元から身を置いていた環境故に強くならざるを得なかった者。
ただ認められたいが為に努めた者。
──……或いは単に、その果てを臨まんが為に強さという闘争の象徴を追い求めた者。
私の目的は、きっとそのどれでも無かった。
朝の鍛練は、場所を変えた今になっても続いていた。
あの少ししか使うことのなかった、鍛練用の建物は果して今頃どうやって使われているだろうかと、そんなことが頭に過りながらも、今現在、実際の自分は地に這いつくばるようにして荒く息を吐いている。
日中ならば清々しく、どこか甘いようにも感じる春先の空気も、今に限っては息苦しくて仕方がない。喉は水分を求め干からび、汗で額に張りついたものを払いのける動作をするのすら億劫だ。
ひたり、と手を添える首筋に既にその刃は無い。然し一度添えられた真剣の冷たさはいっそひやりとした熱さであって、その温度は添えられていた箇所に未だ残っているようにも錯覚する。
思考が鈍っていた。
極端に集中して、その反動であるのか鈍くなった思考では何も考えることが出来ない。何か考えようとして、そのまま何もせずにふわふわと。ただ思考だけが行き場を失ったかのように彷徨い歩いている。
空白のような思考であっても反射的に反応出来たのは、これまでの成果の中の一つであったのかもしれない。水に浸したらしい手拭いを投げつけられて、それを普通に受け止めていた。
幾分か多く水気を含んでいる。触れた指先でぎゅっと摘まめば、その端から滴り落ちる水の一筋が腕を濡らす。ほう、と息をついてから顔を上げて男の顔を見ると、流石に涼しい顔、とまではいかなかったのか、微かに息が乱れている。
自分の立ち回りが上手くなってきているのか、はたまた単に男の身体の、年齢に伴うじわじわとした衰えか。どちらであったとしても、そんな些細なことでさえ一矢報いたと感じるのは相手がそれだけ強大である証だ。
未だ地力に遥かな差があることは当然のことであるにしても、この男がどれだけの力があるのかを図りかねる程に彼は強かった。
勝てたことなど、もちろん一度も無い。
そこに一抹の不安を抱いて、ついぽろっと口に出した詞があった。
「……私、強くなれているのでしょうか」
仰向けになったまま、ほぼ無意識にそう云っていた。
空は抜けるような薄青で、どこまでも遠い。果ての見えない道ゆき。
とても綺麗な色は、だからこそ少し不安にも思わせる。
通りからの目を遮るようにしてある庭、その壁に寄り掛かって目を閉じていた養い親が、その黒目で此方のことを見詰めていた。
「朧」と、名前を呼ばれる。
何か云いたげな眼だな、とだけは判った。
「強く、か」
「…………? はい」
確認するような問い掛けともつかない呟きに首肯、微かにため息の音を一つ聞く。もちろん自分ではなく、吐いたのは朧の目の前にいる相手であった。
「急いているな」という呟きを耳に捉える──急いている?
首を捻る。傾げてから、常より感じている威圧感が心なしか弱々しいことに気付く。
この時の養い親は、何だか……普通の『大人』だった。
ふ、と息をついた男は目を閉じて、ゆるりと空を振り仰ぐ。
どういう意味なのか問い掛けても、それに対して「いや」と詞を濁すように。
「大したことではない」
「そう、なんですか」
何時もはっきりと
暫く互いに黙って、私はそんな様子を眺めていた。
少し、目を眇める。じりじりと時間が過ぎていくのを感じている。
吸う息は未だ熱い。
見上げるところには涼しげな薄青の天蓋。曇りひとつ無き蒼穹。
いつまでも届かない果てがちらちらと目に映る。
「あぁ」と。
男はふと思い出したかのような素振りで、再び此方を向いた。
先程のやり取りがまるで無かったかのような口振りに何だろうか、と思いつつ詞を待つ。
「貴様の此れからについて、未だ話していなかったな」
「……此れから、とは」
瞬きする。『強さ』に反応を示した養い親の、突然の話題の転換に少し、意外に思う。彼が必要以上のことを口にしないのが常であったからこその違和感は、けれども多分追及するべきではないのだろう。つい先程のことは例外で、それさえ除いてしまえば、今云ったことの、その示す処にこそ重要な何かを秘めていると考えるのが自然だろう。
これから……それはきっと、未来についてだ。
思い当たる物としては一つ二つ、三つ。意外とあるものだった。
思い返す。
一つ、所属について。
ポートマフィアの一構成員と成っている養い親ではあるが、その娘であるからといって未だ少女の身が同じ預りになる、というのではない。
二つ、仕事について。
いくら保護者が居るからといって、働かない理由にはならないのだ。彼女の兄だって、彼女の今よりも一つ上の年齢でこの横浜へと一人旅立っていった。その背中を、よく覚えていた。
それに何より、何もしないなんてのは性に合わないのだった──探し始めなければならないことを、頭の中に留めておくことにする。
──三つ目。
