ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト 作:hirotani
薄暗い迷宮区の回廊に不揃いな靴音が反響している。均整の取れた軍靴とは程遠い一団の装備は、属している集団を示す紅白の鎧。
傍から見ればなんておめでたい色だろうと、すぐ後ろの靴音を聞きながらセツナは思った。現実ではそろそろ大晦日の歌合戦に向けて、歌手の選考が行われていることだろう。
整備された床は気を付けなければ滑りそうなほどに平坦だ。床だけでなく壁も天井も。下層では人力で掘ったかのように荒削りな洞窟だったのに、第76層の迷宮区はまるで機械で掘り進めた後に研磨したように整えられている。中世のファンタジーをモチーフとしたアインクラッドには不釣り合いな精巧さだ。これから上層はこのような整った迷宮を進むことになるのだろうか。
これが感慨なのか不安なのか釈然としないまま、セツナはボス攻略部隊を引き連れて進んでいく。第76層の迷宮攻略を始めて11日。ダンジョンのマッピングが完了し、あとは最深部にいるボスへと挑むのみ。
「この先の安全地帯で10分休憩する」
セツナは団員達に言った。彼等から反応はない。セツナに向けられる視線は前任者が向けられていた尊敬の眼差しではない。ギルドを抜けた者はまだいないが、それがセツナへの信頼故ではないことを理解している。何も言わないということは異論がないことと結論付け、セツナは視線を前へと戻す。
目的までの中間である安全地帯には先客がいた。ざっと6人。見覚えのある装備だ。血盟騎士団に気付いたリーダーの男がこちらを睨む。正確には先頭を歩くセツナに、その視線は定まっている。
「休憩」
安全地帯の圏内に入ったところで、セツナはそう団員達に指示を飛ばす。彼等は磨かれた床に腰を落ち着け、水や食料を口に含む。
「あんたも来ていたか、クライン」
「おう」と、クラインは分かりやすいほどに眉を潜める。
「目的がボス攻略なら、俺達とレイドを組んでほしい」
「共同戦線てか。そりゃあ、俺らが小規模ギルドだっつぅ憐れみか?」
「違う。《風林火山》も貴重な戦力だ。それに、これからはギルド同士で牽制し合うのは攻略の妨げと、前にも言った」
「そうかい。新しい団長様はかなり慎重と見えるな」
クラインに皮肉が言えるのかと意外に思ったが、それは黙っておく。言えば、この野武士が冷静さを欠いてボスの間へと突っ込んでいくことが予想できる。
「今は俺に対する不快さよりも、状況を見据えて行動してほしい。後先のことを考えなければ命に関わる」
「ああ? 俺達がただ闇雲にこれまで戦ってきたって言いてぇのか?」
態度だけで向けてきたクラインの感情が、とうとう露骨に現れた。クラインは食いしばった歯を剥き出しにする。頬に生えた無精髭が震えている。
「これまでではなく、これからのことを言っている。共同戦線を張った方が、互いに生存率は上がる。協力してくれるのなら報酬を払う」
「いらねぇよそんなもん」
「けっ」とクラインは一旦視線を逸らし、少し熱を冷ました面持ちで視線を戻す。
「むかつくがお前えの言う通りだ。協力はしてやる。ただし、俺達は俺達で戦う。お前えの指揮に入ったわけじゃねえ。ドロップしたアイテムとコルは倒した側のもんで恨みっこなしだ」
「十分だ」
取引が成立したところで、セツナはオブジェクト化させた水瓶をあおる。水は喉を伝い、渇きを潤してくれた。飲み物を飲めば喉は潤う。ゾディアーク以来PKはしていないが、恐らく血の味はもう感じることもないだろう。
これは寂しさと呼ぶべきだろうか。セツナは自分の抱えるものに与える言葉を探す。
でもそれは見つからない。どうでもいいことの言葉は見つかるのに、なぜ本当に必要なときに見つからないのか。セツナはただ進む。今はそうすることしかできない。
何度かモンスターとのエンカウントを経て、松明に挟まれた扉へと辿り着く。扉には赤子と我が子を抱く母のレリーフが彫られている。ダ・ヴィンチの絵画「ブノアの聖母」を思い出した。
