を伸ばして、くりくりと撫でて来た。

 

「わ、ふわわ……っ? り、リー姉、いきなり何を……」

「ユイちゃんもこの子のお姉ちゃんだけど、あたしにとっては義弟のキリトと同じ可愛い義妹だからね。だから差別は良くないと思って……頼りないかもしれないけど、甘えたくなったら甘えて良いからね。AIだとか、あたしにとっては些細な事、遠慮なんて要らないから」

 

 にっこりと、屈託なく笑って言うリー姉の言葉に恥ずかしくなって、頭を撫でられながら顔を俯ける。

 でも、恥ずかしいけど、嫌じゃない。

 むしろ嬉しかった。どんどん顔は熱くなるし、嬉しいという気持ちが込み上がって来る。人間とAIという種族の壁すらも気にしないで、私の事を妹と想い愛してくれているのだ、嬉しくない筈が無い。

 

 ――――ああ……本当に、リー姉の義妹で、キーのお姉ちゃんで幸せです……

 

「リー姉、私、今幸せです……凄く……」

 

 万感の想いと共に、どこか熱に浮かされてふわふわとしている思考を懸命に回して、どうにかこうにか端的にでも思った事を告げる。

 

「あたしもだよ……あたしの妹に、そしてこの子のお姉ちゃんになってくれて……逢いに来てくれてありがとう、ユイちゃん。これからもよろしくね」

「それはこちらのセリフです……私達二人と、他の皆さんとで、絶対にキーを幸せにしましょう」

「当然!」

「はい!」

 

 血の繋がりなんて無い、それどころか住む世界から存在そのものからして全く違うけど、でも一人の少年に想いを寄せ、愛し、支えたいというその想いは一緒。成り行きではあったものの妹として受け容れてくれたリー姉には頭が上がらない。

 ライバルではあるけれど、キーを哀しませるような結果にはしたくないと思った。

 

 SAOをクリアすると消滅する身だから到底不可能な事など分かり切っているのに、それに抗おうと強く思える。

 

 それくらい義弟も義姉も、とても大切な存在になっていた。

 

 







 ――――だからあたし、仲の良い友達なんて一人も居なかったんだ



 ――――丁度中学の男子から誘われていた事もあって……



 長田慎一/レコン(直葉をALOに誘った中学同級生)の心情は全く認識されていない模様……憐れなり(愉悦)

 では、次話にてお会いしましょう。

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