ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト 作:hirotani
小説で語り合う時ってもっと穏やかなもんだと思ってましたよ……。
アスナはリズベットの店で用事を済ませた後、夕食にセツナを誘うつもりだったらしい。マップ追跡したら昼間行ったばかりの迷宮区へ入るところで反応が消えたため、心配になって探しに来たようだ。
アスナはセツナの腕を掴んで、フードを取った。露になったセツナの顔を見たアスナは、その表情にある憂いをより一層深めていた。
「一緒に来て」
アスナが言ったのはその一言だけだった。セツナは抵抗することなくアスナに着いていった。
顔を見られる前に、
移動中、アスナは何も言わなかった。代わりにウィンドウを開き、誰かにメッセージを送っていた。多分ヒースクリフだろう。
無言のまま2人はグランザムの血盟騎士団本部へ行った。夜になると門番はいなかったが、塔の扉は開け放たれていた。照明が落とされた会議室で、ヒースクリフ1人だけが中央の椅子に腰かけていた。背景にあるガラス張りの窓から差し込む街灯を浴びて、顔が影に覆われてもその存在感は変わらなかった。
暗視モードで確認できるヒースクリフの目には、怒りも悲しみも宿っていなかった。ただいつもの無機質な真鍮色の瞳を、セツナに向けていた。
「団長。さっき、彼がオレンジプレイヤーをPKするところを見ました」
「……そうか」
「団長は知っていたんですか? 彼が《死神》と呼ばれるプレイヤーだと」
「ああ、知っていた」
ヒースクリフはいつもの声色で答えた。そして続けた。
「彼にオレンジプレイヤー暗殺の任を与えたのは、他でもない私だ」
ヒースクリフの言葉に、セツナは内心驚いていた。彼なら「知らない」と切り捨てるだろうと思っていた。セツナの驚愕など知らないまま、アスナはその怒りに満ちた目をヒースクリフに向けている。
「どうして、彼にそんなことをさせたんですか!」
「我がギルドのメンバーがオレンジプレイヤーの被害に遭っていることは、アスナ君も知っているだろう。《軍》の取り締まりは限界がある上に、上層までには及んでいない。攻略組の安全のために、オレンジプレイヤーは排除されなければならない」
「だからといって、彼にやらせている事を分かっているんですか! 殺人ですよ!」
「ああ、彼のしている事は許される事ではない。無論、彼に命令していた私もそうだ。しかし必要なことだ。アスナ君、彼がこれまでこなしてきた仕事がどれほどか知っているかね?」
「………彼は何人殺したんですか?」
「200を越えている。私の指令にない人数を含めれば、もっといるだろう」
「そんなに……!」
アスナは言葉を詰まらせて、口に手を当てた。彼女は視線をセツナへと移した。さっきまで怒りを浮かべていたその顔は驚愕へと変わっているが、絶望を含んでいるようにも見えた。
「この数がどういうことか分かるかね。このアインクラッドには、それ程に悪意に満ちたプレイヤーがいるという事だ。それは留まることを知らない。今後も犯罪を働く者は現れるだろう」
この「必要悪」の議論は、この場では終わらないだろうな。憤るアスナといつもの調子を崩さないヒースクリフを見て、セツナはそう思っていた。
この議論に決着がつかないのは、どちらの主張も結局は「正しい」からだ。ヒースクリフがセツナに暗殺をさせていたのは、ギルドの仲間と攻略組を守らなければならないから。アスナがセツナとヒースクリフを許せないのは、殺人が最も重い罪だから。どちらも正しいのだ。
アスナの言い分は10人中10人が正しいと言うだろう。ヒースクリフの言い分は両論賛否だ。でもだからといって、多数決で済まされるほど単純な問題ではない。必要悪というのは、必要だから存在するのだ。「ロード・オブ・ウォー」で商才があるというだけで、主人公が殺人に使われる武器を売っていたように。正義とか悪とか、そんな倫理観を超越するほどの需要があるから。
セツナの予想通り、この場の議論は泥沼のまま終わった。どちらも自分の主張を曲げることなく。
「明日、ギルドで例会を開きます。そこで彼のことを報告します」
