伊吹萃香が登場する短編です。舞台は江戸時代、馬借(今で言う運び
屋さん)の主人公、又吉が萃香と飲み比べで勝負します。幻想郷一
の飲んべえ相手に、果たして勝ち目はあるのか?

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いつか歩いた峠道

 いつからだろう。

 

 夜に峠を越えてはいけない。

 

 そんな根も葉もない噂。あまりにも当たり前すぎて、忠告にさえならない話をそこここで耳にするようになったのは。

 

 鬼に喰われるからだという。

 

「そいつぁいけねえなあ」

 又吉は威勢よく笑い、「どうせ喰われちまうんなら、とびきり美人の鬼がいい。ま、この俺さまが喰っちまうかもしれんがな」と下品な軽口を滑らせて仲間をおおいに盛り上げていた。

 

 宿の奥にある暗い土間。

 

 酒に酔った男どもがだらしなく着物の前をはだけ、箸で空の徳利をチンチン叩き鳴らしている。三日後には届けなければならない荷物が倉で大量に眠っていた。

 (冗談じゃねえ。鬼になんかかまってられるか。)

 声には出さず独りごち、又吉は周りに小便と告げて離れに通じる裏口へ回る。窓からわずかに港が見えた。堂々たる姿を見せていた船は一週間前に出港し、往生際の悪い荷主から押しつけられた米俵百俵が倉のすみに残されていた。馬借が生業の又吉は、山越えをして船より先に瀬戸内海の港まで荷を届けなければならなかった。

 

 

 日本海に面した山陰道、伯耆国。大坂に米を運ぶ北前船の恩恵で、海の玄関口、夜見島は空前のにぎわいを見せていた。五十人ほどの寂れた漁村にいつの間にか宿ができ、港と運河が結ばれて近頃は遊郭まで登場する始末。そんな場所を満喫するのは役人と限られた商人だけで、しがない運び屋の又吉に入れるはずもないのだが、町の空気が変わったと実感するには十分だった。

 だいたい、船が登場してからというもの、陸路での輸送がめっきり減った。ただ同業者も減った分、又吉たちの仕事は増えて食うに困ることはない。今回のような無理な依頼は、運び賃をふっかけてみても嫌な顔一つされることなく、喜ぶべきか悲しむべきか首をかしげたくなるくらいだった。

 夜見島から瀬戸内海へは藩の街道が通っていて、又吉のような業者からお伊勢参りの参拝客まで平民もよく往き来した。参勤交代のために作られただけあって、地面は平らにならされているし距離を知るための一里塚もある。道そのものには何の不自由も不満もなかった。

 と、こんな風に言ってしまうとどうしても前振りになるのだが、実はそのほかに問題がある。藩主の江戸行きが豪華な船になったのを境に警備や管理がおざなりになり、関所もあってないようなもの。治安が年々悪化していた。

 

 狼が出た。殺しがあった。

 

 そんな話も最近あちこちで耳にする。又吉たちもつい先日、本物の追いはぎに遭い、めいめい錆びた刀を振るって大事な積み荷を守ったばかり。仕事の上ではいい迷惑だが、血気盛んな連中たちは「腕を試すのにいいじゃん」と減らず口を叩くくらい、気持ちは折れていなかった。

 

 だからこそ。

 

 今度の仕事に取りかかる際、どこか様子がおかしい仲間に又吉は内心戸惑っていた。自分一人、取り残された気さえしてイラついているといってもいい。

 こそこそと、だがどこかに確からしさを織り混ぜた口調で町の人が噂しあう。

 

「夜になると出るってね」「鬼に喰われてしまうって」

 

 土間にたむろする連中も、表向きは普段通りだがすっかり怖じ気付いてしまい、真っ昼間からひたすら酒を飲むばかり。出発は先延ばしになっていた。

 

 (いい加減、けりをつける頃だぜ)

 

 又吉は何食わぬ顔で土間に戻ると、座の真ん中に進み出て「明日出るぞ」とそっけなく告げた。一瞬固まった一同は、顔色を変え、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの仕事に取りかかる。又吉の頭目としての力量は、どうやらなかなかのものだった。

