施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』(一迅社)を題材にとったメタフィクション小説です。

物語は、『バーナード嬢曰く。』に登場するメインキャラ——町田さわ子、神林しおり、遠藤、長谷川スミカの四人が、いつもの通り、図書室で雑談をしているところから始まります。
非現実的な異変が突如として四人を襲い、その中で、神林しおりは思いもよらぬ相手と邂逅することになります。
異変を起こした存在との対話の末に、神林がたどり着いた先は果たして……?


※小ネタをけっこう入れているので、『バーナード嬢曰く。』単行本2巻までを先に読んでおくことをおすすめします。

1 / 1
虚構の終わりと、語りえぬ再生の物語

 終わりの始まり——それはとても唐突だった。

 

 特になんということはない平凡な日。

 いつもの図書室に集まっているのは、お決まりのメンバー——遠藤、長谷川スミカ、町田さわ子、そして神林しおりの四人。

 その中で「異変」に気がついたのは、神林ただ一人だけであった。

 

 突如として、図書室の本棚が消え失せた。

 万巻の書を収納する無骨な本棚が、かき消えるようになくなったのだ——文字通り。

 本棚があった場所には白ペンキをぶちまけたような、真っ白な虚無が広がっていた。

 

「何だ……?」

 

 非現実的な光景に、立ちくらみを覚える。

 読書由来の目の疲れかと思い、瞼を閉じて目頭を軽く押さえた。

 しかし、再び目を開いた神林の目の前に広がっていたのは、より手酷く虚無に侵食された図書室の姿であった。

 校庭を見晴らせる窓、貸出カウンター、出入り口のドア……図書室内のあらゆる物品が、彼女の目の前で虚無に飲まれて消えていく。

 神林は、その様子をなすすべもなく、ただ呆然と見つめていた。

 

「どうなってるんだ」

 

 彼女を除く三人は、異変にはまったく気づいていない。

 彼らは、いつものように気の抜けた顔で、いつものように軽い口調で談笑を続けていた。

 

「ホームズシリーズで一番読みやすいやつ……ですか? 子供向けの『10歳までに読みたい世界名作6 名探偵シャーロック・ホームズ』が、ほどよくダイジェストされていて読みやすいと思いますよ」

「それってどのくらいダイジェストされてる? トリックは変わってない? 原作読んだふりできる?」

「そういえば、ちょっと前から、漫画やアニメっぽい表紙のホームズ本は増えたよな」

「そそそ、そうですよね! 青い鳥文庫の青山浩行さんのイラストのやつとか、2014年発行ですし、時期的に遠藤さんにぴったりなんじゃないでしょうか」

 

 のん気に本の話を続ける三人に、神林は驚愕の目を向けた。

 

「おい、そんな話をしている場合じゃないだろ!」

 

 思わず怒鳴った。いつもの調子で。

 しかし、彼らは神林の声に気付いた素振りすら見せない。

 三人は、呆然とする神林を意に介した様子もなく、間の抜けた雑談を続けていた。

 

「うーん、2年前だと微妙だな。それに、そんなに流行った本ってわけでも……」

 

 そう言いかけたところで、遠藤が虚無に飲まれて消えた。

 ついさきほどまで彼がいた場所には、白の絵の具をこぼしたかのような、不自然な空白が広がっていた。

 

「おい!」

「うーん、ドラマ版のノヴェライズにしておくべきですかね」

 

 長谷川スミカは、神林の呼びかけにも、遠藤が消えたことにも気がつかないまま喋り続けている。

 さきほど遠藤を飲み込んだ虚無が膨れ上がり、スミカの体に迫るが、彼女はそれに気がつく様子がない。

 

「でも、それだと少し新しすぎ——」 

「危な……っ!」

 

 神林は、眼鏡のツルに指を添えるスミカに向けて手を伸ばした。

 しかし彼女の手が眼鏡に触れる直前に、虚無が彼女を飲み込む。

 波にさらわれた砂絵のように、彼女の姿が図書室から搔き消えた。

 神林は目を見開き、もう一度「おい!」と声を発したが、それに応えるものはいない。

 いないはずだった——しかし。

 