「ああ、構わない。私も、やってきたことの責任は取るつもりだ。君が望むのなら、私はギルドを去ることも辞さない。だが私は悔いていない。彼のおかげで、攻略組を守ることができたのだからね」
「………………」
アスナは唇を噛んだ。現実なら、血が滲んでいることだろう。
「今晩、彼はわたしが預かります」
ヒースクリフは頷き、了承する。
「セツナ君、聞いた通りだ。今夜は彼女と一緒にいて欲しい」
「……了解」
アスナは「行くよ」とセツナの手を引いて会議室から出た。
会議室の扉が閉じるその瞬間まで、ヒースクリフはいつもの無機質な表情をしたままだった。
♦
第61層主街区のセルムブルグは、まるでフランスのモン・サン=ミシェルとギリシャのサントリーニ島を掛け合わせたような街だった。その街並みの美しさに街開きの際には、多くのプレイヤーがごった返してすし詰め状態になったらしい。危うく層の大半を占めている湖に落ちかけたという笑い話も聞いた。
街に並ぶ白亜に統一された花崗岩の建物は、街灯と窓から漏れる光を浴びて淡い黄色に染まっている。その様はまるで長い年月が経った遺跡のようで、街に哀愁と深みを彩っていた。
ここに来たのが夜で良かったとセツナは思う。昼だと建物と揺らめく湖面が陽光を反射して、層全体が真っ白に輝いていることだろう。黒ずくめの装束を着たセツナには場違いだ。白の団服を着たとしても、5分と街の空気に耐えられないかもしれない。
時間帯のせいか、人通りは少なかった。湖畔には外周部から覗く月を映す湖面を鑑賞している粋な男女が1組だけだ。男女が腰かけている傍に、白い小舟が浮いていた。「旅するジーンズと16歳の夏」で、4人いるヒロインの1人が海へと飛び込む場面を思い出した。
「セツナ君……」
前を歩くアスナの声には覇気を感じなかった。昼間はあれほど気力に満ちていたというのに。前を向いたままの彼女の髪は影を帯びているが、それは僅かな湖の光を反射していた。歩く度に、その髪が艶やかになびいている。
「団長の命令だから、やっていたの?」
「ああ。だが合意の上だ」
「自分のしてきた事を分かっているの? あなたのしてきた事は殺人なのよ?」
「分かった上でやっていた。それで、あんたは明日の例会でどうするつもりだ。俺を牢獄にでも送るつもりか」
「それを明日幹部で話し合うのよ」
「だとしたら、俺は問答無用で牢獄送りだろうな。最悪の場合処刑だ」
アスナは立ち止まり、セツナがいる後ろを向いた。その影を帯びた顔を見て、トラビアの村で会ったエステルを思い出した。
「さっきから他人事みたいに! あなたの事なのよ?」
「あんたこそ、俺の事を晒せばどういう事になるか分かっているのか。血盟騎士団の信用は一気に落ちる。攻略にも支障が出かねないぞ」
「だから黙っていろっていうの? あなたはわたし達を守っているつもり?」
「ヒースクリフも言っただろう。俺は少なくとも200人のオレンジプレイヤーを始末した。始末した連中の活動圏にいるプレイヤーは守られた」
「あなたは、それが正義だとでも?」
「俺のしていることが正義だとは思わない。でも、俺のしていることが結果としてあんた達を守っていることは事実だ」
「だとしても受け入れられないわよ! あなたの起こした悲しみでこの世界が成り立っているなんて!」
アスナの目尻には涙が浮かんでいた。セツナには、なぜ彼女がそこまでセツナに思い入れているのか分からない。でも、彼女の悲しみは受け止めなければならないと思った。
「わたしだって、犯罪者は許せないわよ! でも、いくら犯罪者でも命は命よ!」
命は命。
結局、殺人の是非はその一言で否定されてしまうのだ。セツナがいくら、アインクラッドが地獄の上に浮かんでいる事実を述べたところで、彼女のその一言で片付いてしまう。そんな真っ直ぐな正義感を持てることは尊敬するし、変わらないでいて欲しい。
でも、事実は事実だ。事実というものに、人はどうしても反発したくなる。だから別の可能性を探り、別の答えを望む。しかし結果として表れてしまったものは変えようがない。
「いい加減現実を見ろ。俺という存在がいるから、あんた達は平和に攻略を続けられる。俺がいなければ、連中の犠牲者は増え続けるんだぞ」
