ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト   作:hirotani

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第29話 悲劇には時の氏神を

「次の2名で最後です」

 平原のなか、モンスターが現れない安全地帯で団員が手にした名簿を読み上げる。

「ザザ、ジョニー・ブラック」

 名前を呼ばれた2人は苦悶と絶望の表情を浮かべながら、白亜の鎧を装備した団員数人に抱えられ草の上に座らされる。必死の抵抗を試みてはいるが、両手に縛られたロープと麻痺毒のせいで完全に身動きが封じられている。

「ねえヘッドは? ヘッドはどうしたんだよ? ザザ、俺達どうすうりゃいいの?」

 目に涙を浮かべながらジョニー・ブラックが喚いている。隣で座るザザは何も答えず、ただ憎しみに満ちた視線をセツナに送っている。

 《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》のメンバーとしてPoH(プー)と共に恐れられた2人なのだが、その露になった素顔から恐怖をもたらす者の片鱗は全くうかがえない。率直に言ってしまえばごくありふれた青年2人だ。特別顔立ちが整っているわけでも不細工でもない。

 かつて被っていた仮面や頭陀袋のおかげでイメージが独り歩きしてくれたようだが、監獄から「釈放」される際に保釈金としてアイテムとコルを全て消去したため、もはや全盛を誇っていた時期の影がすっかりなくなっている。

「あの人は………」

 ザザが呟くように言う。真っ赤にカスタマイズされた両眼をセツナに向けて。

PoH(プー)は、どこにいる?」

「死んだ」

 セツナは短く告げた。ザザの目から殺意の影が消えて、隠されていた恐怖の色が露になっていく。セツナは更に続ける。

「この俺が殺した。大勢の観客の前でな」

 ジョニー・ブラックが「嘘だ!」と泣き喚いた。ザザは口を半開きにしたまま硬直している。

「早く済ませるぞ」

 セツナが指示を飛ばすと、斧を持った団員2人がザザとジョニー・ブラックの横につく。セツナが右手を挙げると団員達は同時に斧を掲げる。

「嫌だ‼」

 ジョニー・ブラックが涙と鼻水と涎まみれの顔を振る。それを無視してセツナは挙げた右手を降ろす。

 オレンジの光を纏った2本の斧が2人の青年の首をはねた。片や悲しみの表情を、もう片や無の表情を固めた頭部が草の上を転がり、体と共に砕け散った。

 名簿を持った団員が淡々と述べた。

「これにて、監獄エリアに収監された全囚人の処刑を完了。お疲れ様でした」

 

 ♦

 アインクラッド全土を巻き込んだ血盟騎士団と聖竜連合の抗争が終わって1ヶ月が経った。

 約2ヶ月半にも及んだ抗争はスケールを増して戦争となり、やがて「アインクラッド大戦」と呼ばれるようになった。「聖血戦争」という名称も検討されたが、戦後のアインクラッドにおける影響を考慮し、大戦という大仰なものが定着している。

 リーダーを失い、更に協力者として殺人鬼と関係を持っていた聖竜連合は解体され、血盟騎士団に吸収された。一部の者は反旗を翻しグランザムに侵攻を仕掛けてきたが、彼等は血盟騎士団の圧倒的な勢力に敗れた。戦争末期の時点でプレイヤーの所属は聖竜連合か血盟騎士団かの2択になっていて、聖竜連合メンバーの殆どはなし崩しに血盟騎士団との併合を受け入れた。

 2ヶ月半の間に約3500人が死んだ。1層を奪還するのに100人に達するほどの犠牲を出し、更に聖竜連合が反乱分子を毎日のように処刑していたことで、その数値は叩き出された。とても甚大な被害だ。デスゲーム開始から戦争までの2年半の死者は約4000人。それに大差ない人数がたったの2ヶ月半で死んだのだ。

 そんな戦争を勝利へと導き、最悪の殺人鬼を葬った団長のセツナは英雄視され、生き残ったプレイヤー達の指導者としての支持を集めた。プレイヤー達にとって、英雄セツナが過去に行っていた犯罪者狩りも「自分達を守るためだった」と正当化すべきものとして扱われた。

 PoH(プー)は処刑される間際、自分が死んでも何も変わらないと言っていた。でも、彼が消えた後のアインクラッドは否応なく変革を余儀なくされた。PoH(プー)の死はアインクラッドにおける混沌の終わりと、新しい秩序の始まりをもたらした。

 PoH(プー)の処刑が執行されてからというもの、プレイヤー達は監獄エリアにいるオレンジプレイヤー全員を処刑すべきと主張しはじめた。大衆はもとより、ギルドの参謀職達まで。

「奴等は攻略の邪魔だ」

「対話による解決? そんなことを言っていたから笑う棺桶(ラフィン・コフィン)討伐で犠牲者が出たんだ」

「ただ生かしておいたって穀潰しになるだけ」

「犯罪者の命なんてゴミより軽い」

 そう口々に出てくる言葉の奔流は収監者全員の処刑を経ても治まることはなく、やがて「ゴミ掃除」と称した犯罪者狩りがプレイヤーの私怨によって横行するようになった。フィールドの人気が少ない場所を根城にするオレンジプレイヤー達はまだしぶとく存在していたのだが、プレイヤー達はくまなく探して犯罪者を見つけると問答無用でPKしていった。まさに魔女狩りのごとく。

