ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト 作:hirotani
ビックリしました。めっちゃ寒気しました。雪降ったせいかもしれませんが。
結局何が言いたいかっていうとこういう事です。
ありがとうございます‼
青天の
それを言い表すとしたら、その言葉が最も適切なのかもしれない。
9月もいよいよ終わろうとしている時期、俺の家に電話が入った。仕事で家にいなかった親に代わって、姉が対応した。その時リビングでテレビを観ていた俺は、姉の戸惑いを隠しきれていない途切れ途切れな声を聞いていた。
「刹那、明日は部活休みなさい」
電話を切った後、姉はそれだけ言った。
「何で?」
「人と会うのよ。ちゃんと制服着ておきなさいよ」
俺はそれ以上聞こうとしなかった。姉の剣幕で、只事ではないということが何となくだが分かった。姉はその日の夜、俺の制服のシャツにアイロンをかけ、ズボンをプレスした。
俺は次の日、監督に部活を休むことを伝えた。試験日が近いが、監督は何も言わずに了承してくれた。一昔前は「休むことは悪」だなんて理屈で冠婚葬祭でも休みをくれなかったらしいが、今はその態勢が見直されている。理由を言えば、特にお咎めはなく休暇を貰えるのだ。
放課後、制服を着て校門の前に立っていると、姉が車で迎えに来た。姉はまだ学生だが、来年の就職先が決まった祝いとして最近車を買ってもらった。慣れない手つきでハンドルを握る姉は、入社式用に買ってもらったスーツを着ていた。まだ糊のきいたスーツも、こんなに早く出番が来るとは思ってもみなかっただろう。
俺と姉が来たのは、随分と洒落た喫茶店だった。店の内装が凝っていて、客も高そうなスーツに身を包んで髪を綺麗に整えたビジネスマンばかりだった。若年層は俺達だけで、客の平均年齢は少なくとも40は越えているだろう。
姉は席を予約していたらしく、店員に予約した際の名前を言った。姉が店員に伝えた名前は、俺達の苗字である「早速」ではなかった。その名前は俺の知っている苗字。俺はそれを聞いた瞬間、戦慄が走るのを感じた。試合の時、ドリブルの最中に横から相手チームの選手がスライディングをしてきて、体に触れられることなくボールを奪われた時のような戦慄。
俺達が席に座ってしばらくすると、先方がやってきた。俺の母親と年が近そうな中年の女性。上質そうな生地のスーツを着込んだ凛々しい姿の隣に、彼女はいた。
「波絵……」
気付けば、俺は姉に腕を引かれて立たされていた。姉に釣られて、俺は波絵と、母親であろう女性に頭を下げる。向こうも軽く会釈し、椅子に座った。
「初めまして、波絵の母の真広直子です」
「早速刹那の姉の、早速麻沙美です。両親が来るべき所を、私で失礼いたします」
「いえ、こちらも主人が来るべきですが、仕事が忙しいもので」
その短い会話で、俺はこの母親がとてつもなく恐ろしい人間であることを、動物的な直感で悟った。波絵にバイオリンという呪いをかけている張本人。女性らしく柔らかな物腰に反する、聴くと全身が圧迫されるような声。
「お姉さんは、学生かしら?」
「ええ、はい。来年には内定先の会社に入社予定です」
「そう。電話で話した時にも思ったけど、しっかりなさっているわね。ご両親は立派な方だと分かるわ」
「いえ、そんな……」
姉と母親が話している間、俺と波絵は黙っていた。ウェイターが運んだコーヒーに手を付けることなく、俺はテーブル越しに波絵を見つめる。波絵は俺と視線が合うも、すぐに俯いて俺の顔を自分の視界から追い出した。波絵もコーヒーに手を付けなかった。黒い水面から立ち昇る湯気はなく、すっかり冷めているのが分かった。