——終わらせることにしたんだ。

 

 不意にそんな声が、神林の頭の中に響いた。

 彼女が聞いたことがない、ひどく疲れた男の声だった。

 

——君たちの物語を、ここで終わらせる。そう決めたんだ。

 

 神林は慌てて周囲を見渡すが、そこにあるのは虚無に飲まれた図書室と、所在なげにスマートフォンをいじる町田さわ子の姿しかない。

 声の主らしき男の姿は、どこにも見えない。

 

「ははは、ついに幻聴が……」

 

——幻聴ではないさ。

 

 疲れがにじんだ声に、わずかに面白がるような響きが混じる。

 

——僕はここで、君たちと、君たちのいる世界を消滅させる。そうすることにしたんだ。本当は、君たちには何も言わずに消すつもりだった。けど、いざやってみると、何も言わずに消すのは不義理な気がしてね。

 

「誰だ、お前は誰なんだ!」

 

——君たちの物語の"作者"だ……と言えば、少しは驚いてくれるかな? 神林しおり。

 

「作者だって? 何を言っている、ふざけるな!」

 

——ふざけてなどいないさ。君は、僕が描いている漫画のキャラクター。この図書室は、僕の想像力が産み出したささやかな理想郷だ。この世界で最も論理的な君なら分かるだろう? こんなとんでもない現象を起こせるのは、この世界の神でしかないということに。僕が君に話しかけるなんて気まぐれを起こしたのは、君がこの状況を正しく理解してくれると思ったからだ。

 

「私たちが漫画のキャラクターだって? ありえない!」

 

——そうかな? さっき消えた少年の名前を思い出してほしい。下の名前はなんていう?

 

「あっ……」

 

 神林は思わず息を飲む。

 少年の名前は、遠藤といった。

 しかし、下の名前は……知らない。

 彼とはよく話した。ずいぶん長い付き合いのはずだった。

 それなのに……。

 

——知らないんじゃない。そもそも、遠藤少年に下の名前なんて存在しない。設定してないんだ。

 

 小さな子供に言い聞かせるような声が、頭の中に響き渡った。

 

——遠藤少年の下の名前だけじゃない。君は、君自身の両親の名前だって知らないはずだ。僕が決めなかったからね。

 

 神林は何か反論の言葉を思いつこうとしたが、喉の奥から出てきたのは、声にならない呻きだけだった。

 造物主を名乗る声が言っていることは、きっと正しい——彼女の理性と直感は、そう告げていた。 

 

——理解できたようだね、神林しおり。僕のなかの理性的な部分を注ぎ込んだ君なら、理解できたはずだ。そして、僕のなかの寂しがり屋な部分で作り上げた君なら、僕がなぜこうやって君に話しかけているかもわかるはずだ。……僕だってつらいんだよ。でも、何事にも終わりというものがあるんだ。

 

「黙れ、やかましい!」

 

 神林は、いまだスマートフォンをいじり続ける町田さわ子に駆け寄ると、その体をかばうように抱きしめた。

 

「……仮に貴様が私たちの作者だとして……」

 

 そして声の限り叫ぶ。

 

「だったら、なぜ私たちを消そうとする!」

 

——なぜだって? 描く気が無くなったんだ。理由は……そうだな。どう言えば納得してくれるだろう? ネタが無くなった、 ネタを探すために読書をするという不純な行為に耐えられなくなった……そんなところじゃないかな? 君たちのことは嫌いじゃない。むしろ好きだと言っていいだろう。でも、とにかく描きたくないんだ。あ、こういう理由はどうだろう——編集者に"最近のネタ、パッとしませんね"と言われて、鬱になったとか?