戦後から3週間経つ頃にはオレンジプレイヤーの目撃情報はなくなり、アインクラッドは完全な犯罪撲滅を成し遂げた。

「晴れて本来の目的に向かって動き出すだろうな」

 PoH(プー)の言葉通り、排斥の対象を殲滅したプレイヤー達は攻略を再開した。聖竜連合は第87層まで攻略を進めていて、残り13階層と目標が近いことからプレイヤー達は意気込んで迷宮区へと入っていった。だが、第87層のボスを倒すまでに58人が犠牲になった。当然の結果ではある。戦争で戦力の中核を担っていた戦士達が次々と死んでいったのだから。生き残ったプレイヤーの大半が、戦前では中層以下を拠点としていた。難易度の低いクエストやボスばかりを相手にしてきた彼等は、上層のボスどころか迷宮区のモンスターにさえ歯が立たず死んでいった。

「十分なマージンを取れば被害は最小限に抑えられる」

「焦らずしっかりとレベルを上げてからボスに挑むべきだ」

 そう主張する戦争を生き残った攻略組もいた。だが彼等の言葉は少数派の意見で、一刻も早く現実に戻りたがっている多数派の意見に揉み消されていった。大勢が死んだ戦争の後で、プレイヤー達はどうにも人が死ぬことに慣れてしまったらしい。元々この世界で死んだら現実でも死ぬことに確証はなく、その分勇敢に強力なモンスターやボスに挑むことができた。弊害としてPKの心理的ハードルも低くなったが。他人の死に対しては当然なのだが、自分の死に対しても無頓着になっていく。戦前は始まりの街に留まっていた者達でさえ、外部からの助けに見切りをつけていた。

 その様相を指導者として観察できたセツナは理解する。

 ポールとして聖竜連合の殺意を解き放ったPoH(プー)の言葉と音楽は、きっかけに過ぎなかったのだと。生きるためにモンスターを、場合によってはプレイヤーを殺さなければならないアインクラッドでは、殺意を覆う良心など薄っぺらいメッキでしかなかった。プレイヤー達の意識の奥深くに隠されていた暴力性や殺意は、このデスゲームが始まったときから表層へゆっくりと、だが着実に現れ始めていたのだ。

 それでも、生命の碑で毎日おびただしい数の名前にラインが引かれることになっても、プレイヤー達は希望を失っていなかった。1人の死は悲劇だが、百万の死はなんとやら、と誰かが言っていた。第87層攻略の死者を知っても、プレイヤー達は100人死ななくて良かったなんて言う始末だ。むしろ、ゲームクリアが先かプレイヤーの全滅が先か、そのスリルを楽しんでいるように思える。

 デスゲーム開始とヒースクリフ失踪に注ぐ3度目の変革で、命の価値はことごとくすり減っていき、善良な命でさえ安くなっている。

 

 デスゲーム開始から2年と7ヶ月。残る階層は12。生存者は約2500人。

 それがアインクラッドの現状だった。

 

 ♦

 すっかり顔ぶれが変わったなと、会議室にいる面々を見ながらセツナは思った。アインクラッド大戦を経て、血盟騎士団の参謀職は総入れ替えに近い状態になっている。異動の理由は単純なことに、前任者の死亡だ。この場で戦前と変わらない面子は団長であるセツナと、作戦時には常に後方でサポートに徹していた書記係だけになった。

 今の血盟騎士団で、結成当初から在籍している団員はいるのだろうか。今や全プレイヤーが所属するアインクラッド唯一にして最大ギルドになった血盟騎士団だが、結成時に掲げていた理念は失われてしまった。団員は全てトッププレイヤーであり、貴重な戦力をいたずらに消費しないよう安全な攻略を模索していたはずだった。

「先日、ボスの間までのマッピングが完了しました」

 第88層攻略会議の場で、書記係は偵察隊が持ち帰ってきたマップデータを展開する。

「そこまでの損失は?」

 クラインの後任である攻撃隊長が質問する。書記係は淡々と答える。

「31名です」

 何の感情も込められずに報告された犠牲者達。名前ではなく数字で片付けられ、死の瞬間に味わったであろう恐怖も疑念もそぎ落とされた。その31という数字が人を表すことを認識できていないのか、守備隊長は「妥当ですね」と感想を漏らす。

 実際に犠牲者達の死を見てきたはずの偵察隊長が述べる。

「損失の全てが、元聖竜連合メンバーです」

 その報告を聞くと、他の参謀職達は満足そうに頷いた。

「彼等も十分役に立ったじゃないですか」

 攻撃隊長が曇りのない笑顔で言った。戦後の攻略で、先陣を切らされるのは元聖竜連合メンバーだ。戦争を引き起こした責任を問われ、レベルが伴っていなくても彼等はモンスターやボスに特攻し見事に玉砕していく。体の良い処刑だ。彼等の死も戦後処理の一環として片付けられていく。

