そして、鶴見留美は   作:さすらいガードマン

40 / 41
いつも読んで頂いている皆様、随分と更新が空いてしまい申し訳ありません。
さらに……お待たせしたのに留美の話じゃなくて申し訳ありません……。

裏話的な話なので、話が飛び飛び、駆け足なのはご容赦下さいね。


お知らせ

達吉様が留美の絵を描いてくださってます。達吉様の活動報告でどうぞ!


幕間 彼の隣

「雪ノ下?」

 

 昼下がり、東京から千葉へと向かう電車の中。ラッシュ時には凄まじい混雑を見せるこの路線もさすがにこの時間は車内に余裕があり、乗客の半分以上は座れる程度の混み具合。

 

 ドアのすぐ横の席に座ってうつらうつらしていた私の意識は、その声によって急速に覚醒した。今さら聞き間違える事など無い、ちょっぴりおどおどした、けれど低く柔らかい声。

 

「比企谷くん」

 

「もしかしたらと思ったがやっぱりお前か。珍しいな、そんな風にぼーっとしてるなんて」

 

 目の前に立つ彼は、からかうという風でもなく、素直に感心しているというような言い方をし、珍しいものでも見るように私の姿を眺める。

 

 彼の視線をたどり、自分の手元に目を向ける。

 膝に乗せたバッグの上、つい先程まで読んでいたはずの文庫本はいつの間にかページが閉じてしまっていて、それでも栞代わりに左手の人差し指を挟んでいるのは、私の睡魔に対する無意識の抵抗だったろうか。

 ページを繰る役目を放免されてだらんとしている右手は我が手ながら所在無げに見えた。

 

「私だってうとうとする事くらいあるわよ」

 

 居眠りしかけていたのを見られた事より、読みかけていたその本が有名な恋愛小説であったことに何故か若干の気恥ずかしさを感じて本を押さえる手に力が入る。……冷静に考えればブックカバーをかけられた本の内容など彼がいちいち気にするはずもないか。

 

「まあ、この時期何もなくても眠くなるってのはあるな」

 

「この時期って……貴方は一年中眠たそうな目をしているように見えるけど……」

 

「おう。眠たそうなだけじゃなく実際常に眠い。なんなら一年中どころか一生だらだらと食っちゃ寝生活したいまである」

 

「あら、そんなに寝てばかりいたいなら、いっそ永眠でもしてみてはどうかしら?」

 

「いいアイディアを思いつきました、みたいな言い方でさらっと人を亡きものにしようとするな」

 

 私がくすりと笑うと、

 

「まあ、お前も……昔みたいに無理しすぎるなよ」

 

 比企谷くんは苦笑いをしながらそう言って、体の正面にたすき掛けしていたデイパックのファスナーを開けると、書店名入りの紙カバーのかけられた一冊の文庫本を取り出した。

 右手でつり革に掴まったまま、器用に左手だけで本のページを繰り始める。

 

 私もそれに倣うように、閉じていた本を再び開いた。

 けれど駄目だ……本に集中出来ず内容がさっぱり頭に入って来ない。元々ぼーっとしていた訳だし、それに彼に今言われた言葉が引っかかっているのかもしれない。

 

 無理し過ぎるな、か。一応、彼なりに私の身を気遣ってくれているという事なのだろう。

……確かに、最近の私の生活は充実してはいるけれど、少々オーバーワーク気味、かしらね。

 

 最近大分改善されてきたとはいえ、体力……持久力には自信がないのは相変わらずだ。将来政治に携わるつもりなら今後の大きな課題になるだろう。

 父をはじめとする精力的に活動する議員先生方を観察するに、やはりそのバイタリティーが活動の根幹になっているのは明らかだ。

 どれほど立派な理念やら政策やらを持っていても、結局は実績を示し、足を使って顔を売って、市民の賛同を得なければ――もっと言えば選挙で当選しなければ――理念の実現などあったものではない。

 だからといって、条例作成のための地道な研究などよりも票集め活動が最優先になっている議員だらけという我が国のこの状況は本末転倒ではとも思うのだけど……。

 自分は将来こうはなるまいとは思う。けれど……票集め――支持者を増やす活動というものを毛嫌いして無視する訳にもいかない。「まずは選挙に勝ってから」というのが、この国で自らの理想を実現させようとする上での偽らざる現状でもあるのだから……。

 

 まあ、政治の世界の入り口に(ようや)く一歩……いやせいぜい半歩踏み出した程度の自分が考えるような話ではないわね。

 

 それでも、最近は父のスタッフにもある程度は認められてきたと思えるようになった。

 以前は父の(もと)につくことを期待されていたのは姉さんだった。私が政治の道を志すと表明したこと、それを不承不承ながらも両親が(特に母が)受け入れた事で、彼女は長年の呪縛からとりあえずは解放され、一時は諦めようとしていた研究者への道に進路の舵を切った。さしあたって今は大学院への進学を目指して忙しい身である。

 去年まで全く準備をしていなかった中での論文作成・審査……決して楽な道では無いはずだが、姉さんなら問題なく自身の目標を達成することだろう。

 

 だって、それが姉さんだから。

 

 

 私が、その姉さんが余計な心配をしなくて済むように――なんて、気を張っていたのは確かだ。

 最近の自分自身を振り返って考えてみれば、少々気負い過ぎていたかもしれない。きっと少し力を抜いてリフレッシュする事も必要な事なのだろう。

 だから――私の次の言葉はこう。

 

「ねえ、比企谷くん。この後時間あるかしら?」

 

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 二人連れ立ってやって来たのは、乗っていた電車の沿線、とある駅の改札を出て、道路を一本挟んだ所にある喫茶店。

 

 比企谷君には申し訳ないけれど、彼の最寄り駅から数駅乗り越して足を延ばしてもらうことになった。

 面倒くさがりの彼のこと、断られるのも仕方ないと覚悟した上で誘ってみたのだけれど、

 

「ま、この後は暇だしな」

 

と、彼は拍子抜けするほどあっさりと私に付いてきてくれた。

 

 

 

 アーケードの歩道から直接地下に一階分降りている階段を下りて左手側、縦に細長い格子状にガラスが嵌め込んである木製のドアを押し開くと、カラン、とドアベルが小気味良い音を奏でた。

 ウッドデッキ風に貼られた床に、落ち着いた意匠がなされた大中小様々な大きさの木製テーブルと椅子。カウンター席も含めれば40席ほどのお店。

地下なのでもちろん窓は無く、ランプを模した数多くの照明によって、店全体がややオレンジ掛かった光で演出されている。

 店に入って目の前、レジのすぐ横には、広い販売スペースがあり、各種紅茶の茶葉や珈琲豆――焙煎したものだけでなく生豆まで扱っている――といった品々が、ヨーロッパの市場の一角のように大きなビンをいくつも並べてグラム単位で量り売りされている。

