東洋の小さな島国に、冬木という名の地方都市がある。
彼の地において、幾度となく繰り返された闘争――聖杯戦争。
参加者はこの儀式の景品とも呼べる「聖杯」自身に選別され、令呪とよばれる刻印を授けられた七名の魔術師。
彼らは各々が召喚した人類の超越者「英霊」を以て、互いを殺し合う。
そして最後に残った陣営――この儀式の制者は、いかなる願いをも叶えうる「聖杯」と呼ばれる万能の願望機を手にする。
故に欲深い外来者、あるいはこの儀式の真の意味を知る魔術師達は、聖杯戦争の「周期」に沿い、こぞって冬木の地にその姿を現す。
例外なく多数の死者を出す聖杯戦争は、しかしそのようにして実に二百年に渡って開催され続けた――
聖杯戦争の表の事情について基礎的に解説するなら、この程度で済む。
だがそもそも、今さらになってこのような説明をする必要はない。
なぜなら聖杯降霊の儀式は、これ以降永劫に行われることはないからだ。
史上最強のマスターとサーヴァント達が死闘を演じた、五度目の聖杯戦争。
そのさらに十年後に、とある魔術師とその弟子が聖杯の本体「大聖杯」を解体した為である。
大聖杯が機能しないことには、儀式はそもそもから成り立たない。
あるいはもし彼らが何らかの要因で大聖杯の解体に失敗したとしても、結局は同様の結末を迎えているはずだ。
第四次の折にマスターの役を担い、今はもうこの世を去ったとある男の、文字通り最後の足掻きが功を成すのである。
その男は第四次聖杯戦争の終結後、大聖杯にとある仕掛けを施した。それはかいつまんでいうと、数十年後になって起動する、時差性の爆弾のようなものだった。
則ち――聖杯はとうに、破壊の運命から逃れられない。
しかし……もしもその運命が覆るとしたら?
この世に平行世界という考え方があるように、もしも魔術師の師弟が聖杯を排除しない世界があるとすれば。
もしもとある男が第四次聖杯戦争に参加しない世界があるとすれば――。
ならば、そこには違う形の未来が存在して然るべきだろう。
大海のように広がる無数の可能性のうち、今まさに弾けて無くなりそうな一つの気泡。一つの可能性。
例えば幻のように、想像上にしか存在しない、第六の聖杯戦争が行われる世界線。
これはそういう、どこかの誰かが見た夢のような話になるだろう。
果たしてそれが幸福な夢となるか、さもなければ悪夢となるか。
それはきっと誰にも予想のつかないはずで――。
どこかの民族舞踊のような、ひどく賑やかな音が聞こえた気がして青年は夢の世界から浮上した。
瞼を開くと周りにあるのは草、木、樹。
彼はその大自然の中で、ナマコのような形をした寝袋に身を包んでいた。
目をごしごしとこすり、ナマコのファスナーを開けておぼつかない足で立ち上がる。
しかし彼の周りにその原住民族はいなかった。
ぼーっと立ち尽くし、やがて意識が自分の体に帰ってくると、彼はここ数日の回想を始めた。
アフリカ奥地の原住民と一緒になって、現地の踊りを楽しんだのが三日前のことだ。
言語の一切が通じない彼らとどうにかこうにか対話し、周辺をフィールドワークしながら都市に戻り、治安の悪い空港で飛行機に乗ったのが、一日前。
それから日本に帰国して……寝ぼけているのか頭でも打ったのか……記憶があいまいだ。
ともかく幸いというか必然というか、彼にとってこの森は見知らぬ場所ではなかった。
ここは、実家から廃れた路線に乗ること二十分の距離にある、標高六〇〇mくらいの双子の山。
ちなみに彼はこの双鳴山という名前の大自然を、勝手に「おれの庭」と名づけている。
……状況を整理すると、遠い国から母国に帰投して、真っ先に足を運んだ場所が地元周辺の土地なのだから、必然として目的地は実家にあるはず……。
「青年」という若さにしては物忘れの激しい彼は、疲れからか、自分がなぜ日本に渡ったかをすっかり忘れているようだ。
とはいえ、まずは飯を食べないことには始まらない。腹が減っては記憶は取り戻せぬ。
彼は自分のリュックサックを引っ張り寄せ、その中に詰め込まれた大量の携行食のなかから、今朝のご飯を選抜しにかかる。
「苺フレーバーと、キャラメルミルクっと」
今日のメニューは以上の二つに決定。
水筒のぬるい水をあおって、固形の朝食をほぐしながら食し、さっさとエネルギー補給を終えてしまう。
「んっ」
次に手を伸ばしたのは、携行食とは別のポケットに保管してある、「研究ノート」と題された大学ノートだ。
