ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト   作:hirotani

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 なんかモノローグを投稿したあたりから物凄い勢いでUA数が伸びました。
 なにこれ、一体何があったの!?
 まあ、前置きはこれくらいにして。
 短い間でしたが、皆様の応援のおかげで完結させることができました。これで本当の最後になります。
 本当にありがとうございました!

 そして最終回をご覧ください!



エピローグ

 あなたの記憶の片隅でもいいから、どうか忘れないでほしい。

 私達が見ていたのは夢ではなく現実だったのだと。私達が感じていた恐怖も、怒りも、悲しみも、喜びも、快楽も、全て本物だったのだと。私達はあの世界で生きていたのだと。

 これは、仮想に生きた者達の物語だ。

 

―――結城明日奈「ソードアート・オンライン たった1人の生還者」

 

 ♦

 秋の冷たくも日光に温められた風が頬を撫でて過ぎ去っていく。私の人生を一変させたあの日とよく似た日和であることを、80年経った今でも鮮明に思い出せる。

「結城さん、紅葉が綺麗ですよ」

 私の乗る車椅子を押してくれる女性介護士がそう言ってくる。「ええ」と私は返事をして紅と黄のコントラストを彩る木々を眺める。22世紀を迎えて機械による管理体制を敷く医療技術も進歩したが、こうした生身での会話が認知症予防に効果的とされていることから介護士という職業は未だに存在している。もっとも、齢100に近い私は物忘れこそあるものの、認知症を発症せず何とかこうして独白する術を維持することができている。

 敷地内に入ったことでオーグマー上の拡張現実(オーグメント・リアリティ)が施設の説明をしてくれる。

 

【SAO事件被害者追悼公園】

2022年に発生したSAO事件被害者への追悼の意を込めて建設された国定公園。敷地の中心には被害者の名前が刻印された慰霊碑が建立されている。

 

 続けて最寄り駅へのアクセスと近くの飲食店の情報が立て続けに飛び込んでくる。あまりにもやかましいから、私は拡張現実の展開をオフに設定する。

「申し訳ないけど、しばらくひとりにしてくれないかしら?」

「え、大丈夫ですか?」

「何かあったら、オーグマーが知らせてくれるわ」

 私の体には健康監視システムが入れられている。今のご時世、60歳を越えるとナノマシンによる健康管理が一般的だ。介護施設に入所すれば、職員のオーグマーに体調の変化がすぐに送信される。

「分かりました。あまり遠くに行っちゃ駄目ですよ」

「ええ、分かっているわ」

 介護士が去っていくと、私はオーグマーを通じて車椅子に「前進」と指示する。車椅子の車輪がゆっくりと回り始め、整備された公園の道を進んでいく。

 しばらく進んだところで巨大な長方形の石碑が建っている。心なしか、黒鉄宮にあった生命の碑によく似ている。オーグマーの視覚補正で刻印された名前は見えるが、本名で綴られているため仮想世界でどんな名前だったかは分からない。

 あれから80年が経とうとしている。

 悪夢のデスゲーム、ソードアート・オンラインがクリアされから。

 

 ♦

 病院であの世界のことを思い出した後、私はずっと罪悪感に打ちひしがれていた。病室のベッドで何日も泣いていた。

 どうして自分が生きてしまったのだろう。

 彼を救いたかった。

 なのに、自分が救われてしまった。

 でも、私はいつまでも泣くことはなかった。生きなければ、と思ったからだ。あの世界で生きた人々の死を、ただの悲劇で終わらせるわけにはいかないと思った。その想いは現実での出会いで更に強くなった。

 殺人の罪に苦しんでいた朝田詩乃(あさだしの)

 病と闘った紺野木綿季(こんのゆうき)

 詩乃とは、私が入院していた病院の精神科で出会った。3年間を仮想世界で過ごした私は精神と身体の齟齬が生じていたためにカウンセリングを義務付けられていた。年の近い私達だが、詩乃がなかなか心を開いてくれなかったこともあって親交を深めるのに時間を要した。

 それは仕方のないことだった。詩乃は学校でいじめを受けていたから、他人に対して疑心暗鬼になっていた。でも、少しずつだけど心を開いてくれた詩乃は自分が脆くなってしまった理由を、抱える罪を打ち明けてくれた。