 

 近代的な駅ビルから僅か数十歩しか離れていないこの店だが、初めて訪れた時にはどこか異国にでも迷い混んだような印象を受けたものだ。

 いつもカウンターでコーヒーをドリップしている年配の店員や、他のお客さんの中にもちらほら外国人の姿が見えるのもそんな印象を後押ししているのかも知れないけれど。

 

 

 

 

「へえ……。よく来るのか、ここ?」

 

 比企谷君は店内の雰囲気に少し驚いたような様子を見せた。

 彼が興味深そうに見上げている先では、銅色をしたクラシカルな六枚羽のシーリングファンがゆっくりと回っている。

 

「父の仕事の関係でこちらに来た時偶然見つけて……。時間のある時に何度か途中下車して寄っているの」

 

 店の中程、四人がけのテーブルに案内された私達は向かい合わせに座り、私はシナモンミルクティーを、彼はお店のオリジナルブレンドコーヒーを注文した。

 

 

 

 丁度空いている時間帯だったからか、さして待たされる事もなく頼んだ飲み物が届く。

 モノトーンのパリッとしたバリスタ風の制服を着た店員さんは銀の丸いトレイをテーブルに置き、白地に細かい花柄の磁器のティーポットから優雅な仕草で紅茶を注いでくれる。それからそのポットをテーブルの中央に置くと、その上からポットと同じ柄が刺繍されたティーコージー(厚い布製の保温カバー)をすっぽりと被せ、ソーサーの上に葉巻タバコの片方の端を紙テープで巻いたような形のシナモンスティックを添えてくれた。

 比企谷君の前には青地に波紋のような模様のコーヒーカップが置かれる。紅茶より深い琥珀色の中身との対比が美しい。

 店員さんは最後に白いミルクポットを置くと、

 

「ご注文の品はお揃いですか? ……では、ごゆっくり」

 

 そう言ってカウンターの方へと戻って行った。

 

 

 

 私がシナモンスティックで紅茶を数回円を描くようにかき混ぜると独特のスパイシーで甘い香りが広がる。そこにミルクをそうっと注ぐと、白い渦巻き模様が浮かんで溶け込み、ゆっくりとカップ全体に広がっていく。

 比企谷くんの方は、砂糖・ミルクともたっぷりと入れているようだ。なんとも彼らしいと、自然に口元が綻ぶ。

 

 一瞬目が合った私達は、なんとなく乾杯でもするようなタイミングでカップを持ち上げ、呼吸を合わせるように同時に口をつけた。

 可笑しいけれど、笑うのは違うような……なんだか面映(おもはゆ)い感覚……。

 

 変な雰囲気を払おうとするかのように、一つ咳払いをした彼が口を開いた。

 

「あー、……そういえば何でまだあのマンションに雪ノ下さん……陽乃さんと住んでるんだ? お前の事だから、そのうち都内に良いマンションでも借りて引っ越すんじゃないかと思ってたんだが……。それでなくてもずっとこっちから通うのはキツく無いか?」

 

 比企谷くんも都内ではないものの県内でも東京寄りのアパートに引っ越して、そこから都心の大学に通っている。彼のアパートよりだいぶ千葉寄りに住んでいる私は確かに通学には時間を取られる。それに加えて姉さんと私の微妙な関係を知っている彼にとっては尚更不思議に思えるのかもしれない。けれど……。

 

「確かに少し時間はかかるけれど、移動時間はいつものように本を読んでいれば苦にはならないわ。それに、県議会も父の事務所も千葉市であることを考えれば、あそこはどちらにも動きやすい立地、とも言えるのよ」

 

「なるほどな、親父さんを手伝うのには都合が良いわけだ。……もしかして今日の格好もその関係か? 正直お前だって確信が持てなくて声かけるか迷ったぞ」

 

 高校時代の私を見慣れている彼がそう言うのも無理はない。今の私は髪をアップに纏め、濃紺のパンツスーツ姿に黒縁の伊達眼鏡を掛けている。彼は、「政治家秘書」風、に見えなくもない格好をしているとでも言いたいのだろう。

 確かに大学から家に着替えに戻らずに、父の事務所に顔を出すならこの服装は最適だろうから、彼の言っている事も的を得ていないわけではない。

 けれど、実際の理由はもっと下らないものだったりするのだが……ただ、彼に正直にその理由を言うのは少し躊躇われた。

 

「これは……その」

 

 言い澱む私を見て、比企谷君は何かを察してくれたようだ。

 

「ああ、もしかして……男避け、か?」

 

「……!」

 

 正解、だ。人の心の細かい機微を読む事に長けている彼らしい鋭さ。

 

 自分自身の容姿が標準以上――世間一般に美人と言われるものであることは流石に自覚してはいる。ゆえに以前から何かにつけ異性に声をかけられることも少なくなかったのだが、大学に進学してからそういった煩わしいことが目に見えて増えてしまったのだ。

 

 総武高校時代は、「国際教養科」という、女子が圧倒的に多く、かつその実権も女子が握っているというクラスに在籍していた事もあり、私にしつこくアプローチを掛けてくる男子など滅多にいなかった。

 

 ところが、我が大学の政治コースに在籍する彼らは、自分にずいぶん自信のある人間が多いらしく、こちらにその気が無いことを伝えても簡単には引いてくれないのだ。

 そこで「女性」をあまり意識させない服装とはどんなものか、という試行錯誤の一環が今日の私のコーディネイトの理由というわけだ。

 自己評価としては……男子学生からの不躾な視線がそれなりに減ったので一定の効果あり。但し、伊達眼鏡は普段眼鏡を掛け慣れていない私にとって少々負担に感じる――そんなところ。

 

「まあ……概ね正解よ。それに父の仕事を手伝うのに向いているというのも正しいわ」

 

「まあ……ご苦労さんとしか言えんが……。――それはそれで需要ありそうだけどな……」

 

 何か失礼なことを考えているようだけどそれは流してあげましょう。

 

「それに――引っ越しし難い理由がもう一つ有るの」

 

「ん?」

 

「今住んでるあの部屋……賃貸じゃなくて父の持ち家なのよ」

 

「マジか!」

 

 比企谷君は驚いて一瞬腰を浮かせた。そこまでびっくりするような事ではないと思うのだけれど……。

 

「あのマンションは雪ノ下建設(うち)と大手とのJVで建てたものなの。それで、建築会社やその経営者が、資産として一部屋買ったりするのはそう珍しいことでは無いのよ」

 

もちろん、買うだけ買って、賃貸として運用する、社宅として使うなど、その後の利用方法はそれぞれだが。

 