「例によって、ボスの間は結晶無効化エリアであることが予想されます。十分な余裕を持ち、攻略隊は100名で編成します」

 慎重すぎるとも取れる数字は、無論犠牲者が出る前提で算出される。命というものはどこまでも安い。

「よろしいですか? 団長」

 書記係がそう促してくる。セツナは「ああ」と返事をする。

「ボス攻略は2週間後に行う。参加する団員の選出を今日のうちに済ませ、各自レベリングを――」

「団長」

 偵察隊長がセツナの言葉を遮った。

「87層の攻略に1ヶ月も費やされたのです。一刻の猶予もありません。攻略は明日にでも行うべきです」

「それは無謀すぎる。今のプレイヤー達のレベルではいずれ全滅する」

「レベルが伴っていなくても、前衛の壁戦士(タンク)達が注意を逸らしている間に大人数で攻撃すればボスにも渡り合えると実証されているじゃないですか」

「彼等が壁と呼べるのか。ただの捨て駒だろう」

 第87層のボス攻略にはセツナも参加していた。安物の盾を支給された元聖竜連合メンバーが壁役としてボスの注意を逸らしていたが、全員ことごとく振り払われてポリゴンを散らしていった。前の1列が消えると次の1列が構え、それも消えると次の壁が前に押し出されていた。

 偵察隊長は彼等の死に対しての責任などおくびにも出さずに言う。

「ええ。そのために彼等を血盟騎士団に入れたんです。戦争を起こした責任は取らせなきゃなりません」

 戦争を起こしたことに対する責任。それはギルバートにも、PoH(プー)にも全てを押し付けることができなかった。ギルバートの親衛隊がグランザムを攻めようとした事実もあって、残りのメンバーもいつ逆らうか分からない反乱分子の予備軍にされている。

「アインクラッドの平和のため、ゲームをクリアするためでもあるんです。団長だって、そのために死神として犯罪者を殺していたんじゃないですか?」

 セツナは他の参謀職達を見やる。全員がセツナに訝しげな視線を向けている。いくら団長とはいえ、満場一致で決まった事項に口を出す権限は既に失われている。セツナは王ではなく指導者としての支持を集めたのだ。導くのではなく、皆の意思を代弁・代行する者として。

 もう歯止めはきかない。

「………分かった」

 それしかセツナには言えなかった。

「ただし3日後だ。装備を整える時間も踏まえ、それだけの猶予はあってもいい」

 やれやれという呆れた感慨が、参謀職達の表情から読み取れる。書記係はただ淡々と進行をこなす。

「それでは、3日後にボス攻略へ挑みます。以上で会議を終了します。お疲れ様でした」

 

 ♦

『ギルドの仕事が終わってからでいい。店に来てくれ』

 

 参謀会議のあと、書記係と攻略隊の編成についての打ち合わせをしている最中にエギルからのメッセージは届いた。

 アルゲードの転移門広場に着いた頃には既に夕刻だったが、聖竜連合から解放された街の賑わいは鎮まる気配がない。とはいえ、以前よりは静かになった。ただでさえ狭い路地にプレイヤーが縁日のようにひしめき合っていたというのに、今はするすると道の真ん中を歩くことができる。

 真っ直ぐエギルの雑貨店へ向かうと、既に今日の営業が終わったらしく木製の質素なドアが閉じられていた。ノックしてしばらくすると、中から巨漢の店主ではなく小柄な鍛冶職人が出てくる。

「セツナ、待ちくたびれたわよ」

「何でリズベットがいる」

「あたしも呼ばれたのよ。さ、入って」

「アスナは」

「家にいるわよ。さっきご飯作って待ってるってメッセージ来たから」

「そうか」

 リズベットはいつもの調子だ。明るく勝気で陰なんて見せない。最近はリンダースの店を再開できたことで、更に張り切って武器を作っているらしい。

 リズベットに連れられて2階へ上ると、丸テーブルを囲むエギルとシリカがいた。エギルは憮然とした表情でカップのお茶を啜り、隣でピナを頭に乗せたシリカは所在なさげに座っている。

「何か用か、エギル」

 セツナがそう聞くと、エギルはおもむろに立ち上がる。つかつかとセツナの前に立つと、これが用件だと言わんばかりに拳を振るってきた。拳は頬の寸前でシステムの障壁に阻まれたが、大音響と共にセツナの体が右へと吹き飛び壁に激突する。ダメージも痛みもないが、微かに左の頬が痺れた気がした。間髪入れずエギルは倒れたセツナの胸倉を掴んでくる。

「ちょっとエギル!」

「やめてください!」

 再び拳を振り上げたエギルをリズベットとシリカが背後から2人がかりで羽交い絞めにする。それでも2人の少女を片手で持ち上げてしまいそうなほどに屈強な巨漢は、見た目に違わず容易に振りほどく。少女達は床に尻もちをついた。

「八つ当たりだって分かってるさ。お前はよくやった」

 エギルは震える声で言いながら、再びセツナの胸倉を掴み無理矢理立たせる。その両眼はしっかりとセツナの顔を捉えた。

「クラインは誰も死なせねえって言ってた。そのためにセツナは戦ってるって。なのに………、なのにお前は何してんだ! 毎日たくさん死んで、それでもお前は顔色ひとつ変えねえ。お前に感情ってやつはねえのかよ!」

「責任は感じている。今の状況になったのは、俺の力不足だ」

 エギルの目尻には涙が浮かんでいる。死んだ友人のことを想ってなのか、それとも面倒を見ていたプレイヤー達を想っての涙なのかは分からない。多分、両方なのだと思う。攻略に参加する団員はエギルから育成支援を受けていた者ばかりだ。当然、その中で犠牲者も多く出ていた。

