これはまだ、彼女の脳が腐っていなかった頃のお話。

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どうも、お久しぶりです。ドクダミ草です。どうでもいいけど紫陽花とドクダミ草って似てるよね。え? 似てない? まァいいや(PJ並の感想)
毎度毎度亀更新ですみません。次回からは早く書き上げるようにします。

さて、今回はせいよしです。しかも生前芳香。え? 誰得? 俺得だよ。
ええ、気付いてしまったのですよ。丁度秋葉原の電気街をぶらぶらとしていた時、「生前芳香がめちゃくちゃクールだったら恰好良くね!? 」って。大方、秋葉原の只ならぬ雰囲気に当てられたのでしょう。

では、どうぞ。


紫陽花の毒

これはまだ、芳香の脳が腐っていなかった頃のお話。

 

プロローグ

未だ春の面影を淡く残す都。初々しい古都の矜持は漠然とした青臭さを匂わせ、沈み行く黄昏の空には山吹色へと染められた片雲が行く宛もなく彷徨っている。斜陽に照らされる人々の面持ちには朗らかな笑みが張り付いており、青々と茂る稲の葉も薄暮の柔らかな風に揺蕩っていた。

ここは飛鳥京。忙しなくも温もりある時が流れる、現し世の楽天地である。

 

皇居周辺の城下町から少し外れた場所に位置する、宮古家宮殿。木組みの骨に茅葺き屋根。土地の面積はおよそ一町四方に及び、宮殿自体は簡素な造りではあるものの、並の平民から畏敬と憧憬を集めるには十分過ぎる程の規模であった。

その数ある部屋の一室へと視点を移す。無機質な板張りに囲まれた部屋は、見るものに怖気を覚えさせる程の冷淡な様相でこちらを見詰めている。

不躾に散乱した本の山。若干の埃と相俟った古書の募りは主の憂いを顕したかのような芳香を発し、書巻の大海原に取り残された孤島に佇む主の鼻腔へと古めかしい薫りを運び込む。しかし、彼の主はさはど興味もないといった表情で手に取った野苺を嚥下し、甘味と酸味の混じりあった湖へと味蕾を落として行った。

手には一巻の図書。彼女は生気を失った瞳で頁を捲り、また一口と野苺を摘む。

宮古芳香。

清廉潔白、容姿端麗。彼女に四字熟語を宛てろと言われたら、恐らくはそんな言葉が鮮やかなまでに似合うであろう。血色の良く、瑞々しい柔肌は悠々と枝振りを広げる桜の花弁を連想させる。その花の散るが如く儚げな花唇はどこか魅惑的なエロスを醸しており、肩まで下げられた艶のある黒髪は、峡谷に流れ渡る清流のような澄み切りを見せていた。

芸術的なまでの美麗と優美。有無を言わせる間も与えない程に襲来する明媚。しかし、その手にした書物で隠された風采の深層は、果たして誰に伺い知る事が出来ようか。

 

 

一の章

 

你好(ニーハオ)~」

書巻の海に、やけに間延びした声が響き渡る。

先程まで沈みかけていた夕陽は連綿と軒を連ねる山々の向こうへと隠れ、辺りには満天の星が顔を覗かせていた。星光混じりの聞き慣れた声質に、芳香は溜めておいた呼気を大きく吐き出すと、目を落としていた書物を乱雑に放り出す。その後、凝り固まった眉間を乱暴に揉みしだくと、酷悪な目付きのまま声の主を睨みつけた。

芳香の視線の先には、小柄な女性がふわふわと宙に漂っていた。弛ませた目尻と強硬な弧を描いた口元は穏健な印象を与え、頭上で一つの団子状に纏めた癖のある髪は、鮮やかな葵が掛っている。重力に矛盾して組まれた脚は妖艶な仄白さの魅惑的なコントラストが気品を掻き立て、透徹した羽衣に抱擁される胸元は、たわわに実った二つの果実を宿していた。

霍青娥。

芳香の自室に唐突に穿孔を穿ち、今のように妙に間延びした声音を従えて侵攻してきた事は芳香の記憶にはまだ新しい。あれだけの驚嘆の表情を浮かべていた芳香を見たのは後にも先にもあれっきりだろうと、青娥は人の悪いを笑みを芳香へと差し向けていた。