 

 

 町に鬼の噂が流れて、早くも一ヶ月になろうとしていた。

 

 きっかけは、街道で起きた失踪事件。夜見島から歩いて一日。九段峠と呼ばれている尾根が連続する場所がある。上り下りがきつく越えるのに半日かかる難所で、旅人はふもとで一泊し、朝早くから余裕を持って歩ききるのが常だった。それでは時間がもったいないと、又吉は同業者と協力して途中に無人の小屋を建て、歩くうちに夜になっても野宿できるよう整えていた。

 

 その小屋で、先週泊まった男五人がいまだ帰らないのだという。

 

 心配した仲間たちが周囲をくまなく探したが、まだ手がかりさえ見つからない。

 

 ただ一人だけ、偶然戻った男がいる。

 

 谷から流れる川の下流で倒れているのを助けられ、夜見島に運ばれて役場で手当を受けていた。二十代半ば。頑丈そうな体つきで、意識は朦朧としていたが時々おつむがしゃっきりすると、鬼が出た、喰われてしまったと騒ぎ出す。

 なんでも、小屋に現れたそれは意外にも可愛らしい幼女で「お酒ない?」と聞かれたらしい。そもそもそんな山中に子供がいること自体おかしい。親はどこだ、住まいはどこだと何度も何度も尋ねるうちに、幼女はみるみる不機嫌になり「あーもう。馬鹿ぁ」と言ったきり、どこにも姿が見えなくなった。

 

 次の瞬間。

 

 頭に二本の角を生やした巨大な鬼が立ちふさがり、片足を上げて今にも踏みつぶそうとするではないか。一行は仰天して逃げ回り、男は偶然川に落ち、そのまま気を失ったのだという。

 

 話を聞いた又吉は、間違いなく作り話だと思った。

 人間、恐ろしい目に遭うと無理矢理にでも理解しようと荒唐無稽な話を作る。その本人が目の前でべらべらしゃべるものだから、町全体が妙な雰囲気に包まれて、みんなおかしくなっているのだ。

 

 (事故か、仲間同士のもめ事だ)

 

 そう結論を出していたが、仲間には一言もしゃべらなかった。魑魅魍魎の類の話に理屈を言っても仕方ない。かといって、不安がる連中を置いて一人で出て行くわけにもいかず、どうしたものかと悩むうちに今まで決断が延びてしまった。

「あんなにあっさり言うこと聞くとは…ったく、参るよな」

 不満そうな物言いだが、表情にはまだ余裕があった。あっさりとした性格なのか、そう見せているだけなのか。愚痴は誰にも聞かれることなく、ひっそりと夜に吸い込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 空は見渡す限り雲一つない快晴。

 

 又吉は誰よりも早く外に出ると、吸い込まれそうな青空を見上げて大きく息を吸い込んだ。空気が冷たくて咳が出る。「寒っ」と体を震わせてから、今夜、暖かくするために薪が余計にいるなと思った。朝の冷え込みに、秋の終わりを感じたのは一瞬。何をしていても仕事のことを思い出すのは、頭目になるずっと前から自然についた癖だった。

 日が昇るか昇らないかのうちに表に出てきた連中は、何か冗談を言い合って盛んに声を上げている。寝ている住人を起こさないかと冷や冷やしながら見ていたが、昨日と違って頼もしくもあり、これなら問題なさそうだ、と又吉は胸をなで下ろす。最後尾から栗毛の一頭と後を追い、予定通り昼過ぎに九段峠の旅籠に着いた。

 

「焼き団子十本。まんじゅうも同じだけ」

「茶は土瓶で持ってきてくれ。こっちでつぐから急いで」

「酒、酒はまだか。遅せえぞっ」

 馬をつないで軒先に回ると、にぎやかな声が聞こえてきた。大半の客は明日の峠越えに備えてこれで今日の一日は終わり。開放感から昼間でも宴会のようにはしゃぐのだった。

 又吉たちは騒ぎを横目に心ばかりの休憩を取って、すぐ出なければならなかった。けわしい坂道を想像するといつもげんなりするのだが、それも馬借の仕事のうちだ。文句を言うやつはとっくにクビになっていた。