「クラインは俺のせいで死んだ。赦してもらおうとは思わない」

「また罪を背負うってか。そうやって背負ってばかりで、反省すればいいと思ってんのか! んなもんただの自己満足だろうが‼」

「罰は受ける。望まれるなら団長の座から降りる。殺してくれても構わない」

 「ふざけんな!」と、エギルは無造作にセツナを突き飛ばす。受け身も取らず、力なく床に腰を打っても痛みを感じない。セツナは痛みを欲した。エギルの慟哭と憤怒を、痛みとして自分に伝えてほしいと思った。そうすれば罪の重さを生々しく認識することができる。でもエギルは殴ることも蹴ることもしない。

「責任から逃がしてたまるか。お前はたくさんの死を背負ってんだ。お前が殺した奴等だけじゃない。お前が団長になってから死んだ皆の分もだ。皆の死に罪の意識があるなら生きろ。生きてリーダーを続けろ。お前には、このゲームをクリアさせる責任があるんだ」

「分かっている。犯罪者を殺すと決めたときから、罪も責任も背負うと決めた。クラインと同じように信じてくれるなら、俺にチャンスをくれ、エギル」

 セツナは揺るがない視線をエギルに向けた。鋭く、見る者によっては不遜な態度にも見える険しく吊り上がった両眼を。

 全て受け入れるつもりだった。自分に向けられる怒りも憎しみも殺意も全て。赦されるのなら死ぬと断言できるし、抱える罪が死で償えるほど軽くないことも知っている。

 互いに視線を送り合い、逡巡した後にエギルは「くそっ」と吐き捨てて椅子に腰かけた。

 「大丈夫?」とリズベットが肩を貸してくれた。彼女は純粋に厚意でやってくれていることが分かる。でも、その優しさがむしろセツナを苦しめる。そんなものは求めていない。あんたも俺に罰を与えてくれと、マゾヒズムな願いを叫びたかった。

 4人全員が椅子にかけたところでセツナは聞く。しっかりとエギルの両眼を見据えて。

「支援しているプレイヤー達の平均レベルは」

「50くらいだ。60台に入った奴から前線に送られていく。マージンもろくに取れてねえのによ」

「そうか。1層を攻略するのに何十人もの犠牲が出ている。今のペースで進めれば、上の層に行くほど犠牲者は増えるだろう」

「そんな………」

シリカが言葉を詰まらせる。セツナは続ける。

「3人にも、いずれ攻略に参加してもらうときが来る。圏内でも経験値を稼げるクエストを受けて、レベルを上げてほしい」

「ねえセツナ、まさかアスナも………」

「アスナは参加させない」

 リズベットの質問にセツナは即答する。一拍置いて更に付け加える。

「約束だ」

 リズベットは安心したように胸を撫で下ろした。

「俺は次の攻略から参加する」

 エギルは力強くそう言った。「え?」とシリカとリズベットが彼を凝視する。

「お前に任せてたら、またとんでもねえ数の犠牲が出ちまう。俺が壁戦士(タンク)として、攻略隊の皆を守ってやる。いいな、セツナ」

「ああ」

 壁戦士(タンク)はアバター構成のなかで最も防御力が高く、その分死亡率も低い。ただしボス攻略では必ず先頭に立って仲間を守らなければならず、逃げることのできない恐怖と葛藤が付きまとう。エギルの選択は、他のプレイヤーの恐怖を一身に引き受けることだ。

「頼む、エギル」

 エギルは「ふん」と鼻を鳴らした。

「頼まれなくてもやってたぜ。誰も死なせやしない」

 誰も死なせない。その言葉の重みは、全プレイヤーの命を預かる立場にあるセツナに重くのしかかる。団長として、指導者としてプレイヤー達を現実に還すと宣言したにも関わらず、毎日多くの犠牲を出している。次々と新しい罪を重ね、もう取り返しはつかなくなった。

 正直、セツナに罪を償おうだなんて考えはもう消滅している。償おうにも償いきれないし、消える気配のない罪悪感について考えあぐねていることに疲れてしまった。何人が死のうとも、何人が苦しもうと、もう麻痺してしまった良心は痛まない。

 ただゲームをクリアする。悲しみと罪が充満する仮想世界に終止符を打ち、その先にある結末を得ることが、セツナに残された明瞭な目的だった。

 

 ♦

 第88層ボス攻略の日、エギルは攻略隊の面々に呼び掛けていた。

「いいか、勝つために死のうだなんて馬鹿なことは絶対に考えるな。皆で生き残って、現実に還るんだ。お前らの命はお前らだけのもんじゃない。お前らを大切に想っている人達のもんでもあるんだ」

 学校の道徳教育で教師が言いそうな台詞だった。でも、実際に生き死にが関わっている状況下で、彼の言葉は攻略隊の励みになったことは事実だ。

 エギルが堅固な壁戦士(タンク)として活躍してくれたおかげで、第88層攻略の犠牲者は10人に抑えられた。攻略隊の面々はエギルに賛辞を述べていたが、当の本人は守り切れずに消えていった10人を想って感傷に浸っていた。

