小宮山さん×智貴ですがもこっち×智貴要素もあります。
また、本作品には一部グロテスクな表現や暴力描写がありますのでご注意下さい。
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[2020.7/22]『カエッテキタトモクン』を全面改訂しました。主に改行の塩梅を見直した形となりますが、細かい部分の表現にも手を加えてあります。
加えて、あとがきを投稿しました。≫あとがきを読む。
[2025.11/8]『カエッテキタトモクン』を全面改訂しました。文章表現の拙さを見直したほか、描写が不足していた箇所の増強、注釈の更なる追加、蛇足と感じられた記述の削減、心理描写の調整、新たな解釈の適用、倫理にもとる描写の修正、野球ネタのパワーアップなどをおこなっています。
一九九二年の八月初頭。夕暮れどきを過ぎてすっかり日も落ちたころ、鬱蒼とした山道にて車を走らせる
「あっ、
「大丈夫です」
琴美はそう言って助手席の同乗者の様子をチラチラと横目でうかがって気遣うが、智貴と呼ばれたその青年は言葉少なに返答する。そんな智貴に「そっかーそれは良かったー」と、どこかぎこちない相槌を打ってみせる琴美であったが、交わされた言葉はそれっきりで後には互いのあいだに沈黙が漂う。
「あ、そうだ……や、野球はおもしろかった?」
「はい、まあ」
と、そんな沈黙を振り払うようにして琴美が再び智貴に話題を振ってみせる。この少し前まで二人は地元の千葉市内にある千葉ロッテマリンスタジアムにて野球観戦をしていたのだ。オリオンズ時代からのロッテ球団の熱烈なファンである琴美は、智貴に実際の野球場で地元球団を応援する楽しさを知ってもらいたくて普段野球にあまり興味のなさそうな彼を誘ったのであったが、琴美としては果たして智貴がその体験をどう感じたのかが気になるところであった。
「きょ、今日はちょっと調子悪かったけどさ、本当のロッテはあんなのじゃないんだよ?」
「そうですか」
満を持して意中の相手を球場に招待した琴美であったが、彼女が応援する千葉ロッテマリーンズの快勝とは行かず、なかなかの塩試合だったようである。あれでは智貴に野球への興味を持ってもらえないのではと心配した琴美は自身の贔屓球団のふがいなさを庇うように弁解を始める。
「なんたって今年はロッテが千葉に来てから迎える最初のシーズンだしね。今日だって観客数も凄かったし、皆それだけ今年のロッテには期待してるんだ……。前半戦は調子良かったし、
「……」
先ほどまでどこかぎこちなく遠慮がちな喋り方の琴美であったが、ロッテの話題になった途端饒舌になる。根っからのロッテ狂いの琴美は、かの球団の話題ともなればこのように聞かれてもいないことを誰彼構わずぺらぺらと語って聞かせる癖があった。
そんな琴美の独り言に近い熱弁を聞いているのかいないのか、智貴は前を見据えて無言のままだ。
「あ……だ、だから、こ、今度もまた一緒に行けたらなー、なんて……。と、智貴くんが嫌じゃなかったらだけども!」
しばらく続いたロッテ語りを一区切りつけたところで、さりげなく次なるお誘いを口にしてみせた琴美はしきりに智貴の反応をうかがう。
「まぁ、はい」
(今ハイって言ったよね!? それOKってことだよね!?)
