そして、鶴見留美は   作:さすらいガードマン

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かなり更新遅くなってしまい申し訳ありません。その分いつもより(かなり)長めです。



鶴見留美は未来に迷う④ 手のひらの中の宝物

 

 

「じゃあ、次に間違えたのは……問6の2だな?」

 

「そうだけど……。ね、八幡。少し休憩しない? 今日ユキ先生のとこで、頂き物のお裾分けでフィナンシェ貰ってきたの。□□っていう有名なお店のなんだって」 

 

 実は男の人としてはかなり甘い物好きな八幡はその言葉にぴくりと反応し、一瞬だけ手を止めてくれたものの……。

 

「いや、とりあえず英語終わってからな。……間違えたのあと3問だけだろ」

 

「えぇ~~」

 

「いいから。今日中に二教科……出来れば三教科終わらせておきたいしな」

 

 

 

 

 

 今私がやらされているのは、先日行われた学力テストで私が間違えてしまった問題の解き直し。

 このテストと、()()進路希望調査票をもとに、これから私達二年生への進路指導が行われていくことになる。

 このテストは、中学一年生で習った全範囲から広く出題されていて、定期テストよりもやや難し目の問題という印象だった。一年生の範囲の問題のはずなのにこんなに難しい理由を八幡に尋ねると、

 

「だれがどの程度出来るのかを視るために、簡単な問題から難しい問題まで幅広く出題されていて、難しい問題はかなりの難問になってる」

 

 という事らしい。なんでも、

 

「何人も百点取れるようなテストじゃ、余裕で満点の子とギリギリで満点の子との差がわからなくなっちゃうからだろうな」

 

 とのこと。

 

 そうは言ってもあくまで中一の問題。総武高校を目指すならまずはこれを全部解けるようになろう……というのが八幡先生(笑)の方針らしい。

 もちろん全く同じ問題ならすぐに回答はできる。授業で解説もしてたし……。けど、その私が間違えた問題を元に、「八幡が即興で作った問題」を解こうとすると急に難しくなる。

 ちゃんと理解できてる問題なら、「ちょっと単語が違うだけだ」「後は定型文を当てはめるだけ」とスムーズに答えが出てくる。

 けれど、よく理解できていない問題になると、その「ちょっと単語を変えられただけ」で急にわからなくなってしまう……。

 

 あ、進路希望票は――目指す職業は編集者か司書。志望校は、第一志望:総武高校/第二志望:海浜総合高校、それからもう一つ近場の私立高を書いて提出した。

 八幡や絢香の言いなりってわけじゃないけど結構適当。本当に悩むのはもっと先でいいと開き直れたし……今はまず、どんな進路だって自由に選べるように力をつける、という建設的な考え方で行くことにした。

 まったく……たったこれだけのことを割り切るために悶々と悩んで……私って本当に面倒くさい子だったなあ。

 

 

 

 それにしても……なんだか八幡が真面目すぎる……。

 

 もちろん私が八幡に家庭教師をお願いしたのは総武高に行きたいという目標があるからで、その気持に嘘は無い。だからそのためにはちゃんと勉強は頑張る。……頑張るけど、さ。もう少し……なんていうか――甘い雰囲気――みたいなのを期待してしまっていた私はそれこそ考えが甘かったんだろうか。

 折角二人きりでいるのに……これじゃ成績は上がったとしても、その裏にあるもう一つの目的達成はうまくいかないかなぁ。

 

 もう一つの目的――まず私を「恋愛対象になる女の子」として意識してもらうこと。

 

 小学生の時の告白からほぼ一年。「五歳という歳の差」「八幡の大学受験」「強力なライバルの存在」とかいろいろな言い訳をして積極的にならずに……なれずにいて、それでもなんとなく彼の近くに置いてもらっている、みたいな状況にある今の私。

 今までこの状態になんとなく満足してたくせに、今になっていきなり、やっぱりちゃんと「恋人」とか「彼女」になりたいというのは……あまりにも急ぎすぎだよね。

 まして私はその告白のときに、

 

「付き合ってほしいなんて言わない。ただ言いたかっただけ」 

 

 そんな風に言ってしまっているわけで……。

 

 

 

 あんな事言わなければ良かったかなぁ…………。でも、あの時は本気でそう、「気持ちを伝えられればそれで良い」って思ってた。五歳も年下の私が八幡の恋人に……なんて最初から諦めてた。

 

 だけどそれから一年以上を八幡の近くで過ごしてきて……彼に対する想いは落ち着くどころかむしろ熱を増し、今はもっともっと彼の近くに居たい、誰に遠慮することもなく八幡の隣に居たい――いつの間にかそう思うようになってしまっている。

 

 特別な何かがあったわけじゃない。ただ彼を知ってしまった。八幡のそばに居る居心地の良さを知ってしまった……それだけの事。

 

 

 ……それだけの事で――きっと私は、前よりずっと欲張りになっちゃったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お……これ、ほんとに美味いな。甘みが染み出すみたいになってそのまま口の中で融ける」

 

「うん。 ……でもこれ、自分で買うには中々にお高いんだよね……」

 

「そうなの?」

 

「えーとね、これ一つで三百円くらいかな」

 

 私が、細身で親指ほどの大きさ、一口サイズのフィナンシェをつまんでそう言うと、

 

「マジか! 俺もう四つも食っちまったぞ……」

 

 八幡は動きをピタッと止め、今正に口の中に放り込もうとしていた5つ目をそっと箱に戻した。

 

「頂きものだし……お金払えなんて言わないから遠慮しないで食べて」

 

「おう……じゃあもう一つ……」

 

 そう言って、さっきまではほとんど一口で食べてたフィナンシェを端からかじって食べてる八幡がなんだか可愛い……。

 

 

 

 

 なんだかんだで……結局私達は切りのいいとこまで勉強を進めてしまった。

 今は私がお茶を淹れ、お土産のお菓子で休憩しているところ。

 

 今日は、私(とお母さん)から無理やりお願いする形で始まった八幡先生の家庭教師の記念すべき第一回目。しかも八幡の部屋で。ふふ。

 実際に家庭教師をどこでするかにあたって――最初こそ渋っていた八幡だけど、今までだって私と二人になることは何度もあったし、それに私が東京と千葉を行き来する沿線の駅の近いところにこのアパートがある、というのもあって最終的にはOKしてくれた。今後は私の家とここの二箇所の内、その日お互いの都合が合うほうで……ということになりそうだ。

 とりあえず最初のうちは、私がユキ先生のとこに行った帰りには八幡のアパートで。それから週末、八幡が実家に寄る時には私の家まで足を伸ばしてもらう、という形でやってみることに。

 もっとも、それぞれの最寄り駅の間は電車で20分弱しかかからない。徒歩の移動時間を含めても30分くらいだから、それこそ当日に変えることだって出来なくは無い。だからそれぞれの都合に合わせてお互い無理のないように先の予定はその時々で調整して行こう――と、そういう結論になったんだ。

 

 

 

「それにしてもこれって、口の中で融ける感じが、前に留美に作ってもらったお菓子に似てるな……。 なんだっけ? ダックなんとか」

 

「『ダックワーズ』でしょ。 それは似てて当たり前だよ? だって基本の材料が同じ『アーモンドプードル』だし」

 

「は? プードル ……犬?」

 

「違うってば……。『プードル』はたしかフランス語で粉って意味だって。英語だと……パウダー?」

 

 ふふ、犬が材料って……一体全体どんなお菓子よ?