「商売上のお付き合いとか言うやつか。そういう習慣もあるって聞いたことだけは有ったが……衝撃の事実だな……」

 

 あれ、絶対うちの一戸建てより高いよな……なんて小声で呟いている彼。

 

 賃貸物件なら、あそこを引き払って私が都内に引っ越し、姉さんは実家に戻るなり、より便利な別の部屋を借りるなりするというのも簡単だろうが、所有している中古マンションとなるとそう簡単にはいかない。

 

「でも……そうね。二年次までは講義にも余裕があるし……ゼミが本格的に始まる三年次になったら、状況によっては転居も考えなければいけなくなるかもしれないわね」

 

 そんな話をしながら、私達はどちらからともなく読みかけだった本を開く。そして、どこか既視感の有る、

「紅茶と甘いコーヒーと本のページを(めく)る気配だけの」

 そんな時間を愉しみ始めた。

 

 

 

 

 いくばくかの時が経ち、私はティーコージー(ポットのカバー)を外してカップにお替りの紅茶を注ぐと、ソーサーに置いてあったシナモンスティックで再びゆっくりと紅茶をかき混ぜた。スティックが一度湿ったせいか、先ほどよりも濃い香りがふわりと広がる。

 その香りに気付いた比企谷くんは一瞬こちらに視線を向けたけれど、特に何を言うでもなくまた顔を本に戻す。

 

 近くにいながら言葉も交わさず、お互い別々の本を読んでいて……けれどそれがちっとも不快ではない。こうしていると去年までのあの放課後の教室が懐かしく思い出される…………。

 ふふふ、ここにちょっぴり騒がしい私の親友がいないことを寂しく思ってしまった。

 

 また来よう、今度は三人で。

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 店を出る頃には、辺りはもう大分薄暗くなっており、街灯にも灯が入り始めている。その上いつの間にか雨が降りだしていた。

早足で駅舎に入ろうとしたところ、すぐ近くで携帯の着信らしき音が鳴った。耳覚えのある、おそらく電話機端末デフォルトの着信音。どうやら比企谷君のようだ。

 

 彼はデイパックからスマホを取り出して画面を見、ほんの僅か表情を緩めると、ちらっと私に視線を向けた。

 私が彼に手のひらを向けてどうぞと促すと、比企谷君は壁際に寄り、画面を軽くタップしスマホを耳に当てた。

 

 若い女性と思われる声が僅かに聞こえてくるがもちろん内容までは分からない。

 

「おう、どうした慌てて? 明日はそっちに――

 

 言いかけた彼は言葉を止め、目を見開いて固まった。

 

「……留美?」

 

 相手は留美さんらしい……が、それにしては彼の焦ったような表情と緊迫感はなんだろう。妙な胸騒ぎがする。

 

『――――』

 

「な、荷台にって……じゃあ留美も? 馬鹿お前何やってんだよ……」

 

 比企谷君が、彼には珍しく語気を荒げる。

 

『――――』

 

「いや待て、言い方悪かったな。留美は無事なんだな? 気が付かれて無いんだな? その……犯人っつーかには」

 

 犯人!?……およそ日常会話で出てくる単語では無い。なにやら深刻な事態らしく、比企谷くんは壁際に寄ってスマートフォンを耳元に抱え込むように握り直すと、声をひそめて通話を続けている。私が聞いて良いものかと迷ったものの、つい聞き耳を立ててしまった。

 

「……藤沢の方は……」「……隠れてられる……」「……絶対に危ない真似はするなよ……」「……どっちに向かって……」

 

 彼の口から断片的にそんな言葉が漏れ聞こえてくる。しかしこれは……どう考えても異常事態だ。比企谷くんも動揺を隠せていない。

 

 そして――

 

「とにかくケータイもマナーモードにして、どこかから着信あっても音で気付かれないように……おい、留美?……」

 

 そして今まで耳に当てていたスマートフォンの画面を見つめて唖然とした表情を浮かべる比企谷君。どうやら通話が切れてしまったらしい。

 彼は一つ舌打ちして、それからハッとしたように私を見た。

 

「悪いな雪ノ下、ちょっと急用が……

 

 そう言って今にも立ち去ろうかという様子の比企谷君。

 

「比企谷くん」

 

 私は少しきつい声で彼の名を呼び、強い視線を送る。

 

「何があったのか話して。誰かに頼る事は悪いことじゃないってもう知っているでしょう?」

 

 数秒、彼は逡巡する様子をみせたが、

 

「……途中で通話切れちまったからはっきりとは言えないんだが……」

 

 そう前置きして、早口でざっと事情を話してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……つまり、誘拐……なのでしょうね。拉致されたのは藤沢泉さんで、留美さんは自分でついていってしまった。犯人は……と言ってしまって良いのかどうか……とにかくまだ留美さんには気付いていない、ということかしら」

 

「あくまで今の通話の内容だけで考えれば、な」

 

 話しながら彼は何処かに電話をかけているが繋がらない様子だ。

 私が彼のスマートフォンに目を遣ると、

 

「ん? ああ、さっきから留美のお母さんにかけてるんだが、仕事中らしくて留守電になっちまう……」

 

「こちらから留美さんにかけてみる訳には……。いえ、向こうの状況が何も分からないんですものね」

 

「ああ、下手にかけると、もしかしたら隠れてる留美が見つかっちまうかもしれんし、それに……いや」

 

 比企谷君は言葉を飲み込んだけれど、すでに隠れていたことが露見し、携帯を取り上げられている可能性だって無いとは言えない。

 

「なら、やはり警察でしょうね」

 

「先に警察か、確かに、な。……でもなんて言えば良いんだ? 本人でも家族でも無い、現場を目撃した訳でもない。俺の立場じゃ悪戯だと思われてもおかしくないしな」

 

「それは……いえ、それでも警察にお願いすべきよ。そうすれば、携帯電話会社に情報を提供してもらって位置情報を調べるなり出来るでしょう?」

 

 事実確認には時間を取られるだろうが、やむを得ない……。

 

「位置情報……待てよ。もしかして……」

 

 何かを思いついたらしい。比企谷くんはあわてて自分のスマホを操作する。

 

「位置履歴検索……と、出た!最後は十分くらい前か。東に向かってる……な」

 

 位置情報アプリでも入れてあったのか、どうやら留美さんがどちらに向かっているのかわかったらしい。

 

「よし、ここだとタクシーは……」

 

「待って比企谷君」

 

 辺りを見回しながら飛び出して行きそうな彼を制して、私は父に電話をかけた。タイミングが良かったのか、2コールめを待たずに電話が繋がる。

 

『もしもし、どうしたんだい、こんな時間に?』

 

「ちょっと友人がトラブルに巻き込まれた可能性があって……」

 