「でも、だからって殺していいはずがない‼」
「殺さなければ、俺が殺した数よりも多くの人間が死ぬ。ゲームではなく、人の手で」
セツナはアスナの顔を見つめる。瞳にはもう迷いが無かった。自分がすべきことを見つけた眼差しだった。
アスナはウィンドウを出し、素早く操作した。すぐにセツナの視界にシステムメッセージが表示される。
【アスナから1Vs1のデュエルを申し込まれました。受諾しますか?】
「わたしには、これ以外にあなたを止める方法を思いつかない」
「ああ、ここで議論しても無駄だ。俺達の言い分は両方とも間違ってはいない」
アインクラッドは剣の世界だ。剣で全てを決することが一番良い選択だ。こんな思考をすると、すっかりこの世界の住人になったなと思う。まだデスゲームが始まって2年近くだが、人間の適応力はたくましい。
「俺をこの場で殺すのか」
「あなたと同類になるのは嫌。《初撃決着モード》にして」
セツナはYesボタンに触れて、オプションの中から《初撃決着モード》を選択した。メッセージが変化する。
【アスナとの1Vs1デュエルを受諾しました】
メッセージの中で60秒のカウントダウンが開始される。アスナの方にも表示されているようで、彼女は腰の鞘から剣を抜いた。
セツナも剣を抜き、アスナの目を見据える。さすがは「狂戦士」と呼ばれるだけある。一切の迷いを感じない。セツナはその目に宿る闘志に応えなければならない。セツナは「死神」ではなく、セツナとして彼女と剣を交えなければならない。
カウントは一桁まで減っていた。
5、4、3、2、1。
【DUEL‼】
同時に、2人は地面を蹴った。アスナの青い光を纏った剣が迫って来る。細剣基本技の《リニアー》だ。基本技だが、敏捷度が高いアスナはそれを視認できないほどのスピードで繰り出してきた。HPを半減させる他に、最初の強攻撃をヒットさせれば勝利する《初撃決着モード》に最適な技だ。
単純なスピード勝負ならアスナの攻撃はヒットするはずだが、セツナの剣はそれを受け止めた。触れ合った刀身同士が火花を散らしながら滑り、アスナの剣はセツナの顔から僅か数センチ右へと軌道が逸れた。
アスナの顔は驚愕を浮かべていた。よほど自分のスピードに自信があったようだ。確かに「閃光」と呼ばれるだけのスピードだ。だがアスナは地面を蹴る直前、一瞬だけセツナの胸へと視線を僅かに落とした。それでおのずと狙ってくる位置は読める。
一般プレイヤーが主に相手をするのは、アルゴリズムで行動を設定されたモンスターだ。セツナはアルゴリズムなんてものよりも複雑な回路を持つ人間を相手にしてきた。モンスターとの戦いでは彼女が上だろうが、対人戦闘に関してセツナには培ってきた場数がある。
アスナは再び剣を突き出してきた。どれも素早い突きだ。でも全てセツナはいなした。アスナが上段から振り下ろした剣を受け止め、鍔迫り合いへと持ち込んでくる。拮抗しているが、筋力パラメータを熱心に上げていないセツナには長丁場になると不利になる。
セツナは右足で強く地面を踏み込んだ。そしてアシストに従って、黄色のエフェクトを纏った右足をアスナの腹へと叩き込んだ。
アスナの体が大きく吹き飛ぶ。HPは数センチ減っただけだ。石畳の地面に倒れる直前で、アスナはステップを踏み体勢を立て直した。だがその間に、セツナはアスナへと肉迫していた。セツナの剣がアスナの髪や腰から垂れたローブを掠めていく。さっきとは打って変わり、アスナは防戦へと転じていた。
セツナは剣を振りながら、アスナの視線へと注意を向ける。左右上下から迫って来るセツナの剣を追うため視線を走らせる彼女を見て、セツナは勝利を確信した。
セツナが横薙ぎに振った剣を、アスナが防いだ時だった。セツナの黄色い光を放った左拳が、アスナの頬をしたたかに打ち付けた。体が衝撃と同じ方向へと倒れ、慣性によってその長い髪は反対方向へ舞った。
アスナは受け身を取ることもなく、固い地面に身を伏した。その近くを、彼女の剣が甲高い音を立てて転がった。まだ彼女のHPは2割しか減っていない。デュエルはまだ続いている。でも、彼女は立ち上がろうとする気配がなかった。