よし。よし。よし。琴美が心の中で快哉を叫ぶ。どちらかと言えばただの生返事に聞こえなくもないのだが、琴美としては智貴から次の〈デート〉への色良い返事をもらえたと早くも有頂天だ。そう、琴美としては今しがたのやりとりはデートのお誘いのつもりなのである。勿論先刻までの野球観戦やこの夜のドライブだって琴美としてはデート以外の何物でもなかったのだ。対する智貴のほうがどう認識しているかはまったく別であるとしても。
ともあれぎこちないながらも一見すればどこにでもいる年若きカップルに見えないこともないこの二人であったが、実のところそうではなかった。琴美と智貴は同じ大学に通うゼミの先輩後輩の間柄ではあったのだが、さりとて別に付き合っているとか、そういった訳ではまったくなかったのだ。此度のデートにしても実際は智貴に一方的な好意を寄せる琴美が勇気を振り絞って申し込んだものであり、そもそも琴美はまだ己の気持ちを彼に告白することもできていないのであった。恋に関して奥手な琴美ではあったが、琴美の通う大学には他にも智貴に想いを寄せる女生徒が一人居たため、焦る琴美がライバルに一歩リードせんとして奮起した結果が今回のデートに繋がった訳である。
そんな琴美の想いを知ってか知らずか、智貴のほうはといえば先ほどから口数も少なく琴美からの問いかけにもどことなく無愛想だ。もっともこれは彼自身がもともとこのような性分の人であり、世渡りする上での最低限の社交性こそ備えているものの実際彼は決して愛想の良い類の人間とは言い難い人物であったから致し方ないことでもあった。とはいえ琴美としては彼のそうした寡黙でどこか冷めたような性格もまた大変魅力的に映っていたのであるが。
「あっそうだ、りゅ、流星楽しみだねー! 今日ちょっと曇りみたいだけど、ちゃんと見えるかなー?」
「見えるといいですね」
二人一緒のこの時間を一秒たりとも無駄にはしたくないと、智貴との味気ない会話に飽きもせず琴美はしつこく彼に話題を振る。それはどうにも一方通行な会話であり、琴美からの問いかけに対する智貴の反応はまともに会話する気があるのかと疑ってしまいたくなるほどに薄いものであったのだが、琴美はそれを意に介さない。智貴の声をもっと聞きたい。そしてまた、自分の声を智貴に聞いて欲しい。素っ気ない答えしか返ってこずとも琴美はただそれだけで幸せなのだ。
ともあれ琴美が先ほど言ったように、この日は夕暮れ以降から例年にない大規模な流星群が観測できるということで、あらかじめ立てておいたデートプランに沿って琴美は智貴と流星群を見るために山頂の展望台を目指して移動中なのであった。
(智貴くんと一緒に天体観測……これはもう実質恋人同士と言って良いのでは……?)
そんなことを思いながらクーラーの十分に効いたはずの車内にてハンドルを握る琴美の手にはじっとりと汗が滲んでおり、自身の体の内から発する熱のせいで多少の蒸し暑さすら感じてしまう。夏とはいえ山中は比較的気温が低いため、クーラーを付けずとも窓をあけていれば涼しい風が勢い良く入り込んで己の火照りを冷ましてくれそうなものであるが、琴美は傍らの青年の芳しい香りを堪能したいがためにあえて窓を閉め切っていた。
(こんな幸せなドライブがいまだかつてあっただろうか……)
すぅっと車内の空気を深く吸い込めば、肺に満たされた幸福感で胸が一杯になる。運転中だというのになにかをキメてしまったように酩酊しそうになる琴美ではあったが、「まだ早いぞ、ここからが本番なのだ」と自身に言い聞かせ、なんとしても無事山頂に辿りついてみせるべく気を引き締める。慎重さを増した琴美の巧みなハンドル捌きで車はその後も順調に山道をスイスイと進んでいく。
「……あれ、なんの花なんですかね」
「えっ?」
と、ふいに智貴が珍しく自分のほうから口をひらいた。突然の智貴からの問いかけにドキッとする琴美であったが、智貴の視線の先にあるものを見やれば、そこには山道に沿うようにして咲いている黄色い花々の群生が続いているのが見えた。
「あ、うん……たぶん〈
