その分今回、約2話ぶんの文量となっておりますので、どうぞお許しく下さいませ。
カクテルライトの下で、フリルとドレープで飾られた蒼いスカートの裾が揺れる。
それでも、光沢加工された彼のスーツは照明を映して鈍く虹色に輝き、その袖先から伸ばされた手は、一回り小さな私の手を優しく添えるように握り、ステップに合わせて上下にリズムを刻む……。
……と言っても、ここはダンスホールじゃなくて小さなスタジオ、カメラの前。本来のダンスより半分位ゆっくりなテンポで、しかもダンスのごく一部、取材の主役たるドレスが写真映えをしそうなところを何度も繰り返してるだけなんだけどね……。
撮影スタッフさん曰く、
「
だってさ。
それでも……たとえ格好だけだとしても、ドレスアップして二人で踊るという普段からは想像できないようなこの時間はまるで夢のようで――――
……誰かが私の肘の辺りを突っついてくる。何……?
――みさん。…………鶴見さん?」
「え!あっ、はいっ」
数日前のことを思い出してぼうっとしちゃってたけど、今英語の授業中だった……。先生に指されたのを気が付かなかったらしい。
慌てて立ち上がった私。
「23ページの
たった今私を突ついてくれた、隣の席の藤野さんが小声で教えてくれた。
手元のワークブックに視線を落とすと、どうにかちゃんと該当のページを開いてはいる。
問4:次の文を英語にしなさい。
「彼女は来週京都を訪れるつもりです。」
未来を表す文の問題……。大丈夫、八幡に教えてもらったばかりのところだ。
使うのは「be going to」……三人称単数だから動詞は原型に戻して……うん。
「『She is going to visit Kyoto next week.』です」
どうにか答えられた、と思う。確か「will」を使っても似たような意味になるって八幡は言ってたけど、まだ授業では習って無いし。
先生はちょっと困ったような顔でじっと私を見てる。あー……これはぼーっとして授業聞いてなかったのばれちゃってるなぁ……。
彼女はひとつごく小さなため息をつくと、
「まあ……良いでしょう。正解です」
そう私に言い、それから、誰かに、というよりクラスの皆に向かって声をかける。
「皆さん、最近特にだいぶ気温も上がってますし、お腹も一杯になった午後は、眠くなったりするのも解らなくは無いです。でも、そういう時にこそきちんと集中して授業を受けることが大切ですよ」
「「「は~い……」」」
数人が気の抜けたような返事をした。
「じゃ、ちょっとだけ早いけど今日は終わりにしましょう。次回、予習の発表は……出席番号16番さんから20番さんね」
名簿をちらっとチェックした先生が、そう言いながら日直に終礼を目で促す。
「起立! 礼っ!」
◇ ◇ ◇
――その日の放課後。
「でもさー、珍しいよね?鶴見ちゃんがあんな風にボケッとしてるなんて」
「ま、らしくないよね~」
「てゆーか、さっきの鶴見さん、焦点合わない目で微笑ってて……なんか壊れちゃったのかと思って怖かったよ」
「!うっ……」
「どーせまた、比企谷さんの事でも考えてたんでしょ」
「うわー、色ボケだ……」
色ボケって……。あーあ、藤野さんたち、言うようになったなぁ……。あながち的外れでも無いのがちょっと悔しい。
でも、ひどいこと言われてるはずなのに、この友人らの遠慮無い態度を好ましく感じてしまう不思議……。
元々クラスメイトの中では私と仲良くしてくれていた佐川さん、津久井さん、藤野さん、の3人。
先日の、辻堂くんが私に告白したことと、藤野さんの気持ちを知った事が、私がそれまで無自覚に作っていた心の壁を取り払えるきっかけになり、私も今まで彼女たちに話せずにいた八幡の事なんかも少しずつ話すようになったんだ。(なんでも、って訳じゃないけど)
それからはお互い良くも悪くも少し遠慮が無くなったと思う。結果、たまには今みたいに心にグサッとくる事を言われることもあるけど……、
ふふ、この気を遣わずに思った通りを話してくれてる感じに、友達としての距離感が近付いているのを実感出来て……嬉しいんだな、私は。
だから私も素直に答える。
「まあ……考えてたけど。八幡のことも……」
「うひゃー!まじで惚気キター?」
「違うってば。そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃなくて……どういうんよ?」
「あのね、先週 「Girly Style」 の取材あったときに八幡も来てくれて、その時の……
「ウソ! ってあの Girly Style?」
「鶴見さんの……Fairy Wingだっけ?あれってゴスロリとかそういうやつばっかりじゃなかったっけ?」
こういう疑問が浮かぶのはなんとなく解る。どちらかといえばカジュアル向きの人気ファッション&情報誌「Girly Style」と、ユキ先生のとこのメイン商品である豪奢なロリータドレスとではイメージが合わないんだろう。
「ばっかりってわけじゃないよ。今回は特に、普通におしゃれ着として着れるアイテムの特集みたいだし。モデルだって……そう、今回はAーYAさんも一緒にモデルやってくれたんだ」
「え、すごーい。わたしファンなんだ。写メとか撮ってないの?」
「少しはあるけど……。ごめん、雑誌が発売されるまでは誰にも見せちゃダメだって」
「そっかぁー、残念」
「あ、そういえば、今回ね、けーちゃん……小学校のクリスマスイベントで保育園の代表やってた子もモデルやってくれたんだよ」
「へえぇええ? あれ? えーと今……小学校の……」
あのクリスマスイベントに参加した佐川さんが驚きの声を上げる。
「小学2年生だよ」
「あの子が2年生……。ますます写真見たくなった」
「あ、けーちゃんの写真なら、今回の撮影の時のじゃない、見せて大丈夫なのもあるよ。ほら」
私は、さっき職員室で返してもらったばかりのスマホ(習い事とかでケータイが必要な子は、朝に職員室に預けて放課後に返してもらうのがうちの学校のルール)をスクールバッグから取り出し、けーちゃんの写真を表示してみんなに見せる。この前ユキ先生たちにも見せたお花見の時の写真だ。
