◆夏の嵐 SUMMER STORM
【1】
結城晶とジャッキー=ブライアントがドイツのライン川沿いの街でばったりと顔を合わせたのは、全くの偶然だった。
晶は、妹の葵が以前ホームステイで世話になった家族に礼がしたいから、一緒に来てくれ、と半ば強引に連れて来られていた。一方のジャッキーは、洗脳状態から脱した際の一時的記憶障害に陥っているサラの転地療養を兼ねてのヨーロッパ旅行の最中であったのだ。
久し振りの再会に、食事を終えた二人は、互いの妹を一緒に遊びに出させて、イギリス風のこじんまりとしたパブに腰を落ち着けた。そこは、カウンターとテーブル席を合わせても二十人そこそこしか入らない程度の店だったが、奥に小さなステージがあり、ピアノが一台据えてあった。今は誰も演奏していない。
「しかし、まさかこんな所で会うとは思わなかったよな」
ジャッキーが、スコッチのオンザロックを嘗めながら言った。
「全くだ。特に俺は、来たくてドイツまで来た訳じゃ無いからな」
晶は、同じスコッチをショットグラスで呑んでいる。
二人で、再会までの話をうだうだとしている間に、ステージにスポットライトが当てられた。そこに、白いイブニングドレスを着て出て来た女性ピアニストは東洋人だった。ゆっくりと腰を掛け、演奏を始めた。
「へえー、こんな所で、日本人かな?日本人のピアニストとは、珍しいな。なあ、アキラ」
「んー……ああ……」
ジャッキーの言葉に、何故か晶は反応が鈍い。
「どうした、アキラ」
言いかけて、ジャッキーは晶の視線に気付いた。晶はピアノを弾いている女性の横顔を、瞬きもせずに見つめていた。
「何だ、アキラはああいう女性がタイプか。まあ確かに、はかなげで美しい女性だけどな」
ジャッキーは笑って言った。晶も薄く笑う。
「確かに美人だし好みだが、それだけじゃ無い」
「何だって?」
「俺の知り合いの女性に良く似ているんだ、彼女」
「知り合い?日本でか?誰だいそれは。どんな話なんだ?良かったら、聞かせてくれよ」
ジャッキーは興味津々で身を乗り出した。それに対して、晶は椅子の背もたれに寄りかかって、ショットグラスを空けた。
「別に話してもいいけどな…。随分昔の話だぜ?」
晶はそう言うと、更に一杯呑み干した。
「あれは、俺が高校に入学してすぐくらいだったかな…」
晶は、女性のピアノに乗せるように、訥々(とつとつ)と話し始めた。
×
「おい、結城、中坊ン時にちょっとばかり鳴らしたからってイキがってんじゃねえぞ」
俺、結城晶を五人の上級生が取り囲んで凄んだ。
俺は、三日前にこの高校の入学式を終えたばかりだ。まだ八極も知らず、結城武館の長男として柳生心眼流を中心に修行をしていた頃で、中学の時から、「普段は静かだが、怒らせると怖い奴」で通っていた。
特に番長グループに入るとか、ボーヤンやってバイクで走り回る、などはしていなかったが、その筋には結構名は売れていた。
俺としては、そんな連中とは関わりたくは無かったが、ケンカに強い、というのは良くも悪くも目を引くらしい。今日もさっそく不良グループからお声が掛かった、という訳だ。
「別に俺はイキがってるつもりは無いっスけど」
俺は憮然として言った。
「その態度がイキがってるっつってンだよ!」
全員二年生である。この学校には、二つの番長グループが並立していて、上手い事バランスを取っている。周りの学校の勢力と比べると、ひとつひとつでは少々弱いので、対外的には協力体制を取っているらしい。ま、そんな事はどうでも良いが。
「鬼頭さんが、おめえの事を気に入らねえらしいんでな。ちょっくらシメてやんよ」
先輩が、怖そうな表情で言う。
「止めといたほうがいいっスよ、先輩」俺は本心から言った。「無理しない方がいいっスよ」
「なめんなコラアッ!」
先輩さんは、俺の親切を無視して、いきなり掛かって来た。大きく右手を振りかぶる。俺は、その手を見切ってかわしつつ踏み込んで、掬い打で下から打ち上げた。〝鉄菱〟とも言われる中指拳が彼の鳩尾に深々と刺さった。蛙の様な声を上げて、彼は俺の足元に倒れ込んだ。
「あ、てめえ!」
「やる気か?」
二人がすぐに動いた。二人同時に殴りかかって来るので、八点流で横にさばいて、二人の真横に立ち、重ね当で二人一度に吹っ飛ばした。
残りは二人。うち一人が前蹴り(というよりケンカキック)を出して来た。力んで無茶苦茶な蹴りだったので、あっさり八点流でさばき、一歩踏み込んで顎打を決めた。顎打は投げと打撃が一体となった技だ。相手は半回転して床に叩き付けられた。
最後の一人は、オロオロするだけで完全に度を失っていたので、俺は構わず蹴当を腹にめり込ませた。
ものの三分と経たないうちに、五人とも床にのたうち回っていた。
「だから言ったでしょう、無理しない方が良いって。カメガシラさんにも言っといて下さいよ。放っといてくれって」
「オニガシラだっ!」
苦しそうに、一人が俺の言葉に答えた。
俺は、そんな五人を放ったまま屋上を後にした。どうも、ケンカの相手としては普通の不良共は弱過ぎる。「根性」だの「バリバリ(?)」だのとほざいて、大した努力もしないくせに、「強い」「弱い」と騒ぎ立てている。はっきり言って、ウチの道場生二十人で掛かれば、この高校の不良グループぐらい一掃出来るだろう。
歯応えのある奴は居ないのか?
