インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 今話の視点はキリト、リーファ、レイン。

 時系列的にキリトは白との鍛錬を終えた後、リーファはユイと歓談した後に管理区で眠って起きた後、レインがその更に後です。つまりは翌日の事。

 文字数は約二万六千。

 ではどうぞ。



第七十八章 ~転換期~

 暖かく、心地いい微睡みを享受していた闇から意識を浮上させ、覚醒させる。ぱちりと目を開けば、天には満点の星空……と見紛うばかりの――ユイ姉曰くプラネタリウムばりらしい――光景が出迎えた。視界の端には管理区の外縁を取り囲む無数の金文字が止め処なく流れている。

 視界右上のデジタルチックな時計は丁度午前三時を示したところだった。白と延々と殺し合いと言う名の修行――殺し合いと言っても差し支えないレベルではあったが――をしていたから完全に時間感覚を喪っていたため、思ったより経っていないとも感じるし、リー姉に撫でられながら寝落ちた時の時間を考えると存分に寝たとも思える。確か九時にもなってなかった筈だから、六時間程は睡眠を取っている事になる。

 無論、こちらで眠っている間、ずっと白と修行をしていたのだから精神的には疲れている。

 でもリー姉に叱責される前に較べれば遥かに体が軽いし、気持ちも軽くなった。気分が沈んでいたから気怠い感じがあったのだが今それは一切無い。病は気から、という言葉があるがそれは真実のようだ。

 さて、これからどうしよう、と身動ぎせずに考える。

 時間は午前三時。流石に今から探索に出掛けるなんて死にに行くようなものだ。ユイ姉曰く、樹海エリアを徘徊する大半のモンスターよりレベルは上ではあるが、高難度区域ともなれば最低水準にしか達していないらしい。その区域を把握しているとは言え、夜半の探索は流石に控えたい所だ。

 というかこれ以上叱られたくないというのが本音である。

 かと言って、寝直すのも些か難しいと感じる。ついさっきまで修行をしていたが、精神という不確定で曖昧な状態でしていたからか、思考を高速回転させたり延々とイメージトレーニングをしたり、目まぐるしく戦っていた時の後に生じる疲労が一切感じられない。恐らく修行中消費するのは文字通り脳では無く精神力なのだ。

 明らかに医学的且つ生物学的にそぐわない非論理的な思考だが、今はこれで納得しておく。

 ……単に自分の気分が戦闘状態で高揚していて、眠気を吹き飛ばしている、という可能性も無きにしも非ずだが。

 こうなったら一度起きて、気分が落ち着く飲み物でも飲みながらポーションを作った方が良いなと思った。時間は有意義に使うべきだ。ポーションを作らなくても、落ち着く飲み物を飲むのは中々良案だと思う。

 

「そうと決まったら早速……」

 

 早速起き上がろうとしたところで、それが出来ない事に気が付いた。上体を起こそうとすると何故か胸に圧迫感を感じるのだ。しかもそれは腕や脚にも感じる。

 

「ん……ふぅ……」

 

 続けて、右耳で微かな声。更に微かな吐息が首筋に掛かる。

 まさかと思って僅かに首を右に回せば、そこには金色の髪を解いて寝こけているリー姉が居た。首を起こして状態を確かめれば、俺を抱き締めて床の上に眠っている事が分かった。寝袋を持っているのが俺だから、多分そのまま寝る事にしたのだろう。

 ならユイ姉はどこに、と思って今度は左に首を回せば、ちょっと離れたところでリー姉と同じように床の上で横になっていた。違いと言えば、俺が愛用しているコート・オブ・ミッドナイトを掛け布団代わりに体に掛けている事だろうか。あと見た目が俺と同い年では無く大人になっている。

 ルクスは更にその向こうで、こちらは自前の寝袋の中ですやすやと眠っていた。ほにゃ、ととても穏やかな寝顔である事から、幸せな夢を見ている事がありありと分かる。

 ユイ姉はAIだから人間である俺達と違って徹夜も可能なのだが、それでも入手し蓄積したデータの整理や消去、保存の選択をしてキャッシュを消去し、処理速度を取り戻さなければならないため、人間の睡眠と同義の行為を行っている。なのでユイ姉も今はリー姉達と同じく深い眠りの中、恐らく夢は見ていないだろうが。

 なので、起きる際に気を付ける事と言えば、ルクスを起こさないよう静かに行動する事。ユイ姉は既定の時間になるか名前を呼ばないとまず起きないし、リー姉はそもそも朝の決まった時間にならないと何をしても目が覚めない筋金入りの安眠ぶりを発揮する猛者なので、考慮外だ。

 

「むぅ……ステータスでは上なのに、抜けられない……」

 

 だから直近のリー姉には割と力を出しても構わないのだが、寝たまま無意識に寝技でも敢行しているのか、中々絡まった脚やこちらを抱き締めている腕から抜けられない。それどころかリー姉の自室に沢山あるカピバラの抱き枕代わりなのか、動けば動くほど腕の拘束力が強まっている気がする。本当に寝たままかと思うくらいとにかく上手い。

 あ、これは抜けられないな、と諦めるのは割と早かった。

 それならまた白と修行に洒落込みたいのだが、生憎さっきの戦いを終えた後に『朝まで寝る』と言っていたから流石に気が引ける。精神世界への行き方を知らないから自力であっちに行くという方法も取れないのだ。

 

「はぁ……また眠気が来るのを祈るとしよう……」

 

 右手はリー姉の体で押さえられているから動かせないし、左手は動かせてもメニューウィンドウを出せないからほぼ無意味。体は論外。動く事もほぼ不可能なので、黙って横になったまま、また眠気が来て眠れる事を祈るしかない。

 まぁ、リー姉が起きるのは午前五時。それからリアルに居た頃の日課通りに鍛錬を開始するだろうから、それまで起きているというのもアリと言えばアリだ。その気になれば二時間くらい考え事で潰せるのだから。

 

「とは言え……今の俺は、今までの俺と状況が違うんだよなぁ……」

 

 誰も起こさないよう小さな声でボヤく。

 今まで疎まれ者の《ビーター》や希望を背負った者の【黒の剣士】としての立場、《攻略組》や最前線の情報の収集、統合、攻略本に載せる情報の編纂をアルゴと共にしてきたから、時間はむしろ足りない程だった。多くの人々の動きや意識を把握し、その上で最適な手を打って行動し、心象を操作し、情報を統制し、士気の低迷を防ぐためには準備をする為の時間がどれだけあっても足りなかったのだ。

 正直、これまでで十分と思えた事は、ただの一度も無い。

 ならそれについて考え、行動すればいいのではとも思うが、現状それは出来ない。

 まず俺が《アインクラッド》に行けない時点でほぼ手が打てないのが一つ。情報収集はおろか、心象操作や攻略なんて論外。出来る事と言えばアルゴとの協議やヒースクリフ達との合議程度だろう。それも最前線の生の情報……所謂、現場という奴を知らないから、イマイチ信頼性は置けない判断になる。

 次に俺の今の立場について。

 こちらはどちらかと言うと、オレンジだから《アインクラッド》に戻れなくて殆ど行動を移せない一つ目の問題に較べれば、些か非論理的だ。何せ心情的なものが理由の大半を占めているのだから。

 リー姉が指摘したように、俺は今までずっと他者の不幸も自分のせいと背負い込んで来た。

 客観的に見れば《月夜の黒猫団》の壊滅は俺の注意を聞かなかった事やレベリング不足という自業自得な事だし、ケイタの自殺も、サチを残しているという点を考えると俺の責任は低いと考えられる。ユウキ達が言っていたように、恐らくその見方が普通だろう。

 他にもコーバッツの死だって、クラインが言ってくれたように俺はやるべき事、言うべき事をずっとしていた。一度はアスナ達に頼んで撤退までさせたのだ。それなのに突撃して死んだのだから、あれこそ自業自得と言えるだろう。

 第二レイドを殺したアキトの所業も俺との関連性は薄い。アキトを殺した事で他の皆がどう思っているかも、全ては俺が勝手に思い込んでいた事。自分が悪いのだ、と。

 リー姉達が攫われた事はキバオウ達が悪い、例え俺を誘き出すという間接的な理由になっているとしても、実際に行動に移していたのはあちらだし、俺と一緒に居るとそうなる事を知っていたのに抵抗出来ないくらい弱かったのもリー姉達の責任。

 それら全て、俺が悪いのだと思い込んでいた。仮に俺が居なかったらその悲劇全てが起きなかったのではないか、と。

 俺が居なくなれば――――死ねば、もうそんな事は起きないのではないか、と。

 