「トラブル?」

 

「まだはっきり確認出来た訳じゃないのだけど……急ぐの。吉村さんが空いてたら私の方に車を回してもらえないかしら?」

 

『構わんよ。今何処だい?』

 

「◯◯駅の北口の――」

 

『じゃあ――』

 

 

 

  ◇  ◇  ◇

 

 

 

「雪乃様、お待たせしました」

 

「『様』は止めてと……!父さ……いえ、先生!?」

 

 10分位で着くと言われていた車は、実際は7~8分程で到着したのだが……てっきり運転手の吉村さんだけかと思ったら、後部座席には父が乗っている。

 

「偶々近くに居たから、真っ直ぐ来たほうが早かったんだよ。それにさっき少し電話で事情を聞いた上で……もしかしたら力になれることもあるかもしれないと思ってね」

 

「すいません、助かります。お忙しいのに申し訳…………」

 

「まあそういうのはいいから。二人ともとにかく車に乗って」

 

 父が軽く諭すように言い、私達は急いで車に乗り込んだ。

 

 

 

  ◇  ◇  ◇

 

 

 

 助手席に座った比企谷君の案内で、四人を乗せた車は街道を東へとひた走る。私は父の隣に座り、先ほど比企谷君から聞いた状況を改めて説明した。

 

「だいたいの事情は解った。それで警察には?」

 

「いえ、今説明した留美さんの保護者の方と連絡をとってからと……でも電話が繋がらなくて」

 

「ふむ。じゃあ、私の方から少し話を通してみよう」

 

 話を通す?

 父は携帯電話の電話帳をスクロールさせて少し考えている様子を見せ、それから一つを選んでタップする。発信画面に表示されている名前やナンバーを見るに、個人の携帯電話の番号のようだ。

 

「――やあ、この前はどうも。……うん、突飛な話で驚かないで欲しいんだが、実は今、誘拐事件が起こっているらしくてね」

 

『……っ?』

 

 電話の相手が息を飲んだ気配が伝わってくる。

 

「――いや、うちの娘達の話じゃなく……そう、被害者は、あの画家の藤澤誠司先生のお孫さんらしくて……。うん。それで、連絡してきたのはその友達の中学生で、犯人の車に乗り込んで行ってしまったらしいんだよ……そういう状況だから、申し訳ないんだが、藤沢さんのご家族への事実確認と、此方(こちら)が続報を入れたらすぐに出動出来るような態勢で……今のところY市方面。うん、よろしく頼むよ」

 

 父はそんな風に警察の協力を取り付けてくれたようだった。藤沢さんと留美さん、無事であれば良いけれど……。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 比企谷君が留美さんの電話を受けてから一時間以上経つ。気がつけば車はかなり郊外の方まで走って来ている。

ただ……留美さんの(隠れて乗り込んでいる車の)足取りを示していたアプリだが、数十分前から位地情報が更新されなくなってしまったのだ。

 単純に電波の圏外に入ってしまったのか、スマホ機器のトラブルか、……最悪のケースとしては留美さんが犯人に見つかってしまい、スマートフォンを取り上げられてしまったということだってあり得る。

 

 私たちは、最後の履歴地点近くの交差点の角にあるコンビニの駐車場に車を止めて、今後どうするかの相談をしている。

 

「とりあえず県警の知り合いには現状を伝えたよ。Y警察署の方に人員を手配してくれるそうだ」

 

「後は……思いきって留美に電話してみるしかないか?」

 

「でも……大丈夫かしら? 留美さん達の今の状況が分からないということは……もしかしたらそのせいで……」

 

 私たちが良かれと思って不用意にした行動が、結果として留美さん達を危険に晒す可能性も無いとはいえない。

 

「…………」

 

 何か打開策は……。主導権の無い状況で手詰まりになり、ただただもどかしい時間が流れる。

 

 

 

 

「あっ!更新された……けど……」

 

「けど……?」

 

 何度も何度も更新ボタンをタップしていた比企谷君が声をあげ、スマートフォンの画面を私達に示す。

 

 そこには、現在地を示す赤い点の代わりに、精度が低い情報であることを示す紫色の光点が。

 それが示しているのは、今車を止めているこのコンビニから案外近く、ほんの二、三キロ先の開けた土地。

 

「この辺りは……例の産業タウンの中か!」

 

 父の言葉に、私も比企谷君のスマートフォンの画面を覗き込む。

 なるほど、点が表示されている辺り一帯は、大手ディベロッパーが大規模開発をしている市街化計画地域のはず。一部区画は稼働を始めているものの、まだ開発途中でインフラが未整備の区画も多いことを考えれば、携帯電話の電波状態が悪いのも納得できる。

 

 さらに詳しく見ると、紫の光点は、工事が途中で何年も中断されているスーパーマーケットの入り口付近にあり、すぐ近くには新規の履歴地点を示す鮮やかな青い光点がある。時間を見ると、その直前の地点である()()が更新された時間とあまり変わらない時間のものだった。

 

 この二つの光点が間近にあり、それが今同時に更新されたということは……数十分前から、まさに今、数分前まで。

 つまり――少なくともこの数十分間、留美さんがこの場所にいた可能性が高いと考えることが出来る。

 

「よし。吉村くん、とにかくここへ」

 

「はい!」

 

 父の声に応え、吉村さんが車を発進させた。

 

 

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 

 

 

 父と吉村さんには、少し離れた、警察が来てくれた時案内しやすいところに車を止めてもらい、そこで待機してもらっている。

 

 父には警察の到着を待つように言われたものの、比企谷君が様子を見に行くと言って聞かず、無理はしないという約束で様子を見に行くことになった。

 もし藤沢さんと留美さんを確認出来たなら、父から警察に出動要請をしてもらう手筈だ。

 

 私達は気付かれないように明かりを点けずに、歩いて例の建設途中のスーパーに近づいた。

 GPSの位置履歴があったのは地下駐車場への入口付近。ここに留美さんが居るか……少なくとも彼女のスマートフォンが有ることは間違いない。そして――

 

 

 

「やっぱりここだろうな。車が入って行った跡があるし、扉のチェーンも巻いてあるけど、鍵はかけてあるように見せて、ただぶら下げてあるだけだ」

 

「タイヤ跡が濡れているし……少なくともこの先に誰かが潜り込んでいることは確かでしようね」

 

 新築途中にしては薄汚れて見える、廃墟のような印象。工事が中断されて何年も経っているらしいから仕方がないのかもしれない。

 

 工事中断の経緯としては、系列店(グループ)の本店が震災の時の液状化で深刻なダメージを受けて、新規店舗の出店どころではなくなったという噂は聞いたことがある。

 