最近、そんな事も考える様になって来ていた。
家へ帰ると、じいさんが厳しい顔をして俺を待っていた。
「おい、晶、飯の前にちょっと道場へ来い」
昴じいさんは、年代モノのくたびれた道着を着込んで、有無を言わせず俺を道場へ引っ立てた。
「なんだよじいさん。俺は疲れてんだ。後にしてくれよ」
俺が今唯一敵わないと思うのは、このじいさんだけだ。俺には、じいさんの用が大体判っていたので、なおさら話は後にして…、本当は止めて欲しかった。
「晶、お前またケンカを買ってばかりいる様じゃな」
「俺は別にやる気は無いんだ。向こうが勝手に売って来るんだ。正当防衛だよセートーボーエー」
「別に儂は、お前のケンカを咎めとる訳じゃあ無いぞ」
じいさんは妙な事を言い出した。
「どうしたんだいじいさん。もう酔っ払ってるのかい?」
「黙って聞け。お前は、結城武館の長男だ。儂も、お前の親父も、一人の武道家としてお前を育てて来た。だから、武技を実際に振るう事については、特に目くじら立てて諫める事は無い、と思っとる」
「じゃあ、何だよ?」
「お前、最近弱い奴をぶちのめして楽しんでないか?」
じいさんは、鋭い所を突いて来た。俺の返事が一寸詰まる。
「べ…別にそんな事考えてねーよ」
「男たるもの、武道で身を立てる以上、より高みを目指さねばならん。それは、自分より強い男と闘って、より一層の強さを身に付ける、という事だ。雑魚を何匹始末した所で、何の利点も無いわい」
「で、何が言いたいんだい?」
俺は、じいさんとの会話に段々飽きて来た。思わず欠伸が出る。
「本当はな、そろそろお前に教えねばならん事があるんじゃが、今の考え方では、とてもそれを教えられん」
そのじいさんの言葉は、一気に俺の興味を引き戻した。
「何だよじいさん。その〝教えねばならん事〟っていうのは?」
「うるさい。それを教える為には、先ずお前の根性を叩き直さんといかんでな」
じいさんはそう言うと、どっしりとした山勢厳に構えた。
「一丁揉んでやる。来い」
有無を言わせぬ迫力があった。俺も嫌々ながら、中勢厳に構えた。やるだけやる気ではいたが、結果は見えていた。
×
「で、どうだったんだい、結果は?」
ジャッキーは、グラスを空ける事も忘れて、身を乗り出した。
「聞くなよ。大体想像は付くだろ」
ショットグラスを空けて、晶は呟く様に言った。
「じいさんにやられたのか?」
「しこたまぶん殴られて、その日は晩飯が食えなかったよ」
「おっかないじいさんだな」
「良く叩きのめされてたよ。日常茶飯事ってとこだけどな」
晶は手酌でスコッチを注いだ。注いだ手で、つまみのソーセージを取り上げ、口に放り込む。ピアノの曲は、四曲目に入っていた。
「なるほど、アキラのじいさんが厳しい人だってのは良く判った」ジャッキーもソーセージを口に放り込んだ。「それで、ピアニストに似ている女性の話はどうなってるんだい?」
「あ、ああ、その娘な。―――じいさんにぶちのめされてから、一ヶ月ぐらい後の事なんだがな。相変わらず俺は雑魚の不良共と一方的なケンカをやってたんだが、ある日、東京の高校から一人の女の子が転校して来たんだ」
【2】
「その娘が、あの女性と似ているんだな?」
ジャッキーがチラリと視線をピアニストに向けながら言った。
「ああ。何でも新宿の学校に通ってたらしいんだが、光化学スモッグで体調を崩して、転地療養で来たらしいんだ。確か、名前は―――」
×
「森川真琴です。よろしくお願いします」
彼女はそう言って頭を下げた。俺のクラス一年C組の皆さんは、「よろしくお願いします!」と、小学生の様におうむ返しに返事をした。田舎もんは元気が良いのである。
「じゃあ、結城君の隣の席に座ってもらおうか」
と、先生は彼女に席を指し示した。俺は、五十音でも最後になる上、体がでかいので、窓際の列の一番後ろの席に座っていた。隣の列は女子で、俺の隣は丁度空き席だった。
「失礼します」
控えめだが、はっきりとした口調で彼女はそう言うと、席に着いた。少々顔色が悪いのは、光化学スモッグで呼吸器系の疾患があるからだ、と先生が説明を加えていた。
「どうも」
俺はぶっきら棒に答えた。思わず見るとも無しに彼女の顔を見る。確かに顔色は良くないが、肩にかからない程度に切り揃えた真っ直ぐな黒髪と、大きな二重の目が特徴的な、内面的な健全さを感じさせる美少女だった。
俺のあからさまな視線に、彼女は顔半分だけこちらを向いた。
「なあに?」
「別に。かわいい顔してんなー、と思ってな。」
今にして思えば、何と露骨な答え方だ、と思うが、その時は素直にそんな台詞が出た。
「ありがと」彼女はニコリと笑った。「ねえ、結城くん、だったっけ。結城くんってさあ、あのおっきな何とかって道場の人でしょ?」
「え?何で知ってるんだ?」
「私が引越しして来た時、あの道場の前を通ったんだけど、その時に中で練習してる姿を見たんだ。で、今日学校に来てみたら、同じクラスじゃない。あー、この人だったんだ、って思って」
「ああ、この前二丁目の角のアパートに越して来たのは、君だったのか?」
「うん。だからご近所さんだね。改めてよろしく。私、森川真琴」
彼女はそう言うと、親指を立てて見せた。
「俺、結城晶。よろしく」
俺も、親指を立てて答えた。
真琴は、今までに無いタイプの女だった。
俺は、決してモテない訳では無かったが、特に女と付き合った事は無かった。何度か告白もされたが、大体の女は、俺と付き合うのを一種のステイタスの様に考えていたようで、別に付き合っている男が居ながら声を掛けてくる奴もいた。女っ気が無くて、不良共にも幅の利く俺に、何か変なイメージを持っていたらしい。で、そんな女に限って妙に媚を売って来たり、猫なで声で甘える様な態度で俺の気を引こうとするのだ。俺にとっては負担でしかない。
しかし真琴は、『友人』という関係を崩す事無く、ある一定の距離を保つ事で、二人の間の健全な友情を維持する事の出来る、さっぱりした性格の持ち主だった。
真琴は誰とでも仲良くする事の出来る、特殊なキャラクターを持っていた。ヤンキー女は別にして。
ただ、そんな真琴も、常に行動を共にするのは俺だった。家も近いし、体が弱いので何かの折には俺がすぐに自宅に送る事も出来るので、便利が良いのだろう。朴念仁な俺は、それくらいに考えていた。
そんなある日、帰ろうとしていた俺と真琴の前に、長ランを着込んだ二年生が立ちはだかった。見るからに応援団員である。
「結城晶だな?」
「江川卓ですけど」
「団長がお呼びだ。付いて来い」
先輩サンは俺の茶々を無視した。顔色一つ変えない。
「有無を言わさずって奴っスか」俺は呟くと、心配そうな顔の真琴を振り返った。「先に帰ってな。俺はちょっと用事が出来た。気をつけてな」