 でも、小学生の時、お菓子のレシピで初めて「アーモンド・プードル」と書いてあるのを見て、私も犬のプードルを思い浮かべたのは内緒。

 

「? いやでも『アーモンド』は英語だよな。なんで混ざってるんだ?」

 

「え! フランス語も一緒なんじゃないの?」

 

「ん……確か、アマーンドとか言ったような?……」 

 

 

 

 で、調べてみたらホントにそうだった。

 

「あれ? でも袋には『アーモンド・プードル』って書いてあったけど……。じゃあ、『アマーンド・プードル』が正しいの?」

 

「いや、商品名なら正しいも何も無いだろ。それを言ったらミルクカフェラテなんてさらにややこしいのもあるしな……」

 

「何で突然ミルクカフェラテが出てくるのよ?」

 

「いや……うちの大学マッ缶置いてないからとりあえず代わりにな」

 

 ああ、そういう……。

 

「でもやっぱり物足りんというか……生協にリクエストは出したんだか……」

 

 リクエストって……面倒くさがり屋さんでそういう事しなさそうなのに……。八幡どんだけあのコーヒー好きなの……。

 

 でも……特に違和感もなく普通に使ってた言葉なのに実はちぐはぐだったりするんだなぁ。そんなちぐはぐなものが当たり前になってるのってなんだか不思議。

 

「おし、んじゃあ次は……数学やるか」

 

「えー、もう少し休憩しようよ。今日は一回目なんだし」

 

「一回目だから頑張るんだろうが。人間、回数を重ねれば必ずダレてペースが落ちる」

 

 そんなものかなぁ……。でも、

 

「そういえば……八幡って、教えるの上手だよね。すごく分かりやすい」

 

「そうか? もしかしたら……一昨年小町の勉強見てやった時のこと思い出しながらやってるからかもしれん」

 

「そか、なら『八幡せんせー』には総武高校合格者の実績がある、ってことだね!」

 

「その『せんせー』っての止めてくれ」

 

「いいでしょ。だって『せんせー』だし」

 

「お前な……」

 

「『お前』じゃなくて『留美』」

 

「な、自分だけ……。俺の生徒が理不尽すぎる…………」

 

 

 

 ……結局、二人っきりの時間はそんなふうに過ぎて行き、「彼女たち」が勝手に期待していたような甘い展開は無いままに終わった。

 

 今日の成果:三教科分のテスト見直し完了!! 

 

 ……その、私もちょっぴりは期待されてたんだけどなぁ。甘い展開とまではいかなくても、八幡と……その……もう少し……はぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

「は? 何やってんの留美! もっとこう……『ガンガンいこうぜ!』みたいな気持ちで行かないと」

 

 第一回目の家庭教師がどんな感じだったかを報告した私に、絢香はそんなダメ出しをしてきた。

 

「ガンガンって……。まだ一回目だし」

 

「せっかくチャンス手に入れたんだから! そんなにのんびりしてると他の人に負けちゃうよ? ……いろはさんにライバル宣言されたんでしょ?」

 

「ライバル宣言……なのかなぁ、あれ。 ……どっちかというと、一緒に頑張ろうみたいな――」

 

「甘い! いろはさんは危険だよ。長いこと恋愛ウォッチャーやってるあたしには分かる。あれは一旦いくと決めたらそれこそガンガン行くタイプだからね」

 

 そう言われると、確かにそんな気もするけど……いろはさんも、きっと八幡にとっては特別な一人だと思うし……。

 

「いい? 家庭教師の定番シチュってのはねー……『どうしたんだい? 手が止まっているよ』」

 

 絢香は私を置き去りにして唐突に小芝居を始めた。え? いろはさんの話をしてたんじゃなかったっけ……。

 

『あの……先生、ここがわからないんです』

 

『ん……どこかナ?』

 

 ここで絢香は突然私の手を掴むと、抱き込むようにして彼女の胸の中心あたりへと押し付ける。

 

「ちょ……絢香?」

 

『わかりますか? 比企谷センセイを見つめてると、胸のドキドキがどうしても止まらないんです』

 

『留美クン、レディがそんな事をしてはいけないヨ』

 

『いえ! センセイになら、私……わたしっ……』

 

 目を閉じ、私の手を抱いたまま躰をくねらせる絢香……。

 

「人の名前使って変な妄想しないでっ!」

 

「あ痛っ」

 

 私は絢香の手をちょっと乱暴に振りほどいてその手をベシっと引っ叩く。

 

「もう…………。恋愛ウォッチャーとか偉そうに言ってるけど、それって絢香はいっつも横から見てただけって事でしょ? だからそんな……」

 

「失礼な。あたしだって人を好きになったことぐらいあるっての」

 

 絢香の意外な発言に、私は一瞬だけ我を忘れる。

 

「え!! 誰!! そんな事一言も……」

 

「ええい騒ぐでない。遠い昔の話じゃよ」

 

 絢香は両手のひらをこちらに向けて挙げて、落ち着け落ち着けと言うかのようにその手を小さく振りながらまるで「おばあちゃん」みたいな口調で言う。

 

「中学生が遠い昔とか…………」

 

「あはは」

 

 ふと、さっきから私達のことを呆れたような笑顔でクスクス笑いながら見てた泉ちゃんの右手首に湿布のような物が貼られている事に気が付いた。

 

「あれ……泉ちゃん、その手どうしたの?」

 

「ん、ああこれ? 大したことないの。筋肉痛……じゃないけど似たようなものかな」

 

 泉ちゃんはその手をグーとパーを繰り返すように動かして見せながら言う。

 

「あのね、例の二科展の絵、下地始めたんだけど……どうしてもナイフ使ってると、ね。あれ大きいし」

 

 ナイフ、と言っても彼女の言ってるのは油絵用のペインティングナイフのことだ。用途によって色々な形のものがあるけど、一番一般的なのは細身のケーキサーバーとかバターナイフみたいな形のものだろうか。

 この腹の部分に油絵の具を乗せてキャンバスや板の上に擦り付けるように色を置いていくんだけど……。

 もちろんただ平らに塗りつければいいというわけではない。広い部分を使って押し広げるようにしたり、先端部分で点描画のように少しずつ絵の具を置いたり、時にはエッジを使って逆に絵の具を削り取ったりと、ナイフを使いこなすには多彩で繊細な技術が必要になる。それだけに、逆にきちんとつかいこなせれば絵の具の立体的な造形による陰影によって筆だけでは決して表現できない重厚な迫力を生み出す事が出来る。

 そんな事を考えていると、昔の……泉ちゃんのお祖父さん――蒼の巨匠と呼ばれた藤澤誠司――の絵を見たときの記憶が脳裏をよぎった。代表作でもある『苦悩』に圧倒的な存在感をもたらしている陰影の力……。泉ちゃんが目指すものがそこだとすれば、それはきっと険しく遥かな道のりだ。

 

 泉ちゃんが手を痛めたのも、その繊細な作業を長時間続けたということによるものだろう。彼女にしてみれば、自分の目標を目指す上でのある意味やむを得ない怪我。 ……だからなのかな? 自らの怪我のことを笑いながら語る泉ちゃんの表情はどこか誇らしげでさえあった。

 

 

 絢香も泉ちゃんも自分の夢に向かってもう走り出してる。私もたった一歩だけどでもようやく踏み出した。

 

 あとは……八幡が私の気持ちに応えてくれたらなぁ……なんて、その時の私は自分に都合のいいことばかり考えてたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 純粋な動機と不純な動機の両方で始まった八幡との家庭教師。もちろん二人で過ごせる時間は嬉しくて充実してはいたものの、学力テストの反省の続き・中間テストの対策、とやらなきゃいけないことはたくさんあって……残念ながら恋愛方面の進展は無いままに数回が過ぎていった。

 

 

 