「オトギリソウ、ですか?」
「そう、
特に草花に詳しい訳でもなかった琴美であるが、以前どこかで読んだことのある本に毒草の一種として紹介されていた弟切草の特徴を彼女は覚えていたのだ。
「気味悪い名前ですね」
「まあねぇ、確か弟がお兄さんに殺されたときの返り血が葉に付いたとか、そんなのが由来らしいけど」
「……へぇ」
智貴が呟いた率直なその感想の通り、この弟切草にはとある兄弟にまつわる陰惨な伝承が残されていることで知られていた。
「あっ、ごめんね。なんか気持ち悪い話しちゃって」
琴美も雑学の類としてその伝承の内容は頭の片隅に記憶してあったのでつい口にしてしまったが、それがせっかくの楽しいデート気分に水を差すかのような不吉な内容であることに思い至り慌てて話を切りあげる。
「いえ、別にいいです」
「そ、そう……?」
謝る琴美にどうということはないと言ってみせる智貴。だが今しがた琴美が口にした弟切草の名称の由来が智貴の心の奥底になにかしら触れてしまったのであろうか、普段は感情の振れ幅に乏しい彼の物静かな声色には、ともすれば聞き流してしまいかねない僅かばかりの物憂げな響きが含まれていたことに琴美は気づいた。それはあまりにも些細なものであったが、常日頃から智貴のことを強く意識し続けてきた琴美であったからこそ感じ取れた変化だったのかもしれない。
「あ……えっと、智貴くんってさ、確か一人っ子でしょ?」
「そうですけど」
そんな智貴の様子に感じるものがあったのか、ふいに琴美がそのように問いかける。智貴に関することならなんでも知りたがる性分の琴美としては聞くまでもなく彼の家族構成なぞとっくの昔に把握済みであったのだが、あえて今一度それを尋ねてみせる。
「私もなんだ」
「はぁ」
琴美の言わんとしていることが見えてこない智貴は、やや首をかしげながらも気のない返事をする。
「だけどね……もし私に弟がいたらきっと凄くかわいがったんだろうなぁって、そう思うの」
先ほど話題に出た弟切草の伝承を意識してのことであろうか、いるはずもない自身の弟への扱いについてなにやら急に語り始めた琴美であったが、智貴はひとまず黙ってそれに耳を傾ける。
「毎日沢山お喋りしたり、たまにどっかに一緒に出かけたりとかさ……あ、あと誕生日にはプレゼントとかもして目一杯お祝いしてあげたり……」
もしも自分に弟がいたら。そのように仮定して琴美は思いつく限り弟にしてあげたいことを挙げていく。そうした琴美の唐突な独白ではあったが、しみじみと語る様子からはそれが本心であろうことが見て取れた。だからなのか、なにも言わず琴美の話を聞いていた智貴の顔色が幾分か和らいだものになる。
「先輩、弟が欲しかったんですか?」
「え? あ、うん、ま、まあねっ」
普段よりも少し柔らかくなった智貴のその声が琴美の鼓膜をそっと撫でたので、彼女はゾクッとした甘い痺れを感じて身を震わせる。だが今は運転中。すぐさま気を持ち直した琴美は、見通しの悪いくねくねカーブの夜道に注意しながら智貴の問いかけに答える。
「私、子供のときからずっとお母さんと二人暮らしだったんだけどさ。お父さん死んじゃって」
「えっ」
琴美がそのようなことを突然明かすので、智貴は傍らの運転手をまじまじと見やる。大学で琴美と直接的な交流を持つようになってからまだ日の浅い智貴であったから、いつもゼミで顔を付き合わせているこの先輩に実は父親がいないのだということを彼は今まで知らなかった。
「もし弟とかがいたらきっと寂しくなかったんだろうなぁって、いつも思ってたんだ」
「……そういうもんですかね」
己の発した何気ない問いが切っかけとなって智貴は小宮山家の内情を知らされる結果となった訳であるが、こんなときにどういう反応をすれば良いのか判らない彼は、しばし逡巡したのち琴美の家庭事情には言及せず無難な言葉で返す。
「あ、智貴くんはさ……その、お姉さんとか欲しいなって、思った事ある?」