「結城くんこそ……」
今いち状況を把握し切れていない表情で、真琴が言う。
「別に大した事じゃないさ。じゃ、行こうかセンパイ」
俺と先輩サンは、真琴を残して歩き出した。
「よう結城、良く来たな」
応援団長の萬河サンは、デカイ机に足を投げ出して、大イバリで座っていた。
「何か用ですか、団長、いや番長のマンコウさん」
俺がそう言った途端、件の先輩サンに頭をひっぱたかれた。
「マンカワさんだ」
「お前、本当にいい度胸だなあ」
萬河はそう言って笑った。同じ高校生とは思えない。そこらのドカタのおっちゃんと大して変わらない。
「で、何の用なんスか?シメるとかほどくとか言う奴っスか?」
「おいおい、誤解しないでくれ」萬河はそう言うと、おもむろにショートピースを咥えた。横に立っていた付き人みたいなのが、素早くライターで火を付ける。「俺はな、鬼頭と違って、そんな無駄な事はしねえよ。確かに生意気だが、それよりも俺はお前の力を買ってるんだよ」
「どう言う事っスか?」
「お前のケンカ強さは、お前が中坊ン頃から良く耳にしてたよ。俺の舎弟の一人も、ほれ、『国一抗争』ン時に、お前にぶちのめされてボロキレみてーにされたからな」
「あー。あの時は手加減しなかったからな」
「でな、お前に提案があるんだ」萬河はそう言うと、ショートピースの火を指先でもみ消した。「俺達の仲間にならねえか?」
「あんたらの仲間になって、俺にどんな得があるんスか?」
「俺の右腕になり、鬼頭を押さえ、鎌倉を押さえ、終いには神奈川を押さえる。そうすりゃ、何でも思い通りになるぜ。金でも女でも何でもな」
「へー」俺は肩をすくめて、気のない返事をした。「そりゃあ凄い、と言いたい所だけど、生憎そんな物には興味が無いんスよ。だから、俺の得にはならないっス」
「そうか?一度力でまとめてしまえば、以後二度と厄介事に巻き込まれる心配も無くなるぜ」
「俺は別に厄介事に巻き込まれたって考えた事は無いっス」
俺は即答した。何を言われようと、その気も無いのにヤンキー共とつるむ気は無い。
そんな俺の答えに、萬河は小さく肩をすくめた。
「そうか・・・。残念だな。お前なら、神奈川、いや関東中に名を売る事だって出来るだろうになあ」
「あんたの片棒を担ぐ気は無い」俺はピシャリと言った。「用はそんだけっスか、だったらもう帰りますよ。もういらんお節介は無しにして下さいよ。じゃ」
俺は言いたい事だけ言うと、萬河に背を向けた。
ドアの前には、いかつい顔をした団員が四人立っていた。
「おい結城、あんまりイキがってんじゃねえぞ」
一人がドスの効いた声で言う。これ見よがしに拳ダコの出来た拳をちらつかせる。
「うるさい。黙れ。さっさと道を開けろ」
俺は素っ気無かった。〝第二空手部〟とも言われる応援団だが、俺にそんなこけおどしは通用しない。
その先輩サンは、いきなり右の裏拳を打ってきた。咄嗟の事だったので、ちょっと力が入り過ぎてしまった。右山勢厳で受けつつ左の突きを脇腹に突き刺し、受け掛けた相手の右腕を返して一ヶ条に極める。
「野郎!」
他の先輩サン方は色めき立った。
「やめろ!」
それを止めたのは萬河だった。
「行かせてやれ」
「話が判るね、団長」
俺は笑いながら手を放した。手を放してから、いつもなら膝まで入れるのにな、などと考えた。
「じゃ、さよなら」
俺は先輩サン達を掻き分けてドアを開けると、後ろを見ずに部屋を出た。そこへ、萬河が声を掛けて来た。
「せいぜいトラブルに巻き込まれない様、気を付けな」
俺はそれを無視してドアを閉めた。
カバンを取りに教室へ戻って来ると、薄暗い室内にポツンと一人の人影があった。真琴だった。
「何だ、真琴。まだ帰ってなかったのか?」
「結城くん!」
真琴は慌ただしく立ち上がって、俺に駆け寄って来た。
「大丈夫?怪我してない?ひどい事されなかった?」
「心配ないよ。俺を怪我させられる奴なんて滅多にいるもんじゃない」
「そう……。良かった。ホッとしたわ」
真琴はそう言いつつも俺の体を上から下まで見回して、本当に何も無いと判ると、ようやく笑顔を見せた。
その笑顔を見て、妙に心の和む自分に気付いた。今まであまりこんな気分を味わった事は無かった。
何なんだろうな、この気分は。
真琴の笑顔を見ながら、俺はそんな事を考えていた。
×
「それは〝恋〟だよ、〝恋〟」
ジャッキーは断言した。言いつつチラリとピアノの方を見たが、既に演奏は終わり、女性も奥に引っ込んでいた。
「そうかー、アキラって、女性関係は奥手で苦手そうだ、とは思っていたけど、ちゃんとそんな話も有ったんだな」
「うるさいな。人を石木みたいに言うなよ。それとも、もう話を止めようか?」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」晶の言葉に、ジャッキーは本気で慌てた。「ここまで聞かせといて、それは無いだろ?彼女、マコトだったか、マコトとはどうなったのか、気になるじゃないか。それに……」
「それに、何だ?」
晶の問いに、ジャッキーは笑ってボトルを指した。
「まだ半分残ってるぜ。勿体無い」
【3】
「まあそんな一件があってから、真琴と俺は、以前にも増して仲が良くはなったんだが…」晶は照れくさそうに話を続けた。「ある日、真琴がこんな話を言い出したんだ―――」
×
「ねえ結城くん、鬼頭さんって三年生の人、知ってる?」
いきなり真琴にそう尋ねられて、俺は目を丸くした。
「鬼頭って、番長その②の鬼頭の事か?」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「何だ、鬼頭がどうかしたのか?」
「うん、智美っているでしょ?」
「ん、ああ、あの良く喋る娘(こ)か」
「うん。智美がね、あの娘(こ)、お兄ちゃんが三年にいるんだけど、お兄ちゃんから聞いた、とかで、『番長グループの鬼頭が、転校生の女を狙ってる』とかいう噂を聞いてきたんだって。それで、私にわざわざ気を付ける様にって言ってくれたんだけど…」
「おお、結城、俺もその話、聞いた事あるぜ」
俺の前の席に座っている、西岡が口をはさんで来た。こいつ、野球部員のくせに(?)良く喋る。
「部活の先輩が話してたんだけどな、何でも鬼頭さん、かなり森川さんの事、ご執心らしくてな、事有る毎に森川さんの名前を出してくるらしいよ」
「迷惑な話だな」
「後な、お前の名前も良く聞くらしいぞ、結城」
「俺もか?」
「それも、あんまり良い感じじゃ無いみたいだからな、気を付けた方がいいぞ」
「ありがとう、気を付けとくよ」
俺は、半分聞き流しながら返事をした。
その日の帰り、真琴は急に、道場を見たい、と言い出した。別に断る理由も無いので、俺は真琴を連れて道場へ入った。