「はぁ~~、なんか大きくなったねー。わたしも年を取るわけだ」
「わ!めっちゃ可愛い。誰この子?」
「やっぱモデルやってる子なの?」
佐川さんが親戚のおばさんみたいな感想を漏らし、津久井さんと藤野さんはけーちゃんの可愛さに食い付いてくる。
「前に話した、小学校の時のクリスマスイベントで友達になった子で、京華ちゃんっていうの」
「あ、だから佐川も知ってるのか」
「うん。普段からモデルしてる訳じゃなくて、今回は特別に頼んでやってもらったの。ユキ先生が、インタビューもあるなら所謂モデルばっかりじゃないほうが新鮮な感想も出るから良いだろうって」
「へー」
「けーちゃん以外にもう一人、大人の女性ってことで漫画雑誌の編集さんも参加してくれたよ」
「ふうん……やっぱ美人?」
「うん、なんか色気があって……人妻だよ。それも新婚さん」
「へぇー…………いやいや待って。比企谷さんの話はどこ行ったの?」
えぇ~、話を脱線させたのって津久井さんたちだったよね……。
「だから、八幡は付き添いで来てくれたんだけど、ユキ先生に頼まれて撮影のためのダンスの相手役とかもやってくれて……」
「あ、鶴見ちゃんまたちょっと顔赤くなってる?」
もう……最近隙あらば弄ろうとしてくるなぁ。
「それはもういいって……」
放課後とはいえ、私たちの他にもいくつか残ってるグループはあり、今の話が聞こえている子もいるだろう。
いつもなら八幡の話をするときはなんとなく声をひそめてたところなんだけと、今はあえてそうしてない。
これは、この三人が考えてくれた作戦みたいなものの一環なんだ。
◇ ◇ ◇
「積極的に噂を流していく……作戦?」
「流す、っていうか、今流れてる噂を全部否定するんじゃなくってー、修正した噂に書き換えるみたいな。もし、鶴見さんが嫌じゃなかったら……なんだけど。」
「…………?」
「やっぱり知らないみたいだね」
「あのね、鶴見ちゃん本人が知らないならわざわざ言うような話じゃないかな……とも思ってたんだけどさ……。鶴見さんが大人の男の人相手に、その……不純な交際をしてる……みたいな噂が流されてるみたいなんだよね」
「!そんなの……」
佐川さんは言葉を濁してくれてるけど、言い方次第では援助交際とかにもとらえられかねない嫌な噂だ。
「うんうん、もちろんそれがデマなのは私らは分かってるし、ほとんどの人は信じてないけど……今、えーとヒキガヤさん?の話聞いて納得したんだ。なんてーか、なんの根拠も無い噂だけど……全く根も葉もないって訳じゃ無かったからだね、噂がなかなか消えないのは」
「どういうこと?」
根も葉も無かった訳じゃない……?
「鶴見さんとその『比企谷さん』が一緒にいるところ、結構見られてるみたい。遅い時間に二人で歩いてたとか、電車で並んで座ってたとかその程度なんだけどさ。それって家庭教師の時に送ってもらったりしてたやつだってことでしょ……多分だけど」
「でもそれだけで……まあ大人っちゃ大人だけど、大学生でしょ? それでわざわざ不純って言うかぁ……なーんか、悪意を感じるなー」
佐川さんが納得いかないというように怒ってくれる。
「あのさ……私、鶴見さんのこと悪く言う子にはちょっと心当たりがあって……」
言い辛そうに津久井さんが言う。
「でさ、周りの子に聞いてみたら、その子の好きな男子が鶴見さんに告白して……それで逆恨み……みたいな?」
つい反射的に藤野さんのほうを見てしまう私と佐川さん。
「ちょ! わ、わたしじゃ無いわよ!?」
彼女は心外だとばかりに左右にぶんぶんと首を振る。
「ううん、疑ってたとかじゃないんだ。ごめんね」
そう。ただあまりと言えばあまりなタイミングの話だったから、つい……。
「私もゴメン、言い方悪かったよね。今のは鶴見さんと同じクラスになったことの無い子の話で……
「でも」
藤野さんが津久井さんの言葉を遮る。
「でも――わたしはそんな事しないけど……気持ちは少し分かる……」
「藤野ちゃん……」
「だって……全然嫉妬しなかったって言ったら、そんなの嘘だし……だからってそんな噂流すのはサイテーだけど」
「うん……」
「……あー、とにかくね、鶴見さんと一緒にいるのは家庭教師の先生だよってはっきり言うでしょ。それで、付き合ってるって噂は変に否定するんじゃなくて、堂々と清い交際をしてますみたいな感じでアピールしとけばさー、うまく行けば……告白されたりとか、やっかまれたりとかも減るんじゃないかなーと……」
「でも、私と八幡は、本当は付き合ってるとかじゃ無いし……嘘言って騙すみたいなのはなぁ」
「むむ……じゃあ、あたし逹が聞かれたら、『鶴見ちゃん本人は認めないけど、なんちゃら以上恋人未満、みたいな感じだよ』とでも言っておくとか」
「おー、良いんじゃない? それなら
「うーん……」
「まあまあ、物は試しって事でさ」
「…………」
◇ ◇ ◇
佐川さんが周りをちらっと見回し、声を落として言う。
「今んとこ作戦成功してるよね」
「うん、なんか鶴見さんのこと悪く言う噂も聞かなくなった。応援したいって言ってる子もいるよ」
「応援て。ま、女子は恋バナ好きだからなー」
「それが自分の恋愛の邪魔にさえならなきゃ、無責任に見物出来るしねー」
「男連中はダメージ大きかったのもいるみたいだけど」
「そういえばあたしも男子から聞かれた。『ホントなの』って。本人は『さりげなく』してるつもりみたいだけど、目がマジだったからね~」
「あはは……って笑っちゃ悪いか」
「『K大生の家庭教師とまだ恋人未満の清い交際』ってのが鶴見さんのイメージに合っててリアルみあるしねー」
「名門大学生なのも結果的に良かったんじゃない? なんてゆーか、イメージだけど……中学生のガキなんかじゃ相手にもしてもらえない……とかそーゆー感じになるし」
「でも……やっぱり、いつまでも嘘ついてるのは……
「嘘じゃないからおっけーじゃん?」
津久井さんに「何言ってんの?」みたいな顔をされる。
「嘘じゃないって……」
んん、なんのこと?