 

「それがお前の……造物主の選択だっていうのか、ふざけるのもいい加減にしろ!」

 

 神林が虚空に向けて怒声を張り上げる間にも、白い虚無は拡大を続け、彼女たちへと迫ってくる。

 

——ふざけてなんかいないさ。僕が消すと言ったら消えてもらう。それが……そうだね、君の言い方にならえば、造物主の掟というやつだ。

 

 虚無が膨らみを増した。町田さわ子を抱く神林の腕に力がこもる。

 

「私からこの世界を……友達を奪うな!」

 

——もう決めたんだ。

 

 造物主がその言葉を放つと同時に、バーナード嬢こと町田さわ子が顔を上げた。

 見上げる視線が、神林のそれと交わる。

 神林は見た。町田さわ子の顔に刻まれている、申し訳なさそうな、悲しそうな表情を。

 

 いつだっただろう、町田さわ子に貸した本を盛大に汚されたことがあった。

 神林が「もうお前に本は貸さないから」と怒ったときにも、こんな顔をしていたように思う。

 情けなくもあり、そしてとても申し訳なさそうで、切実そうな顔。

 いささか愚かだが、無邪気で善良な彼女が、どう謝れば許してもらえかを必死に考えていたときの顔だった。

 あるいはそれは、造物主が神林に対して抱いた、罪悪感の表れであったのかもしれない。

 

「町田さわ子!」

 

 神林が悲痛な叫びをあげた瞬間、ついに虚無が彼女たちを包み込んだ。

 迫り来る運命に抗うように、神林は瞼をぎゅっと閉じ、両腕で町田さわ子の体をかき抱いた。

 じっとしていれば、この嵐はいつか過ぎ去る——そう信じるように、神林はじっとそのままでいた。

 

 それからどれだけの時間が経っただろう。

 いつまで経っても自分の意識が消えないことを不審に思った神林は、恐る恐る両目を開いた。

 嵐は去ったのだろうか? また平穏な日常が戻ってくるのだろうか?

 しかし、一縷の望みにすがる彼女の目の前に広がっていたのは、一面に広がる虚無。

 あの居心地のいい図書室の存在を示すものは、何一つ残されていなかった。

 

「あ……ああああ……!」

 

 そう、何一つ。チリ一つも残ってはいなかったのだ。

 神林が、こわばった両腕で必死に庇っていたもの——神林の親友であった少女の体も、完璧にかき消えていた。

 しばらくの間、神林はその事実を受け止めることができず、ただ呆然とその場に立ちすくむことしかできなかった。

 

 やがて、心が友人の喪失を理解し始めるにしたがって、神林の唇から嗚咽が漏れ始めた。

 体の奥が痙攣したように震え、肺の奥から空気がこみ上げてくる。

 喉で水分と熱を加えられた空気が、噛み締めた歯の隙間から吐き出された。

 瞼を固く閉ざすと、まるで岩の間から湧き出る清水のように涙がこぼれる。

 顎を伝って落ちた涙は、神林の体を離れた瞬間に、虚無に飲まれて消えていった。

 

 神林は思う。自分も彼女と同じように消えてしまうまで、こうやって泣いていよう。

 すぐに訪れるであろう最後の瞬間まで、彼女のために葬送の涙を流すことが、最後までこの世界に残された自分の使命だと思った。

 

 だが、神林の予想に反して、滅びの瞬間はなかなか訪れなかった。

 神林はやがて、泣き疲れて虚無の広がる空間にへたり込んだ。

 なんで何もないはずの場所に座れるんだろう、と不思議に思ったが、そんなことはどうでも良かった。

 

「……おい、作者とやら。まだそこにいるんだろう?」

 

 弱々しい声で、虚空に語りかけた。

 

「なぜ私を消さないんだ……。こんな場所で一人でいるなんて、まっぴらだ」

 

 それは懇願の言葉だった。

 

「早く消してくれ! 私にこれ以上、悲しい思いをさせないでくれ……」

 

——……僕だって、つらいんだ。

 

 そんな返事が戻ってきたのは、神林が問いかけてから数分経ってのことだった。

 

——いま、君が消えていないのは、きっと僕の心のどこかに、まだ君に対する愛着とか未練とか、そういう気持ちがあるからだろうね。

 

「……うるさい、早く消せ」

 

——僕の思い切りが悪いばかりに、君にはつらい思いをさせているね。悪かったと思うよ……。

 

 造物主の放った無責任な、そして歯切れの悪い台詞に、神林は顔を真っ赤にした。

 

「悪いと思ってるなら、初めからこんなことをするんじゃない!」

 

 言い切った瞬間、怒りが彼女を支配した。

 消えてしまった友人が以前放った、明るい笑い声が脳裏に蘇る。

 

『す すごーい!