団員達はウィンドウを呼び出し、装備の確認をしている。セツナもポケットに回復ポーションがあるか確認し、手持ちのアイテムに結晶アイテムを追加でポケットに入れた。第75層のボスの間は結晶無効エリアだったようでこれからも同じ事態が起こることは有り得るが、一応備えておくに越したことはない。
「準備はいいか」
セツナは団員達に呼びかける。
「75層と同じように結晶アイテムが使えない可能性がある。ボスの情報がないため、先手を取らずボスの動作パターンを見極め攻撃に移る。前衛はダメージを負ったらすぐ後退してほしい」
反応は待たず、両扉の中央に手をかける。重々しい音を響かせながら、聖母の顔が2つに割れた。
「――おい!」
クラインの声が聞こえ、反射的に振り返る。セツナの目に映ったのは鈍色の閃光、ソードスキルの閃光だ。即座に剣を抜く。防御に成功したが、衝撃でセツナの体は扉の奥へと押し込まれた。
扉がゆっくりと閉じ始めた。こちらへ入ろうとする《風林火山》の面々を団員達が寸でのところで抑え込んでいる。
「セツナ、早く出てこい! セツナあ‼」
狭まっていく扉の向こう。セツナが注意を向けていたのはクラインの声ではなく、冷ややかな微笑を浮かべるギルバートの顔だった。
扉が完全に閉まる。ボスの間に放り込まれたのは、セツナ1人だけではなかった。運悪く《風林火山》メンバーを抑えていた団員の1人が、中へと追いやられてしまったらしい。
「出せ、出せよおっ‼」
扉を叩きながら団員が叫ぶ。まるでデスゲームが始まったあの日のようだ。
「構えろ」
セツナがそう言うと、団員はこちらを振り返り涙で潤った目で睨んでくる。その目を向けるべきはボスだというのに。
「死にたくなければ戦え。それしかない」
セツナは部屋を見渡す。広い円形の床に沿って置かれた松明に火が灯っていく。松明はセツナ達2人の反対側から時計回りに灯り、一周するとボスの姿が明るみになった。セツナはボスを足元から見上げていく。
細い2本の脚。股に生えた申し訳程度の毛。尻から腰にかけての曲線。2つの豊かな膨らみ。膨らみの先端にあるさくら色の突起。細い首。ふっくらとした紅の唇。コーカソイド特有のくぼんだ目元。髪のない頭。
人間。それも女。その肢体は目測で5メートルくらいだろうか。その顔に視点を集中させると、イエローのカーソルと名前が表示される。
《The Lilith》――悪魔の母。
豊満な巨女は絶叫した。部屋の空気が震え、団員が目を閉じて耳を塞ぐ。
「目を背けるな。奴の動きを見ろ」
言ってすぐ、セツナは自分の言葉を後悔する。恐る恐る目を開けた団員は巨女を見て悲鳴をあげた。
巨女の股から、ずるずると薄い膜に覆われたものが出てくる。1つ出るとまた次が。2つ目が出るとまた次が産まれてくる。床に落ちたそれの膜が破れ、中から丸々とした赤子が出てきた。赤子といっても、セツナと同じくらいの背丈がある。産まれたての赤子はつたない足取りで歩き始める。まだ首がすわっていないせいで揺れる顔に無邪気な笑みが浮かんでいる。その姿を注視すると《Lilin》という名前が表示された。
セツナは駆け出した。母は5人を産んでもまだ物足りないようで、6人目を産もうとしていた。セツナは《リニア―》を産まれる途中の赤子に叩き込んだ。まだ産まれていない赤子の体が砕け散る。1秒にも満たない硬直時間の後、母の腹に一閃を見舞った。
リリスは身をよじらせた。我が子を殺され憎しみの眼差しをセツナに向けてくる。巨大な脚が目の前で大きく旋回し、その爪先を紙一重で避けたセツナはバックステップを踏んで距離を取る。
セツナの視界の隅に赤子達が集まっているのが見える。その群れの中から悲鳴が聞こえた。凝視すると、イエローの中にグリーンのカーソルが表示される。
悲鳴が止んだ。直後に聞こえた破砕音と、赤子達の頭上へと舞っていく光の粒子。
迫ってくるリリスの四肢を避け、セツナは赤子達の中に飛び込み、両手の刃で円を描いた。《クリムゾンサークル》によって赤子達が消滅し、その欠片が先に消えた団員のポリゴンと混ざり合う。