 リー姉はその思考に対し、何様のつもりだ、傲慢だと言い切った。

 

 最初、その言葉は俺の心を激しく揺さぶり、抉った。俺が今までしてきた思考の全てを否定する言葉だったから揺らがない筈が無い。俺の過去の歩みを否定されたようで、だから頭に血が上ってリー姉に挑んだ。言われたように、リー姉の否定を否定しなければ自分を保てなかったから。

 既にそれが間違っているのだと、リー姉に完膚無きまでに叩き潰され――――この世界で背負ったモノを真っ向から完全否定された事で、漸く理解した。

 一度背負った荷を下ろせずにずっと進み続けて来た俺を真っ向から潰し、《ビーター》/【黒の剣士】としての《キリト》を殺してくれたから、その過ちに気が付けた。背負い続けている間は『それが正しいのだ』と思い込まないと正気で居られなかったから。

 もしかしたら既に正気では無かったのかもしれない。

 ともあれ、客観的な立場や俺を取り巻く状況は変わっていないが、俺の主観的な立場や状況は様変わりした。未知の世界に飛び込み、新鮮なもの全てに感動していたベータテスト時代の無邪気な頃に戻ったと言えるのかもしれない。今の俺を、果たして無邪気と言えるかは分からないが。

 流石にまるっきり《ビーター》や【黒の剣士】の荷を捨てる事は出来ない。それでは責任放棄だから、この世界の終わりまでそれを背負おうとは思う。

 でも、今度は目的と手段を逆転させないようにする。生きる手段として強さを求め二つ名を背負っていたのに、何時の間にかそれらが生きる目的になっていたのだから。《ビーター》の役割を終える為なら死も受け容れるつもりだった。【黒の剣士】としてボスとの戦いで死ぬとしても、後に繋げられるのなら構わなかった。

 嗚呼、そうだ。リー姉に言われたように逆転していた、白に気付かされたように《生存本能》という生きる事への激しい欲求が欠けていた。

 だから安易に死を受け容れる/求められる。

 だから迷わずに身を投げられる/犠牲に出来る。

 それは間違いだと教えられた。レベルとステータスで圧倒的に負けているのに、リー姉は完璧に技術だけで、この世界で成長しただろう俺を圧倒した。幾ら冷静でなかったにせよ体に染み付いた技術までは無くならないから、雑になったとしても脅威には変わりない筈なのに、それらを意図も容易く捻じ伏せて来た。

 間違っているから俺の強さでは敵わないと、そう言って、間違った道を進んでいた《キリト》をリー姉は殺した――――殺してくれた。

 そして、重荷から解き放ってくれた。

 だから今、俺の戦う理由は酷く揺らいでいる。ユイ姉やリー姉達を護るという理由や強くなるという理由は変わらず……《ビーター》として誰よりも勝る為、【黒の剣士】として希望を見せる為という理由は、今は酷く薄い。《ホロウ・エリア》から出られないせいであちらに干渉出来ない事も、薄くなっている要因の一つだろう。

 そして、自分の為だけの戦う理由というモノを、俺はまだイマイチ見付けられていない。正確には見つかっているけど、決められない。

 それは今までの自分の思考と酷く乖離していて、すぐに意識を変えられないからこその違和感というか、拒否感というか、そういった何かが選ぶ事を妨げる。かつての利他主義と相容れない、酷く利己主義なその思考。

 周知されている《ビーター》の由来としては酷くマッチしているだろう利己主義。そうでなくとも、きっとあらゆる人の深層にあるだろう戦う理由――――《生存本能》。

 つまりは、『生きたい』という単純ながら尊い願い。

 人らしい、白が教えてくれた人にあるべき願い。

 

「……生きたい、か……」

 

 白を殺すと決めて突貫した時、やはり俺の思考はリー姉達から離れたくないというものだった。それは他人が入っているから、やっぱり利他主義になるのではないだろうか、利己主義では無いのはと思う。

 リー姉は、他人の事を考えて一緒に居たい、生きたいと願うのはやめろと言った。

 なら、俺の思考もまた、それに該当するのではないだろうか。

 どの辺が利己主義で、どの辺が利他主義なのだろうか。

 長らく《ビーター》として利己主義を振る舞い、【黒の剣士】として利他主義を振る舞って来て、その実、恐らく全ての行いの理由が利他主義になるのだろう俺には、その違いが分からない。

 

「どうすればいいかな……直姉……?」

 

 分からない事が恐くて、何だか心細くなって、こちらを抱き締めながら右隣ですやすやと眠っている義理の姉に囁き声で問い掛ける。

 眠っているから当然起きる筈が無いけど、それを分かっていて問い掛けた。

 

 ――――多分、この問いは、本当は人にしちゃいけない類のものだから。

 

 ――――俺としても他人が決めた事にばかり沿うなんて人形染みた事はしたくない。

 

「自分の為だけの理由なんて……分からないよ……」

 

 人間は一人では生きられない。

 それは俺も以前からよく理解している事だ。リー姉には新たに、一人の人間で出来る事は限られていると、分かってはいたけど理解出来ていなかった事を教えられた。

 そんな人間は、どうしても生きている間に人と関わる。人と関わるからこその理由というものは沢山ある筈なのだ。極論、家族に恩返ししたいから生きたいとか、そういうのも利他主義に入る気がするのだ。

 自分の為だけに戦える理由なんて、そもそも何があるのだろうか。

 

「……アキに…………アキトは、すぐに考え付きそうだな……」

 

 ふと思い浮かんだ人物について考え、ふ、と苦笑する。

 何しろ実の弟を、『自分の為に死ね』と言って来た張本人だ、一番記憶に残っているそれはまさに利己主義と言えるだろう。もっと言えば自己中心的とも言える。第二レイドを潰したのも自分の推理を絶対と信じ、それで動いたのだから。再会した後も、言いなりになっていたら良かったんだと言って来たくらいだし。

 

「……俺も、それくらい我が儘になった方が良いのかな……?」

 

 流石に自分の都合に他者の生死を左右するのは無理だが、ユウキにも何度も言われたように、もっと皆の力を頼りに作戦を立てたり、行動したりしても良いのだろうか。皆の迷惑や負担になるのが嫌だから避けていたのだけど。

 ……きっと、そうでなかったら、もっと頼れとは言わないのだろうな。

 次に会った時、お願いしてみようかな……

 

「……でも、やっぱり自分の為だけに戦える理由は、考え付かない……」

 

 ユウキ達の力を借りる事を前提に行動するのは、俺が悩んでいる事を解決する答えにはならない。これはあくまで行動への助力。行動する為の理由にはならないのだ。

 

「ユイ姉や直姉と、一緒に居たい、とか……?」

 

 ユイ姉は技術が足りず、直姉はレベルと装備が足りない。だから一緒に並んで戦えない。

 なら、俺が一緒に戦いたいからという理由で強化して、一緒に戦ってもらうというのはアリなのだろうか?

 そう思って、安らかに眠り続ける義姉の顔を見る。とても柔らかい柔らかい表情をして眠っている姿は、少し前に自分に対して冷徹な顔で侮蔑していた人とは思えないくらいだ。幸せそうに口元に笑みを浮かべている。

 

 ――――口元、と言えば……そういえば……

 

 そこで、義姉の口元の笑みを見て、唐突にある情景が浮かび上がって来た。

 思い出した、とも言えるその情景は、第一層外周部テラスからキバオウによって放り出されたリー姉とシノンを助ける為に俺も飛び出した後の光景。シノンが素直に転移結晶で《アークソフィア》へ転移した後、リー姉が教えていないオレンジの制約や実状について言及し、責めて来て、無理矢理転移させようとした際にしてきた事。

 

 

 

 ――――あの時、俺は……リー姉に……すぐ、ねぇに……き……キス……

 

 

 

「ッ……!!!」

 

 あの時は精神的にいっぱいいっぱいだったし、その後もユイ姉と一緒に居る事で、まだ生きている事から目を逸らしていたから考えていなかったけど、そういえばリー姉ととんでもない事をしていた。

 間違いようが無い程に、本来好きな人同士でするというキスをしていたのだ。

 それを思い出して、思わず無音の絶叫を上げた。声を出さなかったのは奇跡に等しい。

 

 ――――あ、あわわ……あわわわ……っ?! ど、どうしよう……どうしようどうしようどうしよう……?!