「……何しに来たのよ」

訝しむような面持ちの芳香は眉根に寄せた皺など構う筈もなく、ぶっきらぼうに青娥へと問いを投げる。有意義な読書の邪魔をされた事への憤りと、青娥に対する最大限の敵意を孕んだ言の葉は、弦から放たれた矢の如く実直に青娥へと(やじり)を向けた。

「あら、言った筈よ? しばらく居候させてもらうって」

「私は許可していないけど? 」

「まあ! 居候するのに家主の許可が必要だなんて、私は初めて耳にしたわ! 」

悲しきかな。飛翔した矢は青娥の目前で失墜し、ひらりと往なされてしまった。弁護士よりペテン師、芸人より道化と形容した方が似合いそうだと、わざとらしい驚愕の面を張り付けている青娥に、芳香は二度目の溜め息を吐いた。この詐欺師のような笑みを瓦解させるのは不可能だと悟ったのである。

芳香がいくら論理と一般常識でまくし立てても、屁理屈と耳に障る声音で蝶のようにひらりひらりと躱していく。それが霍青娥という人物であり、彼女が忌避する最大の所以である。

芳香は先ほど投棄した本を再び手に取ると、何事もなかったかのように頁を捲り始めた。この浮遊する居候が割り込んできた所で、自分の人生は限りなく平坦で単調である。芳香はこう思い込む事に決め、その体現として本を読むという動作を再開させる。極めて機械的な紙の摩擦音が、暮夜の寂寞に反響する。芳香は、こういった規則的で粛然とした時間が好きだった。誰にも意識される事のない孤独の時間。時々流す眼球に映る視界には、微笑を湛え続けている青娥の姿があった。こうして眺めると、あいつも唯の麗人に見える。そう朧げに考えながら、芳香は野苺を取ろうと手を伸ばした。

だが、その腕は虚しくも空を切る事となる。動揺した芳香が青娥を見やると、そこには先程の微笑とは比較にならない位の満面の笑みで野苺を頬張るペテン師が漂っていた。

「この苺、ちょっと酸っぱいけど中々行けるわね」

古今東西、黄泉から高天原まで探したとしても、人の物を勝手に奪っておいて悠然と感想を述べる連中など恐らくこいつ位しかいないだろうと、芳香は沸々と煮え滾る怒りの中で思考する。

「……一体何のつもり? 」

「あら。何って、ちょっとした悪ふざけよ」

ああ。やっぱり、こいつとは反りが合わない。

「軽口もいい加減にしなさいよ! 人の神経を逆撫でるような事言ってそんなに楽し……んむ!? 」

刹那の出来事だった。声を荒げた芳香の唇を、弾力のある温もりが穏やかに包み込む。その直後に口腔に流し込まれたのは、生暖かい粘液と絡んだ果肉のような物だった。芳香の気が動転し、世界が反転する。突き離そうと必死に藻掻く芳香を嘲るかのように、青娥は芳香の後頭部に回した腕をより強固な物にせんと力を込めた。

 

接吻、及び口移し。思いがけず奪われた初めてのそれは殊の外甘美であり、野苺の酸味を孕んでいた。接吻の余韻と唇の感触を想起しながら、芳香は呆けたような表情を覗かせる。

「これが欲しかったんでしょう? 」

行為を一通り終え、満足気に語りかける青娥。その顔面から微笑が途絶えた事はない。

「……一体何のつもり? 」

紅潮した頬を隠す勢いで口元を拭う芳香。彼女の右腕には、未だ混沌としている唾液で引かれたラインが、一筋付着していた。

「あら、貴女がどうしても苺が欲しいって駄々をこねるものですから、既に口に含んでしまったそれを差し上げただけの事ですわ」

青娥は不敵に口角を吊り上げると、籠愛する我が子を眺めるかのような緩やかな目線で芳香を見やる。

「……馬鹿らしい」

そんな一言を吐き捨て、芳香は徐ろに立ち上がった。青娥の慈愛に満ちた眼差しなど気付いてもいないかのように扉へと向かうと、微笑の絶えない葵を睨み付け、後ろ手に戸を閉める。空間を断絶するかのような凄烈な拒否の意を提示されても尚、彼女の頬笑は滾々と溢れ出し、枯れる事を知らなかった。