そんな智貴の様子にもしや気を遣わせてしまったのではと心配した琴美は話を逸らしにかかる。会話の流れで意図せず自身の生い立ちを打ち明けてしまった琴美ではあったが、他人に気遣われてしまわないようにと普段の彼女は極力その手のことを口に出さないよう常日頃から心がけていたのだ。
「いえ、一人のほうが気楽なんで」
「そ、そっかー」
が、そうした琴美の配慮が含まれたネタ振りは智貴のにべもない返答で早々に終了してしまい、暗い車内には再び沈黙が訪れる。どうもこの二人、本質的には会話を弾ませられるようなセンスをお互いとんと持ち合わせていないようであった。
「あれ……?」
と、なにかに気づいた様子の琴美が、自分たちが今走っている辺りをキョロキョロと見回し始めた。
「どうしました?」
「あ、いや、ちょっとね」
そんな琴美の様子を訝しんだ智貴が声をかけるが、せわしなく周囲に目を向ける彼女のその顔にはなにやら焦りの色が表れ始めていた。
「ヤバ、道間違えちゃったかも……」
山頂の展望台目指して上へ上へと走っていたはずの琴美たちであったが、いつしか気づけば車は山道を随分とくだっているようだった。これはどうも完全に道を間違えてしまったに違いない。智貴との会話に余程気を取られていたのか、この日のためにとデートスポットへ向かう道中の下調べにも余念のなかった琴美としては額を押さえたくなる痛恨のミスであった。
「ほ、ほんとゴメンねー。ちょっと一旦戻ってみるから」
どこかで道を間違えてしまったのなら、ひとまずは来た道を引き返してみるしかない。丁度進行方向の道路脇にUターンできそうなスペースがあることを見て取った琴美は、速度をゆるめるためにブレーキペダルを踏み込む。
「ん? え? な、なんで?」
踏み込んだはずのペダルに手応えが感じられなかったので改めて何度かスコスコと踏みつけてみた琴美であったがやはりどうにも反応がなかった。
「智貴くんっ、な、なんかブレーキ効かないんだけどっ!」
「マジすか!?」
この緊急事態にパニックに陥った琴美は、すっかり用を成さなくなっているにもかかわらずブレーキをしつこく踏み続ける。
「どどど、どうしよう! 智貴くん、とと、止まんないよ!」
突如発生したまさかのブレーキ故障であったが、丁度車がくだり道を走っていたことがさらに災いした。制動する術を失った琴美の車はタガが外れたようにひたすら加速していく。
「わあぁぁ、サイドブレーキもだぁっ」
いい加減ブレーキペダルを踏んでも無駄だと悟った琴美は、咄嗟に別の停止手段に思い当たり慌ててレバーを引いてみせるがこれまたさっぱり手応えがない。
「先輩! 前! 前!」
と、そんな琴美たちへ追い討ちをかけるように狭い山道の対向車線から一台の車がけたたましくクラクションを鳴らして急接近してくるのが見えた。正に絶体絶命、あわや正面衝突かと思われたそのとき、琴美の目がカッと見ひらかれる。
(
琴美が覚悟を決めた瞬間、こんがらがっていた頭の中が急速にクールダウンしていった。この車には他ならぬ智貴を乗せているのだからなにがあろうとも決して彼を危険な目に遭わせる訳にはいかない。どうにかしてこの窮地を脱さねばならないと、今この瞬間に全神経を集中させていく。
そこから先のことは琴美にとってまるでスローモーションのようであった。目の前に迫った対向車の脇に車一台がギリギリ通れるだけのスペースが空いていることを見て取った彼女はすぐさまハンドルを切って車体をそこへ潜り込ませる。途端、激しい火花を散らして車体の側面が対向車と接触したがそれも一瞬のうちに過ぎ去っていった。
(減速っ! スピードっ! 落とさないとっ!)
ひとまずは狭い山道において奇跡的に対向車と衝突せずに済んだ琴美たちの車であったが、だからといって難を逃れた訳ではない。素早くクラッチを切ってホイールがロックしない程度にギアを下げてみる琴美であったが多少制動がかかる程度の効果しかなく、依然として車は危険なスピードで山道をくだり続けている。このままではいずれカーブを曲がりきれずどこかに激突するか、あるいはガードレールを突き破って崖から落ちてしまうのではと思われた。
(イチかバチかだけどやるしかない……!)