「フフフ……見テタヨ?」
津久井さんの両目が妖しく光る。
「見てた?」
「優しそーな人じゃん。夜だし遠目だったから顔はそんなにはっきりは見えなかったけどさー。二人で手ぇ繋いで月を見上げちゃったりして……良い雰囲気過ぎて声掛けらんなかったよー」
「!」
「うん、あれはもう、ただの家庭教師と生徒って感じじゃ無かったねー」
津久井さんがなぜか得意げに言い、それを聞いた佐川さんと藤野さんがキャーキャーと声を上げる。
例の撮影の帰りの時だよね……。駅から家に向かう途中だし知り合いに見られても不思議じゃないか。……結構薄暗かったからあんまり周りの目とか気にしてなかったけど……うわぁ、あれ、見られてたのか……。
少しずつ、少しずつ。積み重ねてきた想い、近づいてきた二人の距離感。
今はもう八幡と人前で手を繋ぐのもあまり抵抗はなくなった……つもりでいたんだけど、それを友達に見られていたというのは……それはそれで別の恥ずかしさがあるなぁ……。
「色々話聞きたいなー。ね、鶴見ちゃん、今度の日曜って空いてる?」
「ごめんね、日曜はちょっと用事があって……」
「もしかして……デートとか!?」
「そんなんじゃ無いって。誕生日のお祝い」
「ふうん、言い方からすると比企谷さんのじゃ無いか……。お家の人?」
「ううん、あのね……、あれ」
「ん?」
「ううん、何でもない」
「友だちの」そう答えれば済むだけのこと。
……でも、彼女たちって……私にとって――一体なんだろう。
* * * * *
6月も中旬に入った日曜日。
今年、この関東地方でもつい先日に梅雨入りの発表はあった。
ただ、今のところ毎日雨が続くという天気にはなっていない。なんでも、梅雨前線の北上が日本列島本州の南岸辺りで一進一退を繰り返しているという状況のせいらしい。
そんな季節の変わり目だからだろうか、このところ急に暑くなったり、かと思えば次の日は肌寒かったり、またある日は夕立が降って雷が鳴ったりと不安定な天気が続いてきている。
でも、幸い今日は今の所穏やかな空模様のようでほっとする。
「晴れて良かったー」
保冷のトートバッグを左手に持ち替え、少し赤い跡が付いてしまった右手の指を軽く屈伸させながらそう言うと、
「ですねー。ただ、午後は少し蒸し暑くなるって天気予報で言ってましたよー」
まだ10時前のこの時間にして、かなり高く昇ったお日様を見上げるようにしながら答えるいろはさん。
「最近、変な天気続きますよね」
「まあ、今日の会場は、空調とかちょお完璧だから問題無いですけどねー」
「話にだけは聞いてますけど、雪乃さんのお家ってそんなに凄いんですか?」
「わたしも初めての時はびっくりしましたけど……広いのもそうだけど、とにかくお洒落なんですよ。セレブドラマに出てくるようなお部屋でー、高校生とか大学生の住むような部屋じゃ無いですね、あれは」
「ふふ、なんだか楽しみになって来ました」
◇ ◇ ◇
今日は結衣さんの誕生会。
私たちが親しくなってから、なんとなく行われてきた、誰かの誕生日をお祝いする習慣。とは言っても、今まではそれほど大袈裟にやっていた訳じゃなかったんだ。
誕生日に近い週末や休日に、みんなの都合がいい時間に集まり、ファミレスかどこかで食事。その後カラオケボックス行ったりして、みんなからのプレゼント渡して……と、そんな感じ。
暗黙の了解のように誕生日当日を避けてきたのは「その日もし八幡が……」と、みんな思うところがあるからだろうけれど、とにかく「誕生会」というほどはっきりとした集まりでなかったことは確か。
ただ、この春、八幡たち三人が卒業して進路は別れ、当たり前だけど皆が揃って会える機会はだいぶ減っちゃったんだよね。
口には出さずとも、みんなその事を寂しく思っていたのだろう、今年は少し盛大に「結衣さんの誕生会」をしようという小町さんの提案には皆積極的に賛成したんだ。
じゃあ料理も自分達で作ろう、場所はどうしようか……という話になったとき、雪乃さんが「その日なら大丈夫」と自宅を会場として提供してくれたのだ。
いろはさんの案内で到着したのは、中に入ったことは無いものの、見知ってだけはいた駅近くの高級高層マンション。
雪乃さんの家ってここだったのか……。
いろはさんが、エントランス前に設置されているインターホンのキーパネルに、15▲▲と雪乃さんの部屋のものであろうナンバーを入力した。数字からすると雪乃さんの部屋は15階とかなり高層にあるようだ。
数秒置いてインターホンから雪乃さんの声。
『いらっしゃい。早かったのね』
「雪乃せんぱい、着きましたー。留美ちゃんも一緒ですよー」
『大丈夫、ちゃんと見えているわ。いろはさん、留美さん、今開けるわね』
エントランスの出入口、自動ドアの上で赤く点っていたランプか緑の点滅に変わると、クゥンという微かな機械音と共にスモークガラスのドアが左右にゆっくりと開いた。
エレベーターを降り、いろはさんに続いて雪乃さんの部屋へ。
「いらっしゃい。どうぞ上がって」
「こんにちはですー。おじゃましますねー」
「お、おじゃまします……」
ふわぁー、すごい。玄関入ったとたんにオシャレ空間が広がっていてちょっぴり気後れしてしまう。
広い
雪乃さんに案内され、玄関から真っ直ぐ伸びる廊下を奥へと進む。左右にはいくつかのドアが配置されていて、そのうち一つには、花冠の中に「陽」という文字が流麗な書体で浮き彫りされているデザインの木製のレリーフが掛けられていた。
私たちが通されたのは突き当たりの広いリビング。シンプルで高級そうなカーペットの上に低いガラステーブル。それに沿うように、L字型にローソファーが並べて配されている。
部屋の隅に置かれた液晶テレビはけっこう大きめで、あまりテレビを見ているイメージの無い雪乃さんとはミスマッチな印象を受けた。
キョロキョロと見回せば、天井に照明は無く、部屋の中央にはエアコンの吹出し口らしきものが設置されているのみ。
明かりは、部屋の四隅の柱とそれぞれの間に設置されている、スポットライトを上向きに取り付けたような間接照明だけのようで、それをつや消しされた白い天井に反射させることで光が柔らかくなり、決して暗くは無いものの落ち着いた雰囲気を醸し出しているのだろう。