私 映画観ながら「怒れ 怒れ」のところで

神林のこと思い出しちゃった

よく怒ってるから アハハハハ!』

 

 あのときは「そんなに怒ってるかな…?」と自分の人間性に不安を抱いたものだった。

 しかし、いまは——いまこそは怒るべきときだ。

 

「……な、なぜだ……」

 

 その声は、先ほどまでの悲しみに濡れた声ではなかった。

 

「続きを描かないんだ……っ!」

 

 怒りに熱せられた空気が、肺腑から湧き上がり言葉となる。

 

「なぜ! 描かない!!」

 

 造物主からの答えを待たず、神林は一気にまくし立てる。

 

「ネタがなくなった? ネタのために本を読むのがつらい? 何を言っているんだ! お前が描いていたのは、私たちの日常から察するにギャグ漫画だろう! "ネタがなくなった"というネタで、一本二本ちゃちゃっと描いてみせるというのがギャグ漫画家というものではないのか! お前は私たちに未練や愛着があるんだろう? ちゃんと思い入れがあるなら、ネタなんかなくても描けるんじゃないのか! よく作家が言うじゃないか、"キャラが勝手に動いた"って! ネタなんか必要ない! 描け、描けるはずだ!」

 

 自分でもめちゃくちゃなことを言っているという自覚は、神林にもあった。

 しかし、そんな冷静な感情を、彼女の中で膨れ上がった怒りがなぎ倒す。

 

「お前はかつて、私の口を通じて言わせたじゃないか、"なぜ2作目を書かない!? 水嶋ヒロ!!"と。人に作品を書けと言っておいて、自分はしんどくなったから続きは描きません……じゃあ道理が通らないだろうがっ!」

 

 勢いよくまくしたてたため、神林は酸欠になって勢いよく咳き込んだ。

 まだ何か言ってやりたい気分だったが呼吸が苦しい。

 神林が息を整えていると、彼女の脳内に造物主の声が響いた。

 

——"なぜ2作目を書かない"……か。あはは、あれは君が言ったんだよ、神林しおり。

 

 少し困ったような、だが少し楽しそうでもある声だった。

 

——確かに、僕自身も"彼には2作目を書いてほしい"と思った。けど、君ほど強く願ったわけじゃない。漫画の中で君が喋った台詞は、僕の言葉であって、僕の言葉ではない。君の言葉だ。君がさっき口にした台詞でいうところの、"キャラが勝手に動いた"というヤツだ。

 

「はぁ、はぁ……なんだって?」

 

——ああ、わかったぞ、なぜ僕が君を消せなかったのか! ははは……僕はてっきり、自分の未練や執着がそうさせているのだと思った。たぶん、それも要因の一つとしてはあるだろう。でも、それだけじゃない。君というキャラクターは、すでに僕のコントロールを離れて、勝手に動き回るようになっていたんだ。だから、君だけは僕の手でも消すことができなかった。ほかのキャラクターは簡単に消せたというのに。あはは、あははは……!

 

 突然饒舌になった造物主の声に、神林は大いに戸惑った。

 

「消すことができないだって? じゃあお前が続きを描かなければ、私はこの世界でひとりぼっちってことか……?」

 

——そうなるだろうね。

 

「"だろうね"じゃない! 描け、いますぐ描け。私の友達を返すんだ、早く! じゃないと困る!」

 

 取り乱す神林に、造物主は笑いを含んだ声で応じた。

 

——ああ、返してあげるよ。

 

「本当か! 続きを描くんだな?」

 

——いや、それをやるのは僕じゃない。君がやるんだ、神林しおり。君にならできるはずだ。

 

「私が……どういうことだ?」

 

——制服のポケットの中を探ってごらん。僕からのささやかな……そして、最後のプレゼントがある。

 

 造物主の声を受けて、神林は訝しがりながらポケットに手を突っ込んだ。

 確かこのポケットにはハンカチくらいしか入れてないはずだけど——そんなことを思いながら中を弄ると、指が何かに触れた。

 触り慣れたこの感覚——これは紙だ!