無理やりかけられたエンジンブレーキにより車内が著しく振動する中、素早く辺りの状況を確認した琴美は丁度道路脇に広がる森の中になんとか車が乗りあげていけなくもない、なだらかな斜面になっている場所を発見する。
「智貴くん、森に突っ込むからちゃんと掴まってて!」
「は、はい!」
そうして車は猛スピードで森の中へと突入していく。まったくもって舗装されていない場所に車がそのような速度で入っていけばどうなるのかといえば、それはロデオマシーンなどの比ではない。当然の如く殺人的な揺れが車中の二人を襲った。智貴はシートベルトを握り締め、琴美は上半身全体でハンドルにしがみついて耐えようとするが、大きく跳ねあげるようなその衝撃に耐えかねた琴美の眼鏡はスポンとどこかへ飛んでいってしまった。
暴れ馬のように跳ねつつ森の中を突進していく車の前では数多の太い木々が行く手を阻んでいたが、途中何度もハンドルに額を打ちつけつつも琴美は眼鏡を失ったその目で前だけを見据え、そそり立つ木が目前に迫る度に必死でそれらを避け続けていく。
そうして何度も繰り返された森の中での窮地であったが、散々暴れ回っていくうちに車は徐々にその力を失い始める。やがてゆるゆると前進するだけになった車は、ついには目の前の巨木に鼻先をぶつけると完全にその動きを停止させた。
*
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
ようやく静けさの戻った車中にて、うなだれるようにハンドルへもたれかかる琴美が荒い息をついていた。
「……先輩、大丈夫ですか?」
そんな琴美へ、シートに体を沈めていた智貴が一息ついてから声をかける。
「ふぇ? あ、うん、な、なんとかね……はぁ」
自分でも信じられないほどのドライビングテクニックを発揮して辛くも窮地を脱した琴美であったが、一歩間違えれば大事故になっていたかもしれない訳であったから、そのことに今更ながらに慄く気持ちも手伝って体の震えが止まらずにいた。だが傍らの智貴の無事な姿を見て彼女はようやく安堵のため息を漏らす。
「これ、先輩のですよ」
と、智貴が琴美になにかを差し出してみせる。見ればそれは先ほど琴美の顔から飛んでいってしまった眼鏡に違いなかった。
「えっ? ああホントだ、いつのまに……」
思わず自分の目の辺りをさすって確かめてしまった琴美は、日頃お世話になっているそれが己の体から離れてしまっていたことにようやく気づいた。どうやら彼女の相棒は車中を飛び跳ね続けた末に最後は智貴の膝元で寝そべっていたようだ。
「あ、じゃあ、ありがとう……」
先ほどから小刻みに震えたままのその手で眼鏡を受け取った琴美は、おずおずとそれを装着する。ようやく視界がいつも通りクリアになった琴美はなんとはなしに智貴の顔を見やった。琴美の目に映る智貴の顔には、日頃から些か表情の乏しいきらいのある彼にしては珍しく、琴美を心配しているかのような感情の色がありありと現れていた。これは貴重なものを見られたかもしれないと、こんな状況であるにもかかわらず琴美は内心で得をした気分になってしまう。
「ふふふ、あはは……」
「?」
琴美は自分でも判らないうちになぜだかおかしさがこみあげてきて笑ってしまったものだから、そんな彼女に疑問符を浮かべてしまう智貴であった。
ともあれようやく体の震えも収まってきた琴美はひとまず車の具合を見てみようとシートベルトを外して車外に出てみたのだが、それにつられて智貴も車をおりる。
「うわっ、やだなぁこんなときに……」
外に出た琴美は、生温い水滴が幾つも落ちてくるのを肌で感じて空を見あげる。どうやらそこに居座ったままでいた曇り空がとうとう雨をもたらし始めているようだった。
ブレーキが故障している以上、この車を使って再び山道を走るなどという無謀はできるはずもない。まだまだ一般に普及し始めたばかりの手のひらサイズの携帯電話など学生の身である二人は持ち合わせていなかったため、そうした手段を用いて助けを呼ぶ訳にもいかなかった。もっとも携帯電話があったとしてこのような山中で電波が入るかどうかは甚だ疑問であったが。
であるならば自分たちの足で山をおりて助けを呼びにいかねばならない訳であるからして、そうするとこの降り始めの雨はなんとも困ったものなのであった。
「車、ボロボロになっちゃいましたね」
先ほどから車の状態を見ていた智貴が率直な感想を口にする。確かに彼の言う通り、まずなによりも件の対向車と激しくすれ違った際に負った側面の傷は痛ましいことこの上なく、他にも森の中を突っ切ってきた際に付けたであろう大小の傷跡が車体の至るところに残されていた。いわんやあれだけの悪路を突破してきたのだ、足回りにだって相当ガタが来たに違いない。無茶なシフトダウンを耐えたエンジンは健在で今もアイドリング音を立ててはいるものの、それ以外は満身創痍という有様であった。