もっとも、今は窓側の明かりは消されており、その大きな窓の外には広目のバルコニーが見えている。15階ともなるとさすがに視界を遮る建物もそう多くはなく、方向によっては都心方面の町並みをかなり遠くまで見通すことが出来る素晴らしい眺めが広がっている。
そして、リビングの右手側には間仕切りのように低い棚と観葉植物が置かれており、どうやらその先がダイニングスペース、さらにその奥がアイランド型のキッチンになっているみたい。
いろはさんに聞いていた通り、本当にドラマとかに出てきそうな部屋だなぁ……と、
「会長、お疲れ様で~す」
「ここで会長はやめてよー、小町ちゃん」
先に到着していたらしい小町さんがそのキッチンの奥からひょっこり顔を出した。そういえばこの二人、現総武高生徒会のメンバーだっけ。いろはさんは二期連続の会長さん、小町さんは、「奉仕担当庶務」とかいう、よく分からない役職らしい。
「留美ちゃんもお疲れ~」
「こんにちは、小町さん。来てたんですね」
「うん、特に用事も無かったし、ちょっと早めに着いちゃった」
「確かにまだ時間もあるし、一度お茶にしましょうか。貴女達は座っていて」
そう皆に声をかけ、雪乃さんはそのまま奥へと入って行った。
私といろはさん、小町さんがガラステーブルを囲むように腰を下ろすと、そのタイミングを見計らったように、カチャッと小さな音を立てて先程見たレリーフの掛けられていたドアが開いた。
中から出てきたのは、肩くらいまでの髪の……雪乃さんととても顔立ちの似た、見る者をはっとさせるほど綺麗な女性。年は二十歳ぐらいだろうか。
紺に近い青のノースリーブのプルオーバーに膝丈のギャザースカート。シースルー素材の白い薄手のカーディガンを羽織り、ややカジュアル寄りのおしゃれな装い。いかにもこれからお出かけしますという体の彼女は、
「ひゃっはろーん。久しぶりだねー、一色ちゃんに妹ちゃん」
ずいぶんと親しげな様子でいろはさんと小町さんに声を掛けてくる。
「はるさん!どうしたんです?今日はお出かけだよーって朝LINEで……」
「小町も……陽乃さんいらっしゃったの知りませんでした……」
こっちの二人はかなり驚いてるみたい。でも、「ハルノさん」って……。
「まあまあそれはいーから。ねー、その娘に紹介してよぉー」
その彼女は、初対面の私に興味津々といった様子。
「あ、はい。――コホン。留美ちゃん、こちら、雪乃せんぱいのお姉さんで、そこのC大の理工学部の四年生のはるさんです。もちろん総武高の先輩でーす」
なにがもちろんなのかよくわからないけど、やっぱりこの人が噂に聞く雪乃さんのお姉さんかぁ。
……改めて見ると、さすがに姉妹だけあって顔かたちは本当に雪乃さんに似てる……けど、纏ってる雰囲気は少し違うかな。
「初めましてぇ、雪乃ちゃんの姉の『はるさん』こと雪ノ下陽乃でーす」
八幡は「怖い」とか「ラスボス」とか言ってたけど、そんな事なさそう。どちらかというと柔らかい……人懐こそうな感じ……?
「で、ですね、こちらが総武からすぐの浜二中2年生の留美ちゃん。私たちとは小学生の頃からのお付き合いなんですよー」
「こ、こんにちは。鶴見、留美です」
私が立ち上がって挨拶すると、
「なんだか……昔の雪乃ちゃんみたいな子ねぇ……。あ、もしかして貴女が比企谷くんが家庭教師してるって娘?」
「あ、はい」
「へぇー…………キミかぁ、比企谷くんと仲良しの中学生って」
声のトーンが変わった気がした。何故かぞわり、と冷たい感覚が背筋を走る。
「鶴見留美ちゃん……かあ」
私の顔をしげしげと見ながら、彼女――陽乃さんがすうっと距離を詰めてくる。
「ねぇ、鶴見ちゃぁん?」
にこやかに微笑みながら私の顔を覗き込む彼女の目は――全く笑っていない。その瞳は、どこまでも透明な冷たい氷のように私の視線を吸い寄せる。得体の知れない怖さを感じているのに、金縛りにかかったように目を反らす事さえ出来ない……。
「……小学校で
低く囁かれた声、全身が総毛立つような感覚。頭では理解できないような圧力の前に、思わず膝の力が抜けて座り込みそうになるのをどうにか堪えた。
盗っ……? 私、そんな事してない……してないよね。だって私はただ八幡が好きなだけで……それだけで、どうしてそんな風に言われちゃうの……。
「……姉さんはここで何をしているのかしら? 今日は朝から一日出掛けているという話だったでしょう?」
理不尽なこと言われてる――とは思いながらも、陽乃さんの妙な迫力に圧されて固まっていた私に助けの声がかかった。
奥から出てきた雪乃さんが、腰に手を当てて呆れ顔で陽乃さんを見ている。
「ん~。ガハマちゃんだけじゃなく比企谷くんたちも来るって聞いたからー、待ち合わせの時間2時間遅らせてもらっちゃった。ほら、最近彼の顔見て無かったし」
陽乃さんは澄まして答える。
「そんな事誰が……」
「雪乃せんぱい、すいませんわたしです……。今朝、比企谷くんも来るんでしょって当たり前のように聞かれたので、知っているものだと思ってつい……」
雪乃さんはガックリと肩を落として溜め息をつく。
「だからと言って出掛けたふりまでして……」
「ええ~、普通に部屋に籠ってただけでしょー。雪乃ちゃんが勝手に勘違いしてただけじゃない」
陽乃さんは悪びれない。
「……いえ、居るだけなら問題無いのよね、ここは姉さんの部屋でもあるのだし。……でも、私の友人を侮辱するような態度は例え姉さんでも許さない」
雪乃さんが氷点下の声で凄む。
「そんなに怒んないでよ~。新しいお友達に小粋な挨拶しただけじゃないの」
「何が『小粋な』よ。『姑息な』の間違いじゃないかしら」
「そんな事無いわよぉ。ねー、鶴見ちゃーん?」
さっきの怖さはどこへやら。こうして気さくに話し掛けてくる彼女はとても人好きのする陽気なお姉さんという雰囲気だ。
「私はなにも……。でも、八幡の事、『誰のモノ』とか、そういう言い方はしないで欲しいです。八幡……そういう――外からレッテル貼られるみたいに、自分のこと勝手に決めつけられるの好きじゃないから」
「んー……でも、その言い分だと、キミ自身も比企谷くんのこと決めつけてるって事にならない? 彼、案外格好つけてるだけなんじゃないの?」