 詩乃には殺人の経験があった。望んだものではなく、不可抗力だ。幼い頃、強盗事件に巻き込まれ、母親を守るために犯人から銃を奪い撃ってしまったらしい。それは仕方のないことだ。周囲にいたはずの大人ではなく、何故幼い彼女が手を下さなければならなかったのかと怒りさえ覚えた。

 でも詩乃は、自分を苦しめている過去を私に話してくれた。だから私も自分の過去と罪を打ち明けた。私がSAO唯一の生還者であること。私が救いたかった少年に救われたこと。

 最初こそ詩乃は疑っていた。それもそのはずだ。総務省はSAOプレイヤーが全員死亡したと公表した。唯一の生還者である私が被害者遺族から理不尽な憎悪を向けられないようにという配慮だった。

 自らの苦悩を話すことはとても勇気がいるものだ。詩乃も最大の勇気を出してくれたし、そのことを彼女自身が何よりも理解していた。だから、詩乃は私の話を信じてくれた。そうして私達は親友になった。

 彼女は罰せられることを望んでいたのかもしれない。でも私は、彼女のおかげで救われた命もあるはずだと思った。だから、私は実家に頼んで彼女が巻き込まれた事件現場にいた人を探してもらった。詩乃に会ってくれたのは、事件現場の郵便局で働いていた女性と、彼女が当時身籠っていた娘だった。

「明日奈のおかげで、わたしは少しずつだけど前に進もうと思えるんだ。明日奈が教えてくれたんだよ。この世界は、本当は優しくて、温かいんだって」

 2人と対面を果たした詩乃は私にそう言ってくれた。でも、私に感謝の言葉を受け取る資格があるとはどうしても思えない。私がしたことは下手をすれば詩乃を更に苦しめかねないものだったし、純粋に詩乃のためを想ってしたわけでもない。それでも詩乃はそれからも、私と生涯を通じて親友でいてくれた。

 そしてもうひとり。私の生き方を決めさせてくれた少女のことも忘れてはならない。

 紺野木綿季と出会ったのもまた病院で、私がリハビリを受けていた時期だった。木綿季とは患者同士の交流会で知り合った。とはいっても、木綿季はPC画面越しでの参加だったが。

 彼女はメディキュボイドという世界初の医療用VRマシンの被験者だった。出会ったばかりの頃、木綿季にはあまり笑わない女の子という印象を抱いた。それはHIVに感染した故の悲壮というわけではなく、以前入院していた横浜の病院に置いていった、双子の姉の死だった。

 病でやせ細り、ただ死を待つだけの幼い彼女を私は放っておくことができなかった。私は木綿季の病室を尋ねて、時には詩乃も交えて話をした。彼女自身は無菌室から出られないから仮想空間越しの会話だったけど、それでも少しずつ、木綿季は私と詩乃に笑顔を見せてくれるようになった。とても無邪気な笑顔だ。それを見ただけで、本来はよく笑う女の子だということがよく分かった。

 木綿季もまた、罪の意識を抱えていた。メディキュボイドは世界に1台しかなく、木綿季と同じ病に侵された彼女の姉は自分が病と薬の副作用で苦しむことを承知で、妹にメディキュボイドを譲ったらしい。機器を運用する設備の都合で私が入院していた病院に移って間もなく、木綿季の姉は亡くなったらしい。木綿季は姉の最期を看取ることができなかったと気に病んでいた。同時に、彼女は自分がメディキュボイドを横取りしたせいで姉が死んだと苦悩していた。

 でも私は、木綿季の姉は妹にそんな苦悩を抱えさせるためにメディキュボイドを譲ったとは思えなかった。誰かのために自分の命を投げ出そうとする者が呪縛を残すはずがない。願望に近いけど、私はそう木綿季に伝えた。

 私の言葉で木綿季の罪悪感を消すことはできない。でも、少しだけ軽くはできたらしい。だから彼女は屈託のない笑顔を取り戻したのだと、私は信じたい。

 私と詩乃と木綿季の交流は4ヶ月続いたけど、やがて木綿季の容態が悪化した。私と出会った頃から既に危うい状況だったらしい。木綿季はとても頑張った。生まれてから15年もの間、ずっと病と闘い続けてきたのだ。最期の時だけ、私と詩乃は木綿季のいる無菌室への立ち入りを許可された。