「うん、ま、まあその辺は保険でなんとかなるかもだし……大丈夫だよ」
そう口にする琴美ではあったが、その顔はつい先ほどけらけらと笑っていたのが嘘のようにどこか気落ちしている様子を見せている。
この車、普段は琴美の母が仕事で使っているものなのだが、今日のデートのためにと琴美が借りてきたのであった。母の仕事に差し支えのないよう早々に代車を手配してもらうことにはなるだろうが、それは別として自分が事故に遭いかけたともなればきっと母を心配させてしまうに違いない。自宅を出る前、娘の初デートであるとはしゃいだ様子で自分を見送ってくれた母の顔を思い出し、申し訳なさで一杯になってしまう琴美であった。
「先輩……あれって家じゃないですか?」
と、なにやら遠くのほうを見やっていた智貴が森のさらに奥の方向を指差してみせる。
「ほんとだ、誰か住んでるみたいだね」
確かに智貴が示した森の中の暗闇の先にはポツンと民家の電灯と思しき明かりが浮かんでいるのが見て取れた。
「行ってみます?」
「あ、うん……じゃあ、そうしよっか?」
このまま山を自力でおりていった場合、果たして何時間かかるか判ったものではない。ましてや天気は雨なのである。雨足はまだまだ弱いとはいえ遠くの空からはゴロゴロと雷鳴らしき音が聞こえてくるところからして、おそらくは間もなく本降りが訪れるであろうことがうかがえた。それに加えて先ほどからピュウピュウと吹いて森をざわめかせている風も、まだまだ勢いは弱いもののこれから大きく力を増していきそうな気配を感じさせる。これはもしかすると嵐かなにかが近づいてきているのかもしれない。
頼ることのできるアテがあるのであればここは無理をせず、大人しく住人に助けを求めて電話を貸してもらうのが最善と言えるだろう。そうと決まれば話は早いと、琴美は車中に置いたままになっている貴重品を回収しようと車のドアに手をかけたところ、
──カッ!
雷光一閃。琴美たちのいる辺り一面をまばゆいばかりの光が襲った。そして耳をつんざくほどの轟音が琴美たちの頭上で鳴り響く。
「わああっ!?」
「うおっ!?」
突然の出来事に琴美も智貴も堪らず目を閉じ耳を塞いでしゃがみ込んでしまう。間もなく光が収まり再び周囲が暗くなったことで瞼をあけられるようになった二人であったが、その目に飛び込んできた光景にまたもや度肝を抜かれてしまう。
自分たちの車が鼻先をくっつけていたあの巨木の幹に、てっぺんから根元に至るまで一筋の赤熱する亀裂が走っていたのだ。巨木から弾け飛んだと思われる無数の枝々が上から降り注ぐ中、琴美たちがその光景に口をあんぐりさせていると間髪入れずその巨大な幹がメキメキと音を立ててふたつに裂けていく。
「先輩、危ねぇぞっ!」
「とととっ、ともきくぅぅぅん」
あまりの出来事にすっかり腰を抜かしてしまった琴美であったが、状況を察して素早く立ちあがった智貴は琴美の腕を強引に引っ張りあげると、自分たち目がけて倒れてくる幹から逃れるために琴美を連れて全力で駆け出す。
やがて縦に裂かれた巨木の幹は豪快に地面へ倒れ込んで地響きを起こし、森に潜んでいた鳥たちが一斉にギャアギャアと喚き立てながらいずこかへと飛び去っていく。さらに運の悪いことに、裂けた幹の一方は琴美の車に向かって倒れ込んでいき、かの車は盛大にその車体を叩き潰されてしまう。
そして辺りには木の焼け焦げる臭いと、もうもうとした煙が立ち込めるのみとなった。どうやら先ほどの眩い光と轟音は雷であったようで、丁度この巨木にそれが直撃した結果、このような惨事を招いたであろうことがありありとうかがえた。
「こんな、こんなことって……」
智貴の機転で危うく難を逃れた琴美ではあったが、一瞬のうちに目の前で起こったこれらのショッキングな出来事を前にして再びその体が震え始めてしまう。一難去ってまた一難とは正にこのことを言うべきか。またしても自分たちを襲った災難に琴美はほとほと肝を潰してしまったようだ。
「先輩、マジでここにいたらヤバいですよ。早く行きましょう」
力なくへたり込もうとする琴美の肩を掴んで立たせた智貴は、早々に件の民家へ避難させてもらうべきだと主張する。
「う、うん、そうだね……」
愛しの智貴にこうして肩を抱かれていると言えなくもないこの状況、本来であれば琴美にとって大変においしい感涙モノの場面ではあったのだが、このような危機的状況に連続して見舞われてしまったとあっては琴美の内なるパッションも流石に鳴りを潜めざるを得ないようであった。
「あ、じゃあ荷物だけでも……」
そう言って半ばスクラップと化してしまった車に近寄ろうとする琴美。幹にひしゃがれてしまった琴美の車ではあったが、車中にはロッテ応援グッズなども含めた琴美の私物がいまだ残されており、今夜智貴と天体観測をしながら一緒に食べるはずであった食料品も置かれたままになっていたのだ。