ニの章

 

連日、囁くような小雨がしとしとと降り注いでいた。重く垂れ込める曇天が鬱蒼と空のキャンバスを塗り潰し、穏やかな弧を描く梅雨を地へと流す。規則的に反響する雨音を窓の外に聞きながら、芳香は盛大な溜め息を吐いた。

「だから、どうして私がこんな日にわざわざ外に出ないといけない訳? 」

見渡す限りの書物は日に日にその量を増し、今や高やかな山脈を形成するに至っていた。

相対する青娥はとぼけたような表情を張り付けると、連綿と言霊を紡ぐ。

「あら、だって雨が降っているのよ? こんなに良いお天気の日は外に出るに限るわ」

呑気な声質が芳香の鼓膜を激しく殴打する。昂ぶり、怒り、激情。同一の志向を持った多様な感情が渦を巻く。脳に無理矢理異物をねじ込まれているかのような不快感を振り払う為、芳香は辛辣な言葉を青娥へと向けるのだ。

「あんた、気でも狂ってるの? こんな日に外へ出るのなんて、相当な物好きか気狂い位の物よ」

「随分と主観的ね。貴女らしく無い」

冷淡に返答した青娥に、芳香は小さく声を呑んだ。確かに今、彼女は冷静さを欠いていたかもしれない。悔恨の目線を向ける芳香に、青娥は嘲りを孕んだ微笑を漏らす。

「それに、あんまり部屋に篭っていると神経衰弱になるわよ」

諭すかのような口調を含ませる青娥に、芳香はまるで自らが赤子になってしまったかのような錯覚を覚えた。 慙愧の念を僅かに解した芳香は、拗ねたような口振りで応答する。

「……ならないわよ」

僅少の間の後、彼女はこの言い争いに於いて敗北を喫したのだと悟った。彼女の人生の内で幾度となく繰り返した論争も、青娥を相手取るとなると途端にその勢いをすぼめてしまう。威勢良く突き立てた矛先も、相手が反物であっては何の意味も成さない。糠に釘。暖簾に腕押し。青娥が青娥たる所以はその靭やかさに由来するのではないかと、芳香は片頭痛に呻く米神を押さえて思考するのであった。

 

ぬかるんだ獣道に二対の足音が共鳴する。周囲には一片の汚れもない雨音が尾を引き、蝦蟇の合唱に青葉がクラップを添える。一面に引かれた薄緑のカーテン。しっとりと濡れた土の香りが、芳香の鼻腔に柔らかな余韻を残して消え去った。

目を見張る芳香の頭上を雨粒が避けた。いや、弾かれたのだ。彼女らと雨垂れとの間には、絶対的とも形容出来得る遮蔽がその身を横たえている。時に矢を退け、烈火をも凌ぐその透明な盾は、今は彼女らを覆う傘として雨雫に身をやつしている。これも、青娥の操る奇術の成せる技であった。

不自然な軌道を描いて霧散する細粒。彼女は憂いを含んだ眼(まなこ)でその様子を見詰め、青娥に問いかける。

「ねえ。貴女、一体何者なの? 」

青娥はその問いを受け取るが否や、いつものように不敵な笑みを浮かべ、人の悪い含み笑いを崩さぬままこう答えるのだ。

「愚問ね。私は私。ただの霍青娥よ」

全てを諦観した彼女は呆れたように溜め息を吐き、侮蔑と冷笑を水で割ったかのような眼差しを投げた。青娥は仰々しく両手を挙げると、微かに嘲笑を滲ませる声音で告白する。

「冗談よ、冗談。私はしがない仙人。いつか立派な天人様になる日を夢見て、日々修行に明け暮れているのよ」

「それは結構な事ね」

芳香の中で、小気味よい音を立てて腑に落ちる物があった。彼女は内心、青娥は物の怪の類ではないかと勘繰っていた節があったのだ。巧みな浮遊術に奇術。俗世を顧みないような喋り方。そして何より、身分や世辞を一切考慮しないという点。つまり人間社会の(しがらみ)に囚われない何か、だという事は既に自明であり、問題はその多岐にわたる種族のどれに該当するか、という事であった。彼女はてっきり、その的を射ない曖昧な口振りから狐か狸だと思っていたのだが、どうやらその予想は大きく外れてしまったらしい。