「明日奈、詩乃。ぼく、頑張って生きた。何も生み出せず、与えることもせず、死ぬために生まれてきた命でも、生きてる意味があった。明日奈と詩乃に会えて……、良かった。ありがとう………」

 それが、木綿季の最期の言葉だった。仮想空間越しではなく、生身の彼女自身から発せられた声だった。話すことも辛かったはずなのに、彼女は力を振り絞り私と詩乃に言ってくれた。私が抱きしめると、木綿季は笑顔のまま眠り、息を引き取った。

 木綿季の死を経て、SAOの犠牲者達のために何かしようという決意が確固なものになった気がする。でも、私はすぐに行動することができなかった。行動を起こすのに私はまだ子供で、知るべきことが多かったから。

 私は退院した後、両親の言いつけ通り家で通信教育を受ける日々を送った。両親は住まいを別の街に移し、私が幼い頃から働いている家政婦も解雇されていた。私を世間の目から隠す目的だったのだろう。親族や親しい知人は私がSAOに囚われていたことを知っているはずだし、全員死亡と報道された被害者の私はそう簡単に外出許可を得ることができなかった。家族も随分身辺に変化があった。

 父親はレクトの代表取締役を辞任していた。私がSAOにいる間、SAOを運営していたアーガスは莫大な負債を抱えて解散し、事後処理とSAOサーバーの管理はレクトに委託されていた。そのレクトの子会社であるレクト・プログレスが「アルヴヘイム・オンライン」という新しいVRMMOを運営していたのだが、父親の部下である須郷伸之(すごうのぶゆき)が子会社の社員を使って非人道的な実験を行っていた。フルダイブ技術による洗脳という邪悪な実験は被験者の死亡という事態によって外部に知られることになり、主導者である須郷は逮捕され、レクト・プログレスは解散。レクト本社も父親を含める経営陣が辞任するほどの大打撃を受けた。無論、運営していたアルヴヘイム・オンラインもサービス終了に追い込まれたという。

 家に隠されていた私のもとには頻繁に客人が尋ねてきた。SAO事件発生後すぐに発足した「総務省SAO事件調査委員会」の役人を名乗る男性だった。唯一の生還者である私からSAOで何が起こったのか聞き出したかったのだろうけど、生憎私にもあの世界での出来事全てを把握することはできていない。私が攻略の前線にいたのはデスゲーム開始からの2年間で、残りの1年は家にこもって最愛の夫が生きているという妄想に取りつかれていたのだから。

 でも私の体験は彼にとってはかなりの収穫だったらしい。回収されたナーヴギアのデータ解析は不可能ではないが、1万という数のプレイヤーデータを読み解くには膨大な時間を必要とする。知っている限りのことを話した私は、聴取を担当した役人の菊岡さんにも情報提供を求めた。まず私が知りたかったのは、あのデスゲームを始めた茅場昌彦(かやばあきひこ)がどうなったのか。

 結論から述べると、茅場は死んだ。それが発覚したのはゲームがクリアされてから3ヶ月が経った頃、茅場の協力者を名乗る女性が警察に自首してきたことで捜査が劇的に進展を遂げた。

 ヒースクリフとしてプレイヤーを監視していた茅場は現実では行方をくらまし、長野県の人里離れた森の山荘に潜伏していたという。腐乱した彼の遺体と共に発見されたナーヴギアを解析したところ、彼の機器には他のプレイヤーに仕掛けられていた電磁波発生装置はなく、自由にログアウトできる状況にあったらしい。でも、彼の死亡推定時刻はゲームがクリアされた2025年の11月20日とされた。

 その最期も不可思議なものだった。彼はナーヴギアを改造して作成した機械で自分の脳に超高出力のスキャニングを行い、脳を焼き切った。記憶と思考といった大脳の電気信号を全てデジタルコードに置き換えネットワークに存在することを目論んでの死だったのだが、狂気以外に言葉が見つからない。世間の反応も私と似たようなもので、茅場の死は自殺と処理された。