ふふふ、と微笑いながら、まるで挑発するかのような陽乃さんの言葉。そして……今もその瞳の奥では笑っていない……。
きっとこの人は八幡の事知ってて、わざと私にちょっかいを掛けてきてるんだ。でも、もしそうじゃないなら――ううん、だからこそ……。
「決めつけてるんじゃなくて――知ってるんです。だってずっと近くに居たから。――私だけじゃなく、雪乃さんも……結衣さんもいろはさんも。
だから、そんな事も分からないなら、勝手に八幡の事いろいろ言って欲しく無いです」
勇気を振り絞り、私は陽乃さんの目を真っ直ぐに見返す。
陽乃さんは
「……あははーっ。凄いねぇ。雪乃ちゃん、この娘――手強いよぉ」
「……知っているわ」
雪乃さんはしれっと言う。
「あれぇー、そんなに余裕でいて良いの? そんなんじゃまた……」
「今までとは違うのよ。私は私でいることが出来てる。だから、」
雪乃さんは挑むような目をして続ける。
「何かが例え望み通りの結果にならなかったとしても……
「それで納得出来るの? 壁を壊すのはこの娘かもしれないのに」
「納得……そうね、少なくとも受け入れる心構えは有るつもりよ。何もかも思い通りにならなきゃ気がすまない姉さんには分からないだろうけど」
「心外だなー。……わたし、肝心なことは少しも思い通りになんてさせて貰えなかったわよ? 今まで」
「姉さん……」
「でもまあ、今は雪乃ちゃんが頑張ってくれてるお陰でしばらくは好きなこと続けられてるし……だからそのお礼に雪乃ちゃんのこと応援しようと思ったんだけどねー」
そう言って陽乃さんは雪乃さんと私を交互に見て、実にチャーミングな表情でクスクス笑う。
この空気がギシギシ音を立てそうな雰囲気の中であんな風に軽やかに微笑えるなんて、この人は一体どういう心臓をしてるんだろう。
「余計なお世話よ。……でもそうね、気持ちだけは受け取っておくわ」
雪乃さんが返したその言葉の字面だけ見れば拒絶のよう。でも彼女の声はどこか優しい響きを含んでいて、その表情には悪戯っぽい笑みさえ浮かんでいた。
「ふぅー、やれやれです。でもお二人……随分仲良くなりましたよねー」
一段落と見たいろはさんがほっとしたように溜め息をつく。
でも……え、これで「仲良くなった」の?
「ねえ、その比企谷くんはどうしたのよ?」
「あー、兄は所要があって遅れて参加です。ちゃんと主役の結衣さんが到着する時間には間に合うので大丈夫ですよ」
「確か……せんぱい、午前中なんかの試験があるから遅れるとか言ってましたね」
そういえばそんな事言ってた。日曜なのに試験だなんて、八幡も大変だなぁ。
「ええー、それじゃわたしが会えないじゃない。もう行かなきゃいけないのにぃ」
「意外ね、てっきり比企谷くんが来るまで居座ろうとするのかと思ってたわ」
「う~ん。それも考えたんだけどー、さすがにデートだしなぁ」
「! いつの間にそんな相手が……」
「勘違いしないでよー。何度も誘われてるから、たまには付き合ってやってもいいかなーって、へへー。ねっ、相手……誰だか知りたい?」
「興味ありません」
「つれないなぁ、雪乃ちゃんは」
「小町はちょっと興味ありますけど……って、陽乃さん、デートの待ち合わせを今朝になって2時間も遅らせたんですか?」
「わたし、相手の人に同情します……プランとか色々とあったんでしょうに……」
「そのくらいなんとかするのが男の甲斐性でしょ」
「姉さんはもう……早く行ってあげなさい」
「はいはい。それじゃ雪乃ちゃん、比企谷くんとガハマちゃんによろしくね~」
陽乃さんはそう言って私の方に振り向く。彼女は他の皆に聞こえないようにか、私の耳許に顔を寄せて、
「鶴見ちゃん、どんなに居心地が良くても、出口のない楽園に未来は無いよ」
そう小声で言うと、またいたずらっ子のように笑う。
「え、あの……」
「ふふふ、おねーさん、キミには色々期待してるから――頑張ってね」
そうして、陽乃さんは嵐のように去っていった。
「留美さん……姉さんがその、色々とごめんなさい」
雪乃さんが本当に申し訳なさそうに謝ってくる。
「いえ、そんな事……。すごくびっくりはしましたけど、大丈夫ですから」
本当、何をされたと言うわけでもない。少なくとも雪乃さんが謝るようなことは何もないはずだ。
「びっくりと言えば、わたしは留美ちゃんにもびっくりですけどねー。はるさんにあんな……」
「あの、何か不味かったですか」
「そんな事無いわ。もっと言ってあげても良かったくらいよ」
「それは……陽乃さんの事なにも知らないからこその強味ですかねぇ。お兄ちゃんが見てたらどんな顔しただろ?」
「せんぱい、驚いて泡吹いちゃうんじゃないですかねー」
◇ ◇ ◇
それから私達は誕生会用の料理の準備に取り掛かる。今日は、みんなで料理をするこういう時にトラブル・メーカーになりそうな結衣さんがいないので失礼ながら安心して作業ができるなー、なんて。
本日の主役に対して酷いこと考えて申し訳ないとは思うけど、彼女は実際何度かやらかしてる実績があるからなぁ。去年の夏なんかどうなることかと…………まあ、それはいいや。
ざっくりとした分担は、小町さんと私がいわゆるオードブルなんかの料理全般。バースデーケーキ、お菓子が雪乃さんといろはさん。
もちろんお互い手が空いたら手伝うんだけど、今回一から作るメニューは少ないし、みんなそれなりに料理スキルの有るメンバーなのでバタバタすることなく余裕を持って準備できるだろう。
昨日家で下ごしらえをしておいた鶏肉なんかをトレーに並べて出し、雪乃さんからキッチンを使う上での注意点とかを教えてもらう。(調味料の置いてある場所、それに三ツ口のコンロのうちどれが強火力対応だとか、オーブンレンジのワット数の切り替え方とか)
ただ、下準備はだいたい終わっているので、案外急いでやらなければいけない事は少ない。あまり早く火を通しても、結衣さんが来る前に冷めちゃうし……。
そこでケーキの方を手伝おうかと見れば、さすがにお菓子作りが得意な二人だけのことはあり、実に手際よく作業は進んでいるようだ。
今回のケーキはなんと二段重ね。大小のスポンジ生地は昨日雪乃さんが焼き上げてくれている。