蒸発していく粒子の隙間からリリスの顔を覗く。我が子を殺された悲しみで、真っ赤な涙を両眼から流している。
セツナは剣と鞘を握りしめ、その涙に濡れた顔面目掛けて跳躍した。
♦
「何のつもりだてめぇ!」
クラインに胸倉を掴まれても、ギルバートの顔は涼しげだった。それが更に神経を逆撫でしてくる。
「セツナはお前えの仲間じゃねぇのかよ! こんなのモンスターPKだろうが!」
「彼を同志と認める者が我々の中にいるとでも」
ギルバートはクラインの手を払いのけ襟を直す。
「彼は危険な存在です。ただでさえプレイヤー間の均衡は危うい状態だというのに、それを崩壊させるわけにはいきません。クライン殿、あなたも攻略組に身を置くのならお分かりでしょう」
「だから殺すってのかよ。こんなのレッドプレイヤーと変わらねえ」
「必要なことです。共に中へ入ってしまったフレデリックには気の毒ですが、致し方ありません」
「くそったれが!」
クラインは扉へと手をかけた。さっきはセツナが軽く触れただけで開いたというのに、今は微動だにしない。いくら蹴っても殴っても、扉に彫られた聖母は微笑みを崩さない。
「セツナァ!」
クラインは叫んだ。中にいるセツナに聞こえているかは分からないが、そうせずにいられなかった。扉からは何も聞こえてこない。システムによって、完全に中と遮断されている。
「ちくしょお!」
叫びに応えたのか、扉が開いた。割れた扉の中央からボスの間の空気が流れ込み、それがクラインの髪を揺らす。静寂と暗闇に囲まれた部屋の中央に、セツナはいた。両手に剣と鞘を携えて。
「まさか……」
ギルバートの掠れた声が聞こえたが、それに意識は向けずクラインは剣を納めるセツナを凝視する。
セツナはゆっくりと扉へと歩いてきた。クラインには目もくれず、ギルバートにその黒い瞳を向けている。
「これで満足か、ギルバート」
「……フレデリックは」
「死んだ」
セツナは無感情にその一言を述べた。声にも表情にも、感情というものが一切排されている。
その顔を見てクラインは悟る。彼にとって人の死とは、日常的で珍しくもないことを。
クラインも多くの死を見てきた。攻略組というアインクラッドで最も死のリスクが高い場にいて、目の前で何人も死んでいった。でもこの少年が見てきた死は、自分の比ではない。彼は幾多もの死を見て、それに伴う感情を捨てて今に至る。
クラインは確信する。セツナが死神だったことを。自分達が攻略に勤しんでいた傍で、彼が自分達を守るという大儀のために、犯罪者を屠ってきたことを。
死に伴う感情を錆として削り落とすことで、死神は誕生したのだ。
「貴様なぜフレデリックを死なせた!」
1人の団員が吼えた。クラインはそれに怒りを感じずにいられない。自業自得だ。だがセツナはクラインとは違うらしい。
「彼を守れなかった責任は俺にある。だが、彼をボスの間に放り込んだのは誰だ。誰が俺を殺そうと画策していた」
団員達は沈黙する。誰が言い出したのかはともかく、全員が賛同したのだろう。セツナは続ける。
「今回のことは他言しない。ギルドの沽券に関わるからな。だが忘れるな。同志を死なせ血盟騎士団の名を汚したのは、他でもない貴様らだということを」
セツナの声は、お世辞にも張りがあるとは言えない。耳を澄まさなければ聞き取ることが難しい。だがこのとき彼の声は、空気を震わせたように思えた。彼の言葉がボスの間の、迷宮区に蔓延する妖気と混ざり合って、自分達の耳に入った気がした。
ゆっくりと、ギルバートが進み出る。彼はセツナの前で片膝を付いた。
「ご無礼をお許しください、セツナ団長。私達にはあなたが必要です。どうか、私達をお導きください」
ギルバートの声は震えていた。さっきの涼しげな姿勢がすっかりと消えていた。装備はギルバートの方が豪華だというのに、その姿はまるで王に屈服する最下カーストの
「これからも攻略に励んでもらう」
それだけ言ってセツナはコートを翻す。その視線の向こうにあるのは、次の層へと続く扉だ。
「77層のアクティベートに行く」