波絵はコーヒーが好きじゃない。波絵は砂糖とミルクを大量に入れた甘ったるい紅茶が好きなんです。あなたはそれを知らないのですか。俺は波絵の母親に視線で訴える。先方は俺の視線には気付かず、姉との会話を楽しんでいる。
「刹那君」
俺は反射的に「はい」と返事をした。そうしなければ、すぐに処刑台に送られるような錯覚すらあった。波絵の母親と視線が合う。波絵と似た琥珀色の瞳に射抜かれた瞬間、背骨に針金を入れられたかのように、背筋が伸びた。波絵も将来、こんな淑女になるのだろうか。
「波絵と仲良くしてくれたようね」
「は、はい……」
「娘にお友達ができることは嬉しいわ。この子は引っ込み思案な所があるから、私も主人も心配していたの」
そうですか、ならこうしてご馳走して頂けるのは当然の報酬ですね。
軽いノリのハリウッド映画なら、こんな切り返しをするものだろう。フィクションだけど、俺は画面の中の彼等を尊敬する。こんな威圧たっぷりの人間の前で、自分のペースを崩さずにいられるのは、余程の修羅場を潜ってきた者だけだ。
「全国大会準優勝おめでとう。輝かしい功績よ。でもね、だからといって女の子と遊び呆けていては駄目。高校受験を控えているのでしょう?」
「ええ、まあ……」
「波絵も大切な時期なの。この子の学校は中高一貫だけど、音大附属の高校に進学させるつもりよ」
俺はその言葉で、初めて波絵が同い年であることを知った。俺達の間に、年齢なんてものは特に注意するべきことじゃなかった。
「だから、どうか波絵と会う事は控えて欲しいの。これは、お互いのためよ」
波絵の母親は、決して命令するような口調ではなかった。幼子を諭すように、柔らかく、穏やかな口調だった。
俺はその口調から語られる要求を拒みたかった。ふざけるなと、テーブルを叩きたかった。
波絵はあんたのせいで、楽しくもないバイオリンを続ける羽目になったんだぞ!
あんたは波絵の意思を尊重したことはあるのか!
そうやって今まで、波絵を自分の思い通りにしてきたのか!
あんたはこれからも、波絵にあれこれと要求するのか!
あんたが年老いて死ぬまで、波絵は呪われたままなのか!
俺の脳裏に、怒りの言葉が矢継ぎ早に浮かんでくる。後はそれを口に出すだけなのに、俺は言えなかった。ただ黙って、冷めきったコーヒーに映る自分の顔を見る事しかできなかった。
「弟には、私と両親が言い聞かせます。ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
俯く俺の耳孔には、姉のそんな言葉しか聞こえなかった。
店を出る時、母親と街の中へ消えていく波絵は、一度だけ俺の方を振り向いた。何も言わない波絵は人形のようだった。何か言いたくても押し殺すよう強要され、口の代わりに目で自分の意思を訴えるのは、彼女なりの精一杯の抵抗だったのかもしれない。街の人混みに消えても、波絵の瞳は俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「姉ちゃん、ごめん」
俺は帰りの車の中で、姉に謝罪した。そうすることしかできなかった。
「謝んなくていいわよ。お父さんとお母さんには、私の方から説明しとく。あんたは運が悪かっただけよ。お嬢様なんて、あたし達とは住む世界が違うもの」
いつもは憎まれ口を叩く姉は、その時だけ優しかった。俺はひどく疲れていた。一日中練習した日よりも。シートに背を預けて目を閉じても、倦怠感に反して眠ることはできなかった。
♦
俺は元の日常に戻った。
平日は授業が終われば、遅くまで部活。暇な土曜日の午後と日曜日は、自室で本を読むかシアタールームで映画を観る。1ヶ月半前までと全く同じ日常。
でも、俺は空っぽになった。俺の空虚は、どんな名作も埋めてくれなかった。
