提督(笑)、頑張ります。 外伝   作:ピロシキィ

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応援ssということで、

後藤陸将さんより寄稿して頂いたものです。

感謝です。


その時提督(笑)は動いた
History was changed at the moment 《起》


昭和二○年 八月一九日

 

 一億の日本国民の命運を賭けた戦いが始まります。

 世に言う、坊の岬沖海戦です。

 戦艦六隻、空母八隻を擁するアメリカ海軍を中心とした連合国機動艦隊。

 それを迎え撃ったのは、大日本帝国海軍聯合艦隊。

 しかし、三年に及ぶアメリカ海軍との死闘の末に聯合艦隊に残された戦力は、開戦前の戦力の五分の一ほどしかありませんでした。

 連合国機動艦隊撃滅のために出撃した最大最強の戦艦『大和』以下一九隻からなる艦隊は、当時日本に残された最後の戦力でした。

 この艦隊を指揮したのは、帝国海軍一の名将、長野壱業。

 ドゥーリットル空襲、第一次ソロモン海戦など、参加したほとんどの海戦で圧倒的劣勢下にも関わらず武勲を重ねた男です。

 その類稀なる戦績と湧くがごとき智謀から、帝国海軍では『戦神』として崇められ、敵であったアメリカ海軍からは『魔術師』と呼ばれ恐れられていました。

 帝国海軍は、そんな彼に聯合艦隊の戦力の全てを託したのです。

 そして、長野は持てる戦力の全てを活かした大胆不敵、前代未聞の秘策を編み出します。

 しかし、文字通り日本国民の運命を背負った長野の前に立ち塞がったのは、連合国艦隊だけではありませんでした。

 指導のミスによる負け戦を重ねても改善されることのない海軍上層部の頑迷で無責任な姿勢。

 東南アジアでの連戦連敗の汚名を本土決戦で返上するために、航空戦力を温存しようとする陸軍。

 さらに、ヒトラー率いるナチスドイツに対する勝利を目前とし、極東でも不穏な姿勢を見せ始めていたソ連。

 防衛省に保管されている天一号作戦の記録には、長野が作戦の立案だけではなく、その実現のために関係各所に出向いて自ら説得に当たっていた様子が克明に記録されていました。

 そして、遂に決戦の時がやってきます。

 長野壱業という天才がその全てを賭けた乾坤一擲の作戦。

 彼の配下となった各艦もまた、彼の秘策を成すために持てる全ての力を発揮します。

 長野の渾身の策はなるのか。

 

 

 History was changed at the moment

 

 

 今日は、太平洋戦争後の日本の運命を変えた坊の岬沖海戦。

 帝国海軍一の知将、長野壱業が己の命をも捧げた最期の秘策に迫ります。

 

 

 

 

 

   アメリカ海軍が最も恐れた男、長野壱業 ~坊の岬沖に散った英雄の献身~

 

 

 

 

 

「こんばんわみなさん、得河です。今日のその時は、昭和二○年、西暦一九四五年八月一九日午後六時三二分といたしました。この昭和二○年八月一九日午後六時三二分は、久高島の西沖で戦艦金剛が沈没した、その日、その時でございます」

「この戦艦金剛が沈んだ坊の岬沖海戦は、地上戦の行われている沖縄を救うために決死の覚悟で突き進む聯合艦隊と、それを阻止し、日本の海上戦力を殲滅することで沖縄、そして九州、本州の攻略の憂いを無くしたい連合国機動艦隊が激突し、太平洋戦争中屈指の激戦となりました」

「ミッドウェー海戦以降の戦局の悪化により、かつては世界三大海軍の一画を占めた帝国海軍も、このころにはその主力艦艇のほとんどが沈み、残された戦力は開戦前とは比べ物にならないくらいに弱体化していました」