団員達を率いて歩くセツナの背中を、クラインは見つめていた。鎧の類は身に着けず、足元まで届くコートは血盟騎士団の所属を示す白亜の生地だが、あしらわれた装飾は他の団員と比べると圧倒的に少ない。必要最低限といった感じだ。
キリトと同じく実用性重視なのだと思う。あの黒いコートを纏った剣士の姿が重なる。
デスゲームが始まったあの日と同じだ。
自分を気遣い、手を引こうとしてくれた彼の手をクラインは拒んだ。共にログインした、今の《風林火山》の仲間達と一緒に生き残るために。
あのとき無理矢理にでも彼を仲間に迎えていれば、未来は変わっていたのだろうか。
「あの時、お前を……置いていって、悪かった。ずっと、後悔していた」
ヒースクリフと戦う前、キリトはそう言った。後悔を続けていたのはクラインも同じだ。ずっと自分を罰するように攻略へと走っていた彼をなぜ止めなかったのか。ゲームでは強がっていてもまだ子供だったのだ。彼より年長であるクラインが守るべきだった。
彼が死んだ今、後悔は呪いのようにクラインを縛りつけている。自分の命と皆の命運を懸けた戦いへと赴く彼を、麻痺をかけられたクラインは見ることしかできなかった。
「セツナ」
セツナは足を止めて振り返る。
「俺達を血盟騎士団に入れてくれ」
「えっ?」と後ろにいる仲間達のどよめきが聞こえた。
「お前えを認めたわけじゃねえ。でもよ、もう嫌なんだよ。誰かが目の前で死ぬのは」
セツナは無表情のまま手を差し伸べる。彼がこんなことをするのは意外で、クラインは戸惑いながらも握手に応じた。
「一緒に戦ってくれ、クライン」
受け入れがたいことだ。でも彼と取り合うのなら、クラインは認めなければならない。
セツナによって守られていた世界。セツナが築いた死者の山。
自分達は知ってしまった。自分達は多くの死者達の上に立っていることに。もう目を背けることは許されない。
♦
「プレイヤーの育成はどうだ」
アルゲードにある雑貨屋の2階でお茶を飲みながら、セツナは向かい合って座る店主に尋ねた。
窓から見下ろせる路地は珍しく人通りが少ない。第77層が解放されて2週間。続いて第78層が先日解放されたばかりで、プレイヤー達は未踏の主街区を見に上層へ行っているのだ。街開きと呼ばれる日は客足が少なく、店主もこの日は店を閉めている。
「アルゴが寄越してくれた情報のおかげで順調だ。そろそろ前線に出してもいい奴が何人かいる」
「そうか、なら紹介してほしい」
「前にも言ったろ。KoBに入るかはそいつ次第だってな。聖竜連合に入りたがっている奴だっているんだ」
「あのギルドは規模だけだ。昨日のボス攻略でも足を引っ張られて何人か死にかけた」
先日挑んだ第77層ボス攻略は血盟騎士団と聖竜連合の合同で行われた。犠牲者は出なかったが苦戦、というより面倒な戦いだった。聖竜連合は血盟騎士団に強い対抗意識を持っているらしく、セツナが参謀職達と立案した作戦を無視してボスに特攻じみた攻撃を仕掛けていった。致命的なダメージを負った彼等を回復するために、前衛を何人か回復役に回さなければならない事態になった。
恐らく、ヒースクリフとアスナを失った血盟騎士団から「最強」の名を奪う狙いがあったのだろう。
「元々危なっかしいギルドだったからな。攻略のためにオレンジ化までするような連中だ」
「ああ、レッドプレイヤーになったメンバーを何人か始末したことがある」
「始末って、PKか?」
「ああ」
エギルは目蓋で目を半分だけ覆う。それは知り合いとしての絶望か。それともセツナの言葉にある事実を拒もうとする葛藤か。それを読み取る「X-MEN」のプロフェッサーXじみた能力をセツナは持っていない。
セツナが死神だったことは、まだ完全に信じられたわけではない。証人がいないのだから当然だ。あの頃は他人との関わりを避けていた。PKの現場を目撃されれば、たとえグリーンカーソルの罪のない者まで殺していたのだから。
「何も聖竜連合だけじゃない。血盟騎士団にもオレンジ化する者はいた」
それがフォローになるのかは分からないが、取り敢えずその事実を述べておく。
「そいつらも、殺したのか?」
「ああ」
「信じられねえな。KoBは清廉潔白なギルドだと思っていたよ。お前を除いて」