あの日から、波絵と連絡を取らなくなった。一度電話を掛けようとしたが、既に波絵は電話番号を変えたらしく、『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません』という無機質なアナウンスを告げられた。
事の顛末を両親も知っているはずだが、両親は何も言わなかった。決して子に関心が無いわけではないけど、2人も俺の空虚を埋める方法を見出せずにいたらしい。
学校の休み時間、いつものように紙の本を読むが、全くページが進まなかった。内容が頭に入らず、文章の情景や登場人物の心情が全く読み取れなくなった。そんな俺の耳には、自然とクラスメートの話題が入り込んでくるようになった。
何でも、「ソードアート・オンライン」というゲームが話題になっているらしい。今月末に発売予定のそのオンラインゲームは、かなり世間での期待が高まっているようだ。
「今度のは、ナーヴギアの性能をフルに活かしてくれるんだってさ!」
「ゲームの世界に入るって、すげえよな!」
「その言い方古いって。今は《完全ダイブ》って言うんだよ」
ゲームの世界に入る。
ゲームに全く興味が無かった俺に、その言葉は一筋の光のように射し込んできた。
「なあ、そのゲームってどんなの?」
俺はゲーム雑誌を広げて盛り上がっている集団に声をかけて、「ソードアート・オンライン」、略してSAOの特集が組まれた雑誌を読ませてもらった。俺が熱心に雑誌のページをめくっている姿を、クラスメートは物珍しそうに見ていた。それもそうだろう。俺は今まで携帯ゲームすらした事がない。それを、ゲーマーのバイブルのような雑誌を読んでいるのだから。
VR技術搭載のマンマシン・インタフェース、《ナーヴギア》。
ヘッドギア型ハードに埋め込まれた無数の信号素子による多重電界が実現させる、脳への直接接続。
誌面に散りばめられた専門用語はよく分からないものばかりだったが、要はそのヘルメットを被れば脳に直接信号が送られ五感情報を与えられる。そして、完全と現実から隔離され、生成されたデジタルの仮想空間で与えられたアバターという自分の分身を動かすことができるというものらしい。
何だか「マトリックス」みたいだなと思った。
そんな風にフィクションを思い浮かべてしまう程に、そこに書いてあることは現実味が薄かった。VR技術の事は知っていた。俺が1人で映画を観るときに使うヘッドマウントディスプレイも、VR技術の賜物だからだ。
コントローラーもキーボードも必要とせず、ただ現実と同じようにアバターを動かせばいい。現代の科学はそれを可能とした。
本当にそんな事が可能なのだろうか。フィクションの中でしか存在しなかったシミュレーション仮説が、本当に実現してしまったのだろうか。恐怖すら覚える。シミュレーション仮説を題材とした作品はどれもディストピアを舞台としていたからだ。「マトリックス」も、「トータル・リコール」も、「ニューロマンサー」も。
でも誌面に書かれていた事は、俺の空虚を埋めてくれた。ぴたりと、そこに収まるべくして収まったように。
ゲームの世界でなら、波絵に会える。
俺がいるこの現実世界では、もう波絵に会う事は許されない。なら、ネットの仮想世界で会うしかない。
俺はすぐに行動を開始した。
夏に全国大会で準優勝した時、父親は「お祝いに好きなものを何でも買ってやる」と言っていた。その時俺は欲しいものなんて何もなかったから、その褒美は持ち越していた。
夜遅く。仕事から帰ってきた父親に、俺は準優勝祝いの褒美の話を持ち出した。俺の「欲しいもの」に、父親はひどく驚いた。当然だと思う。ナーヴギアはSAO同梱版で12万8千円もするのだ。ソフトだけでも4万円近くする。でも、父親は俺の要求を呑んでくれた。
