その日は、何週間かぶりにクロエ・フォン・アインツベルンがレイシフトに加わっていて、代わりのようにパルスの弓兵は休みをもらっていた。とはいえ、元々一人で楽しむような趣味は持たない身の上のこと、誰かいないかと書籍の二、三も持って食堂に陣取っていた。
けれどゴールデンな
これなら書斎にいればよかったかもしれない、と誰に言われるでもないというのに締め切りに追われる二人のことを思いながら、コーヒーの一杯も飲もうかとアーラシュは席を立った。
「お、先客か」
「……アーラシュさん」
そこにいたのは、白髪の青年だった。医務室に常駐している彼の髪が元々銀白色であったのか、それとも生前の心労で色が抜けたのか知るものは当時その国にいた数名のサーヴァントだけだろう。
「ああ。……なあ、今、暇か?部屋に引きこもってるのもなんだからと出て来たはいいんだが誰もいなくてな……」
「ええ、まあ。マスターたちが戻ってくるまではまだしばらくありますから。……コーヒーでも淹れましょうか」
「お、頼むわ。いやあ、俺飲み物淹れるの下手でなあ」
弓兵よりも執事が似合うと言われる双剣使いほど手慣れた仕草ではないものの、シャルル=アンリ・サンソンはひどく丁寧にコーヒーを淹れる男だった。医者として働くときですら自らの施してきた人の死から逃れることのない彼も、ただ一杯のコーヒーと一冊の本でただの青年になることができた。その、第二の生のほんの何パーセントかの時間を彼は愛していて、だから少しでも丁寧に豆を挽いて湯を注いだ。
血と叫びの染みついた手でも、時間をかければおいしいコーヒーとしあわせな時間を生めると信じて彼はミルの把手を回す。
少し焦げたような独特の香りが、砕けて粉末となった種子から漂う。電気ケトルから注がれた湯は、渦を巻いてフィルターを越えていく。一瞬水分と空気でふくれあがった焦茶の山がしぼんで、マグカップになみなみと注がれたコーヒーが二つ。
戸棚から常備されているクッキーを数枚回収してきた弓兵と目を合わせて、医者になりたかった男は厨房から一等近いテーブルまでマグを運ぶ。向かい合って座ったところで、何を話そうかと互いに迷っているのは明白だった。
「その、一つ相談があるんだ。俺はどうにも何人かに避けられているようでな。……何かしてしまったんじゃないかと不安になる」
口火を切ったのはアーチャーの方で、それは合理性を重んじる羊飼いからすれば馬鹿馬鹿しくなるような悩み事の話であった。何もしていないことは分かっている。なぜ避けられているかも、なんとはなしに理解している。アーラシュ・カマンガーは弓兵の一つの極致であると言えて、その有り様だけでどうしようもなく抉られる人間も英霊もいるのだろう。彼自身、トロイアの王子やあるいはローマの将軍の在り方を羨んだことがないとは断言できない。そして遠くから攻撃する者ばかりのため、騎士のような有り様からは遠い者がアーチャーのクラスには多い、とそれだけの話だった。
「それは、……そうですね。僕も、あなたのような英雄にあこがれと負い目を感じないとは言えません」
いったんは口元に持っていったマグカップを下ろして、ムッシュ・ド・パリはそう言った。処刑人になるべくして生まれ、そしてその役割に耐えきることすらできなかった。そんな彼からしてみれば、神代の肉体を与えられそれすら使い潰して国を救った存在が眩しくないわけがなかった。自分は法に従って機械となることはできなかった。けれど、たとえば、たとえば若き日の、まだ一介の弁護士だった頃のロベスピエールのように理想と希望に燃えて人々の幸福を求めることもできなかった。
「……僕は正義ではなかった」
「善き者ではなくとも、法の刃くらいは名乗っても良いのではないかと思ったのですが……見当違いだったのでしょうね」
それは一時的に協力を仰いでいるランサーのことだろう。正義の者でなければ共に行動できないと言い張る彼に、シャルル=アンリ・サンソンは認められなかったのだ。
けれどもそれは目の前のアーチャーも同じことだと、王室処刑人は気がついているのだろうか。義務感からなる救済がかの公爵からすれば正義ではないのだとしたら、それはこの弓兵も同じだった。