 

 リー姉からしてきたんだから俺は悪くない、いやでもそれって倫理的にどうなんだろう、というかしてきたという事はつまりそういう事なんだろうか、でも転移の為の式句を中断させる為に唇で塞いだだけっていう事もあるかもしれない、それにそれをわざわざ確認するというのもアレだし……

 SAOの感情表現はかなりオーバーだから、ひょっとしたら頭の上から湯気が出ているかもしれないし、顔も耳の先までトマトみたいに真っ赤になっているかもしれない。

 それくらい過去にあった事は今更ながら俺を驚愕させ、困惑させる。

 

 ――――責任を取る? いや、でもどうやって……?

 

 社会的な側面から考えると、俺は確実に未来が無いから、責任なんて取れない。

 お金に関しては問題は無いのだけど。

 何故なら、束博士の下でISの基礎知識を学んだり俺の体に埋め込まれたISの起動試験データを取ったりする他、束博士が作ったISのデータ採取に協力していたため、それがバイト(?)扱いになって、母さんこと《桐ヶ谷翠》が管理している俺の口座にはお金がそれなりの額振り込まれているからだ。まぁ、あくまで俺はそうしていると聞いているだけだが、母さんの方からも通帳と共に話されたから事実なのは間違いない。

 およそ半年近くに渡ってその試験データに協力して、束博士自身ISの特許による申請金額によって大金持ちどころでは無くなっている為か、既にかなりの額を振り込んでいるとかつて聞いた事がある。

 当時の俺はそれに対して特にこれといって興味を抱いていなかったから流していたけど、これはそれを使えという事なのかと思案する。

 ちなみに母さんが管理しているのは、流石に小学生に口座を管理させるのは、と束博士が配慮してくれたから。

 とは言え、お金が幾らあっても社会的に死んでいるのなら意味が無い。この世界で《織斑一夏》の生存と大まかな容姿、プレイヤーネームについては割れているのだ。恐らくリアルに帰ったら一括で纏められるだろうSAOプレイヤー達の収容施設で嫌というくらい言われるし、ネットでも顔が割れているのだ、先なんである筈が無い。

 

 ――――でも、それとこれと関係無いって言われそう……

 

 人の感情とは、時に事情や立場を無関係に人を動かす事がある。駆け落ちなんてそういうモノだろう。

 そうなったら、俺は直姉と駆け落ちするべきなのだろうか? 拾って受け容れてくれた母さんや父さんの一人娘を奪って?

 

 ――――そんな裏切りを出来る筈が無い。

 

 とは言えそもそも駆け落ちなんて本人同士は愛し合っているのにそれ以外の者――多くは両者の親類縁者――が反対して結婚出来ないから縁を切ってでも添い遂げる事を指す。

 だから仮に母さん達が反対しても、直姉がその気だったらどうしようもない。

 俺の理由は、多分直姉には通用しない。何しろ拾った俺の事情を全て受け容れ理解した上で家族として愛し、今まで様々な事を教えてくれたのだ。その上で異性として好かれていたら、その理由で拒む事は出来ない。

 

 ――――……ホントに、どうしよう……?

 

 凄く、凄く悩む。何しろどうしようも無い未来が待っているのに、それを前提で好かれていたらと考えたら驚くし、困惑するし、悩まない筈が無い。

 家族としてだけでなく、異性として好かれているのだとしたら物凄い困った事になる。家族として愛される事すら嬉しいのに、それ以上ともなると……嬉し過ぎて、何も考えられなくなりそう。

 現に、自分の顔は物凄く熱い。床で潰れている右耳や耳たぶも、左耳の先も、物凄く熱くなっている。

 そしてきっと、自分の口元は物凄くだらしないくらいにやけてると思う。ダメだと分かってるのに、もしかしたらと考えただけで物凄く嬉しいのだ。大好きな直姉が、異性として好いてくれているという望外の事があったらと思うと、物凄く嬉しい。

 

「あうあうあうあうあう……」

 

 どうしようか具体的な方策が思い付かなくて、リー姉が起きる時間まで、俺はずっと熱い顔のまま混乱し続けた。

 

 ***

 

 ――――どういう状況なんだろう、これ……

 

 キリトを撫でながらユイちゃんと歓談し、眠気が来たので床に横になって眠りに就いたのだけど、目が覚めたら抱き締めている義弟が顔を真っ赤にしてあうあう唸っていて困惑した。軽く俯いているせいで目を開けているのが見えていないからかあたしが目を覚ました事には気付いていないようで、さっきからずっと唸り続けている。

 見た感じでは、トリップしていたキリトの意識を戻してすぐの時に見せた様子に近い。所謂羞恥の顔というやつだ。

 あたしも少しはドキドキしているけど、それはどちらかと言うと羞恥では無く好きな相手を抱き締める事への緊張と言う方が正しい。

 それに、キリトの場合、何故今その羞恥が出ているのかが分からない。何しろあたしがこの世界でこの子と再会してから何度も抱擁しているし、一緒に寝た事だって数度、今更一緒に寝た事に対して恥ずかしがる筈も無い。流石にあたしと一緒という事は無いだろうけど、今まで何度も抱き合いながら一緒に寝て来たのだから妙に感じる。

 何かに悩んでいる、という風に考えるのは難しい反応だし……

 

「……キリト?」

「ひぁうッ?!」

「……」

 

 幾ら考えても分からないので直接訊いてみようと決めて声を掛けた途端、肩を小さく震わせながら驚かれた。抱き締めるくらい密着しているからその震えは直に伝わって来て、本気で驚いたのがよく分かる。

 キリトが驚くところは今までも何度か見て来たけど、ここまで素そのものの――更に言えば見た目に沿う少女の如き――驚き声を聞いたのは、ひょっとすると初めてかもしれない。ちょっとばかり心がグラリと揺れた……何に揺れたかは分からないが。

 

「えーと……さっきから何で恥ずかしそうに唸ってるの?」

「うあ?! え、えっと……っ!」

 

 これはかなり珍しい動揺振りだなと思いながら単刀直入に核心に触れると、まるでそれを想定していなかったように瞠目しながら驚き、それから視線を泳がせて言い淀む。頬の朱は更に濃くなって、どこか眼に涙が溜まっているようにも見える。

 ただ普通に問い掛けただけなのに、どうして泣かれなければならないのか。

 

「り、リー姉……」

「ん?」

 

 何で涙を浮かべてるんだろうと本気で心配しながら言葉を待っていると、そんなあたしに真剣な顔を向けて、キリトは声を掛けて来た。若干物思いに耽っていたあたしはそれで顔をしっかりと向ける。

 一体何で恥ずかしがっていたのかと思って、言われる内容を予想する。

 でも、上手く考えられなかった。キリトは隠し事が多いし、多分そういったものはあたしを心配させたり叱らせたりするものなのだろうけど、逆に言えば恥ずかしがる内容は殆ど無いような気がする。哀しい話だが、キリトは恥ずかしいとか、そういう方向の話から殆ど離れている立場だからそもそも話題が無いのだ。

 だから本気で分からず、首を傾げていると……

 

 

 

「ふ……ふつつかものですが、よろしくおねがいします……」

 

 

 

「何でッ?!」

 

 あたしに抱き締められたまま、顔を真っ赤にして嫁入りする女性のようなセリフを口にされてしまい、あたしは全力で疑問をぶつけ返した。

 いや、本気で分からない。何でいきなり告白紛いの言葉を言われてよろしくお願いされる事になるのだろうか。恋人関係になっているのならまだしも全然そんな気配すら無いし、今のあたしとこの子は義理の姉弟の関係、一気にそこから飛ぶような事は無い筈だ。

 

「あぅ……」

 

 混乱に陥ったあたしの言葉を受けて、顔を真っ赤に意を決して言って来たキリトは涙目で表情を暗くした。解釈の仕方によってはあたしの言葉は『何故あなたと結婚しなければならないのか』という否定にもなるから、多分そういう風に取ったのだろう。

 あたしとしては本気で、どうしてそのセリフを言うに至ったかが気になるのだけど。

 

「ああっ、えっと、否定とかそういう訳じゃ無くてね……何で、お願いしようと思ったのかあたしには分からなくて……いきなりでびっくりしたの」

 

 さっきの言葉は驚いたけど、嬉しいものではあった。だから否定した訳では無いと誤解を解こうと思って説明すると、すぐにキリトも理解してくれたようで僅かに表情が明るくなる。

 

「……それで、何でさっきみたいな事を? あたし達、別に恋人とかじゃないのに……」

「……だって、リー姉と…………その……――――あぅ……」

「……?」

 

 途中でぼふっと顔を真っ赤にして、両手で顔を覆って黙り込んだので詳細は分からなかったが、どうやらあたしと何かをしたからさっきのセリフを言う思考に繋がったらしい事は分かった。