「ようっ、又吉っ。いつもの団子でいいんだろ」

 なじみになった旅籠の主人は、三十年以上ここで店を開いていて、峠の情報には誰よりも詳しい。

「何か手がかり見つかった?」

 失踪事件の話を振ると、首を振って肩を落とした。

「これだけ時間が経ちゃあ、普通は何か分かりそうなもんだけどねえ。やっぱり鬼が出たのかな? だとしたらここも畳むしかねえ」

「客は減ってないみたいだけど」

「今にぱったり来なくなるさ。瀬戸内海側の連中にだってちょうど話が伝わるころだ。鬼の話は別にしたって最近この辺ぶっそうだし、お侍さんは船の上。そろそろ潮時なのかねえ」

 確かに堅気の人間は少ないように見受けられた。女の客も一組いるが、浪人風の男を連れてそれなりに用心してるらしい。

 剣呑、剣呑、とつぶやきながら名物焼き団子をほおばっていると、仲間が一人近づいてくる。妙にニヤニヤしてるので何かあったなと思ったら、馬が怪我をしたそうだ。湯飲みを置いて見に行くと、蹄から血が流れ出て地面を赤く染めていた。

「あー。これは、いつからだ」

「はい?」

「いつからこうだって聞いてるんだよ」

「怒んないでくださいよ。朝、出るときはなんもなかったし。どっかでつまづいたんじゃないすか」

「馬鹿っ、蹄鉄が減りまくってるじゃねえか。こうなる前にちゃんとしろって耳が腐るほど言ったろ? 給料一ヶ月抜きっ」

「ひえぇ~」

 頭にごちんとげんこつを落とし、又吉は駆け足で馬小屋から戻った。蹄鉄はまめに付け替えなければ蹄が割れて出血するのだ。「がつん」と柱を蹴り飛ばしてから休憩していた何人かを呼び、怪我した馬から荷を載せ替える。それでも積みきれなかった分は、野宿小屋に着いてから再び取りに戻ることにして、全員に出発の合図を出した。いつもと違うあわただしさに誰もが嫌な顔をしたが、口に出す者はいなかった。

 

 

 峠道に入ってからは、又吉が先頭に立って歩いた。

 休憩を早く切り上げたせいで文句が出るかと身構えていたが、誰かがこけても、物を落としても声の一つも聞こえない。肩すかしを食った形だが、日が沈む前に小屋に着く、ただそれだけを考えて又吉は足を動かした。

 又吉以外の全員は、馬の怪我を知ってからすっかり疑心暗鬼になっていた。確かにトラブルには違いないが、すぐ取り返せる程度のミスだ。それなのに不吉な前兆ととらえて、次は鬼に襲われる、とすっかり信じ込んでいた。

 又吉があんなに怒ったのも、部下に「このやろう」と思わせて、余計な考えを起こさせないため。だが、今の様子を見る限りそれほど効果はなかったらしい。人と馬の息づかい、地面を踏みしめる足音以外、物音一つ聞こえない。峠を一つ越える度に影が長く延びていき、風で木の葉がこすれる音が存在感を増していく。だが、町で生きる人間にとって山はもともと別世界。自分の命に関わりがなければ人は極端に無関心だ。日もとっぷり暮れる頃、ようやく野宿小屋に着いた。

 

 

 火をおこして夕飯の支度が整うと、ようやく話し声が聞こえてきた。一人一人の緊張が少しずつ緩んでいくのが分かる。いつもならすぐ寝てしまうのに、気付けば酒盛りが始まっていた。

 

(そんなにびびっていたのか、こいつら。)

 