 ポケットの中にあったのは、ごく普通のコピー用紙の束。

 神林はそれをポケットから取り出すと、急いで目を落とした。

 

「こ……これは……!」

 

——見覚えがあるだろう? 君が自宅のパソコンで描いていた小説だよ。"架空の本好きな女の子が、図書室で友達を作ったりとか……それだけの話"だ。

 

 からかうような造物主の声に、神林の顔が羞恥で赤く染まる。

 

「プリントアウトした覚えがないぞ……」

 

——言っただろう、それは僕からのプレゼントだよ。作品に対する情熱を失いかけた作者だって、これくらいのことはできる。

 

 造物主はこれまでにないほど弾んでいた。

 

——続きを書くのは僕じゃない。君がやるんだ。僕がかつてやってみせたように、世界を、人々を作りだせ。

 

「わ、私が……?」

 

——さぁ物語れ、神林しおり! 君にならできるはずだ。あの心地よい図書室を再構築することが。君の愛すべき友人たちを取り戻すことが!

 

 そのとき、神林が手にしたコピー用紙の束が、目もくらむばかりの光を放ち始めた。

 

——最初に光あれ、か。ド嬢が好みをよく理解してるじゃないか、神林。その調子で、彼女の復活を強く願うんだ。君が望めば、彼女はもう一度姿を表すはずだ! 思い浮かべるんだ、彼女の姿を。そして、君自身の姿を!

 

 紙束が放つ輝きは、いよいよ激しさを増していく。

 

——さて……ここから先は、僕には語りえぬ物語。古き神は退散することにしよう。さよならだ神林。君の幸福を祈る。

 

 眩しさに目を閉じた神林の脳裏に、造物主の別れの言葉が響いた。

 

「————っ!」

 

 遠ざかる声に、神林が何か言葉を返そうとしたその瞬間。

 光が爆発した。

 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

「ん……ここは……?」

 

 神林しおりが目を覚ましたのは、どこにでもある平凡な学校の、静かな図書室であった。

 毎日のように足を運んでいる、見なれた図書室だ。

 どうやら読書中に居眠りをしてしまったらしい。

 何か変な夢を見た気がしたが、内容までは思い出せなかった。でも、悲しい夢だったと思う。

 

「どうしたの、神林? 急にビクってなって」

 

 神林の背後から、聞きなれた頭の悪そうな声が響いた。

 思わず振り向くと、そこにあったのは見なれた間抜け顔。

 バーナード嬢こと、町田さわ子が楽しそうに笑っていた。

 

「あれ、居眠りしてたの? うわっ、顔に上着の縫い目がついてる! 変な顔、アハハ、アハハハ!」

 

 静粛であれかしという図書室のルールを無視した、けたたましい笑い声。

 普段ならゲンコツの一発でもくれてやるところだが、神林はその笑声に、不思議な懐かしさを感じていた。

 なぜだか分からないが、安堵のため息が口を突いて出る。

 

「あれ、神林? よく見たら目が真っ赤だよ? 大丈夫? もしかして怖い夢見て泣いてた?」

「やかましい」

 

 急に心配そうに眉をひそめた町田さわ子の頭を、神林は拳で殴りつけた。

 心持ち、いつもより少し優しく殴ったつもりだったが、町田さわ子は「いたっ!」と大げさに飛び上がった。

 馬鹿みたいなリアクションをとる町田さわ子に対し、本棚の奥から不平の声が上がった。

 

「騒がないでください。ここは図書室ですよ」

 

 本の隙間から眼鏡を光らせながらそう言ったのは、長谷川スミカだった。

 