「押忍っ!こんばんは……」
俺の顔を見てあいさつをして来た練習生達の語尾が立ち消えになった。全員の目が、俺を通り抜けて真琴に注がれていた。
「ねえ、結城くん」真琴が小声で呟いた。「私、来ちゃいけなかったのかな?」
「気にすんなよ。俺が女の子を連れて来たんで、動揺してるだけだ」
俺がそう言った時、道場の反対側の戸を開けて、じいさんが入って来た。真琴を見て、思わず足を止める。
「何じゃ晶。今日はどうした、彼女など連れて来おって」
「彼女?」
「彼女?」
「晶坊ちゃんに彼女?」
じじいの言葉は、凍りついていた道場内にさざ波を立てた。
「晶坊ちゃんに彼女ですか?いやー珍し……いやめでたい」
古参の師範代が口火を切った。それを合図にしたかの様に、全員が俺達の方へ集まって来た。
「な、なんだよ皆、そんなに女の子が珍しいのかよ?」
「坊ちゃんが女の子を連れて来たのが珍しいんですよ」
「それにしても可愛いお嬢さんですね。坊ちゃんも隅に置けませんね」
「別に彼女って訳じゃない」
「まあまあそう照れないで。お嬢さん、お名前は?」
「えっあっはい、森川と言います」
「ああ、森川さんって、こないだ近所へ越して来た」
「はい、そうです」
「こんな可愛いお嬢さんがいるなら、うちの息子の彼女に欲しかったなぁ」
「お前んトコの子供、まだ四歳じゃないか」
女の子一人連れて来ただけで、蜂の巣を突いた様な騒ぎになってしまった。そこへ、じいさんが割って入って来た。
「はいはい、判った判った。皆ももう十分美少女を堪能したじゃろう。今度はこの娘に、カッコ良い所を見せてやれ。さあ、練習再開じゃ」
じいさんの言葉は流石に効果があった。皆蜘蛛の子を散らす様に道場に散らばり、また練習を始めた。
じいさんは丸イスを二つ持って来ると、真琴に勧めた。
「まあ座りなさい。床に座るのはしんどいじゃろう」
「ありがとうございます。初めまして、森川と言います」
「森川さんか。礼儀正しくて、良い娘じゃな」
じいさんはそう言うと、真琴が座るのを見て、自分がイスに座ってしまう。
「おい、じいさん。俺のイスは?」
「阿呆。お前は練習じゃ。とっとと着替えて来い。この娘の面倒は、わしが見る」
俺は思わず苦笑いしてしまった。
「鼻の下が伸びてるぜ、じいさん」
「わしが後四十年若かったらな」
「ばあさんにチクっとくよ」
俺は言いつつ、道着を取りに行った。
七時過ぎ頃、真琴は家に帰って行った。練習も九時前には終わり、練習生達は口々に俺を冷やかしながら帰って行った。道場には、じいさんと俺だけが残った。
「じいさん、電気消すぞ」
そう言ってスイッチに手を掛けた俺を、じいさんは止めた。
「待て。ちょっとこっちへ来い」
じいさんの、何時に無い真面目な面持ちに、俺は軽口を叩くのも忘れて、じいさんに近づいた。
「この間までのお前を見ていた時には、まだ迷っていた。これを教えるかどうかを。しかし、今日のお前を見ていると、今までに感じた鋭いナイフの如き殺気が無かった。彼女が出来ると、男はここまで変わる物か、と感心したよ」
「だから彼女じゃ無いって」
「これは、お前の父が十五歳の時に伝授をした」じいさんは俺の言葉を無視した。「お前にも、十五歳になったら伝授しようと思っておったが、ケンカ三昧のお前には中々伝える気にはなれんかった。
しかし今、お前は守るべきものを得た。お前は、今までのお前では無くなるだろう。わしはそう判断した」
「随分勿体ぶってるけど、一体何を伝授してくれるんだい?」
俺の問いには答えず、じいさんは道場の中央に立った。
直立の姿勢から、両腕を前に上げ、そのまま耳の横へ担ぐと、そこから一気に腕を払う様に下ろして大きく回し、目の前で手を合わせ、ゆっくりと前へ伸ばす。膝を小さく曲げてから、右・左と歩を進め、虚歩になりつつ右拳を腰、左拳を前に伸ばして止めた。そこから半歩進み出て右足を引き付けると、急激に体を開きつつ一歩踏み出して右の突きを出した。踏み込んだ足がドンッと鈍い音を立てる。突いた腕をゆっくりと曲げて、肘打ちの形にする。
今まで見た事も無い動きが、目の前で行われていく。空手や中国拳法の太極拳などにある様な一人型だが、その速さ、そして体の各部の一致から来る迫力に、俺は目を奪われた。
ほどなくして、じいさんの型は終わった。ゆっくりと俺を見る。
「どうじゃ」
「どうじゃって…。今のは一体何なんだ?そんなの、今まで見た事もねえぞ?」
「そうじゃろう。長男にしか教えていないのでな。一番古い弟子でも、一・二度見たかどうかじゃろう」
「長男にしか教えない……」
「そうじゃ。これが結城武館の裏芸、八極拳じゃ」
「八極拳……」
俺には言葉も無かった。
「これはな、戦時中に軍の徒手格闘術として研究を依頼され、わしが大陸から取り入れたものじゃ。戦後には大陸の老師の下へも何度か赴き、研究を重ねておる。これを極める事によって得られた強さは、お前の想像をも超えるじゃろう」
俺は無言で頷いた。確かに、じいさんの強さを思えば、その言葉にも信憑性がある。
「お前の体には、柳生心眼流を叩き込んである。その上に八極拳を叩き込めば、自分の想像以上の威力が身に付くじゃろう。その為にも、己を律する強い心が必要じゃ。八極の威力を得る為の努力を惜しまぬ精神力、得た力を無闇に振るわぬ自制力が何よりも必要じゃ。
今のお前には、それがあると、わしは思う。どうじゃ。やるか?」
じいさんの問いに、俺は小さく頷いた。
「よかろう」じいさんはにやりとしながら口を開いた。「ただ今より、結城武館裏芸・八極拳の伝授を始める!」
季節は変わり、制服が夏服に変わった。真琴とは相変わらず親しい友人で、八極拳も中々自分の物にはならないが、しかし充実した日々を送っていた。
鬼頭にしろ萬河にしろ、特に俺にちょっかいを出して来る様子も無く、平和な学生生活が続いていた。
「結城くん、おはよう」
真琴が、小雨の中、傘を差さずに歩いていた俺に、傘を差しかけながら声を掛けて来た。
「やあ、おはよう」
「雨に濡れっ放しにしてたら、風邪引いちゃうよ」
「別に大丈夫だよ。でもまあ、ありがとう。傘に入れてくれて」そう言って真琴の顔を見た俺は、思わず眉をしかめた。「おい、真琴、大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「本当?ごめんね、大丈夫。昨日、天気が良かったでしょ。あれでちょっとノドの調子が悪くなっちゃって」
「無理しないで休んどいた方が良くないか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。それに、家に居てもつまんないもん」
真琴はそう言ってニコリと笑った。俺もつられて笑う。