 黙っているより騒いだ方が気が晴れるのは確かだった。

 又吉は何も言わないことに決め、しばらく様子を見届けてから太助の姿を目で探す。太助は又吉がいないとき代わりを務める頭目代理で、年は2つ上だった。

「太助、ちょっと行ってくる。明日の朝まで寝ててもいいぜ。帰りは遅くなるから、任せた」

「やめとけば? どうせ一度じゃ運べない」

 一見冷静なようでいて、何も考えてない男だ。合理的に聞こえる言葉も、めんどくさいというだけで適当に言っているに違いなかった。

「帳尻は上手く合わせるから。お前はこれでも飲んで酔ってろ」

 又吉は太助の顔をめがけて自分の徳利を放り投げる。太助は両手で受け取ると揺すって中身を確かめた。

「うほっ、結構残ってんじゃん。遠慮なく酔わせていただきまーすっ。…けど、ほんとに用心しろよ」

「何? …ああ、鬼の話」

「そ。ちょっとやばくはないかい?」

「別に。俺は気にしちゃいない。あれは、たぶんでっちあげだし」

「あー。絶対、言うと思った。お前、いつもそうだからなあ。人の言うことを聞かない」

 太助はううっとまぶたを閉じてわざとらしく悲しんでみせ、いっときしてから口を開いた。

「信じなくてもいいけどさ、今、お前に何かあったらこの組、間違いなくつぶれるぜ。どうしようもないがらくたばかり無理して固めた烏合の衆だ。よろしくお願いしますよ、大将」

 北前船の登場で職をなくした連中の面倒を見たのが又吉だった。より正確に言うのなら、担ぎあげられたというのが正しい。責任なんて知らないぜ、とは口が裂けても言えなかった。

「ま、美人の鬼が来たらそのときは相手してやってもいい。手を出したりしたら承知しねえから」

 太助は困ったように笑い「ばーか」と言って見送った。

 

 又吉が馬借の世界に入ったのは十五歳の時。駆け出しのころから十三年が経っていた。

 物心ついた時には両親がなく、遠縁というだけの農家で育った。食い扶持を減らすだけの厄介者だと気付いていたし、土地をもらえるはずもないからいくつになっても小作のまま。腕っぷしだけでやっていける馬借の世界に飛び込んだのも、つまりは自然な成り行きだった。

 生活の苦しさは変わらなかったが、周囲の人間の陽気さと破天荒な暮らしぶりに、最初はずいぶん戸惑った。又吉とそう年の変わらない連中まで、その日の仕事も終わらぬうちから酒を飲んで博打に通い、女を買うのがお決まりのパターン。人の力が及ばない自然が頼りの百姓と、腕っぷしで稼ぐ馬借では気質が違うのも当然だった。

 その点、又吉は農民上がりで仲間から完全に浮いていた。馬の世話から荷物の仕分け、やっかいなそろばん勘定まで何でも引き受けてこつこつ結果を出していく。時間や金を浪費するには不向きなタイプの人間だった。村にいたころからまじめな性格で、農作業でこき使われたあげく結核で死にそうになったこともある。もう散々だ、とこっちに来てからは、逆に「働き過ぎ」だとか「付き合いが悪い」とか、足を引っ張られることが多くなった。

 

 隣の芝生は青く見えるって本当なんだと思った。

 

 又吉はただ、やりたいときに、やりたいように、好きに生きていたいだけ。

 

 なるだけ目立たないように。かつ、自分がいなければみんなが困るようにする。

 

 これが、二つの世界を経験して又吉が身につけたやり方だった。

 

 作業の割り振りや時間繰りなど重要な仕事を任されるようになり、独立を考え始めたころ、北前船がやってきて状況は大きく変化した。親方をはじめ同業者たちが赤字で次々に廃業し、路頭に迷った仲間たちから頭目に持ち上げられてしまう。まじめで手堅いということ以外に、大して取り柄があるわけでもない。

(まったく、とんだ貧乏くじだぜ。)

 夜の山道を歩きながら、声には出さずぼやく又吉。

 

 と、

 