 恐らく今まで一緒に寝たという事は切っ掛けでは無いだろう。普通の男の子だったら十分切っ掛けになり得るだろうけど、この子の場合は多分そうでは無い。

 だとするなら、一体何があんな事を口にする切っ掛けになったのか……

 

 ――――……そういえば、さっきからこの子の視線が顔にチラチラと向けられてるような……

 

 考え事をしていても分かるくらい、割とあからさまなキリトの視線。それはリアルでも大きくなって男子からよく視線を向けられるようになった乳房では無く、あたしの顔に向けられている。恥ずかしそうに顔を隠しながらも、何かを期待しているように。

 ……まさか。

 

「キス?」

「ッ……!!!」

 

 リアルの頃から今までしてきた触れ合いの中で、ただ一つ、一回だけしかしていない劇的な変化と言えるものがあった。外周部テラスから落とされ、自身を犠牲にあたしを逃がそうとしたこの子の式句を止めようと、自分の唇で塞いだ時の行為。すなわちキス。

 あたしが口にした途端、ぼふっ、と既に真っ赤だった顔と耳が尚更赤くなり、今度こそ顔を完全に俯けて表情が見えなくなったのを見て、これかとあたしは確信を抱く。

 今年で十一歳ともなるこの子は、確かに年齢で考えるとそういう事が気になり始めてもおかしくはない年頃。

 今までこういう反応が無かったのは、『そういう事』を気に掛ける心の余裕が無かったから。この反応が出来るようになったという事はたった三日と言えどもユイちゃんと寝食を共にし、且つ攻略から完全に離れ、更にあたしの叱責で重責から解放されたが故か。

 小学校一年と二年はマトモに授業を受けられていなかったようだし、三年生の学業も三分の二も済んでいない上に、『そういう事』について理解を深めるのはもう少し先の事。混乱してもおかしくは無い。少しばかり初心過ぎる気もするが……まぁ、そこも含めてこの子らしいと言えばらしい。

 ともあれこれで理由はハッキリとした。さっきは完全に予想外だったが、切っ掛けが分かればこの子の思考も大体読める。

 

「なるほどね……あなたなりに、責任を取ろうって考えてくれた訳ね?」

「……ん……」

 

 恐らくそうではないかと思って問い掛ければ、恥ずかしそうに小さく声を返しながら、キリトは首肯する。

 多くの事に疎いとは言え、王子とお姫様が結ばれる王道アニメを見せた事もあったからか、キスというものがそれだけ女性にとって大事なものである事は理解しているらしい。『責任を取る』という思考に繋げた時点でそれは明らかだ。ここは並みの十歳、十一歳児とは違う一面だろう。

 

「そっかぁ……その気持ちは、凄く嬉しいよ。ありがとう」

 

 責任を自ら背負い、責務を果たそうとする姿勢を見せるキリトの事だ、あたしの半ば自棄も同然の行動にすらも責任を感じていたのは想像に難くない。

 

「じゃあ……?」

「――――でも、それじゃダメね」

「へぅ……?」

 

 その喜びに反してのあたしのダメだしに、一瞬救われたような顔になったキリトは、すぐさま疑問の面持ちで小首を傾げる。何が間違ってるのか分かっていないらしい。

 

「キリトが理解している通り、確かに『キス』っていう行為は特別な間柄でのみするべき行為……勿論マウストゥーマウスの場合ね? 親愛の証として額や頬にする場合だってある訳だし……それでね、キリトが察してくれたように、あたしの想いは確かに『そういうもの』で間違いない」

「じゃあ……」

 

 言外の受け入れにキリトは言葉を挟もうとしたが、あたしはこの子の背中に回していた右手を動かし、人差し指を唇に当てて喋るのを止める。あたしの言葉はまだ先があるのだ。

 

「うん、キリトの気持ちは本当に嬉しいよ……でも、さ。今のキリトの言葉じゃあ、まるで義務感で受けられるようで、嫌なの」

「義務感……キス、されたから……」

 

 あたしの言葉に、自分がどういう思考で応えようとしていたか今回は分かったらしい。あたしの行為に対して『応えなければならない』という思考をしていたと。

 それを察して、あたしはその思考が正解であると肯定するように頷く。

 

「気持ちは、嬉しい。でもその行為に、想いに、キリトの意志が無い。それは嫌。強欲かもしれない、我が儘かもしれない……でも、あたしはキリトが本当の意味であたしを選んでくれる事を願っているの。義務感ではない想いであたしを欲してほしい」

「本当の意味……俺の、意志……」

 

 あたしが言う言葉の意味を理解しようと、大切な単語を呟き、この子に作った『初めて自分の為に作ってもらった料理』を食べた時と同じような面持ちで、噛み締め、咀嚼するように飲み下す。

 そのあどけない仕草に僅かに涙ぐんでしまいながら、あたしは更に言葉を紡ぐ。

 

「侮蔑している訳じゃ無いけど、多分今のキリトにはまず出来ないと思う……そうね。例えば、だけど。あたしと恋人……もっと先に進んで母さんと父さんみたいな夫婦の関係前提の付き合いになるとして。それから、あなたと一緒に居るからとあたしの命が狙われるとして。そうなるかもしれない未来を考えて、あなたはどうする? 今はまだだけど、未来そうなるかもしれないと思ったら……多分、そうならないよう距離を置こうとするんじゃない?」

 

 巻き込まない様に、《ビーター》の仲間と思われないようにと、自身を案じるアスナさんやユウキさん達、本当は一緒に居て助けてあげたいだろうサチさんからすら距離を取り、常に一歩どころか二歩三歩の距離を保って来たのだ。

 相手の為を思って、自分の欲や願いを抑え込む。それが日常となっているこの子の思考を前提にすれば、そう考える事が容易に想定出来た。

 

「…………」

 

 確信を秘めたあたしの問い掛けに対し、言葉は返さなかったものの小さく、しかししっかりとキリトは頷いた。

 分からないと誤魔化したり迷ったりせず、更に『そんな事は無い』と否定しないだけ、自覚しているという事だからマシだろう。もしそう言われていたらこの話は平行線を辿り、昨日のように大喧嘩になっていたところだ。昨日はあたしが煽りに煽っていただけだが。

 

「でしょうね。だから嫌なの。いっその事、辛くても苦しくても良いから、『一緒に逃げて』と言ってもらいたいと思う……女ってね、そういうものなの。自分の安全よりも互いの幸せを優先したい、現実的なクセに理想が好きな存在なんだよ」

 

 そうでなければ、きっと女尊男卑風潮を尊ぶ女なんて居ないだろう。自分が偉いという妄想が現実のものになると考えて利用する者くらいしか尊ぶ者は居ない。現実をしっかりと見れていない、夢想や理想に憧れ続けている者でしか無いのだ。なまじ大人なだけあって、純粋な子供よりも邪悪で莫迦らしい。

 そうでない女性も、男性との出会いは求めているものだし、出来るだけ刺激的なものであって欲しいという願いも大抵は共通している。

 無論、あたしだって同じだ。白馬の王子様みたいなファンタジーでファンシー感満載な夢は流石にもう捨てているが、それでも自分の事を見てくれて、優しくしてくれて、頼れる男性であって欲しいとは思っている。出来ればそこに、あたしより何かしら腕っぷしが強い、というのも入れたいところだが、それは高望みが過ぎるというもの。何事も程々が一番だ。

 その点で言えば、実のところこの子は一番あたしの――――恐らくは多くの女性の理想の男性像に当て嵌まっている。

 優しく、頼もしく、幼いが故の純粋さはあるがそれもちょっとしたアクセントになっているし、家事全般が大得意。腕っぷしも強く、過去の経緯から自他共にしっかりと目を向けるようにしている。性格も至って素直。頭の回転も速く、知識も豊富。微妙に常識に欠けている部分もあるがそこは幼さ故のものが大半。

 生まれ育ちのせいで未来がアレではあるが、そこさえどうにかなればこれ以上は無い相手なのだ。

 ただ、その生まれ育ちという部分が最大のネック。次点で我が身を顧みない過ぎた自己犠牲精神。

 一つ目は仕方ないにしても、二つ目は擁護出来ない事だ。昨日あたしが叱責したとは言え、それで直ってしまえば苦労はしない、人間の性格や思考など一朝一夕には変わらない。

 現にあたしのキスに対し、義務感で自分の人生を捧げようとした点がその証拠。

 その気持ちは嬉しいが、義務感で人生を捧げられても嬉しくなんて無い。一番嬉しいのは、あたしの事を本気で好きになってくれて、その上であたしの人生も捧げさせてくれるという未来。今のままでは、あたしだけが彼の人生と全てを受け取り、あたしの人生を受け取ってくれない関係になってしまう。そんなのは不公平だ。