 そんな五月半ばの金曜日。その日最後、六時限目の英語の授業が終わって――

 

 こんな私でも、クラスの中ではそれなりに親しく話してくれる子が三人いてくれて、その四人でお昼を一緒に食べたり、グループ学習では班を組んだりペアになったりするんだけど……。

 その中の私と佐川さんという子が英語の教科係で、今日は授業の最後に提出されたワークブックを、ホームルームが終わった後で職員室まで持っていくことになっていた。

 こういう時は、後の二人――津久井さんと藤野さんも手伝ってくれて、それぞれが部活に行く前に教室で少し話をする、というのがいつもの流れだったんだけど……。

 

 バラバラに積まれたワークブックを出席番号順に並べ直していた時、ふと私と目が合った藤野さんが、急にぽろぽろ涙をこぼして泣き出しちゃったんだ。

 

「藤野さん……?」

 

「……あの……違っ…………」

 

 彼女は何かを言おうとするものの、嗚咽が漏れるばかりでうまく言葉を紡げずにいる。

 

「ごめ…………。今日は帰る……ね……」

 

 彼女は絞り出すように微かな声でそれだけ言うと、スクールバッグを抱きかかえるようにして、そのまま一人で教室を出ていってしまった。

 津久井さんが慌てて藤野さんを追いかけて行き、佐川さんは不安そうな顔で私の顔と教室の出口を交互に見つめている……。

 

 

 

 私、藤野さんに何かしちゃったのかな? 少なくとも()何かがあったわけじゃないし、そうでなくても彼女を怒らせるような事をした覚えはない……けど。

 

 多分……昼休みの()()()()が関係してるんだろうな、位のことは私にも想像が出来た。

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

「俺……去年同じクラスだった時から鶴見のこと好きだったんだ。友達からでもいいんで……俺と付き合ってくれないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 二時間目の後の休み時間、藤野さんが私の席にやってきて、

 

「鶴見さんに話したいことがあるって子がいるんだけど……わたしその子に頼まれちゃって……。お昼休み、少し時間……いいかなぁ」

 

 そう申し訳なさそうな声で言ってきた。

 これは……多分、「告白」かな……。告白するのための呼び出しを、目当ての子の友達に頼むというのは男子女子とも割とよくある話だ。きっと直接言うとか手紙で呼び出すとかより無視されにくいから。

 

 実際、正直私は断りたかったけど……話も聞かずに断ってしまったら仲介した藤野さんも立場が無いだろう。そう思って、

 

「うん、少しくらいなら……」

 

 渋々ではあるけれどそれはなんとか顔に出さずに引き受けた。

 

「ほんと? ……その、ごめんね」

 

「ううん、大丈夫だよ」

 

 藤野さんはホッとしたように肩の力を抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 そして昼休み、藤野さんに連れられてやってきたのは特別教室棟の裏、物置の影になっているところ。

 藤野さんはその手前まで来たところで足を止め、

 

「……その子、先で待ってるから」

 

 そう言って、なんだか切なそうな表情で私を先へ進むよう促した。

 

 

 

 

 

 

 

 告白を断る時――それほど気分が重くならない時と、気分が重く……なんというか心に後を引いてしまう時との二つがあるような気がする。

 

 私はその……本格的で無いとはいえモデルなんかやって悪目立ちしているせいか、今回のような「告白」をされたことは何度も何度もあって……もちろんその度にお断りしてきた。

 

「他に好きな人がいるので」と。

 

 顔も名前も知らないような先輩とか、モデルをしてる私のファン? みたいなことを言う相手とかへの「お断り」はそれほど心の負担にはならない。それはきっと彼らが私の外面の部分だけを見ているから――そんなのは本当の「私」じゃないから。

 

 けれど……ちゃんと私と関わって、話をして、それなりに私を知ってくれて……こんな言い方はおかしいかもしれないけど、「私を好きになってくれるきっかけぐらいはあったのかな」と私自身がそう思えるような相手からの告白を断るのは……なんというか、酷く申し訳ないような重い気持ちになる。

 

 今日私に告白してくれたのは……後者。私もよく知っている男子だった。

 

 

 

 辻堂(つじどう)くん――辻堂冬也くん。

 

 一年生の時同じクラス。同じ班で……二学期三学期は数学の教科係を二人でやったし、委員会も同じ美化委員だった。男子の中ではよく話をする……去年の同級生の中では多分一番話すことが多かった男子だったと思う。

 つまらない事でもよく笑う。理系は得意、文系は少しだけ苦手。サッカー部で一年生の後半からレギュラー。絢香とも仲が良くて、彼女の謎言動によくツッコミを入れていた。

 クラスが別れた今でも、顔を見れば軽口くらいは言い合う。そんな男の子。

 

 うん……彼はきっと、私のことを()()()()好きになってくれたんだ……。

 

 でも、私の答えは決まっている。私は八幡が好きで、八幡以外の誰かを好きになる自分なんて想像も出来ない。だから、辻堂くんにはただ申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

「あの……辻堂くん、ごめんなさい。 ……私、ずっと好きな人がいるから……」

 

 私はそう答えて頭を下げる。これで終わり。 ……もう彼とは今までと同じようには話せなくなっちゃうな。せっかく仲良く出来てたのにな……。

 

「そんな顔するなよ鶴見。 ……なんとなく振られるんじゃないかって思ってたから」

 

「…………!」

 

 彼は普段とあまり変わらない笑顔で続ける。

 

「でも……なんつーの? 言わなきゃ始まんないし……それに、『好きな人』ってことは、まだその人と付き合ってる訳じゃ無いってことだろ?」

 

 それはその通りだけど……でもだからって……。彼の言葉に私が身構えると……

 

「ああごめん 別に、だったら俺と付き合えとか言わないって。ま、ちょっとは意識してくれればいいかなってね」

 

 気持ちを伝えられればいい――それはたぶん半分は本当。 ……でも半分はきっと強がりだ。

 

 だってわかってしまう。私も同じだから。

 彼の一言目の声は震えてた。勇気を振り絞って告白して……それで何の期待もしないなんて……そんなの無理だ。

 

 それが分かっても……私はそんな彼の言葉に、ただ

 

「ごめんなさい……」

 

 と小声で繰り返す事しか出来なかった。

 

 

 

 

 

 暫くここにいるという彼を残し、重い足取りで来た道を戻ると、藤野さんがさっきと同じ所で俯くように立っていた。

 

 私に気付いた彼女は顔を上げて一瞬だけ私の目を見て……何かを察したように唇を噛み、

 

「鶴見さんごめん、先に戻ってて」

 

 それだけ言って奥へ……辻堂くんのいる方へと小走りに駆けて行った。

 

 

 

 それが、今日のお昼休みの出来事。

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 しばらくして……。藤野さんを追いかけていった津久井さんが一人で教室に戻ってきた。

 彼女はなんとも言えない雰囲気の中でほとんど無言でワークブックをまとめていた私と佐川さんに向かって、

 

「それ、職員室に持っていきながら話そっか……」

 

 そう言って力なく微笑った。

 

 

 

 

 

 

 

「……鶴見さんに謝っておいて、ってさ」

 

「そんな、謝るなんて……。あの……もしかして私……」

 

「鶴見さんは何も悪く無いんだよ。ただ……あの子の気持ちの問題っていうか……」

 

 そこで今まで黙って話を聞いていた佐川さんが、

 

「もしかして辻堂君の……?」

 

 遠慮がちにそう訊いた。

 

「うん……」

 

 やっぱり関係あるんだ……それに佐川さんも知ってるみたい……

 

「あの子……小学校から辻堂と一緒でさ、それで……まあようするにずっと前から辻堂のこと好きだったわけ」

 