「一方の連合国海軍ですが、こちらは太平洋戦争開戦以降、そのありあまる生産力を活かして、開戦前よりもさらに多くの戦力を整えていました」

「双方の戦力差は歴然。そんな絶望的な状況でこの戦いを指揮した男こそ、今回の主人公。戦神とまで謳われた名将、長野壱業です」

「味方よりも遥かに多い数の艦艇を従えた敵を相手に、国家の、国民の命運を背負い戦いを挑む長野壱業は、その計り知れないほどの重圧の中でどのように行動して聯合艦隊に勝利をもたらしたのか。そして彼は、一体どのような思いを抱いて死地に赴いたのでありましょうか。そのあたりのことを今日はじっくりとお伝えしてまいります」

「まずは、長野がどのような経緯で海軍軍人になったのか。そこから、今日は話を起していきたいと思います」

 

 

 

 

 

昭和一六年

 

 日本とアメリカの関係は極度の緊張状態にありました。

 満州事変、日中戦争と大陸への進出を強めていた日本を警戒したアメリカは、中国国民党を経済面、軍事面から支援。さらに、対日禁輸等の経済制裁の用意があることを示すことで日本を牽制し、日本の対中国戦略を見なおさせようと試みます。

 しかし、それはアメリカの思惑とは裏腹に日本の対米態度の硬化をもたらすだけでした。

 そして、日中戦争勃発からおよそ四年後。日本は、アメリカの対中国支援ルート遮断と、南方資源地帯進出の足がかりを兼ねてインドシナ半島南部にまで進駐します。

 これに対し、アメリカは日本に対する警戒をより一層強めました。対日圧力を強めるべく英蘭中と連携したABCD包囲網結成へと動き、さらに日本がインドシナ半島を保持する意思が固いと知ると、対日石油輸出の全面禁止に踏み切ります。

 当時、石油の七○%以上をアメリカからの輸入に依存していた日本にとって、これは国家を揺るがすほどの大打撃でした。もはや、日米開戦は秒読みの段階となっていたのです。

 そんな中、海軍内部で対米戦争を回避しようと精力的に動いていた一人の男がいました。

 

 海軍大佐、長野壱業。

 

 当時、齢四○を越えたばかりながら、その明晰な頭脳と未来を読む優れた洞察力から日露戦争の英雄秋山真之の再来とまで評された俊英でした。

 

 

 

 

 

 

 長野は明治三一年五月×日、群馬県○○市にあった長野豆腐店の長男として生まれました。

 長野の通っていた尋常小学校の担任教師の残した日記からは、長野が幼き日から既に普通の子供とは違う才能を持っていたことが分かります。

 

「成績は全て甲(最優秀)。寡黙だが思慮深く、とても少年とは思えないほどの利発さであった」

「もはやこの少年に教えることは何も無く、いつかは医者か博士になるであろう逸材だと確信した」

 

 そして、中学校も優秀な成績で卒業し一六歳になった長野は、大正二年、故郷群馬を離れ江田島にあった海軍兵学校の門を叩きます。

 海軍兵学校でも、彼の成績は常に優秀でした。さらに彼は、同期や後輩を誘い、休みの日曜日には度々潜水艦や航空機といった新兵器の運用、対策に関する勉強会を開いていました。

 長野が入学した当時、日本海海戦における聯合艦隊の勝利が日露戦争の講和に大きな役割を果たしたことから、戦艦同士の艦隊決戦が戦争の行方を決めるという考え方が世界中で広まっていました。

 日露戦争後はイギリスが建造したドレッドノート級戦艦を皮切りに、列強国の間でより堅牢で分厚い装甲とより破壊力、射程距離を増した大口径の主砲、そしてより速力を発揮できる機関を搭載した巨大戦艦が次々と竣工。

 戦艦こそが、近代戦争において勝利を決定付ける最有力兵器であり、これを如何に用い、如何に敵戦艦を打破るかが海軍軍人の職務である。

 海軍兵学校でもこのような考え方が広まっており、日々の講義でも戦艦を主力とする戦い方が教えられていました。

 しかし、そんな中で長野は兵学校在学中に始まった第一次世界大戦で登場した航空機と潜水艦という新しい兵器に注目し、彼が主催していた勉強会でも度々これらの新兵器について取り上げます。

