お互いに気づいた瞬間、男は懐かしさを感じて。
女は。
最初は小さな雑貨屋、喫茶と並列したショップ、友人が開業する場所がないというので提供するとヘアサロンを始めた、それだけではない少し前に無国籍料理なんて言葉で色々な国、いったいどこの国の料理だろうなんて店がはやったことがあったが。
食べ物、レストランまでできた。
店名をどうするかと、かなり迷い、友人に頼んだところ、英語、いやフランス語でつけられた。
後になって聞くと飲み屋でしこたま飲んでいる最中にふと思いついたと聞いて、クリエィティブな仕事をする人間の思考はわからないと思ったぐらいだ。
友人はヘアサロン、エステ、いや、マッサージ、本人に言わせるとリラクゼーションらしい。
喫茶は英国風にアフタヌーンティー、だけでなく、日によって中国茶やインドのチャイも出す、簡単に言うと店主のその日の気分でだ、いい加減だと思うだろうが、これがいいのか悪いのか。
客が来るのだから不思議なものだ。
「おおい、昼飯、どうする」
ひょっこりと顔を出したのはサロンの店主、矢追だ。
「いや、俺はいい、昼までに、客が取りに来る予定なんだ」
手を止めることもせず、視線も向けずに山井は仕事を続けた。
「なんかあったのか」
てっきり出て行ったと思ったが、顔をあげた男は、どうしたと言葉にはせず視線で尋ねた。
「いや、いつもと違うから」
そんな事はないと言葉を濁した男は作業に取り掛かった。
返事をするのが面倒だったとか、そういうワケではない。
感がいい男なので、嫌なのだ。
「弁当でも買ってこようか」
「いや、遠慮しとくよ」
一人になると山井は、ほっとしたように顔をあげた。
そのとき電話が鳴った。
「もしもし、山井さんのお宅ですか」
女の細い声が途切れて咳払いも聞こえた。
はいと答えながら風邪ですかと尋ねた。
昼までには取りに行くという予定だったがと相手の断る声に、いつでも構いませんと答え、気を付けて下さいと声をかけた。
ほんの数分の会話が切れて、ほっとした気分になったが、同時に感じたのは虚脱感だ。
やはり、気づいていないと思う。
いや、無理もない、十年以上も過ぎているのだ、自分はすっかり中年オヤジになっている、そして相手も同じ年齢なのでおばさんなのだが。
「山井くん、女の子にもてるでしょ」
昔から、そう聞かれると面倒になって、いつも言葉を濁していた。
「恋愛なんて面倒なだけだ」
そういっていつも逃げていた、だから、ずっとこのままだ。
最初はそうではないのに、だんだんと恋愛が、付き合うことが、いや、セックスという男女が楽しむ行為さえも、面倒だと思う時がある。
自分の気持ちが相手に伝わってしまうのだろうか。
だから、別れを切り出すのは、いつも向こう側、相手だ。
仕事の手を止めて山井は小さな溜息をついた。
随分と前から鞄が欲しいと思っていた、彼女は。
どこのメーカーのものがいいとか、ブランドとか、特別な拘りがあるワケではなかったのだが。
そういうときに限って見つからない。
いっそのことオーダーメイドはと友人から言われて、ほんの一瞬、心が動いた。
だが、店には詳しくないし、仕方ないとナイロン製のマザーズバッグを使っていたのだ。
内ポケットはついているし、丈夫だし、しばらくは、これでもいかかにと思っていたが、それでもふと気になってしまう。
パソコンを立ち上げて鞄専門の店、ふらりと出掛けて、そんな矢先だった、事故に遭ったのは。
子供や学生なら、怪我をしても骨折してもあっという間に治るのだろうが、中年になるとなかなかだ。
二ヶ月あまり病院のベッドで過ごし、外に出たときはさながら浦島太郎になった気分だった。
「よかったね、退院できて」
「あまり気を遣わないで下さい、芝村さん」
女はわずかに顔を上げて相手を見た。
自己は自分の不注意だと思っている、よそ見をしていたつもりではないが結果的にはそうだ、なのに、男性は自分のせいだと言い張って入院費だけでなく、見舞いにも何度も来てくれた、週に二度、三度もだ。