 顔を上げると幼女がいた。

 山吹色の髪。つぶらな瞳。嫌でも目につく二本の角。

 視線が定まらず、両手を広げてふらふら左右によたつきながら、それでもこちらに近づいてくる。手が届くほどの距離になってようやく又吉と目が合った。

「だれ? さっき、馬といた奴の仲間?」

「ああ、たぶんそうだと思うぜ」

「お前は遊んでくれるよな? あいつらみたいに、途中で逃げたりしないよな?」

「あいつらってのは、どこに行ったんだ?」

 幼女は又吉が歩いてきた後ろの方を指し示す。いつも通る見慣れた景色に見知らぬ山がそびえていた。月の光に照らされたそれは、生えている木々も、土の色も違う。

「お前、俺を喰っちまうのか?」

「食べちゃうよ」

 笑顔であまりにもあっけなく、答えはすぐに返ってきた。

 見た目とのギャップに実感が沸かないが、残された命はわずからしい。ああそうか、と思うだけで少しも怖くはならなかった。不思議なくらいにいつもと同じ。

 

 (だから、みんなと同じにはなれない。)

 (だから、みんなと同じにはならない。)

 

「そっか。それで、何して遊ぶ? まさか鬼ごっこじゃないよなあ」

「ううん、これで飲み比べ」

 幼女は見ろっと言わんばかりに右手をぐいと差し出した。

「ほ乳瓶?」

「きー、違う中身はお酒。飲酒量自動調整機能付きだぞ」

「じどうちょーせい?」

「飲み過ぎないように…だっけ。にとりが付けてくれたんだよ。だからこれはいいものなの。飲め」

 朱塗りの杯に満たされた酒は、なんともいえない良い香りがする。こんな上等そうな酒、一度も飲んだことがない。たまらず一息で飲み干した。

「おお、なかなかの飲みっぷり」

「お子ちゃまを相手にする気はねーよ」

「な!? どういう意味だよ」

「酒が飲めるのはありがたい。だが、どうせ死ぬって分かってんなら美人と飲みたいって言ってるんだ。チビのお前じゃ、全然だよ」

「ここここ、こいつ」

 言うなり、幼女の姿が消えた。

 と、この世のものとも思えぬ美女が目の前でふんぞり返っている。

「どうだ。これでも不満か」

「………こいつぁ、変化っていうやつか」

 怒っているのか、酔っているのか、真っ赤に染めた頬が可愛いい。

 八頭身の美女への変化。頭から伸びる二本の角は、彼女が異形の存在であるとはっきり物語っていた。けれどもそれも気にならないほど圧倒的な美しさ。又吉は声を出すこともできず、ぺたんと腰を下ろしてしまった。

 美女はごそごそ胸元を探り、さいころと茶碗を取り出してみせる。ちんちろりんで負けた方が杯に満たした酒を飲み、先に酔いつぶれた方が負け、というルールらしい。

「さあ、勝負だ勝負だー」

「ちょっと待った。その前に、」

 これから喰ってしまう人間にいったい何を期待するのか。少しでも探りを入れたかった。

「俺が勝ったら何でも言うこと聞いてもらうぞ。当然、色っぽいなこととかもな」

「色っぽいって? まあいいや。私はね、勝ったらおつかいしてもらうんだ」

「ほう。食べるんじゃなかったのかい」

「もうお腹いっぱいだから、食べるのは後」

 けふっ、とここでげっぷが一つ。

「霊夢がね、神事で使う紙がなくて困ってるって。香霖堂も品切れだって。だから私が助けてやるの。お前、どこにあるか知ってる?」

「物を運ぶのが俺の仕事だ。どこで何を売っているのか、知らなきゃ話になんねえよ」

「ふうん、じゃあ持ってきてちょーだい」

 鬼は神妙な顔をしてペコリと又吉に頭を下げた。いまいち状況が飲み込めないが、色々事情があるらしい。

「気味が悪いな、分かったよ。紙作ってる場所、教えてやる。それからもう一つ。どうでもいいことなのかもしらんが、ああ、ほら、背が縮んでく。やっぱ無理か、無理してたのか?」

 妖艶だった美女の姿は元の幼女に戻っていた。

「へあっ!? そんな…そんなことないっ」

 一生懸命、手をぐーにして気合いを入れ直す幼女。「うりゃっ」と大きなかけ声を出すとどうにか元の美人に戻った。

「胸は大きくならんのだな」

 思わずぼそっと声に出したが、それ以上は自重。幼女、もとい変化した美女はコホンと一つ咳払いして、「始めるぞ」と厳かに告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 チャカチャカチャカ。