 第一次世界大戦において、航空機は新時代の兵器として少なくない功績を挙げていました。

 タンネンベルグの会戦をはじめ、航空偵察で得られる情報は非常に大きな役割を果たしていたのです。そして、敵の航空機による偵察を妨害するために銃火器を積んだ戦闘機や、前線の後方にある敵国に爆弾を投下することができる爆撃機も誕生します。

 また、潜水艦もその存在感を大きく増します。

 第一次世界大戦では数千隻もの輸送船が潜水艦によって撃沈され、各国は生命線である補給路を狙う見えない敵に震え上がりました。

 ガリポリの戦いでも、ドイツの潜水艦Uボートがイギリスの前弩級戦艦二隻を撃沈するという戦果をあげました。ドレッドノート級戦艦の登場で旧式化していたとはいえ、潜水艦が戦艦を沈めたという実績は世界中の海軍関係者を驚かせました。

 しかし、当時の日本ではまだ、兵学校の教官たちですらこれらの兵器に触れたことがある者は非常に少なく、その運用についても帝国海軍には殆どノウハウはありませんでした。

 当時、まだ信頼性に乏しく、航続距離や攻撃力も貧弱だったこれらの新兵器が、これからの戦争において大きな役割を担うようになるという考え方が長野以外の勉強会の参加者に理解できないのも、無理も無いことでした。

 長野は勉強会の参加者達に言います。

 

「今はまだ、これらの兵器の能力は未熟だ。しかし、技術の進歩は何れ、航空機と潜水艦を海戦に欠かすことの出来ない重要な戦力へと変えるだろう」

「いつか、太平洋を横断できる巨大な航空機が新高山よりも高い高度から爆弾を投下して街を破壊し、潜水艦が本土近海に遊弋して戦略物資を積んだ輸送船を軒並み沈めるという戦争が現実のものとなるかもしれない」

 

 それは、およそ三○年後には現実のものとしてこの国に降りかかる戦争を予期したものでした。

 勉強会の参加者からは新兵器を過大評価しているとの指摘もありましたが、これに対し長野は懇々と一分の隙もない反論を返します。時に丸一日潰すこともあったというこの勉強会を通じて育まれた同期との友誼と新時代の海軍理論は、その後の戦争で彼らを海軍の柱となる逸材に育て上げました。

 また、エンジンやレーダー、ソナーなどの技術的な進歩を踏まえた将来的な潜水艦、航空機の活用や対策を提言するこの勉強会は、彼が卒業する間際には新兵器の登場に戸惑う教官からも出席者が出るほどの兵学校名物となりました。

 その後、艦船だけではなく潜水艦や航空機などの設計にも意見したという長野の幅広い見識もこの勉強会を経て育まれていったのです。

 

 

 

 

 

 兵学校を卒業し、海軍少尉となった長野は海軍軍人として研鑽を積む一方で、かつての同期と共に海軍内での航空機や潜水艦の情報を収集し、これらを活用する新時代の海軍戦略の啓蒙も進めます。

 この頃、第一次世界大戦を経て海軍の在り方は大きく変わろうとしていました。

 まず、航空機を海上で発着艦させる航空母艦という新しい軍艦が誕生し、空母機動部隊という概念の萌芽が芽生えつつあったのです。

 空母に積まれた艦載機は、これまでよりも遥かに艦隊の索敵可能範囲を広げました。航空機があれば、これまででは把握することができなかった遠方の敵艦隊の位置を掴めるようになったのです。

 加えて、当時の航空機にも小型ながら爆弾を搭載することができました。

 ドレッドノート級戦艦の誕生以後、装甲の厚みの増加が留まることを知らない各国の弩級戦艦に打撃を与えることは難しくとも、装甲も薄い駆逐艦などの小型艦艇に対しては、航空機は侮れない敵となりつつあったのです。

 海軍兵学校時代から長野が注目してきた潜水艦も、彼の予測通りに大きな進歩を遂げていました。航続距離も潜行可能深度も飛躍的に向上し、海上艦艇からの捕捉もより困難になっていました。