 1万人の死者を出したゲームと首謀者の自殺。更にVR技術による実験と致命的なスキャンダルが立て続けに起こったことから、他にも展開されていたVRMMOは全て運営中止になった。安全性が保障されたVRマシンの開発でイメージの払拭を試みる企業もあったが、批判的な世論は覆ることなく、黎明期(れいめいき)を迎えていたVR事業は全盛期へ入ることなく衰退した。

 その変遷を家のなかで過ごした私は、高校までの教育課程を修めるとアメリカの大学へ進学した。SAO事件から2年以上が経っても事後処理は完璧とはいかず、アーガスに命じられた被害者遺族への賠償も未払いという事態が発生していた。留学もまた両親の意向で、ほとぼりが冷めるまで私を日本から遠ざけたかったのだと思う。

 大学を卒業した私は父親が取締役会長として復帰したレクトに入社した。入社後は真面目に職務をこなし、3年目で小さいながらもプロジェクトのリーダーを任されるようになった。リーダーシップが血盟騎士団の副団長だった頃に培われたものだと思うと少し複雑だが。

 この頃までの私は、両親にとってはとても「良い子」に過ごしてきたと思う。言いつけに逆らわず両親、特に母親が望んでいたエリートコースを進み出世街道にも乗っていた。でも、私自身は微塵も納得していなかった。SAOにいたという過去を隠し、詩乃以外の友人や会社の同僚には常に高校時代から海外留学していたという嘘をつき通してきた。何よりも、あの世界で過ごしてきたことを忘却しようとする自分自身が赦せなかった。

 それでも私は罪悪感に耐え続けた。まだ若い私に行動を起こす力はなく、機が熟す日まで待ち、己を研磨し続けた。彼はどんな気持ちで私をこの世界へ送り出したのだろう。その疑問は常に心のなかにこびり付いて、どんどん大きくなっていった。

 そして30歳を迎えた年。私は遂に行動を起こした。それまで抱えていた葛藤を全て吐き出すことにした。決め手になったのは相談相手になってくれた詩乃の言葉だ。

「明日奈がそうしたいなら、私はするべきだと思う。世間には信じてもらえないかもしれないけど、知らないままだと事件の被害者達はゲームが始まった日に死んだことになる気がする」

 悩んだ末に私が選択した方法は、あの世界で生きた人々の物語を書くことだった。

私は託された気がした。「後を頼む」と。「自分達の物語を現実で伝えてほしい」と。

 私は物語を書くとき、あの世界にいた約1万人の死者に見つめられているような視線を感じた。多分、彼も似た視線を感じていたのだと思う。

 殺めてきた死者。

 自分の目の前で砕けていった死者。

 2年もの期間を経て完成した原稿を大手の出版社へ持ち込んだとき、編集者は私がSAO唯一の生還者であることに疑問を持っていたものの、話題性のある企画として書籍化には積極的だった。

 文才なんて持ち合わせていないけど、私の原稿は製本され、増刷を重ねて全国の書店に並べられた。

 タイトルは「ソードアート・オンライン たった1人の生還者」。

 私はあの世界で過ごした3年間を赤裸々に綴った。デスゲームに巻き込まれた経緯。病的なほど攻略に費やしていた日々。黒の剣士との出会い。夫との結婚生活。夫の死と、壊れていった私の心。そして、もうひとりの黒の剣士。思い出せる全てのことを書いた。

 世間の注目は半端なものにおさまらず、私の自叙伝はベストセラーに名を連ねた。私のしたことは特定秘密保護法に違反する行為だったから告発されるはずだったのだが、それ以上に生存者がいたことを隠していた政府への批判が激しく、私は裁かれなかった。むしろ裁かれたのは総理大臣が辞任した政府だったのかもしれない。

 とはいえ、私をペテン師と疑う声もあった。総務省が私をSAO生還者(サバイバー)と認めてくれたおかげで収束したのだが、良くも悪くも世間から好奇の目を向けられる私を守る義務は会社にはないと、私は自主退職を父親から迫られた。父親には落胆させてしまって申し訳ないと思っている。でも、生き残った私には伝える義務があったのだと確信を持って言える。