「……え、だってそんな事……」

 

 津久井さんの言葉に私は軽い衝撃を受ける。だったらどうして告白の橋渡しなんか……

 

「あー……鶴見さんに言わなかったのは……。あの子さ、辻堂から鶴見さんのことが好きだって相談受けて、『応援する』って言っちゃったんだよね……」

 

「どうしてそんな……」

 

「わかんないけど……すっきりさせたかったんじゃないかな。辻堂が上手くいくにしても振られるにしても」

 

「…………」

 

「でも、実際に振られてしょげてるとこ見ちゃったら、なんだかいたたまれなくなっちゃったんだってさ」

 

 そんな事情だったなんて……でも、そうだよ。辻堂くんも私なんか相手にしていないで、自分を想ってくれる藤野さんに振り向いてあげれば………。

 と、そこまで考えたところで――私自身のあまりの傲慢さにゾッとした。

 

 それじゃあまるで……私の八幡に対する恋心は絶対に優先で……他の、辻堂くんの想いなんか取るに足らない、簡単に変えられるものだと言ってるようなものだ。

 

 今と同じことを八幡に言われたら…………。

 

『留美は俺なんか相手にしてないで、お前のこと好きになってくれた辻堂ってやつに振り向いてやれよ。俺には由比ヶ浜や雪ノ下がいるんだからいくら頑張っても無理だぞ』

 

 想像するだけで足がすくんで、視界が暗くなる………………。

 

 

 

 

「――鶴見ちゃん、鶴見ちゃん大丈夫?」

 

 佐川さんに呼ばれてハッと我に返る。

 

「あ……。」

 

「ちょっと、顔青いよ……」

 

「あー……ごめん、変なこと聞かせちゃったね。 ……さっきも言ったけど、鶴見さんが悪いわけじゃ無いんだから、ね?」

 

 違うの。津久井さんごめんなさい……。

 

「これ私達でやるから鶴見ちゃんも帰っていいよ」

 

「ううん大丈夫……職員室もうすぐそこだし……」

 

 私は無理やり笑顔で応えて歩き出す。

 

 

 

 

 

 ままならない。恋は何時だってままならない……。自分の恋心が想い人に届かないと嘆く私が……その痛みを知っているはずの私が、平気な顔で私を好きになってくれた人の想いを踏みにじっている……。

 

 ああ、八幡の顔が見たい。声が聞きたい……。家庭教師の予定は明日の午後、まだ丸一日もある。長い……よ。

 

 会いたいよ……八幡に会いたい。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 次の日。

 

 朝の天気予報では、お天気お姉さんが「今日は気温が上がって、午後からは天気が不安定になるので折り畳み傘を忘れずに」みたいなことを言っている。

 このお姉さん、いつもの人と違うな……あ、そうか今日は土曜日だからか……なんて半分寝ぼけた頭で考えながら朝ごはん。

 

 昨日色々あってなかなか寝付けなかったので少し寝不足気味だけど、ようやく目が覚めてきた。

 今日は午前中からユキ先生のとこで衣装合わせと仮縫いがあって……その後、四時から八幡のところで家庭教師の予定。先週は二人の予定が合わなかったから……十日ぶりくらい? ただ彼と会う予定があるだけで落ち込んでいた気分が高揚してくる。

 

 今はただ、無性に八幡に会いたかった。

 

 

 

 

 

 

 土曜日の午前中、通勤時間をやや過ぎた時間帯ということもあってか、千葉から東京方面へと向かう電車はそこそこ混雑してはいるものの、乗り換えに便利な中央寄りの車両を避ければ空席を見つけるのは難しくない。私は先頭車両に広く空いている席を見つけてその丁度真ん中あたりに腰を下ろした。

 車内は冷房がよく効いていて、駅までの僅かな時間で薄っすらと浮かんでしまっていた汗がすうっと引いていく。

 

 まだ五月だと言うのに朝から変に蒸し暑い。気温はそれほど高いわけではなさそうなんだけど、湿気が肌にまとわりつくような感じだった。

 

 

 

 

 

 

「あれ……やっぱり留美ちゃんだ。やっはろー!」

 

 そう私に声をかけてきたのはなんと……って、こんな挨拶をするのは()()しかいないよね。というか……大学生になってもまだ「やっはろー」とか言ってるんだ……。

 

 なんて思いながら声のした方向に振り向き、

 

「こんにちは、結衣さ……ん?」

 

 言いかけた私の声は最後のほうがかすれてしまった。だって……彼女の雰囲気が前に会った時とびっくりするぐらい変わってたから。

 驚いてる私に、彼女は私の隣に腰を下ろしながら聞いてくる。

 

「留美ちゃんは……デザイナーの先生のとこに?」

 

「あ、はい」

 

 そのあと八幡の家で家庭教師の予定にはなってるんだけど……なんとなく言いにくい。だいたいそれどころか――私は一瞬完全に彼女に見惚れてしまっていたんだ。

 

 そういえば彼女と会うのは二年生になってから――つまり結衣さんが大学生になってから――は初めてだったっけ。以前までと変わらず気さくに話してくれる結衣さん。いざ会話してみればもちろん「結衣さん」なんだけど……。

 今日の彼女は、高校生の頃は頭の横でトレードマークのようにお団子にしていたサイドの髪を細く編んで肩の前に垂らしている。お化粧もうっすらメイクだけど大人っぽいし、あえて色数を減らした細かい花柄のトップスと春らしく落ち着いたピンク色のスカート。目立たないけどポイントポイントにフリルが入ってるフェミニンなコーデ。

 ウエストをしっかり作ることで結衣さんの女性らしい体型が嫌味なく強調されている。少しだけ広く空いているシャツの首元には控えめに光る二重オープンハートのペンダント。

 そして全体の色合いを引き締めるように肩に掛けられたシックなデザインの革のバッグ。

 

 彼女の抜群のスタイルも相まって、ファッション雑誌のグラビアに載っていそうな「女子大生」結衣さん。まるで本当にモデルさんみたい……というか、ユキ先生のところで会う本職のモデルさんたちにだって全然負けてない。その上高校時代にはそれほど感じなかったはんなりとした色気のようなものまであって……。私の口から声にならないため息が一つ漏れる。

 

 

「あ、そうだ! この前留美ちゃんが載ってる本見たよ。なんか天使っぽいってゆーか……とにかく超可愛かった!」

 

 結衣さんは本当に嬉しそうに話してくれる。

 

「不思議な雰囲気の服だよねー。こうさ、ふりふりで可愛いのにでもかっこいい、みたいな感じでさ」

 

 先月ティーン誌に載った、ユキ先生デザインの「普段から着れるゴスロリ風のドレス」の記事かな。コンセプトは「天使と悪魔」

 天使の方にも一部悪魔っぽいデザイン、悪魔の方にも天使っぽいデザインを相互に取り込んである所がポイントだ、とか言ってたっけ。なんでも、「その二面性が女の子の魅力なのよ」ということらしい。

 

 

 

 

「あ……結衣さんはお買い物?」

 

「うん! ゆきのんとヒッキーと……あ! …………あの、あのね? ゆきのんが大学の中案内してくれるって、それでその後ついでに……それだけでさ」

 

 結衣さんが急に言い訳するみたいに早口になって言う。

 

「あたしも興味あって……だって()()大学だし、一回ぐらいは見てみたいじゃん。ヒッキーもきっとそういう感じで……ね?」

 

 うん、確かに雪乃さんがこの春から通っているのは日本一有名な大学だし、どんなとこか見てみたいっていうのはもちろん分かる。だから慌てて変な言い方しなくてもいいのに。 これは……結衣さん、もしかして私に気を使って、八幡を話題にすることに過剰反応しちゃってるって事なのかなぁ。

 でも、正直私の気持ちなんてとっくにバレてると思ってたんだけど……なんで今になって急に……?