しかし、青娥の言っている事が道化ではなく事実だとしたならば、芳香の胸中の溜飲は未だ飲み込まれてはいない。ごくごく僅かだが、彼女の中で鯛の小骨の如く違和感を漂わせるものが存在しているのだ。

「……で、そんな仙人様がこんな俗世に何の御用? 」

芳香は小骨を吐き出そうと、青娥にえづく。声帯を震わせたトーンは思いの外苛烈なものであったが、青娥は温良な綻びを引き締めぬままに返答した。

「出不精の貴女を外に連れ出しに、よ」

「迷惑な仙人ね。洛陽に帰ってくれないかしら」

やはり、この女狐には悪辣な位の言葉が丁度良い。芳香は痙攣する目尻を揉みしだき、疲労した頭で朧げに考える。その様子を見ていた青娥は二、三度囀るように笑った後、かしげた小首に微量の愉楽を乗せ、滑るように言葉を紡いだ。

「飽きよ、飽き。この世の条理に囚われるのに飽きた。ただ、それだけの事よ。檻の中から世界を見詰めるのではなく、自由に世界を眺めたかったの」

青娥にしては珍しい叙情的な物言いに、芳香は少々面食らった。確かに、理由としては青娥らしい物ではあった。しかし、被写体へのピントをわざと外すかのような曖昧な返答に、芳香は違和感を抑える事が出来ない。

「籠の中の鳥が逃げ出した。親鳥の後を追ってね」

そう続けた青娥の口元は、微かに自嘲的な笑みで歪んでいた。その比喩に何の意味が込められているのか芳香には分からない。だが、そこに只ならぬ理由と物語が息を殺して潜んでいるというのは明白であった。

青娥は一転して朗らかな態度へ転調すると、軽い足取りで青娥の前方へ躍り出る。そして緩やかに芳香へ向き直ると、悪戯っ子のような嗜虐心を含ませながら芳香へと問いかけるのだ。

「さて、今度は貴女の事を教えて貰おうかしら? 」

「……そんな事を私が貴女に教える義務があるのかしら? 」

ぶっきらぼうに答えた芳香に、青娥はニヒルな口角をより一層歪め、嘲笑とも取れる笑いを突きつける。

「あら、当たり前じゃない。私の過去を話したのだから、貴女も過去を話して然るべきだわ」

「もし断った場合は? 」

「そうね、多分私は貴女の事を侮蔑すると思うわ」

予想の中心を正確に射た回答を受領した芳香は、豪壮な溜め息を吐いた。新鮮な雨露に濡れた空気が芳香の肺に流入し、累積した鬱憤を掻き混ぜて行く。

実のところ、芳香にとって過去の話をするという行為はそう褒められたものではなかった。彼女は自らの過去に少なからず確執を抱いていたし、嫌悪してもいた。今までに他人に打ち明けた事は一度たりともない。それは打ち明ける相手が存在しなかった、というのが大凡の理由を占める訳だが、仮に彼女にその相手がいたとしても彼女は腹の中を割る事はなかっただろう。

侮蔑する。

彼女の胸腔に、その一言が見た目に反比例して重くのしかかった。彼女は問う。蔑まれる事を恐れているのか? と。彼女は答える。否、と。彼女は決して、青娥に蔑視される事を恐れていない筈だ。しかし彼女の臓腑には、返しの付いた矢のようにその言葉は突き刺さったのだ。

ああ、そうか。

彼女は自嘲する。その嘲りはやがて彼女の胸中を飛翔し、頼りない声量と共に喉元を震わせた。

「いいわ、教えてあげる。精々、その優柔な態度故に聞き漏らさない事ね」

 

 