『白木だけでない、貴様の姉や兄も又、横浜に居るだろう。遭いたいと思うか』
『……遭いたいと、そう思うことは、駄目なことですか?』
そんな、何時ぞやの問答。広津と初めて対面した、その日の暮れの出来事。
どんな心境の変化があっても、根底には必ずその気持ちが存ある……探したかった、という思いは今もなお存在する。
きっと居ないかもしれない。
それでも一人くらいは居て欲しい、と。そう、信じている。
その安否を確認して、側に往って話すことが叶わない可能性もあるかもしれないけれど。
その姿をもう一度、見てみたいなぁと、思うのだ。
──泣いちゃだめよ、朧。私たちは心の傷に愚鈍でなければならないの。
其れが許されるのは、親のいる子供だけなのだから。
その詞が示すことがどれだけ残酷なものであったとして、それでも確かに私の根底に存在しているのはそんな詞に他ならないのだから。
「今の
裏社会に蔓延る最大組織、ポートマフィア。
その一構成員──とはいえ、あの
そんな男の、血は繋がっては無くとも確かにそうと認めている、一人娘。最早孤児院の子供では無いのだ。それが
そしてもちろん……養い親がそうだからといって、その所属まで同じと云われる訳ではない。
この身が何処かの組織に属することになったという話は未だ聞かない。ならば、そんな事実は存在しないのである。
「貴様は今、不安定な立場だ。異能者ともなれば尚更だろう」
黙って、その続きに耳を澄ませる。
「今は未だだが、識られるべきでない相手に識られるようなこともあるだろう。そしてその日は、思っているよりも近いかもしれないのだ──貴様の異能は貴様自身が思っているより、ずっとその価値が高いことに気付いているか」
……たった一日。
それは、たった一日だけ物を壊れなくなるだけの
異能にも施せるという一風変わった力は、けれども
「効果はたった一日、されど一日だ。それで済んだことに感謝すべきだろう」
凡ゆる全てには結末が存在する。
終わりが無いものなど、それこそ有り得ない。
それを、一時とはいえ押し止めるというのは。
一見地味ではあれど矢張り、人知を超えた何かであったのだろう。
掌を、そっと見遣る。
少し前まで得物を握り込んでいたのを開け閉めして、それで何かが変わる訳でもなく視線を元に戻す。
「
この手は、最早離れてしまった孤児院の弟妹たちから離れた手だ。今はただこうしているのは、自身が持っていた物は…………他ならぬ自身が手放した。
何かと物騒な世の中で、きっとその渦中に身を投じることもあろう自分にはそれが出来うる最善であって。
けれど、もっと自分に力があるのなら。
こんなことなんて気にすることなく脅威を捩じ伏せられるのかもしれない、淡くそう思って──
「…………」
自分がそんなことが出来る器でないのは、とうの昔に理解しているというのに。
黙ったままの少女に対して、男はその姿を見下ろす。娘の表情に何か云うでもなくただ、「土台は作ってやろう」と彼は云った。
力をつける、そういう意味で今この状況が正にそれであって。正直、これだけでも十二分に恵まれているだろうと思う。
その詞を態々云われたのはきっと、自明であるこの鍛練以外の、
経緯がどうであれ、彼女がこの男に守られている部分が多いのは否定出来ないことである。そして、何時までもそうしていられる訳でない、何時までも止まっていられる訳が無いのだと、こんな
「……わたしは、」
ただ平和に生きて過ごしたい、それだけだった。
然し一方、漫然とした平和というものにはその土台に生き足掻いた
(…………あぁ)
何故だか今この瞬間、久しぶりにはっきりと思い出す。
こんな時、
矢っ張り思考が上手く固まらない。
記憶が無くても同じ人間ならば、案外同じようにしか考えないのかもしれないけれど。
でも、一つだけはっきりとしていることがあった。
「私は」
男がじろりと、その黒目で此方を見詰めていた。
最早見馴れたそれは、嘗ては見馴れていてもなお恐ろしく感じていたのに。
今はそれ程でも無い。それは不思議なことでも何でもなかった。
大人に成りつつある。
何もない安寧の中に居たいけれど、きっとそれ以上に
守られるのは子供の役目で、まだまだ子供であろう
「……………………」
こんな関係になった最初から、養い親の頭にそんな
そして、…………それを自分が拒絶する訳が無いことも、きっと織り込み済みだった。
黙り込んだ少女の傍で、軽いため息が一つ。
「暫く鍛練は中止だ」
「…………え」
「貴様には少し、自身を見直す必要があるだろう」と云った詞を内心だけで復唱する。
そうかもしれない。けれど、何だかんだと考えて結局自分は最初の考えに帰結するのだ。──或いはその考える過程をこなせ、というのか。
無表情なのに、その瞳はどこかじっとりとしているように見える。何か、咎められているようでもあった。
身を起こして、未だ痛い脇腹を擦りつつ、改めてその眼の中を覗き込む。