 多分、エギルはアインクラッドで2年以上過ごしていながらも、命の価値を高く保ち続けていたのだろうとセツナは思う。

 お前らの命はお前らだけのもんじゃない。彼のその言葉には説得力がある。エギルは現実に、自分と同等かそれ以上に大切な人を置いていったのかもしれない。自分が死んだら、その人はどうなってしまうのか。自分が死んで、その人を悲しませ守れなくなってしまうことが一番辛い。セツナの推測でしかないが、その意思が彼の命に対する価値観をより高めていった。自分だけでなく、自分以外の命にも例外なく。

 エギルは奉仕精神こそ強い男だったが、他者のために自分が死のうという思考を決してしなかった。

「俺がいなくなったら、誰が奴等を守るんだよ」

 彼はそう言っていた。店の儲けばかりを優先する守銭奴を気取っていながら、蓋を開けてみれば損得勘定なしに動いてしまうお人好しだ。皆を守るために生きる。生きて現実に還る。攻略の度に彼はそう言っていた。

 でも、エギルは死んだ。

 きっかけは些細なミスだった。

 第93層のボス攻略で、壁戦士(タンク)として《The Kraken Lord》の攻撃を捌いていたのだが、HPをすり減らす彼を気に掛けた後衛の回復係がポーションを手渡そうとした。だがタイミングが最悪なことに、ボスの巨大イカが突如現れた後衛のプレイヤーに長くうねった脚を絡ませようとしてきた。エギルはポーションを持ってきてくれた彼を庇ったばかりに脚に拘束され、吸盤の中に仕込まれた歯に頭を噛まれて砕け散った。

 エギルが消えた途端ボスを取り囲んでいた攻略隊の陣営は瓦解し、辛くも倒すことはできたが全滅寸前にまで追い込まれた。130人が投入された第93層の解放に生き残った攻略隊は、セツナを入れて11人だけだった。

 いくら命が安くなってしまったとはいえ、生き残った者達はエギルの死に泣いた。彼はプレイヤー達にとっては尊敬する師だった。街へ帰還するとエギルのために、簡単ではあるが葬儀が執り行われ多くのプレイヤーが参列した。

「エギルさんのために、絶対にこのゲームを終わらせよう」

 プレイヤー達はそう意気込んで、更に攻略へと邁進した。

 エギルが死んでからというもの数ヶ月、プレイヤー達の死は一気に加速した。壁役はエギルにひどく依存していたから、後任の壁戦士(タンク)がボスの攻撃を防ぎ切れずに消滅するなんてことは珍しくなくなった。それでもプレイヤー達は、朝食の席で隣にいた者が夕刻にはいなくなっても、悲しみも恐怖もせずに迷宮区へと入っていった。まるで死など取るに足らない通過点であるかのように。

 更に痛手なことに、アルゴも死んだ。

 アルゴは情報収集のために自ら危険なフィールドに出ていたから、数々の修羅場を潜り抜けるために戦闘スキルを鍛えることにも抜かりなかった。短剣と潜伏スキルの達人として攻略に招集されたアルゴがどうやって死んだのか、その詳細は分からない。

 第95層攻略の日、迷宮攻略も含めて380人もの犠牲の末にボスを倒したのだが、生き残った者のなかにアルゴの姿はなかった。生命の碑で確認したところ、彼女はどうやらボスと戦っている時間帯に死んだらしい。生き残りでアルゴの死を目撃した者はいなかった。

 アルゴに攻略への参加を要請したのはセツナだ。セツナの頼みにアルゴは承諾してくれた。

「疑似二刀流なんてユニークスキルを間近で見れる機会はそうそうないしネ」

 アルゴは笑いながらそう言っていた。おどけた態度ばかり取っていたが、一度だけ彼女の本心を聞くことができた。

 忍び寄ってくる死神の足音を敏感に聞き取っていたのかは分からないが、アルゴは死ぬ前日、第95層ボス攻略を翌日に控えた日にアスナの料理が食べたいと言った。家に招待されたアルゴをアスナは歓迎した。2人は既に顔見知りだったらしい。アスナが腕を振るったチーズフォンデュを味わって食べたアルゴは食後の散歩にセツナを誘ってきた。何か大事な話でもするのだろうと思って同行したのだが、アルゴは退屈な世間話ばかりした。

「あんな美味いモンを今まで食わなかったなんテ、惜しいことしたナ」

「食いたくなったらいつでも来ていい。アスナも喜ぶ」

「そりゃ嬉しいネ。ったくキー坊のやつ、あんな飯を毎日食ってたなんて羨ましいヨ。オネーサンも恋ぐらいすればよかったナ」

 他愛もない会話の最後、アルゴは初めて聞く沈んだ声でそう言っていた。自称「オネーサン」として振る舞っていたアルゴの不安げな顔を見たのは、そのときが最初で最後だった。残酷なことにアルゴの抱える脆さを垣間見ても、彼女を守りたいだなんて感情はセツナのなかで見つからなかった。

 デスゲーム開始からプレイヤー達の支えになっていた2人を失い、それからの攻略は泥沼と言っていい。1階層を解放する毎に数百という犠牲を払い、第98層まで到達した時点で生存者は1000人を切った。更に質の悪いことに、第98層からは主街区が存在せず、層全域が迷宮区という構造になっていた。上層へ登る毎に狭くなっていくアインクラッドの構造上、層全域といっても第1層の迷宮区よりも小規模ではある。だが強力なモンスターが際限なく雪崩れ込み、先頭に立っていた者は成す術もなく消えていった。