私はどちらかと言えば、恵まれている方だったのかもしれない。

天皇家に代々仕える一族の宮古家。その長女として生を受けた私は、何一つの不自由なく育った。大仰な位の数の召使い。寛大で穏健な父。柔和な母。そして、兄が二人。妹が一人。食べ物には困らないし、兄弟の不和もない。正に、「理想の家庭」だったのでしょうね。少なくとも、そこらの農民からしてみれば、私達は間違いなく妬みと嫉みを差し向ける恰好の的だった。そして私も、その「理想の家族」像に陶酔していられたのよ。

だから余計、無垢だった私は深く傷付いた。盲目でいるのは簡単な事なの。ただ、目を瞑れば良いだけの事なのだから。だけど私は、閉じた瞼を無理矢理こじ開けられた。いずれこうなる日が来るとは思っていたわ。でも早過ぎた。雛鳥はまだ、どれだけ足掻いても飛ぶことなんて出来ないのよ。

父が、人を冷笑していた。母が、嘲りの笑みを浮かべていた。兄が、見世物でも眺めるかのような愉悦に染まっていた。

ああ、あれは忘れもしないわ。金を貸してくれと懇願する私の叔父さんに、父は冷笑を携えたまま泥を投げたのよ。心臓が止まりそうになった。私の全ての価値観が否定されたような気がして、世界が逆さに映った。何もかもが破壊された。

以来私は、人間が大嫌いになったわ。いざ笑顔の仮面を剥がしてみれば、そこは底なし沼のようにどす黒く濁っている。普段はにこやかに接してくる癖に、その裏では嘲っているのよ。考えただけで反吐が出て来る話でしょう?

 

 

それは、ある種の悲鳴のようなものであった。長年封じ込められてきた、彼女の魂の叫び。鬱憤では済まされない程に蓄積した彼女の絶叫は、最早彼女自身を縛り付ける呪いへと変容を遂げていた。火照った彼女の体温を雨音と冷気が優しく抱擁する。しかし彼女は、それすらも鬱陶しく感じられる程の興奮で満ち満ちていたのだ。

全てを吐き出した彼女は壊れた人形のように首を(もた)げると、突き放すように憮然と言い放った。

「……どう? これが私よ。妄執家で陰険。人間不信の根暗女。分かったなら、付き纏うのをやめてさっさと他の所に……」

唐突に、彼女を温もりが襲った。それは冷然とした寒気などではない。対称に位置し、凝固した彼女の心を融解させる、暖かい、ただ暖かい、青娥の温もりであった。

彼女を抱擁しているのは、雨音、冷気、そして青娥。

不可思議な三重奏に、芳香は驚嘆の表情を隠せない。

「え……? 」

人間とは酷く冷徹で、醜い生き物である。芳香のそんな固定概念は、一度の破壊と、一度の再生によって確立した。ただ盲目的に人間を過信していた幼少期、自らの肉親によってそれは破壊された。そして彼女の苗床には、人に対する絶対的な不信感のみが萌芽した。

それはある意味、成長であった。人間は従来の概念を壊す事で成長する。

彼女は今、青娥の抱擁によって破壊されたのだ。

「何で……何で抱きしめるのよ……やめてよ……貴女に抱かれるなんて……嫌……」

否定の言葉を連ねる芳香の(まなこ)からは、流麗な涙が一筋、彼女の頬に彗星のような尾を引き、顎から滴った。

「辛かったでしょう」

青娥の振り下ろした拳が彼女の堤防を崩すのに、長大な時間は要さない。

彼女は内心、助けを求めていた。氷結された己の心を融かす理解者を、密かに求めていた。彼女の、欠けたパズルのように不完全だった現在に、たった一つのピースを足してくれる救済者を求めていた。

ようやく、出逢えた。

彼女の耳管に、止みかけている雨音が染み込んだ。彼女の鼻腔に、陽光の鮮やかな香りが舞い込んだ。彼女の網膜に、暖かな日差しが投影された。

彼女の世界に、色彩が満ちた。

 

そして青娥は自らの胸に抱いた芳香を見て、喜色を綻ばせるのである。

 

 

 

間の章

 

満天の星。闇夜にかかる天の川は肌に纏わり付く陰湿な熱気と溶け合い、煌々と満ちる月光は裏路地に揺蕩う男の赤ら顔をありありと照らしている。

彼の佇む路地に人通りはない。いや、ややもすれば物の怪すら飛び出しそうな気もある。人一人が通るのもやっと、という程の細い路地には不気味な夜の空気が沈殿しており、彼の千鳥足によってそれらは度々撹拌された。