教室に入ると、何か異様な雰囲気が漂っていた。いくつかグループが出来て、それぞれに何か深刻そうな表情で話し合っていた。ぼそぼそ話す声が室内に反響して、ウワーンと低く響いていた。
「なんだこりゃ」
目を丸くした俺に、同じく深刻そうな顔をした西岡が近づいて来た。
「よ、おはよう結城、森川さん。ちょっと、えらい事になって来たぞ」
口を開くなり、西岡はそう言った。
「何がえらい事なんだ?」
「昨日の夜中、と言うより今日の早朝、と言った方が良いのかな、鎌工と、私立第一高の番長グループが衝突したらしいんだ」
「鎌工と私立第一っつったら、この辺でも一、二を争う強豪グループじゃないか」
「そうなんだよ。頂上決戦って奴だな。かなり大規模な出入りだったらしくて、一人二人死んだんじゃないかって言われるくらいで、両方とも大ダメージを受けたらしいんだ」
「どっちもか?」
俺は思わず唸った。
「そうなんだよ。この辺を仕切っていたグループが、二つともいっぺんに消えちまったんだよ。これからしばらく、群雄割拠の時代が始まるんだよ」
西岡のその言葉に、俺は腕組みをして言った。
「そう言やあ、うちの高校の二人の番長、二人合わせりゃこの辺でも結構幅を利かせてるよな?」
「ああ、結構有名だ。だからそこなんだよ。うちも、乱れる危険性が有るって事だ」
「メンド臭い事になって来たなぁ」
俺は肩をすくめた。真琴は、番長グループの勢力分布など知る訳も無いので、ただ雰囲気に呑まれて不安そうな顔をしている。
「まあ、ヤンキー同士のいがみ合いなんか、放っといたら良いんだ」
俺は投げ遣りな口調で言った。
「そりゃあ、お前はケンカ強いから良いかも知れんけどなあ」
西岡が溜め息をついた。
かく言う俺も、嫌な予感は拭えなかった。
トラブルに巻き込まれない様、気を付けな。
萬河の捨てゼリフが今更ながら思い出されて来た。
×
「なあ、アキラ。その〝ヤンキー〟って言葉、何とかならないか?」
ジャッキーが、新しく運ばれて来たポテトフライを口に含みながら言った。
「しょうがないだろ」晶もポテトに手を伸ばす。「固有名詞なんだから。スラングだと思って諦めろ」
「俺自身が〝ヤンキー〟だけになあ」
ジャッキーは肩をすくめた。ちなみに〝ヤンキー〟はアメリカ人の俗称であるが、髪を金髪風に脱色している不良の風貌から、「アメリカ人風」=「ヤンキー」となったと言う説もある。
「で、不良グループの勢力争いは、どういう展開になったんだ?」
ジャッキーは、あえて〝ヤンキー〟という表現を用いなかった。
「ああ、それがな、大方の予想に反して、ヤンキー共の活動はおとなしいもんで、皆も少しずつヤンキー抗争の話を忘れかけていたんだが・・・」
【4】
×
頂上対決から何週間かが過ぎた。ウチの高校のヤンキーグループはどちらも目立った動きを見せなかった為、学校内にも徐々に緊張の緩みが出て来た。大体いつまでもそんな事に気を張ってたら、体が幾つあっても足りない。
今年は七月に入ってからもずっと雨が少なく、テレビの天気予報では空梅雨の長期予報を毎日伝えていた。夏にはまだ早いが、思いの外強い日差しが、灼け付く様に暑かった。
朝から喉の不調を訴えて、しんどそうにしていた真琴を家へ送ろうとして、俺は彼女の姿を探していた。
ホームルームが終わって、掃除が始まった時にはその姿を見たんだが、智美によると、ゴミを捨てに行くと言って、ゴミ箱を持って教室を出て行ったらしい。どうやらそれ以来まだ帰って来ていないらしい。ゴミ箱もまだ無いままである。
具合が悪そうだったので、ちょっと心配していた俺は、何とはなしに校内をブラブラと探しに出た。と、一人の女生徒が〝1‐C〟と大きくマジックで書かれたゴミ箱を抱えてやって来るのが見えた。
「あ、ごめん君」俺は思わず声を掛けた。「そのゴミ箱、何で君が持ってるんだ?」
「これね、ゴミ焼却炉の前におっこってたの。だから、返しに行こうと思って…」
俺の聞き方がキツかったらしい、彼女は少々怯えながら答えた。
「おっこってた?」
俺は首をひねると、彼女に礼も言わずにもと来た道を戻った。もしやと思い、保健室へ行ってみたが、若い体育教師と保健の先生がベッドで乳繰り合っていただけで、真琴はいなかった。
「ありがちな展開になって来たな」
思わず呟いた俺に、いかにもヤンキーな、ハイウェストを履いた二年生が三人近づいて来た。その内の一人は、以前俺が屋上で顎打を掛けてぶっ飛ばした奴だった。
「おい結城」
そのぶっ飛ばされた奴が、偉そうに声を掛けて来やがった。
「何か用か、カメガシラの犬野郎」
多少イラついていた俺は、いきなり噛み付いた。奴はすぐ腰が引けた。
「キ、鬼頭さんがお呼びだ。黙って一緒に来い」
「嫌だね」
「これでもか?」
リー即で突っぱねた俺に、横に立っていた先輩サンが何かを投げて寄越した。受け取って見ると、それは真琴の生徒手帳だった。
「行くぞ。何処だ。早く連れてけ」
俺はすぐに態度を変えた。あまりにありがちな展開に、胃が痛くなって来ていた。
連れて来られた場所は、体育館の裏の、妙に都合の良い広さの空き地だった。そこに、鬼頭を先頭に三十人程のハイウェストが勢ぞろいしていた。
「おお、来たな、結城」鬼頭サンは、巻き舌の聞き取りにくい喋り方で言った。「ちっとだけ、おめえに言っときてえ事があってよヲ」
「何スか?銀蝿のコンサートの券なら、別に要りませんよ」
「ルせえよ。おめえ、萬河と手ェ組むんだってなぁ?」
「はぁっ?」思わず声が裏返った。「何の話っスか?」
「別にとぼけなくても良いんだぜ」鬼頭のネチッこい喋り方は、段々イライラして来る。「俺の聞きたいのは一つ。ヤツに付くか、俺に付くか、だ」
「別にどっちにも付かねえ」
俺は、投げ遣りな口調で答えた。
「だったら死ねや」
鬼頭がそう言うと、下っ端らしい奴が二人、前に出て来た。
一人がいきなり殴ってきたので、周転の振りでその手をはねのけ、そこから天開の振りで相手の鎖骨に打ち込んだ。二人目は遠い間合いから蹴り上げて来たので、八点流しで捌きつつ足取を仕掛け、後ろに投げ倒した。
俺の足元でのたうち回っている二人を見ながら、鬼頭はニヤリと笑った。
「流石に強えなあ、噂で聞いた以上だぜ。だったら益々、萬河にはやれねえな」
鬼頭はそう言うと、指をパチンと鳴らした。鬼頭の後ろに列を成していろヤンキーの壁が一部開いて、真琴が連れ出された。後ろ手にロープで縛り、ご丁寧に猿ぐつわまでしている。
「この女、お前のスケなんだろ?こいつを返して欲しかったら、余計な抵抗をすんな。大人しく殺されちまえ」
「今時、マンガのバンカラみたいなマネすんなよ」
俺は肩をすくめた。
今度は五人、二年生・三年生の混成部隊が出て来た。こないだ屋上でノした奴も混ざっている。