 義務感や責務なんかでは無い、個人と個人の付き合いで結ばれたい。それが強欲な女の願いなのだ。

 

「だから、ね。今は気持ちだけ受け取っておくよ。多分、今はハジメテの事で吃驚してるだけだから。落ち着いて、もっと時間を掛けて成長して……あなたが未来を切り拓けた時、その時に改めてあなた自身の想いを告げて欲しい。あたしの事を想ってくれているのなら」

 

 本当に我が儘だと思う。きっと決死とも言えるくらい、ユウキさんがかつて見せていたような凄まじい羞恥を抱いていただろうにその上でも告白したというのに、それを理解していながらこんな事を言っているのだから。

 でも、あたしはこれでいいと思う。これでキリトに恨まれるのだとしたら、あたしはそれを受け容れる。

 あたしにとって、この子と相思相愛になって結ばれる事よりも、この子が自分らしさを保ったまま人生を謳歌する事の方が何よりも重要なのだ。さっきの告白を受けていては、この子はあたしの言いなりに――――人形のようになってしまう。例え、あたしにその自覚が無く、本人もそれに満足してしようとも。

 

 ――――それに、それでは完全に卑怯だ。

 

 ユウキさんとシノンさん、それにサチさんにランさんはまだ告白していない。

 傲慢かもしれないが、あたしは彼女達の想いを蔑ろにしたくない。

 仮に本当にキリトがよく考えた上で告白してくれたなら、彼女達の事を無視してでも受け容れただろうけど、さっきの義務感に塗れた告白を受け容れていては真剣に想いを寄せている彼女達を侮辱するに等しい行いになる。彼女達が恋をしたのは、義務感に走っていると言えど確かに自分自身の意志で決めて動いていたキリトの眩い意志と姿。あたしが受けてしまっていたら人形にしてしまい、その姿を永遠に奪う事になる。

 彼女達の想いは安くないし、あたし自身の想いだって軽くない。人形にしてしまってでもキリトを手に入れたいと思う程あたしは邪悪でも無い。

 この後、あたしは折を見て彼女達に告白した事を告げる。それは彼女達を焦らせ、けれど時を見て同じように想いを告げるという行動へと向かわせる筈だ。

 傲慢で、侮辱しているような行為にも等しいが、それでいい。この場合選ぶのはキリトであり、そのメンバーに入る為には彼女達自身も告白するしかない。告白する前に終わってしまうなど、恋愛では大打撃にも等しい、それが一年半以上も共に命を懸けて戦って来た相手ともなれば尚の事。何時死ぬかも分からないところで共に戦い続けて来たからこその絆というものがあるのだ。それを踏み躙るなど言語道断。

 それに、キリトがこれに関して結論を出すには、まだ幼過ぎる。この歳でも十分過ぎると言えるくらい世間の事を知っているが、それでもまだ足りない部分がある。未来の事を考えられているが、まだ不確実な部分がある。

 明るい未来を切り拓けるのが何時になるかは分からないが、それでもそんなすぐにとは思えない。同時、そんな遠いとも思えない。

 神童アキトはかつての実弟《織斑一夏》の生存を知り、現在を知った。現実へ生還出来たとすれば、そう遠くない未来必ず接触を図って来る、命を狙って。

 それに対抗するこの子は、きっとそれを皮切りに様々な騒乱に巻き込まれるだろう。

 そして、それが終わればキリトの未来は晴れると思うのだ。人の評価は良悪表裏一体、今は《織斑秋十》が良で《織斑一夏》が悪だが、あの性格と振る舞いでは遠からずその評価は反転する。そうなればこの子の未来は約束されたも同然。

 それが何時になるかは分からないけれど、でもきっと、この子が成人する前には決着が着く。

 着かないのなら、愛の逃避行にでも洒落込めばいい。

 

 ――――その時、あたしが生きていたなら、だけど。

 

 この子の義理の姉となっているあたしも、リアルに帰ってからは色々と辛い現実が待ち受けているだろう。和人の命を狙う輩があたしを狙わない筈が無くて、それが原因で命を落とす可能性も無いとは言えない。生きようとは思うが、幾ら腕っぷしがあったって銃火器やISには敵わない。

 出来る事なら、この子の未来を傍で見届けたい。

 欲を言えば隣が良いけれど、そうでなくとも構わない。この子が自分の意志で他の女性を選んだのならあたしはそれを尊重し、喜び、心から祝おう。それが義理の姉であるあたしがすべき事であり、したい事なのだから。

 だから……

 

「他の人へ想いを向けても構わない、あなたの意志で決めたのなら……そう、あなたは、あなたの意志で、あなただけの人生を生きて。誰かの言いなりなんかじゃない、誰かの為だけじゃない、あなた自身の意志で生を謳歌して……それが、義理の姉としてのあたしの願いなの。ずっと蔑まれて、道を阻まれ、《ビーター》や【黒の剣士】として生きて来ているあなたは、もう自分の思うがままに生きて良い……ううん、本当はどんな人も、ある程度の節度を持っていれば、自由に生きて良い。好きな道を進んでいい……誰に強制されていいものでもないのだから」

「直姉……」

 

 思っていた事以上の事を言われたように目を瞠る幼い義弟。あたしはその子の頬を、優しく触れる。

 

「お願いだから、自分の人生まで誰かの為に捧げようと、委ねようとしないで……それだけは、絶対にしちゃだめ。それをしてしまったら、あなたは自分の意志で生きられなくなる」

 

 それはあたしの望む事では無いし、この子も絶対に幸福にならない。

 幸せとは、享受されて得るものではない。自ら手に入れにいくものなのだ。

 あたしはこの子の幸福の為に、人形になったり義務感で行動を縛ったりする行動を戒める、それがこの子の為だから。それ以外は頼まれれば手を貸すし、そうでないなら見守ろう。この子の手に負えない事が出来たならこっそりと手を貸したりもしよう。でも基本はこの子の意志に任せる。

 勿論そこには、誰と添い遂げるかも含まれている。

 

「だから……もっと大人になって、まだあたしの事を想ってくれていて、そしてあなた自身もそれを望んでくれていたら、また言って。あたしの想いを受け容れてくれるか、それともあたしとは添い遂げないと言うか、そのどちらかを受けるまでずっと待ってるから」

「……うん」

 

 結ばれるか、振られるか。

 そのどちらかの答えを出されるまでずっと待っていると言えば、キリトは小さく頷く。

 真剣な面持ちで頷いてくれて、しっかりと聞いてくれたのだと分かって何だか嬉しい。

 図らずしもこの子にあたしの想いを知られてしまったが、仮に告白したとしてももっと後に答えを貰うつもりだったから、これでいい。先延ばしになるが、答えを出すキリトにとっては大助かりな選択な筈だ。何しろまだ幼い上に未来に不安を抱いているのだ、そんな状態で答えを急かしても、後悔しか待っていないだろう。

 

「ふふ、素直でよろしい……――――さぁ、起きましょうか。もう鍛練の時間だから」

 

 気が付けば、視界右上に表示されている時刻は既に午前五時十五分になっていた。何時もより十五分ほど遅れての活動開始だ。

 でも……うん。義弟に想いを知ってもらって、それを考えるよう告げられたのだ、これくらいは許容範囲。むしろ必要な時間だったと考えれば有意義とすら言えるだろう。何はともあれ想いを知ってもらったという事だから一歩進んだと見てもいい筈だ。

 この子とあたしが結ばれる未来はまだまだ遠いし、ひょっとしたら別の女性を選ぶ事であたしとは結ばれないかもしれない。

 そう考えるとちょっとだけ怖くもあるけれど、それでもあたしが義理の姉である事は変わらないし、この子が自分の意志で生を謳歌出来ているのなら満足だ。最低限それが満たされているのなら、あたしはそれでも良い。

 和人が己の意志で選んだ道ならば、そしてそれが幸せな未来へ続くのならばあたしは異を唱えまい。

 

「さぁ、今日の鍛練を始めましょう。どこからでも掛かって来なさい」

 

 ユイちゃんを起こし、彼女が有するGM権限で《OSS試験場》という名の広い修練場へと移動したあたしは、一礼をしてからユイちゃんとナンちゃんを観客にそう切り出す。それに対し、幼い義弟であり、あたしの唯一の弟子も礼をした後、隙無く無手で構えを取った。