「どこの集団にも網目がある。網目から零れていたのは俺だけじゃないということだ」
セツナはトラビアでの出来事を思い出す。膨らみ過ぎて統制が取れなくなった集団に身を置き、自分の欲望を花開かせた軍人達を。
「なあセツナ。お前が死神だってんなら、今まで何人殺した?」
「少なくとも200だ。正確な数は数えていない」
「全部、1人でか?」
「いや、最初は1人じゃなかった。ヒースクリフが集めた犯罪者狩りの部隊がギルドにあった。勿論秘密裏だが」
「仲間がいたんなら、そいつらは今何してる。まだギルドにいるのか?」
「全員死んだ」
なぜ死んだのか。その質問をエギルはしなかった。代わりにカップのお茶を飲み干す。懊悩も一緒に飲み込んでいるように見えた。
「セツナ、今KoBはお前が率いておくべきなのかもしれねえ。だが、アスナがもし戻れるようになったら身を引け」
「それはできない。リズベットと、もうアスナを攻略に参加させないと約束した」
「ああ、そりゃ俺も聞いたさ。でもな、ギルドの連中がお前に従ってるのはお前が怖えからだ。逆らえない今だけなんだよ。お前がリーダーでいられるのは」
エギルは新聞をオブジェクト化させてセツナに差し出す。何枚も重ねられた紙の束は、全ページに渡って血盟騎士団の新リーダーであるセツナに対する評価が掲載されている。就任から犠牲者を殆ど出さず2層のボスを撃破したことに賞賛を述べる記事もある。だがそれよりも多く、リーダーとしての技量に苦言を呈す文章が目立つ。
「あまり良く思われてはいないみたいだな」
「お前をリーダーと認める奴も出始めているが、それはほんの一握りだ。知り合いに聖竜連合のメンバーがいるんだが、そいつから聞いたんだ。先週ギルバートが本部に来て、同盟を持ちかけてきたってな。お前はそれを知ってるのか?」
それは初耳だった。血盟騎士団と聖竜連合は関係が良好とは言えない。合同で攻略に臨むことは過去に何度かあったようだが、それ以上にギルド間で交流することは皆無に等しかったと聞いている。合同で攻略にあたる際は、よく副団長だったアスナが交渉に赴いていたらしい。
「聞いていない」
「お前をリーダーの座から引きずり降ろそうとしてるんだ。ギルバートはアスナに次いでKoBの3番手にいた奴だぞ。お前が出てこなけりゃヒースクリフの後任を務めてたって言われてる」
「3番手であの実力か」
「問題なのは強さじゃねえさ。奴に味方する奴が多いってことだ。現状じゃ、お前よりも奴の方が味方は多い。それでいいのかよ」
「俺は権力を握るために団長になったわけじゃない」
セツナは新聞の中にあるコラムの文字列を目で追う。死神がなぜ攻略組を牽引しようとするのか。日々異なる意見や見解が述べられ、誌面で繰り広げられる議論には終わりが見えない。セツナの明言がない限りこれからも続くだろう。
「他のギルドと協力した方が効率は良い。ギルバートが俺よりもリーダーに相応しく、彼に生き残ったプレイヤー全員の命を背負う覚悟があるのなら、俺は団長の座から降りてもいい」
セツナはお茶を飲み干し、椅子から立った。
「お前は皆の命を背負うことで、罪を償おうとしてるのか。ゲームをクリアさせて皆を現実に還すことが、贖罪になると思ってるのか?」
「俺の罪は償い切れるものじゃない。たとえ殺した数より多くを救っても、俺は赦されない。死んで赦されるのなら喜んで死ぬ。だが俺は今死ぬわけにはいかない。勝手なのは承知だ」
セツナはドアを開ける。そのまま部屋を出ようとしたところで、後ろからエギルの沈んだ声が聞こえた。
「お前、罪を背負い続けるつもりなんだな」
エギルが導き出した答えに添削はしない。正直、セツナも答えを導き出せずにいる。たとえ出たとしても確信が持てないだろう。
十字架にかけられたキリストは、自分の血で大地を濡らし人類の罪を償った。
でもセツナは神の子ではない。汚れたセツナの血が流れたところで罪は償えない。
「前線に出せるプレイヤーのリストを、メッセージで送っておいてくれ」
それだけ言ってセツナは部屋から出た。