──ボフゥッ
と、そんな車からくぐもった音が鳴ったかと思うと、ひしゃげたボンネットの辺りからメラメラと勢い良く炎が立ちあがり、やがてそれは急速に車体全体を包み込んでいった。
「燃えちゃいましたね」
「うん……行こっか」
見たまんまの感想をポツリと述べる智貴に力なく返事をした琴美は、くるりと踵を返すと民家のあるほうへ向けてとぼとぼと歩き始める。
◆
本降りになる前の小雨がポツポツと木々の葉を叩く中、琴美と智貴は雑草を掻き分け森の中を突き進んでいた。先ほどよりも勢いを増してきた風にざわめく森の中で、ホーウホーウとフクロウの鳴く声が一際目立って響き渡る。そのあいだにも森の上空ではゴロゴロと不吉な気配が轟いており、いやがうえにも琴美たちを急き立てる。
智貴が身に着けていたウエストポーチから取り出した懐中電灯で足元を照らしつつ、遠目に見える民家の明かりを頼りに道なき道を歩いていた二人であったが、やがて森が終わってひらけた場所へと出てきた。
「先輩、もうすぐですよ」
「あ、ほんとだ……」
一息ついた琴美が辺りを見渡せば、僅かにひらいた雲間から届く月明かりにうっすらと照らされて、遠目にはなにやら古風な洋式スタイルを思わせる立派な柵が広場の端から端まで張り巡らされている様子が見て取れた。どうもただの民家かと思っていたが、これはひょっとすると屋敷のようなものであるのかもしれないと琴美は考える。
が、そこで琴美はひとつの異変に気づく。
「ね、ねぇ智貴くん、光消えちゃったよ」
「え?」
先ほどまで自分たちを誘導してくれていた民家の明かりであったが、その目印がたったいま視界の先でふっと消えたのを琴美は確かに見た。
「なんだろう……もう寝ちゃったのかな?」
「まさか、まだ日が暮れてからそんなに経ってないはずですけど……」
もしかしたら随分と夜はお早いご一家なのかもしれない。であるとしても、ここまで来たら無理を言ってでも自分たちは民家の住人に匿ってもらわなければならない。さらに歩みを進めた二人は先ほど目にした柵の前までやってきた。
「凄いねこれ、本格的っていうか……」
「こっからじゃ入れないですね、どっかに門とかあるんじゃないですか?」
どうも琴美が思っていた以上に柵は立派な作りであったようで、長い鉄格子で組みあげられた如何にも頑丈そうなそれは優に三メートルはあろうかという威容を放ち、不心得者の気まぐれな侵入を拒んでいた。なんとはなしに手を触れて感触を確かめる琴美であったが、鉄格子は中々に年季の入ったもののようでひどくザラついた手触りが伝わってくる。
この柵から向こうが自分たちの目指す民家の敷地になるのだろうか? 入り口を求め柵に沿って歩きつつ、その柵のあいだから敷地内の様子に目を凝らしてみた琴美は、闇夜の中でボンヤリと輪郭を浮かびあがらせる家屋の姿を見て取る。
(うわ、結構大きいな……)
琴美の目に映ったそれは屋敷と言って差し支えない立派な規模のものであった。この柵といい屋敷といい、もしかしたらどこぞの資産家の別荘なのではと思った琴美は、そんな畏れ多い相手のところへ赴いて助けを乞うというのはどうにも気が引ける思いがしてしまった。
だが今は智貴がいるのだ。自分だけならまだしもこんな天気の中で夜の山中を彼に歩かせる訳にはいかない。琴美としては例え相手が嫌だと言ってもここは噛り付いてでも自分たちの面倒をいっとき見てもらわねば済まされないのであった。
「入り口、あそこじゃないですか?」
前を歩いていた智貴が、自分たちの進行方向にあるものを懐中電灯の光で示す。彼の言う通り、少し離れた先に一際背の高い門柱らしきものが見えた。あれこそがこの屋敷への入り口に違いないと、二人は早足で門のあるところに駆け寄っていく。
「あ、でも閉まっちゃってるね」
門前までやってきた琴美たちではあったが、見ればその門柱に据えつけられていた大きな門扉はピッタリ閉じられていた。こういうときはまず遠く離れた家人へ来訪を知らせるところから始めなくてはならない。そのための呼び鈴がありはしないかと探す琴美であったが、
「鍵かかってないですよ、ほら」
「あらら……」
しかし智貴が門扉を押してみたところ、施錠されていなかったらしいそれは軋んだ音を響かせいとも容易くひらいていった。いささか不用心な気もするが、こんな人里離れた場所にあっては防犯意識もゆるくなるのだろうと琴美は思う。
ともあれ門の先に広がる暗闇に目を凝らしてみれば、確かに道らしきものが奥に向かって伸びており、突き当たりには件の屋敷が立っていた。雷雨をしのげる場所まであと少し。ひとまずなんとかなりそうだと胸を撫でおろす琴美が智貴とともに敷地内へ足を踏み入れる。すると、
──ピシャァ!