 互いの準備が整った事を視線で確認し合ってから数瞬後、あたし達は互いの距離をゼロへと縮め、拳打と蹴撃を交え始めた。

 

 ***

 

 リーファちゃんの思わぬ激怒と叱責、そして大喧嘩があった翌日の早朝。

 午前六時にセットしたアラームで目を覚ましたわたしは、手早く身支度を整え、忘れ物が無いか入念にチェックしてから部屋を出た。

 がちゃ、と音を立てて扉を開けて廊下に出たところで、丁度隣の部屋から、長年の相棒であるフィリアちゃんが出ていたところだった。プレストアーマーにソードブレイカー、蒼いフーデッドコートを羽織っているその姿は準備万端な様子だ。

 

「おはよう、フィリアちゃん」

「ああ、レイン。おはよう」

 

 軽く挨拶を交わした後、まだ眠っているだろうリズベットちゃん、シリカちゃんに配慮して静かに階段を下りる。

 リーファちゃんは多分管理区で夜を過ごしたと思うので居ないと判断している。実際、フレンドリストを見れば追跡不能とあったので予想通りだろう。

 シノンちゃんはと言えば、二階のキッチンで手早く朝ごはんを作っていた。後から起きて来る二人の為に保存が利き、且つ《料理》スキルが低くても手軽に食べられるサンドイッチを複数作ってくれていた。

 

「おはよう、シノンちゃん」

「おはよう。手早くサンドイッチを作ってるから、食べましょう」

「ありがとう」

 

 キバオウの配下達の乱暴によって彼女が普段着としていた黒いインナーやホットパンツ、動きやすさを重視した緑衣が喪われていたので、昨日の内に手早く私が作成した服を彼女は来ていた。彼女の元の服を基に作ったため、性能違いなだけで見た目は同一。無論リーファちゃんの服もだ。

 惜しむらくは、リーファちゃんの愛刀は外周部テラスに落ちていたようで、ディアベルの連絡を受けた軍メンバーがメッセージに添付して送ってくれたので事無きを得たのだが、シノンちゃんが持っていた短剣はキリト君が殺したプレイヤーの誰かのストレージに入ったまま消失してしまった事。

 彼女の短剣はキリト君自らがレア素材を用意してまで鍛え、彼女に渡した逸品で、彼女のレベルに見合った短剣の中ではトップクラスの性能を有していたという。彼の話によれば、最前線プレイヤーの平均レベルがシノンちゃんと同等の頃では魔剣級の性能だったらしく、実質レベル四〇後半のプレイヤーが有するものと性能では互角だったらしい。最大まで強化すれば五十層でも十分通用する程の代物だったのだ。

 流石に五十層台の中頃ともなれば苦しくはあるが、それでも今の彼女にはこれ以上無い程の逸品だった訳だ。最大では無いにせよある程度強化してもらっていたようだから、短剣ガルムを喪った事を、彼女はとても悲しんでいた。

 今は私がリズベットちゃんから買い取った鉱石から鍛えた短剣を装備しているけど、それでもやはり、彼のもとには劣る。そもそも間に合わせの品という事もあるだろう。

 そう考えつつ手早く朝食を済ませたわたしは、フィリアちゃんとシノンちゃんを伴って店の裏口から静かに出て、まだ日が完全に出ていない薄明るい大通りを転移門広場に向けて歩く。

 流石に午前六時過ぎとも朝早くて全然人はいない。今の状況が何ら変わりない日々であれば居たかもしれないけど、今はパブリックスペースで寝床を毎晩争っている人が多く、気が立っている。一度眠りに落ちれば、それはもうぐっすりだろう。早くに起きてもまた二度寝をする者が大半な筈だ。

 七時にもなれば朝ごはんを食べにこの商店街区域を歩く人は多くなるのだけど、それを狙ってこんな朝早くから起きたので、そうでなければ逆に困る。

 こうして早起きしたのは、単純に今日から《ホロウ・エリア》の探索に入るからだ。

 攻略の方はディアベルさん達が中心となって対集団戦の簡単な指揮・戦法を作っているらしいので、一先ず今日のところはそれで凌ぐらしい。キリト君が出来るだけ早くノウハウを書いた書物を作ってくれればいいのだが、と昨夜別れ際に言っていたのは記憶に新しい。

 ただまぁ、流石に昨日の今日でそんな作業は出来ないと思う。

 それはキリト君の気分や調子という意味でだし、同時にリーファちゃんや何故か大人の姿になっているユイちゃんが今夜ばかりは許さないだろうと思っての事。ゆっくり休むようキツくお説教されたばかりなのだから流石に許さないと思ったのだ。

 ちなみに、《ホロウ・エリア》の探索にユウキちゃんの協力は必須だけど、彼女とは転移門の方で落ち合う約束になっているのでまだ一緒では無い。

 

「んー……朝早いと眠くて辛いけど、空気が一段と美味しく感じられるね」

「まぁ、そうだけどさ……わたしって低血圧だから、レインみたいにシャキッと出来ないんだよねぇ、朝……」

 

 ふわ、とわたし以外に人が居ないからと大欠伸をかますフィリアちゃん。そんな彼女の頬を、わたしは両手で摘まみ、ぐにーと左右に引っ張った。

 

「ふひゃ?! ひょ、ひょうひたの?!」

「女の子が大欠伸なんて大っぴらにしちゃダメでしょ。例え人が居ない場所でも、そういう細かいところも気を付けないとクセで出ちゃうんだから」

「わ、わはっははらぁ! はなひへぇ!」

 

 分かったから、と涙目で言って来たので、一先ず許してあげようと決めて手を離す。途端フィリアちゃんのもちもちのほっぺは少し赤みを足しつつ元の状態に戻った。

 触り心地良かったなぁとほくほく顔のわたしを睨んで来ているが、全然怖くないのでそれをスルーして転移門へと歩く。

 

「何をやってるのよ……」

 

 そんなわたし達を見たシノンちゃんは呆れた風に言葉を洩らす。

 聞けば彼女は今年高校受験をする年だと言うから、囚われた時点で高校二年だったわたしとフィリアちゃんの四つ年下という事になるのだけど、そうは思えないくらい大人びている部分がある。もしかすると過去に今の落ち着き様を形成する何かがあったのかもしれない。キリト君という年齢と態度が明らかに隔絶している人物を見ているからこの予想は正しいだろう。

 

「大体フィリア、あなた、朝食を摂っておいてまだ眠気があるの?」

「だって、眠いものは眠いんだもん……それに低血圧だし」

「昨日《ホロウ・エリア》探索について熱く語っていたし、今回は単純に興奮して睡眠不足になっただけなんじゃないかしら……」

「あ、あははー……」

 

 シノンちゃんのじとっとした半眼と鋭い指摘を受け、フィリアちゃんは目を泳がせて視線を逸らす。その反応は言外に認めているも同然だ。

 確かに昨日《ホロウ・エリア》から帰った後、彼女は未知のエリアを探索する事に対してとてもポジティブな思考を持って、トレジャーハンターとしての熱意を語っていた。遠足前の子供のように興奮で眠るのが遅くなったり浅くなっていてもおかしくはない。そこに低血圧のコンボと来れば、後はお察しである。

 つまりは彼女の自業自得だ。

 そんな訳でお仕置きと称してほっぺを触れたわたしは何だか得した気分なのだが、流石に今日の探索に響くようだと本格的にお仕置きをしないといけないとも考えている。キリト君や、実はリアルでは彼の武道の師をしていたというリーファちゃんには劣るが、これでもフィリアちゃんの師の立場、体調管理くらいはしっかりするよう指導しなければならないと思う。

 ただ、これでも彼女はペース配分はキチンと出来るから、休憩が必要になったらその都度言ってくれるだろう。トレジャーハンターとして連日ダンジョンに潜るのも茶飯事になってからは疲労に対し強くなっているようにも思うから、そこは信じるしか無い。

 その代わり、もしも寝不足が原因でヘマをしたら、お仕置きだが。

 

「っ……? 何か、今、悪寒が……」

 

 どんなお仕置きが良いかなぁと考えていると、わたしの思考を鋭く察したのかフィリアちゃんがぶるりと身を震わせてそう言った。

 こういう風に彼女、かなり勘は鋭いのだけど、玉に瑕なのがその悪寒をすっかり忘れてしまう事。《圏外》にいる間に悪寒を覚えたという彼女の勘に従って動いた事で命を救った事が何度あったか知れない。だからその勘はとても頼りになるのだけど、当の本人が忘れてしまっていたら意味が無い。