♦
仮想世界には人がいて、音があって、空気があって、匂いがある。
でもそれらを偽物と断じてしまうのは、現実への回帰願望からだろう。
視界の隅に見えるゲージ化された命。
人や物の上に浮かぶカーソル。
決して壊れないよう規定された建造物。
傷ついても血が流れない体。
人間は必ず汚れる。たとえ外に出ず体に泥を付けず汗をかかなくても。生きている限り新陳代謝で皮膚に古い角質が浮かび上がってくる。入浴せずに放置すれば角質は垢となり、垢は酸化した臭気を放つ。でも仮想世界の体はそうならない。体に付着した泥汚れはエフェクトであり、ポリゴンの体に血肉と内蔵と骨は詰まっていない。一応入浴はできるが、それは精神的な娯楽のためだ。
人間は食物を摂取すれば、その残りかすを排泄する。栄養バランスが偏った食生活を続ければ、太るなり痩せるなりの変化が生じる。でも仮想世界ではそれがない。いくら食べても排泄の必要はない。暴飲暴食しても太らず、絶食しても痩せることはない。ログインした時期の体型がそのまま維持される。
俺達はそれを忌避する。子供は特に。子供は何年経っても子供のままだ。ずっと身長が伸び続け、体重が増え続けてきた子供にとって、恒常性というものは恐怖だろう。
皮肉なものだ。大なり小なり現実から逃避するために仮想世界へ訪れたというのに、そこで暮らすことを余儀なくされれば現実への帰還を強く求めるなんて。
俺達の身の回りにあるものは全て3Dオブジェクトという現実を形だけコピーしたものに過ぎない。アインクラッドで本物と言えるのは、プレイヤー自身の記憶と意思と感情。つまりは心や魂と呼ばれるもの。
俺はそれらを形作る要素は全て脳にあると考える。現実世界でナーヴギアに接続され、いつ焼き切られるかも分からない頭の中。
昔読んだ小説からの受け売りだが、その考え方に俺は共感した。俺は信仰に疎く、心や魂なんてものは無いと捻くれた考えだったから。頭の中に広がる俺だけの世界。それが本物と遜色ないディテールを与えてくれる。
俺の頭の中にある世界。即ち夢の世界。
夢の中にも人がいて、音があって、空気があって、匂いがある。
どこまでも広がる地平。それを埋めるように瓦礫が散らばっていて、所々に建物の骨組みが危ないバランスを保ったまま立っている。無造作に散乱している瓦礫はどれにも黒い
風が吹いて、それが焦げ臭さを運んできた。俺は風上へと目を向ける。
俺がいる所は火が消えているけど、地平の彼方からオレンジの光が見える。その光は太陽よりは弱い。彼方に浮かぶ雲は真っ赤に染まっていて、その赤い雲を黒い雲が覆っていく。
「向こうはまだ燃えているみたいだね」
俺の隣で奴がそう呟くように言った。俺はそれに疑問を抱きはしない。ここでは有り得ないことが起きるものだ。
「あんたとまた会うとはな」
「所詮は夢さ。僕は休眠状態にある君の脳が見せる幻でしかない。だが僕が君の夢に出て来るということは、僕は君の中でそんなに大きな存在なのかな」
「そうだな。あんたはナミエを殺した。俺はあんたを殺すために生きてきた」
「彼女を殺したのは僕ではなく茅場昌彦さ。茅場がナーヴギアに仕組んだ機構で彼女は脳を焼き切られた。そうなれば、僕を殺したのも君ではなく茅場ということになる」
澄まし顔で言っているが、奴の額には1本の戦が入っている。そこから流れる血が、奴の鼻筋を伝って顎からぽたぽたと落ちている。
「あんたの額を刺したのは俺だ」
「でも現実で僕の脳を焼いたのは茅場だ。仮想での死が現実の死に繋がるよう仕向けたのは茅場だ。彼はこの世界の神なんだよ」
「傍から見ればそうだろうな。でも現実でも仮想と同じだ。現実世界も神が創ったというのなら、向こうで人が死ぬように仕向けたのも神だ。でも殺人は殺した人間が罪を被る。人に死を与えた神ではなく人だ」
「なるほど、君は中々思索的な子だね。まだ若いのに」
奴は顎に手を添える。零れる血の奔流が少しだけせき止められた。