 チャカチャカチャカ。

 

 闇夜にまぎれ、サイコロの音がこだまする。

 

 チャカチャカチャカ。

 チャカチャカチャカ。

 

 規則正しい音に混じって、ときおり声が聞こえてくる。

「よっしゃー、アラシ。俺の勝ち」

「ちぇ。いくらでも飲み干してやるよっ」

 一体、何度目の勝負だろう。命やおつかいのことなんてすっかり眼中になくなるほどに、二人は勝負にのめり込んでいた。

 やっぱり集中できないからと子供の姿に戻った鬼は、並々と注がれた杯をくいと一息で飲み干してみせる。プハーと大きく息を吐き、どうだ見たかと満面の笑み。

「オヤジくさいなあ。いくつだよ」

「知らない」

「そんなに酒が好きなのか」

「好き!」

 ここまで、又吉が負けて呑むのはせいぜい十回に一回程度。ほとんど幼女の負けだった。実は馬借の仲間には博打打ちが何人もいて、又吉にも一通り心得がある。サイコロの目を操るくらい、ぶっちゃけ朝飯前なのだ。イカサマまがいのからくりで余裕たっぷりの又吉は、どきとき鬼をからかうくらい純粋に勝負を楽しんでいた。

「にしても、お前弱いなあ。勝負事、向いてないんじゃないの」

「きー、なんだよこれからだ」

「これじゃあ鬼の名が泣くぜ。やっぱり、ただの子供じゃね?」

「人間のくせに生意気だっ。後悔しても知らないぞ」

 

 だが。

 

 いつになっても何杯飲んでも、幼女がつぶれる気配はない。

 このころになって又吉は初めて、出会った時点ですでに鬼が酔っていたことを思い出した。

 (酔った状態が普通なのか? だったらいくら飲ませても、こっちに勝ち目はないってことじゃん。)

 おそらく、シラフでいる方が彼女にとってはしんどいのだろう。リスクはあるが作戦を変えて、相手に疑われない程度にゆっくり負けを増やし始めた。五回に一回、二回に一回………。

「今度は俺ばっか負けてるなあ。運の流れが変わったらしい」

「人が鬼にかなうものか。これを呑んで、つぶれてしまえ」

 鬼はうれしそうにして、ひょうたんから酒を注いでくれる。

「くそ。なんだよ、また負けか。お前、なにかしてるんじゃねぇの?」

「卑怯な手なぞ使うもんか。まったく、無礼なやつだな。それより、ただの人間のくせにここまであたしに付き合うなんて…苦しかったらちゃんと言えよ? 飲み過ぎは体に良くないからな」

 又吉が負け続ける限り、相手は酒の補給ができない。あとは、自身がどこまで飲めるかの勝負だった。

 

 酔いつぶれない程度の能力。

 

 そんな言い方は大げさだが、これが、又吉が一つだけ誰にも負けない特技だった。どれだけ酒を飲んだって、決してつぶれることはない。仲間内の飲み会で、「あいつはざるだ。もったいない」と適当に文句を言わせておけば、それだけで信頼関係ができる。持って生まれた体質とはいえ、ずいぶん助けられていた。だが、今、目の前にいるのは人間ではなく鬼なのだ。一体、どこまで通用するか、又吉自身にも分からなかった。

 

「また、あたし勝ち? …ちょっと、つまんなくなってきた」

 しれっと杯に手を伸ばしこっそり飲もうとする幼鬼。又吉はこらっとたしなめた。

「つまんないって、決まりだろ。お前は飲んじゃだめなんだ」

「自分だけずるい、ずるいよー」

 幼女は瞳をうるうるさせて、口からよだれをたらしてる。

 (そろそろ、仕掛けどきかもしれない。)