「お前は頑張ったからな」
正直、申し訳ないという気持ちはある。でも、俺は立ち止まることができなかった。
波絵に会いたい。
もう一度波絵の声が聞きたい。
波絵に俺の気持ちを伝えたい。
推薦入試の試験日が近いというのに、俺の思考は大半が波絵のことで占められていた。
ネットの通販サイトにアクセスしたが、どこも初回入荷分は予約が軒並み定員に達していた。聞けば、大手の通販サイトでは予約開始から数秒で完売したらしい。オークションサイトでは予約の整理券を100万円越えで取引しようとする輩までいた。質の悪いことに、その出品された整理券は120万円で落札されていた。
店頭販売という、ネット通販が普及した時代では原始的とも言える方法で入手するしか他に手は無かった。俺はすぐにSAO初回入荷分を販売する店のリサーチに取り掛かった。
買う店を決めると、最後であり最大の難関に直面することになった。
どうやって、波絵にSAOの事を伝えるか。
新しい電話番号もメールアドレスも知らない。波絵はSNSをやっていないからダイレクトメールのやり取りもできない。俺に残された方法は、SAOの入手と同じく原始的とも言えるものだった。
再び、波絵に直接会う。
俺は決行を決めた次の日、学校をサボった。途中で警察に補導されないよう、駅のトイレで私服に着替えて、電車を乗り継いだ。
波絵の中学はすぐに見つけることができた。ネットの学校ホームページに載っている住所に近付くにつれて、登校している生徒達を見つけることができた。彼等の制服には、初めて会った時、波絵が着ていた夏物の制服と同じ校章があしらわれていた。
俺は波絵を探した。もう校舎に入ってしまったのかもしれない。それなら、放課後にまた張り込むだけだ。
傍から見ればストーカーだなと、俺は自嘲した。
ストーカーと言われようと構わない。俺は波絵に会えればそれでいい。波絵に会えるのなら何でもする。高校の推薦を取り消されても知った事か。
衣替えしたばかりで、冬服のブレザーを暑苦しそうに着込む生徒の中から、俺は波絵を見つけることができた。バイオリンケースを持ち、陽を浴びて赤褐色に変わる髪を揺らす彼女を。
友人と歩いていた波絵も俺に気付いたらしく、俺達は路上で視線を交わした。波絵は随分と驚いたらしく、危うく足を踏み外しそうになった。心配する友人に笑顔を取り繕い、波絵は同じ制服の群れから抜け出して俺の方に走ってきた。友人達がこちらに気付く前に、俺は路地裏に隠れた。すぐに、息を切らした波絵が来た。
「刹那……」
波絵に名前を呼ばれて、俺は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。それを必死に抑えつけながら、俺は波絵に1枚のメモを手渡した。メモにはSAOの事、必要な機器、会う時間と場所を書いておいた。メモを渡すと、俺はその場から逃げるように走った。
走りながら、俺は後方から波絵が呼び止めてくれることを期待していた。でもそんなドラマみたいな事にはならず、俺は真っ直ぐ駅まで走った。
その日は映画館で、一日中映画を観て過ごした。4本は観たが、全く映画に集中できず内容が頭に入らなかった。家に帰ったら学校から無断欠席の連絡があったらしく、姉にひどく叱られた。姉の説教を受けている間も、俺の気分は昂っていた。
SAOの発売日は今月の31日。後は店頭でソフトを買うだけだ。
期待と同時に、不安も拭えなかった。波絵はSAOを買ってくれるだろうか。俺に会いたくないと、思っていないだろうか。
SAO発売日の10月31日。
その日の朝、俺は事前にリサーチしておいたゲームショップの前で並んでいた。長蛇の列とはまさにこの事で、最後尾では店員がSAO発売のプラカードを持って客を誘導していた。