 それでもプレイヤー達は立ち止まることをしなかった。自分のレベルではマージンが取れていないことを知っていてもだ。生きるために戦っているというのに、プレイヤー達の死にぶりは死の欲動(デストルドー)が膨れ上がったかのように精力的だった。

 数百という数を率いて迷宮区に赴く様はまさに死の行軍(デス・マーチ)だったが、攻略隊の面々から絶望の匂いは感じなかった。彼等は死地ではなく希望がある楽園へ向かうように穏やかな顔をしていた。

 以前、まだ現実で暮らしていた頃。セツナはサッカー部の合宿で富士登山に挑んだことがある。登れば登るほど酸素は薄くなり、いくら呼吸を荒げても酸素が足りないという体の悲鳴は高山病として現れた。頭痛と吐き気に苦しみながらも、山頂に立つ鳥居目掛けて脚を動かしているとき、自分は紛れもなくゴールへと向かっているという確信があった。

 途中で下山したいと言っていた部員達も鳥居が見えると弱音を吐くことを止め、ただ黙々とゾンビのように鈍い動きで登り続けていた。

 ゴールが見えると人は止まらない。たとえ自分の心と体が死へ向かっているとしても。

 絶望ではなく希望のために向かう死への道。ヴァサゴが見たかったものは、そんな風景だったのだろうか。たとえそれを求めていたとしても、キリトを失った彼が満たされることはなかったに違いない。

 

 ♦

 ガネーシャロード、ドラゴニュートロード、ウェアウルフロード。迷宮区に現れるモンスターの名前にはLordが付く。フィールドにいるモンスターとは一線を画す、種族の支配者を意味する敬称。その戦闘能力は高く、人型で武器を装備しているため強力なソードスキルを放ってくる。しかも、上位であればスキルにカスタマイズが加えられて自分が知るスキルとは異なる動きに翻弄される。

 プレイヤーにとってはかなり厄介なロード集団が群を成して襲いかかってきたのは、索敵スキルの補正がなければ何も見えない第99層の回廊だった。この先にいる主には近付けさせないとばかりに、剣を携えたモンスター達は暗闇から攻略隊へと咆哮をあげながら突っ込んできた。おかげで攻略隊は大混乱に陥った。覚えたてのソードスキルを闇雲に放ち、HPバーがイエローゾーンまで削られてもお構いなしに次の攻撃がやってくる。

 彼等を守りながら、なんて器用な芸当はセツナにはできなかった。防御に関しては回避特化型で、仲間を守るために防ぐよりも避けて自分1人が助かるようにとアバターを鍛えていた。元々連携など視野に入れず1人での戦闘を前提としていたのだから、手の打ちようがない。《疑似二刀流》で鞘を防御に使えるようにはなったが、それでも耐久値は盾に劣る。

 回廊に反響する咆哮がモンスターのものか、プレイヤーのものか判別などできなかった。散っていくポリゴンの欠片が誰のものかなんて分かるはずがなかった。

 どれほどの時間、モンスターの群れと戦っていたのかは定かではない。咆哮と破砕音は徐々に小さくなり、やがて最後のウェアウルフロードをセツナが倒した頃、回廊は恐ろしいほど静かだった。

「………シリカ」

 セツナは同行していたはずの仲間を呼ぶ。その姿を暗闇から探し出そうと視線を右往左往させる。

「リズベット」

 反響する声は暗闇のなかへと吸い込まれていく。

「あたしも、セツナさんの力になります」

「絶対にアスナを現実に還さなきゃ」

 そう言って共にダンジョンへと挑んだ彼女らの姿はどこにも見当たらなかった。

「誰か――」

 不意に炎が灯った。回廊の壁と床を照らし、消えると同時に水色の羽が視界に入り込んでくる。綿毛に包まれた小竜《フェザーリドラ》。本来なら下層に生息するそのモンスターがこのダンジョンにいる理由はひとつしかない。

「ピナ」

 セツナは小竜の吐くブレスを避けながら呼び掛ける。ピナはセツナの声に何も反応を示すことなく鉤爪を突き出してくる。

「俺が分からないのか」

 家に帰宅する度、シリカの肩からセツナの方へと飛び移り顔を擦り寄せてきた人懐っこさは感じない。ピナは完全にセツナを殺すべきプレイヤーとして認識しているようだった。聞いたことがある。主を失った《使い魔》は通常モンスターとして再びプレイヤーに襲いかかると。

 セツナはブレスを放とうと胸を膨らませたピナを剣で一閃した。《フェザーリドラ》は多くの特殊能力を持つが、直接的な戦闘能力は高くない。体を両断されたピナのHPは一気に尽きて、体がポリゴンを散らして消滅した。

 再び静寂が訪れる。ありえない、とセツナは置かれた状況から逃避したくなる。第99層は生き残ったプレイヤー約400人全員で挑んだ。それがセツナ以外1人残らず。ボスの間に到達する前に雑魚モンスターによって壊滅させられたというのか。