 幸い、入口付近に人影は無い。私達はすでに鍵の開けられている蛇腹のゲートを開き、あっさりと中に侵入する。スマートフォンのライトを点けて見回すと、スロープで下に向かっている駐車場への入り口と、入ってすぐ左にある鉄扉。比企谷くんが扉のノブを下げると、扉はゆっくりと開いた。

 

「階段……上下両方あるけど、とりあえず地下行ってみるか……」

 

 車が地下駐車場へと向かった形跡がある以上それが妥当か。

 

「それじゃ雪ノ下、下に行って俺が確認したことを連絡する。もし……5分間俺からメールもメッセージも来なかったら警察に入ってもらってくれ」

 

「え、貴方一人で行くつもりなの?」

 

「二人とも行っちまうと何か有ったときの対処が出来なくなるからな」

 

「……わかったわ。気を付けて」

 

「おう」

 

 そう言って彼は、携帯電話のライトを頼りに階段を下りて行った。

 

 暗さと静寂の故か、彼からの連絡を待つ時間がとても長く感じられる。

 

 留美さんたちは本当に下にいるのだろうか。可能性として、携帯電話だけを棄てられているという事もあり得なくはない。

 それにもし犯人が居たとして、比企谷君が見つかってしまうという事も…………。

 

 

 すっと扉が開く。比企谷君がほんの2、3分で戻って来た。何かあれば電話かメールが来るものと思っていたのだけれど。

 

「どうしたの?」

 

「いた。二人とも捕まってるみたいだ」

 

 少し興奮気味に話す彼。

 でも、留美さんは見つかってしまったのか。捕まった時酷いことされなかっただろうか。怪我は無いだろうか……。

 

「二人の様子は……?」

 

「いや、藤沢のほうはちらっと見えたが留美は声だけだ。あれ以上進むと俺も見つかるかもしれんから、その前にお前にメールしようとしたんだ。けど、電波が圏外になってたから、先に警察呼んでもらおうと思って一度戻って来た。俺はまた降りるから警察の方連絡頼む。多分犯人は男二人だ」

 

 そう早口で言うと、彼は言葉通りすぐまた下に降りようとする。何か焦っている彼の様子に不安を覚える。

 

「ちょっと、比企谷くん。無茶は……」

 

「心配するな。すぐにに警察が来てくれるんだろ? それを待つ。さすがに俺一人じゃ……。場合によっては、まあ、うん……」

 

『絶対に無謀なことはしない』と言い切らないあたり彼も正直だ。

 

「いいから待ちなさい。それなら、今度は私も行くわ。少しだけ待っていて」

 

 私は父に電話をかけた。

 

「父さん、比企谷君が確認しました。二人ともここに囚われているそうです。それから、犯人は二人組の男らしいと……」

 

 手早く比企谷くんが見た内容を伝え、警察の手配をお願いしてから、私は比企谷君の後について階段を降りる。

 比企谷君は足音を立てないようにか、やや腰を落とした体勢でゆっくりと階段を降りていく。

私も同じようにしているのだけれど、スーツはともかく皮のパンプスは音を消して歩くのには向かない。スニーカーでどんどん先へと進んでいってしまう比企谷くんを少し恨めしく思いながら、どうにか大きな音を立てることなく下の階に到達した。

 

 目の前には上と同じ形の扉。

 

 「ここ出たら狭いところを左に行く。周りの声とか確認しながら、急に止まるかもしれないから頭に入れといてくれ」

 

「ええ、わかったわ」

 

 私が頷くと、彼はスマートフォンのライトを消す。真っ暗になった中、比企谷君はゆっくりと扉を押した。

 

 扉を通り抜けた先は、ぼんやりと明るい。照明が点いているんだろうか。

扉から1メートルほど間を開けて、すぐ目の前がベニヤ板のような木製の壁になっている。よく見ると鉄パイプとクランプという金具で作られた支柱があり、仕切り板(パーティション)を並べたような構造になっているらしい。

 

 少し離れた場所からかすかに男の声が聞こえ、私は一瞬身を固くする。おそらく壁の向こう、犯人のものだろうか? 内容までは聞き取れない。

 私達は壁に沿って狭い通路をゆっくりと左へと進む。比企谷くんが立ち止まり、壁の端からそうっと顔を出して先を覗き込んだ時、

 

「……やめてっ……、……ないで……」

 

 留美さんの押し殺したような悲鳴が聞こえた。

 

 

 

 次の瞬間には、比企谷君はもう飛び出していた。

 

 こうなっては仕方がない、私も彼を追って壁の外に出た。

 視界が開ける。どうやら地下駐車場の一角を工事の現場事務所と休憩所として使用できるようにしているスペースらしい。鉄パイプの柱の上部に取り付けられた数台の投光器がこの辺りを照らしている。

 

 視線で比企谷くんを探すと、倒れている女の子に覆い被さっていた男を引き剥がし、地面に叩きつけるようにするところだった。

 あとは……少し離れた一角に藤沢さんが椅子に縛られているようだ。そのすぐ近くにもう一人の男。彼らがいるところに比べてこちらが暗いせいか、あるいは比企谷くんの方に視線が引き付けられているのか、彼が私に気づく様子はない。

 私は姿勢を低くして、比企谷くんのいる反対側から回り込むように藤沢さんの方へ移動を始めた。

 倒れていた女の子が顔を起こす。やはり留美さんだ! テープで縛られ、服も少し(はだ)けている様に見えた。比企谷君は留美さんのそばに寄って何か声をかけている。そして……首を押さえて激しくむせていた先程の男を、怒りを漲らせた顔で睨みつけ、相手が怯んだところを一切の躊躇無く蹴り飛ばした。

 比喩でなく一瞬体が浮き上がる程の蹴り。体は床に転がり、男の眼鏡がコンクリートの床に落ちる。のたうつようにして転がり、もう完全に戦意のない相手。比企谷君はしかし先程蹴った同じ場所を踏みつけるようにもう一度蹴りつけた。

 痛い! 思わず心のなかで悲鳴を上げた。誘拐犯のことなど(おもんばか)ってあげる必要も無いのだろうが……でも、これほどまでに暴力的な比企谷くんの姿は初めて見る。まさか彼にこんな一面があったなんて……。

 

 そんな彼の姿に唖然としていたのは私だけではないようだ。

 藤沢さんの横で今の今まで呆けたように突っ立っていたもう一人の男が我に返ったようで、慌てたようにポケットから小振りのカッターナイフを取り出し、怒鳴り声を上げる。

 

「お前、よくも!」

 

 男は、藤沢さんに背を向けて比企谷君の方に数歩踏み出した。 

 