このまま動かない彼女に中堅クラスのソードスキルで攻撃すれば、HPは半分を切ってセツナは勝利するだろう。でも、セツナはそれをする気が起きなかった。今まで命乞いをする標的も、眠っている最中にセツナがウィンドウを操作していることに気付かない標的も、容赦なく斬り捨ててきたというのに。
「降参」
セツナがそう呟くと、システムメッセージがデュエル終了を告げた。メッセージの中に勝者であるアスナの名前が表示されている。
「二度と俺の邪魔をするな」
セツナはうずくまったままのアスナにそう言い放ち、コートを翻して歩き出した。だが、すぐに背後からコートの裾を引かれ足を止めた。振り返った先に、顔を俯かせたアスナがいた。
「待って………」
震える声のアスナは両手でセツナのコートを掴んでいる。少し離れた所に、彼女の剣が地面に放置されていた。
アスナがゆっくりと顔を上げる。今にも涙を流しそうな目をしていた。でも彼女は涙を流さなかった。女であることを利用することに抵抗しているように見えた。
「お願い……。お願いだから……、行かないで………」
彼女はもう、
「………分かった」
口からなぜその言葉が出たのか、セツナ自身にも分からなかった。いや、分かってしまう事が怖かった。彼女を見て感じたことを自覚する事が、これまでのセツナの生き方に迷いを持ってしまうような気がした。
黙ってアスナの部屋まで着いていく間、セツナは自分の中で湧いてくる疑問を打ち消すことに必死だった。
これは気まぐれだ。
ヒースクリフから彼女と一緒にいろと命令されたからだ。
たまには、リゾート地でゆっくり休みたいからだ。
セルムブルグの街並みに違わず、アスナの部屋も豪奢に整えられていた。家具の造形の細かさは、NPCショップで買える代物ではない。職人プレイヤーが自身の最高のスキルを駆使してしつらえたのだろう。
「ご飯、作るね。適当に座ってて」
沈んだ声色のアスナに促されるまま、セツナはダイニングの椅子に座る。リビングの奥の部屋に入り、すぐに出てきたアスナは装いを変えていた。簡素なチュニックとスカートは、彼女がまだ年端もいかない少女であることを主張しているようだった。
キッチンで食材をオブジェクト化しているアスナの顔を眺める。キッチンに置かれた器具から、彼女が料理を趣味としていることは分かるが、その顔は趣味を楽しんでいるとはとても言い難い。アスナはずっと、伏し目がちな表情を変えなかった。しばらくして、キッチンから漂う匂いが、セツナの鼻腔に届いた。さっき迷宮区に入る前に夕食を済ませたというのに、その匂いはセツナの食欲を刺激した。
「どうぞ……」
セツナの前に、ソースがかかったステーキが置かれた。焼けた色合いからして、牛型モンスターの肉のようだ。セツナはフォークで肉を口に運ぶ。この世界に来て、一番美味いと素直に思った。脳にただ信号が送られるだけと、今までは味なんて追及しなかったというのに。匂いからもしやと思ったが、ソースは醤油に似た味だった。アスナはまだ料理スキルを完全習得していないようだが、極めれば完全に醤油を再現できるかもしれない。
夕食の後、2人はテーブルで向かい合いながら、ハーブティーに似た香りのお茶を飲んでいた。食事の間からずっと無言だった。やがて、アスナが沈黙を破った。何の前置きもなく、唐突で、率直に。
「どうして、セツナ君は犯罪者を殺すの?」
「理由を言って片付くものじゃない。言えば、あんたは俺に仕事を続けさせてくれるのか」
「絶対に止める」
アスナは断言する。
「でも、わたしにも何かできるかもしれない」
この女に話したところで、セツナが変わることはない。それは確信できる。トラビアでエステルに聞かれた時は断った。でも、今は他者にセツナの根本を開示するべきという声が、セツナの思考を占めようとしている。
誰でもいいというわけではない。アスナだからこそ、話してもいいと思える。
彼女と過ごして感じてきたもの。その言葉で言い表すことのできない事をはっきりと言葉にするため、セツナは結んだ口を開いた。
それは告白と呼ぶべきか、懺悔と呼ぶべきか、セツナ自身にも曖昧なものだった。
♦
アインクラッドで現実世界の話を持ち込むのは、最大のタブーだ。