 

 もしかして……いろはさん辺りが結衣さんと何か話したのかもしれない。あんまり変な事言ってないと良いけど……。

 

 ああでも、結衣さんこれから八幡と会うのかぁ。ふと脳裏に八幡と結衣さんが並んでいる姿が浮かんでしまい、胸に疼くような痛みが走る。

 最近ぐっと大人っぽくなった八幡と、今目の前にいる「美人女子大生」という言葉をそのまま現実に映したような結衣さん……うん……お似合い、だよね……お互い大学生になったばかりで、あんなに信頼し合ってて――。

 きっと雪乃さんのことがなければ普通に付き合っていたかもしれない二人。

 

 結衣さんのことは大好きだけど――もやもやする。

 八幡の隣に私以外の女の子がいることに、頭では理解してても心がそれを納得出来ていない……。

 

 

 私は辻堂くんの気持ちを受け入れなかった。「他に好きな人がいるから」と断った。

 私は別に彼が嫌いなわけじゃない。むしろどちらかといえば好感を持っている男の子だ。でも私は彼を傷付け、藤野さんのことも傷付けてしまっている。

 

 八幡も……間違いなく私のこと嫌ってはいない、きっと好感は持ってくれてるってそれくらいの自負はある。

 でもじゃあ、雪乃さんや……眼の前にいる結衣さんと同じような意味で好きでいてくれるかは…………。

 そう考えたら私は……私は辻堂くんと同じなのかもしれない。せっかく八幡の近くにいることが出来るのに、これ以上を望んだら八幡は私から離れていってしまうかもしれない。だって結衣さんみたいに素敵な人が何人も八幡の近くには居るんだもの…………。

 

 ううん大丈夫だよ、と無理やり自分に言い聞かせる。なんだかんだ言っても……今八幡の一番近く置いてもらえてるのが自分だという自覚はあるし。(小町さんは除く、だけど) ……けれどいくら近くにいても、じゃあ私が八幡と並んでいる姿を傍から見たら、皆が抱く印象は「兄妹」がいいところだろう。……「八幡と結衣さん」「八幡と雪乃さん」に比べたら――――思考は何度もぐるぐると同じ所を巡り続け、私がそんな風に嫌な考えのループに嵌まりかけていると、

 

「…………留美ちゃんは、さ」

 

「…………!」

 

 ついさっきまで何かを取り繕うみたいな話し方をしてた結衣さんが、急に声のトーンを変え、静かに話しかけてくる。

 その切羽詰まったような声に、私は思わず彼女のほうに振り向く。けど、結衣さんは、ちら、ちらとかすかに視線だけはこちらに送ってくるものの正面からこちらを見ようとしない。

 

「留美ちゃんは……その……ヒッキーと…………」

 

「…………」

 

「……やっぱ何でも無い…………。ごめんね留美ちゃん、今の無しにして」

 

 結衣さんはそう小声で言って申し訳なさそうに微笑った。

 

 彼女が私に何を聞こうとしたのかはっきりとは分からないけど――聞きかけて止めた理由なら――なんとなくだけど……わかる。せっかくこれから八幡と会うタイミングで話したい話題じゃ無かったんだろう……。

 

 

 

 

 

 

 

 それから私と結衣さんはなんだかギクシャクしてしまって……。間もなく電車はユキ先生の事務所の最寄り駅に到着し、私は「また今度」みたいな挨拶だけを交わして電車を降りた。

 

 ホームに立つと、手足の指先から体温がゆっくりと戻ってくるのを感じる。冷房に当たりすぎたのか、いつの間にか随分と体が冷えてしまっていたらしい。電車を一歩降りれば、さっきまでよりもっと気温が上がったようで、まるで夏のような蒸し暑さだけど……今だけはその暑さになんだかホッとさせられていた。

 

 私は小さく伸びをして、結衣さんを乗せた電車が去っていった方向をしばし見つめる。

 ホームにかかる屋根と屋根の間からそこだけ切り抜かれたように覗く青い空には、季節外れの大きな入道雲がぽっこりと浮かんでいるのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 ユキ先生のとこで予定してた作業は、ほとんど休憩も無しだったけど、その分早めに……午後の二時少し前くらいに終わった。今は、先生がデリバリーを頼んでくれたピザが届き、みんなで遅めのお昼を食べているところ。

 スマホをチェックしたら、お昼すぎに八幡からメールが入っていた。

 

―――――

From 八幡 : 今日うちに戻るの少し遅くなるかもしれん。天気もおかしいみたいだし明日に予定ずらして良いか? もし早めに帰れるようならまた連絡する。

―――――

 

 そんな……折角会えるの楽しみにしてたのに……。

 少し悩んだけど……結局私は返信をしなかった。

 

 その後の私はなんだかぼうっとしてしまっていたらしい。

 

「るー子、疲れちゃった?」

 

 ユキ先生が心配そうに声をかけてくれる。あ、るー子というのは私のこと。前に私を「るーちゃん」と呼ぶ子がいるという話をしたことがあって……しばらく先生が面白がって呼んでたんだけど……いつの間にか「るー子」で定着してしまった。先生はみんなを変なあだ名で呼ぶ。まあ、それを言ったらユキ先生だって「ユキ」って名前じゃないんだけどね。

 

「あ、いえ……」

 

「今日あんた家庭教師の日だって言ってたでしょ。こっちの予定早く終わったんだし、早めに帰っていいわよ?」

 

 先生はそう言ってくれたけど、早く行っても八幡は遅れるって…………。でも、このままいても何も手に付かないし、お言葉に甘えようかな。八幡の家の近くのどこか……お店でも見て時間つぶして…………うん、そうしよう。

 

「じゃあ、お先に失礼します。次は木曜でしたっけ?」

 

「絶対に開けといてほしいのは再来週の金土。あとは適当でいいわよ。学生の本分はお勉強だしね。 ……そうだ、今度「噂の八幡くん」連れてきなさいよ。なんならここで家庭教師やってもいいわよ。みんなで見ててあげるから」

 

 デザイナーやらモデルやら事務所のスタッフやら(全員きれいな女子)に囲まれて……なんて、

 

「八幡……絶対途中で逃げちゃいますよ……」

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 時間を潰す……はずだったんだけど……。私は結局予定の時間より前に八幡のアパートの前にたどり着いてしまった。

 一人でいるのも嫌いじゃないはずなのに、どんなお店を覗いても楽しく感じない。八幡がまだ帰って来てないのは分かっているのに、ただ気ばかり急いてしまい……。

 メールの返信はまだしていない。電話もしてない。だって、連絡しちゃって、もし「明日にしよう」って言われちゃたら……。

 

 いつもなら、たった一日ずれるだけって納得出来たのかもしれない。でも……今日は……。感情がうまくコントロール出来ない。ほんと、八幡に会って――私は何がしたいんだろう。

 

 

 

 もうすぐ三時半になる。予定は四時だったけど、八幡は遅れるって……どれくらいだろう。一時間? それとももっと? 