 こうなることは予想できたから、私は素直にレクトを退社した。家族とも縁を切った。その後の私は全国各地へ、時には海外へ渡り自分の体験を語った。

 落ち着く暇もない日々だった。連日記者が取材を求め、時には身内をSAOで喪った遺族が尋ねてくることもあった。多くの来訪者の中には、私が驚く人物も含まれている。

「キリトの、桐ヶ谷和人(きりがやかずと)の妹です」

 総務省はSAO内での情報を一切公表していない。遺族には被害者がゲーム内で使っていたキャラクターネームを教えていたらしいが、それ以外は全て秘匿された。あの世界ではプレイヤー同士の戦闘が頻繁に起こっていてPKでの死亡も多かったから、遺族同士で訴訟を起こしたら途方もない件数になる。ゲームでの殺人は全て自殺した茅場昌彦に押し付ける形で落ち着いているのだ。だから遺族にとって身内がゲームの中でどう死んでいったのか、その唯一の情報源が私の本だったわけで、私を尋ねてきた長田直葉(ながたすぐは)という女性は本の中に兄が使っていた名前を見つけたらしい。

 私は直葉に糾弾される覚悟だった。何故兄の傍にいながら守ってくれなかったのかと。でも、直葉は私を責めなかった。むしろ感謝された。

 キリトは、和人は直葉の本当の兄ではないらしい。和人の本当の両親は生まれてすぐに亡くなり、叔母の家に引き取られた。だから直葉との血縁は従兄になる。直葉はそれを和人がSAOに囚われていた間に母親から聞いたのだが、和人自身は幼い頃には既に知っていたらしく、それが原因かは分からないが兄妹に溝を生じさせた。やがて和人はコンピュータに興味を持ち、ゲームに没頭していった。そんな彼が世界初のVRMMOと銘打たれたSAOに手を出すのは必然だったのかもしれない。

 直葉は後悔していた。友達を作るどころか家族との会話すらも少なくなった兄と接する努力をなぜしなかったのかと。和人がとうとう帰らぬ人となってから、その後悔は増していった。

「兄はとても人付き合いが下手だったので、明日奈さんの本に出てきてびっくりしました。あの人が結婚までしちゃうなんて。兄があの世界で頑張って生きようとしたのは、明日奈さんのおかげです。兄を支えてくれて、本当にありがとうございました」

 直葉はそう言って私に頭を下げた。とても気丈な女性だ。私に憎悪を抱くことをせず、その後も頻繁に顔を合わせる仲になった。

 桐ヶ谷和人(きりがやかずと)

 あの世界で私の夫だったキリトの本当の名前。

 できることなら共に現実へ還り、その名前で呼びたかった。仮想ではなく本当の結婚をして、彼との家庭を築きたかった。

 もうひとり、忘れてはいけない人物がいる。私が全てを思い出した日から1日たりとも記憶の中から零すまいとしてきた、もうひとりの黒の剣士。

 セツナ。

 それが、私をあの世界から返してくれた人の名前。恩人であり、帰還した私の罪の象徴。私の本の後半部分は、大半が彼への懺悔という構成になっている。

 早速刹那(はやみせつな)

 それが、彼の現実での名前。

 私がそれを知ることができたのは、彼の家族と会ったからだ。彼が亡くなった日はゲームクリアが果たされたその日だったから、遺族もすぐに分かったらしい。

 遺族から聞いた現実の彼は、仮想での彼とは全くの別人だった。本と映画が好きで、サッカーに情熱を注いでいた少年。ゲームには全く興味を持たなかったそうだが、彼が何故SAOの世界に来たのか、その理由を私は本人から聞いている。

 共働きの両親に代わって面倒を見ていた彼の姉はこう言っていた。

「小さい頃から一度決めたらやり通すまで気が済まない子でした。せめて近くにいた私だけでも弟の味方でいてあげれば、違う結果になっていたのかもしれません」

 彼女は泣いていた。泣く資格なんて無いのに、私も泣いてしまった。姉の抱いていた罪悪は、私が抱いてきたものと同じだったからだ。あの時こうしていれば。そんな無意味な思考を重ねずにはいられない。でも重ねればその選択をしなかった自分を責め立ててしまう。

 セツナは殺人者だった。でも、刹那を家族として愛する人は確かにいた。姉は弟が人を殺していたと知っても、変わらず彼を愛していた。

 仮想と現実では別人なのかもしれない。でもセツナも、早速刹那も、同じ意思を持った人間だとわたしは思いたい。私があの世界でアスナとして、同時に結城明日奈として生き、戦い、夫を愛したように。彼も彼として、あの世界で生き抜いたのだと信じたい。