俺は金曜の夜、家で夕食を済ませた後に寝袋と食料を持って店に向かった。店に着いた時には既に10人以上が並んでいて、俺はその最後尾についた。もう季節はすっかり秋へと変わっていて、夜は冷えた。厚手のジャンパーを着込んで寝袋に入っても、寒さに加えてアスファルトの硬さが堪えて寝付けなかった。
土曜日も日曜日も、俺はコンビニのトイレで用を足す時以外は店の前から動かなかった。部活は監督に亡くなった祖父の葬式があると嘘をついた。不思議と罪悪感は無かった。
俺はそこで小説を読んで過ごし、腹が減ったら持参した食糧を食べた。寒い外に冷たい食べ物で歯をがちがち鳴らすほど震えて、体を温めるためにその場でスクワットをした。時間が経つにつれて、俺が並ぶ列は長くなっていった。
発売日当日。月曜日だが、試験が近い俺は自由登校になっているから、欠席の連絡はせず心置きなく休むことができる。同じ推薦組の中で、俺の他にこうしてSAOを求めて勉強もせず列に並んでいる奴はいるだろうか。多分いないだろう。SAOの期待度が高いことは列の長さを見れば分かるが、だからといって人生の分岐点である受験を放り出すような間抜けはいない。
店が開店すると同時に、ソフトの販売が始まった。先頭に近かった俺はナーヴギアと、SAOのソフトを買うことができた。俺はそれを決して落とすまいと抱えて家に帰った。帰ってすぐにゲームをプレイしたかったが、正式サービスが始まっていないからナーヴギアにソフトを入れても仮想世界に入ることはできない。はやる気持ちを抑えながら、俺はその日の夕方に部活へ顔を出した。
正式サービスが始まるまでの間に、俺は推薦入試の実技試験と面接を受けた。
正に絶好調だった。実技でのミニゲームは振り分けられたチームを勝利へと導き、面接では事前に受けた面接演習の通りに受け答えた。笑顔で自分の事を話した俺は、さぞかし面接官に好印象を与えることができただろう。笑顔の理由は、正直なところ高校に入る事ではなくSAOが楽しみだった事にあるのだが。
11月6日まで、俺は落ち着く時が全く無かった。早くSAOをプレイしたい。波絵に会いたい。
俺の落ち着きの無さは家族も察していた。試験の結果が待ち遠しいと勘違いしていたようだが、俺はそれに口裏を合わせた。
そして、その日はやってきた。
11月6日。日曜日。
前日は興奮のあまり一睡もできなかった。
「あんた、髪伸びてきたわね」
朝食の時、姉はそう言っていた。最後に切ったのは夏の大会の前日だっただろうか。確かに、前髪が目に掛かって鬱陶しくなってきた。でも俺は、そんな事はどうでも良かった。
正式サービス開始は午後の1時からだが、俺は12時半に昼食を終えてすぐ自室でナーヴギアの電源を入れて被った。何でも、キャリブレーションというものをしなければならないらしい。装着者の体表面感覚を再現するための基準値を測り、フルダイブ時の動作に反映させる。これをしなければ、距離感が上手く掴めずに歩くことも、物を持つこともままならないのだろう。
俺は体中に触れた。自分の手、肩、胸、腹、脚、足裏。背中は手が届く範囲まで。股間は抵抗があったが、致し方ない。俺の手から受信した情報は、ナーヴギアへと記録されていくという。本当にそんな事が可能なのか半信半疑だが、恐らくは可能なのだろう。
俺は一旦脱いだナーヴギアのスロットにソフトのROMカードを挿入し、コードをルーターに繋げる。ベッドに座り、眼前に掲げる濃紺のヘッドギアを眺めた。
この先に楽園がある。
波絵と会い、彼女とどこへでも行くことができる楽園が。
俺はナーヴギアを被り、顎の下でハーネスをロックする。降ろしたシールドの右上には、デジタル時計が表示されていた。
現在の時刻は12時57分。