彼は徳利の中身が空になった事を茫然とした眼差しで確認すると、それを勢い良く地へと叩きつけた。凄惨な破片が烈火の如く四散し、甲高いハイハットが路地へと響く。その様相を、彼は対岸の火事といった体で傍観しているのだ。

彼の心は真空のように空虚だった。丁度、拠り所のない蜻蛉(とんぼ)が枝を求めて彷徨うかのように。彼には、縋るものがなかった。支柱がなかった。故に酩酊し、正気をアルコールで飛ばす事しか出来なかったのであるが、その綱も今、花火のように盛大に砕け散った。

彼は、人の闇に触れた。元々彼は、有力な貴族の親戚筋であった。衣、食、住、どれを取ったとしても、困窮する事などなかった。寧ろ、人より満ち足りていた。行き届いていた。

しかし、彼の華は、そこまでであった。

放火だった。家も、彼の妻も、妾も、金も、食も、全てが業火の中へと融けた。彼は窮した。そして、以前より親交のあった貴族の元へ厄介になろうと、頭を下げに行った。

彼への返答は、嘲笑と泥だった。

人はここまで残酷になれるのだ。宴で見せた温厚な笑みも、全ては偽りであったのだ。彼は宮廷の酒蔵へと忍び込み、徳利一杯の酒を盗んだ。そしてそれを煽り、夜の町へと繰り出した。しかし、それもたった今尽きた。

「もう、どうにでもなれ」

彼の心を、空虚な厭世観が支配した。死にたかった。いっその事、遺骸も残らない位まで。だからこうして酒の臭気を纏い、妖怪が来るのを待っていたのだ。

「あら、美味しそうな人間ね」

彼の耳腔に、そんな言葉が反響した。遂に来たか。彼は眼前に迫った死期を悟り、伏し目がちに瞼を閉ざした。さあ、食べるなら早く食べてくれ。彼は痛みを求めていた。最期に、自己と周囲が融けるような錯覚を覚えたかった。死は怖くない。ただ、この世に対する義憤のようなものだけが、彼の脳裏に擦り傷をつけた。

「本当に、美味しそうな感情を持っている」

眼前の死期は彼の耳元で囁くと、軽い口吻をした。彼の身体に、もう神経は通っていない。ただ、酒以外の何かで上気したような感覚だけが、彼を現し世へと繋ぎ止めていた。

「ねえ、本当に死を選ぶの? ただ、運がなかったというだけで? そんなの、余りにも理不尽だとは思わない? 」

彼の中に疑問が生じた。この妖怪は一体何を言っているのだろう。私は全てを失った。そして、見たくもなかった人間の本質を垣間見た。私はもう沢山だ。早く楽にしてくれないか。

「そんなの絶対におかしいわ。仕組まれた悲劇でもない限り、貴方には自らの不幸を憂い、穴埋めをする権利がある。そうでしょう? 」

不思議な事に、その言葉は空室だった脳髄に良く響いた。彼の空虚が満ちて行く。彼は、彼女の言葉に踊らされる。モノクロだった彼の世界に、仄かな篝火が宿った。

「そう、貴方を貶し、嘲った奴らに復讐をするの。さあ、この炎を手に取って。これは貴方の、復讐の灯火。反逆の初手よ」

そうだ、私はこんな所では死ねない。必ず、奴らに報復を下すのだ。松明を握る手が自然と締まる。彼は、復讐の種火を植え付けられたのだ。

「さあ行きなさい。黄泉の国へと渡るのなら、彼らをお供に添えると良いわ」

 

霍青娥は、不敵に笑っていた。

 

 

終の章

 

芳香が違和感で目覚めた頃には、既に屋敷の殆どに火の手が回っていた。

猛る黒煙、唸る炎。人間が耐えうる温度のバロメーターを振り切った悪魔の手があちこちで上がり、家を、人を、明瞭な空気でさえ呑み下していく。悲鳴と断末魔が入り混じる。人の焼け焦げる臭気が流布する。