もうすでに、雪乃さんといろはさんでそのスポンジをワイヤー式のケーキスライサーを使ってスライスし終え、次の工程に入っている。
後は間にクリーム・フルーツなどをはさみ、全体に生クリームを平らに塗りつけ、それから今度は絞り袋を使った生クリームとチョコレートペンなどで飾り付け、最後に苺をたくさんトッピングして仕上げるという話だった。
二段重ねで豪華であることを除けば、オーソドックスで奇をてらわない、いわゆる苺のホールサイズショートケーキ。
でも、雪乃さんが金属ボウルにドボドボと遠慮なく注ぎ入れている一リットル牛乳パックみたいなものは、この辺のスーパーではあまり見ない高級生クリームだ。……あれ一本で三千円くらいするはず。親友の誕生祝いだけに奮発したのかな。
ボウルはやや大きめと中くらいのサイズの二つ。どちらもそれぞれ氷水の入った一回り大きなボウルに浸けられている。雪乃さんは、中サイズの方のボウルに砂糖と小さじ二杯分くらい何か液体を加え、泡立て器で一気にかき混ぜ始めた。
「雪乃せんぱい、今入れたの何です?」
大きい方のボウルに砂糖を加えて混ぜ、小指を咥えて味見をしていたいろはさんが聞く。
「ライムの果汁よ。少しだけ柑橘の果汁を混ぜると生クリームのポッシュとかフリルが型くずれしにくくなるの。色々試してみたけれど、ライムが一番クリームの風味を損ねなかったし、苺との相性も良かったわ。ただ、入れすぎると分離しちゃうから、もし試してみるなら注意して」
「なるほどですー。じゃあ、そっちがデコレーション用ですね」
「そう、貴女の持ってる方が下地塗り用」
ふうん、生クリームにライム果汁か……。私も今度試してみようかなぁ、なんて考えていると、
ピンポーン、とチャイムが鳴り、インターホンの液晶画面がパッと点く。
モニターに映るのは、エントランス前で大きな袋を下げて佇む八幡の姿。魚眼レンズというほどではないようだけど、俯瞰でかなり広い範囲の様子を確認できるみたいだ。なるほど、私たちもこういう風に見えてたのか。
「いらっしゃい、比企谷くん。今開けるわ」
雪乃さんの声が弾んでいるように聞こえるのは、決して私の勘違いじゃないだろうなぁ……。
◇ ◇ ◇
「悪い、遅くなった」
飲み物のたくさん入った袋を床に下ろしながら済まなそうに八幡が言う。
「いえいえ、ご用事があったんですから仕方ないですよ。結衣せんぱいもこれからですしちゃんと間に合ってます。……でも最近お忙しいみたいですねー」
「まあ、それなりにな。バイトもあるし」
「そういえば比企谷くん、留美さんの家庭教師以外にもずいぶんと色々とアルバイトしてるみたいね」
「単発が多いから色々って感じなだけで、それほど日数出てるわけじゃない」
「でも、一年のこの時期からそんなに……お金に困っているというわけでもないでしょうに」
「親父に借りてる金をとっとと返しちまいたいだけだ。実家に帰る度に偉そうにされるのも頭に来るからな」
「そういうこと……。もしよかったら、また今度うちの事務所の短期スタッフもお願いしようかしら」
「そういえば、親父さんこの秋選挙だっけな。まあ前の時みたいにビラ配り位なら……」
「あら、今回貴方には事務所の内部スタッフの方をお願いしようと思っているのだけど」
「あのな雪ノ下、大学生になったばかりの人間に何をさせようっていうんだよ。いくら県議会副議長様でも余裕有りすぎじゃないか?」
「この世界、若い人にしか思いつかない発想、というものも馬鹿に出来ないのよ。これから選挙権の年齢も引き下げられる事だし。そういう方面、比企谷くん得意でしょう」
「買い被るな。俺の発想は若いんじゃなくひねくれてるだけだ」
「それを自分で言っちゃうのがせんぱいらしいですよね……」
ホント、ドヤ顔で言うセリフじゃないよね、それ……。
「それにそもそも選挙に直接関わる活動に賃金を支払うというのは法的にアウトなのよ。
選挙運動は原則ボランティアというのが建前だから……前に配ってもらったのも、あくまで『議員の
「いやあれは……」
「関係無いわ」
何か言いかけた八幡を、雪乃さんが笑顔で黙らせる。
「…………なんにしても、俺に雪ノ下の真似は出来ねーよ。『現役でT大法学部政治コースに通う傍らで、十代にして議員秘書職をこなす才媛』――お前、自分が陰でそんな風に言われてるの知ってるか?」
「それは初めて聞いたわね……。だいたい私はただの事務処理係よ。秘書なんて名乗ったら父の秘書をしてくださってる本職の方たちに失礼だわ」
「……まあ、その秘書さんたちこそがお前には随分期待してるみたいだったけどな」
「もちろん努力はしているもの。……さあ、雑談はこのくらいにして、準備を終わらせてしまいましょう」
「「「はーい」」」
「しかし……このメンバーで料理にケーキ作りとなると、俺はやること無いな……」
「あら、そんな事は無いわよ」
◇ ◇ ◇
そして、料理の準備も滞りなく終わり、約束の時間であるお昼ちょうどに結衣さんが到着。
このメンバー全員が揃うのは久しぶりで、なんだか安心したような気持ちになれる。
プチ同窓会のような雰囲気の中で結衣さんの誕生会は始まった。
◆
「誕生日おめでとう」
「おめでとうございます!」
「……おめでとさん」
「…………」
「…………」
「ゆきのん、みんな……」
「ではここで、結衣せんぱいからごあいさつ~」
「あたし?そんなの聞いてないよ!」
「はい、言ってませんし。てか、今思いつきました。誕生日も迎えたことですし……ここは一つ、大人の女性としての挨拶をお願いしまーす」
「無茶振りだ!?」
「結衣さん頑張ってー」
「う……ほ、本日は私どものためにこのような盛大な会を開いていただき有り難うございました。後はえ~と……え~と」
「由比ヶ浜……お前は何人もいるのかよ。あと、まだ終わってないから。格好つけなくていいから自分の言葉で話せ」
突っ込む八幡もなんだか楽しそうだ。
「ヒッキー……うん!」
結衣さんは一つ深呼吸してから、
「みんな、ありがとーっ」
と、最高の笑顔で言った。
◆
「じゃじゃーん!ケーキですよー」
小町さんがゴロゴロとワゴンを押してケーキを運んできた。