 まぁ、今回に限っては別に忘れてくれても良いけど。

 そうこうしている内に、わたし達は商店街区域から転移門と《圏外》へ出る為の大門がある広場に到着した。

 大門を潜るところの左右には門番が居るのだけど、今日はお休みとなっている《風林火山》のギルドメンバーの男衆が夜中の警備を担っていた。昨日予め、今日の朝早くに《ホロウ・エリア》へ転移するという事で、《圏外》へプレイヤーが出ないように立つ担当を、この事情を知っているメンバーにしたらしい。それで選ばれたのが彼らという訳だ。

 第七十七層の転移門がアクティベートされればこんな面倒な事をしなくて済むのだけど、現状でそれを言っても仕方が無い。出来るだけ早く攻略を進める以外に方法が無いのだから。まさか転移結晶をわざわざ使うのも勿体無いし。

 

「お、どうやら来たみたいだナ」

 

 そう考えながら転移門に近付いたところで、朝焼けも来ていない薄暗い中、転移門の四方に設置されている蒼白い結晶体の明かりに照らされている小柄なプレイヤーがこちらを見付けた。薄茶色のフーデッドコートや素早さを重視した衣装を纏っているその人物は情報屋のアルゴさんだった。その隣にはユウキちゃんが眠そうな顔で欠伸をしていた。

 そのアルゴさんの顔を見て、わたしは首を傾げる。

 

「あれ、今日あっちに行くのってわたし達とユウキちゃんだけだった筈じゃ……」

「最初はそうだったんだけど、ひょっとしたらキー坊が早速やってくれてるかもしれないからと思って行く事にしたんだヨ。それに昨日は碌に話せなかったからナ。こう、直に話さないと安心出来ない部分があってサ」

 

 どうやらそういう訳らしい。

 納得した後、わたし達はユウキちゃんの誘導で《ホロウ・エリア》へと転移した。

 転移した先には、寝袋の中で眠るルクスちゃんと、そんな三人を見守りつつコンソールの前でユイちゃんが何かをしているという光景が広がっていた。

 

「……あ、皆さん。おはようございます」

 

 転移の光と音でこちらに気付いた大人の姿――更にわたしより少し背も高い――ユイちゃんは、にこりと笑みを浮かべて挨拶すると、左手を一つ振ってコンソールから発生していた数枚のウィンドウを纏めて消した。

 それからこちらに静かに近付いて来る。

 

「出来るだけ静かにお願いしますね。まだルクスさん、眠ってますので」

「分かってるわよ……でも、キリトとリーファは?」

 

 ユイちゃんのお願いに快く頷いたシノンちゃんは、続けて誰もが抱いている疑問を口にした。

 その問いを受けたユイちゃんは、《アインクラッド》との懸け橋である転移門から見て右にある二つの床に刻まれた文様の内、奥の水色の紋様を指差した。他の紋様は色が薄暗いのに、アレだけ明るく明滅し、光の円筒が立ち上っている。

 昨日見た時は確か、アレも薄暗かった筈だけど……

 

「あの文様型の転移門を通って、別のエリアで鍛練をしています。何でも朝の日課だとか……」

「……あー、そういえばやってたわね、あの二人」

 

 ユイちゃんの答えを聞いた途端、シノンちゃんは思い出したように言った。

 聞くと、キリト君の家に居候し始めた頃はしていなかったようだけど、それも日が経つと、リーファちゃんはするようになったらしい。大体午前五時頃に起きて、それから一時間と少しほど素振りをするのだとか。

 キリト君もリアルに居た頃はしていたそうだが、SAOに囚われてからはずっと最前線で戦っていたからしていなかったらしい。七十五層ボス戦前で迷宮区攻略へ行く日の朝と夜は、リーファちゃんと一緒に素振りや無手での組み手を習慣としていたという。

 

「どうもリアルの頃からの日課だそうですよ。今は、キーの剣は既にある程度固まっているから、無手でしているようです。ちなみにさっきコンソールで見ていたのはその様子ですが……見ますか?」

 

 控え目に問われ、わたし達は気になったので頷いた。どちらにせよこちらに来ても、キリト君が居ないのでは手持無沙汰だったのもある。

 わたし達が頷いたのを見たユイちゃんは、ルクスちゃんを起こさないよう静かにコンソールの前へと戻って行く。わたし達も同じように静かに移動し、彼女が起動したコンソールから出たウィンドウの内、《OSS試験場》と表示された映像ウィンドウへ目を向ける。

 OSS、というのが何かは分からないけど、今は流す。

 

『はッ!!!』

 

 その映像は、丁度仕切り直しの為に距離を開けたキリト君が再度詰めたところを映し出した。途轍もない速度で疾駆する彼の先には、左半身を前にして軽く両手を持ち上げ構えているリーファちゃんがいる。

 その彼女にキリト君は右の拳を突き出した。

 

『甘い……!』

 

 その拳を、リーファちゃんは左掌で弾き、自分の体の右側へと逸らす。疾駆の勢いも拳に乗せていたキリト君は逸らされた方向へ体も僅かに傾いた。

 

『破ッ!!!』

 

 直後、リーファちゃんは上半身を捻って右の掌底を放った。その軌道は昨日の姉弟喧嘩の最中にも見たようにがら空きの鳩尾だった。

 

『ッ……!』

 

 しかし、昨日の事から学習したか、それとも昨日と違って今は冷静になっているからか、その掌底に対し彼は俊敏に反応する。伸ばしている右腕を引いて肘を曲げ、同時に右脚の膝を曲げ、両者の先端がぶつかるように体を動かした。

 そして、リーファちゃんの掌底は不発に終わる。手首を肘と膝で挟まれ止められたからだ。

 

『だから――――甘いッ!!!』

 

 思わぬ方法で渾身の一撃であろう掌底を止められたリーファちゃんは、しかし冷静に、冷徹にそう批評を下し――――後ろに伸ばして踏ん張ってた右脚の膝を、自身の右腕を挟んでいる事でどうにも出来なくなっているキリト君の鳩尾で叩き込んだ。しかも挟み込まれた右腕を引いていたため、若干相対速度が働いて威力を増大させるおまけ付き。

 

『ご、ふ……ッ?!』

 

 苦悶の声を洩らしながら、体をくの字に曲げたキリト君は堪らずリーファちゃんの手首から腕と足を外し、その場に無抵抗で膝を突く。それでも彼は諦める意思が無いのか、床に落ちても今の戦いの相手であるリーファちゃんへとすぐさま顔を向けた。

 

『あたしの勝ちよ』

 

 顔を上げたところで、彼の眼前には指先を揃え切っ先の如く鋭く構えたリーファちゃんの貫手があった。その指先は、キリト君の喉元を狙い澄ましている。

 

『……参りました』

 

 それを見て、今からどう動いたところで彼女には対応されて負ける、みっともない足掻きと判断したようで、彼はとても残念そうに目を伏せながら降参した。

 リーファちゃんはその降参を受けた途端、冷たさを感じさせる冷徹な表情を温かな笑顔へと一変させ、貫手を解き、膝を屈しているキリト君へと手を差し伸べる。

 

『はぁ……また負けた。これで今日だけでも五十戦五十敗か……この世界で戦ってきた経験で強くなってる筈なんだけどなぁ。何でリー姉、そこまで強いんだ』

 

 差し伸べられた手を取り、引っ張り上げてもらいながらキリト君は文句を言う。

 それにリーファちゃんは笑みを微苦笑にした。

 

『そりゃああたしはキリトの武道の師、目標になれるよう簡単には追い抜かせてあげられないのよ。それにあたしはお姉ちゃんなんだから見栄を張りたいの。簡単に負けたくないんだよ』

『ステータス補正が掛かってる俺の攻撃を完全に見切り、力を上手く逸らし、逆に利用して重い一撃を放てるだけでも、多分SAOで一番の技術達者だと思うんだけど……』

『そう言ってくれるのは有難いんだけどね……というか、そもそもキリトは狙いが素直過ぎる。あんな速度の突進を上乗せした一撃なんて『逸らしてください』と言わんばかり。仕切り直し直後に大振りの攻撃を選択するのは下策も下策。上策はパターンを掴めないよう翻弄して、相手のリズムを崩した瞬間に叩き込む事。剣を持ってると凄いけど、無手だとスピードを始めとしてステータスの高さに頼り過ぎよ、低ステータスのあたしに良い様に翻弄されるくらい剣での経験を活かせてない。もっと鍛えた技術と経験を無手にも応用する事。良い?』