「……公爵殿の判断が絶対というわけでもないだろう。それこそ、マルタからは受け入れられているように見えたけどな」
けれどもそんな、届くかどうか見てもいない異教徒の言葉が敬虔なキリスト者の心に響くわけがなかった。
「いえあれはただ、……ただ、救いを探していただけなんです」
死による安寧は救いではないのだろうか。それこそは処刑人と聖女が考えていたことだった。本来なら、どのような死に様であったところでこの世の終わりには二度目の生が訪れるはずだった。けれど今、人類がその歩みごと滅ぼうという時になってもまだ、彼らの主は手を差し伸べずにいる。滅んでしまうことが救いであるなら、彼らのマスターが足掻いている道理はない。けれど仮に死の向こうには何もなく、それは救いではなかったのだとしても、それでもサンソン家の男が今更それ以外の方法を選ぶことなどできようはずがなかった。
「救い、か」
「はい」
「あなたは、国を救ったのでしたか」
どうしてだろうか、アーラシュはその言葉をすぐには肯定できなかった。自分の行為によってパルスがその版図を保ち、あまつさえ広げたことは知っていた。けれどアーラシュ自身がそうなった祖国を知っているわけではない。そのうえ、アーラシュは民衆というものが十分に強いものだと知っていた。国の名が変わったくらいで、支配者が変わったくらいで、彼らが滅んでしまうことなどないと分かっていた。だからだろうか彼はその一矢を、救済と呼ぶことができなかった。
そうだな、と彼は言って、口元にコーヒーを運んだ。けれどもそれは誰にとっての救いであったのか、名も顔も知らない「国家」というもののために死んだ男には分かっていない。後悔はない。再び同じことになっても、迷いの余地なく同じことをする自信もある。けれどもそれが救済と呼ぶに相応しいものだったのかどうかは、放たれた矢に分かることではなかった。
女神アールマティの矢を放ったことに思うことはない。それは彼自身が望んだことだった。家族も部下もトゥランを相手に死んでいった。マヌーチェフル王の支配を終わらせずにそれを止められるのは自分だけで、その時は確かにそれを望まれていたのだろう。アーラシュ自身もそれを望んでいたのは確かだった。それだけは確かだった。
「そういうことになるんだろうな」
ココアパウダーと苺ジャムの混ぜ込まれたクッキー生地は市松模様で、この数日でやってきた二人のエリザベート・バートリーが赤い上着の弓兵に教わっていたものだ。そんな他愛もないものにすら血の赤を連想してしまうのがシャルル=アンリという人間で、その嫌悪すら見透かしてしまえるのがアーラシュという存在だった。
あの人はなぜあんなくだらないことを気にすることができたのだろう、と処刑人は
「……王の死、か」
「何か、言いましたか?」
弓兵の言葉はテーブルの向こう側までは届かなかったようで、焼き菓子に手を伸ばした青年は不思議そうに首をかしげた。彼を
自分は、自分の死は彼らに幸福を運べたのだろうか。アーラシュ・カマンガーの生涯最後の一矢は、あの兵の、あの少年の、生を伸ばすことになったのだろうか。それなら良い、と彼は言い切ることができる。できてしまう。それはひょっとしたらフランス最後の王妃にも似た在り方なのかもしれない。顔も名前も知らない民衆の命と心のために自身のすべてを捧げることができてしまうと言う意味で、彼と彼女はよく似ていた。
「ごちそうさまでした。そろそろ僕は医務室に戻ることにします」
マグカップを置いて立ち上がると、医者になりたかった青年はそう言って一礼して食堂を出て行く。ぐい、と残った液体を飲み干してアーラシュもまた立ち上がり、食器を片付けにサンソンとは反対のドアへ向かった。
御伽噺の英雄に憧れた覚えのない処刑人は、その心を王と民のためにすり減らして捧げた。シャルル=アンリ・サンソンは
御伽噺の欠片を授けられた弓兵は、その体を国と民のために砕いて捧げた。アーラシュ・カマンガーはカルデアにいたりうる英雄を殺して、しかしそれとは無関係にこの場にいる。