 セツナはポーチから転移結晶を取り出す。

「転移、はじまりの街」

 転移時の光が消え、視界に入り込んできた街は閑散としていた。セツナが現れた転移門広場には常にプレイヤーがごった返していたというのに、誰も転移空間から現れてこない。

 目の前を通りかかる女性に話しかける。

「この街のプレイヤーは……」

「はじまりの街へようこそ。大通りに行けば、誰かしらいるわよ」

 容姿の整った女性は笑みを浮かべながらそう言った。

 女性に言われた通り大通りに出る。確かにプレイヤーはいる。セツナを見つけると「いらっしゃい」、「回復アイテムいかが?」と声を張り上げるNPC達が。「お兄さん、お食事はどう?」と声をかけてくる女性NPCを無視し、セツナは大通りから出て黒鉄宮を目指して歩く。石畳の床を踏む毎にセツナの脚は震えていた。この先で最悪の地獄へと突き落とされるかもしれない。それでもセツナは歩いた。仮想で突き付けられる現実を見届ける責任があったからだ。

 黒く磨かれた宮殿の正門を潜り広間へと入る。ゆっくりと歩を進め、金属製モノリスの前に立つ。恐ろしく静かな宮殿のなかで、セツナはモノリスに刻まれた名前を見上げた。

 

 ほぼ全ての名前に横線が引かれていた。

 

 誰が生きていて誰が死んでいるのか。こんなにも分かりやすい名簿はない。無慈悲なラインが埋め尽くそうとしている名簿のなかで、まだ引かれていない名前は完成直前のジグソーパズルの穴のように目立っている。

 《Setsuna》と《Asuna》。

 その2人だけが、現時点で生き残ったプレイヤーだった。

 どうしてこうなったのか。疑問の答えはすぐに出る。そう、自分のせいだ。

 ヴァサゴから託された悲劇の楽譜を歌い上げ、人々の殺意や暴力性を解き放てば、こうなることは予測できたはずだ。人がどこまで野蛮になれるか、どこまで勇敢になれるかも十分に理解していた。妄信的な野蛮さは公共の敵を滅ぼし、盲目的な勇敢さは際限なく前進させた。これはその結果なのだ。

 キリトが死ななければ、こうはならなかったのだろうか。アスナが血盟騎士団を率いていれば、犠牲を抑えて攻略を進められたのだろうか。セツナが団長にならなければ、悲劇は防ぐことができたのだろうか。

 モノリスを前にして様々な憶測が脳内を駆け回っていく。でも今やその全てが無意味だった。この世界で生きているのはセツナの他に1人しかいない。

 セツナはモノリスに背を向けて黒鉄宮を出た。脚の震えはもう治まっていた。疲れたのだ。罪悪感を覚えることすらも。何も考えることなく街を歩くと、活気に満ちたNPCの声だけが響いていた。

 

 ♦

 自分がどの道を歩いてそこに辿り着いたのか、セツナは覚えていない。気付けば見慣れたログハウスの前に立っていた。

「お帰りなさい」

 ドアをノックすると、陽だまりのような笑顔でアスナが出迎えてくれた。

「ただいま」

 リビングに入るとぱちぱちと暖炉が薪を燃やす音が聞こえる。残暑が過ぎるとすっかり肌寒い季節になった。

「もう、遅かったじゃない。今日の攻略そんなに大変だったの?」

「ああ、うん」

 いつものように素っ気なく返事をしながら、視界の隅にある時刻表示に焦点を合わせる。20時をとっくに過ぎていた。はじまりの街にいたときは15時くらいだったから、どうやら回り道しながら帰路についていたらしい。

「ご飯できてるよ。食べましょう」

 エプロン姿のアスナは次々と皿に盛り付けられた料理をダイニングに運んでいく。今晩の献立は真っ赤なソースがかかったステーキだ。

「今日は新しいソースに挑戦してみたのよ。すごく辛いけど、これくらいが丁度いいかなって」

 アスナのステーキには茶色のソースがかかっている。特製なんだなと思っていると、アスナの口から出た名前が何の障害もなくセツナの耳孔に入り込んでくる。

「キリト君には」

 訂正することなく、セツナは椅子に座り「いただきます」とステーキを食べ始める。本当に辛かった。むせ返るほどではないが、本来の味が分からず刺激が咥内を突き刺してくる。

 キリトという名前で呼ばれるようになったのはいつからだろう。初めて呼ばれたときの日にちは覚えていない。ただシリカとリズベットがとてもショックを受けていたことは覚えている。アスナが眠った後、深夜のリビングで2人は泣いていた。あの強いアスナがどうしてと。

 強く気高くても、見た目はセツナと年の近い少女だ。心のどこかで誰かの温もりを求め、愛する者のいない寂しさに耐えかねたのだろう。彼女の気持ちがよく分かるという傲慢さは持ち合わせていないが、セツナはキリトを演じることにした。アスナをこれ以上悲しませてはいけない。単純にそう思ったからだ。

 リズベット、シリカ、エギル、クラインからキリトの話し方や癖を聞き、求められる人物像全てを取り込んでセツナはキリトに成り代わった。こうして彼の振りをして過ごしていると、断片的ではあるが彼がどんな少年だったのか理解できた気がした。孤独なソロプレイヤーなのに、関わった者の多くを救っている。一匹狼を気取っているが、本心ではどこかで他者を求めていたのかもしれない。ただ人付き合いが苦手なナイーブな少年。そんなイメージだ。もしキリトが本当に他者を拒んでいたのなら、アスナと結婚することはなかったはずだ。アスナはキリトを演じるセツナに、これでもかというほど甘えていたのだから。彼がアスナを心の底から愛していたことは断言できる。