律儀な人だと思ってしまう。
もしかして、ごねて慰謝料を釣り上げ、いや、ふんだくろうと思われていたのではないか、入院している間中、そんなマイナス的思考、悪い事ばかり考えていた。
でも、退院したら、終わりだ、仕事に復帰、いや、その前に。
ずっと病院の食事ばかりだったので街へ出るとファーストフードやコンビニ、おしゃれなレストランの看板が目に入って正直辛い。
食べたいと思うのだが、そんな気になれないのは痩せたということと、財布の中身が乏しいということだ。
夕食に誘われて、好きなものをと言われて女は困った顔をした。
いや、思案、悩んでいるような顔といってもいいかもしれない。
嬉しいけど、素直には喜べない。
友人や知り合いならともかく、赤の他人同然、事故で知り合った相手に、これ以上負担をかけるわけにはいかないのだ。
「入院中は何度もお見舞いに来てくれて、色々とお世話をかけてしまってすみません」
退院が決まってから、頭の中で何度もシュミレーションして考えた言葉を口にすると目の前の男は困った顔をした。
そして、連れて行かれたのは。
ここは何の店だろうと思ったのも無理はない。
外観は雑貨屋にも見えるし、もしかして喫茶店なのかと思ったが。
オーダーメイドの鞄屋、専門店だと知って女は驚いた。
何故なら確かに鞄は置いてあるが、区切られた隣のスペースは喫茶店で他の店も隣接しているのだろうか。
店内の空気、雑貨や鞄などに目を奪われて、いや見とれていたといったほうがいいだろう。
女は、ぼんやりとしていた、いらっしゃいと声をかけられるまで。
自分が入院している間、友人が雑誌やカタログを持ってきてくれたのを見ていたので、芝村という男は知っていたのだろう。
鞄をプレゼントすると言われて、すぐには返事ができなかった。
手作り、オーダーともなると正直、決して安くはない。
材質や大きさオプションなどをつけると、札が何枚飛ぶことか、いや、自分が愛着を持って、それを使い続けられるのか、嬉しさよりも感じたのは罪悪感だ。
気持ちだけ出十分です、ありがとうございましたと言って逃げるように店を出たが、後悔したのは後からだった。
突然、入って来た二人連れの客に店主の山井は声をかけようとしたが、気づかないふりをした。
女は店の中を見ている表情から、もう少ししてからと思ったからだ。
だが、それと同時にどこかで見た気がするとも思ってしまった。
(いや、初めての客だ)
オーダーメイドの鞄が作れるよ、男の言葉に女が驚いた顔をしたが、この後の展開が山井には驚きだった。
女は頭を下げて逃げるように店を出ていったのだ。
後に残された男は呆然としていたのはいうまでもない。
「ははあ、ご機嫌を取ろうとして鞄をプレゼントしようとしたが、女はその気はないので慌てて逃げたってとこかな」
その夜、飲もうと言われて近所の居酒屋に行き、昼間の事を話すと矢追は笑いながら言った。
そうなのか、しかし自分の目から見てもカップル、いや、恋人同士には見えなかったと呟くと、いやいや、あれは男が必死になって女のハートを射止めようと必死なんだと言うので、なんとなく合点がいかなかった。
もしかして覗いていたのかというと矢追は、はははと照れたように笑った。
「いや、客も来なくて暇だったから、それにいい女だなあと思って」
「いつから見てたんだ、おまえは」
正直、呆れてしまった山井だが、その数日後のこと。
たまには外で食べるのもいいだろう、近くのカレーショップで持ち帰りを頼んで、公演のベンチで昼食。
普段と違う事をするとなんとなく気分も変わっていいかもしれないと、店に戻ると。
客が来てると喫茶の店主、市川が顔を出した。
(珍しい、いたのか)
病弱だからという理由で週の半分、いや、気分で店の開店、閉店時間を決める男は、いつもどんよりとした、不機嫌な顔をしている。
だが、このときばかりは少しまともにというか普通の顔つきだった。