 私はその隙を突いて藤沢さんの側に忍び寄った。彼女が気付いて目を見開き、何か言おうとしてしたのを、唇の前で人差し指を立てて制し、彼女を男から庇える位地に立つ。

 

 先ほど比企谷君が蹴った相手よりやや年上に見える男は、カッターを構えた右手を小刻みに震わせながら比企谷君と対峙したが……留美さんを庇うように仁王立ちする、彼の目を強く歪めた形相(ぎょうそう)に気圧され、逆に一歩後退る。

 彼の顔を見慣れた私にとっては、カッターナイフを前に緊張して、その上、逆光気味の投光器が眩しくて目をしかめているだけだ、というのがなんとなく分かるのだか……。彼を知らない人間が、先ほどの、容赦の欠片も無い攻撃を目の当たりにした上で()()を見れば、地獄の底から蘇ってきた悪鬼が「さて、お前をどんな残虐なやり方で殺してやろうか」と、品定めでもしている顔に見えなくもない……。

 

 いえ、その……貴方その顔もう少し何とかならないのかしらね。

 

 

 

 そのタイミングでパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。酷く動揺した様子を見せる男。

 この犯人が自棄になったり逆上しないよう、警察の到着まで場を持たせるには……。

 

「……全く、すぐに警察が到着するからタイミングを待とうと自分で言っていたのに……。……でもまあ、今のは仕方ないかしらね。それにしても、最後のは流石にやり過ぎじゃないかしら」

 

 私が不安や緊張を押し殺し、まるで日常会話をするかのように余裕な風を演じて声を上げると、男はいきなり現れた私に混乱し、どうして良いのか分からない様子で動きを止めた。視線だけがせわしなく私と比企谷君との間を行ったり来たりしている。

 

 そうしているうちにサイレンの音はもうはっきりと響くようになった。

 

「畜生っ、何で俺はいつもいつもこんなに上手く行かないんだよ……」

 

 愚痴でも言うようにぼやいた男は、私の方へカッターナイフを向けた。

 

「なあお姉ちゃん、頼むから動くなよ。大人しくしてくれれば怪我をさせるつもりは無いから」

 

 その言葉は何故か泣き出しそうな声に聞こえた。男は比企谷くんを警戒しながらジリジリと私に近づいてくる。

 警察がすぐそばまで来ている現状では……まあ()()比企谷くんと私、必ずどちらかの相手をしなければならないとしたら、女性である私を捉えて人質に、とでも考えたのかもしれない。

 

 見ていれば分かるが、彼の動きは素人だ。もし私を捕らえようとしても躬すのは難しくないだろう。

 でも今、私のすぐ側にはまだ縛られたままの藤沢さんが居る。もし刃物をめちゃくちゃに振り回したりされでもしたら彼女に危険がおよぶ可能性がある。

 

 どうする?

 

 下手に刺激しないようじっとしていると、男が私の間合いに入る直前、視線の先――男の背後にいる比企谷くんと目が合う。それが合図であるかのように彼の右手がすっと弧を描いて動いた。

 彼の手から放たれた()()はふわりと(くう)を飛び、男の足元すぐ横に落下し、「ガチャーン」と大きな音を立てた。

 

「うっ!?」」

 

 予想外であろう出来事に男は飛び上がらんばかりに驚き、何事かと己の足もとに転がる工事用の部品(クランプ)に目を向け――完全に私から目を離した。

 

 私は男に向かって一歩踏み込みカッターナイフを持つ手の手首を掴んだ。あとは相手の肘を支点にするように押し込みながら、その手首を本来曲がらない方向へと強くひねる。男は痛みに顔を歪め、自分で崩れるように一回転して背中からコンクリートの床に倒れた。無理に抵抗すればきっと腕が折れていただろう。

 そしてその手からナイフがぽとりと落ちる。私はそれを取り上げ、駐車場の隅の暗がりへと放り投げた。

 

 急に駐車場の奥のほうが明るくなり騒がしい声が響く。大勢の人と、それからパトカーらしき車も入ってきたのが見える。警察が到着したらしい。

 

『警察だ! もう逃げられないぞ。直ちに武器を捨てて…………』

 

 拡声器から聞こえる大げさな言葉。あのお巡りさんはドラマの見過ぎじゃないだろうか。

 それでも効果は有ったのか、床に転がって呆然としていた男は、観念したように目を閉じる。

 

 比企谷くんと目が合う。彼はホッとしたように大きなため息をついた。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

「留美、大丈夫か?」

 

「は……ちまん……」

 

 比企谷くんが声をかけると、留美さんは安心したのかポロポロと涙をこぼす。

 

「バカ野郎、動かないで待ってろって言っただろ。なんで無茶したんだ!」

 

 彼の口調は乱暴だが声音は優しい。留美さんを気遣うようにしながら手を縛っていたテープを剥がしている。

 

「ごめんなさい……。でも、あいつ、泉ちゃんの指を折るって……泉ちゃんの……。そんなの――そんなの絶対だめ……でも、私しかいなくて、だったら私がやらなきゃって、なんとかしなきゃって……」

 

 その言葉に私は息を呑む。それはまるで…………。

 

 比企谷君はまた一つため息をつくと、

 

「立てるか? 留美」

 

 そう言って留美さんに手を差し出す。けれど彼女はその手を取るのを躊躇っているようだ。

 

「八幡……」

 

 彼を見つめたまま何かを葛藤する瞳の色。声も、その手も小さく震えている。

 

 想像するしか無いが、たとえ仕方がなかったとしても、自分が嬲られて弱っている姿など彼には見られたくなかったのだろう。

 

 すると比企谷君は留美さんの腕を持って引っ張り起こし、彼女の背に腕を回して彼の胸に抱き寄せた。

 

「あ……八幡……」

 

「大丈夫、もう大丈夫だから」

 

 だから泣くな。そう言って比企谷くんは小さい子を慰めるみたいに留美さんの頭を優しく撫でる。留美さんからは見えないだろうが、彼の目にも大粒の涙が光っている。

 

 ああ……本当に心配していたんだな、安心したんだな……。

 

 留美さんは彼の胸の中でしゃくりあげるように声を上げて泣き、比企谷くんは彼女のしたいままにさせている。

 

 不謹慎だと分かっているが、彼女のことを少し羨ましく思えてしまった。

 

 そんな彼らの様子を眺めていたら、留美さんが顔を起こしたタイミングで彼女と目が合ってしまった。比企谷くんを挟むような位置で見つめ合うこと数秒。

 うわ……。羨ましそうに見ていたことに気づかれてしまうだろうか? 私は苦笑いしながら視線をそらし、少しその場を離れる。

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 女性警察官に事情を聞かれていた藤沢さんの様子を見に行ってみたが、こちらはまだ何かを相談しているところだった。保護者であるお母様が今日本にいないらしい。