 セツナ。

 私は彼の名前を呼ぶ。

 あなたが私に与えてくれた命が、あなたの物語を形作り、世界中の人々へ染み渡るよう祈りながら。

 セツナ。

 もし叶うのなら、私はあなたに言いたいことが沢山ある。たとえあなたが私の言葉を受け取ってくれなくても、私は言い続ける。あなたの目蓋のない耳に入るまで、何度でも。

 あなたへの言葉が、あなた達の物語を紡いでくれる。あなたへ向ける言葉が、私を前へと進ませてくれる。

「結城さんは、彼のことを愛しているのですか?」

 講演会でよくそんな質問をされる。

 いいえ、と私は決まってそう答える。そうだったらロマンチックなのですが、と付け加えて。

 私が愛しているのは、夫ただ1人。彼がたった1人の妻を愛したように。

 多分、彼に対する気持ちをひとつで片付けることはできない。感謝もあるし、それ以上に懺悔が大きい。それは隠居生活に入り、体験を多くの人前で語らなくなった今でも変わらない。

 

 ♦

「おっきいねー」

 舌足らずな幼い少女が慰霊碑に目を輝かせている。少女にはこの碑石が何を意味しているのかまだ分からないようだ。

「お嬢ちゃん、お父さんかお母さんはいないの?」

 私が声をかけると、こんな車椅子に乗った老婆には何もできまいと思ったのか、少女は警戒心を見せない。

「ママが迷子になっちゃったの。こーゆーおっきなものの近くにくれば見つけやすいと思ったの」

 女の子というのは、いつの時代になってもませたものだ。

「そう、お利口さんね」

 私がそう言って頭を撫でると、少女は乳歯が抜けた歯並びに羞恥を見せずにはにかんだ。

「ねえ、おばあちゃん」

「ん、なあに?」

「これ、字がいっぱい書いてあるね。なにが書いてあるの?」

「これはね、お名前なのよ」

「どうして、こんなにたくさんのお名前が書いてあるの?」

 どう説明したものか。私はしばし考えてから答える。

「昔、お婆ちゃんがまだ若かった頃、たくさんの人が死んでしまったの。皆がとても悲しんで、こうしてこの人達がゆっくり眠れるように綺麗な公園を作って、お墓を建てたのよ」

「このお名前の人たち、みんな死んじゃったの?」

「そうよ。お婆ちゃんはね、この人達と同じ場所にいたの。ここにはお婆ちゃんのお友達と旦那さんの名前もあるの」

「そうなんだあ」

 少女が慰霊碑を見上げていると、彼女の母親らしき女性が駆け寄ってきた。オーグマーで追跡できたのか、それほど息はあがっていない。

「駄目じゃない離れちゃ。迷子になるところだったでしょう」

「迷子になったのはママのほうだもん」

 少女が口をとがらせる。母親は私に「ありがとうございました」と頭を下げ、娘の手を引いて去っていく。去り際、少女が振り返って手を振った。私も手を振り親子を見送る。

 私は特に行き先を指定せず車椅子を走らせた。並木道をゆっくりと通り紅葉を眺める。

 もし過去が少しでも変わっていれば、私も子供を産んで家庭を築く人生があったのかもしれない。私はSAOで生きた人々が時代の流れと共に忘却されることを阻止するために人生を捧げた。そのためにキリト以外の男と結婚することなく、独身を貫いてきたことに後悔はない。

 あの慰霊碑に刻まれた人々は、私を赦してくれるだろうか。まだ赦されてはいないのかもしれない。詩乃も直葉もこの世を去った今、未だ現世に留まる私はあの世界で死んでいった死者達の怨念によって生かされているのかもしれない。

 まだ赦していない。

 自分達のことをもっと伝えろ。

 のうのうと生きることが罰だ。

 死にゆく者を見つめ置いて行かれることが罰だ。

 それで赦されるのなら、私は甘んじてその罰を受けよう。自力で歩くことができない老いぼれでも、まだ語り継ぐことはできる。でも、今日のところは少しだけ休ませてほしい。

 私は池のほとりで車椅子を止める。穏やかに揺れる水面に紅葉(もみじ)銀杏(いちょう)の葉が浮いている。

 私は目を閉じた。暖かい日和と少し冷たいそよ風が心地いい。次第に意識が薄らいでいく。誘ってくる眠気に私は身を委ねた。

 