ベッドで横になると、速く脈打つ心臓の音が聞こえた。俺は瞬きせず、13時になる瞬間を待つ。
そしてデジタル表記が13時へと変わった瞬間、俺は目を閉じて声高に言った。
「リンク・スタート!」
閉じた目蓋が透かしていたおぼろげな光が消えた。人間が死ぬ時、こんな感じなのだろうかと思った。でも俺の暗闇はすぐに消え去り、視界一面に虹色の光が弾けていく。やがてナーヴギアのロゴマークが現れ、視覚接続OKのメッセージが表示される。
続けて聴覚や体表面感覚、重力感覚へと、俺の五感は次々とナーヴギアに回収されていった。ヘッドギアが髪を擦る音も、ベッドの感触と体の重さも消えていった。
俺は白い空間にいた。見えない床の上に立つ感覚がある。いつの間にか、フルダイブは始まっているらしい。でも視線を降ろしても、そこにある俺の胸から下は全て黒一色だった。
《Language》というロゴの下にある複数のアルファベット表記の言語から、俺は《Japanese》をタップする。やがて、日本語の女性の声でウェルカムメッセージが流れた。
胸の高さにある青白いキーボードで、合成音声のアナウンスに従って設定したばかりのIDとパスワードを入力する。
アカウント登録の次はキャラクターの作成。俺は名前の欄に《Setsuna》と入力する。ネットでの名前で本名を使うのはナンセンスだが、漫画やアニメでもよく見る名前だから違和感は無いだろう。それに、俺はSAOのキャラクターとして波絵に会いに行くんじゃない。俺は俺として、早速刹那として彼女に会いに行く。
性別を男に設定したら、いよいよキャラクターの外見を作成するシークエンスに入った。髪型や目といったパーツでも、かなりのパターンがあった。1つのパーツでも50通りは存在する。それらを組み合わせて完成させたアバターのパターンは万単位へと昇るかもしれない。正に千差万別。作り上げたアバターは自分だけのものだろう。
俺は事前にスマートフォンで撮影し、ナーヴギアのローカルメモリにコピーしておいた自分の顔を選択した。キャラメイクに迷った時、現実での顔を基に作成することができるらしい。これは便利な機能だ。自分そっくりの顔をパターンから選び出すのは時間が掛かる。声も同じように、録音した自分の声にした。体型も細身だが筋肉が付いたタイプ。身長は、少しだけ現実よりも上乗せした。
全ての初期設定をクリアし、《Welcome to Sword Art Online》というメッセージが浮かんだ。
メッセージが消失し、視界が光の渦へ飲み込まれていく。
いよいよという瞬間、俺は激しい不安に襲われた。
もし波絵がSAOを入手していなかったら。
今まで浮かんでは無理矢理押し退けてきた不安が、一気に来たのだ。
俺はただ祈った。この先にある仮想の世界で、どうか彼女に会えますようにと。
俺の意識は祈りと共に、ソードアート・オンラインへと落ちていった。
♦
俺はゆっくりと目を開ける。最初に視界に映ったのは、広大な石畳だった。周囲に視線を巡らせると、中世ヨーロッパ風の街並みと立ち並ぶ街路樹。遠くには、黒光りする巨大な宮殿。
俺は自分の手を見つめる。薄手のグローブをはめた手を握り、開く。
「すごい……」
俺はそう呟いていた。想像以上だった。
そこには街があって、人があって、音があって、空気があった。街路樹の近くで深呼吸すると、緑の匂いがあった。視界に映る自分のHPバーとデジタル時計が無ければ、完全に現実と錯覚していた事だろう。
俺が現れた場所、《はじまりの街》の中央広場には、美男美女のプレイヤー達で埋まっていた。正式サービス初日で、しかも開始してまだ数分しか経っていないのだから当然だ。
見上げた視線の先に空は無く、薄紫色の天井が覆っている。通りで、曇り空のように日光が射し込んでこないわけだ。