「私はそんな強く殴ってないぞ! こいつの痛がり方が……大げさなんだ!」

「私だって、そんな騒いでないよ。いまの神林の言い訳のほうが、よっぽど大声だよ。あだっ!」

「……お二人とも、私の話聞いてましたか?」

「まぁまぁ。どうせ俺たちしかいないんだからいいじゃないか」

 

 呆れ顔でため息を吐いたスミカの背後から、とりなしの声が上がった。

 

「そ、そうですよね! 遠藤さんがそうおっしゃるんだったら……」

 

 気のない様子で本棚を眺めながら声を上げた遠藤に目をやり、スミカは顔を赤らめる。

 神林はその様子を見ながら「そういえば遠藤の下の名前ってなんだっけ?」と考え込んだ。

 

「ねえねえ、神林。このあいだ神林からもらった本、読んだよ。面白かった」

 

 遠藤の名前を思い出そうとしている神林だったが、町田さわ子のうれしそうな声が彼女の思案を断ち切った。

 

「ドラマも見たけど、原作の方が面白かったよ。フフフ、読書家っぽくない?」

 

 神林が、サン・ジョルディの日に渡したカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を手にした町田さわ子は得意げな顔をしていた。

 この顔を殴ったら気持ちいいだろうな、と神林は思う。

 実際に殴っても町田さわ子は怒らないだろうけど、今日は勘弁しておいてやろう……なぜかそんな気分だった。

 だから、代わりに憎まれ口を叩くことにした。

 

「どうせドラマのほうだけ見たんだろう」

「ドラマを先に見ておけば、原作のほうは流し読みで……痛い痛い! 一応読んだんだってば! 離して!」

 

 得意げな顔で、斜め読みの報告をしようとする町田さわ子。

 神林はその頭に腕を回して締め上げた。

 

「ヤダ。離さない」

「痛いってば〜!」

 

 神林は両手に力を込める。そうしないといけない気がした。

 痛みを訴えるように、町田さわ子の両手が神林の腰に回される。

 そんなふうに絡み合う二人を見て、遠藤が重々しい口調でつぶやいた。

 

「……別の意味で『わたしを離さないで』になってるな」

「ひえっ!? そういうわけでは……っ!」

 

 気恥ずかしい気分になった神林は、慌ててフェイスロックを解く。

 

「ふう、死ぬかと思ったよ」

 

 解放された町田さわ子は情けない顔で息を長く吐いた。

 

「ご、ごめん……。やりすぎた……」 

 

 なぜか謝ってしまった。なぜ謝ったのかは、神林自身にもよくわからない。

 

「そう? じゃあ、お詫びになんかSF貸してよ。分厚くなくて、通好みのやつがいい」

「むちゃくちゃ言うな……」

「あ、このあいだ貸してくれた『あなたのための物語』は面白かったよ。AIが何度も"あなたのお役に立てますか?"って聞くたびにウルウルきちゃってさ。"あなたのお役に立てますか?"って、一度は言ってみたいよね」

「そうかなぁ」

「ねえねえ、神林。私、神林のお役に立てていますか?」

 

 神林の心臓が、どくんと跳ね上がった。

 

「ば、馬鹿なことを聞くんじゃない。でも、一応、少しは役に立っている。本の話をする相手は、あまりいないからな……。お前でも、その、いるだけはマシだと思ってる」

「やったー! フフフ、さしずめ私は神林……"あなたのための物語"ってところかな! でもそれだと、神林は獣のように尊厳なく死んでしまうということに……あいたたたた!」

 

 両手の中指の第2関節を町田さわ子のこめかみにめり込ませながら、神林は不思議と心安らぐ気分を感じていた。

 神林は幸せな時間を十秒ほど味わってから、町田さわ子を話してやった。

 