「うちの店で茶を飲んでいる」
(寝てるな、完全に熟睡だ)
客は女で、テーブルに顔を伏せたままの状態だ。
「起こそうか」
「いや、待つよ、起きるまで」
店に戻ろうとしたが、食べたばかりだ、コーヒーを頼んだ。
「男に茶なんて入れたくないな」
「客としてだ、金は払うぞ」
「尚更嫌だ」
商売する気がないのか、この男はと思いながら山井はカウンターの椅子に腰掛けた。
しばらくして、目を覚ました客の顔を見て山井は驚いた。
先日、店を急いで飛び出した、あの女性だったからだ。
素材は丈夫なものが、色は黒か、茶色、分厚い本や雑誌が入る余裕や厚みもある、シンプルな感じのものが、もし頼んだら日数や値段はどれくらいかかるのか。
女性の好みは、しごくあっさりとしたシンプルなものに聞こえた。
だが、材料にも色々とある、使う量、糸、色などで値段も変わる、ある程度の金額の目安を伝えると女の顔が驚きにかわった。
「分割払いもできますよ」
すると女は無言になり、店内を見回した。
「手に取って、色々とご覧になって下さい、ゆっくりと、それから決めてもいいんじゃないですか」
返事の代わりに女の足が動いた。
山井が仕事に取りかかった。
店の中、女は色々な鞄を手に取り、指先で確かめるように一つ一つ、触れていく。
そして、気になるものが見つけたのか、ある一つの鞄を他のものと熱心に比べはじめた。
山井の顔が少しだけ困ったという顔になった。
「それ、気に入られたようですね」
「色もだけど手触りとが素敵で、できたら、これと同じもので作ってもらえたらと」
すみませんと山井は謝った。
自分の言葉に女は、少しの間無言になり、明らかにがっかりとした様子になった。
この正直な反応には山井の方が少し子まってしまったくらいだ。
十日、一週間待って欲しいと山井は女に伝えた。
連絡先の住所と電話番号を書いた用紙を見ながら。
(携帯を持っていない、いるんだな)
その夜、彼はいつもより遅くまで店にいて、そのまま、眠ってしまった。
市村美夜は困惑していた、頭の中を友人の言葉が過ぎった、冗談だと笑っていたのに。
まさかと思うが目の前の男性は、もしかして、本当に、いや、信じられないと思いつつ、デザートのアップルパイと珈琲に視線を落とした。
目の前の男との会話を最初から思い出す。
一つ上なんですねと男は笑った、つまり男は下で自分が上ということだ。
たった一歳だが、目の前の男性は落ち着いた感じのいかにも大人という風情でてっきり年上だと思っていたのに。
人は見た目ではわからないとはこういうことである、正直、軽いショックを受けた。
「美夜さんは」
名前を呼ばれて思わず顔を上げて相手を見るが緊張の為か、顔の筋肉が。
「映画は好きですか」
返事の代わりに無言のまま頷く、どんなジャンルがと言われてアメコミやアクション、好きな役者がでているならと答えると話題は自然と映画のものになっていく。
少し前まで緊張していたのに、何故と思いつつ、自分が笑っていることに彼女は気づいた。
会話、人との対話が上手な人だと手だなと思わずにはいられない。
もしかして、この人は接客でもしていたのだろうか、でも営業のようながんがんと攻めてくるような話し方ではない。
だから、つられて話してしまうのだろうか。
そんなことを思っていると。
「付き合っている人はいますか」
すぐには返事ができなかった、今、なんて言った、この人はと思ったとき。
「彼氏も恋人もいません」
ときっぱり、はっきりとした返事が返ってきた。
「僕が言うので間違いありません」
驚いて振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
「さっきの人が加害者ですね、そして交際を申し込まれたと、アクシデントから生まれる恋というのでしょうか」
「ゆーちゃん、その、まるで犯罪者みたいじゃない」
失礼な言い方だからと言いつつ、女は歩き出した。