二人の視界一杯に青い閃光が広がった。瞬間、逆光となった屋敷のシルエットが琴美と智貴の目に焼き付く。そうして間髪入れずにまたもやあの耳をつんざく雷鳴が大音量で鳴り響いて肌をビリビリ震わせた。
空を満たした突然の雷光に目が眩む琴美たちであったが、やがてそれも治まっていく。そうして視界が回復した途端、二人はまたしても驚かされることとなった。
「ひっ……!」
「花畑……?」
先ほどまでは気づかなかったが、琴美たちの目の前には敷地一杯に広がる黄色い花々の群生地帯が広がっていたのだ。この光景が急に現れたことに戸惑う琴美は、どこかに花畑を照らす照明でもあるのだろうかと辺りを見回す。しかし周囲に光源らしきものは見当たらなかった。
「なにこれ……花が光ってる……?」
改めて花畑を観察する琴美であったが、よくよく見ればどうも花のひとつひとつが自ら仄かな光を放っているらしいことに気づく。目の前の奇妙な光景はそうした花々自身の光が作り出しているのだということを理解した彼女は膝を震わせた。
「まさか、こいつら……」
そんな琴美を尻目に、どうも智貴のほうはその花畑に群生しているものがすべて、先刻琴美から聞かされていたあの不吉な謂れのある花であったことに目を奪われているらしい。
「と、智貴くん、ほら、お屋敷が!」
その場に立ち尽くして弟切草の花畑を眺めていた智貴であったが、己の腕を掴んで揺さぶる琴美に促されて屋敷のほうを振り向く。見れば先ほどまで電灯のひとつも灯していなかったはずの屋敷が、花々の群生地帯の中で今や自らの威容をありありと周囲に誇示するかのようにハッキリと浮かびあがっていたのだった。どうやらクラシックな洋風建築であることが見て取れるその屋敷はなんとも古びた外観をしており、どこか言葉にできない禍々しさをも放っているように見えた。
「先輩……あれ、なんかおかしくないですか?」
「う、うん、なんかお屋敷そのものが光ってるっていうか……」
智貴が感じたその違和感は同様に琴美も感じていた。いまや暗闇の中にあっても明確に屋敷の様子が見て取れるようになっていたのだが、その光景はなにかしらの照明によって作られた類のものとはとても思えない。まるで蛍光プラスチックでできたチープな玩具のように、屋敷自身がのっぺりとした仄明るい光を纏っているかのようであった。
生まれて初めて目にする奇妙な視覚体験に二人は改めて息を呑む。花畑といい、屋敷といい、この場所はどう考えてもまともではない。森の中を彷徨ううち、ひょっとしたら自分たちはどこかこの世ではない別の場所へと迷い込んでしまったのではないか。そのような自らの憶測に戦慄を覚える琴美であったが、彼女の頭の中でふいにこれから取るべき行動の選択肢が意識せずしてひとりでに浮かんできてしまった。
そして琴美が次に選んだ行動は……
A 勇気を出して先へ進むことにした。
B 怖気づいて引き返そうとした。
C どさくさにまぎれて全裸になろうとした。
D「私は智貴くんのお兄ちゃんだ!」そう叫んで
続く