SAOの舞台になるのは《アインクラッド》という空飛ぶ城で、プレイヤー達は100階層の城を登っていくことを目標とするらしい。そんな塔の螺旋階段をただ上がるような生温いものでもなく、1層毎にある迷宮の先にいるボスを倒すことで、次の階層へと進む。
次々と光に包まれて現れるプレイヤー達の多くは中央広場に長居することなく、意気揚々と街の外へと向かっていく。中には攻略のパートナーにと勧誘する者もいて、美人な女性プレイヤーに話しかける者もいた。
俺は広場の中央にある時計の下で、波絵を待った。待っている間、メニューウィンドウを呼び出すアクションの練習をした。右手の人差し指と中指を揃え、真下へ振る。1度目と2度目は失敗し、3度目になってようやく、鈴のような効果音と共に発光する半透明の窓が現れた。俺はウィンドウの右側にある人型のフィギュアで、自分の装備状況を確認する。
装備もまた多かった。ゲームの装備なんて武器と鎧と盾ぐらいだと思っていたが、SAOの装備は現実で着る衣服と同じ量を必要としていた。靴下や下着まで。
俺の初期装備は、上半身は布製のシャツとグローブと革製の胸当て。下半身はトランクスの上に布製のズボン、黒い靴下の上に革製のブーツ。
武器を装備していなかったから、俺はアイテム欄から《スチールブレード》を選択した。他の武器は《カトラス》という曲刀しか無かった。ゲームは素人だから、なるべく癖のない方がいい。
腰のベルトに、光と共に革製の鞘に包まれた剣が出現した。俺は柄を掴み、剣を抜く。銀色の刃にはずっしりとした重みがあった。
「あの、パーティ組みませんか?」
ウィンドウのコマンド全てに目を通した所で、整った顔立ちの女性から声を掛けられた。童顔だが、スタイルは不釣り合いなほどグラマラスだった。
「すみません。人を待っているんです」
分かりやすくむくれた女性は、そそくさと去っていった。
俺は広場に現れるプレイヤーの中から、波絵を探した。次々と美男美女のプレイヤーが現れて、彼等が去るとまたプレイヤーが現れる。その繰り返しだ。このプレイヤーの奔流は、正式サービス初日だからだろうか。
「刹那」
不意に、横から声が聞こえた。透き通った、曇りのない声。俺は横を向く。そこに、彼女はいた。焦点を合わせると、その顔の鮮明さが増した。これはシステムによる補正らしい。
黒いが茶褐色を帯びた髪。琥珀色の瞳。顔の造形は細かい所は違うが、俺には分かった。
「……波絵?」
その名前を呼ぶと、彼女は笑った。最後にバイオリンを弾いてくれた時と同じ、最上級の笑顔。俺は確信する。
気付けば、俺達は抱き合っていた。「熱いねー」と野次が聞こえたが、構わなかった。彼女の体がデータで作られたものだという事は理解していた。でも俺にとっては目の前にいる彼女は、紛れもなく波絵だった。
俺は視界がぼやけていることに気付いた。ナーヴギアと脳の視覚野の接続に障害が発生したのかと思ったが、それは目から頬を伝っている涙のせいだった。驚くことに、この世界は涙も流せるらしい。
「遅いぞ」
「顔を作るのに、時間掛かっちゃった」
「自撮りの画像をナーヴギアに入れとけば、それで作れるって知ってたか?」
「え? 本当?」
波絵の驚いた顔に、俺も笑ってしまう。彼女のこんな顔を見たのは初めてだった。
「まさか声もピッチを上げ下げして設定したとか?」
「……うん」
照れ臭そうに波絵は笑った。俺はその顔が愛おしかった。俺は拳を握りしめ、波絵の目を見据えた。
「波絵。俺、波絵のことが好きだ。現実では会えなくても、ここで俺と一緒にいてくれ」
拒絶されたらという不安は無かった。波絵がここに来てくれた時点で、彼女の答えは決まっていたのだろう。でも俺はしっかりと言葉で伝えて、言葉で返事をして欲しかった。