 ♦

 私は白い光の中にいる。

 どこを見渡しても何もない。果てしなく続く光の中。

 不意に笑い声が聞こえる。振り向くといつからそこにいたのか、とても久しい、でも一日も忘れまいとしていた顔触れがいる。あの頃の、あの世界の姿のまま。彼らが私に優しい笑みを向けてくる。

 みんな……、と呟く私の目から涙が零れる。涙が流れる目尻から、長い人生で積み重ねてきたしわが消えていることに気付く。体を見下ろすと服まで変わっている。わたしは少女の姿になっていた。あの世界にいた頃の、白亜の戦闘服に剣を携えたあの姿に。

 わたしは皆に駆け寄る。ずっと会いたいと願っていたキリトの胸に飛び込み、その感触と温もりを確かめるように抱き合った。アスナ、とキリトが優しくわたしの名前を呼んでくれる。隣でユイがママと嬉しそうに声をあげる。でも、わたしはそう長く喜んではいない。見慣れた面々のなかに彼がいないのだ。どこにいるのだろう。わたしは周囲を見渡す。

 目まぐるしく動くわたしの視線はとある一点で止まった。光の向こう、そこに人影がある。とても小さいけど、わたしにはそれがはっきりと見えた。

 気付けばわたしは全速力で走っている。背を向けて去ろうとする彼を目指して。

 行かせない!

 あなたはまたそうやってわたしの前に突然現れて、また突然去っていくの?

 そんなことさせない。

 あなたに言いたいことがある。

 ずっと、あなたが去ったあの日から言いたかったことが。

 そして、わたしはその手を掴んだ。彼は歩みを止めて、ゆっくりと振り返る。その目は最後に見たあの日と同じ悲しそうな目で、私はたまらず涙を流しながら全てを吐き出す。

 ずっと言いたかった。

 ごめんなさい。そしてありがとう。

 あなたを忘れてはいけなかった。皆にあなたという人がいたことを知ってほしかった。

 あの世界で、誰よりも悲しい人がいた。誰よりも愛を知っている人がいた。

 その人が私をあの世界から還してくれたって。

 セツナ君。あなたはわたしを赦してくれる?

 わたしがそう聞くと、セツナは無言のままぎこちなく、でも優しい笑みを見せてくれた。今まで見たことのない穏やかな顔だ。答えとしては十分だった。

 気付けば、彼の隣に少女が立っている。とても美しい少女だ。わたしはすぐに分かった。彼が残した写真に写る彼女を見たから。

 あなたなんだね。彼が愛した人は。

 少女は照れ笑いを浮かべる。隣にいるセツナも彼女へ慈しみの笑顔を向けている。

 私達のもとに皆が集まってくる。私にはもう、これが夢なのか現実なのか区別することがどうでもよくなっている。

 いま、わたしは罪の意識から解放された。

 愛する人と仲間に再び会うことができた。

 罪悪の対象から赦しを得ることができた。

 わたしは満たされている。大切な人達に囲まれて、光のなかで幸福が集束していく。

 さあ、行こう。

 キリトの言葉で皆が歩き出す。キリトがわたしの右手を、ユイが左手をとり行進へと導いてくれる。すぐ後ろには手をとり合ったセツナとナミエもいる。

 わたし達は光のなかを、その彼方にある更なる光を目指して歩き続ける。

 どこに行くの、とわたしはキリトに尋ねる。

 分からない、とキリトは答える。

 行けるところまでだ、と後ろを歩くセツナが言った。

 皆が笑みを零して頷く。そう、怖れるものは何もない。

 わたし達は自由だ。どこへでも行ける。

 

 行けるところまで、行きたいところへ、歩いていこう。

 

 

 ♦

 

 2105年11月2日。結城明日奈は西東京市のSAO事件被害者追悼公園で容態が急変。搬送先の病院で死亡が確認された。死因は老衰。享年98歳。

 同伴していた介護士によると、とても安らかな最期だったという。

 

 

 

「ソードアート・オンライン パラダイス・ロスト」 ―完―

 

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