「神が罪を問われないのは、神の姿がはっきりしないから。神は果たして老人なのか。もしかしたら老婆かもしれない。年寄りとも限らないな。子供の可能性もあるよ。僕達が茅場に罪を問えるのは、彼がどんな姿でどんな声をしているのかを知っているからだ。彼が肉体という物質を持った人間だからだよ。だから仮想での死は、全て茅場のせいと責任も罪も転嫁できる」
「俺が殺した者も全て、茅場が殺したことになるのか」
「君が今まで見てきたオレンジやレッド達は、そう思うことで罪の意識から逃れてきたはずだよ。その点に関して、君は異質な存在だね。君は罪を人のものと捉えている」
「神は死んだからな」
俺がその台詞を言うと、奴は頬のケロイドを歪めて微笑した。
「ニーチェか。確かに彼の言葉は、人類を神から解放させるものと解釈できるね。罪を背負うのは人。罪を赦すのも人」
血まみれの顔から笑みを消した奴は、俺に刃を差し向ける。剣ではなく、言葉の刃を。
「それで罪を背負う君は、どうやってその罪を償うつもりなのかな?」
奴は冷たく問う。
「現実世界で被害者の遺族達は茅場に憎悪を向けるだろう。でももし、ゲームでの状況が向こうで中継されていたらどうだ。ゲームで君が殺す場面が見られたら、それでも茅場に憎悪は向くかな。殺すためのシステムを作ったのが茅場でも、そのシステムが作動する原因が君にあると知ったら、遺族達は君を恨むだろう。仮想では犯罪者でも、現実での彼等は善良だったのかもしれない。子を失った親は嘆くだろうね。あんなに優しかった子がどうして殺されなければならなかったのかと」
言葉や態度が穏やかだった奴はどんどん残酷になっていく。
「君はニーチェの言葉を借りておきながら、その決意は上辺だけで浅薄だ。どこかで逃れようとしていたんだろう。殺す相手は犯罪者。自分の意思ではなく命令だったから。自分も愛する人を奪われた被害者だから。哀れな悲劇の主人公を気取り、周囲の同情を集めて赦されたかったんじゃないのかな」
「黙れ‼」
俺は剣を抜き奴の頬にあるケロイドを刺す。奴はにたりと笑い、傷口とかろうじて繋がっていた口との間の皮がぶちぶちと千切れた。大きく裂けた口から出る言葉の奔流は止まらない。俺はそれが恐ろしくなり、剣を抜いて後ずさりした。
「たとえ生者が君を赦しても、君の罪は消えない。君に殺された人々はもう赦しの言葉をかけることができないのだからね。たとえ僕がこの場で君を赦したとしても、それは本当の償いじゃない。ここでの僕は君が作った幻で、本当の僕はもう死んだんだから」
奴が彼方を指差した。その先には未だに燃える街。そこから体に炎を灯した人々が、テンプレのようなゾンビウォークで歩いてくる。髪が焼けながらも。服が焼けながらも。皮膚が焼けて筋繊維が露出していながらも。
彼等の先頭に少女がいた。俺は彼女を凝視する。彼女を包む炎の中から、俺を覗き込む琥珀色の瞳が見えた。
「ナミエ!」
瞬間、地平から暴風が吹いた。
ゾンビ達と地面の瓦礫が舞い上がる。俺はその中で、なぜか風に抵抗することができた。隣にいたゾディアークはぼろぼろと体を崩しながら吹き飛んでいく。
重力のままに落下してくるナミエを受け止めるために、俺は両手を広げる。でも俺の体は重力に逆らい、ナミエの方へと引き寄せられていく。
ナミエは俺を見ていた。目蓋が焼け落ちた眼球。剥き出しになった琥珀色の瞳がどんどん大きくなる。
俺の体は上へと昇っていく。空を覆い尽くそうと膨らむ瞳に向けて。赤と黒が入り混じった空が見えなくなり視界が琥珀の色に占められていく。
吸い込まれていく。
♦
起床アラームの音で目を開く。視界に映るのは、茶色の天井だった。
軽く目眩を起こし、揺れる視界をはっきりさせるために目を擦った。セツナはしばらくの間ベッドの縁から床に両脚を降ろしたまま、何もせずただ宙を見つめていた。やがて空腹が訪れる。
朝食でも摂ろう。
そう思い立ち上がるも、体の重みがいつもより増しているように思えた。6時間も寝たというのに。
ウィンドウを呼び出そうと指を伸ばしたとき、視界の隅にあるメッセージアイコンが点滅していることに気付いた。それをタッチして、未読メッセージの窓を出現させる。
『今すぐ来て! アスナの目が覚めた!』