 結局、彼女の従姉である現総武高校生徒会副会長の藤沢さんと、伯父に当たるそのお父様が迎えにきてくれることで落ち着きそうだった。

 

 

 

 ふと顔を上げると、犯人二人が今まさに連行されていこうとしている事に気付く。

 私は彼らに声をかけようと近づいた。

 

「少しだけいいかしら」

 

「下がってください、だめですよ」

 

 最初は制服の若い警察官に制止されたが、

 

「あんた確か、雪ノ下先生んとこの……。いいでしょう。手短にお願いしますよ」

 

 どうやら父を知っているらしい年配の刑事さんが許可をくれる。

 

「ありがとう」

 

 そして私は彼らの前に通された。なんだかすっかり諦めた様子で実におとなしくしている二人。私は年上の方に声をかけた。

 

「怪我はないかしら?」

 

「ああ、あっちこっち痛えが、俺は大したことねえ。タクのほうはアバラにヒビ入ってるかもしんねーってお巡りさんが言ってたな」

 

「はい社長、めっちゃ痛いっす……」

 

「そう……でも、その程度で済んで良かったわね。彼の大切なものを傷つけて……警察が来るのが遅かったらこんなものでは済まなかったでしょうね」

 

「おお。まあアイツがヤバいのは目を見りゃ分かる。あの何人も殺ったような目……何者なんだ……?」

 

「それは……私の口からは言えないわね。とにかく金輪際彼らとは関わらない事をおすすめするわ」

 

「分かってるよ。好き好んであんなのと関わるやつはいねえって」

 

 男は比企谷くんの方をちらっと見て、やれやれというかのように小さく首を振った。

 

 ふう、こうやって釘を刺しておけば、逆恨みでトラブルになったりする心配がいくらかは減ると思うけれど……ちょっと大げさに言い過ぎたかしら。

 

 

 

 * * * * * 

 

 

 

「ありがとうございました」

 

 比企谷くんが父に向かって深々と頭を下げる。

 そんな彼の姿を見た父はわずかに苦笑して、

 

「私だけじゃないよ、君の名前を聞いて彼が手伝いたいと言ってくれたからね」

 

 そう言って運転手の吉村さんへ視線を向ける。

 

「あ……」

 

 そこで比企谷くんはようやく気がついたようだ。きっと今までは留美さんたちの事を心配するのにいっぱいいっぱいで、運転手である吉村さんの顔など見ている余裕がなかったのだろう。

 ちょうど三年前、私と由比ヶ浜さん、比企谷くんとを引き合わせた最初の邂逅となる交通事故。その時もこの車を運転してくれていたのが他ならぬこの吉村さんだったのだ。

 

「比企谷くん、あの時は申し訳なかったね」

 

 吉村さんはどこか懐かしそうに声をかける。

 

「そんな……あれは俺が勝手に突っ込んだだけで、運転手さんにはなんの責任も……」

 

「そう言って、君も、君のご家族も私を責めなかった。それが私や家族にとってどれだけありがたかったか……。それに、」

 

 一度言葉を止めた吉村さんが、比企谷くんをまっすぐ見て言う。

 

「うちも犬を飼っていてね、彼は家族の一員なんだ。だから……あのお嬢さんの家族を奪うことにならずに済んだことを、本当に……本当に感謝してるんだよ」

 

 一瞬言葉に詰まったように見えた比企谷くんは、父と吉村さんに向かってもう一度深く頭を下げた。

 

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 

 父の車が去り、残された比企谷君と私。この後私達は藤沢さんや留美さんと一緒に事情を聴かれることになっている。

「車の用意が出来ましたら声をお掛けしますから」と言われてそれを待っていると、

 

「……無茶なことされるのって、キツいんだな……」

 

 彼が肩を落とすようにしてため息をつきながらボソッと言う。

 

「比企谷君……?」

 

 

 

「前に……修学旅行の時か。お前と由比ヶ浜に言われたことあっただろ、たしか『貴方のやり方、嫌いだわ』とか『もっと人の気持ち考えてよ』とか」

 

「……ええ」

 

「あの時の言葉の意味……分かったつもりになってたんだが――」

 

 彼は、私と目を合わせるでもなく、独り言のように続ける。

 

「あいつの……留美の行動は無謀だったし、もっと上手いやり方があったのかもしれんが……それはあくまでも後から見た結果論で、無茶したのは友達のためだし、何か責められるようなことをした訳じゃ無い。自虐的に突っ走っただけの俺なんかより遥かにマシだ。そんな事は分かってるんだ、頭ではな。でも俺は……」

 

 彼はそう言ってガシガシと頭を掻きながら、何かを振り払うように頭を振る。

 

 誰かのために今動けるのが自分だけ、という状況が目の前にあったとして、その時、自分自身の事を顧みないで行動してしまう――そんな危うさを持つ少女。

 

 林間学校の時、自分を苛めていた友人たちにさえ助けの手を伸ばした少女……留美さん。

 

――似ている。心の在り方が……彼、比企谷君と。

 

 そう、だからきっと二人は惹かれ合うのだろう。

 

 今回の留美さんの無茶な行動は、ある意味高校生の頃の比企谷君のそれの鏡写しのようだ。

 自分の過去の影ともいえる留美さんの行動と客観的に向き合ったことで初めて、彼は、「自分が大切に思っている誰かが、己を顧みないような無茶をした」事への、どうしようもない――焦燥感のような憤りを感じているのではないだろうか。

 

 かつて、私や結衣さんが彼に(いだ)いた気持ちと同じように。

 

 比企谷君がその心境を分かってくれたことには……(ようや)く伝わった、という安堵したような気持ちと、彼をその気持ちに至らせたのが私でも結衣さんでもなかったという何処か寂しい気持ちが、ない交ぜになって胸を満たす。

 

 本人達は気付いているのかいないのか、少なくとも、今、比企谷君にとって「一番大切な女の子」は間違いなく留美さんだ。

 そう認めてしまうと、私の心の中で鈍く疼くような痛みが生じるけれど……同時にほっとしてしまっている自分にも気付いてしまう。

 気分は悪くない。けれど何処か切ないこの気持ちは――?