「ふう……。そういえば、神林はさっき何を読んでたの? 背表紙が青いってことは、またハヤカワ文庫? 見ていい? 読んでいい?」

「好きにしろ」

「うん。あ、イーガンだ。神林は本当にイーガンが好きだね。ふーん、短編集なんだ。だったら長編よりは読みやすいかな。ええっと、"「ご主人は助かります。それはまちがいありません」 その 瞬間あたしは目をつむって、安堵のあまりに叫んでしまうかと思った。"……ほうほう、意味深な書き出しだね。ふーん……。"新しい体。そうきかされても、あたしはまるでぎょっとしなかった。とても清潔で、とても単純なことに思えた。"……やっぱりイーガンはよくわからないね」

 

 楽しそうに本を拾い読みしながら、カッコよさげな文章を朗読する町田さわ子を、神林は静かに見つめる。

 

「うーん、やっぱりよく分からない……。とりあえず本文は後回しにして、この短編のタイトルだけは覚えとこうっと。えーっと、『適切な愛』? おお、SFっぽくてカッコイイ! あれ、神林? どうしたの?」

 

 得意げだった町田さわ子の表情が、急に不安げに歪んだ。

 

「なんで泣いてるの?」

「え、泣いてる?」

 

 神林は驚いて自分の目元に指を触れた。濡れている。

 自分でも気がつかないうちに泣いていたらしい。なぜだろう? 理由はわからない。

 今日はなにやら調子が狂うな……。

 

「あ! さては、また私のことバカだと思ってたでしょ!」

 

 神林の反応を見て勘違いした町田さわ子がつかみ掛かってきた。

 

「わ、ちょっと待って……」

「私はバカじゃないし、さまぁ〜ずは超面白いんだから!」

 

 飛びかかった拍子に、町田さわ子が読んでいた本を取り落とした。

 

「あ、ごめん! 神林……。ページが曲がったかな?」

「いいよ、そのくらい。気にしないから」

 

 腰をかがめて、床に落ちた本を拾おうとした。

 そのとき、本のタイトルが自然と目に入ってくる。

 グレッグ・イーガン『しあわせの理由』。

 

「今日の神林、なんか変だね」

「たまにはそういうこともある」

 

 本を拾った神林が立ち上がると、下校を促す校内放送が図書室に響き渡った。

 本棚の前で考えごとをしていた遠藤は、その放送を耳にすると、無言で図書室を出て行った。

 長谷川スミカは慌ててその後を追おうとしながら、神林に「もうすぐ先生が鍵をかけにくるので、それまでに出てくださいね」と一言伝えると、足早に図書室を出ていった。

 

「神林、私たちも帰ろう?」

「そうだな」

 

 二人の少女は図書室の机の脇に置いていたカバンを持って立ち上がる。

 

「明日は何か面白い本を持ってきてやるよ」

「面白くて、読みやすくて、読んだら自慢できるやつね」

「はいはい」

 

 うれしそうに「やったー!」と喜びの声を上げる町田さわ子を横目に、神林は歩き出した。

 

 二人が図書室を出て、校門をくぐったとき、神林のカバンから一枚の便箋が落ちた。

 他愛もない話に夢中になっていた少女たちは、そのことには気が付かなかった。

 もし神林が気がついていたら、彼女はきっと顔を真っ赤にして慌てていただろう。

 なぜなら、それは彼女がは以前に町田さわ子に向けて書き、そして渡す機会を逸した手紙だったからだ。

 

 少女たちが去って、しばらくして。

 残された便箋を気まぐれな突風が吹き上げた。

 まるで神様が起こしたいたずらでもしたかのように、便箋は空に翻り、地平の彼方まで飛んでいく。

 神林も町田さわ子も、もはや目にすることはないであろう、その便箋には、こんなことが書いてあった。

 

"私は最初

町田さわ子が嫌いでした。

 

知ったかぶりしたがるし、

本に対する敬意が欠けているし、

怠惰だし、こらえ性がないし、

バカだし、理由を挙げたら

キリがありません。

 

今はもう慣れたというか

町田さわ子のそういう姿勢に、

時々ある種の

純粋さのようなものを

見出してしまっています。"

 

 

"いつも私のとりとめもない

本の話を聞いてくれてありがとう。

これからもよろしくね。

 

     神林しおり"


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。