 

 今、八幡は雪乃さんと結衣さんの三人で居るんだよね。雪乃さんの大学見に行って……それから、買い物、食事……。夕食も食べてくるつもりなら夜になっちゃうよね。

 でも、流石にそれなら連絡来そうだけど……。

 こっちから「待ってる」って連絡した方が良いのかなぁ。でもそれじゃまるで八幡たち三人の時間を意地悪して邪魔するみたいだし……。

 

 ぽつ、と頬に水滴が落ちてきた。見上げれば、西の空から真っ黒な雲がゆっくりと近づいて来ている。遠くでゴロゴロと雷鳴も聞こえる。

 天気予報、当たっちゃったな。『所により激しい雨となり、落雷の恐れもあるでしょう……』か。

 ぽつぽつ、ぽつぽつと雨粒はアスファルトをまだらに濡らし、雨脚は徐々に強くなってきているようだ。

 私は八幡のアパートの階段を上がり、八幡の部屋の前に身を寄せる。

 すると程なく、ぱらつく程度だった雨が一気に勢いを増し、まるで滝の中に居るような豪雨へと変わった。風も急激に強くなり、外廊下の手すりに叩きつけてくる激しい雨は水しぶきを上げて私に吹き付けてくる。

 薄暗かった廊下が白く光り、直後、大木が割れるような轟音が響く。

 

「!!!っ」

 

 どうやらすぐ近くに雷が落ちたらしい。廊下の照明が一度一斉に消え……数秒後にバラバラなタイミングで再点灯する。

 私は特に雷が苦手なわけじゃないけど、それでも今のは流石に恐かった。

 

 私は背負っていたリュックから折り畳み傘を引っ張り出して、盾を構えるように横に向けて水しぶきからガードしようとする。直接の雨はいくらか抑えられたけど、風に乗って巻くように吹き付けてくる水しぶきの水滴は防ぎようがない。気がつくと私は全身ずぶ濡れに近い状態になってしまっていた。きっとこれがゲリラ豪雨と言われるもの。ニュースとかではよく聞くものの、実際に屋外にいて直撃されたのは多分初めてだ。

 その上、風向きが変わったせいか、いつの間にか気温もどんどん下がってきているようだ。 ……これ、ちょっとまずいかも……朝から暑かった事もあって今日の私は薄手のシャツ一枚の格好だ。スカートはお気に入りのプリーツだからそれほど薄いってわけじゃないけど……、それでも全身がどんどん冷えていくのが分かる。

 

 どこか他の所に避難したほうが良いのかな。けど、今から移動するってことはこの()()()()()雨の中に飛び出すってことで……。どうやら少し雨が収まるまではここに居るしかなさそうだった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体がガタガタ震える。寒い……寒いよ……。降り出してから時間にして三十分も経っていないのに私は全身濡れ鼠。でも、風は依然嵐のように吹き荒れているものの、雨はようやく小降りになってきた。

 ギュッと絞れば勢いよく水が出そうな私。この格好で帰りの電車乗れるのかなぁ……。

 でも……いつまでもここに居るわけには行かないし……後少しだけ待って駄目だったら帰ろうかな……。

 

 まだ待つとは言いながら、諦めかけていた時、コツコツと階段を登ってくる足音が響く。

 

「ふう、ひどい目に遭った…………。て、留美お前……なんで居るんだよ!」

 

 壊れたビニール傘を手に抱えた、こちらも濡れ鼠の八幡が目を丸くしてそう言った。

 

「だって……」

 

「…………とりあえず上がれ。すぐタオル出すから」

 

 私があまりにも情けない格好をしていたからだろうか、八幡は鍵を開け、私を部屋の中へと招き入れてくれた。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

「うぷっ」

 

 部屋に入ると、すぐに八幡が大きなタオルを何枚か投げつけてきた。キャッチしそこなった一枚が私の顔を直撃。

 

「ちょっと、顔に……」

 

「ああ、悪い悪い、いいから文句言ってないでどんどん身体拭け。風邪引くぞ」

 

「もう……このくらい、平気だよ」

 

 そう私が言うと、

 

「いやお前顔真っ白だぞ。適当に拭いたらそのままシャワー浴びてこい。あ、使い方分かるよな?」

 

 うん、確かにすごく寒いし体は震えてるけど……でも平気なの。八幡が帰って来てくれたから。

 正直もう体調は最悪。寒さで吐きそうな位。でも八幡が居るだけで……彼にタオルぶつけられて文句を言うだけで……あんなに沈んでいた心があっという間に上向いていく。

 

「じゃあ俺はこっちで着替えるから……覗くなよ」

 

「なっ……の、覗くわけないでしょ! ばかっ」

 

 思わず手に持ってたタオルを投げ付けたけど、八幡がすばやく閉めたドアに遮られて、タオルはぽすんと下に落ちてしまった。

 

 

 

 さっきは強がって「平気だ」って言っちゃったけど、流石に身体は冷え切っていて、背中にゾクゾクとした震えが走る。このままだと本当に風邪引いちゃいそうだし、ここは八幡に甘えてシャワー浴びさせて貰おう。

 

 そう思ってシャツのボタンにに手をかけて……気が付いた。こういうアパートって、脱衣所って無いんだ。キッチンのコンロの向かい側、トイレのドアの隣にある磨りガラスのドアの向こうはそのまま直接バスルーム。

 見慣れた玄関ドア、ようやく使い慣れてきたコンロ、やや小ぶりの冷蔵庫。一枚の引き戸を隔てた向こうには八幡がいる――ここで、裸になるんだよね。

 そう思ったら急にドキドキしてきた。

 

 ……とりあえず私は、スカートのポケットからヘアゴムを取り出して口に咥えると、両手で髪を束ねてゴムをくるくると二回回して留める。よし!

 

 覚悟を決めて服を順番に脱いでいく。濡れてる服って体に張り付いて脱ぎにくいけれど幸か不幸か今日の私は薄着だし。そしてショーツ一枚の姿になった時、

 

「おーい、留美ー」

 

「ひゃ、はいっ。なに?」

 

 いきなりドア越しに呼ばれて変な声がでてしまった。

 

「とりあえず服はそこの籠に入れとけ。お前が中に入ったら適当な着替え用意して、そこに置いておくから」

 

「う、うん……。ありがとう、八幡」

 

 うわぁ……わ、私裸で八幡と話してる……八幡こそ覗いてないよね。

 でもでも、覗きたくなるぐらい興味もってもらったほうが……って、何考えてるの私!

 

 私は、誰かが見ているわけじゃないと分かっていても、縮こまって前を隠すようにしながら最後の一枚を脱ぎ、逃げ込むようにバスルームへと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 熱いシャワーが冷え切っていた私の躰を叩き、白を通り越して青白い色をしていた私の肌が急速に赤みを取り戻していく。

 

「はぁ~~、温ったかい……」

 

 このお部屋はお風呂とトイレがちゃんと別になってて、お風呂は狭いなりに湯船も洗い場もある。でも今回はお風呂を入れる準備なんかしてる時間無かったからシャワーだけ。

 湯けむりの中、肩にシャワーを浴びながら、ふと私自身の身体を見下ろした。私ももう中学二年生、流石に小学生の頃に比べればそれなりに女の子らしい体型にはなってきたように思う。

 去年ぐらいからウエストラインがはっきり分かるようにはなってきたし、胸だってちょっとは大きくなってきたような気がするけど……そっと手を当ててみれば、ちょうど片手にすっぽりと収まってしまうようなサイズでしかない。

 ……八幡も男の子だし、やっぱり大きい方が良いのかなぁ。

 

 ……さっき見た結衣さんの姿が思い浮かんだけど……あれはいいや。なんていうか比べるのもバカらしいくらい圧倒的だし。

 うん、私は私。無い物ねだりをしたって虚しくなるだけだ。 ……でも、結衣さんとまで行かなくても、もう少し……こう……。

 私は腕を両脇にピッタリと付けそのまま力を入れて前に寄せるようにしてみた。 ……あ、ちょっとだけ()()みたいなのが出来た! 