 

――私たちには辿り着けなかった。でも――

 

 留美さんなら……何処までも真っ直ぐに彼の心を見つめている彼女なら、比企谷君の求める「本物」の存在になれるんだろうか。

 

――そうであって欲しい。

――でも、そうなって欲しくない。

 

 二つの相反する想いが心の中で共存していることに、しかし不思議と納得している私がいる。

 

 

 

 

――いつか、私を助けてね。

 

 比企谷君は、私のあの時の言葉に応え、もう充分に助けてくれた。

 今私が、確かに自分自身の足で立っていると実感できているのは彼のお陰だ。ずっと隣を歩んで行けないのは寂しいとは思うけれど、これからも彼が私にとってかけがえのない大切な存在の一人であることに何ら変わりはない。

 

 だから……これで良い。きっとこれが正解だ。

 

 私がぼんやりとそんな事を考えていると、中学生二人への警察の聴取が一段落したようだ。

 藤沢さんは誰かと電話で話している。留美さんは比企谷君に駆け寄って来ると、幼子のように彼の服の裾を掴んだまま小声で何か話している。

 

「……は、ごめ……なさい……」

 

「……丈夫だから。けど、また一人で……のは勘弁な」

 

 留美さんが何かを謝って、彼がそれに短く言葉を返している。

 ごく自然に二人で並び居る彼らの様子を眺めていて……いつの間にか澄んだ気持ちでそれを見ることが出来ている自分に気付き、自然と笑みが漏れた。

 

「ん? どうした雪ノ下?」

 

「……何の事?」

 

「いや、なんか笑って……」

 

「ほっとしたというか……安心したからよ、きっと」

 

「安心……まあ、うん、そうだな」

 

 比企谷君は解ったような解らないような顔をして、曖昧に微笑う。

 

 ふふふ、そうよ、安心したの。多分……自分自身に、ね。

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 その後、藤沢さんと留美さんは念のため病院へと向かうことになった。彼らの保護者がまだ到着していないこともあり、私と比企谷君も一緒だ。

 彼女たちの診察を待ちながら、警察の方に追加で事情を説明し、それから到着した留美さんのお母様や藤沢さんとも少しお話をして……。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 全てが終わり、帰りの車中。まだ電車は動いている時間だったけれど、流石に疲れていたので、比企谷くんと二人でタクシーを使うことにした。

 彼は今夜は実家の方に泊まることにしたというので、そちらに寄ってから私の家へと向かうコースだ。

 

「雪ノ下……今日はありがとな」

 

 隣りに座った比企谷くんがボソリと言う。

 

「お礼なんて……。貴方もお疲れ様ね、今日は大活躍だったじゃない」

 

 私が少しからかうように言うと、

 

「活躍っつうか……こういう冗談にならん事件みたいなのはもう勘弁してほしいわ……」

 

 彼は苦笑しながらも、心底疲れたという風にシートにぐてっと体を投げ出しながらそう言った。

 

「本当に、ね」

 

「……まあ、こんなことそうそう有るもんじゃ無いだろうけどな」

 

「…………」

 

「…………」

 

「そういえば、雪ノ下の親父さん、講演会とか街頭演説とかで話すときと……口調というか、雰囲気もずいぶん違うよな?」

 

「父様……父はTPOや相手によって口調が結構変わるの。意図してやっているというより無意識にそうなってしまうと聞いたわ。もう職業病のようなものね」

 

「へえ……まあ、俺たちだってそういうとこはあるしな」

 

「可笑しいのは、母さんと話すときが一番丁寧な言葉になることかしら?」

 

「ふっ。……いや、分かる気がするわ。怖いし」

 

「あら。じゃあ母にそう伝えておくわね」

 

「おま……ホント勘弁してくださいお願いします……」

 

 その後も、ぽつりぽつりとなんでもない言葉を交わすだけ。でもそれが心地よいのだから不思議だ。

 この時間になると、朝夕は大渋滞する幹線道路も流石に空いていて、さほど時間もかからず比企谷くんの家に到着した。

 

「あ、金……」

 

「大丈夫よ、今日はタクシーチケットを使うわ」

 

「そうか、悪いな」

 

「ええ。じゃあ()()

 

「おう、()()な」

 

 ドアが閉じ、車がすっと走り出す。

 

「『またな』……か」

 

 はっきり何時(いつ)と言うわけではないけれど、次回を約束する言葉。彼とその言葉を当たり前のように交わし合う関係であることが今日は無性に嬉しいと感じる。

 

――ええ。またね、比企谷くん。

 

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 

 チケットに日付と金額を書き込み、サインして運転手さんに渡す。

 タクシーを降りると雨はすっかり上がっていた。雨後の湿気のせいか、通りを遠くまで立ち並ぶ街灯は丸くもやがかかったような光を放っている。

 

「はぁ…………」

 

 やけに永く感じた今日という一日がようやく終わる……。私は深呼吸するように一つ大きなため息をついた。

 

 明日は土曜日で講義も無いし、父の事務所でも大きな予定は無かったはず。

 

 ならば――そうね、明日の朝は目覚ましのアラームをセットせずに、ゆっくり朝寝坊でもしようかしら。

 

 

 

 

 

 




 
本人は割り切ったつもりでも、諦めきれてはいなそうなゆきのん。

どもども、改めてお読みいただきありがとうございました。

いよいよ最終巻が発売されますね! 最寄りの本屋さんではもう本を並べるためのスペースが確保されているのですが(早い!)そこには予告ポップが置かれていて、

「いよいよ最終14巻 11月19日『今度こそ』『本当に』発売!」

となっているのを見て笑いました。

この「そして鶴見留美は」幕間じゃない本編の方もちまちま書いているんですが、重要なセリフがいまいちハマりません。

いっそ最終巻を読んでから書き直そうかなんて考えてもいます。
一部書き直しか、全部書き直しか……。

仕事のほうがだいぶ落ち着いてきたので、今回ほどお待たせすることは無いと思いますが、今後とものんびりお付き合いいただけると嬉しいです。

ご意見・ご感想お待ちしています。


ではでは~

11月17日 誤字修正 コリン様ありがとうございます。

11月18日 誤字修正 reira様ありがとうございます、

11月19日 誤字修正 clp様ありがとうございます。

P.S. 以下はただの愚痴なので興味ない方はスルーしてください。

オリンピック級のイベントの計画を、一年を切ってから変更するとか本当にやめてほしいです!
人員とか機材の確保とかにはお金も時間もかかります。一年も二年も前から調査・計算・準備してきたものが全く使い物にならなくなるのはあまりにも酷い。
これが東京→千葉とかなら、まだ人や機材の移動も可能でしょうが、流石に札幌じゃどうしようもありません…………。選手の体調を考えて、というのは理解はできるんですが、だったら最初から「東京で8月」という日程をなんとかしてほしかったですね。

特にマラソンは、チケットを買えなかった市民がほぼ唯一オリンピックの空気を肌で感じることが出来る競技なので……。実際これが無くなると、チケットを持ってない人間にとって、結局競技はテレビで見るだけのオリンピックになってしまい海外でやってるのと変わらない感じになっちゃうんですよね。
いやもちろん、お祭りの雰囲気を楽しむとかそういうのはあると思うんですが。

駄文すいませんでした。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。