 激辛ステーキと格闘しているなか、セツナはアスナのナイフとフォークが動いていないことに気付いた。まさか真実に気付いてしまったのでは。そんな不安を抱えながら、セツナはキリトの口調で聞いた。

「アスナ、どうしたんだ」

 アスナはナイフとフォークを置いた。

「キリト君。わたし、幸せだよ」

「………ああ、俺もだよ」

 心にもないことを言うのに苦はなかった。素性を隠しながらオレンジプレイヤーに近付き、騙し殺していた日々がもう1年も前のことだと思うと、随分時間が経った。

「いきなりどうしたんだよ」

「何だか、良いのかなって思っちゃって。わたし、こんなに幸せで」

「良いに決まってるじゃないか」

「………うん、ありがとう」

 アスナの声色は沈んでいる。数秒間の逡巡の後、アスナは唇を噛んだ。痛みを求めているようだった。

「キリト君。わたし、前にキリト君とよく似た人に会ったことがあるの。顔も名前も思い出せないんだけど、とても悲しい人だった。大切な人を失って、罪を背負い続けて、どんどん自分から苦しもうとしていたの。わたし、彼のこと救いたかった。でもできなかった。正直ね、キリト君のこと彼と重ねてたの。キリト君のことが好きなのは本当よ。でもソロでいるキリト君を見ると……、怖かった。キリト君が彼と同じところに行っちゃうと思って………。ごめんね。キリト君は知らない人と重ねられて迷惑だよね。わたしって、本当に自分勝手…………」

「そんなことないさ。アスナが俺を想ってのことだったんだろ」

 セツナがそう言うと、アスナは少しだけ笑った。

「うん。でもこうして幸せを感じていると、彼はどこで何をしてるのかなって、時々思うの。今も苦しんでると思うと、わたしの幸せがまるで彼の不幸と引き換えになってるみたいで怖くなるの」

 アスナが誰のことを話しているのか、セツナにはすぐに分かった。だから言葉は迷うことなく出てくる。

「アスナが気に病むことはないさ。その人はきっと感謝してるよ。アスナに手を差し伸べてくれて。それだけでも、救われたんじゃないかな」

 そう言うとアスナは喜んでいいのか複雑な表情をして、やがて微笑を浮かべた。

「うん、ありがとう」

 アスナはようやくステーキを食べ始めた。食後にハーブティーを飲みながら他愛もない会話をして、やがて眠気が訪れると寝巻に着替えて2階へ上がった。

 キリトを演じるようになってから、セツナの寝床はベッドが2つ置かれた夫婦の寝室になった。セツナが寝ていた客間のベッドは既に片付けられている。アスナはセツナという同居人がいたことを忘れていた。

 壁のコルクボードにはたくさんの写真が貼られている。パンを食べるキリト、リンゴを食べるアスナ。2人仲良く並んでいる写真も多い。コルクボードのなかにガーデンパーティの写真はなかった。現像した写真をアスナは嬉しそうに眺めていたのに。多分、一度貼られた後にリズベットかシリカに剥がされたのだろう。

 大きく伸びをして、セツナは窓際のベッドで横になる。すぐに眠気が訪れたが、腹部に重みを感じてすぐに意識が水面へと押し戻される。目を開くと、目の前にアスナの顔があった。

「どうしたんだ」

「キリト君、明日も攻略だからっていつもすぐ寝ちゃうんだもん。わたしだって、寂しいんだよ?」

 見ると、アスナは下着しか身に着けていなかった。飾り気のない白だが、元の素材が良い彼女にはそれくらいシンプルなものがよく似合う。

「今日ぐらいは、いいでしょ?」

 アスナと偽物の夫婦生活を送るなかで、セツナは決して彼女に手を出すことはなかった。そんな気分になれなかったし、何よりもキリトを裏切ってしまうような気がした。たとえ仮想でもだ。キスどころか手を繋ぐこともしなかった。

 いや、とセツナのなかで甘い誘惑が浮かび上がる。

 これでいいんじゃないか。

 この世界にはもう、セツナとアスナしかいない。ゲームクリアは絶望的だ。ならばクリアせずに、この2人だけの楽園でアダムとイヴとして生きていくことが最も幸福なのではないか。

 アスナはセツナをキリトと思い込んでいる。なら、セツナはアスナをナミエと思えばいい。そうすれば2人とも幸せだ。お互いを愛し合える。邪魔をする者は誰もいない。

 そうだ、これでいいんだ。

 アスナの艶やかな唇が迫ってくる。セツナはアスナの顔へ手をゆっくり伸ばす。

 自分に覆い被さろうとするアスナの影に抗うことなく、セツナは目を閉じた。




 さてさてどうなるのやら。そんなわけで次回で最終回です。
 最終回なのですが、1、2話ほど後日談を書こうと思うのでまだちょっとだけ続きます。終わる終わる詐欺です。すみません。
 どうか最後までお付き合いください。
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