顔面に三発パンチ、腹に二発ケリ、更に一人は竹刀を持っていたので、かがみ込んだ俺の背中をバシバシと叩きやがった。段々頭に来たので、一人のパンチを見切ってかわし、カウンターの横周転を顔面に叩き込んでやった。そいつは前歯が全部折れて、顔を血まみれにして倒れた。
「余計な手ェ出すなっつったろ?」
鬼頭はそう言うと、真琴の猿ぐつわをむしり取ると、その頬を張った。真琴の口から声にならない悲鳴が漏れる。
「やめろ!真琴に触るな!」
俺は怒鳴った。そこへ竹刀でのビンタが来た。剣先の止め具を外してあるので、当たった時に大きく拡がり、俺の顔に数本のミミズばれが出来た。多分。ビリビリと痛むその傷に、ゲンコツが何発も叩き込まれた。更に靴の爪先で腹を蹴り上げられ、俺は不覚にも膝を着いた。更にそこへ蹴りが来た。咄嗟に急所は外したが、顔面に蹴りを喰らって俺は後ろに倒れ込んだ。ただ、倒れたままではそのまま何をされるか判らないので、急いで後ろ受身で片膝に立った。
「何よ、皆して結城くんに寄って集って!やめなさいよ!」
後ろ手にされながらも、真琴は気丈に鬼頭に食って掛かった。その真琴のセーラー服の胸元を掴んで、鬼頭はぐいと引っ張り寄せた。
「ピーチクパーチクわめくな。おめえの相手は後で俺がたっぷりしてやるよ」
鬼頭は胸元を掴んだまま、真琴を後ろへ突き飛ばした。鋭い音がして、セーラー服が破け、白い肌着が露わになった。
「やめろコラァッ!」俺は喚いた。「俺が抵抗しなかったら、真琴は返してくれんじゃなかったのかよ!」
「どうせお前はブチ殺されんだよ。女がどうなろうが、どうでも良いだろが」
鬼頭はふてぶてしく言うと、いやらしげな目で真琴をねめつけた。真琴はそれを真っ正面から睨み返している。
「お前をぶっ殺した後で、俺の女にしてやるよ」
その言葉を聞いた時、俺の中の何かが切れた。
まず竹刀で打ち込んで来た奴の懐に山勢厳で飛び込んで、その肘を胸板に突き刺した。相手が吹っ飛んで行くのを確かめず、背後に感じた気配に対して適当に横周転を振り回した。両拳に手応えがあった。更に殴り掛かって来た腕を中勢厳外しでさばきつつ、空いた手で腹を打ち抜く。
技だ、何だと考える必要は無かった。キレた勢いに任せて体に染み込んでいる動きを爆発させるだけで良かった。手当たり次第とは正にこの事だ。
二回ほど金属バットのスイングを井構で受けた記憶があるが、後はほとんど憶えていない。気が付けば、十五~六人が地面でのたうっていた。俺も、体の数ヶ所に血が付いていたが、それが自分の血か、ぶん殴った奴の血か、良く判らなかった。
鬼頭と、幹部と思しき二人、そして縛られたままの真琴を除いて、まだ自分の足で立てる馬鹿野郎共は全員逃げ出したらしかった。
俺はゆっくりと鬼頭に近づいて行った。その間に割って入って来た一人を霞の当てで硬直させてから、卍の振りをフルスイングでぶち当てた。もう一人は、拳にメリケンサックを付けて、生意気にも突き掛かって来やがった。俺は袈裟振りでその突きを流し、体勢の崩れた脇腹へ、フルパワーの重ね当てを打ち込んだ。相手は血の泡を吹いて倒れたが、俺の知った事じゃない。それよりも鬼頭だ。
俺一人に、自分の手下が全員やられるとは思っていなかっただろう。鬼頭は哀れなほど狼狽し、真琴を引きずり起こして、彼女を楯に取った。手には、安っぽい折りたたみナイフがあった。
「てめえ、女がどうなっても良いのか?」
ボスの威厳をかなぐり捨て、鬼頭は喚いた。
「何かしてみろ。この場で殺す」
俺は本気で言った。真琴に何かあったら、俺は本当にこのクソ野郎を殺す気でいた。鬼頭の額に、見る見る脂汗が吹き出した。
「答えろ。誰が、俺と萬河がつるむなどと吹き込みやがった?」
「あ、あいつが、萬河が自分で言いやがったんだ。『こっちは結城と手を組んだ。覚悟するんだな』ってよお。奴らと俺らは、てめえがいなけりゃ力は五分五分だ。だから、てめえを始末すりゃあ……」
鬼頭の言葉が尻すぼみに消えた。近づいて行く俺から逃げるように、ゆっくりと後じさりする。
「その汚ねえ手を放せ」
俺はぼそりと言った。鬼頭は、熱いものにでも触ったかの様に、ビクッとして真琴を放した。
「そんなくだらねえ事で、真琴をこんなにしやがったのか、てめえは」
俺は言うなり、鬼頭の人中に中指拳を突き込んだ。殺す事も出来る最大の急所の一つだ。一発で鬼頭は白目をむく。その鬼頭が地面に倒れるまでに、俺は五発の突きを入れた。倒れて痙攣している鬼頭の体を見て、ようやく俺の神経も落ち着いて来た。
「真琴、大丈夫か?」
俺は彼女を助け起こすと、忌々しい縄を解いてやった。
「ありがとう」
真琴はかすかに言うと、俺にしがみついて来た。真琴の顔が押し当てられた左肩が熱く濡れて来た。無理も無い。怖い思いをしたんだろう。
「大丈夫か?怪我は無いか?」
そう言う俺に、真琴は顔を押し付けたまま首を振った。そして、更に強く俺を抱き締めて来た。
何か、俺の胸の奥から説明の付かない想いが膨れ上がって来た。気が付くと、俺も真琴を強く抱き締めていた。
【5】
翌日、早朝に学校から電話があり、俺に自宅謹慎せよ、という指示が出された。どうやら、前日の乱闘が外部に漏れたらしい。うちの家族には、昨夜のうちに全てを話しておいたので、どちらに正義が有るのかは判って貰っていた。真琴の両親にも、うちの親父から詳しく事情を説明して、判って貰ってはいた。しかし、俺の中ではまだ事は終わってはいなかった。
学校から電話があった時、俺は既に靴を履いて家を出る所だった。それを見ながら、じいさんは何も言わなかった。
応援団が、早朝に空手の稽古を学校裏の山林公園の中でやっているのは知っていたので、俺は一直線にそこへ向かった。
俺の姿をみとめた萬河は、俺の包帯姿にニヤニヤした笑いを投げつけて来やがった。
「よう、どうした結城。随分とケガだらけじゃないか」
「だまれ馬鹿野郎」俺は不機嫌丸出しで言った。「お前が鬼頭につまらん事を吹き込んだお陰で、何の関係も無い生徒までが巻き添えを喰ったんだ」
萬河を〝お前〟呼ばわりした事で、十五人ばかりいる団員が、一斉に緊張する。
「あ?俺が何したって?」萬河は白々しく答えた。「トラブルには気を付けろって忠告したろ?だが、俺の知ったこっちゃねえな」
「鬼頭を焚き付け、俺とぶつけ、どっちかが、或いは両方とも潰れちまえば良い、とでも考えたんだろうが、甘いぜ、マンコウ。そう簡単にお前の思い通りにゃあならねぇよ」
俺が喋っている間に、団員は俺の周りを取り囲んだ。
「お前も良い根性してんなぁ。」萬河は余裕げに笑った。「昨日、鬼頭のチーム、潰しちまったんだろ?噂は聞いたぜ。で、今度はお前自らがやられに来たって訳か?」
「残念だな。お前をツブしに来た」
「死ねや」