これは様々な民族との会話や旅の記録などを記した、彼の数年に渡る長旅の成果である。
ノートのページをたぐり、三日前の欄をぼんやり眺める。
そこには数種類の草花のスケッチと一緒に、「大地のマナを感じろ!!!」と書き留めてあるのみ。ちなみにこれは、踊りが大好きな民たちとの会話から、唯一意訳できた言葉だ。
ページをめくった二日前の欄には「源泉について、父より」とあった。
どうやらその時の彼はかなり興奮していたようで、記す彼の文字の筆圧が普段のものよりも遥かに濃くなっていた。
それを見て、彼はようやく事の経緯を思い出した。
「ああ、そっかあ。そうだった」
彼はぽつりと呟きを漏らした。
脳に糖分がめぐり始めたのか、これから自分が何をするべきか、すぐに理解出来た。
とりあえず真っ白なままの一日前の欄に「偉大なる進歩!」とだけ書き殴ると、彼は荷物をまとめ、さっさと下山し始めたのだった。
樹木の隙間から望める街並みは何千回と見続けた風景で、歩く山道も既に勝手知ったるものである。
麓につくまで一時間とかからず、最寄りの駅まで五分。
朝から眠たそうにコクコクリと微睡んでいる駅員を起こし、そのバツの悪そうな顔に微笑みを返して、さっさと切符を買う。
古ぼけた改札を通過して、誰もいないホームのベンチで電車を待つ。
この時代だから一応スマートフォンは持っているものの、家系からかどうも慣れないので、使用用途は連絡のみ。
なので彼は、これまで見てきた外国の絶景の数々を想像することで時間を早送りした。
一時間くらい経過して、駅に二両編成の列車が停車した。
この頃にはポツポツと増え始めていた乗客たちと一緒に車内に乗りこみ、あとは座席に腰掛けて先程の繰り返し。
のろのろと進む電車が実家最寄りの駅に到着し、彼が数年ぶりに我が家を見つけた時、時刻は正午近くとなっていた。
趣向の凝らされた西洋建築の館。
なんでも父親曰く、家系の威厳というよく分からない理由で造られた家らしい。
その正面に、厳かな雰囲気を放ちながら鎮座する門がある。これより先に立ち入る資格があるか否かを選別する、館の「番人」のような存在だ。
番人というと大層な響きだが、その例え通り、この門にはとある仕掛けが施されている。
例えば盗人が館に侵入しようとすれば、本人も気が付かない間に退けられてしまうだろう。
「ほいよ、と」
門に刻まれている模様に触れ、念を送る……ようなイメージ。
久方ぶりで解錠に少し手間がかかったが、無事に敷地に足を踏み入れる。
手入れの抜けている感のある庭を眺めつつ玄関へ。
例によって鍵の施された扉を同じ要領で開く。中へ上がるも人影が見当たらないので、彼はふぅと息をついて、
「父上、ただいま」
なんの反応もなかった。ただいまー、だいまーと、自分の声が小さく響くだけだ。
「仕方ないなあ」
数日前に一方的に要件を告げておきながら、どうせ自室に引きこもっているに違いない。
彼はそんなことを考えながら階段を上り、調度品の飾ってある廊下を渡った。
向かって二つ目の部屋のドアを叩く。
「入るけど」
「んー」
古ぼけたドアの先に広がる部屋は、一言で言うとごみ収集場だった。
なにかの骨、毛皮、宝石、山ほどの紙束などで床には足の踏み場もない。厚みのある書籍が詰めこまれた本棚の上には、火山灰でも降ったのかと言わんばかりに、ほこりが積もり上げている。
彼は顔を顰めた。
なにか手を打たないと、いずれこの部屋は魔窟になってしまうだろう。そう感じさせる程の荒れようだった。
しょうがないので、ドアが押し避けてくれている僅かなスペースに立った。
そして、熱心に作業をしている初老の男に話しかける。再会を喜ぶ言葉は、特に浮かんでこなかったので、なし。
「……相変わらずだなあ」
「いいんだよ、この方が住みやすい」
この自堕落な男こそが青年の父――博斉だ。
「それにお前の不在中に家事屋を雇った。心配することはない」
……おお、人嫌いの父上にしては珍しい。 それは色々な意味で気になるところだ。
がしかし、今は本題に移るとする。
「さておき、例の『源泉について』ってメールだけど」
忙しなくペンを走らせていた博斉の手が、ピタッと静止した。
「ああ、それな」
そう呟くと博斉は厳かな態度に直り、こちらを振り返ってこう言った。
「国角家三代目当主、国角博斉として尋ねる。……ヒロヤ、お前に再び魔術を志すつもりはないか」
唐突の問いに青年は――魔術師の一門の倅、国角博也は、呆然と立ち尽くした。