地獄だった。

もし神がいるのなら、きっとそいつは人間と同じように残酷なのだろう。芳香は見慣れた召使いの焼死体を退けながら、霞がかった回路でそう思考する。姿勢を低く保っていても、依然として黒煙は肺への流入をやめない。芳香は幾度となく咳き込んだ。そしてその度に掻き切れた喉から出血し、彼女は又幾度となく吐血した。

目前が揺らぐ。超然たる陽炎か死に際の幻覚か、それすらも芳香には判然としない。ただ己の身体が衰弱し、呼吸すらまともに出来なくなっている現状から推察するに、もうじきに死ぬというのは自明であった。

悔いは無かった。

元来、厭世観の中で生きてきたような人生であった。何度も裏切られ、何度も傷付き、そしてたった一回だけ救われた。思い返してみれば短い人生であったが、このたった一回の救済の為に生きたと考えれば、芳香はそれで良かった。多くは望まない。

しかし、欲を言えば、彼女は一つ望んでいるものがあった。

青娥に会いたい。

一目だけでいい。死ぬ前に一目彼女の姿を見られれば、芳香はそれで満足だった。あの笑みをまた見られれば、それで充分だった。しかし、それも叶わぬ希望であった。彼女の声帯は既に灼き切れ、寸分の声も発する事が出来ない。視界は途切れ、全身の筋肉が熱と疲労に喘いでいる。

「い……が……」

だが、彼女は諦めなかった。吐息に乗せた叫びはか細いものであった。儚く、脆く、触れれば壊れてしまいそうな泡沫であった。

「せ……が……」

彼女は諦めなかった。彼女の僅かな生命力と根気を賭けた、全身全霊の絶叫。青娥に会いたい。その思いだけが、彼女の理性と生命を保っていた。

「青娥……! 」

 

「何か御用かしら? お嬢さん」

 

その声が彼女の鼓膜を叩いた時、彼女は柔和な微笑を浮かべ、催促する死神に悠然とその身を委ねたのだ。

 

 

 

バッドエンド・エピローグ

 

梅雨を迎えた幻想郷は、曇天から悠々と舞い降りるような小雨が三日三晩降り通していた。清涼な冷気がその場を満たし、指先で柔肌をなぞっては霧散していく。

妖怪の山の麓に位置する花畑には、今年も満開の紫陽花が咲き乱れている。雅な紫煙を燻らせる花。誘うような薄紅を纏う花。色とりどりの花弁が戯れるように乱舞するこの花畑で、霍青娥は一人、自らのキョンシーを従えて静謐に佇んでいた。

「ねえ、芳香」

「何だー? せいがー」

都一の頭脳と謳われたのも、過去の栄華。今はただ、青娥に付き従う傀儡として、その身体を呪いのホルマリンへと浸している。

そんな芳香を見て、青娥は柔和な笑みを浮かべた。一寸の屈託もなく、己の感情にひたすらに忠実に。

青娥は愉快で堪らなかった。故に、笑みを抑える事が出来なかったのだ。自らの掌で踊る芳香を眺める事が、愉快で堪らなかった。ただただ純粋で無垢。自らの理想さえ、他人に平気で押し付ける。愚直だった。馬鹿だった。そして、そんな彼女を操る事が、青娥は愉快で堪らなかった。

「一つ、良いことを教えてあげるわ」

彼女は数百年もの時を経て、芳香へ一つの事実を打ち明ける。しかし、当の本人は何も理解しないだろう。それどころか、数瞬の後には今と同じように紫陽花の花を食べ始める事だろう。何せ、脳が腐っているのだから。

彼女は襲い来る幸福感に堪らず己の身を抱くと、より一層口角を歪め、訥々と喋り出す。

「キョンシーという物はね、生前の身分が高ければ高い程、より高い能力を発揮するのよ」

 

 

 

 




如何でしたでしょうか? 少しでも楽しんで頂けたなら、感想を下さると幸いでございます。
あ、物怖じしなくても良いのですよ? 読者の感想というのは、作者にとって非常に励みになるものです。一言二言でも良いのです。というか下さい(本音)

ちなみに、これが百合かと問われると、私は自身がありません。


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