萬河は一言だけ言うと、スイと団員達の後ろに下がった。代わりに一年生の団員が一人、俺の前に出て来た。
「相川、行け!」
副団長( らしき奴 )が怒鳴った。相川くんは、「押忍」と答えて俺との間合いを詰めて来た。
応援団は、萬河と同じ剛柔流空手の稽古を行っている。体も拳も脛もガチガチに鍛えてある。が、三戦立ちでドッカリと腰を落ち着けて構えているあたりが、実戦慣れしていない事を如実に示していた。
相川くんは、迫力のある掛け声と共に飛び込んで来た。右の中段正拳を放つ。俺は半歩踏み込んで、上袈裟の振り受けで、思い切りその右腕を跳ね上げた。肘関節の小骨がコリコリと鳴る音を聞きつつ、がら空きの脇腹に中指拳を突き刺した。相川くんは声も無く倒れた。
二人目が出て来るのを、俺は待たなかった。そのまま真っ直ぐ突進し、目の前にいた、ぼんやり立っていやがった奴の顔面に左右の当身を連続で浴びせ、とどめの蹴当を水月にめり込ませた。
そのすぐ右にいた奴も、咄嗟に反応が出来なかったので、とりあえず下段の蹴当で膝を壊しておき、半周転で顎を突き上げた。
ようやく態勢を立て直した奴が前蹴りで突っ込んで来た。俺はそれを掬い受けて、そのまま後方に投げ飛ばすと、横からの正拳突きをダッキングでかわしつつ、横周転をフック気味に叩き込んだ。
そこへ、一人が背後から飛び掛って来て、俺にしがみついた。それとばかりに前から蹴って来たので、とりあえず後ろの奴を引きずって、半歩前に出た。蹴りを、足が伸びきる前に腹で受けておいて、後方に肘を突き出しつつ下に沈み込んだ。しがみついた腕が緩んだところを、背負い投げで蹴って来た奴に目一杯叩き付けた。投げた奴は、小手を返して手首を壊しておいた。
俺は全体をぼんやり見渡しつつ、警戒した。目の焦点をずらして、大まかな気配を感じやすくしておく。
さっき掬い受けで引っくり返した奴が、再度突っ込んで来た。余程頭に来たのだろう、一心に俺の顔面のみを睨んで突きを放って来た。俺は半歩踏み込みつつ山勢厳で受けつつ、胸板に平拳を突き込んだ。期せずして八極拳の向捶の形となり樽を殴った様な音がした。その場に垂直にくず折れる。
そこへ背後から、一人が飛び蹴りで突っ込んで来た。俺はそれを横に体を回してかわしつつ、横周転をカウンターで後頭部にぶち込んだ。
八人までが地面に転がると、残り七人は流石に慎重になった。構えたまま、俺との距離を保って、踏み込みあぐねている。
「どうしたてめえら、さっさと片付けちまえ!」
萬河が偉そうに怒鳴った。俺は、そちらへ顔を向けずに言ってやった。
「自分が掛かって来やがれ、腑抜け野郎」
この言葉はかなりの効果があった。萬河の、そして残りの団員達の顔色が変わった。
裂帛の気合で、一人が飛び掛って来た。技も何も無い、とにかく俺の動きを止めようと、掴みかかって来た。しがみつかれては厄介なので、逆にこちらから突っ込んで頭突きを入れ、さらに肘を垂直に曲げた状態での卍の振りで、水月を下から突き上げた。更に前かがみになった顔を引き下げつつ膝を入れると、そいつは棒切れの様に真後ろに倒れた。
更にもう一人が前蹴りで突っ込んで来た。俺はそれを八点流でさばく。そいつは更に蹴り足で踏み込みつつ、正拳を連続で放って来た。俺はそれを難なく受け掛けた。剛柔流では「関節を極められない為に、突いた後、肘をゆるめろ」と教えるらしい。しかし、組み技系の武道の前に、その理論は無意味だ。俺はその腕を内小手に極め、相手を固定させといて、がら空きの腹に膝をめり込ませた。とどめに腕を揺さぶって肩を外しておいた。
そこへ予想外の攻撃が来た。上段回し蹴りを顔面にもらい、俺はよろけた。足底部でまともに喰らったので、骨がズキズキ痛んだ。どうやら相手は副団長の様だ。流石に他の団員とは動きが違う。しかも、どうやら俺の間合いに入らない戦法に徹するらしく、足刀や前蹴り上げなど、速く、距離の稼げる攻撃を連発して来た。
鋭い蹴りの連撃に気を取られた隙に、雑魚に横から脇腹へ横蹴りを喰らい、俺は吹っ飛ばされた。完全にバランスを崩した所に、更に別の奴の前蹴りが来た。俺は無理矢理腕を差し込み、腹への直撃は避けたが、差し入れた左腕の橈骨が悲鳴を上げた。それでも俺はその脚にしがみつき、何とか転倒を免れると、その脚を掴んだまま体を立て直した。相手を片足立ちにした状態で、その軸足の膝を正面から蹴り込んだ。結構乾いた音がして、そいつは口から泡を吹いて倒れた。
今の蹴りで、左腕が鈍く痺れていた。思わず腕を振って、感覚を確かめる。右の肋骨も痛んだ。
俺の脇腹を蹴った奴が、もう一発入れようと近づいて来た。その前蹴りを八点流でさばきつつ平構左肘を胸に突き込み、更に半歩入って左腕で腰、右腕で顎を捉え、返し投げで相手の体をまくり上げた。そいつは返しの受身など知らないので、まともに脳天から落ちた。鼻から血が吹き出した。
再び副団長が動いた。刻み足で素早く動きながら、こっちの隙を窺っている。
とりあえず、相手の間合いを潰さないと話にならない。俺はノーガードで副団長に向かって踏み込んだ。そこへ、左上段回し蹴りが来た。二度目は何とか反応出来た。小さくダッキングをしてかわすと、蹴り足が左に抜けた隙を突いて、半歩で間合いを詰めに行った。
ところが、上段蹴りはフェイントで、そこから返しの掛け蹴りが左中段に跳ね上がって来た。俺の体は、咄嗟に両儀の姿勢を取った。俺の左肘がタイミング良く副団長の脹(ふくら)脛(はぎ)の筋肉の狭間に突き刺さった。
「ぐわっ!」
副団長の口から、初めて声が漏れた。びっこを引きながら慌てて逃げようとする。俺は奴の、地に着いている方の足首あたりを狙い、思い切り足払い(と言うより下段蹴り)を掛けた。奴は空中で半回転し、側頭部で着地した。ゴツン、と鈍い音がして、完全に意識を失った。
残り二人は、全く動けずにいた。俺は、幽鬼の様な表情だったに違いない。段々痺れてきた左腕を小さく振りながら、俺は残りの二人に声を掛けた。
「さあ、来いよ」
この一言で、萬河の恐怖に、俺の恐怖が打ち勝った。二人は後じさりをすると、くるりと踵を返し、脱兎の如く走り出した。ある意味潔い逃げっぷりだった。
「チッ、クズ野郎め。後でシメてやる」
一人残った萬河が、のっそりと動いた。改めて見ると、やはりデカイ。岩の様な筋肉によろわれて、何だか絶望的に強そうに見えた。ゆっくりと構えるその姿は、流石の安定感があった。重心は低くない。
俺も、ゆっくりと構えてみた。左腕が痛んだ。右脇も痛い。目の下もズキズキする。
ケンカ慣れした、萬河の力みの無い構えを見ながら、俺は自問自答していた。
―――俺は、何でこんな所にいるんだ?
―――俺は、何でこんな痛い思いをしてるんだ?
―――そもそも、俺は何をやっているんだ?