 又吉は杯を空けてから、片手でひょうたんを持ち上げてしげしげ眺め回してみせた。

「この酒、やっぱ上等だな。どれだけ飲んでも悪酔いしないし。酒が湧いてくるってことは、なくなる心配もないんだろ? もう一杯、おかわりしちゃおっかなー」

 幼女はうらめしそうな顔で、息をハアハア切らしている。

「飲みたいか?」

「うんっ」

「約束違反だが、酌をしてやる。ほら、ちゃんと受け取れよ」

 又吉は自分が飲み干した杯をポンと幼女に向かって投げた。幼女は両手で受け取ると、間髪おかず両手で差し出す。

「よしよし、いい子だ。素直が一番。その代わり、勝負は俺の勝ちだ」

 二つ返事でうなずいてから、「早く、ちょーだい」とせがむ幼鬼。話なんか聞いちゃいない。溢れるまでついでやると、のどを鳴らして飲み干した。

「ほんっと酒が好きなんだなあ。名前なんていうんだ」

「萃香っ」

「そうか、萃香、萃香っていうのか。ま、子供だから色っぽいなことはなしとして。このひょうたんでももらっていくか」

「エメアー」

「は?」

「ダメっ。これがないと死んじゃう」

 目にもとまらぬ早さで体当たりし、ひょうたんを奪い返す萃香。両手で必死に抱きかかえ、精一杯守る仕草を見せる。これが自分の仲間たちを恐怖に沈めた鬼かと思うと、なんだかあまりに滑稽で、又吉は思わず笑い始めた。

「あははははははははは」

「な、なんだよ。渡さないぞ」

「お前、鬼のくせに弱い」

「な!? このやろ、食べてやる」

 がうっと威嚇してみせる萃香だが、全く怖さを感じない。又吉は片手であしらって、勝負の前に鬼が言っていたことを思い出した。

「そういうや、紙がほしいっていってたな。一体、何に使うんだ」

「お札。お札が足りないの」

「なんだそりゃ」

「霊夢が使う弾幕。これがなきゃ、妖怪退治できないでしょ」

「お前もやられちゃうんじゃないのか。なんで協力するんだよ」

「それはね、えっと、えっと。勝負は五分五分でちょうどいいの。圧勝じゃ全然つまんないの」

 又吉は、終わったばかりのサイコロ勝負を思い出した。トータルで見れば、確かに五分五分かもしれない。

 (まさか、イカサマに気付いてたってことは…。)

「そ、そっか。まあいいさ。紙っていうのは貴重なんだ。簡単に手に入らないんだよ。けどまあ、俺は運び屋だから、素人よりはよく知ってる。ここから街道を下っていくと因州っていう土地に出る。あの辺は紙づくりが盛んでな。手に入らないこともない」

「それじゃあ、霊夢の機嫌も直る?」

「機嫌って。何かしたのか?」

「へへ。折り紙にして遊んでたら全部使っちゃったんだ。弁償するまで来るな、だって。あんなに怒ることないのにね」

「ちょっ、霊夢が困ってるから助けてやるみたいなこと言ってたじゃねえか。ぜんぜん話が違うぞ。ったく」

「へへ、鬼だって嘘は言うよ」」

 両手で杯をいじくる萃香。なんだかどうでもよくなってきて、又吉は地面に寝転がった。

 

 気づけば東の山の空が、淡い藍色に染まっていた。

 

 夜明けが近い。

 

 命は助かったのだから、次は勝利の報酬だ。

 

「人間の世界では、何かほしいと思ったらお金を渡さなくちゃいけないんだ。お金って分かるか? 一番いいのはキラキラ光る黄金色のやつ。銀色でもいい。赤茶色のはまあまあだ」

 鬼退治にはお宝と昔から相場が決まってる。仲間も馬も喰われてしまって、又吉は無一文なのだ。

「おかね…、おかね…」

 萃香はなにやら思案顔で、「うん、そっか。待ってろ」と言うなりこつぜんと姿を消してしまった。しばらくすると、どこからともなく壺を抱えて現れる。

「お金ってこれのことでしょ?」

「おまっ、どこから持ってきた」

「霊夢の神社の床下にあった」

 (霊夢というのは巫女なのか。床下ってことはへそくり?)