ほんの少し前のレストランでの会話に自分はなんと返事をすればよかったのだろうか。
自分の隣を歩いている、まるで夜の街のホストのような金髪の青年は、にこにこと笑っている。
「どこまでついてくるつもり、仕事は」
「お父さんから電話があったんです、連絡がつかない、自宅に電話しても出ないので心配していました、それで僕に電話をしてきたんですよ」
ここしばらく、いや二ヶ月近く入院していたので父親と派連絡を取っていないことに女は改めて実感した。
「今、僕のところに泊まっていると言ったのですが」
「よしよし」
「でも、さすがに一ヶ月を過ぎると、入院してることを家族に内緒というのはさすがに無理ですよ、だから話してしまいました」
その言葉に女が落胆、落ち込んだ顔を見せたのはいうまでもない。
「ところでさっきの人、付き合うんですか」
女はいきなり渋い顔になった。
「名刺を渡しておきました、連絡つかないときは僕の携帯に連絡下さいと」
「なんで、余計なことを」
「僕が弟だって言うと、ほっとした顔でしたよ、あの人、芝村さん」
他人から好かれたり好意を持たれたりするのは嬉しいものだ、しかし。
「でも、無事に退院できてよかったです、歩道橋の階段を踏み外して聞いた気とは驚きましたし」
「ごめん、色々と面倒をかけて」
「弟ですから」
「元ね、姿子さんは元気」
「母は相変わらずです」
女は頷きながら笑いを浮かべて、寄るところがあるからと別れた。
手作り、オーダーメイドの鞄と喫茶店、癒やしのマッサージという組み合わせの店は芝村という男性につれて行かれたのがきっかけだ。
店内に足を踏み入れると日常では感じた事のない匂いと空気に、女は深く息を吸い込んだ。
だが、店の奥には男性の姿が見えない、もしかして留守かもしれない、出直すか、それともしばらく待ってみようか、
喫茶で、お茶を飲んでもいいのだが、先ほど食べて飲んだばかりだ。
やはり出直す事にしようと思った時、ベルの音と男の声が自分を呼び止めた。
「いらしてたんですね」
「はい、ところで」
「鞄、できますよ」
すぐには返事ができなかった。
ほんの少し沈黙に女は我に返り、ひどく間の抜けたような気がして慌ててお願いしますと答えた。
「お疲れですか」
男の視線に妙な気恥ずかしさを感じて女は曖昧な返事を返した。
待っていて下さいと店の奥に姿を消した男がしばらくして戻ってきたとき、ハーブティーはお好きですかと言われて女は頷いた。
(なんだか、落ち着くなあ)
付き合ってる人はいますかと言われて即答できなかったこと。
(芝村さん、どう思っただろう)
姉は現在、独り身、フリーですから。
(裕太、弟よ、心配かけてすまん)
入院生活を家族、親に内緒にして、大人のくせに、自分はなんてだらだらしているんだろうと思い、目の前の男をちらりと見た。
女が時折、自分を見る。
気づかれないようという素振りが窺えたので山井は、あえて素知らぬふりをしていた。
女が帰り店の中は一人だけになった、
静かすぎるくらいだ、いや、あまり会話がなかったので女がいても賑やかというほどではなかったのだが。
客あっての商売だし、仕事の様子などを見られたりするのはよくあることなので慣れていると思ったのだが。
襟元をゆるめつつ、緊張していたのかと思う自分に驚きながら、山井は仕事に取りかかった。
昔の古い写真を見ると、やはり面影があると思ってしまう。
可愛いと思うのは自分が中年になったという証拠だろうか。
彼女も自分と同じ、中年のおばさんだ。
いい、女だなあと思って、その言葉に問い返す自分がいた。
いつのまにか手が止まっていた。
ボタン、鞄の内側にはポケットを、注文書を取り出して確認しながら、ふと電話番号を見ていることに気づいた。
用があるわけではない、携帯の番号を押してアドレスに記入する。
(何をやっているんだ)
説明のつかない感情と行動に山井は、妙な気恥ずかしさを覚えた。