一人ブツブツ言っていたら、何かの気配を感じて、俺は自然に首をすくめ、額を突き出した。物凄い衝撃が額に炸裂して、俺は一気に我に返った。首を固めていなかったら、一発で失神していただろう。萬河が、無防備な俺の顔面を、正面から正拳で突いたのだ。
咄嗟の頭突きが意外に堪えたらしく、萬河が顔をしかめている。コンクリートブロックをも割る鉄拳だったが、間合いを外された事で、ダメージを受けたらしい。
「ありがとうよ、萬河」
俺は声に出して言った。萬河は、ポカンとしている。
今の一撃で、俺には全てが判った。
俺は、何をしているのか。何を成すべきか。
俺は、構えを解くと、無造作に萬河に近づいた。奴は、ボクシングの様な軽い突きを放って、俺と距離を取ろうとした。
俺は軽く首を振るだけでそれを避ける。奴は更に、少々重ための、空手らしいかぎ突き風のフックを連打して来た。俺は、体が自然に動くに任せて、それを避けた。一発だけ、顔面スレスレの拳を周転の振りで弾いただけで、後は全て歩法と体裁きだけで事足りた。心眼流の歩法では無かった。八極拳の動きが、自然に出ていた。
萬河が腹を蹴り上げて来た。俺は、八点流とも閉肘とも取れない動きでさばいた。たたらを踏んだ奴の顔面が、面白いほどガラ空きだった。
手が自然に出た。
八極拳の〝単〟で、左右左と手の甲側で奴の顔面をはたく様に打った。一瞬のけ反った萬河は、すぐに体勢を立て直し、もの凄い形相で反撃しようとした。俺は、その眉間に左中指拳を打ち込んだ。まともに打ち抜いたので、瞬時に萬河の意識は飛び、白目を剥いた。一歩よろめいた所へ、俺は足を一歩進めて、右拳を腹に打ち込んだ。八極拳の衝捶になっていた。俺の拳が手首まで埋まるほどの威力を感じた。俺が右拳を突く為の全ての動作が調和し、全てが威力に転化するのを感じた。
萬河の体が、車にはねられた様に吹っ飛び、三回転ほどして止まった。
殺したかも知れないな。
そうぼんやりと考えながら、俺の意識は闇の中へ沈んで行った。
[6]
目が覚めると、すぐ目の前に涙に濡れた真琴の顔があった。
どうやら、あの後すぐに俺は気を失っていたらしく、俺の様子を見に来た真琴とじいさんに助けられたらしい。
警察の格闘技教官もやっているじいさんが手を回したお陰で、事は不良同士のケンカ、と言う事で片付けられたらしかった。俺自身は、右の肋骨が二本いっていたものの、他はとりあえず無事だった。
萬河は死ななかったものの、左肋骨が数本粉々になっていたので、バイクに当てられたのだろう、と言う事になったらしい。じいさんの言う通り、八極拳の威力は、俺の想像を超えていた。
俺は、真琴の泣き笑いの表情を見ながら、ゆっくりと眠りについた。
×
「へー、そんな事があったのか」ジャッキーは、無くなりかけのボトルを弄びながら言った。「で、何が判ったんだい?」
「ああ」晶は、ボソリと言った。「俺は、俺の大事な人を守る。その為に、強くならなくちゃいけない、そう思ったんだ」
「なるほど。で、マコトとはその後どうなったんだ?」
「何も」
「何も?」
「ああ。お互い仲の良い事は変わらなかったが、彼女の父親が、嫌な事があった土地に娘を置いておく事に抵抗を感じて、転地療法と言う事で、また引っ越したんだ」
「それで?」
「それっきりだ。不幸な事件の全てを封印しようとしたんだろうな。当事者と連絡を取るなんて、タブーだったんだろう。手紙も来る事無く、俺は彼女がどこへ越したのかも知らないままさ」
「そうか……」ジャッキーが、自分の事の様に残念そうな表情でうなづいた。「アキラのファーストラブ&ハートブレイクって訳か」
晶はそれには明確には答えず、薄く笑っただけだった。しかし、心の中の薄いガラスの様な何かが割れた様な感じは持っていた。
「まあ、彼女には感謝してるんだ、俺は」
スコッチを一気に呑み干して、晶は呟く様に言った。
「感謝、か」
「彼女は、俺に色々な事を教えてくれた。色々な道を示してくれた。彼女が、真琴がいなければ、今の俺は居ない」
「何か、ちょっと寂しい結末ね」
突然日本語で話し掛けられて、晶とジャッキーはビクッと肩を震わせた。振り返ると、白いイブニングドレスを着た、日本人女性が立っていた。ピアノの奏者である。
「でも、良いお話だったわ」彼女はしっとりと微笑んだ。「きっと、彼女にとっても、良い出逢いだったんでしょうね」
晶には、その声に聞き覚えがあった。思わず、手の中のグラスを落としてしまう。パン、と乾いた音を立てて割れる。
「あ、済まない」
「大丈夫よ、すぐ片付けるわ」
彼女は手馴れた仕草で、割れたガラスを片付ける。そのすぐ後ろに、サングラスを掛けたドイツ人らしき男が立っていた。手にはヴァイオリンを持っている。
「お久し振りね、結城くん」
女性は、やって来たボーイにガラスを渡しながら言った。晶は、まだ固まったままだ。
「アキラ、もしかして、こちら、マコト?」
ジャッキーも呆然としながら、それでも問いかけた。
「ええ」固まっている晶の代わりに、真琴が答えた。「今は森川じゃなくて、シュタインバッハーだけど」
「……そうか、結婚してたのか」ようやく、晶の口から言葉が発せられた。
「ええ。あの街を引っ越してから、しばらくして父の仕事の都合で、ドイツに移り住んだの。そこで、子供の頃からやっていたピアノの練習を再開した時に、彼に出会ったのよ」
真琴は、後ろを見ずに言ったが、ヴァイオリンを持った男は静かに頭を下げた。
「ミスターシュタインバッハーは、目が見えないのかい?」
ジャッキーの問いに、シュターンバッハーはまた静かに頭を下げた。
「ハンディキャップは、何の障害にもならなかったわ」
真琴は笑いながら言った。
「そうだよな。愛があれば、全て乗り越えられるもんな」
ジャッキーはそんな能天気な事を言った。
「そうね」ジャッキーの軽口に、真琴が返す。「両親にも、最初は反対されたけど、私は迷わなかった。自分の気持ちに素直になれば、何とかなる。自分の想いを、相手も受け取ってくれたら、更に強くなれる。私はそれを、結城君から教えてもらったの」
「俺から?」
晶は目を丸くした。
「そうよ。あなたのお陰で、私は人を信じ続けられる事が出来たの。あの初夏の、嵐の様な数日の中で、私はあなたに助けて貰ったけど、何よりも心を救けてもらったの。私は、あの暑かった日の事を忘れた事は一度も無いわ。ありがとう、結城くん」
「いや、救けられたのは俺の方……」
晶は言いかけたが、シュタインバッハーが突然ヴァイオリンを弾き始めたので、言葉を止めた。
何時もの演奏する時間ではないので、何となく他の客も静かになった。
真琴は、日本語で唄い出した。
何故か思い出す 砕けたガラスの様な日々よ 気が付けばひとり 孤独の涙と風の匂い
愛のイミなんて 訳もわからず この手に触れるもの 全てを傷つけた
激しい夏の嵐の中で 昨日も明日も忘れたかった
全てを壊し 夢から覚めて 彼女の歌は もう二度と聞こえない
日本語が理解出来るジャッキーは、かすかに笑いながら、この歌を聞いていた。この歌が流れている間は、アキラとマコトはハイスクールの記憶の中の住人だ。何人も入る隙の無い、美しい想い出の一ページの中に居るのだ。
そこへ、ガチャリと扉が開いて、葵とサラが入って来た。
「あー、ようやく見つけたー」
そう言いながら無遠慮に近づいてくる二人を、ジャッキーが静かに止めた。
「もう少し、このままで居させてやってくれ」
無心に唄う真琴と、それを微笑みながら聴いている晶を、不思議な温かい空気が取り巻いていた。
晶は、ジャッキー、サラ、葵が今まで見た事も無い、優しい表情を浮かべていた。
劇終
2011・05・09(月)了
2011・07・12(火)改