現実とは別の人生を生きたくて、SAOにログインした。
オンラインゲームでは、現実での生い立ちや社会的立場など関係ない。その人の人柄だけを見るべきだ。
デスゲームのこの世界で、現実の事など話しても無意味。今の自分達はゲームの世界の住人なのだから。
SAOプレイヤーの大半は、発売と同時に即完売したソフトを手に入れた筋金入りのゲーマーだ。SAOがデスゲームになってから2年近く経つ現在でも、その暗黙のルールは厳守されている。
実際、たとえ現実の事を話しても意味は無い。攻略組のとあるプレイヤーが現実では職にも就かず親の庇護の下暮らしている人間だったとしても、アインクラッドではデスゲームをクリアへと導いてくれる希望なのだ。
ゲームでは現実の事を置いていくべき。それがネットの海で展開されるMMOをプレイする上での最大のルール。
でも俺は、そのルールを破った。
俺はこのアインクラッドに、現実を持ち込んでやってきた。
だから俺の話は、現実世界で生きていた頃にまで遡る。
暑い日だった。
8月の真っ只中、既に陽は傾きかけているのに気温は下がらないまま、俺は帰路についていた。いくら制汗スプレーを吹きかけても汗は止まらなかった。でも、その汗すらも俺は心地良いと思った。
その日俺は、サッカーの大会で優勝したばかりで、勝利の余韻に浸っていた。父親の教育方針として小学生の頃から続けていたサッカー人生の中で、その日の試合はこれまでの練習で培ったもの全てをぶつけた。結果として、フォワードを務める俺は得点を決めた。
決勝試合が終了すると、俺はチームメイトと共に観戦していた父兄達の歓声に迎えられた。いつも厳しい監督も、俺のプレーには賛辞を述べてくれた。
会場のグラウンドから優勝カップを土産に学校へ戻り、そこでも校長からの祝いの言葉を受け取った。学校で解散した後、俺はチームメイト達と一緒に汗臭いままファミレスで軽い打ち上げをした。父兄も交えた祝勝会は後の期日だったが、俺達は待ちきれなかった。
ユニフォームに大量の汗を染み込ませながら、帰路で俺は試合を振り返った。その日の試合は、まさにチームが1つになっていた気がした。1人1人が自分に与えられたポジションの役目を果たし、ゴールまで最前線にいる俺に上手くボールを回してくれた。
帰り道で試合を自画自賛していた俺は、自分が歩いている住宅街で音が響いていることに気付いた。明らかに、どこかの店から漏れたBGMではなかった。よく通る道だし、新しく店ができた話なんて聞いていない。それに、この音はとても店で流す程ポップな雰囲気ではなかった。
この音はバイオリンだろうか。誘われるように音源を探して歩いた。俺は音楽にはあまり興味は無い。スマートフォンに入れているお気に入りの曲は10も無いし、ギターとベースの違いも分かっていない。楽器なんて音楽の授業でリコーダーを吹く程度だ。
でもあの音には、どこか惹かれるものがあった。音楽は心を強姦すると、いつか小説で読んだことがある。よく出来た言葉だと思う。強姦なんて言い回しに少し抵抗はあるが。
そして俺は、その音源を見つけることができた。場所は小さい頃よく遊んだ公園だった。平日の夕方の、人気のない公園。その真ん中で、彼女はいた。
年は俺と近そうな少女。着ているのは学校の制服のようだが、俺の中学とスカートの色が違う。額から汗を滴らせながら、彼女はバイオリンを弾いていた。
公園に入った俺は、その演奏を突っ立ったまま聴いていた。曲の名前は何なのか分からなかったけど、彼女の奏でる音をもっと聴きたいと思った。結構長く聴いていたが、彼女は弦に集中しているのか俺には気付いていないようだった。
やがて、演奏が終わった。そこでようやく、彼女は俺に気付いた。彼女の琥珀色の瞳は見つめるとその中へ吸い込まれてしまいそうだった。演奏を見られたことの羞恥は感じていないみたいだ。恥ずかしいなら、公園のど真ん中でバイオリンなんて弾かないだろう。
彼女は俺と短く視線を交わすと、バイオリンを近くのベンチに置いてあるケースにしまった。そのまま、俺が入ってきた所と反対方向へと歩き出した。
「あ、なあ!」
咄嗟に、俺の口から声は出た。何だかナンパみたいで抵抗はあったけど、声をかけずにいられなかった。俺は彼女の前へと回り込んだ。