黒い。──その中に、自分の姿が映っていて、やや呆けたような顔をしている。だってその意図していることが解らないのだ。
この養い親の表情が理解出来たとして、肝心の内心、その内容が解らなければ意味が無い。
「目的を違えてくれるなよ、それだけの話だ」
その『それだけ』の中には一体どれだけの詞が呑み込まれているのだろう、そう思わずにはいられなかった。
**
「…………して、家の
「終えたから此処に居るに決まっているだろう」
からり、とグラスの氷が揺れる。
じわりじわりと、グラスの冷たさに冷やされた空気が凝縮していくのを眺めていた。
落ち着いた雰囲気の
一人は云わずもがな、『
その隣に居るのが、広津柳浪────同じくポートマフィアの一員である。武闘組織「黒蜥蜴」を率いる異能者で、『落椿』と称される異能の保持者であった。
「大体は焼いて処分するだけだからな、想定していた以上には楽な作業だった」
「焼いたのか」
「焼いたな」
意外にもあっさりと云ってのけた男に、「お前の家だろう」と云いかけてぐっと堪え、代わりに少し
からり、とグラスが揺れる。
ここ数日の休暇をとっていた男がその前に「拠点を移すことにした」とあっさり云ってのけたことは記憶に新しい。
そう
「……異能特務課がな」
男はそう云って、ちびりちびりと口に酒を含んだ。
「社会に適合して生きる輩は須らくして、不合理的な行動が目につくものだ……識らない訳ではなかろうに」
「まあ、な」
早すぎたし、或いは遅すぎる。
そんな風に呟いて、男はこうも云った。
「あれ以上話していたら、恐らく
「…………して、」
「云わせる前に精神的優位に立ったから実際に聞いた訳じゃない」
ただ、あの組織の末端はともかく、上層部は化物揃いである────まあそれは、大体の大組織に於ける共通項でもあるのだが。
「昔にくっついて来ていた若造が遣いとして来てな」「ふむ」……合間にもう一口、ぐびりと飲み干す。想像に難くないことを口に出すのは、その意図されていることを考えるとまざまざと思い知らされるようで不愉快であった。
「あと此れは偶然かどうか判然としないのだが……朧より数歳程度下の小僧も居たな」
「異能者、かね」
「だろうな…………む」
出されていた
暫く、沈黙が下りた。
「朧はどうしている?」
「今頃は眠ってるだろうが……暫くは街に馴れさせることにする。あとはな」
数瞬黙って、不意に片手で顔を覆った男に「どうしたのかね」と尋ねる──何か、思い出したようだった。
「
縦に瞳孔の割れた猫の目を、ふっと何の脈絡もなく思い出しただけ──なお、この男、犬派である。
「あとは…………広津、一つ聞きたいのだが」
「何だね、急に」
「己は急ぎすぎているだろうか」
「…………」
何についての急ぎすぎている、かは話の流れ的にぼんやりと理解していた。およそ二年程前の鍛練の話は広津も(設備的な意味で)協力した事案であるので。
……振り返ってみればこの男、見た目以上に過保護である。
「時代に取り残された己たちが強さを重んじることは当然としても、あの娘がよもや自分が『強く成れているのか』なぞと問うてくるとは思わなくてな」
それの何が残る不満なのか、広津には解らなかった。ただ、この男は──その人の差故に生じる価値観を、案外と大事に思っていたのかもしれなかった。
あの少女が身を守る為につけた力だ。
然しあの凪いだ翠の眼に沈む諦念は、きっと誰よりも「強さ」という詞に似つかわしくないと。隣で、うわごとにしてははっきりと、そう云うのが聞こえた。
何がそれ程までに気になるのか、未だ広津には理解出来ないことだった。
同じ組織内でも、入れ替わりの激しい中において情はほどほどまでにしか湧かない。──……まあ然し、戦後になって表の社会から弾き出されたのが、戦場の空気から抜け出しきれなかったというそれこそが、こうして同じような場所に立っている一因であるのだと気付いてはいる。
だからそれは、広津ならば簡単に見過ごしてしまいそうなことであった。
少しいとけない顔になって「広津の
何時もより饒舌に喋る同輩を横目でちらり、と見つつ──普段の彼らがこんなに喋ることは無い──氷で薄まった
「己はな、人間の本質が容易には曲がらぬことを識っている。……あれには確かに天稟があった。武の、天稟が有る」
この男をして才能があると云わしめた少女。
「だがそれは、あの娘の
「……それもまた、あの子の一つの側面であるとは考えないのかね?」
「さて、どうだろうな」
グラスを揺らして、男はゆっくりと嘆息した。
からからと、小気味いい音が鳴っていた。
※
朧:猫好き。未だ織田作に会えてない。鍛練中止を受けて困惑中。
院長先生:圧倒的犬派。広津さんに愚痴る。猫(というより三毛猫先生)は苦手。
最初の方と読み比べて感じる、院長先生丸くなり過ぎ!
広津さん:どちらかというと猫派(という作者の願望)。院長先生に愚痴られる。
原作広津さんよりも実は強い(院長先生とちょっと体術の訓練したりしてる)。原作みたいに