 しかし、一方でこれらの兵器にはまだまだ問題も山積みであり、帝国海軍が実戦に本格的に投入するには解決しなければならない点が多々ありました。

 

 長野が新時代の戦略について情報を集め、地道な啓蒙を進める中で大きな転機が訪れます。

 大正一五年。長野は海軍大学校に入学しました。

 海軍大学校は、部隊を運用する指揮官に必要とされる高度な海軍戦術を学び、考案する場所です。

 実行する、しないは別として、可能性として考えられる作戦はとにかくなんでも研究し、その問題点の解明や改善策を立案することができるこの海軍大学校への入学は、海軍兵学校入学以来ずっと次世代の海軍戦術を考え続けてきた長野にとって最高の環境でした。

 長野は、任官以来温め続けてきた戦術の数々をこの場で提言し、日本海軍の歩むべき道を模索する日々を送ります。

 

 防衛省防衛研究資料館には、当時の長野の試行錯誤の成果の一端を窺わせる資料が残されています。

 『対潜戦闘ニ関スル意見書』

 この意見書には、性能を向上させてより発見、攻撃が難しくなった潜水艦に対する対処策の提言が五百ページにわたって述べられています。

『敵潜水艦ノ通商破壊ニ対抗スルニハ、小型ノ船団ヲ数多ク出航サセルノデハナク、大型ノ船団ニ纏メテ出航サセルベシ』

 長野は、敵潜水艦による通商破壊に対抗するには、輸送船を大型の船団に纏めて出航させる方が被発見率や護衛の効率から考えるに効果的であると纏めています。

 驚くべきことに、この意見書に記されていた潜水艦対策案は、第二次世界大戦において連合国海軍が猛威を振るうUボートに対して数多の犠牲の末に編み出した対処策と殆ど同じものでした。

 長野は、この海軍大学校で着々と、次世代の戦争に備えた戦術を構築していたのです。

 

 そして、今回初めてテレビで公開される資料があります。

『真珠湾攻撃想定』

 対米戦争が勃発した場合、アメリカ太平洋艦隊の主力が真珠湾に移動済であると想定し、開戦初頭にアメリカ太平洋艦隊を奇襲し撃破するという作戦案です。

 大正一六年、長野は自身で立案したこの真珠湾奇襲作戦を検討した結果、次のような結論を下しました。

 『真珠湾攻撃ノ成功ハ、米艦隊ノ布哇以西デノ活動ヲ最低デモ半年間封ジ込メル成果ガ見込マレル』

 『仮ニ、米国ト戦端ヲ開クニアタッテハ、開戦初頭ノ真珠湾攻撃ガ不可欠デアル』

 この時の長野は、いずれ自身が対米戦に不可欠だと結論付けた作戦が実施されることなどまだ知る由もありません。

 しかし、それから一五年後にこの作戦は飛躍的に性能を向上させた航空機を主力とした部隊の手によって現実のものとなり、長野自身も作戦に参加することとなるのです。

 

 長野壱業が、戦艦金剛と運命を共にする一八年前のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

そっとテレビのリモコンを取り電源を落とす。

 

「…誰だコレ」

 

長野壱業改め、長野業和は頭を抱えるのであった。




《後藤陸将さんによる補足》
1 長野氏の『魔術師』という異名は、銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーに肖ってつけた自作設定です。

2 金剛の沈んだ時刻「昭和二十年八月一九日午後六時三二分」は、八月一九日の日の入りが午後七時くらいだったので、大体の日没の時間に合わせてつけてみました

3 海軍兵学校の勉強会は、兵学校の同期をミック先生の知識借りて論破したというエピソードからの自作です。

4 『対潜戦闘ニ関スル意見書』は、早期に対潜戦術を海軍内部に実施させたかった長野氏が史実連合国の戦略を丸パクリしたという自作設定です。



以下、ピロシキィからの補足。

最後の所は私が追記しております。
世界線のこととか細かい事は気にしないでいただけると幸いです。

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