「何でここでバイオリンなんか弾いてるんだよ?」
「……たまには、外で弾いてみたかったから」
彼女はそう呟くように言った。一切の曇りのない、澄んだ声だった。
「バイオリンて外で弾かないの?」
「普通は屋内よ。夏だと特に湿気がひどいから」
その少ないやり取りで、この女は苦手な部類の女だと思った。
俺は女慣れしているとまでは言わなくても、気心知れた女友達が何人もいる。俺が気兼ねなく話せる彼女達は、平気でがに股で歩き、荒っぽい言葉を使うことが多い。だからこそ女だからといって変に気を遣うことなく接することができるのだが、目の前にいる彼女は俺の女友達とは全く異質の存在だった。
艶のあるストレートの長い髪。アイロンがしっかりと掛けられているブラウスとリボン。折り目が揃えられたプリーツスカート。俺の学校の女子と同じ出で立ちなのに、彼女達よりも気品がある。着るものが同じでも、手入れをするだけでここまで違うのかと思った。ブラウスに施された校章の刺繍は、偏差値の高いことで有名な学校のものだ。義務教育なのに、中等部に入るには難関な試験をパスしなければならない。しかも学費が高いことでも有名だ。
だとしたら、彼女は裕福な家のお嬢様だろうか。雰囲気で何となくそんな気がする。楽器だって、決して安くないことはバンド活動をしている友人から聞いている。
「いつも、ここで弾いてるのか?」
「ううん、今日はたまたま。練習をサボっている間の暇つぶし」
「練習サボるのはよくないぞ。サボった分は3倍練習しないと取り戻せないし」
「……何だか押し売りみたいね」
「なっ……」
俺は何も言い返せなかった。実際、部活で監督から言われたことをそのまま言ったからだ。
「人に何か教えたいなら、自分の言葉で話すべきよ」
彼女は素っ気なく言うと、そのまま俺の横を通り過ぎて行こうとする。何て無愛想な女だ。顔立ちが整っているせいか、余計に腹が立つ。
でも、彼女の音には確かに惹かれるものがった。同時に、何か引っかかるものがあった。俺はそれを知りたくなった。
「あ、ちょっと待てよ!」
彼女は立ち止まり、振り向いた。
「また、バイオリン聴かせてくれないか?」
「あなたクラシック聴くの?」
「聴かないけど、お前のバイオリンがまた聴きたいんだよ」
「ナンパする癖に口説き文句が下手ね」
「ナンパじゃない!」
言い方がつくづくキツい女だ。こいつ友達いないんじゃないかと思える。
「……分かった。弾いてあげる」
俺が上手い理由を考えている間に、彼女はそう言った。
「でも平日は練習と塾があるから。日曜日のこの時間、この公園で。休日なら、あなたも部活無いでしょ?」
「あ……、うん」
一瞬、何で俺が部活していることを知っているんだと思ったけど、その疑問の後、俺は自分が汗まみれのユニフォームを着ていることを思い出した。動揺を誤魔化すために、俺は咳払いする。
「
「せつな……。ふっ」
俺の名前を聞いた彼女は、控え目な笑みを零した。
「何その名前、女の子みたい」
「言うなよ、俺だって気にしてんだ!」
1学期初めのホームルームや、部活に入った時。自己紹介の場で名前を言う度に恥ずかしくなる。この名前で15年間暮らしてきたというのに、未だに俺は自分の名前にある違和感を拭えない。必ず「キラキラネーム」とか「女の名前」とか言われるのだ。
一度、この名前を付けた父親に文句を言ったことがある。何でもっと男らしい名前にしてくれなかったのかと。父親曰く、姉の次に生まれる子供は男女関係なく「刹那」という名前にすると決めていたらしい。一応仏教用語で、読み方も当て字ではないから不自然な名前ではないと言われた。だとしても、男で刹那とは如何なものかと思う。出生届を出すとき、受理した区役所の職員は真面目に仕事をしていたのだろうか。
「人の名前を笑うな! そういうお前の名前は?」
俺は恥ずかしさを消すように、語気を強めて尋ねた。控え目ながらひとしきり笑った彼女は、笑みを浮かべたまま名乗った。
その顔を見て、不覚にも可愛いなと思った。
「
今回の後半部分を書くために「四月は君の噓」を観ました。
感想? 泣いたさ。それだけだよ。