完成した二段重ねの苺のホールケーキは雪乃さん、いろはさんによる生クリームのデコレーションも美しく、二段のケーキそれぞれの外周を縁取るように載せられた苺の赤が、白いクリームの上でとっても鮮やかにに映えて見える。
上の段のケーキの端に数字の1と9の形をしたロウソクが並べて刺されていて、広く空いた上面の白いスペースには、焦げ茶色のチョコレートペンで
「Happy birthday YUI」と、
…………ミミズが這ったような字で書かれている……。
「由比ヶ浜すまん、俺にやらせるのは無謀だと何度も言ったんだが……」
ふふ、チョコレートペンって、馴れないと、慎重に書こうとすればするほど線の太さが不安定になっちゃうんだよね……。
「これ、ヒッキーが書いてくれたんだ……。ううん、ありがとう、すごくうれしいよ……」
頬を紅潮させて本当に嬉しそうな結衣さん。
「んん? この、ネズミみたいなの何だろ」
「ぐ……その、お前んとこの犬のつもりで……」
「サブレ? あはは、うん、言われればそう見えてきたし。色とか」
「色かよ……」
まあ……チョコレートだもんね。
◆
お腹が満たされた私たちが今みんなでやっているのは、小町さんが持ってきた、あまり馴染みのないカードゲーム。
最初に手札を二枚配って、後は山から順番にカードをひいて、場に出されたカードの指示にみんなが従うというゲームなんだけど……。
雪乃さんがカードを引き、少し考えて引いたカードをそのまま場に出す。
「爆弾よ。これで……」
「待った。雪ノ下、お前言い忘れてるそ?」
「え?あっ、創英角POP体最高……」
「ぶぶー、もうアウトですよっ、雪乃せんぱい」
顔を赤くして本気で悔しがる雪乃さん。
「こんな下卑た目をした男にこの私が辱しめを受けるなんて……屈辱だわ……」
「おい、人聞きの悪い言い方はやめてもらえませんかね。誰かに聞かれて俺が逮捕されたら小町に迷惑がかかるだろうが」
「よよよ、お兄ちゃん、そこまで小町の事を……。でも心配しないで。小町他人のふりして切り抜けるから♪」
「ちょっとちょっと小町ちゃん?……」
「あはは、じゃあ次はあたしだね。創英角POP体最高っ」
結衣さんが、雪乃さんが忘れてしまった言葉を叫び、カードをひく。
「よっ、と。あ、『全員、せーのでじゃんけんをすること!』」
そう言って結衣さんがカードを伏せる。
「「「「せーのっ」」」」
結衣さんがグー、私はパーで八幡といろはさんがチョキ……。
結衣さんが満面の笑みでカードをめくる。
『手番プレイヤーと異なる手を出した全てのプレイヤーは敗北する。』
「くっ」
「ああっ」
「やられました~」
「やったー、あたしの勝ちっ」
今回の勝負は主役の面目を保って結衣さんの勝利!
このゲームは意味不明な指示も多いし、一発で全員負けになって全滅なんてこともあるけど、一回一回の勝負は長くても5分位。繰り返しプレイしているうちにいつの間にかテンションが上がってしまうという不思議なゲームだ。
「もう一回よ! 次は勝つわ」
「よーし、ゆきのん、受けて立つよっ」
◆
そんな風に、楽しい時間が過ぎていく。
八幡たち――彼はもちろん、雪乃さん、結衣さん、いろはさん、小町さんと共に過ごす時間は、楽しくて、嬉しくて、甘酸っぱい切なさがひとつまみだけあって。
ふと、あのクリスマスイベントの時の事を思い出す。
私に背を向け、並んで歩いていく八幡と雪乃さん、結衣さん。その後ろ姿は三人の絆の強さを見せつけ、他の誰かが近付くのさえ躊躇われるほどだった。
――それでも勇気を出して彼等を追いかけて、隣を歩いて行ったいろはさん。――そして、取り残された私。
あの時私は強く願った。ううん、あの時だけじゃなく、その後も、何度も何度も。
「私もあの隣を歩きたい。あの人逹が築いた世界に、並んで一緒に居られる、そんな私になりたい」と。
当時その望みは遥か彼方のものに感じられたし、私自身それは叶わぬ夢だろうと漠然と思っていたんだけど……。
幸運か運命か、今私は八幡の近くに――共に在りたいと焦がれたみんなの中に居ることが許されている。皆それぞれの想いを抱えてたどり着いたこの優しい世界に。
――けれど、誰もその先に進めずに、もがくことさえ出来ずにいる世界に……。
そう、この優しい世界には甘い呪いが掛けられていたんだ。
陽乃さんは「出口のない楽園」と言った。
そこにいるのがひどく心地好いから、皆そこから出ることを怖れる。
スマートに先に進める出口なんてどこにも無い。誰も傷つかない未来なんて無い。先に進むには、自ら楽園の壁を打ち破っていくしか無いんだろう。でも…………。
危ういバランスで保たれている世界。誰かが八幡と結ばれたなら……私たちの関係は、きっと今までと同じではいられない。
遠慮、気遣い、傷心、後ろめたさ……。もし私が八幡と結ばれる未来があったとして、或いは私以外の誰かと八幡が付き合う未来があったとしても……雪乃さんや、結衣さん、いろはさんに何も思わないでいるなんて無理だ。彼女たちだって同じだろう。
いっそ彼女たちが他人を妬んだり、逆恨みして悪い噂を流したりするようなライバルなら心も痛まないのに……。などとあり得もしない考えがぐるぐると頭を巡る。
そんな事を思うくらいには、私は八幡だけでなく彼女たちの事も好きになってしまっているんだよね、たぶん。
それでも……私の脳裏に嫌な考えがちらつく時はある。八幡が私を好きになってくれるなら、雪乃さん逹との関係が壊れても構わないんじゃないか、と。
それは、私は彼女たちとは違って、八幡以外との関係が薄いからかもしれない。それに……私が自分の事ばかり優先して考えてしまうずるい子だから。
八幡さえ居てくれればそれで良いって割りきることもきっと出来ると思えてしまうから。
そう思い込んではみても、壁に向かって踏み出そうとする心はすくむ。
だって、壁を壊すことは、八幡からこの「楽園」を奪う事でもあるんだもの。
人と付き合うことの得意じゃない八幡が、たくさんの事を乗り越えてやっと得たこの……雪乃さん、結衣さん、いろはさん、それに小町さんや私も含めたみんなとの絆をどれほど大切にしてくれているのかを解っていながら――それを壊す?