 

 

「着替えここに置くぞ~」

 

「きゃ……じゃなくてえとあの……うん、あ、ありがと……」

 

 ドアを隔てた八幡の声に、また変な声が出てしまった。……み、見られたわけじゃないし大丈夫。

 

「おう、着てみて、違うのが良かったら声かけてくれ」

 

「う、うん」

 

 

 

 

 

 シャワーを終えた私は、外に八幡がいないことを確認してからドアを開ける。

 八幡が用意してくれた、大きくてふわふわのバスタオルで身体を拭き、そのままそれを肩から羽織るようにして着替えを確認する。

 きれいに畳んで置かれていたのは明るいグレーのちょっとモコモコっとした暖かそうな生地のスウェット上下。

 さすがに下着は自分のを着るしかないけど……。スカートが化繊の厚地だったおかげで下の方はほとんど濡れてないから大丈夫そう。ブラのほうはけっこう濡れちゃってるなぁ……。

 

 まあいいや、別にどこか行くわけじゃないし。そう考えて、ブラを付けないままスウェットをかぶる。

 あ……これ裏地がふわふわですっごく肌触りがいい。頭をすぽんと出して袖を通す。

ふわんと拡がる柔軟剤の……八幡の香り。なんだか八幡に包み込まれているようで私はそれだけで幸せな気持ちになってしまう……。

 

 でもやっぱり大きいなぁ。これ、手をいっぱいに伸ばしても袖口から中指の指先くらいしか出ないし、裾も長くて太ももの半分くらいまで隠れちゃうから、こうして立ってみると丈の短いワンピースみたいな感じだ。

 ズボンの方を履いてみたら、こっちも長すぎて裾を引き摺っちゃうし、ウエストのゴムもゆるゆるで油断したら脱げちゃいそう。

 

 う~ん……上だけで良いかな。

 

 結局私はスウェットの上だけ借りる事にして引き戸の向こうに声をかける。

 

「八幡、着替えたよ~」

 

「おう。じゃあ暖房入れたから……ってお前何で下……」

 

 言いながらドアを開けた八幡が慌てて目をそらす。

 

「大丈夫だよ八幡。これ大きいから……。ほら、ワンピースみたいでかわいいでしょ」

 

 私が両腕を軽く拡げて片ひざをちょっとだけ曲げ、小首を傾げてポーズをとると、

 

「う……そりゃ可愛いけどな……」

 

 彼はなんだか困ったような顔でポソリと声を洩らした。

 

「え……」

 

 今、「可愛い」って……。

 

「いや何でもない。一応暖房つけたからこっちの部屋入れ。あとは留実の服干さないとな……」

 

 八幡がそう言って籠に手を伸ばそうとするので、

 

「わ、私自分でやるよ」

 

 そう言って飛び付くように籠を押さえる。だって服の間にブラ隠してるし……。

 

 

 

 

 

 八幡がエアコンの吹き出し口の目の前にスタンド型のハンガー掛けを置いてくれたので、ハンガーに掛けたシャツとスカートを風が良く当たるように引っ掛ける。

 ブラは、シャツの中に隠すように吊るした。その分乾きは悪くなるだろうけど、いくらなんでも好きな男の人の目の前で堂々と下着を干すなんてできない。

 

 あと、本音を言えば、雨に濡れちゃった服はきちんと洗濯してから干したいとこなんだけど……乾くのに時間かかっちゃうもんね。うちに帰ってから改めて洗おう……。

 

 

 

 

 

 そうして私達はようやくほっとすることができた。

 

「ま、ようやく落ち着いたな。留実、ココアで良いか?」

 

 そう言って八幡が立ち上がろうとする。

 

「待って、私やるよ? ……あ、でも八幡はシャワー浴びないの?」

 

「おう、俺はもう全部着替えて頭も拭いたからいい」

 

 彼がそう言うので、私はちょっとだけ腕捲りをしてキッチンからマグカップを二つ取ってくる。天使のマークが入った袋のココアパウダーをスプーンで三杯ずつ入れ、電気ポットからこぽこぽとお湯を注ぎ、ゆっくりとかき混ぜて――完成。

たちまち部屋にはチョコレートの甘ったるい良い匂いが広がった。

 

私がぱたぱた動き回ってココアを淹れてる様子を見てた八幡が、

 

「ほれ、足に掛けとけ」

 

と、何故か薄い膝掛けを渡してくる。

 

「え、別に全然寒くないよ?」

 

 そう言う私に、

 

「そうじゃなくて……なんだその……目のやり場に困るんだよ……」

 

 八幡は照れたような顔でそんな事を言う。

 

 

 言われて下を見てみれば……やだ、スウェットの裾がさっきよりずり上がっていて、角度によっては下着が見えちゃいそうになってる……。

 内心凄くドキドキしながら、そっと太ももを隠すように裾を引っ張って直す。

 もしかしてほんとに見えちゃってたのかな。

 

 物凄く恥ずかしい……でも私は何でもない事のようなふりをして言う。

 

「ふうん……八幡、ようやく私のこと女の子として意識してくれるようになったんだ」

 

 まるで挑発するような言葉に……

 

「馬っ鹿お前、そんなの()()()()――――。 ……いやその、何でもねえよ……」

 

 言いかけた八幡は途中で言葉を濁したけど……。聞き間違いじゃなければ――私を、「とっくに」女の子として見てくれてたって意味――だよね……。

 私は一瞬息が止まり……それから自分でも赤くなっているのがわかるくらい頬が火照ってしまっている……。

 なんだろうこの感覚……「恥ずかしい」「嬉しい?」そして「ちょっぴり怖い」そんな感覚。

 私は少し落ち着こうと、まだ熱いココアをふーふーと吹いてそっと一口だけすする。

 

 同じようにカップに一度口をつけた八幡が、少し居住まいを正して口を開いた。

 

「そんな事より、だ」

 

 その言い方にはちょっとカチンとくる。私にとっては「そんな事」じゃない。

 

「どうしてこんな……連絡もしないで待ってたりしたんだ?」

 

「それは……連絡したら『帰れ』って言われそうだったから」

 

「それにしたって……ファミレスで待つとかあるだろ」

 

「だって……いつ帰ってくるかわかんないし……」

 

「だから、今日は遅れるかもしれないし、天気も悪いみたいだから明日にするかってメール入れたんだけどな……。元々今日か明日のどっちかって話だったはずだろ? 向こうも急に雨降ってきて……たまたま早く帰ってきたから良いようなものの、俺の帰りがほんとに遅くなってたらどうするつもりだったんだよ……」

 

 

「…………今日が……」

 

「ん?」

 

「今日が良かったの! 今日じゃなきゃやだったの!」

 

 私は顔を上げ、八幡の目を睨みつけるようにして言う……けど、だめだ……みっともないとこ見せたくないのに、勝手に声が震えて、涙が滲んでくる。

 

「……何で……そんな」

 

「それは……」

 

 ――昨日学校であんな事が有ったから。今日の結衣さんがとっても素敵だったから。

 

 なんて自分勝手な理由。それで八幡に心配かけて、迷惑かけて……でも、でも……。

 

 

 

 

 

 うつむいて黙り込んでしまった私に、

 

「留美、手ぇ出せ」

 

 八幡はふうと一つ小さなため息を付いて言う。

 

「?」

 

 なんだろう。握手して仲直り、とか? 別に喧嘩した訳じゃないし、今回のは私の暴走……ううん、ただ私が駄々を捏ねてるだけだ。

 

 

 

 今日八幡は遅くなるかもって言ってた。……だから家庭教師一回分の時間は取れないかもしれない。だから彼はちゃんと時間を取れるように明日にしようと言ってくれたのだ。

 