『うぅ……』

『――――返事は?』

『はいっ!』

 

 立ち上がったキリト君に、リーファちゃんはさっきの数秒で決着が着いた勝負の批判をしていく。

 その批評を受けて若干涙目になった彼を見て途端にイイ笑みを浮かべて返事を催促して震え上がらせる彼女は、昨日も思ったけど実は物凄い傑物なんじゃないだろうかと思った。姉弟の関係を抜きにしてもかなり肝が据わっている彼を鍛錬の指導で涙目に出来るのは彼女くらいじゃないだろうかと思う。

 そう思考しつつ、キリト君へと改めて視線を向ける。

 昨日の大喧嘩が功を奏したのか、この管理区で再会した時の無感情・無表情というどこか空ろな印象は今は見えない。上手く取り繕っているだけなのかもしれないが、わたしの記憶にある限り、あそこまで楽しそうな少年の姿はほぼ皆無と言える。教会でご飯を作って振る舞ってくれた時はそれなりに楽しそうにしていたけど、今はあの時の比では無い。

 昨日の喧嘩の後、リーファちゃんの言葉を素直に受け止めている時や今の彼の姿が素なのだとすれば、今まで見て来た彼はやはり無理をして《ビーター》を演じていたのだと思う。あの年齢の子にしてはおかしいくらい大人びていたし、表向きリーファちゃんに甘えている様子もあまり無かった。

 だからきっと、今のキリト君は良い傾向にあるのだと思う。今まで背負って来た全ての責から図らずしも解放された――それを許された――事で、今の彼は何にも囚われていない素の姿なのだ。

 その苦しみがこれ以上積み重なる事の無いよう願うばかりである。

 

「――――あれ、皆さん、もう来てたんですか」

 

 そう考えている間に、どうやら朝の鍛錬は終わりになったようで二人が管理区の方に戻って来た。

 蒼い紋様の光から姿を現したリーファちゃんとキリト君は意外と思っているのが分かる面持ちで、こちらを見て来ている。キリト君の肩にはナンちゃんが留まっていて、主人の頬に頬ずりしていた。どうやらウィンドウに入っていなかったらしい。

 その彼が、使い魔の喉元を指先で擦りながら、困ったように眉根を寄せる。

 

「参ったな……ルクスが寝ているのを見れば分かると思うけど、まだ朝ご飯食べてない……」

「あ、大丈夫だよ。ボク達それを承知で来てるから。ついでに朝食の準備を手伝うつもりだよ」

「……なら手伝ってもらおうか。皿が足りないから、お握りにしよう。あとは残りの食材で適当に付け合わせを作るか」

 

 こちらが全員朝食を摂っていて、待たせてしまう事を困ったと言ったようだったが、ユウキちゃんとアルゴさんは食べずに来たようだった。

 彼女達に手伝ってもらえる事を知って、メニューを大人数で食べられて且つ大皿が少なくて済むお握りにしたようで、炎のチャクラムを床に置いた彼はその上に大鍋を置き、更に中に食材アイテムである米と水色の細剣で出した水を入れて浸し、更にストレージから取り出した小瓶の中身をかなりの量入れてから蓋をし、火に掛ける。

 鍋の上に炊き上がりまでの時間――およそ五分――が表示された後、もう一枚の炎のチャクラムの上に大きめのラウンドシールドを置き、そこに大きな肉を落とす。火に掛けた後、ジュージューと油の温度が高まって肉が焼けていく音をBGMに、彼は幾つもの調味料を肉に振り掛けていった。早速香ばしい匂いがして、さっき朝ご飯を食べた後なのにお腹がきゅぅと小さく音を立てる。

 

「ユウキ達は手袋を外して、お握りを作る用意をしておいてくれ。俺は肉を担当する」

「分かったけど……キリト、塩は?」

「さっき入れた中身だ、塩味のご飯になってるからわざわざ振り掛ける必要は無い。生憎と海苔は出来てないから我慢してくれ」

「あ、ボク、アスナから譲ってもらった海苔持ってるよ」

 

 どうやら炊く時点で塩を投入したらしく、いちいち塩を振る必要が無いらしかった。

 そういう炊き方もあるのかと感心していると、更にアスナちゃんが作った海苔を持っているとユウキちゃんが言った。キリト君でも作れていないものを作れている辺り、彼女も相当の料理研究家だと思う。

 

「あ、そういえば……アルゴ、これ」

 

 香ばしい匂いを出している肉を焼きながら包丁でスライスし、更に調味料を惜しまず振り掛けていくキリト君が、そこで何かを思い出したようにウィンドウを表示した後、何かをアルゴさんに送った。

 

「これハ……まさか、もう出来てたのカ?!」

「あれ、それ目当てで来たんじゃないのか?」

「いや、確かにそうだケド……昨日の今日だから流石に無理かなと思ってたから驚いたんだヨ」

「直接的に攻略出来ないにしても、間接的に出来るならしておくに越した事は無いからな。それに今はシステム障害が出てから初めての攻略を開始したばかり、所謂準備期間というやつだ、その間にどれだけ備えと体勢を整えられているかが今後の鍵となる」

 

 そう言ったところで、彼はフライパン代わりのラウンドシールドを動かしつつ、焼いている肉を順に裏返していく。程よい焼き目が出来ていてとても美味しそうだ。

 

「それなら、多少無理をしてでも休めている今の内にその手伝いをしておいた方が良い。どちらにせよグリーンに戻ってからは俺も攻略に復帰する訳だし」

「それは分かったけど……キリト、あなた何時の間にそんなものを書いてたの? 昨日は朝までずっと寝ていた筈だけど……」

「さっきの鍛錬で休憩を取っている間にパパっと書いておいた。突貫作業だから不備があるかもしれないけど」

 

 どうやらリーファちゃんとの組手の休憩時間に手早く書いてしまっていたようだ。そんな短時間で纏められるくらい、彼の中では対集団戦の注意点やコツを意識出来ている事だろう。

 ご飯を作る間にそれを読み込み、お握りとお肉を手早く食べた後、疑問点や曖昧な部分に関して質問をして必要な情報を纏めた彼女は、ディアベルさん達に伝える為に早々に《ホロウ・エリア》を後にした。攻略へ出かける前に伝えておくことでそのまま攻略速度に直結するからだ。

 その姿を見て、どこか達成感のある明るい面持ちでお握りを頬張っていたキリト君は、どこか今まで以上に年相応に見えた。

 




 はい、如何だったでしょうか。

 キリト過去一番の大混乱回でした(笑) それでもやっぱりシリアス(泣)

 キリトは重責から一時的に解放され、リーファの叱責によって意識が完全に切り替わった為、本当の意味で《桐ヶ谷和人》になったと言える状態。千冬にはともかく、アキトに対しては迷いをもう抱きません。

 ずっと《織斑》としての思考に囚われていた為の視野狭窄から解放されて、視野が広くなった途端、それまで余裕が無かったが故に気にし始めた《キス》について動揺。この年頃でハッキリとした行為をされたら動揺くらいはすると思うんだ(今まで無かった事がキリトの異常性の顕れ)

 そこから遠回しながらもリーファの想いが明かされ、視野が広がり且つキスという行為をされたが故にキリトはそれを理解。

 そこで問題になったのが、キスという取り返しのつかない行為への代価として自分の人生を明け渡そうとした事。責任を持たないと、という思考がキリトを暴走させ、リーファが寸でで止めた根幹です。無論リーファ視点で語られているように他の理由もありますが、やっぱり『自分の意志で生きて欲しい』という想いを強く抱いているリーファなら止めないと。

 仮にキリトがリーファに好意を抱いていて、キスで想いがどういうものかを理解して、リーファが窘めている時にキスをし返していたら、ゴールイン確定でしたね( ´艸`)

 ともあれユウキ、シノン、ユイ、アルゴよりも格段にリーファはリード。今後の描写が楽しみ、主にキリトの混乱具合(嗤)

 それから本作で初めてと言えるキリトとリーファの鍛練風景。キリトは既に我流で剣腕を磨いているため、この世界では無縁な無手の方の鍛錬に。リーファがキリトを圧倒出来ているのは無手での経験と技術が上だから。SAOで強くなってるとは言え、無手の経験は少ないし、他の戦闘経験を完全に反映できる程では無いので。

 なので無手だとリーファ≧キリト≧千冬≧束>その他という感じ。本作のリーファは剣道の他にも色々とやってて、キリトに教えてますからね。

 尚、無手リーファのイメージは、Fate/Zeroの全盛期愉悦神父(嗤)

 では、次話にてお会いしましょう。

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