そんな事をしておいて「私がいるから大丈夫、私だけを好きでいてほしい」とでも言うつもりなの?
今なら分かる。なぜ八幡が……雪乃さんが、結衣さんが、おそらくは何度もあっただろうチャンスに前に踏み出せなかったのか。自ら望んで飛び込んだはずのいろはさんがその先に踏み込めずにいるのか。
みんなが今を大事に思っているから、それをお互いに解っているから、このままでいるのは違うと思っていても前に進めなかったんだ。壊れてしまうのが、壊してしまうのが――奪ってしまうのが、怖かったんだ……。
私でさえそうなんだもの。より強い絆で結ばれている八幡たちなら尚更だろう……。
いつの間にか考え込んでしまっていた私にみんなが声をかけてくれる。
「んん? どうしましたー、留美ちゃん、なんかぼんやりしてますよ……」
「あら、疲れちゃったのかしら?」
「あたし、飲み物持ってきてあげる」
「あーもぅ結衣さん、主役は座っててください。小町がやりますからー。……あ、お兄ちゃんが立ってる。留美ちゃんに飲み物ぷりーず。あと小町にも」
「小町……」
「立ってる者は兄でも使え、ってことわざがあるじゃん」
「『兄』じゃなくて『親』な。それにそれは自分がどうしても手が離せない時に……はぁ、まあいい。留美、お茶で良いか?」
ほら、まただ。
私たちはお互い口には出さないけど、八幡を廻っての恋敵同士だという自覚は持ってる……はずだ。
それなのにみんなは……。私だって…………。
そう……今日陽乃さんに言われたように、私もきっと「出口のない楽園」に囚われてしまっているんだ……。
* * * * *
『……次は稲毛海岸。次は稲毛海岸、お出口は左側です…』
また物思いに耽っていた私は、車掌さんのアナウンスで我に帰った。
あれからもう五日が経つ。
日常。学校に通って授業を受け、放課後には美術部室に顔を出して絢香たちと下らない話をする。今はユキ先生のところからの帰りだし、明日土曜日は自宅《うち》で八幡の家庭教師……いつも通りの生活。
だというのに……。
『出口のない楽園に未来は無いよ』
陽乃さん――雪乃さんのお姉さんに言われた言葉がずっと心に引っ掛かってる。
はぁ……そんな事言われたって、私はどうすれば良いの?
今のみんなの関係を壊したくなんてない。
それにもし仮に、私が全部を失う覚悟で踏み出そうという気持ちになったとしたって……それに八幡が応えてくれるとも思えない……。
そこまで考えたところで電車が駅へと到着した。私は一時頭を切り替えて電車を降りる。
ホームから出口へ向かう階段へと、滝が流れ落ちるように移動していく人々。
私は人混みを避けたい気分だったので、ホームで
待つこと一、二分。少し階段の人波が
空は灰色の雲に覆われ、ぱらぱらと小粒の雨が落ちてきている。私はリュックサックの中から折り畳みの小さな傘を取り出した。
頬に感じる風は湿っぽいけれど、電車内の冷房の風とは違った夕刻らしい自然な涼しさが心地よく、私の心を少しだけほっとさせてくれた。
駅を背に家路を急ぐ人々の群れ。徐々に雨脚は強まってくる気配だけど、傘を差している人といない人との割合はまだ半々といったところか。
人の流れが徐々にばらけて、人影もまばらになってきた時、私の数十メートル先に、見覚えのある桜色の傘を差して歩く泉ちゃんの背中を見つけた。
そうか、今日は金曜日だから泉ちゃんは絵画スクールの日かぁ。同じ電車だったのかな?今日は端の車両に乗らなかったし、気が付かなかったなぁ……。
こんな時、いつもの私なら走って泉ちゃんに追いつき、笑って声を掛けるんだろう。
でも、さっきまで考え事をしていたせいか、はたまた雨のせいか……とにかく今日は何もかもが億劫で……。
それにどうせ今から追い付いても、私たちの家まではたいした距離じゃない。一緒に歩けるのはせいぜい二百メートルかそこらだろうし……だったら、わざわざ追い付かなくてもいいかなぁ。
そのまま歩いているうちに、彼女との距離はだいぶ詰まったけど、結局私は声をかけなかった。
いつもの角を曲がって、自宅に向かう細い路地へと入っていく泉ちゃん。
彼女が視界から外れ、たぶんニ十秒くらい後にその路地の入り口に差し掛かった私。「泉ちゃんはもう見えないかな」と路地を覗き込んだ私の視界に飛び込んできたのは――――
――――灰色の作業服を着た男に口を塞がれ、幌の付いた工事用のトラックのような車の中に引きずり込まれる泉ちゃんの姿だった。
どもども、更新がゆっくり過ぎて申し訳ありません。
そんなのんびり更新の本作でもお付き合いくださる方はいらっしゃるようで、気がつけば2100件ものお気に入りをつけていただくまでになりました。
改めて、お読みくださっている方・お気に入り付けて下さる方・高い評価を付けて下さる方・誤字の報告をして下さる方・そしてご意見、ご感想をお寄せくださる方に心よりの感謝を。
と、そんなわけで、ご意見・ご感想お待ちしています。
一言感想、長文感想、全体の感想、最新話以外の感想、もちろんご意見でも大歓迎です。
読者様の反応をいただけるとモチベーションも上がりますので、遠慮なさらずぜひどうぞ。
P.S. 前回も同じこと書いてますが、俺ガイル、まさかのアニメ三期決まりましたね。一方で原作(たぶん)最終巻はまた延期。アニメに合わせるつもりなのかもしれませんが、いつもいいところで待たされますね~。
まあ、アニメ三期にも原作にも、ルミルミの出番は無さそうですが…………。
ではでは~。
参考(作中ゲーム):テストプレイなんてしてないよ(cosaic)
戦略性はあまり無く、カードの引きを頼りに自分以外の全員を脱落させたら勝ち、というゲーム。こう書くとアレですが、パーティーゲームとして非常に優秀。いつ誰が脱落するか全くわからないという独特の緊張感がくせになります。
興味のある方は是非ググってみてください。
6月15日 誤字修正。 clpさん報告ありがとうございます。