 でも私は、時間が短くたって――八幡に会いたかった。それこそほんの少し顔を見て話せるだけでも嬉しいし、今日はそれで構わないと思っていた。だって……だって、八幡には、彼女たちと……結衣さんや雪乃さんと会ったあと、そのまま眠ってほしく無かった。私の顔を直接見てほしかった……。ただ顔を見たかった。声を聞きたかった。私の声も聞いて欲しかった。

 今日という日の最後に――他の誰かでなく、「私」を見て欲しかった。

 

 自分でも訳がわからないって思う。けれどそれはきっと抑えきれなかった強烈な……醜い独占欲……。

 

 ――だから、私はどうしても今日八幡に会いたくなった。

 

 

 

 でも八幡が私を家に上げてくれているのは、「家庭教師」という分かりやすい理由があるから。帰りが少し遅くなるから別の日にずらそうとはっきり言われてしまったら、その大義名分が無くなってしまう。それが分っていたからあえてメールも返さず、確認の電話もせずにここに来たんだ。

 雨になるって天気予報は知ってたけど、折りたたみ傘はちゃんと持ってたし……まさか傘を差してもずぶ濡れになるほどの嵐になったのは流石に予想外だったけど。

 

 ……まあ何にしても、私が無理やり押しかけたみたいになっちゃってるし、さっきはほんのちょっぴり気まずい雰囲気になっちゃったから……これで許してくれるなら嬉しい。きっと強情な私の様子を見て八幡の方が折れてくれたんだろう。

 

 

 

 私は変な気恥ずかしさと申し訳無さを感じつつ、それでも素直に右手を差し出した。

 

 八幡は一瞬何故か変な顔をして……()()()()()()()()()()()()()()、それを九十度(ひね)って手のひらを上に向かせ、軽く握った彼の右手をそっとその上に乗せた。

 

「八幡?」

 

 八幡が何も言わずにその手をゆっくり開くと、私の掌の中に小さな感触が生まれた。彼はゆっくりと自分の手を引っ込める。

 

 ――それは小さくて、でもとても大切なもの。私にとってはその「物」以上に価値のある「意味」を持つもの。

 

「八幡、これ……」

 

「……まあ、今回みたいな時のためにな」

 

 八幡愛するゆるキャラ、千葉県の形をした赤い犬?「チーバくん」のストラップが付けられた、鈍色に光る……この部屋の……八幡の家の合鍵。

 

「これ……良いの?」

 

「いや、ぶっちゃけ良くはない。バレたら騒ぐやつも居そうだしな……」

 

「ちょ……だったら何で渡すのよ」

 

 すると八幡は、

 

「まあ、今回みたいな事がまた無いとも限らんし……。いやでも、そもそもちゃんと連絡さえ取れれば…………。留美、やっぱそれ返し……」

 

「やだ!」

 

 私は今受け取ったばかりの鍵を、胸の前、両手で包むように握り締め、その手を八幡から庇うように身体をよじる。

 

「…………もう、私のだもん…………」

 

「いやそれ、部屋引き払う時には返すもんだし……」

 

 それはそうだけど! そういう事を言ってるんじゃなくって!

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 私は、「もう返すつもりがない」という強い意志を込めて、我慢比べのように八幡を見つめて目をそらさない。

 

「…………ま、いいか」

 

 やがて根負けしたようにそう言って八幡は私の頭に軽くぽすんと手を置いてわしわしと撫でた。相変わらず子供扱いされてる感じなのは面白くないけど……私は八幡に頭を撫でられると条件反射のように頬が緩んでしまう……。もう……もう! 八幡は女の子の頭を気安く撫ですぎ!

 

 ……でも結局、相変わらずそれで嬉しくなっちゃう私――成長してないなぁ。中学生にもなって頭なでられて喜んでる「私」には……我ながら流石にどうなのって思わないでもないけど……。

 

 って、そんな話じゃなくて。 ……鍵は? 本当にいいんだよね……。自分で返さないとか言っておきながらちょっと心配になる。

 

 

 

 

「けど、あくまでも今回みたいな時のための――非常用だからな? 基本ここに来る時は必ず連絡する事。いいな!」

 

「え、でも……急に時間空いた時にごはん作りに来たり……」

 

「それは有り難い……っていやだから事前に連絡をね?」

 

「サプライズじゃ駄目なの?」

 

「……男には色々あんだよ……」

 

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で八幡がボソリと言う。

 

「色々……?」

 

「……あ、いやその――買い物が必要になったり……急に用事が出来たりとか……」

 

 八幡はなにやら慌てて今思いついたみたいに言う。

 

「それに、予定してた講義が休講になって早く時間が空く、なんて事もある……。そういう時なら、留美の都合が合えば予定より早く始めてさっさと終わらせることだって出来るしな」

 

 そうか、急な連絡って……予定が変わって会えない、みたいな嬉しくない連絡だけじゃなくてもいいんだ……。

 

 

 八幡は私のことをとても大事に思ってくれてる。ちゃんと女の子としても見てくれている。 ……もしかしたら、結衣さんや雪乃さんと同じくらいに。

 いろはさんが前に言ってたのって――きっとこういう事、なのかな。

 

 それは本当の意味での恋愛感情とは違うのかもしれないけれど、それでも間違いなく八幡が私を、特別で大切な存在として扱ってくれている――そう実感出来る、そんな魔法のようなアイテムが私の掌の中にある。だって、女の子に部屋の鍵を渡すって、きっとそれは特別なことのはずだもの。

 私はそれを胸の前で包み込むように握りしめ、万感の思いを込めて八幡の顔を見上げる。私と目が合った八幡は、一瞬だけ息を詰まらせたようにして……何も言わず私からすっと視線を外して窓のほうに向き直る。彼はそのまま少し体を伸ばすようにしてカーテンと窓を少しだけ開け、外の様子を伺った。

 

「……雨、止んだな」

 

 私の方を見ないまま八幡がポツリと呟く。一見素っ気ない態度だけど、私のことを無視しているわけじゃない……これは彼らしい照れ隠しだ。いつの間にかそれが分かるぐらいには私の心に余裕が生まれていた。

 

 ふふ、これもこの小さな宝物のおかげかな?

 

 開けられた窓から(わず)かに雨の匂いが残る風が流れ込んでくる。

 その風が思ったよりもひんやりとしていたせいか、八幡がクシュンと一つ可愛らしいくしゃみをした。

 

 

 

 




ようやくです。今まで「八幡から女の子として見てもらえてない」とか言って勝手に自分を卑下してた留美ですが、やっと「八幡にとって自分も特別な一人なんだ」って自覚しましたね。

後は素直に頑張るだけ? 


どもども。
改めましてこのようなゆっくり更新のお話をお読み頂き本当にありがとうございます!
お陰様で30話に到達出来ました。

ご意見感想くださる方、お気に入り付けてくださる方、評価頂いた方、誤字の報告を頂いた方に改めて感謝を。

前回、1ヶ月に1万字くらいの話を1本みたいなことを言っておいて、結局先月は更新できませんでした。
その分今回は2万2千字オーバーと大幅増量となっておりますのでご容赦下さい。

分割すればいいでしょって? 今回の話は切りどころがちょっと難しかったんですよ……。

次回はこの続きにあたるちょっと緩いお話の予定。でもそろそろ書いておかなきゃいけない幕間もあるんですよね……。

ご意見・ご感想、是非お寄せください。
一言感想・長文感想・最新話以外の感想も大歓迎です!

ではでは~。


6月20日 誤字修正。clp様、報告ありがとうございました。
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