波絵はゆっくりと頷いた。目から溢れる涙が、紅く染まった頬を伝っていた。
俺は彼女の涙を指で掬い、もう一度抱きしめた。
♦
俺が本名をキャラクターネームにしたように、波絵も本名でアバターを作ったらしい。パーティを組むと、俺のHPの下に彼女の《Namie》という名前とHPバーが表示された。俺達は2人ともMMO、それどころかゲーム初心者だったから、パーティを組むためのコマンドを探すのに一苦労する有様だった。
俺達はフィールドへ飛び出した。草原でモンスターを狩って、経験値を積んでいく。経験値を積みレベルを上げていくというRPGの常識を、俺はSAOの事を調べるまで知らなかった。
俺は仮想世界の体を動かすのに四苦八苦した。現実と同じように動けると聞いたが、走るスピードは遅いし、イノシシモンスターの攻撃を避けようとしても動作が鈍く感じる。脳とナーヴギアの通信が上手くいっていないのではないかと思ったが、ナミエはそんな苦労は感じていなかった。むしろ、現実よりも俊敏に動けるとはしゃいでいた。彼女が歳相応の顔を見せたのも初めてだった。
「セツナは現実じゃスポーツマンだもん。これが普通の人の感覚だよ」
日頃から常に練習とトレーニングを怠らなかった俺は、確かに帰宅部の同級生達よりも体力はあると自負していた。でもだからといって、俺の身体能力はそんなに一般人の基準とかけ離れているものなのだろうか。サッカーはただ体力があって足が速ければ勝てるほど単純じゃない。フォーメーションやリアルタイムに変化していくピッチを見てどう動くかの判断力も必要なのだ。
俺がそれを説明しても、ナミエは首を傾げるばかりだった。げんなりと肩を降ろす俺を見て、ナミエは面白そうに笑った。
俺達は草原で何時間もモンスターを狩り、SAOのコツを掴んできた。まだソードスキルは上手く使えないが、反復していく内にできるようになるだろう。
アインクラッドの時刻は現実と同じグリニッジ標準時だ。ログアウトして現実に戻った時に時差ぼけを起こさないための措置だろう。既に夕方になっていた。アインクラッドの天井から覗く夕陽が、俺達のいる第1層全域を茜色に染めていた。全域と言えば広大だが、実際の所第1層の直径は10㎞程度らしい。
「どうやってソフトとナーヴギアを買ったんだ?」
「お父さんの知り合いにメーカーの関係者がいてね、その人の伝手で買ってもらったんだ。丁度先月は誕生日だったし」
「メーカーの関係者って、すごい特権だな……。俺なんて発売の3日前から店の前で並んでたのに」
「ふふ、よく頑張りました」
ナミエはそう言って俺の頭を撫でた。俺はそれを振り払うも、不快感は無かった。表情に出ていたのか、俺達は2人揃って笑った。
「この世界にバイオリンは持ち込めないね」
「一応、音楽スキルってのがあるみたいだ。システムがアップデートされたら、ここでもバイオリンが弾けるようになるかも」
「じゃあ、私の上げるスキルは音楽一択ね」
「戦闘に役立つのも上げてくれよ。まさかずっと俺に戦わせるつもり?」
「セツナこそ、女の子を戦わせるつもり? それとも、私のバイオリン聴きたくないの?」
「聴きたいさ。でもスキルポイントの配分は考えろよ」
ふふんと、わざとらしく高飛車に笑うナミエの髪は、夕陽を浴びて赤褐色に輝いていた。現実で、いつもの公園で見る時と全く同じように。これを再現してくれて本当に良かったと思う。
俺にとって、この世界は楽園だった。外周に広がる茜色の空を眺めながら、俺はこの世界と現実との境界の曖昧さを感じていた。
鐘の音が層全域に響き渡ったのは、それから数分後の事だった。
その日、ソードアート・オンラインはデスゲームになった。