 壺の中をのぞいてみると、小判がぎっしり詰まっていた。見たことのない貨幣だが、一生遊んで暮らせると容易に分かる枚数。

「うへー、すげえ。やるじゃないか」

「へへ、えらい? 萃香えらい?」

「たいしたもんだ、里まで連れて行ってやるよ」

 馬の背に乗せるとご機嫌になり、なにやら歌を歌い始めた。

「ぼえぇぇ~~~~、ぼぇ、ぼぇ、ぼえぇ~~~~」

「ぬおおぉぉぉぉ」

 なんという音痴。その上、森の生き物たちが騒がないのが不思議なくらい、地面が震える大音量だ。本人は至って満足そうに、ニコニコしながら歌っている。

「…お、おい。ご近所迷惑だぞ」

「そっか。人間ってめんどくさいな」

「鬼って、お前みたいなのばっかなのか」

「?」

「自由そうだなと思ってさ。いつでも好き勝手にやって、周りを気にすることもないみたいだし」

「それが普通じゃないの?」

「人間は弱いからな。一人じゃ生きられないんだよ」

「ふーん、かわいそう。…お前もそうなの?」

「うん、そうだな。ままならないよ」

 ザワリと頬をなでられた。これまで感じたことのない冷気が、背筋からサッと上がってくる。

「面白かった。また幻想郷に遊びに来い」

「な、なんだっ、紙はいいのかよ」

「場所が分かればいつでも行けるし。帰って一人で飲み直す」

「げ、幻想郷ってどこにあるんだ? この辺じゃ聞いたことないぜ」

 幼女は馬から飛び降りると、後ろから又吉に抱きついて鼻でくんくん臭いをかいだ。

「これで覚えた。ばいばい」

「なあ、そこには人もいるのか? 俺も連れていってくれ」

「遠くにありて想う場所。想いはいつかかなうよ、じゃね」

 辺りが急に静かになった。

 

 振り向くとすでに姿はない。

 

 又吉は一人残されて、日が昇るまでその場にぼんやり立ちつくしていた。

 

 

 ここから先は、後日談。

 一人、麓にたどり着いた又吉は、旅籠に入るなり倒れ込み、二週間も寝込んでしまった。仲間は全員行方不明で、やはり鬼に喰われたのだと噂はすぐに広がった。九段峠の鬼の話は完全に真実だと受け止められ、ついには藩も動き出す。又吉は何度も聞き取りを受けたが、あの夜のことは何一つだって話さなかった。ただ「鬼が出た。喰われてしまった」と繰り返すのみ。「鬼と博打を打っていた」なんて間違っても言えるはずがない。結局、捜索は打ち切られ、誰も峠に近づくなという形ばかりのお達しだけで、事件はうやむやになってしまった。

 又吉だけが生き残ったせいで、家族や同業者の目は冷たかった。それでも後悔はしていない。ある意味、天災のような事故だし、どうしようもない気持ちのやり場がたまたま又吉に向いただけ。割り切ることは簡単だった。そしてなにより、一人になることができたのだ。

 

 人影の絶えた峠道も、五年、十年経つころには人々の記憶が薄れ、元通り往き来が始まっていた。又吉は馬を手に入れて、一人で小口の依頼を受ける馬借の仕事を続けていた。些細な仕事でも、食べていけるだけの収入はある。質素ではあるが気楽な暮らしを、彼はすこぶる気に入っていた。

 

 秋の終わり、あの日のような冷え込んだ晩、峠に向かうことがある。幼い鬼の子、萃香と言ったか。約束した紙を馬に乗せ上等の酒を徳利に入れて、かつて小屋があった場所で一晩、静かに飲み明かすのだ。もちろん、一度も会えていないし、この先もきっとそうだろう。それでも、そうして飲むことで、こことは別の世界があると感じることができる気がした。

 

 毎日ああして自由に遊び、ふわふわ暮らす鬼がいる。

 

 そう思うだけで、なんだか救われた気がするのだ。

 

 さらに年月が経ったある日、峠で飲んでいた又吉はこつぜんと姿を消してしまう。残された馬と徳利を見て、人々は大層不思議がったが一体、誰の物なのか、なぜこの場所で飲んでいたのか分かる者はいなかった。

 

 なにしろすでに、その当時、又吉のことを知る人